[#表紙(表紙.jpg)] 迷信博覧会 種村季弘 目 次  第㈵章 動物   天狗のしゃれこうべ   兎のダンス   物品取り寄せの限界   狸の集金旅行   絵馬は仲立ち  第㈼章 運   鬼門には背中を向けろ   嫁婿えらび神の声   媚薬の使い方   閾際の吉凶   初恋のたたり  第㈽章 物   ナウイぞ、スルメ男   ありがたいお札   霊柩車の運転法   浅右衛門の胆蔵  第㈿章 暦   十三日の金曜日   四月一日は馬鹿《フール》になろう   厄年の綱渡り   丙午の女  第㈸章 食   黄金色の茄子   茸とクソの戦争   吸血鬼とニンニク   塩は敵に送れ   南瓜がこわい  第�章 呪   チチンプイプイ   長い長い名前   鼻を高くするおまじない   くしゃみ論争  あとがき [#改ページ]  第㈵章 動物   天狗のしゃれこうべ 「悪魔の糞」の使い方は簡単である。まずシャベルの上に真っ赤に燃える石炭をのせ、これに薬局で買ってきた悪魔の糞をぶちまける。たちまち鼻モゲラ的悪臭立ちのぼるのを、件《くだん》のシャベルをもって椅子のまわりを七度回る。椅子の上にはあらかじめ魔女に呪われて病気になった子供がのせてある。と、見れば隣家の女が向こうからやってくる。黒魔術をかけたのは、さてはあいつだったのか。  これは、現代ドイツのシュレスヴィヒのある主婦が現実に体験した出来事である(ラインホルト・ルーテ『霊媒・魔術師・魔力』)。悪魔の糞を焚くと近所にひそんでいる魔女の術が効かなくなる。そこで糞焚きをやめさせようとして、魔女はなにかと口実をもうけてはその家にやってくる。そこをふんづかまえて私刑《リンチ》にする。これが悪魔の糞の使い方なのである。  悪魔の糞の使い方はこれで分かったが、悪魔の糞の作り方[#「作り方」に傍点]はどうだろう。悪魔の糞を手に入れるためには、まず糞をする悪魔が実在しなければならない。では悪魔は実在するのだろうか。実在するばかりか、人間のように糞までたれるのだろうか。 「たれるともさ」と悪魔の糞を袋に入れて売っている薬局の主人なら答えるだろう、「だってなによりの証拠に、ここにちゃんと悪魔の糞というものがあるではないか」。  どうもこの回答は少々クサい。薬局の裏庭へ回ると、いましがた当の主人がひり出した大きなブツが、天日に干してあったりしていないとも限らないのではなかろうか。 (挿絵省略)  悪魔の糞で思い出すのはわが国の「象の糞」だ。享保の昔、八代将軍吉宗公が浜御殿で巨象を飼った。いや飼いあぐねた。なにしろこいつ、日に餡《あん》なし饅頭《まんじゆう》約五十個、真菰《まこも》十五|抱《かかえ》、根笹《ねざさ》十五抱をぺろりと平らげて知らん顔をしている。  吉宗ついに音《ね》をあげて、中野村の百姓源助に厄介物を払い下げる。将軍家にまかないきれなかった食糧が源助にまかなえるわけがない。象は一年後首尾よくお陀仏になる。源助これを解体して一儲けしたまではめでたかったが、さて始末に困ったのが山と築かれた一年分の糞。そこへ目をつけたのが亀蔵という針商《はりあきな》いの小商人《こあきんど》で、巨糞を引き取り、乾かして小袋につめ分けたのを売りまくった。何に効いたか。 「手なえ足なえ中風の妙薬、広南従四位『白象之精』と大書し(中略)、大晦日と元日も眼を血走らせてはりぼての白象を作り、明くれば寛保二年一月二日、初荷のいでたつ時刻を見計らってそのはりぼてを引き出し、真ッ赤な幟《のぼり》を軒に押し立て、笛太鼓の音もにぎにぎしく件《くだん》の妙薬を売りだしたところたちまち市中の評判となり、みるみるうちに売り切れて……」(真鍋呉夫、『黄金伝説』沖積舎)  ご覧のように真鍋呉夫さんの小説のなかのエピソードで、フィクションだから真偽のほどはわからない。もっとも、真鍋さんは博識の作家だから、ひょっとするとちゃんと原典があって、それを知らないのは当方だけということもある。  次の天狗のしゃれこうべの話の方は実話だろう。こちらの方は風来山人平賀源内「天狗《てんぐ》髑髏《しやれかうべ》 鑒定《めきゝ》縁起《えんぎ》」(『風来六部集』所収)のなかに出てくる。  大場豊水が芝愛宕山に詣でた帰途、門前の桜川の浅瀬で奇妙なオブジェを拾得した。平賀源内描く図を見ると鴉の骸骨に似ていて、「頭《かしら》大サ六寸余、觜《くちばし》七寸余、目《め》のをく成穴一寸五分程、耳《ミミ》の穴二寸、牙《キバ》五分程、咽《のど》のをくの穴二ツ、都《すべて》一尺二寸余」とある。豊水がこれをぶら下げてきて源内先生の鑑定を乞うた。折しもつめかけていた門人の間でたちまち侃々諤々《かんかんがくがく》の議論がわく。 「大鳥の頭だろう」 「いや、これこそは、かの有名な阿蘭陀《おらんだ》のぼうごる[#「ぼうごる」に傍点]・すとろいす[#「すとろいす」に傍点](駝鳥)の頭蓋骨さ」 「何の、何の。そんな曰くのある代物であるものか。只の大魚の頭骨《かしらぼね》にきまってる」  十人十色におのおの学のあるところをひけらかして、がやがやと蜂の巣をつついたような騒ぎである。では、先生のご結着をと一同膝を正せば、先生エヘンと重々しく咳払いをして、 「それはだな、天狗のしゃれこうべにきまっとるわい」  まさか。門人一同ポカンと口を開けて目を白黒させるのに、源内先生おっかぶせてまくし立てた。  いいかな、お前たち。ちかごろの医者といえば、医者にでも[#「でも」に傍点]なろうと、親から高額の裏口入学金をせしめて博士号にありついたでも[#「でも」に傍点]医者ばかり。薬のことは陳皮《ちんぴ》も知らず、鯨の牙をうにかうる[#「うにかうる」に傍点]とし、へっぴりむしを|※[#「庶/虫」]虫《しやちゆう》とし、広東《かんとう》人参を人参と思う。そんなものを売って家蔵《いえくら》を建て、「これを用(ゐ)るもの四枚肩《しまいがた》に乗(り)、これを呑(む)者|往生《わうじやう》の素懐《そくわい》をとげながら、恨《うらみ》もせねば気の毒なとも思はず」。  ここで一息入れて、先生あとを続ける。さて、これにくらべればこれなる天狗のしゃれこうべ、「呑みもせず傅《つけ》もせず目を歓ばすばかりにて、毒にもならず、薬にも、何のお茶とうにもならざれば、諸人|自甘《みづからあま》ンじて天狗といふて嬉しがるならば、其波を揚《あげ》その|※[#「酉+離のへん」、unicode91a8]《しる》をすゝりて、天狗にするが卓見《たくけん》なり」。  天狗といっておけば、世の中が天狗天狗とうれしがるのだから、天狗にしておけばいいではないか。例によって山師気質の源内先生、天狗の大団扇であおりにあおり立てた。おかげで大場豊水の拾得オブジェは、とうとう天狗のしゃれこうべということに相場がきまってしまったのである。それを削って天狗之精とか何とかの袋づめにして売り出したかどうか、そこまでは知らない。  ただ面白い後日談がある。源内の「天狗髑髏鑒定縁起」が開板されたとき、ある人が注意をした。相手がいくら藪医者だからとて、薬の事は「陳皮《ちんぴ》も知らず」とはあんまりだ。陳皮が蜜柑の皮であることくらいは、子供だって知っている。出版前にここは削りなさい。  これが罠だったのである。源内たちまち得意顔もにんまりと、ホレ見ろ、だから言わんこっちゃない。あいにく、陳皮は蜜柑の皮ではないのだよ。蜜柑の皮は青皮、陳皮の方は橘柚《きつゆ》または橘皮《きつぴ》ともいって、『神農本草経』には陳皮青皮のわかちあり。それを香川修庵先生が『薬撰』に知ったかぶりを書いてから、いまの医者が陳皮を捨てて蜜柑の皮の青皮ばかり使うようになったのさ。 (挿絵省略)  とどのつまり、戯文のふりをした「天狗髑髏鑒定縁起」は当代の医学界を向こうに回した科学論争書だったのだ。口実にされたあやしげな天狗のしゃれこうべ、削って頓服してもなんの効きめもあろうはずはない。いやさにあらず、効能は確実に一つだけある。源内、結びに狂歌を詠んだ。  天狗さへ野夫《やぼ》ではないとしやれかうべ       極《きは》(め)てやるが通りものなり  しゃれ[#「しゃれ」に傍点]こうべでしゃれ[#「しゃれ」に傍点]のめして、カンラカラカラと天狗の高笑いで結ぶ。天狗のしゃれこうべ、正体は笑い薬だったのである。 [#改ページ]   兎のダンス  明治五年頃、東京市中ににわかに兎が殖《ふ》えはじめた。兎といっても野兎ではない。ペットとして兎を飼うことが大流行したのである。はじめは築地居留地あたりの外人が香港や上海から輸入した珍種の兎をペットとして流していたのが、いつしか兎の大洪水となってしまったのだ。  これが熱病的にひろがってしまうともうとまらない。色変わり、耳変わりが珍重され、市内の待合やお茶屋が集会所に早変わりして、持ち寄りの品評会が催される。そこで、何とかいう兎が去年の三倍の値になったなどという噂が出ると趣味家同士のやりとりではすまなくなってくる。投機家がとびついた。その筆頭が御一新で前途の不安をかこっていた旧旗本などの没落士族である。  もともと旧幕時代から旗本たちは、盆栽だの、金魚だの、カナリヤだのの飼養のような、邸内で間に合う副業で台所をやりくりしていた。  弘化四年頃には鶯の啼《な》き合わせ会が流行した。吟調の品格、音の艶《つや》、玉結び、声の幅などを鑑査して、最優等のものには賞状が出る。 「そして『優等|正《まさ》の一』という位《くらい》がつくと、その飼主の得意は非常なもので帰ると直ちに金屏風をめぐらし、金の高蒔絵《たかまきえ》の鳴台に飾り、客人を招いて祝宴を張ったものである」(日置昌一『話の大事典』名著普及会)  それくらいのビョーキは経験していたのである。  しかし明治士族の兎飼いにはそんな酔狂の余裕はない。資本《もとで》をスッてしまえば、明日からは乞食にでもなるほかはない。それだけに必死の力こぶが入り、またそれだけに馬鹿値を呼んだ。なかには色変わりで高く売りつけようとそこらの白兎に柿色の毛染めをして、文字通り化けの皮が剥がれたりするひょうきん者まで出る始末。  上田秋成の『諸道聴耳世間猿』にも野良猫の毛を焼いて、麝香猫と称して見世物にした男の話がある。してみると、贋兎づくりの男もそんな故事先例に学んだのかもしれない。  とにかく投機心が異常に高まって、なかには娘を売って兎を買うという不心得者までもがあらわれた。川崎房五郎の『文明開化東京』(光風社出版)には当時の新聞記事が引き合いに出されている。 「此頃英人某一万五千疋の兎を輸入せりと。又耳の長さ一尺二寸浅黄サラ毛[#「サラ毛」に傍点]にして、目方二貫七百目あり、よく人語を知りて呼べば来るものありと。之を聞く者娘を売つて買はんと欲する由。そも洋人と我姦商と相量りて此に至らしめしを知る」(日要新聞七十二号)  ひどい父親があったものだが、何しろ一羽が三十〜四十円して、最高値は数百円にもなったというから、当時としては家屋敷売り払ってもまかなえないどえらい大金だったのである。何しろ「……珍種珍種と競い、遂に『東花兎全盛』といった番付までが出て、大関だの関脇だのと位がきまって大騒ぎをした。東西の大関は『更紗』と名づけられる種類で、一羽数百円で外国より輸入したものだったという」(『文明開化東京』)。ざっと以上のようなきちがい沙汰が横行したのである。  これが突然暴落した。きっかけは、狂乱を見るに見かねた東京府が兎税をかけはじめた措置にある。兎を所持せる者は毎月一羽につき一円を納入すること。無届所持者はその上一羽につき二円の罰金。毎月一羽につき一円の税額は当時としてはべら棒な高額税である。今度はわれ勝ちに兎を手ばなし、川へ流すやら撲殺するやら、蔵前の大道では「しめこなべ」にして一杯十六文で平らげるやら、そうかと思うと柳原土手はすてた兎がうようよして足の踏み場もない有様となった。  路傍にすてられたのは兎ばかりではない。兎の飼い主もすてられた。昨日まで三十円四十円だった兎が、朝起きてみると三銭五銭のすて値に早変わりしている。家財を売り払って都落ちをする者が続出した。士族の商法はやはり手を出さぬが身のためだったのである。  一方、さっさと食い逃げをした利口者もいる。もともと兎流行を煽ったのは「兎の七大名」と称された、前田、戸田、水野、土井、丹波、藤堂、根岸の松平などの旧大名連中である。これら大手の被害はどうだったか。 「旧古河藩主の土井などは華族中での兎もうけの筆頭で、新種でよほどもうけたらしいが、彼はこの布告の出る前にさっと手を引いて、被害が少なかった」(『文明開化東京』)  いつの世にも大物はその筋からの情報を早手回しに手に入れて、変わり身もあざやかにまんまと逃げおおせるのである。一方、娘を売り、なけなしの公債を質に入れて相場を張った下級士族たちは、血の涙を流してこの日を迎えたというおきまり。  兎の流行のことは、柳田国男の『明治大正史・世相篇』にも言及されているが、柳田国男はここでは主に西洋小鳥飼養の流行にふれて流行のからくりを暴き出している。 「流行の変遷はかくの如くして常に都会が指導した。(中略)事実は昔から陰に居て糸を操る者があり、それが又やがて下火になることを予想してかゝつて居たのである。(中略)近年の西洋小鳥の流行などは、最初極めて目に立つ方法を以て、五度か七度法外な高値の取引をして見せるだけのことで、それから以上は世間で評判を作り、僅な間に有得べからざる相場が出来、予《かね》て用意して居る者を儲けさせてくれる。さうして結局は最も実着な、最もおくれて流行に参加した者のみが、損をして倒れることゝなるのである」  その裏づけとして柳田国男は、兎の流行をはじめ万年青《おもと》や緋豚の流行の例を引き合いに出している。最後の「緋豚」というのは耳なれぬ流行商品名であるが、なんでも田舎に豚を入れて、いまに緋豚が生まれたら千両で買うと約束し、真に受けた農民がせっせと豚をふやしているうちに飼料の代金が尽きてくる。そこで飼いきれないただの豚を「夜陰ひそかに人の山林や、又は離れ島などに持つて行つて棄てた」。要するに、生まれっこない幻の緋豚で釣ってねずみ講式に種豚代をせしめたのである。  痛い目を見たら二度とは手を出さないかと思うと、そうではない。兎の流行も、明治七年に二度目のぶり返しがあったというから世の中は不思議である。それからも品を変えて、万年青の、こま鼠の、西洋小鳥の流行があり、戦後にさえも紅茶キノコが流行《はや》り、九竜虫が流行り、アンゴラ兎飼養が流行した。いまは目先を変えて、「投資ジャーナル」が株の利殖を、豊田商事が金の延べ棒の増殖を持ちかけると、面白いほどころころ引っかかってしまう。  兎は繁殖力が旺盛なところから、もともとヴィーナスやディアナのような女神のお使いとしてエロチックな意味で崇拝されてきた動物である。だから兎肉を食べると美人になるという迷信さえある。ただむやみに殖えるのが困りもので、農作物が食い荒らされてしまう。  十九世紀はじめにスコットランドで飼育用の熟兎をオーストラリアに輸出した。すると彼地で「たちまち殖えて他の諸獣を圧し、農作を荒らすこと言語に絶し、種々根絶を講じおるが今に目的を達せぬらしい」。そう報告しているのは『十二支考』の南方熊楠であるが、南方熊楠は続けてこう言っている。 「しかしお陰で予ごとき貧生は在英九年の間、かの地方から輸入の熟兎の缶詰を常食してきわめて安値に生活したが、その仇を麦酒《ビール》で取られたから何にも残らなんだ。ワハハハ」  兎とのつき合いも、金の延べ棒とのつき合いも、このくらいのお笑い草にしておくのが無難なのではないかと思う。 [#ここから4字下げ] *「府下四ツ谷辺に於て某所持の兎一羽金百五十円にて買う人ありしに、その父相拒み二百円ならでは売らずと断わりしに、その夜兎不慮に斃れしかば某大いに立腹し、ついに父子喧嘩を生じ父を縁先より庭へ突き転ばし飛石にて眉間を打破り、ついに死に至り、某当時入牢中の由街間の風聞なり。  同神田新石町某主従申合せ兎売買をなし、巨大の益を得しに、主人その利益を分たざるより、僕風と右の剰金七十四円を奪い別に兎の売買を成さんと欲し、主人の不在を伺う女主を締殺さんとせしに、女主声を発しければ、僕拳を口中へ押し入れ歯四枚を欠ぎける。この騒動に近隣の者馳せ集まり取押え、右僕ついに屯所へ呼び出され、前件白状によって東京裁判所へ差送られたる由」(明治六年四月 新聞雑誌) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   物品取り寄せの限界  遠くにあるものを霊力をあやつって招き寄せる霊異談は、話としてだけならいくらもある。『信貴山縁起絵巻』の僧命蓮は鉢の上に長者の蔵をのせてとばしてしまうし、『本朝神仙伝』に登場する聖《ひじり》たちは、しきりに鉢をとばして遠い谷川の水を汲ませたりする。『古本説話集』にも比叡の僧が賀茂の社にお百度まいりをした夢見に、御幣紙、米などを夢のお告げで約束され、帰ってみると白い長櫃がとどいて、なかには米と紙とがぎっしりつまっていたというのがある。おまけにこの米はいくら食べても減らないのである。 (挿絵省略)  けれどもこれらの説話の主人公は、いずれもきびしい修行の後に超常能力を得た聖であり、さしずめプロの霊能者と分類して差し支えないだろう。といってアマチュアにはその種の霊験がまったく起こらないかというと、そうとは限らない。『日本霊異記』には貧窮した一人の奈良の女が大安寺の丈六の仏に祈願すると、大安寺の封印をした銭箱から日毎に銭四貫が家の戸じきみの前にとんできているという奇瑞のことが見える。要は信心の深さにあるということらしい。「諒《まこと》に知る、尺迦丈六の不思議の力、女人の至信の奇《めづら》しき表《しるし》の事を」であった。  ところで奇術の演目の一つに物品取り寄せ術というのがある。舞台の上に大きな箱がある。そのなかから、観客が自由に指定した、一里四方なら一里四方にある物品を、何なりと取り出してみせようというのである。どこそこ村の石地蔵を取り寄せろというと、その石地蔵が出てくる。相模屋のまんじゅうといえば相模屋のまんじゅう、伊勢屋の反物といえば伊勢屋の反物が、例の「がっきり箱」という大きな箱からぞろぞろ出てくるのだ。  客の指定は紙に書かせる。客は望みの物品名を紙に書いたら、それをこより[#「こより」に傍点]に撚る。助手が五十本くらいになるそのこよりを客席から集めて、舞台に持ち帰ると奇蹟が起こるのだ。  むろんネタはここで仕込まれるのである。箱のなかにある物品ばかりを書き記した別の紙こよりを、助手がここで客のものとすり替えるのだ。こうして奇術師はあらかじめ自分がこよりに書いていた物品を読み上げ、ハイこれでしょうと、客が一人も希望しなかったかもしれない物品を取りいだす。客同士はあらかじめ指定物品のとりきめをしていないから、てっきり誰かがそれを希望したものと思い、神業というほかはない奇蹟に拍手喝采がドッと湧いた。  明治十五年頃に中京一帯でこの奇術を演じて当てた男がいた。その名を亜細亜マンジ。前身は立川錦竜斎という日本手品師だが、上海あたりであちらネタを仕込んで、黒羅紗のヤソ服にトルコ帽のいで立ちもものものしく再登場してきた。  取り寄せられそうもない物品は、実はあらかじめ盗んでおくのだ。マンジは昼間のうちは変装して町中をうろつく。そうして老舗の名物や掛け看板のような、いかにも客の所望しそうな物品を買い集めたりくすねたりしておいた。  亜細亜マンジの「一里四方物品の取り寄せ」は、半世紀ほど後に神道斎明光というもう一人の奇術師に受けつがれて関東の舞台で大当たりをした。この神道斎明光、実は亜細亜マンジの元表方で、門前の小僧式にマンジ奇術をおぼえると独自の考案で新機軸の「稲荷足力研究魔術」なる代物を編み出した。新機軸といっても、早くいえば狐つきのまねをして自称霊能者の迫力を盛り上げたのである。大正・昭和初期の大奇術師阿部徳蔵が、自著『奇術随筆』(人文書院)のなかでそのことをくわしく報告している。  神道斎明光が稲荷魔術を編み出したのは、横浜永島町のさる旅館の軒先に落ちていた伏見稲荷の御札を拾ったのがきっかけだった。霊感がひらめいた。ただちにその名も明光改メ狐光と変え、大正九年三月二十五日に八丁堀の住吉亭で稲荷魔術の蓋を開けた。舞台正面に稲荷神社を安置し、手前のテーブルの上に唐櫃を置いたところへ、狐光が手に鞭を持って登場する。原理はマンジの取り寄せ奇術と同じことだが、鞭が曲者だった。鞭で見えない狐を使うのである。  まず口上をおそろしく情熱的に二十分も三十分もくり返して、狐の霊力の効験をまくし立てる。稲荷様の御|眷族《けんぞく》のお召使の狐、これが「一分間とたゝぬまに、何十里何百里と隔りましたる処より、いか様な品でありませうとも、携へ立帰《たちか》へるとございます」。  マンジの一里四方が狐の霊力のためにぐんとひろがって、いまや「何十里何百里」にまで拡大されている。神道斎狐光にはまたそれを納得させるだけの演技力があった。客が好みの品を紙に書いている間にも手をつかねてはいない。虚空をハッタとにらんだり、吐息もするどくふっとあたりを吹きはらったり、物思わしげに舞台をお百度踏んであるき回ったりするのである。  阿部徳蔵の印象を借りるなら、「おそらく彼が稲荷魔術にとりかゝる際には、たくまずして、所謂狐つきと同じ状態になつてしまふものらしい」。したがって彼の稲荷魔術には縦横に活気がみなぎっており、「無数の狐が目に見えぬ空間に群集活躍してゐる」かのようであったという。  近代魔術の基本は演技である。まず演技によって観客を共同幻覚へと催眠誘導し、そのうえでイカレた客の鼻面をつかんで引き回すのだ。一旦そうなってしまえば失敗やトチリでさえも、かえって客の幻覚を高める役に回るのである。  神道斎狐光はけっして注文の物品をおいそれとは取り出さなかった。「相模屋のまんじゅう」がご所望なら、まずしばしためらってみせる。「只今、相模屋の門口に犬が一匹をつてはひれぬさうでございます。犬の退散いたすまでしばらくお待ちを願ひます」。そうして次の二、三点を取り出してから急に聞き耳を立て、「何、犬がどいた。さうかすぐ持つて来い」。  狐が煙草の種類を間違えたりする。たとえば「敷島」と読み上げたのが「バット」になって出てくる。すると「違ふ。違ふ。それはバットだ。いひつけたのは敷島だッ!」こういうときに例の鞭がモノをいうのである。  狐つきの演技に凝りすぎて、舞台を降りてからも狐が落ちない。というか根っからの狐つきという演技を続けなければならなかった。大正十三年に遠州見附で興行を打ったとき、画家が狐つきの食事の様子を写生にきたことがある。神道斎は障子の穴からのぞいている画家の眼を意識して、まずはきょときょととものに怯えるような様子をし、それから鯖の味噌煮とゴハンとを箸を使わずに、けもののようにじかに口で食べはじめた。おかげで鯖が骨ぐるみ咽喉に入り、骨がひっかかって七転八倒したというご愛嬌だった。  人間の連想能力には限界がある。千人の正常者についての実験では、「たとえば『暗い』という刺戟語に対して連想してくる言葉は八百人において七種類の言葉より以外に出なかった」(小熊虎之助『心霊現象の科学』芙蓉書房)というデータが出た。  これも小熊虎之助の同書によると、アメリカの心霊現象研究会が大勢の人に紙片を配って、任意の十個の図を描くよう命じたことがある。紙片の集計は五百一枚。内訳は円・正方形・三角・十字を描いたのがほとんどで、わずかにそれぞれ三人が車輪または蝋燭を、残り三人がコルク抜きと球と小刀を描いた。  神道斎のように力み返らなくても、客の連想反応のパターンそのものにそれほどヴァリエーションがないのである。そこで同じような取り寄せ奇術をアメリカ西海岸でやると、客の注文に意外な物品が首位に上ったりする。たとえばアメリカ人にとってはとても日常的な物品とはいえそうにない「日本の箸」である。しかしこれも、意外性[#「意外性」に傍点]をねらう客の反応そのものが意外に単純だというだけのことにすぎない。  それに考えてみれば、遠方の任意の物品を自在に引き寄せられるのなら、いっそ金塊かおサツをそれがどっさりあるところから取り寄せて、ここらでしがないさすらいの奇術師稼業もまずは首尾よく打ち止めとは相成るはずではないか。それがそうならないのは、『日本霊異記』のありふれた女の場合のように奇蹟が真物の信心の結果ではなくて、詐術によるみせかけであることを、誰よりも当人が知っていたからだろう。それかあらぬか阿部徳蔵の報告によれば、晩年の神道斎狐光は奇術の足を洗ってほんものの稲荷の堂守になってしまったそうである。 [#改ページ]   狸の集金旅行  本所の七不思議は、かぞえる人によって細部がすこしずつちがう。狸ばやし、置いてけ堀、片葉の蘆、一つ提灯、足洗い屋敷あたりは動かないところだろうが、あとの二つは津軽下屋敷の太鼓、消えずの行燈《あんどん》という人もあれば、津軽の太鼓の代わりに松浦家の椎の木を挙げる人もいる。  また夜道をどこまでもついてくる、主《ぬし》のいない送り拍子木を七不思議の一つにかぞえる人もあるかと思うと、鈴木清順映画にもなった泉鏡花の小説『陽炎座』では「埋蔵《うめぐら》の溝《どぶ》、小豆婆《あずきばばあ》」が入って、一つ提灯や消えずの行燈がぬけている。岡本綺堂も言うように、 「しょせん無理に七つの数にあわせたのでしょうから、一つや二つはどうでもいいので、そのあいまいなところが即ち不思議の一つかも知れません」(『置いてけ堀』)なのである。  しかし、これだけは省けないというものもある。一例が狸ばやし、または馬鹿ばやし。いま言ったように、これは鏡花の『陽炎座』のテーマになった。都筑道夫の『なめくじ長屋捕物さわぎ・血みどろ砂絵』にも、本所七不思議の狸(ばやし)が主役になる一席がある。狸ばやしは本所名物なのである。鏡花の小説では、どこからともなく響いてくる馬鹿ばやしの音に誘われて江東橋から横町へ外《そ》れると、空き家のなかで子供芝居が開かれていて、チャンチキばやしはここから聞こえていたことがつきとめられる。芝居が佳境に入ると、 「笛、太鼓に鉦《かね》を合はせて、トツピキ、ひやら、ひやら、テケレンどん、幕を煽《あふ》つて、どや/\と異類異形が踊つて出《い》でた。  狐が笛吹く、狸が太鼓。猫が三匹、赤手拭《あかてぬぐひ》、すツとこ被《かぶ》り、吉原被《よしはらかぶり》、一寸吹流し、と気取るも交《まじ》つて、猫ぢや/\の拍子を合はせ、トコトンと筵《むしろ》を踏むと……」  とばかり踊り狂う。芝居の筋が進むにつれて、見ている観客の側の現実がみるみる崩れはじめ、こちらの現実がむざんにもすっかり崩れ去ったところで舞台も崩れて、その奥からぽかぽか大きな穴がそこらじゅうにあいた無人の野原がひろがり、正体は狸と見えた子供役者たちがつぎつぎにそこにとび込んで姿を消す。「途端に海のやうな、真昼を見た」と鏡花も書いているように、強烈な白昼幻覚の物語である。  もっとも狸は山の獣なので、水の町本所に出没するのは場所柄ふさわしくないともいえそうだ。そのせいか狸ばやしは、むしろ高台の麻布や番町を舞台にすることもある。麻布には狸穴《まみあな》という地名もあるくらいだから、ともかく狸の名所にはちがいない。麻布は狸の巣なのである。  げんに十年程前、芝愛宕町の私の住居の近くにあった鞆絵《ともえ》小学校の校庭には朝な夕な親子連れの狸が出たというから、赤坂、番町、麻布と続く東京の台地には、いまだって数頭の狸が生息しているかもしれないのである。それにしても狸は、なぜ本所、麻布、番町といった限られた土地でわるさをするのか。 「七不思議の発生した地点は、大川をはさんで大橋でつなげられた部分、永代橋だと、深川と八丁堀、両国橋だと本所と馬喰町、さらに千住大橋の両岸。さらに洪積台地の端にあたり高台と低地の差がはっきりしている麻布や番町である。(中略)都市住民にとってみると、川や橋、あるいは坂によって、周縁とか境を認識する地点であり、そこを越えると、もう一つ別の世界になる。その時、不思議な音や光や形を共同幻覚としてとらえたのだろう」(宮田登『江戸の七不思議』)  これは周縁や境を江戸市中から見た妖怪地形学であるが、周縁の同心円をもうすこしひろげてみると、街道筋の宿場を一つの境と見立てることができる。ここに狸が出やすい。鏡花の『陽炎座』の狸どもも、旧宿場の木賃宿が並ぶ界隈に出た。  さて話変わって、天明年間の鎌倉建長寺山内に齢《よわい》数百年を経た古狸が住んでいた。おりから建長寺山門再建の企てがあって、そのための勧化《かんげ》(寄付金募集)の伝えが全国津々浦々の末寺や在家に通達された。通達を聞いた方は、当然金を集めて本山から集金にくる僧を待っている。そこへほんものの僧の一足前に、勧化のあることを早耳に知った建長寺の狸が僧形に化けて勧進にあるいた。  行きがけに建長寺の長老の身分を裏づける絵符と宿場や村の勧進積立先を記録した人馬帳(顧客アドレスのようなものだろう)とをちゃっかり持ち出してある。あとは先方の積み立てた金を、仏恩ありがたく南無阿弥陀仏とばかりに頂戴してあるくだけである。  集金詐欺行脚は快調にはこんだ。なにしろ本山の長老じきじきの御来駕というふれこみだから、下にもおかぬもてなしぶりだったことだろう。狸はすっかり鼻毛をのばして、腹太鼓を打たんばかりの上機嫌。それだけに隙が生じたのかもしれない。中仙道板橋の駅に止宿した夜、本陣の紙障子に灯の影がうつって、そのスクリーンいっぱいに僧形ならぬ狸の姿が浮かび上がった。本人いや本狸は、狸の正体があらわれたのに一向に気づいた様子もない。それに灯影を通さないで見る姿はまぎれもない僧形なので、何が何だかさっぱり分からない。この話を記録している『甲子夜話《かつしやわ》』の松浦静山侯は、「人々訝り、耳語して、その怪しきを言ふのみ」と書いている。  次の練馬の宿《しゆく》では、お風呂に入っているときに尻尾を出した。文字通りに尻尾を出した現場を女中がのぞいてしまったのである。「然《しかる》にかの僧獣尾ありて、尾を浴桶にいれて浴するの声をなし、欺《あざむき》てその音を聞かしむ」。さすがの狸も、湯煙ゆらゆらと風呂天国にあそべば尻尾を出さざるを得なかったとみえる。女中がおどろいて主婦《おかみ》に告げたが、主婦は外聞をはばかって固く口どめした。  しかしこのあたりから狸くさい怪僧の噂は街道一円にそれとなく聞こえはじめていたらしい。中仙道から青梅街道に入って駕籠《かご》の早旅を続けているうちに、かねて噂を洩れ聞いていた駕籠かき人夫どもに一杯《いつぱい》はかられた。ためしに犬をけしかけたのである。犬は駕籠にとびつくと、戸を咬みやぶって狸僧をたちまち咬み殺した。  しかし相手はなにぶんにも数百年の甲羅を経た古狸である。死んでも化けた姿に変わりはない。さてはホンモノの坊さんを殺してしまったかと人夫どもが蒼くなってその筋にかけこんだが、三日目に死体はようやく狸の正体をあらわした。ついでに駕籠のなかをしらべると、「勧化の金子三十両に銭五貫二百文」が出てきた。いうまでもなく狸の集金旅行の戦果である。  これに似た狸和尚の話はいくらもあるらしく、柳田国男の『山の人生』にも「大和尚に化けて廻国せし狸の事」が、小仏峠や安倍川や下伊那の、いずれも峠や川宿のような境を舞台にして数多《あまた》報告されている。面白いのは、この旅の狸和尚たちが行く先々でかならず書画を残してゆくことで、それも相当な値打ちのものばかりなのである。狸は詐欺師として人をたぶらかしもするが、本所狸ばやしや上州茂林寺の文福茶釜の狸のように音曲や芝居の技術に長け、あるいは書画を能くするところの芸術家でもあるらしいのだ。先に引いた『甲子夜話』の建長寺の狸も板橋本陣にみごとな布袋《ほてい》の画を残した。  これをさる狩野派の画家立ち会いのうえで徳川将軍ご上覧のことがあったという。狩野某の鑑定では、「口筆《くちふで》にてやあらん。筆法にさへたる所あり」とあって、狸は絵筆を口にくわえて描く特技の持ち主だったものらしい。将軍もこれにはすっかり感服してしまったということである。 [#改ページ]   絵馬は仲立ち  旅の僧が一夜の宿りに大きな樹の蔭にふせっていると、夜中に二、三十騎ばかりの騎馬隊がどやどやとやってきて、「樹《うえき》の本《もと》の翁《おきな》」はいるかと呼ばう。するとどこかから声がして、いることはいるが今夜は一緒に行けない、と同行を断った。  荷負《におい》の馬の足が折れてしまったので、明日これを手当てするか他の馬を都合するかしようと思うのだが、なにぶんにも老来歩くに不自由でままにならない。声だけの「樹の本の翁」はそんな風に弁解している。  夜が明けて、不審に思った旅僧道公が、昨夜声のした方をしらべてみると誰もいなかった。代わりに木像のおそろしく古びた道祖神が立っていて、その前に板に描いた絵馬がある。昨夜の声の主《ぬし》は、さてはこの道祖神だったのか。ついでに、絵馬の馬の足のところが破れているので、道公はこれをつくろってやる。  好奇心につられてその夜も大きな樹の下に宿った。夜中になるとまた騎馬の一行がやってきて、馬の足の治った翁をどこかへ連れていった。それから明け方に帰ってきた翁が道公に向かって委細を次のように説明する。 「昨夜は絵馬の足をつくろってくれて有難う。騎馬の一行は行疫神《ぎようやくじん》どもで、国内をめぐるとき、かならずこの翁を前使にと連れ出すのです。いうことをきかないと笞で打つ。それもこれも自分がこんな下劣の神の形をしているからですが、それにつけてお願いがございます。この樹の下で三日間法花(華)経を誦《じゆ》しては下さらぬか。さすれば法力の功徳によりこの卑しい身が貴き身となって補陀落山に生まれ出、観音の眷属《けんぞく》となって菩薩の位に昇ることになりましょう」  乞われるがままに道公が法花経を読誦すること三日。かねて言われたように、小さな柴の木の船を造って、これに道祖神の木像をのせて海に浮かべると、柴の船はたちまち南をさして走り去った。  右は『今昔物語集』巻第十三第二十四「天王寺の僧道公|法花《ほくえ》を誦して道祖を救えること」のあらましである。  行疫神(疫病神)にコキ使われるのでは、道の神、つまり交通の神である道祖神もたまったものではない。交通は福を運んでくれればいいが、流行病のような禍《わざわい》も交通が媒介し伝播する。そこで、おぞましい行疫神たちが道祖の翁に道案内を頼んだ。それを馬の足が折れたからと言って断る。この馬が、絵馬のなかの足の部分が破れている馬だというのが面白い。  今昔のこの説話は『法華験記《ほつけげんき》』に原話があるというから、絵馬の存在は平安中期から知られていたわけである。いや、昭和四十七年に浜松の伊場遺跡で奈良時代の絵馬が発掘されるに及んで、絵馬の歴史ははるかそれ以前に遡ることになった。  そもそもが馬は、神がそれに乗って人界に降ってくる交通のための聖獣である。古代の人びとは神に願い事をするのに、神社に生き馬を奉納した。経済的な理由からそれが困難になると、土や木で作った馬形を献じ、さらに簡略化して板に馬を描いた絵馬を奉納するのが慣らわしになったということである。  もともとが神と人との間の交通を媒介するための護符だから、いまでも願いの筋は「交通安全」の類《たぐ》いが多い。就職や受験の祈願にしても、境界をこえた向こう側の会社なり高校大学なり、ここ以外の世界へ場所替えするのだから広義の交通問題である。  交通機関が近代化するにつれて絵馬信仰はすたれるかに見えるが、それでも東京近郊なら東松山の妙安寺馬頭観音が、つい最近まで「馬頭観音の加護によって病魔から馬を守ってもらおうと関東一円の博労や農家の飼主がどっと馬を曳いて参詣し」(岩井宏実編『絵馬秘史』NHKブックス)、絵馬売りから板絵馬を買っていく名所だったという。モータリゼーション以後は、これがマイカーの事故予防祈願に変わっただけのことだ。  病気もまたどこかから憑きにきたり、どこかへ離れていったりする、交通に左右されるお荷物[#「荷物」に傍点]である。だから『今昔物語集』でも交通業者の神さまのところへ行疫神が道案内を頼みにくる。  となると絵馬の願いの筋に、交通安全と並んで厄祓いや病気治癒祈願があって当然だろう。目の絵や「め」の字ばかりをアンディ・ウォーホルのアッサンブラージュのようにそこらじゅうに書いた、眼病平癒祈願がある。あるいはまたざくろの実を描いた安産祈願。蛸の絵柄は蛸の吸い出しで、これは疣《いぼ》やはれ物に効く。 (挿絵省略)  子がえし絵馬というのはこわい。生まれた子を闇に返すのである。いわゆる間引き。柳田国男も『故郷七十年』のなかで、茨城県|布川《ふかわ》の地蔵堂で見た凄惨な子がえし絵馬のことを回想している。産褥の女が鉢巻きをしめて、生まれたばかりの嬰児をおさえつけている。 「障子にその女の影絵が映り、それに角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている」  ムサカリ絵馬というのもある。若くして死んだ男女のために、その人が生きていてめぐりあっただろう女または男を絵馬の上でめあわせる。死者の架空結婚式である。絵柄は、紋付き袴の花婿と白装束の花嫁が三三九度の盃を上げている場面。ただ花嫁なり、ご両人なりが、周囲の人びとにくらべてどことなく影が薄く、降霊会のエクトプラズムのように半透明なのがぶきみだ。ことほどさように、絵馬は死の世界との交通をさえもつかさどるのである。  西洋にも、絵馬そのものではないが、絵馬のような祈願護符はある。ヴォティーフ(Votiv=奉納画)とかエクスヴォト(Ex Voto=奉納物)というのがそれで、特にガラスに描いたものは「|ガラス裏絵《ヒンターグラスビルト》」と呼ばれている。十字架上のキリストやそれを見守るマリア、といった救済のイメージが多いが、野獣や骸骨の死神に襲撃される災厄を描いて、悪霊退散を祈願する図柄もすくなくない。概して東欧あたりの、農村の小さな教会に奉納されるのが普通で、農民絵師が片手間に描いているため稚拙ともいえるほど素朴な技法が目立つ。しかしその素朴さがかけ値のない感動を伝えるのだ。このところ人気上昇中の現代東欧の素朴絵画も、根はこの種の宗教的民画にあるのである。 (挿絵省略)  ところで交通といえば、もっともよろこばしい交通形式は男女間の性の交通であろう。すなわち縁結び。なかでも浅草寺境内久米の平内像は縁結びの仲立ちとして格別のご利益がある。そこで平内を絵馬にして、これに一封の願文をそえた。召田大定『絵馬巡礼と俗信の研究』にその一例が出ている。    御願  一、私事七月十六日夜、お松殿と夫婦約定候事確に付、  お松殿には心変|有之《コレアル》間敷《マジキ》事。   八月十三日 [#地付き]廿二歳男 弥兵衛  いじらしくも小粋な願文ではあるまいか。現代の恋人たちは、はたしてこんな心意気の願文を書くかどうか。  願文で有名なのは、何といっても京都安井金比羅の男断ちの絵馬だろう。祈願者は五十四歳の圓という女性。過去に関係のあった男十数人の姿を描いた上で、「わたくし儀 是まで 男さんを持つてこりましたゆゑ 此度心を相あらため 男さんを一切断(中略)口で申候へてハ心の内がしれす これにより右次第を私しの心ならびに髪毛を奉納し 今日より改心いたし候 これによつて奉納仕候事」と書いた。  ただし、これは「三ケ年間之事」。五十四歳のエロ婆さん、五十七歳からまたまた「男を持つ」つもりなのである。それまでにすでに十数人。「男さんにこりた」などと殊勝なことを言っておいて、よくもまあ、やってくれるじゃないの。 [#ここから4字下げ] *西欧の奉納画の起源は、神聖医療に対する感謝の貢物であった。 「その起源は、概していわゆる呪願《アナテマータ》、すなわち金、銀、象牙等の病患部の肢体の人工模造によるものであり、これを当該の(病気回復祈願をした)神殿に吊したのであった。今日も保存されているギリシアのさる碑銘には、このような場所(神殿)で右の習俗の結果としてしばしばお目に掛れる物として、次のようなものが枚挙されている。人間の顔、両手、女の乳房、あまつさえ陰部、等々。一方では、一家全員の浮彫画も見られ、その家族たちは、大抵は坐位で描かれている神の近くにいる。このような奉納画にはまた、病気そのものや神々に教えられた治療法に対する、感謝の言葉、報告の言葉などが記されている」(カール・マイヤー『中世の迷信』) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  第㈼章 運   鬼門には背中を向けろ  はるか東海の洋上に度朔《どさく》の山という山がそびえている。その山の上には枝回りが三千里もある桃の木があり、その東北の方角に門があって、これを鬼門という。なぜかというと世のあらゆる鬼がこの門から出入りするからだ。 『山海経』という怪奇小説の親玉みたいな中国の古書のなかに、ざっと右のような鬼門の由来をのべた一節があったらしい。らしい[#「らしい」に傍点]というのは原文は散佚して、現在遺されている『山海経』(平凡社『中国古典文学大系』)のテクストには見当たらないからである。いずれにせよ地相や家相の上で東北(丑寅《うしとら》)の方角が鬼門と称されたことの起こりがこれであった。  そこで家を建てるとき、門や土蔵や便所を鬼門の方角に建てるのが忌みきらわれるようになった。空想旅行記の鬼ケ島が真に受けられて、現実の住宅生活のタブーとして侵入してきてしまったのである。  もっとも清家清氏のように、この説話はかならずしも荒唐無稽な空想ではなくて、気象学的にも歴史的にもちゃんとそれなりの根拠があるという論者もいる。第一にシベリアやオホーツクから吹いてくる冬期の北東の風が悪鬼のような大敵だったという中国の風土固有の条件である。次に漢民族にとっては、東北の遊牧民族の匈奴《きようど》などが歴史的に侵入者として恐れられていた。 「このために、漢民族に東北を恐れ、警戒する気持ちが育ち、鬼門説を育てることになったのでしょう」(清家清『家相の科学』光文社)  日本でもヤマトタケルや坂上田村麻呂の蝦夷征伐以来、大和朝廷にとって北東は「敵の住む未開の蛮地」と考えられていた。そのために大陸渡来の鬼門説の受け入れられやすい下地があったとも清家氏は言う。そこで、 「京都に都を定めたときに、北東にあたる比叡山に延暦寺を建てたのは鬼門をおさめるためです。京都御所にも、北東の隅に鬼門除けを作っています。江戸時代にはいって徳川家康が江戸城を作ったときも、鬼門の方向にあたる上野に東叡山寛永寺を裏鬼門の方向には芝の増上寺を建てて、鬼門除けとしています」(『家相の科学』) (挿絵省略)  ことほどさように、鬼門説はまず宮廷建築や将軍家の江戸城設営に際して受容され、それから民間建築にも波及していったということになる。しかしその京都御所の設計もそれほど鬼門を恐れてこの方角を欠いたようにはみえないという新井白石の観察もある。  新井白石の見るところでは、「右の大内裏の図に、東北の隅かかれしとも見えず」であり、まして京都から見れば東北に近い江戸の徳川一門は、それほど丑寅の鬼門に神経質になっていたわけではなかった。白石は言う。 「近くは神祖(家康)の御時、外城門をたてられしに、東北の方にあたり侍るよしを申人ありしに、さらばとて、名を筋違《すぢちがひ》橋の門と名づけさせ給ひしのみ、鬼門とは改めさせ給はざりき。徳祖(秀忠)の御時御殿つくられしに、東北の方をば欠くべきよしを申せしに、笑はせ給ひて、天下は猶一家のごとし、我家の鬼門は蝦夷地にあたるべき、その外の地は禁忌に拘はるに不レ可レ及と仰せられしよし」(『鬼門考』)  全国制覇成った関東勢としてはむしろ西側からの逆襲をおそれていただろうから、ことさら東北の鬼門にそなえる必要はなかったのである。徳川のようなプラグマティックな治者は、もともと翻訳物の家相学などをそれほど真に受けはしない。鬼門がどうしても気になる向きがいるのなら、「筋違橋の門」と名前だけ変えて気休めにしたがよかろうと、すこぶるあっけらかんとしているのである。  それでも民間レベルでは鬼門説は目に余ってはびこっていたとみえて、寛政年間の中井竹山の『草茅危言』には、「今家相者といふものに溺れたぶらかさるゝ事なかれ。家相を信じ家を建直してのち間もなく売家に出したる人も多し」とある。  こういうことだろう。大枚の礼金を出して家相学者を呼ぶ。そして指図通りにあれこれわが家を改築して、さてこれで福がくるはずと悦に入っていると、豈《あに》図らんや次々に難が襲ってきて、挙句のはてはせっかく改築した家を売りに出さなければならなくなってしまった。  そんな笑うに笑えない笑い話がゴロゴロしていたのである。それに比べると時代は遡って正徳の頃のことではあるが、本職の天文暦法家源慶安などは、いっそ居直っていた。 「慶安又いはん、予宅を替ること度々の内、塞の方に二度、正金神の方に一度なり。眷属の者共、門葉の面々、その外知る人々世に多し。此追加を筆する今年七十四歳、一生無病にして更に災害なし。記して及て諸人の判判を請」(『本朝天文』)  のみならず肝腎の家相学者の間でさえ鬼門説の評価はずいぶんまちまちで、松浦琴鶴の『家相秘伝集』にははっきり「丑寅欠け入りたる備へは大に凶」とあるのだから、何を信じていいものやら途方に暮れざるを得ない。やはりここは『闇の曙』の暦法家新井白蛾の言うように、「家相はむづかしき事なし、住居勝手好、気の抜け過ぬ様に、又闇く陰の過ぬやうに造りて足ることなり」。当たり前すぎて拍子ぬけだが、住む人の住み心地と衛生を第一にするのがここは穏当というものだろう。  ところで、手狭な敷地に無理を重ねて建てる現代の住宅オーナーにまさか家相を気にする人はおるまいと思うと、そうでもないらしい。注文建築専門の某工務店主の言うところによると、「トイレの鬼門だけははずしてくれという人が(客の)全体の七、八割はいる」というのだから、鬼門恐怖は現代人にあってもかなり根強いらしいのだ。注文建築はそうでも、あらかじめ間取りの決まっているマンションに鬼門云々を言う人はおるまいと思うと、これも一概にそうは言えないらしい。  たまたま「週刊住宅新聞」の家相、方位特集号(昭和五十八年三月十七日)で見かけた事例に、中古マンションの売買が契約日ぎりぎりに、トイレが北東に当たるというのでご破算になったというのがある。  縁起かつぎの買い手はA氏。A氏はかねて若い頃に、原因不明の頭痛に二週間にわたって悩まされた。医者に通っても埒《らち》があかない。思い余って祈祷師に相談すると、「姫金神《ひめこんじん》(北東)の方角に何か植えませんでしたか」と祈祷師。たしかにその方角にモミジを植えたことがあった。そこで早速言われるままに、酒、塩、果物を供えてヨケをしてもらうと、さしもの頭痛がその晩のうちにケロリ。  A氏は北東が便所のマンションを下見してこれを思い出したのである。そこで三人の専門家にお伺いを立てると、そのうち二人が「鬼門だからおよしなさい」とのご託宣である。この期に及んでまたまた緊箍呪《きんこじゆ》をかけられた孫悟空みたいに、原因不明の頭痛にキリキリ舞いさせられたのではたまったものではない。A氏は泣く泣く物件を見送った。  しかし泣きをみたのは、それ以上に売り手のB氏の方だろう。B氏はてっきり売買が成立するものと考えて、次の移転先の頭金にA氏の契約金を予定していた。これが退路を断たれた格好になり、後には退けず前には進めずの宙ぶらりんになってしまったのである。仲介の不動産屋に下取りに出すという手もあるが、一旦ケチのついた物件が買い叩かれるのは目に見えている。  この一件ではまさか仲介の不動産屋と家相占い師が組んだ芝居とは思われないが、「家相を気に病むA氏」という役者を使えば、そういうペテン劇もけっこう成り立ちそうである。  それはそうと、A氏は十分な下見をしたのであろうか。マンションであれば、ふつうトイレは和式ではなくて、洋式トイレと相場はきまっている。和式なら用を足す人間が向く正面が問題の方位だが、洋式だとあべこべにそちらに背中を向けているのである。以上の�相対性原理�からして洋式トイレの北東鬼門説は成り立たない。A氏は一度とっくり便座に腰かけて、ウンを試してみるべきだった。 [#改ページ]   嫁婿えらび神の声  野尻抱影の「ぼろ市・嫁市」という随筆のなかに、玉川(多摩川)の影向寺《ようごうじ》というお寺の境内に師走の九日から十二日にかけて開かれる縁日での嫁市の話が出てくる。縁日のひやかし客を装って、近在の農家の若者や娘さんがそれぞれ盛装して嫁えらび、婿えらびにまかり出るのである。抱影先生は噂を聞いて野次馬見物に出かけた。そこで当日の情景をひとまず抱影先生の名筆でのぞいてみよう。 「堂を下りて境内を一巡しながら、眼を配ると、なるほど若い息子と娘が多い。彼等は少ないので二、三人、多いので七、八人も組になって、ぶらぶら歩いたり、往来を見下ろす畑の縁に集まって、男組と女組とが互いにこそこそ品定めをやったり、笑いの目を投げ合ったりしている。もとより境内も広くない。堂に詣って一回りすれば、村へ帰るより仕方がないのだが、彼等は一こうに帰らない。ひとところに永いこと立っていては、一回りして来て、また場所を変えて立つ。これを娘たちも息子たちもくり返しやっている。正に見合市の気分が横溢している」(『鶴の舞』)  まことに野趣に富んだ見合市と申さなくてはなるまい。影向寺は行基の開基にかかり、薬師三尊を祀っているので、別名を稲毛の薬師ともいう。土地の人の話では、こうして「薬師の市で貰った嫁はしょたい持ちがいい」のだそうだ。薬師さまの引き合わせがモノをいうのであろうか。驚いたことに、これはわずか五、六十年昔の昭和初年のことなのである。  多摩川稲毛の見合市というと、私などの世代にはすぐに敗戦直後の「集団見合い」が思い浮かぶ。あれもたしか多摩川べりのどこかが会場の見合市だったからである。ニュース映画で見たのは、多摩川土手の斜面に男組、女組が蝗《いなご》のように群がったり、それが二列横隊に向き合って品定めをしている光景だった。戦争が突然終わって、焼跡に放り出された大量の結婚適齢期の男女にロクな交際機関もないところから発生した見合い形式だったのだろう。  これとは別に「日高パーティー」というのがあった。東大教授の日高孝次氏夫妻が自宅をサロンに開放して、教え子を良家の子女に引き合わせたのがきっかけの、エリートの婚前社交会といったものだったと記憶している。規模は小さいとはいえ、やはり戦争直後の社会的混乱期に生まれた新種の嫁市だったのである。  けれども戦後も四十年、こうした集団見合い形式はいまはすたれたらしい。そもそも見合い結婚なるものが減少の一途をたどっている。  手許にある厚生省「第八次出産力調査」(昭和五十七年度)によると、昭和三十—三十四年には見合い結婚の比率が五一・五%だったものが、五十五年以降では二六・五%と激減している。見合い結婚は、もはやオールド・ファッションとしてこの世から消えゆく運命にあるのだろうか。  しかし早まらぬ方がいい。見合い結婚ではない方の恋愛結婚の内実を少々冷静に見てみよう。いわゆる「恋愛結婚」のうち「職場恋愛」二三・五%、「友人の紹介」二二・四%、「学校、地域のサークル」一三・六%、「隣人関係」二・九%で、残る「偶然の出会い」は八・六%にすぎない。  つまり恋愛結婚といえども、職場、学校、友人、サークルといった限られた人間関係の範囲内での選択から成り立っていて、無限の選択肢から相手を選んだわけではないのである。  一方、見合い結婚はといえば、これは人生経験豊かなお仲人の、主として地縁血縁共同体内の限られた情報量からしてA子とB夫が結びつけられる結婚形式である。  恋愛結婚にロマンチックな夢を託している向きには水をかけるようで申し訳ないが、とすると、両者の差は選択肢の多少を左右する情報量の差にすぎないということになる。これを逆にいえば、見合い結婚がはやらないのは、いかに人生経験豊富なお仲人さんといえども、一個人の持ってくるハナシではこの情報化社会ではあまりにも選択肢の限られた情報に思えて、アタシやオレの持っている対異性情報量にくらべるなら窮屈すぎるためなのである。  そこに目をつけて結婚データバンクが生まれてくる。容姿は写真、性格や好みはコンピュータに打ち込んで、データバンクに貯える。これで全国の結婚志望者データがファイルされるから、かなり多量の選択肢のなかから相手を選ぶことができる。ちなみにこの「結婚情報サービス」のひとつ「アルトマンシステムインターナショナル」の例でいえば、累計会員総数は十一万を超え、婚約、結婚カップル成立の累計一万六千余組、現在会員総数三万名という盛況とか。  要するに情報による集団見合い、情報社会の嫁市だが、それだけに数字の上だけからいえば、職場や学校の自由恋愛より選択肢は格段に多い。ということは逆説的にも、コンピュータを月下氷人に仕立てると、恋愛(自由選択)とお見合い(無選択)との差が可能性としてはゼロに近くなるまで接近してしまうのだ。むろんこれはコンピュータにいったん自分をあずけることを諒《イエス》とした結果で、そんなものを相手に自己放棄するのは真っ平だといえば話は別である。  話は変わるが、わが国の人口編成が大きく変動したのは、明治維新と戦争期のほかにはいくつかの高度経済成長期だった。好況を見込んで各地から人びとが都会に上ってくる。なかには女工や丁稚《でつち》として、あるいは集団就職の形で、望みもしないのに送り込まれてくる人もいた。一方ではしかしそのために、たとえば九州人と関東人が思いがけない出会いをとげて結婚するという異種交配が多発したのである。  激動期がすぎると、就学や就職以外には生地を離れる機会がすくなくなる。いきおい学園恋愛か職場恋愛に男女の接触の機会が限定されてくるのである。それ以外の交際の機会を求めるとなると、自然発生的な恋愛よりはどうしても第三者の仲立ちによるお見合い・紹介で、表現は悪いが「人工交配」によって男女の仲を促成栽培しなければならなくなる。  実際、結婚データバンクでは沖縄人と北海道人が結びつく可能性が他の場合より容易だろう。地域社会や職場共同体での結婚ばかりが重なれば、社会活動は停滞する。したがって、ポスト産業社会において社会変動なしに性愛市場を活性化するには、コンピュータによる多地域間人工交配がどうしても日程に上って来ざるを得ないのだ。  しかしそんなことより「結婚情報サービス」の人気は、当事者にしてみれば相性を合理的に読みとれるところにあるのかもしれない。昔なら木火土金水の五行で分類した気質が相生相剋したところを、「趣味はテニス」、性格は「ネクラ」または「ネアカ」とコンピュータに打ち込んでお互いに相生相剋を占う。五行説や、これより多少ハイカラみたいな西洋占星術の星位や血液型で占うよりすこしばかり合理的に見えるのが頼もしい、と言っていえないこともなさそうだ。  だが果たして、遠い星より身近な人間関係論の方が、一も二もなく現実的で頼りになるものだろうか。いずれにせよ当事者が自分の判断だけでなく、星なり神仏なりコンピュータなりの第三者にお伺いを立てることに変わりはないのである。  どのみち不確定な相手を巻きぞえにする男女関係に絶対安全の保証はない。だから第三者の「よし」の掛け声でとりあえず見切り発車をするほかはない。星や神様なりコンピュータなりの仲人的第三者が「相性よし」とご託宣してくれれば、それが自己暗示になって結婚生活が存外うまくはかどり、「やっぱり占いは当たる」、「コンピュータはすごい」ということになるだけのことなのかもしれない。  とすると、「薬師の市で貰った嫁はしょたい持ちがいい」という昔の嫁市の嫁婿えらびも、現代最先端のコンピュータ結婚も、見かけほど大きな違いはない、と見たが、いかがなものであろうか。 [#改ページ]   媚薬の使い方  コーンウォールの王マルクの甥トリスタンは、マルク王のお妃に定められたアイルランドの王女イゾルデを引き取りに行きますが、帰りの船のなかであやまって媚薬を飲んだために、二人は宿命的な恋のとりこになってしまいます。二人の秘密を知ったマルク王は激怒してトリスタンを追放しますが、やがてトリスタンが異国で息を引き取る直前に、彼を追って駆けつけたイゾルデは、恋する人の身体の上に重なってみずからも死んでゆきました。  トリスタンとイゾルデの愛の悲劇は、ヴァーグナーの楽劇三幕にも作品化され、近くはジャン・コクトーの映画『悲恋』にも翻案されたので、どなたもご存知でしょう。  あらためて申し上げるまでもありませんが、この悲恋物語の鍵は、愛する二人を死にいたるまで結びつけてはなさず、禁制の壁をさえ破って相手のところへたどりつかせる、あのロマンチックな媚薬にあるといえましょう。ではそんな強力な媚薬とやらが、ほんとうにこの世にあるのでしょうか。もしあれば、あなたが女性ならお好みの男性にかたっぱしからそいつをふりかけてメロメロにさせてしまえば、さぞかし面白いことでしょうね。  世には強精剤というものがあります。男性用には男根勃起中枢を刺激するヨヒンビンやストリキニーネ、あるいは尿道を刺激するカンタリジン等がよく知られています。いずれも副作用があり、しろうとの生兵法は禁物ですが、それよりも、これは性行為を前提とした男女のための補強薬ですから、まだ特殊な感情をこちらに持っていない、彼または彼女をこちらに向かせるための媚薬とは、ちょっとばかり別物です。  当たり前のことですが、媚薬があらまほしいのは、ふつうの手段では相手をなびかせることができないような場合です。恋文とか、ラヴ・コールとか、あでやかな媚態とか、そんな合図ではなびいてこない相手を何とかしてこちらに向かせたい。そういうときに媚薬に頼るのではありますまいか。  いちばんありそうなのは、相手が自分とは別の人間、とりわけ自分以外の異性に惹かれていて、こちらに見向きもしないというケースです。こういうときには、まず恋仇から相手の気持ちを引き離し、それから自分の方に惹きつけることが必要になります。  古代ローマの詩人プロペルティウスが、アカンティスという魔女に呪われたことがありました。この魔女は固く結ばれているもの同士をときほぐし、バラバラにしてしまう魔法の名手でした。男女の仲なら、夫を不能にすることによって貞淑な奥方を夫から引き離し、一方、淫蕩な道楽者に強壮薬を与えて性的活力を増進させ、虫も殺さぬようにおしとやかだった奥方をそちらになびかせてしまうのです。このすご腕の魔女に呪われたのですからたまりません。プロペルティウスはたちまち性的不能者になってしまいました。  もっとすさまじいのは、プロペルティウスの先輩詩人ホラティウスが語っている魔法です。ホラティウスの『エポーディ』という詩には、カニディアという魔女が道楽者のヴァールスという男に不能の薬を盛る場面が出てきます。この魔薬は、呪いに使えば相手を不能にし、反対の和合のために使えば強壮剤になるという諸刃《もろは》の剣ですが、その作り方がすさまじい。良家の子どもをさらってきて、首だけ出して地面に埋め、その目の前に山盛りのご馳走を見せて飢えさせてから、生肝《いきぎも》を抜くのです。  古代ローマには、こうした魔女や取り持ち女が巣食うスブーラという淫売窟がありました。そこに出入りする道楽者の男たちは、彼女たちに取り持ち役を頼んで、これと思った娼妓にわたりをつけていました。遊女たちの方も、金回りのよさそうな客をつなぎとめておくために、取り持ちの魔女が調合した愛の媚薬に頼りました。  もうお分かりかと思いますが、媚薬というのは具体的にこれこれの化学作用のある薬品というよりは、男女の仲を取り持ち、媒介《なかだち》する愛の魔術を物質で象徴したものなのです。そう考えた方が道理に合うでしょう。というのも媚薬が肉体だけに作用を及ぼす化学物質なら、八時間かそこらで消化して排泄されてしまうので、効果が長続きはしないからです。トリスタンとイゾルデのように、死にいたるまで結びつける宿命の媚薬というものは、現実には無いのです。たかだか一夜の契りに強精剤として効くような、インスタント催淫剤は別としても。  それでもどうしても媚薬が欲しいというのなら、イモリの黒焼きなどはいかがでしょう。イモリの雄と雌を青竹の節をへだてて別々にしておくと、三夜のうちに節を食い破って一緒になるそうです。その一緒になったのをまた引き離して、別々の場所で焼くと、丘をへだてて煙が一体となるというくらい執念深いので、これが和合の秘薬とされたのでした。  狐のよだれというのもあります。これは中国の古い医書『本草綱目』に出ている媚薬で、作り方は、狐の出るところに小口瓶に肉を入れて置いておく。すると狐は瓶のなかのおいしそうな肉がとれないので、上からとろとろとよだれを流します。それを集めて媚薬にするのだそうです。  西洋ではマンドラゴラという媚薬の採取法がこれに似ています。マンドラゴラはペルシャ語の「愛の野草」という意味で、旧約聖書には「恋茄」という名で出てきます。聖書では不妊になった母親のレアのために、子のルベンがこれを野に出て採ってきて食べさせると、その魔力でレアは夫のヤコブを呼び戻してめでたく懐妊したとあります。ですから性的不活発を賦活させる一種の強壮剤として使われていたようです。  このマンドラゴラという野草の根は、しかしながら、めったなことでは掘り出せないものでした。手をふれた人間は死んでしまうし、それに、近寄るとマンドラゴラはスタスタと逃げていってしまうからです。  そこでいろいろな採掘法が考え出されましたが、その一つは犬を使うのです。まずマンドラゴラの根に索を巻き、その一方を犬の首にゆわえつける。それから肉片を犬に嗅がせて遠くへ放り投げると、犬がそれを追ってものすごい勢いで走り出す。その拍子にマンドラゴラがすぽんと抜けるのです。ただしマンドラゴラが抜ける拍子にあげるおそろしい叫び声のために、犬は死んでしまいます。 (挿絵省略)  マンドラゴラはまた別名を「愛の林檎」ともいい、エデンの園でイヴがアダムを誘惑するときに食べさせた林檎は、そんじょそこらの林檎ではなくて、この愛の林檎=マンドラゴラだったのだ、という説もあるほどです。  以上で媚薬にもいろいろな種類があることがお分かりと思いますが、では媚薬は効くでしょうか。ひょっとすると効くかもしれませんが、媚薬を飲んでなまめかしくなったところへ、自分の思う人とは別の、イヤな感じのやつが寄ってきたらどうしますか。つまり、これぞと思う相手だけが確実に反応するのでなければ、せっかくの媚薬も逆効果しかないのです。  先程も申したように、媚薬とは、愛する二人の仲を取り持つ媒介を、ある物質になぞらえたものにすぎません。要は、媚薬を使っても使わなくても、相手の心をつかめばいいのです。  自然界では交尾の季節がくると、動物は異性が発情するような体臭を放ち、花々は交配の媒介に鳥や蜜蜂がきてくれるように、あまい香りを発します。人間も思春期には甘ずっぱいにおいを流しますが、季節性交動物ではありませんから、どんな季節にもそれらしい体臭を漂わせるために、香水や香料を使い、お化粧をし、美しい衣裳やエレガントな身のこなしで人工的に異性を誘う技術を身につけます。ときにはこちらの存在を気づかせるために、ヴァレンタイン・デーのチョコレートのようなプレゼントをしたりもします。  そうはいっても、もともとヴァレンタイン・デーは鳥が異性の鳥をキャッチする日で、チョコレートを贈るのはチョコレート会社が考えついたアイデアにすぎません。しかしそんな根拠のないプレゼントでも、相手が暗示にかかってこちらを向きさえすれば、しめたものではありませんか。  そう考えてくると、万能の媚薬というものはどこにも存在しないけれども、だからこそあらゆるものが媚薬になり、日々のなにげない一挙一動こそが相手をとらえる愛の魔法になるのだ、ということがお分かりでしょう。 [#ここから4字下げ] *『中世の迷信』のカール・マイヤーは、十六世紀人バルトロモイス・アンホルンの『魔法学』のなかの大層グロテスクな媚薬の使い方、または愛の魔法を次のように紹介している。 「場合によっては、愛を得ようとしている相手の性別にしたがって、それが男なら何かある食物のなかに女の経血を混ぜ、女なら同様にして精液を混ぜた。新生児または洗礼前に死んだ嬰児の皮膚から作るところの、いわゆる処女の羊皮紙も、こうしたものの一種であった。さらに、恋い焦れている者たちが蝋人形をこしらえ、これに恋をしている相手の名前をつけ、人形の胸を裂き、先に述べたような素材からハート形を作って、これを当の人形の体内にいろいろな呪文と一緒に密封することもあった。むろんこういうときに呪文は不可欠だが、呪文はしばしば生血で書かれるのでなくてはならなかった。けれどもアンホルンは、自著がこのようなことの教科書になってはならぬので、このことについては沈黙を守っている」 *「男女関係は人生の重要問題の一つであるが、意の如くならぬのが世の常である。ゐもり黒焼を飲ませると思ふ相手の心が己れに靡くとか、衣の袖を返して寝れば思ふ人の夢を見るとか、鶯を煮て食はせれば女房の嫉妬が止まるといふが如き事は広く伝へられてゐる所であるが、思ひ余つた愚人は斯かる馬鹿々々しき事をも真面目に実行するのであるから、冗談の域を超脱する」(日野九思『迷信の解剖』) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   閾際の吉凶  少年時代にアメリカ映画を観はじめたころ、不思議で仕様のないことがあった。愛し愛されている彼と彼女が、さまざまの邪魔ものを退治して首尾よくハッピー・エンドにたどりつく。ウェディング・ベルがキンコンカンと鳴り、純白の婚礼衣裳の花嫁を花婿が抱きかかえて……。  と、ここまではいいのである。それから人びとが手に手に米を握って閾《しきい》をまたぐお二人さんの頭の上からパッパとばら撒《ま》く。すると花婿は花嫁を抱いたまま、閾を踏まないように大股にまたいでベッド・ルームに入ってゆく。  最近の映画では、たしか『ゴッドファーザー』の結婚式の場面で米をふりかけていたような気がする。欧米人はパンを常食にしているのに、どうして結婚式のときだけお米で縁起をかつぐのだろう。それに花婿が閾をまたぐとき、どうしてわざわざ大袈裟に、閾を踏まないぞというポーズをしてみせるのだろう。  閾のまたぎ際《ぎわ》につまずくと縁起が悪いことは誰でも承知している。シェイクスピアの『リチャード三世』の大悪漢グロスター公でさえ、この迷信には怖気《おぞけ》をふるった。 「閾につまずく者たちにこれは警告している、内部《なか》には危険が待ち伏せしていると」  この迷信的な予感通りに、グロスター公は戦場で馬をつまずかせて王国を失うのである。  戦士が首途《かどで》のつまずきを恐れたエピソードとなれば、枚挙にいとまがない。ローマの護民官、名将ティベリウス・グラックスは家の閾際でつまずいて、その日に死んだ。アレクサンドロス大王|麾下《きか》の有能な将軍アンティゴノスは、紀元前三〇一年のイプソス近郊の合戦場で、野外テントを出るときに足をすべらせた。部下たちは神々の不興の兆《きざし》と見たが、アンティゴノスはかえりみなかった。彼が戦死したのはその日の午後のことである。  閾とは直接関係ないが、ナポレオンも東部戦線で愛馬がつまずいたことがある。ナポレオンは迷信を気にとめる様子もなかった。自分は運命を超越していると思い込んでいたからだ。だがその日、勇躍撃って出た皇帝はあえなく敗北を喫したのである。  結婚も人生の首途であるからには、閾際でつまずくのはやはり縁起が悪い。しかしそれ以上に、閾に気を使わないでいると、どうも閾際にいる精霊や悪霊の嫉妬や呪いを買うおそれがあるらしいのだ。  もともと閾は、「扉や|※[#「木+眉」、unicode6963]《まぐさ》(とびらの戸あたりになる横木)とともに家の入口として重要な境界であり、見知らぬ敵対的な外界を保護された家の世界から分《わか》つもの」(『ドイツ迷信辞典』)なので、そこには外界から異物を近づけまいとするさまざまの精霊が巣食っている。そのために古い家の閾の下には、犬の死骸やしゃれこうべや、どうかすると死産児が埋められていたりもする。それがうす気味の悪い番犬のように、外からやってくる有害な新来客を見張っているのである。  花嫁は別に有害ではないが、家にとってははじめての見知らぬ新来者にはちがいない。閾の精霊たちに憎まれないためには何か供物を捧げておくのが無難である。お米をふりかけるのは豊饒と多産を願う儀式だが、同時に閾の精霊を祀る心づもりもあったのであろう。  ドイツのテューリンゲン地方では、結婚式の日に村でいちばん貧しい人間が戸口に立たされて、花嫁が閾をまたぐときにこれにお金やお菓子を施してやる。こうすれば新婚夫婦から世のありとあらゆる不幸が遠ざけられると思われているのである。村でいちばん貧しい人間が閾の精霊たちの化身となって、当日の施しを受けたのだ。  そこで逆に、ある家に呪いを掛けたければ、家の閾際におぞましい呪物を仕掛けるということをやったりする。一五二一年のドイツで魔術使いの嫌疑で火刑に処せられた一人の農婦の告白したところによると、彼女は死刑台の下から拾い集めてきた人骨を髪の毛で束ねて、めざす呪いの相手の家の閾の下に埋めた。その結果、当の家では女房は不妊、亭主は性的不能となり、雄馬六頭が手がつけられないほど荒れ狂ったという。  これはよこしまな性愛魔術にも応用できる。ハンガリーでは愛する男が自分になびかないと見ると、娘たちは魔女に頼んで、その男から盗んだ何かを壷に入れて男の家の閾の下に埋めてもらう。そうすると男がこちらを向くと思われていたのである。  男を頻繁に愛の語らいに来させるには、相手の髪の毛を一本とって自分の家の閾の下に埋めるという手もある。もっと気持ちが悪いのは、死人の脚骨を三本ぶっちがいに組み合わせ、それに髪の毛と卵殻をそえて閾下に埋めておく。すると相手の男の情熱が異常にたかまると信じられていた。  とまれ閾の下には不気味なものがうようよしていて、隙をうかがっては閾をまたごうとする者に襲いかかろうとしているらしいのだから、うかうかしてはいられない。まして閾の上でつまずいたりすれば、悪霊たちの思う壷なのである。  これには反論もあるだろう。閾につまずいた戦士や将軍たちはたしかにその日のうちに戦死した。しかし閾につまずかないでその日戦死した人間の数のほうが、はるかに多かったはずではないか。  つまずいて運が開けたという話もある。わらしべ長者の物語がそれだ。わらしべ長者がもしも道ばたでつまずかなかったら、わらしべを拾うこともなく、それからとんとん拍子に大金持ちになるきっかけもなかったはずだ。  しかしそう言ってつまずきの迷信を笑いのめすのは、もちろん負け惜しみというもので、つまずきが挫折や悪運につながるという広く受け入れられている迷信の通念があればこそ、例外であるわらしべ長者の幸運がパロディとして成り立ったのである。  結婚式の閾またぎとはさほど関係ないが、わが国でもみだりに閾を踏むことはタブー視されている。古いタイプの迷信家ばかりがそう思っているわけではない。柳田国男のような「新人」も自認している。 「現に自分なども其《その》一例で、今でも敷居の上に乗らず、便所に入つて唾を吐かず、竈《かまど》の肩に庖丁を置かず、殊《こと》にくさめをすると誰かゞ蔭口をきいてるなどと、考へて見る場合は甚《はなは》だ多い」(『日本の民俗学』)  もっとも柳田国男がここで挙げている「敷居」が、西洋の家の戸口の閾と一致するかどうかは疑わしい。海彼《かいひ》の閾はむしろわが国では「門《かど》」や「玄関」に相当するだろう。そういえば、玄関については『遠野物語』におそろしい話が語られている。  長蔵という男が夜遊びに出て、まだ宵のうちに帰ってくると、門のなかの洞前《ほらまえ》に誰かが立っている。懐手をして筒袖の袖口を垂れ、顔はぼうとしていてよく見えない。女房のおつねのところに夜這《よばい》に来たのだと思い、つかつかと近づいてゆくと、男は裏手の方に逃げずにかえって右手の玄関の方に寄る。人を馬鹿にするなと思い、なおも近づいてゆくと男は懐手のまま後ずさりして「玄関の戸の三寸ばかり明きたる所より」すっと内に入った。十センチ位の隙間から入ってしまったのである。  それでも長蔵は不思議とは思わず、戸の隙に手を入れて探ってみると、なかの障子はちゃんと閉まっている。ここではじめて恐ろしくなり、「少し引下らんとして上を見れば、今の男玄関の雲壁《くもかべ》にひたと付きて我を見下す如く、其首は低く垂れて我頭に触るゝばかりにて、其眼の球は尺余も、抜け出てあるやうに思はれたりと云ふ」(第七九話)。 『遠野物語』のなかでももっとも恐ろしい話の一つではなかろうか。やはり閾のあたりには何かがいるのである。 [#改ページ]   初恋のたたり  日本語の造語力には絵のような具体性がある、と思うことがある。たとえば「嬲《なぶる》」。この字を見ていると、毛脛もくろぐろとした雲助どもが振り袖をかざしたお姫さまに寄ってたかって落花狼藉の風情にいたぶりなぶる、極彩色の場面がまざまざと浮かんできたりして、潜在意識が何やら活発にたぎり立ってくる。それなら男と女の位置を入れ替えて「嫐」とすると、これは当今流行の、か弱い男性を女性たちがいたぶっている光景が思い浮かぶだろうか。  この文字自体がいつの時代からあったのかは不明らしい。元禄歌舞伎にこの言葉が持ちこまれてから、天保年間には「嫐」が歌舞伎十八番の一つに入った。「うわなり」と読む。一人の男を間にした女二人の嫉妬の鞘当てのことで、嫉妬そのものも「うわなり」と読むけれども、もともとは古女房のこなり[#「こなり」に傍点]に対する|後入り妻《うわなり》のことをいった。後妻そのもののことではない。一夫一妻制になってからは後妻がそう呼ばれることもあるが、平安貴族などは多妻持ちが当たり前だったから、もともとの古女房がこなり[#「こなり」に傍点]で、後から入った新しい側室をうわなりといったのである。  新来のくせに夫の寵愛を独占してしまううわなりをねたんで、こなりが若い前者をいじめる。これをうわなり打ちといって、古い一夫多妻制の生んだ風習である。近世以後の一夫一妻の婚姻制度からはなくなる風習なので、いまでは自然に歌舞伎十八番の「嫐」も上演されなくなった。  しかし室町時代から江戸初期にかけては、まだうわなり打ちの風習が実際にはで[#「はで」に傍点]におこなわれていたらしい。まず捨てられた前妻の方が後入り妻の方に果たし状をつきつける。それから助勢の女どもを二十人から百人くらいも集めて討ち入りに向かうのである。迎え撃つ側もむろん女ばかりの加勢を打ちそろえて待つ。ちょっとした女の戦争であった。 「その日がくると、離別された妻は乗り物に乗り、おともの女たちは徒歩で、くくり袴、たすき、髪をふり乱し、また、かぶり物をしたり、鉢巻をしたり、かいがいしいいでたちに竹刀を持って、押し寄せてくる。門を開かせて、台所から乱入し、鍋、釜、障子、あたるを幸いにぶちこわしてしまう」(池田弥三郎『おとことおんなの民俗誌』)  敵味方あわせてすくなくとも百人もの女ばかりが入り乱れての合戦である。四十七士の討ち入りは、あるいはこの女の戦争の男性版にすぎなかったのではあるまいか。  しかもうわなり打ちはしょっちゅうあったとみえて、新見法入の『昔々物語』などには、八十歳の老婆が、若い頃は十六度も加勢に頼まれたものだと語る回顧談が見えたりする。この頼まれて出陣する女傭兵を「たかおんな(高女)」といった。御伽草子の「熊野の御本地のさうし」を読むと、この高女の世にもおそろしいいでたちが如実に描かれている。これは天竺摩訶陀国を舞台に、大王の寵を一身に集めた若い「せんかう女御」にとり残された九百九十九人のお后《きさき》たちがうわなり打ちを掛ける物語である。物語的誇張はやむを得ないとして、高女のいでたちはすさまじい。 「さるほどに、たかおんなと申す者を后一人して六人づゝ揃へて、五千九百九十四人なり。夜中《やちう》ばかりに、かの后の大り(内裏)へ忍び入りて、天に仰ぎ地をたゝき、喚《おめ》き叫ぶ声、恐《おそ》ろしなどもおろかなり。『この后(=せんかう女御)悪王を生みましませば、山の神、虎狼放し給ふ程に、参りて候なり』とて、喚き叫ぶ事なか/\申すもおろかなり」 「せんかう女御」一人が大王の世継ぎを宿したので、残り九百九十九人の后たちはもはやまとめて風前の灯となってしまったのだ。五千九百九十四人(異本の計算では九千九百九十人)の高女動員はいくら天竺の話でも大袈裟だが、異本によれば、これがめいめい「かほにはすみをぬり、身にはあかきものをきせ、かなはをいたゞかせ、三のあしにはらうそくをとぼして」押し寄せた。つまり顔に墨や「あかきもの」をぬりたくり、頭には三本足の鉄輪《かなわ》をさかさまにかぶり、その足の一本一本に蝋燭をともして、虎や狼をあやつりけしかけながらどやどやと乱入してきたのである。その恐怖たるや察するにあまりあろう。 「熊野の本地」諸本の挿絵には、異装したうわなり打ちの女どものいでたちが、さまざまの趣向で描かれている。頭に牛や鬼のような角を生やしたり、獣毛の仮面や衣裳を身につけたり、髪を高々と「そらざまにまきあげ」てその上に蝋燭をともしている高女たち、それが野獣を引き具して女御の御殿に迫ってくる。異形の姿がおそろしいといえばおそろしい。 (挿絵省略)  しかし見ようによっては、男性側における中世末期のバサラ者や元禄のかぶき者のように、きらびやかな異風異装の粋をこらしたスペクタクルを面白半分に演じているのだと思えないこともない。動機がたとえ深刻な復讐劇であっても、見かけは大がかりなショーのお祭り気分の方が際立つのである。暗くじめついた嫉妬の表現も、こうして外向的にショー化し演劇化してしまえば、毒がうちにこもらない。あっけらかんと発散して、双方の負い目やうらみがましさを追い出してしまう。うわなり打ちはおそらく、いかにも中世人的なこだわりのなさで、嫉妬のような荷厄介な感情を処理する儀式だったのである。  江戸の諸制度がかたまるにつれて、うわなり打ちは影をひそめた。歌舞伎の「嫐」も天保あたりを最後にして、昭和十一年の市川三升による復活上演まで忘れられていたという。  ではその間、女の嫉妬の持ってゆき先はどうなったか。嫉妬をうちにこもらせれば、いわずと知れた陰火どろどろと青白く燃えて、うらめしやとお岩さんの亡霊が化けて出る。『東海道四谷怪談』も、伊右衛門がこなり[#「こなり」に傍点]のお岩をすてて若いお梅と祝言をかわす筋書に焦点をしぼると、お岩亡霊出現はお梅に対するうわなり打ちにほかならないことになる。女同士のチャンバラで陽気にぶちまければよかったものを内にこもらせる。嫉妬が蔭に回れば、はては呪いの五寸釘という物騒なものさえ登場してくる。 「丑の刻まゐりに心身をこらし、神木に釘をうち、米の粉にて男根をつくりて、屋根の棟を逆手に投げ越し、あるひは閨《ねや》に臥《ふ》しながら、魂は嫐《うはなり》の家にかよひて、咽喉にくひつきたるためしも少なからず」(『好色万金丹』)  こうなるともう末期症状で、米の粉の模造男根を後手に屋根の上に投げあげて、前夫の性的不能を祈願してまでニックきあの女と離別させようとする。むろんこれは蒙昧な江戸庶民の迷信習俗で、昭和の御代にこんなことはまさかあるまいと思う。ところがそうではなかった。  昭和三十年頃といえば、いまからわずか三十年程前のことにすぎない。その昭和三十年にまだ焼土の面影をとどめた首都圏内に天元教という新宗教が登場したことがある。これを報じた当時の新聞記事(「内外タイムス」)を藤沢衛彦編『妖異風俗』が紹介している。  天元教の主旨は、「もろもろの不幸は、ことごとく初恋のたたりである。だから初恋の生霊、死霊を祓い浄めてつき進めば、未来は祝福され、幸運が招来される」というものだった。初恋の女(または男)とそいとげずに、その後にあらわれた異性と結婚する。すると初恋の女の思いが霊となって残り、それが新家庭の福をことごとに妨害する、という言い分である。「わたしが・棄てた・女」の怨みがいまでもそこらに漂っているということだろう。  初恋というロマンティックな語感のためにいささか目をくらまさせられるが、初恋の人がこなり、現在の妻がうわなりと考えれば、これも目には見えないうわなり打ちと察せられる。うわなり打ちは思いがけない形に姿をやつして生きているのである。女の嫉妬はそうやすやすと退治できるものではない。 [#改ページ]  第㈽章 物   ナウイぞ、スルメ男  柳田国男が九州の日南海岸をあるいていると、向こうからふんどし一丁にまっぱだかの男が、首に何か白いものをくくりつけてやってきた。その白いものをよく見ると「洋服の下に用ゐるスルメと云ふもの」である。つまり燕尾服のシャツの上につける烏賊のようなかっこうの胸当て、俗にいう烏賊胸《いかむね》だった。  ふんどし一丁のまっぱだかがどうしてそんな正装のきれっぱしを、これ見よがしにくくりつけてあるいているのか。どうやらスルメは、その男のつもりでは、「自分は天気ならば洋装をする身分の者だ」という意味の徽章なのであるらしい。  柳田国男の九州旅行といえば明治四十一年のことである。洋装史の上ではもう「洋服を贅沢品であるとした日露戦争以前に対して、戦後洋服が≪社交用から日常用へ≫と変化し」(『日本洋服史』)つつあったとはいえ、それでも宮崎の僻地まで洋服が日常化していたわけではない。だから日南海岸ではまだ洋服を着ている人間が和服姿の人よりエラかったのだ。  もともと幕末明治の洋服は兵隊と官吏の服から普及しはじめた。だから洋服を着ていればお上《かみ》の人にきまっていた。子供などは、洋服を着ている人がいたら、誰でもお辞儀をするようにしつけられたという。そこでスルメ一枚だってファッションの最前線をゆく、ナウくもイマいハイカラ男と仰ぎ見られたのだ。こんなのはいまだって、いやいまなればこそ、原宿あたりにおどり出れば前衛中の前衛の身体演技者《パフオーマー》ともてはやされるのではあるまいか。  そこへつけ込んで洋服を嵩《かさ》に人をたぶらかす手合いも出たらしい。柳田国男のスルメ男のエピソードは、大正七年に書いた「農に関する土俗」のなかの話だが、すぐに続けて大正初年当時にもまだあった洋服迷信の話が出てくる。 「九州其他の山奥の村には、一薬館|或《あるい》は俗にオイチニとも称して、フロックコートを着て、売薬を売りあるく者が多い」ということだったらしい。フロックコートを着て髭を生やし、どうかすると曰くありげに病人の脈をとりながら髭をひねって、「ふうむ」とうなったりする。すると相手はフロックコートと髭の威力で、つい効きもしない薬を買ってしまうというのだから、洋服の神通力たるやおそろしいものだったわけである。  そういえばオイチニの薬売りは、映画にもなった田宮虎彦の『足摺岬』に出てきた。この小説は時代背景が満州事変後の昭和七、八年頃だから、四国の奥地ではずいぶん近年まで洋服がはばを利かせたものらしい。  もっとも『足摺岬』のオイチニはフロックコートや燕尾服は着ていない。映画では殿山泰司が扮していたように憶えているが、彼は羊羹色に色褪せた詰め襟の黒サージを着、古ぼけた手風琴《アコーデイオン》を鳴らしながら、「オイチニの薬を買いなさい、オイチニの薬は良薬じゃ」と売りあるいていた。  いくら田舎でも詰め襟は鉄道員や小学校の小使さんのそれで見馴れている。それでも手風琴はものめずらしかっただろう。そんなあんまり見かけない非日常的な楽器をもちあるいているからには、病気という非日常的な事態のためにわざわざその人が来てくれたように思えて、これにつられてつい治通丸や熊の胆《い》を買わされてしまう。そんな仕掛けだったのではないかと思う。  話はもとに戻って、柳田国男は、一例がスルメ男の珍妙な得意満面を「洋服の専制」、「髭ある者の迷信」と評している。古い迷信も迷信にはちがいない。しかし洋服や髭を妙にありがたがる新しい迷信もまた迷妄だというのだ。どちらかといえば柳田国男は新しい迷信の方が気にそまない。若い者たちが進歩の固定観念にイカれて炉端の老人の話を一笑するのを、それが迷信という形で伝えられてきた伝承を破壊してしまうのではないか、と民俗学者は憂えているのである。  ドイツ語の迷信 (Aberglaube) という語は字義通りには「別の信仰」である。いま皆が信じている信仰とは別の信仰、かつては信じられていたがいまは信じられなくなった信仰、というほどの意味だろうか。  一つの文化期が終わるとそこで信仰されていた共同主観も終わる。古代ギリシア人が信じていた神話は中世人にとっては異教的な迷信にすぎなかった。けれども異教的古代の神々がルネサンスでよみがえると、ひるがえって今度は中世のキリスト教的信仰が暗黒時代の迷信とみなされる。しかしそう高飛車に出た近代合理主義だって、いつ迷信の側に回されないとも限らない。  柳田国男が憂えた老人の話を笑う若者たちは、鎖国から文明開化へと一挙に激変した時代の文化ショックに遭遇していた。その文化ショックの波のなかで父と子の世代が真っ向から対立し、文化の次元の|父親殺し《パラサイト》がいたるところで発生した。洋服が和服を制圧していったのも、このエディプス的犯行の一例にほかならない。  新旧時代の対抗戦では、一応は若者が勝つ。だが若者が勝てば、旧世代が守ってきた伝承は迷信と片づけられてあっさり消滅するだろうか。若者が旧世代の話をせせら笑っていた炉端には、子供たちもいたことを忘れてはなるまい。息子の世代が親父の古臭い話を一笑に付しても、孫は祖父たちの話にじっと耳を傾けているかもしれないのだ。伝承の運び手は子供なのである[#「伝承の運び手は子供なのである」に傍点]。  見た目には大人が迷信を語っているようでいて、それは大人のなかにいる子供が語っているのだ。ここに、そのことを掌《たなごころ》を指すように言い当てている人がいる。 「迷信は信仰の問題というより習慣の問題です。人が迷信を信じるのは、何も頭からそれを鵜呑みにしているわけではなくて、子供時代のある種の思い出に影響されているのです。そう、大人たちがちっとも(大人)になどなっていないんだと分かってうれしかった子供時代の思い出。そこをどきな、といって黒猫をやり過ごさせた手、(ほらほら、梯子の下をくぐってはだめじゃないの)とか、(新月だよ、何か欲しいものを願掛けしてごらん)とか言っていた声、それがもうひとつの思い出をも喚《よ》び起こしてくれる。あの手も、あの声も——みんな私たちが大好きだった人たちのものだった、という思い出を。  人はたとえ信仰は失せても、習慣の鎖を断つことはためらう。それはちっとも不思議なことではない」  伝承は新旧時代の衝突の現場では「迷信」として葬りさられても、子供(時代)の思い出のなかでは愛する人たちの記憶とともに消えない。子供が成人しても、「大人たちがちっとも大人になどなっていない」のだから、幼年時代の思い出のように居残っている大人のなかの子供が、あれらのファンタスティックな物語をちゃんと憶えている。だから幸いにして、最先端の宇宙科学の理論を勉強したからといって、その人は別段、そのために七夕や十五夜の行事を鼻であしらうということにはなっていない。  言い忘れたが、先に引用した名文句は、しかつめらしい民俗学者や文化人類学者の言葉ではない。発言者は誰あろう、いかにも大人らしいあらゆる大人を悩殺し続けてきたあの大女優、マレーネ・ディートリッヒ。かねて私が愛読している、彼女の『マレーネ・ディートリッヒのABC』と題するディートリッヒ語録のなかから、たまたま冒頭にある Aberglaube(=迷信)という項目を逐一訳出してみたまでのことである。 [#改ページ]   ありがたいお札  この十一月(昭和五十九年)に新札が出た。一万円札が福沢諭吉、五千円札が新渡戸稲造で、千円札が夏目漱石である。福沢、新渡戸には縁が遠くても、夏目漱石だとこちらのポケットにも何枚か入っている。伊藤博文の旧札より一回り小さい。色もブルーのせいかどこか玩具《おもちや》っぽい。  連想が昭和二十一年二月に出た、いわゆる新円切り替え時の十円札に走る。あれはペンキ塗りたてのアメリカン・ハウスみたいなグリーンのインクがけばけばしくて、いかにも占領時代の軍票という感じだった。有難みがない。そのせいか手に入れるたびにたちまちいさぎよく手を離れてしまう。いわば戦後インフレの促進剤という記憶がある。すると今度のも、インフレを促進するつもりのデザインなのかしら。  しかしまあそんなことはどうでもよろしい。新札ショックはいずれはおさまる。旧札にも、新札にも、おなじみの「日本銀行券」の文字が明記してあるから、要するに変わったのはデザインにすぎないのである。  あとはこのデザインに馴らされるというか馴れるというかで、旧札のときと同じように、夢のなかでは分厚い札束をぐいと鷲づかみにしていっぱしの悪党気分になり、現実には薄っぺらい財布がみるみる薄っぺらいうえにも薄くなってゆくというお寒い毎日が、これからも続くのだろう。  日本銀行券以前の最初のお札は政府新紙幣だった。その政府新紙幣がはじめてお目見得したときには、紙幣デザインの問題ではすまなかった。はじめて見る西洋式の紙幣にうろたえる珍事がずいぶん続出したらしい。一例が当時甲府で出ていた明治五年十月発行の「峡中新聞《きようちゆうしんぶん》」第三号に、この種の珍話が載っている。 「信州高島堀田松蔵なる者会社(新聞社)に来《きた》り語つて曰《いは》く、余が知己《ちき》豆州那賀郡松崎の商鈴木熊蔵の話に、同村寡婦多喜と言ふ者神棚に拾円札一札を祀《まつ》れり。その故《ゆゑ》を問へば、曰く、頃日《けいじつ》海辺へ出《いで》しに波打際に一箇の油紙包あり、披《ひら》き見れば金毘羅《こんぴら》の御札なり。凡《およそ》五、六十枚も有りしならん。多数の御札を残らず携へ来て、若《も》し粗末にならば、勿体《もつたい》なしと思ひ、内《うち》分けて一枚を戴《いただ》きたるが是《これ》なり。其余《そのよ》は三拝して海に投ぜりと答へしとぞ。憫笑《びんせう》すべし」  豆州那賀郡松崎は、西伊豆海岸の松崎温泉のあるあたりだろうか。そこの字の読めない婆さんのお多喜さんが、ある日海辺で油紙に包んだ五、六十枚の十円札を拾った。総計五、六百円。明治五年の田舎ずまいのお婆さんなら、うけ合って一生|左《ひだり》団扇《うちわ》で暮らしていけた。それを一枚だけ残して海に流してしまったというのだ。  しかし、いくら文盲のお婆さんでも十円札の模様くらいは判別できただろう。誰だってそう思う。それにお札《さつ》は横長、お札《ふだ》は縦長がふつうである。金毘羅様のお札《ふだ》ならいまでも見かけるが、横長のお札《ふだ》はない。ではお多喜婆さんはもうろくしていたのだろうか。  そうではなかったのである。明治五年といえば廃藩置県の翌年に当たる。それまでの通貨だった藩札が消えて、はじめて政府発行の紙幣が登場した。お多喜婆さんはそれをはじめて見たのだ。  しかもこのときの新紙幣は現行紙幣のように横長ではなくて、明治政府がドイツに注文印刷して国内で発行したもので、規格がいわゆる「縦札《じゆうさつ》」だった。縦長の札の中央に「金拾圓」とあり、左右に鳳凰、下部に竜の模様がデザインされている。  藩札しか見たことのないお婆さんはこれがお金とは露思わず、てっきり有難いお札《ふだ》と勘違いして、「若し粗末になつては勿体ない」と一枚を神棚に上げて拝んだ。あとは海にすてた。その方が「勿体ない」と思うのは現代の俗物で、信心深いお婆さんはお札が粗末になっては「勿体ない」とおそれいったのだった。「憫笑すべし」どころか、お婆さんをまるごと神棚に上げて拝んでやりたい。  藩札と新紙幣の行き違いはかなりあとを引いたらしい。藩札そのものではないが、明治十年の西南戦争時に薩軍が発行した西郷札《さいごうさつ》という軍票がある。十銭、二十銭、五十銭、一円、五円、十円の六種類があり、裏面中央に「通用三ケ年限」とあって、左手に「此札ヲ以テ諸上納ニ相用ヒ不苦者也」の断り書きがある。  贋札ではないが、戦時の戦費調達にしか通用しない手形である。それでいてもう一つの断り書きに「此札ヲ贋造[#「贋造」に傍点]スル者ハ、急度軍律ニ処スル者也」とあるのが、大変身勝手で面白い。 (挿絵省略)  西郷札の期限は右の通り三年間限りだが、通用期限の切れた明治十三年に、この西郷札をめぐる事件が「有喜世新聞《ありきせしんぶん》」の話題になった。  西郷隆盛ファンの大阪商人柳井七兵衛が、お守札がわりに財布に入れていた西郷札を丸薬を買いに入った薬店でうっかり使ってしまった。翌朝気がついてとり戻しに薬屋へかけつけると、丸薬を売った薬種商播磨屋嘉平が例の西郷札を神棚に上げて拝んでいる。こちらもまさるとも劣らぬ西郷ファンだったのだ。三年越し、金に糸目をつけぬ、なんとか西郷札を一枚欲しい、と思っていた矢先に西郷札がとび込んできた。これぞ「此家の栄ゆる瑞相《ずいそう》」と神棚に上げたのだという。  七兵衛、これを見て返してくれと迫るが、嘉平の方もゆずらない。あわや裁判沙汰になろうというところを、ようやく示談で札は七兵衛の手許に帰ったというもの。  通用力のない紙幣が、ときには現行紙幣より値打ちが出てしまうことがあるという一例である。もっとも古銭マニアの間ではこんな話はいまでも珍しくないのかもしれない。  それで思い出したが、オーストラリアのアデレイド大学からときどきわが家に遊びにくるドイツ文学者のトニー(アンソニー・スティーヴンス)さんから、オーストラリアの内陸部にある奇妙な独立王国の話を聞いたことがある。なんでもさる大土地所有者が勝手に王位を名乗り、男爵位や伯爵位を従業員に濫発し、あまつさえその王国だけに通用する紙幣や郵便切手を発行して、オーストラリアじゅうの大問題になっているというのである。  わが国でも大正七年にG(群馬)県のM(前橋)市のある小学校で、その五年生のクラスにだけ通用するお札を小学生が発行したことがある。五十円札、百円札、なかには当時はまだなかった一万円札というのもあった。  むろんこれはフィクションで、ご存知のように、谷崎潤一郎の『小さな王国』のなかのエピソードである。国家内国家がお札を発行する話は、近くは井上ひさしの『吉里吉里人』にも出てくるが、吉里吉里国の一万イエン札は兌換紙幣で、吉里吉里国立銀行へ行くと窓口の姐ちゃんが八グラムの純金に換えてくれるというから心強い。  オーストラリアの某王国の紙幣はどうなのだろうか。その点はトニーさんに聞き忘れた。ところでいま気がついたのだが、『吉里吉里人』の作者井上ひさしは、たしか昭和五十年にオーストラリアに半年間滞在していたはずである。ひょっとすると吉里吉里国立銀行のアイデアは、爵位授与に関しておそろしく気前のいい、かの輝かしき王国の国立銀行がモデルだったのではなかろうか。 [#ここから4字下げ] *本章の掲載号「QA」(昭和六十年二月号)が出てまもなく、未知のルポライター森本剛史氏からお手紙を頂いた。「漫画アクション」連載「東経一三五度の隣国オーストラリア」中の「激動世界で、こんな独立の仕方もあるのだ。ハットリバー王国」(昭和五十六年六月十八日号)のコピーが同封されている。これぞ、トニーさんから聞いた幻のオーストラリア国家内国家の現地ルポであった。滅茶苦茶に面白い。  ハットリバー王国は実在し、国王プリンス・レオナード(五十五歳)も現存している。総人口三十人、羊八千頭、車二十台。銀行はないらしいが、礼拝堂、郵便局、法廷、モーテル、食堂、売店等が完備し、出入国管理事務所並びに国王執務室は郵便局が兼ねている。「年平均約六万人の観光客が来ます」とのシャーリー王妃談であるからには、農業と観光が立国の基盤である。五十六年現在で建国十一年目。くわしくは森本剛史氏の同レポートを一読されたい。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   霊柩車の運転法  以前、散歩の通り道の道端に、ロケ用の送風機やらライトやらを積んだトラックが、長々とつながって駐車していたことがあった。はたせるかな、伊丹十三さんの家で撮影中ということだった。伊丹さんのお宅は、湯河原の私の住んでいるところから丘一つへだてた旧道の下手にあって、私は散歩の往き帰りによくこのあたりを通るのである。出来上がった映画は『お葬式』だったので、上京した折に早速観に行った。  家族の一人が急死して、日常生活にそこだけぽっかりと穴があく。ふいの出来事にうろたえると、日頃自明と思われていた意識の構造がゆらぎはじめる。ときには日常生活と異界をへだてている禁忌が解体して失効してしまう。  文明最大の禁忌は食人《カニバリズム》と近親相姦の二つである。会葬者たちは精神の退行した先で、ゆくりなくもその禁忌が失効する現場に出合うことになる。たとえば主人公は、気まぐれな母親にあちこち引き回された幼時の記憶そっくりに、得体の知れないヒステリー女に引きずり回されて、はては野外セックスを強要されるし、彼の妻は父親に遊んでもらった時分の幼女に立ち戻ったように、突然ブランコを漕ぎはじめたり、従弟と学芸会的に幼稚なお座敷ダンスを踊ったりする。  近親相姦すれすれのこうした場面は、冠婚葬祭のための一族再会のシチュエーションでは、現実にもかなり露骨にお目に掛かることがある。一方、食人《カニバリズム》のほうはどうかというと、この映画でも伯父、甥の資金をめぐる感情的|鞘《さや》当てにチラと顔をのぞかせるが、ふつうはもっと大々的に、通夜の席からもう遺産相続をめぐる骨肉の争いが表面化したりする。映画では故人はポックリ死んで、さほどの遺産を遺《のこ》していないという設定なので、露骨な遺産相続問題は起こらない。そのほうはどうやら横溝正史原作の角川映画にあずけたのではないかと思う。  代わりにお通夜やお葬式の後にむやみにものを食べる場面が出てくる。故人の所有物(未開時代ならさしずめ故人の肉体)を生き残った全員が分かち合ってむしゃむしゃ食べてしまうという太古的心理遺制は、そんな形で現代にも生きながらえているのである。  いまにアレが出るぞとわくわくしていたら、はたしてアレが出てきた。霊柩車のお出ましである。坂の上から巨大な金色のかたまりが、陽炎《かげろう》に溶けるような浮遊感のうちに音もなくとろとろと下りてくる。  フレームの取り方にもよるが、一体に映画のなかの自動車は、奇妙に幻想的な感触があっていつ見ても飽きない。とりわけ遠景からスローテンポで動いてくると、人間とは無関係の、それ自体で意志のある昆虫のような生き物に見えるのがいい。この映画でも、赤いスクーターにヘルメットというカマキリ・スタイルの郵便配達夫が同じ道を超スローテンポで下りてくる場面が、ジャン・コクトーの映画の自転車乗りを思わせて幻想的だった。しかし、圧巻はなんといっても霊柩車だろう。  とっさに、これは宮型《みやがた》だな、と直感した。屋根の上に金色の大竜が乗ってあたりを睥睨《へいげい》している。してみると宮型は宮型でも、正確を期するなら、「神宮寺宮型四方破風総黄金造り〈大竜〉」のわけだ。  付け焼き刃ながら、近刊の井上章一『霊柩車の誕生』(朝日新聞社)を読んだばかりなので、その方面の知識はセミプロ級に昇格しているのである。これはめったな人には乗れない超一流車である。全車金箔ずくめのうえに、車の内部まで細密な彫刻にぎっしりと覆われている。井上章一の解説によると、 「この車の値段は、昭和五十七年現在で一三四一万円。もちろん加工費用だけであり、エンジンやシャーシーの代金は含まれない。かなり値のはるものである。これだけデコラティブな車にしようと思えば、それくらいの出費は覚悟しなければならないのかもしれない」  宮型霊柩車は宮型の輿《こし》が起源だという。もとは人力で担いだのを、人力車からエンジン車へと動力が発達して、現在のデザインに到達したものらしい。日本独特のデザインだが、欧米ではどうだったのだろうか。  井上章一の『霊柩車の誕生』の挿絵にも、欧米の霊柩車は何台か登場してくる。側面がガラス張りだが、大抵はコフィン型のデザインで、屋根の部分が棺蓋の形に優雅にカーヴしたりしている。その屋根になった棺蓋をギーッと持ち上げて、いまにもドラキュラ伯爵がにゅっと犬歯をむき出してきそうな、黒塗りの棺そのものの形だ。この棺形の霊柩車のなかにもう一つ入れ子状に真物の棺を納めて運ぶのである。エジプトの王家の谷が発掘されたときの棺は五重の入れ子になっていたというから、身分によっては、もうすこし厳重な梱包で固めるのかもしれない。  しかしこの大きめの棺の形をした西洋霊柩車も、それほど大昔からあったものではない。ヨーロッパの霊柩車のもともとの起源は、奇妙に聞こえるかもしれないが、農作業に使うあの「馬鍬《まぐわ》」であった。  古い馬鍬は鉄製の三角形の枠からなり、その尖端に鋭いとんがりがついている。十三世紀頃から農夫たちは、このとんがりに蝋燭《ろうそく》をさして燭台に転用していたのである。長柄を持って持ち運びができるので、ことに野外照明用に使われた。まして埋葬のような野外作業には絶好の照明具だったので、埋葬当日の墓地には夥《おびただ》しい馬鍬が林立して、遠目には星空かと見紛うばかりだったという。  これがいったん儀式用具となると、それなりの機能を発達させて、長さもぐんぐん伸びて二メートルを超えるやら、これに黒布の旗を巻いたり哀悼詩を貼付したりするやら、さまざまに意匠が凝らされた。そしてある日、馬鍬を横に倒して、これを担架代わりに、その上に寝棺をのせて運ぶことを思いついたのだった。あとは時間の問題である。車輪をつけて会葬者が引いて行く。やがて人力の代わりに馬をつなぎ、エンジン車をつなげた。  だが、もともとが馬鍬の柄を担架に組んだのだから、原始的な人力霊柩車はおそろしくゆっくりした速度で死者の家から教会まで運ばれていた。いきおい葬列も緩慢なテンポで、しかも一時も立ち停まることなく、進む。葬列のあゆみのゆるやかさはむろん死者への敬意をあらわしてのことだが、そればかりではない。時ならぬ死の訪れをうらむ死者の霊魂はこの世を去るのをいやがっている。葬列が一時休止したりするとその隙に魂魄《こんぱく》が肉体からさまよい出て、残された遺族や友人にとり憑《つ》くという迷信[#「迷信」に傍点]のために、できるだけ静かに、しかも小止《おや》みなく、棺を運ばなければならないのである。  映画『お葬式』の霊柩車は最後のお送りがすむと、火葬場までの人目のない農道を猛烈ないきおいで突っ走った。どうやら葬儀屋は、午後にもう一軒客先があるので営業回転率を高めなければならないらしい。  これでは霊魂がスワ地震とばかり跳び起きて、崖縁から転げ落ちてしまいかねない。現代の死者たちは、迷信[#「迷信」に傍点]のブレーキでもかけて暴走をくいとめてもらいでもしないと、おちおち死んでいることもできないのではあるまいか。 [#改ページ]   浅右衛門の胆蔵《きもぐら》  悪運尽きた大泥棒がついに絞首台の上にぶらりと吊るされる。すると死刑囚の身体から出た最後の精液(または小水)が絞首台の下の地面にとびちって、そこからアルラウネという植物が生えてくる。  別名を「|絞首台の侏儒《ガルゲンメンライン》」。ともかくも死刑囚の精液[#「精液」に傍点]から育ったので、おそろしくちっぽけな人間の形をしている。今日でもウィーンやベルリンの博物館とか、ミュンヘンの植物生理学研究所とかには実物(らしきもの)が収蔵されているので、あるいはご覧になった方もおいでかもしれない。  なかでもウィーンの帝室王室図書庫所蔵のものは、一六八〇年以来保管されている。これは文字通り大変な貴重品である。なぜかというと、十七世紀末の購入当時アルラウネはべら棒な高値を呼んでいたからだ。それから十年後の一六九〇年にハルトマン・ハンスという男がスイスのチューリヒでアルラウネを売ろうとした廉《かど》で告発されたことがあるが、このときの売り値が何と金貨百ターレルだったという記録がある。  一方、死刑囚の精液から生まれたあやしげな植物というような二次的産物ではなくて、もっと手っ取り早く、絞首台の悪党の肉体の一部そのものを切りとって護符に仕立てるという便法もあった。泥棒の拇指《おやゆび》を切りとるので、その名も「泥棒の拇指」という魔法である。  死刑になるほどの大悪人はそうめったに出るものではない。原料が稀少なところへもってきて、ミイラ状に乾燥したやつにしばしば金や銀のかぶせ物をしていちだんと見栄えをつり上げたので、これまたべら棒に値が張った。けれどもこいつを持ちあるいていると運がつくので、偶然をあてにする職業人にはまことに頼りがいのあるお守りだったのである。たとえば客待ちでその日その日をしのぐ宿屋の亭主には、泥棒の拇指が思いがけない客を呼び寄せてくれそうに思えたし、博徒にはこれさえあればツキがこちらに回るのだから、いくら張り込んでも悔いはなかったのだ。  そういえばわが国でも、博徒が罪人の墓石のかけらを幸運の護符として珍重する慣らわしがある。両国の回向院《えこういん》の鼠小僧次郎吉の墓の前には、本来の墓のほかにいわゆる欠き墓が据えてあって、博徒や水商売の女性がすこしずつ墓を欠いて持ち帰ってゆく。洋の東西を問わず、客商売やサイの目稼業のように偶然が相手の渡世には、悪党の身から出た錆のようなものが大いに威力を発揮するらしいのだ。 (挿絵省略)  時は幕末、麹町平河町の山田浅右衛門の屋敷内に「胆蔵《きもぐら》」という別棟の蔵が建てられていた。老僕の徳七というのが蔵を管理していて、めったな人間は立ち入りを許されない。それもそのはず、なかへ入ると、夥《おびただ》しい人間の肝臓《きも》を絹糸でくくって天井からぶら下げてあるのだった。  いうまでもなく山田浅右衛門は通称首斬り浅右衛門。代々の首斬り役人で、とりわけ七代目浅右衛門吉利は、安政の大獄の吉田松陰、頼三樹三郎、橋本左内等を斬首したことになっている。  やがて徳川の瓦解に遭遇して、山田家は八代目が最後の浅右衛門となった。この八代目浅右衛門|吉亮《よしすけ》も、雲井龍雄、島田一郎、長連豪、杉本乙菊のような志士を斬首し、下って明治十二年には高橋お伝の首を斬ったとされている。  とされている、と書いたのは、高橋お伝にかぎっては、実際に手を下したのは浅右衛門ではなくて、弟五三郎だったという邦枝完二の考証があるからである(『双竹亭随筆』興亜書院)。明治十二年一月三十一日お伝処刑の当日、浅右衛門吉亮はたまたま風邪を引いて起き上がれなかった。そこで、いやいやながら五三郎が代役に出て、あわれなお伝の細首を、それも一太刀では斬れずに、三太刀も打ち込んでようやく始末したあと、世をはかなんで忽然と姿をくらましたということである。 『お伝地獄』の作者邦枝完二だけに、この考証は相当の信憑性があると見ていいだろう。もともと八代目浅右衛門は剣の力では弟五三郎に一歩を譲り、処刑の日にはいつも五三郎同道で刑場に入って、手に負えそうにない難物は五三郎にまかせていた。お伝はもとより夜嵐お絹を斬ったのも、実は五三郎の関孫六兼光だったという。とすれば、ほかにも浅右衛門執刀と伝えられていて、実は五三郎の手になった処刑がいくらもあったかもしれない。  いずれにせよ兄弟で斬りまくったので、夥しい数にのぼる刑死人に遭遇した。その死体から肝臓を抜いて蔵に吊り下げたのである。 「肝臓の下には二つの瓶が置かれて、肝臓が固まるまでは、血と脂肪がぽたり/\と瓶の中へ垂れてゐた」(『双竹亭随筆』)  頃合いを見計らって、その身の毛のよだつような肝脂肪のかたまりを蜆《しじみ》貝につめる。すると「一貝一両で羽が生えて飛ぶやうに売れた」。  蜆貝につめ分ける前の肝臓そのものは一体分が五両。相場は長年動かなかったものらしく、のちに山田家が左前になってからも、裏隣りの質屋大和屋では毎度五両で質種に引き取っている。  まさに西洋のアルラウネ張りの高値で、そのせいか最盛期の山田浅右衛門家は実力五千石高のちょっとした小名並みの暮らしだったという。蜆貝の中身をそれほどの大金で引き取っていくのは女道楽のはてに鼻がもげそうになった梅毒病みで、つまりは梅毒の妙薬と信じられていたのである。  面白いエピソードがある。ときおり平河町の浅右衛門邸の門を夜陰ひそかにほとほとと叩く者があった。これが上州無宿の何某とか信州無宿の何某とかいう名うての凶状持ちで、「どうせ、旦那のお手に掛って死ぬ体でござんすから、今のうちにいくらかでも、胆代《きもだい》を恵《めぐ》んで頂き度うござんすとの口上で、二分とか一両とかをせがんで行く」のである。  臓器交換の予約販売とでも申せようか。いやはや無頼の面構えもここまでくればあっぱれと言うほかはなく、浅右衛門もさすがにこの無心ばかりは一度も拒んだことはなかったということである。  明治も文明開化を迎えると山田家はみるみる傾いた。梅毒の妙薬=肝臓のあやしげな迷信が開化の光にさらされて地をはらったからではない。啓蒙の光の波も追々やってきはするだろうし、斬首という処刑方法そのものが時代遅れにもなるだろう。だが山田家の糧道を断つ悪運は、何よりも廃刀令(明治九年)とともにやってきたのである。  肝臓の蜆貝づめがいくら羽の生えたように売れたといっても、所詮はささやかな副収入にすぎない。これまた同じく副収入とはいえ、浅右衛門一統には暗黙裡の役得としてばかにならない収入源があった。  処刑のたびに諸大名や旗本が新刀の試し斬りを依頼にくるのである。徳川二百五十年の泰平が続いて、刀は実地に肉を斬り骨を断つチャンスにめぐり遭うことはない。唯一合法的になま身の人体を斬る場は斬首処刑の刑場しかなく、しかも斬首の特権のある人間は浅右衛門しかいないのである。  この新刀試し斬りの截断料が毎度十両ずつ入ってきた。これが五千石高の暮らし向きを支えていた財源だったのである。明治維新後十両の截断料は五両から三両へとしだいにダンピング傾向にあったものが、廃刀令とともに完全にお手上げになる。刀剣の実用性そのものが無意味になったのだから、もはや試し斬りを発注する依頼主そのものがいなくなった。  邦枝完二はところも麹町平河町生まれの作家なので、八代目山田浅右衛門一家の末期をも見とどけている。世が世なら泣く子も黙る九代目浅右衛門を名乗ったはずの長子は、いささか刀剣の目ききに心得のある人だったが、それ以外にこれといった能はなく、もう一度首斬り役の戻ってくる世を夢見ながら、なすこともなく明治大正昭和の三代をさまよった。 「昭和の初め頃まで、この長男が老ぼれた姿をして、昔の知人を頼つて塵紙を売つて歩いてゐるのを、わたしはよく見掛けたが、その後四谷永住町の木賃宿で、世話する人もなくて死んだと聞いた」  邦枝完二はそう伝えている。さしも金の成る木と見えた胆蔵のストックも、一代にして尽きたのである。 [#改ページ]  第㈿章 暦   十三日の金曜日  土曜日と日曜日は海の上も人出が多い。そこで出帆は金曜日と決まった。昨年の三月十五日金曜日朝七時、友一丸は意気揚々と湯河原福浦港を出発した。同乗の一行は、作家の青野聰、舞踏家石井満隆、「文藝」編集長高木有、それに私ほか総勢八人。目的はキス釣り。  その日はうすら寒く、海上は雨もよいに荒れた。それでも友一丸は獅子奮迅のいきおいで健気《けなげ》に奮闘した。当日の漁獲高キス八匹、イワシ二匹。私たちは陸に上がると、一匹につき概算四千円のキスまたはイワシの唐揚げを賞味するという最高級の贅沢を味わったといえば聞こえはいいが、ありようは惨たんたる不漁であった。 「今日は水温が低すぎただよ」  友一丸船長は科学的にそう説明し、一同は不漁の原因を技術的未熟にもとめる。たしかにそれも理由のうちにはちがいない。しかし負け惜しみに都合がいい理由となると、これはまた話が別である。「日が悪かった」のだ。金曜日がまずかった。イタリアの諺詩にこんなのがある。   金曜日には、水曜日には、   求愛するな、船出をするな。  よりによってその金曜日に船出をしてしまったのだ。金曜日の船出は古来禁物である。海商国オランダでさえこの曜日には船を出さない。その向こうを張ってということではあるまいが、かつての海賊国イギリスの海軍省が、この禁忌に敢然と挑戦したことがある。  この悪日に船出した問題の戦艦はその名も「戦艦フライデー」号。わざわざそのためにあつらえた新造船である。着工式も進水式も金曜日を選び、むろん処女航海の日は金曜日で、艦長の名はジェイムズ・フライデー提督。金曜日ずくめの「戦艦フライデー」号は定刻に首尾よく出発した。  ついにタブーは破られたのだ。ここまではなんの滞りもなかった。それから先はどうなったか。この日以後、誰もふたたびフライデー号とその乗組員を見た人はいなかったということである。  ことほどさように、タブーはそれを破るといっそう大きな危険として舞い戻ってくるのである。友一丸の乗組員はキスが釣れなかっただけで、全員無事帰着したが、おそらく当日が十五日金曜日だったためであろう。これが十三日金曜日だったら、まず水難は必定と見なければならない。  十三日の金曜日。キリスト受難の日であることは誰でも知っている。十三という数がいけない。最後の晩餐には十三人が集まり、なかの一人であるユダがキリストを売った。キリスト教社会ではいまでも十三人のパーティは禁物である。ホテルや病院には十三階という階がない。十三階が現実にはあっても、十二階の次が十四階になっている。わが国の病院に四号室や九号室がないのと同じような数忌みである。そういえばグスタフ・ヤホダの『迷信の心理学』(塚本利明/秋山庵然訳・法政大学出版局)にはごく近年のこんなエピソードが紹介されている。 「イギリスの女王が一九六五年西ドイツを訪問されたとき、ドゥイスブルクの駅長は、女王の列車が発車することになっていたプラットホームの番号を、十三番から十二番Aに変えるよう手配した」  それほど縁起の悪い十三と金曜日が一緒になれば、これはもう悪いことしか起こらないというのが当然だろう。むろんそんなのは「迷信」と片づけることは簡単である。しかし自己暗示というものがある。それが集団的規模で起こると、影響もばかにならない。いま引用した『迷信の心理学』のグスタフ・ヤホダもそのことを指摘している。 「もしかなり多くの人間が、十三日の金曜日は不吉だと考えているとすれば、それはこの日の彼らの行動にも影響を与え、いつもより気分が不安定になり、神経質になり、不安になるかもしれない。したがって、(十三日の金曜日の)高い事故率は、実はそう信じていたことの結果であるのかもしれない」  グスタフ・ヤホダは暗示の効果を実証するために、人間の場合と動物実験の場合の二つの例をあげている。  人間の例は四十三歳になるカナダの中年女性の場合である。彼女はちょっとした手術を受けるためにさる病院に入院した。手術そのものは順調に進み、手術室を出る前に意識をとり戻した。それが一時間後に突然虚脱状態になり、翌朝あわただしく死亡した。解剖の結果副腎に大量出血が見られたというが、医学的にはなぜそうなったかは分からない。のちに判明したところでは、彼女は幼時に占い師から四十三歳で死ぬという予言を聞かされていたのだった。  動物の例はネズミの既成生活集団のなかに新参のネズミを投げ込んでみる実験である。新参のネズミは既成集団のすくなくとも一匹から攻撃を受けてすぐに死ぬ。しかし実際に負った外傷はとても致命傷にはならぬ程度のものにすぎない。そして解剖をしてみると、かならず副腎がやられている。  十三日の金曜日を大多数の人びとが悪日と思い込んでいる社会で、一人|我《が》を張ろうとすれば新参のネズミのようにやはり副腎をやられるのである。カナダの中年女性の方は知らぬまに占い師の暗示にかかっていた。幼時にかけられた暗示の力は大きい。当人が意識の上ではすっかり忘れているか「迷信」と片づけていても、無意識はちゃんと記憶していて、頭ではなくて副腎を狙って復讐の挙に出る。  では、十三日の金曜日は世界中のどこででも忌み嫌われているかというと、そうではない。イスラム圏では金曜日は吉日で、とくに結婚にとって幸運をもたらす日である。ジプシーの間でも金曜日は愛の日ときまっている。もともと金曜日の「金」は「金星」、つまり愛の女神ヴィーナスの意味である。時代をさかのぼれば、ローマではこの日は「ヴィーナスの日」(dies Veneris) で、元老院もこの日一日は休会して、市民こぞって愛と快楽に耽った。ラテン系の国々ではいまでも vendredi(フランス語)とかvenerdi(イタリア語)とか、曜日名にヴィーナスの名が残っている。  一方、ゲルマン系の Freitag(ドイツ語)、friday(英語)は、これもラテン系のヴィーナスに相当するゲルマン神話の愛の女神フリヤー Frija (Frigg) が語源で、ドイツ語では「求婚する」という意味の動詞 freien にその痕跡が残っている。この日は求婚し求愛し、ヴィーナスやフリヤーの加護の下に大いに現世の快楽を謳歌するがよろしかったのだ。  すくなくともヨーロッパがキリスト教化されるまでは、金曜日こそが吉日だったのである。けれどもキリスト教がヨーロッパを席巻するや、吉日と悪日とが百八十度転換され、ヴィーナス崇拝の異教的祝日が最悪の不吉な日となってしまった。もっとも、同じキリスト教社会でもプロテスタント人口の多い地方では金曜日に対する禁忌は比較的薄い。北ドイツやポンメルンではいまでも金曜日は結婚式のための吉日である。  するとカトリック国イタリアのあの諺詩は、これらの地方やわが異教徒圏では「金曜日には、水曜日には/求愛せよ、船出せよ」となるのが正しいわけだ。  われら友一丸一行が吉日金曜日を選んで船出したのは間違いではなかったのである。ただしそうなると、例の金曜日の不漁の原因は、水温が冷たすぎたか、あるいは釣り人の技術が拙劣[#「釣り人の技術が拙劣」に傍点]だったか、二つに一つしかないことになる。ここはやはり「科学的」に、水温が冷たすぎたということにしておこうではないか。 [#改ページ]   四月一日は馬鹿《フール》になろう  昭和四十九年四月一日午前七時半頃、山梨県南都留郡河口湖町の船津小学校に、男の声で学校に爆弾を仕掛けたという電話があった。当日の夕刊には「同校はこの日午前九時から始業式、同十時から入学式を行なうので、登校する児童を校庭片隅に避難させるなど大騒ぎ」。  いわずと知れた四月馬鹿《エイプリル・フール》のつもりで仕掛けた架空爆弾であった。  四月一日、万愚節。この日に限って人をだまくらかしてもいい。嘘をついていい。右の事件からしても察しがつくように、クリスマスとヴァレンタイン・デーの次くらいには普及しているあちら産の風習である。もっとも、この「爆弾犯人」の手口にはいささか雅量がなくて、四月馬鹿の意味がよく呑み込めていないのではないかという疑いもある。  ちなみに右の新聞記事は、日置昌一『話の大事典』(名著普及会)からの孫引きだが、ついでに同書のなかの本場西洋のいくつかの四月馬鹿事件の事例を紹介しておこう。信じ難いことだが、これはいずれも現代の話である。  フランス国営放送がある年の四月一日に「EC六カ国がイギリスにならい左側通行を採用する」というニュースを朝から晩まで流した。次の年には「聴取者を先着順に飲み放題、食い放題の空の旅にご招待」と放送して、申し込み場所をエッフェル塔下に指定したところ、三千五百人が押し寄せて、ついにパトカーが出動、警官が整理に乗り出す羽目に立ち至った。  一方、ストックホルム放送(一九七七年四月一日)は、市内の運河にサケが大量にのぼってきて手づかみで獲れると放送したために、市民が大挙して押しかけて大混乱になった、等々。  以上からも分かるように、四月馬鹿の嘘は主として「無駄足をふませる」嘘なのだ。そういえば綿谷雪氏の『ジンクス』(三樹書房)という本にも、この種のナンセンスな四月馬鹿話がどっさり紹介されている。たとえば『イヴの祖母さんの歴史』という本を買いにやらされたとか、鳩のミルクを買いにやらされたとか、あるいは一八六〇年に実際にあった事件では、ロンドンのタワー・ヒルで宴会を催すのに、来客に白堊門《ホワイト・ゲート》から入場するよう特に注文をつけたとかいう話である。  これらはすべて、ない[#「ない」に傍点]ものをめがけて突っ走るように命じた指令だった。創世記のイヴは世界最初の女性だから、祖母さんはいない[#「いない」に傍点]。鳩にはおっぱいがない[#「ない」に傍点]から、鳩乳《ミルク》は出ない[#「出ない」に傍点]。ロンドンのタワー・ヒルに白堊門という門はない[#「ない」に傍点]から、ない[#「ない」に傍点]門から入場することはできない[#「できない」に傍点]。  名だけあって実体のないものを持ってこいというのだから、あわて者が真に受けて走り出せば、どこへも行きつかなくて無駄足をふむ。当節の記号学でいえば「シニフィアンの戯れ」を、当人がその気もないのにまんまとやらされてしまう。その踊らされた馬鹿がエイプリル・フールという道化《フール》であり、|四月の魚《ポワソン・ダヴリル》というカモなのである。  四月馬鹿の起源にはいろいろな説がある。なかで有力なのは、旧約聖書の「ノアの方舟」のエピソードに遡る起源説である。創世記第八章、方舟のなかで洪水を避けていたノアがそろそろ退屈してきて、陸《おか》にどれだけ近づいたかを知りたくなった。「彼地《かれち》の面《おもて》より水《みづ》の減少《ひき》しかを見《み》んとて亦鴿《またはと》を放出《はなち》いだしけるが、鴿其足《はとそのあし》の跖《うら》を止《とどむ》べき處《ところ》を得《え》ずして彼《かれ》に還《かへ》りて方舟《はこぶね》に至《いた》れり其《そ》は水全地《みづぜんち》の面《おもて》にありたればなり」  鳩は飛べども飛べども一望見渡すかぎりの水のため、ない[#「ない」に傍点]陸に着地することができなく[#「できなく」に傍点]て、すごすごと方舟に戻ってくる。ノアが鳩に「無駄足をふませた」ヘブライ暦のこの日が、現行暦では四月一日に当たる。だから四月一日にはノアに倣《なら》って人に無駄足をふませるような嘘をついてもいい、というのである。  ドイツ語ではこの故事がイディオムとなっていまも残っている。in den April schicken といえば「四月馬鹿を仕掛ける」というほどの意味だが、文字通りには「四月に送り込む」である。  四月 (April) のラテン語語源 apricus は「さんさんと陽光あふれる」とか「太陽に照らされた」の意。つまり、方舟の真っ暗な船倉に閉じ込められていた鳩を、この日を期して、四月のさんさんと陽光あふれる大気のなかに飛び立たせてやったのだ。暗い冬から春へ、無駄足ながら鳩の飛び立ちは、地中に閉じ込められていた植物の胚子がいっせいに芽を吹くよろこびのメタファーである。とすれば四月一日は、春の訪れを祝って陽気にさわぐ春祭りの名残なのだ。  ローマの春祭りサトゥルナリアを四月馬鹿《エイプリル・フール》の原型とする説もある。サトゥルナリアは一種の馬鹿祭りで、この日一日だけはいっさいの現行秩序があべこべに引っくり返される。主人が奴隷になり、奴隷が主人に命令を下す。サトゥルナリアは古代ローマでは十二月十七日におこなわれたが、のちには日付けがすこし先にずらされたのである。  いずれにせよ旧暦と新暦との間の暦のズレが問題である。キリスト教社会一色となっていた中世以後のヨーロッパでは、ヘブライ暦やローマ暦の年中行事は、表面は忘れ去られたかのようになっていた。その、意識の上ではもはや実体がないと考えられていた旧暦の秩序が、記憶にはしぶとく蟠《わだかま》っていて、当日がくると現行の暦行事にはない[#「ない」に傍点]祝祭行事が突如として表面化されるのである。  ところが現存の社会は旧暦の旧行事を暦に組み込んでいないので、このお祭りは地に足がついていない空さわぎにならざるを得ない。春祭りが転化してできた四月馬鹿の空さわぎめいた性格も、どうやら新旧の暦のズレに由来するのである。  そのくらいだから、体制が変わって新たに登場した権力がむやみに暦制を変えたりすると、大きな混乱が起こる。古い暦に立脚していた人びとは、新しい暦法では足が地につかない。そこで毎日が空さわぎになって、ついには持続的な暴動にまで発展したりもする。  明治五年十二月二日、大隈重信は突如として太陰暦を廃止して、太陽暦採用を断行した。暦法の近代化といえば聞こえがいいが、実はウラがある。  改暦の翌年明治六年は、太陰暦では三年に一度の閏月《うるうづき》がきて、一年が十三カ月である。これでは政府官員に年十三回の月給を支払うことになる。これを太陽暦にすれば一年は十二カ月。しかも改暦の年は十二月が即、一月になるので、改暦によって年間二カ月分の月給を棒引きにできる。そこへ目をつけて大隈重信は、暦の上の数字操作だけで実質給与の大幅削減をまんまとやりとげた。これまたシニフィアンの戯れだが、戯れられたほうは実害がドカンと腹にこたえた。 『大隈伯昔日譚』等の資料からこの陰謀を裏づけている岡田芳朗の『日本の暦』(木耳社)は、無謀な改暦の結果続発した暴動のことを報告している。明治六年に入ると、福井県大野・今立・坂井の三郡下や、鳥取県会見郡で騒擾《そうじよう》が起こり、福岡でも大規模な士族反乱が起こった。そのいずれにも「新暦を廃する事」の要求があった。ちなみにイギリスでも、一七五二年にユリウス暦からグレゴリオ暦に改暦した際、同種の暴動が起こっている。 (挿絵省略)  人民の意見も聞かずにお上《かみ》が勝手に暦を変えたりすると暴動が起こる。それを四月馬鹿のように笑ってすませるには、相当な時間の元手《もとで》がかかるのである。 [#ここから4字下げ] *「備中の国にて或る商人むすこに婦《よめ》を娶らんとて兼てより婚礼は九月某の日と定め置きしが、女の方にはその日を待ちつけて支度ととのえ、遥々と数里の道を来りしに、何ぞ計らん、婿の方には戸をさして沈まりかえって音もなし。ただいびきのみ高瀬舟、ひくにひかれぬこの場のしぎ、門違いにはよもあらじと戸をたたけば、何事ならんと小言たらだら起き出て門の戸開けばこはいかに、提燈あまた燈しつれ、新婦の来るに驚駭したれど、返すというは忌詞《いみことば》と、眉間の皺をのしこんぶ、にわかに用意ととのえて、三々九度や四海なみ静かに事は納《は》てぬという。けだし甲は旧暦によりて約し、乙は新暦にて来りしならん」(明治六年十一月二十七日 東京日日新聞) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   厄年の綱渡り  ハレー彗星が接近すると世界の終わりが近づいてきて、物情騒然となるのが昔からのきまりだというが、この度はどうであろうか。昭和六十一年は天上ではスペース・シャトルが爆発し、地上にはAIDSが蔓延する。いよいよお先真っ暗の世紀末時代が到来したような気配がないでもない。これに個人の厄年《やくどし》でも重なったら、目もあてられないことになりそうだ。 『源氏物語』薄雲の巻の入道后宮が崩御された年が、ちょうどこんな風であったらしい。太政大臣をはじめとして、身分の高い方々がつぎつぎにみまかった。天にも地にもこれまで見たこともない怪異があらわれて、天には異様な日や月や星の光が見え、雲のたたずまいも尋常ではない。そこへ后宮が病の床につかれた。 「口惜しく、いぶせくて、過ぎ侍りぬることと、いと弱げに、きこえ給ふ。三十七[#「三十七」に傍点]にぞおはしける。……つゝしませ給ふべき御年[#「つゝしませ給ふべき御年」に傍点]なるに、はればれしからで……」(傍点引用者)  后宮は三十七歳であり、それが「つゝしませ給ふべき御年」、つまりは厄年に当たっていたのである。『源氏物語』には若菜の巻にも三十七を厄年とする記述があるので、平安時代の人びとにとっては三十代後半の男盛り、女盛りに大きな危険が待ち伏せていたとみえる。『拾芥鈔』八掛部に「厄年十三・二十五・三十七・四十九・六十一・八十五・九十九」とあるので、易断か何かを根拠に厄年が信じられていたのであろうか。というのも右の数字は、大体において公差が十二で進んでゆくからである。  西洋占星術では、厄年が七または九が基数の等差級数に当たっている。七が基数なら、七・十四・二十一・二十八・三十五・四十二・四十九・五十六・六十三、等々。九が基数なら、九・十八・二十七・三十六・四十五・五十四・六十三、等々。中国でも九が公差の等差級数だが、基数が七となって、七・十六・二十五・三十四・四十三・五十二・六十一、となる。  海外の厄年が等差級数できれいに並んでいるのに、わが国平安時代のそれがそれほど規則的でないのは、暦法や天文の未発達によるのかもしれない。それにしてもこの時代には数の神秘への信仰が確固としてゆるぎなかった。理由はどうでも、三十七歳だから厄があるので、ともかく三十七という数に悪運がつきまとっているのである。三十七といえば厄と信じていられる信仰心、というか原始的な活力があまねく行きわたっていたということだろう。  世の中がひらけて、時代も江戸まで下ると、もう純粋な数忌み(特定の数字を忌むこと)だけではもたなくなる。江戸の厄年は他の数は整理して、男子二十五・四十二、女子十九・三十三と相場がきまった。根拠はどうも語呂合わせらしい。四二《しに》(死に)や三三《さんざん》(産で散々苦しむ)、十九《じゆうく》(重苦)とこじつけたのである。  その昔は数の吉凶を占う純粋に宗教的な感情だったものに、俗な語呂合わせがからんできたわけだ。こういうのは現在でも電話番号の売買の相場に影響している。四九八九(四苦八苦)や〇〇八三(破産)などは営業用電話にはうれしくないから、いきおい敬遠されるということになる。  ところで語呂合わせは読み方によってはどうにでも読めるので、ときには辻褄の合わない事態も生じてくる。お目出度いはずの三三九度の盃は、「散々苦しみ度」となってしまう。『迷信の解剖』の日野九思が挙げている面白い例に、「東京市芝区白金猿町四十九番地」という一見何の奇もない地名を「盗狂死死場苦死露金去町始終苦番地」と読んだのがある。盗みに盗まれて狂死し、死場が苦死も露わで金は去り、始終苦しむ場所というからおそろしい。  しかしそれだって住めば都で、邪悪にこじつけた読みなんぞ知らなければ、そこもまたかけがえのないスイート・ホームなのだ。いや、酔狂な人間なら、わざわざこういう番地に四九八九の電話番号を入れて住みたがるかもしれない。  ここまでくると厄年の忌みも本気で信じているわけではなくて、洒落のめして冗談にしてしまおうという遊びになる。盛期の江戸人もしきりに厄年を川柳に読みこんでは言葉の遊びをたのしんだ。  舞台は主として川崎大師である。弘法大師が在唐中四十二の厄除けのために手ずから彫った自像を海に流した。それが太平洋に漂い出て、東京湾の川崎に流れついたのが平間寺(川崎大師)の縁起だというまことしやかな伝説がささやかれて、厄年に当たった善男善女がしきりに大師詣でにはげんだ。  というのは口実で、本音はむろんお隣りの品川宿の遊廓にまっしぐらにシケ込もうという魂胆である。  二十五と四十二でこむ渡し舟  四十二は唐紙ばかりを見て帰り  水いらず七十五にて奈良茶なり  最後の川柳の七十五は四十二プラス三十三。四十二歳の夫と三十三歳の妻が仲良く厄除けに詣でているのだから、ご両人の厄年を合わせて夫婦和合の福に転じた。しかし女郎屋の「唐紙ばかり見て帰」った四十二となると罪は深い。こういうのは迷信をあまく見すぎて、かえって本当に厄に当たってしまったりした。  大師河原へ行ったあと女房逃げ  亭主が土蔵相模あたりで鼻毛を抜いているうちに、女房もさるもの、間男のところへさっさと逃げてしまったのである。  それにしても厄年の病苦や死の恐怖を軽妙な言葉遊びを通じて性の快楽に転じてしまう江戸人の智慧は、いっそ見上げたものである。  もっともこれは江戸幕府を築いた家康将軍以来の伝統かもしれない。中井竹山の『草茅危言』によれば、家康公は、 「関ケ原大戦に、関東御出陣の時、或人|諫《いさめ》て、今年は西方|塞《ふさ》がりなれば、方違《かたたが》ひをして出させ玉へといひしに、西今まさに塞がる故我往てこれを破るなりとて、直に門出し玉ひ目出度御代となるなり」  で、禁忌を逆用して敵の虚をつく戦法に出たのであった。  厄または禍を転じて福となす。家康公のこの機転が掛け値なしの史実であったかどうかはいささかあやしい。その昔、唐の太宗が出陣するとき、今日は往亡日(行動を起こすと失敗する日)とて不吉の日なり、といさめる人があった。出陣は後日に延ばしてはいかがか。太宗は答えて、「我往彼亡ぶるとて、すぐに軍を出され果して勝利ありし」。  これに似た故事では宋の武帝や後魏の武帝も経験したというから、本場の中国ではかなり大昔からおこなわれていた戦術だったものにちがいない。厄日も厄年も、それがもっぱら敵にとっての厄にしてしまう計らいが戦争というものだ。こちらは迷信を利して往き、お向こうさんが迷信を真に受けて亡びる。英雄は迷信の支配を受けず、共同幻想はこれを逆手にとって超越すべきものにすぎないのである。  もちろん厄年迷信を一概にバカにしてかかるのもどうかと思う。人間、四十二にもなれば肉体にも人間関係にもどこかにガタがくるのは当たり前で、ここらでおこないをつつしんで、来し方行く末を静かに思案してみるのも、川崎大師あたりまでスニーカーで徒歩旅行して日頃の運動不足を解消するのも悪くない。こういうのも一つの迷信の利用法だろう。  それよりも傾聴すべきは、東西の厄年を総攬して、これに前厄と後厄を加えると、人生に厄年でない年は一年もなくなってしまうという日野九思の説(『迷信の解剖』)である。厄年が多すぎてこれという厄年が存在しなくなり、何歳になっても今年が厄年なのだ。こうなると来る年来る年が奈落をのぞき見る綱渡りになる。それなら逆に人生を綱渡りと見れば、毎年が厄年の人生が、結構面白おかしく過ごせるのではないか。 [#ここから4字下げ] *「今の俗、男女の厄を分つ、男は二十五、四十二、六十一。女は十九、三十三、三十七。男は四十二、女は三十三を以て大厄となす、その拠を知らず、男四十二を大厄となし、前年を前厄といひ、翌年を排厄《ハネヤク》といふ。前後三年を忌む、或は四十一歳にして子を生むとき、則ち四十二歳の二歳子と云つて之を忌みて他姓を称し、以て他人の子とするの類、亦惑へるの甚しきものなり」(寺島良安『和漢三才図会』) *「赤舌日といふ事、陰陽道にはさたなき事なり。昔の人是をいまず。此頃何ものゝいひ出ていみはじめけるにか、此日ある事末通らずといひて、其日いひたりし事したりし事かなはず、得たりし物は失ひつ、企てたりし事ならずといふ。おろかなり、吉日をえらびてなしたるわざの末通らぬを数へて見んも又ひとしかるべし。其ゆゑは、無常変易のさかひ、ありと見るものも存ぜず、始ある事も終なし。志はとげず、望はたえず、人の心不定なり。物皆幻化也、何事かしばらくも住する。此理を知らざるなり。吉日に悪をなすに必ず凶なり。悪日に善を行ふに必ず吉なりといへり。吉凶は人によりて日によらず」(吉田兼好『徒然草』) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   丙午の女  八百屋お七が吉三[#「吉三」に傍点]恋しさに火を放ったというのは、西鶴の『好色五人女』以来のフィクションであるらしい。実説では、天和元(一六八一)年|辛酉《かのととり》年の末、加賀藩の元足軽八百屋太郎兵衛が大火の類焼に遭って避難した先の小石川円乗寺で、お七が旗本山田十太夫の悴の寺小姓佐兵衛とわりない仲になったのが事のはじまり。丸山本妙寺門前の太郎兵衛宅が新築なって一家が円乗寺を引き揚げてからというもの、お七は、さあ火事のおかげで結ばれた佐兵衛さまが恋しくてならぬ。  一方、駒込吉祥寺の門番の悴に吉三郎というならず者がいた。飲む打つ買うのはてに小遣い銭に困ってのゆすりたかり。おきまりの勘当が下ってぶらぶらしていたが、そのうちこれが八百屋太郎兵衛宅になんとなく出入りして、折からふさぎの虫にとりつかれていたお七に悪魔のささやきをささやきかけた。お前さんが佐兵衛殿の情《なさけ》をさずかるようになったのも、もとはといえば火事のおかげだ。もう一度火災が起これば、また円乗寺へ避難して佐兵衛殿と会えるではないか。だから家に火をつけてしまえと、乙女心に火をつけたのである。  佐兵衛恋しさに前後を忘れたお七は、風の強いある夜、自家の物干台に火をつけた。時分はよしと吉三郎かけつけて、お七の家の家財衣類をごっそり持ち出す。これが露見して召し捕らえられ、拷問にかけられて白状するには、なるほど盗みはしたが、火をつけたのは自分ではなく、あくまでもお七だと言い張る。これで両人が同罪となり、天和三年三月二十九日千住小塚原でお七吉三郎は火刑に処せられた。 (挿絵省略)  西鶴はもとより、のちに出たおびただしいお七物の浄瑠璃作者たちも、お七吉三郎が同時に火刑に処せられたために、ならず者の吉三郎と寺小姓の佐兵衛とを混同したようだ。あるいは混同した方が話が面白くなると考えたものらしい。  余談ながら佐兵衛ホモ説がある。「お七実伝」と称する今井卯木の『川柳江戸砂子』では、佐兵衛役はその名も吉三郎という円林寺(円乗寺)の寺小姓。彼は円林寺の住持と衆道の契りを結んでいたために住持の嫉妬を買い、ために両刀使い吉三はお七との逢瀬を禁じられるのである。何だかこっちのストーリーの方が現代的で、ほんもの臭いような気がするが、いかがなものであろうか。  ここで年号が問題になる。十八歳で天和三年に処刑されたお七は、遡れば寛文六(一六六六)年の生まれということになる。寛文六年は丙午《ひのえうま》の年である。お七は丙午の女だったのだ。『五雑俎』にいう、「吹剣録に、丙午・丁未の年、中国|之《これ》に遇《あ》へば必ず災《わざはひ》ありと。然れども、亦|尽《ことごと》くは然らざるものあり」。  丙午の年には火難があるというので、丙午の女お七が「火」と結びついた。すくなくとも江戸初期の人びとはそう考えた。丙午の丙《ひのえ》は「火の兄《え》」である。陰陽五行説では丙は火の陽、午も陽火で、陽火が重複する。  では、実際に丙午の年に火災が起こったかどうか。『迷信の解剖』の日野九思の考証によれば、あれほどしきりに大火に見舞われた江戸が、二百五十年間に五回の丙午を迎えていながら、めぼしい火災に遭遇したのは弘化三(一八四六)年丙午の一度きりだという。丙午大火説はまず統計的にアテにならないのである。  そのせいかどうか、江戸も爛熟期に入ると、丙午の厄の解釈がちがってきた。迷信という点では同様にせよ、丙午年生まれの女は男を食い殺すという風に、どこかですり替わってしまったのである。滝沢馬琴の『燕石雑志』には、すでにこの俗信が周知のこととして書かれている。 「曲亭子云く、我が俗丁未を言はず丙午・庚申の年を怒るゝこと尤も甚し。或は云ふ、女子丙午の年に生るゝ者は必ず良人を食ふと」  江戸人が生まれ年の宿運になぜこれほどこだわるようになったかについてはよく分からない。綱吉将軍の生類憐みの令がきっかけだったという説もある。戌《いぬ》年生まれの綱吉は、そのために犬を殺す者を死罪に処した。このあたりから人びとは生年の干支《えと》にえらく敏感になりはじめたようだ。  先にもふれたように、江戸時代は五回の丙午年を迎えたが、第一回の慶長十一(一六〇六)年、第二回の寛文六年は何事も起こらない。寛文六年生れのお七が放火したときには、もっぱら火難との結びつきが云々された。しかしここから先の享保十一(一七二六)年からはちょっと様子がちがってくる。 「(享保十一年には)若し一人の丙午の女児を生めば、本人のみならず一家親族までも天の呪ひを受けたるが如き悲運に泣かなければならないことを予想し、むしろ闇より闇へ葬るに如かずとして、人工流産が盛んに行はれた。当時の方法としては強烈な下剤を『流し薬』として使用することが行はれたので、流産時の大出血のため生命を堕した母親が少なくなかつた」(『迷信の解剖』)  それでも六十年ごとに正確に丙午年はやってくる。天明六(一七八六)年、弘化三年としだいに丙午ヒステリーは昴まっていく。堕胎や新生児圧殺が相次いだ。見るに見かねて「丙午さとし文」という啓蒙パンフレットが巷間に流布した。「奉献写書」、「良姻心得草」、「丙午歳生れ子のおしへ書」、「丙午明弁」といった文書で、これは一様に丙午迷信に異議を唱え、そんな妄説を気に病むには及ばないとさとす。  とはいえ、これだけ多数のパンフレットが丙午年の度に世に出て悪弊がおさまらなかったということ自体が、逆に世人の迷妄がそれだけ根強かったことを裏書きするだろう。注目すべきは、これらのパンフレット作者がほぼ例外なく、自身丙午年生まれであることだ。パンフレット作者自身がふだんそれだけ迷信の火の粉を一身に浴びていたからこそ、やむにやまれず啓蒙文を草したのである。 「我れは当年六十年にて、兼ねて両親の云はれしに、其の方は丙午の歳、別けて丙午の日の生れなれば、一生仕合せ悪しからんと聞く。然るに子も男女二人あり。妻子共息災にて甚だ都合よし」  これは「奉献写書」の一節である。天明六丙午の年にこれを寺社に奉納した作者も、享保十一丙午に生まれたのだ。それでいて人並みには暮らしてこられた。だから丙午なんか怖くない。彼は身をもってそう訴える。  しかし迷信に根拠があろうがなかろうが、徳川二百五十年の爛熟は、天下泰平のスケープゴート役を丙午の女にむりやり押しつけた。六十年に一度。すなわち一人を生け贄にして丙午生まれを免れた五十九人が対岸の火事をたのしむ。人間、こんなうまい話をそうそう諦めきれるものではない。  蛤にせつせつ坐る丙午  ひのえ馬しつかり重荷つけて来る  蛤が出る席といえば、当時は結婚披露宴にきまっている。丙午生まれは夫をつぎつぎに食い殺すから、ちょいちょい蛤の出る席に坐るというのである。  それでも再婚できたのが奇蹟的で、縁にありつくこと自体が難しかった。それには巨額の持参金をつけてやらなければならない。そこで「しつかり重荷をつけて」嫁にくることになる。川柳作者たちは対岸の火事をおもちゃにした。  弘化の丙午の次は明治三十九(一九〇六)年である。前年の日露戦争の勝ちいくさのおかげで、このときは珍しく丙午騒動は下火だった。文明開化のせいばかりではあるまい。団塊の世代がいい例で、戦後は法則的に性的生産力が高まる。丙午云々を気にしている余裕がなかった。  それも当時の新生児が年頃になると話はまた変わってくる。彼女らが適齢期を迎えた関東大震災の大火[#「大火」に傍点]で、ふたたび丙午の迷信が復活した。昭和三年に『信仰と迷信』を刊行した富士川游は書いている。 「それが六十余年を過ぎたる大正の年間に及びて尚丙午の迷信のために縁談が纏まらなかったり、又はそれを苦にして自殺する女の尠《すくな》からず聞えしはまことに歎かしきことである」  明治三十九年の次は昭和四十一(一九六六)年の丙午である。この年に生まれた人たちは昭和六十一(一九八六)年に二十歳になり、成人式を迎えた。今度はしかしまさか丙午ヒステリーはないだろう。万一そんなことになったら、その場で男を食い殺してやるか、そんな迷信にかぶれている国なんぞには火をつけて、さっさと外国に行ってしまえばいい。丙午の女は、その程度には強い火の性であるはずである。 [#改ページ]  第㈸章 食   黄金色の茄子  初夢がいつ見る夢なのかについてはいろいろの説があるようだ。節分の夜に見る夢という説がある。これはむかしは立春正月だったことの名残である。転じて大晦日の夜に見るのが初夢になり、江戸の人は大晦日は除夜で寝ないので、元日の夜の夢となり、もう一度転じて二日の夜の夢を初夢とするのが、いちばん新しい習慣であるらしい。  その初夢に吉夢を見るには、宝船の絵を枕の下に敷いて寝るのがいい。宝船はむろん七福神をのせた宝船だが、初夢用のその絵には裏に次のような三十一文字が書かれていた。  なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな  漢字まじりにすると、「長き夜の遠のねむりの皆目覚め浪乗り舟の音の良きかな」となる。だからといって大した意味があるわけではない。それよりも一通り読み下したら、もう一度お尻のほうから読み上げてみるといい。上から読んでも下から読んでも同じ読みになり、結末がはじめになる。蛇が自分の尾を食っているような、こういう文章が回文《かいぶん》という言葉あそびであることは、ご存知の通り。  何故そんな言葉あそびが初夢用の宝船の絵の裏に書いてあるのか。今年の初めは去年の終わりである。大晦日と元日とは、一方の終わりがもう一つの年の初めになり、初めが終わりからつながっている。回文の構造そっくりの、これという特定の終わりがなく、終わりがその度に初めにつながって永遠に終わらない堂々めぐりがめでたいのである。難しいことをいえば、回文は永劫回帰の象徴といえようか。  初夢の宝船の絵は、七福神を描いているところからしても、中国の年画の本地垂迹《ほんじすいじやく》であろう。中国の正月行事に、新年を祝う木版や手塗りの極彩色の年画をいたるところ屋内にも門にも貼りつける風習がある。年画のほかに春聯《しゆんれん》も新年迎春用の魔除けの呪符で、「生意興隆通四海」「財源茂盛達三江」のようなおめでたい対聯《ついれん》を門などに貼る。 (挿絵省略)  宝船と「ながきよの」の回文は、この年画と春聯をいっしょくたにまとめたものではなかろうか。いずれにせよ年画には八仙人、五天人、四方神などの絵柄が多い(綿谷雪『ジンクス』による)というから、宝船の七福神がこれを模した可能性はかなり高い。  白鬚神社宮司の今井栄氏が戦後に書いた『墨東歳時記』(有明書房)の東京下町の正月風景回顧に、この初夢用の宝船売りの姿が登場してくる。 「元日から二日へかけて、この宝舟を描いた紙片を手にして、『お宝、お宝』と呼び歩いたお宝売りの姿も、街頭に見られたのである」  初夢の縁起かつぎを当て込んだ商売が成り立つほどに、東京の庶民はこの迷信[#「迷信」に傍点]をひろく信じていたのである。  さて、では宝船の絵を枕の下に敷いてどんな夢を見れば、それが吉夢とされたのか。一富士二鷹三なすび。私などの子供時代にはそう教えられた。富士山の夢を見るのがいちばん縁起がいいということだ。日本一の霊峰を夢に見るのはどのみち福夢にはちがいない。二番目の天高くとぶ鷹の夢。ここまではまあ分かるとして、三番目がいまだによく分からない。茄子《なす》の夢がどうしてそんな吉運につながるのか。大体、真冬の一月の夢のなかに夏野菜の茄子があらわれ出るのが不思議である。  どこの国にも古くから夢占いの本がある。試みに、これで一富士二鷹三なすびの夢を夢解釈してみてはどうだろうか。  富士山は日本だけのものだから、「山」または「高山」一般として参照してみる。これは大体において福夢という解が多い。ドイツ中世の『ビルクマイヤーの夢の書』では、「山は力の強い堂々たる男たち、また大きな、重要な商売を意味する。けだし安定して謹直にいそしむ生活の意」。営々として家業に打ち込めば、商売繁昌まちがいなしだから、これは立派な福夢である。  次に「鷹」は、『アルテミドロスの夢の書』に解が出てくる。これは、鴉《からす》、鳩、燕、夜鶯《ナイチンゲール》などとともに「女」を意味する。これに対してペリカン、鷲、鶴、白鳥などが「男」。そして正体のよく分からない鳥は、男でも女でもない天使。  一方、『ビルクマイヤーの夢の書』では猛禽の夢は「取得」を意味する。鷹を猛禽と考えれば、鷹の夢はたしかに福夢なのである。  もっとも近代性心理学の夢解釈では、かならずしも鳥の夢を一方的に福夢とは認めていない。シュテーケル博士は、鳥はすべて雌雄両性のシンボルとしているが、「しかし一方では死のシンボルとなる場合もある」。  年の初めから死のシンボルの出現では縁起の悪いことおびただしい。もっとも海彼《かいひ》の夢占いの書は夢の時日をいつとは特定していないので、初夢なら死のシンボルが福夢に裏返ることもあり得るかもしれない。夢言語ではよく最悪のものが最善を意味したりする。  ついでながら、どの夢の書を見てもまちがいなく吉兆と出るのは、何と「糞便」の夢である。特にウンコを食べる[#「ウンコを食べる」に傍点]夢がいい。 「夢のなかで糞を食べるのを見たら、吉、家産の福を享受するであろう」(『エジプトの夢の書』) 「夢のなかで友人の糞を食ったら——財産は大きくなる」(『バビロニア・アッシリアの夢の書』)  ただし脱糞や、糞のなかに墜落したり、黄金塊にまみれたりするのはよくない。これは、貧困、悲惨、損失を意味する。  それにしても尻から出したものを口で食べるのは、結末がそのまま発端に結びつくわけだから、そのものを口に入れる夢は構造的には回文と同じである。年の終わりがそのまま年の初めになるのとも同じ構造だ。それにしては日本の初夢のリストにそのもの[#「そのもの」に傍点]が何故か登場してこない。それともそのものは、何か別のものに姿をやつして登場しているのだろうか。  閑話休題。以上で山や鷹の夢が福夢なのは古今東西万国共通と判明したが、残る茄子の初夢の吉兆の意味は依然として解けない。茄子はべつだん日本特産ではないので、茄子の夢解釈があってもおかしくはないのに、どこの国の夢の書にも茄子の夢言葉は記載されていないのである。  茄子が初夢第三位に登場してくる理由は、いくら夢言葉を探しても解けそうにもない。それも道理で、これは万人に普遍的な夢のシンボリズムから出てきた吉兆ではなくて、一個人の好みの問題から生まれてきたこじつけなのである。最初にそのことを指摘したのは山路愛山だった。先に引いた『墨東歳時記』に、これに関連する木村毅『大東京五百年文化史話』の一節が紹介されている。孫引きのまた孫引きになるが、それを引いてみよう。 「ところが、山路愛山は、実はこれは徳川家康の好物をいったので、彼が一番好きなのが富士山の景色、その次が鷹狩、それからなすづけ[#「なすづけ」に傍点]だったのを、こんな文句にまとめたのだという話だと、その著書に述べている。この方がほんとうらしい」(傍点引用者)  そうだとすると、茄子ではなくてなすづけ[#「なすづけ」に傍点]の夢を、それもそいつを食べる夢を見なくてはならないことになる。漬物なら茄子が真冬に登場してくる謎も氷解する。  それはそうと「初夢漬」というのをご存知だろうか。辛子とこうじで塩おしした茄子を漬けた真っ黄色のあれである。最近のは化学薬品で着色してあるのか、辛子の黄がいやにあざやかに黄色いけれども、むかしはもっとくすんだ黄土色で、手頃の小茄子の上にほっこりとこうじがかぶさっているさまが、みるからに×××を連想させたものである。徳川家康はどうやら、この黄色い、においの方もほのぼのと例のブツを偲ばせる漬物が大好物だったのだ。そうではあるまいか。  これで一切が氷解する。日本人は実物そっくりにデザインしたなすづけを夢のなかで食べながら、それを、万国共通の夢のシンボリズムで王者の位が保証されている、かの黄金色に輝くそのもの[#「そのもの」に傍点]を食う夢と見立ての上でさし替えてきたのだ。すなわち初夢漬。徳川家康はこれを毎年初夢に見て、徳川二百五十年の繁栄のいしずえを築いたのだった。 [#ここから4字下げ] *「|※[#「門<虫」、unicode95a9]《びん》書風俗志に云、正月紙にて船を作り、瘟気を送ると云々、今俗に船を画き枕の下に敷き、其夜夢見よければ其船をつなぐとて悦び、亦凶夢なれば流すとて、はらひすつる也」(天野信景『塩尻』) *「一富士、二鷹……がなぜよいのか、完全には説明できない。三までは広く知られており、四以下については、   一富士、二鷹、三なすび、四|扇《おうぎ》、五|煙草《たばこ》、六|座頭《ざとう》。 という言いかたもある。前半については、駿河の国(静岡県中部)の名物をならべたのだという説が、近世の随筆類に出ている。徳川家康に結びつけて説明しようとする。  近世に言い始めたことだろうから、それを積極的に否定しようとは思わないが、時の権力にゴマスリするような趣旨で始まったものならば、これほど普及するものだろうか。富士山は静岡県や山梨県だけのものではなく、日本の象徴だから、よい夢の第一に挙げる気持ちがわからぬではない。それを受けて、天空に舞う鷹の姿も雄大である。そこまではよいとしても、三のなすびがわからない。初なすの値が高いので、高いものを三つならべたという説明は、こじつけとしか言いようがない」(井之口章次『俗信60話』) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   茸とクソの戦争  マッシュルームといえば、いまでこそオムレツやサラダにして女子学生でさえ馬のようにばくばく平らげているけれども、昭和も初年までは、これがめったに手に入らない貴重品だったものらしい。南方熊楠の北島脩一郎宛書簡(昭和十二年八月十二/十五日)にそれらしい消息をにおわせる一節がある。 「一昨日差し上げたるマッシュルームの缶詰は希有《けう》の物にて」との断り書きがまずあって、南方熊楠はおそらくはじめて現物を手にする相手に日本人向きの料理法を手引きしているのである。 「一番手軽きは鰺《あじ》かウルメイワシの肉をたたき、団子のごとく丸く集め、豆腐と葱《ねぎ》を入れ、醤油にてすまし汁となし、その内へマッシュルームを入れて煮て食うのが一番日本人の口に叶《かな》い候」  ツミレ汁にマッシュルームを浮かべる、こうした調理法はいまでは家庭料理にも一般化しているのでそのこと自体に問題はない。気になるのはこれにつづくただし書きである。 「ただしあまり多く食うと[#「あまり多く食うと」に傍点]、のぼせるものゆえ[#「のぼせるものゆえ」に傍点]、大抵|配《くば》るべき人数を計算して、右のすまし汁を作り、出来上ると早速人数だけに分かち、御家内と近処の御知人に分配されたく候」(傍点引用者)  マッシュルームは食べすぎると「のぼせる」とこの粘菌学の専門家は注意しているのである。缶詰めの正体は横浜で輸出用に作っているものとかで、「しかしこの缶詰のとほとんど同じ物は、新庄《しんじよう》にて二、三度上田氏の持山《もちやま》より見出だし候」とあるからには、日本にも自生する種類らしい。今日出回っている缶詰めマッシュルームとは別なのかもしれないが、とにかくこれは食べすぎると「のぼせる」のである。  どういうのぼせ方なのかこれだけの記述では不明だが、ひょっとするとバリ島あたりの「マッシュルーム」のそれに似た酩酊があったのかもしれない。とすると昭和初年の日本では、わざわざバリ島まで遠征しなくても、居ながらにして缶詰めマッシュルームで天国に遊べたのであろうか。むろんこれは私一個の想像にすぎず、当時はチョコレートでさえ食べすぎるとのぼせると言いいいされたものなので、たんに外来物に敏感になりすぎての生理反応という意味にすぎなかったのかもしれない。そう取っておくのが無難だろう。  それはそうとキノコ類を食べて酔う話なら、『今昔物語集』以来私たちもとうにおなじみである。なかでも有名なのは『今昔物語集』巻第二十八第二十八「尼共、山に入《い》りて茸《たけ》を食ひ舞へること」。京の北山で木樵《きこり》たちが道に迷ううちに、向こうから尼たち四、五人が舞いながらやってくる。訳をきくとやはり山道に迷い、空腹のあまり深山の茸を焼いて食べたところ酔い心地になって、ひとりでに手足がひょこひょことおどり出したという。そこで木樵たちも尼の食べのこしの茸を食べたところ、「亦木伐《またきこ》る人|共《ども》も心ならず舞はれけり」。  それ以来この茸には「舞茸」の名がついたという。もっとも舞茸を食べればかならずその場で誰でも踊り出すというものではなかったらしい。むしろこの話の尼や木樵の舞踏病的症状は例外だったもののようだ。 「近来《このごろ》も其の舞茸有れども、此れを食ふ人必ず舞はず。此れ極《きはめ》て不審《いぶかし》き事|也《なり》となむ語り伝へたると也」  要するに(舞)茸を食べても舞う人と舞わぬ人があり、かならずしも食えば踊り出すというのではないのである。あるいは茸毒に対する免疫体質のようなものがあるのだろうか。  げんに『今昔物語集』の別の茸談《きのこだん》(巻第二十八第十七「左大臣の御読経所の僧、茸《たけ》に酔《ゑひ》て死にたること」)には、左大臣の御読経所の僧が弟子と童子の三人で平茸《ひらたけ》という茸を食べたところ、僧と童子はたちまち即死、弟子の僧だけが重態で生き残り、これを聞いた左大臣があわれを催して手厚く葬ったことが見える。一方、この話を聞いた東大寺の僧某が、自分も茸で食中毒死して盛大に「葬《さう》の|※[#「米+斤」]《れう》を給《たま》は」らんものと、平茸をどっさり採ってきて片端から食べてしまう。これが食えども食えども一向に死ななくて、ために世間の笑いものになったという話である。「然れば茸を食ひて酔《ゑひ》て忽《たちまち》に死ぬる人も有り、亦此《か》く不死《しな》ぬ人も有れば云々《うんぬん》」なのであった。  もっと面白いのは、毒茸を食わされて平然としていた金峯山《みたけ》の老僧のエピソード(巻第二十八第十八)である。同僚のこれも別当《べつとう》の老僧がこの人を暗殺しようと和太利《わたり》という毒茸を平茸と詐《いつわ》って食わせる。暗殺者がいまにも悶死するかと見まもっていると、これはしたり、相手はにこにこ笑いながら「老来こんなに美味《おいし》く調理した和太利を食べたことはござらぬ」とけろりとしている。和太利暗殺計画はとうにバレていたのだ。この僧はふだんから猛毒の和太利を食っても何ともない体質の持ち主だったのである。  そうかと思うと、茸を食べて文字通りに羽化登仙《うかとうせん》、翼が生えたように天に舞い上がってしまったという女《ひと》もいる。『日本霊異記』「女人、風声《みさを》の行《わざ》を好み、仙草を食ひて、現身《うつしみ》に天に飛ぶ縁《えにし》」(上巻第十三)に登場する、大倭《やまと》の国|宇太《うだ》の郡|漆部《ぬりべ》の里の漆部の妻なる人がそれだ。貧しいが「風声《みさを》の行《わざ》を好」(清らかな超俗的な行為を好む)んだこの女性は、かねて「毎《つね》に野に臨《のぞ》み草を採《と》るを事とし」、その野草の粗食にあまんじて子らと共にしていた。「是《ここ》に難破《なには》の長柄《ながら》の豊前《とよさき》の宮(孝徳天皇)の時に、甲寅の年、其の風流《みさを》の事、神仙|感応《かんのう》し、春の野に菜を採り、仙草を食ひて天に飛びき」  テクストの上では「仙草」であって茸ではないように読めるが、『仙人の研究』の知切光歳によると、本朝仙記伝等の関連記事からしてこの仙草の正体は「養神芝《ようしんし》」であろうという。芝はすなわち菌《くさびら》=キノコである。菌芝は霊薬五芝の一つで、隠れもない神仙の薬。とりわけこの養神芝は、秦の始皇帝が徐福に命じて祖州(日本)に採取させた不老不死の仙薬である。徐福はこれを紀の国熊野辺で見つけた。  古代の日本にはどうやらこの種の霊茸があちこちに自生していたらしいのである。知切光歳はさらに、『皇極天皇紀』にある押坂直《おしざかのあたえ》が雪中の菟田《うた》山で見つけた紫色の茸を食して仙化した挿話を紹介してから言う。 「こうして見ると、飛鳥時代までの奈良県の山野や、吉野と熊野をつなぐ山嶽地帯には、まだまだ名も知らぬ五芝や、それに準ずる仙草が、数多く自生していたことが知られ、それとは知らずに服用して、不老長生の僥倖《ぎようこう》を得た者は数多い」(『仙人の研究』)  徐福や押坂直がはたしておこないの正しい人物であったかどうかは確かではないが、漆部の妻の場合は「風声《みさを》の行《わざ》を好」んだくらいだから、ふだんの心がけが申し分なかった。茸の霊はそれを愛《め》でたのである。心がけの悪い人間は茸にも好かれない。  そのあたりの消息は狂言の「くさびら(菌)」にも見える。庭に茸が群生して始末に負えないので山伏に祈祷を頼む。ところがこの山伏、インチキ法師とみえて、祈れば祈るほど茸はぞろぞろ生えに生えて、もうそこらじゅうが茸だらけになってしまうというお粗末。茸が反乱を起こして生法師は馬脚をあらわしてしまうのである。  ひょっとすると落語の「ぞろぞろ」がこの説話の系譜を引いているのではないかと思う。信心深い小間物屋の老夫婦が熱心に神仏をおがんでいると、神霊感応してその家の天井から売り物になる草鞋《わらじ》がぞろぞろぞろぞろ湧いて出てくる。それを向かいの床屋が見ていた。床屋はお向かいさんにあやかろうと、にわか信心をはじめたはよいが霊験あらたかすぎて、客の髯《ひげ》を剃るあとからぞろぞろ[#「ぞろぞろ」に傍点]髯が生え、それを剃るとまたぞろぞろ……。  狂言「くさびら」の原話は、もとはといえば『景徳伝燈録《けいとくでんとうろく》』の第十五代祖|迦那提婆《かなどつば》の伝に出てくる梵摩浄徳《ぼんまじようとく》という長者のエピソードである。この長者の庭に大耳のような菌《きのこ》が生えた。長者と息子の|羅※[#「目+侯」、unicode777a]羅多《らこうらた》が採って食うが、いくら採ってもまた生えてくる。  やがてその訳が分かった。むかしこの長者の家に比丘尼《びくに》がいたが、この尼は信仰未熟のままに人の施《ほどこし》を受けた。その報いに死んで茸となり、人に食べられて信施《しんぜ》をつぐなっているのである。 『宇治拾遺《うじしゆうい》物語』にもこの話のヴァリアントとおぼしいものがある。巻一の二「丹波《たんば》国|篠村平茸生《しのむらひらたけおふる》事」。丹波国篠村に年来平茸が多生した。採っても採ってもへらない。ところが一日村の長《おさ》の夢のなかに長髪の法師たちが二、三十人ばかり出てきて、われらは久しくこの里に縁づいていたが、「いまはよそへまかり候《さぶらひ》なんずる事」のよしを申す。すると翌年、あれほど群生した茸がすっかり姿を消してしまう。里人たちが仲胤僧都《ちゆういんそうず》という「説法ならびなき人」に茸消滅の訳をきくと、僧都の答えていうには、「不浄説法する法師、平茸に生まるといふことのあるものを」。とはつまり、生前肉食女犯、不浄の身で説法していた生法師たちが、平茸に化けて罪のつぐないをしていたのであった。  もともとが仏教説法なので、その系譜をつぐ落語の「ぞろぞろ」でも不信心者の不心得が永久にたたるのである。落語ではぞろぞろ生えるのは髯だが、茸のはびこる原話の方がはるかに不気味である。それも不気味一方ではなくて、何となく滑稽でもある。柳田国男ではないが、わが国では「蕈《きのこ》をヲコの物語の中に、加へなければならない理由」(『不幸なる芸術』)が隠微なかたちでどこかにひそんでいるらしいのだ。 「多くの植物の中でも、茸の出現は突如として居つて、しかも美味なる食物にもなれば、又折々は毒にもなる」(同右)  この茸の唐突さ[#「唐突さ」に傍点]と(美味と毒の)両義性[#「両義性」に傍点]が、茸をして不気味なものにも滑稽なものにもしているのではあるまいか。同じ茸を食べて、死んだり死ななかったり、舞ったり舞わなかったり、あるいは空中飛行をしたりしなかったりするのも、これまた茸のどちらともつかぬ両義性に由来するものにちがいない。それは、突然、笑いにも恐怖にも移行するのである。  ここで話は変わるが、数年前拙宅に大量の舞茸が届いたことがある。贈り主は、先年急逝された舞踏家の土方巽さんである。天ぷらに揚げ、おひたしにし、それでも食べきれなくて鍋にしてふんだんに平らげた。結果は、別にどうということはない。今昔の尼たちのように踊り出しはしなかった。むろん空をとびもしない。これはいうまでもなく「風流の事、神仙感応」するには、当方がいかにも俗物だったからだろう。  土方さんの舞茸の件で思うのは、どうも舞踏家は現代にあっても茸を食べては舞うのではないか。そういえば友人の舞踏家にはほかにも茸マニアがいる。石井満隆さんがその人で、この人は常時ドイツ語版の茸図鑑を携えていて、いたるところで茸狩りをやってのける。ドイツのケルン近くの森で彼の命によりシュタインピルツェ(石茸)を採取させられたこともある。このときは採った石茸はキノコごはんにして食べさせられた。次に札幌旅行に同行したときには、夫人のベッティーナさんに得体の知れない茸入りのオムレツを食べさせられた。早朝月寒町の郊外を一回りして採取してきた茸だという。オムレツはぶよぶよと紫色っぽく、いささか不気味ではあったが、思い切って箸をつけるとこれが悪くない。ペロリと平らげてしまった。金峯山別当のせりふではないが、「未だ、此《か》く微妙《めでた》く被調美《てうびせられ》たる和太利をこそ不食候《くひさぶらはず》なりぬれ」である。  ことほどさようにどちらかといえば私は茸を食っても不死身の体質であるらしい。つまり暗殺には強い。といえば聞こえはいいが、要するに根っから鈍感なのである。それだけに、いやそれなればこそ、土方さんや石井さんのような舞いや空中飛行の至福境には見放されている、とも観念している。  しかしいかに不死身とはいえ万が一ということはある。『遠野物語』のようなもっと現代に近い記録を一読しても、茸を食べて一家全滅の惨に遭う例(十九)はすくなくない。『遠野物語』ではまた茸狩りにみだりに山に入ると、空中をとぶ女を見たり(三五)、「赭《あか》き顔の男と女」が立ち話をしているのに出遭ったり(九一)、のような山中幻覚まがいの体験におびやかされるのが常套《じようとう》である。茸をなめてかかったりすると危険なのだ。生命を落としかねない。  その方の予防というよりは予備知識もまた、用意おさおさ怠りないつもりでいる。万一茸にあたったらどうするか。クソを食えばいい。これは長谷川伸の「クソ」(『材料ぶくろ』所収)という随筆で仕込んだ知識である。  宋の周密の『癸辛雑識《きしんざつしき》』にある話だという。杭州の古刹《こさつ》感応寺住職|徳和《とくわ》和尚の弟子のなかに定心という日本人僧がいた。初秋、和尚は定心その他の弟子を連れて茸狩りに出、帰って皆で茸を食べた。はたせるかな毒茸であり、まず徳和和尚が中毒し、ついで定心ほかの弟子たちもじたばた苦しみはじめた。 「かういふときの解毒《げどく》には人間のクソが効くとされてゐるらしく、和尚も定心を除く弟子も、人のクソをもとめ食ひて癒《い》えたが、ひとり定心は和尚が侑《なだ》めても肯《き》かず、クソを食はねば助からぬ生命ならば惜しくないといつて、遂に死んだ」  クソを食うくらいなら死んだ方がマシといって死んだ定心、さすがは日本男子の華《はな》と言いたいところだが、この話を伝えた周密は、そういう精神主義礼讃のつもりで書いているのではない。クソを食って生命が助かるのなら食えばいいではないか。それをクソを食わずに死んでしまうとは変な小僧があったものだ。周密はそう解してこの話をのこした。  理論的には私も周密に同感である。何も日本男子の意気を見せつけるために死んでみせるには及ばない。しかしかりに実地にこの場面に遭遇したとなると、めめしくも生命が惜しい俗根だけに、クソを食う勇気があるかどうかがまた疑わしいのである。中国人の徹底した現世主義について行ける自信はなさそうだ。やはりクソは食いたくない。土壇場で食えないのではないか、という不吉な予感がある。それならいっそ中毒の原因である茸を一切食わなければいいにはきまっているが、それもしたくはない、というのだから、はてさて困ったものなのである。 [#改ページ]   吸血鬼とニンニク  夏がやってまいりましたので、ここらで吸血鬼談義を一席。それも吸血鬼退散のおまじないに、はたして評判のニンニクが実効ありやいなや、今回はこれを話題にしてみたいと存じます。  さて吸血鬼を退散させるにはニンニク、そう相場がきまっているようでいて、実はあべこべに、ニンニクで悪魔や泥棒をおびき寄せるという手があるのをご存知でしょうか。  ヨーロッパには夜な夜な夢のなかにあらわれたりするトルードという妖魔がおります。あんまりゾッとしない相手ですが、世の中にはへそ曲がりがおりまして、どうしてもこれに会ってみたいと思う人もいる。トルードとの面会日は、イギリスの守護聖人として知られる聖ジョージの日(四月二十三日)ときまっていて、この日のすこし前に蛇を一匹殺し、その頭にニンニクの根をのせて雨樋《あまどい》のなかに隠しておくのです。さて聖ジョージの日当夜、雨樋のなかで蛇の養分を吸って発芽したニンニクを手にして待っていると、首尾よく妖魔トルードが姿をあらわすという寸法なのです。ウソだと思ったらご自分で試してごらんなさい。  もうひとつ、就眠する前に左腕にニンニクとパンを結んでおくというのがあります。これをやるとその夜の夢にかならず泥棒が出てくる。そんな夢は見たくもないし、見たら忘れてしまいたいというのが人情ですが、恋しい泥棒をどうしても忘れたくないという風変わりな趣味の人のために、そっとお教えしておきましょう。そのようにして泥棒の夢を見た朝は起きるときにけっして後頭部に手をふれないこと。こうすれば夢に見た泥棒のことをいつまでもありありと覚えていられるのだそうです。  ニンニクはまた泥棒を発見する手段にも使われるようです。クリスマス・テーブルの上にのせておいたニンニクを鐘の舌にしばりつけて、その後三日間この鐘を鳴らしていると、頬かぶりしていた泥棒が正体をあらわすということです。  ご参考までに申しますと、まじない療法では、悪性の臭気を発するニンニクがタマネギとともに病気を引き寄せる最大の媒体です。そこで、病室にはニンニクを吊るした。ニンニクがそこらじゅうの病気を吸いとってくれるので、ベッドの病人からは病気が退散してしまうというリクツです。  妖魔トルードや泥棒がニンニクに引き寄せられてあらわれるという考え方も、こんな民間療法の「経験」から導き出されたのかもしれません。  しかし歴史的にも地域的にも、悪魔がニンニクに寄りつくよりは、ニンニクをきらうという迷信の方がはるかに広く流布していることは申すまでもありません。  臭いが強烈であるところから、ニンニクは古くから茎をいぶして毛虫を駆除するのに用いられてきました。鳥が木にとまらないようにニラ類を木にぶら下げたのと同じで、これらは毛虫や害鳥などに対する経験的な防御策でした。  そこから悪霊という目に見えない存在を追い払うのにも有効だという考えに、だんだんに移行していったものでしょう。それかあらぬかギリシアでは赤ん坊の首にニンニクをぶら下げると、子供の目玉をついばみにくるストリックス(吸血鳥)という魔鳥に対する魔除けになるとか、悪い侏儒《こびと》を近づけないためには牛乳にニンニクを入れて侏儒の前に出してやるといいとか、信じられていました。  一方、強精薬としてのニンニクの効用も悪霊退散の信仰を強めたようです。古代ギリシアの闘鶏競技では、競技の前に鶏にたっぷりニンニクを食わせました。こうすると鶏が「鋭敏」になる、とギリシア人は信じていたのです。  アリストファネスの『騎士』には「ニンニクの朝食は汝を戦いにけしかける」とあるので、戦士たちも戦いの前にこれをかじって悪しき敵に立ち向かったのでしょう。そこから悪霊を追い払うのにもこの常勝の妙薬が応用されたのでした。  そもそも吸血鬼は、ドラキュラ伯爵のように人間の姿をして立ちあらわれることもありますが、むしろ狼、馬、山羊、蛙、牝鶏、猫、驢馬、豚、蛇、あまつさえ蝶や干し草の山のようなものとしてあらわれることもすくなくないのです。ですから人血を好む悪獣や害虫を封じる妙薬ニンニクが、漠とした不安の産物であるだけにつかまえどころのない、ヴァンパイアという血の好きな怪物にも有効だと考えるのは、無理もなかったのですね。  次に、かねてから多くの国々でニンニクには他所者《よそもの》(の邪視)を防ぐ効用があると信じられていました。見知らぬ人の嫉妬や羨望の眼差しを避けるシェルターというわけです。今日でもスラブ諸国やボスニア、マケドニアなどでは、ニンニクはトルコ人やギリシア人やルーマニア人の邪視を防ぐと考えられていますし、ひるがえってパレスチナ人やジプシーたちは、イタリア人やフランス人の邪視を祓《はら》うと信じています。すると得体の知れないカルパチア人ドラキュラ伯爵が、西欧諸国やイギリスの人びとにとって、ニンニクで追い払うべき邪視を秘め持つ他所者と映るのは理の当然ではありますまいか。  以上のような複合的な迷信のかたまりとして、ニンニクは得体の知れない男ドラキュラを退散させる妙薬ということになってしまったのでありました。  ところで、ニンニクが悪霊や吸血鬼を追い払っているうちはいいのですが、その強烈な効能が勢いあまって人間にまで威力を及ぼすとどういうことになるか。面白いのは、二人でベッドに入るとき、一方がニンニクを食べていてもう一人が食べていないと、食べていなかった方は、やがてだんだんに衰弱して死んでしまうと思われていることです。むろんこれが、文明国の現状にそのまま適用できる話とは申せません。  それにしても駅前のギョーザ店でニンニクのばっちり入ったやつを思う存分、胃袋に叩き込んでから、さて御帰館のうえ奥方にイドむ、というようなご趣味をお持ちの殿方などは、今後はそれが殺人に通じることもあり得ることを肝に銘じて、軽挙妄動を慎しまれたがよろしいでしょう。もちろんお二人で仲良く召し上がってからハゲまれる分には、一向に差し支えないわけですけれども。  さて、西洋ではこんな風にニンニクは吸血鬼を退散させたり、精を強くさせたりする妙薬でしたが、東洋ではどうだったでしょう。中国ではニンニクは漢の武帝時代に西域に使いした張騫《ちようけん》が持ち帰ったとされていますから、やはり本場は西方だったことになります。  日本にはいつ頃渡来したのか、鎌倉時代の終わり頃の山宮祭の参列者にニンニクの食物忌みがあったと伝えられているので、かなり以前からニンニクは食生活に登場していたようです。江戸時代にはすでに、夏の暑気払いの妙薬として普及していたらしいのが芭蕉の句にも見えています。   物よくしやべるいわらしの顔  尚白   蒜《ひる》の香の寄もつかれぬ恋をして 芭蕉   暑気《あつけ》によわる水無月《みなつき》の蚊屋  白 『俳諧評釈続篇』でこの句を取り上げている柳田国男によると、「いわらしは家刀自、即ち主婦のこと」で、この人妻の顔を見ている男が実は暑気払いにニンニクを食べていたのです。そのものすごい臭いのために、蚊屋のなかにいる恋しい人に近づくこともできない。女のほうもじれったい。彼女は、「折角蚊屋の外まで男が来てくれたのに、くさい雑薬を食べて居るばかりに、打解けて話も出来ぬという心持」(柳田国男)だったとか。  ニンニクはやはり一人だけで食べたのでは面白くないようです。吸血鬼を近づけない分には効があっても、かねて狙っていた美しい人妻に近づけないのでは、だいいち相手の首筋に歯を立てて血を吸うことができなくなってしまうではありませんか。 [#改ページ]   塩は敵に送れ  塩がなければ人間生きてはいかれない。  生死にかかわりがあるというような大げさな話でなくても、塩のない食生活を思い浮かべただけで、これはもう味気ないことおびただしいはずである。まずお湯割り焼酎のおともにする、醤油をたっぷりつけて焼いた塩せんべいが食卓から消えてしまう。小田原名物イカの塩辛が消えて、鮎のうるかが消える。塩味ラーメンが食べられなくなる。いっそ死んだ方がましなくらいのものである。  一方、サラリーマンはサラリーがなくては生きてゆけない。ところで、このサラリーのなかに塩が入っているのをご存知だろうか。ラテン語の「金、給料、賃金」などを意味する salarium は、綴りのなかに語源の塩 (sal) が入っている。ローマでは兵士は軍役の報酬として塩の現物給与を受けたのである。塩の現物給与がない場合には、塩を買うのに足りるだけの金銭が支払われた。そこからサラリーという語が出来たので、給与生活者というのは、本来は労働の対価に塩を受けとる人間のことだったのである。  塩気のない食物ばかり食わされるならいっそ死んだ方がまし、と書いたが、実は死んだ人は塩気のあるものは食べない、もしくは食べさせてはいけない。  南方熊楠の「塩に関する迷信」という随筆に、仏領西アフリカのロアンゴ人の風習として、 「その地の術士、人を殺し呪してその魂を使うに、日々塩入れず調えたる食を供う。魂に塩を近づくれば、たちまちその形を現じてその仇に追随すればなり、と」  と報告されている。薄気味の悪い話ではあるまいか。塩をふりかけると消滅してしまうナメクジとは反対に、塩を近づけると魂が肉体をとり戻して、殺されたうらみを晴らしにくるというのである。  続いて南方熊楠は、わが国の塩にまつわる迷信もいくつか紹介している。 「本邦にも、何の訳と知らぬが、命日に死者に供うる飯を、塩気なき土鍋もて炊《かし》ぐ。(中略)荊妻(田辺生まれ)の語るは、旨《うま》からぬ米に塩入れ炊ぎて旨くする方あり、赤飯炊ぐには必ず塩入る。すべて仏や死者に供えし飯は旨からず。抹香等の気に燻《くす》べらるればなり。小児食えば記憶力を損ずとて、老人のみ食う。物忘れするもかまわぬをもってなり」(『南方随筆』)。  どうやら塩をとらないとボケ老人になってしまうらしいのだ。それはともかくとして塩抜きの食事がもっぱら死者のお供え物とされて、生きている、とくに育ちざかりの子供からは遠ざけられたのは、塩が生命力と切っても切れない関係にあるという信仰が、一般に徹底していたからにほかなるまい。  塩にはそれほど魔術的な力がそなわっていると信じられてきた。ロアンゴ人の呪術がいい例で、まず亡霊を近づけない。または追い払う。これも洋の東西を分かたぬ信仰で、またまた熊楠随筆から引くと、わが国でも「葬送の還《かえ》りに門に塩を撒《ま》くは不浄を掃うといえど、実は鬼が随《したが》い来るを拒《ふせ》ぐものか。霊飯に塩を避け、土鍋を用いて炊ぐも、もと亡霊が塩と鉄とを忌むとせしに出づるならん」。  つまるところ、生きている人間には塩はなくてはならないけれども、万事がこの世とさかさまの死の世界の住人は、これとは逆に塩があっては困るのである。だから塩を撒けば亡霊は近づいてこられない。小料理屋の門前の盛り塩なども、形は富士山型の塩尻を模したものであろうが、意味するところは悪霊を近づけまいとするおまじないであろう。平気で借金をする客などには鬼か悪霊がついているにきまっているので、そういうのにはあらかじめ塩のリトマス反応で門前払いを食わせるわけである。  悪魔祓いの妙薬とされただけではない。もっと積極的に、外敵に囲まれた仲間同士の結束を固めるシンボルとしても尊重された。塩は食物の保存に役立つ。塩づけにしておけば、野菜でも魚肉・獣肉類でもかなりの期間腐敗を防げる。モノを長持ちさせるので、「友情」や「永遠のちぎり」の象徴とされてきた。それかあらぬかアラブ人は、見知らぬ旅人に好意を示すにはまず相手に塩を贈るのである。  会食の席でも塩はシンボリックな媒介者の役割を果たす。たとえば人びとが集まって食事をする席には、どこでも食卓の中央に皆で使える塩壺が置いてある。いまも町の食堂などでは、食卓塩は大抵醤油やコショウと一緒になって共用で使われている。  ギリシアの哲学者ピュタゴラスは、塩を「正義」の象徴と見て、ひとつ食卓で塩をともに食べ合うのは、正義を分かち合うことにほかならないと考えていた。だから逆に「塩を撒く」のは、この共同の正義に悖《もと》る例外的な不正、不幸、邪視などを近づけまいとする、塩の浄化力に頼ったまじないだった。邪悪なもの、罪や敵意や攻撃性の前兆が見えたら、ただちに塩を撒けばいいのだ。相撲の立ち合い前の撒き塩もこの伝だろう。  そういえば塩のこの無敵の浄化力をうっかり使って、わが身の不浄をわれから暴露してしまった人物がいる。銀三十枚でキリストを売ったユダがそれだ。  もともと完全に清廉潔白で正義の衣を頭から爪先まで身につけている人間には悪霊のつけ込む隙はないはずだろう。そういう人は、身体じゅうにお札を貼りめぐらした耳なし芳一のように、いわば難攻不落の徳の城のなかに閉じこもっているからだ。  とすれば、やましいところがある人間ほど悪の前兆には敏感になり、そのための予防措置をめぐらせているということになる。そこでローマ以来、悪い前兆や不幸の徴候があらわれたとき、「罪のある者」は右手で左肩の上にひとつまみの塩をふりかけなければ不幸を避けることができない、という迷信が流布されてきた。  ユダが罪ある者として自らの悪心におののいて、最後の晩餐の席で塩を撒いたというエピソードは、聖書にはない。「最後の晩餐」を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチが、彼独自の解釈からしてこのエピソードを画面に配置したのである。すべてを見通しているイエスの透視力、これに内心を見破られて動顛するユダの心理状況を目に見える劇として表現するには、聖書原典にはない古くからの迷信習俗をとり入れるのが、当時の観客には分かりやすかったからである。  レオナルドの「最後の晩餐」の食卓のユダの前には塩壺が投げ出されている。イエスが、十三人の会食者のなかに一人私を裏切る者がいると宣明した瞬間のシーンである。  一見ユダは、他の会食者と同様、無罪そのものの態を装っている。だがその右手は銀三十枚入りの財布をつかみ、驚愕の面持ちで左手を高々と挙げて、身の潔白を証す演技にもおさおさ怠りない。けれども彼はそうしながら、高く挙げたその左手で実は過剰なアリバイ作りに塩を撒いた[#「塩を撒いた」に傍点]のである。こうして、期せずして自分が有罪であることを洩らしてしまっているのだ。 (挿絵省略)  しかしそれもこれも、塩がサラリーになるほど貴重だった時代の話である。爪に火をともすようにして塩を使ってこそ塩の迷信に迫力があった。相撲の仕切りの撒き塩のように手づかみで惜しげもなく塩を使うような飽食時代には、塩の力もあんまり当てにはならない。塩分過多で高血圧か腎臓病になるのが関の山で、塩の呪力はもっぱら自分の方に命中する。塩の迷信を復活させるためには、まず塩ひとつにしてもケチケチ使うことではあるまいか。 [#改ページ]   南瓜がこわい  Rさん。  夏も盛りをすぎて、ふと秋風の気配をおぼえる今日この頃です。この文章が活字になる頃は、もうrのつく月に変わっていることでしょう。そう、rのつく月、牡蠣《かき》が食べられる月がやってきます。  rのつかない月(五、六、七、八月)に牡蠣を食べないというのは、何も迷信ではありません。牡蠣は五月頃から八月までが産卵期なので、この時期は味が落ちるばかりか、腐りやすいので要注意なのですね。  本格的な牡蠣中毒の方はペネルピンという毒物が牡蠣の肝臓に発生することがあるからで、これは発生時期が早春に限られますから、その時期を避ければいい。手っ取り早くいえば、秋から冬にかけてが食べ頃だということです。お金と暇さえあれば、そろそろ広島あたりまでくり出したいところですねえ。 『村上龍料理小説集』のなかに、なぜか牡蠣の取り持つ縁で奇遇が重なるスチュワーデスと、パリのオイスターバーで生牡蠣を食う話 (Subject 9) があります。はじめて会ったグランド・セントラル・ホテルのオイスターバーではカリフォルニア・シャブリで生牡蠣を食べる。三度目に会ったときには深夜の千葉から六本木まで車をとばして生牡蠣を食べにいった。最後が四度目のいまで、このときはどうやらモンパルナスのどこかへ食事にゆくらしい。 「私達はカフェを出てモンパルナスの方へ歩いた。午後十時、ようやく太陽が沈んだパリの遅い夜、バス停のベンチで恋人達が舌を吸い合う音が聞こえ、私はある感触に包まれた。  生牡蠣がシャブリで冷えた喉を滑り落ちる時のあの感触である。それは情欲にまみれていた」  そういえば私もモンマルトルの裏町の牡蠣レストランに入ったことがありました。労働者相手のあまり上等とは申せないお店で、床にはテーブルから落ちこぼれた牡蠣の殻がいたるところに散らばり、格子縞のベトベトしたビニール・クロスをひろげたテーブルの上の山盛りの大皿から、手づかみで生牡蠣を取って平らげるのです。ふと見ると、食べ終わった老人がナプキンで口をぬぐいながら「パルフェ」と言って立ち上がりました。「ここの牡蠣は完璧である」とか、「申し分ない」とかいう意味でしょう。満悦した表情からして、それ以外に言いようのないこの一語《ひとこと》の気合いがこもっていました。  村上龍の小説のカップルは、「六月だから、パリでは無理だよ」と四度目の遭遇では牡蠣を食べず仕舞になります。きっとその代わりに二人きりの水入らずで別の生牡蠣[#「別の生牡蠣」に傍点]を食べたのでしょう。ご想像のように、牡蠣にはどこか悪徳とデカダンスの匂いがあって、それがまた性こりもなく、あのぬるっとしたものを呑み込みたいというやみくもな欲望を刺戟するのです。  それにしても、r無しの月の牡蠣を食べないのにはそれなりの根拠がありますが、大した根拠もなしにあれを食うなこれを食うなと指図されるのは、食いしんぼうにはまことに不愉快なものです。一例が子供の頃、台所に貼ってあったエンピツ書きの紙片の食い合わせ一覧表。同食と書いて「くいあわせ」と読むのですが、異種類のものを同時に食うと身体に害があるというのです。うなぎと梅干、テンプラとかき氷なんて、どちらも喉から手が出るほど食べたいものがきまって同食禁止でした。かき氷が食べたい、とおねだりすると一覧表を指さして、「今夜のおカズは精進揚げですからいけません」。この手で何度かき氷を見送ったことでしょうか。うらみは深いぞ。  食い合わせのタブーを明記したのは、わが国では室町時代の『庖丁聞書』がはじまりといいます。猪に兎、田螺《たにし》にこんにゃく、雉子《きじ》に狸、干鱈《ひだら》に栄螺《さざえ》、鮭にいるか——これらを食い合わせると百日以内に大病になるとか。  貝原益軒の『養生訓』のリストはもっと微に入り細をうがっていて、たとえば「猪肉《ぶたにく》」の食い合わせになるものは、「生薑《しようが》、蕎麦、|胡※[#「くさかんむり/妥」、unicode837d]《こすい》、炒豆《いりまめ》、梅、牛肉《ぎゆうにく》、鹿肉《ろくにく》、鼈《すつぽん》、鶴《つる》、鶉《うずら》」。また「鶏肉《にわとりにく》と鶏子《たまご》」には、「芥子《からし》、蒜《にんにく》、生葱《なまねぎ》、糯米《もちごめ》、李子《すもも》、魚汁、鯉魚、兎《うさぎ》、獺《かわうそ》、鼈《すつぽん》、雉」。  こんなのを真に受けていたら、酢豚、八宝菜はむろんのこと、五目チャーハンだってまず一生口に入りません。それにしても昔は、現代の食生活からは想像を絶するようなタブーが、よくもまあ平然とまかり通っていたものです。何しろ明治時代の食禁では、「うなぎと梅干のほか、あひるの卵ととろろ汁が、赤飯とふぐ、牛肉とほうれん草、焼酎と豆腐などとともにタブーとされていた」(小柳輝一『食べものと日本文化』)というのですから。  Rさん。  ほかのものなら我慢の仕様もあります。しかし「焼酎と豆腐」の食い合わせとはなにごとでしょう。毎晩のように冷奴とお湯割り焼酎を飲み続けて、いまのところまだお陀仏の気配もない私のような人間に向かって、これはまた何という言い草でしょう。こんなものは断じて迷信[#「迷信」に傍点]です。迷信にきまってます。  さすがに世の中にはめしいばかりはおりません。小柳輝一の同書によれば、「だが、大正一二年、栄養研究の人が、これらの食い合わせを三日間、自分自身で食べて実験をしたところが、なんの異常もなかった」。  それにしても複数の食べ物の組み合わせによる害ならまだしもありそうな話ですが、単品の食物のありもしない毒害を言い立てるのはずいぶん馬鹿げていますね。たとえば南瓜《かぼちや》。いまでは南瓜が有害だなどとは誰も申しませんが、その名の起源のカンボジアから舶来したばかりの天正年間には有害と信じられていました。  先程の貝原益軒も「又|曰《いふ》、南瓜《ぼうふり》を、魚鱠《なます》に合わせ食すべからず」と、南瓜と刺身の食い合わせをいましめていますが、これは滝沢馬琴も書いています。 「南瓜は、蛮語ホワブラと云ふ。唐土、日本とも亞媽港、呂宋等の南蛮国より伝たり。長崎にても、天正年中より造り始め、中華紅毛人に売て生計とす。本草綱目にも、毒ありて人に益なしと有故、怖れて食する者なかりしに、近年は諸国に流布して、人々食すれ共、害あることを不レ見。多くは肉食する故、悪瘡を憂ふる者あり」  これはまあ一種の文化ショックの産物でしょう。異国からの見なれぬ到来物は、どこでも最初はうす気味の悪い異物として敬遠されるのですね。そういえばコロンブスが新大陸からヨーロッパにジャガ芋を持ち帰ったときにも、ジャガ芋を食うと癩病《レプラ》になるという俗説がとんで、ジャガ芋栽培はなかなか普及しなかったそうです。  食忌みで思い出しましたが、忌みには言葉の忌みもありますね。相場師や博徒が、猿をエテ、スルメをアタリメ、梨をアリノミと言うあの類《たぐい》です。この間も井之口章次『暮らしに生きる俗信60話』をのぞいていたら、こんなのがありました。瀬戸内海両岸から九州にかけての一帯では、「死ぬ」という言葉を忌んで「広島へ煙草買いに行った」と言うのだそうです。日本人にとっての死とは、煙草を買いに行くくらいの距離のところの常世《とこよ》に行くことなのですね。私はこの忌詞がとても気に入ってしまいましたが、だからといって実行するにはすこしばかり時期尚早の感があります。  そこで、Rさん、目下のところは「広島へ牡蠣食いに行った」とシャレませんか。来月あたり、ぜひともお供したいものです。 [#改ページ]  第�章 呪   チチンプイプイ  放屁した瞬間に尻に火をつけた。出てきたのはメタンガスだから、ジェット噴射の原理で男はブウンと宙に舞い上がった。西独の監督ヴェルナー・ヘルツォークの映画『シュトロツェクの不思議な旅』の冒頭場面、屁力で宙をとぶ男が監獄房のなかでこの曲芸を演じるのである。  いくらメタンガスが燃料だからといって、そんなことができるものだろうか。まあできないだろう。そこが映画や絵画の面白さで、スクリーンや画面の上では、実際にはとうていありそうにないことがやすやすと現実になる。  もっとも屁力のすさまじさという点でなら、こんなものに驚いていられないのがとうにわが国にもある。たとえば伝|英一蝶《はなぶさいつちよう》画・柳亭種彦序の『屁戦絵巻』。屁の力だけを武器に、死力を尽してえんえんと合戦をくりひろげる屁合戦である。敵も味方も全員が尻をまくり、ふんどしを外し、屁っぴり腰をきりりと構えてひょうと放つ。馬上から放って一人二人を屁殺する豪の者あり、その馬上の猛者《もさ》を徒足衆が馬もろとも屁倒し返す美技ありで、すでにあたりは鼻ももぎれんばかりの黄風黄臭ふんぷんである。まことに「くさきも靡《なび》くとは天下を握り屁の讃詞にも聞こえたり」(種彦)とはよくいったもの。くさきも靡く屁力の強者こそが天下を取るのである。  伝英一蝶のこの絵巻は、おそらく鳥羽僧正の鳥獣戯画の放屁の巻から想を得たものだろう。鳥羽僧正の放屁軍の画は、ほかにも幕末の狂絵師烏(河鍋)暁斎が独自の解釈で模写しており、飯島虚心によれば「此の絵巻は川越在小ヶ谷村の内田氏の所蔵なり」とあっていまも現存しているはずだ。鳥羽僧正覚猷にはじまる放屁絵巻の伝統は、まことに梯子屁《はしごべ》のように長々と続いたのである。  屁物語の方ではさしずめ『福富草紙』(または『福富長者物語』)がある。福富の織部は、屁の曲ひり、自由自在に屁を鳴らす生まれつきの曲屁名人であった。 「いかなる過去《くわこ》の宿縁《すくえん》にや、身に生《むま》れたる芸《げい》、ひとつさふらひけるが、習《なら》はざるに奇特《きどく》を現《あら》はし、はからざるに名を発《はつ》して、世の人神の如《ごと》く思《おも》ひける」  珍芸が評判を呼んで身分の上下を問わず人びとの間で大ウケになり、ついには公方《おおやかた》にも聞こえる。おかげで福富の織部はとんとん拍子に財をきずいて蔵が建ち、ひともうらやむ福富長者とはなった。芸は身を助けるとはいうものの、それにしてもよくぞウンがついたものだった。  福富長者はいささか聞きなれない屁の音を鳴らした。「あやつゝ、にしきつゝ、こがねさらさら」。こんな人語のような屁が出るものだろうか。これに対して風来山人平賀源内『放屁論』では、屁は純粋に音楽的であり、しかも放屁《へつぴり》男の曲屁の細部が鼻につくほどくわしく描写されている。「昔よりいひ伝へし|梯子※[#穴/示]数珠※[#米+費]《はしごべじゆずべ》はいふもさらなり」とあって、そんな素人にでもまぐれに出てしまうようなものは問題外。三番叟《さんばそう》、祇園ばやし、犬の吠声、鶏の声、両国の花火、淀川の水車、はては一中節やら豊後節、義太夫の長丁場なんぞも、お好み次第でひり分けひり出す。多彩な紙上音楽会をざっと披露してみる。 「囃《はやし》に合(は)せ先《まづ》最初が目出|度《たく》三番叟|屁《べ》。トツハヒヨロ/\/\ヒツ/\/\と拍子よく。次が鶏東天紅《にはとりとうてんこう》をブヽブウーブウと撤分《ひりわけ》、其跡《そのあと》が水車。ブウ/\/\と放《ひ(り)》ながら己《おのれ》が体《からだ》を車返《くるまがへ》り。左《さ》ながら車の水勢《すいせい》に迫り。汲《くん》ではうつす風情《ふぜい》あり」 (挿絵省略)  パリのキャバレーなどにもラ・マルセイエーズを放屁高吟するこの種の芸人がいるという。屁力のすさまじさからいえば、ラブレーのパンタグリュエルも大地を九里四方にわたって鳴動させるような大物をこいたが、音楽的にはいたって単調である。とまれ曲目の多さではわが放屁男に肩を並べる者はまずあるまい。いずれにせよこれだけながながと演奏するには、ガスを貯える大腸のキャパシティも相当のものだったと見なくてはならず、トランペッターの肺活量も顔まけの屁活量が必要とされただろう。  平賀源内の放屁男のモデルになれそうな男がいた。南部東玉という腹芸師。これが大きくふくれた腹を突き出して観客の正面へ。そこでぺこんと大腹を凹《へこ》ますと、凹んで穴になったところへ灯明をともして唱名した。大腹をペこんと凹ます瞬間に腹中のガスが排気されて、その際当然妙音が発せられるように思えるが、いかがなものであろう。  もっとも南部東玉の舞台は天保時代の名古屋大須観音境内、風来山人の伝える放屁男は両国広小路に、それも五十年も早い安永九(一七八〇)年に立ったのだから、モデルになるにはちょっと無理があるだろうか。  ところで福富長者や放屁男のように、人前で堂々と放屁を公開するような人間はもとより例外で、ふつう放屁者というものは、声はすれども姿は見えぬところの発声源を、ひたかくしに隠し通すものである。ところがいくら知らぬ存ぜぬをきめ込んでも、ガイガーカウンターで放射能のありかを探すように、犯人をぴたりと当てる装置がこれまた古くからあった。ベロベロノカギという、尖が鉤形に折れた木の棒である。その鉤の部分を口の前にもってきてくるくる揉みながら、  ベロベロウ、カゲロ  親でも子でも  屁ひった方さ、きろっと向け  と唱えると、鉤の尖は正確に犯人の方を指してピタリととまる。これは、柳田国男の『大白神考』にあるオシラ神信仰系の占い棒である。  それで思い出したが、柳田国男はもうひとつ、放屁にまつわるフォークロアのことを報告していて、これは源内の放屁男や福富長者にも多少関係がある。なぜかというと『放屁論』の放屁男は「昔語花咲男《むかしがたりはなさきおとこ》」と大書した幟《のぼり》をたかだかと掲げて人を呼んでいたからだ。花咲爺(男)がどうして屁こきと関係があるのか。  柳田国男が『昔話と文学』の竹伐爺や花咲爺の章で述べているところによると、『竹取物語』のように高度に文学化される前の古話では、竹伐爺は自分のことを「日本一のへこき爺」と自己紹介しているのだそうである。花咲爺もほぼ同様の筋書きだが、竹伐爺がある日竹林に入って竹を伐っていると、そこへ通りかかった殿様に見とがめられる。 「そこで竹を伐っているのは何者じゃ」 「へい、日本一のへこき爺でござります」 「そんなら一つこいて見い」  そこで竹伐(へこき)爺が妙技を披露すると殿様はすっかり聞きほれてしまい、ごほうびをどっさり下さったので、それからというもの竹伐爺はとんとん拍子に大金持ちになってしまった。『福富草紙』も大筋はこれとそっくりである。  福富長者が下半身から発する妙音は「あやつゝ、にしきつゝ、こがねさらさら」だったが、竹伐爺の方は「チチンプイプイゴヨノオンタカラ」とやった。これは私なども子供のとき膝小僧をすりむいたときなど、母親にそういわれて唱えた痛みどめのおまじないである。痛いのがとんでいけ[#「とんでいけ」に傍点]という気合いでそう唱えたものだ。まさかそのチチンプイプイがおならの音とは知らなかった。  チチンプイプイはしかしおならの音でもあるけれども、そもそもは鳥の鳴き声である。竹伐爺は何かの拍子に小鳥を呑み込んでしまった。それが腹のなかにいて、チチンプイプイの妙音を奏でるのだ。殿様が感服して聞きほれたのも無理はない。そして花咲爺も枯木に灰をまくときに、チリリンパラリンゴヨノマツと「やはり東北一帯の竹伐爺の屁の音と同じ」(柳田国男)掛け声をかけて花を咲かせる。こうしてみると、平賀源内の放屁男も昔話のラッキー・ボーイたちの系譜をちゃんとふんでおり、そのうえ曲屁の音はめぐりめぐって、私などが痛みどめの呪文にしていたチチンプイプイにまでからんでいるらしい。  屁をあまく見てはいけない。武家ならば登城中にうっかり屁をひったりすれば、切腹は必定であった。女は婚家先で黄禍をふりまこうものなら、たちまち離縁。それ以前にこのいたずら者のせいで百年の恋もさめはてたという話もすくなくない。それかあらぬか、周知のように、『宇治拾遺物語』の藤大納言忠家は、言い寄った女があわやの瞬間に例のものを、「いとたかくならしけり」という椿事に遭遇して世をはかなみ、出家しようとまで思いつめた。 [#ここから4字下げ] *放屁男は両国で大当たりをとってから関西に行った。以下は道頓堀興行の評判。 「安永《あんえい》三年|東武《とうぶ》より曲屁《きよくべ》福平といへる者、浪花に上り道頓堀《だうとんぼり》において、屁《へ》の曲撤《きよくひり》を興行《こうぎやう》し古今無双《ここんぶさう》の大当《おほあた》りなりし。尤屁《もつともへ》の曲といへるは、昔《むかし》より言伝《いひつた》へし階子屁《はしごべ》、長刀屁《なぎなたべ》などいへるものは更《さら》なり。三絃《さみせん》、小唄《こうた》、浄瑠璃《じやうるり》にあはせ、面白《おもしろ》く屁《へ》を放《ひり》わけたり。実《まこと》に前代未聞《ぜんだいみもん》の奇観《きくわん》なり。委《くはし》くは風来山人《ふうらいさんじん》の放屁論《はうひろん》に見へたり。是《これ》を以《もつ》て証《しやう》とすべし」(木村蒹葭堂『蒹葭堂雑録』) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   長い長い名前  落語の「寿限無」は有名なわりにはあまり聞けない。真打ちはめったに語らないし、前座の若手が口ならしに語る演目なので、耳に入る機会がすくないのだ。それでも、私などの子供の頃にはラジオの電波からよくあの長たらしい名前が流れてきて、そのせいかいまだに「寿限無寿限無、五劫のすりきれ、ぱいぽぱいぽ」くらいは何かの拍子に口に出るのである。  長い、長い、長い名前だ。むろん寿限無といえば、文字通りに寿(長寿)に限りが無いことだから、長名が長命に通じるというのでつけた名前である。  しかしいくら子の長寿を願ってつけた長名でも、あんまり長すぎて日常生活にさしさわりが生じてしまう。学校へ行ってもどこへ行っても、呼び名が長すぎてすぐには話が通じない。よかれと思ってつけた名前が、行く先々でつぎつぎに不都合なトラブルをまき起こすのである。  落語に仕立てただけに「寿限無」は喜劇的な噺《はなし》になったが、おそらくこの噺の原話となった「長名の短命」と呼ばれるパターンの昔話の方では、結末がいささか残酷である。安間清氏(『早物語覚え書』甲陽書房)によれば、これは全国各地に数多く採集される昔話の類型だそうで、岡山県の採集例では、長名の主人公はその名も「とくとくりんぼう そうりんぼう そうたか入道 はりまのべっとう 茶碗に茶びしゃく ひきいのえいすけ」。  物語は単純なもので、ある家の女房が女の子を生み残して死んだ。すぐに後妻が家に入る。前妻の生まれたばかりの女の子に名前をつけなければならなくなり、そこで後妻が意地悪そうに継子をにらんで「チェッ」と言ったので、その子はチエ子になった。まもなく後妻に男の子が生まれた。この子には長い名前をつけたいと思い、寺の和尚に相談してつけてもらったのが例の「とくとくりんぼう」である。  チエ子と弟はいつも二人で仲良く遊んでいた。ところがチエ子がある日うっかりして井戸にはまった。すると近所の子がすぐに「チエ子が井戸にはまった」と注進したので助かった。一方、弟の「とくとくりんぼう」もある日井戸にはまった。  さあ大変。同じく近所の子がかけつけて、後妻の母親に「とくとくりんぼう そうりんぼう そうたか入道 はりまのべっとう 茶碗に茶びしゃく ひきいのえいすけが井戸にはまったよ」と実に長たらしい報告をする。母親も受けて「エッ、何だって、とくとくりんぼう……が井戸にはまったかい」とモタついているうちに、肝腎の子供は溺死してしまうのである。これが「長名の短命」のいわれとか。  いじめられた短名のチエ子が命拾いをして、大事にされた長名の実子がはかなく命を落とす。どこかシンデレラ物語を髣髴《ほうふつ》とさせる、継子いじめ応報譚である。しかしそうかといって、名前が長いのがかならずしも短命とはかぎらない。  逆に異様に長い名前をつけられた子供がそのためにかえって人目を惹き、それがきっかけで殿様に見込まれて出世したという話もある。原話は『信濃昔話集』にあり、「とくとくりんぼう」とは反対に、長い名前は「継子の出世を厭った後妻がわざと言いにくく長い名をつけた」(安間清氏)ので、その逆転が出世譚になったのである。それにしてもこの名前は長い。 [#この行1字下げ]扇拍子を丁と打って 一丁ぎりに二丁ぎり 丁に丁に丁ろくに 丁太郎櫃に丁櫃にあの山にこの山に ああ申すこう申す ひちくきずんぎり黙庵に 天目々々黙僧坊 伊賀の平左ヱ門に 加賀の源蔵主 源七源八源平六 とっぺない五郎 豆腐のおん坊食辛坊 瓜のおん坊とうがん坊 刀の鐺《こじり》の小左ヱ門 鳥のとっさか藤三郎  長い。実に長い。しかしこの程度の長い名にいちいちおどろいていては、昔話にはとうていつき合えないようだ。岩手県下閉伊郡川井村で池田弘子女史が村に伝わる早物語から採集したという「長い名の子ども」の名は、右の約二倍の分量はある。興味のある方は安間清氏の研究『早物語覚え書』にじかに当たってもらうとして、これまたまるで無意味に面白く長たらしい名前である。  昔話や落語のいずれも架空の長名をはなれて、現実にどれだけ長い名前の人がいるかというと、姓名研究で名高い槇田麟二岐阜地方裁判所検事の『珍名奇姓録』に、「平平平平臍下《ヒラタイラヘイベイヘソシタ》珍内春寒風衛門」というのがある。  槇田検事が岐阜地方裁判所に在職したのは昭和六、七年頃というので、「平平平平臍下珍内春寒風衛門」氏が当時実在した人物であることは間違いない。住所も「宇都宮市塙田町」と歴然としている。冗談か狂歌人の狂名めいた名の人物がちゃんと生きていたのである。 『珍名奇姓録』にはこのほかにも何と読むのか、どこまでが姓で、どこからが名か、よく分からない珍名奇姓がどっさり満載されている。二、三長めのものを挙げてみよう。  渡辺七五三吉五郎次郎三郎衛門(福島県坂下町)  一二三四五六七八九十郎(金沢市南町)  古屋敷後部屋新九郎左衛門介之亟(山口県)  こうしてみると、むかしの人はいまよりずっと長い名前を持って、それを悠長に呼び合っていたものらしい。それだけ時間もゆっくり流れていたのであろう。  ちなみに現在日本一長い名前の主として知られているのは、奈良県高市郡明日香村の藤本太郎喜左衛門将時能さん。二、三の週刊誌で話題になったので、覚えておいでの方もすくなくないと思うが、昭和四十八年頃二十四歳の左官職として紹介されたこの人は、写真ポートレートではその名に似合わずきわめてふつうの現代的好青年だった。やはりこの名では日常のコミュニケーションに不自由とみえて、ふだんは「太郎」の略名ですませているらしい。  ところで、藤本太郎喜左衛門将時能さんが現在日本最長名の保持者だとすると、昭和六、七年に現存した平平平平臍下珍内春寒風衛門氏や古屋敷後部屋新九郎左衛門介之亟氏はすでに物故されたのだろうか。あるいは長すぎる名をもてあまして、改名してしまったのだろうか。  これも昭和六年六月号の『文藝春秋』の「奇姓珍名物語」と題した山名冬骨のエッセイに、同年八月改名申請書を出した一人の女性のエピソードが語られている。その名も沢井麻呂女鬼久寿老八重千代子さんで、当時芳紀二十一歳の東京女子体操音楽学校の女子学生だった。長名の方は「マロメキクスロウヤエチヨコ」と読む。そのマロメキクスロウヤエを外して、単に千代子と改名したあとは、どこにでもありふれた沢井千代子さんになった。  昭和六年に二十一歳であれば、現在ご存命なら七十代の半ばにはなられる。かりに彼女が改名していなければ、全十四字で藤本氏の全十一字より三字長い。改名の理由は「社会活動に差支えるから」であったが、外面を変えても、長い姓名の記憶は残る。ひょっとするといまは平々凡々たる沢井千代子の仮面の背後で、彼女もおりおりはかつて切ってすてた長名の呪文めいた生名を想い起こして、お蔭で長生きしました、とこっそりほくそ笑んでおいでかもしれないのである。  ついでながらどんな名の子が短命に終わったかを統計に取った人がいる。これも山名冬骨「奇姓珍名物語」に報告されている、姫路市の某市吏が死亡児と名前の関係を調べたデータだそうで、「例へば淡雪、初雪、みゆきなどの名前のついたものは大抵生れて間もなく死んでゐる」というのだが、さあどうだろう。  いずれにせよ、これは長い名と長寿の比例反比例の例証にはならない。しかし長名がかならずしも長命につながらなくても、すくなくとも長い名のやりとりをしていると、時間がのんびり流れる幸福感は味わえそうな気がする。近年の短めの名はやはりせせこましくいそがしげだ。  外国にも長い名は当然あるだろう。学生時代よくリラダンのフルネームをジャン・マリ・マチアス・フィリップ・オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リランダと得意げにまくし立てていた友人がいたが、薄田泣菫の『茶話』(冨山房百科文庫)を読んでいたら、物凄いのにぶつかった。  Gust J. Papatheodoropoumoundurgiotomichaユakopouユos,  ギリシア移民みたいだが、シカゴの銀行に公債を買いにきたアメリカ人が記帳した名だそうである。 [#改ページ]   鼻を高くするおまじない  デパートの貴金属売り場か銀座あたりの宝石店らしい店先に、女性客がうんか[#「うんか」に傍点]のように殺到している。見れば、店内はそこらじゅうが金の首飾りやブローチばかり。円高のゴールド・ラッシュとかを取材したテレビ番組のひとこまである。ひと昔前ならバーゲン売り場で子供のパンツを漁っていたような人品骨柄の中年婦人が、ずっしりと重い金の首飾りを両手にわしづかみにしてニタリと笑った。うへっ。  女性が美しくなることに異論のあろうはずはない。そうかといって手当たり次第に何でもぶら下げればいいというものでもあるまい。まして装身具などは、魔術起源の秘密があるので、まかりまちがえれば身の危険をも招きかねない。それがすこしばかり心配なのである。  装身具やお化粧は、もとよりわが身をより美しく飾りたいという装飾本能の所産である。それはいうまでもない。けれども同時に、場合によっては悪しき敵を威圧したり、敵の邪視(悪意ある視線)を避ける護符《アムレツト》として使われることもある。いってみれば、ガンをつけられる[#「ガンをつけられる」に傍点]のを、これを使ってあらかじめそらすのである。  早い話が避雷針のようなものと思えばいいのではないか。雷が避雷針に当たってアースへ流れてしまえば、本体の家は直撃を受けないで済む。貴金属や宝石を身につけていれば、嫉妬羨望の邪視がキラキラ輝くものの方に惹き寄せられて、本体のやわ肌までは届かないのである。  光り輝くものに邪視を惹き寄せるのとは逆に、邪視をはね返すような装身具もある。ブローチのデザインに、切り取られた動物の角や歯や足爪といった、思わず目をそむけたくなるような物体が模造されているのがそれだ。悪霊でさえ、その攻撃的でグロテスクな姿におそれをなして近づいてこない。  それよりいっそ何も身につけなければどうか。徹底した無装飾も一種の防御魔術なのである。こんなのはつけ狙うだけの価値もない、と思わせてしまえば敵は首尾よく素通りしてくれる。バロック的な過剰装飾も何もない無装飾も、双方ともに悪霊の邪視を避けるためのデザインなのだ。  それより無装飾をもっと徹底させて、わざわざ本体を汚してしまうというマイナス記号の防御魔術さえある。これは建物のお化粧の例だが、ドイツの一地方では、家外壁に獣の血を塗ったり、部屋の白壁に血に浸した五本指でフィンガー・ペインティングを描いたりして魔を祓う。  お化粧にもこの種の悪魔祓いに関係のあるものがいくらもある。醜粧とか忍粧とか呼ばれる化粧法がそれだ。忍粧は読んで字のごとく、忍者が旅の芸人や職人に身をやつして検問を通り抜けるための変装である。醜粧の方はもともとは美しい者が醜いふりをする。戦時の掠奪強姦などを免れるために、美女が顔に煤をぬって、癩者や乞食に見せかけたりするのがそれである。これも起源はいたって古い呪術に遡るだろう。お化粧は愛する人に向かって美をあらわにしもするが、敵に対してはむしろ身を隠し、おのれの姿を見えなくするためのものなのだ。  たとえば誰でも知っているシンデレラ姫のお話。シンデレラ(Cendre=灰)は、その名の通り灰をかぶったような不潔な女の意味である。そのために継母や継姉たちはきたならしいもののように目をそむけて、彼女のことをまともに見ない。これが実は思う壺なのだ。彼女はこうして世の悪しき目を避け、ただ一人王子さまだけに正体をあらわして、まんまと相手のハートを射止めるのである。 『南方随筆』に、双眼の健康で美しい人が「眇人《すがめのひと》」の羨望をおそれてわざと瞼に煙墨《カジヤル》をぬる、インド・アグラ地方の風習のことが記されている。これは邪視を免れるばかりか、煙墨のために視力が落ちて、他人に視害を及ぼすこともなくなる効用があるという。「エジプトの婦人がコール粉を眼の縁に塗って黒くするも、装飾のためとはいえ、実は同理に基くならん」  どうやらアイシャドウも、もとはといえば防御魔術だったらしいのだ。  南方熊楠はさらに続けている。子供がヨチヨチ歩きをはじめると「必ずその児に視害を及ぼすをもって、額の一側、また匍匐《ほふく》中ならば左足底に煙墨(カジャル)を塗ってこれに備う」。愛らしいものにはわざと穢物を見えないマントとしてかぶせるのである。これと同じく人名に穢物の名をつけるのもやはり邪視防御策。いわく、 「滝沢解の『玄同放言』巻三上、姓名称謂の条に国史を引いて、押坂部史毛屎《おしさかべのふひとけくそ》、錦織首久僧《にしこりのおびとくそ》、倉臣小屎《くらのおみおくそ》、阿部朝臣男屎《あべのあそみおくそ》、卜部乙屎麿《うらべのおとくそまろ》、節婦|巨勢朝臣屎子《こせのあそみくそこ》、下野屎子《しもつけのくそこ》等の名を列し、いとも異なる名なれども、時俗の習いまた怪しむに足らず、と言えり」(『小児と魔除』)  よくもまあ臭い名前をつけたものだが、これだけ臭気ふんぷんたる毒ガスを発散させていれば、よもや悪霊も近寄ってはこないだろう。とまれ美や幸福の半端な見せびらかしは危険なのだ。  それにしても瞼に墨を塗ったり、名前を屎だらけにするような醜粧も、当人にそれだけの余裕があればこそである。もともと美しいものだからこそ汚すこともできる。上層からなら下層に身をやつしもしようが、なけなしの醜男醜女はどうしてくれるのか。お化粧も装飾もこれこそが本来の要点である。邪視が何だろう。嫉妬羨望の視害がおのれ一身に雨霰《あめあられ》とふり注ぐような目に一度は遭ってみたいものだ、というわけ。  現代ではメーキャップ技術の発達で、その気なら顔はほとんど好きなように変えられる。顔面整形というテもある。要するに骨組みまでソフト化して、大概の欠陥は何とかなりそうだ。これがひと昔前だと、どうにもならない顔というものがざらにあった。生まれつき鼻が低い。これをどうしてくれますか。  江戸時代の美容書『都風俗化粧伝』(佐山半七丸)に「鼻を高うする呪《まじなひ》の伝」というものがある。耳よりな話ではあるが、おまじないで低い鼻が高くなるものだろうか。同書はまず、そんな月並みな疑いを持つからおまじないが効かないのだ、と前置きに一蹴してから、おもむろに秘伝を打ち明ける。 「かわやに入りて心を静め、念仏なりとも題目なりとも、その人の信ずる方を唱えながら、右の手の母《おや》指と人さし指、高《たけたか》指(中指)と、三指《みゆび》にて我が鼻の両眉の中央《まんなか》の下より、はなばしらをはなさきまで、高くもみあぐるごとくはさみてもむこと数多すれば、鼻自ら高うなること、奇妙の呪《まじない》、ゆめゆめ疑いの心あるべからず」 「又法/我が鼻の両わきを、人さし指と中指にて両眉の下の方より小鼻にいたりて押し下ぐること、たびたびすれば、自ら高くなるなり」  何のことはない、指で鼻をつまんで押し上げたり押し下げたりすればいい、ということらしい。これはおまじないというより、美容マッサージといった方が話が早い。こんなものなら現代女性もとうに実行済みだろう。ただ厠に入って心を静め、念仏お題目を唱えるところが、呪といえば呪だろうか。  ただし『都風俗化粧伝』がおまじないに頼っているのはこの一箇所だけ。他の美容法は「背の低きを高く見する伝」、「出尻《でじり》をかくして風俗《ふり》をよく見する伝」等々、トリッキーな身体造形によって禍を福に変える秘術の数々、さすがに江戸歌舞伎と遊廓のなかで発達した美容技術の水準は高いと思わせるものがある。  ちなみに、迷信的おまじないでなく、江戸におけるもっと合理的な美容整形器具のことを先の南方熊楠が報告している。異本の『女大学』に絵入りで記載されている「野郎の鼻低きを高くする法」で、二つに割った青竹に紐を通したもの。  ところで明治四十三年頃、南方熊楠は新聞のパリ通信で「新発明の婦女の鼻を高くする器」のことを読んだ。 「全く件《くだん》の野郎の鼻高くする法と同じきものにて、用法も夜間鼻をこれに挟みて臥する由記しありたり」(『淫書の効用』) (挿絵省略) (挿絵省略)  しかもフランス製のこの新美容器具、わが『女大学』の隆鼻器械に遅れること百年以上であるというから痛快である。美容における江戸人の造詣、あなどるべからざるものあり。そうかといって江戸人は、今時のようにキンキラキンの光りもので身を飾りはしなかった。ばかばかしい[#「ばかばかしい」に傍点]美容術の発達にかけては、フランスなんぞに百年の長があったという痛快談なのである。 [#改ページ]   くしゃみ論争  悪魔はどうやって調べるのか、ともかく全人類の名前を書きしるした名簿を持っていて、ときどき退屈まぎれに一人二人の名を読み上げるのだそうである。むろん名前を呼ばれた当人には、どこか遠いところでつぶやいている悪魔の声が聞こえるわけはない。それでいて、たしかに悪魔の呼び声が伝わっている証拠には、名前を呼ばれた当人がいきなり、ハークションと大きなくしゃみをするので分かるのだそうである。  さて、悪魔に名前を呼ばれてくしゃみをした。それをそのまま放っておくと大変なことになる。呼びつけられて悪魔のいるところへのこのこ行ってしまいかねない。ということはこの世とおさらばして、あの世の人になってしまうにちがいない。  そこで周囲の人か当人自身かが大急ぎで「|神よ助け給え《ヘルフ・ゴツト》!」と神に救けを呼びかけて、プラス・マイナス・ゼロ式に、悪魔の呼びかけを骨ぬきにしてしまわなければならないのである。  悪魔や神が関係しているくしゃみだから、これは西洋の話である。もっとも、くしゃみをするとあの世行きの危険があると思われているのは洋の東西にさして変わりはないらしく、わが国にもくしゃみどめの呪文が古くからちゃんとある。一例が、高校の国語の時間で誰しもがおなじみの『徒然草』第四十七段。  ある人が清水寺にお参りに行く途中、たまたま年老いた尼と道づれになった。道すがら尼は、しきりに「くさめくさめ」とつぶやいている。ふしぎに思い、「どうしてそんなことをおっしゃるのですか」と問うても尼は相手にせず、またまた一心不乱に「くさめくさめ」。何度もねじ込んでいるうちに、さすがに相手も腹を立ててぶちまけた。 「やゝ、鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養《やしな》ひ君の、比叡山《ひえのやま》に児《ちご》にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はんと思へば、かく申すぞかし」  鼻ひる[#「鼻ひる」に傍点]というのは、くしゃみの古語。つまりくしゃみが出たとき、こんな風に「くさめくさめ」とおまじないを唱えないと、くしゃみをした人が「死ぬるなり」なのである。  老尼が乳母として養っていた子がいま比叡山の稚児として修行中である。その子が万一いまにもくしゃみをしようものなら、お命にかかわるだろう。そこでこうしてたえず「くさめくさめ」のおまじないを唱えて、蔭ながら御子のくしゃみ死を予護しているのである。「有難き志なりけんかし」。過保護の乳母の深情けにホロリとして、さすがに皮肉屋の吉田兼好もいつになく甘くなっている。  以上でとりあえず次のようなことが明らかになる。まず、くしゃみをすれば死ぬ[#「死ぬ」に傍点]ということ。次に『徒然草』の時代にはまだ、くしゃみは「鼻ひる」であって、くさめ(=くしゃみ)というのは「鼻ひる」の禍《わざわい》を封じるおまじないであり、おそらくそれが後に主客顛倒して、「くさめ」が「鼻ひる」に代わって当の生理現象をいう動詞になってしまったこと。  では、「鼻ひる」封じのまじないがなぜ「くさめ」なのか。岩波版日本古典文学大系『方丈記・徒然草』の註には次のようにある。 「……昔、くしゃみが出た時『休息万病(クソクマンミョウ)』と、まじないを唱えると、なおるという迷信があった。これを早口に言うと、クサメとなる。それをさらにクシャミとなまった。(二中歴による)」  小学館版『国語大辞典』のような手近の辞書にも、「休息万命」=くしゃみ語源説が採用されているので、ここらが一応の定説なのだろう(前出のように、「休息万病」と書くこともある)。しかしこれに異を唱える人もいた。『少年と国語』という子供向けの本のなかで「クシャミのこと」という滅法面白いくしゃみ論を書いている柳田国男である。  柳田説をかいつまんで言うと、クサメは「糞はめ(食《は》め)」、つまり「糞をくらえ」にほかならないという。のみならずくしゃみをするときに「ハ、ハークション」とやるのは、ハ、ハと鼻粘膜がけいれんして息を吸ってから、クショと息を吐き出す鼻息の出入りを自然に発声しているのではない。 「クサメ、クシャミは、あの音をうつしたことばだらうと、言ふ人があるかもしれない。しかし、このごろ来てゐる外人たちを、くらべてみてもわかることだらうが、これは、よつぽど努力をして、口のはうからださうとしなければ、かういふ音にはなか/\ならない」  と柳田国男。ハ、ハと吸うのは自然かもしれなくても、クショの方は「クサメ」のまじないのなまりではないか、というのである。 「能の狂言に『茶かぎ座頭』といふのがある。盲人が集まり、茶を立てゝ楽しんでゐるところへ、いたづら者がやつて来て、胡椒の粉をそつと抹茶の中へまぜておいたのを知らず、おほぜいのめくらがじゆん/\に飲まうとしては、クサメをするといふのが、いさゝか不人情な笑草であるが、こゝでは、そのひとり/\がハクッサメハクッサメと言つて、クサメをしてゐる」  休息万命《くそくまんみよう》か、それとも「糞はめ」か。論争はつきないようだが、どうも柳田説が当たっているのではないかという気がする。というのも、くしゃみは、ここにいない何者かの仕掛けた(呪いなり祝いなり)何らかの呪術的行為のために起こる現象と考えられているのは、これまた洋の東西を問わないからだ。  西洋なら仕掛人は悪魔だが、わが国でもやはり、何らかのデーモンが底意地悪くこちらを笑ったり呪ったり、あるいは逆に祝ったりしているためにくしゃみが出るらしいのである。  柳田国男がクサメ判断のことばとして紹介している丹波天田郡の上夜久野のことわざに、「一ほめられ二笑はれ三そしられ四風引く」というのがある。どこかで誰かが自分をほめている、笑っている、そしっている。だからくしゃみが出たのだ。いまでもくしゃみをすると、ホラ誰かが噂をしている、と言ったりするのもこれに類するだろう。くしゃみが出ると、誰かここにいない人が噂をしているのである。何だか不気味な気がしないでもない。  いずれにせよどこかでイヤな蔭口をたたいているやつがいるのだから、「糞くらえ」とそいつの邪悪な大口に糞をつめ込んで、物を言えなくしてしまうというのは、理に適っている。嘲笑や悪口に対するまじないの場合はそれでいい。しかし「ほめられ」のように、ほめてくれる人にまで糞を食わせるのは、いささか穏当を欠きはすまいか。  外国でも、くしゃみはかならずしも凶兆一辺倒とみなされていない。靴をはくときにくしゃみをすれば不幸がやってくるが、処女が服を着るときにくしゃみをすると、彼女はやがて花嫁になる。  何度くしゃみをするかが吉凶のキメテになることもある。 「朝つづけざまに二度くしゃみをすれば吉の意。手紙や贈物が来る。一度だと凶、二度なら吉である。  朝三度つづけさまにくしゃみが出ると、幸運と歓び、贈物、手紙が約束される」(『ドイツ迷信事典』)  もともと原因と結果が科学的因果関係で一筋につながっていないから、迷信[#「迷信」に傍点]なのである。ある原因(くしゃみ)が結果的には幸にも不幸にもつながり得る。それならばとりあえず不幸をもたらすデーモンの方に「糞くらえ」と足どめしておけば、そちらは襲ってこないで、もっぱら吉の方だけに道が開かれている。  そう考えて、私たちは先祖代々、くしゃみの度にクサメ、クションとおまじないを発声してきたのではなかろうか。 [#改ページ]   あとがき  書きおえたものを読み返してみて、われながらあまり品の良いことを書いていないのに気がついた。端的にいって、なぜか雲古や放屁《おなら》の話が多い。別にスカトロジー(糞便学)研究をめざしたというわけでもないのに、自然にそうなってしまったようである。隠しにかくしきれぬ当方の人格劣等が、ついに明るみに出てしまったのだろうか。  こじつけめいた弁明ならできないことはない。迷信は信[#「信」に傍点]仰ではないが、さりとて無信仰(ニヒリズム)でもない。両者の間[#「間」に傍点]、または境[#「境」に傍点]にあって、無信仰の内実である虚無が信仰めいた化けの皮を被ってうさんくさげに佇んだ風情のものといえようか。だから体内と体外の間[#「間」に傍点]に発生する、雲古や放屁にいくぶん縁がなくもない。  体内と体外の間で発生するといえば、これとは別に、口から出る言葉がある。言葉は、それが信仰に裏打ちされていれば正しい言葉だが、背後に何もなければ、あるいはあやしげな魂胆しかなければ、嘘言となり出まかせのホラとなる。そういう信仰にも無信仰にも、内部にも外部にも、この世にもあの世にも、存在にも虚無にも、そのどちらにも確実には所属していなくて、両者の境目のところにあやうげにもいかがわしくたゆとうているのが、迷信であり、また雲古、放屁、ホラの類《たぐい》であるのかもしれない。  では迷信を信じているのかといえば、そうではない。信じないのかといえば、それでもない。信じる信じないより、迷信が折角あるのなら、それを楽しんでしまおうというのが、本書のすこぶる虫の好い魂胆である。プロレスや野球を十倍楽しむ法というのが一時《いつとき》流行したが、何だつまらないそんな際物《きわもの》、という負け惜しみがひとまずあって、こちらは容易にすたりが来ない迷信というものを十倍百倍楽しもうというわけである。  本書の原形は、月刊「QA」に創刊号から昭和六十一年十二月号まで計二十五回にわたって連載した「迷信博覧会」であり、単行本編集に際して「媚薬の使い方」(「アンアン」昭和五十九年四月六日号)、「茸とクソの戦争」(森毅編「キノコの話」光文社・昭和六十一年九月)を追加した。「QA」連載時から単行本化まで終始一貫、下総ますみさんのお世話になったが、今回の文庫版編集では筑摩書房編集部祝部陸大さんにお力添えを仰いだ。記して感謝する次第である。     一九九一年九月十三日 [#地付き]種村季弘 種村季弘(たねむら・すえひろ) 一九三三年、東京生れ。一九五八年、東京大学文学部卒業。ドイツ文学者。該博な博物学的知識を駆使して文学、美術、映画など多彩なジャンルで評論活動を続けた。二〇〇四年歿。著書に『書物漫遊記』『食物漫遊記』『贋物漫遊記』『ナンセンス詩人の肖像』『人生居候日記』『謎のカスパール・ハウザー』『不思議な石の話』『徘徊老人の夏』『ビンゲンのヒルデガルトの世界』(芸術選奨文部大臣賞、斎藤緑雨賞)、著作集『種村季弘のネオ・ラビリントス』(泉鏡花文学賞)『雨の日はソファで散歩』など多数。 本作品は一九八七年二月、平凡社より刊行され、一九九一年十二月、ちくま文庫に収録された。