[#表紙(表紙.jpg)] 重松 清 カカシの夏休み 目 次  カカシの夏休み  ライオン先生  未 来   文庫版のためのあとがき [#改ページ]   カカシの夏休み      1  帰りたい。  ふと、思った。  黒板に描いた図形を板書《ばんしよ》用の大きなコンパスの先で指し示しながら、教科書の例題を解説しているときだった。  目の前の教室の風景が、その瞬間、厚みをうしない、授業に退屈していた子供たちのざわめきが消えた。  僕はコンパスを持っていた右手をだらんと下におろし、窓の外に目をやった。男の子がいる。教室に背中を向けてベランダの手すりにもたれかかり、グラウンドのほうを見ている。  帰りたい──また思った。  帰りたい──さらに、また。  熱したフライパンから水気が爆《は》ぜて飛び散るように、矢継ぎ早に、ばらばらのところから、同じ思いが頭の片隅をよぎっていく。 「先生」教壇のすぐ前に座った男子の声が、耳に刺さった。「なにぼーっとしてんの?」  それでやっと我に返った。強く力を入れて何度か瞬き、喉の内側を無理に絞って咳払いをして、風景の厚みを取り戻す。  三十六人の子供たちは、きょとんとしたり怪訝そうだったり、少し抗議するようだったりするまなざしを、僕に向ける。五年二組の児童は、三十七人。残り一人はベランダで、授業が不意に途切れたことにもたぶん気づいていないだろう。 「ごめんごめん、ちょっと考えごとしてた」 「先生、しゅーちゅーっ!」  クラスでいちばん元気なヨシマサが、私語が多いときの僕の口癖を真似て、みんなはどっと笑った。 「ほんとだな、集中しなくちゃな」と僕も苦笑いを浮かべ、コンパスを握り直した。 「えーと、どこまで話したっけ……」  授業に戻りかけたら、見るつもりはなかったが、ベランダにまた目がいった。僕は上げようとした右手をまたおろし、教科書を教卓に置いて、ちょっと待ってろ、と子供たちに身振りで伝えた。  教壇の横の窓を開けた。 「カズ、どうだ、そろそろ教室に入らないか」  優しい──媚びるような声を、つくった。  返事はない。 「暑いだろう、そこ。日射病になっちゃうぞ」  実際、三階のベランダは午後の陽光をまともに浴びて、照り返しのまぶしさに目を細めずにはいられなかったが、田端和之──カズは知らんぷりを決め込んで身じろぎすらしない。 「あと十五分で終わりだから、最後ぐらい席につけよ、なっ」  僕が外に出したのではない。勝手に、黙って、出ていった。今日は朝からおとなしかった。五時間目の算数の授業も、最初のうちはちゃんと席について、教科書とノートを広げていた。昨日の家庭訪問で両親を交じえて話し合った甲斐があった、と一息ついた矢先に、まるで僕が安心するのを待っていたかのように席を立ったのだ。 「なあ、教室に入れよ」  少し口調を強めた。家庭訪問のとき、父親から「厳しくやってもらってけっこうなんですよ」と言われていた。語尾を少し持ち上げて、なんでそうしないんですか? と尋ねるような、だからあまり感じのいい言い方ではなかった。  僕はコンパスを教卓に置いて、教室の後ろ、ベランダに出るドアに向かって歩きだした。  教室の真ん中あたりまで来たとき、「先生、ほっとけばいいじゃん」と男子の声が聞こえた。すぐにつづけて「キレちゃったら、もっと困るし」と女子の声がする。  僕は足を止め、教室をぐるりと見回した。誰を見るともない、かたちだけのしぐさだ。四月のクラス替えから、もうすぐ丸三カ月になる。名前と顔、声と顔、字と顔はすべて一致する。いましゃべったのはシンジとカオリだった。だが、それは二人だけの考えではない。クラス全員同じことを思っているのだろう、近くの友だちと交わす私語は、言葉の一つ一つは聞き分けられなかったが、みんながうなずいているのはわかった。 「先生、授業してよ」とシンジがまた言った。「なに、あんた、そんなに算数好きなの?」と隣の席のミズホがからかうと、「大っ嫌いだけどさあ、カズがキレるのよりましじゃん」とうんざりしきった様子で言う。これもクラス全員の気持ちだった。  いまのやりとりが聞こえていないはずはないのに、カズはまだベランダから動かない。たしかに、このままでいてくれたほうがいいのかもしれない。無理に教室に連れ戻して、おとといのように甲高い声で泣きわめかれると、もう授業にはならない。僕の手をふりほどいて、教室の後ろの掲示板に貼った絵を手当たりしだいに引き破っていったのは先週のことだったし、そのさらに前の週には、教室ごとの仕切り板のないベランダを校舎の端まで逃げた。  僕は小さく息をついて、踵《きびす》を返す。教壇に戻り、いまはべつに迷惑をかけてるわけじゃないんだから、と自分を納得させてコンパスと教科書を手にとった。  教壇の横の窓は開けたまま、せめて授業の声ぐらいはベランダに届いてほしいと願って、「さあ、じゃあつづきやるぞ」と声を張り上げた、そのときだった。  帰りたい。  頭の奥深くで小さな光がまばたくように、また、思った。  職員室に帰るのではない。家に帰るというのとも違う。もっと、ずっと遠く、年老いた両親の暮らす町よりもさらに遠く、距離も、時間も、遠くの──。  二日後に知った。  僕が「帰りたい」と思ったのとちょうど同じ頃、中学の同級生の運転するタクシーが、神宮外苑の周回道路のカーブを曲がりきれずガードレールに頭からつっこんだ。  車は制限速度をかなり超えて走っていて、現場にブレーキをかけた痕《あと》もなく、居眠り運転だろうと警察は発表した。  即死だった。  中学を卒業して、二十二年になる。三十七歳。同級生が亡くなったのはこれが初めてなのかどうか、僕にはわからない。きっと、死んだ高木にもわかっていないだろうと思う。  僕が「帰りたい」と思った先は、高木たちといっしょに過ごした、もう帰ることができない、ふるさとの町だった。  僕たちのふるさとは、ひとびとの記憶の中にしかない。  山あいの小さな町だった。痩せた土地と金にならない雑木林しかなかった。東京から車で向かえば、高速道路と国道、県道を走り継いで半日以上かかっていた。  すべて過去形になる。  いまはもう、日羽山町という地名を地図で見つけることはできない。  ただし、根気強く地図に目と指を這わせていけば、平地の緑色が北へいくにつれて細くなり、やがて山地の茶色に吸い込まれて消えてしまったずっと先のほうに、ホチキスの針に似た形の記号が糸のような細い青色をまたいでいるのを見つけられるだろう。記号のそばには、日羽山ダムと書いてあるはずだ。  その文字のほんの少し先に、ぽつんと、絵筆から青いしずくを落としたような湖がある。日羽山湖と名付けられたダムの貯水湖の底が、かつての日羽山町だ。  二十二年前、僕たちが中学を卒業するのを待つようにして、町は水底に沈んだ。  八十人ほどいた同級生はみな散り散りになり、年がたつごとに一人また一人と音信も途絶えた。  三十七歳の僕の暮らしは、ふるさとの町や、そこで過ごした日々とはきれいに切り離されている。  忘れてはいないが、思いだして懐かしんだりはしない。  帰りたいと思うことも、いままでは、なかった。      2  告別式が終わり、出棺の準備でひとの動きがあわただしくなった頃、駐車場のほうから飛んできた蝉がホールの壁にとまって鳴きだした。  今年初めて聞く、蝉の声だった。 「暑いな……」  黒ネクタイをゆるめながら僕がつぶやくと、安達は「真夏だよ」とため息交じりに言って、こめかみを伝い落ちる汗をハンカチで拭いた。横から清水が「梅雨入りしたんだろう?」と雲のほとんどない空を恨めしそうに見上げ、まるで相槌を打つように蝉の声がひときわ高くなる。  安達や清水と会うのは、中学を卒業して以来初めてだった。二人と東京の言葉で話すのも、だから、初めて。なんだかお芝居をやっているみたいで腰のあたりが落ち着かないが、昔のように方言で話すと、よけい不自然になってしまいそうな気もする。  安達の一家は日羽山を引き払ったあと、親戚のいる横浜に移り住んだ。大学は慶応に進んだ。「補償金がなかったら私立は無理だったよ」とジョークとも皮肉ともつかないことを言った。いまは出版社で週刊誌を編集している。グラビアページのデスクだという。  日羽山の隣町に引っ越していった清水は、高卒で就職してからはずっと東京住まいだ。就職先は、中堅のスーパーマーケット・チェーンだった。池袋から出る私鉄沿線の、そこはもう埼玉県になる小さな町の店舗で、この春から食料品フロアの主任と兼任の店長になった。「各停しか停まらない駅だから、赤字続きなんだよ」と口では言いながら、まんざらではない顔だった。  僕は東京の大学に進んで、東京で教師になり、去年、ニュータウンにマンションを買った。日羽山からバスで一時間の距離の県庁所在地にある実家は、四つ年上の兄が継いだ。  そして、高木は──もうすぐ灰になる。 「けっきょく、三人しか来なかったな」  安達は少し残念そうに言ったが、「三人集めただけでも、たいしたもんだろ?」と清水は胸を張る。  たしかに、清水がいなければ、僕は高木の事故を知ることはなかっただろう。新聞に小さく出ていたらしいが、たとえそれを読んでいても「タクシー運転手の高木幸司さん」は僕の知っているコウジにはつながらなかったはずだ。  連絡を受けたのは、ゆうべ遅く。高木の母親から清水の母親へ連絡がいき、実家からの電話を受けた清水が古い年賀状ファイルから僕と安達の実家の電話番号を見つけて、というまわりくどい経路で、なんとか今日の告別式に間に合った。  僕は煙草をくわえた。ライターのガスが切れていた。火を借りようと思ったが、清水は煙草は吸わないんだと言った。安達も五年前に禁煙した。いまでは新幹線の喫煙車両を通るだけでも気分が悪くなるらしい。「それでこんなに太ったのか?」と訊《き》くと、「もっと若い頃からだよ」と、まんまるな頬を掌で軽く撫でる。  二十二年間で、安達は体の縦と横が入れ替わってしまったように太った。清水がこの若さで禿げあがってしまうというのも驚きだった。高木も、遺影の顔はずいぶん印象が変わっていた。安達とは逆に、細おもてになった。中学生の頃の銀ぶち眼鏡の記憶が強すぎるせいもあるのか、写真の高木がかけているボストンタイプの眼鏡はあまり似合っていないように思えたし、フレームのまるっこさとは裏腹に、少し目つきがきつくなったようにも感じられた。  じゃあ、僕は──。  自分ではわからない。あまりわかりたくない、とも思う。「わからない」と「かわらない」、「わかりたくない」と「かわりたくない」がびっくりするほどよく似ているんだとふと気づいて、なるほどな、と一人でうなずいた。そういう細かい、どうでもいいようなことが妙に気になってしまうのは、中学生の頃には、もちろんなかったことだ。 「日羽山の奴に会ったりしてる?」  清水に訊かれて、僕も安達も黙ってかぶりを振った。 「だよな……」とうなずく清水も、同じだった。 「会おうったって、どこにも集まる場所なんてないんだもんな」  安達はつまらなそうに言って、ちらりと僕を見た。  言いたいことは、わかる。 「でもまあ、それはさ、俺らのじいちゃんや親父がバカだったってことだよな」──僕と安達を交互に見て、「なっ」と念を押す清水の気持ちも、わかる。  僕は火のない煙草を指先でもてあそびながら、言った。 「うちのじいちゃん、おととし九十七で死んだぞ」  ふうん、と安達は薄く笑った。そうか、と清水も同じように頬をゆるめた。「最後の二、三年は惚《ぼ》けてたんだけどな」と僕も笑い返す。お互いに、胸の内の上澄みだけをすくいとったような笑い方だった。  僕の祖父は、日羽山町の町長を五期つとめた。  国と県と電力会社がたてた十数年がかりのダム計画を、祖父が受け入れて、進めて、仕上げた。  いまの時代なら、きっと激しい反対運動が起きただろう。だが、計画が発表された頃には、まだ高度経済成長の神話が生きていた。町の人口は減りつづけ、過疎地域に指定されていた。このまま暮らしていてもなんの見通しもないことは、ふるさとの誰もが知っていた。  子供たちの未来のために、と祖父は議会や広報紙で繰り返していた。子供たちをふるさとに縛りつけて未来の可能性を奪ってしまわないために、新しい町で新しい暮らしを始めるべきだ、と。  小学生の頃、祖父は日曜日のたびに、子供たちはただ「街」と呼んでいた県庁所在地に僕を連れていった。そこにはデパートがあって、映画館があって、レストランがあって、アーケードの商店街があって、ぴかぴかのバットやグローブの並ぶスポーツ用品店があった。ふだんは厳しい祖父が、「街」に出かけたときには、欲しいものをなんでも買ってくれた。月曜日に学校に行くと、僕は「街」の話を友だちにたくさんした。みんなうらやましがって、「街」に住みたがった。  もしかしたら、祖父は僕を使って子供たちの目を「街」に向けさせていたのかもしれない──と気づいたのは、ずっとあとになってからのことだ。  立ち退きの補償金は相場よりずっと高かった。希望があれば別の町の県営住宅にも優先的に入居できるし、移住したあとの就職先も県が斡旋を約束した。悪い条件ではない、と僕たちの祖父母や両親は考えて、当時同じようなダム計画が進んでいた町や村のどこよりもスムーズに、日羽山町は湖底に沈んだ。  だが、ダムが完成した数年後、テレビのドキュメンタリー番組が日羽山町のことをとりあげた。  町民のその後が、いくつか紹介された。県営住宅の団地住まいに馴染めずにいる家族や、ご先祖さまの罰があたると言って霊園に滑稽なぐらい大きな墓を建てたおばあちゃんや、補償金を元手に始めた商売にしくじった夫婦……カメラに向かう誰もが、ふるさとを捨てたことを悔やんでいた。  番組の最後に登場したのは、僕たちの同級生の女の子だった。  小川由美子──みんなはユミと呼んでいた。  勝ち気で、頭の回転の速い女の子だった。口喧嘩ではおとなにも負けなかった。中学三年生のとき、生徒会で僕とコンビを組んだ。会長は僕で、ユミは副会長だったが、たいがいのことはユミがリーダーシップをとった。  日羽山の最後の一年を写真に残そうと言いだしたのも、ユミだった。サッカー部の練習に夢中でなにもしなかった僕をよそに、ユミは父親のおさがりの旧式のカメラを提げて、暇さえあれば町を歩き回った。アルバムをつくって卒業式の日にみんなに配るんだと張り切っていた。  だが、その夢はかなえられなかった。  ユミは卒業式を待たず、誰にも別れを告げずに、日羽山から出ていった。  腕のいい左官工だったユミの父親は、その年の夏に補償金を手にしてから働かなくなった。博打に溺れ、噂ではヤクザの賭場に入り浸って、負けつづけた。補償金が底をつくとサラ金で金を借りて、返せなくなって、秋の終わりに一人で逃げた。日羽山に置き去りにされた母親とユミも、やがて町を出た。年が明けて間もない頃のことだ。  生徒会室のロッカーにしまってあるはずの写真のネガは、すべてなくなっていた。代わりに〈ごめんなさい〉とメモが入っていた。初恋のひとは、そんなふうにして僕の前から姿を消したのだった。  テレビの取材を受けるユミは、薄暗いアパートの一室にうなだれて座っていた。中学時代より髪が伸びていたが、顔ははっきりとはわからなかった。  日羽山の写真があった。ユミを囲むように畳の上に散らばっていた。  父親の話がナレーションで伝えられたあと、ユミは一言だけ、ぽつりと言った。  日羽山に帰りたい──。  あの頃、ユミはどこに住んでいたのだろう。サラ金の取り立てのことを|慮 (おもんぱか)ったのか、街の名前はナレーションにもテロップにも出なかった。高校や大学に通えたかどうかも、家族のこともわからない。  祖父は、国や県や電力会社といっしょに悪者に仕立て上げられていた。長いインタビューも受けたが、番組で使われたのは、自分たちのやったことは決して間違っていないと声を荒らげた箇所だけだった。  晩年、老人惚けの症状が出てからの祖父は、一日に何度も夢の世界に入り込み、そのたびに日羽山の町を歩いていた。「街」の風景を見て、日羽山がこんなにも発展したのだと涙を流して喜ぶこともあった。  祖父の葬儀は「街」の市長が葬儀委員長をつとめ、県知事も顔を出す盛大なものだったが、日羽山のひとびとは誰も来なかった。      3  出棺前の献花で初めて向き合った高木のなきがらは、顔と足の先だけ残して、白い菊の花に埋め尽くされていた。  棺のすぐそばには遺族がいた。高木と同じぐらいの年格好の奥さんと、小学校高学年の女の子、低学年の男の子。息子と娘の順番を入れ替えれば、我が家と同じ家族構成になる。  両親もいた。顔を見るのは中学を卒業して以来のことだ。二人とも体が昔の半分ほどに縮んだみたいだった。母親は泣きながら孫娘の肩を抱き、父親は唇を固く結んで虚空をにらみつけていた。  僕は高木の右肩のあたりに花を置いた。高木の顔は、色が黄ばみ、少しむくんでいるようにも見えたが、傷はなく、きれいだった。枕元に置いてある眼鏡は遺影と同じボストンタイプで、その横にはマイルドセブン・スーパーライトが一箱、百円ライターを添えて納められている。  顔を覗き込む位置で立ち止まり、合掌をした。  死んじゃったんだな、と思った。  涙は出てこない。感情を集める芯が見つからず、淡い悲しみが全身に散らばっているだけだ。懐かしさも、それほど感じなかった。中学生の頃の高木といまの高木をつなぐには、二十二年という年月は長すぎる。  だから、ただ、死んじゃったんだな、としか思えない。  こんなにあっけなく死んじゃったんだな、と。  まだ三十七なのに、もう終わっちゃったんだな、と。  冷房のきいたホールから外に出ると、強い陽射しに頭がくらっとした。六月の終わり──梅雨のさなかのはずなのに、蒸し暑さではなく、これはもう夏の暑さだ。今年の梅雨は雨がほとんど降っていない。最高気温が七月下旬並みに上がる日も多い。エアコンとビールが売れ行き好調なのだとニュースが伝えていた。  先に出た安達のこめかみには、また汗が伝い落ちていた。「暑いよなあ、ほんとに……」と、ぐっしょり濡れたハンカチで顔を拭きながら、舌を打つ。 「コウジ、わりときれいな顔だったな」と僕は言った。  安達は黙ってうなずき、清水はうつむいて洟《はな》を啜《すす》りあげた。 「なんだ?」清水の顔を覗き込んだ。「泣いてんのか?」 「だって、せつないよ、悲しいよ、こんなの……俺、もうたまんなくなっちゃってさあ……」  いやいやをするように、首を振る。  そういうところは子供の頃から変わらない。世話好きでお人好しで、ひょうきん者で、そのぶん仲間内で軽んじられてもいたが、優しくて気分のいい男だ。 「いま、ちょっと立ち聞きしたんだけど」  安達は声をひそめて言って、耳を寄せるよう僕を手招いた。  高木はタクシーの運転手になって、まだ半年もたっていなかったのだという。歩合を少しでも稼ごうと仮眠もろくにとらずに街を走り回ったすえに、事故を起こした。 「あいつ、玉川証券にいたんだってさ」 「玉川証券って、あれか、つぶれたところだろ」  安達は「学校の先生でも、それくらいの一般常識はあるんだな」とつまらなそうに笑った。  業界でも五指に数えられていた玉川証券がバブル時代の不良債権を処理しきれずに経営破綻したのは、二年前のことだ。 「玉川がつぶれたあと外資系に移ったんだけど、そこでもうまくいかなかったみたいで、去年の秋に辞めて、それでタクシーだってさ」  安達は少し冷ややかに言って、「でも、まあ、証券マンだったらバブルの頃にはさんざんいい思いしてるんだからな」と、もっと突き放すようにつづけた。 「それはそうだけど……」 「子供も私立に行かせてるんだぜ」 「おまえ、すごいな。週刊誌の取材みたいだな」  こっちも半分皮肉を込めたつもりだったが、「花環見りゃわかるだろ、それくらい」とそっけなくかわされた。  僕は鼻白んで黙りこくった。  もともと皮肉屋で醒めたところのある安達だが、昔はここまで斜に構えたものの言い方はしなかった。中学時代は野球部のエースだった。連戦連敗の弱いチームで、安達もマウンドでいつも面倒臭そうな顔をしていたが、ほんとうに仲のいい奴にはわかる、打たれても打たれても安達の投げるボールはいつだって全力投球だった。 「子供の学費も稼がなきゃいけないし、マンションのローンだってあるし……コウジには悪いけど、あんなの事故じゃない、自殺だよ、ほとんど。自爆だな、自爆、っていうか自滅だよ」  安達は一息に言って、反応を窺うように僕を見た。  無視した僕に代わって、清水が、洟を啜りながら言った。 「家族のために必死にがんばってたってことだろ? それのどこがいけないわけ? そういう言い方するなよ」 「一人で事故って死んだから、まだいいよな。もし客でも乗せてたらどうするんだよ、歩行者|轢《ひ》き殺してたらどうなるんだよ、バカだよ、あいつ」 「でもさあ、死んじゃった奴のこと、もう責めるなよ、なあ? よくがんばったって言ってやりゃいいだろ」 「死んだらしょうがないだろ」 「……死んじゃうほど家族を愛してたってことじゃないのか?」  安達は、「愛っ」とおどけて返し、「すげえ言葉が出てきたな」とひらべったい声でつぶやいた。  清水がむっとするのがわかる。潤んでいた目の赤みが増したようにも見えた。  僕はあわてて清水に声をかけた。 「なあ、シュウちゃん」──秀一の、シュウ。清水のあだ名だ。  あわてたのがかえってよかったのだろう、思わず昔どおりに呼ぶと、ひさしぶりの再会のぎごちなさが少し薄れ、つづく言葉はなめらかに出た。 「シュウちゃん、もう結婚してるんだよな?」  すると、清水は気を取り直すように「ハゲだからって、なめるなよ」と冗談めかして答え、上着の内ポケットからフリップ式の携帯電話を取り出した。  フリップの裏側に、プリクラが何枚も貼ってある。 「去年、したんだ」  写っているのはすべて、まだ若い奥さんと赤ん坊だった。女の子だという。 「俺にとって家族は宝だよ、命だよ、すべてだよ。だから、やっぱり、コウジが必死にがんばった気持ちってわかるんだよな」  清水は、きっぱりと、てらいなく言いきった。  僕は少し気圧《けお》されながら、そうだな、とうなずく。 「家族のためにっていうより、家族がいるからがんばれるんだよ」 「わかるよ、それ」  もう一度、うなずいた。話を合わせたつもりはない。僕だって清水と同じ考えだ。なのに、なぜだろう、勝手に苦笑いが浮かぶ。それに気づくとなにか嫌な気分になって、逃げるように安達を振り返り、清水の携帯電話を差し出した。  安達はそっぽを向いて、ホールのほうを見つめていた。 「アダ、写真見るか」──昔のあだ名で呼んだ。  安達は目を動かさずに「おい、ちょっと」と言った。 「うん?」 「あそこ……わかるか、いまコウジのカミさんに挨拶してる女」  ホールに目をやった。 「あれえ?」と先に声をあげたのは、清水だった。  僕も気づいた。  声は出ない。息を呑んだ。 「……あいつ、ユミだろ」  安達の声も、ひどく息苦しそうだった。  コンタ──とユミは僕を呼んだ。懐かしいあだ名だ。コタニがコッタ、変化してコンタ。  まだあだ名で呼び合っていた頃に戻れないでいる安達や清水をしりめに、すんなりと、ごくあたりまえのように、「ひさしぶり、コンタ」と言った。  目は赤かったが、まなざしはまっすぐだった。  同じまなざしをユミは安達と清水にも向けて、「みんなオジサンになっちゃったね」と笑った。  ユミだってオバサンになった。少し太った。頬と顎の肉付きが、よく言えばふくよかになり、正直に言えば、たるんだ。目元の印象があの頃より優しげに見えたが、それも目尻が垂れ下がってきたせいだろうか。長い髪にソバージュをかけて焦げ茶色に染めているのは、同い年の僕の妻がそうしているように、もしかしたら白髪隠しなのかもしれない。  それでも──ユミは、ユミだ。  安達が安達で、清水が清水で、高木が高木で、僕が僕であるのと同じ。 「みんな元気そうでよかった」  ユミは僕たち三人を見回して、「お葬式のときに言うのって変だけど」と苦笑交じりに付け加え、目尻の涙を指で拭き取った。  受け答えを安達と清水に任せて黙っていたら、二人も同じことを考えていたのか、ユミの苦笑いは受け手のいないまましぼんだ。 「コウちゃん、かわいそうだったね」  これも、そう。 「でも、こんなこと言っちゃいけないけど、ほかのひとを巻き添えにしなかったのって、コウちゃんらしいよね」  清水が口を開きかけたが、声は出なかった。 「どうしたの? なんか、みんな固まっちゃってるけど」 「……びっくりしたんだ」  やっと、安達が言った。 「なんで?」 「だって、まさか会えるとは思わなかったから」と清水がバトンを受け取って、僕に「なあ?」と渡す。  うまい言い方を探して口ごもっていたら、ユミは、やだあ、というふうに笑った。 「死んでると思った?」  誰からも返事が来ないのを最初からわかっていたように、ワンテンポおいて「元気だよ、わたし」とつづける。  そうだと、僕も思う。元気そうだし、幸せそうにも見える。だが、そんなふうに見てしまうのは、けっきょく自分のずるさなんじゃないか、という気持ちも胸の中にある。 「それより、シュウちゃん、喪服ぐらい持ってないの?」  ユミはグレイのスーツの袖に喪章をつけただけの清水を軽くにらんだ。中学時代の服装検査と同じだ。 「……しょうがないだろ、このまま仕事に行くんだから」  安達のボタンダウンシャツも見逃さなかった。 「アダって、昔から詰めが甘いんだよね」 「……白いワイシャツ、ぜんぶクリーニングに出してたんだ」  ゆうべは徹夜仕事で会社に泊まり込んで、喪服を取りに家に戻るのがせいいっぱいだったという。  だが、ユミは同情した様子も見せず「段取り悪いのよね」とあっさり切り捨てて、いたずらっぽく笑う。懐かしい笑い方だ。宿題を忘れた僕たちが部活の練習を言い訳にすると、いつもこんなふうに笑って、ぜったいにノートを見せてくれなかった。 「コンタだけじゃない、フォーマルなのって」  僕は黙ってホールに目を逃がす。すでに献花は終わり、高木の棺に、いま、遺族が蓋に釘を打ちつけたところだ。  ユミが口にする僕たちのあだ名は、びっくりするほどなめらかだった。僕たちの顔を見て昔の顔を思いだし、名前を浮かべて、それをあだ名に言い換える──といった手順ではなく、三十七歳の僕たちがそのままコンタとシュウちゃんとアダにつながっている。まるで、つい昨日別れたばかりのように。  それが不思議で、ユミの二十二年間はどこにいってしまったんだろう、とも思った。ふるさとをうしなってからの日々を、きっと僕たちの誰よりも苦労してきたはずの年月を、彼女はいま、どこに隠しているのだろう。  霊柩車が駐車場から回ってきて、外に出ていた参列者は少しずつそのまわりに集まりはじめた。 「じゃあ、あとでゆっくり話そうよ」  霊柩車に向かって歩きだしたユミの背中を、清水が申し訳なさそうに呼び止めた。 「悪い……俺、夕方には店に出てなきゃいけないから、出棺がすんだら帰るんだ」  安達も腕時計に目をやって、「俺もそろそろ出なきゃヤバいかな」と言った。  ユミは拍子抜けした顔になって、「コンタは?」と訊いた。  有給休暇は丸一日とっていた。だが、ユミと二人きりになってしまうと、言わなくてもいいことを言って、訊くべきではないことを訊いてしまいそうな気がする。 「俺も、これで帰る」 「……忙しいんだね、みんな」  ため息交じりに言ったユミは、「コウちゃん、みんなに会いたがってたんだけどね」と付け加えた。 「え?」──僕と安達の声が重なった。 「コウジと会ってたのか?」と清水が勢い込んで訊いた。  ユミは、ふふっと笑って言った。 「コウちゃん、ずうっと日羽山に帰りたかったんだよ」  僕たちが会わなかった二十二年間が、初めて、顔と声ににじんだ。      4  電車と地下鉄とバスを合わせて五回乗り換えた。斎場に向かうときには途中で何度も路線図を確認して、それでも地下鉄の乗換駅を一つ間違えそうになったが、帰りは路線図を見たかどうかも覚えていない。  考えごとというほどくっきりした輪郭はない、ただなにか重いかたまりが、電車に揺られている間ずっと眉間の奥に居座っていた。途中までは安達と清水もいっしょだったが、徹夜明けの安達は眠りどおしで、清水は夕方の書き入れ時を前に、周囲の客に気づかいながら携帯電話をかけたり受けたりして、けっきょくほとんど話はしなかった。二人がどこの駅で降りたかも、記憶はあやふやだ。  気を紛らせたくて、最後の乗り換え──私鉄の電車からバスに乗り換えるときに、夕刊紙を買った。水不足を懸念する記事が出ていた。今年の梅雨は、やはり極端な空梅雨らしい。今年は暖冬でもあった。いつもの年なら天気がぐずつく春先にも、雨はほとんど降らなかった。天気図では高気圧が日本列島を覆い、梅雨前線は太平洋のずっと南のほうにある。明日も、きっと晴れだ。  小学校の正門前でバスを降りて、ひとつ深呼吸をした。もう同窓会は終わりだぞ、と自分に言い聞かせた。現実の、いまの暮らしに、早く戻れ。  授業はもう終わっていた。グラウンドで遊ぶ子供たちのなかに五年二組の連中を見つけると、向こうもすぐに僕に気づき、サッカーを中断して「よーい、どん」で集まってきた。 「先生、今日休みじゃなかったの?」 「授業は休んだけど、いまから明日の漢字テストの問題つくるんだ」  自分の声が遠い。「難しいの出してやるから、今夜勉強しとけよ」と笑ったつもりだが、頬がうまくゆるまなかった。  五、六人まとめて「うげーっ」と声があがる。先月の合唱大会ではハーモニーがぜんぜん揃わなかったくせに、こういうときだけチームワークがいい。 「それで……今日どうだった? カズは」  キレたらしい。  キレまくりだった、という。  一時間目から六時間目まで、一人で騒いでいた。教室中歩き回って、自習課題のプリントをやっている友だちにちょっかいを出し、黒板に落書きをして、黒板消しをホウキで叩いてチョークの粉を舞わせて、誰にもかまってもらえないのがわかると、机や椅子を端から蹴っていった。女子のクラス委員のアユミが注意すると、教室の後ろのロッカーからアユミのランドセルを持ち出して、壁に何度も叩きつけた。ヨシマサたち男子の何人かが怒ってつかまえようとしたら、ベランダに逃げて、手すりを乗り越える真似をして脅した。 「教頭先生、来なかったのか?」 「ちょこちょこ顔出してたけど、あいつそんなのガンチューねーもん。ぜんぜん関係なかった」 「……そうか」 「田中っちが一回文句つけてきたんだけど、うっせーババア死ねバーカって、ゴミ箱キックしてさあ、けっきょく俺らが掃除してんだもん、もうサイテー」  子供たちは「あとさあ」「それでさあ」「先生聞いてよ」と、まだ話したりない様子だったが、僕は苦笑いと手振りで制した。きりがない。職員室に入れば、同じようなことを教頭や五年一組の田中先生からたっぷり聞かされるだろう。 「まあ、みんなも迷惑してると思うけど、カズだってみんなのことが嫌いだからやってるわけじゃないと思うんだ。逆に、みんなともっと遊んでほしくて、寂しいから、あんなことやっちゃうんだよ」  話しながら、ずるいな、と自分でも思った。子供たちの顔もちっとも納得しているようには見えない。 「なんで俺らが我慢しなきゃなんねーの?」  シンジが唇をとがらせた。 「そーだよ、悪いのカズじゃん、俺ら被害者じゃん」とヨシマサがつづけると、ほかの子供たちも、そうそうそう、とうなずいた。 「先生、ちょっと甘くない?」とナオキが語尾を持ち上げて言う。 「なに言ってんだ」  頭を軽く撫でてやった。叱ればいいというものではない。カズの胸の内がわからないかぎり、カズがそれを見せようとしないかぎり、ただ叱るだけではなんの解決にもならない。 「明日、カズにもよーく注意しとくから。みんなもカズにどんどん話しかけて、遊ぶときにも誘ってみろよ」  返事は、ぱらぱらとしか返ってこない。  僕は校舎に向かって歩きだしながら、顔だけ振り向かせて「明日のプール、ぜんぶ自由時間にするから」と言った。 「背泳ぎのタイムとるんじゃないの?」 「それは今度にしよう。明日も暑そうだし、たまには好きに遊べよ」  やっと歓声があがる。  少しほっとして、そんな自分が嫌になって、あとはもう子供たちに呼ばれても振り向かず、足早に歩いた。  職員室に入ると、あんのじょう田中先生はこわばった顔で僕を迎えた。夜になったら家に電話を入れるつもりだった、という。  教頭も、やれやれといった様子で僕の席に来た。 「小谷先生から聞いてた話よりも、かなりひどいですな。やっぱり朝から自習だったっていうことで、アレなんでしょうかねえ。せめて午後からでも来てもらえたんなら、小谷先生がもうすぐ来るぞ、なんて言えるんでしょうけど」  物腰はあくまでやわらかく、言葉のあちこちに嫌みを忍ばせるのが、教頭のやり方だ。 「いつもですよ、小谷先生の前でもあんな調子ですから。そうですよね、先生」  ぴしゃりと言うのが、田中先生の流儀。  そして僕は──ある先生に言わせれば「優しい」、別の先生に言わせれば「甘い」、そんな弱気では困りますと保護者会で言われたこともあるが、別の年度の保護者会では子供たちに高圧的に接しないところがいいんだとお世辞を言われた。 「このままじゃ大変なことになりますよ」  教頭は眉間に深い縦皺を寄せた。「いっしょになって騒ぎだす子が出てきたら、あっというまに学級崩壊になっちゃうでしょう」と、自分で言った言葉に芝居めいた身震いをした。  だが、田中先生は、髪をひっつめたこめかみに青筋を立てて「それどころじゃないですよ」と言った。「いまはまだ物に当たってるだけですけど、これが人に暴力をふるうようになったり刃物なんか持ち歩くようになったら、どうするんですか」  僕もそれは考えている。あたりまえだ。五十歳近い田中先生から見れば、まだ頼りなく思えるのかもしれないが、僕だってもう教師になって十五年目なのだ。 「ですから、僕もなるべく刺激しないようにしてるんですが……」 「でも、それじゃあ、なにをやっても怒られないんだからって、よけいエスカレートしませんかねえ」 「いや、叱ってないわけじゃなくて……」 「あんなの叱るうちに入りませんよ。わたくし、隣の教室だからよく聞こえるんですよ、もう、こっちまでいらいらしちゃって」 「小谷先生、親には相談してるんですよね? そこはだいじょうぶですね?」 「ええ、先週、家庭訪問しました。でも、家ではまったくそんなことないらしいんです」 「小谷先生が家に行ったってしょうがないんですよ、親を呼ばなきゃ意味ないじゃないですか。見せればいいんですよ、授業中の様子を。わたくしならぜったいそうしますよ」 「いや、そうなるとですねえ、小谷先生に指導力がないんじゃないかって思われちゃいませんか? 私は反対だなあ」 「実際にないんだから、しょうがないでしょう。小谷先生の前で言いたくはないんですけど、もうちょっと担任としての責任感は持ってもらわないと」  コタニセンセイ。  コタニ、コタニ、コタニ、コタニ、コタニ……。  コンタのほうが、響きがずっと優しい。  僕はそっと上着のポケットに手を入れた。  メモの感触を指で確かめて、コンタなんだよなあ、と心の中でつぶやいた。 「このままじゃ大変なことになりますよ」で始まった話は、けっきょく具体的な解決策の見つからないまま、「とにかく、このままじゃ大変なことになりますよ」に戻って終わった。  教頭と田中先生が帰宅したあとも、僕は自分の席に残ってぼんやりと窓の外を見つめた。空はようやく暮れかかり、風も少し出てきたのだろう、半ばシルエットになったポプラの梢が小さく揺れていた。  一人になると、昼間の疲れがいっぺんに背中から染み出てきた。ふだん使っていない筋肉を酷使した、そんな感じの疲れだ。  煙草をくわえ、フィルターを強く噛みしめて、ユミの顔を思い浮かべた。中学生の頃といまの顔を、交互に。  ずっと時間を止めていた。日羽山を出ていってからのユミのことは、考えたくなかった。若いうちはかなり無理をして記憶を封じ込めて、三十歳を過ぎた頃からは、自然と思いださなくなった。あれから何年たったんだろうと時の流れを数えることもなく、十五歳のユミは、まるで箪笥に隠された壁のように、十五歳のままでひっそりと胸の奥のどこかにいた。  再会するとは思わなかった。会えて嬉しかったのかどうか、いまはわからない。  高木の遺骨は、もう我が家に戻ったのだろうか。初七日の法要は今日のうちにすませ、四十九日に実家の菩提寺に納骨することになっていた。高木の両親は日羽山から山を二つ越えたところにある町に移り住んでいた。四十九日の法要は、だから、その町で営まれる。  安達と清水は四十九日には参列しないと言っていた。僕も、ちょうどその時期は学校の夏休みだが、おそらく行かないだろう。  ユミはどうするのだろう。出棺のあと、もう時間がぎりぎりだという清水にせかされて、あわただしく別れた。四十九日のことはもちろん、いまの彼女の暮らしすら聞けなかった。  代わりに走り書きのメモをもらった。  いま、机の上にある。  インターネットのホームページのアドレスが書いてある。「日羽山が懐かしくなったら、覗いてみて」とユミは言った。  半年前、高木はそこでユミと再会した。ネットをまわっていて偶然たどり着いたのではなかった。サーチエンジンを使って「日羽山」で検索をかけて、ユミのホームページを見つけたのだという。  煙草に火を点けようとしたが、ガスの切れたライターは細い火花を散らすだけだった。あきらめてフィルターのひしゃげた煙草をポケットに戻し、これで捨てるつもりでライターの発火スイッチを最後に押してみたら、小さな炎が一瞬たちのぼって、すぐに消えた。  メモを手に席を立った。  壁のキーボックスに掛かったパソコンルームの鍵を、取った。  二年前の冬のボーナスで買ったノートパソコンは、パソコンルームの、鍵のかかるキャビネットに入れてある。  ワープロソフトで学級通信をつくったり表計算ソフトでテストの点数を入力したりするのは職員室でもいいが、インターネットをするときには職員室の電話は使えない。電話機は各学年に一台ずつあっても回線じたいは一本きりだ。去年、新卒採用の田代先生が自分の席でネットを使って授業の下準備をしていたら、翌日になって児童の親から「電話がずっと話し中だった」という苦情が何本も来て、それ以来職員室の電話をパソコンにつなぐのは禁止になった。  パソコンルームの回線を使うときも、教頭の許可がなければ学校のアドレスからネットにアクセスすることはできない。電話代も自己負担が建前で、使用時間を書き込むノートも置いてある。  ノートパソコンを電話線につなぎ、あとは自宅で通信をするときと同じ手順でネットに入る。  ユミのホームページには、『消えた日羽山町』というタイトルがついていた。 〈わたしたちの故郷・××県××郡日羽山町は、197×年、ダムの底に沈められてしまいました。ここにある写真はすべて、水没する一年前から、当時中学三年生だった私が撮影したものです。町の最後の日々の記録になりました〉 〈沈められてしまいました〉のところに感情がにじんでいるような気はしたが、ダム計画への批判や恨み言はなかった。覚悟していた祖父の悪口も。少しほっとして、でもだからといって許しているわけじゃないんだろうなと思い直し、ため息交じりにトップページをブックマークに登録した。  0001から0120まで番号のついた画像ファイルが、十個ずつ分けて置いてある。〈感想のメールをお寄せください〉ともあったが、コンテンツはそれだけだった。ユミの自己紹介を探したが見つからない。いまの暮らしはなにもわからないまま、ただ二十二年前のふるさとの風景だけが、ある。  0001から0010までのページを開いた。  サムネイル表示された小さな画像を目にしただけで、懐かしさがいっぺんに胸に迫ってきた。  そう、日羽山はこんな町並みだった、山はこんな稜線だった、こんなふうに道は曲がっていて、こんなふうに道祖神が立っていて、こんな草むらにこんな花が咲いていて、欄干のない橋から眺める川はこんなふうに流れていた。  初めてこのホームページを覗いたときの高木は、どんな気持ちだっただろう。あいつ、子供の頃は泣き虫だったから、涙を浮かべたかもしれない。  なぜ「日羽山」で検索などかけたのだろう。  懐かしかったのか。帰りたかったのか。帰れないことはわかっていて、せめてふるさとを探してみたかったのだろうか。ふるさとを見つけ、ユミの名前を見つけて、もっとなにかを見つけたくて、彼女にメールを送ったのだろうか。  愚痴と泣き言ばかりのメールだったという。しょっちゅう「もう疲れた」と書いていた。新聞で事故の記事を読んだユミは、だから、すぐに自殺だと思った。タクシー会社に電話を入れて葬儀の日時と場所を問い合わせたときも「ほんとに事故なんですね? 自殺なんかじゃないんですね?」と念を押して尋ねたらしい。「でも、じつは自殺だったのかもしれないぜ」と安達が言うと、黙って、寂しそうに笑っていた。  0009は、中学校の教室で撮った写真だった。詰め襟の学生服を着た、坊主頭の男子が数人。サムネイルをクリックすると、画像が拡大表示された。 「なんだよ、これ」  思わず、声をあげた。  勝手に頬がゆるみ、肩から力が抜けて、椅子の背に倒れ込んだ。  僕がいる。安達も、清水も、高木も、いる。教室の机に腰かけて、たぶんユミがいきなり「こっち向いて」と声をかけたのだろう、みんなきょとんとした顔をしていた。  安達はがりがりに痩せている。清水の額は猿のように狭かった。高木の眼鏡は銀ぶちだ。  急に火照った頬を、軽く平手で張った。  ほらみろ、と高木に言ってやりたい。やっぱり、おまえは銀ぶち眼鏡のほうが似合うんだよ。  拡大して粒子の粗くなった写真をじっと見つめていたら、高木の顔が不意に揺れた。  高木の死を初めて悲しいと思い、悔しいと感じた。      5  もしも季節に境界線の一日があるのだとすれば、今年の真夏は、高木の葬儀の日に始まったのかもしれない。  翌日から、うだるように暑い日がつづいた。六月はけっきょく雨の降らないまま終わった。関東近郊のダムでは取水制限が強化され、このまま晴天がつづくと給水制限の恐れもあるという。  七月最初の職員会議では、夏休み期間のプール開放中止が検討された。市の教育委員会から要望が出ているらしい。それが中止通達に変わるのも時間の問題だろう。すでに体育の授業は水泳からマット運動に切り替えられ、子供たちは文句を言いどおしだ。  渇ききったグラウンドは土が白くなって、午後の授業中に教室から眺めると、目をまともに開けてはいられないほど照り返しがまぶしい。  それでも、カズは一日の半分近くをベランダに出て過ごす。教室に背中を向けて手すりにもたれかかり、グラウンドのほうをぼんやりと見つめる。「教室に入れよ」と声をかけても反応はない。  しつこく繰り返すとキレるから、放っておく。妥協だとは思う。いつまでもこのままではだめだというのも、わかっている。だが、カズ一人のために授業を止めるわけにはいかないのだ。  この学年は一年生のときから持ち上がりで担任してきた。カズを受け持つのは今年が初めてだったが、一学年三クラスしかないので、四年間も見ていれば担任でなくてもだいたいの性格はわかる。  五年生に進級するまでのカズは、おとなしくてまじめな子だった。三年生、四年生と受け持った田中先生もそう言っている。なにかと考え方の食い違う田中先生と僕だが、この四月からカズは変わってしまった、ということにかんしては一致している。 「環境に変化がなかったか、親に訊いてみたらどうです?」  七月最初の職員会議のあと、田中先生に言われた。 「五月頃にお母さんに訊いたんですよ。でも、心当たりはないって」 「受験は?」──塾に通いはじめたことがストレスになって荒れた子が、何年か前にいた。 「しないって言ってました。特に新しいことを始めたっていうのはないみたいです」 「ペットが死んだとか」──今年の卒業生に一人、かわいがっていたハムスターが猫に噛み殺されて以来、キャラクターの猫を見ても震えが止まらなくなってしまった女の子がいた。 「それも、ないです」  ついでに言えば、祖父母や親戚に最近亡くなったひとも、生まれた赤ん坊も、いない。 「オカルトっぽい本にハマったりしてない?」「クラスのいじめは、ほんとうにだいじょうぶなのね?」「図画や作文になにかサイン出てなかった?」……田中先生は思いつくままにいくつか挙げていったが、どれもカズにはつながらなかった。  最後に残った可能性は、ひとつ。 「じゃあ、やっぱり原因は小谷先生なのかしらね」  笑いながらの言葉にしてくれたのは、せめてもの気づかいだったのかもしれない。  一日の授業が終わると、ぐったりしてしまう。カズがらみの疲れが半分に、夏バテが半分。体力やスタミナが、ここ二、三年で急に落ちた。病気でもないのに毎朝ビタミン剤を服《の》むようになるなど、昔は考えられなかったことだ。  放課後、職員室に戻ると事務仕事が待っている。それをすべてこなし、さあ帰るかと思っても、立ち上がるのさえ億劫で、しばらく自分の席から動けない。  そんなとき、つい壁のキーボックスに目がいってしまう。パソコンルームの鍵があるかどうかを確かめて、部屋が空いているとわかれば、そこからは我ながら不思議だ、引き寄せられるようにすうっと腰が浮く。ボックスから鍵を取って、パソコンルームに向かう。足取りが軽くなる。背筋が伸びる。廊下ですれ違った先生に「小谷先生、なにかいいことあったんですか?」と声をかけられるときもあるから、きっと頬がゆるんでもいるのだろう。  ユミのホームページを訪ね、日羽山の画像ファイルを、ナンバリングされた順に、今日は五つ、明日は八つというふうに開いて、懐かしい風景にまなざしをひたす。  0031から0040までは、僕たちの通っていた小学校の写真だった。  五年生と六年生のときのクラス担任だった藤川先生が、いる。あの頃はおばあちゃんだと思っていたが、サムネイルをクリックして拡大してみると、田中先生と同じくらいの年格好だった。  竹の一メートル定規でよくお尻を叩かれた。忘れ物と言葉遣いには厳しい先生だった。日羽山が水底に沈んだあと、どこに移り住んだかは、知らない。  藤川先生がカズを受け持っていたら、どんなふうに接しただろう。あの頃の同級生にカズがいたら、僕たちはどんなふうに付き合っただろう。  グラウンドで遊ぶ小学生を写した写真もある。僕たちの後輩だ。友だちの弟や妹もいるかもしれない。そこに小学校時代の僕たちを交ぜても、すんなりと馴染みそうだ。ヨシマサやシンジたちはどうだろう。あいつらもだいじょうぶかなと思う一方で、まるっきり浮き上がってしまいそうな気もする。  なーんてな──回線を切断し、パソコンの電源を落とすとき、いつも笑う。できるだけ冷ややかな笑みをつくる。  現実逃避は嫌いだ。ましてや、日羽山はどんなに懐かしんでも帰ることのできないふるさとで、懐かしさに深入りしすぎると、それが苦みに変わってしまう。  パソコンルームから職員室にひきあげるときにすれ違う先生は、たいがい「なにかあったんですか?」と心配そうに訊いてくる。自分の席に戻ると、ほんとうに、このまま倒れてしまいそうなほど疲れていることに気づく。  それでも、次の日の放課後になると、僕はまたキーボックスからパソコンルームの鍵を取り出してしまう。  高木もこんなふうにしてふるさとに帰りつづけ、事故の一瞬に向かって少しずつ疲れていったんじゃないか、とも思う。  七夕の日の放課後、職員室に戻って携帯電話の留守番メッセージをチェックすると、二件入っていた。  一件目は、同じ地区の小学校に勤める風間先生から、連絡会を名目にした月に一度の飲み会についての連絡。日時と場所をメモに書き取って、二件目を再生した。 「あ、もしもし、アダチです」 「アダチ」がすぐには「安達」と「アダ」にはつながらなかった。「こないだはどうも」の一言がつづかなかったら、来年の修学旅行の売り込みに日参している旅行代理店の足立課長と勘違いしたかもしれない。  電話してほしい、とのことだった。先にそう言っておいて、あとから「まあ、べつに急用ってわけじゃないんだけど」「忙しかったら、また暇なときでいいんだけど」「メールでもよかったんだけど、ちょっとさ」と言い訳がましく付け加える。立場が逆になって僕がメッセージを残しても、きっとそうなるだろう。それがいまの僕たちの距離だった。  メッセージを消去したあと、しばらく電話機を手に持ったままぼんやりしていた。  少し──かなり、億劫だった。  二十二年ぶりに再会した安達や清水と、もうそれっきり会わなくなるという気はしなかった。いつかまた会えるだろうと思っていたから、「じゃあ、またな」と別れた。  だが、そこから新しい付き合いが始まるんだという予感は、僕にはなかった。「会える」と「会う」は、似ているようでいて違う。二人のことを懐かしんで「今度会いたいなあ」とつぶやく光景は思い浮かんでも、実際に「会おう」と連絡をとって三人で酒を飲んだり家を訪ねたりという光景は、うまくイメージできない。  懐かしさだけで付き合っていくには、毎日が忙しすぎる。それは、安達も同じだと思っていた。  ため息交じりに電話機のコールバックボタンを押した。頬づえをついて、回線がつながるのを待った。 「ああ、コンタ? どうもどうも、忙しいところ申し訳ない」  安達の口調は最初の一言二言は他人行儀だったが、「いや、じつはさあ……」と本題を切りだす声は、僕との距離をぐっと詰めてきたように聞こえた。 「驚くなよ、コンタ。すごい話があるんだ」  僕も頬づえをはずし「なに?」と聞き返した。 「日羽山ダム、空っぽになるかもしれないぞ」 「……どういうこと?」 「水がどんどん減ってるんだよ、いま。わかるか? 雨が降ってないから、ダムが干上がりそうなんだ」  新聞記事のデータベースを検索していたら、昨日付の地方紙にその記事が出ていたのだという。日羽山ダムの貯水率は、満水時の三五パーセントにまで落ち込んでいる。過去最低の数字で、いまも一日一パーセントの割合で水は減りつづけている。 「ってことは、このままいけば八月のお盆ぐらいには、空っぽになっちゃうって計算だろ? そうだよな?」 「ああ……そうなる、な」 「で、ダムの水がなくなるってことはさ、日羽山の町がダムの底から出てくるってことだよな。な? そういうことでいいんだよな?」  安達の声は勢い込んでいたが、頭の中では理屈や計算の筋道をまだ信じきれていないようだった。  僕も同じだ。ヒワヤマダムという同じ読みをする別のダムの話を聞いているみたいで、安達の話していることをたしかに受け止めたという手応えがない。 「もうちょっと詳しいデータも集めてみるから、近いうちにみんなで会って前祝いしようぜ」と安達は言った。  みんな──安達と、僕と、たぶん清水と、それから……。  僕の胸の内を見抜いたように、安達は「ユミにもメール送っとくよ」と言った。「呼んでいいよな?」と、胸の内のずっと深いところまで、あいつにはお見通しのようだ。  僕はその問いには答えず、「アダもホームページ見たのか?」と訊いた。 「コウジの葬式のあと、たまたま時間が空いてたから、ちょっとだけな。シュウも店のパソコンで見たって言ってた」  安達はそう言って、「コンタは……もう見てるよな、当然」と笑った。「泣いたりしてないか? おまえ、ああいうのに弱そうだから」 「だいじょうぶだよ」 「ユミにメール送ったか?」  黙っていたら、安達はまた笑った。 「ヤブヘビはやめとく、ってか」  答えないのが、答えになる。安達は今度は笑わずに言った。 「でも、ユミも元気そうだったから、よかったじゃないか。昔の話なんだから気にしないほうがいいと思うけどな。だいいち、ユミの親父があんなになったのは、べつにおまえのじいちゃんの……」 「それよりさ」また頬づえをついた。「アダは、なんでわざわざデータベースなんか検索したんだ?」 「シャレだよ。暇だったからな」 「ふうん」 「ま、べつにダムなんてどうでもいいんだけどさ、コンタが気になるんなら、また新しい情報が入ったら教えてやろうか?」  昔からすぐに強がる奴だった。強がれば強がるほど、態度がそっけなくなる。そして、まわりが盛り上がると、自分はすっと醒めてしまうタイプでもあった。 「ああ、頼む」──僕は素直さが身上の中学生だった。いまでも、たぶん。 「また連絡するから」と言って、安達は電話を切った。  電話機を机に置くと、ようやくじわじわと実感が湧いてきた。メモには、いつ書いたのだろう、「35%」とだけあった。  このまま雨が降らなければ──。  窓の外のポプラの樹の、木漏れ陽がまぶしい。さっきまでより少し陽射しが強くなったような気がして、ほんとかよ、と笑った。  その日、僕は初めて──最初で最後のつもりで、ユミにメールを送った。 〈ときどきホームページにお邪魔して、思い出をたどっています。ネガフィルムを捨てずに持っていてくれて、ほんとうにありがとうございます。皮肉でもなんでもなく、君が持っていてくれなければ、こんなふうに二十二年ぶりに日羽山と再会することはできなかったはずです。感謝しています。「あなたに感謝される筋合いなんかない」と言われてしまいそうですが、でも、やっぱり感謝しています。  今日、アダから電話をもらいました。アダは「近いうちに同窓会をしよう」と言っています。おそらく君にもメールが行くと思います。  コウジの葬式のときにはあまり時間がなかったけど、僕はずっと、もしいつか君に会えたら、謝ろうと思っていました。いまさらそんなことを言ってもしかたないのかもしれませんが、きっと、祖父のやったことは間違っていたんだと思います。  同窓会(といっても、集まるのは、アダと僕とシュウぐらいのものだと思いますが)に、君も来てくれますか? それとも、僕の顔なんか二度と見たくないと思っていますか? コウジの葬式のときには昔みたいに話ができて嬉しかったけど、いまになって、すごく不安です。  僕がいるのなら同窓会には行かないというのなら、僕は行きません。アダやシュウに会ってやってください。君が日羽山から出ていったあと、いちばん悲しんでいたのはシュウで、いちばん心配していたのはアダです。  もしも同窓会で会えれば、謝らせてください。許してくれなくてもいいです。  会えなくても、ひとつだけ教えてください。  きみは、いま、幸せに暮らしているのでしょうか?〉  子供は勘がいい。その日の夕食のとき、長男の翔太に「お父さん、ごきげんじゃん」と言われた。夕食前にいっしょに風呂に入った長女の早希も「シャンプーで遊んでても怒られなかったんだよ」とお兄ちゃんにご注進する。かえって、妻の美知子のほうが鈍かった。訝しげに「そう?」と僕の顔を覗き込んで、ピンと来ない顔で「いつもと変わらないわよ」と言う。 「そうだよ、べつに、いいことなんてなにもないよ」  いいこと──と呼べるのかどうかはわからない。長年背負ってきた肩の荷を、降ろせるのかもう一度背負い直すのかは知らないが、とりあえず肩から持ち上げることができた、それだけのことだ。  だが、翔太は自信たっぷりに「あるってば」と言う。「ねえお父さん、そうだよね? なんか今日イケてない?」 「だから、なにもないって言ってるだろ」 「だって、あるって顔してるもん」  幼い頃──小学三、四年生あたりまでは、のんびり屋でぼうっとした息子だったが、この春五年生に進級してから急に生意気になり、ときどきおとなを見透かすようなことを言うようにもなった。いま二年生の早希も、三年後にはきっと、お兄ちゃんよりももっとおとなびたことを言いだすだろう。  五年生とは、そういう学年だ。学校で五年生の子供を受け持つのは今年で四回目だが、慣れたという自信はまったくない。へたに自信を持つと必ずしっぺ返しを食らいそうな気もする。  五年生になると、女子の背が急に高くなる。初潮を迎える子も増えてくる。四年生の頃にも生理の始まった子がいないわけではないが、その頃は初潮を迎えた子のほうが一足先におとなの体になったことに負い目を抱いている。五年生になると、それが少しずつ逆になる。「まだ」の子は自分がふつうより遅れているんじゃないかと不安を感じはじめ、「もう」の子はその次の段階──セックスへの興味と嫌悪をふくらませるようになる。そして、「まだ」か「もう」かにかかわらず、教師にまとわりつかなくなり、胸の内を明かさなくなってしまう。  男子は、女子に置いてきぼりにされている。体の成長だけでなく、心のほうでも、この時期は女子のほうがずっとおとなだ。もっとも、男子だって、自分たちが取り残されているようだというのを感じないほど幼くはない。中途半端におとなで、こどもで、大袈裟に言えばそれが一瞬ごとに目まぐるしく切り替わる。だから、いつも不安定で、危なっかしい。海水と真水が入り交じる河口のようなものだ。複雑な水の流れは、外からではわからない。甘く見て飛び込むと、渦に巻き込まれたり冷たい水の層から抜け出せなくなったりして、溺れる。 「ひょっとしてさあ」翔太が言った。「キレてた奴、心入れ替えたの?」 「……だといいんだけどな」 「やっぱ無理っしょ、そーゆーの。言ってわかるぐらいだったら、キレないもんね」 「キレちゃったらだめか、やっぱり」 「そりゃそっすよ、一回キレちゃったら、もう前みたいには戻れないもん。そいつも男子の中でハブになってるでしょ、ほとんど。だったらもう、キレつづけるしかないじゃん」  眉をひそめて翔太を叱りかけた美知子を、いいよいいよ、と目で制した。  扱いづらい五年生の担任でも、翔太が同じ学年だというのが救いだった。子供たちの間の流行や、言葉遣い、ものの考え方、感じ方は、学校は違っていてもだいたい共通している。役に立つというより、あらかじめ覚悟を決めておけるというレベルの話だが、翔太との会話は、父親としても教師としても欠かせない。 「ウチの学校でも四年生のクラス、ヤバそうだって」  翔太はそう言って、早希に「な? 二年でも有名だもんな、四年一組のガッキューホーカイ」と声をかけた。マカロニサラダを頬張っていた早希も、そうそう、とうなずく。 「どんなふうにヤバいんだ?」 「女の先生なんだけど、もう相手にされてなくてさあ、校長とか教頭が廊下でずーっと見てないとだめなの」 「暴れる奴いるのか」 「っていうか、男子がみーんな先生の言うことシカトしてて、女子も騒ぎまくりだもん。先生、辞めちゃうんじゃないかってウワサ」 「翔ちゃん」美知子が割って入る。「わかりもしないくせによけいなこと言わないで、早くごはん食べちゃいなさい」 「だって、わかってるもん」  唇をとがらせる翔太のほうが、正しい。五年生にもなれば、目に見えたり耳に聞こえたりするおとなの世界のことは、たいがいわかる。  けれど、目に見えないひとの心や、おとなが口に出さずにいることは、まだわからない。六年生でも無理だ。中学生でも、高校生でも、もしかしたら彼ら自身がおとなになるまでわからないままなのかもしれない。僕たちが、そうだったように。  ごはんを食べ終えた早希は、「あ、そうだ」とダイニングから自分の部屋に駆け戻り、色画用紙を細長く切った紙とサインペンを持ってきた。 「お父さんも短冊に書いて、願いごと」 「ああ……七夕か、今夜」  園芸店で買ってきた笹をベランダに飾っているらしい。「七夕の日に雨が降らないのなんてひさしぶりだから、盛り上げちゃおうと思って」と美知子が笑う。 「ねえねえ、お父さん、どんなこと書くの?」  早希は僕の隣に来て短冊を覗き込んだ。 「願いごと、なあ……」  サインペンのキャップを取ってはみたが、すぐには思い浮かばない。  ユミからの返事が来ますように──書けるわけがない。食器を片づける美知子にふと目をやって、「なに?」と訊かれ、「べつに、なんでもない」とあわててうつむいて、ばかだな、と思う。  けっきょく〈家族みんなが健康でありますように〉と書いて、翔太に「へいぼーん」と笑われた。  だが、いつもならなんでもお兄ちゃんの真似をしたがる早希が、笑わなかった。 「お父さんのは、いいの?」  きょとんとした顔で訊いた。 「なにが?」 「お父さんの願いごとは書かなくていいの?」 「ばーか」翔太が口を挟んだ。「家族みんな、って書いてあるんだから、お父さんも入ってるんだよ。そうだよね? お父さん」  僕は苦笑いでうなずいたが、早希はまだ納得しきらない顔だった。 「……いいんだ、お父さんはこれで。誰かが病気しちゃったら大変だからな」早希の頭を撫でてやって、立ち上がる。「よし、短冊つけちゃおう」  バルコニーに出ると、蒸し暑さがむわっとまとわりついてきた。エアコンの室外機のモーター音が鈍く響き、サンダルも昼間の暑さをまだ残していて、なまあたたかい。  フェンスに立てかけた笹には、折り紙でつくった飾りと、短冊が結わえてある。〈プレステ2、ゲットだぜ!〉とへたくそな字で書いた翔太の短冊の隣は、早希の〈かしゅになれますように〉。マイクを持って歌う女の子の絵もついている。  短冊はまだある。〈サッカーのレギュラーだっ取!〉〈せが高くなりますように!〉〈地球せい服〉〈女ゆうになれますように〉〈タレントになれますように〉〈アナウンサーになれますように〉……〈オチコボレになりませんように(特に算数)〉が翔太で、〈いじめられませんように〉が早希。  美知子の願いごとは〈病気やケガのないよう、毎日元気にすごせますように〉だった。  しゃがみこんで短冊を結んでいたら、翔太が「お父さんのとお母さんのってよく似てるよね」と言った。 「おとなの願いごとって、だいたいそうだよ」と僕は答え、ゆっくりと立ち上がった。  夜空は晴れ渡っている。天の川はさすがに見えないが、星の数はびっくりするほど多かった。  明日も晴れだ。  たぶん、あさっても、その先も。  このままずっと雨が降らないでいてほしい──と、僕だけの願いごとを夜空に捧げた。      6  週明けの七月十日から、安達は毎日メールを送ってきた。 〈本日の日羽山ダム上空、快晴。最高気温三十二度。順調に水は減っています〉〈取水制限5%から10%に強化。ムダな抵抗はやめろ(笑)。貯水率は30%を割り込んだ模様です〉〈本日も日羽山は晴れ。ただし、台風8号が沖縄の南にいるのがちょっと気がかりです〉〈同窓会の件、小生、超多忙につき、しばしお待ちを〉〈台風8号、南にそれました。ラッキー〉……。  同報メールになっていた。送信先は、僕と、清水と、ユミ。  ということは、ユミには日羽山ダムの話と同窓会の話はちゃんと伝わっているわけだ。僕のメールも、送信先不明で戻ってきてはいないので、彼女のもとに届いているはずだ。  だが、返事はまだ来ない。  不安と落胆の数日間が過ぎると、後悔が湧いてきた。  ユミのホームページの写真は、0061から0070まで、ダムの工事現場のものだった。祖父が写っている。視察に来た建設大臣を現場に案内しているときのスナップだ。視察に合わせて仕立てた背広の上にぶかぶかの作業着を羽織り、ヘルメットをあみだにかぶって、上目遣いに大臣になにか話しかけている。小柄な体をさらに縮め、媚びた笑いを浮かべる祖父を、大臣の後ろを歩く建設省の役人が冷ややかな目で見ていた。  同じ日の写真は、祖父も持っていた。「街」から呼んできた写真館のあるじが撮った記念写真だ。祖父は大臣と並んで立って、伸び上がるような「気をつけ」の姿勢をとっている。祖父はその写真がなによりの自慢で、「街」に移り住んでからもずっと額に入れて客間の鴨居に飾っていた。  我が家には大臣直筆の〈真実一路〉と書かれた色紙もあった。祖父はそれも額に入れて飾っていたが、亡くなる一年ほど前──老人惚けの症状がいっぺんに進んだ時期に、母に命じて鴨居からはずさせて、額ごと庭石に叩きつけた。  そのことをユミに話してやりたい気もしたが、やはり、メールなど送るべきではなかったのだろう。  土曜日の夜、夕食を終えて家族でテレビを観ていたら、安達から電話がかかってきた。  月曜日──七月十七日に集まろう、という。 「急な話で悪いんだけど、週刊誌の仕事って、直前にならないとスケジュールの空きが出ないんだよ。ここを逃すと、とうぶん難しいんだ。さっきシュウに電話したら、あいつもOKだったから、これで決めちゃいたいんだけどな」 「そうか……」 「学校、忙しい時期か?」 「まあ、な」  たしかに忙しいし、精神的にも酒を飲む気にはあまりなれない。十九日の終業式までに通知表を仕上げなければならないし、十八日は授業参観のあとで希望者の父母と個人面談がある。保護者会は五月の終わりにすませているが、カズのことは親の耳にも入っているだろうし、授業を参観されればごまかしようがない。針のむしろは覚悟している。  いや、そんなことよりも、なにより──。 「コンタ、どうだ? なんとか都合つけられないかな」  ユミは来るのか──喉もとまで出かかった言葉をこらえていたら、安達のほうから、さらりとした口調で言った。 「ユミにもいまメール入れといた。電話番号知らないから、ちょっと段取り悪くなっちゃうけど、月曜までには返事来ると思うんだ」  おまえのメールには返事が来てるのか──これも、こらえた。 「どうする? ユミの返事が来たらおまえにも教えようか?」  一瞬答えに詰まったが、「それで着ていく服が変わったりしてさ」と安達が笑ったので、僕も「べつにいいよ、そんなのいちいち教えなくたって」と笑えた。  だが、僕たちの笑い声はすぐに消えてしまう。  少し間をおいて、安達は言った。 「まあ、どっちにしたって、もうぜんぶ昔ばなしでしゃべれると思うぜ、俺たち」 「ああ……」 「三十七のオジサンとオバサンだからな。遠い遠い昔の話だよ、ぜんぶ」  そうだな、と僕はうなずいて「深酒はできないけど、行くよ」と言った。  電話を切ると、それを待っていたように美知子がアイスクリームの載ったトレイを持ってキッチンから出てきた。  翔太と早希の歓声をやりすごして、僕は美知子に声をかけた。 「あのな、月曜日なんだけど、ちょっと帰りが遅くなるから」 「はいはーい、了解」と軽く返す美知子から目をそらし、煙草とライターと灰皿を持ってバルコニーに出た。 「お父さん、アイス食べないの?」と早希が訊く。 「ああ、食べていいぞ」とサンダルをつっかけながら答えると、さっそく翔太は「ラッキーッ」とガッツポーズをつくり、早希が「あー、もう、お兄ちゃん、ぜんぶ取んないでよお」と声を張り上げて、「ほら、そんなことでケンカしないの」と美知子が二人をまとめて叱る。  僕は苦笑交じりに窓を閉めて、灰皿を手に持ったまま煙草に火を点けた。新築のこのマンションに引っ越してから、煙草はバルコニーかキッチンの換気扇の下というルールができた。「つらいもんだよな、親父なんて」と同僚と酒を飲むと冗談めかして愚痴るが、ルールを決めたのは、なんのことはない、僕だった。  夜景を楽しむというにはニュータウンの街の灯はまばらだが、遠くを眺めて煙草を吸う気分は意外と悪くない。  悪くないんだ、ほんとうに。自分で確かめて、自分に言い聞かせて、自分と二人で笑い合う。  リビングでは子供たちの追いかけっこが始まったようだ。煙草の煙はゆらゆらとたなびいて、すっと闇に消える。  ここまで来たんだな、と思うことが最近増えた。どこにでもある平凡な暮らしの小さな起伏をていねいになぞっていって、スキップするほどの器用さはない代わりに、へたりこんでしまうほど弱くもなく、とにかくここまで来た。先はまだまだ長いんだとわかってはいても、もう俺の人生も半分ぐらい過ぎたんだなあ、と思う。  いまの暮らしを捨てる気はない。だが、もしももう一度生まれ変わったら、この暮らしは選ばないような気がする。たとえば、どんな──の先は、苦笑いでかわすしかないのだけれど。  バルコニーの隅に、七夕のときの笹がまだ置いてあった。葉が萎れてしまったせいか、ずいぶん縮んでしまったように見える。そのぶん願いごとを書いた短冊が七夕の夜に見ていたよりも目立っていたが、翔太も早希も、ほんとうはもっともっと短冊をつけたかったのだろう。短冊があればあるだけ願いごとを書ける。子供の頃の僕だってそうだった。おとなになると思いだせない願いごとが、あの頃はほんとうにたくさんあったのだ。  煙草を灰皿に捨てて、リビングに戻った。僕のアイスクリームはけっきょく三等分されたようだ。 「外の笹、早く捨てちゃえよ」  美知子に言った声は、少しとがってしまった。  月曜日の朝、職員室での仕事を手早く終えると、始業のチャイムが鳴る前に五年二組の教室に向かった。  廊下で遊んでいたヨシマサたちをつかまえて「カズは来てる?」と訊くと、「もう来てたっけ」「見てないけど」「あ、でも教室にいるかも」「よくわかんないけど」と頼りない答えがばらばらに返ってきた。 「カズってさ、キレなきゃ薄いもん」──言葉は足りなかったが、言いたいことはなんとなくわかる。  そっと教室に入った。ドアのそばにいた女子が「先生、早すぎるーっ」と一斉に声をあげるのを制して、戸口から教室を眺め渡した。  窓から二列目の前から四番目──カズは自分の席についていた。僕と一足違いで来たばかりなのか、ランドセルから教科書やノートを出しているところだった。 「先生、先生」  声といっしょに腰をつつかれて振り向くと、シンジがいたずらっぽい目をして「カズのこと、シメるの?」と訊いた。  笑って取り合わずにいたら、シンジの後ろからミツルやナオキも「シメちゃえばいいじゃん、先生」と言う。二人の後ろにいる連中も同じことを思っているのだろう、そういうときの顔は不思議なほどみんな似通って見える。 「……そんなこと、シャレでも言っちゃだめだぞ」 「でもさあ、今日シメとかないと、明日の授業参観、マジ、ヤバくない?」  子供たちの勘は、ほんとうに、嫌になるくらい鋭い。  後ろ手にドアを閉めて顔を上げると、カズと目が合った。始業前に僕が来たのを驚いているふうでもなく、にらむのでもない、ぼんやりとしたまなざしだった。なにげなく前を見ていた先にたまたま僕がいたのだろうかと思ったが、戸口から歩きだしても、カズの視線は追いかけてくる。  机と机の間を遠回りしてカズの席に向かった。女子の「おはようございまーす」に応えたり、男子が落書きしているノートを覗き込んだり、新しい服を「似合うなあ」と褒めたり、おしゃべりに一言口を挟んだりした。  そんな僕をずっと目で追っていたカズは、軽く声をかけても不自然ではない距離まで来ると、不意にうつむいた。すぐ隣に立つと、机の上に置いたままのランドセルに突っ伏してしまった。 「おはよう」と声をかけても、丸まった背中は動かない。  前の席のトモコに目配せして椅子を空けてもらい、「よっこらしょ」と少し大きな声でつぶやいて、横向きに座った。  笑いながら、だぞ。自分に言い聞かせ、頬がゆるんでいるのを確かめてから、言った。 「どうだ、今日と明日で、もう一学期の授業も終わりだよ。最後はビシーッと決めてみないか?」  集まって来ようとするヨシマサやシンジを、掌で追い払う。 「カズだって、みんなが迷惑してるの見て、ほんとは楽しくないだろ? ベランダだって暑いしさ」  カズは机の下で右足をぶらつかせた。 「自分の席についているの、嫌なのか? 机とか椅子のサイズがあってないとか、黒板の字が見えないとか、そういうのだったら、あと二日だけど、特別に席替えしてもいいんだぞ。どうする? 席、替わってみるか?」  ランドセルに結わえた、どこかの神社のお守りが揺れる。 「カズ、なあ、返事ぐらいしろよ……」  振る足が右から左に変わっただけだった。  あせるなよ。もう一度自分に言った。 「ゆうべ、テレビなに観た? 先生はナイター観たんだけど、ジャイアンツ弱いなあ、ぼろ負けだっただろ。頼りになるピッチャーが上原しかいないんだもんな、今年も優勝無理かもしれないな。カズはさあ、プロ野球どこが好きだっけ?」  貧乏揺すり。  僕はため息交じりに天井に目をやった。Jリーグだとどこが好き──と訊いても、しょうがないだろう。 「そろそろキレるんじゃねーの?」とヨシマサたちが話しているのが聞こえた。  そっちを振り向いて、なに言ってるんだ先生はぜんぜん余裕だよ、と笑いかけたとき、頬のすぐそばを黒い大きなものがかすめた。  カズのランドセルだった。  僕の前の席に座っていたダイスケが、かわそうとして体のバランスをくずし、椅子から転げ落ちそうになった。  だが、当たってはいない。椅子の背にぶつかっただけだ。  それだけすばやく確かめると、僕はカズに向き直った。 「危ないだろう、なにしてるんだ」  カズはもう席を立っていた。なにか大声でわめきちらしながら教室の後ろに駆けだして、ロッカーに入っていた赤いランドセルに跳び蹴りをくらわす。「ちょっと、やめてよ!」と持ち主のサナエが金切り声をあげると、その声でさらに興奮したのか、カズはサナエのランドセルをロッカーから出して床にたたきつけた。 「やめろ! やめなさい!」  僕の怒鳴り声を背に、カズはサナエのランドセルを拾い上げると、それを抱きかかえてベランダに向かった。走りながら、ランドセルを両手で投げる体勢に入る。ベランダのドアは開いていて、まわりにいた女子は悲鳴とともに脇に逃げた。 「危ない! 投げるな!」  あわてて追いかけたが、遅かった。カズはベランダに出ると同時にサッカーのスローインのようにランドセルを放り投げた。  中空に一瞬ふわっと浮かんだランドセルは、背の赤と腹のアイボリーを交互に見せながら落ちていった。  ばかやろう──と、僕は叫んでいたらしい。あとでヨシマサたちから聞いた。  ベランダの手すりから下を覗き込んだ。黄色い交通安全帽をかぶった一年生が数人、地面に落ちたランドセルを取り囲んで、呆然と立ちつくしていた。  誰にも当たらなかった。だいじょうぶ。安心したとたん膝が震えはじめた。体の重みを支えきれず、手すりに抱きつくような格好になった。  教室からサナエの泣き声が聞こえる。僕のあとを追ってベランダに来たヨシマサやシンジが「だからキレそうだって言ったじゃん」と勘の悪さを咎めるように言った。貧乏揺すりがそのサインなのだという。勘の悪さではない、いままでの観察眼の鈍さを、思い知らされた。  ベランダから姿を消していたカズは、始業チャイムが鳴ったときには自分の席にいた。長いベランダを走って逃げて、どこかの教室から中に入ったのだろう。  友だち何人かに付き添われてランドセルを取りにいったサナエは、一時間目の国語の授業が始まってもしくしく泣いていた。蓋を留めるマグネットが壊れてしまったらしい。  昼休みになるとすぐ職員室に戻ったが、一回線だけの電話はすでにふさがっていた。  電話を使っているのは、三年二組の担任の渡辺先生だった。「それはそうですけど」「ですからね」「おっしゃることはわたしにもよくわかるんですが」の三つを順繰りにつかいながら、うんざりした顔で応対している。クラスに一人やたらと口うるさい母親がいるんだと、いつか聞いたことがある。  しかたなく携帯電話をバッグから出して、カズの自宅に電話を入れた。  今朝の一件を話すと、母親は恐縮しきった声で「ランドセルはすぐに弁償しますから」と言った。「おいくらぐらいするものだったんでしょうか?」 「ええ、まあ、それはそれで、あとでご連絡しますが……」  苦笑いでかわすと、「ほかのお子さんがたにもご迷惑ばかりおかけしてしまって、ほんとうに申し訳ありません」と、たぶん電話口でも頭を下げているはずだ、細く弱々しい声で言う。  悪いひとではない。まじめで、子供との接し方も一所懸命考えていて、だからいまのカズについても思い悩んでいて、けれど根本的な──致命的なところでピントがずれている。 「迷惑だとか、そういうのはいいんです」僕は少し口調を強めて言った。「とにかくいまは和之くんのことだけ、どうすれば元の和之くんに戻ってくれるかを考えましょうよ」  相槌はあいまいだった。謝ることしか頭の中にない。カズのことに困り果てていても、そこからどうするかを考えられない、そういう母親だ。 「今朝のことは、いままでとは違うんです。いままでは挑発してるというか、自分がなにをやってるかをわかってて、わざと騒いだり立ち歩いたりしてたんです。言ってみれば、いたずらのエスカレートしたやつだったと思うんですよ。でも、今朝は和之くん、下を見ずにランドセル投げたんです。おわかりですか?」 「ええ……もし誰かに当たりでもしたら、もう……どんなにお詫びしても……」  わかっていない。  電話機を握り直して、僕は言った。 「和之くん、初めて後先を考えずに行動しちゃったんです。カーッとなって無我夢中でランドセルを放り投げたんです」 「……帰ってきたら、きつく叱っておきます。あと、その同級生のお宅にもお詫びの電話をします」  そうじゃない。そんなことを言いたいんじゃない。電話機を右手から左手に持ち替えた。いちばんわかりやすい例を挙げようとしたが、不意に、もういいや、という気になって、言いかけた言葉がため息に変わった。 「とにかく、詳しいことはあとでお話しします。夕方はお宅にいらっしゃいますね?」 「和之は塾ですが……」 「お母さんだけでけっこうです。おうかがいしますので、よろしいですね」 「ええ……」といったん答えた母親は、すぐにそれを打ち消して、学校で話をしたいと言いだした。 「先生にご足労かけるのは申し訳ないから学校に出向くように、と主人に言われてますから」  家庭訪問を嫌がる父親は意外と多い。家庭に仕事を持ち込まないのと同じように、学校でのトラブルも家庭には持ち込んでほしくない、という主義のひとが半分。残り半分は、隣近所の目を気にするひとたちで、僕が「緑が丘小学校の小谷です」とインターフォンで名乗ることさえ嫌がる。カズの父親がどっちのタイプかは、わからない。  時間を決める段になって、また「主人」の話が出た。 「主人は九時頃には帰ってくると思うんですが、その時間だと……遅すぎますか?」  同窓会のことを、ちらりと思った。 「わたしひとりだと、もう、わからないんですよ、どうしていいか」  難しい話は父親に任せて、自分はひたすらカズに向かって「先生に謝りなさい」と繰り返す、このまえの家庭訪問のときもそうだった。 「今日のところはお母さんにお話をしておきます」と僕は言った。母親はまだぐずぐず言っていたが、かまわず「よろしくお願いします」と言って電話を切った。  ほんの二、三分の話だったのに、ひどく疲れた。首を振る扇風機の風が当たると、額の生え際にじっとりと汗がにじんでいるのがわかった。  さっき母親に言おうとしたことが、出口をふさがれたまま、まだ頭の中に残っている。言葉というより映像だ。キレたカズが、右手にコンパスを持っている。外に向けた針が光る。算数の授業は二学期に入ってもしばらくは図形の勉強をする予定で、コンパスと分度器を忘れたら教室の床拭き二往復だ。九月からは図工の授業で彫刻刀を使う。いや、そんなものがなくたって、たとえばシャープペンシルの先で突けば、あっけなく目はつぶれる。  この夏休み中になんとかしないと、いつか取り返しのつかないことをやってしまうかもしれません──母親に言えるかどうかわからない。教え子の親に対してふつう言うべき言葉ではないだろう。教頭が知ったら「問題になりますよ」と血相を変えるに違いない。「このままじゃ大変なことになりますよ」が口癖の教頭は、「われわれ教師は性善説で子供たちに向き合うことが大前提なんです」という信条の持ち主でもある。  先回りして決めつけるのは、たしかによくない。  だが、嫌な予感に現実が追いついてしまったときには、もう遅いのだ。  母親にそれをどんなふうに伝えればいいのか考えながら、つい煙草をくわえた。向かいの席の樫村先生の咳払いで気づいた。「ごめんごめん」と謝って煙草を口からはずすと、「こないだもイエローカードだったと思いますけど」と軽くにらまれた。 「……なかなか、難しいよ」 「無意識のうちにくわえてるようじゃ、とうぶんだめですね」  まったくだ、と苦笑いで応えた。  この四月から、職員室は放課後以外は全面禁煙になった。樫村先生ら若手の女性教師が一致団結して職員会議にかけて、議論をする余地もないほどの大差で可決した。喫煙派の僕としては、「せめて放課後ぐらいは……」の泣き言を受け入れてくれたことに感謝するしかない。 「知ってます? 川西先生も先月から禁煙始めたんですよ」  また一人、仲間が減った。 「クラスの女子から言われたんですって、煙草のにおいが臭いって。それがショックだったみたいで、かなり本気ですよ」  川西先生の受け持ちは六年生だ。数少ない男性教師の同僚の一人で、僕より三つ年上。自分の父親さえ毛嫌いしはじめる年頃の女の子相手に苦労のしどおしで、酒を飲むと愚痴しか言わない。 「俺たちが子供の頃は、煙草のにおいって、おとなの男のひとの象徴みたいなものだったんだけどなあ」 「小谷先生、ノスタルジー入ってますよ」  笑われた。それも、ただからかうだけでなく、審判が警告の笛を吹くように。  僕たちはよく職員室で言い交わす。「ノスタルジー禁止ですよ」──言葉は冗談交じりだが、本音だ。「昔はよかった」を言いだしてしまうと、教師という仕事はやっていけない。  樫村先生は書類整理の仕事に戻り、僕は煙草の煙の代わりにため息をひとつ、ついた。  渡辺先生の電話はまだつづいている。旗色はどんどん悪くなっているようで、返す言葉のほとんどがお詫びになっていた。  渡辺先生のそばにいた土屋先生と目が合った。  土屋先生は両手でツノをつくって肩をすくめ、僕は右ストレートを放つポーズで苦笑いを浮かべる。  それくらいの不謹慎さは許されてもいい、と思う。      7  放課後まで、カズはなんとかキレずにいてくれた。五時間目の途中で、ちょっと気分転換というふうに黙ってベランダに出ていったが、それで気がすむのなら、もう、いい。  職員室に戻って通知表の評定をチェックしていたら、サナエの母親から電話がかかってきた。  かなりの剣幕だった。さっきサナエから電話がかかってきたのだという。事務室の外にある公衆電話だろう。いつか忘れ物のアルトリコーダーを同じようにして母親に持ってきてもらったこともある。  母親は、やはりカズのことも知っていた。 「近いうちに一度先生におうかがいしようと思ってたんですけどね、もうそんな余裕ありませんよ。こんなのじゃ、怖くて娘を学校に行かせられないじゃないですか」  厳しく指導します。その一言だけ、何度も繰り返した。ほかに言いようがなかった。具体的になにをどうすればいいかがわかっているような問題なら、こっちも苦労はしない。そして、学校で起きるたいがいのトラブルは、そうではない。 「先生もがんばってらっしゃるとは思うんですが、もうちょっと毅然とした態度をとっていただかないと、示しがつかないと思うんですよ。娘も友だちから聞いたらしいんですけど、先生、ご自分のあだ名ってご存じですか? クラスの子が陰で先生のことをどう呼んでるか」  母親は一息にまくしたてるように言って、僕がなにも答えられないのを確かめると、「ウチの娘はそんなこと言ってませんけどね、友だちがしゃべってるのを聞いただけらしいんですけど」と前置きして、僕のあだ名を教えてくれた。  カカシ──。 「なにもできずに、ただ立って見てるだけ、っていう意味ですよ。情けないと思いませんか? ご自分でも。教師として、やっぱりそれはおかしいでしょう。違いますか?」  僕は黙って、受話器に拾われないよう、息をついた。  俺はカカシなのかあ。ぼんやりとした頭で、思った。腹は立たない。べつに悲しいわけでもない。ただ、耳に流れ込んだ「カカシ」の響きが、思いのほか胸の奥深くにまで届いた。  少し離れたところで、樫村先生と加藤先生が両手でツノをつくって、お疲れさまです、とエールを送ってくれた。  笑い返してこめかみの力をゆるめると、風船の紐から手を放したように、ほんとに疲れたなあ、と声のないつぶやきが頭のてっぺんからすうっと抜けていった。  不意に高木の顔が浮かんだ。似合わない眼鏡をかけた、三十七歳の顔だ。 「もしもし? ちょっと先生、聞いてます?」  あとで、買い置きのユンケルを一本服んでおこう。  くどくどとつづくサナエの母親の文句を耳に素通りさせて、かたちだけの相槌と詫びを返していたら、ドアのほうから「小谷先生、いらっしゃいます?」と名前を呼ばれた。  振り向くと、カズの母親がいた。廊下から顔を覗かせて、おどおどと、申し訳なさそうに、取り次いでくれた山岸先生にお礼を言っていた。  約束の時間より三十分近く早かったが、タイミングがいい、と言えば言える。  僕はサナエの母親に来客の旨を伝えながら、職員室の隅の応接コーナーを手で指し示した。  その直後、タイミングはやっぱり悪かったんだ、と察した。  母親のあとについて入ってきたのは、憮然とした顔の父親だった。  父親はスーツ姿だった。仕事を抜けてきたのだという。 「先生からお電話をいただいたあと、すぐに連絡をとったんです」と母親は言って、ねえそれでいいんですよね、と確かめるふうに隣に座る父親にちらりと目をやった。  父親は憮然としたまま小さくうなずき、「話が終わればすぐに会社に戻りますので」と僕に言った。 「……手短に、お話しします」  口ではそう答えたが、あらましだけを伝える気はなかった。話をかいつまんだり、はしょったりすれば、いちばんたいせつなことがこぼれ落ちてしまう。  だが、キレる前の、ランドセルに突っ伏したカズの様子を話しはじめるとすぐ、父親は母親を振り向いて「俺は聞いてないぞ、そんなの」と強い口調で言った。  母親の体が一瞬、きゅっと縮んだように見えた。 「いま初めてお話ししてるんです、お母さんにも」僕はあわてて言った。「お目にかかって説明したほうがいいと思いましたから」  母親は困惑顔を少しだけゆるめたが、逆に父親はさらに憮然とした面持ちになって「できれば、電話である程度のことは知っておいてから、来たかったんですけどね」と言う。「そのほうが時間のむだもないでしょう」  そういう問題ではない。子供のことについて話すのは、見積書をつくるのとは違う。 「いろいろ微妙なニュアンスもありますので、お電話でお話しするより、こうして……」  僕の言葉をさえぎって、父親は言った。 「ですから、今度からは会社のほうに電話していただければいいんです。出たり入ったりしていますが、基本的に連絡はいつでもつきますから。そのほうがけっきょく早いんじゃないですかねえ。先生のおっしゃりたいこともきちんと伝わると思うし」  その隣で、母親は肩をすぼめてうつむいていた。  夫婦のふだんの様子が透けて見えた。学校に来るまでに父親が母親にぶつけた言葉のとがりぐあいや、帰り道に母親がつくはずのため息の深さも、見当がつく。  父親にうながされて、僕は話をつづけた。少し早口になった。順を追って話したつもりだが、もしかしたら言い漏らしたこともあったかもしれない。  サナエのランドセルを放り投げたところまで来たら、父親は「そこから先は、もう聞いてますから」と大きくうなずいて、サナエの両親に詫びの電話を入れることと、弁償の金額はそのときに話し合って決めることを一方的に僕に約束した。  まいったなあと首をひねると、父親はそれを勘違いして「電話は私が入れますから、だいじょうぶですよ、ほんとに」と付け加えた。 「……じゃあ電話のことは、お任せします」 「向こうさんの電話番号は? クラス名簿みたいなものってあるんでしたっけ?」  黙ってうなずいた。業者のひとと話しているような気分になった。それも、そうとう仕事のできそうな、だからこそなにか信用のおけない営業マンと。  父親は母親に「名簿持ってるな、あるんだな、どこにしまったかすぐにわかるんだな」と詰問するように尋ね、母親が一瞬自信なげな表情を浮かべたのを見逃さず、舌打ちを頭につけて「帰ったらすぐに探して、携帯に電話してくれ」と短く言い捨てた。  聞いているこっちのほうが、いたたまれなくなる。カズも両親のこんなやりとりを、ずっと聞かされ、見せられているのだろう。  そこから先の話の主導権は、父親に移った。  父親はまず僕に謝った。こんなにひどいとは思わなかったと素直に認め、家でも厳しく叱っておく、と宣言する口調で言った。学校でも甘やかさずに他人に迷惑をかけたらすぐに叱ってほしい、と家庭訪問のときと同じことを、あのときよりさらにきっぱりと言った。悪いことをしたら痛い目に遭うのはあたりまえなんですから、ビンタぐらい張ったってかまいません、どんどんやってください──たぶん、口先だけの言葉ではないだろう。  だが、悪いことをした息子を叱っても、息子がなぜ悪いことをするのかについては考えてくれない。そもそも、それがほんとうに「悪いこと」なのかどうかも疑問には思っていないようだ。  どんなふうに話を進めるか考えていたら、父親は「一人っ子ですから、女房がどうしても甘やかしちゃうんです。でも、これからは女房まかせにせず、私もしっかり息子と向き合います」と胸を張り、僕の目を覗き込むように見て「そういうことですよね? 肝心なのはね」と笑った。 「ええ……」  うなずいたあとで「しかしですね」と返そうとしたら、その前に父親はソファーから腰を浮かせた。 「じゃあ、もう時間ないので、私はこれで」  せめて母親だけでも残っていてほしかったが、父親は当然のように「行くぞ」と母親に声をかけ、母親も当然のようにそれに従った。  引き留められなかった。職員室を出るときに僕を振り向いて「ランドセルの件は責任持って弁償しますから、ご心配なく」と念を押す父親に、つい愛想笑いまで浮かべてしまった。  席に戻ると、田中先生が、なにやってるんですかあなたは、という顔で近づいてきた。 「小谷先生、上着とネクタイ、どうしたんですか? ロッカーにはあるんでしょ?」 「……すみません、お父さんが来るとは思わなかったので」 「お母さん一人だったらネクタイなんかいらないってこと? ちょっとあなた、そっちのほうが問題よ」 「……すみません」  この学校には、体育の授業以外ではジャージ姿で仕事をしない、という暗黙の了解がある。四、五年前に田中先生が中心になって決めた。保護者と会うときはジャケットにネクタイ着用が建前だが、最近ではなしくずしになってしまい、それを田中先生はかねてからぶつくさ言っている。 「教師の威厳は服装から」という田中先生の言いぶんも、わからないではない。スーツ姿のカズの父親は、決して見栄えのする容貌の持ち主ではないのだが、家庭訪問のときのポロシャツ姿に比べると、しぐさのひとつひとつにメリハリがあった。言葉の一言ずつに押し出しが利いていた。ノーネクタイの半袖シャツにチノパンで応対した時点で、僕の負けだったのかもしれない。 「完全に向こうのペースだったじゃない。もっと毅然としないとなめられちゃうわよ」 「いや、あのお父さん、言ってることは間違ってないんで、僕としてもなかなか……」  そこをなんとかするのが教師でしょう──いつもならすぐに返ってくる言葉が、なかった。  田中先生は「あれ?」と訝しげな顔でつぶやき、「ちょっと待ってよ」と語尾を少し持ち上げた。 「どうしたんですか?」 「お父さん、仕事の途中で抜けてきたって言ってたのよね。でも、それ、おかしいわよ」  しゃべりながら自分の机から分厚いファイルを取り出した。僕たちはこっそり「過去帳」と呼んでいる、以前に受け持ったクラスの児童の家庭調査票だ。 「家庭訪問したとき、お父さんもいた?」 「ええ……」 「やっぱり、変よ、それ。ちょっと現役の調査票出してくれない?」  二枚の調査票が並んだ。田中先生が持っているのは、この三月までの調査票。僕の手には、四月からの調査票。比べ合わせてみると、父親の勤務先が変わっていた。  三月までは、大手の自動車メーカー・日進自動車の関西支社。  四月からは、系列の日進レンタリース、東京南多摩営業所。 「でしょう? 私が担任だった頃は単身赴任してたのよ」  僕は自分の持った調査票を見つめたまま、小さくうなずいた。 「ずっとお母さんと二人きりだったのが、お父さんが家に帰ってきて、環境がガラッと変わっちゃったわけでしょ。その影響で不安定になってるのかもしれないわね」  調査票から目が離れない。四月に提出されたときにはべつに気に留めなかったが、こうして去年までのものと比べてみると、わかる。単身赴任の父親が家に帰ってきたというだけではない。リストラされて系列会社に飛ばされた父親が、家に帰ってきたのだ。  父親の年齢は、僕と同じ三十七歳だった。  これからは女房まかせにせず、私もしっかり息子と向き合います──。  耳の奥に蘇ってくる言葉が、教え子の父親ではなく、同い年の男の言葉になった。  調査票をしまったあと、しばらくぼんやりと席に座っていた。ふう、と息をついて立ち上がる。今日はやめようと思っていたが、やはり、またパソコンルームに向かった。  廊下の窓枠にとまった蝉が、濁った声で鳴いていた。高木の葬儀の日にも蝉の声を聞いたんだと思いだして、今年初めてだったあの蝉は高木だったのかもしれない、つまらないことを、つまらないんだぞとわかるように冗談めかして思った。  日羽山は蝉の多い町だった。ダムの底に沈むくらいだから、もともとの地形が盆地──というより谷底の町だ。蝉時雨は周囲の山々にはねかえって、何重にもかさなって響く。夕立の近づいたときにはそれが不意にぴたりとやみ、町ぜんたいが静かになって、また一斉に鳴きだすと、まるでその声が合図になっているみたいに山の向こうから雷のごろごろという音が聞こえてくる。  川に行けば、この時季は鮎が狙える。夜は蛍。マムシが出るからと、陽が暮れてからサンダル履きで川や田んぼに行くと叱られた。河童の言い伝えはなかったが、町はずれの淵には一メートルもある鯉が百年前から棲んでいると年寄りは言う。  夏休みだ、もうすぐ。 『仮面ライダー』のカードを集めたのは小学何年生の頃だったろう。四年生か、五年生。朝のラジオ体操のあとはカードの話ばかりした。農協ストアは番号の新しいカードがよく出るが、小林商店のおばあちゃんは、ときどきうっかりしてカードを二枚くれることがある。六年生になると、スーパーカーの話題についていけないと男子の中で仲間はずれにされた。ランボルギーニ、ポルシェ、カウンタック、フェラーリ、ロータス……いま、我が家の車はカローラのワゴンだ。  中学時代の夏休みは、サッカー部の練習でひたすらグラウンドを走りまわった。一年生のときは三年生の先輩が怖くてしかたなかった。いちばん怖かった室田さんの母親はダムの工事現場で働いていて、僕が二年生のときの夏休みにコンクリートミキサーに巻き込まれて亡くなった。葬儀には祖父も出かけた。精進落としの酒に酔ったから迎えに来てくれと夜になって電話がかかってきて、父といっしょに室田さんの家に向かった。車の中で、室田さんの母親の事故には労災がおりないかもしれない、と父が言った。いや、その頃の僕は労災という言葉など知らなかった。ただロウサイという音の響きがなんとなく禍々《まがまが》しいものに思えて、意味を尋ねることもなく、ふうん、とうなずくだけだった。室田さんの家に行くと、襖をとりはずして二部屋つなげた広間でおとなたちが酒を飲んでいた。日羽山のおとなは、みんな濁声《だみごえ》でしゃべる。笑い声も大きいが、怒鳴るときの声も大きい。広間は騒がしかった。その中心に祖父が、ひときわ赤い顔をして座っていた。「街」の会社に勤める父は肩をすぼめるようにして広間に入り、祖父の手をひいて立たせた。誰かがなにか声をかけて、父は困った顔で笑い、それを見てみんながどっと笑った。祖父の隣には電力会社の部長がいた。建設会社の課長は酒に酔った室田さんの父親に殴られて帰っていったのだと、あとで知った。帰り際、台所から出てきた室田さんと廊下ですれ違った。部活のときと同じように頭を下げて「こんばんは」と挨拶すると、室田さんは黙って、ほかの誰にもわからないようにこっそり、僕の腹を殴った。どのくらい痛かったかは忘れた。祖父や父にばれないよう腹を手で押さえて車に向かった。玄関に下がった提灯の「室田家」の文字が、涙でにじみ、揺れた。工事現場をとりしきっていた下請けの建設会社の役員に祖父の名前があることを知ったのも、あとになってからだった。室田さんがいまどこでなにをしているのか、僕にはもちろん、わからない。  メール着信、一件。ダウンロードは瞬きの間にすんだ。  メールソフトのウィンドウに〈RE:ごぶさたしています〉と表示された。ユミからの返信だった。  ゆっくりと深呼吸して回線を切り、マウスをクリックした。  返信は、一文だけだった。僕のメールの最後のフレーズ──〈きみは、いま、幸せに暮らしているのでしょうか?〉を引用して、それに応えるかたちで、ほんとうに、一文だけ。 〈幸せって、なんですか?〉  パソコンの画面を見つめたまま、しばらくなにもできなかった。  泣くのだろうかと思ったが、涙は出ない。笑ってしまいたいような気もしたが、頬も口も動かない。  蝉の声が聞こえる。さっき鳴いていたのと同じ蝉だろうか。日羽山の蝉時雨を、また思いだす。土の中にいた蝉の幼虫は、外に出ることなくみんな死んでしまったのだろう。僕たちがふるさとをなくした年の夏、水の底の土から這い出て、薄く透ける羽を懸命に動かして深さ何十メートルもある湖の中を突っ切って空に飛びだした、そんな蝉が、いないことはわかっていても、そんな蝉が、いてくれればいいのに。  俺はいま、幸せだ。胸の奥でつぶやくと、もっと奥のほうから、ほんとうか? と訊く声がする。  俺はいま、不幸だ。言い直すと、どこが? と訊かれる。  スリープ機能が働いて暗くなった画面に、スクリーンセーバーの幾何学模様が目まぐるしく形を変えながら浮かび上がる。  いつのまにか蝉の声は消えていた。飛び去ってしまったのか、それとも夕立が近いのだろうか。だが、傾きかけた陽射しはまぶしい。雨は降らない。東京でも、日羽山でも。  ドアが勢いよく開いた。 「あ、先生いたあ……ラッキー……」  振り向くと、五年二組の女子が数人、息をきらして戸口に立っていた。 「探しちゃったよ、もう、学校中」とミユキが言う。 「どうしたんだ?」 「ヤバいの、男子」とエリカが言いかけるのをさえぎって、ユイが「田端くんのこと、みんなでシメるって」と言い、さらにそれにかぶせて「カズにリベンジしてやるんだって」とアンナが言った。  男子の中心にいるのはヨシマサらしい。 「ヨシマサ、サナエのこと好きだもんねーっ」「だもんねーっ」とエリカとアンナが顔を見合わせて笑った。      8  樫村先生が通勤用に使っている自転車を借りて、カズの家の方角に向かった。カズが塾に行くところを狙う、とヨシマサは女子に話していた。家から塾までの道順を頭に浮かべ、途中に公園があったことを思いだした。雛壇になっているうえに植え込みが邪魔をして通りから見づらい公園だったとも気づいて、ペダルを踏む足に力を込める。  先生、がんばって──校門を出るときにエリカたちに声をかけられた。先生カッコいーい、と言ったのはアンナで、逆ジメされんなよーっ、と笑ったのはユイだった。どこまで真剣なのかわからない。本人たちにもわかってはいないだろう。  学校を出てしばらく走ると、道は上り坂になる。シャツのボタンをはずした。下に着たランニングシャツは、胸も背中も汗でぐっしょり濡れている。サドルから尻を浮かせた。体重をかけると、太股がひきつるように痛む。  坂を上りきった。もうすぐ道はT字路に突き当たる。自転車を漕ぎながらシャツの胸ポケットから携帯電話を出し、リダイヤルボタンを押した。呼び出し音が七、八回繰り返されて、あきらめかけたとき、やっと電話がつながった。  カズはさっき塾に出かけた、と母親が言った。十五分ほど前だという。礼を言って、怪訝そうな母親にかまわず電話を切り、T字路を右へ、公園に向かって曲がる。  カズがヨシマサたちに殴られるのを心配していたのではない。逆だ。キレたカズが、なにをするか。それが怖かった。カズの半ズボンのポケットは空っぽだろうか。持っていてほしくないものを、ポケットに忍ばせてはいないだろうか。怖い。そんなふうに考えなければいけないのが、つらい。カズは僕の教え子で、僕はあいつの担任教師なのに、僕はいま、あいつを信じていない。  カズの父親──というより、年齢とリストラのことを知ったいまの実感としては「田端さん」のほうがピンと来る、その田端さんが奥さんを見るときの顔を思い浮かべた。女房のやることなすことすべてが気に入らない、なにひとつ信じてはいない、という顔をしていた。嫌な表情だった。あのひとは、一人息子のこともあんな顔で見ているのだろうか。いまの僕は、どんな顔で自転車を漕いでいるのだろう。  公園に着いた。門から公園にのぼる石段の脇に、子供用の自転車が何台か停めてある。前輪の泥除けカバーに書かれた名前を確かめたら、間違いない、すべてウチのクラスの男子の自転車で、ヨシマサのマウンテンバイクもある。  石段を駆けのぼった。  奥まった位置にあるジャングルジムのそばに、子供たちが集まっていた。思ったより多い。十人以上。ランドセルを背負った子もいる。背中が邪魔になって、ヨシマサとカズの姿は見えない。  荒れた息を整える間もなく声をかけようとしたら、からからに渇いた喉がひくついて、咳《せ》き込んだ。  何人かが振り向いた。僕を見て驚いて、気まずそうにうつむいたり目をそらしたりする。 「そこでなにやってるんだ!」  走りながら、裏返った声で怒鳴った。返事はなかったが、人垣が真ん中から割れた。ヨシマサがいた。地面にうつぶせに倒れたカズの背中を踏みつけていた。 「やめろ! おい、やめろって!」  後ろから羽交い締めにして引き離した。  ヨシマサはほとんど抵抗しなかった。途中で僕が力をゆるめても腕をふりほどこうとせず、カズを見たまま肩で息を継ぐ。 「……先生、こいつ、頭おかしいんじゃねーの?」  興奮した声ではなかった。怒ってもいない。むしろ、気味悪がって、おびえているようにも聞こえる。  まわりの連中が先を争うようにして教えてくれた。  ヨシマサが胸ぐらをつかもうとすると、カズは自分から地面に倒れ込み、うつぶせになって両手で頭を抱え込んだ。そのまま、ヨシマサがどんなに口で挑発しても動かない。腰や尻を蹴っても、頭の後ろで組んだ手の甲を踏んでも、背中にのしかかって肩を後ろから殴りつけても、だめ。みんなで無理やり体をひっくりかえしてやろうかと話しているところに僕が駆けつけたのだった。 「でもさあ、タイマンになんねーじゃん、手伝ってもらったら。だからマジ、まいっちゃうよなあ」  ヨシマサの言葉に、みんなもうなずいた。 「こんなのケンカじゃねーよ、頭おかしいよマジ、こいつ」と吐き捨てるように言ったシンジが、カズの腰を軽く、つつくように蹴った。やはり、カズは動かない。  僕は「こら、やめろ」とシンジを叱り、ヨシマサの肩から手を離しながら、集まった全員をにらみつけた。 「集団で一人をやっちゃうのは卑怯者だって、先生いつも言ってるだろ」 「でも、タイマンだもん」ナオキがふくれつらで言う。「俺ら、見てるだけで、なにもしてねーもん」 「同じことだ」 「なんで? 見てるだけでツミになるわけえ? それってハンザイなわけえ?」  ふだんからすぐに屁理屈を並べるダイチが、みんなに「なあ? 俺らムザイだよなあ?」と、大袈裟な口調と身振りで言った。 「……犯罪とかそういう問題じゃないんだ、クラスの友だちがケンカしてるんだったら止めなきゃだめだろう」 「そんなのギムじゃないじゃん」 「ダイチ、おまえそういう言い方するなよ、な? とにかくケンカはだめなんだよ」 「だって、それにさあ、先生よく言うじゃん、先生とかがガキの頃って、ケンカした相手のほうが仲良くなれたとかって。それ違うわけえ? 嘘なわけえ?」  ノスタルジー禁止──は正しい。  ため息でやりすごして、動かないカズをぼんやりと見つめた。哀しくなった。こんなに哀しいファイティングポーズを、僕は見たことがない。僕たちはこんなケンカはしなかった。安達ととっくみあいのケンカをしたのは小学何年生の頃だったっけ、理由はなんだったっけ。ノスタルジー禁止。中学一年生のとき、お調子者の清水は三年生に殴られた。鼻血で汚れたシャツを、家に帰る前に僕の家に寄って、庭の水道で洗った。ノスタルジー禁止。ノスタルジー禁止。ノスタルジー禁止……。 「やっぱ、こいつ、むかつくぅ」  シンジが、またカズを蹴った。今度はさっきよりずっと強く、スニーカーのつま先を脇腹にねじ込むように。うめき声とともにカズの体は一瞬浮き上がりそうになったが、それだけ、だった。 「やめろって言ってるだろ!」  シンジを怒鳴りつけて、腕を強くつかんだ。  だが、シンジはひるまず僕に言い返す。 「なんでそんなヒイキすんだよ、カズのこと。悪いのこいつじゃんよ、俺らずーっと我慢してんじゃん、すげー損してんじゃん」 「……ヒイキ? 先生が?」  なに言ってんだと笑いかけたとき、横からダイチも「エコヒイキって、サイテー」と言った。ダイチを振り向いてにらむと、今度は背中からヨシマサが「先生がヒイキするから、カズが調子乗るんだよお」と言う。 「ヒッ、イッ、キッ! ヒッ、イッ、キッ!」  リョウタが、手拍子をつけて言った。  やがてそれは、全員のコールになった。 「……やめろよ、よお、おまえら、冗談やめろよ」  一歩、あとずさった。逃げるな。自分に命じた。子供にはわからないのだ。間違ったことはやっていない。昨日や今日教師になったばかりの若造とは違う。いままでの経験から正しい対応を割り出して、それを信じて……。  コールはつづく。おもしろがって笑いながら、けれどやはり怒りながら、僕の教え子たちが僕に見えなかった胸の内を初めてさらした。 「カカシだよな、マジ」──誰かが言った、ような気がした。声と名前がつながらなかった。頭がくらっとして、もう一歩後ろに下がった、そのときだった。  カズがゆっくりと起きあがって、背中を丸めて、ヨシマサに後ろから体当たりした。ヨシマサは前のめりに倒れかかったが、横にいたヒデとヒトシがカズをつかまえた。クラスでいちばん背の高いヒトシの腕が、首を縮めて逃げようとするカズのTシャツをつかんだ。シャツがめくれあがり、背中がむきだしになる。 「やめろ! おまえら、やめろ!」  割って入ると、カズの背中がすぐ目の前にあった。  青あざが、まるで豹の模様のように、いくつも浮いていた。紫色のミミズ腫れもある。  僕は息を呑み、騒いでいたヒトシたちも静かになった。 「……俺じゃないよ、だって俺、本気で蹴ったりとかしてねーもん、マジ、俺、関係ねーよな、な? なあ、だよな? ちょっとしかやってねーもん……」  震える声でヨシマサが言った。「わかってる」と答える僕の声は、かすれた。アザはどれも、できてから何日かたったものだ。ミミズ腫れも、いまできたものではなさそうだ。  カズはヒトシの手をふりほどき、走って逃げていった。誰も追いかけなかった。僕も、カカシのまま動けなかった。  駅から地図を頼りに歩きながら、留守番モードになっていた安達の携帯電話に、約束の時間には間に合いそうもないので先に始めていてくれ、と録音した。電話を切ったあと少し考えて、もしかしたら行けないかもしれない、とメッセージを追加した。空はもう暗くなっているし、都心までは一時間以上かかるし、これからの話がどんなふうに進んでいくのか見当もつかない。  大型トラックやダンプカーの行き交う街道に出て、歩道をしばらく進むと、ライトアップされた日進レンタリースの大きな看板が見えた。営業所のオフィスは、屋上の看板に押しつぶされてしまいそうなほど小さな、古びたビルだった。  待ち合わせ場所に指定されたファミリーレストランに入ると、田端さんはもう窓際の席についていた。僕に気づくと、やあ、というふうに手に持った小ジョッキのビールを軽く掲げてみせた。 「会社にまた戻らなきゃいけないと思ってたんですが、仕事が意外と早く片づいちゃいましたんでね、これなら最初から駅前で会えばよかったな」苦笑して、ビールを啜る。「夕方、学校から会社に戻るまでの時間のほうが長かったぐらいですよ」  僕もビールを注文した。電話では用件を伝えられなかった。面と向かっても、どこまで話せるかわからない。ほんとうは、まだ迷っている。  ビールが届くまでの場つなぎに、田端さんと僕が同い年だということを話したら、田端さんは「じゃあ同じ年に受験したわけだ」と言って、僕の出身大学を訊いてきた。同世代の共通項をテレビ番組やマンガに探すひとは多いが、いきなり受験の話を出されるのは初めてだった。戸惑いながらもしかたなく答えたら、田端さんはなんだかほっとした顔になって、自分の母校の名前を誇らしげに口にした。僕の出た教員養成系の大学よりレベルがワンランク上の学校だったが、超難関校というわけではない。ぎりぎりエリートと呼ばれるかどうか。このひとのものの考え方の根っこについてもなんとなく察しがついた。 「まあ、お互い、キツい時代にキツい歳を生きてますよね」  田端さんはそう言って、リストラのことを自分から口にした。寂しさはにじんでいたが、恨みがましい口調ではなかった。 「強がりじゃなくてね、半分感謝してるところもあるんですよ。たしかに仕事のおもしろさややりがいは、いままでとは比べものになりませんけど、その代わり父親としての時間が、精神的にも肉体的にもたくさんとれるようになったんですよね、自分の能力をぜんぶ家族に向けられるっていうか」 「ええ……」 「あのまま単身赴任がつづいてたらと思うと、ぞっとしますよ。和之のこと考えるとね、いまでもこんなに先生にご迷惑をかけてるんだから、これからどんどん難しい歳になっていくわけでしょ、ほんと、ぎりぎりのところで間に合ったかなって」  僕は黙って煙草をくわえた。 「先生もおわかりになってると思いますけど、ウチの女房、ほんとにだめなんですよ。なにやらせてもトロいし、こっちが単身赴任してる間に、和之のこと甘やかし放題だったんですから」  僕が煙草に火を点けるのを待って、田端さんはつづける。 「家の恥をさらすようですけどね、部屋の片づけ一つとっても、いやあ、女房には任せられませんよ。だらしないっていうか、気が利かないっていうか、大阪から帰ってきて最初のひと月ほどは、唖然とすることばっかりでね」  単身赴任前には気づかなかった、という。「バブルの頃は行け行けドンドンで働きつづけて、それが終わるとツケを払うので必死になって仕事してましたからね、家のことなんかかまってられなかったんですよ」と残り少なくなったビールを苦そうに飲んで、「反省してます、いまは」と息をつく。  夕方、学校で会ったときと同じだ。言っていることは間違ってはいないのに、なにか納得しきれないものがある。  ビールを飲みたい。頭の芯をゆるめたい。だが、夕食時の店内は込み合っていて、ビール一杯がなかなか来ない。 「でも、女房の悪口を言ったところで、けっきょくはこっちの責任なんですよね。管理不行き届きというか……」 「管理」という言葉が耳にさわった。カマをかけて「奥さんは大学の同級生かなにかなんですか?」と訊くと、あんのじょう田端さんは「せめてそれくらいのレベルだったらいいんですけどね」とつまらなそうに笑った。「新聞もろくに読まないんだから、なに話したって噛み合やしない」  やっとビールが来た。煙草を灰皿に捨て、田端さんと乾杯のしぐさだけ交わして、少し勢いをつけて飲んだ。 「まあ、だから、先生が女房じゃなくて私に電話していただいたのは正解ですよ。これからも、なにかありましたらご遠慮なく会社のほうに電話してください。ウチから学校に連絡するときも私からにします。そのほうが早いし、確かですよ、じっさい」  頭の芯がゆるんだ。すぐに後悔した。パンドラの匣《はこ》を開けるというのはこういうことなのだろうか、朝からのできごとがいっぺんに頭の中を巡りはじめ、そこからちぎれ落ちた言葉が胸に刺さる。  カカシ、か。  ヒイキ、か。  幸せ、か。  ゲップといっしょに、今日一日だけではない、春からの疲れが溶けたため息をつきかけて、あわてて口をつぐむ。  カズにふりまわされどおしだった一学期も、あと二日で終わる。しあさってから夏休みだ。家族で海に行く。二泊三日。外房の民宿には美知子が予約を入れた。旧盆には四国の美知子の実家にも帰る。早希が楽しみにしていた日帰りのプールは水不足で行けそうにないが、スワローズファンの翔太を神宮球場のナイターに連れて行く約束をしているし、早希はサンリオピューロランドに行きたいと言っていた。夜は本を読もう。録画したまま溜まっているビデオの映画も観よう。早朝のジョギングを今度こそ習慣にしてしまおう。幸せな夏休み──だろうか?  田端さんが言った。 「先生、それで、話ってなんですか?」  僕はビールのジョッキを水のグラスに持ち替え、喉と唇と舌を湿しながら、カズの背中のことを話した。ヨシマサたちのことははしょって、偶然見ただけのことにしたが、前もって考えていたのよりも強い言い方になった。カズに傷を負わせたのはあんただろうと決めつけ、なんでそんなことをするんだとなじるような言い方も、したと思う。  だが、田端さんは平然とした顔で話を聞き、僕が話し終えると、間をおかずに「だって、しょうがないでしょう」と言った。「悪いことをすれば叱られる、あたりまえじゃないですか」 「でも、アザが残るまでっていうのは……」 「顔やおなかはやってませんよ。ちゃんと考えてるんですから」 「……体の傷よりも、心のほうが心配なんです」  田端さんはビールの残りを飲み干して、このひとはなにもわかってないな、という顔で、あらためて僕を見た。 「先生ね、いまが肝心なんですよ。母親に甘やかされ放題だったのを、一日でも早くちゃんとした奴にしてやらなきゃいけないんだから、多少荒っぽくなるのもやむを得ないでしょう。もう、これからはお父さんがいなかった頃のようなわけにはいかないんだぞ、って。もうねえ、ひどいんですよ、授業中のことだけじゃなくて、生活習慣からなにまで、シツケのレベルからやり直しなんですから」 「いや、でも……」 「だって、ほら、先生、われわれの子供の頃はそうだったじゃないですか。親父っていうのは怖いぐらいがちょうどいいんですよ。オッパイで育てるのが母親で、ゲンコツで育てるのが父親なんだって、なにかの本にも書いてありましたよ」  なんの迷いもない口調だった。「こっちがきちんと愛情を持って叱ってるってことは和之だってわかってるはずですから、ご心配なく」とまっすぐに僕を見る。  頭がくらくらしてきた。ほんの一口のビールに悪酔いしてしまったみたいだ。 「父親の仕事は、やりがいがありますよ。なにしろ一生モノですからね。いまは毎日充実してます、仕事仕事だった頃よりずっとね」  田端さんはそう言って、自分の言葉の正しさを確かめるように、一つ大きくうなずいた。  新宿に着いたところで、安達の携帯電話に連絡を入れた。二時間近く遅刻したことを詫びて、店の名前と場所を尋ねると、安達は「そっか……じゃあ……」となにか煮えきらない返事をして、西口のホテルのバーにしようと言った。「俺もすぐ行くから」 「すぐ行くって、おまえいまどこにいるわけ? 飲んでるんじゃないの?」 「仕事だよ、いま会社」 「……同窓会は? もう終わったのか?」 「キャンセル」 「はあ?」  詳しいことは会ってから話す、と安達は言った。  腹立たしさを鎮めながら、ウイスキーの水割りを啜った。新宿に向かう電車の中でも、吊革といっしょに悔しさを握りしめていた。  田端さんに言い負かされた、ということになるのだろう。彼は間違ったことはなにも言わなかった。自信──確信を、持っていた。  それでも、あのひとは、ずれている。ずれたまま強引に進もうとしている。僕はその背中を、カカシのように、ただ見送ることしかできない。腹立たしさと悔しさは、僕自身へのものだった。  二杯目をバーテンダーに注文しかけたとき、安達がやってきた。カウンターのスツールに腰をおろす間もなくウォッカのオンザロックを注文し、それをすぐにストレートにオーダーし直して、僕にも「強い酒のほうがいいんじゃないか?」と言う。  よくわからないまま、オンザロックにした。  乾杯をして、ショットグラスのウォッカを一口でほとんど空にした安達は、それでやっと人心地ついたように肩から力を抜いた。 「酒、強いんだな」と僕は驚いて言った。古い友だちなのに初対面と変わらない。  安達は「酒太りだよ、完全に」とズボンのベルトの上にのしかかるような腹を軽く叩き、同窓会が中止になったいきさつを説明した。  ユミはけっきょく来なかった。夕方になってメールが届いた。安達は麻ジャケットのポケットから、それをプリントアウトした紙を取り出した。 〈同窓会のお誘い、ありがとうございます。ダムの水量の報告も、毎日ありがとう。同窓会、行きたいし、行くつもりにしていたのですが、おとといからちょっとトラブルがあって……。コウちゃんの奥さん(というか未亡人)とメールでケンカしてます。コウちゃんの遺品を整理するのでパソコンもいじっていたら、わたしに送ったメールやわたしからのメールがどっさり出てきたらしいのです。わけのわからない誤解をされてしまい、主人とはどんな関係だったんだとか会ったことはあるのかとか、あんたが主人のやる気を萎えさせたんだとか、もう笑ってしまうようなことばかり言われて、疲れてしまいました。こんなときにみんなと会うと、よけいなことをしゃべってしまいそうなので、パスさせてください。シュウちゃんやコンタにもよろしく〉 「うまく言えないんだけどさ……」安達は紙を畳み直しながら言った。「コウジのところ、夫婦仲どうだったんだろうな」  僕もあいまいにうなずいた。  安達の二杯目のウォッカは、ダブルになった。僕のオンザロックも、水割りのときより速いペースで減っていく。  清水からも、夕方、キャンセルの電話が入ったのだという。 「臨時店長会議だってさ。あたふたしてたよ」 「忙しいんだな……」  なにげなく相槌を打つと、安達は言いかけた言葉を喉の奥で呑み込んだような顔になった。「どうした?」とうながすと、今度は胸焼けをこらえる顔で周囲の客をそっと見回して、顔を少し僕のほうに寄せた。 「おまえは知らないと思うけど、シュウの会社、ヤバいんだ」  かねてから赤字経営がつづいていたらしい。負債額は数千億円にのぼり、メインバンクもさじを投げかけている。先月から取り組んでいた自主再建案が銀行側に通らなければ、会社更生法を申請する可能性があり、安達の雑誌でも、すでに何人かの記者が経営陣に張りついていて、Xデーを探っている。 「流通業界はどこも厳しいんだけど、あそこは同族経営でトップがバカだから、特にヤバいんだ」  安達は「バカ」を強めて言って、「どっちにしても、シュウの店はつぶれるよ、九九パーセント」とグラスを空けた。 「……あいつ、経営がヤバいってこと知ってたのかな」 「あたりまえだろ」──そっけなく返された。 「でも、こないだは張り切ってたけどな」 「見栄ぐらい張るだろ、誰だって」──もっと、そっけなく。  安達は三杯目のウォッカをまたダブルで頼み、「学校の先生ってのは、のんきなもんだよなあ」とあきれたように言った。  僕は黙ってウイスキーを啜り、あの日の清水の笑顔を思い浮かべた。無理して笑っていたのかと思うと、ウイスキーの煙っぽさが強くなってくる。  そんな僕を見て、安達は「でも、そういうの、コンタらしくていいな」と言った。皮肉かと思ったが違った。安達はつづけて、真顔で、「幸せなのってコンタだけだよ」とため息交じりに言ったのだ。  一瞬、ユミのメールの言葉が浮かんだ。 「アダだって幸せじゃないかよ。マスコミでばりばりやってて……」  言いかけて気づいた。僕はまだ安達の家族のことをなにも聞いていなかった。 「アダは、もう結婚してるんだよな?」 「そういう言い方って、女の子に言うとセクハラになっちゃうぜ」  安達は笑って、「とっくにしたよ」とお通しのナッツを口に放り込み、ゆっくりと顎を動かしながら、「ついでに離婚もすませた」と言った。  三杯目のウォッカを飲むピッチは、急に落ち着いた。酔いがまわったせいではないだろう、たぶん。  二十八歳で結婚して、三十歳で別れた。子供はいなかったが、代わりに安達の両親がいた。安達は一人っ子だ。両親は安達がまだ独身の頃に実家を二世帯住宅に建て替え、そこに奥さんが加わるというかたちになって、嫁姑の仲がこじれにこじれたすえに離婚した。 「結婚して二年目にいまの雑誌に異動になったんだ。過労死するんじゃないかってほど忙しくなって、横浜まで帰るのがキツくて、よく会社の近くのホテルに泊まってた。そういうのもカミさんにとってはアタマに来てたんだろうな。赤の他人の中に、ぽつーんと一人だけいなくちゃいけないんだから」  安達は「バブルの頃だから、仕事は楽しかったんだけどな」とつまらなそうに笑って、「バブルの頃じゃなかったら、二世帯住宅になんか建て替えなかったよ」と言った。  わかるような気がする。地価が嘘のように急上昇したあの頃、不動産広告には億の単位の金額がこともなげに並び、僕たちは一生がんばっても家なんか買えないんだと思っていた。 「もともと二世帯住宅なんて建つような広さの土地じゃないんだ。そこに無理やりだからな、玄関もいっしょ、風呂もいっしょ、二階の台所だってワンルームマンションの流し台に毛の生えたようなものだよ。足音はぜんぶ下の部屋に聞こえてるしさ、俺がカミさんでもキレるよ、あれじゃあ」  安達は奥さんを連れて家を出ることも考えていた。 「でも、カミさんはもうやり直す気はなかったんだ。親父やおふくろの子供だって思うだけで、俺のこと許せなくなるんだって。ひでえもんだぞ、俺がたまにはサービスってんでカミさんの肩を抱いたりするだろ、そうしたら、カミさんの首筋に鳥肌が立つんだよ、ぞぞーっとな。わかるか? それ見たときの気持ち。腹が立つっていうより、もう、ひたすら哀しくてさ……」  いま、横浜の実家には両親だけが暮らしている。「どっちかが倒れたら考えるけど、いまは同居する気にはなれないな」と言う安達が住んでいるのは、都心の、家賃三十万円近い高級マンションだった。再婚の予定はないし、その気もない。別れた奥さんは三年前に再婚して、いまは子供もいるのだという。高木の葬儀の日、家族の話になると妙に冷ややかな態度だった理由が、なんとなくわかった。  安達のグラスが空いた。少し遅れて、僕のグラスも。バーテンダーを呼びかけた安達は、まあいいか、というふうに手をおろし、僕と目が合うと笑いながら言った。 「立ち退きの補償金、もっともらってればよかったんだよな。そうすればもっと広い土地を買えたんだし、うまくすれば俺のマイホーム資金だってキープできてたかもしれないんだしな」  僕は小さく笑い返すだけで、なにも答えない。 「コンタのじいちゃん、なんでもっと粘らなかったんだよ」  これも、答えられるわけがない。  安達もすぐに「なんてな」と話を切り上げて、腕時計に目をやった。 「コンタ、どうする? もう一軒、キャバクラあたりでブワーッとやっちゃうか?」  僕は「今夜はもう帰るよ」と言った。安達も引き留める様子はなく、「そうするか」とうなずいてスツールから降りた。  タクシーで会社に戻るという安達と、ホテルの玄関で別れることにした。安達はタクシーチケットを出しかけたが断った。まだ電車のある時刻だった。  玄関の回転扉を押しながら、僕は訊いた。 「アダ、幸せって、なんだと思う?」  安達は少し驚いた顔になり、あきれた顔にもなったが、ホテルの外に出てから答えてくれた。 「ポン酢しょうゆのある暮らし」  十年以上前に流行ったコマーシャルに、そんなのがあった。  正解──にしておいた。  タクシーに乗り込む前に、安達は「ああそうだ」と僕を振り向いた。「本日の日羽山ダムの貯水率、二二パーセント」 「順調だな」 「でも、あそこは夕立がなあ、いきなり来るからなあ」 「だいじょうぶだよ、今年は」 「……まあ、水が空っぽになったからって、なにがどうなるってわけでもないんだけど」  安達は、太い体を窮屈そうに車の中に入れた。ドアの閉まる音が、耳というより胸に響く。僕は車に近づいた。口を開きかけて、軽く振った手の動きは呼び止めるようなかたちになった。  窓が開く。「どうした?」と安達が訊く。わからない。勝手に体が動いた。ただ、なにかを言いたくて、訊きたくて、それがなにかわからないから、「元気でな」としか口に出せなかった。  安達はちょっと困った顔で笑い、「同窓会の幹事なんて、やっぱり向いてないんだよな」と言った。「まだ昔ばなしするような歳じゃないぜって、だから、今夜はこれでよかったんだよ」 「そうかもな」  そうじゃないさ──はワンテンポ遅れて、負けた。喉の手前でけつまずいて逆転されたのだと思う。 「まあ、またいつか、ゆっくり会おう。コンタもがんばれよ、体にガタが来る頃だから気をつけてさ」 「アダも、飲みすぎるなよ」 「どっちにしても、もう昔みたいには飲めないって」と腹を軽く叩いて、苦笑交じりに首をかしげる。  あらためて軽く手を振って、別れた。  タクシーが走り去り、僕は地下通路につづくスロープを降りていく。あいつのマンションのキッチンには、ポン酢しょうゆはないのかもしれないな──歩きながら、ふと思った。  長かった一日は、そんなふうにして終わった。  深い水の中を素もぐりで泳いでいたような一日だった。水面に浮かぼうとしているのか底に沈みつつあるのかも、わからない。      9  翌日、カズは学校を休んだ。母親からの電話を受けたのは、学校で飼っているウサギに餌をやるために毎朝八時前に登校してくる『いきもの委員会』顧問の福本先生だった。  風邪をひいたので休ませる、という。 「理由は、まあ、べつにいいんだけどね」福本先生は言った。「わたしが職員室の鍵を開けてるときから電話が鳴ってたのよ。ふつう、そんな早い時間に電話してこないでしょ」  たしかにそうだ。  奇妙に思って始業前に自宅に電話をかけてみると、留守番電話になっていた。病院に行ったのだろうか。とりあえず欠席の伝言を受け取ったことを吹き込んで電話を切ったが、なにか釈然としない気分は残ったままだった。  授業中も、カズの席につい目がいってしまう。  それは僕だけではなかった。ヨシマサやシンジたちも落ち着かない様子でカズの席をしょっちゅう盗み見る。  二時間目のあとの二十分間の休憩時間に職員室へ戻って、もう一度カズの自宅に電話を入れた。今度も留守番電話だった。  今日の授業は午前中で終わる。四時間目が授業参観で、子供たちが帰ったあと、希望者の親と個人面談になる。サナエの母親は、なんとか授業参観だけで帰ってくれそうだった。ゆうべカズの父親からお詫びの電話が来た、とサナエが教えてくれた。 「でも、いいじゃない、参観日に休んでくれるんだったら」  田中先生が含み笑いで言う。始業前には、教頭にも同じことを言われた。あまりにも露骨にほっとした顔をするので、まさか教頭がカズの両親に因果を含めたんじゃないかとまで思ったほどだった。 「こっちも助かるわ、授業の邪魔されずにすむから」と言う田中先生は、ふだんより化粧が濃い。服も高そうなツーピースだ。チョークの粉で服が汚れてはいけないからと、理科で使う白衣をつけて一時間目と二時間目の授業をこなしていた。  渡辺先生は朝からぴりぴりしている。禁煙したはずの川西先生も、宿直室でこっそり煙草を吸っていた。出席簿を何度も読み返す先生もいれば、トローチをなめどおしの先生もいるし、付箋片手に教育評論家の本を読みふけって理論武装する先生もいる。授業参観や保護者会の日の職員室は、部屋ぜんたいが小さく貧乏揺すりをしているみたいに感じられる。  教室に戻ると、廊下に出ていたヨシマサたちが、授業中と同じそわそわした様子で僕のまわりに集まってきた。  せーの、というようにヨシマサと顔を見合わせたシンジが、みんなを代表して口を開いた。 「先生、カズって、なんで休んだ、んですか?」  慣れない敬語をつかうところが、いい。  僕は「風邪だよ」と答えた。少しだけ意地悪に、そっけなく。昨日の「ヒイキ」コールは、もう怒ってはいないが、忘れてもいない。 「昨日のアレ、関係ない……よね?」  小学五年生の敬語は長持ちしない。本音をしゃべるときには、なおさら。 「だいじょうぶだよ」笑ってやった。「お母さんからも風邪だって電話があったんだから」  子供たちは、いっせいに安心した顔になる。 「先生はべつにヒイキして言ってるわけじゃないんだけどな」  もう少し意地悪をつづけたら、「やだなあ、あんなのシャレに決まってんじゃん」「しっつけーえ」「マジで言うわけないじゃん、俺ら先生のことそんけーしてんのに」「先生って、しゅーねん深いひと?」「びょーどーだよね、クラスはみんなね、男子も女子もね」と不安と緊張の解けた、いつもどおりの声が返ってきた。  わかっている。あれは、いまはシャレだ。いつでもシャレにしてしまえる、マジだ。  ほらみろよ、だからだいじょうぶだって言ったじゃんよ、と小声で文句を言い合いながら僕から離れていく子供たちの背中に、声をかけた。 「先生のこと、みんなカカシって呼んでるんだって?」  最後の意地悪を、した。  何人かが振り向き、何人かはそのまま歩いていった。振り向いた連中は、僕ではなく仲間どうしで顔を見合わせて、へへっと笑った。  つまらないことを訊いちゃったな、と後悔した。  カズのいない授業は静かに、スムーズに進む。授業参観をなんとか無事にすませ、個人面談の希望者がいないのを確かめると、すぐに職員室に戻った。  カズの家は、まだ留守だった。近所の病院に出かけたにしては長すぎる。病状が悪くて、遠くの大きな病院へまわったのだろうか。電話機に内蔵された応答メッセージは、その向こう側にあるものをなにも伝えてこない。  受話器を置いたとき、ふと気づいた。  なぜカズの母親が電話をしてきたんだ?  ゆうべ田端さんは、今度からはカズと学校のことは自分がすべてやると言っていたはずだ。  田端さんの会社に電話をかけた。 「田端は、本日お休みをいただいております」──電話に出た若い女のひとが言った。  放課後、カズの家に寄ったが、門のチャイムを何度鳴らしても応答はなかった。外から見えるリビングの窓は雨戸になっていた。  家に帰ってから夜中まで一時間おきに電話をかけても、ずっと留守番電話のまま。僕にできるのは、「何時でもけっこうですので、お帰りになったらお電話いただけますか」とメッセージを残すことだけだった。  美知子や子供たちが眠ったあとのリビングで、明日の終業式に渡す通知表のチェックをした。最後まで空白のままにしてあったカズの担任所見欄に、日付が変わる頃、万年筆で短い文章を書き入れた。 〈一学期は、ちょっと勉強に集中できなかったね。小学校生活も残り一年半。二学期はがんばろう〉  学習記録は、〈できています〉と〈がんばりましょう〉が半分ずつで、〈よくできています〉はゼロだった。生活記録の、授業中の態度にかんする項目はすべて〈がんばりましょう〉。田端さんはきっと奥さんのことを話すときのような顔で、カズを見るだろう。奥さんが叱られるかもしれない。一つくらいは〈よくできています〉に替えようかとも思ったが、教師として、やはりそれはしたくない。  丸印を捺すだけの評価は、たしかに血のかよったものではないかもしれないが、そのほうが気が楽になることもある。教師は人間で、教え子も人間で、人間どうしだから、機械的にこなしてしまいたい仕事があるのだ。  通知表をバッグにしまい、テーブルに出したままぬるくなった麦茶を啜る。携帯電話は、まだ鳴らない。訝しさはとっくに不安に変わり、とうぶんは眠れそうにない。  学校から持ち帰ったノートパソコンを、家の電話につないだ。  メールが一件──安達から。 〈日羽山ダム、ついに貯水率20%を割り込みました。渇水調整協議会は取水制限を25%にして、減圧給水(給水制限の一種らしいです)も10%になりましたが、水利権の兼ね合いもあって、これ以上の制限強化はかなり難しそうだ、とのこと。ラッキー。太平洋高気圧は、あいかわらず元気です〉  ブラウザソフトを起動する。ユミのホームページを家で観るのは初めてだ。ガラス格子のドアから明かりの消えた廊下を覗き込み、戸口からの視線を避けるようにパソコンの向きをずらして、なにやってるんだ俺は、と笑った。高木もそんなふうにして日羽山を訪ねていたのかもしれない。  画像ファイルの0071から0090までは中学校の運動会のスナップだった。十月の初め。日羽山の最後の一年も、もう半ばを過ぎた。  赤い鉢巻きを締めて、赤いタスキをかけた僕がいる。生徒席の前で仁王立ちしている。昼休みの応援合戦だ。長い鉢巻きが格好いいんだと、あれはあの頃の流行りだったのだろうか、頭の後ろで結んだ残りをだらんと垂らしている。僕の斜め後ろで和太鼓を叩いているのは、後ろ姿しか見えないが、たしか水泳部の三島だ。  組み体操の写真もある。ピラミッドのてっぺんに安達がいる。あいつは昔、ほんとうに痩せていたのだ。  女子の創作ダンス。輪になったなかにユミの姿を探しかけて、写真を撮るあいつが写っているわけないじゃないかと気づいた。  そして──マウスを持つ手が、止まる。  いままで見てきた写真の中に、ユミが写っているものは一枚もなかった。ユミは、自分のいないふるさとの写真を撮りつづけ、ずっとたいせつに持っていたのだ。運動会の頃は、もう父親は借金まみれになっていたはずだ。ユミもそれを知っていたはずだ。どんな思いでカメラのファインダーを覗いていたのだろう。シャッターを切るたびに、ふるさとに別れを告げていたのだろうか。  0091からは、日羽山の町や中学校のふだんの風景がつづく。ひとの写っていない、山や川や田んぼだけの写真が、少しずつ増えてきた。  トイレのドアを開け閉めする音が、廊下から聞こえた。水を流す音と、またドアを開け閉めする音、それから、美知子のあくび。  呼んでやろうかと思った。これが俺のふるさとなんだぞ、と写真を見せてやろうか。  だが、僕は黙ったままだった。  リビングに近づいてくるスリッパの音を聞いて、ウィンドウを閉じた。電話回線を切り、麦茶を一口飲んだ。 「まだ仕事?」途中まで開けたドアから眠たそうな顔だけ出して、美知子が訊く。「もう一時まわってるわよ」 「いま寝るところだったんだ」 「電話、あったの?」 「……なかった」  現実に戻された。 「ねえ、ウチもそろそろミネラルウォーターの買い置きしたほうがいいと思わない? スーパーに行ったらみんな買ってたし、このままだと来月から断水になるかもしれないって」  ノスタルジー禁止は、我が家でも同じだ。  美知子が部屋に戻ると、やっと眠気が湧いてきた。パソコンの電源を落とす。真っ暗になったディスプレイに、テーブルの真上のペンダントライトの明かりがぼんやりと映り込んだ。  カズは、次の日も学校に来なかった。今度は母親からの電話もない。僕の携帯電話への連絡も、もちろん。自宅の電話はあいかわらず留守番モードのままで、田端さんは会社を二日つづけて休んでいた。  終業式を終え、教室に戻って通知表やプリントを配ると、夏休み中の注意事項を伝えるのもそこそこにカズの家へ向かった。  門のチャイムに応答はない。  まるで昨日のビデオテープを再生しているようなものだった。  だが、昨日とは違うところが、一つだけある。  リビングの窓の雨戸が開いている。カーテンに隠されて中の様子はなにも見えないが、とにかく、出かけたきりではなかったのだ。  ためらいながらも、ただおりているだけだった門扉のかんぬき錠をはずした。  玄関のドアノブも──まわった。  大画面のテレビに、花火がいくつもあがっている。六月に翔太の誕生祝いで買ってやったのと同じゲームだ。  陽光を浴びたカーテンが燃えたつように、まぶしい。  花火がまたあがる。追いかけっこをするようにいくつもあがって、大きな音をたててはじける。  カズはテレビの前に座り込んで、一心にコントローラーを操作している。いや、心のありかはわからない。ただ指だけが動いているのかもしれない。  カーテン越しの陽射しがフローリングの床に散った染みを、光のせいだろうか、それとも血は乾くとそういう色になるのか、ほの白く浮かびあがらせる。 「なにか飲みますか」  田端さんが言った。僕は黙ってかぶりを振ったが、「暑いなあ、今日も」とつぶやいてソファーから立ち上がり、キッチンに向かう。  僕は窓際に転がっていたスツールを起こし、ソファーとL字型に向き合う位置に戻した。スツールの座面にも血の染みがあった。汚いとは思わなかった。痛々しさもあまり感じない。ぼんやりと、自分では経験したことのない前歯がへし折られるときの感覚を思い浮かべてみただけだった。  田端さんは発泡酒の缶を持ってきた。自分はウーロン茶のミニペットボトル。「アルコールが入ると、また血が出ちゃいますから」と紫色に腫れあがった頬をゆがめて、たぶん笑ったつもりなのだろう。 「痛み止め服みすぎて、ちょっとね、頭がぼーっとしちゃって……」  ソファーに座った田端さんは、焦点のはっきりしない目でリビングを眺めわたした。「掃除するの、大変ですよね、これじゃあね」とぽつりと言って、「燃やしちゃったほうが簡単かな」ともっと低く、うめくように言う。  床に落ちたガラスの花瓶のかけらが、プリズムのように光を集め、虹色に輝いている。サイドボードのガラスも割れていた。戸口のほうに転がった置き時計は乾電池がはずれ、七時十七分で止まっている。食器棚の側面にはノミでえぐったような穴が開き、同じ穴は壁にもいくつか穿《うが》たれていた。造り付けの飾り棚にあった人形はすべて床に落ちて、落ちてからバドミントンのラケットを振り下ろしたのだろう、陶製のお姫さまは腰から上が粉々に砕けていた。 「バカですよ、あいつは。頭おかしくなっちゃったんですよ」  田端さんはそう言って、血で汚れたタオルで口をぬぐった。糸をひくよだれに、血のかたまりが交じっていた。  病院には行かない、警察にも通報しない。 「だってそうでしょう? 家の中のことなんですから、私が責任持って向き合わないといけないんですよ、ねえ、先生……」  田端さんはお茶を口に含み、眉をきつく寄せて、ごくんと飲み下した。唇の左側は、右側の倍近くふくれあがっている。熟れたプチトマトのように、少し力を入れて押しただけで薄い皮が裂けて、溜まった血が勢いよく噴き出しそうだった。 「バカですよ、ほんとに」  田端さんは脇腹を軽くさすりながら言った。  カズは動かない。こっちを振り向きもしない。テレビの画面の中で、花火がたてつづけに鳴った。  おとといの夜──ぐったりするほど長かったあの夜、田端さんはやはりカズを厳しく叱った。服を脱がせ、背中をプラスチックの三十センチ定規で何度も打ちすえた。床に倒れたところを踏みつけて、カズをかばう奥さんの頬に平手を張った。 「まあ、たしかに少しやりすぎたかもしれませんが……」と言いかけた田端さんは、「でも、いつものことなんですよ、そんなの」と、僕にというより自分自身に訴えかけるように言葉をひるがえした。  朝になると、奥さんとカズの姿はなかった。置き手紙もない。田端さんは会社を休んで、二人を捜した。家族と向き合う父親として、それは当然のことだった。奥さんの知り合いに一軒一軒電話をかけて、夕方になってやっと居場所がわかった。奥さんはカズを連れて、北陸にある実家に帰っていた。 「はっきり言って……」つづく言葉が出てくるまで少し時間がかかった。「女房はどうでもいいんです、もう」  田端さんは車で北陸へ向かった。真夜中に奥さんの実家に着き、カズだけ連れ戻した。「こいつ、自分から車に乗ったんですよ」と田端さんはカズの背中に顎をしゃくる。「ほんとですよ、無理やり引き剥がしたわけじゃないんですよ」と、息子を見つめるまなざしが揺らいだ。  東京に戻ったのは今朝の六時過ぎ。高速道路をひた走る車の中で、カズはずっと眠り込んでいた。家に着いてカズを起こし、いつもどおり七時半に起こしてやるからもう少し寝ていろ、と二階の自分の部屋に行かせた。往復千キロ近い道のりを徹夜で運転した田端さんは、リビングのソファーに横になってうたた寝していた。  雨戸を開けたので朝陽がまぶしく、右腕を目の上に載せて眠った。 「それで助かったんですよね、頭や目をまともにやられてたら……死んでるかもしれませんよね、いまね」  カズが無言で振り下ろしたラケットは最初その右腕に当たり、少しだけ勢いを弱めて、鼻と口の間に当たった。前歯が折れた。痛みはわからない。ほんの一瞬のことだった。二発目は頬に来た。ソファーから転げ落ちて、反射的に両手で頭をかばったら、三発目──あばらに、めりこんだ。  さらにカズはラケットをふりかざしたが、田端さんが立ち上がるほうが早かった。  親だぞ、と田端さんは言った。お父さんはおまえの親なんだぞ、と口から血を噴き出しながら言った。  カズは父親に背中を向けた。学校でキレるときと同じように、なにか大声で叫びながら、でたらめにラケットを振り回して、リビングを荒らした。  田端さんは止めなかった。 「なんかねえ、遠ーいところで起きてることを見てるみたいなんですよ。ほら、学芸会で、和之がたまたまそういう役をやってて、私、客席でそれを見てるんですよね、ぼーっとね、そんな感じ」  カズはひとしきり暴れたあと田端さんを振り向き、ラケットを床に放り投げて言った。  殺していいよ、べつに。  そのままテレビの前に座り込んで、ゲームを始めた。  田端さんはラケットを拾い上げた。カズにもその気配は伝わったはずだが、身じろぎすらしなかった。殺すっていう意味をわかってるのかと訊いても、返事はなかった。  ラケットを持ったままソファーに座った田端さんは、ガットの編み目の数をかぞえていった。「なんでそんなことしたのかわかんないんですけどね、何本あるんだろうなって」と笑い、「でも、途中でいつも数がわかんなくなっちゃうんですよ、なんべん数えてもね」とまた笑う。笑うと、歯のなくなったところから空気が抜ける。 「バドミントンのやつですからね、軽くてね、こんなのでよく歯が折れたもんだってね、なんていうか、まあ……」  ラケットは、ダイニングのゴミ箱に捨てた。 「だって、血がついてて、使えないですよね、もうね、こんなの」  田端さんはいまも、「遠ーいところで起きてること」を、ただぼんやりと見ているだけなのかもしれない。自分の話す声を聞いてなどいないのかもしれない。  カズはゲームをつづけ、田端さんは薬箱から出した痛み止めを何錠も服んで、ソファーで眠った。気を失っていたのかもしれない。 「先生……ねえ、ウチの子、やっぱり気が狂ってますよね? おかしいでしょう?」  田端さんはソファーの背に体を深く預け、目をつぶった。  僕は、見えないのはわかっていたが、ゆっくりと首を横に振った。蓋を開けなかった発泡酒の缶をテーブルに置いて、クラス担任ではなく同い年の、同じように妻を持ち息子を持つ男として、言った。 「和之くん、今夜はウチに泊まってもらいます。明日からも、とにかく家のほうが落ち着くまでお預かりします」 「はあ?」目を閉じたまま、田端さんは笑う。「そんなこと、けっこうですよ、学校のことじゃなくて家の中のことなんですから」 「和之くんの、ことなんです」 「話し合いますよ、ちゃんと息子と話し合いますから、ご心配いただかなくてもだいじょうぶです」 「奥さんと話し合ってください、その前に」  田端さんは目を開けない。鼻の奥に血が詰まっているのか、少し息苦しそうに肩を上げ下げする。 「病院にも行ってください」 「……先生、私、父親失格ですか? どうなんですか? 私、間違ったことしてるつもりないんですけどね」 「間違ってません」田端さんよりもカズに伝えたい。「でも、もっと別のやり方があるんだと思います」  田端さんは薄目を開けて「どんな?」と言った。 「わかりません」 「……いいかげんですね」  僕は黙ってバッグから紙とペンを出して、自宅と携帯電話の番号を走り書きした。 「和之くんは責任を持ってお預かりします。状況が落ち着いたら、すぐにご連絡ください」  田端さんはなにも言わずにタオルで口元を拭った。白いタオルに、また新しい血が染みていく。三十七歳の男の体に流れている血は、若い頃に比べてどんなふうに違うのだろう。さらさらとは流れていないような気がする。濁り、澱んでいるとまでは言いたくないが。  僕はメモをテーブルに置いて席を立ち、カズの背後にしゃがみ込んだ。 「カズ、先生んちに行こう」  返事はなかったが、コントローラーを操作する指は止まった。 「先生のところ、五年生の息子がいるんだ。翔太っていうんだけど、ゲームも大好きだし、ポケモンとかデジモンにも詳しいから、いっしょに遊べばいいよ」  後ろから、カズの両肩に手を置いた。少し強くつかんだ。カズはうつむいて身をこわばらせたが、僕の手から逃げるそぶりは見せなかった。 「着替えは……いいな、ちょっと大きいかもしれないけど翔太の服があるから、このまま行こう」  肩からはずした手で、背中を撫でてやった。真新しいアザが浮き、ミミズ腫れが幾筋も走っているはずの、翔太より一回り小さな背中を、何度も何度も撫でた。 「先生んちに、行こう」  カズは黙ってゲーム機のスイッチを切った。      10  清水の会社の自主再建案が発表されたのは、その週の金曜日──七月二十一日の朝のことだった。  僕はそれを夕刊で知った。首都圏を中心に百近くある店舗のうち二割を整理するという。店舗のリストは載っていなかったが、おそらく清水の店はアウトだろう。店長という肩書きを失うだけではすまないかもしれない。 「結婚したばかりなんでしょ、そのひと」  夕食の支度に一段落つけた美知子が、キッチンから顔を出して言った。 「うん。まだ子供、赤ん坊だって言ってたな」 「リストラされるわけにはいかないわよね、だったら」 「ああ……」  かたちだけうなずいて夕刊をめくったが、ほんとうは美知子とは逆のことを考えていた。リストラされるなら、いま──子供がものごころつく前のほうがいい。  生活費ではなく、居場所の問題だ。父親が居場所をなくしてしまうのを子供に見せたくない。お父さんは会社から「要らない」と言われてしまったんだと子供に思われたくはない。  美知子はテーブルについて、新聞を逆さから覗き込んだ。「ねえ、天気予報どうだった?」と訊かれて、僕はページを一面に戻す。  太平洋高気圧はあいかわらず強い。明日から六日間の全国の天気は、札幌から那覇までほとんどすべて晴天だった。ただし、九州と沖縄は週明けの火曜日、二十五日頃から曇りがちになり、一覧表の最後の二十七日は中国四国地方でも傘のマークが出ている。 「台風が来るかもしれないって」 「ほんと?」 「まだフィリピンとか、そのへんだけど」  短い解説文の末尾には、〈恵みの雨を期待したい〉とあった。  美知子も「なんとか降ってくれるといいけどね」と言う。  表の中で日羽山にいちばん近い場所は新潟になる。二十七日は、晴れのち曇り。降水確率は三〇パーセント。山間部はもっと確率が上がるだろう。  僕はまたページをめくって、「天気予報なんて、あてにできないよ」と言った。 「すぐそうやって悪いほうに考えるんだから」と美知子は笑う。  二面の経済欄に、中高年の再就職にかんする小さな囲み記事があった。最新の『国民生活白書』によると、年齢制限付きの中途採用募集の上限年齢は、平均三十七歳なのだという。特にホワイトカラーでは三十五歳を中心に前後二歳程度。僕たちは、ぎりぎり、ということになる。  いや、それ以前に、自分がもう「中高年」に含まれているというのが、もちろん「若者」で通じるなどとは思っていないのだが、なんというか、苦い。  おととしの暮れ、美知子がカンシャクを起こして、買ってきたばかりの雑誌をゴミ箱に放り込んだことがある。学生時代から読んでいたファッション誌だった。その号から始まった生年月日と星座を組み合わせた占いページに、美知子の──僕たちの生まれた年が載っていなかったので腹を立てたのだ。  少し気持ちが落ち着いてから、美知子はゴミ箱から雑誌を拾い上げて、僕にこう言った。 「学生時代は、ちょっと背伸びして読んでたの。最近になって、やっとぴったりになったかなって思ってたんだけど……よく考えたら、その『最近』って、十年ぐらい前のことなんだよね」  くしゃくしゃになった表紙の皺をていねいに伸ばしながら「いつのまに追い越しちゃったのかなあ」と寂しそうに笑った美知子は、けっきょくその雑誌を買わなくなった。  僕たちは、そんなふうにしてオジサンやオバサンになることを受け入れてきた。これからも似たようなできごとを繰り返して、年老いていくのだろう。  五時のチャイムが公園のほうから聞こえたのをしおに、美知子は「さあ、にぎやかになるぞお」と歌うように言って席を立った。 「悪いな、カズのこと」  新聞を閉じながら僕が言うと、「だいじょうぶよ」と笑ってキッチンに戻り、鍋に水を入れる音といっしょに「少しは元気になってよかったじゃない」と付け加える。  カズを我が家に連れ帰ってから、丸二日になる。ゆうべ田端さんから電話がかかってきた。この週末に奥さんの実家を訪ねて今後のことを話し合うらしい。「差し歯ができてからにしようと思ってたんですが、あれ、けっこう時間がかかるんですね」と笑っていた。  話し合いの結果がどうなるかは、僕にはなにもわからない。どうなってほしいかも、それは僕が考えることではない。  ただ、一つだけ、田端さんに聞いてほしい話があった。  十九日の夜、少し迷ったが、なんとかなるだろうと翔太と二人で風呂に入れた。事情をなにも聞かされていない翔太は、風呂の中でカズの背中の傷に気づいて「すっげえーっ、なにこれ、プロレスラーみたいじゃん」と屈託のない声を張り上げた。僕や美知子の前ではうつむいたきり返事もろくにしなかったカズも、初めて笑った。狭い浴室の壁やお湯に跳ね返った声は、たしかに笑い声だった。 「それでね」僕は田端さんに言った。「和之くん、ウチの息子に言うんですよ、『とーちゃん、SM入ってるから』って。息子もウケてましたよ。五年生なのにね、みんなすごい言葉知ってるんですよねえ」  田端さんはその話には「そうですか」と気のない相槌を打つだけだったが、電話の最後に「和之のこと、もうしばらくよろしくお願いします」と言った。 「責任を持ってお預かりしますから」 「わがままなこと言うようでしたら、ご遠慮なく厳しく……」  言いかけて、「こういうところがだめなのかな」とひとりごちる。 「いい子ですよ、和之くんは」  返事はなかった。 「でも、お父さんも間違ってるわけじゃないと思います」 「いいですよ、そんな、気をつかってもらわなくても」 「いや、そうじゃなくて……」  ここから先の言葉がつづかないのは、カズの家で話したときと同じだった。この次に話すときも、何度話しても、やはり言葉は先へは進まないのかもしれない。だが、田端さんはもうそれをいいかげんだとは言わなかった。  五時のチャイムが鳴ってほどなく、同級生のミズホちゃんの家に遊びに行っていた早希が帰ってきた。少し遅れて、汗びっしょりになった翔太とカズも「ジュース、ジュース」と駆け込んでくる。 「捕れたか、クワガタ」 「やっぱだめだった」 「だろ? 朝早くじゃないとだめだし、ウチの近所になんかいるわけないんだよ」 「その代わり、トノサマバッタ、ゲットだぜーっ」  得意げに虫かごをかざす翔太の隣で、カズも白い歯を見せる。僕と目が合うとうつむいてしまうのはおとといと変わらない。昨日、近所をドライブしたときも、翔太や早希としかしゃべらなかった。  それでも、少しずつ元気になっている──と信じていたい。 「ジュース飲んだら、二人ともごはんの前にお風呂に入っちゃいなさい。今日はちゃんとシャンプーしなきゃだめよ」 「うげーっ」 「お兄ちゃん、早希も入っていい?」 「ばーか、だめに決まってんだろ、女子いらねーっ。なあ? カズ」  カズはワンテンポ遅れて「だよなーっ」と嬉しそうに言った。  仲間はずれにされてしまった早希はふくれつらになったが、「お兄ちゃんたちがお風呂に入ってるうちにアイス食べようぜ」と僕が小声で言うと、すぐに機嫌を直してくれた。  今度は、耳ざとくそれを聞きつけた美知子が「ほら、すぐそうやって甘やかしちゃうんだから。ごはんの前なんだからね」と唇をとがらせ、浴室に向かって「お水、無駄づかいしちゃだめよ」と一声かけた。  早希が冷凍庫から出してきたカップのレモンアイスを交互に一口ずつ食べていたら、電話が鳴った。  田端さんからだろうか。一瞬思い、今夜はカズを電話に出したほうがいいかもしれないな、とも思った。  電話に応対した美知子が、受話器の保留ボタンを押して僕を振り向いた。 「あなた、電話」 「田端さん?」  違う違うというふうに、こわばった表情で強くかぶりを振る。 「清水さんって……さっき話してた清水さんのことよね?」  ほかに清水という苗字の知り合いはいない。  長い電話になった。  清水は、自分のことはなにも言わなかった。そういう奴だった、昔から。  コウジがかわいそうだ、と繰り返した。涙ぐんで、最初のうちは興奮もしていた。おかげで、ことのいきさつを整理するのに少し時間がかかった。  高木の両親と奥さんが、生命保険とマンションの頭金をめぐってもめている。  保険の受取人は奥さんだったが、十年ほど前に買ったマンションのローンの頭金は高木の両親が半分出していた。両親はそれを返してほしいと言い、奥さんは返す筋合いはないと突っぱねて、話がこじれてしまったのだ。  高木の生前──外資系の証券会社を辞めた頃から、折り合いは悪かったらしい。頭金の話も、だから、金の問題というだけではないのだろう。  高木の母親に言わせれば、過労で居眠り運転をしてしまうほど息子が無理をしたのは、嫁がいままでどおりの贅沢な暮らしをつづけようとしたせいだ、となる。奥さんは奥さんで、高木が会社を勝手に辞めたせいで子供たちは学校でも肩身の狭い思いをしていたんだ、と言い返す。しまいには、高木に愛人がいただのいないだの、料理もろくにつくらない嫁に息子は嫌気がさしていただのいないだのと、ワイドショーや女性週刊誌に出てくるような泥仕合になってしまった。  高木の母親は、その経緯を清水の母親にいちいち愚痴っていた。年老いた清水の母親が自分一人の胸にしまっておくには、重すぎる話だった。母親は受け取った愚痴を持て余したすえ、そのまま毎晩のように清水に伝えていたのだった。 「どっちがいいか悪いかなんて、決められるわけないよな……」清水は洟を啜りながら言った。「ただ、コウジは悪くないっていうことだけは、わかるんだよ」  僕は小さく喉を鳴らして「ああ」と応えた。清水は優しい。高木が悪くないのかどうかもほんとうは誰にもわからないんだと、僕なら思う。  ゆうべも、清水の母親は電話をかけてきた。だが、今度は愚痴の伝言ではなかった。 「俺、それ聞いたときに、その場にへたりこみそうになっちゃったよ。全身から力が抜けるっていう感覚、生まれて初めてわかった」  そう前置きして、「コンタもへなへなってなっちゃうよ、ぜったい」と念も押して、清水は話していった。  いまは東京の自宅にある高木の遺骨を、実家に持ち帰る。  もともと八月になったら実家に持ち帰り、四十九日の法要で高木家の墓に納骨することになっていたのだが、もはや一日たりとも嫁の手元に息子を置いておきたくない、と母親は言いだした。奥さんも、好きにすればいい、ウチに置いてあっても腹が立つだけだから、と明日にも宅配便で送ってしまいそうな剣幕だったという。  だから──取りにいく。 「コウジのおふくろさんが?」  僕が訊くと、清水は「だったら腰は抜けないよな」とつまらなそうに笑った。 「じゃあ……まさか、おまえのおふくろさん、そんなことまで頼まれちゃったのか?」  半分、正解だった。 「コウジの父ちゃん、膝に水が溜まってろくに歩けないんだ、最近。母ちゃんは田舎者だから、とても一人じゃ東京になんか行けないっていうんで、ウチの母ちゃんに相談してきたんだ。まあ、話の行きがかりからすれば、ウチの母ちゃんが取りにいくのがいちばん簡単なんだけど……」  清水の母親も、よその家のもめごとにこれ以上関わり合いになるのを嫌がった。 「俺に取りにいけって言うわけよ、母ちゃん」  清水は少しおどけて、泣きそうな声を出した。  思いだす。まだ僕たちがガキの頃。清水の母親は、友だちの母親のなかでいちばんおっかなかった。いたずらをしたら、清水も僕たちもまとめて尻をひっぱたかれた。畑仕事の忙しい頃に遊びに行くと、すぐに手伝わされた。 「……で、行くのか? シュウちゃん」  答えはすぐには返ってこなかった。 「おまえが、行くことになったのか?」  重ねて訊くと、ふう、と息をつく。 「しょうがないから行くつもりだったんだよ。でも、ちょっとな、こっちも尻に火が点いちゃったの知ってるだろ?」 「ああ……」 「身動きとれないんだ、いま」  わかる、それは。慰めの言葉を言いたくはないが、ただ黙ってうなずくだけというのもつらいので、ため息を、受話器のマイクにこすりつけるように送った。 「それでな」清水は口調をあらためた。「俺、考えたんだよ」  一瞬、嫌な予感がした。 「コンタ、おまえ学校の先生だから、いま、夏休みだよな?」  当たった。 「頼むよ、アダも今月いっぱいはお盆休みの合併号で死にそうに忙しいって言ってるんだ。コンタしかいないんだよ」  たしかに、へなへなとしゃがみこみたくなる。 「ちょっと待てよ、おい……」 「明日の午後だったら何時でもいいから。コウジの母ちゃんも、なに考えてるんだろうな、奥さんに日にちだけ啖呵切ってるんだよ。だから、ほんとに、誰も取りにいかなかったら格好つかないだろ。コウジがかわいそうだよ、そうなったら」  最後の一言でとどめを刺したつもりなのだろう、と思っていた。  だが、清水は、もう一言、ほんとうのとどめを用意していた。清水にはそのつもりはなかったかもしれないが、僕にとっては致命的なとどめになった。 「コウジの親が出したマンションの頭金、あれさあ、日羽山ダムの補償金の残りだったみたいだな」  清水は、そう言ったのだ。  その夜も、いつもどおり安達からメールが届いた。  日羽山ダムの貯水率、一二パーセント。  メールには〈他のダムの例を調べてみると、これくらいになると、もう湖底がほとんどむき出しになっている状態のようです〉とあった。〈幻の日羽山帝国、現代に甦るか?〉とも。  なに言ってるんだ、と笑いかけたとき、あの夜──二人きりの同窓会の別れ際に言いたかったことや訊きたかったことが、不意に胸に浮かんだ。やっとわかった。僕は安達に「日羽山が懐かしくないか?」と訊きたくて、「俺は懐かしくてたまらないんだ」と言いたかったのだ。  そして、もう少し酒を飲んでいれば、「帰りたいよなあ」とも、きっと。  清水はどうだろう。日羽山の話をすればよかった。電話を切ったあとすぐに思ったが、いまになってみると、もしもあいつが「帰りたい」と言いだしたら、僕はまたため息しか返せなくなってしまう。  ユミは──。  僕にはまだ幸せの定義ができていない。これからもわからないままかもしれない。ユミはいま、日羽山を憎んでいるのだろうか。いとおしんでいるのだろうか。「帰りたい」と言える暮らしが幸せなのか、幸せなら「帰りたくない」と答えるのか、僕にはなにもわからない。  ウイスキーの薄い水割りを、一口啜る。  子供たちはやっと寝静まった。翔太の部屋から聞こえるカズの声は、ゆうべよりずっと、最初の夜に比べるともっとずっと、笑い声が多かった。  美知子はもうすぐ風呂からあがるだろう。明日からの週末のことは、これから話す。土曜日に高木の遺骨を奥さんから受け取って、日曜日の朝早く出発すれば、高木の両親の住む町までなんとか日帰りで往復できるだろう。そこから峠を二つ越えれば日羽山ダムだが、それは、いまは考えずにおく。  水割りを、ごくん、と喉を鳴らして飲んだ。  少し迷ったが、ブラウザソフトを起動して、ユミのホームページを訪ねた。  日羽山の画像ファイルも、残りわずかになった。季節は晩秋に入っている。刈り入れが終わって藁を積み上げた田んぼや、実を一つだけ残した柿の木や、老人会のおばあちゃんたちが編んだ毛糸のちゃんちゃんこを着たお地蔵さんが、マウスをクリックするたびに画面に表示される。  ユミの父親が日羽山から姿を消したのは、朝の田んぼが霜でほの白く染まるようになった頃だった。  バス停。白地にくすんだ淡いブルーの横線が入った、一日に数便の「街」行きのバス。町役場の玄関。自衛官募集のポスター。一足早く日羽山を引き払った家族が残した、雨戸のはずれた空き家。  ユミの写真が風景ばかりになったのは、その頃から一人で過ごすことが増えたせいかもしれない。  雪をかぶった遠くの山並み。空、たぶん夕暮れの。焚き火。誰もいない中学校のグラウンド。野球のボールが網に食い込んだまま取れなくなったバックネット。お稲荷さん。鳥居に載った小石。顔を思いだせない誰かと誰かの相合い傘の落書き。赤い長靴のお菓子セットを提げた幼い女の子。薄く氷の張った池。「街」の質屋の看板が結わえられた電柱。原田商店の軒先に置かれた、十円玉しか使えない赤い公衆電話。紐付きの手袋をした小学生の男の子。安達が知ったかぶりをしてコウノトリだと言い張っていたシラサギが飛び立った、川の浅瀬。  僕たちは、ここにいた。ずっと昔、ここが僕たちみんなの居場所だった。  0117は、中学校の教室だった。黒板に学級委員の選挙の「正」の字が残っているから、もう年が明けて三学期が始まっている。女子が数人。単語カードをめくっているのは、井之口さんだ。いまはどこでなにをしているのだろう。  0118は、廊下の学年掲示板。〈県立高校入試まであと38日〉とあるのは三年二組の担任の山崎先生の字で、〈残り少ない中学生活を悔いなくがんばろう!〉は、僕の字だ、これは。  画像ファイルは、あと二つ。  僕は大きく息をついて、マウスから手を離した。その手を水割りのグラスに伸ばしかけてやめた。酔わずに見よう、と決めた。  酒の代わりに、0118で止まった画面を見つめながら煙草を吸った。浴室のほうからドライヤーの音が聞こえてきた。まだ長い煙草を灰皿に捨てて、椅子に座り直し、僕はまたマウスに指を載せる。  0119は、生徒会室だった。写真の真ん中に、僕がいた。卒業式の準備がもう始まっていたのだろうか、バインダーを開き、手に赤ペンを持って、二年生の役員になにか言っている。ユミは僕を写してくれた。これは僕を写した写真だ。ずうずうしいかもしれないけれど、そう信じることにして、だから、もっとずうずうしく、目に涙を浮かべた。  そして、0120──最後の写真は、ユミの家だった。門の外に立って、レンズは二階に向けられていた。両端にカーテンが束ねてある窓には、あの頃流行っていたヒマワリのステッカーが貼ってある。ユミの部屋だ。窓の奥は暗く、部屋の様子はなにも見えない。たとえ見えても、そこにユミはいない。ユミは最後の最後まで、自分のいない日羽山を撮りつづけたのだ。  涙が目からあふれた。泣いているというほどの感情の高ぶりはなかった。それでも、涙が止まらない。感情とは違う、もっと奥の、もっと小さななにかが揺さぶられている気がした。  ドライヤーの音がやみ、僕は指で目元を拭う。  美知子がリビングに入ってきた。「いやだ、部屋で煙草吸っちゃったの?」と怒ったふうでもなく言う。  僕はユミの家を見つめたまま、言った。 「明日、ちょっと車で出かけるから」 「……いいけど?」  美知子はソファーに腰かけて、テレビのスイッチを入れた。 「あさっても、朝から出かけるんだけど」 「知ってる、だってデパート行くんでしょ?」  わざわざ言わなくてもわかってるってば、というように笑いながら。 「いや、そうじゃなくて……ちょっと用事ができたんだ。ひょっとしたら、明日からずっと出かけてるかもしれない」 「どうしたの? なにかあったの?」  僕は美知子に目を移す。美知子の肩越しに、ちょうど天気予報だったテレビ画面の、気象衛星からの写真がぼんやり見える。 「帰るんだ、日羽山に」 「はあ?」 「コウジや……みんなと、日羽山に帰りたいんだ」  どこから話そう。どこまで説明しよう。長い話になりそうな気もするし、ほんの一言で終わりそうにも思う。  気象衛星からの写真には、沖縄のずっと南のほうに白い雲のかたまりが写っていた。台風は予想より速いスピードで北上をつづけているらしい。 「早くしないと、雨が降っちゃうから」  けっきょく、その一言なんだろうな──瞼の裏に、また涙がにじんだ。      11  受け取りにいく、という気持ちではなかった。  迎えにいくんだ、と思った。  高木はガキの頃からのろまなところがあって、先に学校のグラウンドや河原に着いた僕たちは、しょっちゅうあいつの家に迎えにいってやっていた。昔と同じだ。  そうだよ。フロントガラス越しに渋滞の車の列を眺めて、笑った。おまえはのろまだったじゃないか。証券マンとかタクシーの運転手とか、そんなのもともと似合わなかったんだよ、おまえには。  夏休み最初の週末なので、道路はどこも混んでいる。カーラジオの交通情報によると、湘南のほうでは三十キロ渋滞、中央高速も山や高原に向かう車で十五キロの渋滞が二カ所。僕の乗った首都高速も、さっきから歩くよりも遅い速度で少し進んでは止まるのを繰り返している。  カーラジオから、正午の時報が聞こえた。東京の気温は、午前中で早くも三十度を超えている。今日も暑い。だが、時報のあとの短いニュースは、この週末の沖縄の海は台風の接近で波が高そうだと伝えた。  助手席に置いた携帯電話が鳴る。電話機を取りながら、渋滞でよかったじゃないか、とあらためて思う。  電話は安達からだった。ゆうべ僕が送ったメールを、いま開いたのだという。  寝起きなのか、安達の声はくぐもっていて、そして不機嫌そうだった。 「コンタ、おまえ、そういうのやめとけよ」──最初に言われた。 「ダムの水が干上がるのなんて、もう一生ないかもしれないんだぜ」と僕は返す。 「そりゃあそうだけど、だからって日羽山の町がそのまま残ってるわけじゃないんだぞ。泥に埋もれて、家なんかも腐ってて、はっきり言って、見ないほうがぜったいにいいって」  それくらい、僕だって覚悟している。 「コンタもユミのホームページ見てるんだろ? もうそれでいいじゃないかよ、きれいな思い出だよ」  車の流れはぴたりと止まってしまい、動きだしそうな気配はない。  僕は車のシフトレバーをニュートラルに戻し、サイドブレーキをかけて、言った。 「見るんじゃないんだ。帰りたいんだよ、俺は」 「いや、だからさあ、そういう発想って、やめろよ。後ろ向きじゃんよ。東京で酒を飲もうっていうのとは、ぜんぜん意味が違うだろ、それって」 「アダが毎日送ってくれたメールでその気になったんだぜ?」 「……あんなのシャレだよ。おまえが教えろって言うし、ダムの水が減っていくのなんて、おもしろいじゃん、それだけだろ?」  メールに書いていたのは、たしかにそれだけだった。だが、言いたいことと言葉にできることとは違う。僕たちはもう三十七歳で、たぶん言いたいことの半分も言葉にしない癖がついている。 「アダ、帰ろう」 「……だから、帰るんなら一人で帰れよ」 「二人だよ。コウジもいるから」 「だったら二人で帰れ」 「おまえが来ないんだったら、そうする。でも、できればいっしょに帰りたい」  安達は「連れションじゃないっての」と笑って、「シュウはどうするって言ってた?」と訊いた。  嘘をつくのは、やめよう。 「一時間ほど前に電話があって、店があるから行けないと思う、って」 「だろ? 帰りたいとか帰りたくないとかの前に、忙しいんだよ。シュウなんて特にヤバいときなんだし、俺だってこれで三日連続だぞ、会社に泊まるの。公務員の感覚で言うなよな」 「今夜遅く東京を出れば、明日の朝には日羽山に着くんだ。日曜日中に東京に帰れるんだよ」  安達は「俺らの仕事、曜日ってあんまり関係ないんだよ。学校の先生にはわかんないかもしれないけど」と、また笑った。さっきよりも冷ややかに、あきれはてたように。 「でもさ……」 「甘いんだよ、おまえ」  突き放された。と同時に、後ろからクラクションの音も。いつのまにか車の列が動きだしていた。  あわててサイドブレーキを解除し、シフトレバーを入れ直す僕に、安達は言った。 「ユミは? 誘ったのか?」 「ああ……」 「電話来たか?」僕の沈黙を確かめてから、少しだけ慰める口調になって、つづける。「みんな忙しいんだよ、ほんとに。ガキの頃みたいに身軽には動けないんだから」  車がビルの陰に入ったせいか、電波の状態が急に悪くなって、電話は切れてしまった。つなぎ直すのは、やめた。安達からも再びかかってくることはなかった。  車の流れは、また止まる。ダッシュボードの照り返しに目をうんと細くした僕の顔が、ルームミラーの端に映る。  カカシを、ふと思った。 「へのへのもへじ」の顔は、いままでずっと怒った顔だと思っていたが、意外と泣き顔なんじゃないかという気がした。鳥やけものに作物が食い荒らされるのをただ見つめるしかない自分が哀しくて、悔しくて、カカシは唇を結んでいるのかもしれない。  世田谷の住宅街にある高木のマンションに着いたのは、午後三時頃だった。不動産広告のコピーなら「羨望の」が付く街の一角だ。マンションも、それなりに古びてはいたが高級そうなつくりだった。  エントランスはオートロックになっていた。カウンターの窓からこっちを見る管理人のおじさんの目と耳をごまかして、モニター付きのインターフォンのカメラに笑顔を向け、「高木さんのご実家の使いで来ました」とだけ言った。  奥さんが一瞬困惑する気配が、マイク越しに伝わった。「どうぞ」とオートロックを解除する声は、なにかあきらめをつけたようにも聞こえた。  リビングに通された。広さは我が家とたいして変わらなかったが、その手のことにまったくうとい僕にも、洒落たデザインの家具が置いてあることはわかる。  サイドボードの上に、白い布に包まれた高木の遺骨があった。その隣には、水とぶどうを供えた小さな位牌。緑色のついたガラスのミルクピッチャーに、熱帯魚の水槽に敷き詰めるような小石を入れて、それが線香立てになっていた。写真もある。遺影と同じボストンフレームの眼鏡をかけた高木が、ポロシャツの胸の前でVサインをつくって笑っている。  高木の子供たちは遊びに出かけて留守だった。帰りを待ったほうがいいのかと思ったが、奥さんは「いえ、もう……お骨《こつ》はお骨《こつ》ですから、いいんです」と高木の写真を振り向いて、小さく言った。  僕が焼香と合掌をする間に、奥さんは麦茶を出してくれた。葬儀の日に会ったときは憔悴しきっていて最後までうつむいたままだったが、いまはだいぶ落ち着いたようだ。  ソファーに向かい合って座ると、奥さんは僕に足を運ばせた礼と詫びをていねいに言って、「主人って、おかあさんのこと、けっこう苦手だったんですけどね」と寂しそうに微笑んだ。  今朝早く、僕が遺骨を受け取りにいくことを伝える電話が高木の実家からかかってきて、そこでもまた一悶着あったのだという。 「学校が休みになったんだから子供たちを早く田舎に帰らせろって、ひと夏ずっと田舎で過ごさせてもいいんだからって……意地悪なんですよ、わたしをひとりぼっちにさせたいんです。だって、いままでそんなこと言ったことなかったんだから」  僕は黙ってうなずくだけだった。奥さんには奥さんの、母親には母親の、言いぶんがある。明日、高木の遺骨を持って実家を訪ねたら、嫁が孫に会わせてくれない、と愚痴をこぼされるだろう。  マンションや子供の学校のことも、奥さんは訴えかけるように僕に話した。どうしても生活が苦しければマンションを売りに出し、子供を公立に転校させればいい。奥さんには、その覚悟はできていた。だが、高木が意地を張った。田舎の母親を心配させたくないからという理由で、いままでの生活を維持しようとしたらしい。  奥さんが嘘をついているとは思わない。だが、すべてほんとうのことを言っているとも思わない。僕にはわからない。だから、よけいなことは言わない。第三者としていちばん正しい態度は「コウジは、バブルの頃のいい暮らしが忘れられなかったんですよ、どうせ」と混ぜっ返すことかもしれない、という気もしないではない。  片一方の言いぶんだけを聞いて単純に同情したり憤ったりしていた若い頃が、懐かしい。歳をとって、世の中や人間のいろいろなことがわかってくるにつれて、中立の位置から身動きがとれなくなることが増える。やはり、僕たちはカカシなのだろう。  十分ほど奥さんの愚痴に付き合ってから、「じゃあ、そろそろ……」と腰を浮かせた。  奥さんは僕が手ぶらで来たことに気づいて、「なにか入れるものを探してきます」とリビングを出ていった。車だからこのままでけっこうですと言いかけたが、管理人のおじさんの来訪者をぶしつけに眺める視線を思いだして、黙ってソファーに座り直した。 「上の子のお古なんですけど、これで入りますかねえ……」  奥さんが持ってきたのは、スポーツバッグだった。目が合うと、「こういうのに入れるの、よくないかもしれないけど」と寂しそうに笑う。「バチが当たっちゃったりして」  僕も笑い返して、「だいじょうぶですよ」と言った。高木はそんな奴ではない。なんだよしょうがないなあ、ときっと笑って許してくれる。  奥さんが遺骨をバッグに納め、僕がジッパーを締めた。ぴったりのサイズだった。 「こんなのに入っちゃうんですね……人間、死んじゃうと……」  奥さんは床に膝をついたままバッグを軽く撫でて、声を押し殺して泣きだした。  帰りの首都高速もやはり混んでいた。しばらくはゆるゆると前に進んではいたのだが、ジャンクションの手前で、まるで夕凪《ゆうなぎ》のように車の流れはぴたりと止まってしまった。  僕は助手席のスポーツバッグを膝にとった。なにかの間違いじゃないかと思うほど軽い。嘘だろう、おい、と言いたくなるほど小さい。  バッグと骨壺を差し引いたら、高木の骨と灰はどれくらいの重さになるだろう。生まれたての赤ん坊よりも軽いのかもしれない。三十七年間生きてきて、死んで、けっきょくふりだしに戻ってしまうわけだ。  中学時代の高木は背が高かった。たしか二年生のときに身長が十何センチ伸びて、制服のズボンの裾を一年間で二度も下ろして、取れない折り目をいつも気にしていた。靴のサイズも大きかった。二十七センチのズックを履いていたのは、学年であいつだけだった。  勉強はどうだったっけ。いい面でも悪い面でも、あまり目立たない成績だった。技術家庭の木工はずば抜けて得意だったような記憶があるが、いや、それは陸上部の山下だったかもしれないし、水泳部と野球部を掛け持ちしていた渡辺だったような気もしないではない。  だが、どっちにしたって、けっきょくは──これだ。  ここだ。  このざま、だ。  僕は鼓を打つように拍子をつけてバッグを叩き、なるべく遠くを、夕陽に赤く染まりかけた空を、にらむように見つめた。  三十七年間、生きてきた。これからも、たぶん同じくらいの年月を生きるだろう。どんなふうに生きていくのかは、まるで見当がついていないと言えば嘘になるが、まだ、わからない。だが、最後の最後は、ここに来る。それがわかった。僕もいずれ──いつかは、スポーツバッグに入る程度の骨と灰だけ遺して、消える。むなしいとは思わない。寂しさや哀しさも、思ったほどは湧いてこない。ただ、そうなんだなあ、と。なるほどなあ、と。気の乗らない試験勉強で、参考書に載った模範解答例をぼんやりと目で追っているときのように。  携帯電話が鳴った。  スポーツバッグを膝に抱いたまま、受けた。 「コンタ、もう取ってきたのか?」──清水だった。 「いま抱っこしてやってるんだ」と僕は言った。  清水は「はあ?」とピンと来ない声を出して、まあそんなのどうだっていいや、というふうに本題をすぐに切りだした。 「やっぱりおまえ、今夜行くのか?」 「ああ……そのつもり」 「時間とか場所とか、メールに書いてたのと変わらない?」 「たぶんな」 「そっか……」  ゆうべ清水と安達とユミに送ったメールに、待ち合わせ場所と時間を書いておいた。夜十時。場所は、高速道路のインターチェンジに近い、スキーやゴルフに行くひとがよく待ち合わせに使うファミリーレストラン。 「じゃあ、なんとか行くようにするよ」 「都合ついたのか?」 「違う違う、日羽山に行けるほどの時間はないけど、見送りぐらいには行けると思うんだ。やっぱ、コウジもさ、これで最後なんだし」  優しい奴だ、とにかく昔から。そして、僕は知っている、昔から優柔不断で、誘われると断れない奴だ、シュウは。 「いっしょに行こうぜ」こっちの迷いやためらいを感じさせずに言うのが、コツ。「みんなでいっしょに帰ろう」 「いや、だからさ……とにかく忙しいんだよ、これマジだぜ」 「帰ろう」 「……そういうこと言うなよ、見送りに行くだけでもぎりぎりなんだから」 「帰ろう」 「コンタぁ……頼むよお……」 「帰るぞ」 「……悪い、いまからタイムサービス始まるから、じゃあな」  それでも、電話を切る前に「とにかく見送りには行くから」の一言を言わずにはいられないのが、シュウだ。  僕はスポーツバッグをまた一つ叩いて、高木に──コウジに、言った。 「ぜんぜん変わってないよなあ、あいつ」  嘘だぜ、と心の中で付け加える。ほんとうは、みんな、変わった。僕だって変わった。コウジも、たぶん。  変わってしまったところを見たかった。コウジとこんなかたちで再会したことを、初めて悔やんだ。驚いたり戸惑ったり拍子抜けしたり失望したりすることすらできなかった。だからもちろん、あの頃となにも変わっていないところを見つけることも。  僕は携帯電話を持ち替えて、安達にかけた。「なんだ、またかよ」とあからさまに不機嫌な声が返ってくる。歳をとって変わったところ、変わらないところに加えて、ますます磨きがかかったところもあるんだなと気づく。 「さっきも言ったけどさ、仕事も忙しいし、とにかく嫌いなんだよ俺、思い出にすがるっての」 「わかってるよ、もう」 「じゃあ、なんなんだ?」 「さっきコウジの奥さんに会ったぜ」 「……それで?」 「アダに、ありがとうございます、って」  笑ってやった。じっさい、笑うしかない話だった。  スポーツバッグにとりすがって泣いた奥さんに、僕は言った。コウジがユミとメールをやりとりしていたことを誤解しているかもしれないけど、ぜったいにそれは違うから。コウジはあなたと子供たちだけを愛していたんだから。  奥さんは顔を上げて、涙を流しながら笑った。  昨日、いまの僕の話と同じことを書いた手紙が、安達から届いたのだという。 「速達で送ったんだってな、アダ」 「……会社の切手だから、べつにいいんだよ」  ガキの頃より切れ味が鈍ってしまったところも、あるのだろう。 「まあとにかくさあ、いま仕事中なんだよ、そんなつまんないことで電話してくるなよ」 「アダ」 「うん?」 「おまえのことさあ、『アダ』って呼んでる奴いるの? 会社に」 「いないよ、いるわけないだろ。くだんないこと訊くなよ、ほんとに忙しいんだから」 「アダ、アダ、アダ……」 「おまえ、頭おかしくなったんじゃないの?」 「たくさん呼んでやるから、来いよ、十時に。場所わかるだろ?」 「今日七時からスタジオで撮影なんだよ。で、とにかく、俺はコンタみたいにセンチメンタルな性格じゃないんだよ、なっ?」 「十時まで待ってる。コウジに最後に会ってやってくれよ。見送りに来るだけでいいんだから」  アダは黙って電話を切った。  言い忘れたことがあった。僕のことを「コンタ」と呼ぶ奴も、中学卒業以来、誰もいないのだ。  電話を、もう一本。  この先の渋滞を見越して家に帰る時間を伝えると、美知子は「早希、ずーっと怒ってるわよ」と言った。日曜日のデパートがキャンセルになったことで、朝からすねていた。一度へそを曲げると長引くのが、ウチの娘の悪いところだ。 「帰りにコンビニに寄って、アイスたくさん買っていくよ」 「それより、ねえ、どうせだったらみんなで行かない? 和之くんも乗れるでしょ? だったらドライブになるし、それに、わたしだって見てみたいもん、日羽山っていうところ」  美知子はさらに「翔太や早希にも見せてやりたいでしょ、あなたのふるさと」とも言った。  うなずきかけた。だが、「そうだな」とは答えられなかった。子供たちにとっての田舎は、いままでも、これからもずっと、僕の両親が住む「街」だ。そして、ふるさとは、東京になる。 「どうする? 行くんだったら、すぐにお風呂入れたりして支度するけど……」  少し考えて、僕は言った。 「車に乗れないよ」 「なんで?」 「友だちと、行くんだ」  僕と、コウジと、シュウと、アダと……ユミが来れば、これで五人。 「アイス、ほんとにたくさん買って帰るから」と言って、電話を切った。  渋滞の車の列が、少しずつ、少しずつ、流れはじめた。      12  最初に、早希に抱かせた。「軽いだろ」と訊くと、アイスクリームのお土産のおかげで屈託なく「うん」とうなずく。  中身については黙っておいた。小学二年生の女の子にはちょっと怖い話かもしれないし、気持ち悪がられたら、コウジにもすまない。 「この軽さ、覚えとけよ。なっ?」 「えーっ? すぐ忘れちゃうよお」 「忘れてもいいんだ。でも、覚えといてくれ」  きょとんとした顔の早希からスポーツバッグを受け取り、今度は翔太と、カズ。バルコニーに呼びだした。今夜の空には雲が多い。星もあまり見えない。蒸し暑さはあいかわらずだが、風が少しある。暑さよりも湿り気のほうを運んでくる、肌に重く貼りつくような風だ。台風は明日の夜には沖縄の南海上に達し、あさっての朝には沖縄と奄美が強風圏に入るらしい。雨台風の進路をたどっているという。  僕は二人に、バッグの中身と、バッグの中身になってしまったひとの話をした。二人は顔を見合わせたり足元に目をやったりして落ち着かない様子だったが、話はきちんと聞いてくれたようだ。  バッグをカズに差し出した。 「持ってみろ」  うつむいて、もじもじするカズに、つづけて言った。 「おまえのお父さんや、先生と、同い年のひとだ。お父さんや先生だって、死んだらこうなっちゃうんだ」 「うん……」 「みんな一所懸命生きて、いろんなこと考えたり悩んだりしながら生きて、でも、死んだら、これだよ。持ってみろよ。もう、びっくりして、泣けちゃうほど軽いんだぞ」  カズは上目遣いでバッグを見た。 「ほら、持って」  賞状かなにかを受け取るようなしぐさで持って、胸に抱いた。言葉はなかったが、しっかりと抱いてくれた。  いまごろ、田端さんは奥さんと今後のことを話し合っているだろう。結果はどうなるかわからない。わからなくても、確かなのは、カズが二人の子供だということだ。 「カズのお父さん、一所懸命なひとだよな。張り切っちゃうひとだろ、なんでも」  カズはうなずいて、なにか思いだしたのか、くすっと笑った。 「いままでずーっと仕事に張り切っててさ、今度からはカズのことや家のことでがんばらなくちゃって張り切って……ちょっと、張り切りすぎちゃったんだよな」  あのひとも必死になって自分の居場所を探していたんだろうな、と思う。身動きできないはずのカカシが、歩きたくて、歩きたくて、目の前にいる鳥やけものを追い払いたくて、収穫を一粒たりとも奪われたくなくて、だからあんなにいらだっていたのかもしれない。 「カズはお父さんのこと怖いと思ってるかもしれないけど、お父さんだって怖いんだよ、いろんなことが。先生もそうだぞ。自信なんてぜんぜんなくてさ、いつも、これでよかったのかなあ間違ってないのかなあって、ほんと、いつも思ってるんだ」  カズが僕を見る。その隣で、翔太が、もうがまんできないというふうに口を開いた。 「あのねお父さん、カズ、謝るって。明日とかお父さんが迎えに来るかもしれないじゃん、そしたら、マジ謝るって言ってた」  カズは翔太を振り向いたが、翔太はひるまずに「ないしょだったんだけど、いいじゃん言って、言ったほうがいいんだよね、そういうのね」とつづける。  僕は二人に苦笑いを送って、順番に頭を撫でてやった。アダが言うように、僕はセンチメンタルなのだろう。甘いところもあるのだろう。それでも、教師がセンチメンタルで甘くなかったら子供たちが困るじゃないか──とも、思う。  スポーツバッグは、カズから翔太へ、そして美知子にまわった。 「三十七歳の人生って、軽いね」  美知子が無理に笑う。 「七十歳でも八十歳でも同じだよ」と僕も笑い返す。ほんとうは違うのかもしれないけれど、とにかく僕たちは三十七年間生きて、これからもおそらく生きて、やがて死んで、死ぬ前に、いったいどんなことを思うだろう。  リビングのテレビから、ドラマの主題歌が聞こえてきた。八時だ。そろそろ家を出たほうがいい。  僕は美知子からバッグを受け取った。  帰るぞ、コウジ。  バッグを軽く叩いて、歩きだす。  昼間の渋滞が嘘のように道路は空いていた。長丁場の運転に備えてのんびり車を走らせたが、九時過ぎには待ち合わせのファミリーレストランに着いた。  バッグを提げて中に入り、店員に先導されてフロアの奥の喫煙席に向かっていたら、後ろから呼び止められた。 「コンタ、こっち」  足を止め、天井を見上げ、しばらく振り向かなかった。  顔を見なくても、わかる。  来てくれた。  やっと会えた。  向き合って座ると、「文化祭の打ち合わせでもする?」とユミは笑った。  僕はテーブルの上の〈涼味フェア〉の広告が入ったナプキンスタンドに目を据えたまま、ぎごちなく頬をゆるめる。ずっと会いたかったのに、会ってしまうとどうしていいかわからなくなる。せめて、ユミに喫煙席に移ってきてもらえばよかった。 「なに緊張してるの?」  ユミが顔を覗き込む。コウジの葬儀のときにも少し思ったが、ポロシャツにチノパンの今夜の服装だともっとはっきり、体つきがふっくらとしたんだとわかる。幸せ太り──と決めつけていいのだろうか。 「こないだ……変なメール送って、悪かった」  とりあえず、それだけ。  ユミはかぶりを振って、「わたしの返事もあんなのだったから、おあいこでいいんじゃない?」と言った。 「幸せって、考えたんだけど、やっぱり、よくわかんなかった」 「難しいよね」 「うん……」 「コンタは、いま幸せ?」  たぶん、と口の動きだけで答えた。 「じゃあ、いま、元気?」  思いがけない質問に戸惑って、答えるまでに時間がかかった。  だが、正直に「あんまり元気じゃないかもしれない」と答えると、やっと緊張がほぐれた。  ユミは最初から僕がそう答えるのを知っていたように、一つ小さくうなずいて言った。 「じゃあ、幸せだけど元気じゃないんだ」 「……矛盾してるけど」 「そんなことないって。すごくわかるもん、その感じ」  中学生の頃からそうだった。生徒会の話し合いをするとき、いつも話の主導権はユミが握っていた。僕を試すように質問をぶつけてきて、うまく答えられないと得意顔で「こうすればいいの」と正解を教え、うまく答えられたときも、やっぱり得意顔で「そうそう」とうなずく。あの頃はそんなユミのことを生意気な女だと思っていて、ときどき腹も立てて、好きだった。 「ってことは、いい? コンタ」  ユミはテーブルに身を乗りだして、「幸せじゃないけど元気なひともいていいんだよね?」と言った。 「まあ……いい、と思う」 「で、幸せで元気なひともいる、と」 「いるよな、それは」 「幸せじゃなくて元気でもないひとも、いるわけだよね?」  数学の証明問題みたいだ。黙ってうなずくと、ユミは、オッケー、というふうに笑った。 「コンタは、昔のことを勝手に気にしてるみたいだけど、そんなの関係ないからね。ウチのお父さんが弱かった、それだけだもん」  もう一度、黙ってうなずいた。 「ということで、質問の答えね、教えてあげる」  ユミは息をゆっくりと吸い込んで、言った。 「元気です」  一言だけ。  試技を終えた体操の選手がフィニッシュのポーズのままブザーが鳴るのを待つみたいに、ユミはじっと僕を見つめて動かなかった。僕もなにも言わず、ユミを見つめる。僕たちはオジサンとオバサンになった。ほんとうに。訊いてはいけないことや話さないほうがいいことの分別が、若い頃よりずっとつくようになった。  そして、僕は──たぶんユミも、いま、若い頃に戻ろうとは思っていない。  ブザーの代わりに、ウェイトレスが「コーヒーのお代わり、いかがですか?」と声をかけてきた。ユミは肩から力を抜いて笑い、僕も椅子の背に体を預けた。  二杯目のコーヒーを注いでもらったとき、ユミが「あ、シュウちゃん来たよ」と伸び上がって手を振った。  シュウは優しい奴だが、たまに気の利かないことがある。これも昔から、ずっと。  シュウは昼間の僕と同じようにスポーツバッグを膝に抱き、両手で撫でながら、会社のリストラのことを話した。  シュウの店は、やはり整理されるらしい。 「一国一城のあるじだったんだけどなあ、落城しちゃったよ」  ろくに眠っていないのだろう、目の下の隈は、笑うとよけいくっきりとする。 「会社には残れるんだろ?」 「会社じたいがいつまでもつかわからないけど、まあ、がんばるしかないよな……」  半分あきらめたような口調だったが、「がんばるしかないんだよ、ほんと」と繰り返すと、少しだけ声に力がこもった。 「シュウちゃん」ユミが言った。「元気だったら、なんとかなるって」  だよな、とシュウはうなずいて、バッグをあらためて強く抱きしめた。 「コウジのぶんも、俺らがジジイになってやんなきゃ。なあ、コンタ。若い奴にさ、思いっきり嫌われるジジイになるんだよ」  悪くないかもしれない。 「じゃあ、わたし、やり手ババアになるね」とユミも笑った。  シュウはバッグから手を離し、「それでさあ……」と僕に向き直る。「俺、やっぱりいっしょに行くよ」 「いいのか?」 「ああ。ずーっと必死に仕事してきたんだから、明日一日だけ、夏休みだ。それくらい、いいんだよ、俺、店長さんなんだから。あの店でいちばん偉いんだから」  胸を張って言って、「来月いっぱいまで」といたずらっぽく付け加える。どこまで強がっているのかわからない。わからないままでいいんだと、いまは思う。  十時五分前になって、そろそろ行こう、とカップに残った三杯目のコーヒーを飲み干したとき、むすっとした顔のアダが店に入ってきた。 「なんだよ、全員かよ。もっと現実見ろよ、なあ」  ぶつくさ言いながら僕の隣に座り、注文を取りに来たウェイトレスを「すぐ出るから」と邪険に追い払って、バッグから紙を取り出した。 「これ、持っていけよ。山道で迷ったらアウトだぞ」  日羽山ダム周辺の地図だった。 「水門の脇に、管理用の階段があるって言ってた。そこから降りていけばいいんじゃないか?」 「調べてくれたのか」と僕が訊くと、太った体を無理やりよじってそっぽを向いて、つづける。 「でも、水門から日羽山の町まではすごい遠いし、とにかくなんにも残ってないぞ。ただの泥だよ」  アダの雑誌で、十年ほど前に四国のダムが干上がったときに取材したのだという。バックナンバーのグラビアで見ても、電柱やコンクリートの建物がほんの少し残っているかどうか。 「だから、まあ、俺は行っても意味ないと思うけどな」 「アダ、行かないの?」とユミが訊く。あらかじめそれは話してあったのに、驚いた顔をつくって。 「忙しいんだよ」組んだ脚が、貧乏揺すりを始めた。「それに、とにかく嫌いなんだ、そういうの」 「嫌いでも……行こうよ」とユミは言った。  シュウも「日羽山に行ってみるっていうだけでいいじゃん」とつづけ、「なあコウジ?」と膝の上のバッグに声をかける。  アダはバッグをちらりと見て、眉を寄せ、「すぐに会社に戻らなきゃいけないから」と立ち上がった。  僕たちも席を立つ。  先を歩くアダに、ユミはぴったりくっついて、「行こうよ、行こうよ」と子供みたいにねだる。少しずつアダの大きな背中がしぼんでいくような気がして、僕とシュウは顔を見合わせて、笑った。  外に出た。夜空を見上げると、雲は家を出る前よりさらに広がっていた。明日になれば日羽山の天気はどうなるかわからない。それでも、帰ろう。元気になれるかどうかなんて、知らない。それでも、ふるさとに帰ろう。  駐車場に向かって歩く途中、アダはユミをふりほどくように脇の暗がりに小走りになって逃げた。僕たちに背中を向けて、携帯電話をかけ、怒った声で誰かと話しはじめた。  ユミは「ちょっといい?」とシュウからバッグを受け取って、両手と頬でしっかりと抱きしめた。 「軽いね、ほんと」寂しそうに、それでもなにか満たされたような優しい声で言う。「コウちゃん、よかったね、みんなで帰れるんだよ」  シュウはさっきの僕と同じように夜空を見上げ、思いついたことを口にするかどうか迷っているように首を何度もかしげて、顔を上に向けたまま「ボーナスだよな」と言った。「人生のボーナスとか有給休暇みたいなの、もらったんだよな、俺ら」 「晴れるよ、明日も」と僕が言うと、「がんばって働いてるんだもん」とユミがうなずいた。 「意外と懐かしくないかもしれないけど、いいよな、一日ぐらいは人生、休んでも。たいした人生じゃないんだし」──アダの言いそうな台詞を無理して言うから、シュウの声は湿って、くぐもってしまう。  力んで持ち上がっていたアダの肩が、あーあ、というふうに下がった。笑ったな、いま。わかる。ユミはバッグをさらに強く抱いた。コウジも、きっといま、照れて笑った。  アダが振り向いた。片手をズボンのポケットにつっこみ、大きな腹を前に突き出して、しかめつらは誰の顔も見ていない。 「コンタ! 思いっきり車飛ばしていったら、明日何時に東京に帰れるんだよ!」 「五時!」と怒鳴り返してやると、「休憩なしで四時にしろよ!」と、もっと大きな声が返ってくる。  僕の代わりに、シュウが両手で○をつくった。ユミはコウジに頬ずりする。  電話を終えて戻ってきたアダは、僕たちをひとにらみして、「ぱっと行って、ぱっと帰ろうぜ」と言った。  わかっている。  僕たちがほんとうに帰っていく先は、この街の、この暮らしだ。  ユミがバッグを差し出すと、アダは口元をもごもご動かしながら、けれど黙って、両手で受け取った。 「よし、急ごうぜ」──僕の声と、ユミの「みんなこっち向いて」の声が重なった。  振り向くと、フラッシュのまばゆい光が目を灼いた。 「百二十一枚目」とユミは嬉しそうに言った。  瞬いても消えない光のかけらが、夜空にぼんやりと浮かぶ。  蛍みたいだ、と思った。 [#改ページ]   ライオン先生      1  パジャマのまま洗面所で歯を磨いているときには、覚悟ができていた。鏡に映る自分の顔と正面から向き合い、「なんだ、ぜんぜんおかしくないじゃないか」と声に出してつぶやいて、だいじょうぶ、ゆうべの決意が揺るぎないことを確かめた。  だが、寝室に戻って服に着替えてからあらためて洗面所の鏡の前に立つと、揺らぐはずのない決意が、くたくたと萎《しお》れた。 「これじゃあ、まずいよなあ……」  雄介は低くつぶやいた。言い訳めいた響きになった。鏡の中、耳の上だけを残してあとはきれいに髪の毛が禿げあがった顔が、半べそをかくようにゆがむ。  パジャマ姿なら、似合うとまでは言わないが、禿げた頭もじゅうぶんに許容範囲だ。しかし、背広にネクタイを締めると、たちまち首から上が気になってしまう。  一人娘の恵理はまだ起き出してはいない。大学二年生、気楽な身分だ。ふだんなら舌打ちするところだが、今朝に限っては朝寝坊に救われた気分だった。  シンクの横に置いたカツラを手にとって、頭にはめた。慣れた手つきだ。カツラ歴、十年。今年四十四歳だから、すでに人生の四分の一近くをカツラをつけて過ごしたことになる。  今日からはずすつもりだった。  恵理にも、ゆうべ、そう宣言した。正確には、宣言せざるをえない状況に追い込まれた。父親としての威信、というより人間同士の信頼関係を保つためには、カツラなしで職場に向かうしかない、そんな状況だった。  父娘二人きりの家族だ。妻の智子は、恵理が三歳のときにガンで逝った。以来、男手ひとつで恵理を育ててきた。先月──十月に恵理が二十歳の誕生日を迎え、なんとかここまで来たか、と感慨に胸を熱くした。その温もりがまだ消えないうちに、ゆうべは「出ていけ!」「お父さんにはわかんないのよ!」と怒鳴り合いの喧嘩になったのだ。  もう一度、鏡に向かって髪形を微調整する。オレはこの髪なのだ、この髪がオレなのだ、しょうがないじゃないか……。自分に言い聞かせながら、何度も何度もうなずく。  長髪である。それも、いまふうの、ひっつめ髪を後ろで束ねたりワンレングスをオールバックにしたりというのとは違う。ふた昔前──一九七〇年代のスタイル。ウェーブのかかった髪が耳を隠し、肩に触れ、身の動きにワンテンポ遅れて風になびき、ときおり前髪を掻き上げないと瞬《まばた》きがうっとうしくなる、そういう長髪だ。  時代遅れだとはわかっている。高校の国語教師という職業にもそぐわない。「いい歳をして……」というささやき声がしじゅう背中にまとわりついているような気分にもなる。  しかし、これだけは譲れない。長髪を捨てられない。捨てるわけにはいかない。たとえカツラに頼った、つくりものの長髪であろうとも。  ライオン先生──。  二十代の頃、雄介は生徒にそう呼ばれていた。長髪をなびかせるところから命名された、誇り高きあだ名である。  名付けたのは、智子だった。  マンション用のミニサイズの仏壇に水とごはんを供え、いまにして思えばすでに晩年だったことになる二十二歳の智子の笑顔に「おはよう」と挨拶した。  ゆうべのこと、おまえはどう思う?  声に出さずに訊いてみた。  オレ、間違ってないよな?  Vサインを掲げた智子の笑顔は、あらためて向き合うとずいぶん色褪せてしまったことがわかる。  十三回忌の法要を四年前にすませた。元気だった頃の智子の姿は、もう意識して思いださないと浮かばなくなった。  長い月日が流れた。世の中も、たぶん智子が想像もできなかったほど変わった。なにより、母親の死の意味もわからずに祭壇の花を「取って、取って」とせがんでいた恵理が、来年の年明けに成人式を迎えるのだ。  あいつ、オレのこと「ずるい」ってさ……。  苦笑いを浮かべ、控えめに鈴《りん》を鳴らした。  ゆうべ、夕食後のことだった。  恵理はテレビの歌番組に目をやったまま、前置きもなにもなく、ぽつりと言った。 「まぶた、二重《ふたえ》にするから」  雄介は一瞬勘違いして、「なんだ、あのコ、整形なのか」と画面に映る歌手に顎をしゃくった。 「違う違う」恵理は笑いながら自分の目元を指さした。「整形して、二重まぶたにしちゃおうと思って」  ためらいも迷いもない、唇から滑り出るような言い方に、雄介もつい「ふうん」とうなずいてしまった。 「じゃ、いいね、決まりってことで」 「ちょっと待て、なんだ? おい、それ」  危ないところだった。  恵理は『だるまさんがころんだ』にしくじった子供のように、そこで初めてきまり悪そうな顔になって、うつむきかげんにいきさつを説明していった。  十年越しの夢だと言った。自分の一重《ひとえ》まぶたがずっと嫌いだった、とも。  それは雄介も知っている。母親を早く亡くしたせいなのか、恵理は妙にませたところのある子供だった。小学生の頃から、一重まぶただと目つきが悪く見えるだの、陰気な印象になるだの、はては化粧映えしないから嫌だとまで言っていた。  だが、「中学生の頃から美容整形、考えてたんだよね」、それは初めて聞いた。  高校入学、大学入学、二度のチャンスはふんぎりがつかずに逃がしたものの、成人式はどうしても二重まぶたで迎えたい。手術じたいは簡単だが、腫れが完全にひくまでの日数を考えると、十二月半ば──一カ月後がタイムリミットということになる。 「バカかおまえは!」  一喝して恵理の話をさえぎり、あとは頭に血がのぼったまま怒鳴り散らした。  怒りよりも、情けなさのほうが強かった。それ以上に、悔しさがある。恵理の嫌がる一重まぶたは、智子から受け継いだものなのだ。  恵理も雄介に負けじと金切り声を張り上げたが、なにを言っていたかはほとんど覚えていない。聞く耳など持たなかった。  さんざん怒鳴り合ってお互いに声が嗄《か》れた頃、恵理はうんざりしたように深くため息をついた。 「ありのままの自分がそんなにだいじなの?」 「あたりまえだ」  憮然として雄介が返すと、恵理はカウンターパンチのように間髪を容れずに「じゃあ」と言った。 「お父さんもカツラをはずして学校に行ってくれない?」 「え?」 「だってそうでしょ、ありのままの自分がだいじなんでしょ? だったらハゲをカツラでごまかさないでよ」 「いや、それは……」 「ずるいよ」  言葉がナイフになって胸に刺さる。マンガでおなじみのその感覚を、初めてリアルに感じた。  頭にのぼっていた血が、いっぺんに腹の底まで沈み、またカアッとのぼっていく。  売り言葉に買い言葉で、カツラをはずすことを約束した。  そして、あっけなく、反故《ほご》にしてしまった。  玄関で靴を履いていたら、恵理の部屋のドアが開いた。 「ほら、やっぱり」  まだパジャマ代わりのスウェットの上下を着ていたが、いま目を覚ましたばかりといった様子ではなかった。タイミングを計っていたのかもしれない。スーパーマーケットの警備員が、万引き犯がレジの脇を抜けて店を出た直後に呼び止めるように。 「最初から無理だと思ってたんだ、あたし」 「うるさいなあ」 「できない約束なんてしなきゃいいのよ」 「急に髪がなくなったら、生徒だって困るじゃないか」 「困らないよ。ウケるだけ」  笑いながら言って、あくびをひとつ。拍子をとるように、開いた口を掌で叩いた。  智子も寝不足の朝はこんなふうにあくびをしていたな、と雄介は思う。智子を思いだした時点で負けだよな、とも。 「約束破って、悪かった。でもな、恵理、ゆうべの話は……」 「今夜の晩ごはん、お父さんだからね。買い物、よろしくっ」  自分の部屋にすばやく逃げ込む。話のごまかし方も、母親譲りだ。  雄介は軽く舌を打ってドアを開け、外に出た。朝の冷気にブルッと身を縮め、吐き出す白い息に「まあ、いいか」とつぶやきを交ぜて、エレベータホールに向かって歩きだす。  十代の後半に入って年を追うごとに、恵理は母親に似てきた。顔立ちもそうだし、ちょっとした表情やしぐさに智子の面影が見え隠れする。悲しみがよみがえることは、いまはもう、ない。かわりに、くすぐったいような、照れくさいような、むしろ喜びや感謝に近い思いが胸に満ちる。  恵理をこの世に遺しておいてくれてよかった、心から思う。  だから、とにかく二重まぶただけは断じて許せない。カツラも、やはり、断じてはずせない。 「お父さーん」  廊下を歩く背中に、恵理の声が届く。振り向くと、半開きのドアから顔だけ外に出して「豚肉は冷凍してあるから、もう買ってこないでよお」と言う。  雄介はしかめつらでうなずき、また歩きだす。一歩、二歩、三歩目で、頬がゆるんだ。      2  せんせーって、ライオンみたいだね──。  智子は言った。  声もしぐさも表情も、いまでも思いだすことができる。忘れてしまいたくないから、ときどき振り返る。  二十二年前の五月。たしか水曜日の、夕方だった。  中間試験の古文の成績が悪かった三年の生徒を集めて、放課後に補習をした。指定した教室に入ってきた二十人ほどのなかに、智子もいた。目立つ生徒ではなかった。顔と名前も、じつをいえばその時点ではまだ一致していなかったのだが、名前と試験の点数はしっかり結びついている。百点満点で二十七点。文系コース百四十名の中で最低の点数だったのだ。  課題のプリントを生徒に配り、順に席をまわって質問に答え、ポイントを説明した。プリントは、それぞれの試験の結果をもとに細かく内容を変えていた。活用形の苦手な生徒には活用形中心の課題を組み、現代語訳ができなかった生徒には易しい箇所の長文訳をやらせる。  プリントづくりで試験明けの週末はつぶれてしまったが、それを負担だとは思わなかった。雄介は大学を卒業したばかりの新米教師で、自他ともに認める熱血教師で、ライオンのたてがみは、もちろん自前の髪の毛だった。  補習といっても、課題の克服だけを目指しているのではない。生徒に自信をつけさせ、やる気を起こさせる、むしろそちらが目的だった。プリントの難易度もそのあたりに気を配り、頭を抱える生徒には惜しみなくヒントを与え、全問正解したプリントには大きな〈OK!〉を書き込んで、「すごいじゃないか、いいぞ、その調子で期末はがんばれよ」と生徒を送り出した。  三十分たった頃には教室の生徒は半分に減っていた。全問正解した生徒は皆、胸を張り、誇らしげに教室を出ていった。それが雄介にも嬉しかった。たとえ、古文の得意な一年生なら五分で解いてしまうレベルだったとしても。  一時間後にはほとんどの生徒がいなくなった。教室に残っているのは、学年主任の言葉を借りれば「箸にも棒にもかからない」生徒が数人。智子も、そのうちの一人だった。  箸にも棒にもかからないのなら、スプーンですくえばいいじゃないですか。補習のために放課後の教室使用の許可をとるとき、雄介はきっぱりと言った。学年主任にあきれられ、先輩教師には「若いねえ」と笑われたが、本気だった。ベテラン教師のような経験はなくとも、熱意を持って生徒と向き合いたかった。「理屈が通じる連中じゃないからなあ」と先輩教師の愚痴を耳にするたびに思っていた。理屈は通じなくても熱意は伝わる、伝えられる、伝えなければいけない……。  雄介は粘り強く補習をつづけた。あとは解答欄に書き込むだけという段階までヒントを与え、煮詰まった生徒にはわざと世間話を振って気持ちをほぐした。上からつまむ箸や、突き刺すフォークと違って、スプーンは下からすくう。それがなんだか教育の極意のような気もして、ああオレはいま教師なんだ、としみじみ実感していたのだった。  一時間半たって、教室に残っているのは智子一人になった。  とびきり出来の悪い生徒だった。どんなに懇切丁寧にヒントを与えても駄目だ。「どうだ、わかっただろ?」と雄介が念を押し、智子も「はーい」とうなずき、しかしそこからシャープペンシルを解答欄に走らせるまでのほんの短い間に、教えたことがぽろりとこぼれ落ちてしまう。 「あたし、小論文と英語だけの大学受けるから関係ないんだけどなあ……」  よくある言い訳だ。数学の教師も、しょっちゅう舌打ちしている。 「嫌いか? 古文」  雄介は教卓の椅子に座って言った。 「現国も嫌い。だって、子供の頃から死ぬほど苦手だったもん」と智子はシャープペンシルを指で回しながら返す。 「文系コースだろ」 「数学とか、もっと苦手だし」 「でも、ちゃんと日本語しゃべってるじゃないか。本だって読めるだろ」 「マンガとか……」 「じゅうぶんだ。新聞の三面記事が読めてラブレターと借金の申し込みの手紙が書ければ、だいたいの生活はなんとかなるから」  智子は、やだあ、と笑った。窓から射し込む西陽が笑顔を照らす。切れ長の目が、まぶしさに細くなる。ブラウスの襟元から肩の付け根の曲線が覗いて、雄介は目をぎごちなくそらした。 「まあ、だから、苦手なのは国語じゃなくて、国語の勉強なんだよ。そう考えたら楽になるだろ」 「はあ……」 「好きになればいいんだ、とにかく。成績とか関係なくて」  言ったあと急に恥ずかしくなって、長い髪を乱暴に掻き上げた。キザな言葉に照れた。自分で口にした「好き」を自分で勝手に誤解してしまい、ヘンなこと言っちゃったなあ、と悔やんだ。  雄介は二十二歳だった。四月生まれの智子は、もう十八歳になっていた。教室に二人きり。急に居心地が悪くなった。補習をやろうと決めたときには、女子生徒と一対一になるような状況は予想していなかった。意識しては駄目だ、と思うとよけい意識してしまう。  放課後の廊下にひと気はなく、グラウンドからときどき聞こえてくる運動部の連中のかけ声や金属バットの打球音も、かえって教室の静けさをきわだたせてしまう。  バカらしい、自分で自分を笑った。生徒だぞ、相手は。  つくりもののあくび交じりに席を立ち、「けっこう暑いなあ」と言わずもがなのつぶやきを漏らして、廊下側の窓をすべて開けた。次にグラウンド側の窓に向かい、そっちの窓も開けていく。 「せんせーって、ライオンみたいだね」  智子が言った。  振り向くと、まぶしさに細めた目で雄介を見つめて「いまさあ、髪の毛きらきら光ってて、金髪っぽくて、ライオンのたてがみみたい」とつづける。 「……そうか?」 「うん。逆光になると、そんな感じ。カッコいいよ」 「いいから、早くやっちゃえよ」  照れ隠しに少し怒った声で言うと、「できてまーす」とプリントをひらひらと掲げる。  全問正解。  赤ペンで書いた〈OK!〉の文字は、他の生徒に書いたときより痩せてしまった。 「じゃ、どーも」と一礼して教室を出ていった智子は、戸口から背中が消えたと思う間もなく、顔だけ戻して言った。 「せんせーのおかげで、古文、ちょっと好きになるかも」  返す表情や言葉に迷っていると、さらにもう一言。 「ありがとうございましたーっ」  声と同時に顔がひっこんで、そのままだった。  からかわれた。そのときは、そう思った。最後の台詞だけでなく、いろいろなことすべて。  けっこーマジだったんだよ、あのとき──と智子が打ち明けたのは、いつだっただろう。もう忘れた。ひょっとしたら、実際にはそんなことは言わなかったのかもしれない。だが、記憶には確かに残っている。唇をとがらせた表情も、雄介の鈍感さを責めるような口調も。  時がたつにつれて、思い出は身勝手になっていく。  昔流行った歌に、そんな歌詞があったような、なかったような。  いまにして思う。  智子は、二十三歳で逝ってしまう自分の運命を無意識のうちに悟っていて、だから、あんなに、すべてを急いだのかもしれない。  補習からほどなくして、「ライオン先生」のあだ名が生徒の間に広まった。口コミに加え、生徒会の掲示板に〈高村先生ってライオンに似てない?〉というメモが貼られたことも大きかった。 「PRしといたからね、せんせー」  職員室に来ていたずらっぽく笑う智子に、雄介は「なにやってんだよ、バーカ」と返し、出席簿で頭をぶつ真似をした。  特別扱いで親しげにしていたわけではない。どの生徒に対しても気軽な口調で接していた。生徒がぞんざいな言葉遣いをしても気にならなかった。三年生とはわずか五歳違いだし、一年生でも七歳しか違わない。好きな音楽も観ているテレビ番組もお気に入りの雑誌も、それほど変わらない。生徒を「生徒」として見るより、高校生活の「後輩」として見ることのほうが自然で、そういうふうに生徒と付き合っていける自分が誇りでもあった。  職員室で生徒と話していると、周囲の空気がこわばっていくのがわかる。廊下で生徒とおしゃべりをしているところに通りかかって、苦々しい顔で一瞥《いちべつ》をよこす年かさの教師もいた。かまわない。生徒と目配せして肩をすくめあい、「せんせー、知ってる? あいつさあ……」と他の教師の悪口を言いだす生徒を「あの先生、いい人なんだぞ」と苦笑交じりにたしなめるたびに、自分はいま生徒の側に立っているんだと実感できた。  そんな雄介に智子は誰よりも屈託なく甘えてきた。ときには雄介が戸惑うような、たとえば「あたし、せんせーのこと愛してるもん」などと言うこともあった。あとで知った、智子はその頃すでに、仲良しの友だちには「あたし、ライオン先生が好きだから」と宣言していたらしい。  もちろん、二十二歳の新米教師にも生徒との間に一線を引くぐらいの分別はあった。学生時代には何人かガールフレンドもいたし、なんでもジョークにしてしまう女子高生の言動を真に受けるほど単純ではなかった。  一学期の終わり頃、智子に「せんせーの好みの女の子って、どんなタイプ?」と訊かれた。 「目元のぱっちりしたコがいいな」と雄介は答えた。七割は本音、三割は切れ長の細い目をした智子への意地悪だった。ふくれつらになった智子を見て雄介はおかしそうに笑い、「あたしはうっとうしい長髪って大っ嫌いだけどね」と智子の逆襲を受けると、雄介も「グサッ」と胸を押さえて、今度は二人で笑った。  気の合う後輩──だったのだと思う。それ以上の関係は、少なくとも雄介は求めていなかった。教え子の第一期生とこんなふうに笑いあえる、そのことだけでじゅうぶんだったのだ。  学校が夏休みに入ると、智子は毎日のように雄介の一人暮らしのアパートに電話をかけてきた。用件は、あくまでも古文の勉強のことだったが、長電話はいつも途中からたわいのないおしゃべりになってしまった。最初のうちは電話だけですんでいたが、やがて「せんせー、電話じゃわかんないから明日どっかで会って教えてよ」と智子が言いだすようになった。公園のベンチ、ハンバーガーショップ、ファミリーレストラン、喫茶店……外で会っても、勉強の話は一時間たらずで終わり、あとはずっとデートのようなおしゃべりになった。  妹──になっていた。五歳年下の妹。兄貴に妙になついてくる妹。そこまでは受け入れた。「おまえなあ、こういうところを校長なんかに見られたらヤバいんだぞ、オレ」としかつめらしく言う余裕もあった。  だが、その時期は自分でも驚くほどあっけなく終わってしまった。どんなふうに心が動き、なにが最終的に背中を押したのか、記憶はあやふやで、だからやはり身勝手で、ただ甘酸っぱさだけが湧いてくる。  二学期が始まった。  智子は、もう後輩でも妹でもなかった。  雄介は学校では意識的に智子にそっけなくふるまった。その態度をめぐって、一度、智子とひどい喧嘩をした。やり取りは忘れた。数日後に雄介が謝って仲直りしたことだけ覚えている。  十月。生徒会の掲示板に、雄介と智子の名前を入れた相合い傘のメモが貼られた。犯人は今度も智子だった。「もうさあ、一気に学校公認に持ち込んだほうが楽なんじゃない?」と笑っていた。  その頃には、二人の仲はほとんどの生徒と教師に知られていた。「ライオンせんせー、がんばって」と声をかけてくる女子生徒もいたし、「高村さん、よけいなことかもしれないんだけど……」と前置きしておいて、教師の倫理についてえんえん講義する先輩教師もいた。  職員室で浴びる視線は一学期よりさらに冷ややかになり、引き替えに、廊下を歩くたびにわかる、生徒との距離はいっそう縮まった。学年主任に言わせると、「こんな事態は開校以来初めてなんだぞ、わかってるのか」。生徒たちに言わせると、「ドラマとかマンガとかでよくあるじゃん、ぜんぜん楽勝だし、なんかカッコいいよ、せんせー」。そして智子は、少し悔しそうに言った──「卒業までに赤ちゃん産めたら、もうサイコーだったのにね」。  戸惑いや迷いがなかったとは言わない。悔やんでもいた、心のどこかで、確かに。自分を責めて、智子の屈託のなさを恨み、酔った勢いで学生時代のガールフレンドに端から電話をかけて端から振られてしまった夜もある。  だが、職員会議で名指しの非難を受け、教育委員会だのマスコミだのという言葉が出てくるようになると、逆に肚が据わった。  向かい風に、たてがみがなびく。吠える。走る。サバンナの小高い丘から、遥かな地平線を睥睨《へいげい》する。そんなライオンに自分を重ねた。  智子が高校を卒業したら結婚する。そう決めた。智子の両親に会った。父親になじられ、母親には泣かれた。地方の小さな町に暮らす雄介の父親は怒鳴り、母親はひたすら「親御さんに申し訳ない」を繰り返していた。智子の家のリビングルームの床に頭をこすりつけ、実家に帰省して「オヤジとオフクロのことは任せたぞ」と二つ年下の弟に頼み込み、「あたし、親なんて捨てちゃってもいいよ」と言いだした智子をなだめ、「かけおち応援カンパ」まで始めた生徒たちを感謝を込めて叱りつけて、智子を自主退学に追い込もうとした体育教師の胸倉をつかんだ。  大きく激しい渦に呑み込まれたようだった。戻ることはもちろん立ち止まることもできないし、したくもなかった。「せんせー、ヒーローだよ」と生徒の誰かに言われたとき、胸の中で面映ゆさと誇らしさが複雑に入り交じった。先輩教師から「青春ドラマをやってるつもりなのか?」と吐き捨てるように言われても、歳をくって生徒とひとつになれなくなった連中のひがみだ、と聞き流した。  強かった。世の中のあらゆるものに立ち向かう覚悟があった。風に立つライオンのように。  その強さが、いまはむしょうに懐かしい。  たとえ取り戻しても、どうせ持て余してしまうだろう。ひょっとしたら、うとましく思ってしまうかもしれない。四十四歳の中年教師はそれを身に染みて知っていて、知っているからこそ、懐かしくてたまらなくなる。  なぜだろう──と言うと、遠い空の上の智子に怒られてしまうかもしれない。  だが、二十二年が過ぎたいまの、それが本音だ。  あの頃の自分を突き動かしていたものの正体が、自分でもわからない。  若さのせいにすればいいのだろうか。  だとすれば、もう若くはない自分は、若さと一緒になにをなくしてしまったのだろう。  若いまま逝った妻の写真に、そんなことを問う夜がある。教室に一人きり残されて、補習のプリントを解いているようなものだ。ヒントを教えてくれる人はいない。答え合わせをする相手も、いまは写真の中で動かない笑顔を浮かべているだけだ。      3  教壇に立った雄介は、朝の挨拶の前に窓側の席に目をやった。もう習慣になっている。窓から三列目の、前から四番目。今朝も空席だと確かめて、出席簿の一番上の行──安藤修司の欄に欠席の/印を書き込んだ。遅刻なら反対側から斜めの線を足して×印になるのだが、それは期待薄だ。十月の半ばから一日も途切れずに/印が並んでいる。すでに二学期の欠席日数は四十日を超えた。  ホームルームを終えて職員室に戻ると、事務室からの伝言メモが机に置いてあった。 〈1─C 安藤 風邪で欠席 母親TEL〉  隣の席の榊原が、短く笑って言った。 「狙ってますよね、絶対」  雄介も苦笑交じりにうなずき、メモを丸めて捨てた。欠席の連絡は、ここのところ必ず雄介がホームルームで教室に出かけているときに来る。 「確信犯だから、どうしようもないでしょう。もう放っておけばいいんじゃないですか?」 「そういうわけにもいかないだろ。クラス担任なんだから」  雄介は受話器を取り、安藤の家の電話番号を手早く押していった。受け持ちの生徒の電話番号は、すべて諳《そら》んじている。安藤のような生徒の場合は、もはや指が番号を覚え込んでいると言っていい。  呼び出し音が四回鳴って、電話がつながった。勢い込んで「もしもし、東高校の高村ですが……」と話したが、返ってきたのは留守番電話の応答メッセージだった。  十月頃までは「ぐあいどうだ? 明日は学校に来いよ、待ってるぞ」と律儀に吹き込んでいたが、いまはもう応答メッセージの途中で受話器を置くことにしている。 「高村さん、もういいんじゃないですか? 本人も中退は覚悟してるんだし、親もかまわないって言ってるんですから」  榊原は諭すように言った。まだ二十代半ばの若い教師だが、ときどき妙に達観した口ぶりになることがある。それがこの仕事を長くつづけていくコツなのだと、雄介も知っている。 「帰りに、安藤の家に寄ってみるよ」 「またですか?」 「先週は一度も行かなかったからな、顔忘れられちゃ困るだろ」 「……無駄だと思いますけどねえ、申し訳ないけど」 「いいんだ、オレの自己満足みたいなものだから」  苦笑いが返ってくる。半分あきれ、半分同情したような、あいまいな笑い方だった。  雄介はなにも応えず、一時限目の授業の準備にとりかかった。  少し間をおいて、榊原がまた声をかけてきた。 「ずーっと、そうだったんですか?」 「なにが?」 「こんなふうに生徒のことをこまめにフォローして……」 「熱血だからな」  さえぎって、言った。自分で自分をからかう口調にした。「こっちはほら、学園青春ドラマの世代だから、しょうがないんだよ」とつづけ、手に持った教科書の角で肩を軽く叩いた。  笑い返してくれればいい。心の中で、別のニュアンスの笑みを浮かべてもかまわない。そのほうがこっちも気が楽になる。  だが、榊原はジョークで紛らすのを咎めるようにかぶりを振り、「『ライオン流』なんですね、それが」と勝手に納得した。  やれやれ、と雄介は目をそらし、そっとため息をつく。  先週から、榊原はいつもこうだ。  研修で、雄介のかつての同僚と知り合ったのだという。智子と出会った高校の先輩教師──おしゃべりな、しかも話をすぐにおおげさにする癖のある男だった。あんのじょう、「ライオン先生」のあだ名も、その由来も、それを名付けた女子生徒のことも、とにかく当時の雄介についてのあらかたを榊原に知られてしまった。  以来、榊原は雄介の言動にいちいち「ライオン流」の意味づけをするようになった。 「憧れますよ、高村さんに」  真顔で言う。「でも、自分ではやりたくないけど」と、これも真顔で。  そのあたりが正直でいい、と雄介は思う。  いつか酒でも飲んだときに榊原に言ってやるつもりだ。  オレだって、好きでやってるわけじゃないぞ。  榊原の奴、どんな顔になるだろう。驚くだろうか。失望するだろうか。それとも、やっぱりね、と納得してくれるだろうか。いや、「ライオンって照れ屋なんですよね」、その一言でかわされてしまうかもしれない。  始業のチャイムが鳴った。  雄介は前髪を勢いよく掻き上げて、さあ行くか、と席を立った。  一時限目が空き時間の榊原は、椅子に座ったまま、「ライオンのおでましですね」と笑った。 「よお、ちょっといいか?」  チャイムが鳴っても廊下でたむろしていた女子生徒のグループに声をかけた。  ここ数日、化粧やファッションに関心を持っていそうな連中に整形手術のことを訊くのが日課になっていた。  恵理はあれきり話を蒸し返してはこなかったが、子供の頃から一度言いだしたらきかないところがある。駄々をこねてワガママを押し通すのではなく、タイミングを計り、手を替え品を替えて、粘ったすえに父親を根負けさせるタイプだ。「ねえ、こないだの二重まぶたのことなんだけど」と不意に切りだされたときのために、こっちも万全の準備をしておかなければならない。 「いいんじゃないですかあ? きれいになるんだし」  三人組のうちの一人が、問われて考える間もなく言った。十七連敗。そうそうそう、とうなずく残り二人を加えると、十九連敗になる。 「そういうものなのかなあ」  雄介は無理に笑った顔と声で返した。 「だって、そーじゃん、歯並び悪いとブリッジつけるし、メガネが嫌ならコンタクト入れるし、同じじゃん、そーゆーのと」  マスカットの香りのする息が、声と一緒に広がる。グミキャンディーのねちゃねちゃした歯触りまで耳に伝わってきた。 「あたし、整形してガイジンになりたーい」  脱色した髪の毛をブラッシングする手を休めずに、二人目が言う。 「せんせー、整形するの?」三人目は、蛍光パープルの口紅をさした生徒。「なんか、みんなに訊いてまわってるってウワサ」 「ちょっとな、オレがするわけじゃないけど、ま、いろいろあるんだよ」 「でもさ、せんせーも整形とかしたほうがいいよお、チョー簡単だし、ジンセイ変わるかも」 「ほっといてくれ」 「ってゆーかさあ、せんせー、顔の前に髪形がマジ、ガンだよね。ウチとこのカレシ美容師やってるから、今度いじらせてよ」 「わかったわかった、もういいから、教室入れ」  うんざりして掌で追い払うと、「自分が引き留めたんじゃんよ、ねえ」と三人でぶつくさ言いながら、けだるい足取りで歩きだす。  こら、もっとシャンとしろ──とは言わない。言えない。三人がかりでくってかかられるのがオチだ。べつにメーワクかけてないじゃん、これでシャンとしてんだもん自分なりに、なんでシャンとしてないとか勝手に決めちゃうわけ? ぶつけられそうな言葉の見当もついている。  雄介は髪を掻き上げるしぐさにため息を紛らせて、歩きだした。三人の後ろ姿を見なかったことにして気分を立て直す。なにも話さなかったことにして一日の出端をくじかれたことを忘れる。そもそもあんな生徒は学校にいなかったことにして……それだけはやってはいけない、と自分にいつも言い聞かせている。  特に扱いづらい三人というわけではない。ごくふつうの生徒だ。成績も悪くない。いまの調子でいけば、二年後には、もしくは予備校をへて三年後には、そこそこ名の通った大学に入れるだろう。  だが、彼女たちは、来年には学校にいないかもしれない。たむろする場所を学校の廊下から盛り場の路上に変えて、もう家にも帰らなくなっているかもしれない。その場合にも、「いまの調子でいけば」が成り立ってしまうのだ。  そこが、わからない。わからないまま、そういうものなのだろう、と受け入れている。数学の公式を丸暗記するのと同じだ。  昔、よく生徒に話していた。  たとえ遠回りでもちゃんと筋道を立てて納得してから覚えたほうが、けっきょくは自分のためになるんだぞ──。  まったくだ。我が身に置き換えて、納得する。  丸暗記に頼っていると応用問題が出たときに困る。安藤修司の、つるんとした顔が浮かんだ。自宅を訪ねるたびに繰り返された、手ごたえのないやり取りを思いだす。  長期欠席する生徒じたいは、べつだん珍しくはない。各年度で一人か二人は必ず出てくる。遊び仲間に誘われるまま休みつづける生徒もいたし、勉強についていけずにやる気をなくした生徒もいた。学校のあらゆるものごとに反抗したすえに飛び出していった生徒や、異性関係がもつれてノイローゼになった生徒、いじめの被害者もいる、家庭内のトラブルで学校に通えなくなった生徒もいる。二十二年も教師をやっていれば、たいがいのケースは見てきたつもりだ。  しかし、安藤はどれにもあてはまらない。彼の言いぶんは「学校に行きたくない」ではなく、「学校に行く必要はない」。逃避や反抗ではない。学校以外の世界に楽しみを見つけたのとも違う。学校教育の否定というほどの強さもない。 「学校? ああ、もういいんすよ、もういーの、いらないいらない」  用済みになったものを捨てるように軽く、さらりと、薄笑いを浮かべて、いつか彼は言ったのだ。  昼休みに安藤の自宅に電話を入れた。  本人が出た。 「あ、どーも」と悪びれもせずに言う。 「風邪のぐあい、どうだ?」  せめてもの皮肉を込めて言うと、「イヤミやめてくださいよ、せんせー」と笑いながら返された。  雄介は腰を椅子ごと後ろにひき、頬づえを低くした。力が抜ける。このまま机に突っ伏してもいいほどだ。 「夕方、家に行こうと思ってるんだけど……お母さん、今日仕事の日だっけ」 「そうっす。今月から毎日だから。帰りも何時になるかわかんないんすよ」 「……安藤はどうなんだよ、おまえは家にいるんだろ? いるよな? 風邪ひいてるんだもんな、なっ? 安藤くん」  笑いの溶けた、いつでもジョークにひるがえせる口調にした。腹立たしさと、逃がすものかという思いは、膝の貧乏揺すりまでにとどめておいた。 「あ、でもオレ病院行っちゃうかもしんないなあ。風邪こじらすとヤバいし」  安藤の声には動揺も気後れもない。雄介の気持ちを見透かして、からかい、挑発している。 「五時頃に行くから、家にいろよ」  少し声を強めた。安藤の挑発の度合いと教師のプライドとの間で折り合いをつけた、ぎりぎりの強さだった。これ以上強くすると「シャレが通じない」と言われるし、弱いとなめられる。  安藤はあっさり「いまーす」と答えた。  ふう、と雄介は息をつく。  そのとき、受話器の向こうからスリッパの足音が聞こえた。安藤ではない。もっと遠い。 「なんだよ、安藤」ムッとする気分を抑えて言った。「お母さんいるんだろ? おまえさあ、そういう嘘はやめようぜ、な?」 「いませんよ」  笑いのない、ぴしゃりとはねつけるような声だった。 「いや、だって、いま聞こえたぞ」 「オフクロ、仕事っすから、忙しいんすから、いま」 「じゃあ誰なんだよ、いるんだろ、誰か」  声を、さっきより強めた。安藤との距離を詰めた。  テンポよく返ってきていた安藤の声が、初めてよどんだ。  電話を切られる──とっさに思った。五時に訪ねてもインターフォンになんの応答もない、そんな光景も浮かんだ。 「おまえさあ、アレじゃないの? うん? カノジョなんか連れ込んでるんじゃないだろうな、おい」  笑って、距離をうんと広げ、安全圏まで退く。  安藤も短く笑い返した。 「ゴキブリっすよ、ゴキブリ。ウチのゴキブリ、もう、デカくて」 「はあ?」 「じゃあ五時っすよね、はい、待ってますから」  早口に言って、「さよーなら」の途中で電話を切った。  雄介は断続音の漏れる受話器を耳から離し、体を起こして、椅子の背にもたれた。ぐったりとした疲れが背中から染みだしていく。受話器を机に投げだした。ふざけやがって、と口だけ動かした。 「お疲れさまです」  榊原の声に振り向くと、少し離れた場所で椅子を集めて世間話をしていた数人の同僚が、みんなこっちを見ていた。 「安藤でしょ? もういいんじゃないですか? 去る者は追わずってやつで」  榊原が言うと、他の教師も、そうそう、とうなずいた。 「まあ、でもさ、それができないのが高村さんなんだから」と日本史の石井の言葉にも、みんないっせいに含み笑いでうなずく。榊原には「ライオン先生」のことは誰にも話すなと口止めしておいたのだが、どうもあの調子だと、いろいろしゃべっているようだ。 「だけど……」英語教師の柳田が言う。「これ皮肉じゃなくて言うんだけどさ、うらやましいよ、高村さんが。オレなんか生徒に電話して笑えたことないもんなあ」  堅物で融通の利かない柳田は、「シャレが通じない」教師だ。女子生徒から特に嫌われていて、二年B組では女子全員が授業中にあてられると「わかりません」「忘れました」「考え中です」しか答えないのだという。 「ぼくなんか笑われっぱなしですよお」  国語科の同僚の池内がおどけた。もともと詩人志望の文学青年だった池内は、痩せて小柄な体格に気弱な性格が加わって、生徒になめられどおしだ。去年のちょうどいまごろ、駅前で煙草を吸っている三年生の男子を見つけながら黙って目を伏せて通り過ぎたことで、ますますなめられてしまった。  そんな二人に比べれば、雄介と生徒の関係は、はるかに良好だった。授業はスムーズに進めていけるし、学級運営でも大きなトラブルはない。ガラの悪い連中と廊下で立ち話もできる。質問のある生徒が職員室を訪ねてくる回数もトップクラスだ。 「高村さんって自然体なんですよね。そこがわかるんですよ、生徒にも」  池内が言うと、石井も「みんな、そういうところに敏感ですからねえ」とつづけ、なるほどなるほど、とうなずく榊原は、これでまた「ライオン流」を一つ学んだつもりなのかもしれない。 「顔色うかがって、妥協してるんだよ」  雄介はぽつりと言った。  謙遜だと受け取られたのか、誰もまともに応えてくれなかった。 「媚びてるだけだ」  吐き捨てるように、つづけた。  榊原たちもさすがに鼻白んだふうに顔を見合わせたが、雄介はかまわず席を立ち、トイレに向かった。  あんなことを言うつもりはなかった。「生徒のノリに合わせるのも疲れるんだぜ」と苦笑交じりに言って、てきとうに話をやり過ごせば、それでよかったのだ。  廊下に出ると足が速まり、途中からは小走りに近くなった。だが、上体はほとんど揺れない。できそこないの競歩選手のような、奇妙な歩き方だった。  カツラが、ずれた。  榊原たちの話を聞いているとき、首の後ろ──カツラと頭皮の境目に、音とも感触ともつかないざらつきを感じた。カツラをはずすときに、密着していたカツラが肌から離れる、その一瞬に感じるざらつきと似ていた。まさかそんなはずはないと思いながら、へたに触ってさらにずれてしまうのが怖かった。  困惑とあせり、それを悟られまいとする緊張で、自分でも思いがけない言葉が出てしまった。いや、思いがけない、というのは嘘だ。ずっと頭の片隅にあった。口に出してはいけないんだと決めていた言葉だった。  教職員用のトイレに入り、洗面所の鏡に顔を映した。  髪形はいつもどおり。ライオンのたてがみだった。  ほっとして鏡の前から離れ、個室に入った。内側から鍵をかけて、ウェーブをつぶさないよう気をつけてカツラをはずす。禿げあがった頭のてっぺんから、こもっていた温もりと湿り気が、もやのようにたちのぼる。  風呂に入ったときのように、ふーう、と自然と息が漏れた。頬がゆるみ、肩が楽になる。カツラの重さはほんのわずかなものだ。つけているときにはほとんど意識しない。むしろはずしたときに、カツラのない軽さを実感する。  ハンカチで頭皮の汗を拭き取った。首の後ろは、特に念入りに。  ハンカチを動かしながら、「ライオンかあ……」と自嘲して笑った。つくりもののたてがみに、いったいなんの意味があるのだろう。わからない。ただ、これがなければライオンになれない、とだけわかる。そして、ライオンにならなければ教壇には立てないだろう、とも。  午後の授業の予鈴が鳴る。雄介はもう一度、今度は全身に力を込めるために息をついた。ゆるんだ頬を引き締めて、肩をぐるぐる回し、カツラをつけた。  洗面所で髪形を微調整して、前髪を勢いよく掻き上げる。  いっとう不自然な自然体を、今日もあと数時間、演じなければならない。      4  安藤は、約束どおり家にいた。 「せんせー、ラッキーっすよ、もうね、いま遊びに行こうと思ってたんだから」と着ていたダウンベストを脱いで笑う。  嘘つけ──心の中で返して、雄介は家に上がった。いつものことだ。つまらないお芝居をする。からかっているのか甘えているのか、よくわからない。  リビングルームのソファーに腰をおろすと、一息つく間もなく安藤が言う。 「せんせー、ジュース飲むでしょ。ちょっと待ってて」 「いいよ、そんなの」  雄介はかぶりを振ったが、かまわずキッチンに駆け込んでいく。母親は、やはり、いないようだ。  雄介はソファーから背を浮かせ、前屈みになって、ガラスを填《は》め込んだテーブルの一点を見るともなく眺めた。  一学期の頃の安藤は、ごくふつうの目立たない生徒だった。やや積極性に欠けるものの、性格はまじめで勤勉、成績も上位にいる。大手自動車メーカーに勤める父親と、郊外のショッピングセンターでパートタイムのレジ打ちをしている母親との三人家族。七月の保護者面談でも特に問題はなかったし、広くはないがまだ新しい一戸建てのたたずまいからすると、暮らし向きも悪くはなさそうだ。  そんな安藤が、なぜ学校を休みつづけているのか。最初に考えたのは人間関係のトラブルだった。しかし、本人は「ないないない、そんなのぜんぜん関係ないっすよ」と笑って否定する。実際、たまに安藤が登校してきた日に注意深く様子をうかがってみても、いじめを受けていたりガラの悪い連中に目をつけられていたりという気配はまったく感じられない。中学校の内申書を確かめ、三年生のときの担任教師にも連絡をとってみたが、長期欠席の伏線になりそうなものはなかった。  キッチンから戻ってくる足音が聞こえ、雄介はまなざしの焦点を結んだ。テーブルのガラスに、顔が映り込んでいた。ライオンのたてがみを手ぐしで後ろに流す。昼休みに妙なざらつきを感じたうなじに、そっと触れてみた。だいじょうぶ。違和感は、ない。  安藤はミニペットボトルのミネラルウォーターをテーブルに置き、「せんせーは、こっちのほうがいいよね」といたずらっぽく笑って、雄介に缶ビールを差し出した。 「バカ、飲めるか。仕事中だぞ」 「こういうのも残業になるんすか?」 「いや、そういう問題じゃなくて……」 「ま、でも、教師の残業手当って、泣きたくなるほど安いんでしょ。ね? せんせー、いつも言ってるもんね」  雄介は咳払いして喉の調子を整え、「煙草、いいか」とテーブルの上の大理石の灰皿を手元に引き寄せた。背広のポケットからショートホープを取り出すと、「シブいっすね、せんせー」と笑われた。  雄介は煙草に火を点け、安藤の笑い声を断ち切るように、言葉を詰めて言った。 「おまえ学校嫌なのか?」 「え?」 「学校が嫌になって、それで休んでるのか」  初めて、安藤は口ごもった。 「嫌っつーか……だってオレ、べつに悪いこととかしてるわけじゃないし、留守番がいるからオフクロも安心なんじゃないすかね」 「話、それてるぞ」 「え? そうすか?」 「学校が嫌なのかどうかを訊いてるんだよ、先生は」  少し口調を強めると、安藤は黙ってミネラルウォーターを飲んだ。横を向いて、何度か小刻みにまばたいて、ボトルをテーブルに戻すのと一緒に「なんか、もういいかなって……」と言う。 「なにが、もういいんだ?」 「学校」 「学校が、もういいのか?」 「そっす、もういいの、学校」  家庭訪問のたびに繰り返されてきたやり取りだった。いつもは、はなからはぐらかされているような気がして、力が抜けてしまい、気負って問いただすのがばからしくさえなってしまう。  だが、今日は、ここからが勝負だ、と決めていた。  雄介はまだ長い煙草を灰皿に捨てて、言った。 「そろそろ進級が危なくなってるんだ。わかるだろ?」 「試験で文句ない点とれば、いいんじゃないすか?」 「十日や二十日ぐらいの欠席だったらな。あと、まあ、課題のプリントをやるってことでごまかすのもできないわけじゃないけど……五十日超えちゃうと、もうどうにもできなくなるから」 「どうもしなくていいっす」 「留年だぞ」 「ま、それもあり? いいっすよ、オレ」  ミネラルウォーターを、また、ごくごくと喉を鳴らして飲む。  確信犯──榊原の言葉を思いだして、雄介は息をついた。留年だけではない、おそらく中退も「あり」なのだろう。  自宅での安藤は、学校にいるときよりずっと口数が多く、よく笑う。二言目には「だって家にいてもつまんねえもん」とふてくされる他の生徒とは違って、我が家をちゃんと自分の居場所にしている。  だからこそ、おかしい、と思う。言葉がすんなりと出れば出るほど、頬がなめらかにゆるめばゆるむほど、なにか言いあらわしようのない嘘臭いものを感じてしまう。  隠していることがあるのなら教えてほしい。そっと中を覗き込んで、すぐに蓋をしてもいい。知りたい。だが、つるんとした安藤の顔には、爪をたてるほころびすら見つけられない。それがいつも、もどかしくてたまらない。 「勉強はしてるのか?」 「暇してるとき、てきとーに。あ、でも、古文はやってないっすね、難しいっすからアレ」 「……暇だったら学校に来いよ」  ヘヘッと笑うだけで、なにも答えない。  雄介は二本目の煙草をくわえた。フィルターを糸切り歯で強く噛んで、ライターに手を伸ばした、そのとき──天井がミシッと鳴った。  まなざしを上に向ける。音は聞こえなかったが、確かに人のいる気配がする。 「あのさ、せんせー」安藤が言った。「オレよくわかんなくなっちゃったんすよ、なんかさ……」 「二階に誰かいるのか?」  目を戻して訊いたが、安藤は自分の話をつづけた。 「マジ、よくわかんなくなっちゃって、なんかもう、学校って……」 「ちょっと待てよ、友だちかなにか来てるのか?」  安藤はすばやくかぶりを振り、さらにつづける。 「学校とかって、意味ないっすよねえ。そう思わない? せんせーも。ぜんぜん無意味じゃないっすか」  無理にしゃべっているのは、すぐにわかった。雄介の気を二階からそらせようとしている。とっさに考えた。二階の物音も気になるが、それ以上に、いま、安藤は予想外のことに戸惑い、あせっている。早口でうわずった声に、落ち着きなく動く視線。しゃべってしまったのは、きっと本音だ。  雄介は煙草をくわえなおして訊いた。 「無意味って、どういうこと?」 「だから……」安藤はうつむいてしまう。「なんつーか……」 「学校に行くのが無意味だっていうこと、でいいの?」 「いや、ま、いいっす、あの、ビール飲まないんすか? ぬるくなっちゃうし、オレ、チクったりしないっすよ」 「じゃあ、もらうよ」  一口、啜《すす》った。それでいい。断ると、また安藤のペースに戻されてしまう。 「学校って無意味なのかな、ほんとに」  返事はなかった。 「せっかくそこまでしゃべったんだから、言いたいことがあるんなら、どんどん言えよ」もう逃がさない。「学校の悪口でもなんでもいいぞ」  安藤は黙ってミネラルウォーターを飲んだ。目が、ちらちらと天井に向く。雄介も天井を見上げたら、その視線を引き戻すように、さらに早口になって言った。 「だって、学校って不自由じゃないっすか。たとえば月曜の一限目って数学でしょ、なんで数学なんすか? オレ、朝イチってまだ半分寝てるから、体育とかのほうがいいんすよね、正直言って。あと、三十分で休憩したいときもあるし、調子乗って二時間ぐらいぶっとおしで勉強したいときもあるんすよ。そういうの、学校だと自由にできないでしょ。こっちが学校に合わせなきゃいけないでしょ。自分のやりたくないことやらされて、我慢して、それでなんの意味があるんすか? なにかいいことあるんすか? 大学に行くんだったら、オレ、マジ自分で勉強して大学検定受けますよ、それでいいでしょ。だったら学校って、なんのためにあるんすか? 屁理屈こねてるんじゃなくて、マジ、それがわかんないんすよね、オレ」  一息に言った。話しているうちに興奮してきたのか、声はどんどん強くなり、まなざしも雄介から動かなくなった。  逆に雄介がうつむく。ビールの缶を伝い落ちる滴《しずく》を、ぼんやりと目で追う。  安藤の言っているのは、間違いない、本音だ。  子供じみたワガママだと思った。それが雄介の本音。高校生にもなってそんなことを言う幼さに、少しあきれた。  だが、浮かびかけた苦笑いは途中で止まってしまう。  なにを言えばいい──?  安藤を納得させるには、どう話せばいい──?  笑って切り捨てるのは簡単だ。「まあ、そういうもんなんだよ、学校って」とかわすのも。しかし、言えない。笑えない。ライオンの誇りが許さない。  安藤はまだ雄介を見つめている。「なーんちゃって」とジョークにしてしまうつもりはなさそうだ。あたりまえじゃないか、と一瞬だけでもそれを期待した自分を叱った。 「でもなあ……」  つづく言葉を決めずにつぶやいたとき、首の後ろがざらついた。  昼休みと同じ──いや、違う。  かゆみだ。カツラの縁が、かゆい。こめかみに力を込めて場所を探ろうとしたら、かゆみはまるで虫が這うように、カツラに覆われた頭のてっぺんのほうへ進んでいった。一点ではない。ここも、そこも、あそこも……どこかにかゆみを感じると、その近くがむずむずして、それがはっきりとしたかゆみに変わる頃、さらに別の場所がむずむずしはじめる。 「ちょっと、悪いんだけど、トイレ貸してくれるか」  言葉と同時に立ち上がっていた。  安藤はきょとんとした顔で、「どうしたんすか? 急に」と訊く。 「うん、ちょっと……トイレ、どこだ?」  うめき声に近くなる。全身に散らばっていた力をすべて、肩から上に集めた。そうしないと、いてもたってもいられない。 「そこ出て、廊下の突き当たりっす」  安藤はドアを指さして、「下痢?」と笑った。  笑い返す余裕などない。歩きだそうとしたらガラスのテーブルに足をぶつけ、はずみで脱げたスリッパがフローリングの床をあさっての方向に滑っていった。 「せんせー、どうしたの、なにあせってんの。あせると……」  天井から、また音が聞こえた。  安藤の言葉は尻切れトンボで終わる。  オトナの、男の、咳──それだけ確かめて、雄介はどたどたと部屋を出ていった。  狭いトイレでカツラをはずし、頭のあちこちを掌で叩いた。爪を立てて掻きむしるのは禁物だ。剥き出しの頭皮は、想像以上に傷つきやすい。まだカツラに慣れない頃はしょっちゅう頭に擦り傷や切り傷をつくって、カサブタのむずがゆさに苦しめられたものだった。  頭は汗でじっとり濡れていた。夏場の汗とは違う脂のような粘っこさが、掌や指先に残る。ひとしきり掌で叩いたあとは、ハンカチで、これも叩くように汗を拭き取っていく。  かゆみは途中から消えた。というより、カツラをはずしたときにすでに消えていたような気がする。  頭を撫でて腫れた箇所や発疹を探したが、なにも見つからなかった。自前の髪の毛があるうちはわからない、頭の細かなでこぼこは、いつもどおりの手触りだった。カツラのほうも髪の一本一本をかき分けるようにして見ていったが、異状なし。  怪訝に思ったまま、カツラをかぶった。かゆみはない。そのまましばらく待っても同じ。髪を少し乱暴に揺すってみても、だいじょうぶだった。さっきあれほどかゆかった、その名残すらない。  嘘のような消え方だった。  安藤はリビングにいなかった。代わりに、天井がミシミシと軋んだ音をたてている。  廊下に出た。キッチンを覗き込んだが、そこにも安藤の姿はない。調理台にカップラーメンの空き容器が二つ置いてあった。  息を詰めて二階の様子をうかがうと、かすかに話し声が漏れていた。二人ぶんの声。片方は安藤だ。言葉は聞き取れなかったが、抗議するようなとがった響きだった。もう一人も男。オトナだ。若くはない。雄介と同じくらいか、もっと上だろう。こっちはなにか言い訳するような、すがるような、弱い声だった。  雄介は階段の下に場所を移った。足音を忍ばせて歩きながら、家庭調査書の記憶をたどる。安藤の家に祖父は同居していないはずだ。二学期から同居したのか? それが長期欠席と関係あるのか?  考えをめぐらせていたら、なにかが倒れるような大きな物音が二階から降ってきた。 「てめえ関係ねえんだよ! あっち行って寝てろよバカ!」──安藤の怒声が響く。  雄介はためらいながらも階段を一段のぼり、手すりをつかんで体を支えた。 「おい、安藤、どうした?」のんきな声をつくった。「なんかあったのかあ?」  安藤は二階の部屋から階段口に飛び出してきた。薄暗く幅の狭い階段をふさいで立ちはだかり、雄介をにらみつける。 「……上がってこないでよ、来たら、マジ……キレる」  荒い息で、言う。  雄介は次の段に踏み出していた右足を元の段に戻し、手すりを握り替えた。 「話、もうすんだから、帰ってよ」 「……いま、どうしたんだ? すごい音したけど」 「いいから帰ってよ、せんせー、ひとんち勝手に歩きまわんないでよ、泥棒じゃん」  声が震え、肩が大きく上下する。 「誰かいるのか? いるんだろ、そっちに」 「帰れっつってんだよ!」  裏返った怒鳴り声に、階段の床や壁が、ビン、と震えた。  雄介はあとずさって階段を下りたが、安藤の視線はゆるまなかった。教師を見るまなざしではなかった。不用意に距離を詰めすぎた。 「そのまま帰ってよ」  興奮がさめたぶん、耳に冷たく響く声になった。もう二度と心を開かないと宣告するような口調だった。 「帰る、わかった、帰るから……二階に誰がいるのかだけ、教えてくれよ」 「関係ないじゃん、せんせーには」  声は、再び怒気をはらんだ。  一気に階段を駆けのぼる──無理だ。上から蹴られると転げ落ちてしまう。いまの安藤なら、そこまでやる。いつまでもぐずぐずしていると、逆に安藤のほうが階段を駆け下りて、その勢いのまま蹴りつけてくるかもしれない。  不安ではない。恐怖を、はっきりと感じた。  雄介はうつむいて、さらに一歩あとずさった。恐怖に敗北感が交じる。負けた相手は、自分自身だった。ほんもののライオンなら、ここで逃げるわけがない。かつての自分なら、階段から何度蹴り落とされようとも、最後は這ってでも階段をのぼって、そして……。 「誰がいるんだ、そこに」  雄介は顔を上げて言った。喉も口も自分が思うほどには動かなかったが、声は二階に届いた。  安藤は黙って部屋に入り、すぐに戻ってきた。少し遅れて、もう一人、部屋から出てくる。安藤より一回り小柄な男だった。パジャマの上にカーディガンを羽織り、左目のあたりを手で押さえている。 「ウチの親父っす」  安藤が言った。「わかった? これでいいでしょ、帰ってよ、せんせー」とつづけ、かたわらの父親の肩を小突いた。  父親はおずおずと雄介に会釈して、はっきりとは聞き取れない、息子がいつもお世話になっておりますとか風邪で寝ているのでおかまいできずにすみませんとか、そんなことを細い声で言った。 「風邪っつってもさ、べつに風邪ひいてなくても家にいるの、この人。邪魔だけどさ、いるんすよ、もう毎日」  安藤は冷ややかに笑いながら言って、もう用済みだというふうに父親の肩をまた小突いた。 「オレさ、この人見てると、学校とか行って我慢して生きるの、バカらしくなっちゃって」  黙って部屋に戻る父親と、唖然として声も出ない雄介、たぶん両方に聞かせるつもりだったのだろう。 「マジ、我慢してがんばったって、ろくなことないじゃん、ね、せんせー、そう思わない? オレ、もうわかったの、うん」  けらけらと乾いた笑い声が、壁や床にぶつかりながら雄介に降りそそいだ。      5  安藤の父親が勤める自動車メーカーは、不況下での生き残りをかけて、この春、アメリカの大手メーカーの資本提携を受けたのだという。 「実質的には吸収合併だから、いろいろ大変なんじゃない?」  雄介の後ろに膝立ちした恵理は、カツラをはずした父親の頭をルーペと懐中電灯で細かく観察しながら言った。 「おまえ、詳しいなあ」  雄介が少し驚いて言うと、「とーぜんでしょ、もうすぐ二年生も終りなんだし、そろそろ就職のことだって本気で考えなきゃいけないんだから」と返す。  就職──などという言葉がさらりと出る、娘はもうそんな歳になっているのだと、あらためて気づく。 「その子のお父さんもリストラされちゃったんじゃないの? ほら、中高年のリストラってよくあるじゃない」 「でも、オレとそんなに変わらない歳だったぞ」 「だからリストラ、ストライクゾーンでしょ?」 「……だな」  ため息をつくと肩が落ちてしまい、恵理に「ちょっと動かないでよ」と言われた。  腕組みをして目をつぶる。安藤の父親の姿が浮かぶ。あれから何時間もたっているのに、まだくっきりとよみがえる。くたびれたパジャマのストライプ柄も、ぼさぼさの髪の毛も、雄介を見る力のないまなざしも。 「公務員でラッキーだったね、お父さん。やっぱり、こんな時代は親方日の丸が一番だよ」  知ったふうなことを言う。十年ほど前、バブル景気のさなかの頃は、もっと高給の職場に転職しろとやかましく言っていたくせに。 「まあ、でもさ、あたし、なんとなくその子の気持ちわかるけどね。がんばってもしょうがないっていうか、なんかもう夢も希望もないじゃない、未来に」 「うん……」  目を閉じたままうなずき、認めてしまったことを少し悔しいと思った。 「そんなふうに学校のこと捨てちゃう子って、これからもっと増えるんじゃないかなあ」  これも認める。安藤の本音を聞いたことがよかったのかどうか、いまはわからない。安藤の言いぶんを心のどこかで認めてしまった。ひっくり返す言葉を、まだ見つけられないでいる。一晩たっても、何日たっても、見つけられるかどうか自信がない。  懐中電灯のスイッチを切る音が聞こえ、恵理は雄介の背中から離れた。 「どうだった?」  雄介が目を開けて振り向くと、「べつに、どうもなってなかったよ」と言う。「よくテカってる、血行いいんじゃない?」 「笑いごとじゃないんだ、ちゃんとよく見たのか?」 「見たってば。でも、ほんとになにもないのよ。やっぱりカツラにゴミかなにか入ったんじゃないの?」 「いや……見たんだけど、なにもなかった」 「じゃ、いいんじゃない?」 「よくないよ、おまえ、ほんとにかゆかったんだから。もしも、またあんなふうになったら大変だぞ」  原因不明のまま放っておくのが不安だった。嘘のように消えたかゆみだからこそ、いつかまた嘘のように不意に襲ってきそうな気もする。 「精神的なものなんじゃないの?」 「そんなことあるか」 「こないだの約束破った後ろめたさのせいだったりして」 「ばか言え」 「ま、いいじゃん、調子の悪いときもありますよってことで」  子供の頃からおおざっぱなところのある娘だった。「にせものに完璧なんてありえないんだし」──意地悪なところは、十七、八の頃から強まった。 「とりあえずスペアのやつ使ってれば?」 「あっちはどうもなあ、前髪の跳ねぐあいがちょっとイメージと違うんだけどなあ」  恵理はおどけて「イメージッ!」とオウム返しして、自分の部屋にひきあげていった。  雄介は懐中電灯とルーペを片づけながら、ため息交じりに仏壇を振り向いた。  二十二歳の智子が笑う。  四十四歳の雄介は照れくさそうに写真に笑い返して、あと何年かすれば娘よりも若くなる妻に、線香を手向けた。  ゆらゆらとたちのぼる細い煙を目で追いながら、手に持ったカツラの髪を指にからめてはほどく。ライオンのたてがみが三十代半ばですっかり抜け落ちてしまうなど、想像すらしていなかった。  トリミングして胸から上だけ引き伸ばした智子の写真には、たしか恵理も一緒に写っていたはずだ。まだ二歳になる前、よちよち歩きの頃。雄介のかまえるカメラにVサインを送った智子は、夜泣きばかりしていた恵理が成人式を迎える姿を思い描いたことがあっただろうか。髪の毛の禿げあがった夫の姿は、どうだっただろう……。  線香の火が消えないうちに、恵理はまたリビングに戻ってきた。 「ほんとは見せるのやめようと思ってたんだけど」と前置きして、美容整形クリニックの封筒を差し出した。 「……おまえ、もう行ったのか」 「下見だってば。いいから見てよ」  封筒の中には、写真四枚をいっぺんにプリントしたシートが入っていた。大判のプリクラといった感じだ。四枚とも恵理の顔を正面から撮ったものだったが、どれも微妙に印象が違う。特に、目元が。  雄介は顔を上げて、写真の娘と実物の娘とを見比べた。 「シミュレーションしてもらったの」恵理はすまし顔で言って、自分の目元を指さした。「二重まぶたに直したらどうなるか、って」  あらためて写真を食い入るように見つめると、確かにどれもまぶたが二重になっていた。 「二重がどのくらいの間隔かで、もう、ぜんぜん違うでしょ。奥二重だと、いまとたいして変わらないけど、間隔あけて、蒙古ひだも切っちゃうと、いきなりガイジンみたくなっちゃうんだもん」  雄介は蒙古ひだという言葉を知らなかった。「ここよ、ここ」と恵理は目頭をつつく。モンゴル系は、この部分の皮膚が発達しているのだという。ゴビ砂漠の砂から目を守るためにそうなったという説もあるらしい。 「日本人の七割は蒙古ひだがあるんだけど、あたしのは特に深くかぶってるんだって。言ってみれば、目頭が半分ひだで覆われてるわけ。だから、ナイガンカクケイセイっていうんだけど、そこを切っちゃえば目がぱっちりするんだって。傷もほとんど残らないの。何人か患者さんの写真見せてもらったけど、ほんと、ぜんぜんわからなかった。専門家がよーく見ればわかるかな、って程度よね」  恵理は指先を目頭からシートの右下の写真に移した。〈平行型二重・内眼角形成〉とドットの粗いパソコンの文字で書いてある。目頭から目尻にかけて、二重がくっきりと出ている。字を見て、やっとナイガンカクケイセイの意味がわかった。 「でも、これだとちょっと派手すぎるから、あたしとしては、このあたりが一番いいと思うんだけど……」  左下の写真。〈末広型二重〉と書いてある。まぶたの途中から二重になるタイプだ。 「先生も、末広型がナチュラルだろう、って」 「……整形しといて、なにがナチュラルだ」 「ま、いいじゃん。これなら蒙古ひだは切らなくてもいいし、けっこう似合うと思うし、毎日のことだから、あんまり派手にするのもアレだしね」  雄介は黙って写真を突き返した。「似合う」「毎日のこと」という言い方に、薄ら寒いものを感じた。それをさらりと口にする恵理にも。 「お父さん、やっぱり反対?」 「あたりまえだ」 「でもさあ、与えられたものだけで人生を生きていくのって、つまんなくない? カードを取り替えられないポーカーみたいじゃん」 「しょうがないだろう、みんなそうやって生きてるんだから」  仏頂面で答えながら、内心では自分の言葉の矛盾にも気づいていた。カツラの話を蒸し返されたら、負ける。  だが、恵理の言葉は、別の、思いも寄らなかった角度から来た。 「お母さんに似てるから、一重まぶたのままがいいの?」  不意打ちだった。  違う違う、そんなの関係ない──頭の中では言葉が浮かんだが、顎がうまく動かず、喉も詰まってしまった。  恵理は、ほらやっぱり、というふうに笑って、たなびいてくる線香の煙を掌で払った。 「お母さん、もし生きてたら、いまごろ二重まぶたに整形してたりして」 「……バカなこと言うな」 「可能性の話をしてるの。意外とさ、あたしに、整形しなさいって言ったりして。お母さんも一重まぶたが嫌だったんだから、あんたまで我慢することないわよ、って」 「おまえなあ、そういう冗談でお母さんのこと出すなよ」 「可能性の話だってば」  恵理はもう笑っていない。冗談を言うときの顔ではなかった。線香の煙をまた掌で払って立ち上がる。まなざしは、父親の剥き出しの頭を見下ろす角度になった。 「お父さんさあ、お母さんがいま生きてても、カツラかぶってた?」  不意打ちが二発つづいた。 「かぶってた」と雄介は言った。恵理とは目を合わせなかった。  恵理は部屋を出ていった。 「お母さん、きっとケーベツしたと思うよ、お父さんのこと」  廊下から言った。  恵理の部屋のドアが開く音が聞こえ、閉まる音がつづき、すぐにまた開く音がして、「可能性の話だけどね」と早口の声、ドアが閉まって、それきりだった。      6  ヘア・クリニックのカウンセラーは、雄介の頭皮を拡大撮影したモニターを眺めながら首をかしげた。 「皮膚はどうもなってませんがねえ……」  カツラを点検していた助手も「こっちも異状なしですけど」と言って、抗菌消臭スプレーを軽く吹きつけたカツラを雄介に返した。 「ずっとかゆいっていうわけじゃないんですよね」カウンセラーはパソコンのキーボードを叩きながら言った。「で、カツラをはずすとかゆみはすぐに消える、と」  雄介は黙ってうなずいた。膝の貧乏揺すりがさっきから止まらない。昨日のかゆみを原因不明のまま放っておくのがどうしても不安で、午前中の授業を休んでクリニックを訪ねたのだった。ここでも原因がわからなければ、皮膚科の病院にまわるしかない。  カウンセラーがキーボードから手を離すのを待って、雄介は「ストレスなのかなあ」と言った。 「なにか心当たりあります?」 「うん、まあ……教師だから、そんなことを言いだしたらきりがないんだけど」 「最近、特には?」  安藤の顔が浮かんだ。昨日ぶつけられた言葉や、「ゴキブリ」の正体や、それから、なぜだろう、恵理の「可能性の話」も思いだしてしまった。今日の昼休みは月例の学年会議がある。おそらく安藤のことも議題に挙がるだろう。十月の中間試験は、全教科の担任教師に頼み込んで試験に代わる課題プリントを出してもらったが、さすがに期末試験はそういうわけにはいかないだろう……と考えをめぐらせるそばから、頭がなんだかむずむずしてくるようだ。  だが、安藤の件をかいつまんで説明しても、カウンセラーの反応は鈍かった。「うーん……」とあいまいにうなずき、納得しきらない顔でキーボードをマウスに持ち替えて操作する。  しばらく沈黙がつづき、マウスを何度かクリックしたカウンセラーは、やっと顔を雄介に向けた。 「ひょっとしたら、もっと根が深いものかもしれませんよ」 「どういうこと?」 「その生徒さんのこともストレスの原因になってるのは確かだと思いますけど、それ以上に、高村さん、自分自身にストレスを感じてるんじゃないですか?」 「そんなことないと思うけど……」 「いま高村さんのデータを出してみたんですけど、十年間、ずっと同じ髪形なんですね」  今度は雄介があいまいにうなずく番だった。 「初めてのときに、カウンセラーからなにか言われませんでした?」 「なにか、って?」 「理想と現実の話ですけど」  そう言われて思いだした。カツラのユーザーの中には、周囲をごまかしている後ろめたさや万が一ばれたらという不安で、下痢をしたり視線恐怖症になったりする例が、たまにあるのだという。十年前の担当カウンセラーは、それを「理想と現実のギャップ」と呼んだ。カツラをつけたときの自分が理想、禿げた頭の自分が現実。そのギャップが大きくなればなるほど、精神的な負担も増していく。カツラをつけることじたいがストレスになってしまうのだ。 「ですから、当社では、まずお客さまに現実を受け入れてもらうことから始めているわけです。カツラをつけた自分は理想の自分なんかじゃなくて、これが現実なんだ、現実の自分に戻るためにカツラをつけるんだ……現実なんだから、カッコいいことばかりはない、思いどおりにならないこともある、カツラは決して魔法なんかじゃない……担当者も、そんなふうに申し上げていませんでしたか?」 「ああ、そうだった。覚えてるよ」 「まあ、これ、半分は、イメージしてたのと違うじゃないかっていうクレーム除けの理屈なんですけどね」  ナイショですよ、と含み笑いで口の前に人差し指を立てる。  雄介も頬をゆるめかけたが、カウンセラーはすぐに真顔に戻ってつづけた。 「いまの高村さんは、そういう状態になってるのかもしれませんよ。カツラをつけた理想の自分を重荷に感じて、それがかゆみになって出てきたのかもしれない」 「でも、理想なんかじゃないんだけどな。もともとオレはこういう髪形だったんだから、それこそ現実だよ」 「じゃあ、どうしていまも、そのままなんですか? 十年間も同じ髪形の人って、めったにいませんよ」 「……好きだから。他に理由なんかないだろう」 「それだけですか?」  問い詰めるような口調に、思わずムッとした。  違う──腹立たしさをぶつけたいほんとうの相手は、自分自身だった。つまらない逃げ方やとぼけ方をするな。もう認めろ。  雄介はパソコンに顎をしゃくって言った。 「髪形のシミュレーション、できるんだよな」 「ええ、簡単ですよ」  カウンセラーは最初から雄介がそう言うのを待っていたのか、マウスをすばやく動かして画面を切り替えた。四分割された画面に、正面と左右、後ろから見た雄介の頭部が映し出される。 「たとえば、こんな感じはいかがです?」  七三分けの髪が、頭に載った。 「こういうのもありますよ」  手ぐしで流したオールバック。 「そろそろ白髪があってもいいでしょうね」  オールバックのまま、白い筋が何本か走る。 「サイドを刈り上げてもおもしろいかな」「茶色にブリーチすると、重い印象も消えますよ」「手入れが楽なのは、こんな感じでしょうね」「このタイプだと分け目の位置で印象が変わりますから、ウィークデイと休日で変化をつけても楽しめます」……。  カウンセラーの言葉とともに、髪形がさまざまに切り替わる。雄介は生返事を返しながら、画面をただ見つめるだけだった。 「これが、いま」  ライオンのたてがみをまとった雄介がいる。 「でもね、高村さん、これが高村さん自身じゃないんですよ。いま映ってるのは、こういうカツラをつけた高村さん……おわかりですよね、ぼくの言ってること」  いつも洗面所の鏡で向き合っているのに、画面の中の自分はやけに老けて見える。鼻の脇から頬に沿って走る皺がくっきりして、顎の下の肉がたるんでいる。もう若くない。あたりまえのことを、いま、思い知らされた。 「カツラは髪の毛の代わりです。それ以上でも以下でもありません」  マウスのクリック音と同時に、たてがみが消えた。  耳の上だけ残して頭が禿げあがった自分がいる。さっきまでと同じ写真を使っているのに、表情はどこかせいせいしたように見えなくもなかった。  昼休み、雄介が職員室に顔を出すのを待って、学年会議が始まった。期末試験の日程の確認と、マラソン大会の段取り、保護者面談の件……最後に、進行係を務める榊原が安藤のことを切りだした。 「このままの状態がつづくと、ほんとうに問題だと思うんですよ」  雄介をちらりと見る。  雄介は腕組みをして黙っていた。もう、しょうがない。納得すると、頭がすうっと軽くなったような気がする。  他の教師の意見も榊原と同じだった。この欠席日数では進級させるわけにはいかない。あとはもう退学届が来るのを待つだけ、という雰囲気だった。  雄介は問われるままに昨日の家庭訪問の様子を報告した。父親のことも、会社をリストラされたのかもしれないというところだけ話しておいた。淡々とした口調で、誰とも目を合わさずに話した。 「なるほどねえ、こりゃもうアウトだなあ」  石井があきれはてて言った。  柳田もうなずいて「我慢なんかしたくないって言われちゃうと、もうオレたちがどうこうできる問題じゃないよ」と笑う。 「ガキなんですよ、言ってることが」と池内が言った。 「いや、ぼくはむしろオトナなんだと思いますけどね。アタマに来るぐらい醒めきったオトナなんですよ、安藤だけじゃなくて、生徒たちみんな」  榊原はそう返して、「どうですか、高村さん、そんな気がしません?」と雄介に話を振った。 「さあ……」雄介は腕を組み替えて、薄く笑う。「どうなんだろうな」  柳田が、まとめるように言った。 「オトナの生徒を教えることなんてできないよ。とっとと社会に出てもらって、世間の荒波に揉まれたほうがいいんだと思う。それがお互いのためだ」  榊原は小さくうなずきながらも、微妙に煮えきらない表情を浮かべ、「高村さん、どうでしょうねえ」とまた雄介に訊いた。  雄介は黙ったままだった。 「高村さん、だいじょうぶですか? どこかぐあいでも悪いんじゃないですか?」  榊原だけでなく、池内や柳田も怪訝そうな顔で雄介を見る。 「いや、べつに……」つくり笑いを浮かべた。「安藤のことは、うん、みんなの言うとおりだと思う」  自分の声を自分で聞いて、そうだよな、と念を押した。  だが、雄介の言葉がよほど意外だったのか、榊原たちは黙りこくってしまった。  ぎごちない間を振り払うように、石井が声をひときわ張り上げて言った。 「高村さんに見捨てられたんじゃ、安藤もおしまいだあ」  皮肉には聞こえなかったが、雄介は腕をきつく組み直した。胸の鼓動が少し高鳴った。気のせいだ、きっと。  会議を終えて自分の席に戻り、安藤の家に電話をかけた。留守番電話の応答メッセージを聞いて受話器を置く。失望はない。最初から期待などしていなかった。もし安藤が出たら、かえって困惑してしまっただろう。  遅れて自分の席についた榊原が、さっきと同じ、どこか煮えきらない顔で声をかけてきた。 「高村さん、なにかあったんですか? 今日ちょっとおかしいですよ」 「べつに、なにもないけど」 「そうかなあ……ヘンですよ、やっぱり。らしくないっていうか、『ライオン流』がぜんぜん出なかったじゃないですか」  そんなもの最初からどこにもないんだ──とは言わない。  あったのだ。昔は、確かに。  榊原は身を乗り出し、声をひそめて言った。 「さっきの安藤の話ね、ぼく、ほんとうは高村さんに反対されたかったんですよ。ぼくがクールなこと言って、高村さんが教師っていうのはそうじゃないんだって反対する、そういうパターンを予想してたんですよ。ほら、いつも会議のときってそうでしょ?」  勝手なことを言う。あきれて、だが少しだけわかるような気もした。 「ぼくだけじゃないと思います。池内くんや石井さんや柳田さんだって、みんな、ほんとうは高村さんが反対するのを待ってたと思うんですよ」 「……なんだよ、それ」 「身勝手なんです、ぼくらみんな。でも、高村さんみたいな先生がそばにいてくれないと、なんていうのかな、ほんとうに教師っていう仕事を信じられなくなるっていうか……ごめんなさい、背負わせちゃってますね」  最後は照れくさそうに笑った。  雄介は午後の授業の準備にとりかかる。前髪が目にかかってうっとうしい。かゆみは、いまはまだ、ない。だが、カウンセラーの言うことが正しければ、カツラをつけているかぎり、いつ襲ってくるかわからない。それでも、はずせない。吠えないライオンでいつづけるしかない。 「一つだけ訊いていいですか」 「ああ……」 「高村さんは、安藤がこのまま中退してもかまわないって、本気で思ってるんですか?」  黙ってうなずこうとしたとき、頬に髪が触れた。ライオンのたてがみが、肌をこする。 「そんなことないさ」  しゃべっているのは──オレなのか? 「でしょう?」榊原は声をはずませた。「そうですよね、うん、そうじゃないと」  ライオン先生が、言う。 「オレは教師だから……やっぱり、学校に来いよ、としか言えないな」 「立場上ですか?」 「そういうんじゃなくて、学校は素晴らしい場所なんだぞって、誰かが言わないと、言いつづけないと、ほんとうにどうしようもなくなっちゃうような気がするんだ」  ライオン先生は遠くの一点を見据える。あんた本気でそう思ってるのか? と問う頭の禿げあがった男から目をそらした。 「やっと出ましたね、『ライオン流』が」  榊原は嬉しそうに言った。  ライオン先生は、今日も放課後に安藤の家を訪ねてみよう、と決める。どうせ無駄だと思うけどな、と自前のたてがみをなくした元ライオン先生は冷ややかに肩をすくめる。  午後の授業の予鈴が鳴った。  チャイムの余韻に載せて、榊原が言った。 「自分じゃやらないくせになに言ってるんだ、って怒られるかもしれないけど……安藤は幸せだと思いますよ、高村さんみたいな人が担任で。これ、冗談じゃなくて、思います」  照れ笑いを浮かべたのは──どっちだろう、もうわからない。      7  間をおいてインターフォンを三回鳴らしたが、応答はなかった。門扉には鍵がかけられ、二階の窓も雨戸が閉まっていて、家の中の様子はうかがえない。  学校を出る前に電話をかけて、留守だということは知っていた。メッセージは吹き込まず、空振りを覚悟して出かけたのだった。  雄介は郵便受けに古文の課題プリントを入れ、ふう、と息をついて踵《きびす》を返した。本音を言えば安藤にも父親にも会いたくなかった。ただ、放課後わざわざ自宅まで出向いた、そのことだけ伝えられればよかった。  やるべきことはやった。今日の仕事は、これで終わった。時刻は夕方五時前だったが、空はもう暮れなずみ、街灯に、いま、明かりが灯った。  たまにはどこかで一杯やって帰るか。コートのポケットに両手をつっこんで肩をすぼめ、行く手の路上に伸びる自分の影を見つめて足を少し速めた。  安藤の家から駅までは徒歩十五分ほどの道のりだった。途中に公園があり、道はそこを迂回してゆるやかな弧を描いている。公園の中をつっきったほうが早いんじゃないかと思い立ち、犬を連れた老人の後を追って門をくぐった。  外の通りからだと木立に邪魔されてよくわからなかったが、足を踏み入れてみると中はかなり広く、公園というよりグラウンドに近い。やはりここが近道になっているのだろう、向こうから歩いてくる人影がぽつりぽつりと見える。制服姿の高校生がいる、スーパーマーケットの袋を提げた主婦や、自転車の小学生もいる。  雄介はうつむいていた顔を上げ、ポケットから手を出した。  カツラをはずしてみようか。  ふと思った。  陽が落ちてから風が出てきた。晩秋の夜風は、剥き出しの頭を刺すように冷たいだろう。だが、きっと、気持ちもいいはずだ。  右手を頭の横に添え、髪の毛を軽く梳《す》いた。外出中に、しかも路上でカツラをはずすのは初めてだった。恥ずかしさというより、なにか、やってはいけないことをやるんだという恐れと高ぶりがある。この一線を越えてしまえば気持ちがすうっと楽になりそうな気もするし、逆に取り返しのつかないことになってしまいそうにも思う。  だが、この近所には安藤以外に生徒はいない。たとえ誰かが通りかかっても、暗がりのなか、頭の禿げあがった男を雄介だとは見分けられないだろう。やるなら、いまだ。  右手をうなじに滑らせてカツラと頭皮の境目に指をかけた、そのときだった。  向こうから歩いてきた人影が咳き込んだ。体を折り曲げ、声が甲高く裏返った、苦しそうな咳だ。  目をやった。足が止まり、頭にやった手がびくんと跳ねた。  咳き込んでいるのは、安藤の父親だった。  一週間ぶりにオトナの男の人と話した──口のまわりの無精ひげにビールの泡をつけて、父親はつまらなそうに笑った。ノーネクタイのワイシャツに厚ぼったいジャケットを羽織って、なぜかは雄介にもわからない、昨日のパジャマ姿よりもさらにくたびれて、みすぼらしく見える。 「ほんとですよ、仕事をやめるとね、しゃべることなんてほとんどないんですよ、だから、なんかね、舌がもつれちゃって……」  実際、父親の話す声はくぐもって、居酒屋の喧噪の中ではひどく聞きづらかった。左頬が赤黒く腫れあがっているせいもあるのかもしれない。  雄介は黙ってビールを啜った。話をしたいと言ったのは雄介で、酒の飲めるところへ行きたいと言ったのは父親だった。人恋しかったのかもしれない。駅前の商店街を歩いているときは言葉少なだったのが、居酒屋のカウンターに腰を落ち着けると急に饒舌になって、乾杯のビールを飲み干す間もなく会社をリストラされたことを打ち明けて、再就職もままならない日々を問わず語りに話しはじめたのだった。  毎日、朝から夕方まで、あてもなく外に出て時間をつぶしているのだという。近所にはいられない。金のかかることもできない。もちろん、暇つぶしに付き合う相棒などいない。 「金を一銭も遣わずに大のオトナが半日過ごせる場所なんて、先生ならどこに行きます?」  思いついたのは公園やデパートの屋上ぐらいのものだった。正解だったのかどうか、父親はあいまいにうなずき、短く笑って、「屋根のないところばかりでしょ」と言った。 「ええ……そう言われると、確かに」 「日帰りのホームレスみたいなものですよ。会社にいた頃はそんなの考えもしなかったんですけど、いざ放りだされてみると、居場所なんてどこにもないんですよね。四十何年生きてきて、暇をつぶす場所さえ見つけられないなんてね、もう、情けなくて……笑っちゃいますよね」  笑う代わりに、父親は激しく咳き込んだ。喉がひゅうひゅうと鳴る。風邪──いや、気管支をやられているのかもしれない。  父親はビールをあおって喉を湿し、息苦しさで充血した目を雄介に向けた。 「先週、午後からにわか雨が降った日があるでしょう。傘は持ってたんですけど、体の芯から凍えちゃって、風邪ひいちゃいました。いまもほら、こじらせちゃって、咳がね、しつこくて止まらないんですよ」 「病院には?」 「行こうと思えば行けますよ、国民健康保険の三割負担でね、でも、なんかねえ、医者を儲けさせるのもおもしろくなくて」 「でも……」 「どうでもいいんですよ、もうね、くたばってもいいかな、って」  似ている、と思った。安藤修司と父親は似ている。顔立ちやしぐさではなく、醒め方がそっくりだった。雄介は父親から目をそらし、コップに残ったビールを飲み干した。泡が舌に障る。苦みが、きつくなった。 「昨日はどうにも起きられなくて、初めて朝から家にいたんです、そうしたら、このざまですよ」  父親は自分の左頬を指さした。 「先生が来る前に外に出ていけって息子に言われたんですけどね、熱があって、もう体を起こすのがやっとだったんです」 「ええ……」 「先生に一言だけでもご挨拶をと思ってたんですが、やっぱりね、息子からすれば恥ずかしい親父ですよね、私なんて。ゆうべは女房にも叱られました。我が家の大黒柱ですから、女房。張り切っちゃってね、いまはパートだけど正社員になるんだって、そんなの無理に決まってるんですけどね、ほら、オンナって世間知らずなところあるでしょう?」  言葉のひとつひとつが耳に粘りつく。話せば話すほど、父親の背中はしぼんでいくようだった。  同情はしない。ただむしょうに哀れだと思う。会社をクビになったことや、行くあてもなく町をさまよい歩いたすえに息子に殴られたことが哀れなのではない。それをこんなふうに語ることが、たまらなく哀れで、かなしかった。  酒をビールから日本酒に替えると、父親はいっそう饒舌になった。  子供の頃から、まじめさだけが取り柄だったという。こつこつ勉強をして成績を少しずつ上げていく、絵に描いたような努力型の少年だ。だが、どんなにがんばっても成績はトップクラスのいっとう下にひっかかるのがやっとだった。「ほんとうに頭のいい奴とは違うんですよね、もう、それ、中学生の頃からわかってたなあ」と首をひねって、遠くを見つめる顔になる。 「でもね、担任の先生が言ってくれたんですよ、努力に勝る天分はない、って。努力は必ず報われるからがんばれ、って。いい先生でしょう? 私、大好きでね、尊敬してたんですよ、その先生のこと」  頬づえをついて猪口を口に運び、まなざしを遠くに投げだしたままつづける。 「嘘っぱちでしたね、それ」  聞いたときは軽かった声が、あいまいに相槌を打ったあとで耳の奥に重く沈む。 「ひどいですよねえ、学校の先生っていうのは。嘘つきですよ、だますんですよ、あんなふうに」  頬づえをついたまま雄介に目をやって、薄く笑った。雄介は黙って煙草の煙を吐き出した。口をふさいでおくには酒よりも煙草のほうがいい。今夜はあまり気分のいい酔い方はできないだろう。 「こんなふうになっちゃうって最初からわかってたらね、もっと別の生き方があったんじゃないかってね、後悔することばかりですよ。もっと毎年、有給休暇もたくさんとって息子と遊んでやればよかった、残業なんて断ればよかった、適当でよかったんですよね、仕事なんて。イヤミなことばかり言う課長がいてね、なんべん殴ってやろうと思ったか……いや、だからね、殴ればよかったんですよ、そんなの簡単なのに、できなくてね、昼間ずっと我慢して、夜にやけ酒飲んで、二日酔いになって、げえげえ吐いて……バカですよ、私、ね、バカでしょう?」  体がぐらりと揺れた。キュウリのお新香を指でつまんで口に放り込み、たぶんわざと、ぐちゃぐちゃと音をたててかじる。  雄介はくわえ煙草で、厨房の洗い場に立つ店員の背中をぼんやりと見つめた。安藤の父親の言いたいことはよくわかる。その身勝手さや情けなさも、かなしさも、せつなさも。だから、よけいなことはなにも言うまい、と決めていた。  煙草の煙が前髪にからむ。目がしょぼつく。話が途切れた。いらしゃいませ、まいどありがとござます──アジア系外国人の店員の、小枝を折るような日本語が、ざわめきの隙間を縫って耳にくっきりと届く。  父親は手酌で酒を飲みつづけた。お銚子が空くと、迷うそぶりも見せずにお代わりを注文する。熱燗をあおって、カウンターに突っ伏して咳き込み、隣に雄介がいることを忘れたように呂律《ろれつ》の回らない声で一人でつぶやく。なにをしゃべっているのかは聞き取れない。聞き取ってほしくないのだろう、とも思う。  言葉でつなげなくとも、父親が生きてきた四十数年の足取りは見当がつく。どこにでも転がっていそうな、平凡で、おもしろみに乏しく、真似るのは簡単に見えて、けれどもう一度同じように生き直せと言われたら意外と難しい、そんな人生がある。  いま、それが、粉々に砕けた。職を失って断ち切られたものは、未来ではなく、過去だ。  雄介は、吸い殻で一杯になった灰皿に、また新しい一本を押しつけた。  まいどありがとござます、サシモリお待たせました、レモンハイどちさまですか──努力は必ず報われる、という意味のことわざかなにか、彼らの国にはあるのだろうか。あってほしい。雄介は思う。なければ教えてやりたい。教師の仕事は、たぶんそこから始まる。  ぬるくなった酒を舐め、ほのかな甘みを舌に載せて、雄介は言った。 「修司くん、このままだと進級が難しいと思います」  父親は黙ってうなずいた。 「本人は、中退してもかまわないみたいなことを言ってるんですが……ぼくは、やめさせたくありません」  父親は、これにも無言で応えた。 「社会にはいろんな価値観があって、たくさん選択肢があって、学校に通うというのは、そのうちのひとつにすぎないのかもしれない。でも、ぼくは、修司くんに中退してほしくないんです」  父親の口元が、わかりますよ、の形に動いた。でもね、とつづきそうな横顔だった。  雄介は息を大きく吸い込んで、言った。 「努力は、報われます」  父親はけだるそうに雄介を振り向いて、感情のこもっていない顔と声で「報われませんよ」とだけ返し、すぐにまた目をそらした。 「実際にはそうかもしれませんが、教師は……あなたの中学校の先生もそうだと思います、ぼくらはそれを言いつづけるしかないんですよ」 「無責任なものですねえ」鼻で笑われた。「真に受けた生徒は、いい迷惑だ」 「そう思ってますか?」 「恨んでますよ、はっきり言って」 「そうですか……」 「なーんてね、いまさらそんなこと言ったってしょうがないし、こないだまでは私だって息子に言ってたんですから。努力しろ、がんばれ、いましっかりがんばれば、あとで必ずいいことがあるから、お父さんを見てみろ、仕事は大変だけど、一所懸命がんばってるだろう……」  言葉のしっぽは、笑い声になった。 「息子のこともね、そりゃあ最初は困ってましたよ。でも、私になにも言う権利なんかないでしょう。オヤジみたいな人生を歩みたくないんだって言われちゃったら、ねえ、どうしようもないじゃないですか、いいんですよ、もう、大学検定だってあるんだし、もうね、あんまり難しいこと考えたくないんですよ、いまは」  笑い声が、最後にくぐもった。  父親はのろのろと立ち上がり、ジャケットのポケットから財布を出した。雄介はそれを制して、伝票を自分の側に引き寄せた。  父親は会釈して、ひょっとしたら初めてだったかもしれない、まっすぐに雄介を見つめた。  そのまま、しばらく沈黙がつづく。  父親の目は赤く潤んでいた。なにか言おうとして、けれど声は息に負けてしまい、唇がひくつくだけだった。  雄介も黙っていた。言っておきたいことはいくつもあったが、それはもう、いまの沈黙で伝えられているはずだった。  出口に向かって歩きだした父親は、何歩か進んだところで足を止め、半身になって雄介を振り向いた。 「私、中学時代の先生のこと、恨んでなんかいません。さっきのは嘘です」  ふわっと虚空に浮かべるような声だった。 「いい先生だったんですよ、怒るとおっかないんだけど」  声を追いかけて、微笑みが浮かぶ。 「いまでも、その先生と会ったりなんかは……」  つまらないことを訊いた。 「三十年も前の話ですからね」とかぶりを振る、その答えが最初からわかっていたから。  また歩きだす父親の背中に、雄介は言った。 「修司くんに、中退してほしくないんです」  父親は、もう一度振り向いた。 「私だってそう思ってますよ」  笑わずに言った。      8  教室や廊下で見かける女子生徒に智子の面影を探していたのは、いつごろまでだったろう。  十八歳で結婚をした智子なのに、面影が重なる生徒はクラスでも幼いタイプの女の子ばかりだった。昼休みにおしゃべりをしたり、たどたどしく古文の教科書を読んだり、笑ったり、しょげかえったり、ふくれつらになったり、目を潤ませたり……智子はたくさんいた。どこにでもいた。雄介はそんな彼女たちを微笑み交じりに見つめ、ときには一緒になってジョークを飛ばし合い、軽やかに駆けていく背中を見送ったあとで鼻の奥がツンとすることもあった。  二十二年間の教員生活で、二回異動した。いまの学校が三校目になる。  智子と出会った学校では、結婚後も折に触れて生徒たちに智子のことを話した。最初の数年間はノロケ話として、そこから先は、かなしい思い出として。  背中が痛いと智子が言いだしたとき、なぜすぐに病院へ行かせなかったのか。ずっと、それを悔やんでいる。 「運動不足なんじゃないか?」とからかって、「冗談じゃないわよ、恵理と一日一緒にいたら、くたくたなんだから」とふくれつらで返され、けっきょく背中に湿布を貼るのを手伝ったくらいで、なにも心配などしていなかった。  背中の痛みが腰にまで広がり、体を横倒しにしていないと眠れなくなってから、やっと病院で検査を受けた。そのときにはもうガンは全身に転移していて、手のほどこしようがなかった。  ショックや悲しみの記憶は、いまはずいぶん薄れた。わずか三カ月たらずの短い闘病生活を振り返ったときに浮かぶのは、お見舞いに来た恵理と看護婦さんごっこをする笑顔や、外泊許可を貰って帰宅したときの「思ったより片づいてるじゃない」という憎まれ口や、流動食に切り替わる前日、時季はずれのイチゴを一粒だけ食べたときの「ありがと」の声……そういうものばかり、記憶に残してきた。  智子は、命の尽きる半月ほど前──痛み止めのモルヒネを使いはじめてから、現在と過去を行き来するようになった。雄介の呼び名も変わった。「パパ」でも「あなた」でもなく、「せんせー」。痩せて細くなった手を伸ばして、しきりにライオンのたてがみを触りたがった。高校時代の思い出を繰り返し語った。楽しかった、と何度も言った。せんせーのおかげだよ、とも言った。過去の世界に入り込んで、「ねえ、せんせー、質問していいですかあ?」と不意に声をあげることもあった。  あたし、ライオンせんせーのこと、大好きっ。  ベッドに横たわった智子の寝顔に、高校生の智子の声が重なる。  その声は、教室や廊下に響き渡る女子生徒の、誰ともつかない誰かの声でもあった。  いまはもう、それは学校にいても聞こえない。耳に飛び込んでくるのは、ねばついていたり舌足らずだったりキンキンととがっていたりする声ばかりだ。  遠くなった、と思う。認めるしかない。ひとつになどなれない。もはや生徒たちは、自分の娘より年下なのだ。  最初の異動で赴任した学校は、智子と出会った学校より偏差値はずっと高かったが、居心地ははるかに悪かった。  雄介は三十代になっていた。智子の両親の手助けを受けながら育ててきた恵理も幼稚園の年長組になり、少しずつ手がかからなくなってきた、そんな時期だった。  ライオンのたてがみをなびかせて教壇に立つ雄介は、いつも空回りしていた。生徒たちは勉強ができるぶん、授業に対して醒めていた。教師に対しても、学校そのものに対しても。  こっちが話しかけても、感情のはっきりしないのっぺりとした顔で、「さあ……」と返し、「べつに」と答え、「そっすね」とつまらなそうに笑うだけだ。生徒同士のおしゃべりに入っても、彼らが好きなもの、流行りのもの、言葉遣いについていけず、すぐにはじき出されてしまう。授業でもそうだ。生徒たちは、教えることはすべて理解できる。だから、それだけ。なんのひっかかりもなく、一コマずつ進む。あまりにもスムーズすぎて、なにかすごくたいせつなことを教え忘れているんじゃないかと心配になるほどだった。  職員室では「ライオン流」をつづけた。校長や学年主任や生活指導の教師にしょっちゅうくってかかった。だが、後押ししてくれるものがない。自分は生徒の味方のつもりでいても、振り向くと肝心の生徒たちはいない。遠く離れたところで、興味なさそうな顔をしている。彼らは皆、従順で、しかし素直というのとは違う、管理に反発するほどの思い入れすら学校に対して持たずに三年間の高校生活を過ごしているのだった。  一学期の頃は、戸惑った。手ごたえのない日々に、もどかしさをいつも感じていた。  こんなはずじゃない──二学期になると、戸惑いがあせりに変わった。なにに対してか、わからない。ただ、あせり、いらだっていた。  職員室でも教室でも、自分一人、浮き上がっているのがわかる。「うっとうしい先生」「暑苦しい先生」と陰で生徒たちが呼んでいることも知ってしまった。  教壇で髪を掻き上げると、最前列の生徒が嫌な顔をする。ライオンのたてがみは、もう時代遅れだった。テレビのバラエティー番組では、雄介と似たような髪形をした元アイドルが、ずっと年下のお笑いタレントにいたぶられていた。髪の毛をひっぱられ、大きなハサミを持ってスタジオ中追いかけ回され、バケツの水を頭から浴びせられて。  三学期。ホームルームの時間に智子の話をした。出会いから智子の死まで、ていねいに話した。教科書には載っていないなにかを、筋道を立ててはうまく説明できないなにかを、生徒たちに伝えたかった。  教室は、しんと静まりかえっていた。だが、教壇に立っていれば、わかる。迫ってくるもののない、しらじらとした沈黙だった。うんざりした沈黙でもあった。途中から、話すのがつらくなった。智子がかわいそうになった。  何日かたったあと、ふだんから反りの合わない同僚が皮肉な笑みを浮かべて言った。 「高村先生、生徒に一代記を披露したんだって? みんなカンドーしてたよ、映画みたいな大ロマンスだったって。でもなあ、十六、七のコドモに、あんまり人生押しつけないでやってよ。そういうのって、しゃべる側はいいけど聞くほうは負担になっちゃうかもしれないから」  さらに数日後、廊下を歩いていたら男子生徒から声をかけられた。 「せんせー、再婚しないんですか?」  雄介は苦笑交じりに「いまはな。いい人が見つかればわからないけど」と答えた。  すると、生徒はからかうように言った。 「今度もジョシコーセーがいいの?」  ライオンのたてがみが脂でじっとりと重くなり、頭のあちこちに吹き出物ができるようになったのは、その頃からだった。  前任校で過ごした五年間は、最初から最後まで空回りをつづけた。年度があらたまるたびに、生徒との距離も変わった。厳しい教師にもなったし、甘い教師にもなった。距離が近すぎるとなめられて、遠すぎるとそっぽを向かれた。文化祭で陣頭指揮をとっても、卒業文集をつくっても、生徒とひとつになれたという実感はなかった。  抜け毛が急に増えてきたことに気づいたのは二年目。三年目には、地肌が透けるようになった。四年目、「ハゲ先生」とあだ名をつけられた。  智子のことは一年目のあの日を最後に誰にも話さなかったが、口伝てに、しかもねじ曲がって後輩に伝えられていた。智子は在学中に妊娠した、らしい。雄介がレイプした、らしい。  五年目に、男子生徒をささいなことで殴った。親が訴えるだのなんだのと言いだし、校長と二人で謝りに出かけた。その事件のあとはどのクラスでも、授業中に雄介がジョークをとばしても生徒は笑わなくなった。  六年目に、いまの学校に異動した。  カツラをつくった。 「こういうの、流行りじゃないですけどねえ」とカウンセラーには言われたが、ライオンのたてがみにした。  それが自分の理想だと思ったわけではないのだが。 「どうしたのよ、思い出モードに入っちゃって。毎晩毎晩……千夜一夜物語みたいだよ」  恵理はあくび交じりに言って、適量を超えたウイスキーのオンザロックの代わりに、冷たい水のグラスを雄介の前に置いた。 「おまえはどう思ってたんだ? お父さんがカツラかぶるようになったとき」  ゆうべも同じことを訊いた。おとといも、その前も。訊いたことは覚えているが、答えは二日酔いの頭痛と吐き気に化けて、まったく思いだせない。 「仕事って大変だなあ、って」と恵理が言う。 「ほんとかあ? 小学校の四年生か五年生の頃だぞ、そんなオトナっぽいこと考えるか?」 「あ、うそ、間違い。あのね、人生って大変だなあって思ったんだ」 「……生意気なこと言うんじゃない」  恵理は、えへへっ、と笑った。  たぶん、これも、明日の朝になると忘れてしまうだろう。      9  十一月最後の週に入っても、安藤は学校を休みつづけた。欠席の連絡も、父親と酒を飲んだ翌日から途絶えてしまった。電話はずっと留守番電話になっている。学校に来なくてもいい、せめて連絡を入れてくれ、と一日に何度もメッセージを吹き込んでいるが、反応はまったくない。  家庭訪問は、やめた。いま安藤と会っても説得できる自信がない。 「榊原さんだったらどうする?」  一度訊いてみたことがある。素直なのかヒネているのかよくわからない後輩の本音を知りたかった。  榊原は少し考えて、言った。 「高校は義務教育じゃありませんから、基本的には、去る者は追いません。いままでもそうやってきました」 「そうか……」 「それに、あまりしつこく引き留めると、なんかこっちに正義があるみたいな気がして、生徒もかわいそうかな、って。おまえが選んだ道は間違ってるんだぞって脅してるみたいで。生徒が学校をやめると決めたんだったら、それを認めてやるのも教師の仕事かもしれないな、ってね」  そういう発想はオレにはないな、と雄介は認める。どっちが正しいのかは考えずにおいた。  榊原はしばらく雄介の返事を待っていたが、やがて拍子抜けしたように息をつき、「責任感がないんですよね、ぼく」と自分でひるがえした。 「そんなことないさ」 「でも、中退したいんなら勝手にどうぞって見送った生徒、みーんな駄目になりました。駄目とかなんとか決めつけちゃうのって傲慢かもしれないけど、でも、どっから見ても、誰が見ても、やっぱり駄目になってるんですよね。首根っこつかまえて学校に戻したら駄目にならなかったのかって言われたら、そんなのわかりませんよ、でもね……やっぱりね、うまく言えないんですけど……」  しぼんでいった声は、短い沈黙のあと、「だから」と跳ね上がった。 「こう見えてね、けっこう後悔してるんですよ、いろんなこと」  ふふっと笑い、雄介から目をそらして、机の抽斗《ひきだし》を開けた。  プリントの束を取り出して、雄介の机に置く。 「……なに? これ」 「二学期にやったところの課題プリントです。かなり量がありますから、全部やるのに三日ぐらいかかるかもしれないけど、これを全部やったら英語の単位はなんとかしてやるって、安藤に伝えてやってください」 「榊原さん、つくってくれたのか」 「ちょっとね、ほら、ぼくパソコン買ったままだったでしょ。せっかくだから練習も兼ねて」  頭を下げて礼を言いかけた雄介をさえぎって、榊原は笑い顔のままつづけた。 「でも、安藤が学校をやめたいって言うんなら、ぼくは止めませんけどね」 「うん……」 「生徒の自主性を重んじるタイプの教師ですから、ぼく」  榊原のその言葉とプリントの束は、いまも雄介の机の抽斗で眠っている。安藤に渡せるかどうかはわからない。  十二月になった。  一年C組の教壇に立った雄介は、ため息交じりに出席簿の新しいページを開き、安藤の欄に/印をつけた。  一週間後に始まる期末試験の日程と出題範囲のプリントを配り、教室を出るときに、もう一度ため息をつく。安藤よりも、むしろ父親の顔を思い浮かべて。  職員室に戻って電話をかけてみたが、いつものとおり留守番電話の応答メッセージが流れるだけだった。もうこっちのメッセージを残す気も起きない。  授業に向かった。一時限目の一年B組は、授業の進度が一コマ遅れている。期末試験までに他のクラスに追いつかなければならない。安藤のことは忘れろ。教室で待っている生徒のために、教師はいる。学校に通うことや授業を受けることを「我慢」と呼ぶような生徒に、教師のできることなど、なにもないのだ。  昇降口の前を通りかかったら、下駄箱の並ぶホールのあちこちに、遅刻した生徒たちの姿があった。鞄をぶつけ合ってふざけたり、けたたましい笑い声をあげたり、靴を上履きに履き替えもせずに簀《す》の子の上に座り込んでおしゃべりしている連中もいる。雄介に気づいた生徒もいたが、「おはようございます」の挨拶はない。遅刻を悪びれているようにも見えないし、いまから教室に向かうのだという気持ちすら伝わってこない。  遅刻組の中に一年B組の女子生徒を見つけた。二年生の男子のグループに交じって、おしゃべりしている。  雄介は足を止め、深呼吸で胸の高ぶりを抑えて、つくり笑いで声をかけた。 「おい、授業やるぞ」 「あ、先に行っててくださーい」  怒るな。自分に言い聞かせる。オレは生徒の味方だ、いつだって。 「今日の授業でやるところ、試験に出すぞ」 「えーっ、せんせー、それマジ?」 「ほら、こんなところでうだうだしてないで、早くしろよ」 「せんせー、試験に出るところって、授業の最後のほうにしてくださいよお。ちょっとね、こっちの話、長くなりそうだから」  喉元まで出かかった怒鳴り声を押しとどめ、「最初の五分でしゃべるからな」とジョークの口調で返した。だが、彼女が教室に入ってくるまで試験に出るポイントは話さないだろう。自分でもわかる。いつものことだ。悔しいくらい、いつものことだった。  気を取り直して、また歩きだす。  早く教室に行かなければ。生徒が待っている。期末試験までに教えておくべきことは、まだたくさんある。  だが──ほんとうに生徒は待っているのか?  オレは、生徒にほんとうに求められているのか?  嫌いだよ、と一言でいい。  おまえたちのこと、ほんとうは嫌いなんだ──軽く言えば、すべてが終わり、終わってもべつになにかをうしなうわけではない。  おまえたちの先輩も、そのまた先輩も、そのさらにまた先輩も、みんな、みんな、嫌いだったんだ。  教室はざわついている。輪郭のない三十数人ぶんの声が、冷蔵庫の音漏れのように途切れることなく耳に届く。板書《ばんしよ》をしているときは、いつもこうだ。授業中は静かにしろ。これもおまえたちにとっては「我慢」なのか? 我慢して静かに授業を受けたってべつにいいことないじゃん、とおまえたちも言うのか?  前髪がうっとうしい。たてがみが、重い。もう若くない。毎年入れ替わる十五歳から十八歳のおまえたちとは、遠ざかる一方だ。あたりまえじゃないか。定年まで、あと十六年。おまえたちと一番近かった頃に戻るよりも、そっちのほうが早い。  オレはもうライオンなんかじゃない。  チョークが折れた。 「せんせー、リキ入れすぎ」  前のほうの席に座った男子生徒が言う。まわりの女子が笑う。後ろの席の連中は、どうせ教壇の様子など気にかけていなかったのだろう、笑い声すらあげない。  雄介は、手に残った根元だけのチョークを黒板の受け皿に捨てた。  生徒たちに向き直った。  おまえたちが嫌いだ、おまえたちのずるさや、弱さや、甘さが、大嫌いだ。  教卓の縁に両手をかけて、端から端まで教室を眺め渡した。  生徒たちは皆、きょとんとした顔で雄介を見る。 「せんせー、なんか怒ってる?」  後ろの席の女子が言った。 「うそォ、そーゆーの、キャラ違うーっ」  別の女子がおどけた声で言うと、何人かがどっと笑った。  雄介は──雄介も──ライオン先生が、笑った。  泣きだしたい気分で「人のキャラクター、勝手に決めるなよ」と笑った、そのときだった。  頭の後ろがチクッとした。  あれ? と思う間もなく、頭ぜんたいにかゆみが広がった。  激しいかゆみだった。安藤の家で襲われたときとは比べものにならないくらいの。  目をつぶると、まぶたの裏で光がいくつも弾けた。体が揺れる。こめかみから首筋、背中にかけて、肌が毛羽立っていく。歯を食いしばって、うめき声が漏れるのをこらえた。  思いきり掻きむしりたい。カツラがずれてもかまわない。いや、もうカツラを脱ぎ捨てて、頭にじかに爪を立てたい。深く、深く、深く、爪を突き立てて、いっそ皮をぺろりと剥いでしまいたい。 「……授業……終わり……」  やっとそれだけ口にして、床を踏み鳴らして教壇を下りて、廊下に出ると走った。  教職員用のトイレまで戻る余裕はなかった。生徒用のトイレに駆け込み、個室に入ってカツラをはずし、頭を掌で叩いた。まだ授業中だ。トイレにも廊下にも人影はない。力を加減せずに、ビチャビチャと音が響き、指の腹が痺れるぐらい強く叩いた。  だが、途中で気づいた。あのときと同じだ。かゆみはすでに、嘘のように消えうせていた。  カツラを小脇に抱え、個室のドアにもたれかかって、消毒薬のにおいの溶けた息を吸い込んだ。 「もう、駄目だ……疲れちゃったよ……」  つぶやいた先には、智子がいる。ほんもののライオン先生だった頃の雄介もいる。二人ともうなずいた、と信じた。  胸に残った息をゆっくりと吐き出して、ドアから背中を浮かせかけたら、腕が腋から離れ、カツラが滑り落ちた──足元の、和式便器の中に。  溜まっていた水にひたったカツラは、髪が広がって、まるで海藻か長い触手を持った虫のようにゆらめいた。  腰と膝がくだけ、その場にしゃがみこんだ。  カツラをつまみ上げる。重かった。水がぽたぽたと滴り落ちた。  涙が出そうになったが、まぶたの裏が熱くなるだけで、泣けなかった。代わりに笑った。息を詰めて、肩を落とし、顔のどこにも力を入れずにしばらく笑った。  ドアの外は静かだ。廊下からも話し声や足音は聞こえない。  個室を出て、洗面所でカツラを洗った。  授業が終わるまでに乾くだろうか。最初から答えのわかっていることだった。ちょっとさ、頭がぼーっとするから、水かぶったんだ。リアリティのある言い訳とは思えなかったが、それで押し通して、宿直室にドライヤーはあったっけ、水泳部あたりの生徒に借りたほうが早いだろうか、とにかく「なに考えてんの、せんせー」とあきれられてもいい、そのほうがいい、髪を乾かして……。  廊下から足音が聞こえた。走っている。話し声。男子だ。体育の授業が早く終わって教室に戻る連中かもしれない。近づいてくる。オレ、しょんべんしていくから。誰かが言った。あ、じゃあオレも。別の誰かも言う。  びしょ濡れのカツラをあわててかぶるのとほぼ同時に、ジャージ姿の男子数人がトイレに駆け込んできた。  先頭にいた生徒が、うぎゃっ、とひしゃげた声をあげて立ち止まった。後ろの生徒もそれにならい、全員の視線が雄介に注がれる。 「髪、洗ってたんだ」  雄介は言った。カツラから滴り落ちる水が、うなじやこめかみや額を濡らし、鼻の脇を伝ったしずくが顎から垂れた。  生徒たちはなにも答えない。身がすくんだように動かない。なにか怖いものを、見てはならないものを見てしまったようなまなざしだった。 「ときどき洗うんだ、気分転換で。ふつうなんだよ、こういうの」  返事はない。視線も雄介からはずれ、気まずそうに目配せしたり肘でつつきあったりする。 「なんだよ、おい、しょんべん早くしろよ、ボーコー炎になっちゃうぞ」  雄介は笑いながら言った。  先頭の生徒が、身をひるがえした。他の生徒も同じように踵を返し、われ先にトイレから駆けだしていく。  逃げた──?  呼び止めようとして身を前に乗り出したら、洗面所の鏡に映り込む自分の姿が視界の隅をよぎった。  振り向いた。  鏡の中の自分も、こっちを見る。  カツラが斜めになって、頭の右側がほとんど剥き出しになった自分が、口をぽかんと開けていた。      10  リビングルームに入ると、留守番電話のメッセージランプが点滅していた。伝言が三件。壁の照明スイッチに手を伸ばしかけたが、まあいいか、とそのままソファーに座った。  カツラのない頭は、窓を閉めた部屋に澱む空気の、あるかないかの流れを敏感に感じとる。寒い一日だった。ずっと木枯らしにさらされていた。喉がいがらっぽい。風邪のひきはじめかもしれない。  薄暗い部屋を、点滅するメッセージランプの赤がぼうっと照らす。午後七時。今夜の夕食当番は雄介だったが、キッチンに立つ気力が湧かない。恵理が帰ってきたら、どこかに食べに行こう。うまいものを食べて、酒でも飲んで、今夜はなにも考えずに眠りたい。  雄介は立ち上がり、メッセージの再生ボタンを押した。  一件目は、榊原からだった。 「体調の悪いときに恐縮ですが……あの、早くお伝えしたほうがいいと思いまして……いま、安藤修司の退学届が速達で来ました。とりあえずぼくが預かっておきますので、もし早急にお読みになるようでしたら学校のほうにお電話ください。すぐにお持ちします」  録音時刻は午前十時過ぎ──学校を早退した雄介が、タクシーの後部座席で、濡れたカツラを必死にハンカチで拭いていた頃だ。  二件目は、恵理から。 「大学の帰りにおばあちゃんちに寄って、成人式の着物、見せてもらってきます。晩ごはん、先に食べてて。あ、でも、帰ったら食べるから、あたしのぶんもつくっといて」  午後一時過ぎのメッセージだった。雄介は新宿のデパートの屋上でホットドッグとコーラの昼食をとっていた。いや、その頃はもうデパートを出て、地下街を歩いていただろうか。  三件目は、また榊原からだった。 「あの、どうも、何度もすみません」と前置きする声が、少しあわてていた。  雄介はぼんやりと投げだしていたまなざしの焦点を結ぶ。 「あのですね、ついさっきなんですけど、安藤修司のお父さんから高村さん宛てに電話がありまして、ぼくが代わりに受けたんですけど、お父さん、退学届を取り消したいって……いや、ま、それはいいんですけど、電話の途中で、なんか向こうで揉めてるみたいで、あれ安藤だと思うんですけど大声出して、急に切れちゃったんです。また電話かかってくるかもしれないんで、とりあえずぼく、しばらく職員室に残って……」  三十秒に設定してある録音時間がリミットに来て、メッセージは途中で切れた。IC合成の女性の声が「ただいま、の、メッセージは、午後、六時、二十分に、お預かり、しました」と告げて、テープが停まる。  雄介はソファーに戻り、尻餅をつくように座った。帰宅してからほんの数分ほどの間に、部屋はもう窓の外の暗がりとひとつになってしまった。木枯らしはあいかわらず吹き渡っていて、電線の鳴る口笛のような音がときどき聞こえる。  安藤の父親は、今日はどこにいたのだろう。誰とも話さず、行くあてもなく、どんなふうに昼間をやり過ごしたのだろう。  雄介も今日一日、居場所と足跡をなくしていた。父親を真似てみた。夕暮れまで、ほんとうに長かった。座っていても、歩いていても、たたずんでいても、自分がどこから来て、いまどこにいて、これからどこへ行くのか、なにも手ごたえがなかった。  誰からも命令や束縛を受けない一日、それを「自由」と呼ぶこともできる。自由を与えられて途方に暮れてしまう、もう若くない男の姿を見て、若い連中は笑うだろうか。あんたみたいにはなりたくないよ、と冷ややかに言うだろうか。  無意識に前髪を掻き上げようとした左手の指先が眉の上を叩き、爪が肌をこすった。痛みはあまり感じなかったが、爪で掻いたところが、ポッと音が聞こえてきそうに熱くなった。  電話が鳴る。  勢いをつけてソファーから立ち上がって、受話器を取った。 「もしもし? 高村さんですか?」──榊原の声。  安藤の父親から、いま、電話がかかってきたという。 「高村さんにどうしても会いたいって言うんですよ。体調が悪いことも言ったんですけど、なんか向こう、すごく興奮してて、高村さんの家に行ってもいいかなんて訊くんですよ」 「興奮って、どんなふうに?」 「いや、もうね、息がゼエゼエしてて……安藤と、ひょっとしたら、なにかやっちゃったのかなあ……」 「で、榊原さん、なんて答えたんだ?」 「だから、とにかく高村さんに連絡とってみますからって、向こうからの電話、いま保留にしてるんですよ。どうしましょうか、どんなふうにでも伝言しますよ」  少し考えて、「学校に来てもらってくれ」と言った。 「いまからですか?」 「ああ。オレもすぐに行く。あとはもうオレがやるから、榊原さんは帰ってくれてもだいじょうぶだ」 「でも……いいんですか? 体のほう」 「ズル休みしたんだよ、今日は」  含み笑いの早口で言って、榊原が「はあ?」と聞き返す間もなく受話器を置いた。  部屋の明かりを点けて、まぶしさに目をしょぼつかせながら恵理に〈学校に行く、夕食はテキトーによろしく〉とメモを残した。  洗面所の鏡に映してみたら、さっき爪で掻いたところが細い筋になって腫れていた。剥き出しの頭皮は、ほんとうに、情けないほど弱い。  カツラを手にとった。頭にはめて、もう一度、鏡に映す。ライオン先生がいる。いつもどおり。うなずいた。たてがみが揺れた。髪を掻き上げて、笑ってみた。  そして、笑顔のまま、カツラをむしり取る。  職員室に一人で残っていた榊原は、雄介を見たとたん、あわあわと口を動かして、椅子から転げ落ちそうになった。 「これがオレだよ」とだけ雄介は言って、細かい事情の説明の代わりに禿げあがった頭を深々と下げて、居残っていてくれたことへの礼を言った。  榊原は椅子に座り直し、まだ動揺の抜けきらない顔で「いや、まあ……」と照れくさそうに返す。「『ライオン流』を見せてもらうチャンスだと思って」 「ライオンなんかじゃないよ、もう」  雄介は頭を軽く撫でて、「残ってるだろうっていう気もしてたんだ」と差し入れのサンドイッチと缶コーヒーを渡した。  榊原はコーヒーを一口飲んで、ようやく人心地がついたのか、「ぼくも、高村さんは学校に来るだろうなと思ってましたよ」といつもの調子に戻って言った。 「なに言ってんだ」と、今度は雄介が照れてしまう。 「それにしても、いやあ、まいったなあ……高村さんの頭……」  雄介の髪の毛がカツラだったことは、昼間のうちに生徒たちのほとんどに伝わっていたのだという。 「ぼくもチラッと聞いたんですけど、いくらなんでもねえ、そんなの夢にも思ってなかったから、はなっから信じなかったんですよ。おまえら、いいかげんなこと言うと名誉毀損だぞ、なんてね、生徒のこと叱ったりして」 「悪かったな、いままで黙ってて」 「いえ、そんな……」 「悪かったと思ってるよ、ほんとに」 「あ、でもね、生徒の中にはうすうす勘づいてた連中もいたみたいですよ」  驚いて顔を上げると、榊原は嬉しそうに笑いながら、声色を交えて言った。 「どーも怪しいと思ってたんですよお、とか、ヅラみたいな気ィしてたんすよオレら、とか、あと、そう、疑惑の長髪だった、なんて言ってた生徒もいました」  まいったな、と雄介も笑った。ずっと空回りしていたわけだ、前任校の頃とは別の意味で。 「隣の席のぼくでもぜんぜん気づかなかったのに、たいしたものですよ。よく見てますよね、生徒って、教師のこと」 「うん……」 「だから、こんなこと言うとかえって失礼かもしれませんけど、みんなすんなりと受け入れてると思いますよ。髪の毛がどうでも、高村先生は高村先生なんだし、ライオン先生ですよ、やっぱり」  どう返せばいいかわからず、わざと大きなしぐさでクラス名簿を開いたとき、電話がかかってきた。  榊原を制して受話器を取った雄介の耳に、恵理の声が飛び込んできた。 「ねえ、お父さん、なにかあったの? カツラ、二つとも家に置きっぱなしだけど」  意外と観察眼の鋭いところがある。 「忘れちゃったんだ」と雄介は言った。 「ちょっと、どうしたの?」 「どうもしないよ。それより、恵理、晩めしまだだろ? 学校まで来いよ。ちょっと遅いけど、帰りにどこかで食べよう」 「……お父さん、ひょっとしてさあ、人生に開き直っちゃった?」  うまい言い方をする。少し親バカで、思う。 「通用口から入ってこい。守衛さんがいるけど、お父さんの名前出せば入れるから」 「おすし食べたいなあ。いい?」 「じゃあ、お父さんの本棚に岩波の古典全集あるだろ。『宇治拾遺物語』に封筒が挟んであるから、それ持ってきてくれ」  ヘソクリのありかも、大サービスだ、教えてやった。  受話器を置くと、それを待っていたように榊原が呼んだ。  戸口に、安藤の父親が立っていた。さっきの榊原と同じように、唖然とした顔で雄介を見つめ、あわあわと口を動かして。  応接コーナーのソファーに向き合って座ると、父親の唇の端に生乾きの血がこびりついているのがわかった。左頬も腫れている。 「あの……」  いきさつを尋ねようとした雄介の声に、父親の同じ台詞がきれいに重なった。出端をくじかれてうつむくタイミングも揃い、どうぞお先に、と掌で示すぎごちないしぐさまで似てしまった。  雄介は苦笑交じりに自分の頭を撫でて、「これが、ぼくです」と言った。「こないだは長い髪でしたよね、カツラだったんです、じつは」  父親はまだピンと来ない様子で、相槌は「はあ……」と間の抜けたものになってしまった。だが、それ以上のことを説明する気はない。父親も重ねては問いたださず、うつむきかげんに何度かため息をついたあと、そのままの視線で自分の話を始めた。  何日か、東京から遠く離れた故郷に帰っていたのだという。東京での再就職を半ばあきらめ、故郷の親戚や知り合いのつてを頼って職を探した。 「でも、けっきょく見つかりませんでした。実家もね、親が死んで兄貴の代になってるんで、どうも居心地が悪くて、途中からはビジネスホテルに泊まりました。自分の生まれ故郷に帰って、狭いホテルの部屋で缶ビール飲んでるとね、なんだかねえ、どう言うんでしょうねえ……」  あの夜と同じように、声がねばついて耳に届く。 「今日の昼過ぎに田舎から帰ってきたら、息子がね、速達で退学届出したって言うんです。女房にも黙って勝手にハンコ捺《お》して、親父に口出す権利はないって、親父みたいな一生送るぐらいなら死んだほうがましだって、死ぬの痛そうで嫌だから人を殺したほうがましかもしれないって……」  雄介は黙っていた。この世のどこにも居場所をなくしてしまった男の、会社にいた頃は力仕事も多かったのだろう、節くれ立った手の甲をぼんやりと見つめた。  だが、父親の繰り言は、あの夜ほどは長くつづかなかった。  退学届はまだ榊原が預かっていると知ると、父親はほっとした息をつき、気を取り直すように顔を上げて、右頬だけで笑った。 「田舎で、こないだお話しした中学時代の先生に会いましたよ、ほんとに、もう三十年ぶりぐらいに」 「お元気でしたか」と雄介が訊くと、押しボタンをポンと叩くように返事が来た。 「惚《ぼ》けてました」  軽く言った。「惚けて、病院に、そういう老人専用の病院あるでしょ、そこにいました」と付け加える、その声もさらりと。  父親は視線を雄介からはずし、左頬に軽く手を添えて、リハビリテーションをするみたいに、今度は両頬で笑った。 「私のこと、いったい誰と勘違いしたんでしょうね、先生、私の顔見るといきなりベッドに正座してね、言うんですよ、まじめくさった顔で、ご苦労さまでした……って」  愚痴や嘆きや恨み言ではなかった。父親は左頬から手をはずしたが、笑みは崩れなかった。まなざしが雄介に戻る。おだやかなまなざしだった。 「あとからじわじわ嬉しくなったんですよ。ほんとに、ご苦労さまですよねえ、私。ご苦労さま、なんですよ。リストラされて初めてです、そんなこと誰かに言ってもらったのって。女房も息子も言ってくれないのに、惚けちゃった先生がね、先生だけね……」  父親は声を詰まらせ、洟《はな》を啜りあげて、「嬉しかったなあ」と目を瞬《しばたた》きながら言った。  榊原が給湯室からお茶を持ってきた。父親は会釈してそれを断り、居住まいを正した。 「そのことだけ、高村先生にお伝えしたかったんです。努力は報われますよね、報われたんですよね、私、そうですよね?」 「あ、じゃあ再就職決まったんですか?」と榊原が声をはずませた。  雄介は肩を揺すって笑った。父親も、ちょっと困った顔で笑う。 「このまま、お帰りになるんですか?」と雄介は訊いた。 「ええ、息子とね、もっと話し合わないと……殴り合いですけど。とにかく中退はさせたくないんです、学歴とかそんなのじゃなくて、うまく言えなくて、だからけっきょく息子にも通じないんですけど、なんて言えばいいんでしょうね、だから……」  雄介はひとつ大きくうなずいて、言った。 「教室に行ってみませんか」 「え?」 「せっかくだから、息子さんの席に座ってみてください」  立ち上がり、さあ、とうながした。  父親はきょとんとした顔で、なにか目に見えない糸に吊り上げられるように腰を浮かせた。  最初は唖然として雄介と父親を見比べるだけだった榊原が、二人が歩きだすと不意にわれに返ったように「ちょ、ちょっと待ってください」と呼び止めて、机の角に膝をぶつけながら池内の席に駆けていった。  本棚から古文の教科書を抜き取って、二人を振り向き、にっこりと笑う。 「これ、あったほうが気分が出るんじゃないですか?」  きっと、榊原は、いい教師になる。職員室を出るとき、雄介は筒にして持った自分の教科書で榊原の尻を軽く叩いてやった。  がらんとした教室に、教科書を読む雄介の声が響き渡る。  窓から三列目の、前から四番目──息子の席に座った父親は、教科書をぱらぱらめくったり、黒板を眺めたり、机の天板を撫でたり、椅子に座った尻の位置を細かく変えたりしながら、教壇に立つ雄介と目が合うと、首をかしげて頬をゆるめる。いまにも声をあげて笑いだしそうな、けれど泣きだす寸前のようにも見える表情だった。  雄介が読んだのは『奥の細道』の冒頭だった。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり……」という、仮にも古文の教師だ、すっかり諳《そら》んじている一節を、文字の連なりをひとつずつ確かめるようにして読んでいった。  オレたちはどこから来て、いまどこにいて、これからどこへ行くのだろう。昼間、答えの出せなかった問いは、いまも胸の奥のどこかにぽっかりと浮かんだままだ。アスファルト道路の逃げ水のように、それは、どんなに近づいても届かない問いなのかもしれない。  明日になると、父親はまた居場所のない一日を過ごすだろう。ライオンのたてがみをうしなった雄介は、明日から、いまは気づいていない自分のなくしたものの大きさを思い知らされてしまうかもしれない。  それでもいい──雄介は思う。  教科書を読み終えて、教壇から父親に「懐かしいでしょう」と声をかける。  父親はあらためて教室を眺め渡し、「息子が小学生の頃の父親参観日以来ですよ、学校の教室に入ったの」と言った。「教科書も、もうぜんぜん見てませんからね」 「でも、オトナだって、昔はここにいたんですよ。オトナはみんな、かつて生徒だったんですよ」  雄介の言葉に、父親だけではない、教室の後ろのドアに立つ榊原も、うんうん、とうなずいた。  父親は座ったまま椅子を引き、また戻し、机の天板を軽く叩いて、肩を揺すった。 「いたんですねえ、ここに」 「そうですよ、みんないたんですよ、教室にいなかったひとなんて誰もいないんですよ」──榊原の声が、裏返る。  雄介は教卓の両縁に手をついて、教室ぜんたいを視野に収めた。  狭い部屋に閉じこめられている、と生徒たちは言う。だが、彼らにはわからないことだ、教卓から眺める教室は、まるで生き物のようにサイズが変わる。授業がうまく進んでいるときには、生徒一人一人の顔がくっきり見えて、両手を伸ばせば生徒全員を包み込めそうな気さえする。そうでないときには、自分の声が教室の真ん中あたりでうなだれてしまうのがわかる。  だから──安藤に伝えたいことがある。まだ、たくさんある。立ち止まらなくても、振り向かなくてもいい、返事はいらない、ただ、伝えたい。  雄介は大きく息を吸い込んで、言った。 「教師が生徒に言われて一番嬉しい言葉ってね、『好きになった』なんです。古文の教師は古文を、英語の教師は英語を、生徒に好きになってほしいから一所懸命教えるんです。たとえ成績が上がらなくても、ぼくらの授業で嫌いだった科目が好きになってくれれば、それがほんとうに、一番嬉しいんです。勉強もそうだし、学校をね、学校という場所を好きになってほしいんですよ。せめてオトナになってからでもいい、学校が、好きだった場所の一つになってほしいんです。帰りたい場所であってほしいんです」  息を継いで、父親から目をそらした。 「だから、たとえば人生の最後に、学校のことを思いだしてくれる生徒がいたら……」  言葉がつづかなかった。ありがとう、と胸の中で智子に言った。  廊下に面した列の、後ろから二番目──そこに、智子がいた。学校も、教室も違う。それでも同じだ。この席に、たくさんの生徒がいた。いまはサッカー部のエースストライカーの矢島忠夫がいる。来年も誰かが座る。再来年も、また誰かが座る。みんなオトナになって、もう教室には帰ってこない。百パーセント自分の望むとおりの人生を送っている教え子は、いったい何人いるだろう。たぶん、そんなに多くはないはずだ。  人生は、思うほどにはうまくいかない。  いまならそれを教えられるかもしれない。頭の禿げあがった教師が生徒に、会社をリストラされた父親が我が子に。  教えたあとで、「でもな」とつづけたい。その先の言葉を、これから、探していきたい。 「修司くんに伝えておいてください」  雄介は父親に向き直った。父親は食い入るように雄介を見つめる。教室の後ろでは、榊原も。そして、ドアの外からは、恵理も。 「親や教師はお手本なんかじゃない。ただ、オトナなんです。努力や我慢がほんとうは報われないことをコドモより知っていて、でも、いつか報われるんだとコドモより信じてて……信じたいですよね、ぼくら……」  途中で目をつぶった。言葉が途切れてからも、そのまま動かなかった。  二十二年間の、数えきれないほどの教室の風景がすべて溶け合って、いつの年のどこのクラスでもない、ただむしょうに懐かしい生徒たちが席について、雄介を見ていた。  授業、終わります。  目を閉じたまま、誰にも聞こえない声で言って、小さく頭を下げた。      11  安藤の父親の乗ったタクシーを通用門の前で見送ると、榊原は「じゃ、ぼくは車で来てるんで、ここで失礼します」と校舎の裏の駐車場に駆けていった。 「車は置いといて、ビールでも飲まないか」と雄介は声をかけたが、走りながら顔だけ振り向いて「お嬢さんとごゆっくり」と笑う。意外なところで古風な気の遣い方をする男なんだ、と知った。 「なかなか見込みあるんじゃない? あの人」  恵理は訳知り顔で言って、首に軽く巻きつけたマフラーのたるみぐあいを調節した。マフラー姿は、この冬、初めてだった。  学校に来たときにはまだ強く吹いていた北風は、いまはほとんどない。風に雲が吹き払われたおかげで、星空が、きれいだ。 「ねえ、お父さん。あのオジサン、息子のこと説得できると思う? なんか頼りなさそうだったけどなあ」 「だいじょうぶさ」 「また、そんなテキトーなこと言っちゃって」 「うまくいかないかもしれないけど、でも、だいじょうぶだよ」 「……わけわかんない。お父さんが最後にしゃべってたことだって、あれ、ちっとも伝言になってなかったじゃん」 「いいんだよ、うるさいなあ」  体を寄せてくる恵理を、半分は照れ隠しで、振り払うように足を速めた。だが、恵理は小走りになって雄介を追いかけ、行く手に回り込んでくる。 「ねえねえ、なにか気がつかない?」 「うん?」 「あたし、ちょっと雰囲気違うと思わない?」  上から下まで眺めてみたが、よくわからなかった。  黙って首をかしげると、恵理は父親の鈍感さにあきれたように「信じらんない、老眼来てるんじゃないの?」と言った。 「暗いからよくわからないんだよ」 「だって、さっき学校にいたときもぜんぜんわかってなかった」 「おまえのことなんか気にしてる余裕なかったんだから、しょうがないだろ。で、どこが雰囲気違うんだ?」  ムッとして言うと、恵理も負けずに怒った顔になって、自分の目をつつくように指さした。  二重まぶた──間違いない、じっくり見ないとわからない程度の幅だったが、確かにまぶたが二重になっている。  やられた、と思った。裏切られた、とも。声が出ない。驚きと戸惑いと怒りとかなしさがいっぺんに押し寄せてきて、一歩、二歩とたじろいだ。 「おばあちゃんも、似合うって言ってくれたよ。振袖の柄がけっこう派手だったから、二重じゃないと負けちゃうもん」  まだしゃべれない。 「どう? シミュレーションの写真より実際のほうがいいと思わない?」  唇をひくつかせ、何度かかぶりを振って、しかし声にはならない。 「ちょっと、お父さんだいじょうぶ? 目が飛んじゃってない?」  雄介の顔の前で掌を振った恵理が、ほらほらこれだよ、というふうに目を大きく見開いた瞬間、プチッという音が聞こえた──ような気がした。  恵理は「あたたっ」と短く叫び、右目を掌で押さえた。 「おい、だいじょうぶか!」  雄介も叫んだ。いままでの沈黙のぶんも合わせて、声が喉を、気持ちいいほど勢いよく抜けていった。 「……だいじょーぶだってば、おっきな声出さないでよ」  右目を覆う掌がはずれると、まぶたは一重に戻っていた。  あきれはてた。いや、素直に言えば、心の底からほっとした。「人をからかうのもいいかげんにしろ」と口では叱りながら、頬は勝手にほころんでしまう。 「ほんとに手術してたら、その日のうちに見せられるわけないじゃん。ひと月ぐらいは腫れが残るって、こないだ言ったの覚えてない? 人の話、ぜーんぜん聞いてないんだから」  雄介よりずっとあきれはてた顔で、恵理が言う。  アイプチ──初めて聞く言葉だった。一重まぶたを二重まぶたにする接着剤のようなものだという。ていねいに洗顔すれば、すぐにはがれる。まぶたに不自然な力を込めただけでも、あっけなく。 「まあ、リハーサルって感じ? せっかく着物を着てみるんだから、どうせだったら本番と同じにしたほうがいいでしょ」  恵理はスキップをするような足取りで先に進み、距離をとってから足を止めて、その場にたたずんだままの雄介を振り向いた。 「でも、手術するよ。それが夢だったんだから」  雄介の頬がまたこわばっていくのを確かめて、「いつかね」と付け加える。 「いつかって、いつだよ」 「わかんない。就職活動のときかもしれないし、卒業のときかもしれないけど……とりあえず今回は、お父さんがカツラをはずしたことに免じて勘弁してやることにしよう」  えっへん、といばって胸を張る。  雄介は歩きだす。怒っていいのか笑っていいのかわからないから、そっぽを向いて、行進みたいな歩き方になった。  恵理に追いついて、追い越したとき、後ろからマフラーが肩に掛けられた。 「風邪ひいちゃいそうだよ、頬かむりでもすれば?」 「バカ、おまえだって寒いだろ。お父さんはいらないよ」 「いーのいーの、年寄りはいたわってあげなきゃ。お父さんはお母さんのぶんまで歳とってるんだから」 「……生意気なこと言うなよ」 「娘の成長を素直に喜んでよ」  今年のクリスマスプレゼントはニットキャップを恵理にリクエストしてみよう、と決めた。あまり派手なのは駄目だが、年寄りじみたのも嫌で、いまどきの流行りなど追わなくてもいいが、暖かければそれでいいというものでもなく、そういう中高年の複雑な好みがわかるようになれば、恵理もオトナだ。  通りの先にすし屋の看板を見つけた恵理は、「ウニ、トロ、ウニ、トロの順番で食べるからね」と笑いながら雄介に体を寄せ、不意に手を伸ばして、頭のてっぺんを軽く叩いた。 「なにするんだよ、おまえ、びっくりするだろ」  雄介は思わず身をすくめ、両手で頭をかばった。  恵理はすまし顔で言った。 「人生の厳しさに、ちょっと触れたくなっちゃいました」  雄介も触れてみた。ざらついて、でこぼこして、ひんやりとしていながら温もりも確かにあった。  厳しさかどうかはわからない、人生と呼ぶのも照れる、けれど、いま、ここにいる、どこか知らないここにいる。  どこから来た──?  どこへ行く──?  はてしなく広いサバンナをさまよう、たてがみの抜け落ちたライオンの姿を思い浮かべて、雄介はまた歩きだす。  消えうせた前髪を掻き上げてみた。左手はきれいに空振りした。長年の癖は、きっとなかなか直らないだろう。残したままでいいような気もしている、いまは。  夜空を見上げ、数えきれない星をまなざしいっぱいに収めて、おーい元気かあ、と誰でもない誰かに訊いた。せんせーは元気だぞお、と伝えた。  まだまだ、まだまだ、元気だぞお。 [#改ページ]   未 来      1  今日の相棒、亀山さんは、娘を殺された父親だった。近所に住む少年に暴行され、首を絞められたのだという。昨日コンビを組んだのは、夫がやくざ同士の撃ち合いの流れ弾で死んだ三十代の未亡人だった。おとといの相棒は、十七歳の息子を暴走族仲間のリンチでうしなった母親で、さらにその前は、再婚した妻が前夫に包丁で刺し殺された夫。  亀山さんは簡単な自己紹介のあと、「うんざりしちゃうでしょ」と笑った。「よくもまあ、いろんな殺され方があるもんだなって。ぼくも最初は知り合いができるたびにびっくりして、すごいところに入っちゃったなあってね」  しゃべりながら頭に鉢巻きを締め、自分の額を指さして「字、ちゃんと見えてるかな」と訊《き》いてくる。黙ってうなずくと、亀山さんはハンドマイクのスイッチを入れ、わたしは折り畳み式の机の上に署名ノートと募金箱を置いてビラの束を小わきに抱え、一日の仕事が始まる。  ゴールデンウィーク明けからボランティアを始めて、今日でちょうど一週間になる。亀山さんが個人的につくったという鉢巻きの中央には、白地に黒く「慟哭の会」。犯罪や犯罪がらみの事故で家族を亡くした人たちによる、少年法改正や遺族給付金の増額、被害者の仮名報道の徹底などを訴える団体だ。  仕事の合間に亀山さんはわたしの家族構成を尋ね、両親と五歳上の姉とわたし、それに中学二年生の弟の五人家族だと知ると、「女の子が上に二人いるんじゃ、親御さんも大変だなあ」と笑った。 「うちも女の子二人だったんだよ。年子だったから、残った上の娘はいま高校二年生で、女房と二人、いろんなことが心配で心配で、怖くてたまらないんだよね。この子までいなくなったらどうすればいいんだろう、って」  亀山さんの娘さんは小学五年生のときに殺された。犯人は高校一年生だったそうだ。 「上の娘がいなかったら、絶対にあいつを殺してたよ。少年院から出てきたあとでもいい、引っ越して行った先を捜し出して、あいつと、あんな奴を産んで育てた親ね、三人とも殺す。皆殺しにして、それから女房と二人で死ぬよ」  話の途中で視線をわたしからはずし、通りの先の横断歩道へ向ける。学校にかよっているのかいないのか、髪を茶色に染めてだらしない服を着た男の子たちが、笑いながら渡っているところだった。 「一人前の図体して、偉そうに街を歩いてるんだ。都合の悪いときだけ、子供のしたことですから、なんてのは通用しないよ。通用しちゃうほうがおかしいんだよ」  相槌を打ちそこねたら、亀山さんは向こう側の歩道を遠ざかっていく男の子たちをにらみつけたまま、「笹岡さんは、まだはたちになってないんだっけ」と言った。今度はうなずいて答えた。十九歳。十一月に誕生日を迎えるまでは、未成年。 「こないだ事務局長さんに聞いたんだけど、笹岡さん、いい人になりたいんだって? いまどき珍しいこと言う女の子だなって、みんなで感心してたんだ」  咎めたりからかったりする口調じゃなかった。でも、みんなで感心したというのは、たぶん亀山さんのつくり話だろう。 「いい人ねえ、うん……世の中がみんないい人だったら慟哭の会なんてなくなっちゃうのにね、毎年増えちゃうんだよなあ、会員」  亀山さんは結局、仕事に戻るまで顔の向きを変えなかった。  五月の半ばなのに、陽射しは真夏みたいに強い。マイクを再び手にとった亀山さんの声はすぐに嗄《しわが》れてしまい、汗で濡れたワイシャツにランニングシャツの輪郭が浮かんだ。  わたしはサインペンの試し書きをするふりをして、署名ノートに適当に思いついた女の人の名前と住所を書いた。朝から集まった十六人の署名のうち、これで三人、わたしの文字で記されたことになる。意外とおしゃべりだと知った慟哭の会の事務局長の、髪の毛の薄くなった顔を思い出して、わたしこんなふうにいい人になっていくんです、とノートを閉じた。  四月の終わり、ボランティア参加の申し込みをしたわたしに、事務局長は釘を刺すように言った。 「会の皆さんはこころに深い傷を負っていらっしゃいます。この会で活動を始める前は世の中や人生に絶望し、亡くなられたご家族のあとを追うことすら考えていた人たちばかりなんです。そういった特殊な事情をよく理解して、くれぐれも無神経な言動のないようにしてください」  だいじょうぶ。わたしは完璧にこなしてみせる。四月のカンボジア難民の会でも、三月の痴呆老人の会でもそうだったように。  事務局長はわたしが提出した履歴書を一行ずつ目と指でたどりながら、ときどき短い質問をした。  高校二年で中退した理由を訊かれて、病気で出席日数が足りなくなったからと答えた。なんの病気か重ねて訊かれたら厭だなと思っていたら、指はもう別の欄に移っていた。  趣味、ボランティア。事務局長は苦笑交じりに首をかしげて、どうして? と尋ねてきた。高校を中退してからずっとやってるし、いい人になりたいから。いい人? と事務局長はまた首をかしげて、いやまあいいです、はい、わかりました、と履歴書の隅に日付入りのゴム印を捺した。  いい人になりたい。いつもそう思いながら、寝たきりのおじいさんのオシメを取り替えたり、車椅子の女の子に病室で算数を教えたりしてきた。偽善じゃない。だって、わたしは、困っている人やつらい思いをしている人のそばにいて、その人たちのために生きようとする自分を見るたびに、全身がけばだったような感覚に包まれる。乾きかけのかさぶたを爪で剥がすときと似ている。くすぐったさとむずがゆさが入り交じり、やるんじゃなかったという後悔と、うっとうしさをとりはらってせいせいした気持ちとがぶつかりあう。  慟哭の会でコンビを組んだ会員の話を聞き、仕事のお手伝いをしながら、わたしは声に出さずにつぶやいている。ひとごろしのこと、そんなに許せませんか? かさぶたが少しずつ浮き上がる。やわらかで湿った傷口が風に触れると、背中の奥にも涼しい風がすうっと吹き抜けていくような気がする。  帰り際に、亀山さんが言った。 「笹岡さんって、あんまり表情が変わらないんだね。ほとんど笑わないっていうか……まあ、笑えるような話なんて、しなかったけど」  頬をゆるめるだけはゆるめて、小さくうなずいた。でも、それが笑顔とは呼ばれないことをわたしは知っている。笑顔だけじゃない。泣き顔だってつくれない。  履歴書には「賞罰なし」と書いたけれど、ほんとうは違う。  三年前、わたしはひとごろしと呼ばれた。わたしのせいで同級生の男の子が死んでしまった、らしい。  そのことを打ち明けると、たとえば亀山さんは、どんなふうに応えてくれるだろう。      2  わたしをひとごろしにした人の名前は、長谷川くんという。下の名前は忘れた。最初から知らなかった。死んだあとで、へえそういう名前だったんだあの人、と思ったきり。同じクラスになってからまだ三カ月ちょっとだったし、いつもサッカー部の仲間と大声で騒いでいた長谷川くんと、授業中に先生に当てられるのが厭で厭でしょうがなかったわたしに、接点なんて見つけようもない。  そんなわたしたちがただ一度言葉を交わしたのは、梅雨が明けるか明けないかの頃だった。  長谷川くんは突然電話をかけてきた。よくもまあこれだけ最悪のタイミングを選べたものだと感心したくなるほどの、まるで出合い頭の交通事故みたいな電話だった。  三年前の夏。わが家の電話は、夜になるとほとんど姉に占領されていた。夕食もそこそこにコードレスの電話機を持って二階の自分の部屋に閉じこもり、長電話がつづく。付き合っている男の人と別れるかもしれない、と姉は家族でわたしにだけ教えてくれていた。  あの夜も、十時過ぎになっても姉の電話が終わる気配はなかった。  おやすみなさーい、と弟の甲高い声が階下のリビングから聞こえ、階段を昇る足音が近づいてきた。そうだ『少年ジャンプ』を貸してもらわなくちゃ、と立ち上がったところへドアが廊下から開き、顔だけわたしの部屋に入れた姉が、電話機を差し出して「電話よ」と怒ったような声で言った。 「キャッチホンで受けてるから、すぐ出てすぐ切って。こっちもいま大詰めなんだから」 「誰から?」 「知らないけど、男の子、とにかく早くしてよね、ほんと、大変なのよ、いま」  姉の目には涙が溜まっていた。わたしはあわてて電話機を受け取り、姉に背を向けて電話に応対した。保留メロディーを解除すると同時に耳に流れ込んできたのは、笑い声だった。長谷川くんは電話がつながったことがおかしくてたまらないみたいに、声の尻尾を揺らして自分の名前を告げ、「わかるよな? 同じクラスの」と念を押した。耳の錯覚か思い違いじゃないかと、あとで何度も記憶をたどってみたけれど、やっぱりあれは笑い声。長谷川くんは笑いながら、わたしに言ったのだ。 「死ぬよ、おれ」  いたずらだと思った。あたりまえ。本気にするほうがおかしい。 「おれ死んじゃうからさ、笹岡、ずーっと生きろよな。おまえはずーっと、ばばあになるまで長生きしろよ」  なに言ってんのよ。 「おまえ、いままでで一番楽しかったことって、なに? 教えてくんないかな。おれさ、中三のときのサッカー部の都大会でベスト8まで行ったんだけど、二回戦でPK戦になって、おれが決めたんだよ、最後のPK。涙出ちゃってさ、すげえ感動っての? もう、こんな楽しいことないよなって思っちゃって……ほんとだったよ、楽しいこと、なかったよ。笹岡どう? おまえ、これからもっと楽しいことあると思う? おれ、死なないほうがいいと思う?」 「ごめんなさい、いまキャッチホンで受けてるから、切りますね」  冷たい口調になった。でも、しょうがない。姉が戸口から顔を覗かせたまま、早く早く、とせかしていた。 「ちょっと待てよ」初めて長谷川くんの声から笑いが消えた。「本気なんだよ。笹岡に、どうしても言っておきたいことがあって……なあ、死んじゃうんだぜ、おれ」 「じゃあ死ねば?」  誰かが長谷川くんのそばにいる。おとなしくて真面目な女の子をからかっちゃおうぜ、と話を盛り上げた友達がそばで聞いている。絶対にそうだ。驚いたりあわてたり同情したり悲しんだりしたら、明日の朝には教室じゅうの笑い者になってしまう。  長谷川くんは少し黙って、それから低い声で言った。 「死んでいいのかよ」 「いいよ、べつに」 「マジだぜ。マジにこれから死ぬんだよ、だからその前におまえにいろんなこと……」 「じゃあね、バイバイ」  早口に言ってフックボタンを押し込み、電話機を姉に返した。  姉の長電話は、日付が変わる頃にやっと終わった。途中から、隣のわたしの部屋にも笑い声が聞こえるようになって、最後は「ううん、わたしこそごめんね、おやすみ」という明るい声で締めくくられた。キャッチホンが入らなかったか尋ねると、姉は「ぜーんぜん」と歌うように言った。  姉から預かってベッドの枕元に置いていた電話機が呼び出し音を響かせたのは、翌朝、朝食を終えて制服に着替えているときだった。  クラスの緊急連絡網を通じて、長谷川くんが前夜遅く自室で首を吊ったことが伝えられた。  あとになって知った。  長谷川くんとわたしは、誕生日が同じだった。  いまでもわたしは、彼があの夜電話をかけてきた理由をそれ以外に思いつかない。  一時限めをつぶした臨時のホームルームが終わっても、教室は静かなままだった。言葉のない沈黙とは違う、誰のともつかないくぐもったおしゃべりの声が重く澱んで、しゃべる人、相槌を打つ人、黙っている人、すべてを息苦しくさせる、そんな静けさだった。  長谷川くんの机は、廊下側から三列めの前から四番め、ぽつんとそこにあった。死んだ人の机はいつもと変わらず、ちょっとトイレに行って席を空けているだけのようにも見えて、椅子に触ったらまだ温かいのかもしれない、わたしはそんなことを思いながら窓際の一番前の席から長谷川くんの机を見つめていた。  二時限めの授業は自習になった。やがて教室に声のくっきりしたざわめきが巡りはじめた。バカだよなあ、という声が聞こえた。信じらんないよ、そう言ったのはサッカー部の、いまはもう名前を忘れた誰か。泣いてる人もいた。腹を立てている男の子もいた。彼に言わせると、長谷川くんは弱虫で現実逃避で自分に負けてしまった情けない奴なのだそうだ。  わたしは近くの席の友達とおしゃべりをした。一人でたくさんしゃべった。長谷川くんからの電話のこと、ぜんぶ話した。テレビのバラエティ番組によくある、導火線に火の点いた爆弾を隣の人にパスしていくゲームのように。  ねえ聞いて聞いて、まいっちゃったよお、あいつ、電話してくるんだもん、すっげえ迷惑だと思わない、はっきり言って嫌がらせだよね、嘘じゃないよお、ほんとにほんと、電話かかってきたんだってば、マジなんだってば、わけわかんない電話でさあ、もう、まいっちゃったんだよね。  声は小刻みに震え、ときどき裏返りそうなぐらいうわずっていたけれど、わたしは笑いながら話した。頬から力を抜かないとしゃべれなかった。ひょっとしたら長谷川くんの電話の声が笑っているように聞こえたのも、同じ理由からだったのかもしれない。  友達はわたしの話をぜんぜん信じてくれなかった。そういう冗談ってやめたほうがいいよ、と言われた。でも、わたしは何度も繰り返し話した。昨日までそこにいた人が、今日からはもういない。いなくなる前に、わたしに電話をかけてきた。死ぬからと言うので、死ねばいいと答えて、ほんとうにその人は死んだ。辻褄が合いすぎる。自信のないまま計算した数学の問題が最後に妙にきれいな数字に収まってしまったときのように、誰かと答え合わせをしたくてたまらなかった。  昼休みに保健室の先生が教室に入ってきて、かすみ草をいけたガラスの花瓶を長谷川くんの机の上に置いた。ああ、あの人死んじゃったんだな、とそれでやっと実感が湧いた。  午後の授業のあと、クラス委員が二日後のお葬式で読む弔辞のことで職員室に呼び出され、残りの生徒は色紙にお別れの言葉を寄せ書きした。わたしは「さようなら」とだけ書いた。罫のないところに文字を書くのが苦手なせいで、「さようなら」は身をよじるようにゆがんでしまった。  連続ドラマを途中の回から観ているようだった。登場人物の関係も筋書きもわからず、どこにも感情を込めることができないまま、同級生が自殺してしまった一日が、目の前をただ流れていった。  放課後、学校を出ようとしたら、正門の手前でサッカー部の男の子たちに取り囲まれた。十人ぐらいいたと思う。 「長谷川がゆうべ電話してきたって、マジ?」と誰かが言って、別の誰かが「どんなこと言ってた? 死ぬとか、そういうこと言ってたのか?」と涙声でつづけた。  わたしは嘘をつかなかった。あったことをそのまま伝えた。朝と同じように、笑いながら、うわずった声で。訊かれて助かったとも感じていた。やっと爆弾を手渡す先が見つかった。なんだよあいつわけのわかんないことしてたんだな、とあきれたように一緒に笑ってくれれば、それでよかった。  でも、男の子たちの反応は違った。話が終わるのと同時に、一人が叫ぶように言った。 「なんで切ったんだよ! 笹岡、おまえ、自分がなにやったかわかってるのか!」  うそ、と唇が勝手に動いた。 「笹岡が殺したようなもんじゃないかよ、そんなの」感情を押し殺した低い声の主は、夕闇に紛れて見分けられなかった。「おまえ、ひとごろしじゃん」  誰かが泣きながらわたしに詰め寄ろうとして、隣にいた誰かがあわてて後ろから止めた。  やめろよ、笹岡には関係ないよ、そういう言い方やめたほうがいいって。だってひとごろしみたいなもんじゃねえかよ、長谷川がかわいそうだと思わねえのかよ。しょうがないって、いいからもうやめようぜ。なに笑ってんだよ、笹岡ふざけんなよてめえ。やめろよ、もういいじゃんかよ、笹岡だって被害者みたいなもんなんだから。そんなことねえよ、こいつが殺したのと同じだって。  男の子たちの言いあう声を全身に浴びて、わたしはその場に立ちつくした。そっか、わたし、ひとごろしになっちゃったんだ。口なんて開いてないのに、自分の声がどこかから聞こえた。  ショックは不思議なぐらいなかった。そうだと思ってたんだ。また声が聞こえる。答え合わせなんかしなくても、最初からそれが正解だった。うそ、とさっき唇を動かしたように思ったのは、きっと勘違い。わたしは、やっぱりそう? と聞き返していたのだろう。  涙が出た。悲しみが胸に迫って出てきた涙じゃない。花粉症の涙みたいに勝手に瞼からあふれ、知らないうちに頬を伝っていた。  わたしが泣いていることに気づいた男の子たちは急に話をやめ、肘をつつきあったり目配せしあったりして、誰からともなく離れていった。  わたしの真後ろにいた誰かが、立ち去る間際に言った。 「おまえ、自分のために泣くなよな」  声は背中から回り込むようにして耳に入った。長谷川くんの、笑いが消えたあとの声に似ていた。  わたしはその夜、高い熱を出し、三日間寝込んだ。眠っている間に、長谷川くんはクラスのみんなのすすり泣きに送られて骨と灰になった。  噂話がどんなふうに流れていったかは知らない。四日めに学校に出かけたときには、わたしはたくさんの友達をうしなっていた。でも、友達がいなくなろうが、無責任な陰口をたたかれようが、そんなことはたいした問題じゃない。わたしはそのときすでに、大きな、とてもたいせつなものをなくしてしまっていた。  病院にかよい、学校をやめて、別の病院に移り、少し入院をして、退院してからもさらに別の病院にかよった。  突発性なんとか。心因性なんとか。病名は漢字だらけで覚えにくく、ただそれをいっぺんに治すのはかなり難しいということだけ、三年間でよくわかった。  わたしは、笑えないし、泣けない。頬に感情を乗せられない。感情じたい、あるのかないのか、よく似た場面のテレビドラマの登場人物のこころの動きをなぞっているだけのような、そんな気もする。 「のんびり戻っていきましょう。あわてることはないですからね、気持ちを楽にして、ゆっくり、ゆーっくり」  去年の暮れから通院している大学病院のお医者さんは、おだやかに笑いながら口癖のようにわたしに言う。笑うときに鼻髭に手をやる。これも、癖。  季節が冬から春に移っても、わたしはまだ感情をうしなったままだ。父と母は夏になっても治らなければまた別の病院を探すと言っていて、お医者さんは、途中経過なんて気にすることありませんよ、朝顔の観察をしてるわけじゃないんですから、と髭をつまんで笑う。  四月の通院日、五月のボランティアは慟哭の会にかようことに決めたと話すと、お医者さんはいつものように活動の内容をカルテに書き入れて「まあ、いまはなんでもいいですよ、やりたいことをやってみる、それが一番ですから」と言った。  そうして、カルテから顔を上げて、お芝居かどうかは見分けられなかったけれど、いまふと思いついた口調でつづけた。 「日記か手紙を書いてみませんか」  絵を描かされたことは、いままでにも何度かあった。パソコンの街づくりゲームのソフトを使って、シミュレーションに入る前の街の配置を繰り返しやらされたこともある。でも、言葉を使ってなにかをしろと勧められたのは初めてだった。 「どんなに長くてもかまわないし、つくりごとを書いたってかまわないから、とにかく笹岡さんのいまの気持ちね、一行でも一言でもいいから、そこだけはほんとうのこと書いてみませんか」 「よくわからないんですけど」 「なにが?」 「だって、日記か手紙って言われても、そんなのぜんぜん違うじゃないですか」 「書くことは同じですよ」  お医者さんはリズムをとるように、ボールペンのお尻でカルテを挟んだバインダーを叩いた。わたしがきょとんとしているのに、詳しく説明しようとしない。というより、わたしをそういう顔にさせるために話を切り出したみたいだった。 「日記と手紙の違いってね、笹岡さん、すごく簡単なんですよ。最初でも最後でもいいけど、日付を書くか宛て名を書くかだけ。ノートに書いたものを誰かに宛てたいか、それとも日付を入れておきたいか、それをよーく考えてみるだけでもいいんです」  だからわたしは、手紙になるのか日記になるのかわからない文章を書くことにした。      3  今夜のわが家は、しん、と静まり返っている。  両親は夕食を終えるとすぐに服を着替えて外出してしまい、帰りは何時になるかわからない。姉も二年前に結婚をして家を出て、わが家はいま、わたしと弟の二人きりだ。  ふだんならこんな夜は、中学二年生にしては姉貴になついてくれる弟と一緒にリビングでテレビを観たりファミコンをしたりして暇をつぶすのだけど、今夜は弟とほとんど話をしていない。わたしはリビングのソファーに寝転んで天井をぼんやり見つめ、弟は二階の自分の部屋に上がったかと思うとすぐに降りてきて雑誌や新聞をぱらぱらめくり、また部屋に戻って、しばらくたつとまた降りてきて、というのを繰り返していた。  夕方、弟の同級生が自宅近くのマンションの非常階段から飛び降りて自殺した。赤堀くんという男の子だった。中学校のPTA副会長をつとめている父は、お通夜とお葬式の段取りや今後の対応を先生たちと話し合うために、母を連れて学校に出かけた。赤堀くんは「バカホリ」というあだ名どおりのクラスのいじめられっ子で、学校も赤堀くんの両親も、そして弟たち同級生も、十中八九いじめが原因の自殺だと考えているようだった。  弟が何度めかにリビングに降りてきたとき、話しかけてみた。 「ねえ、まーくん」  子供の頃から、そう呼んでいる。本人は厭がっているけれど、いまさら「政人」なんて呼ぶと赤の他人と話しているみたいなので、わたしが呼ぶときはずっと「まーくん」だ。 「まーくんも赤堀くんって子をいじめたりしたわけ?」  弟は舌打ち交じりにそっぽを向いて、「うっせえなあ、関係ないだろ」と、去年から急に太くなった声で言った。 「でも、かばってあげたりはしなかったんでしょ?」 「あたりまえじゃん。だって、みんなだもん、全員だよ、男も女も。あいつ一年の奴らからもバカにされてたんだもん。自分が相手にされてないのわかってなくて、すげえ寄ってくんの。自分からなんでも金払っちゃって、いいよいいよ友達じゃんとか、ゲロ出そう」  弟はまくしたてるように言って、ほんとうに気持ち悪そうな顔になった。 「いじめで自殺しちゃったんだと思う? まーくんも」 「知らないよ、どうだっていいよ、そんなの」 「赤堀くんって、霊魂とか輪廻転生とか信じてるタイプ?」 「だから知らないって言ってんじゃん。バカみたいなこと訊くなよ、うっさいからさあ」  弟は手近にあった夕刊を床に叩きつけて、リビングから出ていった。階段を一段ずつ踏み鳴らす音が聞こえ、ドアを乱暴に開け閉めする音につづいて、ベッドに飛び込むみたいに寝転がったのだろう、弟の部屋の真下にあるダイニングのペンダントライトの傘が揺れた。  静まり返ったホームルーム、主をうしなった机、飾られた花、寄せ書きの色紙、忘れかけた頃にひょっこり美術室のロッカーから出てくる死んだ人のスケッチブック、名前が二重線で消されたクラス名簿……。わたしが眺めていたのと同じ風景を、弟も明日から目にすることになる。夕暮れの教室に白い影が浮かんでいた、なんて噂も流れるだろう。  長谷川くんのことを思い出す。あの人は遺書を書かずに死んだ。勉強の成績が下がったことを気にしていたという話もあったし、サッカー部の先輩たちと折り合いが悪かったとも聞いた。中学時代の同級生だった不良たちに付きまとわれていたと言う女の子がいて、違うよあいつ親父が酒乱で悩んでたんだぜと声をひそめる男の子がいて、結局のところ誰にもほんとうの理由はわからないままだった。  弟はそれっきりリビングに降りてこなかった。わたしはソファーに寝転んだまま、少しうとうとしたのだろう、ガレージに車が入る音でふとわれに返ると、壁の時計は夜十一時を回っていた。  弟が開け放していったリビングのドアから玄関を見やると、両親が忘れ物を取りに戻ってきたような勢いで入ってきた。父は靴を脱ぎながらリビングを見て、わたしと目が合うと顔をそむけるように階段を振り仰いで、尖った声で弟を呼んだ。 「政人! ちょっと降りてきなさい!」  二階からの返事はなかった。母が「ねえ、今夜はもう」と父の肘を後ろから引いた。父は母の手を払いのけてネクタイを首からむしり取り、背広を廊下に脱ぎ捨てて、リビングに入るとぎごちなく頬をゆるめて「留守番、悪かったな」とわたしに言った。病気になって以来、父がわたしにかける声はいつも優しい。そのぶん、ひらべったくて、耳にざらついて響く。  なにがあったのか尋ねようとしたら、その前に父はソファーに尻餅をつくように座って、がっくりとうなだれた頭を両手で抱え込んでしまった。 「雨戸は全部たてておいたほうがいいわよねえ」と母が廊下で背広とネクタイを拾い上げながら言った。 「その前に、ビール出してくれ。ちっちゃいのでいいから」 「あ、いい、お母さん、わたしが取ってくる」  わたしはキッチンからミニサイズの缶ビールを持ってきて、リビングのテーブルに置いた。母はリビングと和室の雨戸をたて、「二階も閉めなきゃ」とひとりごちて、父の「政人、呼んできてくれ」という言葉に返事をすることなく階段を昇っていった。  缶ビールを一息で空にした父に、留守中に電話や来客がなかったか訊かれ、「べつになかったけど」と答えた直後、母と弟が二階から降りてきた。  弟は怪訝そうな顔でリビングの戸口にたたずみ、母はつづきを父に預けてキッチンに引きこもってしまった。  父はうつむいて、手に持ったビールの缶をじっと見つめていた。缶のおなか、ちょうど親指のあたったところがへこんでいた。弟は父からわたしに視線を滑らせた。わたしは小さくかぶりを振る。 「ねえ、お父さん、話ってなに?」  じれったそうに弟が訊くと、父はうつむいたまま、喉がひしゃげているせいか息苦しそうな声で言った。 「遺書があった」 「赤堀の?」と弟の声は父とは逆に甲高く跳ね上がった。 「鞄の中に入ってて、警察が持って行ったんだけど、そこに……」  父は、お父さんそれ絶対になにかの間違いだと思うけど、と呪文のような早口のつぶやきを挟んで、さっきよりもっと苦しそうな声で「おまえの名前が出てたらしい」と言った。  弟は戸口から動かなかった。スウェットの膝がかすかに震えているのがわかった。父もそれ以上はなにも言わない。キッチンから戻ってきた母の目が赤かった。わたしの隣に座っても、からだの重みをソファーに預けきれず、背中が張り詰めている。  長い沈黙のあと、父は弟に目を向けずに言った。 「どんなことをやったんだ、赤堀くんに」 「どんなって……そんな、べつに……」弟も足元に目を落として応える。「みんなと同じだよ」 「おまえの名前だけなんだ、遺書に書いてあったのは」  うそ。弟の唇が動いた。いつかの、わたしと同じ。  父がさらに口を開きかけたとき、門のインターフォンが鳴った。追いかけて、かんぬきのおりた門扉をガチャガチャと動かす音が聞こえた。車が何台も家の前で停まって、そこから人が降りてくる。  インターフォンは、一度ボタンを押せば三回ゆっくりとコールされる。最後のコールが鳴り終わっても、父も母もソファーから立ち上がらなかった。腕組みをした父は膝を激しく揺すり、わたしが腰を浮かせかけると「出なくていい」と短く言った。  少し間をおいて、またコールが三回。 「雨戸は全部たてたから、明かりは漏れてないから」と母が言った。  さらにまたコールが、気のせいとは思うけれど間隔を少し詰めて、三回。父ははじかれたように立ち上がった。インターフォンの親機は電話台の上の壁にとりつけられていた。でも、父はそれには見向きもせず、電話機からコードをはずし、またソファーに座った。  インターフォンをつながなくても、姉も含めた五人家族だった頃には「建て替えようよ」と言いつのっていた、古く手狭な家だ。門の外の声はリビングにも漏れ聞こえてくる。  笹岡さーん、いらっしゃらないんですかあ、ちょっとお話、一言だけでけっこうなんですが、電話つながんない電話、だめですね、切ってんのかな、ちょっとさもう一回押してみな、おいカメラちょっとどいて、ライト足りないよライト、よおそこの車だけど端に寄せなきゃ通れないだろどこの局だよ、担任と校長のコメントだいじょうぶだよね、笹岡さーん、インターフォンでけっこうですから、夜も遅いですしわれわれも一言だけうかがえたらすぐに引き揚げますのでなんとかお願いできませんかあ、聞こえてるのかな家のなかに、だいじょうぶっスよ、ああどうもすみません夜分にご迷惑をおかけしております、報道の者ですがすぐに退散しますので。 「やだ、ねえ、どうしよう」母は父ににじり寄るようにからだを傾けて、うわずった声で言った。「ご近所の人も出てきてるみたい」  父はなにごとかうめいて、また両手で頭を抱え込んだ。  弟はリビングのドアに手をかけたまま動かない。震えは膝から顎に移っていた。まなざしは足元にずっと据えられていたけれど、ほんとうにそこを見ているのかどうかは、わからない。  インターフォンが何度鳴らされただろう。いいかげんにあきらめてくれればいいのに、門の外の騒がしさはいっこうに収まらない。かえって人が増えてきたようにも思える。  誰かが、たぶん聞こえよがしに、言った。 「赤堀くん、殺されちゃったようなものでしょう?」  弟の顔から血の気がうせた。母の肩が跳ねて、父はさらに激しく膝を揺すり、その震動が伝わったビールの空き缶が、ガラスのテーブルの上でカタカタと音をたてた。  ひとごろし。弟もひとごろし、なのだろうか。向こうは自分で勝手に死んだのに、それでも弟はわたしと同じように、ひとごろしと呼ばれるのだろうか。  わたしはソファーから立ち上がった。こめかみを内側から外に向かって押し上げるものがある。熱がそこに溜まっている。そのぶん、額はメンソールを擦り込んだみたいにひんやりしていた。 「みゆき、やめろ」と父が言った。「二階に上がってなさい」と母が声を震わせてつづけた。弟は足元を見つめたままだった。 「やめなさい、みゆき、おまえには関係ないんだから」  父が中腰になったとき、わたしはインターフォンの応答ボタンを押していた。 「少し静かにしてくれませんか」  静かにしろと言うのに、家の外ではどよめきがあがってしまい、おそらくわが家に押し寄せてくる前に段取りをつけていたのだろう、女の人の声がモニタースピーカーからこぼれ落ちた。 「すみません、お騒がせいたしまして、笹岡くんのお母さんでいらっしゃいますか」 「いいえ、姉です」 「あ、お姉さんでいらっしゃるんですね、はい」 「二人いるんですけど、下のほうの姉です」 「あ、はいはい、わかりました、真ん中のお姉さん、と……」  戸惑いが声ににじんでいた。自分がピントのずれたことをしゃべっているのはわかっている。でも、そもそも報道陣がわが家に押しかけてくることじたい、ピントがずれている。弟はなにもしていない。赤堀くんは勝手に死んだ。昔の長谷川くんと同じように。 「それでですね、あのお、もうお聞き及びとは思いますが、政人くんの同級生の赤堀洋一くんが夕方自殺されまして、大変申し上げにくいことなんですが、それで、あの、もしよろしければ玄関先でお話をうかがえますでしょうか、ここは人通りもございますし、カメラも一台だけで、いかがでしょうか?」 「厭です。帰ってください」  わたしの背後にまわった父が、腕を肩越しに伸ばしてきた。応答ボタンに指が触れる、その寸前、わたしは父に体当たりをするように腕をどかした。 「お父さんかお母さんはいらっしゃいませんか」 「いるけど出ません。帰ってください」 「じゃあお姉さんでもけっこうなんですが、いまのお気持ちはいかがですか」  父の腕が、今度はわたしの肩をつかんだ。横に押しやられた。足を踏ん張っても勝てない。悲鳴はだめだ、と自分に命じた。一言だけ。どうしても、これだけ。 「弟はひとごろしなんかじゃありません!」 「あ、いえ、あの、ちょっと待って、そういうこと言ってるんじゃなくて、誤解なさらないで……」  向こうの声は、途中で切れた。父は指をボタンにあてたまま、わたしを振り向いた。眉間に皺を寄せ、息を詰めるように顎に力をこめて、唇をわななかせていた。 「みゆきは、いいんだよ。だいじょうぶ、お父さんとお母さんにまかせとけ」  父は無理に優しい声で言って、ボタンをもう一度押した。向こうから声が聞こえてくる前に、早口だけどはっきりした口調で言った。 「赤堀くんのご両親には、こころよりお悔やみ申し上げます。今後のことは学校のほうと明日話し合うことになっておりますので、申し訳ありませんが今夜はこれでお引き取りください」  姿かたちが映るわけでもないのにインターフォンに向かって頭を下げる父を見て、思い出したことがある。  わたしが病気になったときに一番悲しんで、長谷川くんのことを一番怒っていたのは、父だった。      4  いつもどおり朝七時に目を覚まして階下に降りると、すでに両親と弟は学校に出かけていて、食卓に母の書いたメモが置いてあった。  電話のコードはつながないこと、インターフォンが鳴っても出ないこと、雨戸を開けないこと、今日はできればボランティアは休ませてもらって、みんなが帰ってくるまで外出しないこと。  三人は、ゆうべ遅くまでリビングで話していた。途中から弟は泣き出してしまい、父と母が言い争う声も聞こえてきた。わたしは自分の部屋で、弟はこれからどうなるんだろう、と考えていた。わからない。ただ、わたしみたいにならないで、と祈った。壁に掛けた小さな鏡のなかに、感情の滑り落ちた顔がある。こんな夜にも、わたしは満員電車の吊り革につかまっているときのような表情しか浮かべられない。  トーストとスクランブルエッグの朝食をつくっているときに、インターフォンが鳴った。言いつけどおり知らん顔していたら、乱暴に車のドアを閉める音と、タイヤをきしませて車を急発進させる音が聞こえた。  朝食を食べながら、朝のワイドショーを観た。赤堀くんの自殺は、トップから三番めのニュースで伝えられた。  遺書も、実物が画面に映し出された。ワープロ打ちの遺書だった。弟の名前は、もちろんテレビでは黒く塗りつぶされていたけれど、長い遺書の終わり近く、子供の頃の楽しかった思い出を書き綴ったあとに一度だけ出てきた。 「こんな楽しい思い出をたくさん作ってくれたお父さんお母さん有難うございました。でももう生きていても楽しい思い出は出来そうにありません。お父さんお母さんまたいつか会いましょう。僕はもう苛められることに疲れてしまいました。■■のせいです。あいつを死んでも恨みます。あいつさえ僕を苛めなければ、ずっと幸せに暮らせたのに。しくしく!」 「いじめ」を漢字に変換していた。「苛め」と書くのだと初めて知った。いままでずっとあの字は「みじめ」だと思い込んでいた。赤堀くんはその漢字を知っていてつかったのだろうか。ひらがなの「いじめ」じゃいけなかったのだろうか。行儀よく並んだワープロの文字からは、言葉に込めた感情がまるで読み取れない。  でも、どんな遺書だろうと、赤堀くんは死んだ。ナレーションやBGMは、一人の男の子がいじめを苦に飛び降り自殺をしたという事実の重みを百パーセント受け入れて、それを百二十パーセントに高めることだけ考えているようだった。  テレビに映された赤堀くんの顔は、キュウリに似ていた。薄い眉毛がへなへなと垂れ下がり、逆に吊り上がった細い目はカメラのレンズに気圧《けお》されたみたいにまなざしが引けて、細おもての顔には不釣り合いな分厚い唇をすぼめかけていて、たとえばコンサート会場の椅子に座っていたら不意に「ここ、あなたの席じゃありませんよ」と言われたときの顔。  弟の顔も出た。新学期のクラス写真を使ったのだろう、四十人近いクラス全員が収まった写真の、最前列中央の担任の先生のすぐ隣に赤堀くん、後ろから二番めの列の男子と女子の境目に弟。弟の顔はモザイクがかけられて、画面の下には「遺書に書かれていた同級生・A君」とあった。二重瞼の大きな瞳はモザイクでぐちゃぐちゃに乱されていたけれど、笑顔だということは、はっきり見てとれた。  いまごろ、弟は両親と一緒に、先生たちとどんな話をしているのだろう。「男の子は弱い者いじめをしちゃだめだ」というのが父の口癖だったことをふと思い出して、そういえば赤堀くんのキュウリの顔は、「弱」という字の、右でも左でもいいけれど片側にちょっと似ていた。  ワイドショーは、赤堀くんが受けていたいじめの内容も伝えた。殴られ、からかわれ、仲間はずれにされ、ものを盗まれ、小遣いをせびられて、女の子の前で恥ずかしい目に遭わせられ……リポーターは「これはまだ氷山の一角に過ぎないと思われます」と繰り返し、VTR出演した教育評論家が、子供がいじめに遭っているかどうかの見分け方を箇条書きで説明した。  この番組が何パーセントの視聴率をとっているかは知らないけれど、数え切れない人たちが、いま、自分の子供を赤堀くんに重ねているだろう。ほっとして胸を撫で下ろす人もいるだろうし、不安に身震いしている人もいるだろう。でも、「A君」に重ねる人はいない。「A君」はいつも想像の範囲の外にいる。ゆうべまでの、わが家の両親がそうだったように。  そんなことを思っているうちに、だんだん腹が立ってきて、同じぐらい悲しくなって、わたしはテレビを切って二階に上がった。追いすがるようにインターフォンが鳴ったけれど、無視した。階段を昇る足音を自然に忍ばせていることに気づくと、悲しさが悔しさに変わりかけて、でもやっぱり悲しかった。  わたしは一日に何度も熱を計る。ボランティア以外の趣味を訊かれたら、体温を計ること、きっとそう答える。  愛用の体温計は二本。少し時間はかかるけれどコンマ二桁まで表示される、もともとは避妊用に基礎体温を計るときに使うものだ。体温計を差し入れるために腋を少し開くと、甘いような酸っぱいような、湿ったにおいが鼻にまとわりつく。わたしは自分の汗のにおいが好きだ。  思い立ったら、いつでも体温を計る。落ち込んだり困ったりしたときには、たいがい。ケースから出した体温計を腋の下に入れ、腕で押しつぶすようにして挟んで、少し前かがみになって胸をすぼめていると、なんともいえない安らかな気分になれるのだ。  一本でもじゅうぶん楽になるけれど、つらいときには、二本の体温計を左右の腋でそれぞれ挟んでみる。昔、試してみるまでは知らなかった。同時に計っても、右と左とでは体温が違う。いつも左のほうが〇・〇一度か〇・〇二度ぐらい高い。ほんとうの話。心臓がからだの左側にあることと関係があるのかもしれない。  今朝の体温、右三五・五五度、左三五・五六度。  ほらね、やっぱり。  体温計をケースにしまったとき、車の音が聞こえた。階段の上から玄関を覗き込むと、ドアが開くのと同時に、両親と弟がひとかたまりになって駆け込んできた。「お帰りなさい」と声をかけるわたしには見向きもせず、「鍵かけてチェーンしろ」と父が早口に母に言って、母はチェーンの先を何度か手から取り落としながらロックを終え、ドアスコープで外の様子をうかがってから、父のあとを追ってリビングに入っていった。  弟は玄関からそのまま二階に上がってきた。階段を昇りきるまでわたしには気づかなかったようだ。 「お帰り、まーくん」  まだ朝の十時。「おはよう」のほうがよかったかもしれない。でも、こんなときに一日の始まりの挨拶は似つかわしくない。「おやすみ」と言ってあげたほうが、よほど姉として優しいふるまいのような気もする。  弟は足を止めて、けだるそうにわたしを見た。唇のまわりに吹き出物がいくつもできていた。こんなふうに立って間近に向き合ったのはひさしぶりだ。背丈を抜かれた。鼻の下にうっすらと、影のような髭が生えていた。そういえば、この四月からは『少年ジャンプ』も買わなくなった。おととし結婚した姉が去年の暮れに赤ちゃんを産んで、その子を「ゆうた」と命名した両親はおじいちゃんとおばあちゃんになって、わたしはおばさん、弟はおじさん。二人で順番に『少年ジャンプ』を読んでいた頃とは、もう違う。 「まーくん、元気出しなよ。気にすることないって」  無責任だな、と自分でも思った。同じ言葉を、わたしも昔、何人もの友達からぶつけられた。それを聞かされるたびに、ひとごろしと呼ばれるよりもずっと厭な気分になったものだった。  でも、ほかになにも言えない。わたしにしか伝えられない気持ちは、ここに、ちゃんとあるのに、それを言葉にすると誰かに似たものにしかならない。弟を抱いてあげたい。ぎゅっと、強く。昔なら、できたのに。  弟の唇が動いた。低い声が息づかいに紛れる。どうしたの、と目で聞き返すと、今度は舌打ちを頭につけて言った。 「なに笑ってんだよ」 「うそ、違うよ」 「笑ってるよ、なにがおかしいんだよ、そんなに嬉しいのかよ、なんだよ、ふざけんなよ」 「違うって、お姉ちゃん、そんなんじゃなくて、まーくんがね、気にしちゃうのあたりまえかもしれないけど、でもさ、ほら、お姉ちゃんも昔すごく気にしちゃって、それで具合悪くなったから」 「もういいよ、しゃべるなよ、うるさいから」  わたしのからだを端にどかすようにして自分の部屋に向かいかけた弟は、不意に立ち止まって振り向いた。わたしもそれで気づいた。 「違うよね? まーくん、いまの、嘘だよね」  弟はわたしから目を離さずに言った。 「マジに笑ってる顔だった、ほんと、絶対」  弟がさらになにか言いかけた。でも、それを聞く前に、わたしは階段を駆け降りていた。段差の急な階段を手摺りを使わずに、降りるというより落ちるように。階下の床に片足が着くと、そのまま前につんのめって膝をついた。  洗面所で顔を洗った。冷たい水で何度も洗った。鏡に顔を映して頬をゆるめてみた。いつもどおり。音符の並びは同じでも音色の違う二つのメロディーのように、頬と顎とこめかみの力を抜いたわたしの顔は、笑顔によく似た別の表情だった。  リビングに入ると、父は電話機にコードをつなぎ直しているところだった。母はソファーで、温めた牛乳をすすっていた。マグカップを両手で持って湯気に息を吹きかけている母の姿は、もともと小柄な人なのだけど、ふだんよりさらに小さく見えた。  父は会社に電話をかけて、風邪をひいたので休暇をとると伝えた。途中で何度か話す相手をかえて、いばった声になったり「申し訳ありません」を繰り返したりした。その間、母は斜め前に座ったわたしに、抑揚のない低い声で今朝のことを話した。  中学校の校門の前には、テレビ局の車が何台も停まっていたらしい。帰り際は生徒の登校時間とぶつかってしまったので、リポーターに呼び止められてマイクを差し出される生徒の姿をたくさん見かけ、車の後ろの席に弟と並んで座った母は、学校から家までずっと弟の背中に覆いかぶさっていたという。 「訴えるんだって、赤堀くんのお父さん。うちと学校に、慰謝料か損害賠償か、お母さんそういうの詳しくないから知らないけど、とにかく裁判するって言ってるの。週刊誌やドラマみたいな話でしょう? でも、ほら、お父さんもお母さんも弁護士さんの知り合いなんていないし、なんかゆうべからずうっと夢見てるみたいで、先生が話してること、あんまり聞いてなかったの」 「でも、まーくんだけじゃないんでしょ、いじめてたの」と言うと、母は唇に牛乳の白い膜をつけたまま、短く笑った。 「そういう問題じゃないのよ。わかるでしょう? 遺書には、他の誰の名前も出てないんだから。先生も、クラスみんなでいじめてるとか、そんなのはなかったって。ゆうべとぜんぜん違うのよね、言ってること」  父が受話器を置いてほどなく、電話機が呼び出し音を響かせた。母は背中をびくっと縮め、父はいらだたしげに舌を打ってから電話に出た。  電話は学校からのようだった。今夜七時から赤堀くんの自宅でお通夜、明日の朝九時からお葬式、正午に出棺。メモをとる父の復唱はしだいに途切れがちになり、不意に「しかしですね、そういうふうに一方的に言われても」とあわてた声が出て、でも言葉はそれ以上はつづかず、ため息を挟んで「わかってますよ、そんなのは先生に言われなくたって」とふてくされた声になった。  父は受話器を顔から離して母を振り向いた。 「いまから警察に来てくれって。政人連れて、少年課の佐伯さんって人のところに行けって」  母はなにも答えなかった。父も重ねては声をかけず、電話を切るとサイドボードからお客さん用の灰皿を取り出した。母と向かい合わせにソファーに腰を下ろし、背広のポケットから煙草を出す。おじいちゃんになったのをきっかけに始めた禁煙は、半年足らずで終わってしまったようだった。  母はマグカップをテーブルに置いて、つぶやくように言った。 「警察なんていいじゃない、怖くないわよ。だって、逮捕なんかされるわけないじゃない。警察の人に言うわ、うちの子は素直ないい子です、ちゃんと育ててきて、悪いことなんてしたことありません。ちょっと友達に意地悪なことしちゃっただけで、そんなので捕まるなんておかしいわよ、誰だってそう思うわ」 「あ、それね、だいじょうぶだよ、たぶん。未成年だもん。少年法っていうのがあって、未成年だと、どんなことしても名前も出ないし、死刑にもならないし。だから、ほら、今月行ってる慟哭の会って、それを変えちゃいたい、って」  父はほとんど吸っていない煙草を灰皿に捨てて、「みゆき、少し黙っててくれよ」と言った。  でも、わたしは母のためにつづけた。 「まーくん、捕まったりなんかしないよ、絶対。だって関係ないんだもん、死んだのは赤堀くんが自分で決めたことだし、そんなの他人のせいにするのってずるいじゃん。勝手に死んだんでしょ、あの子。まーくんが殺したわけじゃないんだもん」  母は顔を伏せてうなずきかけたけれど、不意に思い直したように首を横に振った。 「みゆき、もういいんだよ」父が言う。「おまえはそんなの気にしなくても。政人のことは考えなくていいから、ちょっと黙っててくれ」  頼まなくたっていいのに。黙ってろ、と怒鳴ってもかまわないのに。 「ねえ、お父さん」  返事はなかった。でも、聞いていないわけない、勝手に決めて勝手につづけた。 「わたしね、さっき、笑ったんだって。まーくんが教えてくれたの」  父は新しい煙草をくわえた。煙草の先からたちのぼる煙が燻《くすぶ》って、厭なにおいがした。 「なんで笑えたんだろうね、自分でも全然わかんないけど」  母に向き直ると、母はブラウスの袖を目元にあてて、幼い子供がいやいやをするようにからだを左右に振った。 「でもね、一回だけだった。さっき洗面所でやってみたけど、やっぱり笑ってなかったもん。まーくん、勘違いしてたのかなあ。でも、なんか、笑ったのかもしれないなって思うの。ちょっとだけね、違ってたの、いつもと」  電話が鳴った。父は火の点いたままの煙草を灰皿に置いて立ち上がり、壁を向いて受話器を取り上げた。 「もしもし」が低音から高音まで、合唱の前の発声練習のように何度か繰り返された。父は歌が上手い。わたしが病気になる前は、日曜日の午後、よく一家でカラオケボックスに出かけたものだった。でも、受話器にぶつける「もしもし」の声は、音が高くなるにつれてかすれていき、最後は裏返った叫び声になって終わった。受話器を戻して母を振り向き、「間違い電話かな」と言った声も、裏返ったままだった。  灰皿の煙草がけむい。咳が出そうになる。わたしは電話で中断された話のつづきを口にした。 「笑えたのって嬉しいんだけど、ちょっと悔しいのね、残念っていうか、予想がはずれちゃったっていうか。わたし、笑えるより泣けたほうがよかったんだよね、そっちのほうが先にできるような気がしてたし、まーくんに悪いことしちゃったな、って」  しゃべっているうちに、また笑えるかもしれない。泣けるかもしれない。できれば、弟と両親のために泣いてあげたい。父か母がなんでもいいから答えてくれたら、もっと話していたかったけれど、わたしの言葉は誰にも受け止めてもらえなかった。 「やっぱり今日、ボランティア行くね。どうせお昼からだし、三人で警察に行くんでしょ、留守番しててもつまんないから」  返事がないので、服を着替えに二階に上がった。両親は最初から最後までわたしと目を合わせてくれなかった。      5  玄関のドアを開けると、まぶしい陽射しが瞼の裏に刺さって、瞬いたあとも、まなざしに光の染みがいくつも灼きついてしまった。  出がけに母に言われたとおり、門扉のかんぬきを外からおろして通りに出ると、すぐさま背後から「すみません、笹岡さんのお宅のかたですか」と呼び止められた。若い男の人の声だった。  知らん顔で歩きだすと、男の人は小走りに追いかけてきて、週刊誌の名前を口にした。「ちょっとお話をうかがいたいんですが」と言ったときにはすでにわたしを追い抜いて名刺を差し出し、そして「政人くんのお姉さんでいらっしゃいますか」と縁なしの小さな眼鏡の奥で、眼鏡のサイズにふさわしい小さな目を上に向けて、わたしの顔を覗き込んでいた。どことなく『サザエさん』のマスオさんに似た人だった。  ゆうべのあれ、あなたでしょ。どうも夜分にお騒がせしちゃって申し訳ありませんでした。でもね、ぼく、お姉さんのおっしゃることにも一理あると思います。たしかにマスコミって、どうしても政人くんのような立場の同級生を悪者扱いしちゃうんですよね。それでですね、うちとしてはぜひ、ご家族のコメントをいただきたいんですよ。そうしないと、ほら、反論の機会すら与えられずに、政人くんどんどん悪者にされちゃうと思うんですよ。  マスコミの人とは絶対に話してはいけない。父の言いつけを守って、わたしは足を止めることなくバス停に急いだ。名刺だって受け取らなかったし、目も向けなかった。マスオさんはからだを斜めにして、わたしとぶつからないように、でもわたしに追い抜かれないように、ときどき前を見て電柱や路上駐車の車の位置を確かめながら、早口にしゃべりつづけた。  一言だけでけっこうなんですよ、名前は仮名で、きょうだいっていうのも伏せますから。弟さん、ゆうべはどんなふうでした、後悔とか反省とか、やっぱりそういう感じなんですか。お父さんやお母さんはいかがですか、赤堀くんのご両親は訴訟も検討されてるって話なんですけど、それについてなにかおっしゃってましたか。警察の事情聴取あるんでしょ、今日ですかそれ、時間わかりますか、お願いします、助けると思って一言だけ、お願いしますよお……。  ちょうど走ってきた空車のタクシーを停めた。ドアが開いて乗り込もうとしたら、それまでねばついた声で話していたマスオさんは急に尖った口調になって、「そうですか」と言った。 「記者の問いかけにもいっさい無言で立ち去ったと、そういうことで書かせてもらいますよ。亡くなった赤堀くんへのお悔やみの言葉すらなかった、そうですよね、ぼく嘘ついてませんからね、書きますよ、いいですね」  むかっときた。むかっ、というのは擬音だと知った。たしかに頭の芯で、むかっとしか言いあらわしようのない音が聞こえた。  わたしは窓を開け、マスオさんをにらみつけて言った。 「死にたかったんだから、死ねてよかったじゃん」  マスオさんは信じられないというふうにわたしを見つめた。車が走りだしてから後ろを振り向いても、まだ同じ顔をしていた。  最初の赤信号で車が停まると、「なにかあったの?」と父より少し老けている運転手さんに訊かれた。 「べつに、なんでもありません」 「いまの、彼氏?」 「まさかあ、そんなのじゃないんです」 「彼氏と喧嘩してたんじゃないの?」 「違いますよお」  ルームミラーにわたしの顔が映る。ちゃんと頬はゆるんでいる。でも、うん、やっぱりこれは笑顔じゃない。 「でもさあ、どうでもいいけど、お嬢さんみたいな若い人が、死んでよかったとかそういうのって言わないほうがいいと思うよ」  ルームミラーのなかで運転手さんとわたしの視線がぶつかった。お説教好きかもしれないけれど悪い人ではなさそうだったので、わたしは素直に、そうですね、とうなずいた。  今日の仕事の相棒は、前にもコンビを組んだことのある加藤さんという四十代半ばのおばさんだった。半年ほど前に旦那さんが勤め帰りにイラン人だか中国人だかの強盗グループに捕まってナイフで刺し殺された、という人。慟哭の会のなかでは新参のメンバーで、そのぶん活動にも熱心で、悪く言えば融通が利かず、前回も待ち合わせに五分遅れただけで事務局長に告げ口されてしまった。  でも、こういう日はおしゃべりな人と組むより、無愛想な人と過ごしたほうがいい。仕事に取りかかる頃になって急にゆうべからの疲れが背中に染み出してきて、とにかく早くビラを配り署名を集めて、さっさと帰って、すぐに寝てしまいたい、そんなふうに思いながら、晴れわたった午後の空を見上げて鼻の頭と頬に陽灼け止めのクリームを塗り込んだ、そのときだった。 「笹岡さん、それどういう意味? 海に遊びに来てるつもりなの?」  加藤さんがむっとした顔で言った。聞き返す間もなく、ちらりと周囲を見てからもう一度わたしをにらみつけて、ポキポキポキ、と枯れ枝を折るようにまくしたてる。  他人事《ひとごと》だと思ってるんなら、やめてくれていいのよ、ちゃんとお金の稼げるバイトやりなさいよ。ぶらぶらしてて暇だし、ちょっと手伝っていい格好しようとか思ってんでしょ。違う? そういうのってわかるのよ。でもね、これ笹岡さんのために言っとくけど、あんたのおうちの人だってね、いつどうなっちゃうかわからないのよ、こっちはそういう人のために毎日毎日こうやってがんばってるんじゃない、あんまりバカにしないでほしいのよ。 「バカになんかしてません」とわたしは言った。 「してるわよ」と加藤さんはモグラ叩きゲームのように、即座に言い返した。 「ほんとです、してません」 「なに言ってんのよ、にやにや笑っちゃって。そういうのをバカにしてるって言うのよ」  思わず頬に掌をあてた。指のおなかに、まだ延ばしきっていなかったクリームの、滑るような沈むような、冷たいとも温かいともつかない感触が伝わる。かさぶたを無理に剥がしたあとの傷口に触れたときのことを思い出した。  仕事が始まってしばらくたった頃、ティッシュペーパーで顔のクリームを拭き取った。怒られたからじゃない。汗がクリームに混じってむずがゆかったし、頬になにかを貼りつかせておくのが急にわずらわしくなったからだ。  アスファルトの照り返しに肌を灼かれながら、いろいろなことを考えた。  加藤さんが言っていたような、自分の家族や自分自身が被害者になる可能性なんて、わたしには思い描けない。加害者。犯人。ひとごろし。少年A。そっちのほうがずっと生々しい。加藤さんは、赤堀くんのニュースを知っているのだろうか。「A君」のことをどう思うのだろう。それとも、ワイドショーなんて、もう観ないのかな。  署名ノートには、午後の数時間で二十人の名前が記された。男の人、女の人、おじさん、学生、おばあさん、わたしはこの人たちの名前をいつか新聞で目にするかもしれない。被害者か加害者かは知らない。ひとごろしと呼ばれる人もいるかもしれない。  二十一人めに、赤堀くんの名前を書いた。その隣、二十二人めに「長谷川」と書いたけれど、下の名前を思い出せなかったので苗字もサインペンで塗りつぶした。「長谷川」が「谷川」になり、「川」になり、黒い丸が三つ残された。三連敗の星取り表みたいだった。  仕事が終わると、加藤さんにおじぎして言った。 「今日はすみませんでした。でも、バカになんかしてませんから、それだけはわかってください」  加藤さんは黙ったままだったけれど、配り残ったビラを束ねてバッグにしまうと半袖のブラウスの袖を軽くめくって、「ほんとだ、灼けちゃってるわ」とひとりごちて、やっと振り向いてくれた。 「笹岡さんって、いい人になりたいんでしょ?」  事務局長って、ほんとうにおしゃべりだ。大っ嫌い。 「いい人って、どんな人のこと? 皮肉じゃなくて、それ、こないだから訊きたかったの」  わたしは軽く首をかしげ、でも正直に言った。 「誰かのために泣いてあげられる人、です」  加藤さんは気が抜けたように、くすっと笑った。 「悪いけど、子供みたいね」  わたしもそう思う。 「笹岡さんは、ボランティアやってればいい人になれるって思ってるわけ?」 「いいえ、ぜんぜん」 「ほんとに?」  黙ってうなずいた。わたしは、いい人になりたい。でも、なれるとは思わない。なれなくてもいいから、なりたいと願っていたい。その気持ちを言葉で伝えるのは、きっと無理だ。  加藤さんは「最近の子って、よくわかんないわね」と話を切り上げて、帰り支度を整えた。 「とにかくあれよ、笹岡さんも一日一日を大事にしなきゃだめよ。明日はどうなっちゃうかわからないんだから、世の中なんて」 「ほんとですね」  実感をこめて答えたのに、あんたになにがわかるのよ、というように加藤さんはさっさと駅に向かって歩きだした。今日はすぐ怒られる。ボランティアの子にお説教するなんて、最低。加藤さんの背中にあっかんべえして、でもこっちを向いたら「さよなら」と手を振ろうと決め、笑えるかな、自分の笑いたいときに笑えないなんて悔しいじゃん、そう思っているうちに小柄な後ろ姿は人込みに紛れてしまった。  地下鉄を途中の駅で降りて、別の路線に乗り換えた。相互乗り入れの私鉄に直通した電車で地上に出て、高架の線路をしばらく走り、線路に沿って窮屈そうに並んでいたビルの間隔がゆったりしはじめたあたりで、電車を降りた。懐かしい駅。改札の脇にたむろしておしゃべりしている女の子たちのブレザーの制服が目に入ると、足は自然と早くなってしまった。  駅から延びた一本道の突き当たり。グラウンドと校舎が見える。グラウンドの外周に沿って高いネットが張り巡らされているせいで、駅前からの眺めは学校ぜんたいが虫かごに入っているみたいだ。  校舎の真ん中、校章の上に掛かった大時計の針が縦に一直線に並んでいて、じゃあもうすぐだなと思っていたら、あんのじょう昔と同じ『峠のわが家』のメロディーが流れてきた。熟しきる前のレモンに似た色の光が、校舎に近いところから順に瞬きながらネットの支柱を飛び飛びに渡り、すべての照明が灯されたとき、校舎やグラウンドを囲むものは虫かごから水槽に変わった。  グラウンドの真ん中ではサッカー部が練習をして、そのまわりを陸上部の男の子たちが走り、テニスコートでは女の子たちが、部の伝統だという「辛抱! 我慢!」の声をかけあってラケットを振っている。ちっとも変わっていない。あの頃と同じ。それが嬉しくて、でも少し寂しかったりもする。  日はほとんど暮れかかって、正門から自転車に乗って出てくる生徒たちの顔も、街灯の下にこないとわからない。わたしは一本道を進み、学校の敷地に入った。門をくぐるとき、ひとつ深呼吸をした。植え込みのツツジが赤い花をたくさん咲かせていて、わたしが入学するずっと前にハンドボール部が全国大会に出場したときの記念碑が、植え込みの後ろに建っている。学校にいた頃は、みんなでよくペットのお墓みたいだと話していた。  先生、さようなら。自転車を漕ぐ女の子の、リボンのように尻尾がふわりと風に乗った声が、背中に聞こえた。振り向くと、背広を小わきに抱えた中年の先生が教職員用の昇降口から出てきたところだった。 「笹岡……さん、か?」  声をかけられ、もう一度振り向いて、目をこらした。やだ。担任の先生。 「笹岡さんだろ? な? そうだよなあ、うん、笹岡だよ」 「ごぶさたしてます」  小さく会釈をすると、先生は笑いながら大股に近寄ってきた。 「どうしたんだよ、いやあ、懐かしいなあ。髪伸ばしてるから、最初わかんなかったよ。なにか用事でもあったのか? 事務室もう閉まってるけど、なんだったら先生が受けとくぞ」  煙草の吸い過ぎで少ししわがれた声。懐かしい。会えたから懐かしいんじゃなくて、この声を毎朝ホームルームの時間に聞いていたんだと思うことで、懐かしさがつのる。たった二、三年前なのに、もうずっと昔のことのようだ。思い出す教室の風景もあやふやで、なんだ、忘れてることってけっこう多いんだ、そう気づいてさっきと同じように嬉しさと寂しさが胸で溶ける。嬉しさのほうが少し多かった。 「お父さんとお母さん、元気か? 毎年くれるんだよ、年賀状。笹岡の名前も隣に書いてあるけど、あれお母さんの字だよな?」  知らなかった。「たぶん」と答えたけれど、唇がうまく動かなかったので、先生に通じたかどうかはわからない。 「おまえも書いてくれりゃいいのに。毎年それ待ってるんだけどなあ」  自分の言葉に照れくさそうに笑った先生は、ああそうだちょっとこっちこいよ、と先に立ってグラウンドのほうに向かい、コンクリートのベンチに座った。三年前にはなかった、こんなもの。 「これ、おまえの年の卒業記念。いつもは植樹だけど、ちょっと変わったものにしたいって学年会で決まってさ、ほら、あの年度の生徒ってけっこう変な奴多かったから」 「座っていいですか? わたしも」 「あたりまえだ。座れよ、けっこう座りごこちいいんだぞ」  先生は隣のスペースを掌で払って砂をどけて、たたずんだままのわたしを見上げて、「でも、うん、よく来てくれた」と言った。  わたしたちはベンチに並んで座って、グラウンドを眺めた。サッカー部はシュートの練習をしている。ブルーのユニフォームも、たしか昔と同じ。照明のつくる影がくっきりとグラウンドに落ちて、みんな二人一組でボールを追っているみたいに見える。 「覚えてるか、サッカー部にいた中山。同じクラスだっただろ」 「ええ」 「あいつ、ときどき、後輩のコーチに来てるんだ。ほら、あそこ。いばってんだろ」  ゴールの横からパスを蹴り出す男の人がいる。一人だけ、白いトレーニングウェア姿だった。 「一浪して、今年早稲田に受かったんだよ、あいつ。英語だか国語だかの先生になってサッカー部の監督やるんだって張り切ってて、さっきも職員室でお茶飲んで話してたんだ、いろんなこと。笹岡の話も出てさ、だから、とにかく、びっくりしたなあ」 「あと……長谷川くんのことも、ですか」  先生はグラウンドを見たまま、まあな、と小刻みに顎を振った。 「仲良かったからな、あいつら。いまでも墓参りしてるって言ってた。おれなんて担任のくせに一周忌のとき以来ごぶさたしてるってのに、友達っていいよな、やっぱり」  ラスト、オール三本! グラウンドに中山くんの声が響く。風が吹いて、砂埃が舞い上がるのが見えた。 「後悔してたよ、あいつ。笹岡にひどいこと言っちゃったって、なんでその話になったのかなあ、さっき、そんなこと言ってた」  ほんとうだろうか。嘘かもしれない。でも、かまわない。 「先生」とわたしは言った。先生がこっちを向くと、入れ替わりに今度はわたしがグラウンドに目をやった。 「長谷川くん、わたしに電話して、中学の頃楽しかったって、そう言ってたんです」 「ああ、いつか笹岡に聞いたな、それ。PK戦かなにかだろ?」 「それでね、あの人、わたしにも訊いたんです。なにが一番楽しかったかって。わたし、途中で切っちゃったから答えなかったんだけど、長谷川くんって、中学のPK戦より楽しいこと、もう一生ないんだと思ってたんだなって、そんなこといま急に考えちゃって。自殺しちゃう人って、いまが厭だから死んじゃうのかなあ、それとも先のことが厭になって死んじゃうのかなあ、よくわかんないけど、あの人ほんと、わたしになに言いたかったんだろう」  息を吸い込むと、砂のにおいがした。わたしには長谷川くんのことがわからない。あの人が考えていたこと、やろうとしていたこと、やってしまったことの理由、なにもわからない。足元に落ちるわたしの影は、腰から下がベンチの影に溶けて、膝を抱えてうずくまっているときと同じ輪郭だった。 「笹岡は、いまでも長谷川のこと覚えてるか」と先生が言った。  わたしは黙ってうなずいた。 「先生はさあ、もう三年ぐらいになるだろ、けっこう忘れちゃってるんだ、あいつのこと。そりゃあ思い出せって言われれば思い出せるけど、ふだんは目の前の生徒のことしか見えないよな、やっぱり。中山もそうだって言ってた。いつもは忘れてるから、ときどき墓参りに行くんだって」 「わたし、全然忘れてない、あの人のこと」  勝手に唇が尖っていた。先生はまた小刻みに顎を振って、「ひょっとしたら、長谷川、おまえにずーっと覚えててもらいたくて電話したのかもな」と言った。  やだあ、と今度はしかめつらが浮かぶ。そんなの、迷惑。すっごい身勝手な奴。顔の前で、しっしっ、と掌を振った。あっち行っちゃえ、あんたなんか。でも、とっくの昔に長谷川くんはあっちに行っていて、それに気づくのと一緒に、黒板に相合い傘を描かれた小学生の女の子みたいだと思って、急に背中がくすぐったくなってしまった。  グラウンドでは、中山くんがサッカー部の部員たちを集めて、なにか話していた。中山くんの声は聞こえないけれど、返事をする部員の短く太い声が校舎に跳ね返って響き渡る。 「笹岡も、もうはたちだよな。十九だっけ? まあいいや、高校生じゃないんだから。時間あるんだったら中山も誘って、ビールでも飲むか? 先生、おごってやるよ」  わたしは背中にくすぐったさを残したまま、自分の影に首を横に振らせた。帰らなきゃ、と影を立ち上がらせる。 「中山にちょっとだけ会っていくか? あいつもびっくりして……たぶん、喜ぶぞ」 「いいです、やっぱり帰ります」 「そっか、うん、わかった、じゃあ今度、いつでもいいから気軽にまた遊びに来いよ。もし、まあはたち過ぎたら大学検定のほうがいいかもしれないけど、どっかの高校に入り直す気になったら、いくらでも相談に乗るし、単位修得証明もすぐに出してやるから」  ありがとうございます、と言うつもりだったのに、口に出た言葉は違った。 「先生、わたしね、いい人になりたいなって思ってて、自分のためじゃなくて誰かのために泣いてあげたいなって、ずーっと思ってて、そんなのってすごく嘘っぽいから、なんかけっこう厭になっちゃったりするんだけど、そういうのっていいな、って」  なに言ってるんだろう。先生も困った顔で、うん、まあ、それは大事だよな、とぼそぼそと言う。自分でもわけがわからなくなって、頭を深々と下げた。自分の影におでこをぶつけるつもりで、腰を思いきり曲げた。あ、いまなら泣けそうだ、と思った。顔を上げたら、きっと。  でも、先生は最後に、嬉しそうに言った。 「笹岡、笑えるようになったんだな。もう、だいじょうぶだな。お父さんもお母さんも心配してたもんなあ、よかったなあ、もうちょっとだな」      6  家に着いたのは夜八時を少し回った頃だった。門の前には報道陣の姿はなかったけれど、ガレージに父の車もない。  朝と同じように食卓に母の手紙が置いてあった。警察に行ったあと、弁護士さんを紹介してもらいに横浜のおじさんの家をまわってくるので、今夜は帰りが遅くなるか、ひょっとしたら明日の朝になるかもしれない、出先から留守番電話にどうするかを入れておくので聞いてほしい、とのことだった。  電話機のメッセージランプが再生をせきたてるようなテンポで点滅していた。  メッセージは、発信音のあとですぐに切れたものが二件。インタビューの申し込みが週刊誌一、スポーツ新聞二。わが家の事情をまだ知らないのか、お留守のようですのでまたかけますねえ、と母が週に二度通っているスイミング教室仲間の梁瀬さんから。テープの録音時間が終わるまで押し黙っていたものが一本。母の伝言は、その次に入っていた。  父がおじさんの家でお酒を飲んで酔っぱらってしまった。ゆうべ一睡もしていなかったので、このまま泊まることにする。母の声はか細く途切れ途切れで、吐き出す息の音のほうが大きかった。  つづいて、またインタビューの申し込み。今度はテレビ局からだった。最後は、小学生なのか、中学生だとしたらたぶん一年生の、舌足らずな男の子の声が三人ぶん、笑いをこらえながら、ひとごろしっ、きゃははっ、バカ切れよ切れ、おめーも死ねよなあ、早く切れってなにやってんだよタコ。  さいせい、が、おわり、ました。電話機に内蔵された女の人の声を真似てつぶやいた。  電話機からコードをはずして、リビングを出た。体温を計ろう。腋の下に体温計をきゅっと挟んで、左右でいびつなからだの温もりを確かめて、布団を頭からかぶって寝てしまおう。  階段を昇る途中、二階から足音とドアを開け閉めする音が聞こえた。足を止め、耳で様子を窺うと、やがてトイレの水を流す音と、ドアが開く音と間延びしたあくび、弟の声だ。 「まーくん?」  階段を再び昇りながら声をかけると、自分の部屋へ戻ろうとしていた弟のほうが逆に驚いて、わたしにもはっきり見てとれるほどきつく身をすくめた。 「横浜行ったんじゃなかったの?」 「行ったんだけど」弟は背中を廊下の壁に預けて言った。「お父さん、おばさんがやめなって言ってんのにウイスキー飲んで、車運転できなくなっちゃったんだ。お母さんも夕方お姉ちゃんに留守電入れたあと、急に具合悪いって言い出して、まだおじさんちで寝てるんじゃないかな。お昼ごはん全部吐いちゃって、大変だったんだ」 「それで、まーくん一人で帰ってきたわけ?」 「だってさあ、そんなの厭じゃん。一人で、おばさんとなに話せばいいわけ? おじさん帰ってきたら、また最初っから話さないといけないし……なんかもう、すげえ面倒くさくなっちゃって、電車で帰って、さっきまで寝てたんだ」 「晩ごはん食べた?」 「まだ。朝からぜんぜん腹減らないんだよね」 「食べたほうがいいよ。一緒になにか食べようよ、カップヌードルぐらいあるでしょ」 「いいよ、欲しくないし、眠いし」  弟は朝より数の増えた吹き出物が気になるのか、唇をもぞもぞさせながら自分の部屋のドアを開けた。 「ねえ、まーくん、おっきいお姉ちゃんの部屋で、昔のアルバムとか見ない?」  思いつきで言った。口にしたあとで、こんなこと言おうと思ってたんだと気づいて、「見ようよ」とつづけた。今度ははっきりと、声を出す前に自分の気持ちを確かめて。 「わたし、カップヌードルつくってくるから、先にお姉ちゃんの部屋に入って待っててよ。まーくんも食べるでしょ」  弟は、食べない、とは言わなかった。  姉が結婚して使う人のいなくなった部屋は、いまは納戸代わりになっていて、姉とわたしと弟の幼い頃のおもちゃや服やアルバムや本が、放り込んだのと違いのない乱雑さで収められている。わたしはこの部屋が好きだ。残す必要のないものはとっくに捨てている。ずっと持っておきたい思い出の品しか、ここにはない。この部屋を嫌いになったらおしまいだよ、とも思う。 「なんかさ、この部屋っていいよね。まーくんもそう思わない?」とわたしはフローリングの床に直接座って言った。 「まあね」  姉のベッドの縁に腰掛けた弟は、カップヌードルをすするのとうなずくのを同時にやって、口元に撥ねたスープを手の甲で拭った。  弟は昼間のことを少しだけ話してくれた。警察の取り調べは、ねちねちとしつこかったそうだ。ただ、恐喝や暴行などの罪にはあたらないらしく、仮に家庭裁判所まで話が持ち込まれても、せいぜい保護観察処分ですむようだった。同級生も何人か警察に呼ばれていた。でも、その子たちは一時間たらずで帰されて、弟だけ三時間半。その差は、遺書に名前が書いてあったかどうか。警察の人は、主犯、という言い方もしたらしい。 「おじさんちに行く車の中で、お父さんとお母さん、お金の話をしてたんだよね。ぼく、寝たふりしてたから」 「なんのお金?」 「赤堀んちの親が訴えるって言ってるじゃん。損害賠償っていくらぐらいになるんだろう、払えない金額だったらどうしよう、って。ああいうお金って、どうやって決めるんだろうなあ」 「交通事故のときみたいに、もし事故に遭わなかったら何歳まで生きてお金をいくら稼いで、って計算するんじゃないの?」 「でもさ、何歳まで生きるのかって、誰にわかるわけ? おとなになって、すげえ借金してるかもしれないじゃん。だってバカホリだぜ、長生きしてもろくな人生じゃないよ。誰からも相手にされなくて、高校でも大学でも会社でも、どこ行ってもいじめられるよ。バッカみてえ、そんなの」  弟はまだ中身が半分近く残っているカップヌードルの容器を床に置き、ベッドに仰向けに寝転がった。  たしかにバカみたいだ。でも、赤堀くんの両親は、息子は自殺さえしなければ幸せな人生を歩んでいたはずだ、と信じているだろう。いまはいじめられっ子のバカホリくんでも、生きていれば、いつか大逆転していたかもしれない。そんなこと絶対にありえないなんて、誰にも言えない。  わたしはスープまでぜんぶすすったカップヌードルの容器に、いつもの癖でフォークの先で穴を開けながら、言った。 「まーくんだって、大きくなってもたいした人生じゃないかもしれないよね。あんた英語の成績悪いし」 「うっせえなあ、ぼくのことなんて関係ないじゃん」 「でも、お父さんやお母さん、もしまーくんが死んじゃったら、まーくんは他の誰よりも幸せな人生を送れたはずなのに、って思うよ」  ほんとかな。わからない。でも、わたしなら、そう思う。  弟の言葉が返ってくるまで、少し長い間が空いた。 「いいよ、もう。お姉ちゃん、ちょっと黙っててよ」  寝返りを打ってわたしに背中を向け、さっき部屋の隅の段ボール箱から取り出した古いマンガをめくる。わたしも、もうなにも言わなかった。本棚からアルバムを適当に一冊抜き取り、姉が昔使っていたビーズのクッションに抱きついて、うつぶせになってページをめくっていった。  アルバムには、わたしが三歳から四歳だった頃の写真が収められていた。そうか、まだまーくんは生まれてなかったんだな、と思いながら色合いのくすんだ写真を眺めていたら、この頃には赤堀くんも生まれてなくて、でも長谷川くんはいたんだ、とも気づいた。  弟は、わたしが五歳の頃のアルバムから登場する。その頃には、赤堀くんも、いる。十六歳で、長谷川くんがいなくなった。いつか計算したことがある。同じ年の同じ日に、よーいどん、みたいに生まれたわたしと長谷川くんは、十六年と二百二十七日を一緒に生きた。二百二十八日めに日付をまたぎ越すところで、長谷川くんは死んだ。その日にはまだ生きていた赤堀くんも、昨日死んだ。残ったのはわたしと弟だけ。  計算と呼ぶのも大袈裟な、そんなあたりまえのことを考えて、長谷川くんは十六年と二百二十八日めから先のことはなにも知らないんだ、もっとあたりまえのことに気づいた。わたしにとってはすでに過去になってしまったできごとが、すべてあの人には未来。それも、永遠に手つかずのままの。あの人は、わたしがひとごろしと呼ばれたことだって知らない。  ベッドから、うめくような声が聞こえた。弟はマンガを読んでいたそのままの姿勢で眠っていた。覗き込むと、こめかみや眉間に力の入った、つらそうな寝顔だった。わたしは押し入れから姉の使っていた布団を出して、弟のおなかに掛けた。時計を見て、三十分だけ寝かせてあげよう、と決めた。  弟が眠っている間、インターフォンが何度か鳴らされた。すぐにあきらめる人もいれば、しつこく鳴らしつづける人もいた。  雨戸を閉め切っていても、ときどき外の声や物音が聞こえる。中学生か高校生ぐらいの女の子たちが、ここじゃないの、あ、そうそう、表札にササオカって書いてるもん、ササオカだっけ、ササモトじゃなかったっけ、なんて言いながら自転車に乗って駆け抜けていった。車がエンジンをかけたまま家の前で停車して、またすぐに発進していった。お隣の犬が突然激しく吠えた。誰かが庭に忍び込んだのかもしれないと思いかけて、そんなのあるわけないじゃん、と打ち消して、でも、じつは雨戸を開けたらテレビの撮影用のまぶしいライトをぶつけられてしまうかもしれない。窓の外にはすでに人垣ができていて、両親の帰宅や、わたしと弟の外出を、いまかいまかと待ち受けているのかもしれない。  きっかり三十分後、デジタル時計の1が四つ並んだときに弟を揺り起こして、不機嫌そうに目をこする弟の顔の前に、体温計を二本差し出した。 「熱なんかないよ」 「そんなことないわよ、生きてると絶対に熱はあるんだから」 「わけのわかんないこと言わないでよお」  それでも弟は、寝起きでまだ頭がぼうっとしているのか、押し問答をするのも面倒だと思ったのか、クジをひくような手つきで二本の体温計のうちの一本をとってTシャツの裾をたくしあげた。 「だめだよ、二本使って、右と左で計んなきゃ」  弟はうんざりした仕草で左右の腋の下に体温計を挟み、咳を二、三回して眠気を払って、天井を見上げて言った。 「先生が、明日は学校休めって」 「でも、お葬式でしょ?」 「バカホリの親父が、笹岡には顔出させないでくれって言ったんだって。だから来週になってからお詫びに行こうって、今朝、先生が言ってた。お父さんも一緒に行くって」 「なんで? なにを謝るわけ? みんなでいじめてたんだから、みんなで謝ればいいじゃん。そんなのおかしいよ、絶対おかしいよ」 「そんなことないよ」 「おかしいって。それに赤堀くん、勝手に死んだんじゃない」  弟は、天井を見上げたまま、お姉ちゃんはしょうがないなあ、というように頬をゆるめた。そして、「違うよ、やっぱりぼくが殺しちゃったんだよ」と泣き出しそうな声で言って、もう一度笑おうとしたとき、透き通った電子音が聞こえてきた。  右三五・八〇度。左、三五・八二度。  わたしと同じ。左側が高い。弟も数字を見比べて、ふうん知らなかったなあ、と何度かうなずいた。  心臓があるんだもん、動いてるんだもん。どうだ、と少し自慢したくなった。誰に? よくわからないけれど、死んだ人すべてに。  わたしは体温計を自分の左右の腋の下に挟んだ。弟はベッドに寝転んで、じっと考え込んでいた。沈黙のなかで電子音が鳴り、右が三五・九二度で、左が三五・九五度。よし。心臓は、元気に熱い。  体温計をケースにしまって立ち上がり、弟の顔を上から覗き込んで、「行こうよ」と言った。 「お姉ちゃんと一緒に、いまから赤堀くんち行ってみようよ」 「マジ?」 「うん。まーくん、行かなくちゃだめだよ」 「なに言ってんだよ」 「あとから仏壇とか位牌とかを見るんじゃなくて、赤堀くんの顔をちゃんとしっかり見て、勝手にひとの名前書くんじゃねえよって怒ってもいいし、死んじゃってバーカって笑ってもいいし、泣いてもいいから、行こうよ。行かなきゃ、ほんと、だめなんだよ。これで最後のお別れなんだから、ちゃんとお別れして、泣くんだったら赤堀くんのために泣いてあげて、笑うんだったらほんとにおかしくて笑っちゃわないと……」  瞼が熱く、重くなり、鼻の奥がじゅっと潤んで、顎の下がひくついた。つづく言葉は、吐き出す息ではなく胸に吸う息に乗せるつもりで言った。 「まーくんは絶対にひとごろしなんかじゃないんだから、お姉ちゃんみたいに病気になっちゃだめなんだから」  わたしを見つめる弟のまなざしが変わる。  いま、どっちの顔になってる?  誰でもない誰かに訊いて、両方だね、自分で答えた。      7  外に出ると、蒸し暑さが足元からたちのぼり、からだにまとわりついた。夜空には厚い雲が垂れ込めていて、昼間の天気が嘘のようだった。明日は雨かもしれない。 「雨の日のお葬式って、大変だよね」  わたしが言うと、弟は「いいよ、バカホリらしくて」と笑った。家の前に報道陣ややじ馬がいなかったことで弟は少し安心して、部屋にいたときよりも元気な声を出して、それでもすれ違う人がいると急にうつむいて足早になってしまう。赤堀くんの家までは徒歩二十分。向こうに着いた頃には日付が変わっているだろう。  弟は歩きながら、ふと思い出したように「ねえ、お姉ちゃん」と言った。声は少し鼻にかかって、姉やわたしのあとを追いかけてばかりいた子供の頃の声に似ていた。 「ずっと訊きたかったんだけどさ、長谷川って人、お姉ちゃんのこと好きだったんじゃないの?」  そうかもね。でも、そうじゃないかもね。友達にもたくさん言われたけれど、もうどうだっていい。長谷川くんは十六年と二百二十八日めから先のことをすべて未来のままにして死んでしまって、だから答えなんて誰にもわかるわけない。  弟はわたしの返事がないので、合わなかったジグソーパズルのピースを捨てて新しい一片を試してみるように話題を変えた。 「お姉ちゃん、もう病気治ったのかなあ。どうなの?」 「さあ」 「だって、笑ったり泣いたりしてるじゃん」 「なんでだろうね、よくわかんない」  これも見当はずれのピースだと知ったのだろう、弟は「まあいいや」とつぶやいて、その話を打ち切った。  大通りをまたぐ歩道橋を渡って、これで道のりは七割がた過ぎたことになる。歩道橋を降りたすぐそばの電柱に、赤堀家への道順を示す矢印付きの短冊が貼られていた。弟もそれに気づいたのか、急に歩みが遅れがちになって、また別のピースをボードに押し付けてきた。 「夕方寝てるとき、夢見たんだ。バカホリの夢」 「いじめられてた?」 「ううん。べつにぼくとなにかしてるってわけじゃないんだけど、いるんだよ、あいつ。それだけ覚えてるんだよね」 「わたしも長谷川くんの夢、見ることあるよ。ときどきだけど」 「どんな夢?」 「起きたら全部忘れてる。でも、長谷川くんの夢を見てたんだってことは、わかるの」  このピースが、当たりだったのかもしれない。弟は、前に伸びる自分の影に目を落として、「それでね」とつづけた。  バカホリと同じ小学校から来た奴に聞いたんだけど、ガキの頃、あいつみんなにかまってもらいたくて、自分のおもちゃとかゲームとかマンガ本とか、どんどんみんなにやっちゃうのね。でも、ものを渡すとき、すごく惜しそうな顔するんだって、そういうのって死ぬほど最低だよね。寄ってくるからいじめられちゃうっての、わかんないのね。遠くにいればこっちだって相手にしないのに、来るんだよ、バカホリだから。それでさ、もっと笑っちゃうのが、もう学校で相手にされなくなったから、あいつ小学生の妹がいるんだけど、家に帰って妹の友達とかと遊んでるんだよね。小学生の女の子集めてゲームとかしてんの、笑っちゃうよ、妹の友達にも自分のおもちゃとかあげてたのかなあ。  声というより喉を鳴らす音のようにほとんど切れ目なくしゃべりながら、逆に足のほうはしだいに遅くなって、バカだよねあいつバカだよねほんとバカ、繰り返した最後にとうとう前に進まなくなってしまった。わたしは弟の少し先で立ち止まった。弟はうなだれて、しばらくは歩きだしそうにない。  やっぱり帰ろうかなあ、と星のない夜空を見上げた。ほんとうは、弟には、泣くのでも笑うのでもなく、赤堀くんに怒ってほしかった。いろんなことをずうっとさかのぼってたどっていけば、結局一番悪いのは弟だということになるはずだけど、でもいいんだ、理屈とか善悪とか身勝手とかエゴとかそういうのどうでもいいから、わたしが長谷川くんのことを大っ嫌いなように、弟にも赤堀くんのことを嫌いにならせてあげたかった。だって、そうだよ、死ぬのは勝手だけど、ひとの人生までねじ曲げないでほしい。  わたしは、高校を中退しなければ、いまごろは保母さんになるために短大か専門学校に通っているはずだった。長谷川くんの生きなかった未来には、わたしの生きられなかった未来もあるってこと、あの人はわかっているのだろうか。  ねえ帰ろうか、と弟に言おうとしたとき、前からタクシーが走ってきて、わたしたちとすれ違いかけたところで急停車した。後ろのドアが開き、そこから降りてきたのは昼間わたしをしつこく追いかけてきた、顔がマスオさんに似た週刊誌の記者だった。 「笹岡さん、どうしたんですか? こんな時間に」  わたしは無視して、さりげなく弟の前に立った。  マスオさんは、声に出た答えだけではなく表情や仕草のちょっとした変化も見逃すまいとするかのように、眼鏡のつるをつまんでレンズの角度を細かく調整してから、「どちらへ行かれるところだったんですか?」と訊いてきた。 「散歩です」 「でも、もう十二時回ってますよ」 「いけないんですか? 勝手じゃないですか」  縄跳びの縄で床を叩くような言い方になった。でも、マスオさんは首をかしげて短く笑う。 「赤堀くんのお宅に行かれるところだったんでしょ」  マスオさんはわたしよりもむしろ弟を見つめ、「これ、仕事の立場で言ってるわけじゃないんですけどね」と前置きして、通りの先に目を移した。 「今夜は行かないほうがいいと思いますよ。悪いことは言いませんから、明日でもあさってでも、あらためて出直したほうがいい。ぼくだって仕事のこと考えたら絶対に笹岡さんたちに行ってもらいますよ。でも、いまは、ほんとに、顔を出さないほうがいいと思うんです、政人くんのためにも」  タクシーの運転手さんがしびれを切らせて短くホーンを鳴らした。そこにベルトにつけたポケットベルが呼び出し音を響かせて、さらに、背広の内ポケットの携帯電話まで。マスオさんは、とたんにあたふたと、一人コントをやっているみたいに手足を動かした。それまでの空気が張り詰めていたぶん、こっけいな身振りだった。弟でさえ、わたしの後ろでくすっと笑ったほど。  携帯電話はプライベート専用で使っているらしく、マスオさんは通話ボタンを押すなり「とにかく悪かったって言ってるだろう、頼むよ、仕事中なんだ」と困り果てた声を出した。かけてきた相手は奥さんなのか恋人なのか、マスオさんはどうやら今夜の約束をすっぽかしてしまったみたいだ。マスオさんは電話の相手にひたすら謝りながら、タクシーの運転手さんにも掌で「ごめんなさい」のジェスチャーをして、「とにかくいまは忙しいんだよ。あとでゆっくり聞くから」と電話を切ると今度はポケットベルで呼び出してきた相手に、こっちは編集部の上司なのだろう、電話がつながると同時に「すみません、もうちょっとかかりそうです」と、要するに謝ってばかりだった。  それを見ていると、なんだかマスオさんがかわいそうになってきて、わたしたちと一緒にいるのを編集部に話さなかったことで少し嬉しくなって、電話が終わるのを待って声をかけた。 「わたしたち、帰ります」 「お送りしますよ。こんな時間にふらふら歩いてると危ないでしょう。どうせ車で社まで帰りますから、途中で落としていきます」 「なにもしゃべりませんよ、でも」 「わかってますよ」  マスオさんは掌の上の電話機にちらりと目を落とし、気を取り直すようにはずみをつけて電話機をポケットの中に放り込んだ。  約束どおり、マスオさんは最初に家までの道順を運転手さんにかわって訊いてきただけで、あとは黙って助手席に座っていた。後ろの席のわたしと弟も、なにも話さなかった。  途中で一度、携帯電話が鳴った。でも、マスオさんはポケットに手を入れて電源スイッチを切ってしまった。ふーう、と長く尾を引くため息が聞こえ、まいったなあ、ひとりごちたときにルームミラー越しにわたしと目が合った。  まずいところを見てしまったような気がして、つい、「お通夜に行ってたんですか」とよけいなことを訊いた。 「ええ、ぼくが引き揚げたときもまだ何社か残ってましたから」 「大変ですねこういう仕事も」とまたよけいなことを言ってしまう。 「いや、まあ、しょうがないですよ」  マスオさんは短く笑って、「それにしてもこんな時間にお焼香ですか、お父さんやお母さんはご存じなんですか?」と約束を破りそうになったので、わたしはあわててそっぽを向き、そこから先はもう絶対に口を開かないことにした。  わが家への最後の交差点を渡ったところで、マスオさんは「心配しないでいいですよ。今夜お二人に会ったことは書いたりしゃべったりはしませんから」と言って、シートベルトを肩からずらし、半分だけからだを後ろに向けてつづけた。 「いまの段階で中途半端なことは申し上げないほうがいいんですが、明日になれば警察か学校から詳しく発表があると思います。政人くん、なんて言うのかな、一方的に悪者扱いにはならないはずですよ、それがきっちり発表されれば」  どういう意味ですか、と訊こうか訊くまいか迷っているうちにタクシーは家の前に着いた。マスオさんは弟が先に車を降りるのを確かめてから、小声でわたしに言った。 「記事になんかしませんけど、政人くんとお姉さんがお通夜に行こうとしてるの、ぼく、すごく嬉しかったです」  わたしは黙って車を降りた。マスオさんと目を合わせたくなくて、うつむいて、急いで。  弟は、車から降りてすぐの場所で立ち止まっていた。「どうしたの?」と訊いても返事はなく、身じろぎもせず、そんな弟の視線の先を追った直後、わたしも同じように全身がこわばってしまった。  柱の上に載った丸い門灯の明かりの死角になって、ふと見ただけでは影に紛れてわからない塀の下のほう。そこにスプレーのペンキで「犯人」と書いてあった。  助手席からいったん外に出て後ろのシートに移ったマスオさんも、窓を開けて、落書きに気づいたのだろう、息を呑む気配が背中に伝わってきた。  どれくらい沈黙がつづいたのか、運転手さんの「お客さん、出していいですかあ」を追いかけて、マスオさんはわたしたちの背中にぽつりと言った。 「詳しい話は明日わかると思いますが、赤堀くんね、別の遺書も書いてたんですよ」  わたしが振り向く前に窓が閉まり、車が走り去り、弟はその場にしゃがみこんで、それを待っていたみたいにお隣の犬がわんわん吠えたてた。      8  夜明け頃から降りだした雨は、強さはそれほどでもないものの、ボランティアに出かける時刻になってもやまなかった。雨戸を閉め切って二日めに入った家のなかには湿り気が重く澱み、きっとその湿り気には、ゆうべ弟が幼い子供のように声をあげて泣いた涙も溶けているのだろう。  わたしは空が白みかける頃まで灯りを消した門の前にしゃがんで、服の染み取り液、消毒用アルコール、マニキュアの除光液、いろいろなものを試して「犯人」の文字を消そうとした。誰かが通りかかったら、そしてなにかよけいな言葉をぶつけてきたら、ためらわない、思いきり頬を平手でぶってやろうと決めていた。でも、誰もやってこなかった。落書きも消せなかった。外に出ていた間に留守番電話に無言のメッセージが十二本入っていただけだ。  両親が帰宅したのは朝六時過ぎだった。寝入りばなを起こされた格好になった。父は服を着替えるとすぐにまた車でどこかへ出かけていき、母はコンビニエンスストアの袋に入ったジュースとパンを食卓に置いて、そのままリビングとつづき部屋の和室に布団を敷いて寝入ってしまった。二人とも、階下に降りてきたわたしの「お帰りなさい」に無言の笑みを返しただけで、もう口を開く気力も残っていない様子だった。  朝八時。弟はまだ自分の部屋のベッドで眠っている。ときどき大きな声があがる。バカヤロウぶっ殺すぞてめえ、なめてんじゃねえぞ。壁を蹴る音も交じる。でも、部屋を覗いてみると、枕を抱き締めて歯ぎしりしていた。  朝食をとりながら観たワイドショーの主役は、ゆうべ電撃的に婚約を発表した人気歌手カップルだった。赤堀くんのニュースはいっさい報じられず、マスオさんが言っていた別の遺書のことはわからないままだった。門のインターフォンも鳴らない。電話も、真夜中の無言電話十二本を最後にかかってこなくなった。拍子抜けするぐらい静かな朝だ。  ワイドショーが終わると外出の支度をして、表の通りに面していない窓の雨戸を開けた。お隣の犬が犬小屋から鼻先だけ出して朝ごはんを食べているのが見えた。お隣さんのゆうべの晩ごはんはすき焼きだったようだ。 「じゃあ、そろそろ行くね」  リビングから和室に声をかけ、階段の下から二階に向かって同じ言葉を繰り返したけれど、母からも弟からも返事はなかった。  玄関の靴箱から雨の日用のソールの分厚いスニーカーを取り出したとき、家の前で車が停まる音が聞こえた。インターフォンを鳴らされると面倒なので急いでドアを開けると、頭の隅をよぎった予感どおり、マスオさんがタクシーから降りてくるところだった。ゆうべと同じ服で、眼鏡の奥の小さな目をしょぼつかせていた。  口の前で人差し指を立てて玄関から門に出ると、インターフォンを押しかけていたマスオさんは少し驚いた顔でうなずき、「バス停まで一緒に歩きませんか」と言うとさらに驚いた顔になった。えーっ、サザエ、それほんとかい? そんな声が聞こえてきそう。困惑した顔が、特にマスオさんに似ている。 「そのかわり、家にはもう来ないでください」とわたしは傘を開きながら言った。 「ええ、ええ、そりゃあもちろん」とマスオさんはぴょこんと頭を下げる。この人、週刊誌の仕事に、じつはあまり向いていないのかもしれない。  塀の落書きは雨でもちろん消えるわけがなく、むしろ塀の埃が洗い流されたぶん、くっきりとしたようにも見えた。父や母も目にしたはずだ。ご近所の人も。通勤や通学で駅へ向かう途中の、わたしの知らないたくさんの人たちも。  わたしは落書きから目をそむけて歩きだし、マスオさんが並びかけるのを待って、「赤堀くんの別の遺書って、なんだったんですか?」と訊いた。すると、マスオさんは「あ、そうそう、それなんですよ、たったいま裏が取れまして」と一転して力んだ声になり、半歩ぶんわたしの前に出て、顔を覗き込むようにして言った。 「赤堀くん、遺書を全部で三十七通書いてたんですよ」 「はあ?」 「って、びっくりしちゃいますよね、ほんと。自殺したときに持ってた鞄の中に一通、自分の部屋の机の中に三十六通。要するに、クラスの人数ですよ。自分を除いて三十七人ぶん」 「どういうことですか?」 「遺書に弟さんの名前が出てましたよね。そこの部分だけ一人ずつ書き換えてたんです。ほら、あの遺書、ワープロ打ちでしたから」  きょとんとした顔のわたしに、マスオさんは少しだけ苦笑いを浮かべて、「つまり」とつづけた。 「赤堀くんは、名前のところ以外は全部同じ文面の遺書を三十七通つくって、それぞれ封筒に入れてたわけです。封筒には名前もなくて、机の引き出しに入ってた順番もばらばらで……だから、どの封筒に誰のが入ってるかなんてわかりっこない。おそらく、赤堀くん、おととい家を出ていく前に引き出しから適当に封筒をひとつ選んで、そのなかに入っていたのが、政人くんの名前の書かれた遺書だったってことです」  話の途中で、わたしは足を止めた。マスオさんも少し遅れて立ち止まり、こわばった顔でわたしをじっと見つめて、眼鏡の奥で苦しそうに目を細めた。 「信じられないでしょ。でも、ほんとなんです。学校でもいま職員会議やってました。お葬式にクラスで出かけるどころじゃない、もう大騒ぎですよ」  一歩二歩と歩きだしたマスオさんは、わたしがまだ動けないのを見て立ち止まり、ひがいしゃは弟さんですよ、と言った。ひがいしゃ。わたしは低くかすれた声でマスオさんの言葉を繰り返した。自分の声が耳に流れ込んで、やっと「被害者」という漢字に結びついた。  マスオさんはまた歩きだし、今度はわたしも足を前に動かした。でも、最初の一歩で水たまりを踏みつけて、撥ねた水がスニーカーの甲ににじんだ。 「まあ、もちろん、赤堀くんがいじめを受けていたことは事実で、政人くんも、程度はともかくとしていじめに加わっていた、それはたしかだと思います。幸い恐喝や暴行傷害までには至らないようなんですが、道義的には、やっぱりひどいことをしてしまったという意識は持っていてほしいですよね。赤堀くんのためっていうより、政人くんのこれからの人生のために」  わたしは黙ってうなずいて、傘の骨の先からしたたり落ちる雨垂れをぼんやりと目で追って、もう一度、そうですね、とつぶやき交じりにうなずいた。  マスオさんは、わたしが追いつくのを待ってつづけた。 「いじめられっ子の最初で最後の復讐、ってやつですよね。クラス全員の名前が一通の遺書に書いてあるんなら、まだわかりますよ。でも一人でしょ、誰でもいいから道連れにしちゃうわけでしょ。こんなこと考える元気っていうか執念っていうか、そういうのがあるんなら死ななくたってよかったんじゃないですかねえ」  言葉の最後は、微妙に尻上がりになっていた。  わたしはゆっくりと息を吸い込み、喉と胸をくぐり抜けたぶん温もりを帯びた吐き出す息に乗せて、言った。 「違います」  なにがなにに対してどう違うのかなんてわからずに、でも、違うんだということだけはたしかに、わたしの胸にあった。 「赤堀くん、みんなにいじめられてたから、誰にするか自分で決められなかったんですよ」 「恨む相手を?」 「ううん、ずーっと一緒にいてくれる友達」  マスオさんは小さな目をせいいっぱい開いて、わたしを見た。わかってもらえないだろうな。わたしだって、正解かどうかわからない。でも、答え合わせなんかしない。  ぎごちない間が空いた。マスオさんはそれを埋めるように口調を速めて言った。 「それでですね、結果的に政人くんは犯人扱いされちゃったわけですよね。まあ、そこはぼくらにも責任がないとは言いませんけど、マスコミが夜中に押しかけたり、塀に落書きされちゃったり、いたずら電話なんかもあったんじゃないですか? そういうのをうちの雑誌でフォローさせてもらえませんか。当然、ぼくら自身の反省も含めて、きっちりとした形で記事をまとめられると思うんです。ですから、お姉さんからもなにか一言いただければ、と」 「わたし、赤堀くんのこと、好きになっちゃった」 「はあ?」 「でも大っ嫌いで、でもすごく好き、そういうの」 「どうしたんですか、急に、なんか、変ですよ」  変じゃない。もうだいじょうぶ。笑える。いつでも、どんなふうにでも笑える。同じ顔で、きっと泣くこともできる。  バス停に着くと、ひとつ手前の赤信号でバスが停まっていた。 「申し訳ないんですが、やっぱりこれからお宅におうかがいしてみます」とマスオさんは言った。  仕事ですもんね、どうぞご自由に。声には出さなかったけれどうなずき、信号が青に変わったのを見て、「あ、そうだ」と言った。 「奥さんとか彼女からの電話って、忙しくても絶対に、ぜーったいに、途中で切っちゃだめですよ」  マスオさんはわたしの話の脈絡のなさにつくづくあきれはてたのか、「まいっちゃうなあ、ほんと、どうしちゃったんですか?」と肩をすくめて笑った。  わたしは会釈してバスに乗り込んで、乗車口の窓からマスオさんに軽く手を振った。バイバイ。マスオさんはまた肩をすくめて傘をまっすぐに差し直し、バスが動きだす前に踵《きびす》を返して、来た道を戻っていった。  慟哭の会では、雨の日は街頭での署名と募金活動のかわりに事務局でデスクワークをすることになっている。わたしに割り当てられたのは、印刷所から納品されてきたタブロイド新聞形式の会報を折り畳んで封筒に詰める作業だった。  手だけを動かしていればいい単純な仕事なので、同じ会議用のテーブルで仕事をしている会員たちは、おしゃべりばかりしていた。話の輪の中心にいるのは、手塚さんという、うちの両親より少し年上の上品そうな夫婦だった。  二人は、長男を十九歳でうしなった。コンビニエンスストアでアルバイト中に、売上金を狙った強盗を取り押さえようとして、逆にナイフで腹を刺されてしまったのだという。 「まあ、言ってみれば、名誉の戦死っていうやつですよ」  旦那さんはおどけた口調で言い、奥さんもそれをうけて、「店長さんもその場にいたんですけどね、カウンターの中で腰を抜かして動けなかったそうなんですよ」とおかしそうに笑う。  二人は会の旗揚げのときからのメンバーで、同じ部屋にいた人たちは皆、また始まったかというように軽い調子で相槌を打っていた。事件が起きたのはもう十二、三年も前のことで、だからなのか二人の話には悲しい思い出をたどるというより息子の手柄話を披露するような響きがあって、まだ肉親をうしなったショックや悲しみから立ち直れないでいる会員にとっては、お手本というか一種の憧れになっているようだった。 「考えてみりゃ、犯人もかわいそうですよ。だって息子が素直にお金渡してればただのコンビニ強盗ですんだのが、追いかけてったばかりに強盗殺人でしょう。懲役十七年ですよ、あのとき三十七歳だったから、出所したら五十四歳。バカらしい話ですよねえ」  旦那さんは笑いながら言った。なるほど。運が悪くてひとごろしになった人って、意外とたくさんいるのかもしれない。来月のボランティア先は、そういう会がないかどうか探してみよう。でも、きっと署名はなかなか集まらないだろうな。  赤堀くんの遺書のニュースは、午後のワイドショーで報じられた。三時の休憩のとき、別の部屋で別の仕事をやっていた会員が教えてくれた。赤堀くんの名前は「A君」になっていて、運の悪かった同級生は、昨日までの「A君」から「B君」に変わっていたらしい。三十七通の遺書。ひとごろしにされてしまう可能性のあった同級生を全員紹介しようとしたら、アルファベットじゃ足りない。  ワイドショーの論調は、そこまで追い詰められていた赤堀くんに同情しながらも、あまりにも異様な行為を遠回しに咎めていたそうだ。お茶をすすりおせんべいをかじる慟哭の会の人たちの反応も、似たようなものだった。 「わたしの弟の同級生なんです、死んじゃった子」  するっと、息よりも軽く声が出た。わたしを振り向くみんなの視線も、びっくりしてはいたけれど、なにかすごく自然な感じがして、そうだよね、家族が殺された人にとっては世の中のたいがいのできごとはもうべつに驚くほどのことじゃないんだものね、ほっとしてはいけないのかもしれないけれどほっとしたから、つづく言葉はもっとなめらかに出た。 「弟もその子のこといじめてて、なんにも言わないけど、たぶん、いろんなひどいことしたんだと思うんですよね。でも、もう、これからは絶対にしないんじゃないかな、人のこといじめたり傷つけたり踏みにじったりするの、もうしないと思う」  口で言うのとは逆のことが頭に浮かぶ。赤堀くんが自殺したのを教訓だとか反省材料だとかにするのは、よくない。死んだ人は生きている人の未来のために死んだわけじゃない。苦しんで、苦しんで、苦しんだすえに自分の未来を断ち切って、ひとりぼっちで、いなくなった。わたしは長谷川くんの苦しみがわからないままだったけれど、弟には、せめて弟だけには、死んでしまった人の苦しみが伝わればいい。そこから先は、いまはなにも考えなくていいから、ただ、人がいなくなるということの重みを、泣いて、悔やんで、べつに怒っても笑ってもいいけど、とにかくまっすぐに受け止められたら、いいな。  誰かが言った。 「じゃあ、弟さんの名前を書いた遺書もあったってわけだ。運がいいって言うの変かな、でもまあ、運がよかったよなあ」  勘違いを正そうかと思ったけれど、やめた。  ほんとうは弟って「当たり」だったから運がよかったのかもしれませんよ。それを皮肉でも冗談でもない口調で言う自信が、あまりなかった。  手塚さんの旦那さんが、おだやかな顔と声で言った。 「恨む相手なんて、いなくなったほうがいいんですよ。死んじゃった人はもう帰ってこないんだし……だって自殺でしょ? 怒りや恨みなんて最初から持って行き場がないし、かえってよかったんじゃないですか」  部屋はしんと静まり返ってしまい、そりゃそうだ、と誰かのつぶやきが聞こえた。  わたしはうつむいて、堅いおせんべいを奥歯で勢いよく噛みくだいた。長谷川くんの両親のことを思った。わたしは一度も会っていない。四十九日の法要のあとで担任の先生を通じて、息子が最後に電話で話していたことを聞かせてもらいたいという伝言があったけれど、その頃のわたしは表情も感情も食欲も眠気もベッドから起き上がる気力もうしなっていて、当時通院していたクリニックのカウンセラーとうちの両親が相談したすえに断って、それっきりになってしまった。父は、その頼みごとを聞いたとき、みゆきをこれ以上苦しめようっていうのか、と担任の先生に気色ばんだらしい。  部屋の話題はいつのまにか次の会報に載せる記事のことに移っていた。手塚さん夫婦はおせんべいを二人で分け合ってかじりながら、話に相槌を打ったりジョークで混ぜ返したり、ときどき示し合わせたように二人して窓の外をぼんやり眺めたりしていた。  夕方、帰りの電車が一緒だった本多さんというおじさんに教えてもらった。手塚さん夫婦は、逮捕された犯人の初公判の日に傍聴に出かけ、入廷してきた犯人の背中に、隠し持っていたナイフを投げつけたのだという。興奮していたせいで、ナイフは犯人に届く前に通路に落ちてしまったらしい。そういえば、昔そんな新聞記事を読んだことがあるような、ないような。 「手塚さんたちを見てると、時間が流れるのって悪いことじゃないなって思うんだよね。時間がたてば手塚さんたちみたいに笑えるんだって。いまはね、ぼくも娘のこと思い出すとすぐに涙が出ちゃうんだけど、十年たてば少しは……そうしないと、それこそ死んだ子がかわいそうだもんね」  本多さんは、三歳の娘さんを半年前にうしなっていた。河原で草摘みをしているときに野良犬に噛み殺されたのだ。 「まあ、少年法の改正だのなんだのってね、相手が犬じゃどうにもなんないんだけどね」  本多さんは、おそらく娘の話の締めくくりはいつもその言葉に決めているのだろう、わたしにも一緒に笑うことをせがむみたいに、はははっと不自然にくっきりした声で笑った。  やっぱり会いに行けばよかったかな。わたしはまた、長谷川くんの両親のことを思う。ひとごろしと呼ばれるかもしれない。息子がご迷惑をかけてすみませんでしたと謝られて、逆にもっとつらくなってしまうかもしれない。でも、長谷川くんのこと、もうちょっと知りたかった。十六年と二百二十七日めの長谷川くんを教えてあげるかわりに、それまでのいろいろなことを知っておきたかった。  わたしが笑い返さなかったので、本多さんの話は落ち着き先を見つけられずに、やがて、鼻をすすりあげる音が聞こえてきた。わたしは切符を掌のなかで丸めたり延ばしたりして、次に停まった駅で電車を降りた。  帰宅すると、リビングでは弟の担任の先生と両親が低い声で話し合っていた。冤罪、犯人扱い、人権問題、そんな言葉を聞きながら、わたしはまっすぐ二階に上がった。  弟は自分の部屋のベッドに寝転んで、両腕を枕にして天井を見つめていた。にらんでいた、と言ったほうが近いかもしれない。 「まいっちゃったね、まーくん」  勉強机の椅子に座って声をかけると、弟は「バカホリの葬式、誰も行かなかったんだってさ」と吐き捨てるように言った。 「マスコミとかもいっぱい来てるからやばいってんで、先生がクラス代表ってことで一人で行って、みんな泣いてなくて、バカホリにむかついてたって」 「だけど、なんか、かわいそうだよね、誰もお別れに行ってあげなかったって」 「いいよ、あいつバカだったんだから」  弟はそう言って小刻みに瞬いた。わたしが椅子に座ったまま背中をちょっと伸ばして顔を覗き込もうとしたら、「なんだよお」と腕を顔の上に置き、左右の目を隠した。 「まーくん、一人モザイクしてんの?」 「え?」 「ごめん、うそ、なんでもない」  しばらく黙っていたら、弟は肩を揺すって笑って、でもほんとあいつバカだよなあ、残りの遺書捨ててから死ぬよなふつう、しょうがねえなあ、まいっちゃうよ、明日学校行ってみんなで爆笑だよ、沈黙でも息継ぎでもない中途半端な長さの間をおいてつぶやいた。  あんたも、バカ。わたしは、ばーか、と口を動かして椅子から立ち上がった。 「まーくん、いまから行こうよ、赤堀くんち」  わたしに言わせたがっている言葉ぐらい、わかるから。そういうところが、いくつになっても甘えん坊なのだから。 「もう骨壺に入ってるけど、いいじゃん、こんなにちっちゃくなったんだなって見てあげて、お別れしてあげれば?」  肩をつつくと、弟は腕で目を隠したまま寝言のような声で、うん、と答えた。  リビングの気配を探りながらそっと階段を降りて、玄関のドアを開けると、あとは一気に外の通りに向かって駆け出した。雨はあいかわらず降りつづいていた。傘を盾のように斜め前に掲げて、母の声、父の声、先生の声、知らん顔してひたすら走り、バス停のある大通りまで出てから、やっとふつうの速さで歩きはじめた。  弟は、はずむ息をこらえて胸を軽く押さえながら、「そういえば誰もいなかったね、家の前に」と言った。 「いるわけないじゃん」わたしは額の生え際に噴き出した汗を指で拭う。「だって、まーくんはもう関係ないんだもん」 「関係あるよ」 「そう?」 「うん。やっぱりさ、こういうのって、運命じゃん」  ふだんは愛や平和と同じぐらいリアリティのない運命という言葉が、このときばかりは耳にしっくりと馴染んだ。  歩道橋を渡る。電柱に短冊は、もうなかった。  ゆうべ弟が立ち止まってしまったあたりにさしかかる。弟は二、三歩ぶんわたしに遅れがちに、でもゆうべよりずっとたしかな足の運びで歩いている。  赤堀くんの家は、今朝までのわが家と同じように通りに面したすべての窓に雨戸がたてられ、門灯も消され、朝刊なのか夕刊なのか郵便受けの口からビニール袋に入った新聞がはみ出していた。門柱に埋め込まれたインターフォンには、スイッチやモニタースピーカーを覆って「マスコミの取材は一切お断りします。しつこく鳴らすと警察を呼びます」と貼り紙がしてあった。 「あ、そうか。うちもこういうふうにしてればよかったんだね」  わたしが素直に感心すると、弟は憮然とした顔になって貼り紙の下のほうに顎をしゃくった。赤いボールペンの殴り書きで、「バカ」。「バ」の点々のところで力が入りすぎて紙に穴が空いていた。  インターフォンは弟が押した。スピーカーから男の人の怒ったような声が聞こえ、後ずさりしかけた弟にかわって、わたしが横から顔を突っ込んで、雨の音に負けないようにしっかりと言った。 「笹岡と申します。お線香だけ、あげさせてください」  スピーカーからはなにも聞こえず、でもパイロットランプは点灯しているのでラインを切られてはいないようだった。 「赤堀くんにお別れをさせてください」と弟が言った。「お願いします、お焼香がすんだらすぐに帰りますから」とわたしがつづけて、弟も「お願いします」と重ねる。  返事はなかったけれど、しばらく待っていると、やがて玄関のドアが静かに開き、黒い服を着た中年の女の人が顔を出した。その女の人の腰の後ろにまとわりつくように、小学校の低学年の女の子。黒いベルベットのワンピースにレースのショールを掛けて、髪の毛をおだんごに結ってもらっていた。弟に教えてもらわなくたってわかる。細おもての顔は、赤堀くんにそっくりだった。  妹さんは、怪訝そうにわたしと弟を見つめ、それからゆっくりと、よそゆきの服を自慢するみたいに笑顔を浮かべた。  弟の傘がぐらぐらと揺れて、と気づく間もなく手から離れて地面に落ちて、弟はその場で深々と頭を下げた。  バカだよ、おまえ、なんで死んじゃったんだよ、ふつう死なねえよ、おまえやっぱりバカだよ。  雨音に押しつぶされたつぶやきは、ため息をひとつ挟んで、低いうめき声に変わった。  ごめんな……ほんと、いじめて、ごめん。  わたしと、きっと赤堀くんにだけは、聞こえた。  赤堀くんの骨壺は、襖を取りはずした二間つづきの和室の、一番奥まったところにしつらえられた小さな祭壇に置いてあった。  家具を隅にどけて広くした部屋には、お父さんと、親戚なのか喪服姿の大人が数人、テーブルの脚やテレビ台のキャスターの跡がついた畳の上に直接お皿やコップを置いて、お酒を飲んでいた。  お父さんは赤堀くんや妹さんとは似ても似つかぬ太った男の人だった。黒いネクタイをゆるめワイシャツの襟をはだけてサイドボードにもたれかかり、酒のコップを口に運ぶでもなく下に戻すでもなく手に持っていた。お母さんに案内されて部屋に入ったわたしたちを感情の消えたまなざしでちらりと見て、会釈のつもりなのか顎を小さく引いて、わたしたちが何者なのか小声で尋ねる親戚の人に、同じクラスの友達、唇をほとんど動かさずに答えて、反応といえばただそれだけだった。  弟は一人で祭壇に向かい、わたしは敷居の手前に座って、弟の背中越しにモノクロの遺影を見つめた。テレビで映されたのとは違う顔。ちゃんと笑っていた。でも、目が細くなって吊り上がるところは変わらない。その目で見ていた未来は、手をつけずに放り出してしまいたいほどつらいものだったのだろうか。  焼香を終えた弟は、中腰になって祭壇に手を伸ばし、赤堀くんの骨壺をそっと両手で包み込むように持ち上げた。 「おい、ちょっと」  見とがめた親戚の人の声にかまわず、目の高さに掲げた骨壺をしばらくじっと見つめ、笑いながら、言った。 「あったかいじゃん、おまえ、まだ」  骨壺を元の場所に戻した弟は、もう一度祭壇の前に座り直した。揃えた左右の膝の上に掌を乗せて腕を突っ張って、だから後ろから見ると肩が盛り上がった格好になっていて、その肩がすとんと落ちた直後、喉を絞った嗚咽が部屋に響き渡った。 「ママ、テレビ観ていい?」  別の部屋から妹さんの声が聞こえてきた。透き通った、軽い声。きっと歌が得意だろうな。 「ありがとうございました……でも、もうお引き取りください」  お父さんがしわがれた声で言って、手に持ったコップをやっと口に運んで、お酒を顎や胸やあぐらをかいた膝にこぼしながら一息に飲み干した。  祭壇を飾る百合の花の先が、ちらちらと揺れ動いていた。弟の立てた線香の煙は、祭壇を覆う白い布に色が紛れてどこをどんなふうにたなびいているのかわからなかったけれど、空気とは混じり合わずに、厚みも輪郭もない形でそこにあった。死んだ人が姿をあらわすときって、こんなふうなのかもしれない。  赤堀くん、心配しなくていいよ。弟はずっとあなたを忘れない。クラスのみんなのぶんも後悔や申し訳なさを背負って、でも三十七人を代表してあなたのことを怒ったりあきれたりしながら、あなたの生きなかった未来を、きっと元気に、ときどき謝りながら生きる。  弟は手の甲で目をこすりながらわたしを振り向いた。照れくさそうに、泣きながら笑った。      9  大学病院のお医者さんは回転椅子を回してわたしに向き直り、膝を組み替えて、鼻髭を人差し指と親指で撫でつけながら言った。 「いい人、たくさん出てきましたね。みんな、いい人だった。笹岡さんも含めてね」 「だめ、ですか?」 「いや、いいんですよ、これで」  お医者さんは机の上の分厚いノートをわたしに差し出した。両手で受け取って胸に抱くと、万年筆の文字に厚みなんかないはずなのに、ノートがひとまわり、やわらかく膨らんでいるような気がした。 「ほんとうじゃないことも書いちゃったの……わかりました?」  少し心配しながら訊くと、お医者さんは「さあねえ」と笑って、言った。 「長谷川くん、喜ぶんじゃないかな。懐かしい友達や先生が元気だったから」  いじわる、とわたしは唇だけ動かした。お医者さんは椅子を左右に振ってそっぽを向く。  ノートの表紙を指でそっと撫でる。わたしの五月が、ここにある。違う、十九年と百五十九日めから百八十九日めまでが、ある。 「今月も書いてるの?」 「はい。でも、もう誰にも見せません」  仕返しのつもりで、すねた顔と声で言った。 「かまわないよ」お医者さんは軽く受け止めて、「決めたんでしょ? 日記か手紙か」と訊いてきた。  日付のある手紙。宛て名付きの日記。わたしのまわりには一人もいなかったけれど、昔、仲良しの男の子と女の子は交換日記というものをやっていたらしい。返事の来ない、交換にならない交換日記でも、わたしはたくさん教えてあげなくちゃいけない。わたしの生きている日々がどんなに素晴らしいものなのか、やーい、ざまーみろ、なんて言いながら、死んでしまった人には未来のままの今日一日のできごとを、書き綴らなくちゃいけない。  わたしはお医者さんの問いに言葉で答えるかわりに、頬から少しずつ力を抜いていった。  どうですか? と顔を軽く前に出すと、お医者さんは指でOKマークをつくって、ゆっくりとうなずいてくれた。  病院からの帰り道、駅前で「慟哭の会」の人が署名を集めているのを見かけた。加藤さんがいた。机の前に座っているのは、まだ新人だと思う、ボランティアの若い女の子。  署名しようかな、一瞬思って、でもそういうのやめよう、いい人になるのはもっともっと難しいことなんだから、難しいことであってほしいから。  スクランブル交差点のこっち側から、向こう側の加藤さんに会釈をした。気づいてくれなかった。信号が青に変わり、わたしは、こっちでも向こうでもなく、斜めに横断歩道を渡る。  書店に寄って、注文しておいた点字の入門書を受け取った。六月のボランティア先は、点訳本をつくって図書館に寄贈している団体だ。未経験者のわたしに与えられる仕事は、できあがった本を図書館に届けたり著者に点訳許可を求める手紙を送ったりする雑用ばかりだけど、できるなら薄い童話を一冊、自分で点訳してみたい。悲しい結末じゃなくて、王子さまといつまでも幸せに暮らしました、で終わるお話がいい。  フロアの奥の受験参考書のコーナーに、高校生の男の子たちがいた。みんな陽に灼けて、大きなスポーツバッグを通路に置いて、わいわいしゃべりながら問題集を選んでいる。「やべえよ、全然わかんねえじゃん、もっと簡単なやつないのかよ」と誰かが言って、別の誰かが書架の裏側から小学生用の参考書を取ってきてその男の子に渡して、みんなで大笑いする。  そのなかに、長谷川くんに似た男の子がいた。  わたしが微笑むと、彼もまわりの友達に気づかれないよう、そっと笑い返してくれた。軽くにらんでみると、向こうも照れながら頬をふくらませた。あのときは、ごめんね。謝る前に彼は友達とのおしゃべりに戻ってしまい、やっぱり大っ嫌いあんたなんか、そっぽを向いて、つぶっていた目を開けると、壁一面のガラス越しに梅雨入り前の青空が広がっていた。  家に帰ると、姉がひさしぶりにゆうたくんを連れて遊びに来ていた。「いまお母さんから話聞いて、びっくりしちゃったあ。中学校が同じだったから、知ってる子だったのかなとは思ったんだけど、まさかねえ、まーくんがやられちゃってたなんて。災難だよね、ああいうのって」 「お姉ちゃん、インターフォンとか、見た?」 「見た見た、すごいじゃんテレビモニター付きなんて。塀もきれいになってたし。お金、赤堀くんの親に出させたの?」  なにバカなこと言ってんの、と母は短く笑い、姉が片手で抱くゆうたくんに団扇《うちわ》で風を送りながら、「あんたもびっくりするわよ、お父さん白髪がすごく増えちゃってるから」と言った。 「まあ、そりゃそうよねえ、お母さんも痩せちゃったし」 「お父さん、お盆に政人連れてお墓参りに行くみたい。結局、遺書についてはあんなふうになっちゃったけど、政人が赤堀くんをいじめてたのはたしかだし、やっぱりショックなのよ。親としては、子供がいじめられるのもつらいけど、いじめる側だったっていうのも……あんたもこれから大変よ、いじめなんて最近は幼稚園からあるっていうじゃない」 「うちはだいじょうぶよ。ね、ゆうちゃん」  姉は気持ち良さそうにゆうたくんに頬ずりした。いまはまだいじめっ子でもいじめられっ子でもなく、ましてやひとごろしでもひがいしゃでもないわたしの甥っ子は、歯の生えていない口から透き通ったよだれを垂らして笑っていた。  弟の帰りはここのところ毎日遅い。バスケットボール部の都大会予選が始まっていて、練習中に足首を捻挫した三年生にかわってスタメン出場の可能性が出てきたので、コーチに居残り特訓を受けているのだという。  いつだったか、「ベンチにバカホリの写真置いとこうかって、みんなで話してるんだ」と言っていた。赤堀くんはバスケット部とはなんの関係もなかったけれど、そういうことをやっておくと相手チームの動揺を誘えるんじゃないか、と三年生が提案したらしい。中学生って、やっぱりバカだ。バカだから、うらやましいぐらいたくましくて、元気だ。 「赤堀くんの骨壺って、ほんとに温かかったの?」と訊いても、けろっとした顔で「ううん、ちょっと言ってみただけ」と答える。でも、とぼけたりごまかしたりするのが最近急に上手くなった弟だから、わたしはその答えを半分しか信じていない。  夕食前に姉がお風呂に入る間、ゆうたくんを預かった。 「一人でゆっくりお風呂に入るのなんて、こういうときしかないんだもん」と笑う姉に、母は夕食をつくりながら「うちに帰るとぐーたらになっちゃうんだから」とぶつぶつ言っていた。でも、きっと姉は、わたしのためにゆうたくんを預けてくれたんだと思う。  ゆうたくんの体温を計ってみた。くすぐったがってからだをよじるのを無理やり抱き締めて押さえつけて、両方の腋の下で。  左右どちらも三六・七〇度。赤ちゃんの体温はおとなより高めなので、これでぜんぜん平気。からだがちっちゃいぶん、心臓の温もりがぜんたいに巡って、だから右も左も体温が同じなのかもしれない。  つづけてわたしの体温を計ってみると、右が三五・七三度、左は三五・八五度。心臓がいつもより元気に動いているようだ。  ゆうたくんの顔は、家族の中で父だけはそれを認めようとしないけれど、ママよりもパパに似ている。パパは、三年前のあの夜、姉と電話で話していた恋人。もしもわたしが長谷川くんの電話を途中で切らずに長電話になっていたら、姉と義兄はおそらくあのまま喧嘩別れしていて、もちろん結婚なんてしているはずもなく、ゆうたくんも生まれていないということになる。  そんな巡り合わせについて考えていたら、ゆうたくんの小さなからだがいとおしくてたまらなくなって、指でつまんだら消えてなくなってしまいそうな唇にキスをした。  わたしのファーストキスだった。  長谷川くん。  これが、あなたの生きなかった十九年と二百十二日めの未来。 [#改ページ]   文庫版のためのあとがき  一冊の作品集に編んでから気づいたことなのだが、「帰りたい場所」と「歳をとること」と「死」が、それぞれ濃淡を見せつつ組み合わさったお話が並んだ。特に意識したわけではない。だからこそ、この三つはぼくにとってとても大きな問題なんだろうな。  単行本の刊行から三年の月日が過ぎて、三十代後半だったぼくは四十代のオジサンの仲間入りをした。「帰りたい場所」と「歳をとること」と「死」が、三年前とは微妙に位相を変えつつ、より切実に迫ってくるのを感じる。書いていこう──と思う。  表題作と「ライオン先生」、そして本ぜんたいの編集は、吉安章さんに担当していただいた。「未来」は、現在は作家としても活躍なさっている白石一文さんにお世話になった。文庫版の編集の労をとっていただいたのは羽鳥好之さんである。三氏ともに、ぼくより少し年上の、まあ、同世代と呼ばせていただこうか。同世代の編集者に最初の読者になってもらい、助言や励ましや叱咤を受けられたことは、本書の三編にとってなによりの幸運であり、幸福だった。記して、感謝する。  二〇〇三年三月 [#地付き]重松 清  単行本 二〇〇〇年五月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十五年五月十日刊