[#表紙(表紙.jpg)] 食物漫遊記 種村季弘 目 次  序章[#「序章」はゴシック体]  嘘ばっかり   1[#「1」はゴシック体] 絶対の探求 ——岡山の焼鳥   2[#「2」はゴシック体] 一品大盛りの味 ——尾道のママカリ   3[#「3」はゴシック体] 狐の嫁入り ——愛宕下の豆腐   4[#「4」はゴシック体] 薬喰は禁物 ——横浜の牛肉   5[#「5」はゴシック体] 画餅を食う話 ——駒込の洋食   6[#「6」はゴシック体] 気違いお茶会 ——麻布の紅茶   7[#「7」はゴシック体] 飢えを見せる人 ——雑司ヶ谷の料理店   8[#「8」はゴシック体] 食うか食われるか ——フライブルクのアラブ・パン   9[#「9」はゴシック体] 天どん物語 ——蒲田の天どん   10[#「10」はゴシック体] 笑食会ふたたび ——鎌倉のきのこ   11[#「11」はゴシック体] 幻の料理 ——向島のどぜう   12[#「12」はゴシック体] 東は東、西は西 ——銚子の亀甲万   13[#「13」はゴシック体] 市場のユートピア ——築地のうどん  終章[#「終章」はゴシック体]  家の中のロビンソン・クルーソー     あとがき[#「あとがき」はゴシック体] ロビンソン後日譚 [#改ページ]  序章[#「序章」はゴシック体] 嘘ばっかり  よだれが出るほどうまそうな物をチラつかせながら、あれがうまかった、これはこたえられない、と能書きを並べた食通随筆を読まされていると、正直のところ、あんまりいい気持はしない。こン畜生、一人だけいい思いをしやがって。酢豆腐。きいたふう。半可通。生唾が嫉妬と羨望の毒を吸ってすっかりどす黒くなったのが、うらみがましくペッペッとそこいら中に吐き出されるような塩梅である。  そもそも読み物は、当方がなけなしのお金を払って読む以上、こちら側が一方的に南京豆なり堅焼煎餅なりをかじりながらぬくぬくと、やぐらゴタツにもぐり込んで、血湧き肉躍る講談本なり、血も凍る探偵小説なりをわくわくしながら読むのにしくはない。相手方に美意識なり教養なりがみっしり詰っていて、こちらが空っけつでは、一方的に相手側の言辞がこちらの真空に流れ込んできてしまう。これはお説教。もしもあちらさんの内容《なかみ》が悪質だったらどうします。  ということはつまり、書物というものは想像力を遊ばせるには無内容であればそれだけ理想的だということである。こちらの想像力の働く場であるあちらさんが、何の障害物もなくだだっぴろく、あっけらかんと一物もないのがいちばんいい。みっしり詰った満員電車のおまんじゅうのなかでは身動きがとれなくなってしまうからだ。  さすがに年少の読者たちは、原っぱのようにひろびろとした、すなわち内容というもののきれいさっぱりない本のあり処《か》を本能的に嗅ぎ当てる術に長《た》けている。そこでは跳んだりはねたり、走ったり転んだりしなければならないので、どうしたってお腹がペコペコになる。だから鬼ヶ島征伐の桃太郎さんのように兵糧持参で、まずは南京豆ミカンお煎餅の類をごっそり仕込んでから、「どれ書見などいたそうか」とおもむろにコタツにもぐり込むのである。  年少者ばかりではない。少年時代がとうに過ぎてからも、この類の想像力の専制主義を颯爽と実行している人物がまれにはいる。さしずめ作家の武田百合子さんがその人ではなかろうか。彼女の映画随想を一読して見給え。人は彼女の映画鑑賞の度毎に映画館に持ち込まれる、肉マン、アイスクリーム、サキイカの類の物量的尨大さにただただ圧倒されるであろう。そして見よ、ローマの闘技場の特等席の女貴族もさながらに、彼女が肉マンを一かぶり頬張る間に、豪華絢爛オールカラーのスクリーンの上では毎度一ダースもの人間が全身蜂の巣となり血まみれになって、さっさとあの世へ送られてゆくのである。  こんな女暴君的好食記の前に引き出されれば、大抵の美食エッセイはたちまちのうちに顔色を失う。肉マン一かぶりの前には、聖ヴァレンタインの夜の惨劇もさながら、天下の美食家がマシンガンに蜂の巣となってバタバタ将棋倒しになるほかはない。  そうはいっても、美食エッセイストのなかにも、ときには、まるで根も葉もない無内容な話を恬然として語る達人がいないことはない。ここで思い浮ぶのは、矢田津世子の『茶粥の記』という小説に登場してくる鈴木君という登場人物である。  鈴木君はむかし苦学して文検をめざしたが、いまは諦めて腰弁で区役所の戸籍係に通う小官吏である。傍らときおり新聞雑誌に食物随筆を寄稿する。役所でも通《つう》で通って、昼飯時に食物の話になると蘊蓄のあるところを一席披露する。たとえば牡蠣《かき》とくればこうだ。 「牡蠣は何んといつても鳥取の夏牡蠣ですがね。こつちでは夏は禁物にされてゐるが、どうしてどうして鳥取の夏牡蠣ときちやあ堪《こたへ》られない。シマ牡蠣ともいひますがね。ごく深い海の底の岩にくつついてゐる。海女が獲つてきたやつをその場で金槌を振るつて殻をわづか叩き割り、刃物を入れて身を出すんだが、こいつが凄く大《でか》い。さうですね、この手のひらぐらゐは十分にありますよ。身が大きく厚いところにもつてきて実に色艶がいい。こいつの黒いヘラヘラを取つてね、塩水でよく洗つて酢でガブリとやるんです。旨い。実に旨い。」(大河内昭爾編『味覚小説名作集㈵』所収。ルビ引用者)  鮑とくれば沼津。それも沼津で食ったんじゃ味がない。樽に塩漬けにして馬の背でしゃんしゃんしゃんと甲府まで運んだのを食う。どぜうといえば本黒の丸煮。玉子の白身でアクを抜いたわりした[#「わりした」に傍点]でないと食えたものじゃない。鶏は去勢した雄の若鶏の鋤焼。鋤金に鶏の脂肪をひいて、肉を焼きながら大根おろしのしたじ[#「したじ」に傍点]で頬張るに限る。  清少納言もさながらの一流趣味を何段にも亘って披露する鈴木君は、ひょっとすると才女矢田津世子の分身かもしれないが、しかしこれだけうまいものに精通していながら、鈴木君はそのどれ一つとして自分では食べたことがないのである。すべてが聞きかじりや、雑誌記事を抜群の記憶力と想像力でつなぎ合わせた絵空事なのだ。現実に鈴木君が食べているのは、朝は茶粥に昼は塩鮭のお弁当。たまに雑誌社の座談会に呼ばれて支那料理なんかをご馳走になると、帰宅早々かならず腹痛を起す。だから変ったものは一切口にしないで、茶粥ばかり食べているのである。  想像力のなかだけで美食を楽しんでいるので、厨房も料理の腕も買出しの手間もいらない。そのうえ想像力はどこにいても翼をひろげられるから、いつでもひょいひょいと頭のなかに膳や椀が湧いて出る。通勤の満員電車が鈴木君の大宴会場になる。話者の妻なる人はその場景を次のように書く。 「出勤時の身じろぎも出来ない電車の中で人と人の肩の隙間を流れる窓外の新緑を見遣りながら、ウコギやウルシの若葉のおひたし、山蕗の胡麻よごしを思ひ描く。それから初風炉の茶湯懐石の次第にまで深入りする。汁、向ふ附、椀、焼物……と順次に六月の粋を味はひながら、良人の満足感は絶頂に達する。」  かりに食欲にもオナニズムというものがあるとすれば、鈴木君は食欲オナニー常習者なのだ。そう言って語弊があるとすれば、鈴木君のような人物には食物それ自体などはどうでもよろしいので、食物をメタファーとしてはたらき出す想像力の運動、精神の遊戯こそが眼目なのである。  うまいものが食いたければ勝手に食うがよろしい。但し自分以外の誰かが。生活を家来どもに払い下げて、茶粥と塩鮭であっさりとすませている鈴木君には、たしかに食物にはなみなみならぬ関心があっても、それはあくまでも想像力がはたらき出すための口実《プレテクスト》としてなのであるらしい。  鈴木君が新聞雑誌の売れっ子随筆家となったのもむべなるかなで、こういう人の話ならいくら聞いても腹にもたれない。それもそのはず、最初から無一物で想像力の空中ブランコを楽しんでいるだけだからだ。  読者にはそうでも、しかし一緒に生活している女房にはそうは問屋が卸さないだろう。茶粥と塩鮭だけでは女房たるものの腕の見せどころがない。何か変ったものを作っても受けつけなくて、毎度一人で「良人の満足感は絶頂に達する」。いつも一人で先にイッテしまう。いじわる! というわけである。  茶粥と塩鮭で栄養失調ぎみになったせいか、鈴木君はふとした風邪がもとであの世へ行ってしまう。またしても一人で先にイッテしまった。するとそこへ残された未亡人の許に未発表原稿の発表誌が届く。良人はまたもや一度も食べたことのない白魚のおどり食いの醍醐味を得々として述べ立てている。未亡人はその女房的肉眼において複雑な心境に陥らざるを得ない。 「読みながら清子は、 『嘘ばつかり、嘘ばつかり』  と、見えない良人を詰《なじ》つた。食べもしないくせに嘘ばつかり書いてゐると肚立たしい気持になつたが、しかし不思議に良人の文章から御馳走が脱け出して次ぎつぎと眼前に並び、今にも手を出したい衝動に、清子はつば[#「つば」に傍点]が出てきて仕方がなかつた。」  想像力がついに女房的肉眼を征覇する白眉の場面である。女房的肉眼の眼力にかかっては、いかなる韜晦もいずれは馬脚を露わさざるを得ない。馬脚はいずれ露われるのだ。しかし馬脚が露われたところで、人間の足よりは天馬空を往くペガサスの馬脚の方がモノをいう濶達な空間に連れ出されたのだから、これは肚を立てるより、さてお次は何かと生唾を呑むのがまっとうな身のふり方というものではあるまいか。  むろん馬脚が快適に作動するためには、ときには鼻先に人参をチラつかせなければならぬ。想像力が嘘八百で塗り固めた世界にも人参や大根が多少は必要なのである。その証左というべきが、もう一人の女流作家尾崎翠の書いた『第七官界彷徨』という小説だ。  この小説の人物の一人の二助という農学生は、下宿の部屋の床の間にミニチュアの二十日大根畠を作って、毎日せっせと人糞のこやしをまいている。その臭いこと臭いこと。けれども二助は植物にも恋愛感情があることを証明するために「植物ノ恋情ト肥料ノ熱度」の函数関係を追跡する論文を書いている最中なので、鼻孔を通じて侵入してくる些細な形而下的感情などには目もくれずに、これでもかこれでもかとばかり「肥料ノ熱度」をたかめてゆく。すなわち床の間の小農園にぶちまける人糞撒布量は日毎うなぎ上りに高まるのである。  ある日、小野二助は研究に行き詰って、二十日大根をおひたしにして食べてしまう。妹の小野町子がそのご相伴にあずかった。さあ大変。何しろ恋情の函数曲線を高めるために肥料の熱度を最大限までたかめて育てた二十日大根である。おまけにそれを食べた町子は処女であった。植物の恋情はたちまち町子に感染して、この日から彼女は恋を恋する女の子になってしまうのである。  ここではもう食物は至極明快に恋のメタファーである。太陽熱の代りに赤外線豆電球をふんだんに吊して、夜目にもキラキラとまぶしく美しいロマンチックな極小農園で、しかも猛烈な形而下的条件に鼻をそむけながら栽培された大根もやしが、それだけ食べておいしいわけがない。恋の媚薬のマンドラゴラに化けてこそ意味があるのだ。  ミニチュア農園で思い出したが、下宿部屋の床の間とは所変って、衆人環視の上野の美術館の真只中にミニチュア食堂というのを開業した人がいる。これは中野夏之さんという画家である。  時は一九六三年三月、場所は上野美術館読売アンデパンダン展(最終回)会場。どういうお店か、ここに当人の証言があるので聞いてみよう。 「中西[#「中西」はゴシック体] (前略)……で、その『ミニチュア食堂』というのはどういうのかといいますと、おもちゃの食器を買ってきまして、その食器にカレーライスを盛る、あるいは、おにぎり、みそしる、魚のフライ、目玉焼などをつくって町で販売されている値段と同じ値段ですね。ですからおちょこ一ぱい百円、四センチぐらいの大きさのわかさぎの魚フライが百五十円、目玉焼が七十円、というメニューを作ってアンデパンダンの会場で売りました。  杉本[#「杉本」はゴシック体](弁護人) そのカレーライスとか目玉焼というのもおもちゃですか。  中西[#「中西」はゴシック体] それは本物です。目玉焼はうずらのたまごであり、小さな魚はわかさぎであるということです。それから、いかの場合はほたるいかとか、ことさら小さなものを集めたように記憶します。それでバックグラウンドミュージックは刀根康尚が作曲しまして、それは、そしゃくしている音、料理しているときの音をテープにとって、それを増幅器にかけて、せいいっぱい拡大しました。」(「千円札裁判における中西夏之証言録」)  折柄、海の向うのアメリカでは物凄く大きなハンバーグや缶詰のオブジェが次々に制作されたポップ・アート全盛のシーズンである。巨人国アメリカに対抗して、小人国日本では、おままごと式のミニチュア食物が展示され、ハプニングとしてその場で販売されたわけだ。  おちょこ一ぱい百円は高い。羊頭狗肉もはなはだしいではないかと血相を変えても後の祭りだ。百円は「カレーライス百円」と表示したものの値段ではなくて、表示につられておちょこ一ぱい百円で買うハプニングの値段なのだから、遊んで面白かったと思わなければお里が知れる。ペテンといえばペテンにはちがいないが、そういう目でみればもっと手の込んだペテンをこの連中はやりまくった。  一例として、赤瀬川原平の「芸術マイナス芸術」という文字通りに解釈すれば何でもない[#「何でもない」に傍点]ハプニングでは、敗戦を記念した「晩餐整理券」なるものが発行された。一枚百円。当日、何が出るかと整理券を握っていそいそと会場まで辿りつくと、券を発行した主人側だけが食卓に並べた豪勢なご馳走をもりもり平らげている。一枚百円の整理券は、豈計らんや、よだれを流してそれを見るための、整理される[#「整理される」に傍点]券だったのである。  もう一つ。ハイレッドセンターという美術団体の結成記念オープニング・パーティーでは、招待されるとビールが出た。ジョッキは四壁にくっつけたテーブルの上に並んでいる。だから「お目出度う」とジョッキを上げて乾杯すると、全員が背を向け合って達磨さんのように壁に向って飲むのであった。  そういえば、ハプニングではないが、これもその頃、美術家の谷川晃一さんとどこかで会ったとき、こんな話を切り出されたのを憶えている。 「種村さん、摸食をどこで作ってるか知ってますか?」 「摸食って、あの食堂のショーウィンドの、カレーライスならカレーライスそっくりに作った蝋の見本食?」 「そうそう、それ」 「どこで作ってるかって、知らないな」 「五反田の方にあれ専門の工場があるんです。天ぷらの摸食の作り方知ってますか?」 「知ってるわけないだろ」 「本物の天ぷらの作り方と同じなんです。天ぷら油を鍋に熱してそこへ海老の形に彩色もした蝋のかたまりを落す。ジャジャーッと油が散って、衣の凸凹がちゃんとつく。やっぱりね、火加減が肝腎なんですよ、火加減がね」  谷川さんの目つきは奇妙に熱っぽくなっている。この人、昔、丸の内のエー・ワンの調理場で本格的なコックを勤めていたことがあるから、料理に関してはプロである。しかしいま話しているのは食えない料理、料理の贋物の作り方なのだ。見るだけで食べられないのに、さもおいしそうに作ってある料理に熱烈な情熱を燃やしている。矢田津世子の鈴木君は文章に書くだけだが、この連中はモノに作ってしまった。  一九六六年頃、美術界に高橋由一の名画「鮭」とそっくりの油絵が出現した。高橋由一のこの作品(一八七八年作)は上野の芸大に保管してあるはずである。さては芸大からかっぱらってきたのか。それとも真物そっくりの贋作か。ところがよくよく目を凝らしてみると、どこかがちょっとおかしい。荒縄にぶら下げた新巻鮭の切身に殺《そ》いだ部分が、原画よりいくぶん大き目なのだ。いわゆるトロンプ・ルイユ(瞞し絵)で、描いた画家は鈴木慶則さん。高橋由一原画よりいくぶん切身を殺いであるのは、描いているうちにその分を食べてしまったせいであるらしい。  鈴木慶則さんのこの作品(「高橋由一風鮭」)には面白い後日譚がある。赤瀬川原平の使えない[#「使えない」に傍点]千円札制作が裁判沙汰になったとき、特別弁護人として法廷に立たれた故瀧口修造氏にこの食べられない[#「食べられない」に傍点]新巻鮭がお歳暮として贈られた。和紙に包んだうえを荒縄にくくって送られてきたので、瀧口氏はてっきりこの梱包そのものが梱包芸術だろうと思い込まれて、中を開けずにいた。あるときふと思いついて開けてみたら、中から仕掛けを掛けたように食べられない鮭がひょっこり出てきたというのである。  六〇年代の初めにはこの種の食物ハプニングをずいぶん見かけた。食物をメタファーにして面白おかしいレトリックを演じて楽しむ器量が、ハプナーの側にも観る方の側にもまだ失われていなかった。マクルーハン流に言えば、メディアがメッセージだったのである。難しい話は抜きにして言えば、見立ての趣向を凝らした。  その後はどうか。先の中西証言の引用源にもう一度目を通して頂きたい。この証言は摸擬千円札を制作した赤瀬川原平を裁く(というハプニングの)場での参考証言である。すんでのところで食物をレトリカルに語る表現行為そのものもまた、お縄を頂戴しかねない雲行きがそろそろ迫ってきていたかのようだ。  そういうお国柄では食物がおいしく食べられるわけがない。すくなくとも食物を見立て趣向のレトリックの綾にからめて、適正値段で食えばいいという糞リアリズムの泥んこからすくい上げる器量はない。すなわち食物は想像力の媒体ではもはやなくなった。かえって物の出回った七、八〇年代の食物がまずくなった所以だろう。  それでは、食物が精神の遊戯のメタファーであることをやめてしまうとどうなるか。矢田津世子の小説でいえば、せっかく想像力のはたらきが心眼に見えるようになった未亡人がふたたび女房的肉眼の持主に退化し、これと裏腹に清少納言的一流趣味がしゃしゃり出てくる。春はあけぼの。夏はよる。感覚の放蕩を様式美で囲って、いかにも曰くありげに装う安手の詐術。そんなものが一流趣味や貴族趣味のレッテルを貼って婦人雑誌に罷り通る。  お蔭で亭主がワリを食わされる。同じ婦人雑誌のカラーページの裸体操の教育的な能書きを真に受けて、夜な夜なお化けになって亭主に迫る奥さん方がむやみに繁殖しているのと似たようなものである。そうではないのだ。本来、男はつねに一人で先へイッテしまいたいものであることを心得るべし。そこで対抗上女は肉マンを頬張って、一打七匹、あっというまに屈強の男子一ダースを片づけてしまう。これが生粋の貴族精神。生ぬるい貴族趣味に浸って身動きがとれなくなるのではなくて、双方が、オレの、あたしの、好き嫌いをはっきり張り合ってこそ、男女関係においてと同様、食においてもかけがえのない一回性の体験が結実して、「ああおいしかった」と言えるのである。  ここまで書いてきて気がついたが、どうやら私はかなりヤバイことを口走ってしまったようだ。私はついうっかり女の悪口を書いてしまったらしいのである。かねがね私はそれでなくても、あなたにはどうも女性読者が少なくてねえ、と編集者に厭味を言われつけている。だから今度こそはと女流作家の礼讃から始めたというのに、土壇場へきてこの始末である。おまけに名を挙げた女流作家たちは、女のなかの例外であることまで匂わせてしまった。  もっとも世の女性たちは清少納言的一流趣味をあげつらわれたからといって、痛くも痒くもないだろう。そちらが駄目でももう一つ秘密兵器がちゃんとある。かのしたたかな女房的肉眼である。身から出た錆とはいえ、これはおそろしいことになったものだ。酢豆腐呼ばわりをされた返礼に、彼女たちはきっと、いっせいにその女房的肉眼をカッとばかりに見開いて、私を指差して合唱することだろう。  嘘ばっかり。  嘘ばっかり。 [#改ページ]  1[#「1」はゴシック体] 絶対の探求 ——岡山の焼鳥  記憶力に関しては私はすこぶる自信がない。度忘れがはげしいだけならまだしも、ありもしなかったものをあると信じ込んでいたり、第三者には雑作なく存在しているはずのものがこちらにはなかなかそうは思えなかったり、そんなことが一再ならず起るのである。一度、頭のお医者さんに相談してみた方がいい病気だろうか。  たとえば銭《ぜに》腹巻の一件なんかがいい例である。そういうものを私は確かに見たことがあると思っているのに、目撃現場にいた友人はそんなものはありはしないと言って互いに一歩も譲らず、そのまま三十年程の間、決着のつかない論争が続いている。それもUFOなどというモダンなものではなく、私の見たのはへんに土俗的な呪物めいた物体だ。  相手は学生時代の友人松山俊太郎、大学生になったばかりの昭和二十六年頃の出来事である。  そもそもの事の起りは、松山俊太郎が風邪を引いたのである。教室でよく顔を合わせる仲なので、気になってお見舞いに行った。麻布一の橋の、いまは人手に渡ってしまった、古い木造三階建の松山産婦人科病院の最上階の、二十畳はありそうな部屋に蒲団を敷いて松山が寝ていた。 「鬼の霍乱《かくらん》だな。大丈夫か、オイ」  高熱と見えて、顔を茹で蛸のように真赤にしてフウフウ肩で息をしている。 「こんなものメじゃないね。こっちには銭腹巻ってものがある」  そう言うと松山は掛け蒲団をパッと剥いでみせた。真冬だというのにパンツ一丁の素裸で、それだけなら別に驚くことはないが、その腹から胸のあたりにかけて蛇のようなものがぐるぐると巻きついている。よく見ると、その金属製腹巻のようなものは、中の穴に紐を通した、無数の五円玉の連りで出来ていて、それが病人の胴体にラオコーンの蛇さながらに絡みついているのである。なるほど、五円玉は黄銅貨だから熱伝導率が高い。これで身体中の熱を吸い取るとはさすがに医家の血筋だけのことはある。すっかり感心して見とれていると、相手は得意気に銭腹巻をジャラジャラ弄びながら、 「家じゃお祖母さんの代から風邪にはコレと決ってるんだ。すぐに熱であったまっちゃうから、替えも用意してある。ホラ」  指差す方を見ると、どうしていままで気がつかなかったのだろう、部屋中の柱といわず欄間といわず、五円玉を串刺しにした棒状の銭腹巻が何十本となく、氷柱のようにぶら下っているではないか。青錆の吹いた五円玉の金が緑金に光って、いかにも頼もしげな、ずっしりとした万能医療器具の貫禄を醸し出している。  そのことがあってからしばらくして、銭腹巻の話をむし返してみた。すると松山は何か薄気味の悪いものを見るような目つきでこちらの顔をしげしげと覗き込むと、 「銭腹巻って何だ。五円玉? そんなもの家にはありゃしないぞ。お前、発狂したのか」  まんざらトボけているといった顔ではない。それに、言われてみればたしかに他にいくらでも近代医療の施しようのある病院のなかにいる人間が、あんな蛮カラな民間療法で風邪を直すというのも理屈に合わない話だ。  申し遅れたが、松山家は代々、ほぼ一代毎に医者と茶人を出してきた家系で、曾祖父は明治の俳人松山吟松庵、その前代は前田家の藩医とかと聞いた憶えがある。げんにご両親とも産婦人科のお医者さんで、特に当時はご健在だった母堂は吉岡弥生女史亡き後の日本女子医学界の重鎮をなした名女流である。一人息子の風邪を五円玉で直そうなどとかりそめにも思いつく人ではない。  理屈はそうでも、しかし、当方だってしかとこの眼で確認した光景なのだから後へは退けない。以来私と彼の間では、銭腹巻ははたして幻覚か事実かをめぐって、四半世紀に及ぶ論争が戦わされ続けている所以である。  かりに銭腹巻が偽記憶だとすると、岡山にある日本一の焼鳥屋の話も、あれはやはり当方の一方的な思い込みだったのだろうか。焼鳥屋と言ったが、これは月並なシャモやカシワを食わせる店ではなくて、鶉《うずら》、雉子、山鴫《やましぎ》、雀、山鳩、雲雀《ひばり》、とありとあらゆる野鳥を軒先に吊して食べ頃の熟すのを待っている、本格的な野鳥料理屋である。  敗戦直後に建てたらしいバラック建ての内部が、柱といわず天井といわず、野鳥の脂と備長炭の煤でてかてかに黒光りしている。狭いお店なので、あふれた客が軒の外に片脚のかしいだテーブルを持ち出して、ビールを飲みながら気長に焼き上るのを待っている。ビールを飲みすぎたらそこは旭川の土手に面した草叢の一角にあるから、席を立って土手に登れば、川の流れに向って長々と放尿することもできるのである。  こう書いてくると、我ながらそのお店の常連のような気がしてくるが、実を言えば、私はまだ一遍もそこへ行ったことがないのである。見たこともない。店の名前さえ知らない。だからこれは聞き書きである。それを教えてくれたのも松山俊太郎だった。  銭腹巻と違ってこのお店が私の幻覚ではないのは、当の松山がその野鳥料理を餌に私を岡山までおびき寄せたのだから彼が保証してくれるだろう。  話が変にあやふやになってきたので一息に言うと、要するに、私は岡山で日本一の野鳥焼を食おうと思ってわざわざ出向いて行きながら、肝腎のお店まで辿りつけずに舞い戻ってきてしまったのである。  その話を書く前に、まず松山俊太郎という男がどういう人物かということを片付けておくのが順当かもしれない。そうはいっても三十年来つき合っていて、私は彼が何をしているのだかよく知らないのだ。  大変な学者で、大酒飲みで、空手の達人であること位は知っているが、肝腎の学問の内容がよく分らない。知り合ったばかりの学生時代には、何でも「時間」と「蓮」の研究をしているとかいうことだった。そのうち「時間」の方はハイデッガーやアインシュタインにもやって出来ないことはなさそうだからと、これは彼らに任せて、「蓮」一本に的をしぼったらしい。  一本にしぼれば話は簡単になりそうなものだが、それは松山という怪人物を知らない人の言うことだ。尋常一様な研究方法ではない。 『バルトリハリ』とかいう古サンスクリット語詩はもとより、「大蔵経」から「ハイネ詩集」まで、「群書類従」から「南方熊楠全集」まで、古今東西、和漢洋、唐天竺の万巻の古書のなかから「蓮」という語の出てくる章句を手当り次第抜いてカードを作る。この本来の研究のための基礎作業とかいうものだけで、当人の言うところでは、どうすくなく見積っても三百年は掛るのだそうだ。  何しろ三百年掛りの大研究だから基礎文献も尨大な量になる。古本屋の借金がみるみる天文学的数字に達した。  たぶん今年暮あたりは本郷、神保町界隈の目ぼしい古本屋がバタバタ倒産するだろうという風評が流れはじめた頃、東京中の古本屋が集って、松山がこれ以上東京で古本漁りをしないように、岡山の仏教研究所へ押し込める謀議をこらしたとか何だとか。  何がなんだか訳が分らないうちに、ご本尊は備後総社の最上稲荷の仏教研究所に入ってしまっていた。昭和四十年、今から数えて十五年余り前のことである。  当座は山のなかでおとなしく、お稲荷さんの宿房に集るダム工事の土方の喧嘩を仲裁しながら、仙人のように焼酎を飲んでいた。そのうちに仙人は、俗界のネオンにずるずると引かれて町中へ降りてきた。一念に凝ると世俗的配慮は眼中になくなる性分だから、今度は飲み屋のツケが真夏の寒暖計みたいに上りっ放しになる。仏教研究所の給料はとっくに向う半年間差し押えで、汽車賃がないから東京にも出てこられない。  態のいい軟禁状態になって淋しいものだから、日本一の焼鳥屋とか言ってこちらを長距離電話でおびき寄せるのである。まあよかろう、これも人助けだ。というようなわけで当方の腰が上った。  岡山駅前の小さなバーで待っていると、やがて松山俊太郎が現われた。目的は野鳥料理だから、こちらは汽車弁も抜いて餓死寸前である。一刻も早く焼鳥にありつきたいと腹の虫がキューキュー鳴いている。  車が止ると、そこは何かクラブのようなお店の前で、焼鳥屋の前にちょっと下地を作っていこうというのだった。おそろしくだだっ広い、雨天体操場のような室内に金ピカの革ソファがズラッと並んでいる。岡山一のクラブなのだそうだ。綺麗どころがやってきてひたひたと左右から柔肌を押しつけた。オードブルが来て、果物が来た。何だか揚げ物のようなものが山盛りに来た。 「こいつ腹が空《へ》ってるみたいだから、何か食わせてやってくれ」  仙人は前後左右の美女の豊胸を、カパッカパッという風に掌で掠め取りながら鷹揚に下知される。ブドウ狩りとかジカパイ(ジカにオッパイを盗ること)とか称する、世界にまたとない仙人の特技で、その目にもとまらぬ早技は空手の習練と関係があるらしいが、まァこの際そんなことはどうでもよろしい。  美人が揚げ物をフォークで刺して当方の口元に持ってきた。丁重に礼を言ってお断りする。目的の焼鳥に到達するまでは、断じて身を清くしておかなくてはならぬ。  とこうするうちに岡山一のクラブはしだいに拷問室の観を呈してきた。手の届くところに山盛りの肴があり、美女が侍《はべ》っているというのに、私は極限状況的な饑餓に耐え、真黒な欲求不満の塊と化している。群がり寄せる誘惑的な怪物どもの攻勢にじっと耐えて瞑想に耽る、聖アントワーヌの心境もさながらである。  耐えるにつれ観音力は通じたか、アラ不思議、彼方なる焼鳥屋の天国的な色香は、ここにまざまざと現前してくるではないか。耳元には鶉の腿の脂がしたたる音がジジジッと聞こえ、雀の丸焼きのカルシウムのたっぷりありそうな小骨が歯と歯の間でカリッと砕ける。わけても雉子焼の何と香ばしいにおいであることか。  時計を見るといつのまにか深夜を回っていた。竜宮城の美女たちはくたんと首を垂れて正体不明のやら、こくりこくりと舟を漕いでいるのやら、その無抵抗になったやつはよけて、まだ生きのいいのをめがけて松山仙人の手がカパッカパッと動いている。  えんえん六時間、仙人は黙々とこの機械的に単調な作業を続けていたわけだ。三百年掛る大研究を貫徹するには、まず単調さというものに耐える体質をこしらえておかなければならないのだろう。 「あきらめろよ、焼鳥は。今日はもう店が閉っちゃった」  そう言った。殺生な。一体、俺は何のために岡山までやってきたのだ。  外へ出て車に乗った。岡山中にもう起きている飲食店は一軒もない。地面にのめり込むような空腹感がズシンズシンと下腹に響く。そういえばまだ宿も取っていない。運ちゃんに訊くと、この時間ではもうラブ・ホテルしか入れる所はないだろうと言う。どうでもいいや、そこへやってくれ。  終列車はとっくに出た後だから松山も備後総社までは帰れない。一緒に泊ることになって車がラブ・ホテルに横づけになった。  風呂屋が馬鹿|大《でか》くなったような、大名廊下つき何とかの、その手のものである。その大名廊下を腰元姿をした小母さんに案内されているうちに、思わず足元がふらついてよろめいた。  危うしと腰元が駆け寄って、 「殿中でござるぞ」 「面目次第もござらぬ。飢《ひも》じさゆえとはいえ、拙者不覚を。そいでさア、何か食うもんねえかなあ」 「しからばワラジカツがよろしかろうかと存じまする」 「お茶漬かおにぎりか」 「いいえ、ワラジカツを召し上れ」  松山が軍歌を歌い出した。これは長くなる。いま「戦友」の三番だから、予科練の歌になるまでには朝になる。ドスンドスンと床を踏み鳴らして拍子をとるので、廊下の両側の並んだドアの向うが急に異様にシンとしてきた。今夜のなまめかしき相客たちは勇壮活発な伴奏つきで、いやでも徹夜しなければなるまい。  腰元がワラジカツを運んできた。聞きしに勝るシロモノで、黄色い風呂敷のようなものが大皿からぶわりとはみ出している。岡山のアベックは、本気で、深夜こんな大物にかぶりついて体力を涵養するのだろうか。  ふと気がつくと軍歌がやんで、松山が素裸で蒲団の上に寝転がっている。いつのまにか風呂に入ったらしい。部屋のなかがときどき赤くなり、それがまた闇に戻る。向いの建物がやはりその種のホテルで、ネオンが明滅しているのである。その度に仰向けに転がった松山の股間の突起物の尖端がほんのりと赤く染ってはまた闇に沈む。荒海から燈台を望んでいる気分になり、するとにわかに孤独な旅人の感情がこみ上げてきて、またウイスキーを手元のグラスにゴボゴボ注いだ。  その夜はそれで万事休して、ついに私は日本一の野鳥焼を食いそびれたのである。正確には、焼鳥屋をめざして進んでいるうちに、横へ横へと外れて、長時間の断食の後でラブ・ホテルでワラジカツを頬張ったということになる。  話はそれだけのことであるが、この一件にはもう一つ後日談がある。日本一の焼鳥屋からますます離れることになるが、まあ我慢して聞いて頂きたい。 「お前が泊ったあの部屋な、あれからもう一人泊ったやつがいたんだよ」  と松山が言った。これはつい最近のことで、いまではもう、かつての借金王も仏教研究所を何とか脱出して東京に舞い戻っている。だからこの後日談も思い出で、昭和四十年夏の終りに私以外にもう一人、中学時代の旧友が岡山に訪ねてきたことを指しているのである。  その男は幼年学校帰りから高等教育をやり直して、当時は大蔵省の役人だった。出張の帰り際に立ち寄ったらしい。そして例によって、私が辿ったのと同じコースを正確に辿り直したのである。日本一の焼鳥屋へ行くはずの車が岡山一のクラブの門前に止り、長丁場のブドウ狩りを見物し、大名廊下つきラブ・ホテルが終着点で、案の定ワラジカツが出た。  これは別段驚くべき暗合が起ったわけではなくて、案内人が単調な人物だから、その人の案内につれて単調に岡山の市内を歩くと、どうしても単調に同一結果に終るのである。で、最後には、股間の突起物が赤く染るのまでが永劫回帰的にくり返された、と考えて頂きたい。  その返礼に、ということになるかならないか、幼年学校帰りの某は、このうらさびしい場景を次の同窓会でバラしてしまったというのである。ところが、これは藪蛇だった。 「でね、そいつに、お前色盲だろ、って言ってやったんだ。真青になった。幼年学校の身体検査だってゴマ化して通したのに、どうしてお前にそれが分ったんだって言う。簡単さ。だってやつは、俺のチンポコが青かった、って言うのだもの。オイ、世界広しといえども緑色のチンポコなんてあるかよ。考えたね。ハタと膝を打った。あの部屋だろ、ネオンが赤いんだ。それが緑に見えた。赤緑色盲症以外にないね、これは」  名探偵はそう種を明すと、またまた床を踏み鳴らして、 「チンチンチンポの七不思議、日蔭にあれども色黒し」  と七不思議節を七番まで歌った。  岡山の日本一の焼鳥屋は、ほんとうにあるのだろうか。実在するにしても、おそらく、そこへ辿りつくことは出来そうにもないのではあるまいか。  すくなくとも松山俊太郎が案内人である限り、焼鳥屋への道には、岡山一の大クラブや大名ホテルや巨大なワラジカツが難攻不落に立ち塞がっていて、これを突破すべく深夜まで悪戦苦闘して一日が終る。  翌日、もう一度挑戦してみても、岡山のクラブやラブ・ホテルが一夜にして忽然と消え去るのでなければ、結果は請け合って同じことになる。それ以上闘志を燃やせば、松山俊太郎と一緒に永遠に岡山市から出られなくなってしまうおそれがあるのである。  それなら一人で行けばいいではないか、と言う人がいるかもしれないが、それは理屈に合わない話だ。岡山の町をよく知っている人間に案内されても辿りつけないところへ、どうして岡山を知らない私が一人で行きつくことができるだろうか。だから今日まで憧れの日本一の焼鳥屋にまだ行ったことがないのである。  それはそうと、あるとき心理学に詳しい友人にこの話をしたことがある。友人はハハアという顔をして言った。 「きみは子供のとき、弁当のオカズの卵焼きはいちばん最後に取っといただろう」 「うん」 「女が何人かいたら、いちばん美人のから先に口説かないタチだろう」 「いや、美人は口説くさ」  そう言ったが、このとき金ピカの革ソファの上で前後左右の美女の胸をめがけて、実にまんべんなくカパッカパッと動いていた単調な手の運動の記憶が浮んできた。そこで、あわてて打ち消すように、 「でも手当り次第ってわけじゃないけど」  オッパイや蓮文献の蒐集に凝りすぎて、三百年もどこか雨天体操場のようなところへ閉じ込められたのでは、たまったものではないのである。  最後につけ加えておくと、松山俊太郎は大変な計算違いをしていた。蓮文献の基礎研究が三百年で終ると考えられたのは、昭和二十六年頃現在、そのときまでの蓮文献を概算しての結論である。それから先、時間も経たず、人間も殖えず、また蓮という字を使ってはいけないという戒厳令が布告されたとしたら、万事は順調に運んだかもしれない。  すべては裏目に出た。時間は経ち、人間は殖え、戒厳令は布告されなかった。だから蓮という字の出てくる出版物は年々歳々殖える一方である。それで三十年経った。読破すべき蓮文献に要する時間は、すでに軽く三千年は突破しているはずである。この人もまたいつまで経っても、行きたい場所に辿りつけない。 [#改ページ]  2[#「2」はゴシック体] 一品大盛りの味 ——尾道のママカリ  京都の祇園で、といっても私のことだからそのあたりの横丁のお茶漬屋で、まだホステスや芸妓さんたちが腹ごしらえをしにくるには早い時間に、小芋の木の芽和えだの、鱧《はも》の梅肉落しだの、鮒ずしだのの皿小鉢を並べてチビチビと盃を舐めていると、そこが真夏の午後三時のはげしい光を避けた薄暗い二階家の一室であっても、何かこぢんまりと手入れの行き届いた庭園のなかにいるような結構な気分になって、思わず尻が長くなってしまう。  そういう気分は嫌いではない。皿小鉢が木の芽の緑や梅肉の紅葉をあしらった築山や木立ちとなり、汁椀は湖水に擬されて、その水のなかに水藻や鯉のように生麩《なまふ》湯葉松茸が浮び、裏山に月が出れば月影が鶉の卵になってお椀の池に落ちたりもする。食膳全体が名園さながらの食べられる風景となって、舌から胃の腑までが一つの厳密な様式美のなかにひしひしと囲い込まれてゆく実感が快いのである。  もっとも、どうかすると長居が過ぎて、関東育ちの人間には、あまりにも手の混みすぎた庭園風のたたずまいが鼻についてくることもないではない。すると食べるという営みにまつわる根源的な原始性が、一寸の隙もなく完成された様式美のなかに閉じ込められて、家畜のように飼い馴らされているのだという抑圧の感情がやにわにもくもくとひろがりはじめて、 「姐さん、酒だ酒だ。五、六本まとめて持ってきてくんねえ」  と新選組の下ッ端さながら、関東の柄の悪さがむき出しになったりする。  反射的に思い出すのが北海道の食物である。これは徹底的に単品の大盛りだ。蟹を食おうというと蟹だけがどさっと山盛りに出てくる。ジャガ薯が食いたいというと、東京人なら一人頭の一年分の消費量程の男爵薯が赤ん坊の頭を放り投げるようにごろごろと押し寄せてくる。  札幌から四十キロ程の長沼町という町でジンギスカン焼をご馳走になったときがこれだった。味覚を楽しむなどという境地は最初の一口か二口で終って、あとは一種の闘争である。  十人程の同行者の一団が一度に二十本ものビールの栓を抜いて飲みはじめた。玉ネギと羊肉を堆高く盛り上げた大皿がめいめいの目の前に出る。これを平らげると今度はもうすこし目先の変ったものが出るだろうと思うと、そうは問屋が卸さない。お皿が空になるとまた玉ネギと羊肉が物量的にきて、最初のはほんの小手調べにすぎなかったことが同行者の食い方からして察しがつく。第三波が押し寄せてくる時分には、有珠山の噴火か十勝沖地震の津波のように、人力では到底敵し難いものに立ち向っているのであることが、そろそろ判明してくる。  もっと適切には、行けども行けども原野に原野が続く地形のなかを歩いているように、食えども食えどもひたすらジンギスカン焼で、もしここでひるんで箸を休めれば、モンゴールの草原から黄塵を蹴立ててユーラシア大陸を横断してきたジンギスカン軍の一兵卒なら砂漠に一人脱落して取り残される恥辱に泣かねばならぬであろうところの、そんな取り返しのつかぬ敗北を招きそうないやな予感がする。  京都では新選組気取りで空威張りをしていたのが、ここでは五稜郭落城に泣く榎本武揚一党の男泣きが、しんから同感できそうな気分になってくるのである。  そういえば、ヴァルター・ベンヤミンというドイツの詩人批評家に「とれたての無花果《いちじく》」(一九三〇年)と題するエッセイがあって、こんなことを言っている。 「ほどほどの食事しかしない人間は、食べるということをこれまでに一度も経験したことがなく、中途半端な食べ方しかしてこなかったのである。そんなことでは、まあ食事のたのしみ位は心得られても、食うことへのやみくもな欲望にはお目に掛れない。これは食欲の平坦な街道を外れて、ガツガツむさぼり啖《くら》うというあの原始の森に踏み迷う邪道なのだ。」  ベンヤミンはイタリアの田舎町を旅しているときに、町の広場で無花果売りの女から半ポンドの無花果を買った。容れ物がないので身体中のポケットというポケットに無花果を詰め込んで、歩きながら食いまくった。何とかして無花果の重荷から解放されなくてはならない。「それはもう食べるというよりはいっそ浴びるという方がふさわし」かった。無花果のねっとりとした臭気が身体中にまとわりつき、空気のなかにねばりつく。ほとんど嘔気に近い嫌悪感が立ちはだかるが、その壁を突破するとふいに「思いもかけないおいしいものの国への眺望」がひらけてきた。 「私のなかにはその無花果どもにたいする憎しみがむらむらとこみ上げてきた。肩の荷をおろすために、そのふくらみ笑み割れている果物を皆殺しにするために、私はそいつを急いで片付けなければならなかった。破壊し尽すために食べた。咀嚼が太古の意志を取り戻していたのである。」  これは一つの食物を徹底して食いまくることの原始的な快楽を、まことにうまく言い表わした文章である。「ほどほどの食事」の愉しみでは到底味わい難い、羽目を外した食い方の醍醐味というものがあるのだ。原始の森のなかで鳥や獣や魚の肉を食い千切り、引き裂いて、「太古の咀嚼の意志」で呑み尽す快楽、月光を浴びて狼男になったような原始的な破壊衝動の悦びである。  食欲のなかでめざめるこの破壊衝動は一旦はずみがつくと、もう止らなくなることがある。右のエッセイのなかでもベンヤミンは無花果を最後の一個まで食べてしまうと、朝から出そうと思って持ち歩いていた手紙をポケットから取り出して、無花果暴食の続きの気分でそれをこなごなに引き裂いてしまう。食べるという行為にひそんでいる原始的な本能の力強さがめざめて、他の対象にまで見境なく破壊衝動が伝染してしまうのだ。  現代の都会風景にもそんな原始本能の痕跡がまったく消滅してしまったわけではない。日本文化の祖型は縄文文化と弥生文化の二つに二分されて、周知のように、縄文文化は森と原野に狩猟をこととしていた先史時代の男性的動物的な文化、弥生文化はその後に水田稲作技術を携えてきた人びとの作り上げた、庭園のように秩序立った自然のなかで生きるすべを心得た女性的植物的な文化である。京都のお茶漬屋さんが弥生式だとすれば、北海道のジンギスカン焼は一も二もなく縄文式と考えれば話は早い。  町を歩いていて、食物屋をその二種類に区分けするのも面白い。小料理屋、寿司屋、お茶漬屋が弥生式なら、焼肉屋、焼鳥屋、ハンバーガー・インとくればこれはもう明らかに縄文的な感覚である。単品大盛りが可能な食品種はすべて縄文式と考えていい。ラーメン大盛り四五〇円、ライスカレー大盛り四〇〇円、ソバの大盛り三八〇円の貼札にわくわくとうれしくなる人のご先祖さまは、きっと縄文人だったのに相違ない。あるいはチマチマとした弥生式にまだ飼い馴らされていない、活力あふれるヤングや肉体労働者のような現代に生きている縄文人がそれで、右のような類のお店が繁昌しているとすれば、現代社会にも意外に人間の原始的活力は消滅していなくて、ただ表われ方が変っているだけであるのが分る。当の品種が植物性のものであっても同じことで、鍋物のザクを馬鹿ばかしいほど大盛りにしてくるのや野菜サラダのおてんこ盛りだって、無意味にそうしているのではなくて、原始感覚を刺戟して覇道精神をめざめさせる効用があるのである。  ちなみに食通随筆で妙に利いた風なのに鼻白むのは、食べることにつきまとうこの原始感覚を避けて通る傾向があるからである。細部に凝るのはいいとして、あまりにも味覚のニュアンスに耽溺して、食うというまるごとの欲望から離れてしまうので、頽廃のにおいが醸されてくる。微細なニュアンスを追うのも一種の狩猟精神の発露だから、いっそそれに徹し切ってしまえばそれなりに壮観なのだが、いい加減のところで粋がるのが猪口才《ちよこざい》なのである。  だから天下に名のある美食家でも、私は大食いの記録をちゃんと残している人しか信用したくない。たとえば鈴木三重吉によれば、内田百は、「貧乏だ貧乏だとぼやいてゐるが、あの野郎家でカツレツを七、八枚喰らひ、人が来れば麦酒を自分一人で一どきに六本も飲んで、その間一度も小便に立たないとほざいてる」(『残夢三昧』)のであったし、吉田健一なら戦争中飯倉の支那料理屋で一皿二円の天ぷらを「すくなくとも八皿平らげた」記録を書き残している(「満腹感」)。こういう人なら食物について何を書いても信用できる。  そこへいくと私の経験などは実に貧弱なものである。山陽新幹線の三原駅前の食堂でウィンドにママカリの酢づけが並んでいるのを見かけた。前々からこれをげっぷの出るほど食べてみたかったのである。中へ入って酔心の一合壜をお伴に五皿まで食べると打止めになった。六皿目でゴハンを食べたかったのだが、五皿しかストックがないのに気がつかなかったのだから後の祭りだ。ママカリはお酒の肴にもいいが、これをオカズにするとゴハンがいくらでも食べられて、隣家にゴハンを借りに行かざるを得なくなるというのが語源というほどゴハンに合うのである。  ママカリをはじめて食べさせてくれたのは、シナリオライターの石堂淑朗である。尾道出身の石堂のところにはときどき郷里から好物の魚が送られてくる。そのご相伴に与ったのである。関東のコハダや鯖ほど荒くない、瀬戸内海特有の柔くて軽い魚肉を酢で殺した風味はさすがにこたえられなかった。ほんとうは採れたてを炭火焼にして松茸と一緒に柚子で食べるのだが、東京でそんな食べ方は望むべくもない。  そのお返しというわけではないが、石堂を母方の郷里の九十九里浜に招待したことがある。私が世帯を持った年だから昭和三十九年夏、当時私は何かの拍子に分不相応の大金が転がり込んで、友人知己を誘って飲めや歌えの梯子酒で連夜を過していたが、お金はなかなか思うように減ってくれない。そこで何もしないでぼんやりしていれば自然に減ってくれるだろうと、母方の郷里に家を一軒借りたのである。母の出た家は小さいながらも網元なので、そこから毎朝目先の変った魚が届けられた。申すまでもなくタダである。  そこへ石堂が来た。海辺に育った人間の常として、彼もまた魚というものはタダだという固定観念から抜け切っていない。東京で一緒に飲んでいると、魚に値段がついているといって憤然としているので、九十九里に来て久方ぶりにタダの魚にありついたわけだ。いや、一見タダであるかのような魚にありついて相好を崩していたのだが、これは隠された流通機構の秘密を知らなかったまでのことである。  実を言うと、本家から従兄の正ちゃんが毎朝届けてくれる獲れたての鮮魚は、いつのまにか吉兆か福田家並みのお値段になっていたのである。単に値打物だったという話ではない。  先にも言ったように、私の借りていた家は九十九里海岸の漁師町にある。漁師たちは大漁続きの後の不漁の時は終日ごろごろしながら手なぐさみをしている。天保水滸伝の舞台となった土地柄だけに、ここは本場である。その、本家の正ちゃんが開いているゴザにうっかり坐ってしまったのである。潮風の湿気と手垢ですっかり重くなっている花札がドタッドタッという感じで座布団を叩く。それくらいの貫禄物だから漁師たちには札の目が先刻お見通しである。東京でいくら飲み歩いても減らなかった例のあぶく銭がみるみる底をついてきた。正ちゃんが朝魚をかついでくるのは、すっからかんの東京の従兄を餓死させないためではなくて、まだシボれる余裕があるかどうかを偵察にくるのである。 「今夜やってんからヨ、来ねえな」  ニヤッと物凄く笑って、ワラサの大物や渡り蟹をドサッと置いて行く。石堂が食っているタダの魚というのはこれなのである。  エンガチョを移すことにした。三尺程のワラサの銀光りしたのを半身まで刺身にして、大男の石堂と私と女房の三人がそれでも食べきれなくて音を上げた夜、おもむろに切り出した。 「腹ごなしにどうだ。こいつを(と座布団を叩いて)一丁」 「いいね」 「オイ、正ちゃんとこでお札《ふだ》借りてきな」  女房に声を掛けると、まもなく手垢で黒光りした例の花札を借りてきた。石堂が大島渚の映画のための台本を書き上げたばかりで、シナリオ料の半金をごっそり持ってきていることはもう確かめてある。あとは正ちゃん直伝の札の目読みでそれをそっくり頂戴するだけである。角の丸くなったのが坊主で、裏張りがちょっとめくれたのが赤よろし。四光五光に赤青が面白いほどころころ出来た。 「バカツキだなあ、お前。俺はどうも調子が出ないよ。変だな」  タダの魚を食った罰で、石堂はシナリオ料と東京で返すはずの相当な借金まで残して、それでも「魚がタダってのはいいなあ」とニコニコしながら帰って行った。真実というものは、なまじ知らない方が身のためなのだ。  だが、好事魔多しとか、私の方にも罰が当った。偶然だがこれもきっかけはママカリである。帰京して石堂から鬼のように借金を取立てていると、ある日珍しく先方からの電話で、ママカリを送ってきたから取りにこいというのである。石堂は当時千歳烏山のマンションに住んでいたので、早速そこへ駆けつけると、部屋のなかが何か只ならぬ気配である。ドアを開けた瞬間、大き目の猿のようなものが奇声を発しながらこちらをさして突進してきた。 「お前が種村か。入って飲め。コラ、飲めというんだ」  入れ違いに石堂が廊下に出てバタンとドアを閉めた。初対面だが、これが映画界酒乱の随一浦山桐郎であることは聞かなくても分る。石堂は相手をしているうちに始末に負えなくなって、ママカリを餌に私を釣って、酒呑童子に捧げるか弱いお姫さまのように浦山に当てがおうという魂胆だったのだ。気がついたときには万事休すで、マンションの一室に日本一の酒乱と一緒に監禁されていた。殺風景な部屋に不似合いなステレオがでんと置いてあって、いましもレオポルド・モーツァルトの「おもちゃの交響曲」が流れている。その軽快なメロディーにつれて、 「貧乏人の音楽! 貧乏人の音楽!」  と連呼しながら、浦山桐郎がベッドの上で宙返りを打っている。先程の物音の正体はこれだったのだ。柄が小さいせいか、ベッドのバネがトランポリンのように効いて、浦山桐郎は信じられない程上の方まで跳ね上っている。しかし落下するときはかならずしも正確にベッドのマットレスの上に決まらないから、三度に一度は着地点が外れて、板張りの床の上にぎゃふんと叩きつけられる。ふつうなら一巻の終りのはずなのに酔っているから痛くも痒くもなくて、また起き上ってベッドに飛び込むと信じられない程の高さから「貧乏人の音楽!」という声が降ってくる。  今これを書いていてもウソのような気がするが、こういう状況でそれからの二日間昼夜を分たず不眠不休のまま、酒呑童子の酒の相手を勤めさせられたのであった。むろんママカリにはお目に掛れず仕舞いであった。三原駅前でママカリ征伐をしたのも、思えばこのときの欲求不満を晴らすためだったものに相違ない。  そういえば因果の轍《わだち》はまだめぐっていて、この夏青森の八戸まで行ったときも、すんでのところでまたしても酒呑童子に取りひしがれそうになった。その町で画家の類家正人さんのやっている「ばんや」というお店で飲んでいたときのことだ。類家さんが何気なく、 「浦山さんと一緒ですか?」  と訊いた。 「浦山って、浦山桐郎が来たの?」 「講演で来たんですって。先刻までここで飲んでたんですよ。アレ、一緒なのかと思った」  ここで本心を悟られてはまずい。出来るだけ平静な面持ちを崩さずに、私は明日五戸にサクラ鍋を食いに連れて行ってもらう約束を類家さんに取りつけた。一刻も早く、浦山桐郎のいる町から離れねばならぬ。  三沢温泉で大風呂に浸ってから回った五戸の馬肉料理店は一風変っていた。高橋肉店というごくふつうの店構えの肉屋さんの奥座敷にありとあらゆる山の薬草を焼酎に仕込んだ壜がずらりと並んでいて、そこでサクラ鍋をつつくのである。森下町のみの家や日本堤の中江のとは違って、菊や山牛蒡や茗荷に凍豆腐や凍大根を加えて大鍋でぐらぐら煮込む鍋だから、野趣が横溢している。それから刺身が出て、サクラの鉄板焼というのも出た。また鍋のお替りをして菊駒という地酒のお銚子がバタバタと将棋倒しになった。  車のなかでうとうとして、目がさめると「ばんや」の前に来ている。お店のなかをおっかなびっくり覗くと浦山桐郎はまだ来ていないらしい。それでも用心のために二階へ上ってまた連れと飲みはじめた。そのうち「ばんや」の看板にひえ飯と書いてあったのを思い出して、それが食いたくなってきた。いまし方詰め込んだ馬肉が咽喉までつかえているから連れと半分ずつにすることにして、私から箸をつけた。ひえを三割方混ぜたゴハンを大鰯の焼いたので頂くのである。麦飯より軽く香ばしくて、あっという間にどこへ入ったのか一人前が消えた。すると連れがうらみがましそうに空の丼を横目でにらんでいるので、女中さんを呼んだ。 「ひえ飯あと二人前ね。いや三人前だ」  丼が並ぶと、酒の酔いとは性質の違う、何か野蛮な陶酔感のようなものが全身にめきめきとみなぎってきて、そうなればもう浦山桐郎がこようが、ジャイアント馬場がこようが、何しろこっちは太古の咀嚼の意志なんだからこわいものなしで、原始の森から食い続けてきた人類がいま自分の口を借りてあんぐりと大口を開いたような大らかな食欲が背中の方から猛然と湧き上ってき、ホカホカと湯気を立てている丼のなかへやみくもに頭を突っ込んでいった。いまなら浦山桐郎が来ても太刀打ちできそうである。 [#改ページ]  3[#「3」はゴシック体] 狐の嫁入り ——愛宕下の豆腐 「ケ、ケーン」  冬の曠野に獣が遠吠えするような叫び声が上ったかと思うと、いきなり隣室の入口がガラッと開いて、何か大きな丸い物体がごろんと廊下に放り出された。それがそのまま四部屋分の廊下の端から端までをおそろしい勢いで往ったり来たりする。只ならぬ振動に万年床のなかで本を読んでいた私はギョッとして飛び起きた。昭和三十七年、芝愛宕山のアパートに独身住いをしていた時の出来事である。 「ケ、ケーン」  とまた言った。ごろごろと咽喉の奥を鳴らす獣じみた鳴声が長く尾を引いている。男だか女だか分らない異様な唸り声である。  廊下に面したガラス戸をこわごわ開けてみると、奇怪な光景が目を搏った。『尼僧ヨアンナ』というポーランド映画に、少女の魔女が腹を弓なりに反らせて地面を後手で支えた恰好の四つ足で、物凄い速さで走り回るシーンがある。オリンピック体操選手のウルトラCのような曲芸だ。  それと同じに、見ているうちに目の前のものの弓なりの腹がどんどんせり出して、足の裏と後手にした両手が完全にくっついた。身体が零の形になって、頭も四肢もないタンクタンクローのようなものがごろごろ転がり出す。止るともつれた糸玉のようにこんぐらかった手足の脇の下のあたりから、ロクロ首のようにひん曲った顔がにゅっと出た。白眼が吊り上って、口が耳まで裂けている。その真赤な口からヒイーッと火のような吐息を吹き出した。 「何を見てるんだよう、こン畜生。あたいを馬鹿にしたな。あたいを馬鹿にするとお狐さまが承知しないぞ。お狐さまの祟りがあるんだぞォ!」  顔も声もすっかり変質してしまっているが、まぎれもなくお隣りのお京さんである。アパートに引越して数日しか経っていなかったが、共同トイレに行くとき何度か顔を合わせたことがある。齢の頃は十七、八、色白で下ぶくれの、時代劇に出てきそうな京人形風の日本美人である。そのきれいな顔がカラッと裏返しにしたように、引きつった般若の面相に変っている。  廊下のはずれの階段坑のところに怯えた首が三つ四つ、巣のなかの小鳥のように頬を寄せ合っている。様子を見にきた近所の女連中で、なかに家主の婆さんとその娘のしょっ中オートバイの尻にまたがっているズベ公の顔が見えた。事態の説明をしてもらおうとそちらの方に目を向けると、ギャッといって四つの首が一遍に消えた。お京さんが猛烈な勢いでそちらの方に転がってきたからだ。  それから信じられないような出来事が起った。お京さんはコマネチのウルトラCのような恰好のまま、坂を転げ落ちるオニギリみたいに階段を墜落して、下の玄関の観音開きのドアから戸外にごろごろと転がり出てしまったのである。もっと驚いたのは、全身打撲で死んだかと思うとそうは行かなくて、今度は真昼間の往来で「ケ、ケーン」と遠吠えをしはじめたのだ。  遠くで救急車のサイレンの音がした。家主が一一九番に連絡したのだろう。しばらくすると白衣の男が数人担架を持って現われて、金剛力で大の男をハネとばすお京さんを何とか担架のなかに押し込むと街角に消えた。  部屋に戻ろうとすると、階段といわず廊下といわず、お京さんの通ったあとがびっしょり濡れている。失禁したのであろう。後始末に家主の婆さんとズベ公が上ってきた。 「今日のは凄かったね」  とズベ公が言った。 「今日のって、じゃあしょっ中なのか?」 「ときどきね。狐憑きなんだって。でも今日のは特別だね。凄かったよ」  婆さんが引き取った。 「でもあの子は可哀そうなんだよ。映画会社の重役ってのに騙されたんだって。時代劇の映画に出してやるっていわれて妾にされて、名古屋から出てきたんだけど、こっちへ来てみたらそれっきり。お祖父さんと一緒に名古屋の家を整理して出てきたもんだから、帰るに帰れず、それでパアになっちゃったのさ」  何でも父親という人も一時は鳴らした時代劇の俳優だったらしい。その人が死んでからお京さんはお祖父さんと二人きりになった。  お祖父さんという人はよく台所に立っている七十がらみの小男の老人のことだろう。昔、「アーノネ、オッサン、わしゃかなわんよ」というのが口癖で有名だった高瀬実乗という喜劇俳優にそっくりのトボけた顔をしているが、いまでも双肌脱げば背中一杯に倶利迦羅紋々が彫ってあるのが拝める。戦前の中京一帯では鳴らしたバクチ打ちだという。戦後は貿易事業に手を出したが、まもなく失敗して尾羽打ち枯らした。そこでお京さんの女優生活を頼みの綱にして上京してきたのである。  狂乱の日から三週間程隣室はすっかり静かになった。お京さんは入院し、名古屋出身だから尾崎とか水谷とかいう名の爺さんは付添いでそれに同室しているらしい。  アパートにいれば、薄い壁越しに爺さんと孫娘の対話は筒抜けだからそれと分るのである。そういえば、狐憑きというのも心当りがなくはない。  引越してきた翌日の夜だったか、外出帰りのお京さんが妙に弾んだ声で爺さんに報告している声が聞こえたのだ。 「ジイちゃん、やっぱりウチの血筋はそこらのとは違うんだね。今日、四谷のお稲荷さんの前を通ったら、お稲荷さんがあたいを呼ぶんだよ。尾崎家は正一位なんだから位が高いんだって。そうだよね、ジイちゃん」  ヘンといえばこの時からもうヘンだったのである。それからだんだんに気分が高揚して、ついにあの日の朝、お京さんはお狐さまに変身してしまったらしい。  お狐さま変身と言ったが、現代の精神医学では、悪魔憑きとか、犬神憑き、狐憑きとかはいわない。強度のヒステリー性神経症に分類される症状である。  狐憑きに似た犬神憑きでは身体中のあちこちに饅頭大のコブが出る。これは犬神が身体のなかに入り込んで走り回るのだと信じられているが、実は特発性筋肉|攣縮《れんしゆく》または繊維性攣縮の症状で、咽喉を塞ぐヒステリー球と同じである。その筋肉攣縮が方々に出るので身体が突っ張って、コマネチのウルトラCのような異様な身体運動が構成されるらしい。  資料がいささか古いが、たとえば犬神憑きを観察した森田正馬博士の某女の症状所見には次のようにある。 「(彼女は)三十四、五歳の頃初めて犬神に憑かれ、其時は犬神が身体中を動き廻り、其通る所は皮下がピクピクと動いたといふ。又四、五年前からは、時々犬神が来て、前の如き繊維性|※[#「手へん+畜」、unicode6410]搦《ちくぢやく》、胸内苦悶、心悸亢進等を伴ひ、又盲腸部から頭部に向ひ、棒の如きものの突張るが如き感があり(ヒステリー珠)、又身体諸所に突然、饅頭大の腫脹が出来て、又忽ち消失する様な事があつた。」(昭和三年刊『迷信と妄想』)  たぶんお京さんの場合もこれに似た症状が出て、相応の治療が施されたのだろう。二週間程すると、別人のように痩せてキツイ顔立ちに変ったお京さんが戻ってきた。発作の時の打撲傷がまだ残っていて、擦傷だらけの手足がいたいたしかった。  それからお隣りでは何かが変った。たぶん確実に変ったのは経済状態であった。  映画会社の重役にふられても、お京さんは美貌を買われて銀座か新橋の喫茶店のウエイトレスで爺さんとの二人暮しを支えていたらしい。それが病気のために失職して、収入源を絶たれたのである。  夜遅く家を出て暁方近くになって帰ってくるようになったが、何をやっているのかは分らない。そこで昼間顔を合わせるのはもっぱら爺さんだけになった。幸い、これから先の話は爺さんが主人公になるので、お京さんにはしばらく消えていてもらう。  ところで、話を先に進める前に、少々唐突だが、私の豆腐好きのことを打ち明けておかなければならない。豆腐だけではなく、豆腐屋の店先に並んでいる一切、油揚げ、オカラ、納豆、ワカメ、白滝のような食物が私は大の好物なのだ。いまでもスーパーの豆腐は食わないので、わざわざ自転車の遠乗りでお気に入りの豆腐屋まで買いに行くのである。  愛宕山に住んでいたその当時は自転車の遠乗りまでする必要はなかった。大倉山下と慈恵大前にそれぞれ一軒ずつ、いまだに地下水を汲み上げて作っている滅法うまい豆腐屋が二軒あったからだ。そのどちらかでオカズを仕入れて自炊をする。近所に気安く入れる食堂のなかった当時としては、特に蕎麦屋寿司屋の開かない日曜休日に飢えを予防するには、これがいちばん簡便な自衛手段だった。  私は電気炊飯器を買い入れて、生れてはじめての自炊生活に入った。こういうとき、複雑な調理技術を必要としない、それも大の好物の豆腐を商う店が近くにあるのは勿怪《もつけ》の幸いというべきだろう。  そういうわけで、よく豆腐屋で仕入れた奴豆腐や油揚げを一まとめに台所の棚に積み上げておいた。電気冷蔵庫の普及していない時代だったし、普及していたとしても、そんなものをおいそれと購入できる余裕はない。食物を室内に置くのはイヤだから、外の台所に置いておくほかはないのである。不思議なことに、それがいつのまにか消えてしまうのだ。犯人の見当は大方察しがついた。  戦後まもなく建てたアパートなので、今時のように台所は室内に内蔵されていない。廊下に沿って部屋の入口と差し向いに同じ形の炊事場がずらりと四つ並んでいて、突き当りが共同トイレになっている。一番手前が神田の印刷屋兼業界紙の社長さん夫婦、一番奥は銀座のバーのマダムの部屋で、このご両家は滅多に炊事をしない。あやしげな手つきでネギを刻んだり、ミソ汁を作ったりするのは、私と尾崎の爺さんしかいないのだ。  肩を並べて炊事をする時間がくると、それとなく探りを入れてみた、爺さんの鍋のなかに油揚げがぐつぐつ煮えている。傍に包紙の新聞紙が捨ててあるが、豆腐屋で買うものの包紙をいちいち読んで記憶しているわけではないから、それが当方の所有物であったかどうかを確かめるすべはない。新聞紙はどれも新聞紙だから区別がつかない。 「尾崎さんは油揚げが好きみたいですね」 「油揚げはお京の好物だがな」  と爺さんは名古屋弁になって、 「あんたは豆腐をよく買いよるな」 「あれがないとメシを食った気がしないんだ。困るんだよ。食おうと思うとなくなっちゃう。誰が持ってくんだろうなあ」 「豆腐も高うなったがな。よう買えんがな」  爺さんはトボけた。こうなるともう手に負えない。肝腎のところへくると、爺さんは途端に耳が遠いふりをするのである。老眼鏡の奥でキョトンと眼を丸くして、ワシは世の中のことは何も知らんがな、というような顔をしている。古狸め。 「アーノネ、オッサン、わしゃかなわんよ」  と私は、聞こえよがしに高瀬実乗の声色で捨科白を吐いた。  油揚げを浚われるのは我慢する。妹のような齢頃のお京さんが狐憑きになって、油揚げの中毒になっているのは見るに耐えない。こちらも決して世間並みの財政状態ではないとはいえ、お稲荷さんにお供物を捧げているのだと思えばそれほど腹は立たない。何ならお京さんの誕生日に油揚げを奮発して十枚もプレゼントしたっていいのである。  それが爺さんとなると話は違ってくる。これもすぐ蒸発してしまう、酉の市で買ってきたべったら漬けだの、メザシやアジの干物は、お京さんの好物ではあるまい。爺さんの私腹を肥やすためにせっせと兵糧を仕込んでいるのが腹に据えかねるのである。状況証拠で迫って行っても、耳が聞こえないふりをされれば一巻の終りだ。かくなるうえは現場を押えるほかはなかった。  新聞紙の包装をすこしゆるめておくことにした。かっちり包装してあるとガサつかないので、右から左へ音を立てずに移すことができる。ゆるゆるにしておいて、持ち運ぶときにガサつく音でスワと飛び出せばいい。  爺さんと対決する瞬間が目に浮ぶ。居直った爺さんは、双肌脱ぎに倶利迦羅紋々もうっとりと朱に染まり、昔取ったる杵柄の、東海道筋に泣く子も黙る壺振り尾崎たあ俺のこと、名古屋弁にドスを利かせたのがいっそ凄んで半身落しに斜に構えたのが、 「お兄《あにい》さん、お兄さん、お控えなすって」  とくれば、こっちも伊達に水道の水を飲んじゃあいない。 「てやんでえべらぼうめ。白い歯見せてりゃどこまでツケ上るんでえ、親兄弟親戚と間違えるんじゃあねえやい」  そこまでは一息にいきまけそうだが、あとが続かない。何か球のようなものが咽喉につかえる。その球を胃袋の方から糸で引張っているような気がする。すると胃から脳天まで一本の棒のようなものが通って身体中がカチカチに強張った。  饅頭大のコブはまだ出来ていないが、もうすぐ出るだろう。爺さんがキョトンと目を丸くしている。ふと見ると、その爺さんの背後《うしろ》に、部屋の入口際の二畳間にお京さんが白衣に緋袴の巫女の衣裳を着て坐っている。お京さんは耳の上のところに両手をかざして招き猫のようにおいでおいでをした。途端に糸で引かれるようにこっちの身体がそっくり返って、床に後手に手がついたかと思うと、前に見たお京さんとそっくりの姿勢になり、そのまま私は廊下を猛烈なスピードで走り回ろうとしているではないか。  すべてが、化猫映画で化かされた若侍がキリキリ舞いをする場面の通りになった。風が吹く。木の葉が舞う。アアーッと声を上げて若侍が虚空にさらわれてゆく。  白昼夢はそこで終った。罠に掛ったのはどうやらこっちの方らしい。念のために廊下に出てみると、囮《おとり》の油揚げの新聞紙包みも、それに手をかけているはずの爺さんも、影も形もなかった。狐につままれたような気持というのはこのことか。  その頃からしかし、実は豆腐も油揚げももう消える心配はなくなったのである。私の部屋に電気冷蔵庫が入ってきたからだ。電気冷蔵庫と一緒に階下のズベ公も入ってきた。つまり彼女が私の女房になってしまったわけだ。そうして電気冷蔵庫は豆腐や油揚げばかりではなく、隣家とのホットな戦争状態の人間関係まで冷やしてしまった。  もっとも、私と爺さんとの虚々実々のやりとりが終っただけで、隣家との交際は別の形で再開されてはいた。 「お爺さん、ヒジキの煮つけ作ったんだけど食べてくれる?」 「ああ有難う。お京がいなくなってしまったで、何か作るにも張合いがないがな」  台所で女房と爺さんの声が聞こえている。そういえば、このところお京さんの姿を見かけなくなった。  それからある日、鼠色の服を着た刑事と名乗る男がやってきて、隣家の消息を根掘り葉掘り訊ねて行った。 「何かあったんですか?」 「太い女《あま》でね。女の子を四、五人使って、コール・ガールの元締やってた。銀座に事務所持ってね。大分貯め込んだだろう。何か心当りがあるかね。上げたんだが証拠が薄くてね」 「さあ分りませんねえ。他人の生活には興味ないから」  四、五日経つとお京さんが帰ってきた。証拠不充分で釈放されたのだろう。その気になって見ると、お京さんが黒いラメの外出着を着て、バーのホステスのような化粧をしているのにはじめて気がついた。  隣家の筒抜けの会話の内容もずいぶん変ってきた。五十万とか百万とかいう貯金額らしい数字がポンポン出る。それからまたしばらくして、意外な情報が耳に入った。お京さんが近々結婚をするというのである。 「元自衛隊にいた人なんだって。さっき来てたけど、とっても真面目そうな人よ。世田ヶ谷に家を買って引越すんだって。お爺さんも一緒に」  女房がそう解説した。 「そうか、狐の嫁入りだな。でも、よかった」  これが尾崎家の消息を聞いた最後であった。隣家の引越より先に、私たちの方も豊島園に小さな借家を見つけて引越してしまったからだ。  お京さん一家の消息はそれからもう一度、十五年以上経った時分に耳にした。つまりつい最近のことだ。台所で半丁の冷奴と油揚げの焙ったのを肴に寝酒を飲んでいると、すっかり太目になって、もう昔の革ジャンもジーパンも合わなくなっている元ズベ公が言った。 「尾崎さんのお爺さん、死んだよ」  銭湯で見た背中の倶利迦羅紋々が一瞬眼裏に浮んだ。にわか聾になって、老眼鏡の奥でキョトンと目を丸くしている、アーノネ、オッサンの表情が蘇ってくる。 「お京さんは元気かい?」 「子供が二人いるんだって、この間、新橋の道で遭ったのよ。丸々とふとっちゃったけど、まだ美人だなあ。世田ヶ谷の家は建て替えて、お庭にいっぱい花を植えてるんだって」 「どうせこっちはいまだに借家住いさ」 「そんなんじゃないよ。でもあたしもお京さんみたいに美人になればよかったなあ」 「狐憑きになるぞ」 「美人だからよ。きれいじゃなきゃ狐も憑いてくれない」  横合いから手が伸びて、皿の上の油揚げを浚って行った。それを口に押し込んで、元ズベ公はどちらかといえば狐面よりお多福なのが、口をお猪口にして目を吊り上げると、 「コンコン」  と鳴いた。さてはお京さんにひさしぶりに会って、妖気をうつされたか。向うが耳のうしろに両手を上げておいでおいでをした。何だかひとりでに椅子から腰が浮いて、身体が回転しそうになる。 「オイ、よせ」  と声を上げたが、はやくも相手はお京さんと奥の方でつながっている気配をにんまりと漂わせて、またてれんこに手を操ると、 「コンコン」  と鳴いた。 [#改ページ]  4[#「4」はゴシック体] 薬喰は禁物 ——横浜の牛肉  ジュール・ヴェルヌの冒険小説『八十日間世界一周』に、主人公のパスパルトゥーが横浜に上陸してから、牛肉を食わせる店がないので空っ腹を抱えてさまようくだりがある。 「……そのうち彼は、この国の肉屋には、羊、山羊、豚などがまったくないことに気がついた。牛は耕作用として使われるので、それを殺すことは神慮にそむくということを知っていたので、彼はそれで日本には肉類が少ないのだと結論をくだした。(中略)彼の胃は、日本人が米とともにほとんど常食にしているといっていい魚類や、シャコや鶉《うずら》といった鳥類、それから鹿、猪のたぐいに慣れるべきであったろう。」(江口清訳)  ヴェルヌがこの小説を書いたのは一八七二年(明治五年)のことだが、彼が極東旅行者から仕入れたと思しい情報は、どうもいささか鮮度が落ちているのである。  横浜開港以前から牛肉を食べていた日本人は、数こそ多くはなかったが、いないことはなかった。天正文禄頃のキリシタン大名は、高山友祥も蒲生氏郷も細川忠興も、しきりに牛肉を食った。 「キリスタンの日本に入りし時は、京衆牛肉をワカと号してもちはやせり。」(松永貞徳『慰草』)であって、十六、七世紀の日本では別段禁忌ではなかったらしい。  江戸時代にはたしかに獣肉嗜好は禁じられていた。とはいえ禁令を出すお上だけは別格で、徳川慶喜が大の牛肉好きだったのは有名である。新門辰五郎に命じて「毎日二分ずつを江戸城に納めさせた。」(小野武雄『江戸の舶来風俗誌』)というから、将軍大名の間ではもはや常食に近かったのだろう。  司馬江漢も長崎で大いに牛、豚、鶏を食べている。それも牛はタルタル・ステーキのような生肉である。『江漢西遊記』天明八年十月二十八日の記によれば、「宿へ帰りて牛の生肉を食ふ。味ひ鴨の如し。」柳田國男ではないが、日本人は「宍《しし》を忘れてしまつた人民ではなかつた」のである。  むろんパスパルトゥーは何の案内もなしに横浜に上陸したのだから、どこへ行けば牛肉が手に入るかは知るよしもない。しかし丹念に探せば、慶応元年(一八六五年)に屠牛場が創設された横浜には、当時いくらも牛肉店は見つかったはずである。商館番号アメリカ八拾五番は牛肉店だったし、明治二年には牛肉専門の太田屋が横浜で開店された。現在でも住吉町にある太田縄のれんの前身である。  ちなみに中川嘉兵衛が芝白金に屠殺場を設けたのは文久年間で、それまではこの江戸最初の牛肉屋も横浜から仕込んでいた。やがて牛肉食は東京に飛火して、明治八年発行の『牛肉しやも東京流行見世』には本郷の野田安、四谷竹町の三河屋をはじめ四十店が記録されているというから、流行の猛威たるや驚くべし。パスパルトゥーの上陸時明治五年ともなれば、二次感染の東京にもかなりの数の牛肉店が繁盛していたのである。参考までに服部撫松の『東京新繁昌記』(明治七年刊)の一節を借りよう。 「此の店の都下に行はるゝ、未だ久しからずして復た算数すべからざるに至る。|鰻※[#「魚+麗」、unicode9c7a]《ウナギ》を圧倒し、山鯨《ヤマクヂラ》を呑噬し、各街の坊として招牌《カンバン》なきはなく、肉の流行は汽車に乗り、命を伝ふより速かなり。」  顧客層もかなり大衆化していた。すなわち「肉店三等有り。旗章《ハタ》を楼頭に飄す者は上等なり。招燈《アンドン》を檐角に掲ぐ者は、中等也。障戸を以て招牌に当つる者は、下等也。」で、鍋にも二等あり、「葱を和して烹《に》る」並鍋が三銭半、「脂膏《あぶら》を以て鍋を摩して烹る」焼鍋が五銭の上等であった。  このほかにもう一つ下層庶民のための露店があった。早く言えばこれはドテ焼きのようなものだったらしい。 「露肆《ダイダウミセ》を開いて、肉を売る者有り。烹籠《ニコミ》と曰ふ。専ら肉店に上る能はざる貧生を招く也。|懶叟清泗《ブシヤウオヤヂミヅバナ》を啜《スス》つて之を製す。」  いささか不衛生という感じがしないでもないが、貧民は貧民なりに新流行の舶来物に蟻集して珍味にあやかる風俗描写は躍如としている。すなわち明治七年にはもう、牛肉嗜食は庶民層にまで浸透していたのだ。空っ腹を抱えたパスパルトゥーがそれを見逃してしまったのは、作者のジュール・ヴェルヌが古い極東情報に頼っていたからであることは、どうやら間違いないようである。  では、ジュール・ヴェルヌはどのあたりのわが国食生活情報を聞きかじっていたのだろうか。おそらくこの時を去る十二年前、万延元年頃の横浜風俗を耳にしたのではないかと思われる。私がそう思う根拠は、島崎藤村の『夜明け前』に出てくる牛肉食いの場景である。 『夜明け前』の冒頭近くには、周知のように青山半蔵の国学の師である中津川の医家宮川寛斎が、友人の喜多村瑞見と一緒に横浜の旅籠牡丹屋で牛鍋を食う件《くだり》がある。牡丹屋の主人が横浜の町で仕入れた牛肉を持ち帰って蔭食いするのである。大っぴらには食えない。 「牛鍋は庭で煮た。女中が七輪を持ち出して、飛石の上でそれを煮た。その鍋を座敷へ持ち込むことは、牡丹屋のお婆さんがどうしても承知しなかつた。」  不浄視されていたからである。あまつさえ、いざ食べる段となると白紙が各自に一枚ずつ配られる。「肉を突つついた箸はその紙の上に置いて貰ひたいといふ意味だ。」汚れた箸は食事の後に白紙に包んで捨てるのである。食べていると、牛鍋のにおいを払うために、奥の部屋で障子を開けるやら、籠った空気を追い出すやら、大変な騒ぎになる。すると鍋を囲んでいる一座に居合わせた江戸両国十一屋の隠居が言うのである。 「女中さん、さう言つて下さい。今にこちらのお婆さんでも、おかみさんでも、このにほひを嗅ぐと飛んで来るやうに成りますよつて。」  十一屋の予言が見事的中したことは、それからわずか十数年後に出た服部撫松の『東京新繁昌記』や仮名垣魯文の『安愚楽鍋』がつとに裏書きした通りであった。  面白いのは、商人の十一屋や開明的な医師喜多村瑞見はともかくとして、本居宣長と平田篤胤の学統を踏んで古代復帰の道を夢見ている国学者宮川寛斎までもが、ここではすこしも悪びれずに牛鍋を突っついていることである。もっとも、寛斎は牛を食ったとは言っていない。薬を喰ったと称している。 「『どれ、わたしも一つ薬喰《くすりぐ》ひとやるか』と寛斎は言つて、うまさうに煮えた肉のにほひを嗅いだ。好きな酒を前に、しばらく彼も一切を忘れてゐた。」  一種の国粋主義者である宮川寛斎がうまそうに肉を食うのは、矛盾というよりは背教ではないか、と疑えば疑えないことはない。しかし、そうすると獣肉を食うことが古代の道に背くかどうかも問題でなくもないことになる。  いま手元にある田中香涯の『新史談民話』という随筆集を覗くと、元来日本人は天孫ニニギの命の御子ヒコホホデミが山幸彦として狩猟に従事し、兄のホノスセリが海幸彦として漁撈に携ったのだから、天孫族は狩猟生活をこととする肉食民族であって、古語に神主を「はふり」というのは、彼が屠殺夫(「ホフル」人)であったためだという語源学がおこなわれている。  また雄略天皇が御馬瀬で狩猟をせられたとき、膳部長野能が獣肉の膾《なます》を製してこれを献上すると、天皇も皇太后も大いにこれを賞美された。この『日本紀』の記述を挙げ、三河の菟足神社や日向の串間神社の猪肉供犠の例をも挙げて、上古時代の日本人には「(獣類の)血液を汚穢視するが如き思想や風習はなかった」と結論している。  かりにそうであるとすれば、獣肉忌避は仏教渡来以後のかなり層の浅い風習だったのである。しかも獣肉忌避の後でも禁忌の対象は家畜(牛、豚、羊)のみに限られ、野生の猪や鳥類や鯨に関してはいわば野放しに食い放題だった。げんに『夜明け前』のもう一人の登場人物吉右衛門も、「アトリ(※[#「けものへん+葛」、unicode7366]子鳥)三十羽に茶漬三杯」という野鳥肉大食いコンクールのようなものの思い出を、作品の冒頭で語っているほどだ。  そういえば寛斎たちが牛鍋を突っつく牡丹屋という旅籠の屋号も何だかあやしい。牡丹といえば猪肉、つまり山鯨の別称である。かねて山鯨を食わせるための専門店として鍋一式などが揃っていたからこそ、新来の牛肉の調理にも即座に応じられたのではないかとの推理も成り立つ。  山鯨で思い出したが、服部撫松の『東京新繁昌記』が本歌取りをした寺門静軒による江戸風俗誌『江戸繁昌記』(天保三年)に、果せるかな「山鯨」と題する一文がある。服部撫松は現実の新東京風俗をそのまま叙したというよりは、寺門静軒の狂体漢文の文体模倣を通じて明治の新東京をむしろ天保の江戸から照らし出したのである。ちなみにオリジナルの「山鯨」には次のようにある。 「聞く、天武帝の四年(六七六年)に、天下に令して始めて獣食を禁ず。病に餌《じ》するに非ざるよりは、輙《たやす》く|※[#「口+敢」、unicode5649]《くら》ふことを許さず。世|因《よ》りて謂《い》ひて薬食と曰ふ。前日江都中に薬食舗と称する者|纔《わづ》かに一所、麹街の某の店是のみ。計るに二十年来、此の薬の行はるゝや、此の店今|復《ま》た算数すべからざるに至る。招牌例して落楓紅葉を画き、題するに山鯨の二字を以つてす。」(平凡社刊「東洋文庫」)  つとに天保年間においてさえ猪肉嗜食の隆盛右の如くだったのだとすれば、明治開化の牛肉嗜食は、毛唐の物真似というよりは仏教時代の抑圧の数世紀を立ち超えて、上古の肉食生活の復活した食のルネサンスであったと言って言えないこともない。それなら寛斎は心おきなく、「どれ、わたしも一つ薬喰いとやるか」と膝を乗り出してもよかったのである。  それに、宮川寛斎が医者であることを考えあわせると、右の科白はちっとも不思議ではない。薬喰《くすりぐい》という語は、たしかにいまではそれほど耳馴れない。しかし寺門静軒も言うように、人びとは獣肉の禁忌をあざむくためにこれを薬用として自他ともに大目に見る習慣だった。医師であった寛斎はとうに薬用としての獣肉の味を知っていたはずだ。  そういえば島崎藤村の同時代の詩人薄田泣菫の随筆集『樹下石上』(昭和六年)のなかにも「薬食」という一章がある。『夜明け前』の牛肉試食の件を引きながら、自らの牛肉食べ初めの記憶を語っている。泣菫が牛肉をはじめて味わったのは明治十八、九年頃。瀬戸内海近くの岡山浅口郡に生れた詩人は当時八、九歳だった。  都会では牛鍋、すきやきが珍しくなくなっても、田舎ではまだ薬喰だったのだ。泣菫のエッセイで面白いのは、牛肉を食う度に肉を盛る皿小鉢が消えてしまうことだ。その原因が判明した。ある日少年泣菫が裏の畑を耕していると、土の下から脂気のぬけきらない皿がいくつも転がり出てきた。「癇性な母が濯ぎ洗ひするのを不気味がつて」その都度土に埋めていたのである。 「薬喰もいいが、その度に皿小鉢がなくなるのでは、割合に高くついてな」  泣菫の父親はそう言ったそうである。  もう一つ「薬喰」という同題のエッセイを書いた人に、内田百がいる。百先生の生年は明治二十二年。岡山市古京町の志保屋という造り酒屋が生家である。  明治も中期ともなれば、いくら地方都市でも牛肉そのものが忌まれたわけはない。百の場合は、生家が造り酒屋で、牛肉を食うと酒倉が穢れるという考えから家では食わしてもらえなかっただけである。その代り町外れの叔母の家に食べに行った。 「牛肉をどのくらゐ食つたのか覚えてゐないけれど、後で口の臭味を消すためだと云つて、蜜柑を幾つも食べさせられ、なほその上に、お酒を口に含んで、がらがらと嗽ひをした後で、叔母さんの鼻先に口の息を吹きかけて見て、大丈夫もうにほはないと云ふことになつて、それから寒い夜道を俥《くるま》に乗つて、家に帰つて来た。」  簡潔な叙述だが、よく読むと大変な贅沢である。今時の表現に翻訳してみると、牛鍋を年増(叔母)のお給仕で腹一杯食べてから、蜜柑のデザートでしめ、お酒で口を浄めて、自動車でゆうゆうとご帰館遊ばしたことになる。それも当事者は五、六歳の子供である。誰にでもできる豪遊ではなかった。  それから半世紀程経過して、私が五、六歳の時分にはもう牛肉に対する禁忌はほとんどなかった。それだけに嗽いをするお酒も、デザートの蜜柑もなくて、お銚子はもっぱら父の独占物であった。すきやきとも牛鍋とも言わずに、ただ「今晩は牛《ぎゆう》だ」といっていたように憶えている。  三十燭光ほどの暗い電球の下で、一家がガスコンロの上の鍋を突っついている。虚弱児童の私はしきりに肉をすすめられるが、食べられない。牛肉だけでなくて、鍋のなかの白葱だの焼豆腐だの、ほとんど一切のザクが嫌いである。白滝とお麩だけが何とか食べられて、それもそう好きではないので、あとはゴハンに醤油とカツオブシの猫飯をこっそり作って満腹したふりをする。泣菫や百のように子供のときから牛鍋がおいしいと感じたことがないのである。  牛が夕飯の菜になる日のことでいまだに忘れないのは、肉を箸でつまむときの父の言葉だ。 「マユミダはな、この肉を赤いうちに食ってしまう。こっちが食おうと思うともうないだ。マユミダと牛をやると葱しか食えないだ」  父はよほど恨み骨髄に徹しているらしく、牛肉を食うたびにマユミダに対する遺恨が噴き出すのであった。それを聞いていると、マユミダという顔のない大男が大きな赤い舌をベロベロ突き出して、生煮えの肉をさらってゆく場景が目に浮び、それでも食い足りないとマユミダが大きな舌でこちらの顔をべろーんと舐めにくるのではないかという恐怖に襲われる。  百の「薬喰」にも牛肉を食っていると学生が鍋を覗き込んで、「先生、牛肉をお上がりになつても、いいのですか」と脅迫する件《くだり》がある。  百が医者に牛肉食いをとめられているのを知っていて、脅かしているのである。学生は自分のを全部食ってしまってから、意地悪そうな顔をして百先生の箸の尖をぬすみ見ている。脅かして、残りの肉をせしめようという魂胆だ。  手練の早業で相手を出し抜くか、権謀術数の限りを尽くして相手に箸を捨てさせるか、いずれにせよ、牛鍋にはどうも共食者間の闘争心を掻き立てるようなところがあるらしいのだ。しかし何分にもこちらは子供の頃からの牛鍋嫌いなので、西部劇の決闘シーンのようなそんな緊迫した場面に立ち会ったことはない。  ご多分に洩れず戦後の食糧難で好き嫌いはなくなって、大抵のものは食べられるようになりはしたものの、あいにく食糧難時代には、これはうまいと感じ入るような上肉にはめぐり遭えなかった。  だから久しい間、私は牛鍋屋の前をあってなきが如くにさっさと通りすぎてしまう種類の人間だった。思えば、横浜にいくらも牛肉店がありながら見て見ないふりをして通りすぎたパスパルトゥーと、好みは正反対ながら外見はそっくりだったのである。 『八十日間世界一周』ではパスパルトゥーは弁天町というところからいくつもの橋を渡って町中に入る。おそらく現在の弁天橋から野毛を経て、東本願寺別院前あたりに出たらしいのは、「巨大でさびしげな杉の木立におおわれた寺があり、その奥には、仏教の僧侶や孔子の信奉者がつつましく生活している寺院があった。」という記述からも察しがつく。そこから右折して横浜橋方面に向かえば、田中英光の小説で有名な旧赤線の曙町があり、現在では伊勢佐木町通りにかけて夥しい飲食店がひしめいている。パスパルトゥーは間違いなくこの辺りを通過した。  パスパルトゥーになったつもりでこの界隈を流し歩くのは面白い。  パスパルトゥーは香港で主人のフィリアス・フォッグ氏にはぐれて無一文で日本に上陸したので、こちらの懐がさみしいときにはいやでもパスパルトゥーの心境になれる。  もっとも、私はかならずしもつねに無一文というわけではないので、この界隈では大概、伊勢佐木町通りも横浜橋バス停近くの上総屋という蕎麦屋でお婆さんの作ったオカラやヒジキを相手にお銚子を空けたり、時間が遅ければすこし戻って、根岸屋で枝豆をお伴に気長にビールを飲んだりする。  根岸屋でそうしてねばっていると、楽団が裕次郎の「錆びたナイフ」を演《や》ったりする。すると朝鮮戦争やヴィェトナム戦争時の夜を徹した賑いの場景が蘇ってくる。  GIや現代の洋妾《ラシヤメン》たちがジルバを踊っていた時代に、ここに連れてきてくれた横浜在住の友人のことを思い出す。その友人は昨年突然死んでしまった。  ふと気がつくと、根岸屋の内部はその頃とまるで変っていない。緑色の模造革のボックスも、いたるところ無意味にぶら下げた桜の造花も、割烹着姿の女中さんも、元ポン引きや元バイニンらしき客たちも、十年前二十年前にそっくりそのままだ。  時間が止った世界のなかでただ人間だけが齢を取って動きが緩慢になり、水底のようなホールのなかを高速度撮影フィルムのなかの映像のようにゆっくり動いている。いやほとんど止っている。  ビールが苦いせいか鼻の奥がツンとして、涙が出てきた。  つい数日前には根岸屋の一本裏手の通りの荒井屋に入った。これも由緒の古い牛鍋屋である。  ここで牛肉を食べてしまうと、理論的には、私はもう空っ腹で牛肉を食いそびれたパスパルトゥーではなくなってしまう。それでもすきやき鍋はうまかった。私は受け皿の卵を断って、肉の生《き》の味を味わうために別皿を所望した。毛皮を着て遅い昼飯をとっているキャバレーのホステスたちがいる。川崎競輪で当てたらしい予想屋の一党がいる。壁には三枚続きの横浜開港図の浮世絵が懸っている。  戸外は雨で舗道が濡れていた。店の向いはついこの間までは風情のある古いポルノ映画館だったが、いま見ると新装ビルのために取り壊し中らしい。  舗道を叩く雨の連想で、いつか訪ねていったコペンハーゲンの運河沿いの「パスパルトゥー」という画廊のことを思い出した。その画廊を訪ねた日も雨で、すぐ目の前の港の運河にボートがいっぱい舫《もや》っていた。 「パスパルトゥー」という言葉をフランス語の辞書で引くと「額縁」と出てくる。あのコペンハーゲンの画廊名はこの意味にちなんだのだろう。  これとは別に「万能鍵」の意味もある。ジュール・ヴェルヌはこちらの方を取って無一文の空《から》っ尻《けつ》でいて透明人間のようにどこでも通り抜けられる、あの冒険児を造型したわけだ。  だが、どこでも通り抜けられる人はどこにも定着することはできないし、してはならない。牛肉で腹を重くしすぎて動きがとれなくなったのでは、贋パスパルトゥーとしては一巻の終りだ。  今度はマユミダか百の学生のような人物と同伴で来て、葱ばかり食わされる羽目になろう。そう思って外に出ると、馬車道の方角へ向って歩き出した。急に港が見たくなったのである。 [#改ページ]  5[#「5」はゴシック体] 画餅を食う話 ——駒込の洋食  東坡肉といえば、村井弦斎の『食道楽』をはじめ邱永漢の『食は広州に在り』、檀一雄の『檀流クッキング』にいたるまで、ずいぶんいろいろな人がこれを話題にしている。しっぽく料理には欠かせない長崎の角煮の原形というし、沖縄料理のラフテーも似たようなものだから、私たちにもまんざら馴染みのない料理ではない。  そもそもは宋代の詩人蘇東坡の発明になるのでその名があるという。蘇軾《そしよく》、字は子瞻《しせん》。東坡居士は号である。父の蘇洵《そじゆん》、弟の蘇轍《そてつ》とともに唐宋八家文の一に数えられた文章家であるが、本業の政治家としては不遇で、しばしば僻遠に流された。  何しろ「無肉令人痩、無竹令人俗」と自ら述べているほど、豚肉と筍には目がない。「好竹《こうちく》山に連《つら》なりて筍《じゆん》の香《かんば》しきを覚《おぼ》ゆ」とは黄州に流されたときの第一声である。しかし、海南島に流されたときなどは口に合う肉も筍もなかったのか、詩句の通り見る影もなく痩せこけてしまった。  この逸話は邱永漢の『食は広州に在り』に大層面白く紹介されている。五日に一回バラ肉を見、十日に一回鶏粥に遇うのがやっとだったというのである。  それは別に困ったうちに入らないというのは、十一世紀宋朝の高官ではなく、それも食いしん棒ではない人間の言い分だろう。ともかく食いたいものが食えなくなったために蘇東坡はすっかり痩せて、「官服がブカブカになり、束帯が落ちて、下僕をびっくりさせ」(邱永漢)るほどやつれ果てた。  しかし、生来が農民の血を引く楽天家である。食物がなくなれば自分で作ってしまう。東坡(東の丘)の号も黄州でみずから拓いた荒蕪地につけた名からきた。官を追われれば、そこに野がひらける。官職にしばられていては相まみえることのなかった野の幸がみずみずしく迎えてくれるのだから、こんなうれしい話はない。 [#ここから2字下げ] 船頭《せんとう》に鮮《せん》を斫《き》る 細《こま》かにして縷々《るる》たり 船尾《せんび》に玉《ぎよく》を炊《かし》ぐ 香《かんば》しく浮々《ふふ》たり 風《かぜ》に臨《のぞ》んで 飽食《ほうしよく》し 甘寝《かんしん》するを得《え》たり 肯《あえ》て細故《さいこ》をして胸中《きようちゆう》に留《とど》めしめんや [#ここで字下げ終わり] [#地付き](小川環樹訳)  舟のへさきでは鮮魚の刺身を作り、ともではうまい飯を炊く。たらふく食って昼寝をしていればいいのだから、何をくよくよすることがあろうか。たぶん言外に独白したことだろう。宮仕えにしがみついている奴等にこの自然の幸の醍醐味がどうして味わえようか、と。  ことほど左様に処々方々に左遷された経験がモノを言ってか、蘇軾は人のあまり行かない地方の地酒や郷土料理に滅法くわしくなってしまった。例の東坡肉も、どこか南支に古くから伝えられていた土俗的調理法を彼流にアレンジしたものにすぎなかったのかもしれない。  酒に関しては『東坡酒経』という一巻の書物を著しているほど各種の酒を試みており、のみならず地酒が口に合わないと自家で独特の酒の醸造に凝ったりさえした。まさに天下第一|老饕《くいしんぼう》の名に恥じない人となりである。だから蘇軾東坡居士といえば何よりも食通であり、美食の神様であって、文章家としてよりは余技の方で後世に名が残った。  ところが、この食通があんまり当てにならないというのである。食物はともかく、酒の方はどうも信用できない。蘇軾は李白のような酒豪ではなくて、日に一合ほどしか嗜まない下戸だったからだ。海南島では口に合う酒がないので、かつてさる隠者に作り方を教わった桂酒というのを自家醸造してみた。 [#ここから2字下げ] 有隠者以桂酒方授吾。醸成而玉色。香味超然。非人間之物也。 [#ここで字下げ終わり]  玉のような色をして、香味はこの世のものとは思えず、現実ばなれのした出来栄えだという。しかるに実際にこの酒を飲まされた息子の話によると、まるで飲めたものではなくて、無理に飲むと下痢をしたというのだからひどい。ちなみに右の逸話は、篠田統教授の著書からの孫引きである。 「実際、葉夢得が東坡の息子からきいたところによると、東坡が黄州時代につくった蜜酒は、途中で腐敗したためか、飲んだ者はひどく下痢をしたし、恵州にながされていた間につくった桂酒にしても、まるで屠蘇みたいで、一度つくったが二度とはこころみなかった。それをば坡公の詩才でいかにもまことしやかに書いているが、うっかり信用してはいけない。だいたいあの人はこまめで、めずらしいことにはなんにでも手をだすが、めんどうくさがり屋でこまかい節度を無視するから、まともにできたためしがない。云々。」(『中国食物史の研究』)  蘇軾ほどの詩才もないのに何食わぬ顔をして食物のことを書いている私のような人間には、まことに耳の痛い話である。しかし居直ってこれを逆に言えば、飲めば下痢をするような酒を「香味超然。非人間之物也」などとまことしやかに言いくるめる文才が蘇軾をして唐宋八家文の一たらしめたのであって、実際の舌が靴の底革並みであったとしても、文章の光彩にはあんまり関係がないのではなかろうか。  いかにもうまそうに書くこととうまいものを味わうこととは別のことである。食物やセックスのように個人的好悪のいちじるしい体験については、書いたものがかならずしも実地体験と地つづきではない。金と暇があってうまいものを食って、うまいものをうまいと書いたのでは、素人写真にはなっても、かならずしも文章にはならない。ダンテは地獄へ一度も行ったことがないのに『神曲』を書いたし、坂口安吾は童貞のときに玄人を唸らせるようなハード・ポルノを書いたのである。  つまりはそういうことなのだ。うまいものを食うのは美食家で、彼はうまいものをうまいと言い、まずいものはまずいと言う。けれども作家の方はかならずしもそうではない。うまいものをまずいと言い、まずいものをうまいと言うことがないとは限らない。読書は修身や倫理の時間ではないから真正直ならそれでよいというものではない。反対に林語堂の言うように、「作家と読者の関係は、厳格な校長と生徒のような関係であってはならない」のだ。  そういえば右の林語堂先生は、続けてこうも言っている。 「私は真理を語るよりも嘘つきのほうを愛する。嘘つきも、用心深い嘘つきより軽率な嘘つきのほうがいい。その軽率さは、彼が読者を愛しているしるしである。  私は軽率なばかを信用し、法律家を疑う。」(『人生をいかに生きるか』)  こういう警句がよろこばれるお国柄だからこそ、こと食物に関しても、軽率な嘘をものともしない蘇軾が文章家として遇せられ、それゆえに食通として一目も二目も置かれた。名代のお店のうまいに決っているものをうまいと書くお上りさん的な「食通」が罷り通る、いい気な精神風土とは格が違うのである。羨むべきは文明である。  私たちの身近でなら、食べることの実際と夢想との落差を表現のアヤに使って、これを見事に逆用した名文章は内田百の「餓鬼道肴蔬目録」であろう。「さはら刺身、生姜醤油」にはじまって、「押麦デナイ本当ノ麦飯」にいたるまで、七十八品の天下の美味珍肴がずらりと一列に、まるで行分け詩のように並んでいる。註に曰く、 「昭和十九年ノ夏初メ段々食ベルモノガ無クナツタノデセメテ記憶ノ中カラウマイ物食ベタイ物ノ名前ダケデモ探シ出シテ見ヨウト思ヒツイテコノ目録ヲ作ツタ。」  百は頭のなかで思い出を反芻しているだけで、もうこの美味珍肴にはありつけないのである。無い[#「無い」に傍点]からこそ輝いて見える。するとやがて、七十八品に追加した「英字ビスケツト」や「かまぼこノ板ヲ掻イテ取ツタ身ノ生姜醤油」のような、何の変哲もない食物でさえもが、ヴィーナスの裸身のようにピカピカに輝いてくる。食物に関してもまた記憶や夢想の方が美しいので、あんまりあっさりと本懐を遂げたのでは、ハイソレマデヨの一巻の終りなのである。  ご存知のように、落語の『長屋の花見』がこのあたりの人情の機微をまことに巧みにうがっている。貧乏長屋の連中が沢庵を玉子焼に、大根のこうこ[#「こうこ」に傍点]を蒲鉾に見立てて、豪勢な花見に出掛けるのである。 「すいません、玉子焼くださあい」 「うまいな、その調子その調子、みなこっち、ちらっと見たぞ。おうい玉子焼だそうだ、取ってやんな」 「おうい、そんなしっぽでねえところ」  万事がこんな調子で、お酒の方は番茶を空瓶につめてきた。 「どうだ酒は? 吟味したつもりだ、表の伊勢屋だ。酒がいいからいくら飲んでも頭にゃこないだろ?」 「頭へはきませんねえ。その代わり小便近くなっていけねえ」  蘇東坡の蜜酒を飲むと大の方が近くなったらしいが、こちらは小の方がひんぱんになるのである。  もとは上方落語の『貧乏花見』だったのを二代目蝶花楼馬楽が東京の落語に改作した。上方の原作では一家総出の、亭主が紙の羽織を着るかと思うと、女房は下半身に風呂敷を巻いたりという仮装行列の大ページェントでくり出して、芸者幇間連れで派手にやっている本物のそばで八百長の喧嘩をして、本物が逃げ出したすきに、本物の酒肴をかっぱらってしまうのだそうである。いかにも上方らしいリアリストぶりである。  そこへいくと狂馬楽こと馬楽はロマンチストだから、番茶の茶柱を酒柱に見立てて、とんだ茶番の食いそびれでオチがついた。そこまではいいが、江戸っ子の痩せ我慢が嵩じて馬楽本人はほんとうに気が狂ってしまった。  もともと馬楽は貧乏して高座着がないので、芝居の衣装屋から鼠小僧の衣裳を借りて高座をつとめたという伝記の持主である。『長屋の花見』改作に際しても貧乏という実体と借着という見かけの二重性の実体験がモノを言ったかもしれない。しかし沢庵が玉子焼に、落語家が鼠小僧に化けているうちはいいが、ロマンチシズムがそこから先へ一歩踏み出して、そこらの気が狂ったよたものが英雄豪傑に見えてくるようになると少々険呑である。  興津要氏の盲小せんの伝説のなかに狂った馬楽の悲惨な晩年の姿が出てくる。根岸病院に押し込められた馬楽を小せんが見舞いに行くと、馬楽がいきなり「おまえは、桐野利秋を知っているか? 知らなければ紹介しようじゃないか」と言う。小せんは絶句した。 「すると、いきなり窓をあけた馬楽が、『おい、桐野利秋でてこい』と大声をあげると、庭をへだてたむこうの病室の窓のなかから、『だれだあ、桐野利秋をよぶのは?』と、これも大声でどなりかえした。とたんに、馬楽のとなりの病室から、一声はげしく『だまれ!!』とさけんだかとおもうと、つづいて『おれが加藤清正だ。きさまはなんだ? 桐野利秋だと? きさまなんぞがぐずぐずいうことはない。ばか、きさまが桐野利秋ならば、おれは加藤清正だ』といった。」(『異端のアルチザンたち』)  見立てもここまで図に乗ってしまうと、世間様が承知しない。揚句の果ては病院の一室に隔離されてしまうのである。  そういえば私も、昔、これに似た隔離状況のなかにいたことがある。但し、病院ではなくて、さるボロアパートの一室である。何人かの仲間がいて、これは同じ大学の学生友達だった。 『長屋の花見』の沢庵や大根のこうこ、それに番茶の茶か盛りが羨しいほど、みごとに一物もない金欠病患者ばかりであった。  いまはどうなったか知らないが、その当時は国電駒込駅から霜降橋にすこし下った町中の裏手に「駒込クッキングスクール」という料理学校があった。白亜のコンクリート壁が目にまぶしい新築の校舎である。  私たちが屯ろしているアパートの一室は、この学校の校庭を眼下に見下す二階にある。何もすることがないから、誰かが持ち込んだ旧軍用双眼鏡を取り出しては、校庭を横切って行くクッキングスクールのお嬢さんたちの揺れ動くスカートを観察するのが唯一の仕事になっていた。  部屋の持主は奇妙な男で、ときどき信じられないほどの大金を持っている。奇癖があって、一旦腹に収めた食物を自在に口のなかに戻すことができる。当人の説明では、自分は牛と同じ胃袋が四つある反芻動物で、この特異体質に注目した大学病院医局に死後解剖の権利を売ったというのである。ときどき手にしている例の多額の現金の正体は、死体になったときに支払われるべき莫大な総額を、生前に月賦分割先払いを受けているものにほかならない。  これを目当てにした学友たちがハイエナのように群がって、現金化された友人の死体の一部をアルコールに替えて啖《くら》っているのだから、残虐もはなはだしい。  むろんそれも数日しか続かなくて、あとはいつもの万年空腹状態に舞い戻って、クッキングスクールのお嬢さんたちのお尻を双眼鏡で覗いている。  ある日、双眼鏡の彼方に巨大な垂幕が出現した。白の布地に墨痕も鮮やかに大書した文字で、 「駒込クッキングスクール創立第〇周年記念学園祭。入場無料。見本食食べ放題!」  無人島に流れついた難破船の生き残りに、沖の彼方から白帆が見えたような奇蹟の福音である。来る日も来る日も軍用双眼鏡を覗いていた甲斐はようやく報われたのだ。  ジャンケンで先発の偵察係を決めた。しぶしぶ腰を上げて敵地に乗り込んで行くやつに背後《うしろ》から情容赦のない掛声が飛ぶ。 「おい、監視つきだぞ。ゴマ化すな」  双眼鏡で偵察行動を遂一観察しているゾという意味である。やがて双眼鏡の向うに赤白だんだらの幕を張りめぐらした学園祭詰所が現われ、振袖姿の右往左往するなかに、へっぴり腰の偵察係がのこのこ入ってきた。それからものの数分と経たないうちに、それがバネ人形のようにぴょこんとだんだら幕のなかから飛び出してくる。またしばらくして監視室のドアが開く。 「おい、鮑片龍蝦《バウビンロンハア》って食ったことあるか?」 「アワビとエビの冷盆だろ。食ったのか?」 「食った食った。もうこれ以上は食えない」 「どうだった、味は?」 「何ともいえないな。実にどうも、何ともいえない味だ」  何ともいえない、とは言い得て妙だった。どうせ何も食ってこなかったに決っているのだから、何とも言いようがないのである。  しかしそれを口に出したら藪蛇だ。自分の番になって敵状視察を報告するときに暗黙の了解が取れなくなる。一同、これを予感して押し黙る。  子供の頃の試胆会を思い出す。南瓜や水瓜の中身を抜いたのに目鼻をつけ、蝋燭をともしてぶら下げておく。終点には敷布をかぶったお兄さんが真白にぼうっと立っていて、どろんどろんとお化けの声色を使うのである。こわくてこわくてとても終点まで辿りつけるわけはない。一人一人帰ってくると、それだけに想像力の限りをつくして、最後のお化けがいかに物凄かったかを微に入り細をうがってデッチ上げるのである。  お次は部屋主の反芻男の番だった。敵状報告はやはり月並みの域を出ない。 「鮨にしといた。ネタは悪くないんだけどねえ、やっぱり女は握りがあまくて食えたものじゃあねえな」 「反芻してみろよ」 「ああいううまいものは一遍で消化しちゃうから、駄目なんだ」  いよいよこちらの出番になった。歩行は牛の如くだが、頭のなかは猛烈に回転している。どんな料理がこの世にはあるのだろうか。  これまでに読んだ古今東西の小説のなかの料理という料理を総ざらいする。テリーヌ・ド・フォア・グラというのは、鵞鳥の肝臓だったか、それとも家鴨の肝臓だったか。シブレグレーオーコロトンなんてのはありきたりすぎて、サマにならないだろうか。  造花と月桂樹に飾られた校門をくぐった。赤白だんだら幕の受付詰所に、胸に菊花の役員章をつけた振袖姿がずらりと並んでいる。晴れがましき今日の佳き日よ。太宰治の何という小説であったか、女学生が二列に並んでいる間を通っていく気分を昼火事にたとえた一節がある。頬が上気して、眼の前の空気がすっかりピンク色に染っている。  だんだら幕は詰所から校舎内にずっと続いて、ところどころに矢印の紙が貼ってある。見本食会場へ通じているのであろう。  向うからまた一人振袖姿が出てきた。 「見本食でございますか?」  彼女は言って、蓬髪に下駄ばきのむさくるしいのを皇后陛下のような笑顔で迎える。 「ええ、あのう……」 「会場はこちらでございます。ご案内いたします」 「いえ、あのう……」 「トイレでございますか。あちらでございます。ご案内いたします」  芙蓉の花が開くような笑顔を浮べた。私がラスコーリニコフなら、ソーニャよ、そなたの足下にガバと身を伏せて洗いざらい告白することだろう。ぼくはいつもあの二階から貴女がたのお尻を双眼鏡で覗いている変態学生なのです。どの面下げて今日の佳き日のお招きにあずかれましょうか。ぼくはただ、悪い奴等に双眼鏡で監視されているために、あと五分だけトイレのなかに踏み止っていなければならないだけなのです。見本食は諦めます。お許し下さい。どうかお許し下さい。血を吐くような叫びを咽喉元でこらえながら、トイレに向うのであった。  それから五分後。 「シブレグレーオーコロトンって何だい?」  と部屋主が言った。 「要するに焼肉のバタいためみたいなもんさ。犢《こうし》の胸腺を使うから沢山は出来ない。あれを食わなかったとは気が利かねえな。会場の左側にヤブニラミの娘がいただろう」 「いたいた。好きそうな顔したやつね」 「あれが妙に気のある風情でさ、こっちの皿だけ盛りが違うんだよ。こう盛りがさ。ああ、食った食った。ゲップが出らあ」  腹の底でキュウという音がした。ゲップではない。腹の虫が、画に描いた餅ではなくて本物をくれと催促しているのである。  一同、頭を胸の下までぐったりと垂れている。空腹の脱力感と満腹の倦怠感とは、いずれも外見は似たり寄ったりで区別がつき難い。 「三日間やってるんだって、明日も行こうか」  先発偵察係が言った。 「明日はオレ、和食にするよ」  ともう一人が言った。  それからまた三人ともくたっと頭を垂れて畳の上に目を落すと、その視線の先に、あの旧式軍用双眼鏡がごろんとふてぶてしく転がっていた。 [#改ページ]  6[#「6」はゴシック体] 気違いお茶会 ——麻布の紅茶  "Which would you like, tea or coffee ?"  天女のようなスチュワーデスが囁くような息を耳元に吹きかける。国際線に乗ったことのある人ならば誰だってその経験はあるだろう。さて、あなたならばどちらを選ぶか。コーヒー、それとも紅茶?  日本人ならコーヒー党、紅茶党は半々か、それともコーヒー党が若干優勢というところではなかろうか。ヨーロッパ人、アメリカ人なら圧倒的にコーヒー党が多勢だろう。けれどもこの比率が逆転するのが、たぶんイギリス人の場合だ。  ロンドンからアンカレッジまでのBOAC機のなかで中年のイギリス紳士と隣り合わせた。案の定、彼はかならず紅茶を指定し、アペリチフは毎度ジンと決っていた。ビール、ワイン、ブランデー、ウイスキーをちゃんぽんに、それものべつ幕なしにがぶ呑みしながらコーヒーを啜っている当方を、明らかにさげすみの眼をもって眺めていることは見ないでも分る。笑わば笑え。とにかく私は紅茶が大の苦手なのだから仕様がない。  紅茶そのものが嫌いなのではない。上手に淹れた紅茶がそこらの喫茶店のドブ臭いコーヒーよりずっと美味しいのは、私だって承知している。ましてBOACの機内サービスの紅茶が天下一品であるのはかねがね耳にしているので、この機会にぜひとも試してはみたいのである。  しかしイギリス人と一緒の席ではイヤだ。どうしてもイヤだ。いや、これには話せば長いわけがあるのである。  前にも別のところに書いたことがあるが、大学を出たての昭和三十二年頃、私は在日外人に日本語を教える小さな学校の日本語教師を務めていたことがある。  徹底した実用会話教育なので、英語もドイツ語も使えない。スペイン語系の南米人やフランス語系のケベック・カナダ人、中国人やソ連人までもが一緒の教室に入るのだから、共通語というものがない。共通語はそれまでに身ぶり手ぶりで教えてきた僅かな日本語だけ。早くいえば、まあ幼稚園の先生になったと思えばいい。ほんの少数のヴォキャブラリ、少数の基本構文を手掛りに、徐々にヴォキャブラリを殖やし、高度の構文を理解させてゆくのである。  こういう場合教師に要求されるのは、語学知識や教授技術より何よりもまず、忍耐であり我慢である。幼稚園の保母さんのように、相手がおしっこを洩らしてもウンコをしちゃっても、あくまでもホホエミを崩さずに、ではもう一度最初からと、必死で異国語の闇のなかから這い出そうとしてくる相手にくり返し慈愛の手をさし伸べてやらなければならない。ヘレン・ケラーとサリヴァン女史との関係を一万分の一位に薄めた難事だと想像して頂いて差支えないのである。  いま例に引いたヘレン・ケラーに対するサリヴァン女史の関係からも察しがつくように、どちらかと言えば、これは女性に向いた職業である。だから三十人程いる教師の大多数は女性で占められていた。大方は女子大英文科出の未亡人や老嬢である。なかに男の教師が四、五人、パラパラとまことに場違いな感じにもぐり込んでいる。そして授業態度をチェックされるのが、きまってこの保母的資質を欠いた男子軍であった。  あれは何というのか、一種の集中盗聴装置のようなものの触角が校内のいたるところに張りめぐらされていた。各教室内のどこかに受信マイクが隠され、それが中央管理室の教頭のイヤホーンに全部つながっているのである。ドジな奴は大概新米の男教師に決っている。教頭先生がスイッチをその教室に合わせると、案の定、シビレを切らした新米がドジッている。すると放課後、ブルという綽名の、「のらくろ」のブル連隊長にそっくりの教頭に水気がなくなるほどたっぷりしぼられるのである。  四六時中監視態勢がはたらいているから、サボれない、手を抜けない。まあ当り前すぎる就労義務であることは百も承知ながら、同じ単純作業を午前午後の四クラスもやり続けるとへとへとになる。単調なくり返しが退屈地獄の拷問のようにさえ思えてくる。だが今にして思えば、幼児の言葉を鸚鵡のように無邪気にくり返していたこの単調退屈大地獄こそが、実はゴッドファーザーたるブルさんの大目玉にきびしく庇護された誘惑以前のアダムの楽園だったのかもしれないのだ。  誘惑の蛇は尾鷲という名の先輩教師だった。ちなみにこの人は関西で出ていたさる歌舞伎雑誌の元編集者で、歴とした男性だから、誘惑といっても、何も女子大英文出の齢上の女教師に秋波を送られたというようなうれしい話ではない。しかし誘惑の蛇には違いないから、彼が仲立ちする先の相手がイヴのような女性であることにはやはり変りはない。  ここでもうすこしこの学校の特殊な授業方法を解説しておくと、一組四、五人の初等クラスの午前中三時間は、三人の教師チームが一時間交替で教えながら三つのクラスを受持つことになっている。尾鷲が私の属するチームの頭株で、残ったもう一人は女子大英文科を出たばかりのパリパリの才媛である。かりに彼女の名を内河海子嬢として話を進めよう。  そういう授業構成だから、休み時間に次のドリルのための受渡しをやる。その日は打合わせが終ると、尾鷲がふっと耳元に口を寄せて囁いた。 「二組のキャラウェイさんね、英国文化普及会長夫人の。次のクラスだろ」 「ハイ、そうです」 「彼女が今日何色のパンティーはいてきたか見てこいよ」 「パンティー、ですか?」 「宣教師のベティーさんな、あの人、今日はイエローだった」 「嘘ばっかり」 「嘘だと思うんなら、ついでにあっちも見てこいよ」 「見てこいったって、そう簡単にミセるもんじゃないでしょう」 「コツがあるんだよ、コツが」  尾鷲がここだけの話と念を押して公開してくれたコツなるものは、驚くべき大発明であった。といっても、別段高度の技術を要する透視術ではない。単刀直入、相手のスカートの下にもぐり込んでズバリふり仰げばいいというだけの、まことに単純明快な手続きしか必要としない技術なのだ。  要するに、黒板に字を書きながらチョークを折るのである。チョークの破片はころころと転がって、キャラウェイさんなりベティーさんなりの足下にもぐり込む。それを追って、中腰に屈んで拾って立上る間際に仰ぎ見れば、お目当てはかならず目のあたりににんまりとしているはずだという。 「問題は、だな、チョークが首尾よく狙った的の下に落ちるかどうかだよ。今日はマチルダ・デ・ロペスさんを狙ったのに、ベティーさんとこなんかに行きやがった」  尾鷲はそう言って、おもむろに出席簿を開けて見せた。出席簿のあちらこちらに五色セットの色鉛筆でピンクやブルーの丸印がついている。この丸印のことは前から知っていた。いつぞや同僚の老嬢教師に色別の意味を訊ねられて尾鷲が答えていたときのやりとりが記憶に蘇る。 「生徒の授業評価ですよ。ピンクはまあヴェリ・フルエントリー、流暢でなめらかってとこかな。赤、これは激しすぎる。発音がゴツイのね。ブルーは気分がブルーだなんていうでしょ、アレですよ。何となくモガモガしてる」 「あら、そこまで丹念につけてらっしゃるの。尾鷲先生、さすがに男だわねえ。あたくしなんか」 「今日はブルー、でしょう」 「あらやだ、お見通し」  教育者の風上にも置けない不徳義漢である。とはいうものの、これを自分で実際にやってみると実に面白い。病みつきになって、やめられない。それに何よりもこのアイデアの天才的な点は、オーラル・インフォメーションのみに頼って現場教師を監視しているブル先生の目を、まんまとあざむいてしまえることだ。ヴィデオ・カメラ(当時はまだ普及していない)でも備えつけない限り、イヴたちのイチジクの葉の毎日の変色を観察するこちとらの快楽が、ゴッドファーザー、ブルさんの目をさえかすめて、すいすい罷り通ってしまえるところが胸がすくのだ。  申すまでもなく、この日から尾鷲と私の出席簿には、競争のように五色の丸印がみるみる数を増していった。憧れのマチルダさんのブルー、貴婦人キャラウェイさんのピンク、花恥しきジョゼフィーヌさんの純白、ああ人は見かけに寄らぬもの、女流宣教師ベティーさんのはフリルやレースがそこら中に大仕掛けにひらひらしている豪華絢爛のダーク・レッド……。  幸いなるかな、時間は忘却の女神である。思い出のなかでは探険現場の、スチームの熱気の煽りにつれてモワッモワッと湧き上る大涌谷の猛烈な瘴気をかき分けかき分け押し進む、あの名状し難い苦悶の汗もすっかり消えて、いまはただ迦陵頻伽《かりようびんが》の妙なる声音とともに、白蓮紅蓮金蓮と見紛うばかりのうすものが、天女の衣さながらの五色七色に頭上を舞うばかり。  さて閑話休題。肝腎のお茶会はこれから始まるのである。そう、私と内河海子嬢が日頃の教育熱心を感謝されて、キャラウェイ夫人の家にお茶会に呼ばれたのである。どういうわけか尾鷲は招待客から外されていた。  内河嬢は小躍りしていた。心覚えのキングズ・イングリッシュを晴れてご披露に及べるまたとない好機だからだ。昭和三十二年の東京では、GIとならともかく、本場のロンドンっ子と英会話を交せるチャンスはそう滅多にあるものではない。  私はといえば、私は有難迷惑もいいところだった。片言のパングリッシュで間に合わせて、話が混み入ってきたらクッキーを食い、紅茶のお代りをガブ呑みしてやろう。  麻布のキャラウェイ邸は戦前焼け残りの三階建の西洋館で、約束の時間に扉鈴を押すと、サロンにはもうお茶の用意が出来ていた。  東洋学者というキャラウェイ氏と夫人の外には、たえずキャッキャともつれ合っている小さな双生児のエルシーとレイシー。その向い側が私の席なので、マドンナのようなティリー・キャラウェイ夫人が左右に完全に相称形の双生児を従える構図が真正面に来た。テーブルの上には紅茶セットと各種の自家製クッキー。切り分けたプディングの皿が配られてお茶になる。 「英国の詩人はお好き? いま何を読んでいらっしゃるの?」  文学好きらしいキャラウェイ夫人が口を切った。 「英語があまり得意でないので、さア……ああ、独訳でディラン・トマスを読みました」 「オオ! ダーティ・ウェールズ!」  あんな汚ならしい、ウェールズの酔いどれ詩人のどこが好いのか、ということらしい。何を読もうがこっちの勝手じゃないか。面倒になりそうなので、こちらから質問した。 「マダムはどんな詩人を?」 「そうね」  と目をつむって、 「マーヴェル、アンドリュー・マーヴェル。『庭園』の詩人をご存じでしょう?」  内河嬢が横合いから引き取って、英語で何か言った。腕環の間に蛇がもぐり込んでとぐろを巻いているというような意味の詩らしく、そういえばそういう詩をどこかで読んだことがあるような気もする。それが合図のように夫人と内河嬢は十七世紀形而上詩人だかの話に口角泡を飛ばしはじめた。  そのすきにキャラウェイ氏の方を窺うと、五十年配の長身の東洋学者は背中を丸めてこくりこくりと舟を漕いでいる。背中を丸めているせいか実物よりもずっと小柄に見え、何だか眠り鼠といった風情である。お茶のテーブルがそこのところだけとろんと陥没して沼のように澱んでおり、なまなかに手を出すとずるずる引きずり込まれて、こちらも眠り鼠の仲間入りをしてしまいそうだ。  双生児の姉妹がさわぎはじめた。形而上詩人にうっとりと陶酔している母親の巨大な胸の下を左右からかいくぐるようにして、目配せをしたり、指言葉で信号を交したり、キャッキャと笑い転げたり、三角帽子の悪魔のように騒々しく動き回っている。ときどきこちらの方を向いて物凄いウインクを寄越したりするところを見ると、どうやら二人の話題は、昼行灯のようにバクゼンと存在しているところの、謎の日本人に対して集中しているらしい。  双生児が一斉にこちらを向いて何か言った。察するに、テーブルの上のお菓子を食え、ということを言っているらしい。うなずいて、クッキーの皿はすこし離れたところにあるので、腰を浮かして手を伸ばした。その拍子に服のどこかの端が触れたのか、紅茶茶碗に置いたスプーンが飛んで床に落ちた。その音で一座の眼が一斉にこちらを向く。  こういう場合どう振舞うのが正しいエチケットなのか。大抵のエチケット入門書には、「茶碗の持ち手をおさえて、静かにかきまわし、終ったらスプーンを茶碗の向う側におきます」位のことは書いてあるが、それ以上の不測の事態については何も書いてない。そもそも「スプーンを茶碗の向う側におく」ことを忘れてスプーンが飛んだのだから、今更SOSを打つ資格もないわけだ。それとも、サーヴァントが来て拾ってくれるのだったろうか。そのメイドさんは奥に引っ込んでいるらしいので、中腰ついでに思い切って自分で拾おうか。そう思った気配が身体に出たらしい。 「お待ちなさい」  夫人が言って、顔の前に指を立てた。それからまた何か言ったが、それは空耳だったように思えた。空耳でないはずがない。何故なら夫人はたしかにこう言ったように聞こえたからだ。 「スプーンはチョークではありません」  スプーンはチョークではない。それは普遍的真実であって、今更わざわざ口に出すことはない。それをあえてこの場でキャラウェイ夫人が発言したということは、どういうことか。身体のなかを電流のようなものが突き抜けた。あれは、空耳ではなかったのだ。  クッキーを取ろうかスプーンを拾おうかと、あいまいに中腰になったまま手を伸ばしている姿勢が、そのままゴルゴンの視線に打たれたように石になった。チョークの一件はとっくにバレていたのだ。知らぬが仏とはこちらのことで、もしかするとわが白人女生徒たちは、よりよりしめし合わせたうえで、わざわざ目のくらむような色パンティーを取っかえ引っかえはき替えては、こちらが悦に入っている馬鹿面をおもちゃにしていただけだったのではあるまいか。  それなら尾鷲が呼ばれなかったわけも辻つまが合う。あいつは箸にも棒にも掛らない悪達者だが、新米の私なら扱いやすかろうと頭からナメられたのだ。お茶会とは態のいい口実で、実は最後の審判のお白洲だったのである。  石になっている時間がものの一秒も経過しただろうか。何年も何百年も進退|谷《きわ》まった感情にさらされているような気がした。何だか首の下が妙に重い。するとこのとき内河嬢が「あッ」と叫んで一座の沈黙を破った。私の首の下を指している。  双生児が目をまん丸にみひらいてその行方を眺めたのが同時だった。キャラウェイ氏はと見れば、さすがの眠り鼠も非常事態に感づいたか、薄眼を開けて上目使いにテーブルの上に視線をさまよわせている。こちらは自分が当事者だから、新たに発生した出来事がどういうものか位は見なくても分る。腰をうかしてまごまごしている間に、ネクタイの先が紅茶茶碗のなかにどぼりと浸ってしまったらしいのだ。道理で、何だか首の下が重ったるく引っ張られる感じがしたものだ。  ここでへたに身動きしてはいけない、という考えがひらめいた。後へ退けば茶碗が引っくり返り、紅茶をたっぷり含んだ濡れネクタイがテーブル・クロスの上をずるずると茶色の汚点をひろげながらこちらにたぐり寄せられる。被害というか混乱は、一層拡大されるだけだ。大体、滅多に締めたことのないネクタイを正装の招待客気取りで締めてきたのがいけない。ネクタイ・ピンなんか持ってないから、エチケットに厳密に拘束された狭いサロンに出ると、そいつが場違いに一人歩きしはじめて、当るを幸い斬人斬馬の破壊力を行使するのだ。  ネクタイをゆるめてカラーから外した。下目使いに紅茶茶碗を見ると、紅茶があふれて受け皿にたぷたぷしている。このままネクタイを丸めて茶碗のなかに放り込んでしまいたい、という破壊的な衝動が猛然とこみ上げてきて、傍らに短刀があれば床の上に正座してシャツの前をはだけ、誇り高き日本男子として作法通りに切腹して果てたかった。折悪しく短刀が見当らないので、ネクタイは丸めてズボンのポケットに押し込んだ。 「気分が悪いので、これでお暇《いとま》します」  そういう意味の英語をきちんと喋ったかどうか。あわわわわッと唇を震わした、といった方が実状に正確で、ゴム紐をつけたみたいにこちらに膠着している一座の視線をにゅーんと引っ張ったまま後退りすると、おそろしく遠いところまできて背中にドアの感触があった。  そこまできて、氷のなかに閉じ込められたような一座の緊張が解けた。双生児が立ち上って金切声で何か叫び、内河嬢が身の置き所のないほど小さくなって怒りにふるえながら伏目になり、眠り鼠はまた泥沼に沈んで外界から断絶した。キャラウェイ夫人はと見れば、と言いたいところだが、これは太陽を直視せよというのと同じことで、この罪人《とがびと》がどうして最後の審判の怒れる神に目を向けることができようか。  麻布十番のバス停でバスを待っていると内河嬢が追いかけてきた。 「焼酎飲みに行くんでしょう? ハイ、お金貸してあげる」  予期していたさげすみの眼ではなかった。何だか才媛が一皮剥けたような顔をしている。  私は彼女のガマ口から二枚のお札をつまみ出すようにして二百円借りた。それはまだ、百円が硬貨ではなくお札であり、二百円あれば焼酎なら正体不明になるまで酔っ払える時代だったのである。 [#改ページ]  7[#「7」はゴシック体] 飢えを見せる人 ——雑司ヶ谷の料理店  とにかく『食物漫遊記』と大風呂敷をひろげたからには、一応食物随筆の類いに人並みに目を通しておいた方がよかろう、と考えた。そこでリュックサックを背負って古本市に仕込みに行った。『食道楽』、『日本食物史』、『てんぷら物語』、『蕎麦の唄』、『米と日本文化』、『たべもの風流』……。しまいには『近代こんにゃく史料』というのまで何やかや数十冊をかつぎ込んで散読漫読、活字の美食飽食に私はすっかり満腹してしまった。  どれも結構な読み物である。けれども何か物足りない。決定的な何かが欠けている。何だろう。  ある日たまたまその答えに行き当った。通りすがりの古本屋の一冊百円均一コーナーを覗いたときのことである。佐藤耶蘇基著『飢を超して』の背文字が目に飛びこんだ。思わず膝を打った。食物を問題にする以上、一度は食べるものがまるでない状態を取り上げなければ、文字通り片手落ちというものだ。それではまるでブラック・ホールのことを何も語っていない宇宙論のようなものではないか。  というわけで、佐藤耶蘇基著『飢を超して』をいそいそと読みはじめたのである。大正十四年、第百出版社刊。九月十日に初版を出して、私の入手した第八版は同年九月二十六日発行。羽根が生えたように売れたらしい。  文中Yというのが著者の佐藤耶蘇基のことだろう。これが棺桶を背負って辻説法に出る。するとキリスト教牧師やお寺の坊さんがきて殴るわ蹴るわ、しまいには警官を呼んできて主人公をブタ箱に監禁してしまう。髑髏片手に辻説法の一休上人もかくやとばかりの法難である。  やがて主人公は宗教家たちの偽善につくづく愛想が尽き果てて、いっそ遁世してしまおうと考える。しかし既成宗教に愛想を尽かしたのだから、修道院や寺に駆け込むわけにはいかない。独行独歩を貫いて、とうとう、かねて見つけておいた雑司ヶ谷鬼子母神境内の土穴のなかに潜り込んでしまった。  はじめのうちは近所の知人がにぎり飯を届けにきてくれたが、それもだんだん間遠になる。「七日間も腹に何も入れない」ような日々が続いた。それでも穴のなかを動かないでいると、ジャーナリズムが騒ぎ出した。見物人が続々と穴のなかを覗きにくる。郵便配達夫がファン・レターを届けにくる。帝大の学生が金ボタンをきらめかせて講話を聞きにくる。S男爵が書生を使いにやって、どうして穴のなかに入ったかを質問する。やがて穴の前はガヤガヤと野次馬だらけになり、その物見高い連中が引き上げると、夕方からは子供たちが覗きにきて、なかには一緒に穴のなかに泊めてくれと這い寄ってくるのまでいる。Yの土穴はすっかり東京名物になってしまったのだ。  現代ならホット・ドッグ屋かラーメン屋の屋台が出て人出を当て込むところだろうが、大正末年は万事がもうすこし優雅である。人さびれた郊外の、参詣道前あたり一帯の料理店がにわかに繁昌しはじめた。ご近所の主婦たちが囁き合っているのが耳に立つ。 「穴に人が住むやうになつた。それを見物にぞろぞろ行く人で穴の近くは市をなしてゐますわ。その為めにあの通りの店屋さんは意外の儲けがあつたといつて嬉《ママ》んでゐますの。それになんでも、栄喜館の料理屋は穴の人を見物に来る下町の方々が、彼所に上つて遊んで行くと見えて、此の頃は繁昌してゐますわね。」 「さういへば、先日栄喜館のお女将さんの話しには、さ、彼の方(穴の人)が彼所(穴)に来られた為めに、妾の店にも善い客種が増えたといつてニコニコ顔で話してゐましたわ。」  棺桶を担いで街中を挑発してあるいても鼻汁《はな》も引っかけられなかったのが、穴に隠遁してのんべんだらりと寝そべりはじめると、にわかに門前、いや穴前市をなす活況が起った。世の中は皮肉なものである。  告白実録らしいこの『飢を超して』には、幼年時代の回想やら満州放浪記やら、まだまだ珍譚奇譚がどっさり詰め込まれているが、いま紹介したところまででも充分に面白い。  一読して連想するのは、アメリカの小説家ハーマン・メルヴィルの『書記バートルビー』という小説である。この小説の主人公は穴にこそ潜り込まないが、ある日勤め先の事務所のなかに衆人環視の只中でバリケードを築いて、そこから出てこなくなってしまう。食事はどうやらビスケットしか食べていないらしい。呼べど応えず探せど見えず。不退転《ふてね》の面構えで事務所に居坐ってしまったバートルビーは、やがて不法占拠のために監獄にブチ込まれると、ここでも仕出屋の差入れを拒絶して、ゴロリと横になったままついに餓死して果てるのである。  そういえばプラーハの作家フランツ・カフカの有名な『変身』という小説も、甲虫に変身して自室に閉じ籠った主人公がしだいにひからびて行くのにつれて、それまでは見かけなかった有象無象がにわかに家中に満ちみちてくる有様を活写しており、さらに同じ作家には『饑餓芸人』という小説もある。奇しくもこれは、断食に深入りすればするほど見物客が日増しに殖えてくる、あの『飢を超して』とそっくりの筋立ての物語である。  ちなみに一九七七年夏、西ドイツ、ブレーメンの劇場でこのカフカの『饑餓芸人』が脚色実演されたことがある。俳優の一人が四十八日間の断食を宣言して、これを見世物にしたのだ。私はこのときたまたまブレーメン市のすぐ傍にいたので、最終日のへとへとになったやつを観に行こうと楽しみにしていたのだったが、惜しむらくは四十七日目にドクター・ストップが掛かったとかで、折角のフィナーレを見逃してしまったのである。  ああ、軟弱なるは西ドイツ青年か。そんなことだから前両大戦に敗北したのだ。ちなみにギネス・ブックの断食記録は詳らかにしないが、私の知る限りの長記録は、ドイツの潜在敵国フランスのロジェ・ブランの樹立した九十九日間(またはそれ以上)である。昭和三十一年十月八日朝日新聞版AFPは伝えている。 「行者ブルマー——実はロジェ・ブランというフランス人が断食の世界記録をめざして六日からニースで苦行に入った。これはブルマーの十六回目の断食である。昨年ブルマーは九十九日間の断食をやってのけたが、最近ブラジルのシルキ行者が百五日間断食の離れ技をやってのけて世界記録を取ってしまった。ブルマー行者はこの日医師の健康診断をうけてからガラスのカンオケに入り七十本のビンを粉々にしたガラスのカケラの上に安らかに身を横たえた。云々。」  ガラスの棺桶というのが味噌だ。カフカ原作を知ってか知らずか、フランスにおいても断食はとうに外から見物人が覗ける見世物だったのである。高度成長下でなまっている本場のドイツ現代青年は、明らかに断食ショーにおいては宿敵フランスに一歩遅れを取ったといわねばならない。  そこへいくとわが国の行者たちの戦績は世界に冠たるものがある。出羽修験道系の入定ミイラ志望者は二千日から三千日かけて木食行をおこなうのである。もっとも木食行は、栗、ハシバミの実、松の実、柏の実などの木の実だけを食べて五穀十穀を断つのだからまるで食べないのではない。語の正確な意味では絶食ではなくて断食である。死後ミイラ化しやすいように身体中の脂肪分を落して、十年二十年をかけて枯葉のように落命するのだ。  最後の入定ミイラは越後村上観音寺の仏海上人のそれで、入定時は明治三十六年。しかし明治も初年には木食行者はそれほど珍しい存在ではなくて、東北地方の町々をごく当り前に徘徊していたらしい。河村北溟という文士が、明治六年頃、盛岡市穀町の中村屋という宿屋でそれらしい人物に出遭った。 「年の頃は七、八十歳に見えて、白く見事なる鬚髯を胸の辺まで垂れ下げ、清き白衣に白巾を頂き、一条の袈裟を着け、太やかなる鉄の釈杖をつき、一本歯の大きやかなる足駄を穿き、風采何となく凜として、気高き所が見ゆる老僧であつた。」  身の丈六尺あまり、色はすき透るほど白く、携えるところの釈杖は重さ八、九貫目以上もあったというから、まさに絵のなかから飛び出してきた天狗である。この行者にも加持祈祷や占いを頼みにくる群衆が「朝から晩まで詰めかけて、寸時も閑暇がないと云ふありさま」であった。法則通り、断食行者の周囲には押すな押すなの見物客が集ったのである。  さて、いま私がこの逸話を引用しているのは、河村北溟の『断食絶食実験譚』(東京大学館、明治三十五年刊)という本からだが、題名通り、この小冊子には他にも当時のいくつもの断食絶食綺譚が集録されていて読み飽きない。ざっと目次から拾うだけでも、「米所市村矩方断食にて長野まで旅行す」、「小山田正憲山路に迷ひ絶食にて雪中に徘徊すること七日足指皆落つ」、「草苅男誤つて古井戸に落ち水中に佇立すること三日始めて人に救ひ上らる」、「阿部善助三七間成田不動に参籠断食して柔術の上達を祈る」等々。  この本のなかの一番長い絶食記録は、四十日間を記録した松田儀一郎という小学校教員のそれだが、この人は首尾よく絶食期間を全うしてから体調が旧に復さぬまま死んでしまった。次いで三七二十一日の断食は、真言密教系の成田不動断食堂通例の参籠だから餓死の危険はない。無鉄砲なのは、絶食したまま一週間も二週間も東海道や中仙道を全速力で歩き回る荒行である。  田丸直貞という漢学書生が友人と一緒に大阪まで旅をしている途中、伊勢桑名の宿で友人に胴巻きを持ち逃げされてしまった。それから二週間というもの、彼は桑名から東京までを道中飲まず食わずで歩き通した。その道中の何とも奇妙奇天烈なこと。  もう一人、これも漢学書生の山口清明は、老父危篤の電報を受取ると、懐中わずか二円のまま東京の塾を飛び出して中仙道を徒歩で北上した。途中会津二本松までは六泊。そこで二円の資金が尽き果てて、白石町から目的地の盛岡までは一週間の絶食旅行となる。東海道をひた走った田丸直貞は、まだしも十月初旬のことで野宿が出来たが、山口清明の場合は十二月から一月にかけての北国の豪雪を踏み分けて走った。  夜通し何日も歩き続けていて、風態はもう乞食同然である。警察にしょっぴかれたり、通りすがりの学校の新年会で詩文を書いた礼金で濁酒を飲んだための下痢症状から着物を排泄物だらけにしてしまったり、ここでも巡査に罰金刑を食わされそうになるが、あまりの臭さに鼻つまみになって放免。泣き笑いの雪中行脚の果てにようやく実家に着くと、瀕死の重態のはずの老父がにこにこ笑いながら孝子を迎えるではないか。  明治九年の話である。廃藩置県の直後の当時、地方の秀才は井中にあっては大海の魚たり得ずと競って中央に上った。故郷はがら空きになって老人は淋しい。そこでウソの電報を打って勉学中の子を呼び戻したりする。この頃には珍しい話ではなかったらしい。しかし、いくら何でも虚報のために雪中を一途に飲まず食わずでひた走った古巌居士山口清明には衝撃が大きすぎた。疲労のためにドッと床についたなり、それから一カ月程で死んでしまったということである。  田丸直貞や山口清明のようにやむを得ず絶食旅行に出た人間は例外としても、明治も初年には絶食旅行が大いに流行したらしい。それかあらぬか『断食絶食実験譚』の挟み込み広告には、宮崎来城の『無銭旅行』、『乞食旅行』だの、鉄脚子の『野宿旅行』、『貧乏旅行』だのという本がずらずらと並んでいる。書生たちは錬胆を目的として競って遠方に無銭旅行に出た。飲まず食わずが原則だが、浩然の気を高めるためか、お酒だけはいくら飲んでもかまわなかったらしいのが、面白いといえば面白い。 『断食絶食実験譚』のなかにもう一つ、ちょっと信じられないような絶食譚が載っている。これは筆者の河村北溟が直接見聞したパリパリの実話である。  青山南町に永田宗郷という漢学者がいた。朝から晩まで酒浸りの大酒飲みで、漢学塾を開いていたが、月謝は入ったその場で飲んでしまう。おまけに飲むと生徒に絡むから、生徒が三日と続けて居つかない。当然家内は火の車。債鬼が押しかけてくるから、老先生はときどきふらりと姿を晦まして何日も帰ってこない。  そうとは知らずに市原忠良という岩手県人の書生が入塾してきた。生徒は皆逃げてしまったのでたった一人の塾生である。ある日例によって先生がどこかへ消えてしまった。三日経っても四日経っても帰ってこない。市原忠良が雨戸を閉め切った真暗の部屋のなかに虫の息で寝ていると、十二日目に先生が一升徳利を抱えて上機嫌で戻ってきた。市原は起きようにもその気力がない。先生は酔っ払っているから、市原が餓死寸前とも知らずにしきりに管を巻いて絡みはじめる。  かりに河村北溟が運良く訪ねてこなかったら、先生はまたまた続きを飲みに出掛けて、市原は確実に餓死してしまったはずだ。以下は河村北溟の報告である。 「(前略)永田の家を訪れて見た。スルト家内に大声に管を巻いて居るものがある。又始つたかと門に入れば、音を聞きつけて出て来たのは、永田先生自身である。オードウしたと声をかけると、今帰つたばかりぢやとの答へである。  内に入つて見れば闇黒である。是れはドウしたのだと聞いて見たら、今帰つたばかりで判らぬと云うた。皆留守かと聞いたら誰か居るやうぢやと答へた。ソコで自分は機転をきかし、一々雨戸を開けはなしてしまつた。スルト坐敷の真中に、骨と皮ばかりの人間がコロガツて居る。死んだのかと思へば目をパツつかせて居る……」  老先生の出鱈目さも相当なものだが、市原忠良という書生の従順さはもはや人間業とは思えない。カフカの甲虫になった男のように、暗闇のなかに放り出されても赤児のように何等の抵抗もしなければ、助けを呼びもしない。徹頭徹尾受動的なところが不気味な迫力をさえ感じさせるのだ。  そういえば、上田秋成に『二世の縁』という短篇がある。入定してミイラになった男が地面の下で鉦を叩いている。掘り出して手当てをすると生き返った。何を訊ねても前世の記憶は蘇らない。入定の定助と呼ばれて牛馬のごとく働いているうちに、近村の後家のところに入婿して、ミイラがどうやら男女の営みさえするらしい。  セックスに未練があるのだから、この男は禅定したために悟ったようにも見えない。そうして餓死してからの第二の生でも、白痴のようにただ黙々とありきたりの日常生活を受け入れ続けているところが何とも不気味である。  それにしても、書生の市原忠良や入定の定助のように、極度に窮迫した状況に追い込まれても手も足も出ない、いや出すすべを知らない人間を見ていると、私は戦中戦後の暗闇のなかに無一物で放り出されていた少年時代のわが身の生活、それもとりわけ食生活が思い出されて身につまされてならない。虚報を送った父母のために突っ走って絶命してしまったロマンチックな山口清明が私などの兄貴分の特攻隊世代に相当するとすれば、防空壕の暗闇に坐して死を待ちつつ、たまたま第二の生を迎えてしまったのが当方の世代であるように思えるからだ。  まぐれに生き延びたのだから出来損いは当然で、お蔭で最近では中年高死亡率説が医学的にも裏づけられたらしい。まあなるようになるがよろしい。かくなる上は入定の定助のように、次のリミットまで平々凡々と生きるまでである。  話が少々陰気になってきた。もっとも、これは戦中の記憶が呼び戻されたからで、断食行そのものにはちっとも暗さはない。断食も徹底すればかならず周囲に善男善女が集って祝祭の雰囲気を醸し出すことは、先程来述べてきた通りである。空腹は賑やかな社交に通じるのである。ひとり黙々と食いに食って飽満しているばかりでは、その方がよほど陰気臭くてやりきれないだろう。  私はこのあと、北海道余市の電信局を無断離職して、郡山までの長路をほとんど無一文で徒歩旅行した若き日の幸田露伴の荒行(明治二十年)のことを報告して、この経験が後年『観画談』や『魔法修行者』のなかの断食行を書く上にいかに役立ったかを述べようと思ったが、もはやその余裕がない。そこで代りに、物を食べないことが人寄せの手段としていかに効果|覿面《てきめん》であるかを記して、読者の参考に供したい。  ごくふつうの人間と同じような生活をしていて、物を食べることもしていながら一切物を食べないでいる不思議な人間がこの世にはいる。舞台の上の俳優芸人である。彼らは何かを食べているように見えても本当は何も食べていないで、ふりをしているだけだ。ブレーメンの『饑餓芸人』の俳優のようにほんとうに飢えてみせなくても、食べるのがふりであるのが自明であって、実は何も食べていない人間が見世物にされる場所、つまりは劇場には、自然に見物客がわんさと押し寄せるのである。  食物屋と劇場の雰囲気がよく似ているのもそのためだ。昔は劇場のなかに茶屋があって、飲食と観劇は分離されていなかった。もっと前には神の座《ま》します場の周辺に市が立ち、飲食店が繁昌した。その名残りが現代の飲食店にもあって、よく客の入るお店にはかならず劇場の雰囲気が漂う。寿司屋天ぷら屋なら高座芸の寄席の雰囲気があり、大きなレストランならアンサンブルを組んだ大劇場に似ている。  いずれも有(客)が無(主人)を囲む構図を如実に示している場である。日常食なら家で食えばいいので、わざわざ外食するのは食べることを虚構化してもらいたいからであろう。周辺を囲む客(有)は中心の主(無)によって食うという生理の汚れを浄められながら祝祭(ハレ)の場に立ちたいのだ。これを現代の言葉に翻訳してみれば、並居る客たちは自らは満腹しながら、一人だけ何も食わずにじたばたしている主の料理人を眺めているのがうれしくて仕様がないのである。  これは別段残酷と言うのには当らない。食べるという文化における無のはたらきの現われにほかならないからである。 [#改ページ]  8[#「8」はゴシック体] 食うか食われるか ——フライブルクのアラブ・パン  チャパティというのは小麦や雑穀の粉を薄焼きにした非醗酵性のパンで、ナンも似たような薄焼きのパンだが、いくぶん醗酵パンに近い。チャパティも、ナンも、いずれもアラブ人の常食で、またいずれもタンドールという粘土製の甕《かめ》型のオーブンで焼き上げるのが正式なのだそうである。  この知識は、読んだばかりの石毛直道著『食いしん坊の民族学』の受け売りだが、私はたまたまそのどちらかを食べたことがあるのである。もっとも、私はチャパティを食べたつもりでいたが、あれはナンだったのかもしれない。そう思ったのも、やはり石毛直道氏の本の次の件《くだり》を読んだためである。 「タンドールの分布の中心はインドより北西のパキスタン、アフガニスタン、イラン、イラクあたりである。シリアやトルコの一部にもタンドールは点々と分布する。アフガニスタンの農村で調査をした人類学者の話によると、父系をたどる数家族がかたまって居住する屋敷地のなかの屋外に一つのタンドールをきずいて、朝晩二回ナンを焼くという。」  もう一つのデータが報告されていて、それによると、アフガニスタンの首都カブールの近郊農村では、「村人の常食は一部の家庭を除いて、一日一人にナン四枚(約一・二キログラム)と茶だけがふつう」であるらしい。  するとやはり私が食べたのは、アフガニスタン人の常食ナンの方だったようだ。私にそのパンを食べさせてくれたのはアフガニスタンの学生たちだったからである。もっとも、私はアフガニスタンに行ったことは一度もない。私はそれを、スイスとフランスの国境に近い西ドイツの大学都市フライブルクの学生寮で食べたのである。一九七五年夏のことであった。  フライブルクの学生寮には外人留学生も寄宿しているので、毎週土曜日ごとに各国人がお国料理を披露してパーティーを開く。ビールと煙草だけは各自持参で、料理が主人持ちである。学生寮にはヨーロッパ各国人を筆頭に中南米人、アフリカ人、アラブ人、東南アジア人や韓国人、日本人までもいるから、長い間には居ながらにして世界中のお国料理が試食できるわけだ。その週がたまたまアフガニスタン留学生の持ち番だったのである。  生野菜のサラダとキャベツと羊肉のいため物が大皿に盛られて、これと並んでナンまたはチャパティが積んである。おかずの方をそのどんどん焼きみたいなパン皮で包んで食べるのである。パンは何だか水っぽかった。主人側の説明によると、オーブンがないのでフライパンを使ったからだそうである。いわば代用品だったのだ。石毛氏の本では高熱のタンドールの肌に薄く伸ばしたこね粉をぺたっと貼りつけて、短時間でパリッと香ばしく焼き上げるように書いてある。本式にタンドールを使えばさぞかしおいしいパンが出来るのであろう。  アフガニスタン音楽のレコードが鳴って、二十人ばかりの学生たちが腹ごなしに踊り出した。どこでも同じだろうが、学生パーティーの結末は、大抵がダンスか政治論争である。アフガニスタン情勢が現在のように緊迫していない一九七五年のその日のパーティーでは、ダンスはともかく政治論争はそれほど派手に進行はしなかった。憶えているのは、次週の持ち番のアフリカから来たアルメナート・オリヘウス君の、いかにして西ドイツでアフリカ料理を作るかの苦心談である。お国料理を作ろうにも材料が現地調達できない食品があるからだ。何とかそれらしい代用品を考え出さなければならない。  これは私たち日本人にも身に覚えがないことではない。余談ながら、たとえば外国の内陸の都会にいて鮪のトロの刺身が猛烈に食いたくなったとしよう。そうなったら魚屋へ行かずにまっしぐらに八百屋に行った方がいい。  そこでカリフォルニア産のアヴォカドという果物を買ってくる。楕円形の外皮の固い、椰子の実を小体にしたような果物で、これを割いて果肉を刺身の切れの大きさに薄切りにする。そうしてわさび醤油をたっぷりつけて白いご飯と一緒に頬張ると、現身《うつしみ》は異国にありながら、口の中だけはみるみる空中を飛んでなつかしの日本に帰来してしまうこと請合いである。  ただし、このアヴォカドの代用刺身を頂くときは、かならず目をつむって食べなければいけない。人工着色をしたような鮮やかな深緑色なので、一目見たら最後、醤油とご飯で食べる気はとてもしなくなる。ホンモノの半透明の赤の魚肉とはあまりにもかけ離れているので、突然色盲になったように、記憶のなかの鮪とげんに見るアヴォカドとの焦点がぐらっとズレてめまいを覚え、果ては吐き気をさえ催しかねない。  しかしまあ、そんなことはどうでもいいので、目下の問題はアルメナート・オリヘウス君がしきりに頭をひねっているアフリカ象牙海岸のお国自慢料理の材料である。アルメナート君は次の週にどうしても、とびきり上等の猿の料理を皆に食べさせたいのである。けれども、ここ西ドイツでは野生の猿はおいそれと捕まるものではない。 「国賓には猿を食べてもらうのです。皆さんも国賓のようなものですからね。困ったなア、猿がないと。まあ代用品を見つけるか」  気易くアルメナート君などと書いているが、私の居候先の日本人留学生A君の解説によると、畏れ多くもアルメナート・オリヘウス殿下は象牙海岸の土侯国の皇太子なのだそうである。国へ帰れば閣僚待遇の大物だから、彼がどこにいようと客を招待すれば相手は国賓同様である。それならばどうしても猿を出さなければならない。そこが頭の痛いところであった。 「日本には猿の料理がありますか?」  アルメナート君がこちらを向いて言った。 「猿のブレーン・スープはありますよ」  昔、両国のももんじ屋で食べた猿の脳味噌のみそ汁を思い出したのである。でも、猿を本格的に食べるのは中国人じゃないかな。彼らはテーブルの真中の穴に生きた猿の頭を嵌め込んで、それを鋸で引いて中の脳味噌を箸でつまむ。  北欧系らしい金髪の女学生がギャッと言って顔を覆った。誰かが英語で唄い出した。 [#ここから2字下げ] おかあさまがわたしをころした。 おとうさまがわたしをたべてる にいさんねえさんおとうといもうと テーブルの下でほねをひろって つめたいいしのおはかにうめる [#ここで字下げ終わり]  ゲーテの『ファウスト』の気が狂ったグレートヘンの唱う歌の英語版かな、とチラと考えた。よく似ているけれどすこし違う。その原作の方、つまりゲーテがグレートヘンの狂気を表現するために借りてきた英国の古い童唄、マザー・グースの唄だ。それなら私たちにも北原白秋や谷川俊太郎の訳詞でお馴染みである(ここでは谷川俊太郎訳を借用)。 「猿の代用品の歌だね」  とアルメナート・オリヘウス君が言った。 「やっぱりメスがうまいのかな」 「それもなるべく若いのがいい」  ウロおぼえだが、マザー・グースにはこんなのもあったっけ。 [#ここから2字下げ] おんなのこって なんでできてる? おんなのこって なんでできてる? [#ここから3字下げ] おさとうと スパイスと すてきななにもかも [#ここから2字下げ] そんなもんでできてるよ [#ここで字下げ終わり]  そういう眼で見れば、たしかに人間は、特に若い女子学生などは、愛撫したりされたりするエロチックな肉体であるだけではなくて、動物性蛋白源としてかなりストロングな魅力を発散しているように見えないでもない。ふだんは何気なく見過していた女の子たちが、いかにもおいしそうにホカホカと湯気を立てながら、「食べてちょうだい、あたしを食べてちょうだい」としきりに誘っているように見えないこともないのだ。げんにいま踊っている金髪のスカンディナヴィア少女エリカさんなんかは、そばかすのできた肩から胸にかけての白いふくらみがふっくらと、生唾が出るほどおいしそうだ。  これは危険な兆候である。アルコールで気が弛んだり、旅の疲れで放心したりすると、性と食とがまだ未分化だった幼年時代に精神がいきなり退行して、女の子が「おさとうとスパイスとすてきななにもかも」で出来たご馳走に思えてきたりする。それはまあいいとして、当方も人間である以上、動物性蛋白源として立派に通用するご身分であるという厳正なる事実を、ついうっかり忘れてしまうのだ。いちばん危っかしいのはこれだ。他者に対する警戒心がゆるみ、ぼやぼやしているうちに食欲の主体であったはずのわが身が頭から爪先まで、いつのまにかきれいさっぱり消えてなくなってしまうおそれがあるのである。 「日本では猿がいないときは何を食べますか?」  アルメナート君が言った。 「仏教の坊さんが少年の死体を食うという話があるよ」  上田秋成の『青頭巾』を思い浮べながら答えた。 「ブッディズムでは肉食は禁じられているのでないのか?」 「例外だから小説になった。史実というと中国の方が多いでしょうね、食べられるのはたいがい子供か女だけれども」  これは『十八史略』の斉恒公《せいこうこう》や『惟陽城伝』の女子嗜食の逸話を指している。中国の古典には疎いけれども、陶宗儀の『輟耕録《てつこうろく》』の子供を食う話や、『三国志』の夜な夜な辻斬りをしては人肉の刺身を晩酌の肴にしたという|高※[#「さんずい+豊」、unicode6fa7]《こうほう》将軍の話は、どこかで聞き噛ったことがある。  もっと面白いのは、『槐西雑志』の自分を食べてもらいたがった女の話だ。明末の河北五省大飢饉のことである。徳州と景州との間を旅していた商人が、往来の肉屋の店先の大俎の上に裸の女が寝かせられているのに出遭った。  肉屋に聞くと、女の亭主が金に困って、女房を食肉として売ったという。商人は気の毒に思って女を引き取り、食われるよりは身体を弄ばれる方がましだろうと、女を相手に一儀に及ぼうとすると、やおら女がはね上がって手をふり払った。肉を売ったおぼえはあるが、夫に捧げた操まで売ったおぼえはない。操まで犯される位なら食われた方がよっぽどいい。そう言うと、肉屋に戻って自分から俎の上に飛び乗り、生きたまま一寸刻みに刻まれて本懐を遂げた。  だからといって中国人が特に残酷だということにはならない。この逸話は、むしろ家族道徳を至上とする中国人の国民性を物語る寓話と思しいからである。赤の他人に性的対象として弄ばれる位なら、食われても家とつながったまま死んだ方がましだという考えは、個人至上の西洋人には理解し難いだけの話である。中国大陸では生き延びるのは家であって、個人ではない。選ばれた個人が性的対象として愛されるはずだという固定観念が中国人には逆に理解し難いだろう。  残酷というなら、行為そのものだけからいえば、ヨーロッパ人だってずいぶん空恐しいことをしてきた。だからマザー・グースのおそろしい唄を子供までが歌っている。  早い話が、初期キリスト教の異端であるグノーシス教徒たちは、愛餐式として赤ん坊を共食した。キリストの肉を聖餅に、血を葡萄酒に象徴化したカトリックの聖餐式がその名残りを伝えている。正統キリスト教が象徴的な聖餐式に昇華したものを、まだ現実に具体的な人肉嗜食として続けていたのが悪魔礼拝者の黒ミサである。それもそんなに古い話ではなくて、十七世紀のマダム・ヴォアザンの黒ミサでは、ルイ十四世の愛妾モンテスパン侯爵夫人が殺したばかりの嬰児の血を盃に注いで飲んだ。  辻斬り常習者の高※[#「さんずい+豊」、unicode6fa7]将軍も顔負けの連中もいる。イタリア南部カラブリア地方の山岳匪賊の一人マンモーネは、彼一人だけで四百五十五人の人間を殺し、飯時にはかならず人血を飲み、手近に殺す人間がいなければ自分の血を飲みさえした。当時のイタリアにはマンモーネ級の匪賊がうようよしていて、一年平均七千件の殺人を犯した。十九世紀初頭の出来事である。『槐西雑志』の明末は十七世紀中葉だから、あちらさんの方がずっと最近まで派手にやっていたわけである。  むろん全般的には、象徴的な聖餐式が現実の食人行為をとうに無用にしていた。キリストの象徴的な肉体を共食者全員が頒ち合うことによって、すくなくともその場で聖なる肉と血を共食した人びとは、お互いにお互いの生肉を食い合わないで済む。宴会やパーティーの起源の一つがこれで、共食者は単純に飲み食いが目的なのではなく、目の前の犠牲獣を共食することで共食者同士はお互いに食ったり犯したりしないという暗黙裡の平和共存外交を交し合っているのである。  それかあらぬか、アフガニスタン料理のパーティーも、話の内容は薄気味悪くなっても、外見は和気藹々と進行していた。陪席者は、アフガニスタン人をはじめ、アルメナート君も私も、かならずしもキリスト教徒ではないが、その代りに普遍的理性は弁えている。そうでなければ海を越えてわざわざ外国の学生寮までやってきはしない。この場合、普遍的理性は、鱈腹食えば食欲がなくなるから、将来は知らず人種のごった煮のこの場でさえも、お互いに肉を食い骨を食む国際紛争の惨は起らないはずだという了解としてはたらき、そこで比較食人学の話題はいい加減に切り上げて、一同、またもやせっせとアフガニスタン料理に手を伸ばしはじめたのである。  もっとも、アルメナート・オリヘウス君だけは、最後に、普遍的理性に逆らうような言葉をチラと洩らした。 「猿はね、食う前にうんと食わせて肥らせとくんだよ」  私は思わずギクリとして、羊肉をまぶした野菜いために伸ばした手を引っ込めた。その一年間に、中年肥りがめきめき本格化しはじめて、私は体重が一遍に四キロもふえていたからである。  フライブルクにはそれからまだ五日程いた。昼間は大学図書館で図書目録を写し取ったり、蔵書のコピーを取ったりして、眼が疲れると町を歩いた。大聖堂前のレストランでビールを飲んだり、噴水の水で洗った桜桃を食べながらぼんやりと道行く人を眺めたりしている。するとその視界のなかにアルメナート君が影のようにふっと現われた。気になるほどではないが、二、三度、それも人混みのなかでもひょいとふり向いたりする瞬間に目にとまる。黒人ではあるし、毅然とした男性的な顔立ちが印象的だから目にとまるのだろう。それ以上の意味があろうはずはない。  パリに発つ日はA君が車で駅まで送ってくれた。十字路で信号を待っていると、平行して走ってきたバスのなかからアルメナート君がひょっこり顔を出した。旅行鞄を持っており、ベルリンまで行くのだという。それなら途中まで私と同じ列車だ。  自然に同じコンパートメントで向い合った。これもまあ純粋な偶然で、特別の意味はないだろう。そう思いたい。  売店で買ったD・Bという缶ビールを空けて二人で飲みだした。アルメナート君は鞄からお弁当らしい包みを出して推めた。黒パンのスライスに大きな燻製肉を挟んだ豪華版である。遠慮なく頂戴してぱくりと一口かぶりつく。 「ベルリンへは何をしに?」 「動物園に猿を仕入れにさ。国からもっと若いアフリカ猿を送らせて交換すればいい。どうしても猿を食わせてやりたくてね」 「動物園でウンと言わなかったら?」 「猿がなければ仕方がない。代用品で……おや、どうして食べないの?」  からかわれているのは百も承知だが、どうしても燻製肉が口に入らなくなってしまったのである。猿は末期の前に食わせて肥らせるんだったっけな。代用品だって同じことだろう。その手には乗るものか。情なや、いつのまにかパンを千切る手つきが、一つまみずつつまんでちんまりと口へ持って行くカマトト女学生みたいにチマチマしているのに気がついた。  パリへはオフェンブルクで乗り換えである。別れしなにアルメナート君はお弁当包みを無理矢理私に押しつけた。現金なもので、アルメナート君の姿が見えなくなり、ストラスブールでパリ行き特急の席につくと、私は猛烈な勢いで黒パンと燻製肉をペロリと平らげてしまった。  その油断が禁物なのだ。論より証拠、当時から五年経った現在、私はまたしても六キロも体重がふえてしまっている。  フライブルクの居候先だったA君には、あとで車中の出来事を逐一報告した。A君からは折返し返事が来たが、中身はすこぶる薄情なものであった。 「いつも煮ても焼いても食えないような顔をして、人を食い物にして、人を食った話ばかり書いている報いです。たまには食われる立場になってみるのも薬でしょう」  アルメナート・オリヘウス君は、あれから無事学業を了えて故郷に帰ったであろうか。ひょっとするとそれなら今頃は国王になって、象牙海岸の土侯国に善政を施しているかもしれない。  私はアフリカの事情にはとんと疎いが、今アフリカに関してぜひとも知りたい情報は、アフリカ猿がまだ絶滅していないかどうかである。かりにアフリカに猿が一匹もいなくなったとすると、アルメナート君はアラブ・アフリカ連合あたりを通じて、石油かウラン原鉱の見返りに「猿の代用品」の輸入を要求してくるに違いない、と思われるからだ。  そうなったら一日四枚のナンとお茶だけで筋肉ばかりが無駄なく発達したアフガニスタン農民よりは、日に日に体重の増加しつつある人間の方が輸入品としては優良種と見做されるのはほぼ確実だ。  そこで考えるのである。私はほんとうに自分の稼いだ金で自分の食いたいものを食っているのだろうか。それとも何かあるメカニズムのなかで、猿が絶滅するそのときまで、やみくもにあの手この手で餌付けをされているだけなのだろうか。そうは思いながらも、灘の生一本にぶりの刺身の今晩の夕食に、別段手を引っ込めたりはしない。 [#改ページ]  9[#「9」はゴシック体] 天どん物語 ——蒲田の天どん  はじめてお目に掛る食物は別として、すでに食べたことのある食物には一つ一つ、思い出の淡い薄膜が埃のようにうっすらとかぶさっている。その思い出の薄膜ごと、あるいは薄膜の鹹味《かんみ》を通してくだんのものを食べるので、ある食物そのものの味というのは、実は純粋に化学的な蒸溜水と同じに無いも同然である。  思い出は各個人に固有のものだから、食物の味は人によって違ってくる。好き嫌いのかなりの部分は、人のその食物に対する、楽しい、あるいはいやな思い出とひそかに連動しているのではなかろうか。  たとえば林檎。私はこれが食べられない。戦争中、長野県の林檎の産地に疎開させられて、くる日もくる日も林檎ばかり食べさせられた。空腹を抱いて、そのもう湯の出なくなった温泉町の小路をほっつきあるいていると、横合いからいきなり誘拐の手のようなものがにゅっと伸びてさらわれていった先が町医者の診療室。そこで注射器にたっぷり血液を吸いとられた報酬が、またまたあの悪夢を手に握れる物質にしたような林檎だったとは。国光も、デリシャスも、宝石のようなインド林檎も、それ以来お歯に合わない。いまでも重症の林檎不能症で、林檎は見るだけ。  サツマイモ、南瓜——これもいけない。同年代以上の読者には解説の必要もあるまいが、戦中戦後に石のように硬い冠水イモや冠水南瓜を連日食わされたためである。  草餅。餅草と一緒に摘んだ何か有毒の青草に当って七転八倒してからというもの、青いものを見ただけで身体中に鳥肌が立った。藪系の青い蕎麦が駄目になり、鯖、コハダ、アジのような青い魚にまで青恐怖症が伝染した。もっとも、蕎麦と魚は一時的不能と見えて、いまではもうおいしく口に入る。  こうしていちいち枚挙してゆくと、食べられるものが何にもなくなってしまいそうだ。事実、まあそれに近いのである。毎日食べる日常食の材料が質的に極端に低下した時代を過してきたために、ありふれた食物ほど苦手になっているのだろう。そのために栄養体系のバランスが崩れて、食糧事情が回復してからも偏食傾向が残り、飽食しながら栄養失調という奇妙な状況が続いて、同世代の人間がバタバタ倒れてゆく。  何よりも困るのは、ある種の食物が食べられないので、その味わいと一緒にたぐり出されてくる記憶が開かずの間に封じ込まれてしまうことだ。これは、私のように物を書く職業の人間には致命的なマイナスである。  たとえば岡本かの子の『鮨』の主人公のように、鮨をつまむことで幼時の母との交歓の記憶が滾々《こんこん》と蘇ってきたり、プルーストの『失われた時を求めて』の主人公のように、マドレーヌというお菓子を紅茶に浸して口中にすると、おさない頃を過したコンブレエの幸福な日々がまざまざと記憶に浮び上がってくる、というような食物による特権的瞬間の恩寵をかなり制限されることになる。  文学作品を引き合いに出して言えば、むしろ『暗夜行路』の主人公の羊羹に対する感情がかなりの種類の食物について行き渡っているのである。少年の時任謙作が歯を食いしばった口のなかに丸ごとの羊羹を無理矢理押し込まれるときの恐怖。口のなかの暗黒と羊羹の黒とがつながって、その真黒な虚無のなかに食べている自分がぬるぬると呑み込まれてゆくような恐怖が、手近の目ぼしい食物に次々に伝染してしまったら、もうお手上げである。  人が平気でおいしそうに平らげているものが自分には食べられない。世界中がご馳走だらけになっても、自分一人は美女に取り囲まれた淋病病みの男のように手が出せない。どんなにおいしそうな食物も、悪い記憶の薄膜に目に見えない細菌のようにびっしりと被われていて、人には見えなくても自分にだけはそれが一目瞭然なのだ。  そのものが食べられなくなると、そのものを食べたときの幸福な思い出も帰ってこなくなる。夜商いの石焼きイモ屋から買ってきた焼イモの、口のなかでほかほか崩れてゆく香ばしい味も、その冬の夜のきびしい寒さと、そこから保護された茶の間のなつかしいぬくもりも、肝腎のイモが食べられなければ蘇ってはこない。人生の大きな損失というものではなかろうか。  それも好物が食べられなくなるのが辛い。私の場合ならあるときを境に揚げ物をまるで受けつけなくなったことがある。昭和二十七年頃の闇市で、得体の知れない古い油で揚げたものを肴に仲間二人とメチル・アルコールを飲んで別れてから、その一人が頓死した。死んだ友達と同じ部屋に下宿していた片割れが、明け方、まっさおな顔をして知らせにきてくれた。身体中がねじくれるような苦しみのなかをのたうち回って息切れたという。  その日から、天ぷら、豚カツ、メンチ、コロッケ、フライのような子供の頃からの大好物が禁断の果実になってしまった。褐色に揚げたものを見るだけで、闇市の揚げ鍋のなかの、どろどろした黒い油に気味の悪い泡が踊っている光景や、油臭いおくび、薬のにおいのする焼酎のゲップがこみ上げてきて、真黒などろりとした液体を堰《せ》き止めている嫌悪感に苛まれるのである。  ふとしたきっかけでこれは治った。それから数年後、大阪のホテルで人に誘われて何気なく天ぷらをつまむと、あれほど鬼門だった天ぷらが何の抵抗もなく胃の腑に納ってしまったのである。  良質の油やネタが出回る時代に入っていたからだろう。衣を水でなく酒でとくのが油のにおいを消したのかもしれない。次に思い当るのは色の感触である。上方天ぷらの卵色がどす黒い油の記憶を遮断してくれたのである。汁を使わずに、乾いた白い塩で食べるのも、悪い色の強迫観念を祓ってくれた理由かもしれない。  それかあらぬか、いまでも私は、点心か西洋菓子に似た長崎天ぷらや、上方風の揚げ方の天ぷらの方が好みに合う。要するに、同じ天ぷらでも、色や形や調理法によってある種の記憶は閉ざされ、別の記憶の扉が開くという魔術(とはつまり料理の腕)のおかげで、悪い記憶の回路が閉じるのである。  ただし、天どんの好みだけは上方風ではない。これは汁のたっぷりしみ込んだ、色の濃い、東京の蕎麦屋で出すようなのが好きで、専門の天ぷら屋のでない方がいい。  理由は分っている。ある食物がある思い出にとりわけつながっているとすれば、私の場合、天どんは家庭教師という仕事の思い出につながっている。その家庭教師に行った先で出されるのが、きまって蕎麦屋の出前の天どんだったのである。  学生時代はあまりアルバイトをしなかった。私が家庭教師を熱心に勤めたのはもう世の中に出て、それも若気のいたりで一つ二つの勤め口を棒にふって、失業者だったときのことである。友人が心配してくれて、医者の卵にドイツ語を教えることになった。高校生相手と違って報酬はかなり多額であるうえに、相手は大人なので、割の悪くない仕事である。別々の時期に三件の家庭教師を勤めたが、どこへ行っても不思議に天どんが出た。  授業が終ってから四方山話かたがた、出前の時間が早すぎてとうに冷め切った天どんに箸をつける。教えているときの知的優越からがくんと落ちて、しがない不定の職業でかつがつ生存を支えているのだという実感がしみじみと身にこたえる、まことにわびしくもうらがなしい時間である。病院長のドラ息子がときどきビールをすすめながら無邪気に話しかけてくる。 「お住居は? ああ池袋ですか。あそこの近くに××病院があるでしょ。うちの外科のインターンが実地見習に行く病院なんですよ。あそこで労務者の二十人も大根切りにすれば、まあ一人前になるって位のもので、二年先にはぼくも行くんです」  表面が冷えきっているのに裏はご飯のぬくもりでまだほんのり温味の残っている海老天が、咽喉元に引っかかってひくひく上下する。二年先にだけは絶対に外科の厄介になるような故障は起すまいな。気が滅入っているところへ追い打ちを掛けるように、外でキーンと大スピーカーが鳴った。  日曜日の午後は、その家の隣りの新興宗教本部の中庭で、スピーカーを通じて「告白」がおこなわれるのである。声の調子では四十がらみらしい男が話しはじめた。 「……そこで私は父親の頭に鉈をブチ込んで、後をも見ずに家をとび出したのでございます。刑務所に十二年、出所いたしまして虫けらのように社会の裏を這いずり回っております間にお祖師さまのご恩に感じまして、こうして曲りなりにも更生させて頂きました次第でございます」  ワーッと歓声が上がり、トタン板に霰が散るような拍手がスピーカーを占領する。  背後からは更生した凶悪犯、つまりはもう傷害殺人をやり尽してしまった男の声にスピーカーで脅かされ、正面からはまだやっていないとはいえ同じような作業を二年先に控えて手ぐすね引いている、坊やのような医学生の軽やかな舌の回転の攻勢に受太刀になり、間に宙吊りになった恰好でまたもや丼の隅に寄せた花生姜の糸をぼそぼそと箸の先につまむ。  おれも「告白」する資格があるかもしらんぞ。こいつが、と医学生を見て、学期末試験に受かり、果てはインターンになれるように泥縄式の語学を教えてるとすりゃ、こりゃ歴とした共犯者なんだものな。  話が出来すぎているようだが、ウソではない。だから、もう共犯としての時効を過ぎているにしても、わざわざ二十年後の現在、ここにこうして「告白」してさっぱりしたいと思うのである。  あとの二件は二人とも相手が女性だった。一人は医科の女子学生。勉学よりお化粧と夜遊びに余念がない口で、教えている時間より、頼まれて家出した先を探し回っている時間の方が多かったように憶えている。  正真正銘にまともだったのは外川満子博士だけである。血液学を専攻する現役の女医さんで、すでにきちんと外国語も習得しており、ただ研究交換のために渡独する前に軽くおさらいをしたいというだけの、願ってもない上客であった。  この人のところでもやはり天どんが出た。木造病棟の二階の看護婦室のような小部屋を教室代りに借りている。そこで天どんを給仕するのが、看護婦ではなくて軽症の患者らしい人なのが、変っているといえば一風変っていた。  蒲田の一角にある大病院である。大きな敷地に点々と各病棟が建っている。なかで私の目的地の病棟は女の患者ばかりで、木造の兵舎のような薄暗い大病室に寝着姿のさまざまの年齢の女性患者が根を失った植物のようにひょろひょろとあるいていた。階段脇の洗い場で洗濯をしたり、米をといだりしている患者もいる。申し合わせたようにうつろな顔をしていた。外川さんは別に教えてはくれなかったが、どうやら女性だけの精神科病棟らしいのだ。  これで腑に落ちたことがある。給仕をしてくれる女性が、どうかすると妙に色っぽい目つきをするのである。私は勝手に自分の男前のせいと決め込んでいたが、これは相手のパラノイアにこっちが染ってしまった結果で、彼女は男なら誰にでもその目つきをするのだ。その種の患者を選んで、若い者をうれしがらせた外川博士もお人が悪い。  蒲田の病院の天どんは特別においしかった。大病院なので出入の多い何軒ものお店からいちばんいいのを選んでくれたのだろう。そのせいで私はすっかり天どんのマニアになってしまった。ようやく勤め口にありつくと、昼食も夜食もきまって天どんを取った。  これが祟った。何しろ朝から晩まで天どん一本槍である。身体にこたえないわけはない。ついにある夜横腹に疼痛が走り、高熱を発して、尿が赤に近い黄色に変った。急性肝炎である。  ヴィールス性肝炎だから、あながち暴飲暴食のせいばかりではない。しかし暴飲暴食をしていたことも間違いなくて、だからヴィールス感染に抵抗がなくなっていたのである。  家庭教師時代のよしみで蒲田の病院に入院した。点滴と食餌療法の一カ月である。外川先生は渡独中、女子精神科病棟はとうにどこかへ取り払われて、病院はすっかり近代化されていた。  季節は一九六〇年初夏で、病室内はむし暑く、病院のどこかで安保反対のデモ隊の国会突入を報じるラジオが深夜までひっきりなしにがなっていた。下の広場や道路にときおり生《なま》のシュプレヒコールが轟く。闇市の揚げ物を食って悶死した友達の顔が目に浮ぶ。ねじり飴みたいにねじくれて死んだってな。そろそろこっちも年貢の納めどきか。  偏執狂的に天どんに入れあげた罰である。退院すると、私はまたもや揚げ物恐怖症に逆戻りしていた。当分の間油気のものを禁じられたせいもある。そうしてそれから二十年近くの間、天どんには久しくご無沙汰していたのである。天ぷらをはじめ、カツやコロッケ類はふところの必要に応じて食べられるようになっていた。ただどういうわけか、天どんだけは試す機会を失っていたのだ。  それが最近、正確には昨年の初夏、久しぶりに天どんが食べられたのである。これもきっかけはささやかな出来事であった。  所用があって台東区の中学校を訪ね、帰りがけに教員室を出たところで空の出前丼につまずいたのである。丼の蓋が外れて、醤油のタレに茶色くそまった丼底に食いちぎった海老の尻尾がわびしげにへばりついている光景が目を搏った。すると何だかにわかに猛然と天どんが食いたくなってきたのである。  拒否反応が起るかもしれないので、慎重に事態を分析しなければならぬ。私は中学校を出て、まず最寄りの三流ポルノ館に入った。  前にも言ったように、私は凝り性というより偏執狂に近い性格の持主である。天どんが好物となると天どんばっかり、中華料理が好きとなると、横浜中華街を一軒一軒しらみ潰しに渡りあるいたりする。久しくタクシーを敬遠していても、一旦何かの拍子に車を使うと、歩いて三百メートルのところでも車を使わないと気がすまない。  その伝で、その頃はポルノ映画館に凝っていた。もっともポルノ映画を観るためではない。いや、それも観ることは観るのだが、主目的はロビーの長椅子で本を読むのである。場末の三流ポルノ館のロビーや廊下はめったに人が通らない。八百円の入場料で半日以上黙って座っていて文句を言われない、のみならず冷暖房完備の、大都会では数すくない場所である。  ときどき観客がドアを開け閉《た》てすると、スクリーンの方からあやしげな息遣いが押し寄せてくる。私は一瞬耳を澄ます。それからまた目を落して、読みかけのザロモ・フリードレンダー『子供のためのカント入門』の頁を追う。  淫売屋の廊下が修道院の読書室になっているような、その取り合わせが好きなのである。修道院のように禁欲的な読書と瞑想に耽り、しかもその気になればいつでも閾《しきい》をまたいで淫売屋のドンチャン騒ぎの真只中に入っていけるのだ。館内水を打ったように息を殺しているなかを、かすかに須波物調の息遣いが伝わってくる。それが風にそよぐ葉音のようだ。  その日もバネの抜けた長椅子に腰を落して瞑想に耽った。私が天どんを食いたくなった場所は学校である。それが眠っていた家庭教師時代の思い出をよび起し、目の前の空の出前丼にオーバーラップして、天どんへの食欲をふたたびめざめさせた。それなら家庭教師のときと——つまり天どん中毒で肝炎になる以前の時代と、ほぼ似たような条件が構成されれば、私はたぶん天どんを食えるであろう。  ポルノ館を出て、まっさきに目についた蕎麦屋に入った。天どんを注文し、天どんがきたところで、あらためてビールを頼んだ。天どんを出前が届くくらいの間適度に冷ますためである。  パリパリの揚げ立てはいけない。家庭教師時代のように、出前が遅れて天ぷらがすこしくたびれ、タレがしみすぎてくたんとなったのを前歯と舌の間に挟んでにったり食いちぎる感触が、まずは復活しなければいけない。天下の天どん通が何を言おうと、私の天どんリハビリテーションには、あのわびしくうらさびしい出前物の正調がぜひとも欠かせないのだ。  ビールを一本半ほど干した頃合いを見計って、丼の蓋を取る。蓋の裏側に水蒸気の冷めて水玉になったのが、透明な魚卵のようにびっしり貼りついている。よろしい、あの頃そのままだ。崩れそうにふやけた衣を箸でつまむと、ずるっとむけてイカの白いネタがのぞく。構わずに口を寄せて前歯で食いちぎった。  拒否反応はない。揚げざましを使ったのか衣の表側が冷め、ネタも舌ざわりが冷たいのに、ご飯にぬくもった裏側がほんのりと温かい。これが正調だ。あの頃の通りだ。と思うまに色の濃い衣は難なく咽喉元を通っていた。  途端に背後で大スピーカーが鳴った。凶悪犯が日曜日の告白をはじめるらしい。ぬるくなったビールをお茶代りに一口含むと、若い医学生がピカピカ光る鋸で人間の太腿を切断している場景が脳裡を横切った。ひんやりとしたコンクリートの壁に囲まれている場所で、下の方に水のひろがっている気配。そのなかから根を失った植物のような女たちがひょろりひょろりと浮んではまた沈む。スピーカーの告白がシュプレヒコールに変り、その声に真赤に染った西空が重なる。バラバラに散らばった手術台の上の手足。悶死した友人のうらめしげな顔。  人生は地獄だな、と私は考えた。人生は地獄だ、人生は地獄だ、とエンドレス・テープのように頭のなかをその言葉が回転し、その間に箸が天ぷらをのせたゴハンをせっせと口のなかに運んだ。  つまりはそういうことだ。人生は地獄だというのに、天どんを食えばうまい。人生は地獄でも、天どんというものがちゃんとある。残る問題は、と私はつぶやいた、そう、残る問題は、地獄にも天どんがあるかどうかだ。 [#改ページ]  10[#「10」はゴシック体] 笑食会ふたたび ——鎌倉のきのこ  生来の引込思案のせいもあって、どうもパーティーにおつき合いするのが得手ではない。出版記念会や受賞記念パーティーが方々にあって、私のような者にもお招きが来ることがある。お祝いはしたいし、久しくご無沙汰している友人知己に顔を合わせる機会にもなるのでうれしいお招きなのに、どうしてか足が渋るのである。  たぶんこれは、私がケチな人間であるためであろうと思う。六千円とか八千円とかいう会費を目にとめただけで、立食にウイスキー水割りの味も素気もない光景を思い浮べ、それくらいならいっそ行きつけの飲み屋でしんみりやった方がいいやい、とすこぶる四畳半的な心境につい陥ってしまうのだ。  そうかといって会食そのものが嫌いなのではない。古くからの友人とどこかダダっ広い場所で、馬鹿話をしながらお酒を飲むのほど面白いことはない。  それも三日も四日も、ただひたすら馬鹿ばかしく飲んでいられればそれに越したことはない。残念ながら、近頃はかなり酒量が落ちてそれも億劫になり、大酒大食の話を漁るだけで満足している。他人の経験であっても景気の好い話は面白い。  滝沢馬琴の『兎園小説』に、文化十四年丙丑三月廿三日、両国柳橋万屋八郎兵衛方においておこなわれた大酒大食の会のことが記されている。まず酒組からいえば、一斗や二斗はお茶の子である。それもチビチビ時間を掛けて飲むのではなくて、一気に干した。 「一、三升入盃にて三盃 小田原町堺屋忠蔵 丑六十八。  一、同六盃半 芝口 鯉屋利兵衛 三十。  其座に倒れ、余程の間休息致し、目を覚し茶碗にて水十七盃飲む。  一、五升入丼鉢にて壱盃半 小石川春日町 天堀屋七右衛門 七十三。  直ちに帰り、聖堂の土手に倒れ、明七時迄打臥す。」  その他大勢、「三四十人計り有之《これあり》候へども二三升位のもの故|不記之《これをしるさず》」とあるから、二升、三升はモノの数に入らなかった。  菓子組は、神田丸屋勘右衛門というのが、饅頭五十、羊肝七棹、薄皮餅三十をペロリと平らげて、お茶を十九はい呑んだ。米まんじゅう五十、鹿の子餅百というのもあって、これは八丁堀伊予屋清兵衛のレコード。  飯組では、飯五十四盃、とうがらし五十八の浅草和泉屋吉蔵(七十三)、同六十八盃、醤油二合の三河島三右衛門がトップクラス。ちなみにルールは「常の茶漬茶碗にて、万年味噌にて、茶づけ、香の物ばかり。」  蕎麦組(各二八中平盛、献上そば)では、新吉原桐屋惣左衛門五十七盃、浅草駒形鍵屋長介四十九盃、池の端仲町山口屋吉兵衛が六十三盃を記録して男を上げた。  驚くのは、この大酒大食番付の上位を占める連中の平均年齢である。たまに二十代もいないことはないが、六十、七十の高齢者がずらりと並んでいる。これが掛け値なしの事実なら、五十にも手の届かぬ先に、めっきり酒量が落ちたなどとぼやいている私のようなのは、さしずめ蛆虫にも数えられないことになるが、さア、どうであろうか。  記録している馬琴自身も首をひねっている。馬琴は現場を目撃したのではなかった。「浜町小笠原家の臣某、その会にゆきて見るに違なしといへり」で、又聞きの記録を書いた。そのためか、「人の飲食の量、大概限りあるものにていと疑しきまでなり」と、さすがに筆を抑えているのである。  けれどももともとが怪力乱神好きの馬琴、そうしておいてぬかりなく、自分の実見した大飲大食の実例を語ることも忘れてはいない。一つは九鬼侯の医師西川玄章が枝柿百を食った話、それに新川の酒問屋喜兵衛と名乗る「水を飲むこと天下第一と自負する」男の話である。後者には馬琴はたまたまお玉ヶ池の縁者の家で出遭った。 「いざとて一升余を入るべき器に水を十分入れて出だししに、忽《たちまち》弐碗をのみほして、さていふ、おのれ既に飯を喫して、いくほどもなければ多くのみがたし。食前ならんには、今一弐碗は容易《たやす》しといへり。」  飯前なら三、四升はらくに飲めるというのである。小学生の頃、人間ポンプという怪人がホースから水を呑んで、次に金魚を呑み、電灯を呑み、胃のなかで金魚が泳いでいるのを電気ですかして見せる見世物を見たことがある。新川の喜兵衛は、あの人間ポンプも顔色を失うばかりの怪人だったのだろうか。  もっとも、大酒大食興行の醍醐味はコンクールで抜きつ抜かれつ勝負を決するスリルにあって、飲食の最大量を記録することにはなかったのであろう。会であり、興行である以上、実際にどれだけ飲み食いしたかという糞リアリズムではなくて、大酒大食の見世物としての効果の方が問題だったはずである。だからやがては大酒大食より、いかにもそれらしく演じて競争相手を凹ます工夫の方が眼目になってくるのは当然である。  馬琴の報告している文化十四年の大酒大食の会より日付けは古いが、※[#「王+民」、unicode73c9]里の隠居という人がそんなことをして興がっていた。※[#「王+民」、unicode73c9]里は名にしおう蔵前十八大通の一人、並みの飲み食いにはとっくに食傷している有閑階級だから、時代に先がけて趣向に凝る余裕があったのだろう。  ※[#「王+民」、unicode73c9]里は根岸に隠居して大酒を好み、その名も根岸の酒呑童子と称された。江戸中の酒呑みが聞き伝えて道場破りにやってくる。どうれご免と案内を乞うと、手下の小鬼が出てきて、まずはこれへと座敷に通し、小手調べの酒盛に及ぶ。大方出来上ったところへ※[#「王+民」、unicode73c9]里隠居がようやく登場して、ふらふらしているやつをさんざんに打ちのめしてしまうのである。武者修行ならぬ酒修行だから演出も色っぽい。 「能《よ》き時分に童子対面せんと、※[#「王+民」、unicode73c9]里隠居は二人の妾にいざなはれて、のさのさ出来りて、能《よう》こそ珍客、是より酒宴催さんと大酒盛になる。夜明|比《ごろ》にはさすがの酒修行も酔ひつぶされ、たわいなくおそれをなして帰りける。」 『十八大通、一名御蔵前馬鹿物語』はそう報告している。  ※[#「王+民」、unicode73c9]里隠居だけではなく、享保から天明頃の蔵前の札差の間には、ずいぶん馬鹿ばかしい浪費に打ち込んだ奇人がいたらしい。雪隠へ行くたびに大皿に盛った塩で手を洗うので、一日に二升ずつ塩を使ったという大口屋八兵衛。通りすがりの乞食坊主が今生の思い出に饅頭をたらふく食いたいというので、思い通りに饅頭二、三十個を食わせたうえ、一刀の下にけさ掛けにばっさり切って捨てたという濡衣の暁翁。やることなすことが万事につけ派手であった。  饅頭と命が引き替えではいくら何でも物騒極まるが、天明の大飢饉を背景にした時代のことだから洒落もキツイのである。化政期の大食会はそこへ行くと大らかで、恵まれた時代の天真爛漫な空気が横溢している。しかし食生活を必要よりは遊びの対象にして、食べること自体より食べる趣向に凝る会食は、幕末頃にようやく本格化したらしい。なかでも「遊食会」というのが面白い。遊食会とは何か。 「天保頃或はもつと以前から、明治の初年までも一部の人に持映《もてはや》された、江戸趣味の一つに、遊食会(持ちより)といふ事があつた。見立茶《みたてちや》の湯《ゆ》などから変化したもので、料理通や食通と限らず粋人通客の間に、よく催されたものである。単に料理した物を持ち寄つて、楽しむといふのもあつたらうが、多くは矢張り兼題《けんだい》に準《よそ》へて、その題に利《き》かしたもので、行き方は絵合せなどと全く同じものであつた。」  河竹繁俊の『河竹黙阿弥』の一節に右のようにある。兼題に準《よそ》えるとはどういうことか。たとえば『女清玄』中の「隅田川渡しの場」という兼題が出たとする。すると、墨染の衣に見立てた鰈《かれい》の三枚におろした上肉《うわみ》、竹の子笠を利かした生椎茸、枯蘆を利かした青味の蕨をあしらって場景を趣向立てする。『二十四孝の竹の子堀』なら、雪に寄せる吸物に見立てて、笹の雪豆腐に薄葛竹の子の取合わせで椀を出すのである。  落語の『長屋の花見』も、番茶を銘酒に、沢庵を玉子焼に見立てたあたりは遊食会風の趣向といえようが、こんなシケた花見でさえも大家さんというパトロンがついた。まして粋人の集う本格的な遊食会となれば、そこらの大家さんの懐では到底賄いきれるわけがない。河竹繁俊が右に述べている黙阿弥たちの遊食会には、鴎外の史伝『細木香以』や芥川龍之介の『孤獨地獄』、近年では河竹登志夫の『作者の家』でおなじみの、今紀文の異名で呼ばれた大通津藤こと細木香以が乗り出してきた。仮名垣魯文に言わせるなら、「花街に通客、芝居に見巧者、粋と崇め意気と称するもの、(十八大通の一人なる)浅草の文魚に起りて山城河岸の津藤にをはる」の駄々乱大尽《だだらだいじん》である。  けれどいかに大尽とはいえ、海老蔵、小団次を贔屓にし、善幸、都有中、米八のような幇間を取巻きにして、柳下亭柳員、魯文、黙阿弥、如皐のような俳人、狂言作者とつき合っていたのでは、巨万の富も湯水のように流れて保つわけがない。引手茶屋の朝飯に帆立貝で蝦蛄《しやこ》を煮る、といった通な遊びを、日がな夜がな続けるうちに、案の定破産してしまった。 [#ここから2字下げ] 菫野や露に気の付く歳四十 [#ここで字下げ終わり] 「放逸漫戯、花月を弄し春宵一刻千金を擲ち、決然として花街と劇場を邯鄲《かんたん》の旗亭と定め」(魯文)た人は、人生そのものを邯鄲の夢と見立てて、歳四十二にしてみごとに落魄して果てたのである。  パトロンが落魄したからといって、遊民たちが鳴りをひそめるはずはない。魯文や黙阿弥をはじめ、落合芳幾、左楽、円朝、柳枝等が相語らって、今度は、「酔狂連」という連中を結成、金座役人の高野氏をパトロンに祀上げて、文字通りの粋狂の数々をつくした。これに対抗したのが大伝馬町の豪商春の屋幾久を中心にした「興笑連」。双方の連中が競争ずくで趣向を凝らした。遊食会もしだいに豪華になりまさり、はじめは一品ずつの料理を趣向していただけだったのに、好事家のなかには客を招くのに料理はもとより、膳部から座席の注文にまで細かい趣向を凝らし、ときには百花園などに持ち出して大掛りに遊ぶことさえあったとか。  そろそろ下田沖には黒船が出没し、井伊大老の首がすっ飛んで、世上ようやく物情騒然としてきた時代のことである。そんな時代をよそに、見るもの、着るもの、食べるもの、生活のすべてを見立てに趣向して、現実をそっくり夢の世界へ送りとどけてしまうために遊び呆けた。  時代をよそに、であろうか。むしろ爛熟した江戸末期を爛熟のうちに徹し、日常茶飯のことごとくを虚構化することによって、時代の現実を彼らなりに否定していたとも言えそうだ。  図式的に言えば、浪士たちが旧体制を外側から壊そうとして奔走していたとき、彼らは内側から、堅固な体制と見えるものが一場のはかない夢のようなものにすぎないことを身をもって示した。つまりは食い倒れの極意である。  その甲斐あって首尾よく江戸は崩壊した。とはいえ河竹繁俊が「(遊食会は)明治の初年までも一部に持映《もてはや》された」と書いたように、遊食会は明治に入っても開かれたようである。篠田鉱造の『明治開化綺談』にその模様を伝える新聞記事が出てくる。新時代の遊食会は、しかし、幕末のそれとはもうかなり趣きが異っていたらしい。 「昔は偶々《たまたま》持寄の会合あるとも、東京名所といふ題なれば、鰻の大串を八本出し、荒いの八串(すなわち新井の薬師)とすらすらとせし趣向を立し物なるが、今の遊食連は然《しか》らず、鰻を鰻にして出すを好まず、何品にても怪有《けう》なる調理をなし、怪有なる入物に入れ、万事不潔にして食類の本分の味を損じ、彼不潔料理と称し、玉子のふわふわを虎子《なまこ》へ入れる類に習ひ、見るも中々胸わるき大道の新粉細工の如く、往来の文字焼の如き物を持込み、彼を食ひ是を食ふ、実にコレラの病の媒酌《なかだち》とや申す可し。」  こうなると遊食会というよりは悪食会といった方が適わしい。もうすこし時代が品下って、昭和初期の蛮カラ高校生が白陶の便器にカレーライスを盛ったり、痰壺に生牡蠣をどろりと流し込んだりしたのを、涼しい顔で平らげる悪趣味の元祖でもあろうか。思うだに胸がむかついてくる。ああ気持が悪い。  もっとも、明治の遊食会を悪しざまに伝えるこの一文は、「有喜世新聞」の伊東専三が「遊食会を嫌ふ」と題して書いた中傷記事(明治十五年十一月)で、かならずしも実情に即してはいないかもしれない。それかあらぬか「有喜世新聞」に叩かれた東京遊食会の方も、負けじと外神田の花清に五十余人が集まって「有喜世新聞|被叩会《たたかれかい》」を催した。床の間に「有喜世新聞」を表装して飾り、「世の人をゐながら叩く机かな」と伊東専三を揶揄しながら、返して、「たたかれしあと花咲くなづなかな」。叩かれてかえって花と咲く遊食会を臆面もなく謳歌した。 『明治開化綺談』には、このあと明治三十六年にも劇評家たちの遊食会が盛大におこなわれたいきさつが報告されているので、過ぎにし江戸人の趣向をなつかしむ集いは明治も後半まで長引いたようだ。察するに、この間鹿鳴館時代(明治十七ー二十年)の欧化風俗に接して、江戸懐旧の志は反射的に一段と高まったのでもあろうか。  とはいえ、篠田鉱造が列挙している劇作家たちの趣向を一瞥してみると、それぞれ凝りに凝っているとはいえ、文明開化の実用からとり残された好事家たちのはかない抵抗の感を免れない。糜爛《びらん》した腐臭を放ちながらも、なお腐敗そのものが時代の必然的な産物であったという意味で時代全体を背景にしていた、幕末の遊食会とは、いかんせん格が違うのである。  遊食会は衰えても、十八大通以来、あるいはそれ以前の中世のバサラ者以来、脈々と続いている見立ての趣向は、たぶん処を変えてまだ生きている。「日本人独特の見立、擬らえ工夫、不離不即の趣向というものは、やがて学術的社会的には、発明となって顕現しているのではないかと思う」(篠田鉱造)。この観察がおそらく正鵠を射ているだろう。  たとえば料理の名にしても、名前と実物との間にズレがあるものの方が何となく奥床しくおいしそうだ。このズレが見立てという優雅な距離の感覚を生じさせてユーモラスなくつろぎが出てくるのである。ご存知のように狸汁には狸は入っていない。鴨焼きの実体はナスだし、雉焼きの中身は豆腐である。  仏教の殺生戒が伝来して肉食禁忌がひろまってから、中国仕込みの料理が名のみ残して実を失った。糟鶏《そうけい》、鼈羹《べつかん》、羊羹《ようかん》のような精進の点心などは、さしずめその典型だろう。しかしこれとても仏教渡来以前の陰陽五行思想に秩序づけられていた食文化にすでに見立ての萌芽があったからこそ、これほどすんなりと精進料理が普及したと考えた方が理に適う。  精進料理は名を残して実をスリ替えたのだが、新種の料理の流行の可否は命名法の趣向いかんに係わる。まずメニュが詩でなければ料理はおいしくならない。ことほど左様に、味覚は言葉の想像力の働きに大いに左右されるのである。  だから、逆にしかるべき名前のついていない食物は不気味だ。ときには恐怖の種となって箸が動かない。  これも遊食会になるかどうか、この春、澁澤龍彦さんのお宅のお花見に招かれた。ご同席はフランス文学者の出口裕弘さん夫妻、巌谷国士さん夫妻である。北鎌倉の澁澤邸のお庭には遅咲きの八重桜の古木がある。これを眺めながらお酒を頂こうという寸法である。  ところで、同じ澁澤邸の庭地には八重桜のほかにアミガサタケという奇妙な菌類が自生している。平凡社「世界大百科事典」に「春季に庭地や山林に生し、頭も柄も中空、外国では上等の食菌[#「上等の食菌」に傍点]とされる」と記されているキノコである。いま傍点をふった箇所が問題で、とこうするうちに主の澁澤さんは牧野富太郎博士の「植物図鑑」まで持ち出して、それがいかに欧米では貴重視されているかを強調しながら、塩コショーでチャッチャといためたやつを食卓にポンと置いたのである。  形状を「頭も柄も中空」といっただけでは正確なイメージは伝わらない。タンザクに刻んである料理はともかく、材料の現物はどう見ても、太さといい、光沢といい、蝋製のあやしげな男根そのものだ。  おそるおそる箸が伸びた。まあ何とかなるだろう。ともかく澁澤龍彦さんは『毒薬の手帖』という本の著者だから、毒物学には一見識がある。手首の先に紫色の斑点がボツボツ出てきたら、さっそく解毒剤の方も調合してくれるのに違いない。 「ちょっとコリコリしていて軟骨みたいだ」 「中空ってのが意味深だね。中身が消えてなくなっちゃってるみたいでさ」 「第何期かね」  だんだん見立てが固まってくる。梅毒というよりは癩病にやられたソノモノのようで、頭の部分に蜂の巣のような子実層をかぶっているのがいかにもそれらしい。 「有田ドラッグの見本だな」 「それもローソク病……」  俳味がまるで利かない即物的描写におちたところで手首を見ると、紫色の斑点は出ていない。  かわりに笑いがこみ上げてきた。つまらぬ駄洒落のせいにしては顔面筋肉のゆるみが少々異常のような気もする。ためしに教育勅語や毛沢東語録のなかからなるべく厳粛そうな文句を拾おうとしてみるが、情けなや、頭に浮ぶのは昔見たマンガの、笑気ガスを吹き込まれてゲラゲラ笑いながら奥歯を抜かれている小学生の腹をよじった姿勢ばかり。  小生だけかと見回すと、一座もまだ笑いやまず、よくよく見ると、一同、眼のまわりだけが恐怖に凍って、頬から口にかけてがにたにたとたるんでいるようなアンバランスな表情、とも受取れる。あるいは、そう見えるのもアミガサタケ独特の幻覚効果か。  この笑食会からはいくつかの教訓が残った。まずアミガサタケは食べられるということ。但し、料理にあらかじめ何か気の利いた名前をつけておかないと、恐怖と笑いの同時反応が起るということ。次に、節約第一の昨今、一斗酒五升飯がたちまち消えてしまう化政期の大食会のように物量を浪費しもせず、大尽のパトロンがなければ成立たない遊食会や過分の会費を要する現代のパーティーのように金銭をも費さない、という点が好ましい。私の試食体験からするなら、アミガサタケは、少量にしてつとに効果は抜群なのである。  付記。本書発行後、植物学にくわしい中井英夫氏から重大な御注意をいただいた。中井氏の私信を一部引かせていただくと、「しかし澁澤邸のキノコは勇敢ですね。たぶん頭部の尖ったトガリアミガサタケだったのでしょうが、シャグマアミガサタケは熱湯で茹でこぼさないと一巻の終りです。」記して、読者のけっして勇敢ならざることを乞い願う次第である。 [#改ページ]  11[#「11」はゴシック体] 幻の料理 ——向島のどぜう  梅雨が明けるとむやみに泥鰌が食いたくなる。  何年も前に、晴海埠頭の公団住宅に住んでいた頃は、よく都電を利用して高橋《たかばし》の伊勢喜に食べにいった。もうすこし足を伸ばせば、駒形どぜうの越後屋があり、浅草国際劇場寄りには飯田屋もある。  小部屋が迷宮のようにいくつも入り組んだ伊勢喜の作りもいいが、新国劇の舞台装置みたいな駒形どぜうの造作も私は嫌いではない。それは、本山荻舟の文章を借用すると、こんな風だ。 「蔵前から並木へかけて幅何十メートルかの大舗装道路に、あわただしく馳せちがう自動車群などとは、およそ別世界の存在として、一たび障子の中へ足をふみ入れると、土間はもちろん奥の小座敷も昔ながらの入れ込みで、歩みのような板を渡した両側に、向い合って幾組もの客が陣取り、先ず名物の丸煮なべを突っつかないと通でない。」(「駒形あたりどじょう汁」)  通ではないが、私も駒形や伊勢喜に行けば丸煮を取る。理由は簡単で、柳川ならほかでも食べられるからだ。  駒形がはとバスの名所になって俗化したと敬遠する人がいるが、さあどうであろうか。  国文学者の池田弥三郎氏がはとバスのお江戸見物のコースに乗った。一めぐり終って、さて一行が夕食にうなぎかどぜうかどちらを選ぶかの段になると、「驚いたことに、わたしのほかは、初老の夫婦者一組で、あとはみんなうなぎの方に行ってしまった」(『私の食物誌』)そうである。  そのあと池田氏が若い人を十人ばかり駒形に連れていったら、そのうち七人がどぜうを食べるのがはじめてという数字が出たともいう。俗化どころか、どぜうは新世代を前にして衰勢をかこつ一方なのだ。どぜう屋さんには悪いような気がするが、その滅びゆく斜陽の照り返しのなかで味わう気分がまたいい。  どちらかといえば丸煮だが、背開きも、柳川も、蒲焼も、それぞれにおいしい。泥臭い田圃のにおいがプンと鼻にきて、それを刻みネギの山盛りで消しながら箸を運ぶと、忘れていた川のにおいがよみがえってくる。少年時代の夏の記憶が帰ってくるのである。  何でも食べたはずの泥鰌料理に、一つだけまだ食べてないのがある。泥鰌豆腐、一名をどぜう地獄というやつだ。  まだ食べていないのは、どこへ行けばそれを食べられるのか分らないからだ。そもそもこの料理は、この世にあるのかないのか。名前だけあって、実体のない食物ではないかとさえ思える節があるのである。  吉行淳之介氏の『贋食物誌』のなかにこの料理のことが二度出てくる。一度目は、そういう料理がある、と読める風に書いてある。  そういう料理というのは、鍋のなかに豆腐と泥鰌を入れて煮ると、煮汁が熱くなるにつれて苦しまぎれに泥鰌が冷たい豆腐のなかに頭を突っ込んで悶え死ぬ、その泥鰌の精力のみっしり詰った熱い豆腐をふうふういいながら頂く趣向のことである。  ところが、吉行氏がこのエッセイを夕刊フジに連載中、クレームの投書がきた。投書の大意を要約すると、「あれは『泥鰌地獄』という名で昔から流布された幻の料理なのです。泥鰌が豆腐の中にもぐり込むというのは虚構のことなのです」というものだ。  これを受けて夕刊フジ編集部が専門家の駒形どぜうに問い合わせた。『贋食物誌』の泥鰌に関する第二のエッセイは、この一件の顛末を語っているので、次に駒形どぜうの回答というのを吉行氏にしたがって同書から引用しておこう。 「熱いナベの中に豆腐とドジョウを入れると、ドジョウが暴れすぎるのでもぐり込まれた豆腐が毀れてしまう。また、ナベの水をしだいに熱くすると、ドジョウがぐったりしてしまうのか、豆腐にもぐりこまない。  しかし、賀陽宮《かやのみや》が昔その料理を食べたという話を聞いたことがあるし、北陸地方にその料理がある、とも聞いている。」  あるという確証もないが、ないという証拠もない。まさに「幻の料理」なのである。吉行氏は、結論として、そういうものがあるとすれば、あらかじめ煮つけた泥鰌を豆腐に突っ込むのではないか、と推理しているが、これは裏を返せば、いわゆるどぜう地獄のように悶死する形での泥鰌豆腐はない、という意味にとれる。  岡本一平に『どぜう地獄』という小説がある。岡本一平の言葉を信じるとすれば、「どぜう地獄」という料理名は、この小説の登場人物の、どうやら岡倉天心の子息がモデルと思われる浅倉という男がはじめてつけたものらしい。小説の発行年時は大正十三年七月五日(大日本雄弁会講談社刊)。とすると、料理そのものは昔からあって(?)も、残酷な料理名の方はそんなに古いものではないということになる。とにかく浅倉という男の言い分を聞いてみよう。 「どぜう地獄とは僕がつけた名なんだがね。遣り方に二|法《はふ》あるやうだ。越後の赤倉温泉に、おやぢの別荘があるの知つてるね。あすこの留守番の九蔵といふ奴が屹度《きつと》出来ると受合つたのがこの水を入れた方なのだ。千葉の方で聞いたのは水を入れないといふ方法だ。兎も角やつて見よう。」  といったわけで、浅倉と岡本一平は笹の雪から豆腐を仕入れてきて、実地に幻の料理を試してみる。結果はどうか。 「水を入れた方のは、豆腐は豆腐で煮えて居る。泥鰌は泥鰌で古釘のやうにいろいろに曲つた形で煮え上つてた」という有様で、みごと失敗。千葉県の方のは、豆腐の角々がやや跳ね崩され、たまたまその割れ目に首を突っ込んだのが一尾いただけで、やはり目論見通りにはいかない。 「水が湯になる為め熱さに堪へられず冷い豆腐へ逃げ込むだらう。この考へは人間の頭の産物である。」  というのが岡本一平の実地体験の結論であった。  するとどぜう地獄はやはり、名のみあって実はどこにもない幻の料理なのだろうか。しかし一概にそうばかりとも決めかねるのだ。たまたま四方山径の『たべもの風流帖』(昭和二十二年、江戸書院)を読んでいたら、「泥鰌の滋味」と題する一文のなかにこんな一節が出てきた。引用ばかりでわずらわしいようだが、もうしばらくご容赦を願いたい。 「煮汁を加減した鍋に豆腐を入れ、おもむろに小ど(小さき泥鰌の意)を投じる。跳ねて出ないやうに蓋をしつかりして置いてから、焚き出す。すると汁の煮えるにつれて泥鰌先生驚いて騒ぎ廻り、冷やかな豆腐を発見して、泥中へもぐり込むやうな調子で、身を豆腐の中に突き込み、熱さから避けやうとする。しばらくはそこで過ごせるが、遂に豆腐も煮えて、ここに泥鰌の豆腐詰が出来上る。寒泥鰌などは、豆腐料理にすれば冬の捨て難い佳饌たるを疑はぬが、さてやつてみようといふ人は案外に少ない。山妻なども泥鰌地獄だけは御免蒙りたいと懇願する。」  賄方である奥さんの抵抗まで引き合いに出しているのだから、これは実体験だろう。すると四方山径はどぜう地獄の調理に成功したわけで、泥鰌豆腐は幻の料理ではなかったことになる。小どを使って、荒い大物を避けるのがコツなのであろうか。あるいはまた、笹の雪の豆腐のようなやわらかいのではなく、苦りの利いた固めの田舎豆腐を使うのが秘訣なのかもしれない。さらにはまた、その両方の条件が揃わなければならないのかもしれない。幻の成功例が、千葉、赤倉、和歌山(四方山径の寓居)、北陸のような地方で多発しているところからすると、そうも思える。  以上のように、どぜう地獄の存在の有無についてはほぼ可否が相半ばしている、というよりは、ない[#「ない」に傍点]という報告の方が有力のようだ。しかし、あるという実話が一つでもあるのがこなれが悪く、何だかありそうな気がしてきて、そうなると草の根分けても泥鰌豆腐を探して食べてみたくなるのが人情というものだろう。  いま思い出したが、そういえばどぜう地獄を食わせる店というのがあって、私はそこへ足を運んでいながら、実物にお目に掛れなかったことがある。そうだ、そんなことがあったっけ。  お店の名もすっかり忘れていたが、思いついて、野坂昭如『新宿海溝』の巻末索引(この小説には索引があるのだ)の、それも「登場店名(抄)索引」に一通り目を通してみたら、マ行の項に「みの屋138〜140. 143」というのがある。これだ。試しに一四三頁を引いて見ると、驚いたことに、こちとらの名前が実名で出てきた。 「四十五年の秋、吉村五十、庄助四十の年のめぐり、あわせて、石堂の小説集『好色的生活』出版を祝い、みの屋で、宴会が催された。石堂の、東大独文科の同級生、種村季弘、松山俊太郎が一方に鬱然と座し、庄助のかたわらには、芸能マネジャー時代に世話をやいたことのある逗子とんぼが、吉村の配慮であろう、ならんだ。」  昭和四十五年といえば、いまから十年以上も前のことだ。たしかに私は、友人の石堂淑朗の小説出版記念会に指定されたその「みの屋」に行った。あらかじめどぜう地獄を食わせる店という情報があり、それが目当てで出掛けていったような憶えもある。  東武線の玉の井で降りてごみごみした横町を抜けると、水戸街道が濶然と開けて、その街道筋に古い店構えでみの屋がいい感じにたっていた。野坂さんの会席の描写はおおむね正確だが、「鬱然として」というのはいささか鼻白む。私の記憶では、俳優の殿山泰司さんや浦山桐郎ががやがや飲んでいる席にまぎれ込んで、野坂昭如さんがじつにこまやかな気遣いで配ってくれるチュウハイをガブ飲みしていただけだ。泥鰌が出ないので座が殺気立ってきた。 「地獄が出るってんで、こんな場末まできてやったんだ。ヤイ、石堂、手前の小汚ねえ面《つら》なんぞ見たかねえやい。地獄出せ」 「今日は貸切りなんで、どぜうはお休みなんだよ。レバ刺しで我慢しろ。ナ、レバ刺し」  当日の晴れの人のはずの石堂淑朗が、みの屋一同を代表して、掬躬如《きつきゆうじよ》といった低腰で応対する。鯉のアライが出て、焼鳥が出て、レバ刺しが出たが、ついにどぜう地獄は出ずに終った。するとやはり、このお店にもどぜう地獄はなかったのだろうか。それとも石堂の弁明のように、当日のみ休業だったのだろうか。答えは、どうも両方らしい。引き残してある『新宿海溝』一三八頁〜一四〇頁を読むと、結論はそういうことになる。今回はむやみに引用が多いが、こうなったらもうヤケで、もう一度だけ野坂さんの名文を拝借する。 「とにかく混み合う、名物は泥鰌の地獄鍋で、鍋に、昔、煉炭火鉢で使ったブリキ製の煙突状のものをかぶせ、煮立ったところへ、生きたままの泥鰌を上から落しこむ、五、六秒間、泥鰌の断末魔が続き、落着いたところを卵にひたして食べる、小骨が少々うるさいが、大酒呑みには、なんとなく肝臓の養いの感じ。」  これはこれで大層おいしそうだが、豆腐に泥鰌がもぐり込んで断末魔を演じる、本物(?)のどぜう地獄とは違うようだ。ふつうの丸煮はあらかじめ調理場で酒で殺してしんなりしたのを運んでくるが、ここのは石川五右衛門の釜うでさながら生きたままを目の前で煮殺す。鍋蓋の代りにブリキ製の煙突を使うのは、泥鰌が跳り上るのを出口を先細にして防ぐためであろう。野趣はこのうえないが、豆腐を使うことはない。すくなくとも野坂さんの文章には豆腐の二字は出てこない。  それに、野坂さんの判断か、お店の方の決めた品名か、料理も「泥鰌の地獄鍋」で、どぜう地獄とは書かれていない。するとやはり最後の頼みの綱も切れて、どぜう地獄を食わせる店はこの世にはない、と観念すべきなのだろうか。  たしかに豆腐のやわらかさに泥鰌の精の強い跳躍力をまともにぶつければ、豆腐はこわれる。それを避けて大鍋を使えば、豆腐と泥鰌は別々に煮上るだろう。冷静に考えればありそうにない料理なのだが、岡本一平のいわゆる「人間の頭の産物」は、あり得ようとは思えぬものもやすやすと作り上げてしまう。しかし、一旦これを実地に裏づけようとすると、風車に立向うドンキホーテさながらに惨憺たる失敗に終って、夢想と現実の落差をこっぴどく思い知らされる羽目に陥るのだ。  もっとも、この根も葉もない「人間の頭の産物」というやつにもそれなりの効用はある。ものの譬えとして使えるのである。げんに岡本一平の『どぜう地獄』という小説も若き日のかの子女史への愛慕に身を焼かれて巷をのたうち回る日々の回顧談として成立している。  小説はみんごと花嫁を射止めるハッピーエンドに終ってはいるが、末尾に註して、「ここまでがどぜう地獄の入口であります。これから先の七年間が目的の『どぜう地獄』なのですが、それを詩にするにはまだ材料が生々し過ぎて料理しにくくあります」とあり、かの子女史の笹の雪のお豆腐のように真白な豊胸も、とび込んでゆけば、一転、夜叉の形相をむき出しにして焦熱地獄と化したのであるらしい。  とにかく存在しないものには執念を持たない方が身のためだ。幻を追うよりは、いまあるものを大事に扱う意気に徹すべし。どぜう地獄がないと決れば、柳川や丸煮がげんに目の前にあって、そのいちばんおいしい食べ方になら生きている間にぶつかることはできる。ないものは食べられないから、食物談義は現物の範囲に限られて、そこから一歩踏み出せば、これはもう詩の話になるよりほかはない。  だから岡本一平の場合にも、「人間の頭の産物」のどぜう地獄を軸に据えて、『どぜう地獄』という小説[#「小説」に傍点]が成立した。  申し忘れたが、泥鰌の食べ方には、地獄は別にして、柳川、背開き、丸煮、蒲焼のほかにもう一つある。生のままのをひょいと口のなかに放り込むのである。昔、肺病の患者が精がつくというのでこれをよくやった。  けれども泥鰌の生食いは別に肺結核患者でなければやってはいけないということはない。ふつうの人でもその気になれば食べられる。私の友人の飯吉光夫さんがそれをやった。  もっとも、飯吉さんがふつうの人であるかどうかはかなり疑わしい。飯吉さんはある大学でドイツ文学を講じている俊秀だが、ときとして会合にパジャマ姿で現われたり、一日思い立ってチリ紙交換の車に蔵書をすっかり売り払ってしまおうとしたりする突発的衝動に駆り立てられることがある。その伝で、泥鰌も突発的に食べたのである。  ある日、飯吉さんから電話が掛ってきた。 「泥鱒ってどうやって食べるんだい?」  飯吉さんは満州育ちなので、田圃に湧いて出るくにゃくにゃした生き物には馴染みがないらしい。 「素人が作るんだったら、どぜう汁だろう。お宅は赤味噌かい、白味噌かい。横井也有は泥鰌は赤味噌に限るっていうけど」 「面倒臭えな。魚屋の前通ったら、うようよしてたから買ってきた。生きてるんだよ。殺して食うのはもったいないじゃないか」 「だって生きたままのを食うわけにはいかないだろ」 「食ってるよ」 「え?」 「いま一匹食べた。口のなかでじたばたしてる」  キュキュと泥鰌の鳴く声が電話口から伝ってくるような気がした。あるいは飯吉さんの笑い声が泥鰌の鳴き声そっくりになってしまったものか。 「よせよせ、それをやって胃袋に穴が明いちまったやつがいるんだぜ。泥鰌はぶよぶよした胃壁を泥だと思ってもぐり込む。とんがり頭をしてるから胃壁に刺さっちゃうわけだ。胃袋を破ってほかの内臓に入っちゃった例もある。暴れるから、人間の方も七転八倒で、もの凄いことになるんだよ」 「キュッキュッ!」  飯吉さんがまた笑った。 「おい、よせったら、奥さんを出しなさい」 「キキキ、キュキュ! はじめて食べたけど、うまくも何ともないねえ。でも食えるよ、これ。キュキュキュ!」  ようやくからかわれていることに気がついた。電話口の向うの見えない相手は、ホフマンスタールの詩集かなんかを開いているだけで、泥鰌なんかどこにもいないのに決っている。馬鹿ばかしさが嵩じて憤《いきどお》ろしくなってきた。  このとき私の脳裡に憤りとともにある考えがひらめいた。飯吉さんが胃袋に泥鰌をブスブス突っ立てて悶死したとする。死んでからそのまだ生き泥鰌がひくひくしている胃袋を取り出して、朝鮮料理のミノ焼きみたいにして食べたら、これは新発明の泥鰌胃袋料理ということになる。これで泥鰌料理究極の形式が完成するわけだ。よろしい。もっと食え。ピンピン跳ねるやつを、白魚のおどりみたいに漏斗で流し込みながら、どんどん食うがよろしい。死んだ後は俺が引き受けた。  残念ながら、飯吉さんが生き泥鰌を食べたか食べなかったかしたのは、その日限りの突発事であったらしく、その後はとんと泥鰌の話をしなくなった。  だから飯吉さんはまだ生きているし、かりに生きるのをやめたとしても、泥鰌に胃袋を食われるのとは別の原因でそうなるだろう。もう一つの幻の泥鰌料理も、かくて幻のままに終るらしい。 [#改ページ]  12[#「12」はゴシック体] 東は東、西は西 ——銚子の亀甲万  岡本綺堂の怪談には川魚やそれが棲む川や沼にまつわる話がずいぶん多い。「置いてけ堀」であり、大鰻や鯉のたたりを述べた「魚妖」や「鯉」のような話である。  大川を中心に物産の交換や漁撈が営まれていた江戸の昔がたりを語るとなれば、それが当然だった。江戸人は、米は利根川の流域で、魚は川と河口近海から仕入れる。口に入るものの大方が川水から上ってきた。いわば川(のもの)を食べるのが江戸の日常だったから、この日常を引っくり返す怪異は川に食べられる恐怖につながった。「東海道四谷怪談」の堀から「番町皿屋敷」の井戸を経て幸田露伴の「幻談」にいたるまで、江戸物の怪談が河川と水にちなんで語られてきた所以だろう。  もう一つ、綺堂が怪談のネタを仕入れたと思しい中国の怪奇小説が河川にまつわる怪事をしきりに好んだことがある。黄河と揚子江の流域に発達した中国文明は、古来、福を授けもすれば禍に誘い込みもする龍女や女禍《じよか》のような河神の加護下にあった。  四谷怪談のお岩さんや皿屋敷のお菊がどうかすると人間を水のなかに引きずり込むのはその世俗向き焼き直しである。綺堂の怪魚また然り。ひとも知るように、岡本綺堂は巧みな座談形式による中国怪奇小説の翻訳翻案家で、水中生物の怪力によく通じていた。  ことほど左様に、江戸市中の怪を書くとなると川魚を食べたたたりの話を自然に思いつく綺堂も、市内を一歩外に出れば水道の水を飲まなくなるので、それほど水禍には縁のない怪談も書いている。さしずめその代表格といえるのが「鎧櫃の血」であろう。  今宮六之助という旗本が大阪の勤番を命じられて東海道を下ることになった。それだけならどうということはないが、この旗本が大の美食家で、かねて大阪の醤油はまずいと聞いていたので銚子の亀甲万を一樽あつらえて道中を運ばせた。侍が醤油樽を持ちあるくのはどう見ても恰好がつかない。一計を案じて、甲冑を納う鎧櫃のなかに醤油を仕込んで人目をくらました。  三島の宿までは道中無事に辿りつくが、ここで性悪の雲助に鎧櫃の中身を勘づかれた。問屋役人の前まできて雲助がわざと手荒にどんと鎧櫃をおろす。どこかがこわれたと見えてなかから血のように紅いしたじ[#「したじ」に傍点]がタラタラッ。事情を察した役人のはからいでその場は難なくつくろったものの、恥辱にまみれた今宮六之助の腹の虫はおさまらない。雲助を一刀の下に斬り殺し、のみならず事情を知った供の仲間《ちゆうげん》まで次々に刃にかけた揚句の果てに、自分も鎧櫃の上で真一文字に腹かっさばき、醤油のような血を流して死んでしまう。  こう要約したのではあんまり凄味がないが、綺堂巷談の三浦老人の語り口で聞くと思わず背筋がゾクゾクしてくる。特に鎧櫃から醤油とも血ともつかぬ赤いものがタラーリ、タラタラッと流れ出すところが真に迫ってじつに物凄いのである。げに怖しきものは醤油のうまみ、なのではあるまいか。  今宮六之助ほどの美食家ではなくても、関東育ちの人間ならこの話はいくぶんか身にこたえる。西下する先でたまりや薄口しょうゆで魚を口にすると、何だかはぐらかされたような感じになるのである。醤油がちがうと魚を食った気がしない、とまで言う人もいる。醤油がうまくてもそうなのかもしれない。 「鎧櫃の血」の時代(嘉永末年)を遡ること五十年程前の文化二年に、蜀山人こと大田南畝が長崎からの帰路を録して『小春紀行』という紀行を編んだ。道中の飲み食いもことこまかに記しているが、南畝にはどうも口に合うものがない。 「すべて肥前のうちは長崎の湊も近きゆゑに食物もよろしかりき、けふ山家の昼餉よりして食物の味よろしからず、筑前のうちみなかくのごとし。」安芸路では、「暮の頃に西条四日市の宿なる、角屋六郎兵衛がもとにやどる、ここは造酒屋なれどわびしき所にて、食味よろしからず」とあり、遠州まで来ればくるで、「酒のみむなぎとりめす、此所《ここ》の名品なりといへど、あづまのかたの味にくらぶべくもあらず」とあって、ことごとに江戸好みが忘れられなくて気に入らない。  但し、南畝は東国の醤油をかついではいかなかったから、ぶっつけでその土地土地の調理を味わった。だから口に合わないものがすくなくなくても、江戸にはないものをそれとして賞味して、率直にめずらしがる余裕もまたあった。安芸の牡蠣、遠州の鰆《さわら》。鰆は江戸にもないことはないが、「東京の鰆では本当の味がない」(額田六福)という人もいるくらいで、西へ行くほどなまめいた味になるらしい。  東にはなくて西にあり、西になくて東にあるものがあるのは当然で、それにいちいち江戸好みの立場からケチをつけたのでははじまらない。蜀山人は別に江戸風を吹かしているのではなくて、まずいものはまずいと言っているだけだが、旅行者のなかにはどうかするとお国自慢だけで諸国名産をくさすような不心得者もいたことだろう。  じかにふれた体験から判断するよりも、あらかじめ作り上げた主観だけから異質のものにふれたり避けたりする、了見の狭い連中はいつの時代にもいる。「鎧櫃の血」の美食家の旗本も、見方によっては、土地のものをじかに味わうことを避けて、地方色を消して何でも同じ味にしてしまう醤油をだぶだぶぶっかけて舌をゴマ化していただけではないか、と言って言えないこともない。  これを要するに、「あづまのかたの味」を好むのは結構だが、それなら上方人が同じ状況に遭遇したらどうかを考えなければ、趣味の審判が片手落ちになりかねないということである。向うは向うで、関東の魚や醤油をあしざまに言うかもしれないのだ。  東西の魚くらべということになれば、魚は西が文句なしにうまい。瀬戸内海を後背地にした魚は、味がこまやかであるうえに種類が豊富である。いくら東国育ちでもこれには一も二もなく脱帽せざるを得ない。それでもあんまりあずまのかたを見下されれば、何でえ、あんな溜池みたいな水でとれたもの、黒潮にもまれた荒い魚を銚子の醤油の荒いやつで食うのがぜえ六にわかってたまるもんかい、ぐらいは言い返したくなる。これは西も同じことだろう。  ここまではまあ趣味の問題だから無邪気なものだ。しかし、東西食味合戦も、政治がらみになり、イデオロギーの闘争めいてくると、少々血なまぐさいにおいがしてくる。  たとえばここに食満南北編の『魚・春の巻』という本がある。昭和十年中央市場大阪魚会社発行の、もっぱら大阪の魚、それも鯛のうまさを当代の名士たちが雁首をそろえて礼賛している文集だ。  これを読むと、なるほど世の中には鯛しかうまいものはないのだな、という気がしてくるほど、それほど鯛のうまさがこれでもかこれでもかとばかり列挙してある。イギなし。鯛は私も大好物である。ただ、なかでちょっと気になるのが木谷蓬吟という茶人らしい人物の書いている「権現様と鯛」という一文だ。  元和二年(一六一六)四月、徳川家康が駿府に鷹狩りを催したとき、上方で鯛の天ぷらが流行していると聞いて、早速鯛二尾を油で揚げさせてこれを食べた。するとその夜にわかに腹痛が起り、床につくとそのまま世を去ってしまった。「即ち鯛が家康を殺したと云ふことになる。」そう書くのまではいいが、木谷蓬吟はノリすぎてこう続ける。 「白魚見たいな腸《わた》のない田舎の小娘のやうなものを食つて居れば無事であつたが、大阪方(豊臣)を粉砕し天下を奪つた勢ひに乗じて、まだ食つたことの無い天下のちぬ鯛を注文するとは分に過ぎた話である。而《し》かも節倹家の彼は、恐らく価の安い、古い鯛をテンプラにして食つたものに違ひない。鯛は鯛でも腐つた鯛では如何ともし難い、安物買ひの身倒れである。」  大阪勢ならここで思わず快哉を叫びたくなるのだろう。阪神タイガース・ファンなら太鼓をドンと叩いて、「かっとばせえ!」と連呼するところであろう。豊臣方の怨念通じてか、ケチン坊の家康が腐った鯛の天ぷらを食って死んだ。ざまを見やがれ。関ヶ原から四百年、豊臣対徳川、鯛対白魚、阪神対巨人、積年の怨みはおいそれと消えるものではないらしい。  しかし、しかしである。私は別に阪神ファンでもなければ、巨人びいきでもないが、鯛も好物なら、白魚も大好きである。これはどうしてくれるのか。鯛を持ち上げるあまり、白魚を「腸のない田舎の小娘のやうなもの」とは、いくら何でもあんまりではないか。これはもう趣味の問題ではなくて、一種のイデオロギー闘争ではあるまいか。  そこへいくと、石川淳のいわゆる「当代の趣味の審判者」、半掃庵横井也有の判定はさすがである。『鶉衣』にいう。 「牡丹は花の一輪にて賞せられ、梅桜は千枝万葩を束ねて愛せらる。それが勝れりとも劣れりとも、更に衆寡の論には及ばず。白魚といふ物の、世にもてはやさるるは、かの鯛鱸の大魚に比すれば、今いふ梅桜の類ひに等し。」  これで見事に一件落着である。牡丹は大輪の一輪ざし、梅桜は千枝万葩《せんしばんぱ》を束ねて、それぞれの持ち味を賞味するがよいではないか。鯛の一尾、数で食う白魚、また然り、物定《ものさだめ》博士はいいことを言う。そうでなければ東京人は鯛が怖くて、「月も朧に白魚の」と濡れ手に粟の百両はつかみ取り、啖呵のきいたお嬢吉三の名場面が見にいけなくなってしまう。  それに白魚は何も江戸前ばかりとは限らない。その昔は尼崎や西宮も白魚の名産地だった。いまでは東京湾も大阪湾も、どのみち白魚の漁場ではないから、白魚のおどりが食べたければ、山陰か九州まで遠出をしなければならない。  そういえば、先程引いた『魚・春の巻』に松江出身の伊原青々園が一風変った白魚の食べ方を書いている。椀に酢味噌を盛り、その上に生きた白魚をジカに受けてしばらく蓋をしておく。すると、「魚が跳ねなくなるから、それをナマのままで食べる」のだそうだ。  酢味噌を下地にするのもさぞかしおいしいだろうとは思うが、どちらかといえばやはり醤油が一般だろう。そこで話はまた醤油に戻る。  嘉永末年の旗本は大阪の醤油はまずかろうと見当をつけて亀甲万をかついでいった。ところで、同じ西下でも終着点が大阪ではなくて、花のパリまで遠路はるばる醤油をかついでいった人がいる。日本人なら誰だってそうだという向きもあろうが、この場合は並みの日本人ではない。星岡茶寮主人として天下の美食家の鑽仰を一身に浴びた大趣味人、北大路魯山人がその人だった。  昭和二十九年のことである。魯山人はパリのトゥール・ダルジャンという鴨料理店に、画家の荻須高徳夫妻、それにパリ滞在中の大岡昇平の同行四人で入った。一口に鴨料理というが、トゥール・ダルジャンはルイ王朝時代から続く、たいへん格式の高いレストランだそうである。昭和二十九年当時で鴨の丸焼きが一羽一万円した。  ボーイが銀盆の上で丸裸の鴨をジュージュー焙ってスープをとっている。それを一旦客に見せてから、あらためて調理場で味つけをしてくるのがこの店のしきたりだ。魯山人はそれが気に入らない。 「あんなことをしちゃあ美味く食えない。食ったところで肉のカスを食うみたいなもので、カスに美味い汁をかけているに過ぎない。ほかの客はあれでよかろうが、こっちは丸ごと持ってこいと言ってくれ。」  そう取り次いでもらった。それでもボーイがとり合わないので、ハッタリをかました。自分は日本の高名な鴨料理研究家だとふれ込んだのである。案の定、向うはいいなりになった。 「これでよし。私はポケットに用意していた播州竜野の薄口醤油と粉わさびを取り出し、コップの水でわさびを溶き、卓上の酢でねった。私の調理法はどうやら関心を買ったらしく、タキシードに威儀を正したボーイたちがテーブルの前に黒山のように並んで、成り行きいかにと見つめていた。敢えてうぬぼれるわけではないが、かかる格式を重んじる店で、こんな仕方で調理したのは前代未聞のことであろう。並んでいるボーイ連中の関心も当然のこととうなずかれる。」(『魯山人味道』)  この話は白崎秀雄の『北大路魯山人』にも出てくるし、同席した大岡昇平も「パリの酢豆腐」という随筆に書いている。ただし魯山人が自分で報告しているのとはすこしずつちがう。大岡氏の報告によると、その場では魯山人も右のようには言わなかった。 「料理人が魯山人のわさび醤油に示した注意に、やはり味のことになると熱心だと、僕が感心すると、 『客あしらひの訓練が出来てゐるといふだけぢや』  と実際『星ケ岡』をやつたことのある魯山人はいつた。」  すると鴨料理店の方は、日本の鴨調理法にうやうやしく敬意を表したのではなく、つべこべとうるさいことをいう客をそれとなくあしらっただけだったことになる。さすがに魯山人の方もそのことをちゃんとわきまえていた。それでいて薄口醤油のデモンストレーションをやった。パリの鴨料理何するものぞ、日本男児ここにあり、の意気を示したかったのだろう。  力ずくでねじ伏せようという気負いがちょっと生臭い。トゥール・ダルジャンのソースに対抗するのには、何も醤油をぶっかけなくてもそれはそれとして味わって、やはり鴨はわさび醤油に限る、でいいのではないか。「パリの酢豆腐」とはよくぞいったもので、『俘虜記』の作家は、青い目の味覚と黒い目の味覚を正確に等距離に観察して、客あしらいのからくりをまんまと当人の口から引き出したわけだ。  事柄を逆にしてみれば話は簡単だ。鴨のソースを星岡茶寮に持ち込んでさしみや天ぷらにじゃぶじゃぶかけたら、いい気持はしないだろう。それでも播州竜野の薄口醤油が世界に冠たる調味料であることを目にもの見せたければ、外国のレストランというレストランに入って、サラダといわず、蝶鮫といわず、シュニッツェルといわず、手当り次第に醤油をぶっかけてこなければ破壊工作として根本的ではない。  パリの食通スノビズムに一発かました魯山人のハッタリはたしかに痛快でないことはない。しかしトゥール・ダルジャンの一件に関する限り、力瘤が入りすぎて劣等感が見すかされている。それくらいならいっそもっと無邪気に、何でもかでも醤油をぶっかけてしまえばよかったのだ。  私の知人に正真正銘のあずま男がいて、上方の食味スノビズムが大きらいというのがいる。この人が神戸のさぬきうどん店に入って薄口のだしをとったうどんを出された。すると、 「おやじ、醤油をくれ」  と言うがはやいかやおら卓上キッコーマンを汁が真黒になるほどだぼだぼとうどんにかけ、舌鼓を打ちながら丼をあけると、機械人形のようにカタカタと踵を鳴らしながらお店を出ていった。逸話の主は加藤郁乎という天才俳人である。これはもう天真爛漫にダダ的であり、あっけらかんとしてうらみがましいところがちっともない。  そういえばこの人の家にいつか夜中に行ったら、サロンの戸棚に数えきれないほどの缶詰がずらっと並んでいて、しかもその半分以上が横文字レッテルのカレーのルウだったのには仰天した。同行していた松山俊太郎が説明してくれるには、 「三越の屋上に二十五メートルのプールがあるんだよ。そこでカレーをこしらえて、肥柄杓ですくったのが、このカレー缶でね。毎日、トラック二台でこの家へ運んでくる」  ここまでやればもう豊臣の残党も二度と立ち上る気力はなくしてしまうし、トゥール・ダルジャンもへったくれもあったものではない。上方といわず、パリといわず、世界中のレストランというレストラン、飲食店という飲食店が、たちまちバタバタ潰れてしまうこと必定だろう。やるからにはここまでやらなくてはウソだ。  いまではもう、パリであれ、ニューヨークであれ、醤油持参で渡航する必要はない。大都会ならどこのスーパーマーケットにも醤油が並んでいる。湿度の似ている風土のせいか、オランダに醤油の大量生産工場があるという。中小都市にもまず十中八九、自然食専門の食品店というものがあって、そこで味噌も醤油も扱っている。弟子丸泰仙師が禅を、桜沢如一が東洋の自然食を啓蒙してきたヨーロッパでは、とうから植物性高蛋白のソースたる醤油がエコロジー運動の立役者となりつつあるのである。  魯山人の渡欧から数えてわずか四半世紀の間に、欧米食生活の体質はこれほど変容した。醤油を受けつけない、格式ばって気取ったポーズから、進んで迎える姿勢にわずかながらも転じたのである。魯山人の構えたポーズも、もう二十年先だったらむしろそのための失笑を買ったかもしれない。  文化はかならずしも一定の国土にいつまでも連続しない。発生地のインドで仏教が亡びても日本では生きているし、中国ではとうに使われない呉音が私たちの漢字の読みに生きている。文化は転位するものなのである。だから、かりに私たちが洋食に親しんでいるうちに、西の方に和食が滲透していっても一向に不思議はない。  近頃はパリ帰りのお土産にデューティー・フリーのコニャックをおねだりするのは古いのだそうだ。どんなお土産がよろこばれるかというと、パリのスーパーマーケットに並んでいる「お米」だという。なるほど、あそこにはイタリア米や安南米の良質なのがどっさり積んである。  醤油だっていつ逆輸入するようになるかわからない。東京の醤油はまずいだろうと見当をつけて、オランダ製の醤油を一樽持ち運んでくる青い目の美食家が、いまに出現しないとも限らない。お向うさんにはわが国のような鎧櫃はないから、どんな容れ物に詰めてくるだろうか。トロイ戦争の故事にちなんで、トロイの木馬のようなものに詰め込んでくるのではあるまいか。油断は禁物だろう。 [#改ページ]  13[#「13」はゴシック体] 市場のユートピア ——築地のうどん  前にちょっと引合いに出した岡本一平の『どぜう地獄』という小説に、日本橋の魚河岸風景をなめるように精密に活写した一節がある。この小説の画学生の主人公は、上野の美術学校に登校する前に、毎朝魚河岸を一めぐりしなければ気がおさまらないのである。  蒲鉾屋の前の往来には畳四畳半程もある北海道産の平目魚《ひらめ》が転がっていて、通行人がそれを踏んづけてあるく。天ぷら屋鮨屋材料専門店の店先にはうそうそと髭を動かしている巨大な伊勢海老。紫色の舌を出している血まみれの赤貝。河魚店の生簀にうごめいている鰻の連隊。鮎の専門店。白魚と貝柱。魚の臓物が破れて、血と泥がまじって赤黒くぬかるむ泥濘《ぬかるみ》の不気味な光。  そのなかで生物の腐敗の速度に逆らうように、河岸の兄ちゃんたちがピカピカに生きのいい啖呵《たんか》で客を呼ぶ。素人には啖呵が喧嘩腰に聞こえかねないほどの権幕だ。 「やい、鼻くた[#「くた」に傍点]。買はねえか。いゝさはら[#「さはら」に傍点]だ。」  黒|羅紗《ラシヤ》の筒っぽの、鼻のへしゃげた魚屋が通りかかると、売子の声が飛ぶ。今時なら即刻放送用語の禁忌に引っ掛りかねない、物騒な掛け声だ。あまつさえ、鼻くた[#「くた」に傍点]がびびって行きすぎようとするのにおっかぶせて、 「やい/\/\、待て鼻くた[#「くた」に傍点]。よく逃げたがるかつてえぼう[#「かつてえぼう」に傍点]だ。手前《てめえ》なぞあな。待つてて呉れる情婦《いろ》もねえ筈だ。急ぐにやあ当らねえや。全体《ぜんてえ》いくらで買ふんだ。ええ鼻くた[#「くた」に傍点]。」  どっちが客なのかさっぱり分らない。そんな喧騒のなかを通り抜けて、主人公の画学生は、さる鮎の問屋の若旦那の案内で河岸の一軒の小店に連れ込まれる。  さっそく熱燗《あつかん》を一本つけて、海鼠《なまこ》の腸《わた》のお通し、しんじょうのお椀におさし、甘鯛の味噌漬に鮹《たこ》のさくら煮の豪華な朝飯がはじまるのである。しかも、見たところ何の変哲もない小店ながら並みの食堂とはわけが違う。若旦那の説を俟つまでもなく、一口食えば覿面《てきめん》に舌が教えてくれるだろう。 「君、このしんじよ[#「しんじよ」に傍点]を食べて見給へ。他店《ほか》のは大概にせ[#「にせ」に傍点]ものだがこゝのは確《たしか》に海老なのだよ。ここのうちはね。河岸へ来る東京の有名な料理屋の板前や旦那衆が寄つて一杯飲んでくうちだから店は小さくつても料理は本式なのだよ。」  なつかしくもうらやむべき光景である。おそらくこんなお店はもう草の根分けてもありはしない。だいいち、これは震災前の、河岸がまだ築地中央卸市場に移る以前の日本橋の旧魚市場風景である。 「魚市場は日本橋、新橋、四日市組、深川、金杉の六箇処あり。就中《なかんづく》盛なるは日本橋の魚市場(所謂魚河岸)にて、其創立の歴史に於て最も古くして、既に二百余年を経、その間盛衰なきにあらざれども、今現に問屋四百七十四軒、一年の売買高三百六十二万七千円を超ゆといへり、また盛ならずや。」(平出鏗二郎『東京風俗志』明治三十二年)  インフレ浸けでぶよぶよになった昨今の流通業界の話ではない。がっちりと実質のある、本物のにぎわいであり、だから柄は小さくても本式の料理を食べさせるお店があった。  ところで、岡本一平の魚市場の描写は、どこかゾラの『巴里の胃袋』の中央市場《レ・アール》の超博物誌的な風景を髣髴とさせる。近代の食物小説というのなら、この十九世紀末パリの市場風景の精密描写が何といっても屈指の出来栄えだろう。デカダンス期ローマの美食小説『サテュリコン』のトルマルキオーの饗宴の場の貴族階級の絢爛たる椀飯《おうばん》振舞いを、そっくり下層階級のアナーキーな飲み食いの描写に移し変えたような、そう、いわば近代下層階級の「トルマルキオーの饗宴」ともいうべきパロディー小説である。  面白いのは、この小説の後半の主人公、マルジョランとキャディンが二人とも捨て子であることだ。マルジョランは二つか三つの赤ん坊のときに、桃太郎さんみたいに山積みの白キャベツの中から発見され、キャディンは市場の一角のサン=ドニ街を一人でよちよちあるいているところを野菜売りのシャントメッス小母さんに拾われた。それから二人は、八百屋や臓物屋のおかみさん連の手を転々として、しまいには誰のものでもない「市場の子」となってしまう。  中央市場が二人のねぐらであり、同時に遊び場でも、食堂でも、仕事場でもある「世界」なのだ。何しろ野菜から肉から臓物から、いたるところに何でもあるのだから、手当り次第のつかみどり、食べ放題の飲み放題、貯蔵貯蓄などというしみったれた思案の余地はてんからない。野菜のなかで寝、パンのなかを転げ回り、ありとあらゆる種類の鳥をぶら下げた家禽部の大きな鳥籠のなかで、ふっくらとした羽毛に埋れてすやすやと眠るのである。  なかでも二人が腸詰職人のレオンと友達になって、昼食と晩飯をご馳走し合う件《くだり》が白眉である。マルジョランとキャディンが、梨と胡桃と白チーズ、小蝦《こえび》と揚げ馬鈴薯と赤大根を並べてレオンを招待する。するとレオンがそのお返しに、冷たい血入腸詰《プーダン》、乾燥腸詰《ソーシソン》の輪切り、塩豚一片れ、小胡瓜と鵞鳥の油煮を取揃えて夜の饗宴を用意する。まさしく王侯貴族の招待の交換もかくやとばかりではあるまいか。そして少年マルジョランと少女のキャディンは腹一杯に詰め込むと、それから何の屈託もなく天衣無縫の性の遊戯に耽るのである。  王侯貴族には美食の宴はあっても、これほど誰憚らぬ自由濶達はない。マルジョランとキャディンの二人組は、その点むしろ楽園に住むアダムとイヴのつがいに似ているだろう。むろん誘惑の蛇のたくらみに乗せられて知慧の木の実という悪を味わう以前のアダムとイヴだ。知慧の木の実の悪とは、ゾラの場合なら、もともとは値段というもののないこれらの自然の恵みが商品として売買されて利を生むという資本主義の法則であり、自然を金銭に替えてしまう貨幣経済の原理である。そういう悪にまだ[#「まだ」に傍点]汚染されていない楽園を、ゾラは市民社会に根のない捨て子の国という設定を通じて、近代市民社会の真只中に逆説的に復活させたのである。  だからゾラの描いた巴里《パリ》の胃袋こと中央市場は、現実よりは牧歌の世界に近い。それは、イギリス人がユートピアとして思い描いた「お菓子の国」や、フランドルの画家たちが理想郷として追慕した、フォークとナイフを胴体に突き刺されたままあるいている焼豚や、空からバタバタ落ちてくる焼鳥ばかりで構成された、おいしいものだらけの食物ユートピアの近代社会的仮装行列といっていい。  言い換えれば、ゾラの時代には、失われたユートピアを仮装行列の形で喚び起さなければならないほど、市民たちは自然を離れて管理された流通機構のなかに囲い込まれていたのだ。  それなら花の都パリを遠く離れればもうすこし自然は清浄だったかといえば、そうでもない。田園もやはり十九世紀盛期の田園であって、もはや聖書の無垢の楽園の面影は遠い昔話となっていた。  ゴーゴリの『死せる魂』をお読みになった方は、そこに大食いのサバケーヴィッチという地主が出てくるのをご存知だろう。この男は、まず前菜《ザクースカ》をさかなにウォトカを一杯、次いで、白スープとニャーニャ(羊の胃袋にそばがゆと脳と足肉を詰めたパイ)をおもむろに平らげ、羊のばら肉を食い、ついでに皿より大きい凝乳パイの山盛り、詰め物をした七面鳥の丸ごとを片づけてけろりとしている。  驚くべき胃袋というほかはないが、しかしサバケーヴィッチに限らず、この小説の人物たちは、主人公のチチコフといわず、ノズドリョーフといわず、マニーロフといわず、あらゆる人間が死にもの狂いで食いに食いまくるのである。  何しろ地主の大方は農奴五百人とか千人とかを抱えた村の管理者だから荘園そのものがちょっとした村市場であって、そこからより取り見取り晩飯の材料を集めてくる。そこへ死んだ農奴の戸籍を買うという奇妙な商売を思いついたチチコフがその大小の荘園をめぐりあるくうち、十九世紀ロシアの田園の現実の農産物流通機構がチチコフの虚の取引という鏡のおかげで手に取るように鮮やかに浮び上ってくる。どうやら大量に食いまくる地主の村ほど、農産物がよくさばけて景気がいいらしいのである。  この大食漢どもと正反対なのが、女地主カローポチカや極端な吝嗇漢のプリューシュキン。とりわけあらゆる生産物を糞づまりのように貯めに貯め込んで、吐き出すということを知らないプリューシュキンの村では、農奴はバタバタ餓死するやら、馬はかりかりに痩せこけるやらで、風景そのものがぶきみな死相を呈している。十九世紀ロシア農村の市場の停滞と活溌の極端な明暗が寓話的に戯画化されながらも、冷徹なゴーゴリの現実認識を通じて痛烈にあばき出される。  ことほど左様に農村といえども、大量消費(大食い)と大量流通の市場的循環のなかにすっかり押え込まれていた。無垢な自然というユートピア物語はとうの昔に幻想と化していたのだ。それでいて、自然を破壊して成立した第二の自然ともいうべき市場を小説に描けば、例外的な大食いやタダ食いの乱痴気騒ぎという歪んだ鏡を通じて、失われたユートピアの谺《こだま》はかすかに返ってきたのである。  話がずいぶん脱線してしまったが、急いで要約しておくと、こうだ。自生する無垢の自然そのものではもはやなく、さりとてそこに並んだ生鮮食料品から人工の粋を尽した料理がまだ出来上るにはいたっていない、両者の中間地帯に、いわゆる周辺《マージナル》の場として横たわっている市場は、そこから自然にも人工文明にも、どちらにも歩み出せる、すこぶる地の利を得た展望台のような場所なのである。食文化を云々する場合これほど重要な場所はない。  それはそうと岡本一平の主人公ほどではないが、私もまたほとんど毎朝のように築地の魚河岸を一めぐりしていた時期がある。一九七〇年代前半、築地から一丁場先の晴海の公団アパートに住んでいた時分のことである。いまは朝型に変ったが、その頃はまだ夜型人間で、暁方まで仕事をすると夜(朝)食に家人を起すのが憚られて、あるいて築地市場の屋台まで出向いた。  夜通しの鮨屋等も知らないではないが、これはテレビ局の徹夜組や六本木あたりの麻雀帰りの来るところで、私の肌には合わない。こっちはともかく安原稿料で一仕事をすませたのだから、魚を仕入れにきた近郷の魚屋さんたちの間にまぎれ込んでコップ酒で醤油臭いうどんをすすり込むのがいっそ柄である。  朝もやの薄暗いなかに裸電球をこうこうと点した屋台が並んで、軒先からほかほかと真白な湯気が立っている。ラーメン、牛どん、いなりずし、赤飯、肉マン、おでん、何でもござれだ。うどんをすすっていると魚のにおいをまじえた海風が頬をなぶる。  帰りがけに軽子の雑踏する市場《なか》に入って、伊勢海老や小魚、鮪の大きな切身を仕入れる。そうなればいわずと知れた朝酒である。それが家族の朝食と重なるので、徹夜仕事の朝は朝食が豪華版となるのがうち[#「うち」に傍点]のきまりであった。  やがて晴海を引き上げた。それ以来築地には久しくご無沙汰である。その代わり旅行先ではかならず土地の朝市を訪ねる。高知の弘化台、金沢の近江町、京都の錦小路、青森と函館の駅前市場。市場の周辺の仲買人や魚屋さんが一杯引っ掛けにくる食堂で朝食にありつくのがお目当てである。  アンノン族に荒されてしまった朝市は敬遠する。札幌の二条市場の食堂では目の玉のとび出るような朝食代を払わせられた。金沢の魚市も、真前に馬鹿でかいビルが建ってからは、以前のような情緒はなくなったようだ。  どちらかといえば朝市は斜陽の都会のがいい。飛行機が頭の上をまたぎ越してから青函連絡駅当時の活況を失った青森や函館。札幌にすっかりお株を取られて文字通り伊藤整のいわゆる幽鬼の町と化してしまった小樽駅前市場。  それに、私の数少ない朝市詣での経験からすると八戸の朝市がいい。ここは東北本線の八戸駅からバスで三十分程も離れているので、旅行者がめったにこない。魚貝卸問屋が櫛比《しつぴ》するなかに野菜売りの小母さんたちが、トマト一山、胡瓜一山だけを前に置いてのんびりと世間話を楽しんでいる。なかには得体の知れない野草や野苺をお盆の上にちょこなんと置いて突っ立っている薄気味の悪いお婆さんもいて、聞いてみると堕胎のための妙薬なのだそうだ。市場の地下の食堂ではサメの刺身や小魚の煮つけがウソみたいな値段で食べられる。  さて、市場マニアは、見渡したところ身辺には私一人かと思っていたら、キノコちゃんのお父さんも魚市場マニアだと聞いてびっくりしたことがある。そうは言っても、読者には何のことやらさっぱりわけが分るまい。  まずキノコちゃんだが、そういう本名の変てこな女の子がほんとうにいるのである。お父さんはパリ住いのドイツ人画家ヤン・フォス。十年余り前に、たまたま私は美術雑誌にこの画家の仕事を紹介した縁がある。お母さんは旧姓田部淑子、さる大学で私の同僚だったことのある、歴とした日本女性である。  このお二人の間に生まれたキノコちゃんは、日独混血で国籍はフランス、といささかややこしい国際人。生れたときお母さんが絹子《きぬこ》のつもりで届け出たら、パリのお役人が Kinoko と綴り間違えて登録してしまった。だから、本名がマドモアゼル・キノコ・フォスで、綽名はシャンピ。茸のフランス語、シャンピニョンを縮めた愛称である。  以上は別に話の本筋とは関係がない。もう一年余りになろうか、台風シーズンのある日、このキノコちゃんを連れたフォス夫妻がずぶ濡れになってわが家に駆け込んできたのである。夫人の里帰りかたがた四国と関西を中心に日本観光めぐりをしてきた帰途だという。そこで、日本のどこが印象深かったかを画家に訊ねてみた。すると意外なことに、京都は「死んだ町で退屈だった」という。 「築地の魚市場がいちばん面白かった。今朝も一番電車で見に行ってきたよ」  そうフォスさんは言った。ヘンな外人だ。が、京都ぎらいの築地好きというヘンな外人はほかにもいないことはない。やはりパリ在住のアイスランド画家エロ(実名グドムンドル・グドムンドソン)がそれで、この人も日本へくるとかならず築地の魚市場に日参する。そういえばエロの奥さんもタイ人だから、ひょっとするとヨーロッパ人画家の生鮮市場好きと東洋趣味との間には、何か密接なつながりがあるのかもしれない。  いずれにせよ、芸術家の市場好きそのものには古くからの伝統がある。ゾラの『巴里の胃袋』にも、クロードという画家が中央市場に入り浸って、マルジョランやキャディンの手引きでパリの胃袋を丸ごと描破する野望に憑かれる件《くだり》がある。軍事政治的にパリを征服したナポレオンの後をうけて、バルザックが山師や金貸しや陰謀家を次々に登場させながら知謀の限りを尽して政治・経済・犯罪的にパリを征覇しようとする情熱を描破した後、ゾラは、胃袋や性欲を通じて官能的にパリに君臨せんとする夢想を書いたのである。  エロやフォスの市場通いの成果は、ゾラのクロードほどじかに画面に現われはしない。内臓のようなものが犇めき合って激しい野性の輝きを放っているエロの絵はともかく、ヤン・フォスの画面には子供の落書きのような入り組んだ線の戯れしか見て取れない。  どうやらフォスは、市場の中身の食物より市場の動きそのものにしか興味がないのだろう。それかあらぬか私の家ではすき焼きを大層おいしそうに平らげる健啖家ぶりを発揮したが、制作中は何日でも水しか呑まないという禁欲家らしい。余人のように魚河岸が山海の珍味の集合体とは見えなくて、あの雑踏が織物のように自在に紡がれる線の自由な戯れそのものと目に映っているのでもあろうか。  それはそうと、別れ際に私は京都ぎらいを標榜する彼の耳元にこう囁いたものだ。 「今度京都に行ったら、神社仏閣には行かなくていいから錦小路を見ていらっしゃい。あそこへ行くと、伊藤若冲(江戸天明期の画家、動植物の絵を多く描いた)がどうしてあんな博物誌的な絵を描いたかが、一遍でわかりますよ。若冲は錦小路の青物問屋の忰でしたからね」  それから私は、若冲の同時代に江戸湯島で催された平賀源内の物産会のことを言い、この博物誌的見世物が当時の蘭画家司馬江漢や亜欧堂田善にどれだけ新鮮な刺戟を及ぼしたかを語った。  ちなみにこの時代の日本橋もまた「『和蘭何々』と頭に和蘭の二字を冠せたる物品を販売する家軒を並べ、その舶来品と否とにかかはらず、一般にこの看板を掲げて花主を引く等をなしたりといふ。」(水谷不倒)すなわち日本橋大通りの市場も、わが国にあってつとに西と東を媒介する文化の周辺であった。  そう言いながら私の脳裡には、フォスの生れ故郷のハンブルクの魚市場や、パリのモンマルトルやベルヴィーユ街の道路傍に屋台を並べた海産物店の活気にみちた光景がいきいきと蘇ってきた。  なるほど東京には、築地以外にあんなに啖呵のきいた場所はそうざらにない。早朝の数時間だけ立ってたちまち消えてしまうその場所は、海と陸、地方と都市、自然と文明のみならず、かつても、いまも、西と東を媒介してきたかけがえのない周辺なのである。  都市の芸術家たちが、古来、市場と屍体置場とをこよなく偏愛してきたのはゆえないことではなかった。ここから見ると、また屍体置場から見ても、生と死は、すなわちあるものの死が他のものの生につながって行く宇宙的循環構造は、一望の下に見渡せるからだ。  ここまで書いてきて、私は久しくご無沙汰している築地を再訪したくて、にわかに矢も楯もたまらぬ気分になった。愚かな官僚どもがいじくり回して、いらざる合理化や移転がはじまらぬうちに、もう一度夜明けの築地の屋台にうどんを食いに行こう。  うまくも何ともないうどんだが、コップ酒に赤らんだ頬をかすめる潮のにおいと海風は、まだ本物である。耳に入ってくる市場の喧騒は、そのまま無尽蔵の水中生物を宿した太平洋のどよめきに続いている。 [#改ページ]  終章[#「終章」はゴシック体] 家の中のロビンソン・クルーソー  某月某日  未明地震。昨未明にも関東一円に中震(震度四)あり。都内にて老人二人ショック死せりとか。いよいよ天変地異の徴候は間近に迫れるや。  初震とともに枕元にかねて用意のトレーニングウェアに着替える。同じく枕元なるナップザックを背負い、腹這いの姿勢にて家鳴り震動やむを待つ。この間約三十秒。日頃の修練の賜なり。  震動やむを俟《ま》ちナップザックを点検。懐中電灯一、ライター一、寝袋、キャンプ用コッヘル各一式、固形燃料四百グラム、万能登山ナイフ一、各種缶詰三、インスタント・コーヒー一、ミニ醤油百グラム、味噌少々、米三合、梅干五、煮干若干、以上。備えあれば憂いなしとかや。  十時起床。洗顔の後キッチンに入り、つれあいの食卓を作らんとすを制して一大決意を表明せり。余、期する所あり、本日只今より三カ月の間、世俗を離れ、家族の絆を脱して、無人島のロビンソン・クルーソーとして生き申さん。すなわち家の中のロビンソン・クルーソーなり。糧秣はナップザック中なる食品にて賄わん。こは近未来に発生すべき東海大地震に備えたる予行演習なり。今日この日まで十七年来連れ添いきたりし汝《なんじ》なれど、今日よりはあらためて汝にフライデーの名を授け、無智文盲の土人として遇するにつき左様心得よ。なお無人島といえども湧水あり、排泄用空地多々あらんには、仮定条件と同一化すべく、水道便所のみは既成設備を借用す。しからばこれよりのちは互いに人語を解せぬ異生物として相まみえん。さらば、フライデーよ。  かく申せしのちコッヘルに水を満し、書斎に戻りて、固形燃料にて沸したるインスタント・コーヒーを喫す。さて周囲を見渡すに、ここには空なく森なく、また涯しなき大洋の影もなし。書棚に積みし書物のほか見るべき一物だになし。  されど余は家の中のロビンソン・クルーソーならずや。しからばロビンソンが自然の錯綜たる記号系において解読せし秘密を、余は書物の森に分け入りて解読せん。折しも『食物漫遊記』の原稿締切り日は迫れり。仮想地震避難中なるも、ジャーナリズムは壮挙の意図を解せずして鬼の如くに催促し来らんは自明なり。さればここに稀有なるサーヴァイヴァル体験談を記して一石二鳥の福に転ずべし。  手はじめに谷崎潤一郎『美食倶楽部』、『過酸化マンガンの夢』を読む。両者ともたまたま前半は現実の、後半は夢のなか(または阿片麻酔中)の食体験の記述なるは意味深長なり。  世に夢の通い路とは申す。されば夢は何処《いずこ》へ通《かよ》うや。失われたる昔《いにしえ》へ通うなり。物食う人の昔とは、現在に欠如せる存在《もの》の安らけくありし時の謂《いい》にあらずや。すなわち最初に食を下され給いし母なる人のまします時空ならん。覚醒時の食事といえども、美味を覚えるは味覚において首尾よくその昔《かみ》に回帰せる幸運なり。不味《まず》きは夢の通い路を閉ざされたる悪運なり。美味は潜在願望の全露出の輝ける体験にして、不味は同じ欲求の暗き抑圧体験なり。換言せば、母なる人が空なる器としてその大口に余等を呑み込まんとするとき、まさに食われんとする恐怖こそは不味きの雰囲気にして、滋養満々たる乳房として突き出されんには快美あるべし。食器そのものがかかる女性象徴の形ならずや。 「粘土器、さらには容器一般は(中略)古えからのきわめて特徴的な女性の象徴的付属物である。それは、水を汲み、果実を集め、料理を作る、男の伴侶たる女性のプリミティヴな仕事道具の一つであり、したがってまた女性神の一象徴である。」(エーリヒ・イノマン『大母神』)  右は豊満なる乳房を摸したる粘土器についての言及なり。されど容器一般が直ちに豊饒を意味するにはあらず。内部に滋味のみっしりと詰りたるかの如き、はち切れんばかりの乳房の形状のみが豊饒の象徴なり。内部の空ろなる容器は、これに対して死の不安を喚起せしむ。石棺、浴槽、便器、プール等これなり。  これにて、何故《なにゆえ》に潤一郎作『過酸化マンガンの夢』に空の容器の頻出せるかの謎はあらかた解けたり。主人公はたまたまジョルジュ・クルウゾオ監督『悪魔のような女』の浴槽[#「浴槽」に傍点]殺人、プール[#「プール」に傍点]水葬の場面を観ての夜、過食に胸苦しさを覚えつつ戚夫人の|人※[#unicode5f58]《じんてい》の悪夢を見るなり。  そも人※[#unicode5f58]とは何ぞや。女人の手足を断ち、眼をえぐり耳を《ふす》べて、厠中[#「厠中」に傍点]に投じる極刑なり。ゼリー状粥状の糞壺のなかに盲目の芋虫さながらに蠢《うご》めく戚夫人の表象は、作者が日中に口腔に投ぜしぐにゃぐにゃの牡丹鱧《ぼたんはも》やフカヒレ・スープの追体験にして、同時に、主人公の空の容器(墓)に呑み込まれゆく死の恐怖の、または反語的なる死の快楽の予感なり。これぞ老人性デカダンスのいみじき発露ならずや。  さるにても潤一郎はつねに死の強迫観念に迫られいたるにはあらず。作中唯一、女性を無定形なる人※[#unicode5f58]との連想より解き放つ描写あり。日劇ミュージック・ホールにて春川ますみの浴衣姿を観賞せるくだりなり。 「入浴中の美女は春川ますみなり。昨今日本にもかように胸部と臀部と脚部の発達した肉体は珍しくないが」云々。  女性を形態として、胸部や臀部の張ったふくらみとして明視せる唯一の箇所なり。さりながらこれとても舞台上の覗き屋がますみの裸体を盗み見るという、ディアーヌ水浴風の虚構を通じての瘋癲老人流の視覚なり。陰翳を至上とする潤一郎は、正視を避けてあくまでも屈折せる覗き見を通じて女体と接するなり。  そもそも悪びれぬ正視は外光隈なく満てる場の存在を必須とす。触覚の闇に人工照明を投じたる潤一郎の劇場空間はその限りにあらず。乳房を正視するはむしろ『暗夜行路』の志賀直哉なり。彼は白昼堂々と登楼して敵娼《あいかた》の乳房を「豊年だ! 豊年だ!」と嘆賞す。彼は女体を形態として正視せり。ちなみに直哉に『万暦赤絵』の作あり。女体も器(陶器)も、ともに外光の下にて確たる自我の眼を通じてこそ存在す。  触覚型と視覚型、幼・老年型と青年型、背日性と向日性の明暗あれど、両者とも食を夢の通い路と見做せる姿勢は一如なり。けだし彼らは天の岩戸前にて盛大に飲み食いせし神々の末裔ならんか。天隠れしアマテラスは、神々の暗き口腔のうちなる味覚を通じて、その視覚にあきらけく現前せり。共感覚の作用なりとや言わん。すなわち美味なる飲食がその昔のありし母の面影の無意志的想起を促すのと等しく、神々の椀飯振舞いは原母アマテラスをうましき飲食の体験を通じてここに喚び戻すなり。しかしてこのとき、原母は視覚対象として再生しつつも、始源的触覚世界を離《さか》りたるは、悲しくもまた美しきはじまりならずや。  ここにおいて余の矢は折れ弾《たま》は尽きたり。余の腹中に原母を喚起せしむるに足る一物だになく、胃壁はいたずらにインスタント・コーヒーに荒《すさ》み果てたり。小休止の後、せめて昼食にありつかん。  午後二時炊飯。米一合八勺を炊き、煮干ダシにて味噌汁。アワビ水煮の缶詰を醤油にて煮る。所要時間四十五分。  食後、書棚に狩野近雄『好食一代』を探す。故檀一雄へのインタヴュー記事を読み返すためなり。該当箇所をメモす。 「(酒のサカナは)夜通し、自分でつくってるわけです。夕方から飲みはじめて夜中まで飲んでいて、昔は女房が午前二時か三時ごろまでつき合っていて、食いものづくりを手伝ったりしてましたけど、いまは子供なみになったから、十一時から十二時にバッタリ寝てしまう。だからそれから自分だけでつくって(中略)……それでも、六時間は、自分でサカナを作っちゃ飲んでます。」  檀一雄は夜な夜な延々六時間、自前にて酒のサカナを煮炊きして過せり。余の炊事時間はこれに較ぶれば児戯に類したるなり。檀一雄の長時間炊事はそも何故か。理由は明快にて、少時に母親と生別せしゆえとか。「私がまだ数え年十歳にもならない少年の頃、誰も、私に、私の食べるものなど、つくってくれようとするものがなかったからだ。」(『わが百味真髄』)  ちなみに余の亡母は余十四歳のみぎりにみまかりぬ。一雄の第二離乳期との差は僅か四年なり。しかるに炊事時間に八層倍の格差あり。早すぎたる離乳体験の心的外傷《トラウマ》の深浅の差右の如し。つらつら考えみるに、食いしん坊の、別してお手前料理によるグールマンの成立には、かならずや離乳時の心的外傷あらざるべからず。幼時に大和小泉に里子に出されたる折口信夫は、「一日の中、七、八時間は、たべることにかかりきった」(池田弥三郎『私の食物誌』)とか。岡本かの子のいわゆる「食魔」北大路魯山人は、生れてお七夜も経ぬうちに里子に出されたり。かくの如くなべて食への執念は養い親喪失に起因せる真空恐怖の補償作用なり。世界喪失体験の反動なり。  されば三十歳過ぎて生母と死別せし潤一郎の愛食を如何となす。十歳なりせば自給自足の態勢に切り換える活力あれど、成年三十歳にてはつとに遅きに失せり。他力給食の習慣度し難く身につきたれば、この期《ご》に及びては受身に徹するのほかなし。少年なれば、食を漁る狩人、一所不住の旅人として能動的食魔たり得んも、成年男子はよろしく幼時段階に退行しつつ受動的食魔として母の死の危機を脱するにしくはなし。どうともなれと道ばたに大の字になりせば、かならずや観音さまのおそば近くにましまして、天来の美食をお授け下さる奇蹟は起るなり。  それかあらぬか『美食倶楽部』の、いずこからともなく現われて人物Aの口腔を撫で回す目に見えぬ美女の指は、みるみる支那料理の火腿《ハム》となり、白菜のくたくたの茎に変化《へんげ》して、この世ならぬ美味を奏でたるなり。  ちなみにこの妙なる白菜料理は音に聞く黄芽菜※[#「火+畏、unicode7168]火腿ならずや、袁枚《えんばい》『随園食単』(青木正児訳)に「口に入れると甘鮮で、肉も菜もともに溶けてしまうが、しかも菜根と菜心とは少しも形がくずれていない。(中略)これは朔天宮の道士の法である」の記事あり。道士の食物なれば天来の美味なるもむべなるかな。  かくの如く潤一郎の食味デカダンスは幼時退行性(または老人性)の触覚的快楽なれば、別して立体的明暗あるを要せず。「室内の闇は濃いのであるから、Aは全く視覚以外の感覚によってそれを知るより外ない」とは言い得て妙なり。げにこれは闇の、盲目の体験なり。されば潤一郎の好む食物は、鮑《あわび》の清湯、鶏粥魚翅、芙蓉魚翅、豆腐と鶏肉のどろどろ煮、あるいはまた牡丹鱧、ソフトクリームの如く、総じてこれミルク状ゼリー状粥状の幼児食、老人食に似たるメニュなるを知り得べし。  試みに檀一雄のメニュ如何と『檀流クッキング』を参照せしも、列挙せる品目は硬軟柔剛、そのマチエール一様ならず。察するに、美食愛食家に二種あり。一は潤一郎の如く座して原母への追憶を手繰り寄せる植物《フローラ》型なり。他は一雄の如く片時も休まず、たとえ家内は火宅と知りつつも、転々と好物を遠きに訪ねつつ放浪する動物《フアウナ》型なり。食欲版「母を訪ねて三千里」なり。思うに、後者はロマン的魂に憑かれたる永遠の旅人ならん。  しからば余は両者のいずれなるや。余は家の中のロビンソン・クルーソーなり。すでにして汚濁せる旧世界の天変地異の下に没落せるをさらりと捨て、新天地を求めて船出せる清教徒リベラル派ダニエル・デフォーの分身として、ここに漂着せる旅人なり、ロマン的魂の気球乗りなり。しからば余の活動範囲の家の中に限られしを如何となす。余もまた座して一歩たりと動かずに飽食せんと目論《もくろ》む、古きブルジョア的|快楽主義者《ヘドニスト》の類にあらざるや。否、百万遍も否。そは外見のみ。乏しき缶詰定食は余の活動エネルギーを支うるに完《まつた》からず。しんじつ腹ペコにてこれ以上一歩も動けぬのみなり。  午後七時、懐中電灯を頼りに残飯を梅干粥にて食す。八時消灯。ビニール革寝袋にくるまりて就寝。  某月某日  午前六時起床。昨夜の夢のなかに何を食い、いかなる美女と接せしかを思い出さんとせしも徒労なり。『過酸化マンガンの夢』にあやかるは難し。人はいかにして夢中に美食を授かるや。糧秣欠乏の折、頼る綱はいまや夢に求めるのほかなし。  ブリア・サヴァラン『美味礼讃』(関根・戸部訳)の「食餌の休息睡眠および夢に及ぼす影響」の章を読む。 「食事の時に少々度を過した人はたちまち絶対的な眠りに落ちる。夢は見ても覚えていない。それは神経液が感覚管の中で縦横に交わるからである。同じ理由からそのさめ方も急である。」  潤一郎『過酸化マンガンの夢』は例外なりしか。次いで夢を見させてくれる食餌について。 「一般に軽度の刺戟的食物はすべて夢を見させる。たとえば黒い肉類、鳩の肉、鴨の肉、猟鳥獣肉、ことに兎肉《うさぎにく》は夢を見させる。  それからアスパラガス、セロリ、トリュッフ、におい特にヴァニラのかおりをつけた砂糖菓子も夢を見させる。」  周囲を見回せど、カニ缶、シーチキンのほか右の催夢食に相当する何もなし。さるほどに面白きは、ブリア・サヴァランもまた(適度の)食べることを夢の通い路と見なせる点なり。「まもなく自然がかれのみつぎ物を取り上げ、同化が消耗を補填した。すると愉快な夢が訪れて、かれに神秘的な生存を与える。すなわちかれはその愛する人々を見、その好きだった仕事を再び見いだし、楽しかった場所に連れていかれる。」  プルーストと同様サヴァランもまた食物を、楽しき日々をふたたび見出す、夢に通う手立てと見做す。されど現下の余にその手立てなし。せめて魚釣りにて蛋白源を補わんと思えど、近くなる大磯海岸はすでに仮想大津波警戒予報にて閉ざされたり。夜釣りにて尺物の石持を釣り上げしは僅かに一昨夜のことならずや。釣名人岡田君より贈られし獲り立てのマナガツオ数本を刺身にせしはわずか数日前のことならずや。ああ、震災前はよかった。  さて絶望的にも、空腹は夢を見るのに禁物、とサヴァラン先生断言す。されど余にとりここに耳寄りなる話は、反対に空腹こそは不眠不休の働きの必須条件となす説なり。ブーローニュ出発前のナポレオンは、二回の短い食事と数杯のコーヒーのみにて三十時間以上ぶっつづけに活動せりとか。さるイギリス海軍の雇員は、水、軽い食事、ぶどう酒、コンソメ、最後にはアヘンを用いて、五十二時間の不眠労働を遂行せり。固形物を摂らぬが秘訣なり。 「わたしはある日、軍隊で知り合ったひとりの飛脚に出会った。かれは政府の急用でスペインに行き、ちょうど帰って来たところだったが、往復十二日の間、マドリッドにたった四時間足をとめただけだった。ぶどう酒数杯とブイヨン数杯、不眠不休のこの十二日を通じてかれがとったのはそれきりだった。だが、これ以上に固まったものを食べたら、とうてい道中を続けられなかったろうとかれは付言した。」(ブリア・サヴァラン)  泰西の飛脚なるものは、けだしわが忍者の類ならんか。ちなみに知切光歳『仙人の研究』をひもときて、忍者の携帯食のくだりを当るに、飢渇丸、忍術丸、兵糧丸等あり。その成分を以下にメモす。 [#ここから1字下げ] 飢渇丸 人参四〇、蕎麦粉八〇、小麦粉八〇、山芋八〇、耳草(ハコベ)四、慧以仁《よくいじん》(ハト麦)四〇、糯米《もちごめ》八〇。(以上を粉末にして酒の中にひたし三年間熟醸したものを、桃の実位の団子にする。一日三個)  忍術丸 干鮑《ほしあわび》三〇、大麦三〇、茯苓《ぶくりよう》一五、干鯉《ほしごい》三〇、白玉粉三〇、鰻白干《うなぎしらぼし》三〇、梅肉六、松甘皮三〇、氷砂糖二〇、小葉|麦門冬《ばくもんとう》(蛇の髭)六、大葉麦門冬(藪蘭《やぶらん》)六。(以上を粉末にして、煮つめて丸薬にする)  兵糧丸A 麦粉三〇、糯米粉三〇、人参一〇。(以上を粉末にして、蜂蜜と上酒を加えて、とろ火で煮つめ、丸薬にして乾かす。一日三〇粒服用)  兵糧丸B 人参二、餅粉一〇、麦粉二、甘草《かんぞう》三、生薑《しようが》一、卵黄味一〇。(以上を粉末にして梅焼酎で煮固め、丸薬にする) [#ここで字下げ終わり]  このうち飢渇丸はもっとも原始的にして、民間でも早くより作られしものとか。いちばん手の混んだるが忍術丸にて、「中国の籠山者の処方に似ている。」(知切光歳)  せめて飢渇丸にありつかんと思えど、酒にひたして熟醸三年とは気の長い話なり。目下の急場には到底間に合わぬなり。忍者食はインスタント食品にあらず。余はつくづく日頃の震災防衛対策の甘きを痛切に悟れり。  はや原始的なる飢渇丸には見放されたり。されば超近代的なる宇宙食は如何にや。ここにおいて余はジョージ・アダムスキー『UFO同乗記』を取出す。円盤旅行中金星人が携帯せる宇宙食の記述を確かめんがためなり。アダムスキーによれば金星人はおおむね菜食主義者にして、主として果物、野菜、ジュースを食す。他にパン、肉、カステラに似たる携帯食あり。 「それでも私は非常に荒い真っ黒なパンの一かたまりと、最初肉だと思ったものを一切れほど食べた。そのパンは金色の耳がついていて主としてくるみの粉でつくったような味がする。ただ穀物のような味もするなと思った。私が茶っぽい≪肉≫の一切れを噛んでみて、心の中でおいしく料理された牛肉のような味と比べていたところ、テーブル越しにカルナが私に呼びかけた。  ≪これは金星でとれる植物の根を乾燥したものよ≫と彼女は説明した。≪金星では生の野菜を調理します。そのほうがずっと味がよいのですが、旅行中は乾燥したものを持ってきているんです。この食物は特に栄養があって肉の中にあるすべてのたんぱく質を含んでいます。その上、とても人間の体に吸収がよいので、ここに出された根はこの一切れで地球のステーキの一ポンドくらいにあたります。それに他の食物にとてもよい香辛料になります≫」(大沼忠弘訳)  予行演習決行前に金星人に保存食を発注せざりしは余の重大なる手ぬかりなり。忍者食とは一味違い、大好物のビフテキの味まで含有せりとはげに垂涎の極みなり。  とはいえ、アダムスキーの記述そのものは、金星礼讃のあまりの誇大広告にあらずや。イマヌエル・スエデンボルク(スエーデンボーリ)によれば、宇宙人は概して粗食にして、たとえば「木星の地球」の住人は「長い食事をすることを喜ぶが、それは食物を楽しむからではなく、その時の会話を楽しむから」で、食事は味本位ではなく「特に栄養本位にととのえる」(柳瀬芳意訳『宇宙間の諸地球』)を常とす。また「火星の地球」では「木の実を、特に地面から生える或る円い果実やまめ科の植物」を常食となすとか。  しからば古典的なる宇宙人食は、わが仙人の仙草食、すなわち五芝(石芝、木芝、草芝、肉芝、菌芝)と幾許《いくばく》の径庭かあらん。金星人の宇宙食に対し東洋の仙食を卑下するいわれ毫末《ごうまつ》もあるべからず。東洋にては菜食の外に五玉金丹等鉱物性の仙薬をさえ食用す。しかもその味覚たるや羽化登仙の形容あるのみ、我に一日の長あるは明らかなり。  さはさりながらスエデンボルクが幻想せし宇宙人の食事のかくも貧しきは何故《なにゆえ》か。思うに、スエデンボルク自身が日常粗食の人たりしゆえなるべし。ジョージ・トロブリッジの伝記研究にしたがえば、この人、砂糖をどっさり入れたコーヒーをガブ呑みするのみにて、いっこうに食事らしき食事を摂らざるなり。夢も幻想も、その日中体験が貧しければ貧しき物の組合わせの域を出でざるは自明なり。これに較ぶれば、金星の食物にジュースやビフテキの味を嗅ぎたるアダムスキーは、さだめしメリケン簡易食堂の常連なる俗物ならん。  さて、金星人や諸地球の住人また、気長に栽培せし植物より宇宙食を作製す。急場の飢渇を鎮めるによしなし。ここに思いつきて幸田露伴『魔法修行者』を参照す。飯綱の法の解説に天狗の麦飯の話あるを思い出せばなり。果して天狗の麦飯、一名餓鬼の麦飯の記述あり。  露伴によれば仙人修行の名山飯綱山はもと「飯沙山」にて、食える沙(土)のある山の意なり。この山には「古代の微生物の残骸が土のやうになつて」、「これは元来が動物質だから食べるものである。」仙人が五穀を絶って霞を食うというは俗見にして、ちゃっかり非常食を隠しいたるなり。  非常食隠匿所は飯綱山のほか浅間山付近にもあり。知切光歳『仙人の研究』に見ゆ。浅間神社参道の天狗の露路と呼ばれる小径、さらに浅間登山道本道の小諸から上る牙山《ぎつばやま》の広範囲に亘りて、天狗の麦飯の土層は発見されたりとか。知切氏はこれを実地に試食せり。試食談に曰く。 「天狗の麦飯は、栄養価値は極めて低いという。筆者も少量を入手して、食って見たことがあるが、味はよくない。戦時中に米を混ぜない丸麦ばかりの飯を食ったが、それよりもっと不味かった。」  さだめし木星人の粗食に匹敵するならん。されど天狗の麦飯は即席料理なり。目下の余には咽喉から手が出るほど欲しき食糧なり。次回は浅間方面に移動して演習をおこなうにしくはなし。  ついでながら露伴学人に関東大震災直後に著わせる「災厄に対する畏怖と今後の安心策」(大正十二年)の一文あり。現下の仮想避災状況に寄するところあらんと繙読すれど、これは精神訓話なり。震災後に宗教の大いに興るを予期して、「かう云ふ災厄に際して、愚劣なる宗教に引き込まれずに、優良なる宗教に引かるるやうに」いましめし議論なり。精神の空白を埋めるの急務はいうまでもあらず。されど余は胃袋の空白を満たすをさらなる急務となす。  胃袋の空白と書きて、にわかに耐え難き空腹を覚ゆ。朝よりインスタント・コーヒーとレーズンにて過しきたる結果なり。ありたけの缶詰と残りの米を料理。一挙に平らげる。  午後七時就眠。  某月某日  午前六時起床。  もはや食米の蓄えは尽きたり。ありたけの味噌と煮干にて味噌汁を作り呑む。最終日なり。残置軍人横井、小野田両氏の境遇はこれに似たるか。わが社会復帰の日はいよいよ明朝に迫れり。  復帰後の献立を工夫せんと志して、美味随筆を読む。秋山徳三『味』、『魯山人味道』、『荻舟食談』、四方山径『続たべもの草紙』等々。寒鮒、牡蠣、河豚。冬の季物を枚挙せられるにつけ、生唾のとまらぬ態たらくなり。これらはやはり目下の余の読む書物にあらず。読むべき喫緊の本は別途にあり。  ジョン・フィッシャー『アリスの国の不思議なお料理』(開高道子訳)を読む。チェシャー猫のひげ風チーズ棒、豹とフクロウのパイ、永遠にもらえないジャム、吸取り紙プディング、かんしゃく持ちマスタード、小石もどきケーキ、二刀流きのこ等々、どれも食べられそうになくまた食べたくもない、奇妙奇天烈な食物ばかりの料理読本。目下の余にはこの種の食物こそ相応なるを知る。  食べられそうにないとはいえ、ジョン・フィッシャー発明の料理法のみは克明に記されたり。たとえば二刀流きのこ。  ≪材料≫ [#ここから2字下げ] マッシュルーム一ポンド。バター二オンス。玉ねぎのみじん切り一個分。小麦粉小さじ二。塩、こしょう少々。サワークリーム八オンス。レモンの絞り汁少々。食パン、バター各適量。 [#ここで字下げ終わり]  ≪調理法≫ [#ここから2字下げ] 1.きのこは洗って、水気をきっておく。軸は取らないようにね。 2.軸つきのまま、きのこを薄くスライスする。 3.フライパンにバターをとかす。 4.3に玉ねぎのみじん切りと、きのこを一緒に入れて、五分ほどいためる。 5.小麦粉をふり入れて混ぜ、塩とこしょうで好みの味に調える。 6.一〜二分いためて、サワークリームを加え、煮立たないよう、火かげんに注意する。ここで味見をしてみよう。 7.レモン汁をジュッとかけるのだが、これも量は好みに合わせて。 8.味が決まったら、まるく抜いてトーストしたパンにバターを塗って、きのこを盛る。 9.右側から食べるか、左から先に食べるか、じっくり決めて、ちびちびとかじろう。 [#ここで字下げ終わり]  最終第九条の食べ方が問題なり。きのこの傘の上にちょこなんと乗りてアリスに話しかける芋虫の謎かけでは、「片一方が背を伸ばせば、もう一方は低くするよなあ」とか。いざ食わんとてきのこをかじれば、右か左かの片一方がにょきにょき伸び、もう一方がぐんぐん低くなるの意なりや。されどきのこは円型にして、いずれが右か左かは分明ならず。さて、迷いしアリスはためしに右手のを少々かじりたるに、「次の瞬間、ガツーンと一発。自分のあごの下から強烈なアッパーをくらいました。あろうことか、あごが自分の足にぶつかったんですよ。」(『不思議の国のアリス』)  芋虫の予言せし上下に伸び縮みする何物かは、きのこにあらずして、アリス自身のあごと足なれり。足が下から背を伸ばせば、あごが上から低く降りてくるなり。卑怯極まる二刀流きのこを相手にしては、さしもの少女剣士アリスといえども、一かじりごとに自分のあごと足とをガツンガツンとぶつけ合いつつ、永遠に二刀流きのこに辿りつけぬは必定なり。アリスこそはわが隣人、永遠にもらえないジャムをおねだりして、白の女王さまに素気なくあしらわれる地獄のタンタロスならずや。 「欲しがったとしても、今日は与えられぬのじゃ。規則としては、夢に描く明日のジャムか、昨日食べた、うまいジャムしかなくて。」(『鏡の国のアリス』)  女王さまの言は断じて幻想にあらず。お伽噺のナンセンス・ジョークにあらず。余はげんに夢に描く明日のジャムと三日前に食べたるおいしいジャムとの間に宙ぶらりんとなりて、羽毛の如くにふわふわと漂いおれり。  花田清輝『飢譜』を読む。飢餓は恥しいものでも何でもなく、食べることと同様、立派な研究対象たり得るという頼もしき主旨なり。うれしき言葉あり。 「僕らは飢餓を——飢餓そのものを享楽主義者として研究しなければならん。坊主のように禁欲的であってはいけない。すべて享楽を伴わぬ研究が、かつて成功した例はない。真のエピキュリアンというものは、口腹の欲をみたすことを決して急ぎはしない。」  されば余は飢餓の享楽主義者なるか。こうおだてられてはいい気持にならざるを得ぬなり。タイム・リミットまであと六時間。行くところまで行こうじゃないか。されど花田論文にやや気になる一句あり。次に記す。 「飢餓は僕らの生活の境目に——若干、僕らの意識が朦朧となった際に、はじめてそのロマンチックな姿をあらわす。それは天地の境目にそびえ立ち、てっぺんを雲がかくしているバベルの塔のようにうつくしい!」  ほんまかや。余はすでに十二分に意識朦朧なり。しかるに飢餓はいまだそのロマンチックなる相貌を、バベルの塔の荘厳美をいっこうに現わさず。いたずらにタンタロスの地獄の深淵のぱっくり大口開くるを見おるのみ。  折しも土人居留地なるキッチンの方角にあやしき物音す。バベルの塔建設か、はたまた地獄の釜開きか。朦朧たる頭をうちふりつつ、第三世界の文化人類学的現状フィールドワークせんとよろめく腰を上げぬ。三日の探求ののちに余はわれ知らずして秘密発見に肉迫せるにあらずや。  思えば、解読すべき書物の森はあらかた読み尽したり。なおも秘密解読に到達せぬは生れつきの頭の悪さのせいなり。いまこそ実践において認識の限界を踏破せざるべからず。  キッチンにフライデーあり。いましも鰺のおろしたるを料理しおれり。打ち見れば傍らに油煮えたり。皿数を数うるに三枚のみ。四人家族にマイナス一の皿数は、家長たる余をないがしろにせる暴挙にあらずや。怒り心頭に発せるも、冷静に考え見れば非は余にあり。余はもはや家長にあらず。家の中のロビンソン・クルーソーなり。さては一九八〇年代冒頭にありて、第三世界は古きジョン・ブルの糧道を絶つの復讐戦に出でたるか。余の外交手腕は問われたり。されば相好を崩し、猫撫で声にて、 「おッ、やってるネ、フライデー。今夜は何でえ」  と問うに、フライデー、冷たく返して、 「今日はフライでえ」  暦を見るに、本日まさしく金曜日《フライデー》なり。三日見ぬまの桜とかや。第三世界の進歩の長足、侮るべからざるあり。本日のフライ定食、おのが固有名詞、曜日付け、三者を一挙にかけたるトリプル・プレイ、まぐれとはいえ、土人の恐いもの知らずにてたまたま言語遊戯の洗練に至りしは、なまじの文明人の及ぶべき所にあらず。ロビンソン、すべからく明朝よりは宗旨を変え、コロニアリズムを捨てるにしくはなし。  詮方なくコッヘルに水を満し、書斎にて残余の煮干醤油にからめたるを口中に投じ、コッヘルの水ガブ呑みす。戸外は月皓々たり。寝袋にひそみて廊下に臥し、一面銀色なる夜景をしばし眺む。  今夜もまた何事もなし。はたして天変地異は迫れるや。飢気しんしんとして身に沁みたり。ふたたび水を呑まんとして身を起せば、寝袋中に一瞬ガバリと水ひるがえれり。水枕ガバリと寒い海がある。ビニール革寝袋にミノ虫様にくるまれたる身のつくづく水枕に似たるを思いて失笑す。ガバリガバリと水は波打ち、余、すでに水を包める一枚の薄きゴム表皮にすぎざるを知る。嗚呼《ああ》、畢《つい》に余は一個の水枕なりや、はたまた水袋中に漂える胎児なりや。 [#改ページ]   あとがき[#「あとがき」はゴシック体] ロビンソン後日譚  かれこれ二年前のことになるが、前著『書物漫遊記』を出した直後のある新聞インタヴューに応じて、ついうかうかと腹にもないことを口走ってしまった。スクラップ・ブックからそのときの発言を抜き出してみると次のようだ。 「でもまあ、せっかく『書物漫遊記』を書いたんだから、漫遊記シリーズとして、見せ物とか化け物とか食べ物とか(の漫遊記)をやってみようかなとも思うし……」(読売新聞夕刊、七九・四・十六)  古証文に足がついて、その年の暮に月刊「飲食店経営」編集長の中村雄昂氏が来宅され、『食物漫遊記』連載を命じられた。こうして一九七九年十一月号から八〇年十二月号まで十三回に亘って同誌に連載したのが本書の原形である。序章と終章の二編は新たに書き下した。ちなみに「飲食店経営」誌はいわゆる外食産業のコンサルタント雑誌であって、純然たる料理専門誌ではない。それにしてもソバ通の目黒恵氏や中華料理の戴林彩美氏のような錚々たる食通に立ち混って影うすく、できるだけ肩身をせまくして、ともかくも場ふさぎのお座敷をつとめたシロウトの恐いもの知らず、思い出すだに冷汗が流れる。  見るだけ聞くだけで食べられない美食の話につられた男が、拙者もひとつという意気込みで食物漫遊の旅に出たはいいが、食おうと思うとその度に食いそびれ、あやうく食人鬼に食われそうになったり、そうかと思うと原始人並みの大食いをしてみせたり、ほどほどの常食という大地から足を離した罰に、最後はとうとう家の中のロビンソン・クルーソーとして無人島で断食をしなければならなくなる。そんな一篇の変格冒険遍歴小説のつもりで書き継いでいたものだが、仕上りは、さて、どうであろうか。  ロビンソン・クルーソーで思い出したが、そういえばヴァルター・ベンヤミンの「食べることの歳の市」(ベルリン食物展のためのエピローグ)と題するエッセイに次のような一節がある。 「幼い頃、私たちはみんな、まことに物騒な手つきで何度も『ロビンソン』の頁を繰っては、ロビンソンが食人鬼の足跡を見つけてギョッと尻込みするさし絵を見て、身内を走る恐いもの見たさの感情をわくわくしながら追い求めたものだった。それはロビンソンの生涯の一エピソードというだけではなくて、人骨の散らばった海辺とともに私たちの目の前にせり上ってくるところの、食物の|この世の果て《ウルテイマ・トウーレ》なのであった。私たちはどうして、もっとも遠い国の産物をさえ持ち込んできたこの博覧会(ベルリン食物展)において、あの食物のこの世の果てを見失わなければならなかったのだろう? この博覧会はどうして、それがまたたくまに真物の食通に仕立て上げてみせた観客たちから、ついに円環が閉ざされて食欲という謎めいた蛇がみずからの尾を啖うさまを目のあたりにするという、至高の芸術的満足を奪い去ってしまったのであろうか?」  これは古い寓話である。浜辺に散らばっているあさましい人骨からして、この無人島[#「無人島」に傍点]には食人鬼がいるのではあるまいか、とロビンソンは戦慄する。無人島? 食人鬼? しかしここが無人島なのは、ロビンソンがこの島のすべての食人鬼を食ってしまったからであり、食人鬼がいつまで経っても姿を現わさないとすれば、それはロビンソン自身が食人鬼だからなのではないのか。食物のこの世の果ては、かくて食うロビンソンが食われたロビンソンの残骸を見出して慄然とするおかしな光景のなかにある。ベルリン食物展と同様、すべての食物談義は、この最後の切札を出さずに勝負するゲームの如きものだろう。ギマン的といえばこれほどギマン的なわざくれはない。ではどうするか。ここはひとまずメタファーによって語るほかはないだろう。これを私流に言い直せば、食物の話は行きつくところ、恐怖になるか笑いになるか、すなわち怪談か滑稽譚かのいずれかに、あるいはそのいずれにも落ちついて、みずからの尾を啖う蛇の円環を閉じるほかはないということである。       * [#ここで字下げ終わり]  本書の単行本は一九八一年三月二十日筑摩書房刊。単行本の表紙絵は鈴木慶則氏の「高橋由一風鮭」であったが、この作品の曰くについてはたまたま序章に述べている。文庫本編集に際しては、単行本編集当時と同様、筑摩書房の松田哲夫氏のお世話になった。ちなみに、本文庫のマッチ箱絵は松田哲夫氏のコレクションからの提供による。併せてご好意に感謝する次第である。 [#地付き]種村季弘   一九八五年十月十日 種村季弘(たねむら・すえひろ) 一九三三年東京生まれ。一九五八年東京大学文学部卒業。ドイツ文学者。該博な博物学的知識を駆使して文学、美術、映画など多彩なジャンルで評論活動を続ける。著書に『迷信博覧会』『ナンセンス詩人の肖像』『人生居候日記』『謎のカスパール・ハウザー』『不思議な石のはなし』など多数。二〇〇四年逝去。 本作品は一九八一年三月、筑摩書房より刊行され、一九八五年十二月、ちくま文庫の一冊として刊行された。