竹内 好 近代の超克 [#表紙(表紙.jpg)] 目 次    ㈵  近代とは何か(日本と中国の場合)  ナショナリズムと社会革命  近代の超克  方法としてのアジア    ㈼  岡倉天心  北一輝  中江丑吉著『中国古代政治思想』  わが石橋発見  大川周明のアジア研究    ㈽  北京通信  二年間  支那と中国  大東亜戦争と吾等の決意(宣言)  『中国文学』の廃刊と私  支那研究者の道  覚 書  近代主義と民族の問題 [#改ページ] [#見出し] ㈵ [#見出し]  近代とは何か(日本と中国の場合) [#小見出し]    近代の意味  魯迅は、近代文学を建設した人である。魯迅を、近代文学以前であると見ることはできない。いろいろの条件を、どんなに割引してみても、かれを近代文学以前だとはいえない。(概念規定から出発する方法を避けるために、近代という言葉のもつアイマイさをここではそのままにしておく。)魯迅には、前近代的なものが多く含まれているが、それにもかかわらず、前近代を含むという形で、やはりそれは近代というほかないようなものである。それは、魯迅以後と、魯迅以前をくらべることで、はっきりする。魯迅以前には、先駆的な開拓者の型はいくつかあったが、どれも歴史から孤立していた。孤立していることで、開拓者として評価されなかった。かれらを開拓者として評価することが可能になったのが、そもそも魯迅の出現以後である。つまり、魯迅の出現が歴史の書きかえの意味をもっているので、新しい人間の誕生、それに伴う意識の全的な更新、という現象が歴史上におこり、それが自覚されるのは、いつも歴史的な一時期が過ぎ去った後からでなければならないからである。 [#小見出し]    東洋の近代  東洋の近代は、ヨオロッパの強制の結果である、あるいは、結果から導き出されたものである、ということは、一応は認めてかからねばならぬだろう。近代というのは、ひとつの歴史的な時代であるから、歴史的な意味で近代という言葉を使うのでなければ、混乱する。東洋にも、むかしから、ヨオロッパの侵入以前から、市民社会の発生はあった。宋(おそらくは唐さえも)まで|遡《さかのぼ》られる市民文学の系譜があり、ことに|明《みん》になると、ほとんどルネサンス人に近いほどの自由な人間の型を打ち出すまでに市民権が伸張している面があるが(明の市民文学は日本の江戸文学に深く影響している)、それでもそれは、今日の文学に無媒介につながっているものとはいえない。今日の文学が、それらの遺産の上に立っている事実は否定できないけれども、またある意味では、それらの遺産を拒否するところから今日の文学は発足しているともいえるのである。むしろ、それらの遺産が、遺産として承認されるようになったのは、つまり、伝統が伝統たらしめられたのは、ある自覚によってであって、その自覚を生み出した直接の契機は、ヨオロッパの侵入である。  ヨオロッパが、その生産様式と、社会制度と、それに伴う人間の意識とを、東洋に持ちこんだときに、今までなかった新しいものが東洋にうまれた。それをうむために、ヨオロッパはそれらを東洋へ持ちこんだのではないだろうが(むろん、今日では事情がちがう)、結果はそうなった。ヨオロッパの東洋への侵入が、資本の意志によるものか、投機的な冒険心によるものか、清教徒的な開拓精神によるものか、あるいは何かもっと別の自己拡張の本能によるものか、私にはよくわからぬが、ともかくヨオロッパには、それを支え、東洋への侵入を必然にする根元的なものがあったことはたしかだ。恐らくそれは「近代」とよばれるものの本質と深くからみあっているように思う。近代とは、ヨオロッパが封建的なものから自己を解放する過程に(生産面についていえば自由な資本の発生、人間についていえば独立した平等な個としての人格の成立)、その封建的なものから区別された自己を自己として、歴史において眺めた自己認識であるから、そもそもヨオロッパが可能になるのがそのような歴史においてであるともいえるし、歴史そのものが可能になるのがそのようなヨオロッパにおいてであるともいえるのではないかと思う。歴史は、空虚な時間の形式ではない。自己を自己たらしめる、そのためその困難と戦う、無限の瞬間がなければ、自己は失われ、歴史も失われるだろう。ヨオロッパが、たんにヨオロッパであることは、ヨオロッパであることでない。不断の自己更新の緊張によってかれは辛うじて自己を保持しているともいえるので、歴史上の諸事実がそれを教えている。「疑う我を疑いえない」という近代精神の根本の命題のひとつが、そのような状態におかれた(自己をおいている)人間の心理に根ざしていることは否定できまい。  ヨオロッパが本来に自己拡張的であることが(その自己拡張の正体が何であるかという問題を別にして)、一方では東洋への侵入という運動となって現れたことは、認めてよかろう。(他方では、アメリカという鬼っ子を生み出した。)それはヨオロッパの自己保存の運動のあらわれである。資本は市場の拡張を欲するし、宣教師は神の国をひろめる使命を自覚する。かれらは不断の緊張によって自己であろうとする。たえず自己であろうとする動きは、たんに自己に止ることを不可能にする。自己が自己であるためには、自己を失う危険も冒さなければならぬ。ひとたび解放された人間は、もとの閉鎖的な殻のなかへ戻ることはできない。動くことのなかにしか、かれは自己を保てない。資本主義の精神とよばれるものがそれだ。それは時空へのひろがりの方向において自己をとらえる。進歩の観念、したがってまた歴史主義の思想は、近代のヨオロッパではじめて成立した。それは十九世紀の末まで疑われなかった。  ヨオロッパがヨオロッパであるために、かれは東洋へ侵入しなければならなかった。それはヨオロッパの自己解放に伴う必然の運命であった。異質なものにぶつかることで逆に自己が確められた。ヨオロッパの東洋へのあこがれは古くからあったが(むしろヨオロッパそのものが本来的に一種の|混淆《こんこう》である)、侵入という形の運動は近代以後である。ヨオロッパの東洋への侵入は、結果としては東洋の資本主義化の現象を起したが、それはヨオロッパの自己保存=自己拡張を意味するものであり、したがって、ヨオロッパにとっては、世界史の進歩、あるいは理性の勝利と観念された。侵入の型は、最初は征服、それから市場の開放の要求、あるいは人権と信教の自由の保障、|借款《しやつかん》、救済、教育や解放運動の援助などと変ってくるが、そのこと自体が合理主義精神の進歩を象徴する。よりよき完全への無限の近づきを目指す向上心、それを裏づける実証主義と経験論と理想主義、ものを等質において量的に見る科学、すべてそれらの近代の特徴的性格が、その運動のなかから生れた。  ヨオロッパの自己実現であるこのような運動が、高次の文化の低次の文化への流入、その同化、あるいは、歴史的段階の落差の自然調節として、客観的法則の形で眺められたのは、ものを等質において見るヨオロッパの目からは、当然であった。ヨオロッパの東洋への侵入は、東洋において抵抗を生み、その抵抗は当然、ヨオロッパ自体へ反射したが、それさえも、すべてのものを究極的には対象化して取り出しうるという徹底した合理主義の信念を動かすことはできなかった。抵抗は計算されており、抵抗することによって東洋はますますヨオロッパ化する運命にあることが見透されていた。東洋の抵抗は、世界史をいっそう完全なものにする要素でしかなかった。  このヨオロッパの自己実現の運動のなかから、十九世紀の後半になって、質的な変化がおこった。恐らくそれは東洋の抵抗と関係があるかもしれない。なぜなら、ヨオロッパの東洋への侵入がほぼ完成したときにそれはおこったから。ヨオロッパを自己拡張に向わせた内部矛眉そのものが意識されるようになった。東洋を包括したことで世界史は完成に近づいたが、そのことが同時に、それに含まれた異質なものを媒介として、世界史そのものの矛盾を表面に出した。進歩を導き出した矛盾が、同時に進歩をさまたげる矛盾でもあることが自覚された。そして、この自覚がおこったときにヨオロッパの統一は内部から失われた。ヨオロッパの分裂の要因はいろいろの面から見ることができるだろう。が、分裂の結果は、ヨオロッパに対立すると同時にそれぞれにも対立する三つの世界をヨオロッパの内部からはじき出した。物質的基礎である資本の矛盾は、資本そのものを否定する方向に自己を導いて、ロシアにおける抵抗となってあらわれた。ヨオロッパの植民地であった新大陸が、ヨオロッパから独立することで、ヨオロッパ的法則を越えていった。それは超ヨオロッパ的なものとなってヨオロッパに対立した。第三は、東洋における抵抗で、東洋は抵抗を持続することによって、ヨオロッパ的なものに媒介されながら、それを越えた非ヨオロッパ的なものを生み出しつつあるように見える。  東洋の抵抗は、ヨオロッパに反射していた。あらゆるものは、近代のワクのなかにあるかぎり、ヨオロッパの目を逃れることはできぬ。ヨオロッパの内部矛盾が自覚される危機のたびに、いつもヨオロッパの意識の表面にうかぶものは、それが潜在的にもつ東洋的なものへの回想である。ヨオロッパが東洋へ郷愁を抱くのは、ヨオロッパの矛盾の様相のひとつであるだろう。矛盾が顕在的になればなるほど、かれは東洋を思わずにいられない。東方主義者はいつでもいた。しかし、世紀末とよばれる危機にさいしてほど、それがはっきりあらわれたことはなかった。その危機は、今日までつづいているヨオロッパの分裂の危機である。ヨオロッパは東洋を包括したが、包括しきれぬものが残るのを感じていたように見える。それはヨオロッパの不安の根のようなものである。東洋における抵抗の持続が、それを刺激していたのではないかという気が私はする。  もっとも、私が想像するようにヨオロッパがそれを受け取っていたかどうかは、疑問である。たぶん、そうではないだろう。何といっても、東洋はヨオロッパにとっては背面である。目で見ることはできぬ。私が、ロシアを理解するようには(私の理解は二葉亭の流れを通じてである)、ヨオロッパを理解しえぬとおなじに、半分がヨオロッパであるロシアを通じてしかヨオロッパは他の半分を理解しえぬのではないかと思う。ロシアの革命はヨオロッパの矛盾の産物だが、その見えぬ半面のためにかれはそれをおそれるのではないか。そしてそれが、対比的にアメリカ(純粋ヨオロッパ)の優位を認めさせることになるのではないか。アメリカとソヴィエトの対立という今日の問題が、ヨオロッパにおけるヨオロッパ的なものと東洋的なものの対立という歴史的遺産の高次の再生産としての面をもっていることはたしかだろう。  ヨオロッパがどう受け取ったにせよ、東洋における抵抗は持続していた。抵抗を通じて、東洋は自己を近代化した。抵抗の歴史は近代化の歴史であり、抵抗をへない近代化の道はなかった。ヨオロッパは、東洋の抵抗を通じて、東洋を世界史に包括する過程において、自己の勝利を認めた。それは文化、あるいは民族、あるいは生産力の優位と観念された。東洋はおなじ過程において、自己の敗北を認めた。敗北は抵抗の結果である。抵抗によらない敗北はない。したがって、抵抗の持続は敗北感の持続である。ヨオロッパは一歩ずつ前進し、東洋は一歩ずつ後退した。後退は、抵抗を伴う後退であった。この前進と後退が、ヨオロッパにとって、世界史の進歩と観念され、理性の勝利と観念されるということ、そのことが、持続する敗北感のなかで、抵抗を通じて東洋に作用したとき、敗北は決定的になった。つまり、敗北は敗北感において自覚された。  敗北が敗北感において自覚されるまでには、ある経過があった。抵抗の持続がその条件である。抵抗のないところに敗北はおこらず、抵抗はあっても、その持続しないところに、敗北感は自覚されない。敗北は一回かぎりのものである。敗北という一回かぎりの事実と、自己が敗北においてあるという自覚とは、直接には結びつかない。むしろ敗北は、敗北という事実を忘れる方向に自己を導くことによって、二次的に自己にたいして、したがってまた決定的に、敗北することが多いので、その場合は当然、敗北感の自覚はおこらない。敗北感の自覚は、このような二次的の自己にたいする敗北を拒否するという、二次的な抵抗を通じておこるのである。そこでは抵抗が二重になっている。敗北にたいする抵抗と、同時に、敗北を認めないこと、あるいは、敗北を忘れることにたいする抵抗とである。理性にたいする抵抗と、同時に理性の勝利を認めないことにたいする抵抗とである。理性の勝利は、認めないわけにいかない。しかしそれは、二重の抵抗をとおしてしか認められない。ヨオロッパに理性の勝利と観念されたものは、東洋の抵抗を通じてのヨオロッパの一歩前進に伴ってかちとられたものである。ヨオロッパは不断の緊張においてでしかヨオロッパでない。理性は一歩前進の一歩においてでしか理性であることはできない。一歩前進の一歩において理性であるものが、一歩退却の一歩において理性でありえないのは当然であろう。もしあるとしたら、それは理性の実体ではなく、実体から反射した虚像であるだろう。したがって、もし実体が姿をあらわすとしたら、そのような虚像を拒否すること、つまり抵抗においてでしかないであろう。いいかえれば、絶対の敗北感においてでしかない。(理性についていえることは、自由についてもいえよう。また意識一般についてもいえよう。あるいはさらに、意識についていえることは物質についてもいえるのではないかという気がするが、そこまでは私はいいきれない。)  もし、ヨオロッパでも東洋でもない第三の目を仮定したら、ヨオロッパの一歩前進と東洋の一歩後退(それは元来が表と裏の関係にある)が、ひとつの現象として眺められるだろう。液体Aと液体Bがまざりあうような、自然現象と等質な現象として眺められるだろう。東西文化の融合(およびその変種)という観念がそれだ。これは、価値を捨象している点で抽象的だが、そのことをいわないにしても、そもそもこのような第三の観察点を仮定するということが、ヨオロッパ的な思惟形式である。ヨオロッパの前進の中からの産物である。ところが、ヨオロッパは不断の緊張においてのみヨオロッパであるので、この場合でいえば、ヨオロッパの前進=東洋の後退の前進においてでしかヨオロッパはヨオロッパでない。したがって、その前進の瞬間にしか、この思惟形式は妥当しない。それが真理のように観念されるのは、その瞬間が永続するという観念からであり、瞬間が永続するという観念は、瞬間を永続させる努力(運動)からきている。つまり、ヨオロッパの自己自身でありたいという自己保存の本能からきている。ヨオロッパの前進=東洋の後退の後退における東洋に妥当しないのは、いうまでもない。もちろん、このような思惟形式は、意識一般がそうであるように、後退における東洋に反射する。しかし、反射したものは虚像であり、生産性をもたない。液体Aと液体Bの混合の場合に、もし液体Aが意識をもったとしたら、かれは自分が液体Bとまざりあうという観念には達しないだろう。かれがもし東洋なら、自分が失われることを感ずるだけだろう。 [#小見出し]    西洋と東洋  ヨオロッパと東洋とは、対立概念である。近代的なものと封建的なものが対立概念であるように。もっとも、この二組の概念のあいだには、空間的と時間的という|範疇《はんちゆう》のちがいがあるだろう。しかし私は論理学を研究するのでも、歴史哲学を研究するのでもないから、そのことはどうでもいい。そもそも、このような概念的理解が、したがってその形式のちがいを判断する力が、近代ヨオロッパ的なものであるだろう。つまり、緊張の持続の産物である。東洋には、本来にはヨオロッパを理解する能力がないばかりでなく、東洋を理解する能力もない。東洋を理解し、東洋を実現したのは、ヨオロッパにおいてあるヨオロッパ的なものであった。東洋が可能になるのは、ヨオロッパにおいてである。ヨオロッパがヨオロッパにおいて可能になるだけでなく、東洋もヨオロッパにおいて可能になる。もしヨオロッパを理性という概念で代表させれば、理性がヨオロッパのものであるばかりでなく、反理性(自然)もヨオロッパのものである。すべてがヨオロッパのものである。  ヨオロッパと東洋とが、時間空間上のある一点で出あって、そこで前進=後退の運動がおこった、あるいは、まざりあった、という理解の仕方は、まえに書いたように、歴史外の、つまり不動の観察点を仮定していることで、抽象的である。しかし、そのような抽象が、真実の観念でないとはいえない。無限の一歩前進のヨオロッパにおいては、歴史外の点であったものが、自己拡張によって歴史に呑まれ、歴史内の点になってゆく。かれは歴史を変えることによって、抽象に内容を与えてゆく。抽象は思惟の冒険ではあるが、デタラメではない。科学の仮説のようなもので、実験で確められるならば、それは真理だ。むしろ、確められる予想があるから、そのような冒険がうまれるのだといったほうがいいかもしれない。時間の外にあっても、あるいは空間の外にあっても、時間なり空間なりがそこまで延びてゆくならば、それは超越的なものでなくなる。だから架空なものでも、可能的には架空でない。それはいつか実在的になる。なぜなら、それは運動の方向と一致しているからだ。(ここでは東西文化論のいちばん簡単な型を考えたが、複雑なものでも、附加物がいろいろあるだけで、原理的にはおなじだ。)  したがって、前進=後退の後退における東洋には、当然、前進におけるヨオロッパにうまれたようなイメエジはうまれてこない。抽象という思惟の冒険も、そのものとしてはありえない。前進=後退は瞬間である。それはヨオロッパがヨオロッパになる(したがって東洋が東洋でなくなる)緊張の瞬間である。瞬間というのは、極限として延長をもたない歴史上の一点、というよりも、歴史がそこから出てくる場所(ひろがりでない)という意味である。だから、それを前進=後退という運動の形にいいあらわすのも、ほんとうはまずいのだ。あらゆる意識がそこから出てくるのだから、前進=後退というイメエジも、むろん、あとから浮んだものだ。したがって、そのイメエジ自体がヨオロッパ的なものである。  しかし、それがヨオロッパ的だという保証はどこにあるか。ヨオロッパ的だとか東洋的だとかいう判断の根拠は何か。真理は普遍的でないのか。私のいっていることは、それをつきつめていけば、一種の不可知論、あるいは相対論になるのではないか。これらの疑問が、私自身にも浮ぶ。恐らくそれは、認識論の問題につながるか、心理学で解かれる問題であるかもしれない。私は、認識論も心理学も知らぬから、問題をその方向に深めることはできない。それも大切だとは思うが、私の任ではない。私はただ、自分が経験的に知っていることをもとにして、文学的直感を手がかりとして、与えられた(つまり、現在の私自身の)問題を解こうとしているだけである。解くというより、問題そのものを手さぐりしているだけである。  しかし、もし真理が相対的であるかないかを問われたら、現在のままでは、つまり、今日の私の環境のなかでは、そのかぎりでは、相対的であると答えるほかないように思う。私はそれを経験的に知っている。私にとって真理であるものが、役人や学者には真理でなく、役人や学者に真理である(と私が思う)ものが、私にとって真理でないことが多い。私はそれを経験から知ったのであるが、魯迅をよむと、かれが私とおなじものを、私よりはるかに正確に感じていることがわかったので、それによって私の経験内容は確められ、問題を解く手がかりを与えられたわけである。  私は、魯迅とこのような道で出あった。私が魯迅に出あったのは、私にとっては、ひとつの事件であった。そのことは(それを考えていくことも手がかりになると思うが)、いまは問題にしないことにする。ともかく、このような場所で、いま私の考えていることは、真理が相対的だという私の判断もまた、ヨオロッパ的ではないかということである。私はそれを知っているわけではない。まえに「知っている」と書いたのは、それを主張しうるものとして知っている、という意味ではない。知るという行為によっては知らぬのだ。「私は何も知らぬ」と魯迅がくりかえし書いている意味が、私にはわかるような気がする。  私は、無限の前進のヨオロッパにおいては、真理そのものが発展的であるように思う。そして、発展的なものだけが真理ではないかと思う。したがって、前進=後退の東洋においては、真理がそのものとしてあらわれることはないのではないかと疑う。このことは、歴史的に見ていくと、よくわかる。  ヨオロッパでは、物質が運動するだけでなく、精神も運動する。精神が物質の影であるのでなく、また物質が精神の影であるのでもなく、それぞれに自己運動する運動の主体としての実体であるように見える。たしかに精神の自己運動が認められるように思う。たえず自分を超えていこうとする動きがある。あらゆる概念が概念の場所に止っていない。それは将棋の駒を進めるように進められていく。駒が進むだけでなく、駒を動かしている盤そのものが、駒が進むにつれて進むように見える。駒の進みは一様でないが、止った駒は、止ったところからまたかならず動き出す。止りきりになることは絶対にない。理性、自由、人間、社会、どの駒もみなそうだ。おそらく進歩という観念は、このような運動のなかから、自己表象として飛び出してきたのだろう。  東洋には、このような精神の自己運動はなかった。つまり、精神そのものがなかった。もちろん、近代以前には、それに似たものはあった。儒教や仏教のなかにはそれがあったが、それはヨオロッパ的意味の発展ではなかった。近代以後には、それさえない。その証拠には、日本の言葉の歴史を見ればよくわかる。言葉は、かならずダラクするか消えてしまう。「文明」はカステラになるし「文化」はアパートや鍋になる。そのアパートだって、鉄筋から木造にダラクする。木造から鉄筋への方向にはけっして進まない。新しい言葉が次々にうまれはするが(言葉がダラクするから新しい言葉が必要になるのだが、同時に新しい言葉が古い言葉をダラクさせている)、それはもともと根がないので、うまれたように見えても、うまれたのではない。のび、みのり、内容の重みで自然に割れて、そこから新しい芽が出たという言葉があるだろうか。もちろん、ダラクもせず消えもせぬ言葉がないわけではないが、そのような言葉は、よく見ると、ほかから栄養を与えられているので、栄養がきれぬあいだだけ生きられるのだ。それ自体に生産性があるのではない。  言葉は意識の表象だから、言葉に根がないということは、精神そのものが発展的でないということになるのではないか。文化が生産的でない(したがって文化でない)ということになるのではないか。もっとも、このような疑問を提出してみても、私に答えがあるわけではない。私の疑問は古い。多くの人がそれに答えている。根があるという人もあり、ないという人もあって、あるという人は、さまざまな実体らしいものを持ってきて根だと主張する。その議論を、議論のすじみちをたどってよめば、なるほどと思うが、根そのものは、私には動くようには見えない。根がないという人は、ほかからさまざまな根をもってきて移し植えようとする。しかし、移し植えられた根がそだった例を、私はまだ見ていない。移し植えたのではダメだから、土からそだてようという人もあるが、その土はやはりほかから持ってくるより仕方なく、その土からまだ芽は出ないように思う。 [#小見出し]    繰返しと発展  これは歴史についていえるだけでなく、個人についてもいえるのではないか。歴史の法則と個人の精神の法則とはちがうだろうが、そのあいだにある関係はあるだろうから(どういう関係かよくわからぬが)、歴史に発展がないことと個人に発展がないこととは、やはり関係するだろう。日本の文学者で、自己を超えていった、作品からはみ出していった、という型の文学者は、非常に少い。数が少いというよりも、そのような人間の型がはっきり歴史に浮き出てこないで、隠顕する形におかれている。光が光であるためには闇が濃くなければならないのだが、日本では、光と闇の境がアイマイである。(これは個性の問題につながるだろう。そして、この点からはいっていっても私は魯迅を発見する場所につきあたると思う。)もちろん、発展のように見える面がないわけではない。固定した座標における発展はある。座標そのものの発展がないのだ。作家は一般に、観念には忠実であるが(私小説における誠実さの意味)、言葉は粗末にしている。(そのため逆に観念そのものの発展もなくなる。)もし発展があれば矛盾がうまれるはずだが、そのような矛盾は、歴史においても、個人においても、ほとんど見られない。だから発展のように見えるものは、くりかえしであって、発展でなく、ある仮定的な本体から射している影だと考えるほかない。  文化とは何か、精神とは何か、という問題を出して、それについてある表象を浮べて、それに当るものを探しに出かけてゆく(見つからなければ引返す)というやり方がすでに、実体的なものを外界に予想して、それを与えられるものと観念している、精神の方向を示しているだろう。恐らくそれはヨオロッパ的運動の方向とは逆なものである。運動の方向が逆である。一方に前進であるものが他方には後退になる、という関係がそこにある。  前進=後退の運動において、前進の方向のなかから、前進という観念が作られる、というよりも、精神そのものが前進的に構成されるのは当然であろうが、後退の方向のなかからは、後退という自覚は、当然には起らない。なぜなら、前進の方向で前進的に構成された精神(それが真の精神である)だけが生産的であるから。後退の方向からは精神そのものがうまれてこない。一般にはむしろ、後退において、前進が意識される。なぜなら、前進において形成された前進の観念は、それが前進的であるという本質のために、後退へ滲透するから。本来に精神が空位である場所は容易にそれを受けいれる。そして、生産性を失って固定したそれを実体的なものに見る。  しかし、後退が意識されるのも、おなじ場所においてであるだろう。後退の観念も前進のなかからうまれる。前進を相手に投射した対立概念としてそれはうまれる。したがって相関的であるが、それが後退の方向に受けいれられるときには、もはや相関性を失って、それぞれに孤立した実体的なものに固定する。前進と後退のふたつの実体的な観念が、後退の方向においては、相互に媒介することなく、したがって矛盾することなく、したがってまた統一されることなく、並存する。優勢感と劣勢感の並存という主体性を欠いたドレイ感情のもとは、そこにあるだろう。  このような現象は、かなりの程度まで、東洋諸国に共通のように思う。また、ヨオロッパのおくれた国にもある。純粋のヨオロッパというものはないし、純粋の東洋というものもないから、それは程度の差といってもいい。しかし、それがはっきり出ているのは(私にそう見えるのかもしれないが)、日本がいちばんではないかと思う。その意味では、日本はもっとも東洋的である。もちろん、ある意味では、日本は東洋諸国のなかでもっとも東洋的でない。この「ある意味で」というのは、普通にいわれているように、生産力の量的比較からでない。私は東洋について抵抗ということを考えているので、その抵抗が少かったという意味である。そしてそれは、日本の資本主義化のめざましい速度に関係するだろうと思う。そしてまた、その進歩と見えるものが同時にダラクであること、もっとも東洋的でないことが同時にもっとも東洋的であるということとも結びあっていると思う。  東洋における抵抗は、ヨオロッパがヨオロッパになる歴史の契機である。東洋の抵抗においてでなければヨオロッパは自己を実現しえない。これは個人の意識に問題を移してみるとよくわかるので、意識が発生するのは抵抗においてである。Aが存在するということは、Aが非Aを排除するということである。ヨオロッパの東洋への侵入は、一方的には起りえない。相手を変革し、同時に自己が変革されるのが運動である。運動は幅をもっており、また幅があるから運動と知覚されるのだが、それは流れのように連続ではない。運動は抵抗に媒介される。あるいは抵抗において運動が知覚される。抵抗は運動を成り立たせ、したがって歴史を充実させる契機である。  しかし、そうはいっても、抵抗とは何かという問題は、私にはわかっていない。抵抗の意味をつきつめて考えていくことが、私にはできない。私は哲学的思索には慣れていない。そんなものは抵抗でも何でもない、といわれればそれまでである。私はただ、自分がそれにおいてあるものを感じているだけで、それを取り出して、論理的に組み立てることはできない。できないというのは、私が無力だからで、不可能ということではない。そもそも不可能かどうかも私にはわかっていない。それは究極には可能であろうと思う。可能かどうか、やってみなければわからぬので、私が追求の努力を放棄せぬかぎりにおいて、それは可能というほかない。しかしまた、その可能はあまりにも遠いので、その前に立って、私はあるおそれを感じ、そのおそれを感じる自分にうしろめたさを感じる。私にとって、すべてのものを取り出しうるという合理主義の信念がおそろしいのである。合理主義の信念というより、その信念を成り立たせている合理主義の背後にある非合理的な意志の圧力がおそろしいのである。そしてそれは、私にはヨオロッパ的なものに見える。私は、自分のおそれの感情を、そのものとしては気づかずに過してきた。日本の思想家なり文学者なりの多くが、少数の詩人を除いて、私が感じるようなものを感じていぬこと、かれらは合理主義をおそれていぬこと、しかもかれらが合理主義(唯物論を含めて)と称するものが、どう見ても私には合理主義に見えぬこと、を感じ、私は不安であった。そして私はそのとき魯迅に出あった。そして魯迅が、私が感じているような恐怖に捨身で堪えているのを見た。というよりも、魯迅の抵抗から、私は自分の気持を理解する手がかりをえた。抵抗ということを私が考えるようになったのは、それからである。抵抗とは何かと問われたら、魯迅においてあるようなもの、と答えるしかない。そしてそれは日本には、ないか、少いものである。そのことから私は、日本の近代と中国の近代を比較して考えるようになった。  私がそれを「東洋の抵抗」という概括的な表現で考えるようになったのは、魯迅にあるようなものが、他の東洋諸国にもあるのを感じ、そこから東洋の一般的性質を導き出せるのではないか、と考えたからである。東洋の一般的性質といっても、そんなものが実体的なものとしてあるとは私は思わない。東洋が存在するかしないかという議論は、私には、無意味な、無内容な、学者の頭のなかだけの、うしろ向きの議論のように思われる。そんなものが客観主義的な学問の内容のように観念されている学者の頭の構造が問題なので、そのこと自体が、東洋という観念の日本におけるダラク史、したがってまた学問一般のダラク史を象徴するように思う。げんに、実践面においては、そのような学問が、学問の名によって軍閥の私慾を許してき、いまも許しているではないか。(東京裁判の弁論を見よ。)東洋という観念も、他の観念とおなじように、日本の近代化の一時期には、進歩的な方向をもったように思われるが(たとえば『東洋自由新聞』のころ)、それ以後は、まっしぐらにダラクしてきている。そしてそのダラクは、ダラクの方向にある精神の主観においては、当然、ダラクと気づかれない。ただ、ヨオロッパにある東洋の観念(それは運動する)が投射したときに、その差が意識にのぼるが、その差を相手の進歩において自分のダラクとしてとらえる自己認識には達しない。なぜなら、そこには抵抗がないからであり、つまり、自己を保持したいという欲求がない(自己そのものがない)からである。抵抗がないのは、日本が東洋的でないことであり、同時に自己保持の欲求がない(自己がない)ことは、日本がヨオロッパ的でないことである。つまり日本は何物でもない。  しかし、東洋は存在するか、という問題の出し方は、そのものとしては、一種の抵抗からうまれているといえないことはない。東洋を自明なものとしている観念への反抗という面があるにはある。その面は学問として正しい。だからその点は軍閥の受けは悪かった。しかし、それが学問的になろうとして、東洋は存在するという命題に、東洋は存在しないという命題を対立させるやり方、つまり、取り出したものを比較するやり方になったときにはもう、学問としてはダラクしていた。なぜなら、それこそ唯一の科学的方法だから。そして科学的方法というものは、日本ではダラクするより仕方ないものだから。私は逆説や皮肉をいっているのではない。私にはそんな余裕はない。学者が学問の進歩と呼んでいるものが私には学問のダラクである。学者は進歩という眼鏡をかけているから、それが見えないだけだ。進歩とは眼鏡を取ればダラクである。観念を取り出したときには、もうその観念は腐っている。腐っていないという人があったら、日本の近代の歴史のなかでどの観念が腐らずに生きえたか、見せてください。どの学問がダラクしなかったか。どの文学がダラクしなかったか。日本の近代文学の歴史は、人間のダラクの歴史ではないか。もしそうでないなら、少数の詩人が、ダラクを拒否したために敗れているのは、なぜであるか。  観念を取り出すのが科学的だと思っている学者は、科学的という観念のなかにいるだけである。人間を取り出すのが文学であると思い、人間は究極には取り出せると信じている文学者は、文学という観念のなかに人間を押しこんでいるだけだ。かれらは、かれらをのせて動かしている場については、考えない。もし考えれば、かれらの学問なり文学なりは成立しなくなるから。だから学問や文学に忠実であること、そのことが、学問や文学に遠ざかることになる。日本で学者になるには、あらゆるものを疑っていいが、最後の疑いだけは疑ってはならぬ。もし疑えば、かれは学者でなくなるから。文学者は人間を裸にするにしても、最後の一枚の着物は残しておかねばならぬ。もしそれをはげば人間は失われるから。つまり、もともと人間はいないのだから。  ヨオロッパでは、観念が現実と不調和(矛盾)になると(それはかならず矛盾する)、それを超えていこうとする方向で、つまり場の発展によって、調和を求める動きがおこる。そこで観念そのものが発展する。日本では、観念が現実と不調和になると(それは運動ではないから矛盾でない)、以前の原理を捨てて別の原理をさがすことからやりなおす。観念は置き去りにされ、原理は捨てられる。文学者は言葉を捨てて別の言葉をさがす。かれらが学問なり文学なりに忠実であればあるほど、ますます古いものを捨てて新しいものを取り入れるのが激しくなる。自由主義がダメなら全体主義、全体主義がダメなら共産主義、ということになる。スターリンがダメなら毛沢東、毛沢東がダメならド・ゴール、ということになる。唯物弁証法がダメなら絶対矛盾的自己同一、絶対矛盾がダメなら実存主義、ということになる。だから、東条英機がダメなら誰かが、あるいはオレが、ということにもそれはなる。それはたえず失敗はするが、失敗を失敗することは絶対にない。失敗は成功の母、失敗したらやりなおせばいい。家が焼けたらまた建てればいいので、焼けたことをくよくよしてもはじまらぬ。死んだ子の年をかぞえるより、また生めばいい。戦争に負けてから戦犯追求をやって何になる、ということになる。日本イデオロギイには失敗がない。それは永久に失敗することで、永久に成功している。無限のくりかえしである。そしてそれが、進歩のように観念されている。まったく、それは進歩というよりほかにいいようがないだろう。ヨオロッパ人は、日本の近代化の速度におどろいている。日本人が敗戦の痛手を受けることの少いのにおどろいている。魯迅は、日本のすべてを排斥しても日本人の「勤勉」だけは学ばなければならぬ、といった。まったく、それは勤勉というよりほかにいいようがないだろう。ただ、その進歩がドレイの進歩であり、勤勉がドレイの勤勉であるだけだ。  日本文化は進歩的であり、日本人は勤勉である。まったくそれはそうだ。歴史がそれを示している。「新しい」ということが価値の規準になるような、「新しい」ということと「正しい」ということが重なりあって表象されるような日本人の無意識の心理傾向は、日本文化の進歩性と離して考えられぬだろう。たえず新しさを求め、たえず新しくなろうとすることで、日本人は勤勉である。だから、学問の進歩とは、より新しい学説をさがすことであり、文学の進歩とは、より新しい流派を見つけることである。新しさを求めるのに日本人くらい勤勉な民族は少いだろう。なぜ新しくなければならぬかというと、古い学説なり流派なりが、現実とのあいだに調和を失ったのを見て、それは学説や流派が古いからだ、だから現実に適応せぬ、だから別の新しい奴でなければダメだ、という論理があるからだ。新しいものが古くなったら、別の新しいものと交換しなければならぬ、それが学問に忠実なゆえんだ、と考える。良心的な人ほどそう考える。なぜなら、現実とのあいだの不調和に気がつくのは良心的な人たちだから。現実は発展する、だから学説も発展しなければならぬ、というのがその理由だ。この「なければならぬ」というのは、新しいものを「求める」方向での「なければならぬ」だ。「求める」のは、与えられる予想があるからだ。そして与えられる予想は、かつて与えられた、いまでも与えられている、将来も与えられるだろうという、与えられる環境のなかで形成されてきた心理傾向がもとになっている。つまり構造的にそうだ。だから与えられることは自明で、与えられぬ状態を考えることはできない。もちろん与えられることを拒否し、新しいものに反対する動きも、一方にある。しかしそれは、現実に追いつけぬあきらめから来ているので、現実を追いかける方向からの産物であることには変りない。理想主義者はあくまで現実(という観念)を追いかけようとし、現実に適応しなくなった観念をつぎつぎに捨てていくが、現実主義者は、とても追いつけないとあきらめて、追いつけぬ理由を説明する学説を探しているだけだ。どちらにしろ、現実を引き戻そうとはしていない。現実と観念のあいだの不調和を、現実を引き戻すことで調和させようとはしない。そもそも引き戻せるかどうかを考えたこともない。戻せるかどうか、やってみなければわからぬと思うが、そんな考えはかれらにはバカらしく見える。かれら観念論者(唯物論を含めての観念論者)には、現実は絶対であり、神聖である。それは権威の祭壇にまつられている。かれらは、現実は変革できるという、与えられた観念のなかに眠っている。一度も現実を変革した経験をもたないものにとっては、現実は変革しうるという観念さえ、こころよい安眠の座になる。現実という実体的なものがあって、無限にそれに近づくことが科学的であり、合理主義だと思っている。たしかにそれは科学的であり、合理主義であるだろう。ただ、ドレイの科学であり、ドレイの合理主義なだけだ。 [#小見出し]    優等生文化  学問なり文学なり、要するに人間の精神の産物である文化が、追いかけてつかまえるべきものとして、外にあるものとして、かれらには観念されている。それをつかまえる努力において、かれらはじつに熱心である。追いつけ、追いこせ、それは日本文化の代表選手たちの標語だ。人に負けてはならぬ。一歩でも先へ出ろ。かれらは、優等生のように、点数をかせぐ。事実また、学校時代の優等生が日本文化の代表選手になり、優等生制度と優等生精神で次代を教育した。だから日本文化は、構造的に優等生文化である。秀才は士官学校と帝国大学へ集り、その秀才たちが日本を支配した。鈍才は、秀才にたいして劣勢意識をもつことで秀才以上に秀才根性だから、とても秀才に太刀打ちできぬ。日本では私学が官学よりも官学的だ。福沢諭吉の伝統は、福沢諭吉の生きているうちにもう失われていた。こうしてヒエラルキイとよばれるピラミッド型の社会構造を反映したピラミッド型の優等生文化ができあがった。ピラミッドの頂点はますます延びて、秀才たちは得意であった。日本の軍備は世界一だ。日本の紡績は世界一だ。日本の医学は世界一だ。日本の民族性は世界一優秀だ。こんな優秀な文化をきずいた日本文化の代表選手である自分たちは、劣等生である人民とは価値的にちがうものだ。選ばれたものだ。おくれた人民を指導してやるのが自分たちの使命だ。おくれた東洋諸国を指導してやるのが自分たちの使命だ、となる。これは優等生根性の論理的展開である。だから主観的にはかれらは正しい。そしてそこから、自分たちが優秀なのはヨオロッパ文化を受け入れた結果であるから、その自分たちの文化的ほどこしを、おくれた人民は当然受けるであろうし、また受けるべきだという独断的な優等生心理を反映した結論がうまれる。これも主観的には正しい。もし人民が受けることを拒むと、それは人民がバカで、優秀なものを受け入れる能力がないからであり、保守的でガンコだからだとする。こういう指導者意識は、軍人や政治家だけでなく、労働運動のなかにもある。軍人や政治家が人民を引っぱろうとしただけでなく、解放運動そのものが人民を引っぱる方向で、優等生心理でなされる。これは、日本では帝国大学が思想的にもっとも急進的であったこと、学生運動の闘士が思想検事として成功したこと、右翼団体の中堅に左翼出身者が有力に参加し、戦争中は作戦にも協力したこと、などと結びあって、日本文化の優等生的性格をあらわしている。日本ファシズムの根は、右翼左翼をひっくるめての日本文化の構造そのものにあるわけだ。  日本文化は優秀である。まったく、それはそうだ。優秀な選手たちが、真剣になってきずいたのだから、優秀でないわけはない。優等生たちが優秀だというから、劣等生である人民も、そうだと思わぬわけにいかない。もっとも、優等生のなかには、日本文化は摸倣であって独創でないという論もある。しかし、摸倣は摸倣なりに優秀だというのだから、摸倣論者もやはり優秀論者であることに変りはない。優秀だからこそ摸倣できるのだといったり、摸倣するそのことが独創的であって、つまりは優秀なのだといったりする。そういわれれば、劣等生である人民も、なるほどと思う。ただ、優秀な日本文化にも、優秀でない部分があることをかれらは認める。それは何かというと、劣等生がいることである。優等生ばかりなら日本文化は完全なのだが、劣等生がいるために、それだけ不完全になる。優等生がいくらがんばっても、劣等生がいる分だけは総体の文化水準が割引されてしまう。じつに残念なことだ、とかれらはいう。そういわれれば、劣等生である人民は、自分たちのために割前がへらされることで優等生に、すまない気がせずにいられない。優等生が代表選手になって国際競技で勝てば、それは劣等生にとっても名誉なことだ。劣等生は優等生を応援しなければならぬし、応援するだろう。かれらは勝つだろう。かれらは優秀だから。ところが負けた。なぜ負けたか。かれらはこう考える。劣等部分が優秀部分を引きさげたからだ。勝つべかりし優秀部分が、劣等部分にジャマされた。それで負けたのだ。つまり劣等部分において負けたのだ。優秀部分において負けたのでない。敗戦の責任は劣等生にある。これが優等生文化の論理だ。  そこで選手交替だ。だが、交替した選手も優等生だ。なぜなら、優等生でなければ選手になれるわけがないから。士官学校の優等生が帝国大学の優等生に変っただけだ。なるほど以前の優等生は失敗した。しかしそれは、優等生であるために失敗したのでなく、やり方がまちがっていた、つまり、劣等生を計算にいれそこなったからだ、とかれらは主張する。敗けたのは劣等部分において敗けたので、つまり、劣等部分の計算をまちがえた錯誤において負けたのだから。そこで、こんどは劣等生を優等生に近づけることで、前の失敗を取りかえそうとするわけだ。こうした優等生の恩恵にたいして、劣等生である人民は感謝せずにいられない。優等生でさえ負けたのだ。しかも自分たち劣等生がいるために負けたのだ。その罪深い自分たちに優等生は恩恵を与えてくれる。これが感謝せずにいられようか。奮発一番、よく優等生のいいつけを守って、一歩でも優等生に近づき、こんどは負けないように、優秀な日本文化の総平均を一分でも高めなければ相済まない、ということになる。これが優等生文化の教育精神だ。  そうだ。教育は成功するだろう。敗戦の教訓に目ざめた劣等生は、優等生に見ならって賢くなるだろう。優等生文化は栄えるだろう。日本イデオロギイに敗北はない。それは敗北さえも勝利に転化させるほど優秀な精神力のかたまりだから。見よ、日本文化の優秀さを。日本文化万歳。  もしも、敗北は優秀文化の劣等部分において負けたのでなく、優秀部分において負けたのだ、と考えたらどうなるか。そして優秀文化を拒否したらどうなるか。進歩そのものをダラクであるとして、進歩を拒否したらどうなるか。とんでもない、とかれはいうだろう。そんなことは考えてもみられぬことだ。わざわざバカになりたがるなんて。みすみす進歩を取りにがすなんて。そんなことをしたら、劣等生はますます劣等生になってしまう。優等生がいるからこそ、敗戦をあの程度に食いとめて、劣等生を救ってやれたのだ。そして、敗戦でヤケをおこして、ヤミをやったり、ストライキをやったりしている連中に、軍国主義のかわりに文化国家という目標を与えて、立ち直れるようにしてやれたのだ。それを、優秀文化を拒否しろとか、進歩を拒否しろなんて、それじゃあ文化国家でなくて非文化国家になってしまう。せっかくの好意の苦心が水の泡になるから、そんな反動的なことはやめてくれ、と優等生たちはわめくにちがいない。優等生たちばかりではない。劣等生もいうだろう。私たちがバカで、優等生でもないものを選手にしたために負けてしまいました。せっかく応援した選手が敗けたときには、がっかりしましたが、それはニセモノだということを、ほんとの優等生が教えてくれたので、やっと元気を取りもどしました。おまえたちめいめいが優等生にならなければいけないと優等生にいわれて、そうだと思いました。私たちは心を入れかえて勉強しようと思います。どうか、もう私たちを劣等生扱いしないでください。私たちを劣等生扱いしたニセモノの優等生とは縁を切ったのですから、と。  そうだ、劣等生諸君。諸君は正しいだろう。私は、もし諸君が仲間入りさせてくれるなら私も諸君の仲間にはいりたい一人だが、諸君の意見をかぎりなく正しいと思う。日本の優等生文化のなかでは、そうするしか生きられないのだ。劣等生は優等生にすがるしか生きる道がない。もし優等生に反対すれば、優等生にやっつけられるだけでなく、劣等生からも閉め出されてしまうだろう。魯迅はこう書いている。「人生でいちばん苦痛なことは、夢からさめて、行くべき道がないことであります。夢をみている人は幸福です。もし行くべき道が見つからなかったならば、その人を呼び醒まさないでやることが大切です。」(「ノラは家出してからどうなったか」)  私も、夢をみていたい一人だ。なるべく呼び醒まされないでいたい。「人生でいちばん苦痛なこと」をよけて通りたい。しかし私は、呼び醒まされた人を見てしまった。「夢からさめて、行くべき道がない」「人生でいちばん苦痛なこと」を体験した人を見てしまった。それは魯迅だ。私は、自分が呼び醒まされはしないかという恐怖を感じながら、魯迅から離れることはできなくなった。魯迅はこうも書いている。「私たちは、人にギセイをすめる権利はありませんが、そうかといって、人がギセイになるのを妨げる権利も持っておりません。(同前)  魯迅は、何に呼び醒まされたか。どう、呼び醒まされたか。私はそれを、気にせずにはいられない。 [#小見出し]    ヒュウマニズムと絶望  魯迅に「賢人とバカとドレイ」という寓話がある。ドレイは、仕事が苦しいので、不平ばかりこぼしている。賢人がなぐさめてやる。「いまにきっと運が向いてくるよ。」しかしドレイの生活は苦しい。こんどはバカに不平をもらす。「私にあてがわれている部屋には窓さえありません。」「主人にいって、あけさせたらいいだろう」とバカがいう。「とんでもないことです」とドレイが答える。バカは、さっそくドレイの家へやってきて、壁をこわしにかかる。「何をなさるのです。」「おまえに窓をあけてやるのさ。」ドレイがとめるが、バカはきかない。ドレイは大声で助けを呼ぶ。ドレイたちが出てきて、バカを追いはらう。最後に出てきた主人に、ドレイが報告する。「泥棒が私の家の壁をこわしにかかりましたので、私がまっさきに見つけて、みんなで追いはらいました。」「よくやった」と主人がほめる。賢人が主人の泥棒見舞にきたとき、ドレイが「さすがに先生のお目は高い。主人が私のことをほめてくれました。私に運が向いてきました」と礼をいうと、賢人もうれしそうに「そうだろうね」と応ずるという話である。  これは魯迅が、呼び醒まされた状態について書いているものと考えていいと私は思う。「夢からさめて、行くべき道がない」「人生でいちばん苦痛な」状態について、逃れたい現実から逃れることのできぬ苦痛について、書いていると思う。もっとも、この寓話をそう解釈するのは、解釈する方の主観に何か条件が必要ではないかという気が私はするが、そしてその条件は、対象である魯迅から逆に規定されているようにも思うが、そのことを詳しく考えていく手間はいまは省きたい。それは私の主題からはずれることになるし、そうでなくても、私の主題とこの寓話の私の解釈とが相互媒介的な関係にあることは説明ぬきでわかってもらえると思うから。  この寓話の主語はドレイである。ドレイ根性ではなくて、具体的なドレイ(極言すれば魯迅自身)である。この寓話から、バカと賢人という人間性の対立の面だけを抽象すると、個性的なものが失われて、ヒュウマニズムという一般的なものに還元されてしまって、したがってそれは、ヨオロッパにも日本にもある、珍しくないものになる。魯迅は、そういう性質のヒュウマニストではなかった。そういう性質のヒュウマニストは、魯迅の目からは「賢人」に見える。魯迅はヒュウマニズムを(そして一切のものを)拒否した人だ。かれが賢人を憎んでバカを愛したことはたしかだが、それは別々のものではなく、賢人を憎むことがバカを愛することであった。バカと賢人が価値的な対立において魯迅に眺められているのではない。そのような眺める立場、つまりヒュウマニズムの立場というものは、魯迅には成立しない。なぜなら、ヒュウマニストが希望するようにはバカはドレイを救うことができないのだから。バカがドレイを救おうとすれば、かれはドレイから排斥されてしまう。排斥されないためには、したがってドレイを救うためには、かれはバカであることをやめて賢人になるより仕方がない。賢人はドレイを救うことができるが、それはドレイの主観における救いで、つまり、呼び醒まさないこと、夢をみさせること、いいかえれば救わないことがドレイには救いである。ドレイの立場からいえば、ドレイが救いを求めること、そのことが、かれをドレイにしているのだ。だから、このようなドレイが呼び醒まされたとしたら、かれは「行くべき道がない」「人生でいちばん苦痛な」状態、つまり自分がドレイであるという自覚の状態を体験しなければならない。そしてその恐怖に堪えなければならない。もし恐怖に堪えきれずに救いを求めれば、かれは自分がドレイであるという自覚さえ失わなければならない。いいかえれば「行くべき道がない」のが夢からさめた状態なので、道があるのは夢がまだつづいている証拠である。ドレイが、ドレイであることを拒否し、同時に解放の幻想を拒否すること、自分がドレイであるという自覚を抱いてドレイであること、それが「人生でいちばん苦痛な」夢からさめたときの状態である。行く道がないが行かなければならぬ、むしろ、行く道がないからこそ行かなければならぬという状態である。かれは自己であることを拒否し、同時に自己以外のものであることを拒否する。それが魯迅においてある、そして魯迅そのものを成立せしめる、絶望の意味である。絶望は、道のない道を行く抵抗においてあらわれ、抵抗は絶望の行動化としてあらわれる。それは状態としてみれば絶望であり、運動としてみれば抵抗である。そこにはヒュウマニズムのはいりこむ余地はない。  日本のヒュウマニスト作家なら「賢人とバカとドレイ」という寓話を、そのようなものとして書かぬだろう。ドレイが賢人によって救われるか、バカによって救われるという風に書くだろう。あるいは、ドレイが自分で主人を倒すことによって自分を解放するという風に書くだろう。つまり呼び醒まされたことを喜びとして、苦痛としてでなく、書くだろう。そして、そのようなヒュウマニストの目には、魯迅の暗さが、解放の社会的条件の欠如からくる植民地的後退性のあらわれとして映るだろう。しかし、逆に魯迅の目からは、魯迅をそのように映す「先進的」な日本文学が、賢人主義の文学、つまり解放の幻想の文学として映るということは、その先進性のゆえに日本文学の意識にはのぼらぬだろう。まったく、魯迅にくらべれば、日本文学のなかで暗いといわれるものでさえ、底ぬけに明るいように私は思う。魯迅の暗さが、解放の社会的条件の欠如からくることは否定できない。しかしかれは、幻想を拒否している。賢人を憎んでいる。「呼び醒まされた」苦痛の状態に堪えている。暗黒と手さぐりで戦っている。解放の社会的条件を「与えられる」ものとして求めていない。与えられるものとして求めぬのは、かつて与えられなかった、いまも与えられぬ、将来も与えられぬだろうという、与えられぬ環境のなかで形成された自覚からきている。与えられぬのは抵抗のためだ。抵抗するから与えられぬので、与えられぬから与えられるという幻想を拒否するようになる。抵抗を放棄すれば与えられるが、そのため与えられるという幻想を拒否する能力は失われる。保守的であるために健康であるのと、進歩的であるためにダラクするのとのちがいである。日本文学のヒュウマニストたちは、すべてダラクした。(少数のダラクを拒否した詩人は敗北した。)ヒュウマニズムを拒否した魯迅は、いかなる意味においてもダラクしたといえない。  ドレイは、自分がドレイであるという意識を拒むものだ。かれは自分がドレイでないと思うときに真のドレイである。ドレイは、かれみずからがドレイの主人になったときに十全のドレイ性を発揮する。なぜなら、そのときかれは主観的にはドレイでないから。魯迅は「ドレイとドレイの主人はおなじものだ」といっている。「暴君治下の臣民は暴君よりも暴である」ともいっている。「主人となって一切の他人をドレイにするものは、主人をもてば自分がドレイに甘んずる」ともいっている。ドレイがドレイの主人になることは、ドレイの解放ではない。しかしドレイの主観においては、それが解放である。このことを、日本文化にあてはめてみると、日本文化の性質がよくわかる。日本は、近代への転回点において、ヨオロッパにたいして決定的な劣勢意識をもった。(それは日本文化の優秀さがそうさせたのだ。)それから猛然としてヨオロッパを追いかけはじめた。自分がヨオロッパになること、よりよくヨオロッパになることが脱却の道であると観念された。つまり自分がドレイの主人になることでドレイから脱却しようとした。あらゆる解放の幻想がその運動の方向からうまれている。そして今日では、解放運動そのものがドレイ的性格を脱しきれぬほどドレイ根性がしみついてしまった。解放運動の主体は、自分がドレイであるという自覚をもたずに、自分はドレイでないという幻想のなかにいて、ドレイである劣等生人民をドレイから解放しようとしている。呼び醒まされた苦痛にいないで相手を呼び醒まそうとしている。だから、いくらやっても主体性が出てこない。つまり、呼び醒ますことができない。そこで与えられるべき「主体性」を外に探しに出かけていくことになる。  こうした主体性の欠如は、自己が自己自身でないことからきている。自己が自己自身でないのは、自己自身であることを放棄したからだ。つまり抵抗を放棄したからだ。出発点で放棄している。放棄したことは、日本文化の優秀さのあらわれである。(だから日本文化の優秀さは、ドレイとしての優秀さ、ダラクの方向における優秀さだ。)抵抗を放棄した優秀さ、進歩性のゆえに、抵抗を放棄しなかった他の東洋諸国が、後退的に見える。魯迅のような人間が後退的な植民地型に見える。日本文学の目で見ると中国文学がおくれて見える。そのくせ、おなじように抵抗を放棄しなかったロシア文学は、おくれて見えない。つまり、ロシア文学がヨオロッパ文学を取り入れた面だけが見えて、ヨオロッパ文学に抵抗した面は見逃されている。ドストエフスキイにおける頑強な東洋的抵抗の契機は見逃されている。少くも、それがヨオロッパに反射してくるまでは、日本文学の肉眼に直接には映らない。トルストイがどんなにバカになろうとして苦しんだかは、その苦しみを体験せぬ日本文学には、ひとごとであって、自己の内部の問題にならない。だから、おなじ苦しみを苦しんだ魯迅を、そのものとしては理解しようとしない。両者に共通な抵抗の契機を見る統一的な目が欠けているのだ。 [#小見出し]    外から眺めるものと自ら走っているもの  魯迅のような人間は、型として見れば、後進国の型であるだろう。魯迅のような文学者をうみ出した中国文学は後進国文学であるだろう。中国文学を後進国文学として映す日本文学の目は、中国文学を正しく映しているだろう。正しく——まさに「正しく」である。カメラのように正しく、時間空間を二次元に引きなおして見せることにおいての「正しく」である。それは自分が歴史にはいりこまないで、歴史というコオスを走る競馬を外から眺めている。自分が歴史へはいりこまないから、歴史を充実させる抵抗の契機は見失われるが、そのかわり、どの馬が勝つかはよく見える。中国馬はおくれている。日本馬はどんどん抜いている。それはそう見える。そして、そう見えることは正しい。正しく見えるのは自分が走っていないからだ。  魯迅のような人間がうまれてくるのは、激しい抵抗を条件にしなければ考えられない。ヨオロッパの歴史家がアジア的停滞とよび、日本の進歩的な歴史家がアジア的停滞(!)とよんだような、おくれた社会のなかからでなければ出てこない型である。ちょうど、ドストエフスキイがロシア的なおくれを条件にしているように。あらゆる進歩への道が閉され、新しくなる希望がくだかれたときに、あのような人格がかたまるのだろう。古いものが新しくなるのでなく、古いものが古いままで新しい、というぎりぎりの存在条件をそなえた人間が可能になるのだろう。魯迅のような人間は、進歩の限界をもたぬヨオロッパの社会のなかからは出てこぬだろう。また、進歩の幻想のなかにいる日本でもうまれぬだろう。うまれぬだけでなく、理解さえもできぬだろう。日本から魯迅を見れば、あらゆるものがそうであるように、魯迅も一個の進歩主義者、優秀な啓蒙者にゆがめられてしまう。おくれを取り戻そうとして必死にヨオロッパを追いかけた開明主義者、という風に、鏡なりにゆがめられてしまう。中国の鴎外、ということになる。ところが実際は、魯迅はおよそそれと反対のものである。胡適や林語堂のような進歩主義者とは対立物だ。「私は古い人間だ」と魯迅はよくいう。日本の進歩主義者は、それを魯迅のケンソンだと思っている。日本の近代と中国の近代の構造のちがいからくることは考えてもみない。  魯迅のような人間は、日本の社会からはうまれない。たとえうまれても、成長しない。それは受けつがれるべきものとしての伝統にならない。もちろん、魯迅は中国文学のなかで孤立している。しかし、孤立している形が見える。そしてそれは受けつがれている。魯迅という人間の像は、はっきりしている。環境のなかに埋れていない。日本では、逆に最初はっきりしていたものが、だんだん環境のなかに埋れていくのが普通だ。たえず新しいものがうまれて、次々に古くなっていく。古いものが新しくなることは日本では絶対にない。二葉亭や透谷はもう埋れてしまった。啄木も「社会主義的帝国主義」の部分では埋れている。藤村は『破戒』から『東方の門』へ歩いたが『東方の門』から『破戒』へは歩かなかった。レエニンに「草花の匂のする東洋の電気機関車」を見た芥川を、その部分で受けついでいるのは「朝鮮は彼ののぞみの地だった」彼——詩人としての中野重治ひとりだ。「私の前に道はない」とうたったときの高村光太郎は「地上にはもともと道はない」と書いた魯迅とおなじ場所に立っていた。魯迅はいばらで血まみれになって前へ出たが、高村は廻れ右をして歩き出した。 [#小見出し]    回心と転向  転向という現象も、特殊な日本的性格の産物だろう。日本の優秀文化のなかでは、優等生になってダラクするか、ダラクを拒否して敗北するか、よりほかに生きる道がない。優等生が良心にしたがって行動すれば、転向という現象は必然におこる。もし転向しなければ、かれは優等生でなくなる。新しいものを受けいれる能力を失ったのだから。共産主義より全体主義が新しければ、共産主義を捨てて全体主義へ赴くのが良心的な行動である。民主主義がくれば民主主義に従うのが優等生にふさわしい進歩的な態度である。転向は進歩によって生ずるものだから、恥ではない。むしろ転向しないことのほうが、保守的であり、したがって反動である証拠にされることが多い。プロレタリア文学がはいってきたとき、それに頑強に抵抗した魯迅が、ある時期が経過してみると、プロレタリア文学者よりもマルクス主義的であった、というような現象は日本では絶対におこらない。そもそも日本の近代が、転向ではじまっている。攘夷論者はそのまま開国論者であった。転向は構造的に日本文化と不可分の関係にあった。明治の先駆者の一人である加藤弘之は、民権論から進化論への見事な転向ぶりによって、優秀な日本文化の伝統の保持者である帝国大学教授のために身をもって学者的良心の模範を示した。  転向は、抵抗のないところにおこる現象である。つまり、自己自身であろうとする欲求の欠如からおこる。自己を固執するものは、方向を変えることができない。わが道を歩くしかない。しかし、歩くことは自己が変ることである。自己を固執することで自己は変る。(変らないものは自己でない。)私は私であって私でない。もし私がたんなる私であるなら、それは私であることですらないだろう。私が私であるためには、私は私以外のものにならなければならぬ時機というものは、かならずあるだろう。それは古いものが新しくなる時機でもあるし、反キリスト者がキリスト者になる時機でもあるだろう。それが個人にあらわれれば回心であり、歴史にあらわれれば革命である。  回心は、見かけは転向に似ているが、方向は逆である。転向が外へ向う動きなら、回心は内へ向う動きである。回心は自己を保持することによってあらわれ、転向は自己を放棄することからおこる。回心は抵抗に媒介され、転向は無媒介である。回心がおこる場所には転向はおこらず、転向がおこる場所には回心はおこらない。転向の法則が支配する文化と、回心の法則が支配する文化とは、構造的にちがうものだ。  私は、日本文化は型としては転向文化であり、中国文化は回心文化であるように思う。日本文化は、革命という歴史の断絶を経過しなかった。過去を断ち切ることによって新しくうまれ出る、古いものが|甦《よみがえ》る、という動きがなかった。つまり歴史が書きかえられなかった。だから新しい人間がいない。日本文化のなかでは、新しいものはかならず古くなる。古いものが新しくなることはない。日本文化は構造的に生産的でない。それは生から死へはゆくが、死から再生へはゆかない。藤村が『東方の門』から『破戒』へ歩かなかったように、高村光太郎が廻れ右したように。魯迅の法則は日本では適応しない。それは二葉亭の言文一致運動と、一九一七年の「文学革命」をくらべてみれば、よくわかる。「文学革命」は、普通には胡適の口語運動と、ヨオロッパの近代文学の輸入と、伝統破壊に端を発しているようにいわれ、実際にもそのとおりだが、その運動を推し進めていった原動力は、その運動を内部から否定していく別のもっと根元的な力であった。その中心は魯迅である。日本の言文一致は、内部からそれを否定することによってそれを超えていくという風には運動が進まなかった。それは二葉亭の自己分裂でおわった。そしてその上に、鴎外の完成が外から押しつけられた。日本ではすべてが完成であり、一回かぎりである。 [#小見出し]    辛亥革命と明治維新  それは辛亥革命と明治維新の比較によってもわかる。明治維新は、たしかに革命であった。しかし同時に反革命でもあった。明治十年の革命の決定的な勝利は、反革命の方向での勝利であった。その勝利を内部から否定してゆく革命の力は、日本では非常に弱かった。弱かったのは、力の絶対量において弱かったよりも、革命勢力そのものが反革命の方向に利用されていくような構造的な弱さであった。(ノーマン『日本における兵士と農民』参照。)辛亥革命も、革命=反革命という革命の性質はおなじだ。しかしこれは革命の方向に発展する革命である。内部から否定する力がたえず湧き出る革命である。孫文には革命がいつも「失敗」と観念されている。辛亥革命のうみ出した軍閥政治(それは一種の植民地的な絶対王制だ)を否定し、さらに革命党そのものの官僚化を否定する方向に進展する革命である。つまり生産的な革命であり、したがって真の革命である。  明治維新は成功したが、辛亥革命は「失敗」した。失敗したのは、それが「革命」であったからだ。明治維新の成功を失敗と見て、やりなおそうと試みる動きが絶対にないわけではなかったが、いつも革命の指導者によってつぶされた。つぶされなければ利用された。自由民権運動は国権派によって一部はつぶされ、一部は利用された。利用されたものは「支那浪人」の元祖になった。一九二〇年代の革命運動は、そのくりかえしである。一部はつぶされ、一部は新「支那浪人」(満鉄系など)に転化されて侵略に利用された。もっとも、国権派がダラクしたように「支那浪人」の質もダラクしたというちがいはあるけれども。  明治維新と辛亥革命とは、五十年のへだたりがある。そのへだたりは、日本文化の優秀さを証拠だてるものである。同時に、その革命の質のちがいが、優秀さの方向を証拠だてるものである。東洋諸国のなかで、日本ほど容易に革命が成功した国はない。日本はヨオロッパにたいして、ほとんど抵抗を示さなかった。ロシアは、資本主義にたいして野蛮なほどの抵抗を行うことなしには資本主義を取り入れることはできなかったが、日本の資本主義は、ヨオロッパの産業革命におけるほどの抵抗にも出あわなかった。日清戦争で決定的な打撃を受けたときでさえ、大清帝国の進歩的官僚の改良主義のイデオロギイは「中学為体、西学為用」であった。つまり、ヨオロッパの優位がたんなる技術の優位と観念されていた。これは日本でいえば新井白石の程度である。日清戦争で負けてから、厳復や康有為らの改革運動がおこったが(日清戦争が中国近代史の転回点であることは日本の多くの歴史家には見逃されている)、ことごとく反動派につぶされた。明治維新を手本にしようとした康有為の運動は成功しなかった。厳復(かれは最初の留学生である。そして留学そのものが日本より十年おくれている)は、おなじころに留学していた日本の学生が、帰国してから政府に重用されて志をのばしているのにくらべて、官吏としての身分が低いというだけの理由からせっかくの新知識が活用されぬ自分をくやしがっている。すべて上からの改革をはばむほど中国では反動が強かった。そしてそれが下からの革命を盛りあがらせることになった。一九〇〇年の反動について魯迅はこう書いている。「清末の所謂儒者の結晶且代表者である所の大学士徐桐氏が現はれた。彼は数学までも毛唐の学問として排斥し世の中に仏蘭西や英吉利と云ふ様な国々のある事は承知するが西班牙と葡萄牙との存在は決して信じない、それは仏国や英国が度々利益を貰ひに来る事を恥ぢて勝手に造出した国名だと主張した。而して彼は実に又一九〇〇年の有名な義和団の幕後の発動者且つ指揮者であつた。併し義和団も見事に失敗し徐桐氏は自殺してしまひ政府は又外国の政治法律や学問技術も取るべき処があるものとした。自分の日本へ留学する事を熱望したのもその時である。」(「現代支那に於ける孔子様」日本文)  一九〇〇年の反動は、日本から見れば、コッケイなほど野蛮である。一九〇〇年に日本は八国連合軍に加わって文明の名によって北京を占領した。それほど日本は文明であった。どれほど文明であったかは、留学した魯迅が受けた印象からもあきらかであって、そのことが一九〇〇年の中国と一九四五年の日本の類似にも関係してくると思う。前の引用につづく魯迅の叙述はこうである。「その(留学の)目的を達して入学した処は嘉納先生の設立した東京の弘文学院で……或日の事である。学監大久保先生が皆を集めて言ふには君達は皆な孔子の徒だから今日はお茶の水の孔子廟へ敬礼しに行かうと。自分は大に驚いた。孔子様と其の徒に愛想尽かしてしまつたから日本へ来たのに又をがむ事かと思つて暫く変な気持になつた事を記憶して居る。さうして斯様な感じをしたものは決して自分一人でなかつたと思ふ。」  これで文明の性質がよくわかる。一九〇〇年の反動は魯迅に「孔子様と其の徒に愛想尽かし」をさせたが、その魯迅に「又をがむ事かと思つて暫く変な気持」をさせるほど日本は文明であった。その文明が一九四五年を導き出したことは疑うことができない。  すべては明治維新革命に規定された進歩の方向に問題がある。明治維新を成功させた日本文化の優秀さが問題だ。日本の指導者たちは優秀であった。かれらの進歩主義は強く、反動は相対的に弱かった。唯一の危機である明治十年を見事に乗り越すことによって、日本の進歩主義は、完全に反動の根を絶った。しかし、それといっしょに革命そのものの根も絶った。中国では、官僚内部の不平分子の運動さえ圧殺するほど、反動の力は大きかった。そしてそれが、革命を下へ下へ追いやり、底の人民のあいだに根をはらせた。日本では、人民の運動さえ、士官学校と帝国大学のふたつの上へ向って開かれた管から吸いあげて枯らした。  日本文化の優秀さは何に由来するものだろうか。それは指導者の優秀ということもあるだろう。下部構造の優秀ということもあるだろう。そしてその究極の原因を、生産力という量的なものに還元する試みも、試みとしては悪くないだろう。それによって何かしらわかってくるだろうから。しかし私は、それだけでは説明しつくされぬものが残るような気がする。ヨオロッパとの出あいで、なぜ日本だけが抵抗を示さなかったか。それは生産力という等質なものだけで説明できるだろうか。ヨオロッパの東洋への侵入は、時間の幅と空間の幅をもっているから、その幅を時間空間上の一点で切れば、そこにおけるヨオロッパなり東洋なりは、限定された現実的なものになり、したがって、その点での抵抗も個性的なものになるわけだが、その個性のちがいを等質なもので説明できるだろうか。まして、その個性的な抵抗から導き出された人間の型はさまざまである。大ざっぱに見ても、レエニンやゴルキイの型、孫文や魯迅の型、ガンジイやタゴオルの型、あるいはケマル型やイブン・サウド型といった工合である。(もっとも、それを型として眺める点を仮定しての上の話である。)日本には、型といえるようなものがない。つまり抵抗がない。強いていえば型のないのが日本型である。個性のないのが日本の個性だ。私は、日本がヨオロッパに抵抗を示さなかったのは、日本文化の構造的な性質からくるのではないかと思う。日本文化は、外へ向っていつも新しいものを待っている。文化はいつも西からくる。儒教も仏教もそうだ。だから待っている。鎖国は選択であって拒否ではない。江戸の市民文学は明末の市民文学なしには考えられない。芭蕉、西鶴、馬琴、みなそうだ。国学者は伝統を拒否したが、それは構造を変えたのではない。新しい主人であるヨオロッパが抵抗なしにのっかるべく土台を掃除したに過ぎないようなものだ。日本の封建制の上に日本の資本主義がのっかったように、儒教的構造(あるいは無限の文化受容の構造)の上に日本の近代は心地よくのっかっている。のっかっていることが意識されぬほどぴったりのっかっている。明治維新の革命=反革命のとき教学権を奪われた漢学が復活したのはその証拠だ。元田永孚などの活動にそれはあらわれている。そして魯迅に孔子教を強制した文明につながっている。  日本文化は、伝統のなかに独立の体験をもたないのではないか、そのために独立という状態が実感として感じられないのではないか、と私は思う。外からくるものを苦痛として、抵抗において受け取ったことは一度もないのではないか。自由の味を知らぬものは、自由であるという暗示だけで満足する。ドレイは自分がドレイでないと思うことでドレイである。「呼び醒まされた」苦痛は、日本文化には無縁でないのか。そうでなければ、わざわざ呼び醒まそうとして近代や絶望や実存や、その他さまざまな対症薬を持ち出すことが行われるはずがないではないか。  国粋主義や日本主義が流行したことがあった。その国粋や日本は、ヨオロッパを追放するということで、そのヨオロッパをのせているドレイ的構造を追放することではなかった。いまは反動で近代主義がはやるが、近代をのせている構造はやはり問題にしない。つまり主人を取りかえようとしているので、独立を欲しているのではない。東条を劣等生あつかいすることで、優等生文化そのものを保存するために別の優等生が居すわろうとしているのとおなじだ。日清戦争と日露戦争とは、日本文化の優秀部分において勝ったことを疑うものはない。もしこの戦争を負けたとしても、それはやはり優秀部分において負けたことを疑うものはなかろう。一九四五年だけが劣等部分における敗北であるはずがない。一九四五年を錯誤と主張するものは、そのことで優等生文化を保存しようとしているのだ。士官学校の優等生のかわりに帝国大学の優等生を認めるだけだ。日本文化のドレイ的構造をそのままにして、上にのっている部分だけを入れかえようとする。それでは東条を否定することにはならない。東条のはえている地盤にのっかって東条を否定してもダメだ。東条を否定するためには、東条に対立することではダメなので、東条を超えなければならぬ。そのためには、東条さえも利用しなければならぬ。もし真の独立を欲するなら、自己の生存を賭けなければならぬので、そのためには、あらゆる抵抗の契機をつかまねばならぬ。たといどんなに小さなものであろうとも。東条において擬態としてある弱々しいものでさえ、それを否定するのでなく利用しなければならぬ。しかし、それをするには「呼び醒まされた」苦痛に堪えることが必要なので、そのギセイを人に強制することはできない。  ノーマンの『日本における兵士と農民』に次のような言葉がある。この本は、私が最近よんだなかで感銘の深かったものだ。私はほとんど芸術的な感銘を受けた。内容の重みでどっしり手ごたえがある。積みかさねられた論理が造型的で、ロダンの彫刻か何かのように物量が盛りあがっている。それは生命力のあふれで古典的に美しい。そのなかで、おわりに近い部分、軍国主義がおくれた資本の手先になって大陸侵略に乗り出すとき、近代的軍隊が必然的に野蛮化される過程を心理的現実に即して掴んで「みずからは徴兵軍隊に召集されて不自由な|主体《エイジエント》である一般日本人は、みずから意識せずして他国民に奴隷の足枷を打附ける|代行人《エイジエント》となつた」と書いたあとで、ノーマンはこう附け加えている。 [#ここから1字下げ] 「他人を奴隷化するために純粋に自由な人間を使用することは不可能である。反対に、最も残忍で無恥な奴隷は、他人の自由の最も無慈悲且つ有力な掠奪者となる。」(白日書院版一一四頁) [#ここで字下げ終わり]  私はこれを読みながら、魯迅を思い出していた。魯迅は、自国についてこれとそっくりおなじ意味のことを何度も書いている。ノーマンは、恐らく魯迅の文章は読んでいないだろう。ノーマンが日本と日本人を愛していることは疑えない。ヘルンやタウトとちがった仕方で、しかもあるいはかれら以上に、外国人としてのほとんど一種の極限にまで、かれはそれを愛している。もしその対象への愛がなければ、かれの学問があのように見事に結晶するはずがない。私は、ノーマンの言葉を、えがたいものだと思う。そしてそれに答える言葉が私にないのを残念に思う。しかし、魯迅がそれに答えてくれている。もし魯迅がいなかったら、私はどんなにはずかしい思いをしたろう。ノーマンは、隠岐島コンミューンの人民側の文献がないことを指摘する一行(九四頁)で、ほとんど日本の学問全体を批判している。日本の歴史家がそれにどう答えるか私は知らない。私は、外国人であるノーマンによって日本文化の構造的弱点がこうまで見事に掴まれたということさえが、私にとってひとつの出発点になることを知っているだけだ。 [#小見出し]    第三の時代  魯迅の書いているのはこうである。 [#ここから1字下げ] 「たとい……学者たちがいかに結構を設けて、歴史を書くのに『漢族発祥時代』『漢族発達時代』『漢族中興時代』などの好題目を並べたとしても、好意はまことにありがたいが、措辞が廻りくどい。次のような、もっとぴったりしたいい方があるのだ。  一、ドレイになろうと思ってもなれぬ時代  二、しばらく無事にドレイになれる時代  このような循環が『先儒』のいわゆる『一治一乱』でもある。……  ……  しかしわれわれは、古人とおなじように『昔からあった』時代に永久に満足しているのだろうか。復古家とおなじように、現在に不満のために三百年前の太平の御世にあこがれるのだろうか。  もちろん、われわれも現在に不満だ。だが振りかえる必要はない。前方にも道路があるからだ。そして、この中国歴史上かつてなかった第三の時代を創造することこそ、現代の青年の使命である。」(『燈下漫筆』) [#ここで字下げ終わり] [#地付き](一九四八年四月) [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『東洋文化講座』第三巻「東洋的社会倫理の性格」(一九四八年十一月、白日書房刊)に発表、『竹内好全集』第四巻に収録。 [#改ページ] [#見出し]  ナショナリズムと社会革命  ナショナリズムという一つの精神の流れで歴史を説明できるかどうか疑問である。ナショナリズムを、近代国家の形成過程に必然にあらわれる精神傾向という意味にとり、その類推で東洋の後進国の独立運動を説明しようとするのが普通のようであるが、これはヨーロッパの学者に都合のよい方法であるという気がする。インドなどの場合はともかく、中国の場合は果してどうか。ことに、日本の現状をそれにあてはめて、おなじナショナリズムという言葉で独立運動ないし独立の願望をいいあらわすのは、適当でないのではないかという気が私はする。これは私の感じだけなので、学問的にはどうか知らない。  しかし、ナショナリズムという便利な見方を採用することによって、歴史の真相がよりよくわかり、人間活動の見逃されていた一面が照らし出されて、それによって新しい法則が発見されるかもしれないということは認める。ナショナリズムは最近の流行語であるが、その意味では私はこの観点の採用を排除しない。  中国の近代史に、一貫してある流れがあることは否定できない。それをナショナリズムとよぶにせよ、民族主義あるいは国家主義、国民主義などとよぶにせよ、ともかく、そのようなものはあるといわなければならない。もっとも、その内容は変ってきているので、たとえば孫文の民族主義にしても辛亥革命の前と後では大変なちがいがある。そのちがいを含めて、それを日本の同種のものと比較した場合は、あきらかに異質なものが感じられる。したがって、異質の比較の上に立っていえば、中国には一貫したナショナリズムの流れがあったと見られるわけである。  中国と日本のナショナリズムの性質のちがいについては、便宜上、丸山真男氏の説を借用する。 [#ここから1字下げ] 「中国は支配層が内部的に編成替えによって近代化を遂行することに失敗したために、日本を含めた列強帝国主義によって長期にわたって、浸潤されたが、そのことが却って帝国主義支配に反対するナショナリズム運動に否応なしに旧社会=政治体制を根本的に変革する任務を課した。旧社会の支配層は生き残らんがためには多かれ少かれ外国帝国主義と結び、いわゆる『買弁化』せざるを得なかったので、彼等の間から徹底した反帝国主義と民族的独立の運動は起りえなかった。一方における旧支配構造と帝国主義の癒合が、他方におけるナショナリズムと社会革命の結合を不可避的に呼び起したのである。孫文から蒋介石を経て毛沢東に至るこの一貫した過程……」「こうしたナショナリズムとレヴォリューションとの一貫した内面的結合は、今日中国において最も典型的に見られるけれども、実はインド・仏印・マレー・インドネシア・朝鮮等、日本を除くアジア・ナショナリズムに多かれ少かれ共通した歴史的特質をなしている……」 「ただひとり日出ずる極東帝国は、これと対蹠的な途を歩んだ。」(『中央公論』一九五一年一月号) [#ここで字下げ終わり]  この図式は、中国と日本の近代化の型の比較としては、ほとんど私の考えていることと同じなので、この上なにもつけ加えることはない。丸山氏はさらに、日本のナショナリズムが不可避的にウルトラ・ナショナリズムに移行しなければならなかった歴史的推移の必然さを論証している。そして今日、人為的操作でナショナリズムを回復しようとする企てが、決してアジア諸国に結びつく真実のナショナリズムを生み出す所以でないことを力説している。丸山氏の論証は精密であり、その悲観説を私はもっともだと思うほかはない。  たしかにナショナリズムには、革命に結びついたそれと、反革命に結びついたそれとの二種類があり、前者のみが正しいナショナリズムである、ということは承認しなければならないだろう。ところで、インドの場合はそのどちらの類型にはいるか、という疑問が一つ私にはある。インドと中国を概括できるようなナショナリズムの類型が取り出せるものだろうか。  もう一つ、これは疑問というのではないが、丸山説に少し補足したい点がある。それは、中国にも「悪しき」ナショナリズムの型はあるということだ。その実例は、第二次国共合作以前の国民党にある。当時の国民党は、共産党弾圧の手段としてナショナリズムを利用した。そのやり方は、ちょうど日本で国権派が自由民権派を弾圧したときと同様であって、国論の統一を武器にした。三民主義から民族主義だけを抜き出して孫文思想の歪曲化を図り、左翼からの転向者を集めて民族主義文学という御用文学を作りあげた。結局、この試みは歴史的に失敗したのであるが、ナショナリズムを正面に押し出すやり方は、とかく眉ツバモノであって用心しなければならぬという教訓は中国の場合にも当てはまるのである。  むろん丸山説は総体的観察として述べられているのであるから、個々の事例は問題にならない。というより、中国では、反革命さえ革命のエネルギイに転化しているところに、日本との型の違いがあるのだ。日本の近代史は革命のエネルギイがそっくり反革命に転化される型の繰返しであった。したがってそれは日本でも個々には、「よき」ナショナリズムの萌芽が見られたという歴史的事実を否定するものではない。丸山氏もこの点に触れているが、遠山茂樹氏の「二つのナショナリズムの対抗」(『中央公論』一九五一年六月号)は更に詳しく、具体的なデータに即して、歴史のダイナミックスを明かにしている。  日本と中国の比較の点では、遠山説はあまり触れていないが、察するにほぼ丸山説と変らないように思う。遠山氏は、とくに歴史の主体的把握を念願しているようで、「支配者側の必然が勝利した結果として私たちが受けとらされている現状成立の必然性の中に、それを逆転せしめて被抑圧者の革命の勝利を実現する契機を求める」立場から、二つのナショナリズムの内面的相剋関係を観察している。この点私も賛成なので、したがって次のような命題は、現状分析の手がかりとしてはすこぶる適切のように思う。 [#ここから1字下げ] 「私たちが歴史から学ぶことのできる第一の点は、ナショナリズムが政治的課題として押し出された時、|現象的には《ヽヽヽヽヽ》、ほとんど必然的といってよいほど、しばしば進歩と反動との交錯乃至倒錯があらわれること、それにもかかわらず、|本質的には《ヽヽヽヽヽ》進歩的ナショナリズムと反動的ナショナリズムとの対抗が、基本的な政治的対立の線に沿って、まぎれもなく存在するということである。」 [#ここで字下げ終わり]  現象と本質との区別は、私にはよくわからないが、ともかく見かけの混乱を指摘したことと、その混乱を割り切る条件が歴史的に与えられるものであることを指摘した点は、軽率な素朴唯物論者の反省をうながす上に役に立つだろうと思う。私が中国の近代史を眺めて感ずるのも、まさにそのことである。  中国の近代文学が、国民的統一の願望に貫かれていることは、「アジアの典型的ナショナリズム」の国柄として当然のことである。中国人のもつナショナリズムの心情は、文学においてじつによくあらわれている。それは一種の悲哀感として、また諦念として、あるいは絶望として、また憤怒として、様々な現れ方をしているが、帰するところは国家的独立と国民的統一への祈念である。その祈念の深さと文学の価値とが、ほとんど背馳していない。それが今日では伝統化されている。二つのナショナリズムの類型がちがうように、それが中国文学と日本文学との根本的な性格の差になっていると思われる。  しかし、日本にも個々には、「よき」ナショナリズムの型が生れたように、中国人の心情に似たものが日本文学にまったくなかったわけではない。むしろ、明治時代にはそれが多分にあった。漱石にも、荷風にも、鴎外にすらあった。なかんずく、透谷、独歩、啄木の流れにはそれが強くあらわれている。この色彩が消えてしまったのは、自然主義末期、あるいは『白樺』以後であろう。それにともなって、文学史的評価が固定したので、隠顕する形であった明治人の東洋的ナショナリズムの心情は、もはや文学の要素としては認められなくなり、埋もれてしまったのだろう。そしてそれを発掘する試みは、私の見る範囲では、中野重治氏を除けばまだだれもやっていない。 [#ここから1字下げ] 「斯くて今や我々青年は、此自滅の状態から脱出する為に、遂に其『敵』の存在を意識しなければならぬ時期に、到達しているのである。それは我々の希望や乃至其他の理由によるのではない、実に必至である。我々は一斉に起って先ず此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷めて全精神を明日の考察——我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。」(「時代閉塞の現状」) [#ここで字下げ終わり]  一九一〇年に、全く今日にふさわしい発言をした啄木の精神状況は、そのまま中国の近代文学の建設者たちの精神状況と見なすことができる。おなじ文中で、樗牛の「失敗」を批判した後で「一切の『既成』を其儘にして置いて、その中に、自力を以て我々が我々の天地を新に建設するという事は全く不可能だ」と書いているのは、これも中国文学の開拓者の決意と見なすことができる。その啄木が、最後にたどりついた思想は、みずから窮余の表現とは知りながら、「社会主義的帝国主義」とよぶほかはなかったような性質のものであった。この言葉の含意を研究したものを私は知らないが、私の感じでいえば、これこそ明治的ナショナリズムの究極であり、かつ分水嶺であった。啄木のこの発言には透谷以後の明治的ナショナリズムの心情が煮つめられている。彼らは多かれ少かれナショナリズムと社会革命との結合に苦しんだのだ。その結果として出てきたものが、「社会主義的帝国主義」という形容矛盾的な表現であった。  たとえば独歩の『愛弟通信』では、戦勝国民の喜びと同時に、戦争に負けた中国人への、同情というよりもむしろ、おなじ東洋人であるという親愛感が、ヨーロッパヘの敵愾心を介して、はっきりあらわされている。ここにおけるナショナリズムの心情は、素朴であり、単純である。日本と中国とが、もしナショナリズムにおいて結びつきえたとしたら、これはその唯一の時期であった。二度の戦勝の経験は、その結びつきを引き放す方向に両国を分け、啄木に見られる複雑化と苦しみを生み出したのである。これは自由民権運動の体内から大陸浪人が生み出される過程に照応するものであった。  啄木の思想を受けついだのがプロレタリア文学である、というのが文学史の定説になっている。しかし、受けついだのは社会思想の面だけであって、啄木がそれと結合しようとして苦しんだナショナリズムの半面は、プロレタリア文学では切り離されてしまった。そしてこれが日本と中国のプロレタリア文学の相違点でもある。つまりプロレタリア文学は、啄木の苦しみは継がなかったわけだ。これが、プロレタリア文学がのちに日本浪曼派から手痛い復讐を受けた導因となったと私は考える。  今日において、新しいナショナリズムをそだてることに絶望する丸山氏に私は同感する。たといそのナショナリズムが、左右いずれのイデオロギイによろうとも。明治の自由民権は大陸浪人を生んだが、昭和の左翼運動は再び新型の大陸浪人を生んだのだから、三度目だけがウルトラ・ナショナリズムに利用されないと簡単に信じるわけにはいかないのだ。  しかし、もしどうあってもナショナリズムを欲するとすれば、どうしたらいいか。ウルトラ・ナショナリズムに陥る危険を避けてナショナリズムだけを手に入れることができないとすれば、唯一の道は、逆にウルトラ・ナショナリズムの中から真実のナショナリズムを引き出してくることだ。反革命の中から革命を引き出してくることだ。遠山氏の言葉を借りれば、「マイナスの条件の裏に、プラスの条件の伸びてゆく、そのような革命的伝統を草の根をわけても掘り起す」ことだ。それ以外に方法はない。  このことは、いいかえれば、啄木の苦しみを再び苦しむことである。啄木の苦しみを切り捨てたプロレタリア文学を学ぶのであってはならない。プロレタリア文学の道はかならずウルトラ・ナショナリズムとの妥協に通じる。これは歴史の教訓である。むしろ、啄木を通じて逆に透谷、独歩の素朴なナショナリズムの精神を回復しなければならぬ。大切なのは革命の伝統であって革命の結果ではない。結果だけを人にもらいたがる乞食根性は、文学を堕落に導く。  中国の人民文学を日本へ導き入れようとする態度に、この乞食根性が現れていないかを私は恐れる。むろん、中国の人民文学を知ることは大切だが、知るのは結果を知るのでなくて、その結果が導き出された原初の精神に遡って知るのでなければ、それは新しい教養主義に変形するだけであって、日本の文学を改革する力にはならぬのではないか。中国の人民文学に現れている革命のエネルギイの豊富さはまことに驚くべきものがあるが、それは一朝にして生み出されたものではない。反革命においてさえ革命の契機をつかみ出した清末以来の改革者の努力の上に出てきたものである。その典型は魯迅だ。したがって、魯迅の抵抗こそ、今日学ぶべきものである。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『人間』(一九五一年七月号、目黒書店刊)に発表、『竹内好全集』第七巻に収録。 [#改ページ] [#見出し]  近代の超克 [#小見出し]    一 問題のあつかい方について 「近代の超克」というのは、戦争中の日本の知識人をとらえた流行語の一つであった。あるいはマジナイ語の一つであった。「近代の超克」は「大東亜戦争」と結びついてシンボルの役目を果した。だから今でも——というのは「大東亜戦争」が「太平洋戦争」と呼び名の変った今、ということだが——「近代の超克」には不吉な記憶がまつわりついている。三十歳台から上の世代の知識人なら、「近代の超克」ということばを複雑な反応なしに耳にし、口にすることができない。 「近代の超克」という知識人ことばは、たぶん民衆ことばの「撃ちてしやまん」や「ゼイタクは敵」に対応するだろう。ここで「民衆ことば」といったのは、民衆がつくり出した、という意味ではない。民衆用に支配者がつくり、それを民衆が消費した、という意味である。消費するために民衆は当然知恵をはたらかせたが、その知恵はことばにはならなかった。「撃ちてしやまん」に自分の哀歓を托するよりほかに自己表現の道がなかった。「近代の超克」は、知識人が純粋に自家消費用につくり出したものだから、この点は「撃ちてしやまん」とはちがうが、戦争とファシズムの記憶がまつわりついて、複雑な反応をよびおこす点は共通である。  固有の意味での「近代の超克」は、雑誌『文学界』が一九四二年(昭和十七年)九、十月号にのせたシンポジウムを指す。これは翌年、単行本になって出版された (註一)。「近代の超克」ということばは、この催しによってシンボルとして定着された。  しかし、シンボルとして定着されたということは、このシンポジウムの主催者なり参加者なりが、「近代の超克」をとなえ、あるいは推進した、ということと直ちに一致はしない。つまり当事者たちに「近代の超克」を一つの思想運動にしようとする意図があったとは断定されない。これは事実に即していま私がそう判断するのである。出席者たちの思想傾向は多様であり、日本主義者もいれば合理主義者もいて、「近代の超克」という出題をめぐって各人各説を述べあっているが、結局「近代の超克」とは何かということは明らかにされていない。お互いの間の考え方のちがいを認めあうだけに止まっている。  だからこのシンポジウムの記録だけから「近代の超克」という思想の内容を抽出することはできない。「近代の超克」は、戦争とファシズムのイデオロギイを代表するものとして、それに言及するときは「悪名高き」という形容句を冠せるのがほとんど慣習化されているほど、戦後は悪玉あつかいされているが、いま読み返してみると、これがどうしてそれほどの暴威をふるったか、不思議に思われるほど思想的には無内容である。なぜ「近代の超克」が悪名をとどろかしたか、その理由はシンポジウムそのものからは説明されない。 「近代の超克」とならんで、おなじころもう一つ「悪名高き」座談会があった。西田幾多郎と田辺元に師事するいわゆる京都学派の四人の哲学者、歴史家によって行われたもので、一九四一年から四二年にかけて前後三回『中央公論』に掲載され、これも後に最初の座談会の名をとって『世界史的立場と日本』として出版された (註二)。そして「世界史的立場」あるいは「世界史の哲学」(これは座談会のなかに出てくることばであり、出席者の一人の高山岩男の著書の題名でもある)ということばは「近代の超克」とならんで当時の知識人の間でシンボルの機能を果した。「世界史的立場」あるいは「世界吏の哲学」の思想内容は、この三回の座談会なり、参加者たちの著書を見ることによってかなりハッキリ抽出できる。のみならず「近代の超克」の方も、この座談会のなかに部分的に出てくるので、それを使って意味補足をすることができる。 「近代の超克」と「世界史的立場」とは、思想としては多くの共通点をもっており、運動としても(かりにそれを運動と見るならば)後者の出席者中二名が前者へ招聘されていて、連関がある。知識人の戦争協力を弾劾するとき、「近代の超克」と「世界史的立場」とはならび称せられるのが普通である。こまかく見れば両者の間に差異があり、その差異がシンポジウム「近代の超克」を失敗に導く原因の一つになっているが、その差をふくめて、おなじ指向性をもった思想形成作用であったことは否定されない。広い意味で「近代の超克」というときは、この両者をひっくるめて考えていい。 「近代の超克」は、事件としては過ぎ去っている。しかし思想としては過ぎ去っていない。思想として過ぎ去っていないとは、一つは、それにまつわる記憶が生き残っていて、事あるごとに怨恨あるいは懐旧の情をよびおこすということであり、もう一つは、「近代の超克」が提出している問題のなかのいくつかが今日再提出されているが、それが「近代の超克」と無関係に、あるいは関係を曖昧にして提出されているために、問題の提出そのものが真面目に受け入れられない心理の素地を残しているということである。日本の近代化とか、近代日本の世界史的位置とか、ともかくわれわれ日本人が将来へ向って生きていくための目標づくりに欠くことのできない現状認識の重要な項目が、「近代の超克」を理性的に処理していないため、知的探究の対象になりにくいという困難がある。誰かが、何か日本の近代化についての発言をすると、その人についてなりその発言についてなり、「あれは超克派だ」とか「あれは超克派に近い」とか「あれは超克派じゃない」とか、「近代の超克」との距離で一言のもとに片づけられるか、片づけられることに対する懸念で発言が感情的屈折を帯びる傾きがある。そしてそのとき各人の考えている「近代の超克」の意味内容は一定していないのである。亡霊のようにとらえどころがなく、そのくせ生きている人間を悩ませる。  たとえば一九五二年六月号の『新日本文学』にのったつぎの文章などはその一例である。そこで若い世代の一人はこう書き出している。 [#ここから1字下げ] 「十年たってしまったのである。」 「『文学界』誌上に座談会『現代日本の知的運命 (註三)』がのったのはこの一月号のことであった。その長い座談会は、『一種の知的協力会議である』と序文にうたってある。わたしはあらためて読み直した。そして十年前の昭和十七年十月号の同じ『文学界』を取り出してみた。そこには『近代の超克』と題されているかなり長い座談会が掲げられていた。それにも『文化綜合会議』とうたってあった。私は古風な感慨からのがれることができなかった。十年前、青年たちは、それをむさぼり読んだ。雑誌というものがほとんど姿を消した時代であった。さらにその座談会の結論として、翌年一月の同じ雑誌に、『日本人の神と信仰について』という座談会が掲げられた。そして、『文化綜合会議(これはじつは『知的協力会議』の誤り——引用者)近代の超克』という単行本が、そのころのガラガラにあいた本屋の奥に積まれたころ、日本中の文科系の学生たちは、兵営に、戦場に、そのまま送りこまれたのであった。学生たちは、じぶんたちを見送る『学徒出陣』の旗と『近代の超克』という悠長な座談会とのあいだには、なんの関係もないのだと信じていたにちがいなかった。あるいは、『何時も同じものがあって、何時も人間は同じものに戦っている——そういう同じもの——というものを貫いていた人がつまり永遠なのです』という小林秀雄の発言などが、兵隊服をきせられた若い学生たちの、良心をささえる唯一のものであったかもしれない。」 「私はここで、『現代日本の知的運命』を、『近代の超克』にむりに近づけようとするものではない。ただ、『知的好奇心の旺盛さからきた独特の悲劇の時代に、いま我々は生きているわけです』という亀井勝一郎の発言にぶつかったりすると、『現代日本の知的運命』に出席している人々の顔ぶれといい、その発言の仕方といい、提示する問題といい、話す言葉といい、まるでじぶ|ん《ママ》青春の過失にたちあっているような懐しさで『近代の超克』が想いだされてくるだけなのである。仮名づかいこそ変っているけれども、『近代の超克』を読んでいるような、その続編を読んでいるような、気分がしてくる。しかし、十年たってしまっているのである。私は生きている。しかしその十年のあいだに、いかに多くの学生たちが、青年たちが、兵隊服をきせられ、あるいは戦後のみじめな生活の下で、還らぬ人となったことであろうか。」(仁奈真「十年目——『現代日本の知的運命』をめぐって」) [#ここで字下げ終わり] 「近代の超克」をあつかうとき、受難者の怨恨をよけて通れぬ、よけて通っては真実を見失うと思うので、最初にまず若い世代の告発を引用したのである。仁奈の怨恨を私はもっともだと思う。そして仁奈は、かなり多くの声を代弁していると思う。しかし私は同時に、「近代の超克」そのものが直接に知識青年を死へ駆り立てたのではない、ということを仁奈たちの世代に向って説く必要を感じる。そうでないと両方が不幸になる。「近代の超克」にはそんな力はなかった。死を強制された若者たちの間で「近代の超克」なり「世界史的立場」なりが熱心に読まれたのは事実である。そして、敗戦によって価値観が顛倒したとき、怨恨が暴力の本体に向けられないで、かつて自分たちの心の支えであったものへ「逆うらみ」の形で向けられるということも、転向者心理として無理がない。その無理のなさを、十年へだてておなじ名の雑誌(実体はちがうという当事者の弁明はあろうが)が、おなじ「知的協力会議」の看板で、出席者におなじメンバーを加えて、おなじような論議(と仁奈は受けとっている)をやればどういう反応があるかということを考えに入れていないことで汲み取っていない。これは心なしのしわざというべきである。  これは「近代の超克」のシンボル作用を、思想から切り離せないことから来る、あるいは切り離す必要を感じないことから来る、あるいは切り離さないで曖昧にしておいた方が都合がよいという功利または思惟の怠惰から来る、われわれの間の一種の無責任さが原因になっている。こういう無責任さは、直接には敗戦の結果であるが、根はもっと深く日本の思想および職業思想家の伝統のなかにひそんでいるように思う。井上哲次郎や徳富蘇峰を研究することでその型を取り出す仕事はまったく必要である。それはここでの課題ではない。ここでの課題は、シンボルと、思想と、思想の利用者とを区別することである。仁奈に告発されている人たちは、彼ら自身が被害者だと主観的には思い込んでいるのであって、それはある意味では正しいのである。  仁奈にも誇張、あるいは記憶の美化がある。「雑誌というものがほとんど姿を消した時代」というのは事実に合わない。二年ほどズレがある。しかし、雑誌の統制はもっと前からはじまっているので、新しい雑誌の発刊がなかったことが若い仁奈に雑誌がないという印象を与えたとすれば、この記憶の誤りはそれとして意味はあるわけだ。 「わたしは仁奈よりいくらか年長だったということもあり、『近代の超克』座談会にたいしてはその当時からはげしい侮蔑をもっていた」小田切秀雄は、当然、「近代の超克」の歴史的位置づけを「理論的」に行うことができる。彼はこう書いている(「『近代の超克』について」『文学』一九五八年四月号)。 [#ここから1字下げ] 「太平洋戦争下に行われた『近代の超克』論議は、軍国主義支配体制の『総力戦』の有機的な一部分たる『思想戦』の一翼をなしつつ、近代的、民主主義的な思想体系や生活的諸要求やの絶滅のために行われた思想的カンパニアであった。当時『思想戦』を呼号していた一層粗暴な軍国主義者たち(文壇のなかにも少なからずいた)の活動にたいして、『文学界』グループを中心としたこの論議は、ヨリ知的なスマートな外見を示していたが、本質的には同じコースを進んでいたものであり、それだけに手のこんだ影響を及ぼしていた。『文明開化』と官僚主義への批判という形で日本浪曼派が行ってきた資本主義文明批判はこの論議によってヨリ広い視野のなかにひきだされ、さらに日本の近代社会とその生活・文明・芸術等においての近代的な側面のいびつな展開とそれの伴った弱点がさまざまな角度から論難攻撃され、その結論として軍国主義的な天皇制国家の擁護・理論づけないしそれの戦争体制の容認・服従ということが思想的カンパニアとして行われたのである。」 [#ここで字下げ終わり]  この小田切の定義はよくできている。首尾一貫、必要な要素をもれなく(この引用には出てこないが、あとで「世界史的立場」のことにもふれている)過不足なく盛り込んである。歴史の試験答案としてなら満点といいたい。私などにはとてもこれだけの答案は書けない。  小田切説はほぼ今日の通説といっていい。新日本文学会や日本文学協会の近代文学史家たちは、細部はともかく、大綱は小田切と変らない。『近代文学』系統の批評家たちもほぼ同様である。大綱というのは、「近代の超克」に抵抗と屈伏の二面を認めて、しかし結局は屈伏であり、軍国主義と「本質的には同じコース」であったという評価をさす。これは文学史の流れに「近代の超克」を位置づける場合であるが、哲学史や思想史の方では、「近代の超克」のかわりに「世界史的立場」がおなじ場所を占める。これもやはり「ヨリ知的なスマートな外見を示していたが、本質的には同じコース」であったとされる (註四)。  この解釈は、歴史観としては流れ史観であり、思想論としてはイデオロギイ截断である点が特色である。歴史はある意味で、いつも結果論であるし、思想はつねにイデオロギイとして機能するから、この解釈が悪いというのではない。悪いどころか、定義としてすぐれていることを私は認めて、さればこそ引用したのである。  ただ私がここで言いたいのは、そういう解釈は「近代の超克」の復権要求に対して説得的に否を主張できないし、「近代の超克」の現代版であると彼が考えるもの(これについては後でふれる)に対しても同様ではないか、ということである。復権要求の一例はこうである。 [#ここから1字下げ] 「私自身この座談会から受けた生々しい影響を今日なお鮮明に記憶するのであるが、そこで提出されたモチーフの正しい面は、むしろ、戦後の解放を経て今日真実に答えを要求されていることがらであるように思われる。そのような意味において、この『近代の超克』の試みからマイナスの面だけを批判する一部の論者のやり口には私自身はかならずしも賛同しがたいのである (註五)。」(佐古純一郎「戦争下の文学」『解釈と鑑賞』一九五八年一月号、小田切論文から再引用) [#ここで字下げ終わり]  佐古はちょうど仁奈の裏側であり、後者の立場が怨恨の哲学であるとすれば前者は懐旧である。そして価値観は小田切とまったく反対であるが、共にイデオロギイ批評である点は佐古も小田切と一致している。ただ、小田切がイデオロギイを体制と密着した、あるいは体制から自己流出するものと考えるのに対して、佐古は、体制を思考の通路に入れていない点が異なる。つまりイデオロギイという自覚はないが、「マイナスの面だけを批判する一部の論者のやり口」を非難するのはあきらかにイデオロギイ論の立場である。  イデオロギイ論は、対立する相手を屈伏させてこちら側へ転向させるのが究極目標であり、これが思想闘争である。そこで小田切は佐古の復権要求に対して、「たしかに佐古のいうようにこんにちでも一通り通用しうる理論的側面がある」ことは認めながら、「まさにそのような側面だけを精力的・組織的に取上げ検討することによって『近代』を『超克』し、軍国主義体制に無条件に服従する方向に自分をも読者をもひきずってゆく」ものとして非難するのである。ここでは歴史と現状が重ね写しされている。かつてあったものは今もまたあるという論法であって、佐古の「戦後の解放を経て今日」という論理とは切れている。私は、佐古のいう「戦後の解放」にも疑問を感じるが、小田切のように「近代の超克」が「軍国主義体制」と密着不可分であるとも考えない。もし密着不可分なら、それは思想の名に価しないものであって、仁奈のような知識青年を動かすはずはなかったからである。 「近代の超克」復権論と撲滅論が思想闘争を行うことは有益であり、それはげんに行われており、今後もつづくと思われる。ただ、そこに共通の事実了解が成立していないために、議論が空廻りするのが残念である。いま必要なのは事実判断である。まず事実について、復権論者と撲滅論者がカードを出しあうのが先決要件である。  思想からイデオロギイを|剥離《はくり》すること、あるいはイデオロギイから思想を抽出することは、じつに困難であり、ほとんど不可能に近いかもしれない。しかし、思想の次元の体制からの相対的独立を認め、事実としての思想を困難をおかして腑分けするのでないと、埋もれている思想からエネルギイを引き出すことはできない。つまり伝統形成はできないことになる。ここで事実としての思想といったのは、ある思想が何を課題として自分に課し、それを具体的な状況のなかでどう解いたか、また解かなかったかを見ることをいう。もしも「近代の超克」が過去の遺物なら、わざわざこんな面倒な手続きを踏むことはいらない。過去をして葬らしめればいい。しかし「近代の超克」は思想としては今日なお生きており、小田切も「新版『近代の超克』論といわれる一連の論が文明批評と文学論のなかにひろがりはじめたこと」を認めているし、のみならずそれは「わたしたち自身の手で過去を片付ける努力をしなかったために、過去に復讐されはじめている」結果だという反省もあるくらいだから、早まった判決の前にもう少し事実に即した分析の手続きを踏むことが必要だという点では彼も異論ないはずである。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 註一 一九四三年七月、創元社刊、四六版三百ページ、初版六千部。 註二 一九四三年三月、中央公論社刊、四六版四百四十三ページ、初版一万五千部。 註三 特集「現代日本の知的運命」は『文学界』第六巻第一号(一九五二年一月)の約半分(八十ページ)を占めている。内容は第一部「政治・社会」第二部「宗教・道徳」第三部「文学・芸術」に分かれていて、それぞれの部会の司会者(浦松佐美太郎、亀井勝一郎、中村光夫)が「結語」を書いている。参加者はこの三名のほか、伊藤整、猪熊弦一郎、長谷川才次、丹羽文雄、河上徹太郎、河盛好蔵、吉川逸治、吉村公三郎、中野好夫、中山伊知郎、大岡昇平、福田恆存、今日出海、阿部知二、宮城音弥、平林たい子、菅原卓の総計二十名。(部会に分かれ、重複出席者も少数ある。)巻頭に編集部名で前書きがある。 [#ここから2字下げ]「講和条約が成立し、独立の名目は与えられたものの、日本のおかれた位置の極めて不安定であることは周知のとおりである。戦争の危機は去らず、日本はいま重大な岐路に立たされている。国際的にも国内的にも問題は山積しているが、文学者はこれに対し、いかなる見解と信条を有しているか。ただ現状のみならず、明治開国以来日本人の味った様々の悲劇、或は知的混乱、云わば『近代日本』の実体を見究めつつ、併せて将来への見とおしや覚悟といったものを互いに探究するためにこの座談会を催した。一種の知的協力会議である」云々。(この文は旧カナで書かれているが新カナに改めた。) [#ここから1字下げ] 註四 主な文献をあげておく。 [#ここから2字下げ] 平野謙「戦時下の文学」(『昭和文学史』上巻、一九五六年、角川文庫。なお筑摩書房版『現代日本文学全集』別巻一『現代日本文学史』の稿もほぼ同じ) 小田切秀雄・古林尚「太平洋戦争下の文学」(『講座日本近代文学史』第五巻、一九五七年、大月書店) 三枝康高『日本浪曼派の運動』(一九五九年、現代社。これは資料の紹介が詳しい) 古田光「第二次大戦下の思想的状況」(『近代日本思想史』第三巻、一九五六年、青木書店) 竹内良知編『昭和思想史』中の「世界史の哲学」(一九五八年、ミネルヴァ書房) [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 註五 臼井吉見からも復権請求が出ている。「近代は人間を救いうるか」(『東京新聞』一九五七年九月十五—十八日) [#ここで字下げ終わり] [#小見出し]    二 「超克」伝説の実体  思想としての「近代の超克」は、その題の下に行われたシンポジウムだけからは抽出されないこと、またそのシンボル化とも直接は一致しないことを私は前に書いた。しかし、この三者をどこで区別するかを見るためには、やはりシンポジウムを手がかりにすることからはじめるほかない。  前に書いたように「近代の超克」は雑誌『文学界』一九四二年九月号と十月号に分載された。九月号には西谷啓治、諸井三郎、津村秀夫、吉満義彦の論文がのり、十月号には亀井勝一郎、林房雄、三好達治、鈴木成高、中村光夫の論文と座談会の記録がのっている。このうち三好と中村の分は「会の後から書いた感想文」(十月号後記)ということである。単行本『近代の超克』は翌四三年七月に出版されているが、ここでは下村寅太郎、菊池正士の論文があらたに加わり、雑誌掲載の鈴木の論文が除かれ、司会者である河上徹太郎が「『近代の超克』結語」という文章を書き加えている。座談会の出席者は、論文提出者のほかに小林秀雄をふくめて総計十三人である。河上徹太郎の「『近代の超克』結語」によれば、「この会議は、それを構想してから世間に発表するまで約一年かかっている。今年(一九四二年)の初め頃、亀井勝一郎君がしきりに此の形のものを提唱し、私や小林秀雄君と会う毎にブランを練っていた。そして五月頃愈々実行にうつして人選し、参加を|慫慂《しようよう》した所、全員挙って賛成してくれた。(但し保田与重郎君だけが会議の頃急に都合が悪くなって不参加になった。)そこで直ちに予め提出すべき論文の執筆を乞い、集ったものを印刷に附して出席者に配布し、検討に資した。会議は七月二十三、四日の両日、折柄の酷暑の中を八時間に亘って挙行された」(引用はカナを書き改めた。以下もおなじ)ということである。  このメンバーのうち、亀井、林、三好、中村、河上、小林は「文学界」の同人であり、他は非同人の招聘者である。音楽の諸井、映画の津村、神学の吉満、哲学の西谷、下村、歴史の鈴木、科学の菊池という専門学者の取りあわせで、このうち西谷と鈴木とは「世界史的立場と日本」連続座談会のメンバーである。雑誌『文学界』はしばしば座談会をやり、しかも文学だけでなく広く文化問題をあつかう習慣が前からあったから、この座談会だけが突如として、一回かぎり催されたわけではない。ただ、外部の人をこれだけ広く招聘したこと、各人に論文の提出を求めたことは異例である。それからこの種の座談会には同人中欠くことのできぬ三木清が加わっていないのが異例だが、これは三木が当時軍の報道班に徴用されて国外にいたからだろう。中島健蔵や阿部知二たちも同様の理由で加わっていない。  鈴木の論文が単行本で除かれた理由はあきらかでない。保田与重郎が「急に都合が悪くなった」事情もあきらかでない。推測すれば、鈴木は、座談会の進行が不愉快で、自分の論文の掲載を拒否したのではないか。保田の不参加の直接の理由はわからないが、当時の保田の思想からすれば、こういう催しに彼は意味を認めていなかったと推定される。この二つは小さなことのようだが、イデオロギイとしての「近代の超克」から論理としての「近代の超克」を抽出してくるとき参考になる材料である。もっとも、鈴木の不協力が単なる偶然かもしれないし、保田についても、「日本ロマン派」の主張は亀井(および部分的には林)で代表されていて保田自身の参加不参加は重要でないという見方も成り立つので、積極的な材料にはならない。  以上は、シンポジウム「近代の超克」の人的構成を見たわけである。この人的構成がどういう意味をもっているかをつぎに考えねばならない。その場合のあつかいとして、私は、個々の実名にこだわらぬ配慮が必要だと思う。戦争とファシズムのイデオロギイを「近代の超克」が代表し、イデオロギイとしての「近代の超克」をシンポジウム「近代の超克」が代表し、その代表権を個々の参加者が分担する、という上から一貫しておろしてくる思考法、あるいは逆に下から、個々の参加者の「思想」の集積を天皇制ファシズムのイデオロギイヘまで一貫して押しあげる思考法は、事実としての思想をとらえるのに役に立たない。個々の参加者は、かなり偶然に参加しているのであって、実名と代表資格とは一致していない。むろん、実名のAあるいはBの思想をあつかうことはできるし、必要でもあるが、それと「近代の超克」の思想とは区別しなければならない。後者を問題にするときは、実名ヌキであつかうか、実名を使うときでもその代表資格と範囲を限定して、象徴的に、思想の代名詞としてあつかう配慮が必要である。  告白すれば、私自身も怨恨の哲学を認める。だから仁奈真が、まえの引用のあとで個々の思想家の十年前と現在との発言を比較し、一律に不信の手袋を投げているのにも、個々の判断の食いちがいを別にして、思想のあつかい方の原則としてなら賛成するし、小田切秀雄の弾劾(「『近代の超克』論について」の後半)にもかなり共感する。思想が個の側に属するという信念は私にも抜きがたい。しかし、そのためにも一度は思想を肉体からはがして、客観的なものとして、存在化する手続きを経るのでないと、認識はくもるし、したがって敵の本体を見失うことになるのではないかというのが私の懸念である。「近代の超克」の最大の遺産は、私の見るところでは、それが戦争とファシズムのイデオロギイであったことにはなくて、戦争とファシズムのイデオロギイにすらなりえなかったこと、思想形成を志して思想喪失を結果したことにあるように思われる。  実名をはなれて人間構成をながめると、そこには三つの思想の要素、あるいは系譜が組み合わされていることがわかる。それをかりに担い手の名でよべば、「文学界」グループと「日本ロマン派」と「京都学派」ということになる。「京都学派」はむろん、ここでは西谷と鈴木であるが、この二人で代表させるよりも、出席していない高山岩男と高坂正顕を合せて四人で一本とした方がよい。「日本ロマン派」は、出席者からえらべば亀井であるが、亀井の代表権は比較的小さい。出席しなかった保田与重郎を連れて来た方がよい。小林秀雄も、彼は初期をのぞいてずっと「文学界」の中心にいたにもかかわらず、この時期の彼は「日本ロマン派」と紙一重のところへ来ているので、その紙一重はじつに大切な紙一重ではあるが、代表資格からいえば「文学界」よりも「日本ロマン派」に近い。それでは「文学界」グループは誰かというと、河上、小林、いずれも資格に足りない。私の考えでは、「『近代』への疑惑」という論文を書き、討論のときもあまり発言していない中村がわずかに同人中の有資格者であるほか、客員ではあるが合理主義の立場をひかえ目に堅持してゆずらない下村をここに一枚加えるべきだと思う。  この三派が組み合わさって、思想としての「近代の超克」を成り立たせているというのが私の判断である。その組合わせ方をしらべる前に、まず主催者側の意図を見ておこう。河上は「結語」でこう書いている。 [#ここから1字下げ] 「此の会議が成功であったか否か、私にはまだよく分らない。ただこれが開戦一年の間の知的戦慄のうちに作られたものであることは、覆うべくもない事実である。確かに我々知識人は、従来とても我々の知的活動の真の原動力として働いていた日本人の血と、それを今まで不様に体系づけていた西欧知性の相剋のために、個人的にも割り切れないでいる。会議全体を支配する異様な混沌や決裂はそのためである。そういう血みどろな戦いの忠実な記録……」 「大東亜戦開始のやや以前から、新しき日本精神の秩序に関するスローガンが、国民の大部分の|斉唱《ユニゾン》で歌われていた。此の斉唱の陰に、すべての精神の努力や能力が押し隠されようとしている。……我々が起ったのは、此の安易な無気力を打破するためである。……」 「既に数年前からわが文化各部門の孤立ということが唱えられていたが、本書を読んでその感を深うする人は多いだろう。用語例・知的方法論・作業の史的段階、等々、何の点を見ても食い違ったものがある。我々は、檻房の中で隣室の同志と壁を叩き合って話すように語った。……その間にあって『近代の超克』というただ一つの標識燈が、朧気ながら各自の壁を突き透して共通に皆の眼に映ったということは、何という喜びであったろう。」 [#ここで字下げ終わり]  シンポジウムがくわだてられた意図と、それが期待ほどに成功しなかった結果に対する自省ないし弁明が、ここにはよく出ている。第一に、太平洋戦争の開始は、河上たちにとってショックであり、「知的戦慄」であったことが述べられている。その「知的戦慄」の内容は、「西欧知性」と「日本人の血」の間の「相剋」ということで説明されている。第二に、「新しき日本精神の秩序」が「国民の大部分」の間でただスローガンを「斉唱」するだけに止っている「無気力を打破」したいという意欲が出ている。第三に、そのために専門知識人の間の「文化各部門の孤立」という壁をつき破らねばならぬ、という実践要求が出ている。こうして「文学界」の同人以外に広く呼びかけがなされ、共通の課題として「近代の超克」という目標設定がされたのである。  なぜ「近代の超克」が題目にえらばれたか。討論会の最初に河上はこう説明している。 [#ここから1字下げ] 「……実は『近代の超克』という言葉は、一つの符牒みたいなもので、こういう言葉を一つ投げ出すならば、恐らく皆さんに共通する感じが、今はピンと来るものがあるだろう、そういう所を狙って出して見たのです。」 「吾々は、こういう言葉を許されるならば、例えば明治なら明治から日本にずっと流れて来て居るこの時勢に対して、吾々は必ずしも一様に生きて来たわけではなかった。つまりいろいろな角度から現代という時勢に向って銘々が生きて来たと思うんです。いろいろな角度から生きて来ながら、殊に十二月八日以来、吾々の感情というものは、※[#「玄+玄」、unicode7386]でピタッと一つの型の決まりみたいなものを見せて居る。この型の決まり、これはどうにも言葉では言えない、つまりそれを僕は『近代の超克』というのですけれども、この型の決まりから逆に出発して、銘々の型の持味とか毛色とか、そういうものをそれぞれ発見して戴いたり、他人の話を聴きながら、自分の型に関するいろいろな感想も湧き、又結局日本の現代文化というものが、一つの線に添って、大丈夫それに乗っかって居るということが外に向って表現出来る、こういう所が、吾々の狙いといえば狙いになると思うのです。」 [#ここで字下げ終わり]  ここに「十二月八日」とあるのは一九四一年十二月八日、いうまでもなく対米英宣戦の日である。一九四五年八月十五日にいたるまで、この日は国家的に「神聖」な日だった。単に十二月だけでなく、毎月八日が「大詔奉戴日」とよばれ、宣戦の「詔書」が新聞に掲載され、各種の行事があった。 「近代の超克」は河上によれば「一つの符牒みたいなもの」である。彼は「近代の超克」に内容を与えていない。それは「型の決まり」であって「言葉では言えない」ものである。しかし、その符牒を投げ出せば「共通する感じ」が「ピンと来る」ことを期待できるあるものである。この期待は結果的には裏切られた。「超克」すべき「近代」の理解からして各人まちまちであって、その調整は討論の最後までついていない。しかも、第一日目の学者たちのスコラ的な議論の堂々めぐりにたまりかねて、第二目目には文学者側から空論よばわりが出、しまいに感情的なことばのやり取りが交される混乱におちいり、結論らしいものは何もないままに散会している。司会者の意図した目的は達せられなかった。 「これまで我国で普通に考えられていたように近代的という言葉を西洋的という意味と同一視し、西欧の没落と日本の自覚という風に問題を樹てれば事は簡単である。しかしもしそういう粗雑な概念で事を済ますつもりならば何もこうした新語を持ち出すに当らぬ筈である。西洋を否定するに西洋の概念を借りてくるのなどはそれ自身すでに不見識な矛盾であろう。現代文化の課題を『近代の超克』という言葉で表現したのは、ほかならぬ現代西欧の一部の思想家達だからである」と中村光夫が提出論文に書いている。これは討論の後で提出されたということだが、おのずと討論全体の批判になっている。その中村も討論の席では自説をほとんど開陳していない。 「近代の超克」が西洋伝来であることは鈴木成高も認める。しかし彼は、中村とちがって、肯定的に認めているのであって、彼はそれを「歴史主義の克服」という本来の意味にひきもどして課題にしている。ただ討論の席では、これもやはり十分に開陳されていない。そしてホーム・グラウンドである「世界史的立場と日本」の方で、仲よしグループの間でこの問題が伸び伸びと語られている。  歴史主義の克服、あるいは発展段階説の克服(これは同意味と考えていい)という含意のほかに、「近代の超克」にはもう一つの含意があった。それは文明開化の否定である。提出論文では林と亀井がもっぱらこの側面を強調している。しかし討論の展開はこれも十分でない。第二日目のはじめに河上が司会者として問題提起を行っているが、内容の説明はせず、かわってバトンを渡された小林秀雄が持説の歴史否定、機械否定論の方へ話を運んでしまい、鈴木や下村がそれに応戦する間に、議論にならぬ形で林や亀井の発言がはさまっている恰好である。日本の近代を全否定の対象として文明開化と規定したのは「日本ロマン派」とくに保田与重郎であり、林や亀井はその流れを汲むものであるが、後者には保田におけるような思惟の合理性の否定はふくまれず、したがって西谷や吉満とは議論が噛み合わない。反歴史という点で保田に近いのは小林だが、彼には文明開化は問題でない。「近代性の克服とは西洋近代性の克服が問題だ。日本の近代性の克服なんぞわけはない」というのが小林の考えである。しかも小林には「近代人が近代に勝つのは近代によってである」という抜きがたい合理主義の逆説的論理があるから、到底保田流の「ものへ至る」論理に移行することはできない。こうして文明開化は、歴史において相対的に否定されるか、問題の外におかれるかしかなくなり、討論での実りはこれも消えた。  結局、討論のおわりに各人はめいめい自分の出発点にもどった。提出論文から二、三の例をひろうと、西谷啓治は「一般に近代的なものといわれるものはヨーロッパ的なもの」であり「日本における近代的なものも明治維新以後に移入されたヨーロッパ的なるものに基く」が、ただ「文化の諸部門が殆んど相互に連絡なしに離ればなれに輸入され」ているから、それを統一するために「宗教の立場」つまり「主体的無の立場」が必要であり、それは「世界史的必然」としての「大東亜の建設」に合致する、という場所にもどった。下村寅太郎は、近代の規定は西谷とおなじだが、「ヨーロッパはもはや他者ではない」から近代は否定し得ず、「近代の超克の方向は新らしき精神の概念の自覚を通してその方法を見出すべき」だという場所へもどった。吉満義彦は「神の前において西洋も東洋も一つの愛と真理の源泉に対する如く、凡てそれ自身直接に実存的課題を負うている」という場所へもどった。津村秀夫は「近代精神の超克と同時に現代精神の脱却も必要」で科学は否定せねばならぬ、という場所にもどった。林房雄は「我々知識階級の大部分を、国を忘れ、大君を忘れた租界人種にしてしまった」近代文学を呪う場所へ、亀井勝一郎は「我々が『近代』という西洋の末期文化をうけた日から、徐々に精神の深部を犯してきた文明の生態」を指摘し「現在我々の戦いつつある戦争は、対外的には英米勢力の覆滅であるが、内的にいえば近代文明のもたらしたかかる精神の疾病の根本治療」だと考える場所へもどったのである。  これらの諸説は、近代の解釈が多様であるばかりでなく、近代の肯定説と否定説とがあり、否定説のなかにも超越の契機を含むものと含まぬものがあり、含むもののなかにも時間の論理で含むものとそうでないものとがあるという具合で、河上でなくて誰が司会をやっても到底これを一本にまとめることは不可能である。そうかといって全部をよせ集めたのでは「近代の超克」が無内容になる。「『近代の超克』というただ一つの標識燈が、朧気ながら各自の壁を突き透して共通に皆の眼に映った」という評価は司会者の気なぐさめである。  それにもかかわらず、このシンポジウムが、仁奈や佐古や、そのほか多くの知識青年を動かしたのはなぜか。おそらく「近代の超克」には「何となく僕等に解ったような解らぬような曖昧なところがある」(中村光夫)。その曖昧さの発揮する魔術的効力と、「文学界」の伝統をもってしなければ結集できない「知的協力」の最後の光鋩ともいうべき一閃のゆえではなかったろうか。事実、これ以後は敗戦にいたるまで、いかなる形でも思想形成の試みはもはや起らなかった。「近代の超克」は無内容であるが、それだけに勝手な読みがゆるされ、思想の痕跡を拡大して空虚感を埋める手がかりにすることができた。それだけにまた、一方では怨恨と憎悪の的にされ、「超克」伝説のうまれる種もみずから蒔いたのである。  武田麟太郎を中心にして一九三三年十月に創刊された『文学界』が、経営の苦労を重ねて、やがて二年足らずで小林秀雄の編集に移り、文芸春秋社のバックで最有力の文芸誌に発展し、小林から河上へと編集責任が受け渡され、四四年四月で廃刊になるまで、その各段階での幾変遷は、それがちょうど戦争の全期間にわたるので、知識人の抵抗と協力の縮図を眺めるような運命的なおもしろさがある (註)。「文学界」の評価はほとんど昭和文学史の見方を左右する重みをもっている。一九三六年四月号の「後記」には「日本のn・r・f」という自負のことばがあり、「知的協力会議」の何回かの企てもその模倣であるが、それがどの程度に実現されたかは疑問である。河上徹太郎の「『近代の超克』結語」に「これに形式の類似した会議は、十年許り前、国際聯盟の知的協力委員会で開催された、ヴァレリイを議長とした数次の会議であろう。そこには、既に矛盾を暴露し初めたヴェルサイユ条約の、応急|弥縫《びほう》策としての知識人の動員が見られている。……一流の知性人が、その知性の限りを尽して、知性から肉体を剥奪するに努力している。……知的礼節に装われ、一見豊かだけど……全員の合唱が|虚《うつ》ろに響いている。だから彼等の絶望的な希望は、現在の欧洲政局の実状が示している通りである」とあるのは、今日からはまるで自己批判に読み取れて、悲惨を通り越してほとんど滑稽である。  しかし、だからといって「文学界」が終始ファシズムの先棒を担いだとする見方は、事実に合わない。中野重治が「日本ロマン派」と「文学界」を一律にあつかっている(「第二『文学界』・『日本浪曼派』などについて」『近代日本文学講座』第四巻、河出書房、一九五二年)のに高見順が反対している(『昭和文学盛衰史』二、文芸春秋新社、一九五八年)が、「文学界」への参加勧誘を断りつづけた中野の立場を考えに入れた上でも、やはりこの場合は高見の方が正しいと思う。  抵抗と屈伏とは、具体的な状況に照らして見なければならぬので、今日から何とも不様に見える「近代の超克」にしても、まだ一点の救済の余地はあるように私には思われる。問題は河上のいう「知的戦慄」の解釈いかんにかかっている。抵抗にも幾段階もあり、屈伏にも幾段階もある。「超克」伝説だけで思想を切り捨ててしまうことは、そこに提出されている今日継承可能な問題までも捨てることになって、伝統形成には不利である。能うかぎりの可能性の幅で遺産をとらえなおすのが思想の処理としては正しいと思う。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]註 小田切進編「『文学界』細目」(『立教大学日本文学』第一—三号、一九五九年七月合本)に総目録がある。 [#小見出し]    三 「十二月八日」の意味 「近代の超克」が雑誌にのった年のおなじ『文学界』の一月号の巻頭に、河上徹太郎が「光栄ある日」という題の「文芸時評」を書いている。「開戦一年の間の知的戦慄」の意味を解くための手がかりとして最初の部分を引用しよう。 [#ここから1字下げ] 「遂に光栄ある|秋《とき》が来た。」 「しかも開戦に至るまでの、わが帝国の堂々たる態度、|今になって何かと首肯出来る《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|これまでの政府の抜かりない方策と手順《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、殊に開戦劈頭聞かされる輝かしき戦果。すべて国民一同にとって胸のすくのを思わしめるもの許りである。今や一億国民の生れ更る日である。しかもそうなるのを他から強要されるのではなくて、今述べた眼前の事態がすべて我々をして欣然そこに到る気持を湧き起させてくれているのである。こんなに我々が陛下の直ぐ御前にあって、しかも|醜《しこ》の御楯となるべく召されることを待っているとは、何といってもこういう事態が発生せねば気附かなかったものであろう。」 「|私は《ヽヽ》、|徒に昂奮して《ヽヽヽヽヽヽ》、|こんなことをいっているのではない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。私は今本当に心からカラッとした気持でいられるのが嬉しくて仕様がないのだ。太平洋の暗雲という言葉自身、思えば長い、立腐れの状態にあった言葉である。今開戦になってそれが|霽《は》れたといっては少し当らないかも知れないが、本当の気持は、私にとって霽れたといっていい程のものである。混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」(傍点は原文では傍線、「陛下」の上は一字アキ) [#ここで字下げ終わり]  この文は「開戦の二日目に書いた」(後記)ということである。この古証文を、いま私が河上を非難するために持ち出したのではないことの傍証に、おなじ号にのっているおなじ事情の下で書かれたと思われる青野季吉の「祈りの強さ——経堂襍記」の最初の一節もついでに引用しておこう。 [#ここから1字下げ] 「米英に宣戦が布告された。当然の帰結という外はない。戦勝のニュースに胸の轟くのを覚える。何と云う巨きな構想、構図であろう。アメリカやイギリスが急に小さく見えて来た。われわれのように絶対に信頼のできる皇軍を持った国民は幸せだ。いまさらながら、日本は偉い国だ。」 [#ここで字下げ終わり]  ついでにもう一つ、三好達治の「捷報|臻《いた》る」連作十首から一首引用しておこう。 「尽未来紅毛賊子うちはらひあをうなばらにけがれあらすな」  こうして引用しながらも、一九四一年から四二年にかけての知的雰囲気を今日復元することのじつに困難であるのを感じる。河上ばかりでなく青野までも、手放しで開戦を礼賛しているのは「知的戦慄」どころか知的混乱であり、知性の完全な放棄ではないか。どうしてそういうことが知識人の間に大量におこりうるのか。その事情を説明するのはじつにむずかしい。 「混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」これが悪名高い「近代の超克」のなかでもことに悪名高い亀井勝一郎の提出論文の末尾の「戦争よりも恐ろしいのは平和である。……奴隷の平和よりも王者の戦争を!」につながるのはあきらかである。戦争の肯定と平和の否定で両者は一線上にある。しかし、そこには微妙な差もあるので、亀井の場合は、戦争一般と平和一般が対比されているが、河上の方は、一九四一年十二月八日という時点での特殊な実感に立った対比であることが文脈から感じ取れる。河上の「徒に昂奮して……いるのではない」感想の眼目は、引用の後半、つまり「私は今本当に心からカラッとした気持でいられるのが嬉しくて仕様がない」にあるので、その「嬉しくて仕様がない」気持の理由の説明が前半である。だから前半には知的粉飾がほどこされている。感想の眼目である「嬉しくて仕様がない」が一九四一年十二月八日の特殊な時点での戦争肯定へつながり、その特殊な戦争肯定がやがて戦争一般の肯定へ発展していったと見るべきである。だから、ここでの河上と亀井の差は、ふたりの思想の差をあらわすのでなくて、時間の推移をあらわすと考えた方がいい。  河上のような形での十二月八日の体験は、例外ではなく、即日予防拘禁された少数者を除けば、むしろそれが一般的であった。河上は「文学界」を代表するだけでなく、かなり広い範囲で日本の知識人を代表している。たとえば、そのころ雑誌『文芸』の編集部にいた高杉一郎は、この精神の転回点についてつぎのように回想している。 [#ここから1字下げ] 「……日本が中国に侵略戦争をおこなっていたかぎり、私たちは惰性的で無気力なものであったにせよ、抵抗意識をもちつづけたのであった。」 「ところが、やがて戦争がヨーロッパに飛火し、それがふたたびアジアにかえって、日本が昭和十六年の暮についにあの絶望的な太平洋戦争のなかにとびこんでいくと、私たちは一夜のうちに自己麻痺にでもかかったように、抵抗意識をすてて、一種の聖戦意識にしがみついていった。」 「十二月八日の晩、灯火管制がしかれてまっくらな銀座通りを、私は同僚でもあり文芸評論家でもあった寺岡峰夫といっしょに、興奮した声で話しあいながら歩いていった。……」 「その晩にかぎって酒を思いあきらめ、まっすぐに阿佐ヶ谷の家に帰った私は、戸棚の奥をさがして、モスクワから出版されていた英語版『国際文学』のバック・ナンバーを見つけだした。それは、ソヴェート・ロシアがドイツ軍から攻撃をうけたときの特集号で、Will to Fight !! という見出しのもとに、あらゆるソヴェートの作家たちがファシズムと戦いぬく決意をのべていた。そして、それにつづけて、コサック兵の出陣の風景をえがいたショーロホフの短篇などがのっていた。」 「あくる朝、その雑誌をもって出社した私は、『文芸』にそれとまったくおなじ形式の編集を計画し、たくさんの作家たちに『戦いの意志』を書いてくれるように依頼の手紙を書いた。依頼をことわってきた作家はひとりもいなかったし、私自身がその編集プランに小指の先ほどの疑いももってはいなかった。」 「それ以来、私たちは手を汚しつづけた。……」(「『文芸』編集者として」『文学』一九五八年四月号) [#ここで字下げ終わり]  抵抗から協力への心理の屈折の秘密がここに見事に語られている。高杉は、独ソ戦について内心ソ連側に応援していた。それは彼の理性が、ナチヘの嫌悪と、日本の対中国侵略戦争を許しえないこととを同列におき、宣戦なき戦争の虚偽にひそかに抵抗していたことを示している。その彼を心理的に解放したものが太平洋戦争だった。あるいは、解放を待ちのぞむ心理が太平洋戦争を理想化した。だから反ファシズム戦争に動員されたソ連の「戦いの意志」が、ソ連の敵国ドイツの「盟邦」であった日本の「米英撃滅」にそのまま転用されることに彼は矛盾を感じなかった。この知的倒錯は、ヴァレリイを嘲笑した河上徹太郎とも似ている。理性の立場からすれば、帝国主義によって帝国主義を倒すことができないのは自明である。たしかに今日から見れば、この場合の高杉は、理性による判断を捨てているといえる。しかし、高杉の寄稿に「依頼をことわってきた作家はひとりもいなかった」のである (註)。「わが帝国の堂々たる態度」を河上に賛美させたもの、「日本は偉い国だ」と青野に不覚の一語を吐かせたものとも共通の根で結ばれたもの、それはたしかに理性ではないが、具体的状況においては単なる非理性でもなかった。それは、虚偽の戦争よりは真実の戦争を、という選択だったのであり、「混沌暗澹たる平和」よりは「戦争の純一」を、という当初はまだ消極的な戦争肯定だったのである。  この高杉一郎の回想について、若い批評家が「この体験のものがたるものは、ひとつの圧倒的な危機の到来とともに、|知識《ヽヽ》人さえもが、むしろみずからもとめて『聖戦』、『八紘一宇』、ないしは『大東亜共栄圏』などという神話的象徴にとびついていった、ということである」(江藤淳「神話の克服」)という解釈を下している。同時代に生きて高杉に近い体験を実感としてもっている私などから見ると、この解釈は誤ってはいないが、もの足りない。「みずからもとめて」「神話的象徴にとびついていった」という気は全然しない。むしろ主観的には神話の拒否ないし嫌悪は一貫しながら、二重にも三重にも屈折した形で、結果として神話に巻き込まれた、と見る方が大多数の知識人の場合に当てはまるのではないかと思う。「十二月八日」の一撃は、ショーヴィニズムの熱狂で迎えられるよりも、もつと沈鬱なものに受け取られたのであった。「『天佑ヲ保有シ……』で始まる宣戦の詔勅、あれが私に与えた、なんとも言えぬもの悲しいおもいを、いまも私は思い出す」と高見順が当時の追憶を書いている。「それは私の心にひそむ戦争反対、戦争憎悪の気持からのものでもなければ、戦争謳歌、開戦歓迎の気持からのものでもない。日本というものが、なんとも言えず悲しい、そうした悲しさへと私の心を誘って行くもの悲しさなのだった。」(『昭和文学盛衰史』二、一九五八年、文芸春秋新社)  これは「来るべきものが来たという感じだった」という大宅壮一の回想、および「えらいことをおっぱじめたと思った。……率直に言って、日本が非常に悪いことを仕掛けたという自覚はなかった。三日後に英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズが撃沈されたときは、今から考えるとおかしいが、とにかくスーッとしたような気持だった」という桑原武夫の回想に共感した後に高見自身の回想としてつけ加えられているものであって、今日からの二次的な加工はあるにしても、原料は変っていないはずである。「日本というものが、なんとも言えず悲しい」という高見らしい詠嘆には私は無条件には同意しないが、「来るべきものが来たという感じ」は私にもあった。  おそらく問題の焦点は、戦争の性質をどう解するかにかかっている。そして戦争は、一九四一年十二月八日に突如はじまったのでなく、はるか前から連続して進行していた。戦争の開始は一九三七年にさかのぼることもできるし、一九三一年までさかのぼることもできる。そしてこの段階では、戦争反対勢力がまだ存在していた。しかし、連続する進行のなかで戦争の性質が各段階ごとに変化するのに対応して、有効に戦争反対勢力の戦線を組むことができず、いつも手おくれになって、一九四一年まで来てしまったのが歴史の事実である。 「支那事変」とよばれる戦争状態が、中国に対する侵略戦争であることは、「文学界」同人をふくめて、当時の知識人の間のほぼ通念であった。しかし、その認識の論理は、民族的使命観の一支柱である「生命線」論の実感的な強さに対抗できるだけ強くなかった。一方、侵略戦争を原則的に否定する共産主義は、原則を固執して状況適応の柔軟さを欠いていた。一九三一年から四一年までの十年間、それはほとんど「文学界」の活躍の全期間に当るが、戦争とファシズムの一進一退しながらの連続した進行に伴って、状況の変化がどう思想の条件として作用するかを、ここに結集している当時もっとも活発な中間的知識人は思い知らされることになった。その一種の悪戦苦闘ぶりを雑誌『文学界』は記録している。この背景なしには、「日本人の血」と「西欧知性の相剋」という「近代の超克」での河上徹太郎の第一の問題提起はおこらなかったはずである。  この段階での反戦、反ファシズム闘争を、「文学界」グループ、もしくは「文学界」グループによって代表される知識人がなぜ組めなかったか。組む意図がありながら、有効に組めなかった理由は何か。一つの解答は、阿部知二が与えている。 [#ここから1字下げ] 「恥をいうことにもなるが、そのころの私は、漠としたファシズムヘの嫌悪や戦争への恐怖をいだいていたとはいえ、それらを歴史的に分析し、その正体をとらえる思想力をもたなかった。たとえば、戦争とはどんな形の社会にもどんな時代にも行われるもの、またその勃発はほとんど天災地変のようなもので、どうすることもできないもの、——そのようにはっきりと規定していたのではなかったとしても、何となしに、そのように感じているばかりであり、ファシズムや戦争に抵抗する力のありかを、はっきりと見ることのできぬ一個の自由主義者でしかなかった。」(「退路と進路」『文学』一九五八年四月号) [#ここで字下げ終わり]  もう一つの解答は亀井勝一郎が与えている。 [#ここから1字下げ] 「日華事変の始ったのは昭和十二年である。この年、『日本浪曼派』は自然消滅のかたちをとったが、……私はまもなく『文学界』同人となり、この年から大和古寺の巡礼が始った。」 「しかしいまかえりみて、そこに重大な空白のあったことを思い出す。満州事変以来すでに数年たっているにも拘らず、『中国』に対しては殆んど無知無関心ですごしてきたことである。『中国』だけではない、たとえばアジア全体に対する連帯感情といったものは私にはまるでなかった。日清日露戦争から、大正の第一次大戦を通じて養われてきた日本民族の『優越感』は、私の内部にも深く根をおろしていたらしい。」 「当時の私は、満州事変—日華事変が、日本のいのちとりになるとはどうしても考えられなかった。むろん私の甚しい、というよりは致命的な誤認として今日回想されるのだが、当時の気持に即して.言えば、中国に対しては、たかをくくっていたと云える。同時に『民族主義』の復活を背景として、私の日本古典や古寺の研究はすすんでいたが、それまでの『西洋一辺倒』への反撃ともむすびついてきた。私たちがうけいれた『ヨーロッパ近代』と称するものへの疑惑と、その超克の意志である。」(「回想」『文学』同前) [#ここで字下げ終わり]  最後のところは「近代の超克」発議の弁明になっているので、ついでにもう少しこの問題に触れた彼の弁明をきこう。 [#ここから1字下げ] 「戦争とは当時の私にとっては、『近代化』された日本の精神の病的状態への、抵抗と快癒を意味するものでなければならなかった。すでに述べた様々の危機の克服の意志であり、民族の起死回生の祈りをひそめたものでなければならなかった。戦争は民族再生の祈願であり、戦争は『近代の超克』である。無数の戦死者は、その端的な行動において、一つの『純粋性』を実現した神聖なものとして私の眼に映じた。」 「昭和十七年私たちは『近代の超克』という座談会を催した……そこでの主題は、詮じつめるなら、今まで述べた『危機』の実体の究明であったと云ってよかろう。……唯ひとつ、今ふりかえって自分でも驚くことは、『中国』がいかなる意味でも問題にされていないことである。」(『現代史の課題』一九五七年、中央公論社) [#ここで字下げ終わり] 「近代の超克」の問題提出は正しかったし、その問題性は今でも残っている、というのが亀井の今日の立場である。しかもその上に、「近代の超克」当時の戦争肯定の態度はその時点では是認されるという主張である。「近代の超克」を否定すれば論理必然的に理念としての(事実としてのではない)戦争も否定されるから、この亀井の主張は当然といえば当然である。しかし、この主張がなされるためには戦後十年の歳月の経過は欠くことのできぬ条件であろうから、見方によっては今日の新しい問題提起ともいえる。それは佐古や臼井の「近代の超克」復権要求ともつながるので、「近代の超克」の問題はどうしても戦争の再解釈、再評価をふくまねば展開されぬことを示す点で、この亀井の発言は重要である。  亀井は、戦争一般という考え方を排除し、戦争から対中国(および対アジア)侵略戦争の側面を取り出して、その側面、あるいは部分についてだけ責任を負おうというのである。私はこの点だけについていえば、亀井の考え方を支持したい。大東亜戦争は、植民地侵略戦争であると同時に、対帝国主義の戦争でもあった。この二つの側面は、事実上一体化されていたが、論理上は区別されなければならない。日本はアメリカやイギリスを侵略しようと意図したのではなかった。オランダから植民地を奪ったが、オランダ本国を奪おうとしたのではなかった。帝国主義によって帝国主義を倒すことはできないが、さりとて帝国主義によって帝国主義を裁くこともできない。それを裁くには何らかの普遍価値を規準にしなければならぬ(たとえば東京裁判での自由、正義、人道)が、そのような普遍価値は亀井の論理からは承認されない。なぜならば、東と西を包括するものとしての普遍価値は伝統と切れており、伝統から切れたものは「文明開化」であって「原典」にはなりえないからである。  この議論は、「近代の超克」論の今日からの再出発には有効だろうと思う。また、一九四一年までの十年間に抵抗の力が弱かったことの歴史的説明には妥当すると思う。しかし、太平洋戦争下の「近代の超克」論議の合理化の説明にはならない。太平洋戦争において両側面は癒着していたのであって、この癒着をはがすことはこの段階ではもう不可能だったからである。というよりも、癒着をはがす論理がありうることを、われわれは戦後に東京裁判でのパール判事の少数意見からはじめて教わったくらいであり、「近代の超克」論の中で誰ひとり提出していないからである。今日からの大東亜戦争の再評価に当っては、亀井の観点は大いに参考になるが、当時の歴史の具体的進行状況において、さかのぼってこの見方を適用することはできない、というのが私の考えである。  阿部のいう「自由主義」の弱さ、とくに科学との関連の見失われ方と、亀井のいうアジア認識の浅さ、とくに中国のナショナリズムへの理解のなさが、相補って、破滅的な全面戦争を不可避にした理由として、知識人の反省の立場で指摘されることは正しいと私は思う。それがあれば戦争が回避できたとまでは断定されないが、少くとも戦争を通じての思想の荒廃の幾分かは救えたのではないか。「近代の超克」論が四分五裂で、実りを結ばないまま時局に押し流されてしまうような無残さは、なくてすんだのではないか。  阿部と亀井の指摘は、抵抗の弱さの説明であると同時に、逆に戦争理念の破綻の説明にもなっている。大東亜戦争はたしかに二重構造をもっており、その二重構造は征韓論にはじまる近代日本の戦争伝統に由来していた。それは何かといえば、一方では東亜における指導権の要求、他方では欧米駆逐による世界制覇の目標であって、この両者は補完関係と同時に相互矛盾の関係にあった。なぜならば、東亜における指導権の理論的根拠は、先進国対後進国のヨーロッパ的原理によるほかないが、アジアの植民地解放運動はこれと原理的に対抗していて、日本の帝国主義だけを特殊例外あつかいしないからである。一方、「アジアの盟主」を欧米に承認させるためにはアジア的原理によらなければならぬが、日本自身が対アジア政策ではアジア的原理を放棄しているために、連帯の基礎は現実にはなかった。一方でアジアを主張し、他方で西欧を主張する使いわけの無理は、緊張を絶えずつくり出すために、戦争を無限に拡大して解決を先に延ばすことによってしか糊塗されない。太平洋戦争は当然「永久戦争」になる運命が伝統によって与えられていた。それが「国体の精華」であった。  戦争一般を原理的に否定するものは絶対平和主義しかない。しかし絶対平和主義は、具体的状況への適応能力には欠けている。戦争は連続していたが、各段階ごとに性格が変り、またいくつかの可能性の選択で進行したのである。最終戦が対米英戦で開始されるか、対ソ戦で開始されるかは一九四〇年ころまでは勢力が均衡していて、ほとんど偶然の決定に近かった。戦争に反対する立場は、どの段階でのどの性質の戦争に反対するかによって評価が決まる。「十二月八日」の開戦を否とするもののなかには、反共の立場での反対もあり、だから太平洋戦争は共産党の謀略だという説もあったくらいである。もし最終戦が対ソ戦の形で開始されていれば、逆にこの一派の「平和主義者」が今日戦争責任を問われているかもしれない。  だから太平洋戦争だけで全戦争の原因結果を考えることはできないし、戦争責任を論ずることもできない。ただ、結果論的には総括規定をすることはできるし、それは必要である。その場合、戦争を理論づけたことによってその知的活動が無条件に非難されるのは正しくないと思う。そのような非難は無責任である。「近代の超克」は、今日から見て滑稽ではあるが、そこで一切の知性が判断を停止していたのではないので、もしそうでなかったら戦争とファシズムのイデオロギイに利用されるだけのエネルギイもなかったはずである。今日、そこにあらわれている混乱を整理し、意味をくみ取ることなしには思想の継受はできない。この「知的協力会議」が戦争の圧力をどう受けとめ、どう主体的にはたらきかける意図をもってそれを解釈したか、その意図をどの程度実現したか、つまり、近代日本の思想構造が彼らによって当時どう把握されていたかが問題にされなければならない。「開戦一年の間の知的戦慄」という言い方は、大げさな身ぶりや、バスに乗りおくれたくない焦燥感などがないわけではないが、一方ではやはり解放と緊張の雰囲気をあらわしていて、「思想」の季節を思わしめるものがあり、今日から戯画化して嘲笑するだけではすまぬ切実な響きをもっているのである。一方の極に戦争の思想をおいて、それとの対応関係で「近代の超克」の構成要素のおのおのについてもう少し分析を進めてみなければならぬだろう。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]註 念のために『文芸』一九四二年一月号「戦いの意志」特集の執筆者名をあげておく。張赫宙、上田広、清水幾太郎、火野葦平、秋山謙蔵、水原秋桜子、津村秀夫、中河与一、島木健作、本多顕彰、富沢有為男、崔承喜、亀井勝一郎、保田与重郎、石川達三、丸山薫、斎藤史、浅野晃、挿絵が中村研一、小磯良平、野間仁根。 [#小見出し]    四 総力戦の思想 [#ここから1字下げ] 「わたしは、徹底的に戦争を継続すべきだという激しい考えを抱いていた。」 「死は、すでに勘定に入れてある。年少のまま、自分の生涯が戦火のなかに消えてしまうという考えは、当時、未熟なりに思考、判断、感情のすべてをあげて内省し分析しつくしたと信じていた。もちろん、死の論理づけができないでは、それを肯定することができなかったからだ。死は怖ろしくはなかった。」 「反戦とか厭戦とかが、思想としてありうることを、想像さえしなかった。」 「傍観とか逃避とかは、態度としては、それがゆるされる物質的特権をもとにしてあることはしっていたが、ほとんど反感と侮蔑しかかんじていなかった。」 「戦争に敗けたら、アジアの植民地は解放されないという天皇制ファシズムのスローガンを、わたしなりに信じていた。また、戦争犠牲者の死は、無意味になるとかんがえた。」(吉本隆明『高村光太郎』一九五七年、飯塚書店) [#ここで字下げ終わり]  これは十五年戦争が形成した一つの精神の型、しかも優秀な型だろうと思う。優秀というのは知的明晰さに関してである。戦後におこった戦争責任論の発想の型を、怨恨と憎悪と憤怒と軽蔑に色分けすれば、彼は憤怒の型を代表する。その憤怒の哲学はこのようにして形成された。「わたしは、ほとんど思想的には右翼テロリストからもっとも影響をうけ、文学的には、日本的近代主義者高村光太郎、空想社会主義者宮沢賢治、近代的——急進的ファシスト保田与重郎、庶民的インテリゲンチャ小林秀雄、横光利一、芸術至上主義者太宰治の影響下に、少年期から青年期の前半をおくった。」彼の思想観は、思想とは「実行にたいして根拠を与え」るものだ、ということである。現実にはたらきかけないものは思想ではない。「凡百の詩の技術者たちをこえて、わたしが高村にこだわるのは、かれが詩人だからではなく、確乎たる実行者としての風貌を生涯うしなわなかったからだ。」  そういう思想観に立った吉本の眼から見ると、戦後に「戦争に抵抗したという世代があらわれたときは、驚倒した。もし、そういう世代があったとしたら、どうしても戦争期に出遇うとか風聞をきくとかすることがあってもよかったはずだ」ということになる。 「傍観とか逃避とか」から区別される意味での抵抗は、私も吉本と同様、世代やグループの形ではなかったと思う。個人でも非常に稀だったと思う。この場合の抵抗とは、戦争体系のなかから戦争体系そのものを変革する意図と実現のプログラムを提出する思想のことであるが、そのような思想は、実際になかったばかりでなく、論理上もありえなかった。なぜなら、戦争は現実には総力戦であり、理念としては永久戦争であったから。これをトータルに否定する立場は、絶対平和主義と、「戦争を内乱へ」の共産主義しかないわけだが、前者は日本では問題にならぬくらい弱く、後者は結果から見て機能喪失の状態にあった。総力戦における抵抗の哲学は、戦争中に見出されなかったばかりでなく、戦後にもまだ見出されていない。抵抗を自己主張するものの理論的根拠は、傍観や逃避の量的な比較の上に立つか、そうでなければ特高警察や憲兵隊の心証を逆用したものであって、吉本のいう意味での思想ではなかった。  太平洋戦争の思想的性格は、まだよくわかっていない。戦後に、軍事技術に関する研究はいくらか出たが、思想の研究はまだ行われていないし、東京裁判の記録をのぞくと、まとまった材料も出ていない。いま、この大問題に取り組むことはできないが、さし当って必要な程度の性格規定は、公の思想である開戦の詔勅を手がかりにして大略つかむことができると思う。以下の引用は、過去の三大戦争について、中間の本文を除いて、前後のきまり文句の部分を抜き出したものである。 [#ここから1字下げ] 「天佑を保全し万世一系の|皇祚《こうそ》を|践《ふ》める大日本帝国|皇帝《ヽヽ》は忠実勇武なる汝有衆に示す。/朕|※[#「玄+玄」、unicode7386]《ここ》に清国に対して戦を宣す。朕が百僚有司は宜く|朕が意《ヽヽヽ》を体し、陸上に海面に清国に対して交戦の事に従い、以て国家の目的を達するに努力すべし。|苟も国際法に戻らざる限り《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》各権能に応じて一切の手段を尽すに於て必ず遺漏なからんことを期せよ。/(中略)事既に※[#「玄+玄」、unicode7386]に至る。朕、平和と相終始して以て帝国の光栄を中外に宣揚するに専なりと|雖《いえども》、亦公に戦を宣せざるを得ざるなり。汝有衆の忠実勇武に倚頼し、速かに平和を永遠に克復し、以て帝国の光栄を全くせんことを期す。」(日清戦争、明治二十七年八月二日) 「天佑を保有し万世一系の皇祚を践める大日本国|皇帝《ヽヽ》は忠実勇武なる汝有衆に示す。/朕※[#「玄+玄」、unicode7386]に露国に対して戦を宣す。朕が陸海軍は宜く全力を極めて露国と交戦の事に従うべし。朕が百僚有司は宜く各其職務に|率《したが》い、其権能に応じて国家の目的を達するに努力すべし。|凡そ国際条規の範囲に於て《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》一切の手段を尽して遺算なからんことを期せよ。/(中略)事既に※[#「玄+玄」、unicode7386]に至る。帝国の平和の交渉に依り求めんとしたる将来の保障は今日之を旗鼓の間に求むるの外なし。朕は汝有衆の忠実勇武なるに倚頼し、速に平和を永遠に克復し、以て帝国の光栄を保全せんことを期す。」(日露戦争、明治三十七年二月十日) 「天佑を保有し万世一系の皇祚を践める大日本帝国|天皇《ヽヽ》は|昭《あきらか》に忠誠勇武なる汝有衆に示す。/朕※[#「玄+玄」、unicode7386]に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉公し、|朕が衆庶《ヽヽヽヽ》は各々其の本分を尽し、|億兆一心《ヽヽヽヽ》、|国家の総力を挙げて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》征戦の目的を達成するに違算なからんことを期せよ。/(中略)事既に此に至る。帝国は今や|自存自衛の為蹶然起って一切の障礙を破砕する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の外なきなり。/|皇祖皇宗の神霊上に在り《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、|祖宗の偉業《ヽヽヽヽヽ》を恢弘し、速に禍根を|芟除《さんじよ》して|東亜《ヽヽ》永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せんことを期す。」(大東亜戦争、昭和十六年十二月八日)(カナの書き改め、濁点、句読点、傍点はすべて引用者) [#ここで字下げ終わり]  日清戦争と日露戦争の間にもすでにいくらかの差はあった。しかし、その差は小さかった。元首の意志表明がぼかされたこと、軍と「百僚有司」が区別されたことだけである。ところが、この二者をひっくるめて「大東亜戦争」と比較すると、その差はじつに大きい。第一に、「百僚有司」だけでなく「衆庶」までが「朕」に組み込まれたこと、「億兆一心」が期待され、「国家の総力を挙げ」という総力戦の性格規定がなされたことが目につく。第二に、開戦の意志主体が元首でも国家でもなく、じつに「皇祖皇宗の神霊」であり、「祖宗の偉業を恢弘」するための戦争だと説明されたことである。第三に、国際法規の遵守が条件として示されていない。これは、強国の監視の眼をもはや顧慮する必要がなくなったために自然に落ちたとも考えられるが、一方に「自存自衛」の不必要な(あらゆる戦争が主観的には自衛行為である)強調があることとあわせて、「一切の障礙を破砕する」その「障礙」には既存の法秩序もふくまれていると解することもできる。行為が法をつくるという考え方である。つまり戦争そのものが目的化されている。そのために、第四に、全体の文脈を通して、永久戦争の理念が感じとれる。戦争の究極目標は「東亜永遠の平和を確立」することであって、平和一般ではない。ここの文脈は世界制覇の予想をふくむものに読み取れる (註一)。  総力戦と永久戦争と「肇国」の理想、この三者は互に矛盾しあいながらも一体となって戦争の思想体系を形づくっていた。戦争中のあらゆる思想の試みは、この公の思想をどう解釈するか、三つの支柱の間のバランスをどう調整するか、または調整しないで逆に矛盾を拡大するか、どれを強調してどれを抑えるか、要するに、与えられた命題の複雑さをどういう論理でどの方向に解くかを課題にし、思想相互の間のたたかいもそれをめぐって行われた、というふうに概括できるだろうと思う。公の思想との関係で各思想が定立されたのであって、まったくそれと離れた場所での思索は不可能であった。むろん、公の思想の裏側には逃避の場所はあった。しかし、逃避を肯んじない思想主体なら、公の思想にかかわらずに現実へのはたらきかけを放棄することはできない。それは総力戦の性質からしてそうなので、肉体が召集や徴用を免れないだけでなく、精神も内側を戦争の思想によって占領されることから免れていることはできなかったからである。  したがって、思想が創造的な思想であるためには、火中に栗をひろう冒険を辞することができない。身を捨てなければ浮かぶことができない。「国家の総力を挙げ」てたたかったのは、一部の軍国主義者ではなくて、善良なる大部分の国民であった。国民が軍国主義者の命令に服従したと考えるのは正しくない。国民は民族共同体の運命のために「総力を挙げ」たのである。今日、シンボルとしての天皇と、権力主体としての国家と、民族共同体としての国民をわれわれは区別することができるが、それは敗戦の結果そうなったのであって、総力戦の段階へ類推を及ぼすことはできない。ここに、戦争中の単なる迎合、便乗、追従、つまり思想放棄の見せかけの思想と、自主的な、創造的な、民衆に責任を負う思想の見分け方の困難さがある。民衆に石を投げられる予言者を別にすれば、ある状況の下における抵抗と屈服はほとんど紙一重であった。 [#ここから1字下げ] 「世界史における今日の日本は、その力量と能動性とにおいて最大の独自性を持っている。戦争そのものも、遥かに厖大なものとなり、遥かに複雑なものとなっている。『縦深』は戦線から移して国家間の関係にも考えられ、前線と後方とは全く密着し、敵の『謀略』に対する戦いは銃後国民の日常生活のうちに日の営みとして戦われている。日露戦争における左千夫の戦争吟、茂吉の『戦場の兄』などが今となっては物語り的にさえひびくとすれば、今日の戦争は、部分的には散文的に見えるまでに厖大・複雑となり、したがって遥かに高い詩的構想・統一を要求しているのである。恐らくこのことによって、昭和十六年現在の戦争吟の国民的汪溢もあったのであろう。幾つかの支那事変歌集、遺家族の歌集、歌人たちの戦争歌をも含めて、事変は国民の歌口を国民的規模において開かせたものということが出来る。」 [#ここで字下げ終わり]  これは戦争中第一の抵抗書の一つに数えられる中野重治の『斎藤茂吉ノオト』(一九四二年六月、筑摩書房)からの引用である。ここに使われている|語彙《ごい》は「近代の超克」よりも「世界史の哲学」に近いくらいであるが、そのことは総力戦の現実把握の深さにおいてこちらがまさっていることと重なっており、さればこそこれが抵抗の書たりえた条件の一つになっているのである。戦争をくぐらなければ、具体的にたたかっている民衆の生活をくぐらなければ、いかなる方向であれ民衆を組織することはできない。つまり思想形成を行うことはできない。それが最低限の思想の必要条件である。戦争吟を、戦争吟であるために否定するのは、民衆の生活を否定することである。戦争吟を認め、その戦争吟が過去の戦争観念にたよって現に進行中の戦争の本質(帝国主義戦争という観念ではない)を見ることから逃避している態度をせめ、戦争吟を総力戦にふさわしい戦争吟たらしめることに手を貸し、そのことを通して戦争の性質そのものを変えていこうと決意するところに抵抗の契機が成り立つのである。「侵略戦争反対」を便所に落書きするとか、「英機を倒せ」というシャレをはやらせることは、抵抗ではなくて、むしろ抵抗の解体である。思想を風俗の次元にひきおろすことである。  総力戦と、永久戦争と、「肇国」の理想という三つの柱の関係を、論理的整合性をもって説明しえた最大の功労者は、京都学派であった。ことにその四人の代表選手によって巧みに構成された「世界史的立場と日本」連続三回の座談会だった。この座談会の第一回は、「大東亜戦争の大詔渙発に先んずる十三日」(単行本の「序」)に行われ、一九四二年一月号の『中央公論』に発表された。「大東亜戦争の勃発は、既に殆んどその校正も終らんとする時であった。我々は言い表し難き感謝と覚悟の中に、我々の思索が厳粛なる世界史的現実によって裁かれるのを見守っていた。しかし尊厳なる国体の精華は艱難に会って益々宣揚せられ、海に陸に皇軍の威容は世界の人心を衝動した。これもとより(一字アキ)大御稜威のしからしむるところであると共に、忠勇なる将士と一億臣民の協力に|俟《ま》つところ、我々は深く皇国の鴻恩を肝に銘ずると共に、我々の論議のさまで正鵠を逸せざりしを、密かに自ら慰めとしたのである。」(同前)  いくらか東条英機の口ぶりに似ていないことはないが、それはそれとして、ともかく「我々の論議のさまで正鵠を逸せざりし」誇りを、彼らは当然もってよかった。この最初の座談会は、ほとんど開戦を予想し、その後に展開される戦争の性格をある程度予測していた。「こないだ或る人に日本の歴史哲学とは一体どんなものかと訊かれてね、ちょっと返事に困ったんだが、考えてみると大体三つくらいの段階を経てきたように思われた。一番初めはリッケルト張りの歴史の認識論が盛んであった時代で、今ではもう一昔前のことになってしまった。その次がディルタイ流の生の哲学とか解釈学といったものから歴史哲学を考えようとした時代で、それが大体第二の段階と言ってよい。ところが今ではそれから更に一歩先に進んで、歴史哲学というものは具体的には世界歴史の哲学でなければならない、そういう自覚に到達している、それが第三の段階だと思う。では何故そうなったか。それは日本の世界歴史に於ける現在の位置がそうさせたのだと僕は考える。……世界歴史の上における日本の使命は何かという点になると……日本人が日本人の頭で考えなければならない。それが現在日本で、世界史の哲学が特に要求されている所以だと思う」「それは僕も全く同感だ。この間……」という具合に、この座談会は上品なサロンの雰囲気で話が進行するが、たとえば「世界歴史の方向というものは、東洋から見るのと西洋から見るのとでは大分に違いはしないか」という問題の提出があったり、その問題がさらに「ヨーロッパ人の危機意識と日本人の世界史意識」というふうに展開して、「ヨーロッパに対抗するという日本乃至東亜の意識には、実は同時に日本自体の内部に於て近世的な日本、つまり明治大正の日本を否定しようという意識が一緒になっているね」という「近代の超克」論の一つの原型もここに出てくる。それから話題が「モラリッシェ・エネルギー」(道義的生命力)に移り、「クラトス(力)とエイトス(道義)の結びつき方、結びつける方法、所謂シュターツ・レーゾン(Staats Rason)だが、しかしそれだけでは本当に結びつかぬので、本当に結びつく媒介者が道義的エネルギー」だという説が出る。やがて話題がふたたび「新たなる世界的日本文化の創造」「新しい世界史の原理を樹立」というところにもどり、「永遠の肇国の業」、「世界史は罪悪の浄化だ」、「人間は憤る時、全身をもって憤るのだ。心身共に憤るのだ。戦争だってそうだ。天地と共に憤るのだ。そして人類の魂が浄められるのだ。世界歴史の重要な転換点を戦争が決定したのは、そのためだ。だから世界歴史はプルガトリオ(浄罪界)なのだ」ということでこの座談会はおわっている。  この座談会は評判がよかった。そこで第二、第三の座談会が、それぞれ「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」(四月号)、「総力戦の哲学」(翌年一月号)という題でおなじ雑誌に発表された。いま、その内容を詳しく紹介はしない。ただ総力戦の理念を、彼らがどう根拠づけているかを、第三の座談会からいくつかの指標になる発言を拾うことで見ておこう。総力戦と永久戦争と「永遠の肇国」とが、じつに巧みに結び合わされていて、その巧みさには敬服に値するものがあるからである。 [#ここから1字下げ] 「歴史が殆んどその大半が戦争によって成り立っているということは疑いのない事実」、「戦争は歴史の最もヴァイタルな力」、「総じて近代が行詰ったところに総力戦がある、つまり総力戦は近代の超克だ」、「戦争というものは宣戦布告とともに始まり、やがて講和談判をもって戦争が終る、そして戦後に再び元のような平和の秩序というものができ上るのだという——そういう風な戦争の理解の仕方がまだ非常に強いように思われるが、こういう戦争概念で今度の戦争を考えることは……極めて危険」、「戦争というものが決して一時の変態現象ではない」、「戦争が講和で元へ返るのではなく、新しいものができてゆく」、「『総力戦』とはすべてのものが変ってゆくことの表現」、「戦争のなくなる時なんてものは実証的立場では絶対考えられない」、「のみならず戦争は必要なものだ。戦争は永遠のものだ」、「戦争そのものに|即自的《アン・ジツヒ》な根拠」、「永遠平和論が空虚な理念であるように、永遠戦争論も人間の自然の要求に対して無理がある。だが戦争という概念それ自身を……変えてしまって……戦争と平和という互いに対立したものを止揚し、いわば創造的、建設的戦争という新しい理念」、「永遠平和論と同じ立場で、ただ反対の立場から唱えられる戦争讃美論、これも同じく間違っている。要するに永久平和論も戦争讃美論も、結局和戦の対立する相対の次元に於て、戦争か平和かという分別の立場で一方を選ぶ低級な思想なんだ。これに対して戦争が本質的には指導だというところまで来れば、和戦という低い対立がなくなる。……本当の深い和というものは、戦の反対としての和ではない。本当に大きい和——『大和』だ。そこに於て初めて対立的な和とか戦とかが『所を得しめ』られる」、「大東亜戦争で示された目本の主導性、主体性は、実は支那事変の起るずっと前から隠然としてあったのだ。日露戦争で既に……」、「さらに遡れば明治維新の完遂」、「明治維新が王政復古で、国体の本然が輝き出した」、「神勅で日本永遠の繁栄を約束されている」、「日本の国体が真理」、「今度の戦争はかならず勝つ」。 [#ここで字下げ終わり]  見事な図式である。開戦の詔勅を、これほど完璧に説明しえたものは、戦争の全期間を通じてほかになかった。東条英機も、奥村喜和男(開戦時の情報局次長)も、いや一年ほど後に「世界史の哲学」を弾劾して、もし海軍の庇護がなければ京都学派は一網打尽にやられたかもしれないほどの暴威をふるった皇道哲学の一派でさえも、これほどの完璧な説明を与えることはできなかった。  教義学としては彼らは完璧である。その完璧さのゆえに、この発言はある意味では戦争の将来の予言ともなった。つまり戦争そのものが、「和戦という低い対立」では処理しきれなくなって、思想的混乱におちいり、戦争遂行の目的が喪失してしまったのである。そして飢餓による虚脱という形で、「当為即事実、事実即当為」、「他力即自力、自力即他力」の「絶対行為即絶対無」の境地がアジアの廃墟の上に実現されたのだ。 「『世界史の哲学』は帝国主義戦争としての第二次大戦を『主体的』立場から正当化するものとして成立した」と竹内良知は評する。「『大東亜共栄圏』の思想は、帝国主義戦争を強行しながら帝国主義からの解放を唱えるという矛盾をふくんでいたが、『京都学派』は侵略戦争の事実としての第二次大戦を西欧の帝国主義からの解放という『当為』としてとらえ、『主体的』立場に立ってこの『当為』に徹すれば中日戦争が『欧米とおなじ帝国主義的侵略と誤り解釈された』『不透明さ』が消滅すると主張したのであった。そして、彼らはこの『当為』と事実との矛盾を『矛盾なく考える』ためにランケの『モラリッシェ・エネルギー』という思想から『道義的生命力』という概念をつくりあげ……戦争の侵略的性格をおおいかくすことに努めた。こうして、彼らの『世界史の哲学』は、その哲学的概念のものものしさにもかかわらず、勝てば『官軍』という浅薄な既成事実の弁護論であり、日本帝国主義と天皇制ファシズムとのイデオロギーにほかならなかった。」(『昭和思想史』「総論」)  イデオロギイ批評としては、小田切の「近代の超克」評と同様、まさにそのとおりだというほかない。ただここで、京都学派が「戦争の侵略的性格をおおいかくすことに努めた」とあるのは、事実に合わないと私は思う。戦争そのものが「侵略的性格をおおいかくす」ものとしてはじまったのである。京都学派の教義学が「戦争の侵略的性格をおおいかくす」ことができると考えるのは過大評価である。彼らは戦争とファシズムのイデオロギイをつくり出したのではない。公の思想を祖述しただけである。あるいは解釈しただけである。それがイデオロギイ的にはたらいたのは、別の要因からであって、彼らの思想の力が現実を動かしたのではない。その証拠に、もし第一の座談会が、開戦の直前に行われたのでなければ、あれほどの反響があったかどうかは疑問である。たとえば、日本が東亜に指導権を有する理論的根拠としてこの三つの座談会を一貫して主張されているものは、日本がアジアで唯一の「近代」をもった国だということである (註二)。しかし実際には、そのような日本を「盟主」として承認することを過去十年にわたって中国の民衆は実行の上で拒否しつづけていたのである。この場合、京都学派の主張は一片の空論である。もし対米英開戦がなければ、京都学派は空論のストックを一つふやしただけで、世間の関心はひかなかったにちがいない。たまたま時機よく開戦になったために、空論が生き返った。だから開戦の詔勅を先取りしたという点で、この座談会はタイムリーだったが、事実の解決にはたらいたわけではなかった。日華事変の解決は無期延期されただけであって、無期延期されたために事実が京都学派に証明の責任を解除しただけのことである。  京都学派にとっては、教義が大切なのであって、現実はどうでもよかった。「既成事実の弁護」でさえもなかったと私は思う。事実は眼中になかった。「私は自分が世界史の根本理念としたものに誤謬があったとは思わない。私は戦争の有無や勝敗によって左右されるような理念を考えたのではないからである」(高山岩男「世界史の理念」『理想』一九五一年六月号)。まさにそのとおりだと私も思う。  日華事変は解決不能であり、そのために解決の無期延期の手段として太平洋戦争がはじまった。したがって戦争は当然、永久戦争たらざるをえない。京都学派には永久戦争の紙の上での説明はできるが、解決はできない。それならば「戦争反対」を叫ぶことで、あるいは戦争反対勢力を結集することで解決できるか。それはできるだろう。しかし、総力戦の中からどうやってその勢力を結集するか。どういう論理で戦争を平和に転換できるか。「和戦という低い対立」を観念上で超えるだけならば「絶対無」の哲学でできようが、それは問題にならない。思想が現実にはたらきかけるものとしての、その思想の論理は何であるか。これは戦争中についに発見されなかったし、今でもまだ発見されていない。  発見はされなかったが、発見への努力はあった。戦争の二重構造にクサビを打ち込み、戦争の性格を変えることによってそれは可能となる。亀井勝一郎の自己批判は、戦後からのその可能性の発見だが、戦争中にも、みずから戦争の筋書きを書いた正銘のファシストによって苦悶の声が発せられていた。 [#ここから1字下げ] 「若し是が清朝末期又は軍閥時代の支那であったならば、恐らく南京陥落の後に、然らずば漢口・広東を失った時に、支那は早くも吾が軍門に降ったことであろう。然るに戦えば必ず敗れながら前後七年に亘りて抗戦を続け、殊に大東亜戦争半年の戦果を|目賭《もくと》して、日本の武力の絶対的優越を十二分に認識せるに拘らず、また其の最も頼みとせる米英の援助が殆ど期待し難くなれるに拘らず、尚且抗戦を止めんとせざるところに、吾等は此の四半世紀に於ける支那の非常なる変化を認めねばならぬ。若し日本が現在の支那を以て、清朝末期又は軍閥時代の支那と同一視して居るならば、直ちに其の認識を|更《あらた》めねばならぬ。」 「日支両国は何時まで戦い続けねばならぬのか。これ実に国民総体の深き嘆きである。」 「日本は、味方たるべき支那と戦い乍ら、同時に亜細亜の強敵たる米英と戦わねばならぬ破目になって居る。」 「日独伊三国同盟が結ばれたころから、支那事変は世界戦争の連環の一つであり、従って是くの如きものとして解決せらるべきものであるとの主張が、いろいろなる方面から唱えられ初めた。此の主張は半ば正しく、半ば誤まって居る。即ち支那事変は単に日支両国だけの関係に於て考うべきものでなく、事変の背後には有力なる第三国が、日本を敵として東洋制覇の野心を抱き、あらゆる術策を逞しくして来たので、事変の進展如何によっては、遂に其の第三国とも、具体的に言えば英米とも一戦せねばならぬことを認識せるものとして、この主張は正しくある。而して現に事変は対米英戦争にまで発展した。併し乍ら其故に支那事変は、世界戦争の一連鎖として、世界戦争そのものの処理と共に解決せらるべきものとする意見は、吾等の決して首肯し得ざるところである。」(大川周明『大東亜秩序建設』一九四二年、第一書房) [#ここで字下げ終わり]  佐藤信淵の『混同秘策』を祖とする日本の伝統的国策が、世界制覇の最終目標を眼前において、今まさに瓦解しようとする予兆への「痛恨無限」の嘆声がここにきき取れる。破産の明確な自覚がある点で、京都学派とちがって、これはこれなりに実行に責任をもつ思想のことばである。  大川の嘆きは、一九四一年における日華事変の解決不能に対して発せられたものであるが、それは一九四五年にも解決されず、一九五九年の現在もまだ解決されていないのは周知のとおりである。なぜ解決されないか。太平洋戦争の二重構造が認識されないままに忘れられようとしているからであり、さかのぼっていえば、明治国家の二重構造が認識の対象にされないからである。明治時代を一貫する日本の基本国策は、完全独立の実現にあった。開国に際しての安政の不平等条約の最終廃棄(関税自主権)は明治四十四年まで持ち越された。しかし一方、日本は早くも明治九年に朝鮮に不平等条約を押しつけている。朝鮮や中国への不平等条約の強要が日本自身の不平等条約からの脱却と相関的であった。この伝統から形成されたのが「東亜共栄圏」のユートピア思想であり、そのために「大東亜戦争」は不可欠の条件であった。しかし、京都学派の「総力戦の哲学」が「絶対無」の無内容に行きつくと同時に、「東亜共栄圏」もまた「大東亜共同宣言」(一九四三年十一月)の無内容な美辞麗句に行きついた。開戦の詔書に「悲しい日本」を直観した高見順の文学者としての予感は正しかったのである。  大川は解決不能の形で問題を提出しているが、問題の提出そのものは誤りではなかった。問題はそのまま今日に持ち越され、課題としてわれわれの前におかれている。安政の不平等条約からの脱却のためには五十年かかった。しかもその解決はまちがっていた。どこで論理がまちがったかを、歴史を逆にたどることによって発見しなければならぬ。「近代の超克」の今日における問題状況が、その解決の手がかりを与えてくれるだろう。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]註一 宣戦の詔書案は一九四一年十一月中旬以後、「戦争名目骨子案」として大本営と内閣の連絡会議で討論と推敲が重ねられた(服部卓四郎『大東亜戦争全史』I、一九五三年、鱒書房)。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]註二 この論理は今日そのままの形で日本の外務官僚、およびそのスポークスマンである「日本文化フォーラム」一派の評論家の間に継承されている。後節参照。 [#小見出し]    五 「日本ロマン派」の役割  シンポジウム「近代の超克」が三つの思想の要素、あるいは系譜の集合であり、その統一を志して成らなかった失敗の実験であることは前に述べた。この三つは、「文学界」グループ、京都学派、および「日本ロマン派」であり、最後のものは保田与重郎で代表させるべきだ、とも書いた。そして「文学界」グループと「日本ロマン派」は一括してあつかえないことも述べた。ここで、最後に残された「日本ロマン派」の検討にはいる順序であるが、私はそれを、保田の思想から|演繹《えんえき》してくるのでなくて、「近代の超克」論議においてそれが果した役割に集中して考えてみたい。つまり保田のもたらしたもので保田を考えてみたい。それはおのずと「近代の超克」の思想的源流をさぐることにも関係してくるのである。  その準備として、もう一度今日の問題状況に立ちかえろう。そこから逆に歴史をさかのぼった方が筋をたどりやすい。そこで、最初に引用した小田切秀雄の論文をもう一度手がかりにする。前の引用のすぐ前の段落である。 [#ここから1字下げ] 「朝鮮戦争後まもないころ竹内好は書いた。『マルクス主義者をふくめて近代主義者たちは、血ぬられた民族主義をよけて通った。自分を被害者と規定し、ナショナリズムのウルトラ化を自己の責任外の出来事とした。(中略)しかし、「日本浪曼派」を倒したものは、かれらではなくて外の力なのである』(竹内『国民文学論』)。日本浪曼派についての立入った検討は、これいらい中野重治・橋川文三らによってようやく若干の展開が行われ、ことにさいきんの橋川の論によって大はばな発展を示しはじめたが、こうした経過が『近代の超克』論についてもとうに行われていねばならなかったのに、それをしないできたのであった。……しばらく前に江藤淳が『日本読書新聞』紙上で山本健吉批判を中心に新版『近代の超克』論にたいするすぐれた批判を行っていたのが注目されるくらいである。なお、以下の叙述においておのずと示されることになるが、『近代の超克』論は日本浪曼派の立場とその展開とにきわめて密接した関係をもっているのに、さいきんの日本浪曼派再検討の動きのなかでもまだこの関連を問題にすることはあまり行われていない。しかし、新版『近代の超克』論は、さいきんの日本浪曼派ふうの思考方法や気分やの復活とも直接に結びついて現われているのであって、山本健吉の『古典と現代文学』という一の文章のなかにはそれが具体的に現れている。つまり、『近代の超克』の先に出てくるのが山本のいわゆる近代前的な『共同社会性』による統一であり、山本はまだこれを文学論的な範囲に限っていて、伝統と創造との場として提示するという節度を越えていないが、もしかれが『共同社会性』という概念の社会的内容についてのより立入った規定をせまられたら(共同社会性ということばは、それ自体が具体的な社会的規定を要求する)、戦争下の保田与重郎や亀井勝一郎のように天皇主義国家をもちだすことをしないとすれば何をもちだすことになるのであろうか。そしてそれと現在の支配体制との関係はどうなるのであろうか。反体制的な要素は保田たちにも初期においては存在した。しかし、反体制的な力となりうるためにはそれに必要なだけの実際上の条件があり、この条件との関係でことがらは明らかにされてゆかねばならぬ。浪曼派の危険ということはこんにちふたたび新たな問題として生れてきているのである。」 [#ここで字下げ終わり]  ここにはいろいろのことが言われている。論旨が乱れていて筋道をたどりにくい箇所があるが、述べられている事実だけを取り出してみると、まず最初に、「日本ロマン派」の研究は最近「大はばな発展を示しはじめた」こと、しかし「日本浪曼派の立場とその展開とにきわめて密接した関係をもっている」「近代の超克」論の方は、「日本ロマン派」との関連ではまだ研究が進んでいない、という指摘がある。これはそのとおりである。たしかに私はその後何もやっていなかったし、橋川の研究(雑誌『同時代』に連載中の「日本浪曼派批判序説」と雑誌『文学』一九五八年四月号にのった「日本ロマン派の諸問題」など)は、「日本ロマン派」とくにその中心である保田与重郎にもっぱら焦点をあてていて、「近代の超克」のことは直接触れていない。もっとも橋川については弁明も成り立つので、彼のロマン主義研究の方法をもってすれば「近代の超克」は派生的な事件になり、独立してあつかう必要がないのである。  第二に、山本健吉を例として「さいきんの日本浪曼派ふうの思考方法や気分やの復活」を指摘し、それが「新版『近代の超克』論」の方向を取っているという観察がある。山本健吉の思想が反近代的であることは私も認める。「思考方法や気分」として反近代的であるのは山本だけでなく、唐木順三や、臼井吉見もそうだし、前に引用した佐古純一郎もそうである。私つまり竹内好もそこに加えることを彼は望んでいるかもしれない。しかし、この人々が一括して「日本ロマン派」的であるという小田切の見方には私は賛成できない。この点は「日本ロマン派」の本質をどう見るかという当面の問題にかかわってくるが、簡単にいえば、「日本ロマン派」には日本主義も、復古も、共同体へのあこがれも、合理主義への懐疑も、ことごとく要素としてはあったが、何よりも「日本ロマン派」を「日本ロマン派」たらしめている特色は、それが過激ロマン主義であったという点にあり、その点では山本たちの反近代主義とは決定的にちがうのである。  第三に小田切は、「共同社会性」は当然「天皇主義国家」を予想するとして、そこに「浪曼派の危険」を見ている。これも私にはうなずけない。「共同社会性」がなぜ「天皇主義国家」だけに帰着するのか。原始共産制であっても人民公社であってもよいではないか。もしそれが歴史の教訓であるというなら、その歴史解釈はまちがっている。ここでも小田切は思想を「反体制的な要素」だけで評価するイデオロギイ一元観から歴史を逆に見て、「浪曼派の危険」という被害幻想を導き出しているように思う。  第四に、江藤淳の山本健吉批判に彼は共感している。ここでついでに小田切が称揚している江藤の批評を紹介すると、彼は、古典鑑賞にすぐれた感受性をもっている山本健吉が、一面では「共同体意識という規範で無時間的に各時代を輪切りに」する「性急な理論家」であることを難じ、山本理論は「エリオットのいう『伝統』が現実にないこと」および「『共同体』が現実に崩壊して」いないことで、前提である現実認識が誤っている、と断じたものである。さらに彼は『東京新聞』での臼井・加藤論争にもふれ、「近代は人間を救いえない」という臼井吉見に反対して「近代化は必要である」とする,加藤周一に賛成している。「伝統」や「共同体」をふりかざすことは「ファシズムの温床である前近代性の保護育成という結果をもたらしかねない」から「現代の日本には加藤周一氏のいうように『伝統論』より、人権宣言のほうが必要だ」という論である(「伝統論と近代否定の傾向」『海賊の唄』一九五八年、みすず書房に収める)。 「日本ロマン派」は「近代の超克」と同程度に、あるいはそれ以上に「悪名」が高い。「近代の超克」は戦後復活した左翼から悪名をこうむっただけだが、「日本ロマン派」の方はそれ以前から、誕生当初から、左翼ばかりでなく中間知識人の間でも評判が悪かった。「私が昭和九年前後より、一人で世間の無数の悪声と批判に対して闘ってきた……」「私はそういう点では最近の文壇で自分のような非難と悪意の中に立った人を他に知らない」と保田は書いていて(「文学の立場覚え書」一九四〇年)、これは彼特有の悲壮がりや文壇コンプレックスとからんだ発言ではあるが、事実はかなりそれに近かった。保田がジャーナリズムの寵児になり、独特の非論理の美文をはやらせ出したのは、かなり戦争が進んでからであった。  悪名が高い割に「日本ロマン派」が何であったか、何をやったかはまだ十分研究されていない。階級だけでなく民族という範疇を思考の通路に入れることを要求したのが「日本ロマン派」の功績だ、というのが、小田切がふれている私の問題提起の要点で、それを半ば肯定し、しかし研究コースに疑義をはさんだのが中野重治(「第二『文学界』・『日本浪曼派』などについて」)だったが、この問題はそのころの「国民文学論」の流産といっしょに流された。ただ、その後の橋川の研究などをふくめて、これまでにあきらかになった点は、一九三五年三月に創刊されて三八年八月までつづいた雑誌『日本浪曼派 (註一)』およびその同人だけで「日本ロマン派」の問題が包括できないこと、同人解散後の方がむしろ思想として影響力をもったこと、同人のなかでも、年長の亀井勝一郎や浅野晃よりも保田与重郎が代表格であったこと、などである。保田代表説は早くに杉浦明平が出し、橋川も「私たちにとって、日本ロマン派とは保田与重郎以外のものではなかった。亀井勝一郎、芳賀檀などは、私たち少年の目には、あるあいまいな文学的ジャーナリストにすぎなかったし、浅野晃以下にいたっては、殆ど問題にもされなかったと思う。保田はいわば完全に『日本浪曼派』とは無関係に私たちに読まれた……」(『同時代』五号)と書いている。ここに「私たち」とあるのは世代的な意味であろう。  つまり、ある時代のある思潮を保田与重郎が代表し、保田が提唱者であった関係でそれが「日本ロマン派」とよばれるようになった、と逆に考えた方がよいかもしれない。そしてある時代というのは戦争の時期である。 「日本ロマン派」の難解さは、それがロマン主義を名のるところにも原因があるかもしれない。「日本ロマン派」はロマン主義一般ではない。ロマン主義一般と混同することからくる誤解が、今日の「日本ロマン派」評価および「近代の超克」評価をかなり混乱させているように思う。橋川は「日本ロマン派」の構成要素として、マルクス主義と国学とドイツ・ロマン派をあげる。これは「昭和の精神史を決定した基本的な体験の型」として共産主義=プロレタリア運動と、転向と、「日本ロマン派」を等価に対置するという仮説の上に立っての分析なので、その方法からすれば正しいというべきであろう。私はそれとは別に、仮説とまではいえないが「日本ロマン派」の直系尊属に生田長江を当てる状況対比で、「近代の超克」との関係での「日本ロマン派」の問題の一面は解けるのではないかと考えている。それから、「日本ロマン派」の美意識の内容を直截につかむには、江藤淳が「自然の声」であって「人間のことば」でないと評した(「神話の克服」)保田の文体によるより、棟方志功の版画の方が適しているのではないかという気がする。 「日本ロマン派」が何であったか、何をしたかを検討するためには、それを敵としてとらえた立場からの見方が参考になる。 [#ここから1字下げ] 「あの頃保田与重郎ほど待望されていた人間はない。彼が登場すればそれで壮大なる喜劇の主役は揃うのであった。」 「保田与重郎こそバカタン(芳賀檀をさす——引用者)はもちろんあの悪どい浅野晃や亀井勝一郎さえ到底足許にも寄りつけぬ、正に一個の天才というべき人間であった。」 「剽窃の名人、空白なる思想の下にある生れながらのデマゴーグ——あのきざのかぎりともいうべきしかも煽情的なる美文を見よ——図々しさの典型として、彼は日本帝国主義の最も深刻なる代弁人であった。」 「しかし彼の最大の功績はそういうニイチェや折口信夫の改鼠によって年に何十冊かの本を出し、而してあの悩ましく怪しげな美文で若者を戦争へかり立てた点にあるのではなく、むしろ経済学の難波田春夫などと同じく思想探偵として犬のように鋭敏で他人の本の中の赤い臭をかいではこれを参謀本部第何課に報告する仕事にあった。而して彼が自ら『|草莽《そうもう》の臣』と称する所以は、本来スパイたる彼が狐のように草の葉を頭へ載せることによって文学者に化けていたということらしい。」(「保田与重郎」一九四六年) 「彼ら(「文学界」グループをさす——引用者)は保田与重郎の如き図々しい帝国主義戦争の代弁者に圧倒せられ、沈黙を守るならまだしも、これを聖書のように礼拝し、且つ讃えて廻ったのである。小林秀雄、河上徹太郎、舟橋聖一等々が保田のために讃辞を惜しまなかったことは、我々を唖然たらしめた。」(「文化闘争の自省と課題」一九四六年、ともに自費出版『暗い日の記念に』に収める) [#ここで字下げ終わり]  保田が何をやったかは、「私が戦場に着いたとき、戦闘は終って太鼓とラッパの騒音とともに野に獣の大軍が凱旋行進にうつるところだった」(同前)という世代に属する杉浦明平の眼にこう映っていた。このうち、「スパイ」云々は、確証は書いてなく、また確証があげられる性質のものでもなく、たぶん心証だろうから、この文の書かれた当時の雰囲気を考慮に入れれば、ここに引用すべきでないかもしれない。私は、保田の性格のある弱さ(橋川のいう勇気のなさ)からも、思想と文章の非実践性からも、この事実に疑いをもつが、それらの特色は同時にスパイ資格とも見れば見られるものなので、反証をあげることはできない。  こういう最大級の敵あつかいの一方では、かつて「人民文庫」の立場で「日本ロマン派」とはげしく渡りあった高見順が、今日、「この保田与重郎等における反俗精神」、「私は、終戦直後——戦争中は、神さまみたいに言われていた保田与重郎が、戦犯呼ばわりをされたとき、保田与重郎というのは、日本の現代評論史において、小林秀雄につぐ人物であると書いたことがある。俗悪な政論的弾劾から、彼の持っていた『精神の珠玉』を守りたかったのである。私は彼の『精神の珠玉』を信ずるのである」(『昭和文学盛衰史』二)とも書いていて、妙にバランスはとれている。  杉浦を嘆かせた、「文学界」が次第に「日本ロマン派」色にぬられていく経緯について、河上徹太郎は戦後に、一種の交替史観から「最近の思想界の動きを見ると、非常に大ざっぱないい方だが、大正期以後大体に於て、自由主義を打倒したのが左翼であるとすれば、此の左翼にとって代ったのが主知主義であり、更に此の主知主義を威圧したのが日本主義だという風に概括」し、日本主義への抵抗の弱さについては「私はまともにこれに反撥する代りに、敢て一応此の鍛錬に身をさらして見た」のだと弁明している(「終戦の思想」『戦後の虚実』一九四七年、文学界社に収める)。おなじ事情を阿部知二は内側から「『文学界』がしだいに日本浪曼派的な色にぬられて行ったのは、同人たちの抵抗にもかかわらず外的な圧力で押されたためであった、とばかりはいえないことである。もちろんそういうこともなくはなかったが、それと同時に、内部に、日本浪曼派的な思想に同調する傾向がしだいに強くなってきたこともあったのである。同人会などの時に、評論家として保田与重郎をもっともりっぱだとするような考え方が、よく述べられるようになり、それを否定しようとするものは、ほとんどなくなってゆくのであった」(「退路と進路」『文学』一九五八年四月号)と回想している。 「剽窃の名人」、「空白なる思想の下にある生れながらのデマゴーグ」、「図々しさの典型」と「精神の珠玉」とは、正反対の評価であるが、じつは一つのものの二つの側面である。一九四五年八月十五目を、日本帝国の滅亡の側面でとらえるか日本国の再生の側面でとらえるかの差である。保田は「生れながらのデマゴーグ」であって同時に「精神の珠玉」であった。デマゴーグでなければ精神の珠玉たりえない。それが日本精神そのものなのである。保田は限定不可能なあるものであり、そこから逃れることのできぬ日本的普遍者の究極の一つの型である。「空白なる思想」が彼の思想であり、空白でなければ不死身であることはできなかった。保田を限定可能な、実体的なものとしてとらえようとしたために、杉浦ばかりでなく「文学界」的知性もまた失敗したのである。  保田の果した思想的役割は、あらゆるカテゴリイを破壊することによって思想を絶滅することにあった。この点で彼は、概念の恣意にカテゴリイを従属させた京都学派よりもさらに前進していた。彼は文明開化の全否定を唱えたが、彼のいう文明開化は、一つの思潮でもなく、流行でもなく、論理でもなく、しかし思潮でもあり流行でもあり論理でもあるもの、つまり近代日本の全部であった。したがって当然、そこには自己をふくむのである。彼にあって自己は定立しがたいものである。なぜなら、定立することによって自己は相対化され、他者との関係を生ずるからである。自己を無限拡大することによって自己をゼロに引き下げるのが彼の方法である。この点で彼は小林秀雄を超えていた。彼は絶対攘夷を主張するが、絶対攘夷は相対攘夷、つまり彼のいう「情勢論」のアンチテーゼとしての絶対攘夷であって、したがって対立物を予想せぬ主張であるから、その内容は無限拡大されて無内容化する。京都学派の教義学は、それがどんなに戦争と国体を巧みに結びつけて説明しえたにせよ、保田の立場からすれば排撃すべき情勢論の一変種に過ぎない。彼の判断は定言形式をとらない。一見、きわめて強い自己主張に見えるものが、じつは自己不在である。彼の文章には主語がない。主語に見えるものは、彼の思惟内部の別の自己である。だから彼の文をよむものは、いつもはぐらかされた感じをもつ。「図々しさの典型」と取られる。しかし実際の保田は小心者である。 [#ここから1字下げ] 「|ある面で《ヽヽヽヽ》私の書くものはひとりよがりと|云はれてゐるやうである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。これは卒急なせゐもあらうししかし一面では私が批評|といふもの《ヽヽヽヽヽ》をどう|考へて《ヽヽヽ》ゐるかといふことから由来してゐるのではなからうかと|思ふ《ヽヽ》。|私は《ヽヽ》感動させたノートは、ノートとしてだけで|人に《ヽヽ》つたへるねうちがないわけもない|と思ふやうなことも《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》その一つの理由だが、一そう根源の理由は、私が批評といふものについて|考へてゐる考へ方《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が、さういふ始末となるものと思ふ。」(「我が最近の文学的立場」一九四〇年) 「思想戦といふことは、当今極めて斬新な|考へ方のやうに思はれ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、さう思はれてゐることは少しも悪くなく、|何と云うてもよいことであるが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、かういふ時代に『|馭戎慨言《ぎよじゆうがいげん》』の一冊を|人に《ヽヽ》精読してもらひたいと、そのことを以前に書いて、この本の内容の紹介をしたところ、丁度その文章が月刊雑誌に出た月に宣戦が布告せられた。思想戦といふことについて、|今の人《ヽヽヽ》がどこまで|考へてゐるかはともかくとして《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、国学|といふ人々《ヽヽヽヽヽ》の|考へて《ヽヽヽ》ゐた範囲と深さは、十分に|考へたいと思つてきた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のである。」(「攘夷の思想」一九四二年)(ともに原文のまま、傍点は引用者) [#ここで字下げ終わり]  これは天の声か地の声であるかもしれないが、人間のことばではない。まさしく「皇祖皇宗の神霊」の告げである。「朕」でさえもない。|巫《ふ》である。そして巫こそ、「壮大なる喜劇の主役」として、最後に登場することが「待望されていた」取っておきの役柄であった。保田はその役を見事に果した。彼はあらゆる思想のカテゴリイを破壊し、価値を破壊することによって、一切の思想主体の責任を解除したのである。思想の大政翼賛会化のための地ならしをしたのである。  思想戦は問題でない。思想戦についての「考え」が問題なのである。戦争でなくて戦争「観」が問題である。戦争の末期に保田が「『遊びと文芸』という悠長な(?)文章をつづっている」ことを橋川が指摘している(『文学』一九五八年四月号)。戦争は眼前に浮遊する幻影であって、実在ではない。彼もまた「戦争の有無や勝敗によって左右されるような理念を考えたのではない」。そしてこの論理は当然、敗戦が問題なのでなく「国体の護持」が問題だという論理につながる。保田は思想における近衛文麿であった。 「文学界」が「国体」の自己流出である保田の侵入をふせぎ得なかったのは当然であった。なぜなら、「文学界」的知性では、「国体の精華」に対抗できる普遍者をつくり出すことができないから。小林秀雄は、事実から一切の意味を剥奪するところまで歩むことはできたが、その先へ出ることはできなかった。保田という「巫」が、思想の武装解除を告げに来るのを待つよりほかなかった。そしてそれは来た。「知的戦慄」の一撃とともに来たのである。 [#ここから1字下げ] 「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省などしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじやないか。」(『近代文学』一九四六年二月号座談会の小林秀雄の発言) [#ここで字下げ終わり]  これは当時、小林秀雄の居なおりと評されたものだが、じつは居なおりではなくて「敗軍の将」の正直な心境告白である。彼はせいぜい「国体観念というものは……僕等の自国の歴史への愛情の裡にだけ生きている観念です」(「歴史と文学」一九四一年)とまでしか言えなかったのである。  要約すれば、「近代の超克」は思想形成の最後の試みであり、しかも失敗した試みであった。思想形成とは、総力戦の論理をつくりかえる意図を少くとも出発点において含んでいたことを指し、失敗とは、結果としてそれが思想破壊におわったことを指す。思想としての「近代の超克」には、「文学界」グループと、京都学派と、「日本ロマン派」の三つの要素が組み合わさっていた。マルクス主義敗退後の中間的知識人のいちばん活発な活動舞台であった「文学界」が、一つは延命策として「日本ロマン派」の国体思想から自己を防衛する目的と、一つは逆に国体思想を利用する目的で、窮余の策として知性の最後のあがきを見せたのが「近代の超克」であった。京都学派の教義学を「文学界」グループは信用していたわけではない。しかし教義学は、公の思想の祖述として無視することのできぬものであった。それを主体的に内側から思想化する賭けがここで試みられた。そのために「日本ロマン派」の終末思想が利用すべきものに思われた。「近代の超克」思想において「日本ロマン派」は、復古の側面によってでなく終末論の側面で作用したと考えられる。「永久戦争」の理念を、教義としてでなく、思想主体の責任において行為の自由として解釈しなおすためには、どうしても終末論が不可欠だが、「文学界」的知性からは終末論の契機は導き出せない。そのために彼らは、「日本ロマン派」に力を借りようとし、いわば毒をもって毒を制しようとした。そして「近代の超克」という戯画をえがいたのである。 「近代の超克」は、いわば日本近代史のアポリア(難関)の凝縮であった。復古と維新、尊王と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、総力戦の段階で、永久戦争の理念の解釈をせまられる思想課題を前にして、一挙に問題として爆発したのが「近代の超克」論議であった。だから問題の提出はこの時点では正しかったし、それだけ知識人の関心も集めたのである。その結果が芳しくなかったのは問題の提出とは別の理由からである。戦争の二重性格が腑分けされなかったこと、つまりアポリアがアポリアとして認識の対象にされなかったからであり、そのために保田のもつ破壊力を意味転換に利用するだけの強い思想主体を生み出せなかったからである。したがって、せっかくのアポリアは雲散霧消して、「近代の超克」は公の戦争思想の解説版たるに止ってしまった。そしてアポリアの解消が、戦後の虚脱と、日本の植民地化への思想的地盤を準備したのである。 [#ここから1字下げ] 「われわれは、この座談会(「近代の超克」をさす——引用者)のもつ意味の多様性をまだよく理解してはいない。しかし、すくなくとも、この討論が、そこに参加した日本主義者たちによってではなく、むしろ当時のもっともすぐれた西欧的な『近代主義』理論家によって組織されたものだということには注目しなければならない。いわば、これはそのような近代主義者たちが、自らの敗北を自認するために行った座談会であった。」 「私は、われわれの『神話』が、昭和十七年の七月に決定的な勝利をおさめたきり、まだ一度も日本人によって敗北させられていない、ということに注意を喚起しておきたい。同時に、その時決定的な敗北を自認せざるをえなかった西欧的な近代主義者たちは、おおむねその後自力で復権してはいない。」(江藤淳「神話の克服」) [#ここで字下げ終わり]  私は、この見方は状況の変化を一面化して、やや単純に過ぎるように思う。「西欧的な近代主義者たち」は、私の見るところでは「決定的な敗北を自認」しなかった。なぜなら「近代の超克」の看板はかけたが、実際の思想闘争は行わなかったからである。敗北感のあるはずがない。そして敗北感のないことこそが今日の問題である。つまり敗戦によるアポリアの解消によって、思想の荒廃状態がそのまま凍結されているのである。思想の創造作用のおこりようはずがない。もし思想に創造性を回復する試みを打ち出そうとするならば、この凍結を解き、もう一度アポリアを課題にすえ直さなければならない。そのためには少くとも大川周明の絶句した地点まで引き返して、解決不能の「日華事変」を今日からでも解決しなければならない。戦争に投入された全エネルギイが浪費であって、継承不可能であるならば、伝統による思想形成も不可能になる。今日の日本は「神話」が支配していることに問題があるのではなくて、「神話」を克服できなかったエセ知性が「自力」でなく復権していることに問題があるのである。まさに今日は「近代主義者」も「日本主義者」もいっしょになって、「今日の日本は真に文明開化の日本」であって「難有い目出たい次第」(福沢諭吉『自伝』)だと手をたたいて喜びあっている天下泰平の空前の文明開化時代が将来されているではないか。日本文化フォーラム編『日本文化の伝統と変遷 (註二)』はその一左証である。アジアに指導権を主張することと、西欧近代を「超克」するという原理的に背反する国民的使命観が、ここでは日本イコール西欧という観念の操作によって、単純明快に前者だけを生かして後者を捨てる形で解決されており、それは伝統からの逸脱であって、真の解決ではないからである。彼らにはアポリアは存在しない。「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」(福沢諭吉「脱亜論」)。福沢は事実認識を誤ったのであって、日本はそもそもアジアではなかったのだ、というのがこの派の新文明開化論者の主張である。したがって当然、ここでは福沢の心肝をくだいた「国の独立」も無意味になるわけであり、ひいては明治維新以後の歴史はなかったことになる。皮肉なことに「日本ロマン派」の思想破壊は今日こうして逆方向に目的を貫徹しているのである。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]註一 三枝康高『目本浪曼派の運動』に総目次がのっている。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]註二 竹山道雄が「日本文化の位置」という論文を書き、それをめぐって十七人の参加者によって一九五七年の夏二日間にわたって討論がなされた。翌年五月、新潮杜から出版された。参加者は竹山道雄のほかに高柳賢三、木村健康、高坂正顕、鈴木成高、西谷啓治、平林たい子、林健太郎、関嘉彦、大平善梧、河北倫明、唐木順三、石井良助、直井武夫、パシン、サイデンステッカー、ロゲンドルフである。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『近代日本思想史講座』第七巻「近代化と伝統」(一九五九年十一月、筑摩書房刊)に発表、『竹内好全集』第八巻に収録。 [#改ページ] [#見出し]  方法としてのアジア [#小見出し]    一  私は体系的なお話ができないたちなので、適任でないからといってお断りしたのですが、小人数でやるからという、たってのご依頼でまいりました。ほかの方々はみんな立派な先生方ですが、私はちょっと場違いなのです。最初に私の考えを述べますから、それについてみなさんのほうから質問あるいは御意見を述べていただき、それについて討論するというふうに進めていただければ、好都合です。  私は中国のことを研究しているのですが、最初にまず、どういう関心からはじめたかということを、多少私事に亘るのですが、申し上げたい。  私は、大学を出ましたのが一九三四年三月でございます。そのあとで、中国文学研究会という会を有志でつくりました。ごく小さい会ですが、ここで中国の文学の研究をしておりました。戦争中もずっと続けまして、戦争が激しくなってから雑誌を出すのが困難になったので自発的に会を閉じた。これが一九四三年です。  その後兵隊に行ったりしまして、それから敗戦の経験をしたわけですが、この会をやっております間に——実はその会を始める前から、と言ってもいいのですが、私たち日本人が考える中国と、実際の中国とは大きなズレがあるのじゃないだろうか、ということを感じておりました。私の専門は文学でありますが、私は文学というものを広く考えております。ある国の人々のものの考え方とか感じ方、さらにそれを通してもっと深いところにある生活そのもの、それを研究対象とする。もののほうから生活を見るのでなくて、心の面から生活を眺めるのが文学だ。そういう態度で研究を続けておりました。  私は、当時の東京帝国大学の支那文学科というのを出たのですが、ほとんど学校に出ませんで、たいへん怠け者の学生でありました。自分でもよく卒業免状をとれたと思うほどです。むろん、学校の講義がつまらなかったという理由もありますが、そもそも中国文学を研究しようと思って大学に入ったわけじゃない。告白いたしますと、大学に入るとか、大学を出るという気持ちもなかったんです。大学に入らないと学資を親からもらうのに具合が悪い、自活しなければならない。楽に遊んでいるには、金をもらって大学に籍を置いたほうがいいというくらいの気持ちでやっておりました。一番入りやすいのは文学部で、その中でも特に入りやすいのが支那文学だから入ったのであります。どうもこういうことを申しあげるのは、みなさんを勇気づけるのか、向学心をそぐのかわかりません。  同学年に武田泰淳なんかがおりましたが、彼も大学に出て来ませんし、私も行かないので、ほとんど顔を合わせたことがない。中国文学研究会をつくるようになってから始めて顔を合わせ、いっしょに集まってしゃべるようになったのでございます。  私がどうして大学を出てから中国文学をやるようになったか、というと、在学中に一度中国旅行をいたしました。学生の時に、日本を脱出したいという気持ちがあったわけでありますが、当時は、中国旅行というのは非常に簡単にできました。旅券が要らない。船の切符を買って乗り込めば自然に上海なり天津に着いてしまう。楽なものでした。長崎からですと東京に来るより近かった状態です。ちょうど大学二年の時に、夏休を利用して旅行したわけです。それまでは、中国文学に籍は置いてあるけれども、まじめに勉強しようとする気持ちはなかったのでありますが、満洲まで団体旅行で行きまして、それから一人で北京にまいりました。北京に行ったとたんに、何といいますか、自分の心の中にあった憧れといいますか、潜在していた自分の夢にぶつかった気がしたのであります。北京という町の自然にも感心したのでありますが、それだけでなくて、そこにいる人間が自分と非常に近い感じがした。自分と同じような考えをもっているらしい人間がいるということに感動したのです。当時の私たちは大学の中国文学科に籍を置きながら、困ったことに、中国の大陸に自分たちと同じような人間が実際にいるんだというイメージは浮ばないのですね。後から反省してみまして、これはわれわれの受けた教育がそうさせたのだということを痛切に感じたわけであります。  まあ仮りにこれが中国でなくてほかの国、とくに欧米でありますと、そういうことはない。ヨーロッパヘ行く、あるいはアメリカヘ行くということならば、そこにむしろ自分たちより優れた人間がいるという感じをもつのじゃないかと思う。ところが中国には、同じような人間がいるということがどうしてわからないか。これは学校で歴史を習う、あるいはアジアの地理を習う時に、そこに人間がいるということを教えない。私の記憶ではたしかにそうだったのです。  ですから、これは何としたことであるかとおどろきました。自分が目で見て、たしかに非常にいきいきと毎日の生活を送っているたくさんの人間がいる。ところが、それらの人間が何を考えているか、知りたいと思うけれども、残念ながら言葉が通じない。大学に中国語の学科はあるが、形ばかりで、こっちも出席しないからいけないかもしれないが、役に立たない。会話ができない、何かそこには自分の問題——自分の問題といいますのは結局文学の問題と言ってもいいのですが——それを解く鍵になるものがあるような気がする。今まで文字の上で近代文学に触れ、あるいは日本の近代文学を読んで、自分なりに文学観をもっている。しかしそれには疑わしいものがある。それをどう解くかという場合に、自分の隣りの国に非常にたくさん、自分たちに近い生活をしている人間がいて、しかも自分がその心の中に入って行くことができないということが致命的な問題であるということを感じました。  それから発心して勉強するようになりました。北京に一と月ばかりいたのですが、その間にまず言葉を習わなければいけないと思って、中国人の下宿屋に住みまして、家庭教師に来てもらって言葉を習ったが、一と月じゃものにならない。帰って来ましてから講習会に行ったりして語学を自分なりに始めるようになったわけです。そしてぼつぼつものが読めるようになって、むこうの現代文学なんかを噛ってみました。当時はまだ日本に中国の現代文学の翻訳や紹介はあまりありませんでした。昭和の初めからぼつぼつあるのですけれども、今日のように盛んになっておりませんで、まだ非常に限られております。しかも大学では現代文学なんというものは一切やりません。自分たちでグループをつくってやるよりしようがないので、中国文学研究会という会を始めたわけです。そしてごく薄いパンフレットを出していたのでありますが、そのうちに戦争がだんだん拡大してまいりまして、満洲から華北へ侵略が進む。この自分たちの研究を通して親しみを感じている国を自分たちの祖国が侵略するということに、非常に辛さを感じたのでありますが、当時はまだそれを突きつめて考えることができずに、いくらか後退した姿勢で、自分の狭い研究の範囲を守っているくらいのところがせいぜいでありました。  そうした雰囲気のなかでいろいろのことを考えていたのでありますが、結局戦争が太平洋戦争へ拡大して、最後に四五年の敗戦になった時に、私としての一つの研究上の転機があったわけです。  今までは中国を勉強する、それを通して、日本人の中国に対する認識の足りなさ、あるいは間違ったところを改めてゆく、あるいは学問の性格を変えてゆく、というねらいであった。漢学あるいは支那学というものが従来ございますが、そういう死んだ学問をやるのでなく、現に生きている隣りの人間の心を探ることを通して、自分たちの学問そのものを変えてゆくという、これまでもっていた志望から、それだけではいけない、もう少しふみ出さなければいけないということを、敗戦後に感じたわけです。  どういうふうにふみ出すかと言いますと、中国を専門の領域で研究することは必要でありますが、いったいそれだけでいいだろうか。もし明治以後の日本の近代史が、そのまま順調に進んでいるならば、専門研究の枠を守っていればいいだろうけれども、本来あるべきでない戦争、その結果としての敗戦の苦痛というものを導き出した。それならば日本の歴史がどこで間違ったかを探ることから出発しなければ、自分たちの今生きている根拠が解明できない。これは私たちだけでなくて、多くの日本人が、この根本的な反省から戦後出発したわけであります。  戦後最初にその戦争批判の立場をはっきり出して来たものは、コミュニズムだったと思う。目本の共産主義者は戦争中に戦争を批判し、戦争を否定して戦った。その実績に基いて、戦後に共産主義の復活があった。私なんかよりも少し前の時代の人は、戦前にコミュニズムの運動に参加した経験がありますから、そこにもう一度もどって日本の再建をやるという態度に出た人が多かったと思います。私にはそれができませんでした。私の同時代者、あるいはもう少し若い世代にも共産主義に飛び込んだ人がいますが、私にはそれができなかった。これは個人の性格にもよるし、体験の違いにもよるし、また世代的なものもあると思いますが、一九三四年に大学を出た一人として、私は共産主義というものに、それほど過去の美しい思い出だけをもってはいないんです。かつてのコミュニストが戦争中に転向して、もっとノン・コミュニストよりも積極的に戦争に協力したという側面をわりに多く見ているわけですね。ですから戦後に共産主義の波が高まった時もそこに入って行きませんで、自分はちょっと退いたところにおりまして、いくらか時代遅れの感じをもちながら、その運動の行末を見守っていたわけです。私はコミュニズムに対しては全面的に承認はできなかったのですが、コミュニズムが復活することはいいことだと思っていました。ただしコミュニズムが戦争を有効に阻止できたかという点には最初から疑いをもっていた。私の体験している歴史の方向からは、コミュニズムが有効であるという証拠が引き出せないわけですね。そこで疑いをもちながら見ていたわけですが、結果はご承知のようになったわけです。あの間違った戦争への道、その結果の敗戦というものからどういう教訓を汲むか、あるいはそれをどう自分の学問の課題に組み込むかという場合に、いきなりコミュニズムに行ける人は——多くの人が行ったわけですが、それはそれでよろしい。その人はその人なりの過程で別な反省をした。私などは、それとは距離をもちながら、禍根はもっと深いところにあるのではないかと考えていたのであります。つまり、中国文学をやっておりまして、その中で考えつつあったことが、敗戦を通してややはっきりしてきたということが言えるわけです。  それはどういうことかというと、私は戦後に一つの仮説を出した。後進国における近代化の過程に二つ以上の型があるのではないか。日本の明治維新後の近代化というものは、非常に目覚しいものがありまして、東洋諸国の遅れた、植民地化された国の解放運動を励ましたわけです。それが巧くいっていれば唯一の模範になりえたのであるが、結果として最後に、どんでん返しの失敗をやった。その失敗の点から振り返ってみますと、日本の近代化は一つの型ではあるけれども、これだけが東洋諸国の、あるいは後進国の近代化の唯一絶対の道じゃなくて、ほかに多様な可能性があり、道があるのではないか、と考えたのです。  で、日本と中国を比較してみますと、その点、いろいろ質的な違いに気がつくわけであります。  私は一つの仮説の形で、日本と中国を典型的な型として取りあげて比較した。あまりほかの国のことを知らないから。ただ、もし強いて言うなら、たとえばトルコなんかは、日本の近代化の型に近いのではないかと思う。インドなどは中国に近いでしょう。要するに二つ以上の異質な型があるのではないか、ということなのです。そのことが今日お話しする本論になるわけです。日本と中国との近代化の型の違いがどこにあるか。この問題を考えることは、当然にこれまでの自分の考え方を疑うことと切り離せません。その手がかりとして、まず、デューイの考えをお話ししようと思います。  ジョン・デューイ——アメリカの哲学者で、かつ教育者であるデューイは、日本でも昔、一部の人に読まれたのですが、あまり全体に影響はなかった。戦後になりまして、鶴見俊輔さんとか、清水幾太郎さんとか、久野収さんなんかが大いに紹介しました。文学の方面では桑原武夫さんとか……。  私は専門家じゃないのですが、デューイのことをかねて気にはしていたのです。というのは、デューイという人は日本へ来ております。一九一九年二月に、コロンビア大学から一年の休暇をもらって奥さんといっしょに日本へ遊びに来たのですが、出発まえに東京大学からの依頼があって、講演をしております。それからしばらく方々で歓待を受けまして、日本に滞在した後、五月に中国へ渡りました。上海に着いたのが五月一日です。この一九一九年の五月というのは、有名な五・四運動が起こったときです。上海へ着いて二、三日経った、五月四日に北京で事件が起こった。だんだん天津とか上海に波及しまして、例の有名な五・四運動という、全国的規模をもった民衆の反帝国主義の運動に発展するわけですね。それが、ちょうどデューイが中国に行った時にぶつかったわけです。  デューイは、中国に胡適とかそのほかお弟子さんがおりまして、その人々の案内で上海でも北京でも講演しております。デューイははじめ一年の予定で東洋に遊びに来たわけでありますが、中国を見て非常に興味をもつわけです。たまたま動乱の時期に目撃者になれたので、わざわざ休暇を一年延期しまして、中国に二年滞在いたします。そして日本と中国の問題について、二つの国を比較しながら文章をたくさん書きました。それを私は戦後に初めて読んだのです。  そういう評論のほかに、子供に宛てた手紙が本になっている。奥さんの分もいっしょに入っております。  『レターズ・フロム・ジャパン・アンド・チャイナ』——これを見ますと、はじめは日本のことをたいへんほめて書いてあります。はじめて東洋の国へ来て、見るもの聞くもの何でも珍しい。おまけにたいへん歓待される。日本人は親切な国民ですし、相手はアメリカの有名な哲学者ですから、大いに歓待するわけです。いい気持になりまして、日本人は親切であるとか、美的であるとか、いろいろほめているわけです。ところが中国に行ったとたんに、この国は日本と比べると何という不潔であって混乱していることか、まったくお話にならん、と非常に悪口を書くわけです。この印象が、後にだんだん変ってくるのでおもしろい。  手紙ではまだはっきりしないのですが、一九二〇年から二一、二年にかけて、書いている評論、これは私、前に読んでなくて、戦後に人から借りて読んだのですが、『キャラクターズ・アンド・イヴェンツ』の中の一冊が、日本と中国についての評論を集めております。それを読んで、彼の日本および中国の比較がよくわかりました。手紙とちがって、これらのエッセイは、問題を深いところからつかまえておりまして、教えられました。日本の近代化と、中国における近代化の芽生えを適切に比較しております。敗戦後に読んだ、ということもありましょうが、感銘しました。というのは、予言がほとんど的中しているのです。日本は、見かけは非常に近代化しているようであるけれども、その近代化は根が浅い。このままではおそらく日本は破滅するだろうということを彼は予言しております。もっとも、日本の亡国を予言した人はたくさんいます。外国人にも日本人にもある。夏目漱石なども、日本の滅亡を予言しているのはご承知のとおりです。『心』とか『三四郎』に出ております。それから和歌山での講演も有名です。日本の近代文化というものは全部外からのつけ焼刃で、内発的なものでないからだめだということを言って、それをいかにして内発的なものに転化できるかということを漱石は探求したが結局、答案が書けなかったわけです。  私はデューイの哲学体系というものは、素人で全然わからないのですけれども、中国と日本との近代化の比較に関する限りは、今日から見てシャッポを脱ぐのです。つまり日本の近代文化がいかにつけ焼刃であるか。実際そのとおりになったのですね。  なるほど見かけは中国のほうが混乱している。当時の中国——一九一九年というと、まだ軍閥時代ですね。中華民国がうまれて八年、形は共和国であり、議会や責任内閣制もある。政治制度の上からいうと戦後の日本とあまり変らないが、それは形だけであって、実情は実力者が支配している。実力者というのは軍閥であり、軍閥はすべて外国の紐つきです。中国というのは何であるか、国であるか何であるか、国際連盟で問題になったが、誰も答えられなかったという有名な話がありますが、それほど近代国家としての統一性をもっていない。てんでんばらばら勝手なことをやっている。しかし、その混乱を通して底に新しい精神が動いていることをデューイは敏感に見ぬきました。とくに五・四の学生運動を自分の眼で見て、彼はそれをさとったのです。  この五・四運動というのは、日本が第一次大戦中に非常に苛酷な条約——日本が中国を独占的な植民地化するという苛酷な条約を強制して、それを当時の軍閥政府に、武力を背景にして承認を迫ったわけです。最後通牒を突きつけまして、戦争に訴えるとおどかした。これが有名な二十一カ条です。それが起こったのは一九一五年です。それから、それに反対する運動が中国に起こります。まず学生の間に起こり、漸次国民的規模に拡大して、四年後の一九一九年に爆発したわけです。そして政府を屈伏させた。当時第一次大戦の処理をめぐってベルサイユで会議が開かれていた。中国の全権も行って大いに奮闘するが、日本および列強の間で相談が決って、中国の要求が通らない。そのために中国の代表団は脱退するわけです。ベルサイユ会議からの脱退、平和条約の調印拒否、それから外交責任者の処罰、これが五・四運動の主たる要求ですが、それが通るのです。ですから五・四運動というのは、中国の民衆運動が最初に勝利した記念の出来事であるというふうに、その後歴史的に評価されるようになったのです。  その五・四運動で、学生がデモ行進に際して、みんなポケットに洗面道具を持っていたということに、デューイは非常に感動している。逮捕を覚悟しているということです。これこそ中国における新しい精神、新しい近代の芽生えであるというふうに評価しております。  当時の中国というのは、救いようがない、混乱状態で、そのまま解体してしまうというふうに国際的に見られていた。その中において、学生が挺身して、自国の運命を担って立ち上がった。この青年の元気、そういうものを通して彼デューイは、中国文明の見かけの混乱の底に流れている本質を洞察した。世界において今後発言力をもつことを予見した。見かけは進んでいるが日本はもろい。いつ崩れるかわからない。中国の近代化は非常に内発的に、つまり自分自身の要求として出て来たものであるから強固なものであるということを当時言った。一九一九年にそういう見通しを立てたという点、私はえらいと思う。私なんかは、日本人として中国文化を研究していながら、そういうはっきりした見通しは、四五年までつかなかった。その点私なんか、至らなかったと思う。まあデューイに比べるのは無理かもしれない、むこうは大学者ですから。しかしそういうところから、日本と中国をもっと対比して考えなければいけないということを、ますます強く感ずるようになったわけです。  この問題はデューイに限らず、そのほか多くの人によって取り上げられております。たとえば、ラッセルというイギリスの哲学者が、やはり同じころ中国にしばらく行っておりまして、『プロブレム・オヴ・チャイナ』という本を書いております。これにもこれはかなり詳しく日本と中国の比較が出ておりまして、ほぼ同意見であります。イギリスなり、アメリカなり、つまり欧米から見た日本と中国の位置というものは、見かけは日本のほうが国勢隆々として、三大国などと威張っていた時期ですら、やはり中国のほうに将来の希望があったことを認めざるを得ない。また事実そのとおりになった。私ども日本人ですから実に残念ですが、このことは認めざるを得ない。  そこで私は、近代化の二つの型を考えた時に、こういう問題を考えるには、今までのように日本の近代化というものをいつも西欧の先進国との比較だけで考えるのはいけないのではないか、と思いました。学者がそうであるばかりでなく、一般の国民がそうである。政治家も財界人も全部そういう形で、政治制度ならイギリスがどう、芸術ならフランスがどうというふうにすぐ比較する。そういう単純な比較ではいけない。自分の位置をはっきり掴むのに十分でない。少くとも中国とかインドというような、日本と違った道を歩んだ別の型をもって来て、三本立にしなければいけないだろうということを当時から考えていたのです。  このことは、私ばかりでなくて、たとえば鶴見和子さんも言っております。鶴見和子さんの編集で『デューイ研究』という本が出ています。私もその中で「胡適とデューイ」という一項目を書かせられた。鶴見和子さんは、「デューイと日本」という項目を書いていらっしゃるが、そこでもそういうことを言っていたかと思います。その後にも『パール・バック』という本を書きました。岩波新書に入っております。パール・バックという人は中国で生まれて中国で育った。しかし国籍はアメリカ人です。ですからパール・バックは中国とアメリカを両方見ているわけです。鶴見さんは日本人として、アメリカで教育を受けた日本人として、パール・バックを扱うことによって、日本、中国、アメリカという三本立で現在の問題を考えよう、こういう方法が大事じゃないかということをこの本で提唱している。私は同感なのです。アメリカでもいいし、あるいは西ヨーロッパでもよろしい。これはやっぱり近代化の先進国として大事です。これを残すわけにいかないが、それだけではいけない。中国を研究する場合でも、西欧対中国という形だけではいけない。単純な二つの対立でなくて、もう少し複雑なわく組みで考えるのがいいだろうということを当時思いついたわけです。  日本と中国の型の違いということは、私がもっと研究を積めば、思いつきだけでなくて、もう少し自分の考えを整理し、また材料を漁って、一つの体系にしたいと思っているのですが、怠け者で、まだそこまで勉強ができておりません。今日のむずかしい国際的な位置におりまして、また日本の文化、学問についても、今後どうしていったらいいか、いろいろ問題があると思いますが、その場合にやはり今までのまずい点、つまり単純化によって拙くなっている点を直してゆきたい。中国についてももっともっと知らなければいけないし、しかし中国について知るということは、中国だけをやっていたのじゃわからない。大きな枠の中でやるといっても、一人で全部をやるわけにいかない。そこに当然、協力が必要になる。ところがこの協力関係をつくるということが、じつにうまくいっていないのであります。制度上および意識上、アジア研究がおろそかにされている。  制度上の難点について、一つだけ実例で申しあげます。今の日本に大学がたくさんあります。何百もある。そこで中国語をやっているところは少数だがある。私は都立大学におりますが、そこでもやっている。けれども朝鮮語をやっている大学は、日本全国にない。わずかに天理大学だけです。天理は、布教の必要上やっている。戦前は東京大学でも朝鮮語をやったことがあるのですが、戦後はなくなっております。日本からいって一番近い外国である朝鮮のことを、われわれは実に知らない。知らないばかりでなくて、知ろうとしない。朝鮮語をやる大学がないというのは、そのあらわれです。実に不思議な現象だと思います。一番近い外国語を大学がやらない。こんな国は、一々調べたわけでないが、日本以外にないだろうという気がする。  中国では東洋語を最近はずいぶんやっておりますが、日本では朝鮮語がない。朝鮮語だけでなく、ロシア語にしたって、数えるほどしかない。ロシア文学の講座があるところは、外語を除けば北大と早稲田ぐらいでしょう。  それでいて英語は全部やっている。英語は戦後にものすごく普及したわけです。第一、英独仏という専門の立て方、これがそもそもおかしい。明治初年の英学、独学、仏学の伝統なので、そこからちっとも変っていない。英文学、ドイツ文学、フランス文学、そういうものを個々別々にやって、そこに文学部というものが全部集中しているということは実におかしなことと思います。  そういう大学の状態、その中にいるやつが改革しようと言ったって身動きができないから改革ができない。そうして東洋語がないばかりでなく、ヨーロッパ語でも、西洋の三つの国の言葉を除けばほとんどやってない。東欧の言葉なんかやっている人は非常に少いでしょう。そういう状態は実におかしい。これはデューイならずとも実におかしいと思うし、これじゃまずいと思う。大学制度あるいは学問研究の体制からいってそういう変なことがたくさんあるわけです。それを変えてゆくにはどうしたらいいか。このままでは、将来を誤まると思う。げんに四五年に国を誤まった結果が出たのに、そこで反省すべきを、いっこう反省しないで、また元どおりやろうという風潮が強くなりつつあることはまずいと思います。このことは学問の内容にも関係してくるし、われわれの学問態度にも関係してくると思う。 [#小見出し]    二  私の至らない問題提起に対して、皆様からいろいろ御意見を出していただいて、問題そのものが深められたと思います。御質問に答える形でさらに私の考えを補足させていただきます。  さっきデューイとラッセルのことを申し上げたが、もう一つ私の考えの材料になるものがあるのです。それはタゴールです。タゴールは三回日本に来ておりますね。大正五年(一九一六年)、十三年(一九二四年)、昭和四年(一九二九年)です。やはり日本で講演をやっておりまして、それが本にもなっているのです。このタゴールは中国にも行っています。そして実際にタゴールは中国に影響を与えているのです。タゴールの影響を受けた文学者というのはかなりいる。日本はないですがね。もしあれば、野口米次郎でしょうね。影響というよりも、野口米次郎という人は戦争中にタゴールを叱ったわけです。タゴールは日本の東亜への使命を理解してないと叱って論争になった人です。タゴールも日本で非常に歓迎を受けておりますが、誰が歓迎するかというと坊さんですね。えらい坊さんとか宗教学者であって、民衆とは無縁です。これはデューイの場合も若干その傾向がある。えらい学者たちとか実業家が歓迎している。上層の人がやっている。タゴールもそうです。中国では民衆の代弁者である文学者がタゴールをずいぶん紹介しているし、またタゴールと同質の問題を提起している。タゴールというものは日本ではどう取られたかというと、あれはインドという亡国の詩人である、亡国の歌を歌う詩人であるというように理解されている。中国ではそうじゃなくて、彼は民族解放運動の戦士であると受け取っている。この評価の違いに問題がある。中国では、この間来ました郭沫若という人、それから徐志摩、謝冰心、こういうそれぞれ傾向の違った人がみなタゴールをやっている。それから中国の一番有力な文学雑誌がタゴール特集号を出している。そこには、同じ被圧迫の境遇にいる、植民地化されている人間として、反抗への共感がある。タゴールは、現われたところは弱い形でしか言っていませんけれども、底には非常に強い怒りを含んでいる。社会あるいは世界の不正に対する怒りが、非常に強くある。それを中国なら汲み取れる。日本では汲み取れない。亡国の詩人、弱者の泣き言であるというふうに当時受け取っている。  タゴールは、日本が武力だけに頼って西方の近代化をまねし、力で隣国をやっつけようとしているのはいけないと日本人に忠告したのです。ところが日本の新聞は、弱国の詩人の泣き言であると批評した、と彼自身が書いている。中国はそう受け取らないで、同じものを、ひそんでいる怒りの現われというふうに受け取っているわけです。その違いは、やはり日本と中国との根本的な違いを現わしているのではないでしょうか。  タゴールは、最近日本訳の全集が出まして、いま刊行中です。これも英語からの訳です。ベンガル語をやっている人は日本にいないそうですね。タゴールはベンガリーと英語で書くのですがね。  タゴール百年祭が来年か再来年でしょう。それを目指して日本でも記念会が生まれました。タゴール関係の会は元からいくつかあるのです。仏教関係にあり、それから美術家のほうにある。横山大観なんかの系統から出て来る。あとは政治家のほうで、高良とみさんなんかやっていますね。そういうものがいっしょになって百年祭の準備をしているようです。それはそれで結構なのですが、ただ、タゴールを通しての日本と中国の比較ということは、これはデューイやラッセルの場合も同様だが、そのような問題関心はまだ広く起っているとはいえないように思います。  次に、文化の内発と外発ということと、文化形成の原理としての民衆、および知識人の役割りとの関連について補足いたします。文化の基礎が民衆にあるということと、内発・外発の問題とは直ちに一致するかどうかわからないが、関連があることは確かです。文化というものを総体として眺めて、歴史のある時点での文化が、どういう性質をもっているかという時に、根源的には民衆によって規定されている。原理的にはこの説に賛成ですね。ものをつくる生活から出て来る以外に文化の根拠はない。文化に物と精神と両面があるとしても、やっぱり人間の生産活動以外に究極の源泉はないように思う。だからその点は民衆という、生産にタッチしている人間以外に根元はないわけだが、それを維持するとか、高めるという役割は、専門のそれぞれの文化の担い手があります。いわゆる知識人です。それがどういう人間から出来ているかということは、それぞれの時代によって違う。全く民衆から離れてしまえば遊離した文化になる。しかし民衆そのものは労働に忙しいから、そういう専門の業務を担当することはできない。そこで民衆と文化専門の担当者との間の関係が出ますね。これはいつの時代にも出てくる。  さっき私の言いました内発・外発は、このような文化の源泉がどこにあるかという問題を一応別にして、明治以後の日本の近代化の過程を総体として取り出したわけです。明治以後の日本は、西洋文化を受け入れて近代化したということが言われているが、そのこと自体は正しいと思う。その受入れ方が皮膚の表面で止まっている。技術を取り入れるにしても、出来上ったものとして取り入れて、技術を生み出す科学の精神というものを捉えていないということです。そして、このことは多くの人によって指摘されているが、単に指摘にとどまっていて、型として取り出されていないということです。  日本の近代化の原点をかりに明治維新とすれば、一八六八年ですね。中国における近代化はいつからかというと、いろいろな説がありますが、仮に五・四運動とすれば一九一九年ですね。五十年違う。日本のほうがずっと早くて、中国はずっと遅い。なぜ時期が違うかということが一つ問題である。これは日本のほうが適応性があったということで説明できる。封建制を解体して、近代国家をつくる、近代文化を取り入れることに早く成功したわけです。ほかの国はそうでなくて、インドとか中国は植民地化される。これが一つ。しかし同時に、別の問題がある。その後に出て来る近代化の質についてです。日本の場合ですと、構造的なものを残して、その上にまばらに西洋文明が砂糖みたいに外をくるんでいる。中国はそうでなくて、デューイの考え方によれば、元の中国的なものは非常に強固で崩れない。だから近代化にすぐ適応できない。ところが一旦それが入って来ると、構造的なものをこわして、中から自発的な力を生み出す。そこに質的な差が生ずるということです。表面は混乱しているけれども、西洋人の目から見た近代性という点でははるかに中国のほうが日本よりも本質的であるということを言っております。  これはむずかしい問題で、私も、確信をもってこうだとは言えない。ただ、そこに考えるべき問題があることを提示するわけです。われわれの国がだめということはないので、やはり日本人には日本人としての優れたものがある。ともかく明治維新と、その結果である明治国家がアジアを刺戟したことは大変なものです。  このことは孫文なんかも言っております。明治維新が模範になって中国の改革運動が出てくるわけです。もっとも、出てくるのは日清戦争、日露戦争の後ですが。日露戦争というのは、まあ今日では否定的に見られてはいますが、東洋の規模で考えると大きな事件であると思います。  日露戦争のとき、孫文はヨーロッパにおりましたが、戦争のあと、中国へ帰った。その途中、船がスエズに寄港すると、荷役のアラビア人が船に乗り込んで来て、「お前は日本人か」「いや、そうでない」。なぜそういうことを聞くかというと、日本が日露戦争に勝った。白人だけが優秀であると自分たちは諦めていた。色のある人間は能力がないのだというふうな諦めをもっていたところが、日本人が白人を戦争で破ったということを聞いて非常に嬉しい、解放の希望がもてた、ということを言ったそうです。孫文自身が語っております。ですから、日本の近代国家の建設というものは、戦争によって有効性が証明されたわけで、それが植民地解放にとって非常に大きな力になっているらしい。ただ大正以後はまずくなった。中国と日本の関係で見ますと、第一次大戦が転機になる。あれ以前は大体うまくいっているのですが、ちょうどあすこで、中国におけるナショナリズムの勃興と、日本が三大国になって、中国に対する侵略を強化するのとがクロスする。その典型が二十一カ条条約と、それへの抵抗運動である五・四です。つまり、明治維新が一つの模範になって、アジアの近代化を刺戟したが、他国が明治維新の型で改革をやろうとしても、うまくいかなかったわけです。そこで別の型を編み出さねばならなくなった。ところが日本は、自分の歩んだ道が唯一の型であると固執した。そのために今日のようなアジア的と非アジア的の内部分裂をもたらしたと思います。  いまの日本は、ある点では西洋以上に西洋的です。それが一概に悪いとは思いません。そうなる条件があるのですから。ただ、これが植民地経験では過去に似た例がたくさんあったのは事実です。植民地時代の上海は、西洋以上に西洋という感じがしましたね。われわれの国がそうだと断定するといけないかもしれないが、その一面があるということは感じますね。  実は、日本が東洋であるというのは、私はそう思うけれども、それに対して有力な反対意見が現在あるのです。その一例を挙げますと、梅棹忠夫氏です。梅棹さんのは、生態学という特殊の学問の適用から出てくるものですが、アメリカを除いた旧世界を二つに分ける。周辺と中央。第一地城、第二地域と名まえをつける。日本と、ヨーロッパの端っこのイギリスやフランス、これは共通性があるという。中央の大陸はこれと全く異質だという。彼はその仮説を歴史にも適用して、独自の梅棹説というものを理論化しようとしているが、これは当っているところがある。たしかに日本という国は、中国と非常に違うのです。まず言語の組織が違います。シナ語は、日本語的な語順ではない。また生活文化を見ましても、中国人は椅子に腰かける。日本人のようには坐わらない。それから力の働き方がちがう。日本人は引く方だし、中国人は押す方です。ノコギリもカンナも庖丁もそうなっています。  まあ似ているのは皮膚の色と顔でしょう。これはモンゴール系統が日本に入っていますし、南方系も入っていますから、血が混っているから顔が似ているが、ものの考え方とか生活風習は非常に違う。それをいっしょにするのは無理です。ただ一千年の文化の交流があったということは言えますが、それをもって直ちに日本と中国、あるいはインドまで引っくるめて、ヨーロッパに対抗する意味でなくて、単一の文化形態でくくるのは非常に困難でしょうね。だから私は、梅棹説を半分は支持します。  次に、戦争の問題に入りましょう。一九四五年の敗戦が研究上の転機になったと申し上げましたが、そのことと、日本人一般の戦争意識、あるいは敗戦意識との関係についてです。御質問にありますように、日本人は中国に負けたという実感がないというのは、否定できないと思う。これはどうしてか。  日本は連合国に対して無条件降伏したわけですが、その時の連合国は主として英米ソ中ですね。その中でアメリカだけに頭を下げたのだという感じが強い。ソヴェトもそうですが、特に中国に対しては負けたという実感が非常に少いですね。それはどういうところから来るか、いろいろ複雑な理由があるでしょう。主としてアメリカが占領したということもありますが、もう一つ、中国に対する侮蔑感があるでしょうね。負けるはずがないと考える。武力的にはたしかにそうです。当時の軍事力の比較では、はるかに日本が強い。アメリカは圧倒的な軍事力があったから負けた、ということに納得する。だから、やはり竹槍じゃまずかったという反省はできるけれども、それじゃあ精神力はどうなのか。戦争中は精神力で勝つと言っておきながら、負けたら一ぺんに引っくり返ってしまって、物質力だけで考えるのはまずいのじゃないかな。むしろ今こそ、あのころの精神力説を復活すべきじゃないかと思う。  中国の場合について言うと、精神力で勝った。つまり日本に勝つ理論があった。それは戦後に立証されているのです。毛沢東の『持久戦論』という本を見るとわかる。これは一九三八年の講演ですが、世界的規模での戦争の今後の見通しが書いてある。当時は共産党と国民党との連合戦線ですから、全体を引っくるめて中国の立場を説いているが、戦争に中国は勝つと書いてある。国際的条件も有利であるが、たとい条件は不利であっても、独力で勝ち得るということが、理論的に書いてある。共産主義理論を承認しなければその理論が承認できないというものではありません。今日では歴史事実がその予見の正しさを証明しているので、共産主義を離れても読む価値がある。日本には戦勝の理論的な予見がなかった。負けるということを念頭に置くことを回避していた。日本の戦争理論では、すべて、負けることはあり得ないという独断から出発している。それが後になるほど強くなる。戦争というものは、勝つこともあれば負けることもある。負けることを考えるのを回避するのは、すでにそこで負けているわけです。理論的な解決をしてないから。中国に対しては負けたのではないという気持ちは、いろいろな伝統から来る原因があるでしょうが、そのこと自体が、なぜ負けたかということを逆に説明していると思う。今日からでもいいから、戦争の見方を変えて行かなければならないでしょうね。  日本から何百万の兵隊が行っていますが——私も兵隊を経験したのですが——この人たちが何を見たかというと、何も見ていない。人間の観察能力というものは、非常に頼りないものだと思います。自分のほうに問題がなくて、ただ行ったって、何も見えるものではない。いかに多くの人が行ったって中国の事情はわからない。戦後にもずいぶん行っているでしょう。その人たちが——悪く言って申しわけないですが——まず、何も見てない人が大多数じゃないでしょうか。ごちそうになって、いい気持ちになったかもしれないけれども、それで中国を見たとはいえない。なぜ見えないかというと、自分に問題がないからです。兵隊はともかく、政治家がこれでは困ります。われわれ中国の専門研究者として、そういう国民心理を変えられなかったところに、力の不足を感じます。  もう一つ、中国人の日本観。これはいろいろに言えますが、日本人が軍隊ばかりでなく、一般市民が軍隊をタテにして行って乱暴を働いたということに、深い憎悪をもっていると思う。われわれだって、自分の肉親が殺されるとか、殺されないまでも、家を焼かれるとか、乱暴されるということになれば、辛い思いがそう急に解消されるものではない。相手の心理を|忖度《そんたく》すれば、今は政治的な意図で、怨みがありません、日本の人民には罪はありませんと言っても、心の底ではやっぱり日本人を怨んでいると思う。その怨みは十年や二十年で消えないと思います。一世代かかって消せるかどうかむずかしい。百年かかるかもしれない。いわんや今のような国交の状態では、ますます憎悪感が強まるかもしれない。日本人一人が悪いことをすれば、被害を受けた人は日本人全体を怨むのは当然でしょう。  そこで|贖罪《しよくざい》感が問題になるわけだが、それが薄れつつありますね。薄れさせようとする意識的、無意識的な動きがあるわけです。中国に対してもそうだが、朝鮮に対しては特にそうですね。韓国との国交がうまくいかんのは、李承晩大統領はものがわからん男かもしれないが、あれだけ虐められていたら無理もない。十年、二十年じゃむつかしいかもしれない。けれども、努力はしなければならない。そうでなければ恥知らずです。民族が恥知らずになったのでは、世界に立てない。幸いアメリカとは国交が非常にうまく行ってますね。これは結構だけれども、アメリカとだけうまくいって、他の連合国と講和ができないというのは、戦争の処理ができてないということです。中国との間に戦争が続いているのです。ソヴェトとは一応共同宣言で戦争終結しましたが、中国との間にはまだ戦争状態が続いているのです。しかもわれわれは、そのことを日常感じていない。感じていないばかりでなく、台湾の蒋介石政権と講和したからいいじゃないかという考えがある。これは本末顛倒です。台湾との講和によって逆に大陸との講和が妨げられたのです。サンフランシスコ平和会議の時に、中国のどちらの政権を選ぶかは日本の選択にまかされたのに、わざわざ台湾を選んでしまった。これが最大の禍根なのです。保留すればよかったのです、朝鮮戦争が終って世界が平和になった時に改めて選ぶということで、講和の対象の選択を保留すればよかったが、それができなかった。  そういう政治上の問題もありましてうまく行っておりませんけれども、政治は人の力で動かせるものでありますから、国民が日本の立場をよく考えて、努力するより仕方がない。それでもなおかつ民族感情におけるシコリは残ると思いますがね。それを急に変えてゆくことはできません。  最後に、大問題に対してお答えしなければなりません。日本の近代化のポイントが、西欧そのままの型が外から持ち込まれたことにある。ところが中国においては、民族的なものを中心にして打ち出して来た。そこに近代化が純粋になり得るポイントがあった。そのことは文化の型ばかりでなく、人間類型にしても同様のことがいえる。そのことからして、教育の問題について有力な御意見が一つ出された。  それは何かというと、戦後の日本の教育は、民主主義の名によって、アメリカの教育制度が外から持ち込まれた。民主主義の制度全体がそうだが、教育もそのために不適合の部分を生じて、だんだんと破綻を示している。いったい、西欧的な個人を前提にして民主主義のルールを持ち込んだことが得策であったかどうか。むしろ、西欧的なものの跡を追わないで、アジア的な原理を基礎におくべきでなかったか。こういう御意見であります。  いま出されている問題は大きくて、まさに私の課題そのものなのです。ただ私は、御意見とは少しちがう。人間類型としては、私は区別を認めないのです。人間は全部同じであるという前提に立ちたいのです。皮膚の色が違うとか、顔が違うとかはありますけれども、人間の内容は共通であり、歴史性においても人間は等質であるというふうに考えたい。そうすると近代社会というものは、世界に共通にあり、それが等質の人間類型を生み出すことを認めざるを得ない。同時に、文化価値も等質である。ただ文化価値は、宙に浮いているのでなくて、人間の中に浸透することによって現実性をもち得る。ところが自由とか平等とかいう文化価値が、西欧から浸透する過程で、タゴールが言うように武力を伴って——マルキシズムから言うならば帝国主義ですが、そういう植民地侵略によって支えられた。そのため価値自体が弱くなっている、ということに問題があると思う。たとえば平等と言っても、ヨーロッパの中では平等かもしれないが、アジアとかアフリカの植民地搾取を認めた上での平等であるならば、全人類的に貫徹しない。では、それをどう貫徹させるかという時に、ヨーロッパの力ではいかんともし難い限界がある、ということを感じているものがアジアだと思う。東洋の詩人はそれを直観的に考えている。タゴールにしろ魯迅にしろ。それを全人類的に貫徹するものこそ自分たちであると考えている。西洋が東洋に侵略する、それに対する抵抗がおこる、という関係で、世界が均質化すると考えるのが、いま流行のトインビーなんかの考えですが、これにもやっぱり西洋的な限界がある。現代のアジア人が考えていることはそうでなくて、西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題点になっている。これは政治上の問題であると同時に文化上の問題である。日本人もそういう構想をもたなければならない。  その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としては、ありうるのではないかと思ったので、「方法としてのアジア」という題をつけたわけですが、それを明確に規定することは私にもできないのです。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『思想史の方法と対象——日本と西欧』(一九六一年十一月、創文社刊)に発表、『竹内好全集』第五巻に収録。 [#改ページ] [#見出し] ㈼ [#見出し]  岡倉天心  天心は、あつかいにくい思想家であり、また、ある意味で危険な思想家でもある。あつかいにくいのは、彼の思想が定型化をこばむものを内包しているからであり、危険なのは、不断に放射能をばらまく性質をもっているからである。うっかり触れるとヤケドするおそれがある。  しかし、考えてみると、衛生に無害な思想などというものは、そもそも思想でも何でもないかもしれない。毒があってこそ思想である。思想とは、なにがしか現実にはたらきかけ、現実(精神をふくめて)を変革するものなのだろう。だとすると思想は、思想なるがゆえに、現状維持の立場からはつねに危険物である。あながち天心だけが危険なわけではない。  天心の思想が最大限に放射能をばらまいたのは、過去の戦争の時期だった。このとき彼は「大東亜共栄圏」の先覚者に仕立てられた。天心には元来、国粋とアジア主義の要素が内在しているし、ロマン主義者としての本領からして当然に、その放出は無限定であるから、アジア解放のための「聖戦」という名目のもとに思想総動員が行われた際に、天心の名が利用されないわけにはいかなかった。利用されたのは、それだけ彼の思想が生産的だったからであって、これは天心の名誉ではあっても、恥ではない。  戦局がすすむにつれて文化の官僚統制がきびしくなり、その一環として「日本文学報国会」という一元組織がうまれたことを、今でも記憶している人は多いだろう。この会は、「大東亜文学者大会」を主宰したほか、いくつかの事業をやった。「愛国百人一首」や「国民座右銘」の選定などである。「国民座右銘」というのは、一年三百六十五日に然るべき古人の名言を配当したものである。その十二月八日、つまり「大東亜戦争」開戦日の項に選ばれたのが、天心の「アジアは一つ」という語であった。  この項の解説は浅野晃が書いている。 [#ここから1字下げ] 「これは、天心が、アジア十億の民の解放を|懐《おも》ふ赤心を、大いなる歎きの声として吐き出したもので、かやうな偉大な歎きは、ただ日本人だつた天心のみがよく発し得たところであつた。われわれは、ここに、|畏《かしこ》くも、すめらみことを戴き奉る神国日本の修理固成の使命を、痛いまでの誇りと|昂《たかぶ》りとをもつて回想するのである。」 [#ここで字下げ終わり]  戦争中、天心をかついだのは主として「日本ロマン派」系統の文学者だった。保田与重郎を筆頭として、浅野晃、佐藤信衛たちである。なかでも浅野が熱心で、いくつも天心に関する本を出している。それまでに知られていた天心の三つの主著のほかに、「東洋の覚醒」という未刊稿があるのを、この時期に翻訳紹介したのも彼だった。  保田にしろ浅野にしろ、天心を「明治の精神」の神髄とするとらえ方は終始変らないが、その解釈は年を追って多少は変っている。前記の解釈は、その最終段階を示すものであって、戦争末期のファナティックな状態を反映している。だからそれだけで「日本ロマン派」の天心観を代表させることはできない。もし「日本ロマン派」流の天心観を純粋化して要約しようとするならば、浅野よりもむしろ戦後の亀井勝一郎の発言にきいたほうがよい。そこでの天心は、美の使徒に立ちかえる。そして美は科学に対抗するものであり、科学は戦争へつながるが、美の道はそれを越える。これが戦争否定の時代における「日本ロマン派」流の天心観である。  天心が「日本ロマン派」によって、ある意味では利用され、ある意味では新たに思想的に発掘されたことは、天心にとっての幸不幸は別として、論理的には当然の成りゆきであった。「日本ロマン派」の根本主張は、文明開化の全否定にある。彼らは文明開化を、一つの時代現象とは見ずに、近代をつらぬく病弊の本質と見た。そこで、文明開化と全的に対抗する文明観は、歴史相対的であることはできない。そのような対抗物として、天心は、日本の近代思想史に他にかけがえのない貴重な存在だった。  天心の思想、あるいは思想家としての天心という問題は、この「日本ロマン派」による利用あるいは発掘を離れては論じられない。もっとも、天心は「日本ロマン派」だけの専有物ではないので、たとえば大川周明は、『日本文明史』の序文で、影響を受けた思想家として、山路愛山、北一輝とならんで天心の名をあげている。  ただ大川の場合は、すでに過去の思想家にも数えられるが、「日本ロマン派」の場合は、今日まだ過去の歴史現象になりきっていない。天心をファシズムと切り離すことは、そうむずかしくないが、「日本ロマン派」的解釈と切り離すことは案外簡単にはいかない。一般に、後代への影響から区別された思想家の像は、ひからびてしまうことが多いが、ことに天心のようなロマン主義者の場合は、その弊が大きい。むろん、「日本ロマン派」的限定だけで天心の全部がつくされているとはいえない。彼にはもっと多くの可能性があった。しかし、その可能性を引き出すためにも、天心を単なる史上人物に抽象化すべきではない。「世人は歴史を目して過去の事蹟を編集したる記録、すなはち死物となす、これ大なる誤謬なり。歴史なるものは、吾人の体中に存し、活動しつつあるものなり」と天心自身も『日本美術史』のはじめに述べている。  歴史の位相において思想家天心をながめると、彼は五十一年の生涯に、三つの事業をなしとげた。第一は、東京美術学校を創設し、美術教育の基礎を定めたこと、およびそれに付帯する古美術保存などの社会美術教育の事業である。第二は、その美術学校を追われた後で、これに対抗する日本美術院をたてた事業である。第三は、その少し後にはじまる英文による著作活動である。さらに後になると、ボストン美術館の東洋部長としての海外での活動がはじまるが、これは思想家としての彼の評価にとっては重要ではない。  天心は、いわゆる著述家ではない。著作の意図をもってなされ、生前に公刊されたものは、いずれも英文の『東洋の理想』(一九〇三年)、『日本の覚醒』(一九〇四年)、『茶の本』(一九〇六年)の三冊だけである。はじめのものはイギリスで、後の二つはアメリカで出版された。このほかに雑誌論文や講演の記録がある。それから日本の伝説に取材した「白狐」というオペラ形式の作品と、いくつかの詩がある。刊行されなかった論文では、前にふれた「東洋の覚醒」があって、これは時期では『東洋の理想』と『日本の覚醒』の中間にはいる。  日本語の文章は、量も英文のものより少いし、密度も高くない。唯一の著作は『日本美術史』だが、これは美術学校での講義を他人が筆録したものである。あとは十数編の短い評論と、講演筆記と、詩(漢詩が多い)があるだけである。  これで見てもわかるように、天心は、文筆による活動にあまり重きをおいていなかった。英文による三著は例外だが、これとて、どれだけ著作の意図がはたらいたか疑問である。『茶の本』になると相当に著述家の姿勢が出てくるが、その前の二著(あるいは『東洋の覚醒』をふくめて三著)は、彼の実際活動が拘束された時期に、いわばその代償として、胸のわだかまりを吐きすてたものと見られないこともない。天心はあくまで行動の人であり、実地の改革を志した人だった。そのような型の思想家であるから、つねの思想家、ことに職業的著述家の型で考えると、天心を見あやまるおそれがある。  もっとも、文は人なり、という一面の真理は認めないわけにはいかない。彼の志が文筆にあったにせよ、なかったにせよ、彼の文章は彼を伝えている。そのことは疑えない。ただ、後期の三著だけで彼の思想を代表させ、それを前期の美術運動と切り離して論ずるのは当を得ない。  戦後しばらくは、天心の名はファシズムとともに忘れられていた。その後、「汚名」をそそぐ「復権運動」がぼつぼつ起ったが、この場合、主として前期の改革運動に焦点を合わせ、彼をブルジョア文化の担い手と規定し、その進歩性を評価する(その半面、後期の著作を「侵略的ロマン主義に身を委ねた」と規定する)説(宮川寅雄)があらわれた。これは、歴史のサイクルが一巡したことを思わせる天心評価の変遷であるが、天心における前期と後期とのこのような区別に、私は十分には納得がゆかない。ただ、『東洋の理想』だけが天心を代表しない、という点では賛成である。  東京美術学校が開校したのは一八八九年(明治二十二年)である。初代校長は浜尾新であったが、間もなく岡倉覚三に代った。というより、実際の開校業務は、数年の準備期間をふくめて、天心がフェノロサとともに担当したので、浜尾は名義だけ、あるいは天心の庇護者と見た方がよい。こうして数え年二十九歳で天心は美術専門教育の最高責任者となった。  美術学校は、はじめ日本画と木彫と彫金科をおいただけで、洋画を課さなかった。(一八九六年にはじめて洋画科と図案科が増設された。)これは天心とフェノロサの方針によるものである。じつは、国定の美術専門教育を創設するに当って、鉛筆画と毛筆画のどちらを課すべきかは、数年来の懸案だった。いや、開国以来の懸案だったといってもよい。蘭学の伝統をひく洋画は、当時・文明開化の波にのって新興の意気あがり、邦画を圧倒した。軍事上の実用性も鉛筆画に有利だった。伝統の美術は、海外に販路のある工芸品を除けば、沈滞の極にあった。しかも天心は、この有力な反対を押し切って、日本画を採用した。浜尾新や九鬼隆一の庇護があったとはいえ、この決定は一大英断だった。  単に日本画を選んだばかりでなく、文人画や浮世絵を排斥して、狩野派をもって正統とし、教授陣は多く狩野派で埋めた。ここに天心の貴族性、あるいは保守性を指摘する見方も成り立つが、ただ当時の状況に照らしていえば、そのような保守性がじつは戦闘的、革新的でありえたという逆説も認めなければならない。たとえば、美術学校の開校より七年前、大学卒業後まもなく彼は、当時の洋画界の重鎮であって文部省内にも勢力のある小山正太郎と論争している。書は美術でないと小山がいったのに対して、天心は逐一論駁した。後年の天心の文が、詩的であって論理的でないという非難をよく浴びるが、この小山との論争や、美術学校の経営プランを見れば、彼が論理性と本来に無縁な人だという見方が当を得ていないことがよくわかる。  論点の一々についての紹介ははぶいて、小山が、「美術の利益を一般の工芸に比し」た点についての天心の反論の部分を引例しよう。「余読んでここにいたり、|慄然《りつぜん》としていふにたへざるものあり。ああ西洋開化は利慾の開化なり。利慾の開化は道徳の心を損じ、風雅の情を破り、人身をして唯一箇の射利器械たらしむ。貧者はますます貧しく、富者はますます富み、一般の幸福を増加する能はざるなり。……美術を論ずるに金銭の得失をもってせば、大いにその方向を誤り、品位を卑くし、美術の美術たるゆゑんを失はしむるものあり。」  後年の天心に特徴的といわれる文明観が、じつは一八八二年(明治十五年)というこの時期にすでに形成されていたことがわかる。「西洋開化は利慾の開化」であるがゆえに否定されるべきなのである。なぜなら「文明は精神をもって物質に打勝つの謂」(一九〇三年)だからだ。彼は明治二十年代あるいは三十年代になってから文明開化に反対したのではなく、十年代の出発の当初からそうなのであり、みずから信ずる真の文明、すなわち精神の「自主」と「充実」を目ざして、「文明の要器」たる美術(彼にあって美術は宗教と等価である)の改革に不退転の勇をふるったのである。  当時における西洋画と日本画の対立は、時勢の根底にある文明開化対国粋の一現象だった。この場合の国粋とは、天心に関するかぎり、単なる古美術の保存や、伝統の継承以上のものであって、いわば新しい国民芸術の創造に関するものだった。彼は西洋画を学ぶことに反対はしていない。ただ、何を基礎にして学ぶかが問題なのだ。基礎はあくまで「精神」つまり自己の「内的実現」でなくてはならない。古人を学んで古人を越えよ、というのが彼の教育方針である。絵画にとっての本質は、陰影や色彩ではなく「品格」である。品格を他から加えることはできない。  このような彼の芸術観、ひいては文明観が、へーゲル学徒であったフェノロサの影響下に形成されたことはまちがいないが、それだけで説明がつくかどうかは疑問である。家庭環境と、奔放な彼の気質とが、時代思潮と相まって作用したろうと思う。  彼の家は士族だったが、父親は早くに士籍を脱して貿易商を営んでいた。藩との関係が切れたときは、旅館業を営むだけの蓄財があり、没落のうき目をみないですんだ。彼自身も、漢学より先に英語を学び、有利に大学に進みえた。彼の前半生は洋々たるもので、挫折の種は何ひとつなかった。彼が文明の「本質」をへーゲル流に洞察する与件はそろっていた。しかし、考えようによっては、この恵まれた環境は、彼をつねの文明論者に仕立ててもよさそうである。そうならなかったのは、なぜか。ここに、彼とまったく対照的な歴史人物である伊沢修二の名をあげなくてはならない。  東京美術学校は国粋の方針を採用したが、その少し前に開校した東京音楽学校は、まったく反対に、洋楽を基礎とした。この方針を決定したものは、初代校長の伊沢修二である。天心より十一歳年長の伊沢は、高遠藩士の出であり、苦学の末に二十歳を過ぎてからアメリカに留学した。そして帰国後は、文部省の音楽取調掛(音楽学校の前身)の責任者になった。そのときの御雇教師はアメリカ人メーソンだった。天心は、大学卒業後、はじめメーソンの通訳として伊沢の下にいた。このポストは一年でかえられた。日本美術院版『天心全集』の略伝では、「奔放|不羈《ふき》なる先生の性情と伊沢氏の厳格主義とは相容れ」なかったのがその理由だと述べている。  伊沢は、日本の音楽教育の開拓者であるばかりでなく、師範教育の体系の整備者でもあり、また帝国教育会の創立者でもあり、最後は貴族院議員になった文部行政および教育界の大立者である。その伊沢が、天心とは性情がまったく反対であったことは興味深い。性情ばかりでなく、思想も相反した。伊沢は徹底した合理主義者であり、科学の信奉者である。その二人が美術と音楽にわかれた。これは草創期の日本の芸術教育にとって劇的な事件だった。  天心の美術学校は、小山正太郎らの洋画派から絶えず非難攻撃の的になっていたが、この洋画派の背後には洋楽一本ヤリの音楽学校があり、さらにその背景に、地歩を固めつつあった文部省および一般官僚勢力があった、というのが当時の歴史状況だった。そのため天心のほうは、否応なく、ますます反官僚的、ますます反文明開化的方向に追いやられたのではないか。美術学校には音楽学校とちがって、一種の野党精神が伝統化されてかなり後まで残っていた。  伊沢の合理主義と、それにもとづく文明観とは、それなりに筋が通っていた。音の世界には音の一般法則がなければならぬ、というのが彼の信念である。そのため邦楽は、五線譜に書きかえて、普遍的韻律に近づけることが近代化への道とされる。伊沢は、のちに日本語と朝鮮語と中国語との統一をはかる一大事業をはじめるが、これも、万国の言語は音声において同一であり、したがって統一法則が成り立つべきだという彼の原理の応用だった。晩年の|吃音《きつおん》矯正事業も、それからの派生である。  伊沢修二は、弟の多喜男とともに、権勢欲の権化だという世評がある。それはそうかもしれない。しかし、その点では天心だって相当の野心家である。伊沢が悪評をこうむるのは、彼が世俗の成功者であり、その成功は体制との一体化によって保障されたものだから、それへのひがみであろう。彼は文明開化の能吏であった。その文明開化は富国強兵に役立った。彼は洋式唱歌という形で新音楽を創出した。  そのような文明開化流の近代化が、天心には我慢がならなかった。美術学校長時代、時の文相井上毅から、音楽学校長の兼任をすすめられたことがあったが、彼は、市川団十郎を教授にしてもよいなら、と笑って答えたという逸話を前記の略伝は伝えている。これは伊沢流の教育方針に対する皮肉であろう。天心も音曲を好んだが、彼のほうは唱歌ではなくて俗曲であり、歌詞も美術院時代の有名な「堂々男児は死んでもよい」に見られるようなバンカラ調だった。  天心は、文明開化の風潮への抵抗に生き、その方針で美術学校を経営した。それが彼の場合は、唯一の近代化の道だった。したがって、明治政府の体制が整備されてくれば、いつかは教育界から追われる運命にあった。いわゆる美術学校騒動は当時の新聞をにぎわせた事件であって、陰謀説や醜聞が乱れ飛んだが、根本の事情は、上に述べたように、文明開化と国粋の争いが、体制の安定によって終止符を打たれたというのが本筋である。  したがってまた、橋本雅邦や横山大観をふくむ|連袂《れんぺい》辞職組が、天心を擁して日本美術院の独立旗をかかげたのも当然であるし、この反官僚アカデミズム形成の運動が永続しなかったのも当然である。おそらく天心は、この運動の成功を当初から信じなかったのではないか。成功と失敗は眼中になかった。  しかし、もし旗あげしなければ、高い価値である美が国家または政府(彼の場合、国家と政府と官僚は一体と観念されていた)の低い価値に屈伏することになる。それは彼の信条にそむく。そのためには成否を越えて在野アカデミーは存在しなければならぬ。そしてそのようなものとして前期美術院は歴史的使命を果した。  『東洋の理想』以下の英文の著述がなされるのは、この後のことである。つまり、理想の実現をめざす実行において敗れた後である。これらの著作を注意ぶかく眺めると、そこに当時の著者の失意のさまを読みとることができる。なるほど、天心はそこでアジア文明の優位を説いている。文明開化とならんで近代日本の主要テーマの一つである東西文明論の角度から眺めると、それを日本国家の自己主張を代弁したものと解することもできなくはない。しかし、天心の真意はそこにはなかった。  この場所での彼は、むしろ日本国家から疎外された超越価値の使徒である。日本国家が彼の訴えをきかないから、彼はそれを世界に訴えているのである。ここでの美=精神=アジアは、内村鑑三における信仰と等しい場所を占めている。少くとも、そのような読み方が可能である。|弾劾《だんがい》されているのは、「物質」化した日本国家のほうなのだ。 [#ここから1字下げ] 「父も理想に棲み、その理想も幾度か破れて、今は世にもあられぬ身なれども、当初よりの天然の誠にいたりては、終始一貫の積り、古今万国の道もこのほかにあらずと存候。真情を忘るべからず。忘るべきは真情にあらず……」 [#ここで字下げ終わり]  これは他家に嫁した娘に与えた手紙の一節で、一九〇三年(明治三十六年)ころのものと推定されている。つまり、彼が日本美術院の経営をすてて一年間インドを放浪し、東亜仏教大会を計画して失敗した翌年、そして『東洋の理想』がロンドンで出版されたころである。この心境は、どう割り引いてみても得意の人の姿ではない。彼は文明開化から追放された人なのである。『東洋の理想』を出版社に紹介したインド在住のイギリス婦人が、この本の序文で、「岡倉氏をある意味で氏の国のウィリアム・モリスであるというならば、日本美術院は一種の日本のマートン・アベイであると説明することも許されるかと思います」と紹介しているのは、その意味で適切である。 「アジアは一つ」——これは『東洋の理想』の書出しの一句である。この命題が、太平洋戦争の時代をふくめて、天心の思想の核心であることは、ほとんど疑う余地はない。これと補いあうものとして、『東洋の覚醒』には「ヨーロッパの光栄はアジアの屈辱」という文句もある。これも有名であるし、重要な命題である。両者をあわせると、アジアは屈辱において一つである、という第三の命題になる。それが天心の思想の核心部分であることはたしかだが、その解釈は多義的でありうる。『東洋の理想』の最初の節の全文はこうである。 [#ここから1字下げ] 「アジアは一つである。ヒマラヤ山脈は、二つの強大な文明、すなはち、孔子の共同社会主義をもつ中国文明とヴェーダーの個人主義をもつインド文明とを、両者をただ強調するだけのものとなつて、相分つてゐる。しかし、この雪をいただく障壁さへも、究極普遍的なるものを求める愛の広いひろがりを、一瞬たりとも断ち切ることはできないのである。そして、この愛こそは、すべてのアジア民族に共通の思想的遺伝であり、かれらをして世界のすべての大宗教を生み出すことを得させ、また、特殊に留意し、人生の目的ではなくして手段をさがし出すことを好む地中海やバルト海沿岸の諸民族からかれらを区別するところのものである。」 [#ここで字下げ終わり]  これだけでもわかるように、天心はアジアの名で愛または宗教を考えているのであって、武力を考えているのではない。武力は非アジアまたは反アジアである。次に、一つという判断は、事実でなくて要請である。一つで「あらねばならぬ」、もっと正確にいうと「にもかかわらず……あらねばならぬ」ということなのだ。  天心は、中国へは二回大旅行をしているが、その一回目の帰朝報告を見ると、南北の地域差がいかに大きいか、また、日本とはどんなにちがうか、むしろ中国は日本より西洋に近いことを強調している。アジア諸国は相互に文化がちがい、しかも相互に孤立している、というのが天心の現実認識である。にもかかわらず、アジアが一つでなければならぬのは、彼の信ずる普遍価値のためである。むろん、天心は武力を否定はしない。それは避くべからざる悪である。武力は、それを支配すべきものであって、支配されてはならぬものである。このような天心の思想は、ほとんどタゴールと軌を一にしている。  タゴールも天心も、ともに美の使徒であり、また、少数者が歴史をつくるという歴史観においても共通である。しかし一方は、解放運動につながり得たが、他方は民衆を発見できなかった。そして無残にも侵略思想の汚名をこうむった。じつは侵略への道は、天心ではなく、彼の反対者であった伊沢のコースが準備したのである。ここにいかんともしがたい歴史の逆説がある。  天心は晩年、ふたたび与えられた官職につくようになるが、このときは思想家としての彼の生命はおわっていたと私は思う。しかし『東洋の理想』の時代には、まだおわらなかった。彼はそこで、現実生活の逆境をテコにして真情を吐露した。つまり、はじめて真の意味の思想家になりえた。いいかえれば予言者になりえた。その予言はまだ謎のままである。  東京美術学校(いまの芸術大学美術学部)の前庭に、六角の堂があって、そこに実物倍大くらいの、みずから考案した王朝風の衣冠をつけた天心の像が安置されている。堂は五面があいて、背面だけに鏡板がはってある。その板に浮彫りの文字があって、謎の解かれる日を待っている—— Asia is One. [#ここから1字下げ]  略伝  一八六二年(文久二年)横浜で生れた。はじめの名は角蔵、のち覚三と改名し、天心と号した。弟に英語学者岡倉由三郎がいる。父はもと福井藩士であったが、当時、命によって藩籍を脱して横浜で貿易商を営んでいた。  十歳ころからヘボン塾で英語を学んだ。おくれて漢籍を学び、のち日本画も学んだ。一八八○年(明治十三年)東京大学を卒業して文学士となった。同級に井上哲次郎がいる。在学中から米人御雇教師フェノロサの通訳をつとめ、古美術行脚に同行し、その影響を受けた。卒業と同時に文部省にはいり、はじめ音楽取調掛であったが、まもなく図画取調掛に転じた。一八八六年(明治十九年)九月から一年間、フェノロサに同行して美術教育調査のためヨーロッパに赴き、帰って東京美術学校の設立に当った。  一八九〇年(明治二十三年)から八年間、美術学校長をつとめた。一八九八年(明治三十一年)排斥にあって職を退き、橋本雅邦、横山大観らと官学に対抗して日本美術院を創設した。一八九三年(明治二十六年)に中国、一九〇一年(明治三十四年)にインドに旅行し、一九〇四年(明治三十七年)以後はボストン美術館東洋部長を兼ねて、しばしば海外に滞在し、英文による著作をおこなった。一九一三年(大正二年)赤倉の山荘で病死。  参考文献 日本美術院編『天心全集』和装三冊(一九二二年、同院刊) 岡倉一雄編『岡倉天心全集』全五巻(一九三九年、六芸社) 岡倉一雄著『父天心』(一九三九年、聖文閣) 清見陸郎著『天心岡倉覚三』(一九四五年、筑摩書房) 宮川寅雄著『岡倉天心』(一九五六年、東京大学出版会) 橋川文三著『日本浪曼派批判序説』(一九六〇年、未来杜) 松本三之介「国民的使命感の歴史的変遷」(『近代日本思想史講座』第八巻、一九六一年、筑摩書房、所収) [#ここで字下げ終わり] [#1字下げ、折り返して2字下げ]※『朝日ジャーナル』(一九六二年五月二十七日号、朝日新聞社刊)に発表、『竹内好全集』第八巻に収録。 [#改ページ] [#見出し]  北一輝  北一輝は、再評価が必要な人というより、今日まだ評価がきまらない人、といった方がよい。花田清輝によれば、北はロマン主義者であり、ホームランと見まがう大ファウルをかっとばした男である(『政治的動物について』)。この警句は、久野収も「日本の超国家主義——昭和維新の思想」(鶴見俊輔との共著『現代日本の思想』の第四章)の末尾に引用して、共感を表明している。思想的にけっして右ではないこの二人が、そろって北に関心をよせているのを見ても、「魔王」(これはかつての盟友で、のちに立場の分かれた大川周明が北に献じたあだ名で、北自身もそれに満足していたという)の未知数ぶりがわかる。  普通には北は、二・二六事件の主謀者として知られている。彼の主著の一つである『日本改造法案大綱』は、青年将校の間でバイブルのようにして読まれたということである。久野収は日本版『わが闘争』にたとえる。たしかにそれは、一個人の著書という以上のものであり、日本ファシズムの経典として、左の日本共産党二七年テーゼおよび三二年テーゼに相対するものであった。  日本ファシズムの指導者は数少くないが、ともかく一つの理論体系をもち、その理論が現実にはたらきかけたという点では、北がほとんど唯一の例ではないかと思う。大川周明は学者だが、革命家としての器量が小さい。権藤成卿や井上日召には、権力奪取のプログラムがない。頭山満は単なるボスである。その他石原莞爾のような軍を背景にしたものから、安岡正篤のような口舌の徒にいたるまで、有象無象はたくさんいるが、理論創造の能力において北に匹敵するものは、ほとんど一人もいないのである。まことに北一輝こそは、その名に恥じぬ正銘のファシストであった。  しかも、共産党の綱領はコミンテルンから頂戴したものだが、北の国家改造のプログラムは、彼一個の頭脳の産物であった。『日本改造法案大綱』は彼の最後の著書であり、その思想の到達点である。彼には主著が三つある。一九〇六年、二十三歳のとき書いた『国体論及び純正社会主義』と、一九一六年に書いた『支那革命外史』(出版は一九二一年)と、一九一九年に執筆した『日本改造法案大綱』とである。最後のものの公刊本(一九二三年)の凡例に彼は「日本改造法案の起草者は当然に革命的大帝国建設の一実行者たらざるを得ず。従て其れが左傾するにせよ右傾するにせよ前世紀的頭脳よりする是非善悪に対して応答を免除されんことを期す。恐らくは閑暇なし」(原カタカナ)と記しているが、そのとおり、彼はこの後は革命家としての実行に入る。実行といっても、彼の場合は、ほとんど法華経を誦しているのが主要な行事であったらしく、それによってカリスマ的妖気をただよわせるだけで、ほんとうの実行は西田税はじめ信者たちがやったのである。『日本改造法案大綱』を起草することで彼の仕事はおわったと北は考えていたのだろう。  三主著のうち、最初のものは千ページ余の大著で、五百部の自費出版である。「此書マルクスの資本論に及ばずと雖も、其他の平凡者流を抜くこと一頭地のみならず、之を日本語に葬りたる聊か勿体なきを感ぜざるを得ず」云々というのが福田徳三の評である。刊行後間もなく発禁になったので、いま見るのがきわめて困難である。ただ『国体論』の部分だけは戦後に再刊された。第二の『支那革命外史』は、何種類も刊本(ただし一章削除)があって、割に手に入りやすい。『日本改造法案』は、これも刊本はあるが、数が少くて手に入りにくい。ただ、研究書に田中惣五郎著『日本ファシズムの源流——北一輝の思想と生涯』という大著があって、著作の内容もこまかに紹介してあるから、参照に便利である。  日本ファシズムの流れをしらべる場合、北一輝は逸してならぬ人物だが、そうした歴史的意味を越えて、もっと重大な現在的意味を彼はもっている。その一つは、日本と中国との関係を考える上に、彼の行動と予見がどうしても必要なことである。おびただしい日本人の中国研究のなかで、彼の『支那革命外史』は抜群であり、それに代用できるものが他にないから、この本は一度はよんでおかねばならぬ。今日から見ると、彼の予見はほとんど全部まちがっている。まちがっていることが大切なのだ。現象を説明するのでなく、歴史を生きた記録だから、毛沢東でないかぎり、まちがうのが当然である。そのまちがいを通して、じつに無限の教訓をこの本は今日でも与えてくれる。北一流のパセチックな文体の抵抗を辛抱しきれる人なら、当らなかった予見の奥に一つの真理を発見するだろう。それは一口にいうと、日本と中国との運命的共同体の実感的把握ということである。北の予見は当らなかったが、それは今日いえることであって、仮りに十年か二十年後になってみれば、いまの日本人の中国観より北の方が正しくなるかもしれないのである。「太陽に向って矢を|番《つが》う者は、日本其者と雖も天の許さざるところなり」と北はこの本に書いている。私は戦争中、この|箴言《しんげん》を愛用した。だれが「天地の正義」にそむいたかは、最終的には歴史の完結するまではわからない。  第二に、北の果した思想的役割りを、イデオロギイだけで切ってしまうのでなくて、もっと本質的に考えてみなければならぬ。北が二・二六事件の主犯と目されたのは、直接に彼の思想と関係することではない。思想は作品によって見なければならぬ。銃殺の直前に、西田税が北に、われわれも天皇陛下万歳を唱えましょうか、と問うたら、その必要はないでしょう、と北は答えたそうである。この話は立野信之の『叛乱』にも出ている。彼は終始一貫、天皇機関説の信奉者であり、天皇教に転向はしなかった。国体明徴運動などは唾棄したにちがいない。穂積八束や有賀長雄ら御用学者を痛罵した『国体論』の著者の、節操ばかりでなく思想内容を、たとえ方便のためでも天皇に|叩頭《こうとう》した便乗左翼の下におくことはできない。今日の問題である転向問題を考える上にも、北は忘れてならぬ人物である。  北一輝の思想的役割りについては、久野収の見方が参考になる。というより、今後の研究の出発点とすべきであろう。 [#ここから1字下げ] 「社会主義を日本で生かすためには、外国の社会主義の直訳や直輸入にたよっていては、ダメだ。これが、北の発想の第一の特色であった。そこから、社会主義を日本のナショナリズムにどうむすびつけるかの問題が出てくる。」 「同時に、社会主義が日本で生きるためには、日本のナショナリズムの表現様式そのものに根本的改革をくわえなければならぬ。これが、北の発想の第二の特色であった。そこから、伊藤のたてた、天皇の国民、天皇の日本というシステムと、その顕教である国体論を、どうあつかうかの問題が出てくる。」 [#ここで字下げ終わり]  彼の考えた社会主義の内容(国内的には民主化の推進、対外的には資源の平等化)とその実現方法(クーデターによる軍事独裁)は『日本改造法案大綱』に述べられているが、いまは詳しく触れない。ただ、その内容が幼稚だという予想される批判にたいしては答えておきたい。いかにも北のプランは幼稚である。だが幼稚であればこそ実行されたのである。少くとも実行のくわだてがなされたのである。もし北が、彼の唾棄する「翻訳蚊士」たることに甘んじたら、もっと幼稚でない文章が書けたかも知れないのである。その代り共産党のテーゼのように実行はされなかったろう。また、実行の結果がみじめな茶番におわったことについても、弁明しておかねばならぬ。茶番を演じたのは軍部であるか、財閥であるか、誰であるかはわからぬが、少くとも北自身ではなかった。北はなんといっても悲劇の人物である。彼は「オゴタイ汗」にはなりそこねたが、「愚人島」に住む「万世一系の鉄槌に頭蓋骨を打撲せられたる白痴の日本国民」からは脱却していた。かりに、もし共産党のテーゼが実行に移されたとした場合、それが『日本改造法案』以上にみじめな茶番におわらぬという保証はどこにもないのである。  私は、無能な社会主義者よりは有能なファシストを遺産としてもつことを誇りたく思う。弱い味方よりは強い敵が頼りになるものだ。  右翼と左翼は、平行線の交らぬものではない。右と左はしばしばぶつかり、しばしば方向が逆になる。私は、北一輝はイデオロギイ的には最右翼だと思うが、元内務省警保局員三田村武夫の目から見ると左翼である。「共産主義者が戦争誘発を企つべきことは彼等がその主義に忠なる限り当然為すべきことの一つであろうとは存じますが、その確証と見るべきものは存じませんでした。御新著の着眼の一点は※[#「玄+玄」、unicode7386]に存するものの如く……ドイツその他の国にでも、日本でも、嘗てナチ、ファッショ運動に狂奔したものが、今日赤旗を担い歩く事実は最も顕著であり……」という小泉信三の「書評」を付載した三田村の『戦争と共産主義』という本にこうある。 [#ここから1字下げ] 「北は中国第一革命の嵐の中に立ち、亜細亜革命の構想をねったが、彼が培ったその思想内容には、レーニンのロシア革命に学んだところ頗る多いことを注意する必要がある。彼はその著日本改造法案大綱の中にも、レーニンの革命を引用して、クーデターを肯定しており、その思想は明らかに国際的現状支配勢力の打倒、反資本主義革命の内容を持ったものである。」 [#ここで字下げ終わり]  これは竹山道雄が『昭和の精神史』に引用している戦争中の近衛文麿の「之を右翼と云うも可、左翼と云うも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり」という「高松宮への上奏文」とまったくおなじであって、そこには半面の真理がふくまれている。近衛といい、三田村といい、またそれに共感する竹山といい、小泉といい、その恐怖感は日本の思想の根本悪の所在を示している。左右を問わず、この悪に対抗できる思想だけを私は思想と考えたい。たとえば次のごとし。 [#ここから1字下げ] 「思想は進歩するなんど云う遁辞を以て五年十年、甚しきは一年半年に於て自己を打消して|恬然《てんぜん》恥なき如きは——政治家や思想家や教師や文章家は其れでも宜ろしいが——革命者として時代を区劃し、幾百年の信念と制度とを一変すべき使命に於て生れたる者の許すべきことではない。」(『日本改造法案大綱』「第三回の公刊頒布に際して告ぐ」) [#ここで字下げ終わり] [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『講座現代倫理』第六巻「過去につながる習俗と倫理」(一九五八年六月、筑摩書房刊)に発表、『竹内好全集』第八巻に収録。 [#改ページ] [#見出し]  中江丑吉著『中国古代政治思想』  学術書、しかも高度の学的緻密さをもった専門書を、専門外の立場から批評することは、危険である。しかし一方からいえば、その危険を冒してまでも、批評——というより、勝手な感想を述べたくなるような、一般的問題性を含む書物でなければ、学術書としても価値が低い、ということも成り立つかもしれない。高い峰が、あらゆる方向から、それぞれの形で眺められるように、ある学問が個別科学に徹底すればするほど、その学問は個別性を越えて、真理追求の人間的情熱の普遍性のために、より深い感動を読者に与えるのが普通である。本書は、そうした種類の書物のひとつである。  中江丑吉の名を私がはじめて知ったのは、鈴江言一(王枢之)の『孫文伝』(一九三一年、近く岩波書店から再刊される)の巻末の引用書目に『支那古代政治思想史』と『支那の封建制度に就いて』が挙げられているのを見たときである。当時、これらの書物を探したが、手に入らなかった。間もなく私は、著者が中江兆民の息子で、北京にかくれて研究に専念している人であること、それらの書物は、ごく少部数の限定自費出版であることがわかり、探訪をあきらめた。今度の公刊まで二十年間、私はその名前だけを知ってついに実物を見る機会がなかった。  そのころから私は、著者の学問の内容に関してよりも、その人間に心をひかれた。今日でもそのことは変らない。中江丑吉は、私にとって、伝説的人物であった。兆民の息子であるとか、西園寺公望から生活費が出ているとか、曹汝霖と親交があるとか、片山潜や佐野学とも往来があるらしいとか、それから日常生活の奇癖や、その人間ぎらいを、多くの人から伝聞して、私は勝手にその人柄を空想した。専門の「支那学」者が舌を巻くほどの学殖の持主だときかされても、私は驚かなかった。かえって、その気骨ある徹底した反アカデミズムの態度に共感し、ひそかに尊敬し、そのような人を民間の篤学者あつかいする「支那学」者を軽蔑した。伝説に包まれた、無気味な怪物のように周囲から思われていること自体が、じつは反俗的にしか表現されない人間性の豊かさを立証するものだと信じた。ただ、そうした人間が、冷徹な学問に魂をこめるようになる心的経緯について、パトスの根元について、私には疑問があった。今度の全著作の公刊は、中江丑吉という人間を解く手がかりの最大の材料を与えるだろうと私は期待した。そして私の期待は、半ば以上裏切られなかった。  この書物を通じて、第一に感じられることは、体系への志向の激しい気魄である。私のような気の弱いものには、目くるめくほどの雄大な夢を、築いてはこわし、築いてはこわしている一人の人間の孤独さが行間ににじみ出ている。それはほとんど憑かれた人の姿である。この気魄こそ、これまでの日本の学問、とくに中国関係の学問に欠けたものであって、それにくらべれば、驚くべき博引さえも物の数でない。したがって、著者の学問が永久の未完成に終ることも、日本の学界に容れられなかった(みずから拒否することによってであるが)ことも、避けられぬ運命であったと見るほかない。  著者の意図したものは、伝説時代から歴史時代へかけての、古代中国の政治思想を、人類の全生活史中において位置づけて再構成することである。あらゆる前提を退けて、自己完結的な、したがって現実的な、ひとつの世界を築くことであった。著者はこのミクロコスモスに一切を賭けた。この態度は科学者的であり、したがって著者は本質的に一個の哲人である。非凡な精神力と、不屈の闘魂がそれ(自己自身との精神の内部挌闘)を支えており、どんな局部的な問題の処理にもこの科学的方法が貫かれている。おそらく『古代政治思想史』にしても『封建制度に就いて』にしても、今日では、考古学その他関係諸学の進歩と、および問題の所在の歴史的推移によって、著者の血のにじむような苦心も、結果としては利用価値の乏しいものになっているように思われるが、それはこの書物の古典的価値を否定するものではない。むしろ、日本の学問の祖述主義、権威主義にたいして、今日でも対照的な利用価値をそなえている。  このような著者の学問の無償性は、一方の極に、激しい現代批判の情熱をおいて見なければ理解されない。ところが、この理解の手がかりになる材料は、まだ十分な形では公刊されていない。もっとも、皆無ではなく、松方三郎「中江丑吉のこと」(『世界』四六年十月)と併せて公表された四通の若い友人にあてた手紙や、伊藤武雄「北京の科学者中江丑吉」(『中国研究』十二号、近刊、これは今日までにもっとも詳しい紹介である)に附された戦争中の手記(へーゲルの『フェノメノロギイ』の余白に記されたもの)は、各論文の序文とともに、著者の現実生活への問題意識の強烈さを、ある程度は伝えている。ただ、著者の精神史の転回点をなす伝記的事実(みずから「放蕩無頼」とよんでいる前半生)が解かれていないのは、その学問を人間的根底から理解しようとする上での難関である。たとえば「求学者は求道者なり」(前記手紙)という信念の形成過程を知るだけにも、既有の材料は極めて不十分だ。  著者の思想の中核は、おそらくへーゲル=マルクス的な世界史の理念であり、したがって理性の遍在を著者は疑わなかったと思われる。しかし、そうかといって、かれはへーゲリアンでもマルクシストでもない。かれの目指したものは、あくまでかれ自身の体系であり、その不可能を知りつつそれに挑んだ。そこで、このような独創家は、俗人からは夢想家に見え、かれ自身は、思想上のデモクラートと学問生活における価値観上のアリストクラートが対立することになる。このような悲劇的な人格は、やはり近代日本の後進性がうんだ悲劇の反映であるだろう。私は、機会があったら、この点から中江丑吉を研究したいと思っている。かれは、北一輝とならんで私には興味をそそる第一流の人物である。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『図書』(一九五〇年二月号、岩波書店刊)に発表、『竹内好全集』第四巻に収録。 [#改ページ] [#見出し]  わが石橋発見  他動的にすすめられて、全集の一部に目を通すことによって、ようやく自分の偏見に気がついたところである。改めて勉強のやり直しをせねばなるまい。それほど今度の発見は私にとって一種の衝撃だった。  ソビエトとの戦争終結に成功した鳩山内閣が退いて石橋内閣がうまれたとき、今度こそ中国との講和だという気運がみなぎったことを記憶している人は多いはずである。首相がそれを政策にかかげただけでなしに、世間もそれを承認した。だから、石橋さんが病気になって、内閣が短命におわったとき、むろん、惜しむ声も高かった。しかし、まさかこれが中国との国交回復の唯一の機会として過ぎ去ろうとは、当時はほとんど誰ひとり予想できなかったのではあるまいか。  私だってご多分にもれない。残念ではあるが、いずれまた次の機会がおとずれるだろうとかるく考えていた。後継内閣の首班が、組閣劈頭、中国との国交はいそがない、と言明したときでさえ、それが永遠に敵対関係をつづけるという意志表示であることを読み切れなかった。かえりみて、まことに痛恨の至りである。  年がたつにつれてますます石橋内閣の早期退陣が惜しまれるようになった。  そうはいっても、中国との国交回復が、新内閣の思いつきの看板のぬりかえ以上のものであること、すなわち、石橋さんの思想の深いところから発する政治的信念であることに、当時はまったく気がつかなかった。たいへん軽率であり、無知であり、学者として恥しいことである。  『石橋湛山全集』を読むまで、私は、中国のナショナリズムを同時代に理解できる日本人は一人もいなかったのではないか、と疑っていた。中国のナショナリズムを理解できる資格とは、自身が開かれたナショナリストであることだが、見わたしたところ、左右をふくめて、そんな人はいるはずがない、というのが私の独断だった。やはりコミンテルン支配下の日本左翼から若いころに植えつけられた偏見を自分が脱し切れていなかったことにいま思い当たる。  たとえば、いわゆる二十一条要求である。中国のナショナリズムが決定的に日本とクロスする発端になったのがこの事件である。それを解説して、石橋さんの「所謂対支二十一個条要求の歴史と将来」(全集第四巻)ほどに懇切丁寧、委曲をつくした文章を私はこれまで見たことがない。私は自分の編集している雑誌で、過去にこの問題をあつかったことがあるが、そのときは残念ながらこの論文の存在を知らなかった。もし知っていたら、まったくちがった編集になったろう。  この文の最後にいう。 「互に尊敬してこそ、初めて真の親善はある。而して|苟《いやしく》も支那国民を尊敬すると云うならば、かの二十一個条要求の如きは、勿論提出すべき性質のものではなく、又若し誤って過去の為政者が提出したりしとせば、其誤りを知ると同時に、直ちに撤回すべきものである。旅順大連或は南満安奉両鉄道の如きは、速に棄てよ、而して支那国民を真に我友たらしめよ。之国策の第一だ。」  この文の書かれたのは一九二三年だが、五十年後のいまも古びていない。  二十一条ばかりでなく、西原借款にせよ、シベリア出兵にせよ、田中外交にせよ、日中間の重要問題のほとんどすべてに、石橋さんは適切な発言をしている。適切というのは、原理は一貫しながら、その時に応じて状況的に変る発言ということである。むろん、満州事変以後、言論の抑圧がきびしくなってからは、ずいぶん不自由されたにちがいない。この部分はまだ目を通していないが、想像でいえば、たぶん変節はないだろう。ただ表現は婉曲になっているにちがいない。その部分をはやく読みたい。  文章の点でも、石橋さんは操觚者として一流の人物ではないかと思う。  石橋さんはほとんど『東洋経済新報』に立てこもっていた。そのため私などの若輩には目がとどかなかったのだろう。日中戦争から太平洋戦争にかけて、私が愛読したのは『エコノミスト』と『東大新聞』だった。もう少し手を伸ばせばそこに『東洋経済新報』があったのに、つい気がつかなかった。  日本のリベラル、またはリベラル左派に対する私の偏見は、コミンテルン日本支部に由来するだけでなしに、総じてリベラルというものが西欧派によって独占されている日本の現状にも由来するように思う。自由主義者は非土着的で、バタ臭い。たしかにこれは偏見だ。しかし、ある意味では無理からぬ偏見でもある。  そのために石橋さんが、私には型破りに見える。こういうタイプが存在しうることを予想しなかった。自由主義者にしてアジア主義者、それは私が多年さがし求めて、ほとんどあきらめていた類型であった。  もう十年近くなるが、筑摩の『現代日本思想大系』の一冊として「アジア主義」の巻を編むとき、自分ではずいぶん念入りに探したつもりなのである。ここでどうしても自由主義の立場から植民地主義に反対した思想家を一人加えたかった。たとえば、もし「満州国」を認めるなら論理必然で朝鮮の独立をセットにすべきであり、かつ、そういう発言のできるものは自由主義者のほかにいるはずがないからである。私の探索は失敗し、私は、日本のリベラルはやはりだらしがないという偏見をいっそう強めた。じつは、だらしのないのは目のゆきとどかぬ私のほうだった。  石橋さんこそ中国との交渉に当たりうる最有資格者だ、といま私は信じる。  一九三一年四月、浜口内閣の総辞職に際して石橋さんはこう書いている。 「浜口首相の遭難後、首相は意識を回復せられた際に、辞意を決し、辞表を捧呈すべきであった。然るに、之を為さず、偸安姑息を貧った為に、遂に、この大国難の際に、我政界を爾来見る如き無道、無議会の状態に陥れた。其の第一責任者は、何と云っても、遭難直後に於て、挙措を誤った浜口首相に帰せねばならぬ。浜口氏の遭難は同情に堪えぬが、氏の我国を無道、無議会に陥れた罪悪に至ては、死後尚お|鞭《むちう》たるべき罪悪と云わねばなるまい。」(「近来の世相ただ事ならず」全集第八巻)  石橋さんは、この論理を自分に適用して辞職されたわけだ。人を裁く人は多いが、おなじ論理で自分を裁く人は少ない。これぞ言行一致であり、節を守るとはこのことである。お蔭で中国との国交回復は無期延期になってしまったが、その代り、「我国を無道」から救うための先例は作られた。私は後者を、より重しと考える。今日、ことに重しと考える。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『石橋湛山全集』第八巻月報(一九七一年十月、東洋経済新報社刊)に発表、『竹内好全集』第八巻に収録。 [#改ページ] [#見出し]  大川周明のアジア研究  私はアジア経済研究所が出している季刊の英文雑誌に、アジア関係の日本人の評伝シリーズの一篇として大川周明について書く約束がしてあるのです。その約束をしたのは、ずいぶん前のことなんですが、どうも書けなくて、何回も〆切りを延ばしてもらってもまだ書けない。まことに申しわけない次第です。それで今回は、そのお詫びを兼ねて、一つにはトレーニングのつもりで、私の考えをお話しして、皆さんから意見をうかがって、それを参考にして約束を果したいという、まことに虫のよい希望があって出てまいりました。大川周明というのは、かなり重要な人物だと思うのです。いわゆる右翼思想家と一括されているなかでも、ちょっと特異な場所を占めていて、十分に研究の必要があると思うんですが、どうも大川は人気がないんですね。一時は大川と並び称された北一輝のほうは、戦後もかなり人気があって、たくさん研究家が出ましたけれども、それにひきかえ大川のほうは、さっぱり研究者がおりません。どなたかやって下さるといいんですがね。私なんかもう、研究能力が非常に衰えております。学問の世界から身を退こうと思っているくらいなんです。手持ちの材料はお譲りしますから、ぜひやっていただきたい。  最初に、なぜ大川周明を問題にするかという点で私の考えを申しあげて、次に簡単な伝記、それから大川の思想の構造と申しますか、核心部分が何かということ、そして最後に、いま摂取すべきものがあるとすれば何か、もし摂取すべきものがないならばそれでもよろしいんですが、かりにあるとすればそれは何かについて感想を申しあげようと思います。ただし、その順序どおりに話が運ぶかどうかはわかりません。私の話はよく途中で脱線しますので、そうなりましたらご勘弁願います。遺漏の部分は、あとの討論のなかで埋めさせて頂きます。  最初に、私的な回想にわたりますが、戦争中にどういう因縁で大川を知るようになったか、その事情を申しあげます。といっても直接会ったのは、会合の席で一回だけなんですが、すでにその前から著書には親しんでおりましたので、顔を見たのは一回だけですが、それ以上の親近感が私のほうにはありました。そのころ私は回教圏研究所というところにいたのです。これは最初はトルコ学者の大久保幸次さんが個人でつくったのですが、戦争中にイスラム研究の機運がたかまって、そのせいで元トルコ大使をつとめた徳川家正さんの後援で法人化し、十人ほどの研究員をかかえる世帯に成長しておりました。私は昭和十四年の秋に北京留学から帰りまして、定職がなかったものですから、友人にすすめられて、イスラム研究のなかでの中国部門を担当するために入所しました。私は正規の就職はこれがはじめてなんです。それまでイスラムについてはまったく無智でしたが、この研究所にはいったお蔭でいくらか勉強することができました。実物の大川と会えたのもその縁からであります。  当時はイスラム関係の団体というか、研究をやり雑誌を出しているところが三つありました。一つは回教圏研究所で、その機関誌は『回教圏』でしたが、べつに大日本回教協会というのがあって、ここにはイスラムに関係のある大陸浪人がたむろしていて、一種の教化団体なのですが、ここからは『回教世界』という雑誌が出ていました。もう一つ、外務省に本拠をおくグループがあって、『回教事情』という、これは季刊ですが、研究雑誌が出ておりました。そのほかに蒙古研究所というのもあって、ここでもイスラムに関係のある研究をやっておりました。この蒙古研究所は善隣協会の経営でありまして、回教圏研究所ものちにこの傘下に吸収されます。  大川周明は、これらの機関のどれにも所属しておりませんが、当時すでにイスラム研究の分野でも大先輩として一目おかれる位置にあったと思います。かれは申すまでもなく一貫して東亜経済調査局の所属でありまして、はじめ満鉄の社員として入所し、調査局が満鉄から独立したあと理事長となり、ながくその地位におりました。この東亜経済調査局というのは、東アジアの主として政治経済事情の調査研究をやるところで、独立した調査機関として科学的な方法で資料を集め、それを整理するという任務の点で日本で最初のものだという説明が鶴見祐輔の『後藤新平伝』に書かれております。そのためそこで出す資料集や報告はきわめて権威がありました。私が大学を出たのは昭和九年でありますが、できたらそんな研究所に入って勉強したいと思ったものです。この就職計画は実現しませんでしたが、私は東亜会の会員になって、そこから出ている『東亜』という月刊誌や、そのほか随時出される刊行物を愛読しておりました。ひとつには、プロ科系統の研究がだんだん弾圧される時代だったので、左翼の情報源としてほかに代替物がなくなったことも理由であります。たとえば調査局はマル秘で『支那ソヴェトの研究』といった本も出しておりまして、これなどはとてもほかでは見られないものであります。江西ソヴェトに関する知識の渇をいやしてくれたこと多大であります。  大川周明の名は、それ以前から知っていたはずですが、本はあまり読んでいなかった。右翼陣営の重鎮ということで、毛ぎらいしていたように思います。大川が世間的に有名になるのは五・一五事件に連座してからですが、有名になればなるだけ、本を読む気がしなくなった。私は中国への関心から、東亜経済調査局の刊行物は愛読したが、大川そのものには関心がなかったのです。かれが学者であることを知らなかった。単なるボスと思いちがえていた。たとえば『日本文明史』これは大川の傑作の一つであって、のちに書きかえた『二千六百年史』などよりずっと戦闘的で、はるかによいと思うのですが、それを読んだのは、イスラムへの関心がおこって、その関係で大川に注目するようになったあとのことであります。  ですから私は大川について完全に無智のままイスラム研究にとび込んだわけであります。やってみますと、どうしても大川にぶつかるわけです。いろんな人が本を書いたり、論文を発表したりしているが、どれも思想的に低調であって、心の琴線にふれてこない。そのもどかしさの中で大川を発見したのであります。私たちのボスの大久保幸次さんは、どちらかというと詩人タイプの人で、情操はゆたかだけれど論理の骨組みは太くない。大川はそれとまったく反対のタイプなので、二人はあまり仲よくなかったけれども、私は両方ともすきでした。  イスラムに関する大川の代表作は『回教概論』です。この本は昭和十七年の出版ですが、この本が出たときはびっくりしました。じつに要領よく、基礎知識が一冊にまとめてあるのですね。アラビアの風土からはじまって、マホメットの伝記、コーランとハディス(聖伝)それから信仰の内容と儀礼、教団の歴史があり、最後に回教法学でしめくくってあります。そのころは一種の流行現象で、いろんな本が出ましたけれども、この本に比肩するようなものは一つもありませんでした。これだけ的確な概説書の書ける人はよほどの学者だと改めて感心しました。イスラムの概説書でこの本の右に出るものは、当時もそれ以後もなかったのではないかと思います。読み返してはいませんが、いまでもこの本は役に立つのではないでしょうか。  大川はかなり早い時期からイスラムに興味をもっていたようです。早いといっても、むろん儒仏神よりはおそいわけです。大川の思想歴または学習歴のことはあとで申しあげますが、ともかく満鉄に入社する以前、まだ浪人で東大の図書館に通っているころから、イスラム関係の本を読んでいたようです。有名な国学者でかつ歌人である沼波瓊音という人がおりますが、この人も当時東大の図書館に通っていて、いつも閉館までいる。のちに大川と沼波は一時親交を結びますが、当時はまだお互いが何者であるか知らないわけです。その沼波がよんだ歌があります。「病みぬれば図書館恋し、マホメット研究者なる鼻高男も」というのです。満鉄入社は大正七年ですから、かれが最初にイスラム研究に熱中したのはそれ以前ということになります。  極東軍事裁判を免訴になって、精神病院に収容されて、ある日ふと覚醒した大川は、それからコーランの翻訳をはじめます。以前に一部訳したことがあるが全訳ではありません。そのやり残した仕事を二年間かかって松沢病院でやりとげるわけです。三十五年かかって素志を貫徹したと大川自身が自伝に感懐をもらしております。そのほかに、晩年の仕事の一つとして、大部のマホメット伝の執筆もあります。コーランの翻訳は出版されましたが、マホメット伝のほうは生前には出版されず、全集にはじめて収録されました。大川がどんなに深くイスラムに打ち込んでいたか、この例だけでもわかると思います。  東亜経済調査局で『東亜』という月刊誌を出していたことは前に申しあげましたが、のちに『新亜細亜』という月刊誌を別に出すようになります。昭和十四年の八月号からですね。それに伴なって『東亜』のほうも純粋の調査報告のようなものに体裁が変って、この二本立てになるわけです。この時期に『新亜細亜』が創刊されたのは、もっぱら大川の提唱によるものだと思います。『東亜』にくらべると学術色がへって啓蒙色が強くなっていて、図版などもたくさん入れてあります。あつかう地域は東亜だけでなしにアジア全域に拡大しています。いってみれば大東亜共栄圏思想を先取りしたような、当時としては斬新なもので、私はこれも愛読しました。こうした先駆性が大川の身上だと思います。  大川の最大の事業が東亜経済調査局の運営だったと申してもさしつかえないでしょう。かれは一日を三分して、午前中は調査局の仕事をやり、午後は講義とか、これは拓殖大学のほかに、自分でつくった塾のようなものがあって、そこでも講義をやるわけです。そして夜は自分の仕事をやる。仕事というのは、講義案を作ったり、原稿を書いたりする。そういう生活だったようです。かれは研究者であると同時に天性の教育者だった。もし正規の大学のプロフェッサーだったら、たくさん弟子が育ったでしょうが、アカデミイから閉め出されたために、そうならなかった。これはある意味では日本の学問のために不幸なことです。  東亜経済調査局は敗戦によって閉鎖されました。これはまあ仕方ないでしょうが、それに伴なって厖大な蔵書がゆくえ不明になってしまった。雲散霧消なんです。関係者にきいても、誰もはっきりしたことを言ってくれません。じつに嘆かわしいことであります。アメリカの国会図書館に調査局の蔵書印の押してある本が見つかるそうですから、かなりの量がアメリカに流れたと推定されますが、どういういきさつで流れたのか、その事情は不明です。ぜひ関係者が生きているうちに調べて、真相を公表すべきだと思います。それをしないのは日本の学界の恥だと思います。おなじ満鉄系でも大連図書館とか、満鉄調査課のようなものは、中国側に接収されて、いま活用されているでしょうから、これはよろしいんです。そうでなくて、東亜経済調査局のように、雲散霧消で、真相不明のまま葬られてしまうのはよくないと思うのです。おなじ研究機関でも、政府のつくった東亜研究所のようなものは、ろくな蔵書もなかったし、ろくな研究業績もないんだから、これは大したことはない。しかし東亜経済調査局は、それとは比較にならぬくらい歴史も古いし、内容も充実している。正当に継承すべき遺産を豊富にもっている。このまま埋もれさせてしまってはならないと思うんです。それが戦後のどさくさにまぎれて、ゆくえ不明になって、追跡がなされないということは、残念でなりません。大川が右翼思想家であり、東亜経済調査局が侵略機関であったという理由、この理由も吟味を要すると思いますが、かりにその理由を認めたにせよ、それによって一切の業績を抹殺してしまう風潮は、真理追求の学問の立場からしてよろしくないと思います。  たとえばイスラム研究だけをとってみても、大川の業績は無視できないはずです。かれの『回教概論』は、純粋の学術論文であって、日本のイスラム研究の最高水準だと思います。日本帝国主義のアジア侵略と直接には何の関係もありません。ところが、戦後のアジア研究者で、これに言及した人は、私の知る範囲では一人もないんですね。たとえば飯塚浩二さんがそうです。上原専禄さんもそうです。上原さんには直接うかがったことがあるのです。上原さんは戦後にイスラム研究をなさっていらっしゃるので、大川のことをどうお考えですかとうかがったら、大川なんてのは知らん、とおっしゃるのです。大川周明という名を口にするのを潔しとしないというお気持かとは思いますが、いささか狭量という感じがしました。否定なら否定でよろしいんですが、少なくとも先人の業績として認めてだけはほしいんですがね。  話が前後して、継承すべき遺産は何かという結論部分を先にしゃべってしまいましたが、ここで前にもどって、大川の伝記、あるいは学問歴について簡単にふれておきます。大川の本質は学者ですから学問歴が伝記の主要な内容になるわけです。  大川は明治十九年のうまれです。死んだのが一九五六年ですから、満七十年の生涯です。出身地は山形県の酒田市の近郊で、家は代々の医者でした。藩医ではないが、名門です。かれは長男ですから、当然医業を継ぐべきはずなのに、それを継がなかった。その事情は説明されていないが、私の推定ではかれには若いころある種の使命感が萌していて、そのため家との衝突になったと思われます。かれは父親のことは書いていません。郷土の先覚者、たとえば清河八郎とか佐藤雄能といった人の伝記は書いているくせに、父親については口を緘している。そこに複雑な裏面事情のあることが推定されます。母親のことは書いているのです。晩年に書かれた『安楽の門』という、これは一種の精神的自伝でして、自分が感化を受けた人が列挙されております、たいへんおもしろい本ですが、そこでまっ先にとりあげられているのが母親です。宗教的帰依の対象として母親が選ばれている。これなども家庭事情についての暗示をふくんでおります。他人については、父親が帰依の対象になる場合があり得ることをかれは認めているのです。そのくせ自分の父親のことには一言も触れておりません。  中学は鶴岡市にある庄内中学です。高等学校は熊本の第五高等学校を選んでおります。そして大学は東京帝国大学の文学部です。だからかれは文学士ですが、のちに学位をとったのは法学博士号です。特許植民会杜の研究が論文で、吉野作造が推薦したという話です。中学のときは、家が遠いので、鶴岡市内の漢学者の家に寄宿しております。たぶん、かれの漢学の素養は、この時期に完成したと思われます。むろん、家が医者ですから、小さい時分から素読でたたき込まれたでしょうが、その仕上げは中学時代だったでしょう。なにしろ漢文はものすごく読めたらしい。熊本の五高では、漢文教師の代講をして、王陽明の『伝習録』を生徒に教えたそうです。『伝習録』というのは俗語まじりの、漢文としてはむつかしい本なのです。この話は大内兵衛さんからうかがいました。大内先生は大川より二年下です。ものすごく漢文のできるやつ、という印象だったそうです。もう一つ、ついでに申しあげますと、高等学校ではストライキの指導をやりました。原因は学校当局の採点の情実をあばいたもので、生徒側が全面勝利しました。これも大内先生にうかがった話です。  大川の教養の根幹にあるものは、漢学とくに宋代儒学だと私は思います。教養の根幹ばかりでなく、思想の核、あるいは思想のワクがそれで作られている感じです。ということは、経世済民と、形而上学への志向との合体ということであって、この両極分解が絶えずかれの内部にはたらいていたと推定されます。そのワク組みの上に西洋思想が肉づけされている。そのため、比喩的に申しますと、プラトンとアリストテレスが相互に抑止力となっているような感じがします。これが大川の思想構造の特徴なのではないか。大川は該博な知識の持ち主であり、私はまるきりその反対の性格ですから、あるいはこの理解は的はずれかもしれませんが、どうも私の直観ではそうなんです。この二重性に大川の秘密があるような感じがします。同時に、思想家としての大川の魅力のなさ、たしかに北一輝などとくらべますと魅力に乏しいのですが、その理由も一種の折衷性にかかっているように思うのです。あまりに漢学的教養によって浸透され過ぎている。そのため損をしているような気がします。  中学時代にもう一つ伝記上の特筆事項があります。それは天主教会に通ったことです。最初の目的は、フランス語を習うためだったらしいが、結果としてこれがキリスト教への開眼となりました。高等学校に熊本を選んだのも、家から遠く離れるという当然に予想される理由のほかに、熊本バンドへのあこがれがあったのかもしれません。まったくの当て推量ですが。  ついでに申しますと、かれは語学が非常によくできたようです。英独仏はむろん自由ですが、そのほかに、大学時代にはサンスクリットをやっております。とくに病気で一年休学したとき集中的にやったようです。それから、イスラム研究に志してからは、独学でアラビア語もある程度はこなしたようです。そのほか現代中国語も、話すことはともかく、読むぐらいはできたでしょう。ひとつ、おもしろいエピソードをご紹介しましょう。極東軍事裁判のA級戦犯被告になって、頭がおかしくなり、公判の席で東条の頭をたたいた話は有名ですが、そのあと病院に収容され、アメリカ人軍医に診察されます。そのときの診断書の一部が『安楽の門』に引用されています。The prisoner spoke English freely during all interviews. He seemed to enjoy his conversation with the examiner. His English vocabulary is excellent. He expressed himself well, frequently using descriptive similes and metaphors. このあとがおもしろい。His pronunciation is poor. というんです。この最後の部分は私にも当てはまります。しかしほかは全然当てはまりません。  大川に若いころ使命感が萌した、ということをさっき申しましたが、その内容は、人間の本性の探求といったものではなかったかと思います。この人間というのは、あくまで精神的なものです。精神において人間は人間である、という抜きがたい固定観念のようなものが大川には内在しています。精神とか、本然の性とかは大川の愛用語です。かれの上向性格のあらわれであるかもしれません。ですから、ここに家庭事情をからませますと、医術は単に肉体の病気をなおすだけの俗事だという判断が成立したとしても不思議ではないわけです。汚濁した肉すなわち俗を棄てて、できるだけ高貴につくという衝動が後半生のかれを支配しているように見えます。フロイト流に解釈すれば、父親憎悪がかれの思想を生み出したのかもしれません。  精神の最高表現形態が宗教である、ということから大川は学問の対象として宗教学を選びます。そして大学ではインド哲学を専攻するわけです。大川という人は、文章もそうだし、実物から受ける印象も、非常に理性の勝った冷い感じの人であって、宗教的情緒は稀薄なのですが、それだけに逆に宗教へのあこがれが強かったのかもしれません。したがって、かれのあこがれる宗教は、いわば普遍的宗教なのです。この辺がかれとイスラムとの結びつきを解く鍵かもしれません。大川の家は曹洞宗ですが、仏教の宗派についてはかれはほとんど無関心です。仏教なら仏教で、普遍仏教がかれの関心事です。晩年に書きかけて未完のままになった宗教論では、一節を設けて、般若心経の注釈をおこなっております。色即是空、空即是色が仏教の真髄であるという考えであります。  ご承知のように北一輝は、法華経の信者であって、中国革命に見棄てられて日本に帰ってからは、何もせずに法華経ばかり読んでいた。周囲に妖雲がたちこめて、かれ自身はカリスマ的性格を発揮するようになる。どうも実行者には日蓮宗が多い傾向があります。井上日召がそうですし、大川と同郷の石原莞爾もそうです。ところが大川はそうでない。かれは石原をある点で評価し、東亜連盟にも条件つきで賛成はしておりますが、なにしろ性格がまったくちがうので、北一輝におけると同様、石原に対しても無条件賛成ではなかったと思います。相互の相違を認めた上での連帯感であって、いわば君子の交わりを超えなかったでしょう。大川が冷酷な人物だと評されるのは、かれの合理主義が禍しているのであって、自分が何ものにも心酔しないし、人からも心酔されない性格に由来するものです。だからカリスマにはなれない。その代り学問の世界では業績を残しました。  大川は宗教者にはなれない性格だが、宗教学者として一流ではないかと思います。なにしろ自分で理性的に方針をきめて、その方針でまっしぐらに勉強したのですから、しかも自分流の整理の方法をはやくに体得しているのですから、古今東西の学説が自家薬籠中に収められている。概説書として、じつにわかりよい。少なくとも私などにはわかりよいのです。というのは、多くの概説書とちがって、大川のは受け売りでなくて整理されているからです。私など、カントもへーゲルもシュライエルマッヘルも知らないけれども、大川の本をよむと、なるほどと思うのです。知らないからそう思うのかもしれませんが、ともかく知識が身についている感じがして納得がいくのです。なぜそうなのか、ということは整理の方法の問題になるわけですが、範疇区分なり概念の把握なりに漢学の素養がきわめて巧みに利用されているからだと思います。たとえば天地人だとか、知情意だとか、そういった伝統的な思考のワクに当てはめて解釈されている。そのためどんなに博引旁証でも安心してつき合っていられるところがあります。こういう能力は、たぶん大川の時代が最後であって、しかも大川は同時代中きわだってその能力がすぐれていたのではないかと思います。  したがって大川の宗教観では、宗教は人間精神の発現の最高形態だといいながらも、かなり道徳と接近したとらえ方になります。むしろ道徳の究極にあるもの、したがって連続したもの、という匂いが強いのです。宗教が道徳と背馳するという考え方は排除されているように見えます。宗教を知的に認識しようとすれば、どうしてもこうなるものかどうか、その辺のことは私にはよくわかりませんが、ともかく宗教と道徳との間に断絶を認めたがらない、いいかえると人と神との間に断絶を認めたがらない傾向はたしかにあります。これは大川の天性にもよるし、同時にかれの教養の根幹になっている漢学、とくに宋学の一種の合理主義とも関係すると思います。宋学は、これを認識論としてみれば、老荘や仏教の非合理的なものを排除するのでなくて一切取り入れて合理づける認識の体系とも見られますから、ある意味では超越者が現世化されてしまいます。大川のような整理による体系づくりを志す人には利用価値があるわけです。  修身斉家治国平天下という成語がありますね。これは政治論でもあるし、道徳論でもあるが、同時に認識の順序を述べたものとも解釈できるのではないでしょうか。近くから遠きに及ぼすということです。少なくとも大川周明の思想形成の過程なり、到達点なりを見るには、そういう解釈が便利なようです。宋学は一切のものを現世化すると同時に、諸価値を相互関連のもとに秩序づけているわけですが、大川の作業がまさにそうなのです。近くから遠くへです。さっき信仰の対象が、母親からはじまって次第に拡大される自伝の書きぶりを紹介しましたが、これは宗教——あるいは宗教心といったほうがよいかもしれないが、宗教の本質は感情だとする大川からすると両者はほとんど同義になります——ばかりでなく、一切の認識——宗教も認識の一形式とみて——に当てはまることであります。私はかねて、大川のような合理主義者がどうして日本主義——かれ自身は日本精神と申します——のとりこになったのか疑問でならなかったし、いまでも疑問がなくなったわけではないが、この宋学的認識論と秩序尊重とを援用すれば、あるいは解釈できるのではないかと思います。  話がすこし先に進みすぎました。もう一度伝記のところにもどって補足いたします。大川は大学で古代インド思想を勉強して、卒業論文には竜樹を選びました。竜樹はナーガールジュナの漢訳で、二世紀の人、大乗仏教の経典を結集した人だそうです。大川の説明によれば、キリスト教におけるアウグスチヌスに当る人だそうであります。この論文は見ることができません。ともかく、そのころの大川は、古代インドにあこがれ、自分も聖者のような生涯を送りたいと思って、就職もせずに毎日図書館に通って勉強をつづけていたわけであります。生活費は参謀本部のドイツ語の翻訳でまかなっていたそうです。  その大川に転機がおとずれましたのは、これは大川自身が何回も書いていることで、有名な話ですが、偶然、サー・ヘンリー・コットンの『ニュー・インディア』という本を手に入れて読んだことであります。この本は名著であって、何回も版を重ねており、日本でもかなり読まれたものです。イギリスの統治によってインド社会がどんなに悲惨になったか、その現状を告発した書物であります。この本によって大川は衝撃を受けます。聖者の国のイメージが崩れたわけです。これ以後、かれは古代インド思想の研究を棄てて、インドをふくめてのアジア諸地域の現状と、そこにおける独立運動と、あわせてヨーロッパ植民史の研究へと方向転換します。  このエピソードはじつにおもしろい。いかにも大川だという気がします。かれは行動者であるよりも認識者であり、むしろ徹底した書斎人である。その面目がじつによく出ております。かれは知力は抜群だが、その知力を用いる場所は、文字によって構築された二次的な世界を自分流に再構成することであって、混沌とした現実の直接観察から発想を引き出してくるのではないわけです。この特徴は、いろんな点で指摘できると思います。まさか大川だって現実のインドが聖者の国そのままだとは思わなかったでしょうが、ある種の想像力の欠如、または類推能力の不足があって、そのため観念に固執する自分を制禦できなかったのは確かでありましょう。かれの転向が、実地の見聞からおこったのでない点は重要であります。かれは肉眼よりも悟性のほうを信用するタイプの思想家です。そのために中国に関しては、何回も現地を視察しているくせに、国民革命の動向を見あやまる結果になったのだと思います。この点はまたあとで触れます。  研究生活に方向転換がおこっただけでなしに、実際生活の上でもある種の変化が生じます。たとえば亡命インド人を庇護したり、その関係から頭山満との接触がはじまったりします。フランス人で東方主義者であるポール・リシャールとの交際もこのころ偶然の機会からはじまって、かれはリシャールの詩や箴言を翻訳しております。また政治的な集会にも出るようになる。そしてその延長から北一輝との合作がおこり、五・一五事件にまき込まれるわけです。  時代がちょうど第一次大戦のころだということを念頭におく必要があります。インドで国民会議派の運動が活溌になるが、日本政府は日英同盟に忠実であって、独立運動をおさえるわけです。やがてロシアに革命がおこる。思想陣営なり社会運動なりに再編成が進行する。大逆事件で一度は壊滅した左翼が再出発すると同時に、それに見合って新右翼が形成される。そうした動揺の中で、いろんな思想家が、それぞれの個性に応じて、しかし一部は偶然が作用して、新たに編成された左右両翼に組み込まれてゆくわけで、大川も大川なりにこの波に乗ったわけであります。  実際運動家としての大川については、あまり申しあげることがありません。かれと満川亀太郎とが相談して、上海にいる北一輝を迎えて三人でつくったのが猶存社、間もなく北が脱退して、その後が行地社、行地社が解散したあと大川が単独につくったのが神武会で、この神武会の全国遊説の途上で大川は逮捕されますが、それきり神武会は解散してしまって、その後は一度も結社活動はしておりません。これらの結社はみな教化団体のようなもので、政治活動としては大したことはなかったのです。五・一五事件にしてからが、大川は実際には何もやっておりません。二・二六と同様、軍が責任を民間に押しつけたものと見られます。もっとも五・一五以前の未遂の三月事件と十月事件には、たしかに陰謀の会合に同席しておりますから、クーデターとまったく無関係とはいえませんが、少なくとも五・一五に関しては、むろん主犯ではないし、従犯であったかどうかも疑問であります。かりにこの一連の教化活動を政治運動と見るにせよ、本質が精神家である大川にとっては、本筋からの逸脱と考えたほうが当っていると思います。そしてその点が北一輝と本質的に相容れぬ点なのです。北は性格的に革命家タイプだが、大川は書斎人であります。  思想上の転機があったころ、あるいは時期をもう少しずらせて満鉄入杜のころとしてもよろしいですが、そのころまでに大川の思想は固まっていたと思います。かれの多彩な著作活動は、その思想の自己展開である。あるいは思想の証明のためであると考えられます。というのは、きわめて体系性があり、かつ均整がとれている。著作に関してはちっとも逸脱がない。それだけに、おもしろみがないといえばないわけです。たとえばアジア論についていうと、かれの主著は『復興亜細亜の諸問題』と『亜細亜建設者』でありましょうが、前者が総論、後者が各論という関係であって、前者についても巻頭の「革命欧羅巴と復興亜細亜」が総論であって、あとが地域別の各論です。チベット、シャム、インド、アフガニスタン、ペルシア、ロシア領のアジア地域、トルコ、エジプト、それにヨーロッパ内のイスラム地域という順になっています。一方、姉妹篇である『亜細亜建設者』であつかわれているのは、アラビアのイヴン・サウド、トルコのケマル、イランのパフラヴィ、インドのガンディとネルー、こういう人たちです。人間は精神において人間である、という大川の根本思想についてはさっき申しあげましたが、その系として、歴史は偉人によって代表されるという思想でありますから、当然こういう人たちが選ばれるわけであります。むろん、今日から見ればこの人選は古いかもしれないが、書かれた当時は斬新であり、適切であったわけです。民族運動を指導者を通して見るということは、それ自体として非難すべきことではないし、ケマルを除けば、ほかはすべて日本に紹介された最初期のものだと思います。  これと見合うものが、日本思想に関しては、『日本文明史』と『日本精神研究』であります。一方が総論、他方が各論という関係が同一であって、各論が偉人伝で代表されているのも同一です。その人選がまたおもしろい。『日本精神研究』にあつかわれているのは、横井小楠、佐藤信淵、これなどは当然でありましょうが、その次が石田梅巌というのはおもしろい。それから平野国臣、あとは宮本武蔵、織田信長、上杉謙信、源頼朝、こういうのが大川の選んだ典型人物なんですね。一風変った、独特の史眼だと思います。  私は『アジア主義』を編集したとき、大川については『安楽の門』から主要部分をぬき、そのほかに「革命欧羅巴と復興亜細亜」を採録しました。大川のアジア観を示す主要論文として、これが一番だと思ったからです。ヨーロッパに革命の波が高まっている。ヨーロッパは革命によっておびやかされている。それと見合う形で、アジアには復興の機運がみなぎっている。こういう見取り図なんですね。一九二〇年代はじめの見取り図としてはある意味で正確です。では、ここでアジアとよばれているのは何か、という問題ですが、むろんヨーロッパ近代によって植民地化された地域を指すわけですが、なぜ植民地化されたか、なぜ弱体になったかというと、アジアは本来、内的な自由、精神の自由という貴重な価値を生み出したにもかかわらず、それを外的な、社会生活において実現する努力を怠った、いわば組織化を怠った、そのためにヨーロッパに敗れたのだと見る。だからアジアにとって必要なのは怠惰から醒めて力の獲得に向うことである。それによって貴重な遺産を現実化して、ヨーロッパの衰弱を救うのがアジアの使命であるという主張であります。道徳的主体の確立をめざして奮闘努力せよ、ということであります。  このアジア観は、非常によく岡倉天心と似ております。大川は『日本文明史』の序文で、自分が影響を受けた思想家として、岡倉天心と北一輝の名をあげております。北に関しては、『支那革命外史』に見られる明治維新の解釈のことを指しているので、中国革命の解釈のことはふくんでいないと思われます。大川は中国革命にはほとんど関心がないのです。これが大川の最大の弱点だと私は思います。たぶん大川の考えでは、ボルシェヴィズムは本来にヨーロッパの属性だということになるでしょう。それは力としては認めるが、力は手段であって目的ではないわけです。アジアの特質はあくまで内的な自由にあり、その実現のために力が必要だという論理、これはまったく天心と同一であります。  ただし天心と大川とは、時期がちがいます。私は天心の先駆的役割りは大いに認めるのですが、日本が帝国主義の仲間入りをし、中国への侵略の方向を決定した大正以後の段階まで天心の論理をそのまま適用することには賛成でありません。大川は天心の論理を受けついだが、時勢を見ぬく明察は受けつがなかった。かれは中国革命を、孫文の革命から国民革命まで、すべて外来思想の付け焼刃という一面でしかとらえていません。デモクラシイもコミュニズムも西欧的なものであって、したがってアジア解放の手段ではなくて侵略または解体の手段である。そういうものを排斥しなければアジアの復興はできないと考えるわけです。これは全然まちがいだとはいえないまでも、一面的であることは否定できません。大川流のノミナリズムの弱点があらわれている。中国革命の底に流れる被圧迫大衆の願望には目がとどかないという弱点であります。  インドにおけると同様、中国についても大川は、理想化された中国、ということは儒教倫理、とくに宋学によって代表されるそれを指すわけでありますが、その観点から演繹して現実批判をおこなう傾向が強いのであります。理想型に対する偏差として現実を見る。そうしますと当然、一切の現実は混沌たる、汚濁にみちたものにならざるをえない。そうしてそれを改革すること、大川流にいうと本然の性にたちもどることがアジアの復興にただちにつながることになります。まことに現実遊離といえばそのとおりですが、これを大川だけの罪に帰するわけにはいきません。反対側の左翼の中国観だって、コミンテルンの教条をうのみにしている時代ですから、大川だけが現実遊離とは申せません。ただ大川は、無条件で日本の侵略を肯定することはなかった。この点はほかの多くの時局便乗型の思想家とはちがいます。日本国家が道義的主体性を確立すること、むろんこれは絶えざる過程としてしか実現しないことでありますが、その実現をめざす過程においてのみ、その条件づきで日本の指導性を認めております。かれの国家改造運動への参加はそのためだったし、満州事変を画策、あるいは少なくともその陰謀に反対しなかったのもそのためであります。一方でかれは、自分の主宰する東亜経済調査局なり満鉄なりに多くの左翼くずれの学者を採用しております。大川の庇護を受けたマルクス主義者はいまでも相当いるはずです。かれはロシア革命そのものも無条件で否定してはおりません。腐敗した国家を改造するという道義心の発露の点では認めております。ですから中国革命についても、もし同質性を発見できる条件があったら、かれの見方は変ったかもしれないが、当時はその条件がなかった。この点ではプロ科も満鉄も同罪であります。  ですから、日中戦争がはじまり、それが一路拡大してゆくとき、大川は非常に悩みました。大川の図式では、中国の民族復興と、そこにおける日本の道義主体としての参加とは一体でなければならないのに、事実は原理的な対立になった。ということは大川理論が破綻したわけです。その破綻を大川は暗黙に認めていると私は思います。かれは学者として、また思想家として、それだけの良心はありました。たとえば、日中戦争が太平洋戦争に拡大したあとでも、日中問題の解決と日米問題の解決とは論理的に区別しなければならぬという主張を変えていません。私が大川を買うのはこの点なのです。ずるずるべったりに時局に追従したり、既成事実をただ事後説明する論客が圧倒的多数である時代に、かれのように論理の一貫性を保った例は稀少であります。たといその判断がまちがっていたにせよ、そんなことをいえばほとんど全部がまちがっていたわけですから、大川だけを責めるわけにはいかない。左右をふくめてそんなことは到底問題にならないわけです。思想家としてはせめて論理の一貫性だけは失ってはならない。それだけは最低必要条件ですが、その条件を大川は満していると思います。  太平洋戦争の開始後、大川はラジオその他でさかんに講演をやり、矢つぎ早やに本を出しておりますが、これはみな啓蒙的なもので、たまたま時局がかれの予言どおりになったために売れっ子になっただけのことです。思想家としての創造性はこの時期にはなくなっていると思います。予言の的中というのは、かれの歴史認識のことであって、世界は東西の対抗をくり返すことによって自己展開され、終局の統一まで導かれるという一種の終末観が本来的に大川の内部にひそんでいて、日米戦争はその証明になるからであります。  東西対抗が歴史の原動力だという考え方がどのようにして大川に形成されたのか、よくわかりませんが、かなり早い時期に、何かの形で啓示があったのかもしれません。しかしそれを決定的にしたものは、ソロヴィヨフの影響だったろうと思います。ソロヴィヨフというのは十九世紀後半のロシアの神秘主義的な思想家であります。新プラトン派の祖述者といわれ、ドストエフスキイなんかに近い傾向の人です。たぶん大川は、西欧の思想家の中では、知識は別にして、思想的にはソロヴィヨフからいちばん多く影響を受けているようであります。かれが戦後に精神病から覚醒したとき、最初に手にしたのは『薄伽梵歌』すなわち「バガヴァッド・ギター」とソロヴィヨフの『善の弁証』という本だったそうであります。この二冊が枕頭の書だとかれは書いております。道徳論でもむろん影響を受けたかもしれないが、これはむしろ先に宋学があるので、ソロヴィヨフだけの影響ではないでしょう。ただ東西対抗史観については、かなりの部分をソロヴィヨフから借りているにちがいありません。東西対抗が歴史をうみ出す、あるいは文明をつくる、という根本史観でありまして、したがって文明の発祥はトロヤ戦争にあり、漸次拡大される。太平洋戦争はこうして合理化されるわけですが、それが弱点を伴なっていることは前に申しあげました。  ひるがえって、大川が終始イスラムに関心をもちつづけ、それが次第に深まっていった事情も、この歴史観との関係で説明するのがわかりよいかもしれません。と申しますのは、大川はイスラムの本質を「剣かコーランか」という一句に真髄があるというとらえ方をします。宗教と政治が一体であって、間髪を入れぬ、というわけです。しかもイスラムは、歴史事実としても、戦争を媒介にして東西を融合させるのに大きな要因となってきた宗教であります。超越的であってしかも現世的であり、活気にみちて、未来性がある。イスラムによる世界征服というヴィジョンが大川にはあるような気がします。 「剣かコーランか」という文句は、コーランには典拠がありません。あれはキリスト教の側で悪意にでっちあげたものだ、というのが多くのイスラム学者の解釈であって、最初に申しあげました大久保幸次さんなんか、しきりにそのことを力説しております。大久保さんによれば、イスラムもまた愛の宗教なのであります。力で改宗を強制したことはない、「剣かコーランか」なんてのは、とんでもない誤解だ、というのが大久保さんの口ぐせでした。どちらが正しいのか、私などにはよくわかりませんが、どちらにも一理あるような気がします。愛の宗教であるキリスト教だって一面では残虐性を伴なっているんですから、おなじ愛の宗教であるイスラムが戦闘性に富んでいたとしてもちっとも不思議ではありません。  大川が日本型ファシストの一典型である、ということは承認されてよいと思います。同時にかれが独立した思想家であることも認めねばななりません。つまり、体制としてのファシズムに便乗して言論を弄んだのではないということです。その証明は、かれのイスラムヘの傾倒からでも十分に与えられるでしょう。精神すなわち内的価値の最高表現形態としての宗教と、それを社会的に実現する手段である力すなわち政治との結合という一点においてイスラムをとらえる。それが大川にとって理想の形態であるから、かれはその探求のために全生命力を注ぎ込んだ。たとい現実のイスラム世界がどんなに汚濁にみちていようとも、そんなことはかれの学問は関知しない。かれは政策とは無縁の場所に立っているのだから。政治家、あるいは革命家としてはかれは失敗者あるが、かれの学問業績が今日なお生命があり、継承する意味があるのは、この学者としての節操がかかっているからであります。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『大川周明のアジア研究』(一九七〇年二月刊、アジア経済研究所所内資料)に発表、『竹内好全集』第八巻に収録。 [#改ページ] [#見出し] ㈽ [#見出し]  北京通信 [#小見出し]    一  十月十七日東京を発つ。名古屋、京都、大阪に立寄り、二十一日神戸出帆、天津に二泊、二十七日北京着、一昨々十一月六日ようやく住居を定めた。茫々として明け暮れ、未だに旅の心を釈き得ない。諸君に何を談ったらよいか。方々へ出さねばならぬ礼状やら何やらの細々した心遣いも今は気苦労である。はじめに見ききしたことは新しい刺激となって確かに僕の神経を震わせた。天津では各所爆撃の跡のまざまざした印象、中でも廃墟になった市政府の前の人馬行き交う熱閙のほとりに、小鳥の籠を抱いて日向ぼっこをしていた老人の姿は今に目に映る。白河は満々と岸をひたし、ジャンクというのであろうか、支那のだるま船が何百艘となく日の丸の小旗をかざしてもやっている。軍用トラックが警笛を鳴らして馳駆する毎に、人馬の群はさっと靡くのだ。叫喚と捲上る砂塵。そうした風景も何か心愉しむものがあったと今は反省する。一国を挙げて戦事に赴く秋の、これが現地というものであろうか。だが刺激は度重なると、甘美な夢を追うように疼みが忘れられて、いつか僕は僕の本心を失っていた。無数の印象の集積だけがあって、僕自身がないのだ。まことに阿呆な夢を見たものである。思想が生のまま実体となって躍動する天地に、五感を具えた人間の、これは愚劣とも見すぼらしともはや言葉はない。生地で通用するのは思想であって、皮を剥がれた人間ではないのだ。一所不住、旅を心とした昔人の構えは、僕ら口に不遜の品隲を弄ぶといえども、いつか己に還るものと悟れ。いまはただ心ゆくまで沈潜したい一心の外にはない。  ともあれ、ここに書き遺しておきたい一条は、塘沽駅頭、同人陣内宜男少尉と会遇の顛末である。僕らの長城丸は二十五日未明、星空の下に艨艟の影糢糊たる大沽沖に碇泊し、僕らはランチに乗換えて午近く塘沽へ上陸した。白河の河口は年々土砂のため浅くなる。塘沽へ上陸して、列車を待つ間、ふと立入った月台上に僕らは出逢ったのであった。はじめ僕は名を呼ばれ、握手をされてもまだ誰だか判らなかった。それほど常の陣内氏とは様変っていた。何よりも凛として元気であった。僕らは、事変後簇出したという日本人の飲食店の一つに立寄り、互に健康を祝してアサヒビールの盃を乾した。外は人馬の往来繁く、今日来て明日何処とも知れず去る人の群れ集う軍国の一聚落である。ゆくりなくも出逢えるものかなとこの時僕ははじめて感慨を催したのを憶えている。陣内氏と談った話をここに述べるのは煩わしい。僕は会について談り、戦争の話をきいた。僕が離京の前日、武田の出征を見送った一事が陣内氏を驚かせたことは勿論である。チキンライス四十銭、ぜんざい十五銭と書いた壁の貼紙を眺めて僕はいつか震災後の東京の街を連想していた。はじめて異郷にある佗しさを覚えたのもこの時であったかもしれない。  陣内氏と会ったのは小一時間である。僕らは塘沽駅頭で再び手を握って東西に別れた。いや陣内氏の軍用列車は東西さえ弁えなかったかもしれない。僕は内地の煙草と雑誌を贈り、名も勝利という正宗の二合壕を贈られた。塘沽からの沿線は、水に浸った高粱畑と楊柳の並木に隠顕するトラックの群が眼に止った。何処の駅も厳重に警められていた。これが会見の顛末である。最後に、陣内氏から托された、会を続けてもらいたいという伝言を忘れずここに書き止めておかなければならない。  北京の空気は少くも外見は平穏である。殊に天津を見た眼には、刺々しい苛立たしさがないだけでも助かる思いがした。交民巷のアカシヤの並木は生い茂り僅かに黄ばんでいる。今年は例年になく暖かで、北向きの僕の部屋も昨日まで火を焚かず過せた。街の風物が一として昔に変らぬように思えてならない。実際、車窓に北京の城壁が望まれると、多くの旅行者の洩す言葉ではあるが、慌ただしい旅の終りに近づく安堵と共に、言い知れぬ感慨に迫られるものだ。度々の戦火を免れたのもこの城市の人徳——一種の文化的伝統のお蔭であるかの如く北京人は誇る。もとより変化といえば、日本人の飲食店がむやみにふえ、あやしげな女たちが白昼横行する変化はあるだろう。旧く住み慣れた北京村の住人は、北京の堕落だと言って眉を顰める。必ずしもそうでなくはない。この人たちの心事は僕にも諒察が難くはない。だが、その裏には、新来者に対する蔑意と一種の優位感が隠されていることも想像される。昔の北京は良かった、という。だんだん悪くなる、という。如何ともなし難い自然に対する如くに呟くのだ。あたかも己の責任の外で何事かが行われているかのように。北京が人を懐古的にするのか、人が北京を懐古的にするのか知らない。旅をしてきた僕には、北京の街に、予想し得る何らの混乱もないのが物足りぬのだ。いや混乱はあったし、今もある筈である。本屋には現代文学ものは殆ど無くなったといっていい。三百の留学生の過半は今なお通訳のため前線へ出ている。その中には生死の定かならぬものさえ居るという。時たま通訳から帰ってきた留学生にきく話はここに記せぬほど生々しい。だが僕は北京へ来てから日毎に戦争に遠ざかる気がしてならない。これが現地というものであろうかと僕は屡々自問した。少くとも僕の逢った限りでは、現地の人々は、失われた文化の建設に対して、無気力といって悪ければ冷淡である。僕が私かに期待したものは、混乱の中に生れ出る荒々しい生気であった。思想と思想の相撃つ火花であった。戦争の伴う急激な文化の相剋、交流——一瞬にして成るであろう破壊から建設へのすさまじい奔流の胸打たれる光景であった。今それを何処に求めたらよいか。北京の文化は死んでいるか、少くとも秩序正しく安穏に眠っているとしか思われない。  もとより文化工作と呼ばれる機能がないではない。これについては詳しく書くのは憚られるし、また知るべくもないのだ。現に地方維持会の文化組には橋川時雄と武田煕の両氏が顧問に加っている。この諮問機関に教育総会というのがある。いずれも政権の帰趨を徐に待つ程度ではないかと思われる。北京、北平、清華、師範等の国立大学(これらは長沙と西安へ臨時開校の由新聞は伝えている)を除けば、諸学校もぼつぼつ開かれているらしい。日本に著名な学者では、北大の周、徐、傅と銭稲孫の外は殆ど南下してしまった。過半の学生を失った北京は、日曜の北海公園も閑寂としている。新聞はすべて改組され、『世界日報』、『晨報』、『華北日報』共に四頁の『同盟通信』で出ている。(天津では『益世報』はつぶれ、『大公報』は南遷、『庸報』は改組。)南方の刊行物は全くない。これらは内地で想像のつくことだから詳しく書くには及ぶまい。  僕の観察にして誤なければ、北京の人々は少なくともイデオロギイ的には甚だしく遅れている。尤も僕の逢ったのは主として留学生であるが、留学生はある意味では北京文化を、若くは北京に於る日本文化を代表すると見ていい。既に軍事行動があり、それに伴って政治の変革があるとすれば、好悪に関らずこの事実の認識の上には立たねばなるまい。余りにも泰平の感に打たれるのだ。人々は失われた文化を追惜することを知っている。また他の人々は、南方文化が駆逐されたことを北京文化のため喜ぶ。だが何処に純粋の北京文化なるものがあるというのだ。僕は今度の旅行で身にしみて感じたのは、文化の政治と分ち難い一事である。僕は来る途々、たとえていえば路傍の一木一草にも政治を感じた。日本のような機構の複雑化した、それだけ擬制の多いところから、事実上の軍政の地へ来てみると、この印象はまことに歴々としている。軍事と政治と文化とは、あたかも一本の触手の如く動いているのだ。何故もっと基礎的な勉強をしておかなかったかと悔まれる。複雑な現象を処理するのは一の人間的な能力であろう。孤立した学問の権威が痛快に失墜せしめられるのはこの種の時代である。人間的な能力、或は基本的な認識というものに欠ける淋しさはまことに堪え難いものである。このことはどうか銘記して頂きたい。僕はいま北京の人々に失望しても、本来の中国文化には失望していないつもりである。たとえば、僕の会った中で、周作人などからは際立った印象を受けた。いま周作人のことを書くのは気が進まない。すべては若い世代のためである。今さら既往を悔いたところで仕方ないではないか。僕らのやってきた仕事は、この地にさえ、少くともイデオロギイ的には、なにがしの果を結びかけていると思える。努力は無駄に費されていない。どうか根強く頑張って頂きたい。僕もこの地になすべき仕事の端緒を得つつある。幸に健康もまだ害わぬ。  たとえば事変後の日本人の発展とか、日本語の普及とかいう題目は諸君の興味を牽かれるところかもしれない。しかし僕は、どうも巧な語り手ではないようだ。日本人、殊に娘子軍の進出は目ざましい。毎日何十人となく入り来り、ある者は留り、ある者は更に前進する。また車輓きは「洋車行こう」とか「洋車帰ろう」とか喚く。(これは兵隊言葉だそうである。)東安市場の売子どもはいとも熱心に会話の実地練習をやってのける。甚だしきは前門外の何々班の姑娘たちさえ「あのねえ」といった片言を使う。これがまたいわゆる北京人士の癇にさわるとみえて、「※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]是中国人※[#「口+阿 」、unicode554a]、中国人説…」などと応酬する。日本語学校の看板は到るところに見る。中国口韻と称する薄ぺらな自習書が路傍に幾種類となく鬻がれ、銅子児二、三枚で買われてゆく。この中から二、三例を挙げてみると、※[#「にんべん+尓」、unicode4f60](|安那大《アナタ》)、我(|瓦大古十《ワタクシ》)、現時幾点鐘(|一馬南知的四葛《イマナンジデスカ》)の類はいいとして、不好吃(|馬則地四《マズイデス》)、我写的(|瓦大古十※[#「石+盍」、unicode791a]古地四《ワタクシカクデス》)、人人知道(|大雷得木瓦葛立馬十大《ダレデモワカリマシタ》)、吃飽了(|哈拉夫代《ハラフトイ》)に到っては日本語もお寒い限りである。一の話術を以てすれば今の北京から百の話柄を探すことは容易であろう。僕にはその興味がないだけだ。それが北京の進化であるとも退化であるとも思えぬ。問題は更に深い根柢にある。文芸春秋の特派員岸田国士は先ころ帰った。いま自然科学研究所の新城博士と同文会の水野梅暁氏が調査に来ている。留学生の白眼視に関らず、軍の工作は着々進行するであろうし、またそうなくてはなるまい。ここの新聞は中枢に対して歯がゆいほど鈍感で、碌な海外電報を載せない。上海の戦況さえ遠ざかる思いがする。一つには経済市場の不活溌なせいもある。金の流通は次第にふえ、相場は九六位だが公共関係その他はパーに通用する。内地と相互間の逓信事務は主に野戦郵便を経由する。物資の供給も殆ど平常に復したようである。  いま北京では葡萄、柿、栗などが豊かに出廻っている。今年の冬は古典を読み暮すつもりで僕は準備にかかっている。栗子を噛って越年する頃には多少はまとまった通信が書けるかもしれない。遥かに諸君の御奮闘を祈る。 [#地付き](十一月九日) [#小見出し]    二  お手紙ありがとうございました。元気で御活躍の趣、何よりです。一月号にも僕に通信を書けとの仰ですが、諸兄の御苦心を思えば駄文を草する労はいとわぬながら、さて改まって何を申上げてよいやら、この一月ほうけ暮した今となっては更に思い起すこともありません。それに『月報』を私するのも程こそあれ、力めて若い人たちの作文をお載せ下さるが且は会の実りを豊かにし、且は僕らそれによって新しい世代につながりたいという、これも例の老婆心とお嗤いなされてもかまいません。  北京の空気に染むなとの御忠告は身に沁みます。御説の如く、北京の空気は今以てまことに長閑であります。まことに僕の惰眠をそそるには格好の長閑さであります。今でも——たとえば老舎の小説に現れると同じような北京でありましょう。そういえば僕は、交民巷を歩きながら、ふと八国連軍を率いた瓦徳西将軍の勇姿にぶつかりそうな気がすることがありますし、北京大学の角を折れる風は、今なお学生たちの叫喚を谺するかと疑われます。それどころか、胡元の廃城の朽ち果てない北京のことですから、ことによると朱明の遺老たちさえまだ何処か陋巷に蟄んで、白眼に辮子の消長を嘯いているかもしれません。余りに誇張が過ぎるといわれますか。しかし僕は、あの和平門が段祺瑞によってはじめて開かれたことを、今度やっと張恨水の指南書に教えられた位なのです。幾度か和平門をくぐりながら——この古色を帯びた門が僅々十五年を出でないとは、恐らくこれは門が伝説であるか北京が伝説であるかと瞳を定めて見回らずにはいられません。北京とは、まこと歴史を三次限に圧縮して見せる、お伽噺か覗きからくりででもあるのでしょうか。  だから僕には、前にも申上げた通り、哈達門大街の到るところ「おでん、生そば」ののれんがはためいても、それが事新しく北京の変化とは信じられないのです。ましてそれが、北京の堕落であるとか、満洲化であるとかいう俗説はむしろ一笑に付したく思います。一体それが、時間的に果してどちらが先後するのでしょう。蝴蝶が夢か荘周が夢か、形造られた歴史が形造らるべき歴史を包括してよいものやら、僕には判断がつきかねます。こういう僕はもしかしたら、御忠告に背いて、劫をへた北京の魔性にいつか誑かされているのかも分りませんが。  だがそうした北京にも、仔細に観察すれば、実は細々とした変化の糸は繰られていないわけではないのです。たとえば北城へ行ってみたとします。そこには鼓楼と鐘楼が昔ながらに聳え、あやしげな公寓が、これも昔ながらに散らばっています。だが老舎が好んで描いたような、あの怠けものの学生たちの姿は今は殆ど見えなくなりました。朝から晩まで麻雀をやったり、校長を袋擲きにしてみたり——要するに「風潮」と「秘密」の好きな、趙子曰のような人物は居なくなったのです。彼ら無聊学生どもは抗日と一緒に遠く逐いやられたのでしょう。嘗ては夜ごとそこに集会が催され、昼間講堂で睡足りた学生たちは夜を徹して怒号し、放歌し、茶碗を投げあった、万一話頭が学問のことに及ぶと彼らは一斉に立って「莫談学事」と発言者をたしなめる、——こうした愉快な光景をひそかに空想に描いて一夜公寓の門扉に耳をよせてみても、恐らく聴こえるものは鬼哭に似た風の騒音ばかりでありましょう。薄暗い軒燈の蔭を注意深く辿ると、「専租学員」と書いた黄銅の招牌の旁に、夥計たちの苦心になるであろう、「日本の方を歓迎します」といった拙い文字が目にとまるかもしれません。  こうした変化はまことに小さいながら、或は変化の名に価する唯一の事象かもしれません。たといそれが、北京というお伽噺のそのまたお伽噺であるにしても。いや、むしろお伽噺こそ或る場合には北京にとって真実であり得ましょう。たとえば、これはお伽噺ではありませんが、今度「北京古学院」というものが江市長らの発起で生れました。新聞の伝うるところによると、東方固有の文化の保存が目的で、科甲出身の宿儒を聘して考古的研究を行うのだそうです。更に新聞の伝うるところによると——だが余り新聞を引くのは好ましくありません。奇妙な比喩ですが、北京というところは、昨日の新聞が今日配達されても不思議はありませんし、うっかりすると明日の新聞まで今日配達されかねないのですから。  冗談はさておき、一体、北京の固有の文化とは何でありましょうか。僕らが北京の文化とその変遷について談り、また聴かされるとき、その文化とは何でありましょう。迂闊な話ですが、僕は今までこうした問題を考えたことはありませんでした。一括して中国文学と呼び、その地方性を問題とするときのみ北京の文壇に目を向けました。この態度は今も間違っているとは思わない。要するに僕らは、中国文学を観察するに当り、その民族的統一——従って国民的文学の形成という一般的方向を常に思考の前提に置いたことは間違いのない事実です。諸国の文学はこのようにして近代化され、それが国民的文学である故にこそ世界的な外貌を帯びたのでありますから。たとえば僕らはよく小品文を問題にしました。僕などは、それを政治と文化の乖離——文化意識の遊離と見、そこから中国文学の特異な性格を導き出そうと企てた一人です。この態度は、今ははっきり言えませんが、間違っていないにしても、何か足が大地につかない不安なもどかしさを次第に感じて参ります。殆ど文化的な動きの停止された渦中に立って——たとえば事変前には北京は少くとも一個の文囿を存していました。沈従文、卞之琳、曹葆華、朱光潜、朱自清、楊振声、蕭乾、蹇先艾、徐霞村等数十名の文学者が南下したのです。商務の『文学雑誌』も事実上北京で編輯されていました。——いや、それよりも、『文学導報』をやっていた人たちはどうなったのでしょう。全部若い人たちであったようですが。あの雑誌は抗日文学派の一つの代表と見られていました。また事実そうでした。かえすがえすも残念なのは、事変前に来て抗日の実情を目のあたり見られなかったことです。たとえば家一軒借りるのも容易でなかったという話です。しかし、人間と人間とがどんな眼付をして憎しみあったかは誰も話してはくれません。今の北京はまことに長閑であります。  ——話がこんがらがって来ました。この手紙は実はこんなことを申上げるつもりではありませんでした。書けないお断りを簡単に述べようと思っただけです。さっきの続きですが、北京の固有の文化とは——いや、議論はもう面倒くさいから止めましょう。この手紙は明日の航空便に托さなければ、『月報』の編輯に差支えるでしょう。御期待にそう通信が書けぬのは申訳ありません。どうかもう暫く待って下さい。周作人のことをお訊ねですが、先生には到着の御挨拶に伺ったきりです。お変りはありません。何事かを期して居られるようですが、ああした達人の境地は窺い難いものがあるようです。いずれ質問を携えて改めてお訪ねするつもりで居ります。何事も旅の心では談りたくありません。  誰かが言っていましたが、今の時代は、感情が追付けなくて戸惑いしているというのは本当です。殊に僕のように、東京の緊張した空気から逃れて来たものにとっては、五体の神経がほぐされてゆくにつれて、そこにぽっかり洞窟が出来たようで、まるで仕事が手につきません。しみじみと悔恨の情が湧き上るばかりです。思えば僕ら如何ばかり浅はかな眼を以て中国文学を喋々してきたことか。(現に僕など、この手紙のはじめに老舎の小説を引くときは、明かに『書生気質』を連想しています。僕ばかりではない、多くの人にとって中国文学は我々の「明治」ではなかったか。)必要なのは一人の作家、一つの作品にもっともっと打込むことではありませんか。それでなくては、戦場の兵士たちの印象にも僕らの理解は遥か及ばぬことでしょう。  つまらぬことばかり書いて気がさしますから、本のことでも少し書き加えます。大抵の本は手に入るようです。尤も近頃の上海出版物(「文学叢刊」のようなもの)は余り多く見当りません。二、三例をあげてみますと、林琴南の『茶花女遺事』の木版本を手に入れました。(浅学の僕には原本かどうかは分りません。)値段は一毛銭です。それから、珍しくはないが三省堂出版の呉汝綸の『東遊叢録』を、これも一毛銭で買いました。全部がこの調子というわけではありませんが、ともかく厳復や譚嗣同のものなどは簡単に集りました。千円もあれば僕らの会の書庫も一応形が備うでしょうに、残念なことです。雑誌類は少くなりましたが、それでも『新民叢報』の類まで時々見かけ、涎を垂らして帰って来ます。一つ珍しい本を御紹介しましょう。大西斎・共田浩(奥付には黄浩)編訳、支那叢書第一種『文学革命と白話新詩』、大正十一年、ここの東亜公司発行で四六版三百数十頁。内容は前編に総説と「文学改良芻議」以下数篇の論文の翻訳、後篇に唐以来の所謂白話詩と現代新詩(これは翻訳つき)数十篇収めてあります。まことに見事なもので、知っている人には何でもありますまいが、僕にはこの頃これだけの本が、しかも専門外の人によって出されたことは驚異であります。なぜ今まで目に止まらなかったか、これは僕の浅学の罪でしょうか。この本の序「私どもの企て」に、 「従来の支那研究を観るに 当面の必要から 概して政治財政経済等の所謂硬いものの方面に傾いていました これらの研究の必要なことは無論です しかし 深淵な文化と尨大な国土とを有ている支那と長い時代の変化から非常な複雑性を帯びている支那人とを 更に根本的に 更に徹底的に悉ることの上に 極めて必要にして且つ切実な研究が 殆んど等閑視されていました……」  愚劣なのは如何にも中国文学の研究者であるわいと今更ながら嘆息されます。この叢書の第二編は梁啓超の「清代の学術と思想」が予告されていますが、出版されたか何うか大西さんに伺ったら知れましょう。ついでに、前便で、ちかごろ漢字で注音した日本語会話の本がはやっている由もの珍しく書きましたが、明治三十八年東京大阪屋号発行の大清国二品錫芸題、大日本本間良平編『支那人適用日華会話入門』という本を見たら、この方法を巧に用いていました。ちかごろは注音符号で注音したのが出ていますが、これはやってみると仲々よろしい。注音符号は便利です。  この通信は『月報』にお載せ下さらなくて結構です。お断りのつもりで書いたので、諸兄に読んで頂けば充分です。片々たる雑信よりは、僕と雖もまとまったものが書きたい。徐に古典を読む準備を進めています。北京では——少くとも今の北京では、古いものほど新しいような気がします。 [#地付き](十二月五日夜) [#小見出し]    三  松枝兄——  『周作人随筆集』ありがとう。その感想を書きます。ほかに書くことはない。三日考えてない。これと雖も書くことがあって書くのでない。悪劣な心境にあるのはあなたばかりでないが、悪劣な心境にあってこういう仕事をしていくのは羨ましい。北京に住みついて、近頃は道を歩きながらああいま自分は何も考えていないのだなと気づく瞬間がある。その瞬間は北京の空がいかにも美しい。大抵は四牌楼の上に夕鳥が群れている。自分もどうやら北京人種に近づいていくわいというこれは反省といって当らないが、子供の時よく見た夢で、自分の屍を自分で見ている時の、叫びをあげようにも声の出せない切なさに似ている。いささか後めたい感慨でもある。さりとてこのまま醒めきるには惜しい夢でもある。ならばこのまま眠りつづけても悪くはない。  今年の二月、『月報』へ原稿を半分書きかけてやめた。その時は武田から来た手紙と『留東外史』のことを書こうと思った。武田からの手紙はしばらく念頭にあったが今はもう書く気がしない。書かないで惜しいことをしたと思っている。悪劣な心境を打破る力のこもった手紙であった。西湖は寒い風景である、銭塘江は広々した風景であるとこの二つの風景が書いてあった。ただただ風景ばかり見つめていますという武田の言葉を僕はそのまま武田の心の風景であろうと考え、そのとき人間の心の成長に関して戦争の驚くべき作用の一面を考えたのであるが書かないで惜しいことをした。『留東外史』の方はいずれ書くかもしれない。僕は実藤の紹介から好奇心で読んだのだが、これは意外に凄涼たる傑作であった。これから単に日本観を抽出したあの紹介の方法に第一に抗議する。第二に、もとより日本誹謗の書としてみればこれより甚しい排日の書はないが、痛罵されるのはむしろ中国留学生の側にあり、いわゆる黒幕物の常道からしてもあの日本観の箇条書は訂正されねばならぬ。第三に、この小説の文学に触れなかったのは惜しく、『金瓶梅』を誨淫の書と断ずると一轍ではないか。たとえば第五巻の末尾(ここで打切るべきで第六巻以後は拙劣読むに堪えない)の黄文漢と円子の数十頁に渉る口説は至妙である。ほかにこんなのがあれば教示願いたい。第四に、第何章か忘れたが奇妙な人物(日本人)が出てアナキズムを説く段りは、手法は常套だが作者の人を喰った倦怠ぶりが愉快である。総じてこの小説は素人じみた奔放さが特徴で、作者の人間嫌いは縹緲として新文学以後の大小風俗作家のあぶな気がない。再び読む興が起ればこの問題は後に論じたい。  つぎに言い訳ばかりになるが新注文の周作人訪問記もまだ書ける状態にない。つまり訪問してないからだ。この注文はほかにも受けてきたがさて弱る。書くことがないと同様訪問しても先生に質問することはまず何もない。諸君にしてもが僕に質問を与えぬではないか。悪劣なる心境をもって何をか言わん。何をかなさん。先般佐藤春夫先生来遊の砌、某の席上に於て久方ぶりにお目にかかり、併せて諸先生方の清談を承る栄を得た。談は多く食物、化物などであった。化物については僕多少の講談趣味を有し、されば研究してみる気はあるのだが、さてこの辺から本題にかかるとして、僕思うに秋成は問わず南北、円朝の天才を以てしても日本のお化けは遂に余りに人間的で色っぽいではないか。これ要するに日本に仙人が居ないからだと思う。なぜこんなことを言い出すかというと、『周作人随筆集』を読んで先生の文章は鬼と談る趣があると思ったからである。今さらにこう感ずるのは、卑見は翻訳とは解釈なりというにあり、従ってこの一半は松枝の解釈によると思うが、一半は僕の読書浅きが故であろう。前者についていえば、周作人の文章は意味を追求しがたく忽然転ずる趣がある。これを清淡の味と解するもよいが、僕には言吃して再び説く底のある重量をこめた感情の抑揚と感得される。魯迅の激発して引くこと水の如き文章と自ら別である。いま翻訳はこれを説明にすぎはしないか。あまりに粘着して、僕の趣味からいえばいささかの俳文のような間がほしい。第二の点について一言すれば、たとえば今日はお天気がハハハは従来周作人の痛憤とのみ信じたのであるが、思想の充実を説くとは今に悟る。浅眼嗤うべきであろう。  思想の充実とは文芸の上では素朴に感ずることである。だから文芸の科学とは感じの科学か感じ方の科学よりない筈だ。その感じといえば、男女の情と等しく、好きだとかきらいだとかいいとか悪いとか数個の言葉で尽きる筈だ。こういうのは、僕らの手合はこんな簡単な言葉さえ吐けずに他人の感情にけちをつけることをこれ批評と心得ると嘆くのである。『周作人随筆集』で「論語小記」が一番面白かった。これは原文を見てないせいもあるが非常に面白かった。ここに出てくる孔子も丈人も鬼であるが、それを談る周作人も鬼であろう。少くとも周作人の精魄がさまよい出て気圧の低い東洋の虚空に聖人と隠者の無言の問答を黙聴するといった思いで、これは『聊斎志異』などにもありがちな構図である。こういう鬼の世界は日本にはない。まして西洋の悪魔は肉体がたくましすぎる。仙術によるほかない。たとえば屈原と漁夫の問答にしてもあれは東洋の悲哀と僕には思える。あの問答の場所は梁山泊であってもいいのだ。漁夫の櫓の音が中空に消え去ればいいのだ。三保の松原では霞が邪魔しよう。一茶でたとえると、一茶の愛憐は汎神論的であるが、周作人の愛憐は汎鬼論的である。もっとも神と鬼とどれだけ違うか僕は知らない。鬼のほうがいくらか精神に近い気がする。精神とは恐らく哲学であろう。哲学とはあるいは虚無かもしれない。実際、聖人と隠者の問答はこんなにも面白いものかなと思う。しかし周作人をもし隠者の側に立たせるとしたら、その見を僕はとらない。これは漢学者流の解釈である。周作人は聞き手であろう。少くともこの問答では聞き手であって談り手ではない。その隠者への同情は孔子の隠者への同情よりも淡白であらねばならぬ。これは文学者の態度である。歪曲するのは常に俗人だ。現代中国文学は、蕭軍以前は、従ってあるいは永久に、文学でなく文学者が、即ち態度が問題となる時代である。周作人はその一個である。  たとえば次の段り——「大師摯は斉に適き、悪飯干は楚に適き、三飯繚は蔡に適き、四飯欠は秦に適き、鼓方叔は河に入り、播※[#「兆/(豆+支)」]武は漢に入り、少師陽と撃磬襄とは海に入れり。」どういう故か知らぬが、私は小さい時分『論語』を読んでこの一章に到ったとき、一種悲涼の気に打たれ……こんど読み返した際もやっぱりそういった印象を得た。——何としたことであるか。これは正しく思想であろう。なぜならば言いきっているから。どこからこういう言葉が吐けるかを僕らは考えてみる必要がある。この言い方は一茶的でない。あるいは蕪村的でさえある。周作人が一茶を好むのは周作人の趣味である。しかし周作人は一茶ではないのだ。それは僕らの古人が白楽天を愛したと同じ態度である。好きだから愛するという態度である。もののあわれは白楽天でなく、芭蕉は杜甫でなく、周作人は一茶でなく、僕らは周作人たることを要しない。だが激しい気合は必要であろう。言いきるということは必然だ。それが思想の充実である。これは中国文学には関係ない。しかし僕らの中国文学研究には関係がある。言いきったところは意外に多かった。なかでもこの一節は荒涼の感に打たれた。僕は絢爛な文章を好む。荒涼な絢爛の一面である。  ——いつまでたっても思うことは言えそうにない。勿論これは思想が充実していないのだ。僕は日本語の教員をして、いつか自分は教育者になれそうに思えてくる。ほかに何もなれそうにないと諦めかけた。文章は好きだがこれも早く諦めた方がいいかもしれない。本来は『周作人随筆集』を読んだ感想を書こうと思ったのである。その感想は、僕の考えた周作人はもっと人間臭いものであることを言ってやや意外の感がしたと書こうと思って、それはなぜかと書きたいがいつまでたっても出てこない。これは要するに翻訳論とか周作人論とか題目をきめて少し考えてから書くべきなのだろうが前に言ったように考える習慣を失ったし時間がないからもうやめる。こんな悪文をよまされる諸君も辛かろうがそれも仕方ない。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『中国文学月報』第三十三、三十四、四十二号(一九三七年十二月、一九三八年一月、九月、中国文学研究会刊)に発表、『竹内好全集』第十四巻に収録。 [#改ページ] [#見出し]  二年間      ——黙することの難ければ——  今年秋某日、岡崎、武田と目黒に会す。二年半ぶりなり。武田髭を生し、写真は大川周明に似ていたが実物はそれほどでもなし。よう、ああと挨拶し、あとは不思議なくらい平静な気持で居られた。窓をあければ百日紅の樹が目の先に見える筈の、筧の水音のきこえる、二階の武田の書斎。しっとりと東京在の空気が包み、忘れていた昔の匂でも嗅ぎ出せそうな、激情の果のような懈怠の中に居て、まとまった話はあまりしゃべらない。各々の胸の中に、一瞬に満ちて来て過ぎ去るものの気配を感じている。武田云う。二年間のことは何もかも忘れてしまったような気がする。頷いて僕云う。たとえば発狂しそうな気持ちだ。内からあがき出ようとするものがあって、何であるか失語症のように思い出せない、声に出せばけらけらと響くであろう、何とも云いようのない途方に暮れた焦燥、不安。密度のちがった空気の中へいきなり抛り込まれた感じだ。——岡崎黙然。夜に入って岡崎と帰る。防空演習の街。しらじらと靄が流れる。  某日、小野忍とあう。云う。『月報』はこのままやってゆく方がよくはないか。僕答う。今のままの『月報』では情熱が持てない。小野、諸般の情勢を縷説す。僕らの『月報』、雑誌化する計画が以前からあり、本屋との交渉も進んでいる。それを強いて耐えて打覆そうと努力する心根に、その計画は小野自身も乗り気で奔走し、やればやれるところまで来ているだけに、人間愛情の切なさが身にしみた。それは執着というものだ、と僕放言す。放言しながら、己の放った矢の己に返ってくる気うとい思いもないではない。この対話は最後に来て、意外な、胸を衝かれる小野の感懐で傍観者の自信を払った——松枝君も、も少し会が何とかしていれば九州まで行かなくて済んだろうに。  昨年秋ころ、松枝をしきりにせめた。何というつまらない『月報』であろう。我々は何を好んで齷齪するか。我々は今日すでに『月報』を砦にする孤高の精神を失っているのだ。『月報』を見ることは形骸を見るように傷ましい。我らはひらめきのない人生を潔しとしない。既に存立の根拠を失い、また消滅の理由さえ見出し得ないならば、それは明かに嗤笑さるべき瞳濁れる凡愚の怯惰の行為ではないか。まことに勇しい言辞を連ねて罪あらぬ松枝をせめた。その返事が、今は解消の時機を逸したこと、即ち罷めることによって何らの意義を発生せしめぬことを説き、お前こそ口に強弁を弄ぶと雖も、罷めるとなればまっ先に寂しがるくせに、罷めるとは例の口癖で真意ではあるまいと、如何にも汝の心底見すかしたりという風に、実はしかし他人に托して彼自身の一片寂寞の心懐を吐露すると見えた。今この手紙は披露しないが、当時の僕の日記に、十月二十六日、松枝より長文の来信あり、会への情熱爆発して感に堪えず、夜半之を思うて室内を彷徨す、とあるのはこの時の往復文書のどれかを指す。  某日、武田云う。君の『月報』を政治的に転換しようとする意図には賛成出来ない。我々は今が如何に不調な時代でも『月報』自身の持つ意味がそのために将来の約束に関してまで無益になったとは思わない。つまり我々は今のままで、今より遥かに多く果さねばならぬ仕事を残している。あくまで文化的でいいではないか。武田のいう意味は「支那の夢」を追い求める行為の中にも、我々自身を直に生活の歓喜にまで高め得る人生の何物かが蟄伏しているに相違ない、また蟄伏していると信ずる力を以て我々の行為の批判の目安に当てることからやり直そう、というのだと思えた。どうだどうだと半ばは独語の気味である。僕云う。それはあまりに趣味に堕すではないか。武田昂然として云う。趣味ならいいのだ。いまの我々は趣味にさえ到達していない。  我々の人生には常に空白の時期が避けられぬものであろうか。時間が鉛のように経過する中に居て自我が己に帰って来ない、と武田はいう。ある時期の僕は真実、支那文学の縁を切ろうと思った。この時期は次に日記で示す時期である。支那、支那料理、支那人、支那文学、何もかも厭になったと放言したら、そのとき人は笑っていた。それほど思いつめたというのでなく、漠然と愛しきれぬ気がしたのだ。もっと一般的に、精神の仕事に自信が持てなくなったと云った方が当るかもしれない。これは近頃の気持である。愛さぬものを愛する如く取りつくろうのが厭だ。我々の時代は、内に鬱屈するものを含みながら、まともにそれを吐き棄て難い拘りがある。吐き出さなければ鬱屈するものの真偽はわかるわけがない。では吐き出せばいいじゃないか、といま思っている。心意の変革し得べく、せざるべからざる所以を信じたい。僕は留学して支那文学を勉強しなかったことには、人に云う程の恥辱を感じていない。自分の行為を客観しようと思ってゆき、却て混沌に陥れた悔恨は深い。我らが会の同人に、これが中国文学の研究者のある一人の行為であるかと問いたい気持である。僕は、貧しさの故に自分の感情を劬りすぎる懸念はある。僕の文章が、真実の露呈を恐れて七面倒くさく周囲ばかりかけ廻ると評する人に読んでもらいたくて、また一面ある時期の、それは恰度松枝に駄々をこねた昨秋頃の、阿呆な虚脱時代の自分を客観したくて、日記の中から材料を抜いてみた。私生活のひどい部面は除いたが、それでも多少の浅間しい気はないではない。ちかごろ松枝の書き送った手紙に、何もしないでいるよりは博奕でもした方がいい、とあったのを得とし、それはつまり不徳を犯せばそれを償う善行か、それを掩没する更に大いなる悪事を働くにちがいないという、臆病者を鞭打って他力にすがらせる、至極簡易な非情の警句に思えたので、北京の土産がほかになければ、おぞましくも我が日記でも抄写するより仕方ないと思い立ったのである。  某日。本日も陰天。この両日またも円朝をたてつづけに読む。本日はTが来いと云いし日なれど出づる気がせず。頭重し。色々のことが思わる。  某日。午前L女士来る。午後D病院へ歯を見て貰いにゆく。二時間近く待たさる。窓外の赤レンガの間から翠々しい緑が見える。初夏のような緑。医者は若いよくしゃべる男。歯槽膿漏らしいと云う。ズボン下を買って帰る。本日陰天にて冷気を覚ゆ。夜机上を整理し、手紙一、二本書く。わびしさも通り越した気持なり。歯の疼きのため却て読書したき気持になる。今月も金足りなくなるらし。  某日。本日雨上り、快晴なれど寒気きびし。午近くまで睡る。夢を見る。一は女の夢。それで暁方近く一度目をさまし、それからまた睡ってまた夢を見る。体が衰弱していることは事実なれど何故だかわからず。本日は終日室を出でず。王力の『中国文法初探』を通読、教えられるところ多し。翻訳などやるに先ず文法からやらねば嘘なりという気がする。それから古文の日本流の書き流しはいかんと思う。たとえば助詞をすべて読まぬなど、也と矣の相違だけでもいいかげんなものだと思う。シャツを厚く着ても、まだ寒く、手足が冷える。ストウヴを買わねばならぬと思う。『中央公論』九月号、寺崎浩の「大陸の祭典」をよむ。寺崎は『新潮』の短篇をよんで感心したが之はもっといい。新しい小説に遠くなった感じなり。小説を書かなくてもいいから文学者としての矜持を失わず生きたいと切に懇う気持なり。  某日。朝いつになく早く目がさめると部屋にかすかに日が射して庭先は一面の日だまりになっている。裏のれいの青白い女の痰を吐く音がこれも朝の寝床できけばそう苦しくもない。起きてから飯まで少し本をよむのも珍しい。午後K氏のところへ明日の通知にゆく。太太はねている。とめられたが長坐せずに辞す。歩いて福生にゆき明日の契約。それからまた歩いて丁君を訪う。臨時招魂祭で飲食店は全部休んでいる。女たちが洋車にのって通る。ぽかぽかした日和なり。帰って夕食を食ってからまた菊沢季生の『国語音韻論』をよみ進む。博引驚くばかり。田舎の女学校の先生でえらいものなりと思う。半分読了。ちかごろ寝床の中で山崎覚の『英文法』をよんで英語の忘れぶりのいいのに感心する。少し本がよめるだけましなり。夜後院の連中うるさくてたまらなし。やはり越さねばならぬという気持になる。  某日。うすら曇った天気、朝学校あり。促音の練習なれど淡々とした気持で教える。曾て図書館の北校で、いやだいやだと思いながら通って、疲れきって精神だけはりを持って帰りの車にのった感情を思い出す。午後図書館へ本を返しにゆき、代りにノスの『コロキャル・ジャパニイズ』と川端の『雪国』とを借り、東安市場によって帰る。夕刻N君来る。  同。僕は云いたいことを一つ持っているが、それを云えば、何だそんなことかと笑われるにきまっているし、云ってしまえばおしまいで何もなくなるから云わない。云ってしまった方がいいかもしれない。ゲエテは佳き環境の必要を説くが、ゲエテのように教養を重んじ、ワイマアルの宮廷に出入していたものばかしの言葉とも限らぬようだ。切ない気がしてならない。こういう気持は本当で、それを郷愁とも、友人ほしさとも、恋人ほしさとも云えようが、自分の気持の中にはそういう気はしない。反省が足りないか、決断がないのか、そんなことは勿論わからないだろう。  同。「金銭」は評論風には非常に映画的ではないかと思う。おそろしく省略が多くて、それで判っているから、してみると、今までの戯曲など本当は必要でも何でもない筋を説明しなければ気がすまなかったのかもしれぬ。だがこの約束はやっぱり小市民的なもので、しかも小市民的な感情を沢山はじめから計算しているのかもしれず。翻訳にしてもこれだけの省略は是非必要なんでないかと思う。たとえば「しれぬ」とか「思う」とかこんな言葉を一々支那語に直訳されてはたまらぬではないか。(これは松枝調だ。)  同。『新潮』の高沖陽造の文章をよんだら自分の今まで書いたような文章にそっくりなので自分の文章がとてもいやになった。いつか中島健蔵でも一寸そう感じたことあり。いつわりの阿呆らしき文章なり。  某日。昨夜水枕が漏って蒲団が寝小便のように濡れていた。日が南へ傾いて朝と夕方は部屋の半ばに縞になって射込む。壁の陽炎を見て横になっているのは楽しい。庭先の広い葉がまだ枯れないで青々としている。朝ミルクを一杯のむ。今日は熱もない。午後一寸仕事をし、家へ手紙を書いているとOが金をもってくる。夕方カステラとパンを少し食べミルクを一杯のんでからN・K両君に金を届けにゆく。少し足がふらふらするのでゆっくり歩く。胃に足音が響くような気がする。快晴で暖い。帰りは北小街から六条を通って歩いてくる。この辺も一面に日本人が入り込み、ぼた餅屋まで出来た。夜またパンとミルクを摂る。二日間の絶食で、今までそんなことあまりなかったがいろいろうまいものを想像してみる。最初の夜は実にうまいそばを食う夢を見た。しかし絶食はもっと続ければ続くような気がする。下腹に灼くような感じがするだけであまり苦痛ではない。却て頭がせいせいするような気がする。  同。『中央公論』十月新人創作号どれもくだらなくて驚いた。鶴田知也と大江賢次(むしろ旧人であろう)がましなだけで実につまらぬ。新しい文学は興らぬといわなければならぬ。『月報』の第三巻の合本つく。よみ返してみると、あのころの引しまった気持が蘇ってくる。今の生活が省みられるだけの強さがあの頃はあったようなり。このままではならじと思う。やはり思想を追かけて掴まねばならぬと思う。いかにみすぼらしい思想でもいいから掴まねばならぬと思う。そのためには孤独に生活するのもよかろうと思う。東京へは帰りたくもあり、帰りたくもない。結婚したくもあり、したくもない。  某日。快晴、朝早く起きる。午前中から机に向って、かすかな日の射しこむ机で松枝君への返信を認める。午には麺を食う。O君再度の来訪。O君が帰ると例の女学生二人卵と菓子の見舞をもって訪ねて来る。それからまた机に向って午後の日ざしの中で手紙のつづきを書く。夕方Oを見送りに行く。帰りに丸京で美しい支那の女を見る。四人づれで、年をとったのと、極く若い十七、八のと、中間のが二人、皆上品で若い女は特に美しい。驕慢さがなくて見るからに由緒ありげに家柄を思わせる。老太太は塗箸の値段をきいたりしていたが何も買わずに鷹揚に売場を歩いて出てゆく。日が翳って今日の街はまた寒い。その王府井の通りを北に四人が歩いてゆくのが久しぶりに街に出たせいもあって、そのまま立ち去り難い切なさに思われた。  某日。今日も寒し。学校へゆく。合服なので車上にふるえる。教室へ出てもふるえがとまらなかった。帰って夕方まで何ということなしに過す。夜満鉄のS君を訪う。留守。東安市場にてちり紙を買って帰る。女の学生の一人にあう。寒天に月を仰ぐ。本日立冬の由。夜おそくN君来り、十二時すぎまで居る。勉強したくなった由、きびしい寒さにふるい立ったのであろう。足がひえて床についたまましばらく寝つかれず。  同。ノスの『ア・テキスト・オヴ・コロキャル・ジャパニイズ』を散読する。毛唐にはかなわぬ気がしきりにする。日本語と支那語の本を書くとしてさてどうしたらよいか、どう勉強したらよいか、皆目見当がつかぬのだから弱る。部屋の中を歩きまわって断片的にうまそうな考が浮んで机に向ったりするとそれが皆何だかわからなくなってしまう癖なり。だがさて語学の本を作るとして文学があきらめられるものかどうか。  某日。『月報』十一月号来る。実にすっきりした編輯にて前二号の比にあらず、やはり松枝だけのことあり。武田「北京の輩に寄するの詩」を載す。これに感動す。岡崎パアルバックのことを書いている。少し文章がうまくなったようなり。  某日。うす曇りであったが暖い。実はYを心待ちにして、多分来まいとは思ったが、終日外出せずに居て、とうとう来なかったがあまり期待がはずれたという失望もなかった。今日起きたのは昼近い。夜中に夢を見ていて、ふと目をさましたら、ベットの傍のガラス越しに赤いものが見えた。眼鏡をかけて見ると、電燈に下げてある陶の錘にストウヴの火が映っているのであった。その時、Iが目をさましているようなので電燈をつけてみると、酔がさめたような顔でいた。五時である。それからまた寝て、何か夢を見て、熟睡のはてに起きたのが真昼であった。今日は一日劉復の『中国文法講話』をよみ三分の二ほどよむ。教えられるところ多し。後院の連中今日はまたうるさし。例の男の子、母親にでもぶたれたか、ぶつ音とひいひいいう悲鳴をあげる。仕方ないから武田の詩を朗誦し、どの位早口に云えるか云ってみると舌がもつれた。  同。武田の詩をよんで、「北京の輩の応うる詩」を作ろうと思って、どうも詩にならない。文章にしようと思って、一寸書きかけたら、百字ばかりすらすら書けて、あとは何を書いていいかわからない。  某日。昨日と今日と、前日の飲酒のため、朝しきりに便通を催す。はじめは硬い便で、少しすると猛烈に催してきて痢るのを例とする。昨日の風のためであろうか、梨の樹は葉が一枚もなくなった。垣根の丁香だか何だかの樹も既に裸である。柳は青い葉をまだ沢山つけ、風ごとに青いままの葉が風たまりに吹きよせられ、踏むとふくらみがある。登校。放課後、昨夜の手袋とマフラアを取りにKへゆく。バスでゆく。はいると、よくストウヴがおこってぼうと暖い部屋に、婦人雑誌や何かを取り散らして、T・Y二人が火にあたっているのが、すぐ硝子越しに見え、北向きだが明るい昼間の部屋にそれが似つかわしくて、安穏な呼吸をし、身内に沈もる感があった。マダムが買物に出かけたらしく、帰りのおそいのを気にして、何やかやしゃべくっている女二人を相手にしていることに蕩児めいた安心の気持もあったのである。飯を作れというと、マダムが帰ってといい、夕方まで待たされ、それから刺身で軽く飯を食う。そのころには疲労と夕方の空気の騒ぎで気持の上の安穏さは失っていた。帰りの電車の中で日が暮れかかる。ビューローに寄る。夜に入って寒さがしみた。新聞をよみ暮す。  某日。Iと飯を食いに出る。Sへゆき二本ずつ呑み飯を食う。それよりD飯店へゆく。ガチャンに日本人の客が一銭銅貨を入れたと云い一杯積み上げてあり、それがボーイが云うにお前の友人という風にきこえ、後から来た一寸キザな男が、通訳してくれるという様子で説明したので、かあと来た。その男は色が白く、へんな折襟の黒い服をきて七人連れで小才ありげに見えたのが癪にさわった。明かに興奮していると意識してボーイに問い訊すと、ボーイはあわてて、いやお前の友人ではなく、お前の友人が来たときに居あわせたとか何とか云った。その時Iは居なかった。すぐ来た。支那語はよくわからないながらボーイはお世辞に云いなおしたのでないと思われた。Iに云うと、この前Oと来た時M鉄の連中が居てわいわい騒いで居たからそれであろうという。ボーイにあの男が俺の友人がしたとお前が云ったと云っていたぞと云い、あの男に云えというと、ボーイは云いにいった。ふんふんとうなずいている。すぐ来るかと思うと来ない。様子を見てやれと思う中に興奮が激しくなった。すると立上って来て、いや失礼しましたとか何とか云った。その調子が鷹揚で悪びれていなかった。連中の男の一人が何だ何だとか何とか云った。いや別に何でもありませんが僕もまんざら支那語が出来ないわけではありませんし、とその位のことを云った。(その時連の男が口をはさんだのである。)その位しか言葉が用意してなく、それでも調子はかなり高かったかもしれない。どうもすみませんとか何とか相手がも一度云ったようなり。Iが例のおだやかな調子でその時の説明をして、ああそうとか何とか云って引下るとボーイに骰子を運ばしている。この時はどんな喧嘩してもまけぬだけの自信があったのが、これだけの応対で済んだことで気持が済まなかった。すぐ出る。Rへゆく。腰かけてビイルをのむ。傍に若いおっちょこちょいみたいな男が居て恐しくしゃがれた声で話かけ、こましゃくれた感じがしてならぬ。興に乗って来たとき何かの拍子に一寸トゲのあることを云ったかしてIが膝を叩く。そのとき自分でも云い方の冷たさを感じたかもしれない。そのままにしてそれからは口をきかなかった。Iかなり陽気に酔う。上から見ていると二、三の女給たち一人の男にしきりにしなだれかかる。その男はひげのある渋い顔をしているが、悧巧だか莫迦だか何ものかわからぬ。着物だったと思う。その中に酒を出さなくなる。例のこましゃくれた、自分で新聞だと云いながら証明書を見せるといって見せたのは朝日の連絡員で大正三年生とある男が、一度帰ってまた入って来たようなり。この男はマダムと親しくし、十円札を四、五枚ビラビラさせたり、自分でこの店は親類だとか云ったと思うが、マダムの態度が弟でもあやすようなり。酒を出さなくなるとおこる奴が出た。あいつはイヤな奴だと瘠せたひょうきんな牛太郎みたいな番頭が云っている。それからこちらも帰ろうと思って、その頃は愉快になってきて女給と無駄口を叩いたりすると、Iがその中であまり今まで目にとまらなかった女給をつかまえて好きだと云った。出てからも云った。一時大分すぎていたようなり。Yへ行こうと云うと、もう起きていまい、Mへ行こうとIがはっきり云った。……この間にしても今記してみると如何にも神経がはたらいていないのでいやになる。それから出て洋車が居ないので歩き、途中でつかまえて乗る。N街北口の辺でIが腹が空いたというので下りて焼餅を食う。酒はないか、ないと云う。カリントのようなのを食ったがこれはうまかった。隣の店へ入るとここも酒はないので炸豆腐を食う。それから北口の角の攤子へゆく。白酒あると云い、一杯五銭で拉車的におごる。巡捕が立っているので坐らせて飲ます。するとも一人来たのでこれにも飲ます。三人目に来たのが強い。三人並んで坐って……そのままうとうとして起されて歩いて帰る。六時頃なり。  某日。午後、『我国土我国民』をよむ。訳文はなっていないほどまずいが内容は頗る面白し。今まで書いたようなことを云っているだけだが、それでいて大木ほどに成長した感じがし、支那文のをよむと才気ありすぎる気がするがこれはむしろ沈鬱なり。ものの見方博くまた単純でないのに感心す。三分の一ほどよむ。  某日。昨夜ものを食っていないので起きられず、朝早く小便に起きてそれから昼ごろまで寝る。午後『采菲録』をよむ。I来る。わずかに夕飯を食ってまた寝る。牀上『瑤光秘記』をよむ。あまり面白くなし。  某日。『瑤光秘記』読了。かなり面白くよめた。二話ある中あとの方が長くもありまた面白し。尼さんの性生活を描き、淫書ではあるが作者が比較的まじめな点、また淫猥な描写がなかなかよく、こんなのが広く読まれるのだから支那文学も棄てたものでなしと思う。日本の大衆小説でこれだけ面白いのなし。へたな人生など出さぬがよきなり。それから旅行の空想をまたはじめ煙草のなくなるまで耽っている。  某日。朝おきるといつものように日が一杯に照っている。午前から午後二時頃までの近頃の気持のよさは格別である。午後学校にゆき答案を教務股に渡す。それからぶらぶら歩いて景山に入る。今度はじめてなり。はいるとまず草が見事に枯れているのが楽しかった。枯草を踏んで歩くときっと子供の頃を思い出す。……左から山へ登る。一番左の亭まで登ると西の方が闊然と見えた。二番目の亭へゆくと北海の東のあたり小屋の連った、子供の群れ遊び、今しも自動車が二台西洋風の構えの大きな家へたどりつく風景が細かに見渡せた。ここから見ると家はすべて灰色で楽しそうである。晩秋初冬という気候が感ぜられる。風は微風もない。日は割に暖かである。太陽が西斜に射し、空気が霞のかかったように朧である。一番上の亭へ上るところで、入口で一緒になった四、五人の男女が露骨な関西弁を話しながら来る。頂上の眺めは広闊として定りがない。一直線に宮城の幾棟の瑠璃瓦が連り前門につづいている。すがれた冬の街が見える。ものの音がきこえる。右の低い亭へ下る途中にサイレンが出来ている。何とかサイレン大阪製。傍に小屋があって巡警が二人寝ていた。兵隊が三人上って来て、停車場までどの位あるかときき、旦那は何処ですかと問われた。右へ下りて裏路を歩く。枯れた茎の太い草を刈って束にしている。束ねてはころがしてある。人も通らない。常緑樹の下を通り枯草を踏んで歩く。……景山を出て北池子まで歩く。堀にはもう薄氷がはっている。鳥籠を抱いた男たちが帰ってゆく。景山の裏のベンチに腰かけたときは武蔵野の片隅にでも居る気がした。もしくは帝塚山あたりを散歩している気がした。そろそろ家へ帰ろうかなと思ったりした。生活が普通になっているのであろうと思った。  某日。晴、起きると部屋にもう日が当っていない。一時半である。昨夜莫迦な空想をしてそれに歩き疲れたせいである。肩のあたり痛し。起きて新聞をよむ。その間に夕方になり、Nが来た。一緒に風呂にゆく。夜どこかへ出たい気がしたがおっくうで椅子に腰かけて古い日記を出して読んでいる中におそくなり思い止む。十二年の日記からよみ最近までよむ。去年北京へ来てから三、四月頃までの生活の印象はあざやかである。今日記をよんでもあざやかであるがそれ以後のはあざやかでなく、また日記に書くべきものをもらし、書かなくてもいいことばかり書いてあるのもまたいやになる点なり。東京に居るころの日記はあんな本をよんだかと思うような本をよんだことが書いてあり、また武田や何かと逢ったとだけでどんな話をしたかほぼ想像がつくように思えるのもなつかしい。しかし去年の夏から北京へ来る頃の日記は決していいものじゃない。今が悪いからといって今から見てもあの頃の生活がほめられたものではないと思う。火野葦平も驚くほど日記をかき、十五分の休息の時も万年筆をとるというが、それが戦争でなく日常的な生活に居るときは行数がへり字も大きくなると『朝日』の記者が書いて居り、なるほどと思った。しかしああいう日記はなかなか書けるものでない。いつも冷酷な眼があってどんなに興奮している時でもその冷酷な眼がますます冷酷に観察していて、観察される本人は忘我的に熱狂しなければならぬと思う。今日もNと話していて感じた。友達のないことは何とさびしいことではないか。いい意味のインテリゲンツィアの社会をもちたしと思う。Kを失ったことは残念である。昨日Y君が来るなりS先生とC先生がL学院は竹内さんのような人を教師にしてゼイタクだと云ったと云われ、はっとしたが、いやいやとすぐ自惚れの心が起り内心得意になったのは浅間しかった。この数日一通も手紙来らず、心にかかる。N君ボーナスが出るかもしれぬという。もし出れば机と椅子を買いたしと思う。  某日。日記を廃すること十日である。泣きたくなる。毎晩酒をのんだ。松枝の依頼をまだ果してない。原稿もかいてない。旅行願も出してない。Y君に五十円借りた。それも殆ど使い果した。眼鏡をなくした。読んだのは『オール読物』新年号だけである。学校もさぼった。……今日眼鏡を尋ねて歩いたが何処にもないらしい。一切のものが光と色を失った。『オール読物』新年号ですべてがくだらぬ中に二、三見るべきものがあった。大下宇陀児という男えらくなったものなり。岡成志も同じ。世の中でくだらぬは俺だけかもしれぬと思われた。一昨日Sという男にはじめてあった。なるほどいい男であった。Mはいやな老人であった。家から久しぶりに手紙が来た。Kが俺のことをインテリだといった。京都あたりの奴からはそう見えるかもしれずと思った。すべて混沌としていた。この調子はまだ続くかもしれず。どうなることだかわからぬ。誰も何とも云ってくれず。  某日。……Lではもうあまり呑まなかった。二人の女の子を相手にして跳びまわって遊んだ。酔が出た。でたらめに童謡など唱った。外へ出て少しばかり菓子を買ってやった。赤ちゃんにというのでビスケットを買って持たせた。母親がビスケットが切れたとさっき云っていた。帰るとSが来ていた。こっちは酔っていたからまた少しくだをまいたようである。その前だか後だかに別の部屋にT先生の名札がかかっているのを見てT先生に電話をかけた。奥さんが出て主人は休んだとか何とか云った。御無沙汰していますと挨拶したと思った。酔っていた。奥さんの声が美しいとその時実に美しく感じたようなり。間もなくそこを出た。出るとすぐ別れた。Nと二人でKへ行こうと云い出した。どこかで洋車をひろった。ひろう前か後かにOにあった。一緒に来いということになったらしい。揺られていった。途中でIの声が加わった。竹内じゃないかとか何とか云っていた。幌を下しているから見えない。うれしくなって来い来いと云った。途中でO・Iが偶然ひょこひょこ加わって来て王様みたいな愉快になった。随分陽気に酔った。揺られていく道のりが遠くていらいらした。なかなか着かなかった……  某日。午後『週刊朝日』をよんでしまっていると『新潮』一月号を送ってきたので早速かかった。これでも岡本かの子の「家霊」面白く、これで三つ目なり。さえざえとしたものがあって前の二作と同様味わってよみたくなる作品なり。何ということなくて純粋で、あっぱれ才女と云うほかなきか、感に堪えずと思った。芹沢光治良いやな奴と思う。それから『週刊朝日』の林房雄の何とか姫伝、林房雄とは何といやな奴かなと思う。芹沢と共通したいやらしさなり。『新潮』ではいつも宇野浩二の文学観を愛読している。こういう物の考え方感心させられる。相変らず寒い。昨日は曇った。今日は晴れた。このごろ不思議に酒をのんだ翌日は曇っている。  同。何かがっちりしたものにぶつかってゆきたし。そういう荒々しいものの呼吸をかいで生命の力をもやしたし。そういうものがあるものやらないものやら知らず。やっぱり東京へ帰った方がいいかとこの数日考えるようになった。Y君の話面白くなし。Iとも酔ってでもいなければ話すことなし。  同。昨日帰るとき夕方でもうしいんと寒かった。燈市口あたりから四牌楼の方を見た景色が美しかった。灯が浮いているように見えた。まだ酔っているのかと思ったが酔っているはずはなく、精神がやはり駄目になったのかと思った。  某日。本朝風が出て雪を飛ばす。見事に吹雪いて飛ぶ。H君に起さる。午後「太陽の子」を見にいこうかと思っている間に『月報』十二月号が来た。神谷の編輯なれどサンタンたるものなり。急に書きたくなり原稿を書きはじむ。夜までつづけ二、三枚で滞って進まず。あれやこれや思案の間にふける。二、三日来咽喉の痛かったのがかゆくなり、塩からい痰が出る。風邪かもしれず。今日スズメが舞込んだのでつかまえたが、ボーイの云うに、この鳥は気が強くつかまえられては餓死してもものを食わぬという。間もなく放してやる。アスピリンをのんで寝る。我またサンタンたる気持なり。  某日。昼近くG君を訪う。風がなく暖かい天気で往来の雪もやや融けた。午飯を御馳走になる。それからIを訪う。出ようとしているところで一緒に出る。光陸へゆく。エノケンの「千万長者」と佐々木邦の「大番頭小番頭」なり。今なにをやっていますかときくと、切符売の少女がニュウスです。次は。次は、といい、番頭さん、と云い自分でもおかしくなったように笑う。あわてて云いかえして今度は、オーバンコバンと云い、またたまらなくおかしそうに笑う。生活に屈託のないさまである。活動はあまり面白くなかった。出てからSへゆく。五、六本のみ湯豆腐を食う。Iしきりに自己の一身を談る。ここを出てIの方でMへ行こうといい、いくと休業の貼紙がしてある。Yへいく。……二時頃なり。道は凍り靴がすべる。東から西へ二、三人ずつ連れ立って帰ってゆくものあり。中には日本人四、五人酒にも酔わず歩いてゆく。芝居からでも帰るのであるか。東四牌楼で饂飩を食い帰る。今日はあまり酔わず。Sに豊頬のみずみずしい少女あり、印象に残る。  某日。この二週間毎日酒をのめり。飲めば二度に一度は大酔して前後を知らず。思うこと書くこと更になし。借金はたまるばかりなり。これわが一生に再びあるべきや。未だ愕然として醒めたりと云えず。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『中国文学月報』第五十七号(一九三九年十二月、中国文学研究会刊)に発表、『竹内好全集』第十四巻に収録。 [#改ページ] [#見出し]   支那と中国  支那を支那と呼び支那人を支那人と呼ぶことは支那人の感情を害うから、宜しく中国及び中国人と称すべしという論が行われている。ちかごろ『文芸春秋』の「話の屑籠」でも見たし、別にこれを実行に移している刊行物もあるようである。個人で支那と書く場合に好んで中国と書く人が、僕の知る範囲でもかなりある。これは一体、どういうことなのであろうか。支那という言葉は支那人から実際嫌われているのであるか、嫌われるとすれば何故嫌われるのであるか、嫌われることをわれわれは是認し、これを改めんと欲するのであるか、然らば支那を中国に改めれば、所期の目的は達せられるか。言葉の問題はいつも簡単のように見えて、底に不測の奸智を畳み隠すものの如くである。  僕は、自分のことを先ず云うと、数年前、中国文学研究会を始めるときは、中国という言葉を会名に用いて少しの疑惑も抱かなかった。当時、滑稽な挿話がある。某漢学の老先生は書を寄せて中国を民国に改むべしと勧告された。中国を中華民国の略称とでも思われたのであろうか。気の毒なペテンにかかった老先生の迂愚を年少客気の僕らは手を拍って大笑したこと勿論である。僕らは中国という言葉の清新さを愛した。少年の行動の夢はつねに衣裳の生産に初まる。だが、それだけが全部の理由ではない。多少の支那文字を読み習い、多少の支那人と識った僕らは、支那人がどんなに支那とよばれることを嫌うか、逆に中国とよぶことが彼らをどれほど喜ばすかという、頗る単純な国民心理の洞察に基いてこれが応用を企てたわけである。僕らが支那人を愛したかどうか、いま遽かに云えぬ。少くとも僕らは、支那人の識るところとなり、彼らに好意を抱かれることを以て自身の仕事の有利に展開すべきを信じたのである。その後の芳しからぬ成績を除外して云えば、当時いかに僕らの片々たる冊子が一部支那人の信頼を博したか、疑う人はそのころの『文学』その他を見よ。僕らの会はまず支那に存在を知られた。僕らの雑誌が日本の雑誌目録にさえ載せられぬ中に支那で翻訳され紹介された。僕らの希望はそこにあったわけではないが、人間の善良さに関する文学の素樸な本能の充足感は、かなり甘苦い気持に僕らを誘ったことを今憚らず思い出したい。  これより以前、中国を以て支那を呼ぶものに左翼の評論があった。「中国共産党」という言葉はその名残である。僕はその来源を明かにしないが、当時の左翼評論家の意識の中にある中国は、国土及び民族の全体としての称呼とはやや異った色調のものでなかったかと思う(一例は改造杜の『社会科学辞典』の項目)。しかし、とにかく、文学の面だけを見ても、日本と支那が共時的に接近したのは左翼運動流行の時代あるのみである。マルクス主義が一種の世界主義であり、その風潮が世界的であったためであろう。日本の文学の課題が同時に支那の文学の課題であり得た。その後の支那文学は目本文学からの影響を絶った。民族主義も世界的な風潮であるが、日本と支那とは当然、全く異った現れ方を取った。この問題はいま考えない。  さて、僕らは自らを中国文学研究会と定名した。だが一般の称呼としての支那を不可としたわけではない。定命の由来は「同文の二国間にあって固有名詞が翻訳されなければならぬ不便を避ける」にある旨僕はそのころの会誌に宣言している。ああ、同文とはうれしき言葉かな、中国をわが言葉と頼めばこの二字は移してわが国語ともなり、支那は即ち支那語の表現に於ける対日感情の計器の一ともなるのである。言葉、罪あらず。人は倉頡以後あまたの言葉が東に流れ、西に流れ、流れに沿う景観に従ってたとい半句のささやかな形容詞も翻訳者を嘆かしめる語感の差を身にまとうに到る言葉の全歴史を構想しないか。ひそかに僕は日本語と支那語と朝鮮語の説明をもった漢字辞典の可能な容積を計量するのである。  さて、会名の由来は以上の如くであるが、僕自身ものを書く場合、やはり中国という言葉の方を多く用い慣った。中国語とか、中国人とか、熟さぬ言葉も度重なれば親しさを増す。親しさを増せばそれはやがてわが言葉となる。僕は自分を他と分つ慾望を感じた。漢学や支那学の伝統を打ち倒すために、中国文学という名称は是非ともこれを必要としたのである。僕らが中国文学の旗の下に何をなしたか、いま考えたくない。考えることはみじめである。少くとも僕らは、現代に於て最も支那人の心に近づいた、或は支那人をして近づかしめた少数の日本人の一人であることは確信している。  一体、中国と支那との言葉の起源はどうであろうか。中国の方は、中華とか、華夏とかいう言葉と同様、既に先秦に発生するといわれるが、勿論この場合の中国には、今日行われるような国家、民族の概念を含まない。支那はずっと新しく、文献に現れる事例を以て推論すれば、はじめ外国人の支那を指して呼ぶ音を漢字に移したものであるらしい。この方は意味は遥かに今日の中国に近い。しかし支那人自身によって自国の標識に用いられたわけではないから、やはり今日の中国とは別である。周知のように、支那は歴史的に自国の名称を必要と感じなかった。彼らの観念では、支那は即ち世界であり、諸外国はこれに隷属する蛮夷に過ぎぬ。自己に対立する平等の存在を認めぬところから、自他を区別する言葉は生れず、また彼らは自国の歴史を即ち世界の歴史と考えたのであるから、民族の伝統と離れた単なる王朝の称呼を有つだけに満足したのである。世界の中心を意味する中国とか中華とかいう言葉が、西域及び印度の文明との接触後、いわゆる中華思想とよばれる自国文化の伝統の観念を次第に形成してゆく道筋にあったことは推察されるが、それも王朝の代替が社会の転換にも等しい支那にあっては、われわれが大和とか日本とかいう言葉であらわす民族の心の伝統とはかなり内容の異ったものではなかったかと思う。漠然と黄河あるいは長江流域の地域の名称に用いられる場合が多かったのではないかと思う。  では、今日支那人によって用いられる内容の中国という言葉が形成されたのは何時ころであるか。(今日の中国は本質には自国中心の中華思想と無関係である。この点は数年前の某貴族院議員の議場に於る演説の蒙を支那人に代って啓いておく。)愚見によれば梁啓超ではないかと思う。近代支那の覚醒は阿片戦争にはじまるというのが通説であるが、もし自国の公明な称呼を需める欲求が近代国家への願望の一指標たり得るとするならば時代は更に下ることになる。自ら中国の新民と称し、『新中国未来記』を書き、『中国の武士道』を書いた梁啓超こそその開山ではないか。勿論、それ以前にも、呉汝綸、薜福成、康有為、みな中国という言葉を使用しているが、偶発的であり、中華その他と混用され、また頻度や社会的影響の点でもなおこれを梁啓超と并称はし難く思われる。この時代考拠から推して、余談ではあるが、僕はチャンコロの語源を中国人よりは清国人に帰す方が妥当と考えている。  日本へ支那という言葉がいつ輸入されたか、いかに流行したかについて僕は詳しく知らない。また、今日支那人が感ずる被侮蔑感が正当だとして、それがいつごろ発生したかも知らない。明治には支那と清国が并用された如くである。大正以後、専ら支那が称されたことは明かであり、その結果、耳に熟さぬ中国は中華民国の略称か、若くは例の支那人の自尊に過ぎぬと誤解されるまでに、同文二国の疏遠をいみじくもここに表現するに到ったわけである。  中国の開宗である梁啓超は、同時に支那という言葉も頻りに用いている。章太炎が支那を好んだというが、詳しい事情は知らぬ。梁啓超についていえば、彼は支那を外国人の支那に対する称呼として中国とは区別して使用したようである。これで見ると、当時に於て支那という言葉に被侮蔑感をもたなかったことは明かである。この被侮蔑感の発生は、中国という言葉の固定と普遍、また支那という言葉の退化に内部的条件を負う。だが外部的条件、即ち排日と被侮蔑感の因果関係に到ってはしかく簡単ではない。  最も強く被侮蔑感を告白した、或は告白することを利用したのは郭沫若ではあるまいか。彼は日本人の支那に侮蔑を感ずるのみならず、日支、日満支、日英支など、当時の新聞紙上に慣用された国名の語順にさえ激しい被侮蔑感を訴えた。これをしも言葉の問題というか。彼ほど激しくないにしても、一般の支那人が、とくに青年が、支那という言葉を嫌ったことは異常なものである。支那という言葉を嫌うために、従ってその言葉を用いる日本人を嫌うという論理を考えた留学生さえあった。僕らは多くの青年が昂然と日本語で中国というのを聴いた。日本に住み慣れた支那人は僕らに日本語で自ら支那と云った。そのとき僕らは謙遜の語調をしばしば汲みとった。排日の一番激しかった、また民族精神の昂揚の一番目醒しかったころの話である  さて僕は、かつて中国と口にも出し筆にもした僕は、いま口に出し筆にすることに気持が落着かない。この変化はいつころ起ったのであろうか。二年間北京に暮すようになってから、僕は支那という言葉に忘れていた愛着の念を再び感じ出していた。昔なじんだ言葉を思い出してふと口にすれば、今さら何をけうとい中国の響よ。言葉とはかくもおろかに人を誑すものか。所業の無役を悔む心はあながち一ひらの言葉に限るわけではないが、身に沁む寂寞は如何ともなしがたい。一たい僕は何を考えつづけて今日わが精神の盾としてきたのか。僕は理窟で中国をきらったわけではない。僕は自分に支那がふさわしいと直覚したのである。支那こそ僕のものだ。ほかの何ものよりもそれはいま僕の心情にかなう。見栄や虚飾は人を疲らせるばかりではないか。僕には支那が丁度いいのだ。言葉は言葉としてのいのちを自ら生き栄えよ。僕が支那人を軽蔑しようとしまいとそれは僕だけに繋ることだ。僕はただ言葉の古調を愛し、つたない生の慰めとしたいだけだ。僕はこの心の風景を何と説明したらいいか。ああ、願わくばこの世の賢者たちよ、ここに到ればもはや僕の饒舌はまともに自分を描きかねるのである。しばらく本題を去って他事を談るを恕されたい。  北京の空は澄んでいることが多かった。壁の日射が移るのを僕は毎日寝床の中で眺めて暮した。この古風な城に住むだけで僕の肉体は満足していたが、生涯かかっても解ききれない人間の運命の重荷が次第に僕を浸蝕していくように感じられた。街へ出ると、僕は好んで洋車を馳らせた。蹴込みに長々と脚を組み、思い切り反かえり、梶棒をあげた拍子に、澄んだ北京の空が突然僕との距離をちぢめると、そこで僕ははじめて安心し、思考の力が蘇えって来るのを感じた。車夫が風を切って走ると、僕の思考も無限に拡がった。それは少年のころ、英雄じみた空想に興奮して自分の歩いている道をよく忘れた思い出のような思考の拡がり方であった。与えられた銅貨が尽きると車夫は車を停め、僕の思考は断ち截られ、再び感動のない地上に僕は下り立つのである。僕は肉体を疲らせて歩き、それからまた車夫溜りへ呼ぶ。連続のない思考がはじまり、しばし人間の重荷を忘れ去る。  そういう日常をくりかえす中、僕の車上の空想に、いつか一つの型が生れた。それは型というより、地上の息苦しさから思考を解放するきっかけのようなものであった。それは、この走る機械を目して発する「俺はこの男に何を加え得るであろうか」という自問の形式であった。俺はこの男に何を加え得るか。襤褸をまとった走る機械がその設問に価する一個の人間であるか否か、また設問に対して如何なる解答の方式が存在するか、そういう顧慮は、設問が習慣になじむに従って消えていった。設問は設問の意味を失い、形式だけが残った。俺はこの男に何を加え得るか。それだけで僕の思考は快く疾走しはじめる。僕は機械を忘れる。僕の思考は無限に拡がる。空の色は深い。俺はこの男に何を加え得るか。ああ。  機械が僕の思考の要求するリズムを外れるとき、腹立たしさがまた僕にこの自問を吐かせた。俺はこの男に何を加え得るか。この男とは襤褸をまとった走る機械である。湧き上る汗を首筋ににじませ、顔面紅潮し、双手は軽く梶棒を支え、歩度を一定に保って疾走する開化の交通機関。みじめな、いじらしい、それでいて人に怕れを抱かしめる執拗な本能の漲った生きもの。俺はこの男に何を加え得るか。僕の思考は怕れのない天上に馳ける。リズムが快ければ僕は車上に睡る。そのときハムのような伴奏だけがきこえている。俺はこの男に何を加え得るか。  一体、この奇妙な交通機関はいつごろ支那に渡来したものであろうか。試みに手許の雑書をくり拡げてみるに、光緒二年板行の『滬游雑記』には既に東洋車の記載がある。「東洋車は双輪旁らに転じ、前は両木を支え、一小横木を繋ぐ。一人挽きて之を曳く。ひと価廉なるを以て随地偏って坐す。然れども疾走須らく脱輪を防ぐべし。婦女乗坐するに亦後より首飾を窃取する者あり。」してみると、和泉定助の発明を去ること七年にして既に上海には怪しげな人力があったわけであり、のみならず乗客の所持品強奪の手段さえ研究されていたのである。更に光緒十年出版の『申江名勝図説』という風俗画本には、西国牧師口に十字を宣するの図や、電気燈懸けられ光明昼の如き図と並んで、東洋妓女手に三絃を撥するの図や、東洋車子路に争って喧囂するの図が集録され、日本人の大陸発展の目醒しさと共に、車夫の喧嘩の来源もまた明かにされて甚だ愉快である。現に僕は、深夜の街頭、半裸の車夫たちの肉体相衝つ※[#「金+堂」、unicode93dc]※[#「革+合」、unicode9788]の音もきいたし、白昼、前記風俗画家の筆法を借りるならば東洋人銭を争って東洋車子を※[#「足+易」、unicode8e22]倒する国際親善風景もしばしば目撃した。だが僕自身は、北京の賊は上海ほど機敏でないと見えて、一度も後から帽子をさらわれたこともなかったし、夜半酔いしれて車上に熟睡しても必ず家まで送り届けられた。  放蕩無頼の留学生の多くがそうであるように、僕も洋車ひきの男たちを友としてしばしば自虐的な快感を貧った。冬の夜、日本珈琲店の帰りを街辻の夜明かしの攤子で彼らと臂をならべ熱い饂飩をすすり白干に喉を焼いた。鬱屈する激昂の心情をもてあつかって夜半ひそかに軒燈の光のとどかぬ槐樹の下の古り朽ちた門扉を叩かせて歩いた。そういう晩も、彼らは家畜のように従順に、路傍の闇に主人の帰りを待ち明かした。夜ふけて一里の道を揺られていくとき、膝から冷えてふと目を醒せば、車は胡同の泥濘を踏んでカンテラの下だけに水潦が光る。僕は徐志摩の詩を借りてものうく車夫に呼びかける。  「おい、車や、この道はばかに暗いな」  「へえ、旦那、この道は全く暗うがす」  …………  天に星なく  街にともしなし  カンテラの光  巷のほこりを浴び  右にゆれ、左にゆれ  車夫はしも蹌踉として歩を運ぶ  …………  この間死んだ人道主義者蔡元培は、洋車ひきに人間を発見した最初の人であったかもしれない。彼は、自動車のないとき馬車に乗り、馬車のないときはじめて洋車に乗ったという。彼が発見したかもしれない人間を、不幸にして僕は発見することが出来なかった。却って人間の根源、もしそういうものがあるならば、生々して息まない人間を超えたある種の茫漠たる実体をそこに感じた。いわば無限の時空に拡がる人間を生んだ土壌の感じである。孔子とか、孟子とか、関羽とか、孫悟空とか、さまざまな英雄たちの行動も、僕がそれを詳しく知れば知るほど、そこに根を張りその根に栄える無辺の境涯を想像させるようになる。僕は東京のバスに乗って、車掌の愛嬌さえ気になるが、洋車ひきとの交渉はせいぜい一片の銅貨を多く地上に擲きつけるだけで解決がつく。数ならぬ作家の品評を下すより、これは遥かに明確な現実ではないか。彼らの個人の表情は記憶に残らぬ。在るものは全体としての一個の抽象された支那人一般の顔である。  車夫に支那人を発見して僕が支那という言葉を使うようになったとすれば、説明はまことに簡単だが、実際はそんなわけではない。たしかに彼らは支那人である。厚手の絨毯を敷きつめた客間で、相手の顔色を窺いながらおずおず口に出す中国人という日本語の響きは決して浮んでこない。だが、それだけなら、直接彼らに接する前に、日本の畳に寝ころんでパアルバックでも読んでいればそれでいい。ながなが洋車ひきの物語を綴ってみるのも、故らに寓意を弄ぶ意味では勿論なく、僕らの中国文学が危い哉とはっきり嘆いてみたいのである。  中国文学といい、中国文学研究会という。そう云ってみたところで何になろう。年老いた洋車ひきの裸の背筋を流れる汗を見つめて、この者に何を加え得るかと問うのである。問うことの無意味を説教しなくていい。加え得ると答えることも、加え得ぬと答えることも、同様に無意味であろう。それは僕から近代の文学を截り離す働きだけはあるのだ。茫漠たるもの、これを天地といい、これを混沌という。現世に栄えた人間も、いつかは滅亡するにちがいない。人間の帰属するある種の本源なるものは、これを民族の名でよべば、それは支那民族のことではないかと僕は思うのだ。  以上の長談義は、僕自身にとっても、結局今のところ象徴的な意味しか有たない。前にも云った通り、僕が中国という言葉を使いきれないのは理窟ではないのだ。いまは僕自身が自分の仕事を中国文学と呼びたくないという気持だけを書き記しておきたいと思う。  さて、僕の感興はなかなか造型されて出て来ないのである。徒に文字のみ費した。かくては果てじと思うから、以下、結論に当る理窟だけ述べておく。  今日、支那を中国に代えんことを主張するものは、どれだけ支那人の支那という言葉に対する感情を知悉しているか。また論者は、日本語の語彙に中国という言葉を挿加えることに幾許の自信があるか。過去に支那と称したことによって、たしかに支那を軽蔑したか、いま中国と称することによって、必ずこれを軽蔑せぬか、何人も己の胸に問うことなくして言葉の問題を提出するとするならば、文学の背信これより甚しきはないであろう。僕をして云わしむれば、彼らが支那人を軽蔑するとせぬとは同じことである。彼らは、子供をあやすように支那人を憐憫し得たと信ずるかもしれない。これほど支那人にとっても迷惑なことはない。憐憫さるべきは、一人の支那人を愛し一人の支那人を憎み得ぬ彼ら自身の精神の貧しさなのである。もし支那に支那人が侮蔑を感ずるならば、その被侮蔑感を僕は払拭したい。いつか支那人の前で、ためらうことなく、相手の気嫌を忖度することなく、はっきり支那と云いきれる自信を養いたい。僕は支那人を尊敬しようとは思わない。だが、支那に尊敬すべき人間の居ることは知っている。日本に軽蔑すべき人間が居ると同様に。僕は支那人を愛さなければならないとは信じない。だが僕は、ある支那人たちを愛する。それは、彼らが支那人であるからでなく、彼らが僕と同じ悲しみを常住身にまとっているからである。僕は、日本語の響を純粋にするためにも今は支那といいたい。支那という言葉を確実に使いきれば、支那を中国に代えるのは一投足の労である。いまは支那を使う練習を積みたい。その日が来るまで。それまでは人が支那といおうと、中国といおうと、あるいは片仮名でチュンクオといおうと、あまり気にかけずに居たいと思う。僕は言葉の問題を簡単に考えたくはないのである。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『中国文学』第六十一号(一九四〇年八月、中国文学研究会刊)に発表、『竹内好全集』第十四巻に収録。 [#改ページ] [#見出し]  大東亜戦争と吾等の決意(宣言)  歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。感動に打顫えながら、虹のように流れる一すじの光芒の行衛を見守った。胸ちにこみ上げてくる、名状しがたいある種の激発するものを感じ取ったのである。  十二月八日、宣戦の大詔が下った日、日本国民の決意は一つに燃えた。爽かな気持であった。これで安心と誰もが思い、口をむすんで歩き、親しげな眼なざしで同胞を眺めあった。口に出して云うことは何もなかった。建国の歴史が一瞬に去来し、それは説明をまつまでもない自明なことであった。  何びとが、事態のこのような展開を予期したろう。戦争はあくまで避くべしと、その直前まで信じていた。戦争はみじめであるとしか考えなかった。実は、その考え方のほうがみじめだったのである。卑屈、固陋、囚われていたのである。戦争は突如開始され、その刹那、われらは一切を了得した。一切が明らかとなった。天高く光清らに輝き、われら積年の鬱屈は吹き飛ばされた。ここに道があったかとはじめて大覚一番、顧れば昨日の鬱情は既に跡形もない。  思うに人間生死の境は、常時の思惟をもって測られぬものがあるにちがいない。醒めてみれば、煩悩の昔がむしろ怪しまれるのである。われら若年にして日露戦争を知らず、国民士気の昂揚が行われる場面を、歴史理論の抽象によるほか、把えようがなかった。今日、この国家の盛事に際会して、自らの内に非凡の体験をかち得たことは、生涯の幸と申さねばならぬ。  率直に云えば、われらは支那事変に対して、にわかに同じがたい感情があった。疑惑がわれらを苦しめた。われらは支那を愛し、支那を愛することによって逆にわれら自身の生命を支えてきたのである。支那は成長してゆき、われらもまた成長した。その成長は、たしかに信ずることが出来た。支那事変が起るに及んで、この確信は崩れ、無残に引き裂かれた。苛酷な現実はわれらの存在を無視し、そのためわれらは自らを疑った。余りにも無力であった。現実が承認を迫れば迫るほど、われらは退き、萎えた。舵を失った舟のように、風にまかせてさ迷った。辿り着くあてはなかった。  現実はあまりにも明白かつ強力で、否定されようがない。われらは、自身を否定するより仕方なかった。ぎりぎりの場所に追いつめられて、ひそかにただならぬ決意を胸に描いたこともある。今にして思えば、局限された思惟の行く先はこのようなものでしかなかったであろう。くよくよと思い煩らい、一も行動に出ることなく、すべてのものを白眼に視た。この間の消息は、この雑誌の読者が賢明にも見抜いていたことと思う。不敏を恥づ、われらは、いわゆる聖戦の意義を没却した。わが日本は、東亜建設の美名に隠れて弱いものいじめをするのではないかと今の今まで疑ってきたのである。  わが日本は、強者を懼れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露がこれを証かしている。国民の一人として、この上の喜びがあろうか。今こそ一切が白日の下にあるのだ。われらの疑惑は霧消した。美言は人を誑すも、行為は欺くを得ぬ。東亜に新しい秩序を布くといい、民族を解放するということの真意義は、骨身に徹して今やわれらの決意である。何者も枉げることの出来ぬ決意である。われらは、わが日本国と同体である。見よ、一たび戦端の開かれるや、堂々の布陣、雄宏の規模、懦夫をして立たしめるの概があるではないか。この世界史の変革の壮挙の前には、思えば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであった。支那事変に道義的な苛責を感じて女々しい感傷に耽り、前途の大計を見失ったわれらの如きは、まことに哀れむべき思想の貧困者だったのである。  東亜から侵略者を追いはらうことに、われらはいささかの道義的な反省も必要としない。敵は一刀両断に斬って捨てるべきである。われらは祖国を愛し、祖国に次いで隣邦を愛するものである。われらは正しきを信じ、また力を信ずるものである。  大東亜戦争は見事に支那事変を完遂し、これを世界史上に復活せしめた。今や大東亜戦争を完遂するものこそ、われらである。  歴史はしばし一の行為によって決せられる。今日われらが狐疑することは、明日の歴史の埒外にわれら自身を放り出すことになるのだ。この戦争を真に民族の解放のために戦い取ると否とは、繋って東亜諸民族今日の決意の如何にあるのだ。  もとより戦争の困難は云うを俟たない。しかしその困難は、われらが歴史の自覚に立ち帰ることによって除かれるものである。戦争のさまざまな段階を通じて、われらはいく度かわれら自身の脱皮を余儀なくされるであろう。旧勢力は激しい勢で没落しよう。不純なもの、弱きもの、卑しきものは、ことごとく淘汰されねばならぬ。この戦に勝ち抜くために、われらはすべての矛盾と欺瞞とに怖れず立ち向わなければならぬ。  われらは支那を愛し、支那と共に歩むものである。われらは召されて兵士たるとき、勇敢に敵と戦うであろう。だが常住坐臥、われらの責務は支那を措いて無い。今日われらは、かつて否定した自己を、東亜解放の戦の決意によって再び否定され直したのである。われらは正しく置きかえられた。われらは自信を回復した。東亜を新しい秩序の世界へ解放するため、今日以後、われらはわれらの職分において微力を尽す。われらは支那を研究し、支那の正しき解放者と協力し、わが日本国民に真個の支那を知らしめる。われらは似て非なる支那通、支那学者、および節操なき支那放浪者を駆逐し、日支両国万年の共栄のため献身する。もって久しきに亙るわれら自身の腑甲斐ない混迷を償い、光栄ある国民の責務を果したいと思う。  中国文学研究会一千の会員諸君、われらは今日の非常の事態に処して、諸君と共にこの困難なる建設の戦いを戦い取るため努力したいと思う。道は遠いが、希望は明るい。相携えて所信の貫徹につき進もうではないか。耳をすませば、夜空を掩って遠雷のような轟きの谺するのを聴かないか。間もなく夜は明けるであろう。やがて、われらの世界はわれらの手をもって眼前に築かれるのだ。諸君、今ぞわれらは新たな決意の下に戦おう。諸君、共にいざ戦おう。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『中国文学』第八十号(一九四二年一月、中国文学研究会刊)に無署名で発表、『竹内好全集』第十四巻に収録。 [#改ページ] [#見出し]  『中国文学』の廃刊と私  去年の秋ごろから、もやもやしたものが私の裡に募っていた。それは以前にもあったことであるが、その都度外から支えるものがあって済んだ。今度はそれがなくて、勢い決定的な場所に立った。それでも、雑誌をやめるというぎりぎりの考は最近までなかったのである。私はただ、自分が身を退くこと、雑誌が更生すること、この二つを望んだ。雑誌をつぶす考えは毛頭なかった。その改革が、今度は失敗したのである。止めることが決定的になった今では、冗談から駒が出たような、あるいは、火遊びが過ぎたような、けうとい思いもあるが、また却って止めるのが本当であったという安心も感ずる。  私は中国文学研究会が、私がやめても独り立ちが出来るようになることを願い、そのような方向に会を育てようと努力してきた。中国文学研究会は私たちの生んだ作品である。生んだのは作者であるが、生まれた作品は、既に社会性を具えた客体として在るものである。作品は作者を離れて、今度は自らが自らを生み出してゆかねばならぬ。つまり内部から自己を否定してゆかねばならぬ。私は、私を否定するものの出現を待ちもうけていた。私は自分が反動と呼ばれることを願った。私は会が私を追放することを願ったのである。自分で会を圧殺しようとは思わなかったのである。この私の考えは甘かったであろうか。いい子になりすぎたのであろうか。私は会を愛しすぎたか、愛し足りなかったか。それとも、作品そのものが生産に値しない未熟なものであったのか。結果としては、会が私を否定するのでなくて、私が会を否定するという行為によって私の裡にあるもやもやを消すより仕方なくなったのである。  私は会をつぶそうと思ったのでなく、改革を企てたのである。その改革の失敗から結果としてつぶすことになったのであるが、ではその改革とは何を指すか。私の裡にあるもやもやとは何であるか。この説明は私にとって苦手である。いろいろの外部的事情はあるが、いずれも重要でないこと、千田の指摘の通りである。私はただ、何ものかに対して相済まぬ気がして、このままい据るのが後めたく、心苦しくてならなかっただけである。私は重大な過失を自分が犯しているような気がした。その償いとして身を退くことを考えた。他人は咎めなくても、自分に咎められた。むしろ他人から咎められぬことが一層辛かった。とにかく一時逃れたかった。卑怯かもしれぬ。卑怯でもかまわぬと思った。そこを少し我慢すれば打開したかもしれぬが、勢いで踏み切ってしまったのである。  こう云うと、いかにも無責任のようであるし、事実また無責任かもしれぬが、今となっては止めてよかったと思っている。止めてから考えれば、やはり止める方に妥当性があったように思う。止めることは正しかった。その正しさは、今後の行動によって生かさるべき正しさであるが、とにかく今の立場はそうである。中国文学研究会の正しい道は解散以外になかったのである。それは、解散を決意したときにはじめて分った。  第一の理由は、今日、われわれが党派性を喪失したことである。中国文学研究会は中国文学研究会としての特色を失った。これは一面には外界の発展の結果であるが、また会そのものの発展でもある。最初、中国文学研究会が成立したとき、混沌の中から自己を定立し生成してゆくための本源的な矛盾が確かに内在していた。われわれは議論を闘わし、それによって次第に環境から自己を選び出し、その選び出すことによって逆に環境を支配する位置に立とうとした。私たちの当初もくろんだことの何分の一も今日実現されたとは思わない。私たちは決して世界を支配する位置に立っていない。それにもかかわらず、われわれはお互いに識り合い、狃れあった。そして世間も、会をそのものとして程よく認めるようになり、われわれ自身がその評価を一応は甘んじて許すかに見える。根源的な矛盾が消えて、安定が来た。持続の日がはじまったのである。そのような会を、私は不満に思う。私にとって、会は不断に成長するものである。永久に自己否定を繰返すものである。死を含まぬ生、疑いに発せぬ思想、自己自身に生成発展を遂げぬ文化はすべて私において無意語である。私は会をそのように扱い、そのように愛してきた。すなわち私にとって、根源的矛盾を喪失した会は、改革の対象であるか自分が身を退くかよりない。そして今度はいずれにも失敗した。  党派性の喪失にはさまざまな外的原因が考えられるが、それらはすべて重要なことでない。真に重要なことは、われわれが今日まで正しいと信じて守り育ててきた態度としての党派性が、真実のものであったか否かということである。見かけやゴマカシでない、こればかりを命と頼みうる杖であったかどうかということである。虚名の手段としての反逆でなく、生命の孤独に徹した止みがたい否定の情熱であったか否かということである。かつて松枝は、会を止めるには時機を失したと書き送ったが、いま私が会を止めねばならぬと考えるのも、同じ会の名を惜しむからである。自ら信ずる党派性の正しさの実証のため解散を賭する行為が必要であり、止めることによってのみ真仮を形に見うるからである。中国文学研究会が消滅したとき、かつて中国文学研究会の存在した空間が私の信ずるように真空のまま残され得るならば、それは寂寥に堪えかねて必ずや異様な本能の呻き声を発するはずである。その声を私は耳に聴きたい。原初の生活動が無間の無の底から生れ出る日を待ちたい。私は、会が確かにそのようにあったことを信じ、今日までの私たちの営みの生かされる場所を形なき本源の無の世界に求めたいのである。  党派性の喪失を解散の理由に挙げることは、今日の文化の通念からは不可解に思われるかもしれぬ。多くの人はこのようには考えぬかもしれぬ。むしろ世間が会を認めたことによって、会の名声は高まり、われわれの支配が一歩ずつ実現へ近づきつつあることの証左に考えよと命ずるかもしれぬ。すべてそれらの考え方は誤りであると私は思う。そこに考えられている文化は世俗化された文化であり、段階的な進歩の観念であり、真の文化の発展とは係わりないものである。私たちの会の究極の立場は、そのような世俗を否定し、世俗化されてゆく自己自身を否定することにある。世俗化は会の発展に伴う必然的現象であり、いわば運命であるが、その運命に刃向うことが、逆に本源的なものからの逸脱を私たちに警しめる糧となるのである。従ってその態度を誤らぬ限り、解散の危機はこれまでも絶えず繰返されてきたわけである。卒爾に廃刊を思い立ったのでなく、日毎の営みが廃刊のために誠実に営まれねばならなかったのである。遺憾ながら、私たちの態度は空しさに対して十全に誠実であったと云いきれぬ。それは解散の日に心を傷ましめることの一つである。  今日の文化は、本質において官僚文化である。官僚文化は性格として自己保全的である。従って私たちの行動が、今日の文化の通念から理解されぬことは止むを得ぬ。むしろ私たちがそのために自らの会を閉じる争いの対象こそ、そのような文化の通念の生れる根元なのである。私は、大東亜の文化は、自己保全文化の超克の上にのみ築かれると信じている。わが日本は、既に大東亜諸地域の近代的植民地支配を観念として否定しているのではないか。私はそれを限りなく正しいと思う。植民地支配の否定とは、自己保存慾の抛棄ということである。個が他の個の収奪によって自らを支えるのでなく、個が自らを否定することによって他の個を包摂する立場を自らの内に生み出してゆくことである。奪うことによってでなく、与えることによって世界が描かれねばならぬ。この大東亜理念の限りない正しさは、私たちの日常生活の末にまで滲透し、それを根底から揺り動かし、そこから新しい文化を自己形成してゆかねばならぬ。行為を通じてのみ、自己否定の行為によってのみ、創造はなされるであろう。行為によって購われた観念のみが真の観念なのである。  われわれが党派性を喪失したこと、それが解散の理由である。党派をもって生れた結社が、党派性を失った場合は解散以外に生きる道はない。それは私の信ずる文化の存在の仕方である。私の考を非とするものは、文化の名で世俗のものを、文化の生み捨てた形骸を談っていると私には思える。それは生の根を断たれた、枯渇した観念に過ぎぬ。それは仮象である。思想ではない。思惟の怠惰である。会は解散によって過去の全活動を甦らすのである。生きるために死を選ぶのである。勿論、会はいま解散せずとも世間は非難しまい。世間は受動的なものである。その世間の寛容は許せるが、世間の寛容を許す私たち自身の怠惰は許せぬ。十二月八日の決意の前に誓って許せぬ。私たちが今日文化を担わずして誰が担うであろうか。  以上述べたことはなお甚だしく抽象的である。主体的に文化に対する志向は談っていようが、その志向された文化の内容には触れられていない。それは現在私にとっても混沌としている。歴史的所産としての中国文学研究会を外から眺めることは現在私にとって困難なことである。しかし私は、前説を補足する意味で能う限り論理的にその点の所信を挙示しておきたい。それは、簡単に云えば、中国文学という態度が大東亜文化の建設に対して存在の意味を失ったということである。これが解散の第二の理由である。それを中国文学研究会の歴史に照して考えてみたい。  中国文学研究会は、漢学と支那学の地盤から生れた。支那学が漢学を否定することによって学問として成立したように、私たちは官僚化した漢学と支那学を否定することによって内から学問の独立をかち得ようとした。漢学や支那学は歴史性を喪失しており、現実の支那の理解に対して無力である。従って現代文化に係わりを持たぬ。この学問の自己改革の意慾が中国文学研究会を生んだのである。それは自己改革であるとともに、それによって学問一般の改造を志し、従って現代文化一般の批判者たらんことを企図したものであることは、今日に及んでは明らかに云えることである。私たちは、自己の内にある漢学的なものと支那学的なものを洗い去るために努力した。この固型化した観念の滓を清めることによって学問の本源を探ろうとした。現代文化の基礎をなす文化の自律性と称せらるべきものを、否定の行為によって掴もうとしたのである。その否定の媒介者として選ばれたものは現代支那文学であった。現代支那文学とは、現代支那によって書き改められた支那文化ということである。漢学が宋学に、支那学が考証学に対応するように、中国文学研究会が現代支那文学に対応すると考えるのは、現代支那文学をその意味に理解した場合はじめて歴史的に正しい。従ってまた、同時代の東洋史学や左翼文学運動や唯物史観とその反対者を含む社会経済史派との立場を異にした中国文学研究会独自の存在の仕方もこの点にあったわけである。中国文学研究会は唯一であった。支那の理解において唯一であったばかりでなく、現代文化の内在的批判においても唯一ならんとした。何故ならば、私たちは方法として一般外国文学研究の態度に従ったが、そのことは逆に、一般外国文学の研究を可能ならしめる現代文化の框を、支那を媒介とすることによって批判しえたからである。今日においても、中国文学研究会によって否定された漢学および支那学は、事実として残存する。のみならず中国文学研究会自体がいちじるしく支那学化してゆく傾向にある。このことは、中国文学研究会が権力や官僚的背景を持たぬことの結果で、政治の問題ではあるが本質において文化の問題ではない。それは中国文学研究会の正しさを害うものではなく、むしろ正しさを立証するものである。別に一方では残存文化が中国文学を吸収して形式を変えつつある傾向も指摘出来るので、中国文学研究会の党派性の喪失はこの内外二面の作用として考えられるのである。文化の本質を変える性質のものでは勿論ないが、中国文学が常識化し、世俗化した現象は事実として指摘できるのである。ただ私は、かかる現象の推移が、中国文学研究会自体の成長によるよりも、たとい中国文学研究会の正しさを消極的に裏書きするとはいえ外部からの強圧に基くところが多く、従って学問の変革としては中途半端に止ったことを極めて遺憾に思うのである。  漢学と支那学の否定を立地とし、一般外国文学研究の方法を方法とした中国文学研究会は、まさにそのゆえにこそ行き詰らなければならなかった。漢学と支那学の否定のためには中国文学研究会自体の否定が必要となった。  私は中国文学研究会十年の経営の体験の上に立ってこれを云うのである。私たちは、文化の自律性を探求する道を歩みつづけることによって、文化の自律性を可能ならしめるものとは反対の極へ突抜けた。歴史性を失った漢学と支那学を現代文化に向って自己改革する運動が逆に現代文化を否定する場所に私たちを導いたのである。すなわち中国文学研究会の解散はその発展の延長であり、歴史的運命である。限定された意味でこれを云えば、私たちの方法とした一般外国文学研究の方法が方法としての意義を失うという自覚に私たちは到達したのである。そして、この自覚を私たちに与えたものは、直接には云うまでもなく大東亜戦争である。  大東亜戦争は世界史の書き換えであると云われている。私は深くそれを信ずる。それは近代を否定し、近代文化を否定し、その否定の底から新しい世界と世界文化を自己形成してゆく歴史の創造の活動である。この創造の自覚に立ったとき、私たちははじめて自己の過去を見、その全部を理解することが出来た。中国文学研究会を、それが正しきがゆえに狭しとする立場がそこから生れた。中国文学研究会は否定されねばならぬ。つまり現代文化は否定されねばならぬ。現代文化とは、現代においてあるヨーロッパ近代文化の私たち自身への投影である。私たちは、そのようにある自己自身を否定しなければならぬ。何故ならば、私たちは世界史を自らの内に生み出す創造者としてあるからである。他物によって自己を支えるのでなく、自己自身に自己を生まねばならぬ。中国文学研究会を否定することは、漢学や支那学を復活させることではない。それらを引くるめて、大いなる否定者となることである。云いかえれば、全部の理解者となることである。自己を否定することによって自己を世界化することである。在る自己に何ものかを加えるのでなくて、自己を無限に新たに生み出す根底に立つことである。中国文学研究会十年の経営は、この自覚を得んがために費されたのである。  私は、大東亜の文化は、日本文化による日本文化の否定によってのみ生れると信じている。日本文化は、日本文化自体を否定することによって世界文化とならねばならぬ。無であるがゆえに全部とならねばならぬ。無に立帰ることが世界を自己の内に描くことである。日本文化が日本文化としてあることは、歴史を創造する所以ではない。それは、日本文化を固型化し、官僚化し、生の本源を涸らすことである。自己保存文化は打倒されねばならぬ。そのほかに生き方はない。  自己の保存を前提とし、従って対者の存在を予想した外国文学の研究の態度は、かかる歴史の自覚の前に意義を失う。歴史の創造者にとって、世界は内に生み出さるべきもので、外から加えらるべきものではない。外国文学は日本文学の内にあらねばならぬ。外国文学をして日本文学の内にあらしめるための行為が、日本文学を越え、外国文学を越えて、新しい自己を世界文学に押出してゆくのである。逆に云えば、外国文学を外国文学として扱うことによって外国文学は理解されなくなった。外国文学を理解するためには外国文学を越えねばならぬ。自他の関係を越えねばならぬ。単なる説明であってはならぬ。自己がそのものにならねばならぬ。自己がそのものになるためには、自己がまず自己自身であることを止めねばならぬ。日本文学が日本文学自体を否定することによってのみ、外国文学は自己の内に生きる。それが究極の理解である。すなわち外国文学の研究は、日本文学の自己否定に置き換えられねばならぬ。存立の根拠の失われることを恐れる必要はない。恐れるものがあれば、それは歴史の創造者の自覚を持たぬ自己保存慾者、文化の官僚主義者、思想の貧困者のみである。  誤解のないために一言すれば、私は外国文学の研究が不要なりとか、外国語の教授を止めよとかを主張するものではない。むしろその逆である。外国文学の研究はますます盛にならねばならぬ。私はただ、それが日本文化へ外から何物かを加えるという意識を否むのである。その傍観的態度を憎むのである。それは究極において、自己保全的であり、ヨーロッパ的近代を肯定する立場であり、従って非歴史的であり、何らかのヨーロッパ的世界像を前提とするからである。すなわち、経済人にせよ思想人にせよ何らかの抽象的自由人が予想されているからである。かかる立場からの外国文学の研究は、ヨーロッパ的近代の超克者としての大東亜の理念と背馳するだけでなく、学問的にもその無力が実証されるのは近い将来であろうと私は信じている。それは外国文学の理解の方法として無力であるがゆえに不可なのである。あくまでも学問の問題としてである。外国文学の研究が必要なればこそ、その学問としての改革を要求するのである。もしも便宜主義に出でて外国文学の研究を不必要なりと云うものがあれば、そのものこそ最初に芟除されねばならぬ固陋な旧伝統の寄生虫である。  一般外国文学の研究の方法が学問としての真実性を失ったこと、それが中国文学研究会の党派性の喪失の側面的説明である。私たちは今日、支那を研究するのに、自己の対立物としての支那を肯定してはならぬ。存在としての支那はあくまで私の外にあるが、私の外にある支那は越えらるべきものとして外にあるので、究極においてそれは私の内になければならぬ。自他が対立することは疑いえぬ真実であるが、その対立が私にとって肉体的な苦痛である場合にのみそれは真実なのである。つまり支那は究極において否定されねばならぬ。それのみが理解である。そのためには、支那に相対する現在の私自身が否定されねばならぬ。中国文学研究会による支那の理解は無力である。真の理解となりえぬ。外国文学としての支那文学が日本文学の視野に主体化される点まで私たちは焦点をずらさねばならぬ。つまり主体的に日本文学の立場に立たねばならぬ。その場合、私たちの決意を日本文学が受け入れるであろうか。受け入れまい。受け入れるべく日本文学はあまりに衰弱しており、そのゆえにこそ私たちは会を止めねばならなかったからである。すなわち私にとって、支那文学の問題は日本文学の改革の問題に転化してはじめて意味を持つのであり、中国文学研究会の解散はその決意の発端とならねばならぬのである。これが第三の、そして積極的な解散理由である。  今日の日本文学の衰退を私は由々しいものに感ずる。作家は一般に思想を失っており、行為によってそれを創造するのでなく、既製の観念を借りて身を飾ろうとする。外見は錦であろうとも、それは文学者にとって襤褸のはずである。今こそ真実が吐露されねばならぬ時機でありながら、真実は逆説的にしか自己を表出せぬ如くである。真実を装う虚言は天地に瀰漫し、それを怪しむことさえ人々はためらう。世を挙げて滔々たる官僚文化の余※[#「薛/子」]に身を委せきったかに見える。真の文学は、かくてはあるまいと私は思う。口に大東亜を唱えるのは大東亜を生み出すことではない。大東亜は自己の内に、否定の行為を通じて生み出されねばならぬ。それのみが創造であり、創造のみが文学である。文学とはただ一つの言葉を吐くことであるが、そのただ一つの言葉を吐くために灼熱を手に掴む行為が必要である。それなくしては宇宙の広大も私にとって空しい。  今日、文学が衰退していることは掩うべからざる事実である。それをあからさまにしたものは大東亜戦争である。文学が衰退しているとは、客観的に説明すれば、世界が文学的構造を持たぬということである。今日の世界は、文学的であるよりは確かに哲学的である。今日の文学は、大東亜戦争を処理できぬ。そのため、うろたえるのである。しかし、そのことは逆に内から見れば、今日こそ文学が原初の荒々しさに帰ることを要求されているとも云えるのである。文学の衰退は、衰退した文学の否定に転ずることによって甦る。それのみが新しい自己を自己の内に生み出す。外界にかかずらうのでなく、自己の内に沈潜することによって世界が創造されるのである。大東亜の新しい文学は、与えられるものとして外にあるのでなく、今日の衰退文学を自己否定することによって否定の無限の底から自己自身に湧き出づるものである。私は日本文学が、曲折はあるにしてもいつかその脱皮を成就するものと信じたい。今日は文学に本来のものとしての、心理の外皮でなく、内なる行為の決意が省みられねばならぬ時である。私はかつて「中国文学叢書」の発刊に当ってその意味の言葉を餞とした。雑誌とともにこの叢書も中絶の止むなきに立到ったが、私のこの言葉は今も原理的には正しさを失わぬと信ずる。それは正しいのであるが、正しいがゆえに「中国文学叢書」であることを止めねばならぬ。「中国文学叢書」であることは今日では十分な表現でなくなった。それは止めることによって甦る。  以上は、中国文学研究会の解散に際しての感想である。重要なことはほぼ述べつくせたかに思う。措辞のくだくだしさと、その由って来る所以の思想の未熟さは認めるが、心にない見栄はなるべく慎んだつもりである。それでも読む人には私が肘を張っているように映るであろうか。私自身はやや本心を談りえたような気がしている。私は、中国文学研究会の生きる道を求めて解散に辿りついたのである。たとい周囲の事情はどうあろうとも、やる気なら雑誌の一つくらい何としても続ける自信はある。それは他人には虚勢と見えるかもしれぬが、私はそうは思わぬ。しかし、それを云うのはやはり弁解がましいことである。  私は解散の理由をいろいろ挙げたが、会員諸君は納得するであろうか。恐らく賛否は別れるであろう。私の挙げた解散の理由は、そのまま転じて解散を非とする理由にもなる性質のものである。私はそれを認める。解散と不解散は表裏である。真の理由はほかにあるだろう。解散を決意した私が、解散を非とする私と表裏なのである。私は解散後の自悔の念を計算に入れているつもりであるが、その計算は私自身にとっても信じがたい。今の私にただ切実なものは、一所不住を旨とした古人の心である。私は明日も、虚空に文字を刻む所業を改めまい。  最後に附加えておきたいことは、解散の理由が何であるにせよ、それによって私の社会的責任が解除されぬことである。中国文学研究会は天下の公器である。本来的に終期の予定されぬ性質の機関である。私は中国文学研究会の至上命令なりとの判断に基いて行動したが、その判断の当否に対して負う責任は私一個のものである。私にとって正しいことが、他の人にとって必ずしも正しくない。私は指弾を受けるであろう。指弾を受けただけでは済むまい。私は社会的に追放されるかもしれぬ。それも止むを得ぬことである。私はそれらの苦しみや悲しみや憎悪や怨恨が大きな肯定となって生かされる日まで、吾が身一つを抱いてじっと待ちつづけるつもりである。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『中国文学』第九十二号(一九四三年三月、中国文学研究会刊)に発表、『竹内好全集』第十四巻に収録。 [#改ページ] [#見出し]  支那研究者の道  今年(一九四三年)の四月八日、北支派遣軍は「国府参戦後の日華両国関係の進展に対応する在華北全将兵の精神的目標を統一し、真に日華一体的立場より大東亜戦争を完遂せんとの不動の決意を昂揚」するために『国民政府参戦と北支派遣軍将兵』と題する小冊子を「北支軍全将兵に配布」したそうである(引用はすべて同盟電報による)。私は、それを読んで、五年有半の歳月が私たちに与えた教訓を思って、感動を禁じなかった。いわゆる対華新政策なるものについて、いろいろの人がいろいろの意見を述べているのを読んだが、この『国民政府参戦と北支派遣軍将兵』ほど、明確にして感動的な文章を、私は他に一つも発見できなかった。  その文章は、三つの部分から成っている。「大東亜戦争の様相と我等の覚悟」、これは総論である。「日華提携の根本精神と国民政府参戦」、この部分が当面の主題である。「将兵の信条」、その主題を自己一身の立場に還元し、「われわれは先づ一人一人が皇軍将兵の真面目を発揮して中国人民の心を把握」し「彼らの信頼を受け」るためには如何にすればよいかという心構えが五項目に分って説かれている。その項目はいずれも十分に具体的である。  私の感動した理由の第一は、この文章が、大東亜建設の課題を精神の問題として、何よりも文化の問題として把えていることである。「大東亜十億民心の結束を俟つてこそ始めて大東亜戦争の東亜的使命が確立せられ且つこれが真の完遂を期しうる。」資源の問題も究極においては精神の問題に帰属される。「大東亜共栄圏の思想建設こそ大東亜戦争の始めにして終りである」とさえ、この文章は云い切っている。明確というのは、このような言葉のことである。更に、その「大東亜十億民心の結束」の実現のためには「力による強制のみを以てしては断じて不可能である」、「何故ならば力の強制による結束は飽迄表面または一時的の結束に止まるからである」。では如何にすればよいか。支那の場合は「日本人が中国の独立国家たる権威とその誇りとを尊重し、正義と誠意とを以て真の提携を図る」ことによってそれは達成される。「これに反し、尚誤れる優越感を以て中国人を劣等視し、好意的支援と干渉とを混同して日本人が独善主義あるひは圧迫」などの態度に出るならば、それは永久に達成されぬのである。 『国民政府参戦と北支派遣軍将兵』は北支軍将兵に読ませるため編まれたものである。しかしそれは全日本国民の読むべき書物であると私は思う。就中、文化人、ことには支那に関する学問をしている私たちの読まねばならぬ書物である。何故ならば「大東亜戦争の東亜的使命が確立せられ、且つこれが真の完遂を期しうる」所以であるところの「大東亜共栄圏の思想建設」こそ、私たち支那研究者が身をもって掴まねばならぬ必死の課題だからである。しかも「誤れる優越感を以て中国人を劣等視」し「中国の独立国家たる権威とその誇り」とを傷け、かかる支那観を国民に植えつけることによって「日本人が独善主義あるひは圧迫」を支那に加えることを黙許、あるいは奨励して「真の提携」を阻害してきたものこそ、私たちおよび私たちの先輩である支那研究者たちであったからである。『国民政府参戦と北支派遣軍将兵』は、北支派遣軍将兵よりも先に、支那研究者に読ませねばならぬ。そのような書物を将兵に与えねばならぬ現状を将来した責任者として、これまでの支那研究者の罪を責めねばならぬ。支那問題に関して、もし誰かが悪ければ、それは誰よりも支那研究者が悪いのである。私の言葉を誇張だと思う人は、何でもいいから手許の支那研究書の一冊を開いてみるがいい、支那人が如何に劣等であるか、支那歴史が如何に罪悪の集積であるか、支那文化が如何に亭楽主義的であるか、等々を論じた書物でないものが、その中に何冊あるだろう。勿論、支那研究書の中には過去の支那文化の秀れた点を挙げて称揚しているものも少くない。ところが、よく見ると、これは実は「誤れる優越感」を裏返しにしただけのものに過ぎない。支那は過去に偉大な文化を持ったが、それは既に滅んでしまった、というのである。たとえば、支那は過去に儒教のような立派な教訓を有したが、それは既に支那では滅び、却って日本に生きている、と考える。従って、現代支那は堕落しているから、日本人が儒教を与えることによって救済しなければならぬ、と考える。これこそ、「好意的支援と干渉とを混同して日本人が独善主義」を押しつけている好例である。もし儒教が支那で滅んでいるなら、それを滅ぼしたものは支那自身であり、近代国家として生長する必要から支那はそれを自ら滅ぼしたのである。支那は、近代国家を建設することを、日本の支那学者を喜ばすことよりもより多く必要と感じたのである。国家の生存が儒教よりも大切だったのである。然るに、その故をもって五四以後の新文化運動を非難する日本の支那学者は「中国の独立国家たる権威とその誇りとを尊重し」ているだろうか。私は、かかる頑迷の徒は「中国」のみならず日本の「独立国家たる権威とその誇り」を如何に考えているかを疑いたい。何故ならば、儒教は支那から輸入されたものであるが、それは既に日本化されており、日本化されたがゆえに残ったのであり、従って日本文化として存在しているからである。それは本質的には支那文化と関係がない。たとい支那で滅びなかったとしても、支那の儒教と日本の儒教とは異るのである。然るにそれを支那に復活するとかせぬとか騒ぐのは、日本文化が過去に支那文化の影響を蒙ったことから来る文化的隷属意識を脱却していない情ない考え方である。日本的儒教は、われわれの光輝ある文化的遺産であり、今日その保証を支那に仰がねばならぬほど弱いものではない。同時に、現代支那は現代支那自体の文化を有しているので、日本的儒教をもって解釈しなければならぬほど非独立的ではない。日本的儒教を現代支那に強要する支那学者たちは、それによって自国文化に対する自信の欠如と、現代支那文化に対する無知とを暴露しているのである。「誤れる優越感」は単に誤れる優越感としてあるばかりでなく、誤れる卑屈感として、従って盲目的支那崇拝と表裏してあることを知らねばならぬ。『国民政府参戦と北支派遣軍将兵』は、かかる誤れる優越感と誤れる卑屈感との合体である支那学者根性と、かかる誤れる支那学者的支那観を根柢とする誤れる対支文化事業に対して、学問的にも深刻な反省を求めているものと私は考える。  私が感動した理由の第二は、それが他人を責めるのでなく、あくまで自己の責任として自分の問題として述べている態度である。「華北においても真に中国人の模範たり得ない一部の日本人が、ただ単に日本人であるといふ誤れる優越感に起因し、不遜な態度を以て中国人に臨んだ者は居なかつたか。我が将兵中においても、知らず識らずその言動を誤つて居た者が一人も居なかつたと云へるだらうか」と反省している。そう反省することが「我々軍人として深く御稜威の心を体し……その本分を尽し、以て聖明に応へ奉らむことを誓」う所以だと述べている。「我々は他を云ふ前に軍の一人一人がまづ自ら日華提携の範たるべきことを神明に誓はうではないか」とその文章は結んでいる。私は、支那研究者の一人として、支那研究者の何人がかつてそのような反省を自分に行ったかを考えて、茫然たらざるを得ぬ。 [#ここから1字下げ] 「支那の時局は走馬燈の如く急転変化して居る。之に対して意見を立てる人々は、動もすれば其の推断の外れ勝なるが為に、いかに支那事情に通達した者でも、他の信用をも落し、自らも茫然たる事が多い有様である。是は支那の歴史が、従来其の変化のいつも遅緩なる例を示して居たのに、近頃の文明の利器の利用は、全く反対の結果を齋らした上に、本来支那人が無節操で日和見で、勢力に附和して、一定の主張に乏しい処からして、始終ぐらぐらして、傍観者から全く見当が付かない為である。」(内藤湖南『支那論』) [#ここで字下げ終わり]  日本の代表的支那学者の一人は、その『支那論』を右のような書き出しで始めている。その書物は大正三年に書かれているが、今日でも権威の如く一般には信じられている。この高名な学者の態度は、一見して『国民政府参戦と北支派遣軍将兵』の態度と異ることは明瞭である。すなわち、彼によれば「いかに支那事情に通達した者」でも支那の時局に対して「動もすれば其の推断の外れ勝」なのは、その推断が間違っているからではなくて「本来支那人が無節操で日和見で、勢力に附和して、一定の主張に乏しい」からである。「傍観者から全く見当が付かない」のは傍観者が悪いのでなく、相手が「始終ぐらぐらして」いるせいである。「支那の歴史が、従来其の変化の遅緩なる例を示して居た」のに「全く反対の結果を齎ら」すような現象が起きたとすれば、それは歴史法則の変革を示すものではないかと考え、認識の態度を反省するのが正しい学問の道であるに拘らず、この学者は「支那事情に通達した」と信ずる自己の独断を疑わず、却って歴史そのものを錯誤なりと裁いている。この高名な支那学者をして「他の信用をも落し、自らも茫然た」らしめた不幸な近代支那の苦悶は、学問の態度としての「誤れる優越感」をもって報われているのである。一湖南の問題は、単に一湖南だけの問題ではない。私は、支那学者の九割までが、湖南もしくは湖南以下であることを確言する。「知らず識らずその言動を誤つて居た者が一人も居なかつたであらうか」という問に、私は自分の周囲の支那研究者たちを眺めて、黙して首を振るだけである。大正三年は今から三十年前である。しかし、周作人が「私は日本の文化を愛するがゆえに、かかる軽薄が日本民族性の一となることを願わぬ」と悲しんだ(「支那民族性」)ような種類の出版物(安岡秀夫著『小説から見た支那の民族性』を指す)は、三十年後の今日といえども、学問や文学の仮面を着て横行している。(たとえば鳥山喜一著『支那・支那人』に対する内山完造氏の反駁「漫談二題」『中国文学』八十五号を見よ。)しかも「単に日本人であるといふ誤れる優越感に起因し、不遜な態度を以て中国人に臨んだ者は居なかつたか」という反省の言葉は、学問の内部ではまだ一度も大声に叫ばれたことがないのである。現代支那の動きは、政治的にも文化的にも、極めて複雑な外貌を帯びていて、内藤湖南をして「他の信用をも落し、自らも茫然た」らしめたほどであるが、それは決して「本来支那人が無節操で日和見」であったからではない。自己の成心と独断を去り「正義と誠意とを以て」対象を熟視すれば、決して「全く見当が付かない」筈はないのである。『国民政府参戦と北支派遣軍将兵』は見事にこの問に答えている。すなわち「将兵の信条」第四条は「走馬燈の如く急転変化」する近代支那の動乱の根本理法について、次の如き明確な断案を下している。 「中国人の民衆意識を軽視してはならぬ。民族意識は中国人と雖も我等と異るところはないのである。蒋介石の民族意識昂揚が史上類例なきまでに迅速、深刻且つ広範囲に民衆に徹底して行つたことを考へれば、思ひ半ばに過ぎるものがあらう。」  私は『国民政府参戦と北支派遣軍将兵』なる小冊子は、単なる将兵の心得に止らず、私たち支那研究者の学問的反省の糧でもあると考える。これに関して私は、一人の例外的に秀れた日本人の著述を想い出す。それは北一輝の『支那革命外吏』である。この書物こそ、私たち支那研究者の座右を離してならぬ書物であると私は信ずる。それは日本人の血で書かれた、支那研究の鑑である。それは予言の書である。予言の書とは、個々の事件が云い当てられているという意味ではない。時世の推移とともに、隠れていた言葉の意味が現われ、読むたびに感銘が新しいということである。私のこの文章は、元来この書物の内容を紹介するつもりで書き出したのであるが、前置きが長くなって本題に入れなくなった。『支那革命外史』の詳しい紹介は別の機会に譲らねぱならぬ。それに、この書物の価値について今日私にはまだ十分理解できぬ点が多い。支那に関する私の研究が浅いからである。ただ、湖南の『支那論』と関連して、それと同じころに書かれながら、湖南とは全然逆に、この書物が如何に支那を学問的にも正しく見ているかを証する短句を二、三例示して、十分世に知られていないこの書物の価値を暗示しておきたい。極めて論理的に組立てられている中から断言だけを拾うのは無謀であるが、心ある読者はどうか原著に就いて見て頂きたい。 [#ここから1字下げ] 「所謂支那通なるものの多くは、其の交遊せる領袖等の為めに臣事的吹聴を努むるものに非ずんば、十年前の亡国的観察を、革命されつつある支那に推論せんとする論理的錯誤をさへ反省せざる程の疎雑なる旧思想家なり。」 「支那は十年前の支那にあらず、十年前の先入見より演繹を事とする吏僚と支那との触れ得る所は只支那の表皮にして、武漢の一拳に亡ぶべき程に腐燗頽廃せる亡国階級なり。」 「否定の自由と破壊の自由とを以て仏蘭西が革命したる如く支那は革命しつつあり。」 「今の支那が数千年の凡てを否定して或る何等かの者を求めつつある……」 「支那の文弱による亡運は孔教に在り。」 「一九一一年以後の支那は此の興国魂の或は顕現し或は潜伏する過渡期として察すべし。」 「……統一的要求といふ本体……」 「……支那の愛国的覚醒が誠に徹底せるものあるを発見して亜細亜モンロー主義の実現断じて遼遠ならずの確信を深くし……」 「笑ふべき支那人崇拝論者よ。(軽侮論者たるべき奴隷心の故に崇拝論者たる者よ。)」 「……支那に対する軽侮観が欧米崇拝と同根なる奴隷心に基く……」 「白人投資の執達吏か東亜の盟主か。」 「同文同種と言ひ唇歯輔車と言ふが如き腐臭紛々たる親善論……」 「支那が同文同種の誼に背きて排日を叫んで止まざる所以は、民族的性格にあらず。国家の存立上……の日本を排するもの。断じて自己等の盟主としての日本を排する所以にあらず。」 「……日本の対外策の根本的に革命さるるなくんば両国の親善興隆断じて望むべからざるを知らん。」 [#地付き](引用は平凡社版による) [#ここで字下げ終わり]  歴史が人類の罪悪の浄化であるならば、私たちは、自らの手で誤れる支那研究を書き改めることによってのみ、大東亜共栄圏の盟主たる新しい世界史的な日本を築くことが出来るだろう。「太陽に向つて矢を番ふ者は日本其者と雖も天の許さざるところなり」という確信は、『支那革命外史』の著者とともに、今日私たち支那研究者の信念である。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『揚子江』第六巻第七号(一九四三年七月、揚子江社刊)に発表、『竹内好全集』第十四巻に収録。 [#改ページ] [#見出し]  覚 書  昭和十八年三月「終刊号」を出し、その終刊号に過去八年間の総目次を掲載し『中国文学』を廃刊することによって解散した中国文学研究会が「再び会を結び『中国文学』の復刊を敢て行う機会に恵まれた」(復刊の詞)ことは、それが「機会に恵まれた」という言葉のあらわすような弱々しい受身のものであることを除けば、つまり廃刊が私たちの止みがたい行為であったと同じような意味の行為としての復刊であるならば、私は復刊に反対しない。創刊のときは廃刊を思い、廃刊の刹那に新しく生れ出る喜びに震えるのは、文化の正道な在り方である。如何に生くべきかを考えることが如何に死すべきかを考えることに帰着するのと同様に、存在が非存在を含み、非存在が存在を契機として含むように、在り、また在らざること、それが、まっとうな文化の在り方であり、従って、在るものを常に在りとなす文化の官僚化から身を護ることであり、従ってまた、それは当然に、中国文学研究会の伝統でもあった。  この伝統に対する態度の表明がなければ、復刊は意味をなさない。伝統は、守らるべきものであると同時に、内より毀たるべきものである。復刊『中国文学』は廃刊『中国文学』の否定から出発しなければ、存立が危い。三年の空白を置いて廃刊『中国文学』につながるだけでは、三年の空白は無駄に過ぎた物理的時間に固まり、廃刊はあたら廃刊となり、復刊もまた甦りはなるまい。官僚の手下に嚇され、唯唯として、あるいは不承不承に、止めた商業雑誌が、官僚の手下どもの児戯を主体的に組織化することさえ出来なかった自分の無気力を棚にあげて、官僚の手下どもから嚇されさえしなかった商業雑誌と一緒になって、今日において官僚を攻撃したり文化の自律性を口にすることから発足している復刊と『中国文学』の復刊を同列に見なしていいのか、同列に見なされることに甘んずるか、甘んずることによって廃刊『中国文学』を永久に廃刊して悔いないか、ということを、復刊『中国文学』に携っている人たちに、よくよく考えてもらいたい。 「党派をもって生れた結杜が、党派性を失った場合は解散以外に生きる道はない」と私は解散の理由を述べた文章(終刊号)の中に書いた。今もそう考える。復刊『中国文学』は廃刊『中国文学』を否定することなしには、新しい出発のための新しい党派性を身につけえない。「今日の文化は、本質において官僚文化である。官僚文化は性格として自己保全的である。従って私たちの行動が、今日の文化の通念から理解されぬ」ことも、私は同じ文章の中に指摘しておいた。この事情は今も変らぬと思う。しかし今は、もし中国文学研究会が現在まで存続したと仮定すれば、「今日の文化の通念から理解されぬ」ゆえに「中国文学研究会の生きる道を求めて解散に辿りついた」という風には考えなかったろう、という点で事情が変っている。「自ら信ずる党派性の正しさの実証のために解散を賭する行為が必要」であることは今日も変らぬが「解散を賭する行為」は実際の解散へ導かなかったろうと思う。中国文学研究会の解散の行われたのは「今こそ真実が吐露されねばならぬ時機でありながら、真実は逆説的にしか自己を表出せぬ」時代であった。今は「今こそ真実が吐露されねばならぬ時機」であって、しかも、真実は逆説的でなくも自己を表出しうる時代である。従って、「自ら信ずる党派性の正しさの実証のため」には解散と反対の方向をもった行為が必要であり、裏から云えば、今日において生れ出るものは、すべて生れ出る十分な理由を持たねばならぬ、ということが云えると思う。今日のように、あらゆるものが党派的に在る時代に、党派的でないこと、党派性を拒むこと、アイマイにすることは、それ自体が別の党派性である。私は、復刊『中国文学』に、そのような危かしい傾向のあることを指摘して諸君の注意を促したい。  この危かしい傾向は、復刊『中国文学』の全体を掩っており、たとえばそれは無聊な執筆者群をかつぎ出したことに現れているばかりでなく、その無聊な執筆者群を「知名の士の寄稿を受け……われわれ若輩のものと列べてみて、問題の在りかをはっきりさせるため」(復刊号後記)と弁解していることで決定的になっている。「知名の士」などというアイマイなものは、たとい存在したとしても「間題の在りかをはっきりさせるため」だけにも役に立たぬものである。しかし「三月復刊号以来の二、三号はいろいろの事情からではあるが」云々(六月号後記)とあるから「いろいろの事情」が何であるか私は知らぬが、「今後は戒心して踏み出したい」(同前)という編輯者の行動をもうしばらく静観していた方が「問題の在りか」をはっきりさせることになるかもしれぬ。また、「曾てわれらは、支那事変を否定した……太平洋戦争を肯定し……愚かな錯覚であった」(復刊の詞)という中国文学研究会の歴史の図式的理解に私は反対するが、こういう図式的理解の生れてくる根拠は、一般の歴史認識の問題とつながりを持っているので、私の理解する中国文学研究会の歴史については、一般の歴史認識の問題を考える時に譲りたい。しかし、その図式的理解から「文化が戦争を否定する番に廻った」という危い云い方や「われらは更めて隣邦支那を敬愛し、ひたすらに支那の文学に親しむ道から日本文化の復興を念じ」という綱領が引出されてくると、問題は私たちの現在の実践にかかわるから、見過すわけにいかぬ。 「更めて隣邦支那を敬愛し」というのは、今までは敬愛しなかったがこれからは敬愛するという意味であるか、今までも敬愛したが今後はもっと敬愛するという意味であるか、敬愛の仕方がまちがっていたから「更め」るという意味であるか、私には分らぬ。ただ私は、次のようには云える。中国文学研究会は中国文学研究会のやり方で「隣邦支那を敬愛」したが、漢学者や、支那学者や、官僚の支那研究家や、商業雑誌のやり方では「隣邦支那を敬愛」しなかったということである。たとえば次の如し。 [#ここから1字下げ] 「民国三十年紀念特輯を出してはどうかという話があった時、これは僕らの会でやらなければほかにやるものはないだろうと思った。人がやらなければ僕らがやるより仕方ないだろうと思った。それは僕らの会の運命のようなものである。民国三十年と雑誌の編輯とを結びつけることは、日本のジャナリズムの感覚からは思いつかないことである。支那を研究するとか、文化の交流を図るとかいうことは、誰も口にし、また行っているだろうが、それとこれとは別なのである。雑誌の特輯を思いつくという些細な形では日本の支那研究家は研究を行っていないのである。それはそれでいい。ただ僕らは、民国三十年に日本の一小雑誌が特輯号を出したということを、百年後の日本人のために歴史に留めたいのである。その記録のために、いま自らを歴史に書き記すのである。そういう形でしか僕らが歴史を処置できなかったということに、後世の歴史家は何を感ずるであろうか。」(『中国文学』昭和十六年十月号後記) [#ここで字下げ終わり] 「ひたすらに支那の文学に親しむ」ということも、どういうことであるか、私にはよく分らぬ。私に分るのは、中国文学研究会は中国文学研究会流に「支那の文学に親し」んだが、支那学者流や日本文学報国会流には「支那の文学に親し」まなかった、ということである。次を見よ。 [#ここから1字下げ] 「はっきり云えば、大東亜文学者大会は、日本文学報国会にとって恰好な催しであるかもしれぬが、中国文学研究会の出る幕ではないと思うのである。支那の文学者を歓迎せぬと云うのではない。歓迎すべくして歓迎さるべき人を歓迎するのが僕らの歓迎の仕方だと云うのである。僕らがどんな歓迎の仕方をしてきたか、中国文学研究会の歴史を知っている読者諸君にはお分りのことと思う。なすべきをなし、なすべからざるをなさず。昭和九年の周作人氏歓迎会に発足した中国文学研究会が、昭和十六年の周氏来朝の折には、この一句を編輯後記に記しただけで、少くとも公的には歓迎会を開かなかった。また、日本の俗流文学者が支那の三流作家の横死を鳴物入りで追悼するとき便乗的追悼を肯んじなかった中国文学が、日本に何一つ追悼されなかった蔡元培の逝世のためには全誌をこれに捧げているのも、やはり同じ態度に出ずるのである。それは中国文学研究会の伝統であり、精神であり、運命である。僕個人はともかく、少くとも公的の立場を持った中国文学研究会としては、役人ぶった歓迎の片棒を担ぐことは伝統が許さぬのである。」(『中国文学』昭和十七年十一月号「大東亜文学者大会について」) [#ここで字下げ終わり]  私の考によれば、「隣邦支那を敬愛」すること一般「支那の文学に親しむ」こと一般、そんなものは存在しない。そういう言葉は無意味である。ただ、そういう無意味な言葉に凭りかかることで安心している人々は存在すると云える。そしてそういう人々は、「日本文化の復興」という創造的の仕事とは縁がない。本当の「日本文化の復興」は、そういう人々から自分を区別する党派性を、自覚をもって育てていく実践の中だけから生れるのである。  従って「『日華文化の交流』などというお題目のもとに儚くも踊った人々のことを、今になって、ざまァ見ろとあざ笑うことはつつしみたい」(復刊号後記)という考え方は、危険である。「ざまァ見ろとあざ笑う」ことは下品なやり方であるから、避けられたら避けた方がいいが、そのために「儚くも踊った人々」を許すことになっては、つまり彼らと同じ言葉で語ることになっては、まちがいである。「あざ笑うことはつつしみたい」という態度は、寛容に似て、寛容とは別のものである。むしろ「ざまァ見ろとあざ笑う」下品さに陥ってもいいから、その下品さはいつかは救われるのであるから、そのような顧慮はせずに、歴史の一番大切な時機においてアイマイなものを残さぬように心掛けるべきである。つまり、文学における戦争責任を中国文学の面から追求することが必要である。  文学における戦争責任は、さまざまな色と濃さをもって、さまざまの部門に滲透しているのであるが、私は自分の考で、その中から二、三のものを拾ってみる。復刊『中国文学』の諸君が、私の考を基とし、あるいは私の考を反駁し、そのことによって、およびその他のことによって、次第に正しい党派性を確立し、その党派性によって自己を組織化し、「日本文化の復興」のための力となることを希望する。  一、大東亜文学者大会を組織したもの、それに協力したもの、迎合したもの、迎合したいが迎合する能力のなかったもの、それらはそれぞれの度合において、真の代表でないものを真の代表の如く遇したことの、そのため真の文学でないものを真の文学の如く誤り伝えたことの、責任を国民に対して負わねばならぬ。  二、封建日本の遺生児である漢学は、戦争の全期間を通じて遺憾なく奴隷性を発揮したことにおいて、国民から学問を奪った責任を負わねばならぬ。  三、中国文学研究会を現代支那文学の研究機関であると規定し、それによって古典研究の分野における自己の立場の合理化を企てた支那学は、学間の方法と対象を混同し、それによって古き支那を含む全き統一してある新しき支那を強いて古き支那と新しき支那の二つに分裂させた錯誤について責任を負わねばならぬ。  四、支那社会研究と称し、実態調査と称し、科学的研究と自称しながら、実際は国民革命の遂行過程に生きて動いている真実の支那を把えずに、その形骸だけを把えた非科学的研究者は、そのことの責任。  五、悪徳翻訳業者、悪徳出版社、職業的支那語教育業者は、それぞれの流した害毒の程度に応じた責任。  六、総じて学問の官僚主義の発生地盤としての帝国大学、官設諸研究所の責任、そこに巣食う寄生虫の責任、および帝国大学に見倣うことによって私学精神を没却した私学の責任。  七、戦争中は支那と唱え、敗戦後は中国と唱え、しかもその理由を発表せず、支那という言葉が相手を侮蔑したことを承認するかどうか、相手が侮蔑を感じたことが自分の苦痛であるかどうか、侮蔑したことを悪いと思うのか思わぬのか、それらの根本的に大切な問題を言葉をすりかえることによって葬り去ろうとしているジャナリズムは、支那という言葉をアイマイにしたと同じように中国という言葉もアイマイなものに将来するであろうことの責任。  八、自己を主張するに怯であり、力弱く、組織力に乏しく、戦闘方法の拙劣であった中国文学研究会は、歴史の一番大切な時機に革命勢力となりえなかったことの責任を強く感じ、今後の努力によってそれを償わなければならぬ。 [#地付き](一九四六・八・五) [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『魯迅雑記』(一九四九年六月、世界評論社刊)に発表、『竹内好全集』第十三巻に収録。 [#改ページ] [#見出し]  近代主義と民族の問題  民族の問題が、ふたたび人々の意識にのぼるようになった。最近、歴史学研究会と日本文学協会とが、同じころに開いた大 会で、この問題を議題にした。おそらく、一九五一年ラクノウで開かれた太平洋問題調査会(I・P・R)の会議がアジアのナショナリズムを議題に選んだことが直接影響を与えているのではないかと思うが、ともかく学術団体が民族について考えるようになったのは戦後の新しい時期の展開を暗示するといえる。  これまで、民族の問題は、左右のイデオロギイによって政治的に利用される傾きが強くて、学問の対象としては、むしろ意識的に取り上げることが避けられてきた。右のイデオロギイからの民族主義鼓吹については、近い過去に、にがい経験をなめている。その苦痛が大きいために、戦後にあらわれた左のイデオロギイからの呼びかけに対しても、簡単には動かされない、動かされてはならないという姿勢を示した。敗戦とともに、民族主義は悪であるという観念が支配的になった。民族主義(あるいは民族意識)からの脱却ということが、救いの方向であると考えられた。戦争中、何らかの仕方で、ファシズムの権力に奉仕する民族主義に抵抗してきた人々が、戦後にその抵抗の姿勢のままで発言し出したのだから、そしてその発言が解放感にともなわれていたのだから、このことは自然のなりゆきといわなければならない。  少くとも現在の世界において、民族という要素はかなりの比重をもっており、あらゆるイデオロギイ、あるいは文化の問題が、多かれ少かれこの要素を除外しては考えられない、ということは、少し冷静に考えてみれば自明なはずである。ところが戦後の解放感の激しさは、一時はこの自明の観点(あるいは思考の通路)を排除した観があった。有名な文学者で、民族語としての日本語の廃止を唱えた人もあり(志賀直哉など)、今日から見れば乱暴なその発言が、当時は大して奇異な目で見られなかった。人種としての日本人の廃止を唱えた人さえあった。これは極端な理想主義とか空想とかいうより、一種の熱病状態からおこった異常心理というべきだろう。民族の存在そのものが宿命的に悪だと考えられたわけだ。逆にいえば、そう考えざるをえないほど民族主義が人間の自由を奪った、という歴史的事実を証明することにもなる。  戦後におとずれた新しい啓蒙の機運に乗じて、文学の分野でも、おびただしい概説書があらわれた。そのほとんどすべてが、ヨーロッパの近代文学(あるいは現代文学)をモデルにして日本の近代文学の歪みを照らすという方法を取っている。桑原武夫氏とか中村光夫氏のような、その態度の明確なものから、伊藤整氏のようなニュアンスと屈折に富んだものまで、あるいは左の瀬沼茂樹氏から右の中村真一郎氏にいたるまで、段階と色調はさまざまだが、いずれも日本文学の自己主張を捨てている態度は共通している。つまり広い意味での近代主義を立場にしている。したがって、民族という要素は、思考の通路にはいっていない。日本文学の自己主張は、歴史的には、「日本ロマン派」が頂点をなしているが、それが頂点のまま外の力によって押し倒されて、別の抑えられていたものが出てきたのだから、このことは当然といえばいえる。これは現象的には、学問の流派としての「国文学」の衰えたことと同一である。事実、戦後しばらくの間は、「国文学」はほとんど世間からかえりみられない学科になった。  それでは、戦後にあらわれた左のイデオロギイからの提唱は、民族を思考の通路に入れているか、というと、そうではない。「民族の独立」というようなスローガンはあるけれども、その民族は先験的に考えられたものであって、やはり一種の近代主義の範疇に属する。自然の生活感情から出てきたものではない。アジアのナショナリズム、とくに中国のそれをモデルにして、日本へ適合させようと試みたものである。したがって、現実との結びつきは欠けている。このことは日本共産党の文化政策にあらわれている混乱、無理論、機械主義によって判断することができる。たとえば、中国のヤンコの機械的適用がダンスであってみたり、たまたま組合活動を行っているために「文楽」が古典芸術の粋とよばれたりする類だ。文学理論の不毛さにいたっては、沙汰のかぎりである。  近代主義は、戦後の空白状態において、ある種の文化的役割は果したといえる。強権によって抑えられていたものが解放されたのだから、その発言は当然であり、それによって空白の部分が満たされることは必要であった。文学の創造の場でのいくつかの実験も、解放の喜びの表現としてみれば、うなずくことができる。血ぬられた民族主義の悪夢を忘れるためには、民族の存在を捨象した形でものを考えてみることも、一概に悪いことでなかったかもしれない。しかし、空白が埋められたときに、その延長上に文化の創造がなされるかというと、少くとも今日までのところ、かなり疑問である。その疑問があればこそ、今日ふたたび民族が問われるようになったのだろう。  マルクス主義者を含めての近代主義者たちは、血ぬられた民族主義をよけて通った。自分を被害者と規定し、ナショナリズムのウルトラ化を自己の責任外の出来事とした。「日本ロマン派」を黙殺することが正しいとされた。しかし、「日本ロマン派」を倒したものは、かれらではなくて外の力なのである。外の力によって倒されたものを、自分が倒したように、自分の力を過信したことはなかっただろうか。それによって、悪夢は忘れられたかもしれないが、血は洗い清められなかったのではないか。  戦後にあらわれた文学評論の類が、少数の例外を除いて、ほとんどすべて「日本ロマン派」を不問に付しているさまは、ことに多少でも「日本ロマン派」に関係のあった人までがアリバイ提出にいそがしいさまは、ちょっと奇妙である。すでに「日本ロマン派」は滅んでしまったから、いまさら問題とするに当らないと考えているのだろうか。いや、不問に付しているのではない、大いに攻撃している、という反対論が、ことに左翼派から出ると思うが、かれらの攻撃というのは、まともな対決ではない。相手の発生根拠に立ち入って、内在批評を試みたものではない。それのみが敵を倒す唯一の方法である対決をよけた攻撃なのだ。極端にいえば、ザマ見やがれの調子である。これでは相手を否定することはできない。  戦後の近代主義の復活が、「日本ロマン派」のアンチ・テーゼであることは認められるけれども、「日本ロマン派」そのものが近代主義のアンチ・テーゼとして最初は提出されたという歴史的事実を忘れてはならない。どういうアンチ・テーゼかといえば、民族を一つの要素として認めよ、ということであった。のちに民族が、一つの要素でなくて万能になったのは、権力の問題を一応除外して考えるならば、時の勢というものであって、つまり、かれらの主張がアンチ・テーゼとして認められなかったことに由来している。近代主義が民族主義との対決をよけたことが、逆に民族主義を硬化させ、無制約にさせたのである。  この点に関し、最近、高見順氏が注目すべき発言を行っている(『世界』一九五一年六月号)。高見氏は、自身の体験を回想して、一つの疑問を提出した。それは、「日本ロマン派」と『人民文庫』とが、転向という一本の木から出た二つの枝ではないかということだ。当時、『人民文庫』派であった高見氏は、ファシズムへの抵抗の心構えから、「日本ロマン派」に反動のレッテルを貼ることに心せいて「彼等の主張の中の正しい部分を見ようとしなかった」が、このような態度はあやまりであって、そのため抵抗も弱くなり「逃げ腰の抵抗」になったというのだ。  高見氏が「日本ロマン派」の中の正しい部分とよんでいるのは、かれらが「健全な倫理的意識」の把握を日本文学にもとめた、ということを指しているが、これを民族意識に置きかえることもできるのでないかと私は思う。そしてそのかぎりでは、それは適切な発言であったと思う。近代主義へのアンチ・テーゼというのは、その意味だ。  近代主義は、日本文学において、支配的傾向だというのが私の判断である。近代主義とは、いいかえれば、民族を思考の通路に含まぬ、あるいは排除する、ということだ。しかし、この傾向は、日本に近代文学が発生したときに生じたのではない。二葉亭にはあきらかに、二つの要素の相剋が見られる。この相剋はある時期まで続いた。それがなくなって、一方の傾向だけが支配的になったのは、だいたい『白樺』による抽象的自由人の設定の可能が開けて以後だろうと思う。文学史上、近代文学の確立とよばれる歴史的事実をそれは指している。この場合、近代文学の確立とは、二つの要素の相剋の止揚を意味しているのでなく、一方の要素の切捨てによって行われていることに注意しなければならない。民族は不当に卑められ、抑圧されてしまった。抑圧されたものが反撥の機会をねらうのは自然である。  プロレタリア文学もこの例外ではない。『白樺』の延長から出てきた日本のプロレタリア文学は、階級という新しい要素を輸入することには成功したが、抑圧された民族を救い出すことは念頭になかった。むしろ、民族を抑圧するために階級を利用し、階級を万能化した。抽象的自由人から出発し、それに階級闘争説をあてはめれば、当然そうならざるを得ない。この民族を切り捨てた爪立ちの姿勢にそもそもの無理があったのだ。絶えず背後に気を配らなければ安心できない後めたさがあった。そのため、ひとたび何らかの力作用によって支えが崩れれば、自分の足で立つことができない。無理な姿勢は逆の方向に崩れる。極端な民族主義者が転向者の間から出たのは不思議でない。  文学の創造の根元によこたわる暗いひろがりを、隈なく照らし出すためには、ただ一つの照明だけでは不十分であろう。その不十分さを無視したところに、日本のプロレタリア文学の失敗があった。そしてその失敗を強行させたところに、日本の近代社会の構造的欠陥があったと考えられる。人間を抽象的自由人なり階級人なりと規定することは、それ自体は、段階的に必要な操作であるが、それが具体的な完き人間像との関連を絶たれて、あたかもそれだけで完全な人間であるかの自己主張をやり出す性急さから、日本の近代文学のあらゆる流派とともにプロレタリア文学も免れていなかった。一切をすくい取らねばならぬ文学の本来の役割を忘れて、部分をもって全体を掩おうとした。見捨てられた暗い片隅から、全き人間性の回復を求める苦痛の叫び声が起るのは当然といわなければならない。  民族は、この暗い片隅に根ざしている。民族の問題は、それが無視されたとき問題となる性質のものである。民族の意識は抑圧によっておこる。たとい、のちにそれが民族主義にまで前進するためには別の力作用が加わるにしても、その発生においては、人間性の回復の要求と無関係ではない。抑圧されなければ表面に姿をあらわさないが、契機としては絶えず存在するのが民族だ。失われた人間性を回復する努力をよけて、一方的な力作用だけで、ねむっている民族意識を永久にねむり続けさせることはできない。  日本ファシズムの権力支配が、この民族意識をねむりから呼びさまし、それをウルトラ・ナショナリズムにまで高めて利用したことについて、その権力支配の機構を|弾劾《だんがい》することは必要だが、それによって素朴なナショナリズムの心情までが抑圧されることは正しくない。後者は正当な発言権をもっている。近代主義によって歪められた人間像を本来の姿に満したいという止みがたい欲求に根ざした叫びなのだ。そしてそれこそは、日本以外のアジア諸国の「正しい」ナショナリズムにもつながるものである。この点は、たとえばラティモアのようなアメリカの学者でも認め、太平洋戦争がアジアの復興に刺激を与えたという、逆説的ではあるが、プラスの面も引き出している。  ウルトラ・ナショナリズムから、ウルトラの部分だけを抜き放して弾劾することは無意味である。同時に、ウルトラでないナショナリズムを、対決を通さずに手に入れようとする試みも失敗におわるだろう。アジアのナショナリズム、ことに典型的には中国のそれは、社会革命と緊密に結びついたものであることが指摘されている。しかし日本では、社会革命がナショナリズムを疎外したために、見捨てられたナショナリズムは帝国主義と結びつくしか道がなかったわけである。ナショナリズムは必然にウルトラ化せざるを得なかった。「処女性を失った」(丸山真男)といわれるのは、そのことである。  発生において素朴な民族の心情が、権力支配に利用され、同化されていった悲惨な全経過をたどることなしに、それとの対決をよけて、今日において民族を語ることはできない。「日本ロマン派」は、さかのぼれば啄木へ行き、さらに天心へも子規へも透谷へも行くのである。福沢諭吉だって例外でない。日本の近代文学史におけるナショナリズムの伝統は、隠微な形ではあるが、あきらかに断続しながら存在しているのである。近代主義の支配によって認識を妨げられていただけだ。その埋もれた宝を発掘しようと試みるものがなかったために、「日本ロマン派」の反動を導き出したのである。少くとも歴史的意味においてそうだった。 「日本ロマン派」が、権力への奉仕によって、文学内部での問題処理の態度を捨てたのは、たしかに日本のナショナリズムのためにも不幸なことであった。しかしそれは、戦後に復活した近代主義が、ナショナリズムとの対決を避けることを合理づけるものではない。むしろ、近代主義の復活によって均衡が回復した今こそ、改めてそれがなされるべき時機であろう。それをしないのは、卑怯だ。もしも対決をよける根拠が、単純な進歩主義にあるとすれば、そのような進歩主義は、口さきでいかに革命をとなえようとも、真の革命にとっては敵である。  一方から見ると、ナショナリズムとの対決をよける心理には、戦争責任の自覚の不足があらわれているともいえる。いいかえれば、良心の不足だ。そして良心の不足は、勇気の不足にもとづく。自分を傷つけるのがこわいために、血にまみれた民族を忘れようとする。私は日本人だ、と叫ぶことをためらう。しかし、忘れることによって血は清められない。いかにも近代主義は、敗戦の理由を、日本の近代社会と文化の歪みから合理的に説明するだろう。それは説明するだけであって、ふたたび暗黒の力が盛り上ることを防ぎ止める実践的な力にはならない。アンチ・テーゼの提出だけに止ってジンテーゼを志さないかぎり、相手は完全に否定されたわけではないから、見捨てられた全人間性の回復を目ざす芽がふたたび暗黒の底からふかないとはかぎらない。そしてそれが芽をふけば、構造的基盤が変化していないのだから、かならずウルトラ・ナショナリズムの自己破滅にまで成長することはあきらかである。  たとい「国民文学」というコトバがひとたび汚されたとしても、今日、私たちは国民文学への念願を捨てるわけにいかない。それは階級文学や植民地文学(裏がえせば世界文学)では代置できない、かけがえのない大切なものである。それの実現を目ざさなくて、何のなすべきものがあるだろう。しかし、国民文学は、階級とともに民族をふくんだ全人間性の完全な実現なしには達成されない。民族の伝統に根ざさない革命というものはありえない。全体を救うことが問題なので、都合の悪い部分だけ切り捨てて事をすますわけにはいかない。かつての失敗の体験は貴重だ。手を焼くことをおそれて現実回避を行ってはならない。 「処女性」を失った日本が、それを失わないアジアのナショナリズムに結びつく道は、おそらく非常に打開が困難だろう。ほとんど不可能に近いくらい困難だろう。真面目に考える人ほど(たとえば丸山真男氏や前記の高見順氏)絶望感が濃いのはその証拠だ。しかし絶望に直面したときに、かえって心の平静が得られる。ただ勇気をもて。勇気をもって現実の底にくぐれ。一つだけの光にたよって、救われることを幻想してはならぬ。創造の根元の暗黒が隈なく照らし出されるまで、仕事を休んで安心してはならない。汚れを自分の手で洗わなければならぬ。特効薬はない。一歩一歩、手さぐりで歩きつづけるより仕方がない。中国の近代文学の建設者たちを見たって、絶望に打ちのめされながら、他力にたよらずに、手で土を掘るようにして一歩一歩進んでいるのである。かれらの達成した結果だけを借りてくる虫のいいたくらみは許されない。たといそれで道が開けなかったところで、そのときは民族とともに滅びるだけであって、奴隷(あるいは奴隷の支配者)となって生きながらえるよりは、はるかによいことである。 [#1字下げ、折り返して2字下げ]*『文学』(一九五一年九月号、岩波書店刊)に発表、『竹内好全集』第七巻に収録。 竹内好(たけうち・よしみ) 一九一〇年長野県生まれ。東京帝国大学支那文学科卒業。中国文学者・評論家。一九三四年武田泰淳らと中国文学研究会を結成し、日本における現代中国研究の端緒を開く。一九四四年発表の『魯迅』は戦中・戦後の思想界に大きな反響を呼んだ。一九五三年から六〇年まで東京都立大学教授。一九七七年死去。主な著作は『竹内好全集』全十七巻(筑摩書房)に収録されている。 本作品は一九八三年九月、筑摩叢書として刊行された。 電子化にあたり、テキストは筑摩書房版『竹内好全集』を底本とし、解説は割愛した。