狼と香辛料�㈼ 支倉凍砂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)何|隻《せき》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き]終わり ------------------------------------------------------- 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ]  果てなく続く雪原の向こうに、夜明けが近づいていた。  空気は痛いほどに冷たく、息をするたびに頭痛がする。  まだ暗いうちに出ていった羊の群れが、遠くの地平線上にいた。  何百年と変わらず、きっとこの先も何百年と変わらないだろう風景。  晴れた空と、なだらかな雪原と、そこを歩く羊の群れ。  空気を、吸って、吐《は》く。  長い息が冷たい風に釣《つ》られて帯を引き、視線をそちらに向ける。  隣《となり》では、まだ眠《ねむ》そうな旅の連れが、しゃがみ込んで雪を指に絡《から》ませていた。 「なくなるかもしれない、だとさ」  唐突《とうとつ》に言った言葉に、大した反応はない。 「すでにないものは、さらになくなりはせぬ」  小さな手で雪玉を作り、ひょいと放《ほう》り投げる。  とす、と雪の中に埋《う》もれたそれは、穴をあけた。 「俺たちは人だからな。ないものを、より、なくすことができる」  二つ目の雪玉が穴をあけて、隣から言葉が返ってくる。 「わっちには難しくてわからぬ」 「死んだらそれまでだと思うだろう? だが、そうではない。人は死んでからもさらに天国で生きるし、地獄《じごく》でさらに死ぬ。失ったものをまた失うくらい、造作《ぞうさ》のないことだ」  三つ目の雪玉は作られず、隣《となり》では真っ赤になった手に息をかけていた。 「人は恐《おそ》ろしい」 「ああ」  うなずくと、少しの間をあけて、もう一つ言葉が向けられた。 「どうしてなくなるのかや」 「話では、削《けず》られ、掘《ほ》られ、ついには跡形《あとかた》もなく、と」  衣擦《きぬず》れの音がしたと思ったら、肩《かた》を揺《ゆ》らして笑っていた。 「人は本当に恐ろしいの。そんな、無邪気《むじゃき》な仔《こ》のような発想は、わっちにはとてもできんせん」  立ち上がると、頭二つ分は優に低い。  下から見上げる大人の顔がいつも怖《こわ》かったように、上から見下ろす少女の顔はいつも気弱で儚《はかな》げだ。  だから、上から見下ろしてもなお気丈《きじょう》に見えたそれは、きっと気のせいではないのだろう。 「じゃが、わっちゃあそれを聞いてちょっと嬉《うれ》しい」 「……嬉しい?」 「んむ。最初はわっちの与《あずか》り知らぬところでなくなった。わっちとはなんの関係もなく、なにもすることができず」  一歩、二歩、と進んでいくと、軽そうに見えるその体にもきちんと重さがあることを示すように、雪に足跡がついていく。  小さいが、しっかりとした、足跡だ。 「今度は」  そして、ローブの裾《すそ》を翻《ひるがえ》し、朝日を背に受け笑っていた。 「わっちが関《かか》われる。それこそ、死んだあとの生死に、の」  笑うと、唇《くちびる》の下からは鋭《するど》い牙が覗《のぞ》く。 「もうどうしようもないと思ったことに再び関われる。そんな嬉しいことはそうそうありんせん。やめるもよし、やめられぬもよし。与り知らぬところで始まって終わるよりましじゃ」  強さには二つある。  守りたいものがあるゆえの強さ。  もう一つは、失うものがなにもないゆえの強さ。 「珍《めずら》しく、強気じゃないか」  冗談《じょうだん》めかすと、ぽわっと吐《は》いた息が白く舞《ま》い上がる。 「わっちは言い訳を手に入れることができるからの。結果がどうであろうと、その場に参加したというのはそれだけで一つの言い訳になる。そしてそれは慰《なぐさ》めにもなる。もしかしたら、うまくいったかどうかよりも、重要なことかもしれぬ」  その流れに乗るだけで意味があると考えれば、負けた時に苦しまなくてすむ。  そんな唾棄《だき》すべき案を口にしてもなお、強い願いを秘めているように相手が見える時、人は手を差し伸《の》べずにはいられない。  負けることはわかっている。だが、そこでいかにうまく負けるかという勝負は、どんな戦いよりも難しいものなのだから。 「わっちゃあこの先も長いこと生きていかねばならぬ。寒い中|眠《ねむ》るには、言い訳という懐炉《かいろ》が必要じゃ。ずっと、それを抱《だ》いて眠り、時折起きては、眺《なが》めるに足る、の」  その台詞《せりふ》に笑顔《えがお》を返すのは至難の業《わざ》だろう。  それでも、笑わずにはいられなかった。  これから世の全《すべ》ての財宝を奪《うば》いに行こう、とでも言いそうな、そんな不敵な笑みと共に言われたら。 「ずっとは付き合いきれない。死力を尽《つ》くして手助けはできない。だが、俺は俺の領分で、付き合うよ」  小さなそいつは、朝日を背に浴びながら雪の上に立つ。  そいつが知りたいのは、できるかわからない努力目標ではなく、確実に履行《りこう》できる限度のほう。なにもかもをなげうって、どんな危険でも引き受けよう、という情熱的な言葉を欲しがるには、いささかそいつの心は優《やさ》しすぎた。  お互《たが》いに、無茶をせずに手をつないでいくというのが、どうやら歳《とし》を重ねるということらしい。  にっと笑ったその顔は、嬉《うれ》しそうな笑顔だった。 「では、早速《さっそく》このあとの朝飯で、ぬしの付き合いきれる領分とやらがどれくらいか確かめよう」  こんな冗談《じょうだん》が出るのは、辛気臭《しんきくさ》い話はこれで終わりだ、という合図。  ひょい、ひょい、と軽い足取りで戻《もど》ってきて、こちらの腕《うで》を取るなり甘えるようにすがりついてくる。 「せいぜい、食べすぎてこれが最後の朝食にならないように注意するんだな」  ただでさえこいつの食費は馬鹿《ばか》にならない。  それでも、いつだって馬鹿にできないのは食費ではなく、頭の回転のほうなのだ。 「んむ。ぬしはわっちのことが好きで好きでたまらんらしいからの。ぬしが喜ぶままに食べておったら、わっちの腹がはちきれてしまいんす」  口から飛び出したのは、反論すれば全包囲の藪《やぶ》から蛇《ヘビ》が出てくる難攻不落《なんこうふらく》の要塞《ようさい》だった。  降参するしかない。  肩《かた》をすくめて、こう言った。 「俺はお前を殺したくないからな」 「んむ」  そして、前を向いた赤みの強い琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》は、雪に埋《う》もれかかった修道院を見てから、閉じられた。 「それでよい。寛容《かんよう》さに殺されては、死んでも死にきれぬ」  一日の中で最も寒いのが明け方なのはきっと、このあとは暖かくなるほかないという神の粋《いき》な計らいなのだろうと、胸中で眩《つぶや》いたのだった。 [#改ページ] [#改ページ]  追って連絡《れんらく》する。  行商人ならば、その言葉の意味を文字どおりに解釈《かいしゃく》することなど滅多《めった》にない。概《おおむ》ね運が良ければという意味か、せいぜい一年か二年後にふらっと同じ場所に来た時に、という程度に解釈する。  が、大きな経済同盟という複雑な機構に所属する者からすると、その言葉は字義どおりの意味だったらしい。雪原のど真ん中に位置するブロンデル大修道院から、大陸に戻《もど》るための港に向かう途中《とちゅう》、来る時にも立ち寄った旅籠《はたご》で手紙を受け取った。  修道院を巡《めぐ》る騒動《そうどう》の際に協力したピアスキーから送られてきたその手紙には、経済的に貧窮《ひんきゅう》し、起死回生の一手を打とうとして失敗した修道院に関することが記されていた。  過去に偉大《いだい》な聖人を何人も輩出《はいしゅつ》しておきながら、いくつもの思惑《おもわく》から手を出した聖遺物。  それは異教徒の崇《あが》める神のものである可能性が高く、また、本物である可能性も高かった。  行商人という身分のロレンスからすれば、そんな話は旅の途中《とちゅう》の酒の肴《さかな》にするような類《たぐい》のもの。それがどういう巡り合わせか、今は商船を何|隻《せき》も所有し、王や大司教すら敬意を払《はら》わざるを得ないルウィック同盟のようなところから、偉大な修道院に関する極秘《ごくひ》の事項《じこう》を連絡してもらっている。  笑ってしまうと言えばそう。  ただ、よくよく考えてみれば、どれほど巨大《きょだい》で強力な権力機構であったとしても、そこにいるのは所詮《しょせん》、人。旅の途中《とちゅう》で知り合って、意気投合すれば奴隷《どれい》だって豪華《ごうか》な晩餐《ばんさん》に与《あずか》れる。  人との出会いは神の采配《さいはい》ゆえなのだから、不思議なことは幾《いく》らでも起こり得る。  なにより、ロレンスが目を通す手紙を隣《となり》から興味|津々《しんしん》覗《のぞ》き込んでいる者だって、普通《ふつう》に考えたら笑ってしまうような存在だ。  亜麻色《あまいろ》の髪《かみ》に細い顎《あご》。赤みがかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》に艶《あで》やかな唇《くちびる》。貴族の息女然とした容貌《ようぼう》が類《たぐい》まれなら、そのフードの下にある獣《けもの》の耳はなおまれだ。偶然《ぐうぜん》出会った旅の連れのホロは、貴族でもなければ人でもない。その真の姿は人を軽く丸飲みにできるような巨大《きょだい》な狼《オオカミ》であり、麦に宿りその豊作|凶作《きょうさく》を司《つかさど》る古き精霊《せいれい》の時代の存在だった。  もっとも、本人はそんな大仰《おおぎょう》な表現をされるのを嫌《いや》がるだろうし、手紙を読みたくて尻尾《しっぽ》で急《せ》かすようにロレンスのふくらはぎをぺしぺしと叩《たた》いてくる様は、畏敬《いけい》よりも愛嬌《あいきよう》のほうが似合っていた。 「読み終わったら、返せよ」  手紙をホロに差し出すと、ひったくるようにして持っていってしまう。ブロンデル修道院が購入《こうにゅう》したという聖遺物は、尋常《じんじょう》ならざる狼の骨、有体《ありてい》に言えば神と呼ばれる類《たぐい》の狼の骨。実際のところは偽物《にせもの》だったのだが、その購入に至る経緯などが記されていた。  ホロはその狼の骨が仲間のものではないかと考えていた。  ひとまずその疑いが晴れたことにほっとするのもつかの間、ロレンスはブロンデル修道院で、その狼の骨にも絡《から》む別のもっと良からぬ話を聞いた。  手紙には、その片鱗《へんりん》を窺《うかが》わせることも記されていた。 「それにしても、あのように大きな修道院でも騙《だま》されるのですね」  と、火の番をしながら口を開いたのは、もう一人の旅の連れであるコルだ。  齢《よわい》十余といったホロの容姿よりもさらに若干《じゃっかん》幼く見えるのは、貧しい旅のせいでやせ細っているからかもしれない。  さもなければ、理知的でありながらなお決しておごらないその謙虚《けんきょ》さゆえかもしれない。  ロレンスは火に当たりながら、言葉を向けた。 「なまくらの剣《けん》を買うのはどういう連中だと思う?」  弟子《でし》の時分、師匠《ししょう》によくやられたこと。  突拍子《とっぴょうし》もないような質問をして、その答えから相手の力量を測るというもの。 「えっ……と……お金の、ない人、ですか?」 「そう。だが、他《ほか》にもいる」 「金のあり余る連中じゃろう?」  コルが答える前に、手紙を読み終わったらしいホロがそう言った。  コルをロレンスとの間に挟《はさ》んで座り、手紙をコルに手渡《てわた》した。  この放浪《ほうろう》学生である少年もまた、故郷である北の地の神の存在を信じるために、狼の骨の真《しん》偽《ぎ》を追いかけている。 「そう。金のあり余る連中は、なまくらの宝剣《ほうけん》を買い求める。切れなくたっていいんだ。その剣の価値は、もっと別のところで決まる」 「それは……修道院は、別に本物でなくてもよかった、ということですか?」  優秀な解答に対するご褒美《ほうび》は、ホロが頭を撫《な》でること。  照れるでも邪険《じゃけん》にするでもなく、純粋《じゅんすい》に嬉《うれ》しそうな顔をすれば、褒美を与《あた》える側《がわ》だって嬉しいというものだろう。 「だから、騙《だま》し騙されというよりも、修道院にとってはそれに価値を付与《ふよ》できるかどうかのほうが重要だったんだろう。そして、実際にそれはうまくいきかけていた」  ロレンスの言葉に、コルは手渡《てわた》された手紙に視線を戻《もど》す。  そこには、修道院がもうわずかのところで手が届きかけていた、起死回生の可能性が記されていた。 「海を渡った先の商会から買い付けの打診《だしん》がきていた、というのは、あの商会のことですよね?」  港町ケルーベで、イッカクを巡《めぐ》る騒動《そうどう》に巻き込まれた時のこと。  あの時、渦《うず》の中心にいたのは狼《オオカミ》の骨を買い付けるために秘密の資金を手にしていたジーン商会だった。 「ジーン商会に高値で売って、その骨が本物であろうと偽物《にせもの》であろうと、あとは知らぬ存ぜぬで通そうとしたんだろう。が、叶《かな》わなかった」 「そして、それもまたわっちらにはどうでもいいことでありんす」  木の枝にチーズを刺《さ》して、火で炙《あぶ》っていたホロがそう言った。  ぶくぶくと溶《と》けかけたチーズにかじりつき、フードの下で耳がぴょんと跳《は》ね上がる。 「そう。気にすべきは別のところ」  ロレンスの言葉に、コルは手紙の先に目を進めていく。  その手紙の中で最も重要なことがあるとすれば、それは事実の報告ではない。  時として、確証のない雑感のほうが有益な場合がある。  商《あきな》いにおいて有益な情報とは、実はその内容によって決まるわけではない。  誰《だれ》も知らないこと、それこそが最も重要であり、誰も知らない情報はいつだって確証などのない雑感からもたらされるものなのだ。 「どうやら、近年この手の取引があちこちで活発に行われているようです。その中心にいるのは、我々とは違《ちが》う流通|網《もう》を持つ者なのではないかと思います。北の地には不穏《ふおん》なる空気を感じます。神のご加護がありますように……ピアスキー」  むぐむぐとチーズを食べ終えたホロは、木の枝を火に放《ほう》り込む。 「ぬしがあのハスキンズから聞いたことと、合致《がっち》するんじゃろう?」  基本的に人の名を呼ばないホロが口にした名は、ブロンデル修道院に伝わる黄金の羊伝説の、そのまさしく黄金の羊の名前だ。  ただ、ホロが名を呼ぶのは、ハスキンズが自分と似たような存在だから、というわけではないだろう。ホロは頑固《がんこ》な賢狼《けんろう》だから、敬意を表するに値《あたい》しなければ、あれとかこれ呼ばわりを変えることはない。 「修道院に対し、狼《オオカミ》の骨の買い付けを打診《だしん》していたジーン商会は、元々デバウという名の商会の傘下《さんか》だ。ハスキンズさんは、俺に教えてくれた。人が大鉱山地帯と呼ぶ場所に陣取《じんど》る商会の手によって、北の地の様相が一変するかもしれないと。それは他《ほか》ならぬデバウ商会であり、ルウィック同盟とは違《ちが》う流通|網《もう》を持った連中だ」  ハスキンズはウィンフィール王国のブロンデル修道院領に、秘密裏に自分たちの仲間のための故郷を作り出していた。各地に散り散りになった仲間たちは、時折ふらりと立ち寄っては、互《たが》いの近況《きんきょう》を聞いたり、各地の状況に関する情報を交換《こうかん》し合っているという。  その中で、ハスキンズはロレンスたちのために情報を渡《わた》してくれた。  ホロが向かう故郷、何百年も前に滅《ほろ》びたというヨイツの名を含《ふく》む、不穏《ふおん》なその話を。 「では……本物の狼の骨は、すでにデバウ商会によって?」 「その可能性もある。もしも市場に流通しているのだとしたら、むしろその可能性が高い」  ロレンスはコルから手紙を受け取って、おもむろに引き裂《さ》いた。 「あ」  と、コルが口を開けたまま呆然《ぼうぜん》とするのをよそに、ロレンスは細かくちぎり終えると、火の中に放《ほう》り込む。 「一通しかない手紙が水で破けたり燃えたりしてしまっては困る。そういう時には羊皮紙を使う。だが、頑丈《がんじょう》だということは処分も大変だということだ。だから内緒《ないしょ》話は処分しやすいように紙を使う。誰《だれ》にも知られてはならないからな」  あっという間に灰になった手紙は、熱気に煽《あお》られて天井《てんじょう》に向かって飛んでいった。 「それで、わっちらはどうするんじゃ?」  コルとホロの二人は宙を舞《ま》う灰を目で追っていたものの、本当にその目で灰を見ていたのはコルだけだ。  ホロは赤みがかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》で、どこか別の場所を見つめていた。 「ピアスキーさんの送ってくれた今の手紙と、ハスキンズさんの教えてくれた北の地の情勢。大きな情報網の二つが、似たような話をもたらしてくれた。だとすれば、これはもうほとんど事実と見ていいだろう」 「なんたらいう商会が、山をほじくり返すためにあっちこっちの土地の民《たみ》を追い出そうとしている、と?」  コルが、はっとしたように灰から視線を戻《もど》した。 「そのために、聖遺物を真贋《しんがん》問わず血眼《ちまなこ》になって集めている可能性がある、とハスキンズさんも言っていた。目的は明白だ。武力に頼《たよ》ろうとする時、教会組織ほど心強い味方はない。まず間違《まちが》いなくデバウ商会は教会を味方につけるはず。そして、だとするならば、彼らは鉱山開発のための土地の占領《せんりょう》を、心地《ここち》よい言葉で言い換《か》えるはずだ」  ぱち、と小さく木が爆《は》ぜた。 「聖戦。異教徒たちの手から、神の土地を奪《うば》い返す、と」  聖遺物は信仰《しんこう》の世界に属するもの。  だから、ロレンスたちが追いかけていた狼《オオカミ》の骨も、当初は教会の布教のために用いられるかもしれない、と考えた。例えばそれが異教の神のものであれば敢《あ》えて冒《ぼう》涜《とく》[#「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29]し、しかしそれにより罰《ばつ》がくだらないことを以《もっ》て、教会の正しさとするように。  ホロは自分たちがいかに強くても、骨になったあとまでも相手に噛《か》みつくことはできないと言っていた。  異教の神の息遣《いきづか》いが未《いま》だ濃《こ》く残る土地ならば、その効果はきっと絶大だろう。  しかも、デバウ商会が鉱山開発のために戦いに打って出るというのなら、もはやその行為《こうい》は信仰の戦いではなく、真の動機は金儲《かねもう》けだ。  ハスキンズがいみじくも語ったように、古い時代に神と呼ばれた者たちが森や山から追い出される時、常にその裏には商人がいた。  それが、今回は裏方ではない。 「北の大|遠征《えんせい》が中止になって困っている連中は多いだろうからな。自分たちの住む土地で起こる戦《いくさ》は嫌《いや》がっても、遠くの土地で起こるそれは大|歓迎《かんげい》。食料や物資が飛ぶように売れ、畑や村を荒《あ》らす傭兵《ようへい》たちはこぞって遠くに出かけていく。うまくいけば戦いに赴《おもむ》いた領主がたんまり財宝を抱《かか》えて帰ってきて、そのおこぼれに与《あずか》ることだってできる」 「その戦いの起こる土地が異教のものであればなお困ることはありんせん、ということかや」  ホロの故郷ヨイツは、もう何百年も前になくなっているという。  だが、そこには見慣れた山や森がまだあるだろうし、のんびりうたた寝《ね》をしたという日の当たる丘《おか》だってあるだろう。そういう意味では、まだ故郷は存在するはずだ。  それが金や銀、あるいはその他の鉱物を掘《ほ》り出すために利用されれば、景色は文字どおり一変する。木は切り倒《たお》され、山は削《けず》られ、川はせき止められる。  あっという間に、見たこともない土地の出来上がりだ。 「あの」  と、律儀《りちぎ》に手を挙げてから口を挟《はさ》んだのは、今にも泣きそうな顔のコル。  彼もまた、教会の横暴から故郷を守りたく行動を起こしていたうちの一人なのだから。 「どこが攻《せ》められるかとかは……その、わからないんですか?」 「わからない。だが」  ロレンスは言葉を続け、気休めでも笑顔《えがお》を向けてやる。 「だが、備えはできる。でかい話になればなるほど、公《おおやけ》に隠《かく》すのは不可能になるからな。それに、全体の流れは止められなくても、守りたい場所から敵の矛先《ほこさき》をかわすことくらいならできるかもしれない」  コルは悲痛な顔でうなずき、ぎゅっと下唇《したくちびる》を噛《か》んでいる。  これが二十年後の話であれば、コルはもしかしたら教会の権力の内部にいて、うまく矛先を誘導《ゆうどう》できる地位にいたかもしれない。  しかし、それらは全《すべ》てもしもの話。  ホロがコルの頬《ほお》をつまむようにして撫《な》でて、言葉はこちらに向けてくる。 「必要なのは?」 「ひとまず、北の地の正確な地図だな。なにをするにしても、地名だけを聞き出せたところで、それがどこのどういう場所なのかわからなければ手の打ちようがないし、戦禍《せんか》がどこに向かっているのかもわからない。ついでというわけじゃないが、狼《オオカミ》の骨の話も、流れに乗り込めば同時に見えてくるだろう」  ホロはうなずき、少し大きく深呼吸をする。 「だから、北の地の事情に通じ、なおかつ地図を描《か》ける人物をハスキンズさんから教えてもらった。なにせうちの狼の正体を知ったうえでの人選だからな。期待が持てる」  冗談《じょうだん》めかして言ってやると、ホロはつまらなそうに鼻を鳴らし、コルはぎこちなく笑う。  修道院で迎《むか》えた朝、ホロに話してやったことが、これ。  情報を集め、当初の約束どおりホロの故郷までは連れていくことはできるだろう。  ただ、その先のこと、例えばデバウ商会の目論見《もくろみ》をご破算にするとか、そんな英雄譚《えいゆうたん》めいたことを約束できはしない。  相手は北の地の有力な鉱山を直轄《ちょっかつ》する大商会。ただ単に金がある、というだけでは決して立ち行かない世界。ブロンデル大修道院が聖遺物をジーン商会に売りつけようとしたことすら、デバウ商会にとっては大きな目標の一部分に過ぎないのだろう。  ハスキンズからその話を聞いた時、世の広さを恨《うら》めしく思う前に馬鹿《ばか》馬鹿しさを感じてしまっていた。  ロレンスの力量には限界があるし、行商人の力などもっと非力だ。  しかし、ホロはそれを責《せ》めないから、ロレンスも恥《は》じることはない。  できることだけをやる。その代わり、できることには、全力を尽《つ》くす。 「とりあえず、ケルーベまで戻《もど》る。そこで、一人の商人に会うつもりだ」  イッカクを巡《めぐ》る騒動《そうどう》に巻き込まれた場所。  ホロが、怪訝《けげん》そうに聞いてくる。 「ぬしにあれこれちょっかいをかけてきたあの若造《わかぞう》に?」 「キーマンのことか? いや。ハスキンズさんの仲間の商人だそうだ」  ロレンスの答えに、ホロはもっと嫌《いや》そうな顔をした。 「また羊の力を借りるのかや……」 「今度は羊飼いじゃないからな。幾分《いくぶん》ましだろう」  ホロは誇《ほこ》り高い貴族とは違《ちが》う。  確かに一見誇り高そうだが、その実は子供っぽい見栄《みえ》や意地で行動しているところが多々あるし、本人も認めている節がある。  ロレンスが言ってやると、期待していなさそうに、聞き返してきた。 「では、羊飼いでなければなんじゃ?」  ロレンスは一言、こう答えた。 「絵画商」  川の流れが国と国を分けるように、海を挟《はさ》むと大した距離《きょり》でなくとも気候が一変する。  海を挟んで手紙のやり取りをしていたら、相手の国では夏と冬が逆だと思い込んでいた、なんていう冗談《じょうだん》があるほどだ。  港町ケルーベも寒いには寒いが、その寒さはまだ氷を思わせるものではない。  しかし、これがケルーベに注ぎ込む川を渡《わた》って北上すると、たちまちのうちにウィンフィール王国と変わらない雪景色になるというのだから、世界の仕組みとは不思議なものだ。 「降りるのは町の北かや? 南かや?」  船の中でそう尋《たず》ねるホロは、毛布の下で眠《ねむ》そうに目をしょぼつかせている。寒い寒いという言葉を言い訳に、つい先ほどまで酒を飲んでいたのだ。  ロレンスはホロの頭に手をやって、前|髪《がみ》を軽く指で弄《もてあそ》んで、答える。 「南|側《がわ》だ。賑《にぎ》やかなほうだな」  ケルーベの町は、町の真ん中を流れる川によって二分されており、北側には古くからその土地に住む者たちが、南側には新しく町にやってきた商人たちが住む。  賑やかなのは、商人たちの住む南側だ。 「ふむ。それならば……飯は期待できそうじゃな」  途中《とちゅう》に欠伸《あくび》を挟みながら言って、口をもぐもぐさせている。遠い目つきの先に、一体どんなご馳走《ちそう》を夢見ているのだろうか。  財布《さいふ》の中身を思い出しながら、少し棘《とげ》を含《ふく》めて言ってやる。 「冗談|抜《ぬ》きで、羊を何頭か貰《もら》ってくるんだったな」  ブロンデル修道院で羊飼いを営むハスキンズからは、できのよい羊をこっそり渡すから連れていけ、と何度も言われていた。 「ふむ……。じゃが、連れて歩くのが面倒《めんどう》じゃからな」 「お前に現実的な判断ができるとは」  羊は安くないし、黄金の羊の化身《けしん》たるハスキンズが選んだ羊であれば、質に関してはきっとそれ以上望むべくもないようなものを選んでくれたことだろう。  しかし、羊を受け取らなかったのはまさしくホロの言った理由によってだった。  ロレンスがハスキンズの申し出を断った時、ホロは不満げだったが、きちんとわかってくれているのだ。 「そりゃあ、そのくらいできんす。なにせこの群れには……」  と、荷物を枕《まくら》にして毛布の下で横になっているホロは、ロレンスの手の下から意地悪そうな目を向けてくる。  その続きを言わなかったのは、ホロなりの優《やさ》しさか、さもなくば面倒《めんどう》くさかったのだろう。 「お前もコルみたいに眠《ねむ》ったらどうだ?」  船が怖《こわ》いコルは、飲めない酒を一口|含《ふく》んでずっとロレンスの側《そば》で眠っている。  ロレンスの言葉に、ホロはゆっくり目を閉じてから、答えた。 「わっちは船は怖くありんせんが、酒が怖くての。怖いから寝《ね》てしまいたいんじゃが、そのためにはさらに飲まなければならぬ」  深酒を戒《いまし》める聖職者に向けた有名な笑い文句。  ホロの恐《おそ》ろしいところは、知識としてその言葉を選んでいるのではなく、実際にそう思っていそうなところだ。 「食費が怖い俺は涙《なみだ》を飲むしかないのかな」  返事がなかったのは、多分つまらなかったからだろう。  それからしばらくあと、船は予定どおりにケルーベに着いた。  コルを起こし、ぐずるホロをようやく立ち上がらせた時には、船室に残っているのはロレンスたちだけだった。 「くー……あふ。たかが数日というのに、なんだかえらく懐《なつ》かしい感じがするの」  船を降りて、町の南|側《がわ》の地に立つや、ホロはそんなことを言った。  確かに、町を二分するような騒動《そうどう》に巻き込まれた所だから、特に印象に残っているのかもしれない。 「ウィンフィールがこことは打って変わった雪景色だったせいもあるだろうな。しかし、そうか」  ロレンスは荷物をコルと分担《ぶんたん》して背負い、一人身軽に伸《の》びをするホロのローブの裾《すそ》を押さえて、今にも顔を出しそうだった尻尾《しっぽ》を隠《かく》してから、言葉を続けた。 「お前と出会ってから同じ町に二度来るのはこれが初めてか」 「ふむ? ふむ。言われてみると確かにそうじゃな」  相変わらずの雑踏《ざっとう》も、ウィンフィールの景気の悪さを目《ま》の当《あ》たりにしたあとだとなおさらに懐《なつ》かしく感じる。やはり、商《あきな》いの世界に身を置く人間としては、活気に満ちた市場のある町のほうがいい。 「なるほど、ひどく長いことぬしと旅をしておるような気にもなるわけじゃな」 「うん?」  目を細めて辺りを見回しながら、ホロは後ろ手に組んで一足先を歩いていく。 「一つの町を通るたびに、五十年は思い出し笑いができそうなことばかり起こるんじゃからな」  その後ろ姿が少し寂《さが》しそうだ、というのはきっと気のせいではないだろう。  ホロが一つの思い出で五十年笑う時、その隣《となり》にきっと自分はいないのだから。 「……」  ロレンスが言葉を継《つ》げないでいると、ホロはふと足を止めて、くるりとこちらを振《ふ》り向いた。 「ところでぬしよ、そんな楽しい旅の思い出に一つ、どうじゃろう?」  ホロの後ろのほうに目をやれば、軒先《のきさき》で今まさにウナギが油の中に放《ほう》り込まれようとしていたのだった。  商館に荷を預け、紹介《しょうかい》状を書いてくれたキーマンにブロンデル修道院での出来事を当たり障《さわ》りのないように告げた。  最後まで楽しげに聞いてくれていたキーマンは、返事の代わりに一通の手紙を差し出してきた。商館に先日届いたという、南に下った先にある毛皮の仕立てで有名な町からきた手紙。  誰《だれ》からと問うまでもない。  一言、儲《もう》かった、とだけ書かれた手紙の匂《にお》いを嗅《か》げば、きっとホロとは違《ちが》った狼《オオカミ》の匂いがするだろう。 「絵画商? ユーグ商会のことでしょうか」 「ええ、ハフナー・ユーグ氏にお会いしたく」 「それならば商館を出て通り沿いに行っていただければ、右手にあります。軒先に羊の角を象《かたど》った商会の紋《もん》が飾《かざ》ってありますのですぐにわかりますよ」  ハスキンズやその仲間だというユーグの正体を知っている身からすれば、大胆《だいたん》な紋もあったものだと苦笑する。 「しかし、ユーグ商会とば、また異な場所に御用《ごよう》ですね」  絵画を買うような人間は概《おおむ》ね身分が高く、絵画を扱う商会などは行商人|風情《ふぜい》が出入りをするような場所ではない。ローエン商業組合の看板を守る一人としては、またぞろロレンスがなにか妙《みょう》なことに首を突《つ》っ込みはしないかと心配なのかもしれない。  その心配を取り除く、というわけでもないが、キーマンならば情報を持っているかもと思い、ロレンスは特に期待もせず言葉を返す。 「フラン・ヴォネリという銀細工師にお会いしたく」  ハスキンズから教えてもらったその名を口にすると、キーマンの顔がはっきりと驚《おどろ》きのそれに変わった。 「ご存じなのですか?」 キーマンは軽く手で顔を撫《な》でて驚きを消すと、やんわりと笑ってこう言った。 「有名な方ですよ。ただし、悪評のほうですが」  どういうことだろうか。  ロレンスが軽く辺りを見回したのは、続きを聞かせてもらえないか、という無言の催促《さいそく》だ。 「客筋が悪いのですよ」  その時のキーマンの目は、フラン・ヴォネリ個人の悪口を言うというよりも、ロレンスを心配するような目つきだった。 「若くして諸侯《しょこう》の覚えめでたい凄腕《すごうで》の銀細工師、と謳《うた》われてはおりますが、その諸侯というのも成り上がりばかりで、後ろ暗い過去を持つ者がごろごろいる。それに、どこかの工房《こうぼう》で師匠《ししょう》を持っていた、という話も聞きません。怪《あや》しげな人物ですよ」  蜘蛛《クモ》の巣《す》のように張り巡《めぐ》らされた情報|網《もう》を持つキーマンが言うのだから、実際にそうなのだろう。  一体どういう人物なのか。  ロレンスがそう思っていると、キーマンは最後に言葉を続けた。 「関《かか》わらないほうがよろしい人物だとは思います」  キーマンとロレンスは、組合の中では天と地ほども身分に差が存在する。  キーマンが関わらないほうがいいと言えば、それは関わるなという命令と捉《とら》えるべきだ。  しかし、帳簿《ちょうぼ》にペンを走らせていたキーマンは、最後の線を引き終わると、小さく呟《つぶや》くようにこう言った。 「おっと、独《ひと》り言《ごと》を聞かれてしまったようですね」  その時のわざとらしい笑顔《えがお》といったらない。  親切心からの忠告、という形にとどめてくれるらしい。  ロレンスはキーマンに礼を言い、商館の外で待っているホロやコルの下《もと》に急こうとした。  そこに、キーマンが帳簿に目を落としたまま言葉をかけてくる。 「最後の儲《もう》けの山分けの時には、ご連絡《れんらく》ください」  友人と呼ぶのはおこがましい。  それでも、なにか心地《ここち》よいつながりのようなものはできた。  そんな気がした。 「ええ、もちろん」  ロレンスは笑い、短く答えて商館をあとにしたのだった。 「大丈夫《だいじょうぶ》でしたか?」  とは、心配そうな顔のコル。普通《ふつう》に考えれば、あれだけ欲望を剥《む》き出しにして争ったあとだったら、顔を合わせるのすら嫌《いや》がるだろう。  しかし、世に数多《あまた》人がいるとしても、商人ほど過去にいがみ合った相手と楽しく酒を飲める節操のない連中はいない。  コルの頭を撫《な》でてから、ロレンスはこう言った。 「手紙が一通届いていたらしい。短く、儲かった、とだけ」  コルの顔がぱっと輝《かがや》いたのは、コルなりにエーブのことが気にかかっていたのかもしれない。  エーブはエーブでコルのことを可愛《かわい》がっていた。  不機嫌《ふきげん》そうなのは、ホロだけだ。 「一難去ってまた一難、にならなければいいんじゃがな」  ロレンスを殺そうとすらしたエーブのことと、キーマンが話していたフラン・ヴォネリのことを引っ掛《か》けているのだろう。  話を聞く限り、厄介《やっかい》そうな相手には間違《まちが》いない。  ただ、お前が言うのか? と言いたげな色を顔に出したからかもしれない。  ホロはふんと鼻を鳴らして、こう言った。 「で、絵画商とやらの場所は?」  わかりやすい不機嫌《ふきげん》さは、機嫌がよいのと一緒《いっしょ》。  ロレンスが歩き出すと、おとなしくついてきた。  やがて見えてきたユーグ商会の軒先《のきさき》にぶら下がった紋章《もんしょう》を見て、ホロは苦笑を噛《か》み殺すように呟《つぶや》いた。 「連中は肝《きも》が小さいのかでかいのかわからぬ」 「案外、貴族連中の紋章に鷲《ワシ》が多いのも、同じ理由なのかもな」  ロレンスは言って、細かい装飾《そうしょく》の施《ほどこ》された、質素ながら金がかかっていそうな木の扉《とびら》を開ける。途端《とたん》に鼻を突《つ》いたのは、絵の具独特の匂《にお》いだ。  店は大通りに面した商会としては小ぶりなほうかもしれない。  ただ、儲《もう》かっていそうだな、というのはすぐにわかる。壁《かべ》一面に掛《か》けられた絵、あちこちに立てかけられた絵の枚数は相当なもの。その中で、共通することが一つあった。  それは、絵の大きさだ。  一般に、絵はなにが描《か》かれているかとか、誰《だれ》が描いたかといったことはほとんど値段に影響《えいきょう》しない。絵の価値はほとんどが絵の具の値段であり、したがって絵の大きさと色合いによって値段が決まる。  小ぶりな商会に置かれていた絵は、どれも大きく、そして色|鮮《あざ》やかな多数の絵の具によって描かれていた。値をつけるとすれば、相当なものになるに違《ちが》いない。 「ほほう……」  そこにある絵の題材は、神や聖母を描いたものから、山や森、洞窟《どうくつ》や湖の側《そば》で隠遁《いんとん》生活を送る聖者の姿まで様々だ。  共通しているのは、どの絵も背景が異様に大きいということ。  それはまるで、神や聖母よりも、背景のほうを描きたかったというように。 「留守かな」  感嘆《かんたん》のため息を上げるホロに、声も出ないコル。そんな二人をよそに、ロレンスは店の奥に入っていく。  もちろん、振《ふ》り向いて「絵に触《さわ》るなよ」と好奇心《こうきしん》旺盛《おうせい》なホロに釘《くぎ》を刺《さ》すのを忘れない。  ホロは子供|扱《あつか》いするなとでも言いたげにむっと頬《ほお》を膨《ふく》らませるが、その指は確かに盛り上がった絵の具の表面に向かっていた。引っ掻《か》いて絵の具が剥《は》がれでもしたら、回れ右をして逃《に》げる羽目になる。 「ごめんください!」  ロレンスが奥の部屋に向かって声を上げると、がたん、と音が聞こえてきた。  どうやらさらに奥の倉庫にいるらしい。  くぐもった返事が聞こえてきて、ロレンスは主人が出てくるまで壁に掛けられた絵を眺《なが》めていた。  修道士たちの行進を描《か》いた絵。  川べりを歩く彼らの向こう側《がわ》には、肥沃《ひよく》な森と山が広がっている。 「はい、はい、なんでございましょう」  しばらくして奥から出てきたのは、羊というよりかは豚《ブタ》に似た男だった。  平べったい帽子《ぼうし》を頭に載《の》せているので一見聖職者にも見えるが、着ているのは商人としての立派な一流品。  ハスキンズとは対照的な、実に欲深そうな商人らしい人物だった。 「ハフナー・ユーグ氏にお会いしたいのですが」 「ほ? ハフナーは。私でございますが、えーと……一体、どのようなご用件で?」  ロレンスは見るからに行商人で、連れの二人は片や修道女、片や貧民救済院からやってきたような少年。  裕福《ゆうふく》な趣味《しゅみ》である絵画を扱《あつか》う場所に来るような取り合わせではない。 「実は、ブロンデル修道院の、ハスキンズ氏のご紹介《しょうかい》で——」  ロレンスがそこまで言った瞬間《しゅんかん》だった。  ユーグの豚に似た大きめの鼻がびくりと動き、視線が一|箇所《かしょ》に向いて凍《こお》りついた。  視線に気がついたホロが、林檎《リンゴ》を手にした聖母の絵から目をユーグに向ける。  身なりは小さくとも、狼《オオカミ》の、ホロだ。 「あ、あ、あ」 「彼女の名前はホロ。ハスキンズ氏からもよくしてもらいまして」  怯《おび》えるユーグに、精一杯《せいいっぱい》の笑顔《えがお》を見せてロレンスは言う。  しかし、ユーグには話を聞いている余裕などないようだ。今にも身を翻《ひるがえ》して逃《に》げたいが足が動かないといった感じで、射すくめられたようにホロのことを見つめていた。  だから、動いたのはホロ。  ため息一つせず、すすっと歩み寄ってきて、こう言った。 「ところで、あの絵に描かれておるような林檎はあるかや?」  森で出会った野犬の群れを前に、人がすることといえば干し肉を取り出してそれを遠くに投げること。  効果はてきめんだった。  ユーグはぶるんぶるんと頬肉《ほおにく》が揺《ゆ》れるほどにうなずいて、奥に引っ込んでいった。 「羊というより豚に似ておるの」  ユーグの背中を見て、ホロはばんやりそんなことを言ったのだった。  木の器に山盛り運ばれてきた林檎《リンゴ》に、ホロは遠慮《えんりょ》会釈《えしゃく》なく手を伸《の》ばす。  ユーグはといえば、この商会の主人だというのに、部屋の隅《すみ》に立ったままだ。 「ユーグさん」  ロレンスが声をかけると、びくりとその巨体《きょたい》を縮めようとする。  椅子《いす》を勧《すす》めながら、ロレンスはどちらが商会の主《あるじ》かわからなくなりそうだった。 「こちらのことは、ハスキンズさんからお聞きしまして」  机の上の林檎を見つめたまま、しきりに汗《あせ》を拭《ぬぐ》うユーグの手がぴたりと止まる。  上目《うわめ》遣《づか》いに向けられた目は、慈悲《じひ》すら請《こ》うている。 「食えぬ……奴《やつ》じゃった」  もしもしと林檎を食べながら、その合間にホロは言う。  片目はからかうようにユーグに向けられている。多分、ホロはユーグが羊だからというよりも、単純に怯《おび》えられるのが気に食わないのだろう。  しかし、怯えなければ怯えないで不満そうにしかねないが、そのあたりは狼《オオカミ》としての複雑なところなのかもしれない。 「筋張っておっての」  余計な一言に、ロレンスが言葉を添《そ》える。 「筋をきちんと通す立派な方でした」 「……お、翁《おう》に……いえ、翁と一体、なにが?」  もう少し勇気があれば、翁になにをした、と言いたかったのかもしれない。  しかし、林檎をもしもしと食べる時、ホロの口にははっきりと牙《きば》が生えているのがわかる。  羊と狼は相容《あいい》れない。  食う側《がわ》が誰《だれ》で、食われる側が誰であるのか、悠久《ゆうきゅう》の時の彼方より連綿《れんめん》と続くことなのだ。 「修道院で彼《か》のお方がされていること、お聞きしました。大変立派なことだと。そして、そのお手伝いを」  ユーグの目が、ロレンスとホロをたっぷり三往復はする。 「……翁は、なぜ、私の名を?」 「北の地に詳《くわ》しい方を探していまして」  段々とユーグの瞳《ひとみ》に力が戻《もど》ってくる。  絵画商としてはまず間違《まちが》いなく成功している身なのだから、人であり、行商人であるロレンスを相手にすれば、対等であるかあるいはそれ以上に違いない。 「それは……はい。それならば……」  それでも、ユーグはもごもごと消え入るように口の中で呟《つぶや》いてから、「しかし」と続けたそうにホロのほうを見る。  ホロは、立て続けに五個か六個林檎を平らげて、ひとまず乾《かわ》きは癒《い》えたとばかりに手についた汁《しる》を舐《な》めていた。  唐突《とうとつ》に口を開いたのは、小指と薬指の付け根を舐め終わった直後だった。 「ハスキンズと名乗ったあれ。あの骨のある羊じゃがな、物の道理を弁《わきま》えておった」 「……」  ユーグは、言葉を継《つ》ぐこともできず、呼吸すらも止めてホロのことを見ている。 「すなわち、わっちらに対する恩をきちんと返そうとしてくれたということじゃ。それが実を結ぶかどうかは」  ちろりと、視線を向ける。 「ぬしの協力|如何《いかん》にかかっていんす」 「それは」  ユーグは食べ物を喉《のど》に詰《つ》まらせたように口をつぐみ、いったん固唾《かたず》を飲んでから、続ける。 「それは、もちろん……翁《おう》の頼《たの》みということでしたら……」 「ふん」  ホロが、ロレンスの腕《うで》を軽く突《つ》つく。あとは任せたということだろう。  そのあとにコルの腕を突ついていたのは、せっかくだから林檎《リンゴ》を食え、ということだ。 「それで、ユーグさんに、人を紹介《しょうかい》していただければと」 「はあ……確かに、その、当商会は絵画を取り扱《あつか》っておりますし、描《か》き手《て》の中には旅に暮らす方たちも多いです。つまり、その」 「ええ、ハスキンズさんからは、一人の銀細工師のお名前を聞きました」  その瞬間《しゅんかん》だ。  ユーグが、初めて絵画商らしい顔を見せたのは。  隣《となり》にいるホロが、まるで他人《ひと》事のように林檎を食べるわがままな娘《むすめ》から、一|匹《ぴき》の狼《オオカミ》に変わる。 「ハスキンズさんは、フラン・ヴォネリという名を」  たるんだユーグの顔に皺《しわ》が寄る。  それは恐怖《きょうふ》ではない。  商人が自分の商《あきな》いの中でもっとも儲《もう》かる話を他人に嗅《か》ぎつけられた時に見せる、独特の表情だった。  しかし、ユーグはとっくに商人になっている。  商人ならば、大事な人からの紹介《しょうかい》相手に対して粗相《そそう》することの意味を十分に理解している。 「存じて、おります」 「凄腕《すごうで》の銀細工師とか」  ロレンスの問いに、ユーグは苦しげにうなずく。 「生きる糧《かて》は絵で得ておりますが、本業は銀細工という方です。どういう経歴の持ち主なのか、お歴々のお大尽《だいじん》と親交が深く、しかも彼らが揃《そろ》って惚《ほ》れるという腕前《うでまえ》でして……。特に、槍《やり》と盾《たて》を片手に武功を上げた気難しい方々に受けが良く……」  ユーグ商会としては、これ以上にないほどの金の卵。  そう、言葉を続けたかったのだろう。  ロレンスは、軽く咳払《せきばら》いをした。 「紹介《しょうかい》して、いただけませんか?」  誰《だれ》だって金の卵によそ者を近づかせたくはない。  その気持ちはわかる。  しかも、突然《とつぜん》やってきたのは、みすぼらしい格好の少年を連れた行商人風の男に、狼《オオカミ》の化身《けしん》。  なにもかもを頭からぺろりと平らげていく様を想像したって、誰も責められはしないだろう。  ユーグの中で、ハスキンズの恩と、自分の利益と、身の安全が秤《はかり》にかけられているのがよくわかる。  ホロは、その秤にひょいと手をかけた。 「ヨイツ」 「え?」  ユーグが目を向ける。 「ヨイツ。古い名じゃ。その名を覚えておる者は減り、その場所を覚えておる者はもっと減っておるそうじゃ」  ユーグは口の中がからからに乾《かわ》いているだろうに、しきりに唾《つば》を飲み込もうとしている。 「わっちゃあ、故郷を探していんす。それがヨイツ。ぬしはどうじゃ? 聞いたことが?」  投げやりといえば投げやり。  ただ、それは王が王たるために見栄《みえ》を張ることに飽《あ》きたようにも見えた。 「知っておったら、教えて欲しい。このとおりじゃ」  ホロは、身を縮めて、ぺこりと頭を下げる。  尻尾《しっぽ》が剥《む》き出しだったら、足の間にしまいそうな勢いだった。 「あ……あ、あの」  ロレンスが驚《おどろ》いたくらいなのだから、ユーグはもはや驚きを通り越《こ》して動揺《どうよう》していた。  椅子《いす》から腰《こし》を浮かしかけ、ロレンスとコルになにかを言おうと口をぱくぱくさせている。  駆《か》け引《ひ》きが面倒《めんどう》くさかったから、というのもあるかもしれないが、ホロ自身にも心境の変化があったのかもしれない。  特に、ウィンフィールでは事あるごとに馬鹿《ばか》にしていた羊を前に自分の幼さを知らしめられた。居丈高《いたけだか》に詰《つ》め寄るのではなく、教えを請《こ》うのであればそれ相応に。  そして、ユーグは肝《きも》は小さいかもしれないが、心は広い男だった。 「お、お顔を上げてください。翁《おう》のご紹介なら、い、いえ、この私にそこまでしてくださるのでしたら、私も羊に生まれた身であります。お力になりましょう。ですから」  お顔を上げてください。  最後の一言に、ホロはゆっくりと顔を上げて、微笑《ほほえ》んだ。  何百歳も年上のホロに対して言える言葉ではないだろうが、一つ成長したような笑顔だった。 [#改ページ] [#改ページ]  林檎《リンゴ》の代わりに勧《すす》められたのは、温められたぶどう酒だった。 「温まりますよ。どうぞ」  ロレンスが礼を言って口をつけると、ホロもそれに倣《なら》って口をつける。苦手だろうに、平静を装《よそお》っていた。コルだけは山羊《ヤギ》の乳を温めたもので、ホロが羨《うらや》ましそうに横目で見ているのがちょっとおかしかった。 「それで、銀細工師のフラン・ヴォネリ様のことですよね」 「ええ」  ユーグはまだ口の中になにかあるような感じだったが、すぐに思いきったように言葉を続けた。 「今、彼女はここに逗留《とうりゅう》なさっています」  ホロがあからさまに笑っていない笑顔《えがお》をユーグに向ける気持ちもわからないではない。  ただ、大事な金づるならば隠《かく》そうとするのは当たり前。  ロレンスはホロの膝《ひざ》を軽く叩《たた》いてから、尋《たず》ねた。 「絵か細工の制作を?」 「いえ。そのための準備と申しましょうか、普段《ふだん》はあちこちを飛び回っている方なのですが、しばらく連絡《れんらく》が取れなかったと思ったら先日ふらりといらっしゃいまして、こう仰《おっしゃ》られたのです。ある伝説を小耳に挟《はさ》んだのだが、と」 「伝説」  ロレンスが確認《かくにん》するように呟《つぶや》くと、ユーグはうなずいた。 「タウシッグと呼ばれる村にまつわるものです。長く、広く北の地に横たわる山脈の麓《ふもと》になります。山は高く、森は深く、その森と、山の湖にまつわる伝説を追いかけにきたようなのです」  森と湖にまつわる伝説、という語句に隣《となり》を見る。  しかし、ホロはこちらを見ず、その向こう側《がわ》にいるコルと目が合った。 「ユーグさんは、その伝説に心当たりが?」 「もちろん、話程度は聞いたことがありますが……ご存じのとおり、我々には我々独自の情報|網《もう》があります。その伝説が本物かどうか、ある程度わかりますので……」 「つまり、偽物《にせもの》の可能性が高いと」  ユーグはこくりとうなずいた。 「ただ、気難しい方でして、銀細工の題材にこれと選んだらてこでも動きません。その姿勢を含《ふく》めて惚《ほ》れ込んでいる方々が多いのですが……」 「地図を描《か》いていただく時間はないと?」 「ええ、それと……」 「それと?」  聞き返すと、ユーグは申し訳なさそうに、こう答える。 「確かに彼女は銀細工の題材を求めて北の地を駆《か》け巡《めぐ》っておられますし、その、お聞きになりたがっている古い地名についての知識も、私や、ハスキンズ翁《おう》よりもよほど詳《くわ》しくお持ちになっていると思います。なにせ、実地に一つ一つ伝説を追いかけているような方ですから」  ロレンスはうなずき、先を促《うなが》す。  その言葉だけでは、先ほどの質問の答えにはならない。 「はい。ただ、描いてくださいとお願いして、素直《すなお》に描いていただけるかどうかはわかりません。私も現在の関係を築くのに大変苦労いたしましたので……」  ユーグは苦渋《くじゅう》の表情でしきりに汗《あせ》を拭《ぬぐ》う。  演技でなければ、本当にフラン・ヴォネリとやらは気難しいのだろう。 「なに、大丈夫《だいじょうぶ》でありんす」  しかし、そんなユーグをよそに、ホロは軽く言ってにやりと牙《きば》を剥《む》く。  脅《おど》せばいい、という冗談《じょうだん》だろう。  ユーグの顔が笑顔《えがお》になったが、それは面白《おもしろ》くて笑ったわけではない。  そもそも職人とは『頑固《がんこ》』という言葉の代名詞にもなっている。伝説的な鍛冶《かじ》職人の中には、剣《けん》を打てと詰《つ》め寄られ貧窮《ひんきゅう》の極《きわ》みに陥《おとしい》れられながらも、鉄床《かなとこ》に浮いた錆《さび》を食べて飢《う》えをしのぎ、決して不本意な仕事はしなかったという者もいる。  ある日突然《とつぜん》やってきて、北の地の地図を描《か》いてくれと頼《たの》むのは無謀《むぼう》なことだったのかもしれない。 「わかりました。ただ、口添《くちぞ》えをしていただくことなどは?」  ロレンスの質問に、ユーグは前のめりになる。  不退転の決意を持っての、発言だということだろう。 「き、気難しい方でございますので」  よくわからない連中を紹介《しょうかい》するのが精一杯《せいいっぱい》の譲歩《じょうほ》。  ただ、ロレンスは少し黙考《もっこう》する。  一人の銀細工師の機嫌《きげん》を損《そこ》ねることと、ユーグたち羊の化身の故郷を預かるハスキンズの顔を立てること。その二つを秤《はかり》にかけて、銀細工師のほうを取るという。  なにをおいても協力してもらうには、ハスキンズからなにか目印的なものを貰《もら》わなければならなかったのか。あるいは、ユーグがそれほど義理|堅《がた》くなかったということか。  さもなければ、フラン・ヴォネリはそれほどの銀細工師なのか。  ロレンス程度の頭であってもこのくらいの推測《すいそく》はできる。絵画商として成功しているユーグなら、わずかの時間からロレンスの黙考の中身を見抜《ぬ》くことはさほど難しいことではなかったようだ。  なにより、機嫌を損ねるともっと危険な存在が目の前にいる。  ユーグは命乞《いのちご》いにも劣《おと》らぬほどの真剣《しんけん》な口調で、語り出した。 「彼女の機嫌を損ないたくないのは、商《あきな》いのためということは確かです。ですが、お金のためではありません」  商いはいつだって金を求める行為《こうい》。  ロレンスが興味を引かれて視線を向けると、覚悟《かくご》を決めたらしいユーグは立ち上がって、一枚の絵の下に歩み寄っていった。 「古い名で、ディラと呼ばれる地の絵です」  壁《かべ》に掛《か》けられた一際《ひときわ》大きなそれは、巨大《きょだい》な岩が転がる荒地《あれち》を描いたもので、不毛の崖《がけ》の前に[#原文では「にに」]立つ一人の隠遁《いんとん》者が神に祈《いの》るように両手を空高く掲《かか》げている。  ディラとユーグの言った地方の守護聖人か、聖人伝説を描いたものかもしれない。  ありふれたものといえばそう。ただロレンスの知識からすれば、やはり絵の中心が隠遁者ではなく背景に見えるようなところが少し変わっていた。  ロレンスがそう思っていると、ユーグは思いがけないことを言った。 「ここは、私の故郷なのです」 「っ」  隣《となり》で、ホロが体を硬《かた》くしたのがわかった。 「ただ、昔はもっと肥沃《ひよく》な場所でした。こんな崖もなく……。この崖は、爪痕《つめあと》なんですよ」  ホロが、かすれるような言葉を紡《つむ》ぐ。 「月を、狩《か》る熊《クマ》の?」 「ええ。我々のような者たちには決して忘れられぬ記憶《きおく》。この絵は、ヴォネリ様のような方たちの協力を得て、描《か》いてきてもらったものです。もう、何十年も昔のことです。私はここで絵画商を営《いとな》み、かつての故郷の仲間のためや、似たような境遇《きょうぐう》の仲間のために、捨てざるを得なかった故郷の様子、さもなければ、あの大|災厄《さいやく》以降帰ることのできない場所の絵を集めては、売っています。金|儲《もう》けでないといえば嘘《うそ》になりますが、二の次ですね」  そこに大きな窓があるかのように、ユーグは絵の中の景色を遠い目で眺《なが》めていた。 「それに、この絵に描かれた景色も、今はもうないとのことです。金の鉱脈が見つかったらしく……皮肉なことですが、この絵を描いてもらうために雇《やと》った道案内の男が、鉱脈に気がついたそうです。それでなくとも、風で削《けず》られたり、川で削られたりといったことで景色は変わっていきます。あちらの部屋に置いてある絵や、すでにどこかの教会や邸宅《ていたく》に飾《かざ》られている絵の中の景色も、多くが失われたか、失われつつあるそうです。それに、絵そのものにも保存の限界があります」  ユーグは絵の縁《ふち》を軽く撫《な》で、言葉を終えたあともじっとしばらく眺めていた。  ここは、移ろいゆく時を切り取って保存する場所なのだ。  人にとっては長すぎる自然の移ろいも、彼らにとっては速すぎるのかもしれない。  そのくせ、過去の思い出だけはいつまでも変わらずに、その差は開く一方だ。  ユーグがふとこちらを振《ふ》り向いて、困ったように笑った。視線の先には多分ホロがいたが、ロレンスはそちらを見なかった。見れば、ホロが傷つくと思ったからだ。  ホロに言葉をかけられるのは、同じ時を生きるユーグしかいない。 「できれば貴女《あなた》様にご協力したいと思います。これは我々羊たちだけのためのものではありません。顧客《こきゃく》には、鹿《シカ》や兎《ウサギ》、狐《キツネ》に鳥といった方々もいらっしゃいますからね」  ごそ、というのはホロが動いた衣擦《きぬず》れの音。  それでなにをしたのかは敢《あ》えて問うまい。 「ですが、フラン・ヴォネリ様の知識と能力はかけがえのないものです。一度見さえすれば二度と忘れないといわれる記憶《きおく》力に、金すら惜しまない目的意識。景色を形にすることだけに一切《いっさい》の情熱を傾《かたむ》けられる彼女の協力を失うわけにはいきません。なにせ、時間がないのです」  ユーグの力強い瞳《ひとみ》には、自分ひとりの利益のためだけに動く者には決して宿らない光がある。  自分たちの生きた痕跡《こんせき》が情け容赦《ようしゃ》なく消えていく中で、その記録を残そうという仕事。  ただ、ロレンスはユーグの言葉が気になった。  時間がない、というのは、景色の移ろいが速すぎるという意味なのか。 「時間がない?」 「ええ。急がなければなりません。ヴォネリ様に描いていただきたい場所は山とある。ですが、彼女の生はあまりにも薄命《はくめい》です。私は常々思います。彼女が我々と同じ時を生きるものであったのなら、と」  その言葉に驚《おどろ》きの声を上げたのは、おそらく自分だけではなかったはず。  てっきり、フラン・ヴォネリなる銀細工師も彼らと同じ特別な存在だと思っていた。  しかし、それならば、こう尋《たず》ねてみればいい。  時間が気になるのなら、どうして悠久《ゆうきゅう》の時を生きるあなた方自身の手で景色を絵にしていかないのかと。 「私も商人の端《はし》くれです」  ロレンスは思わず顔を撫《な》でる。表情から考えていることを読まれたのだろう。  ユーグは、うつむき、小さくため息をついてがら、壁《かべ》に掛《か》けられた絵を見ると目を細めて言った。 「仰《おっしゃ》りたいことはわかります。実際に過去には筆を取り……昔は版画のほうが多かったですが、北の地や東の地、さもなければ今や昔の原形をとどめていない南の地を絵にしていった仲間がいました。ですが、彼らとて不死の身ではない」  ホロは、麦に宿る狼《オオカミ》の化身《けしん》。その宿る麦を失えば存在も消えてなくなるかもしれない、と言っていたことを思い出す。それに、寿命《じゅみょう》だってあるのかもしれない。  ただ、ユーグの言葉からは寿命というのは想像できなかった。  ロレンスは、ホロを含《ふく》む彼らから自然死という概念《がいねん》を感じ取ったことがなかったからだ。  ユーグの静かな瞳《ひとみ》が向けられる。  それは、歳《とし》を重ねた賢人《けんじん》に相応《ふさわ》しい、柔和《にゅうわ》で奥深いものだった。 「筆を取り、諸国を歴訪し、現実をつぶさに見る。そもそも使命感に駆《か》られて筆を取った者たちばかりです。人の手によって切り拓《ひら》かれる森、流れを変えられる川、削《けず》られる山や埋《う》められる谷。いつしか座して見ていることに我慢《がまん》ができなくなり、筆は剣《けん》に変わった」  どこかで聞いた話。  コルを見れば、魅入《みい》られたように話を聞いている。 「が、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》。一人は教会に火|炙《あぶ》りにされ、一人は軍勢に踏《ふ》みつぶされ、一人は己《おのれ》の無力さを悔《く》いて……。残りの多くも、我々の記憶《きおく》にすら残らず、泡《あわ》のように。人というのは……ああ、失礼」 「いえ」  ロレンスが答えると、ユーグは悲しげに笑う。 「人というのは、強大な力の集まりです。世の覇権《はけん》はとっくのとうに彼らに移り、我々の時代は過ぎ去った。それを認めたくない者たちは次々に戦いを挑《いど》んで敗れ、羊皮紙に伝説や言い伝えとして残るばかり。そして、それすらもいまや鼠《ネズミ》にかじられ、虫に食われる始末。残ったのは我々、それこそ、人の使う意味での、羊たち。私を含《ふく》め、皆《みな》、筆を取って回る勇気すらないのです。勇気のある者たちから順にいなくなっていくだなんて……残酷《ざんこく》なことだと思いますが」  ユーグが、人であるフラン・ヴォネリに対し、同胞《どうほう》たるハスキンズや狼《オオカミ》のホロを差しおいてすら気を遣《つか》う理由がわかりすぎるほどにわかった。  ユーグたちはきっと自分たちの正体を明かしてはいないはずだ。  だとすれば、ユーグたちがフラン・ヴォネリをつなぎとめる方法は数少ない。絵を描《か》いてもらうためになら媚《こ》びへつらい、機嫌《きげん》を損《そこ》ねず、どんな無理難題でも聞くだろう。  その存在を認めてくれただけでも、彼らにとっては最大限の譲歩《じょうほ》に違《ちが》いない。 「確かに残酷じゃな」  ホロは言って、苦手なはずの酸《す》っぱいぶどう酒を飲んだ。 「ぬしがわっちを見てあんなに取り乱しておったのも……そういうこと……なんじゃろう?」  ロレンスはホロを見て、コルもホロのことを見ていた。  羊の下《もと》に鳥や狐《キツネ》がやってきても、狼はやってこなかったのだろう。  牙《きば》を持ち、爪《つめ》を持つ者は勇気もまた併《あわ》せ持つ。ならば戦いに赴《おもむ》くのは彼らが先。  そして、死んでいったのもまた彼らが先なのだ。  やはりじっとホロのことを見つめていたユーグは、ゆっくりとうなずいた。 「ええ。そのとおりです」 「くく。まあ、構わぬ。そうでなかったとしたら、わっちゃあ逆に悲しいかもしれん」  ホロが賢狼《けんろう》の二つ名に相応《ふさわ》しいとしたら、きっとこういう潔《いさぎよ》さが似合うからだろう。  ユーグがホロに恐怖《きょうふ》を感じなくなったのも、きっとこの瞬間《しゅんかん》だったはずだ。 「……お強い。私など、同じ時を生きるなら木石に生まれたかった、とすら思うことがありますのに」  会話の最後に、ホロは照れもなくこう言った。 「くふ。さすがにそうは思わぬ。なにせ木石ではこやつらと旅はできんからの」  ユーグも、笑って答えた。 「ええ。人の世に生きてみるのも意外に楽しいですからね」 「んむ。愉快《ゆかい》な連中ばかりでありんす」  その愉快な連中の一人としては、苦笑いで聞くほかない。  ただ、出されたぶどう酒が甘くなかったのは、多分、偶然《ぐうぜん》ではなかったのだろう。  ロレンスは、そう。思ったのだった。  金、銀、銅、錫《すず》、鉛《なまり》、真鍮《しんちゅう》、石。  玉石混交とはよくいったものだが、こうなると物の価値などわからなくなる。  町をふらついているというフランが戻《もど》ってくるまでの間、ユーグの倉庫を案内された。そこには絵画のみならず、絵画に合わせて売りつけるありとあらゆる細工物や装飾《そうしょく》品で、洪水《こうずい》が起きていた。 「贋物《にせもの》もたくさんありますが……こちらは羊皮紙を伸《の》ばす延べ棒です。うーん……鍍金《めっき》ですね。ほほ、そうそう。こんな商品があるのですが、どうですか?」  倉庫の主《あるじ》、ハフナー・ユーグ本人も全《すべ》てを把握《はあく》しているわけではないらしく、延べ棒は手で持った重さでそんな判断を下している。  ユーグは、自分たちと同じような存在であるホロのことを考えてフランのことを教えてくれたのだろうが、彼は羊の化身《けしん》であると共に一人の商人でもある。  対価をきちんとせしめようというのだろう。  倉庫の奥にまとめて置かれている絵画の中に、ホロの故郷ヨイツのものがないかとホロとコルを案内しつつ、ユーグはぴったりロレンスにくっついている。諸国を巡《めぐ》り歩く行商人に購買《こうばい》力はないが、その分相場の知識と最新の情報が詰《つ》まっている。倉庫にほったらかしたままの商品に、掘《ほ》り出し物がないか探させようというわけだ。ロレンスとしては、地中に埋《う》まるキノコを探す豚《ブタ》になった気分だった。  確かに町によっては流行《はや》り廃《すた》りというものがあり、ある町では狼《オオカミ》の模様が入っているものならなんでも売れたり、金色のものなら金だろうが鍍金だろうが飛ぶように売れることがある。旅の途中《とちゅう》で見聞きした、景気の良かった町もこの際だから洗いざらい喋《しゃべ》っておく。  景気の良い町は酔《よ》っ払《ぱら》っているのと変わらない。  とんでもないものが売れることがあり、これだけがらくたを抱《かか》えているユーグからすれば黄金のごみ箱だろう。 「まあ、ざっと以上のような感じですね」 「ほうほう。いや、まったく、ありがたいです。私は座っていれば各地の情報が集まるものの、皆《みな》が皆|商《あきな》いの道に従事しているわけではありませんので、意外と商いの役に立つ話というものは集まってこないのですよ」  途中《とちゅう》からは羽根ペンまで持ち出して、商人の鑑《かがみ》らしく使い終わった注文書の余白などに聞いた話を綴《つづ》っていく。顔の上気が演技でなければ、結構な儲《もう》けにつながりそうにも見えた。  なにせユーグは人ならざる存在なのだから、恩を売っておいて損はない。  ホロが聞いたら顔をしかめそうなことだが、ロレンスとて商人だ。  ただ、そんなことを思っていたら、ふとがらくたの山の中の一つに目を引かれていた。 「……これは……」 「ほ。やあ、こいつはこんなところにありましたか」  ロレンスが木箱の隙間《すきま》から取り出すと、ユーグは愉快《ゆかい》そうに笑って手を伸ばしてくる。  一体なにに使うものなのかまったく見当もつかない。  ユーグの手に渡《わた》ったそれは、ホロなら大笑いしそうな、金色の林檎《リンゴ》だった。 「一体、なにに使うものなんですか?」 「これはあれです。こうやって、手を温めるものですよ」 「手を?」  言われ、ユーグから再び受け取って両手で包んでみると、なるほど確かに多少は温かい。 「見栄《みえ》を張りたい商人向けですね。暖炉《だんろ》で温めるか、小僧《こぞう》の肌《はだ》で温めさせるかして、これで手を温めながら書き物をしたりするのですよ。旅のお方が冬に外で使ったら、間違《まちが》いなく手が貼《は》り付いて大変なことになるでしょうね」  ユーグの言葉は正しい。  ただ、荷馬車にこれを置いておいたら、ホロが鳥の卵よろしくずっと腹に抱《かか》えている様も想像できる。意外に役に立つのではないだろうか、などと考えてしまい、慌《あわ》てて頭を振《ふ》る。  こんな馬鹿《ばか》な品物に引っ掛《か》かっては駄目《だめ》だ。  ロレンスは、ユーグの手に林檎《リンゴ》を返した。 「いやあ、しかし参考になる話を色々とありがとうございました」  結局|欄外《らんがい》が真っ黒になるくらいロレンスの話を細大|漏《も》らさず綴《つづ》ったユーグは、満足げにそう言った。こちらとしても、そこまで喜んでもらえるなら損得|抜《ぬ》きでも嬉《うれ》しくなる。 「いいえ、こちらこそ」 「是非《ぜひ》とも、用がすみましたらごゆっくりしていってください。歓迎《かんげい》いたします」  こうしていると本当に普通《ふつう》の商人だ。  ロレンスは笑顔でうなずいて、握手《あくしゅ》をした。 「しかし、まだホロ様はコル様と絵を見ていらっしゃるようですね……」  と、ユーグは丸い体を縦に精一杯《せいいっぱい》引き伸《の》ばして倉庫の奥のほうを見る。  ホロは立てかけてある一枚一枚を覗《のぞ》き込んでは、あれこれコルと話していた。  ユーグはそちらを見たまま、ふと静かになる。  ユーグの背中が大きいからというわけでもないだろうが、なにを思っているのかロレンスにもよくわかった。 「皆《みな》様がどういう関係か、お聞きしても?」  気になるところだろう。  ホロは聞き耳を立てているはずだが、特に反応もない。  ならば隠《かく》すこともないかと思い、ロレンスは歩きながら答えた。 「元々私はもう少し南のほうを回る行商人でして。ホロとはその行商路の途中《とちゅう》で偶然《ぐうぜん》出会ったんですよ」 「ほうほう」 「ホロははるか昔の友人に頼《たの》まれて、麦の大産地で豊作|凶作《きょうさく》を司《つかさど》っていたようです。が、いつしか村の民《たみ》から存在を忘れられるようになり、故郷へ帰ろうと思った。そこに荷馬車を駆《か》る私が通りがかりましてね、荷台に勝手に潜《もぐ》り込まれたわけです」  ユーグは楽しそうに笑い、それでも笑顔《えがお》の隙間《すきま》にふと冷静な顔を覗《のぞ》かせる。  彼らにとって、他人《ひと》事でもない話なのだ。 「かれこれ何百年も前に故郷を出たせいで、場所がわからないそうです。それで、あちこち巡《めぐ》って探している最中です。コルは、その途中《とちゅう》でやはり出会いまして。北の地の、ピヌという場所から」 「ほう、ピヌ」  ユーグはちょっと驚《おどろ》いたように目をしばたかせて、ホロたちのほうを振《ふ》り向いた。 「これもまたずいぶん遠くから……しかし、なるほど、そういうことなのですね。ハスキンズ翁《おう》がフラン・ヴォネリ様を紹介《しょうかい》されたのも、合点《がてん》がいきました」  ロレンスは作り笑いをユーグに向ける。笑うような話ではないが、笑顔で話さなければホロが怒《おこ》りそうだ。 「北の地は征服《せいふく》と侵略《しんりゃく》の舞台《ぶたい》です。地名はころころと変わる。もしかしたら私も、ヨイツの名に聞き覚えがなくとも、同じ土地の別の名前を聞いていたかもしれません」  ロレンスはうなずいた。  しかし、続けられたハスキンズの言葉にはさすがにぎょっとした。 「北の地の地図などと仰《おっしゃ》るので、私はてっきり北の地の戦いに赴《おもむ》くのか……と……」  冗談《じょうだん》めかして言っていたユーグが、ロレンスを見て同じようにぎょっとする。 「あ……あの、ま、さか?」 「その話、デバウ商会にまつわるものですよね? やはり本当なのですか?」  絵と共に情報も集まるはず。  しかも、デバウ商会のお膝元《ひざもと》から流れ出る川の、到達《とうたつ》点に位置する町だ。 「いえ、その、えっと……本当かと聞かれると、確証は持てないというのが事実です。なにせ常日頃《つねひごろ》から不穏《ふおん》な話の絶えない場所なので……」 「ユーグさんご自身はどう思われます?」  ユーグの困り顔は、冗談を真に受けられた者のそれだ。  ただ、誤魔化《ごまか》しきれないとすぐに諦《あきら》めたらしく、苦しげに口を開いた。 「私は……興味がない、というのが本音なのです」  しかし、ロレンスは聞き間違《まちが》えたかと思った。 「興味が、ない?」 「はい。我々の中にも、その話には耳をふさぎ目をつぶる者たちが少なくありません。月を狩《か》る熊《クマ》と同じです。掘《ほ》るものを掘り尽《つ》くしたら、そのうちいなくなるだろうと。どのみち景色は永遠ではない。たとえその姿が変わり果てようとも、この世から古い土地が消えてなくなるわけではない、と……」  のんびり草を食《は》む羊も、顔を上げればその黒い瞳《ひとみ》はなにがしかの世の理《ことわり》を見る。  ユーグの言葉を負け犬根性だと罵《ののし》るのは簡単だ。  それでも、ユーグのような考えもまた一つの真実であり、責められるいわれなどない現実的な判断だ。  旅をしてきた中でたくさん見ることがあった。  傭兵《ようへい》に襲《おそ》われる村や、領主の苛烈《かれつ》な徴発《ちょうはつ》に耐《た》える町。逆らったところで益もないし、それ以前に彼らには力がない。そんな時、正解はいつだって、嵐《あらし》が通り過ぎ去るのをじっと待つことだった。 「ですから、敢《あ》えて話を集めようとはしていません。私はハスキンズ翁《おう》のように強くはありませんし、知れば気になります。それこそ、あなた様と、ホロ様やコル様の関係のように」  ユーグが冗談《じょうだん》をまぜて小さく笑ったのは、もうこの話はやめようという合図だ。  確かに、知ればさらに知りたくなり、詳《くわ》しくなれば手を出したくなるだろう。  激変する世の中で、静かに暮らす者たちの知恵《ちえ》といえばそう。  ロレンスには、彼らの生活を乱す権利はないし、ホロだって同じ気持ちのはず。 「変なことをお聞きしました」 「いいえ、お力になれず。それで、いかがいたしますか。お部屋にお戻《もど》りになられますか?」  ユーグが言ったあとにホロを見れば、ホロは顔を上げる。ちょっと笑いながら首を横に振《ふ》ったのは、せっせと絵の山をめくっていくコルを指差しながら。  まだ探すらしい。 「私だけ戻ります」 「左様ですか。では、居間のほうで温かいものでもお出ししましょう」  その言葉に驚《おどろ》いてしまったのは、商人として。  決して安くない絵画や、本物の金細工や銀細工も少なくない倉庫なのだ。  ある日|突然《とつぜん》ふらりと現れた者たちをそこに置き去りにするには、よほどの勇気が必要だ。  ロレンスは反射的にそう思ったのだが、ユーグは笑ってこう言った。 「盗《ぬす》むつもりならば私の頭を噛《か》み砕《くだ》くほうが早いですし、なにより森に暮らす者たちは嘘《うそ》をつきませんから」  ホロに対するご機嫌《きげん》取り、ともとれなくはなかったが、それはうがちすぎというものだろう。  ロレンスはおとなしくうなずき、「失礼しました」と答えたのだった。  ユーグはしばらくロレンスと雑談したあと、仕事があると言って店のほうに出ていった。  残されたロレンスがフランを待っている間に居間で眺《なが》めていたのは、世界を一周してはるか東の彼方《かなた》に黄金の国を見つけたという商人が書いた旅行記だ。ロレンスが各地の情報をユーグに重宝がられたように、もしも世界中を回っていたならその正確な情報はどんな商品よりも価値があるし、それを公表する馬鹿《ばか》はいない。要するに、旅行記にかこつけた娯楽《ごらく》読み物なのだが、それなりに面白《おもしろ》い。  いくらなんでもそれはないだろう、という何度目かの嘘八百《うそはっぴゃく》に笑っていた時だった。  本と顔の間を金色のなにかが通り抜《ぬ》け、腹にどすんと落っこちた。  驚《おどろ》いて顔を上げれば、ホロが物を落としたままの格好でじっとしていた。  次に視線を向けた自分の腹の上には、倉庫で見かけて笑った、黄金の林檎《リンゴ》があった。 「おいしくなかったか?」  林檎を手に取ると温かい。  大きさ的にもちょうどホロの頬《ほお》を手に収めているような感じだな、と思っていると、当のホロに林檎を取り上げられた。 「ぬしら人は金《きん》が大好きじゃが、なにもかもが金になったら困るじゃろう」  過ぎたるは及《およ》ばざるがごとし。  ただ、ロレンスも商人だ。軽く言い返す。 「そうしたら、金じゃないものを探し出して高値で売るだけのこと」  ホロはふんと鼻を鳴らし、不機嫌《ふきげん》そうに隣《となり》に腰《こし》を下ろした。  尻尾《しっぽ》の毛繕《けづくろ》いを始めるでもなく、黄金の林檎をずっと弄《もてあそ》んでいる。 「コルは?」  尋《たず》ねると、首をかしげられる。  左右の耳がどちらかに傾《かたむ》いている時、ホロの機嫌はあまりよろしくない。  多分、倉庫に置いてきたのだろう。  珍《めずら》しいことだが、だとすれば、考えられる選択肢《せんたくし》は多くない。 「見つからなかったのか?」  ヨイツの絵か、その近辺、さもなくば、ホロの記憶《きおく》にあるような景色。  あれだけあったのだから一枚くらいは、と思っていたのかもしれない。  最初からないだろうと思っていれば失望はそれほどでもない。応《こた》えるのは、あるかもしれない、と希望を持ってしまった時のほう。  しかも、きっとコルの知っている景色は、何枚か見つかったのだ。 「……ん」  金の林檎を両手で弄びながら、小さくうなずいた。 「楽しみがあとに延びてよかったじゃないか」  怒《おこ》るのを予測して敢《あ》えてそんなことを言うと、案《あん》の定《じょう》ホロの耳がピンと張る。  しかし、そんなに長くは続かなかった。  ゆっくりと力が抜《ぬ》けていき、それで栓《せん》が抜けたかのように、ぽつりとホロが言葉を漏《も》らす。 「わっちゃあ……間違《まちが》えておるのかや」 「間違える?」  ロレンスが聞きなおすと、ホロは小さくうなずいた。 「あの羊、ユーグが言っておったじゃろう。耳をふさぎ、目をつぶる者が少なくない、と」  ロレンスはいったんホロから目をそらし、本を閉じた。  立派な装丁の愉快《ゆかい》な本だ。きっと、何百年もあとまでこのほら吹《ふ》き商人の名は語り継《つ》がれるだろう。 「知ってしまったら関《かか》わってしまう、と?」  ロレンスが聞くと、ホロはうなずいた。  冷静なようでいて血気|盛《さか》んで、困ったり苦しんでいたりする者がいれば見捨てておけないホロのこと。人が群れをなして山や森に分け入って、土地を荒《あ》らし動物を殺し全《すべ》てを一変させようとすれば、ヨイツでなくとも抵抗《ていこう》に加勢するかもしれない。  その結果、伝説や詩には残るかもしれないが、きっと勝つことは無理だろう。  もしもそれができるのなら、他《ほか》の誰《だれ》かがすでにやっているはずだからだ。 「わっちゃあな、散々あれこれ言っても、心のどこかで自分を特別じゃと思っていんす」  どことなく楽しそうな口調なのは、照れ隠《かく》しだろう。 「わっちが牙《きば》を剥《む》けば大披《たいてい》のことは通る。道理を引っ込ませることができる。そう思っておる節がある。じゃがな」  ロレンスが腕《うで》を上げると、空《うつ》ろな楽しさを顔に張り付けていたホロはちらりとこちらを振《ふ》り向いて、ロレンスの腕を取った。  そして、襟巻《えりま》きのように自分の首に巻きつけて、しがみつく。 「わっちの知る景色を描《か》いた絵があの中になかった。それはなにを示す?」  あそこにあるのは、誰かが注文した絵の下絵や、いつかそこに住む者が現れた時のために保管されている絵だという。  だとすれば、こんなふうに推測《すいそく》するのは難しいことではない。  あそこにないということは、ヨイツの景色を注文する者がいなかったということ。それは仲間の狼《オオカミ》たちが永遠の旅路に出てしまったことを容易に想起させる。  その根拠《こんきょ》は?  きっと、自分に爪《つめ》と牙があるからという自信の下《もと》、多くの者が闘《たたか》いに赴《おもむ》いたからだ。月を狩《か》る熊《クマ》からは逃《に》げたかもしれなくとも、世に理不尽《りふじん》の種は尽《つ》きない。武器を手にしていれば、どこかで必ず立ち上がっただろう。  全てから逃げた者、武器を持たず逃げるしかなかった者は、当初は臆病《おくびょう》者のそしりを受けたかもしれない。  しかし、今の世に深く根を張っているのは、そんな臆病《おくびょう》者たちなのだ。 「知ったら怖《こわ》いから耳をふさいで目をつぶる? そんなたわけた考え、笑ってしまいんす。じゃが、ここの主《あるじ》は誰《だれ》じゃ? たくさん仲間がおるのは誰じゃ? 他《ほか》の似たような連中の慰《なぐさ》めのために今も頑張《がんば》っておるのは誰じゃ? それに引き換《か》え」  ホロの小さな手の爪《つめ》が、ロレンスの腕《うで》に食い込んだ。 「わっちらはなにをしておるんじゃ?」  泣いてはいないだろう。  ホロは悲しいのではなく、きっと情けないのだ。  世は激流のごとく動いているのに、自分たちはその流れの側《そば》でなにもできずにいるどころか、そもそもいなくなってしまった可能性まである。  歯噛《はが》みするのには十分すぎる理由のはずだ。  ロレンスは、ホロの首に回している腕に少し力を込め、抱《だ》き寄せる。 「なにが正しいのかなんて、誰にもわからんさ」  倉庫にいたせいか、ホロの頭は少しだけ埃臭《ほこりくさ》い。 「おまえ自身、自分の信念のためになら命を投げ出す覚悟《かくご》がある。違《ちが》うか?」  しばらくホロは動かない。  それでも、ゆっくりと、うなずいた。 「自分が土の下に埋《う》まった時のことを考えてみればいい。お前は賢狼《けんろう》ホロだろう?」  仲間が自分のことを思ってくれるのはとても嬉《うれ》しいことだろう。  しかし、いつまでも墓の前にいたらどう思うだろうか。  後悔《こうかい》だって、時間を巻き戻《もど》したいという足掻《あが》きのためにするのと、次に同じ状況《じょうきょう》になった時にうまくやるためにするのとでは、まったく意味合いが異なってくる。  ホロはうなずく。  子供ではないし、馬鹿《ばか》ではない。  さりとて、全《すべ》ての感情を自分ひとりで制御《せいぎょ》できるわけではない。 「それに、ひとつだけわかることがある」  ロレンスが言うと、ホロの耳がひくりと動く。  笑ったのは、ホロを笑うためではない。 「お前が気に病《や》むと、俺も気に病んでしまう」  一人で行商をしていた頃《ころ》は、こんな言葉を言う相手も、言ってくれる相手もいなかった。  危険な商《あきな》いに手を出す時ば、野垂《のた》れ死《じ》んでもともとさ、とうそぶいていた。  死んだ相手はずっと墓の中にいる。  だが、生きている相手は、今目の前にしかいない。 「たわけじゃな」  呟《つぶや》くように言ったホロの言葉は、誰《だれ》に向けてのものかわからない。  多分、自分とロレンスの両方だろう。 「そのとおり。なら、次にすることは?」  ぐ、とホロが言葉に詰《つ》まる。  倉庫にコルを置き去りにしてきたのは、きっと単純に自分の知る景色が見つからず、コルの知る景色だけが見つかったから、というわけではないはずだ。ホロの知る景色が見つからなければ、あのコルの性格のことだから、一生懸命《いっしょうけんめい》探そうとするに違《ちが》いない。  そして、探せば探すほど、見つからないという事実が二人の胸に重くのしかかる。八つ当たり、といえるほどではないだろうが、倉庫に残されたコルの気持ちはいかばかりか。  ホロは、こう言った。 「謝ってきんす」 「そうしなさい」  保護者ぶって言ってやると、腕《うで》の下から抜《ぬ》け出したホロは、いーっと牙《きば》を剥《む》いて笑っていた。  時間は巻き戻らないし、なにが正しい選択《せんたく》かなど決してわからない。  ならば、せめて今を楽しみ、大事にすること。  ロレンスに言えるのはそれくらいだし、あとはホロが判断すればいい。  ロレンスはそんなことを思いながら、再び本を開いたのだった。 「フラン・ヴォネリ様がお帰りに」  ロレンスはホロの膝《ひざ》を軽く突《つ》き、立ち上がる。  そして、振《ふ》り向いたその瞬間《しゅんかん》、きちんと笑顔《えがお》だったかはちょっと怪《あや》しい。  すぐ側《そば》に牙《きば》を剥《む》いた狼《オオカミ》がいたってそんな顔はしないだろうといったユーグの陰《かげ》から、ひょいと姿を見せた小柄《こがら》な娘《むすめ》。  コルと大差ないから、ホロと並んでも同じくらいだろう。  その姿に一瞬頭が真っ白になってしまったのは、不本意ながら、その容姿を見たせいだった。  別に、ホロのように獣《けもの》の耳を持っているでも、ハスキンズのように頭に巨大《きょだい》な羊の角を頂いているわけでもない。  いたって普通《ふつう》の少女。  そう。その肌《はだ》の色と、瞳《ひとみ》の色を除《のぞ》いては。 「こちらの商人様が?」  綺麗《きれい》な声は育ちの良さを窺《うかが》わせる発音だった。  美しさには色々あるが、フランのそれはロレンスが初めて目《ま》の当《あ》たりにするもの。漆黒《しっこく》の髪《かみ》に漆黒の瞳。そして褐色《かっしよく》の肌ははるか南の砂漠《さばく》の民《たみ》のものだ。魔術《まじゅつ》師めいた美しさといえばいいのだろうか、そんな不思議な魅力《みりょく》が彼女にはある。  たとえホロの巨大な真の姿を目にしても怯《ひる》まないような、熱砂の地獄《じごく》と呼ばれる地方を生き抜《ぬ》く強靭《きょうじん》な民の力。  ロレンスは、固睡《かたず》を飲んでから、ようやく口を開いた。 「クラフト・ロレンスと申します」  フラン・ヴォネリは笑顔でゆっくりとうなずいて、「フラン・ヴォネリです」と自|己紹介《しょうかい》。 「立ったままではなんなので」  と、気遣《きづか》うユーグの言葉に、ロレンスたちは各《おのおの》々席につく。  コルがホロに服を引っ張られてようやく座ったのは、フランの不思議な雰囲気《ふんいき》に当てられぼんやりしていたからだ。 「それで、ご用件はどのようなものでしょうか?」  砂漢の民はまったく異なった言葉を喋《しゃべ》るというが、フランのそれは聞きなれたもの。  しかも、発音の端々《はしばし》はしっかりしていて、相当教養が高いようにも見える。  偏屈《へんくつ》だというが、そんな心配は杞憂《きゆう》なのではないだろうか。  ロレンスは商人の笑顔の下でそんなことを思いながら、用件を口にした。 「はい。我々は、実は北の地のとある場所を目指して旅をしているのですが、そこに関する情報を、古い地名でしか持っていないのです。そこで、北の地の古《いにしえ》の伝説にお詳《くわ》しいという貴女《あなた》のお力を借りられればと思い、こちらの商会にやってまいりました」  話をじっと聞くフランの顔は真剣《しんけん》だ。  ロレンスの言葉が終わり、フランは静かに聞いてくる。 「その地名というのは?」 「ヨイツ」  ロレンスの言葉に、フランはすっと目を細めた。 「ずいぶん、辺鄙《へんぴ》な土地の古い地名ですね」 「ご存じなのですか?」  半ば演技、半ば本気で勢い込んで質問するが、フランは微動《びどう》だにしない。  何事にも動じない、占《うらな》い師のようだ。 「存じておりますが、北の地の地図は描《か》き手《て》の少ない非常に貴重なもの」 「もちろん、お礼は存分に」  言った瞬間《しゅんかん》、ホロに足を踏《ふ》まれたが時すでに遅《おそ》し。  きっと、ホロはとっくにフランの本性を見|抜《ぬ》いていたのだろう。 「存分に?」  フランは驚《おどろ》いたように言う。  ユーグが、フランの座る長|椅子《いす》の後ろで、目を覆《おお》っていた。 「では遠慮《えんりょ》なく、リュミオーネ金貨五十枚ほど」  口べたで交渉《こうしょう》の機微《きび》などわからない職人|風情《ふぜい》。  そんな油断があったのか? と、ロレンスは自問するが、自問したところで時間は巻き戻《もど》らない。地図一枚にリュミオーネ金貨五十枚など払《はら》えるわけがない。  ほとんど子供|騙《だま》しですらある、基本的な断りの術。  引っ掛《か》かってしまった自分の間抜けさと、なんのためらいもなくそんな大振《おおぶ》りの手段を繰《く》り出せるフランの大胆《だいたん》さに、ぐうの音《ね》も出ない。  ホロの手前もあって、焦《あせ》って次の言葉を言いかける。  フランの涼《すず》やかな声が響《ひび》いたのは、その瞬間のことだ。 「ですが、場合によっては無料で描《か》いても構いません」 「え?」  つい、仮面がずれて本音の声が漏《も》れてしまい、ホロが呆《あき》れるようにうつむくのがわかる。  一度狂った歯車は修正するのが難しい。  しかし、フランが言葉を向けたのは、そんな間抜けなロレンスにではなく、ホロだった。 「そちらの方、修道女の格好をされていますけど」 「……ホロという」  ホロも言葉を向けられるのが意外だったらしく、少し間をあけてから、訝《いぶか》しげに答えた。 「ホロ、さんと仰《おっしゃ》るのですか。初めまして。フラン・ヴォネリといいます」  ホロは賢狼《けんろう》を自称《じしょう》する狼《オオカミ》だ。  狩《か》りの際には冷静に、頭に血を上らせることなどない。 「わっちが、なにか?」 「はい。修道女の方でしたなら、お願いがあるのですが」  その言葉に一番|慌《あわ》てたのは、フランの目論見《もくろみ》に気がついたらしいユーグ。  息を飲んでフランに声をかけようとするが、フランは片手を上げてそれを制す。  気難しい職人様。  その権化《ごんげ》が、そこにいた。 「わっちにできることであれば」  フランはにこりと笑う代わりに、軽く首をかしげた。 「難しいことではありません。ホロさんと、ロレンスさんと、それと……」 「あ、あ、コ、コルといいます」  コルの言葉にはうなずくだけで、「コルさんと」と続ける。  一体なにをさせるつもりなのか。 「三人なら、きっと大丈夫《だいじょうぶ》」  ユーグがロレンスたちにやめろと必死に目で訴《うった》えかけてくる。  フランは、こう言った。 「タウシッグで話を集めるのに協力してください」 「……それは、あれかや」 「はい。ユーグさんからお聞きになられました? 私がこの町にいる理由です。その伝説の詳《くわ》しい話を一緒《いっしょ》に村で集めて欲しいのです」  そんなことでいいのか、と拍子《ひょうし》抜《ぬ》けしてしまうが、ユーグは気を揉《も》むようにそわそわしている。どうやら、話で聞くほどには簡単なことではなさそうだ。  ロレンスは、今しがたの失敗を恐《おそ》れず、フランの機嫌《きげん》を損《そこ》ねるのを覚悟《かくご》で、返事に猶予《ゆうよ》を貰《もら》おうとした。  その全《すべ》てに先んじたのは、他《ほか》ならぬホロだった。 「それで、地図を描《か》いてもらえるんじゃな?」 「ええ。情報を集めていただいて、その正しさが証明されたのならば」  ホロの口元が笑った気持ちがわからないではない。  フランは賢《かしこ》い娘《むすめ》だった。  ホロが面白《おもしろ》がって対抗《たいこう》心を燃やすのに不足はなかっただろう。  情報を集め、その正しさが証明されたのなら、などという曖昧《あいまい》な言葉、いつもならば一笑に付し、意味をはっきりとさせ、場合によっては捩《ね》じ伏《ふ》せたかもしれない。  それが、ホロは聞きなおしもせずに、さっさとうなずいていた。 「なら約束じゃ」 「よろしくお願いします」  フランはぺこりと頭を下げ、顔を上げるとさっさと立ち上がってしまう。  引き止めるつもりだったのか、声をかけようとしたユーグに無表情で問いかける。 「出発の準備は?」 「あ、で、できておりますが……」 「では、出発は明日で。ロレンスさん、馬車の扱《あつか》いは?」  うなずくと、フランが言葉を続けようとしたので、せめてもの見栄《みえ》として先回りして答えた。 「明日でも大丈夫《だいじょうぶ》です」  すると、フランはほんの少し微笑《ほほえ》んだ。  もしかしたら、ロレンスのそんな背伸《せの》びをするような振《ふ》る舞《ま》いが面白《おもしろ》かったのかもしれない。  しかも、その笑顔は少女のように無邪気《むじゃき》なもので、ロレンスは自分の油断を改めて後悔《こうかい》する。  無表情に、本当に気難しくて頑固《がんこ》なだけの相手ならば、御《ぎょ》すのは意外に簡単なのだ。  本当に難しいのは、笑顔を上手に使い分けられる相手であり、だからこそホロには散々手を焼いている。  こんな笑顔を他人に見せられる相手だとわかっていたら、もっと身構えたのに。  キーマンの話や、ユーグの話から先入観を抱《いだ》きすぎだった。 「ユーグさん」  フランは短くその名を呼び、ユーグが丸い体を縦にしようと背筋を伸《の》ばす。 「食事は部屋にお願いします。明日の準備がありますので」 「は、はあ。あの、でも……」 「でも?」  ホロもよくやる、笑っていない笑顔。  ユーグは黙《だま》りこくり、おとなしくうなずいた。 「ホロさんたちへの諸々《もろもろ》のご説明、よろしくお願いしますね」  そして、最後にそんな言葉を残して、部屋を出ていったのだった。  隣《となり》で、尻尾《しっぽ》がぱんぱんに膨《ふく》らんでいた。  それでも顔は楽しそうな笑顔なので、余計に怖《こわ》い。  ロレンスは、言い訳から口にする愚《ぐ》だけは避《さ》けることにした。 「すまん」 「たわけ」  短く言うホロは、こちらを見てくれない。  コルは触《さわ》らぬ神にたたりなし、とばかりに身を縮めているし、ホロはにこにこ笑っているばかりで口を開く様子がない。  沈黙《ちんもく》を気の毒だと思ったのか、口を開いたのはユーグだった。 「私もあの大胆《だいたん》さと、反論を許さない笑顔《えがお》に散々苦労したのです。そのくせ、中身は本当に偏屈《へんくつ》で頑固《がんこ》な銀細工師でして、町の中で追いかけ回し、野や山までも追いかけ回し、ついに山の中で事故に遭《あ》われたところをお助けして、ようやく話を聞いてくれたという次第《しだい》なのです。ですから……その、曖昧《あいまい》な条件でも、対話の土台に立ってもらえたのは幸運なことだと思います」  最後の言葉は、ホロに向けて。  ホロは大きくうなずいて、ようやく不気味な笑顔を消してくれた。 「えっと……それで、タウシッグという村にはなにかあるのですか?」  気を改めたロレンスの質問に、ユーグは軽く首を横に振《ふ》る。 「どこにでもあるような村ですよ」 「それならば、なぜ?」  ユーグはいったん目を伏《ふ》せると、窺《うかが》うような上目遣《うわめづか》いになって、言った。 「森と湖にまつわる伝説は、そんなに大したものではないのです。曰《いわ》く、湖から流れ出る川に沿って天使が歩き、天から聞こえる獣《けもの》の鳴き声と共に開いた黄金の扉《とびら》に向けて、滝《たき》を駆《か》け上るように天使が飛び立っていった、と」  確かによくある伝説の一つにしか聞こえない。  ただ、ユーグは言葉をあとに続ける。 「その他《ほか》に、もう一つ、その手の話があるのです」 「もう一つ?」  聞くとうなずき、諦《あきら》めたように語り出した。 「魔女《まじょ》伝説、とでもいうのでしょうか。私も詳《くわ》しい話は知らないのですが、川の上流、レノスという町ではそこそこ有名だったようです。魔女と呼ばれた修道女が、タウシッグを訪《おとず》れ、住み着いたというような伝説というか、噂《うわさ》話です。タウシッグは正教徒の領主様が治める土地ですから、もちろん魔女がいるなどということは否定しておりますが……」 「ああ、なるほど。そのせいで、村人がひどく排他《はいた》的になっている、というわけですか」  ユーグは、うなずく。 「あの方がロレンスさんたちにお頼《たの》みしたのも、ご自分ひとりで村に行けば話を聞くどころではないとわかっていたからでしょう。なにぶんにも、この辺りでは珍《めずら》しい容姿ですから」  人よりもはるかに長生きするユーグがそう言うのもわかる。  ロレンスだって、褐色《かっしよく》の肌《はだ》の娘《むすめ》など、なかなかお目にかかることがない。 「彼女は砂漠《さばく》の民《たみ》なのですか?」 「というお話です。ですが、物心ついた時にはすでに両親はおらず、ラオンディール公国の裕福《ゆうふく》な両替《りょうがえ》商の下《もと》にいたとか。その後どういう経緯で銀細工師になられたのかなど詳《くわ》しくわからないのですが、奴隷《どれい》だったのだよ、といつか冗談《じょうだん》まじりに言われていましたが、あのような方なので、どこまで冗談なのやら……」  ユーグが苦笑いする気持ちもよくわかる。フランの話し方を聞けば、誰《だれ》だってすぐにそれなりの出自だとわかる。もちろん奴隷といっても主人によって扱《あつか》いは様々だから、心|優《やさ》しい裕福な家に買われたのかもしれないし、逆に養子ということだったのに奴隷並の扱いを受けることだってある。  ただ、キーマンの話と被《かぶ》るところもあり、全《すべ》てが合っていなくとも、いくつかは真実を含《ふく》んでいるのかもしれない。 「あの肝《きも》の据《す》わりようも、相当なものですよね」 「はい。ですから、私はどこかの勇猛《ゆうもう》なる戦士の家系だったのではないかと思っているのですが……なんにせよ、謎《なぞ》の多い方です。あ、今のことは」 「ええ、もちろん内密に」  ユーグはうなずき、ロレンスも話題を元に戻《もど》す。 「ユーグさんは懸念《けねん》されていたようですが、村はそんなに危険なのでしょうか?」  様々な理由で排他《はいた》的になる村は思いのほか多い。  よそから人のやってこない土地なら、それだけで外の人間は疑わしい。魔女《まじょ》がいると疑われているような場所であれば、やってくるよそ者全てが密告者に見えるだろう。 「正直言いますと、わかりません。特に商《あきな》いになるような場所でもないので、滅多《めった》に村の人間は町に来ませんし、町の人間はもっと村に行きません。正直、なにか食べ物を入れておいたはずだが、いつ、なにを入れたのか忘れてしまった甕《かめ》のような村です」  言い得て妙《みょう》なたとえだ。  蓋《ふた》を開けたら中が大変なことになっているかもしれないし、だからこそ余計に開けなくなる。 「じゃが、わっちがおっても危ないと思うような場所かや?」  ロレンスとユーグの間の重苦しい空気を両断したのは、ホロのそんな言葉だ。  ロレンスがユーグと目を見合わせたのは、同じことを思ったからに違《ちが》いない。 「お前がそう言うのなら、俺たちがどうこう言う問題ではないが……」 「ならば構わぬ。金貨五十枚の代わりにわっちらを使い走りにじゃと。まったくいい度胸じゃ」  憤慨《ふんがい》した顔ならばまだしもまし。  それを笑顔《えがお》で言うのだから、手がつけられない。 「それに、あのたわけ、ぬしらが及《およ》び腰《ごし》になっておる北の地のことにも詳しいのではないのかや。爺《じじい》のハスキンズがそう言っておったんじゃろう?」  そのとおりだ。 「二兎《にと》追う者は確かに一兎《いっと》も得ぬがな、たくさんのことがあのたわけの頭に詰《つ》まっておるし、幸い頭は一つしかありんせん。ならばここでかじらねばいつかじるのか」  威勢《いせい》のいい啖呵《たんか》、と聞こえなくもない。  それでも、そんなことを軽々しく口にするようなホロではない。  頼《たよ》れる仲間が側《そば》にいて、諫《いさ》めたり、軌道《きどう》を修正したりといったことは周りがやってくれる、という信頼《しんらい》があってこそのものだろう。  ホロの不敵な笑《え》みに、そんなものが見て取れた。  ならば、ロレンスが反対する理由はない。 「そういうわけじゃ。ユーグとやら」 「は、はい」  ホロの言葉に背筋を伸《の》ばす。  丸い体を精一杯《せいいっぱい》に伸ばしたユーグに向かい、ホロは笑顔でこう言った。 「わっちらがついていった結果あのたわけが激怒《げきど》して、ここと取引してくれなくなるようなことがあったとしたら……」  その可能性は、無きにしも非《あら》ず。  しかも、それはユーグたちにとって多大なる損失だ。  ホロはなんと言葉を続けるのか。  ロレンスたちの注視が集まる中、ホロは軽い調子でこう言った。 「それは、んむ、その時は謝りんす」  ユーグも世を見てきた絵画商。  引きつった笑みを本物の笑みに変えて、突《つ》き出た腹をぽんと叩《たた》く。 「狼《オオカミ》様はそうでなくては」 「んむ」  わざとらしい芝居《しばい》。  それでも、羊と狼にしては、きっと奇跡《きせき》的な仲の良さだろうなと、ロレンスは思ったのだった。  翌日、ユーグの商会の荷馬車に揺《ゆ》られ、ロレンスたちは一路タウシッグと呼ばれる村に向かって北上していた。荷台には山ほどのパンと肉、タマネギやニンニクに酒や塩といった食料から、薪《まき》や毛布まで山積みだった。  ロレンスはそんな荷馬車の御者《ぎょしや》台で手綱《たづな》を握《にぎ》り、ホロとコルは荷物の隙間《すきま》に埋《う》もれるようにして荷台に乗り込んでいる。村までの道を知っているフランは、一人馬に乗って先頭を進んでいた。  荷馬車に乗るのは久しぶり、というわけでもないが、やはり自分の荷馬車でないとなんだか違和《いわ》感があった。 「一体……何様なんじゃ、あのたわけは……」  そんな旅の途中《とちゅう》、ホロは途切れがちにもごもごと聞き取りづらい言葉で喋《しゃべ》る。 「そんなにうまいか」  ロレンスが後ろを振《ふ》り向きながら呆《あき》れたように聞くと、ホロの隣《となり》でぎくりとコルが身を強張《こわば》らせた。いつもは与《あた》えられた分しか口にしないコルが、珍《めずら》しくパンの詰《つ》まった袋《ふくろ》にお代わりの手を差し込もうとしていた瞬間《しゅんかん》だった。 「ああ、お前のことじゃないよ。二個目だろう? 隣のそいつなんて六個目だからな」  ロレンスがわざとらしく指差しながら言うと、コルはしばしロレンスと袋の中を見比べて、うなずいた。  清貧の二文字がこれ以上ないくらいに似合うコルすら虜《とりこ》にしてしまうもの。  それはたっぷりのバターを練り込んだ、焼き立ての巻きパンだった。  ホロはむぐむぐとパンを噛《か》み切り、次の一口は端《はし》っこを咥《くわ》えたまま引っ張って食いちぎり、最後の一口は大口を開けて放《ほう》り込む。  ばくばくと食べるたびに、口元から白い息が立ち昇《のぼ》る。  寒い馬車の上で焼き立てのパンとなれば、コルだって目がくらむ。  ロレンスも一つ貰《もら》ったが、これに口が慣れてしまっては二度と旅には出られないだろうな、という代物《しろもの》だった。 「こんなパンをどっさり貰えるなど、ぬしよ、ぬしも絵|描《か》きにならぬかや」 「品物の簡単な絵くらいなら描けるが……まあ、あとは店の絵だな。お前にも見せただろ?」  自分ひとりで荷馬車に乗り、暗闇《くらやみ》に落ちている小銭《こぜに》を拾うがごとくの毎日を過ごしていた時のこと。あの頃《ころ》、大きな儲《もうけ》けが入るたびに、ロレンスは紙を広げて将釆に持ちたい店の外観を描いていた。 「むう……そういえば」  その店を持つというロレンスの夢は、ホロとの旅のためにひとまず棚上《たなあ》げになっている。  ホロは顎《あご》を引くと、体を御者《ぎょしゃ》台のほうに寄せてきて、ぐいとパンをロレンスの口に押しつけてきた。申し訳なさそうな顔をするでも、苦しそうな顔をするでもない。  ロレンスが押しつけられたパンに笑ってかじりついたのは、それが互《たが》いに互いの気持ちがわかっていてこそ可能なやり取りだったからだ。 「コルは描けないのか?」  と、ロレンスが肩越しに振り向いて言葉を向けると、ちょうどコルは食べかけのパンを自前のずだ袋に入れようかと真剣《しんけん》な顔で思案しているところだったらしい。恥《は》ずかしいところを見られたかのように、びくっと体をすくませていた。  コルが慌《あわ》ててなにか答えようとし、ロレンスがそれを笑おうとする。  が、そのどちらよりも早く、ホロは新しく手にしたパンをぐいとコルの袋《ふくろ》の中に押し込んだ。  呆気《あっけ》に取られているコルに、不敵な笑《え》みを忘れない。 「あ、あの……えっと、天使や精霊《せいれい》の絵でしたら……」 「写本の細密画か?」  コルはくすぐったそうな笑みをホロに返してから、ロレンスのほうを向いてうなずいた。 「はい。お金がなくて、筆写のために羊皮紙を伸《の》ばしたり鋲《びょう》で留める仕事をしてた時に、写字生の方に少し教えてもらいました」  コルは、異教の故郷を守るために教会権力の中枢《ちゅうすう》に入らんとして、単身南に下ってきたような少年だ。  ただ、どちらかといえばそんな血|生臭《なまぐさ》いことよりも、日がな一日|脇目《わきめ》も振《ふ》らずに書物の前にいるほうが似合っている。生まれと育ちが違《ちが》いさえすれば、きっと知の世界で名を成したことだろう。  そして、ロレンスはホロに視線を向けて、わざとらしくこう言った。 「お前は……いや、聞くまい」  ホロが絵筆を取ったとしたら、きっと一目でそれとわかるような絵を描《か》くことだろうから。 「ふん。わっちゃあ絵など描かぬ。林檎《リンゴ》を描いたところで食えぬからの」  ばくり、とパンを食べながら、言ったのだった。 「まあ、フランさんの場合は本当にこんな貢物《みつぎもの》に見合うくらいの凄腕《すごうで》なんだろうさ。それに、各地の伝説を追いかけているんだ」  ロレンスは草原の遠くにかすかに見えたまま、一向に近づいてこない山々のほうを見ながら静かに言った。 「困難は数知れないだろうからな。北の地は、未《いま》だに陣取《じんと》り合戦の最中だ。信仰《しんこう》が迷信に、迷信が信仰に目まぐるしく変わる中で、あちこちの伝説を追いかけるにはなみなみならぬ危険を冒《おか》さなければならないはずだ。だから、これはまあ、もしかしたら妥当《だとう》な報酬《ほうしゅう》なのかもな」  それに、北の地では北に行けば行くほど良質の石が採《と》れなくなり、大きな建物であっても木造が多くなる。そのために北の地の教会には色ガラスで描いた聖人や、柱頭に刻まれた彫刻《ちょうこく》といったものがなく、自然と、教えを広めるのに絵に頼《たよ》る機会が多くなる。  需要《じゅよう》が多ければ供給|側《がわ》に多く貢《みつ》がなければならないのは当然の理。 「あやかりたいものだ」  とロレンスは一人|呟《つぶや》いて髭《ひげ》を撫《な》でる。 「んむ。わっちゃあ十分あやかった」  ぽん、と軽く腹を叩《たた》いてホロは言うと、さっさと毛布を体に巻き始めたのだった。  その日の夜は、枯《か》れた色の草原の真ん中で一|泊《ぱく》することになった。  人や馬の進む速度は多少の差はあれ大して変わらない。すると、ちょうどそこで皆《みな》が夜を迎《むか》える場所というのが自《おの》ずと出来上がる。  ロレンスたちが馬を止め火を熾《おこ》したのもそんな場所で、草が刈《か》られ、火を熾した跡《あと》がいくつもあった。  一番|嬉《うれ》しかったのは、腰掛《こしか》けるための丸太があったこと。  皆も同じように感謝したらしい。丸太の一部は皮が綺麗《きれい》に剥《は》ぎ取られていて、そこにはここで一夜を過ごした者たちが、感謝の言葉を刻み込んでいた。  ロレンスたちは夜の冷え込みのせいですっかり固くなってしまったパンを火で温め、干し肉を焼き、チーズを炙《あぶ》ってかじりつく。風はないが、所々にうっすらと雪が積もっているくらいに寒いので、自然と丸太の上では小鳥のように身を寄せ合うことになる。それに、各々《おのおの》毛布を一枚ずつ体に巻くよりも、三枚の毛布を重ねて三人|一緒《いっしょ》に包《くる》まったほうが温かい。  ただ、それは三人で、四人ではなかった。  フランは一人、荷馬車の荷台の上で横になっていたのだ。 「石が焼けましたよ」  ロレンスが焚《た》き火《び》の中で石を焼き、布で包んで持っていくと、フランは荷物を枕《まくら》に仰向《あおむ》けになってぼんやり空を眺《なが》めていた。パンもチーズも食べかけのまま脇《わき》に置かれていて、まるで星空に見惚《みと》れるあまり食べるのも忘れてしまったようだ。  ロレンスが布で包んだ石を掲《かか》げると、もそもそと毛布の下から手を出してきて受け取った。  その拍子《ひょうし》にちらりと見えたのは、毛布の下で抱《かか》えていた分厚い本。  ロレンスも冬の一人旅で火を熾せなかったりする時には、ありったけの紙を腹に抱《だ》いて眠《ねむ》ったものだ。紙は抱えていると毛布よりもよほど温かい。  どうやら、フランも旅には慣れているらしい。 「火の側《そば》でなくていいんですか?」  聞いてみると、フランは焼いた石を毛布の下に収めて再び空を向いてから、答えてくれた。 「視界が奪《うば》われるので」  なるほど、とうなずく。  焚き火は獣《けもの》を追い払《はら》うが、逆に人を引き寄せる。その良し悪しまではわからないし、火を見つめているといざという時に暗闇《くらやみ》の中で視界がまったく利《き》かなくなる。  単に旅慣れているだけでなく、それなりの経験も経てきたというわけだ。 「明日のことなのですが」  ロレンスの言葉に、フランは視線を向けてくる。  体を起こすつもりはないようなので、そのまま言葉を続けることにした。 「村に着いてからは、どのような段取りにしますか?」  ユーグの商会では、初対面でいきなりぐうの音《ね》も出ないあしらい方をされてしまった。  それは翻《ひるがえ》せば、フランから見ればロレンスはその程度の商人という印象になっただろう。  情報を集めるためにロレンスを連れてきたものの、そんなロレンスたちに任せっぱなし、というのは嫌《いや》がるかもしれないと思ったので、ロレンスは若干《じゃっかん》卑屈《ひくつ》な感じで尋《たず》ねてみた。  ただ、フランはじっとこちらを見つめたあと、ふっと笑顔《えがお》になって目を閉じる。  まるで、ロレンスの考えを全《すべ》て見|抜《ぬ》いたうえでの笑みのようだった。 「お任せいたしますよ」  意外な言葉に驚《おどろ》いてしまうが、任されたのならば期待には応《こた》えるべき。  すぐにこう言っていた。 「では、我々は教会所属の銀細工師にして修道女のご一行《いっこう》、ということでいかがでしょう」 「……問題ないと思います」  吟味《ぎんみ》は一瞬《いっしゅん》のこと。概《おおむ》ねどんな具合にするのか予測がついていたのだろう。 「うちのホロは見習い修道女で世話役。コルは道案内の小僧《こぞう》。私は行商人であり、同時にこの一行の目と耳と口の役割ということで」 「構いませんよ」  フランはそう言ったが、うっすらと笑っている。  ロレンスは気になって、聞き返す。 「なにか?」 「……いいえ。役者さえ揃《そろ》えば、確かに私も修道女に見えるだろう、ということが面白《おもしろ》かったのです」  自分自身のことを客観視できるのは、ある種の特技に数えられる。  ロレンスが少し言葉に詰《つ》まってしまったのは、フランのその、もう一人の自分を見ているような物言いが、あまりにも自然だったからだ。 「教会の場所は?」  そう言ったのは、フラン。  唐突《とうとつ》に投げられた言葉の隙間《すきま》を必死で埋《う》めてから、答えた。 「教会都市リュビンハイゲンから来た、ということでいかがでしょう。あそこならば、教会は一つではありませんし、派閥《はばつ》もたくさんありますから。適当なことを言っても、まずばれないでしょう」 「……」  目を開けて、フランがこちらを見る。  なにかまずかっただろうか、と思う前に、顔を空に向けなおしたフランが、言っていた。 「ずいぶん遠くの町をご存じですね」  そういうことか、と安心する。 「確認《かくにん》のできない嘘《うそ》は真実と変わりませんから。そのくらい離《はな》れているほうがいいかと」  空を見たまま、うなずく。  それから、言葉を紡《つむ》ぐ。 「そちらに根城《ねじろ》が?」  根城、という言葉の選び方が面白《おもしろ》かった。  それではまるで、山賊《さんぞく》か傭兵《ようへい》だ。 「私はそもそもその周辺を回る行商人なんです。ホロはその近くの村に立ち寄った時に、勝手に荷台に潜《もぐ》り込んでいたんですよ。それで」  と、言葉をいったん切ったのは、すぐ後ろで丸太に座りながら酒をちびりちびり飲んでいるホロを振《ふ》り返ったため。こちらを振り向いたのはコルだけだったので、ロレンスはフランに向きなおって、言葉を続けた。 「北に行きたいから連れていけ、と。コルについては、ローム川を下っている時に、ひょんなことから一緒《いっしょ》に旅をすることに」  再び空を向いて目を閉じていたが、聞いていることだけは雰囲気《ふんいき》から察せられた。  こんな話に興味を示すなど、フランもその近辺になにか思い入れがあるのだろうか。  そう思っていたら、しばらくの間をあけて、フランは空から聞いた言葉を口にするように、言った。 「では、北の地の地図というのは」  瞼《まぶた》が開き、晴れた夜の星空が溶《と》け込んだかのような目がこちらに向けられる。  頑固《がんこ》で偏屈《へんくつ》でも、それゆえに人情には人一倍厚い、なんていうのはよくある話。  ロレンスは、それを利用するわけではないが、最大限効果的に、言った。 「ええ……ヨイツという名は、連れが自分の故郷について覚えている、唯一《ゆいいつ》のものだそうです」  フランの目は、揺《ゆ》らがない。 「そうですか」  言って瞼を閉じると、今度は空を向くわけでもなく、少し斜《なな》めに頭を置く。  毛布の下で軽く体を動かし、小さなため息があとに続いたので、これから眠《ねむ》るのだとわかった。  一方的に話を打ち切るところは、なるほど気難しいという表現がぴったりだったが、あまりにも典型的な振る舞《ま》いすぎる。  もしかしたら、フランは実際のところはそれほど頑固でも偏屈でもないのかもしれない。  そう思いつつも、わざわざそれを指摘《してき》したところでどうにかなるわけではない。  ロレンスが静かにその場を去ろうとすると、そこにフランの言葉がやってきた。 「明日はお任せします」  ロレンスがうなずくと、フランは気配だけで察したように、眠《ねむ》りに落ちていったようだった。 [#改ページ] [#改ページ]  一際《ひときわ》大きく馬車が揺《ゆ》れた。  その振動《しんどう》でホロは目が覚めたらしい。 「……着いたのかや」  大|欠伸《あくび》をして、暢気《のんき》に軽く首を横に振《ふ》っている。  近くなっていた山にはこの季節でもこんもりと木々が生《お》い茂《しげ》り、ところどころ白いものが見えた。平面に見えていた草原も、全体としては緩《ゆる》やかな上り坂だったらしく、来た方向を振り向けば結構な高さまで来ていることがわかる。ケルーベよりも空気が冷たい気がするのは気のせいではなく、道には雪がうっすらと積もっていた。 「この道を曲がってまっすぐ行けば、もう村だそうだ」  膝丈《ひざたけ》ほどの黄金色の草原を、一筋の道が東のほうに伸《の》びている。曲がらずにまっすぐ行くと、山の麓《ふもと》に通じているらしい。  ロレンスたちがここでいったん馬を止めたのは、村に入る前に役割|分担《ぶんたん》と口裏合わせの確認《かくにん》をするためだった。ホロは昨晩こそ不服そうだったが、この手の芝居《しばい》じみた嘘《うそ》は元々好きなはず。  一通り確認し終わってフランを先頭に再び進み始めると、ローブの下で尻尾《しっぽ》が楽しげにゆらゆら揺れていた。 「そういや聞きそびれていたが、伝説の話、お前のことじゃないよな?」  ふとそんなことを聞いたのは、気が急《せ》いているらしいフランとの間に距離《きょり》が開いてからのこと。干し肉のかけらを咥《くわ》えていたホロは、つまらなそうに言う。 「生憎《あいにく》、鳥の知り合いはいつだったかの小娘《こむすめ》以外におらぬし、わっちゃあ羽など生えておらん」 「心当たりも?」  ホロは無言で首を横に振《ふ》って、ため息をつく。 「伝説の当人がわっちであったのなら、あのたわけに地図を描《か》かせられるじゃろうに……」  手を煩《わずら》わせてすまない、とでも言わんばかりにしゅんとするホロ。  演技と疑えば怒《おこ》るだろうが、演技でないわけがない。ロレンスは、ホロをいたわろうと必死に言葉を探しているコルと目が合うが、返したのは笑《え》みだ。 「とんとん拍子《びょうし》で話が進んだら、残った時間になにをするんだ?」  ホロはふっと顔を上げて、笑う。仲のよい姉弟のようにコルと手をつないで座っているせいもあってか、ひどく幼く、見た目相応の少女のようだった。  きっと、全部が全部本気ではないが、素直《すなお》な気持ちの一つだったのだろう。  そんなことをしていたら、遠くに竃《かまど》からのものだろう幾筋《いくすじ》もの煙《けむり》が見えてきて、程《ほど》なくして村の入り口にたどり着く。ホロは村の規模を見て、悪びれもせずにこんなことを言った。 「小麦パン、少し食べすぎだったかや」  山の麓《ふもと》にひっそりと佇《たたず》むタウシッグは、確かに小麦のパンは望めなさそうな村だ。  半ば山裾《やますそ》に埋もれるような形で、申し訳程度に害獣《がいじゅう》を防ぐための木の柵《さく》と、その柵にくくりつけられた邪悪《じゃあく》なものを祓《はら》うための教会の紋章《もんしょう》がある。  事前に魔女《まじょ》の話を聞いていなければ、きっとそれを奇妙《きみょう》なものだと思っただろう。  なにせ、その紋章は背後の闇《やみ》と恐怖《きょうふ》の対象である山には無頓着《むとんちゃく》に、開けた草原に向けられていた。その様は狼《オオカミ》ばかり怖《こわ》がって自《みずか》らの背後に山賊《さんぞく》がいることに気がつかない、間抜《まぬ》けな旅人を想像してしまう。  ただ、タウシッグの村はもっと閑散《かんさん》として陰鬱《いんうつ》な所かと思ったが、そういうわげでもない。 家の向こうからは子供たちの楽しそうな声が聞こえてくるし、広々とした村の道ではのんびりと山羊《ヤギ》や羊が道草を食いながらぶらぶらと歩いている、どこにでもある普通《ふつう》の村。  諍《いさか》いの原因は、互《たが》いのことを知らないことからくる疑心暗鬼《ぎしんあんき》がそのほとんどだというが、あながち間違《まちが》いでもないのかもしれない。  ロレンスは荷馬車から降りて、馬上のフランに目配せをする。フランはうなずいて、「お願いします」と小さく言ってきた。  左手にフランの馬の手綱《たづな》を、右手に荷馬車の馬の手綱を持って、ゆっくりと村の中に入っていく。しばらく行くと、村の入り口の一角にある切り株に腰掛《こしか》けていた老人が、ようやくこちらに気がついた。 「さて」  ロレンスは短く言って、商人の笑みを顔に張り付けた。 「おや、おや……旅の方かね」  老人はどうやらここに座って放し飼いの動物たちを見ているらしい。手には羊追いのためだろう杖《つえ》が握《にぎ》られている。 「初めまして。旅の行商人で、クラフト・ロレンスと申します」 「ほう、商人様?」  こんな村に一体なんの用だろう、と皺《しわ》に埋《う》もれた目がロレンスに向けられる。  村の中では、先に子供たちが、次いで他《ほか》の村人たちも珍《めずら》しい客に気がついたらしい。  軒下《のきした》から、あるいは木窓の隙間《すきま》から、次々とこちらのことを窺《うかが》ってくる。 「我々ははるか南のほうにあります、リュビンハイゲンという所からやってまいりました」 「リュビン……」 「リュビンハイゲンです」  老人はうなずきもせず、しばしロレンスのことを見つめたままじっとしていた。  動かないと、まるで木の皮を縒《よ》って作った人形のようだ。 「教会都市と呼ばれております」  ふと、その目がロレンスから動いたかと思うと、視線が向いていたのは馬上のフラン。少し遅《おく》れて、荷台から降りたホロとコルにも向けられる。  そして、不意にため息をついてこちらを見上げてきたその視線は、不安げなものだった。 「教会の方が……なんぞこの村にご用で?」  子供が見たら泣き出しそうなくらい、満面の笑顔《えがお》でロレンスは答えた。 「ええ、実はこちらの土地に、聖なる天使が舞《ま》い降りたという伝説があるとお聞きしまして。我々は忠実なる神の僕《しもべ》。是非《ぜひ》お話だけでも伺《うかが》えればと思ったのですが……」  老人の、反応は鈍《にぶ》い。  冗談《じょうだん》めかして、ロレンスはこう言った。 「天使様は、今はこの村に?」 「いいえ! 滅相《めっそう》もございません」  突然《とつぜん》大きな声で言われ、ロレンスは面喰《めんく》らってしまう。  大声に驚《おどろ》いた豚《ブタ》が金切り声を上げ、山羊《ヤギ》が相の手を打つ。  鶏《ニワトリ》が飛べもしないのに羽ばたいて逃《に》げると、老人はロレンスの目を見てはっきりと言った。 「この村とは一切《いっさい》関係ございません。立ち寄ったのは確かでございます。ですが、道を聞かれただけでございます。決して、決して村は関係ありません」  あまりにも必死に主張するが、ロレンスは慌《あわ》てながらも頭の中は冷静だ。  立ち寄った? 村は関係ない? 「わ、わかりました。わかりましたから」  話を聞くどころではなく、手で遮《さえぎ》ってそう言うのが精一杯《せいいっぱい》だった。  老人はぜえぜえと肩《かた》で息をして、なおもなにか言いたそうに目を見開き前のめりになっている。わなわなと震《ふる》えた唇《くちびる》は、興奮《こうふん》のせいとも、また恐《おそ》れのせいとも見える。  しかし、一体なにがこんなにこの老人を?  ロレンスがそう思った頃《ころ》、村の中から何人かの男たちがやってきた。  後ろで衣擦《きぬず》れの音がしたのは、コルがはっとして身構えたから。ホロすら身構えたのは、彼らの手には大きな鉈《なた》やナイフが握《にぎ》られていたからだ。  ただ、馬上でフードを目深《まぶか》に被《かぶ》り、うつむいているフランは微動《びどう》だにしない。  ロレンスが安心するようにと手で示したのは、別にフランに対する見栄《みえ》でも、気休めのためでもない。武器だけ持っていたらロレンスも回れ右をしたかもしれないが、フランが慌《あわ》てないのも同じ理由からだろう。  やってきた村の男三人の手は揃《そろ》って肘《ひじ》まで血に染まっているし、その顔は揃いも揃っての迷惑《めいわく》顔だったから。鉈やナイフは獲物《えもの》を捌《さば》いていたのだろうし、なによりも誰《だれ》かを殺すつもりの時、意外と人は迷惑そうな顔をしないものだ。 「旅人さんご一行《いっこう》か」  三人のうち、一番体格のよい壮年《そうねん》の男が口を開く。  老人は振《ふ》り向いて、何事かを言いかけた。 「大丈夫《だいじょうぶ》だよ村長さん。落ち着いてくれ」  ぱくぱく、と口を動かす音だけが聞こえた。どうやら、村人たちの迷惑顔はよそ者であるロレンスたちだけにではなく、村長である老人にも向けられていたらしい。 「サーカ!」  男が振り向いて大声を出すと、家の中から一人の女性が出てきた。  身振りで村長を示すと、事情を察したのかすぐにうなずいて、駆《か》け寄ってきた。  男はサーカと呼ばれた女に村長を引き渡《わた》し、いたわるように背中を撫《な》でてから、こちらを振り向いた。 「悪いね旅人さん。なにかひどいことを言われなかったかい?」  男は言って、どすっと鉈を地面に突《つ》き立てた。  手にこびりついた臓物を無造作にズボンで払《はら》うその男は、この一行の中で、誰が会話役なのかを瞬時《しゅんじ》に見|抜《ぬ》いてきた。町に住んでいれば当たり前のことだが、村の中で一生を終える者たちにはなかなか理解できないこと。  ロレンスも、身分や格というものがいかに幻想《げんそう》であるのかを、たまに思い知らされることがある。 「いいえ。ただ、なにかまずいことをお聞きしたのか、ひどく怯《おび》えていらっしゃるような……」  ロレンスが探《さぐ》りを入れるように言葉を向けると、髭面《ひげづら》の村人は困ったように笑った。 「災《わざわ》いはいつも外からやってくるからね」  世慣れている。  村の交渉事《こうしょうごと》を担当している立場なのかもしれない。  それならば、礼を示せばそれなりのものが返ってくることだろう。 「私の名はクラフト・ロレンス。行商人をしております」  そして、右手を差し出した。  男はロレンスの顔をじっと見て、次に自分の手を見て、それからロレンスの差し出した手に目をやった。  しばらく間があいたが、結局男は手を取って、「ウルー・ミュラーだ」と名乗った。 「それで? 村長さんが怯《おび》える理由にそう選択肢《せんたくし》は多くない。一つ。お迎《むか》えが来たか。二つ。徴税吏《ちょうぜいり》が来たか。三つ。村の良からぬ噂《うわさ》を聞きに来たか」  山間《やまあい》の村々は農作業の合間に狩《か》りをする。  腕組《うでぐ》みをするミュラーの腕は、ロレンスの倍はあるだろうし、肘《ひじ》まで血に染まっているからその迫力《はくりょく》たるや凄《すさ》まじい。両|脇《わき》には敵意こそ感じられないものの、力仕事の最中であったことを示すように、刃物《はもの》を持ったまま肩《かた》や頭から湯気を立てている男がいる。  しかし、ここで怯《ひる》んでは自分たちに負い目があると示すようなものだ。 「実は、我々は天使の伝説に関するお話をお聞きしたくて、やってまいりました」 「天使の?」  眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せ、ロレンスの後ろにいる一行《いっこう》に目を向けると、すぐに思い出したようにうなずいた。 「ああ、なんだ、そんなことか」 「お聞き、できますかね?」  若干《じゃっかん》卑屈《ひくつ》な上目《うわめ》遣《づか》い。  ミュラーは、農夫のような爽《さわ》やかさを残しつつ、狩人《かりうど》らしく豪快《ごうかい》に笑った。 「はっはっは。そんな及《およ》び腰《ごし》じゃなくてもいい。どうせ、町でこの村の良からぬ噂《うわさ》を聞いてきたんだろう? 連中は町の外の人間は全員が無知と迷信の中に暮らしていると思っていやがる。もちろんそんな無知|蒙昧《もうまい》な村も中にはあるだろうけどな、うちは違《ちが》う。天使の伝説くらいならいくらでも教えて差し上げる」  人の言うことを信じていれば、この世から嘘《うそ》つきと泥棒《どろぼう》はいなくなるはずだが、敢《あ》えて疑うこともない。  それに、仮にロレンスの目では見|抜《ぬ》けないくらい相手の嘘がうまくとも、ホロのそれまでも誤魔化《ごまか》すのは至難の業《わざ》だ。 「旅人さん……あー、ロレンスさんだったか。お仲間方も、飯は?」  自分の行商であれば、たとえ腹が一杯《いっぱい》でも断る理由がない。  フランにお伺《うかが》いの視線を向けると、旅慣れたフランも同意見のようだった。 「まだです」 「なら、ついでに捌《さば》きたての鹿《シカ》をご馳走《ちそう》できるな……」  と、辺りを見回したのは、誰《だれ》にその役目を振《ふ》るかで迷ったのかもしれない。 「ヴィノ、なめし作業は俺たちでやっとくから、囲炉裏《いろり》を貸してやってくれ」 「おっとこれは神の思《おぼ》し召《め》し」  ヴィノと呼ばれた男はおどけた調子でそんなことを言う。なめし作業はちょっとした重労働だから、その代わりに囲炉裏を貸して客人をもてなし、肉と酒に自分も与《あずか》れるとなれば浮かれた言葉の一つも出るだろう。  当然、顔をしかめたのはミュラーだ。 「遊ばせてやるんじゃないからな。わかってるのか?」  体も大きいうえに歳《とし》も重ねているせいで、凄《すご》むとかなりの迫力《はくりょく》がある。  それに対して首をすくめたのは、ヴィノの愛嬌《あいきょう》だろう。 「わかってるよ。酒も飲むな、だろう?」  村人たちの平和なやり取りに、ロレンスは演技ではなく笑ってしまう。  ただ、その時にフランもまた、そんな様子を懐《なつ》かしそうな目で眺《なが》めているのに気がついた。  古くは南の地の富裕《ふゆう》な両替《りょうがえ》商の家にいたというが、こんなやり取りを前に懐かしそうにしているのはちょっと意外だった。  これまでの旅で起きたことでも思い出しているのだろうか、とロレンスが思っていると、ヴィノはロレンスたちを振り向いて、こう言った。フランの笑顔《えがお》も、すっと引っ込む。 「じゃあ、こっちだ。ついてきてくれ」  ロレンスたちはそのままヴィノに連れられ、村の典型的な家に案内された。  家の側《そば》には、田舎《いなか》の村らしく柵《さく》すらない小さな菜園があり、その隣《となり》では山羊《ヤギ》や鶏《ニワトリ》が杭《くい》につながれて飼われている。庭に面した大きなひさしの突《つ》き出た場所では、背中に赤子《あかご》を背負った女性が地べたに座り込み、頭に布を巻いて手回しの石臼《いしうす》で一心不乱に粉を挽《ひ》いていた。  ヴィノが彼女に気安く声をかけ、歩み寄ると赤子に口づけをしていたので二人は夫婦なのだろう。女性は汗《あせ》を拭《ぬぐ》って立ち上がり、前掛《まえか》けと手をはたくとロレンスたちを見てちょっと驚《おどる》いたあと、重大な使命を任されたかのように大きくうなずいた。 「薪《まき》を取ってくるから、先に家の中で待っててくれ!」  ヴィノの言葉にうなずいて、ロレンスたちは家にお邪魔《じゃま》することにした。  土を踏《ふ》み固めた床《ゆか》に、天井《てんじょう》から鉤《かぎ》の下がる囲炉裏。天井には煙《けむり》を逃《に》がすための小窓がきちんとついているようで、命知らずの鳥が果敢《かかん》にも巣《す》を作った跡《あと》が窺《うかが》える。部屋の隅《すみ》には藁《わら》で編んだ蓑《みの》や籠《かご》が置いてあって、いかにも冬の農村らしい。囲炉裏では今にも消えそうな火が心細そうに揺《ゆ》らめいていて、余計に寒そうに見えた。  フランは客としての作法を弁《わきま》えていて、そんな囲炉裏の側にためらいもなく座り込む。ホロがコルと一緒《いっしょ》に梁《はり》からつるされているタマネギを指で突《つ》ついていたら、裏庭から回り込んできたのかヴィノが部屋の奥から薪《まき》を抱《かか》えて現れた。 「この村は、手回しの石臼《いしうす》なんですね」 「え? あ、ああ、まあね。荷物はその辺に適当に置いておいてくれ。これをくべたら……肉を貰《もら》ってくるから」  ヴィノはそう言って、器用に手早く薪をくべる。一息二息|吹《ふ》いて火を強くすると、満足げにうなずき、あわただしく外に出ていった。 「それがどうかしたかや?」 「ん?」  土壁《つちかべ》に取り付けられた木窓の隙間《すきま》から外を眺《なが》めていたホロが、振《ふ》り向きざまに尋《たず》ねてきた。  石臼のことだろう。 「なに、近くに川があるらしいのに、手回しの石臼なんて珍《めずら》しいな、と思ったんだ」  ヴィノの妻が抱《かか》えるようにして挽《ひ》いていた石臼は、二つの石が重ね合わせられたもので、石の磨《みが》き具合にもよるが一つで一家族分の日々の食事を賄《まかな》える粉が十分に挽けるだろう。  当然、大きくなればなるほど、一度に挽ける量は多くなる。  毎日のパンを焼くのに必要不可欠だから、普通《ふつう》は近くに川があるならそこに水車を設置して、村人全員で使ったりする。ただし無料ではなく、大抵《たいてい》の場所では領主が川に水車を設置して、村人なり旅人なりにそれを使わせることで税収を得る。手回しの石臼では領主が税収を得られないので、それを不思議に思ったのだ。  ホロはロレンスの返事に納得《なっとく》したようなしないような顔でうなずいているが、それは多分興味がないからだろう。  ロレンスが囲炉裏《いろり》を挟《はさ》んでフランの反対|側《がわ》に座ると、ホロとコルもあとに続く。  ただ、ロレンスはホロを指で突ついて、フランの隣《となり》を指差した。お付きということなのだから、側《そば》にいないとならない。ホロは少し不機嫌《ふきげん》そうに、フランの隣に座る。  当のフランは先ほどからじっとしたままだが、石臼の話の時に視線を向けてきたような気がしないでもない。あとでホロに聞いてみるか。  ロレンスがそう思っていたら、やがてヴィノが笊《ざる》に一杯《いっぱい》鹿肉《シカにく》を載《の》せて戻《もど》ってきたのだった。  天井《てんじょう》からぶら下がる鉤《かぎ》につるされた鍋《なべ》の中では、やせ細った人参《ニンジン》に青菜や牛蒡《ゴボウ》などが入れられ、ぐつぐつと煮《に》えていた。その脇《わき》には鹿の肉が山盛り用意されていて、あれだけパンを食べたというのにホロはローブの下でそわそわとしている。  ご馳走《ちそう》になりっぱなしも悪いので、ロレンスは荷馬車に山と詰《つ》まれたパンや干し肉ではなく、わずかの塩を差し出した。その途端《とたん》、ヴィノとその妻が目を丸くするのだから、所変わればというやつだ。新鮮《しんせん》な鹿肉《シカにく》はたっぷりご馳走《ちそう》できても、塩の入手となると難しいのだろう。  これぞ商《あきな》いの基本、とホロに言ったら、きっと鼻であしらわれるだろうが。 「そろそろかな」  ヴィノが言って、鍋《なべ》をかき混ぜていた妻が肉を鍋に入れる。  きっと肉がなければ鍋はホロのお気に召《め》すようなものではないが、ロレンスには嗅《か》ぎなれた土の匂《にお》いがする。肉はすぐに煮《に》え、近い順に、コル、ロレンス、ホロと椀《わん》によそわれていく。  最後にフランの椀によそわれる時、ずっと沈黙《ちんもく》を保っていたフランが、おもむろに言った。 「私は、肉は」  鍋をよそっていたヴィノの妻は、それで「あ」という顔になる。  教会もないような村では、聖職者は肉を食べてはならないという感覚も希薄《きはく》なのだろう。  慌《あわ》ててホロにも視線を向けるが、ホロはホロで肉を食べられないのかと今にも泣きそうな顔をしている。  そこに言葉を挟《はさ》んだのは、意外にもヴィノだった。 「なるほど節制は神の喜ぶところと聞いてますが、野菜ならば適度な量は許されているそうで」  ホロはうなずき、ヴィノがあとを続ける。 「この鹿は、生まれてこのかたついぞ木の芽以外のものを食べたことがありませんので、その実植物と変わりません。というわけで」  ヴィノは妻から杓子《しゃくし》を受け取ると、鹿肉をたっぷり五切れは追加でホロの椀によそう。  フランにも同じ要領でよそおうとしたが、フランはフードの下で笑って断った。無理強いするかとも思ったが、結局フランの椀には野菜と汁《しる》だけがよそわれた。  しかし、それはフランの信仰《しんこう》心に感心したのではなく、フードの下の肌《はだ》の色に気がついたかららしい。ヴィノがぎょっとしたのが傍目《はため》にもわかった。  人の行き交《か》う町にいたって驚《おどろ》くのだから、村の人間が驚いてもおかしくはない。  それでも一時《いっとき》の宴《うたげ》の場を取り仕切る家主として、客に失礼な振《ふ》る舞《ま》いをしては名折れとなる。  気を取りなおし、笑顔《えがお》でこう言った。 「さあ、どうぞ」  その言葉と共に振る舞われた鍋を、コルがいつものように慌てて食べることなく、一口一口味わうようにしていたのは、おそらく懐《なつ》かしさがあったからだろう。  振る舞われたのは、そういう料理だった。 「おいしいですね」  実にありきたりな言葉だが、ヴィノ夫妻は嬉《うれ》しそうに笑う。 「この鹿は今朝方に仕留められてね。あんた方は運がいい」 「ええ、こんないい肉、町中ではなかなか食べられない」  村で気に入られるのは、よく食べてよく飲む者。  ホロの早速《さっそく》のお代わりに、ヴィノは目を丸くしつつ、大笑いだった。 「で、あんた方は天使の伝説? そんなものを聞きに来たんだったか」  ヴィノは薪《まき》で囲炉裏《いろり》の火を調節し、そのたびに火の粉《こ》が天井《てんじょう》に向かって舞《ま》う。  町の中では考えられないくらい雑な火の扱《あつか》い方だが、家が燃えたらまた建てればいいし、燃えたところで周りに飛び火することもないというおおらかな心持ちなのだろう。 「はい。大まかなところは町で聞いてきたのですが……」  ロレンスは椀《わん》を置き、口元を拭《ぬぐ》ってから、フランのことを示す。 「ひょんなことで道案内をすることになりましたこちらのフラン様が、どうしてもその伝説を確かめてみたいと」 「ほう……修道女様が、また、なんで?」 「こちらのフラン様は修道会に身を寄せる修道女でありながら、希代《きたい》の銀細工師でもありまして。司教様の命を受け、是非《ぜひ》とも天使の御姿を銀細工にと」 「ははあ……」  ヴィノは遼慮会釈《えんりょえしゃく》なくフランを見つめ、フランはフランで慣れたように目を伏《ふ》せている。  そうしていると、確かに神々《こうごう》しい雰囲気《ふんいき》を身にまとった修道女に見える。  対するホロは大口を開けて殊更《ことさら》大きな肉を口に運ぼうとしていて、ロレンスの視線で一瞬《いっしゅん》動きを止めたものの、口に肉を詰《つ》め込んでから、笑顔《えがお》だけは清楚《せいそ》な修道女になる。 「こちらのホロは司教様からフラン様のお世話を命ぜられまして、少年コルは北の生まれということで道案内の役目をおおせつかっています。不肖《ふしょう》、私はこの一行《いっこう》の耳と目と口の役目をさせていただいております」  ロレンスはごほんと咳払《せきばら》いを挟《はさ》み、ヴィノに言った。 「それで、詳《くわ》しくお話を聞けたらと。それと……」  と、ロレンスは、頼《たの》み込むように、体を前に出した。 「できれば、伝説の元になった場所に案内していただきたいのですが」  ヴィノは肉を一切れナイフに突《つ》き刺《さ》し、生のまま食べる。  寒い地方では珍《めずら》しくもない食習慣だからか、コルは驚《おどろ》かない。それを見て一番驚いていたのは、意外なことにホロだった。 「ああ、そりゃあ構わないが……」  伝説や言い伝えの残る場所は、村人たちにとっては特別な場所だったりする。  それをいかに頼み込み、懐柔《かいじゅう》してでも食い込むかが腕《うで》の見せどころ、と思っていたのだが、意外にあっさりと話が進みそうだ。  ただ、ヴィノは言ってから、嫌《いや》そうな顔ではなく、心配そうな顔をして、こんなことを言ったのだ。 「大丈夫《だいじょうぶ》なのかね。表の荷物を見るに、魔女《まじょ》の森に泊《と》まり込むってことだろう?」 「魔女《まじょ》の……森?」 「俺たちの村に変な噂《うわさ》が立った原因さ。魔女の話も聞いてきたんだろう?」  ミュラーに釘《くぎ》を刺《さ》されていたからか、ロレンスたちに付き合う形で酸《す》っぱいぶどう酒をちびちび飲んでいたヴィノは、忌々《いまいま》しげに手元の椀《わん》に酒を注《つ》ぎ込む。  無知を装《よそお》うのなら、この瞬間《しゅんかん》だ。 「実は、その話については、そういう噂があるとしか……」 「ん、そうなのか? なら町のほうでは噂もだいぶ収まってきたのか……まあ、どっちも難しい話じゃないんだ。魔女の森に行きたいんだったら、すぐ案内もできる。そんなに遠い場所じゃない」  ロレンスがフランに視線を向けると、軽くうなずかれる。 「ご迷惑《めいわく》でなければ、すぐにでも」 「はっはっは。迷惑なものか。あんたらが来てくれたお陰《かげ》で、俺は仕事の合間に酒と肉が食えた。商人さんや修道女様は減多《めった》にやらないかもしれないが、鹿《シカ》を解体するのは大変なんだ」  肉、皮、骨、肝《きも》とばらばらにして、後処理においてもそれぞれ何通りもある。  肉は保存し、皮は腐《くさ》る前になめし、肝も茄《ゆ》でて腸詰《ちょうづめ》にしたりする。骨は食器や鏃《やじり》や装飾《そうしょく》品になるし、腱《けん》は強力な弦《つる》や紐《ひも》になる。  どれもがぐずぐずしていたら駄目《だめ》になるものばかりだから、実際に大変なのだろう。  ヴィノは酒をぐいと飲んで、「さて」と言った。 「まあ、魔女の森に行く前に天使の伝説の話をしないとな。魔女の森の中でその話をする羽目になったら大変だ」  ヴィノは言って笑う。  魔女の森は忌避《きひ》している割に、それほど仰々《ぎょうぎょう》しい扱《あつか》いでもない。どうやら、せいぜいが縁起《えんぎ》の悪い土地、という程度の認識《にんしき》らしい。 「お前さんたち、どの程度まで知っているんだ?」 「この村の近くの森と湖に、獣《けもの》の鳴き声と共に天界への扉《とびら》が開き、天使が飛び立っていった、と……」  ロレンスが喋《しゃべ》る間、杓子《しゃくし》で鍋《なべ》をかきまぜていたヴィノは、ホロとコルにお代わりはよいかと無言で聞く。フランはゆっくり汁《しる》をすすっただけで、野菜も減っていない。  対して二人は共に素直《すなお》に椀を差し出したので、ヴィノは上|機嫌《きげん》にうなずいていた。 「概《おおむ》ね合っている。森というのは、湖から流れ出る川沿いに広がっている場所のことでな。村長さんがまだ子供の頃《ころ》の話だったという、寒い寒い冬のことだそうだ」  ヴィノは二人の椀に一杯《いっぱい》鍋の中身をよそう。その時、うつむきがちにうっすら笑っていたのは、この手の話をする時の独特の気恥《きは》ずかしさからだろう。 「風の強い日で、耳が凍《こお》って取れそうなほどに寒い日だったらしい。その日、村の狩人《かりうど》たちは突然《とつぜん》の猛吹雪《もうふぶき》のせいで三日か四日前に森に狩《か》りに出たまんま、足止めされていた。幸いなことに、湖から流れ出る滝《たき》の側《そば》に、炭焼き小屋があったんだ。それで、ようやく雪がやんだのがその夜のこと。空には雲ひとつなく、月が太陽のように照り輝《かがや》いていたという。遠くでは風がびょうびょうと鳴っている不気味な夜だったらしいが、ずっと炭焼き小屋の中に閉じ込められていて、皆《みな》外の空気を吸いたかった。そして、思いきって外に出た、その直後のことだった」  誰《だれ》も彼も聞き入っていて、囲炉裏《いろり》の中で木が小さく爆《は》ぜた。 「低い、遠吠《とおぼ》えが、聞こえてきたんだと。おおお、おおお、と地を這《は》うように。皆|狼狽《ろうばい》した。森や山には化け物がいる。そんなことを思い出して小屋に戻《もど》ろうとした。だが、彼らが小屋に戻ろうとした瞬間《しゅんかん》、急に遠吠えが消えた。そして、彼らは滝のほうを見たんだと」  ヴィノの目が、彼らを再現するかのように、滝を見上げるかのように天井《てんじょう》に向けられた。 「銀色に輝く一対《いっつい》の羽を持った純白の天使が、滝の下から、羽ばたき、空に開いた金色の扉《とびら》の中に飛び立っていく、その瞬間を」  ヴィノは語り終わっても、しばらく虚空《こくう》を見つめたままだった。  天使が飛んでいったその余韻《よいん》に浸《ひた》るように、微動《びどう》だにしない。  ようやくその視線が下がり、ぶどう酒に口をつけたあとは、はっきりと照れくさそうだった。  きっと、この話が本当に好きなのだろう。 「詳《くわ》しく話せば、こんな感じだ。以来、天使の伝説として語り継《つ》がれているわけさ」 「なるほど……」  まだ視線の先に、月夜に開いた天界への扉目指して飛ぶ天使の姿が見えているようだった。  伝説や迷信はどれも突拍子《とっぴょうし》もないものばかり。  しかし、そこに妙《みょう》な現実味があるからこそ、長い年月語り継がれるのだ。 「ま、それ以来天使を見た奴《やつ》はいないからな。一時は町のほうまで話が伝わって、村が賑《にぎ》わったこともあるらしいが……最近じゃあ、子供が聞いて喜ぶくらいだなあ」  ヴィノは目を細め、自嘲《じちょう》気味に言う。 「ヴィノさんも」 「ん?」 「それは、やはり伝説だと?」  意地悪な質問だとは思ったが、聞いてみたかった。 「さあ……どうなのか……」  案《あん》の定《じょう》、ヴィノは手元を見て、悲しげに笑う。  信じたくても信じられない。そんな雰囲気《ふんいき》だった。 「我々としては、もちろん信じたいのですが」 「はは」  ヴィノが笑ったのは、村に住む者たちが信じないでどうするんだ、という自分に向けての笑いだったのだろう。 「俺もミュラーさんについて時折町に下りる人間だ。こんな田舎《いなか》の辺鄙《へんぴ》な村で、神だ悪魔《あくま》だと騒《さわ》ぐことのほとんどが、なんのことはない見|間違《まちが》いや思い込み、という話を耳にする。山に夜な夜な目を光らせる化け物がいると思ったら、金の鉱床《こうしょう》だったという話だって聞いた。その手のものなんじゃないかとも思う。だが」  と、言葉を切ったヴィノの姿は、どこかひどくくたびれているように見えた。  似たような姿をロレンスは何度も見たことがある。  無知|蒙昧《もうまい》の、古い信仰《しんこう》の中だけで生きればよかった昔とは違い、次々と世の闇《やみ》が照らされ、信じてきたものの土台が危《あや》うくなる世に疲《つか》れたといった、そんな姿だ。  ロレンスも幼い頃《ころ》に村から出て、世界というものを知るようになってからはそんなことに動揺《どうよう》したものだ。コルが苦しそうにヴィノを見つめているのも、つい最近までそんな動揺の真っただ中にいたからだろう。無表情にヴィノを見つめているのは他《ほか》ならぬホロだけ。  しかし、それは決して胸中が穏《おだ》やかだからではない。 「うちの村の天使の伝説もそんな類《たぐい》の話だとしたら……寂《さび》しいな。まあ、どうしようもないが」  肩《かた》をすくめ、酒を飲むヴィノ。 「村の賢《かしこ》い達中は、風に舞《ま》い上げられた雪が天使の羽に見えたんだろうと言っている。事実はそんなものなのかもしれないな」  ホロやハスキンズたちがその存在を忘れ去られ、人の世に迎合《げいごう》したり、摩擦《まさつ》を繰《く》り返したりするように、人は人で古い世との決別に平気な顔をしていられるわけではないのだ。  闇は減り、不思議はなくなり、神秘が暴《あば》かれる。  ヴィノにこれ以上質問するのはためらわれた。  誰《だれ》だって、大人になってみれば、子供のままでいたかったと思うものなのだ。 「おっと、教会の偉《えら》い人相手に変な話をした。それも、せっかく本物だと思ってきてくれたのに。タウシッグの連中は天使を信じない不信仰者だ、なんて思わないでくれよ? 俺だって信じたいんだから」  ロレンスは、もちろん笑顔《えがお》でうなずいた。  天使の伝説にこんな態度だからこそ、魔女の話にも一定の距離《きょり》を保っていられるのだろう。  これで信仰心に凝《こ》り固まった頭だと、魔女の話を出しただけで村長のように卒倒《そっとう》されかねない。 「だが、天使の伝説を信じてもらうのもまた良し悪しなんだよな」 「え?」  ロレンスが聞きなおすと、フランも視線を向けている。ヴィノは「よ」と片膝《ひざ》を立ててから立ち上がって、話しなれたことのようにこう言った。 「魔女の話さ。天使の伝説と無関係じゃない」  ロレンスたちのほうを見ずにヴィノは言って、肉を食べたナイフを腰《こし》に差し、遠くを見ながら鼻を擦《こす》る。ようやくこちらを見た時には、その顔は狩人《かりうど》のものになっていた。 「災《わざわ》いはいつも外からやってくる。ミュラーさんの口癖《くちぐせ》だ」  まさしくよそからやってきたロレンスは言葉を返しづらい。  なので、すでに食事を終えた体《てい》のフランはともかく、ホロとコルを急《せ》かして椀《わん》を空けさせると、手早く出立《しゅったつ》の準備をしたのだった。  村の広場で鹿《シカ》の皮や腱《けん》を干していたミュラーたちに挨拶《あいさつ》をしてから、ロレンスたちはヴィノを先頭に村を出た。村の裏手にも森に続く道があるとのことだったが、馬や宿馬車ではとても通れる道ではないらしい。一度村から出て、森を迂回《うかい》するように向かうことになった。  今は使われていないという、湖から流れ出る川沿いに遡上《そじょう》していく道だ。  間近に山を望み、山裾《やますそ》に広がる森に沿って進む道というのは正直あまり気分の良いものではない。  山から溶《と》け出した緑に飲み込まれそうな気がするからだ。  そんな道を雪に車輪を滑《すべ》らせながらどれほど進んだ頃《ころ》だろうか。  ようやくたどり着いたのは、小川が流れ出る森の入り口だった。 「ここを北に行けばいい。川岸がすごい広いだろう? これ、昔はこの広さ一杯《いっぱい》に川があったんだと」  ロレンスたちが荷馬車を引いて川べりを十分に進めるような広さだ。しかも雪の下が石ばかりという感じでもないので、おそらく湖からの水量が激減してもう何年も経《た》つのだろう。 「それにしても、こんな真冬でも狩《か》りをしに行くんですね。鹿を仕留めたという話、実はびっくりしていたんです」  ロレンスがおもむろに言葉を向けると、村を出てからこっち、表情のすぐれなかったヴィノは得意げに笑ってくれた。 「足跡《あしあと》がはっきり残るからな。しかし、敵もさるもので、こっちが雪のせいで決まった場所にしか行けないとわかると、そこだけをしっかり避《さ》けて行きやがる。もっとも、俺たちは狼《オオカミ》すら欺《あざむ》く狩人だ。木に化け、空気になり、いよいよという瞬間《しゅんかん》に、がぶりさ」  得意げに語るその様は、お世辞にも冷静|沈着《ちんちゃく》な狩人には見えなかったが、身近にもそんな奴《やつ》が一名いるのでロレンスは愛想良く笑っておいた。  それに、仮にそうでなくとも、雪山の中で土地の人間に嫌《きら》われることの恐《おそ》ろしさはよく知っている。 「湖もあるんですよね? それなら、たくさん動物も集まりそうだ」 「ああ、確かにそうだ。だが、もう何年も狩りそのものは不調だな」 「というのは?」 「それこそ魔女《まじょ》のせいでな。湖一帯の森を魔女の森と呼んで、村の者は誰《だれ》も近寄らない」  ロレンスが少し驚《おどろ》いたのは、そんなことをおおっぴらに認めてもいいのか、と思ったからだ。  ヴィノもロレンスの驚きに気がついたらしい。「ああ」と言って、困ったように笑った。 「こんなこと言ってるから誤解《ごかい》されるんだな。本当に魔女だと思ってるわけじゃない。本当さ」  ロレンスはホロをちらりと窺《うかが》い見るが、どうやら嘘《うそ》は言っていないらしい。  タウシッグの村にとって、魔女の話はなんとも微妙《びみょう》な位置にあるらしい。 「その、魔女、というのは……?」 「元はなんだかいう偉《えら》い修道女だったんだと。えーとな……」  と、ヴィノは馬の上のフランを見る。  フランはゆっくりとそちらを見て、柔《やわ》らかな笑顔《えがお》のまま「?」と首をかしげていた。 「おっと失礼しました。名前が思い出せなくてな……。だが、まあ、とにかくいたんだ。元々は、ウォム川の近くの町の、エノス?」 「ローム川沿いにレノスという町なら」 「ああ、じゃあ、それだ。そこにいたらしいんだが、それはそれは美しくて賢《かしこ》くて、神に祈《いの》れば神も聞き惚《ほ》れたというくらいに説教がうまかったんだと」  ホロがうなずきがてら、ロレンスに目を向ける。  美しい女の話が出てくるとそのたびに反応してくるのだから、ホロも律儀《りちぎ》だ。  ロレンスが肩《かた》をすくめてやると、またヴィノに視線を戻《もど》す。 「その熱心さはたくさんの悪人を改心させたという。ただ、毎日毎日|寝《ね》る間も惜《お》しんで神の教えを語るせいで、ついに町の中にこれ以上説教を必要とする者がいなくなっちまった。そこで、その修道女は別の連中に説教をし始めた」  続きが気になってしまう。  天使の伝説の時もそうだったが、どうやら元々語りがうまいらしい。ロレンスたちの相手を任されたのも、この特技があったからなのかもしれない。 「最初は鳥や猫《ネコ》だったそうだ。町の連中は慈悲《じひ》深い聖女だと崇《あが》めたらしい。だが、そのうち豚《ブタ》や鼠《ネズミ》にまで説教を始めたあたりで風向きが変わった。しまいには町をうろつく野犬たちに襲《おそ》われながらも、なにかにとりつかれたように説教を繰《く》り返していたという。町の人間は止めたんだが一向にやめやしない。そして、ある日のこと」  ざく、ざく、と氷のまじった雪を踏《ふ》みしめる音。  すっかり引き込まれたコルが、両手で拳《こぶし》を作って聞き入っている。 「ふっとかき消えるように、いなくなっちまった。それも、彼女の説教を聴《き》くようになっていた野犬たちと共に」  ヴィノは綿毛が飛んでいくように、手でふわりとした仕草を見せる。  コルはその先を追うように視線を空に向けて、慌《あわ》てて地上に戻《もど》ってくる。 「あ、あの、それで? 消えてしまってどうなったんですか?」 「まあまあ、慌てなさるな。これが、ミュラーさんが町で集めてきた話。こっから先が、実際に俺たちの見た話」  なるほど、とロレンスは思う。  どうりで詳《くわ》しいと思ったら、あのミュラーという人物が村を代表してか、町まで下りて話を聞き集めてきたのだろう。  おそらくはある日村に突然《とつぜん》やってきた、常軌《じょうき》を逸《いっ》した様子の修道女を見て。 「夏の暑い盛《さか》りだった。麦畑はむせ返るような匂《にお》いで、虫がわんさと飛んでいた嫌《いや》な時期だ。もうかれこれ十年にはなるだろうかな。そこに、真冬でもしないような厚着をした修道女が来た。たまげたぜ。なにせ、後ろには無数の野犬たちを従えていたんだからな」  じりじりと陽炎《かげろう》が立つような暑い中、厚着をした修道女が野犬を引き連れて村の外れに立つ。  不気味この上ない姿だったろう。  コルが、ホロのローブの裾《すそ》を掴《つか》んでいた。 「村長さんは終末の堕天使《だてんし》が来たって言ってひっくり返ってな。以来、村のあの場所で座り込み、村を訪《おとず》れる奴《やつ》を見ちゃあ大|騒《さわ》ぎするようになっちまった」 「それは、お気の毒に……」 「なに、口うるさかったから多少静かになって助かった。いやそれで、村の外れにやってきた修道女だ。当時から威勢《いせい》の良かったミュラーさんがな、意を決して応対した。どこから来たのか、誰《だれ》なのか、なんの目的なのかと問いただした。したら、こう答えたそうだ」  天使様の通られる道があるそうで。  その時のかすれた声が想像できるかのようだった。  ヴィノは雰囲気《ふんいき》たっぷりに言って、あとを続けた。 「すぐに森と湖にまつわる天使の伝説だと気がついた。ミュラーさんでなくたって追い払《はら》いたい相手だ。すぐさま案内して差し上げた。が」  ごくり、とコルの固唾《かたず》を飲む音が聞こえそうだった。 「件《くだん》の森に着いた途端《とたん》、修道女は野犬をけしかけてきやがった。その時|襲《おそ》われた傷痕《きずあと》が、これ」  ヴィノは腕《うで》をまくって、最も熱心な聴衆《ちょうしゅう》のコルに腕を見せている。  ロレンスとホロも覗《のぞ》き込んでみたが、揃《そろ》って顔を見合わせた。  口にも表情にも出さなかったが、それは多分木で引っ掛《か》けただけのものだろう。それも、かなり古いもの。子供の頃《ころ》にできた傷に違《ちが》いない。  しかし、話の演出としては面白《おもしろ》いので、ホロもロレンスも興を削《そ》ぐような真似《まね》はしない。 「以来、修道女は野犬を使って森に一切《いっさい》人を立ち入らせず、我が物顔で住み着いちまった。恰好《かっこう》の狩場《かりば》だったがな、俺たちは狩場を変えるほかなかった。ひどい話だろう? だから、あの女は魔女《まじょ》だ魔女だと皆《みな》で言ってたんだ。鬱憤《うっぷん》晴らしにな。そんなのが真相なんだ」 「それで、その魔女は?」  尋《たず》ねると、ヴィノは憤懣《ふんまん》やるかたない、とばかりにため息をついて、言った。 「さあ……ここ何年か誰《だれ》も見ていないらしいから、どこかに行っちまったとは思うんだが……誰も確認《かくにん》しに行かないからわからない。触《さわ》らぬ神にたたりなしというやつだ。そうだろう?」  ロレンスはゆっくりとうなずいた。町から町へと移動して暮らせる行商人たちとはわけが違《ちが》う。覗《のぞ》いてみて、危なければ逃《に》げればいいという考えは村人たちには使えないからだ。 「だから、今も余計なことに巻き込まれないようにと、俺たちは森に行かないようにしている。あんたら、そんなところに泊《と》まるだなんて……本当に大丈夫《だいじょうぶ》かね」  なんだかんだ言って魔女のことを恐《おそ》れているじゃないか、と笑うのは夜の山や森の恐ろしさを知らない者たちだけ。たとえ魔女という呼称《こしょう》が単なる蔑称《べっしょう》以上のものではない、と思っていたとしても、それを怖がるのは正常な反応だ。  ロレンスは、だから努めて明るくこう言った。 「ええ。なにせ、神のご加護を受けた者が三人もおりますから」  フラン、ホロは見た目からしてそうだとしても、コルのことがわからなかったらしい。 「聖典の写本などを作る写字生の見習いでして。大変ありがたい職です」  ヴィノはちよっと驚《おどろ》いて、「こりゃ失礼」と謝った。 「どちらかというと、私と一晩共に過ごすほうが危険かもしれません」  気取った冗談《じょうだん》よりも、わかりやすい冗談だ。  ヴィノは大笑いしていたが、ロレンスは真顔になって付け加えておく。 「あ、それで」 「ん?」 「万が一我々が夜中に村に帰ることになっても、悪魔だと思って追い払《はら》わないでくださいね?」  ヴィノの顔がぽかんと間抜《まぬ》けなそれになる。  そして、再びの大笑い。 「ははは。もちろんさ。山に慣れた俺たちだって、初めて山の中の炭焼き小屋に泊まった日は泣いて逃げ帰ることがあるんだ。これから山に出なきゃならない小僧《こぞう》どもは殴《なぐ》ってでも山の中に帰すが、あんたたちはそうもいかんだろう」  ロレンスは、行商の師匠《ししょう》と初めて森に入った時のことを思い出す。 「だが、夜道は危険だし、明けない夜はない。山に入る人間として、進言しておくよ」  良い村人だ。  ロレンスは笑顔《えがお》でその言葉にうなずいておいた。 「さて、そろそろか」  ヴィノは言って、大きく息を吸うと、つい先ほどまでの調子の良さそうな雰囲気《ふんいき》はなりを潜《ひそ》めていった。  景色そのものは、普通《ふつう》の川沿いの道。見通す先も同じような景色だが、川が曲がっているので、途中《とちゅう》で先は見通せなくなっている。 「ここをさらに上っていくと、滝《たき》に突《つ》き当たる。その上が湖で、滝の手前に炭焼き小屋があるはずだ。まあ、滞在《たいざい》が無理だと思ったら村に戻《もど》ってくればいいさ」  地に足のついた農夫に相応《ふさわ》しく、最後に落ち着いた声でこう言った。 「神のご加護を」  なるほど、天使の伝説が残る森と湖の近くの村に住む人間らしかった。  森から流れ出た土が川べりを綺麗《きれい》に均《なら》しているのだろう。  さらにはでこぼこが雪で埋《う》められていて、荷馬車で行くのがこれほど楽な道もない。  ヴィノの姿が見えなくなる頃《ころ》、ホロがひょいと御者《ぎょしゃ》台に移ってきた。 「気に入らんな」  そして、そんなことを言った。  手にはホロの手にも収まるくらいの小さな樽《たる》があり、ロレンスの記憶《きおく》が確かならば、それはいざという時のための蒸留酒だったはず。  慌《あわ》てて取り上げようとすれば、牙《きば》を剥《む》いて威嚇《いかく》された。 「話は無事聞けたのに、澄《す》ましおって」  フランは気が急《せ》いているかのように、先頭を馬で行く。  確かに無事話は聞けたが、フランが言ってホロが同調したように、その正しさは証明できていない。  そういう観点から言えば、フランからなんの反応がなくとも当然と言えば当然なのだが、ホロのご機嫌《きげん》は相当に斜《なな》めだった。 「ぬしは腹が立たんのかや」  言われ、ちょっと体を引きながら、答える。 「一々|怒《おこ》ってたら体が持たないさ」  ホロは酒樽の縁《ふち》をかじりながらこちらを睨《にら》むが、理屈《りくつ》はわかっているはずだ。  もしかしたら酒に酔《よ》っているのかもしれない。  そう思っていたら、荒《あらあら》々しくため息をついて、酒樽を押しつけてきた。 「心の広いことじゃなっ」 「……あ、おい」  と、ロレンスが止める間もなく、ホロは荷台のほうに戻ってしまう。  一体なんだったのか、と思いながら、ロレンスは押しつけられた酒樽《さかだる》を見て気がつく。  栓《せん》は開いているが、大した量を飲んでいるわけではなかったから、酔《よ》っていたという可能性はなさそうだ。  ただ、ホロもわがままなところがあるし、単純にそりが合わないだけかもしれないと思いなおし、酒樽に栓をして再度|手綱《たづな》を握《にぎ》った。  そのあと一行《いっこう》は順調に進んでいき、やがてフランが馬を止めたのは、水量は少ないものの立派な高低差を持つ滝《たき》を望む位置に建てられた、一|軒《けん》の炭焼き小屋の前だった。  大きな木が二本生えるその隙間《すきま》に、うずくまるようにして建てられているが、これは雪が降る場所だからこそだろう。屋上屋を架《か》すという言葉が悪い意味で使われていても、この場合には当てはまらない。  雪下ろしは、雪が積もってしなった枝が勝手にやってくれるというわけだ。  フランは馬から降りると、大したためらいも見せずに小屋に歩み寄っていく。  犬を使って村人を追い払《はら》ったというヴィノの話があっただけに、ロレンスは慌《あわ》てて御者《ぎょしゃ》台から降りた。 「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」  フランは言って、扉《とびら》を開ける。あまりにもあっさりとしていたので、止める間もない。  ロレンスが呆然《ぼうぜん》としていると、ホロがきょろきょろと不安げに辺りを見回すコルの手を引きながらやってきた。 「まるで勝手知ったるなんとやら、じゃな」  一々フランの言動が気に食わない、というわけでもなかろうが、ホロの言葉が示すように実際にそんな感じがある。  もしかしたら、一度ならずここに来たことがあるのかもしれない。  しかも、小屋は古い年月を感じさせるが、長い年月放置されていた建物独特の埃《ほこり》っぽさや朽《く》ちかけた様子がない。ヴィノの話では村人たちはこの森に入らないということだったが、その言葉を鵜飲《うの》みにするのは少し保留しておく必要がありそうだ。 「ロレンスさん、荷物を」  ひょいと入り口から顔を出したフランはそんなことを言う。  ロレンスは、弟子《でし》に戻《もど》ったような気分になりながら、「今すぐに」と返事をした。 「喧嘩《けんか》するなよ」  その言葉は、すれ違《ちが》いざまにホロの肩《かた》を叩《たた》きながら。  代わりに足を蹴《け》っ飛ばされたが、魔女《まじょ》の話に怖《こわ》がっていたコルの顔も晴れたので良しとする。  荷馬車から次々に荷物を運び、フランの指示に従って小屋の中へと配置していった。四人分の食料、酒、毛布、それに何日も軽く滞在《たいざい》できそうな薪《まき》となれば結構な量だ。全《すべ》て運び終わる頃《ころ》には汗《あせ》だくになっていたが、多すぎず少なすぎずの荷物はぴったりと小屋の中に収まった。  しかも、小屋の中は多少|埃《ほこり》っぽくはありつつも、蜘蛛《クモ》の巣《す》が張るわけでも板が腐《くさ》っているわけでもなく、小綺麗《こぎれい》に掃除《そうじ》されていて天井《てんじょう》には穴一つなかった。  誰《だれ》かが定期的に来て補修や掃除をしているはずだ。最後に訪《おとず》れたのは雪が降る前か?  汗《あせ》を拭《ふ》きながらそんなことを思っていると、これもまた長い年月そこにぶら下がっていたとは思えない、奥の部屋に続く廊下《ろうか》を仕切る粗皮《あらかわ》をくぐって、ホロが顔を見せた。 「たわけは?」  フランのことだろう。  ロレンスは外を指差して答える。 「荷馬車に、銀細工の工具を取りに行ったよ。さすがに俺には触《さわ》らせたくないんだろ」 「ふむ」  ホロはうなずき、こきりと首を鳴らす。 「コルはどうした?」  また置いてきたのか、という冗談《じょうだん》はさすがに口にしなかった。 「ぬしもくればわかりんす」  ひょいとホロは粗皮の向こうに顔を隠《かく》し、軽い足音と共に奥に行ってしまう。  奥になにかあるのか、と思っていると、フランが戻《もど》ってきた。  のみ、槌《つち》、やすり、ふいごに鉄床《かなとこ》。一つひとつは小さいが、集まるとそれなりの量になる。  フランはそれを見事にひとまとめにして、背負ってきた。普段《ふだん》は一人でこれを背負い、長い旅路も、どんな山道も平気な顔をして進んでいくのだろう。  そんな姿が容易に想像できるくらい、様になっていた。 「お二人は奥ですか?」 「ええ。あ、手伝いますよ」  重い荷物は背負う時よりも下ろす時のほうが大変だ。  しかし、フランは首を横に振《ふ》って、これもまた慣れたように膝《ひざ》から曲げて荷物を床《ゆか》に下ろす。  荷物の上げ下げの時に、腰《こし》で持つなと師匠《ししょう》に何度も怒《おこ》られたものだ。上げ下げの時に腰に力を込めてやると、簡単に痛めてしまう。力仕事の際のちょっとした知恵《ちえ》なのだが、フランはそんな下積みをどこで終えたのだろうか。少し気になりはした。 「奥になにかあるんですか」  火を熾《おこ》すための石と藁《わら》を取り出したフランは質問に答えない。代わりに、石と藁をこちらに向けながら、囲炉裏《いろり》のほうに視線を向ける。これでせっせと言われたとおりにするしかないのだから、傍《はた》から見たらちょっと情けないかもしれない。  ただ、石と藁を受け取って、火を熾そうと囲炉裏の前でかがみ込んだ直後のこと。 「ご覧《らん》になればわかります。それより、お借りしますね」 「……え?」  なにを、と聞き返す間もなく、フランは粗皮《あらかわ》の仕切りの向こうに行ってしまう。  なにを借りるのか、と思いつつ火を熾《おこ》していると、足音が二つこちらに戻《もど》ってきた。  顔を上げれば、フランと、手を引かれて戸惑《とまど》い気味に歩くコルだった。 「その格好では辛《つら》いでしょうから、こちらの靴《くつ》を」  荷物の中から立派な靴を取り出して、コルにあてがっている。  綺麗《きれい》になめされた革《かわ》を何重かに巻いたもので、買えばそれなりの金額がするはずだ。  コルは靴を受け取りつつロレンスのことを不安そうに見るが、別にとって食われるわけでもなかろうと思い、うなずいておいた。 「日が暮れる前には一応戻ってきます。食事の準備をお願いしても?」  こちらは北の地の地図をお願いする立場なのだから、断る理由もない。  むしろ、わざわざ口に出して言ってくれるあたり、少しは距離《きょり》が縮まったように感じて、愛想よく返事をしてしまう。ホロが側《そば》にいたら怒《おこ》りそうなものだが、フランはうなずき、もたもたと靴を履《は》き替《か》えるコルの手を引っ張って外に出ていった。  ロレンスは熾した火を大きくしてから、立ち上がって奥の部屋に向かったのだった。  廊下《ろうか》は剥《む》き出しの土で、靴を履いていても底冷えした空気の冷たさがわかる。  とはいいつつも、やはりここもきちんと手入れがなされていて、荒《あ》れ果てているわけではない。壁《かべ》にも鼠《ネズミ》にかじられた穴一つなく、なんとも妙《みょう》なことではあった。  ロレンスがあちこち眺《なが》めながら廊下でつながった奥の部屋に入ると、そこには椅子《いす》に座り、壁に掲《かか》げられた古びた教会の紋章《もんしょう》を眺《なが》めるホロがいた。 「え?」  いや、違《ちが》う、と思ったのは、本物のホロは本棚《ほんだな》の前で古びた本の匂《にお》いを嗅《か》いでいたからだ。  では、椅子に座っているのは?  ロレンスが改めてそちらを見ると、木窓の割れ目から差し込む光に照らされたその後ろ姿は、ホロよりも少し背が高いし、なにより、フードは擦《す》り切れ、ローブの裾《すそ》にも繕《つくろ》った跡《あと》があった。 「村の連中が魔女《まじょ》と呼んでおった奴《やつ》じゃろ」  ホロはなんのこともないように言って、本を棚に戻すと椅子に歩み寄って、ちょいと頭を突《つ》つく。 「お、おい」 「なに、大丈夫《だいじょうぶ》じゃ。とっくに干物《ひもの》になっておる。コル坊《ぼう》は腰《こし》を抜《ぬ》かすかとも思ったがの、意外に強い男の子じゃ」  雪に閉ざされる場所では、干からびて事切れた人間を見る機会が多い。  ロレンスはそれで合点《がてん》がいった。  コルは、雪山|探索《たんさく》に連れていかれたのだろう。 「しかし、教会の紋章《もんしょう》を前に事切れるだなんて、およそ魔女《まじょ》とは思えないな」 「コル坊《ぼう》が言うには、名を馳《は》せた者かもしれぬ、ということじやったが」 「へえ」  部屋に置かれている棚《たな》には本や羊皮紙の束がぎっしりと詰《つ》まっている。  これはもう間違《まちが》いない。  ここの主《あるじ》の修道女が奇行《きこう》に走ってからも、彼女を崇敬《すうはい》し、彼女の死後もここに通っていた者がいたのだろう。でなければ、小屋を維持《いじ》し、これほどの本を集め、こんな場所に綺麗《きれい》に保存されているはずがない。  事切れている修道女に軽く手を組み祈《いの》りを捧《ささ》げ、机の上の紙にも目をやった。埃《ほこり》が積もって紙も劣化《れっか》しているが、文字はなんとか判別できる。どうやら、教理問答に対する考察のようだ。  生前は信仰《しんこう》心が行きすぎて奇異《きい》な目で見られたようだが、もしかしたら本当にまっすぐな修道女だったのかもしれない。  机の隅《すみ》に置かれたからからに乾《かわ》いた野草の花一つ見ても、魔女という言葉を容易に退ける。 「じゃがな、ぬしよ」 「ん?」  と、本棚を再び熱心に眺《なが》めていたホロが、棚の一つを指差しながら声をかけてきた。 「ここ、見てみんす」 「どれ」  ロレンスが棚《たな》に目をやると、そこだけ一|冊《さつ》分の隙間《すきま》があいていた。 「どこかにあるんじゃないのか?」 「たわけ。埃《ほこり》もきちんと見んかや。他《ほか》と積もり方が違《ちが》いんす」 どんなに掃除《そうじ》している部屋であっても、必ず土埃だけは積もる。  ロレンスがよく見ると、その隙間の前には、他よりも少ないが、確かにうっすらと埃が積もっていた。 「どれくらいかはわからぬが、だいぶ前に誰《だれ》かがここから一冊|抜《ぬ》き取っていったんじゃな」 「なにが言いたい?」  ホロは、軽く部屋を見回してから、ロレンスに胡乱《うろん》な目を向げた。 「ぬしも気がついておるんじゃろう? ここは人が入っていんす」  魔女《まじょ》と呼ばれた修道女の終《つい》の棲家《すみか》。  村人のヴィノは誰も近寄らないと言っていた。  しかし、ホロがそれを指摘《してき》しないということは、ヴィノは嘘《うそ》を言っていないということだ。  だとすれば、村とは関係のない誰か。さもなくば、ヴィノが知らない村人の誰か。  それに、抜き取られた棚の場所にはなんの本が入っていたのかも気になった。 「あのたわけもここを以前から知っておったはずじゃ。ぬしよ」  と、ホロは言葉を切ってこちらをねめ上げる。  油断するなよ、という目つきだ。 「わかってる。それより、コルはなんて言って引っ張られたんだ?」 「ふん。湖を見に行くんじゃと」 「湖を?」 「なぜかと聞くでない。わっちゃあわからんからの」  不機嫌《ふきげん》そうなのは、ロレンスのみならずコルまでもこき使われるのが腹立たしいからか。  ただ、ロレンスは予想が当たったことで、ちょっと思いつくことがあった。 「俺たちもちょっと見に行ってみないか?」  ロレンスがそう言うと、ホロは「お」という顔になる。 「ふむ。ぬしも意外に気が回るようになったではないか」  そんなことを言いながら、嬉《うれ》しそうにロレンスの腕《うで》を取る。  珍《めずら》しいくらいに妙《みょう》な勘《かん》違いだなと笑いかけたのもつかの間、ホロは無言になってロレンスを引っ張って部屋から強引に出ていこうとする。 「お、おい」  ロレンスが止めるのも聞かず、赤々と燃える囲炉裏《いろり》の火も気にかけず、ただ黙《だま》って小屋の外を目指す。  ホロが足を止めたのは、ロレンスが雪に反射した太陽の光に目がくらんでからだ。 「干《ひ》からびておったあれ、どう思うかや?」  大した眩《まぶ》しさでもないはずなのに、照り返しで目がちかちかするのは小屋の中が薄暗《うすぐら》かったせいだろう。  ロレンスは手で光を遮《さえぎ》り、しばしばする瞼《まぶた》を細めながら、ホロを見た。 「どうって……」 「わっちゃあ、魔女《まじょ》などという言葉が相応《ふさわ》しいとは思えんかった」  教会や信仰《しんこう》に対する知識が少ない分、ホロの印象は率直《そっちょく》なものだろう。  しかし、ロレンスもあの修道女の机の上にあった一輪の枯《か》れた花の印象が強くて、とても魔女という言葉に相応しいとは思えなかった。 「俺もだ。机の上に花があっただろう?」  ロレンスは言うが、ホロがなにを言いたいのかわからない。  魔女であろうがなかろうが、ホロにはあまり関係がないのでは。  そう思っていると、またしてもぐいと腕《うで》を引いたホロは、そのままの姿勢で、こう言った。 「わっちゃあああいう格好をした人の雌《めす》に何度かよくされた。心|優《やさ》しいとはあやつらのためにある言葉と思うくらいじゃ」  そう言えば、ホロと出会った当初、そんなことを言っていたような気がする。  ロレンスがうなずくと、ホロはゆっくりと歩き出す。  相変わらず、顔はうつむいたままだった。 「多分、あれもその類《たぐい》じゃったんだろう、とわっちゃあ思う」 「ああ」  相槌《あいづち》を打って、それで? と間う代わりに、腕を取られたロレンスは、ホロの手を取り返す。 「それが、あれじゃ」 「あれ?」  ホロはうなずいて、言った。 「犬を連れて森に入れば、それだけでとやかく言われるんじゃ」  顔を上げたホロの表情は、思いのほか力強い。  ただ、その力強さは、泣くのをこらえているようにも見える。 「いわんや狼《オオカミ》を連れてをや、じゃろ。ぬしも気をつけてくりゃれ」  ロレンスは、どきりとする。  ホロはそんなロレンスの腕から離《はな》れると、一人ひょいひょいと歩いていってしまう。  近くに人がいないとわかっているからか、ローブの裾《すそ》から尻尾《しっぽ》が見え隠《かく》れしている。ホロの尻尾の先は真っ白い雪の上でもそん色ないほどに綺麗《きれい》な白で、妖精《ようせい》の光の帯のようだと言ったって言いすぎではないだろう。  そんな尻尾《しっぽ》をゆらゆらさせながら、ぎりぎりまで雪が積もる滝《たき》つぼの側《そば》を歩くホロは、本当に妖精《ようせい》に見えなくもない。 「ま、わっちもなんとなくじゃが、あの干《ひ》からびておった奴《やつ》の気持ちがわかるんじゃがな」  手を後ろに組んで、くるりとこちらを向いたホロの顔は、いつも冗談《じょうだん》を言う時のような不敵な笑顔《えがお》。  群青《ぐんじょう》色の滝つぼに、苔《こけ》むした崖《がけ》と真っ白な雪。  天使が天界に行く道だとしたら、なるほどそんな彼岸を思わせるのに十分な雰囲気《ふんいき》だった。 「なんでだ?」  ロレンスが追いついて手を取ると。小さなホロの手は氷のように冷たかった。 「我慢《がまん》強いと、溜《た》め込んだ分、突飛《とっぴ》なことをするからの」  そんな言葉は自虐《じぎゃく》めいた笑顔と共に。  今にもこちらに倒《たお》れてきそうなほどせり出した崖を見ながら、ロレンスは言った。 「素《す》っ裸《ぱだか》で行商人の荷馬車に潜《もぐ》り込んだり?」 「さもなくば、友を探しに南に下ったり」  恥《は》ずかしそうに笑うホロの牙《きば》の間から、温かそうな白い息が漏《も》れる。  ロレンスはそんなホロの頬《ほお》に手を伸《の》ばそうとして、やめた。  雪の山の中に入って、ホロはちょっと想像したのかもしれない。  ヨイツに着いたあと、どうするのか。  そして、思いついた選択肢《せんたくし》の一つの可能性の成れの果てが、あの小屋の中と、周りの村の反応なのだ。軽々しくじゃれ合うという気分には、どうしてもなれない。  ロレンスとホロは手をつないで、滝つぼの周りをゆっくりと歩く。  当てもなく歩いているようではあったが、そこにはコルとフランのものだろう足跡《あしあと》が続いていて、ロレンスたちはそれを追いかけていた。  まるで自分たちの先例がないかと追いかけるように、というのは感傷的に過ぎたかもしれない。  しかし、そんなことを思ってホロを見れば、ホロも雪についた足跡から顔を上げてこちらを見たので、同じことを思ったのだろう。  その心配に対する一つの解答は、だいぶ前に足蹴《あしげ》にした。  あれが正解だったのに、と後悔《こうかい》することだけはないように。  ロレンスはそんなことを思いながら、ホロの手を握《にぎ》る力をちょっとだけ強くした。 「じゃが、ここを天使が通ったという話、本当なのかや」  湖のほうに上がる道が滝の脇《わき》にあり、フランとコルはそこを上っていったらしい。  ホロとロレンスも坂道に足をかけたのだが、ふと滝のほうを振《ふ》り向いたホロがそんなことを言った。 「お前やユーグさんみたいな連中がいたら、天使と間違《まちが》われることもあるかな」 「むー……鳥は実際にわっちらも出会ったしの。じゃが、それならそれでわかりそうなものじゃが」  ホロはくんくんと鼻を鳴らす。 「そんないつまでも匂《にお》いが残るものか?」 「ふむ。なんとなくじゃがな。何年|経《た》っても雰囲気《ふんいき》くらいはわかりんす。ここはそういう感じがせん。人が来れば人にいいようにされる類《たぐい》の弱い森じゃな」  その昔は群れを率いて森を守っていたホロが言うと、独特の説得力がある。  ホロはロレンスの胸中に気がついたらしく、わざとらしく牙《きば》を見せて唇《くちびる》をつり上げていた。 「実際のところは舞《ま》い上がった雪かもしれぬ。ぬしら人は臆病《おくびょう》じゃが、臆病こそが色々な化け物を生む」  楽しそうに言うので、経験があるのかもしれない。 「知ってる話でもあるのか?」  滝の横の斜面《しゃめん》に、じぐざぐに作られた道は思いのほかしっかりとしている。  コルとフランが通ったあとということもあって、比較的《ひかくてき》楽に行くことができる。 「わっちが麦畑におった頃《ころ》はそりゃあたくさんありんす。日が暮れた麦畑の中で事をいたそうとする若い連中もおったしの。麦の化け物だけで十種類はおったかや」  事をいたそうとした若者連中には気の毒だが、なるほど怪談《かいだん》の種にはそんな原因もあるのかと思う。 「じゃが、わっちらとは関係のないものを見ておることもあったの」  とは、ちょっと懐《なつ》かしそうな目で。 「例えば?」  ロレンスが聞くと、ホロは呆《あき》れるように笑って、ため息を一つついた。 「今思い出したのは、小僧《こぞう》じゃ。山の中で転んで泣いて、山中に響《ひび》いた自分の泣き声を化け物の鳴き声だと勘《かん》違いしての。それにさらに怯《おび》えて余計に泣いて。くふ」 「ああ、そういう類か。だが、まあ、そうか。そうだな」 「うん?」  右に進み、左に進み、としているうちに、急な斜面でも簡単に上れてしまうので、こういう道を考案した者は本当に頭が良い。  結構な高さに来ていたが、まだ半分くらいだ。 「種の割れている有名な奇跡譚《きせきたん》を思い出した」 「ほう」  木の根っこのせいで段差ができていたので、先に上ったロレンスが手を出してホロを引っ張り上げる。 「北の大|遠征《えんせい》にまつわる話だ。旅人なら即座《そくざ》にわかる話でな」  ロレンスは語ろうとして、ふと言葉を止めた。 「教会にまつわるものだからな、コルには内緒《ないしょ》だぞ?」  きょとんとしたホロは、意地悪く笑ってこう言った。 「幸い、ぬしとわっちの間には他《ほか》に内緒にしたいことがないからの」  ロレンスは苦笑いするほかないが、ホロがせっつくので話を進めることにした。 「大遠征に参加する高名な騎士《きし》団が、異教徒たちの軍勢に負け戦《いくさ》を強いられていた時だ。空が赤く染まり夜が近づいていて、もはやこれまで、と指揮官が撤退《てったい》を告げようとしたその時、突然《とつぜん》戦場一帯に影《かげ》が差した。何事かと顔を上げた瞬間《しゅんかん》に、その場の全員が見たらしい。真っ白く、巨大《きょだい》な教会の紋章《もんしょう》が、空一面にたなびいていた様子を」  ロレンスは空を見て、ホロも釣《つ》られて見ているらしい。  ふむ、と視線を戻《もど》すと、呟《つぶや》くように、こう言った。 「鳥、じゃな?」  さすがだ。  ロレンスはうなずいて、言葉を続けた。 「そのとおり。渡《わた》り鳥の群れだ。だが、騎士団は奇跡《きせき》を背にして負けるわけがない、と奮起《ふんき》して、なんと日が落ちるまでのわずかな時間に戦況《せんきょう》をひっくり返し、その戦いに勝ってしまった。以降、そこにできた国の旗は、その時の様子を象《かたど》った、赤地に白の教会の紋章を染め抜《ぬ》いたものだ。こうして奇跡は作られていくのである。めでたしめでたし」  だから、天使の伝説がなんらかの現象である可能性も少なくはない。  フランがコルを連れていったのも、そのことが頭にあるからではないのか。 「ふむ。じゃが、だとしたらどうやって天使を呼び出したものか」  最後の曲がり角を曲がり、進んだ先は坂の上。  下を見ると、滝《たき》つぼが異様に小さく見えた。 「綺麗《きれい》な湖ではないか」  息を切らせることもなく、ホロは明るい声でそう言った。  湖は山で縁取《ふちど》りされた鏡のようで、今にも雪が降り出しそうな雲の色を映し込んでいた。  下の川岸と違い、さすがに湖のほとりには小石がたくさん転がっている。黒みがかったそれらは、うっすら積もった雪と好対照を成していた。  葦《アシ》の類《たぐい》が少ないこともあって見通しがよく、湖をぐるりと一周歩いて回れそうな感じがした。船を出しやすいだろうし、魚も獲《と》りやすいだろう。 「こんな場所は夏に来たいの」  ホロがそんなことを言う気持ちもなんとなくわかった。 「お前、泳げるんだったっけ」 「んむ。水の中のほうが体が軽くなって心地《ここち》よい」  人すら丸飲みにできる巨大《きょだい》な狼《オオカミ》が、犬のように喜び勇んで湖に飛び込む様を想像して笑ってしまう。 「しかし、お前があの巨体で湖に飛び込んだら、水があふれてしまいそうだな」  実際に、滝《たき》は湖から水があふれ返るようにして流れ落ちている。  それを見ての軽口だったが、ホロは真剣《しんけん》な顔で考え込む。 「じゃが、かといってわっちがこの肢体《したい》で飛び込んだら、今度はそれを見たぬしからあふれ出てしまうかもしれぬ」  なにがだ、と聞けば藪蛇《やぶへび》だ。  ロレンスは無視をする代わりに、大きく息を吸って、吐《は》いた。  静かな湖畔《こはん》の散歩など、日々をせせこましく生きる行商人にはなによりの贅沢《ぜいたく》だ。 「コルたちはずいぶん遠くまで行ったんだな」  続く足跡《あしあと》を見ると、霞《かす》んでいる対岸のほうまでぐるりと続いていそうな感じだ。  対岸はさらに高い山の麓《ふもと》になっていて、上のほうは完全に雲で覆《おお》われていた。 「ふむ」  ホロは不意に呟《つぶや》いて、歩いてきた滝のほうを見る。 「どうかしたか?」 「んむ。あの滝、もしかして、最近できたものではないのかや」 「え?」  ロレンスが尋《たず》ねると、ホロはきょろきょろと辺りを見回して、もう一度うなずいた。 「ぬしらにとっては最近とは言わんかもしれぬが、ほれあそこ。崖《がけ》が崩《くず》れたように見えんかや」  と、ホロが指差したのは、ロレンスたちが上がってきた滝のすぐ側《そば》の山の裾《すそ》。  確かに言われてみれば、崖崩れが起きた跡のようにも見える。 「あそこから崩れた岩かなにかが、滝のあった場所に積み上がる。湖などもともとこんなふうに山で囲まれた椀《わん》のような形になっておるからの」  ホロは手で器用に形作ってみせる。  山に暮らし、何百年と生きてきたホロなら、そういうこともわかるのだろう。 「じゃあ、川の水量が減ったというのも……」 「そのせいかもしれぬ。縁《ふち》が欠けておる甕《かめ》にはそれ以上注げぬ。水面が上がればそれだけ水が漏《も》れる先も増えるからの」  そう言われると、滝の一番上にせり出して、滝の流れを二分していた鋭《するど》い岩は、あとからそこに突《つ》き刺《さ》さったようにも見える。  もしかして、その崖崩れの瞬間《しゅんかん》を見て、天使が飛び立ったと勘違《かんちが》いしたのだろうか?  ロレンスはそう思ったが、さすがにそれはなさそうだと気づく。天使の羽とごつい岩とでは、さすがに見|間違《まちが》いもしないだろう。 「天使が空に向かって飛ぶために、足場を作ったのかな」  ロレンスがちょっと気取ってそう言うと、隣《となり》のホロは嫌《いや》そうに体を引く。  そして、大きくため息をついて、こう言った。 「ぬしは本当に夢見がちじゃな」  夕食の準備をして待っていると、ようやく小屋に戻《もど》ってきたコルとフランは、外で転げ回って遊んできたのかと思うくらいにびしょ濡《ぬ》れだった。  着込んでいる上半身だけ熱く、手足は氷の棒のように冷たい。  ホロが不承不承フランの手を握《にぎ》り足に足を合わせているのは、冷えた体を温めるには人の体が一番効果的だからで、ロレンスはコルの手を服の内|側《がわ》に入れてやって、足を手で温めてやった。 「それで、なにか見つかりましたか?」  革《かわ》を重ねた靴《くつ》もたっぷり水を吸って鉛《なまり》のように重くなっていた。  よほど雪深い場所まで行っていたのだろうが、そこまでするにはなにかしらの根拠《こんきょ》があるのだろう。ロレンスはそう思って聞いたのだが、フランは首を横に振《ふ》った。  どこか悲しげに見えるのは、疲《つか》れているせいかもしれない。 「まあ、ある程度落ち着いたら食事にしましょう」  その言葉には、コルがうなずいた。そう思って目の前のコルを見たら、こくり、こくり、と船を漕《こ》いでいる。急に暖かい所に来たせいかもしれない。  ロレンスはコルを濡れた外套《がいとう》の代わりに乾《かわ》いた毛布で包み、腕《うで》の下に抱《だ》いてやる。ホロより一回り小さいので、すっぽりと収まってくれる。若干《じゃっかん》埃臭《ほこりくさ》いが、いつもホロと一緒《いっしょ》にいるせいか、少しホロと同じ匂《にお》いもした。  フランはやがて手足が温まったようで、ホロに短く礼を言って手足を引いた。 「よい、お連れの方ですね」  そんな言葉は、椀《わん》に鍋《なべ》の中身をよそって渡《わた》す時に。  それがコルのことだと気がついた時、ロレンスは笑顔《えがお》で答えておいた。 「私たちも助かっています。ただ、いささか体力が足りなかったようで」  痩《や》せてひ弱そうに見えるが、冬の旅路を薄着《うすぎ》で過ごしながらも平気だし、体力的にはロレンスと同じかそれ以上かもしれない。そんなコルがへとへとになるまで歩き回っていたのだから、どちらかというとフランのほうが並外れているのだろう。 「いいえ……」  フランは言って、スープを欽む。食事時でも、一定以上|雰囲気《ふんいき》が乱れない。  寒い外を歩き回ってきて、ほっと一息つく瞬間《しゅんかん》くらいは、どんな人間でも気が緩《ゆる》むもの。  フランのその油断のなさは、どことなく森の動物を思わせた。 「ところで、私たちも天使の伝説について少し考えてみたのですが」  ロレンスがホロの椀《わん》に肉をたっぷりよそいながら言うと、フランの手がぴたりと止まった。 「例えば、トールヒルト共和国の旗の伝説とか、参考になりませんか」  その目が、じっとロレンスのことを見る。  予想外の、食いつきだ。 「……その手のお話に造詣《ぞうけい》が?」 「多少は」  しかし、食いついたかに見えた興味の炎《ほのお》は、すっと瞼《まぶた》の奥に消えてしまう。フランはそれ以上は続けず、落ち着きを取り戻《もど》す儀式《ぎしき》であるかのように、椀の中身をすすった。具は木のスプーンでつぶしてから食べて、最後のかけらはすくってゆっくりと口に運ぶ。  全《すべ》てが作業のように滑《なめ》らかで、実際のところ食べる速度は速かった。  身分が高ければ高いほど食事には時間をかけるもので、身分が低ければその逆になる。放浪《ほうろう》学生という、盗人《ぬすっと》や物乞《ものご》いと大して変わらない身分のコルを見ればそのことはよくわかる。  ユーグの話では、フランは自分のことを奴隷《どれい》だったのだと言ったことがあるらしい。  そういうことが、ありうるかもしれない、とロレンスは思った。 「私も、風に舞《ま》った雪かなにかではないか、と思っています」  村人のヴィノが言っていた言葉。  つまらない常識で考えれば、やはりそのあたりが妥当《だとう》なところだろう。 「意外に本物かもしれませんが」  ロレンスのあからさまな冗談《じょうだん》に、フランは思いのほか素直《すなお》に笑ってくれた。 「ええ、もちろん、それに越《こ》したことはありません。ただ……」 「多くの伝説を実際に確かめてこられた、とお聞きしています」  そう言葉をつなげると、フランは笑顔《えがお》を消した。目が閉じられ、ゆっくりと息を吸う様はまるで怒《いか》りを我慢《がまん》しているかのようにも見えたが、ロレンスは逆だと感じていた。  それは、笑うのを我慢していたはずだ。  フランは息を吸い終わると、今度は一気に吐《は》き出した。  表情は、予想どおり、柔《やわ》らかかった。 「そのとおりです。多くはまがい物であり、数少ない残りは人の見|間違《まちが》いや思い込みでした。それでも、さらに残るわずかな例外があるのもまた事実です。どう考えても、尋常《じんじょう》ならざるなにかがそこにいたような」 「今回は、どちらでしょう」  ロレンスが尋《たず》ねると、フランは首を横に振《ふ》る。  それは答えを言っているようでもあり、わからない、と言っているようでもあり。  ただ、フランは視線をあらぬ方向に向けると、唐突《とうとつ》にこんなことを言った。 「そもそも、天使の伝説は親しい知人が教えてくれたのです」  ロレンスが驚《おどろ》いたのは、フランがそんなことを喋《しゃべ》ってくれるとはまったく予想もしていなかったから。  フラン自身、それを理解しているのかもしれない。  ちらりとこちらを見て、少し恥《は》ずかしげに、唇《くちびる》の端《はし》だけではにかんだ。 「どこで見たのか記憶《きおく》は定かではないが、と前置きをしていましたけどね。ここに残る伝説とほとんど同じことを言っていました」  過去を見る目はいつだって物悲しげだ。  囲炉裏《いろり》の火に照らされれば、それはなおさらのことになる。 「何事も大袈裟《おおげさ》に言う人ですが、嘘《うそ》は言いませんでした。それで、何年か探していたのですが」 「ついに、見つけたと」  フランはうなずき、少し足を崩《くず》した。  それが心の構えを少し解いてくれたことのように見え、ロレンスは酒を勧《すす》めてみる。  昔話をするのに、酒がないのは片手落ち。  フランは、大してためらうこともなく、受け取ってくれた。 「私は、ここの伝説が荒唐無稽《こうとうむけい》なものだとはとても思えません。確かに存在し、見ることができるものだと思っています。あちらの」  と、視線を粗皮《あらかわ》の仕切りの向こうに向け、フランは言う。 「修道女の方も、そんな確信があったからこそ、ここにやってきたのでしょう」  信仰《しんこう》心が行きすぎて町の人間や村の人間から魔女《まじょ》と呼ばれたような修道女。  確かに、それほど熱心な正教徒が、たとえ常軌《じょうき》を逸《いっ》していたとはいえ胡散臭《うさんくさ》い伝説におびき寄せられるとは思えない。言い伝えや伝説の類《たぐい》は本当に星の数ほどある。  人の記憶《きおく》に残り、その心を捉《とら》えるのは、その中でもなにかしらの魅力《みりょく》や理由を持つ、特別なものだけだ。 「知人も、確かに見たのだと思います。奇跡《きせき》と呼べるような、なにかを……」  伏目《ふしめ》がちで、囲炉裏の火が陰《かげ》を作っているから、というわけではなさそうな、悲しげな微笑《びしょう》だった。 「ただ、笑ってしまいます。そんなものを見ておきながら、場所を覚えていないなんて」  呆《あき》れるような、笑顔《えがお》。  男だったらきっと、誰《だれ》しもそんな笑顔にかすかな嫉妬《しっと》を覚えるはず。  フランは、話の相手を好いているのだろう。  そう思えば、知人、という表現には照れ隠《かく》しのような響《ひび》きがあった。  ただ、そうなるとフランが天使の伝説を追いかける理由というのが、単なる銀細工師としての情熱から、というわけではないようにも思えてくる。その胸に、もっとなにか別の理由を抱《かか》えているからこそ、わざわざこんな所にまでやってきたのではなかろうか。  なにより、フランの微笑《びしょう》には陰《かげ》がある。 「いけませんね」  フランは言って、酒の注《つ》がれた椀《わん》を置いた。  ほとんど口はつけていないが、もしかしたら酒には弱いのかもしれない。さもなくば、酒を口実にして、胸のうちのことを喋《しゃべ》ってしまいたいという誘惑《ゆうわく》にも。  沈黙《ちんもく》が下りる。  ロレンスは、どうしても聞かずにはいられなかった。 「どうして、そんな話を?」  返事は早かった。 「お詫《わ》びです」 「詫び?」 「ええ」  ロレンスが聞き返すと、ふん、と鼻を嶋らす音がした。  見れば、ホロが胡乱《うろん》な目でフランを見つめている。 「商会でのことです」  なにか詫《わ》びられるようなことがあっただろうか。  ぐうの音《ね》も出ないくらいにばっさり断られたことだろうか?  それにしては、詫びというのも変な気がした。  なのでロレンスは阿呆《あほう》のように戸惑《とまど》っていたのだが、フランは床《ゆか》に置いた酒に映る自分の顔を覗《のぞ》き込むように、視線を落としながら言った。 「断り方がもっと他《ほか》にありました。私利私欲にぎらついた商人だと思っていたんです」 「いえ、それは……」 「北の地の地図をてっきりお金|儲《もう》けに使うのだと」  フランは顔を上げ、申し訳なさそうに笑う。  確かにロレンスはホロのために北の地の地図を描《か》いてもらおうとしているし、その話を昨晩した。  しかし、それでなぜ詫びられるのか。  そもそも、フランは断ったことを詫びるのではなく、断り方を詫びると言った。  それも妙《みょう》な話だ。  ロレンスが相変わらず困惑《こんわく》していると、口を挟《はさ》んできたのはホロだった。 「どういう風の吹《ふ》き回しなんじゃ?」  語気は若干《じゃっかん》まだ荒《あら》いが、どこか楽しそうな雰囲気《ふんいき》がある。  そう思ってホロの顔を見れば、幾分《いくぶん》機嫌《きげん》が直ったように、わずかな微笑《びしょう》を浮かべていた。  フランはその言葉にわざとらしく身を引いて、口をつぐんだままホロを見る。  しばしあいた間は、二人の娘《むすめ》が視線だけで会話をしているようにも見えた。 「ここにきて、わっちらに協力を仰《あお》ぎたくなった。という訳かや」  フランは、ゆっくりとうなずく。  なんの話をしているのかまったくわからないが、協力、という聞きなれた言葉にようやく流れが見えそうになる。  ただ、ロレンスが口を挟《はさ》むより早く、ホロがこう言った。 「ま、いいじゃろ」  そんなあまりの安請《やすう》け合いに、ユーグの商会でした自分の失敗を思い出してしまう。ロレンスは思わず口を開こうとして、ホロに背中を叩《たた》かれる。 「こっちもものを頼《たの》む身じゃからな、いつまでも意固地になっておる場合ではありんせん」  呆《あき》れるような笑顔《えがお》は、妙な機嫌の良さだ。  フランも囲炉裏《いろり》の向こうで微笑《ほほえ》んでいる。  訳がわからないが、ここは合わせておいたほうがよさそうだ。  ロレンスがうなずくと、「では」とフランが呟《つぶや》いて、その黒い瞳《ひとみ》に理知的な光が宿っていった。 「タウシッグの村に着いて、なにかおかしいと思いませんでしたか?」 「……商人として?」 「ええ」  ロレンスはうなずき、答える。 「手回しの石臼《いしうす》が……ありましたよね。ここに、こんな立派な高低差を持つ滝《たき》があるというのに」  フランがじっと見つめてくる。  正解、ということだ。  ロレンスは言葉を続けた。 「春になれば雪解けの水で水量が豊富になるでしょうし、町からそれほど遠く離《はな》れているわけでもない。ならば、ここの領主がここに水車を設置しないのは、村人たちに対する慈悲《じひ》か、さもなくば……」 「村人たちが抵抗《ていこう》しているか、ですね。そして、理由は後者のはずです」  フランは話しながら荷物に手を伸《の》ばし、一|冊《さつ》の古びた本を取り出した。  ただ、それは本というよりも書簡や羊皮紙をまとめたもので、紙の端々《はしばし》が不揃《ふぞろ》いになっている。年月によって風化されているのが一目でわかった。  めくると、古びた紙独特の頼《たよ》りない音がする。 「この村は。元々天使の伝説を使って、水車の設置を拒《こば》んでいたようです」  そして、唐突《とうとつ》に言った。 「それは……」 「水車を設置するとなれば、村人が労働力として駆《か》り出され、彼らは自分たちの首を絞《し》めるための道具を作らされる。折しも、北の大|遠征《えんせい》が全盛の頃《ころ》だったらしいので、教会の威《い》を借りたい領主としては、水車から上がる利益よりも、天使の伝説を喧伝《けんでん》することで教会に媚《こび》を売る利益のほうを取ったようです」  領主に自力で領地を守り抜《ぬ》いたりするだけの資金力や兵力のないところではままある話だ。  フランの話は、続く。 「それが、時代の流れで異教徒の力が強まってきていました。北の大遠征が中止になったのは、ご存じですか?」  ロレンスはうなずき、「つまり」と、言葉を引き継《つ》ぐ。 「教会の力が弱まってきた昨今《さっこん》は、今度は領地に教会の匂《にお》いがあるとまずくなってきた、と」 「はい。その昔は北の大遠征にも物資を供給し、見返りを受けていたようですが……恥《はじ》も外聞もなく、この場合は神をも恐《おそ》れずというのでしょうか、掌《てのひら》を返したそうです。ご想像のとおり、異教徒の領主がごろごろいるこの近辺で、力が衰退《すいたい》する一方の教会に媚を売るのは危険な行為《こうい》でしょうから。これまでうまくいっていた反動ですね」  長いものには巻かれろ。  生き延びるためには決して間違《まちが》った発想ではない。  ただ、時としてそんな行為《こうい》が節操なく、卑怯《ひきょう》に見えるだけだ。 「そして、苦慮《くりょ》した挙句《あげく》、領主は思いついた。ある日天使の伝説を追いかけてここにやってきた敬虔《けいけん》なる修道女を、魔女《まじょ》と呼ぶことを」  息を飲んだのは、ロレンスだけ。  ホロは表情をピクリとも動かさない。  人の身勝手さは、骨身にしみて理解しているというように。 「魔女がやってきて迷惑《めいわく》していると言い張れば、教会に盾突《たてつ》くことなく、同時に、異教徒たちにも面目《めんぼく》が立つ。村人たちも渡《わた》りに船だったはずですよ。水車は絶対に設置したくないので、森に魔女がいるなんていう話は、森に立ち入らない理由として絶好のものです。もしも水車を作ることになり、なおかつ税を納めることになれば、彼らの生活はたちまち苦しくなるはずですから」  塩一つをあれほど貴重なものとして扱《あつか》う様子からもそれはわかる。  しかし、わからないことが当然ある。 「……フランさんは、そんなお話を、一体どこで?」  ロレンスが尋《たず》ねると、フランはなんのこともないように、手にしていた本を軽く掲《かか》げた。  開かれた頁《ページ》には、男性的な筆致《ひっち》でびっしりと字が書き込まれているのが見える。 「そこで眠《ねむ》る修道女、カテリーナ・ルッチの残した日記です。こちらに、全《すべ》てが書かれています」  一冊だけ抜《ぬ》き取られていた書物。  それが、この日記、ということなのだろう。 「罪悪感に苦しんだ村人の誰《だれ》かが、真実を世に知らしめようと持ち出したのでしょうね。私の下《もと》にやってきたのは、本当に偶然《ぐうぜん》でした。この手の書物を専門に扱う知り合いが、たまたま教えてくれたんです」  ぱらぱらと頁をめくり、目を落とす。文字を読んでいるわげではなく、魔女と呼ばれた修道女の胸中を、推《お》し量っているのだろう。 「しかし、それが本当だとして……そんなお話を我々にした理由というのは? いえ、そもそも……」  と、ロレンスは言葉を切る。  そこまで村と領主の事情に詳《くわ》しいのならば、ロレンスたちを連れてきた理由が天使の伝説の話を集めたかったから、などという単純なものであるわけがない。  ロレンスは、上目遣《うわめづか》いにフランを見る。  この女は、最初からロレンスたちを嵌《は》めるつもりだったのだ。  フランの目がほんの少しだげ、楽しそうな形につり上がったような気がした。 「教会が、遠からず金の鐘《かね》に踊《おど》らされてやってきます」  胸中で、ため息に似たなにかを呟《つぶや》いた。  大きな力は、池の中の大きな魚と同じ。  動けば水が揺《ゆ》らぎ、土が舞《ま》い上がる。  そして、世の中は一つの大きな池なのだ。 「デバウ商会、ですか」  フランは少し驚《おどろ》いたように目を見開き、うなずくや言葉を続けた。 「ご存じでしたか……。ご承知のとおり、教会がやってくるとなれば今度は領地に魔女《まじょ》がいるとまずいですからね。だとすると、ここは非常に危険な場所です」  確かにそのとおりだ。  こんな煮詰《につ》まった場所に天使の伝説を追いかけに来るとなれば、たとえフランが偏屈《へんくつ》で気難しい性格でなかったとしても、一人で対応するのは難しいだろう。  フランは、ロレンスを見て、こう言った。 「村人も領主も、戦々《せんせん》恐々《きょうきょう》としているはずです。再び北を攻《せ》めようとしている教会が、露払《つゆはら》いとして魔女の噂《うわさ》を確かめに来るのではないか、と」 「つまり我々は、その恐怖《きょうふ》を解消してやるために動けばいい、ということですか」  言い方が面白《おもしろ》かったのか、フランは静かに微笑《ほほえ》んだ。  しかし、そんな笑顔のまま、出てきた言葉は不釣合《ふつりあ》いなものだった。 「湖畔《こはん》をぐるりと回って帰ってくる途中《とちゅう》、こちらを監視《かんし》する者がいました」  フランが歩み寄りを示してきた理由が、これ。  あまりにもわかりやすすぎる理由に、ロレンスとしてはため息をつきたいところだ。  しかし、それをぐっと飲み込んだのは、楽をしてなにかを手に入れられるということなどそうそうあるわけではないという、当たり前のことから。 「もちろん、この先ずっと側《そば》にいろ、ということではありません。雪がなくなる季節までで結構です。私が想像するに、天使の伝説は寒い時期だけに起こることでしょうから」 「それで、北の地の地図を描《か》いていただけると」  フランはうなずいた。 「協力していただけますか?」  今すぐ荷物をまとめて逃《に》げ出さないのであれば、選択《せんたく》の余地はない。  しかし、フランは自分から種を明かし、頼《たの》み込むという形になっている。  上手な話の運び方。  まるで、軍師のようですらあった。  北の地の地図は手に入れたいし、なによりユーグとのことがある。事情がわかった今、フランをここに一人置き去りにすることはできない。  雪解けの季節までとなると時間的に苦しいものがあるが、ある程度|状況《じょうきょう》が落ち着けばまた交渉《こうしょう》も可能だろう。ホロも動かないし、答えは決まっているというわけだ。 「もちろん」  ロレンスは、短くそう答えたのだった。 [#改ページ] [#改ページ]  翌日、フランは再びコルと連れ立って湖に向かった。  監視《かんし》がいるのであれば、小屋から出て外をうろつくのは危険ではないかというロレンスの疑問に、フランは「小屋にいるのも同じです」と当然のことのように言った。  むしろ、魔女《まじょ》のことを確かめに来たのではなく、天使の伝説を追いかけに来たと主張するのであればそちらのほうがよいはずだ、と言っていた。  理屈《りくつ》としてはそうだが、やはり危険があるのではないか、と言いかけたロレンスを制したのは、意外なことにホロだった。  しかも、一人で行こうとするフランに、コルまであてがっていた。  コルはもちろんフランを一人で行かせるわけには行かないと思っていたようで快諾《かいだく》していたが、ロレンスとしてはやはり意外だった。  言動の一々にいらいらしていたのが一転してこの有様《ありさま》だ。  昨晩の会話はそれほどのものだったのか。  しかし、昨晩の会話で明かされたのは、どちらかといえばフランが最初から腹に一物《いちもつ》あってロレンスたちを連れてきたという事実であり、それで印象が悪くなりこそすれ、良くなる理由にはならないような気がした。  フランとコルを見送って小屋に戻《もど》るや、ホロはおもむろに尻尾《しっぽ》を取り出して毛繕《けづくろ》いを始めている。  ロレンスはそんな様子を眺《なが》めながら、少し探《さぐ》りの言葉を入れてみた。 「昨晩、ずっと伝説のことばかり考えてたんだろうな」  全体を手で梳《す》いてから、目につく不埒《ふらち》な輩《やから》を次々|囲炉裏《いろり》の火の中に放《ほう》り込んでいたホロは、耳だけを申し訳程度にこちらに向ける。 「むう?」 「コルに説明してただろ。伝説の片鱗《へんりん》を見落とすなって」 「……ああ。んむ」  フランはやはり天使の伝説をなにかの自然現象だと推測《すいそく》しているようで、例えば、木々に積もった雪が風で飛ばされたといったものから、どこかに湯脈があり、その湯がなにかの具合で湖の中に流れ込み、湯気が天使の羽のように見えた、といったものまでを列挙していた。  確かに、天使が羽を広げているような現象が起こるには、高い場所からなにかが落ちるか、さもなくば舞《ま》い上がらなければならない。  なにかが落ちるのであれば、滝《たき》は高低差を持つからその候補になる。舞い上がる場合は、湯気か、あるいは霧《きり》や雪が風で飛ばされるのを想像するのが無難だろう。  お供を命じられたコルは、その可能性一つひとつを律儀《りちぎ》に聞いていて、片鱗も見落とすまい、とばかりにうなずいてフランについていったのだ。 「確かに、あんなに真剣《しんけん》に伝説を追いかけていたら、村人や領主がけちをつけてきた時に相手などしていられないだろうな」  いつもならば、わっちに雑用をやらせるなどいい度胸じゃ、などと言いそうだが、そんな雰囲気《ふんいき》はかけらもない。  それどころか、楽しそうにこう言った。 「ま、頑固《がんこ》で偏屈《へんくつ》な銀細工師が聞いて呆《あき》れるがの」 「……そうか?」  事前に聞いていたことから想像するのとはまったく違《ちが》った印象ではあるが、目的に向かう姿勢には職人の鑑《かがみ》のような真剣さがある。なにより、一晩中おそらくはそのことだけを考えていて、朝になれば身の危険も顧《かえり》みず外に出ていったのだ。  ロレンスがそう思って聞き返すと、毛の付け根をむぐむぐと噛《か》んでいたホロは、ふわふわの尻尾《しっぽ》から口を離《はな》してにやにや笑っている。 「単に惚《ほ》れた相手のあとを追っかけておるだけじゃろ。それならば、別に頑固でも偏屈でもあるまい?」  昨晩フランが語った、自身に天使の伝説のことを教えた相手のことだろう。恋仲か、あるいはフランが一方的に好いているのかはわからないが、ホロもロレンスと同じようなことを思ったらしい。  そして、ホロのように平たく言葉にしてしまうと、確かに頑固で偏屈な銀細工師という言葉を冠《かん》するのは間違《まちが》っている気がする。  世の中は、フランのような年頃《としごろ》の娘《むすめ》がそういう状況《じょうきょう》になるのを、一途《いちず》だ、と表現するだろう。 「なかなか可愛《かわい》げがあるではないか」 「まあ、な」  昨晩のフランの口ぶりはとても嘘《うそ》とは思えなかった。  そう思うと、戦《いくさ》に出かけた恋人のことを思って、自らは巡礼《じゅんれい》して恋人の無事を祈《いの》る乙女《おとめ》にも見えてくる。  しかし、ロレンスには相変わらずわからない。  その告白がどうして商会でロレンスをあしらったことに対する詫《わ》びになり、それどころかロレンスたちを最初から罠《わな》に嵌《は》めるような形で利用しようとしていたのに、ホロの機嫌《きげん》を損《そこ》ねることにならなかったのか。  囲炉裏《いろり》の火をいじるふりをしながら、あれこれ頭を巡《めぐ》らせていた。  ホロの言葉が向けられたのは、そんな頃合《ころあい》だった。 「しかも、そんな話を詫びに使うとはの。なかなかに酒落《しゃれ》ておるとは思わぬかや?」  大きく火《ひ》の粉《こ》が舞《ま》ったのは、ほとんど偶然《ぐうぜん》だ。  ただ、それは傍《はた》から見たら慌《あわ》てたように見えただろうし、実際にそうだった。  ロレンスが囲炉裏から視線をホロに向けると、ホロはにこにこ笑っている。  笑ってはいるが、笑《え》みは不自然に顔に張り付いたままだった。 「もちろん、どう酒落ておるのか、わかっておるよな?」  隠《かく》せていた、と思うほうがおこがましかったらしい。  ホロの尻尾《しっぽ》の毛先が、手の中でゆらゆら揺《ゆ》れている。  白状するなら、早いほうがいい。 「……すまん。わからない」 「たわけ!」 囲炉裏の灰が全《すべ》て舞い上がりそうな剣幕《けんまく》だった。 不自然に張り付いていた笑みは一瞬《いっしゅん》で吹《ふ》き飛んで、憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》がそこにはある。 「な、なにもそこまで……」 「たわけ! ならばわっちがなぜあの小娘にいらいらしておったかもわからんかったというのかや!」  もしも狼《オオカミ》の姿でこれほど力の限りに怒鳴《どな》ったら、きっと小屋ごと内|側《がわ》から崩壊《ほうかい》していたに違いない。そんな場違いなことを考えてしまうくらいにホロは怒鳴り、尻尾がこれ以上ないほどに膨《ふく》らんでいた。 「……ああ」  何事も行きすぎるとひっくり返る。  あまりのことにわなわな唇《くちびる》を震《ふる》わせていたホロは、やがてがっくりとうなだれた。  怒《いか》りのあまりに血管が切れてしまったのかと思った。  慌《あわ》てて声をかげようとすると、前|髪《がみ》の向こうから、胡乱《うろん》な目が向けられて口を閉じる。 「まあ……確かにぬしはそういう奴《やつ》じゃったな……」  ホロは疲《つか》れたようにため息をつき、一度|瞼《まぶた》を閉じると目からはすっかり毒気が抜《ぬ》けていた。  あまりにも抜けすぎていて、こちらを再度見た時には、哀《あわ》れんでいるようにすら見えた。 「かりかりしておったのはわっちだけ。やりすぎたと気に病《や》んでおったのはあの小娘《こむすめ》だけ。ぬしは心が広いのではなく、死人のように鈍感《どんかん》だったというわけじゃな」  さすがにそこまで言われると、なんのことかはわからなくともむっとはする。  ただ、ロレンスが言い返す前に、ホロが言葉を向けてきた。 「ぬしは面目《めんぼく》丸つぶれだったわけじゃろうが」  商会でのことを思い出す。  それでもまだわからず、コルだってしないような、救いを請《こ》う目をホロに向ける。  賢狼《けんろう》ホロは、牙《きば》を剥《む》いて思いきり嫌《いや》そうな顔をしてから、そっぽを向いてこう言った。 「他《ほか》ならぬ、わっちの前で」 「……あ」  その瞬間《しゅんかん》、なにもかもが頭の中でつながった。 「それでなんで周りだけがあたふたしておるんじゃ。あほらしい……」  ホロのあまりの脱力《だつりょく》ぶりは、今にもごろりと横になりそうな雰囲気《ふんいき》だ。  それに対し、逆に腰《こし》を浮かしかけていたのはロレンスのほう。  しかし、ホロの視線で、お座りを命じられた犬のようにその場に縫《ぬ》い付けられる。 「今更《いまさら》口に出したら怒《おこ》りんす」  ぴしりと釘《くぎ》を刺《さ》され、開きかけた口を閉じる。  それでも、ロレンスは胸の中で言葉が駆《か》け巡《めぐ》って、両手が勝手にばたばた動いてしまう。  ユーグの商会でフランにやり込められたことを、ホロは確かに怒《おこ》っていた。  しかし、本当に怒っていたのは、失敗そのものではなく、ロレンスが他ならぬ自分の前で恥《はじ》をかかされたことについて怒っていたのだ。  そう考えれば、フランの出した曖昧《あいまい》な条件に果敢《かかん》に飛びついた理由も見えてくる。あれはフランの賢《かしこ》さに当てられて面白《おもしろ》がって受けたのではなく、喧嘩《けんか》を買うつもりで受けたのだろう。  だからこそ、タウシッグの村でそつなくこなし、ヴィノから話を聞き出してこの小屋まで案内された時、フランから一言もないことについて文句を言ったのだろうし、ホロはフランに対してのみならず、ぼんやりしているロレンスにもかりかりしていたのだ。  馬鹿《ばか》にされたままで悔《くや》しくないのか、と。他ならぬ自分の前で恥をかかされたのに悔しくないのか、と。  そして、昨晩のやり取りだ。  ロレンスはフランの言葉を一字一句思い出し、それに対するホロの反応を頭の中で再現する。  直後、うつむいて頭痛を耐《た》えるように額に手を当てたのは、自分の間抜《まぬ》けさ加減に呆《あき》れてしまったから。  フランは惚《ほ》れた相手のために天使の伝説を追いかけているらしい。  だからこそ、惚れた相手のために北の地の地図を追いかけているらしいロレンスに、そのことを告白することで詫《わ》びたのだ。  なるほど、ホロの機嫌《きげん》が良くなるわけだ。  同時に、目の前のホロの様子も、十分|納得《なっとく》できた。 「……すまん」  当のロレンスだけが、能天気に気がついていなかった。  ホロの怒《いか》りが引っ繰《く》り返って呆れに代わるのも、無理はないようなことだった。 「……ぬしは本当に次から次へとたわけたことをしてくれるの」  言い返すこともできないが、ホロはそれ以上|怒《おこ》ることもしなかった。  馬鹿《ばか》馬鹿しくて怒る気も失《う》せた、というのが本当のところだろう。  なにせ、ため息をついておもむろに自分の尻尾《しっぽ》を見て、ホロがこんなことを言ったくらいだ。 「へたに毛繕《けづくろ》いするよりも、よほど効果がありんす」  怒りのせいでぱんぱんに膨《ふく》らんだあとなので、いつも以上に尻尾がふわふわしていた。  笑ったら今度こそ間違《まちが》いなく喉笛《のどぶえ》を噛《か》みちぎられそうだったので、おとなしく聞いていた。 「じゃがまあ、世の中往々にしてそんなところなんじゃろうな」  と、ホロは不意に背中を丸めてそんなことを言った。  まだ同じ話題を繰り返すのか、と思うほどロレンスも間抜けではないが、話が見えないことに関しては、相変わらず間抜けのままだった。 「……話が、見えないが」  ロレンスが聞くと、ホロはこちらを見て、自嘲《じちょう》気味に笑った。 「なに、神だなんだと崇《あが》める連中が、同じことをしておった、ということじゃ」 「え?」  間があいたのは、まったく予想もしていなかった方向への話だったから。 「昔、よくあったんじゃ。わっちゃあ別になにも気にしておらぬのに、村長連中が祭りの手順を間違えた若造《わかぞう》を、わっちに無礼を働いたと言っては殴《なぐ》ったり、の。本人なんかそっちのけで。わっちゃあそれを呆れて眺《なが》めておったんじゃが……よもやわっち自身がそんなことをしておったとはの……」  どちらも相手を大事だと思っているからこその振《ふ》る舞《ま》いだ、というのはわかる。  ただ、それでロレンスはなんと言えばいいのだろうか。  謝るのか、それとも、礼を言うのか。  どちらにせよ、間抜《まぬ》けだ。  ロレンスが黙《だま》っていると、ホロは乾《かわ》いた笑い声を上げて、立ち上がった。 「ま、それを相手のことを慮《おもんぱか》って善意でやっているうちはまだましじゃな。本人が、そんなことはしなくてもよい、といえばすむわけじゃから」  そう言う顔は、意地悪そうな笑顔《えがお》であり、ロレンスを責《せ》めるようでもあり。  ホロに間抜けな役回りをさせてしまった代償《だいしょう》としては、そんな笑顔を向けられることくらい、安いものだろう。 「問題は」  そして、ホロは粗皮《あらかわ》の向こうを顎《あご》でしゃくってこう言った。 「それを物言わぬ死人でやった場合じゃな」  死者の冒涜《ぼうとく》が許せないのは、しいたげられる無辜《むこ》の民《たみ》の話を聞いた時に義憤《ぎふん》に駆《か》られることと似ているのかもしれない。  ホロは狼《オオカミ》の骨を追いかけている時に言った。  いくら自分たちが強くとも、死んでまで相手に噛《か》みつくことはできない。  しかも、修道女カテリーナは、生きているうちに魔女《まじょ》と呼ばれることを甘んじて受け入れたらしいのだ。  それはカテリーナが常軌《じょうき》を逸《いっ》していたからなのだろうか。  ロレンスは違《ちが》うと思うし、ホロもそう思っているはずだ。  心|優《やさ》しかったのだろうと思う。  甘んじて、受け入れたのだ。 「じゃからな、あの小娘《こむすめ》の言いなりになる理由がわっちにもありんす、というわけじゃ」  村人たちにその存在を忘れられ、死人と同じ物言えぬ存在となったホロは、結局パスロエの村での不名誉《ふめいよ》を挽回《ばんかい》することはできなかった。  後ろ足で砂をかけ、逃《に》げ出すように飛び出してきた。  カテリーナには、まだその汚名《おめい》をそそぐ機会がある。  ただ、そこまで考えて、ロレンスは一つの論理の円環《えんかん》に気がついた。  ホロを見ると、賢狼《けんろう》はとっくのとうに気がついていたらしい。 「ま、死者を相手にああだこうだ言っておるうちは、わっちも村の連中も同じこと。干《ひ》からびておるあれも、本当のところは呼び名などどうでもいいと思っておるかもしれんしの。じゃから、わっちが手を貸そうと思ったのは、誰《だれ》かがこの小屋を綺麗《きれい》にしておるのと似たようなものじゃろう」 「だが、生きていく者たちには、必要なことだろうさ」  そもそも、生きている相手だってその本心を直接|覗《のぞ》き見ることはできないし、本当に相手のためだけにしてやれることなんて、絶対にない。  突《つ》き詰《つ》めればそれは必ず自分のため、という結論に落ち着くことになる。  ならば、あとは心|穏《おだ》やかに暮らしていくための程度の問題となる。 「生きていくうえで常にまっすぐ進むのは、確かに難しいかもしれぬからな。村人やら領主やらにも同情はしんす。それに」  と、ホロは言って尻尾《しっぽ》をローブの下にしまい、フードを被《かぶ》って耳を隠《かく》す。 「惚《ほ》れた相手のために一途《いちず》に進む小娘《こむすめ》を、ぬしも応援《おうえん》したくなるじゃろう?」  その言葉こそ意地悪な笑《え》みつきだったが、概《おおむ》ね間違《まちが》いではない。  それに、死者を手厚く葬《ほうむ》るのが自分の死後もそうしてもらいたいと望むことの表れであるとするのなら、フランに協力することは笑ってしまうような動機に支えられている。  囲炉裏《いろり》の火を挟《はさ》んで、ホロとロレンスは笑い合う。  囲炉裏に火をくべすぎたと言ったら、ホロは大笑いしてくれたかもしれなかった。  昼すぎになって、フランとコルが帰ってきた。  食事のために戻《もど》ってきたのかと思ったが、そうではなかったらしい。  フランは小屋に入ってくるや、ロレンスに詰め寄ってこう言った。 「村に行って地図を描《か》いてもらってきてくれませんか」 「……地図を?」 「はい」  この寒さの中、額に汗《あせ》が浮いているのがわかるのだから、どれほど慌《あわ》てているかが察せられる。コルに至っては、小屋に戻ってくるや物も言わず腰《こし》を下ろし、皮袋《かわぶくろ》から水をごくごくと飲んでいた。  ホロが腕白《わんぱく》な子供の世話をするように雪を払《はら》っても、礼を言う余裕《よゆう》すらないらしい。  こんな二人の様子を見て思い浮かぶことは、それほど多くない。 「天使の伝説の手がかりが?」  ロレンスは、尋《たず》ねた瞬間《しゅんかん》に驚《おどろ》いてしまっていた。  しかし、それはコルの世話をしていたホロも同じだっただろうと思う。  なにせ、フランはその言葉を聞くや、本当に嬉《うれ》しそうに笑ったのだ。  我慢《がまん》できないといった感じで、見栄《みえ》もなにもなく、「はい」と笑っていた。  頑固《がんこ》で偏屈《へんくつ》な銀細工師。不穏《ふおん》な噂《うわさ》の絶えない銀細工師。それが、一皮|剥《む》けばこんな無邪気《むじゃき》な笑みを見せるのだから、きっとこちらのほうこそ真実の姿なのだろう。  女の一人旅、しかもその腕《うで》が大金を生むような銀細工師ともなれば、気苦労は多いはず。エーブのような商人ですら、女であることを隠すために顔に頭巾《ずきん》を巻いて商《あきな》いを行っていた。フランが身を守ろうとするには、気難しく偏屈《へんくつ》だという鎧《よろい》を着るほかなかったのだろう。  コルが一息ついたようなので、ホロが水の入った皮袋《かわぶくろ》をフランのほうに持っていく。  つい先日までなら想像もできなかったが、フランは笑顔《えがお》で礼を言い、ホロもまた微笑《ほほえ》んでいた。  フランは水を飲み、深呼吸をしてからもう一度飲む。  夢中で駆《か》けていたのだろう。  天使の伝説を追いかけて。 「地図というのは、どういうものを?」  ロレンスが言葉を向けると、ようやく人心地《ひとごこち》ついたらしいフランは、「え」とちょっと驚《おどろ》いた。  それからきょとんとした様子でロレンスを見て、ようやく気がついたらしい。  こういう地図を描《か》いてもらってきてくれ、と言ったつもりになっていたのだろう。 「すみません。地図は……湖から流れ出る川を記したものを」 「川を?」  聞き返したのは、突飛《とっぴ》な地図だと思ったからだ。 「はい。湖の周りを歩き回って、思ったのです。雪が降り急激に寒くなれば、細々と流れ出る川は全《すべ》てが凍《こお》りつきます。そうなれば、流れ込む水は行き場を失います。そちらにある滝《たき》もあの程度の水量なのですから、大雪に寒さが重なれば容易に凍りつき、流れが止まるはずです。それで、なにかの拍子《ひょうし》に、いえ、どんな堤防《ていばう》も決壊《けっかい》しないことはあり得ません。ですから、大小を問わず湖から流れ出る川全ての描かれた地図を」  寡黙《かもく》にして、発言には二歩先三歩先まで考えている雰囲気《ふんいき》のあったフランが、勢い込んで喋《しゃべ》っている。顔つきこそ真剣《しんけん》だが、気がはやっているのは取り留めのない言葉の内容や、身振《みぶ》り手振りまでまじっていることからよくわかる。  ロレンスは、「なるほど」と言って、いったんフランの言葉を区切った。 「氷と雪で溜《た》まりに溜まった水が、ある量を境に一気にあふれ出す。その様が、すなわち」 「天使の羽に見えるのではないかと思います」  フランは言って、じっとロレンスのことを見る。  確信を抱《いだ》いているのに、あまりにも嬉《うれ》しすぎて信じられないような、そんな目だった。  それに、フランの語った様子をちょっと想像してみればいい。  氷と雪でせき止められ、あふれんばかりになった湖の綺麗《きれい》な水が、月明かりに照らされたある夜についに決壊してあふれ出す。美しい光景だろう、と思うし、その勢いはまさしく天使が天界に飛び立つに相応《ふさわ》しいものなのではないだろうか、とも思う。  たとえ種が割れていても、それでもなお、奇跡《きせき》と呼べるような光景だろうと想像できる。  ロレンスは、いつもならばこんな無責任なことは言わないんだが、と自分に言い訳をしてから、フランに向けてこう言った。 「おそらくそれが正解だと思います」  フランの顔が、泣き笑いのような形になる。 「見られるといいですね」  どんな人であっても、目的にひたむきに向かう者たちには共通するものがあるらしい。  それが、この笑顔《えがお》。  ロレンスはそんなことを思う。 「はい」  フランは短くはっきりと、返事をしたのだった。  フランとコルは再び湖畔《こはん》へと向かっていった。地図が来るまでのわずかな時間も惜《お》しいといった感じだった。  コルもフランの熱気に当てられたのか、これまで見せたこともないような真剣《しんけん》な面持《おもも》ちでフランのあとに荷物を背負ってついていく。  二人の背中を見送って、ホロがちょっと寂《さび》しげに笑っていたくらいだ。  可愛《かわい》い弟を取られたような気になっているのかもしれない。 「さて、俺たちも行くか」  ロレンスは言って、馬の鐙《あぶみ》に足をかける。  フランとコルの二人をずっと眺《なが》めていたホロは、その言葉でようやく駆《か》け寄ってきて、ロレンスの腕《うで》に掴《つか》まった。  ホロと息を合わせて、その体を馬の背に持ち上げる。  ロレンスもすぐにその前に乗り、手綱《たづな》を握《にぎ》って馬を歩かせた。 「子供みたいだったな」  フランの様子を思い出して笑ってしまう。  ケルーベに戻《もど》ってユーグにこの話をしても、きっと信じてはもらえないだろう。 「嬉《うれ》しいことの前ですまし顔でいるのが大人じゃ、と思っておるうちはまだまだ子供でありんす」  ホロがロレンスの腰《こし》に両腕を回し、背中に頬《ほお》をつけたまま喋《しゃべ》るせいで、顎《あご》と耳の動きがさわさわと背中をくすぐってくる。  前に乗せればよかったかなと思いつつ、ロレンスは答える。 「確かに、歳《とし》を取ると子供に戻るというしな」 「んむ。じゃからいかにわっちが歳を重ねておるかということじゃな」  そんな軽口を自分で言うのだからいい気なものだ。  ロレンスが笑うと、ホロもくつくつと笑ってくる。  しかし、その笑いの波が去った頃《ころ》、ホロはぽつりと言った。 「本当に大事なことなんじゃろうな」  囲炉裏《いろり》の側《そば》で、照れ隠《かく》しのように知人と呼んだ相手のことを話すフラン。  その相手と共にここに来なかったのには、きっと理由があるはずだ。  もちろん、相手がどこかの町の職人で、その町から動けないから、ということもあるかもしれない。  それでも、こんなご時世で想像できるのは、暗い理由ばかりだった。  口ぶりでは共に旅をしている期間があったようにも聞こえたから、途中《とちゅう》で別れることになったのだろう。  その理由は怪我《けが》か、病か、さもなくば。  ホロはロレンスの背中に当てていた頬《ほお》を入れ替《か》える。  背後にいる自分のことを忘れるなよ、と言いたげだった。 「それに、あんな笑顔《えがお》を見せられてはの、さぞ分厚い仮面を被《かぶ》ってきた旅路じゃろうとわかりんす。連れてきたのがわっちらでなかったらどうするつもりだったのかや。あのたわけは」  ホロの言葉にロレンスは軽くため息をつく。 「そうだな」  という返事は、そんなため息に乗せてのもの。 「まっすぐに、ひたすらに天使の伝説を追いかけて、その覚悟《かくご》の前に怯《ひる》んだ相手が尻《しり》をまくって逃《に》げ出して、一人残された挙句《あげく》……。なんていう話も十分あり得ただろうな」  危険を恐《おそ》れていては手に入らない。  しかし、危険を冒《おか》し続けていればいつかはひどい目に遭《あ》うのだ。  それならば、自分たちが幸運の使者として振《ふ》る舞《ま》えるのなら、振る舞いきるのも悪くはない。  ホロがこう言うのも、十分に笑って理解できた。 「ま、ヨイツの賢狼《けんろう》ホロを使い走りにするくらいじゃ。そんな度胸のある者は、運すらも呼び寄せるじゃろうよ」  確かにそのとおりだ。  しかし、とロレンスは思う。  そんなホロと共に旅をしている自分は、どんな幸運を引き寄せただろうかと。  そう思っていると、背中に頬をくっつけていたホロには全《すべ》てお見通しだったらしい。  不気味に喉《のど》だけで笑っている。  ロレンスが抵抗《ていこう》できない背中|側《がわ》に乗ったのは、ホロの戦略だったのかもしれない。 「俺はお前のような素晴《すば》らしい相手と旅をすることができる幸運に恵《めぐ》まれた。これでいいか?」  ホロは声を上げて笑い、「で、それを誰《だれ》に感謝するんじゃ?」とのたまった。  ここまで付き合ったのなら、最後まで付き合うべきだ。  ロレンスは手綱《たづな》を握《にぎ》りながら、言った。 「ヨイツの賢狼《けんろう》ホロ」 「んむ。ま、せいぜい感謝することじゃな」  尻尾《しっぽ》がぱさぱさと音を立てている。  金儲《かねもう》けで温まるのは懐《ふところ》だが、背中が温まることはついぞなかった。  たまにはこんなこともいいかもしれない。  ロレンスは静かに、背中にホロの温かさを感じながら、馬を駆《か》ったのだった。  村にたどり着くと、変わらずの日常があった。  農作業に出る者がいて、家畜《かちく》を連れる者がいて、服を繕《つくろ》っている者や、補修のためだろう鍋《なべ》を打っている者もいる。  ホロが少し懐《なつ》かしそうに目を細めているのもわかる。  どこに行っても見ることができて、この先もずっと見られるだろうというような風景だ。 「話を聞くだけでは無節操さに腹が立つがの、これを守ろうと思う気持ちもわかりんす」  ぽつりと言った言葉は意味深だ。 「ああ。それに、フランさんの言葉を信じるなら、村人の中にも修道女カテリーナを魔女《まじょ》と呼びたくなかった人たちがいるらしいんだ。小屋が綺麗《きれい》に保たれているのも、罪|滅《ほろ》ぼしのつもりなんだろうさ」  まっすぐに生きるのはことほどさように難しい、というわけだ。  ホロが黙《だま》ってしまったのは、誰《だれ》が悪いわけでもないが、納得《なっとく》したくないからだろう。 「まあ、俺たちの働きいかんで、魔女になった修道女はまた元の敬虔《けいけん》な修道女に戻《もど》るかもしれないんだ。それでフランさんが天使の伝説探しに専念できて、北の地の地図を描《か》いてもらえれば万々歳。そうだろ?」  相変わらず領主はうまく立ち回るために、村人たちはあの森に立ち入らない理由とするために、あの物言わぬ修道女を利用し続けることだろう。  ホロは不服そうだが、怒《おこ》ったところでどうしようもない。  賢《かしこ》い狼《オオカミ》のホロは、結局怒り損だとでも言わんばかりに、膨《ふく》らました頬《ほお》から空気を抜《ぬ》いた。 「というわけで、まずは地図だ。ヴィノさんが見つかればいいんだが」  農作業をしている者たちは、あちらの畑にぽつん、こちらの畑にぽつん、といて、誰が誰だかわからない。ひとまず村の中に行ってみるか、と歩いていく。  昨日の今日だからか、家の中で働く者たちは軽く視線を向けてくるだけで大した興味も持たず仕事に戻っている。ミュラーやヴィノから説明があったのだろう。  そのまま歩をヴィノの家のほうに向けようとしていたら、途中《とちゅう》通りがかった広場で当のヴィノが他《ほか》の男たちと共に弓矢を作っていた。  各々《おのおの》手に白い鏃《やじり》を持っていて、時折石で磨《みが》いたり削《けず》ったりしている。  昨日仕留めたという鹿《シカ》の骨かもしれない。 「ヴィノさん」  ロレンスが声をかけると、顔を上げたヴィノはすぐに気がついて笑顔《えがお》になる。  軽く手を振《ふ》って、作りかけの弓矢を置いて立ち上がると、こちらに駆《か》け寄ってきた。 「やあ、どうしたい。無事だったようだな」 「おかげさまで。弓矢ですか?」  ロレンスが尋《たず》ねると、ヴィノは振り向いてから、うなずいた。 「ああ。春になると獣《けもの》も人も動き出すからな。矢を担《かつ》いであっちこっちの領主や町なんかに売りに行くのさ。それで?」  町で作られる鏃は鉄製のものが多い。強力な代わりに高価だが、職人が組合を作って生産を管理しているせいで、町と敵対していたり付き合いがない者たちの急ぎの需要《じゅよう》に応《こた》えられなかったりする。  そんな隙間《すきま》を埋《う》めるのが、冬にやることの少なくなった村人たちの手仕事だ。  骨の鏃でも毒を塗《ぬ》ったりすれば十分効果が出て、愛用する者も多いと聞く。 「ええ、ちょっとお願いしたいことが」 「ほう。なんだろう」 「実は、地図を描《か》いていただきたくて」  ロレンスの言葉に、ヴィノは首をかしげかける。 「あ、ああ、地図、な。すまんね、そんなもの滅多《めった》に使わんからな。しかし、どこのだい?」 「湖の近辺のものが欲しいのですが。それも、湖から流れ出る川を大小|漏《も》らさず記したものが」  ヴィノは言葉の意味を理解するのに時間がかかっているかのように、しばしそのまま沈黙《ちんもく》していた。  ようやく口を開いた時には、辺りをはばかるような声だった。 「水車でも造るつもりかい?」  そんな言い方で冗談《じょうだん》めかして誤魔化《ごまか》せている、と思うのだから素朴《そぼく》な村人だ。  ロレンスは、気負うことなく、「水車など必要ありませんよ」と答えておいた。 「どうやら、天使の伝説の秘密が湖の水の流れに隠《かく》されているようなんです。ご案内さしあげている修道女のフラン様が、どうしても必要とされていまして」  そんな説明も胡散臭《うさんくさ》そうに聞いていたが、やがて一人|納得《なっとく》するようにうなずいた。 「まあ、そうか……そういうことなら、いいよ。村としてあんたがたには協力しろってことになってるし。俺は、仕事を休めるし」  町の商店ならいざ知らず、村では多くの仕事が共同作業だ。  誰《だれ》がどれだけやったかではなく、全《すべ》ての仕事が終わるか終わらないか。  それを息苦しいと感じて町に飛び出す者もいれば、仲間がいて気楽だし楽しいと感じる者まで様々だ。  同じことでも見方が違《ちが》えば印象はまったく変わる。  ロレンスは、是非《ぜひ》お願いします、と答えていた。 「じゃあ、ミュラーさんのところに行くか。紙やらインクやらはあそこにしかないからね」 「お願いします」  ヴィノはうなずいて、仲間に一声かけると歩き出す。  行商で訪《おとず》れるたびによく見る光景で、時折仲間に入りたい、と思うこともあった。  今はあまりそうは思わないのは、側《そば》に仲間がいるからだろう。  ホロも同じことを思ったのか、目が合って、ヴィノの後ろで互《たが》いに忍《しの》び笑いを見せ合っていた。 「お、ミュラーさん」  と、ヴィノが声を上げたのは、ちょうど家から出てくるミュラーを認めてだった。  脇《わき》には干した大きな皮を何枚か挟《はさ》んでいて、手には立派なナイフを握《にぎ》っている。  これから裂《さ》いて靴《くつ》かなにか作るのかもしれない。  大きな体と手をしていながら、意外に器用に作りそうな感じがした。 「どうした。旅人さんも」 「ちょうどよかった。紙とインクを借りたくてね」 「紙とインク?」  怪訝《けげん》そうな顔なのは、村では滅多《めった》に使われないものだろうし、なにより貴重品だからだろう。 「地図を欲しいんだとさ。湖の周辺の」 「地図を?」  ミュラーはヴィノとロレンスの顔を見比べて、しばしなにかを考えているふうだった。  そして、おもむろに「わかった」と言うと、皮とナイフをヴィノに押しつけて、「俺が描《か》こう」と言い出した。  ホロがうつむいたのは、笑《え》みをフードの下に隠《かく》すためだろう。  ミュラーの言葉を聞いた途端《とたん》、ヴィノが玩具《おもちゃ》を取り上げられた子供みたいな顔をしたのだ。 「お前は昨日|鹿《シカ》の解体をしないで肉にありついただろう?」  ちょっと意地悪な兄貴分のような笑顔と共に、ミュラーはそう言った。  正論なので、ヴィノは悲しげにうなだれるほかない。 「とっとと行った行った。ラナンとスークとシレットの分だ。大きさはヤナに聞け」 「わかりましたよ!」  ヴィノは不貞腐《ふてくさ》れるように言うが、その背中に向けたミュラーの顔は楽しそうな笑顔。  いい村だ、とロレンスも思う。  魔女《まじょ》の噂《うわさ》がまとわりつくには、もったいない明るさだ。 「中で描《か》こう。湖の地図だって?」 「正確には、湖から流れ出る大小の川を含《ふく》めた周辺の地図を」  家に入ると狩《か》りのための道具や、革《かわ》製品を作るためのナイフや留め金、立てかけられた作業台などであふれていて、その隙間《すきま》を縫《ぬ》うようにして囲炉裏《いろり》や藁《わら》のベッドといった生活用品が置かれている。その様は町の工房《こうぼう》とも商会とも違《ちが》う、一種独特の雰囲気《ふんいき》を持っている。  村の全《すべ》てを監督《かんとく》するに相応《ふさわ》しい、雑多で力強い家だった。 「ほう。これはまた、妙《みょう》な地図をご所望《しょもう》だな」  さすがにヴィノとは違《ちが》う。  だが、ヴィノとは違うのは、その頭の回転の速さについてもそうだった。 「水車を作るためのような地図だな、とヴィノに言われなかったか」 「言われましたね」  ロレンスが白状すると、ミュラーは歯を剥《む》いて笑ってうなずいた。 「馬鹿《ばか》な奴《やつ》だ。あんたが手回しの石臼《いしうす》に気がついたと、昨晩真っ青な顔になって報告しに来やがった。もしもあんたらが水車建設のために来たのなら、そんなことわざわざ言うかと殴《なぐ》っておいたんだがね」  領主と一緒《いっしよ》になり、時勢をうまく利用して村の安泰《あんたい》のために活動してきた男に相応しかった。  ミュラーは作業台を出すと棚《たな》から古びた紙の束を引っ張り出してきた。 「さて、このくらいの紙でいいかな」  ミュラーが取り出したのは、町の中でならいくらの価値もなさそうな、古びて変色し、隅《すみ》がぼろぼろになった顔より少し大きいくらいの紙だ。 「お礼はこちらで」  ロレンスが塩を出すと、ミュラーは満足げにうなずいて、「さて」とひびの入ったインク壺《つぼ》と羽根がぼろぼろになった羽根ペンを手に取った。 「さして時間はかからんと思うが、まあ、その辺に適当に座っててくれ」  ロレンスはうなずき、長持《ながもち》に腰掛《こしか》ける。  ホロはといえば、家の外から藁|屑《くず》をついばみながら中に入ってきた鶏《ニワトリ》をつま先でからかっていた。 「天使の伝説についての話は進んでいるのかい」  不意に聞いてきたのは、ミュラーのほう。視線は紙の上に向けられ、手は軽快に線を描いているが、意識は完全にロレンスに向けられている。  ちょっとした世間話、というわけではなさそうだ。 「なにか掴《つか》まれたようですよ。この地図を描いてもらってこい、とすごい剣幕《けんまく》で」  ミュラーは地図を描《か》きながら、「そうか」と短くうなずいた。動物相手ならばいくらでも持久戦に耐《た》えられるのだろうが、人相手ではそうもいかなかったらしい。  大して間をあけず、こう言った。 「魔女《まじょ》はいたか?」  それが、最大の関心事。村を守る立場にある者にとって、水車という形を持つ物よりも、形を持たない風評のほうが気になるのだろう。水車建設はいざとなれば自分たちの体を木に縛《しば》りつけてでも抗議《こうぎ》ができる。  しかし、魔女がいるといった風評を覆《くつがえ》すのは、とても難しい。  手が止まり、視線こそ紙に向けられているが、子供だってその目が紙を見ていないことはわかる。ロレンスは鶏《ニワトリ》と五分の喧嘩《けんか》をしているようなホロを見て、それから、笑って言った。 「いいえ」  しゅ、という線を描く音。 「そうか」  ミュラーは言って、その後の寡黙《かもく》な作業ぶりは、なるほど狩人《かりうど》に相応《ふさわ》しいものだった。 「季節が変われば地図は多少変わる」  そんな言葉が向けられたのは、いつの間にか心でも通じ合ったのか、ホロの足元に鶏がうずくまっているのに気がついてからだった。 「この季節のものがいただければ大丈夫《だいじょうぶ》だ、ということです」 「そうか。じゃあ、概《おおむ》ねこんなところだろう」  ミュラーが言いながら体を起こすと、一心不乱に地図を描いていたことを示すように、ばき、ばき、と関節が大きな音を立てていく。最後に大きく伸《の》びをした時には、ホロの足元で満足げに目を閉じていた鶏が目を覚ましたほど。  ホロは楽しげにそんな音に耳を澄《す》ましていた。 「インクが乾《かわ》いたら、持って行けばいい。この時間なら、夕暮れまでに間に合うだろう」 「ありがとうございました」 「なに、ヴィノが昨日も同じことを言っていたに違《ちが》いない」  仕事を休みたがるような性格には見えないが、笑っておくのが礼儀《れいぎ》というものだろう。  ミュラーは塩の袋《ふくろ》を手に取って、「感謝するよ」と言っている。  貨幣《かへい》収入に乏《とぼ》しい村では、生活|必需《ひつじゅ》品を揃《そろ》えるのは一苦労なのだろう。 「さて、それではヴィノの様子でも見てくることにするよ。ああ見えてあいつは不器用だからな。革《かわ》を駄目《だめ》にしていたら鹿《シカ》の腱《けん》で尻《しり》をひっぱたいてやらないとならない」  丸っきり職人の親方の台詞《せりふ》だが、ロレンスは笑ってしまう。ホロも戸口のところに腰掛《こしか》けて、村の様子を眺《なが》めながら楽しげにそんな会話を聞いていた。ずっと続けばいい日常があるとしたら、こんなものだろう。  それが、「むう?」という声を上げたのは、ミュラーが家の軒先《のきさき》に立った頃《ころ》だった。 「なんだ?」  ミュラーも立ち止まって、遠くを見つめている。  視線は村の外れの、昨日村長が座り込んでいた辺りで、外から村に入ってくるには必ず通る道に向けられている。ロレンスの耳にも鼠《ネズミ》の足音のようなものが聞こえてきて、馬蹄《ばてい》の音だとすぐに直感する。目を凝《こ》らすと、先頭に馬にまたがった老齢《ろうれい》の男が見え、その後ろには高々と槍《やり》を掲《かか》げた複数の兵士たち。  すぐ家の陰《かげ》に入ってしまった彼らを見て、ミュラーは瞬時《しゅんじ》に顔色を変えていた。 「っ!」  作業道具らしいものを入れた袋《ふくろ》を取り落とし、走り出すとすぐ目の前の家の裏庭から中に飛び込んだ。鶏が驚いて逃げ出し、ホロも腰を上げる。 「どうしたのかや」 「わからない。連中、槍を掲げていたよな」 「んむ」  ロレンスの目が正しければ、槍には旗がぶら下がっていた。  傭兵《ようへい》ならば、槍ではなく、長い柄《え》の先には斧《おの》をつけていることが多い。  とすれば、残る可能性は多くない。  遠くで叫《さけ》んでいる声が聞こえてきた。 「村長とミュラーを出頭させよ!」  ホロがこちらを振《ふ》り向いてくる。  ロレンスが言葉を返さなかったのは、当のミュラーが向かいの家から飛び出してきたからだ。 「領主の代官だ。ついに来やがった」  額には脂汗《あぶらあせ》が浮いていて、顔色は青ざめている。  部屋の奥に駆《か》けていって、戸棚《とだな》を開くと甕《かめ》の中から羊皮紙の束を引っ張り出す。  どこの村にもあるはずの、諸々《もろもろ》の特許状。  村の存亡《そんぼう》に関《かか》わるなにかが、起きたのだ。 「あんたたち」  と、ミュラーが顔を上げ、言った。 「村の裏手から、湖のほうに出る近道がある。道はきちんと手入れされているから問題ない。代官もあんたらのことには気がついていないはずだ。走ってすぐに戻《もど》って、あの修道女様に言ってくれないか」  言いながら、作業台の上の地図を丸め、ロレンスに押しつけるや、体ごと押して家の裏手へと追いやっていく。有無《うむ》を言わせぬのは、力よりも、その雰囲気《ふんいき》だ。  家の裏口まで連れていかれ、ロレンスはミュラーに顔を覗《のぞ》き込まれていた。 「領主が天使の伝説の残る土地を荒《あ》らしに来た、と。そして、そのことを教会に伝えてくれ」 「それは——」 「頼《たの》む! 早くしないと手遅《ておく》れになる!」  ロレンスが咄嵯《とっさ》にホロを見ると、ホロもうなずいた。  ただ、その顔が若干《じゃっかん》戸惑《とまど》い気味だったのは、逃《に》げる必要があるならば、という言葉が頭につくからかもしれない。  なにせ、ロレンスたちはカテリーナを魔女《まじょ》と言いに来たわけではないし、彼女を修道女だと主張してくれる教会の人間の存在は領主も望んでいたはずなのだ。  しかし、ミュラーは妙《みょう》なことを言った。 「礼はする。それに、修道女様のためでもある」  ミュラーは家の表口を見、もう一度こちらを見て、言った。 「森と湖が、変わり果てる」  ロレンスはその言葉の勢いに押し出されるようにして、裏口から外に出た。  直後、代官の兵たちがミュラーの家の入り口にたどり着いたようで、大声で名を呼んでいた。  ロレンスは迷いつつも、結局ホロの手を取って走った。  森と湖が変わり果てる?  そんな疑問を、胸に抱《いだ》きながら、走ったのだった。 [#改ページ] [#改ページ]  村の裏手から森に続く道はすぐにわかった。  細い道で、せいぜい狩人《かりうど》たちが仕留めた鹿《シカ》を担《かつ》いで運べる程度の広さだった。  代わりに、普段《ふだん》から使っていることを示すように、雪は踏《ふ》み固められ、木の枝は払《はら》われ、走りやすくなっている。  ロレンスとホロは、木々の間をひたすらに走ることになった。 「なんじゃ、あれは」 「わからん。代官と言ってたからな。村を挙げての面倒《めんどう》なことに……なったんだろう」  言葉が途切《とぎ》れたのは、木の根っこを飛び越《こ》えたから。  ホロもローブの裾《すそ》をたくし上げながら、それなりに軽快に飛び越える。 「森と湖が変わり果てる、と言っておったな」 「ああ」  ロレンスは返事をして、同時に頭には一つの考えがあった。  代官たちが村を急襲《きゅうしゅう》し、村の代表者たるミュラーがあんなに慌《あわ》てるとなる。  そして、森と湖が変わり果てるとなれば、導かれることは一つしかない。  しかし、ホロに黙《だま》っていたのは別になにか思うところがあったのではなく、息が上がってきてそれどころではなくなったからだ。  遅《おく》れ始めたホロの手を引き、ロレンスたちは緩《ゆる》やかな上り坂を上っていく。 「元の姿に……戻《もど》ればよかったんじゃ」  と、ホロが冗談《じょうだん》なのか本気なのかわからないことを言った直後、急に道の左手が明るくなった。視線を向ければ、木々の向こうに真っ白い湖畔《こはん》が見えた。それからしばらく行くと、湖のほうに下りる脇道《わきみち》があり、坂になっていたそこを滑《すべ》るように駆《か》け下りた。  湖畔にはコルとフランのものだろう足跡《あしあと》があったが、行きと帰りの両方が残っている。  そう思って視線《しせん》を巡《めぐ》らせれば、小屋の側《そば》の滝《たき》に続く入り口に、二つの人影《ひとかげ》があった。  なにかを見ているのか、じっとしている二人に向かい、ロレンスは手を振《ふ》って声をかけようとした。  それを制したのは、他《ほか》ならぬホロだった。 「ぐ、む……な、なにを?」 「大声を出すでない」  ホロは声を潜《ひそ》め、一瞬《いっしゅん》なにかの冗談《じょうだん》かとも思ったが、その顔は笑っていない。  ロレンスがもう一度フランたちに視線を向ければ、それは二人でなにかを見ているのでも、ましてや仲|睦《むつ》まじくしているふうでもなかった。  じっとしている。  まるで、息を潜めているように。 「坂の下に誰《だれ》かおるんじゃろう」 「……それなら、隠《かく》れたほうがいいんじゃないのか」 「たわけ。たとえ相手から丸見えでもの、こういう場所では動かなければそうそう見つからぬ。木々の向こうにおっても、動いてしまうと相手の目に留まりやすい」  森の狩人《かりうど》たる狼《オオカミ》のホロが言うのだから、そうなのだろう。  確かに、そう言われて目を凝《こ》らせば、フランはコルを手で制したままの姿勢で固まっているように見えたし、コルはコルで慌《あわ》てて隠れようとしたところを止められたように不自然な姿勢だった。  フランの対応は完璧《かんぺき》だったのだろう。  ただ、気になるのは、ロレンスも知らないようなそんな荒事《あらごと》に関することを、なぜフランが知っているのか、ということだ。 「ふん」  ホロが鼻を鳴らしたのも、似たようなことを思ったからかもしれない。  しばらくすると、ふと身を潜めていたロレンスたちに向かってフランが手招きした。  結構な距離《きょり》があるのに、気づかれていたらしい。  不機嫌《ふきげん》そうなホロの背中を押して、ロレンスたちはそちらのほうへ走っていった。 「どうしました?」  その台詞《せりふ》は、ロレンスからフランに向けて。  コルはロレンスたちの姿を見た途端《とたん》緊張《きんちょう》が解けたのか、腰《こし》が抜《ぬ》けたようにその場にへたり込んでいる。 「兵が小屋に。そちらは?」 「同じですよ。兵が村に。領主が兵を連れてやってくるそうです。森と湖が変わり果てる、と」  ロレンスとしては領主がなにをしようとしているのか理解に苦しんでしまう。  しかし、事前にこの地の状況《じょうきょう》を把握《はあく》していたフランのこと。それだけ揃《そろ》えば、事態がどういう方向に動いたのか、すぐにわかったらしい。川を見つめていた動揺《どうよう》の浮かぶ横顔が、絵の具で描《か》き換えていくように、怒《いか》りの色に染まっていく。 「彼らの節操のなさには頭が下がります」 「それは」  ロレンスが聞き返す間もなく、フランは言った。 「カテリーナを亡《な》き者にするつもりでしようね」  その瞬間《しゅんかん》、ロレンスにも彼らの目的が理解できた。  カテリーナはすでに死んでいる。  ならば、それは文字どおりの意味を成す。 「さしずめ、これからは異教も正教も関係のない金の時代、とでも言うのでしょう」  酒落《しゃれ》が利《き》いている。  フランは黒い冗談《じょうだん》に怒りの表情のまま笑い、ため息をついた。 「ここまで来て……領主が決断するなんて……あと少し、あと少しだったのに……」  フランは悔《くや》しげに言って、ローブをぎゅっと音がするほどに握《にぎ》り締《し》める。  これまで正教と異教の間をコウモリのように飛び回っていた領主が決断したのは、第三の選択《せんたく》だった。  時代の趨勢《すうせい》によって絶対に見えた教会の力も弱まることを知り、もう、それらを利用することに辟易《へきえき》したのだろう。  だとすれば、カテリーナを魔女《まじょ》と呼ばせたままその痕跡《こんせき》の一切《いっさい》を消し去ることで、信仰《しんこう》に関《かか》わる問題を文字どおり一掃《いっそう》したいと願ったのだろう。  そのうえで水車を作り、デバウ商会が扇動《せんどう》する新たなる北の大|遠征《えんせい》に合わせて、水車の動力を使って仕事や職人たちを呼び込むつもりなのかもしれない。  金ならば、正教も異教も問うことはない、とばかりに。 「地図は?」  フランは顔を上げ、睨《にら》むようにロレンスを見る。 「貰《もら》えましたが……待ってください」  前に出ようとしたフランの足をロレンスは止め、フランに負けないほど、その目を見つめ返す。 「落ち潜いてください。領主がカテリーナの痕跡《こんせき》を消し去ると覚悟《かくご》したのなら、私たちの存在はどう考えても邪魔《じゃま》でしょう。まず説得は無理でしょうし、天使の伝説を探すなんてことも、領主が許すとは思えません」  ロレンスの言葉にフランの顔が歪《ゆが》んでいく。  馬鹿《ばか》な娘《むすめ》ではない。  頭に血が上っても、きちんと頭は回っているのだ。 「天使の伝説まで目前だったのはわかります。それに、フランさんが軽い気持ちでここに来たのではないこともわかります。ですが、危険すぎます」  逃《に》げましょう。  ロレンスが言うと、フランはその言葉にじかに殴《なぐ》られたかのように、一歩、二歩、と後ろに下がった。  コルがその肩《かた》を慌《あわ》てて支えたのもわかる。  そのままだったら、その場に崩《くず》れ落ちていただろう。 「……そんな……もう少し……だったのに……」  嬉《うれ》しそうに、興奮を抑《おさ》えきれないといった様子で小屋に飛び込んできたのは、つい先刻のことだ。  期待が大きかった分、失意はあまりにも重いものだろう。  ホロも苦い顔をして、言葉を挟《はさ》めずにいる。  逃げるならば、兵がいったん引き上げた今しかない。  ロレンスは「残念ですが」と言って、フランの手を取ろうとした、その瞬間《しゅんかん》だった。 「ルド・キーマンから、あなたのことを聞きました」  言葉に詰《つ》まったのは、突然《とつぜん》のそんな言葉が理解できなかった、ということもある。  しかし、不意にキーマンの名を出され、まるで秘密を言い当てられたような気がしたからではない。ロレンスたちを相手に選んだのなら、簡単な素性《すじょう》調査はするはずだから、ケルーベですぐにキーマンにたどり着いてもおかしくはないからだ。  ロレンスが怯《ひる》んだのは、もっと現実的な、ある種の予感があったからだ。  さもなくば、ほとんど商人としての本能が、理性とは別のところで勝手に思考を組み上げていたのだろう。  その瞬間、ロレンスはフランがなにを言おうとしているのか、わかったのだ。 「神をも恐《おそ》れず、機を見て利益を得、人のつながりを巧《たく》みに操《あやつ》ると、聞きましたよ」  フランは涙《なみだ》を拭《ぬぐ》い、できもしない不敵な笑《え》みを浮かべようとした。失敗したそれが、よりいっそう顔に凄《すご》みを増している。  ロレンスは尋《たず》ねずにはいられない。  自分の考えが、間違《まちが》いであってくれと願いながら。 「私になにをしろと?」 「カテリーナ・ルッチを聖女だと言ってください」  ホロとコルが怪訝《けげん》そうな顔をしたのがわかった。  もはや信仰《しんこう》云々《うんぬん》の策は使えなくなっている。  だというのに、そんなことにまだこだわるのか。  二人はそう思ったのだろうが、ロレンスは違《ちが》う。  しかも、それはまったく違う。  敬虔《けいけん》なる修道女と聖女とでは、まったくその意味合いが異なってくる。  もちろん、その扱《あつか》い方も。  そして、その価値も。 「そんな——」 「彼女はれっきとした列聖の候補に挙がっていた聖女です。レノスでは身分を隠《かく》していましたが、援助《えんじょ》する貴族は多かつた。彼女を列聖するための教皇への陳情《ちんじょう》書は、今でも枢機卿《すうききょう》たちの机の中にあるはずです。いかがでしよう」  言い終えて口をつぐんだ姿は、まるでフランが心を閉ざしたかのように見えた。  実際に、フランが口にしたことはそれほどのものだ。  ただ前のみを見て歩く、孤高《ここう》の銀細工師フラン・ヴォネリ。  そんな評判に相応《ふさわ》しい、忌《い》まわしいほど実利的な判断だったのだから。  ロレンスは、固唾《かたず》を飲んでから、言った。 「修道女カテリーナが聖女カテリーナになれば、あの小屋に残された物は、亡骸《なきがら》も含《ふく》めて聖遺物になるでしょうからね」  聖遺物の単語に、コルが「あ」と声を上げる。  それが合図だったかのように、フランの口元が、ようやくうっすらと笑うことに成功する。 「聖遺物は途方《とほう》もない金になる、と言えば領主も水車を諦《あきら》めるでしょう。疑うならば、小屋に帰って日記をご覧《らん》になってください。各地の諸侯《しょこう》の名前と、経緯が記されています。もっとも、あの小屋が放置されているあたり、列聖の手続きは停止したままなのでしょうけどね」  実際には、噂《うわさ》にしか聞いたことのない話。  列聖され、聖人と認められればその人物に縁《えん》のある品物は、なんであろうと信じられない高値で売れる。奇跡《きせき》があると評判になれば巡礼《じゅんれい》者が押し寄せ、教会のみならずその土地周辺までもが潤《うるお》うことになる。勢い、自分たちの土地の聖職者を聖人にしようと列聖の手続きに貴族たちが群がることになるが、そのためには莫大《ばくだい》な費用がかかるという。  貴族たちからすれば、自分たちの死後の幸福と、生きている最中の利益のかかった大きな博打《ばくち》になる。  そのために破産した者たちは無数にいるといわれているが、それでも引きも切らないということは、当たりさえすれば莫大《ばくだい》な見返りが期待できるからなのだ。  カテリーナ・ルッチは、とことん、誰《だれ》かの起こす渦《うず》の中にいる運命にあった。 「私に、聖女を、売れと?」 「売買には慣れていらっしゃるかと」  ユーグ商会で、ロレンスに向かい、地図一枚を金貨五十枚だと言い放った時の顔。  今度ばかりは言いくるめられてはならない。  ロレンスは、反論した。 「無謀《むぼう》です。聖遺物に値《あたい》するような品物を私のような行商人が扱《あつか》えるわけがない。騙《だま》せたとしても一瞬《いっしゅん》です。ケルーベでのイッカクも、交渉《こうしょう》の矢面《やおもて》に立ったのはキーマンと、もう一人は元貴族の商人です。ウィンフィールでも聖遺物取引の周縁《しゅうえん》にいましたが、はっきり言って、手出しできる規模ではありませんでした」  金というものは、積み上げていくと単純に量が増えるだけではない。ある瞬間《しゅんかん》から、その質が変わる。物が買える値段から、人の心を買える値段になり、やがて人の運命をも買えるようになっていく。  聖遺物とは、そういう高みにある品物だ。  しかし、フランは決してロレンスから視線をそらさず、はっきりと、ほんの少しの淀《よど》みも見せず、最後の切り札を出すように、こう言った。 「対価に、北の地の地図をお描《か》きします。すぐにでも」  一瞬《いっしゅん》の、間。 「……え?」  馬鹿《ばか》にして、聞き返したわけではない。  単純に驚《おどろ》いて聞き返してしまったのだ。  聖女だとでっち上げ、嘘《うそ》で作り上げた聖遺物を取り扱うような危険な取引が、まるで北の地の地図一枚で釣《つ》り合うのが当然だと言わんばかりの雰囲気《ふんいき》だった。  フランはじっとこちらを見る。  ロレンスは、こう言わざるを得なかった。 「釣り合うと、お思いですか?」  その時のフランの顔は、場違《ばちが》いな表現をすれば、可愛《かわい》かった。  目を見開いてこちらを見つめ、本当に? という言葉が今にも口から出てきそうだった。  ただ、ロレンスが小屋に来た村人たちのことを伝えた時のようではなく、驚きが薄《うす》れていく代わりに、その表情に入れ替《か》わって注がれていくなにかがあった。  褐色《かっしょく》の肌《はだ》に、漆黒《しっこく》の瞳《ひとみ》。  魔術《まじゅつ》師、と呼んでも差し支えのないフランが、抑揚《よくよう》のない声で言った。 「北の地の地図のために、危険は冒《おか》せないと」  ホロを横目で見る。  ホロはじっと無表情にフランを見つめているし、コルは明確に困惑《こんわく》している。  危険だけならばまだしも冒《おか》せる。  しかし、魔女《まじょ》だのなんだのと翻弄《ほんろう》され続けてきたカテリーナを、さらに今更《いまさら》聖女だと言って、あまつさえ領主を騙《だま》して売り捌《さば》くなどということができるわけがない。  そんなことをすれば、ロレンスはどうしてホロの手を取ることができるだろうか。 「領主相手にほらを吹《ふ》き、ましてや聖女を売ることを前提にした交渉《こうしょう》など……できかねます」 「そう」  フランは言って、すっと前に進み出た。  ロレンスは動けない。それほどに淀《よど》みのない動きで、すれ違《ちが》った直後には、フランの手にロレンスが胸にしまっていた地図があった。 「どちらに」  馬鹿《ばか》げた質問だとわかっていても、聞かざるを得ない。  フランは、じっとなにかを考えるように立ち止まったあと、ゆっくりとこちらを振《ふ》り向いた。 「ユーグの口を割らせたのですから、よほどの覚悟《かくご》だと思ったのですが」  絵画を前に、フランの傍若無人《ぼうじゃくぶじん》ぶりに耐《た》えるユーグの言葉が蘇《よみがえ》る。なにをおいてでも、全《すべ》てに優先させてでも、フランに自分たちの故郷を絵にしてもらう。  そんな覚悟の彼の口を割らせたのは、確かだ。  フランは、続けて言った。 「あなたも私と同じなのだと思っていましたが、違ったようですね」 「それは」  どういう意味ですか、と聞き返す間もなかった。 「あなたは、その程度の覚悟で北の地の地図を?」 「っ」  胸を針《はり》で突《つ》かれた、と思った直後には、フランは歩き出していた。  縫《ぬ》い留められたように足は動かず、頭の中身すら動かなかった。  まるで自分たちが悪ふざけをしているところに冷水をぶっかけられたような気分だった。  はっきりと、恥《はじ》も外聞も全て取り払《はら》って、正直に言ってみればいい。  北の地の地図を探すことが、どの程度の覚悟だったのか。  それは、あまりにも矮小《わいしょう》な覚悟の下《もと》だ。  ホロと一緒《いっしょ》に旅をしていたい。  それも、なにもかもを投げ出さないことを互《たが》いに確認《かくにん》し合ったうえでの、生ぬるい約束をつけて。  狼《オオカミ》の骨を追いかけるのも、北の地の地図を追いかけようと言ったのも、理由のないことではなかった。一つずつを見れば、当然、看過できるような事柄《ことがら》ではない。  それでも、全《すべ》てに共通している土台がなんなのかは、わかりきっている。  ホロの側《そば》にいたいという、ひどく単純で、子供じみた思いだ。  そうなると、そんな土台の上に立つ楼閣《ろうかく》は、どうしたって貧弱なものになる。  わかっていたことなのに、その程度の覚悟《かくご》と言われ、ロレンスは自分のことがびどく浅ましく思えてしまう。  立ち尽《つ》くしたままでいると、そんなロレンスの手をホロがすっと握《にぎ》ってきた。 「痛いところを突《つ》かれたの」  見れば、こちらを見上げる顔はさばさばしたもので、どこかいたずらがばれた少女のようだった。 「じゃが、あの干物《ひもの》を本当に売るつもりかや?」  まさか、とロレンスは即座《そくざ》に思う。  ならば話の行く先は決まっているはず。  ホロの視線がそう言って、ロレンスを諭《さと》す。  村人たちのためならばまだしもホロは義憤《ぎふん》に駆《か》られることがある。  しかし、死後も散々村人や領主の都合のために翻弄《ほんろう》されてきたカテリーナを、さらにいいように使って自分たちの目的を遂《と》げようなどとは思っていない。  割りきれない思いは残る。  それでも、フランの案には、賛同できない。  最悪、口封《くちふう》じのために殺される可能性だってあるのだから。 「逃《に》げよう」  ロレンスが言うと、ホロはうなずく。  声を上げたのは、じっと話を聞いていた、コルだった。 「フランさんを置いていくんですか?」  ロレンスはホロと顔を見合わせる。  フランの重要性は、議論するまでもない。 「俺たちが安全な場所まで逃びたら、ホロに頼《たの》むか、さもなくばユーグさんに協力を仰《あお》いだっていい。身の安全は確保する。フランさんを必要としている人たちは多い」  みすみす死なせるようなことはしない。  しかし、コルは泣きそうな顔になって、こう言った。 「違《ちが》います。フランさんの追いかける天使の伝説も、諦《あきら》めるんですか」  正直に言えば、ロレンスはその言葉に困惑《こんわく》していた。  天使の伝説を追いかけるのはフラン自身の理由であり、ロレンスたちとは関係がない。  そう思った直後、違う、と思いなおした。  コルはフランから、その目的を聞いたのではなかろうか。  カテリーナを聖女だと言い張って領主を騙《だま》せなどという案が、即座《そくざ》に出てくるくらいの覚悟《かくご》を持つ、その理由を。  それでも、このまま危険を冒《おか》して天使の伝説を追いかけることがどれほど合理的でないか、言いかけた。  ロレンスが口をつぐんだのは、一|冊《さつ》の本。  コルが泣きそうな顔で突《つ》き出した、一冊の本だった。 「僕はロレンスさんたちの旅に無理やり同行させてもらってるだけです。お二人も大好きです。でも……でも、フランさんもまた見捨てられません」  コルは言って、ロレンスに本を押しつけると、荷物を背負って走り出した。  声をかける間もなかった。  コルは素直《すなお》で心|優《やさ》しい少年だ。フランが軽い気持ちで追いかけているのでなければ、その理由を聞けばすぐに感化されてしまうかもしれない。  そんなふうに考えてもいた。  だが、その考えは、すぐに吹《ふ》き飛ぶことになる。  コルから手|渡《わた》された一冊の本。  表紙に刻まれた題目から、それが聖典であることはすぐにわかる。  ロレンスの顔が強張《こわば》ったのは、この局面で聖典を突《つ》きつけられたことに対してではない。  その表紙に、血のこびりついた跡《あと》が大きく残っていたからだ。 「なんじゃ、それは」  ホロが言って、ロレンスは我に返る。 「聖典のようだが……」  ロレンスは、軽くめくっていく。  隅《すみ》が擦《す》り切れていたり、ところどころ血でくっついて開かなくなっていたり、焼け焦《こ》げたような跡もある。まるで戦火でもくぐり抜《ぬ》けてきたかのように、と表現したって過言ではない。  そして、ロレンスは聖典の間に、折りたたまれた紙が何枚か挟《はさ》まっているのに気がついた。  開いてみると、針のように鋭《するど》い筆致《ひっち》で、殴《なぐ》り書《が》きがなされていた。 「親愛なる……キルア……ヴァイ、エン……キルヤヴァイネン、傭兵《ようへい》団?」  血|塗《ぬ》られた聖典と、そこに挟まっている紙に刻まれた、傭兵団の文字。  ロレンスは煤《すす》を払《はら》い、目を凝《こ》らして文面を解読する。  傭兵団の名前の横には、宛名《あてな》があった。 「フラン……ヴォネリ」  コルがフランの代わりに背負っていたのだろう荷物の中にあったものなのだから、フランに宛てられたものであってもおかしくはない。ロレンスが思わずその名を呟《つぶや》いてしまったのは、その名に冠《かん》された、肩書《かたが》きを見たからだった。 「従軍司祭、フラン・ヴォネリ」  その言葉を見た瞬間《しゅんかん》、ロレンスは頭を鉄の棒で殴《なぐ》られたような衝撃《しょうげき》に襲《おそ》われた。ぬしよ、というホロの言葉も聞かず、ロレンスは手紙をめくっていく。  文字が滲《にじ》んでいたり。煤や血や泥《どろ》で汚《よご》れたりしていて文面を完全に読むことはできない。  ただ、それがキルヤヴァイネン傭兵団と呼ばれた連中の、書記の手によるものだということはわかった。それも、フランとは離《はな》れた場所にいたらしい。二枚目の紙の先頭に、『貴女《あなた》様の祈《いの》りを胸に、遠方の地より』と書かれていた。書記らしい彼はそのあとに、癖《くせ》のある字で簡潔に事実を記している。 『リディオンの戦役《せんえき》、十人隊長マルティン・グルカス戦死』 『ラヴァン平原で裏切り。リッツォ侯爵《こうしゃく》の兵に追われる。神の呪《のろ》いを。その夜、酒保《しゅほ》のリエーヌが怪我《けが》がもとで死亡。眠《ねむ》るように旅立たれ、遺言はなし』 『密告により、伯《はく》に匿《かくま》われていた我らが百人隊長、ハイマン・ロッソが捕《と》らえられる。牢《ろう》では立派な態度で通され、常に貴女様の心配をしておられた』  そして、最後の紙だ。 『ナクーリ司教区の町ミリグアにおいて、聖ラフエヌの月、絞首刑《こうしゅけい》。最後に貴女様への言伝《ことづて》で、先に、天使を見に……』  最後の紙は、くしゃくしゃになっていた。  末尾にまだなにか文字が残されていたが、完全に滲《にじ》んでいてまったく読めなかった。  ロレンスは呆然《ぼうぜん》とし、ようやく口から出てきたのは、「ああ」といううめき声だけだった。  若くして諸侯《しょこう》の覚えがめでたく、力仕事に慣れているようでもあり、肝《きも》の太さは山賊《さんぞく》と見まがうばかり。  しかし、気品を失ってはいない。  戦場で生まれた銀細工師、とキーマンは言った。フラン自身はユーグに、奴隷《どれい》だったのだよ、と言ったらしいその二つの意味が、つながった。  フランは傭兵《ようへい》団で、彼らに襲《おそ》いくる弓矢や剣《けん》を防ぐ代わりに、信仰《しんこう》の盾《たて》によって死の恐怖《きょうふ》や迷いから仲間を守っていたのだ。  だが、そうであるのなら、フランが天使の伝説を追い求めるという理由も自《おの》ずと変わってくる。最後の紙がくしゃくしゃになり、文字が滲《にじ》んでいることは、一つのことを表している。  フランの語った親しい知人とは、この絞首刑《こうしゅけい》に処された百人隊長のことだろう。  天使の伝説を思い出してみればいい。  天界への扉《とびら》が開き、天使が旅立っていった。  そこに特別な意味を見出《みいだ》すのに、それ以上の言葉はいらないはず。  末期《まつご》の傭兵団の悲惨《ひさん》な話など枚挙に暇《いとま》がない。フランが生き延びているのは、その最後の地獄《じごく》から遠ざけられていたからだろう。遠方の地より、という言葉がそれを裏づける。  それに、ユーグの商会で聞いたはずだ。  爪《つめ》と牙《きば》を持つ者から順に死んでいく。  従軍司祭は祈《いの》ることしかできず、祈りでは剣を防げない代わりに、戦いに赴《おもむ》くことがない。  そして、フランは実際に、生き残っている。 「ぬしよ」  ホロの言葉で我に返った。  しかし、それ以上の言葉は向けられない。 「すまない」  ロレンスの顔つきから、次になにを言うのか、おおよそのところを察していたのかもしれない。川下から風が吹き、涸《か》れかけた水の上を走る風はロレンスたちの間を吹き抜《ぬ》けて森の中に入り、幾分《いくぶん》雪を巻き上げて消えた。 「力を貸してくれないか」  ロレンスは、短く言った。  ホロは返事の代わりに、聖典と手紙を寄越《よこ》せと手を伸《の》ばしてくる。 「それで?」  ロレンスから受け取った聖典と手紙を読み終わったホロは、顔を上げるなり、そう言った。  詳《くわ》しいことはわからずとも、大まかなところは理解できたはず。  なにより、コルが珍《めずら》しく自分の意見を言って、フランを追いかけたのだ。  それだけで、無視できる話ではない。 「安っぽい同情だってのはわかってるつもりだ」 「ならば、なぜじゃ?」  聞き返され、不意に笑ってしまったのは、誤魔化《ごまか》そうとしたからではない。  言おうとして、自分で恥《は》ずかしくなってしまったからだ。  ホロはそんなロレンスを訝《いぶか》しげに睨《にら》み、耳を引っ張った。  それでもロレンスの顔から笑《え》みは消えなかった。  なにせ、こんな馬鹿《ばか》なことを、思っていたのだから。 「もっと世の中が甘かったらな、と思ったんだ」  ホロは耳から手を離《はな》さない。  ロレンスも、ホロから視線を外さない。 「もう少し、自分たちの思うとおりにいってもいいんじゃないかと思ったんだ。無理を通したら、常識が引っ込んでしまったような、そんなことがあってもいいな、とな」  フランのいた傭兵《ようへい》団は、無理が通らなかったのだろう。その生き残りのフランも、このまま無理を通そうとしたところで常識が引っ込むとは思えない。  水車は建設され、運が悪ければフランは殺されるだろう。  そうでなくたって、これまで生き延びてきた連中、死んでいった連中を見比べれば、世の真理が見えてくる。そんなことは、自分のわがままを拳《こぶし》一つで黙《だま》らされたことのある子供だってわかっている。  だが、魔女《まじょ》と呼ばれることを甘んじて受け入れ、人に愛想を尽《つ》かし、その信仰《しんこう》心だけを胸にあの小屋で息絶えたカテリーナも、普通《ふつう》に考えれば見込みのない天使の伝説を追いかけていた。  安っぽい同情でも、偽《いつわ》りの奇跡《きせき》でも構わない。  世の中にはもう少し甘いところがある。  そう思いたかった。 「たわけじゃな」  ホロの言葉は、短くて的確だった。 「本当にたわけじゃ」  理解できないという顔をして、大きくため息をつく。  ホロはそんな馬鹿には付き合えぬ、とばかりにロレンスの耳から手を離す。  だが、もう一方の手は、小指でロレンスの薬指を絡《から》め取っていた。 「世の中そんなに甘くないことくらい、わかっておるじゃろう?」  ホロは賢狼《けんろう》だ。  ロレンスの浅はかな気持ちくらい、簡単にお見通しなのだ。 「わかっている。だが」 「だが、なんじゃ」  多分、答えを間違《まちが》えればホロは目の前からいなくなってしまう。  そんなことを少し前までなら思ったことだろう。  ロレンスはホロの手を取って、引き寄せてから言った。 「辛《つら》い過去を持ち、一途《いちず》に想《おも》う娘《むすめ》を見たら、手伝いたくならないか」  ホロは牙《きば》を剥《む》く。  真っ白で、綺麗《きれい》な牙だ。 「失敗したら許さぬ」 「もちろん」  ロレンスは、ホロの額に自分の額を軽くぶつけて、言った。 「もちろん」 もう一度、言ったのだった。 「じゃが、どうするつもりなんじゃ?」  小屋に戻《もど》る途中《とちゅう》、ホロが我慢《がまん》できずにそう聞いてきた。 「難しいことをするわけじゃない。カテリーナを聖女だと言うだけだ」 「……売るのかや?」 「違う。そのうえでこう言えばいいんだ。我々は列聖手続きにおける確認《かくにん》作業を任されてきました、と」  それはとりもなおさず、列聖手続きに関《かか》わるお歴々がこの地に注目していることを示す。  ロレンスたちに不自然な事故があったり、村人たちに不可解な行動があったりすれば、たちまちのうちに領主は窮地《きゅうち》に陥《おちい》ることになる。 「じゃが、どんなたわけの領主といえど、臆病《おくびょう》であるからこそ決断する際には調べるはずじゃ。仮に列聖とやらの手続きが実在しておっても、わっちらがその代理でないことくらいすぐにわかるじゃろう? ならばそんなことをしてなんの意味が……」  ホロは言いながら、気がついたらしい。  嫌《いや》な顔をするのも、ロレンスは予測ずみだった。 「力を貸してくれ、と言っただろう?」 「……知恵《ちえ》のほうかと思いんす」  子供の屁理屈《へりくつ》のように言って、唇《くちびる》を尖《とが》らせる。  しかし、それ以上言葉を向けてこない。  ロレンスは、言った。 「天使の伝説には獣《けもの》の鳴き声のくだりがある。お前の力を借りられれば、カテリーナが『本物』の聖女だと演出することくらいわけはない。それこそ、疑う余地もないくらいに」 「むう」 「そして、列聖手続きが止まっているらしいという事実だ。列聖され、教会から公式に聖女だと認められなければ、聖遺物として金銭的な価値は出ないからな。価値がなければ、売られることもない」  ホロは、つまらなそうに言葉を挟《はさ》む。 「姑息《こそく》じゃな」 「せめて狡猜《こうかつ》だと言って欲しい」  どちらも一緒《いっしょ》だ、とばかりにホロはため息をつく。 「あとは、領主に言い含《ふく》めておけばいい。大金と信仰《しんこう》が絡《から》むことゆえ、へたに他言されるとそちらのためになりません、とな」  正教と異教の間でコウモリのように動き回る領主としては、骨身にしみている言葉のはず。  よく躾《しつ》けられた犬のように、口をつぐむだろう。  当然この先ずっと領主を食い止められるかどうかはわからない。  しかし、十分な時間は稼《かせ》げるはずだ。  それこそ、フランが天使の伝説を諦《あきら》められるくらいには。 「ま、尻尾《しっぽ》を巻いて逃《に》げるよりはまし、という話じゃな」  ホロは言って、小屋にたどり着くと囲炉裏《いろり》に薪《まき》を放《ほう》り込んだのだった。  教会から公式に聖女と呼ばれる一歩手前まで行ったカテリーナ・ルッチ。  彼女の残した日記は、日記というよりも、日々の雑務を淡々《たんたん》と記していくだけのものだった。  ただ、それだけでも十分にカテリーナの人となりはわかったし、彼女がどういう状況《じょうきょう》にあったのかも理解できた。  ロレンスですら聞いたことがあるような大きな司教区の大司教からの相談や、貴族の婦人からの相談、大商会の主《あるじ》から寄せられた手紙もあった。  普段《ふだん》は彼らの相談に答える手紙をしたためながら、教理問答に関する考察や、聖典の翻訳《ほんやく》や重要な書物の写本を作ることに毎日の時間を割《さ》いていたらしい。  それだけを見れば穏《おだ》やかで信仰に満ちた日々、といえなくもないだろうが、日記には時折カテリーナの胸中を推《お》し量れる文章が綴《つづ》られている。  聖典の翻訳は、どこぞの司教区の司教が貸して欲しいと使いを寄越《よこ》したので渡《わた》したら、期限を過ぎても返却《へんきゃく》されなかった。写本は、本を扱《あつか》う商人が無理やり金と交換《こうかん》に持っていった。教理問答は、女が手を出すものではないと教会会議で決議され、偽名《ぎめい》で出すほかなかった。  極《きわ》めつけは、お偉方《えらがた》がカテリーナの評判を聞きつけて送って寄越《よこ》した手紙の数々だ。  大司教区の大司教は、あれこれ教理の話を織りまぜてはいるものの、要するに日々貴族|諸侯《しょこう》の晩餐《ばんさん》に呼ばれついつい大食してしまうがどうすればよいかといった馬鹿《ばか》げた相談だった。  貴族の婦人は、犬も食わない夫婦喧嘩《ふうふげんか》の愚痴《ぐち》を延々と綴《つづ》っていた。  大商会の主《あるじ》は、一体いくらくらいを貧しい者たちに寄付したら、自分は天国に行けるだろうかと、率直《そっちょく》な質問をしたためていた。  カテリーナは真面目《まじめ》に、懇切丁寧《こんせつていねい》に返事を書いていたようで、その下書きが残っている。  ただ、それらの馬鹿げた質問に対する返信の間に、短く一言だけ挟《はさ》まっていた。  これも神が私に与《あた》えたもうた試練なのでしょうか、と。  一途《いちず》に信仰《しんこう》心を深めていた、一人の修道女の苦悩《くのう》が滲《にじ》み出ているようだった。  列聖の手続きに関しても、全《すべ》てはカテリーナの関与《かんよ》しないところでなされていたらしい。  再三断る手紙を書いたようだが、戻《もど》ってくる手紙はことごとく支援《しえん》者が増えた、列聖は近い、という内容ばかりだった。  ロレンスは諸侯の名前や、手紙にある諸々《もろもろ》の事柄《ことがら》を暗記していくかたわら、気分はどんどん沈《しず》んでいった。  村の代表者がある日やってきて、事情を説明したうえで、魔女《まじょ》と呼ぶことを許してくれと陳情《ちんじょう》したことも書かれていた。  カテリーナは村人たちに同情したうえで、自分ひとりが苦しむだけですむのなら、と書いている。  フランが言ったように、人の弱さを嘆《なげ》く文字が、乱れた筆跡《ひっせき》で書かれていた。  そして、ある時点を境に、急に日記は日記らしくなっていく。  季節の移り変わりや、犬の話題が多くなる。やれ、仔犬《こいぬ》を産んだだの、鳥を捕《と》らえてきてしまったので神に許しを請《こ》うただの、そんな記述ばかりだった。  反面、そんな記述の間に貴族諸侯からの手紙が挟まっていたが、返事を書いた痕跡《こんせき》は残されていない。その後村人たちがどうなったのかも、日記からは完全に窺《うかが》い知れなかった。  吹《ふ》っ切れたのだろう、と思った。  自分の信念を貫《つらぬ》き通すことはできず、また、それで世界が変わることもないのだ、と。  楽しそうな日々の出来事ばかりが書かれている日記を、ロレンスはゆっくりと閉じた。  辺りは薄暗《うすぐら》くなってきていて、もう間もなく日が暮れるだろう。  囲炉裏《いろり》に薪《まき》を足し、粗皮《あらかわ》の仕切りの向こうに行った。  ホロにもなにか役に立つものがないかと本棚《ほんだな》で本を見てもらっていたのだが、そちらの部屋に行くとホロは木窓を開けて外を眺《なが》めていた。  まるで椅子《いす》に座っているカテリーナと一緒《いっしょ》に外を眺めているようにも見えた。 「滝《たき》が見える」  ホロは呟《つぶや》いた。 「いい景色じゃな」  言葉に釣《つ》られて、ロレンスもホロの後ろに立って外を眺《なが》めてみる。  確かに、木の向こうに滝《たき》が見える恰好《かっこう》の位置だ。  それに、視線を滝とは反対|側《がわ》に向ければ、そこだけぽっかりと下草の類《たぐい》が取り払《はら》われている空間があって、雪が白く積もっていた。  想像にかたくない。  花壇《かだん》か、なにかだったのだろう。 「もしかしたら、こやつのんびり昼寝《ひるね》のつもりで目を閉じたのかもしれんな」  ホロは言って、軽々しくカテリーナの額を突《つ》つく。  日記の様子からはさもありなん、と思うし、そんな最期《さいご》はなかなか素晴《すば》らしいかもしれない。  ロレンスが苦笑していると、ホロは木窓に手をかけた。 「風が出てきたの。寒い」  言って、ぱたりと木窓を閉じる。  ホロは自分から木窓を閉じるような性格ではない。多分、このままここで話を続けるのが怖《こわ》かったのだろう。  死者の横で交《か》わされる会話は、それがたとえ楽しい思い出話だろうと、必ず最後には悲しい気分をもたらす。魔女《まじょ》と呼ばれ、聖女と呼ばれ。生きているうちにも、死んだあとにも翻弄《ほんろう》されている者を前にすればなおさらだった。  木窓を閉じるや、ホロは一人|囲炉裏《いろり》のある部屋に戻《もど》ってしまう。  ロレンスもあとを追いかけようとしてつい後ろを振《ふ》り向いてしまう。  村人や領主を身勝手な人間だと言いながら、自分たちだって自分たちの感情や考えに従って、カテリーナのことを建前《たてまえ》上の聖女にしようとしているのだ。  しかし、ロレンスは敢《あ》えてなにも考えず、ホロのあとを追いかけた。  商人が追いかけるのは現世の利益だけ。そんな免罪符《めんざいふ》を、心の中で握《にぎ》り締《し》めながら。  そのあと、フランとコルが帰ってきた。未《いま》だロレンスたちがいるのを見て、フランは驚《おどろ》きを隠《かく》せていなかった。コルに至っては、今にも泣きそうな笑顔《えがお》だった。  ただ、小屋の入り口で立ったままのフランは、どうして突然《とつぜん》気が変わったのか、と言いたげな顔だ。はっとした顔つきになったのは、ロレンスが血|塗《ぬ》られた聖典を手に持っていたから。  フランはコルを見て、それからもう一度ロレンスを見る。  その手にあるのは、自分の過去と、過去から続く現在。  フランはうつむく。  商人は、どんな時でも利益のために動かなければならない。 「北の地の地図を描《か》いてもらいますよ」  ぎゅ、とフランが自分のローブを握《にぎ》り締《し》める音が聞こえそうだった。 「我々にも、信じたいものがありますから」  フランはうつむいたまま、うなずいた。その拍子《ひょうし》に水滴《すいてき》がたたっと落ちる。 「……わかりました。約束します」  フランは、目元をぐいと拭《ぬぐ》ってから、顔を上げて言った。 「ありがとう」  ロレンスは笑顔《えがお》でその言葉を受け取って、しかし、視線はフランから外していた。  囲炉裏《いろり》の中で炭が崩《くず》れ火《ひ》の粉《こ》が舞《ま》った。  ロレンスの目は、小屋の外に向けられている。 「そのお言葉は、まだ早い」  従軍司祭だったといラフランも、その言葉の意味がわかったらしい。  もう一度うなずき、即座《そくざ》に聞いてくる。 「どうするつもりですか?」 「当初の予定どおり、司教から派遣《はけん》された銀細工師ということで構いません。ただし、我々のもう一つの目的として、列聖手続きにおける確認《かくにん》にやってきた、と付け加えたい」  フランは一瞬《いっしゅん》呆《ほう》けたような顔つきになるが、賢《かしこ》い娘《むすめ》だ。すぐにロレンスの狙《ねら》いが見えてきたようで、ゆっくりとうなずいた。 「私はカテリーナを売り捌《さば》く気はありませんからね。代わりに、列聖手続きが継続《けいぞく》中ということで、ここの領主に手も足も出させなくしたいと思います」  次にうなずいた時、フランははっきりとこう言った。 「わかりました」  遠くから馬蹄《ばてい》の音と、複数の足音が聞こえてくる。  フランは涙《なみだ》をもう一度|拭《ぬぐ》い、ロレンスから受け取った血|塗《ぬ》られた聖典を力強く抱《だ》きしめた。 「参りましょう」  顔を上げた時には凜《りん》とした表情で、口から出てきたのは戦場に暮らす者らしい言葉|遣《づか》いだった。 [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ]  下知、という言葉がある。  馬の上にまたがったままこちらを見下ろすその老|騎士《きし》は、背中から松明《たいまつ》の灯《あか》りを受け、まさしくその言葉に相応《ふさわ》しい様子でこう言った。 「リュビンハイゲンからやってきたという者か」  あのまま即座《そくざ》に逃《に》げ出していても、ホロの力を借りなければ町に向かうどこかの道で彼らに捕《つか》まっていたかもしれない。老騎士の後ろには、土地の人間だろう農民に革《かわ》製の鎧《よろい》をつけさせただけの兵たちがつき従っている。彼らを相手に闇《やみ》の中を逃げるのは得策ではない。  小屋の中でじっとしていたのは、そういう意味では正解だったかもしれない。  しかし、全《すべ》てがうまくいくかどうかは、まだわからない。  ホロとコルは打ち合わせどおりに小屋の中で待機をし、ロレンスとフランだけが小屋の外に出ていた。 「はい」  ロレンスが返事をすると、老騎士は兵に向かって顎《あご》をしゃくる。  領主の代官と名乗ったので、領主からの勅許《ちょっきょ》状でも見せるのかと思っていた。  が、突《つ》きつけられたのは、長い柄《え》の先についた、槍《やり》の穂先《ほさき》だった。 「諸君らはここでなにも見なかった、聞かなかった。さもなくば、来ることは叶《かな》わなかった」  この言葉の意味がわからないようならば、そもそもつながっている価値のない首だ、と言わんばかり。  しかし、殺すつもりなら交渉《こうしょう》するまでもなく殺している。  ロレンスは穏《おだ》やかに、黙《だま》ったまま代官を見上げた。 「返答は?」  代官の口調に乱れはない。おとなしく従えば、無事に帰してくれるということだろう。  その後ロレンスたちが教会になにか言おうとも、全《すべ》てはすんだあとのこと。知らぬ存ぜぬで通すことはさほど難しくはないはずだ。  では、逆らったとすれば。  助けを呼んでもまず間違《まちが》いなく誰《だれ》の耳にも届かない森の中。  賢《かしこ》くなくとも、並の商人で十分たどり着く、迷う必要もないほどわかりやすい着地点。  ただ、ロレンスは、こう答えていた。 「我々は、司教様のご命令で、天使の伝説を銀細工にするためにここにやって参りました」  代官は右|瞼《まぶた》をピクリと動かして、言葉を向ける。 「目的は叶《かな》わなかったということだ。リュビンハイゲンといえば遠方の地。誰も疑いはすまい」 「はい。確かにそのとおりでございます」  大上段に構えていた代官が、下から見上げていてもわかるくらいにほっとした。  大国を築いた国王や皇帝《こうてい》が、元は小さくて貧弱な土地の領主であったという話は珍《めずら》しくもない。彼らが覇《は》を称《とな》え、この土地の領主が右往左往するのは、単純に人の器によるのだろう。  それならば、この代官にしてはこの演技が限界なのかもしれない。  ロレンスは、だから、はっきりと言った。 「ただし、それは目的の一つに他《ほか》なりません」  息を飲む音が聞こえてきた。 「後ろの小屋の中にいらっしゃる聖女がどなたか、ご存じですか?」 「聖……女?」  代官は訝《いぶか》しげに聞き返す。  ロレンスは、言葉を続けた。 「名を、カテリーナ・ルッチ。多くの諸侯《しょこう》の信仰《しんこう》を集め、はるか南におわす教皇の下《もと》へと列聖の陳情《ちんじょう》書が送られている、れっきとした聖女でございます」 「……」  疑いと驚《おどろ》きが入りまじる時、人は無表情になるものだ。  代官の目だけが、苦しそうに向けられる。 「我々は列聖手続きにおける確認《かくにん》作業を任されてきました。なにより、人前に出られることを嫌《きら》った聖女でございますからね。長らく行方《ゆくえ》がわからなかったのですが、ようやく見つかった次第《しだい》でありまして」  もしもこの嘘《うそ》が本当であれば、今更《いまさら》ロレンスたちの口を封じたところでどうにもなりはしない。  むしろ代官や領主がロレンスたちを傷つけることは、未来の自分たちを傷つけることになる。 「ただ、聖女は静かに眠《ねむ》りにつかれておりました。世には、それとわかる名札がなければ神でさえ犬|畜生《ちくしょう》のように扱《あつか》う者が多くいながら、こちらの領主様は実にものの道理がわかっておいでです。このことはしっかりと報告させていただきましょう。ところで……」  ロレンスは、じっと代官の目を見返した。 「領主様とご相談されることがおありになるのでは?」  それが時間を動かす魔法《まほう》の合図だったかのように、代官ははっと我に返り、額の脂汗《あぶらあせ》を拭《ぬぐ》った。口元がわなわなとひくついているのは、代官としての見栄《みえ》だろう。  しかし、その口から怒《いか》りに任せた言葉が飛び出す前に、後ろから声が聞こえてきた。 「そのようだ」  老|騎士《きし》が弾《はじ》かれたように振《ふ》り向いた。  農夫が慌《あわ》てて装備をつけてきたような兵が多い中、幾分《いくぶん》ましな連中の真ん中にいた男。  神経質そうなやせ細った壮年《そうねん》の男で、金切り声が似合いそうな、と言ったら百人が百人とも思い浮かべそうな容姿だった。  ただ、領主としての風格はさすがにあり、代官が馬から降りてつき添《そ》おうとするのを遮《さえぎ》る仕草は、なかなか様になっていた。  一人でこちらに向かって歩いてきたのは、多くを他《ほか》の者に聞かれるのを嫌《きら》ったからかもしれない。 「余が、カカナ・リンギッドである」  しかし、よもや名乗られるとは思わなかった。  真っ向からロレンスの話を疑っている、というわけではないらしい。  ロレンスはすぐに膝《ひざ》をついて答礼しようとしたが、それも手で制された。 「ローエン商業組合に所属しております、クラフト・ロレンスと申します」  立ったまま言うと、リンギッドは「うむ」とうなずき、長いため息のあと、こう言った。 「率直《そっちょく》に聞こう。我々がお前の話を信じるにたる証拠《しょうこ》はあるのか」  馬から降りたうえでそんな一言から始めるようでは、及《およ》び腰《ごし》であるのが明々白々。  強気な言葉は強気な態度で言ってこそのもの。  なるほど、狭《せま》い領地の中で、汲々《きゅうきゅう》と保身に走りそうな男だとロレンスは思った。 「なにを以《もっ》て証拠といたしましょう」  聞き返すと、リンギッドは一瞬《いっしゅん》言葉に詰《つ》まる。  怒《おこ》ったように口を開いたのは、馬鹿《ばか》にされたと思ったのか、さもなくば、語った言葉の内容そのものが原因だろう。 「余は列聖の話などまったく聞いたことがなかった。それほど重大な事柄《ことがら》であれば余の耳にも入るはず。申せ。証拠《しょうこ》はあるのか」  小心な男が怒《いか》りで顔を赤くする時、必ずと言っていいほど心の底の恐怖《きょうふ》に火がついている。  ただ、誇《ほこ》りをいたずらに傷つける必要もないので、ロレンスはすぐに言葉をつなげた。 「事は多くの地位ある方々に関《かか》わること。私程度の者に、物的な証拠は預けられておりません。ですが、代わりと言ってはなんですが、このたび私めに仕事を申し付けられた貴族様方のお名前を列挙いたしましょう」  貴族の世界は狭《せま》く、誰《だれ》が誰とつながっているかなど、概《おおむ》ね了解《りょうかい》し合っているという話を聞いた。なにより異教徒と正教徒が入り乱れるこの土地で、あっちこっちに媚《こ》びを売って生き延びてきた領主であれば、そのあたりの話については詳《くわ》しいはず。  ごほん、と咳払《せきばら》いを挟《はさ》み、ロレンスは頭の中でカテリーナの日記を開き、言った。 「リーン地方ランス伯《はく》。ドレーヌ地方マルス卿《きょう》。シングヒルト領イーブンドット侯《こう》。ラマン大司教区コルセリオ大司教」  ロレンスはいったん言葉を切って、リンギッドの反応を見る。  どれかに思い当たる名があったのか、呆《ほう》けていた。  ロレンスは、さらに続けた。 「リンズ公国では、ディユヌ卿、マラフ卿、ロエーズ伯爵《はくしゃく》夫人。プロアニアでありますと……」  と、ロレンスが続けようとしたのを制したのは、領主の手だった。  顔が青いのは、緊張《きんちょう》のためだろう。  プロアニア以北か、その周辺の領主の名ばかりを言った。正教や異教に、その都度都合に応じて擦《す》り寄ってきた身としては、心当たりのある者ばかりのはず。  それに、大事なことが一つある。  それほど多くの諸侯が関わっている事態が自分の領地にあるというのに、自分がまったく関与《かんよ》できていないという事実。  それは、自分が異教|側《がわ》として認識《にんしき》されている可能性を指し示す。  もしもロレンスが本当に列聖の手続きの確認に来ていたとしたら、そのロレンスの言動を疑うことは自分の立場をさらに危険にさらすことにつながっていく。  なぜなら、この期《ご》に及《およ》んでよその領主にとりなしを頼《たの》むとしたら、実地に聖女の様子を確認しに来たロレンスを通すほかないからだ。 「わ、わかった。それで……それで余はどうすればいい」  すがりつかんばかりの領主に哀《あわ》れみを覚えなかったと言えば嘘《うそ》になるが、それ以上に感じたのは怒りだ。節操なく生きることにかけては右に出るものなどいないと言わしめるほどの商人から見ても、その情けなさは際立《きわだ》っていた。  まっすぐに生きることは難しい。  しかし、領主たる者もう少し矜持《きょうじ》というものがあってもいいのではないか。  ロレンスはそう思ったが、それは思っただけで、顔は絵に描《か》いたような笑顔《えがお》だった。 「ご安心ください。実は列聖のことを領主様にお話ししなかったのは、ここの土地が非常に難しい場所にあるからなのです。領主様も統治には殊更《ことさら》ご苦労なされているとお聞きしてます」  ロレンスよりも年は倍くらいありそうかという領主であるリンギッドが、子供のようにうなずいた。生まれる場所を間違《まちが》えた、というのは本当にあることなのだろう。 「ですが、ご覧《らん》のように小屋は綺麗《きれい》に保たれ、領主様は信仰《しんこう》篤《あつ》いお方と見受けられます。このことをお話しすれば、この件に関《かか》わる全《すべ》ての者たちが、ほっと胸を撫《な》で下ろすことでしょう」 「そ、そうだ。そうだろう」  卑《いや》しい笑顔。  隣《となり》のフランが無反応なのは、それだけ自制心があるからか、さもなければ、戦場で嫌《いや》というほど見てきたか、だ。 「ただ、事が事なだけに、極秘裏に進めなければなりません。引き続き列聖の手続きを進める間は、ここのことを内密にしていただきたいのです」 「……だが、それは……」 「妨害《ぼうがい》が、非常に多いのです」  ロレンスの言葉に、リンギッドはごくりと唾《つば》を飲んで、うなずいた。  作戦は、成功した。  これでダメ押しにホロに登場してもらえば、この森と湖に手を出そうなどとは露《つゆ》ほども思わなくなるだろう。  ロレンスは、ホロと事前に決めておいた台詞《せりふ》を口にしようとした。  その、瞬間《しゅんかん》だった。 「思い出したぞ!」  そんな場違いな声が聞こえてきた。  リンギッドが弾《はじ》かれたように振《ふ》り向いて、ロレンスの視線もそちらに向けられた。  視線の先にいたのは、槍《やり》を持った一人の兵士。欠けた鉄兜《てつかぶと》を被《かぶ》り、傷だらけの胸当てをした、一目で歴戦の兵士とわかる一人だ。  そんな男が、「思い出した、思い出した」と言いながら、三歩前に出る。  フランの、息を飲むような音が聞こえた気がした。 「なにを、思い出したというのだ?」 「思い出したんですよ、旦那《だんな》」  弱小とはいえ領主を旦那呼ばわりする男が、正規の部下だとは思えない。  なけなしの金を払《はら》って雇《やと》った流れ者。  喋《しゃべ》りながら雪の上に唾を吐《は》き、胡乱《うろん》な目でこちらを見た。  正確には、ロレンスの隣《となり》の、フランのほうをだ。 「村人が言ってた話ですよ」 「村の?」  リンギッドは呟《つぶや》き、不安げにこちらを振《ふ》り向いた。  無礼な振る舞《ま》いの許しを請《こ》うようなそんな目に、ロレンスは安心するようにと軽く手を向けようとした。 「ああ、村の連中の言ってた話ですよ。褐色《かっしょく》の肌《はだ》の銀細工師、こいつにようやくぴんときた」  リンギッドが体を強張《こわば》らせた、というのはおそらく間違《まちが》いだ。  それは、ロレンス自身の体が強張ったせいで、視界がぶれたのだ。 「も、申してみよ。なにを知っておるのだ?」  リンギッドの言葉に、男はもう一度|唾《つば》を吐《は》いてから、薄《うす》ら笑いを浮かべて言った。 「こいつらが教会に言われてやってきたなんて、そんな馬鹿《ばか》な話あるかってことですよ」  リンギッドがこちらを再度振り向いた。  遠慮会釈《えんりょえしゃく》なく、フランとロレンスを見比べる。  その顔は、こちらのご機嫌《きげん》を伺《うかが》う目ではなく、反応を窺《うかが》う目だった。 「旦那《だんな》。騙《だま》されちゃいけない。褐色の肌の銀細工師。名をフラン・ヴォネリ。通称《つうしょう》、赤鷲傭兵団《あかわしようへいだん》の、黒司祭」  ざっざっというのは男がためらいなく前に進み出る音。  じゃき、という金属音は、使い込まれた槍《やり》の穂先《ほさき》が、フランに向けられた音だ。 「プロアニアでは多少知られた名だったキルヤヴァイネン傭兵団ってところの従軍司祭ですよ。俺のいた団も世話になりましてね。カーディン渓谷《けいこく》で二十年来の戦友をやられた」  リンギッドは、飛びのくようにロレンスたちから離《はな》れた。  貴族の世界が狭《せま》いように、彼らから給金を貰《もら》って戦う傭兵たちの世界も狭い、ということか。  誤魔化《ごまか》しきれるか?  口を割らずとも、荷物を改められたら、言い訳のしようがない。 「あっちこっちの諸侯《しょこう》に恨《うら》みを買った挙句《あげく》、団長は異端《いたん》の廉《かど》で告発されて絞首刑《こうしゅけい》。ま、どう考えても教会の手先になれるような身分じゃねえってことだ」 「ほ、本当なのか、それは!」  絞《し》められた鶏《ニワトリ》のような声を上げてリンギッドが叫《さけ》ぶ。  男はうるさそうに片目を閉じ、槍の穂先を軽くしゃくった。 「本人に聞いてみればいい」  男の薄ら笑いは、領主に恩を売れればたんまり給金を弾《はず》んでもらえるからということの他《ほか》に、もう一つ理由があるはずだ。  復讐《ふくしゅう》に燃えた目。  そうではない。  栄光が過去のものになった強者を殺せるという、嗜虐《しぎゃく》欲に満ちた目だった。 「ど、どうなのだ? 本当なのか?」  リンギッドはフランに視線と言葉を向けてくる。  フランはうつむき、黙《だま》ったまま答えない。  言い逃《のが》れは不可能だ。フランの容姿の特徴《とくちょう》は、あまりにも珍《めずら》しい。  ロレンスは小屋に視線を向け、この一言を口にした。 「真実は、天使様がご存じでしょう」 「な、なに? どういう……」  意味だ、とリンギッドが言うか言わないかの境だった。  フランは突《つ》きつけられた槍《やり》の穂先《ほさき》を、蝿《ハエ》のように手で払《はら》った。  驚《おどろ》いたのは、ロレンスも同様だった。  言うのは簡単でも、実際に槍の穂先を突きつけられていたら、おいそれとできるようなことではない。そんなことができるのは、場慣れているか、さもなければ、そんなことなど恐《おそ》るるに足りない、頑《かたく》なな信仰《しんこう》心があるかのどちらかだ。  フランが一歩前に出るとリンギッドが後ずさったのは、フランの中に確固たるなにかを感じ取ったからかもしれない。  二歩前に出るとリンギッドは三歩後ずさり、男が払われた槍を再度フランに突きつける。 「フラン・ヴォネリだな?」  男の質問に答える代わりに、フードを取る。  フランは白いため息をつきながら、静かに言った。 「私はフラン・ヴォネリではありません、と言ったら?」  すっと槍の穂先をかわし歩き始めても、しばし男が反応できなかったのはその動作があまりにも自然だったからかもしれない。  男は我に返り、フランを呼びとめる。  振《ふ》り向いたフランは、楽しげな顔だった。 「信仰《しんこう》心の篤《あつ》い修道女が、領主や、村人たちの卑《いや》しい利益のために魔女《まじょ》と呼ばれていた。その魔女が、今度は莫大《ばくだい》な利益のために聖女と呼ばれるようにと、貴族|諸侯《しょこう》がこぞって金を出す。かと思えば、領主がわずかな金欲しさに、水車を作ろうとその痕跡《こんせき》を消し去ろうとする。そんなことについて、どう思われますか?」  男はなにを言われているのかわからないといった様子だが、領主は今まさに神罰《しんばつ》を下さんとする神を見るかのような目で、フランのことを見つめていた。  フランははっきりと笑う。  そして、ロレンスのほうを見た。なにをしようというのかわからない。  しかし、もう少しでホロが滝《たき》の上に姿を現し、全員の度肝《どぎも》を抜《ぬ》いてくれるはず。  ロレンスはそう思い、止めようとした。  間に合わなかったのは、もしかしたら、カテリーナの力なのかもしれなかった。 「私の名はフラン・ヴォネリ。私は聖女なのでしょうか。それとも、魔女《まじょ》なのでしょうか」  その言葉は、地獄《じごく》の説教に聴《き》き入るように固唾《かたず》を飲む、多くが村から徴発《ちょうはつ》されてきたのだろう農民兵へと向けて。  フランは、よく通る声で言葉を放つ。 「あなた方も、なにが正しいことだったのかは、必ずわかりますよ」  ざわめきは、聴衆《ちょうしゅう》が固唾を飲んだ音だったのかもしれない。  その場にいた多くの者がリンギッドの領地の者で、自分たちのやっていることを理解しているはずだった。  異教と正教の間を彷徨《さまよ》う毎日は、信仰《しんこう》心の篤《あつ》い者ほど苦しみが大きかっただろう。  そして、恐《おそ》れもまた、同様に大きかったはず。 「死んだあとに必ずわかります。なにせ、天使様は観ていらっしゃいますもの」  突風《とっぷう》が吹《ふ》いたような音がしたのは、男が無言で槍《やり》を放ったからだ。  雪が散り、空気を裂《さ》き、静かに立つフランを突《つ》き刺《さ》すために。  行商人たるロレンスがどうこうできる速度と動きではなかった。  槍の穂先《ほさき》が正確に、フランの脇腹《わきばら》を貫《つらぬ》いた。 「魔女め!」  男が叫《さけ》び、槍を引き抜き、再度突き刺そうとした。 「やめ——」  ロレンスが叫び飛びかかろうとしたが、間に合うわけがない。  しかし、槍の穂先はフランの肩《かた》の上をかすり、服を裂いただけだった。  奇跡《きせき》ではない。  放たれた弓矢が、男の右足を打ち抜いていたのだ。 「っな……」  体勢を崩《くず》した男が雪の上に倒《おお》れ、自分の右足を見て信じられないといった様子で言葉に詰《つ》まる。弓を放ったのは、狩人《かりうど》の格好をした農民兵の一人。顔には恐怖《きょうふ》があり、息は大きく、荒《あら》い。  皆《みな》、死後は怖《こわ》い。  フランはその恐怖に、火をつけたのだ。 「聖女様を守れ!」  誰《だれ》がともなく大声で叫んだ。  直後に始まったのは、敵も味方も定かではない入り乱れた争いだった。  従軍司祭は戦場において言葉を振《ふ》るう者だ。  恐怖《きょうふ》で足の萎《な》えた者を奮《ふる》い立たせ、間近に迫《せま》った死に怯《おび》える者の心に安らぎを与《あた》えることを務めとする。  この場には、カテリーナの小屋を取り囲み、天使の伝説の残る森や湖をどうにかしようなどという領主の考えに、心の奥底では神罰《しんばつ》を恐《おそ》れていた者たちが大勢いたはずだ。  フランは黒司祭の名にふさわしく、言葉で皆《みな》を操《あやつ》ってみせた。  そして、左の脇腹《わきばら》を真っ赤に染めながら、表情一つ変えず、領主に向かってこう言った。 「なにが真実かは、己《おのれ》の目で確かめなさい」  リンギッドがうなずいたと思ったら、そのまま尻《しり》もちをついてしまった。  それくらいの迫力《はくりょく》だった。  フランは踵《きびず》を返し、歩き出す。 「ど、どこへ」  馬鹿《ばか》げた質問だとは分かっていたが、聞かざるを得ない。  脇腹からは血が滴《したた》り落ちるほどで、一歩進むごとに雪が赤く染まっていく。  フランは、立ち止まらず、振《ふ》り向きもせずに、応《こた》えた。 「天使の伝説を確認《かくにん》しに」  入り乱れた剣戟《けんげき》の音で、うまく聞き取れない。  それでも、ロレンスは言葉の意味をなんとなく察したし、なによりその背中からは、明確な信念のようなものを感じ取っていた。  この期《ご》に及《およ》んでの妄想《もうそう》や希望ではなく、本当に確信を持ってそれを確認しに行くような、そんな雰囲気《ふんいき》だった。  思わず足が前に出て、フランの肩《かた》に手をかけたのは、すぐさま小屋に運び傷の手当てをするためではない。 「聞こえませんか?」  フランは言った。  出血のせいか、言葉に覇気《はき》がなく、辺りの騒音《そうおん》のせいもあってロレンスは聞き返しかけた。 「獣《けもの》の鳴き声が」  そう言われて、ぞっとした。振り向いたのは、言葉の指し示す意味がわかったからだ。  獣のように咆哮《ほうこう》し、傷つけ合う者たち。その目的がどんなものであれ、彼らは剣《けん》を振り、血を流す。異教も正教も関係なく、ただ己の保身のためだけに暴力を振るう姿は等しく獣だった。  その声と音が、獣の咆哮のようにまざり、縒《よ》り合わさり、空へと向かって飛んでいく。  だが、フランはそれを一体どんな理由で口にしたのだろうか。  全《すべ》てを嘲《あざけ》るために? 軽蔑《けいべつ》するために? それとも、世はこんなものだと冷笑するために?  ロレンスはフランを支え、歩くうちに、ようやく気がついた。  空耳ではない。ましてやホロのそれでもない、その音に気がついた。耳に聞こえるその音は、ぉぉぉ、ぉぉぉぉ、という低い音。  その瞬間《しゅんかん》、ロレンスはホロが言っていたことを思い出す。  湖は、山が椀《わん》のような形になっていると言っていた。山に向かって声を出したら返事をしてくれるなど、それこそ人のたわけた発想のたまものだ、とも言っていた。そして、フランが気がついたと言って小屋にやってきたあの話。  水が勢いよくあふれ出すという、あの話。  その二つが、鍵《かぎ》だった。  ロレンスは顔を上げる。  滝《たき》の横、森の陰《かげ》に見えたのは、予想外の展開にどうするべきか逡巡《しゅんじゅん》している様子のホロ。  目が合った直後、うなずいた。  ホロがだっと駆《か》け、滝の上に立つ。  吠《ほ》えた。  すさまじい轟音《ごうおん》だった。  空気という空気が震《ふる》え、木々の枝が揺《ゆ》れ、水面が波立った。  その場で殺し合いを演じていた者たちが一斉《いっせい》にそちらを見たはずだ。  フランは領主に己《おのれ》の見たものを信じろと言った。  だが、滝の上に月を背負って立ち、牙《きば》を剥《む》いて長く尾を引く遠吠えをするホロの姿は、神々《こうごう》しくもあり、また悪魔《あくま》の化身《けしん》のようでもあった。  その様に、さしものフランも言葉を失っていた。  吉と出るのか凶《きょう》と出るのか。  ホロ自身、疑っていて、出られなかったのだろう。  しかし、ロレンスは自信を持ってうまくいくと言うことができる。  なぜなら、ホロの遠吠《とおぼ》えはごおん、ごおん、と巨大《きょだい》な鐘《かね》を木槌《きづち》で叩《たた》くような音となって反響《はんきょう》し続けているからだ。  フランが体を強張《こわば》らせ、呟《つぶや》いたのもそんななかでのことだった。 「……来る」  ロレンスは聞き返さない。  反響も消えさった頃《ころ》。  滝から下を睥睨《へいげい》するホロの視線に縫《ぬ》い留められ、一歩も動けない者たちの息遣《いきづか》いだけが聞こえてくる。  そして、彼らも耳にしたはずだ。どどど、どどど、という遠くからやってくるような軍勢の足音を。まるで、天からやってくるかのような足音を。  多くの者が浮足立ち、辺りを見回していた。  やがてその音は収まった。  その後、結局何事も起こらずに、沈黙《ちんもく》だけが続く。  誰《だれ》かが滝《たき》の上を指差して、呟いた。 「おい、悪魔《あくま》がいなくなったぞ……」  別の誰かが、呟いた。 「見|間違《まちが》い……だったのか?」  ロレンスは、そうではない、と知っている。  ホロはそんなことを彼らに思わせるために身を隠《かく》したのではない。  ロレンスとフランの予測は見事に当たっていたのだ。  兵の一人が叫《さけ》ぶ。 「滝が!」  その言葉と共に滝の水が涸《か》れた。  涸れた水が巨大な波となって姿を現したのは、その一瞬あとのこと。  全《すべ》てを飲み込まんばかりに突《つ》き立った巨大な波が、空に浮かぶ月を洗うようにうねり、滝の流れを二分していた岩にぶち当たった。  そのあとのことを正確に誰かに説明するのは、不可能だろう。  二分された津波《つなみ》が滝から空に舞《ま》い上がり、巨大な水しぶきとなって白く光る。  折しもこの寒さだ。  水しぶきは氷になり、月明かりがそれを照らす。  大量の水が滝《たき》つぼに落ち、一種独特の音を立てる。  まるで巨大《きょだい》な翼《つばさ》が羽ばたく時のような音。  しぶきが風にさらわれ、空へと飛んでいく。  天使の伝説は、ここにあった。 「……フランさんっ」  がく、と膝《ひざ》から崩《くず》れ落ちたフランを抱《かか》え、ロレンスは思わずその名を呼んだ。  その顔は穏《おだ》やかに、その目はここではないどこかを見つめていた。  フランはゆっくりと手を伸《の》ばす。  呟《つぶや》いたのは、こんな言葉だった。 「綺麗《きれい》」  己《おのれ》の醜悪《しゅうあく》さを知る者たちは、武器を捨てて逃《に》げ出した。  己の不信仰《ふしんこう》を悔《く》いる者たちはその場にひざまずいた。  一人己の胸の中のことに忠実だった者だけが、顔を空に向けて、美しい光景に手を伸《の》ばしていた。  天使は天界へと飛び立った。  月の裾《すそ》で、氷の破片が、輝《かがや》いていた。 [#改ページ] [#改ページ] 「そ、それでどうなったのです!」  ユーグの巨体《きょたい》に詰《つ》め寄られ、ロレンスは思わずのけぞってしまう。  ロレンスが手でぐいと押しのけて、ようやくこの絵画商は我に返ったらしい。  椅子《いす》に座りなおし、やきもきするように服の裾《すそ》をいじくりながら、もう一度|繰《く》り返した。 「それで、どうなったんです!」 「それで、結局、村としては天使の伝説が真実だったと、カテリーナは紛《まが》うことなき聖女だったということで一件落着ですよ。ただし」  ロレンスは出されていた温かいぶどう酒を飲んで、付け加える。 「もう村も領主も、その時々の情勢で天使だ悪魔《あくま》だととても言えないと言っていましてね、表向き、全《すべ》てをなかったことにするそうです」 「そうですか……いや、そうですか……」  冒険|譚《たん》を聞き入っていた少年のように、ユーグは大きな体を椅子《いす》の背もたれに預け、天井《てんじょう》を仰《あお》いで目を閉じる。  大きなため息までついて、心底安心しているようだった。 「私たちがここに到着《とうちゃく》した時のほうがよっぽど落ち着いていましたね」  ロレンスが意地悪く言うと、目を開けたユーグは「ほ」と笑った。 「いざという時は無我夢中で動いてしまうものです。いや、それにしても、そんなことがあったのですね……大|怪我《けが》をされたフラン様が運ばれてきた時には、何事かと思いましたが」  とはいっても、実際にはタウシッグの村で狩人《かりうど》と山の人間の知識を総動員して、フランの治療《ちりょう》に当たったのだ。怪我が治る前に帰ってきたのは、村人たちがあまりにもフランのことをあれこれ構うからだった。  神だなんだと奉《たてまつ》られるのを心底|嫌《いや》がっていたホロは、他人がそれで嫌がるのを大笑いしていたのだが。  フランを連れ、タウシッグの村をあとにしたのが三日前。  昨日の夕方にケルーベにたどり着き、ロレンスを除《のぞ》く三人はとっくにベッドに向かっている。  ロレンスだけが、ユーグに無理やり階下に連れてこられ、タウシッグでの出釆事を話させられていた。 「しかし、結局天使の伝説とは一体なんだったのですか?」  はちみつで漬《つ》けた木の実を一つ口に運んで、ロレンスは答える。 「雪崩《なだれ》ですよ」  ユーグは、ぽかんとして聞き返す。 「雪崩?」 「そうです。山の斜面《しゃめん》から大量の雪が湖に滑《すべ》り落ちて、巨大《きょだい》な波となって滝《たき》に押し寄せる。天界からの軍勢のような足音は、雪が崩《くず》れ落ちる音です」 「で、では、獣《けもの》の鳴き声は?」  ここは、ロレンスにもあまり確信が持てない。  ただ、いくつかの可能性の中から、いかにもといったことを答えておいた。 「湖の上で反響《はんきょう》していた音がそう聞こえたんですよ。山彦《やまびこ》のようにね。今回は人々の争いと剣戟《けんげき》の音。きっと、はるか昔にも同じようにあの場所で揉《も》め事《ごと》があったのではないでしょうか」  もちろん極《きわ》めつけはホロの声だったでしょうが、と一応付け加えておく。  人々の争う音によって天使が舞《ま》い降りるなど、いかにもといった言い伝えのようで面白《おもしろ》い。  フランの見立てでは、あの地方に吹《ふ》くという強い風が峰《みね》などに当たり、ものすごい音を出して反響し、結果雪崩を引き起こしたのだろう、ということだった。  それでも、どうせならそちらのほうを残したい。 「世の中色々なことが起こりうるものですね」 「まったくです」  ロレンスが困ったように笑って言うと、ユーグも「ほっほ」と肩《かた》を揺《ゆ》らした。 「しかし、まあ、一件落着ということなのでしたら、今後は私たちも時折タウシッグのほうに様子を見にまいりますよ。ホロ様のように威風堂々《いふうどうどう》というわけにはいきませんが」  ユーグが冗談《じょうだん》めかして言うと、商会の扉《とびら》がノックされた。  こんな時間に一体|誰《だれ》が、という疑問はすぐに氷解する。  ユーグが椅子《いす》の上で苦笑してから戸口のほうに歩いていったからだ。  好きな所で寝《ね》て、好きな時間まで騒《さわ》いでいられる町の外とは違《ちが》い、市壁《しへき》の中では火を使ってよい時間というのが基本的に決められている。建物が密集して建てられているせいで、どこかの家から火の手が上がるとあっという間に燃え広がるからだ。  テーブルの上に置かれた蝋燭《ろうそく》の火に、見回りの兵士が目ざとく気づいたのだろう。 「では、私もこれで」  ユーグの背中に言葉をかけて立ち上がる。ユーグが戻《もど》ってくるのを待っていたら、場所を替《か》えて話をさせられそうな気がしたので早々の退散ということだ。  温めたぶどう酒の入ったコップだけは持って、階段を上っていく。  き、き、と軋《きし》む階段を上り終え、手すりを頼《たよ》りに部屋へ向かう。  入り口こそ小さく貧相に見えるが、奥行きは十分にあり、四階建ての立派な商会といえる。  普通《ふつう》商会は上に行くほど身分の低い者たちが泊《と》められるので、二階をロレンスたちにあてがってくれたのは、ユーグの敬意の表れでもある。  ホロたちの寝ている部屋に行く途中《とちゅう》、ロレンスはふと月明かりが廊下《ろうか》に漏《も》れ出ていることに気がついた。  夜盗《やとう》は二階から侵入《しんにゅう》する、という定石《じょうせき》がある。  半開きになっていた扉《とびら》からそっと覗《のぞ》いてみると、フランの部屋だった。 「なにか?」  覗き見は、一瞬《いっしゅん》でばれてしまった。  人とはいえ、一人旅に暮らす身なのだ。  単なる町娘《まちむすめ》とは根本的に異なる。 「明かりが漏れていたので、夜盗かと」  ベッドの上で体を起こしていたフランは、目元だけで笑っていた。 「盗《ぬす》みの現場を見つけられた夜盗が、今夜盗を捕《と》らえに来たところだ、と言ったという話もあります」  酒の席で出されると訳がわからなくなる笑い話。  大騒ぎのあとでは、このくらいがちょうどいいのかもしれない。 「冷えますよ」 「生傷が痛む時は冷やし、古傷が痛むときは温めるのがいいんです」  乱暴な方法だが、効果はありそうだった。  ただ、できればそんな知恵《ちえ》を得るような状況《じょうきょう》は避《さ》けたいものだ。  従軍司祭、とフランの肩書《かたが》きにはあった。 「天使の伝説と共に旅を終えようと思っていたのですが」  唐突《とうとつ》にフランは言って、こちらを見た。  開けっ放しの木窓から入る、青い月明かりに照らされて、その体は今にも光の粒《つぶ》になって消え入りそうだった。  脇腹《わきばら》から肩《かた》にかけては今も生々しく包帯が巻かれ、タウシッグでは熱にもうなされていた。  それでも、フランの様子からは弱みが一切《いっさい》見て取れない。  部隊の勇気と信仰《しんこう》を司《つかさど》る司祭たる者は、これぐらいでなければ務まらないのかもしれない。 「その、旅というのは」  ロレンスが聞き返すと、フランはくすりと笑った。  少し、恥《は》ずかしかったのかもしれない。 「思いつめた少女のようだった、と今は思っています」  死ぬつもりだったのだ。  血|塗《ぬ》られた聖典と、そこに挟《はさ》まれていた手紙。  フランの天使の伝説にかける情熱は、執念《しゅうねん》ともいえた。  爪《つめ》と牙《きば》を持つ者から順に死ぬという話があるとすれば、まさしくその真っ先に死ぬ者の筆頭に挙げられるような勢いだった。  そして、だからこそ、フランは天使の伝説にたどり着くことができた。  そのたどり着いた果てになにを思ったのか、ロレンスにはわからない。  わからないが、今のフランの顔は、つき物が落ちたかのように綺麗《きれい》だった。 「我々はまだ地図を描《か》いてもらっていませんよ」  ロレンスが責めるように言うと、フランはふいとそっぽを向く。 月明かりに照らされた顎《あご》の線が、よく研《と》いだナイフのように光っている。 「一度ならず、戦場にまで代金の取り立てに来た商人さんがいました」 「ならば、天界の扉《とびら》を越《こ》えた向こうまで取りに来いと?」  フランは猫《ネコ》のように目を閉じる。  ロレンスがベッドに歩み寄ると、すっと真っ黒い瞳《ひとみ》を向けてくる。 「残念ながら、我々が天界に行くのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい、と聖典に記されています」  ロレンスはフラン越しに手を伸《の》ばし、木窓をゆっくりと閉じる。  木窓の隙間《すきま》から入り込む月明かりが、フランの顔に少し痛そうに当たる。 「私もそうですね。天界への扉は通れませんでした」 「ならば、いかがでしょう。罪|滅《ほろ》ぼしに人助けでも」  フランは笑い、ゆっくりと体を毛布の中に沈《しず》めていく。  動けばまだ相当痛むだろうに、ロレンスの手伝いは手で制した。 「商人さんの手を借りれば、何枚地図を描く羽目になるかわかりませんから」  意地悪な笑《え》みは、誰《だれ》かさんを思い起こさせる。 ただ、ベッドに横たわったフランは、右手をすっと伸《の》ばしてくる。  滝《たき》の上に現れた天使に向かい、諦《あきら》めることなく伸ばし続けたからこそ、届いた右手。 「一枚分の代金です」  フランが、言う。  こういう振《ふ》る舞《ま》いは、きっと伊達《だて》好きの多い傭兵《ようへい》団の中で学んだのだろう。  ロレンスも、嫌《きら》いではない。 「お支|払《はら》いしましょう」  ロレンスはしっかりとフランの右手を握《にぎ》る。  町娘《まちむすめ》相手になら、手の甲《こう》に口づけでもするところ。  しかし、フランには必要ないだろう。 「神のご加護を」  ありがたい言葉を頂戴《ちょうだい》して、ロレンスは手を離《はな》し、帽子《ぼうし》を取るふりをする。  フランはうなずき、ゆっくりと目を閉じる。  ロレンスが部屋から静かに出ようとした時、その背中に言葉が向けられた。 「あの時」 「え?」 「あの時、滝の上にいたあれは……」  ロレンスは振り向き、笑顔《えがお》のまま、問い返す。 「滝の上?」  フランなら、ロレンスの仮面に気がついただろう。  それでも、それ以上の言葉はない。 「いえ」  短く言って、「気のせいだったようです」と付け加えた。 「おやすみなさい」  ロレンスが言うと、フランはなにも答えない。  部屋を出ると、ホロがいた。  ロレンスは気がつかないふりをして、隣《となり》の部屋に行く。  ぴったりとあとをつけられ、部屋に入る。  扉《とびら》が閉じれば、月だけが光る、静かな夜の始まりだった。 [#地付き]終わり [#改ページ] あとがき  お久しぶりです。支倉凍砂《はせくらいすな》です。十二巻目です。当たり前のことですが、十二巻目ということはこのあとがきを書くのも十二回目です。全然そんな気がしないのですが……。  我ながら十二巻分のネタがよく出てきたなあ、と感心してしまいます。というのも、二巻目を書こうとしていた時点で、もう書くことがない……と頭を抱《かか》えていたのです。  一説には、本を一|冊《さつ》書くには百冊の本を読まなければならない、と言われているそうです。『狼《おおかみ》と香辛料《こうしんりょう》』は大体四十から五十冊の資料本でできています。足りない分は……ホロの尻尾《しっぽ》と耳で埋《う》め合わせということで一つ。  前の巻から三ヶ月しか経《た》っていないので、私生活にこれといった変化はないのですが、なんと十二巻の執筆《しっぴつ》時には沖縄《おきなわ》に九|泊《はく》もしてきてしまいました。他《ほか》に作家さん二人と一緒《いっしょ》の執筆旅行です! 狭《せま》い部屋に九泊とか、後半はぎすぎすして事件でも起こるんじゃないだろうかと思っていたのですが、意外に平和でした。泡盛《あわもり》と石垣《いしがき》牛のおかげだと思います。  朝起きて、ご飯食べて、執筆して、昼ご飯食べて、執筆して、昼寝《ひるね》して、ホテルの前の海に入って、夕食食べに行って、執筆して、寝る。概《おおむ》ねこんな生活を繰《く》り返してきました。途中《とちゅう》、レンタカー借りて遠くの海に行ったりもしました。海岸には、車に布団《ふとん》とテントと犬だけを乗せて全国を回っているような旅の人たちがたくさんいました。日本にもこういう文化があったのか……と驚《おどろ》きました。バイクで回っている人なんて、背中にギターですよ。ラノベのキャラクターだってもうちょっとおとなしいです。 我々も負けちゃいられねえ、とばかりに、今度はバリかどこかの南の国を画策しています。  ただ、できれば次は仕事が終わっている綺麗《きれい》な体で行きたいなあ、と思います。  さて、この巻が出る頃《ころ》はアニメ第二期放映の真《ま》っ盛《さか》りではなかろうかと思います。  そのことを楽しみにしつつ、次の巻の執筆に取《と》り掛《か》かる準備をしている最中です。  それではまたお会いしましょう!  次は秋かな? [#地付き]支倉凍砂 [#改ページ] 狼《おおかみ》と香辛料《こうしんりょう》�㈼ 支倉《はせくら》凍砂《いすな》 [#ここから10字下げ] 発 行 二〇〇九年八月十日 初版発行 発行者 高野 潔 発行所 株式会社アスキー・メディアワークス [#ここで字下げ終わり]