狼と香辛料㈸ 支倉凍砂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)手袋|越《ご》し [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き]終わり ------------------------------------------------------- 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] [#改ページ]  狼《おおかみ》と香辛料《こうしんりょう》㈸  テレオの村を無事出立した行商人ロレンスと狼神ホロは、ホロの伝承が直接残るという町レノスを訪れる。ホロはのんびりと故郷であるヨイツの手がかりを探したがるが、ロレンスは商売への好奇心を拭えないでいた。  そんな中、ロレンスは宿屋で会った商人から大きな儲け話を持ちかけられる。それにはホロの協力が不可欠だった。しかし、その商売の方法がとんでもないもので——。毛皮と材木の町レノスを舞台に、二人の関係に大きな転機が訪れる!?  ますます絶好調のエポックファンタジー、第12回電撃小説大賞<銀賞>受賞作第5弾!! [#改ページ]      支倉《はせくら》凍砂《いすな》  1982年12月27日生まれ。第12回電撃小説大賞<銀賞>受賞。大学にて物理を学ぶも、締め切り間際はいつも「がんばればできると思います」の精神論。ここは理系の人間として「物理的に無理です」とするべきか悩む今日この頃。 イラスト:文倉《あやくら》十《じゅう》  1981年生まれ、京都府出身のAB型。現在東京にて、フリーで細々と活動中。最近引越しを考えるも、改めて23区内の家賃の高さに絶望する日々です。 [#改ページ]  Contents  序幕     11  第一幕    15  第二幕    65  第三幕    183  第四幕    287  終幕     337 [#改ページ]  序幕  静かな旅だった。  荷馬車の音だけが響《ひび》き、会話もなにもない。  ただ寝《ね》起きをし、荷馬車に揺《ゆ》られ、飯を食う。  荷馬車の御者《ぎょしゃ》台で手綱《たづな》を握《にぎ》る青年、クラフト・ロレンスは十八の頃《ころ》に独《ひと》り立ちをして今年で七年目になる行商人だ。  独りで野を行く行商には孤独《こどく》がつきもので、ついうっかり荷馬に話しかけてしまうことだってあるし、異様に独り言が多くなったりもする。ここ数日もほとんど言葉らしい言葉を発することがなく、静かに旅を続けていた。  しかし、それが寂《さび》しいかと問われれば、答えは否《いな》だ。  その理由は間違《まちが》いなく、隣《となり》で静かな寝息を立てている相棒のお陰《かげ》だ。  今はローブだの毛布だのに包《くる》まっていて男か女かすらわからない状況《じょうきょう》だったが、その容姿は十人が十人とも振《ふ》り返るような美しさで、貴族の娘《むすめ》のような長い亜麻《あま》色の髪《かみ》の毛が振り返った男連中の目をしっかりと絡《から》めとる。  黙《だま》って楚々《そそ》としていればどんな立派な場所に出たって恥ずかしくないだろう。  ただ、その相棒はそうおいそれと表舞台《おもてぶたい》に出ることなどできない。  なぜなら、札つきの悪ならぬ、獣《けもの》の耳と尻尾《しっぽ》つきの娘だったからである。  相棒の名はホロ。  その真の姿は人を軽く丸飲みにできるほどに巨大な、麦に宿りその豊作を司《つかさど》る狼《オオカミ》だった。 「っ……」  ふと、そんなホロがなにか言ったような気がしたが、単に軽く目を覚ましたのだろう。こういう時は大体理由が決まっている。  ついさっきは尻尾《しっぽ》の位置を変えたので、今度は耳の位置のはず。ロレンスはノロ鹿《ジカ》の革《かわ》で作った手袋《てぶくろ》を嵌《は》めたまま、ホロのフードをつまんで少し持ち上げてやる。  すると、フードの下で満足のいく位置を探すように耳を動かしているのが手袋|越《ご》しに伝わってきた。しばらくぴくぴくと小さな振動《しんどう》が伝わってきて、やがて収まった。気難しい貴婦人が花瓶《かびん》に活《い》けた花の位置を気にするような微調整《びちょうせい》を経て、満足する位置を見つけたらしい。ホロは小さいため息のようなものをついたのちに、毛布の内側から軽く頭をこすりつけてきた。  礼の代わりだろう。  ロレンスは視線を前に戻《もど》し、また静かな旅に戻る。  もう、互《たが》いに互いの気持ちがわからない仲ではない。  会話がなくとも、寂《さび》しいはずがなかった。 [#改ページ]  第一幕  村の揉《も》め事に巻き込まれ、あわや罪人として断頭台の露《つゆ》と消えそうになったテレオの村を出て一週間。  ホロとロレンスの二人は、ホロの伝承が残るという町、レノスを目指していた。  レノスは北の地方ではなかなかに大きい町で、材木や毛皮の市場として知られている。  もちろん訪《おとず》れる者たちも多く、レノスに続く道ではすれ違《ちが》ったり追い抜《ぬ》いたりする同業者の姿がちらほらとあった。ロレンスも過去に何度か訪れたことがあるが、今回は商用ではない。  旅の相棒たるホロの、帰郷のための情報集めに立ち寄るのだ。  だからいつもは必ず積んでいるはずの積荷もない。  本当は、テレオの村で山ほど分けてもらったクッキーを多少なりとも売り物にできればと思っていたのだが、隣《となり》で眠《ねむ》る狼《オオカミ》に全《すべ》て食べられてしまった。うまいものはあればあるだけ食べてしまい、挙句《あげく》になくなると怒《おこ》り出す。  呆《あき》れるほどよく食べてよく飲み、そして、よく眠る。  寒いうえにすることもないから確かに手綱《たづな》を握《にぎ》っていなければ眠るほかない。それでも散々昼間|寝《ね》たうえで夜もしっかり眠れるのだからすごい。夜中にこっそりと起き出して月に向かって遠吠《とおぼ》えしているのかもしれない、と何度も疑った。  そんな暢気《のんき》で静かな旅も一週間になって、ついに雨に見|舞《ま》われた。  どういうからくりがあるのか、ホロはその雨を二日前から予測していて、そのせいか雨が降り出すやもそもそと毛布の下から顔を出して責めるような視線を無言で向けてくる。  そんな目をされてもこればっかりはどうにかなるわけでもない、とロレンスは目をそらす。  昼|頃《ごろ》から降り出したそれは、雨粒《あまつぶ》が体を叩《たた》くものではなく煙《けむり》のような霧雨《きりさめ》だったのが幸いといえば幸いだが、この寒さでは氷を削《けず》って降りかけられているのと変わらない。  ホロは毛布を頭からかぶって知らんぷり。寒いから一枚|寄越《よこ》せと言えば親の仇《あだ》のように睨《にら》みつけてくるだろう。  ロレンスは早速《さっそく》手先がかじかんできていて、それこそ荷馬車の荷台の下にでも潜《もぐ》り込もうかと考えていたが、神様というものは日頃の行いをきちんと見てくれているらしい。  ホロも気がついたようで、毛布から顔を出すや欠伸《あくび》を一つした。 「くぅ……あふ。どうやらこのまま凍《こお》りつかなくてすみそうじゃな」 「人が震《ふる》えながら手綱《たづな》を握《にぎ》っているのに、自分だけぬくぬく毛布に包《くる》まっている奴《やつ》の台詞《せりふ》か?」 「ふむ。わっちゃあ冷たい心根じゃからな。よく暖めんといかぬ」  楽しそうな笑顔《えがお》で言われたら、怒《おこ》る気にもなれない。  ロレンスたちが行く道の先には、乳白色の景色《けしき》の中にぽつんと黒い影《かげ》が見えていた。 「あれじゃな。シチューの中にお焦《こ》げが浮いておるみたいじゃな」  ホロがそんなことを言うので、ろくなものを食っていなかったすきっ腹が間抜《まぬ》けな音を立てて鳴ってしまう。さしもの意地悪な賢狼《けんろう》もこの頃合《ころあい》で腹の虫を鳴らされるとは思っていなかったらしい。きょとんとしたあとに、からかうのも忘れたように無邪気《むじゃき》に笑った。  レノスの町はローム川と呼ばれる幅広《はばひろ》でゆったりとした流れの川に面して作られた大きな港町で、町の影が見えてきたということは川も見えそうなものだが、今は霧雨に塗《ぬ》りつぶされて空と一緒《いっしょ》くたになってしまっているらしい。晴れていれば大きなローム川を行くたくさんの船影が見えただろう。  町の中に入れば、日々行き交《か》う船に加えて繋留《けいりゅう》されているおびただしい数の船を見ることができる。それにホロが大好きな露店《ろてん》もたくさんあるだろうし、酒も度の強いものが多い。  雪に見舞《みま》われて足止めをくらっても一冬くらいならば楽しく過ごせること間違《まちが》いなしだ。  ただ、一つ心配があった。 「で、念のため言っておきたいことがあるんだがな」 「ん?」 「昔お前はこの町に来たというが、忘れているかもしれないので改めて言う。レノスの町は材木と毛皮が有名だ」 「ふむ」  今更《いまさら》、という感じがしないでもないが、確認《かくにん》しておくのとしないのとでは取れる対応が違う。 「その毛皮の中に、狼《オオカミ》がいても怒《おこ》るなよ?」  ホロは怒るでも笑うでもなく、なんともいえない曖昧《あいまい》な表情を浮かべてから、もそもそと襟元《えりもと》をいじくって子狐《こギツネ》の襟巻《えりま》きを取り出した。  クメルスンの町で、魚商人のアマーティからもらった贈《おく》り物だ。  物には罪がないし寒い時期には実に有用な毛皮なのでロレンスは黙《だま》っているが、それを見ると尻《しり》の辺りが落ち着かなくなる。  きっとホロはそのあたりのことに気がついたうえでなお殊更《ことさら》暖かそうに首に巻いているのだろうが、そんな襟巻きを取り出すと、顔の部分を持ってロレンスのほうに向けた。 「ぼくは狼《オオカミ》に食べられることもあるし、鼠《ネズミ》を食べることもありんす」  子狐のつもりなのか、声音《こわね》を変えてホロはそう言った。  ロレンスは小さく肩《かた》をすくめる。  相手は、賢狼《けんろう》ホロなのだ。 「ふん。狩《か》ったり狩られたりは当然じゃ。大体じゃな、ぬしら人のほうがよほど信じられぬことをする。ぬしらは自分たちの仲間を売ったり買ったりするじゃろう?」 「そのとおりだ。奴隷《どれい》商はとても儲《もう》かるし、必要な商売だ」 「それが人の世の決まりとぬしらが落ち着いて言うのと同じくらい、わっちらだって狩られる者たちに対する態度は冷めておる。それに、逆の立場になったらどうじゃ?」  ホロが、その赤みがかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》を少し細くして向けてくる。  ロレンスはホロと出会ったばかりの時に交《か》わしたやり取りを思い出した。ホロが、狼が賢《かしこ》いのは人を食うからだというたちの悪い話を出した時のことだ。  ロレンスだって、狼の縄張《なわば》りに入ってしまって逃《に》げられなかった旅人が命を落とすことは旅人が悪いのだとは思う。それで狼を恐《おそ》れるのはまだしも、恨《うら》むというのはお門違《かどちが》いな気がする。  それは、あまりにも当たり前なことなのだから。 「じゃがまあ、実際のところは少しでも己《おのれ》と関係のある者が目の前で狩られておったら、さすがに平静ではおられぬがな」  その言葉もわかる。  ロレンスがうなずくと、ホロの言葉が続いた。 「ぬしもわっちが人の雄《おす》に狩られそうになった時、慌《あわ》ててくれたじゃろう?」  細められたままの目は、つい数瞬《すうしゅん》前までとはまったく違《ちが》う雰囲気《ふんいき》のものだ。  ホロも飽《あ》きないなと、口元が笑ってしまった。 「ああ、慌てたよ。すごい慌てたよ」  視線を馬に戻《もど》しつつおざなりに答えると、ホロはたちまち不機嫌《ふきげん》そうに言った。 「なんで棒読みなんじゃ」 「そりゃあ」  ロレンスは答えて、顔を前に向けたまま、呆《あき》れるように目を閉じて言った。 「恥《は》ずかしいからさ」  まったく恥《は》ずかしい台詞《せりふ》だ。  そんなことを胸中で呟《つぶや》いてしまう。  しかし、隣《となり》に座る狼《オオカミ》は、淡白《たんぱく》なものよりも脂身《あぶらみ》こってりのこんなものが好物なのだから仕方ない。  ホロは、顔が白い息で隠《かく》れてしまうくらいに吹《ふ》き出して笑った。 「恥ずかしいの」 「まったくだ」  寒くて単調な旅の途中《とちゅう》では自然と会話がなくなって、気心が知れていれば無言のやり取りで十分心が癒《いや》されるとは思っても、やはりこのやり取りには敵《かな》わない。二人で笑い合っていると、馬がいい加減にしろとばかりに尻尾《しっぽ》をきつめに振《ふ》り、また漣《さざなみ》のように二人で笑い合った。  小さく笑いながら子狐《こギツネ》の襟巻《えりま》きを巻き直すホロから、ロレンスは全景が見えてきたレノスの町に目を向けた。  異教徒の町クメルスンよりも二回りほど大きいのか。百年だか前に作られた立派な市壁《しへき》に囲まれており、とっくに市壁の際《きわ》まで家々が増えてしまったのでこれ以上はなかなか広がることができない。そうすると自然に建物は密集し、空へ空へと伸《の》びていく。  ただ、間もなく見えてきた光景に、ロレンスはついに町の中身が市壁の外にあふれ出てしまったのかと思った。  霧雨《きりさめ》の中、レノスに続く道の両|脇《わき》に多数のテントがあったからだ。 「門前市《もんぜんいち》というやつかや」 「荒野《こうや》にぽつんと建つ教会の前ならな。市壁の前で堂々と店を出すのはおかしいだろう」  町が豊かになるためには税を集めなければならず、税を取るには市壁を通過させなければならない。  もちろん、狭《せま》い町が大々的な市を行う時には市壁の外でやることもあるが、その時だってやはり縄《なわ》なり柵《さく》なりで囲いが作られる。 「ふむ。なんじゃ、それに、皆《みな》商《あきな》いをしておるわけでもなさそうじゃな」  ホロの言葉どおり、近づいてみると彼らは一様に旅装で、テントの下で煮炊《にた》きをしたり雑談しているだけのようだった。服装は旅装といってもまちまちで、ここからさらに北に行った国の者もいれば、西や南の者たちもいる。テントの数はざっと数えただけでも二十ほどで、その中に三人か四人ずつ入っているのがちらほら見える。  彼らに共通しているのは、どうやら皆がなにかを取り扱《あつか》う商人であること。また半分くらいの連中は大きな荷物を持っていて、馬鹿《ばか》でかい樽《たる》をいくつも積んだ荷馬車まである。  どの顔にも旅の疲労《ひろう》と垢《あか》がついており、ぎらりと光る商人の目にはわずかな苛立《いらだ》ちがあった。  レノスの町でなにか政変でもあったのだろうか、とも思ったが、それにしては道行く人たち全《すべ》てがテントの住人というわけでもないらしいのが理解できない。ロバを連れた農夫や荷物を背負った商人ふうの者たちが、雨を避《さ》けるように足早にレノスの町へと向かったり、各々の目的地へと旅立ったりしている。  それを見る限り、町はいつもどおりと考えられそうだった。 「また、一|悶着《もんちゃく》かや」  また、のところに力を込めてホロが言い、フードの下でにやりと笑う。  ロレンスは一体|誰《だれ》のせいだという顔をしてそんなホロを横目で見たが、当のホロに同じ目で見つめ返された。 「もしかしたら、ぬしはわっちと出会ってから急にあれこれと揉《も》め事に巻き込まれておるのやもしれぬが、わっちがそれらを直接引き起こしたことなど一度たりともありんせん」 「う」 「最初の一つは……まあ、一部わっちのせいもあったかもしれぬがな、元はといえばぬしが欲を掻《か》いてじゃ。次の一つは完全にぬしが欲を掻《か》いて失敗。もう一つはぬしが一人で勝手に慌《あわ》てて。最後の一つは単に運が悪かった。違《ちが》うかや?」  ホロの言葉はいつだって的確だ。  寒空の下で湯も使わずに剃《そ》る勇気がなく、かなり長くなってきている行商人の象徴《しょうちょう》である顎髭《あごひげ》を撫《な》でながら、ロレンスはそれでも素直《すなお》に首を縦に振《ふ》らなかった。 「頭の中では理解できるんだがな」 「うむ」 「どうにも、納得《なっとく》できない。確かに、事件の起点にお前がいたわけではないんだが……」  それでもなお、承服しかねる気持ちがロレンスにはあった。  なぜか、ホロのせいだ、と言いたくなる。  ロレンスがその不可解な気持ちに唸《うな》っていると、ホロがなにをそんな簡単なことで、とばかりにこう答えた。 「わっちが事件の元の元になっておらぬのに、ぬしがそれにうなずきがたい気持ちは、わっちにもよーくわかりんす」 「……」  またどんな権謀術数《けんぼうじゅつすう》で煙《けむ》に巻くのかと眉《まゆ》につばつけようとしたところ、ホロは「にひひ」と笑って嬉《うれ》しそうに言った。 「ぬしはぬしの行動の基準にいつもわっちを置いてくれるからの。それでわっちに振り回されておる気がするんじゃろ」  思わず、左の眉だけがピクリと動いてしまう。  それは限りなく正解に近い。  しかし、それをこの狼《オオカミ》の前で認めるのは負けだ。  つまり。 「くふ。意地っ張り」  ホロは、空を舞《ま》う霧雨《きりさめ》同士がこすれるような声でそう言った。  儚《はかな》くて、清らかで、それでいて冷たく、逃《に》げるように舞う笑顔《えがお》。  追いかけなければ!  理性ではないどこかに、強烈《きょうれつ》にそう呼びかけるようなホロの笑顔。  次の瞬間《しゅんかん》には、両|腕《うで》の中にホロの小さな体があった。  そんなことになっていても、おかしくはなかった気がする。 「むう」  都合、荷馬が四歩歩く間だったにすぎない。  ロレンスはレノスへの入り口から伸《の》びる検問の列に荷馬車を並ばせ、結局取り乱すことはしなかった。  理由はもちろん簡単だ。  辺りにはたくさんの人の目がある。  旅から旅の行商人で、周りの者たちもまた同様であっても、商売の世界は狭《せま》いのだ。町の入り口で人目もはばからずじゃれ合っていればいい笑いものだ。  ホロはつまらなそうに横を向く。  実際に、つまらない、と思っているのだろう。  ただ、女の笑顔といえば全部同じに見えていた昔ならいざ知らず、ホロの顔ならわずかな変化だってよくわかるようになっている。つまらなそうな色のほかに、そこには不安があった。  それを見て、ロレンスは気がついた。ロレンスの中には二つの行動基準がある。  一つは、ホロ。  もう一つは、商人。  孤独《こどく》をロレンスよりも恐《おそ》れるホロなのだ。自分が時として商売というものと天秤《てんびん》にかけられるのがとても怖《こわ》いのかもしれない。究極のところでその天秤がどちらに傾《かたむ》くか、その答えは神にしかわからない。あるいはぎりぎりのところで、という可能性がないわけではないのだ。  それでなくとも、旅の終わりはそう遠くない。  だから敢《あ》えてロレンスが商人の顔を気にするような場所で揺《ゆ》さぶりをかけて、自分の重さを確認《かくにん》しているのだろう。  金|勘定《かんじょう》と私のどちらが大事なの、というやつだ。  そんな不安になるほど軽いわけがないのに、とロレンスは思ったりしてしまうのだが。  じりじりと進む列に合わせて荷馬車を進めていると、ホロのフードの下からとても大きな白い煙《けむり》が上がって、不機嫌《ふきげん》そうな顔のままこちらを振り向いた。 「シチューがよい」  きっと晩飯のことだろう。小娘《こむすめ》のような確認は終わりにしたようだ。 「寒いからな。値段にもよるが、小麦粉からきちんと作ったやつでもいいな」 「んふふふ。ミルクの甘い香《かお》りは時として酒の香りを越《こ》えるからの」  首をすくめ、首に巻いている子狐《こギツネ》の毛皮に顔半分をうずめながら、この上なく楽しみな顔をされたら日頃《ひごろ》の腹の立つ言動も帳消しだ。  たまには具のたっぷり入ったものを注文したっていいだろう。 「この季節の野菜入りなんてのがまた格別でな」 「野菜じゃと? あの乳白色の中に浮かぶ黒くて柔《やわ》らかい牛の肉の味をぬしは知らぬのか」  田舎《いなか》の村の畑に何百年といたはずなのに、ホロの趣味《しゅみ》は貴族よりも貴族的だ。  甘い顔を見せるんじゃなかったと、レノスの町の立派な市壁《しへき》を目前に、ロレンスはせめてもの反撃《はんげき》を試みる。 「良い物は目の毒舌の毒というがな」 「その良い物を何百年も食えなかったわっちのことを、ぬしは気の毒と思わんのかや」  ぴたり、とホロは上目|遣《づか》いに見つめてくる。  少しも揺《ゆ》るがない赤味がかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》は、綺麗《きれい》に磨《みが》かれた宝石のようだ。  宝石の輝《かがや》きの前で、人はどうしても膝《ひざ》を屈《くっ》してしまう。  しかし、ロレンスは商人で、宝石を集めるのが趣味の貴婦人ではない。値段が釣《つ》り合わないと見れば、綺麗な宝石に対してだって当然このように言う。 「一度|財布《さいふ》と相談してからだ」  ホロが子供のようにむくれて前を向く。  こんなやり取りを経てもなお、結局肉入りにしてしまうのだろうなとロレンスは思うし、ホロもそれをほとんど確信しているはず。  それでも喧嘩《けんか》をしたふりの、いつものやり取り。  ロレンスは手綱《たづな》を操《あやつ》り、荷馬車を進める。  雨で濡《ぬ》れて苔《こけ》色になっている石の市壁を見上げながら、検問をくぐる。  少しうつむいたのは、関税を逃《のが》れるために商品を隠《かく》すのではなく、つい浮かんでしまう笑《え》みを髭《ひげ》の下に隠すためだった。  霧雨《きりさめ》が舞《ま》う冬の日だからだろう。  道行く人の数はとても少なかった。  いるのは白い息をたなびかせて胸元を押さえながら走っている子供くらいで、どこかの店か職人の使い走りに違《ちが》いない。ボロ布を集めた化け物のような姿で歩いているのはきっと同業者だ。  露店《ろてん》もほとんどに人がおらず、柔らかい霧雨に濡《ぬ》れて時折|滴《しずく》をたらしている。  その前にいるのは普段《ふだん》は店主に追い払《はら》われてしまう物乞《ものご》いたちだけで、典型的な雨の日の平和な町だった。  ただ、市壁《しへき》の入り口の前にずらりとテントが並び、商人と思《おぼ》しき連中が煮炊《にた》きをしているとなればなにもないわけがない。  検問をくぐる際に渡《わた》された、�外地商人証明札�なる木の札を手の中で弄《もてあそ》びながら、ロレンスはホロの不満に相槌《あいづち》を打っていた。 「確かに万物の頂点に位置するなどとはわっちも思わぬ。じゃがな、それは種《しゅ》として越《こ》えられぬ差であり、優劣《ゆうれつ》の差ではありんせん。ぬしもそう思うじゃろう?」 「そうだな」 「元から優《すぐ》れておる種類の中で劣《おと》るものと、元から優れておらぬ種類の秀《ひい》でたものならば、敬意を払《はら》うべきは後者じゃ。違《ちが》うかや」 「……そうだな」  旅の疲《つか》れなのか、ホロはいつものようにすっぱりとした怒《おこ》り方ではなく、粘土《ねんど》のような怒り方で不満をぶちまけている。  まったく検問の門兵も余計な一言を言ってくれたものだとロレンスは胸中で一人ごちるが、返事をおざなりにしすぎてホロの怒《いか》りがこちらに向きかけていることにようやく気がついた。 「いや、名声も人格も財産もなく、血筋だけがある貴族と、名声も人格も財産もある平民とでは、どう考えたって敬意を払われるのは後者だ」  普段《ふだん》ならもっと怒《おこ》りそうな見え透《す》いた追従《ついしょう》だが、今のホロにはなんでもいいらしい。  絡《から》み酒の酔《よ》っ払《ぱら》いのようにそうじゃろうと大仰《おおぎょう》にうなずき、牛のごとく鼻息を吐《は》いた。  実は、検問の時にひどく慎重《しんちょう》に身体検査をされ、ホロの尻尾《しっぽ》が門兵にばれてしまったのだ。  もちろん、ホロは少しも慌《あわ》てずに腰巻《こしまき》ですよとばかりにすましていたのだが、思惑《おもわく》どおり腰巻と思ったらしい門兵がこう言ってしまった。 「なんだ安物の狼《オオカミ》の皮《かわ》か」と。  狐《キツネ》や犬ではなく一目で狼と見|抜《ぬ》くのはさすが毛皮と材木の流通|拠点《きょてん》で検問をする門兵だった。  評価も間違《まちが》いではなく、毛皮の序列の中では狼の毛皮は犬に次いで安い。それがどれほど優《すぐ》れていて、狼の毛皮としてならばどの毛皮商も涎《よだれ》をたらしながら最高の評価をくだそうとも、絶対に鹿《シカ》の毛皮には勝てないのが現実というものだ。  ただ、問題はその当の狼の誇《ほこ》りまでもが安くないことで、その点に関してホロはとてもとてもお高かった。  そんなわけで、隣《となり》のホロは頭を撫《な》でてやりたくなるくらい子供っぽくぶつぶつと怒っている。  することといえば手綱《たづな》を握《にぎ》るだけの旅の途上《とじょう》なら愚痴《ぐち》に付き合ってやるところだが、今はロレンスはそんなホロを横目に見ているだけ。飯でも食わない限り収まらないか、と冷静に木札の角で顎《あご》を掻《か》く。  ロレンスの興味は、今はこの木札のほうにある。  簡素な木札で、割り印もなにも押されていない急ごしらえの品だ。  町の中で仕入れをする時にはこれを提示しないと売ってくれないと言われた。  説明はそれだけで、ウナギが細い筒《つつ》を通り抜《ぬ》けるように旅人が次から次へと通される検問から追い出された。  これが気にならない商人などいない。  こんなもの、レノスの町だけでなく、他《ほか》の町も含《ふく》めて初めてもらうのだから。 「で、ぬしよ」 「え、あ?」  脚《あし》を小突《こづ》かれてロレンスは我に返り、ホロの鋭《するど》い視線に少したじろいだ。  なにか話を聞き逃《のが》していたのだろうかと思ったが、語るに落ちる前にホロが先にあとを続けた。 「宿はまだかや」  きっと寒いのも腹が減っているのもずっと乗ってきた荷馬車にこれ以上乗ることにも腹が立つのだろう。「あの角を曲がってもう少しだ」と指差して教えてやると、目の前が宿ではないことに怒るようにため息をついて、フードの下に潜《もぐ》ってしまう。  これはシチューの肉の量を慎重《しんちょう》に吟味《ぎんみ》しなければならないかもしれない。  そんなことを考えながら荷馬車を進めていき、やがて目的地に着いた。  立派、と呼ぶには少しためらいを覚えてしまう建物で、ごく普通《ふつう》の四階建ての住居だ。  通りに面した一階部分は壁《かべ》が二枚の鎧戸《よろいど》になっていて、下の部分を開けて水平にすれば商品|陳列棚《ちんれつだな》に。上の部分を開ければ庇《ひさし》になる。今はどちらも閉まっていて、外の寒い空気を中に入れまいと頑張《がんば》っていた。  店構えがしっかりした宿屋に連れていってもらえるものとでも思っていたのか、ホロが殊更《ことさら》不満そうな顔を向けてくる。  大金を払《はら》ったからといって心安らぐ宿に泊《と》まれるわけではない、という言葉は省略して、ホロの面倒《めんどう》くさい視線から逃《のが》れるように御者《ぎょしゃ》台を降り、小走りに駆《か》け寄って扉《とびら》のノッカーを叩《たた》く。  宿の看板すら出していないようなところなので満杯《まんぱい》ということはないだろうが、今日は寒いから営業終わり、ということは十分ありうる。  そんなわけで、扉の向こうに人の気配が感じられ、扉が開いた瞬間《しゅんかん》には少しだけほっとした。 「泊まりかい。荷物かい」  寒いからだろうが、少しだけ開けた扉の隙間《すきま》から、物憂《ものう》げな顔を真っ白く長い髭《ひげ》で半分以上|覆《おお》った中背の老人が短く聞いてきた。 「泊まりで、二人」  老人は軽くうなずいただけですぐに身を翻《ひるがえ》す。  扉は開けたままなので、部屋は空いている、ということだろう。  ロレンスはいったん後ろを振《ふ》り向いて訊《たず》ねた。 「暖かい部屋と明るい部屋、どっちがいい?」  眉根《まゆね》に皺《しわ》が寄ったのは、質問が意外だったからだろう。 「……暖かい部屋以上のものがあるかや」 「じゃあ、厩《うまや》に馬を回しておくから、先に入って店主……今の爺《じい》さんにそう言えば、空いてる部屋を言ってくれる」 「うむ」  ホロと入れ替《か》わりに御者台に上がり、手綱《たづな》を握《にぎ》る。馬もようやく野風の吹《ふ》きっさらしから厩に入れるとわかるようで、急《せ》かすように首を振る。ロレンスが手綱を引いてそんな荷馬を歩き出させると、扉を開けてホロが宿の中に入っていくのが横目に見えた。  幾重《いくえ》にも重ね着された薄汚《うすよご》れたローブの後ろ姿は、きっと百人の雑踏《ざっとう》の中に混ざっていたってすぐに見分けられるだろう。  重ね着したってわかるくらいに尻尾《しっぽ》がパンパンに膨《ふく》れていたのだから。  ロレンスは少しだけ笑い、荷馬車を厩に入れる。厩には見張り兼《けん》住人の物乞《ものご》いが二人、ぼろに包《くる》まってこちらを品定めしていた。  彼らは一度来た人間を絶対に忘れないので、もちろんロレンスのことも覚えていて、軽く顎《あご》をしゃくってそこに止めろと示してくる。逆らう理由もなく示された場所に馬を向けると、隣《となり》には足の太い山岳《さんがく》用の馬がつながれていて、灰色がかった長い毛の奥からやぶ睨《にら》みの一瞥《いちべつ》をもらった。きっと北方からの毛皮をもたらす馬だろう。 「仲良くしろよ」  と、自分の馬の背を叩《たた》いてロレンスは御者《ぎょしゃ》台から降り、二人の物乞《ものご》いに二枚の銅貨を渡《わた》すと荷物を手に宿屋に入った。  この宿屋は元々|革紐《かわひも》職人の工場付き住居だった。一階部分は革紐職人の工場だったこともあって壁《かべ》が少なく床《ゆか》が石になっている。今は倉庫として利用されていて、あっちこっちの商人たちが色々な目的で荷物を長期間保管してもらっている。  雑然としている身長よりも高い荷物の山をすり抜《ぬ》けて、その一角だけ綺麗《きれい》に片づけられた主人の居間にたどり着く。  片づけられたそこには小さなテーブルセットと、鉄の鍋《なべ》を支える三本足の鉄の支柱がある。主人は鉄鍋に炭を入れ、日がな一日ここで温めたぶどう酒を飲みながら、遠い土地に思いをはせているのだ。「来年には南へ巡礼《じゅんれい》の旅に」が彼の口癖《くちぐせ》だった。  ロレンスに気がつくと、長い眉毛《まゆげ》の下から青い目を向けてきた。 「三階。窓|側《がわ》」 「はい。三階、え、窓側?」  料金は先|払《ばら》いでも後払いでもいいが、無口な店主も先払いだと多少は機嫌《きげん》が良くなったりする。そんなわけでロレンスは先に多めの宿泊《しゅくはく》料金をテーブルの上に置いていたのだが、その言葉に驚《おどろ》いて振《ふ》り向いた。 「窓側」  主人はもう一度だけ呟《つぶや》いて、目を閉じた。  話しかけるなという合図だ。  ロレンスは少し首をひねり、まあいいかと思い直してその場をあとにした。  手|垢《あか》のしみこんだ手すりを伝って階段を上《のぼ》る。  職人の工場付き住居がどこもそうであるように、二階には暖炉《だんろ》付きの居間と屋敷《やしき》の主《あるじ》の部屋があり台所もある。ここの建物がちょっと変わっているのは居間のど真ん中に暖炉があることで、三階四階のなるべく多くの部屋が煙突《えんとつ》から暖を取れるような工夫《くふう》になっている。  もちろんこうなると代わりに間取りが変なことになってしまううえに、煙突が通る部屋に煙《けむり》が漏《も》れないようにと整備が大変になるが、屋敷の主は三階四階に住む徒弟たちの住環境《じゅうかんきょう》の良さを取った。  無口だが優《やさ》しい親方、というのが今は宿の主人である、元革紐職人親方のアロルド・エクルンドだ。  夜になればいびつな形の居間では宿泊《しゅくはく》客が各々《おのおの》酒を持ち寄ったりしてささやかな談笑が聞けることだろう。今は暖炉の中で薪《まき》が弱々しく燃える音だけが響《ひび》いていた。  三階に上がれば部屋は四つ。  工場時代、新入りや雑用係の使っていた部屋は四階なので、三階のほうが部屋は広い。  ただ、その部屋|全《すべ》てが暖炉《だんろ》の煙突《えんとつ》の恩恵《おんけい》に与《あずか》れるというわけではなく、四つあるうちの一つだけが通りに面していて、窓という明るさを手に入れられる代わりに暖かさに与れない。  窓|側《がわ》ということは、暖かくない部屋ということだ。  ホロは確か暖かい部屋がいいと言っていたような気がしたが、と思ってロレンスが部屋に入ると、すでにホロは濡《ぬ》れた服を脱《ぬ》ぎ散らかしてベッドの中だった。  悔《くや》しさのあまりに泣いているのかとも思ったが、毛布の丸まり方を見るに早々に眠《ねむ》っているらしい。  いつまでも怒《おこ》っていたのはやはり疲《つか》れによるところが大きかったのか。  脱ぎ散らかされた服を集めて、いったん椅子《いす》の背にかけて自分も旅装を解く。旅をしていて一番ほっとするのが、この濡れた服を宿で脱ぐ瞬間《しゅんかん》だ。重い粘土《ねんど》でできたような服を脱ぎ捨て、まだ雨がしみ込んでいなかったいつもの格好に戻《もど》る。  さすがにその格好では空気が冷たいが、濡れたままでいるよりかはよほどましだ。  それに、人のいない間に二階の暖炉で乾《かわ》かさないとならない。  夜になれば暖炉の暖かさに与れないこの部屋は焚《た》き火のない野宿と同じになってしまう。  とても毛布だけでは寒さをしのげないだろう。水を吸って重くなった衣類をホロの分もまとめて抱《かか》え、仕事を決して厭《いと》わない真面目《まじめ》な下男よろしく部屋を出ようとしたところで、それに気がついた。  ホロの尻尾《しっぽ》が、ベッドの上にパンとベーコンとチーズのように積まれた毛布の合間から少しだけ見えていた。  まったくずるい奴《やつ》だ、とロレンスは思う。  貴族の娘《むすめ》が意中の騎士《きし》の目を引くために、窓の隙間《すきま》から長く美しい髪《かみ》を覗《のぞ》かせるのとはわけが違《ちが》うのだ。  それでも、ロレンスには、こう言うしか選択肢《せんたくし》がない。 「立派な尻尾だと思う。暖かい良い毛皮だ」  しばしの間をあけて、すっとホロの尻尾が毛布の下に引っ込んだ。  やれやれ、とため息をつくほかない。  ホロがとてもいじらしい娘で、ロレンスにだけ褒《ほ》めてもらえればあとはどんな侮辱《ぶじょく》を受けてもいい、なんて考えているとはとても思えない。今この瞬間《しゅんかん》にだってまだ腹の底ではぐらぐらと怒《いか》りが煮《に》えているはずだ。  それでも、ロレンスに尻尾を褒めさせるようにした。  階段を下りるロレンスがもう一度、苦笑いしながらやれやれとため息をつくのにそれ以上の理由は要《い》らなかった。  ホロはホロなりに甘えてくれているのだ。  それがホロ一流の罠《わな》だったとしても、嵌《はま》って悪い気分ではなかった。  人の胸中を読む狼《オオカミ》が隣《となり》にいないのをいいことに、そんなことを臆面《おくめん》もなくあれこれ考えながら二階へ下りて暖炉《だんろ》のある居間へと入る。  居間には誰《だれ》もおらず、薪《まき》の燃える音だけが小さく響《ひび》いていた。  家具もほとんどなく、椅子《いす》が一脚《いっきゃく》だけ暖炉の明かりに揺《ゆ》られている。両手に抱《かか》えた服を乾《かわ》かすにはもちろんその椅子だけでは足りないが、ロレンスは特に慌《あわ》てることもない。  居間の壁《かべ》にはところどころ釘《くぎ》が半分打ち込まれていて、各々《おのおの》フックのように先が折れ曲がっている。そのうちのいくつかには革紐《かわひも》がぶら下がっていて、伸《の》ばせば反対|側《がわ》の壁に打ち込まれた釘へと届くようになっている。  雨の日には外から来た旅人が服を干し、晴れの日にはこれから旅立とうとする旅人が肉や野菜を干すのだ。  ロレンスは手早く革紐を通し、さっさと濡《ぬ》れた衣服をかけていく。  思った以上に布が大きく、結局革紐一本分丸ごと使ってしまう羽目になった。  乾くまで誰も服を干しに来なければいいが。  胸中でそんなことを呟《つぶや》きながら、暖炉のまん前の特等席に腰《こし》を下ろした直後、みしり、という階段の軋《きし》む音を聞いた。 「……」  ただ、それは正確には廊下《ろうか》の軋む音だったらしい。  軋む音の聞こえたほうに目をやれば、階段を上《のぼ》り終えたついでに居間の中を覗《のぞ》こうとしていた旅人と目が合った。  フードというよりも頭巾《ずきん》といったふうに頭に布をきつく巻き、口元も鼻の上まで覆《おお》っているので表情は見えないが、その眼光はとても鋭《するど》い。背はそれほど高くなく、かといって低くもなく、ホロより少し高いくらいだ。  旅装はかなりの重装備で、体が真四角に見えるほど服を着込んでいるが、その中で最も目を引くのが、ふくらはぎまでぐるぐるに紐で縛《しば》られた重厚《じゅうこう》な革の靴《くつ》だ。馬を使わない徒歩の旅人の証《あかし》で、おそらくは結構な距離《きょり》を歩いてきたのだろうに、少しも結び目が揺《ゆ》るんでいないあたりが年季の深さを窺《うかが》わせた。  幾重《いくえ》にも重ねられた布の隙間《すきま》から向けられる薄《うす》い青の瞳《ひとみ》は、鋭さの中に涼《すず》しさを有していたが、あまり愛想が良いほうではないらしい。  こちらがそうしていたように、相手もこちらの品定めを終えると、挨拶《あいさつ》もなく階段を上っていってしまった。  重そうな荷物を背負っていたのに足音がほとんどしない。  それでもどうやら三階の部屋を取ったらしいことが、頭上からわずかに聞こえた扉《とびら》の開け閉めの音でわかった。  アロルドは客に対してほとんど関心を示さないため、この宿はあまり社交的ではない者たちにとって重宝がられている。たとえ商人であっても、全員が全員社交的なわけではもちろんない。  ロレンスがレノスの町でいつもここを利用するのは単純に設備と値段の兼《か》ね合いと、アロルドがもともとローエン商業組合に属していたため。元は旅の毛皮商人で、入り婿《むこ》として革紐《かわひも》職人の親方を継《つ》いだという話だった。  この町にはローエン商業組合の商館がないので、組合に所属する商人などが利用することも多い。  それに、今回はホロがいるので客の詮索《せんさく》をしないアロルドの宿は実に都合が良かった。  もっとも、目下ロレンスの頭を悩《なや》ませるのはホロの機嫌《きげん》を直すために晩飯を肉入りのシチューにしなければならないことだ。ホロの機嫌が直るならシチューの一|杯《ぱい》や二杯どうってことはないが、一度甘い顔を見せれば一気にこの町の滞在《たいざい》費が跳《は》ね上がる。  さてどうやってこの難問を越《こ》えようかと考えているうちに、旅の疲《つか》れが出てきて暖炉《だんろ》の前でうとうとと居眠《いねむ》りをしてしまっていた。  アロルドが薪《まき》を足しに来て一度目を覚ましたが、アロルドはもちろんなにも言わず、それどころか少し多めに薪をくべていってくれたので好意に甘えることにした。  二度目に目を覚ましたのは、日も完全に暮れ、暖炉の明かりに照らし出される闇《やみ》がコップですくえそうなほどに濃《こ》くなってからだ。  寝《ね》すぎたことに気がついて慌《あわ》てて体を起こすも、時間が戻《もど》るわけではない。おそらくわがままなホロはとっくに目を覚まし、服がないせいで部屋から出るに出られず空腹にいらいらしていることだろう。  ロレンスはため息をついてのそのそと起き上がり、干していた衣服が乾《かわ》いているのを確かめると、手早くまとめて三階に戻った。  ホロのご機嫌が思い切り斜《なな》めだったのは言うまでもない。  結局、適当に入った酒場で頼《たの》んだシチューは肉がたっぷり入った豪勢《ごうせい》なものになったのだった。  翌朝、目を覚ますとどうやら晴れのようで、木窓の隙間《すきま》から暖かそうな日差しが差し込んでいた。暖炉の恩恵《おんけい》に与《あずか》れなくとも寒さはそれほど厳しいものと感じなかったのはこの日差しのお陰《かげ》なのか、それとも厳しい野宿の寒さに体が慣れているからだろうか。  どちらにしろ、これくらいの寒さならホロが明るい部屋を選んだ理由もなんとなくわかる。  やはり、朝は朝日を拝みたい。  体を起こすと珍《めずら》しくホロはまだ眠っていて、それも毛布の中から顔を出して眠っている。いつもは獣《けもの》のように丸まって眠っているので普通《ふつう》の娘《むすめ》のような寝相《ねぞう》はなんだか新鮮《しんせん》な感じがした。  ただ、過去数回ホロが寝坊《ねぼう》した時は大体|二日酔《ふつかよ》いだったので少し心配だったが、顔色も良いので二日酔いではないだろう。  単純に寝坊らしく、無防備な寝顔を晒《さら》して眠《ねむ》りこけていた。 「さて」  いつまでもホロの寝顔を見ていてもいいが、意地悪な賢狼《けんろう》にそんなことを気取られるとあとあと厄介《やっかい》だ。  だとすれば、やっておくべきは町に出る身支度《みじたく》で、まず顎《あご》に手を当てる。  北の地では長い髭《ひげ》もごく当たり前だが、やはりちょっと長すぎるうえに好き放題|伸《の》びているので見た目も良くないはず。アロルドに湯を借りて剃《そ》ってくるかと荷物の中から手ぬぐいと薄《うす》いナイフを取り出している最中に、耳の良い狼《オオカミ》は物音で目を覚ましたらしい。  不機嫌《ふきげん》そうなうめき声のあとに、ロレンスは自分の背中に向けられた視線に気がついた。 「毛皮《けがわ》の手入れに行ってくる」  振《ふ》り向きざま、顎にナイフの鞘《さや》を当ててそう言うと、ホロは欠伸《あくび》のあとに声なく笑って目を細めた。機嫌は良いらしい。ロレンスはもう一言付け加えた。 「せいぜい高値がつくようにしないとな」  ホロは口元を毛布の中に隠《かく》すように答える。 「ぬしは立派に高値じゃと思いんす」  寝起きだからか、その目はどこかとろんとしていてとても優《やさ》しげだ。  ロレンスもまっすぐにそんなふうに言われたら、からかい半分であっても嬉《うれ》しくないわけではない。  それでもつい照れ隠しに肩《かた》をすくめると、ホロがあとを続けた。 「買い手がつかぬほどにな」  言って、うつぶせから仰向《あおむ》けに姿勢を変えた頃《ころ》には、その目には意地悪な光があった。 「これまで誰《だれ》か買ってくれたかや?」  まったく、人をぬか喜びさせる才能だけは素晴《すば》らしいとロレンスは思う。  降参を示すようにナイフの先を軽く振《ふ》ると、ホロはくつくつと笑って、二度寝のために毛布の中に潜《もぐ》っていったのだった。 「やれやれ」  相変わらず軽くあしらわれてしまうことが悔《くや》しくもあり、楽しくもあり。  ロレンスは部屋から出て苦笑いのまま階段の手すりに手をかける。  ひょいと笑顔《えがお》が引っ込んだのは、人の気配があったからだ。 「おはようございます」  直後、階段の下に現れた同宿の客に向かって、ロレンスはよそ行きの笑顔で挨拶《あいさつ》をしていた。  昨日、暖炉《だんろ》で服を乾《かわ》かしている最中に目が合った、重装備の旅装をしていた客だ。  相変わらず頭巾《ずきん》を巻いているが、体を覆《おお》っている布は幾分《いくぶん》緩《ゆる》められていて、足もサンダルになっている。焼きたてのパイでも朝食用に買ってきたのか、右手には湯気の立っている袋《ふくろ》を持っていた。 「……ああ」  布の隙間《すきま》から青い目を片方だけ覗《のぞ》かせていた客は、ロレンスとすれ違《ちが》いざまにぼそりと言った。  かすれたような、乾いた砂と岩の大地が似合う旅人の声。  無愛想でも、それだけで親しみを感じてしまう。  とりあえず、すれ違った時に立ち上《のぼ》ってきたミートパイの香《かお》りを嗅《か》いで、これは絶対ホロもミートパイを食べたいと言うだろうなと思ったのだった。 「で、どうするのかや」  口の端《はし》に肉のかけらをくっつけたまま、ホロはミートパイ片手にそう口火を切った。 「まずはお前の話を集めるのが先だろう?」 「うむ。わっちの話と、ヨイツの場所……」  もく、もく、もく、と自分の手と同じ大きさのパイを三口で食べて、あっという間に飲み込んでしまう。 「クメルスンの時と同じように、まず年代記作家に当たろう」 「そのへんは任しんす。方法はぬしのほうがよく知っておるからの……どうしたかや?」  ホロの不審《ふしん》げな視線にロレンスは軽く手を振《ふ》った。ちょっと笑ってしまったのだ。 「なに、俺は方法を知る。ではお前はなにを知る?」  ホロはきょとんとして、ロレンスを見返す。 「こんな言葉がある。方法を知る者が職を得て、彼の働く理由を知る者が雇《やと》い主になる、と」 「ふむ。なるほど。わっちゃあぬしが甲斐甲斐《かいがい》しく働く理由を知っておる」 「昔の人はよく言ったものだな」  ロレンスがパイにかぶりつくと、ホロはベッドの上で胡坐《あぐら》を組み直して言葉を向けた。 「わっちがぬしの雇い主なら、褒美《ほうび》を与《あた》えねばな」 「褒美?」 「うむ。つまり……」  妖艶《ようえん》な、という言葉を薄《うす》く水に溶《と》いて顔に塗《ぬ》るとこんな笑《え》みになるのだろう。 「なにか欲しいものはあるかや?」  薄|暗闇《くらやみ》で、雰囲気《ふんいき》たっぷりに言われたら少しはどきりとしただろうが、口の端に肉のかけらをつけたまま言われればいくらロレンスであっても動揺《どうよう》しない。  ホロに遅《おく》れてパイを食べ終えてから、自分の口元を指差してホロに教えてやった。 「特にいらない」 「むう」  ホロが少し悔《くや》しそうに口の周りの肉のかけらをつまんで口に運んでいるところに、ロレンスは言葉を重ねた。 「機嫌《きげん》良くしてくれていればそれが一番いい」  ピクリと手を止めたホロは、唇《くちびる》を尖《とが》らせて指の上の肉を弾《はじ》いて飛ばしてきた。 「わっちを手のかかる子供|扱《あつか》いかや」 「子供は叱《しか》れば言うこと聞くからまだましだな」  手元の水差しを取って、よく冷えている水を飲んで一息つく。 「まあ、まずはここの主人から話を聞くか。腐《くさ》っても宿屋の主人だからな」  立ち上がり、ロレンスは外套《がいとう》を羽織るだけで準備を終える。ホロはといえば、ベッドから這《は》い出した時そのままの格好だ。 「ついてくるんだろう?」 「手を叩《たた》かれても、の」  憎《にく》まれ口は軽くかわし、ホロが靴《くつ》、腰巻《こしまき》、ローブ、ケープの順にあわただしくも実に着なれた手つきで身に着けていく様を、なにかの魔法《まほう》のようだなと眺《なが》めていると、当の狼《オオカミ》娘《むすめ》が芝居《しばい》気たっぷりにくるりと一回転してこう言った。 「ここでぬしの目の前で手を叩いたら、ぬしにかけた魔法《まほう》が解けてしまうかもしれぬ」  そうくるか。  ロレンスは乗ってやることにした。 「はっ、俺は一体なにをしていたんだろう。そうだ、ここは毛皮と材木の町レノス。毛皮を仕入れて次の町に行かないと」  旅の途中《とちゅう》で旅役者の劇を見ることだって少なくない。  ロレンスが大仰《おおぎょう》な身振《みぶ》りでそう言ってやると、ホロはとっておきの喜劇でも見たかのように腹を抱《かか》えて笑っている。  そして、ひとしきり笑うと扉《とびら》に手をかけたままのロレンスの側《そば》につつっと歩み寄ってきた。 「ぬしは旅から旅の行商人かや。わっちは毛皮の良し悪しを見分けることができるんじゃがな」  ホロの手を取って、扉を開けながらロレンスは答えた。 「はう、確かに良い選別|眼《がん》だ。では人の良し悪しを見|抜《ぬ》く目はどうか?」  朝の静かな空気に満ちた宿の中を、ぎっぎっと階段の軋《きし》む音が響《ひび》く。  ホロは二階に下りてから、ロレンスのことをしげしげ見つめて口を開いた。 「わっちは悪い魔法にかかっておるのかもしれぬ」  ロレンスは思わず笑ってしまう。どういう意味だ、と。 「ならば、それが覚めないように手は叩かないようにしないとな」 「すでに一度|叩《たた》かれておる」 「だから覚めかけているって言いたいのか?」  まったく会話のどこに罠《わな》を仕掛《しか》けているかわからない。  これでホロは露店《ろてん》でなにかうまいものをねだる口実ができた。  ロレンスはこのへんだけはどうにかしないとな、などと思いつつ、二階の居間の暖炉《だんろ》の前で談笑したまま眠《ねむ》りこけてしまったらしい旅人二人に目をやっていた。  そして、一階に続く階段を二段下りた時、ロレンスはその手を引かれて振《ふ》り返った。  正確には、手を持ったままのホロが階段を下りなかったのだ。  ロレンスのことを見下ろす形になったホロは、フードの下で柔《やわ》らかく笑っていた。 「じゃからな? 覚めぬように魔法《まほう》をかけ直してくりゃれ?」  まったくもって、悪魔の所業。  きっとここでロレンスが言葉に詰《つ》まればそれで満足なのだろう。  ただ、ロレンスもたまにはホロを出し抜《ぬ》きたい。  だから、その場で振り向いて、ホロに少し引っ張られる形になっていた手を持ち直した。  古今東西《ここんとうざい》、この形で男がすることといったら一つしかない。  その手を軽く掲《かか》げると、ホロの白い手の甲《こう》に軽く口づけをした。 「こんなふうに、でよろしいか?」  もちろん台詞《せりふ》は時代がかった発音で。  気を抜くと首の付け根でなんとか止めている血が顔に駆《か》け上《のぼ》ってきそうだ。  それをこらえて顔を上げると、フードの下でホロが目を真ん丸くしていた。 「ほら、行くぞ」  唇《くちびる》の端《はし》につい浮かんだのは、馬鹿《ばか》なことをやっているという自嘲《じちょう》の笑《え》みと、ホロに対してしてやったりという勝利の笑み。  ホロの手を軽く引っ張ると、糸の緩《ゆる》い操《あやつ》り人形のように階段を下りてきた。  うつむいているので翳《かげ》って表情がよく見えなかったが、どうやら悔《くや》しがっているらしい。  恥《は》ずかしさをこらえてやった甲斐《かい》もあるものだと胸中でほくそ笑んだ。そんな勝利の余韻《よいん》に浸《ひた》っていると、ホロが階段を踏《ふ》み外したようで急にがくんと姿勢を崩《くず》す。ロレンスは慌《あわ》ててそれを胸で受け止めた。  茫然自失《ぼうぜんじしつ》になるほど悔しかったのか、とロレンスが笑おうとすると、その瞬間《しゅんかん》にぎゅっと抱《だ》きついてきたホロが耳元で囁《ささや》いた。 「強くかけすぎじゃ、たわけ」  怒《おこ》るような、むずがるような声。  出会った当初なら頭の中が真っ白になって、あるいは思わず抱きしめ返していたかもしれない。  しかし、今はそのどちらにもならず、よっぽど悔《くや》しかったんだな、と笑えてしまう。  テレオの村でロレンスは、このホロとの甘ったるいくらいに楽しい旅の終わりの結末という見たくもないものが詰《つ》まった箱の蓋《ふた》に触《ふ》れた。その蓋はもちろん一人だけで開けてみるようなものではなく、ホロも一緒《いっしょ》に手を添《そ》えてわずかに開きかけた。  しかし、その時にはどちらにも箱の中身を全《すべ》て見てみる度胸がなく、蓋は未《いま》だ開かれていない。  それでも、わかったことがある。  ホロも、できれば見たくなかった、ということだ。  真正面からしがみつかれ、耳元で囁《ささや》かれても取り乱さないようになるのに、これほど役に立つこともそうはない。  ろくに櫛《くし》も通していないのにさらさらで、香油《こうゆ》を使っているわけでもないのにどこか甘い匂《にお》いのするホロの前髪《まえがみ》が頬《ほお》に当たる。それは一本一本数えていくのをはなから諦《あきら》めさせるのに十分なくらい細い。  そんなことを思っていると、ロレンスが一向になんの反応も見せないことに気がついたホロが少し体を離《はな》して顔を上げた。 「いつ、ぬしは取り乱してくれるのかや?」 「そうだな。お前がこういうことをしなくなったら、かな」  ホロの頭はよく巡《めぐ》る。  すぐに言葉の示すところに気がついたらしく、悔しそうにした。 「ぬしの知恵の巡りもなかなか良くなったの」 「まあな」  ロレンスが言うと、ホロは軽く鼻でため息をついて体を離し、ゆっくりと階段を下り始めた。  ホロがロレンスの取り乱す様を楽しむのであれば、ホロはロレンスになにかしら仕掛《しか》けなければならないが、ロレンスが一番取り乱すのはホロがなにも仕掛けてこなくなった時だ、となればホロはおとなしくしているほかない。  なかなか良い封《ふう》じ方だった、とロレンスが我ながら感心してホロのあとについて階段を下りると、先に階段を下りたホロがくるりと振《ふ》り向いてこう言った。 「本当にぬしは口がうまくなったがな、誰《だれ》かに教えてもらったのかや?」  ロレンスが驚《おどろ》いたのは、フードの下にあったのが、妙《みょう》に機嫌《きげん》が良さそうな、触れれば凍《こお》った手も温まりそうな笑顔《えがお》だったからだ。  本当ならホロは悔しそうにするはずなのだが、一体これはなんだろうかと少し警戒《けいかい》しながらホロの前に立った。 「いや、とっさに思いついただけだが……」 「とっさに? くふ。それは、なお嬉《うれ》しい」  ホロが仔犬《こいぬ》だったらぶんぶん尻尾《しっぽ》を振《ふ》りそうな機嫌《きげん》の良さだ。  ただ、ロレンスは訳がわからず左手に指を絡《から》めてくるホロのことを見つめていた。  考えろ。ホロのこの様子は、なにかある。 「わっちがなにもしなくなったら、かや。くふ」  ホロはもう一度|呟《つぶや》いて、甘えるように体を寄せてきた。  なにもしなくなったら?  改めて言われ、ロレンスはなにか妙《みょう》なことに気がついた。  そして、その言葉が指し示す別の意味に気がついた瞬間《しゅんかん》、ロレンスはびしりとその場に凍《こお》りついた。 「んふふ。どうしたかや?」  春の雪解け水のように透《す》き通っていたホロの機嫌の良さに、沼地《ぬまち》のような粘《ねば》り気《け》が混じる。  ロレンスはホロのほうを見ることができない。  ホロがなにも仕掛《しか》けてこなくなったら取り乱す。  一体なんてことを言ってしまったんだと胸中で思いきり叫《さけ》んだ。  これでは完全に、ホロに構って欲しいと宣言しているようなものではないか! 「おや? ぬしは血の巡りも良くなってきたようじゃな?」  顔に血が上《のぼ》っていくのが止められない。  ロレンスは、せめてそれを、発言の意味に気がつかなかった迂闊《うかつ》なことを恥《は》じているのだということにしたくて目を手で覆《おお》った。  しかし、ホロがそれを許してくれるはずもない。 「まったく、そんなに子供じみた甘い言葉を恥ずかしげもなく」  ぱたぱたと尻尾が揺《ゆ》れる音がした。  賢狼《けんろう》を口で封《ふう》じ込めるなど、見果てぬ夢なのだ。 「くふ。ぬしは本当に可愛《かわい》いの」  覆った手の隙間《すきま》から見えたのは、信じられないほど底意地が悪そうな、頬《ほお》を思い切りつねりたくなるような満面のホロの笑顔《えがお》だった。  アロルドは厩《うまや》のほうでなにかしていたらしく、幸いなことにホロとの馬鹿《ばか》なやり取りは聞かれていなかったようだ。  もっとも、ホロはそのへんを承知でロレンスを弄《もてあそ》んだに違《ちが》いないが。 「年代記作家?」 「ええ。あるいは、町の古い言い伝えをご存じの方を」  薄《うす》い鉄の板を叩《たた》いて組み上げた使いやすそうなコップに温めたぶどう酒を注《つ》ぎ、いつもの椅子《いす》に座るアロルドは、珍奇《ちんき》な生き物でも見るかのように左|眉《まゆ》を吊《つ》り上げた。こんな質問をする客がこの世に存在するのかと言わんばかりだ。  それでも、他《ほか》の宿なら当たり前に客の素性《すじょう》を詮索《せんさく》するのにそれすら一切しないアロルドだから、なぜそんなことを聞くのかと問うこともせず、真っ白い髭《ひげ》を軽く撫《な》でると答えてくれた。 「リゴロという男がそんな役目を負っているようだが……生憎《あいにく》と今は五十人会議中だ。人とは会わんだろう」 「五十人会議?」  ロレンスが問い返すと、片手に入る小さな土器に温めたぶどう酒を軽く注ぎ、ロレンスとホロの二人に勧《すす》めてきた。  五十人会議はその名のとおり、町の職人や商人や貴族たちなどからなる五十人の代表者の会議だ。彼らは自分たちの所属する組合なり家なりの利益を代表して会議で議論を戦わせる。そのほとんどが町の運命を左右するような重要な案件のため、参加者の責任は重い。  昔はその席を巡《めぐ》って政治的な駆《か》け引《ひ》きがたくさんあったそうだが、今では何年か前に疫病《えきびょう》が大流行したせいで欠員が何席もあると聞いている。 「町の入り口を見なかったのか……?」 「見ました。商人ふうの連中がたむろしていましたね。それと五十人会議が関係するということはやはり町になにか問題が?」  ホロは勧《すす》められるままにぶどう酒に口をつけて、すぐに動きを止めた。  きっと尻尾《しっぽ》の毛が膨《ふく》らんでいることだろう。慣れないとこの飲み物の良さはわからない。 「毛皮が……な」 「毛皮が?」  毛皮という単語に、ぞわりと背筋が粟立《あわだ》った気がした。それはホロのことを気にしてではない。むしろその逆で、あまりにも聞きなれたその単語に、ロレンスの体はこれまで散々慣れ親しんできた金|儲《もう》けの匂《にお》いを思い出したのだ。  ロレンスが勢い込んで聞くと、アロルドは聞こえなかったようにあとを続けた。 「あれは、その会議の書記だ」  会議の内容については話したくないらしい。それに、アロルドは元々それほど親切な人間ではない。 「それで、古い言い伝えを知っている者でもいいのかね」 「え、ええ、それでも構いません。ご存じないですか」  しかし、それを顔に出すわけにはいかない。  ロレンスの自戒《じかい》はうまくいったようで、ともすれば瞼《まぶた》の皺《しわ》の中に埋没《まいぼつ》してしまいそうなアロルドの青い目は、少しもロレンスに向けられることなくすっと遠いものを見るよう細められた。 「皮なめしのボルタの祖母が物知りだった……が、四年前の疫病《えきびょう》で死んだ」 「他《ほか》にはいらっしゃらない?」 「他に? そうだな……ラットン商会の叔父御《おじご》が……いや、あれも一昨年の夏の暑さで……なんと、そうか……」  かこん、と音がしたのは、アロルドが口に運ぼうとしたコップを置いたからだ。  ホロが音につられたのかそんなアロルドを振《ふ》り向いたのがわかった。 「町の古い知識は、こうして書物にしか存在しなくなっていくのか……」  アロルドは愕然《がくぜん》とするように言って、違い目をしたまま顎鬚《あごひげ》を掴《つか》んだ。  その言葉に、びくり、とホロの体がローブの下ですくんだのがわかる。  自分のことを直接知る者が誰《だれ》一人としていない。ホロはまさしくその忘れ去られた知識そのものだったからだ。  ロレンスは、ついさっきに散々やり込められたことも忘れて、無言でホロの背中に軽く触《ふ》れてやった。 「と、なると、リゴロさんの下《もと》で記録を見せていただくしかないですか」 「そうなるな……。年月は石の建物ですら風化させる。いわんや人の記憶《きおく》など。恐《おそ》ろしいことだ……」  アロルドは首を横に振り、そのまま目を閉じて沈黙《ちんもく》してしまう。  初めて出会った時から隠者《いんじゃ》然としたアロルドだったが、ますますその度合いを深めているらしい。  死というものの迫《せま》る音がよく聞こえる歳《とし》になるとこうなるのだろうか、と思わなくもない。  もう話しかけても嫌《いや》な顔をされるだけだろうと思い、ロレンスは勧《すす》められたぶどう酒を一息に飲んで、ホロを促《うなが》して外に出た。  昨日とは打って変わって人通りが多く、左手から差し込んでくる朝日に一瞬《いっしゅん》眩暈《めまい》を起こす。  水を吸ったままの石畳《いしだたみ》の上に立ち、隣《となり》のホロを見た。  心なしか、しょげているようだった。 「なにか食べるか?」  我ながら口にしてから最低な発言だったと思ったが、何事も度を過ぎれば裏返るらしい。  ホロはフードの下で吹《ふ》き出して、呆《あき》れ気味の笑顔《えがお》を向けてきた。 「もう少し語彙《ごい》を増やしんす」  そう言ってから、ロレンスの手を引っ張った。  またこんな衆人環視《しゅうじんかんし》の中で何か始めるのか、というのは邪推《じゃすい》に過ぎたらしい。  ロレンスが引っ張られるのと、後ろの宿の扉《とびら》が開くのは同時だった。 「……」  出てきたのはつい先ほども会った同宿の客だ。  忙《いそが》しそうな様は旅商人の鑑《かがみ》だったが、その旅商人は、ロレンスと、その隣《となり》のホロに目をやると明らかに驚《おどろ》いて足を止めた。 「……失礼」  ただ、それも一瞬《いっしゅん》のことで、例のかすれた声でそう言うとさっさと人ごみの中に紛《まぎ》れてしまった。  まさか耳か尻尾《しっぽ》が出ていたわけでもあるまいな、と思ってホロに目を向けると、ホロも少し首をかしげていた。 「わっちを見て驚いておったな」 「相手が人ならざるもの、とか」 「そんな感じはせんかったが……あの娘《むすめ》、わっちの見目《みめ》麗《うるわ》しさにたじろいだのやもしれぬ」 「まさか」  わざとらしく得意げに胸を張るホロにロレンスは笑ってから、「え」と聞き返していた。 「娘?」 「ん?」 「女だったのか」  あまりにも旅なれた様子とかすれた声から男だとばかり思っていたが、ホロがそういうことを間違《まちが》えるとも思えない。  一体なにを商《あきな》っているのだろうか、と女旅商人の消えた方向を見ていると、再び手を引っ張られた。 「わっちの側《そば》で他《ほか》の雌《めす》のほうばかり向いているのはどういう料簡《りょうけん》かや」 「そういうことは直接言わず、態度で示したほうが可愛《かわい》げがあると思うんだがな」  ホロは眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せることすらせず、軽蔑《けいべつ》するような目で答えた。 「ぬしはたわけじゃから言わねば気がつかぬじゃろうが」  先ほどのこともあり、明確に反論できないのが悲しいところだった。 「で、どうするかな」  馬鹿《ばか》なやり取りはこのへんにして、今日の予定を組み直さないといけない。 「なんとかいう男に会うのは難しいのかや」 「リゴロ、とかいってたな。会議の書記となると難しいかもしれない。しかし、会議でなにをやっているのかにもよると思うが……」  ロレンスが整えたばかりの髭《ひげ》をぞりぞりと撫《な》でながら言うと、ホロは一歩前に出てこう言った。 「会議でなにをやっておるか知りたくて仕方がないという顔じゃな」 「そうか?」  顎《あご》から頬《ほお》を撫でて聞き返すと、振り向いたホロの顔は実に意地悪そうだ。 「ならまったく気にならず、会議とやらが終わるまでだらだらと過ごしてくれるんじゃな?」  ロレンスは笑ってしまった。 「いや、さすがは賢狼《けんろう》の観察眼。俺は町でなにが起こっているか知りたくてたまらない。それどころか」 「あわよくば一儲《ひともう》けしたい」  肩《かた》をすくめると、ホロは首をかしげて微笑《ほほえ》んだ。 「こんな木札を配るくらいだからな。なにか面白《おもしろ》いことになってるんだろうさ」  ロレンスは腰《こし》のポケットから�外地商人証明札�なるものを取り出した。 「じゃが、ぬしよ」 「ん?」 「ほどほどにしてくりゃれ?」  さらわれたり、地下水道で追い詰《つ》められたり、破産の危機《きき》に直面したり、大喧嘩《おおげんか》をしたりを経てからのホロのその言葉は、苦笑いしないでいられるほど軽いものではない。 「わかってるよ」  だからそう答えたのだが、その瞬間《しゅんかん》、つい数瞬前まで可愛《かわい》かった賢狼は実に腹の立つ顔になってこう言った。 「どうだか」  男どもは口ばかり、と言わんばかりのホロに反論するには、一つの方法しかない。  ホロの手を取って、ロレンスは努めて商談用の顔と口調を作り上げた。 「では、まずこの町の観光などいかがですか?」  階段で手の甲《こう》に口づけをしたあとでは少し効果が薄《うす》かったようだ。あるいは、直後にきっちり逆転されたからかもしれない。  それに、ちょうど目の前を通り過ぎた馬車の荷馬がぼとぼとと糞《くそ》をたらしながら歩いていたのも良くなかった。  それでもホロは及第点《きゅうだいてん》をくれたらしい。ふんと鼻を鳴らして、ロレンスの隣《となり》に立った。 「ま、それでもいいじゃろ」 「かしこまりました」  半年前の自分が今の自分を見たらきっと腰を抜《ぬ》かすだろうなとロレンスは思ってしまう。 「で、観光なんてどうするのかや。確かにわっちゃあ本当にここに来たことがあるのか思い出せぬほど様変わりしておるが」 「港に行こう。船が主流になったのは最近だと聞く。海のそれほどじゃないが、結構圧巻だぞ」 「ほう、船かや」  ホロの手を引いて歩き出す。  二人だと早く歩けなくて面倒《めんどう》だ、などと、一体|誰《だれ》が言っていたのだろうか。  隣《となり》を歩くホロに歩調を合わせて、ロレンスは胸中で一人|呟《つぶや》いて笑ったのだった。 [#改ページ]  第二幕 「まあ、結局こうなるよな」 「んう?」  ロレンスが呟《つぶや》くと、ホロはジョッキで半分|隠《かく》れた顔をこちらに向けてきた。 「なんでもない。こぼすなよ」 「うむ」  他《ほか》の町で作られるものよりも度の強い、その名も重きビールを軽々しく飲み干して、ホロは焦《こ》げあとのついた貝を手に取った。  レノスの側《そば》を流れるローム川で採《と》れる二枚貝で、大きさはホロの手と同じくらい。実が柔《やわ》らかく、すりつぶしてからパンくずと共に練って殻《から》に戻《もど》して焼いた、この町の名物だ。たっぷりと芥子《けし》種を載《の》せて食べれば、これ以上ビールの進む食べ物など存在しないと思えてしまう。  ローム川の岸辺を削《けず》って作られた大きな楕円《だえん》形の港を前にした当初こそ、そこに停泊《ていはく》するたくさんの平底舟に感嘆《かんたん》の声を上げていたホロだったが、船乗りや船から降りたばかりの旅人の空腹を狙《ねら》う露店《ろてん》からの良い香《かお》りに鼻をくすぐられると、あっさりとそちらに心|奪《うば》われてしまっていた。  使い古された木箱を積み上げただけの簡素なテーブルの上には三人前の貝が並び、飲み干されたビールはすでに二人前だ。  ロレンスはアロルドが飲んでいたような温めたぶどう酒を頼《たの》んでホロに嫌《いや》な顔をされた。  この酸味があれば、あとはただ酒をゆっくりと飲む時間さえあればよい。 「しかし、こうして見るだけじゃ町になにか問題があるようには見えないな」  なにが積まれているのか、人の身長ほどもある木箱が船から下ろされると、早速《さっそく》数人の商人が蓋《ふた》をこじ開けて中身についてあれこれ議論を始めている。  これほど立派な港があれば、そこに入ってくる商品の数というのは途方《とほう》もない。それでなくとも、傍《はた》から見ているだけでは想像もできないほどたくさんの商品が集まるのが町というものだ。  日常の食料品はいうに及《およ》ばず、例えば材木が入ってくるならば、それを加工する鋸《のこぎり》、のみ、釘《くぎ》、金槌《かなづち》や、それらそのものを修理したり作製したりする旅の鉄細工師が町にやってくるし、材木をまとめるための縄《なわ》、革紐《かわひも》、陸路|運搬《うんぱん》用の馬やロバ、またはそれらにつける馬具の数々と、数えていくときりがない。  あるいは単純に港に船が入ってくるのだから、造船技師や工具類、または船そのものだって商品としてやってくる。一体どれくらいの種類の商品がどれくらいの量で行き来しているのかは、全知全能の神くらいしか把握《はあく》していないだろう。  雑多な、という言葉がこれ以上当てはまる場所もないくらいに活気に満ちた港の全景を見ていると、多少の問題などあっという間に覆《おお》い隠《かく》されてしまう。  ロレンスから借りたナイフで器用に貝に盛られたすり身をすくっては口に運んでいるホロは、言葉につられたように辺りを見回してから、ぐびりと一口ビールを飲んだ。 「狼《オオカミ》の群れと群れが縄張《なわば》りを争って熾烈《しれつ》な戦いをしておってもな、森というものは遠くから見ればいつもと変わらぬ静けさじゃ」 「お前くらいに目と耳が良ければ、遠くからでもわからないか?」  ホロはすぐに返事をせずもったいぶるようにうつむいて、フードの下で狼の耳を動かしている。  いつもなら焦《じ》れたところをホロにからかわれる流れだが、今日は酸味の強い温かいぶどう酒がある。それをすすりながら、ホロの報告を待った。 「あそこの、見えるかや」  しばらくして、ホロは貝のすり身をすくったナイフの先で体中から湯気を立てている男を示した。彼が寄りかかっているのは細かく砕《くだ》かれた岩のようなものが山盛りに盛られている腰《こし》ほどの高さの桶《おけ》だ。筋骨|隆々《りゅうりゅう》のその見た目は、へたをすれば海賊《かいぞく》に見えなくもない。  そんな彼に渋面《じゅうめん》を作って相手をしているのは、手に羊皮紙かなにかの束を持った細身の商人。  ロレンスがホロの言葉にうなずくと、ホロは真剣《しんけん》な顔でこう言った。 「あの男は怒《おこ》っておる」 「ほう?」 「どうやら船の積荷にかけられた税がものすごく高く、当初の値段では積荷を渡《わた》したくないと言っておる。首の値段? が、どうこうとか言っておるな」 「人質税だな。川の上を行く船は、川を所有する領主の人質だからな」 「ふむ。そして、それに対するやせっぽちの男の返答はこうじゃ。今年は北の大|遠征《えんせい》がなくなったせいで町は大|揉《も》めに揉めている。金を払《はら》ってもらえるだけありがたいと思え、と」  毎年冬に行われていた、教会がその権威《けんい》を誇示《こじ》するための北への大遠征は、その通過点となる国プロアニアと教会権力との政治的な関係に影《かげ》が落ちたために中止された。それが理由でロレンスも一時は破産の危機に直面した。  だからというわけでもないが、ロレンスは少し驚《おどろ》いてホロを見る。ホロは相変わらず耳をそばだてているようでうつむいたまま目を閉じていた。  それからロレンスが視線を再び二人の男に向けると、遠目でも商人ふうの男が最後|通牒《つうちょう》を船乗りに言い渡《わた》したのがわかった。 「なんなら毛皮と共に会議にかけてもいいんだぞ」  ホロはそう言って、目を開けた。  ホロに担《かつ》がれている、と思うのはうがちすぎだろうか。 「似たような会話をしておる連中が少なくとも……四組はおる。税金が高すぎる。北の大遠征。町の輸入がどうこう」  喋《しゃべ》りつつ貝のすり身をナイフでほじくり、ナイフの上に身が載《の》れば載るほど、ホロの興味はこちらに移っていっているらしい。  山盛りにすくったそれを口に運ぶ時は、この世にはその食べ物しかないといった感じだった。 「そう言われればそうか……。物流の基点になるような町が、北の大遠征中止の影響《えいきょう》を受けないわけがない。リュビンハイゲンではそれで痛い目に遭《あ》ったわけだしな。しかし、それと町の入り口で足止めを食らっていた連中とどういう関係が?」  町が普段《ふだん》と違《ちが》う様子ならば、そこには普段と違う商売の機会が転がっている。  ロレンスが一人|呟《つぶや》きながらあれこれ考えを進めていると、だらしなくげっぷをしたホロがこつこつとテーブルを叩《たた》いた。 「おかわりか?」  レノスの町の現状が見えてきて、ロレンスの興味は完全にそちらに奪《うば》われている。ホロが静かにしてくれているか、あるいは推察《すいさつ》の協力をしてくれるなら酒の一|杯《ぱい》や二杯安いものだ、と瞬時《しゅんじ》のうちに損得|勘定《かんじょう》をする。  露店《ろてん》の店主のほうにロレンスが手を上げて追加を注文すると、ホロは満足げな笑《え》みを浮かべて小首をかしげた。 「今|頼《たの》んだ酒は、わっちのためではなく、自分自身のためじゃな」 「ん?」 「酒で酔うのはわっちじゃが、ぬしは別のもので酔っ払《ぱら》っておる」  楽しそうに笑うホロの頬《ほお》はほんのりと紅《あか》い。  それでも、いつもならロレンスが眉《まゆ》をしかめるのに、ためらいもせずにおかわりに応じた理由には気がついているらしい。 「酒は金を払《はら》って酔《よ》っ払うものだが、目の前に商売の種が転がっていないかと考えるのは無料だからな」 「しかも、わっちが側《そば》でぎゃんぎゃん吠《ほ》えず、あるいは素直《すなお》に協力に応じてくれるようなら酒の一|杯《ぱい》や二杯安いもの」  小さな巨人とはこのことだ。  口の端《はし》にビールの泡《あわ》をつけたままのホロに対し、ロレンスは降参の意を示した。 「ま、色々考えておるぬしは実に楽しそうじゃからな。わっちはその横顔を見て酒を飲むことにしよう」  運ばれてきた酒と、今火から外されたばかりといった音を立てている貝の料理と引き換《か》えにぼろぼろの黒いリュート銀貨を店主に渡《わた》しながら、ロレンスはホロを見|据《す》えて言葉を返す。 「俺はお前がいつの間にかいなくならないように、時折そっちを振《ふ》り向けばいいわけだな?」  ビールがなみなみと注《つ》がれたジョッキを手渡すと、ホロは笑ってこう言った。 「まあまあじゃな」  点が辛《から》い割にローブの下で尻尾《しっぽ》が楽しそうにしていたようだったので、「それはどうも」とすまし顔で返したのだった。  結局、昼前にロレンスは一人でレノスの町を歩いていた。  ホロ自身も驚《おどろ》いていたが、体の底で未《いま》だくすぶっている旅の疲《つか》れはいつも以上に酒の効果を強くしたらしい。足にきて一緒《いっしょ》に歩けないというよりも、眠《ねむ》くて仕方がない様子だった。  そんなホロを宿まで送り、ロレンスは呆《あき》れつつも少しだけほくそ笑む。  ホロはこの町でロレンスがまた商売に首を突《つ》っ込むことを嫌《いや》がっている節がある。これまでの旅を振り返れば納得《なっとく》できなくもないが、ロレンス自身がホロと旅をする前のことまで振り返ってみれば、じっとしているほうがおかしいともいえる。  なので、のびのびと町を走り回ることができるようになったのはちょっと好都合だった。  とはいうものの、この町に親しい知人がいるわけでもない。  しばらく悩《なや》んだのちにロレンスが足を向けたのは、過去に利用したことのある酒場だった。 �獣《けもの》と魚の尻尾亭�という変わった名前の酒場で、軒《のき》には大きな鼠《ネズミ》を象《かたど》った青銅の看板がぶら下がっている。川に堤防《ていぼう》を作る奇妙《きみょう》で賢《かしこ》いこの鼠は、体が獣ならその大きな平べったい尻尾と水かきのついた後ろ足は魚であると教会によって定められている。  そのために、肉の焼ける匂《にお》いが香《こう》ばしい酒場でありながら、ここで舌鼓《したつづみ》を打つ聖職者も少なくない。魚はいくら食べたところで誰《だれ》にも非難されないからだ。  ただ、そんな珍《めずら》しい鼠《ネズミ》を取り扱《あつか》う人気の酒場であっても、昼を前にしたこの時間はさすがに閑散《かんさん》としている。客はおらず、隅《すみ》っこのテーブルで店の娘《むすめ》が前掛《まえか》けにつぎあてを当てていた。 「開いてますか?」  ロレンスが入り口で問うと、糸を口で噛《か》み切った赤毛の娘は、手元の前掛けを軽く掲《かか》げながらいたずらっぽく笑った。 「穴は今ふさいだばかりですよ。見てみます?」  酒場の看板娘の見本のような切り返しだ。 「遠慮《えんりょ》しておきます。それに、穴が開くほど見てしまう、なんていう言葉もあります。あまり見すぎてまた穴を開けてしまったら大変ですから」  娘は針を木箱にしまい、立ち上がると穴のふさがれた前掛けを着けながらおどけるように首を振《ふ》った。 「なら、前掛けにすぐ穴が開くのはお客さんが私を見ずに前掛けばかり見ているからかしら?」  さすが酔客《すいきゃく》どもをあしらう酒場の娘。  ロレンスも商人として負けてはいられない。 「せっかくの美貌《びぼう》ですから鼻の穴が三つにならないように皆《みな》気遣《きづか》っているのでしょう」 「そう? 残念ね。そうなれば胡散臭《うさんくさ》い客をもっと早くに嗅《か》ぎ分けられるのに」  最後に前掛けの紐《ひも》を締《し》めて、娘は殊更《ことさら》残念そうに言ってため息をつく。  ロレンスは、娘に花を持たせるために負けましたと肩《かた》をすくめた。 「ふふ。やっぱり旅のお客さんは乗りが違《ちが》いますね。で、お酒? 食事?」 「魚の尻尾《しっぽ》料理を二人前お願いしたいのですが。包みで」  しばし娘が迷う素振《そぶ》りを見せたのは、奥の厨房《ちゅうぼう》から鍋《なべ》をふるう音が聞こえているからだろう。  昼に備えて港で働く連中向けの弁当を作る仕上げの時間のはずだ。 「急ぎではありません」 「それなら、お酒を一人分追加でどうですか?」  しばらく待ってくれということ。  娘の営業のうまさにロレンスは笑顔《えがお》でうなずいた。 「麦か葡萄《ブドウ》か、あるいは梨《ナシ》なんてのもありますけど」 「この季節に梨の酒?」  果実酒はどれも腐《くさ》りやすい。 「どういうわけか倉庫の中で腐らなかったんですよ。おっと」  娘は言って、わざとらしく口を押さえる。  過去に来た時はいつも客でごった返していたのでろくに話したことがなかったが、この酒場がはやっているとしたらやはりこの看板娘のお陰《かげ》だろう。 「なら、梨《ナシ》で」 「はーい。しばらくお待ちを」  元は何色だったのか、臙脂《えんじ》色に濃《こ》い灰色を混ぜたような不思議な色のスカートを翻《ひるがえ》して、娘《むすめ》は奥に引っ込んでいった。  港町の酒場の賢《かしこ》く明るい看板娘とくれば、将来の引き取り手は船を何|艘《そう》も所有する商会の次男坊《じなんぼう》あたりだろうか。  あるいは、血道《ちみち》を上げて彼女に求愛する金持ちや美男子を袖《そで》にして、たまたま酒場にやってきたなんでもない普通《ふつう》の職人とあっさり恋に落ちるのかもしれない。  買われていく商品の落ち着きどころならば想像はできても、このあたりはロレンスの領域ではない。ホロに聞けばあっさりと正解を教えてくれそうな気もしたが、それはなんとなく悔《くや》しかった。 「お待ちどおさま。ちょっと時間がかかりますけど、お客さんが聞きたいことに答えていたらちょうどいいかもしれませんね」  本当に賢《かしこ》い娘だ。  ホロと会話をさせたら素晴《すば》らしい芝居《しばい》が見られるかもしれない。 「こんな時間に行商人ふうの方が酒場に来るなんて目的は一つしかないですからね。私で答えられることなら喜んで」 「その前に料金を」  ロレンスは梨酒の入ったジョッキに手をつける前に、真っ黒い銅貨を二枚置く。  銅貨一枚でこの酒が二|杯《はい》から三杯は飲めるだろう。  娘の顔が、酒場の女のものになる。 「それで?」 「ええ、なんてことはないんです。この町が普段《ふだん》と異なっているところ。例えば、町の入り口に商人ふうの人たちがたむろしていることなどを聞ければ」  気前よく銅貨二枚を出されたせいで、どこかの商会の裏話でも聞かれると思っていたのかもしれない。娘はちょっと表情を緩《ゆる》めた。 「ああ。あの人たちはね、毛皮と、それに関係する物を扱《あつか》っている人たちですよ」 「毛皮?」 「そうです。半分くらいは遠くの国から毛皮を買い付けに来た人。もう半分は、毛皮を加工するのに必要な物を商っている人たち。ええと……」 「石灰《せっかい》、明礬《みょうばん》、オークの木の皮」  毛皮の加工といわれればすぐに思い浮かぶのはこのあたり。変わったところでは鳩《ハト》の糞《ふん》などもある。染色になればもっと多種多様の商品が挙がる。 「確かそんな商品だったかしら」  ロレンスはアロルドの言葉を正確に思い出す。  間違《まちが》いなく、町で開かれている五十人会議の内容は毛皮の輸出入にまつわることだ。 「で、なんで町の入り口に人がいるかというのはですね、今、町の偉《えら》い人たち皆《みな》で毛皮を商人さんたちに売るか売らないかで議論してるんですよ。その間、毛皮を売ることも買うことも禁止。そうすると、職人さんたちは毛皮を加工するのに必要な商品を買おうかどうしようか迷うじゃないですか? それで、あんなことになってるんですって」  きっと散々聞かれて説明しなれているのだろうが、それが本当なら一大事のはずだ。  ロレンスは、梨酒《ナシざけ》のことも忘れて加えて訊《たず》ねた。 「では、そもそもなぜそんなことに?」 「それはあれですよ。毎年冬になるとたくさん北に人が来るじゃないですか」 「大|遠征《えんせい》?」 「そうそう。それが中止になったせいで、毛皮の服を買ってくれる人がいなくなったとか。だからいつもならこの時期はもっとたくさん人がいるんですけどね」  人が来れば金が落ちる。特に北の毛皮は南では大人気だから土産《みやげ》としても喜ばれるだろう。  ただ、それがなぜ毛皮の売買を停止してまで会議するようなことになるのか。  第一、町の入り口にたむろしているのは毛皮の買い付けに来た商人たちではないのか。いつも毛皮の服を買ってくれていた北の大遠征でレノスにやってくる人間が来なくなったといっても、買い手はいるのだから売ればいい。  まだ、なにか情報が足りていない。 「毛皮の服の買い手がいなくなったのはわかりましたが、それならたむろしている商人の方たちに売ればいいのでは?」  ロレンスが訊ねると、娘《むすめ》はロレンスの手元にあるまったく中身の減っていないジョッキに目をやって、微笑《ほほえ》みとともに飲むようにと促《うなが》した。  酒場の娘は本能で男を焦《じ》らす方法を心得ているのかもしれない。  逆らって回答を催促《さいそく》したら気を悪くするか軽く見られるかのどちらかだ。  ロレンスがおとなしく甘い梨酒を口にすると、娘は合格とばかりに歯を見せた。 「騎士《きし》様とか傭兵《ようへい》とか、皆《みな》お金の使い方が荒《あら》いですよね。でも、商売でこの町に来る人たちは皆お金の支|払《はら》いが渋《しぶ》いです」  娘はロレンスの支払った二枚の銅貨をテーブルの上で軽く弄《もてあそ》ぶ。 「私も、時折貴族のお嬢《じょう》さんが着るようなふかふかの服を贈《おく》られたりするんですよ。もちろんものすごい高価です。でも……」  ロレンスは、「ああ」と口にしていた。ホロに付き合ってぶどう酒など飲んでいたから頭が鈍《にぶ》っていたのかもしれない。 「なるほど。服になる前の毛皮は驚《おどろ》くほど安いですからね。服にしてから売らないと、町に落ちるお金が少ないというわけだ」  娘《むすめ》が、悔悛《かいしゅん》した信徒を前にした聖職者のように微笑《はほえ》む。よくできました、と。  これで構図がいっぺんに見えた。  しかし、ロレンスが全景を確認《かくにん》する前にすっと娘がテーブルの上に身を乗り出した。  そして、弄《もてあそ》んでいた銅貨を一枚、そっと胸の中にしまうと、顔つきが変わった。 「ここまでは、他《ほか》の酒場の尻軽女《しりがるおんな》からでも集められる話」  上目|遣《づか》いに、少し顎《あご》を引いて突然《とつぜん》言葉遣いを悪くする。ロレンスが娘を見ようとすれば、自然と視線の先には細くて綺麗《きれい》な鎖骨《さこつ》と、その先が目に入るような姿勢だ。  酔客《すいきゃく》との心の距離《きょり》の詰《つ》め方を完全に心得ている。  ロレンスは瞬時《しゅんじ》にこれは商談だと自分に言い聞かせた。  相手は、客に高価な毛皮の服を買わせるような女なのだ。 「気前と乗りの良いお客さんは大事にしないといけませんからね。これから言うことは、聞かなかったことにしてくださいよ?」  ロレンスは、娘の雰囲気《ふんいき》に飲まれているふりをしてうなずいた。 「十中八九、外の商人さんたちの毛皮の買い付けは阻止《そし》されるはずです。職人さんや毛皮を扱《あつか》う人たちは怒《おこ》るでしょうけど」 「情報元は?」  訊《たず》ねると、娘は妖艶《ようえん》に微笑んだまま口をつぐんだ。  ロレンスの勘《かん》では、娘はきちんとした情報元を持っている。それはおそらく店に来る五十人会議の参加者の誰《だれ》かだろうが、もちろんそれを言えるわけもない。  ただ、「それは言えない」とすら言わなかったのは、この一言が娘の独《ひと》り言《ごと》だからだし、真偽《しんぎ》のほどは極《きわ》めて怪《あや》しいからに他ならない。  ある種ロレンスを試《ため》しているというのに近いのだろう。  本当に重要な話をあっさり話すわけがないのだから。 「私は酒場の娘なので毛皮の値段がどうなっても気にならないんですけど、商人さんたちはそれを肴《さかな》にお酒を飲まれるでしょう?」 「ええ。時として深酒をしてしまうくらいに」  ロレンスが商談用の笑顔で答えると、娘は目を閉じて口元だけ笑ったままうなずいた。 「良い酒場から出ていく人は皆《みな》べろべろ。お客さんもそうだと嬉《うれ》しいわ」 「酒は飲みましたから、酔《よ》いが回るのもすぐですよ」  娘は目を開く。  口は笑っているのに、目が笑っていない。  ロレンスが口を開こうとすると、厨房《ちゅうぼう》のほうから娘を呼ぶ声がした。 「あ、ちょうど料理ができたみたいですね」  そう言って椅子《いす》から立ち上がる頃《ころ》には、ロレンスがこの店に入った時の娘《むすめ》に戻《もど》っていた。 「ところでお客さん」  と、テーブルから離《はな》れる直前に娘は振《ふ》り向いた。 「なんでしょう」 「奥さんとか、います?」  予想していなかった質問にややたじろぎつつ、ホロにいつも意表をつかれているせいか、すぐに返事をすることができた。 「財布《さいふ》の紐《ひも》は握《にぎ》られていません。ですが……手綱《たづな》はしっかりと握られています」  ロレンスが答えると、友達に向けてそうするように、娘はにーっと歯を見せて笑った。 「くー。きっととてもいい人なんだろうな。悔《くや》しい」  酔《よ》った男連中を籠絡《ろうらく》する腕前《うでまえ》にちょっとした誇《ほこ》りを持っているのだろう。  ロレンスだってホロと出会っていなければ、あるいはもう少し酔っていればあっさりと引《ひ》っ掛《か》かっていたかもしれない。  ただ、それを言うことは敗者の傷に塩を塗《ぬ》ることになってしまう。 「機会があったら店に連れてきてくださいよ」 「ええ」  これはほとんど本気だ。  この娘とホロが会話しているところをとても見てみたい。  ただ、側《そば》にいるととんでもないことに巻き込まれそうだったが。 「じゃ、ちょっと待っててくださいね。料理持ってきますから」 「よろしくお願いします」  娘は再びスカートを翻《ひるがえ》して奥の厨房《ちゅうぼう》に引っ込んだ。  ロレンスはその後ろ姿を眺《なが》めながら、梨酒《ナシざけ》を口に運ぶ。  ホロの存在の大きさは、他人から見てもわかるらしかった。  手には熱いくらいの尻尾《しっぽ》料理を包んだ麻布《あさぬの》の袋《ふくろ》を持ち、ロレンスは港沿いの大通りに出てもう一度|停泊《ていはく》している船を見て回った。  酒場の娘の話を聞く前とあとでは、なるほど停泊している船の様子も少し違《ちが》ったように見える。  よくよく見れば山盛りの荷物に藁《わら》や麻布で覆《おお》いがかぶせられ、しばらく出港の予定がないようにしっかりと桟橋《さんばし》に固定された船がかなりの数あった。もちろん中には元々この町の港で冬を越《こ》させる予定のものなどもあるのだろうが、ちょっとその数が多いような気がする。少し乱暴に推測《すいそく》すれば、あれらは毛皮そのものか、その加工に必要なさまざまな物資なのだろう。  レノスは毛皮と材木の町、と呼ばれるくらいに毛皮の取引量が多い。  旅の行商人であるロレンスにはどれくらいの総量が行き来しているのかわからないが、例えば毛皮専門の商人が胸の高さあたりの大きさの樽《たる》一杯《いっぱい》にリス皮を仕入れたとしたら、それだけで三千枚や四千枚に達してしまう。そんな樽がごろごろしているだけで、気の遠くなるような枚数になるだろう。  そんな大量の毛皮の取引が停止されたら、どれほど大勢の人間が困ることか。  ただ、レノスの町ができるだけ多くの税金を取ろうというのもわかるし、なにより毛皮のまま外地商人に買われてしまっては町に住む職人たちが路頭に迷うことになる。どんな商売でも原料を調達して加工してから売り捌《さば》くのがもっとも利益率の高いことは誰《だれ》だって知っている。  かといって、北の大|遠征《えんせい》が中止され、南からの大量の旅人が期待できない今、毛皮を町で加工してもそれが金に換《か》わる保証がまったくない。  それに毛皮の良し悪しと加工技術の良し悪しはまた別問題で、服を作るだけならばレノスよりも優《すぐ》れている技術を持った町がいくらでもある。レノスの町で土産《みやげ》品としてなら飛ぶように売れる服も、わざわざ輸送費をかけて遠くの町に輸出するとなると、厳しいものがあるはずだ。  そう考えるとやはり町としては職人たちの大反対を押し切っても外地商人たちに毛皮を売る決断を下したほうがよい気がする。  そうなれば少なくとも今年は毛皮が金に換わる。わざわざ外地商人が大挙して押し寄せてきているのは、レノスに集まる毛皮の質が良いからだから、それなりの値段がつくことだろう。  それでも酒場の娘《むすめ》は、五十人会議は外地商人の毛皮の買い付けを阻止《そし》するだろうと言った。  となると考えられる可能性は少ない。  そもそも町の外に商人たちがたむろしている、ということからしておかしいのだ。  損得|勘定《かんじょう》で得と出れば他人を蹴《け》散らしてでも出し抜《ぬ》くことは正義だと信じて疑わないような商人たちが、揃《そろ》っておとなしくしていることなどあり得ない。  一人二人と抜け駆《が》けをして、結局収拾がつかなくなるのが落ちのはず。  それが大した混乱もなさそうに収まっているのは、外にいる商人たちが個々人の思惑《おもわく》だけでそこにいるのではないからだろう。  間違《まちが》いなく、裏に大きな権力機構が控《ひか》えている。  それが服の加工で有名な西の海を渡《わた》った町の巨大な商人組合なのか、あるいは毛皮に関する貿易を独占《どくせん》したいと考える眩暈《めまい》がするほどの大商会なのかはわからない。  とにかく、大きな力がその裏には控えている。  そして、レノスの町の頭脳たちはそのことに気がついている。  ロレンスは港の前を通り過ぎ、活気と喧騒《けんそう》に満ちている通りに入って結論づける。  レノスの町は外にいる商人たちにこう言われているはずだ。  毛皮が売れずにお困りでしょう。買い取ってあげましょうか。でも、その場限りのお付き合いということじゃあ世の中うまく回りません。どうでしょう、来年、再《さ》来年も我々に売っていただけませんかね、と。  これを飲めば、やがてレノスの町は本当にただ毛皮が集まってきてそれがよそに流れていくだけの町になってしまう。そうなればそのうち毛皮を集める機能そのものを町の外の誰《だれ》かに取られてしまうだろう。  ただ、これをあっさりと突《つ》っぱねられないのは、なにも町の中の職人からの反対だけではない。  後ろに大きな権力機構が控《ひか》えているのだとすれば、考えなしに外地商人たちの要求を突っぱねると、後ろに控えている権力機構から「レノスの町は外地商人を差別するのか」と言われるに違《ちが》いない。  こうなると町だけの問題ではなく、町とつながりのある領主貴族にまで問題が波及《はきゅう》する。商売の問題が政治の問題になった時、問題解決のために必要な金額は三|桁《けた》も四桁も跳《は》ね上がる。  これは個々の商人の思惑《おもわく》など芥子粒《けしつぶ》ほどの意味も持たない大きな構造同士の戦いだ。  ロレンスは髭《ひげ》をぞりぞりと撫《な》でる。  自然と、口元が笑ってしまう。 「動く金がでかい」  久しぶりの独《ひと》り言《ごと》は、一週間|履《は》き通しだった靴《くつ》を脱《ぬ》いだ時のような快感をもたらした。  動く金がでかければでかいほど、おこぼれの金額もでかくなる。  商人の錬金《れんきん》術は、商品と商品、人と人との関係の複雑な構造から泉のように金をわき上がらせることだ。  頭の中には古ぼけた羊皮紙が一枚。  その羊皮紙には次々と毛皮を巡《めぐ》る構図が描《えが》かれていき、それはどんどん宝の地図と化していく。  さて、宝は一体どこにあるだろう。  ロレンスが舌なめずりをせんばかりにそう問うた時、左手が宿の部屋の扉《とびら》を開いていた。 「……」  ロレンスはいつ自分が宿にたどり着いたのかまったく覚えていなかったが、沈黙《ちんもく》してしまったのは別の理由による。  一眠《ひとねむ》りしてすっきりしたのか、ベッドの上で毛づくろいをしていたホロが、ロレンスの顔を見るなり尻尾《しっぽ》を背中の後ろに隠《かく》したのだ。 「……どうした?」  どことなくわざとらしさはあったものの、酔《よ》いは覚めているらしいホロの警戒《けいかい》した視線を向けられてロレンスは思わずそう聞いていた。 「敵《かな》わぬからな」 「え?」 「尻尾《しっぽ》を売られたら敵《かな》わぬ」  言って、ホロは少女が隠《かく》れた木の後ろから顔を出すように尻尾を見せて、また背中の後ろに隠した。  もちろん言葉の意味はわかった。  顔が、完全に商人になっていたのだろう。 「俺は狩人《かりうど》じゃない」  肩《かた》をすくめて、笑いながら部屋に入り、扉《とびら》を閉めて机に歩み寄った。 「売れるものはなんでも売るといった顔に見えたんじゃがな?」 「それは正確じゃないな。たとえば俺は道の途中《とちゅう》に生えている木苺《キイチゴ》を摘《つ》んで売ろうとはしない」  ホロは一度だけ視線をロレンスの手に持たれている料理の包みに向けて、またロレンスの顔に戻《もど》す。 「俺は行商人だからな。必ず誰《だれ》かから仕入れて、誰かに売る。それは譲《ゆず》れない大原則だ」  金が欲しいと思うのは全《すべ》ての商人に必要なことだが、自分がなんの商人であるかを忘れた時、金が欲しいという欲望だけが暴走する。その時に、信用とか、倫理《りんり》とか、信仰《しんこう》とか、そんなものはなくなってしまう。  そこにいるのは、ただ一人の金の亡者《もうじゃ》だ。 「そういうわけで、お前の尻尾は刈《か》り取らない。夏になって暑くて毛を剃《そ》りたいというなら、喜んで刈り取って売るだろうけどな」  机によりかかって話すロレンスの言葉に、ホロは子供のようにべっと舌を出して再び尻尾を手元に置いた。  ロレンスとしても、毛がなくなったホロの尻尾など絶対に見たくない。 「ふん。で、それはなんじゃ?」  片目だけロレンスの土産《みやげ》に向けて、尻尾を軽く噛《か》みながらホロは言った。 「これか? これはな……そうだ。匂《にお》いだけでなんの獣《けもの》のどこの肉か正確に当てられたら晩飯はお前の好きなものを好きなだけにしよう」 「ほう」  ホロの目の色が変わる。 「ニンニクが使われてると思うが……そのくらいなら平気だろ」  机から体を離《はな》し包みごとホロに手|渡《わた》すと、ホロは早速《さっそく》真剣《しんけん》な面持《おもも》ちでまるっきり獣っぽくすんすんと鼻を鳴らして匂《にお》いを嗅《か》ぐ。獣っぽい仕草は別段|珍《めずら》しくもないが、なんとなく愛嬌《あいきょう》があってつい見つめてしまった。  そして、ふとロレンスの視線に気がついたホロは不機嫌《ふきげん》そうに顔をしかめた。  裸《はだか》は見られても気にしないのに、これは嫌《いや》らしい。  もちろんなにを気にするかなんて人それぞれだ。ロレンスはおとなしく後ろを向こうとして、しかし体の回転を止めた。 「俺が後ろを向いている隙《すき》に包みをはがそうなんて真似《まね》は、まさか賢狼《けんろう》様はしないだろうな?」  ホロの表情は微動《びどう》だにしなかったが、尻尾《しっぽ》の先が変なツボを刺激《しげき》されたかのようにピクリと動いた。  図星らしい。  ホロは人ではないのだから独特の感覚があるのだろうと気を遣《つか》おうとすればこれだ。  これ見よがしにため息をついてやると、さすがにちょっと罪悪感があったのか唇《くちびる》を軽く引き結んでそっぽを向いた。 「で、わかったか?」 「待ちんす」  怒《おこ》ったように言ってもう一度|匂《にお》いを嗅《か》ぐ。もちろんロレンスは目をそらしておく。  しばらく、女の子が泣いているかのような音だけが部屋の中に響《ひび》き、少しだけ居|心地《ごこち》が悪い。  意識的に耳を木窓から聞こえてくる外の喧騒《けんそう》に向ける。晴れているのでもちろん音だけでなく日光も入ってくる。  やはり寒いことは寒いが、窓のある部屋というのはとてもよい。  窓がなく暖かい部屋ではまるで穴蔵で冬眠《とうみん》するような気分だっただろう。ホロの判断は英断だった。 「ぬしよ」  そして、そんな声でロレンスは意識と共に視線をホロに戻《もど》した。 「わかったか?」 「うむ」  肉料理はもちろん獣《けもの》の数以上に存在する。味や歯ごたえでならば区別がついても焼いた匂いで区別がつくものかどうか。それに、体は獣で尻尾は魚、なんていう珍《めずら》しい鼠《ネズミ》の尻尾料理だ。鼠の存在そのものは知っていてもその料理となれば知らない公算が大きい。  ちょっと意地悪だったか、と思いつつも差し出したのは晩飯の自由な選択《せんたく》だからちょうどいいだろう。  ロレンスが「で、答えは?」と訊《たず》ねると、ホロは返事とは裏腹に少し怒った顔でロレンスのことを見つめてきた。 「わっちがこれを当てるのと、ぬしの出した条件が釣《つ》り合っておらぬように思えてきたんじゃがな」  ロレンスは小さく肩《かた》をすくめる。わからなかったらしい。 「そういうことは初めに言うものだ」 「それはそうじゃが……」  うつむき、なにか考えるように視線をあらぬ方向に向けている。  これは単純にして明快な賭《か》けなのだから、どれほど賢《かしこ》いホロでも屁理屈《へりくつ》をこねる余地はないだろう。いつだって単純な契約《けいやく》がもっとも強力なのだ。 「で、答えは?」  ロレンスが重ねて訊《たず》ねると、ホロはふっと表情を諦《あきら》めのそれに変えた。意地悪な発想だが、たまにはこういう表情も見てみたい。  そして、そんなことを思った直後にホロの表情が勝利の笑《え》みに変わったのは、まさしく本当に一瞬《いっしゅん》のことだった。 「名は知らぬがな、でかい鼠《ネズミ》の尻尾《しっぽ》じゃろう、これ」  声が出ない。  驚《おどろ》くので精|一杯《いっぱい》だった。 「じゃからわっちは言ったのに。条件が釣《つ》り合わぬと」  んふふふ、と意地悪そうに笑い、ホロは包みを解き始めた。 「し、知ってたのか?」 「包みをはがして調べたのか、と言ったらぬしが泣き崩《くず》れるほどの料理を頼《たの》もうかと思っておったがな、勘弁《かんべん》してやろう」  布の包みの中から出てきたのは、薄《うす》い木の皮と蔓《つる》で巻かれた料理で、どう見たって簡単に解いて元に戻《もど》せるものではない。  それに、実際のところは材料の原形をとどめている料理を見たところでなかなかわからないはず。ホロは、いつの間にかその料理の存在を知っていたのだ。 「わっちゃあ賢狼《けんろう》じゃからな。この世に知らぬことなどない」  うそぶいて牙《きば》を見せるその様も、一笑に付せぬ迫力《はくりょく》がある。  蔓を解いて木の皮を取り、途端《とたん》に立ち上《のぼ》る湯気にホロは幸せそうに目を細めて尻尾を揺《ゆ》らした。 「知っていた、というのは正確ではない」  短冊《たんざく》状に切られた尻尾は、やはりそのままでは見たところでもとがなんだったかわかる由《よし》もない。ロレンスの口|真似《まね》をしたホロは、それを一切れつまんで顔を上に向け、大きく開けられた口にゆっくりと落とし込み、目と口を閉じてゆっくりと噛《か》み締《し》める。  本当においしそうに食べる奴《やつ》だ。  しかし、その様子は少しだけいつもと違《ちが》った。 「うむ……。やはり、そうじゃ」  いつもの、うまいものは早く食べなければ誰《だれ》かに奪《うば》われるとでも言わんばかりの食べ方ではなく、ゆっくりと味わうように、なにかを思い出すように食べながら、ホロは言った。 「この宿の主は、確かこう言ったな?」  脂《あぶら》のついた指を舐《な》め取って、ロレンスを見る。 「年月は石の建物ですら風化させる」 「いわんや、人の記憶《きおく》など」  ロレンスが続けるとホロは満足げにうなずき、ふと小さくため息をついて木窓のほうを眩《まぶ》しげに見た。 「ぬしは、記憶の中で最も長持ちするものはなにかわかるかや?」  また突拍子《とっぴょうし》もない質問。  人の名前? 数字? それとも故郷のこと?  そんなことが頭の中で現れては消えたが、ホロはまったく違《ちが》った方向から答えた。 「匂《にお》い、が一番記憶の中でよく残る」  言われて、少し首をひねる。 「見たこと、聞いたことなど簡単に忘れてしまいんす。じゃがな、匂いだけは明確に、なんの匂いかいつまでも覚えておる」  ホロは料理に目を落として、笑った。  ロレンスがそれを見て場違いにも動揺《どうよう》してしまったのは、その笑顔《えがお》がとても嬉《うれ》しそうな、懐《なつ》かしそうな笑顔だったからだ。 「この町はまったく見覚えなどなかった。じゃからな、実は少し不安じゃった」 「本当に自分はここに来たことがあるのかと?」  ホロはうなずき、嘘《うそ》をついているふうにも見えない。  ただ、そう言われると、ホロがいつにも増してじゃれついてきた理由がわかるような気がした。 「それでも、この食べ物だけははっきりと覚えておる。なにせ突飛《とっぴ》な生き物じゃからな。昔も特別|扱《あつか》いされておった。でな、昔はな、いくらでも獲《と》れるのかこういくつも串《くし》に刺《さ》してな、豪快《ごうかい》に焼いておったんじゃ」  膝《ひざ》の上で眠《ねむ》る子猫《こネコ》を慈《いつく》しむように、料理を両手で持って、ホロは顔を上げた。 「もしや、とは最初から思っておったがな、きちんと匂《にお》いを嗅《か》いだ直後に懐かしさで泣かなかったのが勝負の分かれ目じゃな」 「あんな策を取ったのは、わざとか」  考えてみれば、ロレンスが後ろを向いている最中に中身を見てしまおうなんて浅はかな策をホロが本気でやるのも妙《みょう》な話だ。  そして、その後ロレンスが目を離《はな》した時、ホロは少し泣いていたのかもしれない。 「わっちを人の好意につけ込む卑劣《ひれつ》な奴《やつ》じゃと?」 「つけ込むこと自体はしょっちゅうだろう」  これにはきちんと答えると、ホロはいつものように牙《きば》を見せて笑った。 「じゃからな」  ホロは言いながらロレンスに小さく手招きする。  またなにをされるのかとわずかに警戒《けいかい》心を抱《いだ》きながら近づくと、ホロは手招きした手でロレンスの服の裾《すそ》を掴《つか》んで引き寄せた。 「わっちはこの匂《にお》いもきっとずっと忘れぬ」  予想していた範疇《はんちゅう》の言葉。  ただ、いつものように切り返しは考えなかった。ロレンスを引き寄せたホロが、服に顔を当てたまま動かなかったから。  ホロは単なる旅の道連れではない。  その耳と尻尾《しっぽ》が見えているなら、ロレンスにもホロ並みの読心術が使えた。 「俺もだ」  ロレンスが言って、わずかにためらったのちにホロの頭を撫《な》でてやると、目尻《めじり》を服にこすりつけたホロが顔を上げて、ぎこちない笑顔《えがお》でこう言った。 「ぬしが言うとあまりにもクサいの。それこそ、忘れられぬほどに」  こっちは苦笑いだ。 「……悪かったな」  ホロは笑い、軽く鼻をすすってからもう一度笑った時には、いつものホロだった。 「わっちは確かにこの町に来たらしい」 「なら、お前の昔話もはっきり残ってるだろうな」  書物に、とは敢《あ》えて言わなかったが、こんな自己満足に近い気|遣《づか》いでもホロはきちんと気がついて喜んでくれる。  ただ、逆に言うとそのへんを気をつけないとうっかり尻尾を踏《ふ》んでしまうことになりかねないということなのだが。 「で、ぬしはまたどんな話を聞きつけてきたのかや?」  子供が新しい知識に触《ふ》れ、それを自慢《じまん》するのを聞く母親のようにホロは言った。  ホロはいつもか弱い女の子なわけではない。 「今回はまた格別に楽しそうなんだがな」  ロレンスがそう話し始めると、ホロは尻尾料理を食べながら、興味深げに聞いてくれたのだった。  この町の年代記作家であり、五十人会議の書記をしているというリゴロに会いたい理由が二つになった。  一つはホロの話がこの町に残っていないか、記録に当たらせてもらうため。もう一つは、この町の詳細《しょうさい》にして最新の状況《じょうきょう》を聞くため。  後者は完全に職業病的な興味からで、やはりこれまでの旅の前例を振《ふ》り返り、ホロは話を聞いてくれたもののいい顔をしなかった。  実際のところ、揉《も》め事の隙間《すきま》から錬金《れんきん》術のごとく金を吸い上げるなどという危険を冒《おか》してまで金|儲《もう》けをする必要があるかと問われると、その必要はまったくない。異教徒の町クメルスンでの儲けは、これまでどおり静かな商売を続けていればそう遠くない将来に店を持つ夢を叶《かな》えられるくらいにはあった。そうであるならば、一分一秒を惜《お》しんで商品を運んで儲けたり、危険を冒して投機的な商売に首を突《つ》っ込むよりかは、町に静かに滞在《たいざい》してじっくり人脈を築いたりするほうがよほど将来の儲けにつながることだろう。  ホロは商人ではないので将来の儲け云々《うんぬん》とは言わなかったが、似たような論調だった。  金に困っていないのであればのんびりしよう、と。  じっとしていると寒いので、話している最中にもホロは毛布の中に入り、やがてうつらうつらとし始める。ロレンスはホロの眠《ねむ》るベッドに腰掛《こしか》けて話していたが、そんな中、なんの衒《てら》いもなくそっとホロが手を握《にぎ》ってきた。  ベッドに腰掛け、そんな静かな時間を過ごしていると、ホロの意見がこの上なく正しいもののように思えてきたが、旅の途中《とちゅう》ならまだしも町に来てのんびりしていられるほど行商人という生き物は悠長《ゆうちょう》ではない。  そこを理解して欲しかったが、それは無理なことなのだろうか。  ただ、幸いというべきなのか、ロレンスも今すぐどうこうするというわけにはいかなかった。  レノスの町を巡《めぐ》る状況《じょうきょう》から、リゴロを含《ふく》めて会議に参加している者たちは不用意に外地の商人たちとは会わないだろう。  事が町の血液とも取れるような毛皮の輸出入に関することなのだから、素性《すじょう》のわからない外地商人と会っていたなどという余計な勘《かん》ぐりをされることは町の中での社会的|破滅《はめつ》につながりかねない。ロレンスが会議参加者なら、絶対に会わない。  それでも会おうとするのなら、誰《だれ》かしらに口|利《き》きを頼《たの》まなくてはならないだろう。  ただ、そこまでする必要があるかと考え直してみれば、うなずきがたい。それに、無理をして悪い印象を持たれればホロの記録を調べられなくなる。  ホロは表面上、のんびりしよう、などと言っているが、きっと腹の底では記録が見られるものならすぐに見たいと思っているに違《ちが》いない。万が一にも記録を見られなくなるということだけは避《さ》けたい……とロレンスがあれこれ考えていると、いつの間にかホロが寝息《ねいき》を立てていることに気がついた。  腹が減ったら食べ、眠くなったら寝る。  まさしく獣《けもの》のように自由気ままなホロだったが、日々の糧《かて》を得るために果てしない労働の道を一歩一歩歩む者たちならば大半が一度は夢見るような生活だ。  そんな生活を当たり前のこととしているホロが少し恨《うら》めしくて、つないだ手を解き、磨《みが》かれた卵のような頬《ほお》を人差し指の背で撫《な》でてやった。寝入《ねい》りばなは軽く頭を小突《こづ》いても起きないことがある。今もうるさそうに顔をしかめただけで、目は開けずに毛布の中に顔をうずめてしまった。  なんでもない、静かで幸福な時間。なにも生み出さず、ただ流れるだけの時間といえばそれまでだが、これは一人荷馬車に乗る時に望んでいたものの一つのはず。  それはほぼ確信に近いものだったのに、ロレンスの胸のうちにははっきりと、今この瞬間《しゅんかん》を無駄《むだ》に過ごしている、という焦燥《しょうそう》感がある。  金を稼《かせ》がなければ、商売の情報を集めなければ取り返しのつかない損をしてしまいそうな気がどうしてもしてしまう。  商魂《しょうこん》とは絶対に消えない炭火である、とは師匠《ししょう》の言葉だが、それはもしかしたら身を焦《こ》がす地獄《じごく》の炎《ほのお》なのかもしれない。  独《ひと》りでいる時はその火が体を温めても、二人でいる時は少し熱すぎる気がしてきた。  特に、ホロの笑顔《えがお》はそれだけでとても温かい。  世の中ままならないらしい。  ロレンスはベッドから立ち上がり、うろうろと部屋の中を歩いた。  レノスの町の動向は、首を突《つ》っ込まないまでもせめて後学のために詳細《しょうさい》を把握《はあく》しておきたい。  そのためには五十人会議の参加者に直接会うのが最良で、偏《かたよ》りのない情報を手に入れるには特に誰《だれ》の利益も代表しないある種|傍観《ぼうかん》者的な者だとなお望ましい。  その条件にぴたり当てはまるのは年代記作家にして会議の書記であるリゴロ。  しかし、会議の参加者は誰であっても外地商人には会いたがらないはず。  問題は堂々|巡《めぐ》りに入る。  これを抜《ぬ》けるには別の方面から攻《せ》めないとならないが、ロレンスの現状の情報源といえば酒場の娘《むすめ》くらいのもの。  これをより事情通の町の商人に広げようとすると多大なる労力がかかるはずだ。  会議の情報を探ろうと暗躍《あんやく》している者はたくさんいるはずで、自分だけが知恵と策略で周りを出し抜けるとは到底《とうてい》思えないし、情報を売りたがっている者は客が引く手|数多《あまた》なのだからどんな高値をつけてくるかわからない。  旧知の人間がいる町でならば、あるいは核心に近づいてどうこうできたという可能性もある。  商品は貨幣《かへい》があれば買えるが、情報は信用がなければ買えないことが多い。  やはり、こんなにも面白《おもしろ》そうな事態を前にして、じっとしているほかないのか。  狭《せま》い隙間《すきま》の向こう側《がわ》にうまそうな肉を見つけて困っている犬のように部屋をうろうろとしながら、ロレンスはやがてため息をついて立ち止まった。  今の自分の姿は理想としていた商人像と大きくかけ離《はな》れているような気がしたのだ。  それどころか、とっくに手に入れたはずの冷静さと慎重《しんちょう》さもどこかになくしてしまったらしい。これではまるで一攫千金《いっかくせんきん》しか頭になかった独《ひと》り立ちした直後の少年時代に逆|戻《もど》りだ。  足元が浮《うわ》ついている。  そう自分に言い聞かせて、ちらりとホロのほうを見る。  この生意気な狼娘《オオカミむすめ》にいつも足元をすくわれているせいだろうか。  そんな気がしないでもない。  ホロとの会話は楽しすぎるのだ。  だから他《ほか》のことがおろそかになり始めているのかもしれない。 「……」  顎鬚《あごひげ》を撫《な》でながら、責任|転嫁《てんか》もいいとこだ、と胸中で呟《つぶや》いた。  非常にもったいないが、毛皮を巡《めぐ》る話はしばらくお預けだ。  とすれば、まずはここからさらに北のニョッヒラに至る道の情報を集めることを始めるのが妥当《だとう》なところだ。運が良ければまだ道が雪に閉ざされておらず、先に進めるかもしれない。  毛皮の話は……やはりそのついでに集めよう、と付け加え、部屋をあとにしたのだった。  宿の一階に下りると、乱雑に荷物が積み上げられている一角からごそごそと音がしていた。  鍵《かぎ》もなければ見張りもいないが、この簡易倉庫は結構な数の商人が利用しているようだった。  料金もそれほど高くなく、行商の中継《ちゅうけい》点として利用している者や、季節によって値段にばらつきのあるものを保管している者がほとんどだろうが、なかには密輸まがいのことをしていたり、盗品《とうひん》を保管している者がいてもおかしくはないような気がした。  そんな倉庫からは荷物をいじっているという音は聞こえるものの、荷物の陰《かげ》になっていて誰《だれ》が荷解きをしているのかはわからない。  ただ、宿の主《あるじ》たるアロルドも、客が他人の荷物を勝手に開けているかもしれないなどとは露《つゆ》ほども思っていないようで、我関せずといった顔で少し強くなりすぎた炭火を調節するために水をかけていた。 「北の道?」  朝方に年代記作家のことを訊《たず》ねた時は子供から難解な神学的質問をされたかのような顔をしていたが、この質問は聞きなれたものだったらしい。  それならば、とばかりに軽くうなずいて、舞《ま》い上がる灰も気にせず一つしわぶきをして口を開いた。 「今年は雪が少ない。どこに行くつもりなのかは知らないが、さほど苦労はしないだろう」 「一応ニョッヒラを目指しているのですが」  左|眉《まゆ》を吊《つ》り上げて、今にも瞼《まぶた》の皺《しわ》に埋没《まいぼつ》しそうな青い目をぎょろりとむく。  ロレンスが商売用の笑顔《えがお》の下でややたじろぐと、炭に水を注いだ時に舞《ま》った灰を髭《ひげ》から払《はら》い、アロルドは呟《つぶや》くように言った。 「わざわざ異教の地に赴《おもむ》くなど……。だが、商人とはそういうものなのか。金の袋《ふくろ》を担《かつ》ぎ、どこにでも行く……」 「結局、死の床《とこ》ではその袋を捨てることになりますが」  信心深いアロルドのご機嫌《きげん》を取るつもりだったが、アロルドは少し不機嫌そうに鼻を鳴らす。 「ならばなぜ金を稼《かせ》ぐ? 捨てるために得るなどと……」  これは多くの商人自身が思うことだろう。  ただ、ロレンスはこの問いへの面白《おもしろ》い答えを聞いたことがある。 「部屋の掃除《そうじ》をする時に、同じ質問は致《いた》しません」  金はごみであり金|儲《もう》けとはごみ集めだ。  神から借《か》りた世界を汚《けが》す金を集めて捨てることこそ最大の美徳、とは死の床で改心したというとある南の国の豪商《ごうしょう》の言葉だ。  聖職者は感動してこの言葉を聞くが、商人たちは曖昧《あいまい》な笑《え》みをぶどう酒の注《つ》がれたコップで隠《かく》す。大商人になればなるほど財産は目に見える形ではなく、帳簿《ちょうぼ》の上の数字や証文の上の文字として存在することになるからだ。  要するに、その数字や文字が世界を汚すのであれば、紙に書かれた神の教えも似たり寄ったりなのだからまとめて捨ててしまうのが世のためだという皮肉なのだ、というのが商人たちの見解だった。  ロレンスも後者に加担《かたん》する。ホロには悪いが、祈《いの》ってもなにもしてくれない神様の教えより、大商人の商売の手引きのほうがよほど役に立つ。 「ふっ」  アロルドは楽しそうに笑い、「まあいい」と滅多《めった》に聞けないような機嫌の良い調子で言った。  ロレンスの言葉に気を良くしたというよりも、その言葉の皮肉の意味までも知っていて、それを楽しんでいるふうだった。 「それで早々に発《た》つのか。確か多めの金額を受け取っていたな……」 「いえ、ひとまず五十人会議が終わるまで待ってからと思っています」 「……そうか。リゴロに会うのだったか。年代記作家などと朝方に聞かれたな。久しく聞いていなかった単語だ。今の時代、昔のことを振《ふ》り返る者などいないからな……」  喋《しゃべ》りながらアロルドの目は遠くを見るように細められる。  その先には、きっとアロルドのこれまでの生涯《しょうがい》があるのだろう。  ただ、そんな視線もすぐにぎょろりと戻《もど》ってくる。 「まあ、北に行くのであれば、早いほうがいい。今ならばまだお前の持つ馬でも途中《とちゅう》まで行けるだろう。その先は……長毛種に乗り換《か》えて橇《そり》がいいだろう。急ぐのであれば、だが」 「厩《うまや》に一頭いましたね」 「あれの持ち主は北の人間だ。詳《くわ》しい道の事情を知っているだろう」 「お名前は?」  ロレンスがそう訊《たず》ねると、アロルドは初めて見せるような意表をつかれた顔をした。  意外に愛嬌《あいきょう》があった。 「そうか。長いことここに泊《と》まっているが名を聞いたことがない。毎年ぶくぶくと太っていく様すら克明《こくめい》に記憶《きおく》しているのにな。なるほど……こういうこともあるのか……」  宿帳すらないのだから、すごい宿だ。 「北の毛皮商だ。今は町を東奔西走《とうほんせいそう》だろうな……。見かけたら、お前の話をしておこう」 「よろしくお願いします」 「ああ。だが、五十人会議を待っていては春になってしまうかもしれないな」  そう言ってから、初めて温めたぶどう酒に口をつけた。  こんなにも饒舌《じょうぜつ》にアロルドが喋《しゃべ》ってくれたのは初めてのことだ。よほど機嫌《きげん》が良かったのだろう。 「会議はそんなに長引きそうですか」  だからなにか追加の情報が引き出せないかと話を振《ふ》ったのだが、アロルドは途端《とたん》に顔から表情を消して沈黙《ちんもく》した。静かな余生を送るには正しい選択《せんたく》だろう。  ロレンスがそう思って、切り上げ時かと話をしてもらった礼を言おうとしたところ、それを遮《さえぎ》るかのようにアロルドが口を開いた。 「人の人生ですら趨勢《すうせい》がある。ならばその集まりである町にも趨勢があって当然である……」  現役を退いた人間らしい言葉だ。  ただ、ロレンスはまだ若い。 「運命には逆らうのが人の常かと思います。過《あやま》ちを犯《おか》したのちに、償《つぐな》いを求めて祈《いの》るように」  アロルドは、青い瞳《ひとみ》を無言でロレンスに向けてきた。  怒《おこ》っているようにも、蔑《さげす》んでいるようにも見える。  それでもロレンスが少しもたじろがなかったのは、その様子が楽しんでいるように思えたからだ。 「くっく。反論は難しいようだ……。久しぶりに愉快《ゆかい》な時間だった。この宿は三度目だな。名は?」  もう長いことこの宿を利用しているらしい毛皮商の名前は知らなかったのに、ロレンスの名を訊《たず》ねてくれた。  これは、宿の主《あるじ》としてではなく、職人としてだろう。  腕《うで》の立つ職人が客の名を訊ねる行為《こうい》は、その客からの注文であればどんな難しい仕立ての一品でも仕上げるという信頼《しんらい》を与《あた》える儀式《ぎしき》だ。  ロレンスはこの無口で無愛想な元|革紐《かわひも》職人の親方に気に入られたらしい。  手を差し出しながら、「クラフト・ロレンスです」と名乗った。 「クラフト・ロレンスか。アロルド・エクルンドだ。昔であるならば自慢《じまん》の革紐《かわひも》を仕立てるところだが、今となっては静かな夜を過ごしてもらうことくらいしかできない」 「なによりです」  ロレンスが言うと、アロルドは欠けた歯を見せて初めて笑ったのだった。 「では」  と、ロレンスがその場をあとにしようとした瞬間《しゅんかん》、アロルドの視線がロレンスの後ろに向けられた。釣《つ》られて振《ふ》り向けば、予想していなかった人物がいた。  ホロが娘《むすめ》だと指摘《してき》したあの女商人が、相変わらずの格好で右手に麻袋《あさぶくろ》を提《さ》げて立っていたのだ。倉庫の荷物をあさっていたのはこの商人だったらしい。 「オレは五度目の時だった。オレより早く名を聞くのか、アロルドさん」  かすれた声の一人称はオレ。やはり、ホロが言わなければ年季の入った男商人としか思わなかっただろう。 「お前と会話をしたのが五度目の時だからな」  アロルドは言って、軽くロレンスに視線を向けてから、続けた。 「お前こそ口を開くとは珍《めずら》しい。私と同様に、機嫌《きげん》でも良いのか」 「かもしれない」  そう言って頭巾《ずきん》の下で笑った口元は、なるほど確かに髭《ひげ》が薄《うす》いという話ではなさそうだった。 「あんた」  と、女商人がロレンスに向かって言葉を投げてくる。  ロレンスはもちろん商談用の顔で受け止める。 「なにか?」 「少し話さないか。リゴロに用があるんだろう?」  ホロであればほんの少しだけ耳を動かす程度の驚《おどろ》きだった。  ロレンスは髭の一本も動かしていないという自信を持ちながら、「ええ」と答えた。  アロルドはリゴロの名が出た瞬間《しゅんかん》に顔を背《そむ》け、ぶどう酒に手を伸《の》ばしていた。この時期、商人が口にする五十人会議の参加者の名前は、そういうものなのだろう。 「上で構わないか」  二階を指差したので、もちろん異論なくうなずく。 「もらっていくぜ」  女商人はアロルドの椅子《いす》の後ろにあった鉄製の水差しを手に持って、さっさと階段を上《のぼ》っていく。アロルドと相当親しいようだったが、肉親でもないらしいのに、どういう関係なのか。  好奇《こうき》心が頭をもたげたが、アロルドの横顔はいつもの無愛想な宿の主人のものに戻《もど》っていた。  ロレンスは一言礼だけを言って、女商人のあとを追ったのだった。  二階には誰《だれ》もおらず、暖炉《だんろ》の前に着くと女商人は両足をたたむようにすとんとその場に胡坐《あぐら》をかいた。狭《せま》いところで立ったり座ったりをするのに慣れている座り方だ。両替《りょうがえ》商の連中ならば、一見商売仲間だと思うかもしれない。  やはり、昨日今日商人を始めたというわけではないようだった。 「やあ、やっぱりそうだ。温めて飲むにはもったいないぶどう酒だな」  そして、暖炉の前に座り込むや水差しの中身に軽く口をつけてそんなことを言った。  意外に気さくな性格なのか、もしくはわざとなのか。またわざとならば一体なんの目的があって、とロレンスは考えながら腰《こし》を下ろした。  女商人は一口二口と酒を飲み、口元を拭《ぬぐ》うと水差しごとロレンスに差し出してきた。 「で、ずいぶん警戒《けいかい》されているが、理由を聞いていいかい」  こちらからは頭巾《ずきん》に隠《かく》れて表情が見えないが、あちら側《がわ》からはよく見えるらしい。 「一期一会《いちごいちえ》で商売をすることが多い行商人ですから。癖《くせ》みたいなものですよ」  言ってから水差しに口をつけると、なるほど確かに良いぶどう酒だった。  女商人はこちらをじっと頭巾の下から見つめている。  ロレンスは苦笑して白状した。 「女の商人は珍《めずら》しいですからね。そのような方が声をかけてくれば、いつも以上に警戒します」  その言葉に、一瞬《いっしゅん》動揺《どうよう》したらしいのが見て取れた。 「……ここ数年、見|抜《ぬ》かれたことなかったんだがな」 「今朝、宿の前ですれ違《ちが》ったでしょう。連れが動物的に勘《かん》が働きまして」  動物的に、というか多少動物なのだが、ホロがいなければロレンスもこの商人が女だとは気がつかなかった。 「女の勘というやつは侮《あなど》れない。オレが言うのもなんだがね」 「それは日々実感しています」  その言葉には笑ってくれたのかどうか、女商人は首元に手を当てると頭巾を縛《しば》っていた紐《ひも》を緩《ゆる》め、手|馴《な》れた手つきで頭を引っこ抜いた。  さてどんな精悍《せいかん》な顔つきをした女なのだろうと、ロレンスは少し下世話な興味を持ってその様を眺《なが》めていたのだが、頭巾の下から現れたその顔を見たその瞬間《しゅんかん》、驚《おどろ》きを完全に隠せたという自信はまったくなかった。 「フルール・ボラン。フルールなんてしまらないからな、商売上はエーブ・ボラン」  フルール、あるいはエーブと名乗ったその女商人は、若かった。  ただ、それだけで価値があるというほどの若さではない。磨《みが》き上げられ、洗練《せんれん》されてきたからこそ美しく輝《かがや》くといった歳《とし》の程《ほど》。具体的にはロレンスと同じくらいだろうか。  目が青いからではなく、その顔には鍛《きた》え抜かれた蒼《あお》い鋼《はがね》のような雰囲気《ふんいき》があった。  髪《かみ》は短い金髪《きんぱつ》で、きっと笑えば美しい少年のように見えるだろう。  笑っていない時は、触《ふ》れれば指を噛《か》み切られそうな、それこそ、狼《オオカミ》だった。 「クラフト・ロレンスです」 「クラフト? ロレンス?」 「商売上はロレンスです」 「オレはエーブだ。ボランというのは好きじゃなくてね。それと、化粧《けしょう》をして髪をつければ自分の顔が男の目にどう映るかは把握《はあく》しているつもりだがね、褒《ほ》められるのもまた好きじゃない」  先手を打たれ、ロレンスはすんでのところで口を閉じた。 「隠《かく》せるなら隠すつもりだったんだが」  女であることを、だろう。  他《ほか》の誰《だれ》かに見られるのが嫌《いや》なのか、エーブはすぐに頭巾《ずきん》をかぶり、紐《ひも》で固く縛《しば》ってしまう。  綿《わた》で包んだナイフではないが、ロレンスの胸中にはそんな感想が浮かんだ。 「オレも本来は無口なたちじゃなくてね、どちらかといえばお喋《しゃべ》りだ。愛想も悪くないと自負している」 「愛想のところは、おいおい印象を変えていこうかと思います」  どういうわけか素顔《すがお》を晒《さら》して饒舌《じょうぜつ》になってくれたのだから、こちらも付き合わなければと軽口を出してみる。  相手が女とはいえ、箱入りのお嬢様《じょうさま》相手でなければ緊張《きんちょう》することもない。 「面白《おもしろ》い奴《やつ》だな。さすがあの爺《じい》さんに気に入られるわけだ」 「恐縮《きょうしゅく》です。ですが、私は貴女《あなた》とは短い挨拶《あいさつ》しか交《か》わしていなかった。気に入られた原因がわかりません」 「商人はひとめぼれをしない。だから残念ながらそうではない。まあ、顔は悪くはないと思うがな。で、オレが声をかけたのはな、単純に他人と話したかったからさ」  頭巾《ずきん》の下にあった顔つきからするとかなりがさつな喋《しゃべ》り方だが、どことなくホロと同じ匂《にお》いがする。  うっかりしていると足元をすくわれそうだった。 「光栄にも私を選んでくれた理由は?」 「一つはアロルドの爺さんが気に入ったこと。あの爺さんは人を見る目だけは確かだ。もう一つは、オレの頭巾の下を見|抜《ぬ》いたあんたの連れ」 「連れ?」 「そう。あんたの連れ。あれは、女だろう?」  あの見た目で少年と言われたら、それこそ道楽者の金持ち貴族が喜びそうな話だ。  ただ、ロレンスもエーブの言いたいことがわかった。  女連れで旅をしていたから、声をかけても大丈夫《だいじょうぶ》だと思ったのだろう。 「商談ならともかく、雑談をしながら女であることを隠《かく》し続けるのは難しい。自分が希少な存在だというのはわかっているからな。頭巾をはがしたくなる相手の気持ちもわからなくもない」 「どうしても褒《ほ》め言葉になってしまいますが、頭巾を取ったら酒の入った商人連中は大喜びするでしょうね」  唇《くちびる》の左|端《はし》を吊《つ》り上げてエーブは笑う。それだけでも、なかなかのすごみがある。 「だからな、雑談を持ちかける相手は考える。それに最も適しているのは枯《か》れた爺《じじい》か、女連れ」  妖精《ようせい》よりも珍《めずら》しい女商人だ。日々の気苦労はロレンスになど想像もつかないほどなのだろう。 「だが、女連れの商人など滅多《めった》に見ない。大体女を連れているのは旅の聖職者か、旅職人の夫婦、あるいは旅芸人の夫婦だな。そしてこいつらと話しても話題がかみ合わずに面白くない」  ロレンスは少しだけ笑った。 「まあ、私の連れに関しては、色々と理由があります」 「もちろん詮索《せんさく》はしない。あんたら二人が旅なれた様子で、なおかつ金でつながっているようでもなかった。これなら話しかけても大丈夫《だいじょうぶ》。そう思ったわけだ」  エーブは喋り終えると水差しを催促《さいそく》してきた。  コップのない回し飲みの場でいつまでも酒を持っているのはよろしくない。  一つ詫《わ》びてから、手|渡《わた》した。 「で、まあそういうわけだが、いきなり雑談しましょうどうですか、などと言えないだろう。だからリゴロの名を出汁《だし》に使ったんだが、あながち単なる出汁なわけでもない。あんた、リゴロに会いたいんだろ?」  頭巾《ずきん》の縁《ふち》から視線を向けられるが、こちらからはその表情がまったく読めない。エーブは交渉《こうしょう》術にも非常に長《た》けている。  ロレンスはとてもこれを雑談とは思えず、依然《いぜん》商談用の頭で答えた。 「ええ、できれば早くに」 「その内容は詮索《せんさく》してもいいかい」  それがどういう意図を持ってのものなのかは測りかねた。  単純な好奇心《こうきしん》か、あるいはどういった内容から会いたがっているのかを知って利用するつもりなのか、はたまた質問を投げてその反応からロレンスのことを試《ため》そうとしているのか。  ホロが隣《となり》にいればそれなりに優位に立てただろうが、どちらかといえば押され気味だ。  悔《くや》しいが、ロレンスは防衛に回るほかなかった。 「リゴロさんがこの町の年代記作家とお聞きしまして。この町に残る古い話の記録を見せていただきたいんです」  毛皮にまつわる話は機微《きび》に過ぎる。エーブの表情が皆目《かいもく》読めない今、それを出すのは危険すぎた。こちらはエーブのように頭巾で顔を隠していないので、警戒《けいかい》していることくらいは楽に見|抜《ぬ》かれているだろう。  それでも、エーブはロレンスの言葉に一定の真実を嗅《か》ぎ取ったらしい。 「また妙《みょう》な目的もあったもんだ。てっきり毛皮に関する情報を仕入れるためだと思っていたんだがね」 「もちろん、私も商人ですからその情報が入るならばそれに越《こ》したことはありません。ですが、それは危険ですし、連れも望んでいない」  エーブを前に、下手な小細工は火傷《やけど》の元と思われた。 「確かにあいつの書斎《しょさい》には何代にも渡《わた》って受け継《つ》がれてきたという山ほどの本がある。本人も日々それを読んで暮らすのが夢だそうだ。五十人会議の書記なんて役目はいつも辞《や》めたがってるぜ」 「そうなのですか?」 「ああ。元々人付き合いが苦手なうえに、会議の内容を聞き出すにはうってつけの立場にいるだろう? 次から次へと接触《せっしょく》しようとする奴《やつ》があとを絶たないんだよ。今正面から会いにいったら恐《おそ》ろしい形相で睨《にら》まれて門前|払《ばら》いだろうぜ」  ロレンスは「なるほど」などと殊勝《しゅしょう》に返事をしておくが、エーブのほうももちろんロレンスが単純に話に聞き入っているとは思っていまい。  エーブは、そんなリゴロに、ロレンスを引き合わせられる、ということを匂《にお》わせているのだから。 「で、そう。あんたが気になっているらしいまさにそこだけどな、オレはここの教会を相手に取引していてな、その付き合いもなかなかのものだ。で、リゴロの奴《やつ》も普段《ふだん》は教会相手に文字を書く仕事をしているからな。その縁《えん》で知り合って結構な時間になる」  疑い、はしなかった。  疑えばどうしても自分の中に先入観が生まれ、そこをエーブに気づかれたら簡単につけ込まれる危険性があった。  だから、あっさりと胸を開く。 「できれば、お会いして記録を見せてもらえるように取り次いでいただけると助かるのですが」  一瞬《いっしゅん》、エーブの口元が動いたように見えたのは気のせいではないだろう。  エーブもこの駆《か》け引きをどこか楽しんでいるらしい。 「なにを商《あきな》っているのか、とか聞かないのか」 「私の連れがなんの職業か、とは聞かれませんでしたから」  ホロと交《か》わすものとはまた違《ちが》った緊張《きんちょう》感に満ちた会話。  ただ、ロレンスは心の底で呟《つぶや》いた。  楽しい、と。 「えふ……」  だから、そんな咳《せ》き込むような笑いが聞こえた時、自分の口から出たのかと一瞬思ってしまった。 「うはっはっは。いいな、これはいい。女連れの若い商人なんざ、と少なからず思っていたが、声をかけてよかった。商人ロレンス。あんたが傑物《けつぶつ》かどうかはわからないが、十把一絡《じっぱひとから》げの有象無象《うぞうむぞう》とはちょっと違うらしい」 「褒《ほ》めていただき恐縮《きょうしゅく》ですが、握手《あくしゅ》をするならもう少し待っていただかないとできませんけどね」  エーブが、にんまりと口を笑《え》みの形にした。  思わず牙《きば》が生えていやしないかと確認《かくにん》してしまうくらい、知り合いの誰《だれ》かさんにそっくりな笑い方だった。 「掌《てのひら》に汗《あせ》をかくような間抜《まぬ》けじゃないだろう。さっきっから底の読めない顔をずっと保っているんだ。これはアロルドの爺《じい》さんも気に入るわけだ」  それはさすがに世辞だと受け止めておく。 「では、なにを商っているのか聞く代わりに、一つお聞きしてもよろしいですか」  エーブは口を笑みのままの形にしていたが、絶対に目は笑っていないだろうと確信が持てた。 「なんだい」 「ええ。紹介《しょうかい》料はいかほどで?」  底の見えない真っ暗な井戸《いど》の中に石を落とす。  その井戸は、どれくらい深くて、底に水があるのか、ないのか。  しばらくして、音が返ってきた。 「金も物もいらない」  乾《かわ》いているのか。  ロレンスはそう思ったが、エーブは水差しをロレンスのほうに勧《すす》めながら、こう付け加えた。 「ただ、オレと雑談してはくれまいか」  返ってきた音は、思いのほか湿《しめ》っぽかった。  ロレンスは敢《あ》えて顔から表情を消し、冷淡《れいたん》な目を向けて露骨《ろこつ》にその言葉とエーブの顔を吟味《ぎんみ》する。  エーブは、笑って肩《かた》をすくめた。 「あんたうまいな。なに、嘘《うそ》じゃない。奇妙《きみょう》に思われるのももっともだろうがね、オレにとっちゃ女であることを隠《かく》さずに雑談できる相手、特に商人というのはリマー金貨より尊い」 「ではリュミオーネ金貨よりかは価値が低い?」  茶化された時の反応で井戸の深さが知れる。  エーブはもちろんそのことを知っていたようだ。 「オレは商人だ。どちらにしても金が一番さ」  なんの気負いもなく、笑みを持ってそう言われた。  ロレンスも笑う。  この相手とならば、一晩中でも雑談に付き合えるだろう。 「だがね、あんたの連れがどういう奴《やつ》かわからんからね。できればあんたとサシがいい。側《そば》でむすっとされてちゃ酒もまずい」  ホロがそういうことで嫉妬《しっと》したことはあっただろうかと少し記憶《きおく》を探ってみる。  羊|飼《か》いのノーラと出会った時に不機嫌《ふきげん》だったような気がするが、あれはノーラが羊飼いだからだったような気がしないでもない。 「それはないと、思いますよ」 「そうか? 女心ほど訳のわからんものはないだろう? 女のする話はよくわからねえし」  ロレンスは口が「お」という形になってしまうのを止められなかった。  してやったり、とエーブが小さく鼻を鳴らす。 「ま、オレはここに商売に来ててな、のんびりもできないが、都合が合うなら話の相手をして欲しい。こう見えてもな」 「お喋《しゃべ》りで愛想がいい」  反撃《はんげき》を打ち下ろすと、エーブはかすれた声ながら少女のように笑って肩《かた》を揺《ゆ》らした。 「ああ、そうだ」  ただ、その言葉は軽い調子でも響《ひび》きはとても真摯《しんし》なものだ。  どういういきさつで女一人の商人をしているのかはわからないが、欲望|渦《うず》巻く商人の世界を女の身一つで泳いでいくのは並大抵《なみたいてい》のことではないだろう。気軽に雑談すらできないのもきっと自衛のためだ。  ロレンスは水差しからぶどう酒を一口飲み、三階へと続く階段のほうをわざとらしく振《ふ》り向いてから、こう答えた。 「連れが嫉妬《しっと》しない程度になら」 「おお、そりゃあ大変な条件だ」  そして、二人で商人らしく声なく笑い合ったのだった。  会議が終わるのは夕方近くになってからだろうということだったが、エーブに所用があり同道できないので先にリゴロの家人《かじん》に話を通しておいてくれるとのことだった。  なので、昼を過ぎてしばし休憩《きゅうけい》したのち、ロレンスとホロの二人連れで宿をあとにした。  リゴロの家は町の中心からやや北にずれた区画にあるらしかった。  その区画には土台部分や一階部分がしっかりとした石造りの家が立ち並び、それなりに裕福《ゆうふく》な者たちが住む区画に見えるのに、その割に雰囲気《ふんいき》が良くない。家々は木で増築を繰《く》り返され、せり出した壁《かべ》が道を挟《はさ》んで頭上でぶつかり合っていそうな感じがする。  元々は金持ちたちが住んでいたのだろうが、時の経過と共に没落《ぼつらく》していった区画らしい。  代々裕福な家系は金を使うことそのものには喜びを見|出《いだ》さないが、成金は違《ちが》う。  金があれば形にしたがり競《きそ》って家を増築していったのだろう。  ただ、増築したはいいものの、そのせいで区画の景観は台無しになり、薄暗《うすぐら》い路地には野良《のら》犬や物乞《ものご》いがやってきてうらぶれた雰囲気をまとい出す。  そうなると本当に金のある者からそこを離《はな》れ、どんどん建物の値段が下がり、区画の質も下がっていく。  大方、ここは金貸しや中堅《ちゅうけん》の商会の主たちが家を構えていたのだろう。  今は職人の徒弟や露天《ろてん》商などが住んでいるようだった。 「それにしても狭《せま》い道じゃな」  石畳《いしだたみ》の道は両|脇《わき》の建物の重さのせいか歪《ゆが》んでいるうえ、生活に困った連中に売り飛ばされたのか、そこかしこで石が抜《ぬ》き取られていた。  そこに水が溜《た》まりうらぶれた雰囲気を一層|濃《こ》くしていたのだが、道の狭さがそれに拍車《はくしゃ》をかける。ホロと並んで歩くこともできず、前から人が来たら壁に張りつかないとならないだろう。 「不便といえば不便だが、俺はこういう猥雑《わいざつ》なところが好きだな」 「ほう」 「長い年月をかけてできたって感じがするだろう? 傷だらけの道具類のように、少しずつ形を変えていって、ついには無二のものになるような」  後ろのホロを振《ふ》り向くと、ホロは壁《かべ》をなぞりながら歩いていた。 「川の形が変わっていくようなものかや」 「……残念だが、その例えは理解できない」 「ふむ。ならば……人の心などはどうじゃ。魂《たましい》、とかいったな」  突然《とつぜん》身近な例になり、ロレンスは少し頭の切り替《か》えが鈍《にぶ》ったが、「そうだなあ」と答える。 「取り出して、形が目に見えれば、そんな感じかもしれない。少しずつ削《けず》れていたり、傷ついていたり、修復してあったりして、一目見れば俺だとわかるような、な」  喋《しゃべ》りながら道をほとんどふさいでいる水|溜《たま》りに突《つ》き当たり、ロレンスが先に大股《おおまた》に渡《わた》り、振《ふ》り返ってホロに手を差し出す。 「どうぞ」  わざとらしく慇懃《いんぎん》に言うと、ホロもまた大仰《おおぎょう》に手を預け、ひょいと水溜りを飛び越《こ》えてロレンスの側《そば》に立つ。 「もしもぬしの魂とやらが取り出せたなら」 「ん?」 「きっと相当わっちの色に染まっておるじゃろうな」  まっすぐに見上げてくるホロの琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》にも、もうあまりたじろがない。  さすがにそろそろ新鮮《しんせん》味もなくなるというものだ。  ロレンスは肩《かた》をすくめて、歩き出した。 「染まるというよりも、毒されているという表現のほうがしっくりする」 「だとすれば、猛毒《もうどく》じゃな」  するりと先に進み出て、肩越《かたご》しに振り向いて得意げに言った。 「なにせ、わっちの笑顔《えがお》にイチコロじゃからな」  毎度毎度よく思いつくものだと感心しながらロレンスは言葉を返す。 「で、お前の魂は何色なんだ」 「何色?」  ホロは聞き返しつつ、はて、とばかりに前を向き直した。歩く速度が遅《おそ》くなり首をかしげているのも後ろから見えた。ロレンスはそんなホロに追いついたものの、道が狭《せま》いので追い抜《ぬ》くこともせずに後ろから軽く覗《のぞ》き込む。  なにか、両手の指を折ってはぶつぶつと呟《つぶや》いていた。 「ふむ」  そして、ロレンスが自分の手元を覗き込んでいることに気がつくと、ホロは顔を上げて後ろに寄りかかるようにロレンスのことを見た。 「色々じゃな」 「……へえ」  一瞬《いっしゅん》真意がわからなかったが、それがホロの恋愛|遍歴《へんれき》なのだろうとすぐに気がついた。  ホロも長いこと生きているのだから、恋の一回や二回はしたはずだ。口のうまさから、相手が人のことも多々あったのだろう。  ホロが立ち止まると道がふさがってしまうので、ロレンスはホロの小さな背中を軽く押して歩くようにと促《うなが》した。  ホロはおとなしく歩き始める。  隣《となり》にいることが多いので、あまり後ろ姿というのを見る機会がなく、それはちょっと新鮮《しんせん》な感じだった。  その後ろ姿はとても華奢《きゃしゃ》で、厚着をしていても線の細さがよくわかる。歩き方も大股《おおまた》ではなく、また早足でもないので静々といった表現がぴったりくる。その上どことなく寂《さび》しげな様子が背中にあったりすれば、抱《だ》きしめたら柔《やわ》らかそうだな、と思ってしまうのもしょうがないはず。  こういうのを、保護欲がそそられる、というのかもしれない。  ロレンスは苦笑まじりにそんなことを思い、そして、ふと疑問がわいた。  ホロは指折り数えていたが、一体何人の男がこの小さな肩《かた》を抱《だ》いたのだろうか、と。  その時に、ホロはどんな顔をしていたのだろうか。嬉《うれ》しそうにして、甘えるように目を細めていたのだろうか。あるいは、耳を震《ふる》わせ、嬉しさを隠《かく》し切れないように尻尾《しっぽ》を振《ふ》っていたのだろうか。  手をつなぎ、肩を抱かれ、ホロも子供ではないのだから……。  ロレンスは、胸中で呟《つぶや》いていた。  自分以外の誰《だれ》かに? 「……」  そして、そんなことを思った瞬間《しゅんかん》に慌《あわ》ててその考えを頭から追い出した。  嫌《いや》な色の炎《ほのお》が、ちろりと胸の奥底で舌を出したからだ。  崖《がけ》から落ちそうになった時のように動悸《どうき》が激しくなっていた。火が消えていると思って炭に触《ふ》れてみたら、大|火傷《やけど》を負ってしまったような、そんな驚《おどろ》きともいえた。  ホロは指折り数えていた。  それはとても当たり前のことなのに、想像の中でホロの細い指が一回折れるたびに、心のどこかが折れるようで、挙句《あげく》、くすぶるような怒《いか》りを伴《ともな》った。  その感情を間違《まちが》えることなんてない。  真っ黒い独占《どくせん》欲。  自分自身、それに呆《あき》れてしまう。なんて身勝手な生き物なのかと。  商人などという欲望の権化《ごんげ》のような職を生業《なりわい》としているのに、ロレンスはそう思った。  この思いの罪深さは、自分だけ金が欲しい、という比ではない。 「で、反省はしたのかや」  だから、ホロが振《ふ》り向いて蔑《さげす》むような目を向けてきた時、どんな聖職者の戒《いまし》めの説教よりも深く深く応《こた》えたのだった。 「……なんでもお見通しだな」  座り込みたいほど心が重たかった。  だからロレンスが気だるげに答えると、ホロは意外にも牙《きば》を見せて笑ったのだ。 「わっちも同じじゃからな」 「……」 「楽しそうに、これ以上ないくらいに楽しそうに、あんな色気のかけらもないようなのと話しおって」  そして、その瞬間《しゅんかん》のホロの顔は、怒《おこ》っていた。  怒った顔はこれまで何度も見てきたが、それはその中でもっとも醜悪《しゅうあく》な形相《ぎょうそう》をしていた。  ロレンスは胸中で呟《つぶや》く。ホロは賢狼《けんろう》なのだ、と。 「商人として楽しかったんだ、と言って通じるか」  一応の言い訳を試みる。  ホロは立ち止まり、ロレンスとの間が詰《つ》まってからまた歩き出した。 「わっちと金|儲《もう》けのどちらが大事なの、と言って欲しいのかや?」  その台詞《せりふ》は、孤独に商売をする行商人連中が一度は女に言われてみたい台詞の上位三位に入るだろう。  そして、ほとんどの商人が頭を抱《かか》える問題のはず。  ロレンスは両手を上げて降参した。 「もっとも、わっちが怒る理由はぬしが思ったこととまったく同じじゃからな。それは実に身勝手な、子供じみた発想と言ってもよい。じゃが、わっちらは知恵《ちえ》と言葉を持ち、話し合うことができる。じゃからわっちは怒らぬ」 「……」  ホロは経験を経てきた賢狼《けんろう》なのだ。  剣《けん》を握《にぎ》りたてのロレンスでは太刀打《たちう》ちなどできない。  しばらく少ない語彙《ごい》の中から言集を探していたが、結局適当なものが見つからなかった。 「悪いと思ってるよ」 「本当に?」  ホロに嘘《うそ》は通じない。 「本当に」  しかし、ロレンスが答えてもホロは振《ふ》り向かない。  正解から外れるような回答だったろうか、と少し不安になる。  ホロは相変わらず静々と歩きつつ、やがて分かれ道に突《つ》き当たった。エーブに教えてもらった道順だと突き当たりを右だ。  やや気まずかったが、ホロが立ち止まったのでロレンスは口を開いた。 「そこ、右だ」 「ふむ」  そして、ホロは振《ふ》り向いた。 「ここが分かれ道じゃな」  なんの、とは聞かない。  ひとまずはそれが第一関門だったらしい。ホロの右|眉《まゆ》が少しだけ動いた。 「ぬしはその身勝手な独占《どくせん》欲にどう整理をつけるかや?」  そんな聖職者のような質問をするのか、と正直|抗議《こうぎ》をしたいくらいだった。  建前としては、あまりに自分勝手な黒い気持ちなのだからなくすのが当然だが、本音としては当然消せるわけがないものなのではないか。  ロレンスはそう思い苦々しい顔でホロのことを見返した。  だが、とも思う。  相手は賢狼《けんろう》ホロなのだ。気まぐれで相手を追い詰《つ》めるような質問をするとはとても思えない。  つまり、それが万人にとって正解ではなくても、ホロならそれを正解とみなすものがあるのかもしれない。  どうすればそれにたどり着ける?  ロレンスは考えた。  ホロはついさっき、自分も同じ気持ちだと言った。  ならば、正解はロレンスから見たホロの中にあるのではないか。  自分にとっては絶対に解けないように思われる難しい問題も、他人から見れば実に簡単に答えがわかる、なんていうことは珍《めずら》しくない。  ホロ自身、独占欲からくる嫉妬《しっと》心の扱《あつか》いに困っているのかもしれない。  そして、ホロ自身が、その気持ちの整理の仕方を欲しがっているのではないか。  もしもそうであるのなら、他人事として考えるならばすぐに答えを出すことができる。  ロレンスが口を開くと、ホロが少し身構えたのがわかった。 「俺の答えはな、その気持ちに整理などつかない、だ」  静かな湖面に波紋《はもん》が一つだけ生まれた。  そんなホロの表情に、豊かな彩《いろどり》が戻《もど》るためにはもう一つ投石が必要だ。 「ただし、それには自己|嫌悪《けんお》を伴《ともな》って」  開き直りも、または逆の無我の境地も正解ではないと思った。  もしもこの問題を自分自身のことではなく、ホロのこととして置き直して考えてみれば、それが一番自然で、また、独占《どくせん》欲を向けられる側《がわ》としては嬉《うれ》しいことと思えた。  結局、それは自分だけのものでいて欲しいという願いなのだから、程度さえ間違《まちが》えなければ、向けられて嬉しくないはずがない。  だからそう答えたのだが、ホロはしばし無表情だった。  それでも、ロレンスは目をそらさなかった。これが最後の関門のような気がしたからだ。 「んふ。で、右だったかや?」  とはいうものの、ホロが笑いながら首をかしげてくれた時には、ほっと安堵《あんど》のため息をついていた。 「しかし……くふ」 「なんだよ」 「独占欲と自己|嫌悪《けんお》、かや。なるほどの」  ホロは笑い、にやりと牙《きば》を見せる。  それがとても不自然なものに思えた瞬間《しゅんかん》、ロレンスは右の道に向かって歩き始めたホロの背中を追いかけることができなかった。 「どうしたかや?」  振《ふ》り向いたホロの顔は相変わらずのにやにや顔。  もしも、ロレンスがホロの満足いく答えを出していたのなら、ホロはこんな笑《え》みを浮かべないはず。ロレンスが想像していたのは、ほっと安堵するかのような笑みか、まったく興味なさそうな仏頂面《ぶっちょうづら》のどちらかだ。  ではこんな笑顔はどんな時に浮かべるのか。  ロレンスは、またしても自分の顔が赤くなるのを自覚した。こんなに一日に何度も赤面していては、そのうち赤ら顔になるのではと心配になるほどだ。 「くっくっく。気がついたかや」  ホロは笑いながら引き返してきた。 「ぬしが問題の難しさに苦悩《くのう》して、発想を転換《てんかん》させ、回答に至るのが顔からよーく見て取れた。じゃが、少し考えてみればすぐにわかること。誰《だれ》かに相談された時に返す、自分が正しいと思う答えはな、そっくりそのまま相手にそうあって欲しいと思うことじゃ。ということは?」  そう。  つまり、ホロは自分の悩《なや》みを解決するためにロレンスの言葉を待っていたのではない。  ホロは、ロレンスが自分の頭の中身をさらけ出すのをてぐすね引いて待っていたのだ。 「嫉妬《しっと》して、じゃがそれに苦悩して。そんなわっちをお望みかや? さしずめ、ぬしはそんなわっちに優《やさ》しく手を差し伸べる役かや。わっちは可愛《かわい》らしくめそめそと自己嫌悪で泣きながら、そして差し伸べられるぬしの優しい救いの手にすがればいいわけじゃな?」 「ぐっ……」  心をえぐられる、というのはまさしくこのことだ。  辱《はずかし》めを受けた少女が両手で顔を覆《おお》いたい気分が心の底から理解できた。  牙《きば》を持つ狼《オオカミ》は、するりとロレンスの側《そば》に体を滑《すべ》り込ませてくる。  ただ、徹頭徹尾《てっとうてつび》ホロが楽しんでいるように見えなかったのが救いかもしれない。  ここまでやられればロレンスでもわかる。  エーブと楽しそうに会話したことを嫉妬《しっと》していたのはきっと本当で、これはその憂《う》さ晴らしなのだ。 「ふん、ほれ、行くぞ」  ロレンスのまったく隠《かく》せていない表情から胸中を読んだのか、ホロはこのへんにしておいてやろうとばかりにロレンスの手を引っ張って歩き出した。  ここまでやればきっとホロは機嫌《きげん》を直してくれるだろうし、エーブと二人で商人として楽しく会話することも大目に見てくれるだろう。  ただ、迂闊《うかつ》だった、と思わなくもない。  ロレンスは、自分の願望をあまりにも赤裸々《せきらら》に白日の下《もと》に引きずり出されてしまったのだから。 「で、ぬしよ」  右に入った道の悪さは相変わらずだったが、多少広くてホロと並んで歩くこともできた。  なので当然のように隣《となり》を歩くホロがまた当然のようにいつもの調子で声をかけてきた。 「今度は純粋《じゅんすい》にわっちがぬしをからかう目的で聞くんじゃがな?」  こんな前振《まえふ》りをされても、ロレンスは捌《さば》かれるのを待つ兎《ウサギ》なのだ。 「わっちが数えた人数、聞きたい?」  そして、純真|無垢《むく》な満面の笑顔《えがお》で振り下ろされたのは、あまりにも巨大な牛刀《ぎゅうとう》だった。 「俺は自分の心がいかに繊細《せんさい》なのかを改めて知ったよ」  満身|創痍《そうい》の中、そう答えるのが精|一杯《いっぱい》だが、ホロのお気には召《め》したらしい。  嗜虐《しぎゃく》欲をたっぷり満たしたと顔に大書《たいしょ》して、ロレンスの腕《うで》に抱《だ》きついてきた。 「ぬしのその繊細な心が冷えて固まる前に、たっぷりわっちの爪《つめ》で傷をつけておかぬとな」  もうなにも言えずただホロの顔を見下ろすことしかできない。  すぐ側《そば》にあるホロの顔は、信じられないことに微笑《ほほえ》ましいいたずらを仕掛《しか》けて喜ぶ少女のようだった。  しかし、どんな悪夢もやがては覚めるものだ。  エーブから教えてもらった、三本足の鶏《ニワトリ》を象《かたど》った青銅の看板がぶら下がった家が見つかると、ホロはようやく狩《か》りをやめてくれた。 「さて」  口火を切ったのはロレンスで、それでも恥《は》ずかしかったり悔《くや》しかったりで、妙《みょう》におどけた口調になってしまった。 「気難しい人らしいからな。慎重《しんちょう》にいこう」  ロレンスが腕《うで》を離《はな》すともなしにホロはすり抜《ぬ》け、「うむ」とうなずいた。 「ぬしとの心地よい夢のようなやり取りは終わり、またつまらぬ現実かや」  どこまで本気かわからない小さい呟《つぶや》きに、ロレンスも小さい呟きで意地悪に言葉を向けた。 「なら、宿に帰ってまた眠《ねむ》ったらどうだ」 「む……それもよいかもしれぬ。もちろん、眠りに落ちる時に数えるのは羊の数ではなく……」  意地悪さではホロのほうが上。  ただ、妙《みょう》にしつこくその話を出してくるので、ロレンスは開き直ってこう言った。 「で、何人なんだ?」  詳《くわ》しく知りたくもないが、知りたくないかと言われれば嘘《うそ》になる。  ホロがやたらとその話を出すのでもしかしたらゼロなどということもあるのかもしれない。  そんな希望を持っていなかったといえばこれもまた嘘。  ただ、その質問にホロは口を開かなかった。  表情を全《すべ》て隠《かく》して、微動《びどう》だにしない。  その顔は今まで誰《だれ》も触《さわ》ったことがないかのような無垢《むく》の人形に見える。  それがふりなのだと気がついた時、勝てない、とロレンスは思った。 「男は、その中でも俺は、本当に馬鹿《ばか》な生き物らしい」  ロレンスが言うと、息を吹《ふ》き返したホロはくすぐったそうに首をすくめて、笑ったのだった。  リゴロの家の軒下《のきした》にぶら下がっている三本足の鶏《ニワトリ》は、大昔にこのレノスの町の側《そば》を流れるローム川が近く氾濫《はんらん》することを予測した鶏を象《かたど》ったものらしい。  教会は神の使いだと言うが、言い伝えでは星と月と太陽の配置から、すなわち当時からすでにあった天文学の記録からそれを予言したのだという。  以来、その鶏は知識を活《い》かす知恵《ちえ》の象徴《しょうちょう》として扱《あつか》われることとなった。  代々年代記作家をしているらしいリゴロの家系は、自分たちの記した無味|乾燥《かんそう》の知識が、いつしか未来を指し示す道しるべとなることを願っているのだろう。  銀メッキが施《ほどこ》されたノッカーを叩《たた》き、ロレンスは一つ咳払《せきばら》いをした。  エーブを通じてすでに連絡が来ているはずだったが、あれほど交渉《こうしょう》術に長《た》けたエーブをして、難物《なんぶつ》と言わしめるのだ。どうしても緊張《きんちょう》する。  少し後ろで手持ち無沙汰《ぶさた》にしているホロが、情けなくもとても心強い。  しかし、もしかしたらそもそもエーブに圧倒《あっとう》されてしまったのは、ホロと出会ってこんなことを思うようになってしまったからかもしれない。ホロと出会う前はもちろん頼《たよ》れるのは自分だけ。絶対に負けられないという気概《きがい》があったし、負けたら終わりだという恐怖《きょうふ》があった。  頼れる仲間がいることはいいことなのか悪いことなのか。そんなことを考えている最中に、扉《とびら》がゆっくりと開かれた。  いつだって、扉が開いてその向こう側《がわ》にいる人間の顔が見えるまでの時間が一番|緊張《きんちょう》する。  ゆっくりと開かれた扉の向こうには、髭《ひげ》だらけの初老の男性が……。  いなかった。 「どちら様でしょうか」  扉を開けて出てきたのは意外な格好をしていたという意味では少し驚《おどろ》いたが、緊張をする類《たぐい》のものではなかった。  二十歳《はたち》になるかならないかだろうか。綺麗《きれい》に額《ひたい》まで薄手《うすで》の布で覆《おお》った、黒が基調の清楚《せいそ》な修道服を着込んだ修道女だった。 「エーブ・ボランさんの紹介《しょうかい》なのですが」 「あ、承《うけたまわ》っております。どうぞ」  わざと名乗らなかったのだが、この修道女の人がいいのか、それともエーブが信頼《しんらい》されているのか。  ロレンスはどちらとも判断できずに、案内されるままにホロと共に家の中に入った。 「こちらにお掛《か》けになってお待ちください」  家の中に入るとすぐに居間になっていて、木組みの床《ゆか》には色|褪《あ》せた絨毯《じゅうたん》が敷《し》かれている。  家具はどれも立派とはいえないが、長い年月を経てきたことを示すように飴《あめ》色になっていて、この家の主《あるじ》がこの区画に古くから住んでいることを窺《うかが》わせた。  年代記作家と呼ばれる人種を初めて見たのが異教徒の町クメルスンでのディアナだったので、もっと雑然とした部屋を想像していたのだがその部屋は思いのほか綺麗《きれい》に片づいていた。  壁《かべ》に備え付けの棚《たな》にはぎっしりと本が詰《つ》まる代わりに縫《ぬ》いぐるみや刺繍《ししゅう》が飾《かざ》られ、少し綺麗な棚には女性でも簡単に持てるくらいの聖母の石像があったが、そのすぐ隣《となり》にはニンニクやタマネギなどもぶらさがっている。ここが年代記作家の家なのだということを示すものといったらきちんとまとめられた羽根ペンやインク壺《つぼ》、それにインクを乾《かわ》かすための砂が入っているのだろう小|櫃《ひつ》くらいのもの。いかにもそれらしいといった羊皮紙や紙の束は目立たない場所にひっそりと置かれていた。  ホロも同じ感想なのか、少し意外そうに部屋の中を眺《なが》めている。  もっとも、普通《ふつう》の家には今すぐにでも宣教の旅に出られそうな格好をした修道女はいない。  聖母の石像や三本足の鶏《ニワトリ》を象《かたど》ったレリーフは、多少お金に余裕《よゆう》のある信心深い家ならあるかもしれなかったが。 「お待たせしました」  エーブから聞いていた話ではリゴロは相当の難物《なんぶつ》だということだったので、難癖《なんくせ》つけられて待たされるものだと覚悟《かくご》していたが、これもまた意外なほどすんなりと会えるらしい。  柔《やわ》らかな笑《え》みと、とろとろに煮《に》込んだスープのような物腰《ものごし》の修道女に案内され、ロレンスたちは居間から続く廊下《ろうか》を通って奥の部屋へと歩いていった。  ホロも見た目は修道女に見えなくもないが、やはり本物の修道女の楚々《そそ》とした振《ふ》る舞《ま》いは根本から違《ちが》う。こんなことを思っていることがばれたらホロは怒《おこ》るだろうな、と思った矢先に後ろから少し足を蹴《け》られた。  きっと頃合《ころあい》を見計らってそうしただけなのだろうが、ロレンスとしては背中のボタンを外して心の中でも覗《のぞ》いていたのかと思いたくなる。 「リゴロさん、入りますよ」  こんこんと扉《とびら》をノックする音も卵を上手に割るかのようだった。  しかし、その卵の中から何色の黄身が出てくるかわからない。  ロレンスはすぐに頭を切り替《か》えて、扉の向こうから聞こえてきたくぐもった返事のあとに開けられた扉をくぐり、その部屋の中に入った。  直後、ほう、と驚《おどろ》きの声を上げたのはホロだ。  ロレンスは、もっと驚いていて声が出なかった。 「やあ、これは嬉《うれ》しい反応だ。メルタ、ご覧《らん》、驚いてくれたぜ」  張りのある若々しい声が部屋の中に響《ひび》くと、メルタと呼ばれた修道女は鈴《すず》を転がしたように笑った。  扉をくぐった先の部屋はやはりディアナの部屋のように乱雑に散らかっていた。  しかし、それは計算されつくした乱雑さ、とでもいえばいいのか、洞窟《どうくつ》の中から明かりの見える出口に向かうように、扉から入った真正面に向かって本や書類が積み上げられ、天井《てんじょう》からぶら下がっている木で作られた鳥の模型の向こうには、壁《かべ》一杯《いっぱい》に張られたガラスと、さんさんと注ぎ込む日光に照らされた青々とした庭園があった。 「ははは、すごいでしょう? 方々手を尽《つ》くせば一年中緑を絶やさずにいられるんですよ」  そう言って自慢《じまん》げに笑うのは、綺麗《きれい》に仕立てられた襟《えり》付きのシャツと、貴族のように皺《しわ》一つないズボンを穿《は》いている栗《くり》色の髪《かみ》の毛をした青年だった。 「フルールから聞いてますよ。僕に妙《みょう》なお願いをしたがっている人がいるって」 「……これは、どうも……。ロレンス、いえ、クラフト・ロレンスです」  ようやく我に返ったロレンスはいつもの調子を取り戻《もど》してリゴロが差し出してきた手を取ったが、どうしても目は立派な庭園のほうに向いてしまう。  道からは決して見えない、建物に囲まれた秘密《ひみつ》の花園。  そんな陳腐《ちんぷ》な表現が頭にこびりついて離《はな》れなかった。 「僕の名はリゴロ・デドリ。よろしく」 「よろしく」  そして、リゴロの視線がホロに向けられた。 「あ、こちら共に旅をしている……」 「ホロという」  初対面の相手だろうと決して物怖《ものお》じしないホロだが、それだけでなくどのように振《ふ》る舞《ま》えば相手が喜ぶか瞬時《しゅんじ》にわかるらしい。  妙《みょう》に偉《えら》そうな自己|紹介《しょうかい》を受けて、リゴロは怒《おこ》るどころか手を打って喜び、握手《あくしゅ》を求めていた。 「さて、自己紹介も終わりましたし、僕は自慢《じまん》の庭園を褒《ほ》めてもらっただけで満足だ。御礼《おれい》に僕はなにをして差し上げればよろしいのでしたっけ?」  商人の中には時折|恐《おそ》ろしいほど性格に裏表のある者がいるが、リゴロはともすればそういう連中の仲間に見えなくもない。  ただ、ロレンスたちのために気を利《き》かして小さな椅子《いす》を持ってきてくれたメルタがそんなリゴロを見て小さく笑っていたので、きっといつものことなのだろう。小さくうなずくように頭を下げて部屋をあとにしたメルタが嘘《うそ》つきでなければ、の話だが。 「エーブ・ボランさんからお聞きかとは思いますが、この町に残っている古い言い伝えの記録などを見せていただけないか、と思いまして」 「ほほう。その話は本当だったのか……。フルール……ああ、商人さんたちにはエーブでしたね。彼女は茶目っ気が強すぎるので、親しくなるとすぐ人にいい加減なことを言うのですよ」  ロレンスは、なるほどと笑った。 「リゴロさんが長い髭《ひげ》を顔|一杯《いっぱい》に蓄《たくわ》えた渋面《じゅうめん》の隠修士《いんしゅうし》でないのはそういう理由からなのですか」 「ははは。また好き勝手言われていたらしい。しかしね、隠修士というのはあながち間違《まちが》いでもないのです。ここのところ人に会うのは極力断ってきましたからね。それこそ人間|嫌《ぎら》いの難物《なんぶつ》のように」  不意に声の調子が落ちたかと思うと、その笑顔《えがお》の下にちらりと冷たい顔が見えた。  この町で功成り名を遂《と》げた者たちが集《つど》う五十人会議で書記を務《つと》めているのだ。そんな一面があっても驚《おどろ》くには値《あたい》しない。 「私も外地の商人ですが、お会いしても大丈夫《だいじょうぶ》なのですか?」 「うん。頃合《ころあい》がよかった。神のお導きというやつかもしれない。この服を見てください。まるで葬儀《そうぎ》の列を先導する子供のようでしょう? ついさっきまで会議でね、ようやく結論がまとまったから早めに閉会になったんですよ」  それが本当ならばまさしく神のお導きだが、会議の結論が出るのがずいぶん早いなとロレンスは思った。  アロルドの目算では春にずれ込むかもしれない、ということだった。  誰《だれ》かが強硬《きょうこう》に採決《さいけつ》したのだろうか。 「へえ、さすがあの強情な娘《むすめ》から紹介《しょうかい》された商人さんだ。油断ないですね?」  考えていたことを見|透《す》かされていたのか、と思って慌《あわ》てて取り繕《つくろ》うのは三流だ。  ロレンスは本当に人の心を見|抜《ぬ》くとしか思えないホロといるのだ。  それがかまかけかどうかくらいすぐにわかる。 「え?」  だからロレンスは無知を装《よそお》ってそうとぼけたのだが、リゴロはずっと笑顔《えがお》のままだった。 「虚々実々《きょきょじつじつ》のやり取りばかりしていると訳がわからなくなってしまう。裏の裏が表のように」  かまかけだと見抜き、とぼけたのがばれていたのだろうか。  ロレンスはかなりの自信を持って見破られはしなかったと思ったのだが、リゴロの目が笑顔のまま鋭《するど》くなった。 「僕は五十人会議で書記を務めていますからね。一度に複数の人の表情の変化がわかる。ロレンスさんの顔だけを見ていたらわからなくても、その隣《となり》にいる方の表情と一緒《いっしょ》に考えれば、答えは自《おの》ずと見えてくる」  ロレンスの口が勝手に笑みの形になってしまう。名うての商人でなくても、こういう人間が世の中にはいるのだ。 「ははは。まあ、余興みたいなものですよ。僕が悪意ある人間なら手の内は明かしません。それに、相手の真意を見抜いたところで僕は自分の要求をうまく相手に伝えられない。それでは商人失格でしょう?」 「……残念ながら」 「だからなかなか女性にももてないのです」  確かにこの口のうまさは商人とは違《ちが》う、とロレンスは笑って肩《かた》をすくめた。  宮廷《きゅうてい》に出入りする詩人のように喋《しゃべ》り立てるリゴロは、口を動かしながら手も動かして、机の引き出しの中から真鍮《しんちゅう》製の鍵《かぎ》を取り出していた。 「古い本は全部地下にあります」  そして、軽く鍵を振《ふ》るとついてくるようにと身振りで示し、奥の部屋へと歩いていった。  ロレンスはそんなリゴロを追いかける前に、隣《となり》のホロに視線を向けた。 「裏の裏は表だそうだ」 「わっちの顔まで見ておったとは……」 「あんな芸当俺も初めて見るな」  皆《みな》が皆好き勝手に喋る会議で正確に全《すべ》ての発言を書き留めようとしているうちに身に着いた特技なのかもしれない。  誰《だれ》がなにを言っているか把握《はあく》するには、相手の表情を把握するのが一番だからだ。 「ま、悪意がないのは本当じゃろうな。子供のような奴《やつ》じゃ。しかし、あんな特技を持っておるのが側《そば》におったら、心労もなく実にくつろいだ毎日が送れそうじゃな?」  ホロの意地悪そうな視線が向けられる。  たびたびすれ違いや勘《かん》違いを起こしてホロと喧嘩《けんか》してきた身としては、その視線が突《つ》き刺《さ》さるように痛い。 「お前はいつも悪意に満ちてるな」  ロレンスが言うと、ホロは返事もせずにリゴロのあとを追ったのだった。  一階は床《ゆか》も壁《かべ》も木造だったのに、地下の倉庫だけは総石造りだった。  テレオの村でも地下の穴蔵は石造りだった。やはり貴重な本は石で囲いたくなるのかもしれない。  ただ、隠《かく》すために作られた穴蔵としまうために作られた倉庫という大きな違いはある。  天井《てんじょう》はロレンスが軽く上に手を伸《の》ばせば届く程度で、床から天井までの高さの本棚《ほんだな》がずらりと並んでいる。  しかも棚には年代ごと、内容ごとに札がかけられており、番号まで振ってある。  装丁はテレオの村で見たものとは比べ物にならないくらい貧相《ひんそう》だったが、管理の手間は段違いにかけられているらしい。 「この町もやはり火事が多いですか」 「時折ありますね。お察しのとおりご先祖様はそれが怖《こわ》くてこんなところに押し込んだのです」  あの庭園が見える部屋にはいなかったのに、話を聞いていたのかメルタは先回りして地下室の入り口で小さな燭台《しょくだい》を持って待っていた。  ホロはメルタに案内されて目当ての本を探している。  獣脂《じゅうし》の灯《あか》りでは匂《にお》いと煤《すす》で本が駄目《だめ》になってしまうので高価な蜜蝋《みつろう》の火だ。  甘そうな灯りがちらちらと本棚《ほんだな》の陰《かげ》から見え隠《かく》れしている。 「ところで」  男二人手持ち無沙汰《ぶさた》にしていたところ、リゴロがそう口を開いた。 「僕は堪《こら》え性《しょう》がないのでもう聞いてしまうんですけど、一体なぜ何百年も前の言い伝えを?」  ホロとの関係を聞かないあたり、リゴロという人間の興味の中心がよくわかる。 「彼女が自分の起源を探しているんですよ」 「起源?」  その洞察《どうさつ》力は希代の大商人もかくやといった具合でも、自分のこととなるとからっきしらしい。驚《おどろ》きをあらわにして、組んでいた腕《うで》を解いた。 「訳あって彼女が故郷に帰るための道案内をしているのですが、そのためです」  事実を少し省略して伝えれば、相手は足りない部分を勝手に想像する。  そうすれば嘘《うそ》をつかずに相手の目を真実から遠ざけられる。  リゴロも、引っかかったようだ。 「なるほど……。ということは、北に?」 「ええ、まだ詳《くわ》しい場所がわからず、彼女が知っている言い伝えを頼《たよ》りに特定しようという段階です」  リゴロは深刻そうにうなずいた。  ホロのことを、北の地で捕《と》らえられ南に売り飛ばされた奴隷《どれい》かなにかだと解釈《かいしゃく》したのだろう。北の地の子供は南のそれに比べてとても丈夫《じょうぶ》で素直《すなお》だという話がある。子供がいなかったり唯一《ゆいいつ》の跡取《あとと》りが病弱であったりする貴族が、遺産を親戚《しんせき》に取られるくらいならば、と養子に買ったりする例も多い。 「この町にも時折北からの子供たちが滞在《たいざい》しますよ。無事故郷に帰れるのなら、それが一番良いことだ」  それには疑いなく同意して、無言でうなずいた。  そして、そんなホロが見当をつけたらしい本を五|冊《さつ》ほど抱《かか》えて本棚の陰から現れた。 「またいっぱい欲張ったな」  ロレンスが呆《あき》れたように言うと、ホロの代わりにメルタが笑顔《えがお》で答えた。 「これで全部なので、一度に持っていったほうがよいかと思いまして」 「なるほど。ほら、いくつかこっちに。落としたら向こう三日間飯|抜《ぬ》きになる」  それにはリゴロが笑い、結局ロレンスはホロの持ってきた本|全《すべ》てを抱《かか》えて、一階に戻《もど》った。 「本当はここで読んで欲しい、と言いたいところですけど」  メルタが丁寧《ていねい》に包んでくれた本の束を見ながら、リゴロは言った。 「僕はフルールを信用しているので、フルールが信用したロレンスさんも信用する。でも周りがそうとは限らないので……」  外地の商人が入り浸《びた》っていると、なにかと疑われることになるだろう。 「ええ、もちろんそれは」 「ただ、落としたり燃やしたりなくしたり売ったりしたら、向こう三日間飯|抜《ぬ》きですよ」  冗談《じょうだん》にしても笑えない。何事も金に換算《かんさん》しがちなロレンスではあるが、この本の価値が金に換算できないことくらいはよくわかっている。  うなずいて、束に手を置いた。 「商人としての命運を賭《か》けた商品のように扱《あつか》わせていただきます」 「うん」  リゴロの笑顔《えがお》は少年のようだ。  エーブはこういうところに心を開いたのだろうか。 「では、読み終わったら持ってきてください。僕がいなくても、メルタはいるので」 「わかりました。お借りします」  ロレンスの目礼にリゴロは笑顔で応《こた》え、ホロには軟派《なんぱ》に手を振《ふ》っていた。  このあたりが商人ではなく宮廷《きゅうてい》詩人のように思わせる所以《ゆえん》かもしれない。  ホロは満足げに手を振り返していた。 「荷物を持っていないから実に振りやすそうだな?」  道案内から荷物持ちまで、まるっきりの下男役をやらされているのだからこのくらいの皮肉は許されるだろう。  ロレンスはそう思っていたのだが、ホロはこう切り返してきた。 「ぬしも振られぬように口には気をつけるんじゃな」  そんな台詞《せりふ》を残して一人でひょいひょいと先を歩いていってしまうホロが憎《にく》たらしいと思わないでもない。  ただ、こんなやり取りも本当に仲が悪かったらできはしない、ということくらいロレンスだって十二分にわかっている。  問題は、ホロがロレンスを少しも立ててくれないことだ。 「豚《ブタ》はおだてれば木にも登るが、雄《おす》はおだてたところで調子にしか乗らぬ」  抗議《こうぎ》は軽く封《ふう》じられてしまった。  完全に否定しきれないところが問題なのかもしれなかったが。 「立つ瀬《せ》がないのに腹ばかり立つな」  ロレンスが言うと、ホロはわざとらしく手を叩《たた》いて、けらけらと笑ったのだった。  本を宿に置いたあと、約束どおりに夕食はホロの好きなものをということで、適当に入った酒場でホロが頼《たの》んだのは子豚《こブタ》の丸焼きだった。  口から肛門《こうもん》まで鉄串《てつぐし》を通し、直火で炙《あぶ》りながらぐるぐる子豚を回し続け、時折木の実から採《と》った油を塗《ぬ》ってまた焼いて、を繰り返す手間のかかる逸品《いっぴん》だ。  こんがりいい具合に焼けたら子豚の口に香草を挟《はさ》んででかい皿にドンと盛る。子豚の右耳がナイフで削《けず》ってあるのは、幸運が訪《おとず》れますようにというおまじないだ。  普通《ふつう》は五人とか六人で、なにかのお祝いだったりする時に頼むもので、ロレンスが丸焼きを頼むとまず注文を取りに来た娘《むすめ》が驚《おどろ》き、焼き上がって運ばれてくると店中の男どもが「おー」と感嘆《かんたん》と羨望《せんぼう》と嫉妬《しっと》が混じった声を上げた。  そして、それに真っ先にむしゃぶりついたのがホロだというのを見て、「あー……」という同情のため息のようなものも聞こえてきた。  美しい娘を連れて歩いていれば敵意のこもった眼差《まなざ》しを向けられることも少なくないが、そいつがえらく金のかかる存在だとわかると皆《みな》揃《そろ》って溜飲《りゅういん》が下がるらしい。  ロレンスはホロが自分では肉が切り分けられないので仕方なく世話を焼いてやったが、肉を自分の皿に取り分ける気力もなく、こんがり焼けたぱりぱりの皮だけを切り取って食べていた。木の実の油が香《かお》り高くておいしかったが、こりこりとした歯ごたえがうまい左耳はホロに取られた。肉に合うのはやはりビールよりもぶどう酒で、そちらの消費もなかなかのもの。  ホロは文字どおりがっついていて、フードの隙間《すきま》から綺麗《きれい》な亜麻《あま》色の髪《かみ》の毛がこぼれ落ち、子豚の脂《あぶら》がついてもまったく気にしていない。その様はまるっきり狼《オオカミ》の食事だった。  結局、大した時間も要さずにぺろりと子豚一匹を平らげてしまった。  ホロが最後のアバラの骨をしゃぶり終えた時、店中から拍手《はくしゅ》が起こった。  しかし、ホロはそんな騒《さわ》ぎも一向に気にせず、指についた脂をなめたりぶどう酒を飲んで盛大にげっぷをしたりしていた。妙《みょう》に貫禄《かんろく》のあるその様に、店の酔《よ》っ払《ぱら》いたちは感嘆のため息をつく。  相変わらずそれらに無関心だったホロは、みじめな姿に成り果てた子豚を挟《はさ》んで初めてロレンスと目を合わせ、ロレンスにだけ向けて微笑《ほほえ》んだ。  ご馳走《ちそう》様ということなのだろうが、子豚をまるまる平らげてなお、狩《か》りに余念がないらしい。  いや、次に腹が減った時のための非常食なのかもしれない。  そんな笑顔だけで頭が痛くなるような支|払《はら》いのこともまあいいかと思えてしまうので、ホロの牙《きば》から逃《のが》れることを考えるのは諦《あきら》めた。せいぜい非常食として巣穴《すあな》に埋《う》められたまま忘れられないようにしようと思うほかない。  それからしばらく休憩《きゅうけい》し、十日間は十分に賄《まかな》えたくらいの代金を支|払《はら》って酒場をあとにした。  毛皮の流通が多いせいで獣脂《じゅうし》がよく取れるのか、帰り際《ぎわ》に夜の道をぼんやりと照らすランプの数が他《ほか》の町よりも多い気がした。  昼間とは違《ちが》い、皆《みな》が皆顔を寄せ合うようにして小声で話し、ぼんやりと揺《ゆ》れる獣脂の灯《あか》りを吹《ふ》き消さないようにと静かに歩く。  ホロは子豚《こブタ》を平らげたのがよほど満足だったのか、夢を見て微笑《ほほえ》んでいるような笑顔のままゆっくりと道を歩いていた。  もちろん、はぐれないようにと、ロレンスの手を握《にぎ》って。 「……」 「え?」  ホロがなにか言ったような気がして、ロレンスが聞き返すとホロは小さく首を横に振《ふ》った。 「良い夜じゃ、と言った」  ぼんやりと地面を見ながらホロは言い、ロレンスももちろんそれに賛成する。 「ただ、こんな夜ばかり続いたら……駄目《だめ》になりそうだ」  一週間も続けば財布《さいふ》の中身は空になり、頭の中身がどろりと溶《と》け出してしまうだろう。  ホロも同感だったらしい。  小さく喉《のど》を鳴らして笑った。 「塩水じゃからな」 「?」 「甘い、塩水じゃ……」  酔《よ》っ払《ぱら》っているのか、それともなにかと引っ掛《か》けた言葉だったのか。聞き返そうとも思ったが喋《しゃべ》ることすら無粋《ぶすい》な穏《おだ》やかな雰囲気《ふんいき》だ。ロレンスは結局聞き返さずに宿に着いた。  町に住む人間は、どれほど酔っ払っていても歩ける限り必ず自分の家にはたどり着けるものらしいが、旅人の場合はちょっと違う。どれほど足にきていても宿までなら頑張《がんば》れる。  ホロは宿の玄関《げんかん》の戸を開けた直後に膝《ひざ》から下がなくなってしまったらしい。  いや、とロレンスは思った。  これは狸寝入《たぬきねい》りだろう。 「おや。他《ほか》の宿なら店主が顔をしかめるだろうぜ」  ロレンスたちが宿に入るなり、アロルドと共に炭火を囲んでいたエーブが相変わらず頭巾《ずきん》の下に顔を隠《かく》しながら、かすれた声で楽しそうにそう言った。 「それも一日目だけでしょう。毎晩となれば笑ってくれるに違いない」 「へえ、よく飲むのか」 「それこそ、ご覧《らん》のとおりで」  エーブは声なく笑って、酒を飲んだ。  ロレンスがホロを抱《かか》えるようにして二人の横を通り過ぎようとすると、椅子《いす》に座ったままずっと目を閉じて眠《ねむ》っているかのようだったアロルドがふと口を開いた。 「北の毛皮商だったか。話をしておいた。やはり今年は雪が少なく北に行くには好都合だと」 「わざわざありがとうございます」 「詳《くわ》しく聞きたければ……また名を聞くのを忘れたな」 「コルカ・クース」  エーブに補足され、アロルドは「そんな名だったかな」と呟《つぶや》いている。  こののんびりとした空気の中もまた、いつまでもとどまっていたいような雰囲気《ふんいき》だ。 「クースとやらは四階に泊まっている。夜は大体|暇《ひま》だと言っていた。詳しく聞きたければ訪《たず》ねればいい」  万事順調だ。  ただ、ホロが急《せ》かすようにロレンスの服を掴《つか》む手に力を込めてきたので、アロルドの言葉に礼を言い、軽く挨拶《あいさつ》をして階段を上《のぼ》っていった。去り際《ぎわ》に、エーブがすぐに下りてこいよとばかりにコップを掲《かか》げていたのが見えた。  一歩一歩階段を上り、ようやく部屋に着いて扉《とびら》を開ける。  こうやってホロを抱えて部屋にたどり着くのは何度目だろうか。  ホロと出会うまでは、どれだけ深酒しようとも、どれだけ楽しいことがあろうとも、独《ひと》りで宿に帰ればその酔《よ》いも気持ちもいっぺんに覚めてしまうような恐怖《きょうふ》があった。  もっとも、では今なら恐怖がまったくないかといえばそんなことはない。  代わりにあるのは、あと何度こんなことができるのだろうか、という恐怖だった。  考えても詮《せん》ないことだとはわかっているが、ずっと一緒《いっしょ》に旅をしよう、と言いたい気持ちがもちろんないわけではない。ずっと一緒にいられるのなら、どんな形であれそれが一番望ましいと今は思う。  ロレンスはそんなことに苦笑しながら、ベッドの毛布をはいでホロをまず座らせた。演技ではなく本気で眠《ねむ》りかけているのもわかるようになってきた。  ケープをはいでローブを脱《ぬ》がせて、重ね着している上着をとって、靴《くつ》を脱がせて腰紐《こしひも》を解いて、と哀《かな》しくなるくらいに手際《てぎわ》よくホロの体を楽にしてやって、そのままベッドに横たえてやる。  このまま襲《おそ》ってもなにも気づきそうにないくらいよく眠っていた。 「……」  酒のせいかそんな考えがむくりと頭をもたげたが、ホロのいつものふてぶてしさを思い出してしまい、たとえではなく本当に最後まで気づかれなさそうな気がした。  これほど空しいこともそうそうないだろう。  そう思うと、泡《あわ》が弾《はじ》けるよりも早くしぼんでしまった。 「嫌《いや》な奴《やつ》だ」  ロレンスは自分の身勝手さをホロのせいにして笑いながら呟《つぶや》き、その直後に驚《おどろ》いて少し体を引いた。  ホロが目を開けて、ゆっくりとこちらに焦点《しょうてん》を合わせたのだ。 「どうした?」  変に慌《あわ》てなかったのは、気分が悪いのではないか、という考えがすぐに頭に思い浮かんだからだ。  しかし、どうやらそういうわけでもないらしい。  ホロは毛布の下からゆっくり手を出してきた。  思わず握《にぎ》ってしまう。そんな弱々しさだった。 「……ぃ」 「え?」 「怖《こわ》い」  言って、ホロは目を閉じる。  悪い夢の途中《とちゅう》だったのか、と思った。しばらくして再び目を開けた時、ホロの顔にはちょっとした恥《は》ずかしさが残っていたからだ。  思わず口をついて出てしまった、といった感じだった。 「お前に怖いものなんてあるのか」  なので殊更《ことさら》明るく言ってやると、一瞬《いっしゅん》だけ感謝するように笑ったような気がした。 「今のところなにもかも順調だろう? 本は手に入った。なんの困難にも巻き込まれていない。北への道も今年は良好らしい。そして」  握ったホロの手を少し持ち上げて、また下ろす。 「まだ喧嘩《けんか》していない」  これは効《き》いたらしい。  ホロは笑って、再度目を閉じると小さくため息をついた。 「たわけが……」  そして、手を離《はな》して毛布の下に潜《もぐ》り込ませてしまった。  ホロが怖いものだなんて限られている。  それは孤独《こどく》だ。  だとすれば怖いというのは旅の終わりのことだろうか。それならばロレンスだって怖いし、もしもそうであるのなら順調すぎる旅も逆に怖いかもしれない。  しかし、それにしてはホロの様子としっくりこない気がした。  ホロは長いこと目を開けない。このまま眠《ねむ》るのか、とロレンスが思うのと、ホロがなにかを待つように狼《オオカミ》の耳をひくひくとさせ、小さく顎《あご》を上げるのは同時だった。 「……わっちが怖《こわ》いのは……」  ホロは喋《しゃべ》りながら、満足げに首をすくめた。  ロレンスの手が、なにかに導かれるようにホロの頭を撫《な》でていたからだ。 「わっちが怖いのは、こういうこと」 「え?」 「わからぬか」  ホロは目を開け、ロレンスを見る。  蔑《さげす》むでも怒《おこ》るでも呆《あき》れるでもなく、どこか怯《おび》えるような色がある。  本当に怖いのかもしれない。  ただ、やはりロレンスにはなにが怖いのかわからない。 「わからない。それとも……旅の終わりが?」  やや思い切りが必要だったが、ロレンスがそう聞くと、ホロはどういうわけか安心したように表情を緩《ゆる》めた。 「それももちろん……怖い。久しぶりに、本当に久しぶりに楽しい時間じゃからな……。じゃが、それよりも怖いことがある……」  ホロの存在が一瞬《いっしゅん》遠くなった。 「わからなければよい。いや」  言って、再び毛布の下から手を出したかと思うと、自分の頭の上にあるロレンスの手を取って、どけた。 「ぬしまでそれに気がついたら、ちょっと困るかもしれぬ」  そして、おどけるように笑って毛布の下に手|諸共《もろとも》に顔を潜《もぐ》り込ませてしまった。  不思議と、拒絶《きょぜつ》されたという気持ちはなかった。  どちらかというと、その逆だ。  やはり眠《ねむ》りに入るらしく、ホロは毛布の下で丸まっていく。  と、なにかを思い出したかのように再び毛布の下から顔を出した。 「下に行く分には構わぬが、わっちが嫉妬《しっと》しない程度にな」  エーブの仕草に気がついていたのか、単なるかまかけなのか。  どちらにせよ正解なので、ロレンスは軽くホロの頭を小突《こづ》いて答えた。 「俺は独占《どくせん》欲に自己|嫌悪《けんお》している娘《むすめ》が好きらしい」  ホロは牙《きば》を見せて笑ってくれた。 「先に寝《ね》る」  そう言って毛布の下に潜っていった。  ホロがなにを恐《おそ》れているのかわからない。  ただ、できることならそれを取り除いてやりたいと思った。  ホロの頭を撫《な》でた感覚がまだ残っている掌《てのひら》を眺《なが》め、その感覚が消え去るのを防ぐように軽く閉じる。  できればこのままずっと側《そば》にいたかったが、エーブにはリゴロを紹介《しょうかい》してくれた礼も言わないといけない。  都合によっては明日にでも町からいなくなることがある商人だし、礼を言うよりも連れの女とよろしくやっているほうが大事な男と思われるのも非常によろしくない。  ホロが起きていたらまた容易に爪《つめ》を引っ掛《か》けられそうな気持ちだったが、こればっかりはどうしようもない。  ロレンスだって、人生の半分近くを商人として過ごしているのだから。 「では、お言葉どおり下に」  それでも小さくそう呟《つぶや》いたのは、なんとなしの言い訳のため。  酒場の娘《むすめ》に言った、財布《さいふ》の紐《ひも》は握《にぎ》られていないが手綱《たづな》はしっかりと握られているというのは本当にそのとおりかもしれないと思ったし、悔《くや》しいところだがそんなことはホロから見れば一目瞭然《いちもくりょうぜん》のはずだ。 「……」  やはりロレンスが怖《こわ》いのは旅の終わりだけだ。  ホロはなにを恐れているのか。  ロレンスは、少年のように、首をひねったのだった。  二階では三人くらいの客が静かに酒を飲んでいるのが見えた。一人は商人ふうで、もう二人は遍歴《へんれき》職人に見えた。もしも三人ともに商人なら、あれほど静かに酒は飲まないだろうから、きっと予想は外れていないだろう。  一階に下りると先ほどと同じようにアロルドとエーブがいた。  時間が止まっていたのかと錯覚《さっかく》してしまうくらいに同じ姿勢で、二人とも黙《だま》って別々の場所に視線を向けていた。 「魔女《まじょ》がくしゃみでもしましたか」  時間が止まるといわれる迷信《めいしん》の一つだ。  アロルドは埋《う》もれそうな瞼《まぶた》の底から軽く視線を向けただけ。  エーブが笑ってくれなければ、失言だったかと思っただろう。 「オレは商人だが、爺《じい》さんは商人じゃないからな。話なんて弾《はず》まない」  椅子《いす》の体裁を保っているものがなかったのか、エーブは空の木の箱を指差した。 「お陰《かげ》さまでリゴロさんと無事会えました。陰鬱《いんうつ》な顔をした御仁《ごじん》でしたね」  ロレンスが座ると、最愛の愛娘《まなむすめ》が来たって出|迎《むか》えそうには思えなかったアロルドが、温めたぶどう酒を注《つ》いだコップを手|渡《わた》してくれた。 「はは、そうだろう。あれほど陰気《いんき》な男はいやしない」 「あの特技は羨《うらや》ましかったですが」  エーブは、「見たか」という楽しそうな顔をした。 「あんた、リゴロに気に入られたな。あれと組んで商売したなら、ほとんどの商人は丸裸《まるはだか》も同然だと思わないか」 「残念なことに、そのつもりはなさそうでした」  ああいうのを無欲な人間というのかもしれない。 「あいつは人生の喜びがあのうらぶれた屋敷《やしき》の中で完結しているからな。庭園を見ただろう?」 「素晴《すば》らしかったですね。あれほど大きなガラスの窓は滅多《めった》にお目にかかれるものじゃない」  わざと商人丸出しの答えを返すと、エーブはうつむき加減の顔を上げて口元の笑《え》みを見せつけるように笑った。 「オレはとても我慢《がまん》ならんがね。発狂《はっきょう》しちまう」  そこまでとはいかなくとも、ロレンスもわからないではない。  商人が金|儲《もう》けのことを考えるのは、ほとんど呼吸に等しい行為《こうい》だ。 「で、会議の話は聞けたか?」  エーブが頭巾《ずきん》の縁《ふち》から瞳《ひとみ》を覗《のぞ》かせる。アロルドは露骨《ろこつ》に不機嫌《ふきげん》そうな視線をエーブに向けて、顔を背《そむ》けた。  ロレンスは会話を楽しむ笑顔《えがお》を顔に貼《は》りつけたまま、その下で商人の顔を用意した。  リゴロに会わせたのは、最初からこれが目的だったのでは、と思わなくもない。 「会議では結論がまとまったらしいですよ」  もちろんエーブからすればそれが本当にリゴロが言ったものかどうかの真偽《しんぎ》は半々だろう。  ただ、それも事前の情報がなければの話だ。エーブが事前に手に入れていた情報と照らし合わせれば、色々見えてくることも多いに違《ちが》いない。 「その内容は?」 「そこまでは残念ながら」  砂時計から砂が落ちるのをじっと待つ子供のように、エーブは頭巾《ずきん》の下からロレンスのことを見つめていたが、やがてそれ以上待ってもなにも得られないことがわかったらしい。  顔をそらして、酒に口をつけた。  攻守《こうしゅ》を入れ替《か》える。 「エーブさんは聞き出しているんですか?」 「オレが? はは、オレはあいつに警戒《けいかい》されているからな。だが、そうか、真偽のほどは別にして、リゴロの口からその言葉が出たとなれば……」 「案外本当なのかもしれません」  もしも本当に結論が出ているのなら、我慢《がまん》できずに喋《しゃべ》ってしまう連中が他《ほか》にもいるはずだし、喋ったところで外地商人の利益にならないような結論だとすれば、困る者は誰《だれ》もいない。  第一、公《おおやけ》の会議とはそもそも内容が漏《も》れることを前提で進められる節がある。 「ただ、気になるのは」 「ん?」  エーブが足を組み替えて顔を向けてくる。 「エーブさんがどういう目的でこの話を追いかけているのか、ということです」  アロルドが笑ったような気がした。  商人同士の会話の中では、利害の矢印の向きがあまりにも不鮮明《ふせんめい》だ。 「単刀直入《たんとうちょくにゅう》だな。ちまい商売ばかりしてきたわけじゃないのか、それともろくに交渉《こうしょう》してこなかったのか」  女とは思えない腹の据《す》わった声。  いや、女の商人だからこそ腹が据わっているのかもしれない。 「オレも他の連中と同じだよ。どうにかしてここから大|儲《もう》けを引き出せないか、そればかりだ。それ以外になにがある?」 「大損を回避《かいひ》する」  教会都市リュビンハイゲンでのことを思い出す。  頭ではわかっていても、経験しないとこういう発想は出てこない。 「人に目は二つあるが同時に二つは見えにくい。もっとも、大損の回避《かいひ》というのはある意味で正しい」 「というと」  ロレンスが訊《たず》ねると、エーブは軽く頭を掻《か》いた。  アロルドがそれを見て髭《ひげ》の下で笑う。二人は気の合った相棒同士のようだ。 「オレは石像を商《あきな》っているんだけどな」 「聖母の?」  リゴロの家にあった像が瞬時《しゅんじ》に頭に浮かんだ。 「ああ、リゴロの家にあったやつを見なかったか? あれを西の海沿いにあるケルーベなんて港町、知ってるか? あそこを経由して、ここの教会に売る。そんな商売をしていた。石を持ってきて売るだけの商売だから利益率は大して良くもないがな、これに教会が祈《いの》りを捧《ささ》げた途端《とたん》、高値で売れる。このへんは異教徒のほうが強い。毎年の大|遠征《えんせい》もあるお陰《かげ》で、ありがたそうに石像を買う連中がものすごく多かった」  教会の錬金《れんさん》術。クメルスンで人々の思惑《おもわく》と熱狂《ねっきょう》から黄鉄鉱《おうてっこう》の値段が高騰《こうとう》したように、信仰《しんこう》は容易に金に変わる。  一枚|噛《か》ませて欲しいくらいだ。 「オレは残念ながらその利益には与《あずか》れないがな、代わりにそこそこの量を取引していた。それが、今年は大遠征が中止になっていっぺんにおじゃんだ。教会ほど掌《てのひら》を返すのが速いところはないと痛感したぜ」  重く、かさばる石像を在庫として抱《かか》えることほどの悲劇もないかもしれない。  輸送費はかさむ。売れる場所は限られる。信用を用いて取引額を大きくしていたとなれば一気に息の根が止まってしまうだろう。  エーブほどの商人が危険を一|箇所《かしょ》に集中させているとは思えないから即《そく》破産というわけではないのだろうが、痛手には違《ちが》いないはず。  腹立ち紛《まぎ》れに投機に目がいってもおかしくはない。 「最近は南のほうでも教会の権威《けんい》が失墜《しっつい》し始めているらしいからな。オレも沈《しず》む泥舟《どろぶね》に荷物を預けるのはそろそろやめようかと思っていたわけだ。そこで、最後に一|儲《もう》けして河岸《かし》を変えようかとな」  このへんは、一儲けしないと河岸を変えられない、という意味もあるかもしれない。 「で、せっかくだから大儲けできたら南のほうに行くかなと話していたわけだ」  誰《だれ》と、というのは聞くまでもない。  隣《となり》のアロルドが、呟《つぶや》いた。 「巡礼《じゅんれい》の旅に出る頃合《ころあい》かもしれない」  それはほとんど、骨をうずめる場所を探しに行くのと変わらないだろう。  ロレンスが宿に来るたびに聞いていたその台詞《せりふ》も、にわかに現実味を帯びたようだ。 「そんなわけでな」  エーブが言って、ロレンスの視線を引き寄せた。 「あんた、オレに金を貸さないか」  脈絡《みゃくらく》があるようでない台詞。  ただ、あまり驚《おどろ》かなかったのは、ある種の予感のようなものがあったからかもしれない。 「オレは会議の内容について確度の高い情報を持っている。根回しもできる。あとは金がありさえすればいい」  両目を覗《のぞ》かせ、まっすぐにロレンスのことを見つめてくる。それはどちらかというと睨《にら》んでいるというほうが近いが、ある種の演技だというのがロレンスにはわかる。 「出資の内容を吟味《ぎんみ》し、危険と利益が釣《つ》り合うようであれば喜んで」 「毛皮の売買。利益はざっと投資金額の二倍」  これでよし乗ったと言う商人がいるなら見てみたいものだが、もちろんエーブもそれはわかっていたようだ。  声を落とし、演技をやめて表情を落ち着かせた。 「五十人会議は、条件付きで毛皮を外地商人たちに売ると決定を下したはずだ」 「情報の出所は?」  聞くのは無駄《むだ》というものだろう。酒場で女の年を聞くようなものだ。  それでも、エーブがどう答えるのかは、重要な情報になる。 「教会」 「掌《てのひら》を返されたというのに?」  ロレンスが切り返すと、エーブは肩《かた》をすくめて笑った。 「たとえ喧嘩《けんか》別れしても、内部に協力者を残しておくのが定石《じょうせき》というやつだ」  もちろん信用はできないが、嘘《うそ》を言っているようにも見えない。リゴロから聞いたというわかりやすい答えよりも幾分《いくぶん》信用できるような気がした。 「内容は?」 「外地商人は、毛皮を買う際に現金での購入《こうにゅう》しか認めないようにした」  町の毛皮流通が独占《どくせん》されるか否《いな》かの瀬戸際《せとぎわ》ということで、どんな決断を下すのかと思っていたが、ロレンスはその案のうまさに思わず言葉が口をついて出た。 「売らないとは言っていない。かといって、遠方から来る商人たちがジャラジャラ現金を担《かつ》いできているわけがない」 「そうだ。だが、連中も手ぶらで帰るわけにはいかないだろうから、なけなしの現金で毛皮を買っていくだろう」  こうなると現金さえあればレノスの町の上質の毛皮を買い付け、よその町に持っていくことが可能だ。  ただ、気になったことがある。  そんなことをロレンスに喋《しゃべ》ってしまうと、ロレンスがエーブを差し置いて一人で取引をしてしまうかもしれないというところだ。 「そんなお話を私にしてしまってよいんですか?」 「あんたが小遣《こづか》い程度の儲《もう》けのみを考えているのなら、一人で取引をするがいい」  頭巾《ずきん》に隠《かく》れてエーブの表情が読めない。  これはロレンスを見くびっているのか、あるいはなにか一人では取引ができない条件があるのか。  迂闊《うかつ》な態度と言葉は慎《つつし》むべき。ロレンスはそう判断して、エーブの言葉を待った。 「実際のところ、あんたが持っている現金なんて高が知れているだろう?」 「否定はしません」 「ならば、千載一遇《せんざいいちぐう》の機会を無駄《むだ》にすることもないだろう。あんたはリゴロの存在すら知らなかった。この町に金を貸してくれるような知り合いはいないんだろう?」  その言葉は確かに正しい。  ただ、ロレンスはほんの少しだけ背筋に冷たいものを感じていた。  もしかしたら、エーブが近づいてきたのはそもそもロレンスを出資者として吟味《ぎんみ》していたのかもしれない。こうなると情報と思考の量が圧倒《あっとう》的な差を持っていることになる。  ロレンスはエーブのことをまったく知らないのだ。 「ですが、いったん別の町に引き返して、そこで現金を用意することもできます。そもそも、それを当てにしてあなたは私に出資を持ちかけたのではないのですか」  ロレンスが現金を大して持っておらず、なおかつこの町で金を借りる先がないのであれば、それ以外にはあり得ない。  しかし、エーブの首は横に振《ふ》られた。 「もちろん、あんたと連れの身なりと、宿の支|払《はら》いの気《き》っ風《ぷ》のよさから考えて、全力を尽《つ》くせばトレニー銀貨千枚は集まるだろうと思っている。しかし、そんなことをしている間に毛皮は買い占《し》められてしまうだろうなとオレは考えている」  裏の裏は表。  エーブの術に嵌《は》まらないように注意すればするほど、足を絡《から》め取られているような気がしてきた。  会議の決定はそもそも毛皮の買い占めを回避《かいひ》するためのものではないのか。  そして、一見すると現金のみの買い付けを受け付けるというのはよくできた案だと思った。 「あんた、町の外にいる商人連中は個々人の思惑《おもわく》で集まっている、なんて思っていやしないだろう?」 「どこかの金持ちがさらなる儲《もう》けのために引き起こしている」 「そう。こりゃあ商戦だ」 「商……戦」  造語だろうか。  ロレンスは初めてそんな言葉を聞いたが、それは、商人にとって、なにかとてつもなく震《ふる》えのくる言葉だ。 「海のほうには詳《くわ》しくないのか。港町に行って商人どもが酒と共に口を開けばすぐにこれが出るってくらいにはやっている。で、そんな商戦なわけだ。当然ある日|突然《とつぜん》やってくるわけじゃない。山賊《さんぞく》じゃないんだからな。攻《せ》め手の連中はとっくに根回しをすませてある」  それも道理だ。買い付ける商品をよく調べない商人などいない。 「大方、外でたむろしている商人連中は、会議の結論を何通りか予測して対策を練っているだろう。例えばこの町に金を持っている連中がどれくらいいるかわかるか」  突然言われてもわかるわけがないが、ロレンスも商人だ。  町の規模からすぐにざっと概算《がいさん》を出してみる。 「商会の看板を掲《かか》げているところが……大小|含《ふく》めて二十前後。特定の商品だけを商《あきな》うところが二百か三百。それに、裕福《ゆうふく》な職人連中もそれと同じくらい」 「概《おおむ》ねそんなところだな。で、そのうちの何人が町の利益より自分の利益を優先させるか、だ」  この質問には答えられない。  それはロレンスが事情に詳《くわ》しくないからではなく、いつだって人は私利私欲を隠《かく》して満たそうとするからだ。 「まあ、それなりの規模の商会が一つでも裏切ったらそれだけでごっそり毛皮は持っていかれちまう。よその町に支店を出させてもらうことを条件に出されたりしたら、軽く目がくらんじまうだろうしな」  商人という輩《やから》はとかく群れたがるので、あっさりと長年商売をしてきた町を裏切ることもないだろうが、利益の前にいつまでも義理|堅《がた》くいられる者もいない。 「もっとも、規模の大きい商会が裏切ることはないだろう。今|頃《ごろ》帳簿《ちょうぼ》を調べられて貨幣《かへい》の枚数をすっかり把握《はあく》されていることだろうからな。外の商人にこっそり金を渡《わた》せば足がつく」  ロレンスもすぐに合点《がてん》がいく。 「帳簿に記載《きさい》のない裏金があったとしても、会議の結論に一筆加えるだけでいい。その現金はどこから持ってきたか確認《かくにん》すること、と」  レノスの町に入った時に配られた�外地商人証明札�なる木札は、当初は、外地の商人が思わぬところに商取引の罠《わな》を仕掛《しか》けることを警戒《けいかい》してのものだったのだろうが、それが生きてくることになる。  そういえば、とロレンスは妙《みょう》に念入りに身体検査をされたことを思い出した。あれは外から来た人間が大量の現金を持っていないと確認《かくにん》するためだったのかもしれない。  もう、あの時点で会議の結論は出ていたのだろう。 「だが、商会以外にも金を持っている連中は山ほどいる。特に毛皮の加工をする職人の親方連中や、加工に必要な物資を売買している連中の中には、この町の毛皮産業はもう駄目《だめ》だと悲観的になっている奴《やつ》らもいるだろう。そんな奴らが新しい生活を始めるための資金目当てに、町の毛皮産業を脅《おびや》かしている当の連中に尻尾《しっぽ》を振《ふ》ることだって考えられる。五十人会議の結論は、確かに最善の策ではあるのだろうが、それで買い占《し》めを防げると少しの心配もなく思っている奴の数は少ないだろう。もう一度言おう」  エーブは冷たい声で言った。 「この町の毛皮はあっという間に買い占められる」  その間隙《かんげき》を縫《ぬ》って、自分たちも毛皮を買い付けようということなのだろう。  レノスの町の毛皮|独占《どくせん》をもくろんでいる商人集団たちに勝っているのは、町の中と外にいることだ。  彼らはきっと自分たちが町の中にいて暗躍《あんやく》していてはいつまでも会議の結論が出ないどころか、過剰《かじょう》な防衛行動を取られると理解していたから、外で野宿をしていたのだろう。  ならば、会議の結論が出たという情報を掴《つか》んでも、すぐには町に入ってこないはず。一度その結論を五十人会議が公布し、覆《くつがえ》せないものとなるのを待つだろう。  ロレンスたちが毛皮を買い付けられる可能性は、ないこともない。 「私が暢気《のんき》に他《ほか》の町からお金を集めている暇《ひま》がないことはわかりました。ですが、そうなると私には今多額の現金など用意できませんよ。ご存じのとおり、知り合いもいませんしね」  ここが一番不思議なところだ。  エーブはなにを企《たくら》んでいるのだろうか。  頭巾《ずきん》の下から、青い目が覗《のぞ》いた。 「大きな財産があるじゃないか」  ロレンスはすぐさま自分の持ち物を思い返してみる。  しかし、大きな財産と呼べるものなど一向に出てきやしない。  大体、エーブがそれを把握《はあく》しているということは、傍《はた》から見てすぐにわかるものだ。  だとすれば荷馬くらいのものしかない。  ロレンスはそう思った直後、まさか、とエーブを見つめ返した。 「そうだ、見目《みめ》麗《うるわ》しい連れがいるじゃあないか」 「……馬鹿《ばか》な」  それはまったくの本音。  ただし、ホロを売ることなんてできはしないという意味ではなく、ホロを売ったところでそこまで金にはならないという意味だ。  ホロは確かに十人が十人とも振《ふ》り返るような容姿だとは思うが、それがすぐさま銀貨千枚に変わるとはとても思えない。もしもそうであるのなら、美しい娘たちはこぞって誘拐《ゆうかい》されてしまう。  あるいはホロが人ならざるものだと見|抜《ぬ》かれているのか、とも思ったが、そうだとしても状況《じょうきょう》はあまり変わらないように思える。 「馬鹿《ばか》な、と思うだろう。だが、ここが、あんたを選んだ理由なんだ」  うっすらと浮かべられた笑《え》みの意味がよくわからない。  自信の表れなのか、それとも自分の計画に酔《よ》っているのか、あるいは。  エーブは頭巾を取り、綺麗《きれい》な短い金髪《きんぱつ》と青い双眸《そうぼう》を晒《さら》してこう言った。 「あんたの連れを貴族の娘だと言って売ればいい」 「なっ」 「不可能だと思うか?」  エーブは右の犬歯を覗《のぞ》かせて笑う。  これは、自嘲《じちょう》の笑みだ。 「オレの名は、フルール・ボラン。正式には、フルール・フォン・イーターゼンテル・ボラン。ウィンフィール王国の国王に忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》うボラン家の第十一代当主。れっきとした爵位《しゃくい》持ちの貴族だ」  突飛《とっぴ》すぎる冗談《じょうだん》は笑うことすらできないらしい。  ロレンスはそんなことを思ったが、実際は違《ちが》うことにも気がついている。  商人としての目と耳は、エーブの顔と言葉に嘘《うそ》はないと告げていたのだ。 「当然、食うにも困る没落《ぼつらく》貴族だがな、名前だけは立派だろう? 食い詰《つ》めてパンのひとかけらすら買えなくなった挙句《あげく》、一度は成金の商人に買われた身だ」  没落貴族のたどる道の定番といえばそうだろうが、エーブの自嘲の笑みの原因はこれだ。  没落したとはいえ誇《ほこ》り高き貴族が、成金の商人にその名前と体を買われる。  事実だとすれば、エーブのどこか年経た商人のような雰囲気《ふんいき》も理解できる気がした。 「そんな女だからな、自分の家の名を冠《かん》した娘《むすめ》を高値で売る伝《つて》の一つや二つある。どうだい」  ここは初めて踏《ふ》み込む商売の領域だ。  商人が金を稼《かせ》いでまずすることは自分の名に箔《はく》をつけることだ。大きな商会を築いた大|富豪《ふごう》が元々はごみ拾いの孤児《こじ》だったことも珍《めずら》しくない。金さえあれば買える貴族の名前というものは存在する、らしい。ロレンスは話に聞いているだけで、実際に目《ま》の当《あ》たりにしたことがない。  目の前のエーブは、その、買われたほうの人間だというのだ。 「あんたの連れは、貴族の娘だといっても十分に通じる。貴族のオレが断言しよう」  と、言って笑った。  かすれたエーブの声は、自分の身を呪《のろ》い通した挙句に嗄《か》れてしまったのかもしれない。 「もちろん、本当に売るのが目的じゃあない。さっき言ったように、町は毛皮の買い占《し》めを防ぐために現金での買い付けしか認めないと言っているのに、商会が外地の商人に現金を渡《わた》すことなんてできやしないだろう? だが、商会にだって色々ある。周りが納得《なっとく》いく理由を出せるなら、いくばくかの利益と引き換《か》えに現金を融資《ゆうし》してもいいというところはあり、オレはそこを知っている。貴族の娘《むすめ》を売る、というのはそのための方便だ。商会|側《がわ》もそこはわかっている。ただ、万が一オレたちの商売が失敗した時のために、担保《たんぽ》として機能する必要がある。それでオレがお墨付《すみつ》きを与《あた》えるわけさ」  そこまで織り込みずみなのかとロレンスは半ば感心してしまうが、それでも一方的にホロを質草《しちぐさ》に出すことなど危険すぎてできない。ホロ自身の身の安全はともかく、有事の際にロレンスの商人生命が終わることは間違《まちが》いない。 「オレは、いや、オレたちはあんたにただ大事な連れを質草に出せと言うわけじゃない」 「オレたち?」  ロレンスがそう疑問符をつけて言葉を返すと、エーブがずっと黙《だま》っていたアロルドに視線を向けた。 「私は巡礼《じゅんれい》の旅に出る」  唐突《とうとつ》に口を開いたアロルド。  それはロレンスがこの宿に泊まるたびに聞いたアロルドの口癖《くちぐせ》だ。  ただ、エーブはオレたちと言った。それはエーブがアロルドと手を組んでいるということで、そんなアロルドが巡礼の旅に出るというのはアロルドがエーブに資金や旅の面倒《めんどう》を見てもらうことに他《ほか》ならない。  そして、巡礼の旅は一度出れば何年も、あるいは十年以上も帰ってこない旅になる。アロルドの年でその旅に出るということは、もはや二度とレノスの土を踏《ふ》まないということ。  だとすれば。 「これが旅に出る最後の好機だと思っている。これまでももちろん旅に出ようと思えば資金にあてをつけることはできた。だが、踏ん切りがつかなかった……」  胃がひりつくような期待感。  アロルドは少し疲《つか》れたように笑い、エーブを見た。  きっとエーブの猛烈《もうれつ》な説得を受けたに違いない。  そして、皺《しわ》だらけの瞼《まぶた》の下から、青い瞳《ひとみ》が向けられた。 「この宿を、差し出そう」  ロレンスは息を飲む。 「行商人の夢ってやつはどいつも同じだろう?」  その台詞《せりふ》を言った時だけ、エーブは明るい貴族の娘のようだった。 [#改ページ]  第三幕  寝《ね》て起きれば多少は興奮《こうふん》が冷める。  そう期待して毛布に潜《もぐ》り込んだものの、エーブとアロルドの言葉は眠《ねむ》くならない酒に等しかった。 「受けるかどうかは、明日の晩に」  この言葉が、泥酔《でいすい》した時のように頭の中で何度も何度も響《ひび》いていた。  ボラン家の一人|娘《むすめ》と称《しょう》したホロを質草《しちぐさ》に、トレニー銀貨にして二千枚。できれば二千五百枚を引き出し、それで毛皮を買い込み、船でローム川を下り誰《だれ》よりも早くに売り捌《さば》く。  レノスに集まる毛皮ならば、関税を差し引いても原価の三倍近い値段で売れるという。  どうしても、それがあまりに皮算用に過ぎるとわかっても、概算《がいさん》を出してしまう。  銀貨二千枚分仕入れることができたとして、それが三倍になれば、四千枚の利益になる。エーブはアロルドと合わせて利益の八割を要求してきた。根回しのために必要なことや、情報料、それに、アロルドが担保《たんぽ》として差し出す宿の建物はそのままロレンスのものにしてもよいという。  それでも建物はせいぜい千五百枚だろうから、八割は取りすぎかと抗議《こうぎ》しようとした直後に、ロレンスは黙《だま》ることになった。  アロルドの宿の建物そのままと合わせて、全《すべ》てが万事うまくいけば宿の経営権も渡《わた》していいということだった。  その価値がわからない商人はいない。  建物さえあればいつでも開業でき、安定した収入の見込める宿屋は、既存《きそん》の宿屋が既得《きとく》権益を守るために新規参入を猛烈《もうれつ》に拒《こば》む。もしも経営権をよそ者が金で買おうと思えばいくらかかるかわかったものではない。  それに、もしもレノスの町で宿屋を開ければ、ここから温泉の町ニョッヒラはさして遠くもなく、そこから程ないヨイツを探すための拠点ともなる。  これでなにも考えず冷静でいられるほうがどうかしている。  だが、エーブの説明はどこか話ができすぎているような気がする。一見すると理屈《りくつ》としては成立しそうに思えるもののなにかおかしいような気がする。  目の前にある利益があまりにもでかいからしり込みしているだけだろうか、とも思う。  あるいは、この計画の肝《きも》になるのはロレンスの資金調達で、その調達法がホロを一時的にとはいえ売り飛ばすことだから、だろうか。  港町パッツィオでホロはロレンスの身代わりになって追っ手に捕《つか》まった。  あの時はどうしようもなく、最善の手としてホロが自ら立案したものだ。  今度は、ロレンスが、自分の儲《もう》けのために、ホロを売る。  商人が教会から蔑《さげす》まれ、責め立てられる職業であることがようやく理解できた気がした。  ロレンスは、深い闇《やみ》の中で、ホロが貴族として振《ふ》る舞《ま》っても問題ないのではないかと思っているのだ。  寝苦《ねぐる》しい夜が永遠に続く。  そんなことを思っていた矢先だった。 「ぬしよ」  ロレンスは、そんなホロの声で目を覚ました。 「……う……朝、か?」  いつまでも明けない夜のように思えたのは夢だったのか。ロレンスが目を開けると木窓からは明かりが差し込み、町がすでに動き始めていることを示すように喧騒《けんそう》も聞こえていた。  興奮《こうふん》の熱に浮かされながらあれこれ考えていたと思ったら、いつの間にか眠《ねむ》っていたらしい。  ベッド脇《わき》に立つホロに一度視線を向けてから、体を起こそうとしてひどい寝|汗《あせ》をかいていることに気がついた。  独《ひと》り立ちしてから初めて大きな儲《もう》け話を持ちかけられた時のことを思い出す。あの時は寝小便をしたのかと思ったくらいに汗をかいていて、もちろん、それは結局|詐欺《さぎ》だった。 「一体昨晩はなにをしておったのかや?」  どことなく不機嫌《ふきげん》そうながら、からかう感じでもないのは気|遣《づか》ってくれているからかもしれない。首筋に手をやると、べっとりとした汗をかいている。ホロがこんな寝汗をかいて寝ていたらロレンスもやはり心配するだろう。 「非常に……刺激《しげき》的な話をな」  毛布から抜《ぬ》け出た途端《とたん》に、朝の冷たい空気に触《ふ》れて汗《あせ》が氷のように冷たくなる。  ホロが自分のベッドに腰掛《こしか》けてから手ぬぐいを投げてくれたので、ロレンスはありがたく受け取って汗を拭《ふ》こうとして、気がついた。 「親切……と受け取っていいんだよな?」 「わっちの匂《にお》いをつけておかんとな」  ホロから手|渡《わた》された手ぬぐいは、なにか新たな毛づくろいの方法でも試《ため》したのか毛だらけだった。  こんなので汗を拭いたら大変なことになる。 「わっちゃあ心配しておる」 「悪かったよ」  ロレンスが心配する時には信じられないほど悪質な茶化し方をするのに、自分が同じことをされるのは我慢《がまん》ならないらしい。 「想像にかたくないように、大きな商売の話を持ちかけられた」 「あの狐《キツネ》に?」  ロレンスは狼《オオカミ》だと思ったが、本物の狼たるホロには狐に見えるらしい。 「ああ。正確には、エーブ、あの女商人と、この宿の経営主であるアロルドから」 「ふ……ん」  あっそう、と言わんばかりのホロの返事は、無関心からのものではあり得ない。  尻尾《しっぽ》が、少しだけ膨《ふく》らんでいた。 「まだ話を聞いただけで、裏は取っていないし、もちろん返事もしていない。ただ……」  膨らみかけた尻尾をすっと撫《な》で、一瞬《いっしゅん》細くなった尻尾のような目でホロは聞き返す。 「ただ?」 「利益が——」 「わっちの機嫌《きげん》より?」  言葉を遮《さえぎ》られ、ロレンスは開きかけた口を閉じ、再度開こうとして、また閉じた。  ホロはきっと、大きな利益の前にはまた危険も大きいと言いたいのだろう。  一度|暖炉《だんろ》で火傷《やけど》をした犬は決して暖炉に近づかない。  何度も火傷をするのは暖炉の中の栗《くり》を拾おうとする人間だけだ。  焼き栗は、甘い。  だから、ロレンスは燃え盛《さか》る火に手を伸《の》ばした。 「大きい」  ホロの赤みがかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》がゆっくりと細くなっていく。尻尾をいじるのをやめ、耳の付け根をカリカリと音を立てて掻《か》く。それでもロレンスはあっさりとエーブの話を諦《あきら》めることができない。師匠《ししょう》に初めて口答えした時のことを思い出した。 「利益は、この宿そのもの。あるいはそれ以上」  それがどういうことを示すか、わからないホロではないはず。  ロレンスはその期待を込めて、簡潔にそう言った。  しばし沈黙《ちんもく》が続く。  それがロレンスにとって辛《つら》いものではなかったのは、赤みがかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》が、満月とは言わずともそれに近い形になっていたからだ。 「それは……ぬしの夢に近いものではないのかや」 「……そうだ」  ロレンスが気負って答えると、ホロは先ほどまでのナイフの切っ先のような雰囲気《ふんいき》など嘘《うそ》のようにきょとんとして、右の耳を一瞬《いっしゅん》だけ伏《ふ》せた。 「それで、なぜ悩《なや》むのかや?」  挙句《あげく》、そんなことを言った。 「ぬしの夢は店を持つことと記憶《きおく》しておるがな、それならばわっちが口を挟《はさ》む余地などありんせん」  そう言って、尻尾《しっぽ》を手元に抱《だ》き寄せると毛づくろいを始めてしまった。  むしろ、どことなく呆《あき》れた色すらあった。  ロレンスは予想していなかったホロの反応に対処できず、呆《ほう》けたようにその場に立ち尽《つ》くしてしまう。  場合によっては頭ごなしに否定されることにすら甘んじようと思い、あるいはホロがそんな誘《さそ》いは危険だと言ってくれればエーブの言葉の真偽《しんぎ》を見|抜《ぬ》くための有意義な議論になると思った。  もちろん、千載一遇《せんざいいちぐう》の好機ではあるだろうが、危険が勝《まさ》るようであれば見送ることも考えていた。  金はまた儲《もう》ければいい。  だが、ホロとはまた出会うということはない。 「なんじゃ、構って欲しい犬のような顔をして」  反射的に顎鬚《あごひげ》に触《さわ》ってしまったのは、どことなく図星のような気がしたからかもしれない。 「わっちに反対されるのがそんなに嬉《うれ》しいかや」  ホロの尻尾はこげ茶色だが、それは表面だけで中の毛は雪のように白い。  ホロはそれをこねて真っ白い毛玉を作っていた。 「反論されて、雲行きが怪《あや》しいようであればおとなしく引き下がるつもりでいた」  ロレンスがそこまで正直に言うと、ホロはやれやれとばかりに苦笑した。 「それはわっちの明晰《めいせき》な頭脳と先見《せんけん》の明《めい》を期待してのことかや」 「幾分《いくぶん》は」 「残りは?」  隠《かく》してもしょうがないし、隠せば掘《ほ》り起こされて遊ばれる。  ただ、一人の男として、まっすぐに言うのははばかられた。 「お前が嫌《いや》な顔をするだろう?」  ホロは乾《かわ》いた笑い声を上げて、「たわけ」と短く言った。 「なら、逆に聞きたいが、なぜ、突然《とつぜん》態度を変えたんだ。あれほど俺が首を突《つ》っ込むのを嫌がっていたのに」 「ふん」  それは尻尾《しっぽ》の産毛《うぶげ》が鼻に入ったのか、あるいはロレンスの言葉がその程度のものだったのか。  おそらくは後者だろうが、あまり不機嫌《ふきげん》そうな顔はしていなかった。 「ぬしは本当に……いや、もうよい。ぬしがたわけなのは知っておるからの。これでもわっちゃあぬしにあれこれ言うのが辛《つら》いんじゃ」  まさか、というのが顔に出ていたのか、本気で噛《か》みつかれそうな剣幕《けんまく》で睨《にら》まれた。 「まったく……。結局わっちはわっちのためにしか口も頭も動かせぬ。例えば、わっちゃあぬしとごろごろできるならそれが一番だと思っておる。あたかもわっちが世の真理を説いているようにぬしに忠告をするのは、結局のところそれを実現させるためにじゃ。それは、正直、とても苦しい」  指でこねていた真っ白い毛玉を息で吹《ふ》いて飛ばすと、ようやく不機嫌そうな顔で尻尾に目を落とした。  不機嫌よりももっと具体的に、馬鹿《ばか》らしい、という顔だった。 「ぬしが得る利益と、こうむるかもしれぬ危険を天秤《てんびん》にかけて、釣《つ》り合うと思うならば手を出せばよい。店を持つことはぬしの夢だったのじゃろう? わっちゃあそれを邪魔《じゃま》したくない」 「邪魔だなんて——」 「大体、わっちがいなければぬしは断ることなど最初から考えずにひとまず引き受けて、相手が騙《だま》そうと手ぐすね引いているようであれば裏をかいて大|儲《もう》けを企《たくら》む。それくらいの気概《きがい》と、向こう見ずさを持っておったじゃろう? それはどこに忘れてきたのかや?」  ホロに指摘《してき》されて、ロレンスはとても古い記憶《きおく》を呼び起こされたような気がした。  確かに、港町パッツィオでの銀貨を巡《めぐ》る取引に首を突っ込んだ時は、それくらいの気構えがあった。喉《のど》から手が出るほど金儲けのきっかけが欲しく、多少の危なさは誰《だれ》も信じないことでどうにかしようとした。  ただ、それが数ヶ月前のこととはとても思えない。半年前ですらないのに、そんな自分ははるか彼方の記憶《きおく》の中の存在にしか思えない。  ホロは毛布の上でごそごそと丸くなり、顔をロレンスに向け、尻尾《しっぽ》を顎《あご》の手前まで引き寄せた。 「人の雄《おす》ほど巣《す》を守りたがる者もおらぬ」  ロレンスはその言葉に、「う」と小さくうめいた。  言われて初めて気がつく。自分の中にいつのまにか芽生えていた保守的な砦《とりで》は、自分には一生|縁《えん》がないと思っていた、守りに入るための砦だった。 「もちろんそれが悪いとは言わぬし、ぬしがわっちのことを……いや、わっちの顔色をびくびく窺《うかが》う様もそれはそれで可愛《かわい》いと思う」  最後で茶化したことが、余計にホロの気持ちを浮き彫《ぼ》りにする。  もちろん、それはホロの策略かもしれなかったが。 「わっちはだいぶぬしにわがままを言ってきた。たまにはぬしがわがまま言ってくりゃれ。それでぬしがわっちのことを忘れるようなら……」  ロレンスはすぐさまそれはないと言おうとしたが、ホロのしたいことに気がついて言葉を飲んだ。 「後ろから喰《く》らいつくまでじゃ。安心して背中を見せるがよい」  牙《きば》を見せて笑うホロ。  ホロほど律儀《りちぎ》な奴《やつ》は貸し借りを常に気にする商人にだっていないかもしれない。  それに、ロレンスは家庭を持って粘《ねば》り強くはなったが決して攻《せ》めなくなってしまった商人たちを何人も知っている。  自分が一生つましい行商人でいいならばそれでもいい。  では本当にそれでいいのかと自問した時、ロレンスはそれにうなずけるほど枯《か》れてはいなかった。  ホロを故郷に送り届けて、それからまた行商に戻《もど》れば遠くない将来に店を構えられる資金は手に入るかもしれない。  ただ、宿の経営権を含《ふく》む建物となると、そんな夢は哀《かな》しいほどつつましく思えてくる。宿と経営権、それに自由にできる財産があれば、どれほどのことができるか考えるだけで恐《おそ》ろしい。  挑戦《ちょうせん》できるならばしたい、という気持ちは当然ある。 「だが、持ちかけられた計画には、俺自身ためらってしまうことがある」 「ほう?」  ホロが興味深そうに顔を上げる。  ロレンスは、軽く頭を掻《か》いてから腹に力を込めて言った。 「取引に必要な金を調達するためにお前を利用しなければならない」  表情をぴくりとも動かさないのは、続きを言えということだろう。 「お前を貴族の娘《むすめ》と称《しょう》して、商会に質草《しちぐさ》として引き渡す」  そして、ホロはそれを聞くと鼻を鳴らした。 「まさか、それがぬしの寝汗《ねあせ》の原因とか言わぬよな?」 「……怒《おこ》らないのか」 「怒ると思ったことになら怒る」  いつか聞いた台詞《せりふ》だ。  ただ、ロレンスはその理由がわからない。 「まさかわからぬのか……」  簡単な質問をされて答えられない商会の小僧《こぞう》になった気分だ。 「ほんとにぬしという奴《やつ》は……。わっちゃあぬしの相棒じゃないのかや? それとも愛玩《あいがん》用の小娘とでも?」  そこまで言われてようやく気がつく。 「わっちゃあこれでも健気《けなげ》なところがあるんじゃがな? ぬしの商《あきな》いの役に立てるのなら喜んでこの身を差し出そう」  それは絶対に嘘《うそ》だが、ホロは一定の要件さえ満たせば多少無茶な頼《たの》みにだって首を縦に振《ふ》るくらいにはロレンスのことを信用してくれていたのだ。  だというのにロレンスがその信用に気がつかなければ、ホロは怒って当然だろう。  そして、その要件とは多少の無茶は聞き入れてくれるだろうという相棒としての信頼《しんらい》と、よほどのことがなければ窮地《きゅうち》には陥《おちい》らないだろうという賢狼《けんろう》としての信頼。  最後に、相手を同等の立場の者として尊敬する気持ち。  これを忘れなければ、頼まれる側《がわ》のホロも、ロレンスが自分のことを利用しようとしているなどとは絶対に思わないだろう。 「お前の協力がどうしても必要だ」 「ふん。わっちゃあ一度ぬしの身代わりになったがな、あれはぬしがわっちに優《やさ》しくしてくれた礼じゃ。じゃが、今度は礼ではない」  札ではなく、貸し借りでもない。  ではなにか。  金銭でも、恩でもない。  ロレンスが今まで築いてきた他人との関係は、必ず足したり引いたりすればゼロになる関係だった。貸しがあれば返してもらい、借りがあればこちらから返し、友人関係というものすら信用という名に変えてやり取りしていた。  ホロとは、それらとは違《ちが》う、まったく新しい関係。  ただ、ロレンスがその最適な言葉に気がついた時、ホロはみなまで言うなとばかりに顔をしかめた。 「で、ぬしが他《ほか》に気にしておることはなにかや」 「もちろん、罠《わな》ではないかという心配だ」  ホロは、「くふ」と笑った。 「相手がなにかを企《たくら》んでおれば、裏をかけばよい。その企みが大きければ大きいほど?」  ロレンスがホロと出会って間もない頃《ころ》、怪《あや》しげな取引を持ちかけてきた駆《か》け出しの商人を見て、ホロに得意げに言った言葉だ。 「企みが大きければ大きいほど、ひっくり返した時の利益が大きい」  ホロは尻尾《しっぽ》を撫《な》で、うなずいた。 「わっちゃあ賢狼《けんろう》ホロ。わっちの相方がつまらぬ商人では困りんす」  そういえばこんなやり取りをしていたな、とロレンスは笑ってしまう。  時間は確実に流れ、人もまた確実に変わるらしい。  それがいいのか悪いのかはわからない。  ただ、その変化を共有できる相手がいるのはとても楽しいことだった。 「ではぬしよ」 「ああ」  それに、ロレンスの魂《たましい》にはホロの名前がきっちりと刻み込まれているらしい。  ホロの考えていることがあまりにも鮮明《せんめい》にわかる。  ロレンスは笑って、こう言った。 「朝飯だろう?」  まずするべきことは外堀《そとぼり》を埋《う》めることだ。  エーブという商人が本当に石像を扱《あつか》っていて、その納入先が教会で、そことは喧嘩《けんか》別れになったのかということを調べるだけで、多くのことが見えるだろう。  ホロはリゴロから借りてきた本を読むからということで宿に留《とど》まるようだった。  好きに町を走り回ってくればいいと言われ、思わず礼を言いそうになった。  ただ、礼を言うのは変なので、「本を読んで泣くなよ」とだけ言っておく。  ベッドにうつぶせになって本のページをめくっていたホロは、はいはいとばかりに尻尾を振《ふ》るだけの返事。耳が若干《じゃっかん》動いていたので、少しだけ耳が痛かったのかもしれなかった。  昨日の今日で妙《みょう》な気分だったが、アロルドに軽く挨拶《あいさつ》をしてから、ロレンスは外に出た。  朝の冷たい空気も町の活気と太陽の日差しがあればさほど辛《つら》いこともない。  ロレンスは足早に歩き始めた。  この町では知己《ちき》がいないロレンスにとって、有用な情報源は�獣《けもの》と魚の尻尾|亭《てい》�の娘《むすめ》くらいのものだが、ちょうど今頃はぶどう酒業者や肉屋からの仕入れで大変な時間だろうと思ったので先に町の教会を見ておくことにした。  町がそこそこの広さを有し、道も入り組んでいるためにロレンスは教会をまだ見たことがないが、この町での教会の立場がそれなりに強いものだという印象くらいはある。  レノス辺りまで来れば、もはや異教徒は珍《めずら》しいものでもなんでもないし、当たり前のようにいる隣人《りんじん》であるという認識《にんしき》だ。  そうなると必然的に教会の権威《けんい》は下がるが、逆に正教徒たちの士気は上がる。  辛《つら》いことがあるとそれを神からの試練だと考えるような連中なのだから、これもまた当然なのかもしれない。アロルドが南への巡礼《じゅんれい》の旅を強く望むのも、この町ではむしろ普通《ふつう》のことなのかもしれなかった。  過激にして熱狂《ねっきょう》的な信徒というものは、いつも教会の力が弱いところにいる。  それくらいの覚悟《かくご》で信仰《しんこう》を抱《いだ》いていないと、異教の嵐《あらし》が吹《ふ》きすさぶ中では簡単にその火が消えてしまうからだろう。あるいは、焚《た》き火に風を送り込むようなものなのかもしれない。  そういう点ではエーブが石像をこの町に輸入しているということに不審《ふしん》な点はない。おそらく需要《じゅよう》もあるのだろう。  が、気にならない点がないわけではない。  途中《とちゅう》、パン屋で焼きたてのライ麦パンを買いがてら道を訊《たず》ね、たどり着いた教会を目にした時の直感を、ロレンスは素直《すなお》に言葉に変換《へんかん》してみた。 「金庫みたいだな」  教会というよりも、総石造りの神殿《しんでん》。  たたずまいは普通でも、雰囲気《ふんいき》そのものが違《ちが》う。  開け放たれた扉《とびら》をくぐり、何人もの人間が朝の礼拝に訪《おとず》れていた。  金のある教会は、入り口を見ればわかる。  古さのない教会ほどありがたみのないものもないので、建物そのものはそう簡単に改装されないが、入り口の階段は違う。  人が歩き、へこみ、歪《ゆが》んだそれは金のある教会なら適宜《てきぎ》修理する。  金持ちの見栄とはそういうものなのだ。  そして、その教会の入り口は、人の出入りの割に石が綺麗《きれい》に組まれた立派な階段だった。  レノスの教会には金が集まっているのがわかった。  では、支出はどうか。  ロレンスは少し周辺に目をやり、手ごろな場所を見つけた。  教会から三|軒《けん》隣《となり》の建物の脇《わき》にある、区画の奥へと続く路地。そこにいるのは、表の通りからほんの少し外れただけで、途端《とたん》に喧騒《けんそう》や日の光とは無縁《むえん》になる空間に住む者たち。  ロレンスが足を踏《ふ》み入れても彼らは視線すら上げない。  彼らを眠《ねむ》りから覚ますには、短い呪文《じゅもん》が必要だった。 「神のご加護がありますように」  そう言った途端《とたん》、死んでいるのか生きているのかすら定かではなかった髭面《ひげづら》の男がぱちりと目を覚ました。 「お……お? なんだ、施《ほどこ》しじゃないのか?」  ロレンスを頭の上から足元まで眺《なが》めて、どう見ても教会の人間には見えなかったらしく、期待半分|落胆《らくたん》半分でそんなことを言った。  ロレンスは未《いま》だ温かいライ麦パンを差し出して、商売用の笑《え》みをにっこりと浮かべた。 「施しではありません。ちょっとお聞きしたいことが」  パンを見て男の顔色が変わる。細かいことなどどうでもよさそうだった。 「ま、なんでも聞いてくれ」  ホロの早食いを見なれているロレンスですら驚《おどろ》いてしまうくらいの速さでパンを飲み込んでしまった男は、にかりと歯を見せて笑った。 「教会のことなんですけどね」 「なにを聞きたい? 司教様の愛人の数か? それともこの間生まれた修道女の子供の父親か?」 「実に興味をそそられる内容ですが、違《ちが》います。こちらの教会は普段《ふだん》どの程度パンを焼かれているのかと思いましてね」  もちろん教会はパンを焼かないので、どのくらい貧しき者たちに分け与《あた》えているのかということ。財政が傾《かたむ》くほど施しをして結局解散に至ってしまう教会や修道院もなくはないが、大抵《たいてい》は懐《ふところ》具合を見ながら慎重《しんちょう》に施しの量を決めるものだ。  そして、その施しを当てにして暮らしている物乞《ものご》いたちは、自《おの》ずと教会の台所事情に通じていく。 「へへ、久しぶりだなそういうことを聞かれるのは」 「そうなのですか?」 「昔はあんたみたいな商人がしょっちゅう聞きにきた。ここの羽振《はぶ》りを聞きたいんだろ? 最近は教会に取り入ろうなんて奴《やつ》は少ないみたいだ。神様も宣伝が足りないんじゃないか」  商談で、足元を見る、ということがある。それは相手の弱みにつけこむというより、相手の状況《じょうきょう》をよく見極めるという意味でとても重要だ。  その点、日々地面に寝《ね》っ転《ころ》がり、人々の足元ばかりを見ている物乞いたちほど人々が拠《よ》って立つ土台の移り変わりを見つめている者たちもいない。  時として物乞いたちが町から一掃《いっそう》されるのは、町の有力者たちが自分たちの懐事情を知られすぎたりすることを恐《おそ》れるからという意味もある。 「俺はいくつか町をうろついてきたが、ここの教会はこの辺じゃ一番だな。パンも豆も量はそれほどじゃないが、いいものを気前よくばら撒《ま》いてくれる。ただ……」 「ただ?」  ロレンスが重ねて問うと、男は口を閉じて頬《ほお》を掻《か》いた。  物乞《ものご》いたちの中にも順位があり、より施《ほどこ》しに与《あずか》りやすい教会の入り口の近くに陣取《じんど》る奴《やつ》はやはりそれなりに心得ている。  ロレンスは懐《ふところ》から一番安い銅貨を二枚男に手|渡《わた》した。 「へっへへ。ただな、ここの司教は俺たちにパンをばら撒《ま》く以上にあっちこっちに金をばら撒いている」 「なぜそんなことが?」 「そりゃあわかるぜ。俺たちを犬のように追い立てる護衛をつけた、金のかかった仕立ての馬車がよく横付けされているからな。あとは噂《うわさ》話に聞き耳立ててりゃ誰《だれ》だかわかるし、教会の中でどんな晩餐《ばんさん》が出たかもごみを見ればわかる。町でふんぞり返っている奴が何人その晩餐に来たかで客の偉《えら》さもわかる。へっへへ。どうだい」  単なる見栄っぱりですらなんの目的もなく有力者たちを晩餐に招いたりはしない。エーブから石像を仕入れ、聖別したうえで高値で売るなどという商売を行っているらしいのだから、それは間違《まちが》いなくなんらかの政治的な目的がある、完全な投資|行為《こうい》だ。  ではなにを手に入れるつもりなのか、となるとまだわからないが、こうなると五十人会議で主導権を握《にぎ》っていたのは教会なのかもしれない。  それにしても、とロレンスは物乞いを見て思う。  町が戦争状態になった時、真っ先に殺されるのが物乞いというのもうなずけるというものだ。  これでは誰も彼もが密偵《みってい》に見えてしまうことだろう。 「その技能を活かせば身を持ち直せませんか」  ロレンスは思わずそう言ってしまったが、男は首を横に振《ふ》って、「わかっちゃいねえな」と言った。 「持たざる者は幸いであると神も言っている。あんた、黒パンとぼろぼろの銅貨二枚を拾って腹の底がふわふわするほど喜べるか?」  男の目に射|抜《ぬ》かれる。 「俺は喜べるぜ」  賢《かしこ》き者がいつも毛皮の外套《がいとう》を羽織っているとは限らない。  教会の中で日々|祈《いの》っている連中よりも、よほどこの男たちのほうが神の教えを体現しているように思えた。 「ま、だからな、なにを企《たくら》んでいるか知らねーが、苦労してここの教会に取り入っても逆に搾《しぼ》り取られるだけだろうぜ。俺らが知る限り、ここの教会と長いこと仲良くしていたのはただ一人だ。それも、ついに最近になってかすれた声で怒鳴《どな》り合ってたな」  即座《そくざ》に一人の商人が頭に浮かぶ。 「石像を商《あきな》っている?」 「石像? ああ、確かそんなものも扱《あつか》ってたな。なんだ知り合いなのか」 「いえ、まあ……で、他《ほか》にもなにか扱っていたのですか?」  そんな話はちらとも出なかったが、荷物の隙間《すきま》にちょっとしたものを積むのはよくあること。  ロレンスはそう思ったのだが、男の言葉に目を剥《む》くことになった。 「俺はあの商人は塩商人だと思ってたがな。違《ちが》うのか?」  貿易において、荷がかさばり重いものを三つ挙げろと言われたらロレンスはすぐさま列挙することができる。建材用の石、染色用の明礬《みょうばん》、保存用の塩だ。  片手間に商うにはどれも適さない商品の代表ともいえる。  ロレンスは勢い込んで問いただした。 「なぜ、塩商人だと?」 「おいおい、えらい剣幕《けんまく》だな。商売|敵《がたき》か? 聞かれるままに答えて恨《うら》みを買うのはごめんだぜ」  男が体を引いて迷惑《めいわく》そうな顔をして、我に返った。 「失礼。ただ、商売敵ではない。これから共に商売をしようかという相手です」 「……相手の素性《すじょう》を探っているってやつか。まあ、あんたは人が良さそうだからな。あからさまな嘘《うそ》はつかねえだろ。いいよ、教えてやろう」  人が良さそうと言われて、喜んでいいものかどうか商人ほど悩《なや》む者もいないだろう。  相手がそれで油断してくれればいいが、そうでなければなめられていることに他ならない。 「へっへへへ。なに、俺たちのようなのを利用する商人はたくさんいるが、軽蔑《けいべつ》しない奴《やつ》は数少ない。俺の言葉に感心してくれる奴なんてもっといない。それだけのことだ」  褒《ほ》めてもこれ以上なにも出さないぞ、と言うべきか悩むくらい、面映《おもはゆ》かった。 「で、まあ単純な話なんだがな、あの商人が教会に運んでくる荷物の隙間から時折塩がこぼれるんだよ。肉や魚を漬《つ》けている塩なら匂《にお》いでわかるし、酒のつまみになってくれるがな、大してうまくねえ塩だ。だから塩商人だと思ってたんだ」  内陸地になればなるほど塩は宝石に近くなっていく。  エーブは石像を西の海に面する港町から運んできていると言った。  製塩されたものなら石像を入れる箱の中に入れれば特に問題もなく運べるだろう。  あるいは、こっそりと隠《かく》し、密輸入していたのかもしれない。  長いこと教会と取引をしていれば、荷物の検査も緩《ゆる》くなるだろう。役得というやつだ。 「そういうわけだ。他になにか知りたいことは?」  色々と教えてもらったあとだからというわけでもないが、ごろりと横になったぼろぼろの格好にも、ある種の貫禄《かんろく》があった。  ただ、もう知りたいことは大体知れた。 「人生を楽しむ秘訣《ひけつ》も教えてもらえましたから。十分です」  金塊《きんかい》というものは、本当に道端《みちばた》に転がっているらしかった。  エーブが教会と取引をしていたことは事実らしい。  また、教会の主たる司教がなんらかの政治的目的を持って金をばら撒《ま》いてることもわかった。  そんなことをしているのであれば、多少の非難は覚悟《かくご》のうえで金|儲《もう》けにいそしんでいてもおかしくはない。石像を安く仕入れて祈《いの》りを捧《ささ》げたあとに高値で売るなどまだ可愛《かわい》いほうかもしれない。  ただ、そうであるならば妙《みょう》な点もある。  安定した資金の供給源である石像の取引を、たった一度のつまずきでふいにしてしまうものだろうか。エーブが軽く見られていたのか、あるいは自前で石像の調達までできるような流通経路を開拓《かいたく》したのか。  エーブもあっさりこの町をあとにする決意を固めたらしいが、来年また取引を再開してくれる可能性だって捨てきれないはずなのに、潔《いさぎよ》すぎる気がした。  それに、物乞《ものご》いの話では、エーブが外に聞こえるほどの怒鳴《どな》り声で言い争いをしていたという。それほどの喧嘩《けんか》別れになるような理由はどこにもない気がする。商売をしていれば不良在庫を抱《かか》えてしまうことだってあるし、相手が自分の利益を優先して掌《てのひら》をひっくり返すことだって珍《めずら》しくはない。  もちろん腹も立つだろうし信用していれば裏切られたという気持ちが強くなるのも当然だが、そこで怒鳴ってどうにかなると思っているほどエーブは商人として若くないだろう。  それに、教会はエーブが没落《ぼつらく》していたとはいえ貴族だということを知らなかったのだろうか。  エーブはこの町に、自分が貴族であることを知っている商会があると言っていた。  情報収集能力にかけては商会も顔負けの陰険《いんけん》な教会が、そこを知らないはずがない。  各地の有力貴族を晩餐《ばんさん》に招いているような司教が、貴族であるエーブをあっさり捨てるのも解《げ》せない。  利用価値はたくさんあるはずだ。  それとも、利用価値がなくなったのだろうか。  だからこそエーブはロレンスなどという、本当に巡《めぐ》り合わせでたまたま出会った行商人に、銀貨数千枚という信じられない額の取引を持ちかけたのだろうか。  自棄《やけ》になって? あるいは再起をかけて? まさか行きがけの駄賃《だちん》に、というわけではないだろう。それにしては金額が大きすぎる。  なにか、金儲け以外の目的があるのではないかと疑うのは考えすぎだろうか。  ただ、エーブがロレンスを罠《わな》に嵌《は》めようと思っていたとしても、考えられる選択肢《せんたくし》は少ない。  ロレンスに金だけを出させて商品を持ち逃《に》げしてしまうか、毛皮の輸送の途中《とちゅう》にでもロレンスを殺してしまうか、あるいは、商会と裏で取引をしていて、ホロを売り飛ばすだけ売り飛ばしてなにもなかったことにしてしまうか。  しかし、これらのどれも考えづらい。  エーブが持ち出してきた計画は、ホロを自分の家の血を引く者であると証する以外はどれも取引としては正当性のあるものなのだから、取引内容を公証人の下《もと》で宣言して、ロレンスがそれの写しをレノスの町から別の町の商館にでも送ってしまえば相手は迂闊《うかつ》なことができなくなる。逐一《ちくいち》ロレンスの行動を証明する文書を第三者の手に渡《わた》されれば、この類《たぐい》の計画はいずれも実行が難しくなる。  それに、こんな単純な手で嵌《は》めようとするほど、エーブは自分のことを軽く見ていないはずだ、とロレンスは期待まじりにそんなことを思った。  やはり、特になにも企《たくら》んではいないのだろうか。  取引はいつだって疑いと信用の狭間《はざま》だ。  慎重《しんちょう》になるに越《こ》したことはないが、いつまでも調べていてはいつまで経《た》っても取引というのはできない。  どこかで思い切る必要がある。  ロレンスはそんなことを考えながら、足を�獣《けもの》と魚の尻尾《しっぽ》亭�に向けていた。  五十人会議の結論が出ているのなら、新しい情報が公然の秘密として出回っているかもしれないと思ったからだ。 「あら、これはまた早いお時間に」  ロレンスが酒場を訪《おとず》れると、中はがらんとしていて人の気配がなく、脇《わき》の路地を通って後ろに回ってみれば、あの娘《むすめ》がぶどう酒を入れるためのものだろう桶《おけ》を洗っていた。 「少し嫌《いや》そうな顔をしたのは、桶を洗う水が冷たいからでしょうか」 「そうですね、そのせいで少し冷たいのかもしれません」  笑って、娘は桶を磨《みが》いていた麻布《あさぬの》を丸めた掃除《そうじ》道具を置いた。 「いそいそと私の下《もと》にやってきた商人さん、これで何人目だと思います?」  皆《みな》、自分の利益のために必死なのだ。  何人がこの町の毛皮産業を横取りしようとしている者たちなのかはわからないが、エーブはその中で自分たちが利益を手に入れられると信じているらしい。本当に可能だろうか。  その点からも、ロレンスは少し心配になってくる。 「そこは自分自身の美しさを目当てに、と思ってもよいのでは」 「ふふ。笑顔は金《きん》なり言葉は銀なり。いきなり銅貨を差し出してきた無粋《ぶすい》な連中が何人いたと思います?」  それほど多いとも思えないが、少なくもないのだろう。 「もっとも、私も無粋なことを聞きに来たのですが」 「わかってますよ。商人さんたちには恩を売っておくとあとあと得ですからね。それで、なにが聞きたいんですか」  丸めた麻布《あさぬの》を置いたのはロレンスのために掃除《そうじ》を中断したからではなくて、桶《おけ》の中の水を捨てるためだったらしい。真横に置かれているホロならば簡単に納まってしまいそうな桶を少し傾《かたむ》けて、中の水を空けた。 「五十人会議について」  これが誘《さそ》いの文句なら、足を蹴《け》られても仕方がないというくらいにつまらない言葉。  それでも、娘《むすめ》は肩《かた》をすくめてから、答えてくれた。 「結論は出たみたいですよ。なんだか、毛皮は結局売るようにしたとか。でもつけは利《き》かないみたいですけど」  エーブから聞いた話とそのまま同じだ。  ロレンスがそのことをどう評価するべきかと考えていると、葡萄《ブドウ》の搾《しぼ》りかすを足で隅《すみ》にのけていた娘はこう付け加えた。 「昨日の夜中からたくさん聞きに来られる方がいたんですけどね。まったく、一人か二人くらいは恋文でも持ってくればいいのに」  へえ、と思いながら、ロレンスは上手に切り返す。 「商人の恋文は証文ですから」 「確かに、愛し愛されたでお腹《なか》は膨《ふく》れませんものね」  娘は「ん?」と言って、「女ならそうでもないか」と豪快《ごうかい》に笑う。  ロレンスも苦笑してしまうが、それに正面から付き合っては単なる酒に酔《よ》った連中と変わらない。 「もっとも、傍《はた》から見ている分にはお腹いっぱいになりますね。ご馳走《ちそう》様と言いたくなるくらいですから」  娘はきょとんとして、それから、水仕事で真っ赤になっている手でロレンスのことを叩《たた》いてきた。 「お客さんずるい! そうね、私も次からはそっちを言うことにしよう」  ロレンスは笑って、頭の中だけはしっかりと回していた。  昨日の夜からこの娘の下《もと》に情報の確認《かくにん》をしにくる商人たちが多く出たというのはどことなく妙《みょう》だ。もしも知り合い同士の伝《つて》をたどって情報が漏《も》れているのであれば、わざわざその確認に酒場の娘を使うことはない。  大体、酒場の娘が直接|誰《だれ》かの口から最新の情報を聞けるなんてことがあるだろうか。  その知識のほとんどは、商人たちが娘に質問する最中にうっかり漏らす情報の再構築からもたらされるものだろう。 「それで、お話を聞きに来る人たちはやはりよく見る顔ですか」 「え? 顔?」  麻布《あさぬの》を絞《しぼ》り、冷たさと寒さで手が痛かったのだろう。顔をしかめて息を吐《は》きかけると、白い息がぶわっと舞《ま》った。 「常連の人と、そうでない人と、半分半分てところかな。ただ」 「ただ?」  娘はきょろきょろと辺りを見回してから、少し声を潜《ひそ》めてこう言った。 「最近の外から来る人は迂闊《うかつ》な人が多いですね。まともに質問ができるのはあなたくらいです」 「またまた」  ロレンスが商談用の笑《え》みで応《こた》えると、娘《むすめ》はふっと表情を緩《ゆる》めた。 「そうやって中のものを出しませんからね。外の人たちは耳ざといんでしょうけど、口の締《しま》りが悪いです。毛皮の買い付けが金でしかできないと聞いたけどそれは本当かい、なんて聞いてくる人がいるんですよ? 馬鹿《ばか》馬鹿しくって」 「それは、商人失格ですね」  笑ってそう相槌《あいづち》を打ったものの、ロレンスの胸中は穏《おだ》やかではない。  そんな間抜《まぬ》けな商人ばかりならばもっと商売は楽なはずだ。  しかも、外地の商人ばかりがそんな失態を犯《おか》すなんてあり得ない。町に住む人間は自分の町に出入りする者たちが一番などと思いがちだが、そんなものは幻想《げんそう》でどこも似たり寄ったりだ。  だとすればなにか目的があるはず。  敢《あ》えて会議の内容を言いふらすことで会議の内容が外地商人に筒抜《つつぬ》けだと知らしめ、レノスの町の商人たちを動揺《どうよう》させるためだろうか。あるいは、現金でしか買えないとなると一時的に貨幣《かへい》の価値が上がるため、それを見|越《こ》した両替《りょうがえ》商や金貸しの仕業《しわざ》だろうか。  ただ、外地の商人が偽《にせ》の情報を流して得られる利益はまったくないので、目的はどうあれエーブの語った会議の結論はおそらく真実なのだろう。  もしも町の外にいる連中が個々バラバラに利益を追求する者たちであるのなら、他者を陥《おとしい》れるために混乱させるという手も考えられるが、それならばもっとさまざまな種類の会議の内容が出回るはずだ。  また、町の中心人物やその周辺は会議の正しい結論を知っているのだから、町の撹乱《かくらん》を狙《ねら》ったとも考えづらい。  エーブは情報を教会内部の協力者から聞いたと言っていた。  それの真偽《しんぎ》はともかく、思考の手がかりになるのはこのあたりだろうか。 「ところで」 「はい?」 「この町の教会についてお聞きしたいんですが」  ロレンスがそう言った瞬間《しゅんかん》だった。 「あの、大きな声出さないでください」  娘《むすめ》が突然《とつぜん》顔を強張《こわば》らせてロレンスの腕《うで》を取り、わずかに開いていた裏口の扉《とびら》を開けて中に押し込んだ。  それから、扉の割れ目から外を覗《のぞ》き、誰《だれ》もいないことを確認《かくにん》している。  一体どうしたのか、と思う間もなく、娘がくるりと振《ふ》り向いた。 「教会の話を聞くってことはなにか話を聞きかじったんでしょう?」 「え、ええ、まあ」 「悪いことは言いません。ちょっかい出さないほうがいいです」  静まり返った客のいない酒場の裏手口で、看板娘に狭《せま》い廊下《ろうか》で真剣《しんけん》な顔でそんなことを言われたら、以前だったら内容|如何《いかん》を問わず商人の仮面が外れそうな気がしたが、ロレンスはすぐに聞き返していた。 「やはり権力|闘争《とうそう》がありますか」  娘がホロ並みの演技力を持っていなければ、大当たり、というところだろう。 「ここは町の珍《めずら》しい食べ物を出すところですからね。教会の晩餐《ばんさん》の注文先の一つでは」  物乞《ものご》いの話の応用だ。それに、ここは教会が堂々と注文できる数少ない肉料理を出せる店。  娘はガリガリと頭を掻《か》いて、不機嫌《ふきげん》そうにため息をついた。 「私も難しいことはわかりませんけどね。あっちこっちから偉《えら》い人を招いたりしているみたいです。以前なんかは、違い国の教会の偉い人を招いたとかで、二日間|徹夜《てつや》で料理作らされたんですよ?」  遠い国の教会の偉い人。  それで権力闘争となれば、なにをしようとしているのかわかりすぎるほどにわかる。  話が、妙《みょう》な方向に動き始めた。 「そして教会は着々と基盤《きばん》を固めているというところですか」 「そう。それも、粘土《ねんど》が固まるまでは誰にも触《ふ》れさせたくないのと同じで、すごい評判に気を遣《つか》ってるんですよ。貧しい人たちにもたくさん施《ほどこ》しをしてますし。だというのに、どっからお金が出ているのかわからないところがますます不気味で。だから、下手なことを言うとなにされるかわからないんです。教会に目をつけられたらこの町にはいられなくなるのも時間の問題だ、ていうのが寄合での共通見解です」 「それが本当だとしたら、そんなことを私に話して大丈夫《だいじょうぶ》なのですか」  娘の口から出てきた言葉が思いのほか重く、ロレンスは半ばたじろぎながらそう訊《たず》ねる。 「だから、私がこうして話すのも、特別なことなんですよ」  ロレンスが商人の仮面をかぶっているように、娘も酒場の娘の仮面をかぶっているはず。  裏の裏は表というが、ではこれは一体どちらなのか。 「後学《こうがく》のために理由を聞いておいてもいいですか」 「うーん。敢《あ》えて言えばですね……」  と、不意にいたずらっぽく笑って、顔を近づけてきた。 「他《ほか》の女の人の匂《にお》いがするからかな」  ロレンスはすぐ後ろが壁《かべ》なので体をひくこともできず、表情だけは崩《くず》すまいと娘《むすめ》のことをまっすぐに見|据《す》えた。 「酒場の娘の誇《ほこ》りにかけて?」 「ふふ、それもありますけどね、ちょっと自分に自信のある女なら、ちょっかい出してみたくなる感じがしますよ。そう言われません?」  生憎《あいにく》と宿の女中に袖《そで》にされたことしかない。  ここは実に素直《すなお》に首を横に振《ふ》ることができた。 「なら、答えはひとつ。あなたの側《そば》の女の人とは最近出会った」  油断ならない。女の勘《かん》の鋭《するど》さというやつだろうか。 「あなたはとても優《やさ》しそうな人ですからね。一人でうろうろしている間は誰《だれ》も相手にしてくれなかったでしょうけど、側に女がいるとわかると女の目には突然《とつぜん》気になるものですよ。羊が一|匹《ぴき》ぽつんといたら狩《か》るのも面倒《めんどう》だと思うでしょうけど、狼《オオカミ》が側にいればそんなにうまい獲物《えもの》なのかと横取りしたくなるでしょう?」  自分を羊に例《たと》えられて喜ぶ男は少なそうだが、隣《となり》にいるのは本当に狼なので参ってしまう。  この娘《むすめ》、本当に人だろうか? 「だから、私は一度あなたのお連れの人をこの酒場に招待したいんです」  金にも名誉《めいよ》にも興味がなければ、日々の生活に辛味《からみ》を出すにはこんな香辛《こうしん》料がうってつけなのだろう。  案外、真実の話をそんなことと引き換《か》えに教えてくれたのかもしれない。 「案内状は、すでにもらいました」  だからロレンスがそう言うと、娘は悔《くや》しそうに笑ってロレンスの胸をついた。 「その余裕《よゆう》顔。腹立つなあ」 「羊ですから。感情に乏《とぼ》しいんです」  ロレンスは言って、裏口の扉《とびら》に手をかける。  そして、娘を振《ふ》り向いた。 「もちろん、ここでのことは他言《たごん》しません」 「それはあなたの側《そば》の人に対して?」  どうしても笑ってしまう。  もしかしたら、自分はおとなしい娘よりもこういうほうが好みなのかもしれない、とロレンスは思ったのだった。 「で、ぬしはわっちにそれをそっくりそのまま伝えたと」 「包み隠《かく》さずな」  ロレンスが部屋から出ていった時と同じ姿勢で本を読んでいたホロは、尻尾《しっぽ》をゆらゆらさせてから、ぱたりと伏《ふ》せた。 「その小娘には一度しっかり縄張《なわば》りについて教える必要があるが……」  ホロの視線がロレンスに向けられ、その顔はちょっと嬉《うれ》しそうだった。 「ぬしはだいぶ物事の道理がわかってきたようじゃな」 「荷馬は手綱《たづな》を握《にぎ》られているが、自由に動くにはその手綱を握る御者《ぎょしゃ》の意を汲《く》むのが一番いい」  ホロは満足げに笑って、「で」と体を起こす。 「ぬしはどう思うのかや」  エーブが石像を教会相手に卸《おろ》していたのは事実らしく、喧嘩《けんか》別れをしたのも真実と見ていい。  またエーブがロレンスに言った会議の結論の内容も、ほぼ間違《まちが》いのないものと考えていいだろう。  気になるのは、教会がこの町で権力を築こうと画策《かくさく》していることで、その目的は間違いなくこの町に司教座を置くことだろう。教会組織の要《かなめ》として機能する司教座は、縄張りとなる土地の権力者や教会の権力者の推薦《すいせん》が得られれば置かれるらしいが、普通《ふつう》は土地の領主が教会の進出を拒《こば》んだり、新たな勢力の台頭を嫌《いや》がる既存《きそん》の教会権力者たちによって妨《さまた》げられたりする。  もっとも、それも金と人脈しだいとはよく聞く話だ。  司教座が置かれれば、この町の教会の司教は司教に任命される側《がわ》からする側に回ることになる。司教区の教会に集まる寄付金も一定額の徴収《ちょうしゅう》を行う権利を得るし、世俗《せぞく》権力者たちの権威《けんい》づけのために戴冠《たいかん》を行う権利も得られる。  宗教的な裁判権も一手に担《にな》うことになり、極端《きょくたん》な例を挙げれば教会の権力を濫用《らんよう》して気に食わない者|全《すべ》てを異端《いたん》と称《しょう》して火刑《かけい》に処すことも可能だ。もっとも、その権益の大半は、裁判による罰金《ばっきん》を徴収できることにあるし、なにより裁判権ほど権威を高めるものはない。  その可能性を見|越《こ》しているからこそ、酒場の娘《むすめ》はあのように教会の話が出ることを恐《おそ》れていたのだろう。  そんなところと喧嘩《けんか》別れをしたエーブがこの町を去りたがっているのは理解できるし、来年も取引を再開できるかもなどと悠長《ゆうちょう》なことを言っていられないのも理解できる。  理解できないのは、その教会と喧嘩別れをすることになった原因だ。  ロレンスならば、泥《どろ》を飲んででも耐《た》える。それくらいの辛抱《しんぼう》に見合うと思えた。  ここが納得《なっとく》できれば、一つ博打《ばくち》を打つのも悪くはないかもしれない。  教会の権力の隆盛《りゅうせい》からして、五十人会議の結論を出したのは司教の判断だろうし、教会は当然この町の経済の保護を優先させるためにその結論を出したはずなので、エーブの企《たくら》みは教会の意に反する行為《こうい》になる。  あるいはここで命を狙《ねら》われるかもしれない、とは考えられても、それは本当に可能性の話といえるだろう。  外地の商人が正当な取引をしたのにその直後に不可解な死を遂《と》げたり行方《ゆくえ》不明になったりすれば、真っ先に疑われるのは利害関係にある町の権力者たちだ。ロレンスは曲がりなりにもローエン商業組合の一員なのだから、それを示せれば司教座を狙《ねら》う司教がそんな荒《あら》っぽい行動に出るとは考えられない。  それに、エーブが望んでいる取引の金額など、ロレンスたち個人の商人から見れば空恐《そらおそ》ろしい金額でも、町全体の毛皮取引の量から見れば芥子粒《けしつぶ》とまではいかないだろうがそう大した金額にはならないだろう。そんな小さな金額で目くじらを立てられはしないし、殺す殺さないの話にもならないはずだ。もちろん、誰《だれ》か個人に対して銀貨数千枚の話となれば、命のやり取りになるだろうが。  ロレンスはそんなことをホロに説明した。  しばらくは真面目《まじめ》に聞いてくれていたホロは、段々と姿勢を崩《くず》して最後にはベッドの上に寝《ね》っ転《ころ》がっていた。  ただ、ロレンスも怒《おこ》らない。  それはホロに反論する理由が見つからない、ということなのだから。 「どう思う?」  最後にロレンスがそう訊《たず》ねると、ホロは大|欠伸《あくび》をして、目尻《めじり》の涙《なみだ》を尻尾《しっぽ》で拭《ぬぐ》った。 「ぬしの説明そのものには、おかしな点はないと思いんす。なんとなく、それっぽくは聞こえる」  それは手を出しても大丈夫《だいじょうぶ》そうだということか、と聞こうとして、思いとどまった。  そこを判断するのは、商人たるロレンスだ。 「んふ。わっちゃあ賢狼《けんろう》じゃが神ではありんせん。ぬしがご宣託《せんたく》を期待するようになったらわっちゃあぬしの前から姿を消そう」 「大きな取引を前にするとな、なんでもいいから他人の声を聞きたくなるんだよ」 「くっく、どうせぬしは自分の中で結論を出しているはずなのに? なら、わっちが泣いて頼《たの》んだら考えを変えてくれるのかや」  ホロはにやにやと笑っている。  ただ、ここでどう答えるべきかはロレンスにもわかる。 「たとえそれを振《ふ》り切ったとしても、お前はきっと宿にいてくれる。俺は商売を成功させて、帰ってくる。それだけのことだ」  喉《のど》を鳴らして笑うホロは、こそばゆくて聞いていられない、とばかりに喉元《のどもと》を掻《か》いている。 「その台詞《せりふ》を顔を赤くせず言えるようになったら一人前じゃな」  ホロのからかいにも一通り慣れてきた。  挨拶《あいさつ》みたいなもの、と肩《かた》をすくめてやる。 「ま、さっきの説明の最中のぬしの顔は実に生き生きしておった。もちろん」  ロレンスが口を開きかけたのを制して、ホロは続けた。 「それが悪いことなどとは言わぬ。雄《おす》はやはり餌《えさ》を追っておる姿が一番よい」  今度はロレンスのほうがこそばゆくて鼻の頭を掻《か》いてしまうが、ここで言葉を返せないとホロは絶対に怒《おこ》るはず。  一つわざとため息をついて、これは冗談《じょうだん》に付き合ってやっているんだと自分に言い聞かせながらこう言った。 「ただ、たまには自分のほうを振り向いて欲しい」 「合格」  ホロは言って、嬉《うれ》しそうに笑った。 「じゃが、ぬしがもし取引で失敗したらわっちゃあどうなるのかや」 「仮にも質草《しちぐさ》だからな。金が返せなければ、どこかに売られることになる」 「ほう……」  ベッドにうつぶせになったホロは、自分の腕枕《うでまくら》の上に顔を載《の》せ、尻尾と共に足をゆらゆらとさせた。 「じゃからぬしはうなされるほど悩《なや》んでおったのかや」 「……それもある」  もしも取引に失敗し金が返せないようになればホロの身柄《みがら》は当然質入れ先の商会のものになる。  ただ、ホロがおとなしく売られるままでいるわけがない。  その点は安心できるが、縄《なわ》を食いちぎって逃《に》げ出したホロが自分の下《もと》に帰ってきてくれると思うほど、ロレンスは楽観的ではない。 「そうなったら……次の伴侶《はんりょ》はもう少し賢《かしこ》いのがよいな」  ちろり、と細められた瞼《まぶた》の隙間《すきま》から意地悪そうな琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》が向けられる。 「ああ。借りた金を返せないような間抜《まぬ》けには後ろ足で砂をかければいい」  ホロの軽い挑発《ちょうはつ》にきっちりと言葉を返す。  賢狼《けんろう》は、それが気に食わなかったらしい。 「ふん。わっちが立ち去ろうとしたらべそをかいてすがった小僧《こぞう》がよく言うの」  胡桃《クルミ》を殻《から》ごと飲み込んでしまったような顔をしたことだろう。  ホロは満足げに牙《きば》を見せて、尻尾《しっぽ》をぱたぱたと鳴らした。  ふと表情が変わったのは、そんな尻尾が伏《ふ》せられてからだ。 「じゃが、わっちゃあぬしを信じておるから協力する」  真剣《しんけん》な笑顔《えがお》というものは存在する。  ロレンスは頬《ほお》を掻《か》いてから、顎鬚《あごひげ》を撫《な》でた。 「もちろんだ」  夕暮れ時。  茜《あかね》色の日がゆっくりと沈《しず》み、ところどころにそのかけらを落としていったかのように灯《あか》りがともりだす。日が落ちると寒さは一気に増し、人々は襟巻《えりま》きの中に顔をうずめながら家路を急いでいた。  ロレンスはそんな町のひとときをしばらく眺《なが》め、日が完全に沈んで人通りがなくなってから、木窓を閉じる。部屋の中では獣脂《じゅうし》の灯りを頼《たよ》りにホロが本のページをめくっていた。  本は年代順にまとめられていたらしく、時代の新しいものから順繰《じゅんぐ》りに読んでいっている。  ホロがパスロエの村にいた時間を考えると古いほうから読んでいったほうが早く見つかりそうな気もしたが、そうしないのはホロの心に幾分《いくぶん》か余裕《よゆう》があるからだろう。  もっとも、それも残すところあと二|冊《さつ》で、そろそろお目当ての記述に行きつく可能性はとても高い。そうなってくるとやはり続きがいたく気になるらしく、暗くなってからも本が読みたいと言い出した。なので、煤《すす》と、特に火を絶対に本につけないことを条件に獣脂の灯りを使うことを許可した。  ただ、ホロがベッドの上で寝転《ねころ》んで本を読んでいる格好はいつものくつろいだものではなく、そのまま外に出ても大丈夫《だいじょうぶ》な外出着。  寒いからというわけではなく、このあとのエーブとの交渉《こうしょう》のためだった。 「さて、そろそろ行くか」  明確に交渉の時刻を決めていたわけではないが、晩に、と商人同士の間で約束を取り交《か》わしたのであればある程度|絞《しぼ》り込むことはできる。が、ロレンスがいそいそと夕暮れ時から下に下りてホロと二人待っていれば、利益にそわそわしている小物と取られかねない。  かといって大幅《おおはば》に遅《おく》れたのではそれはそれで失礼にあたる。  要するにこれはエーブのちょっとした試験なのだろう。  夕暮れ時に、と言わなかったのは、商人たちの取引は蝋燭《ろうそく》を使わないで文字が書ける夕暮れまでに終わらせるのが普通《ふつう》で、宿屋に彼らが帰ってくるのはもう少しあとになるからだ。  だとすれば、宿に帰ってくる者たちの波が一段落してから来いという意味のはず。  宿は耳を澄《す》ましていればどこの部屋に誰《だれ》が帰ってきたか程度はロレンスにもわかる。  それと部屋数を吟味《ぎんみ》して、ロレンスはそろそろ頃合《ころあい》だと判断した。 「商人とやらはなかなか面倒《めんどう》くさい生き物じゃな」  ぱたん、と本を閉じてベッドから体を起こしたホロは、ひとつ伸《の》びをしてから笑った。  最適の時刻はいつかとそわそわしていたのは普通の娘《むすめ》にだってわかったはずだ。 「宿の部屋の中でまで見栄を張っていたら俺はいつ気を緩《ゆる》めればいいんだ?」  冗談《じょうだん》まじりに言ってやる。  ホロはベッドから下りて、ローブの下の耳と尻尾《しっぽ》を調整しながらなにか考えるふうだった。 「出会ってしばらくは……いやここ最近までは、どこであろうともわっちの前では気を張っておったように見えたが」 「女との二人旅なんて初めてだったからな。それもいい加減に慣れるさ」  それに、多少のだらしなさを見せても今更《いまさら》という気がする。  これほど気の置けない相手は、ほとんど初めてといってもいいくらいだ。 「出会ったばかりの頃は、わっちを連れて歩いておるだけで鼻の穴を膨《ふく》らましておったのに」 「今は俺が他《ほか》の女といたらお前が尻尾を膨らませてくれるのかな」  少し強気に返してやると、ホロはいい度胸だとばかりに顎《あご》を上げて笑った。 「じゃが、そうやって雄《おす》は段々と化けの皮をはがしていって、やがてこんなはずではなかったという姿に成り果てる」 「誰《だれ》が相手でも親しくなれば多少はそうなるだろう?」 「たわけ。人はこう言うそうじゃな。釣《つ》った魚に餌《えさ》はやらぬと」 「お前の場合は、釣った魚というよりも勝手に荷台に潜《もぐ》り込んでいたのだからそれには当たらないだろう? 餌《えさ》をやるどころか乗り賃《ちん》を払《はら》って欲しいくらいだ」  ただ、ロレンスはそう言ってからたじろいだ。  ホロの冗談《じょうだん》とも思えないような鋭《するど》い瞳《ひとみ》が獣脂《じゅうし》の灯《あか》りで鈍《にぶ》い金色に輝《かがや》いていたからだ。  どこかで対応を間違《まちが》えたか、それとも、そわそわしている様がそんなにみっともなかったのか、あるいは切り返しが気に食わなかったのか。  ロレンスが少し困惑《こんわく》していると、ホロははっと我に返ったようで少しそっぽを向いた。 「う……む、要するに、初心を忘れるなということじゃ」  なにが原因なのかはわからなかったが、おとなしくうなずいておく。  もしかしたら妙《みょう》なところで子供っぽいホロのことだから、自分の思いどおりにロレンスが慌《あわ》てなくなったどころか、時折切り返されることが面白《おもしろ》くなかったのかもしれない。  急に矛《ほこ》を収めたのも、自分に非があると思ったからだろう。  やれやれ、とロレンスは薄《うす》く笑ってため息をついた。 「なにか腹の立つ気配がするがの」 「気のせいだ……いや、そうだな」  ロレンスは咳払《せきばら》いをして、ホロを改めて見返した。 「お前、俺の胸中が見|抜《ぬ》けるのか?」  出会った頃《ころ》に本気で訊《たず》ねたその質問をしてやった。  ホロはにこりと笑い、小首をかしげて近づいてくる。 「たわけ」 「いっつ!」  加減なく向《む》こう脛《ずね》を蹴《け》られた。  それでもホロは笑顔《えがお》のまま優雅《ゆうが》にロレンスの前を通り過ぎ、扉《とびら》に手をかける。 「ほれ、行くんじゃろ?」  ホロだって出会った頃はロレンスのことをからかいこそすれ、こんな乱暴なことはしなかった、という言葉はもちろん飲み込み、先に部屋を出たホロのあとを追う。  初心を忘れるなと言っても、それは実際には無理な話だ。  その言葉がとても重い含蓄《がんちく》を持つのは、時間は決して巻き戻《もど》らず、またまったく変わらない人間というのもいないことを皆《みな》がわかっているからのはず。  ロレンスがそう思うのだから、ホロも当然わかっているだろう。 「もちろん、旅を経てきたからこそこうしてぬしの手を気安く取れるということもありんす。じゃがな」  ホロは言って、急に寂《さび》しげな顔つきになった。 「いつまでも出会った頃のままでいたいと、詩人も歌っておるじゃろう?」  いつものからかいか、と思ったのは一瞬《いっしゅん》にも満たなかった。  そんな、旅の終わりを明確に意識しているような、時間が巻き戻《もど》ればいいというようなホロの言葉にロレンスは驚《おどろ》いてしまっていた。  ホロはなにもかも達観しているように見えて、その実そうではない。  それでも、何百年といた村に居ついた当初の楽しいあの時に戻ればいいとか、旅に出る前の故郷にいた時に戻ればいいとか言われなかったことがとても嬉《うれ》しかった。  だから、ロレンスはホロが掴《つか》んできた左手を少し動かし、気|恥《は》ずかしかったが指を絡《から》める形にした。当然、口ではこう言ってやる。 「お前はいいかもしれないが、ずっと出会った時のままでいたら俺は心労で倒《たお》れてしまう」  階段を下りながら、ホロは少し体を寄せてきた。 「なに、最期《さいご》は看取《みと》ってやるから安心するがよい」  意地悪い笑《え》みと共に向けられたその言葉に、苦笑い以外に返すものはないだろう。  ただ、一階へと下りる途中《とちゅう》に、ロレンスはその言葉がまったくの冗談《じょうだん》でもないのだなと気がついた。  たとえホロが故郷に帰るのを先|延《の》ばしにしてもいいと言ったところで、ロレンスは必ずホロより先に死ぬ。ホロの旅は終わらなくとも、二人旅の終わりは必ずやってくる。  レノスに来る前に立ち寄ったテレオの村で、ホロが故郷に着いたあとにどうするのかという結論を出さなかった理由がわかった気がした。  そんなことを考えていると、一階に下りる階段が終わる直前、ホロのほうから手を離《はな》してきた。女と手をつないだまま人前に出ることは相手がホロであってもロレンスとしては困るが、自分からほどくのもどうなのかと思っていたところなので、その心|遣《づか》いはとても嬉しい。  こんなふうに気を回してくれるホロなのだ。  故郷についた時、どうするかなど答えは出ているようなものだ。 「お待たせしました」  だから、ロレンスはすでに待機していたアロルドとエーブを前に、落ち着いて、いつもより重みを持って挨拶《あいさつ》ができた。 「では、始めようか」  エーブのかすれた声が、そう言った。 「で、調べて回ってみた結論は?」  ホロの紹介《しょうかい》すら要求しない。  フードの下にある顔つきと、椅子《いす》に座る動作を見るだけで十分だといわんばかりだ。  確かに、これは別にホロを売ることが主要な目的ではないのだから当然といえばそうだが、その即物《そくぶつ》的なエーブの態度には、ある種の守銭奴《しゅせんど》のような雰囲気《ふんいき》すらあった。 「エーブさんが教会相手に石像の商売をしていたこと、また、そこと喧嘩《けんか》別れしたこと、毛皮の買い付けが現金でしかできないという情報が出回っていることがわかりました」  言葉を投げて相手の反応を見るのは初歩の初歩。  エーブはその点、顔を隠《かく》すのがあまりにうまいのでロレンスの目では把握《はあく》しきれないし、これでなにかが掴《つか》めるとも思っていない。運動の前に体を温めるようなものだ。 「私は自分の商人としての経験と勘《かん》で、エーブさんの話を本当のことだと思います」 「ほう」  興味がなさそうなかすれた声。交渉《こうしょう》にも相当慣れている。 「ただ、一つだけ気になることがあります」 「というのは?」 「エーブさんが教会と喧嘩別れをした、その理由です」  それを本人に聞くことほど無駄《むだ》なこともないが、ロレンスは自分の集めた情報とつじつまが合わなければそれはすぐにエーブが嘘《うそ》をついていると判断しようと心に決めている。  隣《となり》にいるホロはその真偽《しんぎ》を判断してくれるだろうが、それに頼《たよ》るのは結局ホロにご宣託《せんたく》を願っているのと変わらない。自分の考えに合致《がっち》しないのであれば切るのが得策だ。  なにせ、今回はロレンスの判断でホロの身柄《みがら》を他者に売り渡《わた》すのだから、その判断は全《すべ》て自分で下すことがその行為《こうい》に責任を持つことだと思った。 「喧嘩別れの理由か。まあ、気になるだろうな」  至極《しごく》当然のこと、とばかりにエーブは言って、小さく咳《せき》をした。  エーブも必死に頭を回しているはずだ。  エーブはロレンスをこの取引に取り込まないことには、なにか良からぬことを考えているにせよ、その企《たくら》みが失敗になる。  ロレンスが今日一日、町でなにを見てなにを聞いてきたか考えているはずだ。  エーブが嘘をついているとすれば、これから口に出すこととロレンスの得た情報を摺《す》り合わせることはほとんど絶望に近い。 「ここの教会の司教は古き良き教会の時代が忘れられない過去の遺物でな」  そして、そう語り始めた。 「若い頃《ころ》にこの近辺の布教活動で地獄《じごく》のような毎日を送っていたそうだが、それに耐《た》えられたのはいつか自分も偉《えら》くなって威張《いば》り散らすためだったというような権力志向の強い男だ。こいつはここの町に司教座を置きたがっている。要するに大司教を目指しているんだな」 「大司教」  権力の代名詞のような単語だ。  エーブはうなずいて、続けた。 「オレは前述のとおりに没落《ぼつらく》とはいえ貴族の出だ。この辺りにうまい商売はないかと探していた時にな、不恰好《ぶかっこう》に金|儲《もう》けをしている司教の存在を聞いた。そいつがここの教会の司教だ。当時は子飼《こが》いの商会と寄付金を使って毛皮の売買に手を出していたが、所詮《しょせん》は教会にこもって文字ばかり追っかけているような奴《やつ》だ。赤字続きだった。そこでオレが一石二鳥の案を出してやった」 「それが、石像の売買」 「そうだ。しかも、ただ石像を売ってやっただけじゃない。オレはウィンフィール王国の貴族だからな。一応権力者連中に話を通すことくらいはできる。向こうで確固たる権力|基盤《きばん》を築いている大司教に渡《わた》りをつけてやったんだ」  なるほど、とロレンスは思わず呟《つぶや》いてしまった。  だとすれば、石像の加工は大司教が統轄《とうかつ》する大聖堂を整備修復するために雇《やと》われたりする遍歴《へんれき》の石工たちの仕事だろう。聖堂の複雑な装飾《そうしょく》の修復の時だけ臨時《りんじ》で雇われる彼らは、修復が終われば次の町に移るか、あるいはその町で手間賃仕事をするのが普通《ふつう》だ。  それでも町に日頃《ひごろ》からある仕事の数など限られているから、当然地元に残る者がいると地元の石工組合との軋轢《あつれき》が生まれる原因になる。しかも、皮肉なことに各地を渡り歩いて腕《うで》を磨《みが》いてきた遍歴の石工たちのほうが圧倒《あっとう》的に腕が立つことがあり、複雑な聖堂の装飾を修復できるのは遍歴の石工たちだけ、などということもある。  だから、大聖堂があるような町は聖堂の修復が行われるたびに、地元の石工たちが仕事を奪《うば》われるのではないかと戦々恐々《せんせんきょうきょう》となり、不必要な緊張《きんちょう》をもたらすことがある。  そこで、エーブが石の加工という仕事を頼《たの》むのは、そんな緊張を和《やわ》らげる仕事を提供することになる。遍歴の石工たちを必要な時だけ雇いたい大聖堂にとっても、町にとっても、当の遍歴の石工たちにとっても渡りに船だ。エーブはそのお礼にということで、レノスの町の司教が面識を得たがっていると、大聖堂の大司教に話を通す。エーブは加工された石像をこの町の教会に売ることで利益を得る。  全《すべ》ての人間が得をする、商売の理想形だ。 「説明する手間が省けて助かるな。まあ、察しのとおりだ。当然、オレが石像売買の薄利《はくり》に甘んじたのは、ここの司教が大司教になることに賭《か》けていたからだ。それがだ」  声が硬質《こうしつ》に感じられるのは演技なのか、それとも、怒《いか》りを抑《おさ》えるためにそうなってしまうのか判別がつけづらい。  ただ、全てのつじつまは合っているし、ここまでは十分すぎるほどあり得ることだとロレンスは判断した。 「オレとの取引で資金を得て基盤が固まり始めると、当然司教の行く先が明るいものだと周りの連中が気づき始めるし、司教は司教で邪魔《じゃま》な者は排除《はいじょ》しようとし出す。あいつは今回の件をな、いい機会だとばかりに利用してオレを切ったんだよ。特にオレには恩がある。そんなオレをいつまでも側《そば》に置いていては、面倒《めんどう》くさいことを色々要求されると思ったんだろう。もちろんオレはそうするつもりだった。それくらいの権利があると思った。しかし、司教にすればオレみたいな個人の商人がでかくなるのを待つより、すでにでかい商会なんかを相手にしたほうがよほど使い勝手がよい。理屈《りくつ》はオレにだってわかる。だが、納得《なっとく》できるわけがない」  人の怒《いか》りというものは、火のように目に見えるものかもしれないと思った。 「だからな、喧嘩《けんか》別れになった」  ホロは隣《となり》の席で起きているのか疑わしいほど静かに聞き入っている。  ロレンスは、もう一度エーブの話を頭の中で追いかけてみる。  やはり、エーブの話はどこにも欠陥《けっかん》がないように思えた。  気味が悪いほどに、つじつまが合っている。  もしもこれが嘘《うそ》なのだとしたら、ロレンスはエーブの下で働いてもいいと思えるくらいだ。 「なるほど。そうなれば在庫の石像も金に換《か》えるのは難しいですし、来年の大|遠征《えんせい》を待てばいいと悠長《ゆうちょう》に構えていられないのもわかりました」  エーブは先ほどまでの饒舌《じょうぜつ》な様子が嘘のように、相槌《あいづち》も打たず頭巾《ずきん》の下で沈黙《ちんもく》している。  ロレンスは、ゆっくりと、静かに深呼吸をする。  そして、吸ったところで止めて、目も閉じる。  これだけつじつまの合った状況《じょうきょう》を提示されてなお疑うならば、他《ほか》のどんな取引だって難しいだろう。  あるいは、これならば策に嵌《はま》ってもいい。  策を弄《ろう》し弄される商人ならではの、そんな感覚を得てしまう。 「わかりました」  吸った息を吐き出すと共に、そう言った。  その瞬間《しゅんかん》、ほんのわずかにエーブの肩《かた》が動いたのがわかった。  それは絶対に演技ではないと言い切る自信がある。  この瞬間に無表情でいられる商人など絶対にいはしないのだ。 「改めて、策の細かい打ち合わせを」 「……そうしよう」  頭巾の陰《かげ》で、エーブの口元が笑った気がした。  手を差し出してきたのはエーブだ。  ロレンスがその手を取ると、それは少しだけ震《ふる》えていたのだった。  その後、ロレンスとエーブ、それにホロの三人で町に繰《く》り出した。  契約《けいやく》が成立したお祝い、というわけではない。商人は利益を手にするその瞬間まで祝杯《しゅくはい》を挙げることはない。  五十人会議の結論がいつ公《おおやけ》のものになり、よその商人たちに毛皮を独占《どくせん》されるかわからないので、一刻も早く現金のめどをつけておく必要がある。  ホロの身柄《みがら》を質草《しちぐさ》に金を借りる商会を訪《おとず》れたのだ。  商会の名は、デリンク商会といった。  港が望めるなかなかよい立地にありながら、荷揚《にあ》げ場を持っておらず、建物は狭《せま》く小さい。  商会を示す旗も小さく控《ひか》えめに扉《とびら》にかけられているだけだった。  ただ、建物の壁《かべ》は髪《かみ》の毛も挟《はさ》めそうにないほどきっちりと石が組まれ、五階建てでありながら隣接《りんせつ》する建物に寄りかかっているというふうにも見えない。  ぼんやりとした油の灯《あか》りを頼《たよ》りによくよく見れば、小さな旗も細かい刺繍《ししゅう》が施《ほどこ》された一級品で、昨日今日商売を始めたわけではないことを示すように壁のくすんだ石の色とあいまって小さな巨人のごとく貫禄《かんろく》を有していた。  他《ほか》の商会とは、宣伝という行為《こうい》に対する姿勢が違《ちが》うのだろう。 「デリンク商会を代表しまして、ルッズ・エリンギンです」  取り扱《あつか》う商品が異なる商人同士だと慣習もまた大きく異なる。  ロレンスたちを迎《むか》えてくれたデリンク商会の人間は四人で、その四人共がそれぞれ商会を代表していそうな立派な雰囲気《ふんいき》を有し、身なりも誰《だれ》が一番良いとは決められなかった。  人を商《あきな》う者たちは常に商品の判断を複数人で行うと聞いたことがある。きっと商会の経営者はこの四人なのだろう。 「クラフト・ロレンスです」  ロレンスはエリンギンと握手《あくしゅ》を交《か》わす。  それは妙《みょう》に柔《やわ》らかい手で、顔にはなにを考えているのかまったくわからない張りついたような微笑《びしょう》が浮かんでいる。羊を扱うには犬の鳴き声が有用だが、人を扱うにはこういう笑顔《えがお》が有用なのかもしれない。ホロも遅《おく》れて握手を交わしたが、その時のホロを見る目は、蛇《ヘビ》か蜥蜴《トカゲ》のようだった。  エーブは頭巾《ずきん》を外すだけで特に挨拶《あいさつ》を交わすことはなかった。おそらく、エーブが成金の商人に買われた時、その取引に一枚|噛《か》んでいたのがここの商会なのだろう。 「お掛《か》けください」  エリンギンの言葉でロレンスたちは羅紗《らしゃ》布の張られた椅子《いす》に座った。中には綿《わた》が詰《つ》められている高級品だ。 「詳《くわ》しいお話は事前にボラン家の御《ご》当主からお聞きしています」  だから無駄《むだ》なやり取りはやめようということだろう。  ロレンスも値段の交渉《こうしょう》をするつもりはない。貴族の娘《むすめ》を売るなどという取引は、相場がまったくわからない。 「ただ、一つお聞きしたい。ロレンスさんはローエン商業組合の一員であるとか?」  エリンギンの後ろには三人の男たちがぴくりともせず立って、じっとこちらを見つめている。  一人ひとりはこれといった表情を浮かべているわけではないのに、全体的な雰囲気《ふんいき》があまりにも不気味な印象を与《あた》えてくる。  交渉《こうしょう》事に慣れている身ですら、圧迫《あっぱく》される。  身一つで売られてきた者たちが彼らの前で嘘《うそ》をつくのは至難の業《わざ》だろう。 「ええ」  ロレンスが短く返事をすると、その直後に後ろの三人の不気味な雰囲気がなくなった。  やはり、ロレンスの口から真実を絞《しぼ》り出すための策だったのだろう。 「ローエンですと、ゴールデンス卿《きょう》と何度かお取引をしたことがありましてね。慧眼《けいがん》を持たれているというのはああいう方をいうのでしょう」  組合の中心人物の一人の名前に、ロレンスはどうしても緊張《きんちょう》してしまう。  それがロレンスに逃《に》げられないと思わせる策だとわかっていても。 「そちらに所属で、なかなかの身なり。また、お連れの方は実に貴族然とされた娘《むすめ》さんでいらっしゃる。我々は四人で事前に協議|致《いた》しました結果を、ここに宣言させていただきたいと思います」  エーブは二千五百枚は欲しいと言っていた。  もったいぶるようにエリンギンが笑《え》みを強くする。  いつの世も、金を出す人間が、強い。 「トレニー銀貨にして二千枚」  目標に届きはしなかったが、二千枚もの軍資金を引き出せるならば万々歳《ばんばんざい》だ。  ロレンスは無意識に緊張していた体から力が抜《ぬ》ける様を悟《さと》られないようにするので精|一杯《いっぱい》だったが、それはエーブも同様だったらしい。  その横顔は不自然に無表情だった。 「エーブさんからは二千五百枚と打診《だしん》されていましたが、個人の行商人の方を相手にそれだけの取引をするのはあまりにも無理があると。これは、例の……毛皮を巡《めぐ》る取引の一環《いっかん》でしょう? ですから、その代わりに手数料は頂きません。満額お貸しします。ただし、銀貨をそんなに備蓄《びちく》してはいませんのでね。お支|払《はら》いはリュミオーネ金貨を六十枚ということで」  リュミオーネ金貨一枚でトレニー銀貨が三十四枚前後。レノスの町での詳《くわ》しい相場はわからないが、貨幣《かへい》は貨幣との交換《こうかん》よりもそれ以外と交換する時により大きな威力《いりょく》を発揮《はっき》する。  場合によっては、トレニー銀貨二千枚を大|幅《はば》に上回る金額分の毛皮を買い付けられるかもしれない。  それよりも驚《おどろ》いたのは、満額の融資《ゆうし》というほうだ。  高価な貨幣は存在そのものが貴重だ。場合によっては鋳潰《いつぶ》せばいつでも万能な財産である金や銀になる貨幣は、当然紙の上の金とは釣《つ》り合わない。  紙に名前を書いて貨幣《かへい》の金を借りる時、いくらか手数料として引かれるのが当然のこと。  しかし、それをしないという。 「気前がいいな」  そう呟《つぶや》いたのはエーブ。 「投資ですよ」  エリンギンは笑《え》みを濃《こ》くして、そう言った。 「貴女《あなた》は賢《かしこ》い方だ。この町の状況《じょうきょう》と人間関係から利益を引き出す術《すべ》を心得ていた。きっとこの成功を弾《はず》みにさらなる躍進《やくしん》をするでしょう。我々もそれにあやかりたい。そして」  ロレンスのほうに視線を向ける。 「貴方《あなた》は幸運な方だ。お二人がこの町で出会われたのは幸運に他《ほか》ならない。また、これほど大きな取引を前に舞《ま》い上がっているわけでもない。これは貴方が幸運に慣れているからだと判断します。我々の商売は運の要素がとても強い。幸運に慣れている者でないと、すぐに足元をすくわれてしまいます。我々はその点で、貴方を信用します」  そういう評価の仕方もあるのかと感心しながら、確かに、自分が褒《ほ》められることといえば運くらいしかないかとも思う。  そんな自虐《じぎゃく》とも感心とも言いがたいことを思っていると、隣《となり》のホロが少し笑ったような気がした。 「我々の商売は金鉱を探すようなものですから。協力者を得るためには多少の投資は惜《お》しみません」 「それで、数多《あまた》の人間の御託《ごたく》を黙《だま》らせる現金はどうやって受け取ればいい」  エーブの言葉にエリンギンは初めて笑顔を本物に変える。 「毛皮の買い付け先はアーキエ商会でしたね。本当に目のつけどころが良い。是非《ぜひ》その探し方をご教示いただければと——」 「オレは声がかすれていてね。喋《しゃべ》るのが辛《つら》いんだよ」  冗談《じょうだん》には聞こえない、エーブの硬質《こうしつ》な言葉と、聞きようによっては脅《おど》しているようにも感じられる蛇《ヘビ》のような陰湿《いんしつ》さを含《ふく》んだエリンギンの言葉。  ロレンスが経験してきたものとは違《ちが》う、異質なやり取り。  もちろん商談をする者同士が仲良くある必要はどこにもないが、二人のやり取りの間にはおよそ人間味が感じられない。  金が儲《もう》かりさえすれば相手の態度などどうだっていい。  そんな雰囲気《ふんいき》が空気のように当たり前だった。 「受け取り方ですか。それはお望みのように」 「どうする」  エーブは初めて隣のロレンスに視線を向けてきた。  打ち合わせをしていたわけではないので、ロレンスは自分の思っていたことをそのまま伝えた。 「まばゆいばかりの金貨が近くにあっては夜|眩《まぶ》しくて眠《ねむ》れませんから」  少し背筋を伸《の》ばしてうっすらと顔に笑《え》みを浮かべることができたのは、隣《となり》にホロがいたせいかもしれない。  エリンギンは、「お」という顔になってから、肩《かた》を揺《ゆ》らして笑った。 「まさしく目が覚めるようなご返答です。扱《あつか》う金額が大きくなるとどうしても同時に気位まで高くなってしまいましてね。結果、商談中の心の余裕《よゆう》とは、いかにきつい皮肉を言えるかになりがちです。謙遜《けんそん》を感じさせながら、鋭《するど》さを失わない言葉こそが真の心の余裕。見習わなくてはなりません」  日頃《ひごろ》から恐《おそ》ろしい金額の取引を当たり前のようにこなしているのだろう。銀貨二千枚を貸す際の手数料となればかなりのものだが、それをあっさりと無料にしてしまうのだから。  商人がのしあがっていく先には、こういう世界が待っているのだろう。 「では、毛皮買い付けの直前にお渡《わた》しするということでよろしいですか」  エーブになにか考えがあるかと思い、ロレンスはエーブが口を挟《はさ》めるようにとわざと間をあけたが、結局口は挟まれなかったのでこう答えた。 「それでお願いします」 「かしこまりました」  エリンギンはそして握手《あくしゅ》のための手を差し出してきた。  ロレンスはそれを受け取り、先ほど交《か》わしたものよりも若干《じゃっかん》強く握手を交わす。  今度はホロに向けられる代わりにエーブに手が向けられ、エーブもそれに応《こた》える。あれほど刺々《とげとげ》しいやり取りをしながら、ほんの少しのわだかまりも残していないように見えた。 「商《あきな》いがうまくいきますように」  まったく神を信じていないように見えるエリンギンは、そう言って目を閉じた。  その様は、神を踏《ふ》みつけてでも金|儲《もう》けをしてみせるという気概《きがい》にあふれた、どこか神々《こうごう》しさすら感じさせるものだった。 「不愉快《ふゆかい》な男だ」  もろもろの文書をしたため、商会を出るなりエーブは呟《つぶや》いた。  あまりに感情に満ち満ちていた言葉なので意外に思えてしまう。 「初めて相対する雰囲気《ふんいき》の方でした。自分がいかに小さい行商人であるか実感しましたよ」  ロレンスが素直《すなお》な感想を述べると、エーブは頭巾《ずきん》の下から視線を向けてきて、しばし沈黙《ちんもく》した。 「……本当にそう思っているか?」  そして、そんなことを言った。 「ええ。少なくとも、銀貨の百枚や二百枚をこつこつと商《あきな》っている身では初めて目にする感じでしたね」 「その割にはいい言葉を返していたな」 「金貨のたとえ話ですか?」  エーブはうなずき、ゆっくりと歩き出す。  ロレンスはホロの手を取り、その後ろをゆっくりと追う。ホロは役どころをすっかり心得ているらしく、ずっと黙《だま》っておとなしくしていたが、手を取ると少しだけ熱い。  きっと、エリンギンの目つきが気に入らなかったのだろう。 「オレたちにすりゃ、あんな切り返しのほうが新鮮《しんせん》だ。エリンギンは慌《あわ》てていたぜ。市井《しせい》の行商人も馬鹿《ばか》にはできない」 「それは光栄です」  ロレンスが答えると、エーブの短く咳《せ》き込むような笑い声が聞こえた。 「あんた、実はでかい商会の御曹司《おんぞうし》だったりしないか」 「そういう考えを持つ夜も、確かにあります」  敵《かな》わねえな、とエーブは呟《つぶや》くように言って、珍《めずら》しく頭巾《ずきん》の下から鋭《するど》くない目を向けてきてこう言った。 「喋《しゃべ》って喉《のど》が渇《かわ》いたと思わないか」  取引の全《すべ》てが終わったわけではないが、関門の一つは越《こ》えた。  それに賛同しないほど、ロレンスも乾《かわ》いているわけではない。  港近くには夜になっても酒を売る露店《ろてん》がいくらでも出ている。  ロレンスはぶどう酒を三|杯《ばい》頼《たの》んで、手近な場所に打ち捨てられている空いた木箱に腰《こし》を下ろした。 「取引の成功を祈《いの》って」  そんな乾杯《かんぱい》の音頭を取ったのはエーブ。  三人は縁《ふち》が何|箇所《かしょ》も欠けている土器のジョッキをぶつけ合わせるふりだけをして、ぶどう酒を飲んだ。 「それで、今更《いまさら》なんだがな」 「なんでしょう」 「あんた、連れはどこで拾ったんだ」 「え」  驚《おどろ》きを隠《かく》せなかったのは、交渉《こうしょう》のあとで気が緩《ゆる》んでいたからというわけでもない。  エーブがそんなことを気にするとは思えなかったからだ。 「そんなに意外かよ」  エーブは口元だけで苦笑し、幸いなことにホロはぶどう酒の注《つ》がれた土器を両手で包むように持って黙《だま》っていた。 「詮索《せんさく》しないとは言ったがな、気になるだろう」 「ええ……いえ、よく聞かれますね」 「で、どこで拾ったんだ。農民の蜂起《ほうき》を受けて没落《ぼつらく》した領主の一人|娘《むすめ》だと言われてもオレは驚《おどろ》かないが」  没落貴族だというエーブならではの冗談《じょうだん》だが、真実を言えばいくらエーブといえども驚くだろう。ホロの背中のほうでわさりと小さい音がして、ロレンスは本当にさりげなくホロの足を軽く踏《ふ》んだ。 「北の生まれらしいのですが、長い間ここから南に行った麦の大産地で暮らしていました」 「へえ」 「私はそこの村と何度か取引があり、知り合いもいたので行商の途中に立ち寄ったのですが、その際に勝手に荷物の中に潜《もぐ》り込《こ》まれていましてね」  そう言えばと、ホロが潜り込んでいたのは毛皮の中だったことを思い出した。  ホロは尻尾《しっぽ》を持っているくらいだから、なにかと毛皮と縁《えん》があるのかもしれない。 「故郷に帰りたいというので、紆余曲折《うよきょくせつ》はありましたが、結局その道案内をすることに」  嘘《うそ》はないので実に語りやすい。ホロもうなずき、エーブは一口酒をすすった。 「安っぽい詩人の歌みたいな出会い方だな」  ロレンスは笑ってしまう。  まったくそのとおりだからだ。  ただ、その後のやり取りはとても金に換《か》えられるようなものではない。  馬鹿《ばか》らしくて、楽しくて、できることならば一生続けていたいと思うような。 「なによりその紆余曲折が気になるところだが、そこは神父にすら言えないというところか」 「神父様にこそ言えない、が正しいでしょう」  それは事実だが、ロレンスの言う意味と、エーブが受け取る意味は全然|違《ちが》うだろう。  エーブが声を上げて笑う。それで誰《だれ》かが振《ふ》り向くほど港は静かではない。 「まあ、こんなに良い服を着せているんだ。良い出会いだったのだろうというのはわかる」 「油断していたら勝手に買われたんですよ」 「そうだろうな。賢《かしこ》そうな雰囲気《ふんいき》だ」  きっと、フードの下は得意げな顔だろう。 「仲も良さそうだからな。ただ、宿ではもう少し声を小さくすることを勧《すす》めるぜ」  ぶどう酒に口をつけようとしていた動きが止まってしまう。まさか宿でのやり取りが丸聞こえだったのかと思うのと、これがかまかけだと気がつくのは同時だった。  ホロからは、こんなことに引っかかるなとばかりに足を踏《ふ》み返された。 「大事にすることだ。出会いは金で買えるが、その良し悪しまで決められるわけではない」  しかし、そんな言葉に視線がエーブの頭巾《ずきん》の下に走る。  エーブは青い瞳《ひとみ》を覗《のぞ》かせていた。  その目の青は、上品そうな蒼《あお》。 「オレを買った成金は、そりゃあひどいものだったからな」  言って、エーブは視線をロレンスから外し、ちらりとホロを見てから港のほうを向く。ロレンスがそんなエーブの横顔から視線を外せたのは、自嘲《じちょう》するような笑《え》みが浮かんでからだ。 「同情して欲しくないといえば嘘《うそ》になるが、昔のことだ。それに、あいつはすぐに死んじまったからな」 「そう……なのですか」 「ああ。知っているとは思うがオレの国は羊毛取引が盛んでな。外地の商人と先物買いで争って、身の丈《たけ》を超《こ》えた金を注《つ》ぎ込んだところで王が政策|転換《てんかん》をして、あっさりと破産した。日々パンを買うのにも困っていたような没落《ぼつらく》貴族からしたら信じられないような金額の取引だったぜ。で、気位が貴族より高い男だったからな、破産が決まったその日のうちにナイフで喉《のど》を突《つ》いて死んだ。まあ、その点だけはボラン家の名にふさわしい潔《いさぎよ》い最期《さいご》だった」  怒《おこ》るでも悲しむでも、またその成金商人をあざ笑うでもなく、懐《なつ》かしそうにエーブは喋《しゃべ》る。  これが演技だとしたら、ロレンスはもう誰《だれ》も信じられないだろう。 「結婚式も派手でな。ボラン家の歴史でも一位二位を争うだろうと爺《じい》は泣いていた。もっとも、オレには葬式《そうしき》と変わらなかったがな。それでもいいことはあった。一つは飯に困らなくなったこと。もう一つは、ガキができなかったこと」  貴族ほど血縁《けつえん》が重要な連中はいない。  子供は神からの授《さず》かりものではなく、政治のための道具でしかない。 「そして、オレがちまちまあいつの財布《さいふ》から抜《ぬ》いてた金が誰《だれ》にも見つからなかったこと。破産して家|屋敷《やしき》一切合財《いっさいがっさい》を取られたがな、商人を始めるには十分な金が残った」  成金とはいえ貴族の家を買えるほどの商人であれば、それは立派な商会を構えていたはずだ。  貴族の娘《むすめ》たるエーブが商人の道を選び、またうまく事を運べるようになったのは、その商会に残された者たちの協力があったからだろう。 「オレの夢はな、あいつの商会を超《こ》えるものを作ることだ」  エーブはぽつりと言った。 「オレを買えたのは幸運に他《ほか》ならない。本当ならばあいつ程度の商人が買えるような安い商品ではなかったと、そう証明したくてな。子供みたいだろう?」  かすれた声で言って、笑うその横顔はあまりにも幼かった。  エーブと毛皮の取引をまとめた時、最後の握手《あくしゅ》でエーブの手は震《ふる》えていた。  この世に、何物にも負けない完璧《かんぺき》な人間など、絶対にいないのだ。 「はは、まあ、忘れてくれ。たまに誰《だれ》かに聞いて欲しくなる。オレもまだまだだということだ」  そう言ってぶどう酒を飲み干し、小さくげっぷをする。 「いや、違《ちが》うな」  エーブが頭巾《ずきん》の縁《ふち》を軽く持ち上げたのは、どういうつもりだったのだろうか。 「あんたらが羨《うらや》ましかった」  青い瞳《ひとみ》は、眩《まぶ》しそうに細められていた。  ロレンスは返答にしばし悩《なや》み、結局酒に逃《に》げる。  きっとホロにからかわれることだろうと思った。 「くく、馬鹿《ばか》なことだ。オレたちが気にするべきは金|儲《もう》けだけ。違うか?」  ジョッキの中のぶどう酒に映った自分の顔を見る。  エーブ同様、商人らしくない顔だ。 「まったくそのとおりです」  自分の顔|諸共《もろとも》にぶどう酒を飲み込み、ロレンスは言う。あとでホロになにを言われるか怖《こわ》くて仕方がなかったが、エーブが最後に乾《かわ》いた笑い声を短く上げ、腰《こし》を上げた時には二人とも商人の顔に戻《もど》っていた。 「会議の結論が公布されたら即座《そくざ》に取引に向かう。常に居場所はアロルドの爺《じい》さんに伝えておいてくれ」 「わかりました」  どこから見ても歴戦の商人が、がさがさの手を差し出してきた。 「取引はうまくいくだろう」 「もちろん」  ロレンスはその手を握《にぎ》って、そう言ったのだった。  ロレンスはレノスの町に入る際、狼《オオカミ》の毛皮があっても怒《おこ》るなよと言った時の、ホロの返事を思い出した。  自分も特に気にすることはないが、知り合いの誰《だれ》かが狩《か》られるとあっては心安らかではない。  それは売買にも当てはまるようだ。  養子のための子供の売買や、働き手としての奴隷《どれい》の売買は必要不可欠な商売で、誰にも後ろ指を差されるようなものではない。  それでも、もしも本当にホロを売ることになったらと少し思っただけで、ロレンスは心の内がざわついてしまう。  人身売買を非難する教会の潔癖《けっぺき》な教えが、初めて理解できるような気がした。  そんな交渉《こうしょう》ののち、宿に帰るとエーブだけはアロルドと飲み直すと言って一階に残った。  きっと、げんなりとした顔をしてベッドに倒《たお》れ込んだのは、この件に関《かか》わった者の中でホロだけだろう。 「まったく、腹の立つ無駄《むだ》な時間じゃった」  獣脂《じゅうし》の蝋燭《ろうそく》に火をつけながら、ロレンスは苦笑いしてしまう。 「借りてきた猫《ネコ》のよう、とは、まさしくだったな」 「その猫で金を借りようというのじゃからな。おとなしく楚々《そそ》とするほかないじゃろうが」  ロレンスはエーブの話を信用できると判断し、エーブはそれに応《こた》え、取引は順調に進んでいる。予想外の事態に遭遇《そうぐう》しない限り、毛皮の取引は成功し、懐《ふところ》に莫大《ばくだい》な利益が転がり込むだろう、と考えてしまうのはなにも楽観的な観測ではないと思っている。  物乞《ものご》いが言った、腹の底がふわふわするような喜びの予兆《よちょう》を早くも感じてしまっても誰も笑いはしないはずだ。  あまりに久しぶりなこの感覚。  なにせ、ついに、念願の町商人としての門出《かどで》に目鼻がついたのだから。 「いや、本当に助かった」  ロレンスは言ってから、軽く顎《あご》を撫《な》でた。 「ありがとう」  ホロがちらりと向けてきた視線はあまり友好的なものではなかった。ほこりでも払《はら》うように耳を振《ふ》り、どうでもいいとばかりに鼻でため息をつき、仰向《あおむ》けからうつぶせに姿勢を変えて本を開く。  ただ、その姿は端的《たんてき》に言って、照れているようにも見えた。 「気になる話は載《の》ってたか?」  ホロが本を見ながらもそもそとローブを脱《ぬ》ぎ始めたので、ロレンスは機嫌《きげん》良くそれに手を貸してやる。邪険《じゃけん》にされなかったので、照れていたという推測《すいそく》は当たらずとも遠からずだったのかもしれない。 「不気味な話が多いの。二つの道が交わる場所に不吉な歌を歌う悪魔《あくま》が埋《う》められるというのがありんす」 「ああ、それはよく聞くな」 「ふむ?」  ローブを脱がしたせいで水に油をたらしたように広がってしまった髪《かみ》の毛をまとめてやってから、答える。 「楽士と呼ばれる楽器を持ってあちこちの町をうろつく連中はな、時として町に不幸や病《やまい》を連れてくる悪魔の使いだと言われることがある。それで、そういう連中を縛《しば》り首にするのは決まって町の外の道が交差する場所なんだ」 「ほう……」  解けかけた腰帯《こしおび》が尻尾《しっぽ》の上に乗っかっていて邪魔そうに払おうとしていたので取ってやると、お礼とばかりに尻尾をこすりつけてくる。  少しいたずら心でこっちから触《さわ》ろうとしたら、あっさりとかわされた。 「悪魔である楽士が死んで、町とは別の場所に魂《たましい》が行ってくれるようにと願いを込めてな。だから、町の外の二つの道が交わる場所は慎重《しんちょう》に石が取り除《のぞ》かれていたり穴がふさがれていたりする。そこで誰《だれ》かがつまずくと、埋めたはずの悪魔が蘇《よみがえ》ると言われているからな」 「ふむ。人は色々と考えるものじゃな」  ホロは本気で感心するように呟《つぶや》いて、再び本に視線を戻した。 「狼《オオカミ》は迷信を持たないか」 「……」  突然《とつぜん》真剣《しんけん》な表情になったので、尾を踏《ふ》んでしまったかと思ったが、単に考えていただけらしい。しばらくして視線を向けてきた。 「言われて気がついた。そういえば、ない」 「まあ、子供が夜に小便しに行けなくなるということがなくていいな」  ホロは不意を突《つ》かれたようにきょとんとして、それから笑った。 「俺のことじゃないからな?」 「くふ」  笑い、尻尾《しっぽ》をゆらゆらとさせる。ロレンスが本当に軽くホロの頭を小突《こづ》くと、ホロはくすぐったそうに首をすくめた。  それから、なんの気なしにホロの頭に手を置く。  払《はら》われるかとも思ったが、ホロはそのままで、耳を少しだけ動かした。手から、子供のような少しだけ高いホロの体温が伝わってくる。  切なくなるほど静かで、かけがえのない時間。  そして、ホロはようやく準備が整ったとばかりに、唐突《とうとつ》に口を開いた。 「わっちに一連の言葉の真偽《しんぎ》を聞かないんじゃな」  エーブの、という意味だろう。  ロレンスはホロの頭から手を離《はな》し、返事はただうなずいただけ。  ホロは確認《かくにん》のために視線すら向けてこない。その気配だけで十分なようだった。 「真偽を聞いてきたなら、呆《あき》れて見下してからかって、それから教えてたっぷりと恩を売れたというに」 「危ないところだった」  ロレンスが言うと、ホロは楽しそうに笑う。  それから、こてんと顔をベッドの上に置いて、見上げるように視線を向けてきた。 「ぬしが全《すべ》てを自分で判断したがる理由もわっちにはわかる。わっちを売ることに妙《みょう》な責任を感じておるのじゃろう? じゃが、人はそれほど強くないこともわっちゃあ知っておる。言葉の真偽を確かめる術《すべ》があれば頼《たよ》りたくなるはずなのに、ぬしはなぜそれをしないのかや」  そんなことを言うホロの真意こそ知りたかったが、下手に頭を巡《めぐ》らせれば火傷《やけど》の元だと思ったので、素直《すなお》に答えることにした。 「そのあたりのけじめを忘れたら、怒《おこ》るのはお前のほうだと思うが」 「……本当に律儀《りちぎ》じゃな。もう少しわっちに甘えてみたらどうじゃ?」  一度頭から頼ってしまえば、次からそれに頼る敷居《しきい》は絶対に低くなる。  何事にも慣れということがある。それを忘れずにいられるのは、聖人だけだという自覚くらいはある。 「俺は器用じゃないからな」 「何事も練習すればそれなりにはなれる」  ロレンスがまとめてやった髪《かみ》の毛が、さらりと音を立ててこぼれる。 「練習してみるかや?」 「甘え方の?」  冗談《じょうだん》めかして聞き返すと、ゆらりゆらりと揺《ゆ》れていたホロの尻尾がゆっくりと伏《ふ》せられた。  ホロが一度目を閉じて、ゆっくりと開く。その顔には柔《やわ》らかな笑《え》みを浮かべ、どんな失敗も許してくれそうな優《やさ》しそうな眼差《まなざ》しをしていた。  どんな甘え方をしても受け入れてくれそうな顔、とはこういうのをいうのかもしれない。  ロレンスをからかうためにわざとやっているのだとしたら、これ以上悪質なものもないかもしれない。  こんなのに引っ掛《か》かったとして、誰《だれ》がそれを責められよう。  だから、余計にロレンスの頭は冷めてしまっていた。  それどころか、逆にこんな罠《わな》を作ってロレンスを笑おうとしているのだからホロの機嫌《きげん》はむしろ悪いのかもしれない、とまで考えてしまう。  そして、ホロはそんなロレンスの胸中を見て楽しむのが主な目的だったらしい。  いつの間にか顔をにやにやとした笑《え》みに変えていた。 「そんな悪質な罠を張るなと怒《おこ》らないんじゃな」 「怒ったら怒ったで……」 「では、今度は罠ではありんせん。存分に甘える練習をしてくりゃれ?」 「……そう言うだろう?」  ロレンスが肩《かた》をすくめるとホロはけたけたと笑い、ひとしきり笑ったあとに自分の腕枕《うでまくら》に顔を載《の》せた。 「ぬしに読まれてしまうなど、賢狼《けんろう》の名折れじゃ」 「いくらなんでもな。さすがに慣れるさ」  ホロは笑うでも悔《くや》しそうにするでもなく、笑顔の余韻《よいん》だけを顔に残して、ベッドの隅《すみ》を指差した。  座れ、ということだろう。 「じゃが、お人好《ひとよ》しなところはずっと変わらぬ……」  と、ロレンスがベッドの隅に腰掛《こしか》けると、ホロは体を起こしてあとを続けた。 「わっちがぬしを罠に嵌《は》めて腹いっぱい笑っても、ぬしは怒りこそすれ、わっちに愛想をつかさぬ」  ロレンスは、笑いながら答えた。 「さあ、この先もそうとは限らない」  だからもう少し行動に注意しろよと言葉を続けようとして、飲み込んだ。  不敵な笑みを浮かべてまたぞろうまいこと切り返してくるだろうと思っていたホロが、悲しそうに笑っていたからだ。 「もちろん、そうじゃろうな。きっと、そうじゃろう」  そして、独《ひと》り呟《つぶや》くように言って、予期していなかった行動に出た。  ホロは起き上がると、のそのそとロレンスの側《そば》までやってきて、腿《もも》の上に横向きに腰を下ろした。挙句《あげく》、なんのためらいもなく両腕をロレンスの背中に回してしっかと抱《だ》きついてきたのだ。  顔はちょうどロレンスの左|肩《かた》に載《の》る形。  どんな表情なのかはもちろん見えない。  ただ、ここまであからさまなことをされても、なにか良からぬことを企《たくら》んでいるとは思わなかった。 「人が変わるというのは本当じゃ。ちょっと前のぬしなら、こんなことをされた途端《とたん》に体が強張《こわば》っておったからの」  どんな時でも冷静を装《よそお》えそうなホロも、耳と尻尾《しっぽ》はどうにもならない。  音と、左手に当たる感触《かんしょく》から、尻尾が不安そうにゆっくりと動いているのがわかった。  軽く、掴《つか》んでみる。  その瞬間《しゅんかん》、ホロが驚《おどろ》くほど体を強張らせたので慌《あわ》てて手を離《はな》した。  謝《あやま》る前に側頭部で頭突《ずつ》きをされる。 「気安く触《さわ》るでない」  時折ホロはなにかの褒美《ほうび》に尻尾を触らせてやろうなどと言うことがあるが、どうやら一つの弱点らしい。  ただ、別にそんなことを確かめるのが目的だったわけではないし、純粋《じゅんすい》ないたずらというわけでもない。  なにが原因かはわからないが、ホロの反応から心底しょげているのではなさそうだったので少し安心した。 「たわけが」  付け加えてホロは言って、ため息をついた。  沈黙《ちんもく》が降りる。  ホロが尻尾を揺《ゆ》らすぱったぱったという音が断続的に響《ひび》き、獣脂《じゅうし》の火が芯《しん》を焦《こ》がす短い音もそこに混じる。  こちらのほうから口を開こうか、とロレンスが思うのと、ホロが口を開いたのは同時だった。 「そこまでぬしに気|遣《づか》われては、まさしく賢狼《けんろう》の名折れじゃ」  喋《しゃべ》り出そうとした気配が伝わっていたらしい。  ただ、それがホロの空《から》元気にしか感じられなかったのは、気のせいではないだろう。 「まったく、わっちが甘えてしまっては話が違《ちが》う。ぬしがわっちにという話じゃったのに」  肩の上に置いていた顔を上げ、背筋を伸《の》ばすと少しだけロレンスよりも視線が高くなる。  琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》でロレンスのことを見下ろし、不機嫌《ふきげん》そうに唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。 「ぬしはいつ取り乱してくれるのかや」 「お前が思っていることを言ってくれたら」  途端《とたん》に、ホロは苦いものでも食べたかのように嫌《いや》そうな顔をして体を引く。  それでも、ロレンスが特に狼狽《ろうばい》することもなくそのままでいると、ホロはすぐに悲しそうな顔になって、「ぬしよ」と小さく言った。 「なんだ?」 「取り乱して欲しいんじゃが」 「わかった」  ロレンスが答えると、ホロは再びゆっくりとロレンスの胸に体を預け、もそりと身じろぎしながら呟《つぶや》くように言った。 「ここで旅を終わろう?」  その時の驚《おどろ》きを誰《だれ》かに伝えようと思ったら、この場の様子を見てもらうほかない。  そんなことを思うくらいに、驚いてしまった。  ただ、それから感じたのは怒《いか》り。  それは、冗談《じょうだん》で口に出されたくない言葉だったからだ。 「冗談だと思うかや」 「思う」  間髪《かんはつ》いれずに答えていたのは、冷静だったからではない。  むしろその逆で、ホロの肩《かた》を掴《つか》むや引きはがし、その顔を見た。  その顔は笑っていたが、とてもロレンスが怒《おこ》れるようなものではなかった。 「ほんとに、ぬしは可愛《かわい》い」  ロレンスは、胸中で呟いていた。  そんなことを言って顎《あご》を指でくすぐるなら、もっと、いつものような底意地の悪い笑顔《えがお》でないと駄目《だめ》だろう、と。 「冗談ではありんせん。こんなことを冗談で言ったらぬしはきっと本気で怒る。そして」  肩を掴むロレンスの手に自分の手を重ね、付け加えた。 「結局許してくれる。ぬしは優《やさ》しいからの」  ホロの指は細く、爪《つめ》もろくに研《と》いでいないのに綺麗《きれい》な形をしている。  そんな爪がほとんど手加減なしに手の甲《こう》に突《つ》き立てられれば痛くないわけがない。  ただ、爪を立てられてもホロの肩から手は離《はな》さなかった。 「俺が交《か》わした契約《けいやく》は……お前を故郷まで送り届けることだった」 「もう、だいぶ近くにまで来たじゃろう」 「それなら、この間の村ではどうして……」 「人は変わる。状況《じょうきょう》も変わる。もちろん、わっちの気分だって変わる」  そう言ってから、ホロが苦笑いしたのは、きっと自分の顔が情けないものだったからだろうとロレンスはすぐに思った。  一瞬《いっしゅん》とはいえ、愕然《がくぜん》としてしまったのだ。  気が変わった程度で決めるようなことだったのか、と。 「くふ。まだまだ耕《たがや》されておらぬ畑があるらしいの。じゃが、ここはあまり土足で踏《ふ》み入ってよい場所ではない」  ロレンスが狼狽《ろうばい》したり戸惑《とまど》ったりするのをからかって楽しんでいたのはもちろん今更《いまさら》のことだが、だんだんと同じ手には引っ掛《か》からなくなってくればその方法もまた少しずつ過激になってくる。  ただ、ここはホロの言うとおり、遊んでもらいたくない場所だった。 「だが、突然《とつぜん》、なぜだ?」 「あの娘《むすめ》が言っておったじゃろう?」 「……エーブが?」  ホロはうなずき、ロレンスの手の甲《こう》に突《つ》き立てていた爪《つめ》を離《はな》した。  少しだけ血が滲《にじ》んでいて、目で謝《あやま》りつつ、ホロは続ける。 「出会いは金で買えるが」 「その……良し悪しまでは決められない?」 「じゃからその出会いは大切にしろと。人の小娘が、偉《えら》そうに……」  ホロはかけらも思っていないようなことを毒づいて、ロレンスの手に頬《ほお》を当てた。 「わっちゃあぬしとの出会いをよいものにしたい。それには、ここで別れるのがよいかや、と思いんす」  ロレンスにはホロの言っていることがわからない。  テレオの村で、ホロは故郷にたどり着いたあとにどうするのかという問いをはぐらかした。  それは、故郷に着いたらこの二人旅が終わるのだろうという予感が二人の間にあったからだとロレンスは思っている。  そもそもの約束からいえばそれはとても自然だし、ロレンスもホロと出会った当初はそう思っていた。ホロもきっとそうだったろう。  ただ、この二人旅はとても楽しい。できれば一日でも長く続けていたい。  そんな子供のような駄々《だだ》をこねたい誘惑《ゆうわく》にどうしても駆《か》られてしまう。  そして、それはホロも同じではないのか。少なくともこれまでの旅を振《ふ》り返って、ロレンスはそう確信できるだけの自信がある。  だとすれば、ここで旅をやめることが、どうして出会いを良いものにするということにつながるのか。  ロレンスが困惑《こんわく》を隠《かく》せていないであろう目を向けると、ホロは、ロレンスの手に頬を当てたまま、困ったように笑った。 「たわけが。本当にわからぬのかや」  からかうでも怒《おこ》るでもない。できの悪い子供が悩《なや》むのを見て呆《あき》れるのに似ているし、そこにはどこか慈《いつく》しむような色さえある。  ホロは顔を上げると、ロレンスの手を取って肩《かた》から下ろし、もう一度ゆっくりと抱《だ》きついてきた。 「この旅はとてもとても楽しい。笑えて、泣けて、この冷静にして老獪《ろうかい》なわっちが、仔《こ》のようにわめき散らして喧嘩《けんか》もした。長いこと一人でおったわっちの身にはとてもとても眩《まぶ》しい。本当に、永遠に続けばよいと思ったこともありんす」 「なら」  ロレンスは言おうとして、はたと言葉に詰《つ》まった。  それはできない相談だ。  なにせ、ホロは人ではない。その生きる時間はあまりにも違《ちが》いすぎる。 「ぬしは頭の巡《めぐ》りこそよいが、やはり経験が足らんな。ぬしは金|儲《もう》けにいそしむ商人じゃからすぐにわかるかとも思ったが……わっちゃあ別にぬしの最期《さいご》を看取《みと》りたくないからこう言うわけじゃありんせん。そんなことには……とっくに慣れた」  冬の、茶色い世界の大平原に吹《ふ》く風のように、さらりとホロは言った。 「わっちにもっと自制が利《き》けば、あるいはわっちの故郷まで保《も》ったかもしれぬ。ちょっと前の村をあとにする頃《ころ》にはその自信もあったんじゃがな……。じゃが、ぬしはとことんまでお人好《ひとよ》しじゃ。わっちがどんなことをしてもぬしは受け入れてくれるし、望めば望むだけ与《あた》えてくれる。わっちゃあそれらを我慢《がまん》することがとても難しい。難しいんじゃ……」  こんな、騎士道物語の最後のページのような言葉をホロの口から聞いても、ロレンスは全然|嬉《うれ》しくなかった。  ホロがなにを言っているのかは、依然《いぜん》としてやはり全然わからないが、少なくともわかっていることがある。  それは、これらの言葉の最後には、だからここで別れよう、という言葉がつくということだ。 「じゃから、わっちゃあ……怖《こわ》い」  ホロの尻尾《しっぽ》がわき上がる不安のように膨《ふく》らんだ。  子豚《こブタ》の丸焼きを食べた晩のことだ。ホロが怖いといって怯《おび》えたこと。  あの時はまったくわからなかったが、この流れからすれば、ホロが怖いものは一つしかない。  ただ、それがなぜ怖いのかわからない。  ホロはロレンスにそこを察してもらいたがっている。  あの晩に、ホロはロレンスがそれに気がつくと困ると言った。それでもこの流れで話を出してきたのは気づかれないほうが困るとホロが判断したからに違いない。  ホロは賢狼《けんろう》だ。無駄《むだ》なことはしないし、滅多《めった》に間違ったことはしない。  ならばここまでに提示された条件でわかるはず。  ロレンスは必死に頭を巡らせた。  商人|自慢《じまん》の記憶《きおく》力で、全《すべ》てを思い出して必死に考える。  エーブの言葉。ホロが突然《とつぜん》切り出した旅の別れ。商人だからわかるかもしれないということ。それに、ホロが恐《おそ》れること。  どれもこれも関係がなさそうで、一体どのようにつながるのか皆目《かいもく》見当もつかない。  大体、楽しい旅なのであればずっと続けていたいと思うのは自然な感情なのではないのか。  旅には必ず終わりがつきまとうが、ホロは避《さ》けられないそれを忌避《きひ》しているわけではないはずだ。それはとっくのとうに理解しているはずで、ロレンスだってもちろんそうだ。しかるべき旅の終わりには、笑顔《えがお》で別れられる自信があった。  だから、こんなふうに旅を途中《とちゅう》でやめることになにか意味があるに違《ちが》いない。  旅の途中で。この頃合《ころあい》で。故郷にたどり着くまで保《も》たないと思うから……。  そこまで考えて、なにかつながりそうな予感がした。  楽しい。旅。頃合。商人。  ロレンスは、その瞬間《しゅんかん》に、体が強張《こわば》るのを防げなかった。 「……気がついたかや」  ホロはやれやれといった調子で言って、ロレンスの足の上から立ち上がる。 「本当なら気がついて欲しくないことじゃが、このまま放っておいたらきっと最善の結末を逃《のが》す。わかるじゃろう? この言葉の意味」  ロレンスはうなずく。  わかりすぎるほどにわかった。  いや、漠然《ばくぜん》とわかっていたのだ。ただ、認めたくなかったのかもしれない。  ホロはさしたる未練も見せずにロレンスから離《はな》れ、ベッドから下りる。  ロレンスは、ホロの琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》に見下ろされて、呟《つぶや》くように言った。 「お前ですら、その物語は見たことがないのか」 「物語? というのは……そういう意味かや。なかなかうまいことを言う」  世の中には大きく分けて二つの物語がある。人が幸せになる物語と、不幸せになる物語だ。  しかし、本当なら物語は四つなければならないが、残る二つは、人間が編み出すにはあまりにも難しく、また、それを理解するには人間というものはあまりにも不完全だ。  それを創《つく》ることができて、読める者がいたとしたら、それは神に他《ほか》ならず、実際、教会は死後の世界にそれを約束する。 「幸せであり続ける、物語」  ホロは無言のままゆっくりと歩き、部屋の隅《すみ》に荷物と一緒《いっしょ》に置いてあったぶどう酒の詰《つ》まった水差しを手に取る。振《ふ》り向くとその顔は笑っていた。 「そんなものは存在せん。もちろん、ぬしとのやり取りはとても楽しい。とてもとても楽しい。それこそ、ぬしを食べてしまいたいほどに」  赤みがかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》を細められてこんなことを言われたら、出会った当初ならどきりとしていたに違《ちが》いない。  それが、今では大した動揺《どうよう》もない。  出会った頃《ころ》のままでいたい、と言ったホロの言葉が、痛く胸に突《つ》き刺《さ》さった。 「じゃが、どんなにおいしいご馳走《ちそう》も、同じものばかりを食べておればどうなる? 飽《あ》きるじゃろう? しかも厄介《やっかい》なことに、わっちらが新しい楽しさを得ようと思えばどんどんやり取りを過激にしていかねばならぬ。その階段の先になにがあるか、わかるじゃろう?」  手をつなぐだけで動揺していたのが、抱《だ》きつかれても慌《あわ》てなくなり、手の甲《こう》にあっさりと口づけをする。  その先にあることを指折り数えてみれば、すぐに愕然《がくぜん》とすることがわかる。  自分たちにできることは、長い時間に対してあまりにも少ない。  手を替《か》え品を替え、あっという間に打ち止めだ。  階段を上《のぼ》り続けることはできる。  しかし、その階段がいつまでも存在するとは限らない。 「やがてわっちらは求めても満たされず、全《すべ》ての楽しかったやり取りはただ風化し、色|褪《あ》せた楽しさだけが記憶《きおく》の中に残りんす。それこそ、出会った当初は楽しかったのにな、と」  意地悪げな視線を向けてきたのは、わざとだろう。 「じゃからな、わっちゃあ怖《こわ》かった。この楽しさの摩滅《まめつ》を加速させる、ぬしの……」  水差しからぶどう酒を一口飲んで、自嘲《じちょう》するようにホロは言った。 「優《やさ》しさが」  賢狼《けんろう》ホロ。  何百年と生きてきて、麦の豊作を司《つかさど》る、孤独《こどく》を恐《おそ》れ人に化けられる狼《オオカミ》。  その孤独への恐怖《きょうふ》は少し理解しがたい面もあった。神として敬われ、畏《おそ》れられるのが嫌《いや》だという理屈《りくつ》だけでは理解できない気がしていた。  もちろん、長く長く生きる身であるから、同じ時間を生きる者たちの数がとても少なく、その事実ゆえに孤独に対して敏感《びんかん》なのかとも思った。  ただ、ここに来て、その答えがようやくわかった。  孤独が嫌ならば同じ時間を生きる者たちを探して仲良くなればいいのに、それをしない、いや、できない理由。  ホロは、自分は神ではないと言った。  その真の理由は、ここにあった。  神は天の御国《みくに》を老いも病もない永遠に幸福な世界として作っているという。  ホロには、そんなことなどできやしない。  人と同じように、どんなことにも慣れ、飽《あ》き、あれほど楽しかったことなのに、とぼんやりと思う夜がある。  永遠に楽しいままでいたい。  少女のようなその願いが決して叶《かな》わないことを、この長い時を生きる賢狼《けんろう》はわかりすぎるほどにわかっていたのだ。 「終わり良ければ全《すべ》て良し、とはぬしら人は本当にうまく言うものじゃとわっちゃあ感心したことがありんす。なるほどそうじゃと思いつつも、本当に楽しいことはなかなかやめる踏《ふ》ん切りがつかぬ。ずるずると故郷まで一緒《いっしょ》におってはどうなるかわからぬ。じゃからな、わっちゃあぬしとの楽しい旅が、初めから終わりまでずっと楽しいままでいられるように、ここいらで別れるのがよいと思いんす」  ロレンスは言葉を持たず、歩み寄ってきたホロが差し出した水差しを受け取った。  喋《しゃべ》っている内容はなにひとつ前向きなものがないのに、それがどことなく前進のための決意に聞こえるのは開き直りに近いものだからかもしれない。 「ちょうどぬしの夢も実現間近じゃ。ぬしの物語の一区切りとしても、これ以上よい頃合《ころあい》はないじゃろう?」 「それは、そうだな」  だから、ロレンスもホロの言葉を妨《さまた》げることはなかった。 「それに、あとで言って驚《おどろ》かせようと思っておったんじゃがな」  ホロは含《ふく》み笑いを漏《も》らし、つい今しがたまでのやり取りなどこの世に存在しなかった、とばかりに軽い振《ふ》る舞《ま》いでロレンスの隣《となり》に腰掛《こしか》け、体をひねると横着して枕元《まくらもと》の本を手に取った。 「本に、わっちが出てきておった」  そう言い終えると、ホロは不意に苦笑いした。きっと、その言葉を聞いた瞬間《しゅんかん》に驚いてしまったからだろう。  自分の夢が実現間近だと言われた時には、ぴくりとも表情を変えなかったのに。 「昔の色々なことがあった。見るまでずっと忘れておったことじゃがな」  ホロはそう言って、ページをめくってからロレンスに本を向けてくる。  読め、ということだろう。  ロレンスは本と水差しを交換《こうかん》し、ページに目を落とした。  神経質な角ばった文字で書かれた物語は、およそ誰《だれ》もがまだ無知と蒙昧《もうまい》の中にいた時代、と書かれている。  教会の名も、はるか遠くの国の噂話《うわさばなし》程度だった頃《ころ》の話だろう。  そこには、異教徒の町クメルスンで、年代記作家のディアナから聞いたホロの名前があった。 「麦束尻尾《むぎたばしっぽ》とは……複雑な気分じゃがな」  その表現は、当たらずとも遠からじ、だと思ったのは黙《だま》っておく。 「……お前は昔から大酒飲みだったんだな」  ロレンスが該当《がいとう》の箇所《かしょ》を読みながら呆《あき》れて言うと、ホロは気分を害するどころか逆にろくにない胸を張って得意げに鼻を鳴らす。 「今でも鮮明《せんめい》に思い出せる。わっちと張り合った大酒飲みはぬしより若い娘《むすめ》でな、わっちと娘は最後は酔《よ》っ払《ぱら》うというよりも腹に入りきらなくなった。勝負の幕引きはそれはもう壮絶《そうぜつ》な状況《じょうきょう》でな」 「いや、いい、それ以上は聞きたくない」  手を振《ふ》ってそう口を挟《はさ》む。意地っ張りなホロと、おそらくは同じくらいに意地っ張りな娘だったのだろう。どんな幕引きの仕方をしたのかなど、考えなくてもわかるというものだ。  ただ、確かにその飲み比べの話も書いてあるが、どちらかというとホロと張り合った娘の武勇伝になっている。  当然といえば当然かもしれない。 「うふふ、それにしても懐《なつ》かしい。読むまでとんと忘れておったのにな」 「飲んで食って歌って踊《おど》ってか。何度か書き直してあるんだろうが、それでも楽しそうな雰囲気《ふんいき》が伝わってくるな。きっと元の言い伝えはほとんど笑い話の類《たぐい》だろう」 「うむ。実に楽しかった、ぬしよ、ちょっと立ってくりゃれ」 「?」  ロレンスは言われるままに腰掛《こしか》けていたベッドから立ち上がる。  それから、ホロに指を差されて、手にしていた本を置いた。  なにをするのかと思っていたら、ホロがすすっと近寄ってきて、ロレンスの手を取った。 「右、右、左。左、左、右。わかるかや」  なんのことか、と思う間もない。  ホロがあの書物の中で踊ったという、この村の古い踊りだろう。  ただ、近くに立ってみてわかった。  ホロには狼《オオカミ》の耳と尻尾《しっぽ》がついている。  この明るい振《ふ》る舞《ま》いの下になにがあるのか、わからないわけがなかった。  ホロが旅をやめたがっているのは、旅が楽しいからだと言うのだから。 「酒を入れて踊るとあっという間に目が回るようなやつじゃがな」  上目|遣《づか》いにホロは笑い、すぐに足元に視線を落とす。 「右、右、左の、左、左、右じゃからな? ほれ、いくぞ」  踊りなどろくに踊ったことがないが、それでも異教徒の町クメルスンでの祭りの時、ホロに無理やり駆《か》り出されて一晩中踊り通した。  あれだけ練習すれば誰《だれ》だってそれなりになれる。  ホロが「それっ」と言って足を出したのに合わせてロレンスも足を出した。  羊|飼《か》いのノーラが自分が本物の羊飼いであることを示すために舞《まい》を舞ったように、踊りはそこかしこにあふれている。踊《おど》りは数あれど、それらはどれも似たようなもの。  ロレンスが一発目からホロに足捌《あしさば》きを合わせると、目の前のホロは驚《おどろ》いていた。 「むう」  大方ロレンスのどんくさいところを笑おうとでもしていたのだろうが、そうはいかない。  とんとんとん、と軽《かろ》やかに足を動かして、むしろ足の動きが乱れがちなホロをロレンスのほうが導いてやる。こういうことは技術|云々《うんぬん》よりも自信なのだということを学んでしまえば、あとは大胆《だいたん》にするだけだ。  ただ、ホロの動きが驚きのせいか鈍《にぶ》かったのも最初だけ。  すぐに滑《なめ》らかなそれになって、時折明らかにわざととわかる呼吸でわずかに乱す。その拍子《ひょうし》にロレンスに自分の足を踏《ふ》ませようという魂胆《こんたん》だろう。  当然、引っかからない。 「むっ、ぬう」  きっと傍《はた》から見たら二つの人形が糸で縫《ぬ》い合わされていたように見えたことだろう。  それくらい二人の息は合っていた。  右、右、左、左、左、右、と単純な動きではあるが、狭《せま》い宿の部屋で一度も止まらずにステップを踏み続ける。  いつまでも続くかと思われた踊りが終わったのは、意外にもホロがロレンスの足を踏んづけたからだ。 「おわっ」  と、ロレンスが小さく声を上げた直後には、幸いというべきか二人|諸共《もろとも》にベッドの上だった。  つないでいた手だけは離《はな》していない。  ロレンスはホロがわざとやったのではと意地悪く勘《かん》ぐったが、ホロはなにが起こったかわからないようにきょとんとしていた。  そして、ようやく我に返ったようでロレンスと目が合う。  自然と、笑《え》みがこぼれてきた。 「……なにをしておるんじゃわっちらは」 「そういうことは敢《あ》えて問わないほうがいいな」  ホロはくすぐったそうに首をすくめて、牙《きば》を見せる。  本当に楽しそうだった。  だからこそ、言葉を続けられたのだろう。 「わっちの故郷の方角も書いてあったじゃろう?」  ロレンスは馬鹿《ばか》なやり取りをした余韻《よいん》を示す笑顔のまま、本の内容を思い出し、うなずく。  本には、麦束尻尾《むぎたばしっぽ》のホロウはおよそ人の足で二十日あまりの眠《ねむ》りと誕生《たんじょう》の方角の合間にあるロエフの山奥から来た、とあった。  北が眠り、東が誕生の方角だろう。方角に意味を持たせるのはよくあること。  それに、なによりも決定的なのは、ロエフの山奥という記述。  この名前はロレンスも知っている。  レノスの町の側《そば》を流れるローム川に注ぎ込む支流の名前だ。  ほとんど疑いもなく、ロエフの山奥とはロエフ川の源流が流れ出す山のことだとわかる。こうなれば、ホロは本当に独《ひと》りでも十分に故郷に帰れることだろう。  そして、その予想は間違《まちが》ってはいないはず。  間違っているとしたら、パスロエの村で、ロレンスが麦を荷台に載《の》せていたことだけだ。 「で、全部読み終えたのか?」  沈黙《ちんもく》が二人の見え透《す》いた嘘《うそ》を暴《あば》いてしまいそうで、ロレンスは間をあけずにそう言った。  つないでいた手も、体を起こしがてら離してしまった。 「うむ。一番古いのはこの町の最初の最初、人が住むために最初の柱を打ち立てた人なのか怪《あや》しい男の話じゃった」 「知り合いじゃないのか」  その軽口に、ホロは「かもしれぬ」と笑った。 「しかし」  ホロも体を起こした。 「酒をこぼしてしみを作らぬうちに返しにいったほうがよいかもしれぬ。写しが必要なほどではないじゃろうし、ほとんどはわっちの頭の中に元々あったことじゃからな」 「確かにな。お前が読んでいる途中《とちゅう》に転寝《うたたね》して涎《よだれ》をたらさないとも限らないし」 「わっちゃあそんなことせん」 「わかってる。いびきも当然かかないんだよな」  ロレンスは笑い、さっさとベッドから立ち上がる。  そのままそこに留《とど》まっていては噛《か》みつかれかねないからだ、と演出して。 「ぬしが寝ておる最中にどんな寝言を言っておるか教えて欲しいかや」  ホロは半目になってそんなことを言ってくる。  何度かどきりとさせられた言葉だ。  なぜこんなにもこのやり取りが悲しいのだろうかと、ロレンスは表情に出ないようにするので精|一杯《いっぱい》だった。 「多分こうだろう。もう、これ以上食べないでくれ……」  うまいものをたらふく食べる夢を見るのはよくあること。  ただ、ホロと旅を始めてからうまいものをたらふく食われる悪夢を実際に何度か見た。 「食《く》い扶持《ぶち》はきちんと稼《かせ》いでおるじゃろうが」  ホロは抗議《こうぎ》をして、ロレンスとはベッドの反対側に下りる。  二人は喧嘩《けんか》しているのだと演出するように。 「結果論だろう。クメルスンでの儲《もう》けがなかったら、本当に俺の財産が文字どおり食いつぶされていた」 「ふん。毒を食らわば皿までというからな。その時はぬしもぺろりと平らげてやろう」  芝居《しばい》がかった舌なめずりをして、ホロは妖艶《ようえん》な目つきでロレンスを見る。  それが本当に芝居だというのはもちろん大昔からわかっていた。  ただ、その下にあるものがこれまでと違《ちが》うのも、また痛いほどわかった。  どこか決定的なつながりが断ち切れてしまった。それはとても悲しかったが、耐《た》えられないほどではない。  それが一番悲しかったのは、きっと神が意地悪なせいなのだ。 「まったく。で、本を返しに行った帰りになにが食いたいんだ?」  ロレンスが言うと、ホロは尻尾《しっぽ》をぱたぱたと振《ふ》りながら、意地悪そうにこう言った。 「それはあとのお楽しみ」  このやり取りだけは、いつもどおりに楽しかった。 [#改ページ]  第四幕  翌日、昼過ぎに宿を出る時にリゴロのところに行ってくるとアロルドには伝えておいた。  ちょっと外出している間に会議の内容が公布される、なんていうことは考えにくいだろうが万が一ということもある。アロルドは黙《だま》ってうなずき、じっと炭火を見つめていた。  町に出て、一度通った狭《せま》くて細い道をまた歩く。  前回と違《ちが》ったのは水|溜《たま》りが少なかったことと、会話も少なかったこと。  ぽつりぽつりと、ホロが気を遣《つか》うようにとっくに把握《はあく》しきっているだろう取引の状況《じょうきょう》と、展望を再度聞いてきた。 「万事順調じゃな」  何度か聞いた言葉をホロは言った。  ロレンスがホロに手を貸した大きな水溜りの場所は、どこかの子供がいたずらで掘《ほ》ったのか大きい穴になっていたらしく、いくらか水面は低くなっていたものの依然《いぜん》として水溜りになっていた。  だからそこだけは以前と同じようにロレンスがホロに手を貸してやり、ホロは手を預けて渡《わた》った。 「ああ、順調だ。ちょっと怖《こわ》いくらいだ」 「何度も痛い目に遭《あ》っておるからの」  ホロは言い、ロレンスが笑う。  しかし、その怖《こわ》さのほとんどは取引の先に待っている利益があまりにも大きいからだろう。  エーブがロレンスのことを罠《わな》に嵌《は》めているとは思えなかったし、また狡猾《こうかつ》に嵌めるというのもそう簡単にはできない気がした。  金を借りて、商品を買い付け、それを売るだけなのだから。  その売買さえ失敗しなければいい。  もしも力業《ちからわざ》で罠に嵌めようとして、商品を途中《とちゅう》で強奪《ごうだつ》するなどの手段を取りたければ、船を使おうとは提案しないはず。  川は道よりもよほど重要な貿易路だ。そこを行く船の数も多い。  そこで誰《だれ》にもばれずに強奪劇を繰《く》り広げるのは至難の業《わざ》。  やはり、問題はない気がする。 「わっちの体は銀貨で何千枚だったかや」 「ん、大体二千枚くらいか」  ホロの体というよりも、エーブの家の名の値段なのだが。 「ほう。それで酒を買ったらどうなるかや」 「そりゃあとびっきりのやつを信じられないくらい買える」 「その金をもってしてぬしは金|儲《もう》けをするんじゃな?」  分け前を寄越《よこ》せということだろうが、もちろんロレンスもそのつもりだ。 「うまくいったらいくらでも酒をご馳走《ちそう》するよ」 「ふふ、それこそ……」  と、ホロは言って、慌《あわ》てて口を閉じたのがわかった。  一瞬《いっしゅん》怪訝《けげん》に思ったが、ホロがなにを言おうとしたのかロレンスにもわかった。  それこそ一生|酔《よ》いから覚めぬほどに、だろう。  それは、叶《かな》わない夢だ。 「それこそ……わっちが酔っ払《ぱら》うよりも前に吐《は》き出してしまうほどにな」  賢狼《けんろう》ホロは、そしてそんなことを言った。  行商人ロレンスとして、引き継《つ》がないわけにはいかない。 「なんだお前は飲み比べに負けたのか」 「うむ……じゃが、それも当然じゃ。考えてもみてくりゃれ? 相手はわっちほどじゃありんせんがなかなかに見目《みめ》良《よ》い娘《むすめ》でな、そんなのが顔を真っ赤にして頬《ほお》をパンパンに膨《ふく》らませてものすごい形相《ぎょうそう》で酒を胃の腑《ふ》に押し込んでおるんじゃ。誇《ほこ》り高き賢狼であるわっちも似たような醜態《しゅうたい》を晒《さら》しておるのではと気がついた瞬間《しゅんかん》に、喉《のど》の栓《せん》が外れおった」  どちらにしろとんでもない醜態だが、そんな見栄っぱりなところがあまりにホロらしくて笑えてしまった。  ホロは腕《うで》を組んで苦虫《にがむし》を噛《か》みつぶしたような顔をしている。  本当に、おてんば娘《むすめ》のような無邪気《むじゃき》さだ。  これが演技でなかったとしたらどれほど楽しかっただろう。 「ま、そんな目に遭《あ》ってもまた懲《こ》りずに酒を飲むんだよな」  ロレンスが言うと、ホロは顔を上げて「たわけ以外のなにものでもない」と答えたのだった。  リゴロの家に着くと、リゴロは不在だった。  応対してくれたのはやはりメルタで、相変わらずの修道服だった。 「読むのがとてもお早いのですね。私は短い物語でも読むのに一月近くかかります」  謙遜《けんそん》というわけでもなく、わずかに恥《は》じ入るように微笑《ほほえ》みながら言うあたりがとても優《やさ》しそうな雰囲気《ふんいき》を与《あた》える。  ロレンスはそんなことを思ってしまったが、メルタがリゴロの机から鍵《かぎ》を取り出し、ロレンスたちを先導する間、一度もホロに足蹴《あしげ》にはされなかった。 「リゴロさんからは、なにかまだ必要なものがあれば自由にお貸しするようにと申しつかっております」  書庫の扉《とびら》の鍵を開け、蜜蝋《みつろう》に火をともしながらメルタは言った。 「なにか読みたいものがあるか?」  ロレンスがホロに言葉を向けると、曖昧《あいまい》にうなずいた。 「では、自由にご覧《らん》になってください。いくら貴重な書物といえど、誰《だれ》の目にも触《ふ》れられないのは少しかわいそうですから」 「ありがとうございます」  礼を言うと、にこりと笑って首をかしげるだけ。  修道女だからというよりも、メルタは元々こういう性格なのかもしれない。 「ただ、お貸しした本はリゴロさんのお祖父《じい》様が書き直されたもので最近の言葉で書かれていますが、ほかの古い書物は古い文字で書かれていると思います。中には読みにくいものもあるかもしれません」  メルタの言葉にホロはうなずいて、蜜蝋の灯《あか》りを受け取るとゆっくりと書庫の奥に歩いていった。きっと本当は読みたい本など特になく、時間をつぶしたかっただけなのだろうとロレンスは思う。  ホロが宿でロレンスを踊《おど》りに誘《さそ》ったのも、ある種の期待を持ってのことだったのだろう。  それこそ、全《すべ》てをわかったうえであくまで楽しく、最後まで笑ってこの旅を終えられないかという期待を持って。  しかし、それは無理だったとわかってしまった。 「あの」 「はい?」  ホロの持つ灯《あか》りを見ていたメルタは、ロレンスのほうを振《ふ》り向いた。 「図々《ずうずう》しいお願いなのですが、リゴロさんの庭園を見せてもらってもよろしいですか?」  暗い書庫の雰囲気《ふんいき》の中では、どんどん思考が暗くなってしまいそうで怖《こわ》かった。  ただ、メルタはもちろんそんなことになど露《つゆ》ほども気がつかず、蜜蝋《みつろう》の灯りのように微笑《ほほえ》んで「きっとお庭のお花たちも喜ぶと思いますよ」と言ってくれた。 「ホロ」  ロレンスが声をかけると、呼ばれることがわかっていたようにホロが書棚《しょだな》の陰《かげ》から顔を出した。 「本に絶対に粗相《そそう》するなよ」 「わかっておる」  メルタはころころと笑った。 「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。リゴロさんの扱《あつか》い方のほうがよほどひどいですから」  なんとなくそれが事実のような気もしたが、一応ホロにそう注意して、ロレンスはメルタに先導されて一階に戻《もど》った。  あの明るい庭を見ていれば、なにも考えずぼんやりできるだろうという期待があった。 「なにかお飲み物をお持ちしますね」 「あ、いえ、お構いなく」  と、いう言葉はそよ風のごとく聞き流して、メルタは一礼すると静々と部屋から出ていってしまった。  商談で来ているならば相手にも利益になることがほとんどだから気にすることもないが、これは完全に邪魔《じゃま》をしに来ているのであまり気|遣《づか》われるのも申し訳なくなる。  それとも、そんなことを考えるのは損得|勘定《かんじょう》しか頭にない商人だからか、とも思ってしまう。  自ら持てるものを分け与《あた》えよとは、教会の教えの基本原則のうちの一つだ。 「まあ、いいか……」  敢《あ》えて口に出して、これ以上なにも考えたくないとばかりに思考を停止させた。  目はリゴロの庭に向けている。  透明《とうめい》なガラスを造るのはかなり難しいと聞く。値段のみならずさまざまな問題がこの窓を造るのにはあったことだろう。  何枚もの透明なガラスを継《つ》ぎ合わせたその向こうには、それ以上に手がかかっているだろうと窺《うかが》える庭がある。  この冬のさなかに緑や白の草花を見るのはなんとも奇妙《きみょう》な気がする。  手を尽《つ》くせば一年中このような景色《けしき》を保てるとリゴロは得意げに言った。  その言葉を信じるのならば、リゴロは一年中、飽《あ》きもせずにこの机に座り、この庭を眺《なが》めていることになる。  リゴロの生活の世話をしているのだろうメルタは、きっとその背中を呆《あき》れるような笑《え》みを持って眺《なが》めているはずだ。  まるで絵に描いたような生活。  ロレンスはそれが正直に羨《うらや》ましくて、そんなことに嫉妬《しっと》している自分に苦笑いをして視線を戻《もど》した。  紙や羊皮紙であふれ、一見|汚《きたな》いように見えるのに片づくところはきちんと片づいている。  家や仕事場と呼ぶよりも、巣《す》、と呼んだほうがしっくりくるような散らかり具合。  こんな部屋だというのに聖母の石像があるのは、リゴロがエーブと親しいからだろうか。  それとも、売れ残りを無理やりに引き取らされたのか。  きちんと木の箱に綿花とともに収められ、箱の中には赤い糸でくくられた小さな羊皮紙も置かれている。きっと、教会で聖別されたということを示す証明書だろう。  石像の大きさは、両手の指を目|一杯《いっぱい》に引き伸《の》ばした程度。  これで値段はどのくらいなのだろうかとしげしげと見つめていると、ロレンスはあることにふと気がついた。  石像の表面が少しはげていたのだ。 「なんだ?」  石像は見た目を良くするために石灰《せっかい》の粉を塗《ぬ》ったり、時には墨《すみ》を塗ったりする。  聖母の石像は柔《やわ》らかな白だったので、きっと塗ってあるのは石灰だろう。  ただ、それがはがれたらしい奥にあるのが、なにか妙《みょう》なものに見えた。  軽くこすり、拭《ぬぐ》ってみる。 「……これは、まさか——」 「どうかされました?」  そして、そんな声で我に返った。  振《ふ》り向くと、メルタだった。 「あ、いえ……お恥《は》ずかしい話ですが、聖母様の像があまりにも良くできているので、悩《なや》みを聞いていただけないかなと」 「まあ」  メルタは目を軽く見開いて、柔らかに笑う。 「私は教会の子羊ですから、その悩みを取り除《のぞ》いて差し上げましょうか」  メルタは頭の固い修道女ではないらしい。  ロレンスは「ご遠慮《えんりょ》します」とおどけて答えた。 「パンから造った飲み物ですが、お口に合うかどうか」  綺麗《きれい》に削《けず》られた木の盆《ぼん》の上に載《の》っているのはやはりこじんまりとした木のコップと、それだけは鉄製の水差し。  盆《ぼん》やコップはもしかしたらメルタの手作りかもしれない。そんな柔《やわ》らかな曲線だった。 「クワスですか」 「まあ、商人さんというのは物知りなのですね」  薄《うす》い茶色の飲み物をコップに注《つ》ぎながら、メルタは答えた。 「最近ははやらないのかあまり見ませんね」 「私は神の血よりもこちらのほうが……あ、今のは聞かなかったことに」  神の血とはぶどう酒のことだろう。  物静かなメルタの精|一杯《いっぱい》の冗談《じょうだん》は、本当に微笑《ほほえ》ましいものだ。  ロレンスはうなずいて、口に人差し指を当てた。  これがリュビンハイゲンやクメルスンやテレオの村でのことだったら、ホロの復讐《ふくしゅう》が怖《こわ》くてもう少し違《ちが》った対応になっていたかもしれない。  ただ、このやり取りを本当に楽しんでいたかというと、その問いには否《いな》と答える。  ロレンスの頭の中では、聖母の石像のことがめまぐるしく回転していた。 「どうぞ」  メルタは笑顔で勧《すす》めてくれた。  ロレンスはそれでもメルタの柔らかい物腰《ものごし》にどこかささくれ立った心が癒《いや》されるのを感じながら、コップを手に取った。 「そういえばリゴロさんは会議に?」 「ええ。今朝方|突然《とつぜん》呼び出しがあり……あ、えっと、会議についてのことは他言《たごん》するなと言われていまして……」  申し訳なさそうにするメルタに、ロレンスはもちろん商談用の笑顔を浮かべて首を横に振《ふ》った。 「いえ、内容を聞きたいというわけではありません。話題の選び方が悪かったですね。このガラスのことをお聞きしたかったので、リゴロさんとお会いできなかったのが残念で」 「あら、それは……。このガラスは、一枚一枚根気よく集めて、都合三年かかったんですよ」 「なるほど。リゴロさんのお庭にかける情熱が伝わってくるようです」  ロレンスが殊更《ことさら》驚《おどろ》くように言ってやると、メルタは自分が褒《ほ》められたかのようににこりと微笑んだ。  エーブは、リゴロがなんの欲も持たずにただこの庭を作ることだけに情熱を傾《かたむ》けていることを理解できないと言っていたが、メルタのような理解者が側《そば》にいて、自らの趣味《しゅみ》に没頭《ぼっとう》できるなら毎日がとても豊かな日々だろう。 「それほど情熱をかけられているなら、会議の書記を辞《や》めてしまいたいなんていうリゴロさんの大胆《だいたん》な発言も納得《なっとく》できるというものです」  メルタは困ったように笑い、うなずいた。 「お仕事に呼ばれても、時間の寸前までお庭を眺《なが》めているんですよ」 「いっそのこと、と思っても、書記というのは大事なお仕事ですからね」 「労働は確かに尊いと神も仰《おっしゃ》っております。ですが、のんびりと日がな一日お庭を眺めて暮らすというささやかな願いくらい、叶《かな》ってもいいのでは、などと思ってしまいます」  メルタはそう言って笑う。  敬虔《けいけん》な修道女なら抱《いだ》いてはならないような堕落《だらく》した夢だが、それが微笑《ほほえ》ましいものに思えるのはメルタが恋をしているからだろう。  どう考えたって、リゴロの幸せが自分の幸せ、と言っているようなものだ。  捉《とら》えようによってはメルタ自身の夢のため、と言えなくもない。  日がな一日のんびりと庭を眺めるリゴロの側《そば》で、あれこれ甲斐甲斐《かいがい》しく世話をするのがメルタの夢なのかもしれないのだから。 「ささやかな願いほど叶いにくいものですよ」 「ふふ。そうかもしれませんね」  メルタは頬《ほお》に手を当て、眩《まぶ》しそうに庭を見た。 「それに、いつでも、いつまでも見ていたいと思っているうちが一番楽しい時なのかもしれませんしね」  ロレンスは虚《きょ》をつかれ、まじまじとメルタを見てしまった。 「どうかされました?」 「メルタさんのお言葉に感心してしまいました」 「まあ、お上手」  まったくの嘘《うそ》でもないが、メルタは冗談《じょうだん》だと受け取ったらしい。  ホロとずっといたい。いつまでもいたいと、そんなふうに思っているうちが花、というのは、あまりにも鋭《するど》くロレンスの胸に突《つ》き刺《さ》さった。  実際にずっといれば、いつでも会えるとわかれば、どうしたってその喜びは減るだろう。  それはそんなに難しい世の真理ではない。  簡単な事実だからこそ、それを覆《くつがえ》すようなホロの夢はあまりにも難しいのだ。 「ですが、常にささやかな夢を追い続けるというのはとても幸福なことだと思います」  ただ、せめてそんなことだけを口にして、避《さ》けようのない現実を忘れたかった。  そして、そんなやり取りをしているうちに、ホロが燭台《しょくだい》を持って一階に上がってきた。  火が消えてしまったとのことだが、きっと嘘だ。  ロレンスが逃《に》げ出したように、ホロも書庫の暗い空気が嫌《いや》で逃げてきたのだろう。  なぜそんなことがわかるかといえば、明るい日差しの入る庭に面した部屋に来るや、恨《うら》むような視線を向けてきたから。  ホロはなにも言わずロレンスの隣《となり》に立つ。  ロレンスは、そんなホロにまっすぐ視線を向けて、口を開いた。 「なにかいい本はあったか?」  ホロは首を横に振《ふ》る。代わりに、「そちらは?」と目で聞いてくる。  ホロはホロだ。  ロレンスの様子の変化など、軽くお見通しなのだ。 「こっちはな、ちょっと、ためになる話を聞いた」  だから、そう口を開いた瞬間《しゅんかん》だった。  屋敷《やしき》の扉《とびら》を叩《たた》く音がした。  それから、大して間をあけずに扉の開かれる音。  どかどかどかという遠慮《えんりょ》のない足音が響《ひび》き、その人物は現れた。  メルタは当然|驚《おどろ》いていたが、無法な闖入《ちんにゅう》者に怒《おこ》るでも慌《あわ》てるでもなかったのは、それがよく見知った人物だったからだろう。  そこにいたのは、エーブだった。 「来い。まずいことになった」  息が上がっていた。 「武装|蜂起《ほうき》だ」 「扉を固く閉じて、絶対に、直接知っている人間以外は扉を開けるな」  エーブが言うと、メルタは石でも飲み込んだかのようにうなずいた。 「は、はい」 「いくら会議に不満があるとはいっても、まさか書記の家まで襲《おそ》いには来ないだろうから大丈夫《だいじょうぶ》だとは思うが」  エーブはそう言って、メルタと軽く抱擁《ほうよう》を交《か》わす。 「もちろん、リゴロも大丈夫だろうぜ」  その言葉に、メルタは悲壮《ひそう》な様子でうなずく。  自分の身がどうこうよりも、そちらのほうが重要な様子だった。 「よし、行こう」  その言葉はロレンスたちに向けられたもので、ロレンスも小さくうなずいた。  ホロは一人だけ興味なさそうに離《はな》れていたが、フードの下ではあちこちに耳を向けているのがわかった。物々しい町の雰囲気《ふんいき》を感じ取っているのかもしれない。 「じゃあな」  そして、エーブが扉から離れると、メルタは心配そうに両手を組み、無事を祈《いの》っていた。 「蜂起というのは、具体的に誰《だれ》が?」  人気のない道を小走りに近い速度で歩きながら、ロレンスは訊《たず》ねた。 「毛皮職人と、加工に必要な商品を扱《あつか》う連中だ」  突然《とつぜん》リゴロの屋敷《やしき》にやってきたエーブは、開口一番にまずいことになったと言った。  きっかけは、予想外に早い会議の結論の公布だったという。  会議の結論を記した木札を中央広場に立てようとしたところ、手に手に武器代わりの加工道具を持った職人や商人が邪魔《じゃま》に入り、会議の結論の取り消しを要求した。  よくできたように見える五十人会議の結論も、場合によっては明日から仕事や商品がなくなってしまうかもしれないと思う者たちには、決して飲めない危険な結論に思えるのだろう。  それに、エーブも会議の結論は見通しの甘いものだと言っていた。  その不安や心配が武器を持っての蜂起《ほうき》という形を取ってもおかしくはない。たとえ町の毛皮産業が生き残っても、自分たちが破産してしまったあとでは意味がないのだ。  そして、その蜂起の情報はあっという間に町中に伝わり、町の中心部は人が入り乱れた大変な状況《じょうきょう》になっているらしかった。  ロレンスの耳にも遠くから人々の喚声《かんせい》のようなざわめきが聞こえてくる。  ホロを見ると、うなずかれた。 「当然、会議の決定を覆《くつがえ》すなんてこと、できませんよね?」  その言葉には、エーブがうなずく。  五十人会議は、町のさまざまな立場の有力者たちが集《つど》う会議で、そこでの決定は町としての結論を示す。それはなによりも優先されることであり、レノスの町に住むのであれば無条件に従わなければならない。  その会議の結論が、利害が対立するからといって一部の者たちから否定されるとあっては会議の権威《けんい》を著《いちじる》しく傷つけることになり、正常な町の運営が行えなくなる危険性がある。  なにより、町とはそもそもが相反する利害関係の者たちが集まってこその町だ。全員が納得《なっとく》し、常に万全な結論などありはしない。  毛皮の加工に携《たずさ》わる者たちは、それらを承知のうえで蜂起したのだろう。 「会議の名誉《めいよ》にかけて、結論は実施《じっし》されることになる。すでに町の外にいた商人たちが中に入ってきている。職人連中が必死に流入を食い止めようとして血も流れているようだが、まあ、無理だろう」  エーブは複雑に入り組んでいる路地を迷うことなく歩いていく。  時折、似たような目的を持った者たちなのか、商人ふうの者が狭《せま》い路地を全力で駆《か》けていく姿を何度も見た。  ロレンスはホロがついてこられるか心配だったが、今のところ大丈夫《だいじょうぶ》らしい。ロレンスの手を掴《つか》みながら、しっかりとついてくる。 「毛皮の取引は?」 「会議の結論はオレが掴《つか》んでいた情報どおりだった。それが実施《じっし》されたとなれば、当然可能だ」  だとすれば一刻を争うことになる。 「どうします。現金受け渡《わた》しは事後で、とりあえずこのまま毛皮の買い付けに?」  その質問に、しかし、エーブは「いや」と答えた。 「難癖《なんくせ》をつけられたくない。きちんと現金を持って臨《のぞ》もう。お前はデリンク商会のほうに行って現金を取ってきてくれ」  エーブは水|溜《たま》りも気にせず歩き、ロレンスが聞き返すよりも先に言葉を続けた。 「オレは船の手配をしてくる」  エーブは言って、立ち止まる。  狭《せま》い曲がりくねった路地から突然開けた場所に出ると、そこは港のまん前だった。  たくさんの人々が行き交《か》い、そのどれもこれもが血相《けっそう》を変えている。  あわただしく駆《か》け回る商人|全《すべ》てが毛皮の調達に走っているように見え、ぞわりと悪寒《おかん》に似たものが背筋を這《は》う。  毛皮の職人たちと会議の結論を記した木札を死守する者たちが対峙《たいじ》しているという広場は、きっとすごいことになっているのだろう。 「これだけの連中を出し抜《ぬ》くわけだからな。単純に慌《あわ》てればいいというわけじゃない」  エーブはくるりと振《ふ》り向いた。 「宿で落ち合おう。毛皮の交渉《こうしょう》は、全てを揃《そろ》え、満を持して臨む」  少しも揺《ゆ》らがない決意に満ちた青い瞳《ひとみ》。  この港を前にして、エーブと酒を飲んだ時、エーブは自身の子供っぽい復讐《ふくしゅう》のために金を稼《かせ》ぐのだと言った。  その動機の良し悪しを決めることなど当然できはしない。  ただ、エーブが腹の据《す》わった優秀《ゆうしゅう》な商人であることだけはわかった。 「わかりました」  差し出してきた手を軽く握《にぎ》ると、エーブはわずかに笑って身を翻《ひるがえ》し、人ごみの中に消えていった。  きっと船の手配を見事成し遂《と》げ、毛皮の販路《はんろ》を確保してくれるだろう。  ロレンスはエーブの消えていった方向を見つめ、そんなことを思った。 「では、わっちらも行くかや」  ホロが声をかけてきた。  その声は、緊張《きんちょう》しているわけでも、急《せ》かすわけでもない。 「そうだな」  短く返事をして、ロレンスは歩き出そうとした足を止めた。  ホロの、射抜くような視線に縫《ぬ》いとめられた、と言ってもいいかもしれない。 「ぬしがさっき見たらしいこと、いや、それを見て思ったことをなぜわっちに言わぬ?」  顔が笑ってしまったのは、ホロはなんでもお見通しだったからだ。 「ぬしはなにかこの取引の危ないところに気がついた。違《ちが》うかや」  だから、隠《かく》そうともせず即答《そくとう》した。 「違わない」 「それをなぜ黙《だま》っておく?」 「聞きたいのか?」  ホロの手がロレンスの胸倉《むなぐら》に伸《の》びかけたのは、質問に質問で返されたから、などという単純な理由ではないはずだ。  ロレンスの胸倉に指先が触《ふ》れたところで止まっているホロの手を取り、下ろさせてから、離《はな》した。 「今の今まで気がつけなかったこの取引の危険についてお前に喋《しゃべ》ったとする。危険は、俺の身にも、お前の身にも及《およ》ぶ。しかし、可能性を検討《けんとう》した結果、おそらく危険を顧《かえり》みず利益を追求したほうがよいとなるだろう。なぜなら、手に入る利益は俺の命を賭《か》けるに値《あたい》するものだし、お前の身に危険が及んだとしても、それはお前自身の力でいくらでも回避《かいひ》できるからだ。もちろん」  ロレンスが言うと、ホロは、表情を消してその言葉を受け止めた。 「そうなると再会は難しいだろうが」  ホロは黙《だま》っている。  ロレンスは、続けた。 「そして、そんなやり取りをしてしまったら、お前は間違いなくこう言うだろう?」 「……全《すべ》ての利益を放《ほう》り出し、あらゆる危険を回避して、一縷《いちる》の望みに賭けるようなことはするでない」  肩《かた》をすくめて笑ったのはロレンスだ。  気がついていたことを黙っていたのは、ホロの口からその台詞《せりふ》を出させたくなかったため。  この取引が成功すればロレンスの夢はほぼ叶《かな》う。金持ちになってこの町に帰ってきたロレンスを出|迎《むか》えたホロは、祝福の言葉と共に、笑顔《えがお》で別れの言葉を口にするだろう。  あるいは、取引に失敗した時、ホロは売られることなどもってのほかとばかりに逃《に》げ出して、良い踏《ふ》ん切《ぎ》りがついたと故郷に帰るだろう。甘えた考えが許されるなら、ロレンスの身を案じて様子を見に来てくれるかもしれないが、そのあとにロレンスが立ち去るホロを引きとめる言葉を持つことはできない。  つまり。 「お前と旅を続けられるかもしれない可能性は、この取引を全て放り出した時にしか生じない」  自分の夢がかかっていようとも、お前を危険に晒《さら》すことなどできはしない、と気障《きざ》な言葉をもってして。 「それでわっちが喜ぶと思うかや?」  ロレンスは、恥《は》ずかしげもなく言った。 「思う」  そして、その瞬間《しゅんかん》に頬《ほお》を張られた。 「嬉《うれ》しい、とは言わぬ。すまぬ、などとは絶対に言わぬ」  ホロのか細い手で力任せに叩《たた》いたら手のほうが痛かっただろう。  ロレンスはそんなことを思いながら、わなわなと震《ふる》えるホロの顔を見ていた。  これで、ロレンスがホロに、ホロがロレンスにこの先も旅を続けようと言い出すきっかけは全《すべ》てつぶされた。  それはこの町で旅をやめようと言い出したホロの望むことで、ロレンスの望まぬことだ。  自分の望まぬことをしてまで相手の望むことをする。  これはきっと世間では優《やさ》しさと呼ばれる行為《こうい》の中でも上位に位置するもので、ホロはそれを怖《こわ》がっている。  要するに、突然《とつぜん》の旅の終わりを宣告されたことへのささやかな復讐《ふくしゅう》だった。 「ぬしは計算高く冷徹《れいてつ》な商人だったと記憶《きおく》しておこう」  ホロのその言葉に、ロレンスはようやく笑うことができた。 「間抜《まぬ》けな商人だと思われたままじゃ名誉《めいよ》に関《かか》わるからな。じゃあ、軍資金を借りに行くか」  歩き出すロレンスの後ろを、若干《じゃっかん》の間をあけてホロがついてくる。  鼻をすする音がしていたのは、寒いからではないだろう。  ずるいとは思ったが、ささやかな復讐すらしないままホロと別れられるほどロレンスの心は広くない。  ただ、復讐などいつだって虚《むな》しいものだ。  デリンク商会に到着《とうちゃく》した時、ホロはいつも以上にいつもどおりだった。  復讐は復讐を呼ぶ。  ただ、これでいいのだ。 「きっと、この世に神などおらんのじゃ」  ホロはぽつりと呟《つぶや》いた。 「ぬしらのいう全知全能の神がおるのなら、どうしてわっちらが苦しむのをじっと眺《なが》めておるのじゃろうな」  ロレンスは、扉《とびら》をノックしようとしていた手を止めた。 「ああ、そうだな……」  ホロの言葉にロレンスはうなずき、それから、扉をノックしたのだった。  デリンク商会は相変わらず質素なたたずまいで、商会の中も外の騒《さわ》ぎとは無縁《むえん》のように静かだった。  もちろん外で起こっていることは把握《はあく》していて、ロレンスの顔を見るや笑顔《えがお》で現金を手配してくれた。  なにを考えているのかわからない不気味な笑顔ではあったが、「お連れの方の身の安全だけは保障します」と胸を張って言ったその姿だけは信用ができた。  どんな心の冷たい商人であっても、そうであるからこそ商品の取り扱《あつか》いに関してだけは信用できる。  ただ、金貨の詰《つ》まった袋《ふくろ》をロレンスに手|渡《わた》すのではなく、その袋はいったんホロの手に渡された。  金を貸す者の知恵《ちえ》だ。  質草《しちぐさ》たるホロの手から金貨を渡させることによって、その存在を心により強く焼きつけさせるということなのだろう。持ち逃《に》げを防ぐという意味合いもあるし、なにより借りた金を増やそうとする意欲が段違《だんちが》いに上がる。  ホロは、ホロの小さな手ですら楽に持てるような袋をしげしげと見つめ、それから、ロレンスを見た。 「儲《もう》けたら、もちろん特級のぶどう酒じゃろう?」  永遠に酔《よ》っ払《ぱら》えるほどの。  最後の思い出として、永遠にホロの心に残るほどの。  ホロは、仏頂面《ぶっちょうづら》で、そう言った。 「ああ、もちろんだ」  ロレンスは受け取って、答えた。 「我々もご健闘《けんとう》をお祈《いの》りしています」  口を挟《はさ》んだのは、放っておいたらいつまでも踏《ふ》ん切《ぎ》りがつかない、と経験からわかっているためだろう。  しかし、ホロとロレンスはとっくに別れの挨拶《あいさつ》をすませてある。 「次に会う時は、一角《ひとかど》の商人だ」  大見得《おおみえ》を切ると、ホロは笑った。 「わっちの連れがつまらぬ商人では困りんす」  ロレンスはその言葉にどんな表情を返したのかわからない。  わからないが、店をあとにした時、振《ふ》り返るとホロは扉《とびら》のところでうつむいていた。  たった六十枚の金貨が詰まった袋を手に、ロレンスは町を走っていた。  歩いていられるような心持ちではなかった。  これが正しい選択《せんたく》だったのかわからない。  まったくわからない。  これ以外に選ぶ道などないのに、それでもなおこれが本当に正しい選択だったのかわからない。  なにもおかしいところなどないような気がする。この先には夢にすら見なかったような利益が待っている。  それでも、心が躍《おど》りはしない。  ロレンスは、金貨を抱《かか》えて走っていた。  宿に着くと、宿泊《しゅくはく》客とその仲間たちだろう、入り口のところで額を寄せ合ってなにごとかを話している者たちがいた。  聞き耳を立てるまでもなく、町に起こっている騒動《そうどう》のことだと予想がついた。  ロレンスは足を厩《うまや》のほうに向け、倉庫のほうから入ることにした。  厩には二頭の馬と一台の荷馬車がある。当然そのうちの一頭と一台はロレンスのもの。なかなか立派な荷馬車で、御者《ぎょしゃ》台は独《ひと》りで座るには広すぎるくらいだ。  眉根《まゆね》に皺《しわ》が寄ってしまったのは、抱《かか》えている金貨の袋《ふくろ》が重いからではない。胸に詰《つ》まっているものがあまりにも重いからだ。ロレンスは振《ふ》り切って倉庫へと入った。  相変わらずさまざまな荷物が頭の高さまで積まれ、荷物と荷物の間にようやく細い通路ができているといった倉庫。そこになにがあるのかなど、完全に把握《はあく》している者は誰《だれ》一人としていないだろう。なにかちょっとしたものを隠《かく》すにはうってつけのような気がする。  ロレンスがそんなことを思って歩いていると、ばったりとその人物と出くわした。 「お、おお、待ちくたびれたぜ」  しゃがみ込み、荷物を漁《あさ》っていたエーブだった。 「借りてきましたよ。軍資金」  ロレンスが手にしていた麻袋《あさぶくろ》を掲《かか》げると、エーブは三日ぶりの水を飲み込むように、目を閉じた。 「船の手配もできた。毛皮の騒動《そうどう》に便乗して積荷の値段を値切られた船頭を見つけた。金をたんまり弾《はず》んだらたとえ軍勢が川を封鎖《ふうさ》しても船を出してやると言ってくれたぜ」  目のつけどころがやはりいい。  あとは、この騒《さわ》ぎの中で無事に毛皮を買い付けられるかどうかだ。  そして、それを持って川を下れば三倍の売値。  考えるだけで眩暈《めまい》がする。  エーブは漁っていた荷物の中から片手に収まる巾着《きんちゃく》を取り出し、手早く懐《ふところ》にねじ込み立ち上がった。 「金貨を叩《たた》きつけられれば商会の連中の首が縦に振《ふ》れないわけがない。目が釘付《くぎづ》けになるだろうからな。振りたくなくたって振れちまうだろうさ」  その様が容易に想像できて笑えてしまうが、上手に笑えたかは怪《あや》しかった。 「よし、ならば行こう。冗談《じょうだん》のような取引だ」  口数が多いのはエーブも緊張《きんちょう》しているからだ。  トレニー銀貨にして二千枚に達する、リュミオーネ金貨という想像上の産物といっても差し支《つか》えないような夢の金貨六十枚を使っての大取引。  そこから生まれる利益は人の命すらかすみかねないほどのもの。  いや、実際に、かすんでしまうほどのものだろう。  ロレンスの後ろにある厩《うまや》の出入り口から外に出ようとしたらしいエーブは、ロレンスが動かなかったせいで通せんぼをされる形になった。 「どうした?」  顔を上げ、不審《ふしん》げに問いかけてきた。 「この金貨で毛皮を買えば、最終的な利益で銀貨四千枚、でしたっけ?」  頭一つ分低いエーブが、一歩、二歩、と後ろに下がり、頭巾《ずきん》の中に全《すべ》ての表情を隠《かく》す。 「そうだ」 「船も手配できて、あとは毛皮を買い付けるだけ」 「そうだ」 「それを運んで売り付ける先もおおよそ見当をつけている」 「そうだ」  エーブはロレンスから資金を借りる代わりにその頭脳と経験を提供した。  考えに考え抜《ぬ》いたのだろう。  この騒《さわ》ぎの中、複雑に絡《から》み合った町の連中の思惑《おもわく》の間を縫《ぬ》うように取引を結び、利益を生み出す構図を描《えが》き出した。  その自信が、たとえ今ここでどんな突風《とっぷう》が吹《ふ》いてもぴくりともしないように見えるほど安定したエーブの姿勢に現れていた。  荒野《こうや》を行く行商人。  最初に抱《いだ》いたエーブヘの感想。  乾《かわ》いた風にやられた、かすれた声。  そして、時にはその分厚い頭巾の下に隠した弱々しい本音を見せながらも、ロレンスをたばかれる肝《きも》の太さ。  これだけ狡猾《こうかつ》な商人なのだ。  このまま黙《だま》って、なにも気がつかなかったふりをして、馬鹿《ばか》になりきって取引を任せていればなにも問題はないのかもしれない。  それに、エーブがロレンスを騙《だま》しているとしても、それはロレンスの利益を横取りするとかそんなことではない。  もっと逼迫《ひっぱく》したことで、有《あ》り体《てい》に言えばこの取引をうまくいかせるための知恵《ちえ》ですらある。  エーブは馬鹿《ばか》ではない。勝算がないことに手を出すような浅はかな商人とはとても思えない。  だから黙《だま》っていればいい。  このまま取引が成功すれば、少なくともロレンスは町商人になれる。  だから、黙っていればいいのだ。 「お前、まだオレを疑っているのか?」  ぽつりと、エーブが言った。 「いえ」 「なら、どうした。怖気《おじけ》づいたのか?」  ロレンスは自問した。  自分は怖気づいたのだろうかと。  いや、違《ちが》う。  黙って馬鹿になりきれないのは、ホロのことが頭から離《はな》れないからだ。 「さっさとしないと外の連中が現金の都合をつけちまうかもしれない。根回しはしてあるはずなんだ。どこから現金を調達するかわからない。馬鹿でかい利益を指を咥《くわ》えて眺《なが》めているつもりか? おい、聞いて——」  ロレンスは、エーブの言葉を遮《さえぎ》って言った。 「あなたは怖気づかないんですか?」  エーブの顔が、これ以上ないほどにきょとんとした。 「オレが? はっ。馬鹿なことを言うな」  吐《は》き捨てるように言って、口元を歪《ゆが》めた。 「怖いさ」  その声は、小さくとも確かな響《ひび》きを持って倉庫の中に広がった。 「銀貨にして数千枚の取引だぞ? 怖くないわけがない。大金の前には人の命など軽い。それでもなおどっしりと構えていられるほどオレの肝《きも》は太くない」 「……私が態度を豹変《ひょうへん》させて襲《おそ》いかからないとも限りませんしね」 「はっは。そう。その逆もありうる。いや、そう考えてしまうからこそ互《たが》いに疑心暗鬼《ぎしんあんき》になり……なんてこともあるだろうぜ。どちらにせよ」  エーブは深呼吸を挟《はさ》んで、気を落ち着けるように静かに付け加えた。 「こんな危ない橋ばかりは渡《わた》れない」  エーブにはこの取引が危ないという自覚が確かにある。  いや、わかっているからこそロレンスを騙《だま》しているのだ。  そんなことをしてまでもなお求める利益の先に、なにを見ているのだろうか。 「ははは。つまらないことを聞きたそうな顔をしているぜ。お前はこう聞きたいんだろう? どうしてそこまでして金を稼《かせ》ぐのですか、と」  乾《かわ》いた声で笑って、右手の掌《てのひら》を腰《こし》の辺りで拭《ぬぐ》ったように見えた。  それくらいに、自然な動作だった。 「悪いが、ここで取引を降りてもらうわけにはいかない」  その手には、ナイフと呼んでは失礼なほどに肉厚で長い、片刃《かたは》の鉈《なた》が握《にぎ》られていた。 「本当ならばこんなものは出したくない。だが、金額が金額だ。お前に降りられるとオレは困るんだよ。わかるだろう?」  強力な武器を手にした時、人は知らず知らず興奮《こうふん》して頭に血が上《のぼ》ってしまうものだが、エーブの声はあくまで冷静で乾いていた。 「取引がうまくいけばお前の利益は保証する。だから、それを渡《わた》せ」 「金貨六十枚の前に、人の命は軽いですからね」 「ああ、そうだ……その軽さを、実感したくないだろう?」  ロレンスは商談用の笑《え》みを浮かべ、右手にホロから手渡された袋《ふくろ》を持ち、それを差し出した。 「知恵《ちえ》と勇気を持つ者に、神の祝福あれ」  エーブが囁《ささや》くように言ってその袋を掴《つか》もうとした瞬間《しゅんかん》だった。 「……っ」 「……!」  互《たが》いに無言の気勢を発し、その一動作を終えた。  ロレンスは後ろに下がり、エーブは右手を振《ふ》り抜《ぬ》き。  直後に、どちゃりと音を立てて金貨の詰《つ》まった袋が床《ゆか》に落ちた。  それくらいの、刹那《せつな》の瞬間。  エーブの瞳《ひとみ》が青い炎のように揺《ゆ》らめき、ロレンスは驚《おどろ》きもせず見つめ返す。  ただ、失敗した、と二人共に気がついたのはほんの数秒後のことだ。 「お前とオレは一つずつ失敗した。違《ちが》うか」  腕《うで》を引いて後ろに下がらなければエーブの鉈が十分ロレンスのことを捕《と》らえていた。  しかし、エーブはどこまでも狡猾《こうかつ》だった。  その刃は逆を向けられていて、エーブにはロレンスを切りつけるつもりがなかったことがわかる。  対して、ロレンスがふりではなくて本気で鉈を避《さ》けながら、なおかつ驚かなかったのはエーブが鉈を振ってくるだろうと確信していたからこそのもの。  もしもエーブのことを信用していたのであれば、鉈は振られないと判断してじっとしていたか、避《さ》けたあとに驚《おどろ》いていたはず。  信用せず、かつ、驚かなかったのは、エーブが隠《かく》し事をしていると知っているからだ。 「オレの失敗は、お前に嗅《か》ぎつけられたこと。お前が聞き返した、オレが怖気《おじけ》づくってのは、そういうことだろう?」  床《ゆか》に落ちた金貨にちらりとも目を向けない。  荒事《あらごと》に慣れている証拠《しょうこ》だ。  女を相手にしていると思っていればあっという間に殺されるだろう。 「リゴロさんの家に置いてあった石像の、少なくとも一つは証拠品。そうですよね?」  エーブの口が歪《ゆが》み、逆手に握《にぎ》られていた鉈《なた》が順手に持ち替《か》えられる。 「あなたは石像を輸入すると見せかけて、実のところは大々的な塩の密輸を行っていた。岩塩を加工して、石像とすることで」 「さあな……」  言いつつ、腰《こし》を少し落としたのがわかる。  逃《に》げられるかどうかは、分が悪い賭《か》けだろう。 「私はあなたが塩の密輸を行っているのではと、ある情報を得て疑いましたが、岩塩を加工してのものとは思いませんでした。なぜなら、石像に模《も》した岩塩の大きな密輸となると教会が必ず気がつくからです」  ただ、これを回避できる可能性はもちろん存在する。  言うまでもなく、教会がその密輸に一枚|噛《か》んでいた時。  そして、この町の教会は喉《のど》から手が出るほど金を欲しがっていた。  石像の売買よりも儲《もう》かるだろう塩の密輸をするのにためらいはなかっただろう。  すぐにこの考えに思い至らなかったのは、エーブが港町から荷|揚《あ》げして石像を運んできたという情報があったからだ。  海から運ばれてくるのなら、嵩《かさ》や重量の点から製塩してあるのが常識だ。  荷がかさばり重く、製塩に手間のかかる岩塩をわざわざ海から運んでくるなど商人の常識にはない。  当然、エーブは市壁《しへき》の門をくぐる際にその常識を利用したに違《ちが》いない。 「しばらくは教会と蜜月《みつげつ》を過ごしていたことでしょう。この町の教会はどこから金を引っ張っているのかわからないほど金|遣《づか》いが荒《あら》かったそうですからね。それが、突然《とつぜん》の破局。北の大|遠征《えんせい》が原因とは、まあ、間違ってはいないのではと思います。教会の権力|基盤《きばん》は固まり始め、塩の密輸なんていう、ばれれば一|騒動《そうどう》も二騒動もあることから手を引く頃合《ころあい》に、毛皮の問題が持ち上がった。狡猾《こうかつ》なあなたは司教にこう持ちかけた」  エーブの鉈の切っ先が下がる。  ロレンスも、半歩後ろに下がった。 「町の外の商人たちにこの町の毛皮を買われるくらいならば、自分たちで買い占《し》めないかと」  エーブは五十人会議の結論を教会の中の協力者に聞いたと言っていた。それにしたって、エーブの手際《てぎわ》の良さは尋常《じんじょう》ではなかった。  とっさに思いついたことを次々こなしていったと考えるよりも、前々から案を練り、それを利用したと考えるほうが理にかなっている。  それに、町の毛皮は現金でしか買い付けできない、などという案がどこの誰《だれ》にもっとも利益をもたらすかと考えれば、言うまでもない。  寄付金という、総額の把握《はあく》がほぼ不可能な現金を大量に所有する教会にとってもっとも有利な結論だ。  大きな商会になればなるほど、莫大《ばくだい》な金額の取引は紙の上で行われるし、出入りする金はすべて帳簿《ちょうぼ》にまとめられ、現金の秘密裏の持ち出しは困難だ。  それに、市壁《しへき》の入り口で綿密な身体検査をして、なおかつ、毛皮の買い付けの際にその現金はどこから持ってきたものかと聞くことで、かなりの数の裏切り者を封《ふう》じ込めることができる。  それでもなおエーブは毛皮は買い占められると自信を持って言っていた。  確かに外地の商人たちが根回しをしていればそうだろうが、毛皮を加工する職人や商人たちが蜂起《ほうき》した今、危険を犯《おか》して外地商人に金を渡《わた》す者などいないはずだ。  だというのにエーブは焦《あせ》っている。  そうなれば結論は一つしかない。  エーブはどこから外地商人に現金が渡るのかを知っている。しかも、それは防ぐことのできないものだとわかっている。  塩の密輸を共にし、海を越《こ》えた国の大司教に渡《わた》りをつけた没落《ぼつらく》貴族の商人と手を切ると決定した教会の真意。  エーブは、個人の商人よりもどこかの商会と手を組んだほうが使い勝手がいいからだろうと言った。  それはまったくそのとおり。  教会がこの町の毛皮の買い占《し》めを狙《ねら》っている当の商会と手を組んでいたのなら、そんなエーブを切り捨てるに足る強力なパトロンを得ることになるのだから。  誰《だれ》もが遠方からの商人たちがよもや大量の現金は持ってきはすまいと思っていたことだろうが、教会が寄付金をせっせと町の中から外に運んでいたとしたらどうか。  職人や商人たちの武装蜂起は、予想に反して外地の商人たちが大量の現金を持っていたことを知り、町の中の誰かが裏切っていると気がついたからだろう。  エーブがロレンスに取引を持ちかけた際に喋《しゃべ》った言葉には一つも嘘《うそ》がない。  嘘はついていないが、真実はなにひとつ言っていなかった。 「リゴロの家に置いてあった石像は、確かに岩塩だ。そして、オレがくそったれの司教に毛皮の買い付け案を言ったのも合っているし、オレを切って新たなパトロンを得たというのも、合っている。信じるか信じないかは、あんたに任せるがな」  エーブは、笑って鉈《なた》をひょいと足元に落とした。  信用しろ、ということだろう。  この期《ご》に及《およ》んで嘘《うそ》をつく必要があるだろうか、とも思わない。  それが嘘であろうがなかろうが、ロレンスはそうだと判断したうえで行動する。  それまでのことだ。 「あんたに取引を持ちかけた理由も……あんたが思っていることで合っているだろうさ」 「あなたの、身を守る盾《たて》」  エーブは肩《かた》を揺《ゆ》らした。 「オレは塩の密輸なんていう教会の一級の醜聞《しゅうぶん》を知る身だからな。もっとも、教会はオレと手を切る時に一応の身の安全を保障した。口約束でもちろん当てになるかはわからなかったが、またいつか利用価値が出てきたらオレを利用するつもりだろうからな。きっと本当だろう。それに、オレも儲《もう》けさせてもらった。あえて揉《も》め事を起こす気はないし、向こうもそれはわかっているはずだ」 「しかし、あなたは自分で提案したこの取引を見過ごすことができなかった」 「そう。教会の思惑《おもわく》を邪魔《じゃま》することになるがな、この儲けの機会を見過ごすことはできない」 「あなたは考えた。一人ならば簡単にひねりつぶされても、二人なら、と」  町の意向に反するような取引を、連れの女を抵当《ていとう》に入れてまで行うようなロレンスの存在を、教会はどのように考えるだろうか。  きっと、傍《はた》から見ればエーブの裏も表も知っている協力者として映るだろう。  一人ならば簡単に口封《くちふう》じができても、二人となると途端《とたん》に難しくなる。しかも、それが予備知識のない外からの人間となるとなおさらだ。どんな背景を持っているかわからないから、下手に手を出せばどこの組合や商会が町に乗り込んでくるかわからない。  ロレンスは、そんな役を知らぬ間に割り当てられていたのだ。  しかも、そんなことをやらされているとはわからないから、実に堂々と振《ふ》る舞《ま》える。  それこそ、命知らずか、あるいは教会など恐《おそ》るるに足りないという根拠《こんきょ》を持っていたように見えていたかもしれない。  きっと、なにも知らなければ、知らんぷりをしていれば取引はうまくいっていたことだろう。 「で、どうするんだ?」  エーブは言った。 「こうします」  ロレンスが言って、鉈と、金の詰《つ》まった袋に手を伸《の》ばした瞬間《しゅんかん》だった。 「…………」 「…………」  互《たが》いに無言で睨《にら》み合う。  額に冷《ひ》や汗《あせ》が浮かぶ。  ロレンスが鉈《なた》に手を伸《の》ばした瞬間《しゅんかん》、エーブはナイフを手に、それを頭上から振《ふ》り下ろそうとしていた。  今度は、峰打《みねう》ちなどではない。  予測はできていたものの、防げるかどうかは賭《か》けだった。 「そんなに、金が欲しいですか」  神のご加護か、掴《つか》んだエーブの左手首をひねり上げる。  エーブは非力ではないとはいっても所詮《しょせん》は女の身だ。ナイフが落ちた。 「お、お前は、欲しくないのか……」 「欲しいですよ。いや」  言葉を切って、続けた。 「欲しかった、と言うべきか」 「面白《おもしろ》い——」  冗談《じょうだん》だ、と続けようとしたのだろうが、ロレンスがさらに腕《うで》をひねり、エーブの体を脇《わき》に積み上げられた木箱に押しつけ、残る手で胸倉《むなぐら》を締《し》め上げたせいで途中《とちゅう》で言葉が切れた。 「私を殺して死体を隠《かく》しておけば、取引が終わる頃《ころ》までしばらくはばれないでしょうからね。教会もまさか仲間割れとは思わないでしょう。その行動力に感心します。あるいは、単純にこの金貨を奪《うば》って逃《に》げるつもりだったのか」  エーブは爪先《つまさき》立ちになり、苦しそうに顔を歪《ゆが》めている。  それが演技ではないことを、額に浮いた脂《あぶら》汗が証明している。 「いや、そんなことはしないでしょうね。あなたが私を殺そうとしたのは、先ほど、私が倉庫に来た時にあなたが懐《ふところ》にねじ込んだ袋。あれをどうしても使いたいからでしょう?」  その瞬間《しゅんかん》、エーブの顔色が変わった。  このまま締め上げられ、殺されてもおかしくないような状況《じょうきょう》で初めて顔色を変えたのだ。  命よりも金が大事。  ロレンスは、笑ってしまった。 「やはり、塩の密輸の儲《もう》けですか。こつこつ貯《た》めたその金額は私が用立てた金額と同じか、あるいはそれ以上ではないのですか? それを全額使って毛皮を買い付けようとした。私の知らぬ間に」  エーブは答えない。  苦しそうな顔は、謀《はかりごと》がばれたからというよりも、胸元にしまいこんだ金を奪《うば》われないかと恐《おそ》れているようなものだった。 「あなたが一人で毛皮の取引をしなかったのは、手元にある資金があまりにも大きいため。一人でそんな取引をしたら教会にあっさり殺されると予想ができたため。だから、私を巻き込んだ。一人を殺すのは簡単でも、二人を殺すとなるとそうはいかない。そして、あなたは教会が本腰《ほんごし》を入れて私たちを消しにかかろうとする限界まで賭《か》け金を積み上げる。他人の命はもちろん、自分の命も顧《かえり》みず、ただ利益だけを追求して」  ロレンスも、これがなければずっと黙《だま》っていたかもしれない。  塩の密輸のことなどには気がつかないふりをして、取引を眺《なが》めていたかもしれない。  しかし、こんな危険な行為《こうい》に気がつきながら見過ごすことはできない。  どんな利益にだって、許容できる危険には限度というものがある。  エーブのしようとしていることは自殺行為だ。  それに、そこまでして金を求めるエーブに聞きたかった。どうしても聞きたかった。 「あなたは……」 「……?」 「あなたは、こんな危険を冒《おか》してまでする金|儲《もう》けの果てに、なにを見ているのですか」  ロレンスに締《し》め上げられ、顔色が赤黒くなっているエーブが、それでもなお、笑った。 「私も商人ですからね。金を儲けることに幸福を感じます。しかし、その果てになにがあるのかわかりません。銀貨を一枚|稼《かせ》いだら次は二枚、二枚の次は三枚。どれだけ稼いでも癒《い》えない渇《かわ》きを満たし続ける果てになにが待っているのか、考えたことはありますか」  ロレンスだって、もちろんこんなことは考えたことなどない。  そんなことなど考える余裕《よゆう》もなかったからだ。  それが、ホロに出会ってから、突然《とつぜん》旅に潤《うるお》いが出た。張り詰《つ》めていた金儲けへの執念《しゅうねん》がどこか緩《ゆる》んでしまった。  その間隙《かんげき》に滑《すべ》り込んできた、ホロとのやり取り。  ホロは満たされないのならば望まないことを選んだ。  エーブは、おそらく、その真逆にいる。  命よりも、金儲けのほうが大事なのだ。  だから、聞きたかった。 「な……なにが……」  かすれた声なのはもともとだからではない。  ロレンスが少しだけ締め上げている腕《うで》の力を緩めると、エーブは喘息《ぜんそく》のように息を吸い込み、咳《せ》き込んで、なお笑みを消さずに続けた。 「なにが……待っているかだと?」  エーブは青い瞳《ひとみ》をまっすぐに向け、嘲《あざけ》るように言った。 「なにかが待っていると思うほど、お前は少年なのか?」  それ以上エーブの胸倉《むなぐら》を締《し》め上げなかったのは、図星だったからだ。 「オレは……オレを買った成金を見ていて常々思っていた。あいつらはそんなにも金を稼《かせ》いでどうするのだろうかと。果てがないのに、どれだけ稼いでも、あくる日にはまた金を稼がなければいてもたってもいられない。金持ちは不幸な生き物だと、オレは思ったぜ」  エーブは咳《せ》き込み、深呼吸をしてから、続けた。 「お前から見れば、オレはまさしくそんな不幸な生き物そのものに見えたことだろうな。オレは、あいつと同じ道を選んだわけだから」  その直後、エーブの手が動いたような気がした。  そして、一瞬《いっしゅん》の間、なにが起こったかわからず、自分が殴《なぐ》られたのだと気がついた時には形勢が一気に逆転していた。 「オレはあいつの愚拳《ぐきょ》を見て、その顛末《てんまつ》まで見て、それでもなお、この道を選んだ。なぜかわかるか」  ロレンスの首に突《つ》きつけられているのは、ナイフではない。  虎視眈々《こしたんたん》と反撃《はんげき》の機会を狙《ねら》っていたのか、エーブの手には、鉈《なた》があった。 「——、からだ」  エーブが言った直後、鉈の柄《え》で顔を思い切り殴られ、視界|一杯《いっぱい》の赤い光と、顔半分を覆《おお》う灼熱《しゃくねつ》の衝撃《しょうげき》が爆発《ばくはつ》した。  体が軽くなったことには気がついたが、とても体を起こすことなどできない。  口を閉じることもできず、痛みというよりも耐《た》えがたい苦しみが渦《うず》を巻いているようで声を上げることすらできなかった。それでもなんとか肘《ひじ》をついてうつぶせから四つん這《ば》いになるが、それ以上は動かず、ぼたぼたと音を立てて床《ゆか》に血が落ちるのを、涙《なみだ》の滲《にじ》んだ目で見ているだけ。  それでも耳だけは冷静に音を聞き分け、エーブが倉庫から出ていったことを理解していた。  金貨は、持っていかれただろう。  ぐらぐらする頭に、その事実が冷水のように気持ち良かった。  それからどれほどそのままでいたのか、まったく関係のない客が倉庫にやってきて、慌《あわ》てて駆《か》け寄って抱《だ》き起こしてくれた。  太った男で、服のあちこちに毛皮の縁取《ふちど》りがある。  アロルドが言っていた、北の毛皮商かもしれない。 「だ、大丈夫《だいじょうぶ》ですか」  定番の言葉にロレンスはつい笑ってしまい、それから、「失礼」と言ってうなずいた。 「泥棒《どろぼう》ですか」  倉庫で人が倒《たお》れていればそう思うのが自然だ。  ただ、ロレンスが首を横に振《ふ》ると、「おお、では取引の決裂《けつれつ》?」とくる。  商人が見|舞《ま》われる災難《さいなん》など、数えられるほどなのだ。 「おや、こちらにあるのは……」  言って、男が拾い上げた物を見た時、ロレンスは痛む顔も忘れて声を上げて笑ってしまっていた。 「どうされました」  太った男は文字が読めないのか、その紙を見ても首をひねるばかりで、ロレンスが手を伸《の》ばすと不思議そうな顔のまま手|渡《わた》してくれた。  ロレンスはもう一度目を落とす。  やはり、勘違《かんちが》いではなかった。  エーブは、どうあってもロレンスとの取引を反故《ほご》にするわけにはいかないのだ。 「執念《しゅうねん》?」  血を飲み下し、ロレンスは呟《つぶや》く。  しかし、それは違う気がした。  エーブが鉈《なた》の柄《え》でロレンスのことを殴《なぐ》る直前、わずかに見えたエーブの顔。  それは、執念でも欲望でもなく。 「だ、大丈夫《だいじょうぶ》なのですか」  ロレンスが立ち上がるのを見て慌《あわ》てて男が手を添《そ》えてきてくれるが、ロレンスはうなずきながらそれを断った。  エーブが残していったのは、この宿をロレンスに引き渡すというアロルド直筆の念書。  こんなものを残されたら、同じ商人として、エーブの思考を理解しないわけにはいかない。  足にきているようで、おぼつかないながら、ロレンスは歩き出す。  ふらふらと、倉庫を出て、厩《うまや》のほうに。 「期待しているから、だと?」  有り金を巻き上げられたのだ。  ロレンスが行く場所は一つしかない。 「期待しているから」  ロレンスはもう一度笑って、血だらけのつばを吐いた。 [#改ページ]  終幕  町の中心部は会議の結論を公布しようとする者と、それを妨害《ぼうがい》しようとする者たちとで揉《も》めに揉めているのだろう。港に出るために中心部の広場近くを通ろうとしたら、あまりの人の多さに少しも近づける様子ではなかった。  怒号《どごう》や喚声《かんせい》が飛び交《か》い、物々しい雰囲気《ふんいき》だ。  それに、誰《だれ》一人ロレンスのひどい有様を見て驚《おどろ》かない。そういう状況《じょうきょう》なのだろう。  太陽か月が出てさえいればロレンスは暦《こよみ》と方角から初めての町のどんな複雑な路地の中でだって位置がわかる。路地の中を走り、デリンク商会を目指した。  エーブはあのまま毛皮の買い付けに行ったのだろう。  きっと、ロレンスは目もくらむような利益には与《あずか》れないだろうが、それでも構わないと思った。  アロルドが宿を譲《ゆず》り渡《わた》すと書いた念書を残したのはエーブの最大限の譲歩《じょうほ》で、ロレンスにはそれだけで十分だった。  この念書の価値は、ロレンスがデリンク商会から借りた金に若干《じゃっかん》足りないくらいだろう。  少なくともデリンク商会としては貴族であるエーブに恩を売れるのだから、彼らの目的は達成できる。ロレンスに貸した金をすぐに回収できるかどうかなど二の次のはずで、足りない分の返済くらいは多少待ってくれるだろう。  問題は、ホロだ。  ロレンスが、自身の夢がかかっていた取引を逃《のが》したと知ったらどんな顔をするだろうか。  間違《まちが》いなく、怒《いか》り狂《くる》うはずだ。  質素にして威厳《いげん》に満ちたデリンク商会の扉《とびら》を開けると、すぐさまエリンギンと目が会った。 「これはこれは」  エリンギンのみならず、デリンク商会の面々がロレンスのことを見て表情を崩《くず》さなかったのはさすがというべきだろう。  ロレンスがホロの居場所を聞くと、商会の奥にある部屋の一室に案内してくれた。  ただ、扉に手をかけようとしたところ、目で止められた。  質草《しちぐさ》に手を触《ふ》れるなということだ。  ロレンスはエーブから預かっていた証書を取り出して、デリンク商会に手|渡《わた》した。損得|勘定《かんじょう》の速さは行商人の比ではない。  すぐにその証書を懐《ふところ》にしまうと、これだけは演技ではなく本当に笑い、身を引いた。  ロレンスは、扉に手をかけて、開いた。 「部屋に入るなとっ!」  その瞬間《しゅんかん》、ホロの怒鳴《どな》り声が響《ひび》いて、やんだ。  泣いてくれているのを期待したのだが、それはホロを見くびりすぎだったらしい。  それでも、これ以上ないほどに驚《おどろ》いてくれ、そして、憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》になった。 「こっ……こ、こ……この……」  ぶるぶると震《ふる》える唇《くちびる》のせいで言葉が紡《つむ》げないらしい。  ロレンスはどこ吹く風と扉を閉めて、部屋の真ん中に置かれている椅子《いす》に腰掛《こしか》けた。 「この、たわけが!」  飛びかかるという表現はきっとこの瞬間のためにあるのだろうという具合にホロが飛びかかってきた。  予想できていたことなので、椅子からひっくり返ることはなかった。 「な、な、なんじゃその……まさか、まさか反故《ほご》にしてきたわけじゃあるまいな」 「いや。反故にはしていない。丸ごと奪《うば》われただけだ」  大事な服にしみを作ってしまった娘《むすめ》のような驚愕《きょうがく》の顔をして、ホロはロレンスの胸倉《むなぐら》を力の限りに締《し》め上げた。 「ぬしの夢ではなかったのかや」 「夢だった。いや、今でも夢だ」 「なら、なぜ、なぜ」 「こんなに落ち着いているのかと?」  ホロは泣きそうな顔になって、唇をわなわなと震《ふる》わせた。  ロレンスは取引の成功|如何《いかん》にかかわらずこの町でホロと別れることになるのは避《さ》けられないだろうと思っていた。  それはホロも同じだったはず。 「色々と商人同士の都合があってな、お前をこの商会から取り戻《もど》すくらいのものは残してくれた」  ホロの顔は、呆《あき》れてものも言えない顔、と題名をつけて額に入れておきたいくらいだった。 「わ、わっちゃあぬしのなにが怖《こわ》いと言ったか覚えておるか」 「気恥《きは》ずかしくて口にはできないが」  その瞬間《しゅんかん》、柄《え》で殴《なぐ》られた右|頬《ほお》をさらにホロに殴られて、あまりの激痛に体を折ってしまう。  しかし、ホロは容赦《ようしゃ》なく胸倉《むなぐら》を掴《つか》んで引き起こす。 「それで、のこのこと戻ってきたたわけのぬしが、このヨイツの賢狼《けんろう》ホロの前に現れて、なにを言う? なにを望む? なにを願う? 言ってみろ、言ってみるがよい!」  似たような状況《じょうきょう》があったなとロレンスは思い出す。  あの時も、ロレンスは殴られて財産の全《すべ》てを奪《うば》われ、殺されかけた。  あの時は、ロレンスが頼《たの》まずともホロが一肌《ひとはだ》脱《ぬ》いでくれた。  では、今ならどうだろうか。  力ずくで奪《うば》われ、傷つけられ、ほうほうのていで、なんとかホロの身柄《みがら》だけを確保したというふうに見えていはしないだろうか。  だとすれば、ホロが期待する一言は決まりきっている。  ホロは、この町で、ロレンスと、笑顔《えがお》で別れることを望んでいるのだから。 「お前の……狼《オオカミ》の姿で」  瞬間、ホロはうなずいて牙《きば》を剥《む》いた。 「任せるがよい。ぬしはわっちと出会ったお陰《かげ》で一角《ひとかど》の商人になる。物語は笑顔で締《し》めくくられる。そうでなければならぬ」  胸元の巾着《きんちゃく》から麦を取り出しながらホロは言う。ロレンスは、そんな様子を笑って見つめていた。 「……どうしたか」 「や?」とは言わせなかった。 「お前の狼の姿で取り返してくれ、と言うと思ったか」  ホロの体を抱《だ》きしめた直後にした、なにかがこぼれ落ちるような音は、袋《ふくろ》から麦がこぼれた音だろう。  もしかしたら涙《なみだ》だったかも、と思うのは希望的観測だったかもしれない。 「エーブは自殺|行為《こうい》に近い取引をしようとしている。教会に知られたら俺たちの身も危ない。町の騒動《そうどう》が収まる前に逃げよう」 「っ」  ホロが体を放《はな》そうとしたのを抑《おさ》えて、ロレンスはあくまでも冷静に言った。 「俺にはエーブの本性を見|抜《ぬ》けなかった。あいつは守銭奴《しゅせんど》だった。金のためなら命などへとも思っちゃいない。そんな取引に付き合っては命がいくつあっても足りはしない」 「それなら、ぬしはどんな取引に付き合うと言うんじゃ」  ホロは言って、なおもロレンスの腕《うで》の中から逃《に》げようとして、やがて、やめた。 「危ない橋を渡《わた》るのは、一度でいい」 「……」  ロレンスがパスロエの村を訪《おとず》れたあの時、荷台に潜《もぐ》り込んだホロがロレンスと共に旅をしなければならない理由などどこにもなかった。麦を持って服を盗《ぬす》み、こっそり出ていかれたら絶対に気がつかなかったし、ホロなら一人でも十分やっていけたはずだ。  もしも本当にホロが誰《だれ》かと親しくなることの先には絶望しか待っていないと固く信じ、それを恐《おそ》れているのだとしたら、どれだけ人恋しくたってロレンスに声などかけなかっただろう。  一度|暖炉《だんろ》で火傷《やけど》をした犬は決して暖炉に近づかない。  暖炉に近づくのは、暖炉の中に焼栗《やきぐり》があるのではと思う者たちだけで、その甘さを忘れられないからに他《ほか》ならない。  どんなに辛《つら》いことが待っているだろうと予想ができても、あるいはそこにはなにもないかもしれないなどと思っても、それでも手を伸《の》ばさずにはいられない。  それは、期待しているからだ。  その先になにかがあると期待しているからだ。  エーブはロレンスを殴《なぐ》る時、恥《は》ずかしそうに笑っていた。まるで少女のように笑っていた。  すべてを悟《さと》った隠者《いんじゃ》になるには、ロレンスだってあまりにも若すぎる。  ロレンスが手をホロの頭の後ろに回すと、ホロはびくりと体をすくませた。  これ以上親しくなることは決して正しい選択《せんたく》とは思えない。そのホロの意見は正しいと思う。  必ず終わりが来るのであればそれは決して正しい選択とは思えない。  それでも、ロレンスはホロを抱《だ》きしめて、そして。 「俺は、お前が好きなんだ」  それから、右|頬《ほお》に軽く口づけをした。  ホロはきょとんとして、もうあと少しすれば額が触《ふ》れ合いそうなくらいに近いロレンスの眼をまじまじと見つめ、それから、ゆっくりと表情を憤怒《ふんぬ》のそれに変えていった。 「ぬしに、わっちのなにがわかるかや」 「なにもわからない。だが、お前が何百年と生きてきた結果下した判断が正しいのかどうかもわからない。だがな、わかることがある」  赤みがかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》は、今にも熔《と》けてこぼれ落ちてしまいそうだった。  ロレンスがホロより先に死ぬのは間違《まちが》いないし、年老いるということはそれだけ早く価値観が変わるということだ。  きっと、楽しさが摩滅《まめつ》していく速度もロレンスのほうが速いのだろう。  それでも、ロレンスはホロを放《はな》さなかった。 「望んでも手に入らないかもしれない。だが、望まなければ絶対に手に入らない」  ホロはうつむき、そして、加減なく体をよじり、ついにロレンスの腕《うで》を振《ふ》りほどいてしまう。  尻尾《しっぽ》はパンパンに膨《ふく》らみ、耳はこれ以上ないほどにいきり立っている。  それでも、ホロは狼《オオカミ》の姿に戻《もど》らず、人の姿のまま、ロレンスを睨《にら》みつけていた。 「エーブは命がけで利益を追いかけるだろう。それが手に入れた瞬間《しゅんかん》に色|褪《あ》せるだろうとわかっていてもなお。その姿勢は商人として見習うべきものだ。鑑《かがみ》と言ってもいい。だから、俺も真似《まね》をしてみようかとな」  恥《は》ずかしげもなくロレンスは言い終えて、一つ咳払《せきばら》いをする。  それから、椅子《いす》の下に散らばった麦を拾い始めた。  ホロはずっと立ち尽《つ》くしている。  どこを見るともなしに見たまま立ち尽くしている。  麦を拾うところに、ぽたぽたと水が落ちてきて、ロレンスは顔を上げた。 「たわけが……」  ホロは言って、涙《なみだ》を片手で拭《ぬぐ》う。次から次へとあふれてくる涙を、あくまで片手で拭っている。  ロレンスが、麦を集め直した巾着《きんちゃく》をホロの残った手に載《の》せると、ホロは力任せに握《にぎ》り締《し》めた。 「責任、取れるんじゃろうな」  笑ってしまったのは、わざとではない。 「来るべき時が来れば、笑顔で別れればそれでいい。終わりのない旅はないからな。ただ」  次から次へとわいてくる涙は、どちらかというとホロ自身が自分の情けなさに泣いているのかもしれない。  こんな無様な様子、少女だってなかなか見せはしない。  ロレンスは、笑って、こう言った。 「このままじゃ笑顔《えがお》で別れるのは無理だと思った。それだけだ」  ホロはロレンスの言葉に、涙を拭いながら、うなずいてくれた。 「大体、なんでそんなに悲観的なんだ?」  理由がないはずがない。  ホロが歩んできた長い長い年月は、臆病《おくびょう》になってしまうのに十分なものだったに違《ちが》いない。  それでも、ホロは涙を拭い、麦の袋《ふくろ》を握り締め、わずかに余った人差し指だけをロレンスの指に絡《から》ませてきた。ホロは、長い年月でたくさんの心変わりや楽しさの風化に苦しみながら、それでもなお、わずかの期待を持って荷台に潜《もぐ》り込んでいたはずなのだ。  幸福でいるためにはなにも望まないでいるほかない、という結論など、許容できるものではない。  何百年と生きているホロですら、子供のような無邪気《むじゃき》さを忘れることができないのだから。  やがてホロは天井《てんじょう》を仰《あお》ぎ、鼻をすすった。  それから、わずかの間。 「なぜ、わっちが悲観的なのか、じゃと?」  顔を戻《もど》すと、こう言った。 「こうやってめそめそしておるほうが、ぬしの好みなんじゃろう?」  虚《きょ》をつかれたロレンスは、もう笑うしかない。  だから、立ち上がらずに、その場で、ホロの手を取り直して、まるで騎士《きし》のようにその甲《こう》に軽く口づけをした。  相手は賢狼《けんろう》ホロ。すぐにこの形に相応《ふさわ》しい、上から宣告するかのような言い方で、言った。 「わっちの案を足蹴《あしげ》にしたんじゃ。これからのことにはぬしが全《すべ》ての責任を負うんじゃな?」 「……ああ」  ロレンスが答えると、ホロはしばし沈黙《ちんもく》し、それからため息をついた。 「ぬしはわっちのたわけたことに真剣《しんけん》に向き合ってくれた。それこそ、金|儲《もう》けをふいにするくらいに。じゃからな、わっちは」  言葉を切って、首をかしげながらこう言った。 「ぬしのたわけた考えに付き合ってやろう……。じゃがな」 「だが?」  その直後、ホロはロレンスの肩《かた》を蹴飛《けと》ばして真上から見下ろすと、虫でも見るかのような冷たい顔でこう言った。 「わっちの連れがへたれの商人では困りんす。よもや、本当に儲《もう》け話を奪《うば》われたまま、尻尾《しっぽ》を巻いて逃《に》げ出さぬよな?」  これがホロなりの優《やさ》しさだとしたら、ロレンスには言うべき言葉が一つしかない。  ホロの手を借りて立ち上がると、ロレンスはホロの目尻《めじり》にまだ残っている涙《なみだ》を拭《ぬぐ》って、こう言った。 「お前の優しさも怖《こわ》いんだがな」  ホロがその言葉に「たわけ」と返そうとしていたのかどうかは定かではない。  なぜなのかは、きっと、ホロが未来|永劫《えいごう》語り継《つ》ぐという美談の中でも語られまい。  立ちくらみを起こしたロレンスはそんなことを思った。  ホロが言葉を遮《さえぎ》る原因など、数えるほどしかないからだ。 「……で、取り返す算段は?」  ホロの底冷えするような目。  なにがなんでも儲けを取り戻《もど》せ、と言わんばかりだ。  それでもロレンスはその言葉に冗談《じょうだん》を返したくなった。  その目が、ホロの照れ隠《かく》しだとわかったから。 「俺は儲けを取り返すより、主導権をお前から取り戻したいよ」 「たわけ」  今度ははっきりとホロは言い、挙句《あげく》にロレンスの腫《は》れた頬《ほお》を引っぱたいて体を離《はな》した。 「そんなことをわっちが許すと思うかや」  ロレンスが激痛に体を折るのもまったく気にしていないような口調だ。  しかも、ヨイツの賢狼《けんろう》ホロは自慢《じまん》の尻尾をロレンスに見せつけられるようにとくるりと体を回転させて、腰《こし》に手を当てると背中を向けながら肩|越《ご》しに振《ふ》り向いた。 「わっちがな、ぬしに惚《ほ》れたら困りんす」  その時のいたずらっぽい笑みを、ロレンスはずっと忘れないだろう。  亜麻《あま》色の髪《かみ》を揺《ゆ》らし、ホロはくつくつと笑う。  馬鹿《ばか》なやり取りだ。  本当に、そう思う。 「そうだな」 「うん」  ロレンスとホロは部屋を出る。  つないだ手は、双方《そうほう》くすぐったそうに、どちらからともなく指を絡《から》めたのだった。 [#地付き]終わり [#改ページ]  あとがき  お久しぶりです。支倉《はせくら》です。五巻目です。  このあとがきを書く時にワードで新規ファイルを作ったのですが、どうしても今まで書いていたのと同じ環境《かんきょう》にならず、じめじめとした雨の夜の暑さもあいまって、もう少しでパソコンを破壊《はかい》するところでした。表示倍率が115%になっているのだと気がつくまでに相当の気力を使ってしまい、あとがきでなにを書こうとしていたかも忘れてしまいました。  どうしようかな……。  では、五巻目の原稿《げんこう》を書いていた時の生活|状況《じょうきょう》でも。  実は五巻目を書いていた時は非常に健康的な朝型生活でした。朝八時|頃《ごろ》に目を覚まし、朝食を食べながらネットを見て回り、八時五十分頃から株式市場に張りつき、取引開始から一時間ほど一喜一憂《いっきいちゆう》したら、近所のファミレスにノートパソコンを持っていき、原稿を書いていました。  外付けバッテリーと内蔵バッテリーであわせて最長六時間ほどいられるのですが、気力はもとより体力的にも(店員さんの視線も)厳しいものがあるので、大体株式市場が閉まる三時ちょっと前に帰ります。  それから取引終了まで株価に一喜一憂し、取引が終わったらネットゲームや資料の読み込みをし、夜頃に気力体力が奇跡《きせき》的に回復すればまた原稿を書きます。疲《つか》れきって昼寝《ひるね》をすることも多く、昼寝をしたあとは原稿を読み返したりします。夜は十二時前くらいに寝ます。  土日は株式市場が開いていないので、起きたらすぐファミレスに行くこともあれば、お昼の混雑を避《さ》けてから行くこともありました。  で、なぜこんなにも健康的な生活が送れたかというと、そうしないと締《し》め切《き》りに間に合わないくらい切羽詰《せっぱつ》まっていたからで、原稿が上がって気が緩《ゆる》んだとたんに夜型になってしまいましたが、それでも午前四時に寝ようが七時に寝ようが、株式市場の開く九時前には目が覚めるのが怖《こわ》いです。  最近の夢は、タックスヘイヴンの南の島で執筆《しっぴつ》して税金を回避《かいひ》できないかなということです。  来年の確定申告の時に頭を抱《かか》えていなければ私は南の国にいます。  でも、南の国に行ったらのんびりしすぎて原稿なんか書かなくなるような気がしてなりません。世の中、実にままならないようです。  それでは、また次の巻でお会いしましょう。 [#地付き]支倉《はせくら》凍砂《いすな》 [#改ページ] 狼と香辛料㈸ 発 行  二〇〇七年八月二十五日 初版発行 著 者  支倉凍砂 発行者  久木敏行 発行所  株式会社メディアワークス