[#表紙(表紙2.jpg)] 疾 走 下 重松 清 [#改ページ]  疾 走 下   第十二章      1  昼食は駅のホームの立ち食いうどん一杯ですませて、あとは大阪駅から一駅ぶんの切符を買って環状線の電車にずっと乗っていた。  大阪、天満《てんま》、桜ノ宮、京橋、大阪城公園、森ノ宮、玉造《たまつくり》、鶴橋、桃谷、寺田町、天王寺、新今宮、今宮、芦原橋《あしはらばし》、大正《たいしよう》、弁天町、西九条、野田、福島……見慣れない漢字の連なりと、聞き慣れない音の響きが、目や耳に心地よく染みていく。  ここは、知らない街だ。おまえは街を知らず、街もおまえを知らない。  ドアの上に掲げられた路線図を見つめる。  東西線は、京橋から大阪城北詰、大阪天満宮、北新地、新福島、海老江《えびえ》、御幣島《みてじま》、加島、尼崎とつづく。京橋からは片町線も延びていて、そちらは鴫野《しぎの》、放出《はなてん》、徳庵《とくあん》、鴻池新田《こうのいけしんでん》、住道《すみのどう》、野崎、四条畷《しじようなわて》、忍ケ丘、東寝屋川《ひがしねやがわ》、星田《ほしだ》、河内磐船《かわちいわふね》……。  駅の一つずつに、それぞれの駅前があって、それぞれの街がある。そんなあたりまえのことが、やけに嬉《うれ》しい。  路線図を見るのに疲れたら、ドアの窓に顔を付けて、ぼんやりと外を眺める。  窮屈そうに立ち並ぶ古びたビル、渋滞の車の列、ホームの人込み、すれ違う電車の乗客たち、看板、標識、電線、信号、空、雲、遠くの山並み、川、鉄橋、工場、デパート、学校、墓地、病院、ガスタンク、変電所、トラックターミナル、資材置き場、駐車場、マンション、アパート、どぶ、ゴミ捨て場、通行人、住人、病人、おとな、子ども、老人、ひと、ひと、ひと、ひと、ひと、ひと、ひと、ひと、ひと、ひと、ひと……。  途切れなく目に飛び込んでは流れ去っていく風景が、体の奥深くの、いままでからっぽだったところを埋めていくような気がした。  おまえの知らない街は、おまえを知らない。おまえがちらりと見ただけで忘れてしまう風景は、おまえのことを一瞥《いちべつ》すらしていないだろう。おまえは「ひとり」だった。「ひとり」がこんなに身軽なものだとは思わなかった。「ひとり」でいることはこんなに心地よいものなのだと初めて気づいた。  水曜日の午後——黙って学校を休み、黙って町を出た。  一周四十分ほどの環状線を三周して、四周目の途中で電車を降りた。高架になっているのにホームが妙に薄暗い駅だった。  電車がその駅に停まるたびに、気にかかっていた。ベンチに、老婆が座っている。老婆はシャツやセーターを何枚も重ね着して、首に、煮しめたような色のタオルを巻いていた。三周してもその場から動かず、四周目にも、やはり同じ場所に、同じ姿勢で、ぼんやりと虚空を見つめていた。穴ぼこのような暗いまなざしだった。  だから、おまえはその駅で電車を降りた。        *  駅を出るとすぐ、アーケードの商店街が延びていた。駅のたたずまいと同じように、薄暗い——シャッターを下ろした店のほうが多そうな、古びた商店街だった。アーケードの屋根も暗い灰色で、陽がほとんど透けない。足を踏み入れると、なにかの動物の内臓にもぐり込むような気味の悪さに包まれた。  昼間なのに買い物客はほとんどいない。にぎやかなのは、商店街の中ほどにあるパチンコ店だけだった。酔っぱらいが足元をふらつかせながら歩く。地面に座り込んだ男もいる。パチンコ店で流れる有線放送の演歌が、アーケードの屋根に跳ね返って響く。野良猫を何匹も見かけた。路地の入り口を通りすぎるとき、小便のにおいが鼻を刺した。  アーケードの出口近くに、地べたにゴザを敷いただけの露店があった。売っているのは、小さな仏像や燭台《しよくだい》や線香立ての類だった。  店番をしている老人は、真冬なのに薄手のシャツ一枚で、商売のことなど端《はな》から考えていないのだろう、目をつぶって合掌して、小さな低い声でお経を唱えている。老人が背にした陶器店のシャッターには、へたくそな筆文字でお経の言葉が書いてあった。 〈仏説摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色〉  意味などわからない。  ただ——言葉なんだよな、と思う。  聖書が神とつながる言葉なら、お経は仏とつながる言葉、なのだろうか。  通りの向かい側には、同じようにゴザを敷いた露店が出ていた。雑誌を売っていた。段ボールに、お経よりもっとへたな字で〈今週号!〉と書いてある。ここにも言葉があった。  立ち止まったまま、ぐるりと見まわせば、店の看板がいくつも目に入る。これも言葉だった。  言葉、言葉、言葉、言葉、言葉……宮原雄二の穴ぼこのような目が、浮かぶ。言葉などいらない、からから、からっぽの絶望になって死んでやる——いまも、宮原雄二はそう思っているのだろうか。誰ともつながることを許されないまま、あの男は、最期の瞬間には、どんなことを思うのだろう。  商店街を引き返して、駅に戻った。ホームの老婆はまだ同じ場所にいた。穴ぼこのようなまなざしも変わらなかったが、口が小さく動いていた。  そばに立っても、老婆はなんの反応も見せずに口を動かしつづけた。  毎度おおきに、ありがとさんです、ありがとさん、おおきに、おおきに、へえ毎度……。  生きているのか死んでいるのかわからないような老婆が、幻の誰かを相手につぶやいている。最初はぞっとして、やがてじわじわと嬉しくなって、ためらいながら、声をかけた。 「寒くないですか?」  老婆はなにも応《こた》えない。穴ぼこの目のまま、虚空の世界とつながって、毎度おおきに、おおきに、おおきに、と繰り返すだけだった。        *  大阪駅に降り立った。構内の公衆電話から、一〇四で調べた番号に電話をかけた。  電話に出た若い男は、思いのほか丁寧な口調で「はい、瀬戸リゾートピアですが」と言ったが、おまえが一瞬口ごもって間が空いてしまったあと、「どちらさまですか」と訊《き》いてくる声には、かすかにきな臭さが溶けていた。  いまになって気づいた。アカネの苗字を、おまえは知らない。 「もしもし? どなたさんですかぁ?」  男は声の尻尾《しつぽ》を持ち上げた。「瀬戸リゾートピア本社ですがぁ」とつづける声に、怒気が覗《のぞ》いた。  おまえは自分の名前を告げた。向こうが怪訝《けげん》そうに「はあ?」と聞き返す、その声に覆いかぶせて「アカネさん、いますか」と言った。「新田さんの秘書の、アカネさんですけど」 「……もう一度、お名前いただけますか」  言われたとおり、名前を繰り返した。 「どちらの?」  ふるさとの町の名を告げた。 「失礼ですが、どのようなご用件でしょうか」と男は探るように言った。 「アカネさんと話したいんです」 「……ですから、用事はなんですか、て訊いとるんですわ」 「話だけ、させてください。アカネさんいますか? いるんなら代わってください。シュウジです、シュウジって言ってくれたらわかります」  返事がないまま、電話は保留に切り替わった。  魚の鱗《うろこ》のように壁にびっしり貼りついたサラ金や風俗店のチラシを見るともなく眺め、保留メロディーの『アニー・ローリー』を聴くともなく耳に流し込みながら、待った。  緊張している。迷いもあるし、後悔もある。いなければそれでいいし、いないほうがいい、かもしれない。べつにどっちでもいいんだ、と肩の力をわざと抜いたとき、電話がつながった。 「もしもし? シュウちゃん?」——アカネの声、だった。  おまえはチラシから電話機に目を移した。テレフォンカードの残り度数は7。あわてて話を端折《はしよ》るほどではないが、すべてを電話で話せる時間はない。 「どうしたん? いきなり。ようわかったな、会社の番号」 「一〇四で調べた」 「ああ、そう。で、どないしたん?」 「いま、大阪」 「はあ?」 「大阪駅の、よくわからないけど、近所」 「修学旅行? そんなん違うわなあ」 「違うよ」  思わず笑った。アカネと話すのはひさしぶり——ほぼ一年の空白があったが、まるでつい昨日も会ったようなアカネの屈託のなさが心地よかった。 「お母さんか誰かと来たん?」 「ぜんぜん違う」 「そやったら、そうや、神父さんが一緒なんやろ」 「違う」 「あんた、なにもったいぶっとんねん、誰と一緒なん、うちの知っとるひと?」 「一人だよ」 「一人?」 「そう、一人で来た」 「……ちょっと、あんた、今日水曜日やろ、学校休みと違うやろ」 「そうだよ」  軽く答えて、もっと軽く、「家出してきた」とつづけた。思っていたよりずっと簡単に言えた。きょとんとしたアカネの、厚ぼったい唇を半開きにした顔が思い浮かぶ。このひと、もう三十を過ぎてるんだな、と声を出さずに笑うこともできた。 「家出って……お母さんと喧嘩《けんか》したん?」 「そういうわけじゃないけど、なんとなく」 「なに言うてんの」  アカネは少しむっとした声で言って、「なあ」とつづけた。「ほんま、どうしたん?」 「アカネさんの声、ちょっと聞きたかっただけだから」 「なにスカしたこと言うてんね」 「でも、ほんとだから」  会いたい——と言うつもりはなかった。会えなかった寂しさを背負ってふるさとの町へ帰りたくない。 「だから」おまえはつづけた。「もう帰るから」 「ちょっと待って、あんた何時までに帰ればええん?」 「夜まで」 「そしたらなあ、帰る前に晩ごはん食べよか。うちも夕方までに仕事片づけるさかい、どこかで待ち合わせて、美味《おい》しいもん食べよ、な?」 「……どっちでもいいけど」  声がはずまないよう、気をつけた。      2  ひとの出入りの激しい夕方のデパートの正面玄関前にたたずんで、何度も腕時計に目をやった。  空はだいぶ暗くなった。表通りを行き交う車はすべてヘッドライトを灯《とも》していた。デパートに吸い込まれ、吐き出されるひとたちの、ひととひととの距離が、昼間よりも縮まっているように見える。  おまえは玄関脇のベンチに腰を下ろし、深いため息をついた。陽が暮れてから気温は急に下がってきた。昼間はジッパーを上げていると汗ばむほどだったダウンジャケットを、いまはスタンドカラーのスナップボタンもすべて留めた。  ベンチに座るおまえの背中は、しだいに丸くなる。玄関の人込みを見つめていたまなざしが、足元に落ちる時間が長くなる。  街はあいかわらずにぎやかだった。ひとびとの話し声は、すべて上機嫌にはずんでいるように聞こえた。街は、あいかわらずおまえを知らない。おまえを一瞥《いちべつ》もしない。おまえは「ひとり」だった。「ひとり」でいることすら気づいてもらえない「ひとり」だった。  目の前を、家族連れが通りかかった。母親と、男の子二人。まだ幼稚園ぐらいの年|恰好《かつこう》の弟が「ママァ」と甘えた声を出して母親に抱き上げられると、小学生のお兄ちゃんがからかって笑った。  その声を聞き、姿を見た瞬間、胸が熱くなった。  誰でもいい、誰かに抱きつきたかった。手を握るだけでもいい。誰かとつながりたかった。  若い男が目の前を通りすぎる。中年のサラリーマンがベンチの隣に座る。カップルがデパートから出てきた。和服を着た老人がデパートに入る。  誰かが笑った。誰かが誰かと話している。みんな、誰かとつながっている。つながっていないのは、遠い町から来た「ひとり」のおまえだけだった。  誰かに抱いてほしい。誰かを抱きたい。頬を寄せるだけでもいい。殴り合うのでもいい。  ブレザーの制服の上にダッフルコートを羽織った女子高生が、おまえのすぐそばに立った。待ち合わせに早く着きすぎたのか、やれやれ、というふうに肩から力を抜いた。  おまえは立ち上がる。少女の細い肩を見つめる。髪を三つ編みにしたうなじを見つめる。  抱きたい——。  つながりたい——。  後ろから、肩を叩《たた》かれた。  びくっと跳ねるように振り向くと、アカネがいた。 「遅うなったわ、ごめんな」  一年ぶりに会えた。厚ぼったい唇が、目の前にあった。 「どうしたん? ぼーっとして。うちの顔、忘れたん違うやろね」  おまえの顔を覗《のぞ》き込んだアカネは、「なあ、どうしたん?」と訊《き》いた。「あんた、泣いとるん?」  おまえは黙って首を横に振る。  アカネは黒い革のハーフコートを着ていた。コートの下は真っ赤な、薄手のセーター。コートに合わせた革のスカートに、黒いタイツ。ハイヒールも黒。いかにもアカネらしいいでたちだったが、体ぜんたいが、少し円みを帯びたように見える。 「じろじろ見んといて、おばはんになったさかい、恥ずかしいやろ」  アカネは、犬を追い払うように手の甲を動かした。照れているだけではなく、本気で嫌がったしぐさだった。 「太った思うてるやろ、シュウちゃん」 「……そんなことない」 「あんた、背、高うなったな」 「うん、まあ」 「声も野太うなって、もう一丁前やな」  くすぐったい。この街に来て、初めて自分を知っているひとに会えた。おまえは、もう「ひとり」ではなくなった。 「ほいで、シュウちゃん、何時の新幹線に乗ればええん?」 「八時ぐらいのやつ」 「えらい遅いんやなあ。新大阪を八時やったら、家に帰るの十一時頃になるやろ。お母さんに叱られへんのん?」 「だいじょうぶ」 「今日、大阪に行くこと知ったはるの?」 「いいから……だいじょうぶ」  おまえのまなざしは、アカネの胸のふくらみをなぞる。  抱きたい。抱かれたい。つながりたい。 「まあ、そしたら、とりあえず晩ごはん食べよか。なににしよ? シュウちゃんの好きなもの、ごちそうしたるわ」  アカネはおまえの手をとって、自分の腕をからめた。 「おねえちゃんのことエスコートせなあかんのよ、一丁前の男は」  笑いながら言う、その声と一緒に化粧のにおいが届いた。おんなのにおいだった。  おまえはうつむいて、アカネの肩に鼻をすり寄せるような恰好で、小さく、ほとんど息だけの声で言った。 「セックスさせて」  歩きだそうとしたアカネは、一瞬、体をこわばらせ、それから、ふふっと笑いながら力を抜いた。 「そっちのほうが先に一丁前になった、いうことやね」  声が湿り気を帯びたのが、わかる。おまえはまたアカネの肩に、今度は頬を寄せる。 「すごく、いま、やりたい」 「……アホ、聞こえるやん」 「やりたい」 「恥ずかしいこと人前で言わんとき、ほんま」  アカネは叱るように言って、おまえの腕をとったまま歩きだした。 「シュウちゃん、初めてなんよね」 「そう」 「あんた、まさか、それしたいから大阪まで来たん違うやろね」 「違う。でも、いま、したい」 「……かなわんなあ」  長く尾を引くため息の尻尾《しつぽ》に、笑い声が乗った。  アカネは走ってきた空車のタクシーを停めた。 「初めてなんやったら、きれいなところでしような」  おまえの耳元でささやいて、舌の先で耳を軽くつついた。        *  アカネの選んだ「きれいなところ」は、名前など知らない、ただテレビドラマに出てくるような高級なホテルの、ツインルームだった。 「不景気やさかい、これくらいで勘弁してな。二、三年前やったら、うちの小遣いもぎょうさんあったさかい、こういうときはスイートでもとって、ドンペリでも抜いたろか、いうところやけど」  アカネは壁際のベッドに腰かけて、部屋に備え付けの冷蔵庫から出したビールを啜《すす》りながら、少し悔しそうに言った。 「ほんまなあ、『ゆめみらい』でケチがついてしもうてん、ダンナも。本家からもごっつ絞られて、いっぺんに老け込んでしもうたんよ」 「ダンナって、新田っていうひと?」  窓際のソファーに座ったおまえは、窓に映り込む自分の顔を見つめて訊く。 「そうや。極道の、新田はんや。シュウちゃんは、その新田はんの女を寝取った間男いうわけやな」 「……ばれたら、どうなるの」 「あんたは殺されるかもな」 「アカネさんは?」 「さあなあ、殺されるか、捨てられるか、どないなるやろ」  軽い口調で言って、「おお、こわ」とつづけ、息を詰めて笑う。 「……いいの?」 「かまへんよ」 「……ほんとに、いいの?」 「ええて言うとるやん」  アカネはコートを脱ぎ捨てて、ビールの缶を片手に、おまえに近づいてきた。  おまえは窓に映るアカネに言う。 「鬼ケンにも……いいの?」 「なに遠慮しとるん。鬼ケンはアホやさかい、あんな子どもやったシュウジにうちが抱かれたいうて、腹ぁ抱えて笑うわ」  脚を組み替えて、緊張を深呼吸でほぐすと、いままで忘れていた大切なことに気づいた。 「コンドーム、持ってないけど……どうしようか……このへんに売ってる店、コンビニとか……」  アカネは「そんなもん、いらんわ」と言って、ビールを一口啜った。 「でも……」 「うちなあ、新田に赤ちゃん産んでくれ言われてんね。新田、うちに惚《ほ》れとるさかい、どないしてもうちに子ども産ませたいんやて。極道の跡継ぎにするんやて。アホやろ、もう四十近いのに、パパになる言うてんね」  アカネは一息に言って、天井を見上げた。 「そやから、おもろいやん、ゴムつけんほうが」  けらけら、と甲高い笑い声がおまえの耳から頭に流れ込み、胸にこぼれ落ちる。  このひとも「ひとり」なんだ——と思う。 「なあ、シュウちゃんのあそこ、あの頃より大きなった? ちょっと見せて」  アカネは小さな円テーブルをどかし、ソファーの前——おまえの股間《こかん》のすぐ前に、しゃがみ込んだ。 「ズボンとパンツ、下ろして」 「ここで?」 「そうや。おねえちゃんが、あんたのちんちんがほんまに一丁前になったかどうか見てあげるさかいなーあ、大きいにして見せてなーあ」  幼い子どもをあやすような言い方に誘われて、おまえはズボンとパンツを脱いだ。抑えつけるもののなくなった性器は、固く、熱く、屹立《きつりつ》する。  アカネは「鬼ケンのより、ええ恰好《かつこう》しとるやん」と笑って、ビールの缶を性器の真上に掲げた。  性器にビールが注がれる。冷たさと、泡とアルコールの刺激に、おまえは思わず腰をひいた。 「消毒せな、あかんやろ?」  アカネは上目遣いでおまえを見て、「拭《ふ》いてあげるな」と、ゆっくりと性器に舌を這《は》わせた。  おまえはうめきながら、アカネの頭を両手で抱えた。 「したい……すぐ、したい……」 「シャワー、ええん?」 「したい……」 「うち、汗かいとるよ?」  かまわない。  おまえは腰を浮かせた。  アカネはおまえから離れ、ベッドに戻る。セーターを脱ぎ、タイツを脱ぎ、スカートを脱いで、最後にショーツを脱いだ。 「おばちゃんになったやろ? もうなあ、太ってなあ、恥ずかしいねん」  ナイトスタンドの明かりを落としながら言う。  おまえはダウンジャケットを脱ぎ、ワークシャツを脱いで、靴下を脱いだ。 「……アカネさん、きれいだから」 「口のほうが一丁前やん」  生まれたままの姿になったおまえは、生まれたままの姿のアカネにむしゃぶりつく。抱いた。抱かれた。  乳房を揉《も》んで、乳首を吸って、おまえの性器はアカネの指が導いてくれた。 「若いさかい、なんべんでもできるやろ」  あえぐ声で言って、自分の腰を振って、おまえの性器を、迎えた。  濡《ぬ》れていた。熱くなっていた。  つながった。  ひとつになった。 「ひとり」と「ひとり」が、ひとつになった。  おまえは腰を動かした。アカネも腰を動かした。  ひとつになった「ひとり」と「ひとり」は、「ふたり」だった。  強くなれる——と思った。強い「ひとり」になれる。快感が急に高まり、抑える間もなく、はじけた。 [#改ページ]   第十三章      1 「どうしても嫌だったら受けなければいいんだから」  クラス担任の伊藤は弁解するように言って、「でもね」とつづけた。 「お母さんとも相談したんだけど、やっぱりいまの時代、高校ぐらいは出ておいたほうがいいと思うの」  おまえは唇を噛《か》む。 「それはもちろん大学検定っていう手段だってあるにはあるんだけど、高校時代に体験することや、高校時代に出会った友だちって、これからの一生にもすごく大きな影響を与えるんだから、そのチャンスを自分から捨てるのってもったいないでしょ」  おまえは腰の後ろで組んだ両手で、幻のナイフを握る。  隙だらけの伊藤の肩と首の境目を見つめ、頸動脈《けいどうみやく》を切ればいいんだよな、と確かめる。噴水のように真っ赤な血が飛び散る光景を、ぼんやりと頭に浮かべる。 「高校に行かないって言うけど、べつにそれで、どうしてもなにかやりたいことがあるっていうわけじゃないんでしょ? だったら、やっぱり……」  そこから先の伊藤の話は、ただの声の連なりになる。  ものを見るときに目が焦点を合わせるように、ひとの言葉を聞くときには、無意識のうちに耳の焦点を合わせている。焦点をずらし、ゆるめれば、言葉は意味を失った声になり、やがて息づかいの消えた音になる。  おまえがそれを知ったのは、つい一週間前——三者面談を休んで大阪に出かけた帰りのことだった。  アカネにタクシーで新大阪駅まで送ってもらい、車を降りたとたん、駅のざわめきが厚みや輪郭をなくしてしまった。なぜかはわからない。駅のアナウンスもすれ違うひとの話し声も、なにも聞き取れない。ただ、音だけが、途切れなく耳に流れ込む。新幹線に乗り込んでからも、それはつづいた。ずっとつづいた。最初は戸惑ったが、慣れてしまうと悪い気分ではなかった。体の芯《しん》には、生まれて初めてのセックスをした余韻が、火照りになって残ったままだった。音は、その火照りに直接届く。体の芯が痺《しび》れるように、小さく震える。音が流れ込むにつれて、耳と体の芯の距離がぼやけはじめる。体が溶ける。目をつぶれば、おまえはどこにもいなくなる。音が風になる。吹き抜けていく。風に吹かれるおまえも風だ。おまえはもはや「ひとり」ですらなかった。  音が声になり、声が言葉としての意味を取り戻したのは、新幹線から在来線を乗り継いで、ふるさとの町に帰り着いてからだった。耳の奥の薄皮が剥《む》けてしまったように、言葉がくっきりとしすぎる。すべての音がとがって、ざらついて、痛い。干拓地を越えて海から吹き渡る冷たい風にさらされて、体の芯の火照りはいつのまにか消えうせていた。  夜道を歩きながら、おまえはどうにかしてさっきの感覚を取り戻そうとした。耳に力を込めたり、抜いたり、首を左右に倒したり、肩を揺すったり……さまざまに試してみたが、だめだった。  見たくないものがあれば、目をつぶればいい。しゃべりたくなければ口をつぐめばいい。だが、耳は、両手を使わなければふさぐことができない。両手でふさいでも、すべての音を消し去れはしない。目や口よりも耳はずっと不便で不器用なのだと知った。  家は暗かった。窓の明かりも、門灯も、点《つ》いていなかった。母親はその夜も博打《ばくち》に出かけていた。真っ暗な家に入り、真っ暗な階段を上って、真っ暗な部屋に足を踏み入れて、窓を開け放った。  干拓地が広がる。息絶えた土地が、ここにある。規則的に並んだ街灯の明かりは、むしろ光の届かない場所の闇の深さをきわだたせていた。  おまえは夢想する。  この広大な干拓地が一面の炎に包まれる光景を。  おまえは夢想する。  この広大な干拓地が津波に呑《の》み込まれる光景を。  おまえは夢想する。  この広大な干拓地が再び海へ還《かえ》る光景を。  おまえは夢想する。  この広大な干拓地が降り積もった雪で真っ白に染め上げられた光景を。  そして、おまえは回想する。  この広大な干拓地をかつて確かに埋め尽くしていた稲穂の緑と、そこを吹き渡るやわらかい風とを。  目の焦点がゆるんだ、と同時に、耳も——。  ああこれだ、と気づいた。この感じなんだ、と見つけた。  つぶやいてみる。言葉が声に戻り、声がただの音に戻って、耳に流れ込む。意味が消えてくれたから、ふだんは言えない言葉を口にできる。  お兄ちゃん——と、おまえはつぶやいた。何度も何度も何度も何度も、同じ言葉を繰り返した。  ひとしきりつぶやいて、体の輪郭が溶けきったのを感じながら窓を閉め、布団にもぐり込むと、たまらない心地よさに包まれた。すぐに眠りに落ちた。深い眠りだった。抜け殻になった体から魂が浮かび上がるときは、こんなふうなのだろうか。だとすれば、死んでしまうのも悪くないような気がした。  おまえは耳の焦点のゆるめ方を覚えた。先に目の焦点をゆるめるのがコツだった。昔のことを思い浮かべればいい。遠くても近くても、とにかく「いま」とは違う、昔。もう二度と戻れない昔を思えば、おまえは風のような音とひとつになって虚空を漂うことができる。  いまも——。  伊藤は書類を何枚も机の上に広げ、ボールペンでアンダーラインを引いたり、数字を丸で囲んだりして、おまえに話しつづける。  幻のナイフで伊藤を刺すのにも飽きた。逆に、いま、目の前で自殺したほうがおもしろいだろうか、という気もする。  黙ってナイフを喉《のど》に突き立てる。ぎょっとした顔になるだろう、伊藤は。わなないて、椅子から転げ落ちて、ナイフを抜くためにこっちに近づいてくるだろうか。それとも、逃げるだろうか。一歩でも逃げてくれれば、笑ってやる。笑ったまま、死んでやる。床に倒れるのは恰好《かつこう》悪いから、できるなら立ったまま、ナイフを喉に刺したまま、死んでしまいたい。テレビが来るだろう。新聞や週刊誌も来るだろう。いろいろなひとが、いろいろなことを言ったり書いたりして、けれど、なぜ死に顔が笑っているかについては誰も答えられないだろう。  伊藤が、手に持ったボールペンを、叩《たた》きつけるような強さで机に置いた。  おまえはハッとして、耳の焦点を戻す。 「ちょっと、先生の話、ちゃんと聞いてるの?」 「……はい、聞いてます」 「なんでそんなふうにひとのことを見るの」 「はあ?」 「その目つきよ、ぞっとするのよ」  伊藤の声は震えていた。教師として生徒を叱るのではなく、本気でおびえていた。 「ああ、ぞっとする、ほんと……」  伊藤は両手で胸を抱きかかえて、怖気《おぞけ》をふるう。「私もね、いろんな中学生見てきたけど、こんな目つきする子、あなたが初めてよ」と、おまえのほうを見ずに言う。  おまえは黙ったままだった。 「覇気が感じられないっていうか、覇気ってわかる? やる気っていうか生きる力っていうか、そういうのが感じられないのよ、あなたの目つきは」  おまえはなにも応《こた》えない。 「中学生でしょ? 十五でしょ? ふつうは、もっと生き生きしてるわよ。それはまあ、明るく元気なときだけじゃないとは思うけど、うまくいかなくて落ち込んでるときでも、ふつうはね、もっと根っこに元気があるのよ。負けるもんか、っていう力があるのよ。でも、あなたの目には、そういうのがぜんぜん感じられないじゃない。醒《さ》めてるっていうか、やる気がないっていうか……なんて言えばいいんだろう……」  言葉を探す伊藤に、おまえは静かに言った。 「穴ぼこみたい、ですか?」  伊藤は最初ピンと来なかった様子で怪訝《けげん》そうな顔をするだけだったが、「そうねえ……」とあいまいにうなずき、ため息をついた。  おまえは目をゆっくりと瞬く。少し、嬉《うれ》しかった。        *  その夜も、母親はおまえが床に就く頃になっても家に帰らなかった。このところずっと、だ。母親の顔を見たことすらほとんどない。家にいるときの母親は眠っているか、酔いつぶれている。博打の調子が悪い。ずっと負けつづけだった。毎日どれくらい負けているのか、合計したマイナスはどれくらいになるのか、なにも話してはくれない。  日付が変わる間際、電話がかかってきた。しわがれた男の声だった。自分は名乗らず、切り口上で「奥さんはいますか」と訊《き》いてきた。  勘違いを正したほうがいいのかどうかわからず、とりあえず「まだ帰ってません」とおまえは言った。 「まだ?」 「はい……まだ、です」 「こんな時間で?」  男は端《はな》から信じなかった。「もう十二時ですよ? こんな時間になっても、まだ帰ってらっしゃらないんですか、奥さん」と念を押して尋ねる声は、言葉遣いが丁寧なぶん、凄《すご》みがあった。  おまえは黙って、声の記憶をたどった。思い当たらない。初めて聞く声だった、やはり。 「ねえ、ほんとうにお留守なんですか?」 「……はい」 「じゃあ、何時にお帰りになるんですか?」 「……わかりません」  受話器の向こうで、ふう、と息をつく気配がした。 「おい」口調が変わる。「いるんだろ、女房。出せよ」 「……いないんです、ほんとに」 「住所もわかってるんだぞ。いまから行ってもいいんだぞ」 「嘘じゃないです、いないんです。いつ帰るかもわからないんです」  舌打ちとともに電話は乱暴に切れた。  おまえはコードレスの受話器を耳にあてたまま、明かりも暖房も消えた居間を眺め渡す。  すさんできた——と思う。  部屋のたたずまいは以前と変わらないし、ゴミが乱雑に散らばっているわけでもない。居間で過ごす時間が母親もおまえも短いぶん、こざっぱりと片づいてもいる。  だが、部屋には、なんともいえないすさんだ空気が澱《よど》んでいる。寂しさやむなしさをすべて呑み込んだ静けさがある。  この部屋は、もはや家族の誰の思いも包み込んではいない。ただの空間に過ぎない。居間だけではなく、台所も廊下もすべて、家具を収め、そこで寝起きするというだけの器に過ぎない。見知らぬ他人の家よりもずっと我が家のほうがよそよそしい。  受話器を置いて、もう一度、居間を眺め渡す。この部屋に、父親がいて、優等生だったシュウイチがいて、母親がいて、自分がいた、ほんの三年ほど前の光景を思いだす。  懐かしいとは感じない。ただ、遠くなったな、と思う。家と町を出る日が、ほんとうに、すぐそこにまで来ているのだと噛《か》みしめる。        *  夜が白みかけた頃、母親は家に帰ってきた。車の音で目を覚ましたおまえは、布団にもぐったまま外の様子を窺《うかが》った。  カーポートに車を入れるのに、ずいぶん時間がかかった。何度も切り返しをしているのだろう。エンジンが止まり、大きな音をたててドアが閉まる。  また負けたんだな、とおまえはそれで今夜の博打の結果を知る。  前のめりに倒れ込むように家に入ってくる靴音と、いまいましげに「あーあ……」とつぶやく声で、酒を飲んでいることもわかった。  飲酒運転があたりまえになった。いつか事故を起こすんじゃないかと案じながら、いっそ、そうなったほうがいいんじゃないか、という気もする。  母親は台所に入り、冷蔵庫から、たぶん缶ビールを出した。  おまえは掛け布団を跳ね上げて、階下に降りる。  やはり母親はビールを飲んでいた。明かりのない台所で、立ったまま、ごくごくと喉《のど》を鳴らして。 「……お帰り」  背中に声をかけると、母親は階段の足音をすでに聞いていたのだろう、さほど驚いた様子もなく、のろのろとおまえを振り向いて、「ああ」と笑った。 「電話があったよ」 「……誰から」 「わからないけど、お母さんに話があったみたい。男のひとで、少し怖かった」  母親は「ああそう」とけだるそうにうなずいて、ビールをまた一口|啜《すす》った。 「また電話がかかってきたら、どうする?」 「どうするって……いないときには『いない』って言えばいいんだよ」 「いるときには?」 「え?」 「お母さんが家にいるときだったら、どうすればいいの?」  母親はおまえに背中を向け、流し台にビールの残りを捨てながら、言った。 「『いない』って言えばいいんだよ」  おまえは黙って台所を出た。  二階に戻りながら、目と耳の焦点をゆるめた。耳の焦点をゆるめることは、すべての言葉から望みを消し去ってしまうことでもあった。      2  話してはいない。できれば、黙ったままにしておきたかった。落ち着いてから手紙でも出すつもりで、その手紙にも自分の住所は書かないつもりだった。  だが、神父は、おまえの思惑を見抜いていた。  学校帰りにひさしぶりに教会に顔を出したおまえに、神父はいつものように書き物をしながら、ぽつりと言った。 「どこに行くか、決めたんですか」  おまえも、いつものように縁側に座って庭を眺めながら、「なにが?」と返す。 「卒業したら、どこかに行くんでしょう、シュウジは」 「……さあ」 「隠さなくていいですよ」  神父の笑い声を背中で聞いて、おまえは「べつに隠してないけど」とつぶやくように言う。 「この町には、嫌な思い出しかありませんからね。わかりますよ、それは」  耳の焦点をゆるめてしまおうかと思ったが、やめた。縁側の床に後ろ手をつき、体をよじって神父を振り向いた。 「思い出なんて、関係ない」 「そうですか?」 「関係ないよ、そんなの」 「じゃあ、シュウジは、この町にいても嫌な未来しかないと思ったんですね。だから、出ていく、と」  そこまできれいに理屈づけていたわけではなかったが、「嫌な思い出」と「嫌な未来」とを比べると、未来のほうが自分の気持ちに近い。 「嫌かどうかわからないけど」おまえは苦笑交じりに言った。「どうせ、たいした未来じゃないし……この町、もう死んでるし」  神父はまたうなずいて、「死んでますね、確かに」と言った。  おまえは視線を庭に戻す。庭の垣根越しに、『ゆめみらい』のシンボルタワーが見える。タワーも、その他の施設も、工事が中断したまま、再開する気配はまるでない。第三セクターの運営会社が正式に「中止」を発表しないから「中断」になっているというだけのことだった。 「死んじゃってるよね」 「ええ、死んでます」 「……殺されたのかな」 「自殺なのかもしれません」  神父はそう言って、「土地を売ったのは、『沖』のひとたちなんですから」と付け加えた。 「バカだよね、みんな」  神父は笑うだけで、なにも応《こた》えない。 「みんなバカなんだよ、『沖』も、『浜』も、この町の奴ら、みんな」  縁側に出てきた神父は、おまえの隣に座って、「今日は暖かいですねえ」とあくび交じりに伸びをする。「一月の終わりなんて、一年でいちばん寒い時季なのにね」 「今年、暖冬だってテレビで言ってた」 「雪が一度も積もらないまま、春になっちゃうんですかねえ」 「さあ……」 「もしそうなったら、シュウジ、寂しいんじゃないですか?」  すべてお見通しなんだな、とおまえは苦笑する。 「中学生になってから、干拓地が真っ白になるぐらい雪が積もったことって、一度もなかった」 「まあ、温暖な土地ですからね」 「でも、昔は……ガキの頃は、積もってたんだ。干拓地が、田んぼも道路もぜんぶ真っ白になってたんだ。二階の窓から見ると、もう、世界中ぜんぶ真っ白になってる。すごくきれいで、お兄ちゃんはすぐに雪だるまつくったり、友だちと雪合戦したりするんだけど、俺、二階からずうっと干拓地を見てるのが好きだった……」  お兄ちゃん——という言葉を誰かに向かって口にしたのは、ずいぶんひさしぶりだった。 「シュウジがここを出ていく前に、雪が積もるといいですね」 「うん……」 「そうすれば、ふるさとが、嫌な思い出ばかりというわけじゃなくなるし」 「そうだね……」 「今年の冬はだめでも、雪景色を見るのを楽しみに、また帰ってくればいい。そう思っていれば、この町も、嫌な未来だけじゃないんだから」 「帰らないよ、もう」 「おとなになっても?」 「一生、帰らない」  シンボルタワーのてっぺんで、黒い影が動く。カラスだ。がらんどうのタワーは、いまはカラスのねぐらになった。タワーの下の階には野良猫が十数匹も棲《す》みつき、螺旋《らせん》を描く非常階段にはコウモリの群れがいるらしい。  工事が中断してからもタワー周辺の地盤沈下はつづいている。タワーから半径二百メートルの区域は立入禁止になっていた。測量によると、すでにタワーは数度の傾きを示している。  ふるさとの町を出ていく前に、おまえがほんとうに見ておきたかったのは、雪景色ではなく、タワーが倒れる光景だった。 「この町を出て、どこに行くんですか」 「まだ決めてないけど……」 「遠く、でしょう?」 「たぶん」  庭に降り立った神父は、生け垣のほうまでゆっくりと歩いてからおまえに向き直り、おだやかな微笑みとともに言った。 「春になれば、今年もヒマワリの種を蒔《ま》くつもりです。夏には、きっと、たくさん花が咲きます」 「うん……」 「シュウジ、遠くの町に行っても、これだけは忘れないでください。あなたの憎んだふるさとの片隅の小さな庭に、ヒマワリが咲いていることを。その花は、いつも太陽のほうを向いている、ということを」  おまえは黙ってうなずいた。  顔を上げたとき、不意に瞼《まぶた》が熱くなった。  潤んだまなざしの中で、神父はあいかわらずおだやかに微笑んでいた。  声が聞こえる。耳元でささやくように。天空から降りそそぐように。遠い山々にこだまするように。地面からゆらゆらとたちのぼる陽炎《かげろう》のように。 「弟は、今朝、死刑を執行されました」      3  深夜の電話は毎晩かかってきた。電話の主は一人ではなかった。男もいれば女もいた。若い声もあれば年老いた声もあった。なにかのセールスのような弁舌もあれば、素性を露骨に覗《のぞ》かせる恫喝《どうかつ》まがいの口調もあった。おまえを父親だと勘違いする者もいれば、最初から息子だとわかっている者もいた。  誰も名乗らない。訊《き》いてくるのは「奥さんはいますか?」「お母さんはもう帰ってきた?」だけ。  その理由を教えてくれたのは、アカネだった。 「夜中に電話するんはサラ金規制法で禁止されとるさかいな、正面切って、どこそこの金貸しやけどゼニ早う返さんかい、やら言えんやろ」  携帯電話の声は平べったく、ところどころにノイズが交じる。 「やっぱり、借金取り?」とおまえは訊いた。  アカネは「まあな」と答え、「ひどいもんやで、あんたのお母ちゃん」とつづけた。  借金の総額は一千万円を超えている——らしい。 「サラ金だけやったらええんやけど、ヤミ金にまで手ぇ出しとるさかい、もう、どないもならんよ」 「……調べてくれたの?」 「そらそうや、かわいい、かわいーいシュウちゃんの相談事やさかい、うちの力、みな使うたったわ。あー、しんど」  冗談めかした口調は、すぐに低い声に戻った。 「ほいでもな、ここまでや、うちのできるんは」  母親が金を借りているのはK市とO市の複数の業者で、どれも『瀬戸リゾートピア』——青稜会とは直接のつながりはない。 「うちとこの息のかかっとる金貸しやったら、そらぁ、なんとかでけへんこともないんやけどなあ……。関西の本家に口添えしてもろうたら話は別やけど、新田もいまはあかんしなあ。『ゆめみらい』でケチついたさかい、まだ本家では冷や飯なんよ」 「……そう」 「お母ちゃん、家に帰ってきとる?」 「ときどき」 「どこに隠れとるん?」 「わからない」 「あんたにも連絡ないん?」 「一度、家に帰ってきたとき、これから忙しくなるから家に帰らないことも増えるから、って」 「それだけ?」 「……うん」  アカネは長く尾を引くため息をつき、「かなわんなあ」と笑った。  実際、笑うしかない、とおまえも思う。笑うのができなければ、怒るか、泣くか。どちらも嫌なら、笑うしかない。 「お父ちゃんも逃げたきりなんやろ? 電話やら手紙やら、いっぺんでも来た?」  なにも答えないのが、答えになる。 「で、お兄ちゃんは檻《おり》の中……。あんたも不幸な子ぉやなあ、ほんま」  アカネの声は不思議だ。女にしては低く、しわがれて、ふてくされてしゃべっているように聞こえるのに、耳に流れ込むと、それがやわらかく心地よい響きになる。  春の風だ、と思う。この声のひとを抱いて、生まれて初めてのことを何度も何度もしたんだと思うと、体の芯《しん》がむずがゆくなる。 「それでなあ、シュウちゃん、お母ちゃんのことでは思うたほど力になれんかったけど、その代わり言うたらナンやけどな、お母ちゃんの話を調べとったら地元の若い衆におもろいこと聞いたんよ」 「はあ?」 「あんた、駅前の小料理屋んとこのクソたれ坊主にキツいことされとるんてな」  徹夫——だ。 「あそこやろ、昔お好み焼き屋やった、なんていうたかな……」 「『みよし』」 「ああそうそう、そこや。青稜会の篠原くわえこんだ女のやっとる店や。そこの息子、えらい悪うなったんやてな」 「うん、まあ……」 「根性なしの者ほど、虎の威を借りるんよ。どうせお母ちゃんが篠原とデキる前は、チンコのカスみたいな子ぉやったんやろ」  おまえは短く笑う。 「そんなカスにいじめられて、どないすんの、シュウちゃん」 「……べつに、いじめられてないけど」 「見栄張らんでええから」  ぴしゃりと言われた。  だが、耳に入った瞬間に感じた声のトゲも、奥まで届くうちにラムネ菓子のように溶けてしまい、それを「しょーもないなあ、ほんま」と苦笑いの声が包み込む。 「もう、ずーっと、なん?」 「二年生になった頃から」 「あんたもアホやな、なして早いとこ、うちに言わんかったん」 「だって……アカネさん、関係ないし……」 「あるやん。シュウちゃんはもう、うちのかわいいオトコなんやさかい。うちのオトコ泣かす者は、アカネのおばはんが許さへんで、て」  アカネはけらけらと笑って、「まあ、チンカスのことは、うちに任せとき。二度とシュウちゃんに偉そうなことでけんようにしたるさかいな」と言った。  やめてよ、そんなの——と言いかけたが、その前に「あ、ごめん、ダンナが帰ってきた」と電話は切れてしまった。  アカネは新田とまだ一緒に暮らしていて、これからも——これからは「妻」として、暮らしつづけるのだろう。嫉妬《しつと》深い新田は、深酒をするたびに妄想に駆られてアカネを殴りつけるのだろう。それでも、アカネは新田と別れない。別れないのに、おまえを「オトコ」にした。新田の子どもを産む、とアカネは言った。おまえとのセックスで避妊はしていなかった。頭がくらくらする。背筋がぞくっと縮む。  受話器を置くと、それを待ちかまえていたように電話が鳴った。おまえを父親と勘違いしたままの金貸しの男だった。 「まだ帰ってません」と答えると、男はあきれたように笑った。 「ねえ、旦那《だんな》さん、あんたものんきなひとだねえ。女房がこんな時間になっても外で遊んでて、それで気にもならないなんてね。ええ? あんた、すごいひとだね」 「電話があったこと、伝えておきます」 「……隠すなよ、いるんだろう?」 「いません」 「出せよ、女房」 「帰ったら、伝えます」 「すぐそこまで来てるんだ。家まで行ってやってもいいんだぞ」 「今夜帰ってくるかどうかわかりません」  電話は向こうから切れた。  おまえは家じゅうの戸締まりを確認して、二階に上がった。布団にもぐり込み、頭を両手で抱え込んで、敷き布団に這《は》いつくばって眠る。暗闇に体を収める穴を掘るように、目をつぶって、決して開けない。  朝になっても母親は帰らなかった。  金貸しの男も家を訪ねてはこなかった。  留守番モードにセットしておいた電話には、無言のメッセージが七件録音されていた。        *  血相を変えた伯父《おじ》が家に駆け込んできたのは、三日後の夜だった。 「シュウジ、お母ちゃんはどこだ!」  玄関のドアを開け放ったまま、いまにもつかみかかりそうな様子で言う。  母親は帰っていない。アカネと電話で話した夜からずっと、電話の一本も入っていなかった。 「どこにいるかわかるか」 「さあ……」 「心当たりがあったらどこでもいいから教えろ」  黙ってかぶりを振るおまえに、伯父はいらだたしげな舌打ちをぶつけ、ずかずかと居間に向かい、タンスの抽斗《ひきだし》を開けていった。 「どうしたの? 伯父さん」 「どうしたもこうしたもあるか、あの外道、ひとを騙《だま》して……」 「借金のこと?」 「こっちを連帯保証人にしやがって、最初から踏み倒すつもりだったんだ、あの女、ふざけやがって……」  伯父は抽斗の中身を手当たり次第にひっかきまわしながら、「シュウジ、金はどこにしまってあるんだ」と訊《き》く。 「そんなの、ないよ」 「少しでいいんだ、金がぜんぜんないわけないだろう」 「嘘じゃなくて、ほんとに、ないの」  財布の中には千円札が数枚。これが当座の生活費だった。遣いきったあとはどうなるのか、おまえにもわからない。  伯父は抽斗を次々に開けていったが、金目のものはなにも見つからないようだった。母親が伯父にかぶせた借金の額は五十万円ほどだった。梱包《こんぽう》用の資材を扱う会社を経営する伯父からみれば、決して高額ではない。金よりも、裏切られたことが腹立たしいのだと、伯父は手を休めずに言った。 「シュウジ……あいつは、逃げたのか」 「わからないってば」 「家に帰ってきてないのか」 「……うん、ずっと」 「くそったれ!」  怒鳴り声と同時に、伯父は抽斗からハンカチの束をつかみ取って床に叩《たた》きつけた。 「めちゃくちゃだな、おまえらは……最低の一家だ」  おまえは黙って頭を下げた。最低の一家の最後の一人なんだ、とうつむいて噛《か》みしめた。 「悪いけどな、おまえの面倒は、ウチは見ないぞ。これ以上関わり合いになりたくないからな」 「……はい」 「親を恨め、親を」  伯父は吐き捨てるように言って、居間を出ていった。  玄関の外まで、おまえも見送りに出た。  車に乗り込む前、伯父は夜空を見上げて「曇ってきたな」とつぶやいた。  確かに、日暮れ頃には見えていた星が、いまは厚い雲に隠れてしまった。吹き渡る風も、昼間の暖かさが嘘のように冷たい。  雪になるだろうか。なってくれるだろうか。雪が降って、積もって、干拓地が白く染まったら、その日のうちに町を出ようと決めていた。        *  三月に入ると、冷え込んだ日がつづいた。空を覆う雲は、日毎に厚く、重い色になっていく。  財布に残った最後の五百円で、おまえはその夜の夕食の弁当を買った。  母親はまだ帰ってこない。夜中は留守番モードにしたままの電話には、朝になると何十件ものメッセージが入っている。無言もあれば「ぶっ殺すぞ!」の怒鳴り声もある。法律の条文を淡々と読み上げるだけの不気味なメッセージもあれば、スピーカーがハウリングを起こしたような甲高い嫌な音を流しつづけるメッセージもあった。だが、母親からの連絡は——一度もない。  おまえは、部屋の明かりを消したまま、弁当を食べる。テレビも点《つ》けない。暖房も入れない。玄関のチャイムがときどき鳴る。ドアを乱暴に叩く音もする。「宅配便ですよお! いないんですかあ!」という声も聞こえる。おまえはなにも応《こた》えない。暗闇の中で、黙々と弁当を食べつづける。  外の冷気が部屋の中にまで入ってきて、ひどく寒い。それでも、歯の根が合わないほどの寒さが雪を連れてきてくれるんだと思うと、身震いしながら笑みが浮かぶ。  玄関の外で物音がする。ネズミの死骸《しがい》が置いてあったのは、昨日。おとついの夜は、物音は台所の窓の外から聞こえた。鍵《かぎ》をかけた窓から室内を覗《のぞ》き込む人影が、ぼんやりと見えた。  玄関のドアを蹴《け》られた。「火でも点けたら出てくるんじゃないか?」と男の声が聞こえた。  もしそうなったとしても——逃げるつもりはない。赤犬の家が、別の赤犬に火を放たれて燃えあがる光景は、きっと美しいだろう。  弁当を食べ終えたおまえは布団にもぐり込んで、マスターベーションをする。  アカネを何度も抱く。  真っ暗なこの家で、誰でもいい、裸の女と二人きりで暮らしていけたら、それも悪くないかもしれない、と思う。        *  翌朝、中学校の正門の手前で呼び止められた。顔を赤く腫《は》らした徹夫が、おどおどとした様子でおまえに近づいてくる。 「……シュウちゃん、おはようございます」  か細く、泣きだしそうな声だった。  無視して歩きだそうとしたら、徹夫はおまえに追いすがり、前に回り込んだ。 「シュウちゃん、俺のこと怒ってないって言って、お願い、許して」 「……誰に殴られた?」 「親父」 「篠原って奴?」 「そう……けじめつけないと、親父も大阪に呼び出されちゃうって……」  徹夫の声はもごもごとしていた。口の中を切っているのか、もしかしたら歯が折れているのかもしれない。 「シュウちゃん……なんで大阪の新田さんのこと知ってるって、先に教えてくれなかったんだよ。それ知ってたら、俺ら、絶対にシュウちゃんに逆らわなかった……」  面倒臭くなって、耳の焦点をゆるめた。クラスの男子からいじめられどおしだった小学生時代の徹夫のことを思いだしたら、うまくいった。  声が風になる。おまえの体のどこにもひっかかることなく、流れて、消えていく。  徹夫は頭を何度も下げる。いままでのことを許してくれ、と繰り返しているのだろう。「許してもらった」という証拠を持ち帰らないと、篠原にまた殴られてしまうのかもしれない。  頬に冷たいものが触れた。焦点の合わない視界の隅を、白く小さなものがよぎる。  雪だ——。  おまえは目と耳の焦点を戻し、「なあ」と徹夫に言った。「金、貸せよ」 「……え?」 「金欲しいんだよ、貸してくれ」 「……払ったら、許してくれる?」 「いいから貸せよ」  徹夫は財布から、小さく折りたたんだ一万円札を出した。 「足りない?」 「もう一枚出せよ」  徹夫は言われたとおりにした。合計二万円。どこにでも、行ける。「シュウちゃん、ほんとに許してくれるんだよな? 俺、シュウちゃんに言われたとおり、金払ったもんな?」  もういいよ、もういいよ——誰でもない誰かが、言ってくれた。  金を受け取ると、徹夫は滑稽《こつけい》なほど大袈裟《おおげさ》に安堵《あんど》して、「そうだよな、俺とシュウちゃん、昔から親友だったんだもんな」と笑った。  おまえも笑い返して、唾《つば》を徹夫の顔に吐きつけた。  徹夫は黙って、手の甲で唾を拭《ぬぐ》った。        *  雪が降る。  雪が降りつづく。  夕方までに町はうっすらと白くなった。  夜になっても雪はやまなかった。  母親は帰ってこなかった。電話はあいかわらず鳴りつづけていたが、雪のせいだろう、家にやってくる金貸しはいなかった。  雪が降る。  雪はいつまでも降りつづく。  おまえはデイパックに着替えを詰めた。聖書も入れた。  雪が降る。  雪が降る。 「もういいよ、もういいよ」と誰でもない誰かの声になって、雪はしんしんと降り積もっていく。        *  明け方、おまえは窓をいっぱいに開け放った。雪はやんでいたが、干拓地は夢見ていたとおり、白一色だった。「沖」の記憶も、『ゆめみらい』の記憶も消して、ただ、白い大地が、そこにある。  家を出た。  教会に寄った。  まだ六時前だったが、神父はすぐに起きてきて「そろそろだな、と思っていました」と笑い、玄関先で別れを告げるつもりだったおまえを広間に通した。 「あなたに見てほしいものがあるんです」  白い布にくるまれた箱が、部屋の真ん中にぽつんと置いてあった。 「弟の遺骨です」  神父は静かに言って、「人間は、最後の最後は、これ、です」とつづけた。  おまえは黙って、箱をじっと見つめる。 「シュウジ、あなたは生きてください」 「……うん」 「自分の生を一所懸命に生きて、他人の生を、慈しんでください」 「……はい」 「私はずっと、ここにいます。夏には、庭にヒマワリが咲きます。それを忘れないで」 「……もう帰らないと思うけど」 「忘れなければいいんです」  神父は一枚のメモをおまえに渡した。「東京都」で始まる住所と、電話番号。 「東京に行くのなら、エリに会うといい」 「……ここ、なの?」 「東京に引っ越したあと、一度だけ葉書が来たんです。返事をすぐに出したんですが、それっきりでした。もう引っ越しているかもしれませんが、でも、シュウジが会いたいのなら、訪ねてみればいい」  おまえはメモを、デイパックのファスナー付きの外ポケットにしまった。 「誰にも住所や電話番号は教えないで、と言われてたんです。でも、もう、いいですよね」  神父はそう言って、寂しそうな顔で付け加えた。 「きっと、エリは東京で、それほど幸せな毎日は過ごしていないと思います」        *  おまえは走る。  白一色の大地を、おまえは駅に向かって疾走する。  後ろを振り向いた。『ゆめみらい』のタワーが見えた。真っ白な干拓地にたたずむ真っ白なタワーは、巨大な墓石のようだった。  おまえは、また走りだす。逃げているんじゃないんだ——と自分に何度も言い聞かせた。 [#改ページ]   第十四章      1  大阪にも雪が積もっていた。といっても、ふるさとの干拓地のような白一色の風景ではない。水気を含んだ雪は、車が走り、ひとが歩くだけで埃《ほこり》交じりの泥に変わってしまう。昼前には街の色と雪の白が斑《まだら》になり、夕方になるまでに、雪はほとんど消えてしまった。 「春の雪やさかい、あっという間や」  居酒屋の小上がり席でおまえと向き合ったアカネは、大判のメニューに書かれた品書きを端から目と指でたどりながら言った。「大阪って、雪たくさん降るの?」と訊《き》くと、メニューをさす指をひとつずらして、「めったに降らんよ」と気のない声で答え、「京都やら関ヶ原やらのほうまで行ったら違うけどな」と付け加える。  関ヶ原か、とおまえは小さくうなずく。名前だけは聞いたことがある。社会の授業で習った。豊臣家を守る西軍と徳川家康についた東軍が天下を争って戦った場所……確か、年は一六〇〇年。入試によく出るところだから、と社会の教師が力を込めて授業していたことを思いだす。  もう、戻れない。遠くまで来てしまった。ふるさとの町を出たのは今朝のことなのに、ずいぶん長い時間がたってしまったような気がする。  在来線でも新幹線でも、窓際の席に座った。すぐに白く曇る窓ガラスを何度も何度も手で拭《ふ》きながら、流れ去る風景を見つめていた。電車が山あいにさしかかると、降り積もる雪が増える。街に出ると消える。水田地帯は一面の白。朝のうちはやんでいた雪が、昼過ぎにしばらく吹雪のように激しく降った。線路が国道に沿って延びている区間だった。大型トラックやトレーラーの行き交う国道の歩道を、集団下校の小学生たちが列をつくって歩いていた。吹きつける雪に半ば隠されながら、赤や黄色やチェックの傘が並ぶ、その光景を見ていたら、わけもなく頬がゆるんで、涙が出てきた。悲しみや喜びといった感情ではなく、感動や感激だったとも思えないのに、顔は微笑んだまま、涙が頬を次々に伝い落ちていったのだった。 「大阪に住むん?」  メニューに目を落としたまま、アカネが訊いた。 「わからないけど……一度、東京に行ってみる」 「あの子に会うん?」  黙ってうなずいた。 「会うてどないするん?」 「……べつに」 「お父さんやお母さん、捜さんでもええん?」  答えなかった。アカネも、まあええわ、と話を切り上げて、近くを通りかかった店員を呼び止めた。 「とりあえず、ビールと冷たいウーロン茶持ってきて」  タンブラーに入ったウーロン茶は、アカネ。  中ジョッキの生ビールが、おまえ。 「家を出たら、もう一丁前の男やさかいな」  アカネは嬉《うれ》しそうに言って、料理を注文した。刺身の盛り合わせ、焼き鳥、湯豆腐、鳥の唐揚げ、肉じゃが、酢の物、天ぷら、フライドポテト、カキフライ、トマトサラダ、トビウオの塩焼き……二人ではとても食べきれそうにない品数だった。 「あとで誰か来るの?」 「なんで?」 「だって、あんなにたくさん……」 「お祝いやもん、テーブルにお皿が載りきらんぐらい景気つけんとどないすんの」  アカネはおかしそうに笑った。だが、おまえが困惑交じりに笑い返すと、ふっと笑みを消して「どうせ、ろくなもの食べとらんかったんやろ?」と言う。  おまえもゆるみかけた頬をこわばらせて、うつむいた。  話したいことはいくらでもある。聞いてほしいことが、たくさんある。だが、どこから話しだせばいいのか、わからない。 「ま、とりあえず乾杯やね」  アカネはビールのジョッキに顎《あご》をしゃくり、自分のウーロン茶のタンブラーを手に取った。 「アカネさん、飲まないの?」 「うちは……ちょっとな、お茶でええねん」  珍しく煮えきらない言い方をした。  どうしたの——と訊こうとしたら、それをさえぎって、アカネはタンブラーを目の高さに掲げた。  おまえもしかたなく、ジョッキを持ち上げる。思っていたより持ち重りがする。取っ手も予想よりずっと冷たく、しかも濡《ぬ》れていた。手首や指先に力を込めないとこぼしてしまいそうだ。  戸惑いを顔には出さなかったつもりでも、アカネには見抜かれてしまった。 「どないしたん、ビール飲むん初めて?」 「……そんなことないけど」 「見栄張らんでええて」  乾杯した。一口、飲んだ。苦い。炭酸が喉《のど》に痛い。冷たい。ジョッキを持つ右手に、さらに力が入る。 「シュウちゃん、ガチガチになっとるで」  アカネが笑う。  一口、二口とつづけたが、三口目の途中でむせそうになって、あわててジョッキをテーブルに置いた。  美味《うま》いとは思わない。ただ苦いだけの飲み物だった。なのに——なぜ、頬がぼうっとゆるみ、瞼《まぶた》がやわらかくなるのだろう。 「今日びの中学生いうても、いろいろなんやな。うちらのまわりチョロチョロしとる子ぉやら、小学校に上がる前から飲みよったアホもようけおるのに」  耳たぶも、熱くなった。 「まあ、真面目に越したことはないわな、ほんま」  アカネは自分の言葉にうなずきながら、ウーロン茶を啜《すす》った。  おまえはジョッキをまた口に運ぶ。今度は少し苦みが薄れたような気がする。 「初めてのお酒かあ……シュウちゃん、うちと初めてのことするの、これで二度目やな」  アカネの笑顔に急になまめかしさを感じて、おまえはビールを呷《あお》る。  あぐらをかいた脚の真ん中が——固くなる。  料理が運ばれてきた。おまえはジョッキをテーブルに置くことなく、一口飲んでは息をつき、また一口飲んではゲップをこらえ、アカネの胸に目をやらないようにしてビールを飲みつづける。ジョッキが軽くなった。もう、苦みも気にならない。むしろ舌にほのかな甘みが残るようになった。 「ええ飲みっぷりやなあ」  アカネは店員にジョッキのお代わりを注文して、おまえに向き直り、テーブルに身を乗り出して言う。 「酔うたほうがしゃべりやすいやろ?」  おまえの答えを待たずに、つづけてもう一言——「そういうこと、世の中にはぎょうさんあんねん」        *  昼間、立ち寄った場所がある。夏休みに神父と二人で訪れたときの記憶を頼りに、大阪拘置所へ向かった。  溶けかけた雪を踏んで、車道を走る車の撥《は》ねる泥水をよけながら、長い塀に沿って歩いた。かつて塀の向こう側にいて、いまはもういない、暗い穴ぼこのような目をしたひとのことを思って、うつむいて歩きつづけた。  ふるさとの町で最後に会ったひとは、小さな木箱に入った宮原雄二だった。最期の様子を神父にもっと詳しく聞いておけばよかったと悔やみかけて、違うんだ、なにもわからないままだからいいんだ、と思い直した。  宮原雄二は、死んで孤独から逃れられたのだろうか。絞首台への階段を、絶望から解放されながら上っていったのだろうか。  頭から黒い袋をかぶせられる、その直前、宮原雄二はなにを見ていたのだろう。穴ぼこの目に、なにが映っていたのだろう。  ふるさとの町の話を聞きたがるアカネに、おまえは『ゆめみらい』の計画が頓挫《とんざ》してからの町の様子を淡々とした口調で話していった。頭からすっぽりかぶった黒い袋に、ふるさとが映る。「ひとり」の日々が映る。 「めちゃくちゃやね、ほんま」  アカネは寂しそうに言って、「なんのために村一つつぶしたんやろなあ……」とつづけ、ウーロン茶を啜る。  おまえは鬼ケンの名前をふと口にした。それが酔っているということだったのだろうか、頭の中で考える前に言葉がこぼれ落ちたのだった。 「鬼ケンが生きてたら、どうなってたと思う?」  アカネはにべもなく「どうもならんよ」と返した。「関係ないやん、ちんぴら一人がおってもおらんでも」  それくらい、おまえにだってわかっている。鬼ケンはただの荒くれ男で、『ゆめみらい』の計画からふるさとを守ろうという気持ちなどこれっぽっちもなかったはずだし、もしかしたら青稜会の手先になって「沖」の立ち退きを進めていたかもしれない。  だが、おまえは心の片隅で思う。根拠も理屈もなく、思ってしまう。  鬼ケンが生きていれば——ふるさとの町をめぐるさまざまな災厄は、なにも起きなかったのかもしれない。  鬼ケンが生きていれば——エリが東京に行ってしまうことなどなかったかもしれない。  鬼ケンが生きていれば——シュウイチは赤犬になどならなかったかもしれない。  鬼ケンが生きていれば——父親が家族を捨てることなどなかったかもしれない。  鬼ケンが生きていれば——母親がギャンブルに溺《おぼ》れることなどなかったかもしれない。  鬼ケンが生きていれば——俺が「ひとり」になることなどなかったかもしれない。  思っただけ、のつもりだった。 「アホらし」とアカネにそっけなく言われて初めて、自分が思ったことをすべて口に出していたんだと知った。 「アホらし」  アカネはもう一度、吐き捨てるように言った。  おまえも苦笑交じりにうなずく。思うだけならそれなりに納得できそうなことでも、口にしてしまうと、ただ愚かしい。 「ほな、鬼ケンの祟《たた》りで『ゆめみらい』があかんことになって、シュウちゃんのお兄ちゃんは町じゅう放火してまわるようになった、いうんか? 酔うた勢いでアホなこと言わんとき」 「……ごめんなさい」 「死んだ者は死んだ者、生きとる者は生きとる者や。死んだ者に生きとる者がどうこう決められてしまうやら、悔しいやろ。うちな、子どもの頃から幽霊やらお化けやら占いやら、これーっぽっちも信じとらんかってん。信じられるんは、いま、うちらがここにおる、ここにこうして、ちゃーんと生きとる、それだけやろ」  こめかみの内側が熱い。店のざわめきが、さっきから少し遠くなった。これが酔っているということなのだろうか。わからない。生まれて初めての酒——ふるさとの家で一人で晩酌をしていた父親の姿を、ふと思いだす。  三杯目の生ビール、二杯目のウーロン茶を頼んだ。最初に頼んだ料理もまだほとんど食べていないのに、アカネはカレイの塩焼きと揚げ出し豆腐も追加注文して、「おなかいっぱい食べて、早うおとなにならんとな」と笑う。 「アカネさんは、飲まないの?」  ふふっ、と笑みを深めるだけで、なにも答えない。 「体の具合、どこか悪いの?」  また、笑ってかわされた。 「うちのことより、シュウちゃん、顔真っ赤やで。だいじょうぶ? まだ飲める?」  おまえは黙ってうなずいた。だいじょうぶ。ビールが美味い——というより、いま自分がビールを飲んでいるんだ、ということが、いい。  運ばれてきたばかりの三杯目のジョッキをつかんだ。喉を鳴らして勢いよく飲んだ。ジョッキをテーブルに戻し、げっぷ交じりの息をつくと、こめかみがまた痺《しび》れるように熱くなる。 「ほんま、ええ飲みっぷりやなあ。あんた意外とウワバミなん違う?」  嬉《うれ》しそうに笑うアカネの顔も、ぼうっとにじむ。      2  酒に酔うというのは、すべてのものの輪郭がぼやけていくことなのかもしれない。と思ったことも、へらへらと笑う端から、あれ、いまなに考えてたんだっけ、と忘れてしまう。  アカネが揺れる。テーブルの上の料理の皿も揺れる。店も揺れる。すべてが揺れて、ぼやけて、それに身をゆだねてしまえば肩や背中に貼りついた重みが心地よく消えていく。  ビールをジョッキ三杯で切り上げ、アカネに勧められるまま日本酒の冷酒に変えた。凍るように冷たく、それでいてとろりと甘い日本酒は、ビールよりも美味かった。ガラスのぐい飲みで、たてつづけに五杯——「たてつづけ」だということすら、酌をするアカネに「ほんまウワバミやなあ」と言われるまで、自分では気づかなかった。  時間の感覚が鈍くなった。頬をうまく引き締められない。あぐらを立て膝《ひざ》に変え、壁に背中を預けて、古民家のランプを模した電球のオレンジ色の明かりをぼんやりと見つめていると、胸の中にきちんとしまわれていたはずの記憶の数々がとりとめなく口をつく。  徹夫のことを、話した。なぜ徹夫を脅したんだ、と少し恨む口調になった。 「なに言うてんねん、ああいうんは新田のほうから一言ガツンてかましたったら、話が早いんや」  アカネは不満げに言って、「シュウちゃんも、あれでけじめがついてよかったん違う?」とつづけた。 「そんなことない」 「なんでやねん、ほなあんた、あんなちんぴら坊主に好き勝手にいじめられたままでよかったんか?」 「……よくないけど」 「ほな、あれでよかったやろ」 「でも……よくない」 「あんた、からみ酒か? ごっつタチ悪いなあ」  そう言いながら、アカネはぐい飲みにまた酒を注ぐ。おまえもそれを一口で干した。 「あいつ……親友だって言ってた、俺のこと……」 「調子のええ奴やなあ」 「でも、親友って言ってたんだ……ガキの頃から、ずっと親友だった、って」 「そやから、それくらい言うんやて、ああいうちんぴらは。堪忍してもらうためなら土下座でもするし、靴についた犬のクソでも舐《な》めるんや。ほいで、自分のほうが上や思うたら、土下座でもさせるし、犬のクソでも舐めさせる。いちいち真に受けとったら、あんた、アホ見るで」  アカネの言うことは、たぶん——絶対に、正しい。  徹夫にやられた仕打ちがいくつもよみがえってくる。だが、悔しさや腹立たしさは不思議なほど湧いてこない。思いだす場面のすべてを包み込むようにして、おまえに二万円を差し出したときの徹夫の半べその顔が浮かぶ。 「……俺、あいつに借りた金、返さないと」 「なに律儀なこと言うてんねん」 「でも、やっぱり返さないと泥棒になる」 「カツアゲしたゼニ返すアホ、どこにおんねん」 「……カツアゲじゃない、あいつが貸してくれたんだ」 「あんたが貸せ言うたさかい貸したんやろ、なに理屈こねとんねん」 「でも、あいつ、親友だから貸してくれたんだよ、俺に」 「せやったらなあ、親友から借りたゼニは出世払いでええねん、あるとき払いの催促なしや、せやろ? し・ん・ゆ・う、なんやさかい」 「……親友じゃないよ、あいつと俺」  アカネはカッとした顔でなにか言い返しかけたが、気持ちを静めるようにウーロン茶を一口飲んで、やれやれ、と苦笑した。  自分でもわけがわからない。頭の中の混乱が、そのまま言葉になってしまう。  アカネはおまえのぐい飲みに酒を注ぎながら言った。 「シュウちゃんは優しい子ォやからなあ」 「……優しくなんかないよ」 「ほんまに優しい子ォやから、そない言うんよ。自分で自分のこと優しい言う奴ほど信用でけん者はおらんのやから」  似たようなことをエリにも言われたような気がする。いや、違っただろうか。よくわからない。ただ、エリもきっと似たようなことを言うだろうな、とは思う。 「アカネさんとエリって、なんとなく似てる気がする」 「はあ?」 「似てるんだ、二人とも」 「話、飛ぶなあ」  あきれ顔のアカネは、それでも嬉しそうに「うち、そういう絵に描いたような酔っぱらい、大好きやねん」と言った。  酔っぱらい——なんだな、とあらためて噛《か》みしめる。そんな言葉で自分が呼ばれることなど、昨日までは想像すらできなかった。酔っぱらい、酔っぱらい、酔っぱらい、酔っぱらい、酔っぱらい……喉《のど》の奥で何度となく繰り返して、へらへらと頬の力を抜くと、楽しくてしかたない。 「アカネさん」 「うん?」 「アカネさん、アカネさあん、アカネさあん、アカネさあああああん……」  誰かの名前を呼んだことなど、最近一度もなかった。呼びつづけたい相手など、あの町には誰もいなかった。ふるさとはおまえを「ひとり」にした。おまえが「ひとり」になってしまう町がふるさとだった。  いまは違う。名前を呼びたい。会いたいのではなく、振り向いてほしいわけでもなく、ただ、いろいろなひとの名前を呼びたい。 「どないしたん?」と訊《き》くアカネにかまわず、おまえは口を動かした。  エリ、エリ、エリ、エリ、エリ……神父さん、神父さん、神父さん、神父さあん、神父さあああああん……徹夫、テツ、テツ、テツ……鬼ケン、鬼ケン、鬼ケン、鬼ケン、鬼ケン、鬼ケエエエエエエエン……。  つながりたい、と思ったのだ。一月、初めてアカネとセックスをした夜。約束の時間に遅れたアカネを待ちながら、誰でもいい、誰かとつながりたくて、つながれないことが悔しくて、悲しくて、そうだ、あの夜そばにいた女子高生を、いまはもう姿などなにも覚えていない女子高生を、たとえばナイフがあれば、殺すのではなくつながるために、刺していたかもしれない、かもしれない、かもしれない、かもしれない、嘘だ、そういうのはすべて嘘だと思う、思う自分はほんとうのことを知っているのかどうかわからないけれど、つながりたいと思って、つながるためにひとを殺すひともいるのだとは思う。宮原雄二がそうだ。宮原雄二を死刑にしたひとはどうだ? 宮原雄二は誰ともつながることのできない九年間の日々を過ごして、絶望した孤独のまま、おまえはもう永遠に誰ともつながれないんだと法律に決められて、死刑になった。だが、俺はおまえだ、と宮原雄二は言った。つながったのだろうか。わからない。宮原雄二とおまえは、つながったのか。つながってなどいなかったのか。  名前を呼びたい。名前はいいなあ、と思う。  なぜだろう、顔を思い浮かべれば腹が立つ相手でも、名前だけなら、誰もがいとおしい。  同級生の名前を思いつくまま呼んだ。学校の教師の名前も呼んだ。近所のひとの名前が終わると親戚《しんせき》のひとの名前。歌うように、呪文《じゆもん》を唱えるように呼んでいった。  最初のうちは「どないしたん、頭おかしいなったん違う?」「かなわんなあ」「シュウちゃん、酒癖悪いわぁ」と合いの手を入れるようにつぶやいていたアカネも、途中からは黙って、カキフライについていた八つ切りのレモンを箸《はし》の先でつつくだけだった。  知り合いの名前をすべて呼んだ。だが、まだ、呼びたいひとたちがいる。呼ばなければならないひとたちが、いる。  おまえは目を閉じて、息を小さく吸い込んで、静かに名前を唇に載せた。  お父さん。  お母さん。  お兄ちゃん。 「なあ、シュウちゃん」  薄く目を開けると、アカネはテーブルに身を乗り出すようにして、おまえをじっと見つめていた。 「今朝、お母さんに、置き手紙しといたん?」  書けなかった。言葉が見つからなかった。  行ってきます——には、ならない。そこまではわかっていて、置き手紙にいちばんふさわしい言葉が「さよなら」だということもちゃんとわかっていても、白い紙に「さよなら」と書きつけるのが怖かった。だから、「行ってきます」と「さよなら」の狭間《はざま》の言葉を探した。頭の中で考えるだけでなく、辞書もひいてみたが、どうしても見つけられなかった。 「『さよなら』の、どこが怖かったん?」  アカネに訊かれた。頭の中で思っていたことをまた口に出してしまったんだと、気づいた。  酒に酔うことが少し怖くなって、ぐい飲みに伸ばしかけた手を引いた。 「なあ、『さよなら』のどこが怖いん?」 「……怖いっていうか、なんか、嫌だったんだけど」 「なして? シュウちゃん、もう二度と帰らんつもりなんやろ? せやったら『さよなら』でええやん」 「そうなんだけど……」  言葉に詰まるおまえを、アカネはまだじっと見つめつづける。 「お母さんに『さよなら』言うんが嫌やったん?」 「べつに……」 「無理せんでええて。シュウちゃんは優しい子ォやさかい、どないお母さんにひどい目ェに遭わされても、よう捨てられんのよ。なあ? ええやん、シュウちゃんらしいやん、うち、好っきゃなあ、そういうん」  妙に大袈裟《おおげさ》な口調だ、と思った。まなざしも、ただ見つめるというだけではなく、話を先回りしてほくそ笑むときの目に似ている。 「あのなシュウちゃん、ええこと教えたげる。子どもはなあ、親を捨てることはできんのん。親も子どもを捨てることはできんのん。ほんまやで。たとえ一緒の家に住んどらんでも、恨みごとしか出てこんでも、やっぱり親子は親子やねん。どないしょうもないほど、親子やねん」  おまえはアカネから目をそらし、あらためてぐい飲みを手に取って、一口|啜《すす》った。とろりとした酒の甘みを初めて重く感じた。味が濃すぎる。喉が渇く。舌が粘つく。冷たい水が欲しい。なにか食べ物を口に入れて気を紛らわそうと思ったが、箸を持つのがひどく億劫《おつくう》で、テーブルに並ぶ料理の皿を眺め渡してみても欲しいものはなにもなく、揺れて二重にも三重にもぼやける皿や小鉢にまなざしの焦点を無理に合わせていると、頭が鈍く痛みはじめた。  アカネがなにか言った。聞こえなかった。  アカネはもう一度、たぶん同じ言葉を、さっきよりゆっくりしたテンポで言う。  できたみたいなんよ——最後の言葉だけ聞き取れた。  三度目。  今度は、最初の言葉だけ。  赤ちゃん——。  アカネに目を戻したいのに、それすら億劫で、うめくような息が漏れるだけだった。  ショックを受けると酔いが醒《さ》めるというのは嘘なんだ、と知った。酒の酔いが、耳に飛び込んできた言葉をずぶずぶと沈めてしまう。言葉の意味はわかっても、重みが伝わらない。  アカネは、おまえのそんな反応の鈍さも見透かしていた。 「酔うたほうが話しやすいこともあるし、酔うたときに聞きたいこともあるんや、世の中いうんは」 「……うん」 「心配せんとき。まだシュウちゃんの子ォかどうか決まっとらんのやし、どっちにしても新田の子ォや、それはもう、決まっとるんやから」  アカネがそう言って笑ったとき——携帯電話の着信音が聞こえた。  ハンドバッグから電話機を取り出したアカネは、ディスプレイの表示を確認して「あっちゃあ……」と顔をしかめ、その顔のまま電話に出た。  おまえは喉《のど》の渇きを少しでも癒《いや》したくて、刺身のツマの大根を指でつまんで口に放り込んだ。箸を持つ気力がない。目の焦点をゆるめると頭痛は治まったが、今度はみぞおちがむかむかする。  電話に応《こた》えるアカネの声は、最初は低い相槌《あいづち》だけだったが、途中で一声跳ね上がった。 「なに言うてんの、考えすぎやん」  声は笑っている。  だが、顔は見る間にこわばってきた。 「さっきも言うたやろ、親戚の子ォや……せやから、従弟《いとこ》とは違うんやけど、もっと遠い親戚やねん、その子の親にウチとこの親がごっつ世話になっとるさかい……なに言うてんの、子どもやないの、中学生やで、まだ……アホなこと言わんといてえな、ごはん食べさせとるだけやないの……ほんまよ、ほんま、居酒屋におんねん……ふつうのお店屋さんや……場所? ええよ、そない言うんなら来てみたらええやん……」  アカネは居酒屋の場所を手早く説明して電話を切ると、まるで汚いものでも捨てるように電話機をハンドバッグに放り込んだ。  帰ったほうがいい。新田からの電話だ。逃げなければいけない。腰を浮かせようとした。だが、体がひどく重い。力が入らない。壁から背中を離しただけでバランスを崩してテーブルに突っ伏してしまいそうだった。 「ええんよ、なんも心配せんで」  アカネはぎごちなく笑った。 「新田ってなあ、ほんま嫉妬《しつと》深いんよ。うちが誰かと会う言うたら、絶対に電話してくんねん。せやけどなあ、うちのこと好きやから、そないすんねん。アホなひとやけど、アホはアホなりに一途《いちず》やねん。せやからな、シュウちゃんはなんも心配せんでええねん、うちがおったらだいじょうぶや、お小遣いもくれるかもしれんで。心配せんでええんよ、あんたは、今夜のことも、これからのことも、なーんも心配せんでええんよ……」  うなずこうとしたが、もう顎《あご》を振ることすら億劫になってしまった。  目をつぶる。暗闇の中で、すう、と眠りに引き込まれていきそうになる。  目を開けないとまずいぞと思いながら、その一方で、もうどうでもいいやあとも思う。心配はいらない、とアカネは言った。なにも心配しなくていい——そんなふうに言ってくれるひとなど、ふるさとには誰もいなかった。      3  その男は、思い描いていたやくざの幹部とはかけ離れた身なりだった。  痩《や》せた男だった。小柄な男でもあった。  そしてなにより、グレイの三つ揃いを着て、銀縁の眼鏡をかけ、髪は角刈りでもパンチパーマでも丸坊主でもなく、少し長めの髪を軽く後ろに撫《な》でつけただけ。ブレスレットもないし、腕時計も金色ではなかった。  最初は別の席のサラリーマンがたまたま通りかかったのかと思った。  だが、男はおまえとアカネのいる小上がり席の前で立ち止まり、アカネも男に「早かったんね」と言った。 「車が空いとったさかいな」——抑揚のない、少し高い声だった。相手を脅すよりも数字を読み上げるほうが似合いそうな。  鬼ケンとは正反対の男だ。ふるさとをめちゃくちゃにした青稜会のやくざにも、こんなタイプの男はいなかった。 「シュウちゃん、このひとが新田さん。おねえちゃんがいつも仕事でお世話になっとるんよ。挨拶《あいさつ》しなさい」  距離をとったアカネの言葉に、おまえも居住まいを正して応えようとしたが、とにかく体が動かない。口の中も粘ついて、しゃべることすら難しい。  水が欲しい。いや、それよりも眠ってしまいたい。  新田は席の前にたたずんだまま、そんなおまえをちらりと見て、アカネに目を戻した。 「酒、飲ませたんか」  アカネは決まり悪そうに「ほんのちょっとだけやけど」と返す。「ほんまよ、ほんのちょっとだけ」 「自分も飲んだんか」 「アホなこと言わんといて、体のこともあるんやから」 「飲んでないんやな」 「ずうっとウーロン茶だけや。ほんまよ、シュウちゃんが証人やさかい」  なあ? と訊《き》かれた。黙ってうなずく。ただそれだけのしぐさで、また頭が痛みはじめた。  新田はもう一度おまえに目をやった。冷たい、なにかを測るようなまなざしだった。 「あんた、なんか食べる? 晩ごはんまだなん違うん?」  アカネが言った。もう、「あんた」は、おまえの呼び名ではなくなった。  新田は「ここにあるもんでええ」とテーブルに顎をしゃくりながら靴を脱ぎ、アカネの隣に座った。  お通しの小鉢を持って注文を取りに来た店員に生ビールを頼む、その口調にもやくざじみたものは感じられなかった。 「あとな、そこのボクに氷入れた水、持ってきたって」  そう付け加えた新田は、おまえに向き直って、「気分悪うなったら、すぐにおっちゃんに言うんやで。トイレに連れてったるさかい」と声をかけた。  鬼ケン——名前を呼んだ。声になって口からこぼれ落ちてしまわないよう唇を軽く噛《か》んだ。  生ビールと水が運ばれてきた。アカネは使っていなかった小皿を手に、新田のために料理を取り分ける。おしぼりを袋から出して差し出したのも、アカネ。電話を受けたときにはあれほど嫌な顔をしていたのに、いまのアカネは新田にかいがいしく仕える女になっていた。  鬼ケンなら——おまえは思う。  鬼ケンが生きていたら——唇を強く噛んで、思う。  鬼ケンはただの荒くれたちんぴらだった。新田から見れば虫けら同然の男だろう。  それでも、鬼ケンなら——新田には負けない。鬼ケンが怒れば、新田を殺す。鬼ケンがアカネの腕を引き寄せれば、アカネは新田から離れて鬼ケンの胸に抱かれる。  水を飲んだ。カルキ臭い水だった。  新田はアカネと仕事の話を始めた。話題がおまえのことに移るのを恐れたのか、アカネは新田が切り出した話がすぐに終わったあとも、自分から仕事のことをあれこれ口にした。  新田の口調は静かだった。その代わり、にこりともしない。この男が、ときおり、妄想まがいの嫉妬に駆られて、アカネを殴る。灰皿で殴りつける。信じられない。いや、こんな男だからこそ、それも信じられる。  水を飲んだ。  新田はビールのジョッキに手を伸ばさない。  水を飲んだ。  新田はアカネが取り分けた小皿に箸《はし》をつけない。  水を飲んだ。  喉の渇きは癒え、粘ついた口の中もだいぶさっぱりしたが、頭痛は消えない。冷たい水が注ぎ込まれたのがかえってよくなかったのか、みぞおちのむかつきはむしろ増してきた。 「ほんまやねえ、もう、まいったわ」  アカネが笑った。おまえではなく、新田のほうを——新田だけを、見つめて。おまえの子どもかもしれない命を宿した体を、少し新田のほうに傾けて。  だが、新田は笑わない。 「あんたの言うとおりや思うわ、うちも」  アカネが媚《こ》びるように言っても、新田の頬はゆるまない。  おまえは水を飲み干した。  新田はおまえを一瞥《いちべつ》して、「そろそろ行くか」と言った。 「それでなあ、あんた、せっかくシュウちゃんがうちのこと頼って遊びに来たんやさかい、ホテルの部屋とってやろう思うとるんやけど、ええ?」  新田はそれには応えず、スーツの内ポケットから携帯電話を取り出した。 「車、表に回しとけや」  電話の相手——運転手の若い衆に言って、つづけてホテルの名前を告げた。 「スイートあるやろ、そこ電話してとっとけ。会社の名前でええ。もし満杯やったら、別のホテル紹介させえ」  低い声で言って、相手の返事を待たずに電話を切った。 「ちょっと、あんた、シングルでええんよ、シュウちゃん一人なんやさかい」 「スイートや」 「もったいないやん、シングルでええよ、そんな、あんた、気ィつこうてくれんでも……」  言いかけた言葉が途中で止まる。笑っていた表情も、こわばった。 「なあ、ちょっと、あんた……」  うわずった声をさえぎって、新田はようやくビールのジョッキをつかんだ。一息に——まるで水を飲むように、違う、なにか機械に液体を注ぎ込むような感じで、飲み干した。  空のジョッキを、なにごともなかったかのような手つきと表情でテーブルに戻す。 「勘定しとくさかい、先に車に乗っとれや」 「ちょっと待って、あんた……」 「乗っとれ、言うてんねや」 「あかんよ、そんなん、あかんて……」  激しくかぶりを振るアカネにかまわず、新田はおまえに声をかけた。 「ボク、一人じゃ歩けんやろ。おっちゃんが肩貸したるさかい、車に乗る前にトイレ行こうや。なあ」  返事をしないおまえに、もう一度、「なあ」とうながす。 「あかんて、うちが連れてく、な? 親戚《しんせき》なんやさかい」  アカネは新田に抱きつくような恰好《かつこう》になった。ひどく戸惑い、そしてひどくおびえていた。 「なに言うとんねん」新田は、眼鏡の奥の目を細めて笑う。「いまがいちばん大事にせないかんときやろ。もうちいと体のこと考えて、早う車に乗っとれや」  アカネは「あかんて、なあ……」と、またかぶりを振りかけた。  その頬を——新田は平手で張った。目を細め、頬をゆるめたまま、手首だけ使って、腕にとまった蚊を叩《たた》くように。  アカネは悲鳴をあげない。ぶたれた頬を手で押さえ、うつむいて、黙って座敷から下りた。ぶつほうもぶたれたほうも、あまりにも静かだったので、まわりの客は誰も気づいていない。  アカネはやくざの情婦なんだと、おまえは割れるように痛む頭で思う。アカネはこの男の情婦で、鬼ケンはもうこの世にはいない。あたりまえのことを、みぞおちを突き上げる吐き気をこらえながら、思う。 「ほな、トイレ行こか」  新田が差し伸べてくる手を無視して立ち上がろうとしたが、だめだった。天井が揺れる。回るように、大きく揺れる。店を出ていくアカネの背中が、よじれる。「中学生がそないに酒に酔うて、どないすんねん」と笑う新田の声が耳の奥でひずむ。  新田はテーブルを回り込んでおまえのそばに来た。 「ほれ、おっちゃんにつかまり」  肩で担ぐように体を起こされた。  鬼ケンなら——と考えるのは、もうやめた。鬼ケンはもういない。鬼ケンは死んだ。山道の崖《がけ》の下に埋められた。墓参りをしてからふるさとを出ればよかった。  新田はトイレに行く前にレジに向かい、おまえをそばの椅子に座らせて、勘定をすませた。 「あとな、ウイスキーのボトル、入れてくれるか。で、それを持ち帰りのお土産や」  怪訝《けげん》な顔の店員からボトルを一本受け取って、おまえを担ぎ直す。 「ほな、トイレや」  耳元で言って、息を詰めて笑った。        *  トイレの個室のドアを開け放ったまま、おまえは腰を曲げ、便器に顔を突き出した。新田は後ろから片手でおまえの腰を支え、もう片方の手で背中を軽く叩く。 「どないや、ゲロ出んのんか?」  おまえは黙ってうなずいた。 「なに我慢しとんねん、アゲたら楽になるんやがな。ほれ、早うアゲてみい」  嫌です——と答えようとした、そのときだった。  新田は背中を叩いていた手をおまえの脇腹から前に回し、みぞおちを殴りつけた。  痛さよりも驚きで、みぞおちが激しくひくつき、腰を曲げたままつま先立った。  反吐《へど》が噴き出した。 「そうや、その調子や」  新田は満足そうに言って、今度は胃のあたりを服の上から鷲掴《わしづか》みにした。  反吐がまた出る。袋から絞り出されるように、酸っぱい液体がとめどなく噴き出していく。  涙が出た。咳《せ》き込みそうになるのをこらえたら、反吐が鼻の奥に回った。  新田は胃をつかんだ手を離し、おまえの頭を後ろから押さえつけた。 「目つき、気に入らんのう……」  反吐は止まらない。首と肩に思いきり力を込めて、便器に顔を沈められそうになるのをこらえた。 「気に入らん目つきしとるのう、自分……」  腰を支える新田の手がはずれ、おまえは前のめりに倒れそうになる。尻《しり》を蹴《け》られた。便器には落ちずにすんだが、水洗タンクに頭をぶつけた。  新田はおまえの肩をつかんで、体を起こした。 「こっち向けや」  言われたとおりにしたら、ウイスキーのボトルの底で鼻を正面から突かれた。骨が折れたり鼻血が出たりする強さではなかったが、一瞬目の前でまぶしい光がはじけた。  今度は腹を突かれた。おまえはトイレの壁に背中を預けたまま、膝《ひざ》から崩れ落ちる。顔が新田の腰の高さになった。ボトルの底が、頬を横から押す。力は込めていない。だが、頬を横に向けないと歯がへし折られてしまいそうだった。 「景気づけや。飲めや、これ」  新田はおまえの頬からボトルをはずし、蓋《ふた》を取った。おまえは壁と床に体の重みをゆだねたまま、動けない。  ボトルの口が、おまえの口にねじ込まれた。ウイスキーが流れ込む。最初は息を止めていたが、新田は笑いながら、ハンカチを巻きつけた手の甲でおまえの鼻を軽く殴る。うめくと、ゴボッという音とともにウイスキーが喉《のど》に流れ込む。むせ返って、息を吸うと、また流れ込む。火のような熱さが、反吐でささくれだった喉を灼《や》き、みぞおちを灼いた。 「飲めや、最後まで飲むんやで」  新田は笑う。冷たく笑いつづける。殺されるのか——と思った直後、体じゅうが痙攣《けいれん》したように大きくひくついた。  新田はすばやく個室の外にあとずさり、そのついでのように革靴のつま先で顎《あご》を蹴り上げた。  おまえは反吐を吐いた。ボトルをくわえたまま、泣きながら、血の混じる反吐を吐いた。  痛かった。怖かった。悲しくて、悔しかった。 「お母さん……」  泣きながら、反吐を吐きながら、おまえはそのひとの名前を呼んだ。 「お母さん……お母さん……お母さん……お母さん……」  そのひとの名を、呼びつづけた。  新田は携帯電話で、表の運転手を呼んだ。 「汚れ物が出たさかい、上着持って迎えに来いや。アカネにのう、自分のかわいい親戚《しんせき》の子ォはアゲたさかい、元気になったで、言うとけ」  新田には、呼べば来る誰かがいる。車の中で身震いしながら、逃げることもできずに待つ誰かもいる。 「……お母さん……」  もう決しておまえを振り向きはしないそのひとを、おまえは泣きながら、ただ呼びつづけた。 [#改ページ]   第十五章      1  眠ったのか気を失ったのか、わからない。夢など見なかった。重い泥に押しつぶされるような時間が過ぎていった。  目が覚めてからも、瞼《まぶた》を上げるのがひどく億劫《おつくう》だった。  下腹がこわばる。熱い。  おしっこ——?  違う。ひとの気配がする。腰にまとわりつくものがある。  うごめいている。まさぐっている。  ビクン、と体の中心が跳ねた。思わずうめいた。  笑い声が聞こえた。「アホが」——男の声だった「ちんぽから先に目ぇ覚ましたのぅ」と男は笑いながらつづけた。  ああそうか、と濁った意識の中でおまえは思う。声の主は、新田だ。そして、誰かの指がまさぐっているのは——また、ビクン、と跳ねる。  うめきながらばたつかせた脚が、なにかに、誰かに、当たった。 「痛っ!」——女が悲鳴をあげる。若い声だった。まだ少女のような。  おまえは目を開けた。  薄暗い部屋の真ん中にあるベッドに横たわっていた。悲鳴をあげた女が膝立《ひざだ》ちしておまえを見ていた。明かりは、部屋の隅のフロアスタンドのオレンジ色の光だけだった。女はやはり少女にしか見えない幼い顔立ちをしている。痩《や》せた体につけているのは、黒いスリップだけだった。 「なに暴れとるんな、アホ」  新田はバスローブ姿でフロアスタンドの脇の椅子に座っていた。 「せっかく気持ちええことしてもろうとるんや、おとなしいしとれ」  言われて、初めて気づいた。おまえの下半身は裸だった。部屋の暗がりよりもさらに深い影をつくる股間《こかん》に、性器が屹立《きつりつ》していた。  少女と目が合った。少女はふふっと微笑むと、蹴《け》られるのを避けて体をおまえの横に置き、長い髪を片手で肩の後ろに流して、身をかがめた。  指が触れる。上から下へ、こするように指が動く。  脚をばたつかせたが、少女にはもう当たらない。 「おとなしいしとれ!」  新田が甲高い声で怒鳴った。  指が動く。性器の表面を這《は》いまわり、そっと貼りついて、挟むように押さえる。  少女は四つん這いになって、尻《しり》を高く掲げていた。スリップのレース模様の裾《すそ》がめくれ、下着をつけていない太股《ふともも》と尻の曲線があらわになる。少女の股間の茂みは、新田のほうを向いている。新田は椅子に座ったまま煙草をくゆらせ、ウイスキーのミニチュアボトルをじかに口に運ぶ。  ここは、どこだ——。  おまえは性器の高ぶりを逸《そ》らそうと、息を吐き出して、天井を見つめる。  ホテルだ。たぶん。居酒屋で新田が話していた、スイートルーム。  アカネは——?  どこだ——?  性器が、ねっとりとした温《ぬく》みに包まれた。少女は唇と舌でおまえをもてあそぶ。指は左右の睾丸《こうがん》を順に撫《な》でていく。  おまえは奥歯を食いしばって、胸に息を溜《た》める。性器がはちきれそうに固くなる。波のように快感が腰の奥から突き上げてくる。  少女が顔を上げた。唇から糸を引いて垂れる唾液《だえき》が、オレンジ色の明かりに一瞬きらめくように光った。 「気持ちいい?」  少女はそう言って、口のまわりの唾液を手の甲で拭《ぬぐ》いながら笑う。大阪の言葉ではなかった。  ほんとうにまだ幼い——もしかしたら中学生かもしれない、そんな顔と声で、少女はつづける。 「したことあるの?」  おまえは黙って、少女を食い入るように見つめる。動けない。体を起こすことはもとより、さっきは動かせた両脚も、いまはずぶずぶとベッドに沈み込んでしまいそうに重い。 「先っぽ、きれい、ピンク色してる」  少女はそう言って、性器の先端を手のひらで軽く叩《たた》いた。かすかな痛みを感じるのと同時に、また新たな快感の波が襲う。もう、ぎりぎり、だった。あのままなら少女の口の中ではじけていた。少女もきっとわかっていた。それがわかるほど——慣れていた。  四つん這いになった少女は、両手と両膝で体を支えたまま、猫のように首をよじって新田を振り向いた。 「してもいいの?」  新田は笑った。上機嫌な、嘲《あざけ》るような笑い声だった。 「まあ、そないあわてんでもええやろ」 「だって……生殺し、そんなの」 「どっちがや」 「この子も、あたしも、両方」  少女は尻を左右に振った。  新田は「におうとるやないけ」と、また笑う。「びしょびしょやなあ」  少女も笑いながら片手を自分の股間に持っていく。雨だれのような湿った音が聞こえた。ぴちゃ、ぴちゃ、とゆっくり。  その手が、おまえの顔に向かう。動けない。頭の芯《しん》がまだ眠っているのか、眠らされているのか、とにかく体がけだるく、重い。  少女はおまえの顔の真上に覆いかぶさった。垂れ下がった髪が頬に触れる。正面から、お互いの息がかかる距離で見つめ合う。少女はゆっくりと瞬いた。大きな瞳《ひとみ》だった。長い睫《まつげ》だった。静かに微笑む、その笑顔に、さっきまでとは違う、憐《あわ》れむような寂しさを感じた。 「噛《か》まないでよ」  濡《ぬ》れた指先でおまえの上唇に触れる。クリームを塗り込むように、指先の、とろりとしたしずくを唇に広げていく。  甘いような、饐《す》えたような、淡いにおいが鼻にからむ。  おんなは気持ちよくなると、あそこが濡れる——おまえはもう知っている。アカネの濡れた性器に触れたこともある。そのときはもっと濃密な、熟れた果実の放つようなにおいだったような気がする。  少女は指を唇から離し、おまえに覆いかぶさったまま、「唇、舐《な》めてごらん」と言った。「甘いよ」  いやだ、とかぶりを振ろうとしたが、首が動かない。 「もっと塗ってあげようか?」  い、や、だ。  口を小さく開くのがやっとだった。声は出ない。顎《あご》が軋《きし》むように痛む。  少女は体を起こし、おまえのシャツのボタンをはずしはじめた。シャツをはだけ、下に着ていたランニングシャツの裾をめくって、おまえの顔を隠す。なにも見えなくなった。ぞくっとする恐怖を感じるのと同時に、体が跳ねた。少女に乳首を、左右いっぺんにつままれたのだった。 「なに一丁前に感じとんねや、このクソガキ」と新田が笑う。 「おっぱい気持ちいいもんね、男も」  少女が耳元でささやく。「声出してもいいよ、気持ちよかったら」とつづけ、耳の起伏を舌で舐める。  左右の乳首は、休みなく少女の指で揉《も》まれる。生まれて初めてだった。アカネは、そんなことをしなかった。性器と同じように乳首も固くなる。指が、舌に変わる。小豆よりも小さな乳首のまわりを、円を描いて舌が滑る。空いた指は、再び性器をまさぐった。固くなる。熱くなる。おまえの両手はシーツをつかむ。両脚がこわばる。乳首を吸われた。すぼめた唇から音が漏れるほど強く。初めてだった。男が乳首を愛撫《あいぶ》される光景など、ふるさとでこっそり読んだ週刊誌のグラビアには出ていなかった。乳首を軽く噛まれた。性器の根元が、ホースの水を止めるようにつままれた。  少女はようやくおまえの胸から顔を上げ、体を起こして、新田を振り向いた。 「ねえ……」  鼻にかかった訴えるような声で言って、スリップの肩紐《かたひも》をはずす。痩せた体にふさわしい貧弱な乳房があらわになった。少女はそれを両手で鷲掴《わしづか》みにして、腰を振りながら、揉みしだく。 「ねえ……ねえ……ねえ!」  泣きだしそうな声になった。  新田は黙って椅子から立ち上がり、ドアを開けて隣の部屋に向かった。  少女はそれを見て、ふーう、と長く尾をひくため息をついた。 「シャツ、脱げる?」  なにも答えずにいたら、少女はするするとランニングシャツを脱がし、おまえの右手をつかんで持ち上げて、自分の乳房に押し当てた。小ぶりでなだらかなふくらみは、手のひらにすっぽりと隠れてしまい、すぐにひしゃげた。 「指、動く?」  ほとんど息だけの声で、少女は言った。まともだった。声も、おまえを見つめるまなざしも。 「動くんだったら、揉んで」 「いやだ」 「いいから。揉む恰好《かつこう》だけでも、して」 「……うん」  おまえは喉《のど》の奥で、なんとか声をつくる。指も、ほんのわずか動いた。手のひらの真ん中に少女の乳首がある。おまえの指のぎごちない動きに合わせて少女は身をそらし、低い吐息を漏らした。  ドアの向こうから、新田の話し声が聞こえた。相手は女だった。アカネの声かどうかまでは聞き取れない。  少女は胸をおまえの手のひらに預けたまま、ゆっくりと体を沈めた。性器を愛撫していたときと同じように尻《しり》だけ高く掲げて、おまえの頭を抱きかかえるように両手をまわし、耳元でささやく。 「じごく、だからね」  声が「地獄」という言葉につながるまで、少し時間がかかった。 「あのひとと一緒にいると、ずうっと地獄だから……なにも考えないほうがいいよ……考えると、頭、壊れちゃうから……」  少女の声は蟻のように耳の外側を這《は》い回り、中に入ると、蛇のようにうねる。 「頭の中、からっぽにして。自分のこと、人形にしちゃったほうがいいから」 「……なんで」 「いまからが、地獄なの。あんた初めてでしょ、壊れちゃうから、絶対」  少女の指は、またおまえの乳首をまさぐる。 「気持ちよくなることだけ考えて、何度でもイッていいから、あんた、セックスの人形になって……新田さん、もう頭が壊れちゃってるひとだから……そうしないと、あんた、殺される……」  舌が耳の中に入った。自分のささやいた声を掻《か》き出すように舌先が動く。  新田が戻ってきた。  手に、なにか持っていた。 「おまえら、ガキのくせに、おめこすることだけは一丁前やのう。猿と一緒や、死ぬまでやめれんのや」  笑いながらベッドに近づいた。 「みゆき」——それが、少女の名前だった。 「ケツ上げて、股《また》開いたれ」  みゆきは言われたとおりにした。 「みゆき、自分、歳なんぼやねん」 「……十四」 「まだ子どもやんか、のう、子どものメンチョが、こないびちゃびちゃに濡《ぬ》れとって、ええんかのう? のう? お父ちゃんもお母ちゃんもつらいやろのう」  新田はおどけて声を裏返し、ベッドに乗った。スプリングをたわませて、おまえの顔のすぐ横に来て、膝頭《ひざがしら》で頬を小突く。 「シュウジ、自分はなんぼな。もうすぐ中学卒業するんやったら……なんぼになるんか」 「……十五」 「ええ歳やないけ、おう? 十四の女にちんぽいじってもろて、自分、果報者やで、ほんま」  顔をそむけようとしたら、すばやく顎をつかまれた。親指と残り四本の指で顎を締め上げるのが右手、左手は隣の部屋から持ってきたなにかを握っている。黒い。細長い。まさか——と思った。新田はにやにや笑いながら、さらに強く顎を締める。痛みと息苦しさに口を開くと、「もっと大きいに開けんと、歯が折れてまうど」と言われた。 「そうや……もっと開くんや……おっちゃんが、ええもんをしゃぶらせたるさかいな、ようねぶるんやで、ボク……」  固いものを口の中にねじ込まれた。  一瞬、見えた。  おまえは目をつぶる。喉の奥を目指すそれを舌の根元ではじき返そうとしたが、そんな無力な抵抗を嘲笑《あざわら》うように新田はそれを——バイブレーターを半ばまで引き上げ、また沈め、さらにまた上げて、沈める。 「早うねぶらんか、ねぶらんと気持ちようならんやろ、男は。ベロを使うんや、のう、よだれをな、べーっとりつけて滑りを良うせんと」  新田は笑いながらバイブレーターを出し入れする。唇の端がピリピリと痛む。手に持っていたのを見たときにはさほど太いとは思わなかったが、口の中にねじ込まれると、声を出すどころか、息をする隙間さえほとんどない。 「なにしよるんな、早うねぶらんか。吸うてみい。ワレが女にさせよることや、ワレは女や、のう、ちんぽ口ン中に突っ込んだ女や……ねぶらんか!」  奥まで、突っ込まれた。先端が喉に当たる。咳《せ》き込みかけると、右手で顎をさらに強く締め上げられた。  バイブレーターのスイッチが入る。  激しく震動する。  喉に激痛が走る。歯が折れそうに痛い。歯茎から目の裏にかけて、焼けつくような、熱さなのか痛みなのか、とにかく熱くて、痛い。 「女はつらいのう、こないなブッといもん口ン中に入れられて、メンチョに入れられて、のう、ケツの穴にまで突っ込むアホおるんやさかいな。ほんまアホや、変態や、人間いうんは。口はな、おまんま食うためにあんねや。メンチョは赤ん坊の出てくるところや。肛門《こうもん》はクソひるところや。なんがつろうて男のちんぽくわえなあかんねん、アホや、クソアホや、女はのう……」  バイブレーターの動きが変わった。  口の中で暴れ回る。くねる。先端が円を描く。魚のように跳ねる。歯が折れそうだ。ほんとうに。上顎《うわあご》が熱い。舌がちぎれそうだ。咳き込んだ。吐き気がする。息ができない。喉がえぐられる。涙が流れる。  スイッチが停まった。 「早うねぶれや、べとべとにしてやれや、のう、ちんぽ愛しいやろ、自分、女やさかいな、こういうの欲しいんよ、うちのメンチョに入れて欲しいんよ、思いながらねぶれや」  おまえはぐったりとして、薄目を開ける。  新田がいる。  その肩越しに、みゆきが——感情のないまなざしで、おまえを見つめていた。  人形になれ、とみゆきは言ったのだ。頭をからっぽにしろ、と言ったのだ。  からから、からっぽ——。  宮原雄二の言葉がよみがえる。みゆきのまなざしは宮原雄二のそれとよく似ていることに気づく。  おまえはバイブレーターに舌をからめた。  新田が笑う。  バイブレーターに唾液《だえき》を塗りつけていく。 「よう知っとるやないか」新田はみゆきを振り向いて、「自分より上手いん違うか」と言った。  みゆきは黙って、おまえの股間《こかん》に顔を埋《うず》め、萎《な》えかけていた性器を口に含んだ。  つくりものの性器を舐《な》めるおまえの性器をみゆきが舐める。みゆきの舌がおまえの性器を這い、おまえの舌はつくりものの性器を這って、みゆきの性器を覗《のぞ》き込んで笑う新田は、おまえの口に入れたつくりものの性器をゆっくりと上下させる。  おまえは目をつぶる。つくりものの性器に唾液をからめ、ぴちゃぴちゃと音をたてる。みゆきもおまえの性器に唾液をからめ、同じような音をたてた。  つくりものの性器の雁《かり》を舌でなぞる。おまえの性器も、雁を舐められた。  つくりものの性器の先端を強く吸った。おまえも吸われた。  おまえは男であり、女だった。  おまえが吸っているのは、おまえの性器だった。  おまえは自分の性器を自分になぶられる。  おまえは、おまえに犯される。  しゃぶった。  しゃぶられた。  快感が、腰と、喉に、ある。  おまえはうめく。  みゆきもうめいた。  おまえは口の中の性器を強く吸った。  みゆきの口の中の性器が強く吸われた。  びくん、と跳ねた。  二つの性器が、同時に。  おまえはつくりものの性器を噛《か》んだ。  熱いものがほとばしる。  性器を噛みしめる。  熱いものが喉《のど》を打ち、口腔《こうこう》いっぱいに広がっていくのを、おまえは感じた。確かに、感じた。  新田がバイブレーターを引き抜いた。  おまえは口をだらしなく開けたまま、動かない。唇の付け根から唾液が流れ落ちる。ぼんやりと、厚みのない風景を見つめる。スタンドのオレンジ色の光が、風を受けたカーテンのように揺れる。 「なかなか気ぃ入っとったのう。ウリセンでけるん違うか、おう?」  新田は笑いながら、濡れたバイブレーターを無造作に——がらくたを戸棚にしまうような手つきで、みゆきの股間にねじ込んだ。 「だめぇ……」  みゆきはおまえの性器から口をはずし、くぐもった声で言う。「そんなの、だめぇ……」とつづける声は、半分、おまえの精液と一緒に顎を伝い落ちる。 「これがええんか? おう?」  新田はスイッチを切り替えた。  バイブレーターが、くねる。みゆきはうめき声をあげて、おまえの股間にむしゃぶりついた。性器も、睾丸《こうがん》も、尻《しり》も、指と舌と頬と鼻で愛撫《あいぶ》される。  固くなる。熱くなる。 「幸せやのう、二回目やで。五万円や」  新田の言葉に、みゆきのからっぽのまなざしが重なる。 「十四のガキがメンチョにコケシ突っ込んで、十五のガキのちんぽにしゃぶりつくんや、もうニッポンもおしまいや、どないしょうもないわなあ」  みゆきはなにも言わず、一心におまえを愛撫する。バイブレーターの低く鈍いモーター音は途切れなくつづき、耳に流れ込むその音が、おまえの頭の芯《しん》を痺《しび》れさせる。  考えるな、と自分に命じた。考えると壊れる。からっぽになれ。からから、からっぽの、人形でいろ——。  ドアが開き、誰かが部屋に入ってきた。 「おう、代われや」 新田はバイブレーターから手を離した。くねるバイブレーターがみゆきの性器からこぼれ落ちる寸前、新田の体の陰からそれを支える白い手が見えた。  アカネだった。  全裸の。 「優しいにしたれよ、みゆきのメンチョはまだネンネやさかいな」  新田はアカネの尻を軽く撫《な》でて、笑う。笑い通しの男だ。しかし、おまえは知っている。もう思い知らされた。新田の目は、ほんの一瞬たりとも笑うことはない。  アカネは黙って、みゆきの性器に突き刺さったバイブレーターを支える。おまえをちらりとも見ず、背中を向けて、みゆきの腋《わき》から手を差し入れて、胸を揉《も》む。 「シュウジ、おまえはこっちのほうがええやろ。のう?」  顎をまたつかまれた。さっきと同じように、口をこじ開けられた。  新田はウイスキーのボトルを持っていた。 「アカネのおねえちゃんが、シュウジにもっと飲ませたって、言うんや。しゃあないわなあ、自分ら、仲良しやもんなあ」  ボトルを腋に挟んで、片手で封を切る。 「ワイルドターキーや。ごっつ高い酒やで、ほんま、自分、果報者やのう」  ウイスキーが、どぼどぼと口に注がれる。  咳《せ》き込んだ。口からこぼれたウイスキーが、シーツと、新田の膝《ひざ》を濡《ぬ》らす。 「飲まんか! わりゃ!」  顎をつかむ手が、喉をつぶす。  新しいウイスキーが注がれる。熱い。灼《や》けるような熱さが、喉をえぐり、鼻を奥から刺し貫く。  一口、飲んだ。飲まなければ息ができない。みぞおちが灼ける。内臓の皮が一枚めくれてしまったように、痛くて、熱い。  それでも、飲む。飲みつづける。反吐《へど》を吐きそうになったが、ウイスキーがそれを喉の奥に押し戻す。  みゆきが細く糸をひくような声をあげる。バイブレーターのモーター音は鳴り止まない。全裸のアカネが、全裸のみゆきの痩《や》せた乳房を揉む。  ウイスキーはときどき口をはずれ、鼻にかかる。目にもかかる。激痛が、まばゆい光になって瞼《まぶた》の裏で次々にはじける。  みゆきは仰向けになった。バイブレーターの刺さった股間を正面からおまえにさらした。  茂みは薄い。濡れて、光っている。  アカネはみゆきの横に膝を揃えて座り込み、片手でバイブレーターを支え、片手でみゆきの乳首をつまむ。豊満な胸と、少したるんだ腰回りと、まるい尻と、それから、黒々とした茂みに、いま、新田が手を伸ばす。 「あかんの、やめて」 「なに言うてんねや、べちょべちょやろ」 「いまはあそこ、いじったらいけんの、危ない時期やねん」  アカネはみゆきの愛撫をつづけたまま新田の手の届かない位置に座り直した。おまえのほうには決して顔を向けない。見たくないのか、見られたくないのか、それを考えようとしても、頭の中で言葉がまとまっていかない。ウイスキーは、もうボトルの三分の一近く空になった。吐き気と頭痛がいっぺんにおまえを襲う。天井が揺れる。ベッドが波打つ。壁が左右から倒れ込んでくる。  それなのに——おまえの性器は、みゆきの口の中で猛《たけ》る。根元を指でしごかれて、腰が勝手に浮き上がる。  バイブレーターの音が高くなった。みゆきの性器から落ちたのだった。  アカネはみゆきに抱きついた。脚をからめ、みゆきの乳首を吸った。みゆきの太股《ふともも》に自分の性器をこすりつけるように、尻を振る。 「アホが、もう辛抱しきらんのか」  新田はアカネを嘲《あざけ》って、おまえの顎《あご》をつかむ手をようやく離した。ウイスキーを注ぐのも、やめた。おまえは顔を横に向けて、口に残ったウイスキーを、吐き出すほどの力もなく、だらだらとシーツにこぼした。  焦点の合わない目で、顔を横にしたまま、おまえはシーツの上でくねりつづける黒い性器を見つめる。虫のように見える。蛇のようにも見える。顔の下でひしゃげた耳に、震動が伝わる。  なにも考えるな——。  考えたら、壊れる——。  からから、からっぽの人形でいろ——。  アカネがおまえの顔をまたいだ。ゆっくりと腰を沈め、茂みに隠された性器をおまえの口元に下ろす。 「……シュウちゃん」  初めて、声をかけられた。だが、おまえの視界はアカネの股間《こかん》にふさがれて、なにも見えない。 「シュウちゃんはそのままでええんよぉ、具合悪いやろぉ、堪忍なぁ、堪忍してえなぁ……優しいにしてぇ、奥のほうはあかんさかいなぁ」  歌うように言って、ゆっくりと性器を動かす。おまえの鼻に性器が触れたとき、アカネの体がびくっと震えた。  鼻に性器をこすりつける。甘く饐《す》えたにおいと、ぬるりとした熱い滴りが、鼻にまとわりつく。  みゆきはおまえの性器から口をはずした——と気づく間もなく、性器は口よりも熱く、ぬめったもので包み込まれる。  新田が笑いながらベッドから降りる。 「ええ眺めや、絶景や、のう、おねえちゃんと妹に気持ちええことしてもろうて、おう? シュウジ、こら、われ、バチ当たるで、ほんま」  そして、新田はアカネに言う。 「アカネ、体の向き逆にせえや。みゆきと向き合うて、乳いじり合え。気持ちええでえ、もう、かなわんで」  アカネは言われたとおりにした。性器が鼻に当たる角度が変わってしまい、いちばん快感の得られる位置や角度を探して、尻《しり》がおまえの顔の上でもぞもぞと動く。  みゆきがあえぐ。  アカネもあえぐ。 「女の気持ちええところは、女がいちばんよう知っとんねや、のう」  新田が笑う。  黒い性器は、あいかわらずシーツの上でのたうちまわる。  アカネは性器をおまえの顎にこすりつけて、体を伏せた。あえぎ声が、ひときわ高くなる。乳首の愛撫《あいぶ》が止まったせいか、みゆきは鼻を鳴らし、代わりにおまえの性器を根元まで深く包んで、腰を激しく振った。 「シュウジ、アカネの尻の穴、いじったれや。そこが好きなんや、アカネは。おまえは知らんやろけどな、わしは知っとんねん、こいつはな、尻がええねん、アホやろ、アホな女やさかい、尻の穴のな、まわりのシワシワあるやろ、そこな、爪でひっかいたるんや。そしたらおまえ、もう、ひいひい言いよるわい」  尻の穴は——見える。皺《しわ》の寄った中心に、穴というより点のように、ぽつんと。  おまえは目をつぶる。体じゅうで自分の思いどおりに動かせるのは、瞼だけだった。 「なにしとんねん、早ういじったれや。おねえちゃん待っとるんやさかい」  なにも考えるな。人形になれ。からから、からっぽ——。 「シュウちゃん」  アカネが言う。「シュウちゃん、シュウちゃん、シュウちゃん」と泣いているような声で繰り返して、尻を振る。 「きれいよ、汚いことないんよ、よう洗うとるから」  なにも考えるな。考えると、壊れる。  右手が動いた。のろのろと、尻の襞《ひだ》に触れる。  アカネは短く叫んだ。体を硬直させ、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。  ここにいるのは、人形が三体。オスの人形が一つと、メスの人形が二つ。それでいい。  おまえは指の腹でアカネの尻を撫でる。性器の滴りが光る。 「ええかシュウジ、よう覚えとかなあかんで。遊び慣れた者は、最後はケツに行くねん、ケツがええ、ケツが」  新田がベッドに戻ってきた。黒い性器を手に取ってスイッチを切り、おまえの足元に近づいていく。 「ケツにはな、男も女もないねん……」  その言葉の意味を理解する前に、みゆきが腰を止めて、けらけらと笑った。 「うわあ、もう、地獄ーっ」  アカネは黙って、おまえの顎に性器を押しつける。  逃げたい。逃げなければ——。  だが、体は動かない。脚をばたつかせることもできない。  新田はおまえの両脚をまとめて片手で抱きかかえ、尻を持ち上げた。その下に枕があてがわれる。 「スイッチは切っとくさかいな、裂けたらかわいそうやしな、一生クソ垂れ流しになるさかい」  押しつけられる。うめき声が漏れる。アカネはそれをふさぐように体の位置をずらし、性器をおまえの口につけた。  押しつけられる。かたまりが、押しつけられる。うめき声をアカネの性器が呑《の》み込んでしまう。  押しつけられる。まだ入っていないのに、下腹がうずく。 「ケツがええねん、ケツがな、赤ん坊がでける心配もないし、よう締まる、のう、こないなぶっといもんでもキューって締めるんやさかい、たいしたもんやなあ……」  ねじ込まれる。無理やり。ねじ込まれる。叫び声が、アカネの性器に呑み込まれる。 「先っちょだけでしょ? ね? これぜんぶ入れたら、死んじゃうよぉ」  みゆきは笑いながら言って、また腰を振りはじめる。 「うわあっ、もっと固くなってきてるぅ」  ねじ込まれる。  ねじ込まれる。 「力抜けや! ボケが!」  新田の怒鳴り声と同時に、睾丸《こうがん》に激痛が走った。  殴られた——きれぎれの意識のなかで思った。      2  人形が、床に横たわる。焦点の合わない目で、厚みのない光景を見つめる。  ベッドが見える。新田の上に、二人の女が——人形が、乗っていた。痩《や》せた女は新田の胸に舌を這《は》わせ、太った女は性器をくわえていた。  まだやってるのか、と人形は思う。頬がゆるむ。元気だよなああいつら、と笑う。  メスの人形がベッドに膝立《ひざだ》ちして向かい合った。太ったメスはバイブレーターを持って、痩せたメスの股間《こかん》に出し入れする。痩せたメスは太ったメスの背中に手を回し、太ったメスの首筋に口づけていく。  目がかすむ。顔も殴られたんだな、と人形は思いだす。  どうなったのかはわからない。新田に殴りつけられ、ベッドから蹴落《けお》とされた。床に落ちてからも蹴られ、殴られ、踏みつけられた。  人形の髪は濡《ぬ》れている。ボトルに残ったウイスキーをかけられたのだった。人形の鼻は詰まって、ひどく息苦しい。顔を殴られたか蹴られたかしたときに鼻血が出たのだった。  脚をほんのわずか動かすと、股間に激痛が走る。腿《もも》の内側に乾いた——最初はぬるぬるしていたものが、こびりついている。  血が流れたのだった。血と一緒に、こらえていたのに、少しだけ、赤ん坊のように——漏らした。  それを知って、新田は猛り狂ったのだった。反吐《へど》を吐くまで人形を痛めつけたのだった。  もう、いい。恥ずかしさや悔しさは感じない。恐怖も消えた。  壊れてしまったのか、まだだいじょうぶなのか、それを確かめるのも億劫《おつくう》で、人形は目を閉じる。  人形はまた眠る。泥に沈み込むように眠る。        *  シュウイチの夢を見た。まだ赤犬になる前の、部屋から出られなくなる前の、傲慢《ごうまん》で強かったシュウイチがいた。  父親がいた。母親もいた。シュウイチはおまえをからかって笑い、母親はシュウイチの言うことはすべて正しいんだからというふうに笑いながらうなずき、父親は黙々と飯を食う。        *  鬼ケンがいた。夏の真昼の干拓地を、軽トラックで駆け抜ける。  ただ、それだけ。        *  神父がいた。教会の庭にヒマワリの花が咲いていた。しかし、庭の向こうに広がる干拓地は、一面の雪景色なのだった。        * 「沖」の家が燃える。夜空に炎がたちのぼる。家は次々に燃える。崩れながら燃えていく。ひとの姿は見えない。廃屋ばかりだった。炎のかけらが舞う夜の闇に、赤犬の背中が、浮かんだり消えたりする。        * 『ゆめみらい』のシンボルタワーがそびえる干拓地を、おまえは走る。ひとりきりで、どこに向かっているのかはわからないが、走りつづける。夜だ。真ん丸の月が干拓地をぼうっと照らす。  体は軽い。浮かぶように、飛ぶように、おまえは走る。  シンボルタワーは、いつかテレビか本で見たピサの斜塔のように大きく傾いでいる。もうすぐ倒れる、夢の中のおまえはそれを知っている。いつかはわからないが、必ず、倒れる。一陣の風に押されてそうなるのかもしれないし、足元の土が雨に濡れたときなのかもしれない。降り積もった雪の重みが最後の一押しになるのかもしれないし、照りつける陽射しに行き倒れる旅人のように大地に横たわるのかもしれない。いずれにしても、もうすぐ、だった。  おまえは走りながら、タワーを見つめる。その瞬間を見届けようと、じっと見つめる。タワーの周囲にはカラスが何羽か舞っている。カラスもその瞬間を見たいのかもしれない。  タワーが、また少し傾きを深くした。  もうすぐだ。  ほんとうに、あと、もうすぐなのだ。        *  俺たちは同じだ。  宮原雄二の言葉がよみがえる。  おまえは、俺だ。  俺たちは、同じだ。  俺は、おまえだ。        *  悲鳴で目が覚めた。人形のまなざしは、新田がみゆきをベッドから蹴り落とすのを、見る。  人形の耳は、新田の甲高い笑い声を聴く。  割《わ》り箸《ばし》でも突っ込んどりゃええんや、スベタが。  新田の声が響く。  アカネは膝立ちの姿勢で、床に転げ落ちたみゆきを見つめる。白い肌の中心に、黒々とした——みゆきのものよりずっと濃い茂みがある。  新田も裸だった。暴力とは結びつかないような細く貧弱な体つきだった。この世界でのし上がるために必要なのは、強さではなく残忍さなのかもしれない、と人形は思う。  背中から肩に回り込むようにして、入れ墨がある。絵柄はわからない。鬼ケンの腕にあった彫りかけの入れ墨を思いだす。結局あのひとは、入れ墨を最後まで仕上げてから死んだ——殺されたんだろうか。  新田の裸を、ぼんやりとした薄目で見るともなく見ていたら、気づいた。  性器が、ない。違う、あることはある、のだ。ただ勃起《ぼつき》していない。だらんと萎《な》えているのでもなく、そう、萎えているのだとわかるほどの大きさすらなく、陰毛の茂みに覆い隠されて、縮こまっているのだった。  子どもみたいだ、と思った。  頬を床の絨毯《じゆうたん》にこすりつけて、人形は声をたてずに笑う。  壊れていない。壊れずにすんだ。そして——おまえは、人形から、おまえに戻る。  全身はまだぐったりとして、起き上がることはおろか寝返りを打つのも難しそうだったが、靄《もや》のかかっていた頭が少しずつはっきりとしてきた。  みゆきは床に転げ落ちたまま動かない。  新田とアカネはベッドを降りた。連れ立って隣の部屋に向かう。  アカネはおまえを見ない。垂れ下がった尻《しり》が、ぴちゃぴちゃ、と音をたてて揺れていた。  ドアが閉まる。オレンジ色の明かりに、おまえとみゆきの裸体だけが浮かび上がる。  みゆきが床を這《は》って近づいてきた。おまえも、軋《きし》む体を横に向けて、みゆきを待つ。  目が合った。みゆきが笑い、おまえも笑った。考えてそうしたのではなく、腕が勝手に動いて、みゆきを胸に招き寄せる姿勢になった。みゆきも、おまえに抱きついた。  きつく抱き合った。  おまえの性器は、固く、熱くなっていた。  みゆきの性器も、濡《ぬ》れて、熱い。  二人はつながった。腰を動かさず、愛撫《あいぶ》もせず、静かに、強く、つながり合った。  好きになったとは思わないし、性欲に衝《つ》き動かされたわけでもない。ただ、「ひとり」と「ひとり」が、二人の「ひとり」のままではいたくなかった、いまは。ひとつにつながった「ひとりたち」になりたかった。  それはきっと、みゆきも同じなのだろう。言葉にして確かめなくても、小刻みに震えるみゆきの肌が、おまえに伝える。  そしてみゆきは、おまえとつながったまま、息だけの声で言う。 「ねえ、新田さん、殺さない?」      3  お尻、まだ痛いの?  痛い。  でも、先っぽの先っぽしか入ってなかったよ。だから、そんなにひどいことにはなってないと思うけど。  あいつ、インポなのか?  ときどきね、できなくなるの。そういうとき、あのひと、壊れきっちゃうんだよね。自分が悪いのにね。  さっき蹴《け》られてたのも、そう?  うん。途中までできてたんだけど、急に、だめになっちゃった。  病気なのか?  わかんないけど、どっちにしても、ふつうのセックスじゃぜんぜんだめなの。頭おかしいっていうか、変態なんだよね、ただのね、変態さん。  ホモじゃないの?  なんでもやるんじゃない? 新田さん、バカだから。  バカでも……怖いよ、俺、殺されるかと思った。  そう、怖いよね、死ぬほど怖いよね。 「だから、あのひと殺さない? あたし、あんたがするんなら手伝うけど」  シュウジっていうんだよね、あんた。  おまえ、みゆき、でいいの?  べつに、名前なんかどうでもいいけど。  東京から来たの?  半年前。夏休みだし、家とかうざったいし、先輩が大阪に引っ越してたからそこに泊めてもらおうと思って遊びに来たら、その先輩、新田さんのところにね、追い込みってわかる? 金出すか女出すか目玉抜いて売り飛ばすかって、そこにあたし、バカだよね、わざわざ東京から来て、先輩、一瞬だよ、一瞬で、あたし売った。  先輩って、男?  うん。一年生のときの三年生で、あたしね、まわされたことあんの、その先輩とかに。  それでも……大阪まで来ちゃったんだ。  バカだもん。  もう東京に帰れないの?  わかんないけど、新田さん、あたしのことしゃぶりつくすって言ってたから、おまんこ腐るまでやらせるって、マジ、そういうこといつも言うし。  どうするんだよ、これから。  知らない。あたしバカだから。  俺……東京に行くんだ。途中に寄っただけなんだ、大阪なんて。早く東京に行きたいんだ。  行けると思う? 新田さん、しつこいよ。さっきウリセンって言ってたじゃん、あれ、絶対マジだと思うよ。  ウリセンって、なに?  男、相手にするの。  ……俺が?  気持ちいいみたいよ、慣れたら。女の百万倍いいんだって。  ふざけん……なよ。  いやでしょ? そんなの。  いやだ。  地獄だよ、マジ、生き地獄。新田さんが生きてるかぎり、それがずうっとつづくの。怖いでしょ、ほんと、もう、たまんないって、人間やめたくなっちゃうよ。 「だからね、殺そうよ、あのひと」  いま、なにやってるんだ?  お酒でも飲んでるんじゃないの? アカネねえさんのワカメ酒とか。  アカネさんのこと……。  知ってるよ、よーく。ねえさんと二人で、白白ショーやらされるの、このホテルで。  シロシロ?  男と女が白黒だから、女と女は白白なの。ねえさん、優しくしてくれるから、いいの。あそこを二人でしゃぶりっこすると、すごくいいの。シュウジって、アカネねえさんにオトコにしてもらったんでしょ?  知らない、そんなの。  照れてる。  うるさいよ。  でも、新田さん、知ってるよ。ねえさんの赤ちゃん、自分のタネじゃないかもしれないってこと。  でも……。  新田さん、アカネねえさんが『ゆめみらい』だっけ、あそこの事務所に行ったときになにしてたか、ぜんぶ知ってるもん。知ってて、知らん顔して……ねえさんが嘘つくでしょ、新田さん、そういうとき騙《だま》されたふりしてるでしょ、そうしたら、勃《た》つんだって、すごく。胸がどきどきして、あそこ、もう、びんびんに勃っちゃうんだって。  なんで?  そんなのわかんない。変態さんだもん、あのひと。だからね、あたし、マジ怖いの。ねえさんのおなか大きくなるじゃん、どんどん。そのときに新田さん、なにするかわかんない。赤ちゃん生まれたあとも、その赤ちゃん使って、ほら、変態だから、ほんと、とんでもないこと平気でやっちゃいそうな気がするんだよね。そういう気、するでしょ、今夜のあのひと見てたら。  ……うん。  シュウジの子どもが、やられるんだよ。それでもいいの? 「殺すしかないって思わない?」        *  みゆきはおまえから離れ、ベッドの陰にかがみ込んだ。新田が脱ぎ捨てたバスローブの腰紐《こしひも》を拾い上げて、わかるでしょう、というふうにおまえを振り向く。  おまえはゆっくりと体を起こす。尻《しり》の痛みや嘔吐《おうと》や頭痛はまだ消えていない。全身が鉛のように重い。立ち上がると、きっと足元がふらつくだろう。まっすぐに歩けないかもしれないし、体のどこにも力が入らないかもしれない。  それでも——だからこそ、できそうな、気がした。  隣の部屋からは、テレビの音が聞こえてくる。アダルトチャンネルなのだろう、吠《ほ》えるような女のあえぎ声がつづく。  みゆきが腰紐を手渡した。 「怖い?」  笑いながら訊《き》かれたので、笑いながら「ぜんぜん」と答えた。  そんな自分のほうが——怖い。どこかが壊れてしまったのかもしれない、やはり。「にんげん」としてとても大切な、どこかが、粉々に。だが、そこが壊れてしまわないと、「にんげん」には戻れない、とも思う。  おまえは腰紐を右手に握りしめる。 「一緒に逃げようね」とみゆきは言う。 「走って逃げよう」  おまえが言うと、みゆきは「疲れるー」と笑った。 「走りたいんだ」 「なんで?」 「走るのが好きだから」  みゆきは少し困ったような顔をして、首をかしげるだけだった。 「失敗したら、殺されるよな、俺ら」 「うん……でも、同じだよ、いまと」  みゆきは、暗い、穴ぼこのような目をしていた。  おまえも、きっと。        *  みゆきはバイブレーターを持って、隣の部屋に入った。おまえはドアを開け放したままの戸口の脇に立って、息を詰める。  やはり足元がふらつく。頭がくらくらする。新田の背後にまわって、後ろから腰紐を首にかけて、両腕を交差させて首を絞める。何度も思い描いたが、首を絞める相手はどんなにしても新田にはならない。黒く塗りつぶされた「にんげん」。知っている誰かに似ているようにも、誰にも似ていないようにも、思う。 「お願いします……いじって、しゃぶって、なんでもいいです……してください……」  みゆきの声がする。  新田が笑う。  アカネはどこにいるのか、気配すら感じられない。 「……こっちに来て見てください、覗《のぞ》いてください、おまんこ、こんなに……」  バイブレーターのモーター音が聞こえた。 「アカネねえさん……おっぱい吸って……お願い……」  アカネの返事はなかったが、新田はまた笑った。 「あれだけしてもろうて、まだ足りんのか。おまえ、まだ中学生やろ、なに考えとんねや、かなわんのう」 「早く来て……来て……」  それが——合図だった。  おまえは身を思いきり低くして、隣の部屋に入る。  みゆきは、ソファーセットのテーブルに片足を載せ、股間《こかん》にバイブレーターを押し当てていた。  一人掛けのソファーに座ってそれを食い入るように見つめる新田は、ちょうどドアに背を向ける恰好《かつこう》になっていた。  アカネがいた。みゆきの後ろに立って、みゆきの乳房を両手で揉《も》みしだいていた。  アカネがおまえを見る。  驚いた顔にはならない。こうなることを知っていて——待っていたかのように、すっと目をそらし、みゆきのうなじに舌を這《は》わせる。  新田は気づかない。なにも気づいていない。  おまえはソファーの背に回った。新田の首を見つめた。紐の右端は右手の甲に二重に巻きつけてある。左端も、いま左手の甲に巻きつけた。腰紐を巻きつけたあとは上に引くんだぞ、と自分に命じる。ソファーごと後ろに倒れ込まれるとしくじる。 「びちょびちょですか? 新田さん、あたしのあそこ、どうですか、よく見て……」  新田が「おお?」と顔を前に出した、その瞬間——腰紐が、首に巻きついた。  腕を交差させて、強く引いた。  重く、固い手ごたえがある。  新田は全身を硬直させ、首の腰紐に両手をかけて腰を浮かせた。  予想以上の力だった。おまえの体まで持ち上げられてしまいそうなほど。目をつぶり、歯を食いしばって耐えていたら、鈍い音と、一瞬遅れてガラスの割れる音、さらに遅れてうめき声がつづき、新田の体はソファーに崩れ落ちた。  アカネが、ワイルドターキーのボトルを新田の頭に叩《たた》きつけたのだった。 [#改ページ]   第十六章      1  いつ果てるともなくつづいていた低いうめき声が消え、両手両足が、びくびくっと痙攣《けいれん》して——それきり、だった。  おまえは部屋の隅にへたりこんで、動かない。ソファーのそばから壁際まで、どんなふうにあとずさったのか、なにも覚えていない。気づいたら、そこにいた。  部屋の反対側に四つん這《ば》いになって呆然《ぼうぜん》としているみゆきも、きっと、同じ。スイッチを切ったバイブレーターをしばらく手に握りしめていて、ふと我に返ったのだろう、おぞましげな顔になって腕を縮めながら床に投げた。そのしぐさと表情が、悲鳴や絶叫よりもずっと深く、みゆきの心を伝えた。  アカネもソファーに体の重みのすべてを預けるように座って、ぼんやりと新田を見つめていた。手にはバスローブの腰紐《こしひも》が握られたままだった。倒れた新田を前に、ただ身震いするだけのおまえの手から奪い取って、首を絞めた。おまえとは逆のやり方——先に両腕を交差させて紐を巻きつけ、両腕を開きながら、力を込め、あえぎながら、絞めた。新田の頭の傷口から鮮血がごぼごぼと音をたてるように噴き出して、眼窩《がんか》から目玉が半ばこぼれ落ちて、アカネが腰紐を少しゆるめたら、耳からも血が流れ落ちた。  おまえも、みゆきも、アカネも、新田も全裸だった。「にんげん」が四人いるとは思わなかった。「からだ」が、四つ。服だけではなく「こころ」もどこかになくしてしまったんだ、と思う。  新田が流した血は、もう黒い染みになっている。カーペットの上に血が広がったときにたちこめた、むせかえるようななまぐささも、だいぶ薄れた。代わりに、小便の臭いがする。それを嗅《か》いだとき、おまえは声にならないつぶやきを漏らしたのだった。  ああ、死んじゃったのかな——。  幼い子どものように。  マンガやテレビの、そういうシーンを目にしたときのように。  軽く。  薄く。  淡く。  ああ、こいつ、死んじゃったのかな——。  恐怖はなかった。むしろ、安堵《あんど》した。もう新田は起き上がってこない。復讐《ふくしゆう》されることはない。ひどい目に遭わされずにすむ。  こいつは、もう死んだのかな——。  殺した、という実感は湧かない。無理にそう思い込んだのではなかった。風邪をひいて鼻が片方詰まってしまったように、胸なのか頭なのか、ものを考えるところのどこかに蓋《ふた》をされたみたいで、新田が死んだ、それ以上のことを考えることができない。  おまえは床にへたりこんだまま、背中を壁に預けた。溜《た》め込んでいた息をゆっくりと吐き出すと、みゆきも肩を大きく上下させた。  部屋は静かだった。海の底のように、しん、と静まり返っていた。  その沈黙を破ったのは、アカネだった。 「……あかんね、もう」  感情の消えた声でつぶやいて、「やってもうた」と力なく笑い、小さく首を横に振る。 「ねえさん」  みゆきの声も、台本を棒読みするように薄っぺらだった。 「なに?」 「もう……生き返ったり、しない?」 「こっち見てるけどね」  アカネは新田に顎《あご》をしゃくる。「じーっと、こっち、にらんどるわ」と、また笑う。フロアスタンドの光を受ける角度が変わって、頬に返り血が散っているのがわかった。 「どうするの? ねえさん」 「さあ、どないしよか」 「……正当防衛に、なる?」  アカネは考える間もなく「甘いわ、そんなん」と切り捨てた。  みゆきは四つん這いのまま、ゆっくりと新田に近づいていった。 「……死んじゃったんだ、マジ……新田さん……」 「違う」——アカネは、ぴしゃりと言う。 「死んだんと違う、殺したんや」  おまえの胸にも、その声が刺さる。  みゆきは体をこわばらせ、新田にそれ以上は近づこうとしなかった。  そんなおまえたちの反応を確かめたのか、最初から目に入っていなかったのか、アカネはもう一度、「殺したんや」と言った。  みゆきの嗚咽《おえつ》が聞こえた。  アカネは腰紐を握りしめた右手を、ぎごちないしぐさで目の高さに掲げた。小刻みに震えていた。白い腰紐は、血を吸って赤く染まっていた。 「あかんねん……さっきからな、気色悪いさかい、離したいんやけど……はずれんねん、指が、動かんねん、どないしても……」  右手の震えが、声にも伝わる。左手で右手の指を腰紐からひきはがそうとしても、だめだった。 「……あかんねん……はずれんねん、どないしよう、なあ、どないしようか……」  涙声になる。  右手をソファーの背に叩《たた》きつけるようにぶつけた。それでも、腰紐をつかんだ手は開かない。  みゆきが立ち上がった。乳房と陰毛の茂みがあらわになって、おまえは初めて気づく、みゆきも胸から下腹にかけて、新田の血を浴びていた。  みゆきはアカネの前に来て、しゃがみ込んだ。アカネの右手をとり、指を一本ずつ腰紐から剥《は》がしていった。自由になった人差し指を伸ばして、口に含み、男の性器を愛撫《あいぶ》するように唾液《だえき》をからめながらゆっくりと上下させる。中指も、薬指も、同じ。五本の指が、フロアスタンドに照らされて光る。ぬめって、滴って、なんだかそれは、いまにもアカネの体からちぎれて、くねりながら床を這い回りそうに見える。  腰紐が、アカネの足元に落ちた。みゆきはちらりと目をやったが、拾い上げようとはしなかった。代わりに、アカネの膝《ひざ》にとりすがって、泣いた。 「どうする? どうする? どうする? どうする?」  嗚咽しながら繰り返す。  アカネはなにも言わない。ぼんやりと虚空を見つめ、薄笑いさえ浮かべていた。 「死んじゃったの? ねえ、ほんとに死んじゃったの? 救急車呼んでも間に合わないの?」  アカネの薄笑いが、ほんのわずかゆがんだ。 「生き返ったほうが、ええん?」  みゆきは答えず、ただ泣きじゃくる。 「新田が生き返ったら、うちら三人、皆殺しになるわ。それでもええん?」  みゆきはアカネの膝にむしゃぶりつくように、泣きつづける。 「殺されんでも、生きたまま地獄行きや。新田はそれくらいするわ」  アカネは言葉を切って、初めておまえに目を向けた。 「今夜のようなお遊びじゃ、すまんようになるねん」  おまえは思わずうつむいた。アカネのまなざしは、おまえを慰めてはいなかった。同情ではなく、悲しみでもない。我慢しろと言い聞かせているわけでもなければ、あきらめろと納得させるわけでもない。  冷ややかだった。突き放すようなまなざしが、おまえを射すくめたのだった。  アカネはおまえから視線をはずし、みゆきを迎え入れるように両膝を少し開いた。みゆきはアカネの股間《こかん》に顔を埋《うず》め、嗚咽とも声ともつかず、低くうめく。 「どないする? 救急車呼ぶか? 新田は悪運だけは強いさかいな、万万万が一でも助かるかもしれん」  また、おまえを見る。 「そうしたら、今度は、こっちがやられる番や……。どないする、シュウちゃん」  口ごもるおまえに、「シュウちゃんが決めなあかんのや」とつづけ、「あんた、もうガキと違うんやさかい」と念を押すようにまなざしを強めた。  気おされて目をそらしかけたおまえは、顎に力を込めて踏みとどまり、アカネの視線を受け止めた。 「どないすんのん? 救急車呼ぶんやったら、一分でも一秒でも早いほうがええんやで」  みゆきは長い髪を乱して泣きつづける。首を横に振っていた。救急車を呼ばないでほしいと訴えているようにも、早く一一九番に電話してよ、と急《せ》かしているようにも、見える。  床の上で、新田は動かない。小さな——ほんとうに、冗談のように小さな性器は、股間の茂みとソファーのつくる影に隠れて、そのありかさえわからない。  病院に運び込めば、息を吹き返すのか。それとも、もう手遅れなのか。いまも新田の心臓は動いているのか、止まっているのか。  死んだ、のか。死にかけている、のか。  まだ間に合う、のか。もう手遅れ、なのか。 「どないする?」  アカネが訊《き》いた。  おまえはゆっくりと息を継いで、言った。 「救急車は、呼ばない」  アカネは「そうか」と答え、みゆきの頭を両手で抱いた。みゆきの嗚咽がひときわ高くなる。 「おだぶつ、やな。祝杯を挙げる極道、ぎょうさんおるわ」 「……朝になったら」 「うん?」 「朝になったら、警察に行く」  アカネの返事はなかった。みゆきの髪を手で梳《す》きながら、またぼんやりと虚空を見つめる。 「逃げても、無理だと思う。だって、やくざだから、絶対に捕まえると思う、俺のこと。やくざに捕まったら……鬼ケンみたいに、なると思う……」 「シュウちゃんが、なんで捕まるん」 「え?」 「あんたもみゆきも関係ないやん」 「だって……」 「殺したんは、うちや」  虚空を見つめたまま、だった。みゆきの頭を、幼い子どもをなだめるように、とんとん、と手で叩く。 「シュウちゃん」 「……なに?」 「あんた、逃げぇ」  みゆきの嗚咽が止まった。  アカネの手のひらは、今度はみゆきの頭をゆっくりと、そっと、円を描くように撫《な》でた。 「みゆき、あんたはどないする。うちと一緒にポリに捕まるか? それとも、シュウちゃんと一緒に逃げるか? 逃げて、逃げて……家に帰るか?」  みゆきは少し間を置いて、「逃げる」と言った。 「逃げられるかどうか、わからんで。逃げきれんかったら、おしまいや。それでもええん?」 「……逃げる」 「そやな」  アカネは満足そうにうなずいて、虚空を見つめたまま、「お母ちゃんのところに帰り」と、みゆきの頭を抱きかかえた。        *  すぐには逃げられない。朝になって、朝食をとりにラウンジに向かう客やチェックアウトする客でロビーが込み合ってきたら、その人込みに紛れて、ホテルを出る。すぐに地下鉄の駅に入ってしまえば、あとは新大阪駅まで、中学生の二人連れを気に留めるひとはいないはずだった。 「うちは、あんたらがホテルを出たのを確かめてから、警察に行くさかい」  アカネは、あいかわらず虚空を見つめていた。 「死刑になっちゃうの?」とみゆきが訊く。 「死刑はないな、今日びの裁判所は、ひとを一人殺したぐらいじゃ死刑にせんよ」 「そうなの?」 「まあ、ええとこ十年から十五年いうん違うかなあ。相手が極道やし、色恋がらみの殺人は通り魔やらと違うて、殺《や》られたほうにもなんぼかの非はあるんやし」  冷静な口調だった。まるで、よその誰かの犯罪のことを話しているみたいに。  右手を目の高さに掲げ、手のひらを閉じたり開いたりして、くすっと笑う。ついさっきまで腰紐《こしひも》をつかんだままこわばっていた指は、いまはもう自由に動く。みゆきの唾液《だえき》も乾いて、さっきのように指が別の生き物のように見えてしまうことはない。 「どっちにしても、赤ちゃんは、監獄生まれになるんやな。かわいそうかもしれんけど、ハクがついて、喜ぶかもしれんなあ」  また、笑う。虚空に浮かぶ誰かに語りかけるように、声も軽く、ふわふわと、漂う。 「でも」  みゆきは洟《はな》を啜《すす》りながら言って、感情の堰《せき》が切れたように、一息につづけた。 「やっぱり逃げよう、ね、一緒に逃げよう、ねえさんも。誰も見てないんだから、逃げられるよ、逃げようよ。警察に捕まったら、もう、ねえさん、ずっと刑務所に入らなきゃいけないんだよ、ねえ、そんなのでいいの?」  アカネの両膝《りようひざ》をつかんで、揺さぶって、「逃げようよ!」と声を裏返して叫ぶ。  アカネは、やれやれ、というふうにおまえを振り向いた。 「シュウちゃん、この子な、足手まといになるかもしれんけど、あんじょう面倒見たってや」 「……うん」 「頼んだで、あんたは、もう一丁前の男なんやさかい」 「だめ!」みゆきは泣き叫ぶ。「ねえさんも一緒に逃げて! お願い!」  アカネはみゆきの頭を両手で抱いた。「背中、しゃんと伸ばし」と声をかけ、みゆきが泣きながら言われたとおりにすると——頬を、平手打ちした。髪の毛を引っ張って顔を持ち上げ、もう一発、今度はもっと強く。  みゆきは悲鳴をあげ、さらにアカネに腰を蹴《け》りつけられて、床に倒れ込んだ。 「……うちは、死にとうないんや」  アカネはみゆきを見つめて言って、「赤ちゃん産みたいんや」と自分の下腹をそっと撫でた。 「でも……」 「うちは産むんや、この子を。産んだるんや、刑務所の檻《おり》の中でも、どこでも……産むまでは、うちが殺されるわけにはいかんのや……あと七、八カ月やねん、秋の終わりには生まれてくるんや、赤ちゃん」  アカネのまなざしは、また虚空を向いた。        * 「……いま、何時なん?」  アカネが訊《き》いた。  部屋には時計がなかった。 「シュウちゃん、ベッドの枕元に時計がついとるやろ、ちょっと見てきて」  ベッドルームに入った。ナイトテーブルにラジオとともに埋め込まれたデジタル時計を覗《のぞ》き込む。  四時を少し過ぎたところだった。  時計からベッドに目を移す。皺《しわ》の寄ったシーツの真ん中に、血と汚物の交じり合った赤黒い染みがあった。思わず顔をそむけかけたが、顎《あご》に力を込めて、しっかりと見つめ直した。  激痛の記憶は、股間《こかん》よりも、腹の奥深くにある。まさかそんなところまで届いているはずはないのに、腹の奥がうずく。  内臓なんだ、と思う。尻《しり》の穴からねじ込まれた固いバイブレーターが、自分では決して、おそらく生まれてから死ぬまで一度も触ることができない内臓を、めちゃくちゃに踏みにじった。  犯される——という言葉の意味が、やっとわかった。誰にも決して触れさせてはならないところを、犯された。  おまえは血と汚物の交じり合ったシーツの染みを、じっと見つめる。  新田への怒りや憎しみはない。たとえあったとしても、もうあの男は死んでしまった。悔しさや悲しさも、いまは感じなかった。たとえどんなに悔しがって悲しんだとしても、もう、犯される前には戻れない。  犯された。汚された。踏みにじられ、もてあそばれ、嘲《あざけ》られた。  それを——受け容れるんだ、と自分に命じた。  染みをにらみつける。目に涙が浮かんだ。  悲しみの涙でも、悔し涙でもない。受け容れるための涙だった。逃げきってやる、と誓うために、おまえは泣いた。      2  窓の外は、まだ闇に包まれていた。長い——長すぎる夜は、なかなか明けてくれない。  アカネは新田の体にコートをかけた。 「まだ、ぬくいなあ……」  指先で頬に触れて、「でも、ちょっと固くなってきたやろか」とつぶやく。  おまえは窓辺に立って、周囲のビルの外壁や屋上に灯《とも》る赤い光をぼんやりと見つめる。飛行機がぶつからないようにするための夜間照明は、『ゆめみらい』のシンボルタワーにもついていた。産声をあげる前に死骸《しがい》になってしまったタワーの、それが唯一の、命の名残だった。  タワーは、ビルで言うと何階建てにあたるのだろう。まわりに高い建物がなく、山からも離れた干拓地では、なにかと比べることはできなかった。毎日毎日、うんざりするほど繰り返し眺めていたはずなのに、それが今朝まではあたりまえだったのに、タワーの高さをいま思い浮かべると、記憶は自分でも驚くほどあやふやだった。 「なあ、シュウちゃん」 「……なに?」 「寒うなってきたわ、うち」 「暖房、強くする?」 「それもええけど、なあ、いまから三人でお風呂《ふろ》に入らん? あんたらも新田の血ィかかっとるさかい、このままやと外に出られんし」  あんたら——と言われ、あわてて胸のあたりを見た。  なにも汚れていない。 「……どこ?」 「わからんかったん?」アカネはあきれて笑う。「あんたも、のんきなんか鈍いんか、わからんなあ」  みゆきが、教えてくれた。 「そこ」と指差したのは、顔だった。  顔——?  びくっ、とたじろいだ。  反射的に頬を触ろうとして、もっと反射的な動作で、手を引っ込めた。 「でも、ちょっとだけだよ」  みゆきが、涙の残る声で言った。 「べーったりや、顔、真っ赤っかやで」とアカネが笑う。  どちらにしても、血はすでに乾ききっているはずだった。なにかが肌に染み込んでしまった。急に顔ぜんたいが毛羽立った。むずがゆい。ちくちくと、目に見えないほどの小さな無数の針が顔を刺す。  新田の血だ。あらためて、思った。俺たちが殺した男の血が、俺の体に染み込んだ。  頭がくらくらする。首筋に鳥肌が立つ。だが、おぞましさや気味悪さというのとは、少し違う。むしろそれは、かすかな快感だった。 「昔、テレビで観たことあるんよ……」  アカネはぽつりと言って、おまえとみゆきを交互に見た。 「アフリカやったかアマゾンのほうやったか忘れたけどな、原住民がおんねん、テレビも見たことのないような、そういう連中な。で、そこの一族には、掟《おきて》いうか儀式があんねん、一丁前になるための」  男の子は何歳かになったら、おとなに連れられて、生まれて初めての狩りに出る。  女の子もある年齢に達すると、刃物なのか石器なのか、とにかく獲物の皮を剥《は》ぎ腹を切り裂くための道具をおとなから与えられ、狩りに出かけた男たちの帰りを待つ。  男の子は、なかなか獲物を仕留められない。おとなたちも手助けはしない。一日、二日と空振りの日がつづく。おとなたちは男の子を罵《ののし》り、冷たく突き放す。自分一人の力で鹿や鳥を仕留められない男は、その部族では何歳になっても子どもなのだ。そして、男が持ち帰った獲物の皮を自分一人の力で剥げないうちは、女も子どものままなのだ。  男の子がようやく鹿を仕留めると、おとなたちはそれまでの冷たい態度が嘘のように祝福する。彼はこれで一人前の男になったのだ。  村に帰ると、今度は女の子が、おとなの女たちにどやされながら、ぎごちない手つきで獲物の皮を剥ぎ、臓物を取り出す。 「それがぜんぶ終わるとな、男の子も女の子も、血を体じゅうに塗られるんや」 「血?」——みゆきが訊く。 「そう。生まれて初めて獲った獲物の血を、顔やら手やら足やらに塗りたくんねん。そうすれば、守ってもらえるねん、ほら、森の中の悪霊やら、そういうのあるやん。獲物の命の力いうか、そういうんを貰《もろ》うて、魔除《まよ》けにすんねんな。それが、一丁前になったいう儀式やねん」  アカネは、「あんたらも同じやな」と笑った。「新田の血ィはアクが強いさかい、ええ魔除けになるん違う」  頬が、またむずがゆくなる。 「お風呂入ろう、三人で」とアカネはバスルームに向かう。  おまえは困惑を消しきれないまま、みゆきを振り向いた。  すると——「あれ?」とみゆきが言う。 「……どうしたの?」 「ごめん、さっきの勘違い。血、べつにどこにもついてなかった」 「はあ?」 「なんかね、影がね、血みたいに見えただけ、みたい」  拍子抜けした顔で言うみゆきの胸には、ちゃんと新田の血がこびりついている。  おまえは頬にそっと手をあてた。  バスルームからお湯の音が聞こえてきた。        *  あとになって、おまえは繰り返し思いだす。  アカネとみゆきと三人で熱いシャワーを浴びて、薔薇《ばら》の香りのするシャボンの泡に包まれた時間——。  幸せだった。「楽しい時間」や「おもしろかった時間」と似ているようで、違う。「幸せな時間」だった。  スイートルームの大型のバスタブとはいっても、三人いっぺんに入るには狭すぎる。その狭さが、よかった。シャボンでぬるぬるした肌が、いつもアカネかみゆきに触れている。ずっと裸でいた体にお湯の温《ぬく》もりが染みていく。  アカネもみゆきも、はしゃいでいた。とりとめのないことを休む間もなくしゃべりつづけ、どうでもいいようなことで声をあげて笑った。  アカネが、両手ですくったシャボンの泡で、おまえの性器を包む。みゆきは後ろから、おまえの股間《こかん》にシャボンを塗る。みゆきの指が尻《しり》の穴に触れたとき、思わず体をこわばらせた。だが、みゆきの指はそれを揉《も》みほぐすようにうごめく。 「なにしとんの、シュウちゃん、あそこ固くなってきたやないの」  アカネは笑いながら、勃起《ぼつき》しかけた性器を軽く握った。  みゆきの指は肛門《こうもん》の襞《ひだ》を一筋ずつ撫《な》でていく。シャボンの泡が、アカネやみゆきの指の動きをなめらかにする。  おまえは目をつぶり、吐息を漏らした。片手でアカネの乳房を揉み、もう片方の手を後ろにまわして、みゆきの性器をまさぐった。 「若いなあ、ほんま。今夜これで何回目やねん」  アカネはあきれ顔になって、それでもおまえの性器から手を離さない。  性欲に衝《つ》き動かされているわけではなかった。ただ、心地よい。快感や快楽以前の——もしかしたらそれを超えた、ずうっとこうしていたいという幸福感が、おまえの全身をひたす。  アカネが正面から抱きついてきた。 「ひとごろし、ちゃん」  耳元でささやいて、笑う。  みゆきが背中から抱きついてきた。 「ひとごろし、三人組だよね」  耳たぶを軽く噛《か》んで、嬉《うれ》しそうに言う。  アカネとみゆきに前後から抱かれて、おまえも笑った。ひとごろし、だ——と笑った。  小さなシャボン玉が浮かぶ。いくつも浮かぶ。だが、シャボン玉はどれも、おまえの背丈をほんのわずか超えたあたりで、ぷちん、とはじけてしまう。        *  バスルームから出ると、アカネは服を手早く着替え、部屋を片づけはじめた。 「あんたらも、お風呂場《ふろば》や洗面所に髪の毛落ちとらんか、よう見といてや」  警察を相手にどこまで嘘が通じるかはわからないが、アカネは「心配せんとき」と言う。 「妊婦なんやから、取り調べも少しは気ィ遣うてくれるやろ」  都合が悪くなったら、おなかを押さえて「流産しそうや」と言いだせばいいんだから、と笑う。  警察はそこまで甘くないだろう、とおまえは思う。それでも、いまは「そうだね」とアカネに笑い返しておいた。  窓の外はうっすらと明るくなってきた。  長すぎる夜が、もうすぐ終わる。  死体とともに何時間過ごしたのだろう。気味が悪いとも思わないのは、頭のどこかが麻痺《まひ》してしまったのだろうか。アカネも、みゆきも、おまえも、上機嫌だった。ふわふわと浮き立つような気分だった。「幸せな時間」の余韻が残っている。 「シュウちゃん、ベッドの部屋見てきて。あんたとみゆきの物、なんもないかどうか、よう見てや」 「うん……」  部屋に入った。ベッドのまわりを確かめて、だいじょうぶだな、なにもないな、とナイトテーブルにふと目をやった。  赤いメッセージランプが点滅していた。  リビングルームに戻って伝えると、アカネの顔色が変わった。 「幸せな時間」の余韻が、消えた。      3  アカネがフロントに電話をかけて、メッセージを訊《き》いた。  新田の運転手を務める、三島というちんぴらからだった。明日の朝は何時に迎えに行けばいいのか、新田の電話が来るのを待っていたらしい。何度か携帯電話に連絡を入れたが、ずっと留守番電話になっていたので、とりあえずフロントに伝言を残したのだった。  朝七時前からロビーで待っているので、部屋に迎えに行く時間を携帯電話で知らせてほしい——。  アカネはこわばった顔でソファーに座り、何度か舌打ちをした。 「アホや、あいつ……朝七時やて……早すぎる、ちゅうねん……」 「でも、それまでに部屋を出ていったらいいんじゃない?」  みゆきの言葉も「アホ」の一言でそっけなく退けられた。 「七時前いうたら、ロビーはがらがらやで。客よりもホテルの人間のほうが多いぐらいや。そんなところ中学生のガキが二人で歩いてみ、一発で覚えられるやろ」  おまえとみゆきがホテルを出るのは、早くても七時半、できれば八時。二人がホテルを出ていった頃を見計らってフロントと警察に電話をする、というのがアカネの計画だった。 「早すぎるわ、ほんま……七時やて、アホなこと言うて……」  三島は、みゆきの顔も知っている。早朝にロビーを歩いていたら、確実に見つかってしまう。といって、七時過ぎまで部屋でぐずぐずしていたら、痺《しび》れを切らした三島が部屋まで訪ねてくるだろう。チャイムを鳴らしても応答がないと、フロントに合い鍵《かぎ》を持って来させるかもしれない。そうなると——逃げられない。 「七時に迎えに来ること、めったにないねん……ゴルフやろか……釣りやろか……」  アカネはいまいましげに新田の死体をにらみつけて、「まいったなあ、ほんま」といらだった声で言った。  空は少しずつ白んでいく。いまは六時過ぎ。三島が来るまで、あと一時間あるかどうか。さっきまであれほど待ちわびていた朝が、三人をじわじわと追い詰めていく。 「ねえさん、やっぱり一緒に逃げよう。東京まで逃げればだいじょうぶ、絶対に捕まらないから」  だが、今度もアカネはにべもなく「アホ」と言うだけだった。 「腹ぼてのおばちゃんと中学生二人が、どないして逃げられるのん。三日や四日の話と違うんやさかい」 「だったら、いまから警察に行こうよ。あたしもシュウちゃんも一緒に警察に捕まればいいよ、どうせ未成年なんだし、すぐに出られるから」  これも——さっきよりも強い「アホ」で終わった。 「ひとを殺すこと、なめとんのんか、あんた」 「……なにが?」  答える代わりにアカネはソファーから立ち上がり、新田のそばにひざまずいた。体を覆うコートからはみ出した手を、そっと握る。 「まだぬくいなあ、あんたなあ、まだぬくいけど……死んだんなあ、もうなあ……」  泣きながら新田の手をさする。 「しゃあないなあ、あんたも好き勝手にやってきたんやさかい、自業自得や……痛かったか? 痛かったやろなあ、ごめんなあ、堪忍してえなあ……」  言葉は途中から嗚咽《おえつ》に紛れた。聞き取れるのは、繰り返す「ごめんなあ」だけだった。 「そんなの、謝らないでよお!」  みゆきも泣きながら叫んだ。  おまえはコートの裾《すそ》から出た新田の足の裏をじっと見つめた。  これが死体なんだ、と思う。ほんの何時間か前まで動いていたひとが、いまはもう動かない。二度と起き上がることはない。しゃべることも、笑うことも、怒ることも、ない。  アカネは新田の手の甲に頬ずりをした。 「……シュウちゃんを逃がしてやってな、ええやろ? あんた、シュウちゃんにかわいそうなことしたんやさかい。みゆきもな、堪忍してやってな。あの子もずうっと辛抱しとったんやさかい、なあ、東京のお母ちゃんのところに帰らせてやろうな、なあ。あんたなあ、ひとの心のわからんひとやったし、ひどいことしてきたからなあ……もうな、今度な、生まれ変わるやろ、そしたら、もう極道はやめよな、堅気になってな、もういっぺん、縁があるなら、うちと会おうなあ……」  夜が明ける。  悪い夢が、やっといま、終わる。ひとを殺した者の背負う現実が、始まる。        *  午前六時半。部屋を出る準備は整った。  アカネは自分の財布から紙幣をすべて抜き取って、おまえに渡した——ほとんどが千円札で、合計しても二万円と少し。 「ほんまに当座のぶんしかないんやけど、新田の財布から抜くと、あとで警察にごちゃごちゃ言われるかもしれんし、カードも防犯カメラがあるさかいな」  アカネの顔は、さばさばしていた。不安も恐怖も、表情からは感じられない。  七時に電話がかかってくる。携帯電話は留守番モードにしたままだ。三島は何度か電話をかけるだろう。最初のうちは新田がまだ寝ているのだと思い込むはずだ。何度目で「おかしい」と思うか——それが分かれ道になる。 「八時まで待つような気の長い者は、最初から極道にはならんさかいな、ええとこ三十分やろ」  七時半なら、ロビーも少しはにぎわっている。だが、途中でみゆきが三島に顔を見られたら、すべてが終わる。  警察に電話を入れるタイミングも難しい。早すぎると、おまえとみゆきが部屋を出る前に警官が駆けつける。遅すぎると、三島が踏み込んでくる。  七時二十分に警察に電話をする、とアカネは言った。そのあとすぐにフロントに電話をかける。ロビーにいるはずの三島をフロントのカウンターに呼びだして、三島が電話に出る、その隙に、おまえとみゆきはロビーを抜けてホテルの外に出る。 「ぎりぎりのタイミングや。それも、ロビーの様子をミズテンでやらなあかん。博打《ばくち》やな、ほんまに」 「でも……ねえさん、三島にどんな電話すんのん?」 「呼び出すだけや。フロントのあんちゃんが『しばらくお待ちください』言うて電話を保留にしたら、すぐに切ったる」 「そんなことしたら、三島も、なんかおかしいって思うんじゃないの? 部屋まで来ちゃうよ、絶対」 「ドアを開けんかったらええねん。大阪府警もアホとちゃうさかい、電話したら十分で来るやろ。なんぼ極道やいうても警察の前でガラさらうような度胸あらへん」 「でも、部屋の鍵、フロントで借りてくるかもしれないんだよ?」 「そのときにはホテルの者が一緒やさかい、無茶はできんやろ。とにかくな、うちはなんとかなんねん。シュウちゃんとあんたを逃がすことのほうが難しいんやさかい、もう、いまさらごちゃごちゃ言わんとき」  みゆきは納得しきらない顔で唇を噛《か》んだ。  アカネの言うとおりに物事が運ぶかどうか、おまえにはわからない。アカネ自身にも、きっと。だが、いまはもう、迷ったりためらったりしている場合ではない。  窓の外は、朝の明るさだった。 「なあ、シュウちゃん」  アカネがおまえの前に立つ。まっすぐにおまえを見つめる。 「シュウちゃんは、もう、田舎には帰らんのん?」 「……うん」 「でもな、おとなになってからでもええんよ、いつか、帰り。あそこがシュウちゃんの生まれ育った、ふるさとなんやからね」  アカネはおまえを抱いた。 「うちもな、いつか、赤ちゃんを連れて帰る。うちが帰れんでも、赤ちゃんは、あの町に帰したる。たとえ刑務所の中で生まれても、赤ちゃんのふるさとは、あの町や」  強く抱きしめた。 「好かん町やけどな……ほんまに嫌いな町やけどな、でも、ふるさとはないといかんのよ、にんげんは誰でも」  おまえも、アカネを抱いた。最初はおずおずと背中に手を回し、息を吸い込んで、両手に力を込めた。アカネの言った「にんげん」のやわらかい響きを胸に染み渡らせたかった。 「赤ちゃん産むさかいな、元気な赤ちゃん、産んだるさかい……うち、ひとの死ぬのばっかり見てきたさかい、今度はな、絶対に、ひとが生まれるところ見たいねん……」  おまえは気づいていなかった。  アカネも、みゆきも。  テーブルに置いた新田の携帯電話の着信ランプが光った。自動応答の留守番機能が作動して、メッセージが吹き込まれる。  六時四十五分——。  アカネの計画より、十五分も早かった。        *  七時ちょうど、携帯電話のディスプレイには、すでに〈着信2件〉とあった。  メッセージはどちらも三島からだった。  やはり、新田は今日、ゴルフの予定が入っていた。七時過ぎにホテルを出ないと間に合わないかもしれない、ということを三島は最初のメッセージで遠慮がちに吹き込み、「また時間を見てお電話させていただきます」と締めくくっていた。新田を急《せ》かすような口調ではなかったが、十分後——六時五十五分にかかってきた二本目のメッセージは無言で切られていた。  ドアスコープで廊下の様子を窺《うかが》ったみゆきは、「まだ部屋の前には来てないけど……」と声をひそめてアカネに伝える。  アカネが黙ってうなずいたとき、今度は室内電話が鳴った。  おまえは唾《つば》をごくんと呑《の》んで、みゆきも肩をすぼめた。  アカネはこわばった顔で受話器を取った。  一言だけ。 「……すぐ行くさかい、下で待っとって」  受話器を置いてから、アカネは急に身震いしはじめた。ほんの数秒のことなのに、こめかみに汗が浮いていた。 「上手いもんや、うち、役者になれるん違うかな」  無理に笑って、「今度はもっと気張って芝居せなあかん」と受話器を取る。「いたずら電話や思われたらアウトやもんなあ」  外線につないだ。  ゼロ発信で、1・1・0。 「……ひとを殺しました」  思い詰めた女の声をつくった——いや、やっと本音の声に戻ったのかもしれない、とおまえは思う。  アカネはホテルの名前と部屋番号を告げた。ここが二十八階なんだと、おまえはそれで初めて知った。応対する声は聞き取れなかったが、いたずら電話だとは思われなかったのだろう、アカネは「いますぐ来てください、お願いします」と二度繰り返して、電話を切った。 「早う行き、すぐにフロントに電話するさかい」  みゆきはドアに向かいかけたが、おまえはまだその場にたたずんだまま、アカネを見つめる。  もう会えない、かもしれない。たとえ会うことができても、何年もかかる。  だが、別れを惜しむ時間などなかった。アカネは照れくさそうに少しだけ笑い、「鬼ケンのこと覚えてくれとって、ありがとな」と言って——言葉の余韻を振り払うように強い口調でつづけた。 「早う行き。もう時間がない。あんたらが部屋を出てから三十数えたら、フロントに電話するさかいな。それまでにエレベーターに乗って、ロビーまで下りとくんやで」 「……うん」 「早う!」  みゆきが手を引いた。 「なにしとんねん! 早う行き!」  アカネが怒鳴った。みゆきに手を強く引かれた。  駆けだした。部屋を出て、廊下を走りながら、鬼ケンに祈った。  あのひとを守ってください——。  赤ん坊を産ませてあげて、ください——。  新田にも祈った。許してあげてください、許してあげてください、と繰り返した。        *  六基あるエレベーターは、四基がロビーフロアにあり、残り二基はすでに二十八階を過ぎて下降していた。  みゆきは下りのボタンを押して、「来るまで時間かかるね」とひとりごちるように言った。  おまえは黙って階数表示板を見上げる。ロビーフロアにあった一基がボタンに反応して上昇を始めたが、二十八階まで来て、乗り込んで、ロビーフロアへ下りる——アカネの電話に間に合わないかもしれない。 「出るときは、ばらばらになったほうがいいかもね。シュウが先に出て、あたしはタイミングをずらして……そうしないと、マジ、ヤバいもん」  ホテルを出ると、玄関のすぐ前の大通りを渡る。右側にしばらく歩くと、地下鉄の駅がある。その階段を下りきったところで待ち合わせる。  みゆきが説明し終えると、ようやくエレベーターが二十八階に着いた。  乗り込むと、みゆきはすぐにロビーフロアのボタンを押し、自動でドアが閉まるのを待ちきれずに〈CLOSE〉のボタンを押した。いらだたしげに、何度も。 「途中の階で停まったら、完全にアウトだよね……」 「ばらばらに出て、だいじょうぶなのか?」 「なにが?」 「だって、三島って奴に……」 「だから一緒にいないほうがいいんじゃない。もしもね、万が一だけど、あたしが三島に見つかっても、シュウは絶対に、ぜーったいに後ろ振り向かないでよ。他人なんだからね、関係ないんだから、立ち止まったりしてもだめだよ。なんていうか、ほら、家族連れで泊まってる家の男の子が、ちょっと早起きして散歩に行ってきまーす、って顔して……なにがあっても、絶対に振り向いたりしないで」  でも、それは万が一の話だろう——とは返せなかった。  みゆきは、すべてを覚悟した表情を浮かべていた。 「せっかくアカネねえさんが逃がしてくれたんだもん、ここからはあたしがシュウを逃がしてあげないと、ねえさんにまたビンタ張られちゃうじゃん」  でしょ? と笑う。  おまえは顔をゆがめた。こめかみと瞼《まぶた》に力を入れた。ひくつく唇を、固く結んだ。 「だーいじょうぶだって、あたしだって帰りたいもん、家に。お母さんに会いたいもん」  みゆきの目は赤く潤んでいた。  駅で三十分待ってて——と言った。三十分たっても来なかったら、一人で逃げて——と笑うと、涙が頬を伝った。  エレベーターは下降をつづける。静かにロビーフロアに近づいていく。        *  おまえはみゆきに背中を押されて、一人でエレベーターを降りた。  ロビーには、観光の団体客がいた。韓国なのか中国なのか、日本語とは違うイントネーションの言葉を声高にしゃべりながら、人数と荷物の確認をしているところだった。  これなら——逃げられる。  足を少し速めた。みゆきは後ろをついてきているのだろうか。どれくらい離れているのだろう。振り向いて確かめたい気持ちを懸命にこらえて、その代わり、フロントにちらりと目をやった。  黒いスーツの男がいた。こっちに背中を向けて、受話器を耳にあてていた。首をかしげる。怒ったそぶりで受話器をフロントマンに返し、フロントマンは恐縮しきった顔でぺこぺこ頭を下げる。  男は肩をそびやかして、踵《きびす》を返した。腕時計を見て、また首をかしげながら顔を上げて、不機嫌そうにロビーを見渡して——誰かに、気づいた。  男は大股《おおまた》に歩きだす。おい、ちょっと、というふうに右手を軽く挙げる。  確かめたのは、そこまでだった。  おまえは歩く。歩きつづける。  振り向かない。振り向いては、ならない。  歩きつづける。歯を食いしばった。  振り向かない。握りしめた拳《こぶし》の中で、爪が手のひらに食い込んでいく。  エントランスの回転ドアを抜けた。  立ち止まらない。  振り向かない。  ただ、祈った。みゆきが逃げられるよう、一心に祈りつづけた。        *  大通りの横断歩道で信号待ちをしているとき、パトカーがサイレンを鳴らしてホテルに入っていった。        *  地下鉄の駅で、三十分待った。  みゆきは、姿をあらわさなかった。 [#改ページ]   第十七章      1  列車が新大阪を出てほどなく、車掌が検札に来た。頬をこわばらせ、息を詰めたのは、切符を手渡して、また受け取る、その何秒かだけだった。  車掌はおまえを訝《いぶか》しむ様子もなく、次のシートに移っていった。  おまえは切符をウインドブレーカーのポケットに戻しながら、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。  腕を組み、うなだれて、目を閉じたまま、数百キロの距離を東に運ばれていった。  高架の線路から見渡す京都の街並みも、車窓をわずかにかすめる琵琶《びわ》湖の湖面も、関ヶ原の雪景色も、木曾《きそ》川と長良《ながら》川に架かる長い橋も、名古屋も、浜名湖も、富士山も、なにも知らずに、おまえは東京へ向かった。  眠るつもりはなかったし、眠れるほどの余裕があるとも思えなかったが、目をつぶると足元の床がすとんと抜けたような感じで眠りに落ちた。アカネのことも、みゆきのことも、新田のことも忘れて、昏々《こんこん》と眠りつづけたのだった。  目を覚ましたとき、列車は多摩川の鉄橋を渡っていた。街並みが車窓に広がる。  小さなビルと古びた住宅の屋根が、ほとんど隙間なく延々とつづく。高架の線路から見渡すと、それはなんだか、とてつもなく大きな生き物のざらついた肌を思わせる。  山の稜線《りようせん》は見えない。果てのない街だ。そこが大阪との違いだった。  おまえは窓の外をぼんやりと見つめ、まだしばらくはこの風景がつづくだろうと見当をつけて、滑るように流れていく街並みに、みゆきの面影を重ねた。  みゆきとの約束を、おまえは半分だけ破ってしまった。地下鉄の駅の改札から、三十分で立ち去ることはできなかった。駅員の視線をかわして、何度か階段を途中まで上って身を隠した。  地上は騒がしかった。パトカーや救急車のサイレンが何重にも響きわたり、歩道から階段を下りてくるサラリーマンたちは皆、極道の幹部が殺《や》られたらしい、と興奮した口調で話していた。  犯人についての話は、ばらばらだった。どこかの組の鉄砲玉がロビーで撃ったらしいと言っている男もいたし、中国あたりのマフィアに決まっている、と訳知り顔で連れに話す男もいた。  女だ——とは、誰も言わない。ガキもいたらしい——という声も聞こえなかった。  アカネは警察に捕まっただろうか。みゆきは、あのまま、ロビーで三島に見つかってしまったのだろうか。  居ても立ってもいられない。地上に出て、ホテルに駆け込んでしまえば、そのほうが楽になれるかもしれない。だが、二人は、そんなことを望んではいない。逃げるんだ、とおまえは階段の半ばにたたずんで、自分に繰り返し言い聞かせた。  階段を下りてくるサラリーマンの話し声は、しだいに事実を正しく伝えるようになってきた。 「部屋で首絞められたらしいで」「女やてな、いてもうたん」「一人か?」「女一人じゃ無理違うかなあ」「男もおるんか?」「逃げとんのんか?」……。  おまえは、みゆきとの約束の残り半分は守った。  ホテルを出てから一時間たった頃、おまえは一人で地下鉄に乗り込んで新大阪駅に向かった。  ラッシュアワーのピークは過ぎていたが、地下鉄の車内は込み合っていた。吊革《つりかわ》につかまって、おまえはドアの上に掲げられた路線図をじっと見つめた。  出会いから別れまで、ほんの一晩だった。いまは顔をくっきりと思いだすことができても、いずれ——決して遠くないうちに、記憶はあやふやになってしまうだろう。  それでも、忘れない。決して。  吊革をあらためてしっかりと握り直した。トンネルの暗闇を背負った窓ガラスに映り込む自分の顔を、にらむように見つめた。        *  車窓からの眺めが、しだいに背の高いビルにさえぎられるようになってきた。ふつうの住宅の屋根は見えない。生活の街ではなく、仕事の街だった。  列車はスピードをゆるめ、乗り換えを案内するアナウンスが聞こえてきた。  国会議事堂が、ほんの一瞬だけ、見えた。  生まれて初めての東京だった。  列車がホームに滑り込む。おまえは弾みをつけてシートから立ち上がり、デイパックを肩に掛けてデッキに出た。  列車が止まる。ホームに降り立つときは息を詰め、注意深くあたりを見まわした。制服の警官の姿はない。私服刑事や、やくざのような風体の男も見当たらない。  おまえは息をゆっくりと吐き出して、歩きだす。  人込みに紛れる。  ひとを殺した少年がここにいるとも知らず、人込みはおまえを無表情に呑《の》み込んでしまう。        *  東京駅のコンコースをしばらく歩いて、公衆電話のコーナーを見つけた。  デイパックからメモの紙片を取り出した。  緊張するだろう、と思っていた。きっと何度もためらうだろう、とも。  だが、実際には、すべてのしぐさはなめらかすぎるぐらいなめらかだった。プッシュボタンを押すテンポは乱れることはなかった。受話器を持つ右手が汗ばむことも。  呼び出し音が聞こえる。息づかいが伝わらないよう気をつけて深呼吸をした。  あせるな、と自分に言い聞かせた。名前だけ確かめれば、それでいい。本人はいない。いるはずがない。今日は平日で、エリは、学校に行っている時間だ。  電話に出るのは叔母《おば》なのか、留守番電話の応答メッセージなのか、とにかく神父が書いてくれたこの番号がエリの家のものだとわかれば、それでよかった。  東京で、ひとりぼっちではない。この番号を押せばエリにつながるのだと確かめておきたかった。  呼び出し音が何度かつづいたあと、電話がつながった。 「はい」——女の声。 「もしもし? 南波ですが……」  確かめた。もう、いい。あとは受話器を黙って置いてしまえば、目的は達せられたことになる。  だが、おまえの右手は受話器を耳に押し当てたまま動かない。いまになって、緊張で全身がこわばってしまう。 「……もしもし? もしもし?」  女の声がしだいに怪訝《けげん》そうになる。  おまえは喉《のど》を低く鳴らした。 「もしもし? 南波ですけど、もしもし?」  もうひとつのことも——確かめた。  おまえは、また喉を鳴らす。 「……エリ?」  かすれた声になった。  電話の向こうで息を呑む気配が伝わった。 「……わかる? 俺のこと」  エリは息を呑んだままだった。おまえもそれ以上はなにも言わない。言いたくても、喉が絞られて、息もつけない。  沈黙がつづく。電話を切られるかもしれない、と覚悟した。いや、その前に、右手が勝手に動いて受話器を置いてしまうかもしれない。そうなればそうなったで、しかたない。とにかくエリがここにいる、この街にエリがいる、この電話の向こうにエリが確かにいる。  沈黙はさらにつづく。しかし、静けさの陰にひそむ気配が微妙に変わった。拒むのではなく、探るような気配だった。  おまえは喉の手前に残った息だけで、もう一度言った。 「俺のこと……わかる?」 「どこにいるの?」  エリは静かに聞き返した。  おまえは、もっと静かに答える。 「東京」 「……なんで?」 「東京に来たんだ、さっき」 「だから……なんで?」 「わからない」  正直に言った。「わからないけど、いま、東京なんだ」とつづけ、「ほんとなんだ」と付け加えた。  エリはまた黙った。テレフォンカードの残り度数が、11から10に減った。 「今日……学校、休みなのか」とおまえは言った。  エリの返事はない。  おまえは視線を駅の人込みに放って、「俺、学校やめたんだ」と言った。  エリは少しだけ笑って、「中学校でしょ」と返す。「義務教育じゃない」 「でも、やめたんだ。もうすぐ卒業だし、どうせ高校に行く気ないし……」 「なんで?」  今度もまた、「わからない」としか言えなかった。  だが、エリは今度は黙り込まなかった。 「ねえ、いまどこにいるの? 東京の、どこ?」 「駅。東京駅の中から電話してる」 「携帯電話?」 「そんなの、持ってない」  エリは「だよね」と笑った。  昔と似ているようで、微妙に違う。あの頃——二年前までは、もっとそっけなく突き放すように笑っていた。いまは、おまえの言葉を受け止めてから、するりとかわすように笑う。  おとなになった。顔を見なくてもわかる。 「神父さんから聞いたんだ、この電話番号。あと、住所も知ってる」  エリは、ふうん、と軽く相槌《あいづち》を打った。神父を懐かしがっている様子はなかったが、住所を知られたことを嫌がっているふうでもなかった。 「いつまで東京にいるの?」 「……ずっと」  エリは笑う。さっきより冷ややかさが増した。 「家出してきたの?」 「……うん」 「一人で?」 「あたりまえだろ」 「家出して、どうするの、これから」  わからない、とは答えたくないから、「だいじょうぶだよ」と言った。「ぜんぜん、平気だから」  エリは「べつに心配して訊《き》いたわけじゃないけど」と返す。そっけない口調に、やっと昔のエリの面影が覗《のぞ》いた。  おまえは肩の力を抜いた。緊張が少しだけほぐれ、すぼまっていた喉も広がった。テレフォンカードの残り度数が9になる。電話の順番待ちの老人が、背中のすぐ後ろについた。 「それで……なに? 電話してきたのって」  会いたい——。 「え? 聞こえない」  会いたい——。 「なにか言った? 電話遠いけど」  声に出したのではなかった。胸の中で思っていたかどうかも、よくわからない。確かめるだけでよかった。この街にエリがいる、この街でひとりぼっちではない、ただそれだけを知っていれば生きていける、と思った。  俺、ひとごろしになっちゃった——。 「もしもし? ちょっと電話遠いんだけど……もしもし?」  咳払《せきばら》いを背中にぶつけられた。ちらりと振り向くと、老人は頑固そうな、いかめしい顔をしていた。  ひとごろしなんだ、俺——。  エリはため息をついて、「切っていい?」と言った。  やくざの幹部、首絞めて殺したんだ、ほんとだぞ、殺しちゃったんだ——。 「ねえ、田舎に帰ったほうがいいと思うよ。家出とか、無理だよ」  黙って受話器を置いた。吐き出されたテレフォンカードにかまわず、しばらく虚空を見つめていたら、また老人に咳払いをぶつけられた。  おまえは「すみません」と小さく頭を下げ、テレフォンカードを抜き取って、電話機の前から離れた。  あてもなく歩きだす。コンコースの雑踏が、またおまえを呑《の》み込んでいく。行き交うひとたちは、誰もおまえを知らない。おまえも、行き交うひとたちを誰一人として知らない。  ひとごろしの少年が歩く。ひとごろしなど新聞やニュースやサスペンスドラマの出来事だと思い込んでいるひとたちの間を縫って歩きつづける。ひとごろしの少年は、この街で「ひとり」だった。  だが、いつでも声を聞けるひとがいる。いつでも会える——かもしれないひとが、いる。  ひとごろしの少年は、この街で「ひとりぼっち」というわけではなかった。      2  新宿で電車を降りた。街に出て、あてずっぽうにしばらく歩いて、ここにはなんでもあることを確かめた。  黒いベースボールキャップを買った。目深にかぶって、まなざしをツバの陰に隠した。  大きな書店の地下のカレースタンドで、大盛りのカツカレーを食べた。ものを口に入れたのは、何時間ぶりだろう。ゆうべアカネに連れていかれた居酒屋でテーブルに並んだ料理を食べて以来だった。それも、新田に居酒屋のトイレで殴られたときにすべて吐いたから、あとはずっと腹の中はからっぽだった。空腹も感じなかった。そのことが不思議なのか、いまになって腹が空いてきたほうが不思議なのか、よくわからない。  カレーを食べたあと、書店の一階の雑誌コーナーでアルバイト情報誌を買った。  大通りを渡って、若い客の多いハンバーガーショップの二階で情報誌をめくった。  アカネから渡された金は、ほとんど尽きた。  逃げているんじゃないんだ、と自分に言い聞かせる。隠れているわけでもないんだからな、と念を押す。  生きる。この街で、暮らす。だから、仕事を見つけなければいけない。働かなければいけない。  住み込みで、身元の詮索《せんさく》がうるさくなさそうで、やくざとのつながりもなさそうな仕事——思いついたのは新聞配達だった。        *  たてつづけに三つの新聞専売所に、断られた。  最初の専売所は、情報誌が店頭に並んだ直後に電話をかけてきた男に決まったのだという。  二つ目の専売所は、おまえの声の幼さに勘づいて、「住み込みは十八歳以上じゃないとだめだからね」とにべもなく言って電話を切った。  三軒目に電話をかけるときには声をつぶして工夫してみたが、連絡先を訊かれたので、おまえのほうから黙って電話を切った。  さらに数軒——いずれも、面接に漕《こ》ぎつけることすらできずに終わった。  テレフォンカードの残り度数を気にしながら、さらにまた数軒——声のつぶし方のコツをようやく覚えたせいか、最後の専売所では、年齢を訊かれて「十八」と答えるところまではうまくいった。  ところが、電話に出た年輩の女性は「ウチはね、二十歳以下だと保証人付けさせてもらってんだけど」と言った。口ごもったおまえが言い訳を見つくろう前に「新聞の仕事だからね、信用一番だから」と自慢するような声でつづけ、そのまま電話を切ってしまった。  おまえは情報誌をいっぺんに数ページめくって気分を変え、また一軒——〈急募!〉の煽《あお》り文句にすがるようにして、電話番号を押していった。        *  決まった。カードの残り度数が1——最後の最後の電話で、嘘のように、あっけなく。 「何時に来れる? 夕刊に間に合う?」  所長は住所はおろか年齢や名前すら訊かずに、「夕刊に間に合えば、今日のぶんから給料払うから」と、ぞんざいな口調で言った。  情報誌に載っていた条件は、住み込み二食付きで、月給十万円。決して高くはなかったが、ねぐらと食べることの心配をしないですむだけで、いまはじゅうぶんだった。 「いまどこなの、おたく」 「……新宿、です」 「じゃあ、あれだ、何時頃こっちに来れるかな」  言葉に詰まった。求人広告に出ている専売所の住所は、東京都は東京都でも、二十三区内ではなかった。ページの上のインデックスに〈三多摩地区・南部〉とあることに、いまになって気づいた。三多摩を「さんたま」と読むのか「みたま」でいいのか、それすら知らない。 「どうなのよ、わかんないの?」 「……ちょっと」  所長は笑った。おまえの動揺を見透かしたような笑い方だった。 「いくつよ、おたく」 「……十八、です」  所長はまた笑って、「まあいいけどさ」と言った。 「おたくもさ、東京出てきたんなら、最初に地図ぐらい買っとけよ。『ぴあマップ』とか、そんなのでいいからさ」 「……はい」 「それくらいの金はあるんだろう?」  よく笑う所長だった。 「ま、ウチは、しゃべる仕事じゃないからさ。少々|訛《なま》っててもだいじょうぶだし」 「……はい」 「十八の声じゃねえもんなあ」  おまえのこわばった顔が見えているみたいに、また、おかしそうに笑う。 「べつにいいんだよ、こっちはな。おたくが十八って言えば、十八なんだ。調べる手なんてありゃしないんだしな」 「……はい」 「ほんとうはいくつなんだ?」 「十八、です」  所長は「いいぞ」と笑う。「いいタマだな、そうでなくちゃ家出なんてできないもんなあ」  おまえは、乾いた唇を舌で舐《な》める。 「じゃあ、まあ、いまから来なよ。そこいらを歩いてる奴らに訊《き》けば、行き方なんてすぐにわかるし、なんなら交番で訊いてもいいんだし」  所長は自分の言葉にひときわ高く笑って、笑い声の途中で「名前は?」と訊いてきた。  不意をつかれて、本名を——答えた。  所長は、ふうん、と相槌《あいづち》を打ち、笑いの溶けた声で言った。 「ニュースで聞いたことあるな、その名前。なんだったっけなあ、つい最近なんだけどなあ……」  頬がこわばる。からかわれているんだ、と自分に言い聞かせた。冗談なんだから冗談で返せ、と唇をまた舐めた。  だが、言葉を探しているうちに、所長はつづけて言った。 「すぐ来いよ。夕刊から配ってもらうから」 「……はい」 「三時までに来なかったら、雇わないから」 「……わかりました」 「細かいこと、ぐちゃぐちゃ言う気はないからよ、そっちも変な迷惑かけるなよな」  最後の、その言葉だけは、笑ってはいなかった。        *  専売所のある街は、新宿から私鉄の快速電車で四十分ほどの距離だった。  電車に乗って、新宿近辺の市街地を抜け、多摩川を渡り、車窓の風景に緑が目立ちはじめた頃、忽然《こつぜん》とあらわれた団地群——東京都T市。おまえが生まれる十年以上前に開発された、首都圏で最も大きな規模のニュータウンだった。  駅前は高架になったレンガ敷きの遊歩道がデパートやホテルを結び、パチンコ屋や風俗店のけばけばしい看板も見当たらない。ふるさとのK市やO市よりずっとにぎわっていて、新宿よりずっと清潔な街のたたずまいだった。  だが——好きになれない、と感じた。丘陵地を造成してつくりあげた人工の街は、ふるさとの『ゆめみらい』に似ている。        *  もしもし?  ああ……俺、シュウジだけど……。  ……どうしたの?  俺、仕事決まったから。東京で働くから。それだけ、エリに言っときたくて。  べつに、わたしに言ったって、しょうがないんじゃない?  でも、言っときたかったんだ。  仕事ってなに?  新聞配達。住み込みで……場所は言えないけど、東京だから。  ふうん。  おまえ、学校は? 行ってないのか?  関係ないでしょ。  足の具合……どうなの。  関係ないと思うけど、あんたには。  なに怒ってんだよ。  べつに。  俺……東京に来たけど、おまえに会いたいわけじゃないから。  いいんじゃない、それで。わたしも会いたくないし。  いま、バス待ってるんだ。もうすぐバスが来て、新聞の専売所に行って、夕刊からもう配らなきゃいけないし。  だから?  それだけなんだけど……俺、働くんだ。  好きにすればいいじゃない。  エリは、高校に行くの?  行っちゃいけない?  行ってほしかったから。  なにそれ、わたしのことなんか関係ないでしょ、あんたには。  ある。  まあ……いいけど、ねえ、バスまだ来ないの?  もうすぐだけど。  バスが来るまで、わたし、あんたの相手しなくちゃいけないの?  専売所の電話番号、教えとくから。  知らなくていいけど。  教えとく。  ……電話なんてしないよ。  しなくていいから、俺の番号、知っといてほしいんだ。  知ってどうするの?  知ってるだけでいいんだ。誰かが知ってるっていうだけで、なんか、うまく言えないけど、いいんだ、すごく。  わたし……その番号、田舎のお父さんとかお母さんとかにしゃべっちゃうかもしれないけど、いいの?  親父はいない。いなくなっちゃったんだ、おまえが東京に引っ越したあと。  ……ほんと?  嘘じゃない。おふくろも、借金たくさんつくって、もう家に帰ってこなくなった。兄貴も医療少年院からまだ出られなくて、みんないなくなっちゃったんだ、俺んち。  ……すごいね。  ……番号言うから、メモしてほしいんだ。  するかしないかは、わたしの勝手でしょ。  うん。でも、言うから。もし、ほんとに、もしもの話だけど、エリが俺の声聞きたくなったり俺に会いたくなったりしたら、電話して。  ならないってば、そんなの。  俺も、エリに電話する。  やめて。  おまえの声が聞きたくなったら、電話するから、また。  してこないで。  すぐに切っていいから。  最初から出ないってば。  それでもいいんだ。ほんとは、しゃべらなくてもいいんだ、この電話番号で、つながるっていうか……そういうのがあれば、俺、いいんだ……。  そんなに寂しいんだったら、田舎に帰っちゃえばいいじゃない。  寂しいのとは違うんだ。  どこが?  わかんないけど、違うんだ。  ……メモしないけど、番号、とりあえず教えて。      3  専売所までは、駅からバスで三十分近くかかった。  ニュータウンのはずれ。真新しい団地の建物が並ぶ区画と、建築中の区画、さらに造成工事のさなかの区画の入り交じった、膨張をつづけるニュータウンの、いわば最前線にあたる箇所だった。 「二階に寝泊まりできるようになってるからさ、六畳で二人だけど、まあ、贅沢《ぜいたく》言えるアレでもないだろ」  所長は事務所でおまえに簡単な履歴書を書かせながら、電話のときと変わらず、へらへら笑って言った。 「適当でいいんだからな、こんなの、保証人なんか好き勝手な名前書いとけ」 「……はい」 「俺な、ここに来る前は千葉のほうで専売所持ってたのよ。わかるか? 千葉の幕張のほうなんだけど」 「……すみません」 「ディズニーランドのあるところだ。千葉つったってよ、東京までビーッて電車に乗りゃすぐだから、賃貸マンション多くてよ。賃貸が多いってことはよ、ひとの出入りが激しいってことよ。な、理屈だ、それな。新聞屋ってのは、ひとの出入りがないとどうにもならねえ。わかるよな、それも」 「……はい」 「五年たてば、このへんも立派な街だ。借金背負ってまで我が家の欲しい皆さんの街ができあがるんだ。俺たちの仕事はな、そういう奴らに他人の不幸を毎日毎日届けてやることだよ。世の中には気の毒なひとがたくさんいるのねえ、わたしたちは幸せねえ、って……サービス業だよ、究極の」  所長は体を揺すって笑った。  事務机の椅子が軋《きし》み、揺れが床にも伝わって、おまえが履歴書を書いている応接セットのガラステーブルが、ガタガタと音をたてた。  背丈はおまえより低い。だが、体の横幅や厚みは、プロレスラーか相撲取りを思わせる。顔の肉も目や鼻を押しつぶすぐらい盛り上がって、笑うときも、そうでないときも、目は一本の筋のようになって吊り上がっている。 「早く書いちまえよ、適当でいいんだからよ」  缶コーヒーを啜《すす》り、チョコレートをつまむこの男が、おまえが東京で初めて出会うおとなだった。 「俺はな、ほかの所長とは違うのよ、うん。どうでもいいの、おまえらの事情なんか。毎朝暗いうちから起きだしてよ、新聞せっせと配るのよ、な、それだけをきっちりやってくれりゃ、べつに身元だのなんだのって関係ねえんだからよ」  そうだろう? と所長は身を乗り出し、書きかけの履歴書を覗《のぞ》き込んだ。  保証人——宮原雄二。住所と電話番号を書きあぐねていたら、所長は「ああ。そこはいいよ、あとで俺が適当に書いといてやるから」と軽く言って、「優しいだろう?」と笑った。  履歴書を渡すと、所長は「ちょっと待ってろ」と席を立ち、事務室の手前の作業所に姿を消した。  おまえは、ふう、と息をつき、肩の力を抜いた。  開け放したままのドアから、作業所を眺めた。夕刊の仕分け作業をしているのは、男が七人。全員、住み込みの従業員だった。  二十歳代の青年が四人と、中年の男が二人、そして老人と呼んでもよさそうな小柄な男が一人。おまえと同室になるのは、「トクさん」と所長が呼ぶ、小柄な老人だった。紹介や挨拶《あいさつ》にも至らない、「トクさん、今夜からこいつ、よろしく頼むわ」の一言で会釈を交わした。トクさんはおまえと目を合わせなかった。陰鬱《いんうつ》そうな顔をして、ああ、とも、うう、ともつかず低く応《こた》えただけだった。年齢も顔つきもまったく違うのに、なぜだろう、トクさんのその表情や態度は、ふるさとの家を出ていった父親を、ふと思い起こさせた。        *  所長は新聞を一部、手に持って戻ってきた。 「これが今日の夕刊だ。さっき配送センターから届いたばかりの、ほやほやだよ」  ほら、と差し出された新聞を受け取った。 「軽いだろ」 「……ええ」 「軽いんだよ、新聞なんてのはな。それでも、何十、何百ってまとめると重いんだ」  どう返していいかわからず、あいまいにうなずいた。  所長は椅子に座り直し、ほとんど白紙の履歴書をあらためて読み返した。 「原付の免許は……ないんだな。じゃあ、自転車を貸してやるからよ、それ使って配ればいいんじゃねえかな」 「はい……」 「坂が多いから原付のほうが楽なんだけど、無免許でバイクに乗せるとな、さすがに、事故や違反のときがヤバいからな」 「自転車でいいです」 「じゃあ、借りるか? 借りるんだな? チャリンコ」  念を押す言い方を少し奇妙に感じたが、「はい」とうなずいた。 「よっしゃ、じゃあ朝刊と夕刊合わせて、月に一万円な。給料から引いとくから」 「……え?」 「そりゃそうだろ、おまえ。ひとの自転車使わせてもらうんだよ、なあ、タダってわけにはいかねえだろ。こっちだってよ、どこの馬の骨かわかんねえような奴によ、だいじなだいじな自転車を貸すんだよ。なあ、そのままケツまくられたらどうするよ。リスクだよ、英語わかるか? リスクな、俺、リスク背負ってんのよ、なあ、リスク背負ってもよ、おまえが歩いて新聞配るんじゃ大変だからって自転車を貸してやるわけよ。優しいだろう? おまえ感謝しなくちゃだめよ俺に」  おまえは奥歯を噛《か》みしめる。 「朝刊が毎日だろ、月に三十一回だ。で、夕刊が月曜から土曜までで二十五、六回あるだろ? 合わせていくらだ、五十五回としても、おまえ、一回で百八十円だよ。安いもんだろ。百軒ぐらいやってもらうからよ、そうしたら、なんだ、一軒あたり二円もしねえよ。安い安い、うん、もしナンだったら、給料出たらてめえの自転車買えばいいんだしよ、な、じゃあ一万円天引き、と……」  所長は一人でべらべらしゃべりながら、ノートに走り書きした。 「着替えは前に辞めていった奴らのがたくさんあるから勝手に使え。これはサービスな、俺の。で、問題は布団だ、布団。まだ明け方は冷え込むからよ、毛布もあったほうがいいよな、うん。ウチの貸してやるよ、羽毛布団じゃなくて悪いけどな」  布団と毛布のレンタル代——月に一万円。 「日割りでいけば三百三十三円だよ、高いと思うかもしんねえけどよ、八時間は寝るだろよ、人間。そうしたら一時間で四十円ちょっとだもんな。今日び四十円で一時間暇をつぶせる場所なんてねえだろ。元を取りたかったら、昼間はすることねえんだから、寝てりゃいいんだ、なあ」  枕はサービスしてやるから、と所長は笑って、布団代もノートに書きつけた。 「風呂《ふろ》は毎日入ればいいからな、うん、汗かくからな、この仕事、意外と。先にガス代と水道代と電気代は貰《もら》っとくから。一切合切で、月に一万円でいいや、おまけしといてやるよ」  ノートに書きつける。 「飯は一カ月分、いつ食ってもいいようにしてあるから。朝晩はウチで出すけど、まあ、昼飯は好きなものを自分で食え」  食費が、月に二万円。所長が「安いもんだろ、これで二食だからな」と自慢するとおり、確かに安かった。「飯」という言葉どおり、あてがわれるのは飯と味噌汁《みそしる》だけなのだとおまえが知るのは、夜になってからのことだ。  ノートには、すでに五万円の天引きが記されている。 「家賃は、まあ、プレハブだからな、こっちもあまり強いこと言えねえから、一万円でいいや、うん」  これで、六万円。  思わず顔を上げた。話が違うじゃないか、と言いかけた。 「うん?」と聞き返す所長の目に射すくめられた。細く吊り上がった目は、もう笑っていない。鈍く光るそのまなざしは、新田がおまえをにらんでいたときと同じだった。  所長は缶コーヒーの残りを飲み干して、ゆっくりと言った。 「文句があるんなら、いいんだぜ、辞めてくれても」  おまえはうつむいて、ただ奥歯を噛みしめる。 「不景気だっつっても、仕事ならたくさんあるだろ。金が欲しいんなら別の仕事探せよ。俺はべつにかまわねえからよ」  所長は「でもな」とつづけた。 「逃げ場所が欲しいんだったら、ここにいたほうが得だと思うけどな、俺は」  缶のひしゃげる音がした。所長は、硬いスチール缶を片手で握りつぶしているのだった。 「手っ取り早くゼニが欲しいんなら、水商売だ。でもな、ひとと顔合わせてしゃべる仕事は、すぐにボロが出る。マグロ船に乗っても、山の中に高圧線を張りに行っても、男だけの狭い世界だ、チクリかます奴はいくらでもいるんだな、これが。なあ、逃げるのとゼニを稼ぐのとは、なかなか両立しねえのよ。おまえはまだガキだから、わかんねえかもしんねえけどよ」  所長はひしゃげたコーヒーの缶を事務机に置き、太った体格からは信じられないようなすばやい身のこなしで、その手をおまえに伸ばして、右の手首をつかんだ。  強い力だった。ぎり、ぎり、ぎり、と手首の骨がひび割れてしまうような。  所長はおまえの手首をつかんだまま、もう一方の手で事務机の上の携帯電話を取った。 「警察に電話してやってもいいんだぞ。どうする?」 「……やめて、ください」 「おまえ、家出してきただけじゃねえな、うん? 目ぇ見りゃわかるんだよ。俺はよ、逃げてる奴や世間様から隠れてなきゃなんねえ奴をよ、もう、いやってほど見てきてんだよ」  おまえはうつむいて目をそらす。手首をつかむ力はいっそう強くなり、激痛に思わずソファーから腰が浮き上がる。 「なにやったんだ、教えろよ」  うめきながら、首を横に振った。 「シュウジっていうんだっけか、おまえな。なあ、シュウジ、おまえまだ十五、六だろ。中学生なんじゃねえか? 万引きだの強姦《ごうかん》だので逃げるんだったら、やめとけ。さっさとパクられたほうが話が早えぞ。なあ、逃げるってのはよ、覚悟がいるんだよ、わかるか? 覚悟の足りねえ奴はよ、俺、嫌いなんだよ」  顔は笑っている。声も笑っている。だが、細い目からは鈍い光が消えない。 「覚悟あるのか? ガキなんだから、やり直しきくんだぞ、まだ。それでも逃げるって、覚悟できてるのか?」 「……は……い……」  痛みを突き抜けて、右手が痺《しび》れる。 「ひとでも殺したか?」  所長は笑う。 「それとも、放火魔か、おまえ」  嘲《あざけ》るように笑う。 「ヤーさんの女に手ぇ出したのか? ガキのくせによお」  語尾を跳ね上げて、笑う。  おまえはなにも答えない。そうだよ——手首の痛みを紛らすために、心の中でだけつぶやく。俺はひとごろしで、放火魔の弟で、やくざの女に手を出して、妊娠させたガキだ。 「まあいいや、とにかくよ、匿《かくま》ってもらってる分際で、ゼニが足りねえだのなんだの、生意気なこと言うなってこと。わかったな」  黙ってうなずくと、所長はようやく手を離した。椅子に座り直して、「よく見りゃ、おまえ、けっこう根性据わったツラがまえしてるよ、うん」と笑う目は、一本の細い筋に戻っていた。 「俺はよ、逃げてる奴らの顔が好きなんだよ。びくびくしててよ、すぐにおびえてよ、夜もろくすっぽ眠れなくて、それでも捕まりたくねえんだよなあ。極道とかサラ金とか寝取った女の亭主とか、警察とかな、夜中になったら、よーくうめいてるよ、怖いんだよ、震えてんだよ、奴ら。それを見てると、もう、楽しい楽しい、ほんと、こんなにおもしれえものはねえもんなあ」  所長は、へへっ、と笑って、住み込みの注意事項を話していった。  細かい決まりごとではない。守るべきものは、たったの二つ。  他人のことを詮索《せんさく》するな——。  揉《も》めごとを起こすな——。 「要するに、人間どうしの付き合いだと思うなってことだよな。機械だよ、おまえら。そのほうがいいんだ、お互いに。配達マシーンだ、うん、おまえらみんな」  おまえは、つかまれた指の痕《あと》が白く浮き上がる手首をぼんやりと見つめる。  目を、机の上の電話機に移した。エリはどうせ電話をしてくれないだろう。それでいい。いまは。こんなにちっぽけで無力な自分をさらしたくもなかった。  力が、欲しい。誰にも嘲られず、誰にもいたぶられない、強い「ひとり」でいたい。  初めての給料は、いまの計算なら、手取りで四万円。  自転車は——買わない。  ナイフを買おう、と決めた。 [#改ページ]   第十八章      1  夜明け前、おまえは誰よりも早く、専売所を駆け出していく。夜の名残を探すように、造成前の雑木林や、工事の資材が積み上げられた空き地を選んで走る。  フレームの太い、耐久性だけを考えてデザインされた自転車は、サドルが固く、ペダルの油も切れて、ひどく重い。  それでも、走れば、風が起きる。ピリピリと刺すような風だ。  ベースボールキャップを目深にかぶり、ハンドルを強く握りしめて、百軒分の新聞を配っていく。自転車の前カゴにサイドポケットをつけ、百部の新聞を割り振って入れる。配達を始めたばかりの頃は交差点を曲がるたびにバランスが崩れ、自転車ごと倒れそうになったときも何度もあった。  新聞の重みは、紙の重みではないのだろう、とおまえは思う。  配達前、配送センターからトラックで送られてくる新聞の梱包《こんぽう》を解きながら、おまえはいつも社会面を読む。  たくさんのひとが死に、たくさんのひとが傷つき、たくさんのひとが憤り、たくさんのひとが悲しんでいる。今日も、昨日も、おとついも、さきおとついも……そしてきっと、明日もあさっても。  最初の日に所長が言っていたとおり、新聞は、日替わりの不幸の詰め合わせだった。新聞配達は、夜の名残の闇に紛れて、それをひとびとに届ける仕事だった。  おまえは黙々と新聞を配る。目深にかぶったキャップのツバで空を隠し、地面だけを見つめて、他人の不幸を一軒一軒届けていく。  ニュータウンには、若い家族が多い。ローンを背負いながらも、念願のマイホームを手に入れ、真新しいマンションや一戸建てに引っ越してきた彼らは、おまえが新聞を配る頃、まだぬくぬくとした眠りを貪《むさぼ》っている。  そんな連中に、おまえは今日の悲劇を届ける。たとえば、小学生の女の子が塾の帰りに行方不明になった事件。たとえば、宅配便の配達を装った男に妻が暴行され、殺された事件。たとえば、帰宅途中のサラリーマンが少年グループに有り金を奪われたうえに金属バットで殴られた事件。  郵便受けに新聞をねじ込むとき、唇の端がゆがむことも、ある。        *  昼間は眠る。配送センターから夕刊が届けられるまで、雨戸を閉め切った六畳間で、泥のように眠る。  同室のトクさんは、昼間はパチンコや競艇場や競輪場に出かけているので、気づかいなく、いくらでも眠れる。夢も見ない。いままでの疲れが——シュウイチが「赤犬」になって以来、二年分の疲れが、眠っている間に体の芯《しん》から外に溶け出していくようだった。  夕刊の配達が終わると、ときどきバスに乗ってニュータウンの駅まで出かける。駅前の遊歩道のベンチに座って、行き交うひとたちをぼんやりと眺める。  ひとの流れは途切れることがないのに、連れ立って歩いているひとはほとんどいない。顔見知りとすれ違って、挨拶《あいさつ》を交わすひともいない。ベンチから眺めていると、この街の誰もが「ひとり」に見える。  だが、話し声は聞こえる。携帯電話を耳にあてて歩いているひとが多い。立ち止まっているひとは、メールのやり取りをしている。彼らは「ひとり」なのか、そうではないのか、よくわからない。  最初の頃は、不審に思われるのを恐れて、座るベンチをこまめに移っていた。  だが、やがておまえは気づく。誰もおまえのことなど見ていない。目にも気にも留めてはいない。ベースボールキャップを目深にかぶり、パーカーのジッパーを襟元まで引き上げて、所在なげにベンチに座っている少年は、家路を急ぐひとや電車の発車時刻を気にするひとにとっては、ただの風景だった。  駅前のコンビニエンスストアでパンや弁当を買って、午後九時ちょうどに駅を出る最終のバスで専売所に帰る。  早寝のトクさんはすでに部屋の明かりを消しているので、作業所で飯を食い、三日に一度しかお湯を入れ替えない風呂《ふろ》につかり、洗濯と掃除をして、湿っぽく薄っぺらな布団にもぐり込む。  部屋の雨戸を開けることなく、誰とも口をきくことのない一日が、今日もまた過ぎていく。  夜の眠りは浅く、必ず夢を見る。  シュウイチやアカネやみゆきや新田や鬼ケンや徹夫や神父や宮原雄二の出てくる夢ばかりだ。  場面としてはっきりわかるものはない。シュウイチと新田が同時に出てくるような、現実にはありえなかった夢も見る。  ただ、表情は、それぞれ決まっている。  シュウイチは笑う。ひゃははっ、ひゃははっ、と壊れた笑い声を夢の中に響かせる。  新田も笑う。冷たい笑顔で、おまえをじっと、睨《ね》め付けるように見つめる。  鬼ケンも笑う。アホどもが、アホどもが、と毒づいて、怒りながら笑う。  徹夫も笑う。シュウちゃん、シュウちゃん、と媚《こ》びた上目遣いで笑いかけてくる。  宮原雄二の笑いは、いつもどおり、からから、からっぽの笑い方だった。  宮原雄二が笑うときは、たいがい、そばに神父もいる。寂しそうな微笑みを浮かべている。  泣いているのは、アカネ。泣きながら無理に笑おうとするから、顔がくしゃくしゃになっている。  みゆきも泣いている。ほんの一夜の出会いと別れだったのに、なぜだろう、彼女とはずっと昔からの知り合いだったような気がする。根っこのところが自分と似ているせいかもしれない。もう一度会いたい。もっとゆっくり、いろいろなことを話したい。だが、それはたぶん、永遠にかなわないのだろう。  そして、エリ——。  エリの夢も、見る。闇の中を走る後ろ姿ばかり。ポニーテールを結ぶリボンの赤が、闇に浮かぶ。小さな炎のように、ゆらゆら揺れながら、近づくことも遠ざかることもなく、おまえのまなざしの先にある。  エリの夢を見たときは、必ず真夜中に目を覚ます。起床は午前三時。作業所に出るのが一分でも遅れたら、所長に給料を差し引かれてしまう。途中で眠りが途切れたら、もう寝てしまわないほうがいい。  布団に起き上がって、部屋の明かりは点《つ》けず、手探りで煙草とライターを取る。トクさんのいびきや歯ぎしりを聞きながら、煙が流れないよう、トクさんに背中を向けて煙草を吸う。  この街に来てから煙草を吸うようになった。味などよくわからない。咳《せ》き込むことこそなくなったが、うまいとは思わない。ただ、暗がりに浮かぶライターの炎や煙草の先端の火を見つめていると、なぜか心が安らぐ。  シュウイチが「赤犬」になった理由が、ほんの少し、わかるような気もする。        *  新田が殺された事件は、東京では翌日の朝刊に小さく報じられただけだった。  広域暴力団幹部、ホテルで絞殺。容疑者として内縁の妻・中村茜を逮捕。部屋にはほかの人物もいた痕跡《こんせき》もあることから、大阪府警は複数犯と見て、中村容疑者を厳しく追及。  その後の報道はない。やくざ記事が売り物の週刊誌の広告にも、新田のことは出ていなかった。  みゆきの記事はまったくない。  新聞の社会面に「若い女性の変死体」の文字を見つけるたびに胸がどきんとして、記事に書かれたその死体の「死後何日」の経過や風体とみゆきを比べ合わせて、ほっとする。  だが、無事ではいられない、というのは覚悟している。  みゆきに助けられた。彼女は、自分の身と引き替えに、おまえを救った。  みゆきだけではない。アカネもそうだ。二人の女が、おまえを救った。  アカネのおなかに宿った命も、たぶんおまえを救ってくれたのだと思う。        *  おまえは、みゆきのために、ときどき聖書を読む。  新田や鬼ケンのためにも、読む。  宮原雄二のためにも、読む。  アカネと、彼女の孕《はら》んだ子どものためにも、読む。  幸せな生をまっとうできなかったすべてのひとたちのために、おまえは『旧約』の「伝道の書」を読み返す。  第四章——。 〈わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。見よ、しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はない。しえたげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。それで、わたしはなお生きている生存者よりも、すでに死んだ死者を、さいわいな者と思った。しかし、この両者よりもさいわいなのは、まだ生れない者で、日の下に行われる悪しきわざを見ない者である〉 〈ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか〉  アカネは、「ひとり」ではない。  そのことだけを、おまえは、幸せだと思う。      2 「あんちゃん」  黄ばんだ前歯の、真ん中の一本が抜けた口を開いて、トクさんは言った。 「あんちゃん、給料日だな、今日」  専売所で働きはじめて一カ月が過ぎていた。  おまえは夕刊の仕分けの手を休めずに、黙ってうなずく。 「一カ月よくがんばったよ」  仕分け機のバタバタとした音に半ば紛れながら、トクさんのしわがれ声が届く。  もともと無口なひとだ。必要以外のことはしゃべらないし、無精髭《ぶしようひげ》が頬から下を覆った顔がほころぶことなど、めったにない。同室で一カ月も暮らしながら、仕事中におまえに話しかけてくるのも、初めてだった。 「少しは慣れたか」 「……はい」 「梅雨時になるとキツいからな、それまでに少しでも慣れとけ」  ぶっきらぼうな口調だったが、悪い感じの響きではなかった。  トクさんは専売所で一番の年長者で、所長やほかの配達員の話では、六十歳を過ぎているということだった。  祖父を早く亡くしたおまえは、年寄りを身近に見たことはない。だが、口数が少なく、あまり笑わないトクさんは、どこか父親に似ていた。「赤犬」の父親という重荷に耐えきれず、ふるさとと家族を捨てた父親——トクさんを見るたびに、苦いものが胸の底に溜《た》まる。父親の夢は見ない。母親の夢も見ない。元気だろうか、と思いを馳《は》せることもない。家族とふるさとを捨てたのは、おまえも同じだった。 「雨がつづくと、やっぱり、キツいんですか」とおまえは返した。 「雨じゃない」 「だったら、なんですか」 「湿気の高い日がつづくと、紙が湿り気を吸って重くなる。新聞紙は湿気をよく吸うからな」 「どのくらい重くなるんですか」 「量ったことなんてねえよ」  にべもない言い方だった。それでも、新聞が重くなるという、そのことを忠告してくれただけでも——おまえには、少し嬉《うれ》しい。 「あんちゃん、給料で原付買わねえのか」 「……いらないです」 「そうか。若いもんな、まだ」  トクさんは配達に原付バイクを使っている。道ばたに停めたままにしておいたら粗大ゴミで回収されてしまいそうな古いバイクだったが、背丈がおまえの肩までしかない小柄なトクさんが専売所でいちばん多い三百軒を担当できるのは、そのバイクがあるからだった。  トクさんは事務室にちらりと目をやって、所長が出てくる気配がないのを確かめてから、「気をつけろよ、あんちゃん」と言った。 「……なにが、ですか?」 「所長、バイク買わせるから。最初の給料が出ると、絶対に言うんだ。セコハンの安いの世話してやるから、って」  あの所長なら——言いかねない。 「買うなよ、あんなの。かえって金もかかるし、へたすりゃ事故るぞ。ベトナムだかフィリピンだかに二束三文で売り飛ばす鉄屑《てつくず》みたいなのの横流しだから」  あの所長なら——売りつけかねない。 「自転車で配れるんなら、自転車で配ったほうがいい。まだ若いんだし、金は少しでも貯めとけ」  トクさんはぼそっと言って、仕分けのすんだ新聞の束を両手で抱いて別の作業台に運んでいった。後ろ姿を見ると、あらためて小さな体だと気づく。  トクさんはおまえのそばに戻ってきて、「なあ」とまた声をかけた。「あんちゃん、酒飲めるのか」  一瞬、大阪の夜を思いだして身がすくんだ。黙って首を横に振ると、トクさんは嘘を見抜いたように、抜けた前歯から息を漏らしながら笑った。 「飲めるんだろ、いい体してるもんな」 「……いえ」 「飲みすぎて、しくじったことでもあんのか」 「……そんなこと、ないです」  トクさんは「まあいいけどな」と笑って、次の仕分け作業にとりかかった。おまえも仕事の手を少し速める。トクさんの本名は知らない。おまえの名前も、所長以外は誰も知らないはずだった。自己紹介をするような関係ではない。トクさんはおまえのことをなにも訊《き》いてこないし、おまえもトクさんのことをなにも尋ねない。  従業員は、おまえとトクさんを含めて八人。他人について知りたがったり、自分のことを他人に知ってもらいたがったりする人間は、ここにはいない。誰もが無口で、ほとんど表情を変えず、暗い目をして新聞を仕分けして、暗い目のまま、街に散らばっていく。 「なあ、あんちゃん」  トクさんが、また話しかけてきた。さっきよりも、ほんのわずか親しげに。 「酒、飲めるんだろ、ほんとは」 「……飲めないです」 「飲んだことないのか」 「……はい」 「じゃあ、飲めるか飲めないかわからないだろ」  トクさんは屁理屈《へりくつ》を自慢するように「なあ?」と笑った。子どもじみた言い方に、おまえもうつむいて、頬をゆるめた。 「笑うんだな」 「え?」 「あんちゃんが笑うの、俺、初めて見たぞ。笑わない奴だと思ってたんだ」 「……そんなこと、ないです」 「だよな? 人間、誰だって笑うんだもんな。笑えない奴なんて、そんなの、人間じゃねえもんな。昔のな、外国のな、偉い先生がな、言ってたんだ、笑うことのできる動物は人間だけなんだってよ」  腰をまた、軽く叩《たた》かれた。おまえはゆるんだ頬のまま、黙って頭を下げる。  同じ言葉をそっくりトクさんに返したかった。このひとが笑うなんて——そっちのほうが驚きだった。そして、なんとなく、嬉しかった。 「あんちゃん、俺な、毎晩酒飲んでるだろ」 「ええ……」 「飲むっていっても、ちびちび、ちびちび、な。セコい飲み方だろ」 「いや、そんな……」 「無理しなくていいよ。自分でもそう思ってるんだから。焼酎《しようちゆう》のボトル一本、一週間。酔っぱらうほど飲むわけでもないし、ツマミもありゃしない。つまんない酒だよ」  つまらないかどうかはわからない。ただ、寂しそうな酒の飲み方だとは思う。トクさんはいつも布団にもぐり込んで酒を飲む。コップに三分の一ほど焼酎を注いで、仰向けに寝ころび、布団を肩まで掛けて、黙って啜《すす》るように飲んでいくのだ。 「でもな」トクさんはつづけた。「給料日ぐらいは、パーッと元気よく飲みたいよな。そう思うだろ、あんちゃんだって」  おまえは黙ってうなずいた。 「飲むか」 「え?」「今夜だよ。初めての給料日だろ、あんちゃんの。おごってやるから、お祝いで一緒に飲むか」  おまえは笑い返した。頬がゆるんだ段階から一歩進んだ、東京に来て初めて浮かべた、はっきりとした笑顔だった。  仕分けした新聞を自転車に載せているときも、おまえは笑っていた。配達の途中も、笑顔は消えない。  その日の夕刊には、目をそらしたくなるような不幸や悲劇は載っていなかった。おだやかで平凡な一日だった——ということになる。世の中のおだやかさやなにげなさに、やっと自分も溶け込むことができたのかもしれない。  そんなふうに思いながら、おまえは平凡な一日の報告書を街に配っていく。        *  配達が終わると、所長に事務所に呼ばれて給料を手渡された。  封筒は薄かった。覚悟していたよりも、さらに。 「最初はしょうがないよなあ、今月の前借り分に、来月の先払い分も入るから」  所長は悪びれた様子もなく、メモ用紙に走り書きしただけの明細書をおまえに見せた。  配達用の自転車を借りる金が、今月と来月で二万円。布団と毛布も二カ月分で二万円。水道光熱費が二万円。食費が四万円。家賃が二万円。 「算数の問題だよ、足し算してみろ」  合計十二万円。 「十万円の給料じゃ、足りねえよなあ。それくらいわかるだろう? ほんとなら、今日、二万円おまえのほうから払ってもらわなきゃいけないんだ」 「……はい」 「封筒の中、いくら入ってる? ちょっと覗《のぞ》いてみな」  一万円札が、三枚。 「親切だろ、俺」所長は笑う。「へこみの二万円を埋めて、そこに三万円まで付けてやるんだもんな、お人好しにもほどがあるっての」  合わせて五万円——ということになる。 「来月にぜんぶ返せとは言わねえよ。そりゃそうだよな、毎月どうしたって六万円は天引きだもんな。十引く六はいくつだ? ああ? 四しかねえよな。ガキでもわかるよな。五返すのなんて無理なのよ」  粘つく話し方になった。相手を見下し、からかって、嘲笑《あざわら》うときの、所長の癖だ。 「まあ、だからよ、来月から一万ずつ返せや、五カ月つったら、おまえ、ほとんど半年だよ、気が長いねえ俺も。無利子だよ、なあ、ボランティアだよ、赤十字だよ、偉いもんだ」  この男は、どうしていつもこんな話し方をするのだろう。指先でなすりつけるような馴《な》れ馴れしい口調なのに、といって相槌《あいづち》を求めているようには思えないし、実際、相槌の打ちようもない。 「毎月一万円の返済なら、手取りは三万あるから、やっていけるよな。いかなきゃバカだ、住み込みでゼニの使いようもないんだからな、うん、金貯めるなら住み込みだ、住み込みにかぎる」  所長と話すたびに思う。この男は、しゃべるとき、いったいどこを見ているのだろう。目は確かにこちらを向いている。けれど、まなざしは細かく、落ち着きなく揺れ動く。いままで出会ってきた男の中では、徹夫に似ている。徹夫もしょっちゅうまなざしを泳がせていた。臆病《おくびよう》な男だった。ずるい男でもあった。  ああ、あいつに金を返さなくちゃ——。  不意に思いだした。  二万円だった、たしか。  所長はまだ一人でしゃべりつづけている。だらだらと、たいしておもしろくもない言い回しに自分で笑いながら。  徹夫はまだ、あの町にいるのだろう。いないわけがない。  元気だろうか——と思うほど、許したつもりはない。だが、元気でいたってべつにかまわないけどな、とは思う。  二万円だ。あいつから借りた二万円を、返さなければいけない。  所長の話をさえぎって、おまえは言った。 「来月ですけど」 「うん?」 「自転車、もういいです」 「はあ?」 「自転車借りないから、一万円、ください」 「自転車なくて、どうやって配るんだよ」 「……走って」  きょとんとした顔のまま、所長は「バカか」と言った。初めて、まなざしがおまえに吸いつき、すぐに離れた。 「頭おかしいんじゃねえのか? 新聞の重さ、もうわかってるだろ? 百軒だぞ? 自転車のカゴに積んでもふらふらしてるじゃねえかよ」 「……持てるだけ配って、また帰って……」  言いかけた言葉は、スチールの事務机を蹴《け》りつける音ではねのけられた。 「なめてんのか! てめえ、昼までかけて朝刊配るのかよ!」  顔は——笑っているのだ。いつも。  うつむいて部屋を出ようとしたら、同じ笑顔で「まあ、ちょっと待てよ」と呼び止められた。「こっちもよ、金をむしるだけじゃねえんだ」  机の抽斗《ひきだし》から、携帯電話を取り出した。 「やるよ、おまえに」——顎《あご》をしゃくって言った。  おまえの前にトクさんと同室だった男が、置いていったのだという。 「まだ使えるんだぞ。口座の引き落としが生きてるんだろ。便利なもんだよな、世の中。持ち主が行方不明になっても、口座にゼニさえありゃあ、こうやって毎月きちんきちんと基本料金引き落として、使えるんだ」 「……行方不明、なんですか」 「死んでるかもなあ。知らねえよ、そんなの。身ィ一つでケツまくってったんだから」  中年の、つい昨日まで銀行に勤めていたような風貌《ふうぼう》の男だった、という。どんな事情でここに流れてきて、どんな事情でここから逃げ出したのか、なにもわからない。 「使えよ、遠慮しなくていいから。携帯電話持ってねえんだろ? あると便利だぞ、なにかと」 「でも……」 「いいんだよ、あいつが勝手に置いてったんだし。たまにわけのわかんねえ電話がかかってくるのがナンだけどな、こっちから電話をかけるぶんには関係ねえからな。国際電話でもダイヤルQ2でも、なんでもいいから、じゃんじゃん使っちゃえ。どうせ、ひとのゼニだ」  ほら持っていけ、と所長はまた顎をしゃくった。  おまえはためらいながら、それでも最後には小さく会釈して、電話機を手に取った。      3  トクさんはお湯で割った焼酎《しようちゆう》を目をつぶって啜《すす》った。 「美味《うま》いんだよな、ほんと」  しみじみと、噛《か》みしめるように言う。 「お湯割りがいちばんなんだ、焼酎は。芋の香りが立つ。このな、湯気な、これを嗅《か》いでるだけで、俺は鼻の奥がぼうっとなってな……」  トクさんは目をつぶったままコップを鼻のそばに近づけ、湯気の香りを嗅いだ。笑みが浮かぶ。皺《しわ》くちゃの顔が、さらに皺だらけになった。  おまえもトクさんを真似てみた。むせるような濃厚な、甘みのある香りだった。 「芋焼酎っていうんですか」 「よく知ってんな、あんちゃん」 「……九州の?」 「そうだ」芋焼酎を一口啜って、パン、と舌を鳴らす。「九州の、薩摩《さつま》だ」 「薩摩って、鹿児島ですか」 「そうだ」目を開けて、もう一口、今度はあぐらをかいた膝《ひざ》を手で軽く叩《たた》く。「芋焼酎は、薩摩だ。薩摩で日本酒やウイスキー飲む奴なんて、誰もいねえよ」  生まれ故郷——なのだろうか。  もう帰れない故郷——なのだろうか。 「鹿児島って、方言とかキツいんですよね」 「ああ……そうだな、よそのくにから来た奴らにはなに言ってるのか、ぜんぜんわからん」 「トクさんは方言、しゃべらないんですか」  トクさんはグラスを畳に置き、ピーナツを口の中に放り込んで、「もう忘れたよ」と言った。「東京に来てからのほうが長いからな」  おまえもピーナツをかじった。よけいなことは訊《き》かないほうがいいよな、と自分に言った。  焼酎も、畳の上に広げたピーナツやさきいかの乾き物も、すべてトクさんが買ってきてくれた。「あんちゃんのお祝いだからな」と言って、おまえの差し出す金は受け取らなかった。  嬉《うれ》しかった。東京に来てから、ではない。ふるさとを出てから。いや、ふるさとにいた頃から、トクさんのようなおとなには神父以外に一度も出会っていない。これからもたぶん出会えないだろう、という気がする。  だから——よけいなことは絶対に訊くな、とおまえは自分に命じる。  トクさんは焼酎を啜って、「あんちゃんも遠慮しないで飲めよ」と言った。  黙ってうなずき、一口啜ると、「美味えだろ?」と含み笑いで訊いてくる。 「美味いです」 「だろう。美味いんだ、芋は。これに慣れたら、ほかの酒は飲めなくなる」 「いつも芋焼酎だけですか」 「ふだんは違う。布団の中で黙ーって飲むのは、もう、安いだけの、味も香りもしない焼酎だ。甲類焼酎っていうんだけどな、わかんねえか、あんちゃんには」 「……すみません」 「いいよいいよ。あんちゃんまだ子どもだろ、知ってるほうがおかしいんだ。梅酒なんかをつくるときに使う、安い酒だ。薩摩の芋と同じ『焼酎』って名前で呼ぶのは失礼だよな」 「味、しないんですか」 「しねえなあ。味もそっけもないってのは、ああいうことを言うんだろうなあ。なにかで割れば美味えんだろうけど、生で飲んでも、味気ねえんだよなあ……」  ふだんの日々の、酒のことだけではない味気なさを思いだしたのか、トクさんは少し顔を曇らせた。  だが、それも、芋焼酎を一口啜ると、またしみじみした笑顔に戻る。 「月に一度の楽しみだ。給料日だけは、芋焼酎を飲む。ああ、今月もがんばったなあ、よく働いたよなあ、ってな。自分にご褒美をくれてやるんだ」  父親もそうだった。家を一軒建て終えると、必ず、泊まりがけで好きな釣りに出かけた。魚が釣れる釣れないではなく、一日じゅう釣り糸を垂れる、そのことじたいが気持ちいいんだ、といつか話していた。  父親は、いま、どこでなにをしているのだろう。大工の働き口は見つかったのだろうか。ちゃんと働いているのだろうか。一仕事終えたら、釣りに出かける、そんなゆとりはあるのだろうか。ふるさとを思いだすことはあるのだろうか。家族を思いだすことはあるのだろうか。家族を捨てて逃げたことを詫《わ》びているのか。悔いているのか。それとも、逃げてよかったと思っているのか。新しい家族をつくったのだろうか。いまもひとりぼっちなのだろうか。元気だろうか。生きているのか、死んでいるのか、それさえわからないまま、もう一年半ほどになる。  おまえは焼酎を、ごくんと喉《のど》を鳴らして飲んだ。むせかえりそうになったが、美味かった。 「いい飲みっぷりだな、あんちゃん。やっぱりイケる口じゃねえか。夕方は、なにもったいぶってたんだよ」 「……すみません」 「謝ることじゃねえさ。ほら、もっと飲め。焼酎、足してやるから」  おまえは言われたとおり焼酎をもう一口飲んで、グラスをトクさんに渡した。トクさんは焼酎をどぼどぼと注ぎ入れ、やかんの中でぬるくなりかけたお湯を申し訳程度に足して、「たくさん飲んでいいからな、遠慮せずに飲んでくれ」とグラスをおまえに返す。  焼酎が美味い。芋の香りが、いい。 「若いよなあ、若い奴の飲みっぷりってのは、ほんとに気持ちいいよ。見てるだけで気持ちいいよなあ。一人で黙って飲むのって、ほんと、味気ないからなあ。月に一度の贅沢《ぜいたく》だ。うん。美味いだろ? あんちゃんも」 「……はい」 「あんちゃん、給料、だいぶ差っ引かれただろ」  苦笑交じりにうなずいた。 「あの所長もなあ、なんなんだろうなあ。俺なんか、あいつ見てると、ほら、戦争映画によく出てくるだろ、捕虜収容所の、意地悪な兵隊さん。ドイツの、ほら、ユダヤをどうしたこうしたっての、人体実験とかやった連中。あいつら、みんな、所長みたいな奴だったのかもなあ、ってな」  トクさんはおかしそうに笑う。  おまえも笑い返す。たいしておもしろい冗談だとは思わなかったが、自然に笑みが浮かび、芋の香りのする息と一緒に笑い声がこぼれ落ちた。 「給料、ちゃんとしまっといたか?」 「はい……」 「どこに入れてんだ」  デイパックを指差すと、「鍵《かぎ》のかかるポケットか?」と訊かれた。 「いえ……そういうの、ないから……」 「不用心だよなあ」  トクさんはあきれ顔で笑って、「まあいいや」とデイパックからおまえに目を戻した。 「あんちゃんな、この給料な、大事に使えよ。なあ。どうせ初めてだろ、汗水流して働いて稼いだのって。そういう金はな、まあ、あんちゃんがここに来る前になにやってきたのかは知らないけど、違うんだ、大事な金なんだ。毎朝毎朝、がんばって新聞配って稼いだんだからな」  おまえはうなずいて焼酎《しようちゆう》を飲む。美味《うま》い。ほんとうに美味い。酔いが胸に染みていくのがわかる。 「いままで迷惑かけたひとや、おまえのこと心配してくれたひとに、ちょっとでもいいからよ、その金でなにか送ってやれや。なあ、あんちゃん」  もう一度うなずいた。二万円は無理でも、千円でもいい、徹夫に返してやろう、と決めた。アカネにも送ってやりたかったが、それはたぶん難しいだろう。  エリに会いたい。明日、電話してみよう、「会おうか」と誘ってみよう、「俺、給料出たから」なんておとなみたいなことを言って、どこかで二人でごはんを食べよう……。 「ほら、あんちゃん、もっと飲めや。まだまだ酒はあるからな」  ボトルを手に取って注ぐ真似をするトクさんの顔が、ゆらり、と揺れた。 「なんだよ、おい、あんちゃん……泣いてんのか?」  おまえは黙って手の甲で目元を拭《ぬぐ》う。 「しょうがねえなあ、泣くなよ、おい、男の子だろ、飲め飲め、ほら、ぐーっといけよ」  トクさんの声まで揺れる。ふるさとの静かな海に浮かべた小舟のように、ゆらゆら、ゆらゆら、気持ちよく揺れている。        *  次の日も、朝刊の配達にいつもどおり出かけた。悔しかったが、自転車を使った。  朝刊の社会面には、殺人事件が一件。被害者は女子大生で、犯人は彼女に別れ話を切り出されて逆上した若いサラリーマン。  今朝も、新しい不幸や悲劇が配られる。  おまえは——この仕事に就いて初めて、それを悲しいと感じながら新聞を一軒一軒配っていった。  カゴが空になった自転車をとばして専売所に戻る。朝の風と光を正面から浴びた。見知らぬひとの不幸や悲劇を悲しいと感じられる自分が、少し嬉しい。誇らしい。ペダルを強く踏み込み、サドルから尻《しり》を浮かせた。自転車のスピードが上がる。ぐんぐん上がる。強くなる風に頬が痺《しび》れるのも、たまらなく気持ちよかった。  配達が終わったあと、公園に寄った。  ベンチに座り、ポケットから携帯電話を取り出して、マニュアルなしで使い方を覚えていった。アドレス帳や着信記録の呼び出し方は、なんとかわかった。機能ボタンと数字のボタンを順に組み合わせて、留守番電話やバイブレータの設定と解除も覚えた。  だが、肝心の、この電話機の番号がわからない。  まいったな、と舌打ちして、適当にボタンを押していったら、画面に〈着信拒否リスト〉と出た。  番号が、いくつも——十件近く表示された。電話の持ち主がつながりを拒んだ相手のリスト、ということになる。  浮き立った気持ちが、すうっと沈んでいった。  アドレス帳には五十件以上の番号と名前があった。持ち主がつながりたい相手は、五十人以上。だが、つながりたくない相手も、十人近くいる。あたりまえのことなのに、それがむしょうに悲しく、寂しく、せつなかった。  着信拒否のリストを表示させたまま、矢印のボタンを押したら、〈設定/解除〉のモードになった。少し迷ったが、〈全件解除〉を選んで、実行した。  つながりたい相手ばかり、になった。この電話機は誰も拒まない。誰とでもつながる。それでいいじゃないか、とも思った。        *  部屋に戻ると、トクさんはどこかに出かけていた。  そのほうがいいかな、とおまえは思う。  今日はこれから街に出る。エリに電話をして、もし会えたら会って、帰りに酒屋に寄るつもりだ。  ゆうべのお礼をしたかった。  芋焼酎を——照れ臭いけれど、プレゼントしようと決めていた。  焼酎を差し出したときのトクさんの驚いた顔を思い浮かべ、へへっと笑って、デイパックのファスナーを開けた。  ポケットの中の茶封筒を出した。  封筒の中には——一万円札が三枚入っているはずの封筒には、なにもなかった。 [#改ページ]   第十九章      1  雨戸を閉めた部屋で、三十分近くうずくまっていた。足元の畳の目を数えていた。なぜそんなことをしたのかわからない。数えよう、という意志もなかった。ただ、畳の目を見つめ、それを数に置き換えていっただけだ。  三百を超えた。途中で目がチカチカしてきて、体重をかけた足の裏も痺《しび》れてきたが、さらに数えつづけた。  四百五十まで数えた。頭の中が数字で満ちる。意味のない数字、その意味のなさが、よかった。  七百を超えたあたりから、じっと目を凝らしていたせいで頭が痛くなった。八百の手前で、足の痺れが限界に来て、尻餅《しりもち》をついた。痺れはふくらはぎや膝《ひざ》の後ろにも広がっていた。  金を取り返そうという気にはならなかった。トクさんを問い詰めるのも——むしょうに億劫《おつくう》だった。もういいや、とつぶやいた。あきらめたのは金だけではなかった。  起き上がる気力もなく、ごろごろと畳の上を転がって、デイパックのそばまで来た。  寝ころんだまま中を確かめる。盗まれたのは金だけだった。聖書も残っていた。  聖書を出して、「伝道の書」のページを開く。  第六章——内容は、だいたい覚えている。何度も読み返した箇所だ。つらい言葉が並んでいる。  だから、また、読み返す。 〈わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。これは人々の上に重い。すなわち神は富と、財産と、誉とを人に与えて、その心に慕うものを、一つも欠けることのないようにされる。しかし神は、その人にこれを持つことを許されないで、他人がこれを持つようになる。これは空《くう》である。悪しき病である。たとい人は百人の子をもうけ、また命長く、そのよわいの日が多くても、その心が幸福に満足せず、また葬られることがなければ、わたしは言う、流産の子はその人にまさると。これはむなしく来て、暗やみの中に去って行き、その名は暗やみにおおわれる。またこれは日を見ず、物を知らない。けれどもこれは彼よりも安らかである。たとい彼は千年に倍するほど生きても幸福を見ない。みな一つ所に行くのではないか。  人の労苦は皆、その口のためである。しかしその食欲は満たされない。賢い者は愚かな者になんのまさるところがあるか。また生ける者の前に歩むことを知る貧しい者もなんのまさるところがあるか。目に見る事は欲望のさまよい歩くにまさる。これもまた空であって、風を捕えるようなものである。  今あるものは、すでにその名がつけられた。そして人はいかなる者であるかは知られた。それで人は自分よりも力強い者と争うことはできない。言葉が多ければむなしい事も多い。人になんの益があるか。人はその短く、むなしい命の日を影のように送るのに、何が人のために善であるかを知ることができよう。だれがその身の後に、日の下に何があるであろうかを人に告げることができるか〉  アカネのおなかに宿った命のことを、思った。まだ「子ども」や「赤ん坊」という実感はなかったが、それは確かに「命」だった。 「伝道の書」は言う。  この世に生まれ落ちるよりも流産して闇に消え去ったほうが幸せなのだ、と——。  ふるさとで読みふけった「ヨブ記」にも、似たような言葉があった。  聖書をめくって、探した。 「ヨブ記」第一〇章だった。 〈なにゆえあなたはわたしを胎《たい》から出されたか、  わたしは息絶えて目に見られることなく、  胎から墓に運ばれて、  初めからなかった者のようであったなら、  よかったのに〉  同じ箇所を、シュウイチも読んでいた。二人で初めて——ただ一度、教会を訪ねたときのことを、思いだす。  シュウイチも読んだ。饐《す》えたにおいのする部屋で、ここを、読んでいた。おまえは聖書の薄い紙を指で撫《な》でる。哀れな兄の記憶をなぞって、言葉を撫でる。  シュウイチに会いたい。粉々に壊れきった、抜け殻のかけらでもかまわないから、会いたい。  涙が頬を伝う。おまえのためではなく、おまえの会いたいひとびとのために、泣く。  おまえは死ねなかった。カッターナイフを手首に突き立てることができなかった。宮原雄二の予言した物語は、そこから始まった。  あの日死んでいれば、おまえは新田を殺さなかった。おまえさえ死んでいれば、アカネやみゆきが罪を犯すこともなかった。おまえさえ死んでいれば、アカネが妊娠することもなかった。おまえは、自分の命を取り戻したのと引き替えに、ひとの命を奪い、ひとの暮らしを奪い、ひとの体に、望まれていないはずの命を注ぎ込んだ。  なぜ死ねなかった。  なぜだ——?  なぜ、ひとは生きなければならない?  なぜ、ひとは生まれてきた?  幸せになるためにひとは生まれ、生きていくというのなら——その「幸せ」の形を見せてくれ。ここを目指せばいいんだ、と教えてくれ。これをつかめばいいんだ、と教えてくれ。  おまえは聖書を閉じた。  ポケットから携帯電話を取り出した。 「幸せ」の形など、わからない。ただ、会いたいひとがいる。つながりたいひとがいる。離れていても決して忘れなかったし、自分のことも決して忘れられたくない、そんなひとが、一人だけ、いた。  平日の午前中だ。電話がつながることを期待していたわけではない。ましてや、本人が出ることなど。この番号に電話をかければエリにつながる、ということを噛《か》みしめて、胸に抱きしめれば、それでよかったのだ。  だが、エリはいた。低い声で電話に出た。おまえが名乗ると少し驚いて、しかし感情のありかを表には出さずに言った。 「まだ東京にいたの?」  それから、もう一言。 「こんな街の、どこがいいの?」  おまえは答えない。エリの言葉の根っこにあるものは、平日のこんな時間に家にいることだけで、なんとなくわかる。 「会いたい」——その一言だけ、繰り返した。会いたい、会いたい、会いたい、会いたい、会いたい、会いたい、会いたい……。  最初はそっけなく「あたしは会いたくないから」としか言わなかったエリも、やがて「どうしたの?」「なにかあったの?」と訊《き》いてくるようになった。  おまえはそれにも答えない。ただひたすら、「会いたい」と繰り返す。途中から、声に涙が交じった。なぜ泣くのか自分でもわからない。 「子どもみたい」とエリは笑った。  子どもじゃない、赤ん坊なんだ、とおまえは思う。生まれたての赤ん坊に戻りたい。いや、母のおなかの中の胎児に戻ってしまいたい。そこからすべてをやり直していけたらいい。もしかしたら、流産や堕胎のほうを選ぶかもしれない。  これ以上話をまっすぐに進めたら、ほんとうに赤ん坊のように泣きじゃくってしまいそうだった。  おまえは洟《はな》を啜《すす》って、「あのさ」と話を変えた。 「俺……携帯電話あるんだ。もう、いつでも電話できるし、電話してもらってもだいじょうぶだし……でも、ひとにもらった電話だから、自分の番号がわからなくて……これだと、エリにかけてもらえないから」  番号の呼び出し方を訊こう、と思っていた。  だが、エリはあっさりと「かける気ないけど、番号は、わかるよ」と言った。  表示されているのだ、エリの電話機に。発信者番号——それがつまり、おまえの電話の番号だった。 「なんにも知らないんだね」とエリは笑った。  最初はきょとんとしていたおまえも、事情がつかめると、声をあげて笑った。一度笑うと、次から次へと覆いかぶさるように、笑い声が喉《のど》からあふれてくる。 「こっちが電話したら、もう、だいじょうぶなのか」 「うん……ふつう、そうだけど」 「そうなのか」 「常識だけどね」  おまえは笑う。自分の間抜けさを笑い、こんなにも簡単につながりあえるんだと驚いて笑い、喜んで笑い、感謝しながら笑った。 「電話してみて、俺に」 「やだ」 「いいから、電話してくれ。頼むよ、電話かけてみて。頼む、電話かけてくれ」  エリは「うん」とは言ってくれなかったが、かまわず電話を切った。  そして、電話機を両手に包み込むようにして、おまえは待つ。祈りながら待つ。  しばらくして、着信音が鳴り響いた。  この街に来て初めて、おまえとつながろうとする呼び声が聞こえた。 「会おう」——電話がつながるとすぐに言った。喜び勇んで言うつもりだったのに、また声は涙でくぐもってしまった。 「会おう、会いたいんだ、ずっと会いたかったんだ、エリに……」  ひたすら繰り返した。  エリは最後に、根負けしたように言った。 「新宿まで来れる?」        *  呼び出し音が聞こえる間もなく、電話はつながった。 「何度もごめん」——おまえが謝るより早く、受話器からため息交じりの声が聞こえる。 「ねえ……しつこくない?」  わかっている、自分でも。ほんの一時間足らずの間に、これで七本目。 「いま、どこなの?」  おまえが訊くと、受話器の向こう——エリはまた深いため息をついて、「もう電車に乗ってる」と言った。 「電車、どこ?」 「……言ってもわかんないでしょ、シュウジには」 「わかんなくてもいいから。どこ? いま、どこなんだ?」 「……もうすぐ池袋」  聞いたことのある街の名前だった。どこにあるのかはわからない。 「新宿から近い?」 「すぐだから」 「すぐって……何分ぐらい?」 「ねえ、電車の中だから、電話切るね、もう電源切っちゃうから。そこにいてくれればいいんだから、ね」  幼い子どもをなだめるようにも聞こえたし、うんざりしきって吐き捨てるようにも聞こえた。携帯電話で聞く声は、どうしてこんなに薄っぺらなのだろう。  空を見上げる。曇った空だ。朝のうちはよく晴れていたが、しだいに雲が増え、正午を回ったいまは雨の予感さえ漂っている。朝刊に載っていた天気予報では、夕方には大気の状態が不安定になり、激しい雷雨か、場所によっては雹《ひよう》も降る恐れがあるらしい。  新宿駅の南口——甲州街道が走る跨線橋《こせんきよう》の上にたたずんでいる。  三時過ぎにはニュータウンの専売所に戻っていなければならない。夕刊の配達が待っている。それでも、いまは、あの街に戻るかどうかわからない。部屋からデイパックも持ち出した。このままどこかに、遠いどこかに行ってしまいたい、とも思う。  甲州街道に面した改札口から吐き出される人込みを、おまえはぼんやりと見つめる。  歩道にしゃがみ込んだ。携帯電話を取り出して、リダイヤルボタンを押した。  エリの言葉どおり、電源は切られていた。  なにやってるんだ、と自分で自分を嘲笑《あざわら》いたかったが、頬がうまく動かない。  時刻の数字が浮き上がるグレイのディスプレイをじっと見つめた。  五分たった。もうエリは新宿に向かう電車に乗っただろうか。池袋から新宿までは何分かかるのだろう。JRだろうか、私鉄だろうか、地下鉄だろうか、なんという名前の路線に乗るのだろう。  リダイヤルボタンを押した。呼び出し音が聞こえた。エリはまた携帯電話の電源を入れてくれた、らしい。 「ねえ……」電話がつながるとすぐ、言われた。「どうしちゃったの? ほんとに、病気なんじゃないの?」 「いま、どこ?」 「池袋。さっき電車降りたから」 「新宿まで、何分?」 「……わかんない」 「何分?」 「わかんないって」 「……早く来てくれよ、頼む」  泣きだしそうな声になった。エリの声を聞くと、自分が少しずつ子どもに戻ってしまいそうな気がする。  少し間をおいて、エリは言った。 「悪いけど、早く歩けない」  なんで——と訊《き》きかけた声が、喉の奥で詰まった。 「電話しながら歩くのってキツいから、もういいでしょ?」エリは笑う。「ほんと、キツいの」  電話は向こうから切れた。おまえに「ごめん」を言わせず、もしかしたらエリもそれを聞きたくなかったのかもしれない。  聖書を取り出した。  かつて、ふるさとにいた頃、おまえは「ヨブ記」のこんな箇所を鉛筆で囲んでいた。  第一九章——。 〈彼はわたしの兄弟たちを  わたしから遠く離れさせられた。  わたしを知る人々は全くわたしに疎遠になった。  わたしの親類および親しい友はわたしを見捨て、  わたしの家に宿る者はわたしを忘れ、  わたしのはしためらはわたしを他人のように思い、  わたしは彼らの目に他国人となった。  わたしがしもべを呼んでも、彼は答えず、  わたしは口をもって彼に請わなければならない。  わたしの息はわが妻にいとわれ、  わたしは同じ腹の子たちにきらわれる。  わらべたちさえもわたしを侮り、  わたしが起き上がれば、わたしをあざける。  親しい人々は皆わたしをいみきらい、  わたしの愛した人々はわたしにそむいた。  わたしの骨は皮と肉につき、  わたしはわずかに歯の皮をもってのがれた。  わが友よ、わたしをあわれめ、わたしをあわれめ、  神のみ手がわたしを打ったからである。  あなたがたは、なにゆえ神のようにわたしを責め、  わたしの肉をもって満足しないのか。  どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように。  どうか、わたしの言葉が、書物にしるされるように。  鉄の筆と鉛とをもって、  ながく岩に刻みつけられるように〉  言葉が多ければむなしい事も多い、と「伝道の書」は言う。「ヨブ記」のヨブは、言葉を遺《のこ》してほしい、と訴える。  どちらが正しいのか、おまえにはわからない。  ただ——つながりたい。  自分を呼んでくれる言葉が欲しい。自分が呼びかける言葉が欲しい。たとえ、その相手が、幻であってもかまわないから。      2  改札口の人込みのなかに、おまえは見る。  おまえの会いたかった——つながりたかったひとが、ゆっくりと、肩を上下させて、改札を抜けるのを。すれ違うひとや追い越していくひとにぎごちない歩みを邪魔されながら、それでも一歩ずつ、銀色のアルミ製の松葉杖《まつばづえ》をつきながら、こっちに向かってくるのを。  二年ぶりだった。思い描いていたよりもエリの体は小柄で、しかし思い描いていたよりもおとなびて見える。  紺色のナイロンパーカーと、ロングパンツを穿《は》いていた。パーカーの袖《そで》とパンツのサイドには白いラインがあった。靴はエアテックのジョギングシューズ。新宿の雑踏よりグラウンドのほうが似合ういでたちだった。  エリは一歩ずつ、ゆっくりと歩く。ゆっくりとしか歩けない。改札に出入りするひとの流れから、エリ一人きり、遅れている。  後ろから歩いてきた若い男が、手のひらの中の携帯電話でメールを打つのに気を取られて、エリにぶつかった。  体がよろける。男はすぐに、ごめんごめん、というふうにエリを振り向いたが、松葉杖に気づくと決まり悪そうに、そのまま逃げた。  エリは男にかまわず、また松葉杖を腋《わき》に挟んで、歩きだす。甲州街道を渡って駆け寄ろうとしたおまえの足は、すくんだように止まった。エリは助けなど求めていないんだ、と知った。あの頃と変わらない。エリはいつも強い「ひとり」で、誰の助けも借りず、誰にもすがることなく、歩いていたのだった。  エリが歩く。まだ、こっちを見ない。おまえの視線に気づいているのかいないのか、駅の構内から横断歩道へ、おまえに横顔を見せながら歩く。  髪を長く伸ばしていた。ポニーテール、だった。リボンは見えない。ゴムで結わえているのかもしれない。  こっちを向けばいいのに。  早く、こっちを向いてくれればいいのに。  横断歩道の信号は、赤から青に変わった。急げば渡れそうなタイミングだったが、エリは急げない。一歩ずつ、一歩ずつ……いま、ようやく横断歩道の前まで来た。  信号はすでに青の点滅を始めていた。ふーう、と息をつくように肩の力を抜いて、エリは立ち止まる。松葉杖に体重を預けて、首から提げた携帯電話を手に取った。  信号が赤に変わるのと同時に、おまえの携帯電話が鳴る。  電話がつながると、エリは一言——。 「ねえ、あんまりこっち見ないでくれる?」  そっけなく。冷ややかに。 「見てないよ」とおまえも不機嫌な声で返す。唇をとがらせて、ゆるむ頬を無理にすぼめた。  赤信号でせき止められていた車の流れが、また動きだす。トラックが、エリの姿を隠す。おまえの姿もワゴン車の陰に隠れた。 「シュウジ、背が高くなったよね」 「べつに……」 「それに、痩《や》せた」 「ちょっとだけだろ」 「ま、いいけど」 「おまえだって痩せた、よな」 「悪い?」 「……悪くないって、そんなの」  車道の信号は青が長い。長すぎる。けれど、いまは、信号が変わるまでの時間をうとましいとは思わなかった。 「髪、ポニーテールにしたんだな」 「悪い?」 「ぜんぜん、悪くないけど」 「シュウジも髪伸びたでしょ」 「うん……」 「変なの、髪の長いシュウジって」 「しょうがないだろ」 「だね」  エリはクスッと笑って、電話を切った。  甲州街道の信号は、まだ青のまま。行き交う車にトラックが思いのほか多く、エリの姿はほとんど見えない。  それでも、もうすぐだ。もうすぐエリに会える。  おまえは何度も深呼吸して、ズックの踵《かかと》を上げ下げした。  なんだか、スタートラインに立ったときみたいだ。  あの頃のことを、また思いだす。懐かしい、と思う。帰りたい、とも思う。  信号がようやく変わった。車の流れが止まり、通りを挟んで、おまえはエリと向き合う。  手を振った。そんなことをするつもりはなかったのに、おまえは大きく手を振ってエリを迎えた。  エリは、目が合うとすぐにそっぽを向いた。やめてよ、と口元が動いたように見えた。松葉杖を前に踏み出して、横断歩道を渡る。一歩、二歩、三歩目で横顔がかすかにゆるんだ。        *  喫茶店に誘うと、エリは外でいいと断り、「向き合ってしゃべるのって、好きじゃないから」とぽつりとつぶやく。  ハンバーガーショップのカウンター席に並んで座ればいい。そう言ってもだめだった。「歩くほうが楽だから」と返されると、うなずくしかなかった。  新宿の街を、あてもなく歩いた。  歩きながら、エリはふるさとの話を聞きたがった。  多くは話せなかった。歩きながら話すには、おまえの過ごした日々は重く、苦すぎた。  ふるさとは、『ゆめみらい』の挫折《ざせつ》とともに、さびれてしまった。ふるさとのひとびとの心は、干拓地の風景のように、変わってしまった。そして、おまえも——「なんか、雰囲気変わったね」とエリに言われた。 「二年もたってるんだから……」  おまえは首をかしげながら苦笑する。 「でも、そういうんじゃないと思う」 「……そうかな」 「おとなっぽくなった」  褒め言葉かと思って照れ臭くなった。だが、エリは別の意味でそう言ったのだ。 「シュウジ、もう、子どもみたいにいろんなひとのこと信じてないでしょ」  腹の底が、ずしん、と沈む。 「疑い深くなったっていうより……最初から期待もしてない、でしょ」  そんなことない——とは言えなかった。 「冷たいよ、目が」 「うん……」 「冷たいし、暗いよね」 「うん……」 「神父さん、心配してた」 「連絡とってるのか?」 「あっちから手紙が来るだけ。返事書くのって嫌だからほっといてるけど、神父さんはときどき手紙くれるの」 「俺のこと……なんて書いてた?」 「後悔してた」 「なにを?」 「神父さんの弟、ほら、殺人犯の。会ったんでしょ、シュウジ」 「うん……」 「その日から変わった、って。神父さんが伝えたかったことじゃないことを感じちゃったみたいだ、って」  宮原雄二の顔を思いだす。  からから、からっぽ——。  穴ぼこのようなまなざしも、一緒に。 「シュウジも、ひとごろしになりたくなったの?」  さらりと、皮肉な冗談めいた言い方だった。つまらなそうな笑みさえ、声には溶けていた。  だからおまえも、「なんだよ、それ」と笑って返す。大阪の一夜の出来事は、やはり、いまは話せない。通りの名前はわからないが、ひとだらけの新宿の中でもひときわ込み合った一角にさしかかっていた。 「どんなひとだったの? 神父さんの弟って」  少し考えて、おまえは答えた。 「寂しいひとだった」  エリはあまり納得しないふうに「そうなの?」と聞き返す。「寂しがり屋だったわけ?」 「違うよ」 「じゃあ……なに?」 「寂しがってなかったんだ、あのひと。もう、九年ぐらい、ずうっとひとりぼっちなのに、寂しがってなかったんだ、ぜんぜん」  おまえは「だから」と話をつなぐ。 「だから……寂しいひとなんだ、あのひとは」 「寂しがってないけど、寂しいの?」 「寂しがってないから、寂しいんだ」  エリは苦笑した。よくわかんない、あたし頭悪いから、とつぶやいて、あ、でも、なんかわかるかな、なんとなく——もっと小さく、くぐもった声で付け加えた。 「じゃあ、シュウジ、そのひとの寂しさが伝わったんだ」 「伝わったっていうか……」 「シュウジも寂しいひとでしょ、いま」  小さくうなずきかけて、違うよ、とかぶりを振り直した。 「俺……」  言いかけて、ふと気づくと、エリが遅れていた。一人で考えごとをしているうちに歩調が速くなりすぎていた。足を止めて、エリが追いつくのを待った。松葉杖《まつばづえ》をつくエリの歩き方は、中学一年生の頃よりもぎごちなくなっていた。 「ごめん……」とエリは言った。「外を歩くのってひさしぶりだから」 「足、痛い?」 「そんなに痛くないけど、歩けない」  顔を上げて、「一生ね」と笑う。  額の生え際に汗がにじんでいるのが見えた。頬が紅潮している。 「少し休むか?」 「ううん、いい」 「でも、休んだほうがいいだろ」 「いいってば」  エリは強い口調で言って、歩きだした。松葉杖を大きく前に振り出して、棒高跳びのポールのように体重をかけて、進む。  おまえはうつむいてエリのあとを追う。さっき言いかけた言葉がなんだったのか、もう思いだせなかった。      3  おまえは知らない。  ふるさとの神父がエリに書き送っていた手紙が、たとえばこんな文面だったことを。 〈三カ月待っても返事が来なかったので、また新しい手紙を書きます。返事がないのは、エリが毎日楽しく過ごしているので、手紙を書く暇がないくらい忙しいんだと思っていていいですか? いいですよね? そう思わせていてください。  今日はシュウジのことを書きます。  シュウジはいつも暗い目をしています。エリを心配させたくはないのですが、ほんとうのことだけを書きます。  シュウジが学校で孤立してしまったことは、この前の手紙で書きましたね。  シュウジが悪いわけじゃない。お兄さんの……いや、ほんとうはお兄さんも悪いわけじゃない。お兄さんは心を病んでいた、病んだ心のバランスをとるには真夜中の闇に浮かび上がる炎を見つめるしかなかった。ただそれだけのことで、もちろん罪は罪で、罰を受けなければならないのだとしても、神の御名の前では、それすらも人間の愚かしさと悲しさのあらわれで、しかたのないこと、どうしようもないことなのだと思います。  でも、ひとは弱いから、目に見えるなにかに罪を背負わせようとする。  お兄さんの罪は、父親によっては背負われなかった。母親もまた、お兄さんの罪を背負おうとはしなかった。  シュウジが——逃げ遅れてしまったシュウジだけが、お兄さんの罪を背負わされてしまった。まだ中学生なのに。まだ、あんなに小さな体とか細い心しか持っていないのに。  エリと同じです。  エリにはわかるでしょう?  あなたもまた、シュウジよりももっと幼い体と心で、両親が放り投げてしまった苦しみを背負わされた。  わたしは思うのです。エリとシュウジはよく似ている。だから、ときどき不安になります。シュウジが暗い目をしているように、エリ、あなたも東京でそんな目をしているんじゃないか、と。  シュウジがこの町で生きている厳しい現実と同じように、エリの過ごす毎日も、つらいことばかりなんじゃないか、と。  勝手に決めつけないで——と、怒りますか?  怒ってくれたらいい。笑ってくれてもいい。そのほうが、わたしは嬉《うれ》しい。  わたしはエリのために祈ります。シュウジのために祈ります。  災いや不幸せをとりのぞくためではなく、二人が、災いや不幸せを背負ったままでも前に進めるように。  いや、前に進む必要すらないかもしれない。立ち止まっていても、うずくまっても、体を起こす気力すらなく寝そべっていたってかまわない。  ただ、絶望しないでほしい。  わたしが祈るのは、ただそれだけなのです。  シュウジを見ていると、不安でしかたありません。シュウジは最近、わたしと一緒にいるときも口数が少なくなりました。  わたしには祈ることしかできない。  シュウジ——そして、もちろん、エリ、あなたたちに神のご加護がありますように。  あなたたちが絶望しないように。  また、手紙を書きます。もしよかったら返事をください。電話をかけてください。「元気です」と、一言だけでいいから、教えてください。わたしはそれをシュウジに伝えます。シュウジは、きっと、あなたのその一言で、ずいぶん楽になるはずなのです〉  おまえは知らない。  神父がエリに送った最も新しい手紙は、こんな文面だった。 〈春になりました。干拓地に、昔のようなレンゲが群れ咲く光景は見られませんが、風には春のにおいがします。  エリ、お元気ですか。  もう中学も卒業ですね。高校受験はどうでした? エリは女子校が似合うのかな。  あいかわらず返事はもらえませんが、また手紙を書いています。せめてエリが読んでくれているんだと、それだけを信じて。  このまえ、シュウジが家を出ました。この町からどこかへ出ていってしまいました。  わたしは止めなかった。お別れの挨拶《あいさつ》に来てくれたシュウジを、ただ黙って見送ってしまった。それがよかったのかどうか、いまもまだ迷っています。  でも、家を出て、町を出ることで、少しでもシュウジが楽になるのなら、やはりわたしはなにも言わずに見送ってやろうと思ったのです。  シュウジは東京に向かうかもしれません。  エリの住所と電話番号を教えました。  あなたは怒るかもしれないけれど、シュウジを知らない町でひとりぼっちにはしたくなかったのです。  もしもシュウジから連絡があったら。  もしもシュウジと会う機会があったら。  伝えてください。  シュウジの無事を祈っている男がいることを。  シュウジにつらい思いしかさせなかったこの町にも、シュウジの帰りを待っている男がいることを。  わたしは心配なのです。  シュウジが、新しい町でもひとりぼっちになってしまって、生きることすべてに絶望してしまうことが。もちろん、それはエリ、あなたに対しても同じです。  わたしは祈ります。祈りつづけます。  だから、どうかエリ、シュウジに伝えてください。  あなたはひとりぼっちではないんだよ、と。  どうか、シュウジが東京までたどり着けますように。エリに会えますように。  東京までの旅の途中に、シュウジが絶望しないように。寂しくても、それをしっかりと背負って、東京までたどり着けますように。  シュウジはひとりぼっちではない。  エリもひとりぼっちではない。  ひとりぼっちが二人になれば、それはもうひとりぼっちではないのです〉 [#改ページ]   第二十章      1  一時間近く、ほとんど話をせずに新宿の街を歩いた。どこをどう歩いたのか、わからない。途中までは駅を中心にして方角を確認しながら歩いていたが、それもしだいにあやふやになって、あとはもうエリに任せるだけだった。一度通りすぎたビルや交差点を何度も目にしたから、狭い一画をぐるぐる歩きまわっていただけなのかもしれない。 「ちょっと休む?」  エリはそう言って、おまえの返事も待たずに大通りを渡った。見覚えのある交差点だった。少し前に渡って、大通りに沿ってしばらく歩き、二つ目か三つ目の交差点をまた渡って、元のブロックに戻ったのだった。  だが、今度は、エリは交差点を渡っても歩く向きを変えなかった。道幅は広いのに妙にごみごみした一画に、まっすぐ足を踏み入れていった。  暗い色のジャンパーを着た、暗い色の肌の男たちとすれ違う。耳に流れ込んだ話し声は、日本語の響きではなかった。  髪を金色に染めた少女たちとすれ違う。顔立ちは日本人のそれだったが、しゃべっている言葉は舌足らずな早口で、まわりを気にしない大きな笑い声だけ、耳に残る。  エリはまっすぐ歩きつづける。左足をひきずる歩き方は、いまはもう、はっきりと、苦しいんだとわかる。足だけでなく、松葉杖《まつばづえ》を握る左手も、ときどき痙攣《けいれん》するように震える。  歩きすぎだ。ふつうの足でも、一時間近く歩きつづけるとふくらはぎが張ってくる。外を歩くのはひさしぶりだと言っていた。なのに、どうして——訊《き》いても理由など教えてくれないはずだから、よけい、知りたくなる。もしも答えを知っても、それで納得することはできず、いまよりもっと重いもどかしさが胸に残ってしまうだろう。それでも——だから、知りたい、と思う。誰かのことを思って胸が重くなり、いてもたってもいられなくなるのは、じつは幸せなことなのだと、おまえはもう知っている。 「疲れただろ」  エリに声をかけた。「もうちょっと、ゆっくり歩けよ」とつづける。  エリは思いのほか素直に「だね」と笑って、松葉杖をつくテンポを少しゆるめた。 「いつも、こんなに速く歩いてるのか?」 「ううん、今日だけ」 「……なんで?」 「あのね、これ、歩いてるんじゃないの。自分では走ってるつもりなの」  エリは松葉杖を大きく振って、幅跳びをするように体を前に運び、「これでも、精一杯走ってるの」と言う。 「そんなことしなくてもいいよ」 「べつに、シュウジのためにしてるわけじゃないから」 「汗びっしょりだろ」 「汗ぐらいかくでしょ、生きてるんだから」 「少し休もう、ほんとに」 「だから休むって言ったじゃない」 「だったら喫茶店とか……」 「ないよ、このへん」  言われて、初めて気づいた。いままで歩いていた一画とは明らかに違うたたずまいだった。狭い敷地に無理やり建てたような雑居ビルがひしめきあって、店の看板にもハングルや中国語が目立つ。女の写真がはめこまれた看板もあるし、もっと露骨にセックスを謳《うた》う看板もある。 「こんなところの喫茶店に入っちゃうと、なにされるかわからないけど……入ってみる?」  エリは挑発するように言っておまえの顔を覗《のぞ》き込み、少し怪訝《けげん》な顔になった。 「あんまり、びっくりしてない?」  おまえは黙って苦笑いを返す。 「こういうの……もう知ってるの?」  苦笑いのまま、首をあいまいに横に振る。  街は知らない。大阪で過ごした夜も、結局居酒屋とホテルしか知らずじまいだった。だが、そういう街があることは、わかった。そういう街で、男と女がなにを求め、なにを捨てて、なにと戯れて、なにを嘲笑《あざわら》っているかも、わかる。 「ねえ、東京に来てから、こういうところに遊びに行ったりした?」  初めて——シュウジ自身の暮らしについて訊かれた。 「ぜんぜん……どこにも行ってない」 「お金なかったから?」 「お金っていうより、時間がなかったし」 「東京に来る前って、どこにいたの?」 「大阪にいた」 「大阪で、なにしてたの?」 「なにもしてない。一晩だけだから」 「でも、なにかしてたんでしょ?」  エリの歩みは、また速くなった。あやしげな街の、さらにあやしげな奥のほうに、迷わずに進んでいく。 「……アカネさんって、覚えてるか」 「『ゆめみらい』の、あのひと? 大阪にいるの?」 「そう……『ゆめみらい』で土地を買収するときも、大阪から来てたんだ」  エリは、ふうん、とうなずいた。 「あのひとって、やくざの会社にまだいるの?」  トゲのある口調で言って、松葉杖をつくときの手つきも乱暴に、いらだたしげになった。  薄汚れた雑居ビルの非常階段の陰にいた女が、エリの口にした「やくざ」の言葉に、びくっと肩をすくめる。日本人ではなかった。褐色の肌に、紫がかった赤の口紅が、怖いほど鮮やかに映えていた。 「いるっていうか……」  つづく言葉をためらった。街の奥に進むにつれて、セックスのにおいに、暴力や狂気の気配も交じりはじめていた。  引き返したい。新宿を歩いているうちに空はいっそう曇ってきて、天気予報の伝えていた激しい雷雨は、予報よりもっと早い時間に、この街を襲いそうな気がする。  エリはおまえに問いを預けたまま、街をさらに奥のほうに進んでいく。 「……このへん、よく来るのか?」 「たまに」  そっけなく答えて、「池袋のほうが多いけど」と付け加える。 「昼間?」 「うん、まあ、昼間とか夕方とか、夜のときもあるけど」 「そう……」  話はそのまま途切れ、エリは大きなビルの脇の、路地のような狭い通りに入っていった。 「シュウジ、訊かないんだね」 「なにが?」 「学校のこと」 「……そんなの、俺に関係ないから」 「だよね。関係ないもんね」  突き放すような言い方は、おまえよりエリのほうがずっとうまい。同じように「ひとり」の日々を過ごしてきたのに、おまえのそっぽの向き方は、いつだって、後ろをちらちらと振り返りながらのものになってしまう。 「教えてくれよ」 「関係ないんじゃないの?」 「関係ないけど……知りたい」 「おばさんみたい。ワイドショーとかの好きなおばさんって、そういう感じでしょ」 「おばさんでもなんでもいいから、教えてくれよ」 「やだ」  エリは軽く言って、路地を抜けた。背の高いビルが急に減ったせいで、視界が広がった。街が変わった、というのがわかる。しかし、性と暴力と狂気の気配は、さっきほどではないが、まだ確実に漂っている。  ラブホテルが多かった。そうでない古いビルにはハングルが目立つ。 「疲れちゃったから、休もうね」  エリは念を押すようにおまえに言って、なんの迷いもためらいもなく、白いタイル貼りのラブホテルに向かった。        *  薄暗いロビーで、部屋の内装が写真で紹介されたパネルの前に立ったエリは、「どこがいい?」とおまえに訊《き》いた。 「……どこでも」  声がかすれ、うわずった。 「シュウジって、こういうところ初めて?」  笑いながら訊かれた。 「……そんなことないけど」 「ふうん」  エリは驚いた様子もなく、部屋を選んでパネルのスイッチを押した。チャイムとともにその部屋のパネルが暗くなり、自動販売機のジュースのようにルームキーが取り出し口に落ちてきた。 「行こうか」  振り向いて、エリは言う。思わず目をそらしたおまえに、クスッと笑いかけて、のんびりした声でつづけた。 「あー、もう、汗びっしょりだから、シャワー浴びなきゃ」  いままででいちばん素直で、明るく、屈託のない響きの声だった。  なのに、その声は、いままででいちばん寂しそうにも、聞こえた。        *  エリはベッドの縁に腰を下ろす。松葉杖《まつばづえ》をはずして、ふーう、と息をつくしぐさは、言葉だけでなく、ほんとうに疲れているように見える。 「ねえ、シュウジ」  戸口にたたずむおまえを振り向いて「誰と行ったの? こういうところ」と訊いたエリは、怪訝そうに眉《まゆ》をひそめた。 「……どうしたの?」  おまえは動けない。身がすくみ、背中がこわばって、口がわななく。  部屋に足を踏み入れたとたん、大阪での一夜がよみがえったのだった。新田の顔が浮かんだ。おまえをもてあそぶときのにやついた顔と、首を絞められて悶絶《もんぜつ》するときの顔、そして床に横たわった死に顔が、点滅するように目まぐるしく瞼《まぶた》の裏に浮かんでは消える。アカネの顔も、みゆきの顔も、同じように。 「どうしたの?」  エリはおまえの顔を覗《のぞ》き込み、「緊張してるの?」とからかって笑った。  おまえは息を詰める。強く瞬く。一歩、二歩と、棒きれのようになった体を、前に運ぶ。ベッドに向き合う形に置かれたソファーに、倒れ込むように座る。  新田も、ソファーに座っていたのだ。ソファーに座って、全裸で立つみゆきを眺めているときに——おまえに首を絞められたのだ。  ソファーの背は壁にぴったりついているのに、首の後ろになにかがまとわりつく気配を感じた。その気配は、ゆっくりと、虚空を這《は》うように首の前のほうに回って……。  低くうめいた。嘔吐《おうと》をこらえるように喉《のど》をすぼめ、首を縮めて、ソファーから腰を浮かせた。 「どうしたの?」  エリの声が、泡のように耳の奥ではじける。  前のめりに、うつむいて、喉を両手でかばうような恰好《かつこう》で、よろめいた。ソファーの前にあったガラスのテーブルに足が当たる。テーブルの上のプラスチックの灰皿が、カタカタと揺れた。 「気持ち悪いの? ちょっと、ねえ……」  カーペットを敷き詰めた床に、両膝《りようひざ》をついた。四つん這いになって、それすら苦しくなって、床に倒れ込んだ。  新田が、おまえを見つめる。じっと見つめる。赤く血走った目で、おまえを射すくめる。  おまえは床に横倒しになったまま、背中をきつく丸めた。喉にまとわりつく気配は、いまはもう、ぎりぎりと絞めてくる痛みに変わった。 「シュウジ、ねえ、だいじょうぶ? 寒いの? ねえ、どうしたの?」  震えていた。痙攣《けいれん》するように、激しく。  エリがベッドから立ち上がる。あわてて動いたので、右足に体重がかかって、エリもその場に崩れ落ちそうになった。 「……こなくて、いい」  おまえはうめき声で言う。こわばる手を必死に動かして、こっちに来るな、と伝えた。  新田は、まだ消えない。透明な顔だ。部屋の光景はすべて見えているのに、すぐ目の前に透き通った新田の顔がある。見たくない。目をつぶりたい。だが、目を閉じてしまうと、新田は闇にくっきりと浮かび上がってきそうだった。  新田はおまえを見つめる。じっと見つめる。宮原雄二のまなざしを思いだす。からっぽの、穴ぼこのようなまなざしに見つめられたときの、吸い込まれるような恐怖を。新田のまなざしは違う。逆だ。強い光がある。こっちに迫ってくる。どこまで逃げても追い詰めてやる、というふうに、錐《きり》のように突き刺さる。  床に倒れたまま、おまえはもがく。目に見えないなにかを振り払うように、脚をばたつかせる。  気配がある。首にまとわりつき、喉を絞めるだけではない。足首をつかんでひきずろうとする気配があり、手をつかもうとする気配があり、鼻をふさごうとする気配があり、口をこじ開けようとする気配があり、左胸を引き裂こうとする気配があり、背骨の継ぎ目を一つずつ引き剥《は》がそうとする気配があり、性器と尻《しり》をまさぐる気配がある。  初めてだった。東京に来てから、いや、大阪のホテルで死体とともに一夜を過ごしたときも、そんなものは感じなかった。忘れたとは言わない。思いだすことも何度かはあった。だが、夢に見たことはなかったし、ましてや、こんな……。  エリが松葉杖をついて、近づいてきた。  おまえは、さっきよりさらに重くなった手をうめきながら動かした。来るな、と振った。俺に触るな、とうめいた。しゃべれない。舌の付け根が喉のほうにずるずると滑り落ちる。おまえをからめ取ろうとする気配は、すでに喉の奥に入り込んでいた。  新田がいる。おまえを見つめる。透き通った新田が、おまえに近づいてくる。新田のまなざしが、おまえに覆いかぶさってくる。  奥歯がカチカチと鳴った。みぞおちがひくついた。脚が痛い。ふくらはぎが腓返《こむらがえ》りを起こして痙攣していた。  助けて——。  誰か、助けて——。  叫び声が腹の底で粉々に砕けた。エリがまた「だいじょうぶ?」と訊く、その声も、耳の奥で砕ける。  吸い込む息は、胸の底で。吐き出す息は唇の手前で。  目をつぶったつもりはないのに、瞼の裏で光が砕けるのが、見える。  怖い。ひきずり込まれる恐怖ではなく、呑《の》み込まれる恐怖だった。 「だいじょうぶ? ねえ、だいじょうぶ? 具合悪いの? どこか痛いの?」  エリが訊く。 「シュウジってば!」  なんだ、エリって、子どもみたいな声も出るんだ。つまらないことを、のしかかる壁の隙間を縫うように、思った。  抱きたい。抱かれたい。手をつなぐだけでも、指先が触れ合うだけでもいい。一人でいるのは、とにかく怖い。  それでも、こらえた。もうほとんど動かなくなった手を、懸命に揺すった。来るな。こっちに来るな。俺に触るな。  エリを巻き込みたくない。巻き込んではならない。壁に押しつぶされるのは自分だけでいい。新田に呑み込まれるのは、自分一人でいい。  おまえはひとを殺した。ひとを殺したのはおまえだ。ひとを殺すというのはこういうことだった。いままで感じなかったが忘れてはならないことだった。  新田がおまえを見る。おまえは新田から目をそらすことができない。目をそらしても、つぶっても、目玉をえぐり取ったとしても、新田のまなざしはおまえから離れない。  宮原雄二が失って、新田が殺される前に瞳《ひとみ》に宿したもの——それは、生きる意志だった。  おまえは意志ある者を殺した。おまえとアカネとみゆきが殺した。最後に手を下したのはアカネで、手引きをしたのはみゆきだったが、殺したのは、おまえだ。  おまえが大阪に行かなければ、あんなことは起きなかった。ふるさとにとどまったままなら、決して、新田は殺されなかった。  なぜ残らなかった。なぜ「ひとり」のまま、ふるさとに残らなかった。  新田のまなざしがおまえを刺す。もっと生きたかった男が、最期の瞬間に命の糸をつかもうとしたまなざしが、おまえを刺す。  なぜ生きた。なぜ死ななかった。  おまえは生きたから、ひとを殺した。  死ななかったから、ひとを殺した。  殺した。  おまえは殺した。  おまえが殺した。  おまえと、おまえに、おまえも、おまえの、おまえか、おまえへ、おまえしか、おまえまで、おまえだけ、おまえより、おまえすら、おまえを……。  砕けていく。体がばらばらになる。  おまえを殺した。  おまえを殺した。  おまえを殺した。  違う——!  懸命に叫ぶ。  殺したのは俺だ、俺だ、俺だ、と心の中で叫びながら、ちぎれたつながりを必死に結び直す。  俺を殺した。  俺を殺した。  俺を殺した。  違う——!  おまえは床を転げまわった。いや、体は痙攣するだけで動かない。意識だけが転げまわり、のたうちまわる。  おまえに殺された。  おまえに殺された。  おまえに殺された。  違う——!  叫びつづける声が、胸を内側から突き上げ、頭の中で暴れる。  俺に殺された。  俺に殺された。  俺に殺された。  違う——! 「シュウジ、ねえ、シュウジ……」  エリが名前を呼ぶ。一心におまえの名前を呼ぶ。  だが、その声が胸に届くのをさえぎって、耳の奥でハンマーが打ち下ろされるように、別の声が響く。  おまえも殺された。  おまえも殺された。  おまえも殺された。  違う——! 「シュウジ、シュウジ、だいじょうぶ? 頭痛いの? ねえ、シュウジ……」  俺も殺された。  俺も殺された。  俺も殺された。  違う——! 「お医者さん呼ぶ? 救急車呼ぶ? ちょっと、シュウジ、返事してよ……」  おまえだけ殺された。  おまえだけ殺された。  おまえだけ殺された。  違う——! 「なに? いま、なんて言ったの? 聞こえないよ、シュウジ……」  俺だけ殺された。  俺だけ殺された。  俺だけ殺された。  違う——! 「聞こえないってば。なんて言ったの? シュウジ、ちょっと、だいじょうぶ? 返事してよ、ねえってば……」  おまえまで殺された。  おまえまで殺された。  おまえまで殺された。  違う——!  のたうちまわる。頭が割れそうに痛い。新田のまなざしが、もう半ば、おまえの瞳にもぐり込んでいる。  俺まで殺された。  俺まで殺された。  俺まで殺された。  違う——!  おまえは体に残るすべての力を振り絞って、言った。 「……俺が、殺した……」        *  新田が消えた。全身にまとわりついていた気配が、消えた。  体が軽くなる。両手も両脚も動く。  目を閉じて、長く尾を引くため息をついた。喉《のど》はもう絞めつけられてはいない。暗闇を背負って新田が浮かび上がることもない。  去ってくれたのか。それとも、すべてが体の中に入り込んでしまったから、なのか。  目を閉じたまま、もう一度ため息をついたとき——気づいた。  腰に、誰かの手のひらが触れていた。  目を開ける。  エリが、すぐそばにいた。膝《ひざ》をついて、おまえの腰や背中をさすっていた。  エリもおまえの視線に気づいて、「びっくりしちゃった」と笑った。 「……いいよもう、手、どかして。だいじょうぶだから」  おまえの体に入り込んだなにかが、触れた手のひらを通じてエリにも染みていくのが、怖かった。 「あのまま死んじゃうかと思った」 「……だいじょうぶだって」  あれほど苦悶《くもん》したのに、体には汗ひとつかいていない。息苦しさが嘘のように呼吸も静かに整っていた。腓返《こむらがえ》りもいつ治ったのか、脚に痛みの名残はなく、軽く咳払《せきばら》いをしてみても、喉の奥にひっかかるようなものはなにもなかった。  エリはおまえの背中から手のひらを離し、松葉杖《まつばづえ》で体を支えて立ち上がった。 「ねえ、シュウジ」 「……うん?」 「いま、殺した、って言った……よね」  おまえはなにも答えない。沈黙が答えになる——それを、わかっていたから。 「それとも、殺したい、って言ったの?」 「……違うよ」  おまえはエリの足元を見るともなく見ていた。左右の足に、松葉杖の先。靴を履いていると右足はごくあたりまえの外見だった。 「殺したのって、ほんと?」  答えないのが——答えになった。  エリの体は、わずかにたじろぐように揺らいだが、驚いた反応はそれだけだった。 「田舎の誰? ぜんぜん関係ないひと?」  答えない。 「すごいね……ひと、殺しちゃったんだ……」  答えない。 「それで、東京に、逃げてきたんだ」  答えない。  しばらく間が空いたあと、カツン、と固い音がした。ガラスのテーブルになにか置いた音だった。 「これ……シュウジにあげる」  おまえは、のろのろと体を起こす。  テーブルには、サバイバルナイフが置いてあった。 「いつでもいいから」とエリは言う。 「……なにが?」 「あんたの気が向いたときでいいから、殺してよ」  エリは、自分を指差した。 「自殺するより、殺されたほうがいいから」  ぽつりと言った。      2  エリは「わたし」という言い方をしなかった。  弱い子——と自分を呼んだ。  弱いお父さんと弱いお母さんから生まれた弱い子の物語だった。弱い街に生まれて、別の弱い街で暮らして、さらに別の弱い街に移り住んだ少女の物語——エリはそんなふうに言ってベッドの縁に腰かけ、寂しそうに笑った。  昔むかし、弱いひとのたくさん住んでいる弱い街に、弱い夫と弱い妻の弱い夫婦がいました。  弱い夫婦は、自分たちが弱いんだとわかっているくせに、生意気なことに親になろうとしたのです。親になれば、自分たちの弱さが強さに変わってくれるとでも思っていたのでしょうか。ばかですねえ。そういうことを考えるっていうのが、要するに弱いひとの証明なのに、夫も妻も、なんにもわかっていなかったのです。この夫婦、弱いだけでなく、愚かな二人でもあったようです。 「そういう話し方、やめろよ」  おまえはソファーに座ったまま、エリがテーブルに置いたサバイバルナイフをにらみつける。 「いいじゃん」  エリは軽く笑って、話をつづけた。  弱い夫婦は結婚してほどなく、女の子の赤ちゃんを産みました。名前はエリ。恵みの「恵」に、利益の「利」。ばかですねえ、恵みと儲《もう》けなんて矛盾じゃん。そう思わない? 自分の子どもに恵みを求めるんなら、儲けを求めちゃだめなんだよ。  でね、弱い夫婦は、「利」の言葉の意味をよくわかっていなかったのです。その言葉のほんとうの意味は、「利子」の「利」だったのです。  難しい? でも、シュウジって勉強できてたよね、昔。いまでもそうでしょ? じゃあわかるよね。まあ、わからなくても、べつにいいけど。  弱い夫婦と弱い赤ちゃんの三人家族は、しばらくは幸せに暮らしていました。 「エリは弱くないだろ」  おまえが口を挟むと、エリは「弱いよ」と間を置かずに返した。「赤ちゃんは、赤ちゃんっていうことだけで弱いんだよ」 「でも、そんなこと言ったら……」 「赤ちゃんは弱いの。弱いから、強いおとなが守ってあげなくちゃいけないの」  エリは「でもね」と話をひるがえす。 「あの家族はそうじゃなかった。赤ちゃんは弱すぎたし、お父さんもお母さんも、強いおとなじゃなかったの」  おまえはもうなにも言わない。ソファーに深く座り直して、弱い家族の物語のつづきを黙って待った。        *  弱い夫婦は、弱い両親でもあったのです。赤ちゃんの命を背負ったり抱きしめたりするための最低限の強さすら持っていないひとたちでした。  赤ちゃんは、夜中によく泣きました。そのたびに父親は怒鳴りました。怒鳴り声をぶつけられたら赤ちゃんはいっそう激しく泣いてしまう、そんな簡単な理屈すらわからない愚かな父親でした。  母親も愚かです。泣いている赤ちゃんを泣きやますには、母親は笑ってあげなければならないのに、あのひとは自分まで泣いてしまうのです。赤ちゃんを抱いて、ごめんなさいごめんなさい、エリを許して、この子を許して、と謝りながら泣くのです。  母親は、赤ちゃんを抱くことが親の愛だと信じきっていました。でも、抱きしめながら泣いてしまうと、泣き声や嗚咽《おえつ》が、赤ちゃんに直接響いてしまうのです。耳で聞くのではなく、胸に押しつけられた肌から受け取ってしまうのです。すすり泣きの声はか細くても、胸の音は、ごうごうと、ぼうぼうと、怖いほど大きく響くのです。  ほんとだよ、嗚咽のしゃっくりなんか、地面がひっくりかえるぐらいなんだから。あんたは知らないと思うし、いまから再現しようとしても無理だよ、だって、もう、あんたもわたしも、赤ちゃんみたいな小さな体じゃないんだから。  だって、計算してみてよ。わたしね、生まれたときの体重は二千八百グラムだったんだって。で、いま、四十二キロあるのね。割り算してみたら、いくらになる? 十五倍でしょ、ね、生まれたときの十五倍の体になってるわけ。だったら、赤ちゃんの体はいまの十五分の一で、ってことは、すべての刺激が、いまの感覚の十五倍で来ちゃうわけ。嬉《うれ》しい刺激も悲しい刺激も、幸せな刺激も不幸な刺激も。  ……理屈じゃないってば、そんなの。  覚えてるとか記憶に残ってるとか、理屈じゃないんだってば。  肌に染みてるの。  ごうごう、ってね、濁流みたいな音が、もう、あの子の肌には染みついてるの。  ……つづけるね。  弱い夫婦は弱い両親になったのと同時に、貧しい両親にもなってしまいました。赤ちゃんが生まれたので、母親がパートの仕事を辞めてしまったからです。父親の仕事は工員でした。三交代制の大きな鉄工所で働いていたのです。給料は安かったし、父親はお酒とギャンブルが好きだったし、赤ちゃんは夜泣きするだけじゃなく、しょっちゅう熱を出して病院に通っていました。  父親は、しだいにいらだってきました。子どもが生まれれば幸せになれるはずだったのに、現実は逆だったからです。  父親は、子どもの頃から、こんなふうにものを考えるひとでした。自分の思いどおりにならないことが減っていく、それがおとなになることなんだ、って。わかりやすい例を言えば、ちっちゃな頃には届かなかったタンスの抽斗《ひきだし》に、大きくなったら手が届く、ってこと。  高校を出て、就職して、一人暮らしを始めて、弱い女と知り合って、恋人になって、夫婦になって……あ、いま、思ったけど、いろんなことが自分の思いどおりになるのって、要するに「自由」ってことかもしれないね。  父親は、おとなになって「自由」になりました。なったはずでした。なったと思い込んでいました。確かに、自分で稼いだお金で好きにお酒も飲めるし、煙草も吸える。うわあ、じーゆうーっ……ばかだね、ほんとに。  新婚時代も生活は楽じゃなかったはずだけど、それでも夫婦二人で働いて、少しずつお金も貯まって、テレビを買い換えたり、車を買い換えたり、アパートをもう少し広い部屋に引っ越したりして、「自由」を広げていきました。  でも、赤ちゃんが生まれると、せっかくいままで広げてきた「自由」がいっぺんにしぼんでしまいました。一カ月の収入は半分になり、支出はうんと増えてしまいました。赤ちゃんの小さなうちはドライブにだって簡単には出かけられません。なにより、赤ちゃんは、ちっとも自分の思いどおりになってくれないのです。  寝てほしいのに寝てくれない、起きてほしいのに起きてくれない、食べてほしいのに食べない、触らないでほしいものにかぎってすぐに触る、おしっこやうんちもオシメに垂れ流すし、ちょっと体調を崩すとすぐに熱を出すし、這《は》い這いを始めると目が離せないし、歩きだしたらもっと目が離せないし、しゃべるようになったらうるさいし、部屋の障子はびりびりに破いちゃうし、襖《ふすま》や壁に落書きもしちゃうし、どんなに言っても理屈が通るわけがないし、お金ばかりかかるし、最後の最後は泣いちゃっておしまい……。  こんなのじゃ、なんのためにガキ産んだんだかわかんない、だって。  覚えてないけど、肌に染みてるから、その一言。  なんのために、って。  自分のために、だね。  自分のために赤ちゃんをつくって、自分の思いどおりにならないから腹を立てて……ほんとうに、弱くて愚かで身勝手な男だったのです。  父親は、やがて家で暴力をふるうようになりました。といっても、警察|沙汰《ざた》になったり救急車を呼んだり、というほどのものではありません。だってほら、弱いひとなんだから。  母親は、弱くて愚かで優しい女でした。優しい、って、褒めてるんじゃないよ。強くて賢くて優しいひとはいいけど、弱くて愚かで優しいっていうのは、最悪だと思う。  母親は、自分がぶたれても、赤ちゃんだけは守ろうとしました。赤ちゃんをぎゅっと抱きしめて、背中を丸めて、かばったのです。  でも、そんなの、かばったうちに入らない。抱きしめられている赤ちゃんは、肌で聞いてしまうんです。おびえる母親の悲鳴や、許しを請う声や、泣き声や、嗚咽や、背中を蹴《け》りつけられたときの鈍い音や、うめき声をこらえるときの低い音や、ほっぺをビンタされるときって、全身が揺れるの、ぶわん、って、それもわかるんです、赤ちゃんには。  母親は、たとえ自分が殺されても、赤ちゃんだけは守ろうとしました。でも、ほんとうは違う。赤ちゃんは母親に抱きしめられたせいで、殴られるよりももっと深いところに傷を負ってしまったんです。 「ねえ」  エリは話を切って、肩で大きく息をつきながら、おまえに声をかける。 「わたしって、残酷な話、してる?」  おまえは黙って苦笑する。言葉ではうまく返せない。 「ひさしぶりに歩いたから、疲れちゃった」  エリはつぶやいて、靴を履いたまま、両脚をベッドの上に投げ出した。 「長く歩くと腫《は》れちゃうんだよね、足首とか、足の甲とか。だから、靴を脱ぐのが、けっこうキツいの」  一人で言い訳を口にして、一人で「でも、靴を履くと、ギプスとかサポーターみたいな感じになって、意外と歩くのは楽なんだけど」と付け加える。 「……右と左、どっちが痛いの?」 「まともに歩くと、右」 「だよな……」 「でも、右が痛いから、左に体重かけるでしょ。そうしたら、左のほうが痛くなる」 「うん……」 「おもしろいよね。怪我しちゃったのは右なのに、ほんとうに痛いのは左なの。コンビでいるわけじゃない、足って。やっぱり、相棒が傷ついちゃったら、残ったほうも無傷ってわけにはいられないのかもね」  エリは伸ばした左脚を、両手でさすった。 「右と左で、太さが違うんだよね。左は、すっごく太くて、ごつごつしてるの」 「……怪我、まだ治らないのか」 「『まだ』じゃないよ。『もう』だよ。膝《ひざ》も足首も骨がぐしゃぐしゃになってたでしょ、くっつくときに、ぐしゃぐしゃのまま、だったんだよね。神経も切れちゃったし、雨の降る前とか、すごく痛くなる」  今日もそう——とエリは言った。この調子だと夜は雨になると思うよ、と内側から板張りの扉で閉ざされた窓のほうを向いた。  そのままの姿勢で、言う。 「ねえ、シュウジ、昔さあ、神父さんが言ってたこと覚えてる? 『にんげん』は平等じゃないんだ、ってこと」  おまえはうなずいて、「でも、公平なんだよな」と言った。 「そう。みんな最後は死んじゃうってことは、公平だよね。でも、神父さん、間違ってると思う」 「そうか?」 「だって……殺されるってことは、公平じゃないよ、公平とかそんなのじゃなくて、おかしいよね、やっぱり……」  なにを言いたいのか、よくわからない。  ただ、おまえは、鬼ケンのことを思い、宮原雄二のことを思い、新田のことを思う。  サバイバルナイフに目を落とす。柄に巻きつけられた革が、少し手垢《てあか》で汚れていた。エリはこのナイフを買っただけでなく、握りしめることもあったのだろう。  どんなときに——?  どんなふうに——?  誰に向けて——?  なんのために——?  そして、握りしめたナイフの刃は、どこに届いたのか——。  エリの話は弱い家族の物語に戻った。「退屈かもしれないけど」と前置きして、窓のほうを見つめたまま、ぽつりと言う。 「……もうすぐ終わるから」        *  弱い父親は、自分の弱さを認められないひとでした。弱いひとが、弱くないふりをするには、いくつか方法があります。  一つは、お酒に酔ってしまうこと。でも、これは一晩しかもちません。  一つは、ギャンブルで「勝者」になること。でも、「敗者」になる可能性だってあります。  一つは、お金を借りて、手っ取り早く強いひとになること。もちろん、借りたお金は返さなくてはいけませんが。  弱い父親は、この三つの方法をすべて試していました。でも、弱いひとは、弱くないふりをすることにも負けてしまいます。  弱い父親の酒癖はどんどん悪くなっていきました。ギャンブルも「敗者」になることが増えて、借金の返済も、毎月の利子を入れるだけで精一杯の状態になってしまいました。  そんな弱い父親でも、たったひとつ、誰にも文句を言われずに強くなる方法が残っていました。  なんだと思う? それ。  自分より完璧《かんぺき》に弱い相手の前で、俺はおまえより強いんだ、って言いつづけること。  あのひとより完璧に弱い相手って、世の中に二人しかいませんでした。  弱い母親と、弱い女の子——もう「赤ちゃん」って言うのは変だものね。  弱い父親は、酒に酔うと暴れました。ギャンブルに負けると暴れました。返済日ぎりぎりに借金の利子を返した夜も、やっぱり暴れました。  弱い母親は、ただおびえるだけでした。弱い女の子は、ときどき弱い父親に歯向かって、それでよけい弱い父親を暴れさせてしまいました。  歯向かうって言っても、殴り返したりなんかじゃないの。なんにもしないの、その子は。ただ、おびえた顔を見せないだけ。許してください、って言わないだけ。じーっと、父親を見つめるだけ。  べつに勉強したわけじゃないし、理屈で考えたわけでもありません。でも、その子はわかってたんです、強いふりをしたい弱いひとにとって、どんな態度をとられることがいちばん嫌なのか、ってことが。  かわいげのない子どもだ、と父親に言われました。  こいつの目つきはぞっとする、とも言われました。  おとなになったら、ろくなことをしないぞ、と言われたこともありました。  でも、その女の子がいちばん憎んでいたのは、父親ではありませんでした。  母親です。  いつもその子を抱きしめて、父親の暴力からかばおうとする母親が、その子にとっては誰よりも憎むべき相手だったのです。母親が抱きしめるから、その子はどこにも逃げられない。母親の胸に顔を押しつけられるから、その子は、母親の涙も悲鳴もおびえもあきらめも、ぜーんぶ、肌に染み込ませてしまう。  嫌いでした。弱い母親のことが、すごく。  離して——。  何度も言いました。  でも、母親には聞こえませんでした。それとも聞こえていて、知らん顔をしていたのでしょうか。  母親は呪文《じゆもん》のように、その子の名前を呼びつづけるのです。エリ、エリ、エリ、エリ、エリ……。名前を呼びながら、抱きしめるのです。朝も、昼も、夜も、ずっと。  やがて、父親がいないときでも、母親はその子を手放さなくなりました。 「シュウジ、スヌーピーって読んだことある? ライナスっていう男の子がいるの、知ってる?」 「……毛布をいつも持ってる奴」 「そう。ライナスだったの、お母さんは。子どもは毛布。ぼろぼろの毛布だったの。毛布を手放すとパニックになっちゃう。その子がいないと、お母さんは気が狂っちゃうの」 「……うん」 「ごめん。やっぱり話、長くなっちゃった」 「いいよ、べつに」 「夕刊の配達、だいじょうぶなの?」 「……いいんだよ、そんなの」 「もうすぐ終わるから、ほんとに」  言葉とは裏腹に、一つの家族の終わりの風景を物語るまでには、もうしばらく時間がかかった。  淡々とした口調で、エリの話はつづく。  追い詰められていました。借金はもうどうにもならないくらい膨れあがっていて、弱い父親も、弱い母親も、疲れきってしまいました。  女の子は小学一年生になっていました。ひとの前でほとんど笑わない女の子でした。学校が終わったあとで友だちと遊ぶこともめったにありません。  毎朝、家を出る前に、女の子は母親に抱きしめられます。母親は、待ってるからね、エリが帰ってくるのをお母さんずっと待ってるからね、と——ときには涙ぐみながら繰り返します。玄関を出る女の子を、うらやましそうに、恨めしそうに見つめる朝もありました。そういうときには決まって、奥の部屋から、酔いつぶれて眠った父親のいびきが聞こえていました。  実際、母親は、女の子の帰りをいまかいまかと待ちわびているのです。友だちとほんのちょっと寄り道をして帰りが遅くなっただけで、母親は泣きながら女の子を迎えます。強く抱いて、娘の体を自分の胸に押しつけて、エリ、エリ、わたしのエリ、いったいなにをしてたの、どこに行ってたの、お母さん心配してたのよ、お母さんを一人にしないで、学校が終わったらまっすぐ帰ってきて、と訴えるのです。  母親は、娘の長い髪をポニーテールに結んでいました。エリはこの髪形がいちばんよく似合うよ、と言っていました。女の子も、ポニーテールが——赤いリボンで結んだのが特に、お気に入りでした。  でも、母親はときどき、ポニーテールを後ろから引っ張るんです。べつに理由もなくね。ぐいっ、と引っ張るの。あんたはわたしから逃げられないんだよ、あたしのそばから離れられないんだよ、と言うみたいに。娘に言うだけじゃなくて、自分自身でも確かめていたのかもしれませんね。この子はいつでも捕まえられる、自分を見捨てて逃げるようなことは絶対に許さないんだ、って。  女の子は母親を嫌っていました。憎んでもいました。  でも、見捨てることはできなかった。母親を見捨ててしまったら、自分も一人では生きられないのだから。だいいち、かわいそうに、女の子は、自分一人ではポニーテールをうまく結べなかったのです。  そんなある日のことです。 「……なんて言うと、昔話っぽくておもしろいでしょ」  エリは笑って、ベッドに仰向けに寝ころんだ。右手を目の上に載せて、「おばあさんの声っぽくしゃべったら、もっといいんだけど」と、また笑う。声が沈み、くぐもって、湿った。 「よけいなこと言わなくていいよ」とおまえは吐き捨てた。「ぜんぜんつまんないから、そんなの」 「ウケなかった?」 「そういうんじゃなくて……」  ソファーの背もたれに預けていた体を起こし、前屈《まえかが》みになってサバイバルナイフを見つめ、ナイフに向かって「なあ」と声をかける。 「そっちに行っていいか? 俺も」 「やだ」——すぐに返された。  おまえも黙ってうなずいた。最初から、本気でそう求めていたわけではなかった。  確かめただけだ。エリがいまでも強い「ひとり」なのかどうか——答えは、言葉よりも、そっけない口調のほうにあった。  少しほっとした。エリにとっても、それはまんざら悪くないリクエストだったのかもしれない。右手を目の上からはずして、「じゃあ、つづき、いくね」と話す声は、面倒臭そうで、わずらわしそうで、突き放すように乾いていて……強い「ひとり」にふさわしい冷たさを取り戻していた。  そんなある日のことです。  弱い両親は死にました。  一家心中というやつです。  睡眠薬を用意したのは父親で、その直前まで父親に激しく殴られていた母親は、もう抵抗する気力もなくして、薬を服《の》むことを受け容《い》れました。  最初は、娘は連れていかないつもりでした。夜中でした。ぐっすり眠っている娘を起こさずに、二人で黙って息絶えてしまおうと考えたのです。優しいのか身勝手なのかよくわかりませんね。結局「弱い」としか言いようがないんでしょうね。二人は、自分たちの責任で産んだ子どもを、自分たちの責任で殺すことすらできなかったのです。  しかも、二人は、自分たちの弱さを最後の最後まで貫きとおすこともできないほど弱いひとたちでした。  揺さぶられたのです。エリ、エリ、エリ、と名前を呼ばれて起こされたのです。  そう、あの子は確かに目を覚ましました。  でも、眠ったふりをしていました。  なぜだったのか、いま振り返って説明すると筋が通りすぎて嘘っぽくなってしまいそうですが、嫌な予感がしたんだと思います。それも、その夜だけのことではなく、たぶん、しばらく前から、そういう予感があったのだと思います。  目をつぶっていても、四つん這《ば》いになった母親が顔を覗《のぞ》き込んでいる気配は感じ取れました。くすぐったかった。母親の髪が垂れ下がって、頬に触れていたのです。  母親はすでに薬を何十錠も服んでいました。たぶん。父親も薬を服んだあと、ウイスキーをボトルから直接|呷《あお》っていました。たぶん。  エリ、エリ、エリ……。  母親はしつこく娘の名前を呼びました。間延びした声でした。すでに薬が効きかけていたのかもしれないし、母親もお酒を飲んでいたのかもしれません。  エリ、エリ、エリ、起きなさい、起きなさい……。  肩を揺さぶられ、頬を軽くつねられました。でも、あの子は眠ったふりをつづけました。  父親が怒った声でなにか言いました。叩《たた》き起こせ、だったのか。もういいから起こすな、だったのか。いまとなっては、なにもわかりません。  母親は、父親の言葉にかまわず、娘を呼びつづけました。  エリ、エリ、エリ、起きて、起きてちょうだい、お願い、起きて、お母さんひとりぼっちになっちゃうでしょ、お母さんをひとりにしないで、お願い、エリ、起きて、起きて……。  泣き声になりました。  娘は、目を開けてしまいました。眠ったふりをつづけることができませんでした。  体を起こすと、母親に抱きすくめられました。  嘘——です。  母親に、首を絞められました。  嘘——です、これも。  母親に白い錠剤を口の中にねじ込まれそうになりました。  嘘——です。  口の中に入れられそうになったのは、お菓子でした。  嘘——です、ぜんぶ。 「ごめん……ほんとは、よく覚えてないの。なんか、寝ぼけてたわけじゃないんだけど、あのときのこと、ぜんぶぼんやりしてるの。夢なのか現実なのか、ぜんぜんわからない」  エリの右手は、いつのまにか、また目の上に載っていた。  声がくぐもることはなかったが、その代わり、息を継ぐたびに体が大きく上下する。  娘は、逃げました。母親を突き飛ばして、裸足のまま、玄関から外に飛び出していきました。  怖かったのです。  そう、怖かった。  自分だけ生き延びようとか、このままだと自分も殺されるからとか、そこまでくっきりと思っていたわけではなく——「逃げる」という意識すらなかったかもしれません。ただひたすら怖くて、駆け出していました。  母親は追いかけてきませんでした。寝ているときだけは娘の髪はポニーテールをほどいていたから、でしょうか。  エリ、エリ、エリ……と声だけが、すがってきました。  アパートの外階段を降りていたら、父親が玄関から出てくるのが見えました。  今度は、はっきりと、殺される、と思いました。逃げなければいけない、と思いました。  道路に出てからは後ろを振り向かずに走りました。  父親がどこまで追いかけてきたのかはわかりません。もしかしたら、逃げる娘を見て、これでいいんだ、と思ったのかもしれないし、追いかけようとする父親を母親が止めたのかもしれません。それはもう、ほんとうに、死んでしまった二人にしかわからないことなのです。  娘は、息が切れるまで、真夜中の道を走りました。裸足で走りつづけました。  そして、なにかにけつまずいて地面に倒れ込んで、ふと後ろを振り向いたら、アパートが燃えあがっていたのです。  めでたし、めでたし。 「……ってことはないか、いくらなんでもね」  エリは目を隠したまま笑った。 「残された娘は、いつまでも幸せに暮らしましたとさ……ってのも、ないね」と笑いながらつづけ、返事のないおまえに少しいらだったように、「ちゃんと聞いてたの?」と声をとがらせる。  おまえはなにも答えない。  エリも、まあいいか、というふうに息をついた。 「弱かったでしょ、父親も母親も」  おまえは黙っている。 「愚かだよね、とにかく」  黙っている。 「でも、わたし、いまでもときどき思うんだけど、お母さん、あのときいったいなにをしたかったんだろうね。わたしを殺したかったのかなあ、それとも、わたしにお別れを言いたかっただけなのかなあ……シュウジはどっちだと思う?」  黙っている。 「まあ、どっちでもいいんだよね、そんなことはね、いまさらね」  黙る。 「わたし、走って逃げたことは後悔してないから。もしね、後悔がね、ひとつだけあるとしたら、なんで最後の最後まで眠ったふりができなかったんだろう、ってこと。ほんとに、わたし、なんで目を開けちゃったんだろう……」  唇を噛《か》みしめて、黙る。  エリも少し黙って、右手をさらに深く、肘《ひじ》のあたりで目を覆うようにして、言った。 「ねえ、こっちに来てもいいよ」  応《こた》えないおまえに、今度はいらだったりはしなかった。 「くっつかないで。でも、隣にいて」  おまえは唇を噛みしめたまま、ソファーから立ち上がる。少し迷ったが、靴を履いたまま、ベッドに横たわった。エリに言われたとおり、くっつかず、しかし、すぐ隣に。 「シュウジってさあ」エリはまだ目を隠していた。「セックスって、もう、した?」  一瞬、息が詰まった。 「……関係ないだろ」 「してるんだ」 「……関係ないって言ってるだろ」  頬も熱くなる。  自分でも不思議だった。ひとを殺してしまったことまで打ち明けたのに、セックスの経験があることだけは、エリに知られたくなかった。 「べつにどっちでもいいんだけどね」  エリは笑う。目を隠したまま——もう、手をはずす気はないのかもしれない。 「とにかく、セックスでもなんでもいいけど、くっついてこないでよ。いい?」 「ああ……」 「わたしの体に触ったら、死んじゃうからね、ほんとに」 「触らないって言ってるだろ」 「じゃあ、お話のつづき、するね」 「まだあるのか?」 「今度はね、強くてひとりぼっちの女の子と、弱くてずるい男のお話だから」  エリは、目の上で両手を組んだ。  光のかけらすら見たくないのか、涙の兆しすら見せたくないのか、たぶん両方なんだろうな、とおまえは思う。 「昔むかし、あるところに、弱い両親に心中で先立たれて、子どものいない叔母《おば》さん夫婦に引き取られた、強くてひとりぼっちの女の子がいました……」  物語の舞台は、東京だった。舞台をもっと狭めていけば、エリの部屋の——さらに狭めれば、ベッドの上。  叔父《おじ》が出てくる。ふるさとにいた頃、何度も何度も思い描いて、そのたびに悲しい気持ちになったエリの裸体が、物語の中にぼんやりと浮かび上がる。      3  叔父が初めてエリの部屋に忍び込んできたのは、ちょうど一年前のいま頃だった。  昼間だった。日曜日、だった。  エリは前日から風邪をひいて熱があったので、自分の部屋のベッドで寝込んでいた。  叔母は買い物に出かけて留守だった。 「あ、そうだ、お話って、伏線がいるんだよね、なんでも。伏線はあったの、うん、もう、東京に来る前あたりから、なんとなくね……」  中学生になった頃から、叔父はときどき舐《な》めるようなまなざしをエリに向けていた。たとえば夏、ショートパンツを穿《は》いて居間を横切るとき。たとえばにわか雨の日、傘を忘れて、濡《ぬ》れたブラウスが肌に貼りついているとき。たとえば夜、風呂《ふろ》上がりに濡れた髪を拭《ふ》きながら廊下ですれ違うとき。  叔父夫婦——エリが引き取られたのは、母の妹の夫婦だった。叔父は、赤の他人——男だった。  叔母も叔父の視線のあやしさに勘づいていた、らしい。中学一年生の秋、エリが交通事故に遭う少し前には、夫婦の険悪な話し声も聞いた。ガキに色目をつかわれて——と叔母は言った。誘ったのはエリということになっていた。なぜか。  叔母は、小太りだった母親とは対照的に、やせぎすで、いつもこめかみに青筋の浮いているようなひとで、子どもの目から見ても女としての魅力に乏しかった。子宮だったか卵巣だったかの発育不全で子どもを産めない体なのだと知ったのは、東京に引っ越してからのことだ。  叔父の家は、実質的には叔母の家だった。叔父は風采《ふうさい》のあがらない男で、その外見にも増して甲斐性《かいしよう》がなかった。東京か大阪に出れば割の良い仕事はいくらでもあるんだから、という言い訳が口癖になっていた。  そんな叔父にとって、『ゆめみらい』の開発計画とエリの交通事故は、願ったり叶《かな》ったりの事態だった。 「沖」の家と土地を相場よりずっと高く売って、交通事故の示談金も手にして、夫婦は東京に出た。あらかじめそういう段取りをつけていたのだろう、『瀬戸リゾートピア』の仲立ちで中古の一戸建てを買い、同じようにして叔父は中途採用の職を得て、さらに同じルートで、叔母はしばしばホストクラブや非合法のカジノに通うようになった。いつか——もうずっと昔のように思えるいつか、徹夫が話していた「やくざは出した金はぜんぶ取り戻すんだ」の言葉どおり、なのだろう。 「……まあ、伏線っていうか、前回までのあらすじっていうか、そんな感じかな。しゃべってると、つくづく思うね、あの夫婦、最低」  話は、一年前の日曜日の、エリの部屋に戻る。  布団をかぶっていたエリに、叔父は小声で、寝てるのか? と訊《き》いた。具合どうだ? 熱、まだあるのか? 寒くないか? 寝てるのか? 起きられないのか?……声は少しずつベッドに近づいてくる。  エリは眠っていなかった。ただ、熱で頭がぼうっとして、体のどこにも力が入らなかった。  掛け布団が、足元のほうからゆっくりとめくられた。  叔父の手が、入ってきた。最初は片手で、パジャマのズボンの上から膝《ひざ》や腿《もも》をまさぐるだけだった。  汗かいてないか? 寒くないか? シーツが汗で濡れてるとまた熱が出るからな……息だけの声で口実を並べ立てなければなにもできない、そういう男だった。  やがて、手の動きが大きくなる。掛け布団の下に、叔父の頭がもぐり込む。指先が、太股《ふともも》を這《は》い上る。 「おかしいんだよ」  エリは笑う。 「わたしね、そのとき、眠ったふりをしなくちゃだめなんだ、って決心してたの」  両手で目を隠したまま、ベッドのスプリングをはずませて、笑う。 「眠ったふりができなかったから、お父さんとお母さんがあんなふうになっちゃって……わたしはひとりぼっちになっちゃったんだから……今度こそ、ちゃんと眠ったふりをしなくちゃだめなんだ、って……」  おまえが噛《か》みしめるものは、唇から奥歯に変わった。眉間《みけん》を寄せて頬をこわばらせ、うめき声が漏れるのをこらえた。  叔父のいたずらは、その日だけでは終わらなかった。叔母がホストクラブに出かけて家を空ける夜は必ず——来る。指の動きは少しずつ大胆になっていき、両脚の付け根に顔を押し当てるようにもなった。  エリは眠ったふりをつづけた。寝返りを打って叔父の指を払いのけることも、つくりものの寝言で叔父をおびえさせることもなく、眠ったふりをつづけた。  ある夜、掛け布団に顔をもぐらせた叔父が、急に息をあえがせた。右手でエリの股間《こかん》を撫《な》でながら、左手は自分の股間を激しく揺さぶっていた。  叔父が部屋を出たあと、カーペットに白いどろどろしたしずくが落ちているのを見つけた。  おまえは息を詰める。目を固くつぶる。 「ヤバいよね、そういうのって……」  エリは笑いながら言う。 「ほんと、あのときはヤバいと思ったんだよね」とつづけ、「だからね」と聞き分けのない子どもを教え諭すような声で、さらにつづける。  その数日後、エリは男と初めてセックスをした。伝言ダイヤルで見つけた相手だった。池袋のホテルで、した。 「大切にしてるとさあ、それが奪われたり壊されたりすると悲しいでしょ。大切なものがあるから悲しい目に遭うんだと思うのね、みんな。だったら、大切なものなんかなにもないんだって、そう考えたほうが、楽でしょ」  季節は夏になった。  エリは、Tシャツにショートパンツで眠るように——眠ったふりをするようになった。  叔父の指はパンツの裾《すそ》から股間を探ってくる。ショーツの股《また》の布をつまんで持ち上げて、そこから直接、指が入ってくるようにもなった。  やがて、エリはパンツもショーツも脱がされるようになる。乳房を揉《も》まれるようになる。 「面倒だから、もう、最初から脚を開いたりしてね。途中でさあ、無理やり広げられると、右の膝がすごく痛いの」  最初のうちは、目を覚まさないかどうかだけを気にしていた叔父のささやき声も、しだいに変わっていった。  いいか? 気持ちいいのか? 気持ちいいだろう? もっと気持ちよくしてやろうか? エリちゃん、エリちゃん……。  エリは応《こた》えない。ずっと眠ったふりをつづける。瞼《まぶた》を閉じると、心もうまく閉じられるようになった。慣れてしまえば簡単だった。守るべき大切なものなんてなにもないんだと思っていればいい。  叔父《おじ》は性器の挿入だけはしなかった。きっと怖かったのだろう。  エリは家の外で何人もの男とした。すべて行きずりの相手だった。冗談みたいにあっけなく金は稼げた。その代わり、騙《だま》されて、数人の男に輪姦《りんかん》されたこともあった。  悲しくはない。金を貰《もら》っても嬉《うれ》しくはない。守りたい大切なものも、手に入れたい大切なものも、なかった。  秋の初め、叔父は全裸にしたエリから掛け布団を剥《は》ぎ取り、カメラをかまえた。  何枚も何枚も写真を撮った。  このこと叔母《おば》さんに言っちゃいけないよ、誰にもしゃべったらだめだよ、叔父さんとエリちゃんだけの秘密だからね、もししゃべったら、この写真、学校のお友だちに見せちゃうよ、これはデジタルカメラだからね、プリントアウトすれば何十枚でも何百枚でも焼き増しできるんだよ、街じゅうにばらまいてもいいんだからね……。 「でも、叔母さん、勘づいてたよ。機嫌の悪い日に家の廊下で出くわしたら、いきなりビンタ張られたことあったし、聞こえるの、夫婦|喧嘩《げんか》の声」  もっとも、叔母にとっては、叔父がエリに夢中になっていてくれれば、自分も好き勝手なことができる、という計算もあったのかもしれない。  孕《はら》ませるな——と叔母が叔父に言う声が、聞こえた。秋の終わりのことだ。  あんなのは便所みたいなものなんだから、好き勝手にしていいよ、でも、妊娠だけはだめだよ、堕ろすのだってタダじゃないんだから……。  翌日、また叔父はエリのベッドに来た。  エリは初めて、眠ったふりをしなかった。掛け布団を自ら剥ぎ取って、全裸の体をさらして、笑って言った。  入れていいよ、叔父さん。  困惑する叔父に、つづけて言った。  叔父さんの赤ちゃん、産んであげてもいいんだよ、わたし——。  叔父は逃げだした。階段を下りるとき、足音を忍ばせることも忘れた。  叔母はすべてを知った。  報復した。  あんたの素っ裸の写真、学校の友だちに手紙で送っといたからね。クラスの男子の全員と、担任の先生に。  エリは学校に行かなくなった。叔母はそのままエリが家を出ていくのを望んでいるのだろう。それがわかるから、居続けた。  報復の報復——。 「わたしね、もう、子どもの頃とは違うの。逃げだしたいほど大切なわたしもいないの。だから、そうね、生ける屍《しかばね》っていうの? そんな感じで、毎日ごはん食べて、テレビ観て、夜になったらナイフを持って寝るの。でも、もう、叔父さんぜんぜん来ないの。ナイフ持ったまま眠っちゃうでしょ、そうしたら、なんでなんだろうなあ、自分のことすごく刺したくなっちゃうの。で、おなか刺すとマジ死んじゃいそうだから、なんかね、代わりにっていうか、しょっちゅう髪を切っちゃうの、先のほうをちょっとだけなんだけどね、けっこう楽になったりするわけ……あ、それでね、笑っちゃうんだけど、近いうちに、叔母さん、わたしを病院に連れていくんだって、カウンセリング受けさせるんだって……お金をかけちゃっていいのかなあ、わたしなんかに……」        *  話は終わった。 「いままでの話、嘘じゃないからね、ぜんぶ」とエリは念を押すように言ったが、おまえはなにも応えなかった。 「殺されたほうが楽になるかなって思うから、いいよ、あのナイフで刺して」  おまえは黙りこむ。エリの話はすべて信じていても、すべて受け容れたわけではなかった。訊《き》きたいことや、言いたいことは、ひとつしかなかった。  体を起こす。ふう、と息をついて、目を隠したままのエリに言う。 「おまえ、大切なものがなにもなくなったって、ほんと?」  エリは軽く——そっけなく「うん」と返す。 「でも……俺は、おまえのこと、大切だった、ずっと」  エリは少し間をおいて、「ドラマみたいなこと言わないでよ」と笑った。「なに一人で盛り上がってんの?」 「……おまえは大切なひとだった、エリのこと、俺、ずっと大切に思ってた」 「会ってもないのにさあ」 「会えないから……大切だった」 「じゃあ、会ったらアウト、だよね」 「違う」  おまえはそう言って、静かにつづける。静かに、静かに、葉っぱでつくった小舟を水面に浮かべるように。 「会って、もっと大切なひとになった」  エリは目を隠す両手を、ほんのわずかずらした。瞼をこすったのだと、わかった。 「シュウジってさ……」声が震える。「誰かとつながりたいひとなんだ」 「ああ……」 「なんで? 裏切られるだけだよ、そんなの。わたしの話を聞いてたらわかるでしょ?」 「それでも……いいんだ」  おまえは、そっとエリの肩に手を伸ばした。触れたい。つながりたい。  だが——。 「やめて!」  部屋の空気がきゅっと縮むような悲鳴があがる。 「触られたくないの……誰にも……」  唇がわなないていた。  おまえは手を引き、「悪い」と謝って、ベッドから降りようとした。  すると、エリは今度は「降りないで!」と叫ぶ。  目は両手で隠されている。それでも、頬を伝うものまでは、隠せなかった。 「……くっつかないで、わたしに、絶対」  おまえは黙ってうなずいた。 「でも……そばにいて……お願い……」  言われたとおり、またエリの隣に横たわる。  強い「ひとり」と、弱い「ふたり」が、寝返りひとつでつながりそうな距離を隔てて、それぞれの涙を流しつづける。 [#改ページ]   第二十一章      1  ホテルを出ると、新宿の街はもう、夜の装いにきらめいていた。  雨あがりだった。陽が暮れる前に、雷の交じった激しい雨が降った、という。  まったく聞こえなかった。眠り込んでいた。 「信じられない」  エリはあきれはてた顔で——けれど、なんとなく嬉《うれ》しそうな声で、おまえに言う。 「よく眠れるよね、あんなに」 「……疲れてたんだよ」 「うなされてた」  そうかもしれない。  エリと並んでいるのにつながっていない、微妙な距離でベッドに横たわっているうちに、すうっと引き込まれるように寝入ってしまった。眠りながらも、エリに触れてはいけないんだと自分に命じて、体をこわばらせて、そんな不自然な眠り方のせいだろうか、嫌な夢ばかり見てしまった。  夢で見た光景のひとつひとつは思いだせない。ただ、嫌な夢だったということだけは、わかる。目覚めたとき、シャツが汗でぐっしょり濡《ぬ》れていた。指で拭《ぬぐ》うと糸をひきそうな、粘ついた汗だった。 「寝言っていうか、うわごと、どんなこと言ってた?」  おまえが訊《き》くと、エリはクスッと笑って、「忘れた」と言った。 「覚えてるんだろ。教えてくれよ」 「……カッコ悪いよ、いいの?」 「カッコ悪いって?」 「起きてるときには絶対に言いたくない言葉だと思う」 「……教えてくれよ」  エリはまたクスッと笑った。松葉杖《まつばづえ》をついて歩く足取りが速くなった。二、三歩ぶん前に出て、振り向かずに、言う。 「帰りたい、って」  おまえは黙ってエリの背中を見つめる。  言われて初めて気づいた。帰りたい。カエリタイ。胸の奥に、まるで型を抜いたように、その言葉の抜け殻がある。うなされて、ほんとうにうわごとで口にして、ほんのわずか楽になれたのだろうか。それとも、もっと苦しみが増してしまったのだろうか。 「ねえ」エリは、まだ振り向かない。「やっぱり帰りたいんでしょ、シュウジ」 「……そんなことない」 「でも、帰りたいって言ってた」 「別のことだと思うけど」 「別のことって、どんなこと?」 「……よくわからないけど」 「でも、ほんとに言ってたんだよ、帰りたい、って。だったら、さっさと帰っちゃえばいいのに」  エリはそう言って足を止め、おまえを振り向いた。「ほんとに、帰っちゃえばいいのに」と念を押すように繰り返し、「そのほうがいいと思うよ」と付け加える。  おまえは苦笑するだけで、なにも答えなかった。  エリは目をそらして、また松葉杖を動かして歩きだした。今度はすぐに追いつけるほどの速さだった。また並んで歩く。だが、決して、体は触れ合わない。 「ずっと、シュウジの寝顔見てたんだ」  エリはそう言って、水たまりをよけて松葉杖を斜めに振り、よいしょ、と体を前に運んだ。ふつうに歩いているときは感じないが、こんなふうに松葉杖をつくテンポが変わると、一歩進むだけでも全身に力を込めなければならないんだな、とわかる。 「最初はね、殺すつもりで見てたの。いまだったら一瞬で殺せちゃうんだなあ、って」 「……なんだよ、それ」 「ナイフを両手で持ってかまえてた。シュウジの顔の真上で、いつでも突き刺せるようにして、あんたの寝顔を見てたの」  また、水たまりをよけて進む。  眠っていたのは一時間ほどだったのに、ほんとうに、かなり激しいにわか雨だったのだろう。 「殺しちゃおうかなって思ったんだ。すっごく簡単なんだな、って」  おまえは「なに言ってんだよ」と軽く笑っていなした。今度はエリは嘘をついていないだろう、と思ったから。 「そのほうがシュウジも嬉しいんじゃないかな、って……違う?」 「なに言ってんだよ」 「死にたくないの?」 「あたりまえだろ、そんなの」  磁石のプラスとマイナスだ、と思った。エリが正直に話しているときはおまえが嘘をつく。エリが嘘をついているなら、おまえは正直に答える。それで初めて言葉が往復する。言葉だけ、エリとつながることができる。 「よく考えたら、誰かの寝顔を見るのって、わたし、初めてかもしれない」 「俺も……ひとの寝顔って、見たことない」 「ひとりぼっちのひとは、自分の寝顔を誰にも見てもらえないし、誰の寝顔も見ることができないんだよね」 「うん……」 「それでね、ずっとナイフを持って、このひとのこと、いつでも殺せるんだなあって思ってたの。そうしたら、さっきのうわごとが聞こえたわけ。泣きだしそうな声で、帰りたい、帰りたい、って。それ聞いちゃったら、なんか、かわいそうになって、殺すのやめたの」 「……なあ、それほんとなのか?」  エリは黙って、また一歩、先に出た。足を止める。振り向かない。さっきと同じだったが、声が違った。エリは雨あがりの夜空を見上げ、震える声を無理に笑いに紛らせて、言ったのだ。 「許してください」  おまえは息を呑《の》む。 「あんたね、許してください、って……そう言ってたの」  いま、気づいた。  許してください。ユルシテクダサイ。胸の奥には、そんな形の抜け殻も、確かにあった。 「シュウジ、ほんとのほんとに、ひとを殺しちゃったの?」  おまえは小さくうなずいた。エリは背中を向けたままだったが、きっと、伝わったはずだ。 「どんなひとを?」 「……やくざ」 「やくざでも、ひとを殺しちゃったら殺人だよね」 「……わかってる」 「どうするの?」  アカネの顔が浮かんだ。みゆきの顔も、あとを追って。二人は、逃げろと言った。おまえを逃がすために、アカネは警察に、みゆきはやくざに、身をさらした。 「逃げる」  おまえはきっぱりと言う。 「自首しないの?」——聞き返すエリの声も、自首しないことを最初から知っているように、そして、それを望んでいるように聞こえた。  エリはつづける。 「どこに逃げるの?」  さらにつづける。 「へたなところに逃げるより、東京の隅っこのほうにいたほうがいい、って?」  たぶんそうだと、おまえも思う。けれど、あの新聞専売所に「帰る」ことはできるのだろうか。 「逃げればいいじゃない、どこにでも」 「……うん」 「シュウジは走れるんだもん。走れるひとは、逃げることができるんだから」  おまえはエリの背中を見つめる。もう走れないひとの、あの頃のように遠ざかることのない背中を、食い入るように見つめる。  エリはゆっくりと松葉杖をついて歩きだした。 「遠くまで逃げてよ」  おまえも歩きだす。エリに追いついた。決して体を触れ合わせることなく、けれど世界中の誰よりもエリのそばにいて歩きたかった。        *  おまえは歩きながら、ズボンのポケットの中のナイフを握りしめる。  ホテルを出る前に受け取った。いらないと言うのに、エリは無理やりナイフをおまえに握らせた。  ときどき不安になる、と言った。  いつか自分はこのナイフを使うだろう。ナイフの刃は、たぶん、叔父《おじ》や叔母《おば》ではなく、自分自身に向くだろう。  自分で自分を殺すのは嫌だから——と言った。ずっと「ひとり」で生きてきたんだから、死ぬときぐらいは誰かと「ふたり」で死にたい。  そうなるとね、「ふたり」で死ぬのって二種類しかないの。  心中か、殺人。  お父さんとお母さんが心中で「ふたり」で死んだんだから、わたしは殺人で「ふたり」で死にたいよね。  だから——「わたしが死にたくなったら連絡するから、あんたが刺して」  おまえはナイフを受け取った。エリにナイフを持たせたくなかった。「ひとり」でも「ふたり」でも、エリを死なせたくは、ない。  ポケットの中でナイフの柄を握りしめる。ホテル街を抜け、飲食店や風俗店の連なる一画を抜けて、駅に向かう。  毒々しいまでのきらびやかな街は、まばゆい光に塗りつぶされているわけではなかった。無理に裏道を通らなくても、昼間しか営業しない銀行や店がシャッターを降ろした薄暗い場所は、なにかそこだけ人いきれが途切れ、ぽっかりと穴が空いたような静けさに包まれている。  そんな場所にも、ひとは、たたずんだりしゃがみ込んだりしている。誰もが薄暗さと静けさのなかに溶け込もうとするように、ほとんど動かず、ほとんどしゃべらない。  エリが「ちょっと休憩」と言って足を止めたのも、店を閉めた和菓子屋のシャッターの前だった。  小さな店だ。シャッターの前も、せいぜい二、三人が立てるほどの広さしかなかった。だが、建物が両隣のビルより少し引っ込んだ位置にあるので、そのぶん、暗がりの度合いが深い。 「ここ、わたしの行きつけの場所」  エリは息を整えながら笑った。「いつも一人で、しばらくぼーっとしてるの」とつづけ、「ホームレスになったら、ここで暮らしたいなあって、いつも思ってる」と、また笑う。  おまえは、通行人に見られないよう手の甲で隠しながら、ナイフをポケットから取り出した。 「捨てよう」 「なんで?」 「俺……約束、守れないと思う」 「やっぱり、できない?」 「ああ……」 「でも、シュウジ、ひとを殺したんでしょ。だったら、できるよ」 「ぜんぜん違うよ、そんなの」 「同じだって」 「違う」「なんで? ひとの命に違いなんてあるわけ? 殺してもいいひとと、殺してはいけないひとの区別なんてあるの?」  少し考えて、何度か深く息を吸い込んでから、おまえは答えた。 「殺したい奴と、殺したくない奴の区別は、ある」  エリは「屁理屈《へりくつ》」と笑う。笑うだけでなく、こんなふうに返す。 「じゃあさあ、殺したい相手が死にたくなくて、殺したくない相手が死にたがってたら、どうする?」  言葉に詰まった。  新田も——死にたくなかった。死にたくなかった新田を、殺したかったから、殺した。死にたがるエリを、殺したくないから、殺せない。  エリは「わたしのも屁理屈だけどね」と言って、シャッターに背中を預けた。アルミのシャッターがたわむ音が、思いのほか大きく響く。 「約束守ってくれないんだったら、ナイフ返してくれない?」 「……捨てる」 「捨てるぐらいなら、シュウジが持っててよ。逃げるときのお守りにはなるでしょ」  おまえは黙ってかぶりを振る。 「まあ、勝手にすればいいけど」  エリはそっけなく言って、「でもね」とつづけた。 「言っとくけど、ナイフなんていつでも買えるんだから。どこにでも売ってるんだし、シュウジに断られても、わたしと約束してくれるひと、たくさんいるんだから」  店の前の通りを行き交うひとたちに、顎《あご》をしゃくった。 「誰かに殺してもらうのって、簡単だよ。そう思わない? 適当なひとと、適当にホテルに行って、『絶対に恨まないから、ナイフでおなか刺してくれませんか』って言ったら、意外とみんな刺してくれるんじゃないかって思う。適当に、グサーッとね」  そんな気がする、おまえも。  決して罪を背負うことがないのなら、ひとを殺してみたい——心の片隅でそう思いつづけているひとは、きっと、たくさんいるだろう。  そして、決して罪を背負わせることがないのなら、誰かに殺されてみたい——そう望んでいるひとも、もしかしたら、同じぐらい。  ふう、と息をついたとき、ポケットの中の携帯電話が鳴った。  なんで——と、通話ボタンを押してから気づいた。電話機の前の持ち主にかかってきた電話だったんだとわかったのは、女の金切り声が耳に飛び込んでから、だった。 「タグチさん! いま、どこなの?」  どう説明するか迷っているうちに、女はまくしたてるようにつづけた。 「先月からずーっと電話してたのよ、なんで出てくれないの? タグチさん、どこにいるの? ねえ、もしもし? もしもし? どこなの? あなた、いま、どこにいるの? それだけでも教えてよ。お願い、タグチさん、もしもし? もしもし? 聞こえてるの?」  金切り声は、途中から涙交じりになった。  捜している。つながろうとしている。泣きながら、声を震わせて、裏返らせながら。 「すみません」とおまえは言った。「僕はタグチさんじゃありません」とつづけて、電話を切った。  エリに「タグチって、誰?」と訊《き》かれて、電話の内容と、この電話を手に入れたいきさつを話した。  エリは「タグチさんになってあげたらよかったのに」と、冗談とも本気ともつかない顔で言った。 「そんなこと……できないよ」 「できるよ」——今度は、本気で。 「できるわけないだろ」 「難しいけど、でも、タグチさんになればいいんだよ、シュウジは。別の誰かになっちゃって、生まれ変わって、いままでのことぜんぶ忘れて……やり直せばいいんだと思うけど」  おまえはため息交じりに笑う。できないよ、と口の動きだけで返すと、エリも、そうだね、と寂しそうに笑ってうなずいた。  また電話がかかってきたら、今度はきちんと事情を説明するつもりだった。  だが、電話はそれきり鳴らなかった。彼女の電話番号は着信記録に残っているはずだったが、「よけいなことは、やめといたほうがいいと思うよ」とエリに言われ、おまえもそう思って、電話機をポケットに戻した。顔も名前も素性も知らない彼女の「ひとり」と、携帯電話のつながりを捨ててどこかへ逃げてしまったタグチの「ひとり」が、この暗がりの中にそれぞれぽつんと浮かんでいるような気がした。 「ねえ」エリが言う。「なにか、書くもの持ってない?」  おまえがかぶりを振ると、「じゃあ、ちょっと待ってて」と歩道に出て、通りかかった若いサラリーマンを呼び止める。短いやり取りで、エリは何度か愛嬌《あいきよう》をふりまくように笑って、サラリーマンは困惑しながらにやついた顔になって、バッグからサインペンを出してエリに渡した。引き替えに、エリは財布から千円札を出して、サラリーマンに渡す。 「あのひと、もうちょっと酔っぱらってたら、タダでくれたと思うよ。美人は得だよね」  戻ってきて、得意そうに——なのに自嘲《じちよう》するように、笑う。 「セックスしませんか、二万円でOKですよ……台詞《せりふ》が違うだけ、だよね。サインペンを買うのもセックスに誘うのも、同じこと、だと思わない?」  なにも応《こた》えずにいるおまえに、「そんなものでしょ?」と念を押す。 「だから……こういうのも、同じこと」  サインペンのキャップを取って、シャッターに向かう。ペンを走らせる。シャッターのたわむ音が小さく聞こえた。 〈私を殺してください〉と書いた。  その下に、携帯電話の番号を書き加える。手のひらで覆えばすべて隠れてしまうような、小さなメッセージだ。暗がりに紛れて、通りからは決して見えない。 「でも、ここに立つひと、絶対にいると思う。わたしみたいに、ここを行きつけの場所にして、わたしみたいに、ぼーっとしてるひと、絶対にいる」  エリは、用済みになったサインペンを足元に捨てて、最後は誓うように、強く言った。 「わたしは、そういうひとに殺されたい」 「……もし電話がかかってきたら、どうするんだよ」  おまえの声はかすかに震えた。 「いいんじゃない? わたし、そのひとに、新しいナイフを渡すから」  ふと思いついた顔になって、エリはつづける。 「電話がかかってきたら、すぐに殺してもらおうかな。そのほうが早いし、向こうも気が楽かもしれないし」 「……やめろよ」 「でも、今度ね、今度|叔父《おじ》さんがベッドに入ってきたら、わたし、もういいかなって思う」 「最近はないんだろ、そんなこと」 「でも、わかんないよ、あのひとも溜《た》まってると思うし、もう、わたし、ナイフ持ってないんだし」  笑いながら言う。挑むような、試すような、からかうような、嘲《あざけ》るような、冷たい目でおまえを見る。 「もしそうなったら、シュウジにも携帯電話で教えてあげる。叔父さんの、はあはあっていう息の音、聞かせてあげるから」 「……ふざけるなって」 「それを聞きたくないんだったら、携帯電話、捨てちゃえば? ぜんぶ捨てちゃって、遠くに逃げればいいじゃない。逃げなよ。そのほうがいい。わたしなんかと会ってると、逃げ足が遅くなるから。シュウジは走れるんだから……逃げてよ、うんと遠くまで……」  冷たい目のまま、涙が頬を伝う。切り捨てるようなそっけない声のまま、息が揺れる。  さよなら——と告げたのは、声だったのか、息だったのだろうか。ゆっくりと瞬いたのは、目に溜まった涙を落とすためなのか、寝顔を見せてくれたつもりなのか。  エリは松葉杖《まつばづえ》を大きく前に振り出して、幅跳びをするようにおまえのそばから離れた。  おまえは後を追わない。エリの背中を見送ることもしない。シャッターに記されたメッセージを見つめる。 「ふざけるなよ……」  つぶやきが漏れる。 「ふざけるなよ、そんなの、ふざけるなよ、ふざけるなよ……」  繰り返すと、胸が熱く、痛く、なる。  消してやろうか、と思った。携帯電話の番号を塗りつぶせば、簡単に数字は消せる。だが、そうなると、エリは誰ともつながれなくなる。  初めてだったのだ。ずっと強い「ひとり」だったエリが「ふたり」でいたいと言ったのは。  エリはつながりを求めている。そのか細い糸を消し去ってしまう権利など、誰にもない。  おまえはサインペンを拾い上げた。左手でシャッターのたわみを抑えて、ぎりぎり、と全身でうめくように右手を動かした。 〈誰か一緒に生きてください〉  自分の携帯電話の番号を、その下に書いた。        *  走った。全力疾走をつづけた。新宿の街をでたらめに走りつづけた。  体が軽い。風のように走れる。人込みを自分でも驚くほど巧みにすり抜けられる。  体が消えてしまったみたいだ、とおまえは思う。ほんとうに、軽い。走りだしてしばらくすると息が切れそうになったが、そこを耐えてなおも走りつづけていると、急に息が楽になった。頭が、ぼうっとしているのに、冴《さ》えている。なにも見てはいないのに、すれ違うひととぶつかりそうになったら、するりと体が抜けていく。  走る。走りつづける。走れば走るほど、体が消えていく。  ほんとうは、あのホテルで、俺は殺されたのかもしれない。眠っているときにエリに心臓を一突きされ、エリも自分の頸動脈《けいどうみやく》をナイフで切って、二人の死体が部屋に転がっているのかもしれない。  幽霊になった二人が新宿の街を歩いていた——そのほうが、すんなり来る。そうでなかったら、どうしてこんなに走れるんだ?  走る。走りつづける。やがて、まわりの風景が変わる。  干拓地だ。広大な干拓地を、おまえは走っている。どこまでもつづくまっすぐな道を、ひたすら走りつづける。  遠くに家の灯が見える。おまえの家だ。父親がいて、母親がいて、シュウイチがいる、おまえの家だ。  おまえは四つ角を曲がる。家に向かって、さらにスピードをつけて走っていく。  帰りたい——。  帰りたい。あそこに、あの頃に、ほんとうに、帰りたくてしかたない。  やがて、おまえの目の前には、一人の少女の背中が見えてくる。赤いリボンでポニーテールを結んだ少女が、おまえの先を走る。  追いかける。追いつけないのはわかっていても、おまえは走りつづける。  あの頃は——おまえは思う。あの頃は、逃げるためではなく、追いかけるために走っていたのだ。なにかから遠ざかるためではなく、なにかに近づこうとして走っていたのだ。  少しずつ、少女との距離が縮まっていく。手を伸ばせば、リボンに触れられそうなところまで。  あと少し。ほんの、あと少し。すぐ、そこ——。  少女の姿が、不意に消えた。  我が家のあったあたりにも、もう光はない。  代わりに、まっすぐな道のずっと先のほうに、高い塔が見えた。『ゆめみらい』のシンボルタワーが、赤い灯を、ゆっくりと点滅させていた。  足がもつれた。その場に崩れ落ちるように、倒れた。  路上だった。新宿駅からほど近い、にぎやかな通りだった。歩いているひとや立ち止まっているひとがたくさんいた。倒れたはずみに水たまりの泥水が撥《は》ねて、すぐそばにいた若い女が短い悲鳴をあげた。連れの男たちが、おまえに怒声を浴びせた。  おまえは黙って立ち上がり、ズボンのポケットの中でナイフを握りしめて、ガードレールに腰かけた。  そのとき——携帯電話が鳴った。  一瞬、シャッターに残したメッセージのことを思いだした。  だが、ディスプレイに表示されたのは、エリの携帯電話の番号だった。  通話ボタンを押す。「もしもし?」と荒い息を抑えて声をかけると、くぐもったエリの声が聞こえた。  おまえに話しかけているのではない。そばにいる誰かと、笑いながら話している。  叔父さん——と呼んでいた。        *  叔父さん、わたしの名前呼んでよ。  なんだよ急に。  いいから。ねえ、呼んで。  エリちゃん。  なんで「ちゃん」なんて付けるの?  エリちゃんがかわいいからだよ。  わたしのこと好きなの?  ああ、大好きだ、かわいいよ、すごく。  叔父さん、いま、どこ触ってるの?  エリちゃんのおっぱい。大きくなったよなあ、うん、やわらかくて気持ちいいよ。  いやらしいね、叔父さん。  エリちゃんが誘ったからだろう? 叔父さん、エリちゃんが抱いてほしいって言ってるから、抱いてあげてるんだよ。  ここのホテル、高いんでしょ?  エリちゃんは気にしなくていいんだ。家で叔母《おば》さんのこと心配しながら、こそこそ抱くより、よっぽどいいよ。  名前、なんだっけ。  K**。有名なホテルなんだぞ、外国にもたくさんあるんだ。  何号室?  そんなのどうだっていいだろ。  教えて、何号室なの?  なんだよ……ええと、いち、さん、にぃ、ごぉ、だな。  ねえ、叔父《おじ》さん、あと何分ぐらいでイッちゃいそう?  まだまだだよ、ほら、エリちゃんだってもっとたっぷりしたいだろ。  八時に、シャワー浴びてね。  なんなんだ、変なこと言って。  いいから、八時にシャワー浴びるって、約束して。  今日おかしいなあ、おまえ、夕方だっていきなり電話かけてきて。叔父さん、仕事の段取りつけるの大変だったんだぞ。  でも……叔父さん、わたしのこと抱きたいんでしょ? 抱きたくてしょうがなかったんでしょ?  まあな、そりゃあもう、エリちゃんのこと思うだけで、ほら……触ってごらん。  おちんちん。  そうだ、こんなになってるだろ。  叔父さんのおちんちん。  そうだ、そうだ、叔父さん、このおちんちんをエリちゃんのおまんこに入れたくてしょうがなかったんだ。  K**の、一三二五号室だよね、八時にシャワー浴びるんだよね。  どうしたんだよ、おまえ。  ねえ、叔父さん、わたしのこと殺してくれる気ってない?  なに言ってるんだ、エリちゃんを殺すぐらいなら、叔母さん殺しちゃうよ。  叔父さん、殺してくれないんだ……。  イカせてやるよ、な、その代わり。  叔父さん、おちんちん、しゃぶっていい?  ああ……いいぞ。        *  おまえは電話を切って、ガードレールに腰かけたまま、夜空を見上げた。そういうことか、と短く笑う。ポケットの中のナイフを、あらためて握り直す。  駅前のビルに、電光表示の時計があった。七時を少し回ったところだった。  K**、一三二五号室、八時——。喉《のど》の奥で言葉を転がしながら、ガードレールから降りる。通りかかったサラリーマンにK**ホテルへの道順を訊《き》くと、歩いて十分ほどだという。  おまえは歩きだす。  走ることはない。  まだ時間はたっぷりあるし、逃げるのでも追いかけるのでもなければ、走りたくない。  ゆっくり歩く。堕《お》ちていくために、路上に伸びる自分の影を見つめて、ゆっくりと、おまえは歩きつづけた。      2  K**ホテルの、毒々しさと紙一重のきらびやかなロビーに足を踏み入れたとき、シュウジ、おまえは震えていた。そうだろう? 隠さなくてもいい。強がらなくてもいい。おまえは震えていた。おまえは震えながらポケットにナイフを忍ばせる、そういう少年だ。  ホテルの従業員に見とがめられないよう、少し足が速くなる。  シュウジ、おまえは臆病《おくびよう》な少年だ。優しい少年だということも——わたしは知っているのだ。  長い物語だった。深い深い海の中を泳ぎつづけるような、おまえの数年間だった。  もう、じゅうぶんに泳いだ。おまえは、じゅうぶんに、おまえの力のかぎり、海の中を泳ぎ抜いた。そして、泳ぎ疲れたおまえの物語は、もうすぐ岸辺に打ち上げられる。  エレベーターがなかなか見つからなかった。増築を繰り返して、迷路のようになっているホテルだ。一三二五号室、八時——胸に刻んだ数字を何度も繰り返しなぞりながら、おまえは息を詰めて歩く。  フロントの前には、アジア系外国人の団体客がいた。浅黒い肌だった。固い響きの言葉で、誰もがまくしたてるように話していた。  ふるさとの町にいた外国人たちは、どこへ行ってしまったのだろう。骨の軋《きし》むような重労働でつくりあげた『ゆめみらい』が、結局は一度もまばゆい光に包まれることなく——まるで堕胎された赤子のように朽ち果ててしまったことを、彼らは知っているのだろうか。  ロビーラウンジのソファーに、男たちが座っていた。テーブルに貼りつけてある携帯電話使用禁止のプレートにかまわず、それを嘲笑《あざわら》いながら踏みつけるように、大きな声で電話をかけたり受けたりしている。奥まった席に座った中年の男は、新田によく似た目つきをしていて、その隣に控える若いちんぴらは、鬼ケンのように柄物のシャツの胸をはだけていた。  シュウジ、おまえはいろいろな「にんげん」に巡り合ってきた。誰もがおまえとすれ違って、それきり、だった。  出会わなければよかったひとは、たくさんいた。  あなたもその一人だ——シュウジ、おまえはわたしに、そう言い放つだろうか。  エレベーターをやっと見つけた。おまえは乗り込んで、階数ボタンの13を押し込んだ。        *  にんげんは、しょせんひとりなんだ、とおまえは思う。ひとりだから、ふたりになりたいんだ、とおまえは願う。  ふたりでいてもひとりとひとりだから、ほんとうは、ひとつのふたりになりたいんだ、とおまえは祈る。  シュウジ、おまえの泳いできた海は、もうずいぶん浅くなった。岸が近い。おまえの物語は、もうすぐ長い旅を終える。  わたしは、おまえの物語を語りつづけてきた。おまえを救うためではなく、おまえを幸せに包み込むためでもなく、だからわたしは、ひどく冷たい語《かた》り部《べ》なのだろう。  波がおまえを運ぶ。海の底を這《は》うように泳いできたおまえの体は、もう水面間近に浮かんできて、陽光をはじく水面のまばゆさに空から目を凝らせば、背中がちらちらと透けているはずだ。  おまえは顔を上げないのか。息を継ぎたくはないのか。顔を上げて、息を継いで、目を開けて、わたしを見つめてみたいとは、おまえは思わないのか。  波はおまえを岸のほうへ運んでは、また沖へ引き戻す。大きな波はおまえを巻き込んで海の底へと叩《たた》き込み、また水面近くへと吸い上げていく。  そんなことを延々と繰り返してきたおまえの旅は、もうすぐ終わる。  わたしはおまえの旅の物語を、ものがたってきた。しかし、わたしはおまえの旅の物語を導きもしなかったし誘いもしなかった。  わたしはただの語り部にすぎない。波に運ばれるおまえの背中をなすすべなく見つめる海鳥の一羽でしかない。  わたしは知っている。おまえの背後に、大きな、荒い波が迫っている。おまえはもうすぐ、それに呑《の》み込まれるだろう。おまえのちっぽけな体は、ひきちぎられるようによじれながら、海の底へ沈んでいくだろう。  暗い海の底で、おまえは——ナイフを握りしめるだろう。        *  一三二五号室の前に立った。ドアは、ドアロックを戸口に挟んで、少しだけ開いていた。  おまえは静かに部屋の中に入る。短い廊下の、右側はクローゼット、左側はバスルームだった。シャワーの水音が聞こえる。エリの考えたとおりに、ことは進んでいるようだった。  部屋はツインルームだった。エリは、服を着て、窓側の——シーツが皺《しわ》だらけになったベッドに腰かけていた。おまえに気づくと苦笑いを浮かべ、胸の前で軽く手を振った。  おまえは笑い返さない。かすかに耳に届くシャワーの音が途切れる予感におびえながら、低い声で言った。 「……したのか」 「うん」軽く、返された。「早かったけどね、叔父《おじ》さん」 「なんで、したんだ」 「させてあげればいいじゃない、それが叔父さんの夢だったんだから。もう思い残すことはないって感じで……わたしは、死にます。シュウジに殺されます。あのひとも、それでせいせいするんじゃない? 叔母さんの目を気にする必要なくなったんだから」 「……本気なのか」 「嘘言ってもしょうがないでしょ。ここだからね、よろしく」  エリは自分の左胸を指差して、「それとも、こっち?」と、その指を首筋にあてた。「おなか刺すのは苦しそうだから、やめて。あと、できれば顔も傷つけないでほしいんだけど……」  そんなつもりで部屋に来たのではなかった——最初から。決意は変えない。最後まで。 「帰ろう」  おまえは言う。  エリは黙って笑った。なに言ってるの——声に出さなくても聞こえた。 「いいから、帰ろう」  エリは笑い顔のまま、今度は「なに言ってるの」と、声に出して返す。 「……嫌なんだ、こんなの」  おまえはそう言って、ライティングデスクに立てかけてあった松葉杖《まつばづえ》を手に取った。 「帰ろう」  差し出した松葉杖を、エリは受け取らない。そっぽを向いて、また笑って、「冗談やめてよ」と言う。 「冗談なんかじゃないんだ」 「怖いの?」 「違う」 「ひとごろしのくせに……怖いの?」  おまえは松葉杖をエリの横に置いた。エリはそれを手で払い落とす。 「早くしないと、叔父さん、出てくるよ。叔父さん、びっくりするよ。大騒ぎして、廊下に飛び出していって、ひとを呼んで、シュウジは警察に捕まって……わたしは、死ねなくなっちゃうでしょ。そういうの困るから、早くして」  おまえは床に落ちた松葉杖を拾い上げる。アルミニウムの軽さと、固さと、ひんやりとした冷たさを、手のひらに握り込む。  胸から言葉があふれて、喉にこみ上げる。すべてを口にする時間はないし、すべてを口にしたからといって、伝えられるかどうか自信がない。  だから——一言だけ。 「エリを殺すぐらいなら……あいつを、殺してやるよ」  笑われた。目を合わさずに。言葉もなく。  エリはよく笑う。さっきから笑顔以外の表情を見せない。その代わり、話す声はすべて震えている。 「あいつを殺す」  おまえはもう一度言った。「殺してやるから」とさらに繰り返して、松葉杖をベッドに立てかけた。 「いいから早くしてよ。ナイフあるんでしょ? すぐ、すむんでしょ?」  エリは松葉杖を、さっきよりもさらに邪険なしぐさで払い落とした。まなざしが、おまえに戻る。強く、冷たく、責めるようなまなざしだった。  おまえは身をかがめ、床に落ちた松葉杖をまた拾い上げた。先端のゴムパッドがいびつに磨《す》り減っていることに気づいた。毎日少しずつ——足を一歩踏み出すごとに目に見えないほどわずかに消えていくゴムと一緒に、エリの心の中のなにかも剥《は》がれ落ちていったのだろう。  おまえの靴も同じだ。外側のほうが早くゴム底が磨り減ってしまう。  にんげんは、まっすぐに体を支えているわけではない。傾いて、ゆがんで、ねじれて、立っている。  松葉杖のゴムパッドについた汚れを指で拭《ふ》き取ってやった。杖の先端に残った部分より、磨り減って消えてしまった部分が、むしょうにいとおしくなった。 「殺さないよ」  静かに言った。「もう、誰も殺さない」とつづけ、松葉杖をそっとエリの隣に置いた。  エリも、もう杖を払い落としはしなかった。 「帰ろう、エリ」 「……逃げちゃうんだ、一人で」 「二人で、だよ」 「なんで?」 「逃げるんじゃなくて、帰るんだ」  エリは笑う。頬はほとんど動かなくなってしまったから、肩を揺すって、いまは笑っているんだ、と——おまえにではなく、むしろ自分に、教えているのかもしれない。  シャワーの音は、まだつづいている。だが、決して、長くはつづかないだろう。 「どこに帰るの」  エリが訊《き》いた。  簡単じゃないか、とおまえは思う。俺たちが「帰る」場所は、この世の中でたった一つしかないじゃないか——。  帰りたかった、ずっと。どこに帰ればいいかが、わからなかった。おぼろに浮かんでいた「帰る」場所は、しかし、帰れない場所なんだとも思っていた。だが、そこは、確かにおまえが「帰る」場所だったのだ。おまえはそこに帰るべき少年で、そこに帰らなくてはならない少年だったのだ。 「エリ……帰ろう、二人で」  おまえは松葉杖を手に取って、ほら、とグリップを差し出した。  エリは動かなかった。 「帰るって……」  言いかけた言葉をさえぎって、おまえは「早く帰ろう」と松葉杖のグリップをさらにエリに近づけた。  シャワーの音は、耳をすませば、まだ聞こえる。それでも、もうすぐ、だろう。早く部屋を出なければならない。そうしないと「帰る」が「逃げる」になってしまう。走れないエリを連れて「逃げる」のは、無理だ。走ることは、弱くてちっぽけなものが「逃げる」ために神が与えた、唯一の武器だった。 「一人で帰ってよ、その前にわたしを殺して」 「殺さない」 「じゃあ、叔父さんでいいから、さっさと殺して、さっさと逃げて……もう二度と、わたしのこと思いださないで」 「もう、誰も殺さない」 「……わかった。じゃあいいから、もういいよ、一人で出ていって」 「二人で帰るんだ。俺たち二人で、帰りたいんだ」 「一人で帰って」  言い方が違っていたんだな、と気づく。  松葉杖のグリップをエリの手元、腕を動かさなくても、指を伸ばせば届くところまで近づけて、おまえは言った。 「ひとりとひとりで、帰ろう」  エリは、もうなにも言い返さなかった。短い沈黙のあと、ゆっくりと、小さく、手のひらを開いた。松葉杖をつかんだ、その瞬間——シャワーの音が、消えた。      3  腰にバスタオルを巻きつけて浴室から出てきた叔父は、体じゅうから湯気をたちのぼらせて、上機嫌に言った。 「エリちゃんもシャワー浴びるか? 浴びてもいいけど、石鹸《せつけん》やシャンプーはだめだぞ、においが残るからな、あいつそういうところは敏感……」  声が止まる。細い目をいっぱいに見開いて、エリとおまえを見つめる。 「なっ、なっ……」とあえぐように言って、一歩、二歩とあとずさった。  新田とは違う。新田はあとずさるような男ではなかった。見知らぬ男が部屋に入り込んでいたら、ためらいなく距離を詰めてくる、そういう男だから、おまえは殺した。臆病《おくびよう》さを恥だと思う男だったから、おまえに殺された。  この男は違う。三歩、四歩と逃げていく。 「だっ、誰ですか、あんた……」  弱い男だ。どこにでもいそうな、弱くて、ずるい男だった。殺す気になっていたら——たぶん、萎《な》える。この男のいのちを救うというより、おまえ自身のこころを守るために、かまえていたナイフを力なく下ろしただろう。  拍子抜けして呆然《ぼうぜん》とたたずむおまえに、エリは不意に立ち上がって体を寄せてきた。 「助けて、叔父《おじ》さん!」  松葉杖《まつばづえ》で体を支えながら、おまえの胸に顔をつけて、「助けて!」ともう一度言った。  叔父の目は、さらに丸くなる。口元がわなないたが、もう声も出ない。  おまえも戸惑った。だが、エリが伝えたいことや、確かめたいことは、わかる。  ズボンのポケットからナイフを出した。刃を、エリの顔に近づけた。 「……殺すぞ、こいつを」  すごんだ声を、泣きだしたい思いでつくった。  叔父は、また一歩、あとずさった。腰を退《ひ》き、おびえきった目をして、逃げようとした。 「廊下に出るな」  おまえの声は、高ぶりがすうっと沈んだ響きになった。 「廊下に出たら、こいつ、殺すからな」 「……なんなんですか、あんた」 「こっちに入ってこい」  ナイフをかざしたまま、エリの肩を抱いて、一歩動いた。エリもそれに従う。二人でいたときにはどうしても触れられなかったエリの体が、いま、ここにある。  叔父の足はすくんで動かない。 「入ってこいよ!」  おまえが怒鳴ると、全身がびくっと震え、そのはずみに腰に巻いたバスタオルが落ちた。  股間《こかん》の茂みにほとんど隠れて、縮んだ性器がある。ちっぽけな性器だった。醜いとも思った。この性器が、エリの体の中に入った。エリとひとつに、つながったのだった。  おまえは漏れそうになるうめき声を、喉《のど》の奥で押し殺した。ナイフの刃の向きを変えて、この男につかみかかって、できるなら、性器を根元から切り裂いてやりたい。 「叔父さん……」  エリが言った。「早く入ってきて。叔父さんがそこにいたら、邪魔なの」とつづけ、「叔父さんが邪魔をしたら、わたし、このひとに殺されちゃうから」と、自分からおまえに体をすり寄せた。  叔父の足は動かない。 「……帰るから」  おまえは言った。  エリもつづけて、「叔父さん、そこどいて」と訴えるように言った。「わたしたち帰るから、もう、帰っちゃうから、そこにいたら邪魔なの」 「連れて帰るから」とおまえは言う。 「帰れないと、殺されるから」とエリも言う。 「……帰るって、どこに? エリちゃん、このひと……誰なんだ?」  波打つような叔父の声を、おまえは「誰でもいいだろ!」と叫び声ではねのけた。  だが、エリは落ち着いた口調で、叔父と、おまえと、それからきっと自分自身に向けて、言った。 「わたしと同じひと」  その瞬間——おまえの胸は熱いもので満ちた。  エリの肩を抱く手に力を込めた。 「入ってこい」  叔父に言う。 「入ってきて、部屋の隅にいろ。俺たちが出ていくまで動くな」  叔父の体からほんのわずか、こわばりが取れた。なにもできないんだという役割を与えられたら、なにもできないということだけができる、そういう男なのだ。  行こう、とエリをうながした。エリは松葉杖を一歩ぶん前に送って、叔父に言った。 「叔父さん、いままでありがとう。さよなら」 「……エリちゃん、ちょっと待ってくれ」 「そこどいて。それが嫌だったら、助けてよ、わたしのこと。ナイフ、ほら、すぐ刺されちゃうもん」  不意に首を振って、自分からナイフに頭をぶつける恰好《かつこう》になった。  おまえはあわててナイフを引く。殺されたいひとだ——あらためて、思う。いま、ナイフの切っ先は、殺されたいひとの頸動脈《けいどうみやく》を簡単に切り裂ける位置にある。 「早くしろ!」  おまえは裏返った声で怒鳴る。「どけよ、そこ!」——早く、ナイフをポケットにしまいたい。  びくん、と叔父の体は跳ねた。  動いた。  おまえたちに道を空けるのでもなく、エリを守るためにおまえに襲いかかるのでもなく、全裸のまま、ドアのほうへ駆け出して——逃げた。  おまえも駆けた。  考えるより先に体が動いた。  背中を向けてドアのレバーに手をかけた叔父の脇腹に、ナイフを突き立てた。        *  シュウジ。  おまえの物語は、いま、岸辺に打ち上げられたのだ。 [#改ページ]   第二十二章      1  ここに残る、とおまえは決めた。足元に倒れたエリの叔父の背中をぼんやりと見下ろして、「逃げろよ」とエリに言った。静かな、感情の消えた声で。  だが、エリはクローゼットから叔父の服を取り出して、「早く着替えて!」と震える声で言う。  おまえの服は返り血を浴びて汚れていた。血の染みはそれほど広がってはいなかったが、においが、強い。なまぐさい。生の魚のにおいよりも濃密で、胸の奥深くを波立たせるような、なまぐささだった。 「シュウジ、早く着替えてよ、早く!」  エリは叔父の服をベッドに広げて、叫ぶ。  叔父はまだ息絶えてはいない。きれぎれに低くうめきながら、手足を小さく動かして、床を這《は》って、なおも逃げようとしている。起き上がる力はない。ドアを開けることも、大声で助けを呼ぶこともできない。けれど、この男は——まだ、生きている。 「シュウジ!」  エリはあせって、興奮して、泣きだしそうな声になっていた。  おまえは叔父《おじ》の背中を見つめたまま、へへっと笑う。エリがこんなに感情を剥《む》き出しにするのは初めてだった。いつも醒《さ》めていて、冷ややかに笑い、どうでもいいけど、というまなざしを放っていたエリが、いま、唇をわななかせながら、「早く!」と叫びつづける。それが、むしょうに嬉《うれ》しかった。 「なに笑ってるのよ、ねえ、早くしてよ」 「……俺、いいよ」  おまえは叔父の背中から目を離さない。脇腹から流れる血は、床のカーペットを赤黒く染めていた。このまま放っておいたら死んでしまうのか、それとも致命傷には達していないのか、なにもわからない。助けるつもりはない。ただ、とどめを刺そうとは思わなかった。 「いいって、なにが?」 「俺……ここにいる」  ナイフを握りしめた手の力を抜いた。返り血で濡《ぬ》れた手から、ナイフが滑るように床に落ちる。 「……それ、どういうことなの? 逃げないの?」 「エリは逃げろよ。一人で、遠くまで、逃げちゃえばいいんだ」 「自首するの? シュウジ、警察に行くの?」  おまえはかぶりを振って、濡れた手をズボンの腿《もも》で拭《ぬぐ》う。 「俺、ここにいるから」 「ここって……」 「疲れた」  ふう、とため息とともに肩の力を抜いた。自分の口にした言葉で、そうなんだよな、と初めて気づいた。ずっと疲れていた。もう何年も前から疲れていたような気がする。重い疲れだ。体の芯《しん》に染み込んでいた。それがあたりまえになっていたので気づくこともなかったが、ほんとうに、ずっと、ずっと、疲れていたのだ。  おまえは踵《きびす》を返してドアの前から部屋に戻り、冷蔵庫を開けた。  缶入りのウーロン茶を取り出した。  喉《のど》が渇いた。宮原雄二と同じだ——と知った。  喉が渇くのだ、ひどく。ひとを殺したあとには。  血に濡れた指先でプルトップを開けた。よく冷えたウーロン茶を一口飲むと、なまぐささが鼻に抜けて、吐き気に襲われた。  息を詰めて嘔吐《おうと》をこらえ、もう一口、飲んだ。冷たさがみぞおちに、すとん、と落ちて、胃のかたちに広がっていく。  呆然《ぼうぜん》とそれを見ていたエリは、我に返ると、「早くしてよ!」と声を裏返らせた。  あせっている。うろたえている。怒って、いらだって……目の前の光景に、おびえてもいる。それが嬉しい。嬉しくてしかたない。  宮原雄二は、暗い穴ぼこのような目をしていた。壊れてしまってからのシュウイチも、からから、からっぽの目で笑っていた。行方をくらました父親や母親も、その頃は気づかなかったが、きっとそんな目をしていたのだろう。  だが——エリは違う。エリの目はからっぽではないから、暗い穴ぼこではないから、「ねえ、早く行こうよ、早く!」と、すがるようにおまえを見つめる。  おまえはウーロン茶の缶をドレッサーのカウンターの上に置き、肩の力をさらに抜いて、笑った。 「俺、いいんだ、ほんとに。疲れちゃったから、ちょっと……寝たい……」  芝居ではなく、あくびも出た。ベッドの縁に腰を下ろす。仰向けに寝転がればすぐにでも眠りに落ちそうな気がしたが、背中を横たえる、ただそれだけのことも億劫《おつくう》なほど、全身がけだるい。 「エリ、逃げろよ。俺はもう、どうでもいいから」 「なに言ってんのよ、あんた、頭おかしくなっちゃったの?」 「……最初からおかしかったんだよ、俺の頭。おかしくならないほうが、おかしいんだ。俺……ひとごろしなんだ、ひとを殺して、頭がおかしくならないのって、変だろ」 「そんなこと言ったら、わたしだって……」 「エリは違うよ」  目を開けているのも、疲れる。 「エリは違うんだ」  息をするのも、ほんとうは、もう面倒臭くてしかたない。 「エリは……まともだよ、すごく」  叔父の低いうめき声が聞こえた。まだ生きている。いますぐ病院に連れていけば助かるのだろうか。それとも、どうせ助からないのだから、早くとどめを刺してやったほうが優しいのか。よくわからない。なにも、わからない。  ひとの命が母親の体の中で誕生する仕組みも、わからない。母親の体の中で育った胎児が外の世界に生まれ落ちる仕組みも、わからない。ひとが生きているときの体の仕組みがどうなっているのか、それがどんなふうになれば死んでしまうのか、なにひとつわかってはいないのに、勃起《ぼつき》したペニスと潤んだヴァギナがあれば、ひとは、ひとの命をつくることができる。そして、ナイフの刃や、首筋に食い込む紐《ひも》があれば、あっけなく、ひとの命を絶つこともできる。  嘘だろう? 自分の犯してしまった罪におびえたり後悔したりする前に、ただ、嘘だろう? と訊《き》きたい。  なあ、こんなの嘘だろう——?  新田を殺した——俺が?  床に転がっているこの男も、おそらく、しばらく放っておけば死ぬ——俺のせいで?  この俺が? まだ十五歳の、この俺が、おとなを二人も——殺したのか? 「ねえ! シュウジ! ぼーっとしないでよ! 早く着替えてよ!」  ひとは、ひとに殺されてしまうほど弱いものなのか?  そういうふうにつくられているのか?  そんなに弱くて、ほんとうに、いいのか? 「シュウジ! しっかりしてよ!」  腕を揺さぶられた。甲高い声が突き刺さって、耳が、じん、と痛い。  おまえはエリの手を振りほどいて、背中を丸くした。 「ほんとに……疲れちゃったよ、もう……」  なまぐさいにおいが部屋にもたちこめてきた。こんなにも濃密な血のにおいを嗅《か》ぐのは生まれて初めてだったが、どこか懐かしいにおいでもあった。  ああ、そうか、とおまえは気づく。赤ん坊は、生まれるときに母親の血を全身に浴びて外の世界に出てくる。にんげんの人生は、血まみれになることから始まるのだ。 「なあ……」 「なに? どうしたの? ねえ、声も変だよ、もっとしっかりしゃべって。ねえ、シュウジ、しっかりして」  アカネのことを思う。あと何カ月かたてば、俺のつくったにんげんが一人、この世に生まれてくるんだなあ、とぼんやり思う。  笑いながら、目をつぶった。重くなった瞼《まぶた》が、つっかい棒がはずれたように落ちた。もう目を開けたくない。このまま眠って……死んでしまってもいいよな、と思う。ゆっくりと息を吸って、吐いた、そのとき——冷たいものが頭に降りかかった。  ハッとして顔を上げる。目を開ける。飲みかけのウーロン茶を、エリが頭上からどぼどぼと振りかけていた。 「いいかげんにして!」  エリは叫んだ。 「早く着替えて!」  ウーロン茶が残り少なくなった缶をシェーカーのように振りながら、叫んだ。  おまえをにらみつける目は、真っ赤に染まって、光っていた。 「……エリ、一人で逃げろよ」  前髪からしたたり落ちるウーロン茶が、膝《ひざ》の上に置いた手の甲を濡らした。 「帰るの!」  エリは空になった缶を床に放り捨て、松葉杖《まつばづえ》もその場になげうって、おまえの隣に倒れ込むように座った。 「帰るの!」  両肩を強くつかんで揺さぶられた。 「わたしたち、帰らなきゃ!」  帰る——。  懐かしい言葉が耳に流れ込む。  おまえはエリを抱きしめる。エリはもう拒まなかった。エリの「ひとり」を、おまえは、おまえ自身の「ひとり」で抱きしめる。  帰るために、おまえたちはひとつになった。おまえたちはひとつになるために、ふるさとに帰る。  もはや帰ることのかなわないひとたちの心を背負って、その重みに背骨をぎりぎりと軋《きし》ませて、おまえたちは、おまえたちの帰るべき場所に帰る。        *  シュウジ。  エリ。  おまえたちは、夜を身にまとった。  高層ビルと地下鉄と高速道路と路地裏の街に、もぐり込んだ。      2 「東京駅に行こう」  エリは言った。 「新幹線、もうないんじゃないか?」  おまえが返すと、「バス」とだけ答え、松葉杖を大きく振って前に進む。 「あんたがぐずぐずしてなかったら、直行のバスが新宿とか池袋とかから出てたんだけど……もう間に合わないから、東京からバスで大阪まで行こう。明日の朝早く着いて、大阪から新幹線に乗ればいいよ」 「……詳しいな」 「何度も練習してたから。時刻表見て、何時に家出したら何時の新幹線に乗ればいいんだ、とか、飛行機は何時のがある、とか、夜中だったらどうすればいいか、とか……」  練習ってのは、ちょっと違うかな、とエリは笑う。  新宿から地下鉄に乗った。赤い電車に乗って、東京駅へ向かった。地下鉄の窓に映った自分の顔を、おまえはじっと見つめる。  よお、ひとごろし——。  笑ってみた。  窓の中のおまえの目は、真っ暗な穴ぼこではなかった。からから、からっぽでもなかった。  代わりに、赤い電車が、真っ暗な穴ぼこを疾走する。  エリが、窓の中のおまえに笑う。 「サイズ、ぴったりだったね」  叔父《おじ》の背広を着たおまえに、少し驚いたふうに言う。 「シュウジと叔父さんが同じ背丈なんて、なんか、ちょっと変だよね」——首をかしげて、松葉杖で体を支え直す。 「ねえ、どうなったと思う? 叔父さん」 「……わからない」 「後悔してる? 最後のこと」  おまえは黙ってかぶりを振った。 「警察、すぐに見つけると思うよ、わたしたちのこと」 「うん……」 「向こうで待ち伏せしてるかもしれない」 「いいよ、それでも」 「撃たれちゃうと思う?」 「……抵抗したら、そうかもな」 「しないの?」 「してもしょうがないだろ」 「……死刑は、だいじょうぶだよね、未成年だもんね」  おまえたちのすぐそばで吊革《つりかわ》につかまっていた若いサラリーマンが、訝《いぶか》しげな顔になった。  冗談ですよ、冗談——おまえは窓の中のおまえに、なあ、あたりまえだよなあ、と笑う。ひとごろしが地下鉄に乗ってるなんて、そんなの、悪い冗談に決まってるじゃないか。  吊革から手を離して、手のひらのにおいを嗅いでみた。石鹸《せつけん》のにおいにほとんど消されていたが、かすかに血のにおいも残っている。  とどめは刺さなかった。助けを呼ぶまではしなかったが、戸口にドアロックの留め金を挟んで、ドアを少しだけ開けておいた。誰かが通りかかって、うめき声に気づいたら、運が良ければ叔父は助かるだろう。助けられた叔父は、エリを抱いたこと以外のすべてを警察に話すだろう。おまえとエリが「帰る」場所はたったひとつしかない——それくらい、あの哀れな男にだってわかっているだろう。  とどめを刺さなかったことに後悔はない。二人で話し合ってそう決めたわけではなかったが、おまえは床に落ちたナイフを拾い上げるつもりはなかったし、エリも倒れた叔父の背中を黙ってまたいで廊下に出た。ドアを開けておいたのはエリ。おまえは、なにも言わなかった。  おまえたちは、優しい子どもなのだ。        *  夜を、帰る。  深夜の高速道路をひた走るバスのシートに並んで座って、おまえたちは夜を帰る。  手をつないで、目を閉じて、帰る。  バスは西へ向かう。  夜の闇の深いほうへ、深いほうへ、と走りつづける。        *  浜名湖のほとりのサービスエリアで、バスは十分間ほどのトイレ休憩をとった。  おまえたちはバスを降りた。がらんとした駐車場のアスファルトの上に、二人並んだ影が伸びる。 「だいたい半分ぐらい来たのかなあ」  エリは空を見上げて言った。月が出ていた。今日の夕方はどしゃ降りだったんだよな、と遠い過去を振り返るように、おまえは思いだす。 「ねえ、シュウジ。叔父さん、助かったと思う?」 「……わかんない」  ナイフを脇腹に突き刺したときの感触は、まだ覚えている。意外と軽い手ごたえだったが、刃が奥まで入ったという感じもしなかった。つっかえるというより、刃の両側からねっとりとした重いものに挟み込まれたような気がした。 「死んだほうが、いいと思う?」 「……どっちでもいいよ」 「ごめんね」 「……なにが?」 「わたしが呼ばなかったら、シュウジ、あんなことしないですんだんだよね」  おまえは笑って、「俺が悪いんだよ」と答えた。「俺がエリのこと、最初に呼び出したんだし」 「でも……シュウジに会わなかったら、今夜、わたしのこと、誰かに殺してもらってたかもしれない」  そんなことないって、とおまえはまた笑う。 「エリは、もう死なないよ。誰もエリを殺してくれる奴なんていない」 「そう……かなあ」 「死にたい?」  答えの見当をつけて訊《き》いた。思っていたとおり、エリは苦笑するだけで、言葉ではなにも答えなかった。 「田舎に帰ったら、どうする? エリは、どこか行きたいところあるのか?」  エリは少し考えて、懐かしい言葉を口にした。 「干拓地、かな」  かつて——まだ足を傷つけられる前、誰よりも速く走っていた、あの広大な干拓地。 「ちょっとでも、走れるのか?」 「……無理だと思う。でも、歩くだけっていうか、干拓地に立ってみたくて」 「走りたい?」  エリは無言で松葉杖《まつばづえ》を大きく踏み出して、一歩ぶん、おまえから遠ざかった。背中を向けた恰好《かつこう》から、せーの、というふうにおまえを振り返って、言う。 「生まれ変わったら、走る」  おまえは、うつむきかけた顔を上げて、へへっ、と笑う。 「じゃあ……ずーっと先だな」  エリは黙っていた。  そのまましばらく、おまえたちは動かなかった。  トイレで用足しをすませた乗客がバスに戻ってきた。まだバスのエンジンは止まったままだったが、出発の時間はそろそろなのだろう。  おまえはエリに近づいて、言った。 「いまからでも走れるかもしれない」 「え?」 「ちょっと、これ、貸して」  エリの手から松葉杖を取った。  とっさのことに、エリは体のバランスを崩してしまい、おまえの腕に抱きついてきた。「なにするの、危ないじゃない」と、腕をつかむ手に力を込める。 「走れるよ、エリ」 「……なに言ってるの?」  おまえは松葉杖を足元に置いて体をひねり、腰を沈めて、エリを背中に載せた。おんぶの体勢だった。 「しっかりつかまって」 「なにやってんのよ、やめてよ、危ないってば」 「だいじょうぶだって。俺の首でも肩でもいいから、両手でしっかりつかまって」  走りたい——と思う。  俺たちは走れるんだ——と信じたい。  エリの小さな尻《しり》を手のひらで支え、しっかりと背負った。腿《もも》の付け根は、左右で太さが違う。怪我をした右のほうが、もう何年も体の重みをかけていないせいだろう、ずっと細い。 「もっとしっかりつかまってろよ」 「……みんな見てるよ」 「いいから」  肩から首に、エリの両手が巻きついてくる。 「ねえ」エリが言う。「このまま首絞めたら、シュウジ、死んじゃうかもよ」  走りながら死ぬのなら——それも、悪くない。 「しゃべってると危ないぞ、舌|噛《か》んじゃうぞ」 「……うん」 「いくぞ、手、離すなよ」  息を大きく吸い込んで、走りだした。  広い駐車場の端を目指して、おまえは走る。エリを背負って、エリとひとつになって、おまえは走る。走りだすと、エリの体の重みが腕と腰と膝《ひざ》に伝わった。それでも、スピードはゆるめない。ひたすら、走る。ふるさとで「ひとり」になってから干拓地を走りまわっていた頃のように、なにも考えずに、ただ走る。  遠くに、高速道路の本線が見える。長距離トラックが連なって疾走する。ヘッドライトとイルミネーションの光が、帯になって流れていく。  駐車場の端に着くと、引き返す。走る。走りつづける。  エリはもうなにも言わない。おまえの首に、両手をきつく巻きつける。  走りながら、おまえは吠《ほ》えるように叫んだ。言葉にならない声、声にならない慟哭《どうこく》を、夜空に響かせた。  月がおまえたちを照らす。闇がおまえたちを包む。  風が吹く。風を切り裂く。  おまえたちは、もうすぐ、ふるさとに帰り着く。        *  シュウジ。  おまえの知らなかったいくつかのことを、わたしは知っている。  おまえが新宿の街を駆けめぐっていた頃、大阪の郊外——奈良県との境に近い山から、腐乱した死体が掘り起こされたのだった。  翌朝には、その死体の身元が判明する。  東京から家出してきた少女は、自分の物語をおまえ以外の誰にもものがたらないまま、土に帰った。  わたしが知っているのは、そういう話ばかりだ。        *  シュウイチは、こころが壊れたまま、今夜も聖書のページをめくる。どこを読むというのではなく、ただ、言葉をじっと見つめる。ほんの少し古びて表紙の角が丸くなったその聖書が元々は誰のものだったのか——わたしは差し入れたときに伝えたのだが、シュウイチの壊れたこころには届かなかったかもしれない。  おまえの母は、遠い街の薄暗い一角で、脂ぎった顔の男たちに安い酒を飲ませ、嬌声《きようせい》を耳に注ぎ込み、隙を見てトイレに立っては化粧を直す。  おまえの父は、別の遠い街の高速道路の下で、長い夜を酒を友に過ごす。立って歩く時間よりも力なく横たわる時間の長い、そんな日々をただ生きる。ときどき、髪を染めた子どもたちに石をぶつけられ、嘲《あざけ》られて、饐《す》えた息を吐き出しては、それをまた吸い込んで、死ねないから、ただ、生きる。  わたしが、あとになって知るのは、そういう話ばかりだ。        *  シュウジ。  春の終わりのよく晴れた日の朝、わたしは干拓地の広がる町を発って、わたしのふるさとへ向かった。  ずっとわたしのそばにあった弟の遺骨を、両親の眠る墓に納めた。暗い穴ぼこのようだった弟のまなざしは、父と母にひさしぶりに会えて、どんなふうに変わっただろうか。  罰当たりなわたしは、仏式の墓の前で、弟のために聖書の一節を読み上げた。  「伝道の書」第一章——。 〈世は去り、世はきたる。  しかし地は永遠に変らない。  日はいで、日は没し、  その出た所に急ぎ行く。  風は南に吹き、また転じて、北に向かい、  めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。  川はみな、海に流れ入る、  しかし海は満ちることがない。  川はその出てきた所にまた帰って行く〉  あとになって、わたしは知る。  同じ言葉を、おまえたちも読んでいた。  朝陽の差し込む列車の中で。  ふるさとへ帰る列車に揺られながら、おまえたちは肩を寄せ合い、頬をすり合わせるようにして、聖書を開いていた。  あとになってそれを聞かされて、シュウジ、わたしはおまえのために泣いたのだ。      3  新大阪駅で買った朝刊に、叔父《おじ》のことが小さく出ていた。ホテルの従業員が発見した、という。出血多量で重体だという。 〈家族の話によると、同居している姪《めい》が昨夜から家に帰っていないということで、警察では事件との関わりを視野に入れながら捜査をつづけている〉  新幹線の車中で、記事を二人で読んだ。 「重体って……意識不明なの?」  エリに訊《き》かれ、おまえは「たぶんな」と答える。 「このまま死んじゃうのかなあ」 「……わかんない」 「意識が戻ったら、しゃべるよね、わたしたちのこと」  もうしゃべっているのかもしれない、とおまえは思う。ふるさとの駅に降り立ったら、そこには何人もの警官が待ちかまえているのかもしれない。 「でも、叔父さんが意識不明のまま死んじゃったら、わたし、どうなるのかな。家出少女って感じ? やっぱり警察も怪しいって思うよね、重要参考人とか、そんなので……」  エリの言葉は、途中から自分自身に問いかけるような響きになった。  おまえは窓の外を流れる田園風景を眺めながら、新聞を配っていた、あの街のことを思いだす。専売所の所長は、おまえが姿をくらましても警察に届けたりはしないだろう。保証人も履歴書もなく流れてきた若い男が、またどこかに流れていく。あの店では、あたりまえの出来事なのだろう——タグチのように。  所長は、また求人広告を出す。保証人のいない、ふるさとや我が家から逃げてきた男を、粘ついた笑みを浮かべて雇う。おまえの代わりに雇われた男は、おまえと同じようにトクさんと同じ部屋になる。トクさんは、おだやかな目で、訥々《とつとつ》と話しながら、心の中で舌なめずりをして、新しい相棒を迎えるのだろう。 「俺、誰にも追いかけられないんだ。探す奴もいないんだ」 「……そうなっちゃう、のかなあ」 「鬼ごっこや、かくれんぼの途中で、鬼の奴が家に帰っちゃったみたいなものだよな」  父親もいない。母親もいない。シュウイチもいない。 「追いかける奴もいないし、探す奴もいないし、待ってる奴もいないんだ、俺には」  エリは黙ってうなずきかけたが、不意に思いだしたように顔を上げた。 「神父さん、いるよ」 「え?」 「田舎に帰ったら、神父さん、待ってるよ。シュウジに会うと、絶対に喜ぶと思うよ」  最初きょとんとしていたおまえは、何度か目を瞬《しばたた》いてから、小刻みにうなずいた。エリを見て、またすぐに窓の外に目をやって、一つ大きくうなずいた。        *  シュウジ。  エリ。  わたしは信じていてもいいだろうか。  おまえたちは、わたしに会うためにふるさとに帰ってきてくれたのだと、わたしに信じさせてくれるだろうか。  おまえたちは優しい子どもだった。わたしはそれを知っている。誰よりもよく知っている。  優しい子どもだったおまえたちが、ようやく「ひとつのふたり」になって、再び「ふたつのひとり」になってしまう——そんな物語の終わりも、わたしは知っている。        *  新幹線でも、在来線でも、おまえたちは手をつないで離さなかった。  エリが耳元でささやく。 「叔父さんが死んだほうが、シュウジは嬉《うれ》しい?」  おまえは少し考えて、かぶりを振った。 「エリは?」  訊き返すと、エリはおまえよりもっと時間をかけて考えてから、言った。 「生きてる価値ないひとだけどさ……」  息を吸うときに、鼻が小さく鳴った。おまえの視線に気づくと、照れた顔で、もう一度鼻を鳴らす。 「生きてる価値なんてないけど……死なないでほしい、と……思う」  俺もそうだよ、とおまえは口の動きだけで言う。俺もそうなんだよ——心の中で、もう一度。 「ゆうべも訊いたけど、エリ、まだ誰かに殺されたいと思ってる?」  答えは、わかっている。わかっていた。だから、エリがなにも答えなくても、よかった。  窓から射し込む朝陽を、深呼吸で胸の奥に流し込んだ。  長い夜が明けた。長い夜の旅を終えて、おまえたちは朝に、帰っていく。  おまえはエリの手を強く握り直す。エリもその手を握り返す。  気がつくと、窓の外には懐かしい風景が広がっていた。        *  シュウジ。  おまえの長い物語のおしまいに、わたしは、一輪のヒマワリを捧げよう。 覚えているか?  おまえがふるさとを出ていく前に、わたしが話していた、庭のヒマワリだ。  シュウジ。  今年もまた——いまはもう「教会」とは呼ばれていないわたしの庭に、ヒマワリの花が咲いた。 『ゆめみらい』のシンボルタワーが取り壊されて、これで何度目の夏だろう。        *  気づかなかったのか?  おまえは、赦《ゆる》されていたはずだった。すでにおまえは、おまえを包み込む世界に赦されていたのだった。  おまえは誰にいざなわれ、誰に拒まれて、おまえを赦した世界から旅立ってしまったのだろう。  ひとりきりで。        *  ふるさとの町は、静かにおまえたちを迎えた。警察官の姿は、なかった。 『瀬戸リゾートピア』の事務所は、すでに別の、健康食品の訪問販売の事務所になっていた。もう、この町を青稜会の連中が乗る黒塗りのベンツが走りまわることはないのだろう。 『みよし』は以前と同じように駅前通りにあったが、店のかまえは見るからにくたびれて、うらぶれていた。薄汚いお好み焼き屋だった頃よりも、ずっと。東京に出て行ってからまだ一カ月ほどしかたっていないのに、何年も、何十年も時が流れてしまったような気がする。  徹夫の顔が浮かんだ。  ああ、そうだ——と、おまえは思いだす。どうでもいい、けれど大切なことを忘れていた。  足を止め、エリに金を借りた。一万円札を、二枚——。 「借りてたんだ、テツに」 「二万円も?」 「そう、あいつが金を貸してくれなかったら、俺、東京に出て行けなかった」 「……仲良かったんだよね、シュウジと」 「うん。ずっと、親友だったから」 「昔は、でしょ」 「いまでも親友だよ」  エリはなにか言い返しそうな顔になったが、言葉を呑《の》み込んで、うなずいた。  二枚の一万円札を重ねて小さく折り畳み、店の裏の勝手口にある郵便受けに入れた。徹夫が思いだすかどうかはわからない。徹夫の手に渡るかどうかも、たぶん無理だろうな、と思う。  それでも、胸がすっきりした。背中が軽くなった。  通りに戻って、また歩きだす。左手をおまえの右手とつないで、右手で松葉杖《まつばづえ》を握るエリは、少し歩きづらそうだったが、おまえの手を離そうとはしなかった。  駅前通りを抜けて、国道を渡り、「浜」の集落に入る。 「ねえ」エリが言った。「シュウジの家に行こうよ」 「……行っても、誰もいないって」 「でも、わからないよ」 「行かなくていいよ」 「帰ってるかもしれないじゃない、お父さんやお母さんや、お兄さん。行ってみなくちゃわからないでしょ」  言い返しかけた言葉を呑み込んだのは、今度はおまえのほうだった。  シュウジ。  わたしは思うのだ、シュウジ。  徹夫に二万円を返し、我が家に向かって歩きだしたとき——おまえは、すでに、物語の閉じ方を決めていたのだろう。  責めているのではない。悔やんでいるのとも、違う。  おまえは、おまえの物語を、もうじゅうぶんに生きた。なにひとつ思いどおりにならなかった自分の物語を、最後に御すために——おまえが選んだ「物語の終わり」という物語を、わたしはただ、静かに、ものがたっていこうと思う。  我が家は荒れ果てていた。郵便受けからあふれる新聞や郵便は、すべて陽に灼《や》けて色|褪《あ》せ、雨にさらされて波打っていた。玄関の鍵《かぎ》は掛かっていたが、明かり取りの小窓が、石をぶつけられたのか、バットやゴルフクラブを叩《たた》きつけられたのか、割れていた。家のまわりは雑草が伸びて、軒に蜘蛛《くも》の巣が張っている。町並みと同じように、我が家のたたずまいにも、何十年もの年月が降り積もっているようだった。  勝手口に回ると、ドアの鍵は開いていた。  家の中に入る。  台所や居間は、家の外観以上に荒れ果てていた。タンスや戸棚の抽斗《ひきだし》が端からはずされ、中身が床にぶちまけられている。コタツが横倒しになって、押し入れの襖《ふすま》が蹴破《けやぶ》られている。泥棒が入ったのか、借金の取り立てにやくざが来たのか、それとも、父親か母親がせっぱつまって我が家に戻り、金目のものを手当たり次第に漁って、また家を出ていったのか……。どれも当たっているような気がしたし、どれが正解だろうと、どうでもいい、とも思う。  部屋に澱《よど》む饐《す》えたにおいに、エリは鼻を手で覆う。ごめんね、とくぐもった声で言った。嫌なもの見せちゃって、ごめんね、と繰り返す声は、さらにくぐもってしまう。 「平気だよ、べつに」  おまえは部屋をじっと見つめる。どこからも、なにからも、目をそらさない。  ここにあるのは残骸《ざんがい》だ、と思った。抜け殻だ、と噛《か》みしめた。家族の日々は、とうに終わっていた。もう、この家に家族の声が満ちることはない。  仏壇を見た。祖父母の位牌《いはい》が、なかった。残骸に舞い戻ってきたのは、父親なのかもしれない。  エリを一階に残して、二階に上がった。シュウイチの部屋とおまえの部屋も、階下と同じように荒らされていた。  夏物の服の入った衣類ケースを押し入れから出して、服を着替えた。Tシャツに、ジーンズ。去年の夏は少し大きめだったLサイズのTシャツが、いまは肩や袖口《そでぐち》がきつい。ジーンズの丈も短くなった。ろくなもの食ってなかったのにな、と笑う。  窓を開ける。干拓地と、『ゆめみらい』の廃墟《はいきよ》と、シンボルタワーが見える。  家を出たときと、なにも変わっていない。息絶えた死体が決して身動きしないように、ふるさとはこのままの形で朽ち果てていくのだろう。  ふるさとを見つめる。黙って、見つめる。  空の遠くを、黒いカラスがよぎった。        *  干拓地に向かってしばらく歩いたところで、おまえは立ち止まった。 「悪い、ちょっと忘れ物」  エリが「え?」と聞き返す前に、「すぐ帰るから、ここで待ってて」と言い捨てて、家に駆け戻った。  靴を履いたまま、台所に上がる。流し台の下の物入れを開けた。扉の内側に掛かっていた包丁を取って、ジーンズの尻《しり》ポケットに入れ、はみ出した刃の付け根と柄を、Tシャツの裾《すそ》で覆い隠した。  居間に移り、部屋の隅に置いたままのストーブから、灯油タンクを出した。灯油はほとんど残っていなかったが、なんとか、なる。  横倒しになったコタツから布団を剥《は》ぎ取って、部屋の真ん中に広げた。  タンクの蓋《ふた》を開け、灯油を布団に振りかけて、仏壇のマッチで火を点《つ》けた。  小さな炎があがる。  それが一気に、舐《な》めるように布団ぜんたいに広がったのを確かめて、走って家を出る。  エリはさっきの場所で待っていた。 「悪い悪い、行こう」 「忘れ物って……なんだったの?」 「なにを忘れてたか、家に帰ってる途中で忘れちゃったんだ」  おまえは笑って、行こう、とエリの肩を抱くようにして歩きだした。  エリは笑い返さなかった。黙って、松葉杖を前に振った。        *  シュウジ。  おまえはシュウイチと同じことをした。  エリ。  炎のあがる家から逃げていくのは、昔のおまえと同じだ。  聖書の時代から、どうしてひとは物語を紡ぎつづけ、語りつづけるのか、おまえたちは知っているか?  ひとは、同じあやまちを繰り返してしまうものだから——だ。        *  おまえたちは干拓地を歩く。あてもなく、ただ歩きつづける。歩いた果てにどこへ行くのか、おまえたちはなにも言葉を交わさない。  陽は、天のいただき近くまでのぼっていた。風はない。海も凪《な》いでいる。アスファルトの照り返しが、じりじり、と熱い。  まっすぐな道を歩く。どこまでもつづく、まっすぐな道を、二人で歩く。見渡す先は、陽炎《かげろう》が揺れていた。  おまえたちは、かつて海だった土地を、涯《は》てのない砂漠のように、歩いていった。        *  始まりも終わりもなくしてしまったような、おまえたちの——時計の秒針にも似た歩みは、不意に断ち切られる。  示し合わせたわけではないのに、二人同時に、足を止めた。 「浜」の集落から黒い煙がたちのぼっていることに気づいたのは、エリだった。  同じとき、おまえは別のことに気づく。  まっすぐな道の、うんと遠くの交差点を、白と黒に塗り分けられた車がゆっくりと横切りかけて、停まった。  車は少しバックしてから、交差点を曲がる。こっちに向かってくる。スピードが上がる。屋根の上で赤いものが光った——と気づく間もなく、サイレンが鳴り響く。 「シュウジ!」  エリが叫んだ。  おまえはエリを抱き寄せ、息を大きく吸い込んで、吐いた。 「叔父《おじ》さん……助かったんだな」  笑みが浮かんだ。背中に負った重荷を、また一つ、下ろすことができた。  そして、その笑顔のまま、おまえはジーンズの尻ポケットから包丁を取り出して、エリの頭上にかざした。 「人質だから、おまえ」  息を呑《の》むエリに、言った。 「よけいなこと言わなくていいし、なにもしなくていいから」 「……そんなことしたって、だめだよ、逃げられないってば」  パトカーが急ブレーキをかけて停まった。助手席と運転席のドアがほぼ同時に開いて、制服姿の警官が二人、身を低くして車から飛び出した。 「バカなことをするな!」と一人が怒鳴る。 「包丁を捨てろ!」と片割れも怒鳴る。  おまえは二人の警官をにらみつけながら、エリの顎《あご》の下に左腕をはめ込んで、右手の包丁をエリの顔の横まで下ろした。 「こっちに来るなよ、来たら、こいつ、殺すぞ」  冷静な口調で言った。  エリは息苦しそうに首を左右に振りながら、うめく。  ドアを両側とも開け放したままのパトカーから、無線の応答が聞こえる。誰もが怒鳴っている。ヒギシャトミラレルショーネン——被疑者と見られる少年、なのだろう。  少年と少女、ではなかった。ヒトジチ、イチメー——人質、一名。エリは、もう、なにも背負わなくていい。  背後から、新しいパトカーのサイレンが聞こえた。もっと遠くからは、さらに何台かのサイレンが重なり合って聞こえるし、たったいま、「浜」の消防団の半鐘が連打された。  我が家の残骸が燃えあがる。火葬だな、とおまえは思う。  背後のパトカーが停まる。警官が何人か、ドアから転げ落ちるように車から出てきた。  ちらりと目をやると、道路に片膝《かたひざ》をついて拳銃《けんじゆう》をかまえている警官が、見えた。 「人質を放せ! おまえ、逃げられるわけないんだぞ!」  正面の警官が怒鳴る。わかっている、それくらい。逃げるためにこんなことをしているのではない。逃がすために——守るために、おまえはエリの首筋に包丁の刃を近づける。 「もっと離れろよ、もっと」  人質をとって逃走中の少年——になれた。  警官たちは、正面の二人も背後の何人かも、あとずさる。 「もっとだ、もっと離れろ」  さらに、距離が空く。 「十メートル離れろ、前」  短すぎると、走れない。  十メートルあれば、警官に組み伏せられるまでに、最後のほんの一瞬でも、全力疾走ができるだろう。  準備は整った。もう、なにも求めるものはない。  おまえはエリの顎を腕で持ち上げ、耳元でささやく。 「いつか……走れるから」  エリは体をよじりながら、喉《のど》の奥でうめきつづける。 「いつか……走ろう、二人で」  言葉が唇から滑り落ちた直後、おまえはエリの顎を押さえていた左腕をはずし、肩から体当たりをして、エリをその場に突き倒した。 「ひとり」になったおまえは、右手の包丁を振り回しながら、正面のパトカーに向かって駆け出した。  叫びながら、走った。一気に加速したとき、ジーンズの前ポケットに入れた携帯電話が鳴った。  思わず、はっとした。足の動きと上体の動きと意識の動きとが、ばらばらになった。  前のめりに転びかけた。折れ曲がった体を、とっさにひねってバランスを保とうとした。  銃声が、響いた。        *  少年の足を狙うはずだった——と警察の責任者は、記者会見で答えた。少年が体勢を崩してしまったため、銃弾が背中に命中してしまったのだ、と。  少年が刃物を手に襲いかかってきたので、やむをえない措置だった。  銃弾が背中から肺に達したことも、救急車が現場に到着するのが遅れたことも、どうしようもないことだった。  少年が自宅に放火したために、付近の道路が消防車や野次馬の車でふさがれてしまったのです。責任者は何度もそう言った。  不幸な事故、とも言った。  少年のご冥福《めいふく》を祈っております。  記者会見の最後に、責任者は深々と頭を下げた。        *  シュウジ。  警察の責任者が記者会見で話さなかったことが、一つ、あった。  わたしはそれを、おまえの物語の「終わり」の終わりに語っておくことにしよう。  道路に倒れたおまえは、全身を痙攣《けいれん》させながら、携帯電話を手に取った。  通話ボタンを押した。  耳にあてて、電話をかけてきた見知らぬ少女の言葉を聞きながら、力尽きた。  少女は、ゆうべ遅く、おまえが新宿の和菓子屋のシャッターに残したメッセージを読んだのだった。  誰か一緒に生きてください——。  少女はまくしたてるように言ったのだ。 「わたしね、わたしね、ゆうべ彼氏にふられちゃったんです、でね、でね、落ち込んでぼーっとしてたら、シャッターの落書きっていうか、メッセージ読んで、なんか、よくわかんないんですけど、けっこー気に入ったりなんかして、テレ番メモって帰ったんだけど、やっぱ、メッセージの気持ちってわかるなあ、みたいな、なんか、これ書いたひとと話してみたくて……もしもし? 聞いてます? もしもし? もしもし?……」  担架に乗せられたとき、おまえは目を閉じて微笑んでいた。  シュウジ。  おまえは、いろいろなひとの「ひとり」を背負ったまま、微笑んで、遠くへ旅立っていったのだ。        *  わたしは、すべてをものがたった。  シュウジ。  おまえの物語は、ここで終わる。  ここから先は、おまえの物語ではなく、おまえに伝えておきたい、ささやかな、夏の日の光景に過ぎない。        *  ヒマワリが今年も咲いた。  シュウジ、おまえが見ることのなかったヒマワリは、精一杯背伸びをして、朝陽と向き合っている。  黄色い花はとてもきれいだ。  おまえの墓にも、一輪、供えてある。  わたしが昨日、おまえの遺《のこ》したたった一人の家族と一緒に、墓に供えてきたのだ。  墓の前にちょこんとしゃがんで意味もわからないまま手を合わせていた元気な男の子が、いつか「ひとり」の意味がわかるようになったら、誰かと「ひとつ」につながりたいと思うようになったら、わたしはこの子に、おまえの生きてきた日々をものがたってやりたいと思う。  シュウジ。  明日の午後には、かつて「教会」と呼ばれたこの家も、にぎやかになる。  男の子の母親が、罪をつぐなって、ふるさとに帰ってくる。真っ先に、シュウジの墓にお参りしたい、と彼女は手紙に書いてよこした。  男の子の名前を伝えるのが遅くなった。  シュウジ、おまえの遺した命を、わたしはアカネと相談して、こう名付けたのだ。  望——のぞみ。  おまえに気に入ってもらえたら、父親代わりを務めてきたわたしも、嬉《うれ》しい。  そして、シュウジ。  最後の最後だ。  聞こえないか? シュウジ。  我が家の玄関の前の、なだらかな坂道をのぼってくる足音が。  かけっこが得意な望に付き合って家の近所を一回りして、望よりずいぶん遅れて、いまゴールイン間近のひとの足音が、シュウジ、おまえにも聞こえないか?  そのひとが濡《ぬ》れ縁に立てかけた松葉杖《まつばづえ》は、朝陽を浴びて銀色に光っている。  涙のように、きらきら、きらきら、光っている。 引用文献 『聖書 口語訳』日本聖書協会 角川文庫『疾走 下』平成17年5月25日初版発行           平成18年1月15日10版発行