斎藤 栄 ミステリーを書いてみませんか 目 次  第一章 最近の推理小説の変遷 [#この行4字下げ]影響を受けた五人の作家/ 松本清張と高木彬光/ 乱歩賞作家/ ハードボイルドと冒険小説/ ミステリーの評価/ 習作「輝紫蛇邸殺人事件」のこと/ 本格プラス社会派  第二章 ストリック理論の周辺 [#この行4字下げ]様式美を追求する文学/ 「知恵の勝利」/ 小説構成の面白さ/ ショート・ショート/ テレビと推理小説  第三章 推理作家に向いている人とは [#この行4字下げ]作文の点がいい人は向いていない/ 推理作家の条件/ 小説家になる年齢はあるか/ 推理作家の血液型/ 棟方志功の発想  第四章 どんなふうに発想するか [#この行4字下げ]5WIH/ 自然な運び/ 長篇と短篇の違い/ トリックの三つの柱/ 作家の個性/ 総合ミステリーへの道  第五章 取材法 [#この行4字下げ]法律と医学に関する知識/ 百科事典と新聞の読み方/ メモの取り方/ 取材旅行のすすめ/ 新鮮な心を持つこと/ �捨�という行動/ 「いつでも、どこでも」  第六章 大切なメモづくり [#この行4字下げ]構成を愉しむ文学/ トリックの必要性/ 仕立てる腕/ 犯人を変える  第七章 トリック論 [#この行4字下げ]トリックを読む/ トリック分類表/ 探偵小説のタブー/ アリバイトリック/ 個性味のある面白さ  第八章 具体的な執筆作業の前に [#この行4字下げ]題名のつけ方/ 人物一覧表/ 音からくる面白さ  第九章 文章、筆記用具など [#この行4字下げ]谷崎潤一郎の「文章読本」/ 生活のリズムの中で書く/ 原稿用紙/ 筆記用具/ 作家の職業病/ ミステリー作家への道  索 引 [#改ページ]   第一章 最近の推理小説の変遷   影響を受けた五人の作家  推理小説は、現在は、ミステリーというふうに一般的には言われて、かなり皆さんお読みになっていらっしゃるわけですが、少なくとも昭和二十二、三年、つまり、旧仮名で小説が書かれていた頃は、探偵小説、と言われていたわけですね。  私が、探偵小説を読んでいたのは、いつ頃かと言いますと、戦争中から戦後の二、三年位にかけてが一番多かったわけです。  最近の推理小説の読者は、あまり古いものをお読みになっていらっしゃらない。少なくとも 松本清張さんあたりは、もう古典というふうにお考えになっていると思います。ですけれども、推理小説の歴史的な変遷をふり返ってみる場合に、欠かすことの出来ない人が戦前に五人いると思います。その人たちに、私は、直接、間接に影響を受けておりますので、その話から入ってみたいと思います。  日本の推理小説、すなわち、昔の探偵小説は、歴史をどこまで遡《さかのぼ》ることが出来るかというと、江戸時代は、犯罪的な小説みたいなものは書かれたことがあるんですけれども、そのくらいで、明治になって 黒岩|涙香《るいこう》の翻訳した——完全に訳したものもあるし、抄訳もありますが——翻訳物から、日本の探偵小説は始まった、とお考えになっていいと思います。  しかし、いまここで改めて黒岩涙香の話をしてもしょうがないので、私に大なり小なり影響を与えた五人の作家についてお話してみたいと思います。  第一に、小酒井不木という作家がおります。小酒井先生はお医者さんでして、いまで言いますと、ややSFがかったところもありますけれども、医学的な知識を非常によく使った短篇の優れた作品があります。  私は、旧制の神奈川県立湘南中学に入った時に、小酒井不木の全集を休み時間に机の上に腰掛けて読んでいまして、先生が入ってくるのを気がつかないで、なおかつ読み耽《ふけ》っていまして、とうとう先生に見つかって職員室に連れて行かれたという経験を持っています。中学時代に、この人の「恋愛曲線」なんていう作品を非常に好きで読んでいたんですけれども、取り上げられてしまいまして、大変困りました。  戦争直後は、本というのはいまみたいに沢山出ておりません。私が読んだのは、鎌倉文庫腰越支所というところにある貸本屋から本を借りて読んでいたわけです。その頃、貸本屋にあるミステリー関係の本は、昔の「新青年」とか、各作家の全集でございまして、それを借りていたわけですけれども、その中に、小酒井不木の作品などもあったわけです。  ですから、小酒井作品については、そういう自分の失敗で、非常に記憶に残っているわけです。とにかく短いものが中心ですが、大変優れた作品があります。古い作品でいいものといったら、私は、まずこの人の作品をお勧めしたいと思います。  二人目は、小栗虫太郎です。この人は、ある時期は 江戸川乱歩とその世界を二分するぐらいの優れた作品を沢山発表された方ですけれども、早く亡くなられてしまったために、そして江戸川乱歩のような大衆的なものはあまりお書きにならなかったということで、あまり知られておりませんけれども、マニアの間では、非常に忘れられない人で、小栗虫太郎という名前は、本当の意味の探偵マニアならご存じだろうと思います。特にこの人の「黒死館殺人事件」は大変な傑作でして、私は、中学、高校時代に学校に通う鞄《かばん》の中に、聖書——私は、新約聖書が非常に好きでして、聖書をよく読んでまして、自分の作品にも、「イエス・キリストの謎」というのが徳間文庫に入っていますけれども——と、それから「徒然草」が大変好きで、それと、小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」、この三冊をいつも鞄に入れて歩いていた時期があるのを思い出します。 「輝紫蛇邸殺人事件」という小説は、私が高校一年の時に書いた作品ですが、「黒死館殺人事件」の強い影響のもとに書いてみた作品です。  小栗さんの特徴は、いまのミステリーとは大変違いまして、まずペダンティックであるということです。ペダンティックということがハイカラでもあったし、昔の探偵小説の特徴をなしていた。それを極端に推し進めたのが、この小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」であったと言えると思います。  もう一つ、小栗さんの特徴は、暗号というものを非常によく小説の中に使ったことです。つい最近、長田順行さんという暗号の研究家が、日本暗号協会を設立して、私は、そこの名誉会員ということになっていますけれど、暗号物が日本で絢爛《けんらん》と花開いたのは、この小栗さんの作品によるわけです。  ミステリーの大きな柱になっているのは、暗号物だと思います。私は、ミステリーというのは言葉の遊びである。基本的に一つそういう特徴がある。その特徴の一つの表われとしては、暗号というものが柱になってくると考えています。日本人は、昔から言霊《ことだま》の国と言われて、言葉を操って、たとえば落語などでお分りのように、縁語とか、掛詞《かけことば》、あるいは地口《じぐち》とか、洒落《しやれ》を使う、そういうことの大変得意な民族です。日本人は、そういう言葉の面から、ミステリーを得意とする民族になり得るのではないか、と私は考えておりますけれども、その先駆者となったのは小栗さんです。  三番目に私が大きな影響を受けたのは、海野十三。この人は、中学の時の受験番号でもなんでも、全部十三番だったというところから、運命の十三ということで、海野十三というペンネームをつけたそうですけれども、この人は、日本のSF(サイエンス・フィクション)、科学小説の先駆者だと思いますが、代表的な作品「火星兵団」は、いまの若い人がお読みになっても大変面白いものじゃないかと思います。  この人についても、また後で申し上げる機会があるかもしれませんが、特に少年物など、日本のSFの一つの先駆者ということが言えるかと思います。  四番目に私が影響を受けた人は、大下|宇陀児《うだる》という人です。すでに亡くなりましたけれども、私が昭和四十一年に江戸川乱歩賞を受けました時に、まだ選考委員でございまして、ご挨拶《あいさつ》に行った記憶があります。その時、大下宇陀児さんは、私に、『とにかく自分は釣りと酒が好きである、小説を一生懸命に書いて、その合間に釣りと、酒を飲むことが愉しみなんだけど、いま医者にすっかりそういうことを禁止させられて、いまでは自分の愉しみも儘《まま》ならない、あなたは若いから、出来る時に出来ることを死に物狂いでやりなさい、私のようになったら好きなこと何も出来ないんだから』というようなことを大変淋しそうに言われた記憶がございます。その後、間もなく大下さんは亡くなってしまったわけで、人間というのは本当に、はかないものだなという感じがいたしました。  私は、大変小説を数多く書いているということで、いろいろな意味で毀誉褒貶《きよほうへん》相半ばするわけですけれども、しかし、私は、いつもその時に、大下さんの言葉を思い出しまして、やはり、書ける時に書いておかなきゃいかん。どんなに書ける人もいつかは書けなくなる時があるということを身に沁《し》みて感じているのは、大下さんの言葉があったからです。  最後に、五番目になってしまいましたけれども、これは何といっても江戸川乱歩という人です。この方は、私が乱歩賞を受賞して間もなく亡くなったわけで、おそらく乱歩賞受賞者の中で、本当に江戸川乱歩に会って口をきき、あるいは手紙などをもらったのは、私が最後の人間ではないかという気がいたします。  江戸川乱歩と言いますと、「少年探偵団」で、沢山の人がお読みになっていますけれども、父が私に勧めたのは「陰獣」で、これが大変面白いから読んでみろ、と言われて読みましたが、いまで言うと、サディズム的な、土蔵の中で裸の女性にムチを打つというような、そういう話で、父もこんなのを読んでいたのかと、びっくりしたような記憶があります。  いずれにしても、これは私が影響を受けただけではなくて、多くの人がほとんどこの五人の作家の影響を受けました。中でも、大下宇陀児さんは、現在の社会派の先駆者ということが言えるかと思います。それぞれ色分けしてみますと、小酒井不木さんは短篇小説の名手であるとしますと、小栗さんは本格ミステリー、海野十三はSFの先駆け、大下宇陀児は社会派の草分け、そしてそれを包摂したような形で江戸川乱歩という人がいる。こんなふうに戦前のミステリーをまとめてお考えになってもいいんではないかと思います。   松本清張と 高木彬光  私は、やはり、探偵小説という言葉が好きでして、推理小説と言ってしまいますと、どうしても論理的な推理によって小説が書かれてくるというふうにお考えになることが多いと思いますけれども、探偵というのは、非常に人間臭い言葉ですね。つまり、推理小説というのは、コンピュータで解析して一つの結論を出すという話ではないんで、本来は探偵小説であって、人間が人間の後を追い駆けて行く。尾行と言われますけれども、あの尾行こそが、まさに探偵の基本的なやり口なんですね。人の後を尾《つ》けて行く。それから、人の噂《うわさ》話を集めてくる。いわゆる聞き込みですね。そういう非常に人間臭いこと、これが本来、この小説の中心になっていたんではないか。  それが、探偵の偵という字が当用漢字に引っかかって使えなくなってしまった。そのために、何かほかにうまい言葉はないかというので、当時、木々高太郎さんが考え出したラシオシネーション、つまり、推理という言葉を翻訳してそれに当てはめたというのが、「推理小説」という言葉の成り立ちであるわけです。  しかし、再び探偵小説に戻そうという動きもあって、いろいろ探偵小説という言葉を使ったこともございますけれども、現在では、どうも探偵小説というと古い小説、推理小説は新しい小説というふうに分かれてしまっております。ですから、われわれもいまさら探偵小説というような言葉は使わない、というふうになってきています。  これが戦前のミステリーの概括ですけれども、そのあと、昭和二十年から三十年までの十年間、つまり、昭和三十年に至りまして松本清張さんが出てきて、「点と線」で日本の推理小説界に大きな影響を与えるのですけれども、その間の十年間を主に支えた本格的な推理作家は二人おります。  一人は、横溝正史さんです。「本陣殺人事件」で画期的に日本の本格ミステリー界に、代表作をおくり出しました。これはテレビ化とか、映画化にもなりました。それからこの人の作品としては「獄門島」という傑作があります。  小栗虫太郎は、非常にペダンティックな点では最高だったんですけれども、やや大衆性がなかったんですね。それを大衆性を付与したというのは横溝さんではないかと思います。特に「獄門島」は、芭蕉の俳句なども出てきますけれども、俳句というものをうまく使ったもので、そういう言葉の遊びを取り込んだものとしては、横溝さんが一番ではないか。  実は、私は、横溝さんが亡くなられる前に軽井沢の別荘へお邪魔しまして親しくお話したことがあるんですけれども、その時、横溝さんが、私が「奥の細道殺人事件」を書いて芭蕉の忍者説を発表したのを言われまして、芭蕉について、もう少し研究したら、きみのようなああいう作品を自分も書きたかったよ、と言われて、大変私は嬉《うれ》しかったことを憶えていますけれども、そういう意味では、私自身は、横溝さんの「本陣殺人事件」が、密室物として、これが日本で一番だと思いますが、それと「獄門島」、この二作の強い影響のもとに今日あるんだなと思っております。  もう一人は、高木彬光さんです。高木さんは沢山の素晴しいミステリーを書いていますけれども、特にこの人の「刺青殺人事件」は、日本の本格ミステリーの中では忘れることの出来ない傑作ではないかと思います。  と同時に、横溝、高木と続いた本格、しかも長篇の世界は、松本清張さんが現われるまでの日本の推理小説界を立派に支えてきた。このお二人を忘れることは出来ないんです。  いま申し上げているのは、私にとって忘れることが出来ないと同時に、日本のミステリー界にとって、あるいは日本の推理小説を語る上で、その時期のこのお二人のことは欠かすことが出来ないと思います。  それからいよいよ、昭和三十年の松本清張さんの「点と線」というふうに繋《つな》がってくるわけです。  戦後の推理小説の一番知られた人が、実は、松本清張さんになってしまったために、清張さんの名前は、大変皆さんに一般的にも覚えられて、推理小説を読まない人でも、清張さんの名前は覚えている。しかし、これには二つの意味がありまして、一つは、清張さんが立派な推理小説を書いたということもあるんですけれども、同時に、この人は、やはり、本質的な意味では推理作家ではなかったということがあると思うんです。  これは決して、あの人を貶《おとし》める言葉ではなくて、清張さん自身の本質は、本格推理小説を書いて、それでもって足りるとするような人ではなくて、もう少し枠の違うもの、たまたまそれが推理小説をお好きだったということと結びついたので、特に、当時の光文社という出版社と結びついて、「点と線」以下の沢山の作品が生まれたんですけれども、やはり、本質は違っている。  どういう点が違っているかと言いますと、本格推理は、小説そのものの言葉の綾からくる面白いということに、第一の興味を持っている人がそれを書いていく、というところに意味があると思うんですけど、清張さん自身は、そういう点も勿論《もちろん》、多少あるんですが、そればかりではなくて、小説としての面白さ、特に、人間の一つの行動に踏み切っていくその動機の点、そこに眼目を置かれて、犯人の人間性、それの良し悪しですね、そんなところから小説をスタートさせていくという書き方をされたわけで、そのために、清張さんの作品の主なるトリックは何かというと、ほとんどが、アリバイ崩しという形になってくるわけですね。  つまり、推理小説は、主人公は探偵か、犯人か、というのは非常に難しいんですけれども、推理小説の主人公が仮に犯人だとしますと、主人公が初めから分ってないということになってしまうわけですね。初めから犯人が分っていれば、これは倒叙という別の話になるんですけれども、いずれにしても犯人のことを詳しくまず書けないという制約が、推理小説にはあるわけです。  ところが、清張さんは、どうしてもそれを書きたいというお気持のある方でして、ですから、小説の少なくともまん中ぐらいまでに大体犯人は分らせてしまう、という書き方をされるわけです。そうすると、その後、謎とかなんとかをどういう形で持ってくるかというと、アリバイがある。アリバイ崩しは、逆に、犯人が分ってないと面白くないわけですから、犯人は彼(あるいは彼女)だ、ところがアリバイがあるということで、そのアリバイを崩していくという恰好《かつこう》になりますから、どうしても中心が、アリバイ崩しという形になってくるわけです。  アリバイ崩しであると、自然に旅行が絡んでくる。この辺から、現在のトラベルミステリーのきっかけになるあの「点と線」などが書かれたのも、実に清張さんのそういう文学的な体質的なものと、出版社の売り出しとがうまくマッチして、旅行物ミステリー、アリバイ崩しが非常に大衆の間に広がっていった。これが昭和三十年代の一つの形になったのではないかと思います。  ただ、先ほど来、私、申し上げているように、松本清張さんの出現の意味は、あの人が江戸川乱歩賞などの受賞者ではなくて、芥川賞であったということでも分りますように、あくまでもその狙《ねら》いは、人間を描く小説、それの一つのヴァリエーションとしてのミステリーという形になったので、現在では、日本推理作家協会も退会され、出版社で本を売る時は、推理小説という形になっていますけれども、必ずしもそういうことではない小説のほうに傾いておられるように、私たちは見ているわけです。  それは決しておかしいことではなくて、むしろ本来的にそういう形におなりになるような素質というか、性向を持っていらっしゃったんじゃないかと、私は思うわけです。  ちょうど昭和三十年から四十年にかけて、日本の高度成長という時期が来まして、それと清張さんの政治的、あるいは構造のからくりを抉《えぐ》っていくという、本質的な小説の狙いとミステリーがうまくマッチして、例の社会派という言葉が生まれてきまして、社会派ミステリーというのが盛んに言われるようになった。   乱歩賞作家  私は、実は昭和三十八年に、「宝石」の中篇賞をもらって世の中に出たんですけれども、その頃、新本格だと言われたこともありますし、新社会派だと言われたこともありまして、出版界というのは非常に無責任でございまして、その時その時のレッテルを適当につけるということがございまして、私なんか、社会派と言われたこともあるし、本格派と言われたこともありますが、どちらも合っていると同時に、どちらも間違っているというのが正しいところで、少なくとも昭和三十年代から四十年にかけての日本の推理小説の流れは、社会派という言葉に、いみじくも象徴されていると思います。  同時に、江戸川乱歩が生きている間に、自分の名前を冠した長篇推理小説の賞をつくりましたのが江戸川乱歩賞で、これがまた昭和三十年から始まって、第一回は、中島河太郎さんの評論が受賞し、第二回が早川書房、第三回に至って 仁木悦子さんの「猫は知っていた」が受賞して、それから江戸川乱歩賞作家というのが出てくるわけです。  そういう意味では、松本清張さんの出現と、江戸川乱歩賞作家が輩出してきたということとの両方が、日本の推理小説の隆盛と結びついてきたと思います。  これはまた、いずれこの中で何回か触れると思いますけど、もし、皆さんの中で推理小説を今後書いてみたいという方がおありになれば、その後、沢山の賞が出来てきておりますが、やはり、何と言っても江戸川乱歩賞を狙ってお書きになるのが一番いいんではないか。余計なことかもしれませんけれども、推理小説が本当にお好きであれば、とにかく乱歩賞に挑戦してみるというのは価値があることではないかと思います。  推理小説はありがたいことに、世の中に作家として出るには、非常に出やすい状況にあると思うんです。まず沢山の場が提供されていますから、おそらく賞の一つも取れば、一ぺんに出版社が注文にきます。私が江戸川乱歩賞をもらった昭和四十一年は、受賞しても、ほとんど注文はなかったのです。一、二年は、短篇が一本とか、二本とかいうぐらいでした。最近の乱歩賞の受賞者に聞きますと、とにかく受賞したと同時に、ほかの編集者が頼みに行きましたら、「あなたのところは、あと五年か、六年あとでないと書けません」と言ったというので、その編集者が大変怒っていましたけれども、そのくらいに沢山の注文がいくようです。  それは実はいいことばかりではなくて、そう頼まれると、まず、その作家はダメになってしまう。よほどの人でないと、それに耐えて書いていけるというのは、ちょっと難しいと思います。特に、長篇小説を一ぺんに沢山書くというのは、いかに難しいことか。実際には潰《つぶ》されてしまうことが多くて、現実にも最近の人は、二、三の人を除けば、乱歩賞をもらって出て、注文がきて書けないで行き詰まっているという人が非常に多いようです。  そこで、ちょっと乱歩賞作家についてご説明しておきますけれども、最初に出た作家が、本格派としての仁木悦子さんです。この方は、地道な方でして、非常にいい作品をお書きになるんですが、寡作のほうですから、そう沢山はお書きになっていない。しかし本格の先鞭《せんべん》としては、「猫は知っていた」は忘れることの出来ない、いい作品だったと思います。  その後、江戸川乱歩賞作家の本当は中心的な人物になるはずだった 佐賀潜さんという人がいたんですが、この人は弁護士で、乱歩賞作家出の社会派ミステリー作家だったわけです。ところが、ガンで早く亡くなられてしまったために、現在は、そういう面では、ちょっと淋しくなっているわけです。  乱歩賞作家の中には、女性も随分出まして、新章文子さん、戸川昌子さん、最近では 栗本薫さんとか、大ぜい出ておられますけれども、やはり、女性がこれからはミステリーを書いていく場所が大変増えて、社会的にも、腰を落ち着けて書けば、女性のいい仕事になるんではないかと、私は思います。読者が、大体、女性が多くなっていますから、男では分らない部分をうまく取り入れていったらいいんではないか。  そこが大変難しい部分がありまして、女性は、必ずしも女性の書いたものを読むかというと、またこれが問題なんですね。女性は、必ずしも女性の書いたものを読まないんだ、という女性もいるものですから、その辺が難しいと思いますけれども、しかし、私は、日本も、アガサ・クリスティーのような女性が出ていいんではないか。現在も何人か、創作活動を続けている女性がいますけれども、まだまだ市場としても、開かれているんではないかというふうに見ています。  昭和三十年から始まって、三十年代、四十年代、五十年代と、江戸川乱歩賞は毎年、原則として一人ずつ——二人の時もありましたけれども——出ているわけですから、およそ、三十人いるわけですが、最近の受賞して出てくる人にちょっと聞いてびっくりするのは、古典としては、もう松本清張さんも読んでない。私以降に出た人の作品を一つか二つ位読んで、もう作品を書いて出てきているんですね。  そういうことを考えますと、書けば書けるんだな、という感じもします。正直言って私などは、ほんとのマニアだったせいもありますけれども、戦前の沢山の本を、毎日のようにミステリーばかり読んで暮した時がありまして、そのくらい読んでいて、やっとミステリーも少しは分ってきたのかな、という感じもするのですけれども、最近の人は、そうでない書き方をしています。  皆さんも、お書きになる時、あまりためらって、自分では書けないんじゃないか、というコンプレックスをお持ちになる必要は全然ないんで、むしろ読んでない、ほかの作品はあまり知らないという、知らないことを強みにしてお書きになるというのも手ではないかと、私は、そう思うんです。  現実に、私も乱歩賞の選者をやったことがありますけれども、そういう人間があまり無責任なことを申し上げてどうかと思いますが、むしろ現在になりますと、昔の 小酒井不木からのミステリーを全部読んで、昔こういうのがあって、これがなくて、というようなことを知って推理小説を書くということは、もう物理的に不可能ではないかと思います。物理的に全部調べて書くんだったら、もう誰《だれ》も書く人がいないんじゃないか。  ですから、むしろそういう考え方は捨ててしまって、自分自身の持っているセンスを十分に生かした形で、大胆さを持って書いていっていいんじゃないかと思います。  最近の若い作家、たとえば大変売れている 赤川次郎さんは、どういうことを言っているかというと、トリックは要らないんじゃないか、トリックなんてなくても書けるんだ、なくていいんだ、とまで言われているので、私は、その意見には賛成しませんけれども、そういう意見も堂々と本になって出ているという時代ですから、推理小説は大幅に変貌している。いい、悪いの問題を申し上げているのではなくて、そういう時代になっているということをお話しているわけです。  私自身も、自分のトリックを、ある作家が全く同じトリックを使ったので、そのことについての問題を提起した時に、「いや、同じトリックだって話が面白ければいい」というような声が澎湃《ほうはい》として湧《わ》き起こったのを記憶してます。  昔は、そういうことじゃなくて、人の使ったトリックをまた使ったら、それは恥だ、という気持が私の中にあるんですが、それはもう古い感覚ではないかという気もします。ただ、その古い感覚を大切に思っているかどうかとは別の話で、とにかくいまでは、人の使ったトリックだって使っていいんじゃないか、というような感じもしています。要するに、小説としてうまくそれを使っていれば、それで許される時代がきている、というようなことが言えるんではないでしょうか。  これも、今後、私がずっとお話していく中の一つの大切な背景というものをお考えいただきたいんですけれど、それは、現在がテレビ時代だということです。  たとえば私がいいトリックを非常に苦心して考え出して小説に書く。自分しか考えてないだろうと、現に、何回かそういうつもりで書いたものがあるんですけれども、そうしますと、それを簡単にテレビで、同じ現代ものじゃなくて、時代ものに変えたりして、現実に使われてしまっているんですね。だけど、「それは私のトリックじゃないか」と抗議できないんです。なぜかというと、その証拠がどこにもないんですね。本は売っているんだし、それでヒントを得たと称して、全く同じものを、小説に書けば、ちょっと問題になってくるけれども、テレビでやってしまえば、第一、私がいつもテレビの前に坐って見ているわけじゃなく、実は私もテレビをあまりよく見ないものですから、読者が見てて、全く同じだと、知らせて下さるので分るんですが、そういうわけで、一方、テレビがどんどん量産してストーリーをつくっているために、真似されてしまっても、もうしょうがないという現実がここにあるわけです。本当にしょうがないというのが本当の気持だと思うんです。  ですから、推理小説を書くほうは、そういうことで真似されても、なおかつ平然として耐えていって、なお先の作品を書いていけるというぐらいの度胸と気持を持てなければ、現在の作家ではあり得ない、という気がします。  以上が大体、本格推理小説の流れですけれども、そのほかに、一時は推理小説とほとんど混在してSF(サイエンス・フィクション)というものが、非常に盛んになりました。特に、SFというと忘れることの出来ないのは 小松左京さんですけれども、小松左京さんの「日本沈没」が日本推理作家協会賞をもらったことがあるわけです。  この作品は、勿論、優れた作品だと思うし、当然、賞を与えてもいいんですけれども、日本推理作家協会が、その当時、SFである「日本沈没」に日本推理作家協会賞を与えたということが、当時の一種の混乱を示していると思うんです。SFも推理小説か、というようなことが議論されまして、当時はまたSFが爆発的に読まれたわけです。現在でも読まれていますけど、一時ほどではない。  私は、SFは大変難しい小説だと思うんです。どういう点が難しいかと言いますと、一般小説は、ミステリーの本格物も含めて、小説ですから当然、人間の心をテーマにして書くわけです。現実にトリックを書いたとしても、心がテーマである。ところがSFは、人間の技術のほうをテーマにして書かれた小説であるために、やはり、技術というのは物理的なものですから、一つの限界もあるし、知識としては、一般読者にどこまで知らせることが出来るかという点では、非常に難しい意味がある。難しいことを書いてしまっては、読者が随《つ》いて行かないし、また、ある程度難しくなかったら、また逆に読者が随いて行かないという二面性を持っているために、大変難しいんじゃないか。  SFというのは、ちょっと|ちゃち《ヽヽヽ》なSFを書きますと、もうとても読むに耐えないものになっちゃうんですね。子供向きというか、そういう感じになってしまうので、昔の「猿飛左助」が印を結ぶと、ドロンと姿が消えてしまう、というような話に近いものが出来てしまうので、その辺が大変難しい小説だと思います。  ただ、私も今まで百五十冊以上の単行本を出したわけですけれども、生涯、筆を擱《お》くまでに一冊ぐらい、SFというものを書いてみたいと思っています。そういう時がくるかどうか分りませんけれども、SFというのは、研究すると非常に面白い、つまり、人間の技術の枠の部分、同時に、その技術の枠というのは、とことんいくと何かというと、人間の哲学とぶつかるんじゃないか。非常に哲学的な部分に最後は到達するというところが、SFにはあるんじゃないかという気がしているんです。  ですから、そういうことを考えて書けば、海野十三から小松左京までずーっと繋がってくる日本のSFが、新しい装いのもとに書けてくるんじゃないかという気もしてますけれど、これはあくまでも気でして、本当にそういうほうに向いている資質の方がお書きになれば、一番いいんじゃないか。  ただ、どんな人も一作ぐらいは、SFに挑戦する価値もあるし、また書けてくるんじゃないかという気がします。  しかし、このことについては、私は、全く本職ではありませんので、詳しくは申し上げません。  ただ、ここでなぜSFを取り上げたかというと、一応、小松左京さんの「日本沈没」に日本推理作家協会賞を与えた時期があって、その頃は、広い意味の推理小説の中にSFも包摂されていた時期があったということを指摘しておきたいと思うんです。  現在では、SF大賞というものがある出版社でつくられておりまして、小松左京さんが中心の会長になっておやりになっているようですけれども、そういう形で、SFというものが独立してきているというのが現状です。   ハードボイルドと冒険小説  推理小説という中で、さらに本格以外では、ハードボイルドと、最近は冒険小説と言いますか、アドベンチャー、この二つが推理小説の広い意味のお仲間という形で議論されているわけです。  ハードボイルドは、これこそが、SFとはまた違って、ちゃんとした普通の本格的な推理小説の行き着いたところとして、特にアメリカを中心に発達してきた小説の形態です。ただ、ハードボイルドの場合は、文字どおりハードボイルドでして、つまり、民族性がドライとウェットの違いがありますと、なかなか書きにくい面がある。アメリカのようなドライなところと、日本のようなウェット民族で、果してどこまでハードボイルドが日本に定着するか、非常に難しい。  こういう例をあげたら失礼かもしれませんが、例のハードボイルドの親方みたいな 生島治郎さんが、最近はなにかソフトボイルドみたいになってきた、と言われているくらいに、どうもハードボイルドというのは、民族性にだいぶ影響された作品ジャンルであって、日本でどこまで根づいてくるか。これはやはり、どなたかそれに向いた人がもっと強力に書いていかなければ、うまくいかないのではないか。  特に、ハードボイルドの場合は、探偵役が、簡単に言えば、ニヒルな、ドライな、硬質な人間人格を持っていないと、切れ味のいい小説になることが非常に難しいものですから、日本の大衆が、果してそういうものを多くの人が求めているかどうかというのは、やはり、大変難しい面がありますので、作家の個性味と非常に関係していると思います。  その点で、これも、私は、自分の素質から言っても、自分自身は多少ウェットのほうに属しているものですから、どうも書こうという食指があまり動いてきません。  ですから、これはいい悪いの問題でなくて、どなたか、そういうほうに向いている方がお書きになると、いいんではないか。そういうものを、私は、読者としては読んでみたいと思っています。  アドベンチャー物も、最近言われていまして、推理小説と言われている一般的なものが、言葉を中心にした謎を解くプロセスを書いていく小説だとしますと、アドベンチャー物は、人間の行為、行動を中心にした、冒険ですから、あくまでも人間の行動のほうにウエイトを置いて、行動の面白さを書いていく小説であろうと思います。  これは、私の偏見と独断で申し上げますと、やはり、アドベンチャー物の元は、これもクラシックで少年物ですけれども、スティヴンソンの「宝島」が、古典としては一番面白かったという気がします。あの中には、暗号みたいなものも出てきますし、一にも二にも「宝島」がアドベンチャーの中心じゃないか。形は変わってもアドベンチャーというものの中心は、宝を探しに行くという、人間の夢みたいなものがありまして、これは無条件に面白いものです。  スティヴンソンの頃は、冒険は、山もありましたけれども、主に海だった。現在は、それが何になっているか、また、これからなっていくかというと、やはり、宇宙の冒険だろうと思います。たとえば「戦艦ヤマト」みたいな話もありますけれども、あれは、スティヴンソンの海が宇宙空間に変わった話だろうと思います。しかし、まだまだ海だって探索され尽くしているわけではなくて、海洋物、いわゆるアドベンチャー物は、これからもまだまだ書かれるだろうと思います。宇宙の冒険物も、勿論、書かれていくでしょうけれども、海洋物もまだまだ、何があるか分らないんですから、書かれていっていいんではないか。  ただ、出版界にはヘンなジンクスがありまして、海ものは売れない、と言うんです。海のものとも山のものともつかない、という言葉がありますけれども、海のものはダメで、山のほうが売れるというんで、それかあらぬか、西村京太郎さんも、海ものを書いていた時は、全然売れなかったんですけれども、陸のほうに変わって、列車ものを書き出してから売れるようになったというくらいなんで……。  どういうわけですかね。そんなことはないという気が、私はするのですけれども、現実はどうも、そういうようなことなので、売れる、売れないにあまり拘泥《こうでい》して書くことはないと思いますけれども、どうも海ものは大変難しいということが、小説を書く上では言えるんじゃないでしょうか。  それはなぜかというと、これこそ私の独断ですけれども、海というのは、一般の人が憧《あこが》れていても、その場所へ行った人が少ないというような意味があるんですね。列車ものとか、山ものとか、陸上であれば、多くの人が旅行やなんかを通して、その場所へ行って、つまり、親近感が非常にありますから、そこへ行けるし、自分の目でそのものを読者が実際見ることも出来るし、見たという経験もあるわけですから、「私は、そこへ行ったことがある。なるほど」というような感じがあるのでいいんですけれども、海は、それが何と言っても少ないですからね。そういうせいではないか。それが売行きにも多少影響しているんじゃないか。そういうような気がします。  そのほか、ミステリーの中では、ポルノミステリーというのも、一つのジャンルとしてはありまして、いろいろな人が書いていますけれども、たとえば 宇能鴻一郎さんは、ポルノを書きながら、同時にミステリー物を書いている。ポルノを絡めたミステリーも一つのジャンルとしてあり得るし、最近、それがだんだん発展してきたのが、夢枕獏氏とか、何人か出ていますけれども、セックスを極端に強調した一種の冒険サスペンス物、これは昭和五十年代の後半に極端に出てきた、推理小説のお仲間の一つだけれども、本当の意味の推理小説じゃない部分で読ませるというジャンルであろうと思います。  広く言えば、あの辺までミステリーに入るかもしれないけれども、私としては、これからお話するのは、私自身が本格派ミステリー作家と自分でも思っておりますから、大体、そういう線でお話するので、その手の小説の書き方については、私、ちょっとよく分りませんので、それはまた、別の勉強をしなきゃいけないかもしれませんが、そういう作品もあり、現在、巷間《こうかん》沢山読まれているという事実は指摘しておきたいと思うんです。  さらに忘れることが出来ないのは、ユーモアミステリーというジャンルが、最近、極端に書かれるようになったし、出版されるようになってきた。古くからユーモアミステリーというのはありまして、昭和三十年代から四十年代にかけて 天藤真さんという人がいまして、天藤さんがユーモアミステリーの大家とされていたんですけれども、その頃のユーモアミステリーは、おとぼけ調の探偵、あるいは小説全体がコミカルな感じではあったけれども、しかし、あくまでも本格的な推理小説という骨格を備えていたわけです。   ミステリーの評価  ところが、最近書かれているユーモアミステリーを読んでみますと、だいぶ違う。だいぶ違う主なる理由は、作者が違うふうに書いているせいもありますけれども、そればかりではないんです。どこが違うかというと、やはり、読者が違っているんですね。読者が非常に低年齢化している。小学校の生徒から中学生あたりを中心に読まれる。そういう意味のユーモアミステリーとなりますと、非常に難しいこと、堅苦しいことはまずダメ。  かつてわれわれは、小説を書く時に、原稿用紙のマス目が埋まってなくて、白いところが多い原稿を書くと、楽は楽なんですけれど、なにか原稿料をタダ取りしているような感じがしまして、ニセ札をいい加減に書いているような気がする。適当に書いて、これで一枚一万円とかってもらえるんだったらいいな、という感じがしますけど、それでは申し訳ない。出来るだけ白いところを埋めたものを編集者に渡したいという気持で書いているんですけれども、最近は、どうもそれは逆で、読まれない、出来るだけ白いところが多いほうがいいと言われるんですね。まァ、非常に有難い話なんですけれども、それこそ、 「はい」  と彼女が言った。彼は、 「いや、ダメ」  と言った。  というような感じでいく。ユーモアミステリーですと、非常に会話が増えますし、軽くなります。これが、軽薄短小と言われる現代の風潮と結びついてくるわけです。  つまり、少なくとも三十位の働き盛りの男の人、四十、五十位の年配になりますと、非常に難しいものを要求してくる部分がどうしても出てきます。そういう方を対象にして考えるか、そうでなくて、もっと広く、むしろメインは小学生、中学生あたりに置いて沢山本を売るんだということになると、どうしてもユーモアミステリーのほうが、その意味では有利だと言えるわけです。  現在のこういった時流を安易に……、つまり、安易だからいけないとか、まずいとかいうふうに考えるわけにもいかないんですね。社会がそういうふうになっている以上は、その現象をどう自分が受け止めるかということで、それに乗っていきたければ乗っていく。そうでないものを書くなら書く、ということだと、私、思うんです。  どっちがいいとか、悪いとかいう問題ではなくて、むしろ作家の性格とか、資質と非常に関係しているんじゃないか。  この辺が難しいんで、いまではその評価について、日本の推理小説評論家の皆さんも、非常に難しいと思っていて、それについては、はっきりした評価を下していない。売れることは売れるんだから、いいんじゃないかというような、どうしても出版社サイドの考え方……。一冊の本が出ますと、作家サイドの物の言い方、出版社サイドの物の言い方、評論家としての言い方、それから読者の言い方、この四通りあるわけです。読者も男性、女性、またある程度の年配の方、若い人、それぞれみな違う意見を持っていて、違う評価を下すというのが現状です。  これは、皆さんが、小説をお書きになってみれば、すぐに言えることで、その小説がいいか、悪いかは一般的に言えないんですね。どういう人に読ませようと思って書いたか。それによって、その小説がいいとか、悪いとかいうのがすぐ出てきちゃうわけで、たとえば中学生に読ませるために書いたものならいいけれども、五十歳の年齢のお医者さんに読ませるためには、これはダメだというのがあるわけですから、どっちがいいか、悪いかは言えないわけですね。対象によって決まってくる。  たとえば懸賞小説に応募する時は、その選考委員の顔ぶれを見て、その選考委員に合っているようなものを書くというのも、一つの作戦としてあるということも言えるかと思うんですけれども、いずれにしても小説という商品を、どういうマーケットに出すのだ、ということで評価がいろいろ違ってくる。いいか、悪いかというのは一般論としては言えないということを、ここでは申し上げる程度にしまして、ユーモアミステリーの評価はこれから日本で決まってくる、と私は思うんです。  そのほかに、まだいろいろなジャンルが多岐多様にわたって、分類しかねるくらいなんですけれども、たとえばサスペンス物と一般的に言っているものもあるわけです。あるいはホラー物という、恐怖小説みたいな、怪談みたいな、おどろおどろしい、おっかないものもあるわけです。  それもやはり、推理小説という広い意味の中にはあって、そのほうをお得意にしている人もいます。  推理小説が多様化したということは、つまり、読者が多様化したことであって、それも、どれが上、どれが下ということではなくて、非常に多様化している。  その中で、推理小説をどういうふうに受け止めていくか。どこまでを推理小説として考えるかは、その時代によって変わってくるし、変わっていいんじゃないか。現在、恐怖小説はミステリーの範疇《はんちゆう》から、ちょっとはずれているというふうに考えられていると思います。サスペンスは、推理小説のほうに一応入っている。あくまでもサスペンスは推理小説であると言えるし、推理小説のメインは、サスペンスのある小説だということが言えまして、それと似た言葉で、スリルという言葉もありますが、江戸川乱歩には「スリルの説」という有名なのがありまして、やはり、スリルがなければ推理小説ではない、これは本当だろうと思います。  ただ、それの量的なもの、質的なものがどう合わさってくるかということで変わってくるわけで、推理小説の出来具合というのは、単純ではございません。  私自身も、とにかく本にして百五十冊、仮に四百字詰で六万枚位の原稿用紙を書いたわけで、夏目漱石は一生涯に二万五千枚位の小説を書いたと言われていますから、その倍以上書いているわけですけれども、その中で、やはり、いろいろなタイプがある。ただ、いろいろなタイプを書いても、その作家の持っている資質というものがありますから、私は、本格ミステリーをいつも中心に置いて、周りに少し手を伸ばしても、いつもそこに戻ってくる。そういう恰好で小説を書いているし、また、そういうふうに書こうと、自分で思っているわけです。  ですから、皆さんが小説を読む場合でも、ある一人の小説家の小説を徹底的にお読みになるのが一番いいと思うんですけれども、その場合、私のように百五十冊ありますと、順番に「殺人の棋譜」から順に読んでくれるといろいろな変化も分って、理解してもらえる部分もあるんですが、勿論ある意味では、つい最近書いた本を初めて読んで知るということもあるわけですね。  また、作家にしてみると、こういう一本の本格小説を書いているけれども、少し違った方面を書いてみたいと、たった一本だけそういう小説を書いた、というのを、そこから読まれる人もいるわけで、あ、斎藤栄というのはこういう作品を書いているのか、と思って、ほかのを読むと、全然違うというので、びっくりしたりするということもあるわけですから、作家というのは非常に難しいので、いろいろな入り方をされる読者がいるということを、一応、頭に置かなければいけないと思います。  読者の側も、少なくとも一人の作家の三分の二ぐらいの作品はお読みになる、というつもりで読んでみると、この作家のこの作品は、どの辺に位置づけられるかということが分る。そうすると、単に小説を読むという愉しみ以外のいろいろな愉しみも出てくるんじゃないかと思います。  いま、網羅的にずっと、初めは歴史的に辿《たど》って、次に平面的に分類した形で、どんなジャンルが推理小説の仲間としてあるかというお話をしたわけです。これはごく常識的なことで、大部分の皆さんは、そういうものに関心をお持ちの方ばかりだと思いますから、ご存じのことを申し上げたにすぎないかもしれません。しかし、これから推理小説の、私自身が書いている具体的なやり方をお話する前に、大体、背景となるものに触れておかないと、具体的に展開できないと思って、こういうお話をしているわけです。   習作「輝紫蛇邸殺人事件」のこと  さて、いままでは一般論としてのほかの人のことを申し上げてきたのです。一番最初に 小栗虫太郎の話をしたわけですが、小栗虫太郎は、私に大変大きな影響を与えた作家でして、一時は、江戸川乱歩よりも優れた作家である、と私は思って、この人の作品「黒死館殺人事件」を、私の推理小説の聖書というふうに考えて、いつも持って歩いていまして、教科書を忘れることがあっても、この本だけは鞄《かばん》の中に入れていた時期があるわけです。  私は、ちょうど十五歳の時に、「輝紫蛇邸殺人事件」を書いたわけです。現役作家が十五歳の時に書いたものというのは、非常に珍しい小説だと思います。 松本清張さんも、おそらく十五歳の時に書いた作品は、いま残ってないんじゃないかと思います。これは原稿用紙にして百五十枚位のわりあいに長いものですけれども、いま皆さんお読みになろうとすれば、徳間書店から出ている「人の心こそ最大の謎である」という本の中に収録してありますから、お読みになってみると分ります。十五歳の時に書いた小説ですから、勿論、いまから見れば、単なる習作に等しいんですけれど、非常に子供らしいものです。  トリックを一つだけバラしてみますと、当時、私は非常に凝《こ》ってまして、ナイフで人を殺すとか、紐《ひも》で首を締めるとかじゃない、何か新しいものを考えようというので、音で人を殺す、音の共振、共鳴ということで人を殺す、音が凶器になっているという小説です。まァ、そんなようなものがあります。  皆さんの中に、もし、お子さんをお持ちの方で、お子さんが十五歳ぐらいで、この「輝紫蛇邸殺人事件」程度のものがお書きになれれば、十分、推理作家になれると思いますので、比較してみるのにちょうどいいんじゃないか。お読みになっていただきたいと思います。  この作品そのものは、勿論、一般的なものではありません。私の習作ですし、ただ、小栗虫太郎というものが、私の作品にどれだけ色濃く影響を与えているか、という例として挙げておくだけでもよろしいのですけれども、ただ、二つだけ申し上げたいことがあります。  一つは、殺人事件というタイトルについてです。これも後で「タイトルについて」という項目で詳しくお話したいと思うのですけれども、いずれにしても、この殺人事件というタイトルは、「マーダー・ケース・オブ……」という形で昔からあったわけで、私も、殺人事件というのばかりずっと付けていたんですね。最近、朝日新聞かなにかに書かれて、どうも殺人事件というタイトルを安易に付けたがっている、というお叱りをこうむったようなこともありますけれども、決して安易でなくて、安易でないからこそ、殺人事件と付けたいという気もするくらいなので、それの元が、この「輝紫蛇邸殺人事件」によく表われていると思うんです。  もう一つは、ペダンティックということの意味です。少なくとも私の心の中に幼児期からある推理小説の一つの特徴は、日本で言えば衒学的、つまり、やさしく言えば、物知り、沢山のことを知っているという恰好をひけらかす、悪く言えばそういうことになるんですけれど、そういうペダンティックなものを読者としては読みたい、したがって、作者としては、それを書いてみたいというのがありまして、それが「輝紫蛇邸殺人事件」の中にはよく出ていると思うんです。  これは、私が高校生の時に書いたのですけれども、探偵がエスペラント語を喋《しやべ》るというような、またラテン語の引用などもありまして、大変複雑なものになっていまして、そんなのは非常につくりものめいていて、現実的ではないんですが、ただ言えるのは、これを書いたのは、私の高校一年の時ですから、昭和二十四年です。その頃は、日本はまだまだ、私なんかは水とんを食べて、やっとサツマイモが食べられたかどうかということで、家も他人《ひと》の家に間借りしているような状態の時ですが、この小説に出てくる舞台は、素晴しい大邸宅で、中に住んでいる人は、シャンデリアの下でフルコースのフランス料理かなんか食べているわけですから、いま読むと、こんな生活も多少はどこかで経験したんだろうと思うでしょうけれども、そうじゃない、見たこともない生活を書いてたわけですね。  その意味でも、作家は体験しなければならないという、その体験は、必ずしも現実にすることではない。だから、私はあまり体験がないから書けない、とお考えにならないで下さい。現実に殺さなくても人を殺すことが出来るので、私は、平均して毎年七十人ぐらいずつ殺しております。しかし、作家は殺す心理ばかりではなくて、殺される心理も書くわけですから、それを体験なんかしてた日にゃ、一作も書けないで死んでしまうわけです。  ですから、小説家は、必ずしも現実の体験を必要としない。かの有名な 川上宗薫さんでも、女性をそういうふうに買ったりして遊んでいたんではないという説もありますから、気をつけて下さい。作家に騙《だま》されないようにしたほうがいいと思います。決して体験しなければ書けないということは、むしろ嘘《うそ》で、体験している人、その世界にどっぷり漬っている方は、銀行にいれば銀行のことが書けるかというと、かえって知り過ぎていて書けないということもございまして、難しい点があると、私は思うんです。あまり知っているとよくない、ということもあるんですね。  つまり、当事者には分らないことが、作家だと分るということがあるんです。それは作家は、いつも通りすがりの人間だからです。 レイモン・ラディゲの有名な言葉がありますけれども、ちょっと通りすがったからこそ、その人は、そこのシチュエーションを、そこにいる人よりも鋭敏に理解することが出来るということがあるわけですから、作家たらんとする人は、決して体験が少ないから自分は書けないんだというふうにお考えになる必要はなくて、全く逆だと思います。  むしろ、心の非常に鋭敏な、向こうがピカッと光ったら、自分もすぐその光をキャッチ出来る、そういう心の仕組みをお持ちになる、それが作家になるために一番大切なのであって、現実に、その光を出してみるとかいう必要は全然ないんで、少なくとも周りにあることを鋭敏にキャッチするという感受性、それの鋭さを養うことのほうが、体験よりもずっと必要なんだということを、ついでですけれども、申し上げておきたいと思います。  さて、ペダンティックということですが、私は、小学校六年の時に、自分の愛読書を百科事典と決めたんです。百科事典を愛読書にしようというふうに自分で思ったんですね。当時、まだ戦争中ですから、本なんてろくになくて、たまたま私が疎開した先の小学校、現在の腰越小学校の図書室に、誰も読まない埃《ほこり》だらけの百科事典が置いてあったんですね。それを、毎朝、人よりも早く行って読ませてもらったんです。アから始まりましてずーっと、何の意味もなく、とにかくページを繰って読んだ。非常に面白かったという記憶があります。  それが私にとって、沢山の小説を読んだ以上の影響も与えたし、また、自分のことを百科事典派と言ったのですけれども、そのくらい百科事典を読むのが好きだったものですから、それが小説を書く上で、雑学的に大変役に立ったという気がします。当時は、戦争中で物も何もなかったけれども、百科事典を開けば、素晴しい世界がそこに待っていたという記憶がありますので、いまはそんなことしなくても、素晴しいものがこのあたりにもありますし、逆に、そういう素晴しさの中に入っちゃったために、われわれは何かを見失っているんじゃないかという感じもしないんでもないんですね。素晴しさがないところで、はじめて百科事典を読む素晴しさを、私は感じた、というような気がします。  私自身の体験から言うと、推理小説を学生時代ずっと書いていたのですけれども、途中で、実は、日本の推理小説を書くトリックは大体自分では書き尽くしちゃったという気がしたのが、ちょうど高校二年生の時でして、いまでも箱に一杯、書きためた習作がありますが、還暦を迎えたら出版してみたいと思っているわけです。  その一番最後の作品、これで最後だ、と自分で思って書いたのが「|最後の論理《フアイナル・ロジツクス》」です。もうこれ以上トリックなんてないんだというので、素晴しい密室トリックを考えたつもりで当時書いて、それでやめちゃったのですけれども、やめてずっと経っているうちに、やがて 松本清張さんあたりが現われて、推理小説というものが盛んになって、そういうのを読んでみているうちに、あ、この程度の小説なら自分でも書けるぞ、と思いだして、それじゃ自分も書こうという気になって、また再び復活してきて江戸川乱歩賞に至るわけです。  ですから、私の推理作家としての起源は二回にわたるわけです。学生時代にあって、間しばらく途切れて、それからまた復活してくるというわけです。 「最後の論理」は、やがて本にするつもりですけれども、いま、ある出版社が出したいと言ってきているので、「続最後の論理」を書いて終りにしようと、でも、それはやはり、自分が六十歳になった時にしようと思っています。   本格プラス社会派  いまずーっと推理小説の歴史的な変遷をお話してきまして、これは非常に簡明に申し上げますと、本格推理小説という一本の柱がいままで中心になってやってきたものに、松本清張さんが現われて、社会派ミステリーが盛んになってきた。それ以降、つまり、清張以降はどういう小説があり得るか、ということを、われわれは議論したことがあるんですけれども、結局、本格プラス社会派ということになるだろう。  ただ、本格プラス社会派と言っても、それだけじゃなくて、本格と社会派を結びつける何か糊《のり》みたいなものが必要じゃないか。それはやはり、作家の持っている強烈な個性というものじゃないか。その個性で糊づけして、それに多少香辛料として娯楽性というものを強く味つけする。そういうものがこれからの推理小説の、まァ、非常に大雑把な言い方ですけれども、あり方になるんじゃないか。  ということで、現在、事実上もそういうふうになっている。逆に言えば、そうなったから、そういうお話をしているという面もあるんですけれども、そういうような形で、現在の推理小説は、本格派的な推理小説プラス社会派的な推理小説の展開、それに作者の強い個性と、そして娯楽性の付与ということで、できているのが多い。  私の書いた魔法陣シリーズは、まさに、斎藤栄がそういうものを書いたらどうなるかということの一つのお手本を書いてみようと思って書いた作品である、というふうにご理解いただきたいと思います。  これの持っている意義はまた別にあって、それは後で申し上げますけれども、少なくともきょうのところは、この作品で私は、本格プラス社会派という推理小説の歴史の上で、自分が果すべき一つの役割を、現実化、具体化してみるとどうなるか、というのを作品で表わしたのが、この魔法陣シリーズであった。これは集英社で刊行して、いま集英社文庫に入っていますけれども、「水の魔法陣」「火の魔法陣」「空の魔法陣」「風の魔法陣」という四つの魔法陣シリーズですね。あと、五大ですから、もう一つ「地の魔法陣」を書くわけですけれども、水と火と空と風は書いたんですが、いまだに「地」は書かない。  なぜ書かないかと言いますと、私が「水の魔法陣」を書いた時に、どうも水の事件が起きましてね。女の人を殺して受水槽の中に入れた、水道の蛇口をひねったら、女の人の髪の毛が蛇口から出てきたという話を書いて、だいぶショッキングだったんですけれども、それから間もなく蒲田警察から私のところに電話がかかってきまして、マンションの屋上で男の人が死んでいて、その水を長いこと、そのマンションの人は知らないで飲んでいたという恐ろしい事件が実際に起きて、これは殺人事件ではないか、おそらくこの「水の魔法陣」を読んで犯人は考えたんじゃないか、ということで、刑事が一生懸命読んだそうですけれども、結果はどうも自殺だったんじゃないかということになったのですが、そんなところで自殺されたら、たまらないですよね。 「火の魔法陣」の時もそういうことがあって、ガス爆発がだいぶ起きたんですね。「風の魔法陣」の時は台風がきましたし、ですからどうも、私が、水、火、空、風、というのを書きますと……、地を書くと、当然ですね。地震がくるんじゃないか——。もう「地の魔法陣」だけは書くの厭《いや》だと、出版社には、「これだけはぼくは書かないから」と言って頑張っているのですけれども、出版社は、「いや、それなら外国の地震の話を書けばいい」と言ってくれるので、外国の地震のことを書こうかと思っています。  私は、少なくとも小説の中で人を殺しているのですから、大変申し訳ない、殺しっぱなしにしてはいかんというので、執筆殺人供養碑を磯子の杉田・東漸寺に建てまして、毎年十一月三十日を祥月命日としてお坊さんを呼んでお経をあげて供養をする。こういうことをやっているわけです。  推理小説というのは、書いて愉しみでもありますけれども、やはり、針仕事をしている人が針供養をする、ソロバンを使っている人はソロバン供養をするというふうに、供養というのは大切じゃないか。つまり、何かに感謝するという気持ですね。そういうような気持でやる。同時に、その中に巧まざるユーモアというか、遊びの精神が必要なんじゃないか。  そういう意味で小説を評価していただくといいんですけれども、この間なんかは、M氏がぼくの小説をロサンゼルスで読んでいて、向こうで彼の本を調べたら、その中に私の小説があるんですね。「凶鬼」という小説の中に、犯罪は外国でやれ、徹底的にあくまでも白《しら》を切れとか書いてありまして、そこが折ってあったんですね。これはテレビ局の人も取材にこられたんですけれども、ああいうのはあまり愉快なことではないですね。  よくいろいろなところで講演しますと、「あなたの作品を読んで、犯罪が増えることがあるんじゃないか。それについて良心の呵責《かしやく》はないか」と訊《き》かれて非常に困るんですけれども、その時は、しょうがないから 石川五右衛門の例を引用して、もし私が一冊も書かなければ犯罪が世の中からなくなるのであれば、いつでも小説を書くのはやめましょう。私の考えでは、絶対にそういうことはなくて、犯罪はいつの世の中でもあるでしょうし、また逆に推理小説は、最後は必ず犯人が分るので、犯人がいかなる形でも分らない推理小説は売れない。謎があって、最後のところで、「やはり犯人は分りません。終り」というふうなことを書いたんでは、まず、誰も買う人はいないと思うんです。  ですから、そういう意味の呵責は勿論ございませんで、むしろ健全な方が、推理小説の面白さ、謎の創り方、解き方を、ちょうどパズルを解くようにお考えになっていただければ、非常にいいんじゃないか。そうしてまた、そういう意味の娯楽としては、自分が考えてお書きになってみる価値もあるんじゃないか。  勿論、最近|流行《はや》りの不倫をテーマにした、不倫小説というようなものをお書きになるのも、一つの面白い小説のテーマになるかもしれませんけれども、やはり、本格推理小説、謎を中心にして、それを解いていくという小説を考えてみるということも、頭のトレーニングとしても面白いし、もし、それが世の中に容《い》れられれば、面白いように小説が書けて、売れて、一躍作家として世の中に出る可能性も十分あると、私、思うものですから、イントロとしまして、推理小説の歴史について説明したわけです。  なお、この本では、話を分りやすくするために、日本の小説を中心にし、外国作品には触れないことにします。 [#改ページ]   第二章 ストリック理論の周辺   様式美を追求する文学  私は、推理小説は、様式美を追求する文学、それの延長線上にある文学だと考えています。  具体的に、どういうことかということは追々お話しますが、まず基本的に推理小説という一つの文学形態、これがどういう考え方にあるか、ということに触れないとそこに推理小説についての様々な考え方があるのに、これを説明するのが大変難しくなってしまいますので、最初に、私の基本的なものの考え方から入ってみたいと思います。  推理小説については、定義がいろいろありまして、それだけでも一冊の本が書けるくらいなんですけれども、基本的には、イギリスの女流作家の ドロシー・セイヤーズという人がおりまして、「殺人は広告すべし」とか、「ナイン・テーラーズ」とか、いろいろな作品で、有名な作家ですが、この人の定義で——昔の定義ですから、推理小説でなくて探偵小説ですけれども——、「探偵小説とは、犯罪とその捜査を取り扱った小説のうち、謎の設定とその解決が、もっぱら論理的操作によってのみ行なわれるもの」というのがあります。これが、定義の中では最もクラシックなものだと思います。  つまり、犯罪とその捜査を取り扱った小説の中で、謎の設定、というのは作家が創るわけですが、創ったものとその解決が論理的操作によってのみ解決されていく。こういう小説が探偵小説であると、これは一九二八年に定義づけられたものですから、いまから五十年以上昔の定義です。  しかし、これが最も古典的なものだと、私、考えておりまして、正しいとか、正しくないということを乗り越えて、非常にまとまった定義だと思うんです。  このことについて、きょうは中心的にお話するわけですけれど、様式美を追求する文学の延長線上に推理小説があるということについて、推理小説以外のものを例に取ってちょっとお話してみたい。  その前に、この間、私、ある雑誌——これは推理小説の雑誌じゃないんですけど——を読んでいましたら、推理小説は嫌いであるという人の投書が載っておりましたので、大変面白いと思いました。その人がたまたまテレビの推理ドラマを見ていたら、自分では納得できないストーリーが描かれていた。あるか弱い女性が、どうしてもある男を殺さなきゃならない、という設定で、現実に殺した。死体をそこに置いたんでは犯罪がすぐバレてしまう。ここにあったのでは具合が悪いというので、コンクリート詰めにして——これはよくやくざがやる手ですが——海に捨てるというストーリーで、そういう話が展開したそうです。人を殺して、セメントを求めて、砂とかなにかを持ってきて、自分で練り合わせて、殺した男をドラム缶の中に入れた。その上からコンクリートを入れて固めて、海に捨てにリヤカーに積んで、夜中に引っ張っていって岸壁からドボンと捨てた。こういう話だったそうです。  その読者は、そういうようなストーリーは全く信じられない、と言うんですね。殺したのは仕方がない。女だって、力の強い男を殺すことがある。それはいいんだけれども、殺した後、上にコンクリートを入れてすぐに海に運んで行ったというんですね。  コンクリートいうのは、普通、コンクリートを打ってから、約二十八日経つと一番強度が硬くなる。二十日位からだんだんしっかりしてくるわけで、コンクリートを頭からかぶせてコンクリート詰めにして一日か二日、ましてそのテレビドラマでは、すぐに海へ運んで行ったらしいんですけれども、そんなことをしたら、海へドボンと入れた瞬間、コンクリートはドロドロに溶けて、コンクリート詰めどころか、すぐに死体が浮かび上がってくる。大体、そういう知識が、その女性にないというのもおかしいんじゃないか。それからリヤカーで運んだわけだけれども、現代において、骨董《こつとう》的価値で買い求めている人以外に、リヤカーを持っている人はいないんじゃないか、と言うわけです。  昔はリヤカーはざらにありました。私が小さい時、終戦の二十年代には、どこの家も、農家でなくても、リヤカーを持っていましたけれど、いまは、リヤカーというものを子供たちが見ることもないくらいですから、その投書家の言うことによると、骨董的価値がある。だから、そういうものを骨董的な価値として集めている女性でなければ、すぐそこで人を殺してコンクリート詰めしたドラム缶を運ぼうとしたって、リヤカーなんかないだろう、と言うんですね。そういうことが何も説明されてない。  もう一つ、大きな欠点は、女性が一人で、大の男を殺して、コンクリート詰めにして海まで運んだというんですけれども、死骸というのは、私も、伯父や伯母が亡くなって棺桶をかついだことがありますけれども、非常に重たいんですね。特に、全部力が抜けてダランとした人というのは、男が男を運んでも、おそらく一人では、なかなか持ち上げたりなんか出来ない。ですから、その投書家の曰《いわ》く、おそらくその女性は、女子プロレスラーのような体をしてたんじゃないか。それでなければ、とても持ち上げるなんていうことは出来っこない。そういうことが何の説明もしてない。  したがって、こういうストーリー……、この人は、推理小説とテレビドラマの推理物とを混同して書いているので、ちょっと困るのですけれども、そういうことをシナリオライターも気がつかないで平気でやっている、いい加減なものである。そういうことが罷《まか》り通るので、自分は推理小説は嫌いなんだ、と非常に短絡的におっしゃるわけですね。  私は、半ばこの人の意見はもっともだと思うわけです。現実感が確かにこのストーリーにはないと思います。しかし、それではこの推理ドラマは現実に成り立ってないかと言いますと、必ずしもそうではないと思います。  その女性が、もしかしたら異常に力の強い人であるということでもいいですし、また、コンクリートに対する知識が全然なかったと考えてもいいですね。なくたって、コンクリート詰めにするということを何かの本で読んだから、やってみたんだ。バレちゃうかもしれないけれども、そんなこと本人は気がつかないでやったということであれば、必ずしもストーリーとしては無理であるとは言えない。  また、別に、リヤカーがあったっていいわけですね。たまたまその家にあった、という設定でもいいわけで、あったらおかしい、ストーリーが成り立たないということは、私はないと思います。  ただ、問題は、仮に、投書した人の考えに合うように、女性が凄《すご》い力の強い、女力道山みたいな人で、家にたまたまリヤカーがあって、コンクリートに関する知識が全くなかったから、そういうことをやったんだ、というふうな、つまり、ちゃんとした説明をつけてあれば、その小説の読者が納得するか、ということですね。説明さえつけば、それで推理小説として納得できるんだろうか。現実的な説明さえつけばいいのかという問題があると思うんです。このことを考えてみなければいけないと思いますね。  私は、いまここであえて様式美と申し上げたのは、果して推理小説というものは、基本的にそういう科学的というか、現実的な説明がついたら、それが論理的である、といって納得できるものなのかどうかという一つの問いかけであるわけです。  またちょっと話は変わってくるんですが、ミステリーの外国でのそもそもの発端とは何であるか。これまたいろいろな議論があるわけですけれども、たとえば ドストエフスキーの「罪と罰」、あれもミステリーだと言う人もいるくらいなんですが、しかし、私はどうしても外国のミステリーの祖と言いますか、その淵源で忘れることが出来ないのは、やはり シェークスピアじゃないかと思うんですね。  シェークスピアの作品は全部ミステリーだと言ってもいいくらいなものですけれども、特に「ハムレット」のように、毒殺する、つまり、暗殺するというような行為、それに対して犯人をつきとめていって、犯人にやがて復讐していくというストーリーですけれども、ああいうシェークスピア劇のようなものが、そもそも外国における基《もと》ではなかったか、ということを、まず一つ考えていただきたいと思います。  日本ではどうかというと、近松門左衛門という人がおりますけれども、近松もの、たとえば「女殺し油地獄」のような、ああいうものは、そもそもが�女殺し�という言葉で分るように殺人事件というものを扱っていますね。現在における新聞の社会面みたいな、そういうところから日本の推理小説の源みたいなものが、すでに近松によって書かれている。  しかし、ここで考えてみると分るんですけれども、近松にしても、シェークスピアにしても、要するに、一つの劇であることは間違いない。ドラマである。舞台というものにそれを当てはめたストーリーを創っている。そこで、そのストーリーは、必ずしも現実そのものではなくて、舞台劇としての形を整えている。一種の様式美をそこから生み出している。その中に、一つの伝統の基が出来てきているのではないかと思います。  近松ものでも、あそこに出てくる人形のいろいろな細工を見ますと、非常に優れたものがありますね。人形がパッと斬られた瞬間に顔が半分になり、目の玉と口がパッと脳天から切れちゃうような、そういう人形が現実に使われていますけれども、現実とは全く違った一種の死体というものまでも様式化している、そういうものが日本の伝統にすでにあります。  私が、本来ここで申し上げたいのは、日本の文学というものは——それは推理小説ということでなくて——、むしろ、そういった様式美を追求するような形の中に、本格的な伝統を持っていたのではないか。そしてその延長上に、日本の推理小説は花開いてきたんだ、ということなんです。  たとえば俳句なんかを考えていただくと、一番分りやすいんでしょうけれども、「梅一輪一輪ほどの暖かさ」という俳句があるとしますと、別に梅が一輪ずつ咲いているわけでは決してなくて、そこには写実と同時に、写実を乗り越えた、つまり、現実の梅の姿でない、作者の心象風景を通して、そこに描かれ出されたもの、俳句は、まさにそういったものとして、完全なる文学における様式美として創られていますね。  私、小さい頃、皆さんご承知のような、「小倉百人一首」を知った時に、特にあの中で、これは 柿本人麻呂でしたか、「あし引きの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねむ」という歌がありますけども、これは、「あし引きの山鳥の尾のしだり尾の」というところまでは、何の意味もないというんですね、解釈上。長い長い夜をあなたのことを想って独《ひと》り寂しく寝なければならないなあ、というようなことで、その「長い」ということを言わんがために、あの和歌は「あし引きの山鳥の尾のしだり尾の」ということを言っているわけですね。「あし引き」は「山」にかかる枕詞だとか、いろいろなことを言いますけれども、それでは、その部分は意味がないかと言いますと、私は、絶対に意味がないということはない、それこそ様式の美しさ、様式美というものが、枕詞を含めた前段の無意味と言われるような、その部分にちゃんとある。それが日本の文学の大きな特徴をなしているのです。  ですから、この和歌を英語に訳してみようとしても、訳せないと思うんですね。英語に訳そうとすることが、科学的、論理的だとすれば、訳せない部分が美しいというのが日本の文学ではないか。こういうふうに思うんです。  さらにもっと現実的な歌で 石川啄木の有名な「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽《かろ》きに泣きて三歩あゆまず」というのもあります。自分の本当のお母さんを冗談で背負ってみたら、お母さんは苦労して、すっかり痩《や》せちゃって可哀想なことをしたな、というような感じで、実際三歩も歩けなかったと、中学校あたりの先生は、そういう解釈をして子供たちに説明するんでしょうけれども、あれも啄木が実際に創った時に、お母さんのことを考えて深刻になって長々と苦心して考え出したんじゃないんです。一晩の間に、実に何十首という沢山創った中の一首にすぎないんですね。 「たはむれに母を背負ひて」というのは、非常に現実的な、ある意味では、道徳的な内容を持っていながら、しかし、本当の意味でのそういうことを、うたおうとしたのではなくて、やはり、「三歩あゆまず」という言葉で表わされるような、一種の様式美としての美しさ、そういうものを啄木は狙っていたんではないか。  むしろ現実との違いの中に、実際の美しさを描こうとするのが、日本の文学の特徴だったんではないか、と私は思うので、その点をいま、皆さんに考えていただきたいのです。  この伝統は、私は、どこに繋いでいって考えるかと言いますと、俳句、和歌、さらに江戸末期から明治に至って非常に優れた古典物を生んだ例の落語の世界ですね。落語こそ、推理小説の日本における源泉と考えてもいいんではないか。落語は、非常にミステリーに似ているんですね。なぜかと言いますと、枕《ヽ》という部分があって、それは推理小説における伏線に当たるわけですけれども、そういう伏線の部分があって、そして話が展開していって、最後に|おち《ヽヽ》という部分がある。これが事件の解決というようなことで出来上がっています。  構成の上から言っても、非常に短篇ミステリーの感がありますけれども、そればかりではないんです。いま、私がここで申し上げようとした推理小説の本来の姿は、実はこの様式美の文学の中にあるのではないかということは、たとえば「寿限無《じゆげむ》」という落語がありますけれども、皆さんご承知のように、寿限無寿限無五劫のすりきれという、あの長い名前ですね。  そういう部分は、落語の中でやりますと、長いというだけでもって、意味がないと言えば全くない名前なんですね。おめでたい言葉を全部繋げただけなんですけれども、一見意味のないようなそういう言葉のリフレイン(繰り返し)が、一種の面白さ、おかしみ、あるいは人の気を引くインタレスティングな部分をつくり上げている。それが内容になっているんですね。さっき言った「あし引きの山鳥の尾の」という、ああいう枕詞に匹敵する部分が、「寿限無寿限無五劫のすりきれ」という部分で、それは決して不必要なものではない。つまり、現実的ではないんだけれども、まさに文学の内容を為《な》しているという部分がある。  私は、そういうのが日本の、これはミステリーばかりに依《よ》らない、伝統的な文学としてあったんじゃないか。  普通、推理小説と言いますと、現在、非常に現実的な、刑事が出てきて犯人を捕まえるという話ですから、犯罪小説だと考える方がいますが、勿論そういう面もあるんですけれども、私はあくまでも、そういう面で推理小説を考えないで、推理小説というのは、むしろ、日本の伝統的な様式美の世界の延長線上に存在する、こういうふうに考えているわけです。  これをまた、別のことで申し上げますと、たとえば エッシャーという人の有名な「エッシャーの世界」、ご覧になった方があると思いますけれど、ちょっと見ると、水が下から上に流れているように見えたり、絶対にあり得ないような面というものを、「エッシャーの世界」は、つくり上げているのですけれども、それは、現実にないものでも、絵の上ではあり得る、あるように見えるけれども、実際にない。そういうものをエッシャーは見事に立証したわけですけれど、実は、推理小説あるいは落語の世界でも、実際にあり得ないこと、そういうものの中に立派に現実感を持った素晴しい世界をつくり上げている。推理小説だって、実は、そういう文学のあり方の延長線上にあるんだ。私は、そう考えるわけです。  ですから、推理小説とは何か、というところの考え方で、まず、推理小説というのは、現実にある推理小説の姿から、いろいろ議論するという、そっちからいく方法もあるんですけれど、私は、いまお話申し上げたように、日本の文学のかつての和歌とか、俳句の世界に象徴されるものの延長線上にそれを位置づけるとすれば、それは結局、推理小説も様式美の追求の文学の範疇に属する文学である。こういうふうに定義づけたいと、私は思うのです。  それで、最初に申し上げたドロシー・セイヤーズの定義、「探偵小説とは、犯罪とその捜査を取り扱った小説のうち、謎の設定とその解決が、もっぱら論理的操作によってのみ行なわれるもの」というのが、いまから約五十年前に行なわれた定義です。  それからさらに二十年位経って、一九五一年に出ました「幻影城」という本の中で、江戸川乱歩が日本的な、つまり、江戸川乱歩的な定義をされておって、これが現在の推理小説の基本的な定義になっています。それはどういうのかと言いますと、「主として」、この「主として」という言葉がついているところが、なかなか江戸川乱歩的だと思いますけれども、「主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に徐々に解かれていく経路の面白さを主眼とする文学である」というふうに定義しているんです。これが現在、推理小説界における、いまだに誰もあまり覆すことをしないし、また出来ないであろう、ほぼ肯定的な見解なんですね。  これは、セイヤーズの見解と比べていただくと分るんですけれども、セイヤーズのほうは、「犯罪とその捜査を取り上げた小説」というふうに言い切っていますけれども、それに対して江戸川乱歩のほうは、「主として犯罪に関する」ということを言っているので、必ずしも犯罪でなくてもいいという含み、ニュアンスがここに残っているわけですね。  しかし、難解なものが論理的にと、この「論理的に」というのは、セイヤーズも「論理的操作によって」と言っていますから、これはほとんど抜かすことが出来ないと思うんです。  乱歩の説で注目しなければいけないのは、この「徐々に解かれていく経路の面白さ」ということだと思うんです。推理小説が、もし江戸川乱歩の定義のようなものであるとしますと、徐々に解かれるというのは、どうしても長さというものが要求されるだろう。ひどく長くなくてもいいけれども、ある程度の長さが必要になる。   「知恵の勝利」  現在、日本ではどの位のものが長篇、どの位のものが短篇と言われていますかと言いますと、私どもが雑誌で頼まれる枚数は、普通、短篇として頼まれると、大体三十枚から五十枚位、八十枚から百枚というと、もう長篇の扱いなんですね。最近、私は、一挙掲載というので三百枚とか、四百枚という、本当の長篇を書きますけれども、雑誌的な見地から言うと、短篇は三十から五十、長篇が百前後ということになろうかと思います。しかし、実際は単行本で言えば、長篇というと、やはり、三百枚以上ということになっていると思うんです。  かつて私が江戸川乱歩賞をもらった頃は、最低で三百六十枚、出来れば五百枚前後がいいというんで、五百枚前後の長篇を私は沢山書いていました。  つまり、推理小説は、論理的にある難解な謎が徐々に解かれていく。一ぺんに解かれているものであれば、ショート・ショートのようなもののほうがよほど面白いし、いわゆる推理小説は、どうしてもある程度の長さ、そしてその長さの中にいろいろな、謎の解き方としての波瀾万丈があって、その面白さをじっくり読んでいくものです。  最近の長篇の良さは、たとえば羽田空港から福岡、大阪へ飛行機で行く、あるいは東京駅から新幹線に乗っていって大阪で降りる、それまでに読み始めて読み終る長さが一番いいんだ、いまの文庫本の三百枚位は、大体その位だ、という説があるので、そうかなと思って、私もそれに合わせて書こうかなと考えている位で、いまは、そういうお客さんのご要望っていうのもありまして、それに大体合わせるようにします。  そういうこともあるんですけれども、いずれにしましても、江戸川乱歩がいみじくも言ったように、推理小説は、難解な謎がその本を読んでいる間に徐々に解かれていかなければいけないんで、その徐々に解かれていくプロセスの面白さを主眼としている、ということなんです。  江戸川乱歩のことをお話すれば、どうしても忘れることが出来ないのが、政治家で言えば政敵に当たるような、一種のライバルであった 木々高太郎です。木々高太郎は、推理小説を「知恵の勝利の文学」と言っています。つまり、知恵の勝利というものを文学の形で表わしたものが推理小説なんだ、という説を、木々高太郎氏は言っていたわけです。 「知恵の勝利」というのは、どういうことかと言いますと、いわゆる科学《サイエンス》というのが知恵の勝利なんで、一番いい知恵の勝利そのものは科学であるわけで、それを科学でなくて、文学の形で表わしたもの、それが推理小説なんだ、ということを言っているわけです。  誤解されるといけないので言っておきますが、知恵の勝利の文学という意味は、「知恵の勝利」というものを文学の形で表わしたもの、それが推理小説であるということです。 「果して探偵小説は文学たり得るか」ということで、有名な乱歩と高太郎のいわゆる文学論争というものがありました。木々高太郎は、推理小説は文学になるし、なり得るものである、と主張したんですね。この人のお弟子さんが 松本清張さんで、松本清張さんはそういう意味では、推理小説を文学の地位に高めることが出来たかどうかは皆さんの判断ですけれども、そういう系列の上でお書きになって、まさに芥川賞作家が推理小説を書いたということでは、木々さんの意見が実現したんだということも言えます。  それに対して 江戸川乱歩は、推理小説を文学にする必要はないんだ、つまり、文学としての推理小説が出来たほうが、推理小説の発展であり、いいんだというふうには、彼は考えなかったんですね。推理小説はあくまで推理小説であればいい。  荒正人さんも言っていましたけれども、推理小説がこの世の中に存在するだけで立派な社会批判になっている、ということを、荒さんはよく言われていました。  つまり、推理小説の中で、たとえば松本清張さんが、社会の悪、裏面、企業の悪とか、政治家の悪徳を暴くという小説を書く、だから、この小説が正しいというようなふうに考えるべきではないんだ、ということなんですね。推理小説のような形態の文学が存在するということが、立派に社会を批判していることになるんじゃないか。それでいいんだ。それをあえて、これが文学ですよ、ということを言う必要がない、というのが、江戸川乱歩、そして荒さんとか、甲賀三郎とか、そういう人たちの意見だったわけです。  そこに二つの対立する意見が推理小説界にありまして、これは今日でも、やはり、基本的にあるんです。しかし、昭和六十一年の現在では、もう、こういうことの議論をする意味が少なくなっているわけでね。なぜかというと、この議論がされていた頃は、推理小説は、ベストセラーとは言っても三千部から五千部ぐらいしか売れなかった時代です。その頃では、まあ、そういうことで議論することも多少意味があったんでしょうけど、現在では、私どもも、文庫本初版が十五万部とかいう時代になってきますと、大衆に浸透しているわけですから、そういう意味では、これが文学であるか、ないかという議論以前に、読者の人たちに受け入れられてしまっているという社会現象が、ここにあるわけです。  しかし、あくまでもその基本には、こういった二つの大きな説の対立があって、それがやはり、推理小説の存在そのものを、いつも新鮮なものにしてきていたということだけは、記憶しておいていただきたいと思うわけです。  これが前段と申しますか、推理小説というものの考え方に対する大きな二人の先達の意見と、私の推理小説の基本にあるものの考え方をお話したわけです。  もう一つお話しておかなければならないのは、昔は探偵小説、いまは推理小説と言っていますが、もう一つ、ミステリー小説という言葉もあるわけです。これは必ずしも推理小説と同じ意味に使っているわけではありません。かつて昭和の初めの頃から、すでにミステリー小説という言葉が使われていまして、それに対して甲賀三郎はこういう言い方をしています。「ミステリーには、些少《さしよう》のトリックを入れるが、探偵小説のように奇抜な殺人方法とか、意外なトリック、あるいは謎の解決などは要らない。もっぱら筋の運びに力を用いればいい」とミステリー小説というものを広く考えています。  ミステリー・フィクションという言葉もあるんですけれども、ミステリーというのは、若干、探偵小説のような、推理小説のような形があるから、トリックは入れるけれども、決してそういうものにトリックを難しく考えるとか、謎を解決するとか、意外性とか、そういうことに力を入れる必要はないんだ。むしろ力を入れるべきは、筋の運び方なんだ、ということなんですね。そういうものがミステリー小説なんだ、というふうに言ってるわけです。  厳密に言えば、こういうふうに、推理小説とミステリーというものを違ったように考えて、それで始まったんですけれども、現在ではまたさらに、このミステリーは、大体、推理小説と同じというふうに考えられています。  ですから皆さんは、推理小説の歴史を勉強しないという人は別としまして、大体、ミステリーと言えば推理小説、推理小説はミステリーと同じだと考えていただいて結構なんですけれど、多少ミステリーのほうが、推理小説よりも、含まれている部分が広いんだ、というふうに考えて下さい。  ミステリーというのは、その言葉の通りに言えば、まさに神秘的なことなんで、必ずしもそこには、論理的な知恵によって犯人が犯罪を構成して、それを科学警察が解いていく、というような形でなくてもいいもの、ということは言えると思うんですけれども、現在では、ほとんど同じように理解されているわけです。  そんなわけで、推理小説についての考え方は、私が江戸川乱歩賞をもらう昭和四十一年まで、大体、こういうような考え方で行なわれて、江戸川乱歩が亡くなったのは昭和四十年ですが、間もなく木々さんも亡くなってしまうので、議論していた人が次々と亡くなって、推理小説に対する議論はあまりされなくなりました。そういうことで議論しなくても、実作のほうがどんどん出てきてしまって、それにくっついていく理論的な武装と言いますか、そういうものが間に合わなくなってきた、という意味もあるんですけれども。   小説構成の面白さ  私が昭和四十三年に、自分は推理小説をこういうふうに考えていますよ、ということを、その時に、講談社から出しました「紅の幻影」のあとがきに、斎藤栄ふうの推理小説の定義といったようなものを……、定義というよりも、私がそういうふうに考えている、という意味で言ったんですけれども、まァ一種の定義ですね。それが、ストリックという言葉に象徴されるものなんです。  私は、どういうふうに推理小説というものを自分で定義づけて言ったかと言いますと、こういうふうに、その�あとがき�では書いたわけです。 [#1字下げ]「推理小説とは、小説構成の面白さを、犯罪に関する謎という、一種の限界状況の中で、それを極端に強調した文学である」  こういうふうに定義づけてみたんです。  この中で特徴があるのは、まず最初に、「小説構成の面白さ」ということを、私は重要視したわけです。この小説構成こそ、いままでお話してきた様式美の、その様式ということに当てはめてお考えいただいても結構です。「その様式の面白さを」というふうに言い替えてもいいんです。それを「犯罪に関する謎という、一種の限界状況の中で」、やはり、謎はどうしても犯罪に関しないと、いろんな意味で読者に与えるインパクトも少ないし、また犯罪というのは、一番人間が苦労して社会の裏面をいこうとするわけですから、非常に工夫する。そういう面では、犯罪こそ非常に難しい仕事なので、その意味で「犯罪に関する謎という、一種の限界状況の中で、それを極端に強調した文学である」というふうに、私は定義づけたんです。  続けてお話してしまいますと、そこでさらに、その�あとがき�の中で、私はこういうふうに書いたんです。 [#1字下げ]「これから私の書くべき小説は、プロットなり、ストーリーなりが、それ自身として謎を含んで、真新しい構成をしていなければならない」  こういうふうに、昭和四十三年の本の�あとがき�に書いたわけです。  そのプロットなり、ストーリーなりが、それ自身として謎を含んでいるというあり方、つまり、ストーリーの中に個別のトリックがあるというのではなくて、ストーリー自身もトリックになっているような、ストーリーとトリックがまさに分割できないような小説、という意味でストーリーとトリックを足して、新語をつくって、それを�ストリック�というふうに名を付けたわけですね。  何となくストリップみたいな名前なんで、あまりよくないんですけれども、覚えやすいことは覚えやすいと思うんですね。  勿論、この意見は、私だけで、ほかの人は言っておりません。しかし、私の見るところでは、やはり、一つの考え方としてはあり得るんではないか。いまでもそう考えております。  先ほどらい、申し上げますように、推理小説の伝統的なものというのは、別の言葉で言いますと、構成の文学、コンポーズしていく、何かを創り上げていって配置していく、そういう構成の文学としての面、これを、推理小説はどうしても捨て去ることが出来ないだろう。ですから、その小説構成の面白さというものを、犯罪というものを使いながら、そして、こうやったらどうなんだろうと、いろんな形で出す。そういうものなんだ、というふうに私は考えているわけです。  ですから、そこでさっきお話した最初の例、ある人が雑誌に投書して、コンクリート詰めの死体を海の中に捨てる、リヤカーに乗せて運んで行く、という、そういう部分を議論するということは、もとより非常に大切なことでもあるんですけれども、推理小説の面白さを、えてして見失ってしまうんじゃないかということを、私は、指摘したかったんです。  確かに、科学的であり、常識的であり、論理的であるということも大切ですけれども、それよりもさらに大切なものが、推理小説という文学形態の中にあるんではないか。それは、文字で構成されているその小説構成の面白さというものが、そこになかったならば、いかにそれが科学的に書いてあれ、所詮、科学的と言ったって限界がありますから、絶対に本当の意味の面白さを出すことは出来ないだろう。それでは科学には負けてしまいます。  たとえばさっき言ったコンクリートの問題でも、コンクリートの強度が果して、二十八日間で固まると、ある本には書いてありますけれども、二十日間で固まるかもしれない。最近は速乾性のコンクリートも出来てきているし、いろいろあるわけですね。  ですから、もし、そういうことで議論するのであれば、犯人が、コンクリートに関するこういう知識を持っているんだ、こういうふうにしてデータを集めた、ということを書いて、それだけで本が一冊ぐらい書けちゃうんじゃないかと思うんですね。それだけのことを書いたからって、果して読者の皆さんが、その小説を愉しんで読んでいただけるか、という点に思い至りますと、おそらくそれは不可能ではないか。そういうふうに書けば書くほど、つまらなくなるんじゃないかと、私は思うんです。  昔、日本の文学でも、自然主義の文学、田山花袋とか、島崎藤村とか、ああいう人たちの文学を読んでみますと、よく分るんですけれども、写実から入った自然主義の文学は、たとえばそこに登場人物が一人出てきますと、昔ですから、着物を着て出てくる。羽織が何で出来ていて、その裏地が何で、羽織の紐は何色で、どういうものを使っている、というようなことから詳しく書いていきますね。頭のてっぺんから足の爪先まで細かく描写して、はじめて小説になっていく、ということがあるわけですね。  しかし、現在では、そういう小説は、もうほとんど見当たりませんし、仮に、そういうことを書いても、みんながそんなに関心することではないでしょう。  つまり、そういうものは幾らやっても限界がある。所詮、読者の皆さんは何を読むかと言うと、小説としての面白さを読むわけですから、そういう描写が詳しければいいというわけではない、というふうに私は思います。  一番大切なのは、小説としての構成の面白さというものを、とにかくそこで強調していかなければいけないだろう。  ということを考えまして、その�あとがき�を書いた「紅の幻影」は、自分としては、必ずしもそれが最高だとは夢にも思いませんけれども、一応、ストリックの代表作としては、その「紅の幻影」、それから後で双葉社から出しまして、現在は光文社文庫に入っています「飛鳥十字殺人事件」、この二作が、私なりに書いたストリックとしての一つの代表作のつもりで発表したものです。  いずれも、簡単に言いますと、作中作というトリックを使っているわけです。推理作家が自分の作品のトリックについて説明するのは、最もまずいわけで、本当はしてはいけないんでしょうけれども、きょうはこういうお話ですから、特に話してしまいます。お読みになった方もいるかもしれませんけれども、地の文だと思って読んでいくと、それが地の文ではなくて、実は作品になっている。作中の中のさらに作品である。いわゆる劇中劇というのがよくあります。まァ、そういうようなもの。そういう格好でのストリックというものを書いてみたわけです。  これについての問題は、またいずれ後で触れるかもしれませんけれども、こういうようなものを私は書いてみた、ということをお話するだけにとどめておきます。  そこで、さっきお話した長篇と短篇ということなんですけれども、推理小説は短篇であるか、長篇であるか、という議論も、昔からよくされているんです。さっきからお話しておりますように、江戸川乱歩の公式的な一つの定義の中に、「謎が徐々に解かれていくその経路の面白さ」ということを言っておりますので、本格推理小説という点から言いますと、大体長篇ということになっていますけれども、必ずしも長篇ばかりでもなくて、短篇に沢山の傑作もありますし、それは書き方で、ただし、短篇のほうが、むしろ難しい面があるんじゃないか、と私は考えています。  皆さんの中にも、もし小説をお書きになる場合に、短篇が向いているのか、長篇が向いているのかというのは、どういうところで決まるかと言いますと、やはり、よく言われるんですが、その人の持っている呼吸筋の関係ではないか。まず肺活量、つまり、息が長く続けられる人は長篇が書けるし、そうでない人は短篇に向いている、というようなことも言われます。しかし、これは果してそういう体力だけなのかどうか、それは分りません。  分りませんけれども、いままでの長篇を書いている人、推理小説でない普通の文学の人でも、芥川龍之介みたいな、何となく弱々しそうな人は、短篇のほうに傑作がありますし、島崎藤村のような脂ぎったような感じの人は、どちらかというと長篇ということが言えるんではないでしょうか。   ショート・ショート  私はあまりショート・ショートは書いてないんですが、私のショート・ショートの一つである「星の上の殺人」、これは初めて商業雑誌に活字になって載った私の作品ということが言えると思うんです。前回もちょっと触れたかもしれませんけれども、「宝石」と「面白倶楽部」の懸賞のコントの佳作入選作なんです。  これは佳作で、入賞しなかったんですけれども、選者であった江戸川乱歩が、この「星の上の殺人」を大変|褒《ほ》めてくれまして、非常に面白い作品だ、この作者は一番大人びたところがある、という表現を使って乱歩が大変評価してくれたんで、私も、非常にこの作品には愛着があるわけです。  この作品こそまさに、非常に非現実的なストーリーなんですね。非常に小さな星の上に登場するのが、何と犯人と被害者と探偵と目撃者と新聞記者というような、そういう者だけがこの星に住んでいて、事件を起こすという、まさしくコント劇みたいな、そういう印象のある作品なんです。しかし、どういうわけですか、これ、江戸川乱歩が大変気に入ってくれた。  いろいろ推理小説を沢山読んでしまうと、最後は、結局のところ現われてくるのは、犯人と被害者と探偵と目撃者と新聞記者みたいなものじゃないか。ですから、それだけで書いたらどうなるだろうというような、そういう推理小説マニアが究極に到達する世界、という感じがするわけで、私も当時、自分はマニアだと思っていたものですから、それを象徴的にショート・ショートの中に書いてみればどうなるか、ということで書いたんです。しかし、ショート・ショートとして、果して傑作かどうかは、私には分りません。  自分としては、これは代表作のつもりですけれども、本当のショート・ショートは、やはり、星新一さんみたいな、非常に軽妙な筆のある人が書けば、もっとうまいものが書けるんでしょうけれども、私のは、ショート・ショートでありますが、どっちかというと長篇小説の骨格で書いてあると、自分でも、いま読んでみると、そう思います。  しかし、とにかくこれは一応、推理小説という形で書かれています。ただし、謎が徐々に解けていく形を取っているかというと、もともと限られた、一つの星の上に人が五人しか住んでないという、そんなおかしなシチュエーションですから、私、これを書く時に、能舞台を考えて書いたんで、そういうような舞台に出てきて象徴的に、周りにいろんな道具がなくて、ただ登場人物だけで何か劇を演ずる、そういうものを書いてみよう、そう思って書いたのを憶えています。  これをお読みになると、特に若い人ですと分るんですけれども、「星の王子さま」という有名な小説がありますね。あれの影響があったんじゃないかと自分で思います。やはり、ああいう形、挿絵がありまして、星が描いてあって、そこに星の王子さまがいるんですけど、ああいう世界で十分にイマジネーションを働かすことが出来るので、あれを推理小説でやってみたらどうなるだろう、というふうな発想から、この小説の筋を考えてみたわけです。  これは何枚でしたか、この位のものであれば、長いものが書けないとおっしゃる人でも、創ってみるということは十分に可能だろうと思いますし、ミステリーのショート・ショートというのをお書きになれば、逆に、必ず構成をきっちり立てなきゃならないという局面に遭遇しますから、むしろ大変勉強になるんじゃないか。長篇小説を初めから書こうとしないで、最初、二、三篇は、こういった短篇を書いてみる。それが非常に役に立つんじゃないかと思います。  短篇であれ、長篇であれ、ストーリーというものを考える面では、ほとんど同じですね。極端にこういうことを申し上げると、本当かな? と思われるかもしれませんけれども、たとえば五百枚の小説を考え出してストーリーをつくる時間と、五十枚位の小説をつくろうとしてストーリーをつくってみる、その時の時間とそんなに変わらないんですね。まァ、トリックが決まっているかどうかという重要なことはありますけれども、それさえ決まっていれば、時間はほとんど同じ位で、逆に短篇のほうが非常に手間取る、と言えると思います。  さっき申し上げた落語の世界と同じように、一番最後のオチが、特に短い小説では重要なことになります。一番最後のこの一行のために読者を引きずってきたな、ということが分るような、そういう最後の一行を、書き出す時に決めてなければ、いけないわけですね。  この「星の上の殺人」で言うと、これは、つまり、犯人が犯人であるということは当然分っているわけですけれども、次々と犯人が変わってきまして、登場人物すべてが殺人犯人みたいな形になってくるわけです。で、一番最後に「新聞記者が誰言うとなく呟《つぶや》いてニヤッと笑った」という部分になって、「私立探偵も甘い奴だ。オレがちょっとあいつの虚栄心を煽《あお》ったお陰で、これだけの事件を起こしてくれたんだからな」、つまり、新聞記者が本当の犯人だったんだ、というようなニュアンスで終っているわけです。結局、この星には犯人しかいなかったというようなことになるわけです。  こんなふうに、このショート・ショートで言えば、この最後の一行を書くために、この「星の上の殺人」を、私は考え出したんだ、ということが言えるんですけれども、翻《ひるがえ》って、さらにこの構成を深く考えてみますと、結局、このショート・ショートを書く時に創り出した構成と、大長篇を考える時の構成と全く変わっていない。やはり、犯人を置いて、被害者を置いて、探偵役を置いて、目撃者などを置いて、新聞記者を置くなりなんなり、道化回しも置かなければいけないかもしれませんけれども、そういったような基本的な人物配置、キャスティングはそんなに変わっていない。  こういう長篇と変わっていないような小説構成のショート・ショートを書く人間は、まァ、長篇作家ではないかと、私は思います。やはり、本当の意味のショート・ショート作家だったら、もうちょっと違った構成になってくるでしょう。  ですから、私はいま皆さんに、これはショート・ショートの私の代表作ではあるけれども、ショート・ショートはこういうふうに書けばいいんだというふうには、私は決してお勧めするものではないんです。  こんなふうにズバリと、被害者とか探偵がこうだとかと言うのは、これはあくまでも一種のユーモアに近いような、あるいはカルカチュアライズしたストーリーの展開ですから、本筋ではないんです。ないんですけれども、いつも頭の中には、こういった絡みというか、つくり方を頭に置いていくということだけは間違いないんで、推理小説は、人によっていろいろな考え方がありますけれども、基本的には、おそらくこういった人間配置をどなたもやるんではないか。そう思いましたので、これを例に挙げておいたわけです。  私は、この作品を発表した後、間もなく「宝石」中篇賞をもらいまして、これが「機密」という作品だったわけです。勿論、ですから初期の作品で、「星の上の殺人」に続いて「機密」という、これは第二回宝石中篇賞で、第一回は、「女だけの部屋」というのを応募して佳作止まりで終ったものですから、二回目に応募して、「機密」で賞をもらったわけです。いまは、徳間文庫に入っていますので、容易に手に入ると思うんです。  これらの作品を見れば、ストリック理論ばかりじゃなくて、推理小説が具体的にどんなふうにつくられているか。少なくとも斎藤栄はどんなふうにしてつくっているかということがお分りいただけるだろうと思うんです。   テレビと推理小説  次に、テレビと推理小説について、ちょっとお話してみたいと思います。  最近の推理小説のファンの人は、テレビを見て、それから小説を読むということもありますし、小説を読んで、またテレビでそれを愉しむということがあります。 「殺人の棋譜」は、竹脇無我が主役をやりましてテレビ化になったんですけれど、テレビ化と推理小説の関係は、端的に言いますと……、こういうふうに言い切ってしまうことが非常に危険があることを承知の上で、あえて言いますと、容易にテレビ化できるような推理小説は、あまりいい推理小説ではないと、私は、あえて本格ミステリーの立場から言いたいと思うんです。  というのは、やはり、これも推理小説の本質、私が申し上げたような、様式美だということから、お分りいただけると思うんですけれども、言葉による構成そのものを愉しんでいるわけですから、それを映像にしてしまった部分では、全く違ったものになってしまうのは当然ですし、したがって、それが簡単に映像化されて出来るということは、どっちかというと、本質的な部分が薄かったのではないかということさえ、疑われるわけです。  自分の作品で、「殺人の棋譜」の場合でも、これは、将棋の対局が舞台に使われておりまして、将棋指しがわが子を誘拐されている中で、大切なタイトル戦を戦っていくというストーリーなんですけれども、ですから、テレビ化には十分向いているように、自分でもこれを書く時には、どっちかというと、テレビ化をある程度意識して書いたというような気もするんですが、そのことと、容易にテレビ化できるということが、いい作品であるかということは全く別で、むしろ、そうではないんだということを申し上げたいと思います。  将棋のことは、大変、私、好きだったものですから、この「殺人の棋譜」で応募した時に、この作品を書いたら、私は、もう二度と、次の作品は書けないだろう、自分の持っているものを全部この作品に注ぎ込んでしまおうと思って書いて、本当に「殺人の棋譜」を書き終えた瞬間に、これがもし乱歩賞をもらわなかったら、もう永久に、もらうことはないだろう、それ以上いいものは書けない、というつもりで、この作品を送ったわけですけれども、それからいつの間にか百五十冊も本を書いたんですから、不思議な縁だと言わざるを得ないです。  いま、簡単にテレビ化できるような推理小説はよくないということをお話しましたけれど、その理由は、推理小説は、やはり、様式美であって、したがって、言葉のからくりというものを非常に使ってある。  ですから、私の小説の大部分は、たとえば「殺人の棋譜」もそうですけれども、暗号というものをよく使っております。私は、出来るだけ、少しでもいいから暗号を小説の中へ入れてみたいと思っています。  暗号というのは、これはテレビ化はほとんど出来ないんですね。暗号をテレビ化することは、非常に難しいんです。ですから余計、テレビ化は難しいということが言えると思うんです。  たとえば「奥の細道殺人事件」という私の作品があります。これは、例の松尾 芭蕉が「奥の細道」に行くわけですけれども、その芭蕉の「奥の細道」というものは、実は芭蕉の書いた暗号である。そして芭蕉こそ、当時、水戸|光圀《みつくに》に頼まれた忍者であったという、芭蕉忍者説ということを取り扱った小説です。小説として芭蕉忍者説を取り扱ったのは、私が初めてなんですけれども、そういう作品ですね。  ですから、「奥の細道」の文章をいろいろ切り刻んで出てくるわけです。これはテレビ化はほとんど出来ない、と私は思っていたんです。  そうしましたら、ある時、突然、あるファンの方から電話がかかってきまして、私の「奥の細道……」がテレビで使われている。ただし、全然違うタイトルになって、違うストーリーみたいになっているけれども、明らかにあれは「奥の細道殺人事件」である。ただし暗号の部分は全く使ってなくて、その他のストーリーは全く同じだ、ということを言ってきたんですね。  いずれにしても、そうやって使われてしまいますと、たまたま誰かが見てて言ってくれたからいいけれども、言ってくれなければ、推理小説なんていうのは、読んでいて、シナリオライターに適当に……、たとえば現代物を時代物にされたら、これはもう絶対に分らないというか、苦情を申し立ててもしょうがないような形になって使われてしまうわけです。  その場合でも、暗号の部分は、なかなか使えないんですね。その暗号が複雑で、かつよく出来ていれば出来ているほど使いにくいということがあって、その場合も、「奥の細道……」のストーリーから、暗号部分を除いて、そこへパッと人物の名前を当てはめて、そのままシナリオとして使ったのです。  テレビなんていうのは、作るの早いですからね。私も、「古都殺人事件」をはじめ、幾つかのテレビに、刑事になったり、新聞記者になったり、お医者さんになったりして、いろいろ出演しました。その時に作り方を見たんですけれども、まァ実に適当ですね。テレビ文化の底の浅さというのは、テレビに一回お出になって芝居をしてみますと、よく分ると思うんです。実に簡単に……、私は勿論、ギャラを貰《もら》って出演したわけじゃありませんけれども、ちょっと出るということになると、ディレクターなり、場合によっては監督が、「この科白《せりふ》、じゃあ、やってもらおうか」なんて適当に切ってやるということで、その場で、「どうするんですか」なんて、ちょっと訊いて、ちょちょっとやって、それで出来上がっちゃうんです。テレビの二時間物なら、半月もあったら出来ちゃうんですね。  ですから、この「殺人の棋譜」の時もそうなんです。この小説のラストは、岡山の鷲羽山のところで、夕日が静かに沈んでいくところで最後に告白があってクライマックスというようなところをつくって、鷲羽山の美しい瀬戸内海を背景にした風景ということで、そこで犯人が告白して、崖から身を投じて死んでいく、というシーンを創って書いておいたんですけれども、テレビになって見たら、横浜の港北区の、なんかごみ捨て場みたいなところから飛び込んで死んじゃうんですよ。あれじゃあ、全くやってもらわないほうがいい、という感じなんですけれども。  その理由は、どうしてそうなるかというと、たった一つカネですよ。それはいかにカネを少なく、安くつくるかという、ただ一《いつ》にかかって経済性だけです。「それはいい所でやりたいんだよ」と彼らは言うんですよね。「やりたいんだけど、カネがないから、いかにして安くつくるか」ということになります。  この「殺人の棋譜」の頃は、まだいいんですけれども、最近のテレビは、下請けの下請けと言いまして、小さなプロダクションが、商売のためにどんどん作るんですね。商売だから、何かやらなきゃ食えませんから、それでやる。何か作って、うまくいきゃいいし、まずくいったらしょうがないというような、非常に投げ遣《や》りな感じでね。  だから、気の利いた作家だったら、テレビ化されると肚《はら》が立つから、まァ、売れば|何がし《ヽヽヽ》になるから、それだけっていうことで、逆に注文つけないものなんです。注文をつけても、何しろカネがないですから。つまり、安く作るということなんです。本当に情けないテレビの現状です。  ですから、物を書く人間としては、映像化ということをあまり考えないで、ただひたすらいいものを書く。いいものを書くということは、やはり、きょうの冒頭からお話したような様式美の追求ということを、徹底的に書くべきではないか。そこにあるのは現実の写実ではなく、やはり、人間の頭の中にある美しさ、言葉のからくりから生まれてくる美しさというものを追求した、そういうもの。文学すべて、私は、そうだと思うんです。  つまり、少なくともそれを書くことによって自分の世界をつくろう。そういうことだけは、物を書く人にどうしても大切な、基本的な倫理観ではないか、と私は思うんです。  ですから、いま申し上げたような、人のストーリーを取ってシナリオを書いてみたり、筋をつくるということは、基本的に、物を書く人間のやるべきことではない。そういうことをしていれば、自分の持っている精神的なものが、おそらく腐敗し、堕落していきますから、いいものは書けないだろうと、私は思うんです。  テレビの問題は、そのほかにもいろいろあります。  なぜかと言いますと、最近の人は、推理小説に入るのに、テレビ・ミステリーと言いますか、テレビの推理物から入るというところがありまして、その元になったのは、「刑事コロンボ」ですね。「刑事コロンボ」がだいぶ日本のテレビのミステリーファンに影響を与えましたね。あれは、犯人が最初に分っているという特徴があるんです。ですから、どちらかというと、本格物というよりも、倒叙物という、推理小説で言えば、倒叙小説という形のほうに入るんですけれども、テレビ物ではそのほうがいい。なぜかというと、犯人をどうしても最初から出さなければならないし、たとえば人間の内面的なことをテレビの場合は、表情、顔で表わさなければならない。それには、「こいつが犯人」ということが分ってないと、つまらないんですね。ヘンな顔したからって、何であんな顔しているのか、後で、「あ、あれが犯人か」と分ったと言っても、テレビの場合は、初めから犯人が分っているほうがいいから、どうしてもテレビ物の場合は、倒叙物になってしまう。そのほうにいいものが、どうしても多いという特徴があります。  ところが、本格推理小説の場合は、大体、「フウダニット」という考え方で、「犯人は誰か」というところに、基本的なスリルとサスペンスがあるものですから、推理小説をそのままテレビ化するのは、その面から言っても、ちょっと問題がある。  勿論、うまく両方つくれば、優れたテレビ小説が出来る可能性がありますけれども、非常に難しいということを、お話しておきたいと思います。  一番最後に、推理小説は、先ほどの乱歩の定義にありますように、非常に難解な秘密が、論理的に徐々に解かれていくということから、長いもの、長いものということで、長いものが推理小説の本道であるという言い方もあることはあるんですけれども、必ずしも私は、いま、長いものがいいというふうには考えておりません。どっちかというと、やはり、大衆により多く読んでもらうためには、現在は、羽田空港を飛び立って大阪空港まで、というような、その位の長さの小説を書くのが、もっともコマーシャルベースに乗ってくるという点ではいいんではないか、という感じを持っています。  必ずしも長いものがいいんじゃない、というふうに思いますけれども、私自身は、長いものを書いてみたい、という気がして、いわゆる魔法陣シリーズというものを書きました。現在、おそらく日本で一番長い推理小説は、私の書きました魔法陣シリーズの中の「空の魔法陣」が一番長いんではないかと思っています。これは原稿用紙にして、本当に二千枚あります。よく雑誌なんかで、�堂々三百五十枚�なんていうと、大概そういう時は三百枚とか、三百枚と書いてあると二百五十枚とか、その位、必ず水増しがあります。しかし、私の「空の魔法陣」は、本当に二千枚あるわけです。  これは、長さというものが必要な条件をそこにつくり出して長くしてみたわけで、地、水、風、火、空という、いわゆる五大に合わせて小説を書いて、全体としても一つの小説にしようということで、魔法陣シリーズを書いた中の一つなんですけれども、長いものがこれからもだんだんよくなるかどうかというと、私は、おそらく推理小説ばかりではない、ほかの小説でも、あまり長いものは、これからは流行《はや》らないのではないか。  流行らないから、それを避けるということではないんですけど、やはり、通俗小説と言いますか、大衆のための小説は、幾らストリック理論だ、と一席ブッてみても、あるいは定義はこうなんだ、と言ってみても、あるいは様式美がこうだ、なんて言ってみても、所詮、読まれなければ、自己の存在理由、レーゾンデートルというものをそこに主張することは出来ない。  やはり、皆さんに読んでもらう、ということが大切ですから、そのためには、長さとか、書き方とか、その内容、あるいは材料、テーマ、そういったものについて、絶えずその時代に合うように……、それは時流に迎合しろということとは、私は違うと思うんですね。やはり、読まれるようにするということは、必ずしも、そういう時流に迎合するということではなくて、出来るだけ自分の書くものを知らしめたい。  これは、純文学とは多少違うのは、純文学的な物の考え方は、作家である自分自身というものの内面的なものを読者に強くインパクトを与えていくというところにあるんですけれども、大衆小説の場合は、むしろ皆さんの持っている大きな興味、それから勿論、自分の持っている興味とを、うまく交錯して、より多くの人に読んでもらう、というところにあるので、多少そのニュアンスは違いますから、仮に、推理小説が長いもののほうが謎のいろんな展開が出来ていいからと言って、あるいは自分が長篇小説に向いているからと言って、長いものを書くということに固執していてはダメでしょう。  やはり、その自分が生きている時代の形式にも合わせて、あるいは要求にも合わせて、長くしたり、短くしたり、いろんなことを、材料も選んで書いていくという心構えが必要なのではないか。こういうふうに思います。  きょうは、理論的な部分ということを中心に、これもやはり、駆け足ですけれども、いま日本の基本的な推理小説についての考え方、定義というものと、自分のストリックということを提唱したそのゆえんをお話して、あとそこにまつわる「星の上の殺人」のことなどをお話したわけです。  推理小説の定義は、その他に沢山あります。いろいろな人がいろいろ定義していますが、そういうのは、また、ご自分で勉強されるといいと思いますけれども、しかし、これは結論的になってしまいますが、あまりそういう点に入ってしまっても、推理小説を愉しむことは出来ない。  推理小説には、いわゆるべからず集というのがございまして、十戒とか、二十戒とか言って、やってはならないことがあります。そういうふうに言われていますけれども、大体名作というのは、これこれしちゃいけない、という禁止めいたものを、おそらく踏みにじったところに名作というものがあるんですね。不思議なもので、反則しているところに、むしろ実際的な傑作が生まれているということもあります。  逆にいい名作の中にも沢山の矛盾点などがあって、しかし、やはり、世間的には名作と言われている。  なぜ、そうかというのは、さっきお話したように、コンクリートの硬さとか固まり方の日時なんかを、あんまり厳密に研究しても、それが小説の面白さに繋《つな》がる部分はいいですけれども、繋がらなかったならば、かえって逆になる。  ですから、皆さんが、もし小説をお書きになる場合、これは真実かなと思って、疑問を持って、自分のデータを沢山お調べになる。それはいいんですけれども、小説を書く時は、そのデータを、自分の頭の中に入れたら、書く時のそばに、机の上に絶対に置かないようにしていただきたいと思うんです。調べたものが詳しければ詳しいほど、自分のそばに置いてはいけないんですね。そこに置きますと、つい、そのデータを見て書こうとする。そのために、その生《なま》のデータが文章の中に出てきてしまう。これは小説を書く時は、一番避けなければならないことですね。  私も、原稿用紙と、字引の一冊ぐらい置いておきますけれども、出来るだけ、机の上には置かないようにする。地図とか、時刻表などは、どうしてもミステリーの場合、必要になることが多いんで、それは、私は和室で書いていますから、畳の上に置く。机の上には、出来るだけ、原稿用紙と筆記用具、あとは一冊の字引ぐらいしか置かない。  データを調べれば調べるほど、置いちゃいけないと思うんです。置きますと、人間というのは弱いもので、つい、それを見て書こうとする気持が働きますと、悪く言うと、盗作なんていうことになりかねないんですね。ですから、物を書くというのは、本当に自分の頭で書かなくちゃいけない。  学生の卒業論文とか、その他、研究文みたいなものは、そうじゃないんでしょうけれども、事、少なくとも小説というものであれば、原稿用紙だけに向かって、しかも読者が読んだ時に、これは何かを見ながら書いたんじゃないかというふうに思わせるように書かなきゃいけないんですね。そのくらい詳しく書いてあるんだけれども、実際見て書いちゃいけない。  同じことを書くんでも、見て書いたのと、見ないで書いたのとでは、読んだ時の感じが相当違うんです。頭の中から出てきた場合は、自分の頭で一回|濾過《ろか》して書いていますから、違うんですね。少なくとも盗作だと言われるような心配はまずなくなりますから、出来る限り、小説を書く時は、論文を書く時と違って、机の上に参考資料を置かないでいただきたい、と思います。  このことについては、もう少し詳しくお話する予定ですけれども、いずれにしましても、小説というのは、こういう理論などを勉強することも大切ですが、勉強したら、一たんそれを脇に置いて、小説を書く作業は、逆に、自分の実作が理論を生んでいくようにする。理論が実作を生むということは、小説家の取るべき態度ではないと私は思っています。書いたものが、自然に理論になっていくんであればいいわけでして、あるいは理論を言うのは、文芸評論家が言えばいいわけで、理論から入るというのはいけない。  その点から言いますと、私が「紅の幻影」で、こういうストリックなんていうことを言い出したのは、まだまだ、そこそこ長篇が三篇か四篇位の時だったものですから、若いくせにあんなこと言い出して具合悪いんじゃないか、ということで、だいぶお叱りをこうむった記憶があります。  いまは、別に誰も言いませんし、今度は逆に、「斎藤栄のストリック理論」と言って、ほかの人が文庫の解説なんかに書いてくれますけれども、そういうものでして、最初から理論を立てて書くというのは原則として、しないほうがいいと思います。  ただ、ほかの小説と違って、推理小説は「論理的な」という言葉が定義の中に出てくるように、絶えず論理性というのがありますから、小説の創り方、書き方においても、相当構成ということを重視しなければならない文学なわけです。ですから、ほかの文学よりも理論的な武装はある程度必要だと思います。しかし、やたらにそれを口にしないほうがいいんではないか。そのほうがまた、いいものが自由に書ける、ということだと思います。 [#改ページ]   第三章 推理作家に向いている人とは   作文の点がいい人は向いていない  きょうは、推理作家に向いている人とは、というようなことで、推理小説そのものの内容よりも、ちょっと変わって、どういう人が物書きになっているのか、なろうとしているか、向いているのはどのような人か、という話をしてみたいと思うんです。  こういうことは、あまり纏《まと》まって本には書いてありませんけれども、私の実感したことをお話してみたいと思います。  まず最初に、物を書く人間、まァ作家というんですけれども、大体、小説家の仲間では、自分たちのことを、小説家というよりも、物書き、と言う人がわりあいに多くて、要するに、物を書くという一つの仕事なんだという考え方で、物書きなんてよく言ってます。自分で作家というよりも、自分は物書きだ、という人のほうが多いわけですね。それはいろんな意味があるんですけれど……。  大体、どんな職業でも、こういう人はなれる、こういう人はなれない、というのは百パーセントはないと思うんです。たとえば 棟方志功は版画で有名な人ですが、あの人は目が悪くて、すごい|ド《ヽ》近眼で、絵を描くのに物がよく見えなかったらしいですね。ですから、目が見えなくても絵は描けるというようなもので、あらゆる世界で、この人は体がこうこうだから、あるいは性質がこうだから、これには向いてない、というのは、私はないと思うんです。  その意味では、作家にこういう人は向いている、向いてない、と言い切ってしまうのは、非常に危険なので、どんな人だって、物を書こうとすれば書ける、ということは言えると思うんです。ただ、そうは言いましても、多少傾向というのがあるので、そういうことについて話してみたいと思います。  これは、決定的にこれこれが、ということじゃありませんけれども、大体、小説家に向いている、物を書くのに向いているような人というのは、五つぐらい特徴があろうかと思うんです。  まず第一に言えることは、文字どおり、物を書くのが好きな人であるということです。何しろ書くのが嫌いでは、とにかくなれない。最近は書くと言っても、ワープロを使うとか、いろいろありますが、原則として、何かを書くことが好きでないと、いわゆる物書きで書くわけですから、書くのが嫌いでは、全然どうにもならない。大体、物を書くことが好きだという人が、自然に小説家になっているということが言えると思います。  私の例を申し上げて大変恐縮ですけれども、私も、物を書くのが好きでして、小さい時から、本を読むのも好きだったんですが、本読みよりも、本を書くほうが大変好きだったということがありまして、もっと具体的に言うと、字を書くのが好きだったんですね。  私の国民学校六年生の時のあだ名は�八千字�で、いまだに同窓会に行くと、そのことを言われるんですけれども、どうして八千字かと言いますと、土曜日に、教科書の漢字を出来るだけ書いてこい、という宿題が出たわけですね。先生としては、漢字の書き取りを教科書の最初のページから終り位まで書いてくれば大変な人で、せいぜい十ページも書けばいいと思って言われたんでしょうけれども、私は、それでは一日書き詰めに書いてみよう、どの位書けるだろうと思って、その場合、ノートが大変かかりますから、ノートじゃなくて、まず書くものを作ろうと思いまして、半紙を沢山買ってきて、縦二十字位の幅にずーっと貼《は》り合わせて、鯨尺のお裁縫の物差しで線を引いて、書く部分を作ったわけです。それが二階から階段をずっと下まで降りて、廊下の先までいく位貼ったわけです。それが土曜日の仕事です。  日曜日になって、朝、御飯を食べてから、ずーっと部屋に閉じこもりで、漢字の書き取りを書き続けに書いたんです。教科書の終りまでいって、何度も何度も書いて、そして夕方までに書き上げたのが八千字だったわけです。  翌日、学校へ持っていって先生に提出したところが、校長がびっくりしましてね。その頃はまだ戦争中だったもので、非常に活《い》きのいい先生が多かったんですけれども、とにかく漢字の書き取りで八千字も書いてきたのは、学校始まって以来だ、というので、早速、朝礼に呼び出されまして、校長先生が、わが校にもこういう人がいる、というような説明で、以来、友だちが大変冷やかしまして、あだ名が�八千字�ということになりました。  ところが、私は、その後、八千字に飽き足りませんで、一万字を越えたのを書いてみようと思って、さらに一万三千字、書き取りで書いたんです。ところがあだ名は�八千字�で、�一万三千字�にはならなかったんですけれども、いかに字を書くのが好きだったか。  と同時に、この前もお話したように、愛読書が百科事典で、よく読んでいたんですけれども、もう一つ漢和大辞典を読むのが好きだったんです。漢和大辞典の中から�然�という字のつく字を書き出して、自然とか、憮然《ぶぜん》とか、愕然《がくぜん》とか、騒然とか、恬然《てんぜん》とか、蒼然とか、これは自分でこういう文字を調べて見つけなければいけないんで、然という字を漢和大辞典で幾ら引いても出てないわけです。そういう字を沢山調べて書き出しまして、いまでもそれが、これは家宝になるんじゃないかというので、取ってありますけれども。  これは、実際問題としては、ほとんど役に立ちません。現在、小説の中でそんな言葉を使っても、おそらくみなさん読んでも、何のことか分らない。でも、そういう古い言葉を使うということに関心があったんですね。  たとえば 芥川龍之介の「羅生門」という小説のラストに、真暗になっている夜の中に下人が老婆から着物を奪い取って、下人が羅生門から闇《やみ》の中へ消えていく、というシーンがあるんですけれども、「黒洞々の闇の中へ」という言葉を使っているんですね。これは芥川龍之介らしい凝った表現なんですけれども、洞穴のように真暗な夜の闇の中へ、という意味なんですね。  ところが、私は、この言葉で表現されている文章を読んだのは、芥川龍之介の「羅生門」の中だけなんです。だから、ほかではあまり使わないんですね。ただ、勿論、ない言葉じゃなくて使ったんでしょうけれども、そういうふうに洒落《しやれ》た言葉を使うというのが好きになる時代というのが、若い頃あるもので、私もそれに惹《ひ》かれまして、�然�がつく漢字を非常に沢山書き集めてみた、というようなことをしたことがあります。  ついでですけれども、どういうことをさらに自分でやったかというと、中学時代に研究したんですけれども、いろんな人の小説の最後が何で止まっているか。「である」とか、「です」とかいうのは、まだ普通ですけれども、いろんな言葉で止まってるのがあるんですね。  たとえば 泉鏡花の小説は、お読みになると分りますけれども、鏡花の小説は名詞止めと言って、名詞で終っていることが多いんです。もっともこれは今様ではなくて、いまの小説には、こういう技巧的なものは、あまり使わないほうがいいと思うんですけれども、そういう小説の語尾だけを集めて書き出して、学校の先生に、夏休みの宿題のレポートとして出したことがあるんです。それもやはり、先生が大変感心してくれたことがありますけれども。  そんなふうに、字とか、文章とか、漢字とか、とにかくいろんなことに関心を持って、それを書くのが好きということが、小説家になるための一つの重要な要素になるだろうと思うんです。したがって、そういう人でないと作家にあまり向かない。そういうことは厭《いや》だとか、面倒臭いとか言うようではまずダメだ、と思います。  ところが、最近はワープロという素晴しい武器が出来ましたから、漢字を知らないのに文章が書けるようになったんですね。このまま進みますと、いまに小説家が一番漢字を知らないんじゃないか、という時代がくるんじゃないかという話になっていますよ。まァ、そんなことになっちゃいかんと、私は思うんですけれど、物書きが一番字を知らない時代がきつつあるということは聞きます。  聞きますけれども、やはり、小説家になるには、字にまず愛着があるということが、日本の漢字文化の流れをくむ文章の中では、やはり、大切でしょう。  二番目に作家に向いている人の資格は、一にも二にも孤独に耐えられる人じゃなくちゃいかん、ということがあると思うんです。  この孤独に耐えられるというのは、いろんな意味があるんですけれども、基本的に人間というのは、いろいろなタイプの人がいますが、大ぜいでワイワイ、ワイワイやって、何かのリーダーみたいになるのが好きな人と、自分一人でコツコツ、研究派タイプで、何か研究していくのが好きなタイプとありますけれども、少なくとも小説家は一日中、私の場合は、大体、朝の八時半頃から仕事を始めまして、五時頃まで、ほとんど自分一人しかいない部屋で、あとは、出版社から電話がかかってきたり、インタビューもありますけれども、原則として自分一人で、何も喋《しやべ》らずにいることが平気である。それを淋しいなんて露思ったこともない、という人間でなくてはダメだってことです。  私は、こういうふうにお喋りがわりと好きなんですけれども、おそらくそれは、日中、ほとんど喋らないということの反動じゃないかと思うんですね。日中、ほとんど喋ってません。  いずれにしましても、孤独に耐えられなくちゃいけない。これはもう一つあるんです。創作ということ、それは小説ばかりではなく、絵でも、音楽でも、何でもそうでしょうけれども、やっている時は、その世界に浸りきらなければいけませんから、そばに他人がいたら絶対ダメです。家族だったら、なおいけません。女房、子供、あるいは親しい者がそばにいたんでは、なかなか小説は書けない。本当の意味のその世界に入ってしまって、それを愉しんでいるというか、小説の中で喋っている人間になりきってしまう。そうすると、自然に文章が出てくる。こういう格好ですから、いずれにしても、まず孤独に耐えられる人にならなければならない。そういうタイプの人でなければいけない。  何か、人から|ちやほや《ヽヽヽヽ》されたり、上役から命令されて、それをやるというタイプはダメですね。それから自分が誰かに言いつけてやらせる……、まァ、そのほうで天才の人もいるんですけれども、そういうことが自分の本分とするような人は、まず物書きには向いてないだろうと、私は思うんです。  三番目は、男女のことに関心のある人でなくてはいけない。つまり、小説というのは、男と女のことを書くんだと、私、思うんです。勿論、その中に、天下国家のこと、哲学的なこと、あらゆることを書きます。推理小説の場合には、殺人も書きます。犯罪も書くし、いいことも書きます。だけども基本は、小説は一にも二にも男と女のことである。だから、善《よ》かれ悪《あ》しかれ、男女のことに関心のある人でなければならない。  もう悟りきっちゃって、男と女のことなんかもういいんだ、分っているんだ、というような人は、小説家になる資格はまずない。  つまり、三番目として、悟らない人間であってほしい、ということなんですね。悟ってしまいますと、小説は書けない。おそらくお釈迦《しやか》様とか、キリストは、小説は書けなかったんじゃないかと思いますね。悟ってしまっちゃダメなんです。人間はあくまで、特に男と女の絡みの中で、この世の中を、いい意味でも悪い意味でも見つめていくという、そういう人でありたいし、なくてはいけない。そういう人が一番、小説家に向いているだろうと思います。  つまり、小説を書くための小説家じゃなくて、まず基本として、そういう人間臭さ、人間的な物事にまず基本的に関心を持っている人でないといけない。  たとえばマネーゲームみたいな、純粋に経済的な小説を書く人でも、やはり、結局のところは、男女のことに関心がなければ、小説として成り立ってこないだろう。論文みたいなものになっちゃうだろうと思うんです。  四番目には、いま言ったことと裏腹ではありますけれども、広い意味で、人生を考える人であってほしい。また、なければならないだろうと思います。いま言ったように、材料的には、小説は男と女のことがどうしても基盤になって、推理小説でない小説であれば、男と女のことさえ書けば、それで十分、小説になるんです。これはいつでも。なぜ、なるかというと、男と女のことは、いつもドラマがあるからですね。Aという男、Bという女の人が出てくれば、もうそれでドラマになる。いろんな意味でね。  ですから、そのことは、もうそれでいいんですけれども、さらに広い意味では、やはり、人生を考える人でなくてはいけない。そういうふうに私、思います。  つまり、一番作家に向いている人の条件としては、一に書くのが好きである、二番目に孤独に耐える人である、三番目に男女のことに関心を持っている人である、四番目に人生を考える人でなくてはならない。  そして五番目には、学校教育の学校の授業の中で行なわれる作文のようなものの、成績が、よくない人のほうがいいということです。多少アイロニーを含めてもいるんですけれども、学校時代に作文の点がいいなんていう人は、あまり小説家に向いてないだろう。なぜかというと、学校の先生、あるいは親が求める作文の内容とか、書き方は、本当の意味の人生を見つめるよりも、優等生的なものにいい点をあげるから、学校時代に作文がいいお点を取ってきたというような子供がいたら、まァ小説家は無理じゃないかと、逆に思ったほうがいいくらいなものだと、私は、思うんです。  特に推理作家に向いている人、ということについては後で言いますけれども、その場合は、特にそういうことが言える。つまり、あまりにも学校的な、先生が喜ぶような、親が喜ぶような文章を書ける……、ということは、つまり、そういう考え方を持っているという人ですね。本当の意味の人間の苦しみとか、悩みとか、深みのある部分に、やはり、本当は衝《つ》いていってない。そこを衝こうとしたんでは、「何でこんな文章書くの?」ってことになる。  この前、磯子の並木町の「マアセンのバカ」と書いて死んだ早熟な子供がいましたけれども、あの子は、推理小説が好きで書いていたらしいんだけど、やはり、学校の先生にはどうしても嫌われるような文章を沢山書いていた。だから、あの子がもし……、不幸にも死んでしまいましたけれども、ぼくが、もう少し早く知っていれば、励ましてやる方法もあったんじゃないか。本当に残念なことをしたな、という気がするんですね。  あの学校の先生がいけないとは言いませんけれども、学校の先生は、やはり、一つの杓子《しやくし》定規の中で発言をされる。それは、やむを得ない面もあるんですけれども、子供たちの本当の意味の共感を得ないで、お互いに誤解し合ったまますれ違ってしまった、という感じが、話では、私、感ずるんですけれども、あの事件を知った時にも、あの子はおそらく先生からは褒められなかった文章を書いたんじゃないか。つまり、それだけ人生に、ある程度深く食い入っているような文章を書いたんじゃないか。そういう人は、むしろ学校の点は悪いかもしれないけれども、小説家としての才能のまず一つの条件はあったんじゃないかな、という感じはします。   推理作家の条件  いまのは、作家に向いている人の話ですけれど、さらに、推理作家に向いている人というのは、必ずしもいまの条件と全く同じではないんです。いまお話したことは、あくまで一般小説を通じて、大体そういうことが言えるだろう。ただし、推理作家は多少違う面があります。基本的には勿論、同じなんだけれど、多少違うところがある。そのことを、さらに詳しくお話してみたいと思います。  どんな人が推理作家に向いているか。これは分りませんで、私のところにも、この前、佐世保のある高校生が手紙をよこしまして、お許しいただけるならば内弟子に住み込みたい、というので、私、慌《あわ》ててしまいましてね。すぐ上京してくるような手紙になっていたものですから、速達で返事を書きまして、「いまどき内弟子取っている人は誰もいませんし、それは明治時代の話です」と書いたんですけれども、あの人たちの気持の中には、ある作家の内弟子になれば、世の中へ出してくれるんじゃないかという期待、そのほうが強いんですね。そこで苦労して自分が小説家になろうとか、そんな気持じゃなくて、なれば早道じゃないかという、そういう非常に功利的な発想が強いんじゃないか、というふうに思うんです。  しかし、これは、将棋の内弟子でそういう例があるんですけれども、弟子入りしてきた内弟子に、最初にまず一局指すわけです。その次に将棋を指してくれたら、それは破門なんですね。「お前、最後に一局指してやるからお帰りなさい」という時しか指してくれない。つまり、内弟子には二局しか指してくれないんだ、ということをよく言います。内弟子の時は、実際のテクニックを教えるということはないんですね。何をさせるかというと、お客さんにお茶を出したり、お客さんの下駄を揃《そろ》えるという仕事とか、お掃除、それしかやらせない。しかし、そういう内弟子生活をしているうちに強くなっちゃうから、不思議なんですね。  内弟子というのは、そういうもので、そこで先生に、「はい、この『である』は『ます』に直したほうがいいですよ」とか、そんなことやったら、余計、能力がダメになっちゃう。そういう放っておかれて、ただ、そばに師匠がいるというだけで、強くもなるし、うまくもなる。こういうのが内弟子のようです。  しかし、そういう内弟子希望とか、作家希望の人は、よほど勉強しているかというと、勉強してこないんですね。  この前も、近所のある高校の生徒が、私のところにインタビューに来たんですけれども、インタビューにくるのに、お母さんが付添いでついているんですね。そんなことじゃ情けないと思うんだけれども、お母さんがそばについてきてインタビューするんです。だから、ぼくは、「ぼくの小説の何を読んできましたか」と言ったら、一冊読んできたようだけれども、あと全然読んでないんですね。大体、小説家のところへインタビューにくるようだったら、少なくとも三冊や四冊は読んでくるという、その位の気持でなければ、ちゃんとした内容のインタビューの記事が書けっこない。  それは、もっとそうでない人だっているかもしれませんけど、えてしてそういうものだ、というふうに、私、思うんです。  そこで、推理作家に向いている人は、さらに五項目ばかり特徴を挙げてみますと、  一つは、いま前段でお話したような普通の小説、特に、男女の機微を中心にしたもの、そういう普通の小説に満足できない人、ということが一つあると思うんです。つまり、男と女の絡みで、ある男とある女がどうこうしたというようなことで、最後まで、それでも愉しく書けるわけで、小説は成り立ち得ると思うんですけれども、そういう小説を読んだだけで満足する、あるいはそういう小説を書くだけで満足できる人では、推理作家にはなれない。普通の小説、と私が言うのは、そういう意味ですけれども、普通の小説に満足しない人、そういうことがあると思うんです。  とにかく、いまの大衆の人たちは、大変推理小説を好んでいますけれども、おそらくそれは、現在の純文学を含めた一般文学というものが一つの袋小路に陥っている限界状況の中で、推理小説は一応の骨格を整えているという意味で、そういう小説を求めているのではないか。  少なくとも推理小説の場合は、最初に謎があって、事件があれば、必ず最後は解決していますからね。一応、解決しているという意味では、普通の小説にないことなんです。いわゆる普通の小説というとおかしいんですけれども、たとえば最初に男と女の話があって、絡みがあって、一番最後に何も解決しなくても、また元通りになりました、というんで、それで終りでいいんですね。そういうことがあり得ると思うんです。  だけども、推理小説はそれでは困るんです。たとえば「犯人が分らなかった」というような終りになってしまっては、小説として完全に成り立ってない。その意味では、普通の小説に満足できない人であること。  二番目には、これはちょっと意外かもしれませんけれども、大変臆病な人がいい、というふうに私は思うんです。ぼくなんかは、人殺しの話ばかり書いているようなものですけれども、文字通り臆病でして、非常に怖がりなんですね。  つまり、臆病というのは、どういう意味かと言いますと、自分の同じ仲間の推理作家を見ても、みんなそうですけれども、どちらかというと、何かに対して大変敏感である。敏感であるという意味では、臆病な人がいい。たとえば飛行機一つ乗るにしても、墜ちるんじゃないかな、というふうにすぐ感ずる。まァ、そんなような人のほうが、かえっていい。むしろある意味では小心でもいい。そのくらいの人のほうが、推理作家になり得る。  推理作家というのは、人殺しの話だから、相当図々しくて強持《こわもて》のする人間だというふうに思っている人がいますけれど、逆だと、私は思っているんです。  三番目は、特別に好奇心の強い人。小説家になろうというような人は、大体、好奇心が強くなければ、まずなれません。何かについて、あれは何だろう、何だろうというような関心を持っていなければいけませんけれども、特に、推理作家の場合はこれが言えると思うんです。特別に好奇心が強い。好奇心が強いということは……、強くないと、一つのこと、たとえば私は将棋の世界をテーマにして書いた小説が沢山ありますけれども、自分が将棋が好きで、それを書いた。その世界についてそれだけしか関心がないと、書き終えると、それでもう、あとは書けないということになっちゃうんですね。  一つ書き終えたら、また次に、この続き、あるいはほかの世界に、どんどん次から次へと関心を持っていくような、そういう好奇心の強い人。そして、何事もその裏を考えるような、好奇心が強くて、探求心も強い。こういう人が非常に向いている。  それから、似ているようですけど、四番目として、意外性の好きな人がいいんじゃないか。やはり、意外性の好きな人じゃないと、いけません。推理小説と言いますと、論理性ということを、すぐ誰でもが考えるので、論理的に解けていくということは当たり前のことで、推理小説としては、ちょっと弱くなりますので、意外性……、たとえば1+1は2ですね。1+1は2という感じで、何かを解決していくような人じゃダメなんです。1+1が実は3になっちゃうという……。なぜ、3なんだろうと、あり得ないことで、何かしかし、不可能なことを可能にし、しかもみんなが考えているような論理的なものから、むしろはずれている。だから、推理小説というのは、論理的な小説ということと同時に、ある意味では、非論理的な部分がある。  私が、この例でよくお話することがあるんですが、それは、ある部屋があって、そこにAという男がいた。その部屋は密室になっていた。仮にそうします。そうすると、Aが殺されるのは非常に不思議なんですけれども、そこにBという人物が、その部屋の中にいたとすれば、当然、犯人はBだという形になるわけですね。AとBがいて、Aが殺されれば、犯人はBである。非常に簡単な2—1は1であるという引き算です。  Aがいて、部屋があった。そこには人が誰もいなかった。だけど、Aが殺された。犯人は誰だろう——と言うんですけれども、その時、部屋の中に人はいなかったんですね。しかし、たとえば宇宙人がいたという説明。宇宙人は人ではないというふうに考えると、宇宙人が殺したんだということにすれば、それはそれで成り立つわけですけど、宇宙人のことを宇宙人と言わないで、宇宙人は人じゃないんだから、説明としては、そういう時に「人はいなかった」という言葉が使えるとすれば、そういうことで、一応、意外な説明はつくわけですね。  視覚的に、目で見た場合は、当然そこに、そういう宇宙人がいるから、あり得ないわけですけれども、言葉の上では、そういうことを書いてもいいわけです。つまり「人はいなかった」と書いてもいいわけですね、宇宙人は人じゃない、という前提があるとすれば。  その辺が、言葉の上の意外性ということも含めて、意外性についてのいろいろなことを考える。そういうことの好きな人ですね。これは必ずしもパズルじゃなくて、何か、もう一つひねって考えてみる。  この間、私は、久しぶりにあるパズルをやったら、どうしても解けないんですね。クロスワードパズルで、こうやってくると、真ん中の部分が、どうしても余分なことが何も入らないんで、しかし、入るようになっているものだから、さんざん考えたんですけれど、どうしても分らなくて、解答を見たら、びっくりしたんですが、誤植だったんです。  だけど、推理作家たる者は、それが誤植かもしれないということも考えなきゃ、私は、いけないと思うんですね。誤植だから、相手が悪い、なんて考えるような人はいけないんで、やはり、これは誤植なんじゃないか、と考えるべきで、ぼくは、全然考えないで、一生懸命やったけど、全然入らなかった。  つまり、その位の部分まで考えなければいけない。その位の注意力を持っている人でないと、本当はいけない。  そのこととまた関係あるんですけど、五番目としまして、文字の遊びの好きな人、ということが、推理作家に向いている人の資格に入るんではないか。  これは、トリックについて具体的に、後のほうで、またお話しようと思いますけれども、トリックには二種類あるんですね。作中人物が作中人物にかけるトリック、それから作者が読者にかけるトリック、これは全然性質が違うんですね。どちらも推理小説としては、あり得ると思うんです。作中人物が作中人物にかけるトリックの場合は、客観的にデータ的に出てくる。  たとえば一番分りやすいのは、東京にいた人が、大阪の殺人の実は犯人だった。電車では行けない、飛行機は飛んでいなかった、という時に、トリックとしては、これはあまりいいトリックじゃないですけれども、特別のチャーター機を飛ばして、そこに行って殺したというようなことにする。その場合は、そういう条件さえ整えてあれば、作中人物が作中人物にかけるトリックとしては、あり得るわけですね。  だけども、作者が読者にかけるトリックというのもあるんです。これは、この前、お話した私のストリックも、どっちかというと、そっちのほうですね。ストリックというのは、作者が読者にかけているということなんです。読者が、これは地の文だと思って読んでいると、実はそれは作中作だったというような、そういうような格好があります。  そういう場合、特に文字の遊びが好きでないと、そういうことが出来ない、ということが言えるし、もっと具体的に言うと文字の遊びというのは、暗号ですね。やはり、暗号には、どうしても興味を持ってほしいと、私は思うんです。  簡単に言いますと、作家に向いている人、推理作家に向いている人の資格は、そんなようなことで、勿論、これだけがすべてではありません。このほかに、もっと考えられる幾つかのことがありますが、大筋は、これに尽きているんではないか、というふうに思うんです。  ですから、推理作家の場合は、後段で申し上げた五つの項目だけじゃなくて、前段で申し上げたことも含めて、それが入っているということが、一番いいんではないか。なにもこの十項目、自分が全部それに当てはまらなくてもいいんですね。私の感じでは、七、八割方、あるいは過半数、まァ、六項目ぐらい当たっていれば、その人は、作家になる可能性が十分にあるんではないか、というふうに私は思います。  そこで一つ、これは多少お遊びの意味を含めてお話してみたいんですが、それでは、作家に向いている人は、占いでは、どういうふうにして出てくるか。四柱推命という有名な中国の占いがありますね。江戸川乱歩賞の仲間の 新章文子さんが書いてベストセラーになったですけれども。それに対して、中国で唐代の末から宋時代に非常に研究された「紫微斗数全書」という本があるんですけれども、紫微斗数という占いがあるんです。  これを詳しく研究している人が、私の身近におりますので、いろいろ訊いてみますと、私自身のことも出て、こういうのが小説家に向いている、というのがあります。紫微斗数というのは、やはり、四柱推命と同じように、その人の生年月日から判断して、この人は一体、職業では何であるか、といろいろやるんですけれども、命盤というものを作りまして、その人の生年月日、生まれた時間も入れて、その人の星が何であるか、ということをまず決めるわけです。そして、その星があれば、その人はどういう職業に就くのが合っているか、というので、小説家は紫微斗数によりますと、文昌星と文曲星という星がある人は、文学とか、芸術とか、そういう方面に大変優れた人である、と言われているんですね。少なくとも、この二つの星がなければ、小説家としては、なかなか成功しないだろう。  そこで、では 斎藤栄には、この文昌と文曲があるかというと、実は何にもないんですね。どういう星が私にあるかと言いますと、天機、巨門という星が、文昌、文曲に替わってあるんです。  私は、なぜこういう話をしているかというと、つまり、一般小説というか、普通小説には、こういう星が似つかわしいけど、推理作家は実はそうではないんじゃないか、ということを説明したいんですね。  天機、巨門星というのは、どういうのかと言いますと、まず天機というのは、未知の物事に対して非常に何かを知ろうとする人間である。好奇心の非常に旺盛な星である、というんですね。巨門星は、流れて止《や》まない、特によく喋る星であるというんです。天機星というのは、どっちかというと真面目な星なんです。  ですから、私思うに、普通の文学というか、そういう場合は、確かに、文曲星とか、文昌星が必要でしょうけれども、推理作家の場合は、必ずしもそうじゃなくて、非常に真面目に、何かをとことん追求してみようという好奇心を持っていて、それで一生懸命やれば、意外にそういう人のほうが向いているんじゃないか。私、実は、紫微斗数の運勢を聞いた時に、むしろこれは当たっている、というふうに思ったんです。  推理作家は、あまりにも文曲星のような星を持っているよりも、むしろ一つことに非常に真面目に取り組んで、それを追求していく。そういう性質の人のほうが、むしろいいんではないか。そういうふうに、私自身の星を見まして感じたものですから、そういうお話をしているわけです。  紫微斗数というのは、非常に高貴なことを紫微と言うわけですが、高貴ないろいろな星の数から、いろいろ生まれてくる、そういう意味の占いです。これは四柱推命に対して、中国での二大占いの一つですから、私は、四柱推命も当たると思うし、紫微斗数もなかなかいいことを言っているとは思います。  占いというのは、当たるとか、当たらないとかいうのは非常に難しいんで、一種の信仰みたいなものもありますけれども、ただ、やはり、長い経験に基づいているものですから、参考にして、占いというのは、いいほうを自分で感ずればいいんです。  つまり、物を書く人間は、占いであれ、哲学であれ、あるいは宗教であれ何であれ、どんどん、どんどん知ろうとする精神を持っていなきゃいけないと、私は思うんです。そういう意味で、占いなんて当てにならないから、というふうにしないで、ぜひ、これは研究してみる価値があるんじゃないか。という私自身が、文学的にどうだろうと見たところ、文昌、文曲じゃなくて、天機、巨門の星だったというところに、大変興味が実はあったものですから、それを参考までにお話したわけです。  いまのは、本論と言いますか、占いではそんなふうに出ていて、それもやはり、一般小説と、そうでない推理小説との多少の差をそこに示しているような気が、ちょっとするんです。   小説家になる年齢はあるか  小説を書こうという人の中で、たとえばいつ頃から書き出したらいいのか。また、ある程度年配になったら、もう小説を書いてもしょうがないか、というようなことを、よく訊かれることがあるんですね。  一般の小説は、特に、さっきお話したような男女、そういうことをテーマにした普通の小説の場合は、大体十代の終り、二十代前半から書き始めても少しもおかしくないし、また、そのほうが生き生きと書ける、ということがあるんですね。つまり、男女の問題は、やはり、若いほど、ある意味では鋭角的な面で鋭く何かを斬り込んでいくから、愛情問題でもなんでも、かなりビビッドな感じで書けるということがあると思うんです。  そういう意味で、一般小説であるならば、少なくとも二十五歳位までに書くということが普通だし、そうありたいなと思うんですけれども、ミステリーの場合は、三十歳……、私は、小さい頃から書いていましたけれども、世の中に認められたのは三十歳の時ですから、大体、推理小説なら三十位からお書きになって世の中へ出て十分で、人によっては、五十歳でも、十分世の中に出ることが可能だと、そういうふうに思います。  なぜかと言いますと、推理小説の場合は、何と言いましても、社会的なディテールというものが、どうしても要求されるわけですね。社会生活そのものも知らなくちゃいけないわけですから、たとえば大学を卒業した位で書こうとしても、なかなかミステリーは書けないと思います。書いても違う小説になってしまう。やはり、普通の社会派的な、あるいは本格的な推理小説となると、私は、三十位じゃないか。その位で世の中に出るんで十分じゃないかと思います。  年齢では、ですから、あまり心配することはないと思うんです。たとえば年齢的に遅く出ますと、わりあいに作家生命は長い。つまり、作家年齢というのがあるんですね。早く出た人は、わりに早くその役割を終えてしまう。遅く出た人は、かなり遅くまで活躍する。一応、そういうことが言えると思うんです。  松本清張さんは、たしか、四十六か七位で世の中に出ましたから、いまだに作家的生命は続いてますね。早く出た人は、わりあいに早く終ってしまうということが多いものですから、例外は勿論ありますけれども、別に慌てることはないんじゃないか。その年齢、その年齢で、書くことは出来るというふうに、私は思います。  四番目としまして、性別ではどうか。性別というのは、男と女しかありません。男女ではどうか。  私は、推理小説の世界に限って言わせてもらえば、これからは女性の皆さんが小説を、どんどんもっと書いていいし、普通の小説よりも、推理小説を書くというメリットが、今後もう、ずっと推理小説のほうに多いんじゃないか。  これは、こういう考え方をしては、あるいは感じ方をしてはいけないのかもしれませんけれども、一般小説で女性が何かを書きますと、どうしても、まァ悪く言いますと、恥部を書け、と言われるんですね。つまり、女性としての最低限のところを書かせるような……、これは編集者も悪いんですけれども、女の人が何か書けば、特にセックスの面で、「ギリギリ、もう恥ずかしいところ全部かなぐり捨てて書いてみろ」なんて言われて、そういうことで本を売ろうとするということがありまして、普通の小説では、女性の場合は、そういうことを覚悟しないと、なかなか書けないってことがあるんですね。  ところが、推理小説では、女性が出たからって、そういうことを言われることは全くありません。そういう部分を幾ら書いても、むしろ、「それだったら、推理小説書かないほうがいい」っていうように言われる。  そう思うんで、これからの推理小説は、現在、女性の推理作家でお書きになっている人が数人いらっしゃいますけれども、まだまだマーケットというものは広いと思います。男の人もさることながら、女性が活躍すべき世界が非常に広くなっている中で、この推理小説のような、いままでどっちかというと女性向きでないと言われていたこの世界に、女性の参加がまだまだ、非常に広く門をあけているのは、この推理小説の世界ではないか、と思うんです。  ですから、ぜひ推理小説を、あまり億劫がらずにひとつ考えてみていただきたいし、そういうチャンスは、これからの何年かの間に一番くるんじゃないかという気がするんです。  日本のいまの文化を見ますと、男と女ということで比較してみた場合に、いままで男性がほとんど独占していたような社会で、女性の進出が非常にめざましいですから、たとえばゴルフなんかスポーツでも、女性が盛んに進出しています。  それと同じように、推理小説も十分に女性が出るチャンスがあるし、編集者もそれを求めているんじゃないかと、私は最近、感じています。   推理作家の血液型  さて、この辺でひとつ、何型の血液型の人が作家に向いているか、というお話をしてみましょう。  これは、私は前から思ってたんですけれども、血液型は普通、A型、B型、AB型、O型と四つありまして、果してすべてを四つに分けることがどうか、という問題はあるわけですね。それは当たるも八卦《はつけ》当たらぬも八卦ではないか、ということがあります。  推理作家の血液型を調べてみますと、大体、比率はA型が非常に多くて、O型も多いんですが、あとB型、AB型の順になっています。  O型は、どういう人がいるかと言いますと、江戸川乱歩、松本清張、横溝正史……。ですから、推理小説の巨匠と言われているような人はO型だ、ということが分りますね。そのほか、どういう方がいらっしゃるかと言いますと、笹沢左保、島田一男、海野十三。女性では 戸川昌子さん。最近、推理小説は書いてなくて、歌を唄ったり、子育てを一生懸命やっていまして、なにか子育てのことを書いた本がベストセラーになっているそうですね。  A型は、生島治郎。「片翼だけの天使」なんて最近の小説がありますけれども、あの人は本当はああいう小説じゃなくて、ハードボイルドなんですけれども、ソフトボイルドに変わっちゃって……。亡くなりましたけれど、梶山季之。 佐野洋、陳舜臣、いま、この人は推理作家というより、中国研究の大家になっちゃいましたけど、あと、豊田行二。女流では、仁木悦子さん。  B型は、夏樹静子、都筑道夫。ハードボイルドで、有名な「野獣死すべし」を書いた 大藪春彦さん。  AB型、黒岩重吾、山田風太郎、角田喜久雄。  参考までに、純文学のほうではどうかと言いますと、O型が 井上ひさしさん、A型では皆さんご存じの 夏目漱石、B型は 丹羽文雄さん、AB型は、こないだ亡くなった 源氏鶏太さんというふうになっています。  推理作家について、私が考えてみたことを申し上げますと、O型は、わりあいにバイタリティーのある人が多いですね。これは、普通の生活でもそうだと思うんです。O型の人は、非常に生活にバイタリティーがあって、わりあいに断定タイプの人が多いと言われていますね。それだけ、しっかりした仕事はされるということで、長篇も十分書ける人、そういう人がO型のようです。  A型は、比較的寡作の人が多いですね。これは作品のいい悪いじゃないですよ。寡作の人が多い。わりあいに何かにつけて生きがいを求めるというか、非常にそういうことについて関心を持っている。作品としては、あくまで寡作の人が多い。仁木さんなんかいい例ですけれども、あの方は体がちょっとご不自由ですから、まァ、そういうこともあるでしょうけれども、そんなに乱作するということじゃないわけですね。  B型タイプは、性質は天《あま》の邪鬼《じやく》的なところもちょっとあって、どっちかというとマイペースで生きていく。マイペースタイプということが言われています。作品も、大藪さんなんか見れば分るし、都筑道夫さんという人はなおそうですけれども、わりあいにマイペースで淡々とやっている。同じ女流の夏樹さんを見ても、あの人はいま福岡にいるんですけれども、われ一人、わが道を行くというような感じで、女流として活躍していると思います。ですから、確かに、B型は、そういうところがあるんじゃないか。  これに対してAB型は本当に少数で、わりあいに正義派と言いますか、そのかわり情緒不安定なところがある。どっちかというと、安定、不安定が交互にくる。だから、早く言えば不安定なんですけれども、そういうようなタイプの人が多いと言われています。ですから、また作品もそういうような影響があるように思うんです。  さて、斎藤栄は、何型だと思いますか……。長篇を書いているんでO型だと言われそうなんですけれど、実は、私はB型なんですね。B型は、さっきお話したように、ちょっと天の邪鬼なところもあって、そのかわり、マイペースでいくという点はあると思います。  しかし、これはあくまでも一つのお話としていま申し上げたので、人間を四種類に分けてしまうなんていうことは、到底、出来ることではないんです。いろんな例外もあります。ただ、これもさっきの紫微斗数と同じように、いろんな面から一人の人間を考えてみるということは、面白いことだと思うんで、いまの若い女性なんかが、あと星座と占い、血液型とか、単純に当たっているとか、当たってないとか言いますけれども、人間をそんなに簡単に言ってしまってはいけないし……、極端なことを言いますと、A型的な性質を持っていたと思うと、急にB型になっちゃったり、O型になったりする。  人間というのは、そういう変化のあるものなんです。ですから、O型だからといって、こういう人間だということになれば、みんな同じようになるはずなのに、ならない。これは、その他の沢山の条件というものがあるからなんで、むしろ当たり前のことですから、あくまでもこれは参考ということで、もし、これが全部当たっているなら、なるほど、A型、B型、AB型、O型、すべて推理作家がいるわけですから、どれに向いている、ということはないわけですね。その中でどれでもやってもいいわけです。  そして、事実そうだと思うんです。何型だっていいんです。何型であれ、むしろ逆に、自分の性質に合うものを求めて、そしてその中で活躍する。これは、実際の実生活の中でも、自分を生かせばいいわけですからね。自分を生かすということなんですから。自分は何型だから、何しか出来ない、じゃなくて、自分は何型なら、その何型のどこかいいところを生かして伸ばしていく。そういうふうに考えれば、面白い小説も書けるし、いい仕事も出来るんではないか。  結局、いい仕事をすればいいわけですし、O型が、仮にバイタリティーがあるということになりましても、自分がO型だから、むしろ逆にいい意味で、あ、自分はO型だから、どんな時にもくじけないで頑張れるんだ、というふうに思えばいいですし、断定的だなんて性質があるというふうに思い込んで、自分は何でもこうだ、と決めつけてしまって、これは自分のO型の性質だなんて、思い込む必要もまたないわけです。   棟方志功の発想  推理作家というのは、戦前は、職業としては成り立っていなかった、と言っていい位のものなんですね。探偵小説作家というのは、まァ一部……、勿論、江戸川乱歩みたいな人は、十分、というと語弊がありますけれども、とにかく生活できました。しかし、あの人が生活できたのは、主に「怪人二十面相」はじめ、「少年探偵団」という子供物で売ったからなんですね。大人物では、やはり、いまほどではなかったわけで、大変、職業として成り立たない部分があったと思うんですけれども、現在では、正直申し上げまして、まず、そこそこの才能があって、一生懸命努力さえすれば、職業として十分に成り立つ、そういう職業になったと、私は思います。  つまり、愛読者の皆さんが、まとめて四冊も買ってくれる人がいますから、それでどうやら食べていけるようになったんで、ですから、その意味でも、文庫本の時代になってから、推理作家は飛躍的に、売れる人はよくなりましたね。売れなきゃ、結局、同じですけれども。文庫本が出るまでは、やはり、生活は大変だったと思います。  われわれは、文庫本時代というふうになりましたから、比較的楽になりました。ですから、職業として十分成り立つんで、その点でも、さっき申し上げたことにまた戻りますけれども、女性の方でも職業としておやりになったら、むしろご主人を送り出したあとにでも、原稿用紙に向かうということは十分可能じゃないか。  私は、昭和四十一年に乱歩賞をもらって、辞める四十七年までの五、六年は二足のわらじ履いてたわけですね。市役所に勤めて、当時、月給が十二万円でやっていたわけですけれども、ちょうど辞める年に、私が市役所から帰ってから書き、土曜日、日曜日と書いたその仕事で、月収百二十万円あったんですね。一カ月、役所にいて働いて得る月給の十倍、帰ってからの仕事で稼げるわけです。というような率になっていまして、十分に二足のわらじが成り立っちゃって、あまり成り立っちゃうんで、申し訳ないと思って、当時の市長の飛鳥田さんは、「辞めなくていい」と、私に言ったんですけれども、自分の上役よりも遥かに収入があって、上の人はちょっとやりにくいだろうと、そう思いまして、自分から勇退したいと思って辞めたわけです。  別に辞めなくてもよかったんですけれども、あまりそういう生活の中でやっていると、組織というのは、自分の部下なり、使っている人のほうが収入があまり大きいと、やりにくいと思うんですよ。上の人が命令して、「お前、これやれ」「厭だ」なんて言った時に、辞めさせられること、ちっともこわくないものですから、「辞めろ」と言われたら、「はい、ちょうどよかった」と言うんで勢い込んで辞めちゃうような、そんなところがあったものですから、そういう状態に置くことは、あまり私、好きじゃないんで、バカに真面目なところがあって、上役に申し訳ないという気がしたんで、「もう、そろそろ辞めます」ということで……。  というのは、辞める間際に、ちょっと頭痛と耳鳴りがしてきたんですね。どうもおかしい、これは疲れがたまったんだろうと思って、医者へ行って診てもらったら、どこも悪くない、と言うんです。ただ耳鳴りがする。その原因はただ一つ、ストレスである。つまり、役所をうまくやろうとして、同時に、小説のほうもうまく書こうと、両方ともうまくやろうと、二兎を追ったわけですから、そのストレスで、これは治すのは何でもない。薬も何も要らない。どっちか辞めれば治っちゃう。そう言われまして、あ、それじゃ、自分の名前で世の中に立てるほうにしようと、まァ、収入はそっちのほうが大きかったものだからそう思ったのかもしれませんけれども、結局、そういうことで、昭和四十七年に辞めたわけです。  辞める時は、みんなに、「辞めたら、あとどうなるか。小説というのは、売れなきゃ、すぐ翌日から野たれ死にしなきゃいけない」とよく言われたんですけれども、まァ、どうやら野たれ死にすることもなくて、今日までやってこられたのは、本当にひとえに、お客様は神様で、皆さんに買っていただけるお陰だと、こう思っていますけれども。  わりあいに、いま世の中が、そういう推理小説のほうに向いていますから、ぜひ皆さんも遠慮なさらずに、どんどん、どんどん、職業として、これは十分に活用できる分野だと、私は思っています。  私は、推理小説は自分の天職だというような、そういう考え方は、いまになると、結局、そう思うんですけれども、大概の作家が、ある程度推理小説で名前が出てきますと、わりあいにほかの小説を書きたがるんです。たとえば時代物を書くとか、SFに行くとか、あるいは一番よく行くのは歴史物ですね。そういうところに転身したがるものなんです。  推理小説を書く人の中には、世の中に出る方便として推理小説を書く。そして世の中へ出てある程度有名になったら、今度はほかの文学に移っていくという人がいます。初めから、そういうことを狙《ねら》って出る人もいるんですね。そのせいか、私なんかも、「もう、あなたは、推理小説だいぶ書いたから、そろそろ純文学でもお書きになったら、どうですか」ってよく言われて、「今度は直木賞でもお取りになったらどうですか」と言われるんですけれども、私は、そう言うと語弊があるかもしれませんが、そういう賞がほしいとは夢にも思っていませんで、これから死ぬまで推理小説だけを書いていきたい。推理小説を徹底的に書いて、これが書けなくなったら、これで終りになる、というような気持でおります。  要するに、自分の本質というのは、推理小説的なんじゃないか。ほかの小説よりも、そっちが向いているんじゃないか、と私は思うわけです。さっきお話したような、文昌とか、文曲とか、そういった星は私にはないんで、あくまで天機、巨門という星だそうですから、その天機、巨門を生かそうと。自分の中にある星、つまり、これを言葉を替えて言いますと、自分の持っている特質ですね。  読者の皆さん、一人ひとりが、私にない、いいものをきっとお持ちだと思うんです。そういうお持ちのものを、ぴったり、ある所に当てはめる。むしろ変えていくんじゃなくて、自分の持っているものを、そのぴったりしたところに当てはめれば、自然に才能というのは開いていくわけですね。それを無理に、自分がないのに、ないところへ持っていくとか、あるいは変えていくとか、そういうのは、大変苦労が多くて、若いうちならいいですけれど、ある程度年配になったら、もうほとんど不可能に近いと思うんです。  やはり、頭の中の大脳皮質が、だんだん、だんだんとシワが少なくなってきていますから、どうしても頑固にもなりますし、うんと若い時を除いたら、自分に合っているものを捜していくほうがいいと思うんです。自分をそっちに変えていこうというのは、むしろある意味ではムダな努力みたいで。  必ずどんな人にも、その人の持っている素晴しい才能、というか、特質があるわけですから、その特質の部分を、ある職業なり、仕事にぶつければ、その時に、それがその人の天職になり、素晴しい仕事にきっとなっていくんじゃないか。そう思うんですね。それに当たらなければダメだと思うんです。  冒頭にお話したように、棟方志功が小学校の時に、「絵を描け」と言われて、「魚の絵を描いてみろ」と言われた時に、棟方志功は、大きな目玉を一つ描いて、魚の目玉だけ描いて出したんですね。先生は、「何だ、これは。ダメ」と、バッテンをもらったわけです。  普通の人だったら、魚というと、大体、尾っぽがあって、頭があってと、一匹の魚の形を考える。ところが棟方志功は目玉に着眼して、それで目玉だけを描いたというのは、素晴しい発想だと思うんです。  それが素晴しいってことに、やはり、小学校の先生は、気がつかないわけですね。気がつかないのが当たり前だと思うんです。魚を描けと言ったのに、目玉を描かれちゃ困るんですね。先生としては、その子をどういうふうに指導していいか分らなくなっちゃうわけです。これは間違ってます、こういう描き方しちゃいけません、というのが正しいんでしょう。  だけども、やはり、一つの才能は、そういうものを見つける。そして、それを細かく描いてゆく。  私は、この話は本当に、学校教育の限界ということと、それから、やはり、子供の才能とか、ある人の才能というものを考える時のいい譬《たと》え話になると思うんです。  とにかく目玉を描いたということは、やはり、いい意味と悪い意味があるんです。魚を描けと言ったんだから、「魚全体を描け」とは言わないかもしれないけれども、それは魚全体を描け、と言ったことなんで、しかし、その子の関心は目玉だけにあった。だから、目玉を描く。その子としては、それでよかった。だけど、学校教育ではよくない。そういうことなんで、そのことと才能がある、なしとは、実は関係ないことなんですね。  それを才能として伸ばせるかどうかは、その時じゃなくて、小学校を出たあとの彼の精進に一《いつ》にかかってきた、と私は思うんです。  ご承知のように、棟方志功という人は、それから、あれだけ努力して、あの素晴しい版画を完成するわけですけれども、もしその時、彼が、先生から悪い点をもらったということで、がっかりしちゃって、絵なんか自分に向いてない、と思ったら、まずダメだったろう。まして、あの人はすごいド近眼というくらい近眼で、あの人が彫刻されている様子が、NHKで放送されまして、私も見ましたけど、あれでよく見えるな、と思うんだけれども、目を、うんと近づけなきゃ見えないんですね。ほとんど目が見えないに近いんじゃないか。まァ、そういうぐらいで……。しかし、そういう人が素晴しい作品を創るわけですね。  ベートーベンも、最後は耳が聞こえなくったって、素晴しい指揮も出来たんですし、何かが足りないから、それで出来ないとか、だからダメというふうに、短絡的に考えることは、絶対いけない。  才能と努力の問題で、私なんかもいろいろな点で、よく言われるんですけれども、才能というのは誰にもあるんですよ。これは誰にもある。才能がないなんていう人はないんです。多かれ少なかれあるんですけれども、ただ、そのあり方が、ある才能と、しようとする仕事が、うまい具合に合っていない。そうすると、その才能が発揮できない、ということがあるんですね。才能というのは、発揮するかどうかなんで、あるか、ないかじゃない。  よく「私には文を書く才能がないから」という言い方がありますが、それは口実だと思うんですね。文を書く才能なんて、私もなかったし、最初から持っている人なんて誰もないんで、ただ、とにかくそれが好きで、さっきお話したような五項目、あるいは十項目の、それも全部でなくていいんです、五つか六つぐらい当てはまったら、ただガリガリとひたすら、それに向かってゆく。  そうすると、それがツボにはまった時と言いますか、うまいとこにピタッと入ってくると、それが素晴しい才能を発揮する。特にその中では、運というものを、うまい具合に引き寄せた人は、素晴しい仕事をすることが出来る。  運はある人も、ない人もあるんじゃないか、とまた言われますけれども、運というのは、その人の心がけ次第で引き寄せることが出来る。幸運を自分の身近に引き寄せることが出来る。そうすると、それが天職になってくる。  世の中で成功した人の話を聞いてみました時に、いつも感ずるのは、その人が必ずしも初めからその職業に就こうと思っていた、という人はあまりないんで、どっちかというと、本人は好きじゃなかったんだけど、友だちと一緒に試験を受けに行ったら、たまたま自分のほうが採用されちゃって、それからその世界で大成した、というようなこともよく聞きます。世の中というのは、そういうものだと思うんです。  懸賞推理小説、あるいは普通の小説でも、よく言うんですけれども、その時の当選者というのは、不思議なんですね。締切りギリギリに書いて、急いでパッと投稿したような人が大体当選するんですね。最初から余裕を持って書いて、「えー、まだ発表ないなァ」と待ってるような人は、なかなか当選しないんですねえ。間際に書いて、ギリギリで清書もろくに出来ないって、バァーンと原稿を送った人、そういう人が当選したということをよく聞きます。  これも、何も全部が全部そうじゃないんですけれども、そのくらいでして、そういう人にパッと運がついてくるということもあるわけですから、その辺の運と才能との絡みというのは、非常に微妙で、曰く言い難いところがあると思うんです。  いずれにしても作家、あるいは推理作家に自分が向いているかどうか。あるいは作家にならないまでも、小説が書けるかどうか。そういう時に一番大切なのは、自分に才能があるかないか、ということではないと思うんです。才能はある、とお考えになって皆さんいいんです。ただ、才能はあるけれども、努力、これは自分でしなければいけませんね。努力はしなければ、絶対に……、努力もしないで何とかなりませんか、というのは、これはちょっと無理ですけれども、しかし、努力は、やれば出来るんです。もし、努力というのはやらなければ、その人が努力しなかったんだから、はっきり分ります。その人は努力しなかった。やっぱり、努力しなきゃダメです。  才能はあって、努力は自分で出来るんですから、あとはもう、運だけの問題です。  運というのはどういうことかというのは、これは本当に、文字どおり運でして、こういうふうにすれば運があるようになりますよ、ということは言えません。ただ私は、そういう時、いつも皆さんに申し上げるのは、やはり、それは心がけ次第だ。心がけていれば、運というのは巡ってくるんです。これは、そういうふうに信じていいと思うんです。  どんな場合でも、それは何も職業ばかりじゃありません。結婚でもそうかもしれませんし、その他のいろいろなことでも、そうしよう、そうなろうというふうにいつも心がけていると、百パーセントとは、これも言いませんけれども、かなり高い率で、そういう時が巡ってくるんです。  人生は、必ずいいチャンスが三回はくると言いますね。本当にチャンスというのは、どんな人にも巡ってくると思うんです。ただ、巡ってきてもそのチャンスに気がつかないか、後になって気がついて掴《つか》まえようとすると、よく言う通り、チャンスの後ろ頭は禿《は》げているわけですから、いつも掴まえることは出来ないわけですね。ツルッとしちゃって、もう終り、ということになるわけですから。  どうぞ、皆さんは、何かになろうとする時、あるいは何かを得ようとする時には、そういうふうに、自分は才能は十分あるんだ、という自信をまず持っていただいて、その上で、それなりの努力をする。  勿論、努力したからって、じゃ、全部の人が成功するかということはないんです。非常に努力しなくても、トントン拍子でいく人もいます。ただ、そういうレアケースを見て、自分もそのレアケースになりたいなと、それは分ります、誰だってレアケースでもって自分だけうまくいきたいと思うけれども、なかなかそういかない。その中で、いかにして耐えていくか、ということだと思いますね。  人間はいいチャンスがあって、あるいはそのチャンスから取り残されていく。でも、その時に、いつもジイッと、もう一つ辛抱して次のチャンスを待つと、こういう気持がないと、この人生というのは生きてゆくことが出来ない。  若い子で、非常に早急な結論を出すと、とんでもないことになるんですね。こないだの 岡田有希子ですか、それは巷間言われているようなことかどうかはよく分らないけれども、やはり、何か一つ辛抱できない部分があると、ああいう結果、人生という点で、まだまだ結論もなにも出ていないうちに、自分から強引な結論を出す。こういうことになってしまうわけですね。  あれは、作家になるとかいうことじゃなくて、しかも一般世間的に言えば、わりあいに幸運な地位と、それからそういう社会的環境にありながら、そこで、いま一つ、本当の意味のチャンスを待つということが出来ないで行動に走ってしまう。そうすると、つまらない人生の結論になってしまう、ということで、出来る限りそういうことのないように、これは、若くても、あるいは齢《とし》を取っていても、意外にそういうことがあると思うんです。  例を取って悪いですけれど、せっかくノーベル文学賞をもらった 川端康成氏も、最後は自殺しましたね。あの人だって、何も自殺することはなかったんじゃないかという、つまり、ある意味では、世界最高の賞をもらったにかかわらず、その人がもらったがために、かえって死ぬことになってしまった、というふうに、私は思うんです。  その理由についても、勿論、いろいろ忖度《そんたく》するだけですけれども、そういう点では私が「人の心こそ最大の謎である」という本を書きましたが、人間の心というのは、本当に不可思議なものなんですね。  そういうふうに、人の心というのは本当に分らない。分らないものだから、また面白いんです。  自分がこういった作家に向いているのか、小説家に向いているのか、何か仕事はなんなんだろう……。未知なんですね。本当に分らないんです。分らないけれども、やがて、年齢的に言うと、たとえば四十、五十になってくると、結論として、分らないんだけど、もう結果が出ているんですね。もう分ってきているわけです。いま、そうなっている、というのが……。  たとえば 斎藤栄は、もう五十過ぎてまでも、小説家やっているんだから、大体これは小説家にちがいない、という形になりますね。これは、私が説明しなくても、大体そんなことになる。人間は四十になると、大体、その人の為《な》る道が分るというんですけれども。  そういうふうに、いろんな意味で難しい、あるいは分りにくい部分がありますけれども、とにかく人間が個人として努力して、出来る部分というのはあるわけで、つまり、一つの自信を持って努力して、そして、ひたすら自分のチャンスを待つ。そういう基本的な姿勢を捨てなければ、私は、どんな人でも推理作家に向いているし、また、どんな人も小説を書くに適している。こういうふうに思うんです。 [#改ページ]   第四章 どんなふうに発想するか   5W1H  さて、今日は、「どんなふうに発想するか」ということで、発想論について話します。  発想というのは、非常に個性の強いものでして、その人、その人によって考え方、どんなふうに考え出すかというのは違うんです。また、違っていいと思うんです。一つのものを創り出す時のアイデア、それをどんな時にどういうふうに考え出すかというのは、人によって勿論違うし、違うからこそ、違う文学が生まれるわけです。  ですから、私がこれからお話するのは、私の一応基本的に考えている考え方であって、これがすべてというわけでは勿論ありませんし、人によっては非常に偏《かたよ》った発想の仕方があると思うんです。発想の原点は、どちらかというと、その人の若い頃の体験とか、そういうことに支配されますから、人によってだいぶ違うと思うんですね。  発想論の総論みたいなことから申し上げたい。  それは二つあるのですが、そのうちの小説を考え出す時に一番問題になるのが、いわゆる5W1Hということです。What When Where Who Why の五つと How の一つ、この六つが決まれば、一つのストーリーが出来るということで、どんな小説を考える時でも、これが決まらなければならないという一つの要諦《ようたい》なので、そのことからお話致します。  まず what、何を書くのか。推理小説にあっては、一体、何を書くかという時の「何」というのは、つまり、面白味のポイントになる部分、たとえばトリックもそうかもしれませんし、あるいは人間の人情、結局、最終的には人間の心の問題を書くのか。いずれにしてもテーマの問題ですね。小説には、どんな場合でも、テーマというものがあります。テーマがない小説は、読んで全然つまらないわけですから、what というのは、この場合は、テーマと考えて、テーマを決める。何かを考える時、こういうテーマで書こうということ、これがなくちゃいけないわけです。  それがない小説は、本当に纏《まと》まりもつきませんし、相当面白いのが出来たと思って、よく考えてみると、いろんなことの寄せ集めであったりして、むしろテーマは一つに絞り込んでいくほうがいいと思うんです。いろんなものを沢山書くというよりも、これをこの小説では言おうという、言いたいことをしっかり決めて書く。そのための何、what です。この5W1Hの中では、小説を書く上に一番大切なのは、テーマを何にするかで、これが決まればいいわけです。  ただし、初心のうちに、初めからテーマ、テーマということをあまり強く考えますと、頭が空転しまして、観念的になっちゃうんですね。 「小説はディテールである」という言葉があります。つまり、小説というのは、「ここに美しい人がいる」と書いたら、美しいということが表現できるのかというと、そうじゃないわけですね。「彼女は美しい」と書いて、それで先へ進んでしまったら、読者には全然訴えてきません。美しいというのは、どういうことなのか、顔の目鼻立ちがいいのか、立居振舞がいいのか、その人の持っている全体のムードがいいのか、人によって全然違いますから、その具体的なことを何か一つ書いてやる。ディテールを与えるということによって小説の本当の意味の具体的なものが描けてくるわけですから、抽象的であってはいけない。テーマを考えるんだけど、そのテーマというものをディテールの上にのせてやるという作業をしなくちゃいけないんですね。  それが出来ないと、その小説を読者が読んだ時に、一体何を書いてあるのか、よく分らんという形になりやすいんです。  ですから、what 何を、という問題は、テーマであるけれども、非常に具体性のある、あるいは逆に、そのテーマを具体化して把握するということが大切です。そういう意味の what というのは、一番大切じゃないかと思います。  次は、when いつ、ということ。小説は絶えず時代背景ってものが描けてなければいけない。「いつ」というのは、単なる時間じゃなくて、時代背景ですね。どういう時にこの事件が発展していくのかということを、よく作者が認識しなければいけない。  テーマそのもので考えますと、人間の人情のしがらみは、時代を乗り越えて、それが江戸時代であっても、あるいは明治でも、大正でも、同じ部分がありますね。夫婦の情愛とか、親子の関係とかいうのは、まァ多少、少しずつ違っているけれども、基本的に同じような部分がある。しかし、時代背景は当然違っているから、それをしっかり、物を考える時に頭の中に入れておかないと、現代で書きながら明治のこと、あるいは明治の時代で書きながら現代的なものがつい入ってしまうということになるんですね。その辺が非常に難しい。  さらに現代であっても、安保時代よりも前なのか、後なのかとか、あるいはオリンピックが行なわれてからのことなのか、それともまさに今、われわれが息づいている今日か、という問題、その辺をよく意識しなくちゃいけないんです。  推理小説の場合は、必ずしも普通の小説のように、何月何日のいつ、何年とかいうのをあまり明らかにしないほうがいい場合もありますけれども、とにかく時代背景をまず頭に置いて、その上に「何」を詰め込んでいくという形が必要です。  三番目の where どこ、ということですね。場所。これは、単なる場所という意味じゃなくて、ミステリーの場合は、やはり、ローカルという問題があると思うんです。地方色というか、東京も東京地方という一つの地方ですから、地方色、ローカルの面白さというのがある。たとえば京都なら京都、私は、鎌倉をよく使っていまも推理小説を書いている最中ですけれども、ローカルの面白さというものも、現代の小説では大変大切なので、これが一体どこの場所で書かれているか。横浜なのか、鎌倉なのか、あるいは京都なのか、というようなこと。そのローカルの面白さ、現代では、新しい意味で、ローカルということが言われているんです。  昔は、推理小説ばかりでなく、小説というのは、方言という問題で、ローカルの問題は非常に難しかったんです。つまり、方言が使いこなせないと、ローカルの感じが出てこない。うまく描けない、という問題があったんです。  ところが最近は、ローカルが一番はっきり出るのは方言なんですけれども、方言というのは、いまあまり必要ではなくなってきているんですね。年齢が大体六十歳以上の、そういう癖が抜けない人が喋《しやべ》った時にのみローカルなので、たとえば京都の人でも、若い人は京都弁と一緒に標準語を同時に喋りますから、自分の家族の中で喋る時は京都弁で喋っても、われわれ関東人が行くと、当然のように標準語になってしまう。それがテレビなんか見てますから可能なんですね。  たとえば、私がうまく京都弁を書ければいいけれども、書こうとしても、なかなか難しい。どうしても書きたい時は、標準語で書いておいて、京都の人に京都弁に翻訳してもらうわけです。  それを一番はっきりやったのが、谷崎潤一郎の「細雪」ですけれども、谷崎潤一郎は、あれを標準語で大体書いて、あとは奥さんとその親戚の人に翻訳させたわけですね。それで出来たわけで、あの人が大阪弁をペラペラと喋れたわけでもなんでもない。  そんなふうにしてもいいわけですから、ローカルをどうしても出すんだったら、翻訳という方法もあるわけです。  いずれにしても、この when と where は一体なんですね。いつ、どこで、というのは一体です。どこのいつなのか、いつのどこなのか、ということが大切ですから、これは一体だと思うんです。同じ京都だって、現代の京都、十年前の京都、二十年前、あるいはもっと百年も前というのは全然違いますから、この「いつ」と「どこ」は一体として考えて、その小説の場面を考える時には、どうしても必要です。  これはしかし、どっちかというと、小説の中では枝葉で、一番大切なのは what ですね。  その次に大切なのは、実は、when、where の前に、who 誰、ということです。  小説は、男と女のことを中心的に書くということがあって、つまり、ヒーローとヒロインということがどうしても出てくるわけで、誰であるか、ということなんですけれども、この点で一番大切なことは、観念的に人物像を考えてはいけないということです。作者はある人物を思った時、その人物に愛着を感じなくちゃいけない、これが一番大切なことだと思うんです。その作中人物に作者が愛着を感じなくちゃいけない。  これは前に、亡くなった 佐賀潜さんなんかとよく喋ったことなんですけれども、たとえば、男なら男、一人考えた場合に、全然違う人なんだけれども、とにかく自分が心に思っている人にそっくりな人、あるいはそれに非常に近い人の具体的な自分の身近にいる人のことを考えるんですね。その人を中心にしてその人のことを、ただ描こうとするんじゃないけれども、とにかく具体的に一人考えたほうがいいというんです。男の場合は男、女の場合は女、ああいう人、というのを考えて書く。  これはわりに初歩的なことですけれども、一番やさしいし、間違いのないことだと思うんです。小説を書く時に、まず男と女を考えるんですけれども、男だったら、自分の友人の誰、女性だったら誰それ、と具体的に考えて、あれでいこう、と……。  しかし、そう思っても、その人を描こうとするのではなくて、小説の人物を生かそうとすれば、当然、その人物の性格は変質してくるわけです。変質してきて構わないわけで、ただ一応、作中人物の人と非常に似ている人のことを考えていると、だんだんストーリーにふくらみが出てくるわけで、what と who が一番大切じゃないかと、ぼくは思うんです。  つまり、小説を書くテーマと、そのテーマを実現するそこに出てくる男なり、女なりという、ヒーロー、ヒロインの人物像を明確に掴《つか》む。そうすれば、いろんなことが出てくるので……。  その次の why なぜ。というのは、推理小説の場合、動機ということになるのですけれども、殺人の動機、あるいは探偵の動機、刑事であれば、当然、職業として探偵を始めますけれども、もし探偵役が職業の警察官でなければ、なぜ、そのことを追い駆け始めたかということを決めなきゃならない。だから、動機が必ずしも殺人の動機ばかりではないのですね。探偵の動機というのもあるわけです。これを考える。  私は、間もなくもう一つ別の小説の連載が「小説WOO」で始まるんですけれども、それは「子連れ探偵事件簿」という小説です。「子連れ狼」は時代物ですけれども、これはどういうのかというと、ある男が、自分の奥さんを殺されて、子供が残される。その子供、つまり、大五郎みたいなのがいまして、その子供を連れて、奥さんの仇を討とうとして探偵を始めるということなんですが、そういうような探偵側の動機も考えなくちゃいけないわけです。殺人の動機ばかりでなく、探偵の動機は非常に大切なんです。  なぜかというと、読者は一体、誰の立場になってその小説を読んでいくかということですね。  動機には二種類ある。作中犯人が人を殺す動機、これも大切なんですね。 松本清張さんが特にその点に非常にウエイトを置いて書いた。しかし、むしろハードボイルド的なタッチの小説の場合は、探偵の動機のほうが、ずっと大切なんですね。なぜかというと、読者は、いつも探偵の気持になってページを繰っていくわけです。  一番はっきりしているのは、私小説的なタイプで書いてある、「私が目を醒《さ》ましたら、そばで女が殺されていた」なんていう出だしで始まるような、そういう小説の場合は、読者は「私」という人の気持になって読んでいく。ですから、その人が、なぜ探偵を始めるかという動機は、読者に納得できないと、全然つまらない小説になってしまう。  その意味で、why なぜという、動機の問題については二つあるということを、よく憶えておいて下さい。  そのほかに、いろんな動機が、勿論、小説の中にはありますけれども、基本になるのは、探偵の動機と作中犯人の動機というのが一番の大きなもので、その二つをどう考えるか、どう決めるかによって、その小説の面白さが倍加したり、つまらなくなったりする。探偵が刑事の場合は、非常に簡単なんで、職業的にやっている。そのかわり、そういう刑事の場合には、刑事だからやっている、というだけではちょっとつまらないので、そのためにキャラクターを刑事にいろいろ付ける。たとえば「刑事コロンボ」みたいに、普通の刑事じゃなくて、ちょっと性格の、個性味豊かな探偵役にするというようなことがあると思うんです。  それが、推理小説における5Wの持っている意味です。  最後に how ですが、これは、どんなふうにやるかということで、この点は what 何、ということに非常に関係があるわけです。何というのは、早く言えば、テーマですけれども、how は、どんなふうにやるか、ということで、what の中にトリックということがあったように、犯行のやり方、あるいは事件の展開のしかたということで、両方あると思うんですけれども、いずれにしても what の中の一部としてのトリック、どんなふうにやるかということ。犯人側がどうやるか、探偵側がどうやるかということで、これがむしろ話のストーリーを運んでいく力になるわけです。   自然な運び  発想論の総論として、私、いまお話しているわけですけれども、この5W1Hの考え方を、発想の原点としていろいろなことを、たとえば自分は政治の暗部を鋭く剔抉《てつけつ》するんだ、その時代は現代であって、場所は横浜だ、探偵はこういう人物で、犯人もこれこれと決めて、動機は、円高ドル安のために苦しくなった中小企業の何とかがトリックで嵌《は》められて、損害を受けて、それに対する復讐、というふうに決めていって、大体当てはめて、一つのストーリーが仮に出来たとしても、それで果して小説が面白く出来るかというと、これはまた問題なんですね。それだけでは面白く出来ない。  というのは、いまの5W1Hというのは、一つの話の中の点的な部分であって、大きな二番目として、小説家として、あるいは作者として物を書いていく場合、一番大切なのは、ストーリーの流れを大切にしろということです。5W1Hをよく考える、というのが一番目とすれば、大きな二番目として、ストーリーの流れを大切にしろということなんです。  これはどういうことかと言いますと、いま言ったように、登場人物を決め、事件を決め、いろいろなものを決めて話をつくっていく。メモを沢山つくる。いよいよ自分が、さて原稿用紙を前にして書き始めた、という時に、自分が決めた通りに書いていきますね。何年何月、誰それがどこかのビルで殺されていた、パトカーがやってきてどう——というような書き出しでずっと書いていった場合に、次の自分のメモに書いてあるところへきて、またそれを書いていけばいいんですけれども、事件のことを書いているうちに、そこで、きょうは天気が悪い、というふうにしようと思って、ムード的に「雨が降ってきた」としちゃったために、次に移る時にどうもうまくいかないというような場合に、前に書いた部分からくるストーリーの流れ、これを自分のメモがそうなっているからと、急遽《きゆうきよ》そこで曲げてしまうということは、それは絶対してはいけないということなんです。  ストーリーの流れを大切にして、そこでやっているA子とB夫の会話が仮にあったとして、その会話の中で、「ぼくは実はパイナップルが好きだ」と言ったというふうにムード的に書いてしまって、うまくそれが出来たなと思ったら、それをうまく利用して次に当てはめていく。それをポツッと言ったけど、あとは全然途切れてしまうということじゃなくて、その時、自分の書いているムードの中で出てきたことを大切にして、次のストーリーの中へ織り込んでいく。  つまり、ストーリーの流れを非常に大切にしていくということをすると、新しい発想が出来てくる。  ですから、発想というのは、書き出す前の発想と、書いている間の発想とがあるわけです。この二つのうち、私は、どっちかというと、後のほうの発想のほうが、いまはもう大切なんじゃないかという気がしますね。勿論原則として、さっき言ったように、誰が、どうやって、動機とか、これがなきゃしょうがないんだけれども、むしろそれでいい小説が書けるという保証はあまりなくて、ストーリーの流れの中で、その流れそのものを大切にするということ、そういうような心構えを持つほうが、ずっと面白く書けていくんじゃないか。  私も、そういうふうに言えるようになったのは、いまから十四、五年前で、二十年も前の最初の頃は、非常に沢山の細かいメモをつくりまして、その細かいメモを用意して、それで書いた。さらにもっと初心の頃、乱歩賞に応募していた二十何年前は、その作中の人物の会話までも、あらかじめ予想して書いておいたものです。こういう会話をさせよう、最後のところでは、こういう言葉を使って終りにする、それはいまでも部分的にはやりますけれども、非常に細かくつくっておいて、会話をあらかじめ書いておいて、そこへくると、それを当てはめようとしたわけですね。  そういうやり方をすると、後で読んでみると、そこのところで、|やけ《ヽヽ》に浮いているんです。気の利いたことを言っているんだけど、なにかそこへきてピョーンと出てくるという、非常におかしなことになる。そういうことが多かったんです。  おそらく皆さんも書いてみて、初めはあまり細かく決めておくと、そういう点が非常に|ぎくしゃく《ヽヽヽヽヽ》した部分が出てくるということに気づかれると思うんです。  実は、これもなかなか難しくて、最初のうちは、やはり、ある程度細かく決めておかないと、書こうと思ったことを書ききれないで先へ進んじゃうということがあって、あ、あれ書いておけばよかったなあ、と途中で思う。前へ戻って、そこへ当てはめて入れると、それはうまく入らないということがあると思うんです。その辺が難しいんですね。なめらかに入れていくということが……。  お料理なんかでも、手引書を見ながらやっているうちに、お塩を入れ忘れた、というんで後から入れたら、全然違うお料理になっちゃったりなんかして、それはお料理ばかりじゃなくて、小説も、味も変わってくるんです。初めから順にきて最後に完結するという、その時に、手順にうまく材料が入ってないといけない。  ですから、初めからキチッと決めておくということは、やはり、必要なんだけれども、だんだん慣れてくると、少しずつ、これは手抜きじゃなくて、その流れの中で自然に決まってくるんですね。  そういうふうになるには、何が大切かというと、やはり、トレーニングで、何枚も何枚も書いていると、やがてそれが自分のものになってきた時、いま言った二番目の、ストーリーの流れを大切にするということが、自然に出来てくるわけです。  私がいつもこういう時にお話することは、自然な運びが一番いいんだ、とにかく無理はいけない。どんなにいい話があっても、読んだ時に自然に感じられる、こういうものが一番いいんで、やけにそこだけ、なんか張り切った文章を入れたり、あるいは難しい言葉を使ってみたりすると、浮いちゃうんです。初めから同じトーンで貫いていくということが出来ないと、小説としては、少なくとも特にエンターテインメントというのは、読者が深刻ぶって読むんじゃなくて、電車の中で読むとか、飛行機の中で読むとかいう感じで読むわけで、読みものというのは、そういうのが本当は一番正しいんですね。そこへきてパッと何だろう、これは、分らないな、というようなことを考えさせるものは、哲学書を読むわけじゃないんですから、それでは非常にまずいわけです。通俗小説というのは、どんな場合でも、やはり、分りやすさということが第一の眼目になっていなければいけないと、私は思うんです。  分りやすさというのは、自然の流れということ、自然な運び方、文章もそうだし、言葉づかい、語彙《ごい》、そういうものも、特段に難しいものを使う必要はない。つまり、難しい言葉とやさしい言葉があったら、どっちを使うかと言ったら、出来るだけやさしい言葉のほうを採用するという心構えが大切だと、私は思うんです。それは小説ですからね。小説というのは、文字通り、小さな説と書くので、大説ではない。  ぼくは、いつも言うんです。大説を書こうとしているんじゃない。大論文を書こうとしているんじゃない。小説というのは、あくまでも、やさしい、分りやすいストーリーを書かなきゃいけない、というふうに私は思って、かつ自分もそういうふうに心がけているつもりなんです。  しかし、そのつもりも、一年二年ではなかなかなので、やはり、何年もかけて、だんだんそのつもりに自分の小説の内容を持っていく、というふうにしなくては、これもなかなか難しいということです。  そのいい証拠に、一つの例を挙げますと、現在、流行作家として、どんどん書きまくっている人、たとえば私の先輩に当たる 笹沢左保という人は、江戸川乱歩賞の次点になった出世作は、非常に難しい本格的なトリック小説だったんですけれども、書けるようになってきてからの小説は、非常に読みやすい、やさしい調子で進んでいる。どんな人でも、最初の一、二作は、自分の持っているものを全部注ぎ込もうとしますから、比較的難しいものになるもんなんですね。それがだんだんやさしくなってくる。ということで、それは悪いことではなくて、むしろそれが正しいことだと思うんです。  大衆小説にあっては、やさしさ、分りやすさを第一に押すべきだ、そのことを心がけなければいけない、と私は思います。  以上が「どんなふうに発想するか」のうちの発想の総論的な部分です。  自分が推理小説、あるいは普通の通俗小説と考えてもいいんですけれども、何か、大衆を対象にしたそういう小説を書いてみようというような時は、まず自然の流れの中で発想するということが基本にあるんですけれども、まず最初に5W1Hについてのもとをずーっと考えて、次に、それをストーリーのメモに取るような時には出来るだけ、まず発想の段階でも自然の流れの中に置き、書いている途中でも、自然の流れの中でその展開を図る。こういうふうにしていただきたいと思うんです。  私も、出来る限り、そんなふうに書くつもりで、現在もやっているわけです。  専門的に言いますと、週刊誌とか、新聞の連載と、一挙に書く書下しとは、自然に違ってくるんです。一挙に書下しの場合は、比較的ストーリーの場所とかなにかが非常に限られて、自分で決めたことを書いている。しかし、新聞などに、仮に一年とか、一年半とか連載するような時は、どうしても書いているうちに、場所が変わるということがあるんです。  ある新聞に連載している時に、もう少し九州のほうを出して下さい、と編集者に頼まれて、あ、そうか、じゃ今度行く所は九州にしよう、というのでそこへ場所を飛ばす、というようなことがあるわけで、皆さんがお書きになる時は、そんな必要はほとんどないんですけれども、新聞連載とか、週刊誌とか、そういう長期にわたって書く時は、読者の反応なんかも結構ありまして、その反応によって場所を書く。横浜の人は、もう少し横浜を出してくれとか言うので、それじゃ、ルミネあたり使おうかとか、その時に、やはりこれは客商売ですから、皆さんがそれを要求しているのなら、入れてもいいと思うんですけれども、ただ、あまりそれに迎合することはないと思うんですね。ないと思うけれども、実際に連載をしている場合には、途中からいろいろな要求が出て、それを合わせるということはあります。  これも自然の流れみたいなもので、たまたま、これが欲しい、と読者から言ってくる場合もあるし、編集者が言う場合もあるんですけれども、人に言われたら一応検討してみる。  ただ、私も、人の言いなりにはなかなかならないので、やはり、自分がいいと思うほうに書いている。それが一番いいようです。何か人に言われて、そのように変えますと、あとで後悔することのほうが多いですね。三回に一回位はいいことがあるけれども、やはり、三回に二回位は、大体、自分の当初の考えを貫いたほうがいいものだと、少なくとも私の経験はそうです。  皆さんも、何か一つのことをやる時に、自分でこうと決めたことを、誰かに言われて、「あ、そう」と変える、まァ、その素直さも大切だけれども、ちょっと頑固になってみる必要もあるんじゃないかと思うんです。そうやって貫いた場合に、失敗しても、自分の意見を貫いたのだから、ある程度|諦《あきら》められるということもあると思うんですけれども、とにかく大体、自分が当初考えたことで押す、というのが一番いいようです。  以上で、発想論の総論的なことを終りまして、それでは長さによって、その発想はかなり変えなくちゃならないだろうか。   長篇と短篇の違い  小説の長さという問題をちょっと話してみたいと思うんです。  これも、この間の「星の上の殺人」の時にお話したかもしれませんけれども、小説というのは、長さによって発想の仕方も違うし、書けるもの、書けないもの、長さによってだいぶ違います。たとえば千枚以上の小説と三十枚以下の小説、これを同じに書けと言ったって、同じに書けようもないし、同じに書くべきでもないと、私は思うわけです。  非常に分りやすく区分して言ってみますと、どんなふうに感覚的に発想したらいいのかというと、長篇にとって大切なことは、読んだ時に、その小説から受ける手応《てごた》えが感じられるもの、分りやすく言うと、一種の重量感ですね。それが長篇にはどうしても必要で、これがなくてはいけない。重量感がないと、長篇を読んで、よかったな、という感じがしない。これは基本的なことだと思います。  具体的に5W1Hに当てはめてみると、たとえばテーマ一つとっても、長篇の場合は、非常に重いテーマがあっていいし、大体そういうふうになるだろう。たとえば人の命の問題とか、愛情の問題とか、テーマとして非常に大きなもの、それを長篇に扱ったらいいし、またそれを扱うのに適しているのが長篇だということが、これは一般論としても言えると思うんです。  それに対して短篇……、短篇と長篇の境がどこか、という質問もあると思うんですけれども、普通、短篇と言って月刊誌に頼まれる場合は、大体五十枚から六十枚。月刊誌で八十枚以上というと、長篇とは言いませんが、もう長い部類です。八十枚、百枚と言いますとね。今度、月刊誌にぼくが書いた「羅生門殺人旅情」の第一回の原稿は百五十枚ですから、これは大長篇というんだろうと思います。本当は、百五十枚ではまだ中篇という段階だけれども、雑誌では、大体百枚位から十分に長篇と言えると思います。  ですから、私がここで言う短篇は、大体五、六十枚以下と考えていいんですけれども、短篇の場合、大切なのは、重量感とか、手応えでなくて、むしろ落ちの切れ味というものですね。何か事件を切り取っていくその切れ味という部分が非常に要求されるし、一番大切なわけです。短篇は、出だしの一行と一番最後の一行、これさえうまく出来れば、もう出来上がったと言えるくらいなものなんですね。いわゆる�最後の一行�、そこが命なんです。短篇の一番最後が、「きょうはいい天気だった」なんていうところで平凡に終っているようではダメなんでね。勿論、それでも、それが何か利いていればいいんですよ。そういうので、ゾッとするほど利いているのもあります。そういうような最後の一行に命を賭《か》けるというのが短篇です。  ですから、発想の時に、短篇のほうの発想は、5W1Hの中では、テーマとかなんとかいうよりも、how どんなふうに、という、そこでの行動そのもの、アクションそのもので終る。最後の告白で終ってもいいんですけれども、最後のところで、バッとひっくり返るような、意外性、盲点、ドンデン返しが求められるわけですね。短篇というのは、そういう形で発想する。だから逆に、一番最後の行から発想するということもあるわけです。  それに対して長篇は、一番最後から発想するということは、あまりなくて、やはり、全体のテーマということが大切になってくるし、また、そういう発想の仕方が普通だと思うんです。  これもまた非常に難しいんで、最近は、なかなか重量感のある長篇がなくなってきたわけです。いわゆる軽薄短小といわれている、軽いもの、薄いもの、短いもの、小さいもの、がいいんだという、軽薄短小時代になってしまいましたので、ある作家の長篇を読んでみると、重量感が全然なくて、軽くて、軽いほうがいいという感じで書いているというのがよく分るものがあって、つまり、快テンポ、非常に速いテンポのほうに、重量感が変わってきた。長い小説なんだけれども、短篇と同じように読める小説と言いますか、サァーッと、ドンドン、ドンドン読んでいって、全体の長さは長篇の長さがあるんだけれども、読んでいる感じは、短篇の連続というような感じの快テンポで読める。長篇が、かつての重量感から、そういうものに変わってきつつあるということが言えると思います。これは、いわゆる軽薄短小時代の特徴じゃないか。  それについて活字というものも非常に関係してきていて、昔は、小さいもので沢山漢字があったのを、いまは漢字を少なくして、活字を大きくして、読みやすくするということによって、読者が早く読んでいけるような小説が、最近は流行っているわけです。  流行っているから、それがいいのか、というと、これもまた一つ問題がありますけれども、いずれにしても長篇の変質ということが言えるんではないか。だんだん、だんだんと、長篇と短篇というものの持っているかつての違いが少なくなってきて、長篇の短篇化というような現象が、現在行なわれていると、私は思っています。  それが長さによる相違点ですが、次に、種類による狙《ねら》いの差、ということです。  推理小説の種類による狙いの差と言った時に、これは、さっき言った5W1Hのうちの、what に非常に関係があるんですけれども、テーマの部分、そこで何を書くかという、一つの小説を書く上の狙い、それの違いによって発想もだいぶ違うんじゃないか。  いろいろな種類が沢山ありますから、これを全部ここでお話することは非常に難しいんですけれども、ユーモアミステリーと、ハードボイルド物と、本格物と、一応、三つに分けてみます。  本格物について語るのが私の狙いなんですけれども、まずユーモア物から言いますと、ユーモアミステリーというジャンルがありまして、前にも申し上げましたが、軽い読みものというか、ミステリーの中でも軽く読めて、かついろいろな意味のおかしみというものを狙いにした小説なので、文字どおりユーモアミステリーなんです。  大体、ミステリーというのは、殺人事件を扱っているのですから、人を殺してユーモア、面白い、というのもおかしいんで、全く非倫理的なことになっちゃうんですけれども、決して殺人が面白いということではなくて、ユーモアというのは、つまり、そのムードですね。その小説から漂ってくる雰囲気が非常にユーモラスな感じである、ということなんで、おそらくやっていることはユーモアミステリーでも、大体、殺人事件が書かれていると思うんです。  ですから、ユーモア小説の時は、あくまでも登場人物の持っているキャラクターを、非常に楽しく、ちょっと|すっとぼけた《ヽヽヽヽヽヽ》感じの探偵とか、そういうのを出すことによって……、たとえば「刑事コロンボ」も、小説にすれば、「うちのかみさんが……」とかなんか言いながら、わりあいに面白い、ユーモアのある小説になるんじゃないか、というふうに思うんです。あれはテレビ化だけでいきますけど、実際はユーモアのある、というのは、つまり、ムードのある小説。だから、ユーモアミステリーの場合は、発想の中に、ムードのほうに重点を置いて考えていくということが必要だと思います。  それに対してハードボイルド、これは本当の意味の推理小説とはちょっと違った、非常に個性的な人物の活動を中心に描くものですから、ハードボイルドにあっては、あくまでも人物にポイントを置くということになってくる。つまり、5W1Hの中の who というところに特に極端に面白味を……、大体、足の長い恰好のいい、若者ばかりじゃないですね、三十代位の、ちょっとニヒルで、カネはなくてもいいんですけれども、力は必ず持っていて、なかなか強い人物で、時どき何か癖のあることを言ったり、食べ物に好みがあったりする。非常に個性的な人物にするわけですね。  だから、ハードボイルドの発想の時は、そういう人物を考え出したら、もう出来上がるわけです。  もし、皆さんがお考えになるなら、そういう恰好のいい男をまず考える。大体、その場合は、足が長いということで、なぜ足が長いかというと、ハードボイルドは、やはり、アメリカからきていますから、要するに、外人ていうのは足が長いものですから、日本人にはハードボイルドがあまり根づかないというのは、体型からきているんじゃないかと、私は思うんですけれども。  まァ、いずれにしても、そういう人物のキャラクターに特徴のあるという、そういうものを考える、それを発想することから、ハードボイルドは始まるわけですから、ハードボイルド的ストーリーであれば、何もハードボイルドでなくても、そっちから考えることだって当然あるわけです。  特に、これは探偵役が主人公になるわけで、ハードボイルドの場合は、私、|I《アイ》で始まる小説が非常に多いわけです。つまり、読者即ハードボイルドの人物みたいになるということが多いわけで、また、そのほうがカッコいいわけですから、それに魅《ひ》かれていく。ちょっと男っぽい小説になるわけです。  以上が、本格ミステリーとはちょっと違った部分での狙いの発想ですけれども、本格の場合は、何と言っても考えるのがトリック、どんなふうにやるかという how の部分、そういうところに発想の原点がきてしまうということは、これは否めない事実だと思うんです。どうしても本格は、トリックから発想するということが多いんです。  しかし、これも、さっきお話したような、長篇の短篇化ということから、最近の一部の若い作者のように、トリックは要らないんだとさえ公言するような人もいるわけで、面白ければいいという立場に立てばそうでしょうけれども、それを面白いと感ずるかどうかですね。その辺が非常に難しい。   トリックの三つの柱  トリックということになりますと、本格の場合は、三本の柱があるわけですね。第一が密室トリック、第二がアリバイトリック、第三が犯人の意外性……これはトリックではないけれども、たとえば変装とか、いろんなものも含めて、犯人の意外性ということがある。この三つの柱がトリックとしてあると思うんです。これはこれからも、もう密室は書き尽くされたとか、アリバイトリックも、もう飽きたとか、いろんなことありますけれども、この三本の柱は、本格ミステリーが書き継がれている間は、おそらくは手を変え、品を変え、変形して必ず出てくるトリックではないかと思います。  特に私は、この三つのうちで何が好きかというと、犯人の意外性というのが大変好きでして、密室、アリバイも非常に面白いトリックで、どうしても取り組んでみたいと思いますけれども、やはり、読んでみて、最後にきて犯人が、いや、この人だったのか、という驚き、その驚きに勝る驚きはないんじゃないか。アリバイが崩れて、Aという場所にいたと思ったら、Bという場所にいたというようなトリックが、たとえば飛行機を使ったとか、やれいろんなものがあって、その驚きというのは、わりあいに少ない。なるほど、と感心するというか、犯人が全然、自分の思っていた奴と違うという場合は、大変みんな感動するわけですね。しかし、同じような、あの人の小説を読むと、大概この辺でこういう人物が犯人だ、なんていうことになると、またつまらなくなる、ということで非常に難しいんです。  いつでしたか、こういったトリックのぼくらの先輩である 鮎川哲也さん——あの人は鎌倉に住んでいて近いものですから、よくお会いするんですけれども——と、犯人が誰であるかを、その小説のどの位のところで表わしたらいいか、ということを話したんですね。最後の最後まで隠しておくのがいいのか、最初から三分の一位で表わすのがいいか、三分の二位のところがいいのか。どの辺で犯人が分ったら、一番読者が感動して、しかも隠されていて面白いのか、という議論なんですね。実際に書く上でどの辺でやったらいいか。  非常に難しいんです。あまり最後まで隠すと、読者が一生懸命読んでくる、分らない、犯人は誰だろう、全然分らない。最後に、「あ、意外だ」と思ったら、もうそれで小説が終ったというのは、それは大変驚きだけれども、自分はこの作者よりも頭が悪かったんじゃないかとか、ヘンなコンプレックスを持つだけで、必ずしも読者が素直に喜んでくれるかどうか、分らないんですよ、それは。  そんなものですから、鮎川さんも言っていましたけれども、最近はわりあいに早くに、三分の一位のところで犯人を分らせちゃう。分らせた上で、この犯人について、もう一つの謎を仕掛けていくという、二段階にやる。このようなテクニックがあるということ。  そういうことは、小説を書いていると、だんだん苦労しましてね。私も、犯人を最後まで隠しておきたいほうなんだけれども、どうしても分らないというふうにすることは出来るんですが、あまりそうやっちゃうと、後で読者ががっかりするわけですよ。読者は、分らなかったことに、作者に対して肚《はら》が立ってくるわけですね。何でこんなのが分らないんだ、これは小説が悪い、という結論になってくる。  そう言わせないために、わりに早目に分って、「あ、もう分った。わたしも分った」ということを、わざと言わせる。そうしておいて、もう一回、何か罠《わな》を仕掛けてひっくり返していくというような手の込んだことを考えるよりしょうがないんじゃないか、というようなことを話したことがあるんです。  もう推理小説も沢山書かれていまして、私だけで百五十数冊書いているんですから、何千、何万とあるわけで、いろいろな手をやっても、大概、誰かがやっていますから、その中でさらに仕掛けていく。そういうつまらないというか、手の込んだことに根気よく挑戦するという気持のない人は、推理小説は書かないほうがいいわけですけれども。  とにかく本格の場合の発想は、トリック、特に、その三つの柱のどれか。勿論、そのほかに沢山のバリエーションがあるんで、たとえば暗号というのもあるわけですね。暗号が出来たら、出来上がる。 「白い魔術師の部屋」は、「万葉集」の歌がトリックになっていまして、「万葉集」の歌が残されていて、それを読むと、また謎が出てくるという形、こういう暗号。  とにかく狙いというものは、何もトリックばかりじゃなくて、暗号も、まァ、広い意味ではトリックですけれども、暗号トリックというのもある。  そんなふうにしまして、種類によっても、いろいろな考え方の違いがある。  ただ、それらを通じて言えるのは、長さの時にもお話したように、軽薄短小時代の現在では、比較的そういうものが軽く見られているということだけは事実なんです。こういうトリックについてのウエイトが、いや、いいんだ、人が書いたトリックだって、もう一回書いてもいいんだよ、小説として面白ければ、いい、という意見が、公然と日本の推理小説界の中にあるということは、最近の極めて特徴的なことで、私自身は、それがいいのかどうかは非常に難しいんですけれども、いまは、そういうふうに言われていますから、とにかく狙いは、いいトリックを考えるということもあるでしょう。私は、そっちのほうがウエイトが重いと思う半面、やはり、いまの推理小説界、あるいは読者界の大勢は滔々《とうとう》として、つまり、面白ければいいというエンターテインメント志向のほうへ動いている、ということだけは確かだろうと思うんです。  そういうふうに動いた場合、何がウエイトになってくるかというと、5W1Hの中では、たとえば「どこで」とか、「いつ」とか、つまり、京都でやった話だから面白いとか、鉄道の何とか列車の中だから面白いというような、トリックそのものではなくて、場所、あるいは特別の職業とか、乗り物とか、そういうものに面白さのポイントが移ってしまっているということに、どうもなっているという現状を、ここでは触れておきたいと思うんです。  三番目に、「フウ・ダン・イット」から、「ホワイ・ダン・イット」へ、ということで、「フウ・ダン・イット」、誰がそれをやったか、ということで、犯人の意外性ということが非常に言われるわけですけれども、松本清張さんの時代に特に言われた「ホワイ・ダン・イット」、なぜやったか、という動機の問題に移ってきた。そしてもう一つ、「ハウ・ダン・イット」、どうして行なわれたか、というのもあるんですね。  誰がやったか、なぜやったか、どうやってやったか。これは、最初の5W1Hのほうに十分関係があるんですけれども、そういうふうにいろいろと推理小説というものの考え方、発想のしかたが変わってきている。  そして、いまでは、どうやったら面白いか、という小説のストーリーづくりのほうに、だいぶウエイトがいっているように思うんです。  そしてその全体は、結局、推理小説の推理という部分よりも、小説というほうにウエイトがいってしまうと、結局は、人間中心という話をつくるようになりますから、小説として決していけないんじゃないんですけれども、推理味が薄いという形がどうしても出来てくる。  その推理味の薄さは、どういう点でカバーされるかというと、現代では、作家自身の魅力ということによってカバーされている、と私は思うんです。小説の面白さはさることながら、小説そのものはかなり書かれているから、似たり寄ったりと言えば似たり寄ったりで沢山ある。  たとえば皆さんが、これから推理小説なり、ほかの小説をお書きになろうとした時に、必ず、いまお書きになろうとする小説と、ほとんどそっくりの小説が、どこかにあると考えていいと思うんです。必ず誰かが考えていますよ。自分が書こうとしているようなことは、もう自分の何十倍、何百倍の人が、書いてないかもしれないが、書こうとはしているにちがいないんです。人間ですから、大体、考えることは同じなんですよ。  東北新幹線が出来た時、私が、「東北新幹線殺人旅行」を発表したら、すぐ 西村京太郎さんが「東北新幹線殺人事件」を書いて、ほとんど同じ月に発表されましたけど、決して両方とも打ち合わせをして書いたわけじゃ全然なくて、別の考えで書いていたんですけれども、ほとんどみんなが、あ、あれを材料にしようとか、こういうのを書こう、というのは、一人の人の心に浮かぶことは多くの人の心に浮かんでいる、と考えていいわけですから、大体、似たり寄ったりのはずなんです。  ですから、皆さんが仮に五十枚位のものを書こうと思ったら、おそらく似たものは——同じものはどうか知りませんけれども——必ずある。それがいけないと言うんじゃなくて、似たものでいいんですね。「女の一生」という題で、山本有三もあれば、モーパッサンもあるわけで、あってもいいんで、また、「女の一生」という題だったら、その題だけで沢山の小説が書けると思うんです。ほかの題なんか全然要らない。「女の一生㈵」、「女の一生㈼」……と、ずーっと書けばいいんです。あるいは「女の半生」でもいいし、何でも書けるんです。  また、書いて、似ているのもあるかもしれないけれども、全部違うということも言えるんですね。それは、皆さんの人生を考えても分るわけで、皆さんの人生は、それぞれ個性があって違うと思うんです。だけど、また、同じじゃないかという見方もあるわけですね。オギャァーと生まれてから死ぬまで、考えたり、やったりすることは、勤めが違ったり、相手が違ったり、生活が違っても、やっていることは、大体同じですね。朝起きてご飯食べて、何かやって、考えて、悩んだり、喜んだりしながら、また夜寝ていくというんで、そんなに違ったことしてないと思うんです。それを小説に書くわけですから、同じことなんです。そこに人生の切り取り方をうまくすることによって、つまり、同じことなんだけれども、鮮やかさが出てくる、というところに、小説を読んだ時の感動が生まれてくると思うんです。鮮やかだ、という部分があると思うんです。小説を読んで、ちっとも鮮やかでなければしょうがないんですけれども、似たり寄ったりのことだけれども、その中に切り取り方によって鮮明にその人の人生が浮かび上がってくる。小説というのは、土台そういうものだと思うんです。  その切り取り方に工夫をしたのが、むしろ推理小説なんで、推理小説は、本来は、普通の小説と全く同じだったのに、エドガー・アラン・ポーが、一つの切り取り方を逆にして、事件があって、それで最後に、これは何だろう、と辿《たど》っていくという逆の書き方をしたんで、これは、初めは普通の小説のつもりだったんですね。それがだんだん、だんだんと固定化して、現在の推理小説という形になっただけで、そもそも元は推理小説は、何か前から与えられている、そういう特殊な文学ではなかった、ということが言えると思うんです。   作家の個性  いずれにしても私は、これからは、いまお話したような一つの発想の中でいろんなことを考える基本的な形というのは、もう言い尽くされている部分があると思うんですけれども、書く方、つまり、作家の個性というものは、相当人によって違うし、また、強烈な個性を持てないような人は、あまり作家にならないほうがいいし、また、現実になれないと思うんですけれども、その個性を磨き上げていく中に、小説の完成度の魅力が出てくるんじゃないか。これからは、作家の個性の時代になってくる、というような気がします。  つまり、一つの理論によってそう書いて、何かが出来上がるというのは、作文的な発想ですけれども、小説は、もともと書く人の非常に強烈な個性というものがなければ出来ない。これは、ミステリーでも全く同じだと思うんです。いいトリックがあった、いい背景があった、だから書けるかというと、それだけでは書けないと思うんですね。ところが、同じことが、違う個性のある人の手にかかると、見違えたような小説になるということは、しばしば体験するわけです。小説というのはそうでなくちゃいけないと思うんですね。  ですから、皆さんが小説を書くという立場になった場合には、小説の技法——いま、お話しているのは、一種の技法なんですけれども——を磨く前に、自分自身の強烈な個性というものを培っていくということをする。  これは別に、小説家になる、ならない、あるいは小説を書く、書かないに関係なく、一番大切なことだと思うんです。  いま、沢山の人、たとえば横浜駅だって、降りてみると、前を歩いている人、後ろからくる人、みんな似たり寄ったりの人が、大ぜい、ぞろぞろ、ぞろぞろ歩いている。自分だって、その一人にちがいないんですけれども、その中で、ほんのちょっと工夫するということね。千分の一でもいいから、ほかの人と違ったようなものを何か持つということが出来れば、その部分が小説の中に表われてくる。つまり、独創という恰好が出てくるわけですから、そういう人間になるように努力されるということが、小説家ばかりじゃなく、これからの人間のあり方として大切なんじゃないか。  そうしなければ、大衆の中に自分が埋没していってしまって、たとえばそのあり方は、どんなあり方でもいいんですね。小説みたいに長いものでなくても、俳句でも、和歌でも、あるいは普通の作文でもいいし、随筆みたいなものでもいいんですけれども、何か書ける、考えられる……。あるいは個性を持つということは、小説ばかりじゃなくて、行動でもいいんです。人と違った行動を取れるという、で、そういうことについて、自分の独創的な見解を持てるというような人間になるということが、これから生きていく上に、確かに自分は生きてきたな、生きているんだ、という自覚を持つ非常に大切なことじゃないか。  これは、小説を書く態度と同時に、私は、人間として大切だと思うので、あえて、この発想のところでお話しておくわけです。  作家自身が魅力を持たなきゃならない。ということは、存在する人間というものが、自分が魅力を持った存在にならなければ、それは、つまらないことですからね。そういう意味で、どうぞ、その辺を心がけて生きて下さい。それは何も難しいことじゃないんです。私が言っていることは、非常にやさしいことなんですね。お料理をつくるのでもなんでも、そこに一つの工夫をする。人がしないようなことを、ちょっと加えてみる。というようなことで、新しい視野が開ける、ということを申し上げたいわけです。  さて、四番目にいって、エンターテインメントと、つまり、以上話してきましたように、推理小説というのは、わりあいに論理的な、わりあいに理屈っぽい部分を持った文学、構成の文学、論理の文学という顔をして、そういう議論がなされてきたわけですね。  一番最初に私がお話したと思うんですけれど、ある人がある雑誌に投書して、ある女の人が男を殺してドラム缶にコンクリート詰めにして海に捨てた、という話ですね。  そういう時に、一部の読者は、非常に論理的に考えます。こんなか弱い女性が、大の男をまずコンクリート詰めにすることが出来ない、不可能だと。一人でやったとすれば、この女は女子プロレスラーみたいな体つきをしているにちがいない。そういうことはどこにも書いてないから、これは不可能だ。大体、リヤカーなんて当時なかったんだから、あるというのもおかしい。海へコンクリート詰めを沈めても、コンクリートというのはすぐ固まらないから、そんなバカなことをする訳もない——こういうふうに押さえて、たたみかけてくるのが、いわゆる論理的な読者ということで、読者の中には、わりあいに多いんです。マニアックな読者は、まずそう言いますね。  たまたまその投書をした人は、詰め将棋のファンなんですね。皆さん、将棋をお指しになる方は少ないかもしれませんけれども、詰め将棋というのは、わりあい論理的で、王将を詰めていく時に、この手は絶対にないとか、やってはならないムダな手がなくて、論理的に詰まっていくということで、非常に難しいんです。だけど、それを詰め将棋というのは、キチッとやるんだと、だから、詰め将棋は完璧である。それに対して推理小説は、もう抜けてて、あっちこっちボロボロで、読むにたえない。そういう読むにたえない推理小説は、どうしたらいいか。これは、海の上に浮かんでいる船の上から、破いて外に捨てるのが一番よろしい、というようなことを書いてあるわけですね。  なかなか痛快な意見なんですけれども、それなら初めから読まなきゃいいんで、とにかく詰め将棋とは一緒にならないんですね。  詰め将棋というのは、本当に枝葉もなにもない。早く言えば、数字のゲームみたいなところでやっているわけですから、だから1+1は2というふうにならなかったらおかしい、というのが詰め将棋の世界。  それに対して、小説ですから、推理小説の場合、1+1は2というんじゃ、もう誰も読まないんです。ほんとにおかしなところで3になっているということを説明する。それはあまり論理的ではないんです、その意味では。実は、論理っていう顔をしているけど、論理的でないという部分がある。これが推理小説の本当の姿だと思うんです。  ところが、一部のマニアの人は、それは許せないんだと、とにかく論理的に説明しなければいけない。それじゃ、論理的に説明すれば納得するのか、とぼくらは思うんですね。  たとえばその女性は、実は女子プロレスラーなんだ、というふうに一行位、最初に書いておいて、あと誤魔化して、最後に、やはりそうだった、だから出来たんだと言って、みんなが、はァー、と感心するかというと、おそらく感心はしないんですよ。そういう説明じゃないんです。  やはり、推理小説のほうは、実は、非常に手弱女《たおやめ》で、力もなにもない優しい少女が、実は恐ろしい殺人鬼だった、というところが面白いんですからね。初めから、人を殺すのを屁《へ》とも思わないような、すごい大女が出てきてやったって、小説として読んでも面白くないし、そのほうが合理的だと思うんです。しかし、それじゃ、小説として読んでいて、あまり面白くない。  小説の中では、その女性がいかにもか弱くて、膝《ひざ》の上にコオロギが飛んできたら、キャーッと言ったというような、そういう人でなければ、ダメなんですからね。  それを、それじゃ納得できない、と言われたら、困っちゃうんですね。  勿論、これは、説明の仕方によっては、いろいろあるでしょうけど、ただ論理的に説明つけばいいってものじゃない、ということだけは確かなんです。  そこで、だんだん、だんだんと、そういう論理的な小説というものに対して、推理小説を書く側で、非常に反対というか、まァ、難しいということもあって、とにかく愉しければいいんだ、ということを言い出して、特にエンターテインメントということを推理小説のほうで言う場合は、その愉しさがあれば、トリックがうまく出来ているか、出来てないというところから見るんではなくて、小説全体の愉しさがあればいい、というふうに評価する、というふうになってきたわけです。それがエンターテインメントという言葉が、かくも流行になった源だと、私は思うんです。  それには読者が、非常に若い読者が多くなった。その若さというのは、どこまで若いかと言うと、小学生まで若返っちゃったわけですね。私の小説なんかも、小学生が読んでファンレターがくるわけです。ハートのマークなんか入った手紙が来たものですから、娘に「お友だちから手紙が来たよ」って渡したら、ぼくのところに来たんですね。奄美大島の小学校六年生の子から手紙が来たりしまして、そういう人が読むわけですから、それを考えると、あまり難しいことを書いてもダメなんです。読者層というのは、そういう人のところに広がっているわけですね。  つまり、ぼくの友人は、大体、大学教授とか、医者とか、弁護士とかなっていますから、そういう人が感動する部分と、やはり、小学校六年生ぐらいの女の子が感動する部分というのは、どうしても同じじゃないんですよ。そこまで、みんな一緒に読んでもらおうと思ったら、まず大変ですね。  そして、その医者とか、弁護士とか、大学教授が推理小説を読むというチャンスは非常に少ないんです。だから、売れ行きは、そっちのほうでは、ほとんどないんですね。やはり、小学校の生徒のほうが人数が多いわけですから、その辺が難しいんで、エンターテインメントと言う場合に、従来の推理小説の王道をキチッと守りながら、かつ読者層を広げていくにはどうしたらいいか。じゃ、どのくらいまでが、そのことが可能なのか。  小学校の女の子がキャーキャー言いながら、マンガと一緒に読めるようなミステリーほどじゃない小説を書いて、かつ広い読者、というと、どこまでなのか。何万人位いるんだろう、という問題もあるわけで、この辺が難しいところなんですね。  小説そのものによって、いろいろ変えていく。私は、出来るだけ多岐に書く。非常に難しいのも書くけど、非常にやさしいのも書く。読みやすいのも書くし、少しは難しい考えてもらうのも書く、というふうに、私は、いわゆる全方位作家になりたいと、自分で思っているんですね。いろんな方向で書ける作家。  それは非常に言葉ではやさしいんですが、なかなか難しいと思うんですけれど、私は、一つことだけでいくんじゃなくて、出来るだけ、いろんなものを書いていける作家になってみたいと思って、いままでやってきたわけですけれども、それは、なかなか難しいことだと思っています。   総合ミステリーへの道  エンターテインメントというものを志向する以上は、そういう面で細かく気配りをしないと、沢山の小説を書いていくということは難しいだろう。こういうふうに思うわけです。  そこで、私が考えるのは、総合ミステリーへの道、というのを一番最後に言いたいのですけれども、これはどういうことか。分りやすく言いますと、つまり、いままでのものは、推理小説というのは、本格が勿論中心なので、本格物できたわけですけれども、それに、松本清張さんの社会派というものがきた。本格プラス社会派というものが、一種の総合ミステリーへの道だったわけですけれども、単にそれだけでは、やはり、ダメなんで、最近はだから、本格プラス社会派プラス、エンターテインメント、この三つの要素ですね、本格志向の内容に、社会派的なムードがあって、そしてエンターテインメントというものになり得ているようなもの。それが、私がここで一言で言う——まァ、これは本当に分りやすく言っちゃっているんですけれども——総合ミステリーということになるんじゃないか。そういうものが書ければいいな、ということなんです。  その一つとして、私が試みたものが、大部なものですけれども、魔法陣シリーズというもので、本格的に、本格プラス社会派プラス、エンターテインメントというものは、自分の「水の魔法陣」で初めて、書いてみようと思って書いた。そして次に「火の魔法陣」を書き、そして「空の魔法陣」、そのあとの「風の魔法陣」という、魔法陣シリーズに書いてみたわけですね。  たとえば「水の魔法陣」で言えば、誘拐トリックというものと犯人の意外性というのが本格的な要素として入っている。社会派としては、水公害というものに対する批判、日本のビルの中の水は、皆さんが信じている以上に非常に汚染されている。そういうものを社会的に告発してみたいということで、そういう問題を書いて、出だしが——前にもお話したかもしれませんけれども——、水道の蛇口をひねると、女の人の髪の毛が蛇口から流れ出してくるという出だしですね。それは、社会派的なものを狙ったので、女の人の死骸が受水槽の中にあった、というところで、そういうことがあっても、つまり、皆さんが気がつかない。  大体、ビルの水は、水道の蛇口がどこに繋《つな》がっているか。ビルの屋上にある、どっちかというと、そこにスズメやネズミの死骸が入っていても分らないような、そういうところから来ているんだという、そういうことをあの小説が発表された時に初めて知った、という人もいるくらいで、そういう意味では、社会派的なものが入っている。  それからエンターテインメントとしては、誘拐の絡みで、場所を転々と動かして、江ノ島とか、鎌倉を出して、話として読みやすくつくるというのを心がけて、初めて「水の魔法陣」で、自分としては、そういう総合ミステリーなんだ、というつもりで書いたわけですね。  勿論、それが成功しているか、失敗作だったかは別としまして、とにかく自分としては精いっぱいあれをやり、「火の魔法陣」では、都市における火の問題、都市ガス、プロパンガスの危険性の問題、「空の魔法陣」では、命の問題、病院の問題、それを書いたわけです。  暗号については、後でお話したいし、許せば、暗号のつくり方などについても、皆さんといろいろとお話してみたいのもあるんです。私も、日本暗号協会の名誉会員だそうですから。  暗号というのは、大変面白いことなんで、言葉は、本来的に暗号だ、というくらい言われているわけですから、私にとっては小説それ自体が一つの暗号で、その中に、人間の心が書き込まれているという意味では、大変な暗号だと思うんですね。  では、この暗号というのは何かというと、いま言った本格的な味付けですね。本格の部分、それから社会的な現象に対する批判というようなものも入れて、そしてエンターテインメントに仕上げていく、という形で、私なりの総合ミステリーの道を辿《たど》って、いままできたわけです。  ちょうど総合ミステリーの道ということをお話したので、これから私はどういう小説を書こうとしているのかということを、若干お話しますと、これは私の個人的な話ですから、全体の日本の推理小説界がどういうふうに動いていくかは分りません。私どもが書いていくものが、日本の推理小説界の動きになるわけですけれども、私としては、まず、「小説ノン」に発表する「羅生門殺人旅情」ですね、これは、芥川龍之介の「羅生門」の文章そのものも使いながら、それと京都での事件、場所的にも、それから暗号的な面も、いろいろなものを入れて、愉しめるミステリーにしたい、というものと、それから私のテーマは、江戸川乱歩賞をもらった「殺人の棋譜」を書いた時から言えることですが、どうしても書くたびにそこへ立ち戻っていくという、人間の人情的な部分であるんですけれども、それは、やはり、父と子の問題ですね。父親が子供に対してどういう感情を持っているか。「殺人の棋譜」も、そういう父と子供の問題が小説の大きなテーマとしてあったんですけれども、そういうことの一つの変型として、さっきお話したような、「子連れ探偵事件簿」というのを、いま考えているわけです。  父親が、子供に対する愛情と事件のしがらみの中で苦悩しながら探偵していく。つまり、探偵側の、ある意味では、私のハードボイルド的なもの、というのも一つ書いてみたい。それが一つの考え方です。  それからあとは、いろいろまたあるんですけれども、この間、発表した「鎌倉静舞殺人事件」に対して、「鎌倉流鏑馬殺人事件」を今秋、発表しました。鎌倉では、流鏑馬《やぶさめ》は春と秋に行なわれて、全然、流派が違うんですが、そういうさっきお話したようなローカル、つまり、鎌倉を舞台にした小説を、もう少し進めてみたい、そういうふうに一つ考えているわけです。  それには、鎌倉を舞台に対した探偵、私のいま扱っている二階堂日美子という、タロット占師の出てくるもの。なぜ、占いを使っているかというと、最近の女性はみんな占いが好きなんですね。特に若い娘《こ》は大変好きで、幾ら自分の運命を占ったところで、よくなるわけでもないし、何でもないんだけれども、どういう訳か、やたらに占いたがるんですね。どういうことなのかというと、何か分らないものを自分で知りたい……、あまり論理的でないからいいのかなあ、そういう点があるようですね。  そこで、私は、探偵役として、日美子探偵のものを、もう少し書いてみたい。そんな気持を持っているわけです。  作家というのは不思議なものでして、ある程度、何か書いてそれが売れますと、その売れたものを書こうとします。  これは何と言っても、いままでの流れが、エンターテインメントというものにウエイトを置くようになってしまったからだろうと思うんです。 江戸川乱歩が「トリック分類表」を発表した頃は、人の使ったトリックは絶対に使わない。それが推理作家のプライドだったんですね。しかし、いまはもうプライドがないんですね。プライドを捨てて、とにかく人が使ったトリックでもいいから使っちゃえ、というようなもので書いているという傾向が、どうもあるようなんですね。  それに対して、あまり反省がないんで、むしろ面白ければいいんだ、面白ければいいんだ、という形のお題目の中に時代が推移しているということなんで、これは非常に難しいことなんですけれども、他のいろんな商品でも、一つの商品が発表されていいということになると、各社で同じようなものを発表する、あれと同じことなんですね。それを一概に、この世界だけを非難できないと思いますけれども、やはり、ある程度までくると、もうそこで停滞が起きてしまうということがあると思うんです。  そこで、じゃあ、どうしたらその停滞を打ち破ることが出来るかというと、さっきお話した作家の個性ですね。作家の個性というものを手がかりにして現状を打開していくよりしょうがないと、私は思います。  だから、私は、私なりの個性をどういうふうに発揮するか。これは、こういうふうに発揮しよう、というふうに決めるんじゃなくて、自然に発揮されることなんで、そういう道を今後も続けていきたい。それが結局は、総合ミステリーへの道なんじゃないかと、こういうふうに考えています。  発想論というのは、前回もそうだったんですけれども、この部分までで推理小説の理論的な部分と言いますか、考え方については、大かたお話したというふうに考えています。 [#改ページ]   第五章 取材法   法律と医学に関する知識  ここでは、取材法と言いますか、小説を書く時に、どんなふうに取材すればいいのかということを、私の経験に基づいてお話してみたいと思います。  小説を書く時にどのようにして取材をしたらいいか、ということですけれども、これは勿論、小説のジャンルによって取材の仕方は違うんです。  一番はっきりしているのは、時代物の小説で、時代物を書く時は、当然古い、いろいろな文献を調べるということが大変必要になってきます。ですから、時代物の非常に有名な作家は、大金を出してあらゆる古文書を買い集めちゃって、ほかの人に渡さないようにして、自分がそのネタを元にして書くというような考え方をする人もいるし、またそういうような取材の仕方をする人もいるわけです。時代物でしたら、そういう古い材料を買い取ってしまうということも一つの方法で、また実際に古本屋とか、古い物を扱っている人がいまして、専門家が売りつけにくるということもあります。  私はミステリーのほかに将棋の小説を書いておりますけれども、そうすると、古本屋が、面白い将棋の文献があるから、たとえば江戸時代のこういうものがあるから買いませんか、というようなことをよく言ってきます。そんなふうに資料を買うということも当然出てくるわけです。  しかし、推理小説を書く場合には、一つの大きな基本原則があるんですね。それは、法律学というか、法律に関する常識と、医学に対する知識、この二つだけはどうしても欠かすことが出来ないんです。これは推理小説の程度によりまして、いままでお話したように、いろんなジャンルがありますから、その程度、程度によって違うんですけれども、まず法律に関する知識が基本的にないとダメです。それから医学に関する知識、これも必要です。ただ、それは程度問題で、非常に細かく知らなきゃならない場合もあるし、そうでなくても書ける。例のユーモアミステリーのような人は、こういう知識はほとんどなくても書けるんだ、と豪語する人もいますけれども、私は、少なくとも必要最低限のそういう知識を持たなければいけないんじゃないか。  では、私はどういうふうにしているかと言いますと、法律につきましては——これはプロとしての心得ですから、皆さんが実際書くとしても、こんなもの必要ないと思いますけれども——、第一法規という出版社から出ています「現行法規総覧」を揃《そろ》えています。これは実は大変な本でして、官庁とか、図書館に行くとありますが、百冊位ありまして加除式になっていて、法律が改正するたびに加除されるので、日本における法律に関するものでは一番詳しいもので、私は昔からこれを愛用していまして、三十年位前から家に備え付けて加除してもらっては使っています。壁一つ埋めるくらいの大変なものです。  これは、法律を基本的に勉強してない人には、なかなか使いこなせないと思いますので、もしここで普通に最近のミステリーをお書きになりたいという人の法律の参考書としては、せいぜい刑法と民法の本と、それから刑事訴訟法の本、この三つの簡単な案内書みたいなもの、あるいは解説書みたいなもの、それだけで大体いいんじゃないか。刑法ばかりではダメなんですね。刑法は、裁判所で裁く元ですから、民法というのが非常に大切なんです。いろいろな権利関係が出ていて、面白いタネが法律の中に入ってますから、刑法と民法、それから刑事訴訟法の三冊位は、ざっと簡単な解説書をご用意になると、推理小説を書くのに、ちょっと参考になると思うんです。  医学関係は、いろいろあるんですが、実は私が主に中心的に使っているのは、「現代内科大系」というのを用意しています。中山書店から出ている全部で五十冊位ある本ですが、非常に詳しく書いてあります。  皆さんは、もし書くとしても、この本はほとんど必要ないと思います。最初、何か書くのであれば、医学の本は、自分がいま書こうとしている小説に関する参考書をちょっと読めば、大体いいので、これを用意する必要はありません。これは、私のファンのお医者さんが、ぜひこれを用意しておいたほうがいいんじゃないか、と下さったものでして、私も買ったんじゃないんです。しかし、これは大変詳しい本で、お医者さんが参考にしている本です。  ですから、法律と医学の本、それからもう一つ、したがって、どうしても必要な本が、法医学の本。これは両方を合併したような意味合いがあるんですけれども、法医学の本は、簡単な本でいいですから、用意しないと、推理小説は書けない。  その法医学の中でも、もっとも大切なのは解剖ということです。解剖について詳しいことが書いてある本は、どうしても一冊持っていないと、本格的な推理小説は書けないと思います。私は、解剖に関するいろいろな本を沢山集めていまして、実際に、まるで自分が解剖を出来るんじゃないかと思われるくらい詳しく書けるように用意してありまして、そういうシーンを書いたことがあります。  推理小説ですと、人が殺される。人が殺されると、まず医者が来て検死をするんですね。そういうシーンをどうしても書かなければならない。続いて、怪しいと思われれば司法解剖ないしは行政解剖、主に刑事事件の時は司法解剖ですけど、司法解剖するというシーンを書くことがある。実際に体にメスを入れて、だんだんと開いていって、こういうところを出すというような、解剖シーンをよく書くことがあります。  私は、かなり細かく解剖シーンを書くことが出来る自信がありますけれども、それはやはり、こういう参考書を用意しておきましてやらなければならない。推理小説を書く場合には、一つの参考書として、どうしても必要なものがこれじゃないか。  まず法律に関する知識と医学に関する知識が必要です。  そのほかに、さらに必要があれば、これらに関する専門書が必要な場合があります。私は、「産婦人科医の密室」とか、冒険とか、産婦人科のお医者さんが探偵役をした小説を書いたことがあります。これを書くには、産婦人科のお医者さんが読む本、看護婦さんが読む本を全部用意して、詳しく読みました。自分が子供を取り上げられるくらい頭の中に叩き込みまして、そういう点ではよく産婦人科医のものを書いています。そうしましたら、産婦人科のお医者さんから手紙をもらったんですね。この小説の中に出てくる病院はベッド幾つで、どういうふうにローテイションがあって、経営はうまくゆくのか、なんていう質問がありましたけれども。そんなことが医者から質問されるくらいに、専門的なことは調べておく、あるいは頭に入れておくことがある程度必要じゃないか、ということが言えると思います。  そういうことをお書きにならなければ、別に何もそんな本を用意することはないんですが、いずれにしましても、推理小説を書くための準備としまして、取材法に入る前に、基本的にまず法律に関する基礎知識と医学に関する基礎知識、この二つは、どうしても必要だと思います。  とにかく特に本格的推理小説を書いて、いつも考えることは、まず人が殺される、救急車がくる、つまり、医者がくる。その次には、それを検死する、解剖する。死ぬとお葬式をする、お坊さんがくるというので、お坊さんのこと、お寺のことなどもよく知っているほうが書きやすいということがありまして、自然にお坊さんの友だちが出来てしまったり、お医者さんの友だちが出来たりする。そういう形が非常に多いんです。あとは、弁護士ですね。弁護士の人と友人になっておくと、大変便利なことが多いです。  いま私が申し上げているのは、推理小説の中でも、主に本格ミステリーと言われているジャンルの人には、どうしても必要だと思うことなんですね。そういうのは、あまりどうも得意でない、多少でもそういうのから逃れたい、楽をしたいということであれば、そういうジャンルでないものをお書きになれば、そんなに詳しい知識を要求されない。そういうほうから多少逃れる書き方もあるわけです。  しかし、私は、まず基本的な法律的常識を知らなければ、人がいやしくも殺されたというシーンを書く時に、どういうふうになるんだろう。一体、まず誰が来て、どうなるんだ、ということを知らなきゃいけません。  私は、いま、横浜の洋光台に住んでいるんですけれども、だいぶ前に女子高校生がビルの上から投身自殺をしたことがありまして、落ちたばかりのところへ、私はすぐ駆けつけて、ずーっとそこに立って、警察が来てどういう処置をするのか、その時にその死体をどうするのか、よく見ていました。あまり熱心に、飽きもせずに見ていたら、刑事が寄ってきまして、「あなたは、どういう関係の人ですか」と質問を受けてしまって、「いや、ものを書いている人間だ」と説明したら分りましたけれども、あまり熱心にやりますと、犯人かなんかじゃないかと、怪しまれるんですね。  要するに、何かあったら……、たとえば列車に飛び込みなどあった時には、時間を惜しまずそこに立って見ていて、どういうことになるのか見ておくという心構えも非常に大切で、何かありましたら、そのチャンスを逃さないということが大切なんで、そういう意味で、そういう心構えはどうしても必要なんじゃないかという気がするんです。これも、基本原則のうちかもしれません。  さてそこで、皆さんが一応、法律、特に民法、刑法、刑事訴訟法などの概略の知識はある、日本における探偵というようなことも大体頭に入った、医学的な知識も多少、書こうとすれば書ける、という状態になって、いざ何か取材するという時に、実際に小説のストーリーを考えていく時に、いろいろな知識のもとになるものがあります。   百科事典と新聞の読み方  いまこれからお話することは、小説がこうと決まれば、その小説プロパーの、その小説だけに必要な取材があるわけですけれども、一般的な取材として、どうしても取材に利用するものとして、まず第一に皆さんにお勧めしたいのは、百科事典を利用したらよろしいということなんです。  勿論、大衆小説を書くような人は、百科事典をお持ちになってない、という方はほとんどないでしょう。私は、平凡社その他、百科事典的なものを三種類用意してあります。いろいろなことが、それでまず基本的に引けるというようなことが、どうしても必要なものですから、これは推理小説ばかりではありません、特に大衆小説の場合は、百科事典を必ず買い求めておくということが必要じゃないか。  この講義が始まる最初の時にお話したかもしれませんけれども、私が高校一年生の時に書きました「輝紫蛇邸殺人事件」の元になったのは、小学校六年生の時に私の愛読書であった平凡社の百科事典だったんですけれども、とにかく百科事典は雑学の巣みたいなもので、どこのページを読んでも面白い、と感ずる人でないと、大衆小説なんかには、とても向かないんじゃないかと思います。いろんなことが羅列されていて、しかも脈絡なく載っている、あれが何とも言えない面白いところなんでして、百科事典のあるページを読む、そうしたら、ある事が書いてあった。次に何々の項を見よ、とあったら、またその項を開けてみるくらいの気持で、次々と自分の知識を、脈絡を持った、関連づけた知識として自分の中に入れておくことが必要なんですね。  よく取材法というと、すぐに、どこかへ旅行して取材をするというふうに思いますが、まず、自分の身近に百科事典のような基本的な資料を用意しておくことが必要だと思います。  だから、私が申し上げているのは、何か百科を調べられるような事典というふうに取ってもいいんです。何かそれが一つなきゃいけないだろう。そしてそれを日頃、身近に置いて、小まめに時どき読むくらいの気持になっている。  そうしますと、小説というものを書く時は、自分が書こうと思っていることもあるけれども、そのことから関連して、派生して出てくるもの、そういう知識とか、興味とかいうものが、また、そういう事典を読むことによって広がってくる。その部分を非常に大切にしなければいけない。  そういう意味で、私は、百科事典を置くということが、第一にまず小説家の必要な仕事ではないか、と思うわけです。  二番目としまして、「新聞を読め」ということがあります。とにかく身近にある一番現在の社会を反映するデータは、テレビがまず第一にあるわけですけれども、テレビは資料的に取っておけない。現在、ビデオがありますが、ニュースをビデオで録《と》っておく人はほとんどないと思うんです。たとえばソビエトで原子炉が爆発して、放射能が漏れたというニュースをテレビで見ると、非常に生々しいわけですけれども、同時に、それを記録しておくという点では、やはり、新聞が一番いいと思うんです。  ですから、小説を書こうというような人は、少なくとも最低、新聞としては二種類以上はお取りになることが大切だと思うんです。私は、少ない時でも、朝日新聞、読売新聞、神奈川新聞、その他の新聞ということで、一番多い時は、八種類位取っていました。現在は五種類位ですけれども、少なくとも二紙は必要だと思うんです。  なぜ、新聞が二紙必要かと言いますと、ニュースというのは、普通、同じように思うんですけれども、たとえばこれは、自分のことが新聞に載った人はすぐ分るんですが、各紙を比べてみますと、書いてあることが違うんですね。自分のことに関してだから、すぐ分るんです。年齢が違っていることもあります。言っていることに及んでは、全く違うような、時には正反対の印象を受けるような記事になっていることもある。客観的な数字である年齢すら違っていることがある。  新聞は、どなたでも手に入れることが出来るわけですから、一番身近に取り得るデータとしては、一番いいと思うんだけれども、一紙だけを参考にしてデータとすることは、失敗することが多いと思います。少なくとも小説家になろうという人だったら、二つ以上、複数の新聞を、まずお読みにならなきゃならない。小説家にならなくても、何か事件があった時は、読み比べるという位の気持でないと、真相というのは、案外|掴《つか》めないと思うんです。  新聞を読むことを、私は、大変お勧めするんですけれども、ただ、新聞を取っておいて、それを読んで終り、というんではダメだと思うんです。私は、新聞分類棚をつくってまして、そこへ分類しておくんですけれども、物によってはその新聞そっくり取っておくほうがいいんですが、それ以外は、たとえばソビエトの原発爆発について取っておくのであれば、切り抜きをつくって、それを事項別に分類して袋に入れておく。袋の上に、「原発事故」と書いておく、というような、いわゆる分類袋詰めということをお勧めします。  こういうことをするのも、面倒臭いと言われたら、それっきりですけれども、やはり、そういうことをする位でないと、いろんな新しい記事をキャッチ出来ない。  ぼくらの体験ですと、大概、あ、記事があるな、と思って見て、そのまま読み捨てちゃう。そうすると、十日とか、十五日、ひどい時には何カ月も経ってから、あ、ああいう記事があったけど、あれ、どこかなあ、と思って分らなくなっちゃうということがよくあります。  ぼくらは、現在、新聞社なんかにいろいろ知っている人がいますから、問い合わせると調べてくれるからいいんですけれども、一般の人は、なかなかそういうことが出来ないだろうと思うんです。新聞社に行きますと、皆さんご存じのように、ある程度経つと、各新聞が縮刷版になって一冊にまとめられて、目録とか、索引が出来るから、そういうのをお買いになればいいんですけれど、ごく新しいものでは、それがありません。  ですから、取っている新聞を切り抜いて袋に詰める。そういうことを、まず身近で出来る取材源として、百科事典の次は、新聞ということを、私は、皆さんにお勧めするわけです。  とにかく新聞を利用するということは、安くて、かつ非常に有益だと、私、思います。まず安いということは大切なんで、取材にカネをかけてそれを用意することはないんで、出来る限り新聞を利用する。  週刊誌というのがあるんですけれども、それが、その次に出てきます。まァ、利用するのは、新聞のほかに、本とか、週刊誌、その他があるんです。しかし、週刊誌の場合は、新聞と違いまして、かなりライターの主観が入っています。週刊誌を売らんかなのために纏《まと》めてあるかわりに、かなり色がついている。要するに色がついている記事が多い。  たとえば 岡田有希子が自殺する。その記事があると、どういうことになって彼女は自殺したかというと、妊娠何カ月だったとか、それが事実でなくても、そういうような方向に誘導するような、面白いような、つまり、フォーカス的な、あるいはフライデー的な、いわゆるF・F的な感じの、そういう記事になってしまっていることが多いんです。  ですから、週刊誌の記事は、参考にはなるかもしれないけれども、新聞ほど正確じゃないことも多いんで、それから記事そのものもかなり主観的で、かつ営業的になっているということを頭において利用しないといけません。えてして、そこに書いてあるのが面白いなあというので、それをそっくりそのまま引用したり、その他、記事を使ったりしますと、大失敗することがあります。週刊誌は、新聞より、もっと気をつけて扱わないといけないと思います。  それから本、つまり、いろんな関係の参考書ですね。参考書を利用して、そこから取材するという場合もあるんです。しかし、本というのは、ご承知のように、著作権がありまして、書いた人が非常に苦労して纏めたものですね。ですから、オリジナルなものがほとんどだと思います。それだけに本を参考書として、それを使うという時、それから取材するというのは、非常に気をつけませんと、それもひどい失敗をする。場合によれば、盗作とまで言われなければならないおそれがあります。  ですから、特に完成した本を使う時は、これはいいな、と思ってやるんではなくて、むしろ出来るだけ使わないというぐらいの気持で、人の完成した本は、本当の参考にして読むぐらいにして、それをあまり頼ったりなんかするということは、よくありません。いわゆる孫引きみたいなことをやってしまう、ということも多いと思います。  しかし、われわれの仲間の中には、こういう週刊誌、あるいは本というものを使う時に、それも参考にして、たとえば同じ本を二冊買ってくる。そして一冊は本として取っておいて、一冊は各ページでばらして、さっきの新聞と同じように、袋詰めに分類しておいて、それを利用する、というようなことをしている人もいます。  つまり、本というものは、やはり、何と言っても、わずか五百円か、千円位で、かなりな情報量が入っていますから、本は取材の対象として非常にいいもので、本から何か得るということは、大変便利なことですね。  本とか、週刊誌も、新聞、あるいは事典と同じように使います。ただ、私が、特に本と週刊誌についてここに挙げておいたのは、これには著作権みたいなものがあることが非常に多いんです。そのために、これを利用するという時は、非常に慎重にしないと、たとえば私なんかも、かなり大幅に引用した、あるいはそれを使ったという時は、本の末尾に、その出典を明らかにするというのを必ずしておきます。そうしませんと、かえってその作品が、人から軽んじられることもあるし、誤解を得る。初めから書いておけば、ああ、ああいう本を参考にしたんだ、ということで済みます。物を書く人間は、その位の気配りをしませんと、現代はあまりにも本が沢山出ていますから、ミスをするということが多いと思います。   メモの取り方  それでいよいよ、自分の手元で手に入る身近なもの、そういうものはすっかり用意して、それも準備された、となると、取材に出かけるという、今度は外側に向かって出発するということがあると思うんです。その時に、これは当然ですけれども、取材用のメモを取るということが基本的にまず大切になってくると思うんですね。取材メモを持っていくというのは、どうしても欠かせないと思います。  私は、いまから二十年位前は、大変細かくそういう取材メモ帳を持って動いたものですけれども、最近はほとんど持っていきません。だから、これも慣れでして、あったほうがいいという場合もあるし、現在は、カメラマンとか、編集者と一緒に旅行して、そういう人たちに写真を撮っておいてもらったりして、ほとんど自分が手でメモを取るということをしません。しませんけれども、やはり、実際に推理小説、あるいは普通の小説を書く場合でも、何かメモを取るということは大切だと思います。  田山花袋なんかも、自然主義作家は、沢山メモを取ることを勧めていますね。そういうことを花袋が書いているのを読んだことがありますけれども、そんなふうに取材のメモを準備して、それに、自分が取材したことをキチッと書いておく。  このメモ帳での一番大切なことは、記録をしっかり付けておく。場所と時間、何月何日、何時、どこで誰それに会ったということはキチッと書いておきませんと、同じ取材であっても、これはあの事件が起きる前だったか、後だったかということが分らないと、書いてあることで誤解、あるいは錯覚するということがあります。ですから、ぜひそこでは記録をしっかり付けておいて下さい。  そういうメモ帳を用意するということが大切だと思うんです。特に、自分がいつ、どこへ行ったかというようなことは、キチッと書いておきませんと、とんでもないことが起きることがあります。  ここでちょっとお話しておきますけれど、私に、いつでしたか、だいぶ前でしたが、突然ある女性から手紙がきまして、いつぞやは九州福岡に行く飛行機の中では、だいぶお世話になりました、という礼状が届いたんです。自分の記録を見ますと、私はその時に北海道へ旅行していたんですね。北海道へ旅行していたのに、九州へ行く飛行機の中で女性に会うことはあり得ないので、これは大変おかしいと思いましたね。たまたま北海道へ行っていましたから、私には、はっきりしたアリバイがあるわけで、ちょっとおかしいと思ったので、住所が書いてあったので、調べて電話をかけて訊いてみましたら、飛行機の中で 斎藤栄さんにお会いしたという話なんですね。私のサインをあげようとか、文庫本で見る顔もよく似てて、なかなかいい男だった、と言うから、それならよかったと思ったけれども、やはり、よく訊いてみるとニセモノなんですね。ニセモノが現われまして福岡まで一緒に行って、まァ、お茶をご馳走《ちそう》しただけだという話なんで、ホッとしたんですけれども。  そんなこともありまして、しっかりメモを取っておきませんと……、まァ、皆さんすぐにそういうふうになるということはないですけれど、つまり、ニセモノが現われるようになると、やっと一人前という言葉もありますから、これは一つの例ですが、とにかく取材したり、自分が行動して、人に会ったりして、お礼をあとでしなきゃならんとか、いろいろなことがありますから、記録はしっかり取っておかなくてはいけません。  そのほかにも失敗談とか、珍談とか、いろいろありますけれども、いずれにしてもそれらすべてを忘れないためには、ちゃんとキチッとした記録を残さなければいけない。そのために取材メモ帳というものを生かして使っていかないといけない。単に人に会って話を聞いて書いただけではダメということを、私は、ここで特に申し上げておきたいと思います。   取材旅行のすすめ  五番目に、取材旅行のすすめ、というのがあります。当然、取材メモ帳を持って出かけるのが、取材旅行です。取材と言いますと、普通、旅行に出かけるということが大体中心だと思います。皆さん、これから何か小説を書こうとしても、大体、土地カンがないと書けないということが多いと思うんです。推理小説は、現在、非常に鉄道物みたいなものも流行《はや》ってますし、実際に 松本清張さんのアリバイ崩しの作品が沢山発表されてからは、旅行するということが、推理小説の主なストーリーの一本の柱みたいになってきてますので、どうしても場所が転々とするということがあります。  それで当然、取材旅行に行かなきゃならないということになってくるんで、皆さんが仮に、いま、長篇推理小説をお書きになろうとすれば、少なくとも一カ所だけ、たとえば横浜なら横浜の中で事件が起きて、そこで解決するという話だけを書いても、おそらくそれは面白くないだろう。読者を引きずっていくことは、まず、ちょっと難しいと思います。だから、横浜という話を書いたら、その中に横浜じゃない、自分が実際行ってない場合でも、自分の出身地、たとえば岩手とか、九州の人であれば、そういう自分の過去の知識でも書けないことはないんです。  いずれにしても、横浜だけというと、広がりがまずありませんから、横浜を描くためにも、ほかの場所を出すということは、むしろ小説技法の上で大切なことだと思うんです。そのためにも、取材旅行はぜひ行かれるといい。物を書くということの一つの特権は、旅をしていろいろ書くことにあります。  日本でも、大体、文学者の一つのパターンとして漂泊の詩人というパターンがあるわけですね。たとえば 西行とか、兼好法師とか、芭蕉とか、みんなあちこちへ旅して、何かをその中から掴《つか》んできている人、そういうのが多いし、これは小説家の一つの形だと思うんです。  ですから、それが作品として表われるかどうかは別としても、とにかく取材旅行に行かれるということが、人間も大きくなるわけだし、一つの小説を書くためには、そのために使う、使わないは別として、どこかへ旅行してみるということがいいんではないかと、私は思うんです。  取材というのは旅行ばかりではないんですけれども、誰それに会うということも大切ですが、会うために行くばかりじゃなくて、その土地に会うというために、どこかに旅行する。その土地に会うという、そういうことが小説家を大きくするために必要な行為だと思うので、ぜひ旅行してみるといいのです。  逆に言うと、小説を書くことを決める前に旅行して、その中から小説の筋が出てくるということもあるんじゃないかと思うんです。  取材旅行の方法には、二つあるわけですね。つまり、小説を書く事前に旅行する、もう一つは事後旅行と言いますか、書いちゃってから、旅行したってしょうがないじゃないかというお考えの方もあるかもしれません。しかし、私は、これを事前、事後に分けるという一つの理由があるんです。  私の経験ですと、書下しで一つの小説を書いてみたいという時に、たとえば京都を書いてみようという時に、京都へ行ってみるというのは当たり前のことですけれども、自分が書こうとするところ、たとえば金閣寺を書こうと思えば、金閣寺を見に行く。そしてその印象を書いてくる。これはどっちかというと作文的なものの考え方。こういう考え方は、基本的な取材旅行になるわけですね。金閣寺の誰それに会って、その内容について調べてくる。それで書く。  ところが、自分が小説の筋として書こうと思うものを、その場所に行って得た印象でつくり上げる場合もあるけれども、こういうものを書いてみたい、その中に金閣寺を出したいという時は、むしろ、すぐそのまま金閣寺を見に行きますと、かえって書けなくなっちゃうということがあるんです。自分の思ったような場所に思ったようなものがないとか、あるいは雰囲気がだいぶ違う。もっと明るいと思ったら、だいぶ暗かったとか、そんなことでも、かなり違って、逆にイメージが変わってしまって書けなくなることがある。  ですから、何がなんでも事前に見ないで、自分の持っている頭の中で一つの筋をつくり、場合によっては書いてしまって、その後で旅行して取材して、後でそれを直してみる、というほうが、後でイメージとして発展するという場合があるように思うんです。  俗に、取材旅行は、事前に当然行くんだろうというふうに、皆さん、お思いになるかもしれないけれども、事前旅行と事後旅行とがあって、事後にそれを補強したり、あるいは場合によれば、全部書き改めてしまうようなことになるかもしれないけど、最初の基本的な筋を動かさないためには、事後に行ったほうがいいという場合もある。  それで取材旅行の方法ですけれども、これは、取材のメモ帳を持っていくんですが、もう一つ忘れちゃいけないのは、先ほどチラッと申し上げた、ぜひカメラを持っていく。写真でもって、あるいは8ミリを持っていってそこを撮ってくるということがどうしても必要な場合があります。現在は、カメラを利用しない取材旅行というのは、ほとんどないと思うんです。私も、だから、私はカメラをあまりやりませんから、カメラマンを連れて行っちゃうという形が多いんですけれども、そういうことで写真で撮ってきますと、人間の記憶は非常に曖昧《あいまい》でして、一つのところをカラーで撮ってきて、後で現像して写真を見て、あっ、こんな場所、いいな、とかいうのが分るし、あ、あの屋根は赤かったんだな、ということが後の写真で分るということがあるんですね。その見た時では分らなくて、写真で分るということがあります。  ですから、ぜひカメラは肌身離さず持っていって、写真を撮ってくる。  特に、よく観光地に行くと、思いがけない文字が書いてある。観光案内の文字は勿論ですけれども、字が書いてある、あるいは石碑に何か、というのは、写すよりも写真で撮っておいて、あとでそれを現像して、ゆっくり調べる。いずれにしても、カメラを十分に利用して下さい。  いま申し上げたのは当たり前のことですね。物を書く、メモを取る、それから写真を撮ってみる。こういうようなことは、取材としては、基本的なことですけれども、案外なおざりに、撮ってもしょうがないだろう、あるいは自分の頭に入ったからいいだろうと思っても、意外に入ってないということがあります。  六番目、これもすぐに小説を書く人にはあまり要らないんですけれども、誰かアシスタント、秘書と言いますが、手助けする人がいたほうがいいかどうかという問題もあります。  小説を書くというのは、非常に孤独な作業だということを前に申し上げたと思いますけれども、私なんかは、「誰かを使っているんですか」と、よく訊かれます。実際、主に女性の人ですが、秘書になりたいという人が来たりします。場合によると、こないだも電話がかかってきたんですけれども、「パソコンを私はやっています。ぜひ使って下さい」という女性がいました。これからはパソコンは確かに一つの道だと思いますけれど、そういう人をすぐ使うということは、非常に難しい意味があるんですね。  何ぶん、小説を書くということは孤独な作業ですから、そこに誰かがいますと、気持が非常に動く、集中力が欠けてくるということがあるんです。ですから、秘書であっても、それを使うということは、大変危険だ。私はあまり勧められないと思うんです。  現在、私自身は、私を取り巻く編集者は各社に大ぜいおります。一社に大体四人位、雑誌、週刊誌、書籍、文庫本というような形で、それぞれ担当がおりまして、それがよく動いてくれますので、実際問題としてほとんど、秘書の必要性は、昔ほどないんです。ですけれども、一般に、ちょっと物を書くと、何か手助けする人、あるいは材料を集める人は、いたほうがいいんじゃないか。そのほうがうまくいくかな、と思う人がいるので、お話しておくんですけれども、まず、自分で考えて、自分で書いていく。人の手助けを当てにしないというのが基本原則だと思うんです。  作家の中には、実際に秘書の人を雇って、その人に清書をさせるというような仕事をやっている人もいるようですね。それは、いろんないきさつがあってやるんでしょうけれども、その位のことだったら、編集者、親しい人をつくっておけば出来るわけです。  私は、そういう意味で、秘書を持たずに、各編集者を自分の味方にしまして、そういう人に仕事を分担してもらったり、あるいは協力してもらうということが多いんです。  各作家は、作家ごとに、何とか会というのを持っている人が非常に多いですね。具体的に発表されることを必ずしも好む人ばかりではありませんから、具体的には申し上げませんけど、大抵、大ぜいの編集者と接触ある人は、何とか会をつくっていまして、何々を食べる会というのがあって食べに行く。  みんなと和気あいあいでやるのは一番何がいいかというと、男であれば、酒を飲む会ですね。女性も含め、あるいは一般的には、食べる会が一番いいですね。食べる会だと、大抵の人は、「わ、行こう」と言って行きますから、親睦を図る意味では、食べることは大変いいと思います。  これを小説をこれから新たに書こうという人に、適用してみますと、やはり、取材に当たっては、あらゆる自分のコネクションを使って、人間……、つまり、どこかの場所へ行って調べるということもあるけれども、結局、取材する時に大切なのは、人と人との繋《つな》がりをうまく伸ばしていって、その中から取材していくということが大切だと思うんです。  だから、取材法の本当の方法は、物理的、物質的な方法よりも、いろんな人にコネクションをつくっていくということのほうにある。それが非常に大切だと思うんです。  これも前にお話したかもしれません。自分でそういうふうに心がけていますと、たとえば親しい人が出来ると、その人が、最近こういう記事がありましたとか、こういうようなことを私が調べてますよ、知ってますよ、ということを教えてくれるというのが多くて、自分のほうから捜していかなくても、周りから集まってくるということがあります。  これは、普通の人もそうですね。一般に、まだ小説家になっていなくても、私はいまこういう小説を書いているんだ、とみんなにある程度言って、何かあったら教えてくれなんて、ちょっと友だちなんかに言っておきますと、中には親切な人が、「こういうのあったけど、きみ、使ってみないか」と教えてくれるということがあると思います。  そういうふうに、ちょっと自分が心がけていると、いろんな人が集まってくるということがありますから、取材というのは、たとえばおカネを出して誰かから情報を得るというのではなくて、人間関係をうまくつくることによって取材できるということがあると思います。  だから、そういうやり方で取材をしてみるというのが、取材法の基本ではないかと思うんです。   新鮮な心を持つこと  それからいよいよ七番目ですが、いま言ったことと勿論関係がある、取材の心構えということ。  取材に行くのは、自分がここのところを調べたいということで行くんでしょうけれども、基本的に、では、どういう態度でもって乗り込んだら、一番有効な取材が出来るか、ということなんですね。  それは、どういうことかと言いますと、結論から申し上げますと、自分が何かに驚く気持を持ってなければいけないということです。取材に行った時に、オレは何でも知っている、わたしは何でも知っているという態度で物事に接したら、すべてが陳腐に見えてくるんです。新鮮さがなくなっちゃう。  とにかくこれから小説を書いて、大ぜいの人に読んでもらおうという人は、物事に対して自分自身が驚くという気持を持って取材に行かなければいけないと、私は思うんです。このことをあまり言っている人はいないと思いますけれども、私は、それが一番大切なことだと思うんですね。つまり、非常に驚きのある心を持っていないといけない。  それはどういうことかというと、絶えず物事に対して新鮮な心を持つということ、新鮮さを失わない心、それが取材の時にどうしても要求されるんです。  いろんな芸事をして、それに大成した人の心というのは、何かについて非常に新鮮なものを発見して驚く気持を失わない人だろうと、私は思います。自分で驚くということ。  私は、奇術を一年間位、いろいろ手品師に教わって勉強したことがあるんですけれども、その時、その手品師の説明はこうだったんですね。手品をして見せる。袖《そで》の辺から急にハトが出てきたりしますね。もともとハトはどこかに入っているわけで、それを出す。だから、やっている手品師のほうから見ると、手品というのは、すごいつまらないことなんですね。どこかにあるものを出しているだけなんですから、非常に陳腐なことをやっているわけですよ。ところが、見ている人は、「アレ、どこから出てきたんだろう!?」と驚く。  その時、手品するほうの心構えとしては、手品師自身が驚かなければいけない、と言うんです。  これは、私は、大変印象的な言葉だと思うんです。  それは、小さなカード手品でもなんでもそうです。けれども、やる時、これは当たり前なんだよ、という形でやったんではいけないんで、アッ何だろうと、自分に驚きを持って、やっている人も驚くことが、見ている人に対する驚きを移していくわけですね。  そういうことを、私は、奇術を勉強した時に、手品師から聞いた記憶があるんです。  これは、小説、特に推理小説を書く人の心構えに、非常に貴重な、基本的なことだと思うと同時に、そもそも取材に行く時から、何かを人から聞いて、新しい事実を知った時に、それに自分の心が新鮮に感動する、驚くような気持、これを持たなければいけないと思うんです。  人によりますと、大変皆さん、ある専門的なことについてはお詳しい人も沢山いらっしゃると思うんです。ですから、取材に行った時、そんなこと当たり前だ、私は知っている、というような気持で取材に行きますと、自分が損をするんですね。驚きがどうしても少なくなってしまうから、そのことが、今度、小説にしようという時に足りなくなる。  私は、出来る限り、ある町に行ったら、行く時には詳しく調べて行きますから、本当はよく分っているわけだけれども、出来るだけ前の知識を脇に置いて、自分でその町に入っていった時の最初の印象、最初に見た時に歩いていた人とか、そういうのを見て、何か違うものをパッとキャッチしてくる。  いつでしたか、私、山口県の山口へ行って、そこの駅に降りた時に、最初に見た女性の服装が、その当時、東京の銀座あたりを歩いているファッションと全く同じのを着ている人がいたんで、びっくりしたんですね。そう言っちゃ、山口県の人に怒られちゃいますけれども、だから、おそらくその女の人は、ファッションを取り寄せたのか、あるいはその人自身が東京の人かもしれませんけど、そういう人が、山口県のほうに、もうすでにいたというのは、ぼくはびっくりして、流行というのは、こんなに早くくるものかな、と思ったんですけれども。  そんなことも、一般的に、あれは日頃、東京や横浜あたりで見ている人のタイプの服装で、最近|流行《はや》っているんだから、と思えばそれっきりですけれども……。東京から大変離れてる場所で見たファッションが、案外、東京のド真中とすぐ反映しているというようなことがいまあるわけで、それをチラッと見ても、それは当然だと思わないで、これは何だろう、何かあるんじゃないか……。すでにファッションそのものを売ってて、その洋服を着ていると考えてもいいし、あるいはその人は旅行者だったと考えてもいいし、その考え方によって、そこから一つの小説を創ることだって出来るわけですね。  どういうふうに考えるか。考えるのは、小説家の一つの自由の特権ですから、どう受け取ってもいいわけです。でも、とにかく自分が取材に行き、そこで見聞きしたことがあれば、それに対して自分自身でまず驚く。  私は、驚くということが大変好きなんです。驚きのなくなった人生は、生きていてもつまらないですね。それは意外性ということなんですけれども、いろいろな驚きがあると思うんです。意外なことにぶつかった時に驚く。  むしろ一般的な人は大抵、「これはよくあることだ」というので、その中に驚きを見出すことが、だんだん少なくなっている。われわれも年を取ってきますと、五年なり、十年単位で、だんだん驚きの量が、ガクン、ガクンと減っていくんですね。だんだん驚きがなくなった時に、死んじゃうんじゃないかと思うんですけれども、とにかく驚くということは、若さの証拠だと思うんです。  だから、皆さんもぜひ、健康のためにも驚くことはいいと思いますので、「アッ素晴しいな」とか、あるいは「怖いな」とか、何でもいいんです。そういう意味の感動を日常生活の中に絶えず持ち続ける、ということがいいんですね。  ところがいまの人は、テレビなんかを見てますと、感動する暇もないというね。こっちで原発事故があると、こっちで飛行機が墜ちた、と思うと、また別の事件があって、山で遭難とか、一つ一つの事件に、あ、あれはもしかしたら芝居じゃないかな、というような感じで、どんどん過ぎていますから、特に、いまの子供たちは大変不幸で、感動が少なくなってしまっている。  だから、少なくとも物を書く人間、あるいは物を書こうと決心した場合は、絶えず新鮮な感動を呼ぶように、もっと具体的に言えば、いま言った驚きというものを、取材の段階から持つということが、どうしても大切だと私は思うので、あえてこの七項目をつくったわけです。  取材と言いますと、事実を客観的に記録をしてくるということだけのように受け取りやすいんですね。だけど、私は、驚いてくることじゃないかと思うんです。方々へ行って、新しいものを発見してくる。  小説を書く時、ここがいいな、と思っても、それは大抵、過去の自分の知識から来てますから、わりあいに狭いんですね。皆さん、そんなにご存じのわけもないわけで、取材に行く時は、自分のお友だちとか、あるいは知っている人に、ちょっと話をして、どこか面白い所ないか、というような所へ行く。そういうところから自分の小説のストーリーを創り出すということもいいと思うんです。  それは、自分が行きたい所へ行く取材が過半数ではあるんですけれども、やはり、そういう発見をする場を、絶えず自分で見つけようという心構えを持つ。それが大切だと思うんです。   �捨�という行動  さて、そうやって、以上一から七まで、いかにして取材をするかということで、取材が終って、材料は全部目の前に揃《そろ》った……。揃っても、それで取材は終りということはないんです。小説を書いてる途中で、またさらに取材をする。さっき言った事後の取材ということもありますし、途中でまた何回も取材に行かなきゃならないということがあります。  それに、大切なのは取捨選択という取捨ですね。これが大変大切なことになるわけです。特に、取捨のうち�捨�が一番大切です。捨てるということ。  新人の作品を読みますと、よく分るんですけれども、非常に多くのことが書き込んであるということが多いんです。沢山難しいことが書いてあって、文章も非常に硬いけれども、内容的に沢山のことが書き過ぎている。そのために、読んだ時に、ちょっと面白味がないということがあるんですね。  ですから、自分が書こうと思って取材してきたことが、仮に十あるとしますと、その中で実際に使うのは三ぐらいにしてほしいと思うんです。三分の一位。それじゃ量的に足りないんじゃないかとお考えになる方もいるかもしれないけれども、そういう時には、だから、沢山の量を取材する。沢山調べ、取材してくることが必要で、幾ら取材しても取材し尽くすことはないんですけれども、いよいよ書く前に、それを小説のストーリーの中に取り込む時は、いかに少なく取り込むか、つまり、捨てるかということが、最大の仕事になってくると思うんです。これがうまく出来た人が、小説をうまく書ける人だと、私は思うんです。  前に、流れが大切だ、ということをお話しましたけれども、取材してきた材料を、その流れに沿って配置していくという作業、これがうまく出来ないと、小説は特に面白くなくなります。  取捨選択の中でも、一番大切なのは、�捨�という行動、これをうまくやらなければいけません。  普通、調べてくると、何でもかんでも入れたいんですね。そういう小説は、第三者が読むと、必ず浮き上がってしまう。面白くないというのがあったら、そこの部分だろうと思うんです。その点を気をつけられたほうがいいと思うんです。  それにはまずどうするか、という態度として、資料を見て書くな、ということを前にも申し上げたと思うんですけれども、小説家は、少なくとも調べてきたこと、あるいは参考の資料、文献をテーブルの上に置いて書くことは出来るだけ避けたほうがいい。必要ある場合もありますから、百パーセントというわけにはいかないかもしれないけれども、原則として、資料を机の上に置いて書くということは避けたほうがいいんです。字引はいいですけれど、出来るだけ原稿用紙だけ、という形で書いていくことが望ましい。  たとえばアリバイ崩しでは、地図を見たり、時刻表を見たりすることがあります。でも、それは、ほんのちょっと見ればいいわけですから。資料を机の上に置いて書きますと、資料を写しちゃうということになりやすいんですね。そうすると、その部分が、やはり、また面白くない。  心構えとして、机の上には、原稿用紙と筆記用具、せいぜい字引以外は置かないように、ということを私は申し上げたいと思います。  それはなぜかというと、取捨選択の�捨�の部分に関係があるからです。資料を見て書いてはいけない。書いてしまうと、小説が面白くなくなってくる。  私は、机の上に何が置いてあるかというと、字引と原稿用紙と筆記用具と、あと耳かきと扇子が置いてあるわけです。耳かきは、時どき、耳を掃除しながら考えるという、これは私の癖でして、ですから、何もそんなの置かなくていいんです。扇子は、ぼくは何となく好きで、夏は、それで煽《あお》いで、クーラーは使いませんから、時どき、それで煽ぐ。だけど、実際は煽ぐことにあるんじゃなくて、置いて手でバチバチといたずらをする。  将棋指しとか、碁打ちは、対局する時、みんな扇子を持っていまして、真冬でも持っていますね。あれは、別に暑いから持っているんじゃなくて、一つの形として持っているんですね。それで、時どき、パチン、パチンという音を立てることによって思考のリズムをつくっています。  私は、それを知っているものですから、好きなんで、テーブルの上には、扇子を置いてます。  まァ、そういうような小道具は自分で決められればいいんですけれど、要するに、資料を見て書くな、ということを強く申し上げておきます。  では、何によって小説家は書いているのか。それは、ただ一《いつ》に、イマジネーションなんですね。想像力と言えばいいんでしょう。想像するということとクリエイションということと両方入って、要するに、想像力によって書く。イマジネーションというものが作家のエネルギーになるわけで、それで書いていくわけですから、資料をつなぎ合わせるのは、論文あるいは作文ですね、研究論文みたいなものを書く時は、資料がどうしても要るんで、それをつなぎ合わせていく。  よく大学の講義録を見ますと、いろんな人の意見があって、何々博士はこう言っている、何々はこう言っている、彼はそれに反対している、ずーっと書いてあって、ご本人はどう考えているんだ、というのは全然なかったりする。それでも、しかし、大学の教科書は済むわけですね。  しかし、小説家はそうはいかない。自分の考えで書くわけです。その考えの部分、イマジネーションの部分が小説というものなんですから、資料のつなぎ合わせは、小説ではない。  なぜ、私が、取材のところでそれを強調するかというと、取材は十分にしなければいけないんですけれども、十分にすると、それにとらわれて、どうしてもそれをそのまま生《なま》に書くということが多いものですから、いかに捨てるか。それがうまく出来ている小説があったらば、おそらくそれは、その小説家の捨て方がよかったんだ、と考えていいと思うんです。実際の小説が出来上がってきた時には、あくまでも、その小説家のイマジネーションによって繋げられたものだ。  皆さんも、出来る限り調べること、そしてそれにとらわれないイマジネーションの展開、この二つを同時に出来るようにする。  このことは、何も小説ばかりじゃなくて、世の中を愉しくするためにも、絶えず、どんなことがあっても、そのことの事実を調べる行為と、そして、それを使って自分が愉しんでいく行為は、全く別にうまく出来る、そういう人間になるということは、大切じゃないかと思うんです。   「いつでも、どこでも」  取材は、いままでずっと述べてきたようなことを全部やったにしましても、これで言い切れるわけではなくて、取材は、最終的にはこの、いつでも、どこでもする、という精神に立たないと十分に出来ない。  私は、毎日のようにいろいろ仕事をして、かつて小説の数が少なかった頃と比べると、取材をする時間的な制約、場所的な制約が非常にあって大変なんです。しかし、人と会うということがあった場合、それが編集者であっても、あるいは全然関係ない植木屋さんが家へ訪ねてきた、あるいは大工さんが来た、そういう人たちでも、何かの形で使える……というと語弊がありますけれども、そういう精神で、その人を自分のものにしてしまう。そのことも取材である。小説家は、常住坐臥そこにいることが、すなわち取材をしているんだ、というぐらいの気持でなければいけないと思うんです。  これは主に誰に言っているかというと、税務署の人に言うんですね。税務署の人が、「あなたは、どういう必要経費がかかってこの小説が出来たのか」と、最近は特にうるさくなってきまして訊くんですけれども、たとえばちょっとした人とお茶を飲んで、たまたまご馳走してやったとすれば、それも取材のためのコーヒーなんだ。単なる接待ではない。いつも取材なんだ、ということを言うんですけれども、必ずしもそれを認めてくれないんですね。だけど、精神的には、私は、そうだと思うんですね。  これこれが取材で、これから先は取材でない、なんていうことはないわけで、たとえば友だちに会って、その友だちの名前をちょっと聞いても、あ、面白い名前だな、と思ったら、それを記録しておく。それも取材と言えば取材なんですから。  いずれにしましても、取材というのは、特に「取材をしなければ」というような気持で行った時に、必ずいい取材が出来るかというと、そうではない。  皆さんだって、夕食のおかずを買物に行って、今晩は焼き魚にしようと思って行っても必ずしも、それが売っているとは限らないわけですね。新しいアコウダイの粕漬《かすづけ》が売っているとか、サンマの新しいのがあったとか言うと、それを買ってきて、お料理が変わっちゃう、ということがあると思うんです。  ぼくは、それで作り上げるということでも構わないと思うんです。何がなんでも、いま、こういう材料で、こうある。だから、何がなんでもそのものを作ってしまおうということで、つまり、取材ということから、一つの小説をつくるプロセスの中に無理があってはいけない。  これを作るために、この材料という取材もあるんだけれども、取材というのは、いつも流動的で、取材している間に、どんどん、どんどんストーリーの中に、そいつを溶け込ましていって展開していくという形で、取材そのものを生かして使う。そういうふうにすることが、むしろ小説をうまくつくるために大切なんです。  そのことを、私は、この「いつでも、どこでも」ということで表現したつもりなんです。  つまり、「いつでも」というのは、わざわざ、そのためにどこそこへ行って調べるというのも取材だけれども、そういう取材だけが取材だと思ってはいけない。  現に私は、各出版社が、どこかへ取材で行くというと、たとえば中国に行ったこともありますし、沖縄に行ったこともあります。だけども、その社のその小説に必ずしも出てこないんですね。むしろ出てこないほうが、私の場合、非常に多い。よその社の小説を書く時に、中国を使っちゃったりする。そうすると具合が悪いから、今度は、別の社で行った取材のやつを、こっちの社に使う、ということのほうが、むしろ多い。それは、どうしてもそうなるんですね。  とにかく取材に当たっては、無理してはいけない。つまり、牽強付会して、無理に、これはこれだから、このストーリーに嵌《は》め込むんだ、というつくり方はしないほうがいいと思うんです。  取材法については、その他もっと詳しくいろいろあるんですけれども、ある意味では、非常にテクニカルなことで、技術的なことを幾らお話しても、そういうことの場合もあるし、そうでない場合もある、ということが、取材というのは、非常に多いんです。その小説のあり方によって随分違う。  一般論としては、いままで私がお話したことで、ほとんど尽きているんではないか。  ただ、最近、よく取材だ、取材だ、と言います。特にテレビのほうで、取材という言葉を沢山使いますから、取材をして小説を書く、あるいはテレビをつくり上げると思っている人が多いんですけれども、われわれ小説家の取材と、テレビの取材はまた違って、テレビの取材は、そこへ行って、文字どおりやったものが映像になって出てくるということが多いんです。  だけど、小説家の取材は、必ずしもそこへ行って目に映り、耳で聞いたことが、即、紙の上に出るわけじゃないんですね。それはなぜかというと、イマジネーションということが必ずその間に一つ入って、イマジネーションのレンズを通して見たものが小説になるわけですから、そのまま即物的に、見たものが小説に入るんではない。それは、おそらくつまらないことになってしまうと思うんです。  ですから、いつでも、どこでも取材をする気持でやって、最後はそれを取捨選択、特に捨のほうを注意して、出来る限り必要最低限で、自分のイマジネーションで繋げて面白くする。こういうふうに取材というものを生かしていくということが基本的なことになろうかと思うんです。  以上で、大体、取材の仕方、私がやっていること、特に推理小説において基本原則としての法律の本、医学の本は欠かすことが出来ないということをお話したわけですけれども、これは、ほかの小説を書く場合は、経済関係の小説、企業小説であれば、経済関係の本、企業についての沢山のデータは、やはり、必要だろうと思います。思いますけれども、それも、ノンフィクションとして書くものでない限り、出来る限り、実際集めた資料を捨てていくというぐらいの気持で書かないと、面白い小説にはならない。  なぜ、面白い小説にならないかというと、小説は、データよりも一つのディテールではあるけれども、それは人間というものに絡んだ部分のディテールでなければいけないからなんですね。そのことを肝に銘じておきたいと思うんです。 [#改ページ]   第六章 大切なメモづくり   構成を愉しむ文学  日程メモについては、特に、細かくご説明するということは致しません。そういうものも人によっては必要で、作っておいたほうがいい場合もある、という程度で、後は、きょうは構想メモについてお話をしてみたいと思います。  小説を書く時は、頭から細かく決めておかないで書くという小説の書き方もあります。 「トンネルを抜けると雪国であった」というふうに一つ決めれば、後はずっといろいろイメージが湧《わ》いてきて小説が出来る、こういうタイプの人も実際います。  しかし、推理小説は、仮に、それがトリック偏重の、本格でなくても、やはり、どうしても構想メモが必要ではないか。なぜかと言いますと、推理小説は、小説全体の構想を愉しむ文学であるということが言えるからなんですね。  構成を愉しむ文学というのは、どういうことかと言いますと、これもいろいろな特徴があると思うんですが、大きく言って二つ、私は考えているんです。  一つは、あらゆる小説は、私は、全部つくりものだと思っています。しかし、なかんずく推理小説は、つくりものの中でも最もつくりものである。そういう意味での構成というものを強調した文学である。これは、前にストリックのところでも、それと似たようなことを申し上げたかと思うんですけれども……。そういう意味で、推理小説には、構成にウエイトを置いている点で、どうしてもつくりものという要素が非常に強い。強いから、したがって、また構成というのは非常に大切なんだ。つまり、人工美、人工の美学というものが推理小説の中にあるわけです。  それだと不自然だ、という言い方がありますが、必ずしもそうではなくて、あらゆる芸術は人工美であるということが言えるかと思うんです。  そういう意味で、つくりものの文学だ、ということが言えますから、したがって、ご都合主義とか、そういう言い方をされるほどになってはいけないんですけれども、かなりそういう面が推理小説の中には強く出てきてしまう。その意味で、構成をしっかりつくっておかなきゃいかんという意味で、逆に、つくりものだということを、私は、申し上げたいわけです。  もう一つ、推理小説は構成を愉しむ文学であると同時に、その実質はどうかと言いますと、話のストーリーが原則として過去へ戻っていく文学である、と言えると思うんです。つまり、ある事件が起きる、その事件が果して何であったか、その真相を追及していくという、追及の形を取りますね。したがって、まず、「ギャッと言って彼女は倒れた」なんていう出だしから始めて、それはむしろ結果としてそこにあって、小説を読んでいくと、なぜ彼女が、一体誰に、どういう方法で殺されたんであろうか、というふうに戻っていくわけですね。過去に戻っていく文学である。  小説は、全く過去に戻らないのも、勿論、幾らもあるわけで、むしろ発展していく文学というのがあるわけですね。大体、恋愛小説を中心にしたロマンというのは、男と女が出会う、そしてその話が発展していくという形で、前へ進んでいく、未来へ向かって進んでいくという恰好。その二人が過去を持っているというのは、当然あっていいわけですけれども、過去へ遡《さかのぼ》っていくというのが、その小説のメインテーマではない。一般の小説は、将来、この二人がどうなっていくかという、そのほうにウエイトがある。まァ、そういうものがロマンだろうと思うんですけれども。  推理小説は、原則として——これはあくまでも原則で、そこにまた例外もあるんですが——過去に戻っていく。ある事件が起きた時に、この事件の因《もと》は何であったのか。どういういきさつで、誰が……というふうに探っていくという、追及の文学であるということが言えます。  したがって、そこでは構成をしっかりしておかないと、たとえば「彼女はギャッと言って倒れた」と書いたあと、一体、誰が、どうやって、どういう動機で殺すのか、後で考えてみようというような発想は許されないわけですね。部分的には、そういう書き方をする部分もありますけれども、非常に基本的な部分では、それを決めないで書くということはまずあり得ない。最初にスタートした時に、最後の一行が決まっている、そのくらい厳しい形で書いていかなくちゃいけないもの、つくっていかなければならないもの、というふうに考えますと、構成を愉しむ文学であるが故に、大切なメモづくりということが言えるんだ、ということが言えてくるんだろうと思うんです。  これは推理小説の、本格ばかりじゃなくても、やはり、非常に大切なことじゃないか。  そこで、構成を愉しむ文学だから、構成をしっかりしなきゃならない。構成をしっかりするためには、メモをつくっておくのが、まず一番間違いない。最近は、メモでなくてコンピュータでやったらいいじゃないかという話も出てきて、コンピュータにデータをインプットしておけば、出来るということもあるでしょう。それは方法論ですから、違いますが……。   トリックの必要性  私は、やはり、トリックは必要だと思います。最近のごく若い作家は、トリックは要らないと言っていますし、いつの新聞でしたか、松本清張さんも、トリック中心の推理小説は、つくりものめいてどうも面白くない、というようなことを書かれています。一般論としては、そういうことがどうしても言えるということはあろうかと思いますけれども、推理小説は、やはり、原則としてトリックがある。読者を欺くということがあって、読者と作者との戦い、騙《だま》したり、騙されたりする、そういう一種のゲーム性というものがある。そのゲーム性を豊かにするためにトリックがどうしても必要で、トリックがあるためには、そのトリックをきちっと記帳し、記録しておかなければ、小説の中にうまく融け込ませられない。  つまり、トリックの整合性ということがあるわけですね。トリックを小説の中にうまく入れて、全体としてそれを矛盾なく嵌め込んでいく。こういう作業をしなくちゃいけないので、どうしてもメモが必要になってくる。  これは、ミステリーばかりではないんですけれども、メモの必要性の二番目としまして、ストーリーと枚数の関係をきちっと決めておく必要がどうしてもある。もっともこれも枚数に制限のない一般の人が「小説書いてみようか」というので書いているのであれば、五十枚で完結してもいいし、あるいは百枚になっちゃった、というんでもいいと思います。しかし、普通、プロ作家でありますと、大体のところが、何枚で書いて下さい、という注文生産をするわけですから、どうしても配分しなきゃいけませんね。出だしが大体何枚で、あとどうするか、これはどうしても必要になってくるわけです。どの辺にくると読者がドキドキして、どの辺にくると「アッ」と分ったというような感じで、きちっと決めておかなければいけない。  そのために、ストーリーと枚数との関係でメモの必要性がどうしても出てくる。書いているうちに、だんだん、だんだんふくれ上がって五十枚のつもりが百枚になった、というようなことも、それは一般の場合はあります。だけど、われわれの場合は、ほとんどありません。そういうことになったんじゃ、注文生産ですから、雑誌というと、そうですねえ、大体プラス・マイナス五枚ですね。たとえば五十枚と注文を受けたら、五十五枚か、四十五枚位までだったら、まァ、編集者は文句を言わない。しかし、五十枚と頼まれたのに、六十枚以上書いていくと、「あなたはプロじゃないか」と必ず言われると思います。プラス・マイナス五枚位は許されますけど、それ以上のずれはいけない。  懸賞小説なんかになると、何枚以上、あるいは何枚以下だったら失格というのもありますから、そういう点をよく気をつけていきませんと、せっかくいい作品があっても、失格しちゃうということがあります。  そういう枚数をきちっと決めて書いていく。そのためにも、メモというものが、いわゆる構想メモというものが必要になってくると思うんです。  メモの必要性と役割とは、ほぼ同じですけれども、何のためにメモを書くかというと、割り振るためでもありますけれども、むしろ作者がそのメモによって書いていく時に、自分のイマジネーションをうんと発展させるための一つの縁《よすが》とするためにメモを取っておくということが、必要なんです。普通、メモを書いておくというと、それで書くことを決めちゃって、それに基づいて書いていくためにメモが要るんだ、というふうに取られやすいんですけれど、そうじゃなくて、メモを取って、大体、枚数等の按分《あんぶん》をしておくことによって、あとは自由に自分のイマジネーションを展開することが出来るわけです。  つまり、むしろ発展させるためにメモは役立てなければいけない。そういう役割もメモに持たせなければいけない。こういうふうに思います。  いずれにしましても、構想メモというものにとって一番大切なのは、構想をそこに書いておいて、それによって作者の書くリズムはそれで大体規律できますけれども、イマジネーションは逆に、それによって発展するんでなくてはいけない。発展しないで、とにかくこう書いてあるんだから、あくまでもそう書いて、話の具合から言って、もうちょっと登場人物が話し合いをしなければいけないのに、もうこの辺で次の段階に運んじゃおう、というふうに、仮にそう書いてあっても、自分の書いてあるムードの中で、登場人物がその場でもう少し喋《しやべ》りたいムードだったら、喋らせてしまうとか、メモは大切なんだけれども、そのメモによってあまり縛られない、ということのほうが、むしろ逆に必要になってくるわけです。この辺の加減というのは、実際に書いてみてやらないと、ちょっと分りにくいところなんですね。  さて、具体的に構想のメモはどういうふうに作るかということなんですが、この構想メモも、私ばかりじゃなくて、大体ほかの人も、違う形であっても、およそあるのは、純粋にこの構想メモの本文と、人物一覧表、この二種類にさらに分れると思うんです。これもすでに何回か触れていると思いますけれども、とにかく小説を書く時は、人物一覧表をまず作ってみる必要がある。特に通俗小説の場合、なかんずく推理小説の場合は、場合によると犯人捜しみたいなことになる場合もあるわけですね。  つまり、登場人物が五人なら五人いて、この中に犯人がいるんだ、というような形、そういう形で推理小説を書く場合もありますから、どうしてもどういう人物がいて、その人物の特徴、一番はっきりするのは、まず性別ですね。それから年齢、その人のキャリア、趣味、衣服、それから美男美女ぐらいじゃ困るんですけれども、特徴のあるようなことをメモっとく。つまり、人物一覧表が、むしろ非常に大切なんです。  そして、人物一覧表のところで欲しいのは推理小説ですから、殺人事件だとすると、殺人の動機ですね。だから、人物相関図と一緒に、動機というものを書き込んでおくわけです。人物一覧表の中に動機を書き込んでおく。  特にぼくのように、八本も九本も、一ぺんに小説を書いている場合は、混乱を避けるためにも絶対にしなくちゃいけないんですけれども、一番大切なのは、この人物が何のためにこの人物を殺すのか、あるいはこういう行為を取るかということについての動機づけは、しっかり書いておかなくちゃいけません。これを錯覚したりなんかするということは、大変まずいことですから。  なかんずくその動機は、推理小説の場合は最初は隠されているわけですね。隠されていますから、その動機づけは、文章の表面には出てこない。しかし、作者は知ってなきゃいけないですから、そのために、この人物一覧表をしっかり作るということが大切です。  ヘンな言い方で、矛盾するようですけれど、この人物一覧表さえ、しっかり作ってあれば、実は、ここで言う構想メモ、本文のようなメモがなくても、筆力さえあれば、書けてしまうはずなんですね。しかし、一つのモデル的に考えて、どうしてもまず小説を書こうという時に、最初は、タイトルを付けるということがあるわけですけれども、タイトルを——仮題でもいいんですけれど——付けて、それから登場人物を幾人にするかというのは、非常に大切なことですね。長篇、短篇で違います。長篇だと、沢山いて、短篇だと少ないかというと、必ずしもそうじゃないところが小説のつくり方の難しいところでしてね。  ただし、主要人物はあまり多くしない。それこそ トルストイの「戦争と平和」みたいな大推理小説を書こうと思って、登場人物が百五十人なんて出ちゃうと、もう誰も読みませんから、誰が犯人だっていいじゃないか、ということになるんで、そういう点は避けなきゃいけません。これは、普通の小説を書いてもそうですね。  一番いいのは、一人の男と一人の女しか出てこないという小説がうまく書けて、それで面白くて謎があったら、こんなにいいことはないんですね。みんなに分るから。しかし、男と女は出てこなくちゃいけません。男だけ、女だけの小説というのは、やはり、小説としてもちょっと弱いです。  この動機は、犯人の動機です。しかし、探偵の動機というのもあるんですね。なぜ探偵していくかという動機、これも大切なことなんです。主に探偵の動機のほうは、読者が、その探偵の動機を自分のものとして読んでいくということがありますので、これはやはり意外に大切な部分だと思うんです。とにかく、この人物一覧表というものを、まず作る。  これは、大抵の人が作っているようです。そして、そういう表を見ながら書いていく。そうしませんと、たとえば何でもないようなことですけれども、当初、この女性は近眼のつもりで書いておいたのに、しばらくするとすごい目がよくなっちゃったり、あるいは眼鏡をかけていなかったのに、途中から、何の説明もなく眼鏡をかけていたりするということがある。  プロになって気をつけなければいけないのは、挿絵です。挿絵画家っていうのは、これはなかなか大変難しいんですけれども、初めは、眼鏡をかけないつもりの人物を出したら、挿絵画家が、これは眼鏡があったほうがいいだろうっていうので、眼鏡を適当に描き込んじゃって、それを見て、あ、眼鏡かけてたかなっていうんで、そのまま書いちゃうとか、そういうようなことが連載の時なんかにあるわけですから、これも初めて書く人にはあまり関係ないことですけれども、意外なことで風体《ふうてい》などを錯覚するということがあります。  ですから、この人物一覧表がうまく出来たかどうかということは、その小説の成功、不成功をある程度支配するということが言えるだろうと思います。  このフォームですね。どういう恰好のものがいいかということについては、あまり決まったものを考える必要はないわけで、とにかく書く人が自分で分るようにしておけばいいと思います。大体、探偵役は誰、犯人は誰、これはどういう形で犯人であるのかを誤魔化しているのかということを書いておけばいいと思います。  さっきお話したように、人物一覧表がきちっと出来ていれば、実は、こういう構想メモすら要らないんじゃないか、という位なんです。ショート・ショートみたいなもの、あるいはもっと短い小説だったら、全然なくたって、人物がきっかり決まっていれば、自然に、動機があればストーリーは出来るんですね。   仕立てる腕  この構想メモのほかに、筆力というものがあるので、筆力がないと、いかにメモが出来ていても、小説には全くなってこない。  その点は、お料理と全く同じですね。同じ材料を、お料理の名人の辻留さんあたりに渡したのと、ぼくに「やってみろ」と言って渡されても、何もこっちは出来ないけれども、向こうは素晴しい料理が出来る。  材料はあっても、それを仕立てるのは腕ですから、その腕が、小説家になれるかどうかというところの岐《わか》れ目になるわけで、しかし、それにしても、いい材料といい道具を使えば、多少でもいいお料理が出来る。その材料というか、道具の一つが、このメモである。こういうふうに理解していただければいいと思います。  ここには、単純に十枚位、そして、それぞれの段落は五枚位でいくという形で書くという構想メモのお話を、したわけですけれども、これは中篇ですから、大体こんなものでいいと思いますが、短篇ですと、どういうことになるか。  短篇というと、三十枚から五十枚まで、この半分位の時に、やはり、同じようにやったらいいかというと、これはまた、ちょっと難しくて、少なくとも三十枚以下の短いものということになりますと、五枚位でどんどん展開して、三十枚というと六シーンしかないわけで、これは非常に難しいことになるんです。  ですから、短篇の場合、大きく言って、小説のイントロの部分と、真中の発展の部分と最後の終結と、三つ位になるか、あるいは俗に文章でいうところの起承転結というような感じの四段階にするか、三か、四位にして山をつくっていくということが、この構想メモのつくり方のポイントになろうかと思うんです。  やはり、小説ですから、山をどこに持っていくかということが大切なんで、非常に|ラフ《ヽヽ》な言い方をすれば、何でもそうですけれども出だしと結びをうまく書ければ、出来上がるということが言えるだろうと思うんです。  短篇小説の名手は 芥川龍之介ということは定評のある人ですけれども、芥川龍之介の「羅生門」なんかは、やはり、短篇の名作だろうと思います。あれは「今昔物語」から取ったんだと思うんですけれども、そのまま取ったんじゃなくて、非常に変えてあるわけですが、あそこに出てくる人物は、下人と老姿の二人だけなんですね。一人の下人が羅生門のところで雨宿りしているところから始まって、楼上のところで死体から髪の毛を抜いている老婆を見つける。それがイントロで、非常に何だろう、という感じのするところですね。  それから一転して、その下人が、老婆の非人道的なと言いますか、人間の死骸から髪の毛を抜くというのを非難する。それに対して老婆が言い返して、これは悪い女だったんだから、死んだ時、髪の毛ぐらい抜かしても罰当たらんだろう、というようなことを言うのが真中で、なるほど、この辺の理屈の仕方が面白いな、と思っていると、さらに一転して、最後にまた下人が、それなら、おれがお前の衣服を剥《は》いで何しても文句を言える義理じゃなかろう、というようなことを言って、老婆のものを奪って暗い闇の中へ消えていく、というところで終る。  非常に短い小説ですけれども、勿論、これはミステリーではないんですが、そのつくり方、つまり、短篇ではああいうふうに、序破急というか、起承転結というか、三段か、四段位の流れの中でつくられている。そういうものが、やはり、読んだ時に、非常に面白い強烈な印象を読む人に与えるということだと思います。  こういうのも、取り方によっては、二段階しかないとか、いろいろな見方もありますけれども、大体、流れとしては、出だしの面白さがあって、真中の理屈の転換があって、最後に|オチ《ヽヽ》がくるという形だろうと思います。  そこで、オチがくると言ったところで、さらに短篇的な面白さのあるものとして、日本の落語というものがありますね。たとえばNHKあたり、最近は、古典落語をあまりやりませんけれども、昔は、古典落語一つを十五分位でやっていたわけですね。十五分というのは、本当のものよりちょっと短くなっているんですけれども、登場人物は、普通は大体三人位だと思います。そんなに沢山の人は出てこない。たとえば隠居がいて与太郎がいて、もう一人、誰かいるというような感じ。 「時そば」という有名な落語がありますけれども、そばを食べて代金を払う時、一つ、二つ……と数えてきて、途中で「いま何時《なんどき》だ」と言うと、「七つ」というようなことを言って、八つ、九つと、数を誤魔化すという、ただそれだけのことなんですけれども、登場人物は、そば屋と、最初にそれをやって誤魔化した人間と、その真似をする与太郎と、三人しかいない。  しかし、基本的にはマクラ——つまり、推理小説の伏線ですね——があって、そのマクラからの発展があって、最後にオチがあるという形でつくるわけです。これは、日本の短篇小説の原型になるものが、日本の古典落語にあったんじゃないか。落語というのは本当に大したものですね。しかもそんなに複雑な登場人物はないというのが、やはり、大衆に分りやすくするというものなんです。  その中でも、さらに筋の発展のパターン、同じパターンを繰り返すというところに、分りやすくて、しかも強烈な印象を与える。「時そば」もそうですね。これはいい丼《どんぶり》を使ってるな、いい葱《ねぎ》が入ってるな、割箸《わりばし》かい……なんてことをやりますね。次に同じことをまた繰り返す。しかし、それが少しずつ微妙に違っていて裏切られていくという、非常に単純だから、聴いてるほうは、よく分るわけです。あの咄《はなし》は何度聴いてもいいと思いますね。非常に分りやすくて、やはり、面白いです。うまく褒めようとしているところが全部ダメで挫折していく。同じパターンだからこそ、あれが出来るんですね。  大衆娯楽というものは、あまり難しい形に持っていってはいけない。出来れば、同じパターンを繰り返す。  奇術師がそうですね。カードを右手に出して、「はい、こういうふうになりますよ」と言うから、また、もう一回やるとそうなると思って見ていると、別のところから出てくるというね。だから、同じことを繰り返すというのは、決して偶然じゃなくて、わざとやる。ということによって、見ている人に、あ、そこにまた、もう一回出てくるんだな、と思わせておいて、そこに出てこないという形をつくるための準備期間であることが非常に多いわけです。  それと同じように、落語も必ず同じパターンを繰り返す。この前、お話した「寿限無」も、同じように寿限無の名前を何度も何度も言うわけで、面白くないと言えば面白くないんだけど、面白いと言えば面白いという、非常に単純なものの繰り返しの中にある。  これは落語だけで、ミステリーではないですけれども、失敗というのが大きなテーマなんですね。「子褒め」というのがありますが、間違えて子供を褒めちゃう。つまり、与太郎の失敗談みたいなものが非常に沢山あるんですけれども、それは誰か成功者がいて、その真似の裏切りにあるわけですね。そういうところが落語の面白さで、最後のオチというところで決まるわけです。  これは、推理小説で言う、解決なんですけれども、短篇の場合は、やはり、切れ味ということになろうかと思います。切れ味がよくないと、短篇は全然生きてこない。  つまり、落語で言うオチ、短篇小説で言う切れ味というものをうまく使わないといけない。  そのために、メモのところで、短篇であれば、一番最後にどういう言葉で終るか、どういう切れ味で終るかということは、むしろ初めに決めておく。それが決まった時に、この一つの小説が出来上がる、というようなものなんですね。  長篇では、そういうことはあまりありません。やはり、長篇は重厚感というものが、どうしても必要ですから、そういう傾向が出てくるので、あまり軽くはないですけれども。  そういうことで多少の違いはあるものの、やはり、メモづくりは、それぞれ短篇、長篇の長さによっても変えながらいかなくちゃいけない。枚数との関係がメモのつくり方でも変わってくる。  ですから、短篇のほうこそ、細かくメモをつくっておかなきゃならないということがあると思います。むしろ、長篇は出来るだけ粗《あら》くつくっておくというような作り方、それのほうが多いし、実質的にもどうしても粗くなりますね、ある程度。長篇をあまり細かく最初からつくってしまいますと、あとで|にっちもさっちも《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》いかなくなっちゃうということがありますから、短篇ほどメモの段階がキチッとつくっておかなきゃならないし、中篇、長篇となるに従って、メモは次第に粗くなっていくと同時に、書いていく途中で、前段で書いたことの展開を、後のほうでメモでさらに先送りしておくという作業を絶えずしながら原稿を書いていかなければならない。そういう作業が必要になってくると思います。  ですから、自分が書こうとする小説が、長篇か、短篇か、あるいは中篇程度のものか、ということによっては、この構想メモもおのずと変わってきて、それなりの工夫をしなければいけないと思います。  たとえば、私がいまから十年前に書き始めた「小説天野宗歩」——これは推理小説じゃないですけど——という、いまもなお書き続いている小説があるわけですね。もうすでに二千五百枚位書いていまして、まだこれから後七、八年書くんですが、そういう小説の場合は、初めから十六年先にこれを書こうというのは……、それでも非常に重要な部分はあるんです。あるんですけれども、そこまではちょっと書ききれませんから、非常に粗っぽいメモを何通りも作っておくわけです。年代順に、文化文政時代には大体このくらいで、何歳の時にはこういうことにしよう、という大きなメモを作って、それぞれの大きなものをまた細かくするというような作業ですね。  つまり、大長篇小説の場合は、さらにこのメモのつくり方が、非常に多重的になってくるということが言えると思うんです。  まァ、こんな小説は滅多に書かれる人はいないと思いますけども、いわゆる大河小説というものを書く時、NHKでやる 山岡荘八さんの「伊達政宗」、あれは歴史物ですから、その小説の動き、その人物の動きは、大体歴史的に決まっていますね。ですから、そんなに難しくない面もあるんです。大所は決まっていますから、細かいところだけを決めていけばいいわけで——とは言っても、なかなかそう単純には作れないけど、歴史物は、それなりの作り方があるわけです。  ただ、本当のフィクションということになりますと、これは全く大変です。  私がいま書いている「小説天野宗歩」は、江戸時代の将棋指しの話なんですけれども、これは、その人が指した将棋の棋譜だけは残っているんですが、その人が一体どんな人であったかというのは、ほとんど何も残ってないんです。だから全く、作者である私が、創っていかなくちゃいけないんですね。ただし、創っていくんだけど、棋譜は残っている。その棋譜を小説の中に当てはめていかなきゃならない。だから、将棋が相当指せないと、これはダメなわけですね。  つまり、当時、名人よりも強いと言われて、実力十三段と言われた天野宗歩という人の棋譜を読み取れる力がないと……、いや、ぼくにあるかと言うと、ぼくもあまりありませんから、天野宗歩について語っている坂田三吉の本とか、そういうのをいろいろ手に入れて、そういうのから類推して、あと自分の想像力で書いていくということなんですけれども、歴史のものは、いろいろそれなりの難しさがあると思うんです。  大長篇小説のメモづくりは、これは例外的ですから、いまここでお話する一般的な小説の中篇程度のお話とは、格段で、ちょっと違ってしまいますけれども、そういうのも、やはり、メモが大切だということをお話するだけにしておきます。  さて、次にシノプシスとは違う点、つまり梗概《こうがい》と言いますか、普通で言う小説の粗筋《あらすじ》、そういうものとは、メモは違うわけです。  メモというのは、小説の粗筋が書いてあって、彼は、竜飛崎へ行って、彼女を殺して無理心中を図って……云々《うんぬん》というような、言葉で書いてあるんじゃないわけです。それは全く梗概、粗筋です。映画のパンフレットに、その映画の粗筋がよく書いてありますね。そういうものとは、ちょっと違う。つまり、梗概みたいなものを書いてしまっては、かえっていけないということです。  メモの中に、小説的なものを書いちゃいますと、それに引っ張られて、イマジネーションの働いた文章が出てこない。  ですから、あえてここに、シノプシスとは違う点、というふうに申し上げたのは、梗概的に書いてあるんじゃないメモ、そういうものを作りなさい、ということなんです。そのほうが、より生き生きとした小説になっていくだろう。あくまでもこれは書くための方法なんですね。  だから、平均的に筋をザァーッと書いておいていくんじゃなくて、そこで作者が飛躍できるような、そういうメモを作っておかなければいけない。イマジネーションによって、その言葉をヒントにして、そこに飛躍があるような、そういうものを作らなくちゃいけないわけです。  それでは、それはどういうのかというと、私のこれが一番いいとは勿論言いません。これは、私自身がいまの段階でこの程度ということなんで、もう少し細かく書いたほうがいい場合もあるでしょうし、また逆に短い場合は、もう少しあるところは細かく、あるところは粗くといって、ケース・バイ・ケースでかなり違ってくると思います。また、人によっても違ってくる。   犯人を変える  人によると犯人を変えちゃうということがありまして、ある有名な同僚作家が、ある新聞に連載した小説が、新聞ではAが犯人だったんですが、単行本になったら、Bという別の人が犯人なんですね。  それに近いことはあるんですけれどもね。連載が終った時に、みんなの評判を聞いてみると、「どうも、あいつはすぐ分ったよ」と言われることがよくありますから、口惜《くや》しいなと、じゃ、分らないようにしてやれ、というんで、本にする時に変えたわけです。  構想メモの中で、犯人としてつくっておいて書き始めた時に、途中で犯人を変えますと、たとえば真中まで書いたところで犯人を変えたとしますと、前半は、Aという人物が犯人ということで書いていますから、文章の端々に自然にそういうことがにじみ出てきますね。どうしても自分は知っていますから、何となくAを隠そうとしたり、Aが怪しいんだという雰囲気が、自分にあって書いている。ところが半分過ぎて、ちょっとまずいからBにしちゃえ、と思いますね。今度は、Bが犯人ということで、実は、変えることは出来るんだけれども、そういうふうな雰囲気が、筆の端々に表われちゃうわけです。  そうすると、一貫して通読した人から見ますと、大変矛盾した印象になってくるわけです。  確かに、途中で変えちゃったほうが、犯人は分らなくなります。どうもAらしいな、作者はAを隠してるな、自分は犯人を見破ったぞ、と思って読んでいると、突如として変わっちゃって、前の伏線みたいなものが全部生きてこない、という形になりますから、途中で変えると、小説の一貫性が自然になくなる。  ですから、推理小説にあっては、構想メモの段階で、書きながら途中で変えてしまってはいけない、ということは言えると思うんです。書きながら変えますと、そういう点で大きな矛盾が生じます。そのことは、鋭敏な読者には、よく見透かされてしまうということがあって、同時に、口の悪い人だと、これはアン・フェアであるということが当然出てきますから、まず、おやりにならないほうがいいだろうと思います。  ただし、この構想メモによって書いていった時に、一番最後にきて、ちょっと平凡じゃないか、と自分で思う時がありますね。その時、一番最後のところで、もうひと捻《ひね》りしておくという工夫はあってもいいと思うんです。  書いてみたら、ちょっと単調に推移してしまった、ということもあります。そういう時には、最後のところでのひと捻りというのはあってもいいんです。これは、犯人を変えるということと、ちょっと違うんですね。最後のところで急にまた犯人を変えちゃったら、これはもう、とてもいけないんですけれど、捻っておくということで、心理的に捻るとか、人物の科白《せりふ》によって捻るとか、いろんな捻り方がありますが、犯人を変えないで、最後の段階でひと捻りするということ、これはむしろやっていいんじゃないか。  まして、いまお話していることは推理小説ですから、推理的な部分は、簡単な捻りでは利かないと思います。やはり、一つの伏線があり、それによって展開があって書いていくわけですけれども、最後のところにきて、あまりにも単純であると思ったら、そこのムード的なもので、ひと捻りする。  じゃ、どういうふうにするのがひと捻りかというのは、一つ一つの小説によって違いますから、ここで、こういうふうにしなさい、ということはないし、この小説なら、という意見は申し上げられるかもしれないけれども、一般論として、こうするのがいい、ということは、ちょっと言えないんですね。  ですから、難しいんだけれども、とにかく最後のところで普通に終えないで、意外な……、たとえば探偵役のほうに意外なことがあってもいいんですね。「若い時に、同じようなことをこの人は経験した。だから……」というようなね。  これは、私の「ニセコ積丹殺人旅行」という小説の中で、ちょっとそれに近いことがあったんですが、ある老夫婦がニセコ、積丹のほうへ旅行する。積丹半島のところで、ある女性が男にひどい目に遇《あ》う。それを老夫婦が旅行の途中で知って、これは退職刑事ですから、探偵というか、推理をして探偵に乗り出すわけですけれども、そして、すべて解決した時に、ただ退職刑事が、縁もゆかりもなかった人を、旅行中に知り合ったからって解決したというんじゃ、ちょっと弱い。というふうに、自分で書いていて、最後にちょっと思った。  そこで、私は、最後のところにきて、強めておこうというので、実は、老夫婦の娘が、やはり、同じような目に遇って自殺したんだ、ということをその老刑事にポツンと言わせる、というところで、その小説を終えているわけですね。  そうしますと、ずっと普通に読んできて、「何だ、退職刑事が解決したのか」と思って普通に読んでいくと、そうじゃなくて、実は、その人にそういう過去があって、それによって強い探偵の動機によって、そういう行動を起こしたんだ、ということが言えるわけですね。それもミステリーの動機の大切な部分ですから、犯人だけが動機を持ってやるんじゃなくて、探偵のほうにも動機があるというと、読者が、「あ、読んでよかったなァ。自分もそういうような気持は分るよ」という共感を呼ぶことが出来る。  いま、私が、最後のところでひと捻りをしたほうがいいというのは、一つのケースで、全部が全部そうじゃなくて、何でも過去が出てくるというのは、またワンパターンになっちゃいますけれども。  要するに、普通に書いてきて、最後のところで普通に終ってもいいんだけれども、犯人を変えるというのはしないで、そのかわり、もうちょっと話の結びにアクセントをつけるという意味での捻りですね。これはむしろ、やったほうがいいと思います。  なぜかと言いますと、ずーっと構想メモに基づいて書いてきたものは、それだけでは予定された通りにしか書いてないわけですね。だから、当たり前のことを書いた、とも言えるわけです。だけども、書いているうちに、作者もいろんなことを感ずるわけで、その中の人生を生きてきたということがあります。その生きてきた中で、作者の感想としては、こうしたほうがいいというのが、書いているうちに必ず自分の心の中にそういう部分が出てきて、たとえば作中人物の探偵に、作者が共感をおぼえる場合もあるし、殺されなければ被害者もずっと生きてる場合がありますから、そういう人に感情移入する場合もある。犯人のほうに感情移入する場合もあります。  書いている途中で、それぞれの登場人物に対して起きた感情移入を、そのまま、小説を書いていながら育てておいて、最後のところで、それを結論的に書き出すということをすると、その小説が、読者の側に立って見た時に、最後のところにいって、「やはり、私もそういうことを考えたわ」とか、「確かに、そういう気持が分る」というようなことにすることが出来るわけです。  被害者が変わるということは、これはほとんどないです。一たん殺されちゃえば、あとは、トリックとして変わる場合があるけど、それ以外は、大体、被害者が誰ということは変わりませんが、犯人が変わるかどうかということもありますし、しかし、犯人は変えないほうがいい。  探偵が変わる、というのは、むしろ、よくあるんですね。決まりきった名探偵が解いている場合は別として、しばしば変わる場合がある。  同じ変わる場合で、一つ小説として大切なことは、視点を変えるな、という問題があるんですね。つまり、あるシーンを描く時に、作者が、どこの誰の立場から見ているか。一般的な描写をしている場合もあります。そうじゃなくて、登場人物の誰かの目で見ているように書く場合がありますね。この視点の問題は、これだけでも相当議論すると、一冊位本が書けるんじゃないかと思うくらい、非常に難しい問題なんです。  一視点で書く場合、これは、一番分りやすいのは「私」小説ですね。  普通、書きやすいのは、多重視点と言いますか、多くの視点で書く。ある時はA子から見る、ある時はB子から見る、という書き方があります。これが大衆小説では一番多いんですけれども、大体、私も、この多重的な視点で書いていますが、それは、そのほうが書きやすい面があるからです。  ただ、その時に、気をつけなければいけないのは、一つのシーンの中では、出来るだけ一視点で書くということですね。  たとえばここで言うと、五枚ずつで一つのシーンが展開していく、とご説明しましたけれども、この五枚の中では、ある一定の人から見ている視点で書いたほうがいい、ということですね。これも非常に杓子定規的な言い方ですけれども、次々と変えちゃうという人がいます。それは、不利であるばかりでなく、読者が混乱しちゃうんですね。  これも程度問題だと思いますけれども、一時、視点をしっかりしなきゃいかん、というので、非常に厳しく言われた時期があるんですね。  最初のうちは、一視点で書くか、あるいは多重視点で書いた場合は、極力それに気をつけて書くという程度のことでいいと思いますけれども、とにかく小説を書く上で一番気をつけなければならない点かもしれない。  ミステリーの場合、多重視点にすることによって、非常に誤魔化しが利くんで、書きやすくなるわけです。「私」という視点だけで書くと、「私」がどこでも行かなければならないから大変なんです。いろんな人の視点で書いたほうがいいけれども、あるまとまったシーンだけは、少なくともある人の目から書いているほうがいいだろう、ということが言えます。  これは、非常に心しなければならないことではないかと思います。  さて、最後の「メモ作成後」ということですが、これこそが一番大切なことで、一言で言いますと、メモ作成後はメモにとらわれないこと、ということが一番大切なことになるわけです。  これがまた、大変矛盾しているようなことを申し上げるわけだけど、構成を愉しむ文学であるから、推理小説にはメモづくりがどうしても欠かせない。メモ作りは大切である。なかんずく構成メモをきちんと作らなきゃいかん、と言っておきながら、最後に、メモが出来たあとは、今度は、そのメモにとらわれないこと、と申し上げなきゃならないわけです。  メモは小説づくりには大切ですけれども、小説というのは、メモを読むわけじゃなくて、最終的な製品である原稿が出来上がったもの、それを読む。それが読者の目に触れるわけですから、どんな人がどう書いたって、最後は活字になって読ませるわけですね。  メモを読ませるわけじゃないので、メモにとらわれて書きますと、非常にぎくしゃくしたものになる。そのためには、メモはキチッと作るけど、書いている時は、メモじゃなくて筆力にウエイトがかかってくるということになると思います。  その筆力はどうやったら出来るかというと、これは、ただ書きに書いて、さらに書くという以外にないわけです。書かなければ出てこないのが筆力ですけれども、とにかくそれによって、このメモが最終的には生きてくるということになるわけです。  つまり、メモなんかなくたって書ければいいわけですから、しっかりしなければならないけれども、書く時は、文字どおり、自分の持っている書ける力によって書いていかなければならない。それだけが小説を面白くするという大切なキーポイントになってくると思うんです。  非常にしっかりした準備をし、構想メモをつくらなければならない半面、今度は、それにとらわれないで書いていくという部分が、だからこそ生まれてくる、と私は思うので、そういうような形と、作家はいつも戦っているんだ、ということが言えるんじゃないでしょうか。  人によると、あまりメモがなくても書ける小説を書いている人も沢山いますけれども、それはまた、その人風の小説というものがあるんだろうと思います。エンターテインメントであるから、それで面白ければいい、ということは確かに言えるんですけれども。  いずれにしても、しっかりした構想メモをまずお作りになって、そのメモをよく咀嚼《そしやく》した上で、そのメモにとらわれない形で小説をお書きになる。こうすれば、きっと面白いものが出来てくるんではないかと思います。  読者として見た場合、グーンと筆が伸びているようなところが、もしあるとすれば、そこはあまりメモに詳しく書いてなかった部分だ、と逆に言えるかと思うんですね。つまり、書いてなかったために、その分、よく書き込むことが出来る。そういうものなんですね。  イマジネーションで伸びていく部分をその小説の中で感じさせるようなものになっていれば、本当はそのほうがいい、と私は思います。  メモと作品との関係は、非常に複雑なのであまりメモをつくったら、うまく書けないということもあろうかと思います。出来る限りきちっとしたメモをつくりながら、かつ、自分ではそれにとらわれないでお書きになる。  これは、ほかのことでもそうじゃないですか。たとえば手紙の文章を書く時でも、書き落とすといけないから、メモを書いておいて、あまりメモにとらわれると、用件だけの個条書になって、「以上、取り急ぎ用件のみ」という恰好の手紙になってしまうことがあると思うんですが、そういうことにならないように。  小説は、あくまでもそこに表われた文章そのものなんですね。それが小説なんであって、それの面白さであれば、メモに関係なく面白いものが書けるはずだと思います。 [#改ページ]   第七章 トリック論   トリックを読む  推理小説と言いますと、まずトリックというぐらいで、私なんかも、何でも昔は、トリック、トリックということを頭に置いて、特に新人の頃は、昭和四十年前後は、推理小説は本格がまだかなり盛んで、トリックを考えるということが、推理小説家の一つの重要な仕事だというふうに認識されていたと思うんです。そんなわけで私は、トリック、トリックと考えて、旅行している時もそれが念頭からはなれたことがなかったんですね。  これは、よく一つ咄《ばなし》でするんですけれども、ある時、旅行をしていますと、列車の窓から見ていたら、大きな字で「トリック」と書いてあったから、びっくりしまして、推理作家協会の出店でもあるのかと思ってよく見たら、台風でもって、前の「カ」という字が落ちていたんですね。カトリックだったんです。  そういうふうに、何を見ても一時、トリックのことを連想するという時期がありました。ですから、お店に陶器が並んでいて、トックリなんて書いてありますと、トリックと読めちゃうんですね。あれは本当に不思議なもので、人間というのは、疑心暗鬼という言葉もあるし、何か、自分がそうだと思っていると、本当に何でもそれに見えてくるということがありますね。ですから追い詰められた犯人が、非常にヒヤヒヤして、誰でも人を見ると刑事に見えちゃうというのは、本当だと思うんです。  私は特に、本格推理小説を書こうと考えていたものですから、そんなふうにトリックということが、絶えず頭にあったわけです。  もともとトリックを中心にしてストーリーを組み立てていったもの、そしてそこでスリルとか、サスペンスを生むように創った小説、それが本格で、この前、ミステリーの定義を申し上げましたが、その定義に当てはまっているのが、大体、本格物と言われるわけですね。したがって、その中には、論理的に解決される部分をいつも考えているものですから、その論理的に解決されるものは何かというと、犯人の側から言えば、中に出てくる人物に対する仕掛け、その仕掛けがトリックと言うわけですね。  そこで、本格推理小説を読むというのは、トリックを読むのだ、という考え方もあるわけで、トリックは作中人物が作中人物に仕掛けるトリックと、作者が読者に仕掛けるトリックと、大きく言いますと、二つあるわけですけれども、作中人物が作中人物に仕掛けるトリックは、わりあいにフェアに見られやすいんですが、作者が読者に仕掛けるトリックの場合は、時によると大変アン・フェアな印象を与えるということがあります。  しかし、いずれにしましても、推理小説の従来の定義に基づく推理小説の真髄は、トリックを除いてはあり得なかった、ということが言われると思うんです。  ですから、私も、絶えずトリックを念頭に置いて書いてきたというのは、いままでご説明した通りなんですけれども、その本格推理小説においても、私が江戸川乱歩賞をもらった昭和四十一年から、今年でちょうど二十年目に当たるわけですが、すでにその十年前に 松本清張さんが現われて社会派というものが澎湃《ほうはい》として日本の推理小説界を風靡《ふうび》した。その頃からはっきりと本格推理小説以外の小説、つまり、それは変革と言えば変革ですけれど、トリック以外のところに目を向ける小説がどんどん、どんどん浸透して、そのためにまた読者層が広がってきた。その読者層が広がったという中で、中には、トリック不要論という極端な意見までが台頭する今日になったわけです。  ですから現在では、本格はトリックを抜きにしては語ることが出来ないと言われていますけど、推理小説そのものとしては、ある意味では、トリックを主張する本格は少数派と言われておりまして、現実に諸外国ではほとんど本格ミステリーが影をひそめて、それに取ってかわったのが、いわゆる警察小説、あるいは犯罪小説と言われるものです。  本日のトリック論こそ、推理小説論の最新ミステリーの書き方と愉しみ方のポイントであって、これがクライマックスになる予定で全体がつくられているんですけれども、しかし、これは何と言いますかね、残念と言うわけでもないんですが、現在の推理小説界、読者の人びとの印象から言っても、トリック論を中心にした本格物は、むしろ少数派になってしまっている。つまり、面白い小説であればいいんだということが、非常に強く言われているために、何がなんでもトリックがなきゃいかんということは、むしろ言えなくて、トリックがなくても面白ければいいんだという意見のほうが非常に広く、私の印象では、おそらく二対八位の割合、つまり、五分の四位は、あまりトリックを重視しない小説が、ほとんど市場にあふれている。  これでも、私はひいき目に見ているんで、あるいはもっともっと少なくて、トリックを考えて少しでも入れようとしている推理小説は一割位かもしれません。つまり、推理小説という顔の中で、推理小説がミステリーという言葉のほうに置き替えられてしまって、論理的な謎の解決というようなことは、もう眼中にないと言いますか、あったとしても、それはメインではないという小説のほうが、非常に広くなって、そして多くの人に読まれている。こういうことが言えると思うんです。  一つの例として、沢山読まれている、読者が多いということは、つまり、読者層の低年齢化と無縁ではないわけでして、大体、小学校の三、四年の人から高校生位というところに多くの読者を持っている層では、その部分は、むしろ難しい謎解きとか、私が特にメインに考えている暗号物は、厄介だとか、面倒だという印象が読者の側にあるようでして、もっともっと面白く映像的になってしまう。ということになりますと、昔、それに一番近くあったのが、江戸川乱歩の少年探偵団物、少年物シリーズなんですね。  現在のたとえば映像化のほうで言いますと、テレビ化ですね。テレビ化される部分を考えてみますと、そういう推理小説全体の傾向が非常によく表われてくるんです。  相当シーリアスな話でも、「西部警察」みたいなテレビでも、非常に深刻な話かと思うと、どこかにふざけがある。そのおふざけの部分が、かなり視聴者を引っ張っていくということがある。そんなふうに全体が変わってきている。  そういうテレビとか、小説全体の動きの中で、トリックというものをどう考えたらいいか、というふうに現在ではなってしまっていると思うんです。もともとトリックがないものは推理小説ではないと、昔、本格推理小説の考えていた考え方が、だんだん変質してきて、むしろ味つけのような感じ、そういう役割しか与えられていないというのが現状ではないかと思います。  しかしながら、一応、本格推理小説というものを考え、基本的に推理小説というジャンルを考える場合には、どうしてもトリックを除外することは出来ないと、私、思いますので、そういうトリックについての基本的な考え方をお話してみたいと思うわけです。  トリックと言いますと、一言で言って、有名なのは、江戸川乱歩の「トリック分類表」というものがあるわけです。これがわれわれの聖書、バイブルのように、いままではなっていました。早川書房から出ました「続幻影城」という本の中で、江戸川乱歩が、自分がいままで読んだ、あるいは蒐集した諸外国、あるいは日本の推理小説を全部纏めまして、どんなトリックがあるか、分類したわけですね。それを「類別トリック集成」という言葉で著わしたわけです。江戸川乱歩がそれまでに蒐集した小説八百二十一を、どういう分類があるか、トリックによって細かく分類しています。  それは次のような項目になっているわけです。  まず第一は、犯人または被害者の人間に関するトリック。このトリックが一番多いということなんです。人間に関するトリックとは何かと言いますと、たとえば一人二役というのがありますね。つまり、犯人が被害者に化けるとか、共犯者が被害者に化けるとか、化けるというやり方。これが八百二十一のうち二百二十五例あると言っているわけです。  その次に多いのが、犯人が犯行現場に出入りした痕跡についてのトリックで、百六例ある。これはどういうのかと言いますと、一番分りやすいのは、密室トリックです。  当時、江戸川乱歩が読んだ推理小説のうち、約三分の一を、この二つで占めてしまうわけです。一人二役もの、密室トリック、これが推理小説で一番ポピュラーに当時使われていたトリックだったわけです。  あと、どんなのがあるかと言いますと、その次に多いのは、人および物の隠し方トリック。たとえば死骸をどこかに隠す。その中でも永久に隠す。死骸を海の底に沈めてしまうとか、切って焼いて粉々にしてしまうとか、いろいろな方法があるわけです。物の隠し方は、宝石とか、その他金品をどう隠すかという隠し方のトリック。  それから、凶器と毒物に関するトリック、いろいろな凶器を使う。奇抜な凶器。これは松本清張さんが書いたものでもありますけれども、固ァく粘ったお餅で人を殺して、殺したあと、そのお餅を刻んでスープの中に入れたり、そのお餅を刑事に食べさせちゃう。つまり、凶器がなくなっちゃうというトリック。これは清張さんが書いていますが、実は、その前にお手本があって、外国で、冷凍した肉で相手を殴り殺して、その肉を煮て食べちゃう、あるいは探偵役に食べさせちゃうというのがあります。それを清張さんは、冷凍肉をお餅に変えて日本的にしたというわけですね。これをヴァリエーションと言うんですけれど、こんなふうにいろんなトリックがあるわけです。  それから、犯行の時間に関するトリック。これが例のアリバイですね。この頃、乱歩さんはアリバイという言葉を使っていませんけれど、アリバイトリックです。  結局、古典的に非常に大きく残っているのは、密室とアリバイと一人二役物、これがトリックの三つの大きな柱になろうかと思います。  そのほかにどんなトリックがあるかというと、ほとんど作品の数位あると言えるほど、いろんな種類がありまして、�その他各種のトリック�と江戸川乱歩は言っていますけれども、非常に沢山あります。  その中で、トリックの中でもちょっと変わっているのが、暗号記法の種類と江戸川乱歩は言っています。つまり、暗号もトリックの一種として彼は分類しているわけです。  その他、動機のトリック、異様なトリックというのも分類しています。  こんなふうに様々なものを分類して、私どもは、新人としてデビューした前後は、いやしくも本格物を書こうという限りは、この江戸川乱歩の「類別トリック集成」を必ず座右の書として置いておいて、それを見ながら、自分がいま考えているのは、これに当てはまるだろうか、当てはまったら避けよう、というぐらいの気持で、絶えずそれに当てはまらないようなものを考える。そして、考え出すと、しめた! これはいいものが出来たぞ、ということで、それを書くというようなことをしていました。   トリック分類表  他人の小説を読んでも、江戸川乱歩のこの「類別トリック集成」、つまり、「トリック分類表」にあるか、ないかというようなことが随分議論されたもので、逆に言いますと、分類表を見て、この分類表のここのところは空《あ》いているようだ、ここのところにないぞ、というようなものを書こうとしたんですね。  たとえば一人二役物でも、百三十の例を彼は挙げているわけです。同じ一人二役でも、こんなのがあります。犯人が被害者に化けるというのでは、たとえばある人を殺しておきながら、自分がその被害者のふりをして歩いて見せて、その時間まで生きていたように見せかけて、自分のアリバイをつくる。あるいは逆に、一人じゃなくて二人、共犯者がいて共犯者が被害者に化けるというのもある。犯人が、被害者が何人もいるうちの一人に化ける。犯人と被害者が全く同一人、ちょっと不思議なようですけど、そういうのもあるわけです。犯人が嫌疑をかけたい第三者に化ける。つまり、自分がAという人間が憎いと思った時に、わざと自分がAの恰好をしてどこかへ行って盗みを働くとか、人を殺すとかいうことをして、その人を犯人に仕立てる。替え玉、これで一番多いのが、一人二役の逆に二人一役というのもあるわけです。分りやすいのは双子です。二人で一人の役をする。一人が東京にいた時に、同時に同じ人が横浜にいることが出来る。これを特に双子トリックと言っています。それから一人三役、三人一役、三人で一人をやる。これはヴァリエーションで幾らでも出来るわけでしょう。一人で四役とかね。 江戸川乱歩は、そこまで分類しています。そのヴァリエーションでいけば、三人五役とか、六人八役とか、幾らでも出来るわけで、そういうことでヴァリエーションを考えることも出来るんですけれども、そんなふうに、何かここから違ったものを考え出そうと随分苦労したものです。  その他、一人二役的なものでも、一番意外なので一番ポピュラーに使われて、私もよく書いたのが、探偵が犯人というものです。ところが探偵が犯人であるという設定の場合は、非常にアン・フェアであるという批判を受けやすいものですから、これは非常に気をつけなければいけません。犯人である探偵のほかに、もう一人、ちゃんとした探偵がいないと犯人即探偵というトリックの場合は、人から非難を受けるということがあります。  それからよく使うのは、いわゆる不具者が犯人というのがありますけれども、これは現在では、非常に書くのが難しいですね。不具者というのは、簡単に言うと、そういう言葉もおそらくあまり使っちゃいけない言葉になっていると思うんですけれども、差別用語ということでね。身体障害者ですね、その人を犯人に使うということは……、昔はよくやったんです。江戸川乱歩のものでも、「せむし男」とかなにか、それ自身が別に悪い人じゃないんだけれども、そういう人を悪者みたいに書いていくというのがあって、現代では、これはタブーとされています。そういう社会的な弱者を犯人役にするということは、非常に批判されます。ですから、これは皆さんには絶対お勧めできないことです。しかし、昔はよく書かれていました。  意外なのでは、動物が犯人というのもあります。「モルグ街の殺人」とか、有名な小説がありますけれども、オランウータンとか、ゴリラみたいな、ああいうものを犯人にするというのもありますし、あるいは シャーロック・ホームズの「まだらの紐」、ヘビが犯人というか、本当の犯人は勿論いるんですけれど、動物を使うトリックもあります。これもやはり、えてしてアン・フェアというふうな批判を受けやすいので、非常に難しいと思います。気をつけて使いませんと、批判されます。  こんなふうに、たった一つの一人二役の部分でお話してみても大変あるわけですね。  そんなふうに乱歩の「類別トリック集成」は非常によく出来ていまして、それだけに、なかなかこれを乗り越えて、これにないトリックを考え出すというのは非常に難しいと思います。ですから逆に、挑戦する愉しみも、昔はあったんですね。しかし、現在では、そんなにそれに拘泥《こうでい》するな、という意見が非常にありまして、同じトリックであっても違う話が出来ていればいいんだ、というような意見もあるくらいなんで、それが果していいかどうかは別としまして、そういう現状になっているわけです。  ところが、この「トリック分類表」を江戸川乱歩がつくって以降、さらに「類別トリック集成」を、新しい小説の中から、新しくつくられたトリックを分類しようという動きが出てきました。私が乱歩賞をもらってから三、四年後、昭和四十四年に、日本推理作家協会で出した「推理小説研究」(非売品)という本に、江戸川乱歩のトリック分類表のその後のトリック分類表、というのをつけ加えたわけです。これを作ったのが第一回江戸川乱歩賞を受賞した評論家の 中島河太郎氏と 山村正夫さんです。この二人の人が協力しまして、江戸川乱歩のトリック分類表に漏れていた、あるいはそれ以降の新しく創られたトリック、松本清張さんが書いたものとか、斎藤栄の書いたものの中からも二つばかり作品が挙がっています。  どういうのかと言いますと、「トリック分類表」という言葉で纏めていまして、やはり、江戸川乱歩と同じように分類しているんです。最初、一人二役からずっと始めて、いろいろやっていますけれども、その当時までのやつを一生懸命集めていまして、特に清張さんが沢山、「点と線」などでアリバイ物などを書いたものですから、入っております。 「その後のトリック分類表」について、どういう作例が多いかと言いますと、「犯人または被害者の人間に関するトリック」は三十七の新しい例が挙がっております。「犯人が現場に出入りした痕跡についてのトリック」が、その次に沢山挙がっていまして、この密室の例が三十六例。アリバイ物では、「犯行の時間に関するトリック」が二十二例。「凶器と毒物に関するトリック」が二十三例。  私のものは何が挙がっているかと言いますと、「真夜中の意匠」が一つと、「愛と血の炎」が一つと、二つ挙がっています。 「真夜中の意匠」については、「乗り物による時間トリック」というところに挙がっています。 「愛と血の港」——その頃は「愛と血の炎」という題で発表していたものですから、その名前が挙がっています——は、「凶器のトリック」というところで挙がっています。何で殺したかという、いろんな凶器を考え出すんですね。何もナイフとか、縄で絞めるとか、毒物を使うというのではなくて、何か新しいものはないか。私も、昔に絶対なくて、何か新しいものはないかというので大変苦労しまして、「その後のトリック分類表」に挙がるようなものを考え出そうと、当時、思った記憶があります。 「愛と血の港」は、全部がこのトリックで支えられているわけではありませんから、まァ、|バラ《ヽヽ》してもいいと思うんですけれども、その凶器はギャングウェイというものを使ったんです。ギャングというのは、集団のことですけれども、集団として船に乗ったり降りたりするギャングウェイというものがあるんです。これは電動式で、スイッチを入れると電気仕掛けで階段が伸びたり縮んだりして、船にくっつく。そのギャングウェイで人を殴って殺すという、非常に奇抜なトリックなんですけれども、電気仕掛けで、そういう機械を使ってやる。これは、いままでそんな機械がなかったわけですから、それを書けば、当然、新しいトリックということになるわけです。  この手のトリックでしたら、それこそ新しくパソコンとか、コンピュータとか、ああいうものが出来れば、またそれでトリックが出来るように、機械的に新しくなったものをどんどん使えば、新しいトリックが出来る。こういうことが言えると思うんです。  これは、私が、新しいものとして考え出した一つの例です。その後いろいろ考えたんですけれども、実はこの「トリック分類表」は、昭和四十四年に出ていまして、四十四年までのものは纏まっていますが、それからすでにもう十六、七年経っていまして、その間に新しい小説がどんどん発表されていますけれど、この「トリック分類表」は、その後、新しく作られていないわけです。したがって、まだまだ新しいトリックも当然出ていると思います。  ただ、きょう冒頭で申し上げたように、トリックに対するウエイトが、比較的軽くなってしまったということで、こういうものを地道に研究する人が少なくなっている、あるいはほとんどいないということで、非常にこれは淋しいことだと思うんです。この「トリック分類表」をもっと完成させて、それこそコンピュータに入れておいて、書こうとする人が、こういうトリックはまだ書かれてないかな、というのをインプットしてみると、答えが出て、「それは使ってません」とか出てくると、非常にいいと思うんです。  清張さんが、昔よく言っていられたのは、トリックというのは非常に大切なんだ。一回使っちゃえば、それでもう終りなんだから、原稿料のほかに、特許みたいに、トリック料をもらっていいんじゃないか、それを払ってくれないのはけしからん、というようなお話を、まァ冗談も半分あったでしょうけれども、そう言っていたわけですね。それも、決して故《ゆえ》なしではなくて、トリックというのは、それくらいシビアに考える人もいるし、また、当時はそういう考え方のほうが中心だったんですが、もう最近はそうではない。  そうではありませんけれども、やはり、推理小説の大きな魅力の一つとして、トリックというものがあるので、そのトリックを考え出すという努力と、それを見破ろうとする読者の興味と、それが綯《な》い交ぜになって推理小説の読書界というのをつくり上げていると私は、そう思うわけです。 「トリック分類表」と、私は、いままでも言ったかもしれません、これからもよくお話しますけれど、それは、いまお話したような 江戸川乱歩の「類別トリック集成」とその後の「トリック分類表」、このことを指しているわけですね。  しかし、最近の人は、このことを知らないで書いているようです。それでもいいかな、という感じも、いまはします。なかなか、それだけ全部勉強しろと言っても、いまの人は大変ですから、そういうものに引っかからないようなものをお書きになれば、それでいいわけですから、あまり厳密に考えて、たとえばトリックのない推理小説は書かないほうがいいとかいうことは、申し上げないつもりですし、ただ、トリックというものの面白さに一たん憑《つ》かれますと、非常にマニアみたいになって、これがあるのにこんなの書いてダメだとか、全く同じものだ、という議論をしたりすると、これまた袋小路みたいなところに入ってしまいますから、少し楽に考えて書いたらいいんじゃないかと思います。   探偵小説のタブー  ここで、どうしてもお話しておかなければならないのは、探偵小説のタブーということが、昔から言われているわけですね。トリックというものを含めて、昔の——だから、いまの推理小説の話ではないんですけど——探偵小説のタブー、こういうことをしてはいけないんだという、アメリカの ヴァン・ダインの「探偵小説二十則」と、イギリスの ノックス大僧正の書いた「ノックスの十戒」、それから ディクスン・カーの「四大公理」というのがあるんです。つまり、探偵小説を書くには、これこれをしてはならない、こういうことを書いてはならない、ということを言われているわけです。  たとえばどんなのがあるか、ちょっとお話しますと、ヴァン・ダインの「探偵小説二十則」では、いまのトリックについて言いますと、「トリックは、探偵と犯人を中心に考案されるもので、読者にトリックを使ってはならない」。さっき私は、トリックは、作中人物が作中人物に仕掛けるのと、作者が読者に仕掛けるのがある、と言いましたけれど、ヴァン・ダインの「探偵小説二十則」から言うと、少なくとも作者が読者に仕掛けてはいけない、と言っているわけですね。  ヴァン・ダインは、非常に固いことを言いまして、そういうふうに一生懸命書いた人ですから、それもいいんですけど、「物語に恋愛競技を入れてはいけない」と言うんですね。私は、大体、小説というのは男と女の話であるから、それはむしろなくちゃいけない、というふうにお話したように憶えていますけれど、この人は、そういうことを言っているんですね。  そこで、ちょっと結論のほうから言いますと、ヴァン・ダインの二十則とか、ノックスの十戒というのは、悉《ことごと》くいままでの名作によって破られているんですね。誰も守っていない、と言ったらいいんじゃないかと思うくらいです。  ただ、気持として、ヴァン・ダインなり、ノックスがそういうことを言っている。それは決して意味がないことはないんですね。探偵小説がめばえて、それがだんだん発展するプロセスの中では、こういう程度のことを言って、自らの探偵小説というもののジャンルを自分で確立する。そのためには、こういうことはしてはいけないんだ、こういうものだということを規定する必要があったと思うんです。そういう限りでは、ヴァン・ダインの「探偵小説二十則」も、「ノックスの十戒」も、意味があったと思うんです。  もう少し言ってみますと、こういうこともヴァン・ダインは言っています。「探偵や捜査官を犯人とするのは、詐術であって、してはならない」、つまり、探偵即犯人というのも、これを書いてはいけないと言うんです。これはさっきお話したように、すでに 江戸川乱歩の「類別トリック集成」には、分類があるんですから、あるということは、もう書かれているわけです。ですから裏を返しますと、これがこういうふうに言われたのは、当時、もうそれは書かれているから、そんなものは書いてもダメですよ、という意味にも取れるんですね。ヴァン・ダインは、自分でまずやって、これはほかの人に使われちゃいかん、よって、これは書いてはいかん、というふうに言ったという感じも、ちょっとするんです。  しかし全部が全部、そういうことばかりじゃなくて、ヴァン・ダインの「探偵小説二十則」では、こういうことを言っています。 「偶然や犯人の自供によって解決してはいけない。解決はあくまでも論理的に推理によるべきものである」  これは、推理小説の当然のルールみたいなものなんですけれども、本格推理小説としては、ここの部分、これはヴァン・ダインの「探偵小説二十則」のうちの第五項目ですが、推理によって解決するということ、これは当然なんです。  また、ヴァン・ダインはこんなことも言っています。 「扱う事件は、殺人事件が絶対的である。殺人以下の小犯罪では、長篇を読ませる力が生じない」  つまり、殺人事件を書け、ということを言っているんですね。これはなぜかというと、ヴァン・ダインという人は、ほとんど長篇を書いたんです。だから、こういうことを言ったんです。短篇作家だと必ずしもこういうことは言わなかったと思います。  ですから、こう書いてあるからといって、殺人が絶対的とは、私は思っていません。思っていませんけれど、確かに、長篇だと殺人でないと間が持てないということがあると思います。  これも当然のようなことですけれども、「犯人は最初から登場しているべきである」ということも言っています。終りの頃、急に出てきて、「あの人が犯人だ」と、これをやられたんじゃ、確かにたまりませんけれどもね。これは 鮎川哲也さんとお話した時に、やはり言ったんですが、鮎川さんも本格物ですから、つまり、どの辺で怪しい人物を出すかというのは非常に難しい。ヴァン・ダインのように最初から出さなきゃいけないということになると、むしろ逆に、最初に出た奴が犯人じゃないかと、読者はだんだん利口になっているから、逆に見破られちゃう。だから、しばらく進んだところで犯人を出してもいいんじゃないか。それをどの辺で出すかということはその小説のつくり方によって違うけれども、なにも一番最初に出てこなきゃならんということはないだろう、ということを言われていましたね。  ヴァン・ダインは、ある意味では、昔の本格探偵小説の基本的なことは言っているわけで、「殺人が多発しても、犯人は一人でなくてはならない」ということも言っているわけです。次々と犯人が変わっちゃったり、つまり、犯人が大ぜいいちゃいけないんだ、ということを言っています。  最後が自殺で終った場合、ヴァン・ダインはこういうことを言っています。 「犯罪事件として捜査されていたのに、最後になってみると、事故死、あるいは自殺などあってはいけない」  ヴァン・ダインによると、何も書けなくなっちゃう……。つまり、最後まで他殺で押し通して論理的に解決しなきゃいかん。私は、そうは思わないんですね。やはり、自殺もいいんじゃないか。いろんなのが許されていいと思うんです。  それからヴァン・ダインによると、最近の企業小説とか、国際的な小説は一切ミステリーとして認められていないんです。「国際陰謀とか、政治犯罪は使ってはならない」ということを言っていますからね。  ここでちょっと面白いのは、非常に具体的なことを言っていますね。たとえば「煙草の吸殻を手がかりにして犯人を推定するのはいけない」と言うんです。喫いさしの煙草が現場に落ちていた、その唾液から犯人が特定されるとか、歯の形が残っていて、それから、あいつが犯人だというのが分る。そんなのはいけないと言うんです。  指絞を偽造するのはいけない。替え玉によるアリバイはいけない。一人二役なんていうのはよくないんですね。双子トリックもいけない。  ヴァン・ダインの「探偵小説二十則」を本当に忠実に守って書いたら、おそらくつまらない小説しか出来ないんじゃないかと、私、思うんです。  しかし、一応こういうことを言うことによって、その当時、探偵小説というものがはじめて小説界に、一つの確固たる地位を占めることが出来た、というふうに私は思って、このこと自身は、非常に評価できると思うんです。  もう一人の、イギリスのノックスのほうを言いますと、「ノックスの十戒」も、大体、いまの二十則に非常に似ていることを言ってます。  ただ面白いのは、これは、いま言うと、非常に差別的になっていけないんですが、「中国人を登場させてはいけない」ということを言っているんですね。こういうところが非常に人種的偏見みたいなものがあるんです。どういうことかと言いますと、この頃、イギリス人とか、アメリカ人は、中国人は神秘的で、超自然的な性格を持っている人間に見えたらしいんですね。ですから、中国人が出てくると論理的に話が進まない、というふうに考えた。だから、中国人は出しちゃいけない、なんていうことをノックス卿は言っているわけです。  それから、探偵とか、記述者「私」というのが出てきて、それが犯人だったというのはいけない、と言っているんですけれども、実は、世界の名作はかなりこういう作品が多いんです。私も、こういう手の作品は沢山書いているものですから、「ノックスの十戒」をあまり守ってないほうでして……。  いま、ご紹介しているのは、かつてそういう意見があることによって、探偵小説が、他の小説から違ったジャンルとして認められるきっかけになった、という意味でお話しているのであって、今日、これを守るとか、守らないとかいうことは、全然お話の外でして、これを守るという意味で聞いている必要はないと思うんです。ただ、そういうことを当時言われた。  これも、十戒ですから、十項目あるんですけど、あまりお話してもしょうがないんで、たとえばヴァン・ダインと同じようなことも言っているんです。双子とか、二人一役の変装などもいけないとか、しっかり説明せよとか、いろんなことを言っていますね。  ディクスン・カーの「四大公理」というのがあります。カーの場合は、こういうことを言っています。  一つは、「犯人は、探偵または使用人、またわれわれが思考を辿れないような何者かであってはならない」。犯人即探偵説を、やはり、否定しているんです。三人に共通しているのは、この部分ですね。犯人が探偵であってはいけない。しかし、再三お話するように犯人即探偵というのは、あらゆる傑作の中にいろんな人が一回は書いていると言っていいんじゃないか、と私、思うんです。  二番目は、「犯人は絶対に怪しまれてはならない」  三番目は、「犯人は単独者がいい」、複数であってはならないということですね。  ディクスン・カーの「四大公理」の一番最後は「読者に問題点をはっきりと示さなくてはいけない」つまり、犯罪は明確に書いて被害者がどのように消えたり、どういうふうに殺されたかということを正直に書いて、そして明確に問題点を示さなければいけない。  この「四大公理」は、非常に抽象的なことですから、具体的にどの程度書けば、明確にしたことになるかどうかというのは、また人によって違うと思うんですね。ですから、これも非常に抽象論で、はっきりしません。しませんけれど、いずれにしても、本格物の探偵小説の最盛期に現われた三人の先駆者がこういうことを言っている、ということだけは記憶に留めておいていただいていいと思います。  トリックということを語る場合は、どうしても、この三人の意見は頭に入れておかなければならない。少なくともいままでは、ならなかったわけです。  以上が、探偵小説のタブーと言われているもので、歴史的なものです。  トリックと言う以上は、先ほどからお話しているように、密室論と、アリバイ論と、一人二役論という三つは、どうしても触れざるを得ないんですけれども、新しい密室の創り方がもし出来れば、それなりに新しいトリックになって、新しい小説が書けると、私、思うんです。  どういうのがあるか。いま、私がちょっと考えてみたのでは、密室では、たとえば昔は、この一つの部屋で人が殺されていて犯人の出て行く出口に鍵がかかっていて出られない、と言った場合に、この部屋のどこかに穴がある、床を持ち上げると、そこに穴があって地下室に通じている、というようなのは使ってはならないと言われていましたね。そういうのはアン・フェアである。  しかし、昔と違いまして、いまは、新しい新建材なんかも出来ましたから、私は、そういう穴を使ってもいいんじゃないか、という気がしているんですね。新建材によるものは何かないか。  これは、私が「密封恋愛」という小説の中で使ったんですけれども、最近の糊《のり》は、非常に速乾性で、ものすごく早く固まっちゃうのがあるんですね。ですから、そういう糊を使いまして、人を殺して、床を持ち上げて、そこから逃げて、糊を塗ってパッと閉めちゃう。警察が来て調べた時には、もう糊がカチンカチンに固まっているから、そこから剥がして出たと思えないというような、簡単に言えば、そういう新しい建築材料を使ったトリックもあるのではないか。必ずしも穴はいけないということはないだろう。  密室の一番の問題は、鍵をどう締めるかという問題ですね。いろいろな鍵があって、鍵の研究というのは、皆さん、推理小説に関係なく、団地の鍵やなんかのためにも、よくなくしたりなんかするから、鍵というのは一体どういうものか、研究されると非常に面白いんですね。  アメリカあたりで使われている古典的なミステリーでよく出てくるのは、鍵穴があって鍵を抜くと室内が見えるんですね。いまは、シリンダー錠という形になっていますので、ほとんど見えません。ですから、そういう鍵でも相当違います。昔は、鍵穴から糸を通すということが出来たわけです。しかし、いまはそうじゃなくて、たとえば電子錠というのがありますね。  これは、ゴルフ場のロッカーで、この間、私もめぐり会ったんですけれども、コンピュータと同じで、ナンバーをインプットして、自分の好きなナンバーで、その都度、数字によって合鍵にするというのもあります。それなんかも、トリックとして使えるだろうと思います。  私は、この間、ジュネーブに行った時に、あるホテルの鍵で、自分で数字を書いて、それを光で判断させて、ですから、鍵といっても、紙に字を書いて、その紙を入れると、それを憶えて、その字でないと反応して部屋が開かないというのが、スイスのホテルで使っている鍵にあるわけです。  ですから、鍵のヴァリエーションで考えれば、これからまだまだ沢山の密室が、新しく考え出されるんじゃないかと思います。  ただし、そういう物理的なものだけだと、読者が知らないというと、自分が知らないものを書かれても面白くない、ということもあるんですね。だから、それを面白くするためには、たとえばあらかじめこういう鍵があるということを、小説の前のほうにくどいくらい書いておいて、そしてそれを使うんだけれども、どこかにまた一つ捻りを置いて、それが分っていても、なおかつ騙されちゃう、というふうに創る、ということでないとダメだと思うんです。  新しい密室は、私は、まだまだ出来るんじゃないか。鍵の種類があるだけ、密室の種類はあるだろうと、私は思うんです。  その上に、あと、心理的なトリックとかなんとか、いろいろ付け加えれば、密室の創り方としては、無限とは言いませんけれども、まだかなり出来てくるんじゃないか。もう密室は出尽くしたという説もありますけれども、ますますこれから鍵の種類は増えると思いますから、密室の種類も増える、ということが言えると思います。  皆さんもぜひ、そういう意味の密室、まァ心理的なトリックはそんなにないと思うんですけれども、新しい鍵による新しいトリックは、まだあるんじゃないかというふうに思っています。   アリバイトリック  アリバイ論ですけれども、松本清張さんの作品は大部分がアリバイ物です。このアリバイ物は、外国ではあまり発達しなかったんですね。日本は、なぜアリバイ物が沢山書かれるようになったかと言いますと、日本は国鉄というものがあって、これは非常に時間が正確だというところですね。  アメリカは、主に自動車が中心になりますから、自動車によるアリバイトリックというのは非常に難しいんです。どこかで実際に走れるけれども、そんなに正確に走っているわけじゃありません。自動車ですから自由に行ける。  ところが日本の、あの大衆輸送手段としての国鉄は時間が正確ですから、時間表というものが日本ぐらい発達している国はないわけです。その日本の時刻表、国鉄というものの上に立って、日本のアリバイトリックは発達したと、私は思うんです。だから、清張さんの「点と線」によって、戦後、にわかにアリバイ物が叫ばれたその裏には、日本的な事情があった、と私は思います。日本でなければ、あれだけアリバイ物が発達することはなかったろう。  ヨーロッパなんかは、列車の時刻が非常に不正確ですからね。皆さんもご承知のようにドイツで列車に乗りますと、発車のベルが鳴らないんですからね。ホームに降りていると急にパッと締まって、列車が行っちゃいますからね。日本だと、そんなことしたら「なぜ発車のベルを鳴らさないんだ」と、みんな怒りますよ。向こうの人は平気なんですね。私もドイツに行った時、列車のそばにいたからいいけれども、そうでなかったら、パタッと締まって、それっきりドイツに置いてきぼりになっちゃうという、そういうシーンがあったんですけれども、いつ出るか分らないんですね。  これは余談ですけれども、日本のホームの矢印も、たとえば横浜だと、次は保土ヶ谷とちゃんと矢印が出ていますけれど、ヨーロッパにはまるっきりないんですね。そこの駅の名前しかないから、次の駅がどこに停まるか分らない。アナウンスもないんですね。日本では、「網棚の忘れ物がないように」なんて、あんな親切なアナウンスは全然ありませんから、何にもなくて急に出て行っちゃう。どこへ向かって走っているのか、さっぱり分らない。ヨーロッパは、うっかりすると列車に乗ったまま外国に行っちゃいますからね。  そういうように、ヨーロッパの場合なんかは、日本で言う時刻表を中心にしたアリバイ物が発達する基盤が、非常に日本よりは少なかったと思うんです。ですから、逆に日本で「点と線」以来、アリバイ物が大変発達した理由が、よく分るわけです。  昭和三十年代の頃は、日本では飛行機はまだまだ一般的ではなかった。大衆の輸送手段としては珍しかったので、列車だと思ったら飛行機だ、というのは、非常に意外性もあったんですけど、最近は、飛行機は一般的な乗り物になっています。ですから、アリバイ物で、列車に代わるもの、そして意外な輸送手段を何か考える、というのは、また何か新しいものを考えなければいけません。たとえば熱気球を使って移動するとか、ヘリコプターで、自動車や列車を追い抜いて行こうとすると、音がしますから、すぐ来たか、来ないか分るし、アリバイで特別な輸送手段を創り出すというのは、非常に難しいと思います。  しかし、時刻表に載ってない列車も沢山走っていますから、貨物列車とか、団体列車とか、ああいうものを使うという方法もあるけれども、いまは警察も大変勉強していますから、普通の手段では、アリバイ物は、そう新しいものが創れないかもしれない。この辺もしかし、全く未来がないというのではなくて、新しいアリバイは、日本の土壌の中で、これもまだ出来るんじゃないかという気がします。これもやはり、研究課題だと思うんです。  一人二役論は、これは沢山あって非常に難しい問題なんですけれども、一人が二人の役をするというのは、簡単に言いますと、変装論ということになると思うんです。  昔、江戸川乱歩の頃は、怪人二十面相が変装の名人として……、これはアルセーヌ・ルパンの真似なんですね。これを江戸川乱歩が真似して、「怪人二十面相」を書いたわけですけれども、あの頃と比べると、いまはもっと変装が出来るようになったんですね。そう言ってはナンですけれども、女性のお化粧、メーキャップなんていうのは、大変な変装の一つですから。だから、昔よりも変装のリアリティーというものが、大変出来てきた時代だろうと思うんです。整形手術も昔よりも遥かに進歩していますね。昔は、ギャングなんかが指名手配になると、すぐ顔の整形手術をしたと言うんですけれども、いま、本当にカネをかけてうまくやれば、分らないような顔になることが可能だと思います。  だから、一人二役論も、現代的な何か面白いものを使えば、まだまだ可能性はあるんじゃないか、リアリティーも十分あるんじゃないか、と思うんです。  一人二役というのは大変面白いんで、一番科学的で面白いのは、「ジキル博士とハイド氏」という話がありましたけれども、化学薬品を飲むことによって人相が変わって、同時に性格も変わって善人と悪人が交互してしまうという話ですが、一人二役論を、科学的に、SF的にやれば、ああいうものになるわけです。そうではなくて、現実の中でやるとすると、整形手術か、あるいは変装ということになるわけです。  変装は、非常に興味があります。変装ということをさらに言うと、変身という言葉がありますね。変身というのは、これまた別のジャンルにもなるんです。変身願望というのは、すべての人の中にありまして、もう一人の人間として生きる。ぼくらのような推理作家は、変身願望が非常に強い人間がなっているんじゃないかと思うくらいで、誰でもが変身願望を持っていますね。いまの自分以外の自分として、もう一回、人生を別のことで生きてみたいとか、そういうような気持ですね。  いま、不倫とか、浮気の時代とか言われていますけれども、あれも変身願望の一つだと思うんです。もう一つ別の人間になってみたいという、そういうことが人間の心の中にある。それが推理小説の一つのテーマであると同時に、人間の隠れた強い要望になっているわけですね。ですから現在、一般的な小説でも、そういう不倫とか、浮気が大変読まれたり、記事なんかで人気があるというのは、一種の変身願望じゃないか、と私は思うわけです。  一人二役論の、この辺のことだけでも、おそらく話をしていれば、大変長くいろいろな問題が出てくるんじゃないか。人間の本質に迫るような話だって、本当は、一人二役というところから出来ると思うんですけれども、一応ここでは、変装というものが、江戸川乱歩の「怪人二十面相」のような幼稚な時代から比べると、いまは非常にリアリティーのある、現実的な変装が出来るようになってきている。その上で、何か新しい一人二役というものが、推理小説の中で書けるんではないか。そういうことを指摘しておくだけにしておきます。 「真夜中の意匠」という作品は、私の代表作のひとつです。実は、私自身が、江戸川乱歩の「類別トリック集成」を見ながら、これは、この「トリック分類表」にはないから、こういうものを書けば、新しいものになるということで書き上げたわけですね。そういう意味の苦心が、「真夜中の意匠」にはあったわけです。  ところが、その後、全く同じトリックを別の作家が発表して、新しいトリックであるかのように発表したということがあります。しかし、それはだいぶん後になってまして、時代が変わっちゃって、トリックは同じものでもいいんだ、同じものでも、話が面白ければ、それはそれでいいじゃないか、という意見がだんだんと一般的になってきていたんですね。ですから、あまりそれを強く非難する人もいないという状態になってしまって、トリックというのは、そういうふうに変質しているんだということを、私も思い知らされたという、非常に歴史的な意味のある作品なわけです。  この作品は、日本推理作家協会賞の候補になったんで、大抵の推理作家は知っているわけですから、知らないというふうには、私、思いませんで、知りながらも、なおかつ書いても、そういうトリックについての批判が、非常に薄れてきてしまっていたという、一つの象徴的な事件だったと、私は思うんです。   個性味のある面白さ  推理小説は、面白ければよいか、ということに触れてみます。この「面白ければよいか」というのは、トリックがなくても、推理小説は成立し得るとした場合に、では、その小説自身が、ただ面白ければいいかという時に、面白いというのは、一体どういうことなんだ、ということですね。それを問い直してみたいんです。  面白さにはいろんなのがありまして、いまの人の面白さは、小説の中にギャグなどを入れまして、ギャグがあって面白いな、というような形の面白さ、というのが非常に多いと思うんです。会話を多くして面白くするということは出来ると思うんです。一種のドタバタみたいなものも書けるんですけれども、やはり、面白いというのは、仮にトリックがなくても、別の意味の面白さというのがある。  その面白さというのは、私が前にお話したのを思い出していただきたいんですけれども、本格と社会派的なことに加えて、面白さというものを加える。それは、作家の一つの個性をそこに加えるというお話をしたと思うんですが、書き手の持っている面白さというものをとにかく出す、という意味の面白さじゃなくちゃいけないと思うんです。  ただ単に、これだったらみんなの目を引くだろう……。たとえばテレビのギャグ物みたいな形での小説の面白さをそこに出そうというんではなくて、その人が持っている本来的な固有の面白さというものを、この小説の中に出すこと、それが大切だと思うんです。  それが何であるかは、みなそれぞれ資質がありますから、実は、それぞれの人によって違うと思うんです。  ですから、これまでの話でお分りいただけたかと思うんですけれども、トリックそのものは、非常にウエイトが低くなってきている。それだけに逆に、推理小説の書き方が難しくなってきている、ということが言えると思うんです。そこに逆に、じゃ、面白さは何であるかというのを、自分で考えていかなきゃならない。個性味のある面白さというものを、トリックに代わるものとして、それに置き替えていかなきゃならないという時代が、現代だと、私、思うんです。その部分は一体何だ、と……。  たとえばある人にとっては列車物であり、ある人にとってはバイオレンスみたいなものであり、ある人にとってはユーモアであり——というようなことが言えるかと思うんですけれども、とにかく推理小説というものを書き、あるいは読むという時に、読者も選択しますから、ユーモア物を読みたいという人は、ユーモアのあるものを読むし、勿論、トリック物を狙《ねら》って読む人もいます。とにかくいろいろ人によって違ってて、非常に多様化している。多様化の中で、トリックに代わる面白さというものを真剣に考えなきゃならない時代がいま来てて、それは決して安易ではないんだ。  言い方が悪いんですけれども、逆に、トリックが大切で、トリックのあるものさえ書けばよかった……というと、これもちょっと語弊があるんですけれども、とにかく本格物の真髄としてのトリックを入れていればよかった、また、入れれば一応、推理小説である、探偵小説であると言われた時代は、むしろある意味では安易ではあった。ということも言えますね。「トリック分類表」とか、そういうものを見て、それにないものを考え出してそれも入れる。そうすれば、もう小説は出来たんだ、というふうな考え方は、過去のものなんで、そういうことでは、むしろ許されない。  トリックそのものは、決して死滅していませんけれども、そういうもののウエイトが、だんだん少なくなるに従って、それを埋める部分ですね、その面白さという部分は何であるか、それが逆に問われるという形で、推理小説は一つの大きな問題をはらんできたということが言えると思うんです。  一番最後に、将来展望ということになるわけですけれども、トリックというものを、では、皆さんこれから推理小説を書いたり、読んだりする時に、どういうふうに考えるかということ、それも人によって違うと思います。  たとえば自分は、トリックのないものはあまり面白いと思わない、少なくとも推理小説としての面白さはないものというふうに理解する、とおっしゃる人もいるでしょうし、いや、それはなくても、一応面白ければいいんだという例の言い方で、それを認める人もいると思うんです。  面白ければいい、面白ければいい、というその言葉に流されて、いわゆるパスタイムとして、これも冒頭お話したんですけれども、飛行場に行って空港の売店で一冊買って、向こうに着くまでに読み終ればいいんだという、そういうパスタイム的な読み方をする人は、それはそれなりに、あまり難しいトリックがあったり、複雑なものはあまり読みたくない。むしろあっさり読めればいいんだ、という人もいるでしょうから、それはそれでいいでしょうし、また、そういうのを狙って書く人もいると思うんです。  しかし、今日どういうことが、たとえば編集者の中から言われているかと言いますと、また再び本格志向ではないか、という言葉も言われているんです。これはちょうどスカートの長さと同じなんですね。非常に短くなったと思うと、ロングになって、また短くなって、もう、スカートの長さなんていうのは、長いか、短いかしかないでしょう。だから、長くなったり、短くなったりして、流行というのはいくんですけれども、それと同じように、本格、本格と言われていたものが、本格がある程度行き詰まってくると、今度は、いわゆるサスペンスというものを中心に動いていく。サスペンスというのは、要するに、ハラハラ・ドキドキというのが続けばいいという意味の面白さでくるわけで、勿論、そのほかに、ユーモアとか、いろんなのがあります。  そうすると、しばらくすると、それがいかにも作者の筆力的なものに支えられてしまって、トリックなんか、早く言えば骨がないというか、読むべきトリック的な部分がないと、それをまた求める気持が湧いてきて、いわゆる本格待望論、また本格がいいんじゃないかという、日本人の中には、どうもそういうのがあるんですね。  終戦直後、江戸川乱歩とか、横溝正史とか、みんな集まりまして、米の飯が食いたい、と言ったんですね。あの頃は、大体飯がなかったんですからね。 「米の飯が食いたい」という意味は、勿論、本当に飯もなかったし、同時に本格推理小説が読みたいという意味だったんですね。  現在はもう、米の飯は、みんなあまり食いたいと言わないんですね。それとちょっと似たところがあります。パン食がいいとか、いろいろなことを言って、いろいろな物がありますけれども、やはり、最近また米かな、という意見もありますから、それと同じように、また本格志向になってきているんではないかと思います。  じゃあ、斎藤栄はどうなんだ、と訊かれた時に、私は、やはり、多様な小説を出来る限り並行的に書いてみたい。本格的なトリックを考える小説も書いてみたい。それは大体三分の一位で、それからサスペンス調のものも三分の一位、その他いろいろな試みを入れたものを、また三分の一位、いろんなものをとにかく、沢山の歴史を背負《しよ》って、われわれは、今日ここにいるわけですから、単純なものだけを書いて、「トリック分類表」を左に置いて、右手にペンを持って書くというような状態ではなくて、そういうものを踏まえながら、多角的に書いてみたい。そういうふうに思っているわけです。  つまり、この世界も、他の流行の世界と同じように、大きな波が何回かくる。そういう形で、面白いトリックを求める。そうしたら、また、そういうふうに出ればいい。  ただ、ちょっとお話しておきたいのは、そういうふうに波でくることは事実ですけれども、やはり、その中でも、だんだんトリック重視の小説はおそらく薄れていくだろう。ウエイトが軽くなっていくだろうとは思うんです。  なぜかと言いますと、現在、沢山の小説も出ているけれども、視覚的な、つまり、映像的な文化というものが発達してきますと、難しいトリックとか、あるいは暗号とかいうものは、どうしてもそういうものに乗りにくいという面がありますから、そして、少なくともいまから二十年以上前は、小説を読んで、それがテレビ化するという形だったんですね。いま逆に、テレビ化したものが小説になるということもあるわけですから、これはかつてなかったことなので、そういうことを考えてみますと、テレビ小説というような形になってくると、これはもう、ややこしいものは映像化も難しいんですね。  これから、たとえば腕時計型のテレビとかいうものもどんどん出てくる。そういうものと競争しながら、あるいは共存しながらやっていくという小説の形を考えます時に、やはり、トリック重視のものは、ますますウエイトは低くなっていくだろう。  ただ、人びとの心の中に、やはり、推理小説はトリックというものによって支えられてきたという本質は、残っていくにちがいない。  ですから、これは私だけではなくて、ごく最近、ある編集者に会って話を聞いたら、やはり、これから本格物がまた待望される時がくるだろう。いま、そういうものの書き手が逆に少なくなっているから、待望される。また、いままでの沢山の小説、たとえば最近出ているセックスとか、バイオレンスの小説があまりにも多くなり過ぎているので、そうでないものに対する要望が増えてくるんじゃないか。  この間、テレビで、何チャンネルでしたか 小林桂樹が作家をやって、そういう話がありましたね。童話作家なんだけれども、バイオレンスを書いてくれと言われて、非常に苦しんで書くというのをやっていましたね。普通編集者は、童話作家にバイオレンスを書いてくれとは、あまり頼まないですよ。別に、書く人も、大ぜいいますから、なにも無理に書かせることはないんですけれども、つまり、それくらい、いまは何でもセックスとバイオレンスを書けば、それで読者がついてくるという時代なんですね。それがテレビにもああいうふうになって出てくるわけですから。  しかし、そうは言っても世の中には、いまの読者層は非常に広範に広がっていますから、たとえばセックスとバイオレンスが流行《はや》っていると言っても、そんなもの全然読まないという人も当然いるわけで、ミステリーというのは、やはり、トリック中心の小説だと固く信じている人もいるわけですから、いるからって、それが中心だと、私、思わないし、いないからと言って、そういう人たちのほうに乗っていくということも、またおかしいんで、ですから、やはり、全体を総合した形の中で、推理小説を書いていくべきだし、推理小説は、そういうふうに裾野《すその》を広げて、これからも発展していくだろう。こういうふうに思います。  ですから、きょうのトリック論のところは、本来で言えば、私の推理小説、いわゆるミステリーについての最大のポイントで、かつてもあったし、そしていまでもそうなんですけれども、何といっても、私が何度も繰り返して言うように、だんだんウエイトが少なくなって、価値が弱まってきているという事実だけは、否定すべくもないんですね。  そのことの中で、それを頭に置いて、だからと言って、私は、もうトリックは要らないんだとかいうことは、絶対にないと思います。少なくとも推理小説の面白さの一本の柱としては、トリックというものを絶対生かしておくべきで、それがあるということによって、骨太なしっかりした、いわゆる米の飯としての推理小説が出来るんだと、私は信じています。  皆さんが推理小説をお読みになる時に、トリックそのものの面白さを読み取るということは、決してやめないでいただきたい。どこかに面白い仕掛けがあるんじゃないか……、つまり、トリックというのは仕掛けですからね。その小説としての仕掛けでもあるわけで、その仕掛けというものは、やはり、面白く読んでいくのが、読者としても得なんじゃないか。  ただ、その場合、さっきお話したような、ヴァン・ダインの二十則とか、ノックスの十戒とか、そういうような気持で読むことは必要ない。あれはもう、あれが発表された時、すでに破られていた|べからず集《ヽヽヽヽヽ》なんでして、あれはあれなりの歴史的な役割を果しているんだ、というふうにご理解いただけばいいと思います。 [#改ページ]   第八章 具体的な執筆作業の前に   題名のつけ方  これまでで推理小説についての私の考え方など、基本的なことは、ほとんどお話しまして、いままでのことがお分りいただければ、すぐに皆さんは筆を執って小説を書き始めていただいて結構だと思うんです。後は、どんなふうに書こうと、どんな題名をつけようと、どんなふうなものが出来上がろうと、全く皆さんの責任においておやりになることで、それで書き上げればいいということだと思うんです。  ですから、きょうは執筆をする直前のこと、あとは実際に書くこと、という二つに絞りまして、お話を具体的に進めてみたいと思います。  実際に新しく小説をお書きになろうという時に、まず一番最初に考えなくちゃならないのは、漠然とどういうふうに書くかじゃなくて、タイトルを決めよう、というのが普通の考え方じゃないかと思うんです。  勿論、小説は、タイトルから決めていく場合もありますし、ミステリーですから、トリックから決めていく。つまり、発想の原点がタイトルにある場合もあるし、トリックにある場合もある。あるいはもっと大きくストーリー全体にある場合もある。あるいはまたヒーローとか、ヒロインというところにスタートのものがある。いろんな出方があると思います。  しかし、現在、推理小説の世界では、同人誌はいざ知らず、一般のプロの書いている小説であれば、まず題名が、大変に重要なウエイトを持っていることがお分りになると思います。題名によって、同じ作家の作品であっても、かなり売れ行きが違う。  では、題名は一体、誰が決めるのか。普通小説家が当然決めるんで、まず第一は、小説家が決める。これは当たり前のことですね。私の小説の題名も、勿論、私が決めているんですけれども、ものによっては出版社が決めるという場合もあります。出していったタイトルについて、出版社が注文をつけて、これよりもこのほうがいいんじゃないかということで、それによってタイトルが変わってくる、という場合もあります。あるいはもっと広く、取次というのがありまして、出版社が本を出すについて、取次が扱って、それが小売の書店に卸すんですけれども、その取次の発言権もだいぶ強くなっていまして、取次が意見を言う、ということもあるようです。  そういうふうにいろいろありますが、いずれにしても、とにかく人が本を買おうという時には、作者によって買う場合、出版社によって買う場合、題名を見て買う場合と、いろいろあるわけです。その中でも、特に題名はその小説全体を決めるという上で、非常に重要なウエイトを持っているということが分ると思うんです。  たとえば一つの例を挙げてみましょう。私の受賞作は、「殺人の棋譜」ですが、これは実は、私が付けた題ではありません。私が江戸川乱歩賞に応募した時は、「王将に子あり」という題名でした。ちょっと硬い題名だと、自分でも思いますけれども、江戸川乱歩賞の選考委員の中に、木々高太郎さんという人がおりまして、選者六人の大部分の人は勿論、私の受賞に賛成だったんですが、木々高太郎さんだけは、反対したんですね。  なぜ反対したかというと、私の小説の主人公は、悪い意図を持って人を殺したのではなく、愛によって人を殺したという設定だったので、そういうのはちょっと不自然である、それはおかしい、というようなことを言われたらしいんです。しかし、最終的には受賞を認めてもよろしい、そのかわりタイトルを変えろ、という条件を付けて賛成された。したがって、その時のタイトルは、「殺人の棋譜」がよかろう、ということを言われたそうです。  私は選考の席におりませんので、よく分りませんけれども、いずれにしてもそんなようないきさつで、私の初めて世に問うた長篇の「王将に子あり」は「殺人の棋譜」になってしまったんです。私の印象から言うと、棋譜という言葉が、耳で聞いたんでは、ちょっと何のことかよく分らないという感じがするんです。将棋のことをよく知っている人は、棋譜と言えば、すぐ分るんですけれども、普通の人は、棋譜って一体何だろう。神社、政党に寄付するという、あの寄付みたいな、「殺人のキフ」なんて、ちょっと普通では分らない人がいるんですね。  その後でも、電話なんかで喋《しやべ》った時に、「|キフ《ヽヽ》ってどういうふうに書くんですか」と訊く人がいるくらいで、私としては、あまり一般的でない題名だと思いますね。  しかし、ともかくそんなふうにして、私の最初の作品は、他人が付けてしまった題名で世の中に出ると、こういうことになっています。そんなことから、題名は、必ずしも作家が付けてないということが、まず第一にお分りいただけたかと思います。  その後、私が講談社から出した「紅の幻影」という小説があります。これも実は、私が付けた題ではないんですね。新人の頃は、いろいろ注文が多くて、なかなか自分の題では出せなかった。特に、昭和四十年代はまだそういう時代でして、これはもともと「日本の殺人」という題だったんですね。どうも「日本の殺人」では、はっきりしないからというので、講談社が付けたわけです。  私は、やはり、納得できないんですね。自分が付けたものでないと、題名というのはなかなか納得できなくて、途中でこれを改題しまして、「勝海舟の殺人」というタイトルに一時変えたことがあります。これはまた、それなりに非常に売れたんですけれども、売れてみると、やたらにタイトルを変えるのは……、この間、朝日新聞にも、タイトルを変えるのはよくない、というような記事がありましたけれども、それはそうなんですね。タイトルを変えると、私のファンの方は、これは違う小説だろうと思って、また買っちゃうわけですね。ですから、非常に気をつけなきゃいけないんですけれども、タイトルを変えると、完全に買っちゃいますね。ちょっと見れば分るんですけれども、鉄道弘済会の売店なんかだと、見ないでパッと買っちゃいますから。  そういうわけで、「紅の幻影」は、後に私が「勝海舟の殺人」と変えたんですけれども、またさらに改題しまして、「紅の幻影」に戻したんです。現在は「紅の幻影」ということで講談社文庫に入っていますけど、どうもそういうふうにタイトルというのは非常に難しくて、結論的に言いますと、やはり、タイトルは、自分で付けるのがいいですね。  皆さんは、当然、自分で付けるでしょうが、友人が、これがいいよ、と言っても、自分のタイトルは、自分でお付けになるのがいいと思います。そのほうが、仮にそれが悪くても、自分でやったことですから、納得できるんです。他人のやったことは、やはり、最後は納得できないという部分が残りますから、大切なタイトルであればあるだけに、ぜひタイトルは、自分の考えでピシッとお決めになることがいいだろうと思います。  いまは沢山同じタイトルがあるので、現在、これをチェックするために、日本推理作家協会では、コンピュータにタイトルを全部入れて、特に題名は管理しよう、と。今度はトリックを管理してほしいんですけれども、トリックはさすがにちょっと難しいものですから、タイトルはやろうということになって、いまこれからコンピュータを買って、あるいはリースするのかもしれませんが、なにかそういうことでやりたいと言っていますから、これからは、タイトルがダブるということはないと思います。  ただし、同じ長篇同士だと、タイトルがダブるということは避けなきゃいけませんけれども、しかし、長篇と短篇ならば、同じタイトルの小説は幾らもあります。私は、「枕草子殺人事件」という長篇を発表しましたけれども、ある女流の人が、やはり、「枕草子殺人事件」というのを書いていまして、これは短篇なんですね。ですから、私は、「奥の細道殺人事件」「徒然草殺人事件」「方丈記殺人事件」と続いて「枕草子殺人事件」を長篇として発表するということなんで、先に短篇の同題名のものがあることを知っているんですけれども、あえて発表する。こういうこともあります。  この題名は、大変付け方が難しいんですね。で、長篇と短篇でも多少違う。長篇でも、たとえば一番分りやすい例としては、松本清張さんの長篇の題は、一種独特のつけ方をしています。あれは参考になると思うんです。  と言うのは、清張さんの題名の付け方、たとえば「眼の壁」とか、「霧の旗」とか、「Dの複合」とか、何の何、というのが大変多いんですね。そして「の」の前後を挟む漢字は全然脈絡のないのを持ってくるわけです。 「眼の壁」、眼と壁とは全然関係ないわけで、そんなふうに持ってくる。これは、私は、俳句的な付け方だと思います。  あの人は、俳句の素養もあるようですけれども、全く違ったものを二つ、あるいは三つ、ポンと出して、その中の脈絡は、鑑賞する人の自由にまかせるというようなところがある。だから短くても、「眼の壁」というと、何だろうと、本来、眼と壁とは全然関係ないものですから、何かありそうだな、という感じもするし、よく分らない。だから読んでみようという気がするという、こういう感じだと思います。  ですから、清張さんの頃、昭和三十年代から四十年の初めの頃にかけては、そういう付け方をいろいろな人がやったと思います。  私は、これは俳句的な付け方と言っているんですけれども、これは、短篇でも応用できると思います。面白い題名を付けることが出来るんですね。一つの何々というものよりも、何の何とやって、前後をちょっと関係のないもので結ぶと、一体これは何だろう、とみんなが考える。それでいいという考え方もあります。  これはだけど、難しいんですね。またそうやっても、それだけでは、実際問題としてはなかなか売れないという問題もあるんです。何だか分らないから買わない、という人もいますからね。  そこで、二番目の殺人事件ということですが、殺人事件がちょっと多過ぎるというような昨今の批判もあります。私なんかも、沢山殺人事件と付けるほうの筆頭にあげられていますけれども、私は、何がなんでもそういうふうにしてるわけじゃないんですね。たとえば魔法陣シリーズにしても、魔法陣というような言葉を特に使って、殺人事件というのを使わないように避けるとか、いろいろ努力しているんですけれども、いずれにしても「何とか殺人事件」というのは、まず長篇。「ザ・マーダ・ケース・オブ……」という、殺人事件というのは外国の翻訳語なんですけれども、それが長篇として大変重みがあるということと、一目見てそれがミステリーであることが読者に分る。読者が間違って買っていくということはない。  まァ、私の場合は、斎藤栄と書いてあるだけで、ミステリーだと、みんな思ってくれますけれども、人によっては、「殺人事件」と書いてないと、何だか分らないというのもあります。そういう意味で、「殺人事件」というのを使う。  私は古くから、第一に「奥の細道殺人事件」というのもありますけれど、むしろその前は私は、「殺人旅行」というふうに付けていたんですね。一番古いのが「香港殺人旅行」、それから「黒部ルート殺人旅行」。私は、殺人事件というのが古くからあまりにも使われているものですから、最初は、それを避けようとしたんです。「殺人の棋譜」以来、しばらくは殺人旅行というのを使っていたわけです。いまでも殺人旅行シリーズというのを随分書いていますけれども、そんなふうにしていたんですが、「奥の細道」の時に、「奥の細道殺人事件」というのを発表してしまったので、あれが有名になってしまったので、しばらくまた殺人事件に戻ってしまったという感じもあります。  実は、あの「奥の細道殺人事件」も、私の付けた題じゃないんですね。あれは元は「複合汚染」という題だったんです。ところが 有吉佐和子さんが「複合汚染」というのをやってしまったので、私としては、とにかく「複合汚染」では、それこそ公害告発小説みたいになっちゃうので、「複合汚染」、あるいは「汚染」という題にしようかと思ったんだけれども、結局、有吉さんのほうが発表してしまったので、「奥の細道殺人事件」というふうにしたんです。ですが、結果的にはそれがよかったと思うんです。 「奥の細道殺人事件」という題名は、光文社が付けたわけですけれども、それを付けて以来、私は、続いて、じゃあ「徒然草殺人事件」にしよう。決して初めから、「奥の細道殺人事件」、「徒然草」「方丈記」「枕草子」と書こうとしたんじゃないんですね。初めは、全然違うそういうのを書いたら、タイトルが「奥の細道殺人事件」に変えられた。変えられたので、それに乗っかって、次々と書いてみた、ということなんです。  だから、必ずしも論理的に運んでいるわけじゃなくて、そういう波みたいなものに乗っかって書いている、という部分もあります。  いずれにしても推理小説では、殺人事件が多い、多いということをよく言われます。ですから、タイトルに殺人事件と付けるのは、最近はかなり勇気も要るんです。安易だと人に言われると厭《いや》ですから。私は、殺人旅行というのを前から使ってたんで、最近は、やはり殺人旅行というのを多用していますけれど、ついこの間は、少し違った付け方をしようと思って、「ガリバー・コンプレックス※[#○に「殺」]」という題のミステリーを発表したんです。※[#○に「禁」]とか、※[#○に「ビ」]とかいうのがありますが、※[#○に「殺」]とやって、これを殺人事件と読ませるつもりで、「※[#○に殺]は殺人事件と読んで下さい」という注を付けて発表したんです。だけど、やはり、なかなかこれを殺人事件と読んでくれないんですね。ですから、いまはこれ一冊だけで、ほかではやっておりませんけれども、こんな苦心をいろいろしているわけです。  殺人事件というのを使わないで、いかにして一目で、殺人事件であることを分らせるかというタイトルの苦労は、そんなふうに、殺人旅行から、※[#○に「殺」]とか、殺人旅情とかいうふうに動いているわけです。  殺人旅行というのは、私が付けて使っちゃっているものですから、ほかの人は遠慮して使っていませんね。殺人行なんてやっています。旅という字を取っている。旅という字を付けたのは斎藤栄がやっているから、やはりそれをやると、真似と見られるのが厭なので、みんなお互いに苦労し合っているわけです。なかなかタイトルというのは、本当に苦労します。  皆さんも、長篇の場合は、作家はただ安易に付けているんじゃない、そして必ずしも作家が、自分が付けたいものが付いているとは限らない、というようなことをお知り置きいただきたいと思うんです。  作家と出版社との関係というのは、まァ、お互いに持ちつ持たれつということがありまして、特に新人の頃というのは、出版社の発言権が大変大きくて、ほとんど出版社によってこうしなさい、と言われたら、大体そうするというふうになると思います。しかし、その頃、そうやって変えたものが、だんだん、だんだんと自分がある程度書いてベテランになってきますと、さっきの「紅の幻影」じゃありませんけれども、非常に迷ってきて後悔して、自分の付けた題にすればよかったな、と思ったり、でも、そういうふうにやって売れているなら、また、そういうふうにしようかな、と思ったり、いろいろと悩んだりなんかするわけです。  その間は大変複雑ですけれども、皆さんは特別に、そういう出版社の関係をあまり考えることはないと思います。  とにかく先ほど来申し上げているように、タイトルについては、ご自分で決断して付けていく。そうすることが、たとえば自分の子供に付ける名前みたいに、何となく納得できる。他人に付けてもらうよりは、そのほうがいいじゃないかと、私は思うわけです。  それから、実際に小説を書き始める前に、どの位の長さにするかというようなこともあります。これも相当長くないと、あまり意味がないんですが、推理小説は、大体一冊。続きもので一巻、二巻、三巻、四巻とやるのは大変問題があるようです。せいぜいやっても上下巻というのが限界で、三冊以上になるミステリーはあまりありませんけれども、やはり、やってはいけないと、私、思うんです。  このことでは、大変、私も苦い経験があるので、特にそのことを申し上げます。これも前にチラッと申し上げたかもしれませんけれど、私には、「空の魔法陣」という長篇がありまして、原稿用紙にして二千枚の長篇なわけです。二千枚のミステリーというのは、日本では勿論、一番長いと思いますし、外国でも、比較はちょっとしにくいんですけれども、まず一番長いほうじゃないか。集英社文庫からこれを文庫化する時に、あまり長いんで、かなり厚いんですけれど、上中下の三巻として発売したわけですね。  ところが発売して間もなく、私が近所の本屋に行ってみますと、上巻と下巻しか置いてないんです。「これ、どうしたんですか」と訊いたら、「いや、これはこれでいいんだ」と言うから、「いや、中巻があるはずだ」「あ、中巻があるんですか」って書店のおやじさんが言うんですね。これには、ちょっとショックを受けましてね。  その後、今度は北海道のぼくの知り合いの書店から手紙が来まして、「先の『空の魔法陣』は大変よく売れています、上巻と下巻が」と、こう言うんですよね。これもまたまた大変なショックで、これはまずいぞ、と。  つまり、上巻を読んで、次は下巻だと思って、書店のほうも中巻を並べてないわけです。だから当然、上巻の次は下巻で、買って読んで面白いというんで、両方よく売れているんですよ。これは作家としては困っちゃうんですね。下巻が売れなきゃいいんです。つまり、中巻がないから売れないっていうんならいいけど、両方とも売れている。  それでいて、中巻は全然出てないんですね。つまり、読者はどうしているんだろうと思うんだけど、前《ヽ》を読んで、後《ヽ》を読んで納得しているんですね。そうとしか取れないような売れ行きになっちゃったんです。  これは大変困って、いま、出版社のほうへ厳重に抗議してまして、こんなやり方は大変困る。近々、さらに改訂する時に、今度は上中下をやめて、一、二、三、第一巻、第二巻、第三巻として、それぞれの巻の終りに「続く」というふうにやれば、順々に買っていくだろう。上巻、下巻だけだと、上巻を読んだら、当然、下巻があるだろうと、下巻を捜したら、あったから買った、それで終り、ということになっちゃうんですね。  もともと、この前から話しているように、いま、軽薄短小時代で、一つの小説が二千枚なんていうのは、正直いっていま時ないんですよ。時代物は別ですけれども。ですから、現代ミステリーでは、これは日本最長の小説なんです。  私がここに、篇別、巻数の問題として出したのは、ミステリーというのは、どうしても、皆さん一息に読みたいという気持を持つものですから、一息に読ませなきゃいけない。そのためには、本の形も、上中下なんていう三冊じゃなくて、二冊位にしたいものだなあと、私は思ったものですから、あえてここに取り上げたんです。これもまた、まだ書き始めの頃であれば、それほど問題になるようなことではないかもしれません。   人物一覧表  人物一覧表、というのがありますが、これは、具体的に執筆作業に入る前には絶対に必要で、この前にお話した構想メモと並んで必要なのが、人物一覧表だということを前にもお話しました。特に、この人物一覧表を必ずおつくりになることを勧めます。これをつくっておきませんと、何を書いても整合性がなくなってしまうし、大変具合が悪い。  人物一覧表は、文字通りの人間同士のA、B、C、D、短篇でも大体三人から五人位は出てきますね。そういう人の相関図、どういうような関係にあるかということ、個人個人の癖とか、年齢、名前は当たり前ですけれども、どこに住んでいるか、食べるものとか趣味、そういうようなことを細かく書いておく必要があると思います。これを作ることが即、構想メモに繋《つな》がる。短篇の場合は、ほとんど、この人物一覧表を見るだけで書けるということがあると思いますので、どうしても具体的な執筆に入る前には、これだけは作っておかなければ書けないだろうと、私は思います。短篇の場合は、構想メモ位でもいいんですけれども、これはどうしても必要です。  人物はどの位いたらいいかというのは、度々申し上げています。長篇でも人数少ない場合もありますよ。たとえば三、四人でも足りちゃう場合もあります。また、そのほうが深く人物像に食い入ったものが書けるという場合もあるんです。理論的に言うと、本当に登場人物は、出来るだけ少ないほうがいいですね。  ただし、外国の翻訳物は、みんな人物表が付いていますね。あれは、パッと頭になかなか入らないから、愛称なんかで出てくるものですから、まァ、ロシアほどじゃない、ロシア人は全く訳わからないけれども、アメリカ人なんかでも、同じ名前で二つあって、片方が愛称だというのは幾らもありますし、日本人もいろいろそういうのがあります。  ですから、とにかく人物一覧表は必ずお作りになって、それを自分がよく頭の中に叩き込んでおく、ということだけはしなければいけません。  そこまで出来れば、実はいいんですけれども、一番、人物一覧表での問題は、名前ですね。このことを、きょうは少し細かくお話してみたいと思うんです。  名前をどう付けるかということは、小説家にとっては非常に重要なことで、何はともあれ、名前を考えなきゃ小説は書き出せないわけですね。筋が出来てなくても、名前さえあれば、逆に言えば、書けるということだってあるわけです。名前をどうやって付けるかということが大変で、さっきお話したように、長篇ですと、端役も入れて、大体二十人の名前は考えるようになるでしょう。短篇で五人位、それも端役を入れて十人位にふくらんじゃうことがありますけど、とにかく十人から二十人というのを一つの小説の中で考えていくわけですから、これは一番苦労することですね。  よく私も、「小説を書くので一番大変なのは何ですか」と訊かれるんですけれども、一番大変なのは、名前を決めることなんです。どういう名前を付けたらいいか。ただ単純に付けていく、あるいはたまに小説を一本書くくらいだったら、まァ何とか付けられるんですけれども、しょっちゅう、大体、私なんか十本位同時に書いているわけですから、同じ名前を付けたら、大変です。筋が混乱しちゃいますから、絶えず違う名前。内輪に見積って、一つの小説に仮に十人としても、十本書けば百人分の名前を考えなくちゃいけないという、これは大変な労力だということがお分りになると思うんです。  それについてのそれぞれの年齢から、趣味、その他を決めていくわけですから、中でも単純のような名前というのが、いかに重要かということをお話してみたいと思います。  名前の付け方の一番ポピュラーなのは、電話帳を使うというようなことがよくあります。  そのほかには、自分の学校の同窓会の名簿なんかをお使いになるのが一番簡単だと思うんです。なぜ簡単かと言いますと、同窓会の学校の名簿は、名前だけじゃなくて、皆さん、その人をある程度必ず知っていますね、顔つきだとかなんとか。勿論、親しい友人は当然ですけれども、親しくなくてもチラチラッと大体分る。そうすると、その名前に付いているその人というものが、ある程度浮かびますから、それを小説の中に使った時、単に名前だけじゃなくて、いろいろな癖とか、表情とか、背の高さとか、そんなことも使えるので、意外に一番いいのは同窓名簿だと思うんですね。これは、そういうふうに知っているからなんです。知らない、ただ漠然とした名簿をもらって、それをうまく使うことは、おそらく難しいと思うんです。  ですから、出来るだけ皆さんは、名前を付ける時には、同窓の名簿を使う。  ぼくなんかいつも、クラス会とかありますと、「おい、オレの名前使ったな」とか言われて、「また使ってくれ」とか、あるいはいろんな注文を受けたりね。  ところが、これが小学校、中学、高校、大学とずっとありますから、小学校の時のイメージで、同じ小林君というのがいたとしても、中学にもいるし、高校にも、大学にもいますから、どのあれで使ったか分らないけれども、みんな小林という人は自分だと、当然思いますよ。「あなたは、私のことを使ってくれた」と。それでいいんです。そうしたら、「ああ、そうだよ」と言っておけばいいわけで、「そうではない」というと、みんながっかりしますからね。大体、そうそう同じ名前を使うものじゃないんですけれども、私が皆さんにお勧めするのは、やはり、自分のお友だちの名前を使う。それが一番いい。  ただ、いいんだけれども、あまりに個性の強い人ですと、印象の強い人の名前を使っちゃったら悲劇ですね。そのストーリーに合っていればいいけれども、合わないと、全く逆のことが、ついつい出てきてしまいますから、その辺をよく選択するということが必要だと思うんです。  一般的に、何とかという名前を使う時には、年齢との関係、これはぜひ気をつけて下さい。たとえば秀樹という名前が出てきた場合は、湯川秀樹がノーベル賞をもらった年に生まれた子供とか、女の人で美智子という名前が出てきた時は、大体、美智子妃が御成婚の時に生まれた子供とかいう、大体そういうような関係が……、まァ全部がそうじゃありませんよ。しかし、その位のことは考えておきませんと、名前にも、一つの必然性というものがあるわけですね。  たとえば男の名前で、勝利というのがよくあります。こういう名前の人は、大体、昭和十八、九年の日本が不利になって負けそうになってきた時に生まれた人がわりあいに多いですね。これも全部が全部じゃありません。戦後でも、別に勝利がなかったわけじゃない。自分の母校が何かに勝った時とか、何か嬉《うれ》しい勝利をした、それこそ巨人が勝った時に付けたのかもしれません。だから、勝利という名前もあるでしょうけれども、大体そういうような、年齢、生まれた年と名前というのは、決して無関係ではないということです。  勇なんていう名前の場合は、戦前は非常に多かったですけれども、戦後も、これは別に戦争とは関係ありませんから、かなりあります。  ただ、たとえば 成田知巳とか、巳という字の付く人は、巳年の生まれとか、巳というのは、そういうことが非常に多いです。だから、日本の場合は、十二支、それは一応考えておきませんと、特に巳は、非常に多いから、巳年の人にほとんど限られているようなこともありますから、やたらにこれ面白いなあと、電話帳なんか調べて、パパッとくっつけちゃったら、全く関係なくて、まァ、関係なくてもいいようなものですけれども、必然性がちょっとない、というようなこともあります。  ですから、こういうようなところは、名前の付け方としては、気をつけるべきことだと思うんです。  実際にお友だちの名前を調べてみますと、大体、何か社会的なこととかなにかに結びついていることが多いですから、同窓会の名簿を使った時には、自分と同じ同窓と同時に、古い何年卒というので、たとえば十年前の卒業、あるいは自分が卒業してから十年後の名簿というのを貰《もら》いさえすれば、それにふさわしいような名前が、また見つかると思います。名前というのは、大体、流行に敏感です。それくらいのことは、物を書こうという人間であれば一応考えて、ただ闇雲に名前を付ければいいというものではない。われわれも、そういうことはかなり考えながら付けているということを、ご承知置きいただきたいと思うんです。  電話帳ですけれども、これも前にちょっと触れたと思いますが、あそこには電話加入者の名前が書いてありますから、決して一般の人の名前が全部書いてあるわけじゃなくて、電話加入者というのは、まず、年配の男というのが一般的です。ここでは、女性の名前はほとんど役に立ちません。あまりないということと、あっても、花子とか、かなり年配じゃないかと思うヨネとかいう名前が出てきまして、電話帳は、年配の男であればいいんですけれども、それ以外ではあまり役に立たないということが分ります。  若い男の名前を調べようという時は、私は大体、自衛隊の名簿みたいな、そういう名簿を用意しておく。女性は、女学校の名簿とか、幼稚園の名簿とか、そういうのを集めればいいわけで、物をお書きになる場合は、名簿を集めるということも、一つの仕事じゃないかと思います。こんなのは、それぞれの各学校の要らなくなった古い卒業生名簿みたいなものがあります。そんなのは手に入れることは簡単に出来ますから、そういうのを手に入れておくと、名前の勉強も出来るし、いろいろなことが分ります。  もうちょっと後でお話しますけれども、推理小説の場合は、名前が、単に名前だけじゃなくて、名前がトリックと関係ありますから、そういうことで、普通の小説以上に揺るがせに出来ないことなんです。  主人公、あるいは女の主人公、ヒロインですね。こういったものは一番主要なわけで、これをまず決めないと、小説は書き出せないんですけれども、これは電話帳とか、あるいは何かの名簿でもって使うというのは、一般的な、それほど重要でない人の時は、それでいいんですが、主人公については、やはり、これから書こうとする作品のイメージに合っている名前を、どうしても考え出さないと、やはり、いけません。  ただし、そのためにあまりに凝ってしまうと、非常に凝りに凝った名前を付けちゃうと、今度はそれが犯人だな、ということが分ってしまったりなんかしますから、この辺が難しいところですね。  同時に、モデル問題というのも、わりあいに起きることが多いですから、主人公の場合は、気をつけたほうがいいんですね。  小説というのは、不思議に事実と似てくるんです。調べてなくても、そういうシチュエーションを創ると、そういう人がいるんですね。そういうことが多いんです。ですから、そういったようなモデル問題というのが起きることがあります。特に名前については慎重に、偶然でも合ってしまうということがありますので、気をつけることが必要だと思います。  もう一つ面白いことがあるんですね。作家によっては、いつも付ける主人公、あるいはヒロインの名前が非常に似ているということがありまして、これは一回、研究してみると面白いと思うんです。私自身の作品も、主人公別、探偵別とか、被害者別、女性別とか、全部集めて表をつくって、一体、どういう名前を自分はつくっているのか、ということを調べてみたいんですけれども、これはまた、アルバイトでも雇って調べさせないと、自分でやる暇はありませんから。でも、やってみたいなあ、という気がしますね。そうすると、一体、どういう女性とか、どういう男に関心を持っていたかというのが、自分で分析できるんじゃないかというような、別の興味があるんですけれども、いずれ近いうちに何とかやってみたいと思っています。  名前というのは、偶然付けていても、自分の心のどこかに残っている人の名前が出てくるんですね。これは不思議なんです。あるいは逆に、そういう名前だけは付けない。意識的に避けるということがあります。付けやすい名前、付けにくい名前があるわけです。そのことは、自分で小説を書いてみると、そこでいろいろなことが、自分自身で分ってくると思います。名前というのは、大変面白い個性的なものですから、そういうものを研究すると、また一つの材料になってくるんではないか。  主人公とか、ヒロインは、そうやっていろいろ研究して付けるんですけれども、端役だからっていい加減に付けてしまいますと、正直言って鈴木さんと佐藤さんばっかりが出てきちゃうというようなことになりかねないんで、端役といえども、やはり、気をつけて、出来れば、端役にある程度の役割を与えてあるわけですから、それを生かすようにすると、小説が締まってくるということもあります。  端役の場合は、特に長篇と短篇では違うと思うんですね。短篇の場合は、端役はむしろいないと考えていいんです。端役なんか出しているようでは短篇が引き締まりませんから、出てくる人が三、四人しかいませんので、四人も出てくれば多過ぎるくらいで、四、五十枚の短篇であれば、せいぜいが五人が限度と考えていいと思います。ですから、端役はいないということで、一人一人、慎重に取り扱っていく必要があるんじゃないかという気がします。  名前は、実際の作業、その作品によってどういうふうに付けるか、いろいろ個々違いまして、一概に言える部分はそんなにないんです。いまお話したようなことくらいかと思います。  そこで、日本にはどういう姓があるかということについて研究している人で、佐久間英という先生がいらっしゃいます。この方は、お名前博士と言われて、姓名についての研究家です。この人の本を私も持っております。皆さんも、姓を付けたり、名前を付ける時には、非常に信頼できるデータを持っていると便利なので、あえてご紹介しておきます。いろいろな姓についての本があると思いますから、それは何かいいのがあれば、勿論、この人のでなくていいんですけれども、日本ではこの人が一番と言われているので、私も使っているので、ちょっとどんなのがあるか、ご紹介してみましょう。  たとえば、このお名前博士によりますと、県によって住んでいる人の姓名が、ある程度特徴がある。東京は、日本全国から人が集まっていますから、東京都の姓はあまり特徴のあるのがない。しかし、神奈川県に特徴のある姓は、石渡、石綿、というのが非常に多い。あと露木とか、奥津、二見なんていうのがありますが、そういう名前は、大体、神奈川県である。  これは推理小説のほうから考えてみますと、たとえば探偵が誰かに名前を聞いた時に、それがたまたま石綿という名前で、本人が名乗っているのが、たとえば鹿児島の人間だと言っていたとすれば、神奈川県に多い名前なので、それが鹿児島と言っているのは、何かそこに理由があるんではないかとか、あるいは神奈川県から出身して、鹿児島のほうに行った人じゃないか、というようなことも一つ考えられますし、勿論、名前というのは、当然引っ越しますから、必ずそこにいるというものじゃないです。ただ、何かそういう手がかりとか、きっかけということにはなるんじゃないか。そういうふうな使い方も出来ると思うんです。  よくある名前の順序ですね。一番多い姓は何か。これは皆さんもある程度ご存じでしょうけれども、東京都では、鈴木さんから始まって、鈴木、佐藤、田中、高橋、小林……というふうになります。神奈川県は、やはり、鈴木から始まっているんですけど、ちょっと順序が違って、鈴木、加藤、高橋、佐藤、渡辺だそうです。まァ、大体、神奈川県と東京は非常に似ているということですね。でも、やはり、微妙に違っている。こういうようなことがあるようです。  どういう姓が多いかと言いますと、きょうは鈴木さんが来ていらっしゃらないけれども、日本全国で鈴木さんというのがトップです。もっとも最近のデータでは、一位は鈴木ではなく、佐藤になっているそうです。  そこで、名前というのは非常に単純に、たとえば 斉藤栄というと、この字は一種類しかないように皆さんお思いですけど、斉藤栄という書き方は十六通りあるんですね。斉は、難しく書くと、こういう字、齋ですね。しかし、斎《ヽ》もあって、当然齊と書くのがあって、一番簡単なのは斉ですけれども、こういう四通りあります。藤は、※[#「藤」の草かんむりが「++」]と草かんむりを離して書くのと、藤と、繋《つな》げているのと二種類あります。これが全部にあるわけですから、八通り、それにまた、それぞれ栄の榮と栄の二種類を当てはめると、全部で十六通り、斉藤栄と書けるわけです。  斉藤というのは、大変平凡な名前なんですけれども、それでも書くと、こういうふうに書けるわけです。それでは、私の本当の戸籍上の名前はどれなのかと言いますと、齊※[#「藤」の草かんむりが「++」]榮、これが私の正しい名前ということになるわけです。ところが私が本に書いているのは、斎藤栄なんです。だから、何でもないようですけれども、私が官公庁に行って名前を書く時は、この齊※[#「藤」の草かんむりが「++」]榮を書くんですね。そして小説家として本に印刷される時には、斎藤栄が印刷されます。私がサインする時はどうかというと、また違うんです。サインは齋藤榮と書きます。何と、私自身も三通りのサイトウサカエを使っているわけです。  これは意識的に使い分けているんです。もし、誰かが私の真似をしてサインをした時に、自分のサインはこれであるというのを決めてありますから、似せて書いても、|これ《ヽヽ》と同じように書いてあれば別ですけれども、それが分るように、どれも同じように思うんですが、単純な斎藤栄一つを取っても、こういうふうに違うんです。本に印刷してあるのと、戸籍にあるのと、自分がサインを頼まれた時にするサインと、三種類、使い分けています。これは何でもないようですけれども、こういうぐらいの気配りは大切だと思うんです。  もともと私も、大学生になるまでは、自分のサイは斎だと思っていたんです。ところが大学事務局に、卒業間際になって書類を出した時に、「あなたのサイはこれじゃないよ。齋だ」と言われて、戸籍簿を調べ直したら、それになっていたんです。実際にこれは違うんですね。なぜ、こうなっちゃったのか分らないんです。もともとこうだったんじゃないか。  私の戸籍は、尾張の美濃の斉藤村という村がありまして、そこには斉藤という人しか住んでない、いわゆる斉藤道三のあの流れを汲む斉藤村という村から出ているんです。それは間違いないんですけれども、その斉藤は、齋ですから、おそらくその齋だったんだろう。ところが何かの加減で戸籍に転記される時に、この下の斉になっちゃったんじゃないか。なっちゃうと、戸籍はもうずーっとそうなりますから、転記のミスがそのままになって、ああいう斉が生まれたんじゃないかというふうに思うんです。しかし、いずれにしても現在は、こういう名前、齊[#「藤」の草かんむりが「++」]榮でないと、私の場合は、届けを受付けてくれないんです。  いま、何をお話しているのかと言いますと、つまり、何でもないようでも、人の名前というのは、そういうふうに違う。そして、それぞれ何種類も書けるものだということですね。  人名は、ミステリーの場合は、その名前を手がかりにしたトリックというのも幾らも書けますし、また、そういうのは大変興味のあるものですから、皆さんもぜひ、名前についてのご研究をしていただきたいと思います。名前には、お名前博士の本によりますと、いろいろなのがありまして、たとえば単純に言いますと、魚の名前はほとんどあるそうです。蛸《たこ》とか烏賊《いか》とか、そういう人もいるそうです。いや、ほんとにそのままあるんです。それならいいけれども、台所用品の名前の人もいるそうで、台所という姓とか、その下にお酢とか、味噌とか、醤油という人もいるそうです。さらに意外なのは、煙草《たばこ》という人もいるそうで、宇宙なんていう人もいるそうですけれども、駅の名前は大体いるんですって。東海道五十三次、全員いるそうです。保土谷さんというのが、ちょっといるかどうか、はっきりしないそうですけれども、それ以外は全部、日本橋から始まって、川崎、蒲田、みんないるんです。  よく前に、ラジオドラマかなにかで、高円寺さんとか、中野さんとか、阿佐谷さんとか、中央線の名前が全部ありましたね。そういう付け方もあります。コメディーとか、コミックなストーリーだったら、そういう名前で押すのもいいんですよ。自分のところの周りの名前、横浜さんとか、鎌倉さんとか、順番にね。  しかし、名前というのは、うっかり付けちゃうと、それによって大変誤解を生ずる場合がありますね。たとえばいま問題になっている川崎病という病気、あれは川崎博士という人が研究したから、川崎病という名前が付いたわけです。だけど、川崎病と聞くと、誰だって、川崎に……、川崎というのはイメージが悪いですからね。そう言うと、川崎の人に怒られちゃうけど、何か公害が発生しそうだというふうに思いますから、川崎病と聞くと川崎の病気だと思って、川崎の人、迷惑していますが、一般の人の常識的にも困るから、あれは変えるべきじゃないかと思いますね。川崎と言ったら、誰だって川崎のことを思いますよ。  そういうようなことで、全部、人の名前にあるんですね。横浜さんもいるし、鎌倉さんもいるわけですから。いまの警視総監は鎌倉さんですね。そんなふうに現にいるわけですからね。そのことによって、だいぶイメージが違いますね。川崎病、鎌倉病なんていうのが流行ったりすると、困っちゃいますからね。  まァ、そんなことで、名前は非常に慎重に付けなければならない。それだけに面白くて、また、小説のトリックにもなると、私、思います。現実に、私も、いろいろ使ったことがあります。  その中で同音異字ですね。これは大変ミステリーのほうでは関係があります。誰かが会話で喋《しやべ》って、それを耳にして早合点して、それを使ったという場合に、違った字が出てきちゃうということがあります。たとえば「私はカトウです」と言ったので、「あ、あいつは加藤なんだな」と思って、その人の名前を誤魔化して、「私が加藤です」と言ってサインを求められたら加藤と書く。普通は、十人中九人までは、こういう加藤を書くと思います。ところが、加藤という字は、このほかに約十何種類もあるんですね。たとえば加東、歌藤、下藤、加頭、あるいはもっと変わっているのでは香東とか、こういうのが十幾つもあるらしいんです。  一番平凡な名前、特に平凡な名前の時は、人はそう確かめようとしませんから、カトウとか、サイトウとか聞くと、大体、加藤、斉藤を考える。それで早合点して、その人になり澄ましてサインした時に違ってしまってバレちゃうというようなことも、小説に使えば使えますね。これは面白く使えると思うんです。  あるいは私のように、ほとんど斎藤で間違いがないんだけど、書き方が、私が書けば、こう書くというのが違っている場合は、すぐ絶対にバレちゃうということがあります。そして、こういう月のところで、人によっては|こう《ヽヽ》付けるとか、離すとか、そういうのできちんと区別している人もいますから。  サインということで、外国はみんな、自分のサインの特徴を求めますが、日本ではあまりないけれども、そういうことで、いざという時に、決めておきますと、いいこともあるんです。たとえばヘンな言い方ですけれども、暗号、あるいは誘拐されて手紙を書いた時に、端のところを絶えず|こう《ヽヽ》やったら、これは本当じゃないとか、いろいろなことをあらかじめ取り決めておくと、いろんな仕掛けをすることが出来る、ということがあります。  同音異字の問題は、わりあいに小説の中にも使うことがあるし、また面白く使えるので、研究されるといいんですけれども、全く同音でよく間違えるのは、たとえばアライさんというのもよくありますね。新井とか、荒井とか、同じアライさんと言っても、字が違っている場合もある。同じイでも、井と居に分かれている場合もあります。  これは、実際にどんどん小説を書いている時に、あ、これはちょっとひねってみようと思って、これを変えた場合、混同しちゃうことがよくありますから、人物一覧表でしっかり書いておかないと、こういう名前のトリックみたいなのを作った時は、間違うと大変ですから、非常に気をつけてやっていただきたいと思います。  日本のミステリーの場合は、特に漢字の面白さというのが、私はあると思うんです。大体が、私は、暗号というものが好きなものですから、こういう言葉のいろいろなトリック、言葉のひねりというのは大変面白いし、名前からくるいろいろな仕掛けをつくることが出来ると思うので、皆さんも、ご自分でいろいろやってみると面白いと思います。  それは勿論、姓ばかりではありません。名前のほうもいろいろとあると思います。名前は、下手すると、戸籍と違った名前を実際に使っているという人もよくいますから、いわゆる通称みたいなのでね。そういうのでいろいろなまた面白いことが出来るんではないか。名前では、そういうことがあります。   音からくる面白さ  ただ、名前以外で、これも私なんか短篇で使ったことがありますけれども、似た音で、喋《しやべ》っているのを聞いて間違える。たとえば「夕べ、あそこで女性が轢死《れきし》していた」ということを、誰《だれ》かが電話で言ってきた場合、ところが犯人は、轢死と言ったのに、自分はちゃんと溺死《できし》と聞こえたとか、そういうことから、その人間が怪しいというようなのが出てくることもあるわけですね。似ている音で間違って聞いてしまうということがあるわけです。  特に死ということでは、実際、私も、轢死と溺死というのを、短いものですけれど、使ったことがあるんですが、要するに、音で早合点してしまう。あるいは自分が知っているために、そういうふうに聞こえてしまう、というようなことがあるわけです。そんなことは、言葉の上のトリックとして使うのも大変面白いと思うんです。  あくまでもミステリーというのは、言葉の面白さですから、その言葉の持っている、字の画からくる面白さもありますけれども、音からくる面白さも、かなりあるんです。  たとえば「松田さんが来た」と言って死んだ声があっても、よく聴くと、そうじゃなくて、増田さんかもしれないんですね。こういうのは、電話なんかでよく間違えるでしょう。ぼくの担当は、同じような名前の人がよくあるんで、全く同じならしょうがないんですけれども、似ているんで、松田という人も、増田という人もいるんです。だから、「マスダさんから電話があった」というのが、どっちだか分らないんですね。増田でも、またさらに升田さんという人もいますし、なお分らなくなってくる。この松田と増田はよく間違えます。そのために、とんでもない誤解を生ずる。それから白川さんと平川さんもよく間違えます。  皆さんも、これはきっといろいろご経験があるんじゃないかと思います。特に、最近、電話が非常に普及していますから、電話で聞いた声というのは、また違うんですね。普通だと分ることが、急いで喋った場合、それから人間の錯覚には、先入観というものが大変ありますから、たとえば増田さんから電話がかかってくると思っている人は、松田と言っても増田と聞いちゃったりね。勿論、声の調子を知っている人はいいんですけれども、大変間違えます。  それから電話でよく間違えるのは、親子の声ね。ぼくも、何度も自分の息子と間違えられたことがあるし、また逆に、編集者が息子に次の小説のことを話して、何だか訳がわからなかったと息子が言っていることもありますし、そうだと思っていると、親子は似ていますね。きょうだいも、そっくりの人がいますね。  そういう親子なんかの声を使ってニセ電話をかけると、かなり有効になることはあります。だから、それをまた裏返して、何かトリックに使うということもあると思うんです。  名前ではいろいろあって、私も、名前だけを使ったトリックの小説を書いたことがありますが、面白い名前というのは、世の中にあります。さっき言ったような烏賊《いか》とか、蛸《たこ》とか、鯖《さば》とかいう人もいるわけで、珍しい名前ですから忘れられないですから、そういうのをうまく利用すれば、いいのかもしれませんね。  月見里、これ、読める人いますか……? これはヤマナシさんと言うんです。山がないから、月がよく見える里なんですね。こういう判じものみたいな名前が、大変日本にはあるわけです。「ヤマナシさん」と聞けば、普通、山梨と書きます。こういう字を書く人はまずいない。ところが、パッとそう書いた人がいるとすれば、それを知っている人とか、それに関係あるんだというので、正体が現われるということもあります。  だから、こういう特殊な読み方の字は、大変研究すると、それなりの価値があるわけです。  そのほかにも、いろいろ面白い名前が、皆さん、ご親戚なり、あるいは知人にいらっしゃる方があると思います。そういう名前をうまく使うのは、小説のタネとしては面白いと思います。ただし、珍しい名前ですから、その人、ということがある程度分っちゃいますから、小説書いて発表した時に、「何で、オレのことを書いたのか」「あたしのことを使って」と言われる可能性がありますから、それは気をつけて下さい。  ミステリーには、名前からきた面白いトリックは、考えれば、名前の数だけあるんじゃないかと思うんです。一つの名前で一つの小説を創ることが出来るような気がします。  勿論、いま私は、私の名前も含めて二、三の例を申し上げてみたんですけれども、皆さんも一つや二つは、珍しい名前をご存じだろうと思うので、それをうまく使いますと、小説の材料に十分になる。  ですから、さっき言った人物一覧表をつくる時に、名前を単純に拾い上げるんじゃなくて、名前の段階からミステリーを創ろうというふうに考えると、余計面白いんじゃないかと思って、あえてお話したわけです。  最後に、連載の心得というのをちょっと申しあげます。これは、皆さん連載をなさるということは、ないと思いますので、あまり長くお話しても仕方がないんですが、ただ、連載小説は、普通の読切り、短篇小説とちょっと違いまして、たとえば月刊誌であれば、読者は、次が一カ月も読めないわけですから、書き方に非常なコツがあるんです。新聞の場合もそうです。  新聞は、一回、原稿用紙にして三枚、毎日書くわけです。昔は三枚半だったんですが、最近は三枚位で書きます。そうしますと、新聞小説の場合は、さらに難しいのは、挿絵が必ず入ります。AとBが喋っているようなシーンで、一人がベラベラ喋っていると、描くことが何もないんで、挿絵画家が大変なんですね。私なんか、挿絵画家の苦労がよく分りますから、この辺で、「ちょっと彼は立って煙草に火をつけた」とか、「コップの水を飲んだ」とか、あまり関係ないんだけど、時どき入れてやってシーンをつくるということがあります。そういうのは、ちょっとした作家の心遣いなんですけれども。  いずれにしても、連載の時は、とにかくダラダラ、ダラダラじゃいけないから、必ず山をつくらなきゃいけない。そして一番大切なのは、次回に続く期待、つまり、翌日、あるいは翌月読みたくなるようなところで終ってなければいけないわけです。ですから、極端な書き方をすれば、「アッ」と彼女は言った、というところで終るんですね。そうすると、その次、どうしたんだろうと思って読む。これは非常に単純な例ですが、基本は結局、それに尽きるんですね。つまり、サスペンスをつくって、次に期待を送っていく。  たとえば新聞ですと三枚ですから、三枚書いて、「アッ」と彼女は言った、次もまた、「アッ」と言った、というんではどうにもならないから、その都度、変えなきゃいけませんけれど、そこが苦心の要るところで、大長篇というか、月刊誌だったら、最後のところを、ちょっとした山、それほどのことで繋げなくてもいいと思いますけれども、新聞は、その辺が非常に難しい。  この連載小説の書き方のコツは、結局、皆さんが小説をお書きになる時の一般的なコツでもあるんです。二、三枚いったら、その辺で、また次を読みたいというインパクトを読者に与えるようなものを何か捜し出して、行動として見せていく、ということが必要なんで、そのためには、この前お話した構想メモのところに、ずーっと書いていって、ある程度まで書いた時に、読者に一つのインパクトを与えるようなことを、前に決めたもの以外に毎日付け加えていく。  たとえば十枚なら十枚、きょう書いた。翌日にいく時に、また、その十枚書いた中から生まれてきた新しいストーリーなり、新しい心の動きなり、新しいアクションなりを次に持っていって、メモに書いておくわけです。そして、また先へ進んでいく。こういう細かい気遣いをしませんと、面白い小説、弾みのついた小説というのは書けない。ですから、連載小説の心得は、所詮、小説の一般的な心得と共通するものがあるんです。それがただ連載の時は、かなり露骨に出てくるんですね。  ですから、新聞の編集者なんか、「あ、先生、いいですね。次、また何となく読みたくなります」と言ってくれるといいんですけれども、しかし、何しろ毎日ですから、新聞は作者も大変ですし、編集者のほうもハラハラしているわけです。読んでくれなきゃいけませんから、そのために、毎日毎日の勝負ということになる。  とにかくダラダラ、ダラダラしていてはいけません。どこかに山をつくるということと、毎回、次に送っていく何か、サスペンスとまでいかなくてもいいけれども、小さなサスペンスと言いますか、心理的なサスペンスでいいんですが、そういうものを最後のところに持ってくる。  これはしかし、さっきからお話しているように、すべての小説の書き方の、基本的な原則です。次回へ絶えず期待を持たしていく。引っ張っていく。そして最後のところで大きな山をつくるということでは、全く同じなんです。  こんなような一つの心得を持ちまして、いよいよ執筆に入るということになるわけですね。名前も出来たし、メモも出来たし、一覧表も出来た。鉛筆で書く人は、鉛筆は削った。万年筆で書く人は、インクも用意したし、パーカーかなんかのいい万年筆も買い込んだ、という段階で、いよいよ次は、実際に書く文章の話と、筆記用具等についての私の考え方をお話するわけですけれども、とにかく準備をすべてして、書いてる最中に、ああでもない、こうでもないと迷いを生ずると、ストーリーがわりあいに分裂してしまいますから、書く前にしっかり決めちゃって、決めたら、一瀉千里《いつしやせんり》に書いていく。その中に没頭して書いていっちゃう。その世界に入ってしまう。うまく出来るか、下手に出来るか、書き上がってみなければ分りませんけれども、とにかく書いている間は、その作品の中で自分は生きている、というような気持で書いていくというのが一番いいと思います。  書きながら、こう書いてうまくないと、あの人はこう言うんじゃないかとか、人は何と言うだろうとか、そんなことを考えていたんじゃ、小説なんて書けません。書いている時は、自分が小説の巨匠になったようなつもりで、とにかく自分が一番うまいんだ、と思っていいんです。それで書かないと、自信がなくなると、小説というのはうまく書けないんですね。これは小説ばかりじゃないです。何でも、やっている時に、自信を持たないといけません。それには、あまり迷わないこと。  だから、当初計画を立てて、すっかり、私がいままでお話したようなことが準備できたら、あとは一瀉千里、それだけに没頭していく。出来れば、電話なんかかかってこないような部屋で書くぐらいの気持だと一番いいですね。まァ、ぼくら、商売だから、そうもいきませんけれども、電話がかかってきたり、一番困るのが、一人でやっと書いているのに、チャイムが鳴って押し売りみたいのが来たり、不動産の何とかとか、やれ証券会社とか、いろいろ来まして、それは皆さんご商売でしょうがないんですが、大変困ることもあります。  だから、私も、大体、家は、雨戸も締めて、人が住んでないんじゃないかと思うような状態の中で書くようにしているんです。そうして、出来るだけつまらないことに煩わされることがない、ということで夢中になって書く。いかに夢中になれるかが、あとは成功の秘訣になろうかと思うんです。 [#改ページ]   第九章 文章、筆記用具など   谷崎潤一郎の「文章読本」  小説というのは、本来決まった王道と言いますか、決まりきった一つのやり方というのは実際はなくて、十人の作家がいれば、十通りの方法があるというようなものだと思うんです。小説それ自身が、一つの人生と全く同じで、一人の人間の生き様というものがあるように、一つの小説の書かれ方があるわけですから、これでいいんだ、これはいけないんだというようなことは、実はどこにもないんです。  だから、小説についての考え方は、実際、人生についての考え方と全く同じで、よく人生論で、こういう生き方が一番いいんだというような、沢山の人生論の本もありますけれども、どれを読んでも、参考になると同時に、どれを読んでも実際は自分にピッタリしないというふうになっていると思うんです。それと同じように、小説も、こういう書き方がある、というのは一つの参考にはなり得ても、それによって自分が、全くその通り書いたら、いいのが書けるかというと、そういうわけでもないし、また、それを自分が参考にしなかったからと言って、まずい作品が出来るというものではなく、むしろ逆の場合のほうが多いというふうに私は思います。  きょうは、いままで申し上げたことでほぼ尽きているので、あとは雑談的な、小説を実際に書く上での感じたことを申し上げますけれども、とにかく文章というのは、では、どういう文章がいいのか、小説を書く人の中で一番問題になることは、まず、どんな文章を書いたらいいんだろうということです。  有名な谷崎潤一郎の「文章読本」という本がありまして、一般的な小説作法の古典的な作品ですが、私も、小学生の頃、この「文章読本」をよく読んだんです。大変いいことが書いてありますが、これは主に普通の小説の、特に 志賀直哉の小説を一番優れた小説として、谷崎さんは考えているんですね。  しかし、よく考えてみると、谷崎潤一郎は大変な長篇作家で、それに対して志賀直哉は、どちらかというと、「暗夜行路」みたいな長篇はあるけれども、短篇作家だと思うんです。だから、谷崎さんが、志賀直哉の小説を褒めて、一つの名文として引用した文章を読むと、短篇的ないい部分が数多く挙がっているんです。これは逆に、皮肉なもので、長篇作家は、短篇小説の名作を読むと、ああ、うまく書けてるな、という感じを持つもので、また短篇作家は逆に、長篇の優れたのを見ると、あれはいいじゃないか、というふうに感ずることが多いものですから、谷崎潤一郎もおそらくは、「文章読本」を書く時に、志賀直哉の作品を好むと同時に、それをいいとして推薦できる、逆に自分にないものということで、谷崎は、志賀直哉の小説を名文として挙げたんじゃないか。  そういう「文章読本」という、文章論については優れたものがありまして、その後、いろいろ沢山の人が書いていますけれども、私は、やはり、この古典的なものが、いまでも私としては印象に残っています。  結局、そこで言わんとしていることも、文章というのは、所詮、学ぶよりも慣れろ、ということが一番基本になっている。つまり、こういう書き方があるんだ、ということを一生懸命勉強したところで、それは他人の文章にすぎない。文章は自分の個性というものと全く同じですから、その個性の中に文章が生き生きとしてくる、ということがあるので、出来るだけ沢山の文章を、人の文章も読み、そして自分が書き、沢山書いているうちに、自分の個性がその中に出てくる。つまり、学ぶよりも慣れろ、ということで磨いていくというのが、一番文章のうまくなる方法ではないかと思います。  ただし、文章というものも、最近ではまたどんどん、どんどん転換してきまして、昔みたいな形のある文章、また文章の対象とされているものが、どういう程度の、どういう人を相手にして書いているかによって、文章そのものもだいぶ変わってきていますから、この辺は、昔よりも、小説の読者層が、非常に若い人からお年寄りまで広がっているということで、一概に言えなくなっていると思うんですね。  ですから、文章論ということについて言えば、読書百遍意おのずから通ず、という昔ながらのそれを守っていい小説を沢山お読みになって、出来るならば、自分の好きな作家、誰でもいいんですが、その作家を取り上げて、徹底的に読んでみる。あるいは自分が書いているうちに、いつの間にか、その作家の書いたものと同じ文章が書けるようになってくるんですね。  ですから、何でもいいから、ある人の文章を……、真似でいいんです。私は、文章が上手くなるコツというのを方々で訊かれる時があるんですけれども、一番簡単なのは、自分がいいと思う人、うまいと思う人の文章を真似してみる、と。真似というのは、こういう創作の世界では一番嫌うわけで、独創性がいいとか、創作だから、創意工夫が大切だ、というようなことをよく聞くんですけれども、そういうことが言えるようになったら、何も勉強なんかしなくていいんで、最初はまず学ぶ時は、やはり、|まねぶ《ヽヽヽ》ですから、まず真似してみなさいということをよく言います。とにかく徹底的に誰かを真似してみる。  例としては、大変悪いんですけれども、いつもその時、挙がってくるのは、美空ひばりが 笠置シヅ子の歌の真似をして世の中に出ていったという、あれが大変はっきり、鮮やかに大衆的な芸の代表的な出方じゃないか。  大抵の人が、まず自分より前の時代の自分の好きな作家なり、芸人なりの真似をして、そしてやっているうちに自分のものが出てくるという形で世の中に出るんでして、これは決して恥ずかしいことでもなんでもないと思うんです。むしろ大胆に真似が出来れば、それは素晴しいことだと思うんですね。  ぼくが好きな言葉に、兼好法師の「徒然草」の中に、「狂人のまねとて大路を走らば、則《すなわ》ち狂人なり」という言葉があるんですね。気違いの真似だと言って、都大路の真中をワァーッと奇声を発して駆け出して行く者があれば、それはすなわち狂人なんだ。それは真似をしているんじゃない、そういうことが出来るということが気違いなんだ、と兼好法師が言っていますけれども、私は、大変いい言葉だと思うんです。真似をするということは、すなわち、もうそういうことをやったということと全く同じなんです。  ですから、自ら大作家だと思って、作家の真似して文章を書けば、すなわち、大作家であると、そう思っていいと思うんです、それが出来れば。ところがなかなか真似なんていうのは、出来るようで、実際やってみると出来ないんですね。  たとえば私は トルストイであると言って、じゃ「戦争と平和」みたいのを書いてみようと思って、原稿用紙一万枚、二万枚買い込んでやってみても、数枚書いて飽きちゃうという感じで、なかなか書けるものじゃない。小説を写すのだって大変ですよ。昔は、写経とか、写本とか言って、本を写すということが昔の文学の教養の源だったわけですね。書き写すということが、一番勉強の最大の基礎になっていたわけですから、私は、いまでも文章ということについて言えば、書き写してみるということが一番いい、これが大変な勉強になると思うんです。思いがけない発見を幾らもしますと、一番いい真似は、他人の文章をそのまま写すということです。  これは勿論、自分の創作の中でやれば、盗作になりますから、出来ませんけれども、習作の時は、ほとんど真似みたいなものでいいんじゃないか。昔の本当に自分の尊敬していた作家の真似をして偉くなったという人が多くいますけれども、それはそれなりに、一番いい影響を受ける方法としては、作品を書き写すことだと、私は思います。  二番目に、文字そのものはどうか。これも何回かお話しましたけれども、字のうまさというのは、あまり意味がないと思います。現在は、書いている字がうまいとか、下手ということはほとんど問われませんし、個性的な字を書けば、なおいいかもしれませんけれども、それはサインかなにかの時に出来ればいいんで、普通、私は字が下手だから文章は、というようなことは、小説を書くということは、字が下手でも構わないんですね。  字というのは、よくペン習字で習っている人がいますけれども、習っているうちに、だんだん自分の恰好が出てくればいいんで、きれいに書くということは、あまり意味がないと思います。字を見た時に、あ、これは何かであるな、ということを感じさせるような字であれば、確かに、文章を含めて、字の恰好なんかも、その人を想像させますね。  とにかく字については、現代の流行作家は、むしろ大変な悪筆家が多いということだけは言えるんじゃないでしょうか。一番最初に出たぼくの友人の 石原慎太郎君が悪筆の代表だったんですが、彼は左手で書くものですから、どうしてもちょっと普通と違ったタイプの字が出来ちゃうんでしょうけれども、大変な悪筆で、ほとんど他人には読めない。 南條範夫さんも、ほとんど書いたものが編集者には読めないで、奥さんが清書して出していた。 宇能鴻一郎さんも、やはり、書いた字がほとんど編集者には読めないものだから、特別の秘書がいて、それが書いて清書して、というようなことがあるわけですね。  ですけれども、字が下手だから、じゃあ、流行作家になれるか、というと、そんなこともないんですけれどもね。字がうまい、下手というのは、あまり関係ないとお考えになって構わないんです。字が下手だからといって、われわれが、たとえば懸賞小説を見た時に、字が下手な人は、もしかしたら、うまいことが書いてあるのかもしれない、と逆に思いますね。だから、字の下手な人だからって、初めから落選させようとか、そんなことは全然考えません。字がうまい、下手というのは、文章とはむしろ関係ないと考えます。  ですから、字にコンプレックスを持っている方がいらっしゃったら、それは全く不必要で、これから小説を書く時、それからまた手紙なんかも、人にうまい字で書こうなんていうのはあまり意味がなくて、むしろ個性的な字を書けば、そのほうが読んだ人が印象に残りますからね。そのほうがいいと私は思います。  ただ、よくぼくらも小説を書いてしばらくして、「小説家なのに字が下手だね」と言われたことがあるんですけれども、小説家は本当は字はうまくはないんです。ですから、字のうまい下手と小説の出来とは全く関係ないと考えていいということだけは申し上げられると思います。  枚数というのは、ミステリーの場合は、特に持っている意味が非常に重要なので、全体の枚数、たとえば五十枚ものであれば、犯人の割れ具合をどうするか、という時に、四十五枚目位までは犯人を隠しておいて、最後の五枚で犯人をバラすというような、そういう規則があるわけじゃないですけれども、大体、最後のほうで割らなきゃいけません。最初から割るのもあります。いわゆる倒叙法的に、犯人が最初に決まっていて、だんだん、だんだんときて、また最後で逆転かなにかするというのもありますけれども、いずれにしても枚数の割り振りはきちっとしなければならない。これがミステリーの宿命なんです。  前から何回も申し上げている構想メモに基づいて、枚数割りはきちんと決めてお書きになるということが、ミステリーでは大切です。  それから期日の問題ですけれども、期日は、きちんと守って書くべきです。しかし、皆さんがアマチュアとして考えた時に、何か物を書くという時には、やはり、生活のリズムというものが非常に大切なので、プロであれば何時《いつ》何日《いつか》までに書いて下さいという締切りがあって、それに向かって原稿を書くわけですけれども、一般の人でしたら、そういうことはないでしょうが、いずれにしても何時何日位までに構想を立て、原稿を上げていくかというのは、やはり、物をつくるのですから、自分の狙いを持って、それを生活のリズムの中に織り込んでいくということで書いていく、というのが、わりあいに小説を完成させるのに大切ではないかと思うんです。  たとえばきょう一枚書いたけど、しばらく休んじゃって、それからまたしばらく置いてから二枚位書いてというのは、こういう書き方をしますと、やはり、その小説の中にリズムが入っていないということで、後で自分で読んでみると、非常にぎくしゃくして、ある部分だけ、やけに緻密に書いてあると思ったら、急にパァーッと飛んじゃったり、そういう点があるので、出来る限り何時何日までどう、というのを守って自分で書いていく、というのが私はいいと思います。  これは、私の固有のやり方でもあるんですけれども、そうでない人が小説家の中にはいます。締切りがないとどうしても書けない。ある作家は、編集者が自分の目の前に坐ってくれないと書けない。それまでは全然書けないんです。来たら、「私のこの前に坐れ」と坐らせて、やおら原稿用紙を出してきて書く。大体、夜中に書きますから、ずーっと起きて待っているわけですね。眠らせてくれない。そういう、非常にいじめに近いような形の原稿の書き方で、そういう人は、前に坐ってないと書けない、と言うんだから仕様がないですね。  ぼくなんか、逆に、誰かが前に坐っていたら書けないですね。とても厭な感じで、疲れるだろう、可哀想だな、と思って、どうしても「先に寝ちゃいなさい」なんていうことになるからダメですね。  そのくらい、いろいろな人がいるんで、その人にはその人の理屈があるので、別に、サディズムでもなんでもなくて、ただ何となくそこに坐っていてもらわないと書けないという、これはやはり、習慣ではないかと思います。人によれば、書いているうちに、どうしても厭になると、パッと家を飛び出して、しばらくどこか行方不明になっちゃう、そういうことをしないと、どうもいけない。そういうリズム、ぼくは、悪いリズムだと思いますけれどもね。   生活のリズムの中で書く  私は、物を書く時は、やはり、生活のリズムの中に、その書くということ自身を織り込んでいくということで、かなり、ちゃんとしたものが書けるようになるんじゃないか。思いつきでその時、その時やっていくと、小説というのは、自分は半月、あるいは一カ月かかって書いたものでも、読むほうは、アッという間に読んじゃいますから、読者のほうは集中的に読むわけですから、そうすると、片方の一カ月もかかって途切れ途切れに書いた小説は、いかに纏《まと》まりが悪いかというのは、おのずから分ってくると思うんです。それは大変不利なことですからね。  大長篇の場合は、そうでもないということもあるんですよ。本当に長い長篇小説で何年にもわたっているような時ね。春の部分を書いたら、しばらく筆を置いて、次に夏の部分を書くという時には、実際、夏になってから書くという、そういうのもあるんですね。ですから、それは必ずしも悪いことじゃないんですけれども、それはそれなりのリズムというものがあると思うんです。  だけど、普通、纏まった、まァ百枚以内の小説の場合は、やはり、一気呵成に書くというのが、読んだ時の読者の側に立って、大変素直に受け取りやすいことだと思います。   原稿用紙  原稿用紙については、皆さんは、普通の市販の原稿用紙でお書きになると思いますけれども、書いているうちに、どれが自分の字の大きさと合うかどうか。その合うのに合わせないと疲れますから。たとえば「……です」と書く時に、で す、と書いて、間があると、「で」を書いてから「す」まで、ちょっと開《あ》くでしょう。それも詰めてスッと書いて、すぐマル(。)というふうになるように、自分の字の大きさとスピードを合わせたような枠をつくらせる。これはプロは、みんなやらざるを得ないんですね。そういうふうにしないと、能率が悪くなりますから。私は私なりのああいう大きさでやっていますけれども、もっと大きいのを使ったりします。  小説家のおよそ半分はペラ(二百字詰)を使います。私は四百字詰を使っている。かなりの人が二百字詰で書いています。そのほうが、書いてパッパッ、パッパッとめくっていって、スピード感があっていいという人もいるんですね。新聞記者あがりの人は、大体二百字を使っています。  ただ、私は、四百字詰ですと、絶えず前のほうが見えているわけですね。少しでも前のほうが見えているほうがいいという考え方で、つまり、前のほうに何を書いたかというのが、絶えず横目で見えますから、二百字だと、パッと書いて、前に何と書いたかな、というのをまためくって見なくちゃいけない。そういうことがあるので、私は四百字詰を使っていますけれども、これは慣れの問題で、二百字詰でもいいんじゃないかと思います。  ただ、推理小説ということについて言えば、四百字詰のほうが、幾らか前の部分を眺めてる……、たとえば刑事と容疑者の会話とか、そういうのが出てくる場合、前のほうでパッパッと言ったことが、少しでも目に残っているほうがいいと思うんです。恋愛小説みたいなものを書く時は、前をあまり見なくてもいいかも知れませんけれども、ミステリーの場合は、喋ったことが必ず後のほうに影響してきますから、二百字よりも四百字詰のほうがいいかなあ、という感じはしているわけです。  これもしかし、そうでなきゃならんということもありませんし、ぼくらの場合は、単に書くということにプラスして、スピードということが絶えず問題になりますから、出来るだけスピードアップを図るように、自分で苦労するということなんですね。  そういう細かいことも、やはり、気をつけないといけないし、皆さんも物を書く時に、自分の原稿用紙をつくるというのも、ちょっと洒落《しやれ》てていいんじゃないかとは思います。何となく作家になったような気がしますから、自分で注文して原稿用紙をつくってみるといいかもしれないですよ。   筆記用具  皆さんも、ワープロを別にすれば、普通は万年筆で書くという人が多いんではないかと思います。ボールペンで書くと、わりあいに手でこすったりなんかして、いまはだいぶ改良されているからいいけれども、やはり、いろいろ問題があるようで、ペンと鉛筆では六、四ぐらいで、ペンのほうが少ォし多いかもしれませんね。私は、三菱ユニの2Bを使っているんだけれども、一々削るんじゃない、芯《しん》が出てくるようなシャープペンみたいな鉛筆形式で書いている人もかなりいますね。そのほうが削らないで済むというので。  私は、三菱ユニの2Bで、あれが出た時から、初めからその2Bで書いているものですから、スピード感がそれに合っているので、Bを使っても、3Bでも、やはりダメですね。2Bがいいということになっちゃって、それは慣れだと思いますよ。Bぐらいでもいいと思うんですけれどもね。ただ、薄いとどうしても……、難しいのは、力の入れ具合が、万年筆だと、そんなに力を入れないで書けますね。鉛筆だと、どうしてもちょっと肩に力が入る。そのために、疲れが鉛筆のほうが多いかもしれないです。  ただ、ぼくは、なぜ鉛筆にしたかというと、前にもお話したかもしれないけれども、初め万年筆で書いていたんですが、万年筆だと、間違って消す時に、インク消しで消せばいいんだけど、時間もかかるし、パァーッと消すと汚なくなる。だから、つい自分の頭の中でどこかストップかけるものがあって、書いた文章が失敗したな、と思っても、それを生かそうとするんですね。そのために、文章が徹底的に直らないという、それを自分で自覚したものですから、それじゃいかんと、やはり、悪いと思ったら、全面的に消しちゃえ、というので、そんなら鉛筆が一番、消しゴムでパァーッと消せばいいわけですから、きれいになってそこへ書けますね。  つまり、鉛筆にした理由は主に、文章を思い切って消す、思い切りよく消せるから、というのが大きな理由なんです。これはまた、皆さんは、いや、そんなことはない、自分は頭でやって、そんな消さなくていいんだ、という人もいれば、いろいろご意見があろうと思います。それはその意見でいいと思うんですけれども、私は、もう二十年来、鉛筆を使っているものですから、それに慣れてしまっていることもあるし、それから一つメリットを言うならば、思い切って消せるということはやはり、文章を推敲《すいこう》する大切なことだと思うんです。  私の原稿は、全部取ってありますけれど、大変きれいな原稿なんですね。きれいというのは、字がきれいという意味じゃなくて、ほとんど消し直しのところがないんです。消しゴムで消して、きれいに書き直してあるから、そういう意味では、吹き出しがあったり、なにか消してあるというのは、ほとんどないんです。全部、消しゴムできれいに消す。  なぜ、わざわざ消しゴムで消すかというと、消しゴムで消している間は、またインク消しなんかでやるのとは違って、消しながら、ちょっと周りを掃除したりしながら、次の文章が浮かぶとか、そういうタイミングを掴《つか》むということも、ちょっとあるものですから。  そういうことで、文章を書くということは、原稿用紙と筆記用具の二つで出来るわけですけれども、そんなふうに私はしています。  お勧めは何がいいかということでは、その人によっては、万年筆をきれいに使える人であれば、万年筆もいいと思います。最近、万年筆もよくなっていますから、いいのを使えば、昔のようにインクが漏れたりなんていうことは、ほとんどないです。カートリッジ式ですからね。手が汚れるということも、比較的少ないと思います。  ただ、やはり、ぼくらは速いですから、万年筆だと、インクが乾かないうちに次のところへどんどん手がいってしまうということがあるわけですから、鉛筆だと、手の下に紙を敷いていますから、敷いた紙は真黒になっちゃいますけれども、その上をずーっと滑っていくという感じで、万年筆よりは汚れがないということで、私は、鉛筆を万年筆に変えることは、ほとんど考えてません。  この点については、原稿用紙についても、筆記用具についても、自分で、自分の好みに合うものを発見することだと思います。道具というのは大切なんですね。  将棋の大山名人が、よく将棋のことで言うんだけれども、将棋が下手なうちは道具のいいものを使え、と言うんです。  それはどういうことかというと、道具のいいものを使ったって、下手なのは下手で、素晴しい金ペンの万年筆を使ったからって、いい小説が書けるわけじゃない。ただ、道具をいいものを持つと、心が引き締まって、少しはいいものを書こうとか、いろんなことで芸の道にプラスが多い。だから、私はうまくないんだから、この程度のものでいい、というんじゃなくて、むしろ少しそれにカネをかけてみる。そうすると、やはり、何かいいものを書こう、という気持が湧いてくる、ということが言えるかもしれません。これは、言えないかもしれないんですよ。分らないけれども、将棋の 大山名人はそう言ってましたね。  本当に、いい道具を持つということは、やはり、いいことをする。たとえばお茶なんかそうでしょうね。お茶の道具は、芸事の中では一番高いんですけれども、やはり、あれもいい道具を持つことによってお茶の雰囲気を味わっていく気持も自然に出来てくる。要するに、いいものを持つということは、物を大切にしよう、という気持がまず浮かんで、それから、これを使って、もっといいことをしよう、ということに結びついてきますから、道具などは、出来る限りいいものを使うということは大切だと思います。   作家の職業病  実は、最近、私、大変な腰痛に襲われたんです。ちょうど去年の十一月から十二月にかけまして、一カ月に月産一千枚の原稿を書いたんですね。月に千枚の原稿を書くということは、普通、プロでもほとんど出来ないんで、大体五、六百枚位が最高で、千枚というのは気違い沙汰だったんですけれども、当時、長いものを二作一ぺんに頼まれて、書下しに近いことでやらなきゃならないというのでやったんですね。  そうしましたら、その十一月の上旬、ゴルフに行きまして、帰ってきたら間もなく、左の太腿《ふともも》の裏側に激痛が走りまして、以来、ずーっと激痛が走り続けなんです。  私は、どういうところに坐っているかというと、和室で切り炬燵《ごたつ》にしたところに坐って書いているわけですね。和室ではあるけど、一応、椅子式に坐っているんです。椅子はとにかく坐っていても、体が少しは動いているわけです。ところが、そういう切り炬燵式の欠点は、体が動く余地がないんです。体を、椅子に坐っている時のように回すことが出来ない。そのかわり、能率はよくて、幾らでも原稿書けるんです。体が一定の形になったまま、一種馬車馬のように働けるんですね。自分はそれでいいと思って、いままで働いていたんだけれども、その固定していた形がどうもよくなかった。  普通は、午前中二時間、午後三時間、五時間位で一日二十枚の原稿の消化が、四十枚位に増えて、そういう無茶な仕事をしちゃったんですけれども、現在はそれを減らして、一日二十枚を絶対越えないというふうにして、坐る時間を極力短くしているんです。  そうなった場合、とにかく坐るということが、大変苦しい。医者の診断は、一般的には坐骨に神経痛が走っているわけですけど、一種の椎間板《ついかんばん》ヘルニアだというんです。脊椎《せきつい》の下のほうの第三と第四の間が潰《つぶ》れてしまって、はみ出してくる髄核が神経に触れている、そのために痛みが走る、ということで、それにはまず、背中の筋肉を強くしなきゃいかん、せっせと歩いたり、もう少し運動してくれと言われているんですけれども。  最終的に、いま、どういうことになってきたかというと、だんだん考えてみると、どうも椅子が悪い、椅子の改善をまずしなきゃいけないんじゃないかと考えたわけです。とにかく同じ恰好でいままで書いていたから、少し変わった形にしてみよう。勿論、ぼくは、洋式の書斎も持っているんですけれども、一たん、坐骨が痛くなってからでは、椅子に坐っていても痛くなるんです。  じゃ、どういう椅子がいいか、この際、研究しようというので、東海大の大学院へ行っている私の親戚のが、たまたま椅子の研究をしていまして、そのほうでいいのを取り寄せて、大学の研究室にある実験用の椅子がくることになっているんです。  スイス製の椅子が大変いいそうです。脚が五つある。四つ以下はダメだそうですね。とにかく五つないといけない。  そういう椅子の研究がありまして、大学の教授が届けてくれることになってるものですから、まずそれで坐ってみようと。それは病気以前の、どんな椅子がいいのか。テーブルの高さは、椅子が上下しますから、それで変えればいいわけで、自分の足が床にピタッと着く位の高さで坐った時に、ちょうど書ければいいわけで、テーブル面も、設計図を引く机みたいに、やや前へ傾斜しているほうがいいという説もあるんですけれども、それもあまり強く傾斜しているといけない。何しろ平面に対して原稿を書くということは、実際にちょっと無理があるというんです。ちょっと上向いているほうがいいという説もあるんです。しかし、これは、私は実験してないから、まだ分りません。  昔、伊藤整という人がおりまして、「小説家にとっては、自分が死ぬこと以外はすべて自分の材料である」と言ったんだけれども、それと同じように、この際だから、いろいろ研究してみようと。  とにかく物を長く書いていると……、だから私の場合は、おそらく一種の職業病として表われたんじゃないか。医者の言うには、これは治らない、一たん古くなったものは、もう治らない。治るというのは、痛みが取れるだけであって、実際に治らない。これは、人間も道具も同じですから、金属疲労が生ずると、ジャンボ機だって墜ちるように、背骨の疲労は金属疲労みたいなものですからね。  だから、物を書くというのは、何でもないようで、ちょっと見ると、痩男がやるような、楽な仕事をしているようなんだけど、そうじゃなくて、大変なストレスと疲れが背骨に重なってきているんだ、ということで、ここ約半年位、そういう痛みが続いているわけですね。とにかく同じ姿勢を続けているってことは、人間にとってよくないということが、はっきりとこれで分ったんです。  それはもう分るんだけれども、それじゃ、あまり同じ姿勢を取ってやらないで仕事が出来るかというと、やはり、ダメですね。同じ姿勢をずーっと続けている時が、一番スピードも上がるし、早く出来るんですよ。あっち向いたり、こっち向いたり、立ち上がったり、坐ったりなんかやってたんじゃ、なかなか出来ない。  だから、現に月千枚も書いた時は、ほとんど毎日のように、そこに坐るとワァーッと書いていって、気分が乗ってきて、自分では、すごく書けるな、と思ったけれども、よく考えてみると、体がそれだけのストレスを全部吸収していたわけでしょう。だから、それがパッと一ぺんに出たんだと思うんです。一番ぼくにとって困るのは、坐る時間を短くしなきゃいけない、ということなんですね。何しろ坐る時間が仕事の時間ですから、それだけに非常に困る。  まァ、しかし、痛かったけれども、大変な経験を積んだので、小説家というのは、どんな場合でも、経験にマイナスはないという信念で、たとえばどこかへ出かけて事故に遭っても、事故というのは大切な経験だ、というふうに考えて、そういう転んでもタダで起きないという精神、これだけはね。それが悪いほうにいっちゃって、ぼくみたいに、経験だから、あっちこっちかかってみようっていう気があって、自分の体で治るかどうか、このお医者さんが|ヤブ《ヽヽ》かどうかすぐ分るなんて思って行っちゃうから、いけないんですね。  もう少し謙虚な気持でもってやらないと、いつまでも治らない。  いずれにしても要は、お医者さんが治すんじゃなくて、こういう病気は、やはり、一種の職業病ですから、自分の生活から直していかなきゃいけない。ただ、私の場合は、そういう生活を直しにくい状況にあるというところが問題だと思います。  だいぶ横道にそれましたけれども、本当は人間にとって、病気のことというのは重要なことなんですね。何かの時に、一番いい先生というか、ピッタリ合っている先生を見つける。それがうまく見つかった人は……、腰痛だけなら死ぬということは、ほとんどありませんけれども、しかし、たとえば心臓の病気とかなにかだと、かかった最初の先生によって、もう命が決まっちゃうんですね。絶対にそこでは助からない、というところに運ばれちゃう場合もあるし、そうでない場合もある。  梶山季之さんが香港で病気になったために、香港の救急車はチップを出さないといい病院に運ばないんで、一緒にいた女性が知らずにチップをやらなかったために、香港の一番安い労働者の病院に運ばれて、あとで気がついて別の病院に転院したけど、その時はもう遅かった。もし、梶山季之が日本で病気になったら、死ぬことはなかったろう、と言われてるんですね。  そういう重要な病気、女性に多いクモ膜下出血のような脳内出血の病気とか、心臓病などは、まず最初にどこに運ぶか、運ばれるかというのが寿命を左右してしまいますから、病気については、いつも関心を持っていたほうがいいと思います。  これは小説とは関係ないようだけれども、どんな話の中でも、病気というのは大切なことで、特に、最初の処置を誤ると長引く、あるいは死に至るということがありますから、皆さんも、病気については、十分に健康に注意して、やっていただきたいと思います。  私は、ワープロは使っていませんが、ワープロを使っている作家は、いま、どんどん増えてきています。若い人は勿論使い出しているし、かなり年配の人も、このほうが楽だというので、ワープロを使っている人が増えていることも事実です。売り込みも随分来ますし、「先生が使わないなら、私がお手伝いします」というワープロ専門の女性が沢山電話をくれますけれども、ワープロを自分で使うとなると、かなりトレーニングをする必要もありますし、私も、決して使わないということではないんですが、今後、こういう腰痛に悩まされている自分の体の調子を見ると、ワープロも必要かな、という気持もします。  私は、英文タイプが出来るので、ワープロもすぐ出来るだろうと、人にも言われているんだけど、やはり、いまの字で書くスピードと同じくらいまでになるためには、かなりトレーニングする必要があるだろうと思うんです。  今後、ワープロで書く人はだんだん盛んになると思います。  そうすると、小説家が一番漢字を知らないということになるんじゃないかという、皮肉なことを言う人もいるんですね。ワープロを使っていると、みんな転換しちゃいますから、カタカナさえ出来ればいいという感じで、字を書いている人が、一番字を知らなくなるんじゃないか。ただ、あれはやはり、漢字をよく知らないと、難しいんじゃないか。その意味では、基本的な知識は、やはり、なくちゃいけないんだけれども、それをどうするか、という問題もあると思います。   ミステリー作家への道  あと、応募原稿について一言触れておきたいと思います。皆さんが、これからもし、世の中に、小説で出てみたいという気持があれば、いま、どういう出方があるかというと、特に推理小説で言えば、懸賞小説に応募するというのが一番ですね。もう一つは、誰か大家の人の推薦を受けて世の中へ出るというのも、いまでもありますが、一番いいのは、やはり、懸賞小説で入選して堂々と世の中へ出るということが出来ればいいですね。  応募原稿を書く時の要領は、いま、サントリーミステリー大賞から江戸川乱歩賞、その他、各推理小説の新人賞、「オール讀物」にも、「小説推理」にも、いろいろありますけれども、応募の時の心得は、字は、生原稿で読んでもらうわけですから、きれいにしくはないですね。懸賞小説の場合は、きれいでないと読んでくれませんし、間違えて読まれてもいけませんから、きれいに書くことが必要です。当選してからの原稿は、そんなにきれいに書く必要ないと思いますけれども。  そして、出だしの五枚から十枚は、選者がパッと飛びつくような、何か、シーンとしての面白さでもいいし、出だしの面白さ、何でもいいから、最初の五枚から十枚の間に、むしろ自分の全精力を注ぎ込むぐらいの気持で、そこのところをうまく書かなきゃいけないのです。いままで私も、応募原稿を沢山拝見しましたし、同じ選考に携わっている仲間から聞くと、最初の大体五、六枚読んで、これはいけるとか、いけないというのが分っちゃうと言うんです。これは必ずしも正しいとは思わないんですけれども、印象としてはみんなそうなんです。最初の十枚位がくだらなく書いてありますと、後、これから自分は小出しにして書いていくんだ、というふうな書き方をしても、損ですね。終りまで読んでくれないかもしれない。最初の数行読んで「これダメ」と、はずされちゃうから、とにかく最初のところだけは、人の目を引くような、しかも跳《はね》っ返った文章じゃなくて、ジッと抑えながら出しているような、うまい書き方をする。とにかく最初の五枚から十枚が勝負だと思って下さい。  普通の小説でも最後の部分は大切だけれども、ミステリーの場合は、特に謎解きが必ずありますから、そこのところが明快に分るようにしておく。人の心を打てば、なおいいけれども、少なくとも明快であるということが大切だと思います。  だから、出だしと最後、その二つだけは、真中に何が書いてあってもいいですから……、何が書いてあってもいい、というのは言葉の綾《あや》ですから、その通り書かれちゃ困るけど、出だしと最後だけは、とにかくしっかりして、出だしの最初の五枚から十枚位のところは、終りまで読みたいな、と思わせるようなものを書く。そして最後は、推理小説は明快でないといけないです。明快に終る。出てきた人物が、最後まで何か分らないで、解決しない人がいたり、何かはっきりしないということだと、少なくとも懸賞には当選することは難しいと思います。  選者によって、たとえば斎藤栄だから本格物がいいだろうとか、赤川次郎だからユーモアにしようとか、そういうことは、あまり考えないほうがいいんです。その選者がそういう傾向だからって、それを書くでしょう、そうすると、その選者が、そういう問題については、一番厳しい目を持っているわけですね。自分の世界だから、よく知っているから、むしろ厳しい判断を下して、まず当選しないことが多いんです。  これはヘンな譬《たと》えかもしれませんが、たとえば素人のど自慢で、そこにいる人と同じ歌をうたうと、一見いいようだけれども、かえって当選しにくいってことがあると思うんです。歌唱力のある素晴しい歌と比較されちゃいますからね。むしろ全然知らない歌をうたうとか、歌謡曲の歌手が出てて、民謡なんかうたうと、大概、当選しちゃいますね。ああいう感じなんです。  選考委員の顔ぶれを見て、それに合わせようなんていうのは、まずしないほうがいいと思います。むしろその人が知らないような世界を書いたほうが、わりあいに成功率は高いということが言えると思うので、あまり選考委員のキャリアとか作品を頭に置いて書くということはしないほうがいいんじゃないかと思います。  世の中に出るには、もう一つ、誰か既成作家の推薦を得て出るというのもあります。推理小説の場合は、現実に、何の賞も取らないのに、世の中に出るという人もいます。その場合、短篇では、ちょっと難しいと思います。雑誌に推薦して載せてくれ、と言っても、いま出版界も大変な競争ですから、雑誌は、名の知れている人の作品しか載せませんね。  また、推薦できるようなものであれば、かなりいいものだから、よほどのことがない限り、かなりな懸賞にも、あるところまではいけるはずですからね。  いまでは、懸賞で出る人のほうが多くて、普通、書いて出る人は、なくはないですけれども、わりあいに少ないです。それは、その人の持って生まれた運みたいなものがあって、その作品がたまたま、題材その他で時流に合うというようなこともあれば、推薦で出るということもあると思います。これは、長篇をお書きになったほうがいいと思いますね。  要は、一番最後に、お話したいと思ったのは、「愉しんで書く」ということです。  皆さんに本当にお話したいのは、小説を書くということは、やはり、書いている人が、それは苦しいという言い方は、勿論ありますけれども、物をつくり上げていく、芸事でもって何かを完成させるということは、所詮、その人の持っている愉しみの世界なので、それを忘れちゃいけないと思うんです。とにかく自分自身が、その作品によって人生というものを生きていくんだという実感を、書くことによって味わうんでなければいけないと思うんです。  ただ、何となく小説というジャンルがあるから書いているんだ、というだけで書いているんでは、書いている時間がムダみたいな気がします。うまい小説が書けても、うまく書けなくても、とにかく書くという時は、愉しんで書いてなくちゃいけない。  その愉しむというのは、別に、ワァーッと喜ぶという意味ばかりじゃないんですよ。たとえば 吉川英治さんは、自分の作品を何度か読み直して、その作品に感動して泣いた時があったということを、私は聞いていますけれども、私も、自分の作品を読んで、本当に感動すること、よくあるんですね。ちょっとおかしいようですけれども、何度でも感動する。少なくとも、自分が書いている時に、気分が高揚して自分自身が感動しないようなものは、他人も感動しないですよ。これだけは確かですね。  自分が小説を書いていて、「あッ、本当にいいな」と思って、自分でそれに惚れ込んで書かなければダメですよ、文章というのはね。自分で惚れ込んで、他人が読んでもちっとも感動しない文章もありますけれども、でも、少なくとも自分が感動した部分は、多分、ほかの人も読んで感動してくれると思います。  何度読んでも、自分のそこへくると、いいな、と思うような、そういう作品を一つでもお書きになるということは、後々、大変生活が豊かになることですから。  何のために小説を書くか。勿論、プロは、それを書いておカネにするわけですけれども、一般的には、最初からおカネを考えるのはいけないと思います。やはり、小説を書くことによって自分の生きがいを得るんだと。小説を書くというのは、大変な作業ですから、そこに一つの世界をつくる。自分が、その世界の中で、書いてる間は生きてるということがあるわけですから、それは大切にして、その完成させたという充足感みたいなものを自分が愉しまなかったら、何のために小説を書いていくのか分らない、ということがあるんです。  その結果として、おカネに結びつけば、なおいいんですけれども、最初からそれを考えるのはよくないと思います。  自分でこの小説を書いて、その世界が完成したことを喜べる、そういうようなものを、自分で愉しみながら書いていく。これが、小説を書く本当のコツだと思うんです。  むしろそういう意味では、アマチュア時代のほうが、小説を書く喜びが純粋に出てきて、出来上がった時に、あ、自分はこれだけのものを書いたんだなと、自分の子供みたいな気がして、本当にその本を撫《な》でてやりたいような気持がするんですね。  そういう最初の気持というのが一番あるのが、どんな人でも言いますけれども、初めて自分の本が店頭に並んだ時ですね。何度も何度もその本屋の前を行ったり来たりして、それを見るという感動があるわけです。どんな大作家に聞いても、最初の一冊は誰でもそうなんですね。活字になって店の前に並ぶというのは、本当に感動的なものですよ。  これは、物を作るということの喜びは、みんな同じだと思うんです。陶芸で、自分の壺を焼いて、それを展覧会に出して、その前を人が通って、自分の作品をみんなが見てくれるかどうか気になる。それは当然のことだし、それが喜びだと思うんです。  だから、作品を書き上げた時も、人に読んでもらって、その喜びを、読んでくれた人と自分が共有できる。そういうことが芸というものの素晴しい世界ですから、ぜひ、皆さんも、単に私の話を聞いたというだけではなくて、芸の世界の本当の愉しみを……、まァ同人雑誌をおつくりになって、それを回し読んで愉しむのもいいことだと思います。しかし、一歩突き進んで、商業誌に自分の作品を載せて、不特定多数の人に読んでもらっている喜びは、ちょっとまた別なものですから、もし出来れば、そういう喜びを自分の手にされるというのは、大変いいことじゃないかと思います。 [#地付き]〈了〉 本書は朝日カルチャーセンター・横浜の講義(昭和六十一年四月三日〜六月五日)をもとに構成したものです。 単行本  昭和六十二年一月文藝春秋刊(「斎藤栄のミステリー作法」を改題) 〈底 本〉文春文庫 平成三年三月十日刊