狼と香辛料� 支倉凍砂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)心|優《やさ》しい [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き]終わり ------------------------------------------------------- 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] [#改ページ]  狼《おおかみ》と香辛料《こうしんりょう》�  ホロが口にした、旅の終わり——。ロレンスはそれを説き伏せ、ヨイツまで共に旅を続けることを決める。  二人は、エーブを追いかけてレノスの港から船で川を下る。途中、船が立ち寄った関所では、厄介ごとに巻き込まれている様子の少年の姿があった。ロレンスは、図らずもその少年・コルを助けることになる。そして、訳ありらしいコルの故郷の話や、船乗りたちの噂話を聞くうちに、二人はヨイツに関する重要な言葉を耳にしてしまい——。  絶好調の新感覚ファンタジー、シリーズ初の、船での旅の物語。狼神ホロ、水を怖がる!? [#改ページ]      支倉《はせくら》凍砂《いすな》  1982年12月27日生まれ。第12回電撃小説大賞<銀賞>受賞。毎回プロットから外れた話の流れになってしまうのは、ブラウン運動における微粒子の動きがランダムウォークなので仕方がないと強硬に言い訳したい今日この頃。 イラスト:文倉《あやくら》十《じゅう》  1981年生まれ 京都府出身のAB型。現在東京にて、フリーで細々と活動中。今住んでいるマンション前の路地で猫がよく集会を開いています。最大時は8匹くらい居るのですが、いつも大抵3、4匹程しか来てません。流石猫、集まり悪いなあ。 [#改ページ]  Contents  序幕     11  第一幕    33  第二幕    83  第三幕    123  第四幕    165  第五幕    229  終幕     281 [#改ページ]  序幕  ホロの歩幅《ほはば》は大きかった。  踵《かかと》で石畳《いしだたみ》に穴を開けようかというくらいに大股《おおまた》で歩き、いつもはロレンスが足を緩《ゆる》めてホロの速度に合わせているがこの時はまったくの逆だった。  町は依然《いぜん》として混乱に満ちていて、横切る港では人の波が荒々《あらあら》しく波音を立てている。ロレンスはその波打《なみう》ち際《ぎわ》をホロに手を引かれてどうにか追いついていく。  見ようによっては、この混乱の中で暴徒に襲《おそ》われた哀《あわ》れな旅商人を保護しようという、心|優《やさ》しい修道女に手を引かれているように見えなくもないかもしれない。  だが、実際のところは、優しくもなんともない。  なにせ、ロレンスは顔の右半分を大きく腫《は》れ上がらせているのに、つい先ほどホロにそこを再び殴《なぐ》られたばかりなのだから 「ほれ、さっさと歩かぬか!」  今のホロには優しさのかけらも見当たらない。ぐいぐい手を引っ張り、少しでも遅《おく》れるとこの怒号《どごう》だ。その顔は食事の最後に食べようと思っていた蜂蜜《はちみつ》のたっぷりかかった木苺《キイチゴ》の粉菓子《こながし》を床《ゆか》に落としてしまったかのようだ。  ただ、ロレンスも口を挟《はさ》みにくい。  横取りされた、という顔ではないところが、どうにもホロの行動を諫《いさ》めにくくしていた。  ホロが自分自身に腹を立てていることは、ロレンスにもよくわかっていたのだ。  とはいうものの、ロレンスはこのレノスの町で共に毛皮の売買を企《たくら》んだエーブと、それこそ命を張ったやり取りをして怪我《けが》まで負った。挙句《あげく》に、直後にはホロとの目もくらむようなやり取りをした。  さすがに少し、休憩《きゅうけい》したい。 「ちょっと、少し、少しでいい、ゆっくり歩いてくれないか」  大流血の惨事《さんじ》、というわけではなかったので貧血ではないにしても、鉈《なた》やナイフが飛び交《か》うやり取りをしたあとの体のだるさは尋常《じんじょう》ではない。足は鉛《なまり》をつけたように重く、両|腕《うで》はいつの間にか木で作られた模型と取り替《か》えられたような気さえする。  それに、急いでも無駄《むだ》なのだ。  ロレンスはそう思ってホロに言葉をかけたのだが、振《ふ》り向いたホロの目は煮《に》え立つ油のようにぎらついていた。 「歩く? 歩くじゃと? ならばぬしはわっちを迎《むか》えに来た時も歩いてきたのかや!」  レノスの町は混乱の極《きわ》みにある。ホロがそう怒鳴《どな》ったところで、振り返る者は誰《だれ》もいなかった。 「い、いや。走った。走ったよ」  ならばこのくらいなんでもないはずだと、ホロは口にすら出さず前に向きなおり、大股《おおまた》で歩いていく。ホロはロレンスの手をしっかりと握《にぎ》っているので、ホロが前に進むのであればロレンスはそのあとについていかないとならない。  デリンク商会にホロを迎《むか》えに行き、無理やりに説き伏《ふ》せ、この旅を終わろうと告げたホロの考えを否定し、再び二人で商会の扉《とびら》を開けたあの時のままなのだ。  ホロの細い指が一本一本ロレンスの指の間に入り、それがしっかりと絡《から》まっている。手を握るのではなく、手をつなぐという字面《じづら》そのもの。  だから、ロレンスはそれに引っ張られるほかない。ホロが前に進めばロレンスも前に進まざるを得ない。立ち止まれば引っ張られて指が痛く、その痛みをなくすにはホロの側《そば》に寄るほかないのだから。  そんな無理やりの行軍で、あっという間にアロルドの宿に戻《もど》ってくる。 「邪魔《じゃま》じゃ!」  宿の前では町の混乱を前に情報|交換《こうかん》を繰《く》り返している商人たちがたむろしていて、ホロはそれらを一喝《いっかつ》して中に入っていく。  怒鳴《どな》られることには慣れっこの商人たちであってもつい道を譲《ゆず》ってしまうような剣幕《けんまく》だ。  商人たちはホロを見送って、ついでその後ろにくっついていくロレンスの姿をまじまじと見る。  次にこの町に行商に来た時は、きっと何かしら今日のことを言われるだろうなと思うと、少しだけ気が重かった。 「爺《じじい》はどこにおる!」  宿に入ると、アロルドがいつもそこに座り、炭火に当たりながら温めたぶどう酒を飲んでいた場所には旅の職人らしき者が二人、座って話をしていた。 「じ、じじい?」 「髭《ひげ》の爺《じじい》じゃ! この宿の主はどこにおる!」  見た目の年齢《ねんれい》ならば、ホロの三倍はありそうかという中年の職人二人は、あまりのホロの剣幕《けんまく》に顔を見合わせてから、気遣《きづか》うように口を開いた。 「い、いや、俺たちは留守を頼《たの》まれているんだが、どこに行ったかまでは……」 「うぅぅぅぅ……」  唸《うな》るホロに、ロレンスすらたじろいでしまうが、椅子《いす》に座る職人二人はほとんどのけぞっている。  もしかしたら牙《きば》が覗《のぞ》いているのかもしれないが、怒《おこ》った女の犬歯は異様に目につくものだ。  なにか言われたら、そう答えようとロレンスは考えていた。 「あの狐《キツネ》と共にかや……わっちらを虚仮《こけ》にした報《むく》いを受けずにすむとでも……ぬしよ、行くぞ!」  ホロは叫《さけ》び、再びロレンスの手を引いて宿の奥、そして階段を上《のぼ》っていく。  職人二人はずっと視線を向けてくる。  きっと、ロレンスたちの姿が見えなくなったら共に顔を見合わせることだろう。その様がありありと想像できて、なんとなく面白《おもしろ》かった。  この宿の主たるアロルドが職人二人に留守を言いつけて外出など、考えられる可能性は一つしかない。ロレンスと毛皮の売買を企《たくら》み、老後にはロレンスが付き合いきれないほど危険な橋を渡《わた》ろうと決意したエーブ。彼女と共に川を下ったのだろう。エーブの目的は港町のケルーベで毛皮を売ることだろうが、アロルドは南への巡礼《じゅんれい》の旅だと思われた。  アロルドも自身のことをあまり語らない人物なので、なにがそこまで彼を駆《か》り立てるのかはわからない。エーブと親しそうなところから、なにか分かり合えるような出来事が昔あったのかもしれない。  人が故郷を懐《なつ》かしく思うように、住みなれた家ほど居心地《いごこち》の良い場所はない。  色が黒ずみ、時間という澱《おり》が堆積《たいせき》したようなこの宿も、元々はアロルドが親方を務める革紐《かわひも》工場だったのだ。  それを捨ててまで南への巡礼の旅に出るのだから、よほどのことだ。  路銀《ろぎん》と、困難な旅の道案内はエーブに頼《たよ》るのだろう。  ホロが、その長い時間を生きてきた結果色々なことがあったように、人も人で短くない時間を生きている。  誰《だれ》がなにを判断し、なにに重きを置くのかは本当に人それぞれだ。  世界という一枚の板にそれらの鐘《おもり》を載《の》せ、どのように傾《かたむ》くのかを試《ため》すのが人生ならばこそ、ロレンスはデリンク商会にホロを迎《むか》えに行ったのだ。  だから、ロレンスは、部屋に入るや引っ張られっぱなしだったホロの手を逆に引っ張り、その体をこちらに向かせた。 「それで、ちょっと聞きたいんだがな」  ホロはロレンスに手を引っ張られるとは少しも思っていなかったようで、面白《おもしろ》いくらい簡単にこちらを振《ふ》り向き、その顔からは先ほどまでの激情が剥《は》げ落ちて素《す》の顔が覗《のぞ》いていた。  どこか動揺《どうよう》しているような、それでもなにか妙《みょう》な決心があるような顔。  それを一言で表せば、迷っている顔だ。  なにに迷っているのかといえば、ロレンスにもなんとなく察しはつく。 「これからどうするつもりだ?」  しかし、そこはそれ。賢狼《けんろう》の二つ名を持つホロは、ロレンスが質問するとすぐについさっきまでの自分を取り戻《もど》していた。 「どうするつもりか、じゃと?」  答えようによってはその喉笛《のどぶえ》を噛《か》み切るぞ、とその言葉のあとに続いてもなんら違和《いわ》感はない。  それでもロレンスは少しも怯《ひる》まずに、ホロとつながったままの手を持ち上げて、指の背でホロの唇《くちびる》の近くについていた赤いものを払《はら》った。  きっと、ロレンスの顔についていた、固まりかけの血だろう。  ホロの顔は怒《おこ》っていたが、一目でわかるくらい、その仮面が外れかけていた。  ホロは自分自身に怒っている。  自分の感情をもてあましているのだ。 「ああ。町を出るにせよ、旅の計画を練らないといけない」 「た……旅の計画と言ったかや!」  なんだか複雑そうな顔なのは、ホロ自身どうして自分がロレンスに怒鳴《どな》っているのか段々わからなくなってきているからかもしれない。 「思いつきで町の外に出るのはよくない」 「思いつきじゃと? ぬしはあの狐《キツネ》を追いかけて利益を取り戻そうと思わぬのか!」  ずいっと顔を近づけてロレンスに詰《つ》め寄るホロだが、身長差があるのでどうしても上目遣《うわめづか》いになってしまう。  これではまるで抱《だ》きしめてくれと近寄ってきているようにも見えるが、そんなことを口に出したら窓から外に放《ほう》り投げられかねない。 「狐って、エーブのことか。その利益を?」 「取り戻すんじゃろうが! ぬしをだまくらかして、その利益をぶんどったんじゃ。ならば報《むく》いを受けさせねばならぬ!」 「いつだったかの金のように?」  ロレンスが言うと、ホロはうなずく。  うなずいて、しばらく顔を上げなかったのは、怒《おこ》った仮面がずれてしまったから直しているのだろう。  あの時はロレンスたちが完全に裏切られていた。  だが、今回はどうだろうか。  エーブは確かにロレンスを罠《わな》に嵌《は》めてはいたが、それは気づかなかったロレンスが悪いと言えなくもない。  その上、ホロがここにいるということは、ロレンスはエーブとの取引を完全に解消したことになる。  実際に、ロレンスはエーブがやろうとしている自殺|行為《こうい》に等しい危険な取引からは降りた。  それはこの町の教会に完全に楯突《たてつ》く行為であり、とても見|逃《のが》してもらえるようなものではないと思ったからだ。  しかし、いまやレノスの町はおそらく教会が予想していたよりも激しい混乱に見|舞《ま》われ、この町で権力を築こうとしている教会はこの騒《さわ》ぎの収拾に忙殺《ぼうさつ》されていることだろう。  その上、自身の利益のために毛皮を持って川を下ろうとしている者たちはエーブだけではない。港の様子を見れば一目瞭然《いちもくりょうぜん》だ。  教会が企《たくら》んでいたようにうまく物事は運ばず、エーブ一人をどうこうすればよいという状況《じょうきょう》にはなっていない。むしろエーブなどそのまま放置し、事態の収拾に努めたほうがよいと考えているに違《ちが》いない。  そうなれば、エーブと共に毛皮売買の片棒を担《かつ》ごうとしたロレンスを捕《つか》まえようなどとは思わないはずだ。  となると、エーブは危険を冒《おか》し博打《ばくち》を打って、勝ったことになる。  今更《いまさら》ロレンスがその利益に与《あずか》ろうとして、受け取る権利があるだろうか。  ロレンスは、すぐに答えられる。  賭《か》け金《きん》は引き上げ、それでホロを引き取った。だとすれば、博打を続けた者から利益を受け取るなど、筋違いのことに他《ほか》ならない。  もちろん聡明《そうめい》なホロのことだから、そんなことにはとっくに気がついているはずだ。その上で、こんなことを言っているのだ。  それに、ホロはずっと自分自身に怒っている。それはなぜかといえば、ホロがわがままを言おうとしているからだ。  そのわがままとは?  問えば、簡単に答えは出てくる。  そしてそれは、ロレンスにとってとても嬉《うれ》しいものだ。 「だ、大体、ぬしは悔《くや》しくないのかや! 出し抜《ぬ》かれたんじゃろうが!」  反論されればすぐに言葉に詰《つ》まることがホロ自身わかっているから、話をずらしてこんなことを言い出した。  ロレンスは、少し顔を背《そむ》け、うなずく。  ホロの剣幕《けんまく》に負けていると主張するように。 「それは、確かにそうだ。だが、実際問題として考えると、厳しいものがあるんだ」 「……どういうことじゃ」  決して本音を言い合わないが、嘘《うそ》のベールを一枚|掛《か》けたうえでのやり取りはお互《たが》いが信用できないからやっているわけではない。  どうやらお互いに意地っ張りのようなので、これくらいがちょうどよいのだ。 「エーブはおそらく周到《しゅうとう》に準備をしていた。船をあっという間に見つけたのも、偶然《ぐうぜん》とは思えない。事前に根回しをしていたからだろう。そうなれば、とても今から出て追いつけるとは思えない。馬に乗って追いかけようとも、今頃《いまごろ》馬屋は戦《いくさ》の時のように大賑《おおにぎ》わいだろうからな。とても用意などできない」 「ぬしの馬は」 「あれか? あれは確かに力強いが、長距離《ちょうきょり》を走らせたらどうなるかわからない。走る馬と、荷物を引く馬は違《ちが》うんだ」  ロレンスが言うと、ホロは必死になにかを考えるようにうつむいてしまう。  ロレンスはもちろん指摘《してき》しない。  ホロ自身がデリンク商会で言ったように、狼《オオカミ》の姿に戻《もど》って走れば、なによりも速いということを。 「それに、川を下った先のケルーベで毛皮の売りつけ先も決まっているような話をしていた。そうなると、エーブは当然教会に追われることを前提で話を進めていたのだから、逃《に》げるための策も用意していただろうな」  これらは全《すべ》て大袈裟《おおげさ》なことではない。  逃げ道に考えられるのは大別して陸路と海路。陸路ならばまだしも、仮にエーブが海に出たらもう追いつく術《すべ》はない。  行き先にもよるが、天気の都合が合えば海路は陸路の五倍は速い。  たとえホロであっても、厳しいだろう。 「そ、そうであってもわっちゃあ納得《なっとく》いかぬ。追いかけねば気がすまぬ」  だいぶ勢いがなくなりつつも、ホロはそう主張した。  ホロがエーブを追いかけることに執着《しゅうちゃく》するのは、半分は本気でエーブを憎《にく》く思っているからだとしても、もう半分は絶対に違う。  そして、その理由がホロ自身、自分に腹を立てる理由なのだ。  ホロはロレンスとの旅を終わろうと言った。  その理由は、仲良くなりすぎて、楽しさが摩滅《まめつ》して風化してしまうのが怖《こわ》いからだと言った。  それに対してロレンスは、確かに永遠に楽しいままというのは無理だし、ずっとホロと旅を続けるのも無理だということも理解できたが、せめて旅の終わりは笑顔《えがお》で迎《むか》えたいと思った。  もちろん、二日酔《ふつかよ》いすることがわかっていてもついつい酒を飲みすぎてしまうことがあるように、駄目《だめ》だとは思っていてもずるずるとホロとの旅を引き延ばしたいという誘惑《ゆうわく》はある。そうなれば当然、ホロが恐《おそ》れていたようなことになってしまう可能性も否定できはしない。  しかし、せめてホロの故郷までは旅を続けたい。だからホロの手を取りに、デリンク商会まで行ったのだ。  そんなやり取りを経た今、二人が望みつつも、口に出せないことはなにかというのは、言うまでもない。  旅を無闇《むやみ》に引き伸《の》ばす、寄り道だ。 「気がすまない、と言われれば、そりゃあそうなんだがな……」 「そうじゃろう?」  ホロの顔が、怒《おこ》りつつも嬉《うれ》しそうになる。  世の中には色々な表情があるものだなと、ロレンスは少し感心してしまう。 「実際に赤字は出ているわけだしな……」  エーブはロレンスと取引解消せざるを得ないと判断した時、この宿の権利書を置いていった。ロレンスがホロを質草《しちぐさ》にして金を借りる際、その代価として差し出されたものであるから、その価値はほぼデリンク商会から借りられた金額に等しい。  ただ、若干《じゃっかん》足りていない。  デリンク商会のそもそもの目的は貴族であるエーブとの関係強化にあったから、その目的が果たせた今そのわずかな差額を気にしているとは思えなかったし、実際にそのようにロレンスは言われた。  それでも、その借りがいつ、どこでどのように作用するのかわからないのが商売の怖《こわ》いところなのだ。  ロレンスとしては少し時間をおいてでも足りない分は返しておきたい。  そうすれば、当然赤字になる。  もちろん、許容できない範囲《はんい》ではないのだが、それを聞いたホロは意を得たりと活気づく。 「うむ。それにぬしは血まで流しておるんじゃ。わっちの連れを傷つけるのはわっちを傷つけるのと同じじゃということをわからせてやる」  そんなことを言うホロに対し、つい先ほど、激情に駆《か》られるままこの腫《は》れ上がった顔を殴《なぐ》ったのは誰《だれ》だったかと言おうとしたのを、ロレンスはぐっとこらえた。 「そうなると、追跡《ついせき》か……」 「うむ。久々の狩《か》りじゃ」  ホロがにやりと笑う。  そこにいつものすごみがなかったのは、なんとか互《たが》いに本音を出さず、上手に取り繕《つくろ》って寄り道ができると思ったからかもしれない。  毒麦を巡《めぐ》るテレオの村での騒動《そうどう》のあと、ホロもロレンスも旅が長く続けばいいと願っていた。  思えば無邪気《むじゃき》な願いだったが、それもまた過去の話。  人の心はどんどん変わる。  変わらないといえば、嘘《うそ》だらけのホロとのやり取りだけだ。 「だがな」  だから、ロレンスが言うとホロはすぐに顔を上げて真剣《しんけん》なまなざしを向けてきた。 「俺は商人だ。誇《ほこ》りも面子《めんつ》ももちろん持っているが、名誉《めいよ》だけで金を稼《かせ》ぐ騎士《きし》とは違《ちが》う。だから、損得でさらに損となりそうであれば追跡《ついせき》は中止する。そこはわかってくれよ?」  ホロとの旅を続けるために来年の夏くらいまでは行商を中断してもよいようにしてはいるが、それ以上となるとあちこちに支障が出始める。商売とは双方《そうほう》の都合のうえにあって初めて成り立つものだから、ロレンスの都合だけではどうにもならないことが多々ある。  それこそ、ホロがずっとついていきたい、と言ってくれるのなら話は別なのだが。 「わっちゃあぬしのために動くだけじゃからな。ぬしの気がそれですむのであれば……うむ。仕方ないじゃろう」  なんとも妙《みょう》な言葉なのだが、ロレンスはうなずいて、理解のあるホロに感謝するように「助かる」と言っておく。  フードの下で耳がひくひくと動いているのは、このやり取りの馬鹿《ばか》らしさにか、それとも大義名分を保ったまま少しだけ寄り道ができる嬉《うれ》しさか。  きっと、両方だろう。 「それじゃあ、次は追いかけるその方法なんだが、どうする」 「どうするも、荷馬車じゃろう?」  ホロはそう言ってきたが、ロレンスは鼻の頭を掻《か》いて、答えた。 「荷馬車だと五日くらいかかる。お前、耐《た》えられるか?」  この町にようやく到着《とうちゃく》した時には、機嫌《きげん》が悪くなるほど疲《つか》れていたホロだ。  ろくな休憩《きゅうけい》も挟《はさ》まずにまたこの寒さの中を荷馬車で旅に出たら体調を崩《くず》しかねないし、ロレンスであっても嫌《いや》だ。  案の定、ホロの顔がにわかに曇《くも》る。 「う……また、五日も荷馬車の上かや……」 「もちろん途中《とちゅう》にちょっとした町のような集落もあるし、宿もあるんだが、あまり、上品じゃない」  教会があればそこに泊《と》まるのが最もよいのだが、残念ながらこの地方は教会だけがぽつんと建っていられるような場所ではない。  どこも木賃宿《きちんやど》や、兼業《けんぎょう》の宿屋のようなものばかりだ。  垢《あか》と埃《ほこり》の匂《にお》いに満ちた中、盗賊《とうぞく》とも山賊ともわからない旅の連中と共に眠《ねむ》るのはとてもではないが気がすすまない。 「そ、それならば、川はどうじゃ」 「川?」 「うむ。あの狐《キツネ》が川を下るのであれば、わっちらも川を行けばよい。実に自然な道理じゃ」  船ということなのだろうが、ロレンスはホロに手を引っ張られながら横切った港の様子を思い出して首をひねる。  あの状況《じょうきょう》で、暢気《のんき》に旅人を乗せて川を下ってくれる船があるだろうか。 「船があるかどうか」  ロレンスが正直に言うと、ホロはつないだままの手を振《ふ》って、付け加える。 「あるかどうかではない。見つけるんじゃ!」  そんな無茶な、と見返すロレンスに、ホロの目が妖《あや》しく光る。  嫌《いや》な予感がした。  ロレンスは逃《に》げようとする。  しかし、回り込まれた。 「それとも、わっちの案は……ぬしの迷惑《めいわく》だったかや?」  今度は本当の上目遣《うわめづか》い。  ロレンスも、やや本気で顔を背《そむ》ける。 「迷惑だったら言ってくりゃれ? わっちゃあぬしのためと思ってあの狐を追いかけようと思いんす……じゃが、わっちゃあ時折、一人先走ってしまうんじゃ。のう、ぬしよ」  そう言って、ロレンスとつないだ手を自分の胸元《むなもと》に引き寄せるのだ。  いつものホロに戻《もど》ってくれて嬉《うれ》しい半面、その手ごわさはこれまでの比ではない。  なぜなら、ホロは新しい武器を手に入れたのだから。 「わっちゃあとても嬉しかったんじゃ」  突然《とつぜん》声音《こわね》を柔《やわ》らかくしたホロが、うつむきがちになる。  その恐《おそ》ろしい振《ふ》る舞《ま》いを見て、ロレンスは、胸中でこう呟《つぶや》いた。  嗚呼《ああ》。 「わっちゃあ嬉しかった。そう。ぬしがわっちを好きじゃと言ってくれて。じゃから——」 「わかった、わかった! 船を探して川を下る! これでいいだろう?」  ホロはわざとらしくびっくりしたような顔をして、それから、満面の笑顔《えがお》になる。  胸元まで引き寄せたロレンスの手に口づけするような素振《そぶ》りを見せつつ、その唇《くちびる》の隙間《すきま》からは鋭《するど》い牙《きば》が見えている。  ロレンスはホロとの勝負に負けた身といっても過言ではない。  捨て身にならざるを得なかったというのは大袈裟《おおげさ》な表現ではないが、捨て身の手段を取ればその代償《だいしょう》というものは必ず存在する。  それが、これだ。  ホロに、言葉として、はっきりと言ってしまった。  それが本当に本気だからこそ、ホロに対抗《たいこう》することができない。  血判を押した大事な契約書《けいやくしょ》をホロに無担保で渡《わた》したようなものだ。  それを手にしてにやにや笑い、冗談《じょうだん》でも破ろうとする素振《そぶ》りを見せればロレンスは慌《あわ》てなければならない。  その契約書に書いてあることは、本当なのだから。 「では、さっさと荷造りするかや。それで」  手を下ろしたホロが、聞いてくる。 「……なんだ」  ロレンスが尋《たず》ね返すと、真顔でこう言った。 「せっかくの船旅じゃ。小麦のパンが食べたいの?」  その意見は、却下《きゃっか》した。  ホロは猛烈《もうれつ》に抗議《こうぎ》する。  しかし、ロレンスは譲《ゆず》らない。  手綱《たづな》はきっちりと握《にぎ》られていても、財布《さいふ》の紐《ひも》だけは決して譲れないからだ。 「赤字だとさっき言ったばかりだろう」 「ならばこそじゃ。どうせ赤字ならば今更《いまさら》額が増えたところで」 「どういう理屈《りくつ》だ!」  ロレンスが言うと、ホロは唇《くちびる》を尖《とが》らせて睨《にら》んでくる。 「ぬしはわっちが好きなんじゃろうが」  どんな武器だって続けて使われれば対策くらいできる。  ロレンスは真正面から見返して、答えた。 「ああそうだ。だが、金も好きだからな」  その瞬間《しゅんかん》、表情をなくしたホロに、思い切り足を踏《ふ》まれたのだった。 [#改ページ]  第一幕 「おい馬鹿野郎《ばかやろう》! 舳先《へさき》を引っ込めろ! こっちはイミドラ産の銀を積んでるんだぞ!」 「なんだと! 先に入ったのはこっちだろうが! てめえこそ引っ込めろ!」  そんな怒号《どごう》がひっきりなしに飛び交《か》って、船体同士がぶつかり合っては水しぶきが上がるのもしょっちゅうだ。  レノスの港はそれこそ蜂《はち》の巣《す》を突《つ》ついたような騒《さわ》ぎで、鬨《とき》の声とも断末魔《だんまつま》の叫《さけ》びともつかぬものが上がったかと思うと、遅《おく》れてなにかが水に落ちる音も聞こえてきた。  普段《ふだん》は一枚の水鏡のような水面が、あらん限りに波打っている。  そんな中、怒号も罵声《ばせい》も振《ふ》り切って、我先にと相争って港を出ていく船はどれも毛皮を積んだ船だろう。どの船もいつもならば漕《こ》ぎ手が一人のところを、人を雇《やと》っての超特急《ちょうとっきゅう》だ。  あらゆる貿易において、もっとも大きな利益を上げられるのはいつだって一番乗りをした者だから、当然といえば当然の行為《こうい》といえる。  ただ、ロレンスはそんな彼らの奮闘《ふんとう》を冷めた目で見つめていた。  きっと、一番乗りは銀貨にして数千枚分も毛皮を仕入れた没落《ぼつらく》貴族だからだ。 「ほれ、見惚《みと》れておらんで早く船を探しんす!」 「今更《いまさら》だが、本当に船で行くのか?」  この状況《じょうきょう》では、暢気《のんき》に旅人を乗せてくれるような船を掴《つか》まえるのはちょっとした幸運かもしれない。出港する船の列がまるで蟻《アリ》の行列のようになっている。 「荷馬車だと時間もかかるし大変だと言ったのはぬしじゃろうが」 「そりゃそうだが……」  ここからはよく見えないが、港から川に出る辺りからは時折ものすごい声が聞こえてくる。  おそらく毛皮の流出を止めたい者たちが港を封鎖《ふうさ》しようとしているのだ。 「……」 「どうした?」 「乗り気に見えぬ」 「いや、そんなことは、ない」  子供が聞いたって嘘《うそ》だとわかるような返事に、ホロは片眉《かたまゆ》をつり上げて睨《にら》んでくる。 「ならば、さっさと船を探してきんす」  馬を乗せて川を下れるような船はとても見つかりそうにないと早々にわかっていたので、全《すべ》ての馬を貸し出して開店休業状態の馬屋に預けてきた。荷台の部分は馬屋の口利《くちき》きで港の荷物|運搬《うんぱん》用に貸し出している。  渋《しぶ》っていてももはや荷馬車を駆《か》っての旅には出られない。  港町のケルーベならば冬を越《こ》すために暇《ひま》をもてあました商人たちがうようよいるだろうから、まったく商売の足しにならないともいえないだろう。  ロレンスは、仕方ないか、と胸中で呟《つぶや》いた。 「わかったわかった、じゃあ、船を探しておくから、これで……その辺の露店《ろてん》で食料を調達してきてくれ。大体三日分あれば十分だ。酒は、なるべく強いやつをな」  財布《さいふ》から取り出したぴかぴかの銀貨を二枚ほどホロに手|渡《わた》した。 「小麦のパンは?」  だいぶ物の相場を把握《はあく》してきたホロは、それで小麦のパンを買えないことがわかっている。 「パンはパン種を上手に膨《ふく》らませないといけない。なら、パンを買う金も同じことだろうさ」 「……」  小麦のパンは宿でのやり取りで諦《あきら》めている。  ホロは悔《くや》しそうにうなずきつつも、本気で悔しそうにはしていない。  だから、すぐに顔を上げてこんなことを言った。 「じゃが、なぜ強い酒を?」  ロレンスがどちらかというと飲みやすい酒のほうが好みであることを把握してくれているらしい。服の仕立て屋や靴《くつ》屋ならずとも、店に行ったら自分の好みを覚えていてもらえるのは嬉《うれ》しいことだ。  ただ、もちろんそんなことは顔に出さず、短く答えた。 「そのうち理由がわかるさ」  ホロはその言葉にきょとんとしたあと、なにを勘違《かんちが》いしたのか嬉しそうに腕《うで》を叩《たた》いてきた。 「思い切り負けさせてうんと良い酒を買ってこよう」 「量はいらないからな」 「うむ。ではこの辺で落ち合えばよいかや」 「ああ……つっ」  ロレンスはうなずき、その拍子《ひょうし》にエーブに殴《なぐ》られて腫《は》れ上がっている頬《ほお》が痛んでしまった。  青紫《あおむらさき》色に腫れ上がり、薬屋で軟膏《なんこう》でも調合してもらうべきかと悩《なや》むところだが、ふとホロの顔に気がついて思いなおした。  なんだかんだいって心配そうにしてくれるから、このままのほうがよいかもしれない。 「……なにを考えておるか丸わかりなんじゃが」 「正直は美徳だと小さい頃《ころ》に教えられた」 「そう思うかや?」  ホロは心のこもっていない笑顔《えがお》のまま首をかしげた。 「いや、師匠《ししょう》からは正直は愚鈍《ぐどん》だと教えられた気もする」  ホロが鼻で笑い、からかうようにこう言った。 「あまりに愚鈍じゃからついついからかってしまいんす」  そして、舞《ま》うように身を翻《ひるがえ》して雑踏《ざっとう》の中を歩いていった。  ロレンスは肩《かた》をすくめてため息をつき、頭を掻《か》く。  口元が笑ってしまうのは、こんなやり取りが楽しいからに他《ほか》ならない。  しかし、とロレンスは思う。 「どうにかして主導権を取り返せないものかな」  巻き上げられた証文なら取り返す自信があるのだが、とはある種の負け惜《お》しみだったかもしれない。  お前のことが好きなんだ。  つい先刻のことなのに、もうはるか昔にとっくにホロに向かって言っていたような気がするその言葉。それを思い返すたびに、ロレンスはなんともいえぬ気持ちにさいなまれる。  息苦しくなるような、顔が引きつるような変な気持ちだ。  かといってそれが悪い気持ちとは思わない。  あやふやだったものが明確な形になったような安心感がある。  ほんの少し、いや、かなり恥《は》ずかしいだけかもしれない。  ちょっとした後悔《こうかい》があるのは、勝負に負けた、という気持ちがあるからだろう。 「なんの勝負なんだ」  ロレンスは自嘲《じちょう》するように笑い、ホロが消えていったほうを見る。  肩をすくめてため息をつくと、桟橋《さんばし》のほうへ歩いていったのだった。  幸いなというか、意外なことに船はすぐに見つかった。  港は我先《われさき》にと船を繰り出す連中でごった返していたが、落ち着いて探してみれば普段《ふだん》どおりに荷を積んでいる船もたくさんあり、そのうちの一つに声をかけたらあっさりと了承《りょうしょう》を得られたのだ。船はどこも忙《いそが》しそうだったのでぼったくられるかとも思ったが、料金は良心的だった。  女連れで、と言った途端《とたん》にいい年をした船主の顔が緩《ゆる》んだのは気がつかなかったことにする。  エーブが顔を隠《かく》し、女であることを隠して商売にいそしんでいる理由がわかるというものだ。 「しかし、ケルーベなんかになんの用かね。この季節じゃあ、今更《いまさら》行ってもまともな船は出ないぜ」  船主はイブン・ラグーサというあまり馴染《なじ》みのない発音の名前で、西のほうの海岸線を北に上《のぼ》ったところにある、二重の意味で寒村の出だという。  北の地の人間といえば引き締《し》まった体と雪焼けした顔、それに無口で鋭《するど》い目つきという印象があったが、ラグーサはでっぷり肥えた体にでかい声、それに酒焼けなのか赤ら顔だった。 「ご多分に漏《も》れず毛皮の絡《から》みです」 「ほう?」  ラグーサはロレンスを上から下までなめるように見て、ほとんど肩《かた》に埋没《まいぼつ》している首をひねる。 「荷を持っているようには見えないが」 「手を組んでいたはずの相手に抜《ぬ》け駆《が》けされましてね」  ロレンスが腫《は》れた自分の顔を指差した途端に大笑いしたラグーサの顔は、まるっきり河豚《フグ》のようだ。  そんなこともあるさ、とロレンスの肩を叩《たた》き、「で、連れは?」と聞いてきた。 「今、食料を買いに——」  と、ロレンスが露店《ろてん》の並ぶ町のほうを振《ふ》り向こうとした瞬間《しゅんかん》、脇《わき》に気配を感じて目をやった。  もう何十年も側《そば》にいるような気がする、ホロだ。 「こいつです」 「ほう! こりゃあ良い積荷《つみに》だ!」  ホロを見るなりラグーサは大声で手を叩き、あまりの大声にホロがぴくりと肩をすくめた。  船に乗る者は概《がい》して声がでかい。  人の眉根《まゆね》に皺《しわ》が寄る音まで聞こえるというホロの耳にはうるさすぎるかもしれない。 「ちなみに、名は?」  直接ホロに聞かず、ロレンスにそう聞いてきたのは夫婦《ふうふ》とでも思ったからか。  少なくとも、いきなりホロを口説こうとする両替《りょうがえ》商とは違《ちが》うらしい。  ホロは肩からパンかなにかの詰《つ》まっているのだろう袋《ふくろ》を提《さ》げ、小さな樽《たる》を抱《かか》えている。お使いを頼《たの》まれた見習い修道女のようなホロが、ロレンスのことを見上げてくる。  人前では一応ロレンスのことを立ててくれるのが、ホロにからかわれても怒《おこ》ることのできない原因のひとつなのだろうと思う。 「ホロです」 「ほほう、いい名だ! よろしく。ローム川の主と呼ばれるラグーサだ」  男というものはいつだって見目麗《みめうるわ》しい娘《むすめ》の前では見栄《みえ》を張りたがる。  ホロくらいの娘がいてもおかしくはないだろうラグーサは、そんなことを言って胸を張り、豆だらけの分厚い手を差し出した。 「しかし、これで今回の川下りは安全を保障されたようなものだ」 「と言うと?」  にかっと歯を剥《む》いたラグーサは、がははと笑ってホロの細い肩《かた》を叩《たた》きながらこう言った。 「船首に頂き船の安全を祈《いの》るのは美人と相場が決まっている!」  確かに長距離《ちょうきょり》貿易用の船の船首には大抵《たいてい》女性を象《かたど》った像が置かれている。  それは異教の女神であったり、教会の歴史の中で列聖《れっせい》された女性たちだったりするが、船を守るのは確かにいつも女のような気がするし、船の名前も女性名が多い。  ただ、陸地を行くならば安全|祈願《きがん》にはもってこいのホロであっても、元が狼《オオカミ》なので水場ではちょっと頼《たよ》りない。  それに、犬掻《いぬか》きで泳ぐホロの姿を想像してしまって危《あや》うく笑い出すところだった。 「それで準備はいいのかい。うちはよそみたいに毛皮で一儲《ひともう》けを企《たくら》んでいるわけじゃないが、急ぎの荷があってね」 「あ、ええ、大丈夫《だいじょうぶ》です。食べ物は買えたんだろ?」  ロレンスがホロに尋《たず》ねると、ホロは小さくうなずいた。  狼《オオカミ》のくせに、猫《ねこ》をかぶるのがとてもうまい。 「じゃあ適当に空いてるところに座っててくれ。料金は後払《あとばら》いで結構」  料金後払いの習慣は、周りを水に囲まれタダ乗りが難しい船ならではだ。 「ま、大船に乗ったつもりでいてくれたまえ」  そして、こう言って大笑いするのも全《すべ》ての船乗りに共通だった。  ラグーサの船は荷を積んで川を上《のぼ》り下りする中では少し小さめかもしれない。  帆《ほ》はなく、底は平べったく、そのくせ船体は細長い。船体がさらに小さくなると、腕《うで》の悪い船頭では転覆《てんぷく》することもままあるはずだ。  船の真ん中にはホロがすっぽり収まるような大きさの麻袋《あさぶくろ》が腰《こし》の高さあたりまで積まれていて、その中身は小麦と豆だというのが袋の口からこぼれているものを見てわかった。  それから、そんな袋の山の隣《となり》、船尾|側《がわ》のほうには木箱がいくつか積まれていた。  中身を開けて見るようなことはさすがにできないので正確なことはわからなかったが、なんの紋章《もんしょう》なのか、焼印の押された規格の揃《そろ》った木箱だったので、それなりに高価な物が入っているのだろう。急ぎの荷というのは、間違《まちが》いなくこれだ。商人の常としてついつい中身が気になってしまう。  川の上流から運ばれてきたのだとしたら、銀山か銅山からの地金《じがね》か、あるいは鉱山の近くで鋳造《ちゅうぞう》された輸出用の小額|貨幣《かへい》かもしれない。錫《すず》や鉄ならご丁寧《ていねい》に木箱には入れないし、宝石ならば護衛が一切《いっさい》いないのはちょっとおかしいからだ。  全体的に船の容積に比べて荷が少ないのは、川の水が減っているからだろう。  この季節になると雨が少なくなり、源流の山のほうでは雪が降るせいで川が凍《こお》りつく。そうして水の量が減るために荷を積みすぎると容易に座礁《ざしょう》を引き起こす。雨の日に荷馬車が道のぬかるみに車輪をとられるのと同じくらい、座礁が当たり前のことになる。座礁すれば最悪荷物を川に捨てなければならなくなるし、なによりも他《ほか》の船の行き来の妨《さまた》げになるので、船乗りとしての名誉《めいよ》に関《かか》わる。  長い年月同じ川で船を操《あやつ》る者たちの中には、川がどんな状況《じょうきょう》でも目を閉じて操舵《そうだ》できる者がいるという。  さて、ラグーサはどうなのか。  そんなことを考えながら、船首の空いた場所に腰《こし》を下ろし、背負っていた毛布などを置いた。  港の水面は酔《よ》っ払《ぱら》いのように波打っているので、船は絶えず少し揺《ゆ》れている。久しぶりのその感覚にちょっとした懐《なつ》かしさを感じて、苦笑いも出る。昔、初めて船に乗った時はいつひっくり返るかとびくびくしながら船の縁《ふち》を掴《つか》んでいたものだ。  そして、どうやらそれはロレンスの肝《きも》が特別細かったからというわけではないらしい。  ホロがいつになく真剣《しんけん》な顔で、そろりそろりとロレンスの隣《となり》に腰を下ろしたのを見て笑ってしまった。それからホロは抱《かか》えていた酒樽《さかだる》を置き、良い匂《にお》いのする袋《ふくろ》を肩《かた》から下ろし、ようやくロレンスの視線に気がついて睨《にら》み返してくる。 「笑うのかや」  声が低いのは、きっと演技ではない。 「俺も同じようにおっかなびっくりだったな、と思ってな」 「むう……。水が苦手というわけではありんせんが……やはり、揺れると怖《こわ》い」  そんなふうにあっさりと怖がっているのを認めたのは意外だった。  ロレンスが驚《おどろ》いていると、ホロはちょっとむっとするように唇《くちびる》を尖《とが》らせる。 「弱みを晒《さら》すのは、ぬしを信頼《しんらい》するからじゃというのに」 「唇の下で、牙《きば》が光ってるぞ」  そう指摘《してき》すると、ホロは口元を押さえて意地悪く笑った。きっと怖いのは本当だろうが、それを口にしたのはわざとだ。  素直《すなお》なのか素直じゃないのか本当によくわからない。  そう思った瞬間《しゅんかん》、そのホロがひょいと体を起こした。 「いかぬ。あまりぬしと仲良くなってはならぬというのに」  言って、悲しそうに顔を背《そむ》けた。どんな楽しいことであっても繰《く》り返していればやがて慣れて感動が薄《うす》れていくのが怖いと言ったホロだ。ロレンスは一瞬、熱いものに触《ふ》れてしまったように驚いた。  ただ、今のホロがそんなことを真剣《しんけん》に言っているわけではないとすぐに思いなおす。  言葉に出して確認《かくにん》したわけではなくとも、二人の間で本当に避《さ》けなければならないことはなにかとわかっている。落とし穴がどこにあるかわからなければ怖くて歩くこともままならないが、崖《がけ》の場所がわかってさえいれば、近くを散歩するくらい造作はない。  そのことを敢《あ》えて口にするのは、ホロが自分を戒《いまし》めるわけでも、ロレンスに注意を喚起《かんき》するわけでもない。  むしろその逆だろうと思った。  旅は笑顔《えがお》で終える。そう約束したのだから、怖いものなどなにもない。  だからロレンスは落ち着いて、こう応《こた》えた。 「戯曲《ぎきょく》に出てきそうな台詞《せりふ》だな」  それも禁断の恋を扱《あつか》った、とはさすがに言えないので心の奥底で小さく呟《つぶや》くだけ。  対するホロは、まったく慌《あわ》てないロレンスの反応がつまらなかったのか、あっさりとロレンスのほうを向く。 「……少しは付き合ってくりゃれ?」 「そういう悪質な顔をつくらなければな」  上目遣《うわめづか》いに寂《さび》しそうな顔をしていたホロは、けたけたと笑ってから舌打ちする。  まったくよく表情の変わる狼《オオカミ》だ、とロレンスは呆《あき》れ気味に笑った。  それからほどなくして大きな足音と共にラグーサが桟橋《さんばし》を走ってくると、例のごとく大声で叫《さけ》んだ。 「さて、それではそろそろ出港だ!」  桟橋にくくりつけられていた縄《なわ》を手早く解《ほど》き船の上に投げ入れると、川に飛び込む子供のように船に飛び乗ったから一大事だ。お世辞にも細身とはいえないラグーサがそんなことをすれば船が揺《ゆ》れるのは世の道理。船がぐらりと揺れ、沈没《ちんぼつ》するのではと思うほど傾《かたむ》いた。  これにはロレンスですら本気でひやりとした。ホロに至ってはこれ以上ないくらいに真剣《しんけん》な顔つきで体を強張《こわば》らせている。  その手がロレンスの服をしっかり掴《つか》んでいるのも、冗談《じょうだん》ではないだろう。 「三国《さんごく》一の船|捌《さば》き、とくとご覧《らん》あれ!」  威勢《いせい》のいい掛《か》け声《ごえ》と共にラグーサは長い棹《さお》を川底に突《つ》き立て、ただでさえ赤い顔をさらに赤くして力を込めた。  掛け声に反してしばし船はなんの反応も見せなかったが、やがてゆっくりと船尾が桟橋から離《はな》れていき、ラグーサは棹を軽く上げ、今度は少し方向を変えて再び棹を突き立てる。  荷馬車に積めば馬が四頭は必要であろう荷物を積んだ船が、一人の力で動いていく。  船乗りには大言壮語《たいげんそうご》する者が多いといわれるが、それもわかるような気がする。  この船は、ラグーサ一人が動かしているのだから。  ついに船は桟橋を離れ、ラグーサの棹捌きによって川へと続く航路に出た。  他《ほか》にもたくさんの船が相変わらず行き来しているものの、不思議なことにそれらと少しもぶつかることなく、波打つ水の上を上手に滑《すべ》っていく。  すれ違《ちが》ったり通り過ぎたりする船のほとんどが顔見知りの船らしく、気軽に挨拶《あいさつ》を交《か》わしては、時折|罵声《ばせい》も交えて棹を上げ、突き立てていく。  徐々《じょじょ》に速度が出てきて、細長い船はしだいに安定さを増し、ついに港の出口に差しかかる。  川と港の境目にある木造の見張《みは》り塔《とう》では、町から毛皮の流出を防ぎたい一団の者が数人、町の兵の制止を突破《とっぱ》して最上段に上《のぼ》り、船を進める者たちに呪《のろ》いの言葉を投げつけていた。  栄枯盛衰《えいこせいすい》は昔から繰《く》り返されてきたことだ。  鎖帷子《くさりかたびら》を身に着け鉄兜《てつかぶと》をかぶった一団が塔の入り口にたどり着く。きっと臨時《りんじ》で雇《やと》われた騎士《きし》や傭兵《ようへい》だろう。  ロレンスたちの乗った船が塔《とう》をぐるりと回り、川に出る頃《ころ》には塔の一番上で呪《のろ》いの言葉を投げていた者があっという間に取り押さえられていた。彼らに同情をする気はないが、せめて人死にが出ないようにとは願いたい。  ただ、それらを見ているとこの町で起こったことがぼんやりと頭に浮かんでは消えていった。  彼らが今まさに人生の一大事であるように、ロレンスもつい先刻まで一大事だったのだ。  ホロがこの旅を終わろうと言った時には本当に驚《おどろ》いたし、その理由にも驚いた。  結局はロレンスのわがままを貫《つらぬ》いた感じだが、きっとホロだって望んでいたことだと思う。  そんなことを思い出すと、慣れない船にちょっと弱気になっているらしいホロに優《やさ》しくしてやろうとも思う。  しかし、そんな親切心はいつだって無駄《むだ》になるものだ。  いつの間にかホロは立ちなおっていたらしく、依然《いぜん》としてロレンスの服を掴《つか》んではいるものの、そんなことなど忘れているかのような興味津々《きょうみしんしん》の顔で船の行く先を見つめている。  その横顔は、まるっきり少年のようだった。 「うん?」  そして、ふとロレンスの視線に気がつくと、ホロはそんな声と共に首をかしげて見上げてきた。  自分が他人の目にどのように映るのかということを把握《はあく》しきっているかのような、ホロの計算されつくした仕草。  ロレンスはげんなりとして、ホロとは反対|側《がわ》を向き、過ぎ去っていくレノスの町を見た。  くつくつという笑い声が聞こえてくる。  掴んでいたロレンスの服から手を放《はな》したホロは、くすぐったそうに言った。 「ぬしの優しさは怖《こわ》い怖い」  首をすくめて楽しそうに笑うホロの口元から、白い吐息《といき》が後ろに流れていく。その小悪魔《こあくま》のような様に尻尾《しっぽ》の毛をむしりたくなったとしても、仕方のないことだろう。  しかし、川の上のこの寒さだ。ホロの尻尾を失うわけにはいかない。  ロレンスは、ゆっくりと言葉を返した。 「俺はお前の笑顔《えがお》が怖いよ」 「たわけ」  ホロの楽しそうな笑顔が、フードの下で輝《かがや》いていた。  レノスの町の側《そば》を流れ、東から西に向かって延々と伸《の》びるローム川は、ご多分に漏《も》れず草原の合間をゆっくりと流れるなんの変哲《へんてつ》もない川だ。  春や初夏の水量の多い時期は、それこそ巨大な大蛇《だいじゃ》がのたくっているようにも見えるほどの木材の列が川を下る壮観《そうかん》な光景も見られるらしいが、今はせいぜいが前後に行儀《ぎょうぎ》よく並んでいる船の列が見えるだけだ。  あとは、川の水を飲む羊の群れや、川沿いを歩く旅人たち。それに、頭上をゆっくりと流れる白い雲。  好奇心《こうきしん》が旺盛《おうせい》ならば飽《あ》きるのもまた早いホロが、うんざりとした顔で船の縁《ふち》に顎《あご》を載《の》せて寄りかかり、手を時折水面につけてはため息をつくのもわからないことではなかった。 「暇《ひま》じゃな」  ぽつりと呟《つぶや》き、同じ毛布に包《くる》まったままうつらうつらしていたロレンスは目を覚まし、欠伸《あくび》をしながら伸《の》びをする。 「く……。手綱《たづな》を握《にぎ》っていなくていいと実に楽だな」  道に無数に開いている穴に注意しなくていいし、積荷《つみに》を狙《ねら》う鷹《タカ》やトンビの心配もない。  なにより、眠《ねむ》くなっても一人だけ目をこすりながら起きている必要がなく、隣《となり》からいびきが聞こえてきても決してイライラすることがない。  この先ずっと船で旅をしたいくらいだが、荷馬車の時からすでに暇をもてあましているホロには不満らしい。鏡のような水面を切っていた手を上げ、ぴっぴっとロレンスに向けてしぶきを飛ばしてくる。  冬の水は冷たい。  ロレンスが顔をしかめると、ホロは体の向きを変えて縁《ふち》にもたれ、ロレンスの足の上に置いていた尻尾《しっぽ》を自分の手元に引き寄せる。  積荷《つみに》の向こう側《がわ》ではラグーサがうたた寝《ね》しているから、特に気にすることもない。 「羊の数でも数えていたらどうだ。きっとそのうち眠くなる」 「さっきまで数えておったがな、七十二|匹《ひき》あたりで飽きた」  ざっざっと手で大まかに尻尾の毛を梳《す》いてから、絡《から》まった毛や付いているごみを取り払《はら》う。  その都度|蚤《ノミ》らしきものがぴょんぴょん飛び出していくが、気にしたところで仕方がない。  夏場などは蚤と虱《シラミ》が飛び交《か》う音がうるさくて夜も眠れないといった話が本当にあるくらいだ。 「それに、羊を数えておったら腹が減ってしまいんす」 「それはよくないな。数えるのはやめたほうがいい」  ホロは捕《つか》まえた蚤をロレンスのほうに投げつけてくる。  どうせ同じ毛布を使っているのだから意味のないことだ。 「じゃが……」  と、尻尾を抱《だ》き上げると顔をふかふかの毛の中に沈《しず》め、口で毛並みを整えながら、ホロは言った。 「川を下ってあの狐《キツネ》をとっちめたら、それから先はわっちらはどうするんじゃ?」  喋《しゃべ》りながらも器用に尻尾の毛を整えていたが、喋り終えて口を離《はな》すと口の周りが毛だらけだった。春先は抜《ぬ》け毛《げ》を覚悟《かくご》しないといけないかもしれない。  ロレンスはそんなことを思いながら、何度か手で払《はら》っているもののなかなか取れないらしい毛を取ってやった。 「ほら、じっとしてろ……その先、か」 「うん。その、先」  毛を取ってもらいながら目を細め、どこか甘えるように言ったのはわざとだろうが、それはからかうというよりも危ない綱渡《つなわた》りから目をそらそうとすることに近い。  レノスの町で、ホロとロレンスができることとできないことと、最善の解決策はなにかということの結論を出した。  その結論の中に、本当の意味での「その先」というものは、ない。 「食べ物や娯楽《ごらく》は豊富だろうから、山のほうの雪が溶《と》ける春まで待ってもいい。あるいは、急ぐなら馬でも仕立ててレノスまで戻《もど》って、北上だな」 「ロエフの山奥、じゃったな」  ホロが来たというその方向。  急げば一ヶ月足らず。本当に本気を出せば、数日のうちに旅は終わるだろう。  ホロはあからさまに少女のような仕草で、自分の尻尾《しっぽ》の毛をつまんでいる。  ロレンスも学習した。  嘘《うそ》をついて欲しい、とねだっているのだ。 「だが、山も人が入って様変わりしてるだろうからな。ロエフ川を上《のぼ》っていっても、道に迷いかねない」 「……うむ?」  まったく手のかかる賢狼《けんろう》様だと、まだ口の端《はし》についていた焦《こ》げ茶《ちゃ》色の毛を取ってやってから、あとを続けた。 「ニョッヒラまで行けば、わかるんだろう? レノスからニョッヒラなら、およそ十日。春を待たないなら、危ないから村や町をなるべく通る道を選んで二十日」  言って、指折り数えてみると長いのか短いのかわからない。  滞在《たいざい》は短く、道程は速く。  そればかりを念頭に置いてきた行商の旅のせいで、これでも十分に過ぎるほどゆったりとしているという、どこか罪悪感にも似た感覚がある。行商において、商品を売る時の値段は五割が関税で三割が食費や滞在費等の旅費で二割が儲《もう》けになるのだから、旅費を増やすことになるゆっくりとした旅路など罪悪以外の何物でもない。  だが、きっとこの程度の日数は、終わってみれば後悔《こうかい》するほどに短いだろう。  指折り数えて、止まった指を眺《なが》めて思う。  どうにかして、これを折る方法はないだろうかと。 「ニョッヒラでのんびり湯に浸《つ》かって、十日」  ホロが手を伸ばしてきて、ロレンスの指を折った。  手を重ね合わせているその様は、二人で凍《こお》った手を温めている夫婦に見えなくもない。  確かに、ロレンスは顔がほころび、心が温まった。  ホロが顔を上げ、ロレンスに微笑《ほほえ》みかける。  まったく、恐《おそ》ろしい笑顔だ。  ニョッヒラで十日の滞在。それは確かに顔がほころび心が温まるに相応《ふさわ》しいものだ。  温泉地で十日の滞在などいくらかかるかわかったものではない。滞在客の足元を見た宿泊《しゅくはく》費に、まずくて高いという最悪の食事。信じられない値段の真水に、薄《うす》くて臭《くさ》い酒。入湯税もかかるうえに効き目の強い温泉に浸かれば一日に二回は医師の検診《けんしん》を受けなければならない。湯水のように金がかかるとはまさしくこのこと。  それでも、こんな頃合《ころあい》で言われたらそれを否定することなどできない。  賢狼は、どこまでも狡猾《こうかつ》だ。  奥歯にたくさん物を詰《つ》め込んで表現するのなら、顔がほころんで、心も温まるというものだ! 「その顔は、金を数えておる顔じゃな?」  重ねた手を引き寄せて、ホロは軽く頬《ほお》ずりすると意地悪げにそう言った。  尻尾がゆらゆらと挑発《ちょうはつ》するように揺《ゆ》れている。  いっそのことロレンスはそれを掴《つか》んで頬ずりしてやろうかとも思う。 「わっちが行った頃《ころ》から人はいたし、時折人の姿でも入っておったからの、多少の仕組みはわかっておる。じゃが、わっちゃあヨイツの賢狼《けんろう》ホロじゃ。誰《だれ》もおらぬところであれば、いつもの食費にちょっと足せばすむじゃろう?」  確かにそのとおりだが、温泉は湯の奇跡《きせき》に与《あずか》って一分一秒でも長生きをしようと願う殺したって死なないような連中が集《つど》う場所だ。  ほとんど巡礼《じゅんれい》の様相を呈《てい》しているせいで、苦労すればするほど効能があるといわれ、なぜよりによってそんなところに、と言われるほど辺鄙《へんぴ》な場所にある湯を見つけるのがある種の名誉《めいよ》になっている。  果たしてそんな中でホロが誰《だれ》にも見つかっていない湯を見つけることができるのかは甚《はなは》だ怪《あや》しいところだが、一つだけ確かなことがある。  いつもの食費にちょっとだけ足せばいいの『ちょっと』は、絶対にちょっとではないということだ。 「お前が食費にちょっと足してくれというたびに、俺の夢はちょっと遠ざかるんだが」  釘《くぎ》を刺《さ》さなければなにをねだられるかわからない。  途端《とたん》、ホロがいい度胸だといった顔つきをするが、そこは譲《ゆず》れない。  たとえ、ホロに面と向かって好きだと言って完全な劣勢《れっせい》であっても、だ。 「色々とぬしをからかう言葉をわっちゃあ持っておるがな、その前に、じゃ」  こほんと小さく咳払《せきばら》いをしてから、ばさっと尻尾《しっぽ》を振《ふ》ってこう言った。 「ぬしは店を持つ夢を蹴《け》ってわっちを迎《むか》えに来てくれたのでは?」  試《ため》すような上目遣《うわめづか》い。  琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》が、薄《うす》い唇《くちびる》の隙間《すきま》から漏《も》れる白い息の向こうで、光っている。 「ひとまず、蹴っただけだ。諦《あきら》めたわけではない」  そんな言い訳が通るかとばかりにホロが大きく息を吐《は》く。  それに、実際、その言葉のいくらかは嘘《うそ》だ。  人の嘘を簡単に見|抜《ぬ》くホロにはとっくに見抜かれているだろうが、それを指摘《してき》される前に白状することにした。 「だが、まあ、多少は本気で蹴った」 「曖昧《あいまい》な言葉で抜け道を残しておくのは商人の性《さが》かや」  呆《あき》れたように言われ、「本気で蹴りました」と言い換《か》える。 「ならば無駄遣《むだづか》いをしてもいいじゃろうが、と言うのは、ぬしが蹴った理由を聞いてからにしよう」  ありがたき幸せ、とでも答えるべきかと悩《なや》んだが、ロレンスは肩《かた》をすくめてこう答えた。 「店を持ったら、きっと商売の楽しさは半減してしまうだろうからな」 「……うん?」 「いざ店を持てそうになったら、漠然《ばくぜん》と感じたんだ。店を手に入れたらもうそこで冒険《ぼうけん》は終わり、というようなことを」  金儲《かねもう》けの匂《にお》いがすれば引きつけられないわけではない。  ただ、なににも優先して、どんな嵐《あらし》の中でも決して道に迷うことなくまっすぐそこに向かうように、金儲けをしたいとはもう思わなくなった。  手に入れたら、もったいないような気がしてしまった。  ずっと追いかけてきたからこそ、ひたすらそこに向かってきたからこそ。  ホロはつい今しがたまでの冗談《じょうだん》めかした表情を一掃《いっそう》して、それから、「ふむ」と呟《つぶや》いた。  どんな楽しいことでもいつかはつまらなくなってしまう、ということを長寿《ちょうじゅ》ゆえに恐《おそ》れているホロにも通じることだろう。 「まあ、それでも長年の夢だったからこそそう思う、というところも斟酌《しんしゃく》して欲しい。店が手に入るのなら、そりゃあ嬉《うれ》しくないことはないからな」  ゆっくりとうなずいたホロは、しかし、少し困惑《こんわく》した顔でこう言った。 「それは……ふむ。災難《さいなん》じゃったな」 「ああ……ああ? 災難?」  まったく意味のわからない発言に、ロレンスはホロを見つめて聞き返すと、ホロはさも当たり前といった顔をしていた。 「それはそうじゃろう。理由はあれど、それなりに本気で夢を蹴《け》ってわっちを迎《むか》えに来てくれたようじゃからな。ふむ。これはもう、二兎《にと》追う者は一兎も得ずという言葉を作った人すら肩《かた》をすくめてしまうものじゃろう?」  ロレンスはぽかんと口が開いているのを実感しながらも、それを閉じることすらしないで頭を回転させた。  何度検算しても、ホロの言葉が指し示す事実は一つしかない。  一兎を諦《あきら》めてもう一兎を追ったが、手に入らなかったということだ。  さすがにロレンスの頭に財布《さいふ》を落としたような嫌《いや》な感覚が湧《わ》き上がる。  冗談《じょうだん》にしても、やめて欲しい。  そう思って一度顔を背《そむ》けてもう一度ホロのほうを見なおすと、その顔は病人を哀《あわ》れむようなものだった。 「ぬしよ、大丈夫《だいじょうぶ》かや? しっかりしてくりゃれ。だって、ぬしはなにも手に入れておらぬじゃろう?」  それが怒《いか》りだったのか悲しみだったのか、はたまたそれ以外のなにかか。  ホロがまったく異国の言語を喋《しゃべ》っているように思えた瞬間《しゅんかん》、その唇《くちびる》がにゅっと両端《りょうはし》につり上がり、意地悪な舌がちろりと覗《のぞ》いた。 「くふ。だって、ぬしはわっちに手を出しておらぬじゃないかや。手を伸《の》ばさずに手に入れるとは、ぬしはどんな不思議な手を使いんす?」  この時ほどホロを水の中に沈《しず》めたいと思った時はない。  その主たる理由は、自分のもっとも見られたくないような顔を見られているからだ。 「くっくっく。ま、縄張《なわば》りも実際に縄を張っておるわけじゃありんせん。そこのところをどう思うかは、ぬししだいじゃな」  ホロが体を寄せてきて、狼《オオカミ》が狼に寄り添《そ》うように、顔を上に向けて言ってくる。  その白く温かい息が首筋に当たる。  そちらを見たら負けだと思っている。  そして、そう思っている時点できっと負けなのだ。 「ま、ぬしが本気で夢を諦《あきら》めたわけではないのはわっちも望むところじゃ。それに、店を持って満足したら、次は弟子《でし》でも取ればよかろう? これがなかなかに奥深いことでな、まず心休まる日など来ないじゃろうな」  ホロはそう言って、けらけらと笑いながら顔を離《はな》した。  散々その身を食われて骨だけになった魚というのはこういう気分なのだろうと思った。  今更《いまさら》じたばたしたって事態は好転しない。  せめてこれ以上の無様は晒《さら》さぬようにと深呼吸をして、吐《は》いた。  ホロは、余韻《よいん》を楽しむように静かに笑っていた。 「しかし、お前|弟子《でし》なんて取ってたのか」  まだ若干《じゃっかん》声が強張《こわば》っていたが、ホロはそこのところは見|逃《のが》してくれた。 「む? うむ。わっちゃあヨイツの賢狼《けんろう》ホロじゃからな。わっちに教えを請《こ》う連中は多かった」 「へえ」  ロレンスはつい先刻までのやり取りも忘れて、素直《すなお》に感心してしまった。  すると、それが意外だったのかホロは急にはにかんだ。  もしかしたら、からかうのがうまくいきすぎたのを相殺《そうさい》するために、わざと大袈裟《おおげさ》なことを言ったのかもしれない。 「もっとも、あれらを弟子と呼ぶかは甚《はなは》だ怪《あや》しいんじゃが……少なくとも連中はそう称《しょう》しておったような気がする。まあ、とにかくわっちゃあそんな連中の一番上におったんじゃ。ぬしなど新しくわっちの教えを受けようと思えば、ふむ。百は順番を待たねばならんな」  一転、得意げにホロは言うが、いつものようにロレンスはそれを笑うことができない。  よくよく考えれば、ホロはそういう存在なのだ。  ただ、そこにあるはずの威厳《いげん》にどうしても違和《いわ》感を覚えてしまうのは、数々のホロの記憶《きおく》が蘇《よみがえ》るからだろう。  泣いて、笑って、怒《おこ》って、すねたりするようなホロが雲の上の存在だとは、今更《いまさら》言われてもまったく実感などできはしない。  ロレンスがそんなことを思っていると、ホロは柔《やわ》らかな笑顔《えがお》に変えてロレンスの手を取った。 「もちろん、ぬしはわっちに教えを請うどころか、わっちの手綱《たづな》を握《にぎ》ろうと必死な珍《めずら》しいたわけじゃからな。それが成功するかは絶望的じゃが、わっちと同じ目線の高さにいようとしておることは間違《まちが》いない。わっちゃあずっと山の上に一人でおった。もう下から目を向けられるのはこりごりじゃ」  神として崇《あが》められることは、孤独《こどく》になるということだ。  ホロと出会った当初、ホロは友達を探しに旅に出たと言っていたことを思い出す。  ホロは笑顔のままだが、少し寂《さび》しそうに笑っている。 「ほれ、ぬしはわっちを迎《むか》えに来てくれたじゃろう?」  言葉こそロレンスをからかうそれだが、寂しそうな笑顔のまま言われたらまさかからかわれているとは思わない。  むしろロレンスは苦笑いしてしまい、ホロがそれに不機嫌《ふきげん》そうな顔をした。  ホロの肩《かた》に腕《うで》を回して抱《だ》き寄せると、ロレンスの腕の下でため息を小さく一つつく。  それが満足げなものに聞こえたのは、気のせいではないだろう。 「わっちゃあ今は……」  と、再びもそりと動いて上半身を回転させると、ちょうど顔が上と下で向き合う形となった。 「こうやって、下からぬしを見上げるのがな、とてもとても、楽しい」  すぐ側《そば》にある、どちらかと問われれば、可愛《かわい》らしい少女の上目遣《うわめづか》い。  ホロとのやり取りには慣れても、これだけはなかなか慣れることができない。 「そこから見上げる俺の顔は、さぞ間抜《まぬ》け顔だろうからな」  だからロレンスが顔をしかめてそう答えると、狼《オオカミ》少女はご満悦《まんえつ》の様子でひっしとしがみついてくる。  ホロの尻尾《しっぽ》がわさわさと揺《ゆ》れるたびに、こんな尻尾にいられるかとばかりに蚤《ノミ》が飛んでいった。さもありなん、とロレンスが胸中で呟《つぶや》くと、急に胸元《むなもと》が温かくなる。ホロが、顔を押しつけたまま笑ったのだ。  ロレンスも笑う。確かに、こんな様を見られたらどんな忠実な弟子《でし》であっても師匠《ししょう》とは呼んでくれないだろう馬鹿《ばか》なやり取りだ。  だが、ホロが望んでいるのだから仕方がない。  ロレンスは、せめてもの言い訳として、胸中でそう言ったのだった。  ふと、積荷《つみに》の向こうで人の動いた気配がしたと思ったら、腕枕《うでまくら》のあとなのか、頬《ほお》にくっきりと妙《みょう》な跡《あと》をつけたラグーサが大きく伸《の》びをしていた。  ロレンスと目が合うと、次にロレンスに寄りかかって眠《ねむ》るホロに目をやり、にかりと笑って大欠伸《おおあくび》をする。  そして、指差された船の前方に目をやれば、その先には川の両岸にかけられた桟橋《さんばし》が見えていた。野や山を荷馬車で行く旅でも避《さ》けられない、関税の徴収《ちょうしゅう》所だ。  まだそこまでにはいくらか距離《きょり》があるのに、居眠りしていても経験でわかるらしい。海の船乗りは自分たちがどこにいるのかを陸地の目印ではなく海の匂《にお》いで判別するというが、ラグーサもそうなのだろうか。そんなことを思っていると、川底に棹《さお》を突《つ》き立てたラグーサが大きな声を上げ、気持ち良さそうに寝《ね》ていたホロがぴくりと目を覚ました。 「最近|代替《だいが》わりをしたディージン公《こう》の関所だ。人頭税は料金に含《ふく》めておこう! 最近、鹿狩《シカが》りにご執心《しゅうしん》らしく関税が高い高い!」  鹿狩りと関税が高いことへのつながりがわからず聞き返すと、ラグーサは笑って答えてくれた。 「公は一度も戦《いくさ》に出たことがないのに自分の弓の腕前《うでまえ》は世界一だと自認《じにん》しておられる。つまり、一弓|撃《う》つたびに鹿が取れないわけがないと思っておられるのだ」  狩りに同行させられる家臣《かしん》たちの苦労がしのばれるが、公の獲物《えもの》を事前に狩っておく近隣《きんりん》の狩人《かりうど》たちにはよい仕事だろう。  ロレンスは、町で道化が笑いものにするような、世間知らずで丸々肥えた、巻き毛の領主を思い浮かべてちょっと笑ってしまった。 「なるほど。そりゃあ、館《やかた》の人間も大変ですね」 「挙句《あげく》に、意中の姫《ひめ》の心を射止めるのにも熱心でね。もっとも、こちらはご自分の腕前を最近理解し始めたという噂《うわさ》だが」  なんだかんだで人々に好かれる領主というのは、たくさんこき下ろせる領主だったりする。  世間知らずで偉《えら》そうな領主は嫌《きら》われるが、そこに間抜《まぬ》けな話が加わると途端《とたん》に愛嬌《あいきょう》が出るからだ。民の意見に耳を貸し、厳格で真面目《まじめ》な性格であったとしても、領主という商売は得てしてうまくいかないことがあるから難しい。  ラグーサも口では馬鹿《ばか》にしきった言い方だが、関税の支払《しはら》いを用意する様からはいやいや支払うという感じがしない。  間抜けで馬鹿にされるディージン公とやらも、領地が戦《いくさ》に巻き込まれ、いざ果敢《かかん》に剣《けん》を取って立ち上がったら、どこの領主よりも領民が付き従ってくれるのかもしれない。上からあれこれ言われるよりも、自分たちがいないと駄目《だめ》なんだと思わせるくらいのほうがかえって良いのだろう。  ロレンスはそんなことを思い、ふと身近にそんな話があったような気がして、すぐ側《そば》のホロを見た。 「なにか言いたいことがあるかや?」 「いや、なにも?」  ラグーサの船はゆっくりと速度を落とし、すでに一|隻《せき》船が停船している桟橋《さんばし》へと近づいていった。  しかし、この川のことならば魚の親子の仲まで知っていそうなラグーサでなくとも、桟橋《さんばし》の上が妙《みょう》なことになっているのがわかった。  長槍《ながやり》を持った兵士と、誰《だれ》かが言い争っている。  なんと言っているのかはわからないが、少なくとも片方が怒鳴《どな》っているのだということだけはわかった。  ラグーサの船の前を進んでいる船の主も、立ち上がって何事かと首を長くして桟橋のほうを見ていた。 「揉《も》めてるとは珍《めずら》しい」  ラグーサが目の上に手でひさしを作り、暢気《のんき》な様子で口を開いた。 「税金が高すぎるとでも言っているのでは」 「いやあ。税金が高すぎると言って怒《おこ》るのは海から来る奴《やつ》らだけだ。金|払《はら》って馬を使って船を上流に引き上げ、挙句《あげく》に積荷《つみに》に税をかけられるからな」  ホロが牙《きば》を隠《かく》しながら欠伸《あくび》するのをひとしきり眺《なが》めてから、ロレンスはおかしいことに気がついた。 「ですが、それは海からの船も上流からの船も同じでは?」  目尻《めじり》の涙《なみだ》をロレンスの服で拭《ふ》くホロの頭を軽く小突《こづ》き、ロレンスが言うとラグーサは棹《さお》を引き上げて大きく笑う。 「俺らのように川で生きる者にとって川は家だからな。家に住むのに家賃を払うのは当然だ。だが、海の連中にとっちゃ道の一つでしかない。町の中で道を歩くたびに金を取られたんじゃ腹も立つだろうぜ」  なるほど、とロレンスはうなずいて、色々な考え方があるものだと感心した。  そして、そうこうしているうちに全貌《ぜんぼう》が見えてきた。  どうやら桟橋の上で揉《も》めているのは長槍を持った兵士と一人の少年らしい。  怒鳴っているのは少年だ。  肩《かた》で息をして、口から吐《は》くのは白い煙《けむり》のようだ。 「だって、ここに確かに公《こう》の印があるじゃないですか!」  声変わりをしているのかいないのか。  それくらいの声をしている少年は、確かにまだ若かった。  年の頃《ころ》は十二か、十三。灰色に見えるぼさぼさの髪《かみ》の毛に、泥《どろ》か垢《あか》にまみれたどちらにせよ汚《きたな》い顔。体つきは華奢《きゃしゃ》なホロとぶつかってもどっちが倒《たお》れるかわからないくらいで、身にまとっている服に至ってはくしゃみをすれば散り散りになってしまいそうなぼろだった。  足首も細く、底が磨《す》り減《へ》っているのが一目でわかる草履履《ぞうりば》きなのが寒々しい。これで髭《ひげ》を蓄《たくわ》えた年寄りならば信仰心《しんこうしん》篤《あつ》い者たちから尊敬のまなざしを集める隠者《いんじゃ》といった具合だ。  そんな少年が、右手に一枚の古びた紙を持ち、ほとんど喘《あえ》いでいるような息をしながら、兵を睨《にら》みつけていた。 「どうしたのかや」  昼寝《ひるね》を途中《とちゅう》で妨《さまた》げられて不機嫌《ふきげん》そうなホロが訊《たず》ねてきた。 「わからない。というかお前なら怒鳴《どな》ってた内容が聞こえていたんじゃないのか」 「くあ……あふ。寝ておったらさすがのわっちでもわからぬ」 「そうだな。自分のいびきも聞こえないくらいだからな」  そう言った直後に、ホロに加減なく足を蹴飛《けと》ばされた。  ロレンスの抗議《こうぎ》が妨げられたのは、それまで黙《だま》っていた兵が声を荒《あら》げたからだ。 「だからそれは偽物《にせもの》だと言っているだろう! いい加減にしないと我々にも考えがあるぞ」  そして、長槍《ながやり》を持ち替《か》える。  少年は口を引き結び、泣き顔のように顔をしかめた。  船は速度をさらに落とし、桟橋《さんばし》の少し手前ですでに止まっていた前の船に横づけになった。  その船の船主はラグーサとは知り合いらしく、二人は軽く挨拶《あいさつ》すると額を寄せて囁《ささや》き合っている。 「なんだいありゃ。レノンの旦那《だんな》の弟子か?」  顎《あご》をしゃくった先には、すでに停船していた船の主がいる。ラグーサたちよりもさらに一回り年上の、頭に白いものが混じった船頭だ。 「だとしたら困り顔で船の上にはいねえだろ」 「そうだなあ。ああ、もしかして……」  と、暢気《のんき》に話す二人の船頭をよそに、桟橋の上では少年が寒さのためか、それとも激昂《げきこう》しているためか、足と肩《かた》を震《ふる》わせながら自分が手にしていた紙を見つめている。  まだなにか諦《あきら》めきれないといった様子で顔を上げたが、突《つ》きつけられた槍の穂先《ほさき》の前に唇《くちびる》を噛《か》む。  その足は一歩、また一歩と下がり、ついに桟橋の袂《たもと》でへたり込んでしまった。 「騒《さわ》がせたな。では引き続き税を……」  兵の一人の声で、やり取りを見つめていた船頭たちは各々《おのおの》行動を開始した。  よくある光景だといわんばかりの無関心ぶりだ。  ひとり残された少年のその手には一枚の紙があり、ロレンスはそこに赤い判のようなものが押されているのが見えて合点《がてん》がいった。  少年は、たちの悪い商人にでも引っ掛《か》かったらしい。 「騙《だま》されたんだな」 「うむ?」  白髪《しらが》まじりの船頭が操《あやつ》る船が先に出て、その場所に別の船が入り、すぐ脇《わき》にぴったりとラグーサの船が続く。  ロレンスは、船が揺《ゆ》れたのに合わせてホロの耳元で口を開いた。 「時折あるんだよ。偽《にせ》の免税特権の勅許《ちょっきょ》状とか、領主からの支払《しはら》い督促《とくそく》状とか。大方、この川の税の徴収《ちょうしゅう》権を謳《うた》った証書でも掴《つか》まされたんだろう」 「ふむ……」  大概《たいがい》その手のものは、その証書がもたらす利益とはかけ離《はな》れたような安値で取引されるものだが、どういうわけか買い手はそれを本物と思い込むことが多い。 「ちょっとかわいそうじゃな」  川には関所を目指して次から次へと下ってくる船が列を成している。  余計なことで手間を取らされた関所の兵たちは慌《あわただ》しく税のやり取りをし、そんな姿の向こうで少年はもう完全に忘れ去られていた。  ホロの言うとおり、その姿を見れば確かに哀《あわ》れを誘《さそ》うには十分すぎるものだが、ちょっと立ち止まって考えればわかりそうなものに引っかかった報《むく》いといえばそうだ。 「いい勉強になっただろうさ」  だからロレンスがそう答えると、ホロは視線を少年からロレンスに戻《もど》し、少し責めるような目つきで見た。 「薄情《はくじょう》だ、とでも?」 「ぬしも欲を掻《か》いて失敗した時、助けを求めて歩き回っていたような気がするがな?」  少しむっとしてしまうが、だからといって少年に小銭《こぜに》でも恵《めぐ》んでやるのは商人の倫理《りんり》に反することだ。 「俺はそれでも自らの足で助けを求めて回ったはずだ」 「むう」 「助けを求めてきた手を振《ふ》り払《はら》うほど俺も心根は冷たくないと思ってはいる。だが、立ち上がろうとしない者までをも助けようと思う者は、とてもじゃないが商人にはなれない。僧服《そうふく》に着替《きが》えて、教会に行くべきだ」  ホロがなにかを考えているのは、それでも少年がかわいそうだと思うからだろう。  嫌々《いやいや》とは言っていたものの、何百年と同じ村で感謝もされずに麦の豊作を司《つかさど》っていたような義理堅《ぎりがた》いホロのことだ。  困っている者がいたら助けてやりたくなるのは性分《しょうぶん》かもしれない。  ただ、そんな者をいちいち相手にしていたらきりがないというのもまた事実だ。この世には哀れな者はあふれているのに、神様の数は少なすぎる。  ロレンスは、毛布を掛《か》けなおして呟《つぶや》いた。 「だから、あれが自分の足で立ち上がってきたならば、あるいは……」  心|優《やさ》しくも、世間知らずではないホロならわかってくれるはず。  あの少年には気の毒だが……、とロレンスが少年のほうを見た瞬間《しゅんかん》、目ではなく、耳を疑った。 「先生!」  甲高《かんだか》い声が響《ひび》いた。  その場にいるのは、市場などの交錯《こうさく》する大声のやり取りの中で生きる者たちだ。その声が誰《だれ》に向けられたものなのか瞬時《しゅんじ》に理解することができる。  少年が立ち上がり、兵の制止も聞かずに桟橋《さんばし》を一直線に走る。  向かう先は当然、その声の向けられた先。  ロレンスだ。 「先生! 僕です! 僕ですよ!」  そして、その口から出てきたのはそんな言葉だった。 「んっ……なっ」 「ああ、会えてよかった! 食べるものもなにもなくなってしまって困っていたところなんです! この幸福を神に感謝するほかありません!」  その顔には嬉《うれ》しさなどは微塵《みじん》もなく、必死な形相《ぎょうそう》でまくし立てている。  ロレンスは呆気《あっけ》に取られて見つめ返し、頭の中では商人|自慢《じまん》の記憶《きおく》帳が少年の顔を見たことがないかとものすごい勢いでめくられていた。  だが、結論は先生などと呼ばれるような少年に知り合いなどいない、というものだ。それとも、旅の途中《とちゅう》で生きる糧《かて》の稼《かせ》ぎ方を教えたりした子供たちの誰かだろうか。  そこでロレンスは気がついた。  いや、これは少年の起死回生を賭《か》けた大芝居《おおしばい》なのだ。  そう気がついた時には、一足先にそれに気がついた関所の兵が、槍《やり》の柄《え》の先端《せんたん》で少年を押し倒《たお》し、針で縫《ぬ》いつけるように背中に押し当てていた。 「小僧《こぞう》!」  関所は権力者の権威《けんい》の象徴《しょうちょう》だ。  そこで詐欺《さぎ》があったとなっては面目《めんぼく》が丸つぶれになる。  下手をすれば少年は本当に川に沈《しず》められる運命だろう。  それでも、そのくすんだ青い目はロレンスのことを見つめていた。  鬼気迫《ききせま》り、ここで失敗すればもはや死ぬほかない、と訴《うった》えるような、そんな目に魅入《みい》られるように息を止めていたロレンスは、ホロに脇腹《わきばら》を小突《こづ》かれて我に返った。ホロの顔は少年でもロレンスでもないあらぬ方向に向けられている。その代わり、その横顔には自分の言葉を忘れるなよと書いてあった。  少年は、自らの足で立ち上がり、声を上げたのだから。 「ディージン公の名を汚《けが》すとはいい度胸だ!」  川には次から次へとこの関所を目指して下ってくる船が列を成している。  滞《とどこお》りがあれば不手際《ふてぎわ》を責められるのは彼らだから、そんな折に仕事の邪魔《じゃま》ばかりする少年にいい加減に堪忍袋《かんにんぶくろ》も限界だったのだろう。  槍《やり》を少年の背中に押しつけたまま、その脇腹《わきばら》めがけてだろう、足を振《ふ》り上げた。  その瞬間《しゅんかん》。 「待ってください!」  ロレンスのその声がかかるのと、兵の足が振り下ろされるのはほとんど同時だった。  勢いを止めきれなかった足が少年の体を軽く押し、「ぐう」と蛙《カエル》のようなうめき声が聞こえた。 「確かに、私の知り合いのようです」  兵はロレンスのほうを見るや、慌《あわ》てて少年から足を離《はな》すが、すぐにロレンスの真意に気がついたらしい。少し不快そうな表情を浮かべてロレンスと少年とを見比べると、ため息まじりに槍の柄《え》を少年の背中から外した。  誰《だれ》がどう見たって少年の大芝居《おおしばい》だということはわかりきっている。  その目は、お人好《ひとよ》しですな、と無言のうちに言っていた。  少年は自分の大芝居がうまくいったことが信じられないように目をぱちくりとさせていたが、事態が飲み込めるとすぐさま起き上がり、ぎこちない足取りではあるが一目散にラグーサの船に乗り込んだ。  ラグーサは税を支|払《はら》ったあとの財布《さいふ》の紐《ひも》を結《ゆ》わえる途中《とちゅう》で動きを止めて事の推移《すいい》を見守っていて、少年が自分の船に乗り込んでようやく我に返った。  それでも開けかけた口を閉じたのは、ロレンスと目が合ったからだ。 「おい、あとがつかえているんだ、早く船を出せ!」  そう叫《さけ》んだのは、問題は桟橋《さんばし》から船の上に移ったと言わんばかりの兵だ。  早く厄介払《やっかいばら》いをしたいのもあるだろうが、実際に船はあとからあとから下ってきている。  ラグーサはロレンスに向かって軽く肩《かた》をすくめると、船に乗って棹《さお》を手に取った。船代さえ払えば文句は言わないだろう。  そして、件《くだん》の少年は船に乗り込んだはいいものの、腰《こし》が抜《ぬ》けたのか、それとも体力の限界だったのか、ロレンスたちのいる船首部分へとたどり着いたところで倒《たお》れ込《こ》んでしまった。  ホロがようやくロレンスのことを見る。  その顔は、まだ少し不機嫌《ふきげん》だった。 「ここまで来たら、仕方ないだろ」  そして、ロレンスがそう言うとホロは初めてうっすらと笑い、毛布から抜《ぬ》け出て足元に転がっている少年に手をかけた。  普段《ふだん》は人のことをからかって嘲《あざけ》り笑うのが趣味《しゅみ》のように見えても、膝《ひざ》をついて少年に声をかけているのを見ると、見た目どおりの心|優《やさ》しい修道女のように見える。  その様子がとても様になっているのがまた、ロレンスには面白《おもしろ》くない。  自分の行動基準に自信がないわけではないが、どうしたってそんなホロと比べれば自分は薄情《はくじょう》な人間だ。  少年に怪我《けが》がないとわかったホロは、その体を起こして船の縁《ふち》にもたれかけさせた。  ロレンスは水を手にとって渡《わた》してやる。  ホロの陰《かげ》になっていた少年の手に、未《いま》だしっかりと証書が握《にぎ》られているのが見えた。  なかなか見上げた心意気だった。 「ほら、水じゃ」  ホロはそれを受け取り、少年の肩《かた》を叩《たた》く。  すると、気絶しているかのように目を閉じ、ぐったりとしていた少年がゆっくりと目を開け、目の前のホロと、その後ろのロレンスを交互《こうご》に見る。  それから、恥《は》ずかしそうに笑ったのを見た時、一時は少年を見捨てようとしたロレンスはつい顔を背《そむ》けてしまった。 「助……かります」  それが水への礼なのか、それとも大芝居《おおしばい》に付き合ってくれたことへの礼なのかはわからない。  どちらにせよ、損得|勘定《かんじょう》の絡《から》まない場所で礼を言われることに慣れていない身にはちょっと面映《おもはゆ》い。  よほど喉《のど》が渇《かわ》いていたのか、この寒いのにためらいもなく水を飲む少年は、ちょっと咳《せ》き込んでから満足そうに深呼吸をした。  この様子を見ると、レノスから来たわけではなさそうだった。川を横切るように存在する街道《かいどう》はいくつかあるはずだから、そこを伝って北か南から来たのかもしれない。  一体どんな旅をしてきたのか。  磨《す》り減っているうえに寒々しい草履《ぞうり》を見る限り、あまり楽な旅ではなかったことだけはわかる。 「落ち着いたなら、少し寝《ね》るがよい。毛布はこれだけで足りるかや」  ロレンスたちが包《くる》まっていたもの以外に、予備のものが一枚ある。  それを渡《わた》すと、少年は望外の喜びに出会ったように目を見開き、うなずいた。 「お二人に、神のご加護があります……よう……」  毛布に包まると、そのまま、すとんと音がしそうなほどすぐに、眠《ねむ》りの中に落ちていった。こんな身なりでは野宿をしたところでとても夜に眠ることはできないはずだ。むしろ下手に寝《ね》れば死んでしまいかねない。  ホロはしばし心配そうに見つめていたが、規則的な寝息を聞いて安心したらしい。ロレンスも見たことがないような優《やさ》しげな顔をして、少年の前髪《まえがみ》を軽く撫《な》でると立ち上がった。 「ぬしもして欲しいかや?」  それはからかい半分、照れが半分か。 「甘えるのは子供の特権だからな」  肩《かた》をすくめながら答えると、ホロは笑ってこう言った。 「ぬしもわっちから見れば子供みたいなものじゃ」  そんなことをしていると、先ほどまでよりも速度を上げて川を下っていた船がようやく速度を落とした。前方の船にだいぶ追いついたということもあるし、ラグーサは突然《とつぜん》の乗船者に興味があるらしい。棹《さお》を置くと荷物|越《ご》しに声をかけてきた。 「まったく。一応無事なのかい」  もちろん少年のことだろう。  ホロがうなずくと、ラグーサは一度つるりと自分の顔を撫《な》でて、白い息を吐《は》いた。 「誰《だれ》かに騙《だま》されたんだろうなあ。今年は来なかったが、毎年寒くなると南から人が大勢やってきてな、怪《あや》しげな連中も山ほど来る。一昨年だったか、腕《うで》のいい偽証書《にせしょうしょ》書きがいてな、そんな子供ばかりでなく商人連中もよく引っ掛《か》かってた。以来、皆懲《みなこ》りたのか最近はとんと見なくなったがな。おそらく、その残りかすに引っ掛かったんだろ」  ロレンスは、毛布からはみ出ていた少年の手から、証書を注意深く取って広げてみた。  ヘルマン・ディ・ディージン公の、ローム川における船舶《せんぱく》の関税|徴収権委譲《ちょうしゅうけんいじょう》書。  流麗《りゅうれい》な、とは名ばかりの、ただわかりづらく書かれた文字でその権限の委譲について注意書きがずらりと書かれているが、本物を見たことがある者ならばすぐにそれらが偽物《にせもの》だとわかる。  そして、極《きわ》めつけはもちろんのこと、公《こう》の署名と、印だ。 「ラグーサさん。ディージン公の綴《つづ》りは?」 「ん、そりゃあ……」  と、ラグーサが答えたのと比べると、発音に引っ掛《か》からない小文字が一つ、違《ちが》っていた。 「印もまあ偽物でしょう。本物を偽造《ぎぞう》したとなれば縛《しば》り首《くび》ですからね」  ここが面白《おもしろ》いところだ。  本物の偽物を作れば縛り首だが、似たようなものを作ることは罪にならない。  ラグーサはやれやれと肩《かた》をすくめ、ロレンスも証書を丁寧《ていねい》にたたんで、毛布の内側《うちがわ》に入れてやった。 「だがね、料金はきちんと取らせてもらうからな」 「それは……ええ。もちろん」  ホロは怒《おこ》るだろうが、世の中|大抵《たいてい》のことは金で方《かた》がつくのだから。 [#改ページ]  第二幕  少年の名は、トート・コルというらしかった。  軽く一眠《ひとねむ》りして目を覚ますと、ホロもかくやというような腹の虫が鳴っていたのでパンを分け与《あた》えてやったのだが、そのパンを食べる様はどこか警戒《けいかい》しながら食べる野良犬のようだった。  その割に顔つきはそれほど荒《すさ》んでいないので、なんとなく捨て犬を思わせる。 「それで、これらの紙をいくらで買ったんだ」  コルが旅の商人から買ったという証書は一枚や二枚ではなく、コルが背負っていたほころびだらけの袋《ふくろ》の中から全部を取り出しまとめると、なんと冊子《さっし》ほどにもなった。  拳《こぶし》大のライ麦パンを二口で食べながら、少年、コルは短く答える。 「……一トレニーと……八リュート」  口の中でもごもご呟《つぶや》くようだったのは、パンを食べていたからではないだろう。  この身なりでトレニー銀貨一枚分も支|払《はら》ったのは、それこそ身を投げる思いだったに違《ちが》いない。 「ずいぶん思い切ったな……。旅の商人の身なりはそんなに良かったか」  それに答えたのはラグーサだ。 「いや、ぼろを着て、右|腕《うで》がない商人じゃなかったか」  コルは驚《おどろ》いて顔を上げ、うなずいた。 「そいつはこの辺じゃ有名な奴《やつ》でな。その手の紙を売り歩いてるんだ。大方、こう言われたんだろう? この右|腕《うで》を見てくれ、こんな危険を冒《おか》してまで手に入れたんだが、私はもうこの先長くない。だから故郷に帰ろうかと思う。そこでこの証書を、君に譲《ゆず》ろう」  目を点にしているので、もしかしたら一字一句同じだったのかもしれない。  詐欺師《さぎし》は大抵《たいてい》子分を連れているものだが、その手の文句は親分から子分へと連綿《れんめん》と受け継《つ》がれていくものなのだ。  また、詐欺師の失った右腕というのも、おそらくは警吏《けいり》に捕《つか》まって切り落とされたものだ。  金を盗《ぬす》む泥棒《どろぼう》は指。信用を盗む詐欺師は腕。命を盗む殺人者は首を刎《は》ねられる。もっとも、度が過ぎると打ち首よりも辛《つら》い絞首刑《こうしゅけい》になるらしいのだが。  なんにせよ、誰もが知るような詐欺師に引っ掛《か》かったことがよほど衝撃《しょうげき》だったのか、がっくりとうつむいて肩《かた》を落としてしまった。 「しかし、お前字は読めるのか?」  紙をめくりながら訊《たず》ねると、「少し……」と自信なさげな答えが返ってくる。 「この束、半分以上は証書ですらないな」 「……な、なんなのですか……?」  意外に綺麗《きれい》な言葉|遣《づか》いにちょっと感心する。やはり元はまともな主人に仕えていたのだろうか。出会いが出会いだったのでちょっと意外な感じがする。  そんなコルの表情は、もうこれ以上落ち込むこともないといった諦《あきら》めのそれだ。  その様がよほど哀《あわ》れだったのか、側《そば》に座っていたホロが気遣うようにパンを勧《すす》めていた。 「ほとんどがどこかの商会から盗まれてきたもろもろの書類だな。見ろ、為替《かわせ》を送ったぞという通知書なんかまで入っている」  と、ホロに手|渡《わた》したが、ホロは字が読めても為替の通知書などわからない。  首をひねってからコルに見せようとすると、コルは首を横に振《ふ》った。  自分の失敗を見せつけられるような気分なのだろう。 「この手のものなら、俺もよく見る。この紙そのもので金を引き出せたりするわけじゃないが、商人連中の酒の肴《さかな》くらいにはなる。大抵どこかから盗まれてきたもので、次から次へと人の手を渡るんだ」 「うちの取引先も以前やられたと言ってたな」  船の舳先《へさき》を少し右にずらしてから、ラグーサが口を挟《はさ》む。 「誰《だれ》が盗むんじゃ?」 「大抵は、その商会に奉公《ほうこう》しに来ていた小僧《こぞう》たちだ。こき使われしごかれ、逃げ出す時に行きがけの駄賃《だちん》とばかりに盗むんだよ。商売|敵《がたき》の商会ならそこそこの値で買うだろうし、もちろん、詐欺に使おうと思って買い集める連中もいる。大方、小僧同士連綿と受け継がれてる知恵《ちえ》なんだろう。金を盗めば商会は本気で追いかけてくるが、この手のものは商会の面子《めんつ》もあって追いかけづらいからな」 「む?」 「だって、例えば帳簿《ちょうぼ》の下書きを一枚|盗《ぬす》まれて血眼《ちまなこ》になって追いかけていれば、その下書きにはとんでもないことが書かれている、と思われるかもしれないだろう? それは商人にとって困ることだからな」  色々考えるものじゃな、とホロは感心するようにうなずいた。  ロレンスは喋《しゃべ》りながら一枚一枚めくっていたが、実際に見ていて面白《おもしろ》い。  どの商会がどの町のどの店になんの商品をいくらで発注し、などというのはなかなか見られるものではない。  ただ、コルには気の毒な話だ。  ロレンスがこれらを買うとしたら、せいぜい二十リュートがいいところだ。 「知らないことは罪ってやつだな。どうだ。お前、どうせ金なんて持っていないんだろ? 船代と飯代の代わりにこれを買ってやろうか」  ぴくりと眉《まゆ》が動いたが、視線をなかなか上げずに船の床《ゆか》をじっと見つめている。  きっと、頭の中で色々と計算しているのだろう。  この束の中にもしかしたら本物がまじっているかもしれない。あるいは全部が単なる紙くずで、この機会を逃《のが》したら買ってくれる人に巡《めぐ》り合えないかもしれない。それでも一トレニー以上もの大金を払《はら》って買ったのだから……。  ホロがロレンスの胸中を簡単に見|抜《ぬ》けるとうそぶくように、ロレンスも損得|勘定《かんじょう》なら簡単に見抜くことができる。  ただ、それはホロのように表情や態度の変化を見抜いてというわけではなく、単に自分も経験したことだからわかるといった感じなのだが。 「いくらで、ですか」  じっと、なにか恨《うら》みでもあるかのように見上げてくるのは、自信なさげにしていたら買い叩《たた》かれるとでも思っているからだ。  その努力が微笑《ほほえ》ましく、ロレンスは思わず笑ってしまいそうになったのをなんとかこらえ、一つ咳払《せきばら》いをしてから落ち着いて言った。 「十リュート」 「っ…………」  コルが顔を引きつらせたまま深呼吸をして、答える。 「や、安すぎます」 「そうか。では返そう」  ためらいもなく紙の束をコルの前に突《つ》き出した。  わずかに顔に塗《ぬ》った気力など、簡単にはがれてしまうものだ。  それに、はがれた様というものはそもそもなにも塗《ぬ》っていないよりもよほどみすぼらしく見える。  コルは突《つ》き出された紙とロレンスの顔とを見比べて唇《くちびる》を引き結んだ。  少しでも高く売ろうとして強気に出たら儲《もう》けがゼロになってしまった。しかし今からもう一度|頼《たの》むには強気の仮面が邪魔《じゃま》をしてできはしない。  そんなところだろう。  少し落ち着いてみれば、ホロとラグーサがやれやれと笑いながら見ているのだから、自分の弱みをさらけ出すことがむしろ活路を開くことになるとわかるはず。  商人が儲けのためにならいつでも誇《ほこ》りを捨てられるというのは、こういうことだ。  もちろん、コルは商人ではないし、まだ幼い。  ロレンスは紙の束を戻《もど》し、隅《すみ》で顎《あご》を掻《か》いた。 「二十リュート。これ以上は出せないな」  コルは水面から顔を出したかのように目を見開き、すぐに目を伏《ふ》せる。  喜んでいるところを見られたらつけ込まれる、といったところか。  内心ほっとしているのが見え見えなのだが、もちろん気がつかないふりをしておいてやる。  ロレンスがホロを見ると、あまりいじめるなと、片方の牙《きば》を剥《む》かれた。 「それで、お願いします……」 「ケルーベまで行くにはちょっと足りないがな。途中《とちゅう》で降りるか、さもなくば」  事の推移《すいい》をちょっとした余興のように眺《なが》めていたラグーサに視線を向けると、気のいい船主は「しょうがねえな」と笑って言葉を受け継《つ》いだ。 「途中で雑用もある。手伝えば、手間賃くらいは出してやる」  コルは道に迷った仔犬《こいぬ》のように周りを見て、それから、小さくうなずいたのだった。  川の関所は呆《あき》れるほどあちこちにある。  船を止めれば止めるだけ金を取れるのだから次から次へと作りたくなる気持ちもわかるが、これがなければ船旅は倍は速くなるはずだ。  それに、財力のある領主が作った関所となれば、川を横断するように街道《かいどう》のつなぎ目になっていたりして、そこで川を上下する船に新しく荷を積んだり受け取ったりといった作業もする。  そして人が集まれば船に乗る者たちに食べ物や酒を売ったりする物売りがいたりと、街道でいう宿場町の様相を呈《てい》していたりもするし、実際に町の雛形《ひながた》のようになっているところが多い。  そのせいで船の歩みはさらに遅《おそ》くなり、結局徒歩より遅くなることもままあるらしい。  ラグーサの船は急ぎだということだが、それでも毛皮を積んだ者たちとは比べ物にならない。  一刻も早くケルーベへと向かいたい彼らの船は、関税を文句を言わせない金額で放《ほう》り投げるように払《はら》うと、狭《せま》い川をものともせず高度な技術でもってラグーサの船を追い越《こ》していった。 「こんなことで狐《キツネ》に追いつくのかや……」  もう何度目かわからない関所に止まると、どうやらそこでラグーサは約束があったらしい。  早速《さっそく》駆《か》け寄ってきた商人らしき男と話し、コルの名を呼ぶと積荷《つみに》の移動を始めていた。  そんなわけで、また一|隻《せき》、また一隻と船が追い越していき、うたた寝から目を覚まし、ロレンスに寄りかかってぼんやりとしていたホロがそれを見て小さく呟《つぶや》いた。  船に乗ってからこの方《かた》、ホロがあんまりに眠《ねむ》そうなのでどこか悪いのだろうかと思ったが、質草《しちぐさ》としてデリンク商会にいた時に散々泣いていたことを思い出した。  自分が泣いた記憶《きおく》など久しくないので忘れていたが、泣くのは結構体力を使うものだ。 「ま、荷馬車よりかは速い」  コルから買い取った紙の束を見ながら適当に答えてやると、ホロも眠そうに「そうかや」と返してくる。  ゆらゆらと時折|揺《ゆ》れる船は揺り籠《かご》のようだ。  海のそれだと気分が悪くなるのに、川のそれは眠くなってくるのが不思議な気がしないでもない。 「あの小僧《こぞう》、意外に真面目《まじめ》ではないか」 「ん? ああ」  ホロは桟橋《さんばし》で荷物運びをしているコルを見ていた。  その言葉どおり、特に不満を言うでもなくラグーサの指示に従って荷の積《つ》み替《か》えを手伝っている。ラグーサの船から小麦の詰《つ》まった袋《ふくろ》を運び出すのは無理だったようだが、代わりに豆かなにかの詰まった小さな袋をいくつか積み込んでいた。  その様子を眺《なが》めていると、とても土壇場《どたんば》でロレンスを先生と呼んで一縷《いちる》の望みをつなぐような大胆《だいたん》な発想をするようには見えない。  もっとも、人間いざとなれば信じられないような力を発揮《はっき》するものだ。 「そりゃあ、こんなのに引っ掛《か》かるくらいだから、根は真面目なんだろ」  一トレニーと八リュートなどという中途半端《ちゅうとはんぱ》な値段からして、有り金|全《すべ》てを巻き上げられたのだろうと予測がつく。  騙《だま》される奴《やつ》というのは、欲を掻《か》くにしろなんにしろ、大抵《たいてい》が根は真面目なのだ。  だからこそ、相手が嘘をついているなどと夢にも思わない。 「根が真面目で騙されやすい、とはどこかで聞いたことがあるの」  調子を取り戻《もど》した途端《とたん》にこれだ。  ロレンスは相手にしないで、紙束に逃《に》げた。 「くっく。それで、なにか面白《おもしろ》いものはあったのかや」 「……まあ、いくつかな」 「ふむ……例えば?」  言って、ホロは何気ない様子で視線を桟橋《さんばし》のほうに向け、なにかに驚《おどろ》いている。  ロレンスも釣《つ》られて見れば、その先には今にもつぶれそうなほど荷物を積んだラバがいた。  ラグーサとコルが行商人の連れているラバに荷を積んだのだろう。  その様子はちょっとした芸のようだが、ホロはラバに同情するような顔をしていた。 「で、例えば、これだな。銅貨の買い付けの注文書だ」 「銅……貨? お金をわざわざ買うのかや。また前みたいなことをしようとしておる輩《やから》が他《ほか》にも?」 「いや、これは単に必要があって買うんだろう。相場よりも多少高い買い付け額なうえに、ほら。運送料、関税他はいつもどおり当方が支|払《はら》う、とある。定期的に買っている証拠《しょうこ》だ」 「う、む……待ってくりゃれ。なにか聞き覚えがありんす。なんでそんなことをするのかと……確か……」  ホロが眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて目を閉じる。  投機目的以外にも、貨幣《かへい》を買う理由というのはいくつかある。  特にそこに記してあるのは価値の小さな銅貨だから、理由は一つしかない。  ホロは、顔を上げるとようやく笑顔《えがお》になった。 「わかりんす。小銭《こぜに》じゃな?」 「ほう、よくわかったじゃないか」  そんな褒《ほ》め言葉にもいちいち胸を張るホロに笑ってしまう。 「そう。これは小銭に使うためにわざわざ輸入するんだ。買い物をしてもつり銭《せん》が用意できないんじゃまともな商売にならないからな。そして、細かいつり銭は旅人が毎日毎日町から持ち出してしまう。多分、この貨幣はケルーベを経由して海峡《かいきょう》を渡《わた》る。その先の島国、ウィンフィール王国は貨幣が少ないことで有名だ。だから、そこに流通するこの貨幣は別名ねずみ貨幣ともいう」  ホロがきょとんとする。  なんとなく、鼻を指で押したい誘惑《ゆうわく》に駆《か》られるような顔だ。 「戦争が起きそうになったり、国の情勢が不安定になったりすると、旅人と一緒《いっしょ》にこの貨幣が一斉《いっせい》にその島国から出ていってしまう。その様が、危機を察していち早く船から逃げ出す鼠《ネズミ》に似ているから、そういうんだよ」 「なるほどの。なかなかうまい表現じゃな」 「確かに誰《だれ》が名づけているのか知りたいくらいだな……あれ?」  と、話している最中に件《くだん》の買い付け書の一部分に目が止まった。  商会の名前をどこかで見たような気がしたのだ。  どこで見たのだったか、と考えていると、桟橋のほうから短い悲鳴が聞こえてきた。  顔を上げれば、コルが桟橋《さんばし》から落ちそうになっていた。幸いなことに濡《ぬ》れ鼠《ネズミ》になることは避《さ》けられたようだが、代わりにラグーサの分厚い手に襟首《えりくび》を掴《つか》まれ、まるで猫《ネコ》かなにかのようにぶら下がっている。  それから聞こえたのは笑い声と、見えたのはコルの恥《は》ずかしそうな笑顔《えがお》。  悪い奴《やつ》ではなさそうだ。  やはり、ホロの人を見る目はなかなかのものらしい。 「で、どうしたのかや」 「ん? ああ、ここに書かれている商会の名前を……どこかで見たような気がしてな。この紙の束だったかな」  ぺらぺらと適当にめくっていると、船が大きく揺《ゆ》れた。  ラグーサとコルが作業を終えて船に戻《もど》ってきた。 「ご苦労様。なかなか働き者じゃな」  船首部分に戻ってきたコルにホロが声をかけると、硬《かた》かったその顔が幾分《いくぶん》ほころんだ。  元々がおとなしい性格なのかもしれないが、ロレンスがなにかを探すように紙の束をめくっていることに気がついたらしい。  物問いたげな顔でロレンスのことを見つめていた。 「残念だが、金目《かねめ》のものがまざってたわけじゃない」  顔を上げずに言ってやると、ぎくりと体をすくませたのが気配でわかった。  ホロが小さく笑いながら、いじめるな、とばかりに軽く肩《かた》を小突《こづ》いてくる。  ただ、そんな期待もわからないではない。  実を言えば、ロレンスも一度この手のものに引っ掛《か》かったことがあるのだから。 「あった」 「ほう?」  一枚の紙を取り出した。  まだ綺麗《きれい》な紙で、文字もしっかりと残っている。  日付を見れば去年の今頃《いまごろ》。商会がさまざまな積荷《つみに》を船に載《の》せる際の覚え書きのようなものだろう。帳簿《ちょうぼ》に記す際に抜《ぬ》けがあると修正が利《き》かないので、下書きのようなものだ。だから実際に帳簿に記すのと変わらないくらい正確に記載《きさい》があり、綺麗な文字で商品名と量と行き先が書かれている。  世界各地とまではいわなくても、遠方の地の支店や仲間の商会と頻繁《ひんぱん》に連絡《れんらく》を取り合い、さらに地場の人間たちからも積極的に集めた情報が集まる商会の情報|網《もう》は、一介《いっかい》の行商人からすれば宝の山と同義の存在だ。  そんな商会が遠方へ送り出す荷の一覧《いちらん》は、そのままその商会が得ている情報を映す鏡となる。  もっとも、それを読み解くには知識が必要なのだが。 「だから、金目《かねめ》のものじゃない」 「え、あ、いえ……」  食い入るようにロレンスの手元を見つめていたコルが慌《あわ》てて顔をそらす。  ロレンスは笑い、腰《こし》を上げて腕《うで》を伸《の》ばした。 「ほら」  コルが窺《うかが》うようにロレンスのことを見て、それから、紙のほうに目をやった。 「いいか? 上に、ジーン商会テッド・レイノルズが記す、とある」  船が揺《ゆ》れて体勢的にも苦しかったので、ちょっと寒いが毛布から出てコルのいる側《そば》へと座りなおした。コルはやはり困惑《こんわく》気味にロレンスのことを見上げてきたが、興味は紙のほうにあるらしい。  くすんだ青い目が、「続きは?」と子供らしく催促《さいそく》していた。 「宛先《あてさき》は、ここから川を下った先にあるケルーベの港町から、さらに海峡《かいきょう》を渡《わた》ったところにある島国だ。ウィンフィール王国という。ああ、そうか。ここは例の狐《キツネ》の故郷だよ」  最後の言葉はホロに向けてのもの。  ぴくりとフードの下で耳が動くのがわかった。  本気で追いかけるつもりはなくても、エーブには穏《おだ》やかならぬ感情を持っているらしい。 「それでな、ケルーベの港町に集められた色々な品物を、そのウィンフィール王国にある商会、これは名前がないがな、に送る時の覚え書きだ。これが品物。読めるか?」  文字が読めるか、という問いかけに少しと答えたコルだ。  目が悪いかのように目を細め、じっと食い入るように紙に書かれた文字を見つめている。  引き結ばれていた口が、やがて開かれた。 「……蝋《ろう》、ガラス瓶《びん》、本……留め金? 鉄板……えーと……錫《すず》、金細工。それと……ア、ニー?」  見かけによらずなかなか物知りなことに驚《おどろ》いた。旅の途中《とちゅう》で商人の雑用でもしていたのだろうか。 「エニー貨。貨幣《かへい》の名前だ」 「エニー貨?」 「そう。なんだ、なかなか優秀《ゆうしゅう》じゃないか」  自分が師匠《ししょう》の弟子《でし》だった頃《ころ》、褒《ほ》められて一番|嬉《うれ》しかったのは頭をがしがしと撫《な》でられることだった。ロレンスは師匠ほど自分はがさつではないと自認《じにん》しているので、もう少し柔《やわ》らかくコルの頭を撫でてやる。  コルは驚いたように首をすくめ、それから、小さく恥《は》ずかしそうに笑った。 「商品名の隣《となり》の数字は、その量と、値段だ。残念ながら、この紙をかざしてもどこからも金は得られない。密輸の事実でも書いてあればまた話は別なんだがな」 「書いて、ないんですか?」 「残念ながらな。大体、これは密輸です、とか書かれていない限りわからない。あるいは、明確に禁輸品を持ち込んでいれば別なんだが」 「ヘー……」  と、うなずき、コルは再び紙に目を戻《もど》した。 「あの、それで……」 「なんだ?」 「この紙が、どうしたんですか?」  それは紙の束の中からわざわざこの紙を抜《ぬ》き出していたことについてだろう。  ロレンスはようやく目的を思い出し、軽く笑った。 「ああ、さっき見ていた紙に、銅貨の買い付け書というのがあって、そこの発注元がこの商会だったんだ。海を挟《はさ》んだこっちのプロアニア領で作られるのに、ウィンフィール王国で主に使われている銅貨でな、小銭《こぜに》用の……」  そう喋《しゃべ》りながら、ロレンスは奇妙《きみょう》な感覚を得た。  そして、顔を上げると腰《こし》も上げた。  反対|側《がわ》で紙の束をつまらなそうに見ていたホロが、驚《おどろ》いてロレンスのことを見る。 「どうしたかや」 「さっきの紙、どこだ?」 「む、それは、これじゃな」  がさがさとホロが一枚の紙を取り出し、ロレンスに手|渡《わた》す。  ロレンスは右手に覚え書きを持ち、左手にホロから受け取った買い付け書を持っている。  その二つを見比べ、奇妙な感覚の原因がわかった。  その日付の差はおよそ二ヶ月。記されている商会の名は同じ。  これは、左手の紙で買い付けられた銅貨が、右手の紙に書かれている覚え書きで輸出されているのだ。 「ほう、それはまた面白《おもしろ》い偶然《ぐうぜん》じゃな」  ホロも興味を持ったようにロレンスの手の中の紙を覗《のぞ》き込み、反対側からはおずおずとコルが覗き込む。  片腕《かたうで》のない詐欺師《さぎし》とやらはこの近辺一帯を根城《ねじろ》にしているらしいから、やはり手に入るのもこのローム川沿いの商会のものなのだろう。  それらが偶然、上流と下流の注文と売却《ばいきゃく》をくっつけたのだ。  ただ、ロレンスが奇妙な感覚を得たのは、なにもその偶然に対してではない。  商人ほど数字に異様な執着《しゅうちゃく》を見せる人間は他《ほか》にいない。  肩《かた》を並べる者がいるとすれば、占《うらな》い師《し》くらいのものだ。 「だが、数字が合わない」 「む?」  ホロが聞き返し、コルがじっと顔を近づける。どうやらコルは実際に目があまりよくないらしい。 「ほら、こっちは買い付けが五十七箱で、輸出が六十箱だ。三箱多い」 「……なにかおかしいのかや」  ロレンスが二つの紙を床《ゆか》に置き、指差しながら指摘《してき》しても、ホロならずコルまでも不思議そうな顔をしている。 「なにかってそりゃ……貨幣《かへい》は基本的に作れば作るほど作り手が儲《もう》かるものだ。だが、儲かるからこそその作る枚数は厳格に決められている。金は稼《かせ》ごうとするだけでも腐敗《ふはい》の温床《おんしょう》といわれるのに、それを作るんだからなおさらだ。誘惑《ゆうわく》はとても強い。だから、普通《ふつう》は発注されたらその都度決められた枚数だけきちんと守って作られるはずだ」 「じゃが、手元に送られてきたものを常に全《すべ》て送るかどうかもわかるまい? 海を渡《わた》った先に送るのであれば、船が揺《ゆ》れておればいつもより送る数を少なくしなければならなかったりするのではないかや。そうして余った分を足したのかもしれぬ」  よいところをついてくるが、たった三箱だけ余るというのも考えにくい。  もっとも、なにか事情があってそうなった、という可能性のほうが高いのもロレンスはわかっている。  常ならざる事象が目の前にあれば、つい疑ってしまうのが商人だ。 「まあ、それもそうなんだが、言ってみれば信仰《しんこう》の問題だ。俺はおかしいと信じるだけのこと」  ホロは唇《くちびる》をすぼめて、肩《かた》をすくめた。 「それに、この箱というのはなんじゃ? 貨幣ならば枚ではないのかや」 「え?」  冗談《じょうだん》かと思って聞き返すと、これにはコルもうなずいた。  二組の物問いたげな視線に挟《はさ》まれて、ロレンスはちょっとたじろぎつつもすぐに気がついた。  商人の常識は世間の常識ではない、ということをつい忘れてしまう。 「基本的に大量の貨幣は袋《ふくろ》にじゃらじゃら詰《つ》めて運ばない。なぜなら、数えるのが面倒《めんどう》だからだ」 「ぬしは冗談がうまい」  ホロの軽口にコルが笑い、二人で顔を見合わせている。  商人の知恵《ちえ》とは経験から生まれるものだ。  そして、それらの中には直感から外れるものもしばしばある。 「貨幣を一万枚|運搬《うんぱん》するとしよう。その時に、一万枚を数え上げるのにどれだけかかるだろうか。じゃらじゃら袋に詰めて運んでいては、袋から出し、一枚一枚拾い、並べて数えなければならない。一人だと、まあ半日はかかるだろう」 「十人にすればよい」 「そうだな。だが、盗人《ぬすっと》は一人よりも二人、二人よりも三人のほうが厄介《やっかい》だ。一人が数えるならば数が合わなければそいつ一人を疑えばいい。だが、十人だったら十人を疑わなければならないし、見張りも必要だろう。そんなことしていたら商売にならない」 「ふむ」とホロはうなずき、コルも首をひねる。  箱にする利点がわからないらしい。 「それにな、袋《ふくろ》だと途中《とちゅう》で盗まれてもすぐにはわからないだろう?」 「それは箱でも同じでは?」 「……あっ、わ、わかりました!」  コルが目を輝《かがや》かせて手を挙げた。  そして、つい挙げてしまったらしいその手に気がつき、慌《あわ》てて下げる。その慌てようは、隠《かく》していたぼろが出てしまったようなものだ。  ホロは首をひねっていたが、ロレンスのほうはそれを見て驚《おどろ》いてしまった。  その仕草は、学生がするものだからだ。 「お前、学生だったのか」  それなら好奇心《こうきしん》旺盛《おうせい》なのも、身なりの割に言葉|遣《づか》いが綺麗《きれい》で、意外に物知りなのも納得《なっとく》がいく。  しかし、その言葉に、コルがこれ以上ないほどに体をすくませた。つい今しがたまでのようやく心を開いてくれたような表情は消え、ロレンスのことを恐怖《きょうふ》の面持《おもも》ちで見上げ、後ずさる。  その様にホロが呆気《あっけ》に取られている。  それでも、ロレンスにはもちろんその理由がわかる。  だから落ち着いて、笑ってやった。 「なに、俺は旅の人間だ。大丈夫《だいじょうぶ》だよ」  打ち震《ふる》えるコルと、笑うロレンス。  その二人を見比べてホロは首をひねるが、とりあえずどういう状況《じょうきょう》なのかは察したらしい。  ふむ、と呟《つぶや》くと、あとずさってあとは川に落ちるだけというコルに近づき、ゆっくりと手を伸《の》ばした。 「わっちの連れはがめつい商人じゃが、呆《あき》れるほどお人好《ひとよ》しじゃ。そんなに怯《おび》えずともよい」  同じ笑顔《えがお》でも男と女では価値が違《ちが》う。  その上ホロはなかなかの器量良しときている。  ホロに腕《うで》を掴《つか》まれたコルは、当初こそ怯えてもがくように抵抗《ていこう》していたが、やがて引き寄せられると抵抗をやめた。  その様はまるっきりホロのようだ。 「くふ。ほれ、泣くでない。大丈夫じゃ」  日頃《ひごろ》ロレンスをからかってばかりいる生意気な姿を見なれているせいか、子供を上手にあやすようにコルを抱《だ》きしめているホロはなにか新鮮《しんせん》な感じがする。  線が細くて華奢《きゃしゃ》な体つきはどちらかというと男連中の保護欲をそそりそうなものだが、その中身は曲がりなりにも賢狼《けんろう》と呼ばれ、何百年も村のために尽力《じんりょく》してきた神に等しい存在なのだ。  度量の広さはそこいらへんの英雄《えいゆう》ですら敵《かな》わないかもしれない。 「まあ、そういうことだ。で、お前はなにがわかったんだ?」  とりあえず、安心させるにはコルが学生であることになどなにも興味はないと演出し、関係のない話をするのがいい。  ホロもそう思ったようで、小さく声をかけながら、ゆっくりと腕を解いた。  コルは依然《いぜん》として怯えるような色を目に残していたが、幾分《いくぶん》落ち着きを取り戻《もど》したらしい。  これは男の意地だったのだろうが、隠《かく》れるように涙《なみだ》を拭《ふ》いてから、顔を上げた。 「あ、あの、本当に……」 「ああ。神に誓《ちか》って」  この言葉は魔法《まほう》の言葉だ。  コルが深呼吸をして、鼻をすすった。  ホロとしてはちょっと複雑な心境だったらしく、苦笑いだった。 「え、えっと……その……な、なぜ、箱に詰《つ》めるか、ですよね」 「そう」 「それは……あの、箱なら、きっちりと詰《つ》められるからではないでしょうか」  ホロは相変わらず眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せている。  どうやらコルの勝ちらしい。 「実に優秀《ゆうしゅう》な答えだ。そう。決まった大きさの箱を取り決めておき、そこにぎっしりと規則正しく貨幣《かへい》を詰め込む。そうすれば、貨幣の大きさや厚さ、あるいは箱の規格が変わらない限り箱の中には常にきっちり貨幣が入っていて一枚でも盗《ぬす》まれれば一目瞭然《いちもくりょうぜん》だ。その上、その箱の中に何枚あるかが常にわかる。そうすれば無駄《むだ》に見張りを立てる必要もないし、貨幣を数え上げる人員もいらない。いいことずくめというわけだ」  ロレンスは言って、コルに笑いかける。 「俺は昔、これを自力で思いつけなかった。学生というのは伊達《だて》じゃないらしいな」  コルは驚《おどろ》いたように背筋を伸《の》ばし、それから照れ笑いを浮かべた。  対して面白《おもしろ》くなさそうなのはホロだが、本当に思いついていなかったかどうかは怪《あや》しいところだ。心|優《やさ》しいホロのことだから、黙《だま》っていたのかもしれない。 「ただ、やっぱりこの三箱の差がなにかただならぬことを示していると面白いんだけどな」  わざとらしくホロを見ながら言ってやると、もう揉《も》め事《ごと》はこりごりだとばかりにその華奢《きゃしゃ》な肩《かた》をすくめていた。  この様子だと、もしもロレンスのほうから本気でエーブを追いかけようと言ったら、なにかと理由をつけてやめさせたかもしれない。 「あ、あの」  と、無言のやり取りに声を挟《はさ》んだのはコルだ。 「ん?」 「ただならぬ、というのは、例えばなんでしょうか」  照れ笑いもどこかに消え、真剣《しんけん》そのものの顔。  ロレンスはちょっと驚《おどろ》き、ホロもちらりとコルを見てから、ロレンスと目を合わせた。 「例えば、か。そうだな。貨幣密造の証拠《しょうこ》とか」  コルが息を飲んだ。貨幣密造といえば重罪の証拠。  しかし、この反応にはさすがに苦笑いだ。 「例えば。例えばだ」 「あ……はい……」  そして、がっくりと肩《かた》を落とす。  その様がちょっと妙《みょう》というか、詐欺《さぎ》で騙《だま》されたからその分を取り戻《もど》したい、というふうには見えなかった。  金が必要なのだろうか。  例えば、この紙の束を買ったのは誰《だれ》かから借金して、だとか。  ロレンスがそう思ってホロに目を向けると、ホロはやはり肩《かた》をすくめるだけ。  もちろん、いくら他人の胸中を読めるホロでも、記憶《きおく》が読めるわけではない。 「ただ、あれこれ考えるのは船上の暇《ひま》つぶしにはもってこいだ」  コルは残念そうにうなずいた。  偽物《にせもの》の関税|徴収権《ちょうしゅうけん》の委譲《いじょう》書を手に桟橋《さんばし》で揉《も》めていると思ったら、一《いち》か八《ばち》かでロレンスを先生と呼んで窮地《きゅうち》を脱しようという大胆《だいたん》な発想力。かと思えばどちらかというとおとなしい性格で、だというのに金に対する執着《しゅうちゃく》は人一倍。  そして、そんな少年は学生であるらしい。  ロレンスは教会都市リュビンハイゲンに行く途中《とちゅう》、羊|飼《か》いの少女に出会った時も興味を惹《ひ》かれたが、この少年もまた同じくらい興味深い。  どんな経緯《けいい》でこんなところをうろつき、偽物の証書や明細の束を買う羽目になったのか。  根掘《ねほ》り葉掘り聞きたいところだが、下手に聞けばコルは貝のごとく殻《から》を閉じてしまうだろう。学生といえば、酒飲みで博打打《ばくちう》ちで詐欺師《さぎし》の挙句《あげく》泥棒《どろぼう》というのが相場なのだ。ふらふらとそこいらをうろついている学生ほど世間から迫害《はくがい》される者もいない。  コルの怯《おび》え方《かた》は、世間の認識《にんしき》がどれほど冷淡《れいたん》であるかを身にしみて知っているゆえだろう。  だから、ロレンスは商談用の笑顔《えがお》を浮かべながら、質問した。 「それで、学生にも色々あるが、なにを学んでいたんだ?」  世の中にいる放浪《ほうろう》学生の半分は、単なる自称《じしょう》であり一度もまともに勉強などしたことのない者たちだ。それでもコルは文字が読めるからそうではないだろう。  紙の束をまとめ、とんとんと端《はし》を揃《そろ》えると、コルはためらいがちに口を開いた。 「あ……あの……き、教会……法学、を……」 「ほう?」  これはまた意外だった。  教会法学を修めて上級司祭にでもなるつもりだったのか。  学生になろうなどという者は、家が裕福《ゆうふく》なので暇《ひま》つぶしにするか、あるいは家業を継《つ》ぎたくないが一角《ひとかど》の人物になりたいか、それとも働きたくないのでとにかくそう名乗ろうとしているかのどれかだ。  とにかくなにかを学びたいから学生になる、という者は少ない。  その中で、教会法学というのはまた特殊《とくしゅ》だ。  修道院には入りたくないが教会で偉《えら》くなりたい。  そういう、そもそもがずる賢《がしこ》い連中の集《つど》う分野だからだ。 「で、でも……その……お金が続かなくて……」 「学校を追い出されたのか」  コルの言葉を待っていると日が暮れてしまいそうだったので、ロレンスから訊《たず》ねるとコルは小さくうなずいた。  学生たちが金を出し合って博士を雇《やと》い、宿の一室なり金持ちの館《やかた》の離《はな》れを借りるなりして講義を受けるのが普通《ふつう》であるから、金が続かない者は当然追い出される羽目になる。  世の中には、鳥に講義を盗《ぬす》み聞きさせ、あとでその鳥から聞き出して勉強をしていた、という聖人の話もあるが、奇跡《きせき》にもほどがある。  それに、大抵《たいてい》の博士は贈《おく》り物《もの》なしではまともに質問すら取り合ってくれないと聞く。  家が裕福《ゆうふく》であるか、あるいは金儲《かねもう》けの才がなければなかなか難しいだろう。 「学校ということは、この辺だとどこだ……エリソルか?」 「いえ……アケントです」 「アケント?」  ロレンスが驚《おどろ》いて声を上げると、コルはまるで怒《おこ》られたかのようにうつむいてしまう。  ホロの責めるような目が痛い。  ただ、つい声を上げてしまうくらいに、アケントという名前の町は遠い。  ホロがコルの背中を励《はげ》ますように笑いながら叩《たた》くのを見て、ロレンスは顎鬚《あごひげ》を撫《な》でた。 「いや、悪い。ずいぶん遠いところだと思ってな。徒歩だとかなりかかるだろう」 「……はい」 「アケントといえば、確か、こういう町だよな。曰《いわ》く、町には賢者《けんじゃ》と誠実な学生が集《つど》い、町の中には幾筋《いくすじ》も清水が流れ、町の中心には知恵《ちえ》の実たる林檎《リンゴ》が一年中|生《な》り、そこで一日のうちに交《か》わされる会話は四つの国の全《すべ》ての言葉を足し合わせたもので、そこで一日のうちに書かれる文字は全てをつなげると海の底まで届く。真理と知恵の楽園。その名はアケント」 「なんだか……すごい町じゃが、林檎が一年中生っておるというのはよいな。それは確かに楽園じゃ」  舌なめずりをせんばかりにそう言ったホロに、コルは少し驚いて、それからようやくうっすらと笑顔《えがお》を見せた。  当然、ホロなら大袈裟《おおげさ》な話とそうでないものの区別くらいつく。  まったく、心|優《やさ》しい賢狼《けんろう》だった。 「あの、それは、嘘《うそ》なんです」 「む? そ、そうなのかや?」  殊更《ことさら》残念そうな顔をコルに向けると、コルは優しくしてもらった恩を感じているのか、慌《あわ》てて取り繕《つくろ》うように言葉を紡《つむ》ぐ。 「え、えっと、その、でも、たくさんの色々な果物《くだもの》が一年中お店に並ぶんです。珍《めずら》しいものもたくさんありました」 「ほう?」 「毛むくじゃらの、ちょうど、このくらいの抱《かか》えるくらいの大きさなんですけど、金槌《かなづち》で叩《たた》かないと割れないくらいに堅《かた》くて、でも、中には甘い水がたっぷり入っている不思議な果物《くだもの》とか」  椰子《ヤシ》の実だ。  南のほうで大型の船が泊《と》まるような港であれば、季節が良ければまれにお目にかかることがあるが、ホロはまず見たことがないだろう。  そして、豊かな想像力を生かすには現物をまったく知らないほうがなおよろしい。  もちろんロレンスも椰子の実は見たことがあっても椰子そのものは見たことがないのだが。  ホロの目がロレンスに向けられる。  これは冗談《じょうだん》ではなく、輝《かがや》いていた。 「まあ、見かけたら買ってやるよ」  桃《モモ》の蜂蜜漬《はちみつづ》けではないが、これはまず見かけないので大丈夫《だいじょうぶ》なはず。  万が一あったりすると、ちょっと困るのだが。 「でも、その、実際は、アケントは楽園なんかではなくて、争いがものすごく多いところです」 「宿に空《あ》き巣《す》は当たり前。一人で寝《ね》ていたら間違《まちが》いなく身包《みぐる》みはがされ、酒場に行けば喧嘩《けんか》であふれ、熱気が最高潮に達するとあちこちで火の手が上がるんだよな」  コルくらいの年の頃《ころ》から、ロレンスくらいの者まで、ろくに働きもせずぶらぶらしているような学生たちが山ほど集まっているのだから、山賊《さんぞく》と海賊を一緒《いっしょ》の部屋に泊めるようなものだ。  ロレンスはよく聞く話をちょっと脚色《きゃくしょく》して言ってやったが、コルは苦笑いのまま否定しない。  学校のある町は、良くも悪くも活気に満ち満ちているのだ。 「でも、僕は、優《やさ》しくて素晴《すば》らしい先生に出会えて、たくさん勉強していました」 「確かに、その年で字があれだけ読めれば立派なものだ」  照れたように笑う様は、なんともいえぬ愛嬌《あいきょう》がある。  ホロもにこやかに笑っていた。 「それが、どうしてこんなところに来る羽目に?」  訊《たず》ねると、コルは笑顔《えがお》のまま、視線を伏《ふ》せた。 「本の、商売に手を出してしまったんです……」 「商売?」 「はい。その、近いうちにとある本の注釈《ちゅうしゃく》を先生が書くから、値段が上がる前に買っておいたほうがいいと先生の助手をしている方が、教えてくれて……」 「買ったのか」 「はい」  ロレンスは、顔に表情が出るのをうまく消した。  有名な博士がある本に注釈を書くとなれば、注釈と抱《だ》き合《あ》わせでその本は飛ぶように売れる。  よくある話として、書籍《しょせき》商と博士が手を組んで、人気のない品薄《しなうす》の本を買い占《し》めてから、博士が注釈を書くなどということもある。  品薄《しなうす》が高騰《こうとう》を招き、高騰が話題を呼ぶという寸法だ。  そんなわけだから、学校に近い町では始終あの先生が今度はあの本に注釈《ちゅうしゃく》を書くだのといった話がまことしやかに出回っている。  商人は一年先に刈《か》り取れる羊の毛や一年先に収穫《しゅうかく》される小麦の粉を平気で売買するが、書籍《しょせき》のその手の話は明日の天気よりあてにならないので絶対に乗ることはない。  だが、町にあふれる欲望と喧騒《けんそう》に目もくれず、日々机に向かって真面目《まじめ》に勉学に励《はげ》んでいたコルはそんな落とし穴があるとは露《つゆ》ほどにも思わなかったのだろう。  コルが手を出したのは商売ではない。  それは立派な詐欺《さぎ》だ。 「僕は、その時、勉強が終わるまでお金が続きそうにないと思ったので、それで儲《もう》けられればと思ったんです。それに、実際にその本は毎日のように値段が上がっていってて、儲けるには早く買わないと駄目《だめ》だと思ったんです。でも、お金が足りなくて、その助手の方の知り合いの商人さんからお金を借りて、本を買ったんです」  絵に描《か》いたような罠《わな》の嵌《は》まり方だ。  値段が上がるのは書籍商の企《たくら》みか、あるいは話に踊《おど》らされた者たちが本を買うからだ。  そして、実際に値段が上がればあの話は本当なのかと飛びつく者たちが増え始め、さらに値段が上がっていく。  あとは、誰《だれ》が最後に貧乏《びんぼう》くじを引くかの大博打《おおばくち》になる。  自分よりも馬鹿《ばか》な者がいれば、売って儲けることはできる。  ただ、往々にして、自分が一番の馬鹿になってしまうものだ。  これにはさすがのホロも呆《あき》れ顔《がお》だろうと思ったら、ロレンスが一度も見たことがないような哀《あわ》れみ深い顔でコルのことを見つめていた。  ちょっと、面白《おもしろ》くない。 「でも、結局、先生の都合で注釈は書かれず……本はすごく安くなっちゃったんです」  そんなことはよそに、恥《は》ずかしそうに笑いながらコルはあとを続け、その予想どおりの落ちでロレンスには全《すべ》てが理解できた。  コルは罠《わな》に嵌《は》められ、まんまと借金までして本を買ってしまった。  当然講義料は払《はら》えず、食うにも事欠いて、借金は返せるわけもなく、ほうほうのていで逃《に》げ出したに違《ちが》いない。  こんな北の地をうろうろしているのは、学生たちのつながりというのは下手な商人よりもよほど強いからだろう。あっちこっちの町をぶらぶらする者が大勢いるせいで、誰《だれ》がどこの町にいるかというのは簡単にわかってしまうものだ。  学校と名のつくものがある町はほとんどが南のほうだが、大きな町であれば街角に立つ説教師から無料で学びを得ようとする者たちもいる。教会都市リュビンハイゲンに訪《おとず》れた時も、コルのような格好をした者たちが説教師に群がっていた。  そして、そんな彼らもこの近辺になるとさすがにいなくなる。  理由は、寒くて冬を越《こ》すのが困難になるからだ。 「それで、僕は、その、借金を返すために、あちこちで喜捨《きしゃ》を求めてお金をためながら、この辺りまでやってきたんです。冬になればこの辺りにはたくさん人が来るので、仕事もたくさんあるからと」 「北の大遠征《だいえんせい》か」 「はい」 「なるほどな」  だが、借金取りから逃《のが》れつつ、実際に北上してみれば北の大遠征は中止で人はおらず、仕事もない。このままでは冬を過ごすだけで手持ちの金を全《すべ》て使い果たしてしまうかもしれない。  そこに現れた怪《あや》しげな詐欺師《さぎし》。  コルは教会法学を修めようとしているのに、神は冷たい仕打ちしかしないらしい。  それとも、これは神の試練なのだろうか。 「それで、紆余曲折《うよきょくせつ》ののち、わっちらの船と出会ったのかや」 「そう、なります」 「なかなかすごい出会いじゃったな。のお?」  ロレンスに視線を向け、ホロは笑う。  コルの垢《あか》と泥《どろ》にまみれた頬《ほお》が、ちょっと赤くなった。 「あまり幸運とはいえぬ旅路のようじゃったが、何事も帳尻《ちょうじり》が合うようにできておる。世は確かに悪意に満ちておるが、知っているだけで避《さ》けられる落とし穴もありんす。無知は罪ともいうくらいじゃからな。じゃが、安心するがよい」  得意げに胸を張ってホロは語る。フードを取れば耳がひくひく動いていることだろう。  ついさっきまでの母性にも似た落ち着きはどこに行ったのか。  いや、とロレンスは思う。  格好いいことを言ってコルに救いの手を差し伸《の》べつつも、その責任を自分で負わないつもりだからこんななのだと気がついた。 「無知は……罪……ですか」 「うむ。じゃがな、安心するがよい。なにせ、わっちの連れは艱難辛苦《かんなんしんく》をくぐり抜《ぬ》けてきた一人前お、ひょうひん……もご……」  ロレンスは半眼《はんがん》でホロのことを睨《にら》みながら、そのいい加減な口に手でふたをする。  もがもがとうめいたのちに、指に噛《か》みつこうとしたのがわかったので手を引いた。 「知恵《ちえ》と経験を積んだお前が教えてやったらどうだ?」 「ふむ? おかしなことを言う御仁《ごじん》じゃな。わっちゃあこのとおり年端《としは》もいかぬ少女というのに、そんな小娘《こむすめ》の知恵《ちえ》と経験にぬしのそれは劣《おと》ると言うのかや」 「ぐ……」  正体を隠《かく》さなければならないせいで、ホロの好き勝手な発言にもロレンスは反論することができない。  コルがきょとんとして、ホロとロレンスのことを見つめている。  ホロの赤みがかった目は、笑っているようにも見えるが、一歩も引く素振《そぶ》りがない。  無知で哀《あわ》れな少年に同情したのだろうが、そんな大役を押しつけられても困るのはロレンスだ。人から授《さず》けられる知恵でかわせる困難など知れたもの。真に身に着けなければならないのは、落とし穴の場所についての知識ではなく、その落とし穴の探し方なのだ。  そんなものは一朝一夕《いっちょういっせき》でどうにかなるものではない。  ホロもそんなことは百も承知だろう。  その上で、けしかけてきているのだ。 「ぬしがわっちによくしてくれたのはどうしてかや?」  そして、ロレンスの耳たぶを掴《つか》んで引き寄せると、囁《ささや》いたのはそんな言葉だ。 「わっちが可愛《かわい》かったからかや? ぬしはそんな底の浅いつまらぬ雄《おす》じゃったかや」 「そっ」  そんな理由が無きにしも非《あら》ずなのは認めるが、決してそれが全《すべ》てではない。  だが、ここでコルに教えを授《さず》けることを拒否《きょひ》すれば、ホロの言葉を否定することはできない。  ホロの視線が突《つ》き刺《さ》さる。  選択肢《せんたくし》など、ない。 「わ、わかったわかった。だから、離《はな》せ」  耳が片方だけ伸《の》びてしまったら大事だ。  ロレンスが言うと、ホロはようやく耳たぶから手を離した。 「うん。それでこそわっちの連れじゃ」  機嫌《きげん》よく笑い、ぴんと指で耳たぶを弾《はじ》く。  ロレンスはため息をつきながら、でも悔《くや》しいのでホロのほうは見ない。  仕返しをしようにも、同じことをしたらどれだけ怒《いか》り狂《くる》うかわかったものではない。 「だがな、本人に学ぶ気があるのか?」  と、ロレンスは呆気《あっけ》にとられているコルに視線を向ける。  仔大《こいぬ》のようなコルだが、きっと本物の犬のように、一瞬《いっしゅん》で誰《だれ》が誰の主人なのかわかったことだろう。  突然《とつぜん》話を振《ふ》られ、慌《あわ》てて口をぱくぱくとさせるが、根は賢《かしこ》い少年なのだ。  すぐに居住《いず》まいを正して、深呼吸のあと、こう言った。 「あ、あの、ご教示いただければと、思い、ます」  ホロが満足そうにうなずいている。  自分は教えないのだから気楽なものだ。  ロレンスは頭を掻《か》いて、ため息を一つ。  人に何かを教えるのはどちらかといえば好きなほうだが、あまり格式ばられると困ってしまう。  だが、教えないわけにはいかない。  ホロを拾って共に旅することにしたのは、決してホロが可愛《かわい》い少女の姿をしているからというだけではないのだから。 「しょうがない。それこそ、乗りかかった船だ」  ロレンスがそう言った直後、船が軽く揺《ゆ》れた。  コルはぽかんとして、ホロは大袈裟《おおげさ》にため息をつく。  言わなければよかったと後悔《こうかい》したところに、ホロがこう言った。 「大丈夫《だいじょうぶ》。わっちゃあそんなぬしが大好きじゃから」 [#改ページ]  第三幕  なにかと騙《だま》されやすいらしいコルに知恵《ちえ》を授《さず》けるといっても、一つ一つ詐欺《さぎ》の実例を教えていったところできりがない。  教えるべきは、騙されないための心構えだ。  あとは、金を稼《かせ》ぐ術《すべ》を一つか二つ知っていれば、欲を掻《か》かない限り多少の金はたまるはず。  もちろん、その欲を掻かないというのが、大抵《たいてい》の人間には最も難しいことなのだが。 「なにかうまい話を持ちかけられたらな、相手はどうやって儲《もう》けるのだろう、と考えることだ。あるいは、自分が得をする状況《じょうきょう》だけでなく、損をする状況のことを考えればいい。大抵の詐欺はそれだけで回避《かいひ》することができる」 「ですが、何事もうまくいくこともあればいかないこともあるのではないでしょうか」 「もちろんそうだ。だが、その手の話というのは大抵が儲かりすぎる。損と得の釣《つ》り合《あ》いがおかしい時は、手を出さないほうがいい。それは、得が大きくても、損が大きくても、駄目《だめ》だ」 「得が、大きくても、ですか」  コルはこのご時世に金を払《はら》ってまで学んでいた身に相応《ふさわ》しく、熱心だし、よく頭も回っている。  最初は嫌々《いやいや》だったロレンスも、打てば響《ひび》くのであればやはり面白《おもしろ》い。 「納得《なっとく》いかなそうな顔だな?」 「え、いえ……はい」 「世の中な、自分の身に悪いことは起きるが良いことは起きないと思ったほうがいい。他人に良いことが起きたのを見て、自分にも起こるかも、と思うのは駄目《だめ》だ。なぜなら、視界に入る人間はたくさんいて、たくさん人間がいれば一人くらいは幸運な者がいるはずだ。だが、自分は一人しかいない。自分に幸運が訪《おとず》れると考えるのは、誰《だれ》か一人を指差して、この者に幸運が訪れると予言するようなものだ。お前はそんな予言が当たると思うか?」  師匠《ししょう》に言われた言葉も、いざ他人に教えてみようと口にしてみるとその重みがよくわかる。  ロレンスもこれが完璧《かんぺき》に実践《じっせん》できていれば、ホロとの旅はもう少し穏《おだ》やかなものだったに違《ちが》いない。 「だからな、それらのことを踏《ふ》まえたうえでお前が引っ掛《か》かった証書の話に戻《もど》ればな……」  そんなやり取りをホロはのんびりと眺《なが》めていた。  初めのうちは、偉《えら》そうに講釈《こうしゃく》たれるロレンスをからかうようににやにやと笑っていたが、いつの間にか単純に楽しそうな顔になっていた。  船は穏やかな川を進んで、少々寒いが風はない。  一人で行商をしていた時とも、ホロと知り合って二人で旅をしていた時とも違う、なにか不思議な安定感。すっぽりとこの形が当て嵌《は》まるなにかが、古い昔から存在していたような奇妙《きみょう》な感覚。  ロレンスは、コルにものを教えながら、それは一体なんなのだろうかと考えていた。  すぐ隣《となり》で意地悪く笑うホロはいないが、後ろを振《ふ》り向けば柔《やわ》らかく微笑《ほほえ》むホロがいる。  真冬の川の上だというのに、この温かさはなんなのだろうか。  わからない。わからないが、自然と体が軽くなる。  コルとのやり取りも滑《なめ》らかになり、コルはロレンスの考えを把握《はあく》し出し、ロレンスはコルの疑問を理解し出す。  幸運はあまり訪れないが、良き出会いというものは結構多いのかもしれない。  そんな折だった。 「はっは。お取り込み中かな」  突然《とつぜん》ラグーサの声が聞こえて、まるで夢から覚めたような感覚だった。  それはコルも同様だったらしく、ふっと素《す》に戻った表情は、自分がなにをしていたかわからないといわんばかりのものだった。 「あ、いえ……どうしました?」 「なに、次の関所で今日は最後だからな。夜のためになにか買っておきたいのならばと思ってな」 「ああ、そうですね……」  ロレンスはホロに目配せして、一応食べ物の詰《つ》まっている袋《ふくろ》を確認《かくにん》させたが、コルにいくらかパンを分けたとしても足りないことはないだろう。 「足りるじゃろ」 「だそうです」 「ああ、それならいいんだ。しかし」  ラグーサは大きく伸《の》びをして、積荷《つみに》にのしかかるように寄りかかりごつい笑《え》みを浮かべた。 「嘘《うそ》から出た実《まこと》だな。なかなか優秀《ゆうしゅう》な弟子《でし》っぷりじゃないか」  もちろんコルのことで、コルは恥《は》ずかしそうにうつむいてしまう。  褒《ほ》められればすぐに胸を張る誰《だれ》かさんとは大違《おおちが》いだ。 「俺も何人か小僧《こぞう》を雇《やと》ったことあるんだがな。一年持つ奴《やつ》は少ない。怒鳴《どな》らず殴《なぐ》らずとも真面目《まじめ》に働く奴となれば、もうこいつあほとんど奇跡《きせき》だな」  ラグーサはにこにこ笑い、ロレンスも「かもしれません」と同意する。  放浪《ほうろう》学生が忌《い》み嫌《きら》われるのは、その無法ぶりということもあるが、働きもせず、未《いま》だなにも成さずでなんの信用もないからだ。  成り行きとはいえ手間賃のために真面目に働き、ロレンスの教えを熱心に聞くコルのその様は、信用を得るのに十分だ。  突然《とつぜん》褒められて目を白黒させているコルにはそのあたりがわからないらしい。  ホロが、一番楽しそうに笑っていた。 「で、次の関所でも雑用があるんだがな」 「あ、はい。手伝わせてください」 「はっはっは。そんなこっちゃ先生に叱《しか》られるかもしれないぜ」 「え?」  きょとんとするコルに、ロレンスはしょうがないなと笑って言葉を向けた。 「こいつは商人にも船乗りにもならないでしょう。そうだろ?」  コルがくすんだ青い目を見開いて、ロレンス、ラグーサと交互《こうご》に見返し、じっと止まる。  頭の中が全力で回転しているのがよくわかる。  ホロならずとも、見守りたくなるような感じだ。 「……はい。えっと、僕は、教会法学を学びたいんです」 「おっと、こりゃあ残念だ」 「というわけです」 「ま、誰にも独《ひと》り占《じ》めできねえってこったから諦《あきら》めるか。得するのはいつも神さんだけだなあ」  ラグーサは歌うように笑顔で嘆《なげ》き、体を起こすと船尾で棹《さお》を持つ。  よい人材というのは、どんな職業でも引っ張りだこだ。 「えっと……?」 「はは。なに、このまま勉強していれば、きっとそのうち博士になれるってことだ」 「はあ……」  コルはよくわからなそうにうなずき、船が桟橋《さんばし》に着くとラグーサに呼ばれてそちらのほうに行った。  残されたロレンスは、ラグーサの言葉を反芻《はんすう》する。  確かに、得をするのは神だけのようだ。 「残念そうじゃな」 「え?」  聞き返し、ロレンスは、うなずいた。 「確かに、残念だと思ってしまった」 「じゃが、まだ機会はあるじゃろう」  ホロの言葉にロレンスはちょっと驚《おどろ》いて、ホロを振《ふ》り向いた。 「俺が一角《ひとかど》の商人になるのを手伝うだけじゃ飽《あ》き足りないか」 「弟子《でし》を持って一人前じゃからな」  弟子を持て、ということだろうか。  確かに、店を持ったらそこで冒険は終わりのような気がする、とロレンスはホロに言った。  それについて、ホロは弟子を持てばよいと言った。 「だが、俺にはちょっと早い」 「そうかや?」 「そうだ。あと、十年。いや、十五年|経《た》ったら、あるいは、な」  十年先のことなど、数年前までは想像もできなかったものだが、そろそろそのくらい先のことまで見通しがつくような年だ。  なんにでもなれると思っていた昔ならいざ知らず、今ではそんな選択肢《せんたくし》など目の前に開けてはいない。 「もう十年も経てば、ふむ、さすがのぬしも多少は雄《おす》らしくなるかや」 「……どういう意味だ」 「教えて欲しいかや?」  にこにこと笑っているので、きっとなにかすごいものを隠《かく》し持っているのだ。  触《さわ》らぬ神にたたりなしということで、ロレンスは反撃《はんげき》を諦《あきら》めた。 「くふ。賢明《けんめい》じゃな」 「お褒《ほ》めに与《あずか》り光栄です」  ホロはロレンスの肩《かた》を叩《たた》いて、わざとらしく頬《ほお》を膨《ふく》らませる。  ロレンスも笑って応《こた》えて、それからコルから買った紙の束に手を伸《の》ばした。  中断してしまったが、銅貨の話は商人としての好奇心《こうきしん》をくすぐるのに十分だ。  金儲《かねもう》けを考えているわけでも、ましてやジーン商会の秘密を暴《あば》こうとも思ってはいないが、もしかしたらこの束を分析《ぶんせき》すれば謎《なぞ》が解けるかもしれない、と思っただけでわくわくする。 「ぬしは本当に安上がりな雄《おす》じゃなあ」 「なんだって?」 「そんな紙に目を輝《かがや》かせて。わっちとのお喋《しゃべ》りより楽しいかや」  笑うべきか悩《なや》む。  ただ、ついに紙にも嫉妬《しっと》するのかと言ったら間違《まちが》いなく殴《なぐ》られるだろう。 「たかが箱が三つ合わないだけで、なんでそんなに興味を持てるのかや」 「なんで……と言われてもなあ。楽しいから、としか。なに、今度はまかり間違っても騒動《そうどう》に巻き込まれたりはしない。その点は大丈夫《だいじょうぶ》だ」  喋りながらも紙をめくると、すぐにジーン商会の名が書かれた紙を見つけ、さらにもう一枚見つけた。  これは、もしかするともしかするかもしれない。 「……」  ホロがなにか言ったような気がして、ロレンスは顔を上げた。  ホロはぺちゃんと座って、毛布を掴《つか》んでいた。  その尻尾《しっぽ》はローブの裾《すそ》の下で不満そうに揺《ゆ》れている。  そして、その顔は悔《くや》しそうだった。 「ぬしは、時折|駆《か》け引《ひ》きがすごくうまいんじゃが」  ホロも、たまにはわかりやすい。  コルはもちろん気にかけるべきだが、いなくなったら今度はこちらだけを見て欲しい、と思っていると考えるのは自信|過剰《かじょう》だろうか。 「なら、手伝うか?」 「……まあ、それでも構わぬ」  以前、ホロが林檎《リンゴ》を素直《すなお》にねだれなかったことを思い出す。  その顔は、不満そうながら耳が嬉《うれ》しそうに動いていた。 「この綴《つづ》り。ジーン商会。これが含《ふく》まれるものを見つけてくれ。字、読めたよな」 「うむ。どんなやつでも構わぬのか」 「ああ」  コルが持っていたものは本当に結構な枚数だ。  中には盗《ぬす》んでくる最中に握《にぎ》りしめたり袋《ふくろ》の中に突《つ》っ込んだりしたのか、皺《しわ》くちゃになっているものもある。  それに人の手をたくさん渡《わた》ってきたことを示すように、手垢《てあか》にまみれて擦《す》り切れているようなものもある。  百枚はありそうなそれを、ホロに幾枚《いくまい》か渡して二人でジーン商会の名前を探していく。  ロレンスは一目見ればそれがどんな種類のものなのかわかるし、種類がわかればどこに商会の名前があるかもおおよそ決まっている。  対して、ホロは上から下まで目を凝《こ》らして見ていかないと、汚《きたな》い字というせいもあってなかなかわからない。  ちらちらとロレンスのほうを窺《うかが》って焦《あせ》っているのがよくわかる。  なににおいてもロレンスより下にいるのは悔《くや》しいのかもしれない。  ロレンスは気がつかないふりをして、作業をゆっくりにした。 「しかし、ぬしよ」 「ん」  作業をゆっくりにしてもロレンスのほうが速く、ホロはついに妨害《ぼうがい》工作に出たか、と一瞬《いっしゅん》思ってしまったのは、うがちすぎというものだった。  ホロは話しかけた隙《すき》に作業を進めるどころか、紙を置いて目はどこか遠くを見ていた。 「どうした?」 「……いや、よい」  ロレンスが問い返すと、ホロは頭を振《ふ》り、手元に目を戻《もど》す。  ただ、その様子がなんでもないと言い張るには、嘘《うそ》の天才ともいえるホロであってもちょっと無理がある。 「そんなわかりやすい気の惹《ひ》き方するなよ」  ちょっとは怒《おこ》るかとも思ったが、ホロのほうが一枚上手らしい。  自嘲《じちょう》するように微笑《ほほえ》んで、それから、手元の紙を整えた。 「なに、つまらぬことを思ってしまいんす」  ぺらり、とようやく一枚めくって、ホロはゆっくりと瞼《まぶた》を閉じた。 「どんなことだ?」 「本当につまらぬことじゃ……。この川を下っていったら、どんな町があるのかや、と思っての」  ホロの言葉に、ロレンスはつい顔を上げて川の下流に目をやった。  まだ海の姿はかけらも見えず、ただただのっぺりとした荒野《こうや》に緩《ゆる》やかな川の流れがあるだけだ。  もちろん、港町ケルーベの姿だって見えてはいない。  ただ、なんとなくだが、ホロの言葉には言葉以上の意味が含《ふく》まれているような気がする。  なにより、ホロがつまらないことだと言う時は、大概《たいがい》がつまらないことではない。 「俺も船で二度か三度通りがかっただけだから、実はまともに町を見たことないんだが」 「それでもよい。どんな町じゃ?」  ホロにそう言われたら、隠《かく》す理由もない。自分の見聞きした過去の記憶《きおく》を呼び出した。 「川の終わりは大きな三角洲《さんかくす》になっていて、町の人間が住まない代わりに旅籠《はたご》や商会の荷揚《にあ》げ場、それに両替《りょうがえ》所があってものすごく賑《にぎ》やかだ。家があるのは三角洲《さんかくす》の北|側《がわ》と、南側。全部をひっくるめてケルーベと呼ぶんだが、上も下も真ん中も、それぞれすこぶる仲が悪い」 「ほほう」  ホロは手元の紙を見ているが、目が文字を追っているかはちょっと怪《あや》しい。 「俺は遠方の国同士をつなぐ大きな貿易船に乗って立ち寄った。途中《とちゅう》の補給港としてケルーベに立ち寄るんだ。大きな船だから遠浅《とおあさ》の三角洲には近づけず、小さな船に乗り換えて三角洲に上がってな」  そこで言葉を切ったのは、ホロの反応を見るため。  こんな話なら、ここで聞くよりも実際に見たほうが早い。  そう思ったのだが、ホロはそうではないようだった。 「それで、洲に上がると見えるのはなんじゃ?」  一応視線は手元の紙に向けられているものの、その焦点《しょうてん》ははるか遠くに合わせられている。  そんな様子でケルーベの話を聞こうとするホロを見ていると、まるで盲人《もうじん》を案内しているような気になってくる。  ただ、少し口ごもっていたらホロがこちらを見て無言で催促《さいそく》してきた。  ロレンスは、気になりつつもあとを続けた。 「……ああ。洲に上がると、まず出|迎《むか》えてくれるのは潮と風で洗われた座礁船《ざしょうせん》の残骸《ざんがい》だ。真っ二つに折れた船体を門に見立ててあるんだ。そこをくぐると活気と怒号《どごう》に満ちあふれてはいるが、町の市場とは違《ちが》う場所に出る。そこでは商品を一つずつ売らず、目もくらむような数でまとめて売り買いされる。要するに商人のための市場だな。そこに荷揚《にあ》げされる品は全部そこを起点としてどこか別の遠くの国に運ばれていく。あとは、そう。辛《つら》い船旅のつかの間の娯楽《ごらく》を提供してくれる店がずらりとある。中には……まあ、お前が眉《まゆ》をひそめるようなものもあるだろう」  ロレンスがわざとらしく肩《かた》をすくめながら言ってやると、ホロはたまらずに吹《ふ》き出した。 「二階建ての宿の通りに面した部屋からはな、日がな一日リュートや竪琴《たてごと》の音色が聞こえ、笑い声が絶えない」  ホロは小さくうなずき、視線も顔も上げず、こう言った。 「その船は、どこに行くんじゃ?」 「その船?」 「ぬしが乗っておったという」 「ああ、その船はずっと陸沿いに南下して、ヨルドスという港町に着く。手先の器用な連中が集まる町でな。俺が乗っていた船は、主に北からの琥珀《こはく》を運ぶ船で、その町では琥珀の細工《さいく》物が有名だった。地下水道を走る羽目になったパッツィオや、お前と出会ったパスロエの村よりも、もっともっと南だ。海がとても温かくてな、ちょっと黒いんだ」  荷馬車を持たず、もっと身軽に、命すら軽視してあちこちを飛び回っていた頃《ころ》の話だ。  話には出さなかったが、甲板《かんぱん》の下の薄暗《うすぐら》い部屋に押し込められる海の船の航行は川のそれとは比べ物にならない。  航行中に自分の飲む水を牛の膀胱《ぼうこう》の袋《ふくろ》一杯《いっぱい》に持ち、まともに座っていられないほど揺《ゆ》れる船の中で必死にこぼすまいと抱《だ》きかかえていなければならない。  しかも、それだけ揺《ゆ》れれば船乗りでない行商人などたちまちのうちに船酔《ふなよ》いの犠牲《ぎせい》だ。  吐《は》くものもなにもなくなって最後には血を吐いて、げっそりやつれた頃《ころ》にようやく到着《とうちゃく》する。  我ながら、よく三度も乗ったものだと思うほどだ。 「ふむ。しかし、琥珀《こはく》というものをわっちゃあ知らぬ」 「え? 知らないのか」  ロレンスが聞き返すと、ホロはちょっと怒《おこ》ったように見つめ返してくる。  森で神のような生活をしていたのだから知っていそうなものだが、と思って、黄鉄鉱《おうてっこう》を知らなかったことを思い出した。 「木の蜜《みつ》が地中で固まったもので、見た目はまるっきり宝石のようだ。たとえると……ああ、そうだ。ちょうどお前の目のような感じかな」  ホロの顔を指差して言うと、ホロはついつい自分で自分の目を見ようとしたらしい。寄り目になったので思わず笑ってしまった。 「わざとじゃ」  そうは言うものの、もしもわざとやっていたのならホロは絶対そうとは言わない。  しかし、そこを突《つ》っ込めばむきになるとわかっていたので、こう答えておいた。 「まあ、綺麗《きれい》な宝石には違《ちが》いない」  あからさますぎる言葉に、呆《あき》れ顔《がお》ながらもこらえきれなかったように吹《ふ》き出した。 「ふん。ぬしにしては上出来じゃな。で、その船を降りたらどこに行くんじゃ?」 「その先? その先は……」  と、答えようとして、ロレンスはやはり疑問に思った。  突然《とつぜん》こんなことを聞き出すだなんて、どういうことだろうか、と。 「それか、あの狐《キツネ》の行き先でもよい」  ロレンスが口ごもったのを記憶《きおく》が曖昧《あいまい》だからとでも思ったのだろうか。  いや、そうではないとすぐに気がついた。  ちょっとした沈黙《ちんもく》すらが怖《こわ》かったのだ。  なぜこんなことを聞くのかということを考えられてしまう、その時間が。 「エーブの行き先、か。毛皮を加工するために売るんだったら、ヨルドスよりさらに南。ウルヴァという町だろうな」 「どれくらい儲《もう》かるのかや」 「うーん……多分、仕入れ値の三倍……は固いだろうな。もう、そんな儲けを出したら俺のような行商人とは口を利《き》いてくれないかもしれない」  ロレンスが笑うと、ホロは不機嫌《ふきげん》そうに肩《かた》を叩《たた》いてきた。  だが、目は合わせない。  目を合わせたら、そこから心が読まれてしまうとでも言わんばかりに。 「はは。だが、冗談《じょうだん》でもない。金貨で千枚や二千枚というような金額の儲けを出したら、一気に上級商人たちの仲間入りだ。それだけの金を手にしたら、定石《じょうせき》でいえば人を雇《やと》い、店を構え、船を買い、遠隔地《えんかくち》貿易に手を出す。砂漠《さばく》の国から金《きん》を買い、灼熱《しゃくねつ》の国から香辛料《こうしんりょう》を買う。絹織物やガラス細工《ざいく》、大昔の帝国《ていこく》の歴史を書いた全何十巻という歴史書物の写本、あるいは摩訶不思議《まかふしぎ》な食べ物に生き物に、真珠《しんじゅ》、珊瑚《さんご》なんていう海の宝石も山ほど運んでくるだろう。それらが一|隻《せき》無事に港に着くたび、俺が一生かけて稼《かせ》ぐような金額の十倍も二十倍も利益を上げる。ついには商会の支店をあちこちに設け、銀行取引に乗り出すかもしれない。各地の領主に莫大《ばくだい》な金額を貸し付け、代わりにもろもろの特権を引き出して次々と地場《じば》経済を掌握《しょうあく》していく。そして、極《きわ》めつけは南の皇帝《こうてい》のお抱《かか》え商人になることだ。王の戴冠《たいかん》式には、リュミオーネ金貨にして二十万枚とも三十万枚ともいわれる冠《かんむり》の発注を任される。そこまでの商人になれば、座っているだけでありとあらゆる国の商品をありとあらゆる国に運ぶことができ、行く先々で王のような待遇《たいぐう》を受ける。ついに、金貨を積み上げた玉座が完成するわけだ」  商人なら誰《だれ》もが一度は夢見る黄金の道だ。  馬鹿《ばか》馬鹿しい、と思うには、実際にその道を通って覇道《はどう》を極《きわ》めた商人の数が多すぎる。  ただ、その覇道の途中《とちゅう》で力|尽《つ》きていく者たちの数は、全知全能の神であっても把握《はあく》できないくらいに多いだろう。  エーブがたとえその端緒《たんしょ》を得たとしても、その先うまくいくかはわからない。  遠隔《えんかく》地貿易で莫大《ばくだい》な利益が上がるのは、それだけ船を無事に到着《とうちゃく》させるのが難しいからだ。  全財産が文字どおり海の藻屑《もくず》と消えて破産した商人は、ロレンスが知っているだけでも両手の指では収まりきらない。 「まるで金の国へ至る金の道じゃな」  ホロがロレンスの話のすごさをどこまで理解できたかは怪《あや》しいが、夢物語に近いことであるというのは口調からわかっていたらしい。楽しそうにそう言った。 「じゃが、そんな黄金の道への入り口をふいにしたというのに、あまり悔《くや》しくなさそうじゃな」  ロレンスはもちろんその言葉にうなずく。  悔しくはない。  なぜなら、ロレンスが通りたい道は、そんな黄金の道ではないからだ。  ただ、ホロとならもしかしたら歩き通せたかもしれない、などと思ってしまう。  権謀術数《けんぼうじゅつすう》渦《うず》巻く欲望の道を、悪魔《あくま》に騙《だま》されず、邪神《じゃしん》につぶされず、陰《いん》に陽《よう》に逃《に》げ隠《かく》れ、突《つ》き進み、ついに宝の山にたどり着くかもしれない。  それはきっと何百年も語り継《つ》ぐに値《あたい》するような、まさしく冒険譚《ぼうけんたん》と呼ぶに相応《ふさわ》しい冒険譚になるに違《ちが》いない。  大商人を相手に黄金の取引で張り合い、歴史ある王国の王家と最上級の羊の品種を巡《めぐ》って駆《か》け引《ひ》きを行う。時には海賊《かいぞく》まがいの大船団と剣《けん》を交えるかもしれないし、信頼《しんらい》していた部下に裏切られるかもしれない。  そんな冒険の側《そば》にホロがいたとしたらどれほど楽しいだろうか、とはもちろん思う。  それでも、なんとなくホロは嫌《いや》がりそうな気がした。  だから、聞いてみた。 「お前はそんな道を歩きたかったか?」  ホロは興味なさそうな顔をして、やはりうなずきはしなかった。 「わっちゃあぬしの話を語り継がねばならぬからの。語ることは少ないほうがよい」  意地っ張りな奴《やつ》だと声なく笑ったら、ホロに睨《にら》まれた。  語ることは少ないほうがいい、というのは嘘《うそ》のはず。少なくあって欲しいのは語る者の数のことだ。例えばロレンスなどは、ホロの寝相《ねぞう》の話を得意顔でする人物を見かけたら、きっと敵愾心《てきがいしん》を抱《いだ》かずにはいられないと思う。 「金の道の話などではなく、やっぱり琥珀《こはく》の町の先を聞きたい」  波乱万丈《はらんばんじょう》な冒険ではなく、ロレンスがこれまでしてきたような地味な道のりの話。  なぜそんなことを聞きたいのか、という理由は明々白々。  ケルーベの三角洲《さんかくす》を案内した時のあの感覚。あの感覚を言葉にすればたちどころにわかる。  だが、ロレンスは口をつぐんだまま薄《うす》く笑って、なにもホロに聞き返さず、問われるままに答えてやった。  琥珀《こはく》の町では北で仕入れた動物の牙《きば》や骨を売って、代わりに塩や塩漬《しおづ》けの鰊《ニシン》を買って内陸地に向かう。徒歩、乗合馬車《のりあいばしゃ》、時には隊商を組んで、平原を歩き、川を越《こ》え、山を歩き、森に迷う。怪我《けが》をすることもあれば、病に襲《おそ》われることもある。死んだと聞いていた商人にばったり会って喜んだり、逆に自分が死んだという話が流れていたことを知って笑ったりということもある。  ホロはそんな話をいちいち楽しそうに、静かに聞いていた。何百年と生きていてもまだ見たこともない土地が無限に広がっていることを楽しむように。冗談《じょうだん》のような出来事が頻繁《ひんぱん》に起きることに驚《おどろ》くように。  そして、その長く、ありきたりで、さして特筆すべきでもない旅路の傍《かたわ》らに、常に自分がいることを想像しているように。  やがてロレンスは、山の中奥深くに分け入った村に塩を届ける代わりに、良質のテンの毛皮を仕入れたところで話をやめた。それ以上話すのは、暗黙《あんもく》のうちに交《か》わした二人の約束に違反《いはん》することになると思ったからだ。  ホロは、いつの間にかロレンスに寄りかかって、空いている手でロレンスの手を握《にぎ》ってぼんやりとしていた。  ロレンスが語った道のりは、実際にたどれば二年はかかる。  二人で、地味ながらも長い旅路を歩いてきたのだから旅の疲《つか》れが出てしまったのだろう。  決して実現することのない、長い旅路を。  山の奥深くの村に塩を渡《わた》し、代わりにテンの毛皮を受け取って、次に寄る村は?  麦の大産地。川沿いの港町。ロレンスがその話を先に続ければ、この旅路の輪は閉じ、そして、無限に回り続けることになる。  だが、ホロはその先をせがまない。  せがむために口を開いたら、このどこか夢見心地《ゆめみごこち》の空気が壊《こわ》れてしまうとわかっていたからだ。  今、ホロは後悔《こうかい》しているだろうか。それとも楽しかったと思っているだろうか。  ロレンスは、その両方だと思った。楽しかったからこそ、後悔する。  ロレンスたちの旅は、ケルーベより南には行かない。西にも行かない。その先は、二人にとって永遠の未知の世界。確かに足を踏《ふ》み出せば存在しても、決して行くことはない世界。  神は言った。  まず、言葉があったと。  そして、その言葉で世界が作られたのならば。  神と呼ばれていたホロは、ロレンスの言葉を借りて仮初《かりそめ》の世界を作ろうとしたのだろう。  そんな世界を作ってどうするつもりだ、とはもちろん聞きはしない。  何百年と一人で村の麦畑にいたようなホロだ。その仮初の世界は遊びなれた場所に違《ちが》いない。  ただ、なにも言わず、微動《びどう》だにせず、ぼんやりとしているホロを見ていると、旅の終わりにこんなホロを一人にしても大丈夫《だいじょうぶ》なのだろうか、と思ってしまう。  テレオの村で読んだ本には、ホロの故郷はすでに滅《ほろ》びているとあった。  長い時を経て昔の住人たちが戻《もど》ってきていればいい。  しかし、そうでなかったとしたら。  だとすると、ちょっと心配になってしまう。  寒く、静かな山で一人、ぼんやりと月明かりの下にいるホロを想像すると、とても一人でやっていけそうには思えない。  時には遠吠《とおぼ》えだってしたくなるだろうが、それに返事をする者は誰《だれ》もいないのだ。  だが、口に出せば烈火《れっか》のごとく怒《おこ》り出すだろうし、そんなことは認めないのは目に見えている。その上、なによりも認めなければならないのは、ロレンスがどれほど頑張《がんば》ってもホロのその孤独《こどく》は埋《う》めきれないということだ。  無力感を感じないといえば嘘《うそ》になる。  だが、ロレンスはそれらのことも含《ふく》めて、デリンク商会にホロの手を取りに行ったのだ。  だから、せめてものこととして、殊更《ことさら》陽気に言ってやった。 「どうだ。あんまりぱっとしない旅だろう?」  ホロは気だるそうに視線をロレンスに向け、しばしそのままにしていた。  そして、ふっと笑ったのはロレンスの顔になにかついているのを見つけたからかもしれない。  やれやれとゆっくりと体を起こし、億劫《おっくう》そうに口を開いた。 「……まったくじゃ。じゃが」 「だが?」  肩越《かたご》しに小首をかしげてつくるこの表情は、きっとホロ自慢《じまん》の表情なのだろうと思った。 「こんな平凡《へいぼん》な旅なら、手に汗《あせ》を握《にぎ》らぬ代わりに、ぬしと手をつないだまま悠々《ゆうゆう》と進めるじゃろうな」  意地悪な笑顔《えがお》。  だが、意地悪なのは、ホロではない。  意地悪なのは、天のどこかにいる神様なのだ。  ロレンスがなにかを言う前にホロはそんな表情を消して、楽しい余興だったとばかりに平素の振《ふ》る舞《ま》いに戻《もど》った。手元の紙を一枚めくり、それから、「お」と声を上げる。紙を手にとって、ロレンスに誇《ほこ》らしげに向けてくるその様子は、つい今しがたまでのことなど露《つゆ》ほども感じさせはしない。  並の人間であるロレンスにはちょっと真似《まね》ができない。  真似ができないので、平静を取り戻《もど》すのに少し時間がかかった。  ホロは呆《あき》れるように笑って待ってくれる。  確かに平凡《へいぼん》な旅路だ。  いつだって、ホロは手を伸《の》ばせば届く距離《きょり》にいるくらいに平和なのだから。 「確かに、ジーン商会のものだ。去年の夏の輸出の覚え書きだな」 「ふん」  笑顔《えがお》で鼻から息を吐《は》き、まるで宝の地図を見つけたように得意げなホロに、ロレンスはたまらず笑ってしまう。  まったく、敵《かな》わない。 「で、やはり、輸出は六十箱。こうなると、もうこれは……いや……やはり……」  他《ほか》の輸出品目とも見比べ、ロレンスはたちまちのうちにそちらの思考に没頭《ぼっとう》する。  降って湧《わ》いたような、あまり触《ふ》れてはならない泡沫《ほうまつ》のような夢を頭の奥底に封印《ふういん》したかったというのもある。  それは、本当に、甘い夢だからだ。  退廃《たいはい》という言葉を知らないほど、ロレンスも若くはない。 「なら、他の紙も、早く探しんす」  と、ホロは急に不機嫌《ふきげん》そうに言うと、ロレンスの耳を引っ張って思考の井戸《いど》から無理やりに引き上げる。  ロレンスは驚《おどろ》いて耳を押さえながら、不機嫌そうに紙に目を戻したホロの横顔を見て、思い出す。そういえば元々はホロが構って欲しくて紙の束の中からジーン商会の名を見つける手伝いを買って出たということを。  しかし、それなら一緒《いっしょ》に考えればいいのに、という言葉は、どこかむきになっている横顔に拒絶《きょぜつ》され、口にはできない。  それにしても、あんなにも柔《やわ》らかい空気だったのに、たちまちのうちにこうなるから不思議だ。  ホロの機嫌は山の天気よりも速くに変わる。  自分が鈍《にぶ》いだけなのか? とロレンスは思いつつも、これが噂《うわさ》に聞く乙女《おとめ》心なのかもしれないと胸中で思った。  乙女かどうかは定かではないが、とはこっそりと付け加えたのだが。 「これで全部かや」  ほどなくして全《すべ》ての紙を見終え、ホロは結局二枚の紙を見つけ出した。  ロレンスのものと合わせると七枚。  よほど片づけの下手な商会でない限り、似たような書類は似たような場所に置く。この紙を商会から盗《ぬす》み出したであろう誰《だれ》かも、ろくに中身を見ないで手で掴《つか》めるだけ掴んで持ってきたはず。  予想どおり、去年の夏と、一昨年の冬の発注書、それに去年の夏の覚え書きがあった。  やはり、銅の産地への注文はどれも五十七箱で、ウィンフィール王国に送られた貨幣《かへい》は六十箱。  よもや使い古しの貨幣を輸入するわけもないから、どれも鋳造《ちゅうぞう》したての新品に違《ちが》いない。  その差の三箱がどこかで足されているのだが、それらを示す紙はない。 「決定的な手がかりはなかったようじゃな」 「そうだな。だが、ジーン商会の名前が載《の》ってなくても、関連のものなどあるかもしれないが……」 「ほう、では早速《さっそく》」 「いや、だが、もしかしたら本当に貨幣密造の証拠《しょうこ》かもしれないな」  はやるホロをよそに、つい、一人|呟《つぶや》いてしまう。  大量に作れば誰かに嗅《か》ぎつけられるが、多少ならばばれないかもしれない。  あるいは、金貨の密造の前に銅貨を少し作って実験しているのかもしれない。  そんな想像が次々と膨《ふく》らんでいき、もしもそれらを証明するとすればどんな情報があればいいか、足りないのはどんな情報か、はたまた別の考え方はできないものかとまで思い至った時に、今度は隣《となり》でホロがあからさまにつまらなそうにしていることに気がついた。 「……」  ホロは不機嫌《ふきげん》そうに首をかしげ、首の骨をこきりと鳴らした。 「やっぱり、本気であの狐《キツネ》を追いかけぬか?」  それならば自分が放《ほう》っておかれることはない、と言わんばかり。 「……お前も一緒《いっしょ》に考えればいいじゃないか」  ロレンスが言うと、ホロは片眉《かたまゆ》を上げ、呆《あき》れるような顔をして膝《ひざ》の上に肘《ひじ》をつき、手の上に顎《あご》を載《の》せる。まるでサイコロ博打《ばくち》で出目《でめ》がよくなかった博打打ちのようだ。  ロレンスの振《ふ》ったサイは、あまりよい目ではなかったらしい。 「それがぬしの大儲《おおもう》けにつながるのなら、の」 「……それならそれで嫌《いや》がるくせに……それに」 「ん?」 「頭を使うことは嫌《きら》いじゃないだろう? 考えていれば暇《ひま》つぶしにもなる」  ロレンスがそう言うと、ホロはロレンスがびっくりするほど目を見開いて、それからなにかを言おうとして口を閉じた。ついでに目も閉じ、手元の紙束も閉じ、両手でフードの縁《ふち》を掴《つか》むと顔も閉じてしまった。 「ど、どうした?」  思わず聞いてしまったくらいだ。  耳と尻尾《しっぽ》がばたばたと音を立てている。フードから手が離《はな》れ目が覗《のぞ》くと、そこには怒《いか》りの色がある。  じっと、少しも揺《ゆ》らがない目で見つめられ、さすがにロレンスはたじろいで言葉を向ける。 「……なんで、そんな、怒《おこ》ってるんだ?」  琥珀《こはく》のようだといった目が、赤熱《しゃくねつ》させた鉄のようになっている。 「怒ってる? 怒ってると言ったかや?」  逆鱗《げきりん》に触《ふ》れてしまった。  そう思った直後、ホロは怒りで髪《かみ》の毛《け》が逆立ったのと同じくらいの速度で力を抜《ぬ》いた。  まるで、水を詰《つ》めすぎて破裂《はれつ》してしまった皮袋《かわぶくろ》のようだ。  ほんの一瞬《いっしゅん》のうちにやつれてしまったのではないかと疑うくらい意気|消沈《しょうちん》したホロは、幽鬼《ゆうき》のような目でロレンスのことを見つめてきた。 「ぬしのことじゃ……どうせ、なんでわっちがこんなことを言っておるのかわからんのじゃろうなあ……」  それから、ちらりと横目で見て、あからさまなため息を一つ。  出来の悪い弟子《でし》に、怒る気力も失せた師匠《ししょう》といった感じだろうか。  しかし、とロレンスは思う。  どうせ暇《ひま》だから構って欲しくてこんなことを言っているんだろう、と。  それを口にしなかったのは、言ったらホロが余計に怒るからというわけではなく、ロレンスの頭の中身をしっかりと見抜いていたホロが軽く唇《くちびる》を上げて牙《きば》を見せたからだ。 「発言には十分注意するんじゃな」  師匠に弟子入りした時、質問をされるのが一番|嫌《いや》だった。  間違《まちが》ったことを言えば殴《なぐ》られるし、黙《だま》っていると蹴《け》られたからだ。  ロレンスの考えは間違っているらしい。  だとすれば、残る手段は沈黙《ちんもく》なのだが。 「本当にわからぬかや?」  昔の記憶《きおく》が蘇《よみがえ》る。  思わず背筋を伸《の》ばしてしまい、それから、目をそらした。 「わからぬなら、それでもいい」  そして、意外な言葉に振《ふ》り向くと、ホロは真顔でこう言った。 「わかるまで、口|利《き》いてやらぬ」 「なっ」  なにをそんな子供みたいなことを、と言う間もなく、ホロはロレンスから体を離すと、共有していた毛布を引っぺがして自分の体に巻きつけてしまった。  呆気《あっけ》に取られるとはまさにこのことだ。  冗談《じょうだん》だろう? と口に出しかけて、無視された時のことを考えてすんでのところでやめた。  ホロは子供のように頑固《がんこ》だ。口を利《き》いてやらないと言えば本当に口を利いてくれないはずだ。  ただ、これが単にいきなり無視するとかならばまだいい。わざわざ宣言するところがホロの高等戦術なのだ。  こんな子供じみた売り言葉に買い言葉ではあまりにもみっともないし、対抗《たいこう》して無視をするのはもっと大人気《おとなげ》ない。なにより、口を利いてやらぬと言われて動揺《どうよう》してしまったのだから始末に負えるわけがない。  手元の紙に目を落として、少しだけため息をつく。この謎《なぞ》を考えるのも十分に面白《おもしろ》いと思うのだが、ホロのお気には召《め》さなかったらしい。一緒《いっしょ》に紙を選別することは喜んでやっても、一緒にあれこれ考えるのはやってくれないというところがわからない。  ロレンスとしては、ホロとあれこれなんの役にも立たないことに頭を巡《めぐ》らせていることのほうが楽しい気がする。なによりホロの頭は抜群《ばつぐん》に良いのだから、ロレンスの勉強にもなる。  それとも、下手に考えていたらまたなにか揉《も》め事《ごと》に巻き込まれるかもしれないという経験則からだろうか。  ホロの心はよくわからない。  件《くだん》のジーン商会の名が書かれた紙を他《ほか》の紙の上に置いて、ひとまず片づけることにした。  やはりホロはちらりとも視線を向けてこない。相手のご機嫌伺《きげんうかが》いは当たり前の商人でも、ホロのそれは一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない。複雑|怪奇《かいき》なホロの思考だから、解決方法を提示されているのならそれに従うほかない。ずるをすれば、恐《おそ》ろしい罰《ばつ》が待っていることだろう。  そんなことを考えていると、ふとホロが顔を上げた。  体を離《はな》しているとはいえ広くもない船上だ。ロレンスはすぐに気がついて、ホロの視線の先を追った。  目は川の下流のほうに向けられている。  先に下っていった船が気になるのか、と思っていると、ぱらぱらとなにかのこぼれるような音が聞こえてきた。  それが馬の蹄《ひづめ》の音なのだと気がついた頃《ころ》には、下流のほうから川沿いの道を矢のように走ってくる一頭の馬の姿が見えてきた。 「なんだ?」  ロレンスは呟《つぶや》いて、ホロの返事がなかったのでそちらを振《ふ》り向きつつ、口を利いてもらえないことを思い出した。  条件反射のようにしみついている。  とりあえず、独《ひと》り言《ごと》だったように振る舞《ま》ったつもりだが、隠《かく》せるわけがない。  あとで笑われることだろう。  それを考えると気が重かったが、問題を解決できなかった時のことを考えるとちょっと怖《こわ》い。  ホロはロレンスのことなどまったく気がついていないように毛布から出ると、軽い足取りで船が着けられている桟橋《さんばし》に上がっていった。  馬は桟橋に近づくと足を緩《ゆる》め、止まりきる前にまたがっていた男が飛び降りた。男はマントを羽織ってはいるが二《に》の腕《うで》をまくっていて、船乗りと一目でわかる格好をしている。桟橋から陸に上がって出迎《でむか》えるかたちとなったラグーサたちとも顔見知りらしい。何事かと問う彼らと、挨拶《あいさつ》もなく会話を始めている。  話にまじれないコルはせめて邪魔《じゃま》にならないようにという気遣《きづか》いだろうか、気にはなりつつも彼らとは離れて桟橋の上に立っていた。  ロレンスなら間違《まちが》いなく話を聞き取ろうと近寄っているので、見上げた自制心だ。  そんな評価を下したのかどうか、ホロがコルに近寄り、何事かを耳打ちしている。  なにを喋《しゃべ》っているのかはもちろん聞き取れないが、コルが驚《おどろ》いたようにホロの顔を見つめなおしてから、ロレンスのほうを窺《うかが》ったのでなにかしらロレンスに関係のあることなのだろう。  この状況《じょうきょう》で話すのだから、あまり友好的なことではないはずだ。  コルはまたなにか耳打ちされて、真剣《しんけん》な顔でうなずいている。  ホロは一度もこちらを見ない。  もう、今までのような、ホロがいなくなってしまうのではないかという心配こそないものの、それだからこそ、余計《よけい》に嫌《いや》な予感がしてしまう。  ホロにはこちらの手の内が全《すべ》て読まれているのだから。 「よし、おーい、先生よ!」  と、船乗りらしく話は手短に終わったらしい。  ラグーサが振《ふ》り向いて、ロレンスに手を振りながら大声を張り上げた。  仕方ないので立ち上がり、ロレンスも桟橋に上がる。  ホロはコルの側《そば》に立ち、手をつないでいた。  それを見てアマーティの時のようにそわそわしなかったのは、なんだか二人が姉弟《きょうだい》のように見えたからかもしれない。 「なんでしょう」 「ああ、悪いんだけどな。ちょっとばかし歩いてもらうことになりそうだ」 「歩く?」  ロレンスが聞き返していると、話を終えたらしい男が再び馬に乗り、さらに上流を目指して走っていった。  その手には藍色《あいいろ》に染められた旗がある。  それでなんとなく察しがついた。川になにかあったのだろう。 「大型の船が座礁《ざしょう》しやがってな。川を完全にふさいじまったんだと。どいつもこいつも欲の皮|突《つ》っ張らせて大急ぎだったからな。気がついた時には遅《おそ》く、次から次へと玉突きだ。どうやら川の底にどこかの船が沈《しず》んでるという話だ。沈んだ船の船乗りの姿がどこにもなかったというから、一騒動《ひとそうどう》あるかもしれねえな」 「それは……」  戦《いくさ》の時や、飢《う》えた傭兵《ようへい》集団が商船を襲《おそ》おうとする時に使う手段だ。  勾配《こうばい》のなだらかな平野が延々と続くこの地方だと、川は一本|杭《くい》を打たれただけで航行不能になるくらいに浅く、弱い。  そのため事故を装《よそお》って船を沈め、立《た》ち往生《おうじょう》した船を襲ったりするのだが、当然そんなことを平時にすればそこで関税を徴収《ちょうしゅう》している権力者連中からどれほど恨《うら》みを買うかわからない。  だが、ロレンスにはそんな命知らずに一人心当たりがある。  もう、帽子《ぼうし》と外套《がいとう》を脱《ぬ》いで振《ふ》るしかない。  素直《すなお》な気持ちで、エーブを応援《おうえん》したいくらいだった。 「それで、どうなります?」  とは、もちろんケルーベまで行けるかどうかということだ。まだ道程は半分も来ていないだろうし、かといって徒歩でレノスに戻《もど》るのはちょっと距離《きょり》がある。  馬があれば別だが、人より荷物を載《の》せたがる者が大勢いるだろう。 「幸いなことに傭兵連中の姿はないということだから、遠からず復旧するだろう。だが、他《ほか》の船は荷物を満載《まんさい》で立ち往生してる。川に飛び込んで岸に上がる度胸のある奴《やつ》ら以外はにっちもさっちもいかない。そこで、この船なら積荷《つみに》をいくらか減らせば積載量に余裕《よゆう》ができるから、座礁《ざしょう》した船から人と積荷を陸に上げるのに使いたいというわけだ。そこでな、悪いがちょっと歩いてもらいたいんだ」  一度は客を請《う》け負った船乗りが、客に陸を歩いてもらうなどというのは不名誉《ふめいよ》極《きわ》まりないことだ。それが自分のせいだろうとなかろうと、変わりはない。  そういう価値観の中で生きる船乗りのラグーサの顔が、わずかに曇《くも》っている。  もちろんロレンスはこう言うしかない。 「私は商人ですから、いくらか料金を負けていただければいくらでも歩きましょう」  異業種の者の友情というわけではないが、ラグーサは参ったなとばかりに苦笑いし、それでもロレンスと握手《あくしゅ》をした。  問題はホロだが、ロレンスがそちらを振り向く前にラグーサが言葉を続けた。 「ただ、さすがにこの寒さの中をなんの準備もない娘《むすめ》さんに歩かせるわけにはいかねえ。それに、信心《しんじん》深い奴《やつ》らが川をふさがれてぴりぴりしてるって話だからな。女神かと思う娘が船に乗って下ってくれば元気が出るというものだ」  それにはちょっとほっとした。  口を利《き》いてくれないホロと連れ立って歩くのは考えただけで胃が痛いし、機嫌《きげん》が良くたって、この寒い中歩かされるとなったらホロは不満たらたらだろうからだ。 「というわけで、まずは積荷《つみに》を下ろさないとな」 「手伝いましょう」 「おっと、それだと手伝ってもらいたくて口にしたみたいじゃないか」  ラグーサは笑う。  うまい、と思うしかない。  これだとロレンスは決して断れない。 「ま、下ろすとはいっても麦と豆だけだ。木箱はさすがにそのままだな」 「では早速《さっそく》取り掛《か》かりましょうか」  船の積荷を振《ふ》り返りつつロレンスが言うと、「おう、そうだ」とラグーサが声を上げた。 「そういや、さっきあんたらが楽しそうに話していたのを盗《ぬす》み聞きしてたんだけどな」 「え」  と、慌《あわ》ててしまったのは、ホロと交《か》わしているやり取りがそれくらい恥《は》ずかしいものだからだ。 「おっと。大丈夫《だいじょうぶ》。お前さんが心配しているようなことは聞いちゃいない」  ラグーサがにやりと笑い、こちらは苦笑いだ。 「なに、エニー貨の話だよ」 「エニー貨の?」 「そう。それ。それな、まさしく今俺が運んでいるやつなんだよ」  貨幣《かへい》を運んでいるのだろうとは思ったが、まさかそんな偶然《ぐうぜん》があるのだろうか。  あるいは、ちょっとしたいたずら心でラグーサがからかっているのかともロレンスは一瞬《いっしゅん》思ったものの、一つずつ考えていけばそうでもないか、と思いなおす。  金貨、銀貨ならばそもそも護衛がつくせいでロレンスのような旅人は同じ船には乗せない。  それに、ラグーサの船に積まれているのはせいぜい十箱程度。とすると、川を下るのは五十七箱だから、他《ほか》に四|隻《せき》くらいは同じ船がいるはずだ。  そして、彼らは事前に積荷が決まっているから毛皮を運んで一儲《ひともう》け企《たくら》むといったことをしにくい。すると港で落ち着いていつもどおりに作業をしていたはずだから、ロレンスの目には留まりやすい。  こう考えるとさもありなんだが、だとすると、ラグーサはなにか新しい情報を持っているかもしれない。  ロレンスが商人の目を向けると、ラグーサはそれを待っていたらしい。  ひとまず積荷を下ろそうと目配せをして、話を聞いていたコルとホロにも身振りで合図してから、ロレンスの肩《かた》に手を置き、顔を近づけてこう言った。 「その話はちょっと俺も興味があるんだ。この銅貨はここ二年ほど、決められた日に決められた数だけ運んでいるんだがな、お前さんが言うように、川を下ってジーン商会に運び込まれているのは五十七箱のはずなんだ。今まで全部で何箱なんてのは気にしたこともなかったけどな。決まった面子《めんつ》で決まった量を分配して運んでいて、確かに数えると五十七だ」  ホロは多少の食べ物と水と酒をコルに持たせ、替《か》えのローブを着せてやっている。ロレンスの金を使ってあつらえた高級品だ。  コルは驚《おどろ》いて断ろうとしていたが結局無理やり着せられていた。  確かに、コルの格好はちょっとみすぼらしすぎる。  裾《すそ》の長い服を着るのは初めてなのか、歩きづらそうにしていたがまんざらではないようだった。 「五十七箱だったのがジーン商会から出る時には六十箱になって三箱増えているということは、誰《だれ》かが隠《かく》れて多く運んでいるか、あるいはジーン商会がなにかしら企《たくら》んでるってことだ」  船まで戻《もど》り、ラグーサは身軽に飛び乗ると小麦の袋《ふくろ》を担《かつ》ぎ上げ、ロレンスがそれを受け取って桟橋《さんばし》の上に置く。  コルはそれを見て自分でも持てる豆の袋を引っ張り上げていた。  熱心な奴《やつ》だと思いつつも、ロレンスとラグーサの話を盗《ぬす》み聞《ぎ》きしたいのだろう。 「俺はいつも荷を預けてくれるジーン商会に感謝しているし、この仕事を一緒《いっしょ》に引き受けた仲間連中を信じてはいるがな。こんなご時世だ。変な片棒《かたぼう》を抱《かつ》がされているんじゃないかと疑っちまっても、神様は許してくれるだろう?」  コルではないが、騙《だま》し騙されは当たり前なのだ。 「もっとも、その紙持ってジーン商会に行くのが早いんだろうが、この箱一つで結構な運搬《うんぱん》料になる。もしもこれがジーン商会の泣き所だと、困ることになる」  仕事を請《う》け負う者の辛《つら》いところ。  ただ、ロレンスは最後の小麦袋を受け取って、積み上げると答えた。 「私ももちろん事の真相を暴《あば》こうなどとは思っていません。上手に砂上《さじょう》の楼閣《ろうかく》が作れれば満足です」 「それならこちらも旅の商人の戯言《ざれごと》と聞き流せる。たとえなにかの片棒を担がされていたとしてもな」  ラグーサは笑う。  同じ川で死ぬまで仕事をするラグーサたちにとって荷主のご機嫌伺《きげんうかが》いは死活問題だ。だが、変な片棒を担がされていれば川に沈《しず》められるのもまた彼らなのだ。せめて真実は知っておきたいと思うが、同じ川に流れる者たち同士では世界が狭《せま》すぎて囁《ささや》き合えない。それでも、外部から来た旅の者ならば。  それは考えすぎというものだろうが、当たらずとも遠からずだろう。  ホロから荷物を受け取ったコルが、なにも言われずに自分の荷物と合わせて背負っている。  ロレンスの視線に気がついて顔をこちらに向けたが、ロレンスは軽く手を振《ふ》って先に行っていろと示した。 「では、連れのほうを頼《たの》みますが、あまり神々《こうごう》しく見せませんように」 「はっはっは。拝む者が増えては困るからな。なに、歩いてもすぐだ。日暮れまでには十分落ち合えるだろう」  ロレンスはうなずき、ちらりとホロに視線を向けたが、ホロはもう毛布に包《くる》まって横になっていた。  その寝姿《ねすがた》を見て、喧嘩《けんか》の仕方にも色々あるんだなと、ロレンスはしみじみ思ったのだった。 [#改ページ]  第四幕  川べりの徒歩は応《こた》える。  それにもう長いこと荷馬車に乗っての旅だったので、疲《つか》れはしないもののコルの歩く速度についていくのが難しい。  こんなにも早く歩くのには足をどうすればいいのだったか。  荷馬車乗りの行商人が羨《うらや》ましく、必死になって倍以上の速さで歩いた昔が懐《なつ》かしかった。 「そんなに急いでも得はしない」  つい、そう言ってしまった。 「はい」  コルは従順に返事をして、歩く速度を落とした。  身軽になったラグーサの船は、ホロを乗せて川を下りあっという間に見えなくなる。後続の船はどれも大きく、先ほどの関所で全員足止めされているため川は静かなものだった。  平らな地面をナメクジが這《は》ったあとのようにぬらぬらと輝《かがや》く水面を見るのもなかなか面白《おもしろ》い。  ロレンスとしては、大地にガラスを張ったようだと言いたいところだが、ちょっと仰々《ぎょうぎょう》しすぎるだろうか。  そんなことを思っていると、ぱしゃんと魚が一|匹《ぴき》跳《は》ねた。  魚が跳ねては、ガラスも台無しだ。 「えっと、先生」  ついでに、こちらの小魚も水音を立てた。 「どうした?」 「エニー貨の話って……」 「ああ。金儲《かねもう》けにならないかって?」  ホロと一緒《いっしょ》にいたせいで癖《くせ》になってしまったのか、意地悪で聞いてやるとコルは渋《しぶ》い顔をして、うなずいた。  この少年は、金を儲けることを恥《は》じているのだ。  ロレンスは前を向き、冷たい空気を鼻から吸って、口から吐《は》いた。 「ならないだろうな」 「……そう、ですか」  ホロのローブを着ているので、しょげているとホロがしょげているようだ。  思わず手を伸《の》ばしていた自分に驚《おどろ》いたが、コルのほうはちょっとびっくりしただけで、頭を撫《な》でられるままだった。 「しかし、お前なら金になど困りそうにないものだがな」  コルの頭から手を離《はな》して、掌《てのひら》を何度か開けたり閉じたりする。  もっとホロと違《ちが》うものかと思ったが、耳の感触《かんしょく》がないだけであまり変わらない。  きっと、後ろから見ても尻尾《しっぽ》の膨《ふく》らみがないだけだろう。 「どういうことでしょうか」 「ん? そのままの意味だ。放浪《ほうろう》学生といったって、賢《かしこ》い連中はうなるほど金を持って、毎日酒を飲んでるだろう」  うなるほどは大袈裟《おおげさ》だが、少なくとも十回は博士の教えを最後まで受け終えるだけの金を稼《かせ》いでいる奴《やつ》はいる。  コルは、その一回すらおぼつかないと思い本の商売に手を出したのだ。 「え、ええ……います。そういうのが、確かに」 「そいつらがどうやって金を稼いでいるか、考えたことあるか?」 「……きっと、人から奪《うば》っているのだと思います」  自分の想像の及《およ》ばない結果を手にしている者を見ると、なにか不正をしているのだと思う。  きっとなにか自分とは根本的に異なる方法を取っているに違いないと結論を下す。  今回のコルの評価はちょっと、低い。 「多分な、そういう連中はお前と変わらない方法で金を稼いでいる」 「え」  まさか、という顔でこちらを見上げてくる。  上手に、本当に上手にホロに切り返した時のような顔だ。  相手がホロではないので安心して得意がれる。  そんな自分に気がついて、自嘲《じちょう》気味に笑い、頬《ほお》を掻《か》いた。 「んんっ。でな、そういう連中とお前がなにが違《ちが》うかというと、努力の差だ」 「……努力の、差、ですか?」 「そう。お前も、旅《たび》の途中《とちゅう》で一晩の屋根を借り、あるいは一時《いっとき》の食事をもらってここまで来たんだろう?」 「はい」 「それなら自分も努力してきましたって顔だな」  笑って言うと、コルは顔を引きつらせて、それから前を向いてうつむいた。  すねているのだ。 「お前が努力してきたのは、いかに誠心誠意|頼《たの》んで雨風をしのげる屋根の下に入れてもらうか、いかに寒い体には熱すぎるくらいの粥《かゆ》をもらうか、だ」  コルの目だけが左右に揺《ゆ》れ、それから、うなずいた。 「連中は、そうではない。どれだけ多く、どれだけ効率的にもらえるかのみに焦点《しょうてん》を絞《しぼ》って考える。俺が聞いた話はすごかった。商人など顔負けだ」  しばらく反応がなかったが、ロレンスは慌《あわ》てない。  コルは賢《かしこ》い少年だとわかっているからだ。 「ど、どんな方法……なのでしょうか」  教えを請《こ》うというのは簡単なことではない。それは賢い者であればあるほどそうだ。自分に自信があるせいで、なかなか聞きづらい。  もちろん、他人に聞くほうが楽だと言って初めからそうする者もいる。  そういう者は、コルのような目はしていない。  しかし、ロレンスはすぐに応《こた》えず、コルが背負っていた小さな樽《たる》を手にとって、栓《せん》を抜《ぬ》くと一口|含《ふく》んだ。  色が薄《うす》くなるまで蒸留《じょうりゅう》されたぶどう酒だ。  冗談《じょうだん》めかしてコルに樽を傾《かたむ》けてみるが、首を横に振《ふ》られた。  その目には怯《おび》えたような色がある。旅の途中《とちゅう》でよくわからずに手を出して、ひどい目に遭《あ》ったのだろう。 「例えば、ある家の戸を叩《たた》いて、お前は一|匹《ぴき》の燻製《くんせい》の鰊《ニシン》を貰《もら》ったとする」  コルはうなずく。 「それも、ひょろひょろに痩《や》せていて、硬《かた》い皮をはいだら身などまったく残りそうにない、ただ煙臭《けむりくさ》いだけのまずい代物《しろもの》だ。では、お前はその次にどうする?」 「え……」  たとえ話ではなく、実際にそんな状況《じょうきょう》になったことがあるはずだ。  コルはすぐに答えを導き出す。 「それは……半分だけ食べて、もう半分は残しておきます」 「そして、次の日に食べる」 「はい」  よくもまあ今まで生きてこれたものだとロレンスは感心する。 「鰊《ニシン》を貰《もら》ったら、次はスープを貰いに行かないのか?」 「……たくさん家を回れということでしょうか」  媚《こ》びるような目ではなく、少し不満そうな目でそう言うのだ。  ロレンスにこの会話が面白《おもしろ》くないわけがない。 「お前がそうしない理由は、きちんとあるんだろう?」  不満そうにうなずく。  コルは理由なしに行動するほど馬鹿《ばか》ではない。 「一度……成功すれば、運がいいほうですから」 「そうだな。世の中そんなに善人に満ちあふれているわけではない」 「……」  餌《えさ》をこれほどぱっくり飲み込んでくれるのだ。  ホロは食べたふりして、糸を池の底に結び付けているのだからたちが悪い。竿《さお》を上げた瞬間《しゅんかん》に、自分が池の底に引っ張り込まれる寸法だ。  その点、コルなら心配ない。 「商売はな、金があればあるほどうまくいく。それは道具が多いからだ。だが、お前はいつまで経《た》っても丸腰《まるごし》で戦いに挑《いど》んでいる。だから毎回傷だらけなんだ」  その目が泳ぐ。  泳いで、急に活力を取り戻《もど》す。  頭が良いとは、こういうことをいう。 「…………鰊を、使うのですね?」  唇《くちびる》がつり上がり、頬《ほお》が痛む。  こんな喜びが、世の中にあるのだ。 「そう。その鰊を手に持って次の施《ほどこ》しを求めに行くんだ」 「えっ?」  その表情がなくなるくらいにコルは驚《おどろ》く。  それはそうだ。  すでに鰊を手にしている者が、どうして鰊をもう一匹くださいと言って貰えるだろうか。  だが、貰えるのだ。  それも、さらに容易に、だ。 「鰊《ニシン》を手に持って、そう、できれば仲間がいたほうがいい。それも、自分より幼い者だ。そいつを連れて、戸を叩《たた》く。ごめんください。神の教えの下《もと》に生きる敬虔《けいけん》なる旦那《だんな》様。ご覧《らん》ください。私の手には一|匹《ぴき》の鰊があります。ですが、これは私が食べるわけではありません。ご覧ください。こちらの幼き旅の連れが、今日は年に一度の誕生日《たんじょうび》なのです。どうぞ、そのお慈悲《じひ》を以《も》って、この鰊をパイにして、この幼き子羊に食べさせてやれるだけのお金を恵《めぐ》んでください。鰊をパイにできるだけでよいのです。どうか、どうか……」  哀願《あいがん》なら商人にもお手の物。  ロレンスがたっぷり演技してやると、コルは固唾《かたず》を飲んでその様を見つめていた。 「こんなことを言われてみろ。誰《だれ》が断れる? それに、鰊をパイにするだけのお金、というところが肝《きも》だ。わざわざパイにするために竃《かまど》に火を入れてくれる人などまずいないからな。施《ほどこ》しをくれるなら間違《まちが》いなく金をくれる」 「あ、つ、つまり、いくらでもっ……」 「そう。鰊一匹で次から次へと金を貰《もら》って、中には鰊一匹じゃ足りないだろうと言って他《ほか》にも色々くれる人がいるかもしれないな。そして、町中を回ったら、ドロン」  放心、と書いて札を立てておけば、物好きがお金を置いていってくれそうなほど、コルは放心していた。  天と地がひっくり返る衝撃《しょうげき》を味わっていることだろう。  世の中すごい連中はいくらでもいて、思いもよらないことを平気で思いつくのだ。 「背に腹はかえられない、とまでは言わないが、考えようによっては、貧しい放浪《ほうろう》学生に施《ほどこ》しをしているのは間違いのないわけだし、施しをした者はちょっとした金額でとても良いことをしたという気持ちに浸《ひた》れるのだから、誰も損することはない。食べ物や金が余ったのなら、仲間に分け与《あた》えればなおのこと良い。どうだ。勉強になったか?」  ホロの寝顔《ねがお》が可愛《かわい》いのは、普段《ふだん》は油断ならない狼《オオカミ》のごとしのそれが無防備になるからだ。  ただ、それは普段がどうこうとかはあまり関係ないのかもしれない。  あまりの衝撃に完全に無防備になっているコルの顔は、ホロとまではいかなくとも、なるほど愛らしさがあった。 「無知は罪なり」  ロレンスがコルの後頭部を突《つ》ついて言うと、コルはうなずいて、ため息をついた。 「知らぬは己《おのれ》……ばかりなり、と聞いたことがあります」 「まあ、それはそうだが、重要なことはな」  と、話している最中に後ろから蹄《ひづめ》の音が聞こえてきた。  足止めを喰らった船の中に馬を乗せている者がいたのだろう。  馬なのか、それとも毛皮の塊《かたまり》なのかわからないようなものが、人を乗せてものすごい勢いで走っていった。  一頭。二頭、三頭。  全部で七頭はいた。  あの中で思ったとおりの利益を上げられる者が何人いるだろう。  たとえなにかを知ったとしても、その中で利益を上げるのは難しい。  一番大事なのは。 「一番大事なのは、まだ誰《だれ》も思いついていないことを思いつくこと。『無知は罪』の知とは、知識ではなく、知恵《ちえ》のことだ」  コルは目を見開いて、歯を食いしばる。  背負う荷物の紐《ひも》を握《にぎ》る手に力がこもり、小刻みに震《ふる》えていた。  そして、顔を上げる。 「ありがとうございました」  本当に、神だけがいつも得をしているらしかった。  コルとの二人連れは、なかなか楽しいものだった。  ただ、さっきホロに言われたことはなんだったんだ? という質問には、黙秘《もくひ》された。  ホロのフードつきの外套《がいとう》を身にまとっているのだ。  とっくに、ホロはコルに自分の匂《にお》いをつけ終わっている。  これを覆《くつがえ》すのはなかなか難しそうだった。 「あ、見えてきましたね」 「ん……そうだな。ずいぶんとすごいことになっているようだが」  障害物がなにもないので、ちょっとした勾配《こうばい》ではるか彼方まで見通すことができる。  まだ歩いてたどり着くにはだいぶ距離《きょり》があるが、それでもおおよそのことはわかる。  ラグーサの言葉どおり、大きな船が川を斜《なな》めにふさぎ、その後ろにごちゃごちゃと船が積み重なるように停船している。  川岸に近い場所に停船しているのは、ラグーサの船だろうか。  馬に乗った者も何人かいるようで、大方急報を聞きつけて駆《か》けつけた貴族の使いの者だろう。  他《ほか》にも人が大勢動いているようだが、なにをしているのかまではわからない。 「なんだか、お祭りみたいですね……」  コルがぼんやりと言って、ロレンスはその横顔を何気なく見た。  視線が遠くに向けられているからだろうか。なんとなくその横顔は故郷を懐《なつ》かしむような、どことなく寂《さび》しそうなものだった。  ロレンスも寒村の息が詰《つ》まるような灰色の空気に耐《た》えられず外に出た口だが、それでも故郷を恋しいと思うことはたびたびあった。  その目がどことなく濡《ぬ》れているように感じたのは、だいぶ日が傾《かたむ》き、色がつき始めた光に照らされていたからだけではないだろう。 「お前、どの辺の生まれなんだ」  ロレンスは、思わず聞いていた。 「え?」 「答えたくないならいいんだが」  ロレンスだって、生まれはと聞かれたらつい見栄《みえ》を張って生まれた村から一番近い町の名を答えてしまう。  もっとも、その大半の理由は、村の名を言ってもまず通じないからなのだが。 「え、えーと、ピヌ、というところなんですが……」  コルはおずおずと答え、やはりロレンスもわからなかった。 「悪い。わからないな。どの辺なんだ? 東か?」  語感からして、はるか南東の彼方のような気もした。  石灰岩と熱い海の国。  もちろん、話にしか聞いたことはない。 「いえ、北です。実は、ここからそんなに遠くもなくて……」 「ほう?」  北の人間で、教会法学を学びたいというからには、南から来た入植者だろうか。  新天地を求めて家財をなげうって北に来る者は多い。  しかし、その多くが新しい土地になじめず、なかなか難しいようだ。 「この、ローム川に流れ込むロエフという川があるのをご存じですか?」  ロレンスは、うなずいた。 「その上流のほうで……山奥なんですけどね。冬は……寒いですけど。雪が降ると、綺麗《きれい》ですよ」  ロレンスは、ちょっと驚《おどろ》く。  レノスの町で、リゴロから借りた本に書かれていた、ホロの話。ロエフの山奥からやってきたという記述。  ただ、この近辺をうろついている者なら南から来ましたというほうが珍《めずら》しいかもしれない。  ロエフ川だって長いのだ。その流域に住む者たちの数のほうが圧倒《あっとう》的に多いだろう。 「ここから、ゆっくり歩いていっても半月か、それくらいです。北に来たのは、仕事があるかもしれないってこともあったんですけど、もし、もう、本当に駄目《だめ》になったら、一度、家に帰ろうかなって……」  恥《は》ずかしそうに喋《しゃべ》るコルを、もちろんロレンスは笑えはしない。  寒村から出ていくにはいつだって信じられないような決意が必要だ。  制止を振《ふ》り切って出るにしても、熱烈《ねつれつ》な応援《おうえん》を背に受けてであっても、どちらにしたって目標を達成しなければおいそれと帰れるものではない。  ただ、故郷に帰りたいというのは、いつだって誰《だれ》にだってある感情なのだ。 「そのピヌというところは、入植地なのか?」 「入植地?」 「南からの移住者が住み着いたところ、という意味だ」  コルはちょっとぽかんとして、首を横に振った。 「いいえ? ただ、元々村のあった場所は、大昔にあった地崩《じくず》れのせいでできた湖の底に沈《しず》んでしまったという話ですけど……」 「ああ、いや、北の地の人間なら、あまり教会法学は学ばないだろうと思ってな」  その言葉にコルは目をしばたかせて、自嘲《じちょう》気味に笑った。 「先生にも……あ、これは、リエント博士という先生なんですが、その方にも言われました。君のような異教の地の生まれの者がもっと教会の教えに目覚めてくれれば、と」  照れたように笑うその笑顔《えがお》が、自嘲と見えたのはなぜだろうか。 「だろうな。村に宣教師でも来たのか?」  穏健《おんけん》なそれならばそれこそ神の思《おぼ》し召《め》し。大半は改宗とは名ばかりの略奪《りゃくだつ》と殺戮《さつりく》を行う剣《けん》を携《たずさ》えた戦う宣教師がやってくる。  ただ、もしもそうなら、コルは教会を憎《にく》みこそすれ、教会法学を学ぼうなどとは思わないはずだ。 「宣教師は、ピヌには来ませんでした」  言って、また視線を遠くする。  その横顔はとても年齢《ねんれい》には相応《ふさわ》しくないものだった。 「来たのは、二つ山向こうの村でした。狐《キツネ》と梟《フクロウ》を捕《つか》まえる名人がたくさんいた、ピヌよりももっと小さい村です。そこにある日南から教会の者たちがやってきて、教会を建てました」  そして、そこで宣教師のありがたい説教を聴《き》いて神の教えに目覚めました、とは続きそうになかった。  それはなぜかと考えればすぐにわかる。 「だが、村にはそれぞれ村の神がいて、教会に逆らった人たちを」  コルは驚《おどろ》いて、ロレンスを見る。  それだけで十分だった。 「俺は、今はどちらかというと教会の敵かもしれない。話を聞かせてくれないか」  ロレンスが言うと、コルは驚いたままの顔で何かを言おうとしたが、言葉にならず一度口を閉じた。  それから、うつむきがちに視線をうろうろさせ、もう一度ロレンスのことを見た。 「本当に?」  人を疑うことに慣れていないのがよくわかった。  こんなにお人好《ひとよ》しでは、この先きっと苦労することだろう。  しかし、その代わりにコルには愛嬌《あいきょう》がある。 「ああ、神に誓《ちか》って」  ロレンスの言葉にくしゃっと歪《ゆが》めたコルの顔は、ついその頭に手が伸《の》びるくらい可愛《かわい》かった。 「……近くの村|全《すべ》ての村長が集まったのは、二百二十年ぶり、と聞きました。何日も会議して、教会の言いなりになるべきか、戦うべきかを相談しました。僕の記憶《きおく》では、とても教会は話し合いに応じるとかいう雰囲気《ふんいき》ではなかったと思います。山を越《こ》えて毎日伝えられる知らせは、いつも誰《だれ》が処刑《しょけい》されたかということばかりでした。でも、結局は冬が来て教会の偉《えら》い人が病にかかり、こんな異教の地で死にたくないと騒《さわ》ぎながら山を降りてくれたので助かりました。もっとも、戦《いくさ》になれば山を知っているうえに数も多い僕たちが勝ったはずなんですけど」  もしもそれが本音ならば、教会が血なまぐさい振《ふ》る舞《ま》いをした時点でそうしていたはずだ。  それをしなかったのは、下手に戦になって援軍《えんぐん》を呼ばれたら絶対に敵《かな》わない、と皆《みな》わかっていたからだろう。  山奥の村とて、外の情報がまったく入らないわけではない。 「でも、教会の偉い人が病になったからといってあっさり引き上げていく話を聞いて、僕は思ったんです」  そこまで言われれば、ロレンスにもわかる。  コルは賢《かしこ》い少年だった。  信条がどうのなどと言わず、ただもっとも村を守るのに適した方法はなにかということを合理的に選択《せんたく》した。  高位の僧服《そうふく》を着ているというだけで、人の命のやり取りすら簡単に始めたり中止したりできる、その滑稽《こっけい》な権力のことに気がついたのだ。  教会法学を学び、教会の権力機構に食い込む。  そして、コルはそうすることで自分たちの村を守りたいのだろう。 「反対されなかったか」  故郷の話はあのホロですら涙脆《なみだもろ》くする。  両手のふさがっているコルの涙を、フードの縁《ふち》で拭《ぬぐ》ってやった。 「村長さんと……大婆《おおばあ》さんだけは……賛成してくれて……」 「そうか。きっと、お前ならやれると思ってくれたんだろうな」  コルはうなずいて、立ち止まってから、肩《かた》で涙を拭《ふ》き、また歩き出した。 「お金も、こっそりとくれて……だから、どうにかしてもう一度学校に戻《もど》りたいんです」  金を必要とする最大の動機かもしれない。  いつだって、自分のためにではなく、他《ほか》のなにかのために戦う者のほうが強いのだ。  ただ、ロレンスは裕福《ゆうふく》な商人ではないからコルのパトロンになることはできない。  代わりに、ちょっとした手伝いならできるかもしれない。  それは小銭《こぜに》の稼《かせ》ぎ方だったり、罠《わな》の避《さ》け方だったり、もしかしたら、コルの旅路に少しだけ彩《いろどり》を添《そ》えることかもしれない。 「今すぐ俺はお前に金をどうこうしてやることはできないが……」 「ぐすっ、い、いえ、それは」 「あの銅貨の話。ラグーサ船長を納得《なっとく》させるだけの解答を得られれば、いくらか礼が貰《もら》えるかもな」  正解、と言わなかったのは、正解はジーン商会に聞かなければわからないからだ。だが、ジーン商会に確認《かくにん》はできないものの、ラグーサを納得させられるだけの解答は導き出せるかもしれない。  そうすれば、いくらか礼を期待したって罰《ばち》は当たらない。  指に刺《さ》さった棘《とげ》だって、他人に取ってもらえば礼はしなければならない。 「ま、その謎《なぞ》を考える最大の効用は、旅の緊張《きんちょう》をほぐすことだけどな」  ロレンスは笑いながら言って、コルの頭を軽く小突《こづ》く。  ホロから生真面目《きまじめ》だと笑われるロレンスだが、この少年と比べればいい加減なほうだ。 「しかし、さっき言ってた祭りってピヌの村の祭りのことか? やっぱり、あんな感じなのか?」  と、ロレンスはだいぶ全貌《ぜんぼう》が見えてきた船の座礁《ざしょう》現場を指差して言った。  川べりには船の破片を集めた小山ができており、その横では何人かの男たちが火を熾《おこ》して服を乾《かわ》かしていた。  ただ、圧巻なのはもちろんそんなことではない。  座礁した船の下から伸《の》びている綱《つな》と、川岸でそれを引っ張る大勢の男たち。  身なりも年もまちまちで、共通することといえばこの川を下っている最中に災難《さいなん》に見|舞《ま》われたことだ。  本当にがめつい者たちは荷物を担《かつ》いで下っているのだろうが、大半の者たちは荷物などほっぽり出して綱|引《ひ》きに精を出している。  長い外套《がいとう》を翻《ひるがえ》した騎士《きし》の乗る馬までもがそれに参加しているのだから、盛り上がらないわけがない。船の上でそれぞれ棹《さお》を手に船がひっくり返ったり流されないようにしている者たちも合わせて声を上げている。  コルは魅入《みい》られたようにそんな様子を見つめ、それから、ようやくロレンスのことを振《ふ》り向いた。 「こっちのほうが楽しそうです」  その顔に、ロレンスは言葉をようやく飲み込んだ。  ホロに言われたからではないが、もしも弟子《でし》を取るならばコルほどぴったりな者はそうそういないだろうと思う。  それに、ただでさえホロとの旅が終わった先にはまたあの寒くて辛《つら》い孤独《こどく》な行商の旅が待っている。とすれば、ホロの代わりにはならなくとも、コルは御者《ぎょしゃ》台に座らせるには十分な少年だ。  だが、コルには目的があって、それは自分自身のためだけのものではない。  だから、弟子にならないか? という言葉を飲み込むには、それなりに力が必要だった。  ロレンスは、コルの目的が商人になるというものではなかったことを、ちょっとだけ神に文句を言いたかった。 「なら、俺たちもまぜてもらわないとな。寒いのも綱《つな》を引けば温まるだろう」 「はい」  ロレンスたちがそのまま歩いていくと、川の上を身軽に滑《すべ》っていた船の上から、ラグーサが笑顔《えがお》で棹《さお》を振《ふ》って声をかけてきたのだった。  遠くから見るのと、実際に綱を引くのとでは大違《おおちが》いだ。  足元は泥炭質《でいたんしつ》で踏《ふ》ん張《ば》るとぬかるむうえ、手袋《てぶくろ》もなしで寒い中|握《にぎ》る綱は容赦《ようしゃ》なく手の皮を削《けず》り取っていく。  挙句《あげく》、綱の先端《せんたん》は沈《しず》んでいる船の一部分にくくりつけられているので、まったく動かないと思って全員で力んでいたものが、いきなり木が折れて抵抗《ていこう》がなくなったりする。  そうすれば当然全員ですっころぶ羽目になり、体はたちまちのうちに泥《どろ》だらけになる。  ロレンスを始めとした商人や旅の者たちは、当初こそ意気込んで綱を引いていたものの、疲労《ひろう》が見え始めると露骨《ろこつ》にやる気がなくなっていくのがわかった。  どれだけ引っ張っても綱でくくった船の破片しか上がってこないとなれば、士気も上がろうはずがない。  この寒い中に裸《はだか》になって川に飛び込み、綱を沈《しず》んだ船にくくりつけに行く若い船乗りも、唇《くちびる》が青紫《あおむらさき》色になって顔は紙のように白くなっていた。  火を熾《おこ》し、たまたま船に乗り合わせた旅芸人らしい女や旅のお針子《はりこ》らしい女、それにホロらの励《はげ》ましを受けては川に飛び込んでいたが、気力でどうにかなるには川の水はあまりにも冷たい。川から上がってくるその様子が目に見えて辛そうになっていた。  そして、ついに年かさの船乗りが見かねて声をかけた。自分からもうできませんと言い出すには船乗りは頑固《がんこ》すぎるのだろう。悔《くや》しそうに顔を歪《ゆが》めている姿が、痛々しかった。  それに、ロレンスたちのほうもこれは駄目《だめ》だろうという諦《あきら》めの空気が漂《ただよ》っている。益なしと判断すればすぐに掌《てのひら》を返すのが商人だ。  川に生きる船乗りたちは、もちろん意地と名誉《めいよ》にかけて引き上げるつもりらしかったが、一人、また一人と綱《つな》から離《はな》れ腰《こし》を下ろしていく中で、無理だと思ったらしい。一人の壮年《そうねん》の船乗りを中心にして集まり、すぐに結論が下された。  レノスもケルーベも遠く、もうそろそろ日も暮れようかというこの時間だ。  無理に長引かせれば、旅人たちから悪い印象を持たれかねない。  それから時を経ずして、綱引きは中止になった。  ロレンスも日頃《ひごろ》不摂生《ふせっせい》をしているわけではないが、こんな力仕事をする機会はそうそうない。  体のあちこちが鉛《なまり》のように重く、掌《てのひら》だけが焼けるように熱い。腫《は》れ上がった左|頬《ほお》は、寒さのせいかあまり痛みは感じなかった。 「大丈夫《だいじょうぶ》か」  と、声をかけたのはロレンスだ。相手は早々に綱引きから離脱《りだつ》していたコルだ。周りがお祭り気分で頑張《がんば》っていたせいか、初めのうちは雰囲気《ふんいき》に飲まれてかなり力を入れていた。  とはいっても華奢《きゃしゃ》な体つきで、見かけどおりにすぐに体力が底をついたらしく、申し訳なさそうに離れた場所に腰を下ろしていた。 「あ、はい……申し訳ないです」 「なに。商人連中を見ろ。お前の判断は賢《かしこ》かった、というような顔をしてる」  ロレンスが三々五々散らばって腰を下ろしている商人たちのほうを顎《あご》でしゃくると、損得|勘定《かんじょう》において世界で一番がめつい彼らは、投入した労力と結果の釣《つ》り合わなさに不機嫌《ふきげん》さを隠《かく》そうともしなかった。  中には船乗りに食ってかかっている者たちもいたが、これは毛皮を積んで川を下ろうとしていた者たちだろう。  一体この損をどうやって補償《ほしょう》するつもりだ、と叫《さけ》んでいる。  ロレンスももしも自分が荷を運んでいる最中だったら、その気持ちがわからなくもない。食ってかかられている船乗りを気の毒と思いながらも、止めることはしなかった。  それに、この場で最も針《はり》の筵《むしろ》なのは、沈《しず》んだ船に乗り上げてしまった船に乗っている者たちだ。特に、そのラグーサの船の三倍近い大きさの船には、毛皮が文字どおりうずたかく積み上げられていたという。今はそれらは陸に上げられていたが、その量を見るとさもありなんというところだ。川の真ん中に船が沈められていなくとも、ちょっとしたことで座礁《ざしょう》しかねない。  そんな非難の的になりそうな者たちの姿は、ぱっと探す限りでは見当たらなかった。  襲《おそ》われるのを恐《おそ》れて身を隠《かく》しているのだろうか、とも思ったが、それを臆病《おくびょう》だの卑怯《ひきょう》だのと言える雰囲気《ふんいき》ではない。  貿易において荷物を運び入れる順番というのは、そのまま儲《もう》けを出せる順番といっても過言ではない。巨大な船が大量の荷物を持って港にやってくる海の港町などではそれが特に如実《にょじつ》で、同じ荷物を持っているなら利益を出せるのは二番目に到着《とうちゃく》した船まで、とすらいわれるくらいだ。  川に船が沈むなどそう滅多《めった》にあることではないので、まず間違《まちが》いなく船を沈めたのはエーブであるが、利益を確保しようと考えるならその行為《こうい》以上に確実なことはなく、また、後続の者たちが頭を抱《かか》えるにはこれ以上の問題もない。  幾人《いくにん》かの商人風の男たちが、文句を言い合うこともなく座り込んで頭を抱えているのは、毛皮を無事|換金《かんきん》できるのかという不安に駆《か》られているからだろう。  彼らのうち何人が、理性を保っていられるかは、神のみぞ知るところだ。  八つ当たりしたくなっても、おかしくはない。 「これは、このあとどうなるんでしょうか」  コルは荷物から水の入った皮袋《かわぶくろ》を取り出して、ロレンスに渡《わた》しながら口を開いた。  もちろんコルはケルーベに急ぎの用があるわけではないから、単に話題を見つけて口にしただけといった感じだった。 「川にはたくさんの持ち主がいて、そこで起きたことには責任を持つようになっている。大方、明日一番に川のこの部分を所有する領主のところから馬と人員が派遣《はけん》されてくるだろう。馬で引けば、まあ、すぐ引き上げられるだろうさ」 「なるほど……」  馬で一斉《いっせい》に綱《つな》を引くところでも想像しているのか、コルはどこかぼんやりとした顔で川面《かわも》を見つめている。  ロレンスも船首が空に突《つ》き出し、今にも飛び立ちそうな座礁船《ざしょうせん》を見ながら、皮袋に口をつける。  そんなことをしていると、ふと足音が耳についた。  ホロかと思って視線を向けたら、ラグーサだった。 「いやあ、歩かせて悪かったな」  軽く手を振《ふ》り、その拍子《ひょうし》にラグーサの分厚い掌《てのひら》すらが赤く腫《は》れていることに気がついた。  船が詰《つ》まっている川の上で、荷や人を陸に揚《あ》げるために奮闘《ふんとう》していたのだろう。  ぎりぎりまで船を陸に近づけるその作業はいつも以上に体力を消耗《しょうもう》したに違《ちが》いない。  少しでも船が底についてしまえば、それを動かす力は並大抵《なみたいてい》のものではない。 「いえ、川べりを歩くのは嫌いじゃないので」 「ははは。字面《じづら》どおりに受け取っておこう」  ラグーサは苦笑いし、頬《ほお》をぼりぼりと掻《か》きながらため息まじりに川のほうを見た。 「まったく、ついてない。明日の朝にはどうにかなるだろうがな」 「船が沈《しず》んでいたのは、やはり毛皮|絡《がら》みでしょうか?」  ロレンスでなくとも、そうであると考えるのが普通《ふつう》だ。  訊《たず》ねると、ラグーサはうなずき、疲《つか》れのせいかぼんやりとしているコルの頭を乱暴に撫《な》でて、答えた。 「だろうよ。しかし、ずいぶんな命知らずだ。金のためなら命なぞ惜《お》しくはねえ、という奴《やつ》なのかな。川に船を沈《しず》めれば、文句なく車裂《くるまさ》きの刑《けい》だ。ぞっとするよ」  車輪に体をくくりつけて引き裂き、車輪ごと高々と丘の上に張りつけ、カラスに食わせるというもっとも凄惨《せいさん》な刑《けい》だ。  エーブは無事に逃《に》げる自信があるのだろうか。  儲《もう》けを横取りされた恨《うら》みなどなく、もはや無事にその儲けを手にして欲しいという願いすらあった。 「それで、あんた方はどうする」 「……というと?」 「ここから歩いて下っていくと、関所の脇《わき》に宿がある。もっとも、とてもご婦人方が泊《と》まれるような場所じゃあないが」  ラグーサは言いながら、視線を巡《めぐ》らせてホロのほうを見る。  ホロはといえば、背の高い旅芸人風の女となにやら楽しげに話していた。 「今、あの情けねえ船の持ち主と荷主が川を上《のぼ》って物売りたちに話をつけに行ってる。日が暮れる頃《ころ》には酒と食べ物が届くだろうが、それを待っていると野宿は間違《まちが》いない」  姿が見えないのはそういうことか、とロレンスは納得《なっとく》する。 「旅の途中《とちゅう》に寝《ね》る場所は、屋根がなくて当たり前。むしろ揺《ゆ》れないぶん、私たちには陸のほうがありがたいかもしれない」  ロレンスが答えるとラグーサは眩《まぶ》しそうに顔を歪《ゆが》め、筋肉で盛り上がった肩《かた》を不恰好《ぶかっこう》にすくめる。  それから、ため息を一つついた。 「船に乗っているのが商人ばっかりで助かったぜ。これで傭兵《ようへい》が乗っているとろくなことになりゃしねえ」 「何人かは怒《おこ》ってますよ」 「はっは。怒鳴《どな》ってくれるうちはまだましだ。傭兵連中はなにも言わずに剣《けん》を抜《ぬ》くからな」  なんでもないことのように言うあたりが余計に怖《こわ》かったのか、コルが葡萄《ブドウ》の種を飲み込んでしまったように身をすくめた。 「だが、船を沈めた奴《やつ》には本当に頭にくるな。ブルガー伯《はく》には絶対|捕《つか》まえてもらわねえと」  エーブを応援《おうえん》したい気持ちはあるものの、ラグーサの怒《いか》りももちろん理解できる。  しかし、その言葉に返事をすれば自分の心の内がばれそうな気がして、ロレンスは別の話を振《ふ》った。 「ラグーサさんも、急ぎの積荷《つみに》でしたっけ」  その船には銅貨を積んでいる。  海を渡《わた》って運ぶつもりなら、その運搬《うんぱん》予定というのは普通《ふつう》の荷物よりも厳しくなる。 「ああ。レノスの手前で荷物の受け渡しをする予定だった商人が遅《おく》れやがってな。ただでさえ予定より遅《おく》れてんだ。俺はなにも悪くないってのにケルーベに着いてからのことを考えると憂鬱《ゆううつ》だ!」 「私も過去、その手の荷物を運んだことがありますが、緊張《きんちょう》しますね」  一着の服を仕立てるのも、原料を運び、加工して、染色して、服に仕立て上げるのはまた別の町で、最後には売る場所まで違《ちが》う、というのは当たり前にある。  商人から商人へ、荷主から荷主へ、と運ばれていくそれらは、どこかで予定がずれるとなにもかもずれてしまう。  当初は遠く離《はな》れた異国の地で羊から生えていた毛が、海を渡《わた》った先で服になっているだけでも奇跡《きせき》のようなのに、それが金に変わる時間まで指定できるのは神くらいのものだ。  だが、往々にして不可能なことほど当たり前のようにやれと言われるのがこの世の中だ。  金を稼《かせ》がなければならない者たちは、それでも荷物を運ばなければならない。  ラグーサの苦労がしのばれる。 「まったく、しかも荷物はいわく付きだしな。それでなんかわかったか?」  とは、ケルーベのジーン商会に運び込まれる貨幣《かへい》の数と、そこから出ていく貨幣の数が合わないことだろう。  なにか面白《おもしろ》い話になれば、ラグーサも溜飲《りゅういん》が下がると思っているのかもしれない。 「いえ、残念ながら」 「ま、これまで誰《だれ》も気がつかなかったんだ。そう簡単にゃわかんねえよな」  それも道理だ。 「ところで」 「はい?」  首の骨を鳴らしたラグーサはロレンスに向き直って、言葉を続けた。 「連れの娘《むすめ》となんかあったのか?」 「なっ」  なぜそう思うのですか、と冷静に答えられなかったので、なにかあったと認めたようなものだ。  しかも、うつらうつらしていたコルまでもが顔を上げ、ロレンスのことを見ている。  なにかあったと、なぜわかるのか。 「なあに。一段落《ひとだんらく》ついた今になってもお前さんのところに来ないからな。おやと思ったがやはりそうなのか」  ラグーサが言って、コルもうなずいたのにはちょっと衝撃《しょうげき》を受ける。 「おいおい。まさかあれだけ仲良くしておいて、自覚がないとは言わせないぞ。片時だって離《はな》れたくなさそうだったじゃないか。なあ?」  言って、コルに話を向け、コルはやや遠慮《えんりょ》がちにだが、しっかりとうなずいた。  ロレンスは顔をそらし、目を手で覆《おお》う。 「はっはっは。こんな大人になったら駄目《だめ》だぞ」  ラグーサの追《お》い討《う》ちに小さくうめき、コルの戸惑《とまど》いがちの返事に打ちのめされる。  ホロがいたらなんと言うか。  いや、もしかしたらその耳で盗《ぬす》み聞《ぎ》きしているかもしれない。 「ほれ、言ってみろ」 「……え?」 「なんで喧嘩《けんか》したのかを、だ。上流から酒と食い物が来たら他《ほか》にすることもないんだ。宴会《えんかい》になっちまうぞ。酒が入れば腹に鬱憤《うっぷん》たまった連中ばっかだからな。狼《オオカミ》だらけになる」  にかり、と笑うと歯並びは悪いがどんな硬《かた》い草でさえもすりつぶせそうな力強い歯が剥《む》き出しになる。  ラグーサの冗談《じょうだん》に慌《あわ》てないでいられるくらいにはこれまでの旅は実りが多かったが、宴会になって大騒《おおさわ》ぎの中ホロと話せないのはやはり大きな損失といえる。  なにより、互《たが》いに旅の終わりは明確に決めているのだから、それまでの日数は一日たりとも無駄にすることはできない。  この先ホロと宴会に参加できる機会などどれくらいあるだろうか。  商人は損得|勘定《かんじょう》にがめつい。とてもがめついのだ。  それに、ホロがなにに怒《おこ》っているのかよくわからないのもまた事実。年はロレンスよりも一回りか二回り近く上のラグーサであればあっさりと解いてしまうかもしれない。  問題は、それを話さなければならないということだ。  ようやくホロ相手に余裕《よゆう》を持てるようになったばかりだというのに、それを他人に晒《さら》してなお余裕でいられるほど強くはなっていない。 「おい、俺を信頼《しんらい》しろよ。大体だな、いいか?」  ロレンスなど腕《うで》の一振《ひとふ》りで昏倒《こんとう》させられそうなラグーサの腕がぐいっと首に回される。  コルから会話を隠《かく》そうとしているようにも見えるが、コルはしっかりとラグーサの隣《となり》に張り付いて聞き耳を立てている。 「俺はそういった厄介事《やっかいごと》の解決についちゃあ、自負がある。なぜかわかるか」  ロレンスが首を横に振ると、ラグーサは腕を解き、分厚い胸板《むないた》を張ってこう言った。 「船を川に流して二十余年。水に流すことならこの俺に任せろ!」  直後、ラグーサのはるか向こうで旅芸人風の女と話していたホロが吹《ふ》き出したように見えた。  聞き耳を立てているのだ。  ホロの機嫌《きげん》は悪くない。  ならば、さっさと解決したいのはロレンスだけではない。  それに、あんまり当てにはならないが、ラグーサに相談してもいいかもしれない。どうやらホロとロレンスの関係は、傍《はた》から見るとあまりにもわかりやすすぎるらしいのだから。 「それなら……ちょっといいですか」 「任せろ」  ラグーサのみならず、コルまでもが額を寄せてくる。  年も職業も違《ちが》えば今日出会ったばかりだというのに、なぜか急に三人が昔からの友人だったかのように錯覚《さっかく》してしまった。  ホロと出会う前ならば、とてもこうはならなかっただろう、と冷静に思ってしまう。  なんとなくだが、ホロと別れてもやっていけそうな気がしたのだった。  ぼろきれや要《い》らないものはないですか。  そんな声が上がってみれば、意外に集まるもので結構な量になった。  川べりではそれらが積み上げられ、着々と宴会《えんかい》の準備が進んでいた。  上流の関所で食べ物や食料を売っていた物売りがラバに背負わせていた荷物は全《すべ》て買い上げられ、少しのためらいもなく振《ふ》る舞《ま》われている。  当初こそ、何人かの商人が座礁《ざしょう》した船の船主と、それが罪の重さとばかりに大量に積まれていた毛皮の荷主に食ってかかっていたが、殴《なぐ》ったところで川が使えるようになるわけでもない。  だからといって黙《だま》ってもいられないといったところだが、どちらかというとそんなやり取りは川が詰《つ》まったせいで生まれたわだかまりをぶちまけてなくそうとする儀式《ぎしき》のようなものだ。  だから、結局|殴《なぐ》り合いには発展せず一段落《ひとだんらく》つくと、毛皮の荷主から酒と食べ物が振《ふ》る舞《ま》われ、皆《みな》の顔にはあっさりと笑顔《えがお》が戻《もど》っていた。  どうしようもないのだから、楽しまなければ損というやつだ。  だが、敵は敵の手を取ったというのに、ロレンスの側《そば》には誰《だれ》もいない。  ラグーサや、コルすらいなかった。 「おい、絶対に、こんな大人になったら駄目《だめ》だぞ?」  ロレンスがラグーサらにホロが怒《おこ》った状況《じょうきょう》を説明した直後、二人は黙《だま》ってしまった。  そして、ようやくラグーサが口を開いたら、言葉を向けた先はロレンスではなくコルだった。  コルはロレンスを気遣《きづか》ってかその言葉に返事はしなかったが、「お前、もちろんわかっただろう?」という質問には、ためらいがちにうなずいた。  ならば悪いのはロレンスだ、ということでラグーサはコルの肩《かた》に太い腕《うで》を載《の》せると強引に連れていってしまったのだ。  ただ、去《さ》り際《ぎわ》に一言残していった。 「川の流れはあるべくしてある。だが、流れているのはなぜだ?」  まるっきり謎《なぞ》かけだ。  コルもまたその言葉に首をひねっていたが、ラグーサが耳打ちするとなるほどといったふうにうなずいていた。  ホロが怒った理由は二人にはあっさりとわかったらしい。  しかも、それは半ば呆《あき》れるくらいに簡単なことだったようで、反省しろとばかりに一人取り残されてしまった。  残されたロレンスは、言いつけられたお使いもできず外に立たされた小僧《こぞう》の気分だ。  ラグーサとコルの二人が、ホロに話しかけているのを見てますますその気分を強くする。  三人でなにやら楽しげに笑っているので、ロレンスのことを話しているのかもしれない。  いや、不自然にこちらを見ようとしないホロに対して、ラグーサとコルはちらちらと視線を向けてくるので、まさしくそうだろう。  ロレンスがそちらを見ていることに気がつくと、遠く離《はな》れていてもわかるくらいに肩《かた》をすくめ、わざとらしい笑みを顔に浮かべた。  ホロはホロでコルの身柄《みがら》をラグーサの腕《うで》から引きずり出すと、頭を撫《な》でたり抱《だ》きしめたりとやりたい放題だ。  コルが目を白黒させているのがよくわかったが、そうしてようやく視線をロレンスにちらりと向けてきたので、こちらは渋面《じゅうめん》になって顔をそらすしかない。  寄ってたかってからかわれている。  ただ、不思議と悪い気がしなかった。  ホロのみならず、ラグーサやコルに笑われてもそうなのだ。  ちょっと前、それこそホロと出会う前までなら、商人は評判を落としたらそれを取り戻《もど》すのは容易ではないと信じていた。  だから、胸を張り、見栄《みえ》を張り、嘘《うそ》をつき、誰《だれ》も信用しなかった。  それが、今ではそんな振《ふ》る舞《ま》いはまさしくロレンスがコルを見て思ったことと同じなのだとよくわかる。  ロレンスが、コルの持っていた紙の束を買おうかと提案したあの時、コルは安く買い叩《たた》かれまいとロレンスのことを恨《うら》むように睨《にら》みつけていた。  そんなものはなんの役にも立たないどころか、むしろコル自身を安く、醜《みにく》く見せる以外の何物でもなかったのだが、ロレンスは自分自身がちょっと前までそんなものに囚《とら》われていたのだとよくわかった。  どうりでホロにからかわれるわけだ。  胸中で呟《つぶや》き、前髪《まえがみ》をくしゃりと掴《つか》む。  自分は本当に商人として一人前だったのかと自問したくなる。  ホロから見れば、へんなふうに凝《こ》り固まった若造《わかぞう》と見えたに違《ちが》いない。  思わず笑ってしまう。  馬が喋《しゃべ》り出さないかなどと本気で思ってしまうくらい人恋しかったのに、人と親しくすることはこんなにも容易だったのだ。  もしかしたら、ホロとラグーサが意地を張るコルを見て苦笑いしていたように、今まで出会った人たちも自分のことを見て苦笑いをしていたのかもしれないと思う。  それでも。 「かといって、答えがわかるわけじゃないんだよな」  一人呟き、ため息をつく。  ラグーサとコルはホロと別れ、振る舞われている酒を取りに行っていた。  コルは酒でひどい目に遭《あ》ったことでもあるのか、遠目にも嫌《いや》がっているのがわかったが、おそらく相当の絡《から》み酒《ざけ》と思われるラグーサは腕《うで》を放さない。  ロレンスもコルが背負ってきて、置かれたままになっている荷物の中から酒を手に取った。  中身は蒸留《じょうりゅう》されたぶどう酒だ。  船の上で夜を過ごすことになれば、火を熾《おこ》すことができないので寒かろうと思って度の強い蒸留酒にしたのだが、ホロはなにか別の理由があってそれにしたのだと思っているようだった。  嬉《うれ》しそうにロレンスのことを叩《たた》いていたあたり、なにか変な想像をしていたのだろうが、一体なにを思っていたのだろうか。  次から次へと謎《なぞ》が増えていく。  もしかして自分は平均以下の頭なのではなかろうかと自信がなくなってしまうが、そんな情けない物思いも一瞬《いっしゅん》のことだった。  わっと歓声《かんせい》が上がったかと思うと、だいぶ日が暮れかけていた川べりに、大きな火の玉が生まれたからだ。  いや、それも一瞬の勘違《かんちが》いで、そうとしか思えないくらい一瞬のうちに、集められたぼろ切れや樽《たる》を打ち壊《こわ》した木の山に火が放たれたのだ。  おそらく誰《だれ》かが豪気《ごうぎ》に油を差し出したに違いない。  真っ黒い煙《けむり》がどくろのように空に上がり、黄色い炎《ほのお》がばちばちと音を立てていた。  冬の旅路の中で、火があれば敵も味方も関係ない。  誰が合図をしたわけでもないのに、皆《みな》が一斉《いっせい》に杯《さかずき》を掲《かか》げた。  それからのことはあっという間に展開した。  やはりホロが話していたのは旅芸人だったらしく、その女を含《ふく》む一座の者が、ここは我らの晴《は》れ舞台《ぶたい》とばかりに飛び出した。  笛や太鼓《たいこ》に歌と踊《おど》り。それに続くのは陽気な者たちで、器用に杯の中身をこぼさずに踊っている。  彼らが踊るのは宮廷《きゅうてい》で踊られるような滑《なめ》らかな足捌《あしさば》きで滑《すべ》るような踊りではなく、上下に飛《と》んだり跳《は》ねたりの荒《あら》っぽいものだ。  他《ほか》の者たちはそれを見て笑ったり、声を合わせたり、あるいはラグーサたちのように、仲間と飲み比べのようなことをしている。  ロレンスの周りには誰もいない。  苦笑い、が浮かびかけて引っ込んだのは、火が熾《お》きたせいで生まれた暗がりに、気配を感じたからだ。  こんな情けない行商人の側《そば》に来てくれるのは一人しかいない。  見れば、ホロだった。 「ふう、久しぶりに喋《しゃべ》ったら喉《のど》が渇《かわ》きんす」  独《ひと》り言《ごと》のように喋って、ロレンスの手から酒樽《さかだる》を奪《うば》って一口飲む。  ビールや薄《うす》いぶどう酒ではないのだ。  ホロが目をつぶって唇《くちびる》を引き結ぶ。  そして、ぷはっと息を吐《は》くとその場に腰《こし》を下ろした。  無視するのはやめたのだろうか、とロレンスは思いながら、その隣《となり》に腰を下ろす。 「あの旅芸人の女と、なにを話してたん——」  最後まで言えなかったのは、ロレンスが口を開いた直後にホロが露骨《ろこつ》に顔を背《そむ》けたからだ。  呆気《あっけ》に取られたのは、口を利《き》いてもらえないからではない。  こんなことをされて、嬉《うれ》しかったからだ。 「うう、今夜は冷えるのお」  ロレンスの言葉には一切《いっさい》返事をせず、目すら合わせないのに、ホロはそんなことを言うと荷馬車の上でそうしているようにロレンスに体を寄せてきた。  意地っ張りなのかなんなのか、とロレンスは思ったものの、意地っ張りはきっと自分のほうなのだと気がついた。  なんとなくだが、ここで情けなくも謝《あやま》ればホロは許してくれそうな気がした。  そんな簡単な問題もわからないのか、と怒《おこ》ったのは以前の話だろう。  今なら、逆にロレンスを馬鹿《ばか》にし、あざ笑うかたちをつくれるのだから、喜んでロレンスの申し出を受け容れてくれることと思えた。  一言、わからない、と言ってみたい誘惑《ゆうわく》に駆《か》られる。  ホロはロレンスに寄りかかったまま、うるさそうに顔を上げるだろう。  そして、嫌味《いやみ》ったらしい言葉をあれこれ投げかけ、散々|罵倒《ばとう》するのだ。  だが、決して腰《こし》は上げないし、少しも離《はな》れようとしない。  近くにいればいるほど、自分の言葉がよく聞こえるのだと言わんばかりに。  これは自分の妄想《もうそう》だろうか、と疑う気持ちはあまりない。それを疑うのはこれまでの旅で起こったことを疑うことになるからだ。  ロレンスは自嘲《じちょう》するように苦笑いを少し浮かべた。  ホロはそれに気がついたらしくフードの下で耳を動かす。そろそろロレンスの情けない言葉が来るぞと、はやし立てるように尻尾《しっぽ》が動く。  ロレンスは、その期待に応《こた》えるべく口を開いた。 「さすが旅芸人だ。綺麗《きれい》な踊《おど》りだな」 「なっ」 「ん?」  ホロが、尻尾でも踏《ふ》まれたかのように体をすくませてなにか声を上げかけた。  ロレンスが訊《たず》ね返しても、もちろん返事はない。  自分の予想が外れるような、意表を突《つ》かれることがなによりも嫌《きら》いなホロだ。  尻尾がばたばたと揺《ゆ》れて怒っているのがよくわかる。  よくわかるが、楽しそうなのもまた事実だった。 「か、風邪《かぜ》をひいたかもしれぬ。鼻がむずむずしてしまいんす」  やや声音《こわね》が震《ふる》えているのは、ロレンスにしてやられたのが悔《くや》しいのか、それとも笑い出すのをこらえているのか。  ホロはそれらを飲み込むように酒を飲み、げっぷを一つ。  沈黙《ちんもく》が訪《おとず》れたのは、どちらも互《たが》いに次の一手を模索《もさく》し、推測《すいそく》しているからだとわかる。  目は瞬《まばた》きを一回するごとに地平線の彼方に沈《しず》み、空には呼吸を一つするたびに星の明かりがともっていく。川べりで燃え盛《さか》る火の周りには人々が集《つど》い、運の悪い出来事で喰《く》らう羽目になった足止めを、よい出会いに変えようと必死になっていて、それは商人も船乗りも変わらない。  人生の旅はとても短く、一日たりとも無駄《むだ》にはできないのだ。  笛が吹《ふ》かれ、太鼓《たいこ》が鳴らされ、船が沈《しず》んでしまった不運を笑い話で歌い上げる吟遊詩人《ぎんゆうしじん》がいる。  長い帯を幾本《いくほん》もたらし、幻惑《げんわく》的に踊《おど》る踊り子がいれば、酒を手にして千鳥足《ちどりあし》かと見まがうばかりに無様な踊りを披露《ひろう》する者がいる。  ロレンスはホロの腹をどうにか探ろうと必死だったが、ふとその小さな腹になにが収まっているかわかったような気がした。  酒が入れば殊更《ことさら》陽気なホロがこの空気を前にじっとしていられるわけがない。うだつの上がらないたわけの商人と腹の探り合いをしている場合ではないのだ。  ホロが、ロレンスを窺《うかが》うように見上げてくる。  言葉を交《か》わさないと宣言した以上、本当に交わさないつもりなのだろうが、かといってこのまま席を立つのは悪い気がする。  そんなところだろうか。  ロレンスは、ホロにされたようにその視線を無視し、代わりにホロの手から酒樽《さかだる》を取り上げた。 「きつい酒があればしばらくは寒くないだろうな」  その言葉に、意地っ張りな自分たちのことを笑ったのだろうか、ホロがふっと表情を緩《ゆる》めてからロレンスの手を軽く触《さわ》り、立ち上がった。  踊りに行くのだろうが、衣服がはだけて耳や尻尾《しっぽ》が覗《のぞ》かないかとその点だけがちょっと心配だ。  ホロの目はらんらんと輝《かがや》いている。  きっと、レノスの町で読んだ本に出てきた祭りでも、ホロはこんな目をしていたに違いない。  それに、確かにこんな楽しそうならついうっかり尻尾を晒《さら》し、麦束《むぎたば》尻尾などという二つ名を頂戴《ちょうだい》してしまうのも無理からぬことだ。  もしかしたら興に乗って狼《オオカミ》の姿で大騒《おおさわ》ぎかもしれない。  この場ではまさかそんなことはしないだろうが、ローブと腰巻《こしまき》を丹念《たんねん》に見回しているあたり、かなり派手に踊るつもりなのだろう。  ただ、ロレンスは、そんな楽しそうな仕草を見て、ふと思ったことを口にしていた。 「お前、沈んだ船を狼に戻《もど》って引き上げてやればいいじゃ——」  その言葉を途中《とちゅう》でやめてしまったのは、ホロが一変、楽しそうな顔から無表情になってロレンスを見たからでも、返事をしてくれないことを思い出したからでもない。  ホロが狼の姿に戻って船を引き上げる。それはもちろん実現などできないだろうが、冗談《じょうだん》としてなら許される範疇《はんちゅう》のこと。  だから、気まずいと思ったわけでもない。  そうではなく、ホロが誰《だれ》かのために狼の姿になるというのがちょっと想像できなかったのだ。  それはなぜかと問われれば、ロレンスはすぐに答えることができる。  そして、その答えは玉突《たまつ》きのようにもう一つ別の結論を導き出す。  無表情にロレンスのことを見下ろすホロの顔が、やれやれという笑《え》みのかたちに変わっていき、反して、ロレンスは自分の顔が渋《しぶ》いものに変わっていくのが実感できた。ホロがあの時|怒《おこ》った理由。それが、ようやくわかったのだ。 「まったく……」  ホロは呆《あき》れるように笑い、それから辺りをきょろきょろと見回して、ふと膝《ひざ》を折った。  ホロの腕《うで》が首に回され、その軽い体が上に乗る。  男として嬉《うれ》しい体勢だが、こんなことをするあたり、無視したいくらい怒っていたのは本当だろう。 「豚《ブタ》はおだてれば木に登る。雄《おす》はおだてたところで調子にしか乗らぬ。わっちは以前そう言ったじゃろう?」  頬《ほお》が触《ふ》れ合うような形で、ホロはロレンスの耳元で囁《ささや》くように喋《しゃべ》るが、その目が半分に細められて自分を睨《にら》んでいるのがロレンスにはよくわかった。  それと、ホロがきょろきょろと辺りを見回していたのは決してこの様を誰かに見られないようにしたためではない。むしろその逆だ。  視線の先で、コルがラグーサに目を手で覆《おお》われ必死にもがき、ラグーサはラグーサで大笑いしていた。  当然、仲間の船乗りたちがいい酒の肴《さかな》とばかりににやにやと笑っている。  恥《は》ずかしいというよりも、単に決まりが悪かった。 「ぬしも逆の立場になったら絶対に怒るはず。違《ちが》うかや?」  恨《うら》みがましいその物言いは、不意にがぶりと耳を噛《か》み切られそうな怖《こわ》さがある。  だが、真の怖さはそんなことではない。  ホロは獲物《えもの》をあっさりと食い殺すようなことはせず、じわりじわりと弄《もてあそ》んでから殺すのが好きなのだから。 「ふん」  ホロは腕《うで》を解き、体を起こし、ロレンスを見下ろしながら牙《きば》を見せてこう言った。 「せいぜい、ぬしの誠意を見せてくりゃれ?」  それから、鼻の頭を指で押されたら抵抗《ていこう》などできない。  ホロはにんまりと笑い、立ち上がって風のように身を翻《ひるがえ》した。  あとに残されたのはホロの体温と、そのどこか甘い匂《にお》いだけ。  笑顔は記憶《きおく》に残っていない。  なぜなら、それは財布《さいふ》を預かる身としては、とてもとても怖い笑顔だからだ。 「誠意だと?」  ロレンスは呟《つぶや》き、酒を飲む。  一緒《いっしょ》に銅貨の謎《なぞ》を考えようと持ちかけたあの時。  ホロはよく頭が回るし、ロレンスをけなしたり笑ったり笑わせたりするその手腕《しゅわん》は見事だし、その不思議なと形容できるほどの頭の切れに救われたりもした。  だから、頭をひねるのが好きだと思った。  だが、そうではなかったのだ。  ラグーサは、川の流れはあるべくしてあるが、流れているのはなぜだ、と言った。  ロレンスにはまるっきりの謎かけとしか思えなかったその言葉の意味が、今ようやくわかった。  船乗りたちは川の流れの上に乗り、商売を営んでいる。そして、川の流れはいつだって止まることがない。それでも、彼らはそれを当たり前のことと思わない。彼らはいつだって川に感謝して、川の精霊《せいれい》の慈悲《じひ》深さに涙《なみだ》するのだから。  ホロを怒《おこ》らせる時、ロレンスがしでかすのは大抵《たいてい》ホロを信用しないことだ。しかし、信用も当たり前になるとやがて大事なことを見落とすようになる。  恋人がせっせと手紙を送ってくれるからといって、手紙を書くのが好きなのだろうからあの人への手紙を代筆してくれないか、と言えば激怒《げきど》されるに違いない。  つまり、ホロはロレンスのために知恵《ちえ》を巡《めぐ》らせはしても、決して知恵を巡らせることそのものが楽しいわけではない、と言いたかったのだ。  ちょっと考えればわかること。  ホロが本当にそこまでロレンスのためだけに知恵を巡らせようと思っているかは甚《はなは》だ疑わしいが、少なくともそう思ってくれないことには怒っていた。  ロレンスはその場に倒《たお》れ込む。  ホロには教えられてばっかりだ。  だからこそ、あの笑顔《えがお》がとても怖《こわ》いのだ。 「こんなことに見合う誠意など……」  むくりと体を起こし、酒を飲む。 「持ち合わせちゃいない」  酒臭《さけくさ》いため息をつき、火の周りで踊《おど》るホロに目をやった。  陽気に腕《うで》を振《ふ》り踊るホロが、ちらりとこちらを見たような気がした。  なにを買わされるのかと思うと、今から怖い。  ホロは川べりでずっと話していた踊り子と手を取り、長い間二人で練習してきたかのように見事な足捌《あしさば》きで踊りを披露《ひろう》している。美しい二人の娘《むすめ》の見事な踊りに、賞賛の拍手《はくしゅ》と口笛が送られていた。  その勢いに負けたのか、やぐらのように組まれていたぼろや木の塊《かたまり》が崩《くず》れ、魔神《まじん》のため息のように火《ひ》の粉《こ》が舞《ま》い上がる。  熱病に冒《おか》されたような、真剣《しんけん》な面持《おもも》ちながらうっすらと笑っているのがわかるホロの踊《おど》りは、どこか鬼気迫《ききせま》るものがあった。それくらいに魅力《みりょく》的だということなのかもしれないが、それはなにかを忘れようとしているふうにも見えた。  祭りや踊りは古くから一年の区切りをつけるものだったり、神や精霊《せいれい》の怒《いか》りを静めるものだったりする。そういった感覚があるからそう見えるのだろうか、とも思うが、ロレンスはもう一度酒に口をつけようとして、はたとその手を止めた。  つい先ほど気がついた、ホロがしてくれたことは大抵《たいてい》がロレンスのためにしてくれたこと、というその事実。  もしもそれが謎《なぞ》や困難を一緒《いっしょ》に考えてくれるということ以外にもいえるのだとしたら? 「まさか」  どこまでも陽気に、他《ほか》にはなにも考えられないとでもいわんばかりに踊るホロの様子が、途端《とたん》に小さく見えた。  もしもロレンスの考えが合っていれば、馬鹿《ばか》なことだ、と思う。  ロレンスの頭の回りが遅《おそ》くホロに追いつけないのだとしたら、ホロは勝手に一人先走って余計な世話を焼いているともいえる。  酒を飲むと、きつい熱さが喉《のど》を焼いた。  立ち上がったのは、踊りの輪に加わるためではない。  意地っ張りな自分の言葉に直すと、ホロのために情報を集めるため。  ラグーサたちの輪では、コルが早々に仰向《あおむ》けに倒《たお》れていた。  ロレンスがそちらに歩きながら軽く手を上げると、ラグーサは応《こた》えて杯《さかずき》を掲《かか》げた。  ホロはまったく馬鹿だ。  そう証明したかった。 「あはっはっは、ロエフの山奥ぅ?」 「おぉ〜あそこはいい場所だなあ。毎年良い木が採《と》れるんだー。この川を下った木がよ、はるか南の国で王の宮殿《きゅうでん》の、うっぷ……円卓《えんたく》になるんだぜ。どうだい行商人の若者よ!」  言って、ロレンスの手に持たれている酒樽《さかだる》に皮袋《かわぶくろ》から豪快《ごうかい》に酒を注《つ》ごうとする。  桶《おけ》ではないのだから注ごうとして注げるわけもないが、皮袋を持つ船乗りの手も、酒樽を持つロレンスの手もおぼつかない。  ますます酒は酒樽に入らず、滝《たき》のように地面を濡《ぬ》らしていたが誰《だれ》も気にしない。  ロレンス自身気にならないくらい酔《よ》っ払《ぱら》っていた。 「では……その木にこう書いておいてくださいよ。関税が高すぎる! と」 「おおおおお、わかる、わかるぞ!」  ロレンスが声高《こわだか》に言って、酒樽《さかだる》に口をつけるとお構いなしに背を叩《たた》かれたものだから、酒は全部口から外れて下にこぼれてしまった。  ぼんやりとした意識の中で、ホロだってこんなに酔《よ》ったことはないだろう、と半分|自嘲《じちょう》気味に、半分|自慢《じまん》げに思ったりした。 「で、ロエフはどうなんです?」 「ロエフぅ? あそこは良い木が採《と》れてだなあ……」  同じ話をしようとして、船乗りはそのまま倒《たお》れてしまう。 「だらしねえなあ」  と、他《ほか》の船乗りは心配するどころか呆《あき》れた顔をしている。  ロレンスは、にやりと笑って、周りの船乗りの顔を見回した。 「これで、話してくれますよね」 「あはっはっは。約束しちまったんなら仕方ねえなあ。この落とし前はゾナルにとらせよう」  笑《わら》い上戸《じょうご》らしい船乗りが、笑いながら倒れた船乗りの頭を小突《こづ》く。  ゾナルと呼ばれていた船乗りはとっくに意識を失っていた。 「まったく、あんな娘《むすめ》っことよろしくやってるのがこんなに強いとはなあ」 「まったくまったく。だが、約束はまも……守らねえといけねえ」 「おう、まったふ、まったう……」 「それで、ロエフだったか」  最後に言ったのは、相当酒に強いらしく、ほとんど顔色を変えていないラグーサだ。  他《ほか》の面々はロレンスとどっこいか、すでにろれつが怪《あや》しくなっている。  ロレンス自身もあとどれだけ意識を保てるかはちょっと自信がなかった。 「ええ……ヨイツという場所でもいいんですが……」 「ヨイツ、てのは知らねえなあ。だが、ロエフならわざわざ聞くまでもないだろう。この川を上《のぼ》って、その名のとおりのロエフ川と合流するから、そこをたどっていけばいい」  そんなつまらない話を聞きたいのではない、とロレンスは思ったが、ではなにを聞きたかったのかと自問して、なんだったかと思い出せない。  酔っている。  大体、ロエフのことは話の緒《いとぐち》というやつだったのだ。 「もっと、なにか、面白《おもしろ》い話は……」 「面白い話ねえ」  ラグーサはぞりぞりと顎《あご》の鬚《ひげ》を撫《な》でて視線を他の船乗りに向けるが、どれもついに酒に負けたらしくうつらうつらとしていた。 「ああ、そうだ」  鬚《ひげ》をねじってつまんで言って、ラグーサはうつらうつらしていた同僚《どうりょう》の船乗りの肩《かた》を乱暴にゆすった。 「おい、起きろ。ゾナル。お前、確か最近|妙《みょう》な仕事を請《う》けたと言ってたな」 「んが……うぅー……もう積めねえよ……」 「馬鹿《ばか》やろう。おい、確かロエフの上流のレスコから請け負ってただろ」  ゾナルとやらはロレンスと殊更《ことさら》張り合って酒を飲んでいたのだが、聞けばつい最近|浮気《うわき》がばれて頭を嫁《よめ》にかち割られた腹いせだったという。  もしもホロ以外の娘《むすめ》にふらふらとついていったら、さて自分はどうなるのだろうとちょっと心配がないわけではない。 「レスコ? おお……あそこはいい町だ。あそこの山は銅が次から次へと……水のように湧《わ》いてくる。それによお、あそこの酒は世界一だ。なんたってなあ……あそこには……薄《うす》ーい酒から熱い酒の魂《たましい》を選《え》り分ける機械がごまんとある。おお、麗《うるわ》しき赤銅色《しゃくどういろ》の花嫁《はなよめ》よ。そのつややかな肌《はだ》に火と水の祝福あれ!」  ゾナルとやらは目も閉じたままで寝《ね》ているのか起きているのか定かではないままそう叫《さけ》び、そのままぐったりと動かなくなった。  ラグーサは相変わらず乱暴に肩をゆするが、ゾナルはもはや海に打ち上げられたクラゲだった。 「まったくだらしねえなあ」 「赤銅色の花嫁、というのは……蒸留機《じょうりゅうき》ですか」 「ん、おお、そうそう。さすが物知りだな。時折|積荷《つみに》で運ぶことがある。お前さんが飲んでるそれも、レスコ産の蒸留機で蒸留したやつかもな」  薄い銅板を綺麗《きれい》に湾曲《わんきょく》させ、何枚ものそれを芸術的に組み合わせた蒸留機は確かに赤く輝《かがや》くなにか不思議な魅力《みりょく》を持っている。そもそも銅板を湾曲させるのは女性を意識しているというのだから、なるほどとも思う。 「うーん、駄目《だめ》だな。もう朝まで目が覚めねえな」 「妙な……とりっ取引とか」  ロレンスもだいぶ酔《よ》いが回っているせいでまともに喋《しゃべ》れない。  そういえばホロは大丈夫《だいじょうぶ》なのだろうかと視線を巡《めぐ》らせれば、ぐらぐらと揺《ゆ》れる視界の向こうで、酔いもいっぺんに覚めんばかりの惨状《さんじょう》が繰《く》り広げられていた。 「そう、妙な取引だったんだが……おほ? はっはっは。どこかすばしっこい猫《ネコ》みたいな感じがしていたが、なかなかどうして、似合うじゃないか」  ラグーサが大笑いするその先には、ホロがやんやの喝采《かっさい》を受けながら踊《おど》る姿があった。  ローブなどという踊りにくい服は脱《ぬ》ぎ捨て、腰《こし》からすらりと伸《の》びている尻尾《しっぽ》を揺《ゆ》らし、踊り子の娘《むすめ》と掌《てのひら》を合わせながらくるくると回っている。  その頭には、ムササビの毛皮だろうか、なにか小さな動物を開きにした毛皮がちょこんと載《の》っていて、その様からすると一見耳も尻尾《しっぽ》も飾《かざ》りのように見えなくもない。  ロレンスは声を失ってホロの暴挙を見つめていたのだが、誰《だれ》一人気にしている様子もない。  よくよく見れば共に踊《おど》る踊り子の娘も腰《こし》に狐《キツネ》かなにかの毛皮を巻き、即席《そくせき》の尻尾を生やして頭にはリスの毛皮を巻いている。  ホロの度胸には恐《おそ》れ入るばかりだが、酔《よ》っているせいで状況《じょうきょう》判断が鈍《にぶ》っている可能性も否定できはしない。  ばれたらどうするつもりなんだ、と思いつつも、踊る様子は本当に楽しそうだ。  それに、長い髪《かみ》の毛《け》とふさふさの尻尾が揺《ゆ》れるその様は、なにか不思議な魔術《まじゅつ》のようにロレンスの胸の内をくすぐっていた。 「で、そう、取引の話だがな」  ラグーサの言葉にはっと夢見心地《ゆめみごこち》から覚めた。  レノスの町でホロから言われた、金儲《かねもう》けとホロのどちらが大事なのか、という問題は、いつの間にか解くのが難しい問題ではなくなってきている。  いや、それはきっと酒のせいだ、と胸中で言い訳してしまうのはどういうことなのか。  なんにせよ、ロレンスはもやのかかったような頭を軽く小突《こづ》き、ラグーサの話に耳を傾《かたむ》けた。 「同じ商会から何度も為替《かわせ》を運ばせられていたんだ。俺がお前さんの話を聞いて興味を持ったのもな、こいつが……ゾナルがなんか変な取引の片棒を担《かつ》がされてるんじゃないかと怯《おび》えてたからだ。そして、その商会っつーのが件《くだん》の銅貨の仕入先でな。俺も少し臆病風《おくびょうかぜ》に吹《ふ》かれてたわけだ」  銅貨の輸出入に関《かか》わるようなところは権力に近しいところだから、それほど数はない。  おそらくは銅鉱山のお陰《かげ》で栄えているとはいえ、町の盛衰《せいすい》の全《すべ》てが鉱山にかかっているようなところは、権力者と商人が結託《けったく》して事に当たらなければならなくなる。  ラグーサが声を潜《ひそ》めているのは、仕事をくれる商会の、あまり良いとはいえない話だから。  彼がロレンスの話に食いついてきた理由がよくわかった。  これまでに相当な数の腐敗《ふはい》を見てきたのだろう。  だから、視界もろれつも怪《あや》しかったが、そんな話に頭の奥は冴《さ》えてくる。 「それは……でっ、ですが、肉屋が文を預かるようなものでしょう?」  近隣《きんりん》の農村に豚《ブタ》や羊を買い付けに行く肉屋は、毎日のことなのでついでとばかりに手紙を託されることがある。  船乗りはローム川を下ったり上《のぼ》ったりしているのだ。  為替を託されたとしてもおかしくはない。 「それが、ケルーベのジーン商会にレスコで受け取った為替を届けると、同時に為替の拒絶《きょぜつ》証書を渡《わた》されるらしいんだ」 「拒絶《きょぜつ》証書を?」  ロレンスの頭が完全に冴《さ》える。  金袋《かねぶくろ》で貨幣《かへい》をじゃらじゃら運ぶ代わりに、この金額をこの地で誰《だれ》それに払《はら》ってくださいという紙を運ぶ。その紙と制度が為替《かわせ》と呼ばれるもので、拒絶証書とはその為替の紙を金に換《か》えたくないということだ。  ただ、毎度毎度拒絶される為替を送りつけるというのは、確かに妙《みょう》といえば妙だ。 「おかしいだろう? 受け取りを必ず拒否される為替を何遍《なんべん》も託《たく》される。なにか企《たくら》んでいるにちげえねえ」 「……なにか、事情があるのかもしれませんよ……」 「事情?」 「ええ……。為替は、よ、要するに、お金を移動させるわけですから。また、お金というのは常に価値が変わります。送った時と受け取った時のお金の価値が変わっていれば……払いたくない、なんてことも……」  ラグーサの目は真剣《しんけん》だ。  金さえ用立てられれば、どこの地にでも赴《おもむ》いて自分の好きに品を仕入れ、好きな場所に売りに行ける行商人はある種の自由人といえる。  対して、ラグーサらは決まった川で荷物を運ぶことで生計を立てる身だ。  荷主の怒《いか》りを買えば、どんなに川の水量が多くたって干されてしまう。  だからその立場はとても弱い。  弱いからこそつけ込まれ、変な片棒を担《かつ》がされた挙句《あげく》川に沈《しず》められる。  確かに船を使った商売のほうが楽そうだ。  だが、荷馬車にはどこにでも行けるという自由がある。 「ですから、特に、心配ないのでは……」  かく、と首が揺《ゆ》れて、ロレンスは大欠伸《おおあくび》をする。  ラグーサは訝《いぶか》しげな目でロレンスのことを見ていたが、やがて荒々《あらあら》しくため息をついた。 「むう。世の中ややこしいことに満ちているようだ」 「知らないことは罪とはいえ……全部を知ることはまず無理でしょう」  両の瞼《まぶた》の重さに耐《た》えきれず、ロレンスの視界はどんどん狭《せま》くなっていく。  ラグーサの胡坐《あぐら》しか目に入らなくなってきて、もうそろそろ限界かと胸中で呟《つぶや》いた。 「確かにな。はっは。こいつの無様を苦笑いで見ていたのにな、自分もこいつらと大して変わらねえようだ。ただ、こいつは俺らとは違《ちが》って、あんなちんけな紙束に騙《だま》されていはしたが、それなりの場所に行けば俺より知恵者《ちえもの》なんだろう?」  とは、酒を飲まされて倒《たお》れているコルの頭を乱暴に撫《な》でながらだ。  ラグーサの目は本当に残念そうで、いっそコルが船代を払《はら》えなければそれを理由にして船に残したそうだった。 「教会……法学だったか?」 「え? ええ……だそうです」 「ややこしいものを学ぼうとしてるんだな。うちに来ればそんなもの学ばなくても三食……いや、二食ならきちんと出してやるのに」  正直な言葉にロレンスは思わず笑ってしまう。  力仕事だろうと、三食食べられるのは一人前になってからだ。 「目的があるんだそうです」  ロレンスが言うと、ラグーサはじろりと目を向けてきた。 「お前さん、歩いてる最中に抜《ぬ》け駆《が》けして勧誘《かんゆう》したのか」  本気で怒《おこ》りそうな顔なのは、それだけコルのことを買っているからだ。  ラグーサの年ならば、そろそろ自分の船を受け継《つ》いでくれる弟子《でし》を仕込んでもおかしくはない。ロレンスだってもう少し年がいっていれば、卑怯《ひきょう》な手を使ってでもコルを手元に残そうとしたかもしれない。 「抜け駆けはしていません。ですが、強固な意志は確認《かくにん》しました」 「むう」  ラグーサは腕《うで》を組み、鼻息|荒《あら》く唸《うな》った。 「我々にできるのは……せい……せいぜい、小さな恩を売っておくことだけかもしれません」  しゃっくりまじりに言うと、諦《あきら》めきれないといった様子だった船乗りは、船乗りらしく豪快《ごうかい》に笑い出した。 「んはっはっは。そうだな。俺はどうするか。こいつがすっぱり銅貨の謎《なぞ》を解いてくれると、礼のしがいがあるんだが」 「本人もそのつもりでしたよ」 「どうだ、お前さんが手がかりを出してやったりしないか」  身を乗り出して、秘密の取引を持ちかけるようにラグーサは言うが、ロレンスは肩《かた》をすくめるしかない。 「残念ながら。もしもそれが可能なら……私も恩を売れるわけですから、八方丸く収まるわけです……が」  ロレンスとしても、コルを手元に置けるなら置いておきたい誘惑《ゆうわく》に駆《か》られるところだ。  だが、川べりをコルと共に歩いている時こそ本気でそう思ったものの、今はそこまで思っていない。  弟子を取るにはまだ早いし、今は取るべき時ではない。  だから、お膳立《ぜんだ》てをされたからといってほいほい手を出すわけにはいかないのだ。  ロレンスは、一人苦笑いをした。 「そうだなあ。銅貨三箱といやあ大きな差だ。そんな重いものを運ぶにはまず水路しかない。水路を通れば俺の耳に入らないわけがねえ。それとも、紙に書いてあることが間違《まちが》っているんじゃねえのか」  ラグーサの口調も段々|怪《あや》しくなってくる。  その大きな体にようやく酔《よ》いが回り始めたのかもしれない。 「それは、あるかもしれません。一文字違いで……ウナギが金貨と間違えられて大騒《おおさわ》ぎになったという話もありますから」 「ふん。そんなところなのかもしれねえ……ああ、そう。そんな話で、面白《おもしろ》い話ってのが一つあったぜ。何年もかけて探していたらしいと聞いたんだがな」 「え?」  ロレンスはもうほとんど限界で、意識と体が二つばらばらになっているような感覚がある。  ラグーサのほうを向いたような気がしたが、視界は真っ暗だった。  どこか遠いところから聞こえてくるような言葉。  ロエフ。上流。レスコ。  そして、地獄《じごく》の番犬の骨、と聞こえたような気がした。  そんな馬鹿《ばか》な。  ロレンスは、自分がそういう感想を抱《いだ》いたはずだと、夢の中で思った。  それではまるで御伽噺《おとぎばなし》ではないか。  ただ、御伽噺のようなことが身近に起こったような、という思いは、真っ黒い睡魔《すいま》の中に、吸い込まれていったのだった。 [#改ページ]  第五幕  甘い匂《にお》いにまじって、なにか焦《こ》げ臭《くさ》い匂いがする。  蜂蜜《はちみつ》のパンが焦げているのだろうか。  だとすればそんなパンを焼いているパン屋はいい笑いものだ。  しかし、ロレンスはすぐにそれが焦げ臭い匂いではないと気がついた。  それは火と共に思い出す匂い。  獣《けもの》の匂いだ。 「……ん」  目を覚ますと、視線の先には星空があった。  満月ではないがそれに近い綺麗《きれい》な月が空に浮かび、まるで水の底に横たわっているように感じた。  誰《だれ》か親切な人が毛布を掛《か》けてくれたらしく、幸いに寒さに震《ふる》えているわけではなかったが、体が異様に重い。  倒《たお》れるまで酒を飲んだからだろうか、と体を起こしかけて、気がついた。  少し顔を上げて、毛布をめくる。  顔や頬《ほお》に煤《すす》をつけたままのホロが、気持ちよさそうに眠《ねむ》りこけていた。 「これか……」  相当盛り上がっていたのだろう。  綺麗《きれい》な前髪《まえがみ》が少し焦《こ》げていて、ホロがすぴーすぴーと寝息《ねいき》を立てるたびに焦げ臭《くさ》い匂《にお》いが鼻をつく。それにまじって、時折ホロの甘い匂いと尻尾《しっぽ》の匂いがして、夢の中で嗅《か》いでいたのはこれなのだろうとわかる。  それに、寝ているホロはローブも身にまとわず、耳は剥《む》き出しになっている。  そのすぐ脇《わき》にはやはりムササビの毛皮が落ちていて、ホロなりに耳を隠《かく》そうとしていたことが窺《うかが》える。  教会の教えの下《もと》に生きる者たちが槍《やり》を構えて取り囲んでいないからおそらくばれていないのだろうが、ロレンスは首から力を抜《ぬ》いてため息をつく。  そして、毛布の上からホロの頭に手を置いた。  ぴくりと耳が動き、呼吸が止まる。  それから、くしゃみでもするかのようにぶるっと震《ふる》え、身を縮めた。  もそもそと手足が動くと、ついで顔が動き、顎《あご》をロレンスの胸につけて顔を起こす。  毛布の奥から向けられる目は、まだ半分寝ているようにとろんとしていた。 「重いんだが」  ロレンスが言うと、ホロは再び顔を伏《ふ》せてぶるぶると震え出す。大欠伸《おおあくび》をしているのだろうが、わざとらしく胸に爪《つめ》を立ててくるので目は覚めているのだろう。  しばらくしてから顔を上げると、「どうしたかや」とくる。 「重い」 「わっちの体は軽いからの。他《ほか》のなにかが重いんじゃろ」 「お前の気持ちが重い……とでも言って欲しいか」 「それではまるでわっちが押しかけているみたいじゃないかや」  くつくつとホロは喉《のど》で笑って、頬《ほお》をロレンスの胸につけた。 「まったく……で、ばれてないんだろうな」 「わっちが誰《だれ》と閨《ねや》を共にしておるか、が?」  寝床《ねどこ》と言ってもらいたい、とは胸中で呟《つぶや》いただけ。 「まあ、ばれておらぬじゃろ。あれだけ盛り上がっておったんじゃ。くふ、ぬしも来ればよかったのに」 「……大方想像がつくが……まる焦げになりたくない」  ホロの前髪を指でいじるとホロはくすぐったそうに目を閉じた。これはいくらか切らないとならないかもしれない。  はしゃぎすぎだと注意する前に、ホロのほうが言葉を続けた。 「旅の娘《むすめ》たちから北の話を色々聞きんす。ニョッヒラで一仕事終えてきたばかりだそうじゃ。話を聞けば、昔とほとんど変わっておらぬ」  目を開けると、すぐ側《そば》にあるロレンスの指を見つめてから、猫《ネコ》が甘えるように頬を胸にこすりつけてきた。  ただ、それは顔に出そうになる感情をこすって消そうとしていたのだろう。今にも大きな声を出したそうな、なにかそんなこみ上げてくるものをこらえているのがよくわかった。 「意地っ張りだな」  ロレンスが言うと、ホロは体を丸めた。  まるで、子供が意地を張るように。 「まあ、判断はゆっくりすればいい。俺たちは、エーブを追いかけているわけだから」  ホロはその地獄耳《じごくみみ》をロレンスの胸につけているので、胸の奥で笑ったことに気がついただろう。  抗議《こうぎ》するようにロレンスの胸に爪《つめ》を立て、「ふん」と鼻から息を吐《は》いた。 「しかし、ちょっとどいてくれないか。喉《のど》が渇《かわ》いた」  酒をしこたま飲んだあとだ。  それに、今が真夜中なのか、それとももう少しで朝が来るのかも知りたい。  ホロはしばし意地悪するかのように微動《びどう》だにしなかったが、やがてゆっくり動いて体を起こした。  そして、ロレンスの上に馬乗りになったまま、遠吠《とおぼ》えをするかのように月に向かって大欠伸《おおあくび》。  それがなにかとても艶《なまめ》かしいような、逆に触《ふ》れがたい神々《こうごう》しいもののような、不思議な光景に見えてつい見惚《みと》れてしまっていた。  存分に月に向かって牙《きば》を剥《む》いたホロは、もぐもぐと口を閉じてから、目尻《めじり》に涙《なみだ》をたたえたまま薄《うす》く笑ってロレンスのことを見下ろしてきた。 「やっぱりわっちが上のほうがしっくりくるの」 「文字どおり尻《しり》に敷《し》かれてるからな」  月明かりの下で、ホロの狼《オオカミ》の耳の縁《ふち》が銀色に光っている。  それがぱたぱたと揺《ゆ》れるたびに、月《つき》の粉《こ》が舞《ま》うようだった。 「わっちも水が飲みた……うむ? わっちのローブはどこにいってしまいんす?」  冗談《じょうだん》でもなさそうにきょろきょろと辺りを見回すホロ。  ロレンスは、その腰《こし》に巻いてあるのはなんだろうな、という言葉を意地悪く飲み込んで、空をのんびりと仰《あお》いだのだった。  時刻は夜半を回ったあたりだろうか。修道院ならばそろそろ修道士が起きてきて、一日の始まりの祈《いの》りを唱える頃《ころ》だ。  それでも全員が寝《ね》ているわけではなく、牛の糞《ふん》のようにあちこちで丸くなっている者たちとは別に、何人かの男たちが車座になって火を囲んでいた。 「エヤーリ」  そして、男の一人がホロに気がつくとそんなことを言って右手を上げた。  ホロはくすぐったそうに笑って手を振《ふ》り返している。 「なんだ?」 「古い挨拶《あいさつ》じゃ。ロエフの広い山にはまだこの挨拶が残っておるらしい」  そう教えてくれた。  世の仕組み、慣習を教える立場はロレンスだったのに、と思うと自分たちがどれほど北に来たのかが実感できる。  もう、この辺りはどちらかといえばホロの縄張《なわば》りなのだ。  麦畑の近くで、二度と戻《もど》れない過去の記憶《きおく》に浸《ひた》るように北を見つめていたホロの横顔を思い出す。  言葉に出して言ってやりたい。  ケルーベに行くのを中止したいだろう? と。  ただ、言えばきっと怒《おこ》るはずだ。  それは、できればロレンスも言ってもらいたくない言葉なのだから。 「おや、小僧《こぞう》が起きておる」  そんな意地悪な物思いは、ホロの言葉で中断した。  それぞれ思い思いの場所で横になっているものの、そこはそれ、なんとなく皆《みな》集まっているのだが、その一番|隅《すみ》っこのほうで何事かをしている小さな姿があった。  まだ酒がいくらか残っている目には、ホロがいるように見える。  つまり、コルだ。 「なにしてるんだ」 「ふむ……なにか書いておるようじゃの」  月明かりの下では輪郭《りんかく》こそわかるものの、ロレンスの目では手元まではわからない。  ただ、枝かなにかで地面に向かってなにかしているというのはわかる。  もしかしたら、暇《ひま》に飽《あ》かして勉強でもしているのかもしれない。 「まあ、とりあえず水だ……喉《のど》が焼けそうだ」 「うむ」  ホロが誰《だれ》かから貰《もら》ったらしい皮袋《かわぶくろ》を手に、ロレンスは川べりに立って口の紐《ひも》を解く。  その中身はもちろん空になっているが、飲み口が歯形でぼろぼろになっている。  ロレンスがホロに視線を向けると目をそらされた。もしかしたらロレンスの前では隠《かく》していただけで、噛《か》み癖《ぐせ》があるのかもしれない。  妙《みょう》なところで獣《けもの》っぽいのを気にしているところがあるからだろうか。  いや、単純にそんな子供みたいな癖があっては賢狼《けんろう》の沽券《こけん》に関《かか》わるからだろう。  ロレンスは月明かりではわからないくらい小さく笑って、川の水を汲《く》んだ。冬の夜の川の水は今まさに溶《と》けたばかりの氷のようだった。 「くう……」  痛いばかりに冷たい水を口に含《ふく》む。  酒を飲んだあとの一杯《いっぱい》の水になら、いくら出してもいい。 「さっさと渡《わた》しんす」  と、ロレンスの手から皮袋を奪《うば》って水を飲んだホロは、罰《ばち》が当たったらしくむせて咳《せ》き込んでいた。 「で、お前のほうはなにか面白《おもしろ》い話が聞けたのか」  呟き込んでいるホロの背中をさすってやると、大袈裟《おおげさ》に揺《ゆ》れているのは肩だけだとわかった。構って欲しいならそう言えばいいのに、などととても口には出せないことを思いながらも、ロレンスはその嘘《うそ》を指摘《してき》しなかった。 「げほっ……ふう……。面白い話?」 「ニョッヒラの話を聞いてたんだろう?」 「んむ。ヨイツの名は誰《だれ》も知らなかったがな、月を狩《か》る熊《クマ》の話は何人か知っておった」  ロレンスでも知っているくらいの熊の化け物であるから、この近辺の者たちが知らないほうがおかしいともいえる。  何百年、あるいは千年前かもしれないその昔から、名を語り継《つ》がれてきた熊《クマ》の化け物なのだ。  ロレンスは少し迷ってから、思ったことを口にした。  ホロが怒《おこ》ったら、酒のせいにすることにした。 「やっぱり、少し妬《ねた》ましいとか思うか?」  名を語り継がれるという意味では、ホロと月を狩《か》る熊では勝負になりはしない。  もちろん、パスロエの村ではホロの名前は子供でも知っているようなものだが、月を狩る熊となるとその規模は桁違《けたちが》いになる。  同じ時代を生きていた者としては張り合いたい気持ちが出るのではないか。  いや、ホロのことだからそんなつまらないことは超越《ちょうえつ》しているのかもしれない、と思った頃《ころ》に、返事が返ってきた。 「わっちを誰《だれ》じゃと思っておる?」  右手に皮袋《かわぶくろ》を持ち、左手を腰《こし》に当て、堂々胸を張る。  賢狼《けんろう》ホロなのだ。  馬鹿《ばか》な質問をしたとロレンスが自嘲《じちょう》しながら「そうだな」と答えようとしたところ、それを防ぐようにホロの言葉が滑《すべ》り込んだ。 「わっちゃあ大器晩成じゃからな。これからじゃ」  そして、牙《きば》を剥《む》いて笑う。これまで何百年と生きてきて、まだこれからだと言い張るその図々《ずうずう》しさがすごい。  賢狼の前に、ホロはホロだった。 「わっちもあれこれ崇《あが》められるのは辟易《へきえき》じゃがな、そりゃあ、わっちのことを記した書物が分厚くなるのであれば嬉《うれ》しいに決まっておる」 「はは。じゃあ、俺が書いてやろうか」  商人で筆をとる者は案外に多い。  きちんと文法や修飾《しゅうしょく》法を学んだわけではないので美しいものは作れないが、死ぬ間際《まぎわ》に一財産あったらその道の者に書かせてもいいかもしれない。 「ふむ。じゃが、そうなるとぬしはぬしとの旅に多くの項《こう》を割《さ》くじゃろう?」 「そりゃあそうだな」 「そうなると、困らぬかや」 「なぜ?」  ロレンスが尋《たず》ねると、ホロは咳払《せきばら》いを一つした。 「きっと、本を書くよりもよほど多くの恥《はじ》をかくはめになるじゃろうからな」 「……うまいこと言ったつもりか?」  ホロはふふんと鼻を鳴らす。 「ま、ぬしは平気で嘘《うそ》をつくからの。きっとあることないことどっさり美化して書き加えるんじゃろうな。まったく、どんな本にするつもりじゃ?」  ホロが見上げてくる。  ただ、その顔は笑いをこらえるような、馬鹿《ばか》な遊びをしているとわかりきっている顔だ。  ロレンスも商人である。  きっちりと意を汲《く》んでこう言った。 「本|諸共《もろとも》に厚かましい、と言いたいのか」  ホロは肩《かた》を揺《ゆ》らして声なく笑い、ロレンスの腕《うで》を叩《たた》いてくる。  まったく、馬鹿なやり取りだった。 「ま、聞けたのはニョッヒラの話ばかりじゃ。ロエフの山には滅多《めった》に行かぬそうじゃ。あまり、良い場所ではないらしいからの」 「ん?」  思わず聞き返していた。  ホロは笑顔《えがお》のままだが、その内側《うちがわ》にはぽっかりと穴があいたような感じがある。  ホロは意地っ張りだ。  妙《みょう》に明るい時には、いつもその裏になにかある。  しかし、ロレンスの言葉は聞こえなかったかのように言葉を続けた。 「湯の出る場所は二十|有余《ゆうよ》。地が裂《さ》け、蒸気が噴出《ふんしゅつ》し、世の終わりのような様相を呈《てい》しているのも昔のままだそうじゃ。じゃが、ちょっと不満なのはな、昔、わっちが見つけたわっちしか知らぬ場所を連中が知っておったことじゃ。わっちがこの姿にならぬと入れぬくらい細い細い谷間の奥にある湯じゃったのに……」  温泉には精霊《せいれい》がいるといわれ、たどり着くのに難航する温泉であればあるほど、精霊はその努力を見てくれるはずなので病や怪我《けが》に効くと評判になる。  だからニョッヒラの連中はなぜそんなところにまで出向いたんだというようなところに湯を見つけるのが半ば生きがいになっている。  そんな状況《じょうきょう》だから、遅《おそ》かれ早かれ見つかる運命だったろう。  ホロは至極《しごく》悔《くや》しそうな顔をしているが、それが演技であることくらいロレンスにもわかる。  ホロがぽろりと漏《も》らしたあの言葉。  ロエフの山はあまり良い場所ではない。  迂闊《うかつ》だった。  それは当然のことなのだ。  ロエフ川を上《のぼ》ったところになにがあると船乗りたちは言った?  銅が湯水のように湧《わ》き出てくる鉱山や、銅製の蒸留機が量産されるほど銅が豊富な町があると言った。  しかも、ローム川の上流からはラグーサが大量の銅貨を運んできている。  その銅貨を作るのに必要なものはなにか。  言うまでもなく銅であり、そして大量の薪《まき》、あるいは黒い宝石と呼ばれる、石炭だ。  ホロが話を聞いたというのは旅芸人の一座だろうから、活気のある鉱山町を悪く言う時には町が寂《さび》れているという意味では決してない。  それはおよそ人が住むには適さないという意味だろう。  丸裸《まるはだか》の森と、汚《よご》れきった川。  洪水《こうずい》とがけ崩《くず》れが日常茶飯事《にちじょうさはんじ》で、一攫千金《いっかくせんきん》を狙《ねら》う者たちが山と集《つど》う場所。  旅芸人の娘《むすめ》は、客の質が悪いという意味で言ったのかもしれないが、町の民《たみ》の質の悪さはその環境《かんきょう》が決定する。  聖典にも、悪い木には悪い実しか生《な》らず、良い木には良い実しか生らないと書いてあるくらいだ。 「くっく。いかんな。この手のことでぬしに隠《かく》し事《ごと》はできぬ」  ロレンスがホロにどう話すべきか迷っていると、突然《とつぜん》ホロはそう言った。 「山をほじくり返すたわけは昔からおった。時を経て人も増えたんじゃろう。それなりの覚悟《かくご》はしておる」  それはとても本心には思えない。  ホロはパスロエの村に何百年といて知っているはずだ。  人の知恵《ちえ》は、神を必要としないでもよいとうぬぼれられるくらいには、進歩していることを。 「じゃがな、ぬしよ」  一歩、二歩、と小川に置かれた渡《わた》り石《いし》の上を歩くように足を出したホロは、三歩目でロレンスのほうを振《ふ》り向いた。 「これはわっちの心配事じゃ。ぬしにそんな顔されてはわっちのほうこそおちおち心配しておれぬ」  その言葉を、生意気な、と言うのはもちろん簡単だ。  だが、ロレンスにはとてもそう言うことができない。  心配しないではいられないし、きっとヨイツの場所を見つけた時にそこがひどい有様《ありさま》になっていたらホロは取り乱すだろう。  それでも、ホロはそうなってしまうことを恥《はじ》だと思っているのではなく、とても自然なことだと理解しているのだ。  そして、嘆《なげ》き悲しんだあとに、また立ち上がれるという自信があるのだろう。  ロレンスはそう思い、少し反省する。  ホロは、見た目どおりの少女ではないのだ。 「ま、いざとなったら胸は借りるかもしれぬ。その予約だけはしておかんとな」  ホロのような娘に言われたら、もちろん、任せておけと答える以外に選択肢《せんたくし》などない。 「くっくっく。それでは今度はぬしのほうじゃ。なにか面白《おもしろ》い話はあったかや」  ホロに促《うなが》されロレンスは歩き出し、なんの話をしていたのか、どっと沸《わ》いた男たちの輪のほうを見た。 「……なんだったかな。確か、ラグーサさんがなにか言っていたんだが……」  酒のせいで意識がまざり合った泥《どろ》のようになっていた時に聞いたせいか、ぱっと出てこない。いつもなら聞いたこと見たことはきちんと整理された帳簿《ちょうぼ》のように仕分けできているのに、と自分の頭を何度も小突《こづ》く。 「確か……なにか、笑ってしまうような……でも笑えないような、なんかそんな話だったんだが……」 「あの小僧《こぞう》の話では?」  ホロが指差すと、相変わらず月明かりの下で地面を見つめたままじっとしているコルがいた。  それで、頭の中にふわりと記憶《きおく》が蘇《よみがえ》る。 「ああ、そうっ……あれ、その話だったかな……」 「ぬしと、あの船乗りの話などそれくらいしかないじゃろう。それに、二人で取り合っておるんじゃろうが」 「取り合っちゃいない。ラグーサさんは本気で欲しがっているようだが」  ケルーベについてからの猛攻《もうこう》が目に浮かぶ。  教会法学を学んでも、老後まで学びきれるかどうかはもちろん、運良く学び終えても無事教会の高級司祭になれるかどうかはわからない。それを考えると、ラグーサの下《もと》に弟子《でし》入りするのがいいような気もするが、それは傍《はた》から見た勝手な判断というものだ。  そんなことを思っていると、じっとホロが見上げてきていた。 「ぬしは?」 「俺? 俺は……」  ホロのそんな目をいなすようにかわし、曖昧《あいまい》に語尾を濁《にご》した。  コルならば、弟子にしてもいいとは思う。  ただ、時期|尚早《しょうそう》という感はあるし、なにより、言葉を濁してしまう理由が他《ほか》にあった。 「わっちゃあパスロエの村でずっと都合のよさそうな旅人が来んかと待っておったがな、よい出会いというのはなかなかありんせん。人物については、ま、わっちの目を信用してもらおう」  気がつくと、いつの間にかホロと手をつないでいた。 「それに、わっちに懐《なつ》いてはおるが、大丈夫《だいじょうぶ》。ぬしの敵にはならなそうじゃ」  その言葉には明確に顔を背《そむ》けて、白い息を長く吐《は》いた。  ホロはくつくつと笑っている。  ロレンスもやれやれとばかりに前を向いたが、ホロは気がついているのだろうか。  ホロがやたらとコルを推《お》そうとする、その理由を疑っているということを。 「ま、どうやら万事つつがなく、のようじゃな。船が詰《つ》まったと聞いた時にはすわ一騒動《ひとそうどう》かやと思ったんじゃが」 「……期待してたのか?」  ロレンスが尋《たず》ねると、ホロは複雑そうな表情で顔を上げただけ。  首を横に振《ふ》りも、うなずきもしない。  代わりに、遠い視線で思案気に口を開いた。 「のんびりと旅するのを確かに望んではおったがな、ぬしとの旅は妙《みょう》にこじれておる。下手に考える時間があると……の」  ホロと指折りこの先の旅の日数を数えたり、想像の旅に出たことを思い出す。  確かに、時間があるとあれこれ考えてしまう。  それならいっそのこと騒動に巻き込まれ、というのもまた一興かもしれない。  ただ、ホロのほうからそんなことを言い出すだなんてよほどのことだとロレンスは思った。  だから、ホロが怒《おこ》りやすいように茶化してやった。 「賢《かしこ》すぎるのもまた良し悪しだな」  きっとホロはこう反論してきて自分はこう反論して、とロレンスは頭の中で組み立てていたが、ホロから一向に言葉が来ない。  妙《みょう》だなと思ってそちらを見ると、ホロが眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せていた。 「賢すぎる?」  それは怒っているわけではないのはすぐにわかった。  単純に、理解できないといった顔をしていた。  だが、だからこそロレンスにはその表情の意味がわからない。  たじろいで言葉に詰まっていると、ホロは「あ」と小さく声を上げた。  それがきっかけになったような気がする。  ロレンスもこの齟齬《そご》の原因に気がついた。  そして、二人の視線が絡《から》み合う。  同時に立ち止まり、しばらくの沈黙《ちんもく》のあと、二人の顔に揃《そろ》って現れたのは気恥《きは》ずかしさを打ち消すようなしかめっ面《つら》だった。 「まさか、単に興味があったのでぬしに遠方の地のあれこれを聞いたのを、なにか変なふうに勘違《かんちが》いしておるのではあるまいな」  ロレンスは少し言葉に詰まって片眉《かたまゆ》を上げる。  もちろん、ロレンスは自分の心配が杞憂《きゆう》に終わって欲しいとは思いつつも、同時にその心配が的を射ているものだという自信もある。 「どうりであの時|妙《みょう》な顔をしておったわけじゃ。そんな心配大きなお世話じゃ」  だから、そう言ったホロに強気に言い返した。 「そっくりそのまま言葉を返してやる。お前がコルを俺の弟子《でし》にと熱心に推《お》す理由だって、どうせ同じことなんだろうが」  今度はホロがぐっと顎《あご》を引く。  やはり、思ったとおりだった。  コルを助けたのはその心|優《やさ》しさからだろうが、妙《みょう》に可愛《かわい》がったりその肩《かた》を持ったり、ましてやロレンスに弟子に取れとあれこれ言うのは別の理由からだ。  そして、ホロがなにかをする時はロレンスのためという、ついさっきに気がついたことを応用すればどうなるか。  たちまちのうちに、ロレンスがホロにしていた心配と同じ心配をホロもしていたということが見えてくる。  二人で睨《にら》み合い、互《たが》いに肩肘《かたひじ》を張る。  弱いのはお前で、こっちが守ってやらないとならない、と主張するように。  本当に馬鹿《ばか》な話だ。  互いに、同じことを思っていたのだから。 「まったく……。で、なにか言っておきたいことは?」  先にロレンスが肩肘張るのをやめて嘆息《たんそく》まじりに尋《たず》ねると、ホロのほうも同じようにため息をついた。 「下手に考える時間があると、互いにろくなことを考えぬようじゃな」 「自分のことなど棚《たな》に上げてな」  ホロは軽く笑って、ロレンスの手を握《にぎ》りなおした。 「先のことなど考えても仕方がない、とはわかっておっても、なかなか難しいの」 「まったく考えないのもまた問題だとは思うが……確かに難しい」  今が楽しさの絶頂、と自覚しているならばなおさらだ。  どうしたって未来は今よりも暗くなる。互いに互いのことを心配しているのだとしても、その話題を続ける限り、明るい話は出てこない。 「ま、こんな話はやめにせんかや」  それを察したのか、ホロはそんなことを言った。  ロレンスも、賛成した。 「せっかくこの時間に目が覚めたんじゃ。寒いし、あの小僧《こぞう》を交えて軽く飲みなおそう」 「また飲むのか」  これには呆《あき》れるように言うと、歩き出したホロはフードの下で耳をひくひくさせるだけで、返事はしなかった。 「しかし、こやつらはもっと行儀《ぎょうぎ》よく並んで眠《ねむ》れぬのか。邪魔《じゃま》でしょうがないの」  空から無作為《むさくい》に降ってきたように、それぞれ好き勝手な方向を向いて眠っているせいで、まっすぐ歩くこともおぼつかない。  まだ広い川べりだからいいようなものの、これが木賃宿《きちんやど》などになると文句の一つもたれたくなる。  全員がきちんと並べば足を伸《の》ばして、しかもより多くの人間が眠《ねむ》れるというのに、皆《みな》手足を縮めてでも好き勝手な向きで眠ることを好む。  そのせいで何度宿を目の前にして寒空の下で夜を明かしたかわからない。  ロレンスはそんな旅の記憶《きおく》を思い出しながら、なにかが引っ掛《か》かった。  振《ふ》り向いて、船乗りや商人たちが眠る姿を眺《なが》めてみた。  寝相《ねぞう》。向き。人数。  この引っ掛かりはなんだろうか、と酒が残る頭を再び小突《こづ》こうとした時、立ち止まったホロの背中にぶつかってしまった。  ぎろりと睨《にら》まれて、頭の中の引っ掛かりも霧散《むさん》してしまった。 「コル坊《ぼう》」  コルがホロに懐《なつ》いているらしいのと同じくらい、ホロはホロでコルを気に入っているらしい。  狐《キツネ》だの鳥だの爺《じじい》だの、ホロは基本的に人の名前をまともに呼びはしない。  ロレンスも自分がホロに名前を呼ばれたことなどあったかなと少し記憶を探ってしまう。  一度か二度はあったかもしれないが、改めてそんな場面を想像しても、それはそれでちょっと恥《は》ずかしかったりする。 「うむ?」  ホロの間抜《まぬ》けな声が上がる。名を呼んでもコルは気がついていないらしい。  眠っているのか、とホロとロレンスは顔を見合わせて、うずくまるコルに近づいていった。  ホロの予備のローブに包《くる》まって、その右手は細い枝かなにかを持って動かしているので寝ているということはないはずだ。  夢中になってなにをしているのだろうか。  ホロがもう一度名を呼ぼうとした矢先、足音に気がついたらしいコルがものすごい勢いで振り向いた。 「っと」  そう言ったのはロレンスで、ホロはきょとんとしている。  コルもコルで夢中になっている最中にほとんど無意識のうちに振り向いたらしい。びっくりした顔をしたままホロとロレンスを見つめ、そして、慌《あわ》てて手元のなにかを拾っている。軽い金属音がしたので、貨幣《かへい》だろう。しかも、立ち上がり様に足でなにかを隠《かく》した。  目端《めはし》が利《き》くのはホロだけではない。  ロレンスはそちらに視線を向けたが、足で隠したのは地面に書いていたなにからしい。  なんだろうか、と思う間もなくコルの足がそれらをかき消し、ついで口を開く。 「ど、どうかされましたか?」  つないでいる手の感じから、それはこちらの台詞《せりふ》じゃ、とホロが言いたそうな気がしたが、きっと気のせいではない。  コルがなにかを隠《かく》しているのは明白だ。 「んむ。変な時間に目が覚めてしまったからの。酒でも飲まぬかと思って」 「……」  ものすごく嫌《いや》そうな顔をしたのは冗談《じょうだん》ではないはず。  ついさっきまで、ラグーサに飲まされたらしく倒《たお》れていたのだから。 「くふ、冗談じゃ。腹は減っておらぬかや」 「えっと……あ、少し」  コルが描《か》いていたのは、小さい円形の絵だ。  それをいくつも並べた絵を描いていたようだが、確かめようもない。 「うむ。ぬしよ、食べ物はたくさんあったじゃろう?」 「ん? ああ、あるにはあるが」 「あるが?」  肩《かた》をすくめて答えてやる。 「食べればその分なくなるからな?」  ホロは軽くロレンスの腕《うで》を叩《たた》いてきた。 「では決まりじゃな。本当なら火の近くがよいが……」 「あっちに行ったら間違《まちが》いなく絡《から》まれるな。火を借りてこっちはこっちでやろう」 「うむ。ではわっちらの荷物を……」  片や踊《おど》り狂《くる》い、片や酔《よ》いつぶれていつ毛布を掛《か》けられていたのかも記憶《きおく》にないくらいだ。  ホロとロレンスがコルに視線を向けると、「覚えてないんですか」とちょっと呆《あき》れ気味に言われてしまった。  もしもホロとロレンスの二人旅にコルという弟子《でし》が加わったら、こんなやり取りが毎日のように繰《く》り返されそうだ。 「くっくっく。酔っ払《ぱら》い二人じゃからな。すまぬが持ってきてくりゃれ?」 「わかりました」  言って、コルは小走りに駆《か》けていった。  残されたロレンスとホロは二人並んでその背中を見送っていたが、なんとなく、こういう光景も悪くない。  それは当然|隣《となり》にホロがいてのことだったが、ホロも同じことを思ったのか、軽くロレンスに寄りかかってきた。  この構図を表す一つの言葉をロレンスは知っている。  だが、それを言ったら負けだ。 「ぬしよ」 「ん?」  ホロはしばし言葉を続けず、一度頭を振《ふ》った。 「なんでもない」 「そうか」  ロレンスはホロがなにを言おうとしたのかもちろんわかる。  それでも、考えてはいけないような気がした。 「そういや」 「む?」 「コルの故郷、ピヌという名前らしい。聞いたことないか?」  急ぐあまり寝《ね》転がっていた船乗りか誰《だれ》かの足を踏《ふ》んでしまったらしい。  コルが謝《あやま》っているのを笑って眺《なが》めていると、ロレンスの手を握《にぎ》るホロのそれに力が込められた。 「ぬしよ、なんと言った?」  声が平素のそれではない。  思って、振り向くとその目は笑っていた。 「なんての」 「……おい」 「くふ。そんなあれもこれも知っておってたまるか」  確かにそのとおりではあるのだが、ホロは重要なことほど知っているのに知らないふりをしたり、とんでもないことをなんでもないことのように振る舞《ま》いたがる。  疑い出したらきりがないとはいえ、そもそもこんな冗談《じょうだん》を言う時点で怪《あや》しいと思ってしまうような旅をしてきたのは事実だ。  船乗りの足を踏んだからだろうか、今度は注意深く歩いているコルをけらけら笑っているホロの横顔を見つめていると、ホロはこちらも振り向かずにため息をついた。 「次からは控《ひか》えるとしよう」 「……そうしてくれるとありがたいな」  ロレンスが言うと、ちょうどコルが戻《もど》ってきたところだった。 「どうかしましたか?」 「ん、いや別に。お前の故郷の話をしていたんだ」 「はあ」  と、気の抜《ぬ》けた返事だったのは、自分の故郷のような寒村の話をしてなにが楽しいのだろうか、とまではいかなくとも、話題になるような村ではないと思っているからかもしれない。  ちょっとでも自分の故郷に自信がある者たちならば、たちまち目を輝《かがや》かせるはずだからだ。 「ピヌといったか、その村には言い伝えなどないのかや」 「言い伝え、ですか」  ホロが喋《しゃべ》りながら荷物を受け取ろうとしたので、コルも聞き返しながら手渡《てわた》した。 「うむ。一つか二つはあるじゃろう」 「ええーっと……」  突然《とつぜん》聞かれたら悩《なや》んでしまうだろう。どんな辺鄙《へんぴ》な村にだって大小|含《ふく》めてたくさんの言い伝えや迷信があるものだ。 「俺と話した時、教会が乗り込んできて困ったという話をしていただろ? ということは、ピヌを含めその近辺には別の神様がいるわけだ」  ロレンスがそう言ってやると、コルは合点《がてん》がいったらしい。  うなずいて、口を開いた。 「ええ、はい。ピヌというのは大きな蛙《カエル》の神様の名前です。長老様は実際に見たことがあると言ってました」 「ほう」  ホロは興味を惹《ひ》かれたらしい。  とりあえず三人で座り、ホロとロレンスは酒、コルにはパンとチーズを渡《わた》して準備を整えた。 「今の村がある場所は昔からの場所ではなく、昔村があった場所は大昔の地崩《じくず》れで山から流れてきた大水によってできた湖の底に沈《しず》んでしまったそうです。その地崩れの直後、山で狐狩《キツネが》りの手伝いをしていたまだ子供の長老様は、見たらしいのです。村へと続く谷間の一本道を、木をなぎ倒《たお》しながら進む濁流《だくりゅう》の前に立ちはだかる、一|匹《ぴき》の巨大な大蛙を」  大災厄《だいさいやく》から村を守った神様の話というのはあっちこっちに存在する。  教会はそれらを一つ一つ書き換《か》えて自分たちの神の思《おぼ》し召《め》しだと記しているらしいが、おとなしいコルがこんなにも目を輝《かがや》かせて語っているのを見れば、そんな試みがそううまくいくわけがないとよくわかる。  神や精霊《せいれい》の話は単なる御伽噺《おとぎばなし》ではない。  今では、素直《すなお》にそう思えるのだから余計だった。 「そして、ピヌ様が濁流を受け止め、せき止めているうちに、長老様たちは山を下り、村に走ってそのことを伝え、命からがら逃《に》げ出したそうです」  コルは話し終えてから、自分が少し興奮《こうふん》していたことに気がついたらしい。  声が大きくなかったかと、辺りを見回していた。 「ふうむ。神様とやらは蛙だけかや。たとえば、狼《オオカミ》とかは?」  我慢《がまん》できなかったらしい。  ホロがそう訊《たず》ねると、コルはあっさりと答えた。 「ええ、たくさんあります」  危《あや》うくホロは袋《ふくろ》の中から取り出した干し肉を落としそうになったが、平静を装《よそお》って口に咥《くわ》えた。  手がちょっとだけ震《ふる》えているのは、もちろん見て見ぬふりだ。 「ですが、そういう話はルピの村に多いです。ほら、ロレンスさんにお話しした、狐《キツネ》と梟《フクロウ》を取る名人がたくさんいる」 「ああ、教会に乗り込まれた村、だったか」  コルが苦笑いでうなずいたのは、もちろんその村に教会がやってきたのが、そもそものコルの旅の始まりの原因だからだろう。 「ルピの村は、村人のご先祖様が狼《オオカミ》だという言い伝えがあります」  ホロが口に咥えていた干し肉の先端《せんたん》が大きく動いた。  よく落とさなかったものだと感心する。  ただ、ロレンスは、異教徒の町クメルスンで年代記作家のディアナという女性に訊《たず》ねたことを思い出してしまった。  人と神が番《つがい》になったという話。  あの時は孤独《こどく》を怖《こわ》がるホロのためと思って聞いたのだが、今となってはその意味が若干《じゃっかん》変わっている。  ホロにからかわれないといいが、と思っていると、コルはこんなふうにあとを続けた。 「あとから聞き集めた話なんですけど、そもそもルピの村に来た教会の人たちは、その狼の神様が目当てだったといいます」 「神、が?」 「はい。でも、ルピの村には神様がいません。それは、言い伝えで、死んでしまっているからです」  話が見えない。  言い伝えで死んでいるというのなら、教会がその神を目当てにやってくるというのはおかしい。神が死んでいるから布教がしやすそうなので、というのならまだわかるが。  それに、ルピの村に来た一団は、おそらくは指揮官《しきかん》も兼《か》ねていた高位の宣教師が体調を崩《くず》しただけで引き上げていった。  妙《みょう》な噛《か》み合わせの悪さ。  これでは、まるでちょっとなにかを探しにきた感じにも思える。  ロレンスは、そこまで考えて気がついた。  ちょっとなにかを探しにきた。教会の連中が、わざわざ山奥まで、すでに神様は死んでいるという村に。 「ルピの村の神様は、大昔に、傷を負ったまま村にやってきて、村で死んだそうです。その時、お世話になった札にと、その右前足と、子種を残したそうです。子種は、子々孫々《ししそんそん》ルピの村の人たちに受け継《つ》がれ、その右前足は、辺り一帯を流行《はや》り病《やまい》や大きな天災《てんさい》から守っていた、といわれています。そして、教会の人たちは、その前足を探していたとか」  コルはその話をどこか御伽噺《おとぎばなし》をするかのように、心から信じているようには語っていない。  誰《だれ》だって旅をすれば世の広さを知り、疑いもしなかった村の言い伝えがどこにでもある陳腐《ちんぷ》なものに思えてしまうのはよくあることだ。 「ただ、そうは言いながら、僕たちの村は地崩《じくず》れのせいで湖の底に沈《しず》んでしまったんですから、ルピの神様は本当に足を残してくれたのか怪《あや》しいんですけど」  コルは、そう言って笑った。  外に出て知恵《ちえ》をつければ、言い伝えと、実際に起きたことの齟齬《そご》に気がつかないわけがない。  それはコルにとって自分たちの村に伝わる言い伝えの信憑《しんぴょう》性を揺《ゆ》るがすものにしかならないかもしれない。  だが、ロレンスは逆だった。  ホロのお陰《かげ》でその手の話が単なる御伽噺ではないことを知っている。  そうすれば、頭の中に収まっているさまざまな情報とそれらが組み合わさらないかと考えるのは商人の性《さが》。  それは、あやふやだった記憶《きおく》すら蘇《よみがえ》らせるもの。  酒につぶれる直前、ラグーサから聞いた話。  恣意《しい》的なつじつまの形成だというのはもちろんよくわかっている。  それにしても、ぴったりとよく当て嵌《は》まった。 「で、お前は言い伝えを疑っているのか?」  ホロがすぐに妙《みょう》な空気を感じ取ったらしく、フードの下から訝《いぶか》しげな目を向けてくる。  コルは、少しだけ笑った。 「……信じきれていないという意味では、疑っています。ですが、神様がいるかどうかのつじつま合わせなら学校でたくさん習いました。だから、そうするのは簡単です。つまり、ルピの神様の前足は、何十年も前にすでに……」  コルは南の学校で散々な目に遭《あ》い、故郷に帰ることも考えてこの近辺に流れてきた。  そうしたらまずどうするだろうか。  一も二もなく、故郷に関する話を集めるのが普通《ふつう》ではないか。  だとすれば、コルがロレンスと同じ情報を集めていたっておかしくはない。  コルとロレンスの大きな違《ちが》いは、その荒唐無稽《こうとうむけい》な話を信じられるかどうかだけ。  ロレンスは、あえてホロのほうを見ないで、代わりにその手を握《にぎ》った。 「宝の地図は、すでに宝が盗《ぬす》まれたあとに出回るものだ」  コルが目を見開いた。  そして、見開いた目をゆっくりと細め、薄《うす》く照れ笑いした。  もう騙《だま》されませんよ、という顔だ。 「でも、まさか、ですよね。そんな、神様の前足が売り買いされるだなんて」 「——」  ホロの息を飲む音。  やはり、コルはロレンスと同じ情報を手に入れていたらしい。  つないだままのホロの手がきつく握《にぎ》られる。  声の代わりに視線が向けられるが、ロレンスはそちらを見ない。 「ああ。世の中には偽物《にせもの》も多く出回っているからな」  ロエフ川の上流の町レスコ。そこの町の商会が探していたという、狼《オオカミ》の神の右前足。  ラグーサが酒の席で話していたことから、きっと船乗りの間では知られた噂話《うわさばなし》に違《ちが》いない。  その上、旅の暮らしのコルも知っていたということは、どこか旅人の集《つど》う宿なり食堂なりでも話題に上《のぼ》ることなのだろう。  火のないところに煙《けむり》は立たない、といっても、北の地という異教のはびこる土地柄《とちがら》のせいともいえるはずだ。  行商を七年もやっていればその手の話に出くわすのは一度や二度ではない。  聖人の遺体《いたい》、天使の羽、奇跡《きせき》の聖杯《せいはい》、神が身にまとっていた羽衣《はごろも》。  そのどれもが笑ってしまうほどの偽物だった。 「えっと、僕は本当に本気で信じているわけではありませんよ?」  ロレンスと、特にホロが黙《だま》りこくってしまったのを、呆《あき》れているからと捉《とら》えたらしい。  コルが慌《あわ》ててそう言った。 「そりゃあ、もちろん、確かめられるなら確かめたい、とくらいは思いますけど……」  そう言ってどことなく寂《さび》しそうに笑う様子は、奇術《きじゅつ》には種があることを知ってしまった子供のようだった。  目の前のホロが、実はその神の眷属《けんぞく》だと知ったらどう反応するだろうか。  そんな興味を抱《いだ》いてしまう。  ただ、ホロも当然正体を見せたがっているかと思えば、そうは見えなかった。  代わりに、ひどく落ち着いた目でコルのことを見ていた。 「それにしても、教会がもしも骨を追いかけていたのだとしたら、なにを思ってそうしていたんだろうな」  ホロの様子が気になったが、話が話なのでなにか思うところがあるのかもしれない。  ロレンスはとりあえず間をつなぐためにそう言った。 「なにを、思って?」 「ああ。だって、もしもその骨が本物だから追いかけているということであれば、異教の神の存在を認めることになるからな。そんなことはしないだろう」  コルはきょとんとして、「確かに」と呟《つぶや》いた。 「そう言われると、おかしいですね……」  もしも本物だとしたらホロのような狼《オオカミ》なのだろうから、その大きさもまともなものではないだろう。  記憶《きおく》がやや曖昧《あいまい》だが、ラグーサが地獄《じごく》の番犬と言っていた気もする。  骨を見つけたら、勝手にそのように命名して宣教に使うつもりなのだろうか。  殉教《じゅんきょう》した聖人の骨というのなら使い道はいくらでも思いつくのだが。  ロレンスがそんなことを思っていると、不意にコルが声を上げた。 「あ、も、もしかして」  なにか思いついたのかとロレンスが視線を向けると、火の周りで酒を飲んでいた連中のほうも同時になにか面白《おもしろ》いことがあったらしく、どっと笑い声が上がった。  その瞬間《しゅんかん》だった。  ぼきりと、なにかが折れる音がしたのだ。  一瞬、不機嫌《ふきげん》そうだったホロを疑った。  すぐに視線を走らせると、ホロも何事かと少し驚《おどろ》いているような顔をしていたが、ロレンスと目が合って、ロレンスの胸中に気がついたらしい。  肩《かた》を叩《たた》かれた。 「い、今のは……?」  神だのなんだのという話をしていたからだろうか。  その存在は半信半疑だと言ったばかりなのに、コルは怯《おび》えたように呟いた。  信仰心《しんこうしん》はそう簡単に消えるものではない、ということなのだろうが、ホロが少し嬉《うれ》しそうにしていたのには笑いそうになった。  それからしばらくは音がせず、火の周りの連中も浮かしかけていた腰《こし》を落ち着け、こちらに向かって肩をすくめている者もいた。  なんだったのだろうか。その場で起きていた者たち全員がそう思った頃《ころ》だ。  またも、ぼきり、みし、と音が続いたかと思うと、一際《ひときわ》大きい、なにかが破裂《はれつ》するような音がした。  川。  そう思った直後に、木の軋《きし》む音と、ごぼり、という大きな泡《あわ》が湧《わ》き起こったような音。  コルが立ち上がる。  ロレンスも片膝《かたひざ》をついて川を見た。 「船が!」  叫《さけ》んだのは、火の周りで酒を飲んでいた者たちだ。  視線はすぐに川の上へと滑《すべ》る。  そこで見たのは、月明かりの下で今まさに出港せんとする雄々《おお》しい大きな船の姿だった。 「おい! 誰《だれ》か!」  火の周りで酒を飲んでいた連中は、その場に立ち上がって叫《さけ》ぶものの誰一人行動が取れない。  全員商人か旅の人間なのだろう。ロレンスも立ち上がり、コルなどは思わず駆《か》け出していたが、三歩か四歩行ったところでどうすればいいのかわからないらしく立ち止まってしまった。  船が川を流れていくのはわかり、それを止めなければならないのもわかる。  ただ、どうすればいいのかわからない。  叫《さけ》び声《ごえ》が上がったのは、その瞬間《しゅんかん》だ。 「船を守れ!」  その一声で、牛糞《ぎゅうふん》のごとく寝《ね》っ転がっていた船乗りたちが飛び起きる。  こういうことに出会うのは一度や二度ではないのか、全員が迷うことなく川に走ろうとした。  散々|酔《よ》っ払《ぱら》ったあとだというのに、彼らの大半は足取りが確かだった。  その中でも真っ先に川べりに停泊《ていはく》していた船にたどり着いたのはラグーサともう一人の船乗り。  水しぶきを上げて船にへばりつくと、牛との力比べのようにぐんぐん船体を押していく。  先にラグーサが乗り、もう一人もどうにか乗り込んだ。  船に乗り遅《おく》れ、気も確かな者は次善の手を打つためか、ほとんどためらいもせず川に飛び込み停泊する船へと泳いでいった。  沈《しず》んだ船の上に乗り上げていた船は、ゆっくりとだが確実に川を下り始めている。  ロレンスたちが引き上げようとしてできなかった沈没船《ちんぼつせん》は、何度も綱《つな》をくくりつけられ引っ張られていたせいで脆《もろ》くなっていたのかもしれない。  それが、船の重みでつぶれ、砕《くだ》けたのだ。  このまま船を流してしまえば、川が曲がるところでまた浅瀬《あさせ》に乗り上げて座礁《ざしょう》してしまうかもしれない。  それに、川を下った先では停泊している船もいることだろう。  小型の船に万が一|突《つ》っ込んだとしたらどうなるのか、子供でもわからないわけはない。  しかし、彼ら船乗りが訓練を積んだ騎士《きし》たちのように川に飛び込んだのは、そういった実際的な理由からよりも、船乗りとしての名誉《めいよ》のためだろう。同じ船を三度も座礁させたとなれば、どれほど彼らの名誉を傷つけるかわからない。  コルが二歩、三歩と足を前に出しているのは、ラグーサたちの勇ましさに引き込まれているからか。  ロレンスも事態を固唾《かたず》を飲んで見守っている。  なにせ元々は四人も五人も漕《こ》ぎ手が必要らしい大船だ。そう簡単に止められるとは思えない。  しかし、他《ほか》の者たちと同様にその様子をじっと見つめていたわけではない。  ホロが、ロレンスの隣《となり》に立つと、こう呟《つぶや》いたからだ。 「本当にわからぬかや」 「え?」  船のことだろうか、と一瞬《いっしゅん》思ったが、それでは意味が通じない。  それで、すぐに、教会がどういうつもりで骨を探していたのか、ということだと気がついた。 「お前はわかるのか?」  わっと声が上がる。  見れば、ラグーサの船が惚《ほ》れ惚《ぼ》れするような腕前《うでまえ》で横に並び、追い越《こ》す最中にもう一人の船乗りが大船に飛び移って棹《さお》を立てていた。  しかし、とても止まりそうにない。月明かりの下の棹が、頼《たよ》りない細い枝のように見えた。  ラグーサの舌打ちが聞こえてくるようだ。 「わっちにはわかりんす。ぬしが行商で身を立てるように、わっちは人の信仰《しんこう》で身を立てておったわけじゃからな」  棘《とげ》のある言葉なのは、不機嫌《ふきげん》な証《あかし》。  なぜ怒《おこ》っているのかはわからない。  だが、それが教会のことに起因するということだけはわかる。 「わっちが神と呼ばれるのを嫌《いや》がるのはな、皆《みな》が遠巻きにわっちを見るからじゃ。わっちの一挙手一投足を畏《おそ》れ、敬い、ありがたいものだと言う。腫《は》れ物《もの》に触《さわ》るとはまさにあのこと。じゃからな、ぬしよ。逆に考えれば……」 「無茶だ!」  誰《だれ》かが叫《さけ》んだ。  ラグーサの船が、大きな船の前に回り込んだ。船を回り込んで止めようとすれば、最悪巻き込まれて沈没《ちんぼつ》してしまうかもしれない。  船同士のぶつかる鈍《にぶ》い音がした。その光景を見つめていた者全員が息を飲み、拳《こぶし》を固く握《にぎ》り締《し》めていた。  ラグーサの船が大きく揺《ゆ》れる。あわや転覆《てんぷく》か。川べりの空気が張り詰《つ》めた一瞬、ロレンスは、それでも視線をホロに戻《もど》した。  ホロの言わんとすることが、わかったからだ。 「まさか、骨を」  そして、波が崩《くず》れるような大きな音。  永遠とも感じる数瞬ののち、見てわかるほどに船の速度が落ち、ほとんど止まっているようだった。  こうなればもう一安心。  そんな空気が広がり、ついで歓声《かんせい》が上がった。  見栄《みえ》っ張《ぱ》りらしいラグーサは船の上で片手を上げていた。  ロレンスはそれを喜べない。  教会のえげつなさに、口の中は苦いもので一杯《いっぱい》だった。 「そうじゃ。もしも、本物とわかる骨を持って、それを足で踏《ふ》みにじったとしたら? さすがのわっちらも骨になってまでたわけを食い殺せぬ。ただ、踏まれるに甘んじるのみ。奇跡《きせき》など起こりはせん。そして、それを見た者たちはどう思う? こう思うじゃろう」  間もなく後続の船が追いつき、何人かの船乗りが飛び移って綱《つな》を投げる。  なんとも言えない一体感があり、長い年月ずっと同じ場所で仕事をするというのはこういうことなのだろうと見せつけられる。  ロレンスは、できれば彼らの突然《とつぜん》の熱狂《ねっきょう》の中にいたかった。 「なんじゃ、わっちらが腫《は》れ物《もの》のように崇《あが》めておったのはこの程度のものか、と」  それは百万言を費《つい》やして教会の神の素晴《すば》らしさを語るよりよほど効果的だろう。  その発想の合理性は、さすが何百年と異教と戦う教会だけのことはあると感心してしまうものだ。  しかし、ホロはその踏みにじられる骨と、もしかしたら知り合い、下手をすれば血のつながりのようなものがあるかもしれない。  毛皮の売買については、割り切れると言ったホロだ。  それでも、毛皮を売買するのと、骨を踏みにじるのとではわけが違《ちが》う。  瞼《まぶた》が震《ふる》えているのは、泣きたいからではない。それくらい、怒《おこ》っているのだ。 「それで、ぬしはどう思うんじゃ」  口笛や拍手《はくしゅ》が鳴りやまぬ中、ラグーサたちは手馴《てな》れた様子で船同士をつなぎ、繋留《けいりゅう》する作業を行っている。  誰《だれ》も彼もが頭で考える必要もないほど慣れたふうに、実に合理的に作業を進めていく。  教会は、これを信仰《しんこう》の分野で行う。  信仰を広めるためなら、あらゆることが道具なのだ。 「それは……ひどい、と——」 「たわけ」  ホロに足を踏まれた。  その痛さから、ホロの苛立《いらだ》ちのほどが知れた。 「事の善悪など聞いておらぬ。ぬしはどうせ教会と同じ人——」  はっと口をつぐんだホロが、すまぬ、と言う前にロレンスはその足を踏み返して、真顔で小首をかしげてやった。  仕返しはした、と。  ホロは自分を落ち着かせるためだろうか、それとも失言を悔《く》いているのだろうか、おそらくはその両方で、唇《くちびる》を噛《か》んでから、言葉を続けた。 「……そうではなく、その話、骨を追いかけているという話じゃ。ぬしは、本当だと思うかや」 「半々」  即答《そくとう》したからだろうか、ホロが少し苦しそうな顔を向けてきた。  ロレンスを無用なところで怒《おこ》らせた、と思っているのだ。 「いや、即答できるくらい半々だ。その手の話は、コルが学校で騙《だま》されたのと同じくらいあふれている」  顎《あご》でコルを示してやる。  コルはラグーサたちの活躍《かつやく》を他《ほか》の者たち同様にたたえていた。  その無邪気《むじゃき》な背中は、ホロのローブを着ているせいで、ホロそのものに見える。 「それなら半々にはならぬじゃろう」 「俺はお前という存在がいることを知っている。だとすれば、それがよくある与太話《よたばなし》という可能性は消える。となると、まあ、半々だろう。噂《うわさ》になるということは、商会が行動を起こしているからだが、それが本当にルピの村のものなのかはわからない。教会がルピの村に来たというのは、コルが嘘《うそ》をついていない限り本当だろうが」  ラグーサたちは作業を終えたらしい。  船乗りたちがラグーサの船に乗り込み、ある者は威勢《いせい》よく川に飛び込んで陸に上がってきた。  消えかけだった火には気前良く残りの木が投げ込まれ、英雄《えいゆう》には酒が振《ふ》る舞《ま》われていた。 「のう、ぬしよ」 「ん」  ホロの手がロレンスのそれに絡《から》められる。  ロレンスになにかを頼《たの》む時にはこうやってからかおうとする体裁《ていさい》を整えないといけないとでも思っているかのように。 「このままのんびり旅を続けて、ヨイツを見つけてさようなら。ぬしはどう思う?」  その切り出し方にはさすがに笑ってしまった。  ホロは怒るように手に爪《つめ》を立ててくる。  度が過ぎればなんとやらだ。  こんなあからさまなことをされたら、素直《すなお》じゃないなどとはとても言えはしない。  ロレンスは、少し息を大きく吸い込んで、吐《は》き出した。 「俺にそんなことを聞くなよ。俺はお前を迎《むか》えに行って、なんと言った?」  ホロは目をそらして答えない。  信じられないことだが、少し照れているようにも見えた。 「ま、単なる噂話でした、ですむかもしれないという救いはある。お前が興味を惹《ひ》かれるなら、俺は構わない」 「では救いがないとすれば?」  賢《かしこ》い狼《オオカミ》と書いて賢狼《けんろう》。  言葉遊びはお手の物。  ロレンスは、さらに口調を軽くしてこう言った。 「もしも本当だったら、軽い火傷《やけど》じゃすまなくなる」 「わっちが怒《おこ》るからかや」  軽く、目を閉じる。  そして、開けた瞬間《しゅんかん》にコルが興奮《こうふん》冷めやらぬといった感じでこちらを振《ふ》り向いて、二人の妙《みょう》な雰囲気《ふんいき》に気がついたらしい。  見てはいけないものを見た、という顔になって慌《あわ》てて前に向きなおる。 「その手のものは総じて信じられぬほど高価だ。教会が威信《いしん》をかけて用いる場合が多いからな。つまり」  隣《となり》のホロを見る。  コルが肩越《かたご》しにこちらを窺《うかが》っているのがわかる。  だが、それはあまり気にならなかった。 「お前の倫理《りんり》に反し、教会の威信に関《かか》わり、商品としても高値がつく。手を出せば火傷ですむはずがない」  ホロは微笑《ほほえ》み、空いている手を胸の高さに上げると、小さく手を振った。  コルが慌てて目をそらしたのがわかった。  ホロの手が、ゆっくりと下げられた。 「言ってしまえば骨探しじゃ。無理に付き合ってくれる必要はありんせん」  そういう言い方は汚《きたな》い。  口にするのもはばかられるほど、汚い。  ロレンスは空いている手を胸の高さまで上げ、ホロの額を小突《こづ》いた。 「お前と違《ちが》って、俺は本を厚くしたい」 「……本当に?」  このまま老いて衰弱死《すいじゃくし》するように旅を終えるのは、それはそれで魅力《みりょく》的かもしれないが、ロレンスにも正直少し辛《つら》いものがあった。  出会いと、それからの旅が派手だったぶん、なおさらだ。  一年の終わりに、あるいは収穫《しゅうかく》の終わりに、人々が集まって踊《おど》り狂《くる》い、大騒《おおさわ》ぎするのはなぜなのか。  ロレンスは、今、わかったような気がした。 「物語には、区切りがあったほうがいいだろう?」 「それが危なくても?」  それには首を横に振《ふ》る。  血気盛んな若者ではないのだ。  ロレンスには、生活がある。 「もちろん、危険は避《さ》けてもらわないとな」  ホロの顔が、不敵に笑った。 「わっちゃあ賢狼《けんろう》ホロじゃ」  馬鹿《ばか》げたことだと思う。  もしも本当に商会が骨を探し、教会がそれを狙《ねら》っているのなら話は個人の商人がどうこうできるものではない可能性が高い。  それでも、ロレンスは思ってしまうのだ。  ホロとの旅は、裏ごししたペーストのようなものでは腹の足しになりはしない。牛の肉を分厚く切って、香辛《こうしん》料をたっぷりまぶしたものでなければならないのだ、と。  ホロは小さく笑い、歩き出した。  そして、聞き耳を立てていたコルの頭を小突《こづ》くと、その背中を押してラグーサたちのほうに歩いていった。  ロレンスもゆっくりとそのあとを追う。  空には月が浮かんでいて、心地よいくらいに冷たい空気が船乗りたちの笑い声で揺《ゆ》れている。  旅の節目としてはなかなか良い夜かもしれない。  ロレンスは一つ深呼吸をした。  ホロはきっと怒《おこ》るだろうが、話が本当かどうかについてはロレンスはあまり興味がなかった。  それよりも、もっと重要なことがある。 「……」  前に進む理由ができたことを、月に感謝したかった。 [#改ページ]  終幕  早朝。  太陽が地平線から顔を出した瞬間《しゅんかん》、頬《ほお》に光が当たって目が覚めた。  そんな気がしたものの、目を開けると実際に頬に当たっていたのはホロの寝息《ねいき》だとわかった。  毛布の中で丸まって眠《ねむ》るホロは、時折息つぎのためなのか毛布の下から顔を出すことがある。  そう思ってホロの顔を見れば、今の今まで毛布の中にいたことを示すように、ちょっと頬が湿《しめ》っていた。  まるでこねたてのパン生地《きじ》のようだ。  すぐに膨《ふく》れるところはまったくそっくりかもしれない。  ただ、ホロのそんな寝顔がいつも以上に無防備に見えたのは気のせいだろうか。  単に安心しているというだけではない、悪い夢すら絶対に見ないというような、ある種の自信すら感じさせる顔。焦《こ》げた前髪《まえがみ》も、燃え盛《さか》る城に飛び込んで生還《せいかん》した騎士《きし》の勲章《くんしょう》のように見えた。  いや、それはさすがに言いすぎだろう。  ロレンスは苦笑いをして、欠伸《あくび》をした。冷たく乾燥《かんそう》した皮膚《ひふ》が悲鳴を上げ、氷の膜《まく》が割れるような感覚と共に目が覚めていく。  今日もよく晴れていた。  やがてホロは目を閉じたまま軽く顔をしかめて、もそもそとまた毛布の下に潜《もぐ》っていった。  川に流されかけた大船を止めたあと、それを祝って徹夜《てつや》での宴会《えんかい》かとも思ったが、彼らはきちんと職分というものを心得ていた。  夜通し酒を飲んで次の日に川下りをすることがどれほど危険かわかっているらしい。  多少の酒盛りをしただけで、服が乾《かわ》くのも待たずに寝《ね》てしまった。  幸いなことに陸揚《りくあ》げされた毛皮がたくさんあったので、服が乾いていなくとも彼らは熟睡《じゅくすい》できたに違《ちが》いない。  ただ、筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》の男たちが効率よく暖を取るために裸《はだか》で毛皮に群がって寝ている姿はちょっと壮観《そうかん》だ。ホロが「なんとも表現に困る様子じゃな」と言ったのもうなずける。  そんな彼らもまだ起きていないようで、どうやら目を覚ましているのは自分だけらしいとわかった。  寒くて目が覚めたわけではないし、昨日の昼間に船の上でうたた寝していたからというわけでもない。  この感覚は、ほんの何日かぶりなのにとても懐《なつ》かしいような気がした。  寸暇《すんか》を惜しんで商売に明け暮れた日々。  あの時と同じ感覚だった。  夜が明けるのは新しい儲《もう》け話《ばなし》に出会えることと同義であり、博打《ばくち》でいえば次の札をめくることに等しい。  もう一枚。もう一枚。もう一枚。  前進しかなく、またそれが楽しかった。  その時の感覚とまったく同じだった。  ホロとの旅の終わりが現実味を帯びて以来、こんなふうな目覚めを迎《むか》えたことがあっただろうか。夜が明けるのが怖《こわ》い、と思わなかっただろうか。  旅には別れがつきものだとわかってはいても嫌《いや》なものは嫌だ。賢狼《けんろう》たるホロだってそこのところを制御《せいぎょ》できていたとは思えない。  だとすれば、単なる人である自分をや、だ。  それが、久しぶりのこんな目覚め。しかしその原因はわかっていた。  前に進む理由ができたこと。  レノスの町では、旅の終わりは笑顔《えがお》で迎《むか》えると目的地を決めた。  そして、昨晩はその目的地への行き方を決めた。  このままのんびり旅を続けてヨイツを見つけてさようなら。ぬしはどう思う?  ホロは言った。  日々金儲けにいそしんできた商人と獰猛《どうもう》な狼《オオカミ》には、のんびりした旅など土台無理な話だったのだ。  だから、まるで子供のようにわくわくしていた。  本当かどうかわからない話だというのに。しかも、もしも話が本当であればホロにとっては心痛む結果になる可能性が非常に高い話だというのに、だ。  だが、ロレンスはそれを不謹慎《ふきんしん》だとは思わない。  なぜなら。 「っぷし」  と、毛布の下からくしゃみが聞こえてきた。  狭《せま》い宿で商談をする時は、周りで寝《ね》ている奴《やつ》に話を聞かれないかと狸寝入《たぬきねい》りかどうか判断しなければならない。  くしゃみや咳《せき》、それに唾《つば》を飲み込むのは起きている証拠《しょうこ》。  毛布をめくると、ホロが鼻をこすっていた。  すぐにこちらに気がつき、目を向けてくる。その目は、いつものとろんとしたものではなかった。 「ふむ……久しぶりによい目覚めの気がするの」  なぜなら。  ホロも同じ気分のはずだと、思っていたからだった。 「本当に行っちまうのか?」  日はすっかり昇《のぼ》りきり、辺りでは他《ほか》の船乗りたちが出航の準備に大忙《おおいそが》しだった。  ラグーサは自分の船を他の船乗りに任せ、腕《うで》を組んでふんぞり返って彼らの準備を眺《なが》めていた。  昨晩の大船が流された時の功績をたたえて、という船乗り同士の慣習らしい。  しかし、我こそは昨晩の功績者とばかりにふんぞり返っていたラグーサも、ロレンスからここで川下りをやめてやはりレノスに帰るという旨《むね》を伝えられると、まるで子供のように慌《あわ》てていた。 「こ、ここで一晩|遅《おく》れはしたが、ここからは超《ちょう》特急だ。すぐに遅れなど取り返せる」  食らいつくようにそう言ってきた。  ただ、ロレンスはあくまで冷静に答える。 「いえ、もともとケルーベまで行くのはちょっと無理のある行程だったんです。一晩考えなおしてみて、戻《もど》ろうということになりました」 「ぐ……そうか……。船乗りとしてまったく面目《めんぼく》のないことだったとは思うが……それならば……仕方ないな」  財布《さいふ》を落としたってこんな顔はしないだろう、というラグーサの様子を見ていると嘘《うそ》をつくのが心苦しくなってくる。  ロレンスたちは本当はレノスに戻《もど》る気などなく、一足先にケルーベに行くつもりだった。  それをわざわざ嘘《うそ》をついてまで船を降りるのは、そのケルーベまでの行き方が人には言えないような方法だからだ。 「ここからなら歩きでも一日で戻れますし。もちろん、久しぶりの船旅は素晴《すば》らしかったですよ」  わざとらしく商談中の雑談のように言うと、ラグーサは苦笑いを浮かべて、大きくため息をついた。  諦《あきら》めの良さも、船乗りらしい。 「ま、出会いがあれば別れもある。町と町をつなぐ船乗りだ。やがてまた同じ旅人を乗せる日も来るだろうよ」  ラグーサはそう言って、手を差し出してきた。  船に乗る時が握手《あくしゅ》なら、降りる時もまた握手だ。  船に乗れば一蓮托生《いちれんたくしょう》。  命を預ける相手は友に等しいのだ。 「ええ。私も行商人です。いつかまたここに来ることがあるでしょう」  ロレンスはその分厚《ぶあつ》い手を握り返して、そう言った。 「というわけだ、トート・コル。俺が教えたことをきっちりと守るようにな」 「え? あ、は、はい!」  ロレンスがラグーサの隣《となり》でうつらうつらしていたコルに言うと、慌《あわ》てた返事が返ってきた。  コルは船がまた流されないかと、ラグーサの船の上で寝《ね》ずの番を買って出ていた。  いくらかの手間賃目当てだったらしい。  それを見てロレンスはついついお人好《ひとよ》しの顔を出してしまった。コルに内緒《ないしょ》でラグーサにはコルの分の運賃を多めに渡《わた》してあるのだ。ラグーサにはケルーベについてからコルに渡してくれと言ってある。きっと一週間は食べ物に困らないだろう。 「ちなみに、ラグーサさん」 「ん?」 「抜《ぬ》け駆《が》けはなしですからね」  ロレンスが釘《くぎ》を刺《さ》すと、ラグーサは大声で笑い出した。  きっと、ケルーベに着くまでにどうにかしてコルを口説き落とそうと思っていたに違《ちが》いない。  コルにはコルの目的がある。  ただ、ラグーサにごり押しされれば、コルのことだからつい首を縦に振《ふ》ってしまうかもしれない。余計なお世話かとも思ったが、コルにはコルの目的を遂《と》げてもらいたい。  そう思っての一言だ。  勇猛果敢《ゆうもうかかん》な船乗りは、笑顔《えがお》のまま一つため息をついて、こう言った。 「わかった。約束しよう。俺は船乗りだ。嘘《うそ》はつかない」  旅人が旅に出るのにはなにかしらの理由がある。  きっとそれを誰《だれ》よりもわかっているラグーサだ。  それでもロレンスとラグーサは目を合わせ、互《たが》いに含《ふく》み笑《わら》いを漏《も》らす。  コルという大きな魚を逃《に》がしたという気持ちは、弟子《でし》を取るにはまだ早いと思っているロレンスですら、よくわかるものだから。 「しかし、な」  ラグーサは言って、突然《とつぜん》ロレンスの肩《かた》を掴《つか》むと引っ張り寄せて顔を近づけてきた。 「お前さん、もうあんなくだらないことで連れと喧嘩《けんか》なんかするんじゃないぞ?」  とは、ホロのことだ。  ロレンスがどうにか目だけをホロのほうに向けると、ホロはフードの下でにやにやと笑っていた。  それから視線を戻《もど》しがてらコルを見ると、コルもまた苦笑いをしていたのには、がっくりくる。 「ええ、わかりました、わかりましたよ」 「いいか? 愛というのは金で買えないんだ。だとすれば商売の常識は通用しない。それを忘れるな!」  まったく歯の浮くような台詞《せりふ》だ。  だが、一理ある。 「ええ、肝《きも》に銘《めい》じておきます」  ロレンスがそう答えると、それならばよし、とばかりに解放された。 「じゃ、そういうことだ。俺は川に船を流すのが仕事。引き留めるのが仕事じゃない」  つい先ほどまでの悲しげな顔は嘘《うそ》のように、すがすがしい顔で腕《うで》を組みなおす。  そうして胸を張っている様は、なるほど一角《ひとかど》の船乗りだ。  十年、あるいは十五年先、ロレンスは自分もこんなふうに貫禄《かんろく》を持てるものだろうかと少しだけ考えた。  ただ、これ以上言葉を重ねるのは確かに旅の一幕としては少し野暮《やぼ》ったい。  ホロの手を取ると、ホロは澄《す》まし顔《がお》でうなずいた。 「では、また」  ロレンスがそう言って、ホロと共に歩き出そうとした瞬間《しゅんかん》だった。 「あ、あのっ」  コルに呼び止められて、肩越《かたご》しに振《ふ》り向いた。 「ん?」  やっぱりあなたの弟子にしてください、と言われたらきっと真剣《しんけん》に迷うな、などと思ったのも一瞬《いっしゅん》のこと。  コルはなぜ自分が口を開いたかよくわからないといった感じで、口ごもったあとに、ようやく短くこう言った。 「いろいろ、ありがとうございました」  初対面でいきなり先生と呼んだコル。  礼を言うその様は、なるほど、嘘《うそ》から出た実《まこと》というように、本物の弟子《でし》みたいだった。 「頑張《がんば》れよ」  ロレンスは短く言って、歩き出した。  振《ふ》り返りたい、とは何度も思ったが、結局振り向かなかった。  なぜかとは問うまでもない。  隣《となり》を歩くホロが、自分以上に振り返りたそうだったからだ。 「で、川沿いに下って、なんたらいう港町まで行ったらどうするんじゃったかや」  しかし、ホロはぴくりとも振り返らず、むしろどこか不自然なくらいまっすぐ向いたまま、そう口を開いた。 「ん、ケルーベまで行ったら、エーブを捕《つか》まえる」  昨晩話したことだ。今更《いまさら》確認《かくにん》するまでもないのだが、話をそらしたいのだろう。 「狐《キツネ》を捕まえて、利益の代わりに知っている話を寄越《よこ》せというわけじゃな」 「何年もの間教会と組んで密輸をしてたんだ。この川沿いの町のことなら、裏事情にまで詳《くわ》しいだろうからな」 「ふん。仕返しができるのなら理由はなんでもよい」  その一言はあながち嘘でもなさそうで、ロレンスは苦笑い。  喧嘩《けんか》にならないように本気で注意しなければならない。 「じゃが、まあ、たまには狼《オオカミ》の姿で日の光の下を走るのもよいじゃろう。わっちの足にかかれば、ふむ、船がどれだけ先に行っていようと楽に追いつけるじゃろうからな」  ラグーサの船を降りた理由が、これ。  エーブを捕まえるには、もはやあの船に乗っていたのでは間に合わない。  だが、馬を捕まえるのはもっと無理だろうから、この判断だった。 「そして、なんたらいう商会も締《し》め上げたら、川をさかのぼってまた昨日の町に帰る。その先は?」 「ジーン商会な。別に締め上げやしないさ。その材料もない。探りを入れるだけだな。で、その先は……」  ロレンスは少し遠くを見ながら呟《つぶや》いて、ホロに視線を戻《もど》す。 「その時決める」  ホロは眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せたが、こればっかりはどうにもならない。  だが、ホロが本当に嫌《いや》だったのは、ここでその会話が終わってしまうことだろう。 「意地っ張りだな」  ロレンスは笑いながら、言ってやった。 「なにがかや」  意地っ張りなホロはそう答える。  あくまでしらを切り通すらしい。  切り通せると思っているのか、と言う代わりに、単刀直入《たんとうちょくにゅう》に言ってやった。 「コルを連れていきたそうだったじゃないか」  ホロの唇《くちびる》が見る見るうちに尖《とが》っていく。  そして、フードの下から盛大なため息が真っ白く上がった。 「ふん。あれはぬしがわっちと別れたあとさみしくないようにあてがおうと思って手なずけようとしておっただけじゃ。それに使えぬとあればもう必要などありんせん」  一気にまくしたてるそれは早口言葉かと思った。  実際、感情などまったくこもっていない単なる説明のための説明。  しかし、ロレンスはなにも言わず、じっとホロを見ていた。  ロレンスもホロのことがだいぶわかってきている。  案の定、ホロは視線に耐《た》えられなくなったようで自ら口を開いた。 「ぬしも手ごわくなったの」  まったく人を褒《ほ》める顔つきではなかったが、一応褒められたと受け取っておく。  ホロは観念したらしく、やれやれと口を開いた。 「あれはな、もういつだったか覚えておらぬが、わっちゃあ旅の途中《とちゅう》にあれくらいの小僧《こぞう》と小娘《こむすめ》に出会ったことがある」 「ほう」 「右も左もわからぬひよこの二人連れでな、危なっかしいことこの上ない。しばらくあれこれ面倒《めんどう》を見て、共に旅をした。なかなか面白《おもしろ》い旅じゃったがな。それを思い出してしまいんす」  きっとそれは本当のことだろう。  ただ、本当のことだろうが、全《すべ》てではないと思った。 「あとは、単純に気に入りんす」  そして、ホロは残りをあっさりと白状した。 「これでいいかや?」  ホロは半眼《はんがん》になってこちらを見上げてくる。  その呆《あき》れ気味な顔は、あんな小僧に嫉妬《しっと》するのかや? と言いたげだ。  さすがにそんなことはない、とロレンスは自分を信じたい。 「だったら素直《すなお》に連れていきたいと言えばいいのに、とはもちろん」  ロレンスは肩《かた》をすくめる。 「言えないがな」 「じゃろうが」  ひとつは、危なそうな商売の話に自ら近づいていこうとしているため。  もうひとつは、ホロの正体を隠《かく》し続けるのが難しいため。  最後のひとつは。 「最後のひとつは?」  今度はホロがそう聞く番。  白状しなかったら、喉笛《のどぶえ》を噛《か》みちぎられる。 「二人旅がいいから」  しかし、もうそこに照れや意地はない。  だからホロもからかっているといったふうではない。  慣れが楽しさを摩耗《まもう》させている。  と、思うのは早計だ。  ロレンスがそう言うと、ホロはさも当然だという顔をしながらも、ロレンスとつないだ手を少しだけくすぐったそうにもぞもぞさせていた。 「それらのことがあるじゃろうと思ったし、それに、の」 「それに?」 「ぬしはあれと出会った時に言ったじゃろう? もしもあれが自ら助けを求めてくれば助けるが、そうでなければ助けぬと」  ならば自ら行きたいと言わなければ連れていかない、ということだろう。  ロレンスは返事をしようとして、言葉を止めた。  コルが口ごもったあれ。  あれは、きっと旅に連れていってください、と言おうとしたのではないだろうか。  コルはロレンスとホロが、狼《オオカミ》の骨の話をしているのを盗《ぬす》み聞きしていたはずだ。  それならば北の地の、それもヨイツからさほど離《はな》れていないような地域の村の出なのだから、気にならないはずがない。  もしもその話の真偽《しんぎ》を確かめに行くのならば、供をして自分も確かめたい。  そう思うのは無理からぬこと。  ただ、あそこで口ごもった時に、自分がなぜ口ごもったのかわからないといった顔をしていたのは、理性では一刻も早く学校に戻《もど》ろうと結論を出していたからに違《ちが》いない。  ロレンスも、それが正解だと思う。 「まあ、あそこで旅についていきたいです、と言われたとしても、断ったがな」 「むう?」  それは話が違《ちが》うではないか、と無言のうちに言ってくるが、来る者|拒《こば》まずではこちらが困ってしまう。 「それこそ、断ったらその場で死ぬ覚悟《かくご》です、などと言えば考えるが」 「要はそれくらいのことでなければわっちとの二人旅の邪魔《じゃま》はさせたくないと」  わずかの間。 「ああそれでいいよ」 「今の間はなにかや?」 「なんでもありませんよ」  言葉の上《うわ》っ面《つら》は相手を突《つ》き放《はな》すようなものなのに、二人はぴったりと腕《うで》がくっつく形で歩いている。  ロレンスとしてはもちろん、ホロが勝手に寄り添《そ》ってきているのだと認識《にんしき》している。  ホロがどう思っているかは、考えるまでもないが。 「さて、そろそろ道をそれても大丈夫《だいじょうぶ》かな」  後ろを振《ふ》り向いても、もうラグーサたちの姿は見えない。  すぐ側《そば》にローム川が流れているだけで、辺りには道もなければ人影《ひとかげ》もない。  川に対して直角に、つまり北に向かって歩いて行けば、すぐに無人の荒野《こうや》の真っただ中だろう。そうなれば人目を気にせずホロは狼《オオカミ》になれる。  ロレンスはホロの手を握《にぎ》りなおして、無人の荒野に向かって歩き出そうとした。  そんな折《おり》だった。 「どうした?」  ホロが立ち止まったのだ。  またなにか企《たくら》んでいるのかと振り向けば、その顔は虚《きょ》を突かれたように川下を見つめていた。 「なにかあるのか」  若干《じゃっかん》の予感はあった。  ある種、期待もあったかもしれない。  町の近くの道ならいざ知らず、そこを少しでも離《はな》れれば早朝から歩く人影など皆無《かいむ》に近い。  そんな中、一つの人影が小さくこちらに走ってきているのがわかった。  ロレンスは、微動《びどう》だにせずそれを見つめているホロの横顔をもう一度|盗《ぬす》み見て、笑うようにため息をついた。 「お前、意外に子供好きなんだな」  そう言った瞬間《しゅんかん》、ホロの耳がぴくりと動いた。  ロレンスが若干|驚《おどろ》いたのは、その動き方が失言した時の動き方に近かったからだ。  なにかまずかっただろうか、とロレンスは思ったが特に思い当たらない。  ホロは、振り向きもせずこう言った。 「ぬしよ、それでわっちが、わっちゃあ子供が好きでありんす、と答えたらどうするつもりじゃ?」  妙《みょう》な質問だと思った。 「どうするって、どうするもなにも……あ——」  思わずホロの手を離《はな》してしまったが、それを逃《に》がすホロではない。  蝶《チョウ》が猫《ネコ》に捕《と》らえられるかのようにロレンスは手を掴《つか》まれ、力任せに引き寄せられる。  フードの下に待っていたのは、挑戦《ちょうせん》的な笑《え》みだった。 「わっちゃあ子供が好きでありんす。のう、ぬしよ?」 「ぐ……」  迂闊《うかつ》だった、と胸中でうめくが時すでに遅《おそ》い。  ホロは「ん? ん?」と、楽しげに尻尾《しっぽ》を揺《ゆ》らしている。  反論も言い訳もなにも思い浮かばない。  ならばここは強引にでも話をそらすしか。  ロレンスがそう思うのと、ホロがひょいと矛《ほこ》を収めるのは同時だった。 「ま、わっちゃあぬしの旅にくっつく身分じゃからな。あれの判断はぬしに任しんす」  そんなことを言って、体を離した。  背中にじっとりと嫌《いや》な汗《あせ》をかいてしまったが、あれとは言うまでもない。  こちらに向かってきているコルのこと。  よもや忘れ物を届けに来てくれた、というわけではないだろう。  ロレンスは小さく咳払《せきばら》いをして、つい今しがたの失態をなかったことにする。  ホロはくつくつと笑っていたので、追撃《ついげき》もないだろう。 「だが、もし一緒《いっしょ》に旅をすることになったら、お前、毛づくろいもおちおちできやしないだろ」  ロレンスが言うと、盛大なため息。  それが冗談《じょうだん》ではなく、たじろいでしまった。 「雄《おす》はすぐ自分だけが特別じゃと思い込む」 「……」 「あれの生まれを考えよ。まあ、わっちの姿を見て怯《おび》えるかどうかは、賭《か》けじゃがな」  ロレンスがその言葉のあとに続けなかったのは、ホロの顔が弱気だったからだ。  悪魔憑《あくまつ》きだと言って教会に駆《か》け込まなくとも、逆に北の地の民ならその姿に平伏《へいふく》してしまう可能性は大いにありうる。  せっかく懐《なつ》いていたらしいコルにそんな態度を取られたら、ホロはきっと傷つくことだろう。 「まあ、理由を聞いて決めるさ」  だから、軽く言ってやった。  ホロはうなずき、コルの足音と荒《あら》い息遣《いきづか》いがロレンスの耳にも聞こえてきたのは、それからもう間もなくのことだった。  コルは全力で走ってきたらしく、ロレンスたちに声が届きそうな距離《きょり》まで来ると、足を唐突《とうとつ》に緩《ゆる》め、今にも倒《たお》れそうな顔のまま、足を止めた。  近寄ってはこない。  あくまでも声が届く距離。  ロレンスは声をかけない。  いつだって、願い事のある者のほうが、家の扉《とびら》を叩《たた》く。 「あ、あのっ」  第一関門は合格。  コルは切れ切れの息の合間《あいま》に、なんとかそうとだけ言った。 「忘れ物でもしたかな」  とぼけて言ってやると、コルは下唇《したくちびる》を噛《か》んだ。  ロレンスに断られるときちんと予測していたのだ。  子供は、自分が頼《たの》み込めば必ず相手は言うことを聞いてくれると思いがちだ。  第二関門は合格。  コルは、首を横に振《ふ》った。 「お、お願いがあるんです」  隣《となり》でホロが身じろぎしたのは、顔をフードの下に隠すためだったのかもしれない。  コルを可愛《かわい》がっていたのがロレンスの弟子《でし》にしようとする策略でなかったのだとするのなら、コルの綱渡《つなわた》りのような試験は見ていられないのだろう。  ただ、コルは無事第三関門を突破《とっぱ》。  無理だとわかっていても頼み込むということには多大なる勇気がいる。 「なにかな。路銀なら、世話はできないが」  わざと意地悪なことを言ってやっても、コルは目をそらさない。  もうあっさりと、いいよ、と一言言ってみたい。  もしもこの先がいつもの行商であれば二つ返事でうなずいているところだ。 「い、いえ、その、僕を……」 「お前を?」  聞き返すと、コルはいったんうつむいて、握《にぎ》り拳《こぶし》を作ると顔を上げた。 「ロレンスさんたちは、ルピの村の狼《オオカミ》の話を確かめに行くのでしょう? 僕も連れていってください! お願いします!」  言って、一歩足が前に出た。  コルはコソ泥《どろ》などしそうにないし、その人柄《ひとがら》は今すぐ弟子《でし》にしたいくらいのものだ。  しかし、だからこそもともとの目的に向かって邁進《まいしん》してもらいたい、という気持ちもある。  なによりこの先のロレンスたちの旅は実りの多いものであるとはとても言えはしない。  要するに、危ない噂《うわさ》の真相を確かめに行くというのだから。 「金は儲《もう》からないかもしれない」  だから、ロレンスはまずそう言った。 「危険もあるかもしれない。それに、噂は真っ赤な嘘《うそ》かもしれない」 「真っ赤な嘘でも構いません。それなら僕は安心できます。それに、旅に危険があるのは承知です。僕はロレンスさんがいなければこの川の横で死んでいましたから」  コルは言って、固そうな唾《つば》を飲む。  この寒く乾燥《かんそう》した中を走ってきたから喉《のど》が渇《かわ》ききっているのだろう。  だから、その背に背負っているぼろぼろの麻袋《あさぶくろ》を下ろしたのは、水を飲むためかと一瞬《いっしゅん》思った。  それがそうではないと知ったのは、そのすぐあとだった。 「お金は、頂いた分もお返しできると思います。それに……」  コルは、麻袋に乱暴に手を突《つ》っ込んで、引き出した。  その細い手に、力いっぱい、あるものを握《にぎ》り締《し》めて。 「お、お前」  ロレンスの言葉に、コルは泣き笑いのようなものを浮かべた。 「もうラグーサさんの船には戻《もど》れません」  その手には、真っ赤な銅貨。  確認《かくにん》しないだってわかる。新品のエニー貨だ。  不退転の覚悟《かくご》。  コルは、まっすぐにロレンスのことを見つめていた。 「……」  ロレンスはホロとつないでいた手を離《はな》し、頭を掻《か》いた。  もうここまでされたら、断る理由などない。  どれほどの覚悟を持っているのか、それを考えるだけでとても断れない。  コルはコルで色々なものを抱《かか》えながら南のアケントで学び、追い出され、さすらってきたのだろう。  それに、一時の気の迷いとも思えない。  ロレンスはホロを見る。  ホロは、ぬしの試験は終わりかや? と目で言ってきた。 「わかった、わかったよ」  ロレンスが根負けしたように言うと、コルはたちまちのうちに顔をほころばせ、無事につり橋を渡《わた》り終えた時のように、手を胸につけて身を縮めていた。 「だが」  と、あとを続けるとびくりとすくむ。 「俺たちと旅をするならな、知っておかないといけないことがある」  ちょっと芝居《しばい》がかりすぎたかもしれない、とは思ったが、ここまできたらロレンスとしてもコルにはついてきてもらいたい。  もしかしたら、寝《ね》ずの見張り番を申し出たのもラグーサの船から銅貨を盗《ぬす》み出すためだったのかもしれないのだから。 「え……あ、あの……?」  ホロはぐるりと辺りを見回しながら、慣れた手つきで腰帯《こしおび》をほどいていく。  どことなく楽しそうに見えたのは、気のせいではなかったかもしれない。  人の胸中が手に取るようにわかるようなホロだ。  コルがどう反応するのかは、もうとっくに予想ずみだったのかもしれない。  なにをするかはわからなくとも、ホロが服を脱《ぬ》ぎそうだということはわかったらしいコルが身を強張《こわば》らせていたので、ロレンスは側《そば》に寄るとその肩《かた》を突《つ》ついて後ろを向かせた。  しゅるり、しゅるり、と衣擦《きぬず》れの音がするたびに、コルはロレンスのほうに混乱しきった赤い顔を向けてくる。  純情な奴《やつ》だなあと思う反面、自分もホロから見たら同じように見えているのかも、と思うとなにか複雑な気分だった。 「っぷし」  そんなくしゃみはホロのもの。  そして、結論から言えば。  賭《か》けはホロの勝ちだった。  その時のコルの様子は何と言えばいいのだろうか。  大声でわめいたことは間違《まちが》いない。  それはもう見事な大声だった。  しかし、それが怯《おび》えからのものではないことはわかった。  その顔は笑顔《えがお》に近く、泣き顔に近い。  コルがホロの大きな舌に顔を舐《な》められ尻もちをついてから、ようやくロレンスはうまく表す言葉に思い至った。  憧《あこが》れの英雄《えいゆう》に出会った少年。  まさしくそんな感じだった。 『ぬしは不満そうじゃな』  ホロの狼《オオカミ》の姿を初めて見た時には、不覚にも後ずさってしまった。  だから、ホロに嫌味《いやみ》ったらしくそう言われ、鼻の先で頭を小突《こづ》かれても言い返せない。  なお、コルは平静を取り戻《もど》すとおずおずと願い事をして、今はそれを叶《かな》えている最中だ。 『こそばゆい。もういいかや』  ホロが尻尾《しっぽ》を振《ふ》ると、その陰《かげ》からコルが出てきた。  まさかホロの姿を見るや、尻尾に触《さわ》らせてください、と言うなどと予想もできなかった。  それはホロも同様だったようで、あまりの嬉《うれ》しさにコルが触れないほど尻尾を振っていたくらいだ。 「まあ、これもまたなにかの縁《えん》だな」  ロレンスはホロの服もたたみ終わり、荷物をまとめ、そう言った。 「あ、え、えっと、連れていって、もらえるんですか?」  ホロが実在する神の類《たぐい》だと知るや、自分が共に旅を申し込んでいたことなどすっかり忘れていたらしいコルが、我に返って訊《たず》ねてくる。 「この狼《オオカミ》は教会に知られたら困る存在だからな。その事実を知る者を野放しにはできない」  ロレンスはいたずらっぽく言ってやって、コルの頭をがしがしと撫《な》でた。 「だが、ラグーサの船から銅貨を盗《ぬす》んできたのはやりすぎだな」  額としては大したことないだろうが、それでも盗みは盗みだ。  ケルーベに着いてから箱を開けた時、責められるのはラグーサ本人になる。 「え、あ、銅貨、ですか?」  しかし、コルの反応はちょっと奇妙《きみょう》なものだった。 「実は、これ、盗んだんじゃないんです」 「え?」  ロレンスが聞き返すと、ホロも興味を持ったらしく、二人の横によっこらせと腹這《はらば》いになった。 「実は、僕、銅貨の箱の数が合わない理由がわかったんです」 「なっ」  と、思わずロレンスは身を乗り出してしまった。  悔《くや》しさが多分にあったかもしれない。  なので、それを見|抜《ぬ》いたらしいホロは、呆《あき》れた目を向けてきた。 「……それで?」 「はい。えっと、それで、僕は、最初は盗むつもりでした。箱の数が合わない理由を応用すれば、簡単に盗めそうだったので」  コルが昨晩、月明かりの下で貨幣《かへい》を並べてなにかをしていたことを思い出す。  あの時、すでにコルは解いていたのかもしれない。 「だから寝《ね》ずの番を買って出たんです。ロレンスさんたちについていきたいとは思っても、断られると思ったので、それで……。でも、ラグーサさんは僕によくしてくれましたし、やっぱり盗むわけにはいかないと思って……正直に全部話したんです。ロレンスさんたちのあとを追いかけたいことと、それと、この箱の数が合わない理由と船の代金を引き換《か》えにして欲しい、ということを」  ラグーサの複雑そうな顔が目に浮かぶようだった。 「それじゃあ、あの銅貨は」 「ラグーサさんから受け取りました。ただ、あの箱の中から取ったわけじゃありません。ラグーサさんは自分の財布《さいふ》から出してくれました。お礼だということで。それと」 『盗んできたからもう後戻《あともど》りはできない、という演技ができるように、ということか』  ホロが言って、コルは、申し訳なさそうに笑った。 「そうです」  ラグーサは本当にコルのことが気に入っていたのだろう。  それでもコルのためにそんなことを申し出たのだ。  ロレンスは、もう少しで、勉学の道を諦《あきら》めることになったらラグーサに弟子入りしたらどうだ、と言いそうになった。 『では、話はまとまった。とりあえず、行こう。人が来んす』  ホロが大きな顔をもたげて遠くを見ながらそう言った。  旅人に見られれば厄介《やっかい》なことになる。  ロレンスとコルは慌《あわ》てて発《た》つ準備を再開したが、コルがホロに促《うなが》されてその背中に乗ろうとしたところに、ロレンスはふと言葉を向けた。 「ひとつ聞きたいことがある」  コルが手を止めて、ロレンスを振《ふ》り向くと、ホロもその琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》を向けてきた。 「なんでしょうか」  ロレンスは、ひどく真剣《しんけん》な顔で、口を開いた。 「俺と二人で歩くことになった直前、この狼《オオカミ》からなにか耳打ちされてただろう? あれは、なんて言われたんだ?」  一度ははぐらかされたことだが、もう一度聞いてみる。  まるでそれを言わなければ旅の話はなしだ、と言わんばかりに。 「えっと……」  ホロから口止めされていたらしいコルは、困ったようにホロに視線を向けた。 『言ったらこの牙《きば》がどうなるかわからぬ』  ホロはぞろりと牙を見せながら言ったが、それは口調からもわかるとおり、笑っていた。  コルの目が利発そうにくりくりと動き、ホロの言葉の真意を探っているのがわかる。  そして、すぐに正解にたどり着いたらしい。  くすぐったそうに笑って、うなずいた。 「すいません。言えません」  ホロの匂《にお》いをたっぷりつけられたコルは、そう返事をした。 『くっくっく。ほれ、早く乗りんす』  コルは申し訳なさそうな笑顔《えがお》でロレンスに頭を下げてから、ホロの背中に上《のぼ》っていった。  ロレンスはそれを眺《なが》めながらまた頭を掻《か》くしかない。  やれやれ、というため息も一緒《いっしょ》だ。 『どうしたかや』  いかつい狼の顔でも、喜怒哀楽《きどあいらく》の機微《きび》は表現できるらしい。  ホロはにやにやという意地悪そうな笑みを浮かべて、牙の隙間《すきま》から言葉を向けてきた。 「なんでもありませんよ」  ロレンスは肩《かた》をすくめてホロの背中に乗る。  きっと、コルがまざればこんなことになるだろうなというのはなんとなく予想はできていた。  ただ、それが嫌《いや》かと言われれば、肩をすくめることだろう。 「あ、それともう一つ」  おっかなびっくりのコルを前に、ロレンスはホロの背中に乗ってそう言った。 「それで、箱の数が合わない理由はなんなんだ?」 「それは」  と、コルが答えようとした瞬間《しゅんかん》、ホロがなにも言わず立ち上がった。 『それは自分で考えるがよい』  そして、ホロの一言。 「……お前も気がついてるのか?」  ロレンスがまさかという言葉を向けると、わずかに顎《あご》を上げて背中に座るロレンスのことを見たホロは、耳を振《ふ》った。 『いいや? じゃが、確実なことが一つある』  ゆっくりと歩き出し、ホロは自分の体の感覚を徐々《じょじょ》に取り戻《もど》していくように、速度を上げていく。  前屈《まえかが》みにならないと、頬《ほお》を切る風が冷たい。  そんな段になってからだ。 『ぬしは、わっちとのお喋《しゃべ》りよりも、それを考えるほうが楽しいのじゃろう?』  恨《うら》みがましいその嫌味《いやみ》。  直後に走る速度を大幅《おおはば》に上げたのはわざとのはず。  ロレンスはむすっとして、やや強めにホロの毛をつかんで体を伏《ふ》せた。  前に座るコルはロレンスの体の下になる形だ。  だから、コルが小さく笑っているのがよくわかった。  景色が段々と溶《と》けていく。  風は凍《こお》るように冷たい。  しかし、ロレンスは文字どおり身も切るような冷たい風の中、うっすらと笑っていた。  胸の内が暖かい。  思いがけない三人の旅。  この構図を一言で表す方法をロレンスは知っている。  それでも、それは口にはしない。  決して、口にはしない。  ただ、もしかしたら、ホロとの旅を本に記す時が来たら、書き込むかもしれない。  分厚《ぶあつ》い本の、余白の片隅《かたすみ》に、そっと。  書くとしたら、こんなふうに。  こうして、三人の旅は始まった。  それは、そう。  予行演習のようなものだったのだ。  と。  書けはしないが。  本編にはとても書けはしないが。  ロレンスは、ホロに悟《さと》られないように笑った。  旅は始まった。  旅を終えるためのそれは、とても希望に満ちていたのだった。 [#地付き]終わり [#改ページ]  あとがき  お久しぶりです。支倉《はせくら》凍砂《いすな》です。六巻目です。  早いもので、このあとがきを書いている一ヶ月後には自分にとって三回目の電撃《でんげき》小説大賞|受賞《じゅしょう》式です。  そりゃあ締《し》め切《き》りが来るのも早いわけです。決して私が悪いわけではありません。時間の流れが悪いのです。えい、こいつめ!  ところで、この前知人の作家さんと話している時にこんな話になりました。 「支倉さん。株《かぶ》はどうですか」 「調子いいですね。一日でピー(都合により伏《ふ》せます)円|儲《もう》かったりとかざらです」 「そんなにですか」 「そんなにです。ですから、ピー(都合により伏せます)円儲かった時なんてのは仕事なんてしたくないですね!」 「そうですか。では、損した時は仕事しないとやばい! という気になるのですね?」 「いえ、それは違《ちが》います。損した時は、どん底の気分になって仕事どころではありません」 「なるほど。では、市場が開いてなければ仕事をするわけですね?」  株式市場は土日祝日お休みです。  私は答えました。 「土日祝日に仕事をするだなんて狂気《きょうき》の沙汰《さた》ですよ!」  こんな感じに『狼《おおかみ》と香辛料《こうしんりょう》』も六巻まで漕《こ》ぎ着けました。今回は特に商売の要素が少なかったと思うのですが、次は思いっきり入れたいなあとか画策しています。コミカライズも始まり、このあとがきが六巻の後ろにくっついて本屋さんに並ぶ頃《ころ》にはアニメ放映も目前に迫《せま》っていることと思います。それらに負けないように頑張《がんば》っていきたいぞー、と気合いを入れていこうと思います。  なお、実際はきちんと一週間に六日間くらい働いてます。  それではまた次回お会いしましょう。 [#地付き]支倉凍砂 [#改ページ] 狼と香辛料� 発 行  二〇〇七年十二月二十五日 初版発行 著 者  支倉凍砂 発行者  久木敏行 発行所  株式会社メディアワークス