TITLE : 男とは何か 講談社電子文庫 男とは何か 諸井 薫 著  目 次 第一信なぜ君に手紙を書く気になったか ——はしがきにかえて 第二信「酒」について 第三信酒席の接待について 第四信もう一度、酒について 第五信恋について 第六信ビジネスマン・ルック 第七信新聞の読み方、眺め方 第八信続・新聞の読み方、眺め方 第九信男の友情について 第十信男の「品性」について 第十一信転職について 第十二信社内恋愛について 第十三信「男子一生の事業」とは 第十四信国際人について 第十五信公私のけじめについて 第十六信上司への逆らい方について 第十七信続・上司への逆らい方について 第十八信学歴について 第十九信アポイントメントについて 第二十信男の昼食について 第二十一信「女子社員」について 第二十二信「礼装」について 第二十三信「馴染みの店」について 第二十四信サラリーマンの夏休みについて 第二十五信「早婚」について 第二十六信続・「早婚」について 第二十七信「好色」について 第二十八信「派閥」について 第二十九信「破滅型」について 第三十信仕事の「苦楽度」について 第三十一信国際的ということ 第三十二信「父親譲り」ということについて 第三十三信「労組」の仕事について 第三十四信「一年の計」について 第三十五信人生の濃密期について 男とは何か 第一信なぜ君に手紙を書く気になったか ——はしがきにかえて  こうして君に手紙を書こうと思い立ったのには二つの理由がある。  一つには、数年前に出版されてベストセラーになった『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』(新潮社刊)という本を、遅ればせながら読んだからだ。  この本はキングスレイ・ウォードというカナダ人の経営者が、学校を出て仕事に就いて間もない長男に宛てて実際に書いた忠告と助言の手紙で、やはり日本とあちらでは随分と違うな、と思わされる部分もかなりあったが、父親としてわが子に言ってやらなければならないという一種の責任の果し方をつきつけられて、私は自分の怠慢に改めて気づかされた、ということが大きかった。  もう一つは、いつの間にか私と君はすっかり疎遠になってしまって、いまでは一つ家に住みながら、言葉をかわすとすれば「おはよう」「おやすみ」くらいしかなくなってしまった、ということについて考えたからだ。  振り返ってみると、君と私が密接だったのは、君が小学校五年くらいまでで、それからの十二年間は、それまでのように一緒に遊ぶなんてことはもちろん、ちゃんと話をすることさえ途絶えた。  しかし、これはなにも私達親子が特殊というわけではなく、父親と男の子という関係はそうなるのがどうやら自然であり普通のように思えるし、現に私自身がそうだった。  私が小学生の頃は戦争中で、食糧や衣料が乏しくなり始めてはいたが、まだ空襲もなく、どこの家にも静かな明け暮れがあった。朝、兄や姉、弟、妹のきょうだいが一斉に起き出し、洗面着替えを済ませて茶の間に集まると、すでに父と母が待っていて、皆で朝の挨拶《あいさつ》をかわした後、一斉に箸《はし》をとって朝食をしたため、すでに母が用意しておいてくれた弁当を持って、それぞれの学校へ向かって出かけていく。  夕食は七時頃だったろうか。大学に行っている一番上の兄も含めて、家族全員が定められた時間に茶の間に顔を揃え、それに遅れることは余程のことがなければ許されなかった。その席で父は、黙々と晩酌《ばんしやく》の盃を口に運びながら、子供達一人一人に何げなく目をやるばかりで、声をかけるようなことはなかった。  それは食事のときだけではなかった。考えてみれば私が子供の頃、父親と話をしたことがあるとすれば、叱られるときか、進学のことで父の許しを得たとき以外にはなかったような記憶しかない。だから、何か父の許可を得なければならないようなことが起きると母を通じて話して貰い、直接言うことなど、恐しくて考えることさえしなかった。  当時の父親はどこの家でもだいたいがそんなふうで、子供にじかに接触するのは叱るときくらいなものだった。それも母親の叱言《こごと》では利《き》き目がないような場合に限ったから、何か疚《やま》しいことでもあって父に呼ばれたりすると、それこそ背筋が凍るほどの恐怖に襲われたものだ。それも言葉だけの叱責ならいいが、体罰がプラスされることも珍しくなかった。幼児から小学校低学年の頃は食事抜きで戸外へ出されるくらいだったが、小学校上級あたりからは殴られるだけでなく、冬、庭の木に縛りつけられ、水を浴びせられるという厳しい罰を受けたこともあった。  もちろんめったにあることではなかったが、それだけに父の処罰は恐しく、それが怖さに悪い仲間の誘いに乗るのをためらうという効果はたしかにあった。  だから少年期の私にとっての父は、ただひたすら畏怖《いふ》の対象であり、暴力を振われたあとは真剣に殺してやろうかと思ったほどで、父親に肉親としての愛情を覚えたことなど一度もなかった。だから父の気持がなんとなく理解できるようになったのは、自分が子供の父親になってからで、それまでの間は父を理解できなかっただけでなく、エディプスコンプレックスに近い心情を父に対して抱いていた。  私は君達に対して、自分の父と正反対の対し方をしてきたのは、おそらく君達子供をその頃の自分のような気持にさせたくない、いや、君からそういう目で自分が見られることを惧《おそ》れたせいかも知れない。だが、いまの私は、私が君達にしてきたことと父の自分への対し方とを比べて、果してどちらの方が正しかったのだろうかと、よく考える。  私と君は仲のよい兄弟以上に仲よしだった。まだよちよち歩きの頃から、暇さえあれば君と遊び、寝つくときも添い寝をするくらいだった。小学校に上がると、野球やサッカーの手ほどきをしたのも私なら、流行《は や》りのゲームを君が口に出して欲しがる前に買ってきて、一緒にそれに興じたものだった。  もちろん遊びだけではなかった。そのときどきで随分と二人でいろいろなことを話し合ってもきた。しかしそうした関わりは君が中学に入ったあたりを境に、嘘のように消えてなくなり、君が何に興味を持ち、何を悩み、何を目指しているのかさえ、皆目見当がつかなくなった。といってそれ以後の私がそのことを淋《さび》しがっていたというわけではない。むしろ我が子に友達のように近づいていさえすれば、父子関係がいつまでも緊密に持続すると考えていた自分の愚かさに苦笑しているといった方が正しいかも知れない。  私は、私の父が昔そうであったように、君達とじかに言葉をかわすことのない日々を送るようになってみて、おそらくあの頃の父は自分と同じような気持でいながらなお、それではいけないと自ら戒め続けていたのではないかという気さえして、無理をして威厳を保っていた父をむしろほほえましく思い起す。  その父が私に、生涯に一度長い手紙をくれたことがあった。それは私が学校を出て就職したときだった。といって私はまだ両親の家にいたわけで、私に何か言いたいことがあるのなら面と向かってそうすればよさそうなものなのに手紙という方法を使ったのは、それまでの家長としての子への対し方を、そのことで急に変えられなかったからか、それともただ照れ臭かったそのせいかは知らない。  その長い手紙は、父が父なりに自分の長い体験を通して得たサラリーマン心得とでもいうべきもので、明治生まれの父だけに、戦後の社会には通じない古めかしさも随所にありはしたが、私はそのときはじめて父と私の間に通う温いものを感じて、胸が詰ったことをいまだに覚えている。  先週の日曜日、机を整理していてその父の手紙を抽出《ひきだ》しの奥に発見したとき、私は思わず自分を恥じた。この春君が学校を了《お》え就職したときにこの手紙のことを思い出し、父を真似て君に手紙を書くことを思いつかなかった自分が腹立たしく、君と言葉をかわさなくなり、そのことを後ろめたく思いながら父が私に寄越した手紙のことをすっかり忘れている自分に、子供を寄せつけようとしなかった父を非難する資格はないと思ったからだ。  ——そこで、これから折にふれ思いついたことを君に向けて書くことにする。  といっても私は、『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』の著者のように功成り名遂げた成功者でもなければ、あの本に出てくるさまざまな引用を駆使するほどの教養の持主でもない。それに、自分の経験に照らしてといえるほど広範に及ぶ人生を生きてきたわけではないから、自信を持ってこうすべきだというつもりもない。むしろ自分がそれほどの大仕事をしてこなかった人間だけに、いやそれだけ過去に憾《うら》みを残しているからこそ逆に言えることがあるのではないか、といういささかの自負ならある。  仕事のことだけではない。あるいは女性とのことについても書くかも知れない。それもこれも手紙だからこそ照れずに率直に物が言えるのではないかと、私自身いま次の第二信を楽しみにしているくらいだ。 第二信「酒」について  私が酒を飲み始めてそろそろ四十年になる。  人間ドックに入るたびに、「やめろとは言いませんが少し控えられた方がいいですよ、せめて週に一度は休肝日を作って酒を抜くようにしないと……」と脅かされるのだが、意に介す気はまったくない。私は私なりに“自覚的”に飲んできたつもりだし、むしろ肝臓を心配する余りそれによって逆に身心のバランスを崩すことの方が心配だった。  とはいうものの、だらしなく飲み続けている世の中の酒飲み達を見ていると情けなくなることが少なくない。「人のふりみてわがふり直せ」というが、ああはなりたくない、と思う気持が、知らず知らずのうちに“自覚的な飲み方”なるものを私に強いるようになったのかも知れない。  今回はその私における“自覚的な飲み方”について書いてみようと思う。  君もそうだが私もサラリーマンだ。  同じ酒を飲むにしても、サラリーマンにはサラリーマンらしい良き飲み方があって、自営業や芸術家といった人達のそれと同じであっていいはずがない。  職人や芸術家のような自己完結的な仕事に携わる人々にとっての酒は、一日の疲れと緊張をとことんときほぐす麻薬的効果だけでいいが、サラリーマンはその酒にときほぐされるのに身を任せっぱなしにするわけにはいかない。なぜなら、サラリーマンの酒は、同じ会社の連中と酌《く》みかわすにしろ、それは場所を会社から飲み屋に移しただけのことであり、テーマのある会議がフリートークに切り替わったに過ぎず、アルコールで血管が押し広げられたからといって、会社の秩序の延長上にあることを忘れてはならないからだ。  自由人は酔いにまかせてどう振舞おうと、その結果を自分で負う覚悟さえあれば構わないが、サラリーマンは、下は下なりに上は上なりに果さなければならない心配りを酔いのせいでなおざりにしようものなら、そのツケは翌日直ちに回ってくるものと覚悟しなければならない。  だからこそ、サラリーマンの飲み方には自《おの》ずからなる“自覚”が求められるわけで、第一に心掛けなければならないのは、酔わないということだ。いや、酔わない飲み方を身につけなければいけないのだ。といって、水割りに見せかけてウーロン茶を飲めといっているのではない。むしろ敵に後ろを見せることなく堂々と先輩と同じものを飲んだ上でのことでなければならない。  私の見るところ、君も酒の嫌いな方ではないらしい。だからこそ言っておきたいのだが、酒が好きで弱くないタイプは、どうしても飲みっぷりが良過ぎるという傾きがある。とくに最初の一、二杯はピッチが速くなるものだが、家や気のおけない友人と飲むとき以外は、意識的にブレーキを踏み加減にすることだ。一気に飲んでいいのは最初の一杯のビールだけだと、固く心に銘じておくといい。  それにガツガツと急ピッチで飲むのは見ていて卑しい。食事のし方にしても同じことが言えるが、物をたべているところを見ればその人の育ちについておおよその見当がつくもので、酒の飲みっぷりにも品性がそのまま現われるから怖い。  卑しいといえば、つまみや料理についても同じことがいえる。夕方飲み始めるのだから空腹なのは当り前で、酒もさることながら何か腹にたまるものをと思うのは人情だが、だからといって「好きなものを注文していいよ」という先輩の声を鵜呑《うの》みにし、他の人が何を頼むかを気にもしないであれこれ注文したりしない方がいい。なるべく皆が注文し終ったところを見計らい、他の人よりもはっきりと控えめに頼むことだ。  料理屋や旅館のように、おしきせで料理が目の前に並ぶ場合も、箸を動かすスピードは諸先輩より遅めであるのがよく、とくに始めのうちはおっとり構えることを心掛ける方が無難というものだ。  一座の末輩としてもう一つ心得ておかなければならないのは、酌の作法だ。近頃また日本酒が復活の傾向にあるから、お燗《かん》にしろ冷酒にしろ酌を必要とする場面がふえただけになおさらだ。とはいうものの、いくら末輩とはいえ、一応会社を退《ひ》けてからのことでもあり、しょっちゅう席を立って酌をして回ったりする過剰サービスは余分な侮《あなど》りを受けるだけで、かえって慎んだ方がいい。両隣とすぐ前の人の盃の空き具合には注意を怠らなければそれで十分だ。  さて、この酌のタイミングというのがまたなかなかに微妙なもので、一口含んで盃を置くと間髪を入れず待ってましたとばかりに注がれるのはせせっこましくてあまり気分のいいものではない。それに酒というのはその人なりのピッチというものがあって、それをよく見届けた上でないといけない。だから、先方のピッチを心得、盃が空になったらすぐには注がず、最低一呼吸置いてから銚子を取り上げるくらいが頃合いと思えばまず間違いない。さらに自分の盃を自分で満たすのは、他の人に二回注いでなお誰もこちらに酌をしてくれなかったら、その辺でさりげなく手酌するようにして、間違っても他の人に注いだその後すぐ自分の盃も満たすというようなことはしない方がいい。  ウイスキーの水割りの場合も似たようなことがいえる。  近頃はボトルキープとやらで、首に名札をぶら下げた瓶とアイスペールと水をどんとテーブルの上に置いて、適当に自分で作って飲めという無精な店がふえたから、末輩はそれに追われて結構忙しい思いをさせられかねない。だが、これに熱中し過ぎるのも問題だ。酒席にあって末輩が先輩に気を配るのは当然だが、ホステスやバーテンでないことだけはたしかだし、そこに君が同席しているのは、昼間は聞けない先輩上司の話に耳を傾けるためであり、さらに昼間は遠慮があって口に出来ない自分の意見を開陳できる機会でもあるのだから、それをなおざりにして水割りづくりだけに没頭していると、単に「便利な奴」という余り有難くない先入主を与えるだけで、逆効果にさえなりかねない。  だから、皆のグラスの空き加減に注意を払うのもいいが、それが七分目ほどに減るとすぐさま作りにかかるというのは好ましくない。それに、気難しい水割り党には“作り足し”を嫌う人もいるから、グラスが綺麗《きれい》に空いてから作りにかかるのがのぞましい。  その場合肝腎なのは個々の“濃さ”の好みで、末輩としては先輩一人一人の好みをまず心得ておくことだろう。  水割りもカクテルの一種に違いなく、カクテルにおけるレシピのベースの基準はすべて30�であり、それを二倍の水で割るのが水割りのスタンダードだが、ジガーでいちいち計るわけにもいかない場合の目分量が、例の洋酒の有名なCMに出てくる「ワンフィンガー」というヤツだ。ただあれは、あくまで八オンスタンブラーに注いだときの指一本でなければならず、大ぶりのグラスだったら、同じ指でも女の細い指でないと「シングル半」くらいになりかねない。  だから、空のグラスにまず酒、次に氷、水の順に入れれば好みの濃さを誤ることなく、それが正統的な作り方だということを知っておくといい。ちなみにそのワンフィンガーという30�の目安は、コニャック用の例のチューリップ型のグラスを横に倒して置き、そこに注ぎ入れて口から溢《あふ》れるかどうかの量が30�だということも知っておいてよかろう。  私がこんなことを覚えたのは、君くらいの頃、気難しい老バーテンのいるカウンターバーで、そういった酒の知識はもちろん、酒飲みのディグニティ(品位、気高さ)まで教わったせいだが、これも他人にひけらかしたら最後、鼻持ちならないスノッブに堕するということも併せて心得ておいて欲しい。 第三信酒席の接待について  酒にまつわることをもう少し書く。  サラリーマンにとっての酒が酩酊のためだけにあるのではないことは、前の手紙にも書いたが、夜、酒席で他人《ひ と》様《さま》をもてなすということになると、自分の酒品さえ崩さなければそれでいいというわけにはいかない。それどころか、酒席の取り持ちはビジネスに携わる人間にとって高等技術に属する仕事で、それを完璧に行なうのは、大袈裟《おおげさ》でなく至難の技といっていい。  だからその微妙について語り出したらそれこそキリがないから、今回は君のような新人サラリーマンにとってせめてこれだけは心しておいて貰いたいという事柄についてだけ書いてみる。  サラリーマン一年生が、接待する相手を選んだりその誘いをかけるといった仕事を任されるはずがないから、そのあたりの機微についてはここでは触れない。そこで接待当日における君のような下っ端の心得から始めることにする。  人を接待する場合、口頭でまず先方の了解を得た上で正式な招待状を発送するのが近頃のならわしで、そこには日時場所地図等が明記されているのが常だが、そうした招待状の発送はひと月以上前であることが多い。ということは、先方が失念していることもないとはいえないから、当日確認の連絡を入れて念をついておく必要がある。さらに、予定はしているものの、宴席の地図を紛失している場合もあるから、その辺もいま一度再確認しておかなければならない。  ただ、「もう一度地図を教えて貰いたい」と先方に求められた場合、当日のことでもあり、「それではFAXで……」と言いたいところだが、面倒でも足を運んで地図を届け直した方がいい。なぜなら、FAXが失礼だからということではなく、接待を受けるということは、しばしば自分の会社の人間に知られては困る場合があるからだ。それをFAXで送りでもしたら、先方のFAXの設置場所にもよるが、誰の目につくか知れたものではなく、そのことでとんだ迷惑をかけることにもなりかねないし、そんなことになったら接待どころか逆効果になってしまう。  同じ理由で、迎えに出向くのも時と場合によりけりで、先方によく確かめた上でないと、その親切がかえってまずい結果を招く。  接待場所で客を待つ場合も、店の人間に言ってあるからと、座敷でのんびり待ち受けているよりは、店の外へ出て先方の到着を迎える方がさらに念が入っているし、先方が店を間違えて迷うということも防げる。  その接待場所への到着時間だが、約束の時間の三十分前には行き着けるように心掛けるといい。先方が早く着くこともあるし、時間を間違えることもないとはいえない。とにかくここで遅れをとるようなことはなにがなんでも避けるというのが、接待マナーの第一歩だ。  次に大事なのは席順で、客が見えてから、誰がどこに坐るかを定めるというようなドロナワだけはしないことだ。事前に店の人に相談して上座下座の順位をしっかり確かめた上で、全員の席を予《あらかじ》め定めておくのも開宴前の重要な仕事の一つだ。  酒席の取り持ちについては、この前の手紙に書いたから重複を避けるが、近頃やたらとふえた、そうした酒席での「歌」のマナーに触れておこう。  先方が“歌好き”だということを承知しているからこそそういう趣向を用意するわけだが、いくら好きだからといって皮切りから先方がマイクを握るということはまずないから、前座役は接待する側の最末席が自分から進んで引き受けさせられることが多い。この場合気をつけなければならないのは、当節流行《は や》りの歌は避け、先方に馴染《なじ》みのある歌を選んでおくことと、あまり上手に歌わないことだ。  ゴルフの接待なら、それぞれのハンデが知れているから、シングルプレイヤーがわざと調子を落したプレイをするのはかえって失礼というものだが、歌ばかりはそうはいかず、あまり上手ぶるのは禁物と肝に銘じておいた方がいい、もっとも君は音痴の私の子だから、他人を嫉妬させるほど歌がうまいとはとても思えないが。  歌う頻度にしても、先方が七分、接待する側は三分くらいに控えた方がよく、接待する側としては一人で二曲以上歌わないのが無難というものだ。  さて次は帰りのクルマの手配だが、最も望ましいのは、宴会が始まる前に、ハイヤー会社に車をキープしておいてくれるよう予約を入れておいた方がいい。急に雨が降り出したりすると、車が出払ってしまい、その時になって慌てさせられることもなくはないからだ。料亭にしろレストランにしろ、会食時間は短くて二時間はかかるから、そのあたりを見越して頼んでおくことだが、問題はその後二次会に席を移すかどうかで、車の台数が変わってくる点だ。  接待側のホスト役が、デザートに入る前あたりに二次会の話を持ち出すだろうから、その結論を待ってさりげなく席を立ち、最終的な必要台数をハイヤー会社へ再連絡しておくようにすればいい。ただハイヤーが到着するまでだいたい二十分はかかるから、デザートが終ってから頼んだのでは、客を手持無沙汰《ぶさた》にし白けさせないとも限らない。その辺のタイミングは接待の心得の中でもかなり重要なポイントだけに気を配ることだ。  その二次会の場所選びだが、原則として先方が初めてで、接待する側が顔という店は選ばない方が無難だ。余程名の知られた一流の店で、一度覗《のぞ》いてみたいという気持が先方にない限りは、初めての店くらい退屈で手持無沙汰もないからだ。  接待の最後の仕事は客の帰りの足の手配だ。客のクルマは一次会で呼んだそれを待機させておいた方がいい。少々高くつくかも知れないが、改めて店の看板間際に頼み直すと、ハイヤー需要のピーク時だけに客を長時間待たせることになりかねないからだ。  さてその二次会から客を送り出した後だが、内々でもう一度飲み直そうということになる場合が多い。そうなるとおそらくもう電車のなくなる時間だろうから、「今夜は客に便乗してハイヤーで帰ろう」などと言い出す人間もいるだろうが、新人たるもの、どんな状況でもそういう誘いに乗ってはならない。その場面だけ考えれば、上の人が言い出したことでもあるしそうしてもいい雰囲気ではあるだろうが、そのハイヤーの請求書が回ってきて、管理部門の人間がそれを見たとき、けっしていい気持はしないであろうことは、君にも想像がつくはずだ。会社の中には、そうした派手な接待と無縁なポジションで一生過ごす人間もいるわけで、そうした人達から見れば、入社間もない若い社員がいくら上司の勧めとはいえ、ハイヤーにふんぞり返って帰るというのは、頭では理解できても心情的には面白かろうはずがない。しかもそうした管理部門の人間の冷たい観察の目が、人事異動のようなとき大きく作用することを忘れていい気になるのは、愚かというよりサラリーマンとして無警戒といわざるを得ない。  以上のような接待をほぼ遺漏なく済ませるところまでは気の利いた人間なら誰でもするが、そのフォローとなると案外なおざりにしたままで平気でいるのが近頃は多い。  そこでその翌日、早速に前夜の礼を述べ、その折の話題に触れ、そのお話が大変勉強になったのでこれからもご高説を拝聴させて頂く機会を与えて欲しいといった意味の手紙を、個人名で書き送ったとしたらどうなると思う? おそらく先方は君を改めて思い出して好印象と共に記憶に止めることだろうし、そうした先方の印象が君の会社にはね返ってくるその効果の大きさは計り知れないほど大きいものなのだ。  それはなにも打算からではなく、本来は人間としての礼儀の一つに過ぎないのだが、近頃はそうしたことが省略され過ぎる。残念なことであり、考えてみれば損な話だと思うのだが、どうだろう。 第四信もう一度、酒について  温泉場へ向かう特急電車に乗ったときのことだ。おそらく同じ職場の仲間の慰安旅行なのであろう。四十代五十代の十人程の一団が、発車を待ちかねたように、持参の酒、ビールとおつまみを配り、酒盛りを始めた。 「さあ、一杯いこう」と、世話役らしい男が酒瓶を持って皆に酌をして歩いている。相好を崩しっぱなしのその顔の、いかにも酒好きらしく無邪気なのが、私にはひどく懐しいものを見るようだった。  われわれが若い頃は終戦直後でたべものも不自由なら、酒は大変な貴重品で、先輩に酒を誘われでもしたら、それだけで顔の筋肉が弛《ゆる》んだものだ。  それに、十代の終り頃は、タバコもそうだが、酒は背伸びして大人の真似をするための最高の麻薬だった。もちろん当時のことだから、鼻でもつままなければとても飲めないような臭いのきつい焼酎か、薬用のエチルアルコールを水で割ったという代物で、日本酒やウイスキーは手の届かない高嶺《たかね》の花だった。だから、味わいなど期待もしなかったし、ただ酔うというだけの飲み方で、少ない量で酔うためにつまみを取らなかったくらいだ。  そんな安酒でもありつければ最高で、目の前のコップになみなみと注がれた無色透明の液体を見ただけで、電車の中で酒盛りを始めた中年の男のように、つい相好が崩れてしまったものだ。  それから今日まで、酒の入らない夜といえば病気で寝込んだときくらいで、それこそ長い長い酒とのつきあいが続いているわけだが、世の中がこう豊かに落ち着いてくると、自分のそういう酒への対し方を、ひどく気恥ずかしく思うことが近頃よくある。  たとえばこういうことだ。 *    *    *  君も知っての通り、ここ数年私は毎年定期便のようにアメリカヘ出かけている。向こうの関連会社幹部との定例会議に出るためだが、行くたびに感じることの一つは、向こうのエリートビジネスマンといった連中が、どんどん酒を嗜《たしな》まなくなりつつあるという傾向だ。  昼の会食でも、テーブルに着く前にカクテルの小パーティーがあるのが慣わしなのだが、そのとき、つい去年まではドライマティーニを一杯で足りず二杯傾けていた男が、ペリエのグラスを取るように変わっているのだからびっくりさせられる。だから、ドライシェリーやカンパリソーダを所望するのは我等日本人ばかりで、向こうはペリエでなければオレンジジュースと、言い交してでもいるようにアルコールには手を伸ばそうとしない。  晩飯のときは、さすがにワインは断わらないが、見ていると、最初に注がれた一杯だけで、注ぎ足しをさせることなどないというのが同席者のほとんどなのだから、一杯で足りるはずのないこっちとしては、大いに気がひける。  こうしたアメリカのビジネスエリート達の変身傾向は、ここ十年流行ともいえる勢いで広がっているようだが、その根となっているのは健康管理の思想で、酒、タバコといった健康に害のあるとされるものは潔く遠ざけ、スポーツで肉体の老化を防ぐという禁欲的な生活信条に対する右へ倣《なら》えが、これほどまでに一斉に行なわれているのは驚異という他ない。  それでいながら、アメリカにおけるアルコールの消費量はけっして減ってはいないといわれている。そういえば、マンハッタンのイタリア街や“ホームレス”の集まるアルファベットシティあたりを通ると、昼間から酔っ払いが道端に寝ていたりするのをいまだによく見かける。ということは、飲まなくなったのは“上流”だけで、下層の飲酒量はかえってふえているのかも知れない。  ひと昔前のアメリカ映画にはやたらと酒を飲む場面が出てきたし、金持の家で客を迎えるシーンといえば、その家の主が部屋の一隅にあるミニバーで「何を飲む?」とまず聞くのがお定まりだったのに、近頃の映画には西部劇は別として、めっきり飲酒の場面が少なくなった。  アメリカという国は、その昔禁酒法を施行したことがあったが、結局それを元に戻すしかなかったというのに、いまは法とはなんの関係もないヘルスブームという時代風潮の昂《たか》まりだけで、禁酒時代が現出しつつあるのだから面白い。  しかし、本当に健康のためだけに禁酒者がこんなにもふえているのだろうか、という気がしてならない。彼等は、健康もさることながら、それよりもむしろ、“健全”を目指しているように思えるのだ。人の上に立つ者としての自覚が、よき市民、健全な市民に向けて自らを変革しようとしているその現われではないのか。これは大げさにいえばある種の文化大革命であり、生活意識の変革行動といえるのかも知れない。  彼等は、人前だけを取り繕《つくろ》う紳士ぶりではなしに、芯から底から無垢《むく》の紳士に自己変革しようと努め始め出したように、私には見える。  男の本音が“飲む、打つ、買う”にあるのは否めないが、イギリスで磨かれた紳士道はその三つに節度のタガをはめた。それをいまのアメリカのエリート達は、自ら進んでその本能をまるまる封じ込めようとしていることになる。しかもそれは、メイフラワー号以来の清教徒《ピユーリタン》の戒律によるのではなしに、ギリシアのストア学派のように、自らの哲学によって厳格に身を持することでそれを貫き、崩すまいとしているのだ。  十年程前は、親しくなるとあまり品のいいとはいえない冗談を結構彼等にぶっつけることもあったが、酒をペリエのグラスに持ち替えた彼等には、それさえも口にしにくい雰囲気がある。なんだかすっかり謹直になってしまって妙なことでも言おうものなら、蔑《さげす》みの冷笑に遭いそうな気がするからだ。  酒と聞いただけで相好を崩し、駈けつけ三杯的な卑しい飲み方がいまなお改まらない私のような人間は、そういう彼等と対していると、文化的劣等感のようなものを覚えて臆するのだが、だからといって、一念発起して彼等の真似をする気にはなれない。年をとり過ぎたこともあるが、もともとストイシズム(禁欲主義)とはおよそ無縁な、無頼の思想に憧れて大人になった偏った人間だという自覚が強過ぎるからだ。  そう一方で居直りながら、もう一方では電車の中の中年グループの酒盛りの有様に、自らの恥部を鏡に映されでもしたように、思わず舌打ちする。すなわち、自分の酒は紳士貴顕のそれにはほど遠く、野卑そのままで四十年に及ぼうとしているのを、否応なしに自覚させられるゆえの自己嫌悪だ。  たいていのサラリーマンは、望外の昇進や昇給を申し渡されたときも躍り上がりたい気持を顔に出すまいと抑えるものだが、酒に限ってそうした抑制が働かない傾きがある。だが、これからの国際化の時代に生きる君達のような男は、酒に対してもクールを装い、それが自然体になるようにしないと、どこかで見下され、心の底からの対等のつきあいなど出来ないのではないだろうか。  私達のような貧窮の時代に育った人間は、もはや救い難いのかも知れないが、君達にはそれが出来るはずだし、そう努める義務があると思う。  酒には、男の品性を計るリトマス試験紙のようなところがある。しかもその品性の尺度も、狭い島国の酒品さえ守っていればいいというわけにはいかず、欧米諸国のエリート達の基準に照らして遜色《そんしよく》ないものであることを、これからの人である君達は求められる。  その点私は反面教師に過ぎないが、悪い手本が身近にあるというのも、考えようによってはいいことかも知れない。 第五信恋について  ——君を見ていて、一つ気になることがある。ひとことでいえば、それは君の女性への対し方だ。  といっていま君がどんな女の子とつき合っているのかといったことについてはまったく知らないし、まだ二十四だし、結婚のことを真剣に考える段階にはまだ間があるに違いないから、どんな嫁さん候補を連れてくるかな、という期待も私にはない。が、母さんはどうやら違うようで、早く君がどういう娘と結婚するだろうかと、そのことへの期待と不安を近頃しばしば口にするようになった。  私はそのたびに生返事をするばかりなのだが、本心は(そんなことどうだっていいじゃないか)と思う。  なぜなら、うちのようなサラリーマン家庭は、子供に継がせる家業があるわけでもなく、君はすでに私とはなんの関係もない会社に勤めていることだし、結婚すれば家を出て、姓が同じなだけという別家族を形成するのだから、商家が跡継ぎに嫁を迎えるのとは天と地ほども違うと考えるべきなのだ。ところがどういうわけか女親は、理屈では十分分っているくせに、息子の結婚イコールわが家に嫁が来ると考えるらしい。きっと息子を他の女の手に渡しきることが生理的に納得出来ない、そのせいなのだろう。  ところが私は、君を一人の男としか考えない。たしかに自分の血を分けた子供には違いないが、それはせいぜい高校生くらいまでで、親離れをした仔ライオンを単なる一匹の雄としてしか見なくなる父ライオン同様に、私にとっての君は、すでに近くて遠い単なる血縁の男に変わってしまっているのだ。  その君が結婚をするといえば、親としてそれなりの手助けを惜しむつもりはないが、それがたとえ私の気に染まないタイプの娘だろうと、(この性格じゃうまくいかないのではないか)という危惧《きぐ》を覚えようと、だからといって反対するつもりはない。君の人生は君がきめるしかないのだし、かりにその選択が誤りであったとしても、君が自分で解決するしかないことなのだから。  冷たいようだが、私は君の結婚に対していまからそんな覚悟をきめていて、ただ(うまくやって欲しい)と祈るばかりなのだ。  こう書くと、冒頭に述べた君の女性への対し方が気がかりだということと矛盾するかのようだが、女親の息子への煩悩と同様で、それは男親の中でもゼロでないことの現われかも知れない。  結婚も含めてのことだが、男の人生にとって、女くらい複雑な影を投げかけるものもないと思えばこそ、改めてこんな手紙を書く気になったのだが、その点で私は失敗者の方に属するのかも知れない。  といって、母さんを含めて私がこれまでに関わってきた女性のクジ運が悪かったと愚痴を言うつもりはない。すべては私の性格に起因し、私の側にもっぱら原因があったからだ。  ——私は、あきらかに恋愛型に属する男だった。その傾向はすでに思春期からあって、中学生の頃異性に早くもひそかな思いを寄せひとり悶々《もんもん》とするという日々を体験し、それから結婚に至るまでの間、報われることのない一方的な恋心を何人かの女性に抱いてきた。  男性の思春期というものは、そうした恋愛願望より、むしろ異性の肉体に飽くことのない興味をより強く抱くもののようだが、私は性よりも精神的な昂揚《こうよう》を異性に求めることの方が強かった。だから初めて恋の末に肉体的交わりを持ったのは結婚相手の母さんだが、それは単に恋に恋するという私の偏りのせいで、品行のよさを裏づける証拠だと強弁するつもりはまったくない。むしろ精神的な愛に憧れるその一方で、どろどろとした性的関心を暗く胸の底に閉じこめていて、その後ろめたさを持て余していたのだから。  結婚してからも、私の恋に恋する偏りが死滅したわけではなかった。あれは結婚後十年ばかりしてからだったと思うが、私は結婚後の初恋ともいえる、してはならない恋に堕《お》ちた。母さんとの間に君達が生まれ、貧しくはあったが絵に描いたような家庭幸福図の中にあって私は、それを至福と思うその一方で、傍らにいる女性に感動を失いつつある自分に耐えられなくなり始めていたのだろう、あの恋に恋する切ない昂揚がたまらなく懐しくなり出したのだ。  丁度その頃、年齢が十三も離れた新入社員の娘と、よくあるパターンで近づき、私は願い通りに恋を得た。だがそれは、切ない上にも切な過ぎた。結婚につながる可能性のない男と女が堕ちる地獄をいやというほど味わわされ、女はもどかしさと恨みで人が変わったように、ただ私を責めるだけの存在でしかなくなった。  いっそ私が浮気心で接近し、向こうもそのつもりでつき合っていたのなら、軽く始まり軽く終ることが出来たのだろうが、私の恋愛至上的性格がそうさせなかったのが悲劇の元だった。結局は母さんも巻き込まれ、私達三人はズタズタになり、君達にもおそらく迷惑をかけたに違いない。  この十年に及ぶ泥沼化した地獄が終って、私は腑抜《ふぬ》けのようになったが、それでもときに恋に恋する気持が疼《うず》き、うごめくことがある。が、もはや現実として前後を忘れるに至らないのは、私の中から病癖が消えたからではなく、気力体力共に衰えるのと一緒に、病が頭をもたげる勢いを失った、そのせいに違いない。  読めばきっと軽蔑を買うに違いない、こんな告白を君に向けて書く気になったのは、そうした私のような男の子供でありながら、女性に対してどうやら君は私とはまったく反対のように思えるからだ。  君はなぜか子供の頃から女性に人気があったようで、中学、高校、大学と、随分とさまざまな女の子が家に遊びに来ていた。しかし私の見るところ、先方が君に対して好意以上のものを持っているらしいのは分るのだが、君の方はといえばトンとそ知らぬ顔をしているのが、私には不思議でならなかった。  君が人並みに異性に関心を持ち、そういう経験も人並みにあるらしいことは想像がつく。大学時代の君にそうした間柄のガールフレンドがいたこともなんとなくだが分っていた。が、君はそうした相手とゴタゴタする気配を一度も見せずに、ケロッと明るくやっている。  私はそんな君を同じ男として羨《うらや》ましいと思う一方で、(これでいいのかという)不安を覚えるのだ。その気持の中には、ついついのめり込んでしまう恋愛型の私には理解できないという、自分自身に重ね合わせての見当のつかなさもないではないが、女性に深いこだわりを起させない君のようなタイプにいささかの危惧《きぐ》を感じるからに他ならない。  恋に恋する私のような人間が偏っているのはたしかなことだが、君のようなタイプも一種の偏りだと私は思う。  私の周辺にも、君とはちょっと違うが、同じように女にのめり込むことがなく、といって身綺麗《みぎれい》かといえばそうではなく結構一過性の情事はやっているというのがいるが、そういう男に共通することは、どこか身勝手で情に薄いという点だ。君がそうだといっているわけではないが、そうなり易い可能性があることもまた否めない。  最近、明石家さんまというタレントが子連れの大竹しのぶと結婚したという噂を耳にしたが、芸能界のことには疎《うと》く詳しいことは知らないものの、さんまというヘラヘラした印象の男を見直したい気持にさせられた。男が打算を越えておとこ気を示すような話を近頃とんと聞かないだけに、他人《ひ と》事《ごと》ながらいいな、とひととき爽やかな気分を味わわせて貰った。  といって君にさんまの真似をして欲しいとはいわないが、せめて身も世もあらぬという打算の入り込む余地のない恋を、君にも一度はして欲しいと思う、私のような重症にならないことを祈りつつ。 第六信ビジネスマン・ルック  ——いまニューヨークは夜中の三時半、十二時半にベッドに入り、すぐ寝ついたのだが、三時に目が覚めどうしても寝つけそうになく、それならいっそと、起き出して君に手紙を書くことにする。  いつもはバタンキューで、寝ついたら朝まで目の覚めない私がこんな状態になるのはいうまでもなくジェットラグ(時差ボケ)のせいだが、十三時間近いニューヨーク直航便の肉体的影響は年と共にひどくなる一方で、いつまでも若いつもりでいい気になっていてはいけないという、天の警告かも知れない。  年に一度会議のためにニューヨークにやってくるようになってもう七年になるが、いつも、泊っているホテル以外といえば、訪問先のビルかレストランくらいにしか足を運ばないから、いつまで経《た》ってもニューヨーク通になんかなれそうにもなく、大きなことは言えないのだが、それでも来るたびに新しい変化に刺激を受ける。  目抜通りの五番街やマジソン街には来るたびに大胆な新しいビルが出来上がっていて目を見はらされるが、そういう変化でなら東京の方がはるかに激しく、その意味ではいまのニューヨークはどちらかといえば古い貫禄の重みの方をより強く感じさせる大都会なのだが、面白いのは街を行く人々の装いだ。  人種のルツボという別称を持つニューヨークのことだから、それぞれの人種なりに服装に特徴があるし、それに誰が何を着ていようと気にする人間など一人もいないから、こんな気楽な街もないといえそうだが、よく注意して眺めてみると、われわれ他所《よ そ》者《もの》には分らないこまかなケジメが随分とありそうだ。  たとえば、五番街、アメリカ・オブ・アベニュー、パーク、マジソンといった、東京でいえば丸の内から銀座あたりのような中心街を行き交うビジネスマンと、わずかワンブロック東隣のレキシントン街、西隣の三番街のそれとではあきらかに違い、同じニューヨーカーと呼ばれるマンハッタンのビジネスマンにも、一分の隙もない伊達《だ て》者とドブねずみの二種類があることが歴然と分る。  ウォールストリートは、“ブラックマンデー”と呼ばれた大暴落のショックの名残が消えず、なんとなく活気がなかったが、それでも“ヤッピー”なるヤングエリート達の身じまいはやはりひと味違う誇りを漂わせている。  今度来てみて(おや?)と思ったのは、そのニューヨーカー達の身じまいが、復古調というのかピシッと折り目正しくなった点だ。去年までは、出勤時に五番街を急ぐキャリアウーマンが、着ている物はかなりいいスーツなのに、足許はと見るとスニーカーといった、妙な粋がり方をしているのが目についたのだが、ところが今年はほとんどそれを見かけなくなった。いかに流行とはいえ見事な変わりようなのだ。男の方もそうで、東京の原宿あたりでよく見かけるDCブランド風のダブダブしたシルエットのスーツ姿を、エスタブリッシュメントと呼ばれる連中に見ることはまずなく、濃紺のピシッとしたテーラードのスーツにワイシャツは白、ネクタイは赤の分量の多いストライプ柄が流行のようで、胸に入れているハンカチーフは白のスリーピークが多数派のようだ。  どちらかといえばイギリス風に近いのだろうが、むしろ東部風とでも呼ぶべき格調を際立たせようという意識が強く窺《うかが》われ、服装にまで誇り高さを漲《みなぎ》らせようというこの国のエリート達に、ちょっと鼻白まないでもなかったが、見ていて男がピッシリ、シャッキリしているのはなかなかに気持のいいものだ。  それにひきかえ、ニューヨークの日本人はどうか。それも旅行者ではなく駐在員のような居住者のことだが、これがなんとも情けない格好なのだ。それはたしかにチビで短足で猫背というわが民族特有のスタイルのせいもなくはないが、それをいうなら日本人以外にもスタイルのいいとはいえない民族もいる。だが彼等の中のエスタブリッシュメントは、やはりそれなりにピッシリ、シャッキリしているのに、残念ながら日本人でそんなのにはついにお目にかかれなかった。しかもけっして金がかかっていないわけではないのに、見ばえがよくないのだから、その人間の内面の問題としかいいようがない。 *    *    *  ——そこで思うのは、男の身だしなみについてだ。それもビジネスマンという仕事師の仕事着に限定しての話だ。  私のこれまでの実感を総合して思うことの第一は「らしさ」ということだ。  いまの世の中はやたらと個性個性と言い募るが、誰もが個性とやらを抑制することなく出し放題にしたまま集団を組んだら、それこそオモチャ箱をひっくり返したように収拾がつかなくなる。仕事が芸術家のようにその人間一人によって自己完結するのなら、誰憚《はばか》ることなく個性を思いきり主張し続けられるが、ビジネスの世界はどんなに規模は小さくとも群れを作って事に当らない限り成就はあり得ない。その群れに加わるというのは、とりも直さず、群れのルールに合わせて自分の個性を抑制することでもある。  いまの若い人は小利口だから、その辺のことは先刻承知のつもりで、会社訪問とか面接とかには、紺のスーツさえ着て行けばいいのだろうと、これまでは自分らしさを何がし服装に込める努力をしていたくせに、出来の悪い金太郎飴みたいに小さな自己顕示まで放棄して、いわゆるリクルートルックに百パーセント身をやつす。だが、これは行き過ぎであり、ビジネスマンの服装に対する本質的な誤解なのだ。  ビジネス世界の求めるものは、その群れに属する最低条件としての個性の抑制であって、肝腎なその人なりの固有の能力ないし個性のゼロ化ではない。むしろよき個性を「らしさ」をこわさない程度に主張し生かして欲しいのだ。  だから銀行員には銀行員らしさがあって、それは商社マンのそれとも、役人のそれとも明らかに違う。だが同じ銀行員でもよく目を凝らして見れば、凡庸にして消極的な銀行員と意欲的なそれとでは違うし、中間管理職、役員クラスでは、また自らなる差異がある。それは身分の差による所得によって服装にかける金が違うからそうなるのではなく、意識がそうした変化をもたらすと考えるべきなのだ。  だから、たとえ同じ新入社員であっても、「らしさ」さえ守ればいいというのと、その「らしさ」にさらに自分らしさをどうつけ加えるかということに腐心するのとでは、見る人によっては天と地ほども違って見えるからなおざりに出来ないのだ。  さらに、「らしさ」が自然に身についてきたら、次には「目立たないこと」を、ビジネスマンたるもの瞬時も忘れてはならない。  よくパーティーなどで、平服という指定なのに、舞台衣裳のような派手なディナージャケットで現われる人がいるが、芸能人や芸術家といった人達がそうであるのは、誰も格別な目で見ようとしないが、ビジネスマンという属性に身を置く人間が同じことをやったら、ヒンシュクを買うばかりで羨《うらや》まれることなどまずない。  ビジネスマンとは、九時から五時までにしろ、パーティー会場にしろ、派手にしろ無造作にしろその場で妙に目立ってはいけないものだということを常に心掛けなければならない。そして、ほとんど完璧に「目立たないこと」に徹しきったとき、見る目のある人は、その人間を「目立つ男」と評価してくれるものなのだ。  ニューヨークで見た日本人達は、その「らしさ」もなく、悪しき「目立ち」ばかりが目についた。お互い自戒しようではないか。  ——いま四時半、なんだか猛然とねむ気が襲ってきた。  今夜はこの辺で。 第七信新聞の読み方、眺め方  君が朝新聞を読んでいるところを見たことがないが、どこで読んでいるのか、一度聞いてみたいと思っていた。  おそらくは、我が家の昔からの習慣で、新聞はまずお父さんが見てから、という長幼の序列を君はいまでも重んじていて、私より先に新聞を開いてはいけないと思い込んでいるそのせいなのだろうが、新入社員とはいえいまや君は一人前のビジネスマンなんだから、何も遠慮はいらない。君の方が私より十五分先に家を出るのだし、明日の朝から私に構わず先に新聞を読むようにしなさい。  それと、君は朝コーヒー一杯だけで飛び出していくが、あれもあまり感心できない。いくら前の晩が遅くなったとしても朝はきまった時間に起き、髭剃《ひげそ》り洗面を手を抜かずきちっと済ませ、食事もちゃんと摂り、トイレにもゆっくり坐り、その上でゆったりと出かけていくことを、いまから不変の習慣として身につけておくことだ。  若いうちは無理をしようが、コーヒー一杯で飛び出そうがたいして苦にならないが、先へ行くと、朝キチンと踏むべき手順を踏むのとそうでないのとの差がどんなに大きいかがよく分るようになる。そしてその違いが仕事の上にどんな影響を与えるかということも。  そこで、朝の新聞に話を戻すが、まず言っておきたいことは、たとえ斜め読みでもいいから新聞を眺めておくことを朝の日課にするようにして欲しい。  君も知っての通り、君が生まれる前からうちでは、朝七時から八時過ぎまでテレビのチャンネルをNHKのニュースに合わせている。別段NHKとはなんの関係もないが、こうしておくことで世の中の動きのおおよそのことが分るからで、それを耳で聞きながら一方で新聞を眺め、手と口は朝食に使うというのが、私の三十年来のやり方で、結婚当初はそれを「お行儀が悪い」といって母さんは随分と嫌ったものだが、いまはもう黙認したのか何も言わなくなった。  もちろん行儀が悪いのは先刻承知だが、朝出かけるまでの一時間を有効に使うためにはこうするしかなく、サラリーマンにとっての一種の必要悪だと思い居直ってきた。なぜそうしなければならないかというと、混んだ電車の中では新聞をゆっくり広げて読むことは不可能だし、会社ヘ着いてから仕事前に新聞を広げるのは、私のような古い人間にはなんとも不謹慎でいやなのだ。かといって朝新聞を読んでおかないと、会議や何かで皆が知っていることを自分だけ知らないというみっともない状態に身を置きかねず、それでは何かにつけて自信が持てない。とすれば、少々母さんに嫌がられようと、新聞片手の朝食という不行儀を強行するしかない。  しかし、短時間の間に、一般紙と経済紙の二紙を一面から最終面まで目を通すのには、それなりのコツが要る。もちろんこれは私流で、他人《ひ と》様《さま》がどういう読み方をしているかは知らないし、私の読み方の偏りが正しいかどうかの自信もないが、三十年に及ぶ経験が生み出した新聞速読術であることは間違いない。  私の場合はまず一般紙の方から先に見る。「見る」というのは、読むとはとてもいえない粗っぽい眺め方だからで、まず右上から順に見出しを眺め、次に気になる記事のリード(前書き)だけを読み、もっと知りたければ続けて本文を読むこともあるが、なるべくそれを少なくして、下の広告に目を移す。うちで取っている一般紙の一面下は書籍の広告で、普通は八点ほどの本の広告が並んでいるが、ここへ出てくる本は、ベストセラー物ではないが、中身のちゃんとしたものが多く、書名が頭に入る程度に丁寧に見る。次はどの朝刊の最下段にもあるコラムだが、これは短いということもあるがだいたい全部読む。朝日でいえば「天声人語」、日経なら「春秋」という欄だが、新聞をロクに読まない人でもこれだけは読むという人が多いし、とくに年輩の人達に愛読者が多いから、会議あたりで話題にのぼることもあるはずだ。私なんかでも若い人が読んでいると知ると、その青年をちょっと見直す気になる。君もこれだけは毎日読んでおいた方がいい。  二面三面は海外のニュースを含めて一面に続くトピックだが、これも見出しだけはきっちり頭へ入れておき、自分の仕事に関係のあるニュースだけを拾い読みする。ただし、この二面から五面くらいまでの下段の広告欄は、だいたい大手出版社から発行されている雑誌と書籍の広告の指定席のようなものだが、私はこれをしっかりと読む。なぜなら、毎週毎月洪水のように出される雑誌に片っ端から目を通す時間もないし、それだけの意欲もない。しかし世の中の動きを知るのに雑誌くらい便利な指標もなく、とくに一般向けの週刊誌、月刊誌はその意味で見逃せないのだが、いちいち買って読むわけにいかないとすれば、広告でおおよその見当をつけるしかない。だいたい新聞というものは、確かめてしっかりと裏を取った上でないと書かないが、いまの週刊誌や月刊誌はにおいがしただけで書くし、臆測に基づく記事も平気で載せる。だからいかがわしい部分もなくはないが、新聞では判らない裏の気配をわれわれ素人に察するだけの材料を与えてくれるという利点もある。  女性雑誌はおよそ手に取ることがないから、せめて広告でどんなポイントで編集されているかを知っておいた方がいい。とくに君の会社の製品には女性対象商品が結構多いようだから、マーケティングの生きた情報としてじっくり眺めておくべきだろう。それと、松田聖子が別れるの別れないのといった芸能スキャンダルでも、それが世間の多くの人の関心事である限り、まったく素知らぬ顔をきめ込んでいるわけにはいかない。なぜならビジネスマンというものは、業種の如何《いかん》にかかわらず、大衆の気持の動きに常に敏感であることからすべてがスタートする職業だからで、大衆を見下した姿勢から何一つ生まれない。  その意味で、見ようによっては広告くらい生きた社会勉強もない。たとえばドーンと大きな一ページ広告がある。それがデザイン的にどうか、キャッチフレーズがいいか悪いか、はたまたこんな無意味な広告に大金を投じる気が知れないといった批評的見方をするのもいいが、広告主である企業が、なぜいまこういう大広告を行なっているのか、という企業の意図ないしは裏事情を眼光紙背に徹して探り読むことも大切だ。業績が良過ぎて節税対策として広告宣伝費をふやしたその結果なのか、それとも、ジリ貧の業績を一気に逆転しようと、一発勝負に出ようという狙いによる大宣伝なのか、その辺のところをその会社の株価と引き較べて読むのも、ビジネスマンとしては格好なケーススタディーだろう。  つい見逃しがちなのは求人広告だ。なにしろすでに職のある身にとってこんな無用なものもないからだ。しかしここに目を光らせておく意味は少なくない。一つには同業他社の求人広告から何を読み取るかというポイントだ。競争相手の企業の動きは大まかには掴めるが、見えない死角の方が多いもので、求人広告は、その死角の一部にライトが当るようなもので、その企業の意図を含めて何がどう進行しているのかという社外秘的部分をよく窺わせてくれる。裏を返せば、それだけに求人広告を出すときは神経を払わなければならないということでもあるが。  近頃やや減り気味ではあるものの、不動産広告も読み方次第では経済の流れの微妙な変化が窺《うかが》えて興味深い。とくに東京の地価はいまや世界じゅうの注目するところだし、どこにどの程度のマンションがどのくらいで売り出されたかというのは、株価の動き同様にビジネスマンとしては注意を払っておかなければならないのに、そうした報道はない。広告だからといって莫迦《ばか》には出来ない格好の例といえよう。 第八信続・新聞の読み方、眺め方  つい昨日までコミック誌ばかり眺めてきた君のようないまの若者にとって、新聞を克明に読むというのはおそらく苦痛であり億劫《おつくう》に違いない。しかしだからといって読まずに済ませていたのでは、近頃のように情報化社会といわれる時代では落ちこぼれてしまう。  言い替えれば、新聞を読むのは仕事の一部であって、コミック誌を読むのとは土台ワケが違う。しかも仕事と名のつくからにはなんによらず段取りというものがあってその段取りが適切であるかどうかが、出来る人間とそうでないのとの分れ道になるくらいで、新聞の読み方にも、その段取りという知恵と芸が要る。朝刊をまず一般紙から読んだ方がいいと、前の手紙で書いたのも、その段取りの一つだからだ。  ビジネスマンと名がつく限り、新聞の経済面にソッポを向くわけにはいかないが、それもまず一般紙のそれから目を通す方が段取りとしてはいい。なぜなら一般紙は、事典を例にとれば大項目主義で、小項目にまで及ぶスペースのゆとりがない。“経済”についてはまさにそれで、「朝日」は到底「日経」のように細部に至るまで書くことは出来ない。だからまず「朝日」でおおまかなところを知っておき、その後で「日経」がそれをどうフォローしているかを読んだ方が能率がいいし、理解し易《やす》い。つまりその方が段取りがいいのだ。  それと、ビジネスマンはとかく自分の業界のニュースさえ見逃さずに読んでおけばいいと考えがちだが、こう経済が国際化してくるとそれだけではうまくない。アメリカの大統領府の補佐官のコメント一つで、為替相場や株が大きく動くご時世だから、政治面も見逃せないし、諸外国の経済の動きから目をそらすわけにはいかない。  日本における他業種の動向も、読み方次第では自分の仕事に大きな示唆を与えてくれることが多く、これもせめて見出しくらいは頭に入れておいた方がいい。読んではいるが頭の中から蒸発してしまうということもある。が、せめて円やマルクの動きと、前日の数字くらいは頭の中に刻みつけておかないと具合が悪い。それと注意を怠ってはいけないのが株の動きだ。  といって、君の仕事は営業だから、株式欄を隅から隅まで読めとはいわない。最低頭に入れておかなければならないのは、「日経平均」「単純平均」「日経五〇〇社平均」の数字で、おおまかな株価の動きを掴《つか》んでおくだけでいい。それと、自分の会社と関連のある会社の株価くらいは毎日見る癖をつけた方がいい。それも一部だけでなく二部上場企業も含めて。この辺までの数字が頭にちゃんと入っていれば、おそらくいまのサラリーマンとしては上の部に入るに違いないからだ。つまり近頃の若い連中がいかにそういうことに無関心かということの証拠なのだが、そういった十把《じつぱ》ひとからげの連中の仲間入りをしたくなければ、その程度の新聞の読み方をしておいた方がいい。  それともう一つ注意を払っておきたいのは人事情報だ。社長交替、役員の大幅入れ替えといった大きな動きは、決算後の株主総会シーズンに集中するが、そうでないときも注目を怠らないことだ。とくに経済紙の人事欄は必ず見落さないようにし、自分のところと関係のある会社の人事はメモをしておくようにすべきだ。何かの折に訪問したりするとき、先方の肩書きが変わっているのを知らずに、元の肩書きで呼んだりするくらいまずいこともないし、人事には敏感の上にも敏感であって損はない。  それは生きている人だけではない。むしろそういう経済界の人事以上に気を配っておかなければならないのは、死亡欄だ。  自分の仕事に関係のある人が亡くなるというのはめったにあることではないが、その人の親、夫人の死も、つきあいがあれば知らん顔は出来ない。いや、そんな現金な動機からだけではなく、新聞にその死が報じられるほどの人の死について無関心ということは、そのまま社会に対する無関心につながり褒めたことではない。  若い人はどうやら余り注意を払わないようだが、君の上司の年代の人達は、新聞を開いてまず見るのは死亡欄という人が結構多いということも忘れてはなるまい。試みに、関係先のしかるべき人の死を新聞で見たら、早速会社で聞いてみるといい、四十代以上の人達のほとんどが知っているはずだから。  それから、一般的話題に属するニュースもなおざりには出来ない。まして、いま問題になっているリクルート疑惑のような事件は克明にフォローしておいた方がいい、それがたとえ自分の会社に直接関係がないとしてもだ。  リクルート疑惑に象徴されるような企業がらみの問題で新聞に取り上げられるとすれば、それはほとんど贈収賄か脱税、そうでなければ使い込みを含めての背任行為といった紛れもない犯罪行為で、いまの自分には無縁な事件だけに、つい無責任にヤジウマ的関心だけで眺めがちだが、実はどんな企業にも、程度の差はあっても伏在している問題なのだ。だから、これにはまさに反面教師的な意味があるわけで、その目でしっかり事件の経緯を観察しておくのは、けっして無駄ではない。とくにこれからの企業社会は、国際化に伴ってますます法律的な対応をしっかり求められるようになるだけに、企業活動の違法性を現実のケースから学べるこうした機会を見過ごすテはない。  次は、私から改めて読めといわなくてもきっと毎日そこだけは読んでいるに違いないマンガのことだ。  新聞の四コマの連載マンガというのは、戦前私なんかが物心ついた頃にはもう載っていたから、その歴史はずいふん古いが、今も昔もこれだけは誰でも見ているという点で、大げさにいえば国民的な関心を集め続けている連載ものだ。マンガは世を映す鏡だ、というと君のようなマンガ漬け人間はニンマリするかも知れないが、新聞マンガはまさにそれで、どこでもしばしば話題のきっかけになる。  それに君のような新入社員にとって何が大切といって、先輩達の話題についていくことくらい大切なものもない。早く一人前になって仕事を覚え、先輩と肩を並べるようになるということも大事には違いないが、まずはどれだけ同化できるかということであり、そのために必要なのは共通の話題をどれだけ多く持てるかだ。  その意味では、マンガもそうだがサラリーマンの間で人気の高い新聞小説も無視は出来ない。私がまだ子供だった頃、吉川英治の『宮本武蔵』が朝日に載っていたのだが、これが大変な人気で、とくに男の大人で読んでいない人はいないというくらいだった。ただ戦時中で他に娯楽といえば映画とラジオくらいなものだということもあったが、それを割り引きしても凄い評判だったのには、あの小説には随所に吉川流の人生哲学が語られているせいもあったのだろう。  それはともかく、いまでも評判の新聞小説というのがある。たとえば数年前だが、渡辺淳一が「日経」に連載した『化粧』がサラリーマン達の間で大変な人気を得たことがあった。とくに三十代後半から上の、そう、君からすれば上司に当る世代の男達の間でよく読まれ、朝職場で顔を合わすとまずその小説の話が出るというくらいだった。  小説などというものは人それぞれの好みで、好きでもない作家の作品を無理に読むことはないが、それが上司との共通の話題となるならば、否でも応でも読んでおくのもまた君のような新入社員の務めの一つなのだ。  私もそうやって三十年余りを生きてきたのだが、そう遠くない日、そんな目つきで新聞を読まなくてもよくなると思うと、その日が来るのが楽しみといえなくもない。 第九信男の友情について  例のリクルート疑惑の一連の出来事を眺めながら、私は江副浩正《えぞえひろまさ》という人をつくづく気の毒だと思った。  といってあの人の弁護をしようというつもりもなければその不運に同情しているわけでもなく、あれだけ交遊の幅の広い男にただ一人として友人らしい友人がいないのが、哀れでもあり気の毒だと思ったのだ。  私は男だから女同士の友情というのは知らないが、男の人生にとって本当に友人と呼べるに価する友人の存在は何にもまして大きいと思う。  世間には、「男は三人の友人を持つべきだ。それは医者と弁護士とバンカー(銀行家)である」という言い伝えがあるが、私はそういう考え方に加担しない。そうした功利的な目的でつき合っている相手を“友人”の概念に入れるのは不賛成だからだ。江副氏の交遊の実態をハッキリと知るよしもないが、少なくとも未公開株の譲渡対象者がもしも“友人”である、とすれば、それは「医者と弁護士と銀行家」的友人であり、その種の功利に基づく友人が、いざというときいかに“友人”として機能しないかということの、あれはまさに好例なのだ。  私が友人の概念規定の第一に挙げる条件は、友が反社会的な事件を起こし、それが法律に触れ、人倫に悖《もと》るがゆえに世間から寄ってたかって指弾を受けようとも、自分一人は変わらぬ友情を持ち続けられる男である、ということだ。  男がこの世を生きるということは、思いもかけぬ悪事に捲《ま》き込まれることもあれば、心ならずも反道徳的な行為に走らざるを得ないという場面がゼロとは限らず、それはそのままやっと築き上げた財も信用も一気に失う非運との遭遇である。もちろんその原因を作ったのは自分自身であり、悪いと知りつつやったことが天罰てきめん裏目に出るという場合もあり、周囲から非難と侮蔑を買うのもまた当然の結果だろう。だから当人がその罰を甘んじて受けなければならないのは致し方ないが、昨日の友までが手のひらを返して世間と同じように指さし貶《おとし》めるのを見ると、私は悪事を犯した当人以上に浅ましく品性卑しいヤツだと、その人間を蔑《さげす》みたくなる。  男にとってのよき友とは、善良で優秀で力量備わった尊敬出来る人物でなければならないとは限らない。それでは“医者と弁護士と銀行家”をよき友の最右翼とするのと同じ功利的選択になるからで、そんなことより何より肝腎なのは心を許せるかどうかなのだ。  他の人間には悪いことを平気でやってのけるが、自分に対してだけは替え難いよき友ということもあり、それを友と堂々と呼べ、その交遊を恥じないのが、私は友情というものではないかと思う。 *    *    *  あれはたしか君が高校に入ったばかりのことだと思うが、君は高校で知り合った新しい友達を家へ二人連れてきたことがあった。  一人はごく普通の子だったが、一人の方はパンチパーマというのか、よく暴力団の人間がしているような髪型で、暴走族のような派手なジャンパーを着ていて、一見チンピラ愚連隊ふうだった。  その二人が君の部屋に入り、そこに飲み物と菓子を持っていった母さんは、居間へ戻ってくるなり眉をひそめて私にこう言った。 「いやあね、あんな不良みたいな子連れてきて。本当に友達になってるのかしら。でももしそうだったら大変だわ、ああいう子の影響受けて悪いグループにでも入られたら、それこそ将来メチャメチャよ。ねえ、あなたからちゃんと言ってやってくださいな、友達は選ばなきゃいけないって」  私はそのとき「フンフン」とうなずくだけで母さんには何も言わなかった。なぜなら女には男の友情というのはいくら説明しても理解して貰えるとは思えないからだ。  ただ、そのときそう言いはしなかったが、母さんにこう説明してやりたかった。  ——いま私が親友だと思っている人間が三人いるが、これは幼《おさな》馴染《なじ》みが一人、中学時代からのつき合いのが一人、そしてもう一人は同期入社のヤツだ。もちろんこの他にもいろいろな段階段階で親しくつき合っていた人間は大勢いるが、結局のところ変わらぬ友情を保ち合っているのはこの三人だけだ。  母さんはこの三人の友人をあまり好もしく思っていないようだが、その理由は三人ともどちらかといえばウダツの上がらないマイナス要素を背負っている男だからに違いない。その一人である幼馴染みは在日韓国人で、いまでこそ小さいながら工務店の親爺に収まっているものの、二十代までは箸にも棒にもかからない暴れん坊で、警察の厄介になったことも数えきれないくらいあった。ただ不思議なことに、私の言うことだけはチャンと聞いてくれ、私が止めるとどんな喧嘩もやめてくれた。  中学時代からの友人はといえば、どういう性格なのか女性関係が絶え間なくあり、いまの細君は四人目で、しかも他に三人程きまった女がいるという厄介な病気の持主なのだ。母さんのような立場からすればこういう男は女性の敵なんだろうが、私はその男がなんとなく分るような気がするのだ。とにかくやたらと人間に優しい男で、けっしてプレイボーイのように女を追っかけ回すわけでもないのに、次から次と女と出来てしまうのは、その過剰な優しさのせいに違いない。だから邪険《じやけん》に女を捨てることが出来ず、ついついダブってしまってそれで苦労し、離婚をするたびに家財を全部先方に渡し、別れた後もその家のローンを払い続けているといった按配《あんばい》らしいから、いくら働いても金なんか残るはずもない。もうそろそろ六十だっていうのに、目の色変えて人の二倍三倍働かないわけにはいかないのだから、いっそ気の毒というべきなんだろう。  いまの会社へ同期で入った男は、けっして莫迦《ばか》でもなければ無能でもないんだが、結局のところ役員はおろか部長にもなれないまま去年定年で子会社の嘱託になって会社を辞めていった。なぜそうなのかというと、とにかく人と競争するのが嫌いなタチで、そういう仕事を上から当てがわれるとなんだかんだといって断わってしまうのは、同じ仲間を蹴落すことをやるくらいなら、出世なんかしない方がいいっていう考え方のせいだ。だからといって与えられた仕事はキチッとこなすし、私なんかから見れば安心して見ていられる名内野手みたいな存在だと思うんだが、いざ人事異動ということになると上に上がり難い。上の人間からすれば当然だが、そうやって出世の機会を自分から逃し続けてきた人間なのだ。  しかし、友人としてこんなに心を許せる男もいなかった。そんなふうだからたいした蓄えもない様子なのだが、彼が酒に酔ったときの口癖は、「お前は出世したし俺より金持なのはたしかだが、もしもお前がコロッといったら、俺は自分の家族はさしおいても、お前のところの力になるからな。だからいつでも安心していっちゃっていいぞ」っていうセリフで、私もそっくり同じことを彼に言うんだが、それがその場の勢いで言っているリップサービスでないことだけはお互いにこれっぽっちも疑っていない。  そしてこの三人に共通するのは、誰がどう出世しようと金持になろうとまったく変わらない物言いをし、妙に遠慮したり僻《ひが》んだりするようなところが絶対ないという点だ。  その意味では、同じ三人の友でも「医者と弁護士と銀行家」というわけにはいかないが、私の三人の友をそれよりも落ちるとは思えず、私の人生も満更捨てたものではなかったという自負を負け惜しみではなく持っている。  ——一度、君の友人の話も聞いてみたいと思う、酒でも飲みながら。 第十信男の「品性」について  スポーツにはルールがあるが、人生の競争はそれを人間の品性に委《ゆだ》ねる。  石田礼助が国鉄総裁になったときの国会の挨拶で、「生来、粗にして野だが卑ではないつもり」と述べたというのも、そのあたりを言っているのだろう。  たしかに、いまの世の中は石田礼助の言葉とは逆に、虫も殺さないような紳士の仮面をかぶり、口を開けば綺麗事《きれいごと》一点張りのくせに、人の目に触れない蔭では、ルール違反の“卑”という反則行為の限りを尽して身の栄達を図ろうとする男達が多数派を占めている。  例のリクルート事件に連座した国会議員や高級官僚らのあの醜態がまさにそれで、リクルート株を持ったことの是非以上に、男としての品性が問われる絶好の見本だ。  NTTの役員の中でリクルート株を買っていた式場某と長谷川某が、国会の証人喚問の場で「大切な友人の頼みだから」と悪びれずその事実を認めていたのに対し、御大将の真藤恒会長は、三十年来私的な金銭の管理を委ねていた秘書が株を引き受けていた事実をつきつけられ、まことに歯切れの悪い保身発言に終始し、世間の失笑と失望を買った。  どちらかといえば石田礼助の世代に近い真藤会長が“卑”を天下に晒《さら》したのに対し、昭和生まれの二人の取締役がむしろ潔かったのを、石田礼助が生きていたらなんと評したか聞いてみたいものだ。 *    *    *  リクルート疑惑のような世間周知の出来事でなくとも、あれと同じようなキナ臭い話はどこにでも転がっていて、ビジネスに携わる者にとっては珍しくもなんともない。  とくに税務署の目が厳しい今日では、税金のかからない金のやりとりに、値上り必至の株を使うのは日常茶飯事で、株式の上場ないし店頭公開が行なわれるたびに、リクルートと似たような方法で巨利を得たケースは数を上げたらキリがないというのが常識だし、現行法規の下では、公務員といえども贈収賄が立証されない限りは罪に問われない。だから、例の件でも、国会議員や公務員、準公務員は追及を受けたが、民間人は評判を落したくらいで済んだかに見えた。ところが実はそうはいかないのが、世の中の恐しいところなのだ。  この件に関わった若手財界人は、たちまちにして発言力を失い、折角築いた財界での地歩のほとんどが崩れたといっていいし、マスコミの花形だった学者文化人は、このことによって発言の場をすべて封じられるという、死刑に近い仕置きを受けた。さらに、秘書に罪をなすりつけそれを押し通したつもりの人々も、実はこれによって失った信頼は大きく、これから先がすこぶるやり難くなったのもまた事実だ。  世間の怖さとはまさにこのことなのだ。法が裁かなくとも、道義の鏡に照らして怪しい者は別の手で笞打《むちう》たれるという事実を、今度の事件くらい明確に指し示したものもない。  しかし、私が君に言っておきたいのは、この事件で笞打たれた人々をひとくくりにして見るのは間違いだということだ。  さらに言えば、同じくアンフェアな方法で値上がり必至の株を受けたとしても、石田流に言って“卑”になるかどうかの違いを重く見なければならない、という点なのだ。前にも書いたが、その場合、秘書のせいにして逃げの一手だった真藤会長は明らかに“卑”であり、潔く事実を認め、それによって会社を辞めた二人の取締役は、裏の事情は知らないが、少なくとも真藤会長に比べれば“卑”の度合いが低いのはたしかだ。  ビジネスマンというのは、綺麗事ばかりで済まないことは、いくらサラリーマン一年生の君でも承知のことと思う。反則すれすれの策と技を駆使してやっと勝つのがビジネス世界の競争だし、怪しい金を承知でやりとりしなければならないことも商売にはついて回る。接待という、考えようによってはいかがわしさに満ちたつきあいも、ビジネスには欠かせない必要悪であり、他人に後ろ指をさされるようなことを一切しないで潜り抜けられる綺麗事の世界でないことだけはたしかだ。  だから、ビジネスマンである限り否応なしに手を汚す羽目に陥ることは防ぎきれないのだが、大切なのはそのとき男として肚《はら》をくくってそれを行なったかどうかということなのだ。言い替えれば、どんなにそれがダーティーなやり方だろうと、それを自らの責任とする覚悟を持ってかかり、そのことで世間の爪《つま》はじきを受けることになったとしても、悪びれることだけはしないと、自分に言い聞かせておいて欲しいのだ。  しかし、出来ることなら、汚い手で他人をはめるようなやり方は避けるべきだし、時には辞める覚悟でそういう卑劣な手段に反対するというくらいであって欲しいと思う。が、万やむを得ないということも世の中にはある。肝腎なのはそのときの覚悟で、それがいざというとき男の価値を二つに分けるのは、今度のリクルート疑惑でよく分ったことと思う。 *    *    *  ビジネスマンの男としての品性を問われることの一つに、出世競争がある。  ピラミッド型組織に入った限り、上を目指すのは当然のことで、それはサラリーマンの本能であるだけでなく、仕事に立ち向かっていくエネルギー源でもある。だが、一方でこのことくらい、人間の品性を卑しくさせることもない、というのもまた真実だ。  私のように三十年この方サラリーマンを続けてきた者からすると、君のような入社早々から三、四年の間が一番よかったような気がする。なにしろ知らないことばかりで、毎日が新鮮な知識欲の充足だし、まだ当てにされていないだけに苛酷なレースを強いられることもなく、従って同僚をライバル視しないで済んだ時代だからだ。  だが、そうした見習い段階が終ると、昨日までの親しい仲間は、最もマークしなければならないコンペティター(競争相手)に変身し、これまでのようにつるんで遊んでばかりはいられなくなるだけでなく、どこで足を引っ張られるか分らない要警戒人物として注意を払わなければならない。会社も、若い社員を早く一人前に仕立て上げるのには、競い合わせるのが一番の早道と考えるから、ニコニコベタベタづきあいをしているよりは、目をむいて敵視し合っていることの方を本音では歓迎するし、しばしばそうし向ける。  たしかに、それに乗って遮二無二前傾姿勢で突っ走るのが、サラリーマンとしては出世の近道には違いないのだが、目の前にぶら下がっている“二つのニンジン”、すなわち“出世”と“仕事の成功”の、どちらに目を向けて走るかが問題なのだ。  私もサラリーマンとして偉そうなことを言える成功者とはいえない。が、社長にはならないまでも一応役員になった人間の体験から言わせて貰えば“出世”を睨んで突っ走るくらい結果として損なこともない。 “出世”が頭から離れない人間は、かりに取り組んだ仕事を成功させても、それが出世に結びつく評価を受けないと腹を立て、僻《ひが》んで脇へ縒《よ》れて、自分から逆に出世を遠ざけるようになりがちな例を多く見てきたからだ。 “出世”にしろ報酬にしろ、それはすべて結果に過ぎず、目の前の一つ一つの仕事を自分の誇りにかけて成就させていこうという姿勢を継続させることの出来る人間こそ最後の勝者たり得るということを忘れて欲しくない。  権力志向の強過ぎる出世亡者の野望癖くらい醜く、社内の人望を失い易いことに、君ももう気づいていることだろうからこれ以上くどくどしくは書くまい。ただときどきは自分が“卑”に堕ちていないか、品性に欠けていないかと振り返る男であって欲しいと思うだけだ。 第十一信転職について  昨夜君が言っていたことが気になるのでこの手紙を書く。  君の話だと、同期に入社した仲間のうち二人が暮れに辞めていったそうで、しかもそのことに対する君の感想が「なんだか分るような気がするんだ」というあたりに私はひっかかった。  私のところでも十二月一杯で退社する社員がかなりいたが、これは一種の季節現象で、どこの企業でも毎年似たようなことを体験しており、プロの人事担当者はそのことをすでに織り込み済みで、その目減りを来春入社の新卒でカバーできるよう人事計画を立てているはずだ。十二月に退職者が多いのは、言うまでもないが冬のボーナスを貰ったところで辞めようという人間のせいで、結婚による女子社員の退社はだいたいこの時期に集中するし、どこかよそからスカウトされた場合も、折角だからボーナスを貰ったところで、と考えるのは人情というものだろう。  ただ、君達のような新卒で入ってまだ一年にもならない若い人が、その十二月退職組に入るのは大いに問題だと思う。  私がこの三十年会社で見てきたことから言えば、入社一年未満の新卒者の退社動機は、次に挙げるパターンのどれかに属する。  その一つは上司や先輩とどう努力してもソリが合わず半分ノイローゼになりかかって辞めるケース。一つは入社する前に抱いていた会社へのイメージ、あるいは自分がやらされる職務内容が、入ってみたらまるで違うという幻滅ケース。在学中から、この業種のこの職種と狙いを絞っていたにも拘《かか》わらず、一流はおろか二流三流の会社にまで蹴られ、さりとて就職浪人の許される身分でもないから渋々最初の狙いとは程遠い会社に入ったものの、初志が忘れられずに再挑戦してみようというケース。他に、就職しても学生気分が抜けきらないまま、趣味でやっていたバンドを職業にしようというのもいるだろうし、ゆくゆくは親の跡を継ぐことのきまっている青年が“他人の飯を食う”という意味で就職したものの、元来腰がきまっていないから早々と逃げ出したくなるというのもいよう。  ま、親の跡継ぎや音楽家志望には、どうぞご勝手に、と言うしかないが、他の三つのケースで辞めていく若者達には言いたいことが山ほどある。  一番目の社内人間関係に絶望するケースだが、たしかに企業の中には妙なのが混じっていて、中学校のイジメとあまり変わらないようなゴタゴタはどこの会社にも必ずある。だが企業は学校と違って、それがもし本当にいわれないイジメだったりしたら見逃すはずがない。イジメの常習者に気づかないでそれを野放しにしているようでは人事担当者として落第だから、要注意人物のやるがままにさせておくはずがない。それに、新入社員は高い採用コストをかけて入社させ、さらに手間と金をかけて一人前に磨き上げている段階だから、一文のモトも取らずに辞めていかれたのでは、会社としては算盤《そろばん》が合わない。従って、新入社員の方が音を上げる前に会社側はなんらかの手を打つはずで、もしそれが行なわれているとすれば、辞めたがる新入社員の側の過剰反応、被害者意識による思い込みという可能性が高い。会社とすれば迷惑な話なのだ。  こうしたケースにおける苦情処理機関は、最近のしかるべき会社ならどこにもあるはずだし、労働組合も相談に乗るはずだから、辞めるときめる前にそうしたところへ相談するという手続きを踏むべきなのだが、近頃は至極あっさり身を退く。もったいないという他はない。  さて二番目の幻滅のケースだが、新入社員の中途退社の理由としてはこれが近頃一番多いという話だ。もっとも本当はもっと具体的でハッキリした理由があるのに、それを言うわけにはいかないような場合に“幻滅”を言い立てるというパターンもある。それはともかく“幻滅”は、いわば思想信条という次元の高い理由だけに格好がいいということもあるのかも知れないが、こういう退社理由を聞かされると、格好がいいどころか、オツムの程度を疑いたくなる。  だいたい近頃の学生は、会社選びに当って待遇問題とは別に、その会社の将来性についてかなり細かくチェックし、事前に会社訪問をしたり、すでにその会社に入っている先輩を学校に招いて社内情勢を聞いたりしているようだが、そんなことをやったところで会社の将来分析など出来ようはずがない。  だいたい学生がちょっと調べた程度で、そんなに簡単に会社の現状と将来を過ちなく見通せるのなら、株で失敗する人など出てくるはずがないし、会社の中で事業方針をめぐって対立が起きたりもしないだろう。しかも近頃は業績がよければいいで、乗っ取りグループに目をつけられたりということもあるから、社員もノホホンとしてはいられない。  毎年夏じぶんになると学生の間での人気企業ランキングが新聞に発表されるが、あれを見る限り、学生の会社研究なるものの底が知れて逆に興味深い。要するに派手に宣伝をする有名企業ばかりで、経営専門家の間ではいまはいいが先々に疑問を持たれている企業も学生の目にはよく見えるらしく、毎度麗々しく登場する。  そのことに関連して意地の悪いことを言うと、三年前、学生がひしめき合って押しかけた企業がその間にどう変わったかを調べてみるといい。元来就職先選びというものは、入社時の業績などどうでもよく、十年後自分が一人前に力をふるえるときの会社の状態が問題であり、その結果役員の座に連なろうというとき、見るも無残に会社が凋落《ちようらく》しているようでは困るのである。  もちろんそんな二十年先、三十年先の会社の運命など誰にも分りはしない。だから小賢《こざか》しく調べたり分析したりするよりも、学生は自分の資質能力とその会社の相性がいいかどうかを考えるだけでいいのではないか。もしその会社が悪くなったらそのときになって考えればいいことなのだから。  われわれが就職した昭和二十年代後半の頃はどうだったか。山ヘン(鉱山)金ヘン(製鉄)糸ヘン(紡績)の全盛期で、東大、京大といった一流校の秀才は挙《こぞ》ってそこへ集まったものだった。だからいま花形の金融とか証券にしかいけなかった二流の秀才は彼等をしきりと嫉妬羨望《しつとせんぼう》したものだったが、それから二十年足らずで情勢は見事に逆転してしまった。山、金、糸共に揃いも揃って構造不況業種に転落し、金ヘンが近頃含み資産である土地の再活用でまた脚光を浴びてはいるが、一時の威勢には遠く及ばない。そしてかつての秀才エリート達はいま窓際にあって、昔心ひそかに蔑《さげす》んでいた二流の連中が肩で風を切っている姿をいまいましげに横目で見ているのだ。  さて、三番目の“初志貫徹”ケースだが、これは一見人間として立派なように見えるが、果してそうだろうか。まず第一にいけないと思うことは、社会人として無責任だという点だ。少なくともその会社を真剣に志望した青年の一人がその人間のために望みを達せられなかったということを考えなければいけない。それにさっきも書いたがその人間を入れるためにかなりなコストをかけているわけだから、その分会社に無駄遣いをさせたことになる。二番目に気に入らないのは、ある業種のある職種と限定するならば、場合によってはその業種の中の零細規模のところヘ入って技を磨くという手もあるのに、それは考えもせずに“大樹”に腰かけとして入るという安易さだ。いまベンチャーといわれる注目企業の多くはそうやって零細から実力でのし上がってきたところが多いのだ。初志を貫くなら、まさに苦労を覚悟で“狭き門より入れ”と言いたい。  入社後一年に満たずに辞めていく彼等を、私は危なっかしくて正視できない。もし君に彼らを弁護するつもりがあるなら聞かせて欲しい。 第十二信社内恋愛について  君もそろそろ会社に慣れて、社内に親しいガールフレンドが出来てもいい頃だと思うが、どうかな。  さて、今日はその会社の中での男女交際について書くことにする。  結婚適齢期の若い男女が同じ職場で毎日長時間にわたって一緒にいるのだから、そこに特別の好意が生じるのはむしろ当然のことでそれを咎《とが》め立てするのは自然の理に逆らう。だから職場結婚が相変わらず多いし、若い娘に至っては、就職先を選ぶのに、学歴家柄共よく将来エリートの道を保証されている青年の多く集まるところというのを第一条件に考えるのが多いというから、職場が集団見合い場もしくは花婿争奪戦のグラウンドとなるのも無理はない。  だが私は、そういう男女の結びつき方というのにどうも好意が持てない。一つにはあまりにもイージーで怠惰だと思うからだ。  昔の言葉に“キセルの雁首《がんくび》”というのがあったが、これは、立ち上がって物を取りに行く手間を惜しんで、坐ったままキセルの雁首で物を引き寄せる無精者のことを指す比喩で、勤め先で毎日顔を合わす娘を簡単に結婚相手にするというのは、なんとも“キセルの雁首”的で安易過ぎると思うのだ。  もちろん、人間関係は出会いが大切で、初めて会った瞬間、なんのデータもないというのにその相手に惹かれるということはあるし、その第一印象はかなり正確な判断であることが多い。そしてその第一印象に人生を賭け、その自分の選択に生涯責任を持ち通すという生き方はたしかに立派だと思う。だが、職場での男女交際の現実は、そうしたロマネスクな出会いとは無縁な、身辺淋しい者同士が妥協の産物として身を寄せ合うというパターンが多いように、私には思えてならない。  恋愛における血が熱くなるような感動を伴わないのは見合い結婚も同じだが、見合いには先々を占う材料としてのデータを互いに交換し合い、それをチェックするという手続きを経ることによって、不幸に終る結婚を避けるという、打算的ではあるものの人智の働くプロセスがある。だが職場結婚には疑似恋愛性がつきまとうこともあって、しばしばそうしたチェックを省略したまま事を進める傾きがあり、それが結婚の不毛を生む原因になり易いというのも、また否めない現実である。  しかし、そうやって交際から結婚に進むのはまだいい。かりにそれが結果としてうまくいかなかったとしても、当人達がその報いを受ければいいのだし、それに耐えることで世間がその当人を蔑《さげす》みはしないからだ。ところが手近な職場の女性を性的関心の対象として見、深い交際に入りはするものの、所詮《しよせん》それは恋愛遊戯に過ぎないから、程なくして別れ、また次なる職場の花に目を移すという手合いがどこの会社にも必ずいるものだ。しかも近頃では、既婚男性と未婚女性の関わりがやたらとふえる傾向にあるというし、既婚女性の職場進出が盛んになるにつれ“不倫”が流行《は や》りになっているとも聞く。  こうなるといったい会社はなんなのかと首をかしげたくなるが、いくら世の中が寛容になったからといっても、そのたぐいの職場内異性関係に見て見ぬふりをするほど世の中は甘くない。  昔は、「不義はお家の御法度」と、職場内での男女関係には殊のほか厳しく、そうなった二人は強制的に一緒にさせるか、でなければクビであり、不義密通に至っては「二つに重ねて四つに斬る」という、比喩でも形容でもなしに文字通りの極刑が科せられたものだが、いまもそうした男女関係に厳しい見方をする目つきはそれほど変わってはいない。  ただ昔と違い、基本的人権とか労働者の権利という考え方から、そのゆえに解雇するとか露骨な配置転換をするというようなことはさすがに少なくなったが、だからといって、「どうぞどうぞ」とそれを無条件に容認しているわけではない。むしろ表立って厳しく罰しなくなった代わりに、その分陰にこもって目に見えにくい制裁が加えられるようになった、と言えなくもない。  私はいま会社で、君達のような社員の品行上の問題について責任ある対応を求められる立場にあるからなおのことそう思うのだが、職場内で異性関係のつまずきを起すのは、仕事上で明らかな大ポカをやるよりはるかに実質的減点を受け易い。  いまの若い人の中には、「仕事さえちゃんとやっていれば、なにもプライベートなことで会社からとやかく言われる筋合いはない。別に法に触れることをしたわけではないし、それによって会社の信用を傷つけ実害を与えたわけでもないのだから」といった考え方をするのが多いようだが、それは違う。  会社というのは、集団で利潤追求を行う組織であり、それを積極的に実践していくにはよき秩序集団でなければならない。そのよき秩序集団とは、出来る限り仕事以外の精神的夾雑物《きようざつぶつ》を組織内に持ち込まないようにしないと成立しにくい。その意味で職場内異性関係は紛れもない夾雑物でこれくらい社内の人間関係に歪みをましヒビ割れを起し易いものもない。  好ましい異性に対して関心が集まるのは当然のことで、それを誰か一人に独占されればその他大勢は面白くない。まして会社を仕事一途の場として、そうしたことには目をそむけてやっている人間からすれば、こんな不愉快なこともなく、それによってモラルが低下するであろうことは間違いない。  だから、会社としては本来ならそうしたラブアフェアが露見したら時を移さず隔離措置を講じなければならないのだが、いまの世の中ではさっきも書いたようにそうは出来ない。ではしょうことなしに黙認するのかというと、それでは示しがつかない。そこでいまの会社はどうするかといえば、そうした“病気”持ちのいわば保菌者に対しては、明確にバッドマークを貼りつけ、昇進その他の場面ではっきりと同レベルの社員と区別し、貶《おとし》める。つまり、そのことによって回復しようのない不信感を会社に植えつけることになるのだ。 “ヘソから下には人格はない”ということを豪語する人が昔政治家などによくいた。だが近頃は実情はどうあれ大多数の政治家は行ない澄ました顔を貫き装う。そのゆえに選挙民のヒンシュクを買うのが恐しいからだ。  しかしどうだろう、本当に“ヘソから下には人格はない”のだろうか。私はどうしてもそうは思えない。むしろ男は、ヘソから下の人格を尊重し、そのことで世間からあらぬ後ろ指をさされないように心すべきではないのか。  私はどちらかといえばロマンチストに属する人間だから、他人の恋愛に関しては寛容な方ではないかと思っている。人が恋に堕《お》ち、それが人倫に背くものであっても、その恋に殉じる人々を軽蔑しないどころか羨《うらや》ましいとさえ思う。だが、それは世の中に背を向ける覚悟の上のことでなければならず、“ヘソから下には人格はない”などと嘯《うそぶ》いて不品行を自己正当化するのとは天地の違いなのである。  だから、かりに君が会社の女性と恋に堕ちたとして、それを咎めようとは思わない。だが、その恋を大切にしようと思うのなら、会社がそれを好ましくないと見るであろうことを前提として覚悟すべきだと言いたいのだ。  恋が必ずしも結婚に結びつかないことを、私はいちがいに非道だとは思わない。しかし会社の女性との恋がうまくいかず、それが周囲の人達の目に明らかになったら、潔く会社を辞めるくらいの性根を据えてかかって欲しいのだ。  社内恋愛花ざかりと、無責任なマスコミは囃《はや》し立てるが、サラリーマンにとってこれほど甘い毒はないと思い知っておいて欲しいと私は思う。 第十三信「男子一生の事業」とは  昨夜、大学時代の仲間と久しぶりで会って話したのだが、青春を共にした男達が六十近くなって集まるというのは、いわば若い頃に描いた理想と、現実に行きついた先とを、それぞれに曝《さら》け出し合う場面でもあるわけで、見ようによってはこんな残酷なこともない。だがそれだけに“男と仕事”というテーマについて考えるには絶好の機会で、今回はその席でのやりとりを書くことにする。“理想”に委《ゆだ》ねていた身を“現実”に投げ入れたばかりの若い君が、果してこれをどう読むか少々心配ではあるけれど。  昨夜集まったのは七人で、もちろん同い年なのだが、見た目も社会的な立場もまことにさまざまで、最初のうちは妙にぎこちなかったのだが、酒が回るにつれて昔の“俺、お前”に戻ると、懐しさがすべての遠慮を忘れさせてくれた。  なかんずく出世頭と目される、某都銀の副頭取で、新聞や経済誌でしょっちゅう顔写真を見かけるAが、新聞社に入り、すでに定年を迎えフリーライターになっているBに向かってこんなことを言い出した。 「……俺は就職のとき君が羨《うらや》ましくてね、正直のところ随分長い間君に嫉妬《しつと》を感じてた。俺もマスコミ志望だったんだが、新聞社も出版社も全部落ちてね、しようがなくていまの銀行に入ったんだが、東京の郊外の支店に回され、朝から晩まで自転車で得意先の商店を回らされる毎日でね、その頃何度(銀行を辞めてもう一回新聞社の入社試験に挑戦しようか)と思ったか知れない。  本店へ配置が変わって業務にいたときだったか、うちの頭取に会いに来た君とバッタリ顔を合わせたことがあったが、君は見るからに颯爽とした一流紙の記者で、俺の目には後光が射してるみたいに眩《まぶ》しかった。なにしろその頃の俺はベテランの女子行員にクンづけで呼ばれ顎で使われてた雑用係だったからね。俺はそのとき、人生ってやつはスタートは同じでもこんなに差がつくものかって、つくづく僻《ひが》んだもんだよ。  君はさっき俺のことを羨んで、『それにひきかえ、新聞記者のなれの果てなんてみじめなもんだ』って言ってたが、そう言う君を俺は三十年羨み続けてたからな、いや、いまだって君の名前を活字で見るたびにそう思う。  それはたしかに俺は運がよかったんだろう、銀行員としては一応のところまで来れたが、これすなわち夢のすべてを犠牲にし、没個性の忍耐の日々の賜物《たまもの》であってね。しかもかりに頭取になったとしても所詮《しよせん》はサラリーマンだからな、定年が何年か先になるだけの違いでしかない」  すると当のBがこう言った。 「……しかし、そうは言ってもやっぱりお前は大したもんだよ、本来なら俺達みたいな下《しも》じもがじかに物を言える人じゃないんだから。俺達の同期で他の銀行に行ったので、役員にもなれずにいるのもいるわけで、羨まれてもしようがないんだよ。それにサラリーマンとしては五十歩百歩だみたいなことを言うが、まず給料が違うし、いざ辞めるとなったらその退職金は凄いだろうからな、やっぱり俺達とは人種が違うんだよ。いや、別に僻んで言ってるわけじゃなくて、ここにいる誰もがそうだと思うんだが、そういう君を誇りに思ってるんだから……」 「しかしね、好きなことをやって一生を終える方が俺はやっぱり羨ましいね。言いたいこともやりたいこともすべて我慢し、行内ではニコニコ、ひとたび外へ出ればペコペコ頭を下げっぱなしの人生を四半世紀も強いられてる人間の身になって欲しいな。  戦後財界の天皇と呼ばれた石坂泰三さんが第一生命から東芝に移るときに、『保険なんてものは男子一生の事業に非ず』ってタンカを切ったという話が石坂さんの自著にも出てくるが、俺なんかに言わせれば銀行員なんてまさに男子一生の事業じゃないな、もっとも銀行の中じゃまったく逆のことを行員に言ってるんだが。  君は収入のことを言うが、いまの日本の税制じゃ少々余計に貰ったって手許《てもと》に残るのはたいして違わないし、つきあいの出費はふえる一方だし、家のローンの払いに追われてる身としては、ちっとも羨ましがられることなんかないと思うんだがな」  すると、親の跡を継いで中規模の印刷会社の社長に若い頃から収まっているCがこう言うのだ。 「……そうだな、隣の芝生ってこともあるからな、外見じゃあ人間の幸福は計れないよ。しかし、男子一生の事業って、いったいなんなのかな。石坂さんはそう言って東芝に行ったわけだが、じゃあ東芝が石坂さんにとって男子一生の事業と呼べるほどのものだったかどうかは、大いに疑問だからな。  僕は、君達が就職のときいろいろと夢を語っているのを横で聞きながら、ちっぽけな印刷屋のおやじになる宿命を負わされてる自分がいまいましかった。さっきAが言ってたが、新聞社にきまったBの意気軒昂《けんこう》といった話しぶりを聞いてるうちに腹が立ってきたくらいでね。あの頃日の出の勢いで倍率が物凄く高かったカネ偏の一流会社へ受かったAとは、その就職がきまってからというもの、わざと遠ざかって物を言うのを避けたもんだよ。  しかし、いまこの年になって考えてみると、果してそれが羨むほどのものだったのかって思うね。百人ちょっとの従業員を抱えている零細な印刷屋なんてものは、ほら“寅さん”の映画に出てくる隣の印刷屋に毛の生えた程度なんだが、それでも従業員の家族に対する責任を考えなきゃならない立場っていうのは並大抵じゃないんでね。だが、三十年余りそれをやってきて思うのは、この人生もけっして悪くなかった、ってことなんだな。いや、儲《もうか》って儲ってしようがないなんてことはないんでね、むしろこういう技術革新の時代は機械や設備をどんどん新しくしなきゃ競争に追いついていけないんで、そのための借金に追われる毎日なんだが、それでも、どう言ったらいいかな、ま、一所懸命ってやつなんだろう、それなりの自負が持てるんだな。  正直言って、僕はいま誰も羨ましくないし、おそらく死ぬまで働きづめのくらしが続くんだと思うが、それでいいじゃないかって気がしてるんだ。もっとも、AやBみたいに世間の脚光を浴びるなんてことはまったくない一生ではあるけれど」  すると、中規模の商事会社で常務をやってるDが、こんなことを言った。 「ま、男子一生の事業がなんなのかは分らないが、Cのいまの話は説得力があるな。たしかに一流銀行の副頭取であるAはサラリーマンとしては頂点を極めた数少ない一人だから羨望《せんぼう》に値するが、かといって当人であるAがそれで満足しているわけではないのもよく分る。サラリーマンなんてものは所詮コップの中の競争で、そのコップが大きいか小さいかの違いに過ぎないからな。Bのようなジャーナリストにしたって、傍《はた》から見るとカッコいいみたいだが、Bが浮かない顔してるのも、なんとなく分るような気がするしね。  要するに、もうゴール直前のこの年になると、仕事に優劣や貴賤なんてものもなければ、ゴールに何着で入ったかも問題ではなく、ただ自分がどれだけその仕事と真剣に取り組んでこれたか、ということだけが気になるんじゃないのかな。俺ももう再来年は役員定年だからな、ここまでくると正直いって世俗的な羨望《せんぼう》さえ稀薄になるね」  私は皆の話を聞いていて、これまでの自分の人生の中で、もう一人の私が心中で何度となく意地悪く囁《ささや》きかけた「それが果して男子一生の事業と言えるだろうか」という声に対して、もはやたじろぎさえ覚えなくなった理由が分るような気がしたものだ。  君のこのことに対する意見を聞いてみたいな。 第十四信国際人について  今度の旅は体に堪《こた》えた。  モスクワ経由のパリ行の飛行機に十五時間近く坐らされ、夜着いたその翌日は朝から夜まで昼食の間も仕事の話という会議が続き、その翌日もまる一日その延長で、慣れないフランス語に耳を澄ますだけでも大変なストレスだった。さらにその翌朝、先方の幹部とニューヨークヘ飛び、また朝から晩までの会議を、今度は英語に悩まされながら二日ぶっ続けでこなした揚句、成田への直航便で帰ってきたのだから、五十代半ばを過ぎた体に疲れがどっとたまるというのも無理のない話かも知れない。  もっともそのおかげで例のコンコルドを初体験させて貰うという思いがけない余禄もないではなかったが、普通六時間かかるところを四時間足らずで飛んだせいで、ジェットラグ(時差呆《ぼ》け)にさらに拍車がかかったのは間違いない。  それにしても、仕事柄年に一度はそうしたハードスケジュールの海外出張に出かけるようになってもう十年近くなるというのに、いつまで経《た》っても“国際人”になりきれない自分を、つくづくもどかしく情けないと思う。  一つには、私のような戦前生まれの島国根性がしみつき過ぎた人間に限っての偏りなのかとも思うのだが、どうもそれだけではなさそうな気がする。  断わっておくが、それはなにも私が外国語に弱いというせいだけではなく、海外出張の回を重ねるごとに、かえってアチラとの距離を大きく感じるのだから、その根はもっと深いところにありそうに思えてならない。  飛行機の中や向こうの町で、丁度君と同じくらいな若い日本人達をよく見かけるのだが、いかにも屈託なげに振舞っている彼等を眺めながら思うことは、私達が感じている溝をすでに彼等は本当に越えているのだろうか、という疑問だ。  君も大学三年のときに英語の勉強ということでひと月半ほどアメリカにホームステイしたことがあったが、いまの若い人達でパスポートを取ったことのないというのは、もはや少数派になってしまったほど、どんどん出かけていく。アルバイトをする目的が海外旅行の資金づくりというのはまだいい方で、親の懐《ふところ》が当てに出来なければ、学生向けに就職してから返せばいいというシステムのローンもあるとかで、それを借りてでも行くというくらいだから、海外旅行が珍しくなくなるのも当然なのかも知れない。  私はなにもそんないまの若い人達を非難しようと思ってこれを書いているわけではない。むしろ逆に、動機や資金捻出法がどうであれ若いうちにそういう経験が出来るというのは結構なことだという考えだ。ひと月やふた月で英語の勉強が出来ると思ってはいないが、少なくとも私達のように、耳で英語を理解するのではなしにいちいちそれをスペルに置き換え、それでやっと分るという非能率からは解放されるに違いないからだ。  だが一方で、どうせ出かけるなら、折角のその機会にもう少しいろいろと身につけてきて貰いたいと思うのだが、実状はただボケーと行ってきただけというのが多いのではないか。その証拠に、そうやってかつて海外旅行経験のある人間を仕事で行かせてみると、それがよく分るからだ。  たしかに乗り物に乗ったり、レストランに入ったり、ショッピングをしたりという行動にさほどの不自由を感じない程度には外国慣れをしてはいるが、要するにそれだけなのだ。ホームステイしてちょっとの間向こうの人達と生活を共にしたとしても、いざ“仕事”となるとおそらくその程度の“慣れ”と“馴染み”ではどうにもならないことにやがて気づかされるはずだ。  なぜか。それは“仕事”というのは常に闘いであって、欲望の押しつけ合いという対立劇だからだ。金を使ってくれて自分に利益をもたらす相手には、それがかりにほとんどしゃべれないとしてもなんとかして先方の意に添おうとしてくれるが、勝ち負けを競う場ではありったけの“我”をむき出しにする。問題はその“我”なのだ。  日本人同士なら相手の“我”は芯から底まで見えるが、外国人の“我”となると、上っ面以上には容易に窺《うかが》えない。  ふだんナアナアでつき合っているときは、肌や目の色が異なり、言語習俗がどのように違っても人間に変わりないのだなと思えたのが、ひとたび立場を異にすると、物の考え方がこれほどまでに違うものかと、取りつく島のないような絶望感に襲われることがある。その“我”に辟易《へきえき》しながらいつも思うことは、我々日本人がいかに特殊かということだ。  もちろん彼等同士の場合でも相当な開きがある。アメリカのビジネスマンのソロバン高さと誇り高いフランス人の“我”はしばしば対立を起すし、ドイツ人とイギリス人もその思考様式にはかなりな差がある。だが、彼等は長い歴史の中で互いの違いを充分に承知しており、その上で断固譲らないというところがあるが、日本人はそうはいかない。我々は自分だけが特殊だと思って、ついつい後ずさりして、相手の意を汲《く》もうとしてしまうからだ。  そういう姿勢を謙虚ということも出来るが、相手に対する無知と、鎖国コンプレックスの現われに過ぎないともいえる。  たしかに大陸から孤絶した小さな島国という地理的特性が、われわれ日本人を世界できわめて特殊な存在にしてしまったということはある。それも開発途上国ならいざ知らず、いまではアメリカと肩を並べる経済大国にのし上がり、先進文明諸国であるECを向こうに回してヒケを取らないまでに力をつけた。  ところが同じ土俵に上がって勝負を競い合わなければならないというのに、日本だけがその競技の伝統や精神はもちろん、ルールにまで疎《うと》く、ただ力ずくだけで闘うしかないという比喩が当てはまる“よそ者”なのだ。  われわれはその意味で遅れてきた異人種《エイリアン》であることはたしかで、それだけにただ力さえあればという態度では、永遠に彼等に対する疎外感を埋めることは出来ないのではないか。  だが私達オールドタイマーは、それを埋める作業を始めるのには、あきらかに年をとり過ぎ、手遅れの感を否めない。だからそれだけに君達次の世代には、そのための具体的努力を怠って欲しくないのだ。  一つには、世界史をもっと深く学び直すことではないかと思う。  私達の世代は、肝腎な中学高校時代を戦中から戦後という事実上閉校に近い状態の中で送ったせいで、まさに無学といわざるを得ないが、君達のように恵まれた学習環境の中で学んだ世代はどうかというと、社会科という偏ったカリキュラムの下で、受験一途の丸暗記でしか歴史を勉強してこなかったのではないか。その意味では、いまわれわれに求められる世界的規模での歴史知識は、この日本ではどの世界にも共通してきわめて稀薄だということができよう。  さらにわれわれに欠落しているのは“宗教”に対する知識と理解だ。  ヨーロッパのように、中東からアフリカにつながる地域では、長い時間をかけて、異教徒同士が戦い合ってきた歴史を持っているだけに、異教に対する知識は一般常識であり、その宗教観に基づく倫理や道徳の違いについてもよく心得ている。いわばさっきの“我”の差異の根本を知悉《ちしつ》しているのだ。  それに対してわれわれ日本人は救いようもなく無知であり、理解の手がかりさえ持っていないというのでは、国際性などいつまでたっても身につきようがない。  これからは嫌でも海外の交流は深まる一方なだけに、君達には遅ればせながらその勉強にかかって欲しい、私達の分までも。 第十五信公私のけじめについて  私が若かった頃の上司にちょっと変わった人がいて、いまでも何かの折にその人のことを思い起す。  その人というのは明治末期生まれで、私が二十六、七の頃常務をやっていたのだがとにかく当時随分と厳しく仕込まれた。  この人が社内で変わり者扱いされたその理由は、異常といっていいほど公私の別にやかましく、しかもそれは他人に対してというよりは自分に厳しかった点だ。  だいたい先輩上司などというものは、自分のことは棚に上げて下《しも》じもの箸《はし》の上げ下ろしをあげつらうのが普通だが、この人だけは逆だった。  その頃世間はいわゆる高度成長期に入って、残業は当り前だし、取引先とのつきあいや仲間うちの飲み会の連続で、会社から家へ直行することなど一年に数えるほどだった。  だから終電に間に合わずに会社の負担でタクシーのご帰館も珍しくなかったのだが、その常務だけは違った。  といってけっして謹厳居士ではなく、酒もたしなめば、宴席で渋い喉《のど》を披露したりもするさばけた人だったが、だからといってノンベンダラリといつまでも飲んでいるようなことはなく、十一時を回るとどんな相手と一緒のときでも、さっと立ち上がって帰っていく。  まだその頃は役員すべてに専用車がつくということはなく、会長社長以外の専務常務はもっぱらハイヤーを使っていたが、その常務に限ってハイヤーはおろかタクシーさえ使おうとしなかった。  私は「なぜですか」とそのことについて常務に訊いたことがあったが、「もったいないよ」のひとことでそのときは片付けられた。だが何かの折、その常務と二人で飲んだとき説教とか叱言《こごと》というのではなしに、じっくりと自分の信条について私に語ってくれた。 「……うちの親爺は会津藩士で例の戊辰《ぼしん》戦争の生き残りなんだが、これが融通の利かない堅物でね。新政府の役人の口を断わって貧乏教師で一生を終ったんだが、私が学校を出て就職するときその親爺から言われたことが一つあった。それは公私の別だけはしっかり守れという戒めでね、これこそ男が身を誤らずに一生を終るためのお守りのようなものだと言われたんだ。  私は生来臆病な人間でね、少々悪いことをしてでも人に抜きん出ようなんて気にはまったくなれないタイプだったから、この親爺の戒めだけは何がなんでも守ろうと思った。  私の親爺というのは、私にそれを求めるだけでなく自分自身にも厳しい人でね、たとえば学校で使う便箋一枚でも家に持ち帰って使うことはなかった。  そういう生き方を見て育ったから私も会社の品物を私事に使うのに抵抗があってね、会社が買ってくれた定期券で休日に電車に乗るのでさえ気が咎《とが》めたものだ。ところが世の中に出てみると、親爺や私のような人間はごく稀《まれ》で、公私の別にこだわる人間はいまやまるで変人扱いだからな。  たとえば些細なことと思うかも知れないが、今日も新入社員の一人がトイレットペーパーを丸のまま自分の抽出《ひきだ》しに入れておいて鼻紙代わりに使っているのを見たんだが、物凄く腹が立ってね、よっぽど注意してやろうと思ったな。だってトイレットペーパーというのは会社の備品の一つだし、トイレで使うために置いてあるんで、それを持ってきて鼻紙として使われたんじゃいくらあっても足りはしない。だいたい鼻紙なんてものは朝ハンカチと一緒に家から持ってくるのが普通で、そういう生活費は自分が貰う給料から出すもんだと昔から相場がきまっている。  それはたしかにトイレットペーパーなんて安いものかも知れんが、安かろうと高かろうと会社の物は会社の物で、私物との間にハッキリと一線を画しておくべきなんだな。  そんなふうだから、社用で使う交通費をなんとかかんとか理由をつけて水増しして小遣いの足しにすることにちっとも良心が咎めないんだろうな。しかしそういう行為は厳密にいえば窃盗なんであって、もしバレたらそれを理由にクビを切られても何もいえないはずだろう。考えてみればそんなことにクビを賭けるなんてまことに間尺《ましやく》の合わないことで、私にはそんな勇気はないな。  近頃接待がめっきり盛んになったが、あれもサラリーマンにとっては罠《わな》だな。会社の金でタダ酒を飲むのがクセになると、仲間うちだけの飲み代まで平気で会社にツケるようになってブレーキが利かなくなる。そうなるともう坂道を転げ落ちるようなもので、夜毎《よごと》会社の金を使って自分自身を接待することにこれっぽっちも心が痛まなくなる。  ところが会社というものは、そういう社員一人一人の金の使い方をじっくり長期にわたって継続観察しているから、その場限りのゴマカシはかりにうまくいっても、長い間にわたって見ていればどんなにお人よしの上司でも簡単に見破ってしまうに違いない。それによって受ける代償があまりにも大きいことを考えれば、ハシタ金にだらしなくなることがどんなに莫迦莫迦《ばかばか》しいか、改めてハカリにかけるまでもあるまい。  私はね、謹厳実直でもなければ聖人君子でもなんでもないタダの臆病者だから、とにかく公私のけじめのことで他人に後ろ指だけは指されまいとずっと自分に言い聞かせてきた。だから酒は自分の金でしか飲まないし、従って縄のれんか安バーくらいにしか足を運ばない。帰りにタクシーに乗らずに電車しか利用しないのは、それが癖になったらついつい会社の金で乗るようになるのが目に見えているからだ。他の役員は皆平気でハイヤーを使ってるのになぜと思うかも知れないが、役員連中の使ったハイヤーの請求明細はしっかりと比較チェックされていることを知ったら、いっそ乗らずにおこうという気になるだろう。  ただ、断わっておくが、私がそうやって身辺に気を遣うのは、なにもそうすることで上の覚えをよくしてもう一段も二段も出世しようと思っているからではけっしてなく、そんなことで不安な気分で生きるのが嫌なだけなんだな」  この話を聞いてからもう三十年が経《た》つが、私はこの人ほどに徹底も出来なかった。それでも、ちょっと公私混同めいた場面にぶっつかると、必ずこの人の自嘲的ともいえるこの述懐が頭に浮んで、自然にブレーキがかかったものだ。  そういう私を、他人《ひ と》様《さま》は蔭でつまらない男と言っているかも知れないが、それでもいいじゃないかと、負け惜しみでも何でもなしにそう思う。少なくとも、金に汚いと言われるよりは“つまらない男”の方がよほどましだと思うからだ。  しかし、それにしても近頃の世の中を見ていると、公私のけじめがあまりにもなさ過ぎる。例のリクルート事件はまさにその象徴で、薄汚れた金にすっかり麻痺してしまい、あれっぽっちの金で大事な後半生を棒に振っていったエリート達の姿を見ていると、たしかにそういう人達と較べればまったくパッとはしないが、私は自分の生き方の方がよほど帳尻としてはマシなのではないかと思う。  君もそろそろ入社二年目に入る。サラリーマンはそのあたりから会社に馴染み、硬直気味だった気持もほぐれてくるものだが、それと一緒に水垢のように公私混同の悪癖も身につき出す時期だ。  私は、この時期にいい癖をつけるかどうかで大きく先が変わるのがサラリーマン人生だと思う。だからいまこの時期にこの手紙を書いたのだが、もしも私の考え方が融通が利かなさ過ぎると思うようなら、試みに、そういう目つきで君の周辺を眺め直してみるといい。きっと崖っぷちを往くような危険な生き方をしている男が何人か見つかるはずだ。 第十六信上司への逆らい方について  昨夜君が言っていたことだが、それについて私の考えを伝えておきたいと思って筆を執った。  君の話だと、昨日、直属上司の課長から、君が出した提案について、まったく見当違いの、というよりほとんど読みもしなかったのではないかとしか思えないひどい批評をされ、それについて反論しようと思ったが、まだ入社して一年を過ぎたばかりの人間がそんなことをしていいものかどうか悩んだ揚句、黙って引き下がったというようなことがあったそうだね。そして君は、その場面で一言もなく引き下がってきた自分に、ひどく後侮しているようだった。  そのことに限定して僕の意見を言わせて貰えば、そういう君の対応は半分の点で正しかったと、私は思う。もちろん私はその場に居合わせたわけでもないから、君の提案とやらいうものがどの程度のものだったのか、そしてそれに加えた課長なる人物の批判なるものがどのくらいトンチンカンだったのかは知る由もない。にも拘わらず、君が反論を差し控えたことに対して私が賛同する理由を挙げるなら、それはすこぶる大ざっぱに言って三つある。  まず第一は、君がとっさに踏み止まったそのためらいの根にあった(自分はまだ入社二年目に入ったばかりの人間だ)という自制だ。  スポーツの世界は年功序列も何もなしに、記録さえよければルーキーもたちまちスーパースターになれるが、サラリーマン社会はそうはいかない。数学の問題のように正解はただ一つというわけにはいかず、見方によっては百点満点から三十点くらいまでの、判定幅があるものだからだ。しかもその判定はほとんどの場合絶対神聖であり、もしそれに表立って逆らいでもしようものなら、出場停止処分ということにもなりかねない。  要するにサラリーマンという存在は、相撲世界で兄弟子に対する絶対服従を比喩的に言う“ムリ偏にゲンコツ”に忍び耐えながら、実力をつけ、やがてその立場にとって代わるというプロセスを、多少の差はあれ通らずには済まないものなのだ。  そしてそれは、世の中というものは必ずしも「理だけ」によって動いているわけではなく、むしろ理不尽の比率の方が「理」よりも高いとさえいえるわけで、会社というのはその中で棲息していくための免疫体質を強くするための鍛練の場といえなくもない。  その意味で入社一、二年という時期は、どんなに抜群の能力の持主でも、ムリ偏にゲンコツを誰彼の区別なしに雨アラレと受ける覚悟を強いられる季節でもあり、そのゲンコツの是非を問うてもなんの意味もないと知るべきなのだ。  第二の理由は、君の上司が、君の提案に対しておよそ見当はずれの批評を加えたという点だが、それがかりにどれほど不当であったとしても、ルーキーである君はそれに甘んじなければならない立場だからだ。  なぜなら、君はその提案作製なる作業を一人前の仕事師になったつもりで作り上げたのだろうが、上司からすれば、スプリングキャンプで新人投手の仕上がり具合をチェックしているベテランキャッチャーのように、それに期待する気持なんかこれっぽっちもなく、ただただアラ探しをしようと待ち構えているだけであって、オープン戦のピッチングでさえないのだから、むしろ単なるエクササイズだと考えるべきなのだ。そう思えば、少々見当はずれの批評をされたからといっていちいち目くじらを立てることもないではないか。  第三の理由は、他人の批評の受け止め方の問題だ。  人間誰しも、他人から批評がましいことを言われるのは嫌なものだ。そして、それにいちいち喰ってかからないまでも、心中では耳を塞ぐ。しかし、後になって振り返ってみるとこんな損なことはないと、つくづく思う。  世にワンマンといわれる人物は、唯我独尊で、他人の話に耳を貸さないものとされているが、大成したほどの人は、一見そう見えながら、実は他人の意見を上手く選別して聞く技術の持主が多い。  テレビドラマにもなった武田信玄は、戦国大名の中でもきわ立った聞き上手とされており、会議で議論し合って物事をきめるという方法を日本で初めて採った人ということになっているくらい、他人の意見を活用した人物のようだ。  同じ戦国期の織田信長は、信玄とは対照的にスーパーワンマンということになっているが、その情報蒐《しゆう》 集《しゆう》 力《りよく》は大変なもので、それはとりも直さず自分の考えをまとめるために、第三者の目を最大限に活用するということで、ある意味で大変な聞き上手といえる。  そうやって古今東西の優れた男達を思い浮べてみると、そのほとんどが他人のもたらす知識意見にすこぶる貪《どん》らんであることが分る。そしてその逆に、こうと思い込んだら最後、他人にとやかくいわれるのを嫌い、自分の考え通りにやみくもに突っ走る者で大成した例は少なく、了見の狭さは小人に共通するものだということがよく分る。  つまり、どんなにトンチンカンでも、もたもたとじれったい物言いでも、他人のその言い分の中に、ほんの少しでもいいから耳を傾けるに価するものがあるかないかに、じっと神経を研ぎ澄ます方がはるかに得だと知らなければならない。 *    *    *  それはたしかにそうなのだが、一方で、部下の上司への対し方という観点からすると、昨日の君のように、上に逆らうことによる後々の不利だけを考え、不満をそっくり肚の中へ押し込めてただ引き下がってくるというのはあまり褒めたことではないと思う。  立場を変えて、上の人間の立場に立ってみるとどうか。上の人間とすれば、君の提案を無視してただポンと突き返すことだってやれなくはない。それを、思いつきにもせよ、あれこれ批評をするというのは、一つにはその批評に対して君がどう反応し、それによっては二段三段の助言をしてやろうと思っているかも知れないのだ。  つまり、君達のような教育訓練段階の人間に対して上司は、常にどうやったら一日も早く一人前に出来ないものかと、鍛練の場を少しでも多くしようと考えているものなのだ。  ということは、君の反論を期待しているということでもあって、それに応じないというのは上司の期待を裏切ることにもなるわけだから、後々の不利を考えるならかえって反論をした方がいいとさえ言える。  ただそこで考えなければならないのは、上司先輩にもいろいろあって、大人もいれば小人もいるという点だ。  君達のようないわばヒヨッ子が、小賢しくも小理屈を並べて攻撃的に反論するのを、(なかなか見所のある根性だ)と目を細めてくれる大人はきわめて少数であって、多くは(なにをこの半人前が)と頭に血をのぼらせるに違いない。それではどんなに正しい反論をしたところで、徒《いたずら》に上司の心証を悪くするだけで、サラリーマンとしてはこんな愚かなやり方もない。  ではどうしたらいいのか。  簡単なことだ。ついこの間までやっていた師と弟子の関係を思い出せばいい。ただ、大学で入ったゼミの教授には前提として尊敬の気持があるのに対し、上司はタダの上の人間としか考えないきらいがあり、それをまず捨て、どんなに頼りなくとも師は師だと自分に言い聞かせることだ。弟子が師に問う礼儀なり技術なりなら君達はエキスパートのはずだし、その極意で対されて怒る上司はまずいないと考えてよかろう。 第十七信続・上司への逆らい方について  しかし、若いうちからすべてに程がよく、老成ぶってソツがないというのも可愛げがない。  犬や猫でも、小さい頃はじゃれるにしても加減というものを知らないから、つい調子に乗って飼い主の手に歯型がつくくらい強く噛むことがあり、それがまた飼う方とすればたまらなく可愛い。それと同じで、人間もまだ一人前になりきらないうちは、つい力んで上司であることを忘れて頭に血がのぼり、噛みついてしまうことがある。  私が二十代の後半の頃、同期入社の男で、妙にウマの合うのがいた。身長は百七十センチ程で一見優男なのだが、喧嘩《けんか》っ早い奴だった。  私も負けん気の強い方だし、生意気盛りだったから、先輩上司でも意見が合わないと黙って引っ込んでしまうことが出来ず、ガンガン自分の考えをぶっつけ、容易なことでは妥協しなかった。  ところがその男は、上の人間から理不尽なことを言われると、さっと顔色が蒼《あお》ざめ、その上司の耳に口を寄せ、何やら囁《ささや》く。ちゃんと聞いたことはないが、おそらく、「ちょっと外へ出て頂けませんか」というようなことを言うらしい。すると上司は、他の部下の手前もあって尻込みするわけにもいかず、顔色は変わるが、「おう」と虚勢を張って立ち上がり、男について外へ出ていく。それから二、三十分経《た》って帰ってきたその上司の顔は項垂《うなだ》れ蒼ざめ、皆に体裁が悪いからしばらくはその顔を上げずにいた。  私はその男に、「どうしたんだ、殴ったのか?」と訊ねると、ニヤッと笑って首を横に振り、 「いや、ただ人気のない所で二人きりになって、静かにきちんと話をしただけさ」と涼しい顔をしている。  後で判ったことだが、われわれの先輩上司でその男から外へ連れ出されなかったのはほんの数人で、そのほとんどが一度はやられていた。  だが、不思議なことに、そうやって連れ出された先輩上司で、その男に後々まで根に持つのはいなかった。むしろ親近感を持ち合って、何かにつけてその男を引き上げようとするのだから、いったいそのときどんな話をしたのだろうかと、私はずっと長い間それが気になってならなかった。  それから十数年経って二人が同時に部長になった夜、久しぶりに二人だけで飲んだときだった。私はその男に長年の疑問をぶっつけてみた。すると彼は、 「なんだそのことか。どうってことはないさ、ただ人通りのない横丁に連れ込んだときに、ひとりごとのように、『僕は学生の頃ボクシングをやってましてね』とそう言ってね、後は静かに話の続きをするだけでね。するとちゃんと聞いてくれるんだな、こっちの話を。ま、たしかに半ば脅迫じみてはいたけれど、僕はあれでよかったと思ってるんだ。あの頃先輩達はわれわれ若い連中の話なんかまともに聞こうという姿勢なんか皆無だった。君だけはたしかに彼等がどんなに不愉快がってもポンポン言っていた。しかし他の連中は言いたいことも我慢して唯々諾々だった。だから俺はそれでクビになってもいいと思って、その突破口を開くつもりでああいうやり方をしたんだ。しかし、そのせいでわれわれの言うことに耳を貸す気風が会社に出来たのはたしかだった。  いまこうやって若い連中を引っ張ってかなきゃならない立場に立ってみて、あの頃の先輩上司とたいして違わない態度をついとりがちになる自分に気づくんだな。そして、若い連中から脅かされる前にこっちから気持を開いて、腰の引けている若い連中を引っ張り出さなきゃいかん、それが俺達の役目なんだって、あのときの自分を思い出しては自分に言い聞かせているんだ」  と、しみじみ言っていた。  そのとき聞いたんだが、実は彼はボクシングなんかやったことなんてまったくなく、子供の頃から腕力を使った喧嘩は一度もやったことがなかったんだそうだ。  ところがいまはどうか。その男みたいな気力のある若い社員はまったくといっていいくらい見当らない。  皆紳士で、クールで、慎重で、物静かで、そしてほどほどに優秀だとは思うが、それだけなんだな。迸《ほとばし》るような気力や、体を張ってでもやり抜こう、殴り合いになることも覚悟の上で論戦しようという熱っぽさ、辞表を懐にして上司に対して噛みつくくらいの威勢のいいのなんて、いくら探してもいはしない。  それは先輩上司に対してだけでなく、同僚相手の場合でも同様で、妙に他人行儀なところが私なんかには不満なのだ。  血気盛ん、という言葉があるが、それは人生のある時期の特徴であって、それをねじ伏せクールを装うということが、その人間の後の人生に何をもたらすかということも考えてみていいことだと思う。  サラリーマンというものは、その血気盛んな時期を植物の花の季節に譬《たと》えるなら、それは長丁場のサラリーマン人生の中のほんの一瞬で、あとはみるみるうちに気力を失い、事なかれ、自己保身専一に傾き、どうやってつつがなく定年まで辿《たど》りつけるかを第一に考え、役員になりたいのは山々だが、そのために身を危くする血気を露《あらわ》にするようなことは、まずしない。  それだけに、自分の血気盛んだった頃を心の支えにするところが、多かれ少なかれサラリーマンにはある。何かの折に退嬰的《たいえいてき》な気持になると、その短い花の季節の自分を思い起し、その頃には及びもつかないが、その真似事でもしてみては、と自分をけしかけることがある。だが、その花の季節を持たずに若いうちから腰を引きっぱなしの人間は、一年じゅうを冬ごもりで過ごす氷河期の生物のように血気を知らずに終る。  企業のトップにある者が、口癖のように“活性化”を口にするのは、とりも直さず、血気盛んな季節をどうやって長く引き延ばそうかということに他ならない。  だが、この口癖はしばしば空振りに終ることが近頃多く、世の経営者達は苛立つのに飽きて半ば諦《あきら》め顔になっている。いまの血気薄い若者達をいくら煽《あお》り立てても、まるでその効果が上がらないのに業を煮やしているのもそのせいだ。  しかし私は必ずしもそうは思わない。  マスコミは簡単に世の中がまるで変わったかのように書き立て、新人類などという異称を若者に奉ったりするが、そんな莫迦《ばか》なことがあるはずがない。  明治維新のとき革命の先頭に立った各藩の脱藩浪士達を、当時の大人達は眉をひそめて理解を拒んだし、われわれも戦後“アプレゲール”と呼ばれて、戦前派からヒンシュクを買ったものだった。  つまり、いつの時代でも若者は異端であり、理解を絶するはね上がりであって、時の社会的リーダー達は、(こんな連中が担う次代は果して大丈夫なのだろうか)と不安に戦《おのの》くのが常だった。  しかし、ちょっと長いスパンで見直してみるとどうか。エイリアンのように不可解な彼等が三十代半ばになると、たちまち変身して身心ともにしょぼくれ、先輩達に自分から接近し、同化して区別がつかなくなってしまう。  だから君に言いたいのだが、いまの君に大事なのは、老成ぶって逸脱を畏《おそ》れるよりも、血気をふるい起して、若気の至りにブレーキをかけないことではないのか。  先輩上司はむしろそれを待っているはずであり、前の方で書いた私と同期の男のように、上司に対し意味のある喧嘩を爽やかに売るように心掛けるべきではないのか。とくにいまの君の年では——。 第十八信学歴について  ——君もいよいよ後輩を持つ身になったわけだが、今年の新入社員はどう? とにかく新卒入社の人達が物になるのもならないのも最初が肝腎でね、その意味では君達一年先輩がどう彼等をケアするかで大きく分れる。しっかりやって欲しいと思う。  その新卒でのことだが、最近のあきらかな傾向として、学歴に対する企業側の考え方に明確な変化が出てきたように思えてならない。端的に言えば学歴偏重傾向にはっきりと歯止めがかかってきた感じなのだ。もっとも慢性的な求人難のせいで人材確保が難しくなり、学歴にこだわっていたのでは人が集まらないということもあるのだろうが、どうもそれだけではなく、徒《いたずら》な一流校出身者への集中はたしかに弱まっている。  いいことだと思う。やっとそうなってくれたかと、ホッとする思いだ。  なにしろ、こんな莫迦《ばか》げた受験競争がいつまでも続いていいはずがない。それというのも、一流校、有名校にさえ上げておけば、それでエリート階層に組み込まれ、将来の出世間違いなしという神話を丸々親が信じ込んできたからに他ならない。  たしかに戦後四十年、政界、官界、財界をリードしてきた人々の大多数は東大出身者で、それも法学部出が幅を利かせてきた。一流といわれた企業の幹部社員の学歴を調べてみると、まさにその日本の学歴序列がそのままピラミッド型を形成していて、この構造は当分の間変わるまいと、絶望的な気分にさせられたものだが、それに変化が出てきたのだから世の中捨てたものではない。  だいたい、東大法学部などというのは役人の養成機関として明治以来位置づけられてきたもので、それを一般民間企業が無条件に有難がること自体誤りなのだ。もっとも、政官界と癒着して甘い汁を吸おうという狙いなら東大法学部閥の人脈活用を狙うのも分るが、そうでなければ、前近代的な血筋家柄有難がりという愚かな時代錯誤以外の何ものでもない。  しかも、私のところのような中小企業に毛の生えたような会社における実感では、学歴ピッカピカの社員で現実の仕事の上で人に擢《ぬき》んでる成果を挙げる者はきわめて稀で、プロ野球のドラフト制度に譬《たと》えていえば、一位二位指名選手のような一流校出身者で一軍に定着する実績を挙げる者はきわめて少なく、クリーンアップを打つ選手のほとんどは、ドラフトのドン尻とかテスト生上がりのような末流校出身者だというのが現実だ。  なぜそうなってしまうのか。  東大のような超一流大学へ受かる子供は、当然ながら、学力があるだけでなく、優れた知識吸収力の持主で、人間の素質としては抜群のものに恵まれているはずだ。それがなぜ企業組織の中に入ると、しぼみ霞んでしまうのだろうか。  一つには、学校の勉強が出来るというのは、記憶力に加えて吸収した知識の整理力が高いということだ。そして、間違った答えをより少なくする能力に優れているということでもある。が、その一方で彼等は、知らないこと、よく分らないことに不用意に乗り出して、あいまい不確かな考えをそのまま人様の前にひけらかすということはまずしないという性向の持主でもある。  問題はそこなのだ。  現実のビジネス世界でも、広く深く正確な知識の持主は貴重だし、知識の吸収及び整理能力も高ければ高い方がのぞまれる。つまり学校秀才型能力だ。しかしその種の能力は守備的部門では不可欠だが、攻撃面では逆にマイナス作用を来しかねない。  何が正しいか、何がのぞましいかというバックデータを構築するためにはその能力で事足りるが、ビジネスの多くは、不確実な事柄に積極的にトライし、何がなんでも成功に結びつけるというアグレッシブな精神によってはじめて成就を見る性質のものであって、理に適わないことには腰を引いて手を出さないという姿勢ではほとんど役に立たない。  超一流校出身者が、営業乃至《ないし》は新規プロジェクトのような部門で頭角を現わし難い裏には、そうした学校秀才ならではの“アキレスの腱”がブレーキになるからだ。  そして、企業のトップの座に坐って全軍の隅々にまで目を光らせ、社員を活性化させ続けることの出来るリーダーは、そうした激烈なビジネス現場の修羅場を体を張って通り抜けてきたという経験なしには覚束ないのもまた事実だ。  ということは、一流大学出身者も末流校出身者も、入社したその瞬間から同一スタートラインに立って、受験競争とはまったく無関係な別の種目の競技に挑戦する気持でのぞまなければならないということになる。  ところが、一流校出身者には、とんでもない誤解の持主が少なくない。つまり、一流校を出さえすれば、社会人として別格の待遇を受けられると思い込んでいる点だ。  それはたしかに大蔵省のような役所では、キャリア、ノンキャリアの区別が厳然とあって、東大法学部卒業者の特別扱いは現実にはいまなお続いている。だがそれに民間企業が右へならえしていると思ったら、それはもはや時代錯誤と呼ばなければならないとんでもない勘違いなのだ。  会社の仕組みとしては、一般職、総合職の区別があり、中途試験による資格制度があって、それによってキャリア、ノンキャリアの差をつけていくということはある。が、一流大学卒が入社時から別扱いで、直ちに幹部候補の特別扱いを受けられるかというと、そうはいかないのがいまの現実なのだ。  その現実にぶち当たり、(なんだ東大を出ていてもなんの役にも立たないではないか)という不満と挫折感にまみれた学校秀才が、気を取り直し、持ち前の頑張りと頭のよさで、末流校出身者なんかに負けてたまるか、という気になってくれればいいのだが、多くはその逆になり易《やす》い。いい加減な思いつきを恥ずかしげもなく上に提案し、それをパワーでなんとかものにしてしまうといった乱暴なやり方にどうしても加担できないからだ。  もっと極端なことを言おうか。  私達の時代、つまり戦前の教育レベルは結構高かったせいもあるが、小学校で秀才といわれたほどの学力のある人間は、その基礎教養だけで、十分仕事の場面で他に擢《ぬき》んでることが出来た。それに加えて中学五年をしっかり勉強さえしておけば、あとはいわゆるオン・ザ・ジョブトレーニングという現場体験の上乗せだけで、企業集団のトップに躍り出ることもけっして難しいことではなかった。  いまもそれは基本的には変わっていないのではないか。言い替えれば、ビジネス世界というのは、知識学力以上に求められるものがあって、それに欠けている人間は、かりに一流大学卒であっても特別扱いしておくゆとりがないのだ。  それなのに、母親も子供も、いまなお一流大学さえ出ておけばという誤解を捨てず、まだ年端もいかない小学生の頃から受験能力アップのためだけに、遊ぶ時間はおろか、夜も寝ずに勉強勉強のハードスケジュールを強い続けている。考えてみればこんな虚しいことはない。  君も、会社へ入って一年経《た》ってみて、ようやく会社の中のマップが見え、会社がなんによって動き、どうやって伸びていくものかという仕組みが分ってきたのと一緒に、いま私が述べたような学歴の無力化傾向が強まる現実に気づきつつあると思う。  一年後輩の新人育成の重要な部分が君達の手に委ねられていると始めに書いたが、君の後輩にもし一流校出身者の勘違い人間がいたら、一日も早く洗脳してやる必要があるし、それが君達の務めでもある。 第十九信アポイントメントについて 「借りた金は返せるが、無駄にさせた時間を返すことはできない」と、昔先輩に言われたことがあったが、私にとってこれはいまだに忘れられない言葉の一つだ。  ところが世間はこれとは逆に、他人に金の迷惑をかけることは憚《はばか》るが、約束の時間を違えたりするのをさほど気にしない人の方がどちらかといえば多いような気がする。  それは人間すべてにわたって完璧というわけにはいかないから、時に忘れたり、万やむを得ず遅れることも皆無というわけにはいかない。だが、時間を守るのとそうでないのとはあきらかに人それぞれの癖であって、約束に遅れる人間は常に遅れ、時間を守ることの方が稀だ。そういうものの名前を冠して“○○タイム”と呼ぶが、人間こういう先入主を世間に与えるようになったら、信用の半分を失ってしまったと考えなければならない。ましてことビジネスに関する限り、時間の尊重はすべてに優先すると心すべきなのだ。 *    *    *  私達が小学生の頃はすでに日中戦争が始まっていて、軍国調が世の中を蔽《おお》い出した時期だった。  私は海洋少年団という、いわば海のボーイスカウトのような組織に入っていて、手旗信号やらロープの結び方、遠泳などを当時仕込まれたものだ。すべては海軍式のそのしつけの中で、私の中に一つだけ消えずに残ったのが、“五分前”という時間観念だった。  これは、何事もきめられた時間の五分前には準備万端整えておくというルールで、“総員起し五分前”というのは、起床時間が六時とすれば五時五十五分にはパッとはね起きていなければならないことを指し、食事、休憩、集合、作業開始、入浴、就寝まで、五分前主義を徹底して守らされたものだった。  近頃の目覚し時計には、一度で起きられないだらしのない人間がふえたせいか、何分か置きに何度も鳴るという仕掛けのものがあるそうだが、そんなものに頼らないでも、きまった時間の五分前になるとピタッと目が覚めるようになったのは、その“五分前主義”のおかげが大きかった。  私達の年代は、そのせいかどうか、会議にしろ、どこかへ行くのに皆でバスに乗るといったようなときにしろ、きまりの時間の五分前にはだいたい顔を揃えているが、いわゆる団塊の世代となるとそうはいかない。さも忙しげな格好で、何やら弁解を口にしながら遅れてやってきて涼しい顔をしているのが必ず何人かいる。そういうのを見るたびに戦争中のことを持ち出すとすぐ眉をひそめるが、この“五分前”といったよい習慣だけは継承してもいいのではないだろうかと思う。  ましてわれわれのように残りの人生が見えてくる年頃になると、いわれなく他人にそれを無駄にされると腹が立ってくるもので、若い人達の猛省を促したい。  腹が立つといえば、女性の時間に対するだらしのなさも困ったものだ。  もちろん女性全般が男に較べて時間の観念が稀薄だときめつけるつもりはない。女性も男性同様その点では人それぞれだからだ。  ただ一つだけあきらかな特徴を挙げれば、とかく女というものは狎《な》れ親しむ間柄になったとたんに、それまでとは人が違いでもしたように、コロッと変わって待合わせの時間に平気で遅れてくるようになる、という傾向がたしかにある。それも五分や十分ではなしに、三十分、一時間なのだから恐れ入る。  君の母さんもそうだった。  それはまだ結婚前のデート時代だったが、知り合った頃は外で待合わせても、時間前にちゃんと来ていたのが、お互いに特別の好意を確認してからというもの、次第に約束に遅れるようになり、喫茶店で一冊本を読みきるくらい待たされることも珍しくなくなった。  といって、「ご免なさい」と笑顔で言われると、それまでの腹立ちはたちまち溶け、文句一つ言えなかったのだから、われながら情けない。それでも、(これはいったいなぜなのだろう)と、その頃真剣に考え込んだものだ。あるいは時間もそうだが何事につけだらしのない性格ではないのか、もしそうだとしたら……と不安になったり、それこそ“釣った魚に餌はやらない”という比喩のように、気持を確かめ合った安心感から他人行儀な緊張が解けたそのせいによる努力放棄だろうか、と考えたりもしてみたが、不可解は残った。  それからいろいろと女を見てきていま分るのは、あれは甘え以外の何物でもなく、自分の幸福の一つの確認として、約束の時間にどれだけ遅れようとそれを格別咎《とが》めない相手を見届けたいという心理ではないか、ということだ。  そう考えてみると、時間に遅れて平気でいる人間というのは、約束の相手にだけでなく、世の中全体に甘えているといえはしないか。女性に甘えられるのは悪くないが、大の男に甘え凭《もた》れかかられては気色が悪いだけだ。  時間を守らない性癖の裏には、この甘えの構造ともう一つ責任転嫁がありそうだ。  たとえば車のドライバーだ。 「何時にどこそこで約束があるから」と行先への到着時間が動かし難いことを事前に告げておいたとする。ところが道が混んでいてとても時間通りに着きそうもないと見た途端、すかさず横道にそれ、なんとしてでも約束の時間までに先方に送り届けようと、努力の限りを尽くすのと、その混んで車の動かない道で、ひたすら悠々と前の車が動き出すのを待つばかりという二種類がある。  この後者に属するドライバーの心の中は、「この道を行くのがスタンダードであって、それが混んで動かないのだからしようがない。約束の時間に着かないのは自分のせいではないのだから」と、最初から問題解決に対する応用的思考を放棄しているに違いない。  たしかに道が混んでいるのはドライバーの責任ではないが、ハイヤーや自家用車のドライバーで事前に行先と到着予定時間を知らされているとしたら、道路状況をチェックし、混んでいればその対応を考えるのが本来だと思うのだが、多くはそうはしない。  だがこうした簡単に責任を他に転嫁して平気でいられる人間が、プロとして優秀な部類に属するわけがなく、その性格、物の考え方が人生レースで後れをとる原因になると考えなければならない。  さらに言えば、約束を違《たが》えて不可抗力を持ち出すこと自体、すでに一人前の男としては劣っていることの証明なのだ。  それはなにも大人になってからとは限らず、小学生の頃の遅刻常習者が毎度のことなのにそのたびにあれこれ理由を挙げて言い訳をするのを、君も覚えているだろう。あれでも分るように、不可抗力という理由がそんなにたくさんあるはずもないのに、自分のミスを棚に上げてそれをあげつらうのはただめめしいだけで、かえって見苦しい。遅れてしまったのは取り返しがつかないのだから、黙って詫びるしかなく、それで先方に許して貰えるかどうかは、その人間の平生がどうかということにかかっているということなのだ。  要は約束というものを重く見るかどうかということではないだろうか。  どんな約束にしろ、した限りは、自分の誇りにかけてそれを守ってみせる、たとえ道路渋滞に巻き込まれようと、それさえも織り込み済みでなければならないと、常に自分に言い聞かせておくことが大切なのだ。  とくに君のようなビジネス社会の新兵は、不可抗力という文字を自分の辞書から消し、先方の失念もしくは遅参の可能性を封じるためにも事前連絡を入れて念をつき、もちろんのこと自分自身は五分前どころか遅くとも十分前に約束の場所への到着を果せるよう抜かりなくやらなければならない、時は金以上なのだから。 第二十信 男の昼食について  ——昼飯はいつもどうしている? おそらくはほとんど毎日、同じような顔ぶれの気の合った仲間と食べてるんじゃないのかな。  しかし君も会社へ入って二年目なんだから、そろそろこの辺から本格的なビジネスマンを目指すようにすべきで、その意味では昼飯の喰《く》い方もまたその例外ではないということを知っておいて欲しい。  うちの会社でもそうだが、昼になると三々五々連れ立って食事に出かけるのを注意して見ていると、そのグループはたいてい固定していることが分る。とくにその傾向は女子社員に強く、これで誰と誰が仲がいいかという大げさにいえば社内派閥図がよく分るし、その逆に同じ課で机を並べて一見仲がいいように見えるのに、その実それほどでもないことが、昼飯を別々のグループに属して食べに行くのでそれと分るということもある。  ま、女の子はそれでもいいと思うが、いい年をした男までが十年一日同じように同じ仲間と毎日昼飯を喰いに行くのはあんまり褒めた話ではない。  だいたい、一般事務とかオペレーターとか工場勤務といった職種なら、昼飯を気の合った同士で楽しく摂るというのはいいことだと思う。だが、君のような営業職にある人間はそれではうまくない。ましてこれからのビジネスマンがそんなことで激烈な競争に勝ち残っていけるとは思えないからだ。  ニューヨークのビジネスマンはどうかというと、ルーティンワークに携わる人々は社員食堂やテイクアウトのハンバーガーやサンドイッチを日本同様仲間とパクついているが、ヤッピーと呼ばれる連中やアッパーミドルクラスになると、ランチタイムは休み時間どころかビジネスコミュニケーションの正念場で、彼らは、スケジュール表のランチのところをどれだけ約束で埋められるかというのが、そのまま業績の差になると考えているくらいなのだ。  だから、マンハッタンの中心街のレストランはどこもビジネスランチの客でいっぱいで、われわれのような旅行者はちゃんと予約を入れておかないと門前払いを喰わされるのが普通だ。  食事を共にするという行為が人間と人間の間を隔てる壁を低くするのは、アチラも日本も変わりはないのだが、それを昼飯で行なうというところが彼我の違いだ。それというのも、夜はパーティーやら観劇といった予定が多いし、家族団らんを大切にする社会だからビジネスにその時間を当てるという習慣が元々ないということもあってそうなるのだが、これからの日本もだんだんにそうなっていくのではないだろうか。  私達の時代は、仕事上のつきあいといえば、昼間は喫茶店でお茶を一緒にするくらいで夜が専らだった。それもメシだけでは済まずにもう一軒もう一軒とバーのハシゴをプラスしないと接待が行き届かないような気がして、トコトンやってしまうというパターンを繰り返してきたわけだが、君達の時代がその日本型からアチラ型に変わっていくであろうことは、最近の国際化のスピードのテンポを見る限りまず間違いない。  しかもアチラは、ランチだけでなく朝飯までをビジネスコミュニケーションに当てている人が多いのだからびっくりする。  日本でも近頃は朝食会と称して、財界人達が朝飯を喰いながらの勉強会を持つというのが流行りのようだが、アチラはさらに実質的であり、それが日常化している。  たとえばマンハッタンの中心部のしかるべきホテルのダイニングルームを朝八時頃覗いてみるといい。そこで朝食をつついている人々のうち宿泊客は三分の一程度で、その他のほとんどは近くにオフィスのあるビジネスマン達だ。それも日本のように、朝飯を家で食べさせて貰えず駅の立喰いそばで済ますのと同じ理由でホテルヘ寄っているというのとはまったく違う。彼等はオフィスに着いたら直ちにそれぞれの仕事にかからなければいけないから、クルーと打合せをしている暇などなく、それを朝飯を喰いながらやろうということで集まっているので、要するにブレックファストミーティングというわけだ。  よく日本人は働き者だといわれるが、こういうアチラのビジネスマン達を見ていると、その時間内労働密度の高さは日本人の比ではないとつくづく感心させられる。  つまりアフターファイブや休日の私的時間以外の時間は、まさに寸暇を惜しみメシの時間まで仕事に使って競争社会を生き抜こうという、日本人のモーレツなど足許にも及ばない働きぶりを至極当然のようにやっているのが、アチラのビジネスエリートなのだ。  ああいうのを見るとウカウカしてはいられないと、自分のズルズルッとけじめのない仕事ぶりが侮やまれるのだが、私達のような世代は今更それを変えようもない。だが君達は違う。われわれを見習うのではなくアチラのそういう連中のやり方をこそ手本にすべきだ、それが会社にとっても家族にとってもよりよい生き方なのだから。  話をランチョンミーティングに戻すと、アチラの大企業ともなると、オフィスの中に、エグゼクティブ以上の人達だけが使えるレストランルームがあるのが普通で、そこで役員同士の打合せを兼ねた昼食会も開けば、外部の大切な客の接待にも用いるようになっている。日本でもそれを真似したものが大会社にはポツポツ出来つつあるようだが、その使い方となるとどこか徹底を欠いている。大切な客を昼飯に招くのにいくら役員専用食堂とはいえ、そんなところでは失礼に当りはしないかと思うせいか、外の一流レストランや料亭ということについなりがちで、折角のVIPレストランは開店休業、閑古鳥が鳴いているというケースがどうも多いようだ。  しかし向こうの連中は違う。むしろ入れ込みの外のレストランに招くよりも、オフィスの中のそういう個室で接待する方がはるかに相手を尊重しているという自負があるからだろう。日本もその点そろそろ頭の切り替えどきに来ているのだが……。  さてそのランチョンコミュニケーションだが、それはなにも商売上の相手と生臭い話をするためばかりとは限らない。たとえば君のような営業職でなく、総務や人事といった管理部門に身を置く人間でも、ランチタイムをどう自分にとってプラスになるように使うか、という工夫をするのとしないのでは大いに違う。  かりに君が総務の人間だったとする。いまのところはまだ新入社員に毛の生えた二年生社員に過ぎず、やらされる仕事も次元の低い雑用に近い事柄が多いかも知れないが、だからといって一般事務の女子社員と同じ気分でいてはいけない、将来会社の幹部を目指そうというのなら。  そういう意識に立つ限り、昼飯を喰う相手に計画的にバラエティーをつけ、出来るだけ幅広くさまざまな人間と昼食を共にすることだ。社内にしても平素は往き来のない部門がたくさんあるはずで、そういうところにいる同期入社の人間を順繰りに昼飯に誘って情報を得、刻々と変化している社内のマップを自分の中に高い精度でインプットしておくことを心掛けるのも一つ。また総務人事といった仕事にしても、世の中の変化につれてどんどん新しく変わってきているだけに、そうしたトレンドに対するアンテナの感度を高めておくことも大切で、そのためにも、外部の専門家や他社にいる仲間との有効なランチョンコミュニケーションを、積極的にスケジュールの中に組み入れるくらいの意欲があって欲しい。  ——昼どきによく皇居前あたりをクルマで通りかかることがあるが、そこでのんびりキャッチボールなどをしているサラリーマンの姿を見るたびに、近頃の私は(これでいいのかな)と首をかしげるのだが、君はどう思う? 第二十一信「女子社員」について  今日もうちの会社の社員同士の結婚披露宴があってそれに出てきたんだが、君のところも社内結婚が多いんじゃないのかな。  だいたい近頃の若い娘が一流企業に入りたがるのは、そこでひとかどのキャリアウーマンになるのが目的ではなくて、要するにお婿さん探しなんだそうだな。それというのも一流企業には一流大学出の毛並みのいいエリートが集まるからで、うまくそれが掴まえられればさっさと結婚して会社を辞めていってしまうんだから、会社もいい面の皮だ。  しかしこれも考えてみれば当り前の話なんだな。「人間はパンのみによって生くるに非ず」というが、パンに困らない人間に額に汗して働けというのがそもそも無理なんで、アメリカのようにキャリアウーマンの本場みたいな社会でも、中流から上の階層に属する家の奥さんで働いているのはごく稀で、ボランティアはやっても金が目当てで働いているなんてことはほとんどないそうだ。  つまりいまの日本は、誰もがその中流に近くなってしまったのだから、女に働くということにもっと真剣になれと要求すること自体無理なのかも知れない。  男女雇用機会均等法が出来て、多くの会社が大卒女子の新入社員に一般職と総合職という二つのコースを設けてそのいずれかの選択を求めるようになった。総合職というのはいわばキャリアコースで、男子の大卒同様に幹部への登用機会が開かれているから、当然こちらの方を志望するのが圧倒的に多いと思っていたら、なんとフタを開けてみるとそれが一割弱で、ほとんどは一般職を選ぶというんだな。  これは、総合職になるとたしかに出世の道は開かれはするものの、残業もあれば転勤もあるから、そんなことならいままで通りの職場の花で結構というように考えるせいなんだろうな。それでいながら、「会社は男社会」だとか、「男女差別が依然としてある」と口を尖らせ、その一方で産休や母性保護という逆差別を言い立てるのだから、女という存在は職場にあっても不可解という他はない。  だが、そうはいうものの、この世は男と女で成り立っているのだし、職場もまたその例外ではないのだから、なんとか上手に協調を図っていくしかない。なにしろ、職場で女性軍を敵に回すくらいつまらないこともないし、それで仕事がやり難くなるばかりでなく、妙な風評でも立てられようなものなら、出世はおろかそれが元で会社を辞めなければならない羽目にさえ落ちかねないのだから、怖い。 *    *    *  会社の中での女性扱いにおける心得の第一条は彼女達に対する物言いだ。  中でも最も気をつけなければならないのは彼女達を「女の子」と呼ぶことだ。なにしろ差別コンプレックスに凝り固まっている彼女達のことだから、「女の子」などという呼称は絶対のタブーなのだ。  近頃は子供達の世界でも女上位で、女の子が男の子を呼び捨てにするのがはやっているそうだが、会社にもその風潮があって、女子社員が男子社員を掴まえて「ナントカ君」と君づけで呼んでいるのをよく耳にする。しかしそれに調子を合わせるのはあまり賢明とはいえない。なぜなら、それによって親しみは持って貰えるかも知れないが、自分達のレベルヘ引き下ろして同じ仲間扱いをされるだけでけっして尊敬は受けないからだ。女は出来ることなら男を尊敬していたい生きものだということを、ここでも忘れてはいけない。  さらに言えば、呼び方は「さん」づけがいい。先輩にあたる女性にはもちろんのことだが、同僚後輩も「さん」をつけて呼んでおくのが何かにつけて無難であり、しかもそういう折目正しさを嫌う女性はまずいないということもある。  冗談がいえるということは、とりも直さずそれだけ親しくなったという証拠で、男同士はからかいや軽い皮肉を含んだ冗談をぶっつけ合うのをむしろ楽しむふうがあるが、いくら親しくなったとはいえ、女子社員には慎んだ方がいい。まして容姿や服装に関してはまかり間違っても皮肉やジョークは飛ばさないことだ。  女というものは、なにも職場に限らず冗談の通じないものと心得ておいた方がいい。それがかりに客の機嫌をとり結ぶのが商売の飲み屋のホステスが相手だったとしてもなのだ。  かなりくだけて世慣れている女性でも、男に較べたらはるかに生真面目《きまじめ》で融通が利かないのが普通だから、若い娘は尚更《なおさら》だと思ってまず間違いない。  女に憎まれないだけでなく、それによって尊敬される皮肉を言えるようになったらそれこそ男として超一流だが、そんな達人はめったにいるものではなく、いい年をして懲りずにいわずもがなの皮肉を言っては嫌われているのが普通だから、君子危きに近寄らず、女に皮肉は通ぜずと、そう思い込んでおくに越したことはない。  冗談でもう一つ気をつけなければならないのは、性的なからかいだ。  昔はよく、通りすがりに女子社員のお尻に触るという好色にして大胆な上司がいたもので、やられる方も(あの人はビョーキだから)と大目に見ていたが、近頃はそうあっさりと許してくれなくなったらしい。  これはアメリカの話だが、職場で上司が女子社員に「今度の週末あたりどこかヘドライブにでも行かないか」と軽く誘ったりしただけで、それを上司の権限を笠にきた「セクシャルハラスメント=性的侮辱」だとして公の機関に訴えられるというケースが、この十年程続発しているのだそうだ。しかもそれに対するペナルティーが、当人に対して数千ドルが科せられるだけでなく、会社に対しても監督責任ということでそれに十倍する罰金が言い渡されるというのだから、お尻にでも触ろうものならそれこそどんなことになるか見当がつかない。  はやりのオフィスラブにしても、二人の仲のこじれようによっては「セクシャルハラスメント」ということにされて訴えられるかも知れず、そうなれば、軽々と女子社員に手が出せなくなるからそれも悪くないなという気がしないでもないが、恐しい世の中になったものだ。  アメリカのそうした傾向は遠からず日本にも及んでくるのがこの戦後四十数年のならいだから、君が中年の上司になる頃にはきっとそうなっているに違いなく、いまから気をつけておいた方がいいかも知れない。 *    *    *  日本にキャリアウーマンが育つかどうかということとは別に、女性の職場進出が今後一層盛んになるであろうことはどうやらたしかだ。ということは江戸城ではないが職場に大奥が出来るようなものでもあるわけで、これがまた男には想像も出来ない凄い世界なのだそうな。  人間が寄り集まればその必然として派閥が出来るのは自然の理だが、仄聞《そくぶん》するところによれば、男のそれに較べて女の徒党性というのはあまりにも素朴あまりにも露骨で、その対立にはむき出しの敵意が露《あらわ》になるという。そしてその党派のボスは大奥並みに表の権力にまで隠然たる影響力を持つ場合があるというから怖い。といって、その女のボスにとり入ってご機嫌をとり結んだ方がいいなどというつもりはなく、むしろ逆にそしらぬ顔で超然としているべきなのだ。  女というものは、自分のいいなりになる従者のような男を重宝がりはするが、けっして敬意に基づく好意を抱いたりはしないものだということもまたたしかだからだ。  男と女の間には深くて暗い河があるというが、泳ぎ下手は河を渡ろうなどと思わないに越したことはない。 第二十二信「礼装」について  この間、社員の結婚披露宴があって出てみたところ、君と同年輩の、そう、新郎の友人達なんだろうが、彼等が挙《こぞ》ってタキシードを着込んでいるのにはびっくりした。  三時からの披露宴だから、夜の略礼装であるタキシードでは場違いだというような非難をここで改めてするつもりはないが、なんでタキシードを皆持っているのかというのがその驚きの理由だ。  私なんか、つい去年、海外出張の予定の中にブラックタイ指定のパーティーがあってよんどころなく初めてタキシードを新調したんだが、それ以外はほとんど着る機会がなくて、タンスのこやしになっている。  つまり日本では、いまのところタキシードでなければならないという場面というのはごく稀なのに、なんで若い人達が先を争ってタキシードを作りたがるのか、それが分らないのだ。  だから意地の悪いことをいえば「その他にいったいどんな服を持っているの」と聞き糺《ただ》してみたい気になる。  しかし、礼装に対してまったく無頓着《むとんちやく》というのよりは、タキシードの一つも作っておこうという心掛けの方がマシなのはたしかなんだが、それならそれで、もう少し礼装のなんたるかを知っておいて欲しいと思うんだ。  君も会社勤めをするようになって、葬式の手伝いとか、パーティーに顔を出すことが結構あると思うが、サラリーマンの礼装というのは、これでなかなかに難しく、デリカシーを求められるものなんだ。  よく雑誌や本に服飾評論家といわれるような人達が、礼装の心得について書いているけれど、あれもよく読んでみると半可通《はんかつう》でかなり怪しいところがあり、読み較べてみると書き手によってはかなりな違いがあって、どっちを信用していいのやら迷うことがある。  それも考えてみれば無理のない話で、いまの日本の礼装というのはほとんど洋式だが、その洋式の礼装というのも、イギリスとフランスでは必ずしもすべての点で一致していないし、新興国のアメリカだとまた随分と勝手が違うから、どれをスタンダードときめつけるわけにはいかないのが礼装というものだからだ。  しかも、同じアメリカでも階層によってはかなり考え方に差があるし、西部のスペイン支配を経験している地域と東部では微妙に食い違うところがあるというくらいだから、他所《よ そ》者《もの》に分るはずがない。  夜会だったらタキシードときめ込んでいると、正式な場ではいまでも燕尾服でないといけないといわれることだってなくはないし、甘く考えているととんでもない恥をかくことにもなりかねない。  しかしそれは階層社会がいまだに厳然と存在している国の話で、それも平均的庶民とすれば、そんなシンデレラになるような経験は一生に一度もないのが普通だから悩む必要など現実にはないんだが、いまの日本というのは困ったことに何につけ一流志向が強く、アチラの猿真似をしたがる傾向があって、その分われわれも苦労が多いというわけだ。  しかし、今日ここで君に言っておきたいことは、そんな洋式礼装のウンチクを垂れようというつもりはなく、現実的な礼装に関する気遣いについてだ。  まず葬式のことから始めようか。  通夜は訃報を知って慌てて駈けつければいいということで、着のみ着のままの平服でいいとされているが、サラリーマンとしては、せめてネクタイくらいは黒を常に用意しておいて締め替えていくくらいの気遣いは欲しいし、腕に巻く喪章もいつもデスクの抽出《ひきだ》しに入れておくことだ。  葬儀告別式は黒の上下に黒のネクタイが日本のスタンダードだが、外国人は必ずしもそうではない。先日も松下幸之助さんの来会者数万人という大葬儀に行ったが、そこへ外国からの来賓が多く見えていたけれどモーニングやダークスーツは数えるほどで、ほとんどは普通のスーツに喪章だけをつけていた。これでも分るように、黒い喪章さえつければそれで非礼に当らないというのが諸外国の一般的常識らしいが、やはり日本ではそうはいかない。  正式にはモーニングで、これも弔辞を読む特別な来賓はその方がいいが、一般来会者はそうした人達とちょっと差をつけて、黒の上下くらいにした方が妙に目立たなくていい。  その黒のスーツだが、タキシードに準じる略礼装として、冠婚葬祭すべてに通し、昼間も夜も問われない、剣衿のシングルブレストでいわゆるディレクタースーツと呼ばれる黒の上下を一着作っておくと、ほとんどの場所で通用するから便利だ。  君達のような若い社員は、会社関係の葬式というと、道案内や車の係、受付といった仕事をやらされるのが普通だが、このときもいかに下働きとはいえ、グレーのスーツで喪章だけというのはまずい。  その意味では、会社の自分のロッカーに、そのディレクタースーツと白のワイシャツに黒のネクタイを一揃い常備しておいた方がいい。なにしろ結婚式のような祝い事とは違い、葬式には予告がなく降って湧いたように礼装の必要に迫られるからだ。  結婚式は改めて言うまでもないだろう、君達は月に何回も友達の結婚式に出ているからだ。ただ気をつけて欲しいのは、新郎よりも目立つような格好をしないことだ。かりにタキシードを着るにしても、シャツの胸のタックは控えめの方がよく、タイもあまり大きめな派手なものは避けた方が、よほど人柄がよく見える。  そうなんだ、ビジネスマンの礼装ないし略礼装で最も気を配るべきなのは目立ち過ぎないということなのだ。  とくに若い人達は、控えめであればあるほどいいといってまずさしつかえない。パーティー会場などで派手に目立っていいのは、芸能人と政治家くらいなもので、彼等は存在をより強くアピールするのが商売だからしようがないが、その真似を若いサラリーマンがやったらいいことなど一つもない。  そのためには、パーティーなるものをよくよく研究しておくことだ。つまり機会があったら尻ごみせずに出来るだけ場数を踏んでおいた方がいい。そして、じっくりと観察することだ。(ああいうのはいやだな)と、服装にしろマナーにしろ見ていて気になるようなケースを反面教師としてしっかりメモリーするように心掛けるのだ。  そういう目で見ると、日本のパーティーというのはまさに反面教師だらけで、格好だけはタキシードでピシッときめていても、その飲食ぶりや人との対し方がまるでなっていないのが圧倒的多数だということがきっと分るはずだ。  もし君の目にそのように映る人がいたら、それも悪い意味での目立ち過ぎなのだ。パーティーというものは不思議なもので、その場面に頃合いにピタッとはまって無理のない人はほとんど目立たない。だから逆に目立たない人をじっと追跡観察するのもパーティー実学の一つの演習方法といえる。  できるだけ多くの人と話を交わし、それも長引かせずにさりげなく次の人に移っていく技術を水の流れのようにやってのけている人の服装は、おそらく実に見事にそのパーティーのレベルに適《かな》っているに違いない。  ——要するに、礼装の極意をひとことでいえば、その場に紛れ込んで目立たないということではないか、と私は思う。  忍者の服装が風景の中に紛れ込んで目立たないように工夫されているように、練達のビジネスマンの礼装もまた保護色のように一見無個性であることこそのぞましいのだ。 一度君のワードローブを点検してみることにするか。 第二十三信「馴染みの店」について 『一杯のかけそば』という短篇小説がひところ随分と話題になった。  私は涙もろいタチだから、あれが転載された週刊誌を読んで恥ずかしながら貰い泣きをした口だ。  だからといって、いい話だから君もまだ読んでいないのなら是非読んでみなさい、というつもりはまったくない。ただ、あれを読みながらふっと思ったのは、昔、私にもあんなふうに情けをかけてくれたそば屋のあるじ夫婦のような人がいたな、ということだ。  それは昭和二十年の終戦から五、六年経《た》った頃のことだ。私は大学に入ったものの、学校の勉強どころか空腹をしのぐために、学校へ出るよりはアルバイト先に顔を出す方が多いという毎日だった。それはなにも私だけでなく、あの頃の学生というのは、ほんのひと握りの裕福な連中を除いてはほとんど似たり寄ったりの半飢餓状態にあった。  その頃の私は、学部の先輩で、新聞社に勤めながら文芸評論を書いている人に誘われて、まだ学生の身分でありながら新聞記者の卵のような仕事を学校そっちのけでやっていた。といっても正社員ではなく日当制だったから収入はたいしたことはなく、三度三度の食事に事欠かない程度に過ぎなかった。  だが、夕方の一杯となるととてもそんな余裕はなかった。酒の味を覚えたてだったのと、なにしろ酒豪揃いの新聞社だから、仕事が退《ひ》けるとどうしても近くのバラック建ての飲み屋街に足を運ぶことになるのだが、懐の方にはとてもそんなゆとりはない。  だから飲むとはいっても、一杯三十円の焼酎をグラスに二杯が財政上の限界で、調子に乗ってもう一杯、あるいは湯豆腐やモツ煮込みといった肴を取ろうものならたちまち懐は破綻してしまい、翌朝の外食券食堂のメシ代に喰《く》い込んでしまう。  毎晩のように顔を出していたその店は、十人も入るといっぱいになる小さなカウンターの飲み屋で、私の母親とほぼ同年輩のおばさんが一人でやっていて、われわれ若い客はそのおかみを「お母さん」と呼んでいたものだ。  だんだん馴染《なじ》んできて、私なんかが、空きっ腹におつまみなしで焼酎を流し込んでいると、焙った目刺しを二、三本ひょいと差し出し、片目をつむって、「サービスよ」と言ってくれたりするようになった。  懐が乏しいとき、「じゃあお勘定して」と声をかけると、まるでこちらの財布を透視してでもいるように、「いいよ、つけといてあげるよ」とぶっきら棒に言ってくれ、そのあたりを境にひと月分を給料日に払うようになったんだが、なにしろひどい時代だったから、靴下一つ買うのにも考え込むという按配で、どうしても飲み屋の勘定は溜まりがちになり、ひどいときは一年くらい溜めたこともあった。それでも「いいのよ、気にしないで。あなたの勘定くらいじゃ潰れないから」と言ってくれ、遠慮して足が遠のくと、電話がかかってきて「なぜ来ないの?」と水を向けてくれたりもした。  これはなにも私だけに限ったことではなく、同じような若い常連は、随分とその「お母さん」の世話になったもので、それこそ『一杯のかけそば』以上の人情を受けたことになる。その「お母さん」はもう二十年以上前に亡くなったが、考えてみればあの飲み屋に慰められ励まされたおかげで、曲りなりにもいまがあるような気がするくらいだ。  それから後も、さまざまな「馴染みの店」が私にはあった。縄のれんのような一杯飲み屋もあれば、銀座の地下の潜水艦の中のような小さな酒場もあったし、いま七十になってまだ毎晩店に出てきているママの店は三十年以上も通い続けている。  それは私が酒飲みのせいでそうなったんで、母さんに言わせれば、「あなたがもしお酒を飲まなかったら間違いなくもう一軒家が建ってたわね」ということになるのだが、私は、家一軒よりもっと大切なものが、この「馴染みの店」にあったような気がしてならない。  とくに日本のサラリーマンというものは、会社を退けた後、その仲間と連れ立って一杯やり、昼間の続きを酒でほぐれた状態でやり合うというところがあって、これをトインビーあたりが「日本型ビジネスの一つの大きな原動力」と評価し羨《うらや》ましがっているくらいで、一種仕事に不可欠な時間といっても、けっして酒飲みの自己正当化には当らない。  そこで、その「馴染みの店」だが、君もそろそろサラリーマン二年生だから、二軒や三軒のそういう店が出来た頃ではないかと思うのでちょっと言っておきたいと思う。  それというのも「馴染みの店」というのにはある意味で両刃の剣的性格があるからだ。  なにしろ「酒」とくれば「女」と続くのは今も昔も変わらないことで、「馴染み」になれるというのは、会社のすぐ近くにあるからとか、勘定が頃合でリーズナブルだからといった理由もないではないが、その店の人間と波長が合い、好意を持てるということなしにはなかなかそうはならないもので、しかもそれはたいていが女性である。  私が若い頃世話になった飲み屋のように、母親ほどに年が違えばそんな気分になることはまずないが、五つや六つ年上だったら「好意」なるものの盾に男と女の気持がまじったとしてなんの不思議もない。  そこでだ。私の長年の懺悔録《ざんげろく》の箴言《しんげん》によれば、もしその「馴染みの店」を大切にしようと思うのなら、じっと我慢して「好意」にワクをはめ続けるのが最も賢明だと思う。  こういうと、そんなことから飲み屋の女と結婚しなければならないような羽目にでもなってはと、それを危惧してのことのように受け取られるかも知れないが、そうではない。もし君が飲み屋の娘と結婚をする気持を固めたからといってそれに反対するつもりはないし、結婚しないまでも飲み屋の女を恋人にしたからといって咎《とが》める気もない。  ただ、ひとたびそういう特別な関係になってしまうと、その相手がママであろうと使用人だろうと、もはやそこは「馴染みの店」たり得なくなるからだ。つまり一軒の貴重な「馴染みの店」を失うことでもある。  男と女の思いというのは不思議なもので、かっとのぼせて飯も喉を通らなくなるほど惚れ込んでもそれを言葉に出して確認しないまま時間が経過すると、嘘のようにただの「好意」に澄んでくるもので、「馴染みの店」の場合、(ああこれでよかったんだ)と必ず後で思うものだからだ。  女のことでついでにいえば、かりに深くなろうがなるまいが、その店の誰かと気持が通じ合っているのが「馴染みの店」だから、その相手と違うもう一人の店の女に心を移すのもまた、その「馴染みの店」を失うきっかけになるというのを忘れないことだ。  女というものは、別に気持を確認し合ったわけでもなく、もちろん深い関係などなくても、自分が好意を持っていて、しかもしょっちゅうやってきてくれる客に、新入りの女の子に尋常でない関心を抱かれたりすると、嫉妬《しつと》する権利があろうがなかろうが逆上するのがパターンだからだ。  それも、自分の方ではどうでもいいと思っている客でも、それが自分に通ってきてくれているのが明白な場合、その客が自分以外の女に熱っぽい目を向けたりすると、心穏やかでなくなるのが女というもので、これは飲み屋ばかりとは限らないのだが、小さな箱の中だけに、そんなことにでもなろうものなら、たちまち気まずくなって、ついつい足が遠のくのもまた、酒飲みのパターンの一つなのだ。  これは蛇足かも知れないが、「馴染みの店」と自分で思っている店の勘定だけは、どこにも優先させてキチンキチンと払うよう心掛けておいた方がいい、「馴染みの店」という男の止まり木を大事だと思うならば。 第二十四信サラリーマンの夏休みについて  去年の夏、たしか君は一週間夏休みをとったと記憶しているんだが、今年は二日休んだきりだったようだね。  会社に対して遠慮のある新入社員のときに目いっぱい休んで、会社に馴染《なじ》んできた今年になって君がその半分も休まなかったというのが、私には興味深かった。  日本人は働き過ぎだ、という世界各国からの非難をなんとかかわそうと、政府が先頭に立って“休め休め”と民間企業を煽《あお》ったその効果が出てきて、今年あたりは夏期休暇連続一週間という企業が普通になって、会社一斉休業に踏みきるところも結構ふえてきた。  おかげでいわゆるお盆休みの東京はゴーストタウンのように閑散として、空気が澄み、夏雲が眩しかった。ということは、とりも直さず私は今年もまた夏休みをとらずに毎日会社に出ていたということになる。会社の若い連中や君の母親にいわせると、私のような人間は昭和ヒトケタ特有のワーカホリックで、きっと死ぬまで治らないのではないかと、呆《あき》れて文句を言う気にもならないんだそうだが、必ずしもそうとばかりはいえないんじゃないかと思うんだ。  去年の秋から今年にかけて仕事で三度もパリに行ったのは君も知っての通りだが、それでだんだん分ってきたことがいくつかある中の一つは、パリは七月に入るとほとんどの人間がバカンスで田舎へ出かけてしまうというのが我々日本人の常識だが、実は必ずしもそうではないということを知ったことだ。  それはたしかに日本のお盆休みのように七月から八月にかけてのパリの街は閑散として人通りも少ないが、私のように休むわけにはいかず居残って仕事をしている人も結構いる。それはなにも観光客相手の店やサービス業者だけとは限らず、意外にも企業のお偉方に多いのだ。常識的にはそういうお偉方こそ田舎に別荘などを持っていて、そっちへ行きっぱなしではないのかと考えるのが順当なのだろうが、現実にはそんなノンキなことをしていられるのはごく一握りのオーナービジネスマンで、働き盛りのエグゼクティブは、家族は別荘にやっても自分自身は一人パリに残って、ほとんど人気のないオフィスで孤軍奮闘を強いられている、というのが珍しくない。  フランスの大企業の経営トップである知人を見ていると、朝パリの本社で会議をやっていたかと思うと、午后一番のコンコルドでニューヨークヘ飛び、その翌日にはロンドン、夕方にはパリというハードスケジュールを至極当然のように日常的にこなしていて、それは七月も八月もないのだから、私なんかそれと較べればほとんど怠け者の部類に属する。  ニューヨークのエリートビジネスマンもそうで、何日からバケーションのスケジュールになっていると聞いて会うのを諦《あきら》めていたら、向こうから電話があって「会いたい」といってきた。「バケーションじゃなかったのか」と聞くと、「家族につき合って二日だけ行って帰ってきた、ひと夏田舎で過ごすなんて贅沢はリタイアするまでお預けだな」と笑い飛ばしていたが、働き盛りというのはいずこも同じなんだと、ホッとしたものだった。  君の会社の社長や専務はどうしているか知らないが、日本の企業トップもそんなにたっぷりと夏休みをとれる人はごく稀らしい。  夏の軽井沢あたりは、一流企業のトップや財界人がそっくり移住しているかのようにいわれるが、あれも実状はだいぶ違う。  軽井沢で財界人のためのセミナーが開かれ、ゴルフ場は政財界人が目白押しのようにマスコミは伝えるが、夏じゅう行きっきりでそんなことをやっているのは、相談役といった事実上引退した人くらいなもので、ほとんどは車かグリーン車で往復していて、軽井沢に居ついて華やかにやっているのはその家族だけというのが実態だ。  だから、日本のエリート階層と呼ばれる人で夏を軽井沢でずっと過ごせるというのは、学者か画家、小説家といった人々だけであって、ビジネス社会に現役で身を置く人にはそんな時間のゆとりなどなく、それは現在も将来もたいして変わりそうにないということは、バカンスの本場のパリやニューヨークの連中を見れば納得がいくはずだ。  こう書くと、何やら夏休みをとらない私の自己弁護めいて聞えるかも知れないが、そうではないのだという理由をもう少し書く。  世の中というものは、なんによらずタテマエとホンネがあるもので、この企業における夏期休暇というものにもそれがある。つまり「休め休め」というのは、いまの日本企業のタテマエなのだ。さっきも書いたように、労働時間の違いが経済競争の不均衡を生むとして欧米は日本の労働時間短縮を強く要求し続け、それを無視するわけにもいかないということはたしかにある。それに加えて日本の労働市場がすっかり売り手市場化し、若い質のいい労働力を確保するためには、賃金だけでなく福祉や有給休暇の面で優遇しないわけにはいかず、この夏の休暇もリクルート戦略の一つの目玉となって、競って長期化の方向にあるのもまたたしかなことだ。  しかし、飽くなき成長を目標とする企業とすれば、一日でも余計に働いて利益を追求するのは当然のことで、社員のモラルを損なわないために夏期長期休暇は実施するものの、それで指をくわえているというわけにはいかない。となれば、貢献度の高いエグゼクティブクラスくらいはそれとは関係なしに頑張って貰わなければということにどうしてもなる。  といって一人だけ出てきて飛び回っても仕事ははかどるものではなく、頼みになる連中には「悪いが頼むよ」と夏期休暇の返上を求めることになるわけで、この手紙の冒頭に、君が今年二日しか休めなかったというのを興味深いと書いたのはそのことなのだ。  要するに、夏期休暇という権利を自分の都合で好きにとれるのは、女子社員やOA機器のオペレーターといったルーティンワーカーと呼ばれる社員で、これは電源を切って機械を止めるように、そうときまったら当てにしないで済む人々だ。それに対して、そこを百も承知で出てきて貰いたいと上に言わせるのは、その人間にそれだけの期待があるからで、言い替えれば、認めていない人間にはそんな掟破りまでして物を頼まないということでもある。  だいたい平均労働時間などというものは、その他大勢のためにある労働者の権利保護の思想から発想したもので、社会の仕組みとしては大切なことではあるものの、自己完結的な仕事に携わっている人間が百パーセントそれに縛られていてはとてもその遂行は難しい。  こういうことを言うと、労働組合側の人からは激しい反撥を受けるだろうが、平均労働時間が日本よりはるかに低いアメリカやフランスの仕事師達のあの猛烈な仕事ぶりを見ていると、タテマエだけをまともに受けて、休んではいられない連中までがいい気になって休んでしまうことの怖さを感じるのだ。  イギリスの貴族は、ひとたび指揮官として戦場にのぞむと、最も危険な先頭に立って闘い、兵士達は休ませても自分は寝ないという。つまり、人の上に立つほどの人間は、等しく並な安息を求めるようでは務まらないという自負を彼等は幼い頃から植えつけられているからだ。  私にいわせれば、夏休みをたっぷりととって家族とそれを楽しめるのを羨《うらや》ましいと思う人は、そちら側の人生を選択すればいいし、皆が休んでいるときにキリキリ働いている自分を格別哀れだと思わない人だけが休暇を返上すればいいと思うのだ。  もっとも今度生まれ変わってきたらどちらを選ぶと聞かれれば、ためらうことなくゆるりと人生を楽しむ方を選ぶと思うが、いまはこれを変えるわけにはいかない。こういう私をやっぱり偏っていると君は思うか? 第二十五信「早婚」について  君の高校時代からの親友Y君が結婚するということで、さっき君はかなり心配して僕に意見を求めていたが、その場に母さんもいたことだしはっきりしたことが言えなかったので、手紙に書くことにする。  なぜ母さんの前で言い難かったかといえば、それは私達が早婚だったからだ。といって、早婚それ自体に対してけっして否定的というわけではないのだが、やはり母さんの前では話し難い。そのことで私がハンデを背負ったのはたしかだし、母さんもそれなりに苦労があったに違いなく、それを今更蒸し返すのは大人げないし第一無神経だ。  私達が一緒になったのは、私が二十一、母さんが二十だった。昭和二十九年、戦後の食糧難時代はすでに終ってはいたが、まだまだ戦後の苦しかった頃の名残は消えきっていなかった。  当時結婚披露宴をいまのようにホテルの宴会場を使って派手にやるといったのはごく一部の人達だけで、第一日本人の使えるホテルはほんの数えるほどだった。その頃たいていの人達がそうだったように、私達もちょっとした料理屋の座敷を借りきり、親きょうだいとほんのひと握りの親しい友人だけという小ぢんまりとしたつましい宴を持っただけだった。  新居とは名ばかりで、六畳一間の木造アパートはトイレも台所も共用という侘《わび》しいものだったし、新婚旅行も熱海へ二泊しただけで三日目からは早くも勤めに出た。  私は学校には籍を置いているだけで、小さな新聞社の記者の真似事のような仕事にほとんどの時間を取られ、母さんは当時の洋裁学校を出て、銀座の洋裁店で働いていた。  共稼ぎには違いなかったが、二人の収入を合わせても、給料前になると日曜日に映画に行くどころか、晩ごはんのおかずが湯豆腐だけという日が何日も続くといったぐあいで、時計やオーバーがしょっちゅう質屋ののれんをくぐる明け暮れだった。  それでも二人が寄り添っていられるだけでよかったのは二十一と二十という若さのせいだった。着るものが粗末だろうと、電車賃が怪しくなろうと笑っていられたという私達の蜜月《みつげつ》が現実に引き戻されたのは、私達の間に最初の子供が出来たときだった。  その頃私は大学を出ていまの会社に入ったばかりだった。すでに結婚しているということだけでも肩身が狭いのに、その上子供が出来ましたともいえず、会社には隠していたのだが、困ったのは、産むとなれば母さんが勤めをやめなければならず、それはそのまま私の新入社員の給料だけでやっていくということであり、しかも産まれた子のミルク代その他の出銭がふえるのだから喜んでばかりはいられなかったのだ。  私は心を鬼にして母さんに「堕《おろ》そう」と提案したのだが、母さんは明るく笑って「なんとかなるわよ」と言って応じようとはしなかった。私はなんの成算もなかったが、それを押しきれないまま、「うん」と頷《うなず》いた。  そうやって生まれたのが、いま二人の子の母になっている君の上の姉さんだ。  私達の結婚は、早婚ということで両方の実家に背いての、いわば駈け落ちに近いものだったから、子供が産まれるからといって親に泣きつくというわけにはいかなかった。それでも初孫ということで、母さんのおばあちゃんがおじいちゃんに隠れて出産費用その他についてそっと助けてくれたが、月々の生活費まで援助して貰うわけにはいかなかった。それでも母さんは急に苦しくなった家計をどうやって切り盛りしたのかは知らないが、笑みをたやさず頑張った。それを横目に見ながら平気な顔もしていられず、私も出来る限りの協力をしたものだった。  毎晩の食膳に一本だけではあったが必ずついていた酒を断った。学生時代から読み続けていた総合雑誌や文芸雑誌を買うのをやめただけでなく、馴染《なじ》みの本屋の前を素通りすることを心に誓った。  その当時会社には社員に回り番で宿直が義務づけられていたが、それを嫌がるのがいると進んで代わってやったのは、その手当が莫迦《ばか》にならなかったからだ。  喫茶店や縄のれんの一杯につき合うゆとりもなく、同年輩の連中は当然ながら独身で、若い女子社員を映画に誘ったりといった按配で年相応のラブアフェアに憂き身をやつしているのに、私はといえば十年先輩の人達以上に世帯じみて、家と会社のダイレクトな往復に脇見もしなかったのは、たしかに大きな偏りだった。  しかし、仕事だけは同輩に負けまいと頑張った。生来の負けん気もあったが、与えられた仕事にムキになって取り組んだのは、やはり少しでも早く上から認められてしかるべき処遇を受けることで、母さんを楽にさせてやりたいという気持が強かったからだろう。  だが、いまその頃の自分をふり返ってみると、身が竦《すく》むような気分になる。なりふりかまわずガツガツしていたに違いないからだ。そしてその習性がいまもって消えきっていないのではないかという不安だ。  人間というものには、年代なりの生き方というものがあって、自然にそれに従い、年と共に成長変化していく方がいいにきまっているというのに、それに逆らって無理をすればどうしてもその人間に歪みをもたらすということを、この年まで生きてくると紛れもなく思い知らされるのだ。  私はたしかに他人と較べれば働き者かも知れない。同期入社の人間より出世が早い方だったのもたしかだ。しかし、ぬくぬくとノンキな若い連中を見ていると反射的に苛立《いらだ》ちを覚えるのはどうも普通ではない。  要するにゆとりに欠けるのだ。他人に対してどうしても寛容になれないのだ。一人前の社会人になりながらいつまでも学生気分を引きずって遊び半分なのがどうにも許せないのだ。  私は、そういう自分を意地の悪い目で見ることがある。あの頃、まるで遮眼帯をつけさせられた競走馬のように、脇目もふらずただひたすら前だけ見て突っ走るだけだった前半生の偏狭の結果がそれではないのかと、冷たくつき放したくなるのだ。  母さんの前では言い難かったということの一つは、まだ二十代後半にさしかかったばかりの、客観的には十二分に魅力的なはずの母さんに対し、早くもまったく異性としての魅力を感じなくなったのを、早婚のもたらしたマイナスではないかと、当時思い屈したことだ。  結婚して七、八年経《た》った頃だろうか、私はしきりと恋に憧れた時期があった。  同じような年代の独身者が、恋愛を結婚につないでいくのを見せつけられることに刺激を受けたせいではない。早過ぎた恋の成就の酔いが醒《さ》める時期が、まだ三十前という年頃とかち合った不幸かも知れない。  私が母さんや君達を初めて裏切ったのは丁度その頃だったが、それは新鮮な異性への好奇心に発する浮気心とは本質的に違う、少年のそれに似た恋心だった。  相手は地味で目立たないこれといった取柄のない十九歳の同じ職場の娘だった。私は自分が学生時代に戻ったように、手を握る勇気もないまま夜毎《よごと》その娘と暗い町を歩き、テープレコーダーのように思いのたけを語るだけのデートを繰り返した。  いっそ男と女の関係になってしまった方が罪が浅かったのかも知れない。抱きしめることもないまま、私の“恋に恋する”口説の毒に冒されたその人は、私が一人身でないことを呪《のろ》い、苛《さいな》まれて強度のノイローゼになって家に帰っていったままで、それが別れだった。  ——今夜の私はどうかしている。あの頃の自分を思い起すとどうしてもセンチメンタルになってしまう。あるいは年のせいなのだろうか。もうそろそろ二時だ。明日に差し支える。この続きは次の機会に譲ることにしよう。 第二十六信続・「早婚」について  この間の手紙の続きを書く。  まだ在学中だった二十一で結婚した私が「早婚」について書くと、どうしても自分のことになってしまって、客観性を欠く傾きが出てきそうでそれが心配だ。  だから今夜は出来るだけ第三者の視点でこのテーマを考えてみることにする。  たとえば、前の手紙に書いた私の結婚後の女性関係のことだが、周囲を見回せば、誰だってそんなことの一つや二つはあるもので、それはたしかによくないことには違いないが、それほど深刻には悩まないのが普通だ。  それを私がいつまでも重い過去の罪科として心の底で侮いているのは、もちろん私の性格にもよるのだろうが、やはり自分が早婚だったためだと、どうしてもそのせいにしたがるところが私にはある。  私はその頃、ひそかにこんな定義づけをしたものだった。  ——男には“結婚後の初恋”というものが必ずあるが、“早婚者”ほどそれを重症にしてしまい易い。  私のこの断定の根拠はこうだ。  男の人生を年齢でいくつかの節目に分けていった場合、異性との関わりには五つの段階があるように私は思う。その五つの最初は、思春前期の“性のめざめ”的な異性への関心であり、次は“恋に恋する”観念的な恋愛への憧れに進み、その次は性欲それ自体を持ち扱いかねる季節であり、さらにその次は結婚相手の選択とその実行期である。私がいう“結婚後の初恋”は、その結婚によって一人の異性を限定対象とすることに倦怠《けんたい》を覚えるようになった時期に訪れる、いまひとたびのみずみずしい愛と性との出会いを渇仰《かつごう》する願望で、それから先は性が閉じるまでその繰り返しが続く——という考え方だ。  その五つの節目をかりに、十二歳、十六歳、二十歳、二十七歳、三十五歳とした場合、早婚者は二十七歳で行なうべきことを七年早めてやってしまうわけだから、そこには当然ながら無理が生じる。 “七年目の浮気”という言葉があるが、結婚後七年目あたりで男が結婚に倦怠を覚えるのは洋の東西、今も昔も変わることのないパターンで、その定理に従えば、二十歳で結婚した男は、多くの男達が結婚に踏みきる時期に早くも倦怠期を迎える計算になる。  あらゆる生物がそうであるように、性が生態的な約束事から逸脱することが出来ないとすれば、この早過ぎる結婚と倦怠がもたらすものがどんなものか、容易に想像できよう。  たとえば二十七歳で結婚した男が“七年目の浮気”の季節に到達したときはすでに三十代半ばで、若い独身女性からすれば中年に属する年代だから、そういうことになる可能性は低まるし、当人にも分別なるものが出来てくる。ところがそれが二十七歳だったらどうなるか。適齢期の女性からすれば対象年齢の真只中だから、結婚していようといまいと関心を持たれ易いのは、おそらく三十代半ばの男性の比ではあるまい。  しかも、男の方はいち早く訪れた倦怠期の中で、“結婚後の初恋”への憧れがふくれ上がっているのだから、これはまさに一触即発といっていい。  近頃は私達が若かった時代以上にオフィスラブが盛んなようで、うちの会社でも随分とそういう噂を耳にするが、その三十代半ばの妻子持ちと若い独身女性との関係は、たいていそう長くは保てずに終っていくようだ。しかし男の方が早婚者の場合は、相手が自殺騒ぎを起すとか、離婚につながるといったふうに事はそう簡単には収まらないケースがどうやら多いらしい。  そういう話を聞くたびに、私は自然の理に逆らうことの怖さを思うのだ。  つまり、この早婚者の“結婚後の初恋”とは、言い替えれば人生を二度やることにつながりかねないともいえそうだからだ。  世の中にはそれを羨《うらや》ましがる人も多く、現に大分前だが、いまはもう亡くなった木々高太郎というペンネームで推理小説も書いていた生理学者林髞《たかし》さんの唱えた“結婚二回説”というのが評判になったことがあった。だが私に言わせれば、まだ若い妻と小さな子を捨てるというそんな残酷なことを平気でやれる人間は信用できないし、第一離婚を誠実に(?)実行しおおせるというのは大変な難事業であって、なろうことならそんなややこしいことはしないで済ませた方が、人生いいにきまっている。  自然の理に逆らうということでいえば、早婚者は適齢期結婚と較べれば、当然のことながらいち早く人の親になる。  これは普通早婚の利点だとされている。が、必ずしもそうとばかりは言いきれない。一つには子供に金がかかり始めるとき、つまり塾の進学のという時期だが、同じ年の子供の父親と較べて七歳の年齢の開きがあれば、その年収にはほぼ二割以上の差が出るだろうから、教育費の比率が家計に与える負担の重さはかなり違ってくる。  しかもこのハンデによる開きはおそらく子供が大学に上がるまで続くだろうから、子を持つ親の苦労の度合いは、早婚者と適齢期結婚では相当違ってくるはずだ。  さらに、年々そういう傾向は強くなる一方のようだが、幼稚園の頃から中学まで、夏休み、ゴールデンウィーク、年末年始といった長い休みに子供を連れてどこかへ出かけないと肩身が狭いという、時間、金の両面から父親が負う役割負担がこれまた大変だ。  しかもサラリーマンとしては下積みながら、二十代後半から三十代前半という時期は、新入社員時代と違って、課長や部長から最も当てにされる時期だから、休日も夜も何かとかり出されることがふえ、しかもそこで示す能力が将来を分ける試金石にもなるから、なおざりにするわけにはいかない。  早婚者はその肝腎な時期に、丁度子供連れ旅行における父親としての役割も最も求められることになるわけだ。しかもそれはかなりな出費を伴なうだけに、それによる荷重は並大抵ではない。  私自身そうだったが、しかしいまとなれば君達と一緒に海や山で遊んだ日々をかけがえのないものと思い起す。だが母さんから「……どこかへ連れてってやらなきゃ可哀相よ」と言われるたびに、思わず眉をひそめたのもまたたしかだった。そしてその希望を容《い》れてやれないことが度重なるようなことがあると、「あなたも変わったわね、私達より外の方が楽しいのよね。本当ならまだ独身で通る年ですもの。あなたはきっと後侮してるのよ、あんなに早く結婚なんかしなきゃよかったって」という、あきらかな嫌味を言われることがだんだん多くなった。  そうなんだ、早婚についての後侮の一つは、この言葉に象徴される母さんの私に向ける棘《とげ》を含んだ皮肉を聞かされるやりきれなさでもあった。  そう言いたくなる気持も分らないではない、母さんや君達を裏切っていたこともあったことだし。しかしその母さんの不満を常に背中に感じていなければならなかったのも、私が早婚によって負ったハンデなのだろう。 *    *    *  ——今夜も結局愚痴っぽくなってしまった。しかし、人生などというものは、誰しも何かしらハンデを背負っているもので、それを恨みに思い、うまくいかないことをそのせいにし出すというのは、敗北を予測してレースにエントリーする前から、勝てそうにない理由を並べ立てる競技者のようなもので、潔いとはいえない。 「早婚」というのもそれと同じで、そのゆえにと考えることからして、すでに弱者の自己弁護なのかも知れない。 ——君は友人のY君をそう言って激励してやるべきではないだろうか。 第二十七信「好色」について  いまニューヨークは真夜中の二時だ。  人に誘われて晩飯に出かけたのだが、ワインを二杯もやったら、猛然と眠気に襲われたのが時差ボケのせいだというのは分っていたのだが、といってどうにも我慢が出来ず、早めにホテルに引揚げてきて、まさにバタンキューで寝込んでしまった。ところがこれがまた時差ボケの特徴で、三時間もするとパッと目が覚めてどうにも眠れない。  そこでテレビをつけてみたが、これという番組もなく、チャンネルをしきりと切り替えているうちに、妙な局に出っくわした。それはケーブルテレビなのだが、深夜という時間帯のせいか、いわゆるデートクラブのCMが次から次に流され、その間に申しわけのようにポルノ映画の場面が挿入されるという番組だった。私もトシとはいえ男だ。まして一人っきりのホテルの部屋だから、遠慮なしにテレビの前に椅子を引き寄せてその画面を凝視し続けた。  君も知っての通り、アメリカは日本と違ってポルノ規制がゆるやかだから、さすがに性交場面の局部のアップは見せないものの、女性の部分は露《あらわ》に見せてくれる。  一時間程も眺めていただろうか。ニューヨークにデートクラブがいくらあるかは知らないが、一時間も続くはずはなく、同じクラブの同じCMが何度も登場してくるのにさすがに倦きて、テレビを消し、仕方なくウイスキーを舐《な》めているうちに君に手紙を書く気になった。  考えてみれば、君とこの種の話をしたことはこれまでに一度もない。当り前といえば当り前なことかも知れない。男同士とはいえ実の親子が平気で性のテーマについて鼻つき合わせて話し合ったりするのが健全であろうはずがないからだ。そういう考えの持主だから性教育の必要も認めなかったし、居間のテレビにベッドシーンが出てきたりすると、私は当然の役目として直ちにチャンネルを切り替えた。それが家庭の秩序というものだと思っていたからだ。しかも、私達の他に女が二人いる家庭で、そういうのを一緒に見ていられる神経はとてもまともとは思えない。  だが、君ももはや一人前の大人だし、遠からず結婚ということになる年だ。だったらこのあたりで、一度はこの種のことについて私の考えを伝えておいてもいいのではないか、とそんな気になったのだ。  といって、真正面から性の問題を論じようとは思わない。そんなことを始めたら何十枚書いてもとても言い尽せるものではないからだ。そこでここでは、いま私が見ていたようなポルノグラフィーに限って、思いつくままに書くことにしよう。  日本ではいま、例の宮崎某《なにがし》の幼女殺害事件に端を発して、ポルノ雑誌の自動販売機が問題になっている。それというのも未成年者が自由に買えることによって、宮崎と似たような性犯罪に走る可能性があると、それを惧《おそ》れるせいらしい。とくに女の人にそうした意見の持主が多いようだが、莫迦《ばか》げた話だと思う。  男というものが、何かに刺激を受けてそういう欲情を抱いたら、何がなんでもそれを充足させなければ気が済まない生き物だと思い込んでいるところがおかしい。野生動物の世界にだって性秩序はちゃんとあるし、ましてや高度の秩序社会を形成しているホモサピエンスが性衝動の赴くままに行為に走るはずがない。  もう一つは、私にしても君にしてもだいたい似たようなものだと思うが、性に目覚める時期には誰しもその種のものを目にする機会を持つのが普通で、私などは父親の書棚から画集を取り出し、あの有名なボッティチェリの『春』を眺めては性的昂奮を覚えたものだった。  つまり、なにも淫靡《いんび》なポルノグラフィーでなくとも、男の性衝動は刺激を受けるもので、いくらポルノ雑誌の自動販売規制を強めたところで、それが性犯罪に結びつくというのなら、なんの抑制効果もあろうとは思えない。  しかも日本のポルノ雑誌は肝腎な部分をスミで塗り潰《つぶ》してあるのに対して、アメリカあたりではホテルの売店だろうと空港のニューススタンドだろうと、女性の局所をあからさまに写した写真を満載した雑誌が並んでいる。建前上は日本の税関はそれの持ち込みを許していないが、実際にはかなりな量が入っているはずで、その証拠に高校生あたりでアチラ版のその種の雑誌を見たことがないというのは、ごく少ないはずだ。  では、だからといって中学生や高校生の大半が目を血走らせてそのことばかりを考えているかといえば、そんなことがあるはずがない。そういうものを眺めたいという欲求はたしかに強いだろうし、眺めれば昂奮し、ときに自慰に走ることもあるだろうが、それはその場限りのことに過ぎないと、自分の昔を思い起してそう思うのだが、君はどうだった? *    *    *  性が思春期に人にはいえぬ重荷であるのはたしかだし、皆似たような経験をしてきたことは想像に難くないが、成人になってからのこととなると、果して他人はどうなのだろうかまるで見当がつかなくなる。  たとえば今度一緒にこっちへやってきた長年にわたるつきあいの同僚だが、この男はおよそ女性にまつわる噂と無縁な人間で、謹厳実直とまではいわないが、道楽といえば夜の一杯くらいで、それも女の侍《はべ》るバークラブの類《たぐ》いに通うということもない。  その男がニューヨークヘ着いたその日、「ちょっと出かけてくるから」と言うので、「どこへ」としつこく聞くと、「ブロードウェイあたりへ」と答える。こっちはてっきりミュージカルの切符でも買うのかと思って、一緒について行ったら、彼のお目当てはあの辺りに軒を並べるポルノショップで、そこでためつすがめつ、そのものずばりの雑誌とビデオを数点買い込み、揚句の果てに近くのちっぽけでうらぶれたポルノ映画館にまでつき合わされる羽目になった。 「……いやあ知らなかったな、君にこんな趣味があるとは」と、私がからかい半分に言うと、彼はちょっと照れ臭そうにしながら、「もしなんだったら、ビデオを貸そうか、名作といわれてるのを含めて三十本はあるから」と言うではないか。 「すると、夜はその鑑賞ってわけか」 「そうね、毎晩てわけじゃないが、いいのが手に入ると皆の寝静まったのを見すまして自分の部屋にとじこもって見るのが楽しみでね」  人は見かけによらないというが、その告白を聞きながらいかにも物堅そうなその男の顔を改めて見直したものだが、そう言われてみると、頭はすっかり薄くなってはいるもののそのずんぐりとした頑健そうな体躯《たいく》がひどく精力的に見えてきて、なんだか圧倒される思いだった。  私達の年齢になると、「もうその方はすっかり駄目で」などと、いかにも枯れきったようなことを言うのが多いだけに、この男のような人間を見ると、どこかほっとさせられるのだ。  それというのも、自分と同年輩の連中がすっかり現役から引退しているというのに、自分は依然として若い頃とたいして変わらない異性への関心を持ち続けていることが、ひどく後ろめたく、ひそかにそのことを負い目にしていたからだ。  平たくいえば、自分は人並みはずれて好色ではないのかという不安を持ち続けていたのだが、上には上がいたのだ。  君がどうかは分らないが、男が好色であることはけっして不健全でもなんでもないと開き直った方がいいと、私は確信を持ってそう思う、ただ、それが淫靡《いんび》な趣味と化したり、抑制を欠いた行動に結びつかない限りは。 第二十八信「派閥」について  人が三人以上集まれば「派閥」が出来るというのは、政治家の自己弁護によく用いられる理屈だが、残念ながら真実として認めないわけにはいかない。  君も会社勤めを始めてそろそろ一年半だから、会社の中が組織図とは別の力学で動いていることがだいたい分ったのではないか、そして自分自身がそのどれに属し始めているということも。  ただ、政治の世界とビジネスのそれとの大きな違いは、政治家は一つの派閥に入ったらそこへの絶対忠誠を誓わされるが、サラリーマンは必ずしもそうではないという点だ。  どこの会社にもある「閥」は、一つには役員を頂点とする同じ釜の飯を喰ってきたいわば戦友的な仲間による結束であり、一つには同じ学校を出ているという“学閥”があり、さらに小分割されたものとして、同期入社、飲み仲間、スポーツ同好会的なプライベートな“仲よし”グループもまた派閥の一種といえる。  若い君にこんなことを言うと、(自分達にはカンケイない)と木枯し紋次郎みたいな反応を返されるのは百も承知だが、実は自分では気づかないうちにいつの間にかその派閥に取り込まれてしまうのが、サラリーマン世界の生態現象で、それに対して超然とし続けるというのは、事実上至難なワザなのだ。  とくに、いまの日本型カンパニーというのは、いわばプロ野球のように、会社はいわば“リーグ”であって、その中で何チームかが闘志をむき出しにして業績を競い合う仕組みによって成長を続けているといってまず間違いない。  それはたしかに、社員として配属された部門であって、その組織の一員として全力を尽せばそれでいいには違いなく、魂のロイヤリティーまで捧《ささ》げ尽すことはない、というのは理屈だが、それでは済まないところがサラリーマンというものなのだ。  さっきの野球の話に戻っていえば、自分から進んで入ったわけでもないのに、一つチームで仕事を続けていると、いつの間にか愛着が湧いてフォア・ザ・チームというロイヤリティーが知らず知らずのうちに身心にしみついてしまうらしいが、それと同じで、自分が力を尽した結果が、部門という名のチームの社内評価を高めることに大きく貢献したときの喜びを知るということが、とりも直さずビジネスマンとして一人前になることでもあるのだからしようがない。  その自分の属したチームが万年ビリだとしたらどうか。おそらく会社が嫌になって転職を真剣に考えるようになるか、そうでなければ思いきって転部願を出して、やり甲斐《がい》のある他部門へ移る工作をするかのどちらかになる。だが、サラリーマンとしてこんな不幸というか回り道もなく、そうなりたくないために、皆チームのために目いっぱい頑張るわけで、それは必ずしも、そのチームのキャップに認められ、抜擢を受けようという下心からではない。  ところが、そのチームのキャップの心情はどうかといえば、これがすこぶる日本的なのだ。  本来サラリーマンというのは、フォア・ザ・カンパニーであるはずなのだが、部門責任者が部下に求めるのは、もっぱらフォア・ザ・チームであって、コンペティターである他部門を抜き去り、蹴落すことだけが本音の目標なのだ。そしてそれが果せれば、自分はもちろんのこと部下達の昇進も早まるわけで、その“ニンジン”を目の前にぶら下げて鞭を入れ続けるのが、部門責任者の重要な仕事でもあるわけだ。  だから、どのチームに配属されるかで、その人間の命運は大きく分れるわけだが、かといって、それを選択する権利は部下である若手社員には事実上ないというのもまた現実だ。  だからチームのキャップはなんとかして、自分の下についた部下を陽の当る場所へ引き揚げようと懸命になるのだが、その心情はどこかヤクザ組織の親分に似ていて、いかにも日本的なのだ。  君のところはどうか知らないが、私の会社の営業部門のチームリーダーは、自分の部下をクンづけでは呼ばず「誰それ」と呼び捨てにするのが多いが、それは自分が当てにしている部下に限ってのことで、女子社員にはサンづけで物言いもガラッと違って莫迦《ばか》丁寧だ。これはなにも女の子の人気取りのためでなく、いってみれば頼みにする部下とは学校のスポーツクラブの先輩後輩の緊密な関係を作り出したいという気持からに他ならない。  こういうのを果して日本的といっていいのかどうかは分らない。なぜなら、アメリカ映画のベトナム戦争などをテーマにした作品の中に出てくる戦友同士の強い連帯感というのと、それが酷似しているからだ。その軍隊と会社の違うところは、寝食を共にするというわけにいかないだけで、ワーカホリックのチームリーダーの本音は、いっそ合宿でもして起居を共に出来たらというくらい、部下との一心同体を願っているのではないか。  たしかにそうやって上げた業績を評価されたときは、苦戦の末、敵の陣地を占領して旗を立てたときと同様の感動をチーム全員で分ち合えるわけで、チームリーダーにとってその一瞬こそ至福のひとときに違いない。  が、だからといって、連戦連勝のそのチームリーダーが出世の階段を二段跳びで駈け上がるとは限らない。 “出る杭《くい》は打たれる”の譬《たと》え通りに、なまじ目立ち過ぎると、同輩の嫉妬《しつと》を買うのはもちろんのこと、トップの連中にまで、自分の地位を脅かされるのではないかという警戒心を持たせることにもなりかねない。  これは私の会社で実際にあったことだが、その男はたしかに切れ者で実行力もあり、同僚をゴボウ抜きして若くして本部長の座についた実力者だった。  事実彼の率いるチームは常に社内一の業績を上げ続け、社内ではその男の名を冠して“○○軍団”と呼ぶほどだった。  ところが、アメリカのさる大企業との合弁プロジェクトでその男が初めてつまずいたとき、待ってましたとばかりに、その男に関する悪評が一気に噴き出し、こじつけとしか思えない理由で、役員になり立てのその男は会社を追われることになった。  もちろんその男は男泣きに泣いて、社長以下のやり口を詰《なじ》り、「よし、それなら独立するなり、競合企業に移籍してでも、汚いあいつらの鼻をあかしてやる」と息まいて、会社を辞めていった。  その男は仕事も出来たがなかなかの人情家で、身銭を切って部下を飲ませ、結婚の面倒から、家を買いたいといえば、ローンの保証人になってやってその夢を実現させるといった具合に、実に部下の面倒見がよかった。  それだけに自分に対する部下のロイヤリティーは絶対だと過信していたのだろう、会社を退くときも、当然ながら、全員とはいわないまでも少なくとも部下の半数は自分について辞めると思い込んでいたらしかったが、現実はそうはならなかった。  その噂が社内に流れ始めた頃は、たしかに男の部下達は激昂《げきこう》して、「それなら僕達も辞めて本部長についていきます」と声を揃えて言ったということだが、フタを開けてみると誰一人辞める人間はいなかったのだ。  ——なぜこんなことを書いたかというと、サラリーマン社会というのは所詮《しよせん》はそんなものだということを君に知っておいて欲しかったことが一つ。「派閥」という塊は一見どうやっても崩せそうに見えないが、実は脆《もろ》いものだということが言いたかっただけなのだ、組織の一員になっても人間は所詮一人だということも含めて。 第二十九信「破滅型」について  ——つい今しがたまで君のことで母さんと話していたのだが、ちょっと意見が対立してね、思いがけず長引いた。  話というのは君のボーナスの使い方についてというのがきっかけだった。  母さんの言うのには、君の金の使い方がこの一年の間に随分変わってきた、つまり金遣いが荒くなったのが心配だというのだ。やがて遠からず結婚もしなければいけないし、少しはそのために貯金もさせたいと思っているのに、その逆に小遣いが足りないといっては家から金を持ち出すことが多くなっている。  勤め出した頃は家へ僅《わず》かだが金を入れていたのに、いつの間にかそれもなくなってしまい、近頃は平均して月に三万くらい「ボーナスで返すから貸して」と持っていくようになってしまった。本当に仕事かどうかは分らないが、その日のうちに帰ってくればいい方でほとんど帰宅は午前様だから、あれでは金がかかるのも当り前で、そういう生活態度が癖になるのが怖いとそう母さんは言うんだ。  聞いているとなんだかひと頃前の私自身に対して当てこすりを言われているような気もしないではなかったが、とにかく母さんは最近の君の生活態度についてかなり批判的で、私から注意をして欲しいと言うんだ。  そこで私の意見だが、さっき母さんにはざっとこんな話をしたものだった。  たしかに母さんの言う通りで、人間というものは、というよりは「サラリーマンというものは」と限定し直した方がいいが、金遣いも含めて生活態度なるものは、ほとんど“癖”によって偏りが固定化していくものだ。  たとえば毎週二本映画を見るのが習慣になってしまうと、何かで忙しく映画を一週間見れなかったりするとまるで禁断症状のように生理的に落ち着かなくなる。ところが病気か何かで二ヵ月映画から遠ざかると自分でも不思議なくらい見なくてもどうということもなくなり、あれほど通いつめた映画館に一年でも二年でもごぶさたして平気になってしまう。  毎晩つい立ち寄ってしまう行きつけの飲み屋というのもそれと同じで、出張か何かで二日も遠のくと、東京へ帰ったらまず何はさておきその店へ顔を出さないと気が済まないというくらい行き癖がつくものだが、これも何かの加減でひょいと足が遠のくと、(なんであの店にあんなにこだわっていたのか)と、かつての自分の気持が分らなくなったという経験が私にもあった。  まして、サラリーマンの生活というのは朝九時二分前に会社へ辿《たど》りつき、一日の中で起きることの八割は昨日とほとんど変わらない繰り返しで、その後のいわゆるアフターファイブも、つきつめて見れば幾通りかのパターンに過ぎず、その一つを例によって例のごとくフルコースやってようやく家へ帰る気になるというように、誰にもそれなりのパターンがある。  もっとも、退社時間ぴったりに会社を出て一目散に我が家を目指すという箱入り娘のような人間もいないではないが、やはりそれでは職場の人間関係をうまくやっていくのは難しい。  というわけで、自分の単なる“道草癖”を正当化し、それを理由に帰り渋りが癖になっているサラリーマンはすこぶる多いわけで、いくつになってもだらしなくその癖の抜けないそういう手合いを弁護する気はさらさらない。  だが、いまの君の場合を、十把《じつぱ》ひとからげにその“道草型サラリーマン”のパターンにはめ込んで、一概に反省を求めるのは、さてどんなものかと、私は考える。  ——なぜか。  私にいわせれば、サラリーマン二年生というのは、よくも悪くも会社の中が隅々まで見えてきたような気になる時期だし、やらされる仕事の行方成行きがだいたい見当がついたような気持を持てる段階だと思う。  ということは、与えられた仕事を近視眼的に見つめ、それをしくじらずになんとか片付けようということだけに集中し、回りに目をやるゆとりなどまったくないという一年生時代とは違い、周囲との連係プレーが曲りなりにも出来るようになったということに他ならない。つまり周囲との人間関係をさらに血の通ったものにしておかなければならないということであり、それを深め強めるためにアフターファイブを有効に使わなければならなくなる。  それはただ先輩同僚とベタベタづきあいをしていればいいというのではなく、昼間話すわけにはいかない事柄をその場面でしっかりと話し合い、次の仕事をさらにやり易《やす》くする素地作りをすることが、サラリーマン二年生だからこそ求められるのだ。  しかもいまは昔と違って、年が若いからといっていつも先輩のご馳走になってばかりいるというわけにはいかないだろうし、三度に一度くらいは格好をつけなければなるまい。いや、先輩から生意気だと思われない限り少々無理をしてでもそのくらいな金はちゃんと持っていて欲しい。そういう対等のつきあいを出来るということが、とりも直さず一人前になる近道だからだ。 *    *    *  というわけで、母さんには、「いまはそういう時期なんだから、妙なブレーキをかけてせっかく乗ってきた気分に水をかけない方がいい、もう少し黙って様子を見ようじゃないか」とそう言ったのだが、母さんはかなり不満そうだった。  しかし、だからといって手放しで好きなようにしなさいと言いきる自信は私にもない。  それというのも、いまはさすがに少なくなったようだが、私が若かった頃には、給料は前借り前借りで給料日には貰い分が残っていればいい方という有様で、年二回のボーナスのときは飲み屋の借金取りが詰めかけて待ち構えているものだから、玄関から帰るわけにいかず裏口からこっそり抜け出すという豪傑がゴロゴロいたものだ。  私はそこまで度胸がなかったからその真似は出来なかったが、世の中には破滅型というのが実際にいるものだと、半分は呆《あき》れ、半分はその奔放な生き方を羨《うらや》ましいと思ったこともあった。なぜなら、そういう男に限って、遊びも豪快だが、いざというときの仕事のやり方がやはり私のような普通の人間とはちょっと違うんだな。思いきりがいいというか大胆というか、腰の引けたサラリーマンにはとても考えられないような意見を示し、怯《ひる》まず行動してみせる。  そういう人の中で人に先んじて役員になったのもいるが、やはり多くは途中で会社を辞めたり、病を得て消えていったりしたが、私はその種の人間を見てきてこう思う。  人生というレースにもルールがあって、ここを越えたらアウトという境界線が必ずあるものだ。私を含めて平均的サラリーマンというのは、その境界線の内側にもう一本“注意ライン”という黄色の線があって、それに足がかかると慌てて引き返すものだが、その豪快な破滅型は黄色ラインを平然と跨《また》ぎ、ギリギリの境界線の上を大胆不敵にも千鳥足で歩き続ける。そして一度や二度はその境界線の外に足を踏み出してアウト宣告を受け、それをなんとか頼み込んで大目に見て貰うということを繰り返すのだが、それでも黄色ラインはおろか、境界線上を平気で踏んで歩き続け、見ているこっちまでがハラハラさせられる。  いまの君は、母さんの話通りならこの黄色ラインの上にいるのかも知れないが、私は結婚がきまるまではいまのままでいいと思う、ただこれ以上境界線に近づかない方がいいとは思うが。  ——ま、ボーナスが出たら母さんに手袋の一つも買ってやる気遣いは欲しいが。 第三十信仕事の「苦楽度」について 「……なんで営業なんかに入っちゃったんだろうか」  さっき君が、帰ってくるなりいかにも疲れたという顔でソファにひっくり返って小声で呟《つぶや》いていたひとりごとを聞いて、この手紙を書くことにした。  おそらく君は、同期に入社した仲間で他部門に回された連中と較べて、その労働時間、密度、難度のあまりの違いという不公平に我慢がならなくなったのだろう、しかも給料にはほとんど差がないのだから。  もちろん君がいま胸の中でふくらませている不満と不安はそれだけではあるまい。これから書くことがどれだけ当っているかどうかは知らないが、きっとこんなことも納得がいかない要素ではないのかな。  世の中「駕籠《か ご》に乗る人、担ぐ人、そのまたわらじをつくる人」という譬《たと》えがあるように、さまざまな役割分業があるということくらいは、今更私に言われるまでもなく承知のことだろう。ところがその譬えでいえば、いまの君の仕事である営業はいわば駕籠を担ぐ役割だということはいいとしても、乗り手は駕籠から降りれば休めるし、わらじを作る人も一日のノルマが片づけばゆっくり休養できるが、担ぎ手は乗り手がある間は一服することも許されないという較べようのないハードワークだ。それも、その働きの分だけペイがいいとか出世が早いとかいうのならまだ我慢のしようもあろうというものだが、先輩達を見ていると、あの労苦が十分に報われているかといえば、むしろ逆の感じさえある。  営業というのは、時間的にも大変だが、相手あってのことだし、いくら一所懸命誠実にやったところでうまくいくとは限らず、結果が悪ければすべての努力は帳消しになって、大減点という間尺《ましやく》に合わない反対給付がつくだけでなく、下手をすると責任を取って辞めなければならない事態に追い込まれることだってなくはない。  その大変さも、下積みの間だけなら我慢もできようが、どこまで行ってもリスクに満ちた目標をクリアするために必死の形相で取り組み続けなければならないのだから、そういう構造が見えてくると、ゲンナリして今夜の君のように呟きたくなるのも無理はないのだ。  事実、アメリカあたりではいま例に挙げたような腕っこきのセールスマンは、年齢を問わず実績によって報酬がきまるのが普通だから、たとえば君のような入社二年目の新人でも、業績次第で同年齢のサラリーマンの二倍も三倍も給料をとっている例は珍しくなく、苦労も多いが報いも大きい。  ところが日本は、年功序列型賃金体系がまだまだスタンダードで、能力給を取り入れ出してはいるものの、まだまだその比率は低いから、同一年齢同一賃金的悪平等は本質的に変わっていない。  人の三倍四倍働いても給料は同じ、事務系の仕事に回った同期入社の仲間が土日はしっかりと休み、夕方五時にはパッと会社を出て、ガールフレンドと芝居だ映画だというのに、こっちはそれからまた一仕事、それもエンドレスゲームだ。しかも、よく考えてみれば自分達営業部隊がそうやって稼ぎ出したもので、ぬくぬくと楽な毎日を送っている多数の社員を養っているわけで、そう思った途端にガックリするのはよく分る。 *    *    *  そこで、次に二つのエピソードを書く。これを読んで君がどう考えるか、それを知りたいからだ。  ——私の同期にこんな男がいた。その男をかりにAとしようか。  Aは、学歴は三流大学だが、入社数年にして頭角をあらわした優秀なセールスマンで、三十代の終りには、諸先輩を飛び越して最年少の部長に抜擢されたほどに、その実力は社内の誰もが認めるところだった。  たしかに天性の営業マン適性の持主ではあったが、努力や勉強も大変なものだった。休みの前の日は仕事をドカッと抱えて帰っていくし、ウィークデーも部下の帰ってしまった部屋で一人十時十一時までデスクに向かって何かやっているといった按配で、仕事のためだけに生きているような男だった。  私とはまったく性格も違うし、物事の考え方も共感出来ないことの方が多かったが、私は少なくともその男を認めていたし、ある意味で敬意を抱いていた。ところが、それだけ仕事をし、彼の時代に業績が五割も上がったというのに、社内の評判は必ずしもよくなかった。  一つには、その自分の実績を自分で誇示し過ぎるところがあったからだ。会議の席などでも、先輩や役員の前で遠慮もせずに自説をゴリ押しするだけでなく、自分のお蔭でここまで来たのではないかと言わんばかりの傲慢《ごうまん》な態度がしばしば見られたからだ。  肩で風を切って、威風堂々とそっくり返って見えるのは、彼の大柄な体格のせいもあったが、社員はそれをその男の思い上がりによるものと、皆蔭で眉をひそめたものだった。  現に、酒の席などでは、自分一人で社員全員を養ってでもいるかのような発言が行なわれるのが珍しくなかったし、トップの方でも彼の力倆《りきりよう》は評価するものの、その人柄にはヒンシュクしている様子だった。  その男は取締役になるのは早かったが、それから上には上がることなく、四十代半ばで腹を立てて会社を辞めていったが、その後の消息はあまりはっきりしない。 *    *    *  ——もう一人、私と同期入社で管理部門に回された男がいた。大学は東大の文学部で学歴としては申し分なく、会社としては幹部候補生として将来に期待していたようだが、当人はまったくその気がなく、自分から選んで仕事のあまりない庶務を希望し、どう上から水を向けられても陽の当るセクションヘの配置替えには応ぜず、庶務の隅っこから動こうとはしなかった。  私は、入社試験で初めてこの男を見たとき、いかにも秀才らしいその容貌に、(こんなのと一緒に入ったらとても勝負になるまい)と、反射的にコンプレックスを抱いたものだったが、十年もすると、この男の顔がすっかり変わってしまった。  それは、地方自治体の役場などでよく見かける、おっとりといえばその通りだが、闘いと緊張のない空気の中でしか培養されないある種の人間の顔なのだ。  入社して間もない頃、同期入社のよしみで一緒に飲んだとき、私は思いきって彼にこう聞いてみたことがあった。 「おまえは学歴もいいんだし、エリートコースを歩もうと思えばそれが出来る人間なのに、なんで自分から好んでいまのセクションに行ったの?」  それに対して彼は、 「僕はね、だいたいサラリーマンには向かないのに、おやじの関係でこの会社へ入ることになったんだが、本当は中学か高校教師にでもなってのんびり好きな本でも読みながら一生を終れたらと思っててね。だから、五時になったら誰に気兼ねすることなく引き揚げて、自分の時間を自分の好きなように使えるセクションということで、いまのところを希望したんで、その意味じゃ望みが叶《かな》ったってわけで、ホッとしてるんだよ」  と、真顔でそう言ったものだったが、彼はついにその意志を貫き通して、とうとう役員にもならずに、部長待遇のまま去年退職していってしまった。  ——私が何を言いたいのか、君にもだいたい分ったことと思うが、会社というものは、いろいろな能力の、いろいろな立場の人間が長短補い合って初めて成り立つ組織で、自分の負わされた荷を迷わず担い通すしかないのだ、ということに気づいて欲しかったまでだ。 第三十一信国際的ということ  君のところの定期人事異動はたしか春だったからまだ先だが、うちは昨日それがあって会社じゅう大騒ぎだったよ。  うちは創業以来のしきたりで事前に内示をしないことになっているんで尚更なんだが、まさに悲喜こもごもでね。とくに家族持ちの転勤者は気の毒だったね。  しかしわれわれの若い頃は否応なしで、辞令一枚でどこへでも飛ばされ、イヤな顔一つしなかったものだが、いまは異議申し立てが許されるようになったから、それだけでも進歩だよ。  それと、昔と違うのは、海外勤務を命じられた人間の反応だ。  僕らが若手だった昭和三十年代は、海外勤務といわれただけで、それがどんなに文化果つる僻地《へきち》だろうと赤道直下の炎熱地帯だろうと、こおどりして喜んだものだ。まして勤務地がニューヨークのパリのロンドンのという世界的大都会だったりしようものなら、それこそ鼻高々で親戚じゅうに触れ回ったくらいのものだった。ところが近頃はニューヨーク駐在を申し渡されても渋い顔をするのが普通になったんだから変わったものだ。  考えてみればムリもない話で、子供がいれば教育の問題があるし、といって単身赴任は一種の流刑のようなものだし、しかも昔はニューヨーク駐在はエリートコースの一つだったが、いまではNYだろうとPARISだろうと海外勤務はスゴロクでいえば“三回休み”みたいなもので、本社勤務から遠のくことで回り道になるのは目に見えているということもある。それに治安は悪いし、とくに日本人は金持ち扱いされるから、いつどこでどんな目に遭わないとも限らないという不安がつきまとう。  というわけで海外勤務はすっかり人気がなくなったが、私は少し違う意見を持っている。  これからの日本を考えると、サラリーマンの生活が日本に根を生やしたままで終るなどということはどんどん少なくなるはずだ、ということがまずある。  君も知っての通り、金融の国際化は目覚ましい勢いで、いまやジャパンマネーはドルにとって代わった感が深い。しかも、東西対立の雪どけがさらにそれに拍車をかける気配濃厚だ。これまで共産主義体制だった東欧諸国がまるでドミノゲームのように民主主義に衣替えし、ベルリンの壁ではないが、西側との経済交流を隔てていた障壁を一気に崩した。この変化の原因が東欧諸国の経済的疲弊《ひへい》にあることは紛れもないことで、ということはジャパンマネーによる経済復興の期待が大きいわけだ。カネだけではなく、日本のすぐれた技術とヒトも一緒に欲しくなるのは当然の成行きで、日本からの積極的な進出に期待する地域はこれからふえる一方だろう。  それどころか、会社自体が本社を海外に移すという企業も出てきたように、ビジネスに国境がなくなるのが二十一世紀初頭の特徴かもしれない。私なんかはどっちにしてもあと六、七年でリタイアだから、あまり関係ないが、君達は本気でその腹づもりをいまからしておいた方がいい。  そのためにはやはりなんといっても語学力を身につけておくのが一番だが、かりに勉強の甲斐《かい》あって“ネイティブ”といわれるほど流暢《りゆうちよう》になったとしても、それでいいというものではないのが外国語の難しいところだ。近頃テレビなんかに日本語の上手な外国人がよく出てきて、ベランメエ口調をまじえて達者に日本語を操ってみせるが、われわれの目からすれば、所詮《しよせん》は“外国人にしては”という割引感覚がついて回る評価でしかないのと同じなのだ。  それに、いくら日本が経済で優位に立ったとしても、ヨーロッパの文化的優位にとって代わるというわけにはいかないから、英語が事実上国際的公用語である限り、それを身につけなければ海外で仕事は出来ないということに変わりはない。  そこでその身につけるものの中身だが、日本人の英語力なるものの偏りとしてよく感じることは、言葉は出来ても西欧的教養にまるきり欠けるという点だ。  たとえば、アメリカにしろイギリスにしろフランスにしろ、向こうの知的エリートと呼ばれる階層の人達と話をしていると、歴史やキリスト教にまつわる比喩や警句がどんどんとび出してくるが、その多くは日本人にとってチンプンカンプンで、かなりな英語遣いを自負する日本人でも、その種のジョークの意味が分らず、笑いにとり残されるということがよくある。  これはしようがないといえばそうもいえなくもないのだが、これからの国際人がこのままでいいというわけにはいかない。  その責任の多くは日本の教育にあるのだが、とくに戦後の社会科教育の弊害は少なくない。私達のように戦争中にベーシックな教育を受けた人間は、敵国の文化や歴史を学ぶことを禁じられていたからしようがないにしても、君達のような昭和四十年代生まれの若い人までが国際的教養音痴というのでは大いに先が思いやられる。  だいたい勉強なんてものは学校教育の専売物ではないし、まして教養的知識は独学でも十分身につけられるものだから、君もこの辺で考え方を変えて、勉強し直してみてはどうか。といって、英独仏米といった文化的先進諸国にまつわる知識教養をすべて身につけるなんてことが出来るわけがないのだから、一点集中することを心掛ければいい。  たとえば私は英語はからきしだが、ことロンドンに関する限りはいささか詳しい。といってロンドンに足を運んだのは都合二回きりだ。ところが私は昔からの推理小説ファンで、なかんずくシャーロック・ホームズについてはちょっとしたマニアでいっぱし“シャーロキアン″のつもりでいる。だいたい、シャーロキアンというのは作品に詳しいだけでなく、十九世紀のロンドンのガス灯の色は何色だったとか、ホームズの住まいであるベーカー街の地図、その部屋のたたずまい、家具の一つ一つについてまでウンチクを競い合うもので、他人に自慢できるまでに詳しくなるにはちょっとやそっとののめり込みではダメな世界なのだ。  だから、私はニューヨークでは型通りのやりとりしか出来ずにおとなしくしているが、ロンドンに行くとちょっとばかり人が変わる。話がコナン・ドイルに及べば、あちらのマニアともどうやら太刀打ち出来るし、向こうも敬服のまなざしをこっちに向けてくれるからだ。  君はたしか大学での専攻はアメリカ史だったな。それならもう一回この辺でアメリカ史を勉強し直したらどうだ。それも学校の勉強とは違って、面白がって片っ端から本を読み漁《あさ》るという非アカデミックな学習姿勢の方がかえっていい。元来歴史なんてものはディテールの面白さが魅力なんだから。  とはいうものの、シャーロキアンという武器もあるに越したことはないという程度のもので、これからの日本人にとって大切なのは外国に対する尊重というものではないだろうか。日本人というのはちょっと懐があたたかくなるとそっくり返って人を見下すようなところがあるだけに尚更気をつけなければならないポイントだと思う。  とくにビジネスで外国人と真剣にやり合ってみると、国民性がまるで違うことがよく分る。アメリカ人はいい加減な推測や実証的裏付けに欠ける希望的観測にはけっして納得しないし、フランス人は言い出したら最後少々のことでは自説を翻《ひるがえ》さないし、中国人は狡《ずる》いといってもいいくらい粘り強く相手の譲歩を待つといった按配《あんばい》で、その姿勢を崩すことは少ない。  とかく経済力が優先すると相手の誇りを忘れがちになるものだが、それぞれの民族の誇りを知り尊重することが、日本人の本当の国際化への脱皮の第一歩ではないだろうか。 第三十二信「父親譲り」ということについて  君は、おじいさんつまり私の父が亡くなったとき、たしか五、六歳だったからあまりよく覚えていないかもしれないが、私はその死んだ父のことをこの頃何かにつけて思い起こすことがふえた。  父が死んだのは六十七で、私はすでに結婚して家を出ていて二人の子の父親だったが、まだ三十七歳という年齢だったせいか、死んだ父と自分を重ね合わせて考えるということもなく、そのときはごく普通の肉親の死への悲しみを覚えただけだったが、四十を過ぎたあたりから、自分と父の類似に気づかされる場面に遭遇し、妙に照れ臭く、そしていささかの自己嫌悪を覚えることが多くなった。  私は子供の頃から、どちらかといえば父に対して批判的で、一種反面教師的に見ていた形跡がある。  それというのも、あの人はその職業が彫金という工芸的な仕事だったということもあって、家の中に仕事場があり、そこで弟子というか助手というか何人かの人を使っていたせいで、サラリーマン家庭とは違って公私の区別のない家庭だった。  しかもあの人は、よくいえば芸術家的な性格で、仕事熱心といえばその通りだが、仕事が思い通りにいかないときは神経をピリピリさせ、家族は腫《は》れものにさわるように小さくなっていたから、普通の家庭の温かみといったものとはおよそ無縁だった。  そのくせ、フッと思い立つと写生旅行と称して五日も十日も家を出たまま帰ってこないということもあって、母は私達子供には何も言わなかったが、随分と辛《つら》い思いをしていたであろうことは、ひとりで仕立物などをしているときのその暗い顔が象徴していた。  それだけ仕事熱心でありながら商売下手だったのだろう、家計はあまり豊かとはいえず、母はやりくりにかなり苦労していた様子で、私なんか買いたい本があっても遠慮して言い出せなかったくらいだった。  あの人は酒が唯一の趣味道楽のような人でそんな苦しいやりくりを母に強《し》いながら、自分の遊興費を慎もうといった気遣いはまったくせず、毎晩夜遅く酔って帰ってきて大声を出しているあの人に、私は子供心に憎しみさえ抱いたものだった。  その父も六十過ぎて軽い脳溢血《のういつけつ》を患い、手先が不自由になってからというもの、めっきり気力が衰え、人が変わりでもしたようにおとなしくなり、五勺ときめられた晩酌だけを楽しみに、ひっそりと余生を生きて、そして死んだ。  私は(おやじのような大人にだけはなるまい)と、小さい頃から自分に言い聞かせ、大学受験のとき芸大に進んで欲しいというあの人の懇望を無視して商学部に入ったのは、何がなんでもサラリーマンになろうとそう思ったからだ。そんなふうにおやじの二の舞いだけは踏むまいとそう心にきめていたが、酒好きの血だけには逆らいきれなかった。でもせめてそれで家計を圧迫したり家族に迷惑だけはかけまいと、そのことだけはなんとか守ってきた。  しかし、四十半ばを過ぎ、だんだんあの人の死んだ年に近づき出してくると、あれほど気をつけてきたのに、何かの加減で、(なんだ、これじゃあおやじそっくりじゃないか)とそう気づいて苦笑させられるのだ。  たとえば、仕事の場面で若い人の仕事に対する集中のいい加減さが気になり出すと、軽く文句を言うだけでは収まらず、まるでボクシングでコーナーに追いつめられている相手を情け容赦なく打ちまくるように、とことんやっつけないと気が済まないというところなど、弟子に対するあの人のやり口とほとんど同じなのだ。  あの人のように喜怒哀楽を簡単に顔に出すまいと心掛けてきたつもりなのに、肚《はら》の中がすぐ顔に出てしまい、それで人生随分と損をしてきたのもきっとおやじ譲りなのだろう。 *    *    *  君はまだ二十代半ばだから、父親である私に似ているなと思うようなことはまだそれほどないかも知れないが、知らず知らずのうちにそれが出てくるものであるならば、私は君にいまのうちに注意をしておきたい。それはせめてここだけは似ない方がいいという、私のダメな部分だ。  もっとも、自分のダメな部分というと、あれもこれも思い出されて、キリがないような気もしないではないが、一つだけに絞るとすれば、やはりこのことだろうか。    この年になって私がつくづく思うことの一つは、人生随分損をしてきたな、という反省だ。  それというのも、私という人間は人生の楽しみ方がまことに下手なのだ。  それはなにも道楽というものとほとんど無縁だということを侮いているのではなく、物事を楽しむ心にすこぶる欠けているのを損だなと思うのだ。  たとえば絵でも焼き物でもなんでもいいのだが、美術工芸愛好という趣味があるけれど、私はそういうものを見ると、つい批判的分析的に見てしまい、「綺麗《きれい》だ」とか「いいな」と、目を楽しませるということがどうしても出来ない。私は、これも父譲りなのかもしれないが、そっちの方にはかなり目が利《き》くつもりなだけに、つい小賢《こざか》しくも出来をあげつらう目つきになってしまって素直に楽しめない自分を、いやな性格だとつくづく思う。  旅に出てもそうだ。美しい風景に出会ったらそれに感嘆するのが普通だろうに、「いつかテレビで見たときの方が余程よかった」とか、「この程度なら写真で見れば済むことで、わざわざ足を運ぶまでのこともないのに」といった具合に、反射的にひねくれた感想が頭に浮かんでしまうのだから困ったものだ。  酒を飲んで、羨《うらや》ましいくらいに見事に酔っぱらっている人を見ると、同じ金を使ってこうも違うものかと、なおさらシラけて酔いが醒めるのもそうなら、好きな相撲を見に行って、本気で昂奮して力士に声をかけ、贔屓《ひいき》が勝てば手を打ち鳴らして狂喜する周囲の人達を見ると、相撲好きなら人後に落ちないという自負が、にわかに怪しくなる。  人間の喜びの中で最も大きなものは、恋の成就ではないかと、私はそう思う。  だが、その点でも私は情けない。恋が成就したその途端に、ワタ飴がしぼむように、その相手の魅力がみるみるうちに色褪《いろあ》せ輝きを失っていくように感じられ、(恋は成就の手前までが華《はな》なのだ)と、相手には間違っても聞かせられないようなことを、ひとりひそかに思ってしまうという人間なのだ。  家族に対しても、本心をいえば私はとことん冷たい人間のような気がしてならない。  家族旅行に出かけたとき、似たような一団を見るたびに、てらいも気取りもなく家族の気持のつながりをむき出しにして楽しんでいる様子に、(あれが家族というもので、他人の目ばかり気にして人前を取り繕《つくろ》うことにだけ気を遣っている自分のような人間は、本質的に家族に対する愛に欠けているのではないか)と、自分という人間がつくづく嫌になってくるのだ。  結局、人生をエンジョイするということ、あるいはエンジョイできるということは、人目を気にせず、自分に没入できるということなのかもしれない。  そう考えると、私という人間は、おそらく何かにつけて自信がないから、他人の目にそれを気取られまいと、つい身を鎧《よろ》い、その余り本来楽しんでいいはずのものを前にしながら竦《すく》んでしまって、つい格好をつけてしまうのだろうか。  私が見るところ、君はもっと率直で快活だからそんなこともあるまいとは思うが、私のこの物事に素直になれない性格ばかりは君に譲りたくないなと、切にそう思うのだ。 第三十三信「労組」の仕事について  この間の日曜の晩飯のとき君は、「組合の執行委員を押しつけられちゃった」と言ってちょっと迷惑そうな顔をしていたが、そのことについて今日は書く。  君は今年二十五になるわけだが、君のように若くて、およそ左翼と縁のないノンポリを執行委員に選ぶとは、いかに成り手がないかということの証明みたいなもので、近頃の組合運動の低調ぶりが窺《うかが》えるということもある。  しかし、君は迷惑そうな顔をしていたけれど、僕に言わせれば、いい機会だから怠けず真剣にその仕事に取り組むべきだな。  ところがそう言う僕は、若い頃からずうっとそうだが、組合というものにどうしても馴染《なじ》めず、組合の職場会なんかにもほとんど出なかったし、もちろん執行委員会なんてものには一度もなったことがなかった。  だからといって右翼的な物の考え方だったのかといえば、むしろその逆だった。なにしろ私なんかは、戦後の左翼全盛期に高校大学生活を送った世代で、マルクスの一つもかじっていないと肩身が狭くて、皆から莫迦《ばか》にされるような時代だった。  占領軍も日本の軍国主義、天皇制を根こそぎ一掃して民主主義を確立しようと、社会主義者の後ろ楯になって組合結成を促進したり、デモや争議の後押しをするという、いまからはとても考えられないような姿勢だったから、学生のほとんどは左翼かぶれだった。  私もその例外でなく、出来立ての全学連のデモに参加して警官隊に追いかけられたりしたものだが、就職してからというもの、労働組合のリーダー達の、妙に思い上がった態度や、教条的な物言いに耐えきれず、組合活動から次第に遠のいていき、すっかりノンポリ的労組無関心派に後退してしまった。  しかし、高度成長が進み生活水準が上がってくるにつれて、その労組も次第に力を失い、団体交渉もおざなりというよりはナアナアになって、真剣な労使対立などにはめったにお目にかからなくなった。  そうこうするうちに、あの強大な組織だった総評が解体し、新たに結成された革新色の稀薄な「連合」を中心に、労働新時代の幕開けが取沙汰《とりざた》されるご時世になった。  金持ち国日本がそうなるのは分らないではないが、その戦後思想のバックボーンのようなマルクス・レーニン主義までが総本山のソ連でまで否定されかねない状況が発生し、そのペレストロイカの津波でドミノゲームのように東欧諸国が民主化という名の資本主義化への道へなだれを打って転向していったのだから、軍国少年からマルクスボーイに変身してきた私のような人間には、感無量というしかない。  こうなってくると、日本の労働運動なるものが、これからいったいどうなっていくのかまるで見当がつかず、あれほど労組に冷淡だったくせに、やたらといまそのことが気になってならない。  しかし、そのことはこの手紙の主題ではない。君に言っておきたいのはそれとはまったく次元の異なる事柄だからだ。 *    *    *  私が君くらいの頃の組合運動というのは、まさに切実な生活給獲得の闘いが中心だった。それはたしかに上部団体の掲げるスローガンは政治的な主張に満ちていたが、下部の単組はその前にどれだけ会社から金を引っ張り出すかと、たかだか五百円という金額を獲得するためにストをちらつかせながら、激しい攻防をやったものだ。  当時の労働組合では“生活白書”という組合員の生活実態のアンケートを取りまとめて、会社側にアピールするのが一つの流行だった。  給料前の十日間に限って禁煙するというヘビースモーカーの切実な訴えもあれば、質屋に出し入れする収支実態を一年にわたって記録した数字のリポートも提出されたし、“肉なしデー”が一ヵ月に何日あるかという一ヵ月間の献立内容を克明に披露するというのもあった。おかしいのは、給料前になるとトイレットペーパーを買うゆとりもなくなることから、亭主は会社で用足しすることを強制されるという嘘のようなエピソードまで書かれていた。  それらを取りまとめた“生活白書”を読んでいると、組合嫌いの私なんかでも、(これはヒドイ)と眉をひそめることが多く、「それは個人の生活態度の問題ではないか」と、冷たくつっぱねる会社側に憤りを覚えたことがあった。  しかし、後になって、会社側の立場に立たされるようになると、その頃の団体交渉でのやりとりが甦《よみがえ》ってきて、組合員という若い社員達の本音の要求にもっと耳を貸さなければならないなと、独善に陥ってはいけないという自戒の気持が湧いてきて、(あれはいい勉強だった)と、改めてああいう経験をしてきたことの意味をかみしめたものだ。  そう思うのはおそらく私だけではあるまい。いまの経営者達のほとんどがそういう体験を若いうちにしていて、組合のリーダー経験のある人も少なくないはずだから、組合と聞いただけで毛嫌いしたりというふうにはならないに違いなく、それがいまの日本の労使間を健全なものにしているといえなくないかもしれない。  それに対して、世襲で親の跡を継いで社長になったような人は、頭では分っているつもりでも、社員の考えていることの奥の奥となるともう一つピンとこないのではないか、という気がしてならない。現にそういう同族会社で労使対立が起きると、こじれなくてもいいはずのことが行きつくところまで行ってしまうという泥沼にはまり込むケースがよくある。  そういうのを見ていると、自分があれほど組合に不熱心だったのを棚に上げて、自分から進んででも組合の仕事をしておいたほうがいいとつくづくそう思うのだ。  人の痛みを知らない人間に人がついてくるはずがない、とはよく聞く言葉だが、こういう豊かな時代になってくると、なおのこと人の痛みが見え難くなってくる。その意味で組合の仕事をやっていると、おそらくこれまでは見えなかった人の痛みが見えてくるに違いない。  組合の仕事をやることによるもう一つのプラスは、会社の中を横断的に知ることが出来る点だ。君のところは三千人程の従業員数と聞いているが、そのくらいの規模になると、自分の属するセクションと、それに直接関係のある部門以外のことは、一つ会社にいながら、よその会社以上に分らないものだ。ところが組合という各職場の総合体の執行部に身を置くと、その見えないはずの会社の各部門の実態がすべて総覧出来るようになる。  つまり全軍を見通せる本営の総大将のように、会社全体の、それも下部の端までが見えてくるのだから、もし将来、会社の幹部を目指そうと志す人間なら願ってもない経験ということが出来る。  もう一つのプラスは、会社のトップと膝を交えて話が出来るという点だ。社長の話など、年に一度新年の挨拶《あいさつ》でおざなりな訓話を聞かされるくらいだろうし、役員達とも話す機会などまずないというのが一般社員の常だが、組合の執行部の一員ともなれば、遠慮会釈なしにかなりつっ込んだ話合いが可能になる。  こういうと、いかにも自分を売り込む絶好のチャンスのように受け取られるかもしれないが、そんなケチなことを言いたいのではない。会社のトップの考えていることが自分の身で確かめられるからであり、その将来が少なくともいままで以上に展望可能になるからだ。  ただし、一つだけ気をつけなければならないのは、いい気にならないということだが、とにかく真剣に取り組むだけの価値はたしかにある仕事だと思う。 第三十四信「一年の計」について  この正月の初出勤のときの、君の会社の社長の年頭挨拶《あいさつ》はどうだった。  私のところは四百人ほどの所帯だからホールに全員集めて社長が話をするのだが、君のところのような大会社となるとそうはいかないから、いま流行《は や》りの社内テレビ放送だったんだろうが、アレは緊張を伴わないだけに話す方も聞く方もノリがもう一つじゃないのかな。  それはどうでもいいことなのだが、この社長の年頭挨拶というのは、その上手下手に拘《かか》わらず、聞きようによってはなかなか面白いもので、ボンヤリ聞き流すのは社員として損だと思うのだが、現実にはちゃんと耳を傾けるのは一割といない。  君のところは大会社のエリート社長らしくおそらくソツなく社員を飽きさせない要領のいい話し方をするのだろうが、私のところはオーナー社長だから、社員がどう思おうがお構いなしで言いたいことを言いたいだけしゃべるから本音が聞けて面白い。もっとも大方の社員とすれば迷惑この上ないだろうが。  だいたい社長の年頭挨拶にはハンで捺《お》したような型があって、一に国際経済を含めてのマクロの環境論、二に自分達の属する業界の去年から新年へかけての動向と見通し、三にわが社の今年の重点目標、そしてとってつけたように皆の健康を祈って終るのが常だ。  このうち、一番目のマクロ論は、どうせ正月休みにテレビや新聞を眺めて、政治家や経済評論家、財界首脳といった人達の「年頭所感」の中からメモをとってつなぎ合わせたものだろうからどうでもいいし、二番目の業界の動向も新入社員でない限りすでに常識に属する事柄だからおそらく目新しい中身はないだろうが、三番目のわが社の重点目標には耳を澄ませるべきだ。  といって、まともに聞いたのでは、先刻承知のおざなりな中身のはずで、“行間を読む”という言葉があるがその裏を聞き取って欲しいのだ。  だいたい社長という立場は、会社の実状がかりにどう悪かろうと社員にそれを明らかにするようなことはしないもので、その逆に社業が好調で見通しが明るいときは、慢心を戒めようとかえって厳しいことをいうものだ。その辺をよくのみ込んで耳を傾ければ、社長の口調から、自分達平社員の与《あずか》り知らない役員会の席で、どのような問題意識で論議がかわされているのかを察しようとすればそれもけっして難しいことではない。  たとえば会社として新たに挑戦する新規事業があったとする。それに対して会社がどの程度の期待を寄せているかを占うのには、社長の年頭挨拶の中でそれがどの程度強調されるかで推し量ることが出来るし、社長がなぜか軽く触れただけでそれ以上言及しない場合には、それがどんなに大型プロジェクトであっても、その計画にすでに翳《かげ》りが生じ出しているのを察することが出来るものだ。  もう一つ社長の年頭挨拶の聞き方のコツとして重要なのは、ああいう立場の人は得てして「会社の将来に備えて」という言葉を多用するが、その前置きはあまり信用しない方がいいということだ。  それはたしかに会社を預かる社長として、会社の将来の一層の発展のための布石《ふせき》を考えないはずはない。だが、実際に先々に備えるというのは生易《なまやさ》しいことではなく、建前上は「五年先、十年先を見越して」と言うが、本音として見通せるのはせいぜい三年先までで、それから先の視界は茫《ぼう》と霞《かす》んで、それに向けて具体的な手を打つことなどほとんど不可能というのが現実なのだ。  まして技術革新のスピードが速く、市場ニーズが猫の目のように変わるこの頃では、長期的な見通しの下に多額な投資に踏みきるというのはかなり勇気を必要とするから尚更だ。  しかも、社長といえども個人としてはサラリーマンに過ぎず、その上任期は二年で、それを三期続けて無事に役目を終ることが出来るのを目標としている立場だ。その六年にしても、なりたての一期目は前任者の敷いたレールの上を忠実に走るだけの勉強期間で、二期目に入って徐々に自分のカラーを打ち出し、本格的に社長として社内に威令を行なえるのは、実は退任前のほんの短い期間というのがよくあるパターンだ。これでは会社の先々を考えて適切な手を打っておくことなど、実際には出来ない相談というのが、世の「社長」の現実というものなのだ。  さらにいまの大企業というのはたいていが合議制で、社長になったからといって独裁的なことをやったら、たちまち下の支持を失ってはじき出されるから、実質的にはまとめ役の域を出ず、もし「社長の決断を」と、役員社員がその顔色を見ることがあったとしたら、それは会社にとって一種の危機的状況に違いない。  ——そんなふうに考えて、改めて今年の正月に聞いた社長の年頭挨拶をもう一度反芻《はんすう》してみるといい、きっと思い当ることの一つや二つはあるはずだから。 *    *    *  さてそこで、君がもし自分自身の今年について年頭挨拶をするとしたらどうなる? 「今年は去年の続きさ」と言ってしまえばそれまでだし、事実は結局のところ事もなくそうなって今年もまた終るかも知れないが、若い君にはそんなすれっからしのような気持にはまだなって欲しくない。  たしかにサラリーマンというものは、集団の中の一人として大きな流れの中でどう個人として能力発揮が出来るかという、いってみれば枷《かせ》の中の努力しか許されない存在だが、そう思い屈してしまうというのはすなわちレースを捨てたことになるのであって、いまの君がそうであっていいはずはない。  もし私が君だったら、おそらくこんなことを考えるのではないかと思う。  まず第一は、サラリーマンになって二年、ようやく良くも悪くも自分の癖、偏りというものがよく見えてきた時期だろうから、その部分に目標の的を絞る。  おそらく君自身気づいていることだと思うが、君は一人のビジネスマンとしてかなり積極的な部類に属するものの、その一方で物事の後始末が不十分なところがあるんじゃないだろうか。具体的に言えば、計画書の立案には熱心でかなり意欲的に取り組むがその一方で、事が進み出してからのリポートや伝票整理、請求書類の処理といった仕事はついついなおざりにしているのではないかという点だ。  なんでそんなことまで分るのか、と君は思うかも知れないが、子供の頃からずっと君を見てくればそのくらいのことはおおむね察しがつくものだ。ついでにもう一つ二つ君の弱点を挙げれば、君は必ずしも人との約束時間を正確に守る方ではない。今日の仕事を明日に延ばすというあまり褒められない癖の持主でもあるんじゃないのかな。  もしそうだとしたら、せめてこの三点の好ましからざる性癖を、意図的に矯正することを今年の目標にしてみたらどうだろう。その結果半分でもそれが直ったら、これは君の人生の先々にとって大変な収穫になるはずだ。  そういう私にしても、子供の頃からの悪癖なら君に負けないくらいいろいろとあった。たとえば小学生の頃は朝母親に起こして貰わなければ起きられないタチだったが、戦争中海軍の工場に勤労動員に行かされたとき、何かにつけて「五分前」を定刻として守るクセをつけさせられ、そのおかげで朝起きるのも定刻五分前にはパッと目が覚めるようになり、私はそのことをいまだに感謝しているくらいだ。  そんなふうに私の場合は他力本願だったが、それを自主的に目標を立てて克服できればそれに越したことはないわけで、君がこの新しい年の始めにそんな気持になってくれたらと思ってこんなことを書いてみた。 第三十五信人生の濃密期について  近頃つくづく思うことは、月日の経《た》つのがあまりにも早いことだ。いや、早いというのも正確な表現ではない。単純なパターンで一年一年があっという間に過ぎていく感じなのだ。  譬《たと》えていえば、プロ野球で優勝のきまった後の消化試合のようなもので、意気込んでみたところでなんの意味もないし、そうかといってやめるわけにもいかない明け暮れの連続が、もう二十年も続いているという実感なのだ。  こんなことを書くと、いかにもやり甲斐《がい》を失った定年間際の窓際サラリーマンの愚痴のように聞えるかも知れないが、そんなつまらない繰《く》り言《ごと》を事改めて君に聞かせるつもりはない。私が言いたいのは、仕事のし盛りの三十代半ば以降、四十代、五十代と「あっ」という間だったという振り返っての実感と、その意味で一年一年がずっしりと重かったのは、二十五から三十くらいまでの僅か五、六年に過ぎなかったという、人生の道程における充実のグラデーションの再確認なのだ。  私自身、そういう意味で三十数年に及ぶサラリーマン生活を振り返って考えてみると、丁度いまの君の年からせいぜい六、七年の間が最も濃密だった。 *    *    *  私の最初に配属されたセクションは総務部だった。大学が文科系でしかも国文という、いってみればなんの専門性もない人間だからそうなったのだろうが、後になって考えてみるといい部門に回されたと感謝している。  それというのも、私の仕事は総務の中の文書課で、いまでいう広報的業務だったから、会社全体のことが分っていなければ手も足も出ず、いきおいさまざまな勉強を求められた。まだ西も東も分らない新入社員としては、頭が破裂しそうなくらいいっぺんにいろいろなことを頭に叩き込まなければならないから、家へ帰ってからもノンキに本を読んだりなんていう暇はなく、それこそ月々火水木金々の毎日だった。  しかも覚えなければならないのは会社内部の事だけでなく、新聞や雑誌といったマスコミ、ミニコミ相手の渉外業務が多いだけにちょっとしたジャーナリスト並みに世間の動きに目を光らせていなければならないから、厖大《ぼうだい》な量の新聞雑誌に目を通すことが日常的に義務づけられた。  入社して二年くらいは無我夢中で、分らないことだらけだから、ただ毎日毎日クタクタにくたびれるだけの日々だったが、ようやく仕事のペースをのみ込みかけてきたのは、さっきも書いたようにいまの君の年あたりからだった。  とはいうものの、広報の仕事というのはそう簡単にマスターできるような生易《なまやさ》しい仕事ではなかった。規模が大きかろうと小さかろうと業種がなんだろうと、会社なんてものはどこでもそうだが、外部に知られて欲しくない弱みや恥部があるものだし、一方で金を出して宣伝するのではなしに自分のところに有利な記事を新聞雑誌に書かせるようにし向けなければならず、海千山千のジャーナリストを相手に狐と狸の化かし合いみたいなことをやってのけなければならない。また、“取り屋”と呼ばれる、いまでいえばブラックジャーナリズムとか総会屋といったハイエナのようなスレッカラシを捌《さば》くのも仕事だから、まだ年端もいかないその頃の私のようなヒヨッ子にとってこれは並大抵の仕事ではなかった。  しかし私にはもう一つ大きな幸運があった。それは、私が入社して一年程経《た》ってから、私達の仕事の責任者として外部からスカウトされて入ってきた人に出会えたことだ。その人は一流新聞の経済部で二十年程記者をやっていた人で、いかにもジャーナリストらしく機敏で目配りが行き届いていた。  私の二十四歳から三十歳までの五、六年はこの人から吸収し学び、そしてそれに付いていくだけの日々ではあったが、その時期に得たものはいま考えてみると大変な量と質で、機械の小さな歯車のようなサラリーマンには願っても得られない広い視野を育《はぐく》んでくれた。  いまになって考えてみると、その頃の毎日は実にバラエティー豊かでスリリングで、しかも濃密だった。毎日毎日会社へ行ってみないと何が起き、何をしなければならないかさっぱり分らないという、不安といえばそうもいえるが、いい意味での緊張に満ちていた。それだけに、月日の経つのはあっという間なのだが、それから後の単調さとは比べものにならない変化と充実があったから、いまになって振り返ると同じ一年でも四倍にも五倍にも感じられる重さであり長さなのだ。  私は三十二でそのセクションを離れ、営業に回ったが、その時期身につけた物事に対する目配りや対人関係技術で、少しは同僚に水をあけることが出来たような気がする。つまり、営業第一線のコマンドになっても、会社のトップが何を考え、どっちを向いてどうやろうとしているのかが、なんとなく見当がつくのも、広報時代に身につけた広角視力のおかげだ。 *    *    *  さっきも書いたが、サラリーマンというのは所詮《しよせん》一コの小さな歯車に過ぎないのは紛れもない事実だ。しかし、その歯車として機能する以外に、もう一つ別の目がしっかり働いているかいないかでは大きな違いなのだ。いわばこの複眼を持てるかどうかが、先へ行って大きな開きになるのを、私のような年になると否応《いやおう》なしに思い知らされるものだ。  私の場合は、最初にやらされた仕事、そして実に恵まれた師匠のおかげで少しはそれが出来たが、いま反省することは、そんな環境に恵まれなくても、若いうちに意図的にそういう姿勢を持つようでなければいけないということだ。つまりそれが“並み”とキャリアの分れ道でもあるからだ。  だいたいキャリアとノンキャリアを出身校で分けるのがおかしい。役人の世界はまだ当分の間はそうなのだろうが、少なくともビジネス社会におけるその選別は、もはや学歴ではなくなった。つまりは、さっき書いた二十代後半から三十代の初めまでのほんの五、六年の時間をどれだけ濃密に充実させられたかどうかでそれがきまるのだ。  いまの君達の世代を見ていて思うことは、その真只中にいながら、実にノンキに、というよりはもったいない時間の送り方を、この人生の重要な“濃密期”にやっているという点だ。  これは、すべてのスポーツについて言えることだし、学校の勉強も同じで、初期から中期にさしかかる時期の集中濃度の違いがそのまま先へ行ってからの埋めようのない差になって現われる。  もっとも、人生なんてものは、そうやってガツガツやって少々人に抽《ぬき》んでたからといってタカの知れたことで、そんな世俗的な立身や栄達と無関係に貧しくとも優雅に自分流を貫くという生き方もあっていい。だがそれが多く怠け者の自己弁護でしかないのは、そうやって世間に背を向けるしかなくなった人間の殆《ほとん》どが恨みがましく愚痴っぽいことで証明している。 「自由」とかマイペースとか、人は簡単に言うが、すべてのしがらみから解き放たれるということに耐えられる人間なんてそうそういるものではなく、誰もいない見はるかす大草原を一人で走り続けるあてどなさと同じで、よほど悟りきったつもりでいてもいざとなると軽蔑しきっていたはずの俗世が恋しくなるものだ。  いま六十を間近にした私達のような年代の男達が、等しく今更してみたところでどうしようもないその“人生の濃密期”への後侮と、その頃への懐しさに浸っているという事実を、いまその真只中にいる君に知って貰いたいと思ってこんなことを書いた。 「スコラ」'88年8月25日号より'90年3月8日号まで掲載。 単行本は'90年7月、スコラ社より刊行。 '94年2月、講談社文庫版刊行。 (本電子文庫版は、講談社文庫版第一刷を底本にしました。) 男《おとこ》とは何《なに》か ——父《ちち》から息子《むすこ》へおくる手紙《てがみ》—— 講談社電子文庫版PC  諸井薫《もろいかおる》 著 Kaoru Moroi 1990 二〇〇〇年九月一日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001 ◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。 KD000006-1