椎名 誠 新橋烏森口青春篇 目 次  第1章 グリーンスネイク  第2章 塔屋の車座団  第3章 トタン雨  第4章 よかちんちん  第5章 まんじゅしゃげこわい  第6章 ハッタリ横丁の人々  第7章 派閥|天丼《てんどん》  第8章 小瓶《こびん》のウイスキー  最終章 さよなら鯨《げい》やん  あとがき   解説(菊池仁) [#改ページ]   第1章 グリーンスネイク  高根《たかね》圭一《けいいち》はその会社の専務ということだったがめったに会社にはこなかった。高根の担当は営業で、会社にはこないが、外で結構活発に動き回っている、という話だった。  ぼくが百貨店ニュース社に入ったのはまったくの偶然だった。朝日新聞の求人広告欄を見て応募したのだ。  その頃《ころ》ぼくは市谷《いちがや》にある脚本や舞台構成を研究する私塾《しじゅく》のようなところへ一週間に三日通い、残りの四日間をアルバイトについやしていた。アルバイトはペイのいい肉体労働を専門にし、月給よりも週給、週給よりも日給、という条件のところをつとめて捜すようにしていた。  ところがそのとき、何がどう作用したのか、新聞求人欄の「編集員募集」というところに目が行ってしまった。脚本家を養成する私塾が、慢性的な経営難から近々閉鎖されるらしい、という噂《うわさ》もちらほら聞こえていたし、週四日の散発的な日給労働にすこしくたびれていた、ということもあったのかもしれない。  正社員募集、と書いてあったので自分のようにいつどこへすっとんでいってしまうかわからない者には無関係の文字だとは思っていたが、正社員のつもりで入って、適当なところで辞《や》めてしまえばいいではないか、なにしろまだ採用がきまったわけでもないのだから、そんなことを迷っているのもナンセンスだ、などといずれにしても基本的にいいかげんな気分でその会社に応募した——という訳なのである。  電話をすると、年輩の男の声で「三日後の十時に履歴書を持って会社までくるように」と言われた。  その頃ぼくは東京の下町の小岩というところで、何人かの仲間と不思議な下宿生活をしていた。一人は司法試験を受けるために、陽《ひ》のまったくささない部屋で毎日ぶ厚い法律書を読んでいた。一人は大学のウエスタンバンドに青春をそっくり賭《か》けたあ、という顔をしながら、実際にはごろごろ寝てばかりいた。一人はただ単に自分の勤めている会社が自宅から行くよりも近いから、その分だけ朝余分にねむれる、という理由だけで我々との意図不明の共同生活に加わっていた。  いよいよ履歴書を持って面接に行くという日、ぼくは司法試験をめざしている男に背広を貸してもらうことにした。男は木村《きむら》晋介《しんすけ》といって、中野に自宅があり、中流家庭の坊《ぼっ》ちゃん、というような状況にあったが、なぜか家には帰らなかった。  木村晋介はぼくとほぼ同じ体格をしていた。彼の背広はグレーの上下だが、本人が乱暴に着ているので、よく見ると胸や袖《そで》のあたりにけっこう大きなシミなどがいくつもあった。  アパートの共同玄関を出ようとするところで沢野ひとしと顔を合わせた。彼はいま大学のウエスタンバンドで楽器を弾くことしか、世の中のことはあまり考えていないようだった。そのためなのか、学校に行くとそのままどこかに泊って下宿には帰ってこない、という日が多くなっていた。 「おっ、なんだその恰好《かっこう》は?」  沢野はねむたそうな声で言った。 「就職試験だよ、おれもついに……」 「ふーん」  沢野はサンダルを脱ぎすて、「まあどっちにしても頑張《がんば》れや」と、ほとんど感情の入っていない口調で言った。  新橋について赤電話を捜し、ダイヤルを回した。会社への道順を聞こうと思ったのである。  電話に出た男はぞんざいな口調で、大体の道筋を知らせてくれた。そのぞんざいな口調が耳に残り、なんだかふいに嫌《いや》な気分になった。新聞の広告で見た「編集員」というなにか妙に胸のときめくような知的なイメージとはほど遠く、しめっぽくて暗い倉庫の中で受け応《こた》えしているような気配が、その男の声音《こわね》から感じられたのだ。  目指す中沢ビルは新橋西口通りのずっと先の方にあり、「すぐだよすぐ。|まっつぐ《ヽヽヽヽ》歩いてくればすぐあるよオ」と言っていた会社の男の話からすると随分歩いたかんじだった。  ビルの地下に「ムラサキ」という名の喫茶店があり、そこに降りていく階段は暗く湿っているかんじだった。  めざす会社はそこの五階にあり、大人が五人も乗れば満員になってしまいそうなエレベーターはスピードもひどく遅かった。  百貨店ニュース社は三方が広い窓に囲まれているので想像していた風景よりもずっと明るかったが、社内の空気はあまり陽気というようなものでもなかった。  木の机を五つほど向い合わせたそのまわりに、黙りこくっている男たちが七人ほど座っていた。そのうち二人はあたりの空気におかまいなく、机の上にかがみこんでなにか熱心に作文のようなものを書いていた。その男たちが、その日ぼくと同じように入社試験にやってきたのだな、ということはすぐわかった。 「君そこに座って……」  と、背のひくい男が黙って突っ立っているぼくを見て言った。地声なのか、わざとそうしているのか、ナニワブシ語りのような押しころした声だった。アメリカの新聞漫画ブロンディに出てくる男だ——と、ぼくはそいつを見てひそかに思った。頭のてっぺんに髪がとがってざわついている、という不思議な髪型をしている。  応募者たちはその机の島のところで待機し、一人ずつ経営者のところに呼ばれて話をする、というシステムになっているのだな、ということが間もなくわかった。面接が終ると作文のようなものを書いて、それで一応試験終了ということになっているらしい。  三十分ほど所在なく待っていると、ぼくの番になった。面接の場所はその会社の窓のない片隅《かたすみ》で、小さな粗末な衝立《ついたて》のむこうにソファがあった。そこに二人の男が座っていた。二人とも四十代半ばといった年恰好で、一人はちょっと間のぬけた歌舞伎《かぶき》役者のような顔をしていた。片方の男はかなり髪の毛が後退しているらしく、不自然に広い額をしていた。全体に小づくりで逆三角形の顔をしていたが、すばらしく血色がよかった。  間のぬけた歌舞伎役者のような男が社長で、逆三角形が専務の高根圭一だった。高根はぼくの履歴書をいちべつし、たいして興味のなさそうな顔でひょいと社長の机の前に放《ほう》り投げた。それからぼくの顔をすこし斜め下から見上げるようにして、「君、身長いくつ?」と聞いた。ぼくが緊張して小学生の返答のようにブッキラボウに答えると、 「ふーん、高いんだねえ。なあるほど……」  と言った。結局高根圭一が言ったのはその二言だけで、あとは社長の方が、文章を書くのは好きか、とか人と話をするのは苦手ではないか、というようなことをあまり気の入っていない顔で聞いた。五分ほどで面接はおわり、木の机に戻《もど》って作文を書いた。  ブロンディが鉛筆とゴムケシを手渡しながら、「時間は三十分……」とナニワブシの声で言った。  三日目に採用通知がきた。その時の雰囲気《ふんいき》から考えて九〇パーセント以上自分の採用はない、と思っていたのでひどく意外だった。同時にすこし理由のわからない不安感をもった。  指定された日に会社に行くと、ブロンディが手招きし、まず社長に挨拶《あいさつ》するように、と言った。採用されたのはぼく一人だけのようだった。  社長はぼくの顔を見ると、 「ああ君か、私はちょっとすっきりはしなかったんだけど、高根君が君を買っていたんだ、文章がいいということでね……」  と、言った。随分はっきりとモノを言う人だな、と思ったが、ぼくの感情はあまり動かなかった。 「新聞の方をね、すこしやってもらいたいと思ってね。今日はまだきていないけれど、新聞をやっている森川君にいろいろおしえてもらいなさい」  と、社長はそこでどういうわけかすこし困ったような笑いをうかべた。  翌日、朝のうちに「朝礼」というのが行なわれた。朝礼は何か社員全体に大事な連絡事項があるときとか、新入社員が入ったときなどに突如として行なわれる、という話だった。  ブロンディが、全社員の前でぼくを紹介した。ブロンディはその会社の経理や総務、庶務といった仕事をやっているようだった。社員は総勢二十人ほど、どういうわけか男ばかりだった。  ぼくの紹介が終ると専務の高根圭一が立上り、最近の会社の営業活動について早口に喋《しゃべ》りだした。景気はあまりよくないが、そういう時こそ、こういう業界紙の真価が発揮される時だ、いい情報悪い情報の別なく、他で聞いたり読んだりできるもの以外のものの収集、というのを心がけてくれ、というような内容だった。  社員は二十代から三十代ぐらいの男で、なんとなくみんな顔の端の方でにやつきながら高根専務の話を聞いているような気配があった。  どうしてなのだろう、と不思議に思って見ていると、社員たちの視線が、時おり高根の背広のポケットのあたりにちらちら動いている、ということに気がついた。さらに注意して高根のポケットのあたりを見ていると、高根のポケットから時おり鉛筆ほどの太さの緑色の蛇《へび》がその場の雰囲気や気配といったものとまったくおかまいなしにちろりちろりと顔を出している。  おそろしく奇妙な光景だった。  自分のポケットから緑色の蛇が時おり顔を出している、ということを高根も知っているらしく、時おり片手で頭を出してきた蛇をポケットの中に押し込んでいた。 「なんだろう? これは一体どういうことなのだろう……?」  と、ぼくはしばらくの間|呆然《ぼうぜん》とした気分で考えていた。高根の話はもう殆《ほとん》ど耳に入らなかった。  ふいに拍手がおこり、社員がみんなぼくの顔を見ていることに気がついた。あわてて頭を下げると、社員の間から軽い笑い声がおきた。 「どうやらこの人も沢山|呑《の》むらしいなあ」  と、社長がすこし間のびした声で言った。 「ま、しかし、いずれにしても気を引きしめてやっていこう」  と、高根圭一が言った。  高根圭一はその会社の営業を担当するかたわら、個人的に蛇を研究しているすこし変った趣味の人だ、ということを知ったのはそれから間もない頃だった。  高根は上野の近くの自宅敷地に蛇舎を設け、四百匹近くの蛇を飼っており、高根|爬虫類《はちゅうるい》研究所を主宰していた。詩人、歌人でもあり、自由律短歌を数多く詠《よ》んでいる、という話でもあった。 「あの人、いろいろと変っているけれど面白《おもしろ》いよ」  と、地下の純喫茶ムラサキにぼくを連れていったブロンディが首を上下にこきざみに動かしながら言った。 「味のある人だよ」 「そんなかんじですね。朝礼のときに、ポケットの中から緑色の蛇が顔を出していました」 「見たか」 「ええ」 「もう一方のポケットの中には虫が入っているの知ってるか?」 「え? 虫ですか?」 「うん」  ブロンディはそこですこし笑った。笑うとこっちがどぎまぎするほどの童顔になった。ブロンディのナニワブシのような声は、どうやらわざと押し殺したようなかんじで意識して作っているらしい、ということがしだいにわかってきた。 「生きている虫さ。九竜虫っていうの」 「はあ」 「あの人のポケットの中には固いチーズが入っていてさ、九竜虫はそのチーズをいつも食っているんだ」 「はあ」 「そうして暇になると高根さんはその虫を食っちまう」 「え?」 「生きているままさ……」 「本当ですか?」 「本当さ」  ブロンディはどういう訳かそこですこし自慢そうな顔をした。 「すごいですね」 「うん。精力剤なのさ。生きたまま食うとね、虫のエネルギーがそのまま食った人のエネルギーになるんだな」 「すごいなあ」 「たいしたことはないんだよ。小さな虫だしな。噛《か》まずに呑みこむと、胃の中でパンと破裂して死ぬそうなんだ。そのパンと破裂したときのエネルギーが効くんだな」  まるで胃袋がエンジンみたいな話だ——と思った。 「ふーん」  ぼくは感心ばかりしていた。感心しながらこれはどうもひどく変った会社に入ってしまったみたいだなあ、とブロンディの童顔を見ながら考えていた。  高根は週に一度ぐらいしか会社にこなかった。どちらかというと仕事一点張りで会社の業績向上に関することばかり気にしている社長にくらべて、高根は会社中に聞こえる大きい声で仕事にまったく関係のないことを話題にするので、高根がやってくると社内は妙に活気づいた。 「まったく文科系というのはごくつぶしだねえ、これからの日本ではねえ、文科系の肩身は狭くなる一方だよ」 「どうしたんですか専務?」  営業の古株らしい社員が聞いた。 「人工衛星だよ、人工衛星……」 「はあ」 「あれがさあどうして地表に落ちもせず、外にとび出して行きもせず、巡回軌道を回っていられるか、というの、君、ヒトにわかりやすく説明できるかい?」 「はあ……」  高根が話しだすと会社中の者が聞いてしまう、というかんじになった。 「わからないだろう。説明できないだろう。まったく弱ったもんだ」 「専務はわかるんですか?」  ブロンディがニヤつきながら聞いた。 「おれにわかるわけがないだろう。馬鹿《ばか》にしちゃあいけないよオ」  高根は血色のいい、広い額を軽く叩《たた》きながら言った。古い社員を中心にみんな声を出して笑ったようだった。  その会社でぼくが配属されたところは「百貨店ニュース」という十日に一ぺん出すだけの業界新聞の編集部だった。編集長は森川トオルといって、これもまたあまり会社にこない人だった。  最初の頃、ぼくに与えられた仕事は経済新聞や業界内のアナリストレポートに出ている共通記事をいくつかひっぱり出し、そこからひとつの仮説レポートをつくりだす、という少々|狡猾《こうかつ》な、他人の褌《ふんどし》拝借仕事、というようなものだった。  森川はそういう原稿を指示し、ぼくが書いていくと殆ど読まずにレイアウトに回していた。慣れない原稿用紙に苦労して書いた記事を森川がまったく読もうとしない、というのがぼくにとって随分意外であり、そして少々むなしいことでもあった。  入社後二カ月ほど過した頃、森川に呼ばれて、夕方一緒に会社を出た。 「高根さんとね、ちょっと飲んでいこう」  と、森川は顎《あご》のあたりを撫《な》でながら言った。  森川が連れていったところは「お久」という名の赤提灯《あかちょうちん》だった。店に入るとすでに高根圭一が来ており、隣りにブロンディがいた。 「やっ」  と、高根は森川の顔を見て片手をあげた。高根はあまり酒は強い方ではないらしく、もともと艶《つや》のいい広い額がバクハツ的に赤く光っていた。 「や、シーナ君どうもごくろうさん」と言ってブロンディがお銚子《ちょうし》を差しだした。  店は馴染《なじ》みらしく、年輩の店の女が料理を運んでくるたびに、高根やブロンディらと軽口をかわしあった。  ふいにこんな店に連れてこられたので、最初は何か会社の勤務態度についてお叱《しか》りのようなものを受けるのだろうか、と思い少々緊張していたのだが、一向にそういう話が出てくる様子もなく、話題の中心は女について、ということに終始していた。  高根はすこし酔った声で、「人生は結局女ですよ、これはもう女できまりです」というようなことを声高に言った。森川が「いっひっひひ」というようなすこし気味の悪い笑い声で相槌《あいづち》をうち、座はなかなかに陽気で和やかだった。  高根はしきりに「男と女の詩の風景」というようなものを口にしていた。 「ぼくがねえ、最初に女を買った時はねえ、ちょうど十九歳のときですよ、上野でね、安いのをつかまえたのですよ」  と、高根は大きな声で言った。 「朝おきたらね、前の晩は気がつかなかったんだけれど、その部屋の窓が高いところにあってね、ちょうど警視庁の取り調べ室の窓というかんじなんだな」  森川とブロンディはお互いに盃《さかずき》をくみかわし、上機嫌《じょうきげん》の高根の話に耳をかたむけていた。 「で、朝おきたらね、その高い窓から朝の陽《ひ》と風が入ってくるんだよ。そうして隣りを見ると、女がすっぱだかで寝ているんだけれど、女の陰毛にねえ風が吹いてきて、それがそよそよとなびいているわけですよ。朝陽の下でねえ。感動したなあ。人生だと思いましたよ、つくづく男の人生は女だと思いましたよ」  そんなにおかしいわけでもなかったが、そこでブロンディと森川は笑った。 「専務の恋人はいまどうしてるんですか?」  ブロンディが聞いた。 「しのぶかい?」  と、高根圭一は言った。 「まあ相変らずだねえ。いい関係でいますよ」 「部屋の中で?」 「ええ」  店の女がやってきて鍋《なべ》をガス台にのせ、テーブルの下にかがんでガスの火をつけた。 「ひえっ」  と、女がテーブルの下で変な声を出した。森川か高根のどちらかが女の尻《しり》をさわったようだった。 「専務の恋人はボアっていってね、六メートルくらいの大蛇《だいじゃ》なの。専務が詩を書くときは部屋で一緒にいるんだよ。夏は一緒に寝たりするんでしょう?」  ブロンディが前半はぼくに状況を説明し、後半はそのまま高根に聞く、というまぎらわしい話し方をした。  高根は答えず、光った額の下で笑った。 「その大蛇には名前がついていて、〈しのぶ〉っていうのさ」  ブロンディがぼくの顔を見て言った。  結局ぼくはその日、まったく何もなしに酒の席に呼ばれた、というわけではなく、帰りがけに用を頼まれた。それは千葉県の流山《ながれやま》にある養鶏場に行ってヒヨコを二百羽ほど受けとり、それを高根圭一の自宅まで届ける、という仕事だった。翌日は日曜日なので申しわけないが、今そういうことをやる使用人が病気で入院してしまってどうにも動けないのだ、ひとつ頼む、と高根圭一はぼくの顔を正面から見ながら言った。ぼくはなんとなく破天荒な高根圭一がだんだん好きになっていたのだが、正面をむいて話しかけられるとすこしどぎまぎした。それは高根圭一の顔がなんとなく亀《かめ》の顔に似ているな、ということにそのあたりで気づいてきていたからだった。高根の顔は亀に似ている、というよりも、正確にいうと亀の顔の�しぐさ�に似ていた。  そして話しながら高根が自分のポケットにふいに片手を入れたりすると、瞬間的にすこしたじろいでしまった。高根がいまにもそのポケットから緑色の小さな蛇を引っぱり出しそうな気がしてならなかったからである。  翌日の日曜日、ぼくは下宿の同居人で、日曜日になると暇をもてあましているサラリーマンのイサオと一緒に流山にいき、二百羽のヒヨコがアパートのように何層かに分れて入っている巨大なダンボールを貰《もら》ってきた。  養鶏場の経営者は下のまぶたがぷくんとふくれたおそろしく無表情な男で、ぼくが高根圭一から金の支払い方法を聞いてこなかった、と言ってひどく不服そうだった。しかしうかつなことにぼくは高根の自宅の住所も電話番号もまるで何も知らなかったのだ。それから、「どうしていつもの人が来ないのだ」としきりに聞くので、ぼくもなんとなくムッとして、「急に頼まれたんだから知るわけはないでしょう」と、すこし強い調子で言った。養鶏場の男は黙り、それから無表情のまま大きなダンボールをかついできた。  ぼくとイサオはそのダンボールを自分たちの下宿に運び込んだ。高根の家にもっていくのは翌日の午前中、ということになっていたのだ。運んでくるときは気がつかなかったが、狭い部屋に置くと、二百羽のヒヨコはおそろしくうるさいシロモノだった。  そいつを見て目を丸くした木村晋介は訳を聞くとしばらく一人で笑っていた。二百羽のヒヨコは高根圭一のところの蛇たちの生《い》き餌《え》になるのだ。  木村晋介は笑いながら、「お前のいった会社はどうもすごいところだなあ」と言った。  二百羽のヒヨコは夜が更《ふ》けてもひっきりなしに騒いでいるので、ガラクタを引っぱり出し、押し入れの中に入れて襖《ふすま》を閉めた。押し入れの中でヒヨコたちは一晩中ないていた。 [#改ページ]   第2章 塔屋の車座団  百貨店ニュース社の社員は二十三人。デパートに勤める人やその関連業界の人々向けの新聞を発行していた。新聞といっても、十日に一回出すだけで、なにかそこにあつい血汐《ちしお》が燃えるような大スクープ合戦とか、世紀の必殺取材フィーバーといったようなものは何もなかった。社員は男ばかりで、なんとなくブンガク青年が二重三重に屈折したような、悪酔いしたらあとは地獄、というような気配の男が多かった。  ぼくは編集部ではまだ一番の若手で、同僚たちと金があるととにかく酒ばかり飲んでいた。一緒に酒ばかり飲んでいるので若手同士は奇妙に仲がよかった。  鯨《げい》やんはそのなかのリーダー格で、仕事が終ると若手たちはなんとなく彼の本日の指令を待つ、というような雰囲気《ふんいき》があった。  仲間と酒を飲む以外に何か将来役に立ちそうな本を読むとか、もっと気のきいた遊びに出かけるとか、そういう考えを持つ者が誰《だれ》もいない、というのも今考えると不思議だった。おそらくその頃《ころ》は誰も恋人ひとりいなかったのだろう。  鯨やんはぼくよりもひと回り大きくて相撲とりのような立派な体をしていた。しかし大きな体のわりには小さなおちょぼ口をしているのがユーモラスで、全体にその渾名《あだな》のとおり、鯨《くじら》に似ていた。  家は仙台にあって、親父《おやじ》は小学校の教頭をしていたけれど十八歳の時にグレて家出し、女の家に転がりこんだのよ、と鯨やんは酔うとたいていその話をした。そうして「あの頃はいい時代だったよ」とかならず口癖のようにして言った。  あの頃、といったって鯨やんはまだ二十四歳だから、昔話をしんみり語る、というほどのあの頃ということでもない筈《はず》なのに、彼がそんな話をすると、聞いているぼくもみんなもなんだかそれぞれに大層な過去を背負っているような、いっぱしの�大人面《おとなずら》�になってうなずいたりするのだった。  鯨やんと同い年の小耳の川ちゃんは、唯《ただ》一人の読書人で、暇があると文庫の小説を読んでいた。体の割に耳が小さく、眼鏡のツルがうまくおさまらないのか、いつも右手人さし指でせわしなく眼鏡をひょいひょいと持ち上げていた。  二十五歳の高木はネズミ色の霜降り模様の背広しか着ない、という妙にいろいろなことに頑《かたく》なな男で、みんなで酒を飲む時でも割合いつも黙っていた。それでも声をかけると我々の行動にかならずつきあうのだ。  剽軽者《ひょうきんもの》の種一《たねいち》はその会社の広告部で版下《はんした》をつくっていた。  広告部といったって部員は二人で、種一はその見習助手なのだ。種一は入社してきた頃ほとんど酒が飲めなかった。それを面白《おもしろ》がって小耳の川ちゃんや高木たちが連日|加虐《かぎゃく》的に鍛え、半年間でウイスキーのボトル半分ほどもあけるぐらいにしてしまった。今考えるとあれは一種の強制的アルコール中毒化が行なわれたのではないか、と思うのだが、種一は「どうですか、オレの実力もたいしたもんでしょう」と本気で喜んでいた。種一、二十歳、そしてぼくは二十三歳になったばかりだった。  鯨やんの口癖ではないけれど、考えてみたらあの頃というのはじつに本当にいい時代だったんじゃないだろうか——と思うのだ。  給料日から二週間もたつとみんな同じくらいに金がなくなってしまうので、外で酒や肴《さかな》を買い、会社で酒を飲む、という作戦を考えだしたのは鯨やんだった。それは秋が深まってそろそろコートがほしくなる、というような時期だった。  中沢ビルはとにかく古い建物なので、冷暖房装置がなかった。夏は窓をあけた自然空冷だが、冬は小学校で使うような巨大なガスストーブがひっぱり出された。  鯨やんはこのガスストーブが出されてくるのを待っていたのだ。  しかし会社で意味もなく酒を飲む、などということは当然ながら許されていなかった。古株の社員にハットの鎌田《かまた》という四十年配の男がいて、この人がなんとなく社内の風紀取締というような役割りになっていた。ハットの鎌田はおしゃれでいつもストライプの三ツ|揃《ぞろい》のスーツを身に着け、ちょっとアナクロっぽいかんじの中折れ帽をかぶっていた。  業界紙の会社というと、世間ではとかくゴロツキヤクザのような人がやっている会社と見られがちなので、社員はどんな時でもキチッとした恰好《かっこう》をしていましょう、というのがハットの鎌田の考え方だった。しかしぼくなどは最初に鎌田を見た時から、この人の方がよっぽどヤクザみたいじゃないか、と思ったものだ。  鯨やんはこの作戦を中沢ビルの地下にある純喫茶ムラサキの片隅《かたすみ》でぼくと川ちゃんにもちかけてきた。  大企業小説だと、何か企業内の怪しいヒソヒソ話というのは、銀座のナイトクラブあたりに行ってホステスのアリサとか麗子ママとかいった女たちの嬌声《きょうせい》をしばし遠ざけたあと、「ところでですね……」などと言いつつジョニーウォーカーの黒などをごくりごくりと飲みながらくわだてる、というような話が多いようだが、我々中小企業青年社員の場合はそうはいかない。  昼めしがわりのエビピラフにトマトジュースなど飲みながら、「それで、んと、実はなあ……」などという具合に話ははじまったのだった。  この純喫茶ムラサキには、ぼくが秘《ひそ》かに「好きである」と思う女性がパートのウェイトレスとして働いていた。年齢はぼくと同じぐらいか一、二歳上、というかんじだった。  毎週月、水、金、土がその女性のやってくる日で、ぼくはきちんと彼女の出勤ローテーションに合わせてその店に行くことにしていた。  すらりと背の高い女性で、長い髪の毛を、馬の尾のように無造作に背中に垂らしたり、神社の巫女《みこ》のように上のところだけ紐《ひも》でとめていたり、あるいはくるくる巻いて頭のうしろ側にくくりつけたりと日によって様々に変えていた。  一重瞼《ひとえまぶた》のよく動く目が魅力的で、お客に話しかける言葉づかいも誠意がこもっているかんじだったので、彼女目あてにその店にやってくる男は結構多いようだった。  会社の中にもあきらかに彼女をなんとかして口説こう、と積極的に迫っている先輩社員が何人かいる、ということも知っていた。そして会社の中で彼女についての話題が出るとぼくは何故《なぜ》かじつに厭《いや》な気分になった。  ところで話は鯨やんの秘密作戦である。  問題のひとつはビルの入口をいかに開けるか、ということだった。中沢ビルはチビビルだが通いの管理人というのがいて、朝八時にやってきて入口のシャッターを開け、夜は九時に閉めていった。そしてぼくの会社は部署によってはけっこう夜おそくに誰かが社に戻《もど》ってきたりするので、酒盛りをするならシャッターが閉まってからでなければ駄目《だめ》だった。 「おれはきのう隣りの大和田ビルとうちのビルのあいだの隙間《すきま》に入っていいものを見つけた。あそこの奥に脚立《きゃたつ》がころがっていたのよ」  と、鯨やんは無理やりひくい声を出すのでおちょぼ口をますますすぼめながら言った。 「まだ目分量だけど、高さをはかったら二階の便所の窓にうまく届きそうだった。このビルを出るときだれかが二階の便所の窓の鍵《かぎ》をあけてくれれば中にはかならず入れるぜ」  なんとなく上眼《うわめ》づかいになって、鯨やんはそんなことを言った。 「なあるほど」  ぼくと小耳の川ちゃんは、その話を聞いて感心した。鯨やんというのはたしかにその立居ふるまいのどこかに悪の魅力といったようなものがあった。  ビルの中に入ってしまえば会社の中に入るのは割合簡単だった。男|所帯《じょたい》のその会社には日替りの掃除当番という制度があって、社歴三年未満の社員は大体月二、三回のローテーションで通常の出社時間三十分前に会社に行き、床やテーブルの上を掃除し、全員にお茶を淹《い》れる、というきまりがあった。これもハットの鎌田が考えだしたものだった。  しかしこの掃除当番は夜更《よふ》けの会社侵入にはまことに好都合であった。当番にあたる人は前の日に会社の鍵を持って出ることになっている。だから、作戦を遂行する五人のうちの誰かが翌日の当番であるか、もしそうでなかったら当番の人と日を交代してもらえばよかった。  こうして二箇所の扉《とびら》を通過することが可能になった。そして翌日、我々は近所の安酒屋で酒をちびちび飲んで時間をつぶし、夜九時すぎに中沢ビルの前に集った。メンバーの五人がそれぞれ近所の酒屋で買った酒や肴の入った袋を持っている。  鯨やんの作戦はまことにあっけなく成功した。  早速ガスストーブの火をつけ、その上にスルメやチクワやメザシといった安くて大量に買える肴をのせて焼いた。  酒はやかんで燗《かん》をつけ、プラスチック容器に入ったオシンコや梅干などもテーブルの上に並べられた。  夜更けの中小企業貧乏寄りあい酒は、こんなふうにしてきわめて手際《てぎわ》よく、そしてなかなかにスリリングな気分にみちてはじまった。  やがてこの秘密の酒盛りは給料日をすぎて金のなくなった時の窮余の策ということだけでなく、なんとなく気が向いたときに実行する、というお楽しみ会ふうのものになっていった。そしてはじめのうちはそれぞれの終電車前には跡片づけをして、再び二階の便所から外に降りて家に帰っていたのだが、ある日から帰らない、帰れない、というような状況になっていってしまった。  何かいつもちょっとニヒルなかんじの霜降り背広の高木が「たまには大人のあそびをしようじゃないか」と言い出してから、その夜更けの酒盛りは様子が変っていったのだ。  高木は背広のポケットから一組のトランプカードを取り出した。 「酒飲みながらポーカーをさ、やろうよ。知ってるだろう?」  と、高木は言った。 「おお、そいつはいいや、みんなでやろう!」  と言って最初にとびついたのは鯨やんだった。小耳の川ちゃんはいつも酒を飲むとそうなるのだが、すこし舌たらずの口調で、 「おーもしろい。おれポーカーどうやるのかよく知らないけれどやろうやろう」  と、子供みたいにはしゃいで言った。  ぼくも種一もまったく異存はなかった。  チップがわりに一本百円のマッチ棒が配られ、我々の酒盛りはたちまち夜更けの大勝負といったものにエスカレートしていった。  ゲームがはじまると鯨やんも川ちゃんもぼくもたちまちカッカとして、酒の酔いも加わり、熱い舌戦まじりのたたかいになってきた。しかし霜降りの高木はゲームが白熱しても何時《いつ》もと同じようにあまり無駄口《むだぐち》をたたかず淡々として手持ちのカードを眺《なが》めたり、傍《かたわ》らのウイスキーを飲んだりして勝負をすすめていた。  ゲームに熱中すると、ただ酒を飲んでいる時に較《くら》べると倍ぐらいの早さで時間が経過していった。たちまちそれぞれの終電時間が迫り、誰も席を立退《たちの》こうとしないままにその時間が去り、ふと気がつくと午前三時、というような時間になっていた。  マッチ一本百円といっても、これだけ熱中してやっていると思いがけないほどの金が動いていた。激しくくりひろげられたマッチの貸し借りの記録ノートを計算すると、とうていその日に清算できるような額ではなくなっていた。 「うわあ、まいったまいった」  と、鯨やんが歳《とし》の割にはちょっと出っぱりすぎている腹を両手で撫《な》でさすりながら言った。  まっとうのピカレスクロマンなどであれば、こういう顔ぶれのカード勝負だと無口でニヒルな霜降りの高木あたりが黙って一人で大勝している、というぐあいのお話になるのだが、リアルドキュメンタルの中小企業小説というのはなかなかそういう話にはならないのである。  その日一人勝ちしたのは種一だった。 「うけけけ……」  と、種一はウイスキーの酔いと疲労ですこし赤黒く脹《ふく》らんだ顔をしわしわにしながら嬉《うれ》しそうに笑った。  その一晩だけで種一は給料の半分ぐらいを稼《かせ》いでしまったのである。  ぼくたちの夜更けの酒盛りは間もなくあからさまにその性格と目的を変えてしまった。  もう五人ともぼんやり怠惰に酒を飲む、という余裕をまったくなくし、夜更けの会社に入ってくると、すぐカードを切りはじめる、というようなことになってしまった。  勿論《もちろん》毎日というわけではない。単純な酒盛りと違って、はじめれば確実に朝まで一直線に進んでしまうので、せいぜい週に一回か二回ということになった。  それからまたある朝、ハットの鎌田がけげんな顔をしてガスストーブの上を嗅《か》ぎ回り、「ヘンだなあ、このあたりでメザシの臭《にお》いがするんだよなあ……」などと言っているのを我々は一瞬、肩をすくめるような気分で聞いたりしたのだ。  終電車を無視し、朝までいるようになると今度は朝方の撤退作戦がけっこう大変だった。  勝負をしているからとにかくみんなとことんまでやっていたい。しかしあまり何時までもやっていて、時おりとんでもなく早い時間にやってくる先輩社員にその現場を発見されてしまったりしたらえらいことになる。それからまた誰かが出社してくる直前まで勝負して、直前に素早くタタミ、各自席について今日はどういうわけか若手全員やたらに早く出社しました、というのではいかにも怪しかった。  やはり一番自然なのは掃除当番だけ残り、他の連中は一時外に出てどこか近所で時間をつぶし、各自頃あいを見てバラバラに出社してくる、というやり方だった。  ハットの鎌田の「メザシの臭い」は、そんなふうにして全員が再び会社に戻ってきたあたりで言われてしまったのだった。  広告の版下を作っている種一は別だったが、あとの四人は、編集記者なので、朝の打ち合わせがすむと割合簡単に一人で自由に外に出ていくことができた。  その頃はまだ全員若かったので、寝不足というのはあまりこたえなかった。寝不足よりも空腹がたまらなかったのだ。  そこで、なんとなく時間差をつけてバラバラに外に出ていくのだが、何時の間にかまた全員新橋駅近くの「あさめし屋」に再集合している、ということが多かった。  新橋の早朝開店大衆食堂あさめし屋は今でいう牛丼《ぎゅうどん》チェーンのはしりで、牛丼定食を朝八時からはじめていた。そこへ行ってさすがにいささかぐったりした体を牛丼とあつい味噌汁《みそしる》で癒《い》やす、というのが朝方の我々の共通行動だった。  ところがそういう勝負あけの朝、この店で五人|揃《そろ》ってめしを食っていると、とつぜんハットの鎌田が原島久三という古参の社員と一緒にその店にやってきた。  ハットの鎌田は我々を見つけるとすこし頬《ほお》のはじの方で笑い、近くの席にすわりながら「よくくるのか?」と聞いた。 「ときどきです。ぼくんちにみんな泊った時なんかここにきて朝めし食います。どうもすいません」  と、種一がぴょこんと立上って言った。 「麻雀《マージャン》か?」  と、原島久三が言った。  原島はもうだいぶ年配なのに髪の毛をオカッパ頭のようにして、ひどく痩《や》せた体に派手なコートをまといつかせていた。あまり笑うということはなく、なんとなく冷たい目をしているので彼がハットの鎌田と連れだって歩いていると、もう完全にそっち方面のタダナラヌ人々、というふうに見えた。 「ええまあそんなようなもんです」  と、鯨やんが自分の頭のてっぺんを片手でごしごしとかきむしりながら言った。 「じゃあ今度オレもやらせろよ」  と、原島久三が言った。 「ええ、今度是非おしえて下さい」  と、種一がまた立上って如才なく言った。  新橋の駅から中沢ビルへ向う道で時おりマイコと出会うことがあった。マイコというのが純喫茶ムラサキの女の名前だった。すらりと背が高い女性なので、彼女がやってくるのは遠くからでもすぐわかった。秘かに好きであります……と思っている女と道で擦れ違うということがじつにものすごくエネルギーを消耗するものなんだなあ、ということをぼくはその道の何度かの擦れ違いではじめて知ったのだった。  マイコはぼくと擦れ違うときパッと両眼を大きく見開くような表情をし、それからすこし首をななめにかしがせながら軽く頭を下げて通りすぎていった。  ぼくははじめこのパッと両眼を大きく見開くところに何か特別の感情が込められているのではないか、と思っていたのだが、喫茶店の中で注意して見ていると、顔見知りの客が入ってくるたびに彼女はそっくり同じ表情をしてみせるのでひどく落胆したことがある。  要するにあの顔は彼女独得の「コンニチハ」の表現らしいのだ。そういえば、道で擦れ違うときも、ぼくのエネルギー全力放出状況にはまったくおかまいなしに、いつでもかろやかに明るく正しく通りすぎていってしまうのであった。  給料日が近づいてくると、ぼくたちは確実に落着かなくなってきた。何度かたび重ねて勝負したポーカーの貸借表を清算すると、一番勝っている種一と一番負けている鯨やんの間には給料の一カ月分ぐらいの金が積算されていたからだ。その他の連中もはっきり沈んでいる組と浮いている組にわかれていた。小耳の川ちゃんが浮き、ぼくと高木、それと飛び入りで二回ほど加わった営業の若手が沈んでいた。  そこで給料日の二日前にその月最後の勝負をすることになった。  しかも霜降りの高木の提案で、その日は酒なしでやろう、ということになった。みんなももうほとんど金を持っていなかったので、その案はすぐ賛成された。そのかわり腹が減ってはいけないのでラーメンとパンを沢山買って、九時すぎるとすぐに中沢ビルの五階にしのびこんだ。  ポーカーというのは運と技倆《ぎりょう》と度胸が程よくミックスされているゲームだ。技術やカンだけでは勝てないし、やたらにクソ度胸で突っ張っていっても長続きはしない。  いい手が来てもブタの手が来ても喜怒哀楽をオモテに出さず、いつも同じような表情をしている、という演技力も重要だった。  その点すぐ熱くなる鯨やんはこのゲームに不利だった。そのことは本人も気がつき、つとめて感情をおさえよう、としているようだったが、そうするとかえって不自然なので、見ているとおかしかった。  小耳の川ちゃんはオリるのが早かった。  とんでもないブタ手がくると自分の番が回ってこないうちにカードを放《ほう》り投げ、「あああ、おんもしろくもなんともねえや!」と下をむきながら言った。それから眼鏡をぐいと鼻のつけねに押しつけてみせた。しかしこの諦《あきら》めの早さというのも案外くせもので、川ちゃんが黙ってぐいぐい突っ張ってくるので恐れおののいてみんなオリてしまうととんでもないブタ手で大勝負をしていたりした。たまたまやけくそで突っかかっていったらみんなオリてしまったのか、それともそういうペテン勝負のために普段あっさりとオリていたのか、そこのところがよくわからなかった。  霜降りの高木は妙なことに、疲れてくるとしきりに独り言をいうようになった。普段あまり喋《しゃべ》らない男が独り言をいう、というのはいささか不気味なもので、高木がそれをやると、鯨やんが確実にイラだちはじめるのだ。  一番意外だったのは種一だった。最年少の種一はそれが自分の役割りと思い込んでいるのか、いつもおちゃらけて一座を笑わせた。しかし鯨やんの半分ほどしかない小柄《こがら》な種一が親になり、カードを配りはじめるとみんな黙り込んでしまった。種一のカードさばきがびっくりするほどうまく、抜く手も見せぬ、というような早さでピッピッピッとカードが各々のテーブルの上に飛んでくるので、ついつい緊張して黙りこんでしまうのだ。  しかも種一は勝負強かった。 「意外だなあ、お前がこんなに強いなんて。お前この会社に来る前、どっかのバーかなんかでコレやってたんだろう。隠すなよなあ、そうでなきゃそのカードさばきうますぎるよオ」  と、鯨やんが小さい口をとがらせながら言うと、種一は、 「そ、そんなことないですよオ。版下づくりのデザイナーっつうのはもともと手先が器用にできているから、こんなカード配りくらい仕事のうちです」  と首をすくめてみせた。 「じゃあ版下つくってるとポーカーもつよくなるのかあ」  と、小耳の川ちゃんが言った。ポーカーフェイスのできない川ちゃんは種一のうまいかけひきによく翻弄《ほんろう》されていたので、その言い方にはあきらかにトゲがあった。 「そんなことないっすよオ」  と、種一はカード配りの手を休めずに言った。酒を飲まずにやるといつもより粘っこい勝負になり、素人《しろうと》勝負ながらカケヒキに白熱したものがあった。  ポーカーにおけるカケヒキというのは、要するにいかにして相手を騙《だま》すか、ということであり、場に張られた金額がエスカレートしてどんどん増えたところで、誰《だれ》かがどっと大きな騙し手で上ると、座の空気は完全に殺気をもってあつくなった。  それは午前一時をすこし回ったあたりだったろうか、小耳の川ちゃんにツキが回り、スリーカードやフラッシュという配り手だけで上ってしまう、という早い親の勝負が続き、座が大いに白熱化しているときだった。  ふいに種一の机の上の電話が鳴った。そしてそのすぐ近くに座っていた種一が、ついうっかり受話器を取り上げてしまったのだ。 「はい」  と、種一は半分まだ笑いの残っている顔で受話器を握りしめ、そして瞬間的に白い無表情になった。 「はい」  と、種一はもう一度言った。我々は全員黙り込み、種一の顔を眺めた。 「ええ」  と、種一は言った。 「ええ、まあ、そういうことです」  受話器を片手で押さえ、種一は世にもアワレ、というような顔をして我々を見回した。それから慌《あわ》てて受話器を覆《おお》っていた手を離し、 「あっ、わかりましたですぅ」  と、言った。 「ええ大丈夫だと思います。どうもいろいろすいませんでしたぁ」  と、種一は言った。それからゆっくりと受話器を置いた。 「まずいです、鎌田さんからでした」  種一が渋面《じゅうめん》をつくった。 「やっぱりそうか」 「そうだと思った」  鯨やんと川ちゃんが言った。 「バレたみたいだったかア」  と、鯨やんが聞いた。 「それがよくわからないんです。電話、耳にあてたらふいに鎌田さんの声で『もしもし』っていうんで『はい』って言っちゃった。慣れっていうのはおそろしいもんですね」 「バカ、そんなこと感心してるんじゃないよ。それで鎌田はなんて言ってたんだ?」  川ちゃんがまた眼鏡を指先で押しつけながら言った。 「ツチダ君か? っていうんで『はい』って言いました。そしたら『まだ仕事してんの?』って言うんで『はい』って答えたら『ごくろうさん』って言ってました」 「ええ? ごくろうさん?」 「はい。それから、『あんまり無理するなよ。風邪ひいちゃうとまずいからな』なんてこと言ってました。それでおしまいです」 「ほんとか?」 「ええ、それだけです」 「ほんとかよ」 「ほんとです」  鯨やんが頭のてっぺんのあたりを人さし指で真っすぐにごしごし掻《か》いた。鯨やんはすこし笑っていた。  しばらくの間みんな黙りこんだ。 「やつはきっと知ってるんだ」  ふいに高木が言った。 「やっぱりそうかな」 「そうにきまっているよ。じゃあやつがなんで今日にかぎってこんな夜中に電話してくるんだ。お前いままでにこんな遅くまで残業していたことあるか?」  霜降りの高木は仏頂面《ぶっちょうづら》に近い表情で種一にそう聞いた。 「ありません」  と、種一が被告のような表情と姿勢でそう答えた。 「そうだろう。やつはもう薄々わかっているにちがいないんだ。それで今日、本格的にさぐりを入れてきた、という訳なんだよ」 「やっぱりそうか」 「そうにきまってるじゃないか」  と、高木が言った。 「じゃ、やつは今夜これからここに来るかもしれないなあ。絶好のチャンスだからなあ……」  鯨やんが一座の連中の顔を見回しながら言った。 「鎌田は酒飲んでいたようだったか?」 「ええ、どこか飲み屋のようなところからかけてるらしくて、ひっきりなしに騒々しい音が聞こえてました」 「今ごろまでやっている店だったら新橋あたりしかないだろう。だったらそのうちこっちへやってくる、っていうことは考えられるよな」 「そうですねえ。原島さんあたりと一緒にやってくるかもしれない」  すこしおびえながら、ぼくが言った。 「あいつと飲んでいる、っていう可能性は大いにあるな」  高木が言った。 「どうする?」  と、鯨やんが高木の顔を見つめながら言った。 「どうする? って、表はシャッターが閉まっているから入れやしないだろう。電話で種一を下まで呼んでも種一にはシャッターをあけることができない、ということはやつらだって知ってるだろう。だからどうということはない……」  やっぱりいざとなると鯨やんよりも歳上《としうえ》の高木の方が落着いていた。 「じゃあそれはそれとして続行するか?」  と、鯨やんが言った。 「やろうよ」  と、高木が言った。  小耳の川ちゃんが、黙ってみんなの顔を眺《なが》め、それから天井を見上げて首をぐるぐる回したあと、再び親のカードを切りはじめた。  結局、ハットの鎌田はその日やってこなかった。けれどそれまでずっと盛り返していた鯨やんが鎌田の電話がきてから急角度で沈みはじめ、みんななんとなく黙りこみがちになって淡々とした勝負が続けられた。  翌朝、掃除当番の種一だけ残して、シャッターがあいたすぐ直後にぼくたちは外に出た。  晩秋の朝は、すでに吐く息が白くなっていた。鯨やんはコートの襟《えり》をたて、その下で背中を丸めてのたりのたりと体を横にゆするようにして歩いた。 「あのよオ」  と、鯨やんが歩きながら言った。 「このままめし食って会社へ行くっていうのもすこしナンだからよオ、もうすこし勝負しないか?」  と、鯨やんが振り返らずに言った。 「どこでやるのサ」  と、小耳の川ちゃんが言った。 「それでいま考えていたんだけれど、おりゃあ今いいところを思いついたんだ」 「喫茶店なんかじゃあまずいぞ」 「そんなとこじゃあない」 「どこだよ」 「だけどホントにみんなやるかあ?」  鯨やんは川ちゃんには答えず、道のまん中でふいに振り返ると、うしろの三人に聞いた。 「いいよ、やる所さえあるならね」  と、川ちゃんが言った。霜降りの高木が黙ってうなずいた。 「いいですよ、どうだって……」  と、ぼくが言った。 「よし、じゃあいこう」  と、鯨やんが言った。それから彼はもと来た道を引き返しはじめた。 「あれ、どこへ行くんだあ?」  と、川ちゃんが言った。 「いいんだよ。黙ってついてこいよ」  鯨やんの歩調はさっきよりもずっと早くなっていた。  鯨やんはさっき出てきたばかりの中沢ビルに入って行った。怪訝《けげん》な顔をしている三人とはつとめて視線を交わさないようにしているらしく、そっぽを向いたまま五人しか乗れないエレベーターに真先に乗り込むと、六階のボタンを押した。六階は太平洋電機KKという電気設備会社が入っているだけなのだ。  六階でエレベーターを降りると、鯨やんはエレベーターの横の非常階段を上って屋上に出た。中沢ビルの屋上は、一〇〇平方メートルぐらいのただもうとりあえずこれは屋上です、というだけの屋上で、すなわちそこにはなにもなかった。そして早朝の屋上は道路の上よりも冷えているかんじだった。  鯨やんは屋上の横にある塔屋《とうや》に上る鉄梯子《てつばしご》に手をかけると、大鹿《ムース》のような巨体に似合わない手慣れた身のこなしでゆっくりとそこを登っていった。 「早くあがってこいよ」  と、塔屋の上から鯨やんが言った。高木に続いてぼくが登り、最後に川ちゃんが上ってきた。 「おっそろしいところでやるんだなあ」  と、川ちゃんがあきらかにすこし不満気な顔つきと口調で言った。  塔屋の上は四帖半《よじょうはん》ぐらいのスペースがあり、そこに水のタンクと、トタンのカバーに入った電気モーターのようなものがあるだけで、男が五、六人ゆったりと車座になってすわることができた。 「まだ夜露が乾いてねえや」  と、川ちゃんが言った。 「だったらこれ敷けよ」  と、鯨やんが、水タンクの下から折りたたんだダンボールを引っぱり出し、それぞれの男たちの足もとに投げてよこした。 「あのな、時々さあ、おれこの上にあがってきて昼寝してんのよ」  と、鯨やんがそこではじめて三人の顔を見回しニヤリと笑った。それからゆっくりと、コートの内ポケットからカードを引っぱり出し、 「続きやろうや」  と、言った。  四人はダンボールを折り曲げて紙布団《かみぶとん》をつくり、車座になって再びポーカー勝負を開始した。風はなかったが、じっと座っているとコートを着たままでも体の下の方からじわじわと冷えてくるような気がした。そんなところに座っていると普段聞こえてこない新橋駅のアナウンスの声とか、電車の発着する音や首都高速を突っ走っていく車の音などが思いがけないほどすぐそばに聞こえた。  塔屋の上の勝負になっても鯨やんはあまり勝てなかった。気分的にすこしあせってきているのか、ワンペアとかブタの手でごんごん突っかけてくるので、川ちゃんや高木の狙《ねら》い撃ちにあって、鯨やんは会社でやっていた時よりもさらにカッカとあつくなっていた。  九時をすこしすぎた頃《ころ》、屋上の重い鉄の扉《とびら》がひらいて誰かが外に出てくる音が聞こえたので、ぼくたちはその瞬間に黙りこんだ。屋上の気配に注意をむけながら、それでもゲームは休みなく続けられた。  屋上に出てきた人はその後なんの物音もたてなかった。九時すぎると中沢ビルの周辺にも沢山の車の走る音が聞こえ、朝がたかかっていた雲が切れて、薄陽《うすび》がさしてきた。太陽の光が小耳の川ちゃんの顔にあたると、川ちゃんは慌てて鼻を片手でおさえ、下をむいた。それから改めて両手で口と鼻を覆い、くふんくふんとくぐもった空咳《からせき》のようなものをした。 「どうした?」  と鯨やんが聞いた。 「あのさあ」  と、川ちゃんがひくいかすれた声で言った。 「おれさあ、徹夜あけの朝にお日さまみると咳が出るんだよ」  それから川ちゃんは素早くコートの襟をひらき、ふところに首を突っ込んで「くふくふくふ」と、そのヘンテコな咳の続きをした。  そのとき、屋上でザッザッザッと、なにか重いものをコンクリートの上にひきずっていくような音がした。  ぼくたちは黙って顔を見合わせた。  高木が四つん這《ば》いになり、塔屋の屋上側の縁すれすれまで行き、そっと下の様子を窺《うかが》った。それから四つん這いのまま後ずさりしてきて、 「剣道だよ。誰かよその会社のおっさんが木刀をふり回してるんだ」  と、言った。  太陽を見ると咳が出るという川ちゃんが、鯨やんと席を交代して、ゲームがまた始まった。 「勝負ごとはよオ、夕陽を背にした奴《やつ》が勝つのよ」  と、川ちゃんが言った。 「いまのところは朝陽だぜ。そら勝負だ。こいよどんとな」  と、鯨やんが言った。  木刀をふりまわしていた男は間もなく屋上から降りていったので、ぼくたちはまた景気よく喋《しゃべ》りはじめた。  九時半の会社の出社時間になると、ぼくたちは五、六分おきに塔屋から降りて行って「出社」した。  その会社にはタイムカードも出勤簿もなくて、なんとなく出社時間の頃に会社の中をうろついてみせるのが出社の証明ということになっていた。気になっていたハットの鎌田はまだ来ていなかった。なんとなく鎌田とは顔を合わせたくなかったのでホッとした気分だった。鎌田はいつも二番目か三番目に出社してくるので、その時間にまだ顔を見せていない、というのは、どこかへ立ち寄りしているのかもしれなかった。  出社してくる人にお茶を淹《い》れて歩いている種一をつかまえ、便所の横で、「あとで塔屋にこいよ」とひくい声で告げた。十時にまたそこに集まり、もうちょっと戦おう、ということを決めたのだ。自分の机の前に座って種一の淹れてくれたお茶をのんだ。  電話があちこちの机の上で鳴りはじめ、ぼくの会社は、また何時《いつ》もと変らない正しく騒々しい一日の業務がはじまろうとしていた。 [#改ページ]   第3章 トタン雨  原島久三は不思議な風貌《ふうぼう》をしていた。歳《とし》は四十二歳。痩《や》せているので、頬骨《ほおぼね》が鼻の両脇《りょうわき》に思いきりぞんざいに突き出し、いつも眉間《みけん》に深い縦皺《たてじわ》を二本ほど刻んでいた。それだけなら渋面《じゅうめん》の中年男といってもいいわけだが、原島久三の特異なのはその一見恐ろしげな顔をオカッパ頭で包みこんでいる、というところだった。そしてその風貌とはまるで一致しない鳥のようなカン高い声を出した。  百貨店ニュース社に入った当初、ぼくはこの原島が一番こわかった。  原島はめったに笑わないのだ。そして何か話をするとき、じっと射すくめるようにして相手の眼《め》から視線をそらさず、しかもぐいと、そのオカッパ頭を前面に突きだすようにして喋《しゃべ》った。原島は小柄《こがら》だったので、その恰好《かっこう》は丁度|軍鶏《しゃも》が戦闘前に敵を威嚇《いかく》する、というようなしぐさによく似ていた。 「あのねえシーナ君、ちょっと君に折入って話したいことがあるんだ」  ある日、森川トオルがぼくの机に片手を突き、もう一方の手でじゃわじゃわと自分の顎《あご》のあたりを気ぜわしく撫《な》でながら言った。髭《ひげ》の濃い森川は、朝きっちりと髭を剃《そ》ってきても、夕方になると手のひらで撫でてもう音がでるほどに短い髭が伸びてきてしまうのだ。  森川はぼくの所属している編集部の編集長だった。編集部といっても十日に一ぺん発行する業界新聞だから部員は森川を含めて五人しかいない。森川は三十三歳。大学を卒業してすぐその会社に入ってきた。 「なんでしょうか、話というのは」 「うん、まあ、しかしとりあえず飲もうよ」  と、森川トオルは言った。酒のみの多いその会社の中でも森川は社内でベスト3に入る程の無類の酒好きだった。一日の仕事が終ると、会社の近くにある「このみ」というおでん屋に入って夏でも冬でもとりあえず冷やのコップ酒を一、二杯ぐいとやる、というのが森川の日課だった。そしてぼくも含めた森川の部下たちは、ツケがきくのをいいことに、暇さえあればこの店に森川と一緒にもぐり込んでいた、というわけなのである。  しかしその日、森川は変に神妙な顔つきをして「まあ飲めや」と、何度もお銚子《ちょうし》を差しだしてきた。 「あのなあ、これはどうしても、という訳でもないんだけれど、まあすこし俺《おれ》の話を聞いてくれ」  と、言って森川が切りだした話は「ナニカアルナ……」と思っていたぼくを、やはりそこそこに考え込ませる内容だった。 「原島さんのところへ移ってもらう、というのはどうだろうか……」  と、森川は言いだしたのである。  原島久三は、その会社にある三つの編集部のもっとも小さな部署を担当していた。原島を含めて部員は二名。つまり編集長とヒラ、だけの編集部なのだ。  そこでは「マンスリーサーベイ」という薄っぺらな月刊誌を作っていた。デパートの経営内容や、そこで扱っている衣料品や雑貨などの商品の売れ行き状況などを分析、レポートするというひどく地味で堅い内容の雑誌である。  この「マンスリーサーベイ」に較《くら》べたら同じ業界紙といっても、森川の編集部が手がけている�新聞�の方がその扱う内容にしても書く記事にしてもはるかに躍動的でジャーナリスティックであるような気がした。第一、発行部数が新聞とは桁《けた》が違っている。「マンスリーサーベイ」はなんと七五〇部しか刷っていないのだ。新聞を一軍としたら「マンスリーサーベイ」は二軍以下の規模とレベルであるように思えた。  その会社にはもうひとつ編集部があって、そこでは主としてデパートが送るダイレクトメールやPR新聞のようなものを作っていた。いつも中折れソフト帽をかぶっている洒落者《しゃれもの》の、ハットの鎌田を編集長に四人の部員がいた。つまり「マンスリーサーベイ」はその会社の編集部の中では最下位、という位置づけをされている貧弱部署だったのである。 「どうだろうかシーナ君」  と、森川トオルは酒場の酒びかりした黒い卓に片肘《かたひじ》をつき、手のひらでまたじゃわじゃわと顎のあたりを鳴らしながら言った。 「いや別に君の能力がどうこう、という問題ではなく、むしろその逆で、原島さんが君の力を見込んだ上でぜひこっちの編集部に来てくれないか、と頼んできたのですよ」  酒が入ると森川はすこし巻き舌の冗舌になった。 「原島さんのところは、このところ仕事量が増えて、二人ではちょっと追いつかない、という状況になっているようなんだね、そこでひとつ君に助けてもらいたい、とこう言ってきているわけですよ……」  巻き舌を多用しながら森川は続けた。  たった一人の部員を連れて原島は朝十時になるとすぐ会社から出て行ってしまい、夕方の退社時間ぎりぎりに戻《もど》ってくる、というようなことが多かったので、原島久三のところが特に最近忙しくなっている、とはあまり思えなかった。それよりも原島久三のところはほとんど毎日遊んでいるんじゃないかなあ、などと鯨《げい》やんとか小耳の川ちゃんらと、秘《ひそ》かに陰口をきいたりしていたのだ。  けれど結局ぼくはその話をそのまま受け容《い》れることにした。鯨やんや小耳の川ちゃんらとは別のセクションに移ってしまう、というのは寂しい気もしたが、結局は会社の方針なんだからあまりさからうというのもいけないのだろう、と妙に生真面目《きまじめ》にそのへんのしくみを考えたりなどもしたのである。  原島久三の部署へ移るのは、自分の机を引きずっていって、西向きの窓側にある「マンスリーサーベイ」のコーナーにくっつける、ということで片づいてしまった。中小企業の人事異動というのはまことに簡単なのである。  机を移動したその日、原島久三は部下の藤本三次《ふじもとさんじ》を連れて、ぼくの歓迎会というのを開いてくれた。原島久三がよく行くという新橋西口通りの「初音」という小料理屋だった。  その店は「コ」の字型のカウンターだけしかなくて、真中に調理場があった。小料理屋というよりもおでん屋をやった方がいいのではないかと思えるような捩《ねじ》り鉢巻《はちまき》をした赤ら顔の親父《おやじ》と、驚くほど額の狭い着物姿の女がいた。 「コレ、おれの新しい部下なんだコレ」  と、原島久三はぼくの肩を指先で突っつきながらその女に言った。 「おっきい人ね。なんていうの名前、おしえて?」  と、カウンターの中の女は言った。四十代半ばといった年恰好《としかっこう》で、喉《のど》の奥にひび割れがあるのではないかと思えるような、妙に耳ざわりな声を出した。 「シーナっていうの、椎名リンゾウのシーナよ。よろしくしてやってよ」  と、原島久三がカン高い声で言った。原島はちょっと変ったおしゃれで、夏以外はいつもコートを着ていた。そのコートも演歌歌手やキャバレーのボーイなどがタキシードなどでよく着る、光の角度によってぬらぬらと鈍い色で光る、という独得の生地《きじ》が多かった。 「あんたも結構いろんなことやるみたいね」  カウンターの席に落着いたところで、原島がぼくにお銚子を差し出し、笑わない声と眼で言った。 「はあ……ええ、まあ……」  ぼくは曖昧《あいまい》に答えた。原島の言っていることの意味がよくわからなかったのだ。原島とこんなふうにして話す、というのも入社以来はじめてのことだった。 「サンちゃんとも仲よくしてやってよ。能なしだけどさあ、こいつは」  と、原島は藤本三次の横顔を眺《なが》めながら言った。藤本がカウンターの横からぼくに「よ・ろ・し・く」というような、変にブツギレのしぐさで頭を下げてみせた。  藤本はぼくよりも二歳上で、おそろしいほど無口だった。そのために小さな会社なのに藤本ともそれまであまり話をしたことがなかったのだ。藤本は原島が会社にやってくると大抵すぐ一緒に外に出ていってしまうので、完全にいつも原島のうしろ側に隠れている地味な小男という印象しかなかった。  原島が藤本を紹介するとき、面と向って「能なしだけどさあ……」と言うのにぼくはすこし驚いてしまった。原島がほとんど表情を変えずに言うので、それが冗談なのか本気で言っているのか見当がつかなかったのだが、そう言われても顔色ひとつ変えない藤本もすこし不思議だった。  額の狭い女が「これうちの名作よ」といって、ねばねばする漬《つ》け物を出してきた。名物ではなくて名作よ、というのが面白《おもしろ》かった。 「ハリハリ漬っつうんだよ、うまいよ」  と、原島が言った。原島はその店とは随分古くからのつきあいのようで、捩り鉢巻の親父や額の狭い女と、それからひとしきりぼくにはほとんどわからない両方の知人の噂話《うわさばなし》のようなものをしていた。それから原島はふいに、「さ、おしまい。人の話はもうおしまいだよう」と言った。酔ってきているらしく、すこしふらつく足で店の外の共同便所に出て行った。  原島が便所から帰ってくると、藤本がポケットから自分のハンカチを出して渡した。 「うた、うたうよ」  と、原島がぼくの顔をのぞきこみ、すこし怒ったような口調で言った。それから自分の椅子《いす》に腰をおろし、カン高い声のまま題名のよくわからない東北あたりの民謡をうたった。 「ハア キタサア、キタサア」  捩り鉢巻の親父が手拍子《てびょうし》をうちながらひどく陽気な声で調子をとった。  原島久三はハットの鎌田と仲が良かった。二人とも年齢が近い、ということもあったのだろうが、森川トオルが編集長をしている業界新聞に対して、原島も鎌田も会社の仕事としては二軍、三軍的な位置にある、ということがなんとなく二人を気分的に結びつけている、というようなところがあるようだった。  原島とハットの鎌田に共通しているのはもうひとつあって、それは二人とも一風変ったおしゃれである、ということだった。原島の好んで着る玉虫のように鈍く光るコートもそうだが、彼はその下に何時《いつ》もビシッとした三ツ揃《ぞろい》のダークスーツを着ていた。ハットの鎌田も三ツ揃のスーツが好きで、その上にちょっと時代錯誤気味の中折れ帽をはすかいにかぶる、といういささか野暮でエキセントリックな恰好が得意だった。  その頃《ころ》ぼくはスーツを着るというのが嫌《きら》いだった。上下揃の背広など着るとなんだか常に全身が突っぱらかってしまうようで、気軽に普通の動作ができなくなってしまうのだ。だからできることならスポーツシャツとかセーターといった気楽な恰好で出社したかったのだが、そういう服装でくるとすぐハットの鎌田に文句を言われた。 「業界紙の記者などというのはそれでなくともヤクザ、ゴロツキがやっているような仕事に見られるのだから、服装は何時でもきちんとするように」  というのがハットの鎌田の妙に頑《かたく》なな考えなのだった。  原島久三は見たところそういうことでキチンと三ツ揃のスーツを着ているのではなく、単なる自分のおしゃれ志向から、ということらしかったのだが、編集長がいつもそういう恰好なので、ぼくもキチンとしなければならなかった。森川トオルの編集部の時はあまり服装についてうるさいことは言われなかったので、こうした変化はぼくにとってかなりの精神的負担になっていた。 「あのね、フクロみたいなものは持たないほうがいいよ。原島さんはカミブクロ嫌いなんだ。あれはみすぼらしいって……」  ある日、藤本がぼくの耳元に向って、ぼそぼそした低い声でそんなことを言った。 「カミブクロ?」 「そう、君いつも外に出ていくとき会社のカミブクロかかえていくでしょう。アレ原島さん嫌いなんだよ。薄汚いって。いつまでも使ってるとホラ黒っぽく汚れてくるでしょう。アレ駄目《だめ》なんだよあの人。だから鞄《かばん》買った方がいいよ」  藤本が喋る時、彼は眼のふちに沢山の意味不明の皺《しわ》を寄せる、ということがそのうちにわかってきた。藤本は沢山の皺をつくりながら、 「もしなんだったら、俺が前に使ってたカバンあげるよ」  と言った。 「ふーん、カバンですかあ……」  と、ぼくはあからさまに不満気な表情を浮かべて言った。服装ばかりではなく、自分の持ち物まで原島の趣味にどうこうされる、というのがなんだか実に不愉快だった。さらにそういうことに何ひとつ疑問を持たず、完全に原島の言うなりになっている藤本のふがいなさも気に入らなかった。  原島久三の部下にはなっても、子分になった訳じゃあないんだぞ、とぼくは藤本の目のまわりの沢山の皺を見ながら思った。  サラリーマンになってそろそろ一年になるという時期だった。ぼくははじめて鬱屈《うっくつ》した気分になっていた。原因はすべて原島久三の「奇妙な仕事」ぶりにあった。  原島は九時半頃に会社にやってくると、ハットの鎌田や社長などとちょっとした状況報告や雑談をかわし、三十分もすると藤本とぼくを促して外に出ていくのだ。  外に出るとそのまま新橋駅まで歩き、朝から浮浪者が焚火《たきび》などをしている大ガードを越えて銀座通りに向う。そして銀座八丁目にある「ルノアール」という喫茶店に入るのだ。原島はいつもこぶ茶を注文し、ぼくと藤本に「何のんでもいいよ」と言うのだった。そこで藤本とぼくは大抵モーニングサービスのジャンボトースト付コーヒーを注文した。  原島はその店で何か仕事の打ち合わせをする、ということもなく、ぼんやりとこぶ茶をすすりながら店に備えつけのスポーツ新聞をゆっくり時間をかけて読むのだ。  それからトイレに行き二十分ほどは帰ってこなかった。こぶ茶をのんでスポーツ新聞を読んでウンコをする、というのが原島の午前十時半前後の日課なのだ。 「あの人ね、すごい恐妻家なんだよ」  原島がトイレに行ったあと、藤本が目の回りにあの例の皺を沢山集めながら、大変な秘密暴露といった顔つきでそんなことを言ったことがある。恐妻家だとどうして十時半にウンコをするのか、そこのところがよくわからなかった。  原島はこうして昼近くまで藤本とぼくを道連れにして無為な時間を過ごし、それから漸《ようや》く三人ばらばらになってその日の個人的な仕事先にそれぞれ向っていく、という具合になっていた。  ぼくは原島と藤本のこうした怠惰きわまりない午前中の過ごし方にいささか辟易《へきえき》していた。毎日朝早くから、いかに原島のおごりだといっても、ヒトのウンコにつきあわされている状態というのが我慢ならなかった。  けれどそのことに対して面と向って文句を言えるほどの度胸も思い切りもなかった。なにしろ原島の部下になったばかりであり、彼が具体的に何か仕事を与えて指示してくれないかぎりどうしていいかさっぱりわからなかったのでもある。  長いウンコから帰ってくると、原島はいつものカン高い声で、会社のことや社員の噂話をはじめた。  それらの話は、誰《だれ》が競馬をやっていくらあてただの、誰が会社に借金を申し込んで断わられただのといった、知っていても知らずにいてもいいような話ばかりだったが、ひとつだけぼくの胸の内側にするどくとび込んできた話があった。 「高木のやつがさ、とうとうマイコに手だしたみたいだなあ。あの野郎あんな仏頂面《ぶっちょうづら》しながら結構手が早いのよ。な、あいつはそういうやつだよ」  と、原島はオカッパ頭の中に人差し指を突っこみ、そのままそいつで頭のまん中を激しく掻《か》きながら言った。社長は糖尿病じゃあないだろうか、というたいして面白くもない話題から突然マイコの話が出てきたのでぼくはびっくりしてしまった。 「あいつはきっと手が早いと思いますよ」  と、藤本が何時にないきっぱりとした口調で言った。 「なっ」  と、原島が言った。  ぼくは二人のこのやりとりを聞きながらまた急速に不愉快になっていた。それは原島や藤本に対して、ということではなく、かといって高木に対して、ということでもなかった。高木はついこの前まで同じ編集部にいた同僚であるし、彼の性格というのはよくわかっているつもりだった。彼なら突如としてマイコのそばに行って、「ぼくは君のことがとても好きなんだ。だから交際してください」などというぐらいのことは難なくやってしまうだろうと思った。しかしよほど酒に酔って、ということならまだしも普通の状態では自分にはとてもそんなことはできないだろうと思った。そしてそのことを考えると、もうなにかたまらないほどあらゆることが不愉快になってしまうのだった。  森川トオルが言った「原島さんのとこも最近は仕事が多くなってきて、今の陣容では追いつかなくなっているらしい」というのはほとんど嘘《うそ》だ、ということがしだいにわかってきた。原島がぼくを自分の部署に加えたのは、森川やハットの鎌田らの編集部に見劣りしないほどの人員規模がほしかっただけ、というのが本当のところらしかった。そのことがわかってきたぼくは、鯨やんや小耳の川ちゃんなどと酒をのみながら大いに憤慨してみせた。 「あいつはそういうやつだよ」  と、話を聞いて霜降りの高木が言った。話の内容は違うけれど同じようなことをほんのすこし前に原島久三が高木に対して言っていたので、それを聞くとぼくはすこしおかしくなってしまった。 「だけど暇ならそれでいいじゃないか」  と、鯨やんがのんびりした顔で言った。 「暇つうのは結構つらいもんなんだよ」  と、小耳の川ちゃんが一人で激しくコキザミに頷《うなず》いてみせた。 「暇は暇だけど、何もしなくていい暇じゃあないんだ」  と、ぼくはすこし悪酔いしかかった頭で言った。  原島久三のやりかたというのは小人数同一行動第一主義というようなもので、何をするにしても原島を先頭に三人で揃って行動する、というようなものだったのだ。しかも原島の言いつけどおり、ぼくは性格的にあまり好きでないびしっとした背広姿に、藤本のおさがりの古ぼけたビニール製のショルダーバッグをぶらさげていなければならないのである。そしてどういう訳か時々は、ハットの鎌田も午前中の怠惰なたまり場である銀座のルノアールにやってきたりした。  そういう珍妙な団体行動が一カ月ほど続いた頃、ぼくは初めてその会社を辞めてしまいたい、と本気で思うようになったのである。そして前の編集部の同僚たちと、ぼくだけが一方的にかなり気分の荒れている酒のみ会などをやりはじめた、という訳なのだった。  その店は以前、鯨やんたちと深夜の会社にしのび込んで金を賭《か》けたポーカーゲームをやっていた頃、よく時間つぶしにもぐり込んでいた店だった。  会社で夜を徹してやる賭けポーカーは、ハットの鎌田と原島久三になんとなく気付かれてしまって、自主的に止《や》めざるを得なかったのだ。  二時間ほどそんなふうにして飲んでいるうちに、ぼくは本格的に悪酔いしてきた。そして目の前で相変らず何時ものように自分のペースで冷静に飲んでいる霜降りの高木にやがてからみはじめた。 「女に手を出しただろう」  と、ぼくはあきらかに酔った声で言った。 「どの女だよ」  と、高木はあまり表情を変えずに言った。 「マイコだよう、ムラサキの」 「ああ……」  と、高木は頬《ほお》のはじの方にぼんやりとした笑いを浮かべながら言った。 「うけけけけ……」  と、種一《たねいち》がおかしな声を出して笑った。それから、 「ああおかしい」  と、高木の顔を見ながら言った。高木はあからさまに困惑した表情を浮かべ、低いけれど強い調子で、「言うなおまえ!」と言った。 「あ、なんだ言ってみろよおい」  と、鯨やんが大きな声を張りあげた。 「そういう話おれ大好きなんだ」 「言うなよ種一」 「言ってみろ種一」  種一は高木と鯨やんの顔を交互に眺め、最後にぼくの方を見た。 「あのさあ、フラレたんだ」  種一が言った。 「違う。ふざけて言ったんだ、おれは。聞いてみただけだったんだよ、おれが代表してさあ」 「なんだ、なんのことだ?」  と、鯨やんが両手を広げ、片一方の手で高木を、そしてもう片方で種一の顔を指さしながら言った。 「高木さんがさ、マイコに聞いたんだよ、つきあってくれるかってさ」 「いきなりか?」 「いや、だからその前にいろいろあって……」 「ごまかすなよなあ……」  小耳の川ちゃんが左手で激しく眼鏡を鼻のつけ根に押しつけながら言った。 「うけけけけ……」  と、種一が笑った。 「わかったよ、いうよ」  と、高木が観念したように両手をあげて言った。店の入口があき、ギターを持った地つきの流しが入ってきた。背広の上に印袢纏《しるしばんてん》のようなものを着ていて、それがこの流しのトレードマークのようになっていた。 「いけるかい?」  と流しが店の親父《おやじ》に向って言った。 「寄ってきなよ」  と、親父が言った。 「ジャン!」  と、袢纏姿の流しが胸元のギターを軽く叩《たた》たたいた。 「それでどうした?」  と、鯨やんが言った。 「フラレちゃったよ、おれ、簡単にさ……」 「あっ? 誰にフラレたの?」  と、小耳の川ちゃんが言った。 「わかってないな、ムラサキのマイコだよ、何聞いてるんだよ。それでどうした?」  と、鯨やんがすこし顔を斜めにして高木を見つめた。 「それでなあ、口惜《くや》しいから聞いたんだよ、それじゃあ誰か好きな奴《やつ》がいるのかってさあ」 「うん」 「そしたら言ってたぞ。あいつはお前に気があるんだよ」 「えっ」  と、ぼくが酔った声で言った。霜降りの高木の指は、まさしくまっすぐにぼくの方を差していたのだ。 「本当かよ」  と、鯨やんが言った。 「本当さ、面白《おもしろ》くもねえよ」 「本当かよ」  と、小耳の川ちゃんがなんだかひどく深刻な声で言った。 「うけけけけ……」  と、種一がまた鳥のような声で笑った。  会社勤めというのも結構いいもんだ、とぼくは思うようになっていた。原島久三の仕事のやり方はまだよく勝手がつかめないので面白いとはいえないが、毎日会社にやってくる、というのはなかなか楽しいものだった。  純喫茶ムラサキのマイコさんは月、水、金、土が出勤当番の日で、火曜と木曜は経営者の奥さんがウェイトレスをやっていた。経営者は三十五、六歳の痩《や》せた男で、いつもカフス付のワイシャツを制服のようにして着ていた。仕事がない時はカウンターの中のテレビをぼんやりした顔で眺《なが》めている。  種一の分析によると、経営者の奥さんが店に出ている火曜と木曜は確実に何時《いつ》もよりすいている、という話だった。経営者の奥さんというのが昔の東映時代劇の千原しのぶという女優に似ている、と会社の中でいっとき話題になったことがある。言いだしたのはハットの鎌田で、それに原島久三が頷いた。  その奥さんは自分でもそのことを意識しているのか、店に出るときは何時も着物姿だった。しかしそうやって着飾っていると着物が汚れるのが気になるのか、コーヒーを持ってくる時も妙にピリピリしたところがあって、この店の常連客たちには概してあまり評判はよくないようだった。  種一の言うように、やはり常連客の多くの連中はマイコさんをめあてに入ってくる、というようなところがたしかにあった。  そのマイコさんが思いがけないことにぼくを�意識�している、ということを聞いてからというもの、ぼくはこの喫茶店のためだけに出社する、というような気分になっていた。原島久三の午前中の団体行動はいぜんとして続いていたが、午後に会社に戻《もど》ってくると、隙《ひま》を見てはムラサキへ行ってコーヒーを呑《の》んだ。勿論《もちろん》火曜と木曜ははずして、の話である。  高木の話を聞いてからというもの、ムラサキに行っても以前のように気楽にコーヒーを注文する、ということができなくなってしまった。店に入ってマイコさんが居るのを確かめ、素早く空いているいい席を捜し、席に座って彼女のやってくるのを待つ、という数秒間というのが恐しいほど緊迫感に満ちたものになってしまったのだ。マイコさんも少なからず緊張している、というのが痛いほどによくわかり、ぼくはそこではじめて精神や神経にも圧力というものがあるのだなあ、ということをつくづく実感したのだった。しかしこの緊張感はけっして辛《つら》いというわけではなかった。むしろぼくはこのつかの間の緊張感に生きがいさえ感じていたのである。 「マンスリーサーベイ」の仕事は基本的にはスクラップと計算だった。ある目的をもってやってみるとスクラップというのは獲物《えもの》発掘作戦のようなところがあって結構面白いものだった。たとえばスキーの板についての情報を集めようと思う。そうすると経済新聞やスポーツ雑誌、スキー専門雑誌、学界の新聞雑誌などから新しいスキー板についての情報を徹底して集めるのだ。そしていまスキー板のマーケットはどのような新製品によって動いており、将来それはどういう影響力を持っていくのか、といったことまで、スクラップ記事と数字によって類推していく、という仕事である。  こういう仕事ばかりやっていた藤本は、商品によってどこに行けばどういう情報があるか、ということをくわしく知っていた。原島久三は集ってきたレポートや数字の表をレイアウトして印刷し、一冊の雑誌にする、という仕事をやっていた。けれどレイアウトなどというのもやってみると簡単なものなので、三カ月もするとぼくは自分で手がけたレポートは自分でレイアウトするようになっていた。聞いてみると藤本もそうしているので、原島久三には実質的にはあまりたいして仕事がない、という訳なのだった。  けれど原島はルノアールでの新聞読みと雑談が済むと、鞄《かばん》から大きなアドレスノートを引っぱり出してきて、入口の横にある赤電話に張りつき、何本も電話をかけていた。「マンスリーサーベイ」の仕事の内容がわかってくるにつれて、一体原島は毎日あのように沢山の電話を何の用でどこに掛けているのだろう、ということが気になった。そして一度そのことを藤本に聞いたことがあるのだが、藤本は目のまわりに沢山の皺《しわ》をよせて、「ま、いいじゃないのよオ」とひくい声で言った。 「マンスリーサーベイ」を印刷しているのは横内兄弟印刷有限会社といって、新宿の小滝橋《おたきばし》の近くにあった。わずか七五〇部の雑誌を刷っているところだから印刷会社も小規模なもので、社長と工員合わせて四人しかいなかった。つまり社名のとおり横内兄弟の兄の方が社長で弟が工場長、そして社員が二人という陣容なのである。小滝橋公園の裏手のゴミゴミした住宅地の路地の奥にあって、木造の土間に大きなストップシリンダー型の自動印刷機が一台、その先の窓のない部屋に事務所があった。事務所の半分は文撰場《ぶんせんば》で、そこでは社員の一人がいつも不機嫌《ふきげん》な顔をして活字を拾っていた。  横内兄社長というのはぬめっとした色の白い小太りの男で、なにか全体に髭《ひげ》のない小達磨《こだるま》を連想させた。  しかしこの小ダルマはよく喋《しゃべ》る男だった。露店の叩き売りのような低くてかすれた声で、のべつ何かを喋りまくっていた。  ぼくが原島久三に連れられて初めてこの印刷会社にきたときも、横内兄はところどころで何か意味不明の悪態をつきながら、 「とにかくそれじゃあまあ新入りの為《ため》に一杯やりますか」  と言った。仕事が済んだあとにどこか近くの居酒屋にでも行くのかと思ったらそうではなくて、植字工《しょくじこう》の若い社員に命じて近所の酒屋から清酒とスルメ、そして柿《かき》の種を買ってこさせた。そして三ツ矢サイダーと書いてあるコップに清酒を注《つ》いで、「さあ、やんなよ」と言った。まだ夕方にもなっていない時間なので一瞬たじろいだのだが、原島はかまわずコップを取ってぐいと呷《あお》った。  事務所のすぐ隣りに自動印刷機が昼夜の別なくもの凄《すご》い音をたてて動いているので、このふいの酒盛りはみんな必要以上に大声をあげなければ会話ができなかった。  横内兄は酒好きの割にはすぐ酔ってしまうたちのようで、間もなくぬめっとした小太りの体が真赤になった。それまで原島久三と両者共通の世間噺《せけんばなし》のようなものを大きな声で話していたのだが、体が赤くなってくるとそのしわがれ声を一オクターブほどあげて突如として自分の兵隊時代の話をはじめた。  横内兄は第〇〇歩兵団第××連隊第△中隊のヤホーヘーとして南洋パラオ島に二年近くも進駐していたのだ、と赤い顔のままぐいとぼくを睨《にら》みつけるようにして言った。 「はあ、そうなんですかあ」と、ぼくはちょっと自分でもくたびれてしまいそうな程の大きな声で言った。横内兄のいうヤホーヘーというのがどんなものなのかまるでわからなかったのだがそこでは聞かずにいた。原島にあとで聞いたらそれは野砲兵のことだった。  横内兄はパラオ島が男の天国で、毎晩わしらは椰子《やし》の木の下でやりまくっていたのよ、とものすごくでっかい声で言った。原島久三も藤本も横内の戦争時代の話を聞くのははじめてではないらしく、たいして関心もないような顔で黙って相槌《あいづち》だけうっていた。 「それでよお」と横内兄は自分の三ツ矢サイダーのコップに新しい酒を注ぎながら言った。 「困るのはやっぱり病気でよ、薬がもうなくなってるからよお」  ごわごわごわごわ、と重い音をたてるストップシリンダー型印刷機の回転音が、横内兄とぼくの間の空間を流れた。横内兄の声はこの重い回転音の隙間《すきま》に強引にねじ込むようにしてこっちの耳に飛び込んでくる、というかんじだった。 「なるべくやる前に小便ためておいてよ。終ったあと、自分であそこのサオのカワをよ、あれをぐうーっとひっぱって先っぽのところでぎゅっと止めて、その中に小便ためるんだわ、自分のをさ。ダムだね、一人用のさあ、ダムつうわけだ、な。わははは」  髭のない顔を赤くバクハツさせるようにして、小ダルマのような横内兄は笑った。 「それでよお」 「うん」  と、原島が面倒くさそうに言った。 「自分の小便で自分のを洗って消毒しとくのよ、わはははは」  横内兄が自分で言って自分だけ体をゆすって笑った。  横内兄弟印刷有限会社と原島久三が単なる印刷発注者と印刷請負業者だけの関係ではないらしい、ということがわかったのはそれから一カ月ほど経《た》ってからだった。 「マンスリーサーベイ」の再校ゲラが出て、それの出張校正に、藤本と二人で印刷所に行った。雑誌の校正ゲラは初校の場合は会社の中でじっくり原稿と読み合わせて校正するのだが、その赤字訂正をほどこした二回目のゲラは大抵の場合編集者が印刷所まで出かけていって、そこで再度のチェックをするようになっている。  しかし横内兄弟印刷は、事務所といっても机ひとつに丸《まる》椅子《いす》がやっと三、四人分置ける、という程度の広さしかないので、校正は近所の小滝橋公園のベンチにすわってやるようになっていた。そのあたりには喫茶店などまったくない。  藤本とベンチに座って一時間ほど数字の読み合わせをしたあと、ふいに雨が降ってきた。この、青空校正室はインクや油の臭《にお》いの充満する印刷所の部屋の中よりもずっと気持がいいのだが、雨が降ってくるとお手上げだった。  ぼくと藤本は校正がすんだばかりのゲラが雨に濡《ぬ》れないように素早く背広の内側に隠し、近くにあった倉庫のような大きな建物の廂《ひさし》の下に逃げた。梅雨のはしりのような雨で、急速に強い降りになった。  ズボンの下半分を早くも濡らしながら、藤本は何時もと同じようにあまり表情を変えずに黙って空を見ていた。廂はトタン葺《ぶ》きになっているので、頭のすぐ上でバラバラと機関銃の一斉《いっせい》射撃を受けているような音が続いていた。 「だけどよオ」  と、藤本がはっきり雨雲の走っていくのが見える低い空を見つめながら言った。 「だけどシーナ君もよオ、早いとここんな仕事見切りつけといた方がいいよ」  と、藤本は言った。 「ええ?」 「今のさ、こういう仕事っていうのは、あんまりよくないって言ってるんだよ。あんたみたいな人がやるにはさ……」  藤本の言っている意味がすぐには理解できなかった。 「みんなインチキだからな」  と、藤本は言った。 「インチキ?」 「ああ」  風が回っているようで、廂の上のもっと大きなトタンの屋根に、風に乗った雨が動物的な早さでうわーっと走っていくのがわかった。 「たとえばさあ、原島なんか会社の仕事なにもしてねえものな、みんなおれたちにやらせてよ、自分は別のことしてるんだ、もう知ってるだろう」 「いえ……」  と、ぼくは藤本の横顔を見ながら言った。 「まだ知らないのか? いいや、どうせすぐわかるだろうから言っちゃうけど、原島はあの白デブと組んで自分の個人用の印刷の営業してきちゃあ、あそこでやってるのさ。だから忙しくなると原島は自分で印刷屋にきて活字拾ってるさ」  雨の音を聞きながらぼくは黙ったままでいた。どういうわけか藤本のそんな話を聞いてもたいして驚かなかったが、それよりもどうして藤本が自分にそんなことを言い出したのだろうか、ということの方が気になった。 「それでよオ、忙しくなるとおれなんかも引っぱり出されて活字拾わされたりするときがあんのよ。だけどシーナ君はよ、やつに頼まれても絶対そういうことしちゃ駄目《だめ》だぜ」  と、藤本はともすると雨音に負けてしまいそうなぐらいの低い声でぼそぼそと言った。 「大学出て、あんなくさい所で活字拾ってよ、ベンチの上で校正してるんだぜおれなんかよ……」  雨の中に藤本は唾《つば》のかたまりを吐いた。 「それから話ちがうけど、高木のやつが何か言ったろ」  前よりもふいに藤本の声が大きくなった。 「何かって?」 「女のことよ、サテンのよ」  背の低い藤本がぼくの顔を睨みつけるようにして見上げた。 「ああ、ええ、あのムラサキの……」 「そう……」  藤本はそれからもう一度雨の空を眺《なが》めた。 「かつがれるなよシーナ君、あいつはそういうこと平気でするやつだからな」  ぼくは黙ったまま頷《うなず》きもしなかった。藤本もそれでしばらく黙ったままだった。藤本の言っていることの意味はすぐにわかったが、しかしどうして藤本がそんなことを知っていて、そんなことを言うのか、そこのところがよくわからなかった。なんだか頭の中が熱くなって急速に混乱してくるような気がした。 「でも気にしない方がいいよ」  と、藤本がすこし口の端で笑っているような口調で言った。ざっざっざっと巨大なホースで水を撒《ま》いているような音をたてて、雨が頭の上のトタン屋根の上を走っていく音が聞こえた。雨やどりをしているのに、雨のしぶきが空中にいっぱい飛び散っているらしく、頭に手をあてると、髪の毛がびっしょりと重く濡れているのがわかった。 [#改ページ]   第4章 よかちんちん  松井喜三郎が社員旅行の宴会で大の字になり、「さあどうだ、おれのきんたまだあ」と言って浴衣《ゆかた》の前をそっくりはだけ、自分のきんたまを見せたとき、宴席にいた男たちはいかにもそれぞれの人間性をむきだしにしたようだった。  うるせいな、またあの親父《おやじ》が酒に酔って暴れてるなあ、という表情をあらわにしている人々と、よおしいいぞいいぞ、もっと今日はめちゃくちゃにいこう、といって無意味に喜ぶ人々と、まったくその風景を無視しようとする人々と、さてどういう態度をとったらいいのだろうか、といたずらにおろおろする人々と、その反応は見事にさまざまだった。  ぼくもそうだったが、若い連中はそういうときの正しい顔つきのありかた、というのがわからずにただもう居心地定まらずおろおろするばかりだった。  米田耕一は、松井喜三郎がきんたまを出しているのに気がつくと、立上っていってすばやく自分の浴衣を脱ぎ、松井喜三郎の下半身を覆《おお》った。浴衣を脱いだ米田耕一は白い褌《ふんどし》ひとつになった。褌をしているのはその会社で彼だけだったが、パンツをはくと息ぐるしくて駄目《だめ》だ、といって頑《かたく》なにそのクラシックなスタイルを変えようとはしなかった。米田は「百貨店ニュース」の副編集長をやっており、もっぱらベエさんと呼ばれている。九州熊本の出身で中背《ちゅうぜい》小太り、髭《ひげ》体毛いたって濃く、肥後もっこすむきだしの豪快な体と顔つきをしていた。 「松井さん、つまんないよそんなもの」  と、ベエさんは自分の浴衣で松井喜三郎の下半身をすっかり覆い、左右の袖《そで》を腰のうしろに回すと、インド人の腰巻きのようにたくみにそれでくるりと|まとめて《ヽヽヽヽ》しまった。 「うるせい、おれのきんたまだあ」  松井喜三郎はベエさんの下でしわがれた声を出し、すこし暴れたが、初老の域に入ってきた松井に三十代前半の、村相撲の横綱みたいなベエさんの体をはねのける力はなかった。 「松井さん。あとで風呂《ふろ》でやろうよ。みんなできんたま揃《そろ》えてさあ」  ベエさんは松井の耳もとで言った。ほぼ泥酔《でいすい》に近い状態だった松井は、ベエさんの言っていることを理解したのかどうかあまり判然としなかったが、間もなくぐったりと全身の力を抜いてしまった。  小さな騒ぎは終った。ベエさんは立上り、剛毛のはえたいささかせりだし気味の自分の腹をぱんぱん、と軽く叩《たた》き、その近くで二人を見守っていた宴席の何人かにむかって「くっ」と笑ってみせた。  ベエさんは褌姿のまま自分の席に戻《もど》った。 「ごくろうさん」  と編集長の森川トオルがひくいダミ声で言った。 「まああれだよな、気持はわかるよな。あの年代の人っていうのは結局最後は自分のきんたまみせるしかないわけだからな。兵隊だからな」  ベエさんがすこしひくい声で言った。ベエさんは会社の中で松井喜三郎をなぜかいつも意図的に徹底して|たてて《ヽヽヽ》いるようなところがあった。  しかし、その会社の若いものにとって、松井の会社内での位置、というのはどうも基本的にわかりづらいところがあった。  職掌は総務部長だったが、部長といっても業界紙のチビ会社だから部下は一人しかいなかった。要は経理から庶務雑務までのなんでも屋であった。松井のたった一人の部下がブロンディだった。ブロンディと秘《ひそ》かに呼んでいるのはぼくだけで、彼の本当の名前は並川隆夫といった。まだ三十そこそこと若かったが、古株社員の一人で、上司風をいっさい吹かさない松井の下ではむしろブロンディの方が上役のようにも見えた。  松井は社内の古株若手を問わず、まだるっこしいほど丁寧な言葉づかいで話をした。そして社員から何か用を頼まれると、どんなことでも気軽にやってくれた。ついでだからとセロテープやホッチキスの針まで気軽にさっと買いに行ってくれるので、若い編集部員たちには、総務部長といっても、会社の総務担当小使い、というぐらいにしか考えていない者がけっこう多いようであった。  毎年六月に行なわれる社員慰安旅行についての旅館の交渉とか切符手配などさまざまな申込手続きをやっていたのも松井だった。社員旅行には必ず社員から当番幹事が選ばれて、そういう仕事をすることになっていたのだが、実際に当番幹事がやるのは宴会のときの司会ぐらいのものだった。会社の仕事が忙しいからといって、こまかい手続き仕事はたいてい松井におしつけてしまっていたのである。  その年の幹事は広告制作担当の押山だった。押山は社内きっての伊達《だて》男で、寒い日も暑い日もかならずぴしっとしたスーツを身につけ、頭をきっぱりと七・三にわけ、いつもぴかぴかの靴《くつ》を履いていた。押山の部下も二人で、一人は剽軽者《ひょうきんもの》の種一《たねいち》、もう一人は若いくせに妙に全体に暗いところのある坪田という名の男だった。  押山が選んだのは群馬県の伊香保温泉だった。六月という季節はとても微妙で、場所の選択を誤ると、ただもう蒸し暑いだけで、慰安旅行どころか、帰ってくると全身でくたびれてしまう、というようなことがよくあった。だからその会社の慰安旅行の場所はこのところ躊躇《ちゅうちょ》なく山の方の温泉ということに決まっているようだった。六月になっても関東地方の山の中はまだいくぶん涼しかったからだ。なぜ六月という曖昧《あいまい》な季節に社員旅行をやるか、というと、その会社は七月が決算月だったので、決算の前に福利厚生費を消化しておこう、という算段だったのである。  社員旅行には社長はいつもこなかったが、高根圭一をはじめとする古手の幹部はみんな参加した。大阪の支社長もやってきた。支社長といってもその支社長を入れて社員二名しかいないので、大阪出張所といった方が正確だった。主として関西地区デパートのニュース収集や広告の交渉を仕事にしていた。支社長は野々宮七郎。まだ三十代の後半といったところだった。  野々宮は長身で端正な顔をしていたが、長い髪の毛をそっくりオールバックにし、そこにもう相当に時代遅れのポマードをべったり塗りつけていたので、見かけはずっと上のように思えた。  総勢二十三人が伊香保の駅に降りた。とにかく圧倒的に男ばかりの集団であった。  六月という中途|半端《はんぱ》な季節だったが、我々のほかにも結構沢山の観光客がやってきていた。  伊香保は階段の多いところで、急な石段の両側に土産物屋がびっしりと軒をつらねている。その両端を温泉排水でも流れているのか、石段の傾斜にそってうっすらと湯気がわきあがり、それはなんだか見事に歩く者の心を浮きたたせているようだった。  旅館に着くと、夕方の宴会まで自由時間になった。自由時間といっても一時間ぐらいしかないから温泉に入ったり、ぼんやり窓の外の景色を眺《なが》めていればすぐ時間をつぶせてしまうのだが、森川トオルや原島久三など古株たちは部屋に入るなりすぐに麻雀《マージャン》卓をひろげ、ビールをのみながら牌《パイ》を打ちはじめた。  幹事の押山は旅館に着いて宴会の時間や人数を確認すると、すぐにまたスーツを着て外に出てしまった。専務の高根や支社長の野々宮は旅館のロビーで仕事の打ち合わせのようなことをしていた。  結局、何もやることがないので、浴衣を持って温泉につかりに行ったのはぼくや鯨《げい》やん、霜降りの高木、小耳の川ちゃんといったいつも会社帰りに酒をのみ、たいして気勢のあがらないオダをあげている連中ばかりだった。  宴会は六時三十分からはじまった。押山が末席から、ごにょごにょとあまりよく聞きとれない声で挨拶《あいさつ》のようなものをした。それから高根圭一が立上り、広い額を光らせながら、まあ今日は上も下もなく無礼講でわっと景気よく飲もうではないか、というようなことを言った。野々宮が乾杯の音頭をとり、二十人ほどの男たちがひくい声で「乾杯」と言った。たいして意味のない儀式が終り、隣り同士たいして意味のないことを喋《しゃべ》りながらみんなビールや酒だけはいきおいよく飲みはじめた。  おそらくその頃、百貨店ニュース社の社員平均年齢は二十七、八といったところだったろう。いつも金がなくそれでも毎日酒だけはやたらに飲みたい、と考えている男たちばかりだった。忘年会や社員旅行で飲み放題ということになると、とにかくみんな味や雰囲気《ふんいき》といったことよりも、このタダ酒のチャンス逃がすものか、という損得むきだしのめちゃくちゃ飲みがみんなでできた時代でもあった。  ぼくはその頃《ころ》、下宿の仲間同士で何年も鍛えていた、ということもあり、ビールだったら一ダースぐらいは軽く飲んでしまった。酔ってすこしふらついても、小便をしてちょっと休むとすぐまた飲み続けることができたのである。それはほかの連中も同じようなものだった。若い者につられて、高根や原島そして松井喜三郎などもぐいぐいと酒をあおった。一段落した頃、また押山が立上って、「このへんで誰《だれ》か歌をうたいます」と言った。まだカラオケなどないじぶんである。歌は伴奏なし、マイクにむかって大きな声でひたすらがなりたてる、というのがこの頃の酒宴の余興の正しいあり方だった。何人かが次々にステージに立って自分の好きな歌をうたった。みんなたいしてうまくもなかったし、まわりの連中もあまり聞いていなかった。聞いていなくても、歌っているやつは別に不機嫌《ふきげん》にはならなかった。  配膳《はいぜん》を真中にして差し向いでどっかりすわり、日頃できなかったけれどこういうところできっちりと決着をつけてやる、といきまきながら、なにかはげしく仕事の話をしている男もいた。業界紙の編集長森川トオルは履歴書の趣味の欄に「議論」と書くほどの議論好きで、酔うと周囲にいる男をつかまえ、ただもう意味もなくこむずかしい話を連発させていた。宴席がいたるところで沸騰《ふっとう》し、町なかの居酒屋のような喧噪《けんそう》でふくれあがった頃、押山がマイクをつかんで絶叫した。 「みなさん、このへんで高根専務がいっぱつやりまあす!」  押山と高根圭一の周囲から拍手がわきおこり、一座はそれでストンと一段階静かになった。 「専務おねがいします」  と、高根の子分であるハットの鎌田がおそろしく大きな声で言った。そしてハットの鎌田が一人で大袈裟《おおげさ》に拍手すると、さしもの騒々しい宴席も完全に静かになった。 「やるのお?」  と高根が言った。血色のいい逆三角形の顔が素晴しくよく光っていた。 「たのみますよお」  と庶務担当の並川隆夫、通称ブロンディが言った。  そのブロンディが空のビール瓶《びん》とお銚子《ちょうし》を二本持っていき、高根に渡した。 「さあまだ見たことのない若いやつ、みんなよく見ろよお」  と、ハットの鎌田が広間の天井のあたりにぐいと自分の顎《あご》を突きだすようにして言った。  高根が立上り、ビール瓶とお銚子を持って配膳をまたぎ、宴席の真中に立った。それからふいに中腰になると、自分の股間《こかん》に右手で持ったビール瓶をあてがい、その両端に二本のお銚子を指ではさんできっちりと添えた。  小柄な高根圭一の股間になんともひどくアンバランスな|でかちん《ヽヽヽヽ》がぶらさがった。飴《あめ》色のでかちんをガチャリとひとふりし、相撲の四股《しこ》のように片足をあげて、どん、と大広間の畳の上についたところでそいつがはじまった。  ひとつとせえ  ひとりでェみても よかちんちん  あーあ、ああ、ああ、よかちんちん  高根がうたうと、ハットの鎌田や原島久三など、古株たちが手を叩きながらその迫力にみちたうたを声を合わせてうたった。高根はうたいながら、中腰の前かがみになり、ビール瓶とお銚子のでかちんちんをがちゃがちゃ鳴らし、きわめて威嚇《いかく》的に宴席のまん中をねり歩いた。間もなく若手たちもつり込まれるようにしてそのうたに加わった、うたは簡単だった。  ふたつとせえ  ふりふりみても よかちんちん  あーあ、ああ、ああ、よかちんちん  みっつとせえ  みればみるほど よかちんちん  あーあ、ああ、ああ、よかちんちん 「あーあ、ああ、ああ」と言うときに、高根はビール瓶の先端をいかにもいとおしげに撫《な》でさすり、首を左右に振って思いいれたっぷりな表情をしてみせるので、その踊りは奇妙に感動的だった。  うたは十番まであった。十番まで歌い踊ると高根の顔全体が紅潮し、そこを汗が光る粒玉になって流れていた。 「いやあこいつをやると酔うなあ」  と、高根は上機嫌で言った。宿の女中たちが飯の入った御櫃《おひつ》を持って入ってきた。何人かが小便に出ていき、なんとなくそこで大宴会の最初の一段落を迎えたような気配になった。  松井喜三郎がステージの前で大の字になり自分のきんたまを出したのは、それから十五分ぐらいたった頃だった。  社員旅行が終ると、おかしなことに社員たちのフトコロがほんの少しだけゆたかになった。一晩飲屋で酒をのめるくらいの小遣いが均等に入ったのだ。  みんなの喜ぶ悪癖とでもいうのだろうか。その会社は社員旅行に出かけて旅館で一晩騒ぐと、翌朝は朝食がすんだあとその場で一同解散、ということになっていた。会社からは翌日の合同観光としての予算を貰《もら》ってあるのだが、名所旧跡の観光には行きたい者だけ行くことにしよう、という考えから、朝になると、残った社員旅行費を頭数で均等割りにしてみんなでヤマワケにしてしまうのだ。金を受けとって観光旅行にいく、という奴《やつ》は誰もいなかった。みんな小遣い銭をふところに入れると、勝手に電車に乗って東京に帰ってきてしまうのである。  だからその会社の社員旅行の幹事は、いかにとどこおりなく宴会その他の基本作業をこなしていくか、ということよりも、どのくらいの山わけの金を残せるか、ということに才覚能力が問われる、ということになっていた。  伊香保のその一晩は、たっぷりと酒をのみ、温泉には五、六回も入り、明け方近くまで鯨やんや小耳の川ちゃんたちと賭《か》けポーカーをやり、なにか果てしなく濃厚に一晩中遊んだような気がした。そしてさらに翌日五千円以上の小遣い銭を貰ってしまったので、ぼくはもうほとんど申しわけないほどの幸せな気分になっていた。会社というのはなんといいところなのだろう、とさすがにぐったりとねむい体ではあったけれど、しかしそれでもしみじみと有難《ありがた》い気持になっていた。  きんたまをみんなに見せてしまった松井喜三郎は翌日はまたいつものように丁寧でおだやかで世話好きの「便利なおっさん」に戻っていた。前の年の旅行よりも一人当りの山わけ金を二割がた多く捻出《ねんしゅつ》した押山の幹事ぶりもおおむね好評だった。  原島久三のところに血走った眼《め》の男が突然やってきて、なにかすさまじい早口でふた言み言叫び、持ってきた新聞とか週刊誌の束を投げつけたのは、社員旅行が終って一週間ぐらいたった頃だった。  男は開衿《かいきん》シャツにコールテンのズボンをはき、手に大きなボストンバッグを持っていた。全体にいかにも生活や仕事にくたびれた、というような風体をしていたので、最初は何かわけのわからない突然の変質者がとび込んできた、というふうに思えたのだが、男ははっきりと、「原島てめえ!」と大きな声で言った。そこのところだけは聞きとれたのだが、あとは激しく昂《たか》ぶってしまっているらしく、早口のそれが何を言っているのかまったくわからなかった。  原島は自分の顔や肩にぶつかって跳ねかえり、机の上に散らばった週刊誌や新聞をゆっくりした動作で重ね集め、「しょうがねえなあ」というような顔つきをして男をながめた。  原島が男の顔を見ると男はさらに激昂《げっこう》しそうになったので、原島は間もなく顔をそらせた。すると男は原島の胸もとをつかまえてぐいと捩《ね》じ上げ、原島の耳もとで素早く何かひくい声で言った。原島は男の顔を見ずにゆったりとした動作で自分の背広の内ポケットから茶色い封筒をとりだし、そいつのはじの方を指でつまんで自分の机の上に放《ほう》り投げた。男は原島をしめあげていた胸もとの手を引っこめ、原島の放り投げた封筒を取り上げると、「ふっ」と息を吹きつけて封筒の中身を改め、素早くそいつを自分のポケットにしまった。  原島はムッとしたように男から目をそらせ、窓の外を眺めた。 「三度目はおまえんとこの経営者にいうぞ」と、男は血走った眼で原島を睨《にら》みつけながら、そんなことを言った。ぼくは原島久三の机の前に座っていたので、ただもうあっけにとられてこの二人のやりとりを眺めていた。男がその体つきからは想像もつかないような素早さで会社から出ていくのを見ながら、「ああそうか、今のが捨てゼリフというのだな……」などというようなことをぼんやり考えていた。  男が去ってしまうのを、その時会社にいた社員の全員が固唾《かたず》をのむような気配で眺めていた。そしてみんなが釘《くぎ》づけされたように動きを止めていまの出来事を眺めていた、ということに間もなく全員で気がついたのだった。  原島久三は男が去っていったあとも別段たいして動揺するふうでもなく、黙って窓の外を眺めていた。しかし外を眺めている原島の頬《ほお》のあたりの筋肉が、わずかにピクピクと断続的に動いているのがぼくの席からはよく見えた。  いまの男は原島といったいどんな関係を持っているのだろうか、ということをぼくは落着かない気持で考えていた。  社員たちは漸《ようや》くそれぞれの自分の仕事に戻りはじめていた。電話が鳴り、話し声や笑い声がいくつかの席から聞こえはじめていた。 「やろうはしつこいね。原島さん……」  藤本がいまいましげに小さな声で言った。原島が口のはしですこしひきつるようにして笑うのが見えた。  原島久三が編集長をやっている「マンスリーサーベイ」の仕事は三十二|頁《ページ》の薄い月刊誌を藤本を含めて三人で作る、という訳だから締切り直前以外は暇な日の方が多かった。それで、自分の机に座って暇なときに少しずつ進めることになっている計算作業をやったり、なんとなくぼんやりしていると、ほかの部署の暇な社員がよく声をかけてきた。大抵は「ちょっとお茶でも飲みに……」という程度の世間噺《せけんばなし》のおつきあい、というところだったが、たまに展示会の取材に同行を乞《こ》われる、というようなことがあった。  展示会というのは、デパートに商品を納入しているメーカーや問屋が、販売季節に先がけて新製品や新商品を展示陳列し、仕入れの注文をとりつける、という目的で開かれるもので、その模様を取材に行くのだ。  取材といっても掲載する紙面はわずかなスペースしかないから、先方の社員に会って話を聞く、ということもあまり必要ではなかった。  だから展示会に行く記者は新入社員や若手が多かったが、時おり編集長クラスのベテランが出かけることもあった。  その日ぼくは朝から計算作業をしていた。「マンスリーサーベイ」の三分の一はデータ収録のスペースになっていて、データというのは主としてデパートの売上高やその内容をこまかく分析したものが多かった。そしてぼくと藤本は暇になるとこのデータ原稿を作成するために計算機を出して激しく格闘していたのだ。  昭和四十年代前半の頃である。当時はまだ簡易電卓計算機が開発される前で、計算というとソロバンか手回し式の卓上計算機を使うぐらいしかなかった。会社にある手回し式計算機はタイガー卓上計算機といって、沢山の歯車をハンドルで回転させながら加減乗除を行なっていく、というものだった。ハンドルは直径十センチ程度のものなので、かなり力を入れながらその小さな円を素早く何百回も回さなければならなかった。だから、二時間もやっていると手のひらや腕がぼわんと熱をもって痛くなってくるのだ。 「シーナ君、ちょっと展示会につきあわないか?」と言ってきたのは肥後もっこすのベエさんだった。ベエさんは髭《ひげ》が濃いので、暇なときはなんとなくいつも手のひらで自分の顎のあたりをざりざりと撫でているようなところがあった。頭の毛はサラリーマンそのもの、というかんじできっちりと七・三にわけていたが、目がとても動物的にやさしいので、頭の毛をぼさぼさにしていたら、昔の横山隆一の新聞マンガ「フクちゃん」に出てくる荒熊《あらくま》さんのイメージに近かった。 「ぼくの方からあとで原島さんにことわっておくから、ちょっと一緒に行ってみよう」  と、ベエさんはすこしねむたげにも見える小さな目を軽く何度かしばたたきながら言った。ぼくの上司の原島久三は藤本と朝から出かけていて、その日ぼくは一日中会社にいる、というようなことになっていた。予定変更の件についてはベエさんにそっくり頼んでしまう、ということにして、ぼくは急いで上着をつかみ、七月のはじめの少々蒸し暑い街に出た。  東京は梅雨のさなかだったが、その日はだらだら雨の臨時休業というかんじで、時おりぼわんと妙に膨張したような生ぬるい風が吹いていた。 「あれは疲れるんだよな」  と、ベエさんは歩きながら右手を顔の前にもってきて素早く回してみせた。 「米田さんもアレやることあるんですか?」 「うん、むかしよくやったことあるよ、ソロバンできないからね」 「ぼくもそうなんです。小学校のとき、一度八級の試験受けたことがあって、それ落ちちゃってからソロバンあきらめたんです」 「ふーん、おれと似てるな」  と、ベエさんは楽しそうに言った。それから、 「昼になっちゃうとむこうの課長がつかまらなくなるから、すこし急いでいこう」  と、そこだけふいに事務的な口調になった。時計を見ると十一時をすこし過ぎた、という時間だった。  会場は日比谷の三共ビルという、よくその種のメーカー展示会などが行なわれている共同ビルの二階だった。  丹菱商事というネクタイメーカーの秋・冬物商品の展示会だった。その会社はベエさんが副編集長をしている業界紙に「突きだし」というハガキの半分ぐらいのサイズの広告を定期的に出稿している会社だった。  プラスチック製のアクセサリーボードを沢山並べた会場は、ピンスポットの照明がいろいろな角度から効果的に当っており、静かなBGMと、かなり強く効かせているクーラーによって、その部分だけなんとか無理矢理ながら秋や冬の気配になっていた。  ベエさんは会場の受付のところで、送られてきた案内状の封筒を渡し、同時にその上に自分の名刺を添えて出した。  きっちりとダークスーツに身を固めた受付の男は丹菱商事の営業部員のようで、ベエさんの名刺に目を落すと、 「あ、どうも、ごくろうさまですね。生憎《あいにく》サカタがちょっといま別のところに行ってまして……」  と、酒場の女のように妙な角度に小首をかしげながら言った。 「あ、そうですか、そいつはどうも……」  と、ベエさんは首筋の汗をぬぐいながら言った。会場はじつに涼しいのだが、急いで有楽町の駅から歩いてきた我々の体はまだ充分に暑かった。とくに少々太り気味のベエさんは、ほかの人よりも相当に汗っかきだった。丹菱商事の男が言っていたサカタという人が、ベエさんのよく知っている課長のようだったが、ベエさんはとくにサカタ課長の戻《もど》ってくる時間などは聞こうとしなかった。  ベエさんと二人で、会場をぐるりと見て回った。デパートや専門店の仕入担当者らしい背広姿の男たちが十人ほど会場の片隅《かたすみ》でひくい声で話をしていたり、ディスプレイされたネクタイの前でなにか熱心にメモをしていたり、とさまざまな光景があった。  ぼくはそれまで二度ほど似たような展示会に行ったことがあるが、商品はそれぞれ違うけれど、実際にそれを仕入れる、というような目的がないとどれもあまり面白《おもしろ》いというものではなかった。  ベエさんとぼくはなんとなく、……まったく本当に「なんとなく……」というような気分でひと回りすると、さっき入ってきた入口から会場の外に出ることにした。その展示会で丹菱商事が今年の秋・冬にむけてくりだしたネクタイのセールスポイントとか、それが生まれてきた企業戦略上の背景といったものは、さっきその会社の営業部員に渡されたぶ厚いパンフレットにすべて書かれていた。そしてまたそのことをとりあげる新聞の記事もごくごくわずかな分量でしかないので、取材といっても会場をひと回りするだけでまったく充分、という訳なのでもあった。  入口にはさっきの営業部員と、二人の女子社員が並んで立っていた。営業部員はベエさんとぼくに型どおりの、きわめてそつのない挨拶《あいさつ》をし、二人の女性は、それも結局はきわめて営業的なものでしかなかったのだろうけれど、ぱっとひまわりの花でも咲いたようなかんじで明るく清潔に笑った。  ベエさんとぼくがなんとなく歩調を合わせて頭を下げると、女子社員の一人が、ベエさんとぼくにその会社が作っているネクタイのブランドマークがくっきり大きく印刷された紙袋を素早く渡した。紙袋の中には、その会社の宣伝パンフレットのほかに、厚紙でパッケージされた細長い包みが入っていた。  当時こういう展示会では、やってきた客におみやげを渡す、というのが普通だった。おみやげはちょっとしたペンとかライターなどの実用品からネームの入った飾り皿《ざら》などといった記念品的なものが多かったが、ネクタイメーカーなどの場合はその会社の製品そのものを帰りに持たせる、というようなことが普通のようだった。  外に出るともうお昼をすぎていた。ベエさんは上着を脱ぎ、そこですこし空を眺《なが》めた。 「あついね……。梅雨のさなかの薄曇りの日っていうのは、まったくあつくるしいねえ……」  ぼくも上着を脱ぎ、ベエさんの見上げた空を眺めてうなずいた。空には別に何もなかった。薄曇りというよりも高曇りで、なんとなく太陽のありかがわかった。 「もう昼めしの時間だ。だけどこのへんのめし屋っていうのは混《こ》むからなあ」 「サラリーマンが多いですからねえ」  脱いだ上着をかかえ、ビルの地下にある食堂街の看板を見ながら歩きはじめた。食堂街を地下にもっているビルはそんなに沢山はなく、日比谷通りに出るともう昼食に入れるような店は見あたらなくなってしまった。 「よっ。どうせなら日比谷公園に行こう。あの中にめし食わせてくれる店がいくつかあったはずだ」  と、ベエさんが妙に明るい声で言った。  日比谷公園には思いがけないほど沢山の人がいた。ワイシャツ姿のサラリーマンと若いOLふうという人々が一番多いようだった。ベンチに座って大きな円型の噴水を眺めているのは、老人とか子供連れの若いママさんが多いようだった。丸い輪をつくりバレーボールをうちあっているサラリーマンやOLというのも沢山いた。  ああ、この人たちがホンモノのサラリーマンとかOLという人々なんだな、とぼくは歩きながらひとりで頷《うなず》いた。考えてみると、日比谷公園を見たのはそれがはじめてだったのである。丸の内周辺のサラリーマンたちは昼休みに自社のビルの屋上や皇居前の広場にいって、丸い輪をつくり、男女混合で「ソレー」とか「ワァッ」とか「キャー」などといいつつバレーボールをやっている、というのをサラリーマン小説や新聞マンガなどで見ていたのだが、本当に小説やマンガのように熱心にいたるところでそんなことをやっているので、おかしくなってしまった。  大人たちが輪になってバレーボールをポンポン空中にとばしたり取ったりしても、そんなに面白いとは思わなかったので、あんなことはマンガや小説の世界だけの話だろうと思っていたから、ぼくにとってその光景はすこし不思議でもあった。蒸し暑いのにネクタイを締めたままボール投げをしている、というのも何かとても奇妙な風景に見えた。  ぼくとベエさんは噴水のそばの野外レストランに入った。大きな銀杏《いちょう》の木がちょうど具合のいい日除《ひよ》けになっていた。  丸いテーブルと椅子《いす》は鉄製だった。白いペンキを塗ったテーブルの上に日除け傘《がさ》がわりの銀杏の葉が落ちていた。  ベエさんは椅子に座るとまたひとしきり顔や首のあたりの汗をぬぐった。それからさっき展示会の入口で貰った紙袋をテーブルの上にのせ、中から固い紙ケースを引っぱり出した。 「ネクタイ貰ってもいろいろ好みがあるからねえ……」  と、ベエさんは眼をせわしなくしばたたきながら言った。ぼくもベエさんの真似《まね》して紙ケースをひらいた。ケースをあけると、ネクタイの上に祝儀《しゅうぎ》袋が入っていた。  ぼくはベエさんの顔を見た。すでにベエさんは祝儀袋をあけ、中に入っていた五千円をとりだしていた。 「けっこう出したな、サカちゃんところ……」  ベエさんが独り言のようにして言った。ぼくの祝儀袋にも五千円札が入っていた。 「それもらっときな」  と、ベエさんがさっきと同じように妙に明るい声で言った。  色の白い少女のようなウェイトレスがメニューをもってやってきた。 「ビールのもうか? 生ビール」  と、ベエさんが言った。ぼくが曖昧《あいまい》に頷くと、「一杯ずつだったらいいだろう」と、ベエさんはまた独り言のようにして言い、生ビール中ジョッキ二杯と、ウインナーソーセージやピーナッツなど簡単なつまみ類を注文した。  五千円札をズボンのポケットに押し込んで、ぼくはなんだかすこし落着かない気持になっていた。その頃《ころ》の五千円といったら大変な高額だった。給料日からもう随分たっていたので、そのにわかな収入は心がどぎまぎするほど嬉《うれ》しかった。展示会をひらくメーカーや問屋がお車代という名目で業界新聞の記者たちにみやげの金を包むことがある、ということを鯨やんとか霜降りの高木に聞いていたが、こんなにあっけなく自分がそういう金を手にするとは思ってもみなかったのだ。  ぼくとベエさんは結局そこで生ビールを四杯ずつ飲んでしまった。五千円の臨時収入があって気が大きくなっている、ということもあったが、公園をわたっていく風が意外なほどに気持がよくてついつい立ちそびれていた、ということもあった。  ビールを飲みながら、ぼくは原島久三のところへ突然やってきた男はいったい何者なんですか、というようなことをベエさんに聞いた。 「おれもよくわかんないんだけどね、どうも女かなにかがからんでいるんじゃないかな、と思ってるんだけど、まあ原島さんもタイヘンだね」  と、ベエさんは顔つき全体からするとひどくアンバランスにも見えるその小さくてやさしい眼《め》を、またせわしなく閉じたり開いたりした。  ヘリコプターが異常なほど低く公園の上を通過していった。ビールを何杯ものんでいるうちに腹がいっぱいになってしまって、もう本来の目的の昼食をとる気はあまりなくなっていた。 「あのくらいの年代の人が女と問題をおこすと、けっこういろいろ大変みたいなんだよね」  タオルで再び首筋の汗をぬぐい、ベエさんは遠くを眺めながら言った。 「松井のおっさんだって、昔は酒のませたら会社で一番つよくってさ、絶対に崩れたりしなかったんだ。なにしろ軍隊仕込みだからね」 「軍隊永かったんですか?」 「ああ君はまだ知らないのか。松井さんとうちの大堂社長は同じ部隊にいたんだよ。戦友というわけだ、ソ連でね」 「シベリアですか」 「そう、ナホトカだよ。あの二人はものすごい武勇伝があるんだぞ。まだ知らなかったっけ?」 「ええ」 「ふーん、そうかあ……」  ベエさんはそこで四杯目のジョッキの最後のビールをごごっごごっと音をさせてのみ干した。さっき頭のすぐ上を通りすぎていったヘリが大きく回転して上昇し、銀座の方向へ飛んでいくのが見えた。 「二人はさ、シベリアへ送られる途中で、仲間と列車から飛びおりて脱走してきたんだ。山こえて中国へ出て、そうして仲間のうちの何人かが死んでさ、それでやっと逃げ還《かえ》ってきたんだよ」 「ふーん。映画みたいですね」 「あの頃は日本中|誰《だれ》しもみんな、そういう映画以上のドラマを体験していたんだろうね」  ベエさんが立上り、プラスチックに紙ばさみで止められている勘定書きを持ってゆっくりレジにむかった。 「あっ、ぼくも自分の分払います」 「うん、君はいいよ、おれがおごってあげるよ。今日臨時収入があったからな」 「ぼくも貰《もら》いましたから……」 「いいよいいよ。遠慮するなよ」  ベエさんはそこで頭をぐるぐる回し、さらに両肩を交互に上下させてみせた。 「飲んでたら肩こっちゃった」 「あっ、そうなんですか……」 「仕事さぼって飲んでたからね」  ぼくとベエさんはそこでしばらくお互いに困ったような顔をして笑った。  公園の中にはまだ沢山の人々がいた。しかしもうバレーボールをしているサラリーマンやOLの姿は見えなかった。 「だけどねシーナ君、こういう金をアテにしてちゃ、ほんとはいけないんだ。そうなってくと人間がしだいに駄目《だめ》になっていくからね……」  歩きながらベエさんは背中で言った。それから片手でげんこつをつくり、自分の肩のあたりをごんごんと叩《たた》いた。  ぼくはさっき、二杯目のビールを注文するとき、バレーボールを熱心にやっていたサラリーマンやOLのことをフト考えてしまったのだが、どうしてそんなことを頭にうかべたのか、そのときふいにわかったような気がした。  こんなふうに昼間から公園でビールをのんでいる自分たちと、バレーボールをやっていたサラリーマンの一群と、なにか随分違ってしまっているのだろうなあ、と考えていたのだ。違ってしまった「何か」というのがどんな「何か」なのか、ぼくにはよくわからなかった。わからなかったけれど、なにかそれは随分やるせない「何か」のような気がした。 「松井さんもさあ……」  と、ベエさんが歩きながら言った。 「早く結婚してりゃよかったんだよな」 「結婚ですか?」 「そう。うちの社長はその点うまくやった。いい奥さんみつけたからな」 「はあ……」 「結構松井さんはさびしいんだと思うよ。さびしいからアルコールに逃げてしまうわけでね。あの人は昔はいつでもどんなときでも、やさしくてそして毅然《きぜん》としていたものだよ。昔といったってほんの七、八年前のことだけどね」 「ベエさんがうちに入って間もない頃ですか?」 「そう。まだ冬はダルマストーブなんかがあってね、そいつを囲んで一升|瓶《びん》からじかに冷や酒をのんでいた。社員がみんなで七、八人の頃だよ。会社は屋根裏にあったんだ。酔って会社に泊ってフンドシ洗って干しといても、誰も何も文句言わなかった……」 「ふーん」 「いいじぶんだったよ」 「そうでしょうねぇ……」 「松井さんにもいい女がいてね、おれの隣りの鹿児島県人だった。一度離婚してるんだけど、新橋の烏森口《からすもりぐち》に店もっててさ、そこは松井さんの店みたいなもんだった。二人はいいかんじだったよ。おれたちがそこいってさ、『あんた松井さんが好きなんだろ。松井さんも好いているんだから早く結婚しなよ。そうするとおれたちはこの店もっと安くのめるだろうから』なんていうと、とたんに鹿児島弁でおこりだしてね……」 「鹿児島弁でなんていうんですか?」 「なあにさいうちょっとなあ。ビールひっかくどっ……っていうぐあいかな」 「ひっかくっていうのは?」 「ひっかける、だよ」 「あらっぽいんですね」 「でも、鹿児島の女のこころはやさしいのよ」 「それでどうなったんですか?」 「うーん」  ベエさんはすこし黙ってそのまま歩き、 「その女、金貸しのおやじと結婚しちゃった」 「はあ……」  どうしてですか? と聞きたかったが、なんとなく聞くのをやめた。さっきまで体の横を通りすぎていた風がいつの間にか消えてしまっていて、ぼくとベエさんはすとんと日比谷公園から街の通りに出ていた。  公園を出たすぐ横の路上にダンボールを重ねただけの小さな花屋があった。口紅がちょっと異常に赤い中年の女が、「ひとつどうです?……」と、通りを歩いていく人の誰というわけでもなく、ケダルイ声で呼びかけていた。遠くでまたヘリコプターの飛んでいる音が聞こえた。上空を流れる風に乗って聞こえてくる音のようだった。ふいに、  ひとつとせえ  ひとりでェみても よかちんちん  あーあ、ああ、ああ、よかちんちん  と、うたいながら自分の股間《こかん》でビール瓶とお銚子《ちょうし》とをガシャガシャいわせていた高根圭一の姿が目にうかんだ。どうしてそんな場所で高根の踊る姿が目に浮かんだのかよくわからなかった。 [#改ページ]   第5章 まんじゅしゃげこわい  夏に原島久三が退社した。  原島は「こともなげに」ということを、その頃《ころ》の自分のするどい行動美学というふうに考えていたようで、やめるにあたって会社がしつらえた送別会等を一切断わり、「では皆さん元気で……」と、簡単な挨拶《あいさつ》をしただけで会社を出ていった。  原島が編集長をやっていた「マンスリーサーベイ」という薄い雑誌は、実質的には原島の部下の藤本やぼくが作っていたので、それによってぼくと藤本がにわかに路頭に迷ってしまう、というようなことはなかった。しかし、なんといってもふいに親分が抜けてしまったので、ぼくはひどく心細い気分になってしまった。  会社は、今は省力化の時代なので、原島が抜けて二人になってしまったが、見るところ二人でも充分やっていけそうだから、当分そのまま二人で雑誌をつくっていくように、というようなことを言ってきた。  そういうお達しを聞いてきたのは藤本で、彼はすこし憮然《ぶぜん》とした顔でぼくを喫茶店に誘い、 「じつはここだけの話だけど、自分もあと半年ぐらいで会社やめるつもりなんだよ」  と、ひくい声で言った。  ビートルズの「イエスタデイ」がおわり、次の曲がなかなかはじまらなかった。エンドレスのテープではなくて、ひとまき終るごとに別のテープを差し換えるというやり方なので、店の人がうっかりしていると、そのままずっとBGMなしでいる、というようなことが、その店にはよくあった。BGMがなくなると純喫茶ムラサキは地下にある店特有の、すこし湿ったような沈黙がひろがってしまうので、ぼくたちはそこで妙にいらだたしく鼻白むのだ。 「ほんとうですか?」  と、ぼくはわざとらしいほどひくい声で言った。店の中が急に静かになってしまったので自然にそうなってしまうのだ。  藤本はいつもそこに入ると注文する、ロシア式紅茶、というのをぐいと呑《の》み干し、ぼくの顔を見ずに頷《うなず》いた。それから、 「でもさ、大丈夫だよ。君はいろいろやれるんだから、充分やっていけるよ」  と言った。  ビートルズの「ア・ハード・デイズ・ナイト」がはじまった。カウンターの中で、いましがたテープを入れ換えたらしい店のマスターが、ハンカチで鼻のあたりをこすっているのが見えた。ハンカチを動かさずに顔だけ左右にこまかく動かす、というやりかたなので、そいつがビートルズの曲に変にマッチしている動きになった。そこで、ぼくはしばらく店のマスターから目がそらせなくなってしまった。 「大丈夫だよ」  目の前で藤本がもう一度言った。  階段を知った顔がおりてきた。鯨《げい》やんと霜降りの高木だった。鯨やんが手を振り、ぼくが目顔で挨拶をした。ぼくの視線を追って藤本も振りかえり、彼らを見つけるとほんのわずか頷いてみせた。どういうわけか藤本と霜降りの高木はあまり仲がよくなかったのだ。  彼らがやってきたからなのか、藤本はいままで前かがみになっていた体をおこし、背をそらせ気味に座りなおすと、ポケットからショートピースの箱をひっぱりだした。  それからぼくと藤本は黙ってたばこばかりふかし、それ以上たいした話もしないままに席をたった。  藤本がぼくのコーヒー代も払ってくれたので、その合い間に便所に行った。  戻《もど》ってくると藤本の姿はもうなかった。かわりに霜降りの高木が顎《あご》を引き、変に意味ありげな顔をしてぼくを手招きしているのが目に入った。 「まあ、ちょっと寄ってきなよ」  鯨やんがBGMの合い間に太い声で言った。 「こっちこっち」  と、高木が言った。  彼らの席はその店の一番奥まった三角形をしたコーナーの前にあって、その場所は我々のあいだで通称「文句|椅子《いす》」といっていた。そこは店の照明がうまく届かず、ひときわ薄暗くなっていた。しかも壁の角度の関係で三人しかすわれず、左右の他《ほか》の席とすこし間があいているので、二人か三人でその席にすわると、周囲に声が聞こえにくいのをいいことに、なんとなく会社の悪口や上司への文句などを言いたくなるのだった。 「こっちこっち」  近づいていくと、鯨やんが笑わない顔でぼくの顔を眺《なが》め、店の中に流れるBGMに合わせて無意味に頷く、というやりかたでぼくを迎えた。 「誰《だれ》の悪口を言っているの?」 「そんなんじゃないよ」  霜降りの高木が言った。  高木の膝《ひざ》の上に薄い本が一冊のっており、鯨やんが「まあ見てみろよ」と言った。本にはオウド色のカバーがしてあった。カバーはクラフト紙で、よく見るとそれは会社で新聞や雑誌を地方などに発送するときに使っている紙であった。高木や鯨やんの、妙に息をひそめたかんじのしぐさや声音《こわね》から、その薄い本は会社の何か秘密事項に関するものがファイルされているような気がした。 「みてみろよこれ……」  と、高木が言った。  厚手の表紙をあけると、いきなり女の裸があった。綺麗《きれい》な写真だった。長い髪の毛を背中のあたりまで垂らした若い女が、山の中の湖のようなところに入っていこうとしている場面で、女はうしろをふりむき、すこしおびえたような顔をしていた。  次の頁《ページ》は、同じ女が水の上で跳びはねているところだった。とても鋭い跳躍力をもっているらしく、女の足は完全に水面を離れ、はじけたばかりのしぶきの上でヒュンと見事に空中を蹴《け》っていた。  その他の写真もすべてこの髪の長い女が水辺で精いっぱい躍動している、という風景が続いていた。すこし日本人離れした大きな胸と尻《しり》に迫力があった。 「どう思う」  と、高木がひくい声で、なんだかしかし妙に意味ありげな口調で聞いた。 「どう思うって……」  ぼくは彼らのそんな変に息づまるような気配の意味がよくわからず、すこしどぎまぎしながら素早く頁を繰り、いくつも続く女の激しい裸の動きを眺めていった。 「あ、相当ニブイなこいつ」  鯨やんが気抜けした調子で言った。 「こまったな……」  高木が言った。 「なに? なんのことだ?」 「女の顔をもっとよく見ろよ」  高木がコーヒーカップをいらだたしくカシャリと皿《さら》の上に置く音がした。  湖や草原の上で激しく動き回る女の顔だけを注意して眺めていった。女の顔に見憶《みおぼ》えがあった。どこかで見た顔だった。どこかで見た、というだけでなく、たびたび見ている顔だった。 「あれ!?」 「な」  高木が漸《ようや》く安心したような声で言った。 「な」  と、鯨やんも言った。  跳びはねる裸の女の顔は、我々のいるその喫茶店に一日おきにやってくるウェイトレスのマイコにそっくりだった。 「本当かなあ……」  自分でも滑稽《こっけい》に思えるくらい息をひそめてぼくは言った。 「なっ」  と、鯨やんが満足したような顔をした。 「間違いないよ」  高木の喋《しゃべ》り方はおそろしく断定的だった。 「そうかなあ……」 「疑うんならもっとよく見てみろよ。顔だけじゃなくてケツのあたりとかさ、恰好《かっこう》がおんなじだよ」 「彼女のケツみたことあんのか?」  鯨やんがすこしネムタゲな声で言った。 「ケツったって脱いだとことかいう意味じゃなくてさあ、外からだってわかるじゃないか」 「こいつは女にするどいからなあ……」 「おまえたちがトロイ、というだけの話だよ。誰だってわかるさ、このくらいのことは……」  高木の声はすこし気色《けしき》ばんで聞こえた。  そうかもしれないなあ……、とぼくはさっきよりもすこし落着いた気持でそう考えはじめていた。じかに聞いたわけではないけれど、このマイコという女性は月、水、金、土、と喫茶店でアルバイトをし、その他の日は芝居の役者の養成所のようなところに通っている、という話だった。役者になろうという女性が、アルバイトでヌード写真を撮らせるということはいかにもありそうなことに思えた。 「しかし本当かなあ……」  もう一度ひととおり眺めてからぼくは言った。 「疑い深いやつだなあ。なんなら明日、本人に聞いてみようか。明日ならあいつ来る日だろう」  高木が言った。ぼくがすっかり完全に信じないでいるので、高木がなぜかひどくいらだたしげになっているのがおかしかった。 「よせよ、そんなことは……」  鯨やんが言った。 「まあいいや、だけどな、いずれはっきりわかることだよ」  高木はそう言って、ゆっくりオウド色のカバーをつけた大型の本を自分の鞄《かばん》に入れた。  はっきりそうとわかったからといって、別に何がどうなるのか、そこのところはよくわからなかったが、高木は、そのヌードモデルの女が、純喫茶ムラサキの女である、ということを明確にすることにとりあえずすべての情熱をかけている——というようなかんじだった。高木にその本を戻す前にぼくは素早く奥付をさがし、タイトルを頭に刻みこんでおいた。  そこには「歓喜の湖」と書いてあった。  原島がやめて二週間もしないうちに、今度はベエさんこと米田耕一がやめることになった。  原島もベエさんも会社をやめる、ということになるとまったくあっけなくやめてしまう、というところに妙な共通点があった。どちらも百貨店ニュース社の仕事をしながら、次の就職先を見つけ、そこにすぐ移る、ということを決めてからやめていく、という背景をもっているようだった。  原島と米田に刺激されたのか、続いて業界新聞の編集部にいた若い男がやめた。ぼくよりも半年前に入社したという程度の社歴で、酒もあまりのまず、おとなしくて目立たない男だった。  入社してすぐ上司たちと酒場にいって泥酔《でいすい》したり、バクチ好きの先輩同僚たちと賭《か》けポーカーグループなどに加わってしまったぼくは、そのおとなしい編集員とほとんど話をしたことがなかった。  この若い男がやめていった翌日、森川トオルが帰りがけにぼくの背中を叩《たた》きにきた。  森川は自分のところの編集員がいっぺんに二人も辞めてしまったので、あきらかに気持の内側をイラつかせているかんじだった。 「よオ。どこかのみにいこうか」  と、森川はすこしかすれたような声で言った。  森川と会社の近くの赤ちょうちんでピッチの早い酒をのんだ。彼がぼくを誘ったのはとくに意味があって、という訳ではなく、このところの退社騒ぎでお互いに上司や部下がいなくなってしまったから、とりあえず両者で酒でものもうや、という程度の、まあいってみれば森川特有のセンチメンタリズムが作用していたようでもあった。  新橋の赤ちょうちんで二時間も飲むと、「ここはもうあきたぜ」と、森川は巻き舌で言った。 「もう一軒いこう。行きつけのいい店があるんだ。ママが綺麗だよ」  薄手のコートをはおりながら、森川はすこし赤い眼《め》をして言った。  森川の行きつけの店は高田馬場にあった。駅前通りをよけて、神田川沿いの小道をすこしのぼっていくと、貸し衣裳《いしょう》屋と電器屋に挟《はさ》まれて、その小道の全体の風景とはあきらかに場違いなかんじで檜造《ひのきづく》りの小料理屋があった。 「かぶや」という店だった。  店の中も檜造りで、三和土《たたき》の濡《ぬ》れた黒い石が店の中の白熱灯に鈍く光っている。さっきまでいた新橋|烏森口《からすもりぐち》の薄汚れてざわついた飲み屋から較《くら》べると、ちょっと背筋のあたりが緊張してしまうくらいの落着いた高級な雰囲気《ふんいき》だった。  業界新聞といえども、編集長の行きつけの店ともなるとなかなか立派な店になるのだなあ、と感心して店の中を見回した。しかしカウンターの中にも客席にも人はまったく見あたらなかった。 「いるのオ」  と、森川が店の奥に向って言った。 「いるよオ。なんだモリちゃんかあ」  白い調理服を着た五十年配の男が暖簾《のれん》をわけてもっそりと顔をだした。短く刈った髪の毛はもう半分ほど薄くなってしまっているが、眼鏡の奥の二重の眼が妙に鋭かった。 「あっ新人のヒトかい?」  ぼくの顔を見て軽く会釈《えしゃく》した。 「新人のヒトてえのはないだろう。それをいうなら新しいヒトだよ」  店の男はそれには答えず、慣れた口調で言った。 「もうあらかたやってきたんだね。ビールにするかい」 「ママは?」 「いま裏で洗濯《せんたく》してるよ。このところ忙しくてね。ずっと夜中にやってたから……」 「よその店ならかき入れどきの夜の九時にサ、店のママが裏で洗濯しててなにがこのところ忙しくて……だよ。ねえシーナ君」  森川が大声で言った。 「まあかけなさいよ」  よく冷えたビールを、小さくて薄手のコップに注《つ》ぎ、ぼくと森川はそこで本日二度目の乾杯をした。  新橋の飲み屋でなにか腹立ちまぎれのようなかんじで冷や酒をあおっていた森川は、会社の経営幹部はぜんぶ自分のことしか考えない連中ばかりなんで、社員はそれに嫌気《いやけ》がさしてみんなやめていくんだ、ということを何べんも言った。そういうことをずっと話してきたので、その新しい店にきても森川は同じことを言った。 「なにかたべる?」  と、店のマスターが森川の話のとぎれるのを待って言った。 「うん。なにかだしてよ」  森川が言うのとほぼ同時に、マスターのうしろからほっそりとした着物姿のきれいな女性が出てきた。歳《とし》は三十そこそこというところだった。 「いらっしゃい。モリちゃんしばらくね」  長い髪の毛をたばねて丸め、頭の上にひょいとのせる、というような一見したところいかにも無造作なつくりだったが、白くておとがいのとがった、京美人を思わせる顔にそれはおどろくほどよく似合っていた。 「店のママだよ。この人うちのシーナ君」  と、森川は簡単に紹介した。 「新しい人ね」 「そう。やっぱりママの方が言うことが正確だね」 「なに?」  調理場の奥でマスターが言った。 「いや、こっちの話だ」  いつの間にか森川の口調が上機嫌《じょうきげん》になっていた。 「モリちゃんところの新しい人にうちのヤキ味噌《みそ》をたべてもらいたいわね。いいでしょモリちゃん」  割烹着《かっぽうぎ》をつけながらママが言った。 「なんでもつくってやってよ。こいつはなんでも食えるから」  森川が言った。それから声をひそめ、 「ママはね、ああやって商売上手なんだけど、この店は旦那《だんな》が大名商売でさ、気に入った客しか入れないんだ……」 「会員制とかいうやつですか?」 「いいや、そんなたいしたもんじゃなくて、知らない客がくると愛想《あいそ》が悪いもんだから……」 「ふーん」  間もなくカウンターの上に炭火の入った小さな七輪がのせられ、その上に金網と茶色の大きな木の葉がのせられた。 「なんだかすごいですね」 「朴葉《ほおば》っていうのよ。大きい葉っぱでしょ。この葉っぱの上で味噌を焼くの」 「ここはね、一応|飛騨《ひだ》の高山料理の店だからね」  森川が解説者のような口調で言った。 「一応……じゃなくて、そういうときはレッキとした、とか言うんじゃないの。モリちゃんこそ言いかたがなってないじゃないの」  揚げたての手長エビの皿を差しだしながらマスターが言った。  カウンターの内側と外側でこんなふうにして軽口をたたきあって酒をのむ、という店をみたのはそのときがはじめてだった。なかなかいいかんじで、こういうのを店の常連《なじみ》というんだろうな、などと考えながら、ぼくはいい気分で酒をのみつづけた。  それにしてもなかなか客のはいらない店で、十時半頃《ごろ》にやっと職人ふうの二人連れがやってきた。店のマスターとかママさんとはもちろん、森川ともいたって親しい仲のようだった。職人ふうの二人連れは、店の奥にしつらえてある三帖《じょう》ほどの畳敷の小部屋に座りこんで、すぐにまた二人して話し込んでしまった。  ママが二人連れの相手をしている間に、この店のマスターとママが夫婦である、ということを森川から聞いた。こうした店をやっている男女というのは概《おおむ》ねそんな関係の場合が多いということは知っていたが、この「かぶや」の場合は違っているかもしれない、とぼくはなんとなく考えていたのだ。  どうしてそんなふうに思ったかというと、それはまことに簡単な話、ぼくの頭の中で、この店のマスターとママとの風体《ふうてい》上のつりあいが、まったくうまくとれないでいたのだ。  ほっそりとした京美人のようなママに、もう頭の半分があらかた禿《は》げてしまい、腹のあたりも相当にだぶついてせりだしているかんじのマスターが夫婦であるのは非常に不自然だ、とそのとき思ってしまったのだ。 「ちょっとちょっとモリちゃん……」  奥の三帖敷から声がかかり、森川が面倒くさそうに席をたった。どういうわけかマスターもその三帖敷に上ったきりになっていた。  ぼくはビールをやめて、ウイスキーの水割りをつくってもらい、黙って一人で飲み続けた。森川に誘われて新橋でのみはじめたのが六時半頃で、それから四時間以上もずっと飲み続けているのだが、まだ酔いは体の外側だけでとまっているような気がした。 「モリちゃんと一緒じゃあ、もう随分飲んでいるんでしょう?」  カウンターの中で、コップを洗いながらママが聞いた。 「ええ」 「おつよいのね……」 「いえ、まあ……」 「モリちゃんいい人でしょう」 「ええ。話が面白《おもしろ》いですね」 「ちょっとハッタリ屋だけどね」 「ええ、まあ……」  さしも大きな朴葉も火に焼かれすぎ、目の前の七輪の上で小さく丸まっていた。山菜やきのこなどとからめた味噌をこの大きな葉の上で焼くと、なんだか鼻の奥に山の中のにおいがしてくるような気がした。 「ここはいいお店ですね」 「あら、ありがとう。そうですか? そうかしらねえ……」  ママがすこし小首をかしげ、困ったように口の端で笑った。 「絵がいいでしょう。あなたのうしろにある絵。この店でわたしが好きなのはあの絵だけよ」  いままで気がつかなかったのだが、ぼくの座っているすぐうしろ側に大きなパネル貼《ば》りの絵がかかっていた。絵は一メートル四方もの巨大な枠《わく》の中で、いくつもの松明《たいまつ》が複雑にからみながら燃え狂っているように見えた。 「すごい色ですね。なんですかこれは?」 「彼岸花よ。まんじゅしゃげともいうでしょ」 「ああ、あの花か。あれなら知っている……」  電話が鳴り、ママは濡れている自分の手を眺《なが》めた。それから奥の三帖敷のあたりに目をやったが、マスターが出てきそうにないのを知ると、割烹着で両手をぬぐい、素早く調理場の方に向っていった。  三帖敷に上り込んだ森川も戻《もど》ってくる様子がなかった。時計を見るともう十一時を回っていた。ぼくと森川がこの店にきたのは九時すぎだったが、その間二時間近くの間、店にやってきた客はさっきの職人ふうの二人連れだけだった。 「ムスメがね、まだおきているのよね」  電話から戻ってきたママが言った。 「ムスメって、娘さんがいるんですか?」 「あら、おかしい? 大きいのがいるのよもう」 「そうですか、そう見えなかったな」 「あら、残念ね。だまっていればよかったかしら……」  ぼくとママは、そこではじめてほぼ同時に笑った。 「そうそう、それでこのまんじゅしゃげの絵なんだけれど、あなた信じないかもしれないけど、わたしの嫁入り道具ってこの絵だけだったのよ。この絵ひとつね」  ぼくはもう一度振りかえり、さっき松明と思ったまんじゅしゃげの絵をもう一度眺めた。ヒトの胸を打って激しく迫る感動的な力を持った絵というにはほど遠かったけれど、それでもなにか妙に見る人の心を瞬時の間とらえるナニモノカがあるような気がした。  三帖敷からマスターが大あわてで調理場に入り、ビールを二本持って戻るのが見えた。 「まんじゅしゃげの花、見たことあるでしょう」 「ええ。田舎の畔道《あぜみち》とかお墓とかで……」 「そう、まんじゅしゃげはお墓に似合うのよね。あかくって、せつなくてね」 「あまりしっかりとは見たことはないけど……」 「男の人はね。遠くから見ているのでいいのよ」 「どうしてですか?」 「どうしてって……。いいのよ。そういうときはあまりどうしてって、聞かないものなのよ」 「はあ、わかりました」  ぼくとママはまたそこで同時にすこし笑った。しかし、なぜそこで笑ったのか、なにがおかしかったのか、ぼくは正直なところよくわからなかった。わからなかったけれど、なんとなくいまの会話のその呼吸がおかしいような気がした。 「わたしね……」  と、ママがさっきよりもひくい声で言った。 「わたし、ずっと前のことだったけれど、ヒトを殺そうと思ったことがあるのよ」  ぼくは黙り、下をむいた。そういう会話になったとき、どういうかんじで相手と話をすればいいのか、そのあたりの呼吸がよくわからなかったのだ。しかしママは躊躇《ちゅうちょ》なくその話をつづけていた。 「それでね。殺す手段としてまんじゅしゃげを抜いてきたのよ。その頃、わたしの住んでいた家の裏に沢山生えてたからね……」 「あれは毒があるんですか」 「そう、根にね、毒があるの。だからあれを洗ってね、下ろし金でおろしておかゆにまぜて食べさせてしまおう、って思ったのよ」 「うわっ」と誰《だれ》かが三帖敷の方で突然叫んだ。それから数秒遅れて男たちがどっと声を合わせて笑った。 「それでどうしました」 「結局ね、女はできないのよね。できなかったのよ。でもね、あのときわたしは勇気だけはあったのよね、ヒトを殺してしまいたい、と思うそういうつよい心がたしかにあったんだわ。だからいまでもこうしてね、わたしはまんじゅしゃげの花をいつも目の前に見ているの。勇気をもつためにね……」  コップの中の水割りがなくなり、ぼくはそいつを自分の目の高さまで持ち上げてみせた。 「だけどね……」  と、ママは続けた。 「だけど本物のまんじゅしゃげを見ると駄目《だめ》ね、わたし。こわくなってしまうのよ。本物のまんじゅしゃげはね、わたしにはこわいわね。昔はぜんぜん平気だったのにね……」 「でも、いまはあまり生えてないから……」 「そう、そうなのよ。だからね、とりあえずは安心ね」 「そうか。まんじゅしゃげこわい……か。まんじゅうこわいって落語はあったけど……」 「そうよ。だからおかしい話でしょ」  ぼくはこの京美人のようなママがいったい誰を殺したい、と思ったのか、そのことがとても気になった。しかしそれをそこで聞いてはいけないような気がした。 「ねえ、あなただれか好きな人がいるの?」  突然、きびすを返すようにして、ママが聞いた。ふいの質問だったのでどぎまぎした。頭の中に純喫茶ムラサキのマイコの顔や肢体《したい》が素早く浮かんだ。 「いるでしょうね。好青年だものね。どんな人?」 「いや、あの……」 「あなたぐらいのときはね、好きだ、と思った人がいたら、どんどん攻めていく、っていう方がいいのよね。女の子もね、そういうことを待っているのよ。話だってさ、どんどん男の方からいろんなことを話していくのよ。じっとしていちゃあ駄目よ。好きだと思ったらね」  なんだかママはむきになっているような口調だった。 「女だってね、そういうふうに積極的にどんどん攻めていった方がいい、っていうときがあるのよね。わたしは間違えてしまったけれどね……」  また電話のベルが鳴った。今度は逡巡《しゅんじゅん》せずに、ママはさっさと自分で調理場に向った。  ぼくは席をたち、便所へ行った。帰りがけに三帖敷をのぞくと、職人ふうの二人の男と森川、そしてマスターの四人が白い紙の上で熱心にいくつかのサイコロを振っているのが見えた。  純喫茶ムラサキのマイコが店をやめるらしい、ということを最初におしえてくれたのは種一《たねいち》だった。ひょうきん者の種一は、そのひょうきんずくめの全身を武器にして誰とでも気軽に話をし、友達づきあいをしてしまう、という特技があった。 「ムラサキ」のマイコとも種一はよく冗談を言いあっていた。種一の話によると、彼女はアルバイトの先をもうすこし収入のいい夜の仕事に変えるのだ、という。夜の仕事といったらまっさきにナイトクラブが頭にうかんだ。マイコほどの顔と肢体をもっていれば、そういう店でも充分通用していけそうな気がしたが、同時にそれはなんだかずいぶんひっそりと心の底のほうがさびしくなるような話だった。  純喫茶ムラサキの常連客のかなりの男たちが、このマイコという、笑顔のやわらかな、手足のすらりとのびた女性を目あてにしているらしい、ということは店の主人も、そしてマイコ自身もよく知っているようだった。  そしてぼくもかなり真剣にこの女性に恋をしているようだった。そのことを会社で知っているのは霜降りの高木で、彼は以前、彼女も本当はぼくのことがかなり好きなのだ、ということを酒に酔いながら知らせてくれたことがある。  しかしその話は、ぼくのいまはもうたった一人になってしまった上司の藤本によって無惨《むざん》に打ち消された。 「高木という男は性格に妙なところがあってな、そうやってヒトの心のとても大切なところを勝手なつくり話でまどわせてはよろこぶ、という許しがたいことをするやつなんだ」と、いつか藤本が激昂《げっこう》したかんじで話していたことがある。  それを聞いてぼくはひどく落ち込んでしまったのだ。  しかし、そんな気分で「ムラサキ」に行くと、何か以前よりも心の中をときめかせているようなマイコの視線を激しく感じたりするのも事実だった。そして高木と藤本とどっちが本当のことを言っているのかよくわからないまま、さらに直接マイコにたしかめる、という勇気も持てずに、そのままずっときてしまっていたのだ。  彼女がいよいよあと二週間ほどで店をやめてしまうらしい、ということがわかった日、ぼくはひとつの作戦を実行することにした。 「待ち伏せ」しよう、と思ったのである。  そういうことを本気で考えるようになったのは、やはりなんといっても「かぶや」のママの「男は攻めるときは攻めるのよ!」という不思議な檄《げき》が大きかった。「そうだ攻めるのだ。攻めるときは攻めるのだ!」と、ぼくはひそかにまなじりを吊《つ》り上げた——というわけなのだ。待ち伏せといっても、どこかの暗がりにひそんでいて、にわかに襲いかかる、というようなおそろしいものではない。  ぼくの考えはこうだった。  マイコのやってくる月、水、金、土は夜七時に店主の奥さんがやってきて、そこでウェイトレスは交代になる。マイコは十分ほどで帰り仕度をし、そのまま新橋西口通りをとおって駅に向う。  彼女と行きあうためには彼女が店を出る七時十分頃に駅を出て、会社に向ってくればよかった。以前にも何度かそういう時間に、彼女と道ですれちがいギクリとすることがあったのだ。しかしそういうときはこっちが誰か同僚と歩いていたり、一人でいたとしても何の心の準備もできていないので、いたずらにどぎまぎするだけで擦れ違ってしまう——などという具合で、そこから何も生まれる気配はなかった。  ぼくの計画はその道でむこうからやってくる彼女を見つけたら、その日はとにかくはっきり�ずんがずんが�と向っていって、きっちりと挨拶《あいさつ》し、何か言うつもりだった。  そこで何を言うか、ということについては二日間ほど考えた。不自然でなく、そしてキザでなく、意志のこもったことを言おう、と思った。考えに考えを重ねた結果、最終的にこれしかない! と思ったのは、 「すこし話をさせて下さい」  というものだった。どうも二日間も考えた割にはあまりたいしたセリフでもないようだったが、しかし最終的にそれしか言いようがなかった。  本当は行きあったとたんに空を見あげ、「今日もあつかったですねえ」と言ったのち、「一緒にビールでものみませんか」などと言いたかったのだが、彼女がビールをのまない人だったらそれっきりだし、そういうことを用心して「お茶でも飲みませんか」というのは、喫茶店のつとめから帰ろう、という人に対してずいぶん間の抜けたアプローチではないだろうか、と思った。  結局あらゆる状況を考えて、「すこし話を……」というのがもっとも重みと可能性のあるヒトコトであるような気がした。  決行の日は彼女がやめるという最後の週の水曜日、ということにした。 「よおしやるぞ。おれだってやるときはやるのだ」  と、ぼくは身の内をあつくしてその日のために身構えた。  いよいよ戦闘開始という週の月曜日の朝、霜降りの高木がぼくの顔を見つけると、すこし背をひくくして歩いてくる、というなんだか不思議な歩き方をしてやってきた。そして「あのなあ……」と言った。 「なに?」 「このあいだ見せた写真集あったろう」  高木はぼくの机の上に両手をつき、体をこごめるようにして、ひくい声で言った。 「うん」 「残念だけどあれ、よく調べたらムラサキの女じゃなかったな。ホントによく似ているんだけれど、よーく見較《みくら》べてみたら違っていた。世の中ってあのくらい似ているのがいるんだな。しかし残念だけど別人だったよ」  高木はそれだけ言うと机から離れていった。彼はしきりに「残念だった」を連発していたが、別人だとどうして残念なのか、そのへんのところがどうもよくわからなかった。  新橋の烏森口というのは夕方に一日のうちの一番の混雑ピークがやってくるようだった。朝も沢山の人でごったがえすが、それらはほとんど通勤客で、電車から降りた客は数分もすれば駅から散ってしまう。朝のラッシュというのは要するにそういう人々の群が間断なく続いている、というわけなのだった。  しかし夕方はちがう。夕方のその界隈《かいわい》は勤めを終えて帰ろうとする人々と、酔街《よいまち》のここにやってこようという人々が、駅頭附近で複雑に混りあい、慌《あわただ》しく動き回る人々と、あまり素早くは流動しない人々が、複雑にざわついた人と人のかたまりのようなものをいくつもつくっていた。  ぼくは新橋の駅で彼女を待つ、という安易な方法をとらなかったことをよろこんでいた。駅で女を待っている、というのはなんだかいやらしいし、それにこんな雑踏では万一相手を見失なったとしたら、そのショックが大きい。  深呼吸をひとつして、西口通りを、会社にむかって歩きだした。  西口通りは別名親不孝通りともいう。道の両端をびっしり厚く包囲する、というようなかんじでさまざまな一杯飲み屋、バー、小料理屋といったところがたち並んでいた。夕方七時すぎという時間になると、この道を歩く人々の多くは通勤帰りに連れだって飲みにいくサラリーマンのグループになっていた。彼らに混って酒場の女や、こんな時間で早くもでき上ってしまった初老の勤め人などが、それぞれの気分でそれぞれの場所をめざして歩き回っていた。  たしかに肩のあたりで緊張していたけれど、ぼくは全身に意志をみなぎらせ、力をこめて歩いていった。両側の店のあかりで、通りをいく人の顔はだいぶ遠くからでも認めることができた。通りは明るいけれど、その人工的な明るさは、なんとはなしの安堵《あんど》のひとつでもあった。どぎつい光の点滅が、いざ相手の女性を前にしてこちらが意志をつたえるときの、気遅れと気恥しさをうまくはぐらかせてくれそうな気がしたからだ。  さまざまな音が満ちあふれていた。演歌のきれはしが頭の上を流れ、パチンコ屋の喧噪《けんそう》が風に乗って通りの上を走っていた。遠くで誰かがふざけ半分に叫んでいるような声がきこえ、そのむこうに救急車のサイレンが音の紙テープでも引いていくように細長くいつまでも聞こえていた。  道ばたに突き出たクスリの宣伝の旗のむこうに、ふいにマイコの顔があらわれた。あらわれかたがあまりにも急なので、ぼくは瞬間的にたじろいでしまった。そしてマイコの顔を見たとたんに、ぼくは思わず片手をあげた。あらかじめ慎重に練りあげた作戦行動にはない動作だった。普段よく顔を合わせているとはいえ、まだろくに話もしていないような女性に道ばたでふいに片手をあげて挨拶してしまうなんて、そんな中年|親父《おやじ》のような気恥しいことをよもややるわけはない、と思いながらも、自分はいままさしくそうしてしまったのだった。  マイコはいつも道で出会うときのように、パッと両眼《りょうめ》を大きく見開き、ぼくの片手あげ挨拶にさわやかに笑ってみせた。しかし笑顔は瞬間に消えさり、マイコのよくのびた四肢が西口通りのむこう側にものすごいスピードで去っていくのが見えた。  マイコはぼくの前に走ってあらわれ、そのまますばやく風のように走って通過していってしまったのだ。まさか走ってくるとは予想もしなかった。おそらく彼女は次の芝居の稽古場《けいこば》へ行く時間がなかったのだろう。しかしまさか走ってくるなんて、それはかなしくも決定的に予想外のことだった。  ぼくは商店街のまん中で立止り、すこしの間空を眺めた。空は何も見えなかったし、どうしてそこで空を見上げたのか、自分でもあまりよくその理由がわからなかった。質流れの電気製品や時計などを専門に売る店の前を、女装した男がアフロヘアーをかきむしりながら通りすぎていくのが見えた。  なんだかたあいのないひとつの夢がおわったんだなーと、ぼくは思った。  ふと、いま走っていった彼女のあとを追って自分もどこどこと走っていったらどうなのだろうか、と思ったが、もうとてもそんな気力はなかった。マイコはまだあともう二日、この道を通るのだが、それをまた今日のようにじっと待っている、という気持もすでに相当に遠くなっていた。 「まあいいや、どうだって……」  と、ぼくは思った。  ぼくは、道の端で何かを思いだして迷ったあと、忘れ物でもとりに戻る、といったまったく無意味な一人芝居のようなものを一人でして、それからまたもう一度「まあいいや、どうだって」と思った。  駅に戻り、便所に入って扉《とびら》を閉め、鞄《かばん》をあけて本をひっぱり出した。新宿歌舞伎町の成人向雑誌店で苦労して買ってきた「歓喜の湖」だ。高木にこいつを見せられた翌日から、この本を捜して歩き回ったのだ。新橋から神田、中野、と普段よく飲みに行って知っている街から捜して歩き、最後に歌舞伎町の、異常なほどに部屋のライトの赤い店で手に入れたのだ。  家に帰ってよく見ると、この本に出ている女は純喫茶ムラサキのマイコとはまったくの別人だ、ということがわかった。よく似てはいたが、笑った顔が別人だった。このことは高木に言われるよりもずっと前にわかっていたのだった。  まん中あたりの頁《ページ》に、女が川原の石にすわって弁天様のようなポーズをとっている写真があった。そしてその女のむこう側に点々と野火でも燃えているように赤いまんじゅしゃげの花が咲いているのも、ぼくはよく知っていたのだ。  取りだした本を苦労していくつかに引き裂いた。切れ切れになった「歓喜の湖」をもとの袋に入れ、まるめて便所の中の汚物入れに放《ほう》りこんだ。そしてぼくは、あまり必要のない水洗のペダルを踏んで、二人の女にきっぱりと別れをつげたのだった。 [#改ページ]   第6章 ハッタリ横丁の人々  その年の秋に入る頃《ころ》、ぼくは二年半暮した小岩の下宿を出ることになった。  なんとなくアルバイトの延長のような気分でもぐりこんだ百貨店ニュース社の仕事や、そのなかでの日常的会社生活が結構おもしろくて、そのままサラリーマンになってしまおう、と思ったからである。  二年半の間一緒に共同生活していた仲間のうち、もっとも親しかった木村晋介と沢野ひとしは、ぼくよりひと足先にその下宿を出てしまっていた。  ぼくはトランク一個分の荷物を持って千葉市にある長兄の家にころがりこみ、そこから会社に通うことにした。  朝八時に起き、義姉《あね》のつくってくれた朝食をほとんどかき込むようにして食べ、駅までかけていって電車に乗り、吊《つ》り革につかまったまま半分ねむっていくと、九時四十五分あたりに新橋五丁目の会社に着く、という毎日がはじまった。  会社の仕事は原島久三が辞めてしまったあと、編集長不在のままぼくと藤本の二人で「マンスリーサーベイ」をつくる、ということになっていた。  その雑誌は、活版三十二|頁《ページ》の薄いもので、そのうちの十頁分は毎月「日本百貨店協会」というところがまとめるデパートの売上データなどを元に計算したり表をつくったりして載せればよかった。そして残りの二十頁ほどを藤本とぼくが、半分ずつ分けて、何かのレポート記事を書くのだ。  藤本とぼくでおのおの十頁ぶんほどの記事を書いて、きちんと雑誌がつくられていれば会社は何も言わない、というのはなかなか気楽なことだった。  どんなレポートを書くか、というのも基本的には自分で勝手に考えればいいのだ。本来なら原島久三が辞めたのだから、歳《とし》もぼくより上だし、社歴もずっとある藤本が編集長になればよかったのだが、彼はあと半年で自分も会社を辞める、ということを決めていたので、編集長になる、などということは煩《わずら》わしいだけだ、と思っていたのだろう。  そこで藤本とぼくは月のはじめに、自分の書きたいテーマや対象を決める、という簡単な打ち合わせというのをやるだけで、あとはお互いに勝手に毎日の�日常業務�というのを行なっていればよかった。  そのじぶんになると鯨《げい》やんや小耳の川ちゃんらと、夜更《よふ》けに会社に戻《もど》ってきて賭《か》けポーカーをやる、ということもだんだん難しくなっていた。ひとつは鯨やんや川ちゃんら先輩社員がなんとなく前よりも忙しくなっている、ということがあったが、もっと大きい理由は小耳の川ちゃんの酒癖がなんだか急に悪くなったからだった。  小柄《こがら》な小耳の川ちゃんは以前から酒を飲みはじめるとまっ先に御機嫌《ごきげん》になり、どういう訳か必ず顔を上にむけて陽気にいろんなことを喋《しゃべ》りまくった。しかし川ちゃんはけっして酒に弱いというわけではなく、ひとたび腰を落ちつけてしまうと結構いつまでも同じペースで飲み続けていくのだ。そしてその飲み方は別の言葉で言うと、いささかしつこい、というふうなものでもあった。  この川ちゃんの陽気しつこ酒がますます進み、近頃は突然手足をふり回してあばれはじめる、というようなことも何度かあった。川ちゃんが意味もなく暴力的になるのは、ある一定の酔いラインのようなものをこえてからで、そうなると川ちゃんは世の中のあらゆることに対して激しく憤《いきどお》りはじめる。  そしてついに�事件�をおこしてしまったのだ。事件といっても会社の中でのたあいのない悪ふざけ、といったものに近かったが、それによる状況的被害がちょっと大きかった。  丁度その日ぼくは風邪気味だったので先に帰ってしまったのだが、鯨やんたちはいつものメンバーで深夜の酒盛りをやっていたのだ。そしてまた川ちゃんがどんどん陽気になり過激になっていくにつれて、なにかの拍子《ひょうし》に鯨やんと口論になり、逆上した川ちゃんがビール瓶《びん》を持って殴りかかったのである。  ビール瓶は体をかわした鯨やんのうしろの窓ガラスをこなごなにした。それが起ったのは深夜のことだから翌朝までにガラスを入れ換えるということもできず、かといってそのまま放置しておくと、本格的なビル荒らしと思われて警察を呼ぶことになる、そうなるとかえって面倒になるだろう、ということが、すっかり酔いのさめた鯨やんたちの間で論議されたのだ。  結局彼らはその日あったことをいくつかとりつくろいながら話し、間もなく、ハットの鎌田やブロンディなど古参社員たちによって、以後いかなる理由があっても許可なく会社で酒をのんではならない、という社員の自主的とり決めを言いわたされた。  しかしこういうことがあっても、小耳の川ちゃんの酒癖はあまり改善されなかった。会社で寄り合い酒ができなくなった我々は、新橋駅の近くにある「キンシ正宗」という居酒屋に通うようになった。キンシ正宗というのは清酒の名前で、その店は本当は「本郷兄弟商店」というのだった。けれど店の入口にいつも�キンシ正�と濃紺地に白く染め抜かれた大きな暖簾《のれん》を下げているので、そこにやってくる人々は誰《だれ》も正式な店の名前など知らないようだった。  店の中も妙なつくりで、倉庫のようにぞんざいなコンクリートの床の上にテーブルと椅子《いす》を放《ほう》り投げた、というあんばいで、全体にさあのみたかったらどうぞ勝手にやって下さい、というような投げやりな造作になっていた。やたらに高い天井にはインドのホテルにあるようなまことに回転スピードの遅い扇風機が、冬でも夏でものったりと回っていた。  飲ませる酒はコップ酒とビールだけで、酒は勿論《もちろん》キンシ正宗だった。つまみは五十円均一で、それもキンピラゴボウとかホウレン草のおひたしとかナメコオロシといった定食屋のおかずのようなものばかりだった。  酒を注文すると、太ってなんだかいつもねむたげな女が無表情のままやかんを持ってやってきた。大ぶりで厚手のコップに、やかんに入った酒をなみなみと注《つ》ぎ、コップの下の受け皿《ざら》に酒があふれてこぼれるまで注ぐ、というのがとりあえずのその店のルールになっていた。  酒もビールもそうやって注文したものが自分の前に無事置かれたところで現金を払い、五十円均一のつまみ類は最後に食った皿を数えて精算する、というまことに簡潔な明朗会計システムになっているのだった。  ぼくたちはこの店で相変らず意図や目的のはっきりしていないオダのあげかたをしていたのだが、小耳の川ちゃんはここでも時おり逆上し、そのたびにぼくたちはあわてて勘定をすませ、とりあえず外に連れだしてしまう、というようなことをしなければならなかった。  どうしてこんなふうに川ちゃんが急に酒乱に近いような荒れかたをするようになったのか、しばらくは見当もつかなかったのだが、やがてその理由がみんなにすこしずつわかってきた。 「マンスリーサーベイ」はB5判横組みの雑誌である。内容はデパートやスーパーの経営分析やそこで販売している商品の売行動向、その市場についての考察、というようなものが中心になっていた。経営分析などというのは非常に難しいし、ある程度企業のバランスシートなどを読みとる能力がなければとてもたちうちできなかった。そこでそういう難しいものは藤本にやってもらうことにして、ぼくはもっぱら商品やその市場の動きを調べる、という方を担当することにした。  追究する商品もできるだけ自分に興味のあるものにした。それから化粧品とか呉服といった商品はその流通経路も複雑でメーカーも沢山乱立しており、生半可な知識ではとても理解できない世界なので、ぼくの追いかける商品はよく考えるとデパートやスーパーの経営や営業にはたいして影響を与えない趣味の小物、といったようなものが多かった。あまりいつまでもそんなことをしていると読者が文句を言ってくるかもしれない、と思ったこともあったが、発行部数はわずか七五〇部だし、購読者もたいてい企業単位でしかも企業の予算で買っているのが殆《ほとん》どだったから、誰も「こんなものじゃ経営の役に立たないではないか!」などと注文をつけてくるようなことはなかった。それはいいことのようでいて本当はムナシイことなのだ、ということをぼくも藤本もよくわかっていたのだが、だからといってじゃあどうすべきか、という考えもあまりなかった。  秋に入ってすぐ、ぼくは万年筆という商品がいまどうなっているのか、ということに興味をもった。そこで早速、万年筆の売行動向レポートを書くことにした。企画から取材、原稿書き、レイアウト、校正まで全部自分でやるのだから、その気になるとすぐ動きだせるのだ。  こういうものを調べるとき、最初にやることはデパートの万年筆売場に行って売行具合とか、その買われ方といったものを聞く、というのが一番手っとり早い。  ぼくはさっそく銀座の松屋に行った。  新橋五丁目にある会社から銀座までは歩いて十分ぐらいだった。新橋駅のガードを抜け、土橋の高速道路入口のあたりから銀座裏の路地をジグザグに縫って、四丁目の交差点に出る、というのが会社から歩いていく上でいろいろ変化のあるコースだった。  銀座も、八丁目あたりの裏道は午前中に歩くと大量のゴミが並んでいて、そこをすこし呆《ほう》けたような顔をした住み込みの板前やコック、あるいはバーやクラブのボーイといった人々がぼんやり歩いていることが多かった。歩道の端に並んでいる大量のゴミは、そうした料理屋やバーなどから排出された前夜の酔宴の残滓《ざんし》なのだ。銀座八丁目の「キャバレー・ハリウッド」の前の歩道にはいつも空ビール瓶のケースが山のように積まれていて、そこには大抵三人のこの界隈《かいわい》の常連が�朝の仕事�をしていた。  常連はギンザ紳士と呼ばれる乞食《こじき》のおっさんたちである。  彼らはこの空ビールの山の前にいつも一斗入りの石油|缶《かん》を持ってきていた。三人の紳士は石油缶の注ぎ口に漏斗《じょうご》をくくりつけ、その上に空のビール瓶を次々にあけていた。空とはいっても底の方にまだ二、三センチほどビールが残っている、といった程度のものが多く、ときには半分ほども残ったままのものもあった。  紳士たちは「ホッホッホッ」と陽気な掛け声をかけながら手ぎわよくこの空瓶の手渡しリレーを行ない、なんとなくいつも一斗缶がずしりと重くなるくらいのビールを集めてしまうのだ。  この採集ビールを新橋のガード下あたりへ運んでいって、そこで車座になり、みんなでゆっくり飲む、というのが彼らの優雅な日課のようであった。  こういう銀座紳士の中にも厳然として縄張《なわば》りもしくは派閥のようなものがあるらしく、新橋界隈と東銀座界隈に集っている銀座紳士はその�仕事�や暮らしぶりも微妙に違っていた。  東銀座の地下道あたりを根じろとする一派も昼間からよく酒をのんでいたが、こちらの方はビールではなくウイスキーをのんでいることが多かった。どうもかれらは銀座四丁目から六丁目あたりまでを自分たちの縄張りにしているようだったが、そのあたりはバーやクラブが多く、キャバレーのように大量のビール瓶が排出されないので、ウイスキー派になってしまうのではないか、とぼくは勝手に想像していた。  銀座松屋の万年筆売場はまだ午前中なので客は誰もいなかった。  売場には三人の女店員がいて、それぞれ静かにケースの中の整理をしていた。  国産万年筆のケースの前に近づくと、オカッパ頭の店員が顔をあげ、すこし小首をかしげる、というようなしぐさをし、それから素早く目をしばたたいた。それがこの店員独得の客への応対作法なのかもしれなかった。 「あ、あの……」  と、ぼくは言った。  デパートの売場へ取材に出かけて客に間違われ、そうではなくてただ話を聞きにきただけだ、と告げたときの相手の反応というのはいろいろあってまいるよな……と以前ベエさんが言っていたのを瞬間的に思いだした。  店員によっては、客でない、ということがわかると、とたんにそれまで頬《ほお》のあたりに浮かべていたいささかのほほ笑みの筋肉を停止させ、なんだかよくわからないけれど面倒なやつがきたわね……という表情や気配をあらわにする人もいるし、なにか訳もなくあたふたと、上司に取り次ぎに走る人もいる。こちらの質問に応《こた》えはしても、「ええ」とか「まあそうですねえ……」といったあたりさわりのない返事でとりあえず軽くしのいでおこう、といった態度をとる人もいた。  いずれにしても売場にいってとつぜん、「ちょっと話を聞かせて下さい」と言うと、果してこの人はナニモノなのだろうか、とどの人もたいてい瞬間的な警戒の色を顔のどこかに走らせるのだ。  おれはあれがやっぱりちょっといやだね、とベエさんは酒をのみながら以前そんなことを言っていたのだ。  その店員は二十歳をすこし出たあたり、というところで、化粧気のない黒くて切れ長の目が何かすばしこい森の中の小動物を連想させた。 「ぼくはこういう者なんですが、万年筆のことについてちょっと……」  名刺を差しだすと、店員は両手でそれを受けとり素早く眼《め》を走らせた。 「マンスリーサーベイとおっしゃるんですか」 「ええ、こういう雑誌なんです」  いつも脇《わき》に抱えている大型封筒の中から薄いオウド色の表紙の「マンスリーサーベイ」をひっぱり出した。 「ではお名刺とこれをちょっとお借りします」  店員は売場のすぐ裏にある事務所に入っていった。売場の上司に話して応対する許可を貰《もら》ってくるか、あるいは直接売場の主任や係長を紹介するか、のどちらかだろう、と思った。  そのときぼくはできるなら売場の上司の許可を得てさっきの女店員の話を聞かせてもらう方がいいな、と考えていた。万年筆についての取材は今日がはじめてで、まだ基本的なことは何もわかっていない。  デパートの売場の主任とか係長という人々は当然ながらその商品の専門家であるから、その商品のことを聞きにくる人があまり内容をくわしく分かっていないと、不機嫌になったり横柄《おうへい》になったりする人が時々いるからだった。一番最初の取材というのは、売場の若い店員に「まだ何も知らないのだけれど……」と訳を話し、ざっくばらんにひととおりのことを聞いてしまう、というのが一番ありがたかった。  それからもうひとつ、さっきの女店員のなにかじっと見つめられると気持の内側がどぎまぎしてくるような、黒い眼をもっと見ていたい、という気持もあった。  しかし懸念《けねん》したとおり、彼女のうしろから背のひょろりと高い三十年輩の男が眼鏡を妙に白く光らせながら出てきた。男は片手にさっきぼくが渡した「マンスリーサーベイ」を持ち、もう一方の手で白く光る眼鏡のふちをしきりに上下させながらゆっくりぼくの方にやってきた。  男はぼくの顔を見つめ、 「なあに、万年筆のこと?」  と、無表情のまま聞いた。  男はぼくに売場事務所の横にある小さな丸椅子をすすめ、自分も座った。再び片手で神経質そうにしきりに眼鏡のふちを上下させながら、 「ペンはいま駄目《だめ》ですね」  と、早くも結論じみた口調で言った。  ぼくはその言葉をきっかけにして、「どうして駄目なんですか?」というところから聞きはじめることにした。  男の顔を一目見たとき、これはこの業界のことが結構わかっているふりをして聞かないとまずいかもしれないな、と思った。前々から森川トオルなどに、「取材はある程度ハッタリよ。知らないからおしえて下さい——じゃなかなか口ひらいてくれないからさ……」というようなことを何度か聞かされてもいたのだ。  そこでぼくはすでにこのデパート業界も、そして万年筆のことなどもひととおりはわかっているのだけどな……というような顔つきをして、話を聞きはじめた。  男はその万年筆売場は相当に永いらしく、すこし前は万年筆が新学期の贈答用などで安定して動いていたが、最近は生活レベルが向上し、また多様化し、消費者は万年筆を贈るという昔ながらのやり方をしなくなってきた。やはり万年筆も消費構造の変化にアップ・トゥ・デイトに対応していかないと苦しくなっていく筈《はず》だ、というようなことを澱《よど》みなく話してくれた。  男の話はベテランらしく、ひとつひとつがうまく整理されていた。ぼくは相槌《あいづち》を打ちつつ必死にその内容をメモしていった。しかし男の速射砲のような説明を書きとるのが追いつかなくなると、ぼくはメモしていくことをあっけなく放棄し、仕方なく相手の顔を見つめてうんうんといかにも感服したような顔で頷《うなず》いていなければならなかった。  男は話しているうちにしだいに自分の話に激昂《げっこう》してくるタイプのようで、もうそのあたりでぼくにはあまりよくわからないメーカーや問屋の病的内情問題といった方にまで話が進んでいた。  そのあたりのことは「マンスリーサーベイ」のレベルではあまり触れなくてよかったので、それからしばらくはしだいにオクターブのあがってくる男の話を殆ど猿《さる》が坊主《ぼうず》の説教を聞くような塩梅《あんばい》で拝聴していなければならなかった。  男の話が一段落したところで、話を切り上げるために、 「ところで、この売場の前月同月比の伸びはどうなんですか?」  と、聞いた。前月同月比などという経済言葉はほんの二、三日前に藤本から聞いたばかりで、聞きながらそれがどういう意味のものなのかぼく自身もあまりよくわかっていない。  男はそこでまた自分の眼鏡のふちをすこし上下させ、 「前月同月比?」  と聞いた。 「ええ、前月同月比がわかれば……」 「前月同月比って何ですか?」 「ええ、っとあの……」  何ですか? と聞かれてもこまる。聞いた本人があまりよくわかっていないのだ。ぼくはそれを聞いたきっかけで取材をおわらせるつもりだったのだ。 「前月同月比?」  男はもう一度聞いた。その声の中には何かいかにも「なんだこいつは困ったやつだな……」というような感情があからさまだった。とたんにいままでの男の熱弁が、ぼくと男の間で急速に鼻白んでいくような気がした。 「前|月《ヽ》同月比なんて、そんなもの聞いてどうすんですか? 前|年《ヽ》同月比というならわかるけど……」  ぼくは自分の失敗に気がついた。藤本もたしか「前年同月比」と言っていたのだ。 「前の年にくらべて同シーズンにその売場がよいのかわるいのか、を知る第一のデータが前年同月比というやつだよ。これを最初に聞くと取材がやりやすくなるよ」  と、藤本が言っていたのを思いだした。 「いや、その前年同月比の方です」  と、ぼくは慌《あわて》て言った。  しかしもう遅かった。男はぼくがとんでもない素人《しろうと》取材者である、ということをそこではっきりと知り、すこし黙りこんだ。それから、 「コンマ三パーセント」  と、抑揚のない声で言った。さっきまで気にならなくなっていた男の眼鏡が、ふいにまた白くなったような気がした。  売場事務所から出ると、ぼくはすっかり背中に汗をかいていた。事務所の前の万年筆売場には相変らず客の姿は見えず、さっきぼくを取りついでくれた黒目がちの女店員がいた。  彼女はぼくが事務所から出てくるのを見つけると、また首をななめにひょいと曲げ、素早く笑った。  ぼくは頭を下げ、 「アア、この人おれ好きだな」  と、なぜかすこしむなしい気分になってそう思った。  専務の高根圭一が会社を辞めることになった。辞めるといっても、だいたい高根はその頃《ころ》はもう週一度ぐらいしか会社にやってこなかった。高根が趣味でやっている蛇《へび》やトカゲなど爬虫類《はちゅうるい》の育成やコレクションの方が大きなビジネスになってきていて、そちらの方が忙しく、このあたりではっきり方向を変える、ということを会社につたえてきたらしいのだ。 「高根君が退《ひ》いたので、今度大阪支社長をしている野々宮君に東京本社へ戻《もど》ってもらうことにした。同時に森川君には大阪へ行ってもらうことにした」  百貨店ニュース社の大堂社長が長い顔をなんだか無理に胸もとに引きつけるしぐさをして、重大発表のような口調で言った。  毎月一回、その月の一番最初の月曜日に「全社全体会議」というのがあった。全社全体会議といっても、社員が全員集っている前で大堂社長がなにか妙に重々しく精神訓話ふうのものを喋《しゃべ》り、総務部長の松井喜三郎が軍隊式にぴっと背すじを伸ばして、いくつかの社内通達事項を話すという程度のものだった。  そして大堂社長の発表した百貨店ニュース社にとっては�衝撃的�な大人事異動の発表も、もう半月ほども前に社員の間には相当にくわしく出回っていたので、社長の話には誰《だれ》も驚かなかった。大阪支社長が交代するといっても、大阪支社というのは手伝いの女の子が一人と支社長一人という程度の規模なので、それによって何かが大きく変化する、という訳でもなかった。  いずれにしても百貨店ニュース社というのは従業員が二十数人ほどしかいないのに、全社全体会議とか大阪支社とか、言うことがなにかにつけて大袈裟《おおげさ》だった。  しかし、百貨店業界というおそろしく歴史の古い老獪《ろうかい》な世界を相手にして、新参の業界紙が急速にのしあがってくるためには、こういう大袈裟イズムというか、まあ一種の企業的ハッタリというのも必要だったのだろう。  大堂社長は高根と松井の三人で、その会社をつくり、十年間でとにかく従業員二十数人の会社にしたのだ。  そして森川と入れ違いに大阪支社から戻ってくる野々宮七郎は、その会社の第一号の社員だった。野々宮のことはあまりよくわからなかった。仕事は正確だが徹底的な慎重|居士《こじ》である、ということが社員たちの酒のみ談議の中でよく言われていた。  大阪支社に行く森川は社員たちからその会社の幹部候補のトップ、というふうに見られていた。  酒好きの森川は会社からの帰りがけに鯨やんとか、高木、そして小耳の川ちゃんといった編集部の面々をよく酒場に誘い、気がむくと何軒もハシゴをした。そして所属の部署はいまは違っていたが、ぼくもよく森川のその酒宴に連れていってもらった。  森川は酒をのむとそのハッタリが強くなった。しかし業界紙という闇《やみ》の猛者《もさ》たちがうごめく世界ではハッタリや野心というものが多少強くないと周囲に負けてしまう、というようなところがあったので、森川のそうした強気は我々若手にはかえって逞《たくま》しく映った。  実際ぼくは森川トオルが大阪へ行ってしまう、というのを聞いてひどく落胆した。仕事もよくやるが遊び好きで酒と賭《か》け事に強く、部下の面倒見のいい森川は、ヤクザの一家でいえばもっとも頼りになる兄貴分というような気配をもっていたからだ。  森川がいよいよ大阪へ出向する、という前日、大堂社長は森川と社内の各部署の責任者を集め、新橋の鰻屋《うなぎや》の二階で壮行会を開いた。  森川が大阪へ行くので、森川の編集部は森川のすぐ下にいた船橋という大男が新たに編集長になった。船橋は自衛隊出身という変り種で、いつもきちんと髪の毛を七・三にわけ、白いワイシャツに地味なネクタイをつけていた。  壮行会はこの船橋新編集長とデパートのダイレクトメールを専門に編集しているハットの鎌田、営業の北島、総務の並川、通称ブロンディ、それにどういうわけかぼくが参加することになった。「マンスリーサーベイ」からの代表ということで、本来なら藤本が出るべきなのだが彼は酒をあまりのまないし、そういう席が苦手ということで、替りに社歴二年にも満たないぼくが出ていくことになったのである。とにかく編集部といっても、ぼくのところは二人しかいないのだから仕方がない。  営業の北島はペーちゃんといって、社一番のヘビースモーカーであり少々陰気な男でもあった。営業の外回りから帰ってくると、いつも北島は自分のデスクの前でたて続けにタバコを十本ほども喫《す》い、じっと机の前の壁を見つめながら何事か考えていた。そんなふうに少々不気味なところもあったが、彼の営業手腕はなかなかたいしたものだ、と社内では言われていた。  鰻屋での壮行会は大堂社長によるまたいささか大袈裟な「我が社の栄光と未来は森川君の双肩《そうけん》にあり」式の挨拶《あいさつ》のあと、森川のこれもまた大時代的な「我死してもなお前進」ふうの返答挨拶でスタートした。  酔いが回ってくると大堂社長はぼくのコップにビールを注《つ》ぎ、「おい君、どうだこのごろ。仕事というものはなかなか素晴しいものだろう!」となんだか妙に上機嫌《じょうきげん》で言った。ぼくは言われたことの意味がわからずにすこしうろたえ、「ええ。はい。まあ……」と曖昧《あいまい》な顔をして頷いた。  大堂社長は次に船橋のコップにビールを注ぎ、「これからは君にひと暴れしてもらわなけりゃならないが、ひとつ頑張《がんば》ってくれよ」と言った。  船橋は社長がビール瓶《びん》を持ち上げたとたんに、あぐらの足をあわてて組み替え、きっちり正座して両手でコップを差しだした。  その動作を見て、ぼくはまたすこしうろたえてしまった。さっき大堂社長がビールを注いでくれたとき、ぼくはあぐらをかいたまま片手でコップを突きだし、まったく曖昧にうすら笑いを浮かべていたのだ。  どうもひどい差だなあ、とぼくはすこし呆然《ぼうぜん》としながらそう思った。かしこまった船橋のコップに今度はハットの鎌田が、 「まあ頑張ってやっていってよ」  といってどぼどぼと豪快にビールを注いだ。 「まあしかし、これでわが社もとにかく年々なんとか経営規模を拡大してきているけれど、しかしぼくの考えていることはまだまだこんなものじゃあないんだなあ」  大堂社長がふいに大きな声を出してそんなことを言った。 「そうですよ」  と、ハットの鎌田が言った。ブロンディが社長のあいたコップにお銚子《ちょうし》の酒を注いだ。 「わが社はね、やがては新聞だけじゃなくて最終的には出版をやっていくのですよ。出版です。ぼくの本来の目的はね。それも単に狭いこの業界の中の出版というのではなくて、もっと大きな一般の本を出す、ということがぼくの目的です。岩波書店のようなね、ああいうものを目ざしていく、というのがぼくの目的です」  いつの間にかみんな黙って大堂社長の話を聞いていた。船橋がその話のひとつひとつに静かに相槌をうち、今度はハットの鎌田が素早く社長のコップに酒を注いだ。  この自然発生的な社長のいささか壮大な経営未来政策が、この座のおひらきの演説のようになった。  鰻屋を上機嫌で出ると、大堂社長は、 「よおし、それじゃちょっと腹ごなしにいこう」  と言った。 「いいすね。ラ・セールにしませんか」  ブロンディが嬉《うれ》しそうに言った。 「ラ・セール」は銀座七丁目にあるナイトクラブで、ピアノの演奏をバックに歌がうたえる、というのを売りものにしている店のようだった。  バーではなく、店の女が客の隣りについていろいろサービスしてくれるという本格的なナイトクラブというところに入ったのはそれがはじめてだったので、ぼくはかなり緊張していたのだが、店はちょっと気が抜けるほどすいていた。  ウイスキーの水割りでまた一斉《いっせい》に乾杯し、なんとなくみんななごやかな顔になった。  二十分ほどすると、大堂社長が「じゃあ、まあちょっとやってみようか」などと言いながらピアノの前に行き、「アリラン」をうたった。思いがけずに高調子だったが、こぶしがきいていてなかなかうまかった。 「じゃあつぎは出征兵士の森川君にうたってもらおう」  と、大堂社長がますます上機嫌になっていった。  森川がいささか気どった声で「もずが枯木で」をうたい、続いて営業の北島がひどくカン高い「蘇州《そしゅう》夜曲」をうたった。芸達者のハットの鎌田がすこしおどけたそぶりで「錆《さ》びたナイフ」をうたった。われわれの周りにすわっている女たちは誰かがマイクを持ってうたう前と、うたい終ったあとに盛大な拍手をおくるのだが、よく見ていると、うたっている最中は誰もあまり聞いていないようだった。  小耳の川ちゃんが酒乱になった原因は女だったよ、と鯨やんがじつに嬉しそうな顔で言った。午後三時。会社の地下にある純喫茶ムラサキの中だ。 「くくくっ」  と鯨やんがその巨大な体をふるわせながら笑った。 「あの野郎、巣鴨《すがも》のよ、ニワトリみてえな女に入れあげてたんだ」 「水商売の女?」 「そうさ。やつはこの年まで女を知らなかったんだな。それで逆上してそっくり取られちゃった」 「取られちゃったって何を?」 「金だよ」  鯨やんがまたどこかの酒場で荒れだした川ちゃんの右腕を捩《ね》じ曲げ、いいかげんにしろ、と一発きつい�カツ�を入れて聞きだした話は、いかにも川ちゃんらしいすこし悲しい話だった。  川ちゃんを騙《だま》した女は、川ちゃんを巧みに誘惑し、一度だけ店の二階で甘い思いをさせておいて、あとはそれを餌《えさ》に半年がかりで川ちゃんのボーナスや貯金をそっくりかすめとり、どこかへ消えてしまった、というのである。川ちゃんはそのため両親に嘘《うそ》をついて、いくらかのまとまった金を無心していたらしい。そしてその両親から金を貰《もら》う口実というのが悲しかった。結婚準備金——としてだった、というのである。 「川ちゃんはその水商売の女と結婚するつもりだったのだろうか?」 「そうじゃないのかな。とにかく夢中だったんだから」 「じゃあそのニワトリ女は結婚サギだ」 「やつもつまらない女にひっかかったよ」 「じゃあ川ちゃんは結婚したかったんだ」  ぼくは馬鹿《ばか》のように同じことを聞いた。ぼくよりわずか一歳上の川ちゃんがそんなに結婚したがっている、ということがどうしても信じられなかったのだ。普段一緒に酒を飲んでいる時も、結婚したい、というようなそぶりなど一度も見せたことはなかった。だから鯨やんからそんな話を聞いても、まるで冗談のような気がした。 「だからね、やつにすこし馬力つけてやろうと思ってさ」  と、鯨やんが言った。  鯨やんがぼくに言ってきたのは、みんなでキャバレーにいこう、という提案だった。  集ったのは鯨やん、小耳の川ちゃん、霜降りの高木、種一、坪田、それにぼくの六人だった。小耳の川ちゃんをキャバレーに連れていくとどうして馬力がつくのか、鯨やんの提案にはすこしわからないところがあったが、みんなとくに異論もなくその日の夕方に「キンシ正宗」に集った。キャバレーは酒が高いから、行く前にそこで充分飲んでいこう、という鯨やんの作戦だった。  キャバレーというのは、開店早々に行くか、閉店ギリギリの時間に行くのが一番いいんだ、というのが鯨やんの昔からの基本的姿勢なのだ。  我々はそこでほとんど風のおりてこないインド的扇風機の下で、五十円均一の卯《う》の花漬《はなづ》けとか鱈子煮《たらこに》などを肴《さかな》にコップの酒を飲んだ。  すこし酔いはじめてきたところで、会社の話になった。この間のめったにない�大人事異動�をどう考えるか、と霜降りの高木がいつものように頬《ほお》の端の方にすこし皮肉笑いのようなものを浮かべながら言いはじめたからだ。 「森川さんは妙に張り切っていたなあ、大阪へ行くの……」  鯨やんが体をこきざみに揺すぶった。 「普通なら都オチでさ、ぐったりくるところだろうになあ……」 「大阪でなにかひとつ勝負するつもりなのさ。東京ふうのハッタリでさ。うちみたいなこういう仕事はハッタリの強いやつの方がむいているからな。それで張り切ってるんだと思うよ」 「みんな言ってますよね」  と、坪田が妙にひくい声で言った。坪田は種一と同じ広告の版下を作る仕事をしていた。まだ二十歳になったばかりだが、会社の机に座って仕事をしながら黙ってじっといろいろな人の話にきき耳をたてている、というふうな妙な男だった。 「今度の人事はですね」  と、坪田がすこし背中を丸めたまま言った。 「おーおっ人事だって。すげえ言葉つかうなあ」  小耳の川ちゃんが早くも赤い眼《め》をし、一オクターブ高くなった声で言った。鯨やんが手で川ちゃんの声を制し、坪田の言うことをだまって聞こう、というような顔をしてみせた。 「今度の人事は会社がいろいろ経営の強化をはかるために野々宮さんを本社に戻したんだろうって。経費をかなり切りつめにかかるそうですよ」 「ふーん、なあるほど」  高木がうなずいた。  しかしその話を聞きながら、ぼくも川ちゃんのように、「人事」などという一流会社がつかうような用語を坪田が口にしたので驚いてしまった。 「野々宮という人はかなりクールな人らしいですね」  坪田が笑わない眼で言った。 「おーおっクールだって」  小耳の川ちゃんがまた同じことを言った。 「やめろよおい。今日はお前のためにこうやってみんな集ったんだぞ」  鯨やんが大きな声で言った。 「こっちがたのんだわけじゃねえや」  川ちゃんがわめいた。 「このやろう……」 「やめろやめろ」  霜降りの高木がきびしい声で制した。彼はこういうときの割り込み方がうまかった。 「またガラス割るよ。ガラスガラス」  種一がひょうきんなリズムをつけてガラスガラス、と言ったので、妙な具合にかたむきかけた卓のまわりの空気がゆっくりともとに戻った。  川ちゃんがすこし酔いはじめているので、飲み方をセーブしながらあともう三十分ほどしたら行こう、と鯨やんが言った。  しかし結局ぼくたちが「キンシ正宗」を出たのは、その店の十一時の閉店時間すこし前だった。キャバレーの閉店は十二時だから、鯨やんの作戦からいうと最も理想的な時間帯になったわけだ。もっともしかし、閉店間ぎわにいくと何がどういいのか、ということはみんなあまりよくはわかっていないようだった。  ぞろぞろ歩いて銀座八丁目の「キャバレー・ハリウッド」へ向った。  その時間になると新橋や銀座|界隈《かいわい》から数人連れの酔客がいく組も歩いてくる。そして結局それは酒乱気味の川ちゃんをきちんとマークしておかなかったのがいけないのだが、新橋駅前の大通りを渡るところで、むこうからやってきた三人組の中年サラリーマンふうの男に川ちゃんが肩からぶつかっていった。ふいをつかれて、真中にいた男の一人がよろけ、手にもっていた包みを道に落してしまった。 「なにするんだこのやろう」  三人組の男のうち一番体の大きな三十年配の一人が、小柄《こがら》な川ちゃんの背広の襟首《えりくび》をつかみ、馴《な》れたしぐさで足払いをかけた。川ちゃんは棒杭《ぼうくい》でも倒れるように簡単にひっくりかえった。川ちゃんが倒されるのと同時に、ぼくたちが三人組をとりかこむ、という恰好《かっこう》になった。川ちゃんがひっくりかえってもまだ三対五。こっちには鯨やんもいるし、高木も喧嘩《けんか》は結構強い、という話だった。ぼくも柔道黒帯だ。これまでにもかなりいろんな形の喧嘩をやってきたので、いざとなったらこの三人だけでも充分勝算があった。鯨やんが殴りかかったら自分もすぐとび出していこう、とぼくはなんとなく嬉しくなって身構えた。 「酔っているんだろ君たち」  川ちゃんに体あたりされてよろけ、荷物を落してしまった真中の男が、夜の通りの薄明りの中で妙に落着いた声で言った。酒の勢いもあってなんだか訳もなくいきりたった状況の中なので、その落着き方は変に不思議な不気味さがあった。 「まあ我々も酒をのんでいるんだから、あんたらも酔っているということでなら大目に見てやるけれど、これからさらにふざけた真似《まね》をすると許さんぞ」  真中の男は、厳しい声でそう言った。  機先を制され、ぼくたちは黙りこんだ。身構えた体もなんとなく動かなくなってしまった。  三人の男たちは何もできなくなってしまったぼくたちを薄闇の中でもう一度黙って見つめ、それからさっき来た時のようにまたゆっくり歩きだした。 「なんだあ? あいつら……」  暫《しばら》くしてから種一がひくい声で言った。 「わかんねえけど、なんだか警察関係のおっさんみたいだったな」  鯨やんが言った。 「ヘタにつっかけたらひどい目にあったかもな」 「ハッタリだよお、あいつらも」  霜降りの高木が地面に唾《つば》を吐きながら言った。 「どうだかな……」  かんじんの小耳の川ちゃんがあらかた酔ってしまっているので、なんだかもうキャバレーへ行く気分ではなくなっていた。  時間も十一時をかなり回っている。 「あーあ。オレ帰るかなあ……」  種一が、かくんかくんと首を左右に曲げ、くたびれた声で誰にともなく言った。 [#改ページ]   第7章 派閥|天丼《てんどん》  大阪支社からやってきた野々宮七郎は、まもなく常務取締役になった。なんとなく会社に来なくなり、このごろあまり見なくなってしまったなあ、と思っているうちに辞めてしまった専務の高根圭一に代って、野々宮が新たにその会社の重要な経営幹部になったわけである。  常務といっても、社員数たかだか二十数人の会社だから、大企業のレベルでいえば部長就任といった程度のものなのだろうが、若手社員たちは野々宮がやってきたことによって会社の経営にどのような変化が起きるのか、といった話題でしばらくもちきりだった。  野々宮は三十九歳、長身で、歳《とし》の割には奇妙なほどに黒くてたっぷり繁《しげ》った長い髪の毛に、いささか時代遅れのするポマードをなすりつけ、そっくりずらりとオールバックにしていた。全体に端正な顔だちをしていたので、あれは相当女を泣かせたのではないか、と言ったのは鯨《げい》やんだった。 「そうかなあ、今はあまりあの手の顔は薄気味悪がる奴《やつ》が多いんじゃないかな」  と、小耳の川ちゃんが酔って少々舌たらずのようになる、いつもの喋《しゃべ》り方で言った。 「顔はともかく、おっそろしく固い、という話だぞ。酒はあまりやらないし、賭《か》け事もとくに興味なし、趣味といえば麻雀《マージャン》と、プロ野球のラジオ放送を聞くことらしいよ。野球のテレビ中継じゃなくてラジオ、というのがなんとなくコワイよな……」  霜降りの高木が言った。 「森川さんがそう言ってたよ。おれと正反対の人だから……って」 「森川さんは遊び人だったからな」 「遊び人でも仕事のときはバリバリやる、っていうタイプだったから、今度はその点がいろいろ違ってくるだろうね。まあ最初はしばらく様子見だな……」  鯨やんが言った。彼はその太い指先が焦《こ》げそうになるくらいまで、最後のショートホープを喫《す》って、それからフィルターごと灰皿《はいざら》の中でもみつぶした。 「だけどみんな言ってますよね」  と、あたりの様子を窺《うかが》うようにして、坪田がひくい声で言った。坪田は少々太目だが、不敵な面《つら》がまえの中のちょっと場違いなくらいに小さな目が男のくせにくるくるとよく動いた。いつもヨソの人の耳をはばかるようにしてぼそぼそと低い声で喋る、すこし陰気な男であった。鯨やんを親分とするこのなんとはなしの若手社員酒のみグループに最近いつの間にか加わってきたのだ。 「なにが……?」  と、高木が言った。 「今度の常務はものすごく管理好きなんだそうですよ。もともとは経理畑の人でしょ、だからお金にもかなりこまかいし、会社から外に出ていくのもあまり好きじゃあないんだそうで……」 「ふーん」  と、鯨やんが言った。 「それから野々宮常務と鎌田さんはものすごく親しいんだそうですね。なにしろ二人はうちの会社が出来た当時の新入社員だったんですね。だから今度の野々宮常務の家も、鎌田さんが探して、自分のアパートのすぐ近くの借家を世話したんだそうですね」  坪田はすこし首をすくめながら、さらにひくい声で言った。 「そんな話、誰《だれ》が言ってたんだ?」  と、高木があまり意思や感情の入っていないような声で聞いた。 「いえ、誰というわけでもないんですけど……」  坪田は先輩社員たちの顔をなんだか妙に思わせぶりな目で素早くひととおり見回しながら言った。 「ちぇっ。区役所じゃああるまいし……」  小耳の川ちゃんが、あきらかに酔ってデキ上りつつある声で言った。 「なあるほど、どうりでこのごろ鎌田のごきげんがいいと思ったよ……」  鯨やんが川ちゃんの胸ポケットから黙ってショートピースを取りだした。 「鎌田も管理好きだからな……」 「区役所じゃああるまいし……」  川ちゃんがまたさっきと同じことを言った。  野々宮が東京本社に戻《もど》ってきたことで、関連して若手の人間の入れ換えがあった。鎌田のやっている一般家庭向けPR新聞の編集部に、営業から一人若手が回り、鎌田の編集部は一人増えて五人のチームになった。  しかしこのちょっとした人と机の異動は、いつの間にか全体の机の配置を動かす、という大袈裟《おおげさ》なものになってしまった。  最初、野々宮の机は、以前高根圭一が座っていたところをそのまま使う、というふうになっていたらしいのだが、ハットの鎌田が、「そこじゃあ社員のみんなと遠すぎるんじゃあないかなあ。これからはさ、こういう小さい会社は幹部と社員のコミュニケーションが一番大事ですからねえ……」などということを全社員に聞こえるくらいの大きな声で言った。  高根の座っていた机は、社長の机の前に独立して置いてあった。社員の方を見ながら学校の先生の机のように、なんとなく全体を管理監督するような恰好《かっこう》にすえつけられていた。  ハットの鎌田の提案は、編集セクションごとに寄せあっている社員の机の島に野々宮の机をぴたりとくっつけたらどうか、というものだった。 「ぼくはいいよ、どんなふうでも……」  と、野々宮はあまり表情の変らない顔で言った。  そのやりとりは、ぼくにはすこし意外だった。管理監督好きな男が座る席というふうに考えたならば、高根の座っていた前々からの机の位置が一番それらしいのである。その位置だと、まさしく区役所あたりの課長ふうの机の配置となって、恰好の上からでも経営者と部下、という関係が見えてくる。それをわざわざこわして、社員の机に密接させてしまう、というのは、かれらの考えていることとやることが少々アベコベなんではあるまいか、と思ったのである。  しかしハットの鎌田はどんどん机の配置を入れ換えていった。若手社員たちもいつも通りの仕事をしているよりは何か久しぶりに目新しいことが起りそうだというので、その配置換えを面白《おもしろ》がった。そしてほんの数カ所を換える、という筈《はず》なのが、いつの間にか会社中の机を動かすというような大ごとになってしまったのだ。  そして最終的におさまったのは、会社のフロアのほぼ中央の部分にそれぞれ八人ずつの机を寄せ集めた二つの大きな島型の机の頭のところに、ハットの鎌田と野々宮の机がぴたりとくっつく、という奇妙に整然としたものであった。  ハットの鎌田と野々宮はお互いに一般会社の部長ふう、といったおももちで机を並べあい、満足そうに椅子《いす》にすわった。  この机だけの大集合によって、それまで五つにわかれていたセクションが大きくふたつの机の島に統合する、ということになった。  営業と業界新聞の編集部が野々宮の机の前に、PR新聞と広告とぼくのいる「マンスリーサーベイ」の編集部が鎌田の机の前に集った。  そして、そのとき、はじめてぼくはハットの鎌田の考えていたことを知ったのだ。こういう形になると、本当に恰好だけでも野々宮と鎌田の二人による管理監督の非常に行きとどいた中小企業、というような風景に見える——のである。  坪田がちょっとネズミのようなあたりを窺う目をして話していたように、野々宮は会社の中が好きな男のようであった。毎朝きちんと九時半の定時より十五分早くハットの鎌田と一緒に出社すると、自分でインスタントコーヒーをつくり、それをゆっくりうまそうにのんだ。  野々宮と鎌田は湘南《しょうなん》の|茅ヶ崎《ちがさき》の駅で待ち合わせ、一緒にやってくる。どんな話をしてくるのか知らないが、とにかく小学生の登校のようにいつも朝は一緒なのだ。  鎌田のやっているPR新聞の編集は外に出ていくことが多いのだが、取材は若手スタッフが行ない、鎌田はデスクで原稿の割りつけや見出しつけなどしていることが多かった。そして野々宮は営業の監督と経理を担当し、やはり自分の机の前で、ソロバンをはじいたり、グラフを作製したりしていることが多かった。グラフは営業部員の成績とか、発行している新聞や雑誌の売上げの伸びを集計したり、といったものだ。  正午近くなると、野々宮と鎌田は連れだって昼食に出かけた。庶務のブロンディと、広告の押山がいつも一緒だった。そして野々宮の見ている営業の担当者や鎌田のセクションの社員などがよく誘われていた。 「この頃《ごろ》なんだかおかしな具合になってきたなあ……」  純喫茶ムラサキで、鯨やんが妙にケダルイ口調で言った。前の晩に新宿で飲みすぎたのだという。 「誰と飲んでいたかわかるか?」  鯨やんが、そんなこと誰にも聞かれていないのに、川ちゃんと高木と坪田、そしてぼくの顔を等分に見ながら言った。 「女だろ」  と、つまらなそうに川ちゃんが言った。 「ただの女じゃないんだよ」  鯨やんがくいと顎《あご》を引いてみせた。 「キンパツか?」 「そんなんじゃない。ゲーノー人よ」 「本当かなあ……」  鯨やんはその会社の中ではちょっと変ったハミダシふうを気どっていた。会社から外に出ると、我々とはまるで生活も仕事も違う友達づきあいをいろいろしているようだった。 「ゲーノー人ったっていろいろあるからなあ。三河万歳だって猿《さる》まわしだってゲーノー人だからなあ」  川ちゃんがすこしからかうような口調で言った。 「ちゃんとほんとのゲーノー人だい。ニューポップスの堀切さとみだよ。知ってんだろ」 「知らないなあ」  川ちゃんと高木が口を揃《そろ》えて言った。 「知ってんだろ、テレビに出たこともあるんだぞ」 「知らないなあ」  鯨やんの話はどこまでが本当のことなのか、よくわからないところがあった。新宿で酒を飲み、その女と大久保あたりのどこかの安宿に行ってきたのは本当なのだろうけれど、そのニューポップスのなんとか……などというのはきっとでまかせなのだ。しかしその頃のぼくらはそういう会話をわざと楽しんでいるようなところがあった。 「だけどなあ、それにしてもこの頃ちょっと、うちの会社なんとなくうっとうしくなったなあ」  鯨やんが口調を変えた。 「こないだは種一《たねいち》のやつが服装のこと注意されてたよ。ネクタイしてこいってさ」  高木がタバコの煙の小さな輪をふたつほどつくった。それは彼が得意としている技のひとつなのだ。  こげ目つき厚焼トーストを、ユミちゃんが持ってきた。ユミちゃんはマイコのあとにその喫茶店にやってきたパートの娘だ。前にいたマイコと正反対の、小柄《こがら》でちょこまかとよく動きまわり、頭のうしろから噴射するようなおそろしくカン高い声をだした。 「ネクタイして版下書くと、ネクタイの先がケント紙を掃除しちゃってまっ黒になるんですよね」  坪田がネズミ目を素早く動かしながら、うんざりした口調で言った。 「いろんなこと言いはじめたよ。経営の近代化なんだって……」 「あいつらなんだか女学生みたいなんだよな」  鯨やんが女の話をするときとはまたすこしちがった妙にケダルイ口調で言った。 「いい年してなにすんのも一緒なんだぜ。朝一緒にきて一日中机並べてお話して、一緒に昼めし食って一緒に帰るんだぜ。なんだよあれ……」 「それだけならいいんですけど、ああやっていつも一緒にいろんなこと話して、全員にきちんとネクタイさせるようにしようとか、経費のムダ使いをもっとチェックしようとか、そういう話ばっかりしているらしいですね。みんな言ってますよね、このままだと役場みたいになっちゃう……って」  坪田がひくい声で言った。  坪田の口癖はこの「みんな言ってますよね」というやつだった。彼は押山の下で広告の版下を作っているのでいつも会社の中にいることが多い。そのためにいろんな情報がいやでも耳に入ってきてしまうのか、若手の中ではとにかく一番社内のさまざまな噂話《うわさばなし》にくわしかった。しかしそれにしても、坪田の口癖の「みんな言ってますよね」の�みんな�とはいったいどのあたりのみんななのだろうか、ということがぼくはすこし気になった。もしかすると、こうして地下の喫茶店でいろんなバカ話をしている我々も、坪田がもっと別のところで言う「みんな」のうちに入っているのかもしれないな、と思った。  久しぶりに中野北口の飲み屋で木村晋介と酒を飲むことになった。彼とは一年ほど前まで一緒の自炊下宿をしていたのだ。二十二歳で司法試験を通った彼は、我々との共同生活に別れをつげて弁護士になるべく、司法修習生として長崎に越していた。長崎は彼の生まれ故郷でもあった。  彼と待ち合わせた飲み屋は駅の近くの「力」という店だった。学生の頃、アルバイトなどで金が入ると、エーイ決死のオオバンブルマイだあ、などと言って、何人かでここで当時の自分たちにはおそろしく高価な清酒をのんだりしたのだ。約束の時間に五分ほど遅れただけだったが、すでに木村は店の入口近くのテーブルでぽつんとひとり酒をのんでいた。 「やあ」  と、ぼくは彼の相変らずの四角い顔に片手をあげた。 「何カ月ぶりかだなあ……」  と、木村は言った。  木村はもともと意志の強い、しっかりとした迫力のある顔をしていたが、いよいよ本物の弁護士として世の中に出るのを目前にして、彼の貌《かお》は、数カ月前会ったときよりもさらに力強さを増しているように見えた。 「どうしたい。サラリーマン生活はうまくいっているか?」  木村は陽気に言った。 「うん、まあな……」  と、ぼくは言った。 「沢野はどうしてる?」 「やつも元気だよ。ついこのあいだ、おれの勤めている会社にきた。銀座のオデン屋で酒のもうぜって、いきなりやってきたんだ」 「相変らずだな。やつが一番変っていないんじゃないかな」  沢野の近況を聞いて、木村はまた嬉《うれ》しそうに酒をひとくちくいとのんだ。  沢野ひとしも、一緒に下宿生活をしていた仲間の一人だ。木村と沢野の二人が「さあ仕方がないけれど�社会�へ突撃だあ!」というようなかんじで下宿を脱出して一年がすぎていた。 「あいつはいま何をしているんだ?」 「うーん、こないだまでブラブラしていたようだけれど、せんだっての電話では絵本の出版社に就職がきまった、みたいなこと言っていたよ」 「そうか、絵本の出版社か、あいつにできるかなあ……」  木村が冗談とも本気ともつかない顔で言った。下宿の共同生活の時は、一番能力的にしっかりとしていた木村が家長役をしており、四人の仲間はそれぞれなんとなく四兄弟のように役割りの順列があって、沢野はたいてい末弟というかんじだった。  その店は、入口の横のところに通りの人に見せるような恰好で生《い》け簀《す》がしつらえてあって、いつも沢山の海の魚が泳いでいた。そしてこの店に入ると、ぼくたちはいつも一番安いイカやイワシを注文するのだった。 「おい今日は、マグロの刺身ぐらい食おうぜ、おれがおごってやるよ」  と、ぼくは言った。 「そうか、お前もいまや給料とりだからなあ」 「ああ、たいしたことはないけれどね」 「まあそうだろうな」  ぼくたちはコップ酒にしてもらい、なみなみとつがれた燗酒《かんざけ》をお互いの目の高さまで持ちあげ、だまってうなずいた。それからだまってお互いに半分までのんだ。店の外で都はるみの「アンコ椿《つばき》は恋の花」がひくくひくく聞こえていた。店のすぐ目の前に民謡酒場があって、そこではいつも演歌や民謡を流していた。  ぼくと木村はそれからしばらくよもやま話を続けた。三十分ほど経《た》った頃、どこか見おぼえのあるような若い女が店の入口にひょいと顔をのぞかせ、びっくりしたようにまたうしろに遠のくのが見えた。戸はあけたままだったので、女の白いタイトスカートだけがまだ見えていた。女はまたゆっくりと店の中に入ってきた。この店で誰かを捜しているようだったが、どうもその誰かというのはぼくの目の前にいる木村晋介のようであった。不思議なことになんとなく直感でそんなことがぼくにはわかってしまったのだ。  やはり思ったとおり、女は木村をたずねてきたのだった。木村の背中に見当をつけたらしく、ゆっくり回りこんで彼の顔を確かめると、 「どうも、おそくなってごめんなさい」  と、その女性は両膝《りょうひざ》をすこしかがめるようにして言った。 「おう、きたか」  と、木村は陽気に右手を彼女の方に差しのばし、軽く握手した。女はインド人のようにひたいの正面できっちりと髪の毛を左右にわけ、ひっつめにして頭のうしろで馬のシッポのように大きくまとめていた。小柄だが、彫の深い、いかにもかしこそうな顔をしていた。 「まあすわれよ。酒はのめなかったっけな。イカでもくうか」 「うん。おなかすいてるわ……」  女は躊躇《ちゅうちょ》することなく座り、それから素早くぼくの顔を眺《なが》め、かるく会釈《えしゃく》した。 「えーと、そうか、お前たちはじめてだったっけ。そうかそうか」  手にしていたコップ酒をおき、木村は両手を頭上にあげて「まあまあ……」というようなしぐさをした。それは彼がなにか小さな集りのときなどに、話題をひとつに統一し、みんなの耳目を一時的にひきつけよう、とするときなどによく見せるしぐさであった。 「えーと、まずですね、このオトコはぼくの親友のシーナ。よく話をしてただろ。えーとそれでこっちの女はぼくの高校時代の同窓生でハラダミズエっていうんだ」  ああ、やっぱりそうか、とぼくは思った。さっきその女性が店の入口でちょっと顔を見せたときに、このひとは木村を訪ねてきたのにちがいない、と直感的に思ったのは、前にきっと木村の家でこの女性が写っているスナップ写真を見たことがあるからだろうと思った。そしてこのハラダミズエというなんとなく透きとおったかんじの名前を何度か聞いたことがあった。 「ミズエはねえ、うちの高校の級長してたんだ」  と、木村はさらにつけ加えた。いかにも親しいクラスメートらしく、大人になってもミズエなどと呼び捨てにしてしまうところがなんとなくおかしかった。 「それでこのシーナはね、むかし千葉の高校で番長をしていたんだ。同じ長でも随分ちがうけどなあ……」  木村の乱暴な紹介は終った。ぼくとハラダミズエはなんとなくそのまま黙り、二人して木村が次に喋《しゃべ》ることを待った。  店の外からなんだかおそろしいくらい芝居がかった三波春夫の歌が聞こえていた。※[#歌記号]|俵星玄蕃《たわらぼしげんば》が雪をけたててさあくさあくさあく……!! と、絶叫しているのが聞こえ、そのなんともいえない違和感で、ぼくとハラダミズエは、思わず同時に笑ってしまった。 「きょうはね、このミズエとかほかの同期の連中が何人か集ることになっているんだ。みんな久しぶりなんでね」  と、木村が言った。  ハラダミズエがハンドバッグから茶色い大きなハンカチと、直径五センチほどもあるずしりと重そうな懐中時計をひっぱり出し、カチリという、かわいた音をたてて円盤状の蓋《ふた》をあけた。 「わたしがすこし早すぎたんだ。まだ八時半だものね」 「まだその時計使ってるのか?」  中をのぞきこみながら木村が言った。 「うん。使いだすとこれが一番ね」 「ずいぶんでっかい時計を持っているんですね」  思わずぼくが言った。 「ええ。こういう大きいのだと、本当に時間を知りたいときに本気になって時計を見ることができるから、わたしはこういうのがすきなんです」 「こいつはなんでもでっかいのがすきなんだよ」  木村晋介が言った。 「ええまあ、それもそうですけど……」  ハラダミズエが困ったような顔をして笑った。 「ハンカチだってえらくでかいしなあ。フロシキみたいだよ」 「定期入れも大きいんです」  そう言って机の下におしこんであった布バッグからハラダミズエは透き通った下敷のようなものを引っぱり出してみせた。それはよく見ると、大学ノート大のセルロイドが二枚重ねになった書類バサミのようなもので、その中に定期券とバスの時刻表、そして何か勤め先の交代当番表のようなものが挟《はさ》みこまれていた。 「うわあ、やってるなあ」  その巨大な多目的定期入れは、木村もはじめて見るもののようだった。 「この方が忘れなくていいんです」  ハラダミズエはそこでなんだかイタズラ小僧のように、肩をすくめ、いま出したものをそっくりあわててバッグの中にしまった。  木村が二合徳利入りの燗酒を注文し、ハラダミズエは壁に貼《は》られている墨文字の品書きを眺めはじめた。それぞれ注文の品物がくると、それからまたしばらくぼくたちはハラダミズエもわかるような、二、三年前の出来事を思いだす、というような会話を続けた。  木村が外に電話をかけに行ってしまったので、ぼくとハラダミズエはそれぞれお互いが聞きたかったことを話題にした。 「いまどこでどんな仕事をしているのですか?」というのがぼくが彼女にまず一番に聞きたかったことだった。 「まだ学生なんです。中国語を習っているんです。月、水、金とね。火、木、土はアルバイトです」 「はあ。中国語ですか?」 「ええ。でも難しいですね。発音がなかなかうまくいきません」 「そうでしょうねえ」 「ええ……。中国語のうたはいくつかうたえるんですけど……」 「ああ、中国語のうたね」  ぼくは中国のうたというのがどんなふうなものだったか必死になって思いだそうとした。しかし、相変らず店のすぐ外から聞こえてくる音色のきつい民謡にはばまれて、中国のうたやそのメロディをあたまに思いうかべることができなかった。  彼女は、ぼくがデパートの業界紙の会社に勤めている、ということをすこし知っていた。 「いまぼくはハンカチについての商品の動きを追っているんです。たとえばどんな人がどんなハンカチを買っているか——というようなことを……」  ぼくはすこし嘘《うそ》をついた。本当はハンカチではなくて、刺繍《ししゅう》商品についての取材をしているところだった。刺繍商品の中にはハンカチが重要な項目に入っている。木村が戻《もど》ってきても、なんとかこのハラダミズエという女性ともうすこし話がしていたい、と唐突に思ってしまったのだ。咄嗟《とっさ》に、さっき彼女が自分の膝の上に広げて置いた不思議なほど大きな茶色いハンカチで話をつなげていけそうな気がした。  しかし、そんな姑息《こそく》な工作は、戻ってきた木村の最初の一声でどこかへすっとんでいってしまった。 「おい大変だ、ミズエのお母さんが倒れたぞ!」 「えっ」  ハラダミズエが立上った。茶色い大きなハンカチが床に落ち、横から拾い上げる間もなく、濡《ぬ》れたコンクリートの床に張りついて、黒いしみをつくった。 「いや、そんなにたいしたことはないらしいけれど、でもまあすぐ電話をした方がいい」  ハンドバッグを握りしめて、ハラダミズエは外に出ていった。 「彼女のとこ、母一人、娘一人なんだよ。元気なおかあさんなんだけどな……」  木村がすこし頬《ほお》のあたりを引き締めた顔で、そんなことを、独り言のようにして言った。  いままで不定期に行なわれていた朝礼を、これからは毎週月曜日の朝にやる、ということになった。毎朝定時よりも十五分早く出社してくる野々宮とハットの鎌田が決めようとしているらしい、ということを最初に知らせてきたのはやはり早耳の坪田だった。  それまでぼくが、よその一般会社に較《くら》べて給料が安くても、仕事にあまりたいした誇りをもてなくても、なんとか面白《おもしろ》がってその会社に勤めていられたのは、そこが持っているなんともいえない荒っぽさと呑気《のんき》さが魅力だったからだ。出社時間は九時半と決められていたが、出勤簿もタイムカードもなかったし、遅刻したり早く帰っても、それぞれ直属の上司にそのことを伝えるだけで話がすんでしまう、というような、なんとも大ざっぱな気分のよさ、というものがその会社にはあった。しかしそれはあくまでも下《した》っ端《ぱ》の、使われる者だけが感じている気分のよさなのだろう。  野々宮とハットの鎌田が社内に四六時中居るようになると、いままでなんとなく交していた会社の中でのばか話もなかなかできにくくなってしまった。ほんのすこし前まで、社員のひけたあと、金のない若手社員が会社にもどってきて酒盛りをしていたのが遠いマボロシのようであった。  さらにおどろいたのは、会社にかかってくる代表電話を、野々宮常務がつとめて取るようになったことである。  その会社には七本ほどの電話回線が入っていたが、どこにかけてもすべての受話器のベルが鳴るようになっている。最初に受話器をとった者が相手の用件を聞き、社内のしかるべき人間の受話器に回す、というシステムになっていた。野々宮常務は自分の机にすわって、外からかかってくる電話のすべてに応《こた》えるようになったのである。  その頃《ころ》からぼくは電話が嫌《きら》いだったので、この野々宮常務の徹底ぶりには驚いてしまった。もともと野々宮には継続してやる仕事というのはたいしてなかったので、一日中会社の机に座っているのは彼にとって非常に暇なことだったのである。  しかしそれは、ぼくたちのような若手社員にとっては少々うっとうしいことでもあった。と、いうのは、社員もいろいろな用があって自分の会社に電話をかけることが多い。そのたびに、ぼくたちからみたら相当な上司である野々宮常務が会社の受付嬢のようにいつも電話に出てきてしまう、というのは随分とやりにくいことであった。  別にたいした用事もなく、あるといっても、鯨やんや川ちゃんに、「今夜どこかで酒でも飲む予定があるかい」などということを聞いてみるのがせいぜいだから、そこにいちいち会社の常務が出てきて取りつぐ、というのはどうもこまる話だった。  しかし野々宮は、そんなふうな電話の取りつぎを結構よろこんでやっているようだった。そしてそれまで、そういう外部電話の最初の取りつぎをやることの多かった庶務担当のブロンディは、少々面くらいながらも、その仕事量の物理的な軽減状態を素直に喜んでいるようであった。  その日野々宮常務は、ぼくの座っている席のうしろ側にきて、 「仕事、きりがつきそうかい?」  と、言った。野々宮の話しかたは、全体に女のようにやさしいのだが、話しているときに口の中で妙にべちゃりと唾液《だえき》がねばついているようなところがあった。 「はあ……」  と、ぼくは言った。  その日ぼくは「マンスリーサーベイ」に毎月載せているデパートの売上高のデータを、手回し式のタイガー計算機を使ってまとめていく、ということを一日中やっていたので、どこがどうなったらケリがつく、というような仕事でもなかった。 「はあ……」  と、ぼくはもう一度|曖昧《あいまい》なかんじで言った。それは聞く人によって、「まだまだ……」とも「いつでも……」ともとれるような返事になってしまったのだろうな、と思った。  野々宮が何の用でそんなことを言ってきたのかよくわからなかったので、ぼくも答えようがない、というところだったのである。 「よかったら、めし食いにいこうか……」  と、野々宮は、やはり口の中ですこしねばつくような声で言った。 「はあ……」  とぼくは言った。考えてみたらさっきからぼくは「はあ……」しか言っていない。眼《め》の前にある壁掛けの時計を見ると、十二時まであと十分、というところだった。  ぼくは時計を見ながら軽く頷《うなず》いた。 「いきましょうか……」 「うん、じゃあちょっといこう」  野々宮が気味の悪いほどひくい声で言った。  会社のドアをあけて外に出たところに、ハットの鎌田とブロンディ、それに押山と坪田がいた。坪田がそこにいるのが意外だったが、あとの顔ぶれは毎日野々宮を中心にして出かける、さながら�仲よし昼めしグループ�といった気配のある常連メンバーであった。 「おっ、今日はシーナ君も一緒かい……」  と、ぼくの顔を見ながらブロンディが言った。小柄《こがら》な彼は自分の体の小ささをカバーする意味もこめているのか、ヤクザか浪曲語りのような無理に押しころした声を出すのだ。 「ええ……」  と、ぼくはそこでも曖昧に頷いた。  野々宮たちは大体いつもなんとなく行く店というのを決めているらしく、誰《だれ》も何も言わないのに、揃《そろ》って同じ方向にぶらぶらと歩きだした。  新橋駅に向う西口通りをしばらく歩き、住友金属鉱山の大きなビルのあるところで先頭をいく押山が立止った。押山は社内で一番のしゃれ男で、どんなときでもかならず上下揃いのスーツを身につけ、胸からいつも真新しいポケットチーフをキラリとのぞかせていた。  その押山が、本日行くところを、本隊とその隊長に伺う、というようなそぶりを見せて振り返った。 「うーん、どーすっかなあ、今日は……」  と、ハットの鎌田が言った。はっきりと行くべき店が決まらないまま、みんなはその四つ角で突っ立ったまま互いに顔を見合わせた。 「そうねえ……」  と、野々宮がすこし前方の空を眺めるようにして言った。 「今日あたり、しばらくぶりに天丼《てんどん》でもどうかなあ……」 「あっいいね、しばらくぶりだからね」  ハットの鎌田が言った。 「おれはまあどっちでもいいから……」  ブロンディがナニワブシのような声で言った。  天丼というと行く店が決まっているらしく、そのまま押山を先頭にして、新橋六丁目にある「天鈴」という店に入った。夜になると天ぷらや鰻《うなぎ》を中心にした小料理屋になるらしく、店の外にいかにも昼のまかないアルバイトというかんじの小さな黒板がかかっていた。そこに昼食サービス、天丼、かき揚げ丼、鰻丼、穴子定食などのメニューが白墨で書かれていた。サラリーマン向けの昼食商売なので、いずれも三百八十円とか四百二十円といった格安の値段である。戸一枚分しかない細い入口を入っていくと、カウンターの奥に六|帖《じょう》ほどの座敷があった。そこは小さな衝立《ついたて》で二つの席に区切られていて、すでに片方は先客の三人組が座って何か丼物《どんぶりもの》をたべていた。 「今日はいつもよりすこし多いかな……」  と、ブロンディがなんだか意味もなく左の肩を大きく斜めに下げながら、言った。 「すいません、すこし窮屈になりますが……」  頭のてっぺんがコンパスを回したようにまんまるに禿《は》げてしまった店の親父《おやじ》が愛想《あいそ》のいい声を出した。 「いいさいいさ」  と、ハットの鎌田が言った。 「いいさいいさ、食えるのならば……」  と、野々宮がうたうようにして言った。  使用人らしい陰気な顔をした若い男がおしぼりとお茶を配り、野々宮たちはゆっくり手や首筋をぬぐった。 「何にしましょう……」  と、親父が言った。 「そうねえ……」  と野々宮が言った。 「ま、いつも同じになっちゃうけど、ぼくはA天丼でいきましょう」 「うん、おれもそれ」  と、ハットの鎌田がすかさず言った。 「Aでいいや」  と押山も言った。 「おれも同じのにしよう。シーナ君は?」  と、ブロンディが言った。 「えーと……」  ぼくは迷った。めったにこんな店に来たことがないので、メニューを見て考えてしまったのだ。まだ一度も食べたことのない穴子定食というのを注文したいなあ、と思った。 「おれもA天丼おねがいします」  と、坪田がへんに明るい声で言った。 「よおし、A天五つ。シーナ君はどうする。A天でいいかな」  ブロンディがせかすようにして言った。 「あの、えーとぼくは穴子定食というのをたべたいんですけど……」  ひくい声で言った。 「時間かかるよ。そういうの……」  と、ブロンディもひくい声で言った。 「えーとA天五つおねがいね。それとあとひとついま考え中!」  ブロンディが店の親父に言った。 「ほら、早く早く。A天でいいだろ」  ふいにぼくはかたわらのブロンディを殴りつけたいような衝動にかられた。すこしコメカミのあたりがつんと痛くなり、これは高校時代、喧嘩《けんか》にあけくれていた頃感じた雑踏の中でのいきり立ちの気分とまったく同じだな、と思った。 「ではA天六つでよろしいでしょうか?」  カウンターの中で親父がすこし尻上《しりあ》がりの口調で言った。ぼくは立上り、 「いやいいです」  と言った。 「いらないや。めしいらない」  と、ぼくは言った。  それから、すこしぎこちなく立上り、あまり座敷の野々宮たちの方を見ないようにして、黒く濡れた三和土《たたき》の上のぼくの靴《くつ》を捜した。そして、何か言っていこうかどうしようか、と迷いながら、しかし結局は一度も振りむかず、何も言わずに、店の外に出てしまった。  店の外に秋の正午があった。  ラーメン屋にでも入ろう、と思ったが、いますぐ入っても、気持の内側がすこし激昂《げっこう》しているかんじなので、あまり気分よく食べられないような気がした。  どうしようか。すこし歩いて、気持を落ちつけてからたべようか、それともコーヒーでも飲んでいようか、などということを中途半端に考えながら歩いていると、新橋の駅前に出てしまった。  なんとなく、誰か気分のいい奴《やつ》と話がしたい、と思った。いますぐ話がしたい、と思った。  早朝牛めし屋「あさめし屋」の横の赤電話を握り、手帳の裏に二日前書き記したばかりの電話番号を回した。果してウィークデイのこんな時間にいるのかどうかわからなかったが、いなくたってどうせいいや、と思った。いてほしいと思う反面、もしいたら何をどうとりつくろって喋《しゃべ》ったらよいか、そこのところが自分でもまだひどく曖昧だった。  呼び出しのコールが三回鳴ったあたりで、受話器のあがる音がした。 「はい」  と、若い女が言った。 「もしもし、ハラダさんですか?」 「はい、そうですが?」 「ハラダミズエさんですか?」 「はい」  とハラダミズエは言った。  ぼくは自分の名前を告げ、電話番号を二日前に木村晋介から聞いた、ということをなんだかすこしくどくどしく言った。それから電話をかける前に用意して考えていたことを言った。 「お母さんの具合はどんなですか?」 「はい。どうもありがとうございます。大丈夫でした。ちょっと重い貧血とめまいがかさなっただけのようで、一日入院しましたけれど、もう平気です。ご心配おかけしました」  電話のハラダミズエの声は、この前酒場で会ったときよりも落着いて聞こえた。 「ああ、それじゃあよかった……」 「本当にせっかくのいい気分のときに、すみませんでした……」 「いや、そんなのはぜんぜんいいんです」  と、ぼくは言った。 「今日は学校もアルバイトも休みなんですか?」  ぼくはそこで急にそんなことを聞いた。 「ええ。母のあんなことがあったものですから、一週間休みをとってしまったのです」  じゃあ、今あいているんですね。もしよかったら、今夜でもぼくと会ってくれませんか——。  ぼくは今の話のあとにそんなことを言いたかった。さっきの天丼のことで、なんだかよくわからないぼくの体の内側のいらいらしたものも、ハラダミズエに会って話をしたら、たちどころにどこかへすっとんでしまうだろう、と思った。  しかし、まだ一度しか会っていないただの友人の知りあいに、とてもそんなことは言えなかった。 「あの……」  と、ぼくは言った。 「失礼とは思いますが、ハラダミズエさんのミズエというのはどういう字を書くのですか?」 「あっ、わたしの名前ですか?」 「ええ」  ハラダミズエの声が急にフワッと軽くなったような気がした。 「ミズは王へんの瑞です。ミズミズしいの瑞です。それに木のエダの枝です」 「あ、そうですか。あのミズという文字ですか。わかりました。どうもありがとう」 「いいえ」  原田瑞枝は受話器のむこうで静かに笑った。 「どうもありがとう」  と、ぼくはもう一度言った。 「こちらこそどうもありがとう」 「ではまた……」 「ええ、またいつか……」  ぼくは受話器をゆっくり戻した。知らぬ間に受話器を握る手のひらに汗が出ていた。なんとなく、目の前を歩いている雑多な人々の群が、ふいにみんなみんないい人ばかりになった——ような気がした。 [#改ページ]   第8章 小瓶《こびん》のウイスキー  野々宮とハットの鎌田はたいてい何時《いつ》も一緒に出社してきた。そしてまた彼らは昼食もお互いが社内にいるときはいつも一緒だった。  幹部同士がこんなふうにすこぶる仲がいい、というのはとりあえず結構なことなのだろうが、男ばかりの会社のなかで、一番の古株社員であるハットの鎌田と常務の野々宮という中年男がこんなふうにいつも仲よし、というのはどうもなんだか異様な光景でもあった。  彼らが昼食に出かけるとき黙っていつも一緒に連れだっていく「派閥的昼食同行会」といった気配のある何人かのメンバーも、次第にはっきり固定化していった。  広告の版下づくりをしている坪田も、そのメンバーの新しい一人になっていた。坪田はぼくよりも若くて二十歳になったばかりだったが、妙に大人びて老成したようなところがあり、会社の中ではおおかたじっと黙りこんでいた。黙り込んで、じっとあたりの人々の話に耳をそばだてていた。  坪田は、鯨《げい》やんとか小耳の川ちゃんなどを中心にして会社帰りによくひっかかって飲んでいる安酒場にも顔を出していた。坪田はそこで野々宮常務とかハットの鎌田らの噂話《うわさばなし》をぼそぼそ話すことが多かった。その話は、昼間かれらと一緒に行く昼食の席で話題になったことをそっくり聞き知らせる、というようなものだったので、坪田の話はいつもなかなか興味をそそられる内容のものが多かった。 「本格的に経営の近代化をはかる、ってこのごろよく言ってますよね」  と、坪田はコップの中のいくらか飴《あめ》色に見える熱燗《あつかん》の二級酒にじっと目を凝《こ》らす、という、なんだか変に思わせぶりな恰好《かっこう》をしたまま、低い声で言った。  駅前の居酒屋「キンシ正宗」の黒光りのするテーブルを囲んで、鯨やんと川ちゃん、そして種一とぼくが黙って坪田の話を聞いていた。 「まず最初は出社時間を徹底して守らせる、っていってましたね。うちの会社はあまりにもそのへんがルーズすぎるって怒っていましたよ」 「ふーん」  と、小耳の川ちゃんが言った。  いつも決まった電車でやってくる野々宮とハットの鎌田は、いつでも会社のはじまる定時よりもきっかり十五分早く出社してきていたので、出社時間の競争をしたら若手社員は誰《だれ》もかなわない筈《はず》だった。若手社員には大体十日に一ぺんずつぐらいの頻度《ひんど》で回ってくる朝当番というのがあって、それはかならず出社定時三十分前にやってきて会社の鍵《かぎ》をあけ、社内の机を全部|雑巾《ぞうきん》で拭《ふ》き、全員にお茶を淹《い》れる、という仕事をするのだ。  その当番に遅れると、会社のドアが開かないので、出社してきた先輩社員がドアの前でそっくり立往生してしまう、という大変な事態を招くので、当番の日になると若手社員たちはいつもより確実に三十分早く起き、必死になって会社に駆けつける、ということをしていた。  そうしてそのほかの日は結構ルーズに定時より三十分ぐらい遅れてやってくる、という状況だった。そのことについては大堂社長もあまりうるさいことは言わなかった。  だからほとんどの若手社員たちは、普段の日は野々宮やハットの鎌田たちよりも遅い出社で、当番のある十日にいっぺんだけ、この二人が連れだってくるのを雑巾をしぼりつつチラリと眺《なが》める、ということができるのだった。 「そうか、いつかそういうこと言いはじめるだろう、とは思っていたけど、考えていたより早かったなあ……」  鯨やんが、鯨《くじら》というよりも牛を連想したくなる細い目をほんの少し光らせながら言った。 「タイムレコーダー入れるんだろか?」  種一が言った。 「どうすかね。そこまでは言ってなかったですけど……」 「タイムレコーダー入れると金かかるからな。うちの社長はケチだからそれはやらないよ。たぶんハンコだな、おれのみるところは……」 「うん、ハンコだな」  鯨やんが川ちゃんの意見に確信的に頷《うなず》いた。  この会社のいいところは出社時間がそこそこにルーズでよい、ということと、出勤簿とかタイムレコーダーのたぐいが一切ない、ということだった。  小さい会社だし、すこし間違うと自分たちのやっていることは所詮《しょせん》は閉塞《へいそく》した業界寄生虫のようなものでしかない、と妙に気持をおちこませてしまうような世界でもあったけれど、それを救っているのがこのルーズな開放感だった。  坪田や鯨やんたちの話を聞きながら、ぼくはじりじりと心の奥の方をいらだたせているのを感じていた。  ほんの一年ほど前、会社の屋上にある塔屋《とうや》の上にあがって、鯨やんたちと賭《か》けポーカーをやっていた頃《ころ》は、サラリーマンというのもこれはこれでなかなかいいものだ、と思っていた。屋上で賭けポーカーをやるかわりに、目の前に与えられた仕事に無心でとびつき、それはそれで結構|面白《おもしろ》かったのだ。 「みんな言ってますよね」  と、坪田がまた妙に思わせぶりに声をひそめて言った。 「そのうち毎日朝礼でもやるんじゃないかって。みんなそう言ってますよね」 「ふーん。そういうことになるかもしれないなあ」  川ちゃんがなんだかまるで人ごとのように、しみじみ感心したような顔つきで頷いた。 「そうなったらいっそのこと、みんなで毎日出来上った新聞でも売りに歩いた方がいいぜ」  鯨やんが下くちびるを突き出し、とりあえず彼の目の前にある坪田や種一の顔を睨《にら》みつけながら言った。  坪田は大人びた納得顔で、鯨やんの視線を受けとめた。 「まあ、まさかね、朝礼まではね……」  小耳の川ちゃんが言った。  その間、ぼくにはひとつの大きな試練がやってきていた。「マンスリーサーベイ」のたった一人の先輩社員だった藤本が予定より早く十月の末に退社していったのだ。そして経営の合理化とかで人員の補充という話はまったくなかった。一人で編集するようになると、どうしても原稿を印刷屋に渡す前が大変な作業量になった。  活版三十二|頁《ページ》の薄い雑誌とはいっても、とりあえずその三十二頁にびっしり活字を埋めていかなければならないので、原稿を書くだけでも相当に時間がかかった。自分で書いた原稿や、外部の人に頼んだ原稿が集ると、そこに見出しをつけ、割り付け作業をしていく。原稿を書きだしてからこの最後のレイアウトの仕事まで、大体十日ぐらいかかった。  レイアウトは全部の原稿が集ってからいっぺんにやることにしていたので、その日はどうしても夜遅くまでかかった。  十一月の、もう冬の到来を思わせる寒い日だった。ぼくは朝まで徹夜するつもりで仕事をしていた。翌日が丁度朝の当番になっていたので、そのまま会社にずっといた方がハナシは楽だ、と考えていたのである。  以前、鯨やんと小耳の川ちゃんが会社の中の深夜の寄りあい酒で口論した末に殴りあい、窓のガラスを割ってしまってから、ハットの鎌田によって会社内で酒をのむのは勿論《もちろん》、許可なく泊り込んだりしてはいけない、というふうに決められてしまった。  そこで、一人で残業するふりをして、そのまま朝まで居残り、朝起きの苦労なしに当番業務もしてしまおう、と個人的な作戦を考えていたのだ。  会社は残業手当というのは一切つかなかった。タイムレコーダーを設置しないかわりに残業手当もつけない、というのが大堂社長の考え方で、それは百貨店ニュース社のように男の独身社員が多い会社には、経営者側にとってとても賢いシステムだった。  業界紙といえども編集という仕事はやろうと思えば昼夜の関係なしに仕事ができる。タイムレコーダーのないのをいいことに遅く出社してきて、遅くなった分を残業でまかなう、というやり方が社員の側からしたら一番都合がいい。  残業手当は一切出さないかわりに、夜七時すぎまで仕事をしていた者は、三百五十円まで、という制限つきで会社もちの夕食を近所の店から出前注文することができた。  だから三つの編集部に所属する社員は、仕事が詰まってきたり、あるいは給料日が近くなって持ち金がさびしくなってくると、とりあえず七時まで残業して、夕食をたべてから帰る、というちゃっかり利用組が増えてきた。  注文できる店は会社の近くにある露《ろ》月庵《げつあん》という日本そば屋で、その店のカツ丼《どん》がちょうど三百五十円だった。  月末で、まだ若手社員のみんなはフトコロに余裕があるらしく、その日残業するのはぼく一人だけのようだった。  経理のブロンディが待ち合わせでもあるらしく時計を見ながらあわただしく出て行ったあとは、帰り仕度をするハットの鎌田と野々宮常務が残っていた。 「火、気をつけてね」  と、火元責任者でもあるハットの鎌田が、帰りがけになんだかあまりよく意味のわからない笑い顔を浮かべて言った。  野々宮はコートの襟《えり》を立て、オールバックの長い髪を左手で素早く撫《な》で上げながら、「ごくろうさん」とぼくの顔を見ずに言った。  ハットの鎌田の言う「火」というのは、トイレの横の小さな流し台の上についているガス瞬間湯沸器の種火のことであった。 「この頃、残業をやっていく諸君の中に、ガス湯沸器の火をつけたまま帰ってしまう人がいる。これは大変あぶないことなので、各自帰りがけに声をかけあって充分きちんと消していくようにこころがけて下さい」  と、十一月のはじめの月曜朝礼の折にハットの鎌田はキチンと背すじをのばし、そんなことを言っていたのだ。 「はい」  と、ぼくは自分の席にすわったまま軽く頭を下げた。 「タバコの火もたのむよ」  と、ハットの鎌田はソフト帽をピッと額の定位置に合わせると、もう一度こちらを眺め、そのままドアのむこうに消えた。  漸《ようや》く社内に誰もいなくなったのですこしホッとし、椅子《いす》に背中をもたせかけたままタバコに火をつけた。目の前の机の上に明日の朝までにやらなければならない原稿や数字の表が乱雑に散らばっていたが、集中してやれば五時間ぐらいで終らせることができそうだった。  ガス湯沸器の湯をやかんに入れ、一人分のお茶を淹れてのんだ。  それからしばらく数表の割り付け仕事をやった。これはただ単純に数字の表を書き換え、予定の三ページの中に入るように並べていくだけ、という仕事だからあまり面白くはなかったが、黙ってやっていると確実にはかどった。  気がつくと八時十分前になっていた。ぼくは慌《あわ》てて電話機にとりついた。露月庵は八時までに注文しないと出前をしてくれないのだ。カツ丼を注文し、そのまま小銭を握って外に出た。九時になるとビルのシャッターが閉まってしまうので、その間にタバコを買っておかなければ、と夕方頃から考えていたのだ。  ビルのシャッターが閉まっても、以前鯨やんたちとやっていたように、何時になっていようがビルの横にある人がやっと一人通っていけるような路地から二階の便所の窓にとりつき、強引に出入りする方法もあったがそれも一人ではあまりやる気はなかった。  新橋西口通りの酒屋でショートホープを二箱買い、すこし迷ってから、トリスウイスキーの小瓶《こびん》を買った。  会社に大急ぎで戻ると、赤ら顔をした露月庵の出前のお兄さんが、ドアの外で所在なげに突っ立っていた。ぼくと同じぐらいの年恰好で、露月庵には三カ月ほど前に入ったばかりのようだった。 「あ、どうもすいません」  と、ぼくは頭をかいた。 「いいんだ。これでしまいだもの」  露月庵の男は笑いながら自分の鼻のあたまをつまんだ。男の差し出した伝票に印鑑を押し、カツ丼の蓋《ふた》をあけた。この店のカツ丼はカツもめしもボリュウムたっぷりなので、会社の若手社員の間では一番評判がよかった。印鑑を押した伝票を翌日その店の出前の人が経理に持ってくると、そこで料金が支払われる。 「一人で残業かい?」  男はすこし遠慮っぽい口ぶりで聞いた。 「ええ」 「いいね、こういう会社は……」  ぼくはカツ丼の蓋をもう一度もとに戻《もど》し、男の顔を見た。 「だって残業代とかそういうのがいろいろつくんでしょ。夕はんは会社もちだし……」 「いやあ……」  と、ぼくは笑いながら言った。 「うちはチビ会社だからね、残業代なんてつかないんだ」  男はなんとなくいつもうすら笑いを浮かべているような赤ら顔を、ほんのすこしキュッと引き締め、 「ほんとけえ」  と、言った。 「ほんとうですよ」 「ふーん」  露月庵の男は目を丸くした。  九時までに電話が三本かかってきた。そのうちの一本は営業の土田というわりあい古株の男からで、何か自分に伝言がないか、机の上の伝言メモを見てくれ、というものだった。  伝言は得意先から入った何件かの電話を記したもので、それらを伝えると、土田はあまり感情の入っていない声で、「あ、そう、じゃ、どうも」と言った。そして、素早く電話を切った。その会社の営業担当部員は五人いたが、若手の多い編集部と違って五人はいずれも年輩者だった。  営業の仕事は新聞に載せる広告を集めてくる、というのが主《おも》なもので、集めてくる広告料金の何パーセントかがかれらの収入にプラスされた。そのため、編集やその他の制作仕事をしている社員より基本給は低かったが、かなりの歩合給がプラスされるので、実際に手にする給料は営業の人たちの方がはるかに多い、という話だった。  営業担当の社員はあまり会社にはいなかった。いつまでも会社にいたら仕事にならないのだからいないのがあたり前なのだが、もうひとつ別に、営業の人々は会社の中の若い社員とあまり親しくつきあおうとしない、という別の事情もあった。  年輩者の多い営業の人々は、より効率のいい外勤仕事を求めてあちこちを移り歩いている、という人もいて、百貨店ニュース社に勤めても一年ぐらいで辞めてほかへ移っていく、というケースが多いようであった。  もうやめてしまった先輩社員の米田耕一が酒場でなんとなくつぶやいていたのを、その後ときどき妙になつかしく、そして静かに納得しながら思いおこすことがあった。 「おれたちみたいな会社でなあ、本当のプロっていうのは自分の舌先とハッタリで広告をとって歩いている営業の人たちなんだよ」  と、ベエさんは酔ったまぎれのようなかんじで、何かあるたびにひくい声でそんなことをつぶやいていたのだ。  ぼくはさっき買ってきたウイスキーをコップに半分ほど注《つ》ぎ、そのままストレートでぐいと呑《の》んだ。生ぬるくて、すこし喉《のど》の奥で咳《せき》こむようなかんじだったが、からだ全体に対してなんだかいい刺激になった。  胃の内側が瞬間的にあつく燃え、体の中に入ったウイスキーの匂《にお》いが鼻の先をくふんとかすめるようにして通りすぎていくのがわかった。  小瓶一本ぐらいだったら、すっかり呑んでしまっても充分普通のままで仕事ができる、という自信があった。  ウイスキーの小瓶を手に持つと、いつも反射的に捺染《なつせん》工場のアダチさんのことを思いだしてしまうのだった。  捺染というのは、タオルに文字を印刷する仕事で、学生時代に一時期かよっていたアルバイト先の町工場だった。  工場は国電浅草橋の駅から歩いて十分ほどの、人形問屋が密集している仕舞屋《しもたや》だった。  アダチさんはそこの工場主任で、なんだか病気でもしているのではないかと思えるほどに青白く痩《や》せ、頬骨《ほおぼね》の突き出ている顔に度の強い眼鏡をかけていた。  工場主任といっても、工場で働いているのはアダチさんを入れて五人だけだった。そのうちの一人は社長の奥さんで、段ボールに入った真白なタオルを引っぱり出し、印刷機にのせやすいように五十枚ぐらいずつ四台の捺染の機械に分配し、会社名などが印刷されたタオルをまた段ボールの中にしまう、という仕事をしていた。そうして残りの三人はアダチさんと同じように捺染の小さな機械を動かしていた。  ぼくはアダチさん以外の三人の機械職人の助手、というふうに説明されたのだが、実際には朝から夕方まで休みなく続けているそれぞれの機械職人のパートの交代要員であった。  印刷機の職人といっても、仕事そのものはいたって単純で、せいぜいミシンの操作をおぼえる程度のものですぐに捺染の機械を動かすことができた。  印刷機は円盤状になった台座にタオルを一枚ずつあてがい、ペダルを踏むとインクのついたローラーが印字の上を走り、同時に円盤が印字にガチャリと顔面をぶつけるようにして動いた。円盤が再び離れたときにはもうタオルの端に文字や絵が印刷されており、それを素早く抜き取って、次の白いタオルをまた円盤にのせる、というのが一連の作業手続きだった。  この作業や手順は三日ほどで完全に自分のものになり、アダチさんは、「それじゃあ申しわけないけど……」といいながら、一人の中年の女性が担当していた機械をそっくりぼくと交代するように指示した。  その中年の女性はなんとなく西遊記《さいゆうき》の沙悟浄《さごじょう》を連想させる小さくてひねこびた顔をしていた。  このアルバイトは一カ月ほどでやめたのだが、やめる頃になって、その沙悟浄のような顔をした女がアダチさんの奥さんである、ということを知った。アダチさんは夫婦でその会社の仕事を二十年もやっているのだ、ということもその頃知った。  三週間たってやめる日に、アダチさんは事務室でウイスキーのポケット瓶を湯のみ茶碗《ぢゃわん》についでうまそうにのんでいた。 「ウイスキーはこれがいいね、これが一番だよ」  と、アダチさんは陰気な顔のまま言った。その隣りで沙悟浄のような顔をした奥さんが黙ってお茶をのんでいた。  工場は六時に終了し、そこもほとんど残業というのはなかった。事務室に行くことはあまりなかったので知らなかったのだが、アダチさんは一日の仕事が終ると、そこでかならずウイスキーをのみ、奥さんと一緒に家に帰るのだという。アダチさんは二十年勤務しているが、奥さんは十年前からだ、というのも、その最後の日に聞いて知った。  アダチさんが事務室でウイスキーをのんでいる光景を見ながら、ぼくはその夫婦の家庭での姿もおそらくそっくりそのままなのだろうな、と思った。工場主任といってもアダチさんの給料は捺染の消化仕事量によって歩合で払われる、というのを知ったのもアルバイトをやめる間際《まぎわ》だった。歩合給というのはなんとなくわびしいものなのだな、とそのときすこし真剣に思ったのだ。  コップの中のウイスキーを、ぼくは時間をかけてひと口ずつ、歯で噛《か》みくだくようにして呑んだ。  胃があつくなると冷たくなった番茶をのんだ。  十一時になる頃、コメカミのあたりが勝手にひょこひょこ踊っているような気分になった。酒は強い方だと思っていたが、その日はなんとなく義務みたいにぐいぐいとおしこむようにして飲んでいたので酔いが変なふうに早く回ってきたのかもしれないな、と思った。  仕事は、はかどっていた。十一時には予定していた量の三分の二ほどすんでしまったので、 「ようし、いい具合だぞ、一人編集部立派立派……」  と、ぼくは大きい声で独り言を言った。  独り言を言ったところでいきなり電話が鳴りはじめたので、えらく緊張してしまった。  しばらく黙って黒い電話機を眺《なが》めていたが、十回以上もコールが続いているので、迷いながら受話器をあげた。 「もしもし」  と、そんなに若くない女の声がとつぜんいきなり受話器のむこうからとびだしてきた。新橋の繁華街あたりからかけているのか、女の声は耳もとにものすごく大きく響き、声のむこう側に演歌のようなものが聞こえていた。 「もしもし」  女の声音はさっきよりもすこし陽気になっていた。 「はい」 「ああさんいる」  と、女は言った。 「はあ」 「ああさん出してよ」 「ああさんって……」  ぼくは女のすこし詰問《きつもん》調になってきた声の気配を感じながら、自分の会社の中に果して「ああさん」と呼ばれる人はいただろうか、と大急ぎで考えた。しかし考えながら、もし「ああさん」と呼ばれる人がいたとしても、とにかく今はここにいないのだ、ということに気がついた。けれどそのことに気がついたのと同時に、 「アラスカでしょ?」  と、女はすこし怪訝《けげん》そうな声で聞いた。やはり最初にちらりと思ったように、これは単純な間違い電話だったのだ。 「いえ」  と、ぼくは言った。 「なんだ。早く言ってよ、ばかね」  唐突に電話は切れた。  ぼくも受話器をおろしながら、なんとまあひどい電話だろう、と思った。自分で間違い電話をかけておいて「ばかね」と言って切る女というのは果してどんな顔をしているのだろうか、とそんなことを次に考えた。それからいきなりものすごく腹が立ってきた。 「アラスカだと? なにを言ってやがる、ここは新橋だ、うるせいや!」  ぼくは一人で口に出して言った。 「ちっくしょう!」  もう一度言った。  窓をあけて外の空気を入れた。  十一月の夜気はびっくりするほどするどく冷えていた。つめたい外の空気が、それを素早く吸い込んだ鼻の奥や頭の中におそろしく気持がよかった。  近くを走る第一京浜国道のあたりで、重い車がスピードをあげて走っていく音が聞こえた。その重い音にまじって反対側のどこか遠いところでパトカーのサイレンが赤くとがったような音をあげて、見えないそのあたりの闇《やみ》を切り裂いていた。 「夜だ夜だ」  と、ぼくは窓をあけたまま、晩秋の夜気にむかってまた声に出して言った。さっきの間違い電話からふいに独り言が癖になってしまったようだったが、同時にもしかしたら自分はいますこし酔っているのかもしれないな、と思った。  ふいに原田瑞枝に電話をかけたくなった。けれどそれは、正確にはふいにそう思ったというわけではなくて、かなり前からずっと頭の隅《すみ》でそのことを考えていた——ということをぼくは知っていた。  すこし迷ったけれど、結局ダイヤルを回した。迷ったのは、こんな時間にまだ一度しか会ったことのない人の家に電話をかける、それだけの用件というのが見つからなかったからだ。けれどそのことで何時《いつ》までも迷っていると、さらにどんどん時間がすぎていって、さらにもっと大事な用件がなければかけられなくなってしまう、ということもわかっていた。そうして結局、ぼくはその日の夕方あたりから、結局原田瑞枝に電話をかけるその理由というのを、ずっと考えていたのだ、ということも、自分でよくわかっていたのだった。  電話に最初に出たのは原田瑞枝のお姉さんのようだった。  自分の名前を告げ、夜おそく申しわけありません、とつけ加えた。しばらくおいて原田瑞枝の聞き覚えのある、低いけれどよく通る声がした。 「どうもしばらくでした。寒くなりましたね」  と、原田瑞枝は言った。 「夜おそくにすいません。いま出た人はお姉さんですか?」 「え?」 「さっきはじめに電話に出た人です」 「ああ……」  受話器のむこうでかすかに笑う声がした。原田瑞枝本人が笑っているようだった。 「母です。私の母です」 「あ、そうでしたか」  ずいぶん若い声だったので、彼女の母親ということなどまったく考えもしなかったのだが、そういえば木村晋介が前に彼女を紹介してくれたとき、母一人、娘一人なのだ、と言っていたのをすっかり忘れていたのだ。 「いま私ね、お母さんの足のマッサージしてたんです。そろそろ手が疲れてきたな、って思ってたところだから丁度よかった……」 「マッサージ中断していいんですか?」 「いいの、毎日だから。母はリウマチなもんだから……」 「あ、そうですか」  リウマチという病気がどういうものなのか、よくは知らなかった。 「わが家は十時すぎは診療所タイムでね。母のマッサージがすむと、私はアカギレの薬つけるんです」 「は」  ぼくはそこで笑っていいのかどうかよくわからなくなって、曖昧《あいまい》な声を出した。診療所タイムなどというと、笑ってはいけないような気がしたが、しかしアカギレの薬をつける、という程度なら陽気な話なのだろうな、と続いて思った。 「いまどこにいるんですか?」  原田瑞枝の声の調子がすこし変った。受話器のむこうで、なにかやかんかおなべのようなものが激しく床に落ちる音がした。 「おかあさん、やるから、わたしが」  受話器から離れて、原田瑞枝のすこし高い声がした。 「あ、どうもごめんなさい」  彼女の声がまた電話回線の中にそっくり戻ってきた。なんだかあまりたいした用件もない電話を、こんなふうにいつまでもかけているのがまずいような気になってきた。また明日、かけ直します、と言おうと思ったとたんに、 「いま、どこにいるんです?」  と、原田瑞枝はさっきと同じことを聞いた。 「あっこちらですか。あの、いまは会社にいるんです。新橋の、自分の会社でまだ仕事してるんです」 「ああ、そうなんですか。さむくはないですか?」 「ええ、窓をあけてると、すこし寒いですが、閉めておけば平気です」  なんて、つまらないことを言っているのだオレは……と、原田瑞枝の聞いていることにこたえながら、ぼくは急速にイラダチはじめていた。秋の夜ふけに、話したかった女性といま話をしているのだ。なにかもっと気のきいたことを言ってもいいじゃないか、とぼくは急速に高まっていくイラダチの中でそう思った。 「あ、それであの……」  と、ぼくは口調を改めて言った。 「はい」 「あの、木村晋介から電話はなかったですか?」 「あ、木村君? いいえ。ここしばらく何も……」 「あ、そうですか。じゃ、いいんです」  これでなんとか、夜中に電話したとりあえずの理由がはっきりしたことになるからな、とぼくはそこで一方的に納得した。 「会社でこんな時間まで残業ですか?」 「いや、残業というよりも夜ナベというやつで……」 「わあ、朝まで仕事ですか?」 「ええ、月一回はたいていこうなるんです。一人しかいないもんですから」 「大変ですね」 「いや、ウイスキーのみながらやったりしますから」 「わあ、いいなあ」 「いえ、まあ飲むのは少しですけど……」  また受話器のむこうで、何か硝子戸《ガラスど》のようなものが大きな音をたてて閉まるのが聞こえた。 「ちょっとごめんなさい」  原田瑞枝が受話器を置いて別の場所へ行くのがわかった。やはりたいした用件もなく永い時間こうやって話をしているのはまずいような気配であった。 「ごめんなさい」と言ってまた受話器を握った原田瑞枝に、ぼくはもうこのへんで失礼します、ということを告げた。 「そうですか。では頑張《がんば》って下さい」  と、彼女は言った。 「ええ。あなたもね」  と、ぼくは言った。  受話器を置き、ぼくは椅子《いす》から立上ってなんとなく頭をかきむしり、「うーおーおー」と、ひくい声で唸《うな》った。まったく意味のない唸り声だったが、なんとなく体全部をつかって何かそんなまるっきり意味のないことをしなければいられないような気持だった。  原田瑞枝が、おそらくあまりゆっくり電話で話をしていられないような状況の中で、「何の用件ですか?」と一度も聞こうとしなかったことが、ぼくはとにかく嬉《うれ》しかったのだ。「よおし、やったぞ」と、ぼくはヘンテコな声を出しながらそう思った。  もう一度窓をあけ、さっきと同じ新橋五丁目の夜の空を眺めた。まるっきり真暗だと思っていた空が、全体に薄ぼんやりと白っぽい闇になっているのに、そのとき気がついた。 「そうか、アカギレに薬をつけているのか……」  と、ぼくは窓の外の白っぽい闇にむかって、またさっきと同じように独り言を言った。それから田舎の子供じゃああるまいし、どうしていまどきアカギレなんかあるのだろうか、ということがすこし気になった。なんとなくそれは、彼女の母のリウマチと関係があるような気がした。洗濯《せんたく》とか炊事とか、そういうことを母親に代って彼女がみんなやっているので、それでアカギレができているのかもしれないな、と思った。その考えはほぼ間違いないことのように思えた。  そして、いまどきアカギレのある女性というのは、なんだかとてもいいな、と思った。 「いいぞ、なかなかいいぞ……」と、ぼくはまた外の闇にむかって一人で声にだして言った。  どういうわけなのか原田瑞枝と電話で話したあと、仕事のスピードが急に遅くなってしまったが、午前三時|頃《ごろ》に漸《ようや》くひととおりのことが終った。そのあいだに何時もよりタバコを喫《す》いすぎたらしく、口の中がおそろしく苦くなっていた。部屋の温度も宵《よい》のくちから較《くら》べると相当に下ってきているようで、指先がすこし冷たくなっていた。  散らかった机の上をそのままにして、コート掛けから自分のコートと、それから二着ほど掛けたままになっている誰《だれ》か持ち主のわからないコートを持ってきて、背中と足の上にかけた。そのまま机の上に突っ伏して、すこし体全体の力を抜いた。  とりあえず予定の仕事を終えた、という安堵《あんど》感と、なんだかもわもわと体の内側からわきたってくるような、やわらかい気分のよさがあった。その気分のよさは、原田瑞枝と前よりももうすこし気持を通じ合わせることができたような気がする、というやわらかいヨロコビだった。  突っ伏した机の上にゆっくり息を吐き、頭の中のあらゆる断片的な思考や神経のすべてを停止してしまおう、と思った。また大きな息を吐き、そして息を吸った。それからきわめて自然な、ゆっくりした呼吸に入ろうとした。ごわごわと、足のはるかなずっと下の方で、地面がかすかにひくくふるえているような気がした。思考と気持が体の内側にずるずると漏斗《じょうご》の縁《ふち》をたどるように落ちこんでいくのがわかった。 「どおーん」  という、大きな音が頭のうしろ側を突き刺した。なんだか他人の所有物のようにべったりと重くなってしまった体と頭をようやく持ちあげ、慌《あわ》てて目の前の人物に眼《め》の焦点を合わせた。 「どうしたの?」  と、眼の前の男が、いやに白っぽく見える顔のまん中で言っているのがわかった。  ハットの鎌田と野々宮常務が眼の前に立っていた。 「あのままやってたのか?」  と、ハットの鎌田が言った。  ぼくはのそのそと立上り、とくにどうという意味もなく髪の毛と顎《あご》のあたりを交互にかきむしった。立上った拍子《ひょうし》に肩と足にかけていたコートがずり落ち、机の上のマンスリーサーベイの割付用紙が、自分の涎《よだれ》ですこし濡《ぬ》れているのがわかった。  壁の時計を見ると九時十五分になっていた。あと十五分で朝の当番のひととおりの仕事を終えなくてはならない時間だった。  コートを脱いだ野々宮常務がちょっと不機嫌《ふきげん》そうな顔をして、自分の机の上に持ってきた新聞をバサリと置いた。 「今朝の当番は誰なんだろうな、まったく……」  ハットの鎌田が言った。 「あっ、ぼくです、今朝はぼくが当番なんです。どうもすいません」  ぼくはようやくすっかり眼を覚まし、さて朝の当番の仕事は何から手をつけていったらいいのだったか、ということに気持だけあたふたさせながら、大きな声で言った。  やかんをガス台にかけ、すぐにバケツの水で雑巾《ぞうきん》をしぼると会社の中の机を拭《ふ》きはじめた。ハットの鎌田が朝はいつもそうするように、流しに行って大きな音をあげながらうがいをしていた。野々宮常務は自分の机にむかって持ってきた新聞を眺めている。社長と経理や庶務係が集っている机のひとかたまりを拭いたところで、総務の松井喜三郎がせかせかした足どりで出社してきた。 「や、おはよう。早いね」  と、松井がしわがれ気味の声で言った。電話のベルが鳴り、松井が取った。 「はあはあ、百貨店ニュース社ですが……」  ふたつの編集部の机を拭き、流しに戻《もど》って雑巾をゆすいだ。次はいよいよ自分の机のあるひとかたまりだ。だけど自分のところはどうでもいいや、と思った。どうせゆうべの仕事のままなのだし……机の上を拭こうが拭くまいが別に毎日の仕事にあまりさしつかえはないのだから……と、いつも思っていたのだ。  それでも自分の机のまわりの他の人の机を拭かなければならない。  うがいから戻ってきたハットの鎌田が、ズボンのポケットに手をつっこんだままぼくの机の上を眺めていた。 「どうもうっかりいねむりしちゃってすいませんでした。いまお茶|淹《い》れますから……」  と、ぼくは自分でもじつに卑屈でいやだなあ、と思えるくらいの明るい声で言った。  ハットの鎌田はぼくの顔をだまって眺め、それからゆっくり視線を机の上に戻した。ハットの鎌田の視線の先に、ゆうべのんでいたウイスキーの小瓶《こびん》がころがっていた。朝になったら片づけておこう、と思っていたのだが、いねむりしてしまったので、ついそのままで忘れていたのだ。  ハットの鎌田はしかし何も言わず、わざとらしいほど不機嫌な表情をつくって、黙って自分の席にすわった。 「てけてけてけてけ、おや、当番?」  妙におどけた口ぶりで種一が背中を丸めながら入ってきた。  ぼくはウイスキーの空瓶を自分の机の引出しの中に放《ほう》り投げ、「まあいいや、どうだって……」と思った。 「お湯わいてるよ。ぼくがやろうか」  と、松井喜三郎が入口に顔を出して言った。そのうしろからのっそりと営業の土田が太った体をあらわした。 「あ、いいです、いまやります」  また電話のベルが鳴った。 「はい、百貨店ニュース社です」  すばやく野々宮が自分の前の受話器をとった。代表電話式になっているので、最初に受話器を取ったところが受付のようになるのだ。  さあそれじゃあ、やかんのお湯をポットに入れようか、と流しの方に行きかけたところで野々宮常務の声がした。 「シーナ君、電話だ」  ぼくは立止り、ゆっくり振りかえった。野々宮常務の笑わない眼が会社の中の、ほぼ中央にあった。 「君に電話、女の人からだ」  女から、こんなに朝はやく、一体誰なのだろう、とすこし錯綜《さくそう》した気分で素早く思いをめぐらせた。ふと、原田瑞枝の顔が頭にうかんだ。  あの女《ひと》からなのだろうか、よりによってこんな状況のときに、なんと間がわるい電話なのだろう。これじゃあ、せっかく電話をもらっても気分のいい受け応《こた》えなどできないじゃないか。  中央のところにある電話の受話器をあげる。それを見とどけて、最初に電話を受けた人が受話器をおろすと、新しいところにつながるようになっている。  手の中で電話の回線のつながる音がかすかに聞こえた。ハットの鎌田が視線をこちらにむけているのがわかった。  まあいいや、どうだって……。  と、ぼくはまた思った。流しのガス台の上でやかんのお湯が煮えたぎっている音がきこえていた。 「はい、もしもし」  と、ぼくは、自分でもなさけなくなるくらいのひくい声で言った。 「はい、もしもし」  しかし、受話器からは何も聞こえなかった。いっとき空電状況のようなブーンという音が続き、それからツーツーツーという無機質で断続的な音がせわしく鳴りつづいていた。 [#改ページ]   最終章 さよなら鯨《げい》やん  鯨やんがいきなり会社を辞めることになった。純喫茶ムラサキに入ったとたんにぼくを見つけて、そのことを大ニュースのようにして知らせてくれたのは種一《たねいち》だった。 「なんでもさあ、オートレースの新聞をやるんだって。友達に前から呼ばれていたらしいんだな」 「本当かなあ……?」 「本当だ。もう今月いっぱいでやめます、って野々宮さんに話してしまったらしいよ」 「ふーん」  少々複雑な気持だった。業界紙の仕事というのはやれることが限られているし、仕事の手順はいつも同じようなものだった。みんななんとなくそのことを無理やり妥協しながら毎日勤めている、というようなところがあった。 「ふーん、オートレースの新聞かあ」 「給料がものすごくいいらしいよ。ざっといまの二倍だってさ」 「はいミルクたっぷり入りコーヒー。トーストはいいの?」  ウェイトレスのユミちゃんがすこし上向きに鼻をツンととがらせるような、何時《いつ》もの得意のポーズで種一の注文したものを持ってきた。 「いるよお勿論《もちろん》。おれの朝めしだもの、今日はタマゴつけてくれないのかな?」 「だめよ、今日はマスターがきっちり見てるから」  ユミちゃんがすこし小腰をかがめて言った。 「ぼくは薄いコーヒー」 「それはアメリカンというんだよ、ねえユミちゃん」  種一が鼻の下に人差し指を素早くひゅんとこすりながら言った。 「そうなの?」 「そうさ。薄いコーヒーのことを正式にはアメリカンコーヒーというのさ。いま六本木あたりではみんなそう言ってるよ」  種一が自慢そうに顔の下半分だけで笑った。 「ふーん。じゃそのアメリカンをひとつ」 「お湯で割るだけなのにね」  騒々しく入ってきた数人連れの客に目を走らせながら、ユミちゃんがすばやく言った。 「野々宮さんは何て言ったんだろ」 「そうか、残念だな、とそれだけだって……」 「三年近く勤めていたんだろ」 「三年半だって……」 「ふーん」  なんだかぼんやりと心細いかんじになってきた。彼が我々のなかから居なくなる、ということは完全にリーダーを失なう、ということであった。 「いいよな、給料が二倍だなんてな……」  種一が熱っぽく言った。 「どんな仕事なんだろう?」 「今と同じようなもんじゃないの」 「そうかな」 「そんなもんだよ」  ユミちゃんとマスターの青木さんが互いに激しく頷《うなず》きあいながら何事か話をしているのが、ぼくの視線の正面に見えた。その前のボックス席にいる客の顔の方が距離としてはずっと近いのに、それよりもカウンターの中の二人の表情の方が鮮明に見えるのは、二人の頭の上にあるダウンライトのせいなのかもしれないな、ということに気がついた。 「マスターの青木はもうあのユミちゃんとデキてるぜ、まあ九八パーセントの確率で間違いないな」と言っていたのは鯨やんだった。鯨やんというのはそういうきわどいことをおそろしく断定的に言ってしまう、という癖があるのだが、おかしなもので、彼がそう指摘すると、うーむなるほどなあ、などと思ってしまう。  マスターの青木さんというのは三十五、六のやさ男だったが、細身の体に生えている胸毛が自慢のようで何時もワイシャツの第二ボタンまではずし、そこからちろりと自慢のものを垣間《かいま》みせている、というなんだかすこし見ていて滑稽《こっけい》なかんじの男だった。 「ああいう男にな、結構ハクイ女がころっといっちゃうことが多いのよ。すこし間違えるとヒモになるタイプだものな、あいつ」  と、いつだか酒を呑《の》んでいるときに鯨やんはそんなふうに解説していたのだ。  鯨やんそのものも、何かにつけてワルを気取っている、というようなところがあったが、ぼくは時々、鯨やん自身も相当に愛すべき巨漢の道化ではないだろうか、と思うことがあった。まあしかし、どちらにしても彼がこの会社を辞めていってしまう、ということは淋《さび》しい話だった。  夕方、沢野ひとしから電話がかかってきた。 「ねえ、君お金ある?」  彼は例によって前置きなしにいきなり用件に入る、というやりかたで、すこし間のびした声を出した。もうあと十五分ほどで五時三十分の、定時の退社時間になる頃だった。 「お金ってどのくらい?」 「二、三千円かなあ。千五百円ぐらいでもいいや」  相変らず沢野ひとしは不思議なモノの言い方をした。高校時代からずっと続いている親しい友達なので、そのへんの癖はもう全然気にならない。 「それをどうするんだよ?」 「うん。酒でもおごってくれよ。今日ぼくはお金がまったくないんだ。だからね、そういうお願いをしているの」  彼とは随分会っていなかった。司法修習生という弁護士のタマゴとして長崎に行っている木村晋介とともに共同生活をしていたのだが、お互いに社会に出てしまうと、前ほど頻繁《ひんぱん》に顔を合わせる、ということはなくなってしまった。彼は早稲田にある絵本の出版社に勤めていた。  六時三十分に高田馬場駅の改札口で会うことにした。お金は二千円しかなかったので、経理のブロンディのところに行って大急ぎで給料の前借りを頼もうか、と思ったが、机の前にブロンディの姿はなかった。もう帰り仕度のために洗面所に行っているのかもしれなかった。帰りの間ぎわにそういうことを申し入れるわずらわしさを考えて躊躇《ちゅうちょ》していると、ふいに鯨やんの大きな顔が目に入ってきた。  種一に話を聞いて、その日鯨やんに会ったときすぐに、彼がやめるという話をそれとなく確かめようとしていたのだが、ぼくも鯨やんも妙に忙しい一日で、到頭そんな話をする時間がなかったのだ。  鯨やんはぼくの顔を眺《なが》めながら首をすこし斜めに上げて顎《あご》の下をぞりぞりとひっかく真似《まね》をした。別にそれは何の意味もないのだ。  ぼくは立上り、彼のそばに行った。 「種一から聞いたよ。本当なの?」 「まあな……」  と、鯨やんはひくい声で言った。 「そのうち、ちゃんと話すよ」 「本当に決めたの?」 「だから、そのうち、ちゃんと話すよ」  会社の中で話すのは具合が悪い、という気配だった。 「金かしてくれるか?」  突然ぼくは自分で予想もしていないようなことを言ってしまった。彼の気持を察して大急ぎで話題を変えようと思ったら、ついそんなことを口走ってしまったのだ。 「いいよ。いくら?」  と、鯨やんは言った。 「三千円ぐらいあるといいんだけどね」  鯨やんはぼくの顔を黙って眺め、ズボンの尻《しり》のポケットから定期入れをひっぱり出した。それから五、六枚重ねてなんだか申しわけないほど丁寧にたたんである千円札を三枚出すと、またきっちり折りたたんで、ぼくに渡してくれた。 「あっ、いいな、デートだろ」  向い側の席にいる小耳の川ちゃんが目ざとく見つけて言った。  沢野ひとしは、高田馬場駅の精算所の窓口の横に真っすぐ立ち、タバコをふかしながら目の前の雑踏をぼんやり眺めていた。ぼくの顔を見つけると、「フン」というようななんとも愛想《あいそ》のない表情で、なぜかぼくの姿の上から下までをゆっくり念入りに眺め、ポケットの中に入れていた両手をひっこぬいた。こういう無愛想な会い方は高校時代からの彼独得のやり方なのだ。 「あのなあ、プロレスの夕刊新聞ってあるだろう。ああいうのを君は笑っていつも見ているだろう」  歩きながら彼は言った。 「いつもじゃないけれどな……」 「ああいう新聞を見る人間というのは大体服装が同じだね。今日見ていてよくわかったよ」 「そうか」 「うん」  ぼくたちは交差点で立止まり、目の前を続けざまに走りすぎていく車の一群を、それからすこし黙って眺めていた。 「どこか知ってるとこあんのか?」  ぼくが聞いた。 「安い店があるんだ。座るとラッキョウがすぐ出てくるのね。ただのやつが」 「ふーん」  信号が青になると彼はぼくより一歩早く足を踏みだし、そのままスタスタと先に立って早足に歩いていった。長身で手足のやたらに長い彼が早足で歩くと、なんとなくアフリカの草食動物が歩いているような気配があった。  そのまま彼は一人でどんどん先に立っていくつかの路地を曲がり、小さな店の前に立ってぼくを振りかえり、黙って店の看板を指さした。 「赤ちょうちん」と、その看板には書いてあった。 「わかりやすい名前の店だろ、それで中に入るとすぐラッキョウが出てくるの」  早稲田の学生相手の、超安値の居酒屋というかんじだった。木枠《きわく》の硝子戸《ガラスど》の引き手が手垢《てあか》と脂《あぶら》で真黒になっていた。  店の中のテーブルも同じように汚れた黒い木製で、その半分ぐらいがもう客で埋まっていた。十五人もすわればいっぱいになってしまうような小さな店だ。  痩《や》せて陰気な顔をした中年のおばさんが片手の指で小さな鉢《はち》をふたつ器用にぶらさげ、もう片手に割り箸《ばし》を持ってやってくると、ぼくたちの座ったテーブルの上にストンと置いた。 「ビールかね」  おばさんは、ぼくたちの座った頭の上にあるテレビの方を眺めながら言った。 「ビール二本と厚揚げと納豆、それにキューちゃん」  と、沢野が間髪をおかずに言った。  おばさんは黙って店の奥に戻《もど》っていった。 「キューちゃんって何だ」 「キュウリだよ。あたり前だろ」  沢野がすこし怒ったような口調で言った。  ビールを黙ってコップに二杯ずつのみ、さっきおばさんが持ってきたラッキョウをいくつかつまんだ。 「仕事はうまくいっているのか、おまえのとこの?」 「ああ、まあまあだね」  沢野が頷く。 「子供相手だから、これから忙しくなる。クリスマスだからね」 「プレゼントか」 「そう。君のところは?」 「おれのところはクリスマスも何も関係ないよ。あっ、デパートはクリスマス商戦というのがあったか。でもおれのやってる仕事なんてのはじかには関係ないな」 「木村はどうしてるかな?」  彼は唐突に話題を変えることが多い。 「知らないな。来年あたり東京に帰ってくるかもしれないけどな」 「すると弁護士になるのかな」 「そうだろうな」  店のおばさんがやはりテレビを眺めながら、四角い皿《さら》に盛ったキュウリと納豆を持ってきた。テレビでは何か関西弁のコントのようなものをやっていた。 「あのね、家に池が三つある家の女の子といまつきあってるんだ」  沢野はすこし面倒くさそうにそんなことを言った。ぼくは黙って聞く体勢をとる。テレビの中で大きくてがさつな声で喋《しゃべ》り続けていた男がいきなり何か高い声で叫び、テレビの中の観客がどっと沸く声がした。 「で、そいつはね、琴を弾くのが好きです、って言うんだけど、君、そういうのをどう思う?」 「うーん」  いきなり言われてもよくわからない話だった。しかし彼は常にそういうふうに身勝手で断片的な男なのだ。 「だけど、いまどき琴を弾くのが好きな女、なんているのかなあ……」  彼は続けた。 「まだ見てないのか?」 「そういうふうに自慢するんだよ、そいつがさ」 「いいじゃないか、別に」 「そうかなあ……」  ビールをもう一本注文し、空瓶《あきびん》を持ち去るのと入れかわりにテーブルの上に載せられた厚揚げを、二人で両はじから同時につつきはじめた。 「君はいま好きな女いるの?」  彼は再び面倒くさそうな声で聞いた。  ぼくの頭の中にさっきから原田瑞枝の顔が何度もちらついていた。店の戸が乱暴にあいて、なんとなくうっすらと赤い眼《め》をした労働者ふうの男が、睨《ね》めつけるように店の中を眺めた。そのうしろに四、五人の男がいるようだった。 「焼きとりはねえのかい。ここは」  赤い眼をした男が言った。 「モツの煮こみだけどね、うちは……」  さっきの陰気なおばさんが沢野と同じように面倒くさそうな声で言った。男たちは店の外でしばらく何事か話し、それから滑稽《こっけい》なほど大仰《おおぎょう》なしぐさで肩をゆすりながら中に入ってきた。 「モツでいいよなマッちゃん」  赤い眼をした男が振りかえり、あとに続く男にむかって言った。  ビールを三本ずつのんでその店を出た。千五百円でおつりがきた。ふところにはまだ鯨やんに借りた三千円がそっくり残っている。ぼくも沢野もまだもうすこし飲みたい気分だった。 「もうすこしさ、静かな店でのみたいよな」  沢野が自分でさっさとその店に連れていったくせに、そんなことを言った。  さっきからぼくの頭の中に「かぶや」へ行ってみようか、という考えがチラホラ浮かんでいた。森川トオルに三回ほど連れていってもらった店だ。森川が大阪に行ってしまってからは全然行かなくなってしまったが、高級そうだけれどあの店なら三千円分だけ飲ませてほしい、といえば、店のママは気持よくうけあってくれるにちがいない、と思った。  沢野ひとしをそういう店に黙って連れて行き、彼を少々驚かせる、というのもなかなか面白《おもしろ》いではないか、と思った。 「一軒、知っている店があるから、ちょっと寄っていこうか」 「うるさいところは嫌《いや》だなあ」  沢野が立止って警戒するような声で言った。 「静かなところだよ。ここから歩いてわけないし……」  ぼくたちは山手線のガードをくぐり、神田川沿いのなだらかな坂をあがっていった。  店の戸を開けるのにすこし勇気がいった。沢山の客がいて、店のママが忙しそうだと、「三千円でなんとか……」などという頼みごとを果して言えるだろうか、と思ったからだ。  けれど、うまい具合に店には二人の客しかいなかった。太って背中の丸まった中年の男と、もう一人は以前森川ときたときに一度見かけた男だった。二人は顔を寄せあって何事か熱心に話していた。 「あら……」  と、店のママが一瞬驚いたような表情をみせ、それから片手で素早く鬢《びん》のあたりのほつれ毛をうしろに撫《な》で上げながら、「珍らしいわねえ」と言った。先客の二人がチロリと我々の顔を眺め、それからすぐにまたもとの会話に戻った。  ぼくと沢野はカウンターに座り、なんだかいっぱしの大人のようなかんじで出されたおしぼりを拡《ひろ》げて、ゆっくり手を拭《ぬぐ》った。 「もう、すこし入っているのね」  ママがぼくと沢野の顔を等分に眺めた。ぼくはビールを頼み、沢野は「お酒を下さい」と妙にゆっくりした声で言った。 「お燗《かん》するのね」 「はい、そうして下さい」  沢野は店の中を見回し、それからひくい声で「カネあんのか?」と聞いた。ぼくは曖昧《あいまい》にうなずき、店の中に入ってすぐ三千円のことを言いだせなかったので、ひどく落着かない気分になっていた。  店にはメニューというものがなかったが、森川と来たときに知ったその店で一番安い冷や奴《やっこ》とか玉子焼なんかうまいぞ、と沢野にすすめた。 「何か安いものでいいよ」  と、沢野は天井を眺めながら言った。 「森川さんは時々東京の会社にくるのかしら」  ママがカウンターの端から大きな声で聞いた。 「あまり来ません」 「そうでしょうねえ、行った当初はなにかと忙しいでしょうから……」 「会社の人とくるのか? ここに……」  沢野が言った。 「うん。時々な」 「じゃあ会社の金で飲んだりできるの?」 「うん。まあな……」  ぼくは単純に嘘《うそ》をつき、それからえらいことを言ってしまった、と思った。でもまあいいやどうだって。足りなくなったらツケというのにしてもらえばいいんだ……。ビールをぐいとのみ、もう一本追加を頼んだ。  ぼくと沢野は結局そこでまた一時間ほどたいしてテーマのない話をし、二人してかなりいい気分になった。その間、新しい客は誰《だれ》もこなかった。  沢野を先に店の外に出し、ぼくはママに三千円を渡し、足りない分は給料日まで待ってほしい、ということをひくい声で頼んだ。 「いいわよ。うちはそういう人多いからね、じゃ、そのときまとめてね、今度は彼女といらっしゃい」 「かぶや」のママは、ぼくの差し出した三千円をぼくのワイシャツのポケットの中に素早く戻し、すこし頬《ほお》のはじの方で笑った。 「すいません」  と、ぼくは言った。それから、 「マスターは今日はどうしたんですか?」  と聞いた。ママはその瞬間に目をカウンターの下におとし、 「さあね。ここんとこずっといないのよ、あいつは」  と、視線をおとしたまま言った。聞かなくてもいいようなことを聞いてしまった、と瞬間的に後悔した。しかしだからといってそのあと、どうしていいかまるでわからなかった。仕方なく黙って頭を下げて、店の戸をあけた。ママは右手の人差し指だけ自分の顔の前にあげて、その一本指だけで「バイバイ」というようなしぐさをした。  店の外で沢野がすこし夜の風にふらふら揺れているようなかんじで立っていた。 「いい店だね、ここはね」  彼はあきらかに酔いを含んだ声で言った。  鯨やんが会社を辞めるというのは本当で、彼はそのことを「そろそろ男のケジメをつけなければいけないからな」などと、なんだかおかしくなるほど気張ったモノの言い方で、ぼくや小耳の川ちゃん、そして高木たちの前で言った。 「だけどな、野々宮のやつ、本当に嫌味なおっさんだぜ。おれが辞めたい、ということを言ったら、次の勤め先は決まっているのか、と聞くんだな。決まってるわけだから正直に『ハイ』といったら、今度勤めたらそろそろ腰おちつけてかからないとね、なんて言いやがるのよ。関係ねえじゃねえか、あんな野郎にそんなこと言われる筋合はないもんな」  鯨やんは、その大きな体のわりにはかなり細い目でぼくたちを睨《にら》みつけるようにして言った。 「でも気にするなよ。おれたちが盛大な送別会を開いてやるからさあ」  小耳の川ちゃんが例によってすこし舌たらずな喋り方でわざと陽気に言った。  十二月二十五日に退社する、というはっきりした日どりも決まったようであった。  会社は二十八日あたりが大掃除と忘年会で、その日で一年の終り、ということになるから、鯨やんのいう�男のケジメ�とは別のたぐいではあるけれど随分ケジメの悪い日に退社の日を決めたものだ、とそのとき誰しもが言ったのだが、鯨やんは十二月二十六日から台湾へ初めての海外旅行にいく、ということも合わせて決めていたのだった。台湾へは産婦人科の医者をしている兄と一緒に行くのだ、と鯨やんはまた変に気張った顔をして言った。  十二月二十五日といったら給料日で、しかもその十日ほど前には暮のボーナスも支給されるので、常務の野々宮はそのこともあって鯨やんにいささか嫌味たらしいことを言ったのかもしれなかった。  鯨やんが辞める、ということが全社に知れわたった頃《ころ》、突如として新入社員が入ってきた。勿論《もちろん》それは鯨やんの脱けたスタッフの補充要員というわけだったのだろうが、それにしても随分電撃的に早く人が見つかったものだ、と社員のみんなが驚いてしまった。  新入社員は角田国昭というなんだかえらく全体に角ばった名前の男で、歳《とし》は二十四歳だった。つまりぼくより歳上なのである。  どうもこの人は大堂社長の縁故にあたる人らしく、大堂社長と野々宮常務が二人でその入社を即決したようであった。  角田国昭は十二月の中旬入社という、やはりこれもえらく中途|半端《はんぱ》な時期に正式に入社したのだが、月曜日の朝礼に彼が野々宮常務から紹介された。  角田は中肉|中背《ちゅうぜい》で、なんだかキューピーのように広くて丸い額をしていた。全社員が起立して見守る中で、角田はクイと大袈裟《おおげさ》なほどに力をこめて胸を張り、 「何も知らない若輩者ですが、どうぞよろしく御指導下さい」  と、実におそろしい程に堂々とした挨拶《あいさつ》をした。起立した社員から儀礼的な拍手があった。 「角田君は慶応の経済学部に学び、一年ほど彼のお父さんの経営する経理事務所で仕事をしていたのですが、前々から経済関係のジャーナリストを志望していましたので、今回、縁あって当社の強力な編集スタッフとして入社されたわけです」  野々宮が、大堂社長の隣りに立って、そんなふうに紹介した。新入社員を紹介するのに「入社された……」などという言い方はひどく奇妙だったが、野々宮常務の口ぶりには、当社のような小さな会社に入ってくる人材としては何年かに一度の優秀大学卒業の逸材なのだから、みんなこころして有難《ありがた》く迎え容《い》れるように……というような気配が、あからさまに漂っていた。  この新入社員の紹介のあとに、鯨やんの退社が、やはり野々宮常務によって正式に知らされた。  さっき角田の立っていた所に今度は鯨やんが立ち、何かひとこと挨拶を、と野々宮が横から言った。 「えー、まあこういうことになりましたので、どうもいろいろ永いことお世話になりました……」  それだけ言ってペコリとお辞儀をした。ぼくや小耳の川ちゃん、種一らがひときわ大きく拍手をしたが、全体になんだか新入社員の紹介のついでに鯨やんが挨拶させてもらった、という雰囲気《ふんいき》があって、あまりいいかんじではなかった。  ぼくが入社して二年たらずの間に同じようにあっけなく辞めていった原島や藤本、そしてベエさんらの顔が素早く頭の中に浮かんだ。 「こういうとこにはさ、あまりいつまでもいない方がいいと思うよ。とくに君なんかさ、そう思うよ」  辞めていった藤本が、印刷屋近くの公園で雨やどりしていたとき、先輩の親切な忠告のようにして言っていたのが、ふいに鮮明によみがえってきた。  あの日は、雨やどりしているぼくと藤本の頭の上のトタン屋根に、すさまじい音をたてて雨が降っていたのだ。 「もしもし、原田さんのお宅ですか?」  先方の受話器があげられたとたんに、ぼくはできるだけ生真面目《きまじめ》に、はきはきした口調をこころがけながら、大きな声で言った。  すこし酒に酔っていた。  その日ぼくは、木村晋介や沢野ひとしなどの仲間たちと小さなアパートで共同生活をしていたなつかしい街、小岩の駅前の大衆酒場でビールとウイスキーを性急に飲んだ。そして体の外側あたりがすでにはっきり酔いはじめているのがわかっていた。  その大衆酒場は、共同生活をしていた仲間たちと、すこし小遣いに余裕があるとでかけた店だった。その日、何年ぶりかで入ってみたのだが、店の中の造作も、店の人もそしてそこで出されるメニューも殆《ほとん》ど変っていなかった。  違うのは、そこでたった一人で酒をのんでいる、ということだけだった。仲間たちと共同生活をしていた時は、必ず誰かと一緒に大いに陽気に貧乏酒をのんでいたのである。  その日、ぼくはここ一週間ほどずっと考え迷い、また思い返していたことをついに実行しよう、と決めたのだった。鯨やんじゃあないけれど、これも�男のケジメ�というやつだよなあ……などと、ぼくはそんなことをむなしく熱心に考えながら、一人でせっせと酒の酔いに出発進行していたのだ。  駅前の電話ボックスの青い公衆電話は、受話器のところがいやに石油臭かった。 「はい」  と、電話回線のむこう側ですこしカン高い女の人の声がした。 「あの、原田さんのお宅ですか?」  と、ぼくはもう一度言った。 「すいませんが、瑞枝さんいらしたらお願いします」 「すこしお待ち下さい」  電話に出た声は原田瑞枝の母親とも違うようだった。もうすこし若いかんじである。間もなく「はい」という原田瑞枝の声がした。  ぼくは自分の名前を告げ、夜おそく申しわけない、ということをあわててつけ加えた。  ぼくの話している電話ボックスのすぐ近くで、どこかの女がけたたましく笑う声がした。大事な作戦を遂行するためには実に迷惑で腹立たしいバカ女の笑い声だった。  しかし電話のむこうでは「しばらくですね」という原田瑞枝の気分のいい声がひびいていた。 「あの」  と、ぼくは言った。 「はい」 「えーと、大変突然ですが、今月の二十四日、あなたはあいているでしょうか?」  ずっと研究し、考えていたことを一気に喋った。 「えーと、二十四日というと、火曜日ですね」  原田瑞枝の声は落着いていた。なんだかうまく理由はわからなかったが、なんとなく激しく気落ちするような落着きぶりだった。ぼくが必要以上に気負いすぎている、ということもあったのだろうが、考えていたよりも彼女があまりにも冷静に答えているので、ぼくは急速に電話したことを後悔しはじめていた。 「えーと」  と、原田瑞枝の声がかえってきた。話しながら受話器を持ち直す気配がつたわってくる。 「二十四日というとクリスマス・イブの日ですね」 「ええ」  と、ぼくは言った。喉《のど》が渇いているのがわかった。 「あいてますよ、何もありません。学校も休みだし……」 「そうですか」 「はい」 「夕方会ってくれませんか」  ついに言った。 「はい」 「あの、夕方ちょっと、どこでもいいですから会ってくれませんか」 「はい」 「いいですか?」 「ええ」  あまりにも素気《そっけ》なく承諾しているのが不安であった。ぼくは自分の考えている時間を言い、場所はどこがいいか、ということを聞いた。原田瑞枝は「どこでもいいですよ」と、また素気なく言った。そんなふうに簡単に、一度の電話で話が決まってしまうとは思っていなかったので、ぼくは彼女ともっとも効果的に会うのはどこがいいか、ということまでは考えていなかったのである。しかしそのことを曖昧にしていて何かの事情で気を変えられてしまっても困る。 「では、高田馬場の駅の、改札口を出る手前のところにある精算所の前で……」   頭に思いついたことをすぐ言った。沢野ひとしと待ち合わせをしたところだ。 「あの、その日、めし、おごりますから……」  大急ぎでつけ加えた。 「はい。では、おなかすかせていきます」  原田瑞枝はそう言ってすこし笑った。  受話器を置いた。  やったぞ、けっこうおれもちゃんとやるときはやるんだ! 目の前の青い電話機を眺《なが》めながらそう思った。それからゆっくり振りかえると、ドアのむこうに、赤と黄のまるで虎《とら》のようなふかふかのオーバーを着た女がおそろしい顔でぼくを睨みつけていた。小岩の町の夜の喧騒《けんそう》が顔や体にここちよかった。 「よおしやったぞ」  電話ボックスの外に立って、ぼくは街の中の夜の空気を力をこめて吸い込んだ。  鯨やんの希望で、彼の送別会は「賭《か》けポーカー」にしよう、ということになった。日は彼が辞める一日前、二十四日のクリスマス・イブというのはどうだ、と鯨やんが言いだした。  困ったことになった、と思った。二十四日の夜はぼくにとって大切な、どんなことがあっても譲れない日なのだ。  しかしその心配はあたらなかった。 「クリスマス・イブの夜はさあ、おれ、彼女と約束があるからな、できればその日の午後、というのはどうだい」  と、鯨やんが言いだしたのだ。 「午後にどこでやる、ムラサキというわけにもいかないぜ」  小耳の川ちゃんが言った。 「大丈夫だよ。場所は考えてあるんだ。昔のおれたちのトバだよ」  鯨やんが会社の天井のあたりを人差し指で差し、そいつを軽くひょいひょいと上下させた。 「ああ……」  種一が言った。 「そうだよ。その日みんななんとかして三時頃から体をあけろよ」 「なあるほど」  川ちゃんが頷《うなず》いた。 「でも寒いぞ、いまは……」 「すぐ過熱するよ」 「くくっ」  と、種一が小耳の川ちゃんの顔を見て笑った。 「最後の勝負だな」  黙って聞いていた霜降りの高木が、なんだかおそろしく真剣な表情で言った。  クリスマス・イブというのは、あまり関係はなくてもなんだか会社の中の雰囲気が浮わついている、というようなところがあって、三時頃をメドになんとなく自分の席を離れて、曖昧《あいまい》に姿をくらます、ということは思った以上にたやすかった。  屋上のさらに上にある塔屋《とうや》の四帖半《じょうはん》ほどの平らな屋根の上は、かつて同じメンバーでよく賭けポーカーをした場所だ。  ぼくが鉄梯子《てつばしご》を上っていった時には、すでに種一と霜降りの高木が来ていて、塔屋のまん中のへんに車座になれるように、つぶして平たくした段ボールを敷いていた。  弱い北風が吹いているので、二人はしきりに両手を口にあて、顔の前でこすり合わせていた。 「やっぱり暖房がほしいよ」  霜降りの高木が無理に押しころしたような声で言った。 「手がかじかむとさあ、カードさばきに影響するものな」  種一が劇画のセリフのようなことを言った。  久しぶりに上って見る塔屋からの風景は、以前たびたび同じメンバーと賭けポーカーをやっていた時と、すこし様変りしているように思えた。冬の午後三時の陽《ひ》は弱々しく、もう夕陽のように橙《だいだい》色にまるく脹《ふく》らんでいた。  ほどなく鯨やんと小耳の川ちゃんが鉄梯子を上ってきた。鯨やんは笑い、川ちゃんがすこし怒ったような顔をしていた。 「あいつ、鎌田が立っているすぐそばで、こいつを落しちゃってさ……」  鯨やんが川ちゃんの背中を片手の親指で軽く突つきながら言った。川ちゃんの手に茶色い紙袋が握られている。 「割れたらおしまいだったな。本当にドジなんだからなあ、こいつ」 「えっ、酒か何か入ってんの?」  種一の声が笑っている。 「あたり前だろう。冬の屋上で勝負しようってんだから……」  鯨やんが、段ボール製の座布団《ざぶとん》にどっかりと相撲とりのようなしぐさで座り、ぼくたちの顔を見回した。 「さっ、やろうぜ、暗くなってカードが見えなくなるか、一人がオケラになるまでだ」  ぼくたちは思い思いの段ボールに、コートを着たまま座った。小耳の川ちゃんが危機一髪を逃がれてきた紙袋の中のウイスキーを取りだし、やはりまだ怒ったような顔で、 「ほらよ……」  と言った。 「まず景気づけといこうよ。とりあえず鯨やんの送別会だからな。まわしのみだけどさ……」 「じゃ、まずおれからね。エート。鯨やんの退職にカンパイ!」  種一がちょっと照れくさそうに言い、ウイスキーの丸瓶《まるびん》をぐいとひと口ラッパ飲みした。 「こういう時は川上君からのむんじゃないのか?」  高木が珍らしく鯨やんの姓を呼んだ。 「いいさそんなの。別に本気で送別会ひらいてもらってると思ってないからさ、それよりも早く稼《かせ》がせてよ」  鯨やんが背広の内ポケットからトランプを引っぱり出し、親決めのために二組に分けた。  素早くウイスキーをそれぞれがひと口ずつのみ、親を決めた。種一が最初の親だった。手ぎわよくカードが配られ、五人とも急速に黙りこみ、それぞれの神経を自分の手もとのカードに集中させた。 「くっ。最初からブタだよ」  種一がふいに大きな声で言った。 「ばか。大きい声だすな」 「いけねえ」 「体もフトコロも手の内もさむいやあ」  小耳の川ちゃんのぼやきポーカーが早くもはじまろうとしていた。  以前この塔屋の上でよくやっていた春や秋の季節と違って、冬のさなかに屋上にやってくる人は誰《だれ》もいそうになかったので、そのへんのことをあまり気づかわずに勝負に集中できるのは嬉《うれ》しかった。しかしいくらウイスキーをのみながら、といっても、時間とともにぐいぐいと体の内側にねじ込んでくる十二月の寒さは思った以上に厳しいものだった。いつの間にか小耳の川ちゃんは片手に手袋をはめていた。  ウイスキーは一時間もしないうちに半分ほども減り、勝負手はあまり派手なものにならなかった。  誰もオケラにならなかったが、四時すこし過ぎたところで終りになった。寒くて、以前のように全身の力を込めてカードに集中できない、ということがわかってきたからだった。  一番負けたのが種一で、高木がトップだった。わずかな額だったし二週間ほど前にみんなボーナスを貰《もら》っているので、その場ですんなり清算した。ぼくは八百円の儲《もう》けだった。鯨やんに借りていた三千円はボーナスの日に返したし、とりあえず自分は目下誰にも貸し借りなしだ。 「これできっともう、ここじゃカードやらないだろうな……」  小耳の川ちゃんがぽつんと言った。  新橋西口通りのあたりから二、三種類のクリスマスの曲がまざってビルの下から湧《わ》き上ってくるようで、なんとも落着かない気配になっていた。 「おれは今度はもっとでっかい賭け仕事するからね」  あぐらの足を組み直し、鯨やんが貧乏ゆすりをしながら言った。 「オートレースの新聞というのは自分でも賭けんのか?」  川ちゃんが頓狂《とんきょう》な声を出した。 「そうじゃあないよ。おれの言っているのは人生の賭け、ってやつだよ」  思いがけない言葉が鯨やんの口から漏れた。しかしそれは半分以上は冗談だったらしく、そう言ってから大きな体をゆさゆさ揺らせて、かれは一人ですこしの間笑った。 「さあて、いこうか……」  高木が立上り、ばさばさと風の中でコートをはたいた。 「どうする。このまま会社に五人で戻《もど》るとまずいぞ。きっと酒くさいだろうしな……」 「種一はこのままフケろよな」  鯨やんが言った。わずかに残っている夕陽の中で、五人の中で一番酒に弱い種一の顔が滑稽《こっけい》なほど赤く染まっていた。  ああ、あと一時間とすこしで高田馬場だ……。  ぼくは塔屋の上で高木のやったようにコートの裾《すそ》をはたき、どんどん街の灯《ひ》が増してきている眼下の風景を眺めた。沢山にまざったクリスマスの曲の中で、ひとつだけとびぬけてうまく聞きわけられる曲があった。テンポの一番早い「赤鼻のトナカイ」だった。その曲は誰の耳にも一番よく聞こえているようで、駅の方に向って立った種一が両手をVの字型に空にかかげる大袈裟《おおげさ》なのびをひとつやり、それからその曲に合わせて、体をコキザミにトントコ、トントコと素早くゆすっていた。  ぼくは塔屋の上で鯨やんと最後の握手をした。 「まあな、お前も頑張《がんば》れ。つきなみな言葉だけどさ」  すこし気張ったつもりなのか、鯨やんはそう言いながら上体をいくらか不自然に反りかえらせた。  鯨やんの右の手のひらはグローブのように厚かった。つめたい冬の風の中で、彼の手はちょっと汗ばんでいたな、とぼくは駅へ急ぎながらすこしの間そのことを考えていた。  それから、もし高田馬場に原田瑞枝が来ていなかったらどうしようか——ということを考えた。そのことは会社のビルを出たときから、ひどく重い不安事項としてぼくの胸の中をどたどたとかけ回っていたのだ。  そんなことを心配するのがいやで、あわててさっきの鯨やんとの別れのことに思いをめぐらしたのだが、ぼくの気持はすぐにまた「高田馬場の不安」に舞い戻ってしまうのだった。  首尾よく高田馬場で原田瑞枝と会えたら、そのまま「かぶや」へ連れていこう、と考えていた。あの店なら静かだし、全体に洒落《しゃれ》た雰囲気《ふんいき》で、大人っぽい話ができそうな気がした。  そのことを考えると心が浮き立った。原田瑞枝と会ったら聞きたいことがいっぱいあった。それからそれと同じくらい聞いてもらいたいことがあった。  すべては約束した本日の午後六時三十分からなのだ。  もし彼女がそこにいなかったら、とにかく来るまで待とう、と思った。一時間待ってこなかったらそれまでだ、と思った。そういうのも人生なのだ、と変に気負って考えた。  あの日、ぼくのすこし酔った電話に、彼女があまりにも簡単に応じた、というのがずっと気がかりでもあった。  原田瑞枝はぼくの言っていたことを果して本当に正しく理解していたのだろうか——ということが、日を追うにしたがって気がかりになった。  あの日ぼくは受話器を握りしめてとにかくあせっていたから、高田馬場で会いたい、ということを言っているつもりで、何か別のこと、たとえば「高田馬場から電話します」などといっていたのではあるまいか——。だから原田瑞枝はあんなふうに簡単に返事をしたのかもしれない——。  ひとつ疑いだすときりがなかった。 「いいや、とにかくこれも男の勝負だ。ショーブ、ショーブ」  と、ぼくは無理やり心をしずめ、山手線のドアから見えるめまぐるしい夜の風景を眺めた。  クリスマスだからなのか、新宿のあたりはいつもよりずっとネオンが明るいような気がした。  もみくちゃ押しあいへしあいの人波に入って高田馬場のホームにおりた。 「さあ勝負だショーブだ」  コートの襟《えり》を両手ですこし開き、妙にあつくなっている体に風を入れようとした。  ポーカーのフルハウス手を待っている時よりも緊張していた。  高田馬場の駅にもジングルベルやホワイトクリスマスの曲がいくつもまざって聞こえていた。階段を降り、足早に改札を抜けた。雑踏のひと山をかきわけたところで立止まった。  ふいに騒音が消え、視界がせばまった。  ロイヤル・ストレート・フラッシュだ。眼《め》の前にレンガ色のコートを着た原田瑞枝の笑い顔があった。思いがけなく随分おしゃれをしている。 「よおしこっちだって人生の賭けだ……」  ずんずん、と力をこめてぼくは前進した。 [#改ページ]   あとがき  さて、この小説は読めばわかるように、上中下の三冊に書きつらねたぼくのもっとも長い書きおろし長話《ながばなし》(小説とはいわずスーパーエッセイとあえて名のった)である『哀愁の町に霧が降るのだ』(情報センター出版局)の続き外伝というようなところに位置するものです。  このところずっと明るい私小説というのにこだわっていろいろ書いてきたのだけれど、青春ものというのはやっぱり明るくてオカシクてどこかすこしかなしいのだな、と書きながら思いました。  それからもうひとつ、世の中の企業小説というのはたいてい大企業を舞台に権謀術数があざとく交錯する中での人間模様というのが多いのだけれど、こういうセコイ中小企業小説というのがあってもいいじゃないか、と考えてもいたので、そういう意味での新ジャンルへの挑戦《ちょうせん》という気分がありました。  なお、『哀愁の町に霧が降るのだ』の本来の続編はまた改めて完結編として別に書くつもりです。 [#改ページ]   解説 [#地付き]菊池 仁   くたびれ果てたようなオンボロビルの五階にめざす会社はあった。いつ止まってもおかしくないようなエレベーターを降りて、ドアを開けると雑然とした部屋の中に若い男が数人いて私の方をいっせいに向いた。その奥にいやに肩幅の広い、色の浅黒い男がしっかりすわっていた。背広がなんともすごかった。ヤクザも顔負けの紺地に太い白いストライプ柄《がら》という代物《しろもの》であった。おまけに短髪で、眼《め》に凄味《すごみ》があり、「なんだ、なんだ、この会社は?」と思った。なんとなく知性、教養とはほど遠いという印象が強かった。  どうやら、その男の人が採用の責任者らしく「その空いている席にすわって」とよく通る低い声で話しかけてきた。私がすわるとまもなくその男の人が話を始めた。 「私が今度当社が発行する新雑誌の編集長の椎名です」  これが椎名さんとの初めての出会いである。本書『新橋烏森口青春篇』をお読みいただいた読者はおやと思うかもしれない。第一章「グリーンスネイク」の入社場面ときわめて酷似しているからだ。唯一《ゆいいつ》違うのは、そこにいるのは本書から四年後の椎名青年であり、椎名さんは私が入社した一九六九年にはもう経営幹部であった。いくら四十人足らずの中小企業とはいえ、あまりにも出世が早すぎると思われるかもしれないが、中小企業は大企業と違って結構実力本位だったりするのである。それだけ椎名さんが編集者として力量をもっていたという証拠であろう。  私はこれ以降、椎名さんが退社する一九七九年まで部下として共に同じ編集の仕事に携わることになる。そのおかげで�椎名誠版青春三部作�、『哀愁の町に霧が降るのだ』『新橋烏森口青春篇』『銀座のカラス』(朝日新聞に連載)の三作を指すわけだが、私はそのうちの『哀愁……』と『銀座のカラス』の二作に登場する破目となる。  今でも鮮やかに記憶しているのだが、入社が決まったその日、椎名さんに誘われて烏森口近辺の小さな飲み屋に連れていかれた。 「社長はキクチクンが文学にくわしすぎるので反対だったんだけど、ボクは文学と映画が趣味と書いてあったのが気に入った」  ビールを飲みながらの第一声がそれで、私は入社がそんなことで決まっていいのかと思いながらも、その表現がひどく気に入って、そのまま一直線に椎名さんの魅力的な世界へひきずりこまれていったのであった。  その日飲んでいる間中、「ボクはSFが好きなのだ」と何度もくり返していたのを覚えている。ついでに書いておくと、縁とは不思議なものでこの一年後に大学時代の映画研究部の後輩であった目黒考二が訪ねてきて入社したいと突然言い出した。  もともと私は目黒の入社希望には反対であった。続くわけがないと妙な確信をもっていたからだが、本人は募集しているならどうしても入りたいという。思いあまって編集長である椎名さんに相談したら、「ともかくオレが会ってみるわ……」ということになった。その椎名さんがいたく目黒を気に入ってしまった。理由はこの時もきわめて単純で「あいつSFに詳しい」というものであった。結局、実力者・椎名編集長の推薦で目黒の入社は決まった。  しかし、これは後日談だが、私は目黒を信用していなかったので危ぶんでいた。なにしろアルバイトで二年も勤めたところを正社員になったら一日で辞めた実績をもっている。  入社して三日目、十時|頃《ごろ》出社すると当時会社の前にあった喫茶店から目黒が電話をかけてきた。私にはほとんど話の内容が見えていた。案の定「辞めたい」という。めんどうくさかったが理由を聞いてみた。「勤めたら本を読む量が減ってしまった。不安でしようがないんです」  ああ、神様、私は思わず見たこともない神様に語りかけてしまった。 「これは悪夢だ。会社に勤めて本が読めないとは何だ。それが会社を辞める理由になるのか」  私は彼が試験を受けにきた時からこの日の来るのを予想していた。それでも椎名さんの慰留工作もあって目黒は半年間、ストアーズ社に勤めた。しかし、この椎名さんと目黒の出会いがきっかけでそれから二年後に椎名さんの活躍の舞台となる「本の雑誌」が誕生するとは誰が想像できたであろう。  少々、話が横道にそれたが、いずれにしても、椎名さんの著作、ことに本書と『銀座のカラス』はストアーズ社時代のサラリーマン経験がストレートに反映しているのである。  本書は一九八五年十二月から八七年五月にかけて「小説新潮」に連載され、その後、八七年十二月に単行本、翌八八年十一月にはNHK銀河テレビ小説で、黒土三男脚本、緒形直人の主演で放映され、好評を博したので記憶されている読者も多いであろう。  さて、そこで本書の魅力と特徴について語っておこう。日本SF大賞を受賞した『アド・バード』、『水域』『あやしい探険隊アフリカ乱入』『ナマコもいつか月を見る』等、最近の椎名作品を追っていくと一目|瞭然《りょうぜん》だが、その作品領域が年ごとに広くなりつつあり、この作者の奥行きの深さを改めて感じさせてくれる。  おそらくこの傾向はさらに進み、ますます多様性をきわめていくのであろうが、広くなる作品領域の中にあって、その核的な存在として位置づけられるのが、『岳物語』『白い手』『犬の系譜』に代表される私小説の系譜であろうと思われる。『白い手』『犬の系譜』がその少年版とすれば、本書や『銀座のカラス』は青年版といえる。  作者は本書の「あとがき」で次のようなことを語っている。 「このところずっと明るい私小説というのにこだわっていろいろ書いてきたのだけれど、青春ものというのはやっぱり明るくてオカシクてどこかすこしかなしいのだな、と書きながら思いました。  それからもうひとつ、世の中の企業小説というのはたいてい大企業を舞台に権謀術数があざとく交錯する中での人間模様というのが多いのだけれど、こういうセコイ中小企業小説というのがあってもいいじゃないか、と考えてもいたので、そういう意味での新ジャンルへの挑戦《ちょうせん》という気分がありました。」  つまり、ここで留意しておかねばならないのは、作者が「明るい私小説」というものにこだわっているという点だ。この独特の言い回しに作者の、剣道で言えば�構え�がある。『岳物語』を初めて読んだ時、「ああ、新しいタイプの私小説が生まれたな」という感想をもった。といっても作者自身は別に明確な方法論を構築した上で発言しているわけではないと推測しえる。  どういうことかというと「私小説」というと文学史的には田山|花袋《かたい》や葛西《かさい》善蔵、戦後では庄野潤三、安岡章太郎等第三の新人が得意とした個性的な家庭小説が連想され、日本的なジメジメした感じがつきまとう。作者は別にこれを真向から否定しかかろうという気負いをもっているわけではなく、ごく自然体の構えで、同じ私小説的な世界ではあっても、もっと明るくといった単純な割り切りをもっている。ないしは、私小説というレッテルに対する軽いジャブ攻撃と読みとれないこともない。つまり、この構えこそ作者特有の批評精神なのである。「セコイ中小企業小説」という言い回しもその批評精神から出ている。  この作者特有の批評精神がストレートに顔を出すのが、あだ名の命名においてである。作者の小説、エッセイで必ず出てくるのが、ワニ眼、ニゴリ眼に代表されるような身体的な特徴のとらえ方であるが、これをベースとして作者は独特のあだ名を生み出したり、独自の形容詞を並べることで人物を形容する。これが実にうまい。  本書の中でもブロンディ、ちょっと間《ま》のぬけた歌舞伎《かぶき》役者、鯨やん、ハットの鎌田というように列挙に事欠かない。本書が「小説新潮」に連載中、わが社では本書のコピーが女子社員の間でひそかに回し読みされ、熱狂的な拍手で迎えられた。この理由はモデルとなったわが社のみの反応といってしまえばそれまでだが、それほど登場人物に対するあだ名や、社内の空気の表現が的確さをもっていた証拠なのである。  特にこの必殺回し読みの世界では「派閥天丼」が大受けに受けた。作者は『ストアーズレポート』の編集長として在籍中、�閥�を組むことを嫌《きら》った。中小企業というのは学閥がない。理由は単純で閥を組むほど社員がいないのである。閨閥《けいばつ》というのもない。ところが�昼閥�というのがある。この昼閥というのは作者の命名で、私はこのとらえ方にいたく感心させられた記憶がある。要するに昼飯を喰《く》いにいく仲間が仲良しグループとなって閥を形成していくのである。その結果、「派閥天丼」のような奇妙なセコイ世界が出来上る。  といっても本書はあくまでフィクションである。それに作者の姿勢として大事なのは、怪しくて個性的な人物や、彼らが蠢《うごめ》くセコイ中小企業に対し、限りない愛着をもっていることだ。作者が言う「明るくてオカシクてどこかすこしかなしいのだ」という世界は、青春自体がそうである以上に、作者の人を見るやさしさによって造り出されたものなのである。「グリーンスネイク」「塔屋の車座団」「派閥天丼」「さよなら鯨やん」で展開されるエピソードは確かに存在はしたわけだが、それはたぐいまれなる作者の料理の腕で、きわめて視覚的な青春の一コマになっているのである。  最後に、私事で恐縮だが本書を読んでいて、ダルマストーブで焼いたスルメを噛《かじ》りながら椎名さん自身のプランで実現した『ストアーズレポート』の創刊号を作った頃のことを思い出した。その意味でいくと本書自体が一九六〇年代後半の本書の登場人物や私自身の存在証明ともなっているのである。私には聞こえるのである。クリスマス・イブの雑踏に消えていった鯨やんの「シーナよ、よかったぜ」という声が……。 [#地付き](平成三年四月、評論家・ストアーズ社第二編集局長)