狼と香辛料� 支倉凍砂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)両|腕《うで》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き]終わり ------------------------------------------------------- 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ]  蝋[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]燭《ろうそく》は高価だ。  ほんの両|腕《うで》で抱《かか》えられる広さしか照らさないうえに、わずかな時間で燃え尽《つ》きる。  だから、蝋燭を照らす時には大抵《たいてい》、昼間にはできないなにかしらの作業に勤《いそ》しんでいた。  例えば金貨の縁《ふち》を丁寧《ていねい》にナイフで削《けず》るとか、麻袋《あさぶくろ》を二重底にするために繕《つくろ》い物をしたりとか、その中に関税の高い塩を入れたりとか。  たまに仕事がうまくいくと、これもまたあまり安いものではない紙に、将来自分が持つ予定の店の外観を描《えが》いたり、町の様子を記したりしていた。  なんにせよ、どれもこれも一人ほくそ笑《え》む類《たぐい》のものだったということだ。  教会では時折、夜中に笑うと悪魔《あくま》がやってくる、という説教をする者がいる。  きっと、夜中に一人で机の前に座り、何事かをしてほくそ笑む商人を見かけたことがあるのだろう。  自分も大昔に夜の夜中に師匠《ししょう》の丸まった背中を見てしまい、震《ふる》えながら毛布に包《くる》まっていたものだ。  それが、特になにをするでもないのに蝋燭の火を消さなくなったのはいつ頃《ごろ》からだろうか。  じりじりと芯《しん》の燃えていくのをぼんやりと見ていたり、飲むわけでもないのに注《つ》いでしまったぶどう酒を眺《なが》めていたりした。  いや、消さない理由は明白にわかっている。  今までは仕事の邪魔《じゃま》にしかならなかった夜の時間を、少しでも長く味わっていたいのだ。  静かで、落ち着いていて、きっとまた騒がしい明日がくるまでの穏《おだ》やかな時間を。  小さい寝息《ねいき》が二つ、計ったように交互《こうご》に聞こえてくる。  ずっとその平和な寝息を聞いていられるのなら、新しい蝋燭《ろうそく》を継《つ》ぎ足したっていい。  ただ、夜は短く、明日もまた騒がしい。  早めに寝ておかなければ体が参ってしまう。  声なく笑って、蝋燭を消そうと息を吹《ふ》きかける。  そのほんの一瞬《いっしゅん》、ためらって寝息のするほうを見る。  これで暗闇《くらやみ》の中でも大丈夫《だいじょうぶ》。  眠《ねむ》りに落ちる寸前まで、その様子を瞼《まぶた》の裏で眺《なが》めていた。 [#改ページ]   [#改ページ]  港を出るとたちまち船は頼《たよ》りない乗り物になった。  船乗り連中からすればこんな揺《ゆ》れは揺れのうちに入らないのかもしれないが、船に乗りなれない者からすれば天地がひっくり返ってしまうほどに感じるらしい。  らしい、というのは、そう感じるのが自分ではないからだ。  自分には旅の連れが二人もいて、港を出るまでは二人|揃《そろ》って甲板《かんぱん》ではしゃいでいた。  それが揺れ始めてからこっち、一人は荷や他《ほか》の客と一緒《いっしょ》の船室に下りてくるや、しがみついて離《はな》れない。  華奢《きゃしゃ》で小柄《こがら》だから、身を丸めて震《ふる》えている様はまるで仔《こ》猫《ネコ》のようだ。  もちろん笑うことなどせず、膝《ひざ》の上で震えるままにしておいてやった。  十八の頃《ころ》に行商人として独《ひと》り立ちをして、七年もあちこち回ってくれば通《とお》り一遍《いっぺん》のことは経験ずみだし、自分も船に初めて乗った時はちょっとした揺れにも喉《のど》の奥で悲鳴を上げていたもので、そういう意味でも笑えない。  ロレンスはそんなことを思いながら、旅の連れの震える背中をゆっくりと、一定の間隔《かんかく》でぽん、ぽん、と軽く叩《たた》いていた。  しかし、と薄暗《うすぐら》くてややかび臭《くさ》い船内を見回しながら苦笑いをしてしまう。  この震える旅の伴侶《はんりょ》にはちょっと悪いのだが、できればもう一方のほうがこんなふうにしおらしくなってくれていたら、と思ってしまったのだ。  元気なのがコルだったらよかったのに、と。  ともすれば少女にも見えるこの放浪《ほうろう》学生の少年コルは、普段《ふだん》から聞き分けがよくておとなしいのだから。  甲板《かんぱん》から勢いよく船室に降りてきた人影《ひとかげ》を見て、ロレンスは小さくため息をついた。 「ぬしよ、海じゃ。海じゃった」  目をらんらんと輝《かがや》かせ、もう一人の伴侶《はんりょ》、ホロがどかっと隣《となり》に腰《こし》を下ろす。  頭からフードを被《かぶ》り、くるぶしまで届くローブを着ているのでぱっと見だと修道女に見える。  ただ、散々甲板ではしゃいだ挙句《あげく》に床《ゆか》に胡坐《あぐら》をかいて座っていれば、それが旅のうえでの方便なのだと誰《だれ》が見たって丸わかりだ。  もちろんそれは方便だし、修道女に見えたほうがなにかと都合がよい。  だから修道女らしくない粗野《そや》な振《ふ》る舞《ま》いに今更眉尻《いまさらまゆじり》をつり上げることもないのだが、ロレンスはコルの背中を撫《な》でる一方で、ホロのローブも手で押さえた。 「むう?」  ホロが何事かと自分の背中を振《ふ》り返る。 「自慢《じまん》の尻尾《しっぽ》」  ロレンスの言葉に、ホロはにかっと笑ってローブの下にそれを隠《かく》した。  フードの付いた裾《すそ》の長いローブはホロを旅の修道女に見せると共に、もう一つの重要な役目を担《にな》っていた。  それはこの齢《よわい》十余に見えるホロの腰《こし》から生える立派な毛並みの獣《けもの》の尻尾と、その頭の上で機敏《きびん》に動く耳を隠すため。  笑うホロの口には鋭《するど》い犬歯。  ホロは見た目どおりの少女ではない。  御歳《おんとし》数百歳という、麦に宿る狼《オオカミ》の化身だった。 「ぬしよ、しかし、海じゃった」 「わかったわかった。少し落ち着いたらどうだ? まるで雪が降った時の犬みたいだぞ」 「くうー……落ち着いていられるかや。こんなにも広いんじゃ。わっちが見たことのある草原などどれも狭《せま》い。海原《うなばら》とはよくいったものじゃな」  フードの下の前|髪《かみ》が濡《ぬ》れているのは、おそらく甲板の上でかぶりつくように海を眺《なが》めていたせいだろう。ローブも全体が潮でじっとりしていて、正直、側《そば》に座られるとちょっと嫌《いや》だった。 「お前、海は見たことあるんだろう?」 「うん。その時も散々砂浜を駆《か》けたあと、海を駆けてみたくて何度か飛び込んだんじゃがな。あのどこまでも広がる青い海の上をなにも考えずに全力で走れたらどれほど楽しいかわかりんせん……人は鳥を見て空を飛びたいと思うそうじゃが、海を見て走りたいとは思わないのかや?」  ヨイツの賢狼《けんろう》とはわっちのことじゃ、とたびたびその頭の巡《めぐ》りの良さを見せつけられたことがある自分でさえ、ホロが犬にしか見えない。  若干《じやっかん》の頭痛を覚えながら、こう答えた。 「……この海の続く果てにどんな国や土地があるのだろうか、と思うことはあっても、さすがに走りたいとは思わない」 「ぬしはつまらん雄《おす》じゃな」  ばっさりと切られても苦笑いすら出てこない。  海を見て興奮しているのがありありとわかったからだ。  時折|獣《けもの》っぽいところを垣間見《かいまみ》せることのあるホロだが、こんなにも犬らしいところがあるとなると、この先が少し思いやられてしまう。  なにせ、ロレンスたちが乗る船の行く先は、雪が舞《ま》い散るウィンフィール王国なのだ。  猫《ネコ》が暖炉《だんろ》の前で丸くなるのなら、犬は雪の大地を駆《か》けずり回る。  冗談《じょうだん》ではなく首輪と手綱《たづな》を準備しておこうか。  ロレンスがそんなことを思っていると、ホロは大きくくしゃみをした。 「ほら、毛布でも被《かぶ》っとけ。この寒いのに外に出てびしょ濡《ぬ》れになってたら風邪《かぜ》ひくぞ」 「んむ……海は風が濡れておって困るの。それに潮の匂《にお》いで鼻が馬鹿《ばか》になってしまいんす」  ローブの上からそのまま毛布を被ってすんすんと鼻を鳴らしているのは、嗅《か》ぎなれた毛布の匂いで鼻を慣らしているのだろう。 「ところで、ぬしよ」 「ん?」 「船の行く先に陸地がうっすら見えておったが、あそこに行くのかや」 「いや、あれはまた別の島だ。これから進路を北にとって、着くのは夕刻くらいだろうな」  ウィンフィール王国は大きな島とその周りのいくつかの島を総称《そうしょう》してそう呼ばれる王国であり、大陸とはウィンフィール海峡《かいきょう》を挟《はさ》んで互《たが》いがなんとか見えるくらいの距離《きょり》にある。  その昔、海峡を挟んでの戦争になった時、戦神の生まれ変わりといわれた戦士が槍《やり》を投げて海峡|越《ご》しに攻撃《こうげき》をした、という伝説もある。  もちろん眉唾《まゆつば》物だが、要はそのくらいの距離、ということだ。 「ふむ。まあなんにせよ風が変わらんといいの」 「……ん? 風が?」 「向かい風になったら進まんじゃろう? 今は帆《ほ》一杯《いっばい》に風を受けておるからよいが」  ロレンスはしばしの間、どんな表情をしようかと迷っていた。  ただ、あまり知識をひけらかすと、あとでどんな仕返しをされるかわからない。  嫌味《いやみ》にならない程度に笑いながら、「そうだな。だが」と続けた。 「だが、向かい風でも船はきちんと前に進むことができる。もちろん、多少は遅《おそ》くなるけどな」 「……」  フードと毛布のもこもことした布の下に収まっているホロが、巣穴《すあな》に潜《もぐ》り込《こ》んだ狐《キツネ》のような目をこちらに向けてくる。  耳をひくひくさせているのは、嘘《うそ》か真《まこと》かと疑っている証拠《しょうこ》だ。 「まあ、実際目にしてみないと信じられないのはわかる。こう、風に対して斜《なな》めに進んでいくんだよ。それを右に、左に、と繰り返して前に進んでいく。最初にこの方法を考案した船乗りは、悪魔《あくま》の力を借りていると教会に告発されたらしい」 「……」  ホロはしばし疑わしげにこちらを睨《にら》んでいたが、やがて一応|納得《なっとく》したらしい。  小さくくしゃみをしてから「風向き変わらぬかや」と呟《つぶや》いていた。 「しかし、よもや海を渡《わた》ることになろうとはな」  そんなホロに軽く笑ってから、ロレンスは船室の天井《てんじょう》を見上げて呟いた。  船は波に揺《ゆ》られるたびに不安げな音を立てて軋《きし》んでいるが、これも慣れればいい子守唄になる。  初めて乗った時はいつばらばらになるのかと不安で仕方がなかったものだが。 「今頃《いまごろ》ぬしの愛馬はのんびり飼《か》い葉《ば》を食《は》んでおるじゃろうな」 「別にのんびりさせているわけじゃないが、確かにこの時期じゃ大した仕事はなさそうだからな。羨《うらや》ましい限りだ」 「ほう、嫌味《いやみ》かや」  今のロレンスたちの旅は、大まかに言えばホロのたっての願いを叶《かな》えるために、という体裁《ていさい》を取っている。  もっとも、そんなことは本当に体裁にすぎないと二人ともに理解しているので、ホロはちょっとじゃれたいだけなのだろう。 「仕事を中断しているという意味ではどっちもどっちだが……たまにはのんびりいきたいものだと思ってね」  つい数日前まで、ロレンスはこの船の出発地であったケルーベという港町で、町を二分するような騒《さわ》ぎの中に巻き込まれていた。  伝説の生き物であるイッカクが漁師の網《あみ》にかかったことにより、その高価な生ける伝説を巡《めぐ》って海千山千《うみせんやません》の商人たちがしのぎを削《けず》っていたのだ。  ロレンスの元々の目的は、ケルーベで狼《オオカミ》の骨、ホロと同じような狼の右前足についての情報を追いかけることだったのだが、紆余《うよ》曲折《きょくせつ》があってその事件のど真ん中に躍《おど》り出ることになってしまった。  自分を金に汚《きたな》い人間だと思ったことは数限りないが、それでも上には上がいるものだと思い知らされた。  ケルーベで若くして商館の別館を任されていたキーマン然《しか》り、一人でケルーベの町の全《すべ》てをびっくり返した挙句《あげく》に利益を独占《どくせん》しようとしていたエーブ然《しか》り。  ただ、なんとか全てを丸く治める鍵《かぎ》になることができて、ロレンスたちはその報酬《ほうしゅう》というわけでもないが、狼《オオカミ》の骨についての情報を手に入れ、この船に乗ることと相成《あいな》った。  懐《ふところ》には、ロレンスに便宜《べんぎ》を取り計らうようにという、エーブとキーマンの連名でしたためられた紹介《しょうかい》状が入っている。  ウィンフィール王国という初めて訪《おとず》れる土地では、これ以上ないくらいに心強い武器になる。  もっとも、獣《けもの》が鉄の匂《にお》いを嫌《いや》がるように、ホロはその手紙の匂いが嫌だったようなのだが。 「じゃが、先《せん》だっての騒《さわ》ぎでは幾《いく》ばくかの礼金を貰《もら》っておったじゃろう? 稼《かせ》ぎにはなったんじゃないのかや」 「……やっぱり、財布《さいふ》から銀貨が数枚なくなってたのはお前の仕業《しわざ》か?」 「わっちの後押しがなければ、あの騒ぎの中、ぬしのへっぴり腰《ごし》では耐《た》えきれんかったじゃろうからな。それを考えればあの程度安いものでありんす」  平気な顔でそう言って、ホロはもそもそと毛布の下に潜《もぐ》っていく。  この狼は、人がどの線を越《こ》えると怒《おこ》るか完全に把握《はあく》したうえで行動しているのだ。  財布の中身といえば商人にとって命に近いものだが、ロレンスは怒るに怒れず、やれやれとため息をつくほかなかった。 「当然、こいつにも分けてやったんだよな?」  ロレンスがコルのことを指しながら言うと、ホロはふんと鼻を鳴らして目を閉じる。  ケルーベでの出来事の解決の鍵になったのはコルの知恵《ちえ》だ。  ただ、コルはその性格からして対価を要求することなどできはしないだろうし、こちらがそれを差し出そうとしても受け取らないだろう。  ホロは財布から金を盗《ぬす》むことで、それを無理やりにやってくれた。大方《おおかた》、ロレンスがいない時に、コルの目の前で共犯にするような形でやったのだろう。  ロレンスがホロの丸くなった背中を軽く叩《たた》くと、わさりと尻尾《しっぽ》が音を立てていた。 「それにしても、ブロンデル大修道院とは厄介《やっかい》な場所だな」 「偏屈《へんくつ》な爺《じじい》でもおるのかや」  ひょこりと毛布から顔を出してホロが言う。  ロレンスは、一つ咳払《せきばら》いをして胸に手を当てながら口を開いた。 「聞きしに勝《まさ》るブロンデル大修道院。その荘厳《そうごん》さは数多《あまた》の異教の神が畏《おそ》れをなし、その雄大《ゆうだい》さは無数の民《たみ》の支えとなる。鳴呼《ああ》、ブロンデル大修道院。偉大《いだい》なる神のおわす場所」  有名な詩句を情緒《じょうちょ》たっぷりに唱えてやると、ホロが鼻の頭に皺《しわ》を寄せていた。  まさしくその異教の神と呼ばれる類《たぐい》のホロには面白《おもしろ》くもない場所だろう。 「もっとも、聖人を多数|輩出《はいしゅつ》した昔ならいざ知らず、今はどちらかというと俺らのような人間に居心地《いごごち》のいい場所だな」 「ふむ?」 「その聖性から広大な土地の寄進を受けたり、莫大《ばくだい》な寄付を受けたりする。そうなると嫌《いや》でも財産を管理しなくちゃならないからな。それに、神のおわす場所であるのならその財産も光り輝《かがや》いていなければならないというわけで、もうほとんど一つの商会に近い。そこを傲慢《ごうまん》な修道士が管理するのだから、それはそれは嫌な場所の出来上がりだ」  教会の総本山に鎮座《ちんざ》まします教皇が俗世の皇帝《こうてい》と対立した時には、皇帝を雪の降る原野に三日間放置したという話があるが、商人相手にはそんなものではすみはしない。  商談をまとめたくてあらゆる無理難題を押しつけられた数多《あまた》の逸話《いつわ》が、商人の間では飛び交《か》っている。  もっとも、ブロンデル大修道院も最近ではあまり景気がよくないという噂《うわさ》だが、景気が悪くなって下手に出るのは平民だけだ。  高貴な連中は大抵《たいてい》余計につけ上がる。 「その嫌な場所に、例の骨があるのかや」  さすがにそこはホロも声を潜《ひそ》めて。  ロレンスが曖昧《あいまい》にうなずいたのは、この情報をくれたエーブでさえも確信を持っていなかったからだ。 「確度は高いはずだが、なにせ背の高い石壁《いしかべ》に囲まれた修道院の話だ。そこでなにが行われているのかは神ですらもご存じないと言われることがある」 「隠《かく》してあって暴《あば》かれないものはない、ともわっちゃあ説教で聞いたことがありんす」 「お前ですら耳と尻尾《しっぽ》に本音《ほんね》が出るくらいだからな」 「ぬしは顔に駄々《だだ》漏《も》れじゃがな」  ホロが言ってからのんびり欠伸《あくび》をし、ロレンスもつられて欠伸をしてしまった。出会ったばかりならいざ知らず、今となってはこんな会話も挨拶《あいさつ》みたいなものだ。むしろホロとの会話よりも、コルのほうが気になってしまう。  ロレンスが軽く毛布をめくってコルの顔を見ると、いつの間にか眠《ねむ》りこけていた。このまま眠っていれば、揺《ゆ》れに怯《おび》えることも船酔《ふなよ》いすることもない。  そっと毛布を元に戻《もど》すと、ロレンスと同じくコルのことが気になっていたらしいホロは、伸《の》ばしていた首を引っ込めて自分もまた毛布の下にもそもそと潜《もぐ》っていった。 「着いたら起こしてくりゃれ」  くぐもった声にその丸まった背中を軽く叩《たた》いて返事をすると、むくりと毛布が膨《ふく》らんで、ゆっくりと縮《ちぢ》んでいった。  それが満足げなため息だったらしいと気がついて、ロレンスは笑いながらその背中に手を置いてやったのだった。      船は特に問題もなく航行を続け、予定通りにウィンフィール王国の港町イークに着いた。  出発の時には鉛《なまり》色だった空が甲板《かんぱん》から港に降りる時には綺麗《きれい》な茜《あかね》色に染まっていて、結局最後まで眠《ねむ》り通しだったコルは眩《まぶ》しそうに目を細めていた。  冬の港というのは、どことなく夏の夕暮れを思い出させるところがある。  昼間は湯気が立ち上《のぼ》るほどに活気に満ちあふれていた場所が、急に静かになるせいかもしれない。気だるいような、物哀《ものがな》しいような雰囲気《ふんいき》に包まれていた。  ただ、それにしても港が静かすぎるような気がしたが、きっと寒さのせいだろう。  ウィンフィール王国の大部分は冬になると雪に閉ざされる立派な北国だ。  日が落ち始めた港の空気は恐《おそ》ろしく冷たいし、よく見れば道や建物の隅《すみ》には雪がかき寄せてあった。  ぼろぼろの草履《ぞうり》しか履《は》いていないコルは片時もじっとしていられないようで、しきりに足踏《あしぶ》みをしている。 「ぬしよ、ちゃっちゃと宿を決めんとわっちら凍《こお》りついてしまいんす」  ホロもホロで船の中では毛布に包《くる》まってぬくぬくと眠っていたので、起きた途端《とたん》のこの寒さ  に耐《た》えがたいものがあるらしい。 「お前の故郷は雪が降りしきる場所なんだろう? 少しくらい我慢《がまん》したらどうだ」 「たわけ。ならばわっちゃあ毛皮に包《くる》まってよいと言うんじゃな?」  そんな言葉は両|腕《うで》でコルのことを後ろから抱《だ》きすくめながらだ。  ロレンスは返事の代わりに首を軽くかしげて、キーマンから受け取った紹介《しょうかい》状を開いて目を落とした。 「テイラー商会のドイッチマン氏を訪ねてください、か」  紹介状には丁寧《ていねい》にテイラー商会を示す紋章《もんしょう》も描《えが》かれていて、ロレンスは紹介状を片手に歩き出した。港にはずらりと名だたる商会が並んでいる。中には誰《だれ》でも名前を知っているくらい有名な商会もいくつかあった。  ウィンフィール王国は冬になると国土の大部分が雪に覆《おお》われる反面、それ以外の季節は気候が穏《おだ》やかで雨もよく降り、肥沃《ひよく》な牧草地が延々と続いている。そこで育てられる家畜《かちく》は馬だろうと牛だろうとすぐに立派な体格に育っていくのだが、その中でも特に羊の牧畜が盛《さか》んだった。  ウインフイール王国では草が生えるよりも多くの羊の毛が生えるといわれており、羊毛の出荷はおそらく世界一だ。  港沿いの商会の荷揚《にあ》げ場も羊毛|袋《ぶくろ》の束が山になっているし、どこの商会の軒先《のきさき》にも、国王から許可された羊毛取引商の証《あかし》である羊の角を象《かたど》った看板がぶら下がっていた。  テイラー商会はそんな商会の並ぶ一角にあり、その店構えは一流と名乗ってよいものだった。日が暮れてもその扉《とびら》の内|側《がわ》から蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りが漏《も》れ出てくる商会は、儲《もう》かっているところに他《ほか》ならない。  ロレンスが木の扉をノックすると、すぐに扉は開かれた。  しかし、扉を開ききらないのは、港での営業時間が過ぎているからだろう。  どこの町や港も、商会や職人の工房《こうぼう》の営業時間にはうるさいのだ。 「どちらさん?」 「遅《おそ》くにすみません。こちらの商会のドイッチマン氏にお会いしたいのですが」 「ドイッチマン? はて、あなた様は……」 「ローエン商業組合所属の、クラフト・ロレンスと申します。ケルーベのルド・キーマン氏から紹介を受けたのですが」  と、ロレンスは言葉と共に紹介状を差し出した。  髭《ひげ》を蓄《たくわ》えた中年の商人は、遠慮《えんりょ》なくロレンスの顔を見つめたのちにその紹介状を手に取って、裏と表を見比べてから「少々お待ちを」と引っ込んだ。  扉が少し開いていると、部屋の中から暖かい空気が漏れ出てくる。  しかも、ちょうど仕事が終わった時間に当たるためか、蜂蜜《はちみつ》を混ぜて煮《に》た羊か牛の乳の匂《にお》いが香《かお》ってくる。ロレンスですらいい匂いだと思ったので、鼻の利《き》くホロにはたまらなかったらしい。ぐう、と正直な腹の音が聞こえてきた。  直後、先ほどの商人が戻《もど》ってきて扉《とびら》を開けてくれた。  結構な音だったので、もしかしたら聞かれたかもしれない。 「お待たせしました。ロレンスさん、どうぞ」 「失礼します」  ロレンスは軽く礼をして中に入り、続いてホロ、コルと入っていく。  商人は扉を閉じると、「こちらです」と、先に立って歩き出した。  商会は入り口からすぐに商談の場になっていて、いくつものテーブルと机が置かれていた。調度品はどれも綺麗《きれい》な装飾《そうしょく》が施《ほどこ》されており、壁《かべ》にはこの国の為政《いせい》者の顔を刺繍《ししゅう》した旗が掲《かか》げてある。商会というよりも、どこかの貴族の邸宅《ていたく》にも見えた。  それに、今はそこに並べられたテーブルで商会の人間同士が札遊びに興じている。  ウィンフィール王国の人間は賭《か》け事《ごと》が大好きだが、その割に粗野《そや》なところが少なくて物静かだ。  今も酒を片手に野次《やじ》を飛ばしながらというよりも、温かい飲み物を飲みながら優雅《ゆうが》な時間を過ごしている、といった感じが余計に貴族の雰囲気《ふんいき》をかもし出していた。 「海は荒《あ》れておりましたか?」  ロレンスがそんな商会の中の様子を眺《なが》めながら二階へ続く階段を上《のぼ》っている最中に、案内の商人がそう声をかけてきた。 「いいえ、神のご加護か、さほど荒れることもなく」 「それはよかった。少し前までこの辺りから北にかけて、ものすごい荒れようでしたからね。普段《ふだん》は南から北に海流が流れているのですが、それが逆流しているほどでした」  沖合いが荒れると沿岸の漁で色々な魚がかかったりする。  ケルーベの港町でイッカクが捕《つか》まったのも、それほどに海が荒れたせいだろう。 「こちらの海はそうそう荒れることはないのですが、一度荒れるとしつこいですから。いつもはしんしんと雪が降る中、静かな湖面のような海なんですよ」 「なるほど。では、そのためでしょうか。こちらの国の方々には物静かで柔和《にゅうわ》な方が多いとか」 「はっはっは。陰気《いんき》で日和見《ひよりみ》なだけですよ」  商人をやっていれば宿でいくつもの国々の商人たちと顔を合わせることがままあるものだ。  それぞれ一人の人間で個性があるとはいっても、やはりその土地土地の傾向《けいこう》というのはあるもので、ウィンフィールの人間は物静かで柔和。もちろん、案内の商人が上手に言い換《か》えたように、陰気で日和見ともとれる。  ホロをこの土地に数年置き去りにしたら少しは羊のようにおとなしくなるだろうか、と思ったが、性格はそのままで陰気になられたらなおたちが悪い。  ロレンスがホロを見ると、ホロは「?」と首をかしげていた。 「こちらです」  と、商人が扉《とびら》をノックすると返事を待たずに扉を開ける。 「どうぞ」  そのまま中に通されて、ロレンスは少しだけ顔に驚《おどろ》きが出てしまっていた。  ホロもまた目を見開いて、コルは正直に喉《のど》の奥で小さな悲鳴を上げている。  通された部屋の中。その壁《かべ》には床《ゆか》から天井《てんじょう》までぎっしりと棚《たな》が並んでいて、色々な物が置かれていた。糸、反物《たんもの》、羊毛、それに糸巻き機に機織《はたおり》台。  しかし、なにより目を惹《ひ》くのは、羊の頭蓋骨《ずがいこつ》だ。  蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りに照らされて、羊の頭蓋骨がくばんだ眼窩《がんか》に不気味な闇《やみ》をたたえたまま部屋の闖入《ちんにゅう》者を無言で見下ろすその数、およそ二十。顎《あご》の細いものや平べったいものから、角の大きいものから小さいものまで。  がたん、という音でロレンスはようやく我に返る。部屋の一番奥に置かれていた机で書き物をしていた男が立ち上がった音。  ろくに挨拶《あいさつ》もせず部屋の様子に目を奪《うば》われていた、となれば商談ならば減点ものだが、どうやらこの部屋の主はわざわざ客を驚かすためにそういう趣向《しゅこう》にしているらしい。  実に満足そうに笑っていた。 「我々に富をもたらす羊たちです。教会の方たちには見せられませんが」  口|髭《ひげ》を蓄《たくわ》えた壮年《そうねん》の紳士《しんし》は、笑った時に目が完全に見えなくなるくらいの細目で、握手《あくしゅ》を交《か》わした時の手の皮は厚い。にこにこしていれば実に柔和《にゅうわ》だが、これ以上に表情が読めない相手もそうそういない。  ロレンスは、商談相手でなかったことに心底ほっとした。  どうしても苦手な相手というのはいるものだ。 「当商会で羊毛の買い付けを担当しています、アム・ドイッチマンです」 「突然《とつぜん》のこ訪問お詫《わ》びします。ローエン商業組合に籍《せき》を置く、クラフト・ロレンスと申します」 「まあ、お掛《か》けください」 「失礼します」  定例のやり取りを経て、ロレンス、ホロ、コルの順に長椅子《ながいす》に座り、背の低いテーブルを挟《はさ》んでドイッチマンが座る。  案内をしてくれた商人は、一礼をして部屋から出ていった。 「さて、ケルーべの眼《め》といわれたキーマン卿《きょう》のお名前を拝見した時点で驚きを隠《かく》せないのですが……よもや再びボランの名を見ることになるとは。一体、私はどのような恐《おそ》ろしい商談を飲まされることになるのでしょうか」  ともすれば苦笑いを誘《さそ》う口上はウィンフィールの人間の特徴《とくちょう》だ。  ロレンスは相手に合わせるように鼻を指でこすって、言い訳するようにこう言った。 「王が農民に感謝するのはいつも戦《いくさ》の最中です。その時には、ほんのわずかな水|一杯《いっぱい》が王からの毛皮の贈《おく》り物《もの》に変わったりするものです」 「ほほう。ということは、ケルーベでなにか一騒動《ひとそうどう》が?」 「遠からずお耳に入るのではないでしょうか。私からお話ししてもよろしいのですが、信じていただけるかどうか」  その言葉は思いのほかドイッチマンの興味を惹《ひ》いたらしい。  楽しげに肩《かた》を揺《ゆ》らして笑い、「商売に奇跡《きせき》はつきものです」と付け加えた。 「それでは、早速《さっそく》手紙の件ですが」 「はい」 「ブロンデル修道院に向かいたいと?」 「はい。羊毛の買い付け以外の名目で訪《おとず》れるにはどうすればいいか、と」 「ほほう?」  行商入は顎鬚《あごひげ》を残すが、ウィンフィールの町商人は口|髭《ひげ》を残す。  ドイッチマンは立派な口髭を指でつまんで、捩《ね》じりながらこちらを見る。 「あちらの修道院は、確か巡礼《じゅんれい》はかなり離《はな》れた分館で受け付けており、修道院の建物には近づけない、ということではありませんでしたか」 「ええ。確かにそのとおりです。修道院の本館に入れるのは、あの修道院に属する人間でも限られた者だけです。羊毛の買い付けに際しても、ご存じかと思いますが、専用の分館で行われます。ですから……」 「修道院の本館の扉《とびら》を叩《たた》くのは困難だと」 「まさしくそのとおりです、ロレンスさん。もちろん商人用の分館は修道院にとって生命線ですから、それなりに本館とつながりはありますが……しかし……まさかとは思うのですが……」  歴戦の商人が、その細い目でなにを見たのかわかる。  ボランの署名。  世に名だたるブロンデル大修道院に、巡礼でなく、ましてや商談でもなく赴《おもむ》くとしたら、残る目的は非常に限られる。  そこにこの国の没落《ぼつらく》貴族であり、おそらくはある程度の大きさの商売に関《かか》わっている人間ならば一度は耳にしているだろうエーブの名が出てくれば、思いつくことは一つしかない。 「政治的な密使ではありません。ご安心ください」  商人の言葉はただでさえ信用がない。  ドイッチマンがその瞼《まぶた》の隙間《すきま》から針のような視線を向けてきても無理はない。  この商会で羊毛の買い付けを担当するという男は、しばし手元の紹介《しょうかい》状とロレンスの顔を見比べて、最後にホロとコルを見た。  ロレンス一人で来たら丁重《ていちょう》に断られたかもしれない。  しかし、この二人がいて密使もないだろう。  ドイッチマンは、結局はそう判断したようだった。 「御気分を害されたら申し訳ない」 「いえ、とんでもありません。当然疑ってしかるべきことかと思います」 「ありがとうございます。ですが、ブロンデル大修道院には今現在、特にその手の問題がありましてね」 「え?」  ロレンスが聞き返すと、ちょうど扉《とびら》がノックされて、女中が盆《ぼん》を持って入ってきた。そこに載《の》っているのは、下の階で札遊びに興じる者たちが飲んでいたのと同じものだろう。  掴《つか》めそうなくらいの湯気がもうもうと立ち上《のぼ》っているのは、寒い外からやってきた旅の者に対する気遣《きづか》いかもしれない。 「どうぞお飲みになってください。羊の乳に蜂蜜《はちみつ》とショウガをまぜたものです。この季節には王も貧民も大人も子供も飲みましてね。温まりますよ」 「いただきます」  ぐつぐつと未《いま》だに煮《に》えているせいもあって、歯が溶《と》けそうにすら感じる。  甘いものは嫌《きら》いではないが、限度がある。  礼儀《れいぎ》程度に口をつけておけば、あとはいかにも好きそうなホロが隙《すき》を窺《うかが》って勝手に飲んでくれるだろう。 「話の続きですが」 「はい」 「ロレンスさん、港をご覧になられてなにかお感じになりませんでしたか?」  会話の矛先《ほこさき》を急展開させるのは、相手から本音《ほんね》を聞き出す時の常套《じょうとう》手段。  なので、ロレンスは特になにも考えず、思ったことを口にした。 「寒さと時間のせいかもしれませんが、やや寂《さび》しい感じがしましたね」 「ええ、そのとおりなのです。最近は実に景気が悪い。これは商人同士の挨拶《あいさつ》ではなく、まったくの事実としてそうなのです」 「……申し訳ありませんが、私は大陸で各地を転々としていた行商人で、実はこちらの情勢にはあまり詳《くわ》しくないのです……」 「なるほど。では、スフォン王の禁令についても?」 「恥《は》ずかしながら」  ロレンスたち行商人も商《あきな》いを行う土地のお触《ふ》れについては把握《はあく》しておく必要がある。  しかし、いざとなれば無人の荒野《こうや》を行くことで誤魔化《ごまか》しようのある行商人とは違《ちが》い、港という設備がなければ荷を積み下ろしできない貿易商には、お触《ふ》れは神の言葉に等しいものになる。 「この禁令は、言ってしまえば輸入を禁止する命令でありましてね。輸出は大いに結構。しかし、輸入は小麦やぶどう酒に限るというものです。その目的は」 「金の流出の防止、ですね?」 「そのとおりです。在位五年目のスフォン王の最大の目的は、この国を豊かにすることです。ですが、もうここ何年か羊毛の売り上げは落ちるばかり。ここ二、三年は目を覆《おお》うばかりです。他《ほか》にはこれといって他国に輸出する物のないウィンフィールですから、売る分より買う分が多ければ貧しくなるのは世の道理。そこでろくに商《あきな》いの経験のない王が考えついたのが、これなのです」  ドイッチマンは両|掌《てのひら》を上に向けて、呆《あき》れ返る仕草。  これほどあからさまに非難するのだから、町では相当評判の悪い禁令なのだろう。 「この国に商品を売りつけられないとわかっていてもなお、わざわざやってきてくれるような商人はいません。港に着く船の数は激減し、宿屋はすかすか。酒場でぶどう酒は売れず、肉は売れず、旅人用のマントや毛布も売れず、馬屋は馬の飼《か》い葉《ば》代で破産しかけ、両替《りょうがえ》商は天秤《てんびん》の上の埃《ほこり》の重さを量る始末です」 「悪循環《あくじゅんかん》ですね」 「そのとおり。剣《けん》を振《ふ》り回してきた王には知恵《ちえ》の回し方がわからんのでしょう。そんな状況《じょうきょう》なので当然景気は悪くなり、町から見る見る貨幣《かへい》が消えていき、今ではほら」  喋《しゃべ》りながら慣れた手つきで取り出したのは一枚の貨幣。  幾《いく》世代にも渡《わた》り、いくつもの島の王たちと、極北の海の海賊《かいぞく》をも巻き込んだ壮絶《そうぜつ》な権力|闘争《とうそう》の末に、ついにウィンフィール王国を樹立したウィンフィール家。  その三代目のスフォン王の横顔が描《えが》かれた貨幣は、真っ黒でこの部屋の明るさでは細かい装《そう》飾《しょく》が見えないほどだった。 「銀に銅やらなんやらをまぜすぎでこの有様《ありさま》です。腕利《うでき》きの両替商でももはや銀の含有《がんゆう》量を量れないほどだそうです。貨幣に信用がなければ商いは行われない。せめてパンを買う程度の小銭は、ということで大陸から銅貨を輸入している領主の方たちもいるようですが、焼け石に水ですね。それで、こんな有様ですから余計に王は躍起《やっき》になって、というわけですが……」  ホロとコルもテーブルの上の貨幣を覗《のぞ》き込むようにしていたが、話が続くらしいとわかって体を起こす。 「こうなると、現状を見て目の色を変える商人の方たちが出てくることになります」  商売は単純な綱引《つなひ》きだ。  一つ一つの糸を手繰《たぐ》っていけば、どれも簡単に行きつく先が読める。経済が疲弊《ひへい》し、貨幣の悪鋳《あくちゅう》のせいでパンを買う小銭にも事欠くようになるとどうなるか。一国の経済は石壁《いしかべ》の中で行われる秘密の儀式《ぎしき》ではないから、必ずどこかの国の貨幣《かへい》はどこかの国の貨幣で価値を計られることになる。  では、ウインフィールの貨幣だけが真っ黒で粗悪《そあく》な貨幣になっていったとしたらどうなるか。  弱った鹿《シカ》が狼《オオカミ》に食われるように、弱い貨幣で計算される財産は、強い貨幣によって食い荒《あ》らされるのだ。 「商品ではなく、財産を買いに来る連中ですね?」 「そのとおり。手負いの魚に鮫《サメ》が群がるように、ですね。ですから、私はロレンスさんもその手合いなのかと」 「なるほど。確かにブロンデル修道院は狙《ねら》われそうです。格式と、権威《けんい》と、そして財産がある」 「はい」 「ちなみに、その鮫役は一体どちらが?」  その質問に、ドイッチマンはうらぶれた酒場が似合いそうなほどの下世話な笑《え》みを浮かべ、犬歯を剥《む》き出しにしてこう言った。 「月と盾《たて》の紋章旗《もんしょうき》」 「!」 「そう。大陸北部一帯を根城《ねじろ》にするルウィック同盟。彼らこそが鮫役です」  月と盾をあしらった、綺麗《きれい》な緑色に染めた旗を掲《かか》げる大型の軍船を何|隻《せき》も所有し、十八の地域と二十三の職業の組合が手を結び、三十の貴族を後ろ盾にした十の大商会が統《す》べているといわれる最強の経済同盟だ。  どこそこの国の王の指名は彼らの円卓《えんたく》で決められる、という冗談《じょうだん》すら笑い飛ばせない。  そんなところに狙われたら、もはやまともな方法ではなす術《すべ》などないだろう。 「当然、我々は恐《おそ》ろしくて手を出せません。ですから高みの見物ですね。それに彼らは礼儀というものを弁《わきま》えている。我々の羊毛取引の邪魔《じゃま》はしませんから」 「目的は、修道院の土地、でしょうか」 「ええ。この機に乗じて修道院の土地を買い漁《あさ》り、国王からの増税と領地の収入減少に喘《あえ》ぐ領邦《りょうほう》貴族を買収して、王国の国政に関《かか》わる足がかりを得ようという魂胆《こんたん》のようです。彼らくらいの規模になると行動を隠《かく》し立《だ》てできませんが、それがまた彼らの行動を後押しする」  彼らに狙われたら最後、スフォン王は傀儡《かいらい》になる、と踏《ふ》んだ貴族たちがルウィック同盟に取り入る姿が目に浮かぶ。  そうすればあとは雪崩《なだれ》のようになるだろう。  ロレンスは隣《となり》のホロを見る。  行く先々で、面白《おもしろ》い話が待っているな、と。 「もっとも、修道院が思いのほか頑張《がんば》っているようで、交渉《こうしょう》は難航しているそうです。今や同盟内のどこの商会も出し抜《ぬ》いて交渉《こうしょう》を成立させようと躍起《やっき》になっていると聞きます。ですから、そうですね」  ドイッチマンはもう一度|紹介《しょうかい》状に目を落として、口|髭《ひげ》をつまむとやや首をかしげながら言葉を続けた。 「ロレンスさんがそんな巣《す》に赴《おもむ》く危険に見合うとご判断するのでしたら、複頭の竜《リュウ》の一つにご紹介申し上げても構いませんが……」  そして、陰気《いんき》で日和見《ひよりみ》なウィンフィール王国の商人は薄《うす》く笑う。 「唯《ただ》一つ、当商会はあなた様とは会わなかった、ということが条件です」  即答《そくとう》はできない。  だが、時間を置いたところで考えが変わるとは思えない。  それにそこまで面白《おもしろ》い話になっているのだとしたら、周りの商人連中がまったく手出しもせず高みの見物とは考えにくい。  面白い余興は、目の前で見たがるものだ。  ブロンデル修道院にはそこで育てられている羊の毛を買い付けに来る商人たち専用の敷地《しきち》がある。  おそらくそこはちょつとしたお祭り騒《さわ》ぎになっているだろう。  もしも触《ふ》れてみてあまりにも暖炉《だんろ》が熱ければ、また別の方法を考えればいい。  ロレンスはそう思って、ホロのほうすら見ずに、こう答えた。 「お願いできますか」  ドイッチマンは、にっこりと笑ったのだった。        ぼす、と一際《ひときわ》大きな音を立てて置かれたのは、これから船に乗せられて遠くの異国に出荷されるのを待っているかのような羊毛|袋《ぶくろ》。  そう言われてもロレンスは納得《なっとく》してしまっただろう。  麻《あさ》布を縫《ぬ》い合わせた平べったい袋の中に、たっぷりと羊毛を詰《つ》めた掛《か》け布団《ぶとん》。重くて硬《かた》くてそのくせ一向に暖かくならない毛布を十枚重ねるよりも、この一枚だけで汗《あせ》をかきそうな代物《しろもの》だ。  そんな物が三つ、部屋に運ばれてきた。 「これは……うむう。ぬしよ、大丈夫《だいじょうぶ》なのかや?」  宿の中で一番上等の部屋の、薪《まき》をこれでもかと放《ほう》り込んだ暖炉の前で、潮まみれだったために洗った髪《かみ》を乾《かわ》かしていたホロがさすがにそう言った。  けちけちせずにいい宿を取れ、などと毎回言うホロであっても金|勘定《かんじょう》が多少はできる。  これまで一度も泊《と》まったごとがないような部屋は、そう言わしめるに十分だったようだ。 「この宿に客が来るのは十日ぶりで、この部屋に客が入るのは四週間ぶりで、この季節になると旅人はもっと減るらしいからな。この部屋に泊《と》まって薪《まき》代込みでリュート銀貨一枚でお釣《つ》りがざらざらきた。もっとも」  と、ロレンスはテーブルの上に並べた黒ずんだ硬貨《こうか》を指差しながら言う。 「この貨幣《かへい》でなにが買えるのかと考えるとちょっと不安だが」 「ふむ。弱みにつけ込んだわけかや」 「人聞きが悪い。欲しがる人がいなければ、物の値段は下がるものだ」 「ま、ねしが見栄《みえ》を張ってこんな部屋を取ったのでなければよい。ほれコル坊《ぼう》、そっち持ってくりゃれ」  ホロはいそいそと寝床《ねどこ》の準備を始めて、ふかふかの羊毛の布団《ふとん》におっかなびっくりのコルをからかいながらはしゃいでいる。  それを苦笑しながら眺《なが》めつつも、頭の中では少し別のことを考えていた。  ドイッチマンの語っていた、この国の窮状《きゅうじょう》と、それを好機とばかりにやってきたルウイック同盟の話。  強い者が弱い者を食うのはいつの世にあっても共通の定めといえる。  ただ、ロレンスが驚《おどろ》いてしまったのは、いくつもの詩歌において讃《たた》えられている彼《か》のブロンデル大修道院もその定めから逃《のが》れられないのかということだ。  確かに今の世では教会の権威《けんい》が衰《おとろ》え始めているとはいっても、まだまだその底力は衰えていないという感覚がどこかにあった。特にロレンスはホロと出会ってすぐの時、他《ほか》ならぬ教会が存在したからこそホロを人質にとられ、大きな困難に巻き込まれたのだ。  巨大《きょだい》な王国の城が落城寸前であるのを間近で見るような、そんな興奮と寂寥《せきりょう》の入りまじった不可解な気持ち。  当然、どちらを応援《おうえん》するというわけでもないし、どちらかを攻《せ》めるというわけでもない。  人だって羊を食べるし、狼《オオカミ》に襲《おそ》われることもある。  そんなことを思っていたら、ひょいとホロがこちらの顔を覗《のぞ》き込んできた。 「その顔は、よからぬことを企《たくら》んでおる顔じゃな」  暖炉《だんろ》としっかりとした造りの木窓のお陰《かげ》で部屋はだいぶ暖かくなっている。  それでも、ホロがローブを脱《ぬ》いでなお汗《あせ》ばんでいるのはコルと遊んでいたからだろう。ベッドに腰掛《こしか》けて水差しから水を飲んでいるコルは、疲《つか》れきったように背中を丸めていた。  対して、ホロの目を見るとらんらんと輝《かがや》いている。  もしかしたら、羊毛の匂《にお》いに興奮しているのかもしれない。 「まあ、確かによからぬことには違《ちが》いない。教会よ永遠なれ、と思っていたのだから」 「なんじゃ。それは」  ホロが鼻白《はなじろ》んで椅子《いす》に座り、テーブルの上に置いてある水差しに口をつける。  もっとも、水差しとはいってもその中身はぶどう酒だし、しかもそれは陶《とう》製でも鉄製でも銅製でもない。  貿易が盛《さか》んな島国らしく、はるか南の地で取れるという椰子《ヤシ》の実をくりぬいて作ってあった。 「ああ、さっきの話じゃな」 「お気に召《め》さないのなら、俺は強敵だった相手が脆《もろ》くも崩《くず》れ去ろうとしているのを喜んで見ているような商人に鞍替《くらが》えでもするんだが」 「……たわけ」  ホロはしばし迷ってからロレンスの足を蹴《け》った。  迷った理由は、ケルーベの港町でのイッカクを巡《めぐ》る大|騒《さわ》ぎのことを思い出したのだろう。  ホロは意外に義に厚い。  さりとて、苦難に陥《おちい》ったかつての強敵に無条件に手を差し伸《の》べられても困る、というあたりだろう。  ケルーベで手を差し伸べた相手のエーブは、ローム川の狼《オオカミ》と呼ばれた実に美しい商人だった。  ただ、この話を使ってホロをからかう時は、命を賭《か》ける遊びになってしまう。  エーブに不意をつかれたあの事件のあと、ロレンスは文字どおり針の筵《むしろ》に座らされた。  あんな経験は、もう二度としたくない。 「単純な感傷だ。愛憎《あいぞう》入りまじるといっても、教会に助けられたことだって少なくない」 「むう……まあ、それはわかりんす。じゃが、あの商会のなんたらいう奴《やつ》は、実に楽しげに話しておったな」 「実際に楽しいんだろう。ドイッチマンは羊毛の買い付け担当《たんとう》と言っていただろう? 修道院から商談を取りつけるのは大変なんだ。だから修道院が劣勢《れっせい》に立たされていることは嬉《うれ》しくてたまらないはずだ」 「陰険《いんけん》で日和見《ひよりみ》、じゃったかや」 「そう。ただ、布団《ふとん》を運び込んでからのお前は少し陽気すぎだがな」  その言葉にホロはむっとして耳を立て、頬《ほお》を膨《ふく》らませる。  それでもやはり自覚があったのか、すぐに頬の中身をため息にして吐《は》き出した。 「こんな布団では逆に眠《ねむ》れぬ。羊の匂《にお》いで目が覚めてしまいんす」 「連中も同様に金の匂いで眠れないだろうな。そして、多分、修道院の騒《さわ》ぎには俺たちの出る幕などない。お前の機転とコルの知恵《ちえ》、それに俺の度胸をもってしても相手が悪い」 「なんじゃそれは」  テーブルに頬杖《ほおづえ》をついて呆《あき》れながら言ってくるが、それはそれで楽しそうだ。 「では、どうするんですか?」  と、口を挟《はさ》んできたのは暖炉《だんろ》の具合を見て薪《まき》を足していたコルだ。  薪《まき》の置き方が上手なのは、さすが北国の生まれというべきか。 「ルウィック同盟が狼《オオカミ》の骨の話を追いかけているとは思えない。もしもそうならエーブやキーマンの耳にも入っているだろうからな」 「違《ちが》う獲物《えもの》を求めて鉢合《はちあ》わせ、かや」 「鉢合わせという言葉が適切かどうかはわからないが……とにかくルウィック同盟は一つの王国と見るべきような巨大《きょだい》な相手だ。とても勝負にはならない。ただ、考えようによっては好都合ともいえるんだ」 「ふむ?」  コルは話を聞きながら暖炉《だんろ》の前でばさばさと外套《がいとう》を振《ふ》り始める。  暖炉の熱で虫を追い払《はら》っているのだろう。 「蛇《ヘビ》のようにしつこい連中が食らいついているんだ。今頃《いまごろ》修道院の財産は丸裸《まるはだか》で、目録を作る手間が省けるだろう。それにドイッチマンの話では同盟は修道院の広大な土地が目当てだというからな。仮に目録の中に狼の骨があったとしても、重要視されない可能性が高い」  金貨で千枚二千枚となれば当然彼らにとっても無視できない金額の話になる。  しかし、狼の骨はいくら高価だといっても、まだしも金を積めば買える物の中にある。  本当に高価なものというのは、いくら金を積んでも買えないもののことだ。 「修道院の側《そば》に行くだけなら危険はまったくないと思う。あるとすれば……」 「なにかや?」  首をかしげたホロに、ロレンスはこう言ってやった。 「ブロンデル修道院には十万頭に及《およ》ぶといわれる羊がいる。お前、そんなところに行っても大丈夫《だいじょうぶ》か?」  当初は冗談《じょうだん》まじりに考えていたことだが、羊毛のたっぷり詰《つ》まった布団《ふとん》を前にこれでは、先が思いやられるというものだ。  この時期だと春頃の羊毛の買い付けのための商人も詰めかけているだろうし、品評のための羊だけでものすごい数になる。それでなくてもあちこちに羊に関係する物があふれ返っているはずで、ホロの大|嫌《きら》いな羊飼いだって羊に負けず劣《おと》らずたくさんいるだろう。  そのうえに雪がちらつく大平原となれば、船の甲板《かんぱん》であれほど騒《さわ》いでいたホロが一体どうなってしまうのか、ロレンスは心配よりも不安のほうが勝《まさ》ってくる。 「ま、大丈夫じゃろ」  ところが、ホロはあっけらかんとそう言い放つ。  一体その自信がどこからくるのかと、ロレンスが陽気な狼《オオカミ》に視線を向ける。  狡狢《こうかつ》な賢狼《けんろう》は、にんまりと笑ってこう言った。 「匂《にお》いが気にならなくなるほど羊肉を食べていけばよい。どんなに好きなものでも飽《あ》きぬものはない。違《ちが》ったかや?」 「……」 「ほれ、そうと決まればさっさと準備じゃ。嫌《いや》になるほど食べるとなれば、これは一仕事《ひとしごと》じゃからな。それにほれ、コル坊《ぽう》も羊肉が食べたいと顔に大書《たいしよ》していんす」  それは出しに使っているだけだが、コルのまんざらでもなさそうな顔を見たらホロの言葉を無視することもできない。  ただ、多少は言い返しておきたかった。 「いい加減お前に大盤振《おおばんぶ》る舞《ま》いするのも嫌になってきたんだが、それについてはどう思う?」  船に乗ってきたせいで潮にまみれて硬《かた》くなっているローブを少しも気にせず体にまとったホロは、フードを被《かぶ》りながら答えてれた。 「たまには嫌《きら》われておかんとの。ぬしに飽《あ》きられるほうが辛いものでありんす」  自分の胸に両手を当てて、しなをつくってそう言うのだ。  まともに相手をするのも馬鹿《ばか》らしく、「左様《さよう》ですね」と言っておく。  ホロはけたけたと笑いながらコルの手を取って扉《とびら》のほうに歩いていく。  そして、くるりと振り向くと子供のように無邪気《むじゃき》に言った。 「ほれ、早く!」  やれやれ。  ロレンスは胸中で呟《つぶや》いてから、外套《がいとう》を手に取って立ち上がったのだった。      強い貨幣《かへい》はなによりも強い武器。  いくつもの海を股《また》にかけ、あちこちの国々を金貨で征服《せいふく》していった偉大《いだい》な商人の言葉を己《おの》が身で実感する時ほど、商人をやっていて良かったと思うことはない。  ドイッチマンは商会の部屋に泊《と》まるようにと勧《すす》めてきてくれはしたが、ロレンスはそれを断った。彼の話から推測《すいそく》する限り、外国からやってきた旅人は総じて良い目を見れそうだったからだ。  そして、その予測は宿屋の時点で証明されていた。  この国の貨幣に両替《りょうがえ》しないほうがいいですよ、というドイッチマンの忠告に従うまでもない。  ロレンスが試《ため》しにトレニー銀貨よりもやや劣《おと》るリュート銀貨を一枚出してみたら、酒場の主人ははちきれんばかりの笑顔《えがお》になった。  黄色い脂肪《しぼう》をたっぷりと身にまとい、丁寧《ていねい》に焼かれた羊肉がこれでもかと皿に盛られている。  牧草地の草が少なくなるこの季節は、羊を養うにも金がかかる。今年はたくさんの羊飼いが、まず自分たちの食い扶持《ぶち》を確保するために例年以上の羊を潰《つぶ》したのだという。  そのため肉の保存に使われる塩や酢《す》は高騰《こうとう》したらしい。  となれば、この国の寒さを利用して氷の中に保存されている生肉がもっと安くなるのは自然の道理。かぶりついたあとにぶどう酒を飲むと、酒の表面に油膜《ゆまく》ができるような肉がこんなに安く食べられるなどそうそうあることではない。  ただ、パンの質がそれほど良くなかったのは気がかりだった。  パンの質はその国の質といわれることがある。パンの原料になる小麦やライ麦の粉は、肉や野菜とは違《ちが》って保存が利《き》くので、国の情勢が不安定な時には将来の有事に備えて上等の粉を使わなくなるからだ。 「いやあ、久々に来てくれたお客さんが大飯食らいとは、これはまさしく神様の思《おぼ》し召《め》しに違いない!」  主人の言葉は大袈裟《おおげさ》に過ぎるだろうが、実際に酒場の入りはせいぜい半分といったところで、その大半がつつましやかな酒を飲んでいる。  どれも地元に住み着く人たちのようで、職人が半分、小売商が半分といったところだろうか。  海の向こうに本拠《ほんきょ》地を置く商会の人間たちがいないのは、おそらく景気の良さを見せて地元民の反感を買うことを恐《おそ》れているのだろう。  もっとも、それは旅人の場合には逆になる。  気前良く他《ほか》の客にも肉と酒を振《ふ》る舞《ま》えば、その脂《あぶら》と酔《よ》いは彼らの口を滑《すべ》らせる素晴《すば》らしい潤滑剤《じゅんかつざい》となる。 「見てくれこの活気のなくなった酒場を! おいお前たち! 酒と肉はこうやって飲み食いするもんだぜ!」 「うるせえぞ亭主《ていしゅ》! お前だってぶどう酒飲まないで土間で仕込んだ薄《うす》いビールばっかり飲んでるじゃないか!」 「そうだそうだ! パンに豆を入れすぎて嫁《よめ》に泣かれたって話を聞いたぞ!」  酒場の主人と常連たちは声高《こわだか》に野次《やじ》の応酬《おうしゅう》をしているが、そのあとにはすぐに大きな笑いが続いて起こる。  景気が悪くなれば世界は終わりだと思うのが町の人間の常。  そこに景気の良い旅入が現れれば、まだまだ世界は捨てたものではないと希望が持てるのだ、と町商人から聞いたことがある。 「ところで客人はどこから来たんだね」  焼いたものばかりでは飽《あ》きるだろうということで、酢漬《すづ》けのキャベツと一緒《いっしょ》に羊を煮《に》込んだ鍋《なべ》を持ってきた主人に、ロレンスはそう聞かれた。  ホロに尋《たず》ねなかったのは、女子供だからというわけではなく、周りの客が立ち上がって応援《おうえん》したくなるくらいに肉を貪《むさぼ》り食うのに忙《いそが》しかったからだろう。 「海を渡《わた》ったケルーベから。その前はもっと南のほうからやってきました」 「ケルーベ? おおう、ケルーベといやあ、大|騒《さわ》ぎだったんだろう? なんだったか……おい、ハンス! ケルーベの話、どんなんだったっけか!」 「イッカクだろう? 酒場の亭主《ていしゅ》が情報に疎《うと》くてどうするんだ。氷の海の悪魔《あくま》が網《あみ》にかかって大|騒《さわ》ぎになったらしいぜ。さっき港に入ったレオン商会のところの船乗りがそう言ってた」  情報は海すらも越《こ》えるのだから凄《すさ》まじい。  それにあの出来事からまだ数日しか経《た》っていない。 「そうそう、イッカクだ。その話、本当なのかい」  主人は興味|津々《しんしん》といった感じで聞いてくるが、よもやその騒ぎのどんでん返しを担《にな》った人物が目の前にいるとは思わないだろう。  ロレンスはほくそ笑《え》もうと思ってホロを見たが、あっさりと無視された。  それでコルに視線を向ければ、きちんと秘密を共有する仲間同士の笑顔を向けてくれる。  どちらの旅の伴侶《はんりょ》に優《やさ》しくしたくなるかといえば、問うまでもないだろう。 「ええ、本当でした。町が北と南に二分されるような大騒ぎで……。最後はある商会が金貨の詰《つ》まった箱をいくつも教会に運び込んで、イッカクを売れ、と啖呵《たんか》を切る始末で。ただ、そんな大騒ぎでしたから町ではゆっくりできませんでした」 「ほほぉ、金貨の詰まった箱をなあ」  周りで話を聞いている連中も、反応したのはそこだった。  目下なにに興味があるのか実にわかりやすい反応だ。 「で、あんたさんはケルーベよりも南から、わざわざなぜこんなところまで? やっぱり商売か?」 「いいえ。ブロンデル修道院に巡礼《じゅんれい》にやってきたんです」  金貨のところに最も反応したので、金の話題は避《さ》けることにした。  見たところ商人や職人が客の大半を占《し》めている。  もしも商売に来たとなれば、話を集めるどころか自分たちの商品の売り込みをされかねない。 「ほお、ブロンデル修道院に……」 「こちらの旅の違れ二人が、信じていただけるかどうかは不安ですが、一応神の子供たちでして。私も柄《がら》になく感化されて、これまでの罪を清めていただけたらと」 「なるほど。だが、ブロンデル修道院に商人さんが巡礼とはなあ……皮肉なもんだ。なあ」  いつの間にか主人もぶどう酒の入ったジョッキを持って、客に向かって言葉を向ける。  主人の顔が皮肉っぽい笑顔なら、客の顔もまた同様だ。  ロレンスは、精一杯《せいいっぱい》無知な旅人を装《よそお》った。 「皮肉、というのは?」 「おお、というのはな、ブロンデル修道院は聞きしに勝《まさ》る商売上手で、もう何年もの間、まともに巡礼客なんて相手にしなかったんだ。あそこに行く外国からの旅人は、そのほとんどがこの町を通るけどな、がっかりした顔で帰途《きと》に就《つ》く連中をたくさん見たよ」 「巡礼《じゅんれい》者を受け入れるには宿や道を整備しないといけない割に、彼らは羊毛取引と比べたら微々《びび》たる金額しか落としていかない。修道院に置かれている天秤《てんびん》がどちらに傾《かたむ》くかは、子供でもわかるというものだ。おお、寛大《かんだい》な神のご加護あれ」  商人と思《おぼ》しき客の言葉に、主人は大きくうなずいている。  修道院も商会も、金|儲《もう》けを考え出すと取り出す手段は同じらしい。  最も儲かる商売を行い、最も儲かる取引相手を大事にする。  ただ、そのせいで失ったものは多いはずだ。 「で、そんなことばっかりしていたせいか、神の罰《ばち》がついに当たった。ここ数年、この国の羊毛がどういうわけか売れなくなって、真っ先に苦しくなったのがブロンデル修道院だ。これまでどんな羊よりも従順に修道院に足を運んでいた商人たちがやってこなくなり、慌《あわ》てて寄付金を募《つの》ろうとしても追い払《はら》った巡礼客は今更《いまさら》戻《もど》ってきやしない」 「そんなところに外地の商人さんが巡礼とは、まあ、修道院の罰もここに極《きわ》まれり、だな。いい気味だ」  信仰《しんこう》の拠《よ》り所《どころ》として人々に崇敬《すうけい》されているからこそ、そうでなくなった時の反動もまた恐《おそ》ろしい。  客は口々に修道院の悪口を実に嬉《うれ》しそうに話している。  だとすると、ルウィック同盟の話も簡単に聞けそうだった。 「そんなことになっていたんですね……。では、今は誰《だれ》も訪《おとず》れる人がいない状況《じょうきよう》なのですか?」  ロレンスがそう口にすると、主人の顔がとても複雑なものになった。  嬉しくて仕方がない。  しかし、そうとも言いきれない。  ロレンスはそれで理解する。  ブロンデル修道院は、今でもまだこの町や国の人々の心の多くを占《し》める、信仰の象徴《しょうちょう》なのだ。 「いいや、今でも商人さんたちが集まってる。だが、今までとはちょっと違《ちが》う連中だな。ルウィック同盟、て知らないか」  ホロが肉をがっつくのをやめて、小休止とばかりに酒に口をつけているのは偶然《ぐうぜん》ではない。  陽気に盛り上がる話題は過ぎた、ということだ。 「世界最強と名高い経済同盟ですよね?」 「ああ。そこの連中が大挙して押し寄せているらしい。最初は黒馬車に乗ったお偉《えら》いさん。だが、違中は冬の修道院にいられるほど我慢《がまん》強くなかったのか、そのうち徒歩の商人たちがやってきた。それからは入れ替《か》わり立ち替わり、誰が商談をまとめるかと競争になっているらしい。だから今年はうちの酒場も素《す》通《どお》りして、しかめっ面《つら》で草原に旅立って行く商人たちばっかりだ」 「商談とは、一体?」  ドイッチマンの話の裏づけを取る。  ロレンスはそんなことを思いながら聞いたのだが、主人の口にした言葉は、まったく予想外のものだった。 「笑うなよ? 黄金の羊を買いに来たんだと」  ホロの耳がローブの下でぴんと立つ音を聞いた気がする。  ロレンスも、まさか、と主人の顔をまじまじと見つめ返す。 「世相が悪くなるとよく聞く話なんだ。ブロンデル修道院の見|渡《わた》す限りの大草原。雪に覆《おお》われどこまでも白くなった大地の果てに、一つ、昇《のぼ》ってきたばかりの太陽のように、黄金に輝《かがや》く羊が歩いているのを見た、と」 「実際にその毛をむしったという奴《やつ》もいてな、しかしその毛はむしった途端《とたん》に光の束になって消え失《う》せた、ということだが」  確かにその手の話はまま聞くものだ。  戦《いくさ》が劣勢《れっせい》の国ほど奇跡譚《きせきたん》が多い場所はない。  曰《いわ》く教会の聖母が涙《なみだ》を流すとか、耳まで口の裂《さ》けた魔女《まじょ》が子供を攫《さら》うとか、空に教会の紋章《もんしょう》を象《かおど》った巨大《きょだい》な旗がはためいていただとか。  ブロンデル修道院の黄金の羊伝説は、実際に海を挟《はさ》んだ大陸の人間だって知っている者は多い。  世の中が暗くなった時にすがる奇跡としては、手頃《てごろ》なのかもしれない。 「まあ、実際は修道院の名前か、あるいは土地を買いに来たんだろうが……」 「噂《うわさ》だとルウィック同盟はこの国で貴族になりたがっているらしい」 「だが、スフォン王は偉大《いだい》なるウィンフィール一世の孫だからな。自分の家臣に金で地位を買った者がいるのを良しとしない。以前、金で没落《ぼつらく》貴族を買った商人がいたがな、王の怒《いか》りに触《ふ》れて無茶なお触れを出された結果、羊毛取引で大損を出して、これだ」  客の一人が自分の首をかき切る真似《まね》をする。  その商人とは、きっと自分の知っている人の元夫だ。 「その金がなくて増税増税だというのにな。いや、だからこそ過剰《かじょう》に御《ご》反応遊ばされているのか」 「あんたらは良い客だから言っておく。修道院に行くなら注意しろ。あそこは神の家に悪魔が巣食《すく》っている。助けてくれるはずの神様は、広い草原で長いこと迷子だ」  彼らは修道院の悪口を言っているのか、それともルウィック同盟のことを悪く言っているのか判然としない。  彼ら自身もわかってはいないのだろう。  なにかにつけて文句を言えればそれで構わないのだ。  だが、文句を言う相手の誰《だれ》であっても、本気で嫌《きら》っているわけではない。  ルウィック同盟や国王は自分たちとは関係のない場所にいる存在だし、ブロンデル修道院は堕《お》ちてもなお畏敬《いけい》の対象なのだろう。  そんなあやふやさが透《す》けて見えた。  そして、透けて見えるからこそ、いかにこの酒場に来ている者たちの生活が苦しいかも、よくわかった。 「ありがとうございます。注意して行ってきます」 「おう。そうとなればあとは飲んで食って体力をつけないとな! 町を出ればもうすぐに雪原だ。生半《なまなか》な体力じゃあ渡《わた》りきれないぞ!」  主人の言葉で再び酒場は騒《さわ》がしくなり、ロレンスはジョッキをぶつけ合った。  コルはもう限界のようだったが、ホロはまだまだいけるらしい。  雪原のブロンデル修道院。  確かに、たくさん食べておいたほうがよさそうだった。        ちり、ちり、と音がする。  焚《た》き火《び》の炭が火をたたえている音だろうか。  いや、昨晩は焚き火をしていない。そうだ、暖炉《だんろ》だ。  そう気がついたものの、それにしては音が妙《みょう》だ。  ロレンスはそれでようやく目を覚まし、顔を上げた。  部屋は薄暗《うすぐら》いのでまだ早い時刻なのだとわかる。  それに、木窓から入ってくる明かりの強さで、外が晴れているかどうかもわかる。  今日は生憎《あいにく》の曇《くも》り空《ぞら》のようだ。寒くなりそうだな、と思ったのもつかの間、鼻から吸い込んだ冷たい空気が容赦《ようしゃ》なくロレンスの目を覚ます。  すでに相当寒いらしい。  その上での、この炭が熾《おこ》っているような音。 「雪か」  呟《つぶや》き、大|欠伸《あくび》をしてから、体を起こした。  やはり羊毛のたっぷり詰まった布団《ふとん》は抜群《ばつぐん》の保温力で、こんなにぐっすり眠《ねむ》れたのは本当に久々かもしれない。  ホロも熟睡《じゅくすい》しているらしく、ふかふかの布団のせいでいつも以上に膨《ふく》らんだ場所が、ゆっくりと規則的に上下していた。  それにしても寒い。  ロレンスは自分の顔に氷でも押し当てられていたような気がするし、コルのベッドを見ればコルもまたホロのように布団《ふとん》の中で丸まって眠《ねむ》っている。  顔を出して寝《ね》ていたのはどうやら自分だけらしい。  何度も顔をこすって、白い息を吐《は》く。  ベッドから這《は》い出てひとしきり震《ふる》えると、テーブルに歩み寄って水差しを揺《ゆ》すってみる。  期待してはいなかったが、やはり鉄製の水差しの中の水は凍《こお》っていた。 「下に取りに行くか……」  ホロと旅を始めてからこっち、少なくなった独《ひと》り言《ごと》もこういう場面ではつい出てしまう。  まだ若干《じゃっかん》火種が残っていた暖炉《だんろ》に藁《わら》を足し、火が大きくなったところで薪《まき》を足しておく。  煉瓦《れんが》造りの立派な暖炉も、煉瓦の冷たさのせいで火が消えそうな有様《ありさま》だ。  ロレンスは薪に火が燃え移ったのを確認《かくにん》してから、部屋を出た。  廊下《ろうか》はしんと静まり返っている。  客がいないとか、早朝だからとかいうわけではなく、音がなにかに飲み込まれているような静けさだ。  歩くたびに足元で立つ軋《きし》み音も気にならない。  全《すべ》てを真綿で包《くる》まれてしまったような静けさは、雪が降った時独特のもの。  一階に下りるとまだ入り口には木の閂《かんぬき》がかかっていて、営業はしていない。  ただ、中庭に続く廊下の奥から扉《とびら》の開く音が聞こえてきたかと思うと、襟巻《えりま》きをぐるぐる首に巻いて鼻を真っ赤にした主人が桶《おけ》を担《かつ》いで入ってきた。 「おや、お早いですね」 「おはようございます」 「いやあ、寒い寒い。井戸《いど》も凍っていて割るのに苦労しました。こりゃあ今日からついに蓋《ふた》をされてしまうな」  水を一杯《いっぱい》にたたえた桶を奥のほうに担いでいって、廊下に置いてある瓶《かめ》に移す。  寒すぎる地方は冬になると水の確保に手を焼くことになる。雪が降るのに水に困るとは皮肉だな、と思ったものだ。 「蓋ですか?」 「ああ、こちらでは雪に覆《おお》われることをそう言うんです。一日で真っ白になるんでね」 「なるほど」 「それで、どんな御用《ごよう》でしょう。旅の方用の朝食も用意できますが、少しお時間がかかります」 「朝食は大丈夫《だいじょうぶ》です。実は、昨晩酒場のほうで色々と包んでもらいまして」  昨晩は結局町の見回り兵がやってくるまで大|騒《さわ》ぎすることになり、残った料理は包んでもらった。  どれも質の良いものだから、暖炉《だんろ》の火で温めれば最高の朝食になるだろう。 「はっはっは。せっかくいい羊肉があっても食べてもらえなきゃ寂《さび》しいですからね」 「ええ。あ、それで、水を頂ければと」 「はいはい。そうか。鉄製の水差しじゃあひとたまりもないですね。あとでおがくずの詰《つ》まった箱をお持ちしますよ。そこに入れておけば寒さに多少は強くなる」 「お願いします」  素焼《すや》きの水差しに水を入れてもらい、ロレンスはそれを受け取って部屋に戻《もど》った。  雪が降ることを、蓋《ふた》をする、とはいい表現だと思った。  ただ、昔|木賃宿《きちんやど》で寒さをしのぐために安酒片手に一晩中話をしていた傭兵《ようへい》も、似たようなことを言っていた気がする。  戦《いくさ》をするなら北国がいい。  辛《つら》いことも悲しいことも、全《すべ》て雪が蓋をしてくれるから、と。  雪は人を感傷的にする。  ロレンスは苦笑いをして、部屋の扉《とびら》を開けた。 「お。起きてたの——」  か、とまで言葉が出なかったのは、それが憚《はばか》られるような雰囲気《ふんいき》だったからだ。  ホロはベッドの上に座ったまま、木窓を開け放って外を見つめていた。  まっすぐに、微動《びどう》だにせず、時折口元から白い息が上がっていなければそれが陶《とう》製の置物《おきもの》であると思っても仕方がなかっただろう。  ロレンスが部屋に入って扉を閉じても、ホロはずっと外を眺《なが》めていた。  暖炉では薪《まき》が音を立てていたが、ロレンスはさらに薪を足す。  そして、テーブルに水差しを置いてから、ホロのベッドに歩み寄った。 「雪じゃ」  こちらを見ずに、ホロは言う。  ロレンスもすぐには返事をせず、ホロの視線の先を追ってから、「そうだな」と答え、ホロの隣《となり》に腰掛《こしか》けた。  ホロはそのまま相変わらず外をじっと眺めている。  足を組むわけでも、膝《ひざ》を抱《かか》えるわげでもなく、ある瞬間《しゅんかん》にぽんとそこに投げ出されたように、静かに外を見つめていた。  ロレンスは、木窓から流れ込んでくる冷たい風に小さなため息をまぜてから、ホロの頭に手をかけた。  綺麗《きれい》な髪《かみ》の毛は氷の糸のように冷たくなっている。  ホロが雪を見てなにを思っているのかはわかりすぎるほどにわかる。  だから、抱《だ》き寄せることはせずに、そのままにしておいてやった。 「……」 「どうした?」  そうしたら、ホロが無言でこちらを向いた。  もう外を見ていたような無表情ではなく、感情のある無表情。  寒さで色の薄《うす》くなった唇《くちびる》も、柔《やわ》らさを取り戻《もど》す。 「ぬしもようやく気遣《きづか》いができるようになったの」 「風邪《かぜ》ひくぞ」  まともに返事はせず、ロレンスが言うとホロはうなずいた拍子《ひょうし》にくしゃみをした。  それからさっさと布団《ふとん》の下に潜《もぐ》ってしまうので、ロレンスは立ち上がって木窓を閉じた。 「元の姿なら何時間でも雪を見てられたんじゃがな」 「見ている間に雪に埋《う》もれてしまうだろ」  ロレンスが言うとホロは笑い、水差しを指差した。  手|渡《わた》してやると、ホロは残る手でロレンスの手を掴《つか》んでくる。 「雪が降っても大丈夫《だいじょうぶ》じゃと言ったじゃろう?」  そして、そんな台詞《せりふ》を若干《じゃっかん》の笑顔で。  ホロにとって雪は大はしゃぎする類《たぐい》のものではなかったのだ。  ホロが何百年といたバスロエの村は、故郷であるヨイツと違《ちが》って冬になっても雪は降らない。  ロレンスはその冷たい手を握《にぎ》り返して、こう答えた。 「それはどうだろう。なにせお前はいつまでもめそめそしているようなか弱い女の子ではないからな。元気良く駆《か》けずり回るかもしれない」 「……」  ホロは無言で笑って、体を起こすと水差しの水を一口。  すると、途端《とたん》に顔をしかめてロレンスを睨《にら》む。 「ぶどう酒じゃありんせん」 「たわけ」  ホロの口|真似《まね》をして言ってやると、ホロは水差しを押しつけるなり、不貞腐《ふてくさ》れるようにまた横になった。 「なんだ寝《ね》るのか。今日の朝飯は豪華《ごうか》だぞ?」  雪は人を感傷的にする。  ただ、うまい飯が人を陽気にするのも、また事実だった。      さすが牧羊が盛んな土地|柄《がら》というべきか。  昨晩包んでもらった料理の中に見慣れない皮袋《かわぶくろ》が入っていると思ったら、たっぷりとバターが詰《つ》まっていた。  ホロは大喜びでライ麦パンにゆりたくって頬張《ほおば》っているが、小食なうえに朝は弱いらしいコルはそれを見ているだけで胸焼けしているようだった。 「ほれで、わっちらはどうすうんひゃ?」 「食べながら喋《しゃべ》るな。ドイッチマンが言うには俺たちをルウィック同盟に所属する商会に紹介《しょうかい》してくれるとのことだから、連絡《れんらく》待ちだ」 「ふむ……むぐ」  ようやく口|一杯《いっぱい》に頬張ったライ麦パンを飲み下して一息ついているので、なにか喋るのかと思ったらまた大口を開けてパンにかぶりつく。 「お前|冬眠《とうみん》でもするつもりか?」 「ほれはほれでよいかもひれんな……」  うまいものを食べてご満悦《まんえつ》の時にはなにを言っても無駄《むだ》。  ロレンスは暖炉《だんろ》の火であぶった羊肉をパンに挟《はさ》んでかぶりつく。 「ただ、こんなに寒いうえに雪が降ると旅が大変そうですね」  ホロとロレンスのやり取りを楽しげに見ていたコルが、温めた羊の乳に口をつけながらそう言った。 「そうだな。お前は一人旅の時にどうしてたんだ?」 「故郷を出る時は季節が良かったので……。あとは、雪が降りそうな場所は通らないようにしていました。ローム川を越《こ》えると途端《とたん》に寒くなるので」 「だろうな。あの服装で雪に降られると、朝に目が覚めるかどうかは神に祈《いの》るしかない」  コルの頬《ほお》についていた脂身《あぶらみ》のかけらを取ってやると、コルは恥《は》ずかしげに笑う。  それが服装のことか、頬に食べかすをつけていたことかはちょっとわからない。 「まあ、雪に閉ざされるのが当たり前の場所ではそれなりに対策が取られている。道には一定|間隔《かんかく》で木札が立っているし、吹雪《ふぶき》でもなんとかなりそうな距離《きょり》を開けて小屋がある。アロヒトストックも、行ってみたら確かに雪は凄《すご》かったが、雪が凄すぎて逆に山賊《さんぞく》もいないし熊《クマ》や狼《オオカミ》は巣穴《すあな》で震《ふる》えてるしで旅はしやすかった」 「アロヒトストックまで行ったことがあるんですか? 極北の町といわれる場所ですよね?」 「旅人の遺品を届けてくれと頼《たの》まれて一度だけな。ドラン高原のさらにはるか北西だ。噂《うわさ》に名高い凪《なぎ》の大地も見たよ。すごい光景だった」  空の果てに向けて飛び立った竜《リュウ》が起こした風で、草も木もなにもかもが根こそぎになったといわれる大地だ。  雪の全《すべ》てが手前のアロヒトストックに降るせいで、寒いくせにひどく乾燥《かんそう》した不思議な土地。  なにもない、ということが本当にあるのだと知った場所だった。 「聖人アラガヤが三十年の苦行をそこでこなしたと言われているが……もしも本当だとしたら、確かに聖人なのだろうな、と思ったよ」 「へー……」  コルは感嘆《かんたん》のため息をつくように話に聞き入ってくれる。  最近食事が終わったあとにホロの機嫌《きげん》が若干《じゃっかん》斜《なな》めなことがあるが、それも仕方がない。  ホロはこんなふうに話を聞いてくれはしないから、つい対応も違《ちが》ってくる。  神もきっとお許しになられるだろう。 「学校で世界中の町の名を聞きましたけど、実際に行ったことがあるのは少なくて……」 「世の中のほとんどの人がそうさ。俺はあまり隊商を組んだり特定の仲間とつるんだりといった商売をしてこなかったからな。時折、そんなふうに遠出をして色々見ることができた」 「南のほうは行かれなかったんですか?」 「南だと多分お前のほうが詳しいだろう。あとは、東の国のほうも……」  と、言葉を止めたのは、なにも仲間はずれのホロがついに泣き出したから、とかいうわけではない。  扉《とびら》がノックされたのだ。 「はい!」  すっかり雑用係が板についたコルが、元気良く返事をして椅子《いす》から立ち上がる。  ホロは相変わらず朝食の続きだったが、すねていることはすぐにわかる。  来客だというのにフードを頭にかけていないからだ。  ロレンスは、恭《うやうや》しくホロのフードを手に取って、頭にかけてやった。 「どちらさまでしょうか」  コルが扉《とびら》を開けると、そこに立っていたのはエーブを髣髴《ほうふつ》とさせるような重装備に身を固めた人物だった。  頭巾《ずきん》を顔に巻きつけ、くるぶしまで届く外套《がいとう》を二重に羽織り、臑《すね》には毛をそぎ落としていない粗皮《あらかわ》を巻きつけ、背中には大きな麻袋《あさぶくろ》を背負っている。  このまま吹雪《ふぶき》の中の行軍にも参加できそうだが、実際にその人物の頭や肩《かた》には雪が乗っていた。今まさしくここに到着《とうちゃく》したと思《おば》しきその人物は、頭巾の奥の目をきょろきょろさせたあと、顔に巻いていた布を取った。 「クラフト・ロレンスさんの宿はこちらで?」  意外に若い声。  そして、布の下の顔もまだ若い男のものだった。 「ええ、そうです。私がロレンスです」 「おっと、これはこれは。こんな格好で失礼します。私、ドイッチマンさんから言伝《ことづて》を頂きまして」  ロレンスは椅子《いす》から立ち上がって扉のほうに歩いていく。  ドイッチマンの紹介《しょうかい》ということは、ルウィック同盟の人間ということだ。 「いえいえ、こちらからお伺《うかが》いするべきだったかと。とりあえず、どうぞ中に」 「ではお言葉に甘えて失礼します」  ロレンスより少し背が低いくらいの男は、ひょこひょこと軽い足取りで部屋の中に入ってくるが、背負っている荷物や身につけている装備はおよそそんな軽い足取りができそうなものではない。  行商人だとしたら、さぞ過酷《かこく》な場所ばかり回っているのだろう。 「やあ、素晴《すば》らしい部屋ですね」 「本来ならばこんなところに泊《と》まれる身分ではないのですが」 「ははは、役得というやつですね。私も秋口に来た時には堪能《たんのう》いたしました」  綺麗《きれい》な金髪《きんぱつ》で、それを短く刈《か》っているからかもしれない。  男の語り口もまた爽《さわ》やかで好感が持てる。  ホロが少し驚《おどろ》いているくらいだ。 「あ、申し遅《おく》れました。私、ルウィック同盟に所属するフィアス商会のラグ・ピアスキーといいます」 「改めて、ローエン商業組合所属のクラフト・ロレンスです。普段《ふだん》は大陸の行商路で行商をしています」 「おお、それは神のお導き。私もご覧のとおりの旅商人です」  言葉を交《か》わし互《たが》いに握手《あくしゅ》をすると、手の皮の厚さは同程度だったということに少し安心した。  ホロが朝食を片手にベッドのほうに移ったので、ピアスキーに椅子《いす》を勧《すす》めてから、ロレンスも椅子に座った。 「ドイッチマン氏からお聞きしたのですが、ブロンデル修道院にいらっしゃりたいとか」  ピアスキーの性格がせっかちなのか、とは思わない。  近頃《ちかごろ》めっきりそういうことがなくなったが、他人と悠長《ゆうちょう》に挨拶《あいさつ》を交わしている暇《ひま》があったら銀貨の端《はし》でも削《けず》っているべきだ、と考える種類の商人なのだろう。 「できれば巡礼《じゅんれい》用の分館ではなく、より本館に近い商人用の分館に」  狼《オオカミ》の骨の話を追いかけている、とは言わなかった。  どこに骨があるのかわからなかったこれまでとは違《ちが》い、ブロンデル修道院に骨があるのではないか、という重要な情報はすでに得ている。不用意にそのことを漏《も》らすのは得策ではない。  それに、ピアスキーはルウィック同盟の人間だ。 「……。ドイッチマン氏からの紹介《しょうかい》なので目的はお聞きしませんが、そう仰《おっしゃ》るということは羊毛の買い付けというわけではなさそうですね」  ピアスキーの目がまっすぐにロレンスのことを見つめてくる。  目的を明かさずに修道院に連れていってくれ、と頼《たの》んでいるのだから当然だ。  しかし、ロレンスのほうも怯《ひる》むことはない。  キーマンとエーブの信用でドイッチマンの信用を買い、その信用でさらにピアスキーの信用も買えているはずだからだ。  信用とは目に見えない通貨。  ピアスキーは、結局|笑顔《えがお》になってこう言った。 「ま、私のほうも、うちと修道院との小競《こぜ》り合《あ》いを観戦したい、なんて人を分館に遠れていっては小遣《こづか》い稼《かせ》ぎをしているので詳しくはお聞きしません。それに、人が集まれば、それだけでいろんな人がやってくる理由になりますしね」  商売とは相手がいないと成り立たない。その点、たくさんの商人が集まる場所ほど商売にとって魅力《みりょく》的な場所はない。  そして、商売はいつだっておおっぴらに口にしないほうが儲《もう》かるもの。  ピアスキーもそのくらいはわかっている。 「月と盾《たて》の紋章《もんしょう》旗はいつだって風にはためいているのですから、細かいことは気にしません」  ただし、自分たちの商売を邪魔《じゃま》立てすれば容赦《ようしゃ》はない、と最後に付け加えることも忘れない。 「ありがとうございます。お礼のほうはもちろん弾《はず》まさせていただきます」  この言葉にきちんと無邪気な笑顔をできるのだから、ピアスキーは本物だ。  ロレンスはピアスキーともう一度|握手《あくしゅ》をして、ひとまず契約《けいやく》は成立した。 「それでは、私はせっかちな人間なので早速《さっそく》出立《しゅったつ》の話に移りたいのですが……修道院に向かわれるのはこちらの方たちも含《ふく》めて全員ですか?」 「ええ。羊毛の買い付けに、という体《てい》では誤魔化《ごまか》せませんか」  コルはともかく、ホロはどう見ても商売とは縁遠《えんどお》い存在に見える。 「いえいえ。商用の旅にだって魂《たましい》の平穏《へいおん》を求めて聖職者を連れて歩くことはありますから。それに今あそこの修道院の分館はちょっとしたお祭り騒《さわ》ぎですからね。今更《いまさら》誰《だれ》が来ようと目立ちませんよ。入り口の門さえ通れれば問題ありません」 「そうですか」  ロレンスは殊更《ことさら》安心したように演技をしておく。  別にピアスキーを騙《だま》すというわけではなく、ピアスキーの語り口が実に爽《さわ》やかなので、自分が油断しないための戒《いまし》めだ。 「それで、出立についてなのですが」 「こちらはいつでも構いません」 「左様《さよう》ですか……。実は、私は修道院と海向こうの商会の達絡《れんらく》役を受け持っておりまして、可能な限り早く歩くことに価値を見出《みいだ》されています」  若干《じゃっかん》嫌味《いやみ》っぽい言い方なのは、わざとウインフイールらしい言い回しにしているからだろう。  ロレンスはホロとコルを見る。  二人とも、大丈夫《だいじょうぶ》だ、とうなずいた。 「こちらからのお願いですから。たとえ今すぐの出発でも大丈夫です」 「助かります。では、お昼の鐘《かね》を目安に出発したいのですが」 「移動手段は徒歩で?」 「いえ、馬にします。この近辺はまだ雪が浅いですが。修道院のほうはしっかりと積もっているはずなので。馬の手配はこちらでいたしますが、糧食《りょうしょく》は各自でお願いします。あ、そうそう」  ピアスキーは最後に笑顔《えがお》になって、わざとらしくこう付け加えだ。 「この土地の貨幣《かへい》に両替《りょうがえ》する必要は、ありません」  行商人が新しい土地に行ってまずすることは両替だ。  行商人同士だからこそ通じる冗談《じょうだん》に、ロレンスは屈託《くったく》なく笑ったのだった。 [#改ページ]   [#改ページ] [#改ページ]   [#改ページ]  コルが前でロレンスが後ろ。その間にホロが座ってもまだなお余裕《よゆう》を持って座ることができる馬の背中。  ウィンフィールの雪原で橇《そり》を引く長毛の馬は、噂《うわさ》に違《たが》わない大きさだった。 「むう……馬のくせに」  ピアスキーとの待ち合わせ場所に行き、用意されていた馬を見た直後のホロの言葉がなんとも印象的だった。  もちろんホロの真の姿はこの馬よりもはるかにでかい。  ホロが唸《うな》ったのは、馬の大きさもさることながら、自分の知る世界の狭《せま》さと、自分の知らない世界の広さに悔《くや》しさを感じたからだろう。  大陸|側《がわ》では、こんな馬はおいそれと見られない。 「準備はよろしいですか?」  ピアスキーは普通《ふつう》の馬にまたがり、手綱《たづな》を握《にぎ》りながらそう言った。  返事をしたロレンスが手綱を握っていなかったのは、それを引く馬子《まご》が他《ほか》にいたからだ。  これだけ図体《ずうたい》が大きいと、背中に人を乗せるだけではもったいない。子供が乗っただけで息切れしそうに見える騾馬《ラバ》ですら、上手に荷物を載《の》せれば大人四人分くらいの荷物は積める。  ロレンスが少し後ろを振《ふ》り返れば、これでもかと荷物を積んだ荷車が見える。中身は修道院の分館に届ける食料や酒などで、雪が道を覆《おお》い始めたら橇に替《か》えるらしい。  ピアスキーの役目は、修道院と大陸|側《がわ》の商会との間を往復しての情報のやり取りと、こういった物資の運搬《うんぱん》だという。 「それでは、神に旅の無事を祈《いの》りましょう」  修道院に向けての旅路らしく、昼を告げる教会の鍵に合わせてそんな祈りを罐げてから、一行《いっこう》は出発した。  天気は悪く、気温は低い。  それに雪はまだ町に蓋《ふた》をするほどではなく、道の土とまじって泥《どろ》になり、道行く人たちのズボンの裾《すそ》を汚《よご》していた。  ただ、町を出ると収穫《しゅうかく》の終わった畑が続いていて、こちらはもうだいぶ白くなっている。  草原の国と呼ばれるに相応《ふさわ》しい光景で、その自い風景は見|渡《わた》す限りまっすぐに続いている。  そこを、人や馬が通ったせいでむき出しになった泥道が通っていた。  彼らは揃《そろ》ってもこもこと着込んでいる。ロレンスたちも揃って宿から借りたなめし革《がわ》の分厚い外套《がいとう》にその身を包み、手袋《てぶくろ》まで嵌《は》めていた。  しかし、こんな道のりをじっと馬の上で過ごすとなれば、どうしたって寒さは外套を通してしみ入ってくる。いつの間にかホロはコルを懐《ふところ》に収め、ロレンスはホロを収めていた。  旅は沈黙《ちんもく》が支配し、ちり、ちり、とフードに当たる雪の音と、少しでも冷たい空気を肺に入れまいとする長くゆっくり吐《は》き出す呼気の音だけが、やたらと大きく聞こえてくる。  北国の人間は皆《みな》口数が少なく、またその喋《しゃべ》り方は口を大きく開けないといわれているが、その理由がよくわかる。  そして、修道士たちがその修行の際に自らを縛《しば》るさまざまな規則の中に、沈黙を入れた理由もよくわかった。  雪が空を覆《おお》っているせいで暗くなるのが早く、その分短い旅程だったにもかかわらず、ロレンスたちが最初の旅籠《はたご》にたどり着いた時は三人揃って消耗《しょうもう》しきっていた。  喋ることは快楽だ、と切り捨てた過去の偉大《いだい》な修道士は、確かに真実を指摘《してき》したのだろう。  だといっても、ロレンスたちは俗人《ぞくじん》なのだ。  その中でも飛びきり俗っぽいホロは、無味乾燥《むみかんそう》の沈黙の時間に相当神経を削《けず》られたらしく、部屋にたどり着くやフードの上の雪すら払《はら》わずにベッドに倒《たお》れ込んだ。  ロレンスもそれを責める気にはなれない。  きっと、自分の顔は疲《つか》れきったように椅子《いす》に座るコルと同じ顔をしているからだ。  生気がなく参っている様子なのに、さあもっと歩けと言われればのっそりと立ち上がって、再びとぼとぼと歩いていけそうな顔。  体力よりも先に気力を奪《うば》われた時に見せる顔だ。  寒い地方の農村には死人の行列の迷信が数多く残っている。  きっと、彼らはこんな旅人の行列を見て、死人のそれだと思ったのだろう。 「コル」  ロレンスがその名を呼ぶと、死人顔に相応《ふさわ》しくコルがうつろな目を向けてくる。 「笑うと、すぐに治る」  コルも一人で旅をしてきた身。  その治し方を知っていたのだろう。  無理にでも笑って、うなずいた。 「じゃあ、飯に行こう。ピアスキーが交渉《こうしょう》して作ってもらってるはずだ」 「はい」  コルは立ち上がって返事をする。  素直《すなお》な少年が雪のかかった外套《がいとう》を脱《ぬ》ぐ間に、ロレンスはベッドにうつぶせに倒《たお》れ込んだままぴくりともしないホロのフードを取った。 「わかっていると思うが、そうしててもどうせ眠《ねむ》れない。暖かい場所に行って酒を飲めば治る」  眠いのとだるいのとは似て非なるもの。  ホロのしおれた耳がひくひくと動き、わかっている、とばかりに返事をする。  しかし、わかっていてもほとんどの人間が暖かい寝床《ねどこ》から出られないように、ホロは一向に起き上がらない。  仕方なく抱《だ》き起こすと、どこかの英雄《えいゆう》が目覚めの口づけをしない限り解けない呪《のろ》いをかけられたような顔をしていた。  ロレンスはもちろん英雄ではない。  こんな様子のホロの呪いを解き放つには、もっと別の魔法《まほう》が必要だった。 「この近辺の酒はな、簡単に火がつくくらいに蒸留されている」  ホロの耳に囁《ささや》くと、しおれた耳が三角になる。  ついで、本当に? と無言で尋《たず》ねてきた。 「薄《うす》い酒はすぐに凍《こお》ってしまって飲めなくなるからな。その代わり、氷の中に貯蔵しても凍らない、氷よりも冷たくした燃える酒を飲んで暖を取るんだ」  目に輝《かがや》きが戻《もど》ってくる。  ごくり、という生唾《なまつば》を飲み込む音は、呪いの枷《かせ》が外れた音だ。  よろよろとホロは起き上がり、もう三日もなにも食べていない野良《のら》犬のように垂《た》れ下がった尻尾《しっぽ》に多少なりとも力が戻ってくる。 「まあ、つまみは多分キャベツの酢漬《すづ》けだろうがな」  あとで怒《おこ》られても困るので先に言っておく。  ベッドから降りたホロはその言葉によろめきかけたが、酒の魅力《みりょく》でなんとか体勢を立て直したらしい。 「ないよりましじゃ」 「良い心がけだ」  そんなやり取りをして部屋を出て、そういえば、とロレンスは思い出した。  以前に立ち寄った町で飲んだ強烈《きょうれつ》なぶどう酒は、ホロの故郷の酒を思い出させるものだったという。  きつい酒はホロに故郷のことを思い出させ、それだけでひとつの味なのだ。疲《つか》れた時にはなによりの栄養になるに違《ちが》いない。  ブロンデル修道院まではあと二日はかかるという。  ロレンスは、ホロに気取《けど》られないように、財布《さいふ》の中の硬貨《こうか》の枚数を数えたのだった。      旅籠《はたご》の飯は高いまずい臭《くさ》い。  子供が覚えられる簡単な聖句だってここまで覚えやすくはない。  そんな言葉に相応《ふさわ》しいくらいに、隣《となり》のテーブルに並んでいる食事はニンニク臭かった。  ニンニクの匂《にお》いは貧しい食事の代名詞。自分たちはそれなりに節約した食事をしていると思っていても、やはりこういう場所で賛沢《ぜいたく》の弊害《へいがい》が剥《む》き出しになる。  隣のテーブルの食事に腹の虫を鳴かせているのは、つい最近までひょろひょろの蕪《カブ》をかじって旅していたようなコルだげだ。  鼻の良いホロはいわずもがな、ロレンス自身も久々に嗅《か》ぐこの匂いに食欲をかき立てられることはなかった。  そんなロレンスたちが幸運だったのは、十分なお金があったからでも、旅籠の厨房《ちゅうぼう》がニンニクを切らしたからでもない。  こうなることを見|越《こ》していたピアスキーが、自分で腕《うで》を振《ふ》るったからだ。 「普段《ふだん》から北の地を回ることが多いので、雪で足止めされるたびに手伝っていたらいつの間にか覚えていました」  そう言ってピアスキーがテーブルに並べたのは、単純にしておいしい羊肉のスープだった。  水にたっぷりの塩を入れ、ショウガに葱《ネギ》に蕪に干した羊肉と羊の足の骨を入れて煮《に》込むという単純なもの。  ただ、もちろんそこには大事な調味料が一つ隠《かく》されている。  説明の最後にピアスキーが声を潜《ひそ》めて言ったその大事な材料は、隣のテーブルの旅人が悪態をつきながら食べている料理にたっぷり使われている、ニンニクだった。  これをほんの少し使うことが、黄色い脂《あぶら》が浮かぶ透明《とうめい》なスープの味の秘訣《ひけつ》だと言う。  ごつごつの木の椀《わん》に盛られたそれには、そのままかじるには大変な燕麦《エンバク》パンが添《そ》えられている。温かいこのスープを飲みながらふやかして食べるのだ。こうすれば、「我慢《がまん》」という意味の渾名《あだな》をつけられるほど食べにくい燕麦《エンバク》パンもおいしく食べることができる。  ロレンスはピアスキーに感謝しきりだ。  それは料理がおいしいだけではなく、ホロが料理に夢中だったので高い蒸留酒をほとんど忘れていたからだった。 「川や池のない場所では、持っている水がどうしても悪くなりがちですが、こんなふうにあれこれ詰《つ》め込んで丸ごと火にかけてしまえば、相当悪くなった水でも大丈夫《だいじょうぶ》です」  木のスプーンを握《にぎ》ってまぐまぐとスープの中の肉を食べているホロはすでに三|杯《ばい》目。  控《ひか》えめなコルも珍《めず》しく二杯目を盛っているので、そのうまさのほどが窺《うかが》える。 「確かに悪くなった水でこんなにおいしい料理が作れるなら素晴《すば》らしい……。ただ、大人数向けですよね。一人旅で毎回この料理を作っていたら大赤字だ」 「ええ、そのとおりです。隊商を作ってあちこちを回ってましたから、年下の私がこの手のことをおしつけられることもままありました」  たくさんの商人が連なって行う行商は、商売の面でも、旅の安全の面でも格段に良くなる。  ただ、それにしてはピアスキーの旅姿はあまりにも洗練された一人旅特有の鋭《するど》さを持っている。ロレンスがピアスキーを見て真っ先に連想したのは、一人で険しい断崖《だんがい》を突き進む孤高《ここう》の商人だった。  そして、ピアスキーのほうもよくそう言われるらしい。慣れた様子でこう言った。 「もっとも、それは過去の話です。商人が群れても群れは群れ。家族ではありません」 「危機に陥《おちい》った時に、手を差し伸《の》べられるか否《いな》かは損得が決める」  ピアスキーは、少しだけ唇《くちびる》の端《はし》をつり上げながら、「そのとおりです」と肩《かた》をすくめた。  ロレンスも、荷馬車の御者《ぎょしゃ》台に一人で座る前は時折、他《ほか》の商人たちと共に旅をした。  商売がうまくいってしばらく同じ面子《めんつ》で旅を続けたこともあった。  それをいつしかしなくなったのは、利益で結びついただけの集団の歪《いびつ》さに嫌気《いやけ》が差したから、というのは言いすぎかもしれなかったが、まさしくピアスキーが思ったようなことを感じたからだ。  山で狼《オオカミ》に襲《おそ》われた時、皆一斉《みないっせい》に逃《に》げる。  自分以外の誰《だれ》かが襲われてくれ、と神に祈《いの》りながら。  そんな中で自分がその外れくじを引いてしまった場合、助けてくれという叫《さけ》び声はどれほど神の心を揺《ゆ》さぶるのだろうか。 「それに、いくら行商人が群れても町商人の群れには敵《かな》わないことも思い知らされまして。結局、町商人の手先になることを選んだんですよ。自由は減りましたが、代わりに拠点《きょてん》の町には必ず自分を笑顔《えがお》で迎《むか》えてくれる仲間がいるようになりました。得がたい報酬《ほうしゅう》です」  ホロが酒に口をつけ始めたのは、腹が一杯になったからではないだろう。  色々思うところがあったに違《ちが》いない。  旅に暮らす者ならば、コルにだって等しく理解できる話なのだから。 「その点、ルウィック同盟ともなればその報酬《ほうしゅう》はとても大きい、というわけですね」 「ええ、そのとおりです。しかも、商売の幅《はば》は広がりましたしね」 「なるほど。しかし、その割には料理の腕《うで》が錆《さ》びついているわけでもなさそうですが……。いえ、すいません。ピアスキーさんのような旅姿と、料理のうまさがあまりにも不釣合《ふつりあ》いに見えたもので」 「ははは。よく言われます。実際に私は今でも旅の途中《とちゅう》に多人数に料理を振《ふ》る舞《ま》うことがあるんです。それこそ今回のように」  ブロンデル修道院には数多《あまた》の見物人が押し寄せているという。  しかし、ピアスキーの口ぶりはそんな見物人を修道院に違れていく副業が大盛況《だいせいきょう》、という感じでもなかった。  ピアスキーはルウィック同盟で情報の伝達や物資の運搬《うんぱん》を担《にな》っていると自己|紹介《しょうかい》した。  だとすれば、残る可能性は多くない。 「ふふふ。経験を積んだ商人さんは皆《みな》ロレンスさんと同じ質問をします。私はその都度こう言うんです」  楽しそうに笑うピアスキーは、ホロとコルのほうも見回してから芝居《しばい》っ気《け》たっぷりに口を開く。 「旅はまだ始まったばかり。考える時間はたっぷりとあります、とね」  好奇《こうき》心のない商人は信仰《しんこう》心のない聖職者だ。  こんな煽《あお》り方をされたら、くだらないことだとしてもついむきになって考えてしまう。  それは寒く沈黙《ちんもく》の支配する馬の上では、なによりの暇潰《ひまつぶ》しになるだろう。 「ちなみに、私はいつもブロンデル修道院に行くわけではありません」  食事時のちょっとした謎《なぞ》かけは、退屈《たいくつ》な旅の途上《とじょう》ではきっと評判に違《ちが》いない。  ピアスキーは自慢《じまん》の商品を説明するような様子だし、実際に観客は食いついている。  ホロがそんな瑣末《さまつ》な遊びには興味がないとばかりに食事を続けるふりをしながら、その実一向に肉を食《は》んでいないことは明白だし、素直《すなお》なコルに至ってはスプーンを握《にぎ》ったままじっとテーブルの木目を見つめていた。  出題者のピアスキーとしては嬉《うれ》しい限りだろう。  それに対してちょっと困ったのはロレンスだけかもしれない。  ピアスキーを見てロレンスと同じ質問をするのが経験を積んだ商人なら、この問題を簡単に解けるのもまた同じ人間だからだ。  そして、その解答が笑顔《えがお》を呼ぶものだとしても、それがどんな質かまではわからない。  ロレンスにとっては、少し困る類《たぐい》の答えだった。 「ま、考えるあまり夜に眠《ねむ》れなくなっても困りますから、いつでも答えをお教えしますよ」  ピアスキーのだめ押しは眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せる二人を意固地にさせるのに十分だ。  ロレンスが口を開かなければ、二人はずっと動かないまま考え続けていただろう。 「それに、悩《なや》んでも腹は減るし、答えがわかっても腹が膨《ふく》れるわけではない」  旅の空腹はなによりの目覚ましだ。  はっと我に返った二人は再び食事に取り掛《か》かる。  ロレンスはピアスキーと視線が合って少しだけ笑う。  なんにせよ、楽しい食事の時間は素晴《すば》らしい。 「ブロンデル修道院が地の果てにあることを願います」 「さすがにそれだけの謎かけは用意できませんよ」  笑い、食べて、飲む。  その日の晩は、そんなふうにして更《ふ》けていったのだった。      音は大粒《おおつぶ》の雪になった。  風がないのが救いだが、親指の頭ほどもあるそれがざんざかと降りしきる中では非常に視界が悪い。  挙句《あげく》にフードを目深《まぶか》に被《かぶ》ったうえ、吐《は》く息がわずかに残った視界すら白く染めていく。  それでも、町の小さな帳場に座る、目をしょぼしょぼとさせた老齢《ろうれい》の商人が、網《あみ》の目のように張り巡《めぐ》らされた無数の流通|網《もう》を完璧《かんぺき》に把握《はあく》していることなど珍《めずら》しくはない。  この道を行き来して四十年という馬子《まご》にしてみれば、この程度の視界の悪さは悪いうちに入らないらしい。旅籠《はたご》を出る時に橇《そり》に替《か》えた馬を引き、寡黙《かもく》なその馬子は実に頼《たよ》りになる足取りで先頭を切って真っ白になった平原の道を進んでいった。  少しでも立ち止まるとあっという間に体の上に雪が積もるので、休む間もない行軍だ。  ただ、あまりにも白い世界は代《か》わり映《ば》えがなく、馬上で簡単な昼食を取ってしばらく経《た》つと、ついにコルが船を漕《こ》ぎ出した。  馬の背中といっても相当な高さになる。  落馬すれば大|怪我《けが》をしかねないので、ロレンスはあらかじめ用意しておいた麻縄《あさなわ》でホロごとくくっておこうとして、気がついた。  とっくに眠《ねむ》りこけていると思ったホロが、起きてコルを抱《だ》きすくめていたのだ。 「なんだ、起きてたのか」  雪は視界も奪《うば》えば音も奪う。こんなに静かなのに自分の発した声があまり耳に届かない。  後ろで馬を駆《か》るピアスキーにも聞こえはしないだろう。 「起きておらぬ」  くぐもった声でそんな返事が返ってきて、ロレンスは思わず笑いそうになる。  ただ、それがホロの不機嫌《ふきげん》さからくるものだというのはわかっていた。  昨晩の食事の際、ピアスキーが出した謎《なぞ》のことだ。  あれは頭を捻《ひね》ったからといって必ずしもわかるものではないし、たとえ商人であったとしても、場合によってはわかりようもないことだ。  コルは早々に諦《あきら》めて昨晩は早めに眠ったが、ホロは賢狼《けんろう》の二つ名が邪魔《じゃま》をするのかしばらく考えている様子だった。  それでもよほど大仰《おおぎょう》な謎かけならばともかく、食事の際のちょっとしたものに一晩中頭を悩《なや》ませるのも馬鹿《ばか》らしい。さりとて答えがわからないのも気に食わない。  ホロがそんな子供みたいな感情から、ちらちらと意味ありげな視線をこちらに向けていたのは重々承知だ。  なんだわからないのか、とロレンスが笑い、ホロが少しむくれて慌《あわ》てて答えを教える。  そんないつものやり取りですむはずだった。  ただ、ロレンスはそれをしなかった。  できればホロがその質問を忘れてくれはしないだろうか、と思ったのだ。  謎かけの答えにちょっとした不安があった。  心配のしすぎだろうと自分でも思ったが、一度ホロの視線を無視してしまったら、二度目もまたそうしてしまっただけのこと。そうなれば三度目、四度目と続いてしまい、ホロはあからさまに不機嫌《ふきげん》になって意地になって考え込むし、そんな状況《じょうきょう》になったらよほど大笑いするような捻《ひね》りの利《き》いた答えだとしてもホロは怒《おこ》るだろう。  余計に答えを教えづらい。  かくして今に至る。  最初にこちらから答えを教えておくべきだった、と今更《いまさら》後悔《こうかい》しても、遅《おそ》いのだが。 「そんなところかや」  その日にホロが二度目の口を利いてくれた時、口から出てきたのは呆《あき》れたため息まじりによってそう締《し》めくくられた滔々《とうとう》とした長口上《ながこうじょう》だった。  全員分の旅装を、つった皮紐《かわひも》に干していたコルはきょとんとして聞いていた。  夕食後しばらく姿を見せなかったと思ったら、部屋に戻《もど》ってくるなり唐突《とうとつ》に話し出したのだから、至極《しごく》当たり前の反応だろう。  ロレンスは、よくもまあそこまで思考を追いかけられるものだと、感心するほかなかったのだが。 「まったくもってそのとおりだ」 「たわけが!」  言い訳のしようもないので正直に答えると、ホロもまた正直に罵《ののし》ってきた。  それでも、過ぎたるは及《およ》ばざるがごとしというわけではなかろうが、あまりにもロレンスが間抜《まぬ》けすぎてホロの怒《いか》りはそれ以上|継続《けいぞく》しなかったようだ。  椅子《いす》に座るとコルに向かって酒を要求し、行儀《ぎょうぎ》悪く口で栓《せん》を抜いて中身を口にした。 「ぬしが妙《みょう》な様子なのでどんな答えなのかと思ったら……」 「答えを聞きに行ってたんですか?」  ちょっと前までならホロが少しでも不機嫌そうにしていればびくびくしていたコルも、だいぶ慣れてきている。  ホロからコルクの栓を受け取って、そう尋《たず》ねた。 「んむ。気になって眠《ねむ》れぬと言ったら笑われた。わっちゃあ賢狼《けんろう》ホロじゃというのに」 「知らないことはわかり得ない、と学校で学びました。でも、どんな答えだったんですか?」  再び旅装を干す作業に戻ったコルの質問に、ホロは答えを返さず視線をこちらに向けてくる。  面倒《めんどう》くさいのでお前が喋れ《しゃべ》、と言わんばかりだ。  いや、実際にそうなのだろう。  ホロはきつい蒸留酒を片手に、干し肉を食《は》む。  一人旅に慣れていて、なおかつ多人数向けの料理を頻繁《ひんぱん》にする、なんてことは減多《めった》にない。ピアスキーは、新しい町とか市場とかの開設に関《かか》わっているんだろう。何人も案内するというのは、その新しい場所で新しい生活をするための人々のことだ」 「へー……」  話を聞いて感心しながらも、てきぱきと干し終えて今度は囲炉裏《いろり》の中を覗《のぞ》き込む。  暖炉《だんろ》ではないし換気《かんき》の良い造りでもないので、火加減がとても難しい。 「基本的に案内する人たちは旅に不慣れだろうからな。全員を率いるために重装備で、なおかつ全《すべ》ての問題を即座《そくざ》に解決できるくらいの気概《きがい》がないとやってられないんだろう」 「実際、群れを率いておったわっちから見ても頼《たよ》りがいのありそうな雄《おす》じゃ。さっぱりとしておって、口もうまい」  ホロが半目で睨《にら》んでくる。  ロレンスが咳払《せきばら》いをすると、コルが苦笑いのまま口を開く。 「あの人はそんな珍《めずら》しい仕事をしている人なんですね。でも、それで……」  なぜロレンスさんはホロさんにその答えを隠《かく》そうとしたのですか?  コルの素直《すなお》な目が向けられる。  自分が心配しすぎたことを改めて言わされることほど恥《は》ずかしいことはない。  ただ、その罰《ばつ》を受けなければホロは許してはくれなさそうだった。  もちろん、一々ことあるごとにホロに許しを乞《こ》うていたら一人前の行商人としての沽券《こけん》に関《かか》わるところだが、煙《けむり》が立ちこめるせいで大して火を大きくできないこの部屋では、眠る時にホロの尻尾《しっぽ》の温かさがあるかないかは極《きわ》めて重要なことになる。  商人は、損得|勘定《かんじょう》ができなければならない。 「ピアスキーの仕事は、要するに殖民《しょくみん》の手伝いだ。王や貴族が手を出せば領土の制圧で、教会がやれば布教になるという、な。なんにせよ目的はいくつかあるが、共通していることが一つある。新天地へと人々が移り住んで、そこに運よく定着することができたのなら、その土地が新たに彼らの故郷になるということだ」 「あ……」 「大変な仕事だが、儲《もう》かるし、成功すればたくさんの人に感謝されることになる。中には町や村の人に請《こ》われてちょっとした土地の貴族になってしまう連中もいると聞く。それに、新天地に赴《おもむ》く人たちは戦乱や飢饉《ききん》、あるいは疫病《えきびょう》などで故郷をなくしてしまった人たちがとても多い。だから——」  ロレンスは、その先を、ホロのほうを見て言った。 「だから、できればお前が忘れてくれればと思ったんだ」 「ふん」  ホロはそっぽを向いて、干し肉にこびりついていたそぎ落とし損《そこ》ねた皮を剥《は》いで、囲炉裏の火の中に放《ほう》り込む。  もあ、と灰が舞《ま》い上がり、コルが不思議なものでも見るように目で追いかけた。 「わっちらには新しい故郷を作るなどという発想はありんせん。故郷は故郷。誰《だれ》がいるかではなくどの土地かが重要なんじゃ。それに、どうせねしはわっちがこう言い出さないか心配したんじゃろう?」  これまで散々やり合ってきたのだ。  ロレンスの思考はきっちり読み尽《つ》くされていた。 「わっちの故郷も作ってくりゃれ?」  しなをつくって上目《うわめ》遣《づか》い。  コルが珍《めずら》しくじっとこのやり取りを見つめていた。  ホロが怒《おこ》っているのはよくわかる。  だが、その怒り方も構われすぎて爪《つめ》を出しかけた猫《ネコ》のようなものだというのもよくわかった。 「雄《おす》は本当にたわけじゃな!」 「……返す言葉もない」 「まったく」  ホロは吐《は》き捨てるように言って酒を飲む。  ロレンスがやれやれと前|髪《がみ》に手を当てるのもいつもどおりだ。  そして、コルが楽しそうに笑っていれば、全《ずべ》ての儀《ぎ》式《しき》は終了《しゅうりょう》になる。  ホロの尻尾《しっぽ》がゆらゆら揺《ゆ》れる。  明日もまた、早い。 「わっちゃあ怒り疲《つか》れて眠《ねむ》くなりんす」  ホロの群れ捌《さば》きは、実に見事だった。      結局、ブロンデル修道院には三日目の昼過ぎに到着《とうちゃく》した。  大雪に降られたのは二日目だけだったので、これは神の思《おぼ》し召《め》しかもしれない。  ただ、検問で難癖《なんくせ》をつけられることもなく無事分館の中に入れたのは、別に喜ぶべきことではないのかもしれない。  高い石壁《いしかべ》で囲まれているのは確かに修道院のそれと似通ってはいたが、入り口をくぐって中に入ると、その雰囲気《ふんいき》は商人だけが住む商人の町のようだったからだ。 「ぬしよ、試《ため》しに小銭を落としてみたらどうかや」  馬の上でホロがそう言ったくらいだ。  きっと、教会のお祈《いの》りの時にくしゃみをしてしまった瞬間《しゅんかん》のように、たくさんの人間の注目を集めることだろう。 「へたをすれば、ここで手に入らない商品はないくらいかもしれませんね」  馬を並ばせたピアスキーがいたずらっぼく言う。  ロレンスはそれに笑いながらも、あながち冗談《じようだん》ではなさそうだと胸中で呟《つぶや》いた。  なんとか道の真ん中は除雪がされているものの、その両|脇《わき》には雪が山積みになっていて、当然空気は地下の氷室《ひむろ》のように冷たい。馬の毛に至っては凍《こお》りついている部分がある。  だというのにあちこちで商人たちが両|腕《うで》で自分の体をかき抱《いだ》くようにしながら、それぞれ商売の話に花を咲かせているのだ。それも実に楽しそうに話していて、寒さのあまりの足踏《あしぶ》みですら、楽しくて仕方がない子供の仕草のように見えていた。 「では、ここでお待ちください。部屋の手配をしてまいります」 「よろしくお願いします」  ロレンスたちの馬は共用の廐《うまや》の前で止められて、ピアスキーが一足先に降りると小走りに駆《か》けていった。  馬に乗るのも降りるのも技術が必要になる。寒さで体がかじかんでいればなおさらで、まずロレンスが馬から降りて、ホロ、コル、と体を抱《だ》きとめるように降ろしてやる。  すべてを降ろしてやってから、ロレンスは馬予《まご》に旅の成功を感謝した。  馬子は相変わらず無口で無愛想だったが、別れ際《ぎわ》に胸の前で軽く両手を組んで頭を下げる。  信仰《しんこう》心の厚い北の民《たみ》そのものだった。 「それにしても意外に広いの。ぬしらの話では離《はな》れのようなものではなかったかや」 「俺も知識でしか知らなかったからな。ただ、その羊の毛だけでウィンフィール海峡《かいきょう》が埋《う》め立てられる、と言わしめるほどの羊毛取引の中心的な場所だ。ほら、あれ。透明《とうめい》な硝子《ガラス》が張ってある」  雪が時折思い出したようにひらひらと舞《ま》う鉛色《なまりいろ》の空の下。  三階建ての石造りの立派な建物は、最上階の窓が空の色を反射した硝子張りだった。  全《すべ》てが全てそうではなかったが、どの建物もちょっとやそっと火矢を打ち込まれたくらいではびくともしないといった感じの立派なもので、そんな建物が五つ、入り口から続く広い道の両|脇《わき》に建てられていた。  しかも、敷地《しきち》内にはそれだけではなく、共用の大きな厩と、その向こうには羊専用の畜舎《ちくしゃ》が見えている。結構な大きさに見えるが、そんな代物《しろもの》がいくつもあるとピアスキーは言っていた。 「ふうむ。雪の中に建っていると、なるほど、なかなかに迫力《はくりょく》がありんす」  ホロが不敵な笑《え》みを浮かべながら見たその先。  ここはブロンデル修道院の商人専用の分館で、分館とはいえ本館より馬で一息といった場所にあるせいか、そのたたずまいは決して修道院の名に恥《は》じない。  その入り口からまっすぐに伸《の》びた道の先には、そこにある愈によりも立派な建物が素晴《すば》らしい威厳《いげん》と共に建っていた。  天にも届きかねない高さの天辺《てっぺん》に教会の象徴《しょうちょう》を掲《かか》げ、そのすぐ真下には馬が十頭あっても引けないような大きな鐘《かね》がぶら下げられている。  ここの商人たちが魂《たましい》の平穏《へいおん》を得られるようにと作られた聖堂だろう。  それは確かに、実際に魂の平穏を与《あた》えるかもしれない。  ただし、圧倒《あっとう》、という重圧をもってして。 「学校で、聞いたことがあります」 「ん?」 「異端審問《いたんしんもん》には北の聖職者が相応《ふさわ》しいって」  コルの言葉はわかりすぎるほどにわかる。  情け容赦《ようしゃ》のない異端審問官。  髭《ひげ》を蓄《たくわ》えた鷲《ワシ》のような目の冷酷《れいこく》無慈悲《むじひ》な神の僕《しもべ》は、確かにこんな場所にこそ相応しい。 「ま、それも今は昔。違《ちが》うかや?」  ホロの目が向けられた先には、羊よりもたっぷりと服を着込んだ修道士が、多くの商人を引き連れて歓談《かんだん》しながら建物から出てくる姿があった。  血色の良さそうな顔と、膨《ふく》らんだ頬《ほお》に腹。  従順、純潔、清貧とはかけ離《はな》れた姿だ。  ロレンスはホロを見て、こう言った。 「なにせお前のようなのが巡礼《じゅんれい》に来るご時世だからな」  笑うか笑うまいかの境界線上で、ホロの顔にはこれ以上ないくらいの不敵な笑《え》みが浮かんでいた。 「……しかし、ちょっと不安だな」  白い息が口元から立ち上《のぼ》るのを眺《なが》めてから、ロレンスは辺りを見回してそう言った。  その直後にホロに足を蹴《け》られて我に返り、怒《おこ》った目をしているホロがどんな勘《かん》違いをしたのかすぐに気がついた。 「ああ、つながり方が悪かったな。お前のことじゃない」  それでもホロは訝《いぶか》し気な目を向けてくるので、ロレンスはさっさと言うことにした。 「ちょっと不安になったんだ。あまりにも人が多い」 「えっと、それは……」  口を開いたのはコル。  きょろきょろと物珍《ものめずら》しそうに周りを見ていたコルにも、なんとなく予想できていたのかもしれない。 「敷地《しきち》に対して人が多すぎる。いくら建物が立派でも、ふんぞり返って体を曲げることを知らない商人や修道士たちが狭《せま》い部屋で満足するわけがない」 「宿がないかもしれない、ということかや」  商談が行われる場所であれば、契約《けいやく》書を保管する場所や契約内容を話す場所。それに諸《もろもろ》々の執務《しつむ》室やそれらの建物を維持《いじ》する雑用人。食事を作る調理人だって必要だし訪《おとず》れる商人の身分が高ければ供の者だって大勢いる。  嫌《いや》な予感は天気の悪さからくる悲観的な推測《すいそく》ではないかもしれない。  神のために祈《いの》る修道院でそんなことを思ってしまったからだろう。  ロレンスたちが不安気に辺りを見回している最中に、建物から出てきて小走りにこちらに向かってくるピアスキーの顔が、予想どおりの困ったようなものだった。  駆《か》け寄ってきたピアスキーは、交渉《こうしょう》のうまさよりも足の速さで勝負する旅商人らしく、単刀《たんとう》直入《ちょくにゅう》にこう言った。 「すみません。人があまりにも多くて部屋を確保できませんでした」  予測できていたことだからといって、それにすぐに対処できるわけではない。  ロレンスが返答に詰《つ》まっていると、ピアスキーはあとを続けた。 「広間で雑魚寝《ざこね》になるかもしれませんが……」  と、言葉を切って視線を向けたのはホロのほうだ。  広間の雑魚寝の中にホロのような娘《むすめ》がいたらどうなるか。  野犬の群れに肉を投げ込むようなものだ。 「あるいは、土間を借りられればそちらで眠《ねむ》ることもできますが……この寒さですから野宿と変わらないでしょうし……困ったな。どうやら、昨日、一昨日《おととい》と急にたくさん人が来たらしいんです」 「厩《うまや》なども?」 「飼《か》い葉《ば》置き場まで満杯《まんぱい》です。この季節だとへたな部屋より暖かいですからね。羊毛置き場は言わずもがなです」  ピアスキーは、旅の途上《とじょう》で道が土砂崩《どしゃくず》れで通れなくなった、と言わんばかりに深刻な顔をして考えてくれている。  それがわざとらしい営業ではなく、真摯《しんし》なものに見えるから、なるほどホロの評価も高いわけだと納得《なっとく》する。  ただ、だからといって事態が好転するわけでもない。  石造りの土間で寝ることになるのなら、せめて寝具《しんぐ》だけでも確保できないものか。  ロレンスがそう言おうとした時。にわかに辺りが騒《さわ》がしくなった。  いや、正確には、一方向から騒音《そうおん》が聞こえてきたのだ。 「やあ、白い兵隊のお帰りだ」  道でたむろして歓談《かんだん》していた商人の誰《だれ》かがそう言った。ロレンスが視線を音のした方向、この分館の入り口に向ければその言葉の意味がすぐにわかった。  大地が小刻みに揺《ゆ》れるような低い音と共に、無数の羊が怒涛《どとう》の流れを作っていた。巻き込まれると、武装した傭兵《ようへい》ですら太刀《たち》打ちできないような勢いになる羊の流れだ。  目|一杯《いっぱい》開かれた門を通過する羊たちは、犬や槍《やり》に追われてすぐに道を曲がり、厩の向こうの羊たち専用の畜舎《ちくしゃ》へと向かっていく。  しばらくすれば草原でよく耳にする鐘《かね》の音も聞こえてきて、羊飼いたちが四人ほど門をくぐって中に入ってきた。ここでは彼らは忌《い》み嫌《きら》われることもなく、顔見知りらしい商人たちと気軽に挨拶《あいさつ》を交《か》わしたり、牧羊犬の頭を撫《な》でてから聖堂に向かって一日の仕事の終わりを感謝したりしていた。  確かに彼らの姿はみすぼらしい。  それでも、誇《ほこ》りに満ちた彼らを見て、ロレンスは少し思ってしまう。  以前に出会った娘《むすめ》の羊飼いノーラも、こういう場所でその仕事に就《つ》ければあれほど苦労することもなかっただろうに、と。 「なにを考えておるか丸わかりじゃな」  ロレンスはホロの言葉で我に返る。  びくりと体をすくませてそちらを見てしまうのだから、誰《だれ》が羊かすぐにわかる。  ただ、ホロはそんなロレンスの情けない反応だけで満足だったらしい。  追《お》い討《う》ちをかけることもなく、静かな表情で言葉を紡《つむ》ぐ。 「巡《めぐ》り合《あ》わせというものは実際にありんす。全《すべ》てがうまくいくには世は複雑すぎる」 「……まあ、そうだ」  これまでの旅を振《ふ》り返ったってそう思うことが多々あった。  そんなやり取りを小さい声でしていると、ふとロレンスは視線を感じた気がして顔を上げた。  視線の向かった先は、つい今しがたまで羊が怒澪《どとう》のごとく流れこんでいた門だ。  すでにそれは閉じようとしていて、羊の群れも通り過ぎた今は再び静けさを取り戻《もど》そうとしている。  ただ、そこに未《いま》だ残っていた羊飼いたち。  そのうちの一人、年老いた羊飼いが、こちらを見ていたような気がしたのだ。 「執務《しつむ》室……いやいや、廊下《ろうか》の奥の物置……それとも……ん?」  相変わらずロレンスたちの泊《と》まる場所を必死に考えていたらしいピアスキーは、そんなロレンスに釣《つ》られて顔を上げた。  そして、しばらく羊飼いたちのほうを見ていると、手を打ってこう言った。 「そうだ。羊飼いの方たちの宿舎に空きがあるかもしれません。冬は暇《ひま》を出される方が多いと聞きますから。ちょっと聞いてまいりますね」  ピアスキーは言うや否《いな》や走り出す。  ロレンスが視線を感じたと思った羊飼いは、もしかしたら聖堂を見ていたのかもしれない。  そう思いなおしていると、ホロも訝《いぶか》しげな目で羊飼いたちを見つめていた。 「今、じっとわっちらを見ておった奴《やつ》がおったの」 「やはりそうか?」  コルだけがちよっとびっくりして、不安げにきょろきょろしている。  排他《はいた》的な町や村には旅人に敵意を剥《む》き出しにする者も少なくない。  ただ、そういう感じではなかった。 「まあ、お前が単純に珍《めずら》しかったのかもな。男女共住の修道院もたくさんあるが、ここには修道女はいないはずだ」 「ふむ……確かに驚《おどろ》いた顔をしておった」 「よもや耳と尻尾《しっぽ》を出していなかっただろうな?」  ロレンスが冗談《じょうだん》めかして言うと、ホロは顎《あご》を引いてつまらなそうな半目になる。 「最近どきどきすることが少なくての。耳と尻尾はローブの下でしおれっぱなしじゃ」 「それはよかった。俺はしおらしいのが趣味《しゅみ》だから」  ホロはその言葉にロレンスの足を踏《ふ》み、コルが顔を背《そむ》けて笑っていた。  そんな三文芝居《さんもんしばい》をしているうちに、ピアスキーの交渉《こうしょう》はうまくいったらしい。  こちらを振《ふ》り向いてにこやかに手を振っている。 「お前、羊飼いたちの寝《ね》泊《とま》りする場所でも大丈夫か《だいじょうぶ》?」 「しおらしくしておるわっちが好きなんじゃろ?」  もちろんロレンスは、ホロが羊飼いを前に萎縮《いしゅく》するのではなく、いらいらして機嫌《きげん》が悪くなるほうを心配してそう聞いたのだが、ホロはいけしゃあしゃあと言ってのける。  もっとも、裏返せば大丈夫ということだろう。ホロだって子供ではないのだから。 「じゃあ、これが最善の選択肢《せんたくし》だな」  ロレンスは言葉と共にピアスキーに手を振り返す。  ただ、ピアスキーがそれを受けて握手《あくしゅ》を交《か》わしたのがつい今しがた話題にした、年老いた羊飼いその人だったのはちょっとした偶然《ぐうぜん》だ。  黄金の羊伝説が残るブロンデル大修道院で、羊飼いの者たちと共に麦の豊作を司《つかさど》るヨイツの賢狼《けんろう》が寝起《ねお》きする。  もしかしたら、世の中は意外に平和なのかもしれなかった。     「ハスキンズ」  荷物を床《ゆか》に置く音で危《あや》うく聞き逃《のが》しかけた。  ロレンスはそれが羊飼いの自已|紹介《しょうかい》だったのだと気がついて、慌《あわ》てて右手を差し出して挨拶《あいさつ》する。 「クラフト・ロレンスです」 「……」  部屋の入り口に立つハスキンズと握手を交わすと、その手は羊の蹄《ひづめ》のように硬《かた》かった。 「こちらはホロ。それと、コルです。どちらも奇妙《きみょう》な縁《えん》で共に旅をすることになりました」 「よろしく」 「よろしくお願いします」  それぞれ握手《あくしゅ》を交《か》わして、結局羊飼いのハスキンズが口を開いたのは、短い自分の名前だけだった。  雪と藁《わら》をまぜたような色の髪《かみ》の毛に、長い眉毛《まゆげ》と胸に届きそうな髭《ひげ》。体つきはがっしりとていて、腰《こし》が曲がっていることもへんに痩《や》せていることもない。皺《しわ》だらけの瞼《まぶた》の奥では灰色の瞳《ひとみ》が地平線を見るかのような深遠さで光をたたえていて、決して俊敏《しゅんびん》とはいえない動きはある種の力強さを感じさせ、歳《とし》をとった野生の羊を思わせた。  野を行く真理の牧人、慧眼《けいがん》の羊飼い。  なんとでも言いようがあるだろう。  要するに、ハスキンズとはそういう羊飼いで、そういう雰囲気《ふんいき》を身にまとう歳のとりかたをした老齢《ろうれい》の男だった。 「このたびはありがとうございました。本当に助かります」  ピアスキーの話では、共に暮らしている羊飼いが数年に一度の里帰りをしているから、食事の負担《ふたん》だけをしてくれれば空いている部屋を使ってよいとのことだった。  もちろん宿のように一部屋ごとに暖炉《だんろ》があるわけではなく、煉瓦《れんが》で囲まれただけの囲炉裏《いろり》は共用だったが、他《ほか》の者と雑魚寝《ざこね》をしなければならないとか、石造りの土間で眠《ねむ》らなければならないとかということに比べれば断然ましだった。 「火の番は私がする。それ以外は、あなた方は自由にすればいい」  日々を過ごすには過酷《かこく》すぎる環境《かんきょう》の中、無数の羊を導き続ける羊飼いたちはどんな聖人よりも聖人らしくなるというが、ハスキンズはまるきりそのままだ。  世間話を振《ふ》ったところで会話は続きはしないだろうし、彼もそれを望んではいないだろう。  ロレンスは言われたことにうなずいて、こちらからもなにも聞かなかった。  ハスキンズはしばらく無言でロレンスたちを見つめたあと、小さくうなずいて、囲炉裏《いろり》のある部屋へと歩いていった。 「神学者の方でしょうか」  ハスキンズの足音が聞こえなくなるや、コルがこっそりと尋《たず》ねてくる。  そう思うのも無理はない。  ロレンスだって、生きる道に迷ったら彼に教えを乞《こ》いたいくらいだ。 「野《や》の賢人《けんじん》、という雰囲気《ふんいき》だな」 「わっちへのあてつけかや?」  荷解きをするや干した木苺《キイチゴ》の実を頬張《ほおば》っているホロに、ロレンスは視線を軽く向けてわざとらしく肩《かた》をすくめた。 「糧食《りょうしょく》は意外に残ったな。これならハスキンズさんの分も入れてしばらくは保《も》つか。足りなくなったら周りは商人だらけだから困ることもないだろうしな」 「そうですね。ただ、井戸《いど》がすごい込んでましたから、水はちょっと困りそうです」  さすがによく見ている。  金のない旅路なら、最優先で確保すべきは飲み水だ。  飯はほんの少しあれば一週間は保つが、水の場合はそうはいかない。 「今のうちに汲《く》んでおきましょうか」 「そうだな……そうしてもらえるか。飯の時にも使うだろうし、日が暮れたら井戸が凍《こお》りかねない」 「はい!」  コルは仕事を任されると安心する性格なのかもしれない。  元気よく返事をして、手桶《ておけ》と皮袋《かわぶくろ》を持つと寒い外に出ていった。  ロレンスは、そんなコルをよそにのんびりと藁《わら》のベッドに横になって、干した木苺を頬張っているホロに言葉を向けた。 「ちょっと前までなら、ここで俺がお前に嫌味《いやみ》を言って、怒《いか》りを買う流れだよな」  ホロは表に出さないだけで、コルと同じく自分もなにかの役に立たないと、と思ってしまう性格だ。  あんまりにも表に出さないので、時折忘れてしまうのだが。 「……ぬしも多少は学んでおるようじゃ」 「まあ、さすがに」 「くふ。それはともかく、食べ物の心配をするほどここに長居をすることになったら、わっちゃあちょっと困りんす」  最後の一|粒《つぶ》をひょいと口に放《ほう》り込んで、ホロは上体を少し起こす。 「ん……ああ、まあ、雪が積もったらここに閉じ込められかねないからな。どうせなら町のほうがいいのは俺も同じだ」 「それもあるし、もうひとつ」 「もうひとつ?」 「うむ。ぬしがわっちの食べたあとの羊の毛で生き埋《う》めになりかねん」 「それはぜひとも勘弁《かんべん》願いたい状況《じょうきょう》だ」  しかし、あながち冗談《じょうだん》とも限らない。  つい先ほど見た羊の群れは、遠目にも毛の質が良さそうだった。  あれで肉がまずいわけがない。 「ま、外の連中はこんなところに閉じ込められて噂《うわさ》話くらいしかすることがなさそうじゃったからな。情報を引き出したいわっちらにとっては好都合、というところではないかや」 「それも諸刃《もろは》の剣《つるぎ》だ。噂話はこの中であっという間に広まってしまう。なるべく周りの注意を引かずに狼《オオカミ》の骨の話をどうやって集めるか……」  ロレンスはまた伸びてきた顎鬚《あごひげ》を触《さわ》りながら考えるが、大して考える間もなく限られた可能性に行き着いてしまう。  他人の口に戸を立てるのはとても難しい。  そうなると、頼《たよ》れるのは信用の置ける人間になるが、今この場で少なくとも信用がある人物は一人しかいない。  ただ、ピアスキーを頼るのには、若干《じゃっかん》のためらいがあった。  ピアスキーは素晴《すば》らしい人物だと思う。  それこそ、ホロを前にして、自分がその隣《となり》に立ちたくないくらいに。 「大丈夫《だいじょうぶ》。群れに二つの頭があっては喧嘩《けんか》が起こるように、群れの長《おさ》同士はそう大して仲良くならぬ。心配する必要はありんせん」  ホロのその言葉は、ロレンスのちょっとした心配を嫌味《いやみ》なほど的確に突《つ》いてきた。  しかし、ホロがピアスキーと仲良くなりかねないから協力を頼《たの》むのに躊躇《ちゅうちょ》してしまうなどと、そんなことを認めるのはいかにロレンスであっても難しい。  かといって見栄《みえ》を張ればまさしく狼の思う壺《つぼ》だ。  それに、そんな自信のなさは逆にホロを信用していないことにもなる。  ロレンスは、一世一代の商談に臨《のぞ》むように、大|芝居《しばい》を打った。 「別に、お前が誰《だれ》と仲良くしようが今更《いまさら》気にしないよ」  綺麗《きれい》に言いきれた。  これはホロの耳だって嘘《うそ》だと判別し得ないはず。  そう思った直後だ。  ホロの顔が、罠《わな》に嵌《は》まった兎《ウサギ》を見るような顔になったのは。 「んむう? ここの群れの長《おさ》はぬしじゃろう?」  一瞬《いっしゅん》の、間。 「ぬしは、あの若い雄《おす》と仲良くなって油断せぬようにと努めておったじゃろう? まあ、群れを率い始めの時は変に肩《かた》に力が入ってしまうのもよくあることじゃからな、その心配をするぬしの気持ちもわからなくはない……」  ロレンスはホロの言葉を思い返す。  ホロは主語を省く天才だ。  そして、誰《だれ》よりも人の意識の向く方向を理解しきっている! 「わっちゃあそう思っておったんじゃが、なんじゃ、ぬしはそんなことを心配しておったのか。わっちをこの群れの長と認めたうえで、他《ほか》のに気を取られないでくりゃれ、と」  にんまりと、笑う。 「可愛《かわい》い仔《こ》じゃな」  久しぶりにしてやられた。  ぐうの音もでない。  うつぶせで、自分の手の上に顎《あご》を載《の》せて尻尾《しっぽ》をゆらゆらさせているその様は、これ以上ないほどに生意気だ。できれば頬《ほお》をつねり上げて毛布でぐるぐる巻きにして外に放《ほう》り出したい気分だった。  が、ここで怒《おこ》れば恥《はじ》の上塗《うわぬり》り、火に油、盗人《ぬすっと》に追《お》い銭《せん》になってしまう。  ロレンスは、悔《くや》しさを滲《にじ》み出させつつも潔《いさぎよく》く負けを認めるのが最も正しい答えだと自分に言い聞かせ、商人らしくそのように振《ふ》る舞《ま》った。  ごそり、という衣擦《きぬず》れの音は、思いのほか慌《あわ》てなかったロレンスに対し、ホロがつまらなそうに寝《ね》返《がえ》りを打った音だ。 「なんじゃその、いかにも物分りの良さそうな雄のふりは」  ひどい物言いだが、ロレンスも言われっぱなしではない。 「自分の子供の頃《ころ》のことを思い出してみればいい」 「う、む?」  人差し指を立て、残る片手は腰《こし》の後ろに当て、講釈《こうしゃく》よろしく言ってやる。 「気になる相手の気を惹《ひ》こうとして、自分が取った一番可愛らしくて微笑《ほほえ》ましい方法はなんだったか?」  ホロのきょとんとした顔。 「それは、相手にちょっかいを出して気を惹《ひ》くことだ」  だからいちいち怒《おこ》るなんてことはしないんだよ、とベッドに歩み寄って、ホロの鼻を人差し指で突《つ》ついてやった。  当然、ホロはここからいくらでも切り返しができるに違《ちが》いない。いつもいつも、これは絶対に無理だろう、というところをひっくり返されてきた経験からそう思っていた。  ただ、そんなわけで、いつでも鼻を突ついた人差し指を噛《か》まれる心の準備ができていた、というそのこと自体が、ホロにはどうやら楽しかったらしい。  いつ切り返してくるのだろうかとロレンスが待っていると、ホロはいつまでもその体勢で、ロレンスのことをじっと見上げていた。  そして、しばらくすると、鼻を押されたままちょっとした鼻声でこう言った。 「蓼《たで》食う虫も好き好きじゃからな」  最良のものをいつも好むわけではない。  それこそ、ピアスキーのようでなくても。  そんなホロの降伏《こうふく》の印。  しかし、かといってロレンスを持ち上げない、絶妙《ぜつみょう》な言葉選びといえる。 「い、いい意味だと解釈《かいしゃく》しておこう」  ここでどもってしまうのが情けない。  賢狼《けんろう》様のお気には召《め》したようなのだが。 「ふん」  ホロは笑って鼻を鳴らす。  しばらくして、コルが息を切らしながら、水を部屋に運んできたのだった。      偽装《ぎそう》に念を入れる、というわけでもないが、ロレンスたちは日が暮れ始めて暗くなった聖堂の中にいた。  この時間は蝋燭《ろうそく》の火をともしていてもむしろ夜よりもどこか暗い。  外の雪がやむことなく降り続いていることもあって、長|椅子《いす》に腰掛《こしか》けながら捧《ささ》げる祈《いの》りはいつになく気の入ったものになった。  修道院の一日は普通《ふつう》の人々よりも四分の一日くらいずれている。そのために夕課はとっくに終わり、聖堂にいるのはロレンスたちとピアスキー。それに、古びてはいるが上等な羊の柔《やわ》らかいなめし革《がわ》で作った袋《ふくろ》を持った付き添《そ》いの修道士。  ロレンスたちが一通り祈りを捧げ終わると見るや、無言で歩み寄ってきて袋の口を開ける。  ピアスキー、ロレンスと、二人共に海を渡《わた》った先の銀貨を入れた。 「神のご加護がありますように」  修道士はぶっきらぼうにそうとだけ言って、さっさと退散してしまう。  蝋燭《ろうそく》や夜課の準備があるのだろうが、やはりこんなことでは普通《ふつう》の信徒は巡礼《じゅんれい》にやってこないだろう。 「では、そろそろ」  ピアスキーが囁《ささや》くように言うと、その口元から出た言葉は白い空気になって流れていった。  寒いし、すでに酒と羊で舌鼓《したつづみ》を打つ時間だ。  ロレンスと違《ちが》い、ここに数多《あまた》の仲闘がいるピアスキーにとっては最も忙《いそが》しい時間帯になる。  うなずき返して、未《いま》だ静かに祈《いの》っていたコルと、それに付き合っていたホロの肩《かた》を突《つ》ついてロレンスたちは椅子《いす》を立った。  天井《てんじょう》が高く、祭壇《さいだん》の真正面にある礼拝堂の入り口から振《ふ》り返ればその威容《いよう》を体|一杯《いっぱい》感じ取ることができる。  長年に渡《わた》って積み重ねてきた富は、それだけで神のなにがしかの威光を身にまとっていた。  天井付近からぶら下げられた、蝋燭の煤《すす》と冬の寒さによってくすんだ色合いになった刺繍《ししゅう》が施《ほどこ》された垂《た》れ幕《まく》も、そこを軽くめくれば向こう側《がわ》にある金色《こんじき》の世界が垣間《かいま》見《み》れそうな、そんな雰囲気《ふんいき》だった。 「ブロンデル修道院……我々の神のおわす場所……」  回廊《かいろう》を越《こ》えて、鉄の大槌《おおづち》でも破壊《はかい》は難しそうな扉《とびら》をくぐる時、コルは後ろを振り向いてそう呟《つぶや》いていた。  教会の見方では異教徒になるコルも、それほど教会を嫌《きら》っているふうではない。  細かいことは抜《ぬ》きにして、雪の降りしきる土地に築かれたこの立派な建物に神々《こうごう》しさを感じているのか、はたまた単にその詩句が気に入っただけなのか。  いつもならホロがからかいそうなものだが、コルとつないでいた手を引っ張ることもなく共に足を止め、しばらく同じように振り返ってから、ロレンスたちのあとを追いかけてきた。 「本当ならロレンスさんたちもお誘《さそ》いできればいいのですが」 「いえいえ。そのあたりは心得ています。商談があるのなら無理にでも席に着くところですが」 「ははは、そう言っていただけるとありがたいです。ではまた明日に」 「ええ、よいお酒を」  松明《たいまつ》が燃える聖堂の前でピアスキーと別れ、ロレンスたちは歩を羊飼いたちの住まう宿舎へと向ける。さすがにこの時間になると聖堂前の道といえど誰《だれ》もおらず、それぞれの建物の入り口|脇《わき》に掲《かか》げられた松明の明かりだけが輝《かがや》いていた。 「あやつらはよい酒でも飲むんじゃろうなあ」  聖堂で祈っていたのはほんのわずかな時間なのに、来た時は見えていた石畳《いしだたみ》がとっくに分厚い雪の下だ。 「皮袋《かわぶくろ》に詰《つ》まっているやつだって上等なぶどう酒だ」 「よい酒とは、よいつまみ、それによい相手がいてこそじゃ」 「どういう意味……」  てっきり自分のことを言っているのかと思ったが、すぐに気がついた。 「お前な、それを食事の時に絶対に言うなよ?」  ホロはフードの下で大きくため息をつく。  ざふ、と一際《ひときわ》大きい足音がしたのは気のせいではないだろう。 「あんな陰気《いんき》でむさくるしいのとうまい酒など飲めるかや。ろくに挨拶《あいさつ》も返さぬうえに、どこに行っていたのかと思いきや籠《かご》にどっさり羊の生肉など持ってきおって……囲炉裏《いろり》の上に干してどうするつもりなんじゃ! わっちへのあてつけかや?」  早朝に出立して、日が暮れる頃《ころ》に帰ってくる羊飼いたちは、夕食以外を外で取ることになる。  そのうえここは雪が降りしきる場所だ。  あまりにも雪がひどければどこかで一晩を明かすことになるだろうし、全《すべ》ての羊がここで育てられているわけではない。あっちこっちの羊小屋を拠点《きょてん》としている仲間に、食料や飲み水を届けることも仕事の一つのはず。  ハスキンズがあまり外交的な性格でないことよりも、むしろ単純に明日の準備のために忙《いそが》しいということのほうが無愛想になる理由なのかもしれない。  もっとも、ホロはそんなことよりも、自分の目の前で羊の干し肉を作られていることが我慢《がまん》ならないのだろう。  そのうえ、肉が干されている皮紐《かわひも》の隣《となり》には、羊の腸詰《ちようづめ》もぶら下がっていた。 「干し肉ならまだ袋に残ってただろう」 「あんな硬《かた》いものわっちの口には合いんせん」  ぷいとそっぽを向いてホロは言う。  聞き分けのない子供のようだ、とロレンスを笑わせようとしているのかと思うくらいだ。  ただ、本気でねだる時はもっと用意|周到《しゅうとう》にするはず。  目の前にうまそうな肉があったのでねだってみた。そんなあたりだろう。 「ピアスキーに倣《なら》って鍋《なべ》にするから、干し肉を入れれば柔《やわ》らかくなるだろうよ」  ロレンスが言うと、ホロは顔を上げて、つまらなそうに唇《くちびる》を尖《とが》らせる。 「ぬしはこれから鍋を枕《まくら》にしてみてはどうかや?」  やれやれと、返事をする。 「頭が柔らかくなるかもしれないって?」  ホロは、前を向いて言葉を返してくれなかった。  そんなやり取りをしながら宿舎に戻《もど》ると、あちこちの部屋から静かな笑い声と良い匂《にお》いが漂《ただよ》ってきていた。  ホロでなくたって舌なめずりをしてしまうような羊肉の匂《にお》いばかりだ。  どこの部屋も扉《とびら》は簡単に蹴《け》破れそうなぼろばかりで、ホロは意地|汚《ぎたな》く扉の前を通るたびにどんなものを食べているかと覗《のぞ》き込もうとしていた。  ここには都合五部屋あるらしく、ロレンスたちは二階にある二部屋のうちの一つに間借りしている。  総勢十五名の羊飼いがここで寝起《ねお》きをしていて、牧羊犬にも専用の犬舎《けんしゃ》がある。また、広大な草原のあちこちに作られた畜舎《ちくしゃ》を含《ふく》めると三十人以上の羊飼いたちがいるらしい。中には互《たが》いに顔も知らない者がいるという羊飼いたちは、定期的に外の畜舎とここの宿舎の何人かが入れ替《か》わり、生活するのだという。  ハスキンズはその中でも最年長。  羊のことならば神よりも詳《くわ》しい、といわれているらしかった。 「ただいま戻《もど》りました」  旅の途中《とちゅう》で他人の家に間借りするのはよくあること。  そこで快適に過ごすコツは、とにかく家人《かじん》に挨拶《あいさつ》することだ。 「大変立派な聖堂でした」  ハスキンズは小さくうなずくだけで黙々《もくもく》と生肉の筋や脂《あぶら》を取り除いている。  ホロが不機嫌《ふきげん》そうな目をしているのは、せっかくの脂を肉から取り除いているからかもしれない。  ロレンスはホロとコルの二人を部屋に入れると、早速《さっそく》夕食の準備に取り掛《か》かった。  ここを借りる条件が、ハスキンズの食事の世話だからだ。  と、ロレンスが鍋《なべ》に手を掛けたところで、ハスキンズが不意に口を開いた。 「……神がおわすには相応《ふさわ》しい」  それが聖堂のことなのだとわかって、笑顔《えがお》でうなずいておいた。  ロレンスはハスキンズから道具を借りて鍋を支える土台を作り、水を注ぎ、ピアスキーから教えてもらった分量で材料を入れていく。  塩を多めに入れたのは、ホロが味つけの濃《こ》いのを好むから。  それに羊飼いも羊と同じで塩気を好むと聞いたことがある。  硬《かた》い干し肉と、袋《ふくろ》の中で砕《くだ》けたパンくずも多めに入れ、滋養《じよう》のありそうなものに仕立て上げていく。  普通《ふつう》ならばここで一言二言雑談があるのだが、ハスキンズは相変わらず静かに作業を続けている。長年羊飼いを続けていると動物としか会話ができなくなるという迷信があるが、そんなことを言い出した人の気持ちがわからないでもない。 「できたぞ」  ロレンスが隣《となり》の部屋に呼びにいくと、ホロとコルはベッドの藁《わら》を何本か抜《ぬ》いて、どれが一番短いかを当てる子供の遊びに興じていた。  戦績は、コルが笑顔《えがお》だったのでコルの勝ちだろう。  二人とすれ違《ちが》いざまにホロの頭を撫《な》でてやると、あからさまに身を寄せて甘えてきた。  あんまり機嫌《きげん》は良くないらしい。 「今日の糧《かて》を神に感謝して」  修道院らしく、いつもは唱えない聖句を唱えてから食事になった。  コルは笑顔で食べ始めたが、ホロはまるで本物の修道女のような不機嫌顔。  肉が干し肉だからということもあるだろうし、なにより熱い汁物《しるもの》の鍋《なべ》では蒸留したぶどう酒がうまくない。  旅の途中《とちゅう》ならばともかく、目的地に着いたら酔《よ》っても構わないではないか。  そんな不満が聞こえてきそうなものだったが、なにせ目の前にいるのは隠者《いんじゃ》のごときハスキンズだ。  様子見も兼《か》ねて、ここは敬虔《けいけん》なる旅人を演じるべきだと判断した。  ここでは、ロレンスの知り合いと呼べるのはせいぜいがピアスキーくらいのもので、ルウィック同盟が居座っているのならローエン商業組合の名がどれほどの価値を持つかも怪《あや》しい。  羊飼いとはいえ、この修道院で長いこと暮らす羊飼いと寝起《ねお》きを共にできるのだから、この幸運はしっかりと利用したほうがよい。  水瓶《みずがめ》と同じように、無口な人間は言葉を口から流さない代わりに、たっぷりと頭の器に知識を溜《た》め込んでいるともいう。  問題は、その瓶の栓《せん》をどうやって抜《ぬ》きにかかるかということなのだが。  ハスキンズはやはり黙々《もくもく》と食事を続け、礼も、評もない。  元々の契約《けいやく》として食事を出すことになっていたし、味についての評は時として対立を生むので沈黙《ちんもく》は確かに正しい振《ふ》る舞《ま》いなのかもしれない。  ただ、ロレンスとしては水瓶の栓に触《ふ》れるきっかけすらないということになる。  おいおい機会を窺《うかが》っていくしかないか。  そう思って食事を続けていたら、おもむろにハスキンズが立ち上がった。  鍋の中身もそろそろなくなって、最後に残った濃厚《のうこう》なスープをどうやって均等に分けようかという頃合《ころあい》だ。  ホロは露骨《ろこつ》にスープを取り合う相手が減ったと口元で笑っていたが、すぐに再び同じ席に戻《もど》ったハスキンズを見て、その笑みは消えた。  つった皮紐《かわひも》に干してあった羊肉を無造作に手に取って、鍋に入れてくれたのだ。 「……大勢の食事も、たまにはいいものだ」  ぼそり、と灰が崩《くず》れる時のような声だったが、それぞれ一人で食事をすることの多かったロレンスたちにとっては、なによりの挨拶《あいさつ》だ。  ホロも機嫌《きげん》を直して、ろくに煮《に》えていない肉を取って食べている。  ロレンスがハスキンズに礼を言おうとしたところ、老人は小さな瓶《かめ》の口をこちらに向けていた。  縁《ふち》についている白っぽいものを見る限り、どうやら羊の乳から造った酒らしい。  自分の椀《わん》に残っているぶどう酒を飲み干して、ありがたく頂戴《ちょうだい》した。 「懐《なつ》かしい味です」  好き嫌《きら》いの激しい酒で、ロレンスはどちらかというと好きではない。  それでも、これが短い付き合いの間の友好を示す一杯《いっぱい》だとわからないわけではない。  きっとホロが内心笑っているくらいに演技して、うまかったと顔に大書《たいしょ》した。 「ハスキンズさんは」  酒の勢いにつられてつい言葉が出てしまった、とばかりにいったん言葉を止めて、ハスキンズの様子を見る。  彼は、煮えた肉をゆっくりナイフで取って、一口かじると酒に口をつけてからこちらを向いた。 「ハスキンズさんは、ずっとこちらに?」 「……数十年になる。先々代の院長の時代から」 「なるほど。私は子供の頃《ころ》からの旅暮らしで、行商を続けています。ずっと同じ土地に住むというのがどういうことか……私にはもう、ちょっと想像ができません」  ハスキンズはうんともすんとも言わないが、聞く耳は持ってくれているはずだと、そのまま言葉を続ける。 「ところで、このウィンフィール王国には三つの変わらないものがあると聞きますが、いかがでしょう。ハスキンズさんから見て、それは本当でしょうか」  そして、その言葉には椀の中の肉に突《つ》き立てたナイフを止めた。  記憶《きおく》を探《さぐ》る時の目は、例外なく遠くを見る。 「……誇《ほこ》り高き貴族、美しい大地……」 「そして、羊たちのいる風景」  ロレンスが続けた言葉に、ハスキンズは本当にちらっとだけ、笑ったような気がした。 「……変わらないな、この国は」 「素晴《すば》らしいですね」 「……。そう思うかね?」  これまでの全《すべ》てのご機嫌取りが見|抜《ぬ》かれていたような、静かにしてよく響《ひび》く声だった。  ホロが肉を口一杯に噛《か》みながらフードの下から軽く視線を向けてきたのがわかった。  そういう言葉だ。  それでも、もちろんロレンスは怯《ひる》まないし慌《あわ》てない。  こちらだって、経験を積んだ商人だ。 「一年間かけて行商をして、再び同じ土地にやってきた時に笑顔《えがお》で相手に言う言葉は決まっていますから」  ロレンスは、笑顔で続けることができた。 「お変わりなく」 「……」  長い眉毛《まゆげ》の下から、人のものとも動物のものとも取れるような、灰色の目が向けられる。  初めてハスキンズがきちんとこちらを見てくれたような、力のこもった一瞥《いちべつ》だった。  老羊飼いはそれから別の椀《わん》に注《つ》いであった羊の乳の酒を飲み、うなずいた。  スープの煮《に》える音だげが、くつくつと聞こえていた。 「……ここも変わらない。そして、これからも変わらない」 「でしょうね。特に、ここはブロンデル修道院なのですから」  ハスキンズはうなずき、もう一度うなずいてから、無言でロレンスにも酒を注いでくる。  気に入られたのだろう。  これで酒がうまいものであるならば、と思うのは賛沢《ぜいたく》だろうが。 「ただ、日々の変化だけはたとえ石壁《せきへき》でも避《さ》けられないのですね」 「……商人たちのことか。お前たちは、違《ちが》うのかね?」  嫌味《いやみ》っぽい闘き方はこの国特有のもの。  ロレンスはぐいっと酒を飲んで、殊更《ことさら》困ったように笑った。 「私は確かに商人ですが、ここにたむろしている人たちとはちょっと目的が違います」 「……ほう……こんな辺鄙《へんぴ》なところに、わざわざ神の子羊も連れて……」 「巡礼《じゅんれい》に参りました。この修道院にある、聖遺物の話を聞いて」  狼《オオカミ》の骨、とは言わなかった。  それにブロンデル修道院ほどのところになれば、聖遺物の一つや二つあるはずで、それを目当てに巡礼にやってくる者もたくさんいたことだろう。  ハスキンズは少し驚《おどろ》いていたが、すぐに納得《なっとく》したようだった。  もぐもぐとなにかを呟《つぶや》くような仕草をして、うなずいた。 「……旅には色々な目的がある。それが退屈《たいくつ》な世に彩《いろどり》を添《そ》える」  旅の詩人が口にすれば単なる気障《きぎ》な台詞《せりふ》でも、ハスキンズが言えば真理の一言になる。  ロレンスは笑顔でうなずいて、最後に鍋《なべ》に残った全《すべ》ての旨《うま》みの出たスープを、ハスキンズに多めに取り分けたのだった。      翌朝、夜が明ける前にハスキンズは部屋を出ていった。  木窓の向こうからは元気な牧羊犬の鳴き声と人の話し声が聞こえていたので、いつもこの時間に出ていくのだろう。  毛布の隙間《すきま》から忍《しの》び込んでくる寒さに身震《みぶる》いしながら、同じ毛布の中のホロの尻尾《しっぽ》を頼《たよ》りに、もうしばらくこの中にいられる幸せを噛《か》み締《し》めた。  次に目が覚めたのはそれよりしばらくあとのこと。  とっくに日は昇《のぼ》って木窓の隙間から幾筋《いくすじ》もの明かりが差し込んでいる。  商売がないとなると気が緩《ゆる》むな、と思ったのもつかの間、こんなにぐっすり眠《ねむ》れた理由にすぐ気がついた。  毛布の中がえらく暖かい。  ホロがずっと同じベッドの中にいてくれたのだ。 「わっちゃあ本当に健気《けなげ》じゃな」  目が覚めて自分の胸の上に見目《みめ》麗《うるわ》しい娘《むすめ》がいた、となればきっと喜ぶことなのだろう。  しかし、その口に干し肉が咥《くわ》えられていたら話は別だ。  しかもその呼気は酒|臭《くさ》い。  うるさい小言を回避《かいひ》するためと、自分自身一人で背中を丸めて炉辺《ろへん》で飲むのが嫌《いや》だったのだろう。独《ひと》り酒《ざけ》はロレンスでも応《こた》えることがあるし、あとは単純に毛布の中のほうが暖かい。 「……コルは?」 「さあ……しばらく炭をいじくり回しておったが、日が昇ってからは杖《つえ》をついた羊飼いとどこかに行ってしまいんす」  喋《しゃべ》るたびにひこひこと先端《せんたん》が動く干し肉は、色からしてきっとハスキンズが昨日干していたものだ。  注意するのも面倒《めんどう》くさい。あとはハスキンズに気づかれないことを祈《いの》るばかりだ。 「外は晴れてるのか……」  冬はなにかと部屋に閉じこめられてしまう。  晴れれば昨日にも増して外に出ての立ち話に花が咲くだろう。 「んむ。ついさっきまで外では犬が走り回っておった。誰《だれ》かさんはわっちを犬だと思っておったようじゃが」 「朝から酒を飲んでいるよりましだとは思う。ほら、どいてくれ。話を集めにいかないとな」  ホロの肩《かた》を叩《たた》いても一向に動く気配がないので、まったく、とため息をついて体を引き、ベッドから下りる。  日が昇ってだいぶ経《た》つようだが、それでも寒いものは寒い。  ホロがのんびり干し肉を咥えているベッドの上に戻《もど》りたかったが、それは悪魔《あくま》の誘惑《ゆうわく》だ。  ロレンスは思いきって木窓を開ける。  その瞬間《しゅんかん》、雪に反射した光が目を刺《さ》して、しばらく視界が利《き》かなかった。 「……ふう。いや、しかし壮観《そうかん》だな」 「寒い」 「海原《うなばら》を見たお前じゃないが、これはちょっと走りたくなるな。というか、なんだ、コルの奴《やつ》、向こうで牧羊犬と遊んでるじゃないか」  井戸《いど》を越《こ》え、少し下り斜面《しゃめん》になっている中庭を越えた先の畜舎《ちくしゃ》の側《そば》で、何|匹《びき》もの牧羊犬に飛びつかれているのは他《ほか》ならコルだ。  ロレンスは、それで「ああ」と気がつく。  よもやホロがコルのように牧羊犬と戯《たわむ》れることなどできまい。  声なく笑っていると、ホロから胡乱《うろん》な目を向けられた。 「そのうち唇《くちびる》真っ青にして帰ってくるからな。その時にたっぷりからかえばいいさ」 「……」  ホロは興味なさそうにしていたが、まんざらでもなさそうに尻尾《しっぽ》を揺《ゆ》らしていた。  隣《となり》の部屋に行くと囲炉裏《いろり》にはまだ炭が残っていて、コルが出ていく前に手入れをしていったのだとわかる。  水も補給されていたし、言うことなしだ。  一晩干されてだいぶ色が黒くなった干し肉を見ながら、かさかさのライ麦パンを水で流し込み、軽く髭《ひげ》を当たってから一応ホロに声をかけておくことにした。 「一緒《いっしよ》に来るか?」  もちろん、ホロが追いかけたいと言い出した狼《オオカミ》の骨の話について集めに行くのだ。  しかし、ホロはベッドにうつぶせになったまま尻尾を右に左にと揺らすだけ。  ロレンスは「ごゆっくり」と答えて扉《とびら》を閉じる。  ただ、もしかしたら声が少し上ずっているのがばれたかもしれない。  ここにいるのはルウィック同盟をはじめとした商人ばかりなのだ。  狼の骨の話を集めるついでにきっと色々な情報も集められるだろう。  寒いながらも雪が光を反射するせいで真夏よりも明るい外に出て、ロレンスは不敵な笑《え》みを両手で隠《かく》し、歩き出したのだった。     「アッサジの茜《アカネ》、アロールの大青《タイセイ》、ヴドのオーク、ロカッタのサフラン」 「ロカッタのサフランはいい品だ。ミローネ大公が先だっての食事会で見事な黄色の服を披露《ひろう》したらしい」 「その食事会というのはあれだろ、ミラー司教区の大司教様でも腰《こし》を抜《ぬ》かしたというやつだろう? お陰《かげ》でこっちのお得意さんの貴族様方も見栄《みえ》を張ってあれこれ注文し出して大儲《おおもう》けだ」 「ほう、そりゃあ羨《うらや》ましいことだ。香辛料《こうしんりょう》ならうちの船が今度|荷揚《にあ》げするからどうかね。産地はそれぞれ……」  道の両|側《がわ》から聞こえてくるそんな会話だけを聞いていたら、ここが一体どこなのかと混乱してしまうことだろう。  商人の知人は商人だから、ここにいる商人の伝《つて》をたどるだけで本当に世界中のありとあらゆる品が手に入るかもしれない。  そんな事態を目の前にして、どうして胸|躍《おど》らせずにいられるだろうか。  自分は彼らと違《ちが》ってしがない行商人だが、誰《だれ》もが知っている高価で有名な品についての情報で勝てない分、誰も知らない村の特産品や名物ではひけをとりはしない。  あの環《わ》の中に入ろうか、いやこちらの環の中に。  そんな誘惑《ゆうわく》に何度も駆《か》られてしまう。  ただ、ロレンスはそれら全《すべ》てを飲み込んで、一軒《いっけん》の建物にたどり着いた。  入り口に月と盾《たて》をあしらった緑色の紋章《もんしょう》旗が掲《かか》げられた、ルウィック同盟の定宿《じょうやど》だった。 「ノックはいらないよ」  と、ロレンスが扉《とびら》をノックしようとしたところ、すぐ近くで鍛冶《かじ》屋の話に花を咲かせていた商人たちのうちの一人がそう言った。  ロレンスが笑顔《えがお》で軽く会釈《えしゃく》すると、その商人のみならず、その場の全員が軽く帽子《ぼうし》を上げて笑顔で返礼をしてくれた。  商人にとっては楽園のような場所。ロレンスは、胸中で呟《つぶや》いて、扉を開けた。 「失礼、ピアスキーさんはいらっしゃいますか?」 「ん……ピアスキー? ああ。ラグのことか。ほら、奥で書き物をしている。あいつだ」 「ありがとうございます」  ロレンスは礼を言って、どこの商館でも宿でも似たような造りになっている、一階の憩《いこ》いの場の隅《すみ》に歩を向けた。  二十はありそうな丸テーブルの上では、札遊びをしていたり、地図を囲んでなにやら話し込んでいたり、貨幣《かへい》の重さを天秤《てんびん》で量っていたりする者もいる。  そんな中で、ピアスキーは熱心に書き物をしていた。  ちょっと声をかけるのがためらわれたが、歴戦の旅商人は、丘《おか》を二つ越《こ》えた先の傭兵《ようへい》にだって気がつきかねない勘《かん》の良さだ。  ふと顔を上げてこちらを視認《しにん》すると、たちまち笑顔になった。 「おはようございますロレンスさん。昨晩はよく眠《ねむ》れましたか?」 「お陰《かげ》さまで。しかし、今晩はその限りにないかもしれません」 「おや、というのは?」  わざとらしい口上にわざとらしく付き合ってくれるピアスキーは本当に好青年だ。  ちょっと見習わないといけない。  ロレンスはそう思いつつ、自分の目元を指差した。 「眼鏡をかける旅商人の方というのを初めて見ました。悔《くや》しくて、眠《ねむ》れないかもしれません」 「あ、これですか? ははは。なにせ筆耕《ひっこう》の聖地、修道院ですからね。払《はら》い下げの物がいくつもあるんですよ。もちろん、私個人の所有物ではありませんが」  透明《とうめい》な硝子《ガラス》を作るのも難しければ、それを上手に湾曲《わんきょく》させることができるのは熟練《じゅくれん》した硝子職人だけだ。  高価で貴重だが、蟻燭《ろうそく》の灯《あか》りを頼《たよ》りに細かい髭《ひげ》だらけの複雑な装飾《そうしょく》文字を、延々書写し続ける修道士たちには必須《ひっす》の道具といえた。 「それで、どうされました? あ、とりあえずどうぞお掛《か》けください」  テーブルの上には石盤《せきばん》と、石灰《せっかい》で書かれた大量の品々の名前と量。  ピアスキーが一人で書き物をしていたのは、次にここに運んでくるための仕入れの品のようだった。 「一人で商売をする分には暗記すればいいだけだったんですけどね。組織に入ると、注文には証拠《しょうこ》が要《い》るようになります」 「記憶《きおく》よりも文書を。でも、組織に入れば教会の埋葬名簿《まいそうめいぼ》以外に、仲間たちの記憶に自分の存在が残ってくれる」 「まったくです。おお、神のご加護あれ」  インク壺《つぼ》に羽根ペンの先を入れて、ピアスキーは笑いながら書き物を再開した。 「書きながら失礼しますが、ここの遊びの概況《がいきょう》をお聞きに?」 「……そんなにおおっぴらに口にして大丈夫《だいじょうぶ》なんですか」 「ははは。大丈夫ですよ。ここにいる人たちは全員が顔見知りです。よそ者は常に監視《かんし》されている」  ロレンスは笑顔《えがお》のまま、辺りを見回すような愚《ぐ》は冒《おか》さなかった。  ピアスキーの、意外に鋭《するど》い目がロレンスに笑顔と共に向けられる。 「そう。あなたはドイッチマンさんの信用によって、ここへの入場券を買われていますから大丈夫です。私としては、情報提供の見返りにどうやってドイッチマンさんの信用を勝ち得たのかと知りたいくらいですが……商売上の秘密ですよね」  いたずらっぽい笑顔。  油断ならない。油断ならないが、こちらの顔も自然に笑ってしまう。 「残念ながら」 「心得ています。それで、主な状況ですけどね、もう間もなく陥落《かんらく》するはずの砦《とりで》を前に長いこと歯噛《はが》みをしている、といった感じでしょうか。顎《あご》が疲《つか》れて小休止を挟《はさ》んでいるところです」 「……これだけの数で攻《せ》められてもなお持ちこたえられるものですか」 「正攻《せいこう》法での交渉《こうしょう》は散々やりました。それでも一向に効果がないものですから、修道院長や、副院長や、以前はここで高位に就《つ》いていた姉妹院の修道院長に、果ては書庫の管理人まで、どうにかして籠絡《ろうらく》しようとしたらしいですけどね。これだけ商人がいれば、誰《だれ》かしらの知人が彼らと親しい知人でありますから。それでも、頑《がん》として撥《は》ねつけているそうです。修道院も厳しい状況《じょうきよう》のはずなのですが……大したものですよ」  揶揄《やゆ》する感じでもなく、ピアスキーは感心するようにそう言った。  実際、ルウィック同盟の内部にいる人間からすれば、自分たちの攻撃《こうげき》からひたすら身を守り続けられるのは奇跡《きせき》に近いことだと感じられるのかもしれない。 「それで……ロレンスさんは私に、本当はなにをお聞きにいらしたのですか?」  爽《さわ》やかな笑顔《えがお》。  ロレンスもかまかけの天才であるホロと常《つね》日頃《ひごろ》からやり取りをしているのだ。  こんな不意打ちにも、さてどう対応しようか、と考える余裕《よゆう》ができた。  ただ、結局とぼけることをせずにいったん視線をそらしたのは、見栄《みえ》を張ったところで百害あって一利なしと思ったから。  なにせここはルウィック同盟の旗が掲《かか》げられた定宿《じょうやど》だ。  仮にピアスキーを相手に上手に立ち回っても、一角《ひとかど》の商人と見られるよりかは、生意気な青二才《あおにさい》、と見られる可能性のほうが高そうだった。 「実は、ここでおおっぴらに言うのが恥《は》ずかしいようなことなのですが」 「今この修道院の敷地《しきち》の中で交わされている会話のほとんどが、聞くに堪《た》えない恥ずかしいものばかりだと思います。どうぞ、存分に」  引き込み方がまるで告解を受けつける司祭のようだ。 「そう思われますか?」 「ええ。それに、私も個人的に興味があります。ロレンスさんはどうも我々が苦心|惨憺《さんたん》する有様《ありさま》を見物しに来た感じではない。ではここにいる誰かに会いに来たのかと思ったら、真っ先にやってきたのが私のところです。修道士の下《もと》にすら行かない。私も商人の端《はし》くれですから、猫《ネコ》のように好奇心《こうきしん》があると自覚しています。垂《た》れ幕《まく》が揺《ゆ》れていたら、その向こう側《がわ》を覗《のぞ》きたくなりますね」  一緒《いっしょ》に商売をしたら楽しそうだな、と思わせる相手というのは実は数少ない。  ロレンスは、ずっと駆《か》け引《ひ》きをしていたい誘惑《ゆうわく》に一瞬《いっしゅん》駆られたが、その駆け引きを最も上手に終わらせるには今この瞬間しかない。  残念だ、と思いながら、偽物《にせもの》の苦笑いを浮かべてこう言った。 「聖遺物を拝見できないか、と思いまして」  ピアスキーの顔が一瞬無表情になる。  それから、しまった、とばかりに自分の顔を撫《な》でていた。 「失礼。いや、失礼……はは、私も修行が足りませんね。その返答は予測していませんでした」 「疑わないんですか?」 「意地悪を言わないでください。ここはブロンデル修道院の分館です。金儲《かねもう》けに来た、と言われるよりも、聖遺物を見に来たという発言に驚《おどろ》くだなんて、神のお怒《いか》りを買いかねない」  ピアスキーは笑い、羽根ペンの先を見て、インクが乾《かわ》いてしまっていることに気がついたらしい。再度インク壺《つぼ》にペン先を入れて、書きかけだった単語の続きを記す。 「私はどちらかというと、もっと別のことを想像していたのですが……」 「別のこと?」 「あ、いえ。ただ、そうなると、なるほどと思わせます。ロレンスさんは油断ならない方です。わざわざドイッチマンさんを経由してここに来たということは、我々の作成した財産目録が目的ですね?」  港の宿でホロたちと話したこと。  この修道院の土地財産を買いに来たルウィック同盟ならば、修道院の財産を丸裸《まるはだか》にしているはずだという予測。  もっとも、それは結果論といえばそうだが、それを正直に言ってまで下手に出る必要はない。  だから、ロレンスは首を縦にも横にも振《ふ》らず、ただ微笑《ほほえ》んでいた。 「ここは世に名だたる大修道院ですから、聖遣物もたくさんあるそうですよ。もちろん全部は把握《はあく》していませんが……どんなものをお探しですか? 場合によっては、お力になれるかもしれません」  ここが、考えどころ。  ロレンスは、一つ緩衝《かんしょう》材を挟《はさ》んで答えておいた。 「黄金の羊にまつわるものなのですが」 「黄金の羊」  頭の切れる商人が同じ言葉を繰《く》り返す時は、まず間違《まちが》いなく頭の中でなにかを考えている証拠《しょうこ》だ。  同じ言葉を繰り返すその一瞬《いっしゅん》で、百のことを考えている。  ただ、そんな時間|稼《かせ》ぎをしてもピアスキーの口から言葉は出てこなかった。  代わりに見せてくれたのはホロにからかわれている時のコルのような笑顔。  おそらくは周りで聞き耳を立てているだろう他《ほか》の商人も、内心で呆《あき》れ返っているかもしれない。 「聖人の残した物なら私でもいくつか心当たりがあるのですが、黄金の羊となると……」 「与太《よた》話《ばなし》、の類《たぐい》ですか」 「そうはっきりは言いませんが」  ピアスキーは言いながら、すぐ側《そば》のテーブルにいた商人に視線を向ける。  札遊びに興じながら耳をそばだてていたらしい二人は、軽く肩《かた》をすくめるだけだ。 「黄金の羊の伝説は、この修道院に何百年も伝わっているものです。それは逆にいえば……」 「何百年もの間、黄金の羊が見つかっていないことを示す」 「そうなります、ね」  ピアスキーが残念そうな顔をしているのは、与太《よた》話《ばなし》をこんなところまで追いかけてきたロレンスに、呆《あき》れ顔を見せてしまうのを避《さ》けようとしているからだろう。  今更《いまさら》そう思われることに対して見栄《みえ》を張る必要もないが、さすがに低すぎる評価はこののちここで情報を集めるのに支障が出かねない。  下手に出ることと、見下されるのは似て非なるもの。  そこのところだけを、修正しておく必要がある。 「実際、ここに来るまでの間ずっと与太話だとたくさんの人に言われました。でも、私のような人間のみならず、常に帳簿《ちょうぼ》ばかりを見ている人はたまに夢を追いかけてみたくなってしまうようです。だからドイッチマンさんを紹介《しょうかい》してもらえたんですよ」 「……というのは?」 「ドイッチマンさんに私を紹介してくれた方は、私が与太話を追いかけるのを見て、面白《おもしろ》い、と思ってくれたのでしょう。自分ではとてもこんな与太話は追いかけられませんから、代わりに私が、ということです。余裕《よゆう》のある方ほど、趣味《しゅみ》には心が寛大《かんだい》ですから」  自信を持って嘘《うそ》をつくには、真実を土台にして限りなく広い解釈《かいしゃく》をすることだ。  ピアスキーの向こう側《がわ》で札遊びに興じている二人が、「なるほど」といった感じでうなずいていた。  日銭《ひぜに》を追いかける商人が馬鹿《ばか》げた夢を追うのは非常識でも、金持ちの道楽は珍《めずら》しくもない。  ピアスキーも、「そういうことですか」と静かに言った。 「一つ参考になりました。金持ちに取り入るのにそういう方法もあるのかと」 「いえ、私の場合は本気ですけどね」  ピアスキーの苦笑いが逆に心地《ここち》よい。  評価を落としすぎず、上げすぎず。  奇妙《きみょう》な目的でここにやってきた無害な行商人、と印象づけられたはず。  だから、ロレンスはここで大胆《だいたん》な一歩を踏《ふ》み出した。 「そういうわけで、黄金の羊に関する話を色々集めたいのですが、どなたか詳《くわ》しい方はいらっしゃいませんか?」  金持ちの道楽に付き合うことを厭《いと》うようでは商人失格といえる。  周りで聞き耳を立てていた商人たちが、こぞって酒を片手に笑いながら集まってきたのだった。      ロレンスが狼《オオカミ》の骨の話ではなく、黄金の羊を話に出したのは、羊と対になるのはいつも狼だからだ。  黄金の羊にまつわる聖遺物が存在するのなら、それからつながって狼の骨の話にもたどり着く。  あるいは、せめてものこととして、その匂《にお》いくらいは嗅《か》ぐことができる。  そう思っていたのだが、得られた情報は予想以上に少なかった。  しかも、酒を片手にして話すような類《たぐい》のことだっただけに、夕方|頃《ごろ》になってようやく部屋に戻《もど》った時は足元がおぼつかなかった。  のんびり尻尾《しっぽ》の毛《け》繕《づくろ》いをしていたホロがどくのも間に合わず、ロレンスはベッドに倒《たお》れ込んでしまう。  腕《うで》の下でホロがもがいて、コルが慌《あわ》てて水を持ってきてくれた。 「いいご身分じゃなっ」  ようやく這《は》い出たホロからは、お前にだけは言われたくないという一言を頂戴《ちょうだい》してしまう。  コルが差し出してくれた水の入った椀《わん》を受け取り、体を横にしたまま水を飲む。  これくらいの芸当ができないようでは、木賃宿《きちんやど》の雑魚寝《ざこね》には耐《た》えられない。  水を飲み干して椀をコルに返す。  このまま目を閉じたら今にも眠《ねむ》れそうだった。 「で、どれだけ話を集められたんじゃ?」  半目で睨《にら》み、こちらの耳をつまんで引っ張りながら聞いてくる。  素面《しらふ》だったらさすがのロレンスも怒るところだが、せっかく梳《す》いたふかふかの尻尾を下敷《したじ》きにされたのだから、ホロの怒《いか》りもむべなるかな。 「楽しい酒だったかどうかくらい……わかるだろう?」 「ふん。これで楽しい酒などと言ったら耳を噛《か》み千切るところじゃ」 「こうなることがわかっていたらお前を連れていったんだが……生憎《あいにく》賢狼《けんろう》様はすでにのんびりお酒を聞こし召《め》していたからな……」  酒に酔《よ》った頭では自制などできはしない。  つい嫌味《いやみ》を言って、ホロに頬《ほお》を叩《たた》かれた。  実際のところは、ホロが側《そぼ》にいても話を聞きづらくなっただけだし、ホロもそれをわかっていてあえてついてこなかったはずだ。  ぺちん、といい音を立ててロレンスの頬を叩いたホロの手は、そのままロレンスの頬を軽くつまみ上げた。 「なにか言い残すことはあるかや?」  ロレンスは、痺《しび》れた頬には心地よい刺激《しげき》の下《もと》で、目を閉じてこう答えた。 「少し寝《ね》かせてくれ……」 「たわけが。じゃが、わっちゃあぬしのように恩知らずではないからの」  急速に薄《うす》れていく意識の中、頬《ほお》を撫《な》でる感触《かんしょく》が快かった。  と、地続きの記憶《きおく》のはずなのに、目を開けたらもはやそこは夕暮れなどではなく、とっぷりと日も暮れきった時間だった。  がばっ、と跳《は》ね起きることなどできない。  おそらくはホロに頬を撫でられたあの時のままの姿勢でずっと眠《ねむ》っていたに違《ちが》いない。  動かすまでもなく、首が痛いのがわかる。  一度目を閉じて、せめて眠る姿勢だけでもどうにかするべきだったと後悔《こうかい》しながら、ゆっくりと体を起こしていく。  体が水気の抜《ぬ》けた土のようで、あっちこっちがばりばりに固くなっている。  せめてもの救いといえば、毛布が掛《か》けられていたことだろうか。  いや、と気がつく。  体を起こしたら服に焦《こ》げ茶《ちゃ》色の動物の毛がついていた。  ホロがずっと尻尾《しっぽ》を置いていてくれたのだろう。  毛を払《はら》うと、ホロの甘い匂《にお》いが鼻をくすぐった。 「痛っつ……」  完全に寝《ね》違えているらしい首を押さえつつベッドに腰《こし》掛けると、ちらちらと明かりの漏《も》れ出ていた薄《うす》い扉《とびら》が、ゆっくりと開けられた。  酒を散々飲んだあとなので、囲炉裏《いろり》のちょっとした明かりでも目に痛い。 「起きたかや」 「……多分な」 「今ならまだ夕飯が温かいんじゃが。どうするかや?」 「……水を」  ホロは返事の代わりに肩《かた》をすくめて、水差しを取ってくれた。 「コルは?」 「今、羊飼いから雪に降られた時の心得《こころえ》を伝授されておる。コル坊《ぼう》は聞き上手じゃからな。わっちと違って」  扉の隙間《すきま》から漏れてくるわずかな明かりに照らされたホロの不敵な笑《え》みは正直|怖《こわ》い。  聞き上手なコルに釣《つ》られ、ホロのことなどほったらかしにしてあれこれ得意げに喋《しゃべ》っているのが、実は想像している以上にお気に召さないのかもしれない。  隣《となり》に腰掛けず、ずっと上から見下ろしているのも、そんな推測《すいそく》を裏づける。 「じゃあ、俺はお前に怒《おこ》られた時の心得を誰《だれ》かから聞かないとな」 「わっち以外の誰から?」 「怒っていない時のお前から。お前は怒ると人が変わる」 「んむ。これは仮初《かりそめ》の姿じゃからな」  言って、優《やさ》しげに微笑《ほほえ》むのだから怖《こわ》い狼《オオカミ》だ。 「で、塩梅《あんばい》は?」  薄《うす》い扉《とびら》だとお互いにわかっているので、会話は耳元で囁《ささや》き合うような小さい声。  それがまたなんだか睦言《むつごと》めいて、まだ酒の抜《ぬ》けきらない顔がつい笑ってしまった。  ただ、笑ってしまった一番の理由は、本当は成果を聞きたくて聞きたくて仕方がなかったのに、ふらふらの足取りで帰ってきた自分の胸倉《むなぐら》を締《し》め上げてでも聞こうとしなかったその気遣《きづか》いに対してだ。  だから、ロレンスの笑顔は少しずつ諦《あきら》めたようなそれに変わっていく。  塩梅はどうかと聞かれたら、芳《かんば》しくない、としか言いようがないからだ。 「実を結ぶようなのは得られなかった」  ホロの顔つきが変わる。  怒《おこ》り出さないのは、商人が転んでもただでは起きない生き物であるとわかっているからか、あるいは、そのように期待しているからだろう。 「……で?」  ホロの言葉に、口は勝手に商人として言葉を紡《つむ》ぐ。 「……個人商でもない限り、売買や財産の記録は必ず残している。ここに例のものがあるとなれば、片鱗《へんりん》くらいはあるだろう」  ピアスキーがあの場で書き物をしていたのがいい例だ。  それがたとえ人に隠《かく》さなければならない類《たぐい》のものであっても、文字に残さずにはいられない。  ケルーベの騒《さわ》ぎだって、その商人の習性から逆転劇が生まれたのだから。 「ふん……」  ホロは腰《こし》に片手を当ててうなずくように鼻を鳴らし、じっとロレンスを見る。  一度目をそらし、軽くうつむいた瞬間《しゅんかん》、尻尾《しっぽ》の毛が面白《おもしろ》いように膨《ふく》らんだ。 「わっち相手に誤魔化《ごまか》しが通じるとでも?」  低い声の冷たさは、頭に酒が残っていなければとても耐《た》えられなかったかもしれない。  降参するようにのろのろと両手を上げたのは、口にしてしまった商人得意の誤魔化しを、酒のせいにしたかったからだ。 「認めるよ。骨がないということの証明ができるまで、俺はいつまでも努力しているふりができる」  そして、そんな証明をするのは事実上不可能といえる。  ホロは大きな獣《けもの》の耳で聞き取ると、吟味《ぎんみ》するように目を閉じた。  ロレンスには、ホロに言うべきことがあった。 「悪いな、我慢《がまん》させて」  その瞬間《しゅんかん》、ホロはびくりと肩《かた》をすくませた。  悪いことをしているところを見つかった子供のような様に、ロレンスは困った挙句《あげく》、笑うことにした。 「俺は一介《いっかい》の行商人だから、こんなふうに遠まわしに情報を集めることしかできない。だが、お前なら——」  悪魔《あくま》の存在証明だってできるはず。  酒は理性というタガを緩《ゆる》めがちだ。  いつもならもう少し流れを考えただろうが、熱を持った頭は口を勝手に動かした。  ホロがロレンスの口を両手で押さえなければ、それは、間違《まちが》いなく言葉になっていた。 「……」  開いてはいけない蓋《ふた》を開けかけてしまった。  そんな顔をして、ホロはロレンスの口を押さえていた。  しかし、その手に大した力はない。  ロレンスはしばらくじっとして、それでもホロが口を開かなかったので、ホロの手を取り、口からゆっくりと離《はな》した。 「ケルーベでの出来事でわかっただろう? 俺が聖遺物なんて高価な代物《しろもの》を無理にやり取りしようと思うと、あんな大変なことになる。俺だって大変だが、お前も同じくらい大変だ」  ホロの手は小さく、指は細い。  真の狼《オオカミ》の姿からすればこれ以上不便な姿もないだろうと思う。  あの巨大《きょだい》な爪《つめ》と牙《きば》なら、大抵《たいてい》のものは簡単に手に入れられる。 「ケルーベでおまえ自身言った言葉だ。お前の爪と牙なら、一瞬で片がつけられる」  修道院の高い壁《かべ》も、頑丈《がんじょう》な扉《とびら》も、ぐるぐる巻きの鎖《くさり》や細工師が技術の粋《すい》を集めて作った精巧《せいこう》な鍵《かぎ》すらも、なにもかもをぶち壊《こわ》して白日《はくじつ》の下《もと》にさらけ出せるだろう。  修道院の警備などたかが知れている。  彼らを守るのはその権威《けんい》であり、ホロにそんなものは通用しない。  瞬《またた》く間に修道院を調べ尽《つ》くし、目的を達成するだろう。  そうしない理由は、明白だ。 「わっちゃあ……」  ホロの口が、開かれる。 「ぬしが遠くに行くのなら、わっちゃあぬしを背中に乗せて走ることができる。ぬしがなにかを欲しがるのなら、わっちゃあ狩《か》って持ってくることもできる。敵に襲《おそ》われればそれを払《はら》い、守るものがあれば助けることができる。じゃが……」  ホロは言って、掴《つか》まれたままだったロレンスの右手を丁寧《ていねい》に解《ほど》き、自分の小さな細い手で掴みなおした。 「俺がお前になにかしてやれるのは、お前が人の姿の時だけだからな」  ロレンスが困っている時は力になれても、自分が困った時には自分の力で解決したほうが早い。  一見するとロレンスにとって喜ばしい関係だが、ロレンスもホロも知っている。  親鳥が雛《ひな》に餌《えさ》をあげるような関係は、親鳥と雛だからこそ成立するのだということを。  ヨイツの場所も大まかにわかってしまった今、この狼《オオカミ》の骨までホロが自力で解決したら、もはやロレンスの出る幕はどこにもない。  ホロは自分|独《ひと》りで全《すべ》てを解決できる。しかも、自分の力に頼《たよ》るのがもっとも効率的な解決方法になる。  そうなった時、果たしてロレンスが側《そば》にいてくれるかどうか、きっとそんなことを心配しているのだろう。  心配のしすぎだ、と笑うことはロレンスにはできない。  商売でうまくいく関係は、例外なく持ちつ持たれつの時だけだからだ。  そして、ホロは実際に何百年といたパスロエの村で、持ちつ持たれつの関係でなくなったゆえに破綻《はたん》した経験がある。  ロレンスは、ホロに掴《つか》みなおされた右手を引き寄せて、左手でホロの背中に腕《うで》を回した。こちらが座っているので、ホロの胸に顔が当たる。  照れもなくできた、というのは大|間《ま》違《ちが》いで、照れがあったからこその勢いだ。  ホロは少し驚《おどろ》いた感じだったが、そのことを察したらしく体から力を抜《ぬ》いた。  それから、残る手でロレンスの頭に手を載《の》せてくる。 「悪いが、もう少し我慢《がまん》してくれないか」  悪いのはロレンス。  そういう体裁を繕《つくろ》って。 「……ん」  小さくうなずいたホロは、いつもと逆の立ち位置だ。  ロレンスの弱さを許答するように、告解する信徒に許しを与《あた》える司祭のように、ホロはロレンスの頭の上に手を載せている。  ただ、本当に謝りたそうなのは、むしろホロのほうだった。 「謝るなよ。謝ったら、俺の努力が水の泡《あわ》だ」  ホロの薄《うす》い胸では顔の埋《う》め甲斐《がい》もなかったが、逆にそれくらいのほうが顔を上げる踏《ふ》ん切《ぎ》りがついてよかったかもしれない。  ロレンスが顔を上げて笑うと、ホロは怒《おこ》って頬《ほお》をつねってくる。  見くびるな、ということだろうし、ホロはロレンスがわざとそんなことを言ってホロを怒らせたのももちろんわかっているはずだ。  ひとしきりぎりぎりと頬《ほお》をつねったあと、ふっと力と表情を緩《ゆる》めて、疲《つか》れたように笑った。 「仲間の骨かもとなったら、わっちゃあ我慢《がまん》できぬかもしれんが」 「それならそれでいい。お前が牙《きば》を剥《む》いて駆《か》け出したあと、多分、俺には大事な仕事が待っているだろうから」  仲間の骨を前に佇《たたず》むホロの姿が容易に想像できる。  その時、その側《そば》にいてやらなかったらなにもかもが嘘《うそ》だ。 「すごい自信じゃな」 「お前がいつも言うように、たわけた雄《おす》だからな」  ホロは本当に嬉《うれ》しそうにする時、首をすくめてくすぐったそうに笑う。  なんとしても狼《オオカミ》の骨の有無《うむ》を調べようと決意するのに、それ以上のものはない。 「くふ。あんまり長く話しておると怪《あや》しまれてしまいんす」  なにを? と聞き返すのは野暮《やぼ》なのだろうか。  少し迷っているうちに、ホロはさっさと体を離《はな》してしまう。  ただ、そんな逡巡《しゅんじゅん》を見|透《す》かしていたように、ホロの顔は意地悪な笑《え》みに変わっている。  敵《かな》わない。  ロレンスが苦笑いを浮かべると、ホロは牙が見えるくらいの笑顔でこう言った。 「飯はまだ温かいんじゃがな?」  降参して、立ち上がる。 「一杯《いっぱい》欲しいな」 「うん。たんとおあがり」  ホロの楽しそうなからかいの言葉。  薄《うす》い木の扉《とびら》を開けると、幸いなことにコルは熱心にハスキンズの講義を聴《き》いている真っ最中だった。 [#改ページ]     [#改ページ]  未《いま》だ酒が若干《じゃっかん》残る頭が、首から落っこちないようにと前後左右にふらふらと揺《ゆ》れる。  翌日に酒を残すようでは行商人失格だ、と自分の頬《ほお》を軽く叩《たた》いてから、いやこれはきっと眠気《ねむけ》のせいに違《ちが》いない、と言い訳をする。  なんにせよ、朝起きて、消えかけの炭火が大きくなるのを待っている時間ほどぼんやりする時もない。  そのうえ、ここは騒《さわ》がしい市場|脇《わき》の宿でも、逆に誰《だれ》一人周りにいない山小屋でもない。外からは適度な音、人や犬や羊の鳴き声が聞こえてきていて、部屋の静けさをより強調するせいでまたそれがよい子守唄になる。  木のはぜる音、火でしなる音、炭が崩《くず》れる音など、その最たるものといえよう。  大|欠伸《あくび》をしてしょぼしょぼする目を上に向ければ、かちかちになって色が濃《こ》くなっている干し肉が見えるし、タマネギとニンニクがぶら下がる梁《はり》の上には保存用のパン種も見つけた。  貨幣《かへい》がなくとも暮らしていける。  その典型のような部屋。  ロレンスは囲炉裏《いろリ》の火をいじくりながら、もう一度大欠伸をした。 「おはようございます」  と、途中《とちゅう》に一度も欠伸を挟《はさ》まず挨拶《あいさつ》してきたのは、コルだ。  裾《すそ》の破れた服にぼさぼさの髪《かみ》の毛は貧しさをこれでもかと見せつけて、細い手首と足首はろくに食事を取ってこなかったことすら窺《うかが》わせる。  ただ、放浪《ほうろう》学生と物乞《ものご》いを分けるのはその賢《かしこ》そうな瞳《ひとみ》。  意志の強そうな一対《いっつい》の瞳だけが、彼らと物乞いとを分ける唯一《ゆいいつ》の特徴《とくちょう》だった。 「今日も寒いですね」 「本当に寒かったらあのベッドの中から這《は》い出るのは至難の業《わざ》になる」 「では、なんとか我慢《がまん》できるくらいには、寒いですね」  ホロの尻尾《しっぽ》の温かさを共有する人間として、なんだか妙《みょう》な仲間意識がある。  もっとも、朝起きて火の周りに来てまずすることがホロの尻尾の毛を払《はら》うことなので、毎日同じ行動を一緒《いっしょ》にとっていれば仲間意識も芽生えるというものだ。 「ホロはまだ寝《ね》てたか?」 「真ん丸くなって寝てましたから、まだしばらく起きてこないと思います」  返事の代わりに鼻を鳴らして小さく笑うと、ロレンスはコルにパンと干し肉を渡《わた》して、自分も軽く口にした。 「朝の礼拝の鐘《かね》が鳴ったら同盟の宿に行こう」 「えーと……なら、ホロさん起こしてきましょうか?」  少し考えるように木窓のほうを見たのは、暦《こよみ》と光の角度から時間を推《お》し量ったのだろう。 「いや、いい。起きてこないなら起きてこないでそのままにしておく」 「……怒《おこ》らないでしょうか」  その言葉は育ちの良さそうな綺麗《きれい》な発音なのに、パンの食べ方は犬か猫《ネコ》かという有様《ありさま》。  パンをひとかけらも無駄《むだ》にせず口に詰《つ》め込んで、あっという間に食べてしまう。 「怒らないよ。もしもあいつが本気になったら、骨があるのかないのかなど、一瞬《いっしゅん》でわかるからな」 「え? えっと、それは……」  コルは当然ホロの真の姿の威力《いりょく》を知っているのだから、その可能性はとっくに気がついていたはずだ。それでも口にしなかったのは、当然|機微《きび》に触《ふ》れることだと思っていたからだろう。  ただ、ロレンスの言葉に若干《じゃっかん》面食らったあと、ホロが眠《ねむ》る部屋のほうを振《ふ》り向いて浮かべた表情と口にした言葉は、完全にロレンスの想定外だった。  コルは、嬉《うれ》しそうに笑ってから、こんなことを言ったのだ。 「信頼《しんらい》されているんですね。頑張《がんば》らないと」  面食らうのは、ロレンスの番だった。 「あ、あれ?」  あまりにも驚《おどろ》いてしまったので、コルのほうもなにか変なことを言ったのかと思ったらしい。  ロレンスは「いや」と手を振って、残る手で自分の顔を必死に撫《な》でる。  粘土《ねんど》細工の形を変えるように。  まったく、とんでもない少年だった。 「俺がお前くらいの歳《とし》の時、そんなに賢《かしこ》かったかなと思ってな」 「え……いえ、そんな……」 「それとも、俺が駄目《だめ》なのか……?」  ついそんなことを思ってしまうが、元々頭がいい奴《やつ》というのは実際にいるものだ。  重要なのは、それに嫉妬《しっと》することではなく、負けないようにと頑張《がんば》ることだ。 「ま、お前にはすでに情けないところをたくさん見られてるからな。今更《いまさら》だ」  手についたパンくずを払《はら》い、ロレンスは立ち上がる。  全《すべ》てはあるがままにある。  ならば自分が考えるのは、なにをどう変えるかではなく、その中でどううまく立ち回るかだ。 「ロレンスさん」 「ん?」  コルも立ち上がり、外套《がいとう》を手にしながら、少し恨《うら》めしそうにこう言った。 「僕こそ、ロレンスさんのようになれるか自信がありません」  この歳になるとなによりも嬉《うれ》しい言葉かもしれない。  ただ、それを正面から受け取るにはまだ若すぎる。 「お前が俺の弟子《でし》ならば問題だがな」  コルの頭をぐりぐりと乱暴に撫《な》でて、ロレンスはこう言葉を続けた。 「旅を共にするのならな、同じ奴が二人いてもしょうがない。互《たが》いに補い合ってこそ、最良の旅の友だ」  ホロが目を覚ましていたなら毛布の中で苦笑いをしそうな台詞《せりふ》だが、コルは聖典の秘密でも明かされたかのようにはっとして、大きく熱心にうなずいた。 「頑張ります」 「ああ、頼《たの》む」  ロレンスがそう言うのと、木窓の向こうから鐘《かね》の音が聞こえてくるのは同時だった。  二人|揃《そろ》って音のほうを向き、その音に耳を澄《す》ましてから、動き出す。  ホロがコルを気に入る理由がわかる。  そして、自分がそれを見て落ち着いていられるのもわかる。  外は、目に痛いほどの晴れだった。     「聖遺物の一覧を確認《かくにん》するのが先だな。その中にうっかり書かれていたら、それに越《こ》したことはない」 「では、僕は巡礼《じゅんれい》と勉強を兼《か》ねた学生ということですね?」 「ついでに、聞かれたら教会運営についても興味があることにしろ。学校ではそのあたりについては?」  がらんとして人気のない羊飼いたちの宿舎の軒先《のきさき》に座り込み、足に布を巻くコルに質間を向ける。コルが足に布を巻いているのは、霜焼《しもや》けになりかねない草履《ぞうり》履《ば》きだからだ。 「お金にまつわる話はあまりしてもらえませんでした」 「そうか。なら、好都合だ」  ぎゅっと自分の足首に固定するように布を縛《しば》ったコルは、きょとんとしてから、軽く笑う。 「学べなかったので、是非《ぜひ》教えてください」 「上出来だ」  ロレンスはコルの頭を撫《な》で、歩き出す。  空は晴れていて眩《まぶ》しいくらいだし、地面は地面で銀色の雪が光を反射して目が痛い。  冬に雪に覆《おお》われる山|越《ご》えをして、迂回路《うかいろ》を通る商人たちに差をつけて稼《かせ》いでいる商人たちは冬でも真っ黒に日焼けしている。  中には目まで焼けてしまっている者も多いが、その理由がよくわかるというもの。  遅《おく》れて外に出たコルも眩しそうに目を細めていた。 「一覧の中で見分けられるといいですね」 「それをするのはお前の仕事だよ」  ロレンスが言うと、コルは一瞬《いっしゅん》ぽかんとしてから、「え!」と大袈裟《おおげさ》に驚《おどろ》いた。 「聖人の知識は俺よりも豊富だろうからな。羊飼いたちの守護聖人、元は異教の神だった聖人や、羊や狼《オオカミ》にまつわる怪《あや》しげな迷信《めいしん》の類《たぐい》。それらの判別だ」  コルがホロに気に入られるのは、単にその立ち居|振《ふ》る舞《ま》いからだけではない。  その芯《しん》の強さに一目置いているからだ。 「……わかりました」  驚きながら、神妙《しんみょう》な面持《おもも》ちでコルはきちんと返事をする。  ロレンスも、師匠《ししょう》気取りでこう言った。 「任せた」  そして、胸を張って、ルウィック同盟の定宿《じょうやど》の扉《とびら》に手をかける。 「ん……おーう。昨晩はいい騒《さわ》ぎだったな」  扉を開くとすでに何人かの商人たちがいて、食事がてら雑談に興じていた。  そのうちの一人が水差しを片手にこちらに言葉を向けてくる。  朝から飲んでいるのだろうが、雪で足止めされた宿ではそんな光景も珍《めずら》しくはない。 「おはようございます。昨晩の宴《うたげ》のお礼をしたくて、ピアスキーさんを探しているのですが」 「ラグなら聖堂にいるぜ。定例の交渉《こうしょう》に参加してる。若いのに大した奴《やつ》だ」  幹部連中が参加する交渉ということだろう。  男の口ぶりからピアスキーが単なる連絡《れんらく》役ではないことがわかる。  もしかしたら、ルウィック同盟は修道院の土地を購入《こうにゅう》できた暁《あかつき》には、そこに入植して町か市場でも作るつもりなのかもしれない。  普段《ふだん》は入植という一風変わった事業に携《たずさ》わる人間が単なる連絡役を務めるなど、そちらのほうがありそうもないことだ。 「聖堂ですね。ありがとうございました」 「おう。また飲もう。今度はそちらの旦那《だんな》を交えてな」  ロレンスが彼らから話を集めるためにでっち上げた、金持ちのことだろう。  露骨《ろこつ》といえばそうだが、それくらい下心を先に見せてくれれば、こちらも心安らかに対応できるというものだ。  実際のところ、どんな思惑《おもわく》であれ、相手がそれを知ることよりも、相手に訝《いぶか》しまれたほうがよくない結果を招くことは往々にしてある。疑念と想像は、真実を超《こ》えて膨《ふく》らみやすいからだ。 「聖堂はお祈《いの》りの最中だったのでは?」  宿をあとにして、聖堂に向かう途中《とちゅう》でコルが尋《たず》ねてくる。 「修道院|側《がわ》が対抗《たいこう》できないんだろう。思ったより修道院は立場が弱いらしい」  雪と日光に照らされた聖堂は、どんなに綺麗《きれい》に磨《みが》かれた宝石よりも輝《かがや》いていた。  しかし、熱心に神の威光《いこう》に祈りを捧《ささ》げているのが、その聖堂の中ではなく外でということなのだから、いかにその権威《けんい》が踏《ふ》みにじられているかということだ。  固く閉ざされた扉《とびら》の外では、信心深い商人の幾人《いくにん》かが立ったまま祈《いの》りを捧《ささ》げていた。  さて、どうしようかとロレンスが思うのと、聖堂の扉が開くのはほとんど同時だった。  ぞろそろと出てきた人は、まずは身なりのよい商人たちがお供を連れて。次いで羊皮紙や紙の束を抱《かか》えた熟練《じゅくれん》と思《おぼ》しき商人たちが。  ピアスキーは、そんな熟練の商人連中の集団の先頭にいた。  道の脇《わき》に立っていたロレンスに気がつき、流れから外れてきてくれた。 「おはようございますロレンスさん。昨晩は大丈夫《だいじょうぶ》でしたか?」 「連れが酒飲みなもので。恨《うら》み言《ごと》ならたくさん聞きました」 「はは。なら、今度はお連れの方もご一緒《いっしょ》に」  簡単な挨拶《あいさつ》の合間《あいま》に、ロレンスはピアスキーの身なりを軽く見分する。  この修道院で低い立場にいる人間でもなさそうだ。 「ピアスキーさん、お時間は?」  ロレンスがそう水を向けると、ピアスキーは仲間の商人たちを軽く振《ふ》り返って、こう答える。 「多少なら」  おや、とロレンスが思ったのは、ピアスキーが時間を取ってくれたことに対するものではない。  その言葉と振る舞《ま》いが、ほんの少し恩を売るようなものだったから。  売るのだから、なにかを買うつもりに違《ちが》いない。  ロレンスは、商談用の笑顔《えがお》で礼を言った。 「ありがとうございます。どちらに向かえばよろしいでしょうか」 「では、仕事もありますので、資料室のほうに」 「資料室?」 「あ、すみません。あの建物です。一階に神学者のような受付がいますから、私の名前を言ってください」  道沿いの建物の、裏手にくっついているくすんだ石造りの建物だ。  窓も硝子《ガラス》ではなく木窓で、あまり人が使っているという感じもしない。 「報告と片づけがあるので、少し時間を置いてからお願いします」 「わかりました。では、そちらで」  互《たが》いに挨拶を残して、ピアスキーは定宿《じょうやど》のほうに帰っていった。  それから少し時間を潰《つぶ》していると、見たような人影《ひとかげ》がゆっくり歩いてきたと思ったら、ホロだった。 「やはりわっちも行く」  と、フードの下から小さめな声が聞こえてきた。  顔には寝《ね》ていた時についたのだろう跡《あと》がくっきりと残っているので、もしかしたら夢の中で行こうか行くまいか迷っていたのかもしれない。  ただ、もちろん男二人はそのことを指摘《してき》せず、うなずいた。  それから半時ほど置いてピアスキーの示した建物に行けば、確かに神学者のように髭《ひげ》を生やした厳しい顔つきの男がいて、ピアスキーの名を告げると奥の資料室に通してくれた。      そこはなるほど資料室というに相応《ふさわ》しく、あれやこれやの物であふれていた。  ただ、少し奇妙《きみょう》に感じたのは、それらがあまり商人向けではない物ばかりだったせいかもしれない。  地図や町の概略《がいりゃく》図、職人組合の一覧表や貴族の家柄《いえがら》の婚姻《こんいん》図まであった。  ピアスキーはここに一室を与《あた》えられているようで、人気《ひとけ》のない資料室を横切ってロレンスたちを案内してくれた。  扉《とびら》を開ければやはりそこもまた似たようなものだ。 「お忙《いそが》しいところ失礼します」 「いいえ。昨晩は仲間の連中が失礼なことをしましたから。そのお詫《わ》びというわけではありませんが」  つい先ほどの、ちょっとした恩を売るような仕草はこれだったのだろうか。 「とんでもない。色々と貴重なお話を伺《うかが》えましたから感謝しているところです。もっとも」  と、ロレンスは続けて、おどけるようにこう言った。 「そんなことを言ってしまうと、これからお願いをしづらくなってしまうのですが」  帳簿《ちょうぼ》はいつだって貸し借りがゼロになるように調整される。  ただし、損して得を取れ、というのもまた真実だ。 「ははは。もちろん、難しいことでしたらそれなりの対価を頂くところですが、一体どんなことでしょうか。私に簡単にできることでしたら、なんなりと」 「実は、昨日のお話で出ましたように、そちらの同盟が把握《はあく》している、ブロンデル修道院の聖遺物の一覧を拝見させていただければ、と思いまして」 「ああ、それだったんですか。もっと別のことかと思いました。嘘《うそ》ではありませんよ、ほら」  と、ピアスキーは机の上に置いた羊皮紙の束の一番上から、一綴《ひとつづ》りの束を手に取って渡《わた》してくれた。  ずらりと聖遺物が書かれた聖遺物一覧だった。 「ちょうどよかったのでお見せしようと思って用意していたんです」  一枚、二枚とめくってから、ロレンスは顔を上げて礼を言った。 「ありがとうございます。私のような者がいきなり修道院の本館の扉を叩《たた》いても、当然追い返される羽目になりますから」 「いえいえ。こうやって気軽にお見せできるあたりからお察しいただけると思いますが、まったく活用できていませんからね。というのもそこに書かれている物のほとんどが無価値なんですよ。多分苦笑いを禁じ得ないと思いますよ。まあ、ご覧ください」  うまい酒を勧《すす》めるような口調でピアスキーは言った。  実際にそんな気分なんだろう、とわかったのは、ロレンスが羊皮紙をめくり始めてすぐのこと。詳《くわ》しい相場はわからなくとも、どれもこれも購入《こうにゅう》するとしたら信じられない値段がつくことくらいはわかる有名な聖遺物がたくさん並んでいた。  ただ、有名な聖遣物とやらは、別に霊験《れいげん》あらたかだから有名というわけではない。  往々にして、あっちこっちで見かけるからこそ有名なのだ。 「体のいい賄賂《わいろ》のために購入されたものがほとんどでしょうね。偽物《にせもの》とわかりきっている物を貴族や王族から買って、相手の面子《めんつ》を潰《つぶ》さずに金を渡《わた》す。聖女エメラが異教の地で殉教《じゅんきょう》した際の首吊《くびつり》り縄《なわ》とか最たるものでしょう。あちこちに残る縄の断片をつなぎ合わせると、この世のどんなに高い木であっても聖女エメラは地面に足がついたはずだ、といわれていますから」  その慧眼《けいがん》で未来すら見通したといわれる大|賢者《けんじゃ》の右目、という聖遺物もあったが、ロレンスはそれを秘蔵している教会を四つ知っている。  もっとも、どんなものでも貫《つらぬ》く槍《やり》を作れる工房《こうぼう》と、どんな武器でも撥《は》返せる盾《たて》を作れる工房が軒《のき》を遵ねていることだって珍《めずら》しくはない。  世の中そんなことはままあるものだ。 「ただ、ロレンスさんたちがお探しになるようなものはないかもしれません。黄金の羊は伝説だけでなにひとつ形を残していませんからね。話としては、黄金の羊から毛をむしりとろうとした傭兵《ようへい》の話などがありますが……」 「いえ、私たちが追いかけているのは雲を掴《つか》むような話ですから、そのものではありません。ただ、雲が霧《きり》のように掴めないものだとしても、空に浮かんでいるのは事実です。要するに」 「その痕跡《こんせき》、ですね」 「そうです。羊飼いが崇《あが》める守護聖人や、あるいは、彼らに縁《えん》のある品などがあれば……こちらの修道院が黄金の羊を意識していた、という証拠《しょうこ》になりうるのではないかと。ひいては、黄金の羊は存在するはずだ、と主張できるのではないかと」  それが無茶な論理であるとはわかっていても、時として顧客《こきゃく》を満足させる時にはそんな口上を使うものだ。  新天地とは名ばかりの、ただの荒野《こうや》に人々を連れていく仕事に携《たずさ》わっていたピアスキーも思い当たることが多々あるらしい。  感慨《かんがい》深げにうなずいて、苦笑いをしていた。 「しかし、仰《おっしゃ》るとおりに、なさそうですね……」  ロレンスは軽く見|渡《わた》してから、コルとホロに渡す。二人がじっと待っていたのは、この場での役割分担をきちんと心得ているからだ。  ピアスキーは二人にちらりと視線を向けただけで、言葉はロレンスに向けてくる。 「お役に立てずすいません……と私が言うのもおかしな話かもしれませんが」  ピアスキーの冗談《じょうだん》に、ロレンスもつい笑ってしまった。 「我々もそれを散々|吟味《ぎんみ》しましたけどね。そこに並んでいるのはどこででも見られるようなありふれたものばかり。中にはもちろん、右から左に売れるような人気のある高価な品もありますが……実は、私がロレンスさんにそれをお見せしようと思ったのは、訳があったんです」 「訳?」  聞き返すと、ピアスキーは残念そうに笑う。 「ええ。なにか意志を秘めた商品がありはしないかと」  ピアスキーの言葉を受けて、ロレンスは二人が慎重《しんちょう》にめくっている羊皮紙に目を向ける。  そこに並ぶのは金のある修道院や教会ならばおおよそ所有してそうながらくたばかり。  なにかに縁《えん》があるとか、土地にまつわるものとか、まったくそういったものが感じられない、それこそ金持ちの無駄《むだ》遣《づか》いの一覧を見せつけられているような感じがする。  ピアスキーの言いたいことはなんとなくわかる。  単に権勢を誇《ほこ》るためだけに購入《こうにゅう》したものではなく、なにかの目的のために、確固たる意志があって購入したものがまじっていはしないかと。  そんなものを探そうとする動機はそれほど難しいことではない。ルウィック同盟の要求を頑《がん》として撥《は》ねつける修道院に、楔《くさび》を打ち込むきっかけとして探しているのだろう。  交渉《こうしょう》の基本は、いつだって相手の望むものを把握《はあく》することだからだ。 「つい先ほどまで聖堂で定例の交渉を行っていたんですけどね、修道院|側《がわ》の結束は相変わらず見事なものでした。財政は逼迫《ひっぱく》して、春の神への感謝祭の費用すら御用《ごよう》商人に泣きついている有様《ありさま》なのに、です」 「財政は、そんなに?」  ロレンスの質問に、ピアスキーはうなずいて、小さくため息をついた。 「日々の生活費、建物の修繕費《しゅうぜんひ》、祈祷《きとう》のための蝋燭《ろうそく》費、写本のための羊皮紙、紙、本の購入費用、羊飼いの方たちの給金、冬場の飼料代……これが基本的な出費です。それに加えて、地位のある修道院ですからね、数年に一度の司教会議のための莫大《ばくだい》な旅費、修道院を訪《おとず》れる高貴な人のための歓待《かんたい》費用、姉妹院の維持《いじ》費用に、南におわす教皇への莫大な献金《けんきん》費用。しかも、王からは便利な金箱として見られています。国の中で確固たる地位と勢力を持つのを見|逃《のが》す代わりに、というやつですね。このままではなんにせよ遠からず破綻《はたん》します」  修道院といえども、外界とつながりを完全に絶つことは不可能であり、つながりがある以上俗世の仕組みの中で生きていかざるを得ないらしい。  しかも、その窮状《きゅうじょう》は予想していた以上だった。 「ここは羊毛を売って莫大《ばくだい》な財を成してきた修道院ですから、損得|勘定《かんじよう》に長《た》けた者だってごろごろいます。現実的な妥協《だきょう》案を取りたがる者たちだっているはずなんです。だというのに、参事会は結束して同盟の要求を突《つ》っぱねている……」 「そうするには、なにかしらの意志がなければならない、ということですよね?」  人はなんの支えもなしにいつまでも強くい続けることなどできはしない。  それが色々な考えを持つ集団となればなおさらだ。  神の威光《いこう》を守るために一致《いっち》団結している、というのであれば、まだしもピアスキーはこんな愚痴《ぐち》を吐《は》くような真似《まね》はしないだろう。  金儲《かねもう》けが好きな人物もいれば、神にひたすら祈《いの》るような聖人じみた者もいる。  だというのに結束が取れていることが不可解すぎて、困り果てているのだ。 「聖遣物への投資など、条件に合うと思ったんです。信仰《しんこう》心の篤《あつ》い方も納得《なっとく》できて、金儲けにもなるとなれば、辛《つら》い現状を耐《た》える支えにぴったりですからね。そして、彼らがなににすがっているのかわかればそこを取《と》っ掛《か》かりにして、突《つ》き崩《くず》していこうと」  実に歪《ゆが》みのない正攻《せいこう》法。  ただ、ロレンスがホロとコルを見れば、二人は羊皮紙にはなにも手がかりがない、という顔をしながらも、その目の奥では思うところがあるようだった。  狼《オオカミ》の骨の話。  それが酒と笑いの似合う与太話《よたばなし》の類《たぐい》でないのだとしたら、ピアスキーの考えにぴたりと当てはまるだろう。 「いい考えだと思ったんですけどね……偽物《にせもの》であふれている聖遺物に最後の望みを託《たく》すわけがない、なんて周りが思うあたりが、格好の隠《かく》れ蓑《みの》だと思ったんです」 「なるほど……確かにそうですね」  ロレンスが狼の骨のことを伝えなかったのは、現状では伝えるだけ損だと思ったから。  相手はルウィック同盟という強大な権力機構であり、その力はケルーべの港町の比ではない。  へたに彼らに情報を伝えて巻き込まれたら、今度こそ無事ではすまないはず。  コルとホロもなんとなく察してくれたらしい。  再び羊皮紙に目を落とした。 「実を言うと、昨日、ロレンスさんがお話を聞きに来たあとの夜は興奮してなかなか寝《ね》つけなかったんですよ」  椅子《いす》に座るピアスキーの自嘲《じちょう》気味な笑顔《えがお》は、隠していた疲《つか》れが表に出てきたものだと見えなくもない。  聖遺物一覧を我々も散々|吟味《ぎんみ》し尽《つ》くした、というさっきピアスキーの言った言葉もまたちょっと変わった意味で聞こえてくる。  夜中に、こっそりと蝋燭《ろうそく》に火をともして必死に項《こう》をたどるピアスキーの姿が思い浮かぶ。 「この現状を打破する手がかりは、聖典に書かれているどんな神の福音《ふくいん》よりも素《す》晴《ば》らしいものですからね。羊皮紙を全《すべ》てめくり終えて、もう一度めくり終わったあとの徒労感といったらなかったですよ。でも、それでもロレンスさんたちならば……と、下心があってお見せしました」 「お役に立てず、申し訳ない」  その言葉に、ピアスキーと揃《そろ》って笑っていた。  生まれてから死ぬまでパン売り台でパンを売り続けるパン職人ならいざ知らず、機会を見つけては新しい商売に手を出す商人たちにはままある期待と落胆《らくたん》の揺《ゆ》り籠《かご》だ。  商人たちはそれらに懲《こ》りずに希望を追い続ける。  ただ、ロレンスは少し気になって、こんな言葉を向けていた。 「下賎《げせん》な質問なのですが」 「はい?」 「やはり、ここの土地を購入《こうにゅう》できれば同盟はそれほどの利益を?」  ルウィック同盟は町の小さな商会が自分たちのささやかな利益のために結成したものではない。  軍船や商船を多数|擁《よう》し、関税を設けて町の中の商人を保護しようと企《くわだ》てる町があれば力ずくで開門させるような存在だ。  この世にそんなに金貨があったのか、と思うような莫大《ばくだい》な金額の商売の話をいくつも聞いたことがある。  そんな同盟に所属する多数の商会の人間が、雁首《がんくび》揃えてここにやってくるというのは、それなりに儲《もうけ》けが期待できるからのはず。  それでも、ロレンスのような行商人には正直利益を具体的に想像することができない。  一体どのくらい儲かるものなのか。  ピアスキーは、ロレンスの質問に困ったように笑ってから、鼻の頭を掻《か》きながら答えた。 「私も金貨で何枚の儲けになるのか、となるとまったく想像もつきませんけどね。ただ一つ言えることは、たくさんの人間にとっての利益になるということです」 「たくさんの、人間?」  ちょっと想像がつかず、ロレンスは聞きなおす。  同盟に関《かか》わる人間はたくさんいるはずなので確かにそう言えなくもないが、それにしては言葉の選び方がおかしいような気がした。 「ええ。我々がここでなにをしようとしているか、概略《がいりゃく》はご存じですよね」 「財政が逼迫《ひっぱく》している修道院の土地を買い上げて、それを元手に貴族を抱《だ》き込《こ》み、国政に関与《かんよ》する」 「そのとおりです。ただ、購入《こうにゅう》した土地をそのまま貴族に与《あた》えても、彼らはまたぞろ消費してしまうでしょうからね。日々の豪奢《ごうしゃ》な生活のために、あるいは、見栄《みえ》や信仰《しんこう》心のために教会や修道院に寄付をすることで。長い目で見れば、遣産相続の際の分割でどんどん土地が細切れになっていって最終的には失って没落《ぽつらく》してしまう。それでは我々の利益にも、彼らの利益にもなりません。それを回避《かいひ》するために、私のような者が呼ばれているんです」  落ち着いた笑《え》みと、ゆったりとした口調。  それは話しなれているとか、他人への説明に慣れているとか、性格がおっとりしているとかいうのとはもちろん違《ちが》う。  自信。  自分の仕事に誇《ほこ》りを持つ人間独特の落ち着き方。  ホロが真っ先に気がついて顔を上げる。  ロレンスは、自分がどうしてピアスキーを意識してしまうのか理由はよくわかっている。  誰《だれ》にも負けない技術を持つ職人のように、地歩をきっちりと固めている。  そのことに、無意識のうちに焦《あせ》りに似たものを覚えるのだ。 「我々はここの修道院が所有し、ほったらかしにしている土地を買い上げて、そこに人を入植させようと考えています。村や町を作ろうと考えているんですよ」  ピアスキーの部屋や、隣《となリ》の部屋に広げられていた種々の資料。  ここは、彼らのような人間のための、設計室なのだ。 「修道院が土地を遊ばせているせいで、多くの所領の貴族が満足な収入を得られませんし、農民たちも楽な暮らしをするのに十分な土地を確保できません。大陸|側《がわ》に至っては、ご存じのように戦乱や飢饉《ききん》、疫病《えきびょう》や洪水《こうずい》などによって土地を追われて行き場を失っている人たちがたくさんいます。仕事も金もなければ、奪《うば》うか乞《こ》うかしなければなりませんが、そんな連中であふれていると治安が非常に悪化します」 「彼らを新天地に導いて住処《すみか》と働く場所を与え、片や、浮浪《ふろう》の輩《やから》のせいで困っている領主たちに貸しを作る、というわけですか」 「ええ。あらゆる場所がうまく回るというわけです。それに、お金だけではありません。こう言うのは傲慢《ごうまん》に聞こえるかもしれませんけどね。帰る家をなくしてしまった人たちのために新しい家を作るということを一度経験してしまうと……」  偽善《ぎぜん》と善行は紙一重。  そのことをきちんと理解している者の笑顔は、いつだって爽《さわ》やかな苦笑いだ。 「やめられません。それこそ、わずかな手がかりや思いつきで羊皮紙をめくってしまうほどに」  ホロは手を止めてじつとピアスキーの話に聞き入っていた。  責めるべくもない。  ホロはピアスキーの仕事のことなど気にしていないと言っていたが、そこまで割りきれるのならこれまでの旅の途上《とじょう》でのホロの取り乱しっぶりは嘘《うそ》だということになる。  大丈夫《だいじょうぶ》だろうかという心配が先に来て、よく見てみたら信頼《しんらい》できる伸間がすでに手を差し伸《の》べてくれていた。  羊皮紙の下で、コルが意を決したようにホロの手を握《にぎ》っている。 「入植民の中に、村を海賊《かいぞく》に焼き払《はら》われて村人が散り散りになった人たちがいた時のことです。海賊に連れ去られ、もはや二度と出会えないと思っていた家族が、入植のことを聞きつけて新しい村にやってきて再会した、とかいったことがありました。もう、やめられませんよ。そして、そんなことがままありますからね」  よくある話であり、珍《めずら》しいことではない。  旅の途中、村や町で誰《だれ》かに会えば、どこそこの誰を見なかったかと聞かれたり、あの地方では戦乱があったがあの村はまだあるのか、と聞かれたりもする。  遠くの土地から連れ去られてきて、ようやく金を溜《た》めて自由を買った奴隷《どれい》たちに出会えば、あの町はどちらか、と信じられないくらい遠い場所を尋《たず》ねられることもしばしばだ。  そして、それは人だけに限らない。  彫像《ちょうぞう》のような無表情でありながら、頬《ほお》を突《つ》いたら涙《なみだ》があふれそうな顔をしているホロだって、そんな流浪《るろう》の民《たみ》の一人なのだから。 「多くの入が関《かか》わることですから、当然金も儲《もう》かります。同盟の名の下《もと》に作られた町であるなら、同盟の関係者であるというだけで歓待《かんたい》されたりしますしね。ただ、そればっかりではありません。あちこち飛び回って商売をしたことがある人なら、故郷の文字には殊更《ことさら》過敏《かびん》に反応します。我々が修道院に食らいついたまま離《はな》れないのには、心情的な理由もあるんです。自分のためだけなら、ここまでしつこく頑張《がんば》れません。誰かのためだからこそ、というやつですね」  その最後の言葉は、嫌味《いやみ》なほどに真実を示していた。  ホロのためだからこそ、自分はこんなところにいる。 「はは。つまらないお話をしてしまいました」 「いえ……」  自嘲《じちょう》するように笑うピアスキーにロレンスは言って、もう一度言う。 「いえ。わかりますよ。私も同じですからね」  ロレンスがそんな一言を口にした瞬間《しゅんかん》だ。  ピアスキーは、ロレンスがなぜこんな奇妙《きみょう》な三人連れで旅をしているのかということに合点《がてん》がいったらしい。  コルとホロを交互《こうご》に見て、対する二人は揃《そろ》って苦笑い。  ピアスキーはうなずき、ゆっくりと口を開く。 「差し支《つか》えなければ、どちらのご出身かお聞きしても?」 「どちらも北です。大陸の。別々の場所ですけどね」  驚《おどろ》きに目を見開くこともなければ、同情や憐憫《れんびん》の顔をすることもなかった。  代わりに、商売相手にするように、真摯《しんし》な表情になって言葉を向ける。 「土地の宝を?」  戦争には略奪《りゃくだつ》がつきもので、教会の異教徒|討伐《とうばつ》は戦争と変わらない。  異教の土地の物でも、奪《うば》い去られて聖遣物として高値をつけられる物は少なくない。  逆にいえば、そういう物を手に入れられる可能性があるからこそ、異教徒討伐のための兵力が途絶《とだ》えることもないのだ。 「そんなところです。彼らは故郷の痕跡《こんせき》を探し、私は彼らの知識を必要とする。出会えたのは、ちょっとした奇跡《きせき》だと思っています」 「そうだったのですか……それでは……ロレンスさんは調査のための出資者を見つけ、お二人は水先案内人を見つけ、というわけですね。巡《めぐ》り合《あ》わせとは不思議なものです」 「神に感謝すべきなのか、複雑なところですが」  少なくとも修道院ですべきではない冗談《じょうだん》に、ピアスキーは苦しそうに笑う。  笑ってはいけない場所での悪質な冗談ほど、笑えてくるものなのだ。 「失礼。しかし……そういうことでしたら、協力を惜《お》しみませんよ。なんでも言ってください」 「これらを見せていただけただけでも十分です。ありがとうございます」  ピアスキーは、商人として優秀《ゆうしゅう》だからさっぱりとしているのではない。  きっと、生来|優《やさ》しい性格なのだろう。 「見つかると、いいですね」  そう言わずにはいられなかった、といった感じでそんな言葉を口にしたのだ。  儲《もう》かるからとか、感謝されるのが嬉《うれ》しいからとか、そういう理由だけでピアスキーが今の仕事に従事しているのではないことがよくわかる。  悔《くや》しいが、完敗だ。  そして、ホロがピアスキーと最初に出会わなくてよかった、とも思ってしまっていた。  もしも自分と順序が逆だったのなら。  そう考えるのを止められるほど、自分は自信家ではない。  ロレンスがそんな馬鹿《ばか》なことを思って自嘲《じちょう》のため息をつきかけた時だった。  扉《とびら》がノックされて、ピアスキーが出ると同盟の使いの者らしい。  聞くともなしに耳に入ってくる言葉で、呼び出しであることがわかる。  ピアスキーは使いの者に返事をして、こちらを振《ふ》り向いた。 「すみません。呼ばれてしまったもので……」  当然、ここは同盟がこの修道院に来ている理由の中で、最も重要な意味合いを持つ建物だ。  ピアスキーなしで居座ることなどとてもできはしない。  ロレンスはホロとコルから丁寧《ていねい》に羊皮紙の束を受け取って、ピアスキーに礼と共に返却《へんきゃく》した。 「助かりました」 「いえ、このくらいのことであればいつでも」  他意のない笑顔《えがお》はそれだけで価値がある。  ロレンス、ホロ、コルと続いて部屋を出て、最後にピアスキーが出て鍵《かぎ》を閉める。  ここでたくさんの人間の新しい故郷が設計されているかと思うと、なんだか不思議な気分になる。ホロが少し夢見|心地《ごごち》のようなぼんやりとした表情だったのも、きっと同じことを思っていたからだろう。 「では」  ピアスキーとは外で別れ、ピアスキーはそのまま緑色の紋章旗《もんしょうき》の掲《かか》げられた定宿《じょうやど》へ行き、ロレンスたちはその反対|側《がわ》に向かって歩き出した。  外はいい天気で、空を見上げていれば雪があることすら忘れてしまいがちだ。  三人ともに無言なのは、それぞれ思うところがあったから。  ただ、ロレンスがその沈黙《ちんもく》を破ろうとした瞬間《しゅんかん》、ホロがはたと立ち止まった。 「どうした?」  ロレンスとコルが、数歩先に行ったところで振り向いた。  ホロはうつむきがちで、フードの下に顔が隠《かく》れていて表情がわからない。あまり元気でないことだけは、たたでさえ細い肩《かた》がより細くなっていることからわかったのだが。 「先に行っててくりゃれ。少し、歩きたい」  口元だけを見るならば、笑っているようにも見えたが、笑顔が常に楽しいことだけを顕《あらわ》しているのならいいのに、と思ったことは何度もある。  コルがたまりかねたようにホロの側《そば》に寄ろうとして、ロレンスはそれを止めた。 「風邪《かぜ》だけはひくなよ。ここで病気になるとありがたいお祈《いの》りつきだ」 「たわけ」  短い単語だったのに、一際《ひときわ》大きくホロの口元から白い息が立ち上った。  ホロはそのままくるりと踵《きびず》を返し、歩き出す。  コルはホロの後ろ姿に苦しそうに自分の胸を押さえ、すぐにロレンスのことを見上げてくる。  ホロがどうしてあんなことになっているのかわからないコルではない。  百聞は一見にしかず、という言葉があるように、そういう仕事があるらしい、と聞くのと、実際にその現場を見るのとではまったく印象が違《ちが》う。  ピアスキーが新たな故郷を作るという特殊《とくしゅ》な仕事を生業にしていると聞くのと、実際にその作業場を見るのとでは衝撃《しょうげき》もまた違っただろう。  しかも、ピアスキーはいい奴《やつ》だった。  金だけのためにでもなく、また、無私無欲でもなく。  途中《とちゅう》からホロが小走りになって、身を隠《かく》すようにさっさと角を曲がってしまったことに、ロレンスだって胸が痛む。  ホロも、もしかしたら、あの時思ったのかもしれない。  ピアスキーと出会っていたら、あるいは、と。 「俺は追いかけるべきだったのかな」  冷たい空気を吸い込んで、熱い息を吐《は》く。  道の真ん中に突《つ》っ立っていても、あちこちで立ち話に花を咲かせている商人たちがいるせいで大して目立つわけでもない。  もう一度深呼吸して、歩き出した。 「最善かはわかりません。でも、ホロさんは喜んだと思います」  ホロでなくたってその頭を撫《な》でたくなるような模範《もはん》解答だ。  ただ、模範解答が常に正しいわけではない。 「俺の故郷はまだ健在なのに?」  コルは息を飲んで、立ち止まる。  それでも、足を止めないロレンスの横にすぐに追いついた。 「神が我々を慰《なぐさ》めてくれることだってあります。神は老いも病もない天の国におわすのに」  ホロが言葉遊びの達人なら、コルは説得の名手だ。  自分の気持ちにぶれがないから、その言葉はまっすぐに相手に届く。  しかも、教会法学を学んでいたせいで聖典からの引用を使ってそれをする。  迷いに迷い、自分にすら嘘《うそ》をついて生きてきた行商人には、真正面から受けることなどできないものだ。 「悪い。俺に勇気がないだけなのはわかっているんだ。俺があいつの側《そば》に行って、拒絶《きょぜつ》されるのが怖《こわ》い」 「そんなこと」 「ないと思うか?」  立ち止まると、コルとロレンスの身長差はホロ以上だ。  意識していなくとも、威圧《いあつ》する形になるのに十分な差。  自分の表情が硬《かた》いのは、そんなコルが生意気に感じるからでも、寒いからでもない。ロレンスは再び歩き出して、コルが遠慮《えんりょ》がちに隣《となり》に立つのを待ってから、口を開いた。 「それに、俺はあいつをそこまで見くびってはいない。多分、悲しいとか寂《さび》しいとかよりも、単純に動揺《どうよう》しているんだろうと思う。故郷はそこにあるか、なくなるかのどちらかだけで、新しく作る、という発想なんてまったくなかったんだろう。だから、それに対してどうやって自分の気持ちの整理をつけたらいいかわからなくて少し混乱している、ということだと思いたい」  羊飼いたちの宿含にたどり着き、部屋の薄《うす》い扉《とびら》を開けて中に入り、ロレンスは言葉を続ける。 「俺はホロの全《すべ》てに関《かか》われるわけではないし、あいつの抱《かか》えること全てを解決できるわけではない。なら、俺は俺にできることを一生懸命《いっしょうけんめい》するしかない」  ホロが望む形で。その最良の方法で。  消えかかっている囲炉裏《いろり》に藁《わら》を足すと、火はすぐに燃え移り、火の粉《こ》が軽く舞《ま》った。 「狼《オオカミ》の骨の話、お前たちも気がついただろう?」 「……ピアスキーさんの欲しがっている、手がかり、ということですよね」 「そう。ケルーベで見たようにな、聖遺物はどれも高価な品だし、そのうえ、使いようによっては信仰心にも訴えることができる。例えば、神が遣《つか》わしたであろう黄金の羊を捕《と》らえるためだとか言ってな。ピアスキーが欲しがっている手がかりそのものと言ったっていい」  もしも修道院が、異教の神のものとわかっていてもなおその骨を買っていたのだとしたら、それ以上に修道院の意志を感じさせるものもない。  修道院の参事会をまとめ、信仰《しんこう》、実利、双方《そうほう》から修道院を救う。  それが巧妙《こうみょう》な決断であればあるほど、穴をうがちやすくなるのは世の皮肉だ。  嘘《うそ》だって、単純なものほどばれにくい。  ただ、あの時ロレンスが情報をピアスキーに伝えなかったのは、それがロレンス一人で決めていいようなことではないと思ったからだ。 「ロレンスさんは、どうして、あの時?」  ホロはあの時、おそらくロレンスの懸念《けねん》をきちんと察していたし、コルだって大まかなところは理解しているはずだ。  ケルーベでの港町の出来事を思い返せばいい。 「この情報は、彼らが重要な決断をするのに十分なものだからな。その時、俺たちが彼らとどのくらい距離《きょり》をあけていられるかは、考えるまでもない。同盟だってどこの誰《だれ》ともわからない者の情報を鵜呑《うの》みにして行動したくないはずだ。俺からきっちりと言質《げんち》を取ったあとで、場合によっては失敗した時の責任を取らされたり、修道院と真正面からやり合うことになったらその矢面《やおもて》に立たされるかもしれない」 「無関係ではいられない、ということですか」 「そう。あいつらの力は強大だ。俺たちがこのことを伝え、価値ありと見れば、聖遺物一覧のみならず、ずっと監視《かんし》し調査し続けてきた修道院の取引記録や財産目録を全てひっくり返すだろう。そして、もしも骨があるのなら遠からずその片鱗《へんりん》なりを見つけるはずだ。そんな連中と関わりを持つ。しかも、この助けの呼べない雪原の真ん中で」  ケルーベではまだしも周りにたくさんの人間がいた。  しかし、ここではローエン商業組合の名前すらが弱い。 「危険を負って、危なくなったらホロの背中に乗って逃《に》げる。確かにそんな選択肢《せんたくし》もあるだろうが、それを選ぶのなら、最初からホロが牙《きば》を剥《む》くべきだ。だが、ホロはそれをできる限り避《さ》けたがっている。律儀《りちぎ》なうえに心配性だからな」 「……」  ホロはロレンスには遠まわしに、ややこしく、ともすれば勘違《かんちが》いしかねないような方法でしかなかなか本音を言わないが、コルにだけはあれこれ伝えている節がある。  言葉を省いてもコルはおおまかに理解できたらしいので、多分その推測《すいそく》は当たっている。  それどころか、苦しそうな顔をしているので相当ホロの本音を聞いている可能性まである。  もしもそうだとしたら、いい歳《とし》をして馬鹿《ばか》な二人、とすら思っているかもしれない。  ホロも、きっと苦言を呈《てい》されて笑わざるを得なかったに違いない。  素直《すなお》になったらどうですか、と。 「だから、あいつが望むなら、俺は危険を引き受ける。俺ができるのはそれくらいだからな」  言葉を切って、燃え尽《つ》きた藁《わら》が灰になり、熱気でゆらゆらと揺《ゆ》れるのを見る。  まるで自分を見ているようだ、と言ったら、あまりにも気障《きざ》すぎるだろう。 「お前はさっき、俺に故郷があってもホロを慰《なぐさ》められる、と言ってくれたけどな」 「は、はい」 「やはり、難しいと思う。それに、もしもあいつに、故郷を作ってくれなんて頼《たの》まれたら困るからな。かといって」  唇《くちびる》が、右|側《がわ》だけ勝手につり上がってしまうのは、ホロのためなら大きな危険を引き受ける覚悟《かくご》もあるというのは、結局「そこ」に集約されるからだ。 「そう。かといって、あいつが俺以外の誰《だれ》かにそれを頼む姿なんて絶対に見たくない」  ホロがいたら絶対に言えるわけもない、だがそれが偽《いつわ》りのない本音。  コルの顔が強張《こわば》るのも当然だ。  そんなこっ恥《ぱ》ずかしい台詞《せりふ》、いい大人から聞きたくないだろう。  それでもロレンスは、なんだか妙《みょう》な爽快《そうかい》感と、ある種の誇《ほこ》らしさを胸に、冗談《じょうだん》めかして言葉を続けた。 「なら、別のなにかで気を惹《ひ》くしかないだろう? それこそ、ピアスキーの仕事のことなんて忘れてくれるようなことで」  打算的で、自已の利益に忠実な考えだというのに、昔のように銀貨を一枚でも増やすために頑張《がんば》っていた時のそれとは明らかに一線を画すものだ。  あの時は教会で告解をしたって、胸の内がすっきりすることなどなく、むしろ告解したのだからしばらくは大丈夫《だいじょうぶ》、と余計に打算的な考えにすがるしかなかった。  もっとも、それらは全《すべ》てロレンス自身のことで、聞いているほうとしては鼻をつまみたくなってしまうようなものだろう。  コルの場合はもう少しおとなしく、恥《は》ずかしさを堪《こら》えるように横を向いていた。 「当然こんなことあいつには言えないし、どちらかといえばこっちの都合であれこれ振《ふ》り回されるお前こそ災難《さいなん》だしな」  そんなロレンスの言葉にコルはようやく顔を上げて、なにかを言おうとした。  しかし、結局口はわずかに開かれたものの、再びうつむいてしまう。  ロレンスはさすがにその様子に妙《みょう》なものを感じて、聞き返す。 「どうした?」  びくりと肩《かた》をすくませるコルは、いつだって素直《すなお》に返事をするのにまた顔を背《そむ》けた。  そして、そのまま、こんなことを小さく言った。 「……ごめんな、さい」 「なに? なんでお前が謝る必要が……」  ぽす、と音を立てて炭の中でなにかが弾《はじ》け、灰が囲炉裏《いろり》の中で小さく舞《ま》った。  もしかしたらそれは自分の頭の中で一つのことがひらめいた音だったのかもしれないし、あるいは、顔の強張《こわば》った音かもしれない。  コルは身をすくめて、本当に申し訳なさそうな顔をしている。  もう、確定だ。  ロレンスは顔を手で覆《おお》って、がっくりと肩を落とす。  きっと全《すべ》てを聞かれたに違《ちが》いない。  ピアスキーの資料室を出るどこかの頃合《ころあい》で、ホロはコルに言い含《ふく》めていたのだろう。一人になりたいと言ったあと、ロレンスがどんな反応をするか陰《かげ》から窺《うかが》っているから協力しろと。  一言一言がまざまざと蘇《よみがえ》る。  せめてもの見栄《みえ》として、逃《に》げることだけはしなかった。  立ち上がり、はっと怯《おび》えたような顔をするコルの頭を軽く撫《な》でて、その横を通り過ぎて扉に向かう。  薄《うす》い木の扉は、大して音を防がない。  もっとも、扉を開けた先に立っていた、逃げるつもりもなさそうなホロにすれば、関係のないことではあっただろうが。 「わっちのことをめそめそしておるだけのか弱い雌《めす》、と思わなくなったことには感心するんじゃが……まったく、聞いておるこっちのほうが恥ずかしくなってしまいんす」  底意地の悪そうな笑い顔。  言い返して、論破して、もうやめてくりゃれ、と泣き出すまで叩《たた》き伏《ふ》せたくなる生意気な顔。  何度もこの顔にしてやられてきた。  毎回毎回それに腹が立つのは、ホロのいたずらは大抵《たいてい》自分の間抜《まぬ》けなところを浮《う》き彫《ぼ》りにさせるからだ。 「自分以外の誰《だれ》かに頼《たよ》る姿を見たくないなどと……まったく、ぬしは相変わらずの可愛《かわい》さじゃな。この——」  言って、ホロが牙を見せながらロレンスの胸を人差し指で突《つ》つこうとした瞬間《しゅんかん》だった。 「……っ……っっ……!」  怒《いか》りもあんまり積み重なるとひっくり返るというが、この場合は追い詰《つ》められたら鼠《ネズミ》でも猫《ネコ》を噛《か》む場合がある、のほうが正しいかもしれない。  ホロは最初こそ驚《おどろ》いて体をすくめていたものの、すぐに我に返ってじたばたと暴れ、明らかにコルのほうを気にしてはどうにか逃《に》げ出そうとする。  しかし、この姿のままであれば力の差は歴然だ。  ホロはしばらくのちにおとなしくなった。  そのままどれくらいそうしていたのか、ロレンスが腕《うで》を解いた瞬間《しゅんかん》、ホロは深呼吸をしてからロレンスの頬《ほお》を目|一杯《いっぱい》張ったので、多分相当長い時間だったのだろう。  ロレンスがよろめきつつ、ホロにはやはり敵《かな》わない、と思ったのはその手の早さに関してではない。  ロレンスの頬を張りながら、ホロは怒りに顔を染めているわけではない。  それどころか、いつになく優《やさ》しい顔つきで、うっすらと微笑《ほほえ》んでいたからだ。 「おあいこじゃな」  先に仕掛《しか》けたのはどっちだ。  笑っていない笑顔なら、多分ここでそう反論したに違《ちが》いない。  ロレンスが反論しようとしつつも口をつぐんだのは、その笑顔が本物だったから。 「おあいこじゃな」 「……ああ」  答えると、ホロは満足げにうなずいて、ロレンスを押しのけて部屋に入ってきた。 「コル坊《ぼう》には、作戦成功のご褒美《ほうび》」  と、目を白黒させていたコルの頬に自分の頬を重ね合わせて、頭を軽く撫《な》でていた。  それで顔を真っ赤にするのだからまだまだ子供だな、なんて思っているのがホロにばれたらどんな罠《わな》に嵌《は》められてからかわれるかわかったものではない。  扉《とびら》を閉じて、囲炉裏《いろり》の周りに戻《もど》る。  ホロはコルを後ろから抱《だ》きすくめ、囲炉裏の火を見つめながら口を開いた。 「今日か、明日にでもここを発《た》とうと思いんす」 「え」  短く声を上げて、振《ふ》り向こうとしたのはコル。  しかし、振り向けばホロの顔がまん前にあるので、思いとどまったらしい。  ホロが少し笑ってから、続けた。 「もちろん、ぬしらも一緒《いっしょ》じゃ。あのイークとかいう港町に戻《もビ》って、なにかうまいものでも食べて、酒をたらふく飲んで、寝《ね》る。ぬしらはこんこんと寝る。雪の中を三日もかけて戻るんじゃからな、当然じゃ」  妙《みょう》な語り方だとコルは思ったらしい。  怪訝《けげん》な顔をしているが、ロレンスはそうは思わない。  なんとなく予想できていたことだし、その選択肢《せんたくし》も、ホロが選ぶのなら、構わない。 「酒のせいで昼|頃《ごろ》に目を覚ますかもしれんな。そうしたら、もういつもどおり。わっちらは三人|揃《そろ》って、飯を食う。海を渡《わお》って戻るかどうかを、のんびり相談しながらの。なぜなら」  軽く笑い出しそうになったのを咳《せき》で誤魔化《ごまか》すようにして、ホロは口元を軽く拭《ぬぐ》う。 「前の日の晩に遠く離《はな》れた修道院でなにが起きようとも、それこそ大きな狼《オオカミ》に襲《おそ》われようとも、ぬしらはまったく与《あずか》り知らぬじゃろうからな。当然、誰《だれ》もそのこととぬしらが関係あるとは思わぬじゃろう。静かに、のんびりと。危険や困難など、どこにもありんせん」  言い終わって、ようやく視線をロレンスに向けてくる。  どうじゃ? と今にも微笑《ほほえ》みかけてきそうな雰囲気《ふんいき》すらある。  ホロはロレンスに危険を背負わせることなどできないと判断した。かといって、おめおめと引き下がるわけにもいかない。  だから、最も合理的で、最も手軽な方法を選択する。  そういうことなのだ。 「お前がそれでいいのなら構わない。俺は気にしないと言ってあるはずだからな」 「うん。ぬしの気持ちは確かめさせてもらいんす。あれを疑ったら、わっちのほうがたわけじゃからな」  照れくさそうな笑顔だったのなら可愛《かわい》げがあるのに、ホロの顔は意地悪そうなそれ。  もっとも、だからこそホロなのかもしれない。  素直《すなお》なホロなど、塩気のない干し肉だ。 「わっちはヨイツの賢狼《けんろう》ホロ。人はわっちを見ると怯《おび》えてかしずいた。じゃが、わっちが怯えておっては話にならぬ」  真の姿でその力を振るう。人を守る時ですら、守られた人の顔が恐怖《きょうふ》に彩《いろど》られているかもしれない。  では、自らの目的のために振るった時はなおのこと。  ホロの心配は、当然わかる。  ただ、たまにはこちらのことも信用してもらいたいものだ。 「今日は無理だ。明日か、あるいは明後日《あさって》だろうな」 「コル坊《ぼう》は?」  聞いたのはきっと意地悪か、あるいは照れ隠《かく》しのためだろう。  コルも自分に尋《たず》ねられるとはまったく思っていなかったようで、びっくりしてから慌《あわ》てて同意する。 「では、そういうことで決まりじゃな。ぬしにとっては金儲《かねもう》けにつながりそうな面白《おもしろ》い話をふいにする羽目になって、わっちゃあ詫《わ》びの言葉もありんせんが」  コルの肩《かた》に後ろから顎《あご》を載《の》せてのその言葉に、真面目《まじめ》に相手にする気にもならない。  狼《オオカミ》の骨の話は確かに使いようによってはロレンスに途方《とほう》もない利益をもたらすものだろうが、財布《さいふ》に入りきらない利益を追い求めた時、人は大抵《たいてい》不運に見|舞《ま》われる。  財布は胃袋《いぶくろ》と同じ。  欲張れば、破裂《はれつ》して死に至ることだってある。 「悪いと思っているのなら、謝ったらどうだ?」  軽口に軽口を返すと、ホロは楽しげに笑って、こう言った。 「許してくりゃれ?」  馬鹿《ばか》馬鹿しくて笑い、まったく平和なことだと呆《あき》れてため息をつく。  しかし、同時にこんな言葉もぽろりと漏《も》れた。 「ま、たまにはいいか」  よく晴れた昼下がり。  囲炉裏《いろり》の火も、いらないくらいだった。   [#改ページ]  雪の中を帰るとなればそれなりの準備が要《い》る。  冬になればあちこちの町の宿屋で、同じ顔ぶれの商人たちが何週間も居座るのはそれが主な原因だ。雪が降ってしまえば見なれた道ですら異国のそれと変わらなくなるし、雪に覆《おお》われていると危険な場所も草原もいっしょくたになってしまう。  道先案内人や深い雪に負けない馬。夜を過ごすための宿や小屋の把握《はあく》。いつもより旅程に時間がかかるのであれば食料や水の配分も考えなおさなければならない。  ただ、幸いなことに需要《じゅよう》があるところに必ず供給がある。それも、ブロンデル修道院の商人が詰《つ》める分館は見|渡《わた》す限り旅人ばかりといっても過言ではない。  ロレンスは、来た時に道を案内してくれた馬子《まご》に帰り道も頼《たの》むため、夕方近くなってからピアスキーにその旨《むね》を伝えた。  定宿《じょうやど》で書き物をしていたピアスキーは、もう帰るのかと一瞬《いっしゅん》驚《おどろ》きはしたが、冬の旅立ちは夏よりも素早《すばや》く決定しなければならないし、ここに来る際に少し多めの案内料を渡《わた》していたこともあって、快《こころよ》く手配を引き受けてくれた。  情報を集めに行って、不首尾とわかればさっさと退散する。落胆《らくたん》したり、ぐずぐずしたりする暇《ひま》があれば、次の場所へ、次の目的のために走るべき。  商人たちは初対面の相手にも笑顔《えがお》と握手《あくしゅ》で気安く歓迎《かんげい》を示すが、別れる時だって同じくらい気安く手を振《ふ》って笑顔を向ける。  それが寂《さび》しいこともあれば、助かることもあった。 「以上で一通り揃《そろ》います、ね」 「よろしくお願いします」 「いいえ、とんでもない。こちらこそあまりお力になれずに」  商人同士の、意味はないけれども交《か》わさないのもまた座りの悪い定例のやり取りをする。  ただし、そのあとの握手《あくしゅ》だけは無意味ではない。  人相がその人の資質や器を顕《あらわ》すことがあるように、人生はその人の手に出ることがある。  別れ際《ぎわ》、その人の顔をどのくらいの期間|記憶《きおく》にとどめておこうかと決めるのは、この握手の際の手の感触《かんしょく》だったりもする。  ロレンスはがっしりとピアスキーの手を握《にぎ》り、その顔をしっかりと記憶する。  願わくば、向こうもこちらの顔をきっちりと覚えておいて欲しいところだ。 「明日の朝には出発できるかとは思います。ただ」 「ただ?」 「つい先ほど、西の王都から定例の飛脚《ひきゃく》が来たのですが、西のほうは天気が大荒《おおあ》れになっているようで。今日|到渚《とうちゃく》する予定だった使者もまだ来ていませんしね。遠からずこちらも荒れるかもしれません」  雪に風がまじる時、世界は文字どおり真っ白に塗《ぬ》り潰《つぶ》されてしまう。  どんな腕利《うでき》きの馬子《まご》であっても、限界がある。 「もちろん、吹雪《ふぶぎ》に逆らうようなことはしませんよ。教会と赤子《あかご》と天気には逆らえませんからね」  ピアスキーは笑ってうなずいた。 「風によっては北にずれてくれるかもしれませんが。なんにせよ、もう少ししたら外から羊飼いの方たちが帰ってくるでしょうから、お聞きしてみましょう。外のことは彼らに聞くのが一番正確で……あ、ロレンスさんたちはあの方たちと同宿でしたね」 「ええ。一番情報を集めやすい特等席です」  そんな冗談《じょうだん》と共に、ロレンスはもう一度礼を言って定宿《じょうやど》をあとにした。  外に出ると夕暮れ時の物哀《ものがな》しい雰囲気《ふんいき》と共に、確かに空には雲が多いし、多少の風もある。  足を速めて歩く商人たちも、この時ばかりは金のことではなく、温かい夕食のことで頭が一杯《いっぱい》だろう。  ロレンスもハスキンズとの契約《けいやく》に夕食の世話が含《ふく》まれているし、なによりホロがいる。  足を速めて部屋に戻《もど》り、食事の準備に取り掛《か》かった。 「吹雪?」  材料を放《ほう》り込み、あとは火にかけるだけという段になって、ロレンスは柄杓《ひしゃく》をコルに渡し、ベッドの上で毛繕《けづくろ》いをしていたホロに聞いてみた。 「天気が荒《あ》れるかもしれない。そうなると、出発は多少|遅《おそ》くなる。二日後か、三日後か……」 「ふむ……まあ、そう言われるとそうじゃな。なにせ羊の匂《にお》いばかりで鼻が馬鹿《ばか》になっておる」  ふんふん、と鼻を鳴らして、くしゃみを一つ。  旅慣れていると、人であっても天気を匂いで予測する者がいる。 「まあ、数日旅程が遅《おく》れたところで今更《いまさら》じゃろう?」  尻尾《しっぽ》の先を噛《か》みながらいたずらっぽい笑《え》みと共に。  ロレンスは両|掌《てのひら》を上に向けて、お決まりの返事。  ホロはくつくつと笑い、最後に尻尾を一撫《ひとな》でしてベッドから下りる。 「それで、飯はどんな具合じゃ」 「まだ煮《に》てる途中《とちゅう》だ。それにハスキンズさんが帰ってきてからだからな」  ふわふわの尻尾はホロが歩くたびにうまい具合にローブの下に隠《かく》れていくが、フードまで頭に乗っかるわけではない。  ロレンスはホロのあとを追いかけて、行儀《ぎょうぎ》悪く鍋《なペ》の中の干し肉をつまみ出したところで追いついて、耳を覆《おお》い隠した。 「ほれで、そいふはいふ帰ってくうのかや」 「もうそろそろじゃないか。今晩は月も出ないだろうし、それに、寒さもな」  囲炉裏《いろり》の側《そば》で鍋の番をするコルも毛布を被《かぶ》っているし、部屋の中は喋《しゃべ》るたびに白い息が上がる。木窓の外ではますます風が強くなっているようで、夜の天気は荒れそうだった。 「むぐ……わっちゃあ腹が減ってしまいんす」 「その羊を育てに行っているんだからな。敬意を払《はら》ってしかるべきだ」 「ふむ。じゃが、ぬしはわっちに敬意をいつ払ったのかや?」  いつ俺がお前に育てられたんだ、と即座《そくざ》に言い返せないところが辛《つら》い。 「まったく」  と、控えめに不満を表すので精一杯《せいいっぱい》だ。  ホロはコルに笑いかけ、心|優《やさ》しいコルは苦笑いだった。  そんな折、ひょいとホロの視線が扉《とびら》のほうに向いたので来客だとわかった。  ただ、怪訝《けげん》な顔をしていたのでハスキンズではないとわかる。  ピアスキーだろうか。ロレンスがそう思うのと、扉がノックされるのは同時で、すっかり雑用係が板についたコルが扉を開けると、そこに立っていたのは杖《つえ》をついた羊飼いだった。 「おお、これは良い匂い。ハスキンズはいい旅人を泊《と》めたようだな」  コルとは顔見知りらしい。コルの頭を撫でると、羊飼いは「失礼」と言って咳《せき》払いをした。 「ハスキンズらは今晩は外の羊小屋のほうに泊まるそうだ。もうすでに雪が降り始めているようでね。仲間の二人は命からがらで帰宅だ」 「そうですか……わざわざすみません」 「いいや。いつ帰ってくるかわからない仲間を待つことほど辛《つら》いことはないからね」  雪の降りしきる地域の羊飼いが言うと、その重さは格別だ。  生きているのか死んでいるのか。  雪と闇《やみ》が同時に空から落ちる時、人々はどんなことがあろうともずっと火の周りでじっとしているしかない。 「しかも、うまいものがあるとなればなおさらだ」  羊飼いは言ってから大きく笑い、「それだけだ」と片手を上げて歩き出す。  商人相手ならばスープの一杯《いっぱい》でもねだっているのだろう、と思うところだが、彼ら羊飼いはそんなにけちな生き物ではない。  広い草原で、頼《たよ》れるものは一本の杖《つえ》と牧羊犬。  彼らの誇り高さはそんな自立の精神から来ているのだろうし、どちらかというと狼《オオカミ》のそれに似ているような気すらする。  ホロに言ったら、本気で怒《おこ》られそうではあったのだが。 「となると、これは出発は明後日《あさって》以降だな。港が凍《こお》りつかないことだけを祈《いの》りたいところだ」  扉《とびら》を閉じ、ロレンスが言いながら振《ふ》り向くと、ホロはコルから柄杓《ひしゃく》を奪《うば》ってこう言った。 「うむ。わっちらの鍋《なべ》も凍りついては困りんす」  あまりハスキンズのことを良く思っていないらしいホロは、実に嬉《うれ》しそうだ。  もっとも、その大半は肉の取り合いにならないですむことに対してなのだろうが。 「まだ煮《に》えてないだろ」  ロレンスは言いながら、安くもない薪《まき》を囲炉裏《いろり》に足してやったのだった。      その夜。  コルは早々に、ホロも大して間をあけず寝息《ねいき》を立てていた。  木窓の外では風が強く吹《ふ》いている。  がたがたと音を立てるのは自分たちの部屋の木窓だけではないし、どことなく不気味な雰囲気《ふんいき》を察しているのか、牧羊犬たちの鳴き声も時折まじっていた。  吹雪《ふぶき》を前にした典型的な夜。  これまでと違《ちが》うのは、どれだけ毛布をかき寄せても寒くて眠《ねむ》れなかったのが、今は暑いくらいというところだろう。  ホロの尻尾《しっぽ》もあるし、なにより寒さをしのぐには人の体温に勝《まさ》るものはない。  その点、ホロは普段《ふだん》から子供のように少し体温が高いし、酒が入っているのでなお高い。  顔を出していると痛いくらいの冷たい空気でも、毛布の中は春の陽気だった。  それでも、ロレンスが眠《ねむ》れないのには一応理由があった。  自分がホロの全《すべ》てに対して力になれるわけではない、ということをまざまざと見せつけられた今回の話。  それに、最大の理由は今後のことをどうするかだった。  ホロがその牙《きば》を剥《む》き、狼《オオカミ》の骨の有無《うむ》を確かめるのであれば、その話はどちらに転んでもここで終わる。  あれば当然話は終わり、なかったとしても同じだろう。真の姿を晒《さら》したホロに首根っ子を咥《くわ》えられ、骨はどこだと問われてもなお、嘘《うそ》をつき通せる修道士がいるとは思えない。  骨など購入《こうにゅう》していないとなるか、あるいはすでに転売したあとだと答えられたからといって、またそこに向けて旅をするのだろうか?  それが南の地だとしたらどうするのか。行けないことはないが、そうなると旅費もかかるうえに、ロレンスがこれまで築いてきた行商路での商売は全て捨てていかなければならなくなる。  あまりにも長い時間をあければ、単純に必要な物資を必要としている者たちが困るし、そんなことをすればせっかく築いた信用が台無しだ。  ロレンスの選択肢《せんたくし》として、寄り道にも限度がある。  ずっと、戯曲《ぎきょく》のようなホロとの波乱に満ちた旅の暮らしを続けるにしても、修道院が金の問題から逃《のが》れられないようにロレンスにも生活がある。  当たり前のこととして、付き合える範囲《はんい》で付き合うしかない。  ホロもそのくらいは当然わかってくれるだろうが、ではこのまますんなりとヨイツに行ったとして、と考えると、ロレンスの安眠《あんみん》は妨《さまた》げられる。  天井《てんじょう》を眺《なが》めながら、指折り数えてみればいい。  ヨイツに向かうとして、あとどれだけホロと一緒《いっしょ》にいることができる?  そして、最大の問題は、ヨイツについたあとどうするのか。棚上《たなあ》げした問題はどんどん膨《ふく》れ上がっている。それこそ、ふくらし粉を入れたパンのように。  ホロはどう思っているのだろうか。自分のことを憎《にく》からず思っている、とはもう確信できている。  しかし、子供ではないし、世の中は自分たちの都合だけでは動いていない。なにかしら、どこかしらで覚悟《かくご》を決めなければならない。ホロはヨイツの賢狼《けんろう》であり、自分は一介《いっかい》の行商人なのだから。同じ人間同士でさえ、身分|違《ちが》いの恋は波乱を起こす。  では、自分たちにおいてはどのくらいの覚悟が必要なのだろうか。  隣《となり》で眠るホロの、綺麗《きれい》な栗色《くりげ》の髪《かみ》の毛で覆《おお》われた小さな頭に手を置いた。酒を飲んで眠ったあとは頬《ほお》をつねったって起きはしない。頭を撫《な》でるくらい、酔《よ》っ払《ぱら》ったホロの肩《かた》を担《かつ》いでベッドに運ぶ者の些細《ささい》な報酬《ほうしゅう》だろう。 「……」  絹を撫《な》でているように、ホロの毛は指の間をするりと抜《ぬ》けていく。  愛《いと》おしい、と思う。  できることなら、惨《みじ》めでも、馬鹿《ばか》げていても、ぎりぎりの瞬間《しゅんかん》まで側《そば》にいたいと思う。それが、あまりにも無謀《むぼう》なことであったとしても。  しかし、そう思ったあとに聞こえてくるのは、お前にそんな決断をする覚悟《かくご》があるのかという冷静な言葉だ。  ロレンスはため息をつき、手を止める。  難しい問題こそ賢狼《けんろう》の知恵《ちえ》を借りたいものでも、これは自分自身で答えを出さなければならない問題だ。  くそ、と悪態をつきたいのを堪《こら》え、もう一度|隣《となり》のホロを見る。  きっと自分は今ほど情けない顔をしていることはないだろう。  その情けなさを免罪符《めんざいふ》に、ホロの髪《かみ》の毛に顔を埋《うず》めようとした瞬間だった。 「っ」  ロレンスの動きが止まったのは、ホロが寝息《ねいき》を止めたからとか、笑いを堪えていることに気がついたからではない。  なにか、音がしたような気がした。引きずるような音、だった気がする。 「……?」  ホロは相変わらず眠《ねむ》りこけているようで、顔を埋めている毛布の下から間抜《まぬ》けないびきが聞こえてくる。  しばらく耳を澄《す》ませていても、聞こえてくるのは木窓の揺《ゆ》れる音と、外の風の音だけ。  屋根の雪がずり落ちたのだろうか、と思って体の力を抜いた途端《とたん》にまた聞こえてきた。これはもう気のせいではない。  顔を起こし、耳を澄ますと、もう一度聞こえてくる。  間違《まちが》いない。  ロレンスはゆっくりと息を吸い、体に冷たい空気を流し込む。すぐに毛布から這《は》い出て、軋《きし》む床板《ゆかいた》に足を乗せ、身を切るような寒さの中立ち上がった。  ナイフの柄《え》の留め金を外し、右手の指を閉じたり開いたりしておくのは、こういう場所のほうが意外に盗人《ぬすっと》というのが多いからだ。見知った顔しかいないだろうから、ということで油断した隙《すき》を狙《ねら》うらしい。  囲炉裏《いろり》のある部屋に続く扉を開けると、もうはっきりと聞こえてくる、引きずるような音。  いや、足音だ。それに、こつり、という硬《かた》い音もまじる。  杖《つえ》をつく音。  盗人にしてはお粗末《そまつ》だが、これを忍《しの》び足《あし》だと思うほどロレンスも馬鹿ではない。  しかし、こんな時間に一体|誰《だれ》が? 「……ん……むう」  と、ホロが寝返《ねがえ》りを打ってロレンスがいないことに気がついたらしい。  体を起こし、目をこすりつつこちらを訝《いぶか》しげに見つめている。  間抜《まぬ》けな小《こ》娘《むすめ》だったのはそこまでで、すぐに足音に気がついたらしく目が狼《オオカミ》のそれに変わる。  とても酒が残っているようには見えない動きで毛布の下から這《は》い出して、それでも寒さには勝てなかったのか、一度大きく身震《みぶる》いをする。  足音は、もうすぐそこまで来ていた。  ずる……べた……こつ。  ホロは廊下《ろうか》に続く扉《とびら》とロレンスを見比べている。  誰《だれ》だ? と問いたいのだろうが、ロレンスにもわからない。  扉の前で止まる。  手がかけられ、ゆっくりと、開かれて……。 「……ハ」  その言葉を協ける暇《ひま》もなく、ロレツスは崩《くず》れ落ちようとするその人影《ひとかげ》に駆《か》け寄った。  そして、ロレンスの言葉は続けられることはなかった。  雪にまみれ、命からがらたどり着《つ》いたといった体《てい》の、その、ハスキンズに似た背格好の、人ではないなにかを前に。  ロレンスは、完全に言葉を失っていた。 「……」  眉《まゆ》の辺りからは氷柱《つらら》が下がり、口の周りは髭《ひげ》なのか氷なのかわからない状況《じょうきょう》になっている。  杖《つえ》を握《にぎ》る手の辺りは雪で塗《ぬ》り固められていて、どこまでが手でどこからが杖なのか区別すらつかない。  息は、静かだ。不気味なほど静かで、氷と雪の奥で瞳《ひとみ》だけがぎょろぎょろと動いている。  誰も、口を開かない。  背中が異様に盛り上がり、頭から渦《うず》を巻いた角を生やし、膝《ひざ》の関節が羊のように曲がっている、その悪魔《あくま》のような訪間者に対して。 「……神よ」  ロレンスが、ほとんど無意識にそう呟《つぶや》いた瞬間《しゅんかん》だ。  ぱき、と小気味よい音を立てて、悪魔の顔の氷が割れた。  笑ったのだろう、とわかった時には、真横にホロがいた。 「……狼か……」  喋《しゃべ》るたびに、髭や唇《くちびる》から垂《た》れ下がった氷柱がかちかちと音を立てる。  声は、ハスキンズそのものだった。 「姿を偽《いつわ》る暇もなかったのかや」 「……」  ハスキンズは無言で笑い、杖《つえ》を持つのとは逆の手で、ゆっくりと顔を払《はら》う。  まともな人であればとっくに死んでいるだろう有様《ありさま》だ。 「わっちを、虚仮《こけ》に?」  ホロの声は、その場の空気よりも冷たい。  ハスキンズと呼ばれた半獣《はんじゅう》半人《はんじん》の悪魔《あくま》は、眩《まぶ》しそうに目を細め、立ち上がろうとして体をぐらつかせた。  ロレンスはほとんど反射的に肩《かた》を支えてしまう。  悪魔である。どう見たって悪魔である。  しかし、ロレンスには肩を貸す理由があった。  ホロもまた、耳と尻尾《しっぽ》をさらけ出していたのだから。 「……狼《オオカミ》の、前で……羊が姿を隠《かく》すのは……当然だろう?」  動くたびにあちこちで氷の割れる音がする。  ロレンスはハスキンズを支え、囲炉裏《いろり》の前まで連れてきて、ひとまず座らせた。  直後に聞こえた短い悲鳴は、起きてきたコルが息を飲んだ音。 「木を隠すには森の中かや。まったく気がつかんかった」 「……お前とは、違《ちが》うよ」  片目だけがホロを捉《とら》えていた。  その言葉にホロがかっとしたことは、尻尾と表情からわかる。  それでも、事実を事実と認めるくらいの器量はある。  うなずいて、忌《いまいま》々しそうに言った。 「それで?」  ハスキンズが、ホロと同じ類《たぐい》の存在だった。  それはそれで構わない。彼らが人の生活の中にひっそりと紛《まぎ》れ込んでいることはこれまでの旅でわかっている。町の近くの不気味な噂《うわさ》の絶えない森に。町の人間が後難《こうなん》を恐《おそ》れて関《かか》わりを持たない隔離《かくり》された場所に。あるいは、村人たちが信仰《しんこう》を失った麦の畑に。  だから、ロレンスはむしろホロよりも落ち渚いて、ハスキンズの言葉を待つことができた。 「頼《たの》みが……ある」 「頼み?」  溶《と》けた氷が再び凍《こお》る寒さの中。  ハスキンズは殊更《ことさら》大きくうなずいて、ため息のように言葉を吐《は》く。 「災《わざわ》いだ……。私の力ではどうしようもない、な」 「それでわっちの力を借りたいと?」  ホロの言葉にハスキンズはうなずいた。  しかし、実際はそうではなく、それが笑っていたのだと気がついた時、ハスキンズは震《ふる》える手で胸元《むなもと》から一通の封書《ふうしょ》を取り出した。 「お前の力は、牙《きば》と爪《つめ》だろう……もう、そんなものが覇《は》を唱える時代は終わったのだ。私は、これを……」  そして、その視線がロレンスに向けられる。 「私、に?」 「そう……狼《オオカミ》と旅をする、人。お前たちをここに泊《と》めたのは……様子を見るためだった。だが、私はそれを神の思《おぼ》し召《め》しだと思う」 「はっ。神じゃと?」  ホロが牙を剥《む》き、そのまま笑う。威嚇《いかく》と軽蔑《けいべつ》の表情は、しかし、ハスキンズの冷笑を誘《さそ》うだけだった。 「お前は、この……心|優《やさ》しき風変わりな人にすがりつく。私は、同じように神にすがりつくだけだ……」 「わ、わっちはっ! 別に……わっちは……」  勢い込んで反論しようとして、ホロが珍《めずら》しく言葉に詰《つ》まってしまう。  ホロとハスキンズの間に、老人と子供くらいの差があるように見えるのは、なにもその見た目からの印象だけではないようだ。  ハスキンズが、言葉に詰まったホロを見て、勝ち誇《ほこ》ったような笑顔《えがお》を浮かべなかったのもその一因だろう。  むしろ、無表情ながら、慈《いつく》しむような、いたわるような目つきだった。 「あなたは、商人だろう。これを」 「これは……?」 「吹雪《ふぶ》く中、はぐれた羊を探していた……よくあることだ……。そこで、連れていた犬が見つけた。降りしきる雪の中、神に祈《いの》る姿のまま、すでに事切れていた」  一通の封書。毛羽《けば》立った羊皮紙のそれは、赤い蝋《ろう》の封が破られている。  雪の中で事切れていたのは、きっとどこかの町からここにやってこようとして、道に迷った使いの者だろう。  急がなければ闇《やみ》と雪と風の中に取り残され、急げば体力を急激に消耗《しょうもう》する。  雪解け頃《ごろ》を狙《ねら》って、そういった不幸な者たちの遺品を専門に狙う輩《やから》すらいるくらいだ。 「私は所詮《しょせん》羊だ……若き狼よ、お前も知ってはいるのだろう?」  ハスキンズは言葉をホロに向ける。  ホロは、秘密を探《さぐ》り当てられたかのように、自分の胸の辺りをぎゅっと掴《つか》んだ。 「我々の力など、この紙切れの前には無力なのだと……」  言い終えるとゆっくり息を吐《は》き、ハスキンズは目を閉じる。  囲炉裏《いろり》にくべた薪《まき》に火が燃え移り、一際《ひときわ》大きな火となって燃え盛《さか》る。ハスキンズの体を覆《おお》っていた氷もようやく溶《と》け出して、我に返ったコルの甲斐《かい》甲斐《がい》しい世話に心地《ここち》よさそうにしていた。  いつの間にか体は人のそれに戻《もど》っていて、部屋に入ってきた時の悪魔《あくま》と見まがうばかりの姿は夢だったのではないかとすら思う。  しかし、そんなハスキンズを立ったまま見下ろしているホロの頭に狼《オオカミ》の耳があり、尻尾《しっぽ》が見え隠《かく》れしている。  ロレンスはハスキンズに手|渡《わた》された封書《ふうしょ》の中身を見る。  そして、言葉の意味に、納得《なっとく》した。 「ハスキンズさん。私の力を借りて、一体なにを?」 「……守って欲しい」 「……」  言葉に一瞬《いっしゅん》詰《つ》まり、ハスキンズは目を閉じたまま、薄《うす》く笑った。 「そう。修道院をだ」 「いえ、すみません。ですが、なぜ」  片目が開かれ、灰色の目がこちらを見る。  野を行く野生の羊のように、気高く、力強く、一歩一歩大地を踏《ふ》み締《し》めて歩くその堂々とした目つきで。  ホロとは違《ちが》う、それ。  ホロが抜《ぬ》き身《み》のナイフだとしたら、ハスキンズのそれは、巨大《きょだい》な槌《つち》だった。 「まあ、気になるだろう。よもや、私が本当に神の膝《ひざ》の下《もと》に屈《くっ》しているなどと思わないだろうからな……。私はな、人を利用して暮らしてきた。そこの、若き狼のように」  ホロは即座《そくざ》になにか言おうとしたが、ハスキンズの目つきに口をつぐむ。  丸っきり、子供|扱《あつか》いだ。 「怒《おこ》らせるつもりはない。人の格好をして、人の生活をしているのだ。人の力を借りねばならないのは当然だ」 「ふん……。で、ぬしは人の力を借りてなにをしておるんじゃ」 「故郷を」 「え?」  ホロが目を見開いて聞き返し、ハスキンズは口調も態度もそのままに、静かにはっきりと言葉を紡《つむ》ぐ。 「新しい故郷を作った。この土地に。我々の」  ぱち、ぱち、と薪のはぜる音。  ホロの目は、満月のようだ。 「山も、森も、草原も、全《すべ》て人の手から逃《のが》れられない。だから、百年、二百年、変わらず、常にあり、静かな場所を作るには、彼らの力を利用するほかなかった。最初は、うまくいくか不安だったがね……。成功した。広大な、静かな土地を手に入れた。いつ、誰《だれ》が来ても、彼らは常にこう言うのだ」 「……お変わりなく」  ハスキンズは好々爺《こうこうや》のように微笑《ほほえ》み、大きく息を吸った。 「悲願だった。我々は大昔に住処《すみか》を追われ、離散《りさん》した。ある者は不毛の荒野《こうや》に、ある者は人に身をやつし町の中に。ある者は、終わりなき放浪《ほうろう》の旅に……。我らが再び集《つど》える場所。遠い地に暮らしながらも、いつでも帰ってこれる場所。それが、ここだ」 「その、離散というのは、もしかして、月を狩《か》る……」 「はは……は。そこまで知っているのか。ならば話は早い。そう、我々の住処を奪《うば》ったのは、月を狩る熊《クマ》。古い言葉で、イラワ・ウィル・ムヘッドヘンド」  蛇《ヘビ》の神が祭られていた辺鄙《へんぴ》な村で見た、ある修道士の集めた古い伝説の数々。  ホロが、変な泣《な》き癖《ぐせ》のついた子供のように、大きく息を吸う。 「あの災厄《さいやく》の時、我々には力がなく、なす術《すべ》がなかった。そして、今は時代が変わりここを守るには新しい力が要《い》る。私の蹄《ひづめ》では人の作る仕組みは細かすぎるのだ……」  ものを頼《たの》む時に、へりくだるでも、押しつけるでもなく、対等の立場に立つのは本当に難しい。  誇《ほこ》りを持ち、かといって、居《い》丈高《たけだか》にならず。  ハスキンズは全《すべ》てをあるがままに受け入れ、その中で、自分にできることをする。  そんなことを何百年と続けてきたに違《ちが》いない。  だからこそ、可能なのだろう。 「これまでにも幾多《いくた》の困難があった。だが、今度ばかりはもはや手に負えない」  ロレンスは封書《ふうしょ》に目をやってから、ハスキンズを見る。 「……王からの、徴税《ちょうぜい》通知、ですね?」 「諸侯《しょこう》が争う長い戦乱の時期は……むしろ楽だった。その中で安寧《あんねい》を得るために、まだ我々の時代の論理が通じていた。だが、長く続く戦乱は土地を荒廃《こうはい》させる。修道院が瓦解《がかい》しては元も子もない。そこで私は……陰《かげ》ながら、ウィンフィール一世がこの国をまとめる手伝いをした。過《あやま》ちといえば、それだったのかもしれない」  人よりも強く、賢く《かしこ》、人が世を席巻《せっけん》する前に世界を治めていた者たち。  時代の移り変わりでは、そんなことが日常茶飯事だったのだろう。 「親の恩を子が覚えているわけがない。孫となればなおさらだ……。もはや私は表|舞台《ぶたい》に出ることができない。せいぜいが、彼らの権威《けんい》に箔《はく》をつけるため、時折姿を晒《さら》すくらいだった」 「黄金の、羊伝説」 「そう。もっとも、中には久しぶりにここを訪ねた仲間がうっかり見られていた、などということもあったがね」  冗談《じょうだん》は、笑えない場所で笑えないことを話している時のほうが笑えるものだ。  ただ、漣《さざなみ》のように小さな笑いが引いていったあとに残されるのは、綺麗《きれい》に洗われた緊張感《きんちょうかん》だ。 「私は金の枚数を数えるのが苦手だが、もはや修道院が破綻《はたん》寸前だというのは私にもわかる。  徴税《ちょうぜい》のたびに我々への給金の支|払《はら》いが滞《とどこお》ってきた。親しい者は我々にこう言った。次は、耐《た》えられないだろう、と」 「しかし、これは……」 「私にはもはやどうすればいいのか見当もつかない。蹄《ひづめ》で叩《たた》き潰《つぶ》し、歯で磨《す》り潰せばいいのなら、そうしたい……。あなたは、商人だろう? 人が我々の仲間を森や山から追い出す時、いつでも陰《かげ》に商人がいた。その力を持つ者が、狼《オオカミ》と親しげに笑い、話している……。ならば、頼《たよ》れるのは……」  長い、とても長いため息のあとだった。 「頼れるのは、あなただけだ」 「ですが——」 「頼む」  七年間も独《ひと》りで旅をしてきたのだ。傷つき倒《たお》れる仲間から、家族への手紙を託《たく》されることが何度かあった。  できれば思い出したくない光景に、ロレンスは言葉に詰《つ》まる。  手紙ならば、受け取れる。  しかし、ロレンスの手にあるのは、王からの徴税通知。 「駄目《だめ》じゃ」  ロレンスが言葉に詰まる中、口を開いたのは、ホロだった。 「駄目じゃ。そんな危険は負えぬ」 「ホロ……」 「できぬものはできぬと答えねばならん。ぬしは、ここの話に首を突《つ》っ込むのは危険だと判断したのじゃろうが。わっちらは明日帰る。明日が駄目なら明後日《あさって》帰る。わっちらは旅人じゃ。関係ありんせん」  まくし立てたあとには、ホロの、浅く、速い呼吸だけが残る。  ホロが大|真面目《まじめ》な顔をしてそう言っていたのならロレンスも怒《おこ》っただろうが、ハスキンズのことをコルに託し無表情に立ち上がったのは、そうではなかったから。ホロが我に返ったように、立ち上がるロレンスを見て体をすくませる。  ホロの顔は、形容のしようがない表情だった。  口元が引き結ばれているのは怒《いか》りのせいとも、震《ふる》えるのは悲しさのせいとも見える。肩《かた》はすくみ、拳《こぶし》は握《にぎ》り締《し》められ、顔面は蒼白《そうはく》だ。  ロレンスは、まともに見ていられなかった。  ホロのそれは、嫉妬《しっと》だったのだから。 「な、なんじゃ、ぬしよ、そうじゃろう? ぬしは危険があると言った。だからわっちゃあ帰ろうと言った。なのに、なのに、あやつの頼《たの》みは——」 「ホロ」  ロレンスが言ってその手を取ると、二、三度|抵抗《ていこう》しようとして、おとなしくなる。  ぼたぼたと涙《なみだ》が落ちる。  自分が子供みたいなことを言っているとわかっているのだろう。  ピアスキーの話は人に関することだったからまだ我慢《がまん》できた。  それが、ハスキンズの場合は話が別だ。  しかも、ハスキンズの故郷がなくなったのもまた、ヨイツを滅《ほろ》ぼしたのと同じ、月を狩る熊によってだったのだから。 「若き狼《オオカミ》よ」  ハスキンズが言葉を向けた。 「お前もまた、故郷を奴《やつ》に滅ぼされたのか」  ホロの、嫉妬《しっと》と羨望《せんぼう》と動揺《どうよう》のまざった目が、どろどろになってハスキンズに向けられる。 「楽をして、手に入れたわけではない。人の姿になり、羊飼いに扮《ふん》し、人目につかず、記憶《きおく》に残らず、生きてきた。ここの土地を守るためになら……なんでもする覚悟《かくご》があった」 「そんなこと!」  ホロの声は、怒鳴《どな》っていてもなお小さかった。  かすれて、声が出なかったのだ。 「そんなこと……故郷が……ヨイツが戻《もど》るなら……わっちだって……」 「その様子だと、熊とは戦っていないのだろう? 命を賭《と》して熊と戦う覚悟があったと?」  ホロの顔がはっきりと怒《いか》り一色に染まる。  馬鹿《ばか》にされたと思ったのだろう。  しかし、ハスキンズは牙《きぼ》を剥《む》くホロを前に、あくまでも静かに、落ち着いたまま、ホロの赤みがかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》をじっと見つめていた。 「私は彼《か》の者が故郷にやってきた時に逃《に》げた。逃げたよ。守るべき仲間が多かったからな。彼らを導き、逃げた。今でもあの瞬間《しゅんかん》を思い出せる。空に巨大な満月の浮かぶ夜のことだ。広い草原の向こうには山の稜線《りょうせん》が見え、その上で大きな丸い月が皓々《こうこう》と輝《かがや》いていた。我々は草原を逃げた。草を食べなれた肥沃《ひよく》な草原を必死に逃げた」  ハスキンズの体は明らかに弱っている。人の姿でいる限り、ホロのように人の体の制約を受けるはずだからだ。  だというのに、ハスキンズは矢《や》継《つ》ぎ早《ばや》に言葉を紡《つむ》ぐ。  胸に秘《ひ》めていたたくさんの思いが、囲炉裏《いろり》の火で溶《と》け出してしまったかのように。 「その時、私は振《ふ》り向いたのだ、故郷の方角を。そして、見たのだ。山の稜線《りょうせん》に腰掛《こしか》けられるほど大きな巨大《きょだい》な熊《クマ》の影《かげ》を……。美しかった。私は今でも、そう思う……。雄叫《おたけ》びを上げるあの熊が、腕《うで》を振り上げ、月を狩《か》る、その瞬間《しゅんかん》を……」  はるかな時の果ての、人の手の届かぬ世の話。  まだ、世界が闇《やみ》と精霊《せいれい》のものだった時代の話だ。 「今となってはなにもかもが懐《なつ》かしい。あれは、我々の世の最後の王だった。力と雄大《ゆうだい》さが全《すべ》てを支配していた時代だ。恨《うら》みも消え去った。今に残るのは懐かしさだけだ……」  その場に参加できないまま、ただ数百年後の今になってようやく故郷がなくなったと知ったホロにできるのは、せいぜいが、無理やり子供じみた笑顔《えがお》を作ることだったのかもしれない。 「そ、その逃《に》げたぬしが、覚悟《かくご》とは、笑わせる」  子供じみた意地だったに違《ちが》いない。  そして、それは老境に達したハスキンズに一蹴《いっしゅう》される。 「私は人の世に溶け込むため、肉を食った。もう何百年も前のことだ」 「!」  ホロの目が、皮紐《かわひも》にぶら下げられ、干されている干し肉に向けられる。  あれはなんの肉だったか。ハスキンズと共に食べた鍋《なべ》の中に入っていたのはなんの肉だったか。ひ、ひ、と速い息遣《いきづか》いののちに、ホロが一瞬《いっしゅん》えずく。  泣《な》き癖《ぐせ》だったのか、それとも、ハスキンズと同じことを自分がした時のことを想像してしまったのか。  ハスキンズは、羊飼いに扮《ふん》するために、羊の肉すら平気で食べる。  ホロに、同じことができるだろうか? 「私はここを手に入れるために多くのものを捨ててきた。越《こ》えてはならない一線を越えてきた。そして、ここを失えば、もはや我々に安住の地はないのだ」  その言葉は、決してホロを責めるためのものではなかった。  むしろロレンスに力を借りるための、至極《しごく》まっとうな懇願《こんがん》のための説明だった。  しかし、ホロはハスキンズがここに故郷を作っているということに嫉妬《しっと》してしまった。  自分がなくしてしまったものを、懸命《けんめい》に努力して新しく作り出した者に嫉妬するなどとは、安易で馬鹿《ばか》げた感情だと自分でもわかっていたはずだ。それどころか、新しく作った故郷を守ろうとする者に、後ろ足で砂をかけようとした。  ハスキンズの言葉が自分を責める言葉だと感じたのなら、それは自分に負い目があるからだ。  ホロは理性と感情に挟《はさ》まれて、結局そこから逃げ出した。  子供のように泣き出すと、ロレンスに手を掴《つか》まれたまま、その場にへたり込んでしまった。  ハスキンズは、ロレンスがホロの肩《かた》を抱《だ》くのを待って、ゆっくりと口を開く。 「……その若き狼《オオカミ》とて、こんな世だ、辛《つら》い思いはしてきただろうとわかっている。計り知れない幸運の果てに、心|優《やさ》しき人らと共に旅をしているのだと思う。それを手放したくないのだってわかる。守りたいのだってわかる。だが……」  ハスキンズは言って、ゆっくりと目を閉じていく。 「私も、ここを手放したくない。ようやく手に入れた……安寧《あんねい》の地……だか……」  言葉が途切《とぎ》れ、コルが慌《あわ》てて分厚い胸元《むなもと》に手を当てる。  が、ほっと安堵《あんど》したので、単に力|尽《つ》きただけなのだろう。  ロレンスは、薪《まき》のはぜる音と、ホロがすすり泣く声を耳にしたまま、ハスキンズから手|渡《わた》された徴税《ちょうぜい》の通知書に再度目をやった。  そこに書かれている徴税の方法は、支|払《はら》うのを拒《こば》むことが非常に難しいものだ。  税の支払いを拒むのに最も適しているのは資産などないと主張することだが、王が選択《せんたく》したそれはどんな隠《かく》し立《だ》ても無意味にする最後の手段ともいうべきものだった。  王の断固たる決意が見えるそれを、のらりくらりとかわすことなど不可能だろう。  ためらえば、即座《そくざ》に軍がやってくるはずだ。  あるいは、最初からそれが目的なのか。  一つの群れに二つの頭があってはうまくいかない、とはホロの言葉だが、それは国を治める  際にも言えることだろう。広大な土地と権威《けんい》を持つ修道院は、目の上のたんこぶだったに違《ちが》いない。  税を納めても破滅《はめつ》。納めなくても破滅。  そんな窮地《きゅうち》から、修道院を救う。  一介《いっかい》の、行商人である自分が。 「そんな、無茶だ……」  ロレンスが思わず口にすると、それを拾い、顔を上げたのはコル。 「無茶、なんですか?」  自身も故郷を守るために一線を越《こ》えた少年だ。  その目はいつになく真剣《しんけん》で、ロレンスを責める感すらあった。 「……旅の途中《とちゅう》で、事故があった。前日の雨で道がぬかるんでいてな」  突然《とつぜん》なんの話をされるのかと、コルは珍《めずら》しく怒《いか》りを顔に滲《にじ》ませる。  ロレンスが商人であり、商人はいつだって人を煙《けむ》に巻く。  そう、言いたそうだった。 「先頭を行っていた荷馬車が沢《さわ》に落ちた。俺たちが慌《あわ》てて追いかけに行ったら、幸運なことに馬車を駆《か》っていた商人は生きていた。本人も、仰向《あおむ》けになったまま恥《は》ずかしそうな顔をしていてな。怪我《けが》はしているようだったが、なんとかなるだろう。俺たちがそう思って彼を起こそうとしたら……」  ロレンスは、しゃくり上げるホロの背中を撫《な》でてやってから、コルに向けて言った。 「腹が裂《さ》けていた。木の枝にやられたんだろう。本人も俺たちが顔を強張《こわば》らせて初めて気がついてな。引きつった笑《え》みで、助けてくれと言われたんだ。だが、俺たちは神じゃない。できることは、その場から逃《に》げ出さず、看取《みと》ることだけだった」  どうしようもないということは、ある。  あまりにも当たり前のように、ある。  神の慈悲《じひ》はなく、天使の幸運はなく、時間は巻き戻《もど》らない。  ロレンスは、ため息をついて、言葉を続けた。 「同情の念がないわけではない。だが、助けてくれるはずの神は留守がちだって知っているからな。こう思うんだ。自分じゃなくてよかった、と」 「そんなっ」 「そんなもんだ。そして、不運な彼を看取ってから、再び立ち上がり、旅を続けたんだ。その時は、持てるだけの荷物を彼の荷車から奪《うば》ってな」  唇《くちびる》を片方だけつり上げて、「儲《もう》かったよ」と付け加える。  コルは顔を歪《ゆが》め、今にも喉《のど》の奥から言葉を吐《は》き出そうとして、結局そうはしなかった。  うつむいて、ハスキンズの濡《ぬ》れた髪《かみ》や髭《ひげ》を拭《ふ》く作業を再開した。  辛《つら》くて、どうしようもないことがあった時には目の前の仕事に没頭《ぼっとう》すれば幾分《いくぶん》かは救われる。  そんな事実を知ったのは、自分はいくつの時だったろうか。  ロレンスはそう思いながら、泣き疲《つか》れて眠《ねむ》ったのか、それとも感情の振《ふ》れが激しすぎて気絶してしまったのか、腕《うで》の中で静かになったホロを抱《かか》え上げ、隣《となり》の部屋に運んでいく。  外はひどい吹雪《ふぶき》で、とっくに壁《かべ》や木窓の隙間《すきま》を雪が埋《う》めているために逆にそれほど寒くはない。  ホロは熱病に罹《かか》ったように、速くて浅い呼吸を繰《く》り返している。多分悪夢にうなされているのだろう。さもなければ、良心の呵責《かしゃく》に押し潰《つぶ》されているのか。  ホロをベッドに寝《ね》かせてから、ハスキンズも介抱《かいほう》しなければと思いホロから離《はな》れようとしたら、服の袖《そで》を掴《つか》まれた。目をうっすらと開け、恥《はじ》も外聞も全《すべ》てかなぐり捨てて、側《そば》にいてくれと訴《うった》える目だ。  果たしてきちんと意識があるのかも定かではないが、残る手でホロの頭を撫《な》でてやると、安心したように目を閉じる。  それからゆっくりと袖を掴む指を一本ずつ外していった。  隣の部屋では赤々と燃える囲炉裏《いろり》の火に照らされて、ハスキンズの上着だけでも着替《きが》えさせようとコルが奮闘《ふんとう》しているところだった。  体重差があるうえに、コルはそもそも力がない。  ロレンスが無言で手を貸してやると、礼を言わない代わりに、拒《こば》みもしなかった。 「考えるだけなら危険はない」  驚《おどろ》いた顔のまま、聞き返されもしなかった。  コルは顔を上げて、手を止める。 「そっちを引っ張って」 「あ、は、はい」 「可能性を考えるだけなら危険はない。この手紙の内容は、多分、まだ俺たちだけしか知らないからな」  部屋の隅《すみ》にまとめられているハスキンズの私物の中から、服を着せて、びしょぬれの靴《くつ》を脱《ぬ》がす。 「重要な手紙だから一通しか送られていないとは思えない。吹雪《ふぶき》が晴れてから、別の者が手紙を持ってここにやってくるだろう。そうすると、俺たちにはいくつか選択肢《せんたくし》がある」  他《ほか》の者にこのことを教えるか否《いな》か。教えるとして、誰《だれ》に教えるか。 「どうにか、なる、可能性は?」 「そこまでは。だが、予測することはできる。修道院は切羽《せっぱ》詰《つ》まっていて、国王|側《がわ》も切羽詰まっている。ぎりぎりの選択肢しか互《たが》いに取れないと仮定すれば、分岐《ぶんき》はそれほど多くない。しかも、登場するのは、国王、修道院、それに、ルウィック同盟だ」  コルが、固唾《かたず》を飲んで、恐《おそ》る恐る尋《たず》ねてくる。 「ホロさんのことは、いいんですか?」  核心《かくしん》というものは、触《ふ》れれば相手は苦しむか、怒《いか》り狂《くる》うかの傷口みたいなもの。  ロレンスの場合、前者だった。 「……我慢《がまん》しきれず、事実をありのままに受け止めきれず、どうしようもなくて、ああ言ったんだろう。状況《じょうきょう》が許せば、手助けを申し出たはずだ。ホロは、ああ見えて意外に心|優《やさ》しかったりする。ちなみに、今のは驚《おどろ》くところだ」  霜焼《しもや》けにならないように足を布でぐるぐる巻きにして、囲炉裏《いろり》にはさらに薪《まき》をくべる。  コルは、ようやく、疲《つか》れたように笑った。 「あいつは自分の嫉妬《しっと》心が醜《みにく》いものであるとわかっているはずだ。それに、ハスキンズの覚悟《かくご》を前にして、自分が子供のように思えてしまったんだろう。賢狼《けんろう》としての誇《ほこ》りはいたく傷ついただろうな」  見栄《みえ》と意地の張り方では一流といえるだろうホロも、冗談《じょうだん》と本気との区別はしっかりとついている。  その本気の部分ば、ロレンスだって一目置かざるを得ない。 「以前、ホロに言ったことがあるんだ」 「なにを、ですか?」 「物事の解決法にはいくつもの選択肢《せんたくし》がある。だが、そのなにかを解決したあとも、俺たちは生きていかなければならない。だとしたら、俺たちが選ぶのは、最も簡単に解決できる方法よりも、そのあとに気分よく、心安らかに暮らせる解決法であるべきだと」  ハスキンズを毛布でぐるぐる巻きにして、ちょっとやそっとの寒気ではびくともしないくらいにしてやった。  最後に枕《まくら》代わりに薪を布で巻いたものを頭の下に入れてやり、介抱《かいほう》を終えた。 「あいつは、そんなことを言った俺に対して、たわけ、と言ったよ。諦《あきら》めるようにな。だが、ホロがハスキンズを見捨てて旅を続けたとして……あいつは安らかに眠《ねむ》れるかな」  飯を食い、酒を飲み、犬か猫《ネコ》のようにだらしなく眠りこけるホロの姿を想像したに違《ちが》いない。  苦労をして手に入れた第二の故郷を失おうとしている者を見捨て、ホロがなおそんなことができるとはとても思えない。  コルは、首を横に振《ふ》り、力強く、二度振った。 「それに、お前は言わずもがなだろう」  ロレンスが笑うと、コルはなにか秘密を言い当てられたように顔を強張《こわば》らせて、恥《は》ずかしげにうつむいた。  ロレンスとホロがハスキンズを見捨てたとしても、コルだけは見捨てなかったはずだ。 「まあ、そこまでが感情論」 「そこまで、が?」  コルのきょとんとした目は、ホロでなくたって抱《だ》きしめたくなる。  胸と見栄《みえ》を張るには、格好の相手だ。 「俺は商人だからな。利益がないと動かない」 「……と、いうのは……」 「この、徴税《ちょうぜい》通知。ハスキンズの言葉や、ピアスキーたちの見立てを信じるなら、修道院の全《すべ》てを根こそぎにするものだ。だとしたら、これは大きな好機だな。大波が来る前には、潮が一斉《いっせい》に引いて、海底が丸見えになるらしい。だとしたら?」  コルは、即座《そくざ》にこう答える。 「海底に隠《かく》されていた宝箱も見つかる、というわけですね」 「そう。あるならば隠しきれないはずだ。ホロの当初の目的にとっても、まったく役に立たないわけではない。それを牙《きば》で奪《うば》うかどうかは、ホロ次第《しだい》だ」  コルはうなずき、そして、ほっとしたようにへたり込んでしまう。 「僕は、ロレンスさんのように、器用じゃないんです」  多分、ロレンスがいくつかの親点から話をしていたことを言っているのだろう。  無言の笑《え》みを浮かべ、肩《かた》をすくめたのは演出ではない。  ホロが側《そば》にいたって、そう思っただろう。  自分に嘘《うそ》をつける人間なんて、そうそういないのだから。 「夜は長いし、ちょうど火もある。コル」 「はい」 「知恵《ちえ》を借りたい」 「はい!」  大きく返事をしてから、慌《あわ》てて口を押さえる。  ロレンスは早速《さっそく》紙とペンを用意して、計画を練り始めたのだった。      小さな羽虫の羽の動きは捉《とら》えられなくても、立派な体躯《たいく》の鷹《タカ》の羽ばたきならば数えられる。  図体《ずうたい》の大きいものの動きは、小さいもののそれよりも相当程度予測することができる。  彼らが追い詰《つ》められていればなおさらだ。  ただし、わかっていることは少ない。  修道院が財政的に逼迫《ひっぱく》していること。国王|側《がわ》も内政の失敗から国庫は間違《まちが》いなく枯渇《こかつ》していること。それと、王の徴税手段と、これはおそらくだが、修道院がその徴税に耐《た》えられないこと。  わからないことは、修道院側が最後の財産をどんな形で所有しているのかということ。  要するに、ロレンスらの推測《すいそく》するように、狼《オオカミ》の骨といった聖遺物などの高価な品で持っているのか、それとも、現金で持っているのかということ。  これだけの事実は紙の上半分で綺麗《きれい》に収まってしまう。  残る半分を埋《う》めるのは、ロレンスたちが取れる選択肢《せんたくし》の数だ。  つまり、徴税《ちょうぜい》の事実を誰《だれ》に知らせるのか。同盟の人間か、それとも修道士か、あるいは黙《だま》っているべきか。  次に、狼の骨の話をどうするべきかも、同じ数だけ選択肢が存在する。  ロレンスたちが手にしている選択肢は少ないようで多く、わからないこともまた然《しか》りだった。  修道院が財政的に逼迫《ひっぱく》し、徹税に耐《た》えきれないほどであったとしても、頑《がん》として国王にたてつくのか、それとも従順な羊のごとくその軍門に下るのかもわからない。  常識的に考えて、自分たちだけでどうにかしようという選択肢はすぐに消える。  やはり、同盟に話を持ちかけて、うまく情報を小出しにすることでこちらも向こうから情報を得て、無理やりにでもその流れの中に身を割り込ませるしかない。  当然、危険はある。  ただ、勝算がないこともない。  なにせこの修道院の喉元《のどもと》に食らいつき、どうにかしてその肉を食《は》もうとしているのは、食べたら骨までしゃぶり尽《つ》くすしか能のない傭兵《ようへい》集団とは違《ちが》う連中なのだから。  彼らは小麦の刈《か》り方と共に、その増やし方も心得ている。一度の大きな儲《もう》けよりも、長く続く小さな儲けのほうが尊いとわかっている。  しかも入植をうまくいかせるためには土地の安定が必要なのだから、修道院の存続は彼らにとっても優先度の高いことになる。どうにかして存続させる方法を見つけてくれるだろう。  コルと共に、ロレンスは一晩かけて考えうる可能性を片《かた》っ端《ぱし》から考えていった。あり得そうな事態を一つ一つ考えていって、賭《か》けに値《あたい》するかどうかを議論する。外の吹雪《ふぶき》と、明け方にかけての冷え込みがうまく作用したに違いない。さもなくば、自分もいっぱしの商人として世の仕組みがある程度は分かってきたのか、コルという相手がいたからうまくいったのか。  赤々と火をたたえていた囲炉裏《いろり》が静かな炭火になった頃《ころ》、ロレンスたちはついに奇跡《きせき》の方法を見つけて紙に書き込んだ。  ホロの喜ぶ顔と、ハスキンズの驚《おどろ》く顔が目に浮かぶ。  その方法というのは。 「……っ」  意気|揚々《ようよう》とその結論をホロの前に提示する。  そんな瞬間《しゅんかん》で、ふと目が覚めた。  炭火の熾《おこ》っている音と、雪の降る音というものはとてもよく似ている。  ちり、ちり、という音の具合から、自分がどれくらい眠りこけていたのかある程度は推《お》し量れる。  わからないのは、つい今しがたまで確かにあったはずの、奇跡《きせき》の方法とやらがどんなものだったか、ということだけだ。  いや、わかってはいる。  それは儚《はかな》い夢で、挙句《あげく》の果てに、そんな夢を見ていると顔に出ていたということまでも。 「たわけ」  紙を置いてペンを走らせていた木箱の上に、突《つ》っ伏《ぷ》すように眠《ねむ》りこけていたロレンスが体を起こすと、囲炉裏《いろり》の側《そば》にしゃがみ込んでいたホロのそんな言葉が向けられる。  教会の鐘《かね》の音よりもよほど耳に心地《ここち》よい響《ひび》きだ。  大|欠伸《あくび》をすると、変な姿勢で寝ていたせいか、首がひどく痛かった。 「たわけが……」  肩《かた》には毛布が二枚も掛《か》かっていた。  そっぽを向きながら、たわけたわけと言っているホロの側ではコルが丸まっていて、ホロの尻尾《しっぽ》にしがみついているようにも見える。  ひどくホロの顔がこけているように見えるのは、泣いてむくんだ顔がしばんだ反動かもしれない。あるいは、ローブも着ないで寒そうな格好をしているからかもしれない。  いや、それは実際の見た目の話ではなく雰囲気《ふんいき》のせいだと気がついた頃《ころ》には、ホロがため息まじりに言葉を紡《つむ》いでいた。 「わっちゃあ幸せ者じゃな」  言葉と表情はまったく一致《いっち》していないのに、脂《あぶら》ぎった羊の肉をうまいと評するよりもよほど心の底からの言葉だと思えた。 「世はこんなにもままならぬことにあふれておるのにな」  口を半開きにして、いびきどころか寝息もほとんど立てないコルは一見すると死んでいるようにも見える。  ただ、ホロがその頭を軽く撫《な》でると、むずがるように首をすくめていた。 「俺たちの神様は、持てる物は分け与《あた》えよと仰《おお》せだ」 「それは、幸運も?」  つまらなそうに聞いてくる。  受け答えを間違《まちが》えれば、冷たいため息と共に、二度と口を利《き》いてくれなそうな雰囲気すらある。 「幸運も。当然、俺はきちんと実践《じっせん》しているつもりだ」 「……」 「その尻尾を、コルにも使わせてやっている」  大|真面目《まじめ》に言ってやると、ホロは呆《あき》れるように口元だけで笑って、すい、と視線を木窓のほうに向けた。 「この身が燃えるようじゃった」 「それは」  今の俺の言葉に? という冗談《じょうだん》を言いかけてさすがに口ごもる。  ただ、ホロは言いかけた冗談に気がついて、それがまた意外なほど嬉《うれ》しかったらしい。  耳をぴくりと動かして、振《ふ》り向かないまま肩《かた》を揺《ゆ》らして笑っていた。 「ま、どちらも己《おのれ》だけがと思うところは似ていんす。誰《だれ》かが持っているものにあれほど嫉妬《しっと》したのは本当に久しぶりじゃ。むしろ心地《ここち》よいくらいじゃった」  間をあけたのは、これから言うことが冗談であるというのを強調するためだ。 「あれだけ子供みたいなわがままを言えばな。そりゃあ、心地よかっただろう」  誰かが必死に懇願《こんがん》するのを前に、それを足蹴《あしげ》にするような奴《やつ》ではない。  自分に不利益でも、腹の立つことでも、頼《たの》まれたら嫌《いや》とは言えない性分であるからこそ、何百年もパスロエの村にいたはずなのだから。 「人も、羊も、考えることは同じなんじゃな」 「そりゃあ、俺とお前が喧嘩《けんか》できるくらいだからな」 「んむ。同じものを取り合って、同じ言葉で罵《ののし》り合って、同じ目線の高さで睨《にら》み合わなければ喧嘩にならぬからの」  座って、コルの頭を撫《な》でながら、時折大きめに笑ったり長い言葉を紡《つむ》ぐ時、ホロの口元からは白い息が立ち上る。静かに、気品を保ちつつ、優雅《ゆうが》ささえ感じさせるその姿は、森を守る女神といわれたって確かに納得《なっとく》してしまっただろう。  もこもこと着込んでいる時とは違《ちが》う、怠惰《たいだ》や堕落《だらく》といったものとは無縁《むえん》そうな、その細い体の線のせいかもしれない。  ロレンスは、相手を気遣《きづか》うべきか弱い娘《むすめ》ではなく、長い年月を生きてきた、麦に宿る狼《オオカミ》の化身《けしん》、賢狼《けんろう》ホロとして対峙《たいじ》した。 「俺には多少の知恵《ちえ》と、経験がある。コルには冷静さと、発想力がある」 「わっちにはなにがある?」 「義務がある」  ロレンスは、こう言った。 「俺との旅の話を美談にして永遠に語り継《つ》ぐ義務がな。狼の群れが羊のために一肌《ひとはだ》脱《ぬ》いだ、なんて、いかにもじゃないか」  権威《けんい》が権威として存在するためには、確固たる価値観に支えられなければならない。  言ったことに責任を持つ、というのはその最たるもの。  牙《きば》を剥《む》いて、噛《か》み合わせたその牙の間から、白い息が勢いよく漏《も》れ出した。  楽しそうな笑顔《えがお》。  いたずらの計画を話し合うような、子供じみた無邪気《むじゃき》な笑顔《えがお》。  道に迷い、山賊《さんぞく》に追われた森の中、神以外に頼《たよ》れる者がいるとすれば、それはこんな笑顔をしている奴《やつ》だ。 「勝算はあるのかや?」  ロレンスは返事をせず、肩《かた》をすくめてから、自分が顔の下に敷《し》いて寝《ね》ていた紙をホロに渡《わた》した。ホロがロレンスの顔を見て少し笑ったのは、頬《ほお》にインクがついていたのかもしれない。 「わっちは、自分には機転があるとちょっとした自負があるのじゃが……こういうことは得意ではありんせん」  網羅《もうら》的に考えることについてだろう。  いざとなれば力業《ちからわざ》が使えるのなら、細かく事前に考えておく必要などない。 「もっとも、旧《ふる》い傭兵《ようへい》の指揮官はこう言った。一つの方法で全ての戦《いくさ》を勝ち続けることはできない。相手に応じて戦術を変えていくことこそが、唯一《ゆいいつ》最強の必勝法なのである。そして」 「そして?」 「それができる者、すなわち、神であると」  意地悪な冗談《じょうだん》だった。  ホロは、覚えておけよ、と言わんばかりに小首をかしげ、それでもまんざらでもなさそうな顔をしていた。 「要は、修道院が例の骨を持っておるかどうか。そして、その可能性が高い」 「そう。ピアスキーが語った話の内容にぴたりと当てはまる鍵《かぎ》として、それ以上のものはない」 「ぬしらが味方にすべきは、修道院|側《がわ》ではなく、慣れ親しんだ連中じゃろう? なにを考えておるかわからぬ相手と組むことほど怖《こわ》いことはありんせん」  喋《しゃべ》りながらも、ホロの目は紙に書かれた殴《なぐ》り書《が》きに近いコルとの会話のあとをものすごい速さで追いかけていく。  以前、文字が読めないなどとホロが嘘《うそ》をついたせいで大騒《おおさわ》ぎになったことがあったが、その識字力はへたをすればロレンス以上かもしれない。 「そうだな。それに、同盟側も馬鹿《ばか》じゃないし、ピアスキーのような連中がいるんだから、ここに安定と繁栄《はんえい》を望んでいるのは間違《まちが》いない。ハスキンズさんらの居場所はちょっと狭《せま》くなるかもしれないが、目標は似通っているはずだ」  ホロの瞼《まぶた》が少し下がり、高貴な身分のご婦人が、ちょっとした宝石を眺《なが》めているような、そんな視線で囲炉裏《いろり》の側《そば》に眠《ねむ》るハスキンズを見る。  ただ、ロレンスに見られている、ということに気がついたホロは、ロレンスのほうを見て恥《は》ずかしそうに笑う。  怖くて確認《かくにん》はできないが、多分、ホロとハスキンズとの間には、見た目以上の年齢《ねんれい》差があるのだろう。義理《ぎり》堅《がた》いし、妙《みょう》なところで律儀《りちぎ》なホロなのだから、きっと相手が羊であろうとなんだろうと、年上の経験豊かな存在であれば一目置いて敬うはず。  自分が手を差し伸《の》べて助けてやる、なんてことは、少し得意げでありながら、同時に座りも悪いのかもしれない。 「で、一介《いつかい》の行商人たるクラフト・ロレンスに、そんなことが可能なのかや?」  滅多《めった》にロレンスの名を呼ばないホロにそう言われると、なにかそれだけでご褒美《ほうび》めいた喜びを感じてしまうのはある種の病気なのかもしれない。  自分もただではすまないような、強烈《きょうれつ》な酒の一気飲み勝負をするような、そんな不敵な笑《え》みが浮かんでしまう。  ロレンスは、小さく深呼吸をしてから、ゆっくりと答えた。 「狼《オオカミ》の骨の話は、向こうにとって重要な案件のはずだ。もう、ほとんどその可能性しかないような情報のはず。慎重《しんちょう》に取り扱《あつか》うだろうし、同時に、状況《じょうきょう》を打破できるかもしれないほど強力な情報は、取り扱いの重要度も跳《は》ね上がる。そこにこそ、俺のような者が食い込む余地がある」 「こういうことじゃろう? 本当にこれは正しいんじゃな? 本当に大丈夫《だいじょうぶ》なんじゃな? 本当に? 絶対に? 信じるぞ。わっちらはぬしを信じるぞ」  ホロが笑いながら、子供のように言葉を投げる。  ロレンスはその一つ一つを受け取りながら、木箱に肘《ひじ》を載《の》せ、一角《ひとかど》の商人らしく振《ふ》る舞《ま》った。 「その確証をお渡《わた》しする代わりに、私にもお話《はなし》を伺《うかが》わせていただけませんか」 「徴税《ちょうぜい》とやらの話は、連中に時間的|余裕《よゆう》を失わせる」 「交渉《こうしょう》のテーブルにつかざるを得ないと思う。複数人いるはずの徴税の伝達|吏《り》がここに到達《とうちゃく》してしまえば、残された時間はもうわずかだ。いつまでもぐずぐずしていては利益そのものを失ってしまう。背に腹は替《か》えられない……」 「ふん」  楽観的なそんな予測を嘲笑《あざわら》うようにホロは鼻を鳴らし、つまらなそうにそっぽを向いた。 「いいと思いんす」  紙を突《つ》き返され、ロレンスは王からの勅令《ちょくれい》を受け取った貴族のように丁寧《ていねい》にくるくると巻いた。 「では、そういうことで」  その一言が、ロレンスを商人に変える。  契約《けいやく》の僕《しもべ》にして貨幣《かへい》の虜《とりこ》。  そして、人の世を裏から操《あやつ》る、陰《かげ》の王の一族だった。     「さて」  髭《ひげ》を当たり、髪を整え、襟《えり》を正す。  商売の計画は、いつだって始める前は完璧《かんぺき》だ。  しかし、実際に計画通りにいくわけがないことくらいは知っている。  最初の難関は、狼《オオカミ》の骨の話を餌《えさ》に、ルウィック同盟を食いつかせること。  これに成功しなければ、なにも始まらない。 「行ってくるかな」  傍《はた》から見たら、小人が巨人《きょじん》の巣《す》に向かおうとしていると思うだろう。  それでも、駆《か》け出《だ》しの頃《ころ》は周りにいる商人|全《すべ》てが大巨人に見えていた。その中でうまくやってこれたのだから、今度もきっとうまくいく。ホロとコルの見送りを受けて、羊飼いたちの宿舎をあとにした。  ハスキンズは吹雪《ふぶき》の中の強行軍が災《わざわ》いしたのか、依然《いぜん》として体調が悪そうではあったがロレンスが協力を申し出るとはっきりと顔に赤みが差していた。  身を隠《かく》し、裏から支え続けてきたハスキンズは、それ故《ゆえ》にここの修道院では他《ほか》の羊飼いと同じ存在にならざるを得ない。  頼《たよ》る者がロレンスしかいないというのは、多分、本当なのだ。  外は引き続きの荒《あ》れ模様で、建物のほとんどが雪に塗《ぬ》り潰《つぶ》されていて、屋根のひさしの部分だけがかろうじて石や木の壁《かべ》を覗《のぞ》かせていた。  しかし、そんな天候だというのに商人という連中はじっとしていられないらしい。  ロレンスがようやく同盟の定宿《じょうやど》に着いた時も、ちょうど向かい側《がわ》の建物から一人の商人が駆け出してきたところだった。 「やあ、こんな天気で朝から来客とは」 「ええ。天気の悪い時ほど、稼《かせ》ぎ時ですから」 「ははは。違《ちが》いない」  ルウィック同盟の人間だったのか、ためらいなく扉《とびら》を開き、さっさと中に入っていく。  ロレンスも遅《おく》れて入ると、入り口側にいた商人が、「ラグか?」と聞いてくる。  もうすっかり顔なじみだった。 「そんなに考えていることがわかりやすい顔ですか?」  ロレンスが自分の顔を撫《な》でながら言うと、男は笑って、「あいつなら筆耕《ひっこう》室だ」と教えてくれた。入り口を守る男が神学者然としていたので、なるほど、そんな言い方も間違いではない。 「ありがとうございます」 「儲《もうけ》け話か?」  商人同士の挨拶《あいさつ》。  ロレンスは、にこやかに答えた。 「ええ。とびきりのね」  それから再び雪の降りしきる外に出て、ピアスキーの仕事場へと足を運ぶ。  一階の入り口にはやはりあの神学者然とした男がいて、ロレンスがピアスキーに会いたいと申し出ると、名前も聞かずに奥のほうに引っ込んでいった。  もしかしたら、よその敵対する同盟からの鼠《ネズミ》が来ないかと見張っているのかもしれない。  そんなことを考えていると、男は戻《もど》ってくるなり、奥を無言で指差した。  ロレンスは礼を言って奥の部屋に行く。  すると、ピアスキーが部屋の扉《とびら》を開けて待ってくれていた。 「おはようございます」 「おはようございます。どうされました?」  ピアスキーは言いながら、ロレンスを自室に通し、扉を後ろ手に閉める。  こんな天気でわざわざ世間話をしに来たとは思わないだろう。  ロレンスはこの建物に入る時に払《はら》いきれなかった雪を払い、一つ、咳《せき》払いで緊張《きんちょう》を誤魔化《ごまか》してから、商人の笑《え》みを顔に貼《は》り付けた。 「実は、昨晩気になったことがありまして」 「気になったこと? あ、どうぞお座りください」  椅子《いす》を勧《すす》められ、ロレンスは腰掛《こしか》けて、鼻の下をこする。  掌《てのひら》を閉じたり開いたりして、そこに目を落としているのは、わざとらしい演技かもしれないが、そのくらいのほうがちょうどいい。 「ええ。あまりに突飛なことだったので、思いついたらなかなか寝つけませんでした。ほら」  と、自分の目の下を指す。  目の下に隈《くま》を浮かべての商談など、足元を見られるか胡散臭《うさんくさ》がられるかが関の山。  それでも、ピアスキーは逆に「へえ」と楽しそうに笑った。  外は大雪で、状況《じょうきょう》は膠着《こうちゃく》中。  突飛な話のほうが、酒の肴《さかな》には好都合だ。 「一体なんでしょう。まさか、修道院への突破口を見つけてしまったとか?」  切り返すのは、この一瞬《いっしゅん》。 「ええ、そのまさかです」  お互《たが》いに笑顔のままに固まって、どれくらい時間が流れただろう。  ピアスキーは表情を変えないままに何度か手を操《も》んで、無言で立ち上がると扉を開けて外を見る。 「それで?」  と、扉を閉じる間も惜《お》しんで聞き返してくるのだから、ピアスキーも相当な役者だ。 「ウィンフィール海峡《かいきょう》を渡《わた》った先にある、ケルーベという港町、ご存じありませんか」 「知っています。北と南の貿易の要《かなめ》ですね。実際に商品を商《あきな》ったことはありませんが、あそこの町の三角洲《さんかくす》はよい場所です」 「そうです。そこの町。そこで二年前に噂《うわさ》になった与太話《よたばなし》ご存じありませんか」  旅に暮らす商人であったら、もしかしたら知らないかもしれない。  そう思ったが、ピアスキーはぴんとくるものがあったような顔をして、それから、口元を手で覆《おお》った。  地が出そうになったのだろう。 「確か……異教の神の……骨ではなかったでしょうか」 「そうです。狼《オオカミ》の骨、です」  ピアスキーはロレンスのほうを見ず、あらぬほうを見つめながら何かを考えている様子だ。  次にこちらに目を向けてきた時、その目は警戒《けいかい》するようなものだった。  まさか本当にそんな突飛《とっぴ》なことを言い出すとは、というような目で。 「その骨の話が?」  どちらかといえば、相手を気遣《きづか》うような聞き方は、馬鹿《ばか》にしているか呆《あき》れているかのどちらかだ。  ロレンスは、それでも勢い込んで言葉を返す。 「もしも、修道院がその骨を買っていたとしたらどうでしょうか」 「……修道院が」 「はい。たとえ異教の神の骨であったとしても、使いようによっては神の威厳《いげん》を高めるために利用できます。修道院の聖堂参事会に詰《つ》める、神に救いを求める方たちをこの論理で説得し、もう一つは、投資対象として扱《あつか》うことで、現実的な打開策を探している方たちの主張の拠《よ》り所《どころ》にもなります」  ピアスキーが、ロレンスの話を聞き終わると目を閉じて苦しげな顔をするのは、その案を真剣《しんけん》に検討《けんとう》しているからではない。  どうやればロレンスを刺激《しげき》しないですむだろうかと、そんなことを考えているのだろう。 「おそらく、羊毛の売り上げが年々落ち込んだといっても、今のような状況《じょうきょう》になるには少し時間がかかったはずです。ですから、数年前から、数ある選択肢《せんたくし》のうちの一つとして、財産を避難《ひなん》させていたのでしょう。ここの国の貨幣《かへい》は日に日に価値が下がっているようでしたからね。いったん、それらの貨幣で品物を買っておくのです。できれば世界中どこに行っても同じくらいの価値を持つものが相応《ふさわ》しい。そうすれば、何年かのち、こちらの貨幣の価値が暴落していても、修道院は骨を外国の貨幣で換金《かんきん》し、それをこの国に持ち込む。すると、私たちがあの港町で良い宿に泊《と》まったように、この国では大金持ちとして振《ふ》る舞《ま》えるというわけです」  口角泡《こうかくあわ》を飛ばさんばかりのロレンスの説明に、ピアスキーは正直|迷惑《めいわく》そうな顔つきだった。 「いかがでしょうか」  そうたたみ込むロレンスに、軽く掌《てのひら》を見せる。  待ってくれ、ということだ。呆《あき》れてものも言えないぞ、と。  ピアスキーがようやく口を開いたのは、それから咳払《せきばら》いを三度も挟《はさ》んだあとだった。 「ロレンスさん」 「はい」 「確かに、ロレンスさんのおっしゃるような話は成立しそうです」 「でしょう」  ロレンスは嬉《うれ》しそうに笑ってそう言った。  額に汗《あせ》が滲《にじ》んでいるのもよくわかった。 「ですが、我々はルウィック同盟です。その……大変言いにくいことなのですが……」 「なんでしょう?」  ホロがいたら、多分、ロレンスの演技に目を丸くしたはずだ。 「その、ええ、はっきり言わせていただきます。そのような可能性は、とっくの昔に考慮《こうりょ》したあとです」 「……え?」 「有名な噂《うわさ》話です。それに、ですよ」  ピアスキーが、我慢《がまん》しきれないといったように、咳で誤魔化《ごまか》しながら、呆れるようなため息をついた。 「本当に、たくさんの人が、たくさんの優秀《ゆうしゅう》な我々の仲間が、知恵《ちえ》を絞《しぼ》ったあとなんですよ?」  ロレンスは、身を乗り出したまま、沈黙《ちんもく》する。  両掌を広げ、少し斜《なな》めに、窺《うかが》うようにこちらを見るピアスキー。  ロレンスは視線をそらし、もう一度ピアスキーを見て、再度視線をそらす。  がた、と外の風に吹《ふ》かれて、木窓が鳴った。 「我々の結論は、そんなものはない、ということでした。一番その話が盛り上がっている時に、ケルーベにいた方がいましてね、ケルーベの伝《つて》のある商会を通じて、調べました。結局、とある商会が冗談《じょうだん》半分で探しているだけだったんです。そもそもそこの商会は、とても本物の聖遺物を員えるような規模でもないし、資金もなかったんです。売名|行為《こうい》ですよ。たまにそういうことがあるんです。大方が、酒の席での見栄《みえ》の張り合いや冗談の応酬《おうしゅう》からなんですが」  口数が多いのは、怒《おこ》っているからだろう。  無駄《むだ》な時間を費《つい》やしてしまったと。  あるいは、期待してしまった自分が馬鹿《ばか》だったと。  ロレンスは言葉を返さず、椅子《いす》に座りなおし、手を揉《も》んだり開いたりしていた。  気まずい沈黙が、降りた。 「御伽噺《おとぎぱなし》ですよ」  そして、ピアスキーが吐《は》き捨てるように言った、その瞬間《しゅんかん》だった。 「それが、御伽噺ではなかったとしたら?」  ここで笑えなければ三流だ。  にんまりと、満面の。顎《あご》を引いて、上目《うわめ》遣《づか》いに。 「……ご冗談《じょうだん》を」  しばらく言葉を返せなかったピアスキーは、表情こそ平静を装《よそお》っていたが、ロレンスが見|逃《のが》すわけもない。  さりげなく、掌《てのひら》を拭《ふ》いていた。 「冗談かどうかは、判断をお任せしますが」 「いえ、ロレンスさん、やめてください。私の対応がまずかったのなら、謝ります。もう、本当にずっと全員で膝突《ひざつ》き合わせて議論を散々したあとだったんです。ですから、つい、かっとなってしまったんです。ですから」 「適当なことを言って、動揺《どうよう》させないでくれ、と?」  がた、がた、と木窓が揺《ゆ》れ、強い風が吹《ふ》けば雪が木窓に当たる音もする。船に波の当たる音に似ているな、と思っていると、目の前のピアスキーは船酔《ふなよ》いにかかっているような顔をしていた。  唇《くちびる》を噛《か》み、目は見開き、顔は青ざめている。 「千五百枚」 「え?」 「リュミオーネ金貨が千五百枚だと、どのくらいの箱に入りきるかご存じですか?」  ジーン商会が自慢《じまん》げに教会に積み上げた箱の山を、今でもありありと思い出すことができる。  ピアスキーの顔が、ついに引きつったように笑う。 「ロ、ロレンスさん……」  ピアスキーのこめかみから、頬《ほお》を伝って汗《あせ》が落ちる。  顔色も、口調も、涙《なみだ》までも演技することができる。  しかし、汗までとなると、そううまくはいかない。 「ピアスキーさん、いかがでしょう」  ロレンスは椅子《いす》から身を乗り出し、昨晩ピアスキーがなにを食べたかまでわかりそうな距離に、顔を近づけた。  ここが勝負どころ。  ここで完全に食いつけなければ、次の獲物《えもの》まで爪《つめ》が届かない。 「私は常に同盟とのやり取りにあなたを使うということで」  言葉の意味がわからないはずはない。  ピアスキーは、喉元《のどもと》にナイフを突《つ》きつけられた巡礼《じゅんれい》者のように、恐怖《きょうふ》に染まった目でロレンスを見つめている。 「この閉塞《へいそく》した状況《じょうきょう》を打破できる。その重要な役割をあなたが担《にな》う。悪い話では、ないと思いますけどね?」 「で、ですが」  ようやく口を開いたピアスキーからは、上等なぶどう酒の香《かお》りがした。 「ですが、証拠《しょうこ》は、証拠はあるんですかっ」 「いつだって、信用は目に見えませんよ」  ロレンスはにっこり笑い、顔を引く。  ピアスキーは馬鹿《ばか》にされたようにかっと顔を赤くしかけたが、ロレンスはすぐさま言葉を続けた。 「修道院は、狼《オオカミ》の骨、なんていう間抜《まぬ》けな商品名で帳簿《ちょうぼ》に記載《きさい》しているわけがありませんからね。必ずなんらかの商品に偽装《ぎそう》して購入《こうにゅう》しているはずです。しかし、隠《かく》されているもので暴《あば》かれないものはない。ないだろう、と思いながら見ていたら帳簿になんら不審《ふしん》なところは見当たらなくとも、そこになにか隠《かく》されているはずだ、と思って見ればまた違《ちが》うはずです。いかがですか?」  ピアスキーは言葉を返さない。  返せないのだ。 「実際のところ、骨の話に信憑《しんぴょう》性を与えるものを私は持っています。ですが、正直、私のような行商人には大きすぎる話なんです。同盟の幹部の方に直接言っては、信用していただけるかわからない。口添《くちぞ》えが必要なんです」  いつもいつもはるか彼方《かなた》から商品を運んできて、村や町の中に一入で売り込んできた経験だ。  同じことを言うのでも、その村や町に一人でも同調してくれる知り合いがいれば、結果は天と地ほどの差になる。  真実さえ口にしていれば常に人は納得《なっとく》してくれる、と思うほどロレンスもお人好《ひとよ》しではない。  一人では素晴《すば》らしい質の商品だって売れなくても、二人なら質の悪い商品でも飛ぶように売れる。  それが、現実であり、商売の秘訣《ひけつ》なのだ。 「ですが……」 「考えてみてください。私は、そもそも、あの港町で、ドイッチマンさんの信用を得ているんです。こんな身なりの、この私が」  ピアスキーははっとして、苦しげに目を閉じる。  何十年と同じ場所で、強大な権力と商業|網《もう》が張り巡《めぐ》らされている南の大帝国《だいていこく》の都市は、まるで蜘蛛《クモ》の巣《す》が張り巡《めぐ》らされているようだ、といわれることがある。  ロレンスはそこに行ったことなどないが、その言葉の意味が実感できる。  信用は目に見えない。  目に見えないが、決して、無視できないのだから。 「ピアスキーさん」  ロレンスの言葉に、ピアスキーはぶるぶると震《ふる》え、汗《あせ》が何|滴《てき》も顎《あご》から落ちていく。  もしも狼《オオカミ》の骨の話が実態のある、御伽噺《おとぎばなし》ではない真実のものだとしたら、ロレンスに手を貸すことは同盟内での昇進《しょうしん》の階段への入り口に手をかけることになる。  しかし、逆にそれが発狂《はっきょう》した行商人の戯言《ざれごと》だったとしたら、そんなことを迂闊《うかつ》に信じたピアスキーは真っ逆さまに転落していくことになる。  天国か地獄《じごく》か。足して二で割ってゼロだとしたら、それに手を出すのは危険を楽しむ博打《ばくち》打だけかもしれない。失敗したらあとのない案件を前に、たくさんの時間があれば誰《だれ》だって迷う。  そして、往々にして迷いは恐怖《きょうふ》を生む。 「……やはり……そんなことは……」  もしもロレンスの言うことが本当だったら、という可能性に惑《まど》わされつつも、ピアスキーの口は苦しげにそんな言葉を吐《は》き出した。  逃《に》げられる!  ロレンスは、ピアスキーの退路を断つほかなかった。 「国王が」  針のように鋭《するど》く言って、その一瞬《いっしゅん》の息継《いきつ》ぎの間に迷う。  これを伝えたら、本当に事態は決定的な方向に進んでいく。  ロレンスは、つばを飲み、言葉を続けた。 「国王が動き出したと言ったら?」 「なっ……え? それは、なに、を?」 「徴税《ちょうぜい》ですよ」  言ってしまった。  表情をなくしたピアスキーがこちらをじっと見る。  その頭の中では、呆《ほう》けたような外面《そとづら》とは違《ちが》って、信じられないくらいの速度で思考が巡らされているに違いない。  がた、とピアスキーが椅子《いす》から立ち上がった。  ロレンスは、それを逃がさなかった。 「伝えに行ってどうするんです!」  ロレンスに掴《つか》まれた腕《うで》を必死に振《ふ》り解《ほど》こうとするピアスキーが向かう先は明白だ。  どんな集団であれ、そこへの帰属意識は人間を犬にする。  ピアスキーがその重大な事実を伝えに行こうとするのは当然の発想だ。 「どうするもっ……一刻も早く伝えないとっ……!」 「伝えて? 対策を?」 「あなたには関係ない!」 「打つ手など、とっくの昔になくなっているのに?」 「!」  ピアスキーの抵抗《ていこう》が止まる。  苦しげな顔は、事実だと頭が理解しているからだ。 「落ち着いてください。この事実を同盟に知らせたところで、いたずらに焦《あせ》らせるだけです。新たな徴税《ちょうぜい》が来れば、修道院は破産するでしょう。国王の前にびざまずいて慈悲《じひ》を乞《こ》うか、潔《いさぎよ》く死を選ぶかの差はあるでしょうが。しかし、その時、もしも修道院|側《がわ》が狼《オオカミ》の骨という異端《いたん》の証《あかし》を持っていることを指摘《してき》すれば、彼らはどう判断するでしようか?」  修道院は土地から逃《のが》れられず、土地は俗世《ぞくせ》の権力から逃れられない。  税を支|払《はら》うために、おおっぴらに国政に食い込もうと画策しているルウィック同盟の力を借りたとしたらどうなるか。  王への反逆を理由に、軍を送り込まれることになるはずだ。  しかし、修道院にはそうなってもまだしも教会組織の一員であるという希望がある。  そこに狼の骨の事実を突《つ》きつければ、彼らは最後の希望を人質に取られることになる。  国王と教皇、どちらを敵に回すのが怖《こわ》いかと聞かれれば、教会に関《かか》わる人間であれば、必ず後者と答えるはず。  そして、その時にこそ、同盟が修道院につけ入る隙《すき》が生まれることになる。 「ピアスキーさん。残された時間はわずかで、機会は一度だけ。ここが混乱に陥《おちい》る前に、我々は暇《ひま》なお歴々に、馬鹿《ばか》げてはいるが魅力《みりょく》的な提案をする。そこでたとえ彼らの同意を得られなくとも、彼らの興味をこちらに引っ張っておくことで、混乱に陥った時に彼らの目に入りやすくなる。人は溺《おぼ》れた時に、最も近くにあるものを掴《つか》みますからね。私は楽観的に、それが成功すると思っているんです。なにせ」  テーブルを回り込み、ピアスキーの前に立ち、言葉を紡《つむ》ぐ。 「狼の骨の話に、私は自信を持っているのですから」  ピアスキーの目が、微動《びどう》だにせずこちらに向けられている。  睨《にら》むのとも違《ちが》う、釘付《くぎづ》けにされたかのような視線。  その息は荒《あら》く、肩《かた》も大きく上下している。 「ピアスキーさん」  ロレンスの呼びかけに、ピアスキーは目を閉じる。  それは、どうにでもしろという降参の仕草にも見えたが、目を閉じた代わりに口を開いてきた。 「徴税《ちょうぜい》の、事実が本当だとする、証拠《しょうこ》は?」  食いついた。  しかし、針は未《いま》だ口の中にない。  飛び上がりたくなる衝動《しょうどう》を抑《おさ》えて、ゆっくりと答える。 「羊飼いの方たちと同宿ですからね。外の落とし物を、最も早くに見ることができます」  口を硬《かた》く閉じ、鼻から勢いよく息を吸うのは、頭を冷やしたいからだろう。  その仕草そのものが、ピアスキーがロレンスの言葉を魅力《みりょく》的に感じている証拠だ。 「いつ?」 「昨晩|遅《おそ》く。私が眠《ねむ》れなくなった、原因の、一つです」  ぎり、と音が聞こえそうなほどにピアスキーが歯を食いしばっている。  もしも徴税の事実が本当なのだとしたら、それが漏《も》れ伝わったと同時に、ここは蜂《ハチ》の巣《す》を突《つ》ついたような騒《さわ》ぎになるはずだ。  その時に、なんらかの提案をしたところで聞き入れられるわけがない。  同盟は一人の人間が強力に引っ張っていくものではないからだ。  つまり、もはやそうなった時点で取れる手立てなどなくなっている。  ピアスキーならそれくらいはわかるはず。  その期待があったからこそ、声をかけなかった。  商人は、自分の利益になるためだったら、じっと天秤《てんびん》が傾《かたむ》くのを一晩だって待つ。  雪の日の独特の静けさの中、時間だけが経《た》っていく。  ロレンスの額から、汗《あせ》が流れ出る。  ピアスキーは、ゆっくりと目を開き、ロレンスにこう言った。 「千五百枚」 「え?」 「リュミオーネ金貨千五百枚。どのくらいの量になりましたか」  ロレンスが思わず顔を緩《ゆる》めてしまったのは、その質問が馬鹿《ばか》げていたからではない。  それは、契約《けいやく》締結《ていけつ》の証《あかし》だからだ。 「絶対、後悔《こうかい》はさせません」  ロレンスの言葉に、ピアスキーは吹《ふ》っ切れたように笑い、神へ祈《いの》るように一度顔を天井《てんじょう》に向けてから、両手で汗まみれの顔を乱暴に拭《ふ》いた。 「金貨千五百枚。一度でいいから見てみたいものです」  ロレンスは、手を差し出して、言わざるを得ない。 「見れますよ。うまくいけばね」 「そう願いたいものです!」  第一段階は、乗り越《こ》えたのだった。 [#改ページ]   [#改ページ]   [#改ページ]  握手《あくしゅ》をするや、ピアスキーの行動は素早《すばや》かった。  場合によっては、各地から連れてきた小集団を、町なり村なりの一つの仲間にまとめ上げるようなことを生業としているのだ。  群れの中で、群れを動かすためにはどう動けばいいのかと、ロレンス以上によく頭が回るはずだ。  狼《オオカミ》の骨の話に現実味があるらしい、と喜び勇んでお歴々に伝えに行くような愚《ぐ》は冒《おか》さない。  ピアスキーが真っ先に口にしたのは、仲間を増やす。このことだった。 「口が堅《かた》くて好奇《こうき》心《しん》旺盛《おうせい》。目《め》端《はし》も利《き》くうえに暇《ひま》となれば、世の商会を率いる方でなくとも探し求めるような逸材《いつざい》ですが、神のこ采配《さいはい》か、ここにはそんな連中はいくらでもいますからね」  実際に同盟の動きを決める幹部連中に、事前の下調べもなしに狼の骨の話を切り出せば、頭がおかしいと思われてお終《しま》いだ。  まず、気心《きごころ》の知れた仲間と下調べを終えなくてはならない。 「ではお願いできますか」 「ええ。一両日中に、全《すべ》ての帳簿《ちょうぼ》を洗って見せますよ。なにかが隠《かく》されているはずだとわかれば、そのようにでっち上げることだって難しくありませんから」  不敵な笑《え》みは、逆に信用できる。 「心強い」 「できればこの吹雪《ふぶき》の間に下準備を終えたいですから。相手に話を聞いてもらうには、相手が暇《ひま》な時に限ります。あと必要なのは、相手を説得できるくらいの、確固たる……なにか」  ロレンスなしで狼《オオカミ》の骨の話を強硬《きょうこう》に主張することは不可能に近いはず。  一目でこれとわかるほど露骨《ろこつ》に帳簿《ちょうぼ》に痕跡《こんせき》が残っていたとしたら、とっくに見つかっているだろうからだ。 「その点は、ご期待に添《そ》えると思います。お任せください」  ピアスキーはうなずき、「ところで」と続けてくる。 「はい?」 「分け前の話をしないのですね」  商人の目的はいつだって利益だ。  分け前の話をしない時、大抵《たいてい》、そいつは別のなにかを目的に動いていることになる。  ピアスキーの目が油断なくこちらを見つめてくる。  いったん、よそ見をしてから答えた。 「うまくいった時、打ち合わせが必要なほどちゃちな儲《もうけ》けだとは思えないですから」 「……」  ピアスキーは、疑って悪かった、とばかりに殊勝《しゅしょう》にうなずいた。 「なにかを買って、売って、の単純な商《あきな》いに従事していればよかった、と思うことがなくもないです」  油断なく、常に相手を疑い続けなければならないのは、手を出している商売がややこしい構造をしているからに他《ほか》ならない。  ピアスキーの自嘲《じちょう》気味の言葉に、ロレンスはこう答える。 「自分のためだけに商いをしていたのなら、と私も思うことが少なくありません」 「それは良いことですか、悪いことですか」  扉《とびら》を開けてもらい、上着の襟《えり》を立てながら、ロレンスはついホロがいないことを確かめてしまった。 「少なくとも、飽《あ》きません」  ピアスキーは笑顔《えがお》で首を捻《ひね》り、感心するようにため息をつく。 「ええ。それこそが、災《わぎわ》いの元なんです」  酒があったのなら、互《たが》いに肩《かた》を叩《たた》き合いたくなる瞬間《しゅんかん》だ。  しかし、商人たちはもう少し慎《つつし》み深い。  目配せをするだけだった。 「我々はインクと羊皮紙で武装します。ロレンスさんは?」 「証言と……こちらも羊皮紙です」  物的な証拠《しょうこ》がある、と相手に教えるのは危険な賭《か》けだった。ここは隔絶《かくぜつ》された味方のいない場所。力ずくで奪《うば》われる、という可能性だって十分にある。  しかし、自分がピアスキーの立場だったとしても、証言だけでは心許《こころもと》ないと思うはず。  ロレンスは二つを天秤《てんびん》にかけてそのことを口にしたのだが、それは正解だったようだ。  ピアスキーの顔が、ほっと緩《ゆる》んだのだから。 「なんにせよ、私の賭《か》け金は全額ロレンスさんに賭けていますからね」 「その重さを理解しているつもりです」 「では、早速《さっそく》人を集めてきます。ロレンスさんは?」 「私も連れと打ち合わせを。話が話なので、インクで手を汚《よご》した人間よりも、ローブの裾《すそ》に手を隠《かく》している人間の言葉のほうが信用度も上がるでしょうから」  ピアスキーはうなずき、扉《とびら》に手をかけながら、言った。 「吹雪《ふぶき》が続いてくれることを願うばかりです。この分だと、時間がかなり限られそうですから」  徴税《ちょうぜい》の連絡《れんらく》が同盟、あるいは修道院に伝わる前に交渉《こうしょう》を行わなくては苦しい展開になる。  外に出ると、雪は吹雪《ふぶき》というほどではなくなっていた。  このままやんでしまいそうには思えない空模様ではあったものの、胸に王からの封書《ふうしょ》を抱《いだ》いた者たちならば、果敢《かかん》に進みかねない天気だった。 「次からは直接資料室のほうにお越《こ》しください。私は……直接ロレンスさんの宿舎のほうに伺《うかが》っても?」 「ええ、構いません。よろしくお願いします」  最後に握手《あくしゅ》を交《か》わし、それからは互《たが》いに知らの顔。  再び雪の降りしきる中に戻《もど》り、つい今しがたに自分のつけたはずの足跡《あしあと》も消えているような雪道を歩いて羊飼いの宿舎に向かう。  自分が誰《だれ》かのためになにかを成し遂《と》げようとも、きっとこの雪道のようにそんな跡はすぐに時間の流れの中に消えてしまうことだろう。  ホロほどの巨体《きょたい》をもってすら、その足跡は時間の流れの中で途切《とざ》れ途切れになっていた。  たくさんの仲間が群れ集《つど》う、永遠にそこにあるかのように錯覚《さっかく》してしまいがちな故郷という存在ですら、永遠ではないのだから。  しかし、足跡が消えたのならまた歩けばいい。  故郷も、また然《しか》り。  だから、ロレンスがハスキンズを助けるのには、ここにも一つ理由がある。  故郷を新しく作ることも可能だし、危機に陥《おちい》れば助けてくれる人もいる。決して、世は無慈悲《むじひ》でも絶望に満ちてもいない、とホロに言うことができる。  宿含に戻るとホロとハスキンズが囲炉裏《いろり》を挟《はさ》んで静かに話していた。  どちらかというと、ハスキンズのほうが、ぽつり、ぽつりと昔のことを話していて、ホロが静かにそれを聞いているだけではあったのだが。 「とりあえず、最初の餌《えさ》には食いついてもらえました」 「……」  ハスキンズは、礼を兼《か》ねるように無言で大きくうなずいた。 「少し、眠《ねむ》っておきます。目利《めき》きたちが帳簿《ちょうぼ》を洗うようなので、遠からず妙《みょう》なものが出てくるでしょうから」  本当に厄介《やっかい》なのは、この先、同盟が狼《オオカミ》の骨の話を信じてからだ。  絶対確実に骨があるとわかれば、同盟はとことん強気に出て自分たちの要求を通そうとするだろう。  彼らがどのくらい強気に出るかは、どれくらい狼の骨の話を信じるかにかかっている。  うまく手綱を握れるだろうかという不安はある。馬や牛といった大きさではない。  寝《ね》ておかなければ、一瞬《いっしゅん》で力|尽《つ》きてしまうだろう。  ハスキンズの手前か、ロレンスとはろくに目も合わせなかったホロとは、すれ違《ちが》いざまに軽く手を触《ふ》れ合った。  隣《となり》の部屋に行くとまだコルが寝息を立てていた。一人で震《ふる》えながら眠るということだけは避《さ》けられるらしいが、物足りないといえばそうかもしれない。  ロレンスは、苦笑いしながら毛布の下に潜《もぐ》り込んだのだった。      木窓を閉じていて、その隙間《すきま》が雪でふさがれているので正確な時間はわからない。  昼過ぎ頃《ころ》だろうが、ロレンスは目を覚ました。  まどろみなく目が覚めたのは、違和《いわ》感を覚えてだ。  静かすぎる。  ロレンスはすぐに体を起こし、ベッドから下りて木窓を開ける。どさ、と音がして、窓や壁《かベ》に張り付いていた雪が落ちる音が聞こえた。そのまま窓を開けきると冷たい風が入ってくる。  顔に触れると痛いくらいに冷たい空気と、真っ白な世界。  ただし、風はだいぶ収まっていて、雪こそ降っているものの吹雪《ふぶき》というわけではない。  外は雪の日特有の静けさを取り戻《もど》していて、耳鳴りがしそうなくらいだった。  この静けさに目を覚ましたのだろう。騒《さわ》がしさよりも静けさに目が覚める、というのはよくあることだ。  ろくでもないことが起こった時、いつだって沈黙《ちんもく》が支配するのだから。 「……一人か」  ロレンスが囲炉裏《いろリ》のある部屋に行くと、ホロ一人で炭の番をしていた。 「ぬしを起こすか起こすまいか迷ったんじゃがな」 「疲《つか》れて寝《ね》入っているのを見たら、起こすのがかわいそうに?」  ハスキンズもいないので、ロレンスはホロの隣《となり》に座る。  ホロは、囲炉裏《いろり》の炭を金捧で軽くいじりながら、短く答える。 「あほ面《づら》を見たら、起こす気も失《う》せてしまいんす」 「なにがあった?」  コルはともかく、疲労《ひろう》困憊《こんぱい》しているだろうハスキンズまでいないとなれば、なにかしらのことがあったに違《ちが》いない。  それに、時の流れを止める吹雪《ふぶき》はやんでいる。  ホロは金棒から手を離《はな》して、ロレンスに寄りかかってきた。 「雪が弱まって、修道院から人が来たんじゃ。予定では昨日か今日に着くはずの使いの者がまだ来ておらんのじゃが、羊飼いどもはなにか知らのかや、と」 「ハスキンズさんは、なんと?」 「間違いなく、事切れておった奴《やつ》らじゃろうと。とりあえず、しらばっくれると言っておった。距離《きょり》的に、まともな羊飼いでは到底《とうてい》不可能なくらい離れた場所で見つけたらしいからの。コル坊《ぼう》はその付《つ》き添《そ》いじゃ」  そうすると、早ければ明日か、明後日《あさって》には、同じ手紙を携《たずさ》えた別の連中が来てもおかしくはない。 「わっちらはどうすれば?」 「今は、待つしかない。ピアスキーたちが、証拠《しょうこ》になりそうなものをある程度見つけてから、そのうえで同盟の上層部に話をつけに行く」 「ふうん……」  ホロの気のない返事に、その横顔からちらりと尻尾《しっぽ》に視線を向けたら、耳を引っ張られた。 「いちいち尻尾を見ないと判断できないのかや?」 「お、大きなことをなすにはいつだって証拠が必要だからな……」 「たわけ」  投げ出すように耳から手を離し、ホロはそっぽを向く。  かなり強く耳を引っ張られ、じんじんと痛む。  ただ、それは要するにそのくらいホロの腹も立ったということだ。  微妙《びみょう》な乙女心《おとめごころ》というか、獣心《けものこころ》というか。  本音の出やすい耳と尻尾で胸中を推《お》し量られるのは、問題を出している横で答えを覗《のぞ》かれるような感覚なのかもしれない。 「当然、お前の出番もある」  ロレンスが言うと、うつむきがちだったホロの頭の上で、耳がぴんと上を向いた。  思わず頭を撫《な》でたくなるくらい、わかりやすい。  そう思っていたら、ホロのこんな言葉が耳に届く。 「耳をかじり取られたいのかや?」  自分の耳も大事なので、ロレンスは慌《あわ》てて首を横に振《ふ》っておいた。 「同盟は大きな組織だ。当然、今ここにいる連中はその一部だし、本当にお偉《えら》い連中は今頃《いまごろ》雪とは縁《えん》遠い暖かい場所にいるだろう。それでも、本質は変わらない。その大きな図体《ずうたい》を動かすには、それ相応の説得が必要だ。時には、事実や証拠《しょうこ》以外のものが必要にもなる」  疑うような上目《うわめ》遣《づか》い。  一見するとすねているようなそれは、多分、こちらがそういうのを好きだとわかってやっているのだろう。 「俺は集団の前に出るとあがってしまうが、その点、お前は天性の役者っぽいからな」  上目遣いのことにかけて言ってやる。  ホロはつまらなそうに鼻を鳴らし、それでも機嫌《きげん》の良さを示すように尻尾《しっぽ》がわさりと音を立てた。 「知識はコルに。実務は任せろ」 「わっちは?」  聞かれ、うまい言葉が見つからず、結局こんな単語を口にする。 「雰囲気《ふんいき》」  思わず、といった感じにホロは吹《ふ》き出した。しばらくくつくつと笑っていると、ため息と共にロレンスの腕《うで》に抱《だ》きついてきて、耳元でこう言った。 「確かに、雰囲気を作るのはいつもわっち。ぶち壊《こわ》すのはいつもぬしじゃからなっ」 「……」  もちろん言いたいことは山ほどあったが、咳払《せきばら》いをして、話を続ける。 「場の空気の流れは大事だ。証拠といっても、確たる証拠を示すのは不可能だからな。連中が、この賭《か》けになら乗ってもいいと思わせるようにするのが重要になる。冗談《じょうだん》ではなく」  ホロのほうを向いて、言う。 「成否がかかってる」  対するは、くりくりと動く赤みがかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》。  世のたくさんのものを見てきただろうに、その目は無垢《むく》な少女のそれのように澄《す》んでいる。  一度、その瞳がゆっくりとまばたきをした。  生まれ変わったかのように、雰囲気が一変していた。 「任しんす。あの爺《じじい》、わっちにこう言ったからの」 「なんと?」 「成功した暁《あかつき》には、今年一番の出来の羊をくれてやる、と」  人に扮《ふん》し、羊の肉を食らい、陰《いん》に陽に力を振るい、ここに第二の故郷を作り上げた辣腕《らつわん》の賢者《けんじゃ》に相応《ふさわ》しい言葉だ。  その絶妙《ぜつみょう》な俗っぽさに、きっと言われた時はホロも笑わざるを得なかっただろう。  そして、こうも思ったはずだ。  手助けせねばなるまい、と。 「苦労話を色々と聞いた。故郷を作るまでの、あるいは、それを維持《いじ》するための」  その横顔には、静かな怒《いか》りにも似た真剣《しんけん》さがある。  ただ、その真剣さは、緊張《きんちょう》のだと尻尾《しっぽ》を見ないでもわかる。  ホロは、義理《ぎり》堅《がた》く、意外なところでつつましいのだから。 「参考になったか?」  尻尾が大きく、音を立てた。 「……ん」 「そうか」  ホロの口から、ハスキンズのように故郷を作ってくれという言葉が出てきた時、ロレンスはきっと色よい返事を返せない。  それはお互《たが》いわかっていることで、かといってそれにまつわる話を完全に避《さ》けるというのも互いを信用していないようで気まずいところがある。  ほっと、ホロが安堵《あんど》したのがわかった。  ロレンスは、ホロの肩《かた》を抱《だ》いて、引き寄せようとした。その瞬間《しゅんかん》だった。 「さて」  と、ホロが言ってロレンスの手をつまむ。 「時間切れじゃ」 「……」 「くふ。そんな顔するでない。それとも、また慌《あわ》てふためきたかったのかや?」  ホロの意地悪そうな笑顔《えがお》の向こうから、杖《つえ》をつく音と、人の足音が小さく聞こえてきた。  コルたちが戻《もど》ってきたのだろう。  ホロは立ち上がり、伸《の》びをする。  こきんこきんと骨が鳴り、気持ち良そうに尻尾の毛が逆立っている。  その様子を微笑《ほほえ》ましく眺《なが》めていたのはほんのわずかな時間のこと。  別に、眺めていたところをホロに頬《ほお》を張られたとかそういうわけではない。  耳と尻尾を隠《かく》したのだ。  今更《いまさら》ハスキンズに隠す必要もない。  だとすれば、ホロが聞きつけ、ロレンスの耳にも届く足音は、コルとハスキンズだけのものではないということだ。  まさか。  総毛立《そうけだ》ち、無駄《むだ》だとわかっていても胸に手を当てた。そこには、ハスキンズが事切れた使いの者から盗《ぬず》んできた王よりの封書《ふうしょ》。  しかし、羊皮紙はたとえ火にくべても紙のようにすぐ燃えはしない。  ホロが、どうしたのかときょとんとしている。  扉《とびち》が開く。  ロレンスは、神に祈《いの》るしかなかった。 「失礼」  静かで、有無《うむ》を言わさぬ声。  人を威圧《いあつ》しなれた調子で喋《しゃべ》るのは、ホロとはまた違《ちが》ったローブに身を包む男。  ハスキンズを挟《はさ》むように立つ、二人の修道士の、片割れだった。 「しばし、お邪魔《じゃま》いたします。おい」 「はっ」  若いほうの修道士が部屋に入ってくるや、部屋をぐるりと見回し、ハスキンズの私物に手を伸《の》ばす。ハスキンズはホロすらたばかったその神学者然とした顔の下に、感情もなにもかもを隠《かく》して平然とそれを見つめている。  問題は、髭《ひげ》も経験もないコル。  ロレンスと目が合うと、今にも震《ふる》え出しそうな顔つきだった。 「旅の商人の方ですね?」  年嵩《としかさ》のほうの太った修道士が、入り口に立ったまま声をかけてくる。  部屋に入ってこないのは、羊飼いの住む部屋は、不浄《ふじょう》だとでも思っているのだろう。 「ええ。部屋の都合がつかず、こちらに間借りをさせていただいています」 「ほうほう。やはり、ルウィックの?」 「いえ、私はローエン商業組合に所属しておりますが……」 「ふん」  うなずき、鼻を鳴らす。  もしかしたら、うなずいた拍子《ひょうし》に肉や脂肪《しぼう》に押された空気が漏《も》れただけなのかもしれないが、なんにせよ印象は良くなかった。 「一体、どうされたのでしょうか」  世間話、というには少し緊張感《きんちょうかん》がありすぎる。後ろでは手荒《てあら》く荷物や毛布や薪《まき》までもひっくり返している修道士がいるのだから。  考えられる可能性は多くない。まず間違いなく、ハスキンズが疑われていた。迷った羊を探している最中に、使いの者に出会ったのではないかと。  そして、欲に目がくらんで荷を奪《うば》ったのではないかと。  そういったことは、実際にままあるのだ。 「いえ、特にどうということもないのですが……ローエン商業組合の方、と仰《おっしゃ》いましたか」  聞かれたら、答えるしかない。 「はい」 「我が修道院は、そちらの組合の方とお取引はしていなかったと記憶《きおく》しておりますが」  ここでおたついては、あとでホロに尻《しり》を蹴飛《けと》ばされたって文句は言えない。 「ええ。実は商売に来たわけではないのです」 「ほう?」  修道士の目が、細められる。 「こちらと、そちらの子羊と共に、ブロンデル修道院の御威光《ごいこう》にあやかれればと思いまして」 「……巡礼《じゅんれい》に?」 「はい」  もう長いこと巡礼者など受け付けてこなかったような修道院だ。  そこに、商人が、若い修道女と少年を連れて巡礼など、奇異《きい》にもほどがある。  修道士の顔は笑い、目が笑わなくなる。  修道士にしておくにはもったいない顔つきだ。 「ローエンといえば、海峡《かいきょう》を渡《わた》った先の名だと記憶しています。あちらにも有名な教会や修道院がございますよね? サンリベル修道院、ラ・キアック修道院、ジブロータ教会。あるいは、リュビンハイゲン」  家《や》捜《さが》しを後ろでされながらの質問は、丸っきり尋問《じんもん》だ。 「聖遺物のお話を、聞きまして」 「聖遺物」  疑問形ですらない。 「はい。こちらは神の愛にも、羊の愛にもあふれているところとお聞きしましたから。私のような商人には、先ほど名前を挙げられたようなところよりも、こちらの修道院のほうがよいのではないかと」  冗談《じょうだん》めかした口上に、修道士も合わせて笑う。  しかし、目が片時もロレンスから離《はな》されない。もう一人の修道士が、隣《となり》の部屋に入っていく。  ロレンスたちの荷物があるが、危ない物は全《すべ》て肌身《はだみ》離さず身につけておくのが商人だ。ひっくり返されても、恐《おそ》れることはない。 「なるほど……。経験を積まれた商人の方のようですね。神のご加護がありますように」  きっと、嫌味《いやみ》だろうが、素《す》直《なお》にうなずいておく。 「マルコ!」  と、修道士が名を呼ぶと、ベッドのあるほうの部屋を引っかき回していた若い修道士が犬のように飛び出してくる。  とても日々を静かな祈《いの》りと共に過ごす修道士だとは思えない。どちらかといえば、訓練された傭兵《ようへい》のようだった。 「首尾は」 「なにも」 「そうか」  ロレンスや、ホロ、それにコルとハスキンズがいる前で、隠《かく》しもせずそんな振《ふ》る舞《ま》いを見せるのは、威圧《いあつ》するためだろうか。  それとも、なにも出なかったことに対するせめてもの見栄《みえ》だろうか。  なんにせよ、難は逃《のが》れられそうだ。  ロレンスがそう思った瞬間《しゅんかん》だった。 「カッコウは他《ほか》の鳥の巣《す》に卵を産む。二人の服を調べろ」  元商人。  気がついた時には遅《おそ》い。  マルコと呼ばれた修道士は、ロレンスとホロを見比べて、その一瞬《いっしゅん》に好色そうな色を浮かべた。ロレンスを押しのけ、ホロに歩み寄る。 「神の名の下《もと》に。しばし、ご辛抱《しんぼう》ください」  言葉|遣《づか》いだけは丁寧《ていねい》だが、それは蛇《ヘビ》を思わせる。  ホロの身にまとうローブの下には尻尾《しっぽ》が、フードの下には狼《オオカミ》の耳がある。殉教《じゅんきょう》を前にした聖女のように落ち着き払《はら》った顔をしてはいるが、ロレンスは気が気ではない。  それに、マルコは真っ先に調べるべきローブの袖《そで》の中ではなく、肩《かた》からゆっくりとホロの体の線に沿って調べていく。一瞬ホロの体がすくんだのは、その手が胸に来たからだ。 「これは?」  といって、首から提《さ》げて服の下に入れていた麦の詰《つ》まった袋《ふくろ》に気がついたのだから、どんな調べ方をしているかわかるというものだ。 「麦?」 「お守りで……」  ホロが蚊《カ》の鳴くような声で答えると、マルコは嗜虐《しぎゃく》欲を満たすようにいやらしい笑《え》みを浮かべる。ロレンスは拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》め、我慢《がまん》する。ホロが我慢しているのだから、自分が我慢しなければ元も子もない。  しかし、そうこうしているうちにマルコの手がホロの脇腹《わきばら》から下に向けられ、身長差があるのでマルコはホロの前にしゃがみ込む。  そのままひょいと手を腰《こし》の後ろに伸《の》ばせば、ホロの尻尾はすぐそこだ。  誤魔化《ごまか》せるのか。  ロレンスが怒《いか》りを抑《おさ》えられたのは、その不安があったからということもある。  マルコの手が、横のくびれから、腰《こし》の後ろに回ろうとした、その瞬間《しゅんかん》だった。 「う……っ……」  小さい鳴咽《おえつ》が聞こえ、うつむいたホロの下で恥《は》ずかしげもなくホロの腰を撫《な》でていたマルコが顔を上げると、小さく舌打ちが聞こえてきた。  ホロの目から涙《なみだ》こぼれ落ちたのだ。麦|袋《ふくろ》持ったまま、それにすがるように。  遊びは終わりだと思ったらしく、マルコはホロの体から手を離《はな》し、そのまま手早くローブの袖内《そでうち》だけを確認《かくにん》して立ち上がった。 「神はあなたが無実であると証明されました」  ホロは小さくうなずいている。  まさか本気で泣いているわけではないだろうから、見事な嘘泣《うそな》きといえばそうだ。  ロレンスがほっとしたのもつかの閻。  ホロが終われば、当然、残るはロレンスとなる。 「失礼」  マルコの目つきが変わっている。ロレンスの場合は容赦《ようしゃ》をする理由もないし、怪《あや》しいのは当然ロレンスのほうなのだから。  実際、懐《ふところ》には諸々《もろもろ》の手紙が入っている。徴税《ちょうぜい》の連絡《れんらく》を記した封書《ふうしょ》が見つかれば万事休すだ。  なにかきっかけがあれば。  マルコの手がロレンスに伸《の》びるその瞬間、ロレンスはホロと目が合った。 「危ない!」  ロレンスは声を上げ、マルコを押しのけホロに駆《か》け寄った。  目が合ったその一瞬、ホロは小さくうなずいた。  直後、神に祈《いの》るように麦袋を胸のところで握《にぎ》ったまま泣いていたホロは、緊張《きんちょう》が切れた瞬間に貧血を起こしたとでもいわんばかりによろめいて、囲炉裏《いろり》のほうへと傾《かたむ》いた。  ロレンスはホロを抱《だ》きとめ、勢い余って倒《たお》れ込む。  一瞬は時間を稼《かせ》げた。  しかし、このあとをどうする? どうすればいい?  ホロを抱きとめたまま、ロレンスは考える。  足音が近づき、すぐ後ろに入が立つ。いつまでも、誤魔化《ごまか》せない。 「お怪我《けが》は?」  マルコが厚顔《こうがん》無恥《むち》にも気遣《きづか》うように声をかけてくる。  が、当然|怒《おこ》れるわけもない。 「大丈夫《だいじょうぶ》です」  ロレンスは言って、体を起こす。ホロは気絶しているふりをして、目を閉じたまま。  駆け寄ってきたのはコルだろう。ロレンスと一緒《いっしょ》にホロを起こした。 「隣《となり》の部屋に」  コルと共にホロを隣の部屋に運び、ベッドの上に寝《ね》かし終わる。マルコがその様子をじっと見つめ、とても懐《ふところ》から封書《ふうしょ》を取り出して隠《かく》す余裕《よゆう》などない。  どうにかしなければというその焦《あせ》りに、胃《い》の腑《ふ》が焼けそうになる。 「よろしいですか?」  マルコの無慈悲《むじひ》な言葉に、ロレンスは羊のように従わざるを得ない。 「では、上着を」  のろのろと脱《ぬ》ぎ、マルコに渡《わた》していく。  振《ふ》って、ポケットの中身を見て、生地《きじ》と生地との隙間《すきま》に隠していないかと調べていく。  素人《しろうと》ではない。 「次を」  神よ!  ロレンスは胸中で叫《さけ》び、せめて平静を装《よそお》って次の服を脱ぎ、内|側《がわ》には封書が入っているそれを、渡し、そして。 「……結構です」  マルコは同様に調べ終わり、ロレンスに服を返す。 「神は真実を示されました」  そんな言葉を残して、年嵩《としかさ》の修道士に報告する。  その場でロレンスが崩《くず》れ落ちなかったのは、ベッドに仰向《あおむね》けに寝かされているホロの口元が、不敵な笑《え》みに歪《ゆが》んでいたからだ。 「お手数をおかけしました。あなた方の巡礼《じゅんれい》に赴《おもむ》かれるという信仰《しんこう》心に、神は必ずやお応《こた》えくださるでしょう」  白々《しらじら》しい台詞《せりふ》を残して、二人の修道士は去っていった。  ハスキンズが廊下《ろうか》で見送って、戻《もど》ってくる。  扉《とびら》を閉めたのはコル。  ため息をついたのは、三人|揃《そろ》ってだった。 「まったく、気がつかなかつた」  その言葉は、隣《となり》の部屋に続く扉に寄りかかりながら、にやにやと笑っているホロに向けてだ。 「わっちがいつまでもめそめそとしておると思うのかや。というよりも」  ホロは懐《ふところ》から諸《もろもろ》々の封書《ふうしょ》を取り出して、ひらひらさせながらロレンスの側《そば》に歩み寄ってくる。 「気がついておったと思ったんじゃがな」  ホロが麦|袋《ぶくろ》を掴《つか》み、神に祈《いの》るようにずっと胸元《むなもと》に手を置いていたのは、最初からこのつもりだったのだ。  顔が引きつったように笑うのは、そんなホロの計画どころか、あの一瞬《いっしゅん》の目配せに気がつかなかったらどうなっていたことか、改めて恐怖《きょうふ》を実感したからだ。 「ま、なんにせよ乗りきったからよしとするかや。ぬしのたわけた顔も見れたしの」  胸を突《つ》かれ、それに軽く笑い出したのは意外にもハスキンズだった。  咳《せ》き込むように笑い、囲炉裏《いろり》の前に座り込んだ。 「失礼」  短い言葉が余計に恥《は》ずかしい。  ホロこそどこ吹《ふ》く風だが、ロレンスはつい赤面してしまっていた。 「しかし、こうなると、他《ほか》の連中を使って迎《むか》えを出すだろう……」  ようやくいつもの調子を取り戻せたのは、ハスキンズがそう口火《くちび》を切ってからだ。 「明日には、もう?」 「距離《きょり》的にかなりある。それに、もうじき日が暮れる。明日の夕刻か、あるいは、明後日《あさって》までか……どうなのだ。うまくいきそうなのか?」 「確約はできません。ですが、頼《たの》んだ相手は、信頼《しんらい》できます」 「そうか…いや……」 「?」  ロレンスが聞き返そうとすると、ハスキンズは頭を振《ふ》って、うつむきがちに言った。 「疑って悪かった。人は聡《さと》い。認めたくないのは、見栄《みえ》か、嫉妬《しっと》か」  ハスキンズはどことなく楽しそうに言って、その頃《ころ》にはロレンスの耳にも足音が聞こえていた。急ぐように、まっすぐにこちらに向かってくる力強い足音。  息を潜《ひそ》めて、山賊《さんぞく》や、狼《オオカミ》の足音に耳を澄《す》ますことが多いので、ロレンスにも多少は足音の区別がつく。これは、味方のそれ。  扉《とびら》がノックされ、コルが開ければ、そこにいるのはピアスキーだった。 「ロレンスさん」  頬《ほお》が、子供のように赤い。 「見つけましたよ」  ロレンスはホロとコルに目配せをして、立ち上がるとハスキンズにも視線を向けた。  しかし、ハスキンズは側《そば》に置いている羊飼いの杖《つえ》を指差し、首を横に振《ふ》る。  一度|頼《たの》んだからには、信用して全《すべ》てを任す、ということだろう。  ロレンスはうなずいて、ピアスキーに声をかけた。 「連れがいても?」 「構いません。いえ、むしろお願いします。先ほど、こちらに修道士が来ましたよね?」 「ええ、大変|不愉快《ふゆかい》な」  ピアスキーの笑顔《えがお》は、子供のように無邪気《むじゃき》だ。 「不愉快でしたか。しかし、そう仰《おっしゃ》られるということは、結果は愉快だったようですね。私は彼らが釆たということで勇気づけられましたが。いや、逆ですね」  ロレンスたちと歩き出し、ピアスキーは、こう言った。 「やるなら、もう今しかない」  日が暮れようとしている。  外に出ると、雪はもうほとんどやみかけていた。      資料室に詰《つ》めていたのは一癖《ひとくせ》も二癖《ふたくせ》もありそうな商人たちだった。  取引相手がいないからというわけでもなかろうに、髭《ひげ》を伸《の》ばし放題だったり、若くて気取った騎士《きし》のように髪《かみ》を伸ばしている者もいた。  ロレンスが、コルとホロを連れてピアスキーのあとについて部屋に入ると、軽い口笛で出|迎《むか》えられた。 「あの二人の修道士、定宿《じょうやど》のほうでも大変評判が悪かったんです」  部屋の奥に置かれた机に手を置いたピアスキーは、くるりとロレンスのほうを振り向いて、そう口火《くちび》を切った。 「執拗《しつよう》に、使いの者は来ていないか、本当に手紙は来ていないか、と。我々の荷物をひっくり返そうとまでしましてね。不安の裏返しなのでしょう。修道院|側《がわ》も、徴税《ちょうぜい》通知が来るならばそろそろだと思っているのかもしれません」 「なるほど。危機は、もう目前だと」  ピアスキーは同意を示して目を伏《ふ》せる。かすかな物音も立てられない暗闇《くらやみ》の中で、互《たが》いに意思|疎通《そつう》をしているような錯覚《さっかく》すら覚える。 「それで、首尾のほうは?」 「疑ってかかったら、難しくはありませんでした。高価な買い物をしているということは、隠《かく》す方法としては支出に紛《まぎ》れ込ませるしかありませんからね。しかし、これはあくまで、そうなのではないか、と思ってみた時に、そうではないか、と見えるというだけのことです。事実かどうかは、わかりません」  その帳簿《ちょうぼ》上の疑いを確定させるためには、ロレンスの力が要《い》る。 「特に、定期的な支出のほうが目立たず、隠しやすい。一時的な支出に隠すと、突出《とっしゅつ》してしまいますからね。具体的には、修道士のローブや装身具、補修のための建築資材、石工への費用、あとは、定期的な歓待《かんたい》のための香辛料《こうしんりょう》の買い付けです」  ピアスキーは、喋《しゃべ》りながら該当《がいとう》する部分を抜《ぬ》き出して手|渡《わた》してくれた。  目を落としてみるが、それだけではさすがにわからない。なんの変哲《へんてつ》もない帳簿に見える。 「我々の強みは、たくさんの商人がいることです。たくさんの目と、耳がある。同じ時間に、遠く離《はな》れた場所での情報を共有することができる。香辛料が、それも、二つの町を経由して運ばれてきたサフランが決定的でした」 「と、いうのは?」 「その買い付けが行われた時、その町にサフランだけ入荷されなかったんです。たまたまその時期に仲間がその町にいましてね。船が嵐《あらし》で遅《おく》れたんです。輸出入を取り扱《あつか》っていた御用《ごよう》商人は、当然修道院の目的を知っているはずですから、逆にこれ幸いと気を利《き》かせたのでしょう。空荷《からに》に金を支|払《はら》ったことにすれば、より多額の支出を誤魔化《ごまか》せますからね。が、それが仇《あだ》となった」  一つ嘘《うそ》があるとわかれば、全《すべ》ての嘘も見えてくる。  単純な過剰《かじょう》支払いの中に支出を隠しているとわかれば、あとは知識を引っ張り出してくるだけだ。 「それぞれの品について、相場よりも高い支出がなされています。あるいは、全て空荷なのかもしれません。我々ではわからない品もありましたから、ただ」 「それだけあれば、十分と」  ピアスキーに羊皮紙を返し、ロレンスは言葉を続けた。 「もう、今晩に?」 「本館から修道士がわざわざ来るくらいですから。事態は逼迫《ひっぱく》しているはずです。それに、羊飼いの方たちが迎《むか》えに向かわされるのでは」  ハスキンズはそう言っていた。  ピアスキーの表情が引き締《し》まる。 「ロレンスさんさえよろしければ、今はちょうど責任者が額を集めています」  両|隣《どなり》のホロとコルを見る。  二人はゆっくりとうなずいた。 「大丈夫《だいじょうぶ》です」 「では」  軽く腰掛《こしか》けていた机から体を離《はな》し、ピアスキーは言った。 「行きましょう」      同盟の定宿《じょうやど》に入ると、少し雰囲気《ふんいき》が変わっていた。  暖炉《だんろ》に薪《まき》を入れすぎたような、そんな妙《みょう》な熱気に包まれていた。  あの修道士二人が来て、一悶着《ひともんちゃく》あったというので、その余波なのかもしれない。寝《ね》ぼけている商人でもなければ、お高くとまった修道士がなりふり構わず動き出した時、狼《オオカミ》のようにそこに血の匂《にお》いを嗅《か》ぎつけるはずだからだ。  あんなに暴れるのは、怪我《けが》をして苦しいからに違《ちが》いない、と。  特に、ここはどうにかして修道院の傷口を見つけ、そこに食らいつこうと画策している連中か、その食らいつかれる無様を見に来た連中ばかりなのだから、熱気に包まれるのも当然かもしれない。  だから、ピアスキーに引き連れられてロレンスたち一行《いっこう》が中に入ると、視線を一身に集めることになった。  よそ者の商人と、修道女の格好をした少女と、お付きに見える少年が一人。それがピアスキーに引き連れられて定宿の奥の、それも階段を上っていくとなれば、彼らはこう思わざるを得ない。  なにか見つけたのか。  嫉妬《しっと》と羨望《せんぼう》の眼差《まなぎ》しは霜焼《しもや》けのようなもの。ホロはともかく、ロレンスですら痛がゆい。コルがうつむいたままずっと顔を上げないのも、仕方のないことだろう。 「こちらです」  ピアスキーが立ち止まったのは、三階の真ん中に位置する部屋。  若い旅商人は、襟《えり》を正してから、扉《とびら》をノックした。 「失礼します」  中に入ると、蜂蜜《はちみつ》と乳の匂《にお》いにまじって、香辛料《こうしんりょう》の匂いが鼻につく。  あらゆるものに対して、胡椒《こしょう》とサフランをかけなければおよそ人間の口にするものではない、といわんばかりの連中の匂《にお》いだ。  広い部屋の中に置かれた大きな円卓《えんたく》に座るのは、四人の壮年《そうねん》の商人たち。  どれも大店《おおだな》を構えていてもよさそうな貫禄《かんろく》で、実際になにもない雪に囲まれた修道院での生活に疲《つか》れが見えていた。  もっとも、四人のうち一人しかこちらに視線を向けてこなかったのは、それとは一切《いっさい》関係のないことだろうが。 「ラグ・ピアスキー、参りました」 「時間がない。挨拶《あいさつ》はいいだろう」  耳の上で髪《かみ》の毛《け》を丸めた、恰幅《かっぷく》の良い男が手で制しながらそう言って、細い目をロレンスに向けてくる。 「ローエンの者とか?」 「はい」 「ふん……」  聞くだけ聞いて、なにも反応を返さない。名乗る間も与《あた》えられなかった。  円卓につく他《ほか》の者たちは、飲み物に手をつけることもせずじっとしている。 「よろしいでしょうか」  重い空気にも負けずピアスキーが言うと、男は片手を上げて、始めろ、とばかりに合図をする。 「失礼します。しばしお時間とお耳を拝借させていただきたいと存じます。まずはこちらを」  言って、脇《わき》に抱《かか》えていた羊皮紙の束を取り出すと、壁際《かべぎわ》に控《ひか》えていた者が受け取りに来る。  そして、パン皿よろしく円卓の真ん中に置かれたそれに、それぞれが億劫《おっくう》そうに手を伸《の》ばしては、目を細めて文字に目を落とす。 「帳簿《ちょうぼ》の写しか。これがどうした?」  もう見|飽《あ》きたとばかりに、今度は痩《や》せぎすの神経質そうな男が言った。  落ち窪《くぼ》んだ目の周りの皺《しわ》は、皺よりもどちらかというと鱗《うろこ》のほうが近いかもしれない。  他《ほか》の面々も概《おおむ》ね同じ感想らしく、一目見てテーブルの上に投げ出した。 「明白な空荷《からに》への支|払《はら》いが一つ。相場よりも高い支払いが複数見受けられました」  四人はそれぞれ視線を合わせない。  最初にピアスキーに声をかけた者が、代表して言葉を向けてくる。 「納税の頸木《くびき》から逃《のが》れられないところでは珍《めずら》しいことでもない」 「はい、もちろんです」 「では今更《いまさら》こんなものを見せてなんだと?」  視線に射|抜《ぬ》かれ、ピアスキーが息を飲む。  返事は、ロレンスの役目だ。 「修道院|側《がわ》が、収入を誤魔化すのではなく、支出を誤魔化しているのではないかと」  よそ者の言葉に、四人の視線が集まってくる。  それが興味を惹《ひ》かれたのか、それとも怒《いか》りを買ったのかは、まだわからない。 「支出?」 「はい」  ロレンスが答えると、別の者が口を挟《はさ》む。 「ローエンの者と言ったが、それはゴールデンス卿《きょう》の御意思か?」  ローエン商業組合を牛耳る円卓《えんたく》に座る者の名前。ロレンスにとっては雲の上の存在といえばまさしくそれで、彼らが座る円卓の高さは、へたをすればそんなものに匹敵《ひってき》するのだ。 「いえ、違《ちが》います」 「では、他《ほか》の誰《だれ》かか」  よその組合がくちばしを挟《はさ》みに来たという警戒《けいかい》感か、彼らの口調と目つきは非常に厳しいものだ。  月と盾《たて》の紋章旗《もんしようき》。  個人の意思でそれにたてつくなど、組合の人間としてそんな勝手なことは許されない。 「では、訂正《ていせい》させていただきます。私は野良《のら》の行商人です」 「口ではなんとでも言える」  当然だ。  ロレンスは「失礼」と断ってから、腰《こし》にくくりつけてあるナイフを取り出した。  そして、鞘《さや》から抜《ぬ》くと、ためらいなく左手の掌《てのひら》に突《つ》き立《た》てた。 「羊皮紙を頂ければ、そこに名前と、血の署名を」  行商人が組合から抜ければ、その行く先などどこにもない。  四人のうち、三人が興味をなくしたように視線を外す。 「おい」  一人が、壁際《かべぎわ》に立つ者に向かって顎《あご》をしゃくった。すると部屋を出ていったので、包帯かなにかを取りに行ってくれたのだろう。 「若いうちには危険を冒《おか》さねばならないこともある。ローエンの名にではなく、あなたの名に敬意を表し話を聞こう」  笑えなければ、嘘《うそ》だ。 「クラフト・ロレンスと申します」  届けられた包帯を、ホロが奪《うば》うように取ってロレンスの手に巻いてくれたのは、それがきっと合格点だったからに違いない。 「クラフト・ロレンス。君は我が同盟のラグ・ピアスキーとなにを思いついたのか。君は修道院が支出を誤魔化《ごまか》していると言った。空荷《からに》への支|払《はら》いや過剰《かじょう》な支払いは、王への納税の際のことを考えればごく普通《ふつう》の出来事だろう。殊更《ことさら》取り立てるほどのことではない」 「それが、税の支|払《はら》いの誤魔化《ごまか》しであるならば」 「では、なんだと?」  包帯を縛《しば》り終えたあと、ホロが軽く手を叩《たた》いてきたのは、頑張《がんば》れということだろう。  応《こた》えるように、言葉を返した。 「高額の品物の購入《こうにゅう》。それも、周りに知られてはならない類《たぐい》の」  四人の視線が一瞬《いっしゅん》、絡《から》み合った。 「品? それはどんなものか」  興味を示された。  怪我《けが》をしている左手の拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めてしまったのは、そこにホロが包帯を巻いてくれたからだ。 「狼《オオカミ》の、骨。異教はびこる北の地の、神と呼ばれた成れの果て」  言った。  ロレンスは息を吸う。  ここでたたみかけなければ、戯言《ざれごと》ですまされてしまう。 「根も葉もない話ではありません。海峡《かいきょう》を渡《わた》った先のケルーベという町。そこに店を構えるジーン商会。すでにお耳に入っているかとは存じますが、そこで起きた先日のイッカクを巡《めぐ》る騒《さわ》ぎの渦中《かちゅう》にあったのは、ジーン商会のリュミオーネ金貨千五百枚でした」  四人は動きを示さない。  もう一度息を吸い、さらに続けた。 「彼らはローム川の支流、ロエフ川の上流に位置するレスコの町、デバウ商会からの資金提供を受けていました。その目的が、他《ほか》ならぬ件《くだん》の狼の骨の購入だったのです」  失敗があったとすれば、少し早口になりすぎたこと。  ロレンスはそのくらいの自信があった。  ルウィック同盟の上位に位置する者たちならば、狼の骨に関する噂《うわさ》話は耳にしたことがあるだろうし、北の地の大鉱山を支配しているデバウ商会の名を聞いたことがないはずはない。  すぐに信じてもらえなくとも、作り話にしては手が込んでいる、とは思ってくれるに違《ちが》いない。  そう確信していた。 「いかがでしょうか」  しかし、返事は返ってこなかった。そこには疲《つか》れたような弛緩《しかん》した空気すらがあった。  ピアスキーがこちらを見る。もっとなにかないのか。ここで信じてもらえなければ計画は進まない。  ロレンスが焦《あせ》って口を開こうとしたところに言葉を挟《はさ》んだのは、ホロだった。 「思うところがあれば言ってみよ」  ぎょっとして全員がホロを見る。  それでも、賢狼《けんろう》ホロは怯《ひる》まない。 「興味のないようなふりをするな、と神が仰《おお》せになっていんす」  こんな場所で冗談《じょうだん》めかした口上ができるのは、道化師《どうけし》か馬鹿《ばか》かのどちらかだ。  円卓《えんたく》につく四人は空威張《からいば》りで胸を張っているのではないからだ。  ただ、それは人の世のことであるし、なによりもっと悪質な事実がここにある。  この場所は修道院であり、修道士が祈《いの》りを向ける相手は、他《ほか》ならぬホロやハスキンズよりも尊いとされる唯一《ゆいいつ》の神なのだから! 「お嬢《じょう》さん……失礼、祈りに暮らす敬虔《けいけん》なる娘《むすめ》様。一体、どのような意味でしょうか?」 「神とは人の力の及《およ》ばぬ存在のこと。フードに目が隠《かく》れていようとも、このようにうつむいていようとも、神のおカに頼《たよ》れば全《すべ》てを見通すことくらい、児戯《じぎ》にも等しきことでありんす」  異様、というのはそれだけで大きな力になる。  円卓の四人が作り出す重圧感ですら、それは目に見えないなにかであって、ロレンスたちのみならず、彼ら自身が自分たちをすごいと認めるからこそ生まれる場の空気。  そこに一人なじまぬ者がいれば、それは天性の阿呆《あほう》か、さもなくば。  さもなくば、別の論理で生きる者だ。 「なかなか……ありがたいお言葉ですな」  地位のある男であれば、青二《あおに》才《さい》が異様をもって対抗《たいこう》してくるのであれば一喝《いっかつ》してすませばよいが、それが小娘《こむすめ》となれば一喝すればしたほうの無様になる。  取るに足りない女子供は、鼻で笑い、あやし、なだめられて隅《すみ》に花のように置かれていなければならないのだ。  ロレンスも、少し前まではそんな常識の中にいたのだから、その常識に縛《しば》られるせいで引きつった笑《え》みを浮かべるしかない彼らを、いい気味だとは純粋《じゅんすい》に笑えなかった。 「では、もう一度お聞きしてもいいのかや?」  引きつっていた四人の顔が赤くなる。色が白いのでなおさらそれが強調される。  地位と、常識と、沽券《こけん》とに挟《はさ》まれているのだ。  荒《あら》い毛布にだってこすられれば熱くなる。  怒《おこ》らせ、立ち上がったところをぐうの音《ね》も出させずに叩《たた》きのめして言うことを聞かせる腹積もりか?  それはほとんどの場合有効だろうし、この四人を相手にそれができれば確かに大したものだ。  しかし、子供の殴《なぐ》り合いではない。  ロレンスが口を挟もうとした、その時だった。 「いや」  顔を真っ赤にして口を引き結んでいた男が、きっぱりと言った。 「結構」  そして、おもむろに右手を肩《かた》の高さに上げると、壁際《かべぎわ》に控《ひか》えていた者がさっと真っ白な布巾《ふきん》を渡《わた》す。  ちん、と鼻を一息かむ頃《ころ》には、魔法《まほう》のように顔色が戻《もど》っていた。 「結構。二十二年前を思い出した」  円卓《えんたく》につくうちの一人が、片目だけを向ける。 「嫁資《かし》と共に我が家にやってきた妻を思い出した。真実にたどり着く道は理屈《りくつ》だけではない」  耳の奥に圧迫《あっぱく》感を一瞬《いっしゅん》覚えたのは、四人が揃《そろ》って低く笑ったからだ。 「そして、往々にして商《あきな》いの決断は理屈を超《こ》えている。諸君」  その言葉は、まるで円卓会議の宣言のようだった。 「私の質問を最後にしてよろしいか」 「異議なし」  三人の唱和は一瞬《いっしゆん》の頃合《ころあい》で。  視線が、ロレンスに向けられる。 「以上のことにより、クラフト・ロレンスに尋《たず》ねる」 「はい」  じわり、と掌《てのひら》に滲《にじ》んだのは、血と、汗《あせ》。 「その話をそなたに確信させるに至ったものはなにか。答えよ」  ロレンスは即座《そくざ》に懐《ふところ》に手をかけ、一通の手紙を取り出した。  狼《オオカミ》の骨の話を単なる御伽噺《おとぎぱなし》では終わらせない、ロレンスの切り札だ。  そこにはキーマンとエーブの署名があり、キーマンもエーブもウィンフィール海峡では知られた名だ。しかもエーブに至ってはこの国の元貴族だった。  この二人の署名と、修道院が骨を購入《こうにゅう》したらしいというエーブからの情報。  そして、それら全《すべ》てを締《し》めくくる、この名前。 「これを託《たく》してくれたのは、フルール・フォン・イーターゼンテル・『マリエル』・ボラン」  長い名前は貴族の証《あかし》。  しかし、そこにどんな意味が込められているのかはわかる者にしかわからない。  円卓《えんたく》につく二人の人間の眉《まゆ》が動き、ロレンスが円卓に置いた羊皮紙に視線を向ける。  ウインフイールで商《あきな》いに手を出しているのなら、エーブがどんな商人であるかは先刻承知のはず。  その彼女が、貴族の隠《かく》し名《な》を教えた行商人。  円卓につく二人が目配せをして、三人目が小さくうなずく。  成った。  ロレンスがそう思った、まさしくその瞬間《しゅんかん》だった。 「これと?」 「っ?」  危《あや》うく聞き返しそうになり、ロレンスは慌《あわ》てて小さい咳《せき》を挟《はさ》む。  何度も喉《のど》を鳴らし、失礼、とばかりにあいている手を円卓に向ける。それらは商談で身につけてきた無意識にだってできる小手先の技術。  ロレンスの頭の中は真っ白になるくらい混乱していた。  これと?  円卓につく、最も重鎮《じゅうちん》と思われる男はそう聞き返してきた。  足りないのか?  ロレンスは切り札を切った。それも、最高の場面と考えられる場所で、最高の条件で。  これで足りなければもはや出すものなどなにもない。  円卓から、鋭《するど》い視線が向けられた。 「片や狼と、片や慧眼《けいがん》という二つ名を持つ稀有《けう》な商人の名は確かに重い。だが、その名の格の高さで我々が判断をどうこうするのであれば、我々にはもっと他《ほか》に耳を傾《かたむ》けるべき者たちがいる。それは、ここにもね」  商談とは商人の戦いの場。  傭兵《ようへい》が戦場でよそ見をすれば死を免《まぬか》れられないように、商人だって商談中によそ見をすれば契約《けいやく》を逃《のが》す。  だから、そう言われた瞬間《しゅんかん》にぐるりと辺りを見てしまったのは、ロレンスが円卓《えんたく》につく歴戦の商人に殺されたことを示していた。実際、ロレンスは自分に自信がなくなり、他人の言葉に翻弄《ほんろう》されてしまったのだ。  円卓からため息が漏《も》れる。ピアスキーがとっさになにかを言おうと口を開きかけるのが見えた。  ぐらりと傾《かたむ》いた平衡《へいこう》感覚の中で、時間が引き延ばされる。  エーブとキーマンの署名をもってしても信用されなければなす術《すベ》などない。  失敗だ。  ロレンスがその言葉を、胸中で呟《つぶや》くか否《いな》かの時だった。 「ロレンス」  聞きなれた声の、聞きなれない言葉。  見れば、隣《となり》にいたホロ。  ホロがロレンスをしっかりと見|据《す》え、呆《あき》れるような目をしていた。耳には、円卓の上に広げられた諸々《もろもろ》の物が片づけられ始めている音が聞こえている。それは開きかけた扉《とびら》の閉じる音だ。  それでも、ロレンスはホロの目をじっと見つめ返していた。  その、呆れるような、赤みがかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》を。  この目がロレンスのことを見つめる時、いつもそこには答えがあった。ロレンスが気がついていないだけで、ひどく明白なことに、ほとんど示されている答えは常に「そこ」にあった。  この勝負は、負けていない。そう思い込んでいるだけ。  流れを掴《つか》め。  会話を思い出せ。  ロレンスはありったけの知恵《ちえ》を絞《しぼ》る。  時間は、容赦《ようしゃ》がない。  しかし、商人はとことん諦《あきら》めが悪い。 「それと!」  声の限りに張り上げていた。  全員がびくりと体をすくませてこちらを見る。  その驚《おどろ》きようは死人が生き返ったかのようであり、実際にそのとおりだった。  契約《けいやく》中に、自分の自信のなさに視線を泳がせてしまった行商人は、あとは朽《く》ちてなくなるだけの死体に他《ほか》ならない。  ロレンスは叫《さけ》んだあと、言葉が出てこずに、集まった耳目《じもく》の前で沈黙《ちんもく》してしまう。  それでも、緊張《きんちょう》のあまりにじくじくと痛む左手が、自分はまだ生きていることを証明する。  そして、そこをしっかりと握《にぎ》ってくれているもう一つの手が、一人ではないことを教えてくれる。 「狼《オオカミ》を見ました」  一瞬《いっしゅん》の間だったかもしれないが、それが永遠の沈黙《ちんもく》に感じられた。 「狼?」 「大きな、狼でした」  なぜこの言葉を選んだのか、ロレンスにも明白に述べられはしない。  ただ、それが間違《まちが》っていないということだけは自信を持って言えた。  そもそも答えは最初に出ていたのだ。  円卓《えんたく》につく者はロレンスから話を聞こうと決めた時になんと言った?  彼らは、ロレンスの名に敬意を表してくれたのだ。  そこに自分以外の署名の入った羊皮紙を差し出すなど、ホロが呆《あき》れたって当然だった。  彼らが聞きたかったのは、証拠《しょうこ》もなにも要《い》りはしない、その代わりにロレンス自身が信じて疑わない、その理由だったのだ。 「私はその狼のために旅をしています。大きな狼でした」  緊張《きんちょう》で頭がおかしくなったと思われただろうか。  それとも、奇《き》を衒《てら》った発言だと思われただろうか。  いつもならそんな不安が顔に出ていたかもしれない。  しかし、嘘《うそ》がなければ、そんなことなど思いようもない。 「……北の地の生まれかね」  言葉が向けられた。 「この二人が」  ホロとコルを示すと、四人はそれぞれ遠くのものを見るように目を細める。  それこそ、二人が遠い北の地にいるかのように。  ピアスキーはいつ口を挟《はさ》むべきなのか計りあぐねて苦しげにしている。ロレンスだって足元を見ないで薄氷《はくひょう》の上を渡《わた》っている感覚なのだから、他人からしたら怖《こわ》くて見ていられないだろう。  四人は目を閉じ、沈黙する。  ロレンスは胸を張って立っていた。  理屈《りくつ》では、ない。 「そうか」  短い一声が、沈黙を破った。 「そうか。ならば、これも運命か」 「神の祝福あれ」  その言葉が不吉なものに聞こえたのは、きっとロレンスだけではなかっただろう。  円卓《えんたく》につく者たち。  胡椒《こしょう》とサフランの香《かお》りを焚《た》き込められた服を着る者たち。  語り口は、優雅《ゆうが》で流暢《りゅうちょう》だった。 「真実はいつか告げられる。それがたとえどんな突飛《とっぴ》なものであったとしても」 「……えっ?」 「我々は待っていた。そう言って悪ければ、踏《ふ》ん切《ぎ》りがつけられずにいた、と言ってもよい」 「それは……」  ピアスキーとロレンスが交互《こうご》に呟《つぶや》き、互《たが》いに顔を見合わせる。  歳《とし》のせいで垂《た》れ下がった、円卓につく者たちの耳は伊達《だて》ではなかった。 「そう。ブロンデル修道院が狼《オオカミ》の骨を購入《こうにゅう》したという情報は確かにあった。しかし、その決断はこの四人ではあまりにも重すぎる結果を生む。予断は許されない。だが」  じっとこちらを見るその顔は、厳しくもどこか優《やさ》しげですらあった。 「年老いた我々が錆《さび》ついた道具でもってそれを見つけただけでは心許《こころもと》なくとも、若き者が理屈《りくつ》を超《こ》えて同じものにたどり着いたのであれば、我々はそれを信じることができる」 「で、では」 「ああ。ブロンデル修道院が追い詰《つ》められているのは知っている。もはや猶予《ゆうよ》はならないだろう。だが、彼らが狼の骨を購入しているのであれば、我々にも打つ手はある」  円卓の四人は、疲《つか》れたように笑った。 「老体には応《こた》える戦いになるだろう。この歳になると小手先の技術で戦いがちだからな」 「まったく。相手に不足はありませんがな、この話は即座《そくざ》に修道院の致命傷《ちめいしょう》になりうる劇薬だ」  円卓につく男たちは急に老人めいた会話をし始める。  ピアスキーがうつむき、ロレンスがそれに倣《なら》ってしまうのも当然のこと。  ホロは首をかしげ、コルはよくわかっていないようながら、ほっとしたような顔をしている。  だが、ロレンスはこんな言葉をホロ以外に使うのかとほろ苦い気持ちで一杯《いっぱい》だった。  円卓につく者たちは、それに相応《ふさわ》しい狡猜《こうかつ》さと、懐《ふところ》の広さを持っていた。 「では」  ロレンスたちに、こう言わせるのだから。 「是非《ぜひ》、我々をお使いください」  保身と利用。  老人たちは、ロレンスたちという身代わりを。ロレンスたちは、成功への筋道を。  殴《なぐ》り、殴られという単純な関係ではないこの仕組み。  ホロのような一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない奴《やつ》に魅入《みい》られたのも、こんな倒錯《とうさく》感が好きだからかもしれない。  そしてロレンスは、そこで手綱《たづな》を握《にぎ》るためにやってきた。 「ところで、ここにこのようなものがあるのですが」  さらに懐《ふところ》から取り出した一通の封書《ふうしょ》。  ウィンフィール国国王の印が押された、徴税《ちょうぜい》の意向を告げるもの。 「これは……だが、なぜ君が……」  今度はロレンスは笑顔《えがお》だけでその質問には沈黙《ちんもく》し、咳払《せきばら》いをするとこう言った。 「この徴税法による結果は、以下のようなものが考えられると思います」  中心に躍《おど》り出たロレンスの言葉に、彼らの耳目《じもく》は引きつけられざるを得なかった。      税を逃《のが》れるには、うちに金などはないと主張することが古典的な手段だ。  ない場所から取るわけにはいかないし、家屋敷《いえやしき》を差し押さえてはそんな国には誰もやってこなくなる。  ただ、そうなると皆《みな》があの手この手で金を隠《かく》し、徴税|吏《り》との知恵《ちえ》比べが始まるのだ。  瓶《かめ》の中に隠したり、床《ゆか》の下に埋《う》めてみたり、金の像を鉛《なまり》の中に沈《しず》めてみたり、あれやこれやの方法は、基本的に隠す側《がわ》に有利だ。莫大《ばくだい》な量となれば移動が目立つが、それでも少しずつ分けて運んで山の中にでも埋められてはわかりっこない。しかも税を納めなげればならない連中に対し、税を回収する人間の数は圧倒《あっとう》的に少ない。  では王や都市参事会や教会は徴税を諦《あきら》めたのかというと、神は常に万人に対して道を開く。  数少ない徴税吏に頼《たよ》らずとも、どれだけ貨幣を土の中深くに埋められようとも、必ず彼らが税を納めなければならない方法をついに編み出した。  ただし、あまりに強力な武器はいつだって諸刃《もろは》の剣《つるぎ》だ。  棒で相手を殴《なぐ》ったって、棒を握《にぎ》る自分の手は痛むのだから。  それに、いくつかの条件がいる。ウィンフィールはその点、恵《めぐ》まれている。  スフォン王がついに手を出さざるを得なかった強力な徴税法。  それは、新しく鋳造《ちゅうぞう》された通貨を受け取るには古い通貨と交換《こうかん》しなければならない貨幣の改鋳だ。その条件下で古い通貨の流通を禁止されると、瓶や床下や地面の中に埋まっている貨幣はまったくの無価値になる。  掘《ほ》り起こし、溶《と》かしてその中から銀なり金なりを取り出せば当然その価値くらいは持つが、溶かすのもただではないし、町の炉《ろ》は監視《かんし》されている。  すると、皆が造幣所にぞろぞろと古い通貨を持って集まってくるというわけだ。  王は、好きな比率で新しい通貨と古い通貨を交換《こうかん》することで、強制的に徴税を行うことができるのである。 「伝統的に修道院には現金がある。王はそれを知っていて、この方法を使うことにしたのでしょう。商人ですら、虎《とら》の子《こ》の財産はいつも現金か、現物商品です。証書で持っているとは思えません」 「王はこの機会に国の中で絶大な影響《えいきょう》力を持つ修道院を潰《つぶ》し、我々を追い払《はら》おうと考えているはずだ。一つには、税の代わりに土地を没収《ぼっしゅう》することで修道院を。もう一つには、我々が求めるものを没収することで体《てい》よく我々をこの国から追い払うこと」 「羊毛取引の独占《どくせん》も考えているのかもしれません」 「それはあるだろう。ここを押さえれば、ここ以上に羊毛取引を行っている場所はない。布告は自由に出し放題だ」  円卓《えんたく》の周りには、ロレンスがホロとコルを側《そば》に従え、ピアスキーが立つ。  中心に置かれているのはロレンスがコルと共に一晩中考えた可能性の分岐《ぶんき》表だ。  即座《そくざ》にその場での機転の利《き》かせ方では後《おく》れを取ったとしても、丁寧《ていねい》に、慎重《しんちょう》に、時間をかければ必ずそれなりのものが出来上がる。 「修道院が狼《オオカミ》の骨を購入《こうにゅう》していなかった場合、なけなしの貨幣《かへい》をかき集めて、税の徴収《ちょうしゅう》に応ずるだろう。なけなしの貨幣がない場合は」 「払ったように見せかける、でしょうね」  ロレンスが言って、ピアスキーがあとを引き受ける。 「箱の中に石でも詰《つ》めて、輸送|途中《とちゅう》に事故に見せかけて谷の中にでも放《ほう》り投げるのかもしれません。羊飼い連中に頼《たの》めば、そんな場所はいくらでも知っているでしょう。凍《こお》った沼の中に沈《しず》めてもいい」  全員がうなずき、円卓につく一人が口を開いた。 「それで、貨幣の運び出しはどのくらいの量になる?」  どれほど優秀《ゆうしゅう》であっても、現場から離《はな》れて久しい老商人には貨幣の枚数だけを言われてもその量が実際にどうなるかはピンとこないらしい。 「全《すべ》てが金貨というわけはないでしょうから……そうですね。おおよそ、この程度の規格の箱で、十から、十五」 「橇《そり》に載《の》せるにしてもこの雪ですから、限界があるでしょう。おそらく行列の行軍になります」  旅に暮らす商人二人の意見となれば、他《ほか》のことはともかく、輸送の問題点については異論を挟《はさ》まれない。  ロレンスは、言葉を続けた。 「隠《かく》しきれる規模ではないと思います」 「そうか。では、こちらが徴税の事実を掴《つか》んでいることを知らせれば、相手はほとんど身動きが取れなくなるな。徴税に対する協力を申し出れば、交渉《こうしょう》のテーブルにつくだろう」  鼠《ネズミ》を突《つ》つけばどちらに走っていくか、ということを話すかのようだ。  ケルーベの港町では、まさしく自分がこんな場の会議において、一つの駒《こま》として扱《あつか》われていたのだろう。  売って、買ってを繰《く》り返すだけの行商は比べ物にならないくらいに平和で牧歌的だ。  どちらがどうというわけではない。  まったく別種の賭《か》け事《ごと》のようで、かえって冷静に参加することができた。 「事実を知らせるのは早ければ早いほうがいい。焦《あせ》らせれば自暴自棄《じぼうじき》になりかねない。腐《くさ》っても連中は神の僕《しもべ》だ。恥《はじ》を忍《しの》んで生きるよりも信仰《しんこう》に殉《じゅん》じて死ぬ可能性もある」 「それに、尊敬すべき者たちもいる。我々は強奪《ごうだつ》者ではない。うまくやらなければならない」  山の上にある城は人目から逃《のが》れられない、ということわざがある。  地位のある者はそれに相応《ふさわ》しい振《ふ》る舞《ま》いを身につけよということだが、円卓《えんたく》に座る者たちはその点申し分ないようだ。 「では、分館に詰《つ》める修道士に事実を知らせよう。先ほどの不愉快《ふゆかい》な二人組みはまだうろついているのか?」 「確認《かくにん》します。見つからなければ、他《ほか》の方に?」 「いや、違中には知らせるな。聖堂の中の鼻つまみ者だ。ロイド副院長に伝えよう。彼ならこの時間は日課の聖務中だろうし、なにより彼ならまだ馬に乗れる」  わずかに起こった笑いの波は、ここには馬にも乗れないほど太った修道士ばかり、ということだろう。 「畏《かしこ》まりました」  ピアスキーは頭を下げて、恭《うやうや》しく応《こた》えた。 「念のため、夜明けとともに主要な旅籠《はたご》と小屋に人間を配置しておこう。あの腰《こし》の重い聖堂参事会が即日《そくじつ》決定して箱を運ぶとは思えないがな」 「宮廷《きゅうてい》内に高位修道士の血族が何人かいる。その伝《つて》である程度の予測はついているだろうから、油断はできない」 「まさしくそのとおりだ。しかし、全《すべ》ては我々にとってうまくいくだろう」 「神の祝福のあらんことを」  その言葉で、会議は締《し》めくくられた。      分館に火がついた。  そんな比揄《ひゆ》が比揄ではなくなりそうなくらい、騒《さわ》がしくなった。  ロイド副院長とやらは、徴税の事実を知らされると祈《いの》りをあげるために持っていた聖典を取り落とし、それを拾おうとして燭台《しょくだい》を倒《たお》したほどの慌《あわ》てようだったという。  雪と風が収まっていたこともあって、即座に馬を仕立て馬子《まご》を五人も集め、例の修道士二人組みも連れて、松明《たいまつ》を煌々《こうこう》と照らして夜の雪道を馬で本館に向けて駆《か》けていった。  分館で日々羊毛取引に明け暮れる修道士たちは、さすが金勘定《かねかんじょう》に長《た》けているだけあって、同盟の幹部の部屋に詰《つ》めかけていざという時のためのご機嫌《きげん》取りに走っていた。  ピアスキーは大急ぎで修道院に対する要求事項をまとめるため、仲間と協力して殖民《しょくみん》のための村の規模とそのために必要なあらゆることを検討《けんとう》していた。  全員が一丸《いちがん》になって目標に向かっている。  そんな感じがあった。  ロレンスはといえば、狼《オオカミ》の骨に関する知っている情報|全《すべ》てを徹底《てってい》的に聞かれ、それらについての評価への対応に忙殺《ぼうさつ》されていた。  ジーン商会からデバウ商会につながる流通経路、資金の流れ、取扱《とりあつかい》商品、ケルーベの港町における狼の骨の話の評価、等々。  ホロとコルも加わって、これまでの旅で得てきた知識を全て吐《は》き出した。  万全を期して修道院を討《う》ち取れる。  異様な興奮に包まれていた。  途中《とちゅう》、ホロが状況《じょうきょう》をハスキンズに説明しに行き、戻《もど》ってきた。  夜も更《ふ》け、ロレンスの疲労《ひろう》はかなりのものだったが、「力になれずすまない」というハスキンズからの伝言を聞いたら、寝《ね》ていることなどできなかった。 「本当にわっちらは力をなくしてしまったんじゃな」  ホロが自嘲《じちょう》気味に言ったのは、朝が来て、それぞれがそれぞれの役割をこなしまとめ上げた知恵《ちえ》と知識の結晶《けっしょう》が、その成果を最高度に生かせる立場の者に集められた頃《ころ》になってからだ。  それは悲しそうでもあり、どこかすがすがしそうでもあった。  牙《きば》と爪《つめ》を振《ふ》るうだけでは、この人数が作り上げる勢いはきっと止められない。  そして、人の強さとはまさしくその他《ほか》のどんな動物にも不可能だった巨大《きょだい》な群れの力によっている。  部屋のあちこちでは同盟の人間たちが力|尽《つ》きて寝息《ねいき》を立てていて、それを眺《なが》めるホロの顔はわずかに笑っていた。  もしかしたら、羨《うらや》ましかったのかもしれない。 「くふ。疲《つか》れておると感傷的になっていかんな」  壁際《かべぎわ》にうずくまり、コルはとっくに力尽きている。  ロレンスはホロの肩《かた》に手を回し、頭を抱《かか》えるように抱《だ》き寄せてやる。  窓から見える空は澄《す》み渡《わた》っていて、吸い込まれそうな青空だ。  なにもかもがうまくいく日というのがあるとすれば、きっとこういう天気の日に違《ちが》いない。  ホロもやがて眠《ねむ》りに落ち、ロレンスもいつの間にか眠っていたらしい。  門から大声を上げて走ってくる者があった。  そんな夢を見ているのだと、最初は思った。 「来たぞ! 本館からの人間だ!」  本館は、修道院に相応《ふさわ》しくその先にはなにもない草原に位置している。必然的にその方向からやってきた者は本館からの使いの考だとすぐにわかる。  ロレンスは顔を上げ、それが夢でないのだと気がついた直後、立ち上がって入り口に走った。  沿道に立っている商人たちもいて、彼らの視線はまっすぐに伸《の》びる道の先、果てしない草原に向けて広がる門のほうに向けられていた。 「……まだか?」 「しっ」  似たようなやり取りがあちこちでなされ、水を打ったように静まり返っていた。  そんな中。  どす、どす、と重厚な馬の足音が聞こえてきて、それを待っていたかのように定宿《じょうやど》の奥から幹部の人間たちがぞろぞろと現れた。  ロレンスたちは彼らのために道を開け、しかし、商人らしく持ち前の好奇心《こうきしん》を発して彼らを取り囲む。  馬の足音が近づき、やがて止まった。  定宿の前。  二人の馬子《まご》が引く一頭の大きな馬が、止まった。 「修道院長の使いである」  声を上げたのは、馬上で毛皮の装飾《そうしょく》がついたローブで足のつま先まで隠《かく》した偉丈夫《いじょうふ》だった。  顔は見えないくらいに深いフードを被《かぶ》っている。  だが、問題は彼の格好ではなかった。  その場にいた者全員が奇妙《きみょう》に思ったのは、彼が馬子しか連れていないことと、馬上から居丈高《いたけだか》にそう言ったことだ。  彼らも、ロレンスも、てっきり修道院長を含《ふく》む高位の者たちが血相を変えてやってくると思っていた。 「ご苦労様です。ひとまず中へお入りくださいませ」  ざわつく周りとは別に、一人の身なりのよい商人が長年|培《つちか》った術《すべ》でもって丁寧《ていねい》に言葉を向ける。実際に、奥ではもてなすための準備が進められていたようで、徹夜《てつや》明けの胃袋《いぶくろ》はたまらない良い匂《にお》いが時折|漂《ただよ》ってくる。 「その必要はない」  そして、返ってきたのはそんな言葉。  言葉に詰《つ》まる者たちを前に、馬上の人物は一枚の封書《ふうしょ》を懐《ふところ》から取り出し、鞍《くら》にくくりつけてあった棒の先に取り付け、王の命を達する使いの者のように、同盟の人間に向けたのだ。 「修道院長からの返事だ。神の僕《しもべ》たる我々は、信仰《しんこう》心に欠けた異国の者どもに屈《くっ》することはない。決してだ。我々は王に税を支|払《はら》い、これまでと変わりなく神へ祈《いの》りを捧《ささ》げていく」  戸惑《とまど》う同盟の人間が手紙を受け取るや、馬上の者は棒の先で馬の尻《しり》を叩《たた》くと方向|転換《てんかん》し、馬子《まご》が慌《あわ》てて手綱《たづな》を握《にぎ》りなおす。  別れの挨拶《あいさつ》もない。  ロレンスたちが耳にしたのは、どす、どす、という馬の足音だけ。  目にしたのは、馬の尻だけだ。  呆気《あっけ》に取られ、皆《みな》が沈黙《ちんもく》していた。 「どういうことだ?」  誰《だれ》かが呟《つぶや》いたが、誰が呟いたかなど問題ではない。  それは、その場にいた全員の気持ちの代弁だったのだから。  全員に注視される中、手紙はあの円卓《えんたく》についていた四人に渡《わた》され、彼らはその揚で手紙を開く。  一人が目を通すや、次々と回されていく。  四人が全員目を通し終わった時、そこにあったのは、困惑《こんわく》で蒼白《そうはく》になった四つの顔だった。 「馬鹿《ばか》な……。税を支払ってなお、余力があるだと?」  その一言で、手紙の内容が推《お》し量れるというものだ。  ざわめき、各々《おのおの》がすぐ側《そば》にいる者たちと言葉を交《か》わす。  しかし、それでなにか有益な結論が出るはずもない。  修道院が青息吐息《あおいといき》だったのは、ほぼ間違《まちが》いのない事実なのだから。 「そんなわけはない……なにを考えているのだ? 税を支払えば王の庇護《ひご》が得られるとでも? そんなことがあり得ないのは、他《ほか》ならぬ彼ら自身が知っていることではないか……」  この日の徴税《ちょうぜい》のために、というわけでもなかろうが、修道院を徹底《てってい》的に利用し尽《つ》くそうとしてきた王をここになって信用するとは思えない。  水に油を垂《た》らしたように、困惑《こんわく》が広がっていく。  修道院が狼《オオカミ》の骨を購入《こうにゅう》しておらず、虎《とら》の子《こ》の資金がまだ眠《ねむ》っており、税の支払いのための資金が残っているというところまでは十分にあり得た。  しかし、そこで同盟に強気に出る理由がまったくない。  いざという時のために金を引き出せる相手というものは、いくつ取っておいたって構わないからだ。  ということは、なんらかの妙案《みょうあん》を思いついたのか。はたまた、王になんらかの約束を取りつけていたのか。  そんな中でふと声を上げたのは、遠巻きにその様子を眺《なが》めていた一人の商人だった。 「税を支払うと言っているのなら、それを運ぶはずでしょう? 検《あらた》めてみればよいのではないですか。もしも、税を支|払《はら》えないと確信しているのでしたら」  支払えないという考えが多勢《たぜい》だし、なにより支払ったあとに困るのは目に見えている。  ならば、運び出される箱の中には石ころが詰《つ》まっていると考えるべきだし、賭《か》けに出るのならそちらに賭けるほうがよいように思える。 「それとも、我々がこんなふうに困惑《こんわく》してまごまごしているうちに事故を装《よそお》ってしまおうという修道院|側《がわ》の策略では」  別の商人が言った。 「確かに。だとすれば、この異様な早さの即決《そっけつ》も納得《なっとく》がいく。我々に考える時間を与《あた》えないようにというわけだ」  そうだ、そうだ、と声が上がり始める。  ロレンスは人ごみの向こうに幹部たちの姿を見たが、彼らはそれに同調しているようには見えない。ロレンスも、そうは思えなかった。 「それで、手紙には、いつ支払うとか書いてないのですか」  強気に出て同盟を翻弄《ほんろう》し、困惑しているうちに出し抜《ぬ》くのだとしたら、支払い日時がこれ見よがしに書いてあったとしてもおかしくはない。  そして、実際に、そうだったようだ。  手紙を手にしていた幹部が苦い顔をした理由はロレンスにもわかる。  それを読み上げれば修道院側の思う壺《つぼ》なのではないか。  しかし、ここで広げてしまったのなら、読み上げないわけにはいかなくなる。 「今日の昼。聖ヒウロニウスの伝説に従い、雪原を行くと、ある」 「やはりそうだ! 来るなら来てみろと言わんばかりだ!」 「昼に出るのならば迷っている時間はない。スリエリの丘《おか》を越《こ》えたら辺りは沼《ぬま》だらけです。事故を装うには絶好の場所だ」 「行こう。利益は勇気と共にある!」  多くの者たちが夜を徹しての作業のあとで興奮しているからか、異様な雰囲気《ふんいき》で鬨《とき》の声が上がった。  いつの間にか側《そば》にいたホロがロレンスの服の裾《すそ》を掴《つか》んでくるが、ロレンスにもどうしたらいいかわからない。  幹部たちですら困惑しているが、それは当然のことだ。  ロレンスは同盟外の人間だからもう少し客親的に考えられるし、そうすればもう一つの可能性だって容易に思いつく。  これが、修道院側の罠《わな》かもしれないという可能性だ。  この異様な熱気に促《うなが》されるまま、勇気と利益追求を混同して、箱を運ぶ列を襲《おそ》ったとする。  もしも箱から石が出てくれば一件落着。では逆に、本当に貨幣《かへい》が出てきたらどうするのか。  同盟|側《がわ》は瞬時《しゅんじ》に窮地《きゅうち》に立たされることになる。  修道院側に箱の中身を見せる義務などないわけだから、同盟の人間が検《あらた》めようと思えば押し問答になるだろう。それを同盟側が王への税を奪《うば》おうとした許されざる行為《こうい》、と主張することは難しいことではない。  さもなくば、運んでいた税の支払い用の貨幣《かへい》を同盟側が奪ったと主張したっていい。  水掛《みずか》け論になることは目に見えているから、動かぬ証拠《しょうこ》として血がばら蒔《ま》かれるかもしれないし、戦いの跡《あと》が残っているとなれば、修道院側の主張はより強固になる。  裁定を下す王側としても、金で国政に関与《かんよ》しようとしている同盟を追い払《はら》ういい機会になるから、修道院側に有利な裁定を下すだろう。  だとすれば、同盟は修道院に詰《つ》め寄られたら、言いなりにならざるを得ない。  税の支払いを肩代《かたが》わりさせ、羊毛を高値で購入《こうにゅう》させるだろうか。なんにせよ、金を引き出せるだけ引き出そうとするはずだ。  幹部たちがその可能性を口にできない理由もロレンスにはわかる。  箱の中に貨幣があるのか、それとも石があるのかは、開けてみなければ誰《だれ》にもわからない。  論証不可能な反対意見を唱えることで、同盟の内部が分裂《ぶんれつ》することを恐《おそ》れているのだ。  修道院側が追い詰められて分裂する隙《すき》を窺《うかが》っていたように、今度はこちらがその心配をする場面に追い込まれている。  ただ、幹部たちが手をこまねいているのは、彼らが同じ同盟の人間であるからだ。  目的が同じなために、分裂するのを恐れている。  では、同盟の人間でもなく、真の目的も彼らとは違《ちが》うロレンスならばどうか。  ロレンスには、同盟が罠《わな》に嵌《は》まってもらっては困る理由が存在する。  修道院側が同盟を利用しようとしているのであり、そのために罠を張っているのだとしたら、同盟がそれに嵌まるのは非常に困るのだ。  修道院は弱みを握《にぎ》れば同盟を引き回せると考えているのかもしれないが、同盟は利益を第一に考える商人たちの集団だ。  苦労に見合わない、割に合わないと判断すれば一瞬《いっしゅん》で手を引いてしまう。  同盟にとってこの話がなによりも重要な案件というわけではないのは、黒|塗《ぬ》りの馬車で乗りつけるような連中の姿はとっくに消えてしまっていることからもわかる。  だとすれば、同盟は罠に嵌まったとわかれば後始末もそこそこに逃《に》げてしまう可能性が高い。  そして、二度と戻《もど》ってはこないだろう。  では、そのあと、修道院は誰が守るのだろうか。  一時の平穏《へいおん》は得られるだろう。  しかし、同盟がいなくなれば、あとに残るのは売れなくなり始めた毛を生やすだけの羊ばかりだ。修道院が、この先羊毛の値が戻ると楽観的に考える気持はわからなくもない。下がったものはいつか戻《もど》る、とは誰《だれ》しも思うことだし、それがこれまでずっとよく売れてきたものならばなおさらだ。  修道院は、遠からず、破滅《はめつ》するだろう。  そのあとに待っているのは、王による土地の接収と、修道院の解体。土地は分割され、貴族の人気取りのために分配され、その多寡《たか》を巡《めぐ》って争いが起こるのは目に見えている。  戦乱で土地を追われるのはいつだってそこに住む者たちだとすれば、それは他《ほか》ならぬハスキンズたちだ。  側《そぼ》で、ホロがコルと同じような不安げな顔をしていた。  牙《きば》と爪《つめ》で全《すべ》てをなぎ倒《たお》すことはできる。それでも、この流れを変えるには、そのカはあまりにも異質すぎた。  ロレンスには、早速《さっそく》隊を組んで雪原に繰《く》り出そうとする者たちに向かって言葉を向ける理由が、存在した。 「修道院の罠《わな》かもしれません」  誰より緊張《きんちょう》した顔になったのは、その可能性に気がつきつつ、口をつぐんでいた者たち。 「行っては相手の思う壺《つぼ》です」  二言目を続けると、動きを止めた商人たちが、ロレンスを凝視《ぎょうし》した。 「なぜだ?」 「もしも荷を検《あらた》めて、本当に貨幣《かへい》が出てきた時、同盟のためになりません」 「かもしれない。だが、荷を開けずに我々はまんまとしてやられる可能性だってある。今まで散々手を尽《つ》くし、無駄《むだ》に終わってきた。それが、ここにきて、ついにだ。ついに好機がやってきた。神の思《おぼ》し召《め》し以外になにがある? これを逃《のが》せば、我々のこれまでの全てが無駄になってしまう!」  わあ、と歓声《かんせい》が上がる。  誰が腰抜《こしぬ》けで、誰が勇者かは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だ。  賢者《けんじゃ》が勇者であった世の中など、滅多《めった》にお目にかかったことがない。 「それにだ。俺たちがそれでまんまと遵中の罠に嵌《は》まったとする。そうしたら俺たちは逃《に》げればいい。元々土地が買い取れなければ店閉まいして逃げるしかなかったんだ。結果は同じだ。ならば利益を掴《つか》みに行かなくてどうするんだ!」 「そうだ!」  詰《つ》め寄られ、ロレンスはホロとコルもろともに壁際《かべぎわ》に押しやられてしまう。  殺気立った連中の向こうに、手をこまねいている幹部たちの顔が見え隠《かく》れする。 「待てよ……お前、そういえば、同盟の人間ではないよな」  胃の腑《ふ》が冷えたのは、寒いからではない。  それは、旅に生きる者たちが、狼《オオカミ》の遠吠《とおぼ》えよりも恐《おそ》れる言葉だからだ。  視線を巡《めぐ》らせる。  全《すべ》てが、自分とは違《ちが》う権威《けんい》に属する人間だ。 「俺たちを分断して、時間を稼《かせ》こうって腹なのか?」  密偵《みってい》の疑いをかけられたら、それを晴らすのはもはや不可能だ。  彼らがロレンスの言い分に納得《なっとく》するとしたら、それは、自分は密偵です、と白状した時しかないからだ。 「おい……どうなんだ?」  頬《ほお》を汗《あせ》が伝い、ロレンスは視線を泳がせてしまう。  腰《こし》にはナイフがあるが、この人数相手には意味があるとは思えない。むしろ、自分の身の潔白を証明する手立てをなくすようなものだ。  どうすればいい。  必死に頭を巡らせる。  ハスキンズはロレンスに頼《たの》んだのだ。  人の世の仕組みをいじくるには自分の蹄《ひづめ》はでかすぎるからと。  それが今、ロレンスはあらぬ方向に回り始めた歯車のせいで、彼らに押し潰《つぶ》されようとしていた。  包囲の輪が狭《せば》まり、もはや逃《に》げる場所はない。  なにか、なにか案はないのか。  ロレンスはホロとコルをかばいながら、必死に頭を巡らせた。  詭弁《きべん》でもいい、屁《へ》理屈《りくつ》でもいい。  この状況《じょうきょう》を覆《くつがえ》し、同盟が最後の手段に出るのを止めなければ修道院の破滅《はめつ》はほぼ避《さ》けられないものとなる。  ハスキンズはせっかく築いた第二の故郷を失い、ホロはこの世界に自分たちの居場所はないのだと改めて思い知らされる。  そんなことを看過できるわけがない。  誰《だれ》かが手を伸《の》ばせば、それが合図になってロレンスたちに襲《おそ》いかかる。  もう、無理だ。  ホロが諦《あきら》めたように胸元《むなもと》に手をやった。  はるか昔に神と呼ばれた者たちの偉大《いだい》な力は、こんな卑俗《ひぞく》な場面でしか使い道がなくなってしまったのか。  ロレンスは、ホロにそんな辛《つら》い思いをさせなければならない情けなさで、叫《さけ》び出したくなる。  ハスキンズも、きっとこの土地をあとにするだろう。  羊を運れて。無数の羊を連れて。 「え?」  大地を行く羊の群れの姿が視界|一杯《いっぱい》に映ったのは、全《すべ》てが雪崩《なだれ》を打って襲《おそ》いかかる、その、瞬間《しゅんかん》だった。 「待ってください!」  ロレンスは、叫《さけ》んでいた。 「待ってください! 荷を検《あらた》める方法があるんです!」  暴発寸前のその一瞬の静けさ。  そこに、間一髪《かんいっぱつ》で楔《くさび》が打ち込まれた。 「なんだって?」  暴徒化しかけた連中を宥《なだ》めるのはこの瞬間しかない。そう判断したらしい幹部の一人が、率先《そっせん》して尋《たず》ねた。 「待て! 話を聞こう!」  大袈裟《おおげさ》ではなく、流血の惨事《さんじ》が目前だった。  ロレンスは大きく息を吸って、吐《は》いて、もう一度吸って、言った。 「罠《わな》は、狙《ねら》った獲物《えもの》がかからなければ、まったくの無意味です」  幹部の別の一人が、聞き返す。 「どういう意味かね」 「同盟の方たちを狙っているのなら……別のものがかかることで、罠を台無しにできます」 「ふむ……それは? 我々の代わりに、君が、ということか?」  その考えでは無理だ。  ロレンスが密偵《みってい》ではないと証明できないように、同盟の人間とつながっていないと修道院|側《がわ》に証明することはできない。  当然、ロレンスは首を横に振《ふ》った。 「では、誰《だれ》が罠の待つ荷を検める?」  ロレンスは自分の頭の中の考えに完全な自信を持つことができない。  しかし、ロレンスに勇気と落ち着きが戻《もど》ったのは、他《ほか》ならのホロが、その手をしっかりと握《にぎ》ってきたからだ。  自分のためだけになら、こんな危険は冒《おか》せない。 「羊ですよ」  ロレンスの短い言葉のあと、全ての動きが停止した。  そして。 「……その手があったのか!」  歯車は逆回転を始めた。      言うまでもなく、羊は草食でおとなしい動物の代表例だ。  しかし、以前に羊飼いの娘《むすめ》ノーラが言っていたように、羊には加減を知らないところがある。  黄金の羊たるハスキンズだって、こうと決めたらどんな禁忌《きんき》すらも恐《おそ》れずに、人の世に紛《まぎ》れるためには同族の羊肉すら平気で口にする覚悟《かくご》があった。  彼らは羊飼いに導かれれば、たとえ行く先が崖《がけ》であってもその足を止めはしない。  そんな羊の群れに巻き込まれ、大|怪我《けが》をした者たちの話は少なくない。  修道院|側《がわ》が罠《わな》を張り、場合によっては荷を検《あらた》めに来た同盟側の人間を血祭りに上げ、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられるだけ着せようと企《たくら》んでいたところで、怒涛《どとう》の羊の前では傭兵《ようへい》の集団ですら無力になる。  それに、実際にロレンスたちはこの修道院の分館で飼われている羊たちの数と、羊飼いの腕《うで》の良さを目《ま》の当《あ》たりにしている。  ロレンスの案に反対する者は、いなかった。 「そういうわけなのですが」  囲炉裏《いろり》の側《そば》に座っているハスキンズに状況《じょうきょう》と計画を話し終わると、苔《こけ》むした岩のようにじっとしていた体がむくりと動いた。 「私が羊を使い……人を襲《おそ》うのか」 「単純に言えば」  部屋の入り口にはホロが所在なげに立っている。  コルは同盟の定宿《じょうやど》に残り、形としては人質の格好だ。 「ハスキンズさんのお力を、借りられませんか」  羊を用いた計画にこれ以上の適役はいない。  問題があるとすれば、黄金の羊としての誇《ほこ》り。はるか昔には神と呼ばれていた存在としての誇り。それらが邪魔《じゃま》をすることだ。  自ら考えて、陰《いん》に陽《よう》に立ち振《ふ》る舞《ま》うのではなくて、もはや古い時代の力ではどうにもならない人の世の仕組みに従って、その力を使役される。  陰《かげ》の実力者ですらなく、完全に駒《こま》の一つになり下がる。  頭でわかっているのと、実際にその現実に直面するのとでは重さが違《ちが》う。  ロレンスですら、自分の名前では見向きもされなかったのに組合の名前を出した途端《とたん》に態度を豹変《ひょうへん》させる相手を初めて見たときは、辛《つら》かった。  自分に価値などなく、世ではその他大勢なのだと実感した瞬間《しゅんかん》だ。  ハスキンズは、薪《まき》を一本|囲炉裏《いろり》の中に放《ほう》り込み、火の粉が派手に舞《ま》った。 「はっは……我々は、ついにそこまできたのだな」  堕《お》ちる様を楽しむようなそんな台詞《せりふ》は、いっそすがすがしかった。  人の姿に身をやつし、越《こ》えてはならない一線を越えてきてもなお、まだそこには矜持《きょうじ》があった。  その最後の砦《とりで》が瓦解《がかい》する瞬間《しゅんかん》は、痛々しくもあり、同時に美しくもあった。  しかし、ハスキンズのその言葉に口を挟《はさ》んだのは入り口に寄りかかっていたホロだ。 「わっちの連れに頼《たの》み事《ごと》をしたのはどこのどいつじゃ」  ハスキンズは太い首を回し、じろりとホロを見て、唇《くちびる》をつり上げる。 「ホロ」  ロレンスが言うと、視線をホロからロレンスに向けたハスキンズの台詞《せりふ》は、振《ふ》るっていた。 「構わないよ。なにせ凋落《ちょうらく》の美は、男にしかわかるまい?」  かつては野を行く野生の羊たちの群れを率い、今では仲間たちのつかの間の憩《いこ》いの場所を守ろうとするハスキンズ。  責任と目的意識は自然と鎧《よろい》のごとくに体を覆《おお》い、その者の本音を覆い隠《かく》していく。  辛いことや悲しいこと、嫌《いや》なことや納得《なっとく》できないこと。  それら全《すべ》てを飲み込んで、ただひたすらに前進する。  ハスキンズは羊の群れそのものだった。  そんなハスキンズの一言は、この神学者めいた羊飼いがその実|酒落《しゃれ》のわかる血の通った一個の存在なのだとわからしめる。  馬鹿《ばか》にされたと思ったのか、なにか言いかけたホロを遮《さえぎ》るのには十分だ。  ロレンスは、立ち上がろうとするハスキンズに手を貸して、こう言っていた。 「やってくれるんですね?」  立ち上がったハスキンズの身長は、ロレンスよりも幾分《いくぶん》低い。  しかし、そのがっしりとした体躯《たいく》から放たれる威圧《いあつ》感たるや、相当のものがある。  銀色の縮《ちぢ》れた髪《かみ》や髭《ひげ》の一本一本が、雷《かみなり》を帯びたかのようにちりちりと揺《ゆ》れている。  ロレンスはまばたきをするほんの一瞬に、ハスキンズの真の姿を垣間見《かいまみ》た。 「当然だ。私がやらなくて誰《だれ》がやる」  羊飼いの杖《つえ》を握《にぎ》るその手が、ぎゅっといい音を立てた。 「本当に感謝する。私はようやくこの新たな世に溶《と》け込めた気がする」  ハスキンズに言われたら、ロレンスですら苦笑いせざるを得ない。  そして、ハスキンズはホロを見た。 「我々は昔ほど自由に振る舞《ま》えなくなった。だが」  首を回し、自分の掌《てのひら》を見て、最後に火が燃え移り始めた薪《まき》に視線を向けた。 「だが、それでもまだ居場所はあり、こうして役目もある。まだ見ぬ故郷を前にしても、泣きべそをかくなよ? この若者を困らせてはならない」  目を見開いて、耳がフードの上からでもわかるくらいにいきり立つ。  きっと尻尾《しっぽ》はパンパンに膨《ふく》らんでいるだろうが、それでも、ハスキンズが部屋を出る際に、ホロは小さく呟《つぶや》いていた。 「羊|風情《ふぜい》が」  ホロとハスキンズにしかわかり合えないこともあるだろう。互《たが》いに視線を交《か》わしたのは一瞬《いっしゅん》だったようだが、そこにはなにかしら通じ合うものが見て取れた。  ハスキンズを連れて定宿《じょうやど》に向かい、ホロが少し遅《おく》れてついてくる。  この分館に来て長い者たちは、ハスキンズならばと納得《なっとく》している様子だった。  段取りはとんとん拍子《びょうし》で進んでいき、あっという間に羊の群れが仕立て上げられた。  分館に残る修道士たちは、こんな時に羊を連れ出すなど何事だろうかと首を捻《ひね》っている。  畜舎《ちくしゃ》から解放された大量の羊の足音が、地鳴りのように響《ひび》き渡《わた》る。  その巨大《きょだい》な群れの前に一人|杖《つえ》だけを持ち立ちはだかるハスキンズの後ろ姿を、ロレンスはホロと手をつなぎながら、見つめていたのだった。   [#改ページ]  地平線の向こうに、雪を巻き上げながら馬の一群がまた消えていった。  向かう先は修道院の本館で、そこで繰り広げられている最後の争いを見物しに行ったのだろう。  先頭を切って駆《か》けていった彼らの懐《ふところ》には、一晩かけて作った強力な武器が抱《いだ》かれていた。  その武器をなによりも鋭《するど》く研《と》いだのは、ハスキンズがもたらした一つの重要な事実だった。  大した手間も時間も必要ないだろう。  踏《ふ》み固められた雪の道を歩きながら、追い詰《つ》められる修道院の院長たちのことを思うと少し気の毒な気がしないでもない。  彼らも決断としては見事だったし、残されている手段では最高の対応だったはずだ。  修道院の罠《わな》かもしれないという可能性は、ロレンスが言わなければ必ず幹部の誰《だれ》かが言ったはずだ。  そうすれば同盟内部は分裂《ぶんれつ》し、まともに機能しなくなる。  行く、行かないの騒《さわ》ぎの果てに荷を検《あらた》めに来る連中がいたとしても、そう大した数ではない。  そう踏んでいたに違《ちが》いない。  ピアスキーは地平線に消えていった最初の馬の一群に乗っていたから、今頃《いまごろ》は豪奢《ごうしゃ》な修道院の本館で修道院|側《がわ》に提案すべき計画の内容を復唱しているかもしれない。  金箱の中身は石ころだった。  となれば、修道院には本来支|払《はら》わなければならないはずの現金か、さもなくば表には出せない狼《オオカミ》の骨がある可能性が高い。どちらにせよ、王に密告されれば無事ではすまない隠《かく》し事《ごと》になる。  修道院|側《がわ》も馬鹿《ばか》ではないだろうから、引《ひ》き際《ぎわ》は心得ているはずだ。  万策|尽《つ》きたとなれば、あとは上手な負け方を模索《もさく》して、過去そうして繁栄《はんえい》してきたようにしぶとく生き残るだろう。  ロレンスは細く、長く息を吸って、吐《は》く。雪が降り積もった革原は時間が止まった海のようにも見え、抜《ぬ》けるような青空の下を一人で歩くのも悪くはない。  ロレンスは一人だった。  ホロが外套《がいとう》を引っ掴《つか》み、周りに有無《うむ》を言わせず最初の一群の馬に飛び乗ったのは予想どおり。  だからロレンスはコルの背中を押して、ピアスキーに二人を頼《たの》んでおいた。  修道院側が追い詰《つ》められれば、どちらにせよ宝物《ほうもつ》庫を開放しなければならないはずだから、今頃《いまごろ》ホロの尻尾《しっぽ》は大変なことになっているかもしれない。  ロレンスが歩く無数の羊の蹄《ひづめ》でならされた道は、石畳《いしだたみ》の道のようにとても歩きやすく、大した苦労もなくスリエリの丘《おか》と呼ばれる場所にたどり着いた。  そこからは、丘を回避《かいひ》するように作られていた道が北から東に抜ける様を、ぐるりと見通すことができた。  あるいはこうもいえる。  修道院側の目論見《もくろみ》が外れた様が、これ以上ないほどによく見えた、と。 「剣《けん》も弓も本当に役に立たないんだな」  所々赤いものが見えるのは、混乱した者が剣や弓で応戦した跡《あと》だ。  しかし、ホロやハスキンズが人を前にした時にそうであるように、彼らの武器は多勢《たぜい》の羊の前に無力だった。  大量の羊に囲まれ、踏《ふ》みつけられ、全員気を失って橇《そり》の上に転がっていた。  同盟の人間が箱の中身を暴《あば》きに来たら、返《かえ》り討《う》ちにして濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられるだけ着せようとしていたのだろう。  でなければ、いくら金箱を運んでいるにしても取り囲んでいる運中の装備が厳重すぎた。  人対人では相当な被害《ひがい》が出たに違《ちが》いない。  ロレンスがそんな様子を眺《なが》めていると、道で羊たちをまとめていたハスキンズがこちらに気がついて歩いてきた。 「やあ」  なんとも暢気《のんき》な挨拶《あいさつ》だった。 「ご無事でしたね」 「は、は……そりゃあ、無事だ。よもや、私のこの手で、決着をつけさせてもらえるとは思わなかったからな」 「決定的な一打でしたよ」 「そうか……。我らは人の上に立っていた。人は羊の上に立っていた。だが、世は流転《るてん》する。全《すべ》てがひっくり返るのもまた道理だ」  修道院|側《がわ》も、まさか羊の群れを使われるとは夢にも思わなかったに違《ちが》いない。  ロレンスだって、ハスキンズがいなければこんな作戦は思いつかなかった。 「ところで、若き狼《オオカミ》は?」 「ホロですか? 多分、今頃《いまごろ》は修道院の宝物《ほうもつ》庫でしょう」 「は、は。そうか……」  笑い、足元を見るハスキンズの様子に、ロレンスはこう尋《たず》ねていた。 「どうかされましたか?」 「ん? ああ……いや、なに……私はあの狼を子供|扱《あつか》いしていたがな、私のほうがどうやら子供じみていたらしい」  目を細めて遠くを見るハスキンズの横顔は、髭《ひげ》の奥で楽しそうに笑っていた。 「困難こそが仲間を作る。私は、風変わりな群れの中に自分がいたのだと錯覚《さっかく》した」 「……それは」 「いや、みなまで言ってくれるな。狼と羊は、やはり狼と羊。それが自然なのだからな」  長い、ため息に似たものをハスキンズは吐《は》いて、息を吸うと鐘《かね》を鳴らした。  牧羊犬が走り、たちまちのうちにあらぬ方向に歩き出そうとしていた羊を群れに戻《もど》す。  ハスキンズは、その様子をしばらく眺《なが》めてから、ロレンスのほうを振《ふ》り向いた。 「あなたは、その自然の理《ことわり》をどこまで蹴《け》るつもりだ?」  ロレンスが横目で見れば、ハスキンズは目を細めて牧羊犬を眺めている。  すぐに答えを返さず、ゆっくりと、自分の頭を掻《か》いた。 「私は商人ですから。利益が出なくなるまでですかね」  即物《そくぶつ》的な答えは、いつだって冗談《じょうだん》めいて聞こえるもの。  しばらくの沈黙《ちんもく》ののち、ハスキンズは笑い出した。 「愚問《ぐもん》だった。他《ほか》ならぬ私も、羊のくせにあの牧羊犬が思いのほか気に入っていてね」 「なぜ、そんな質問を?」  ハスキンズが歯を剥《む》いて笑顔《えがお》をわざとらしく濃《こ》くすると、その横顔は歴戦の老兵そのものだった。 「どちらに伝えるか迷っていたのだ」 「……なにを、ですか?」 「ここは私の仲間が集まる場所だ。自然と情報も集まってくる」  ハスキンズは羊であり、彼らの仲間は今もなおあちこちに散らばっているという。  だとすれば、彼らがここに里帰りをするたびに、広範《こうはん》な地域の情報が集まるのだろう。  まっすぐにロレンスの目を見るハスキンズのそれは、数多《あまた》の経験を経てきた者だけが持てる、独特の深みがあった。 「狼《オオカミ》から聞いた。あなたたちは古《いにしえ》の土地、ヨイツを目指しているのだろう?」 「え、ええ」 「私はその地名を耳にしたことがある。それもごく最近に」  ロレンスはすぐに食いつかず、先を促《うをが》すようにハスキンズを見つめ返す。  ホロが故郷を探していると知っているのなら、その重要性がわからないハスキンズではない。  だというのにホロに話をするのをためらったとなれば、それにはそれなりの理由が考えられる。 「私の仲間がもたらす不穏《ふおん》な話の中に、出てきたことがあった」  ロレンスの動悸《どうき》は自然と速くなってくる。  思い当たる節が、ないわけではないからだ。 「この国の王の徴税《ちょうぜい》や、あるいはブロンデル修道院が購入《こうにゅう》したとあなたたちが推測《すいそく》していた狼の骨。それらも全《すべ》てその話につながるのかもしれない。というのは——」  ハスキンズが語ると、強く風が吹《ふ》いた。積もったばかりの雪が舞《ま》い上げられ、一瞬《いっしゅん》視界を奪《うば》われた。  その瞬間にハスキンズがどんな表情をしていたのか、結局ロレンスはわからずじまいだった。  ただ、ある程度の想像はつく。  話し終えたハスキンズは、羊の群れをまとめるために丘《おか》を下り始め、ふと足を止めると振《ふ》り向いてこう言ったのだから。 「幸運を」  静かで落ち着いた表情のまま、ハスキンズはしばし眩《まぶ》しそうにこちらを見つめていた。  その目がひょいとあらぬほうに向けられ、遅《おく》れて笑《え》みの形に顔を歪《ゆが》めた。 「そして、感謝を」  再び歩き出す。  老練な羊飼いは、もうここにロレンスがいるなどとはまったく思っていないように、羊たちの相手を始めていた。  ロレンスはハスキンズの背中を見送って、大きく深呼吸をする。  くるりと踵《きびす》を返し、ロレンスも歩き出した。  幸運を。  その言葉は、旅立つ者に向ける別れの挨拶《あいさつ》だ。  ハスキンズの言葉は、ロレンスを旅立たせるのに十分すぎるものであり、また彼の語った話はそんなことがあってもおかしくはない、と考えていたことでもあった。  こんな世では時折あることであり、往々にして遠くの国の出来事であるそれらは、いつだって酒の肴《さかな》以上のものになりはしない。  自分の大事な存在が、そこに巻き込まれるだなんて、どうして考えられるだろう。  太陽の光が反射して眩《まぶ》しい雪上では、どうしても目を細めがちになる。  とはいうものの、それが殊更《ことさら》細まったのには理由がある。  羊たちの作った道から少し外れて、雪の中を分館に向かって歩く二人組みがいたからだ。 「首尾は?」  ロレンスが声をかけると、雪の中を歩きにくそうに進んでいた二人組みが立ち止まり、再び進み出した。歩きやすいこちらに来ないのは、子供のように雪を蹴《け》り上げるようにして歩きたいからかもしれない。  ロレンスのほうから近づいていくと、ホロの頬《ほお》もコルの頬も寒さで真っ赤になっていた。 「どうだった?」  ざふ、ざふ、と雪を蹴っ飛ばして歩くホロに、そのあとをついていくコル。  ホロは、しばし間をあけてから、こう答えた。 「どっちじゃと思う?」 「偽物《にせもの》」  即座《そくざ》に答えたからだろうか、ホロは少し不機嫌《ふきげん》そうな目を向けてくる。 「どうしてそう思うのかや」 「お前に泣かれると困るから」  ホロは唇《くちびる》の端《はし》で笑って、わざとらしく肩《かた》をすくめると一際《ひときわ》大きく足を振り上げた。 「別に、どちらであっても取り乱しなどせん。わっちゃあ賢狼《けんろう》ホロじゃからな」  しばらく雪を蹴り上げて満足したのか、それともローブの裾《すそ》がびしょ濡《ぬ》れになって重くなってきたのか、ホロはこちら側《がわ》の羊が踏《ふ》み固めた道にやってきた。  そして、しゃがんでローブの裾の雪を払《はら》おうとしたので、ロレンスはホロのフードをひょいとめくって、あらわになったそのうなじに手をかけていた。 「服。裏表が逆」  ローブの下に着ている服のこと。  ロレンスはため息をついてから、側《そば》にいるコルの手を取った。  その手は氷のように冷たくなっていて、かじかんでいるのがよくわかった。 「偽物だったんだろ?」  服が裏表逆なのは、修道院の本館から戻《もど》ってくる時に狼の姿に戻って走ってきたからだろう。  悲しければホロは素直《すなお》に耳と尻尾《しっぽ》に出る。  狼の姿に戻って、こんな寒い中コルを背中に乗せて疾走《しっそう》してきたのは、不機嫌《ふきげん》だったからだ。  心配して損をした。  そんな、肩透《かたす》かしを食らって。 「偽物《にせもの》じゃった」  空を見てホロは言う。  いくら素直《すなお》でおとなしいコルだからといって、凍傷《とうしょう》になりかねない目に遭《あ》わされながら少しも怒《おこ》っていないのはおかしい。  きっと、偽物だとわかるまでは、ホロがそれに見合うほど怯《おび》えていたのだろう。 「多分、鹿《シカ》の骨じゃ。後ろ足の太いところ。ずっと土の中にでも埋《う》められておったんじゃろうな」 「箱を開けるその瞬間《しゅんかん》、側《そば》にいて見ていたかったな」  ロレンスが言うとコルは笑い、足をホロに踏《ふ》まれた。  平和な光景だ。  それこそ、ずっと繰《く》り返していたいくらいに。 「なんじゃぬしは、にやにやしおって気持ち悪い」 「いや、なんでもない。それよりさっさと戻《もど》ろう。囲炉裏《いろり》に薪《まき》をくべて火を焚《た》かないと」  ホロは訝《いぶか》しげにしていたが、ロレンスが歩き出すと改めて問いかけてはこなかった。  代わりにコルの手を取って、大きな声でこう叫《さけ》ぶ。 「鍋《なべ》には肉と塩をたっぷり入れての!」  ロレンスはその現金さに笑いながらも、実際のところその視線の先にはなにも見ていなかった。  ハスキンズの語ったあの話。  それが本当なのだとしたら、ロレンスは恐《おそ》ろしいものの一端《いったん》を垣間見《かいまみ》ているのだから。  そして、それをホロではなくロレンスに話したという事実。  ハスキンズの守るべき場所はここだ。  では、ロレンスは?  脳裏には、自らの、そして仲間の故郷を守るために羊の群れの前で杖《つえ》を構えていたハスキンズの後ろ姿があった。  空はどこまでも青く広がっている。  ロレンスは、二人の大事な仲間の手を取って、宿舎に戻ったのだった。     [#地付き]終わり [#改ページ]    あとがき        お久しぶりです。支倉凍砂《はせくらいずな》です。なんと今回で十巻目です。  一巻の発売が二〇〇六年の二月だったので、丸三年になります。長いような短かったような気がしますが、やっぱり短いです。あっという間でした。  ただ、おもむろに第一巻を手に取って開いてみれば、赤を入れて直したい文章が山のように見つかるので、自分も多少は成長しているのかもしれません。  もう三年|経《た》った時にどうなっているかは、まったくわからないのですが……。    そういえば、三年経っても変わっていないといえば、最近またオンラインゲームに嵌《は》まってしまいました。新しいやつではなく、昔やっていたやつを再開です。しばらく完全にやらなくなっていたのですが、ちょうど今回の十巻目が書き終わったあたりに、時間ができたのでちょっとやったのが運の尽《つ》き。心|穏《おだ》やかに過ごしていた日々はもはやなく、今は一分一秒を惜《お》しんでログインする毎日です。(ちなみにこのあとがきは、ログインしようとしたらゲームサーバーがメンテ中だったため、書き始めました)  古くから所属しているゲーム内のチームでも、引退したメンバーが何人か復帰していたり、何年ぶりかにうろつくゲーム内の町では大昔有名だったプレイヤーを見かけたりと、なんだか昔に戻《もど》ったような気がします。  数日前に、同じゲームをやっていた別の知人たちと食事をする機会があったのですが、就職等を機に引退していたはずなのに、なぜか彼らも最近になってまた復帰していました。  ただ、確実に時は進んでいるのだなあと窺《うかが》わせるのは、昔は深夜の十二時を過ぎてからがゲーム内で一番盛り上がる時間だったのに、今やその時間になると途端《とたん》に人が減ってしまいます。プレイヤーの多くが学生から社会人になったからだと思います。オフ会(オンライン上の知人たちが現実に会うための会)なんかも、会場のお店選びが、学生向けの飲み屋から、社会人向けの店になったりしていて、ちょっと面白《おもしろ》いです。  もう三年経ったらどうなっているのか、今から楽しみだったりします。    と、そんなことを書いていたらスペースが埋《う》まってくれたので今回はこのへんで。  また次巻お会いしましょう。 [#地付き]支倉凍砂 [#改ページ]   [#改ページ]    狼《おおかみ》と香辛料《こうしんりょう》�    支倉《はせくら》凍砂《いすな》 [#ここから10字下げ] 発 行 二〇〇九年の二月十日 初版発行 発行者 高野 潔 発行所 株式会社アスキー・メディアワークス 発行元 株式会社角川グループパブリッシング [#ここで字下げ終わり]