狼と香辛料㈽ 支倉凍砂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)七年|経《た》てば [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き]終わり ------------------------------------------------------- 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] [#改ページ]  狼《おおかみ》と香辛料《こうしんりょう》㈽  教会都市リュビンハイゲンを出立した行商人ロレンスと狼神ホロ。行商がてらホロの故郷ヨイツの情報を集めるため、冬の大市と祭りで賑わう町クメルスンにやってきた。そこで二人は、若い魚商人アマーティと出会う。  どうやらアマーティはホロに一目惚れをしてしまったらしい。急速に彼女に近づき始めた。一方ロレンスとホロの間には微妙な気持ちのすれ違いが生じ、誤解が誤解を呼んでしまう。そしてそれがロレンスとアマーティそれぞれの商売をも巻き込んだ大騒動へと発展していく——。  第12回電撃小説大賞<銀賞>受賞作第3弾。 [#改ページ]      支倉《はせくら》凍砂《いすな》  1982年12月27日生まれ。第12回電撃小説大賞<銀賞>受賞。大学にて物理を学ぶも最近まで空が青いのは海の色が空に映り込んでいるからだと思っていたロマンチスト。その割にマイナスイオンと酸素水には否定的。 イラスト:文倉《あやくら》十《じゅう》  1981年生まれ。京都府出身のAB型。現在東京にて、フリーで細々と活動中。古道巡りを企画するもなかなか実行に移せない今日この頃です。 [#改ページ]  Contents  第一幕    11  第二幕    53  第三幕    129  第四幕    191  第五幕    273  終幕     317 [#改ページ]  第一幕  教会都市リュビンハイゲンを出発してはや六日。寒さは日を追うごとに厳しくなり、生憎《あいにく》の曇天《どんてん》ということもあって昼間だというのに緩《ゆる》やかな風にすら身震《みぶる》いする。  特に川沿いの道に出てからは川の冷たさを含《ふく》んだ風のせいで一段と寒くなった。  曇《くも》り空を溶《と》かし込んだかのように濁《にご》った川は、見た目としても寒々しい。  リュビンハイゲンの町を出る時に防寒用に買い込んだ古着を重ね着してはいるものの、寒いものは寒かった。  しかし、積荷を優先するあまり防寒用の古着を買う金がなくなり、文字どおり凍《こご》えながら北を目指した昔のことを思い出せば苦笑いと懐《なつ》かしさでいくらか寒さも和《やわ》らぐというものだ。  そんなかけだし行商人も、七年|経《た》てばどうにか形にはなるらしい。  それに、今年の冬は防寒具以外にも寒さを和《やわ》らげてくれるものがある。  十八の年で一人立ちしてから七回目の冬を迎《むか》えた行商人のロレンスは、御者《ぎょしゃ》台で隣《となり》に座る者へと視線を向けた。  いつもは右を見ても左を見ても誰《だれ》もいなかった。  時折同じ道を行く旅の道連れはできても、一緒《いっしょ》に御者台に座るということはほとんどない。  ましてや、荷物を覆《おお》うための布を膝掛《ひざか》けにして共有するなど初めてのことだった。 「なにかや?」  と、やや古めかしい言葉|遣《づか》いをする同乗者。  見た目の年の頃《ころ》は十代半ばで、貴族も羨《うらや》むような綺麗《きれい》な亜麻《あま》色の髪《かみ》の毛をした見目《みめ》麗《うるわ》しい部類の少女だ。  ただ、ロレンスが羨むのは綺麗な亜麻色の髪の毛でもなければ少女が身にまとっている上等のローブでもない。  少女が膝掛《ひざか》けの上で毛を丁寧《ていねい》に梳《す》いている、動物の尻尾《しっぽ》が羨ましかった。  全体的に茶色で、先っぽだけが雪のように白いふさふさの毛並みをしたそれは見た目どおりにとても暖かい。襟巻《えりま》きにすればきっと貴族の奥方が大金を積んで欲しがるような上等のものだったが、生憎《あいにく》とそれは非売品だ。 「早く毛づくろい終えて膝掛けの下に入れてくれ」  ローブを身にまとい、櫛《くし》で丁寧に動物の尻尾の毛を梳いている少女の姿は内職をする清貧《せいひん》の修道女に見えなくもない。  しかし、少女はロレンスの言葉に赤味がかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》をすっと細めると、からっ風に吹《ふ》かれても少しもひび割れることのない唇《くちびる》の下から牙《きば》を覗《のぞ》かせて不機嫌《ふきげん》そうに言った。 「わっちの尻尾を懐炉《かいろ》と一緒《いっしょ》にするでない」  そして、少女の手元で尻尾がばさりと動いた。  すれ違《ちが》う行商人や旅の者たちがなんの毛皮かと値踏《ねぶ》みするその尻尾は、実のところ未《いま》だ持ち主の体から切り離《はな》されているわけではない。  その尻尾は、櫛で丁寧に毛を梳く少女のもの。しかも、尻尾を有するだけではなく、少女がかぶるフードの下には人ならざる獣《けもの》の耳まである。  もちろん、獣の耳と尻尾を有する人がまともであるわけがない。  世の中には生まれる際に妖精《ようせい》や悪魔《あくま》が入り込んだせいで人ならざる形をして生まれてくる悪魔|憑《つ》きと呼ばれる者たちがいるが、少女はその類《たぐい》でもない。  その元の姿は麦に宿る恐《おそ》ろしいまでに神々《こうごう》しい巨大な狼《オオカミ》であり、その名をヨイツの賢狼《けんろう》ホロという。常識ある正教徒ならば異教の神々と呼んで恐れおののくような存在ではあったが、ロレンスがホロを恐れたのは少し前の話になる。  今ではホロが常々尻尾を自慢《じまん》しているところにつけこんで、懐炉代わりにすることだって朝飯前だ。 「それだけいい毛並みだと、膝掛けの下にあるだけで分厚い毛皮を山と積んだ時のような暖かさがあるからな」  目論見《もくろみ》どおり、ホロは得意げに鼻を鳴らしたあとに仕方がないなとばかりに膝掛けの下に尻尾をしまってくれたのだった。 「それで、町はまだなのかや。今日中に着くんじゃろう?」 「この川沿いに上《のぼ》って行けばもうすぐだ」 「ようやく温かい飯が食えるんじゃな。もうわっちゃあこの寒い中冷たい粥《かゆ》を食いたくありんせん。いくらなんでも辟易《へきえき》じゃ」  ホロよりもまずい飯には舌が慣れていると自負するロレンスであってもその言葉には賛成だ。  旅では食事が唯一《ゆいいつ》の楽しみだが、冬においてはそうとばかりもいえない。  なにせ寒さで震《ふる》える中、固くて苦いライ麦パンをそのままかじるかそれを水でもどした粥《かゆ》をすするかのどちらかしか選択肢《せんたくし》がなく、添《そ》えられるおかずといえばろくに塩も効《き》いていない干し肉か、丈夫《じょうぶ》な野菜の代表格であるタマネギかニンニクだ。  ホロは元が狼《オオカミ》だからか強烈《きょうれつ》な臭《にお》いのタマネギとニンニクは食べられず、ライ麦パンも苦いのが嫌《いや》で水でもどしてからかきこんでいる。  食い意地の張ったホロとしては、拷問《ごうもん》に近い感じだろう。 「まあ、これから行く町は大市《おおいち》の真っ最中だ。色々な食べ物があるだろうから楽しみにしておけ」 「ほほう。じゃが、ぬしよ、余計なものを買っても懐《ふところ》は大丈夫《だいじょうぶ》なのかや?」  一週間前、教会都市リュビンハイゲンでロレンスは欲を掻《か》いたせいで商会の罠《わな》に嵌《はま》り、一時は破産を覚悟《かくご》したほどの状況《じょうきょう》になった。  それを紆余曲折《うよきょくせつ》の末なんとか回避《かいひ》したものの、儲《もう》けは出ずにどちらかといえば赤字だった。  大騒《おおさわ》ぎの原因となった武具も、冬のこの時期に輸送するには重すぎることと、北に行けば行くほど値下がりの影響《えいきょう》を受けているだろうと思い、リュビンハイゲンでタダ同然で手放してしまった。  あれやこれやとものをねだるホロだが、ねだる割にはそんなロレンスの懐具合を気遣《きづか》ってくれている。  普段《ふだん》は憎《にく》まれ口や高飛車な態度が多いホロだが、根はとてもいい奴《やつ》なのだ。 「お前の買い食いくらいなら許容|範囲《はんい》だ。心配することはない」  しかし、ホロはなにが引っかかっているのかまだ心配そうだった。 「ふむ……」 「それに、結局リュビンハイゲンでお前に桃《モモ》の蜂蜜漬《はちみつづ》けを買ってやれなかったからな。その分だと思ってくれればいい」 「そうかや……じゃがな」 「なんだ?」 「半分はぬしの懐を心配してのことじゃが、もう半分はわっち自身の心配じゃ。わっちが買い食いをしたら、その分、宿が貧相にならぬかや?」  なるほど、と思ってロレンスは笑いながら返事をする 「それなりのところには泊《と》まるつもりだ。それとも、部屋に個別の暖炉《だんろ》があったりしないと嫌だとか言うつもりか?」 「そこまで言うつもりはありんせん。じゃがな、わっちの買い食いを言い訳に使われては困るからの……」 「言い訳?」  ロレンスが、少し道からずれた馬を元に戻《もど》そうと視線を前に向けた直後、ホロが耳元に口を寄せて囁《ささや》くように言った。 「金がないからという理由でベッドが一つの部屋を取られたらかなわぬ。わっちもたまには一人でゆっくり眠《ねむ》りたい」  ぐい、と手綱《たづな》を引っ張りすぎてしまい、馬が不平を漏《も》らしていなないた。  しかし、毎度毎度この手のからかいを受けていれば立ち直りも早くなる。  ロレンスは努めて平静を装《よそお》って冷たい視線を返していた。 「あれだけ間抜《まぬ》けないびきをかいて寝《ね》ていてよく言うな」  ロレンスの立ち直りと反論が予想外だったのか、ホロがつまらなそうに唇《くちびる》を尖《とが》らせて体を引く。  この勝機を逃《のが》すわけにはいかないと、ロレンスは追撃《ついげき》を打ち放つ。 「それにだな、お前は俺の好みじゃない」  ホロは人の嘘《うそ》を聞き分けることができる耳を持つ。  ロレンスの今の言葉はぎりぎり嘘ではない。  それがわかったらしいホロは驚《おどろ》いた顔のまま固まってしまった。 「嘘じゃないことくらいわかるだろう?」  そして、止《とど》めに向けての最後の攻撃《こうげき》。  ホロはしばらく呆気《あっけ》に取られつつも反撃を試みるように口をパクパクさせていたが、やがてそんな振《ふ》る舞《ま》いそのものが負けの証《あかし》であることに気がついたようだ。  フードの下の耳がへこたれるのがわかり、そのまましゅんとうつむいてしまった。  久しぶりの勝利。  しかし、本当の勝利はこれではない。  ホロのことが好みではないというのは嘘ではないが、まったくの真実でもない。  それを告げることで日々手玉に取られっぱなしのロレンスの復讐《ふくしゅう》劇は完成する。  無防備に寝ているホロや笑っているホロは愛《いと》しいと思う。  それに、しゅんとしている様子なども。  つまり。 「ぬしはこういうわっちが好きなんじゃろ?」  上目|遣《づか》いのホロと目が合ってしまい、ロレンスは自分の顔が赤くなるのを止められなかった。 「たわけが。阿呆《あほう》な雄《おす》ほどか弱いのが好きじゃからな。か弱いのはぬしらの頭のほうじゃと気がつかぬ」  両の牙《きば》を見せながら嘲《あざけ》るように笑うホロとあっという間に形勢が逆転する。 「わっちにか弱い姫《ひめ》の役を期待するならば、ぬしは屈強《くっきょう》な騎士でなければならぬ。ところが現実はとうじゃ?」  指を差され返事に窮《きゅう》する。  自分は選ばれし騎士ではなく、一介《いっかい》の行商人なんだと痛感したさまざまな場面を思い出してしまう。  ホロはそんなロレンスの様子を見て少し満足したようにため息をついたが、ふとなにかに気づいたらしく人差し指を自分の顎《あご》に当てた。 「ふむ。しかし、思えばぬしは一度騎士になってくれたか」  ロレンスはとっさに記憶《きおく》の引き出しを開けてみるが、そんな格好のいいことがあっただろうかと自問してしまう。 「なんじゃ本人が忘《わす》れておるのかや。ぬしはわっちの前に立ちはだかってくれたじゃないかや。ややこしい銀貨の話に首を突《つ》っ込んだ時、地下水道で」 「……ああ、あれか」  と、思い出しはしたものの、あれが騎士だったとはとても思えない。ずたぼろの格好でふらふらになりながら立つのがやっとだったのだから。 「なにも腕《うで》っ節《ぷし》の強さだけが騎士ではありんせん。しかし、わっちゃあ誰《だれ》かに守ってもらうなんて初めてのことじゃったからな」  ホロは少し恥《は》ずかしげに笑ってロレンスに身を寄せてくる。この変わり身の速さは相変わらず怖《こわ》い。損得で態度を豹変《ひょうへん》させる商人だって裸足《はだし》で逃《に》げ出すほどのものだ。  しかし、ロレンスに逃げる場所はない。 「これからも、大事にしてくりゃれ?」  狼《オオカミ》が子|猫《ネコ》のように柔《やわ》らかく、そして無邪気《むじゃき》に笑う。一人で行商を続けていたら何十年|経《た》っても見ることができなかっただろう笑顔《えがお》。  しかし、その笑顔は偽物《にせもの》だ。ホロは好みじゃないと言われたことを怒《おこ》っている。おそらく、物凄《ものすご》く怒っている。  それがよくわかった。 「……悪かった」  だから、その言葉が魔法《まほう》の合図だったかのようにホロの笑顔が本物に戻《もど》り、体を起こすと喉《のど》の奥でくつくつと笑ったのだった。 「わっちゃあぬしのそういうところが好きじゃな」  からかいと冗談《じょうだん》の混じった子犬同士のじゃれあいのようなやり取り。  結局、この距離《きょり》が一番しっくりくるようだった。 「ま、宿のベッドは一つでもかまわぬが、その分、飯の皿は二つがよい」 「わかったわかった」  暑くもないのにかいてしまった嫌《いや》な汗《あせ》を拭《ぬぐ》いながらそう言うと、ホロはもう一度声を上げて笑った。 「で、この辺だとなにがうまいのかや」 「名物か? 名物というわけじゃないが、この辺だと……」 「魚、じゃないかや」  まさしくそう答えようとしていたので、ロレンスは少し驚《おどろ》いた。 「よくわかったな。ここから西のほうに行くと湖がある。そこから運ばれてくる魚の料理が名物といえば名物だ。それと、そこを流れる川でも色々|獲《と》れるしな。しかし、なんでそれがわかったんだ?」  ホロは人の胸中をあっさりと見破るが、まさか本当になにを考えているかまで見|抜《ぬ》けるわけではないだろう。 「ん、さっきからたまに風の具合で匂《にお》ってきてたんじゃが、ほれ」  と、言って右手を流れる川とは反対方向を指差した。 「あの荷馬車の列、魚を運んどるじゃろ」  そう言われて初めて気がつくような距離《きょり》に、ちょうど丘《おか》の陰《かげ》から姿を現した荷馬車の列が見えた。ロレンスの目ではせいぜい荷車の数を数えるのが精|一杯《いっぱい》で、荷台になにが積まれているかなどわからない。馬の向きからするとこの道と平行に歩いているようにも見えたが、多分どこかで合流することになるだろう。 「魚料理と言われてもわっちゃああまり想像ができぬ。リュビンハイゲンで食べたウナギとかかや」 「あれは油で揚《あ》げただけだろ。手の込んだやつだと、野菜や肉と一緒《いっしょ》に蒸《む》したり、香草《こうそう》と焼いたり色々だ。あとはあれだな。これから行く町ならではの素材というものがある」 「ほほう」  ホロの目がらんらんと輝《かがや》き、膝掛《ひざか》けの下に収まっている懐炉《かいろ》代わりの尻尾《しっぽ》がわさりと動く。 「それは町に着いてのお楽しみだ」  そうからかってやると、ホロは少し頬《ほお》を膨《ふく》らませたがもちろんこの程度で怒《おこ》るわけもない。 「あの荷馬車によいのがあったら買って晩飯にするなんてのはどうかや」 「俺は魚の目利《めき》きは得意じゃない。昔、損したことがあって以来苦手なんだ」 「なに、わっちの目と鼻がありんす」 「魚の良し悪しがわかるのか?」 「なんならぬしの良し悪しも判断してみるかや?」  いたずらっぽく笑うホロを前に、ロレンスはおとなしく降伏《こうふく》する。 「勘弁《かんべん》願う。まあ、いいのがあったら買ってみて持ち込みで料理してもらうか。そっちのほうが安上がりだしな」 「うむ。任せるがよい」  魚を積んでいるらしい荷馬車とどこで合流することになるかはわからなかったが、徐々《じょじょ》に距離《きょり》が近づいているのがわかったのでそのまま道なりに馬を進めて行く。  それにしても、とロレンスは遠くの馬車に目をやっているホロを横目で見ながら思う。  目と鼻で良し悪しを判断するということは、見た目と匂《にお》いで判断するということだ。  魚の良し悪しが判断できるのなら、もしかしたら本当に人の良し悪しも判断できるかもしれない。  すぐに馬鹿《ばか》な考えだと一人笑ったが、やはり少し気になった。  さりげなく、自分の右|肩《かた》に鼻を近づけて嗅《か》いでみる。旅の暮らしとはいってもさほど臭《くさ》くはないはずだし、第一着たきり雀《すずめ》なのはホロも一緒《いっしょ》だ。  そんな言い訳じみたことを考えていたら、左の頬《ほお》に視線を感じた。  見たくはなかったが、振《ふ》り向くとホロが声なく大笑いだ。 「まったく。そんなに可愛《かわい》くてはわっちの立場がありんせん」  呆《あき》れたように言うホロに、結局一言も反論できなかったのだった。  一見すると流れが止まっているかと思うくらいにゆっくりと水が流れる川べりで、馬に水を飲ませていたり荷を積み替《か》えたりしている者たちの姿が目につき始めた。珍《めずら》しいところでは旅の研《と》ぎ師などもいて、地面に剣《けん》を目印代わりに突《つ》き立てた横で、研ぎ台の上に頬|杖《づえ》をついて暇《ひま》そうに欠伸《あくび》などしていた。  他《ほか》にも桟橋《さんばし》に横付けされた底が平らな平舟《ひらぶね》の上で、船頭と馬を連れた騎士《きし》らしい者が言い争いをしているのも見える。騎士の装備は軽装だったのでどこかの砦《とりで》への伝令役なのかもしれない。大方、頭数が揃《そろ》わないと船を出したがらない船頭と押し問答をしているに違《ちが》いなかった。  ロレンスも急いでいるのに船を出してくれないことに怒《おこ》ったことがあるので、そんな光景を見てつい苦笑いをしてしまう。  延々とどこまでも広がっていた荒《あ》れ野原も徐々に開墾《かいこん》された畑へと変わっていき、ぽつりぽつりと作業をする人の姿も見え始めた。  この、徐々に人の生活の匂いが漂《ただよ》い始める風景の変化はいつ見ても面白《おもしろ》い。  そんな頃《ころ》になってようやく件《くだん》の魚を積んだ荷馬車と合流した。  三台の荷馬車が連なっていて、それぞれ二頭の馬が荷車を引いている。荷車には御者《ぎょしゃ》台がついておらず、一人だけ身なりの良い男が一番後ろの荷台に乗り込み、雇《やと》われ人夫と思われる男が三人、歩きながら馬を御していた。  一台の荷車を二頭の馬で引くなど豪勢《ごうせい》な荷馬車だ、というのがロレンスの最初の感想だったが、側《そば》に近づいてみて納得《なっとく》した。  荷台には人がすっぽり入れるような樽《たる》や木箱が積んであり、そのうちのいくつかには水がなみなみと入れられその中を魚が泳いでいるらしかった。  塩|漬《づ》けにされない魚は種類を問わず高級品に数えられる。生きた魚は言うまでもない。  生きた魚の輸送というのはなかなかお目にかかれるものではなかったが、ロレンスとしてはもう一つ別のことに対する驚《おどろ》きのほうが大きい。  それは、この高級品を荷馬車三台分も運んでいる荷主が、ロレンスよりも若い商人だったということだ。 「魚を?」  一番後ろの荷台に乗っていた男に声をかけると、魚の仲買人がよく身にまとう油を塗《ぬ》った革の外套《がいとう》のフードの下から少年のような声が聞こえてきたのだ。 「ええ、数|匹《ひき》分けていただけないかと」  ホロと座る場所を替わったロレンスの言葉に、若い商人は即座《そくざ》に返事をする。 「申し訳ありません。うちは魚を売る先が匹数まで全《すべ》て決まっているんです」  意外な返事にロレンスが驚くと、それに気がついたように若い商人がフードを外して顔を見せた。  フードの下から出てきたのは声に相応《ふさわ》しい少年の顔。少年というのが言いすぎだとしても、まだ二十歳《はたち》にもなっていないくらいのもの。それに、荒々《あらあら》しい男連中の多い魚の仲買人の中では珍《めずら》しい線の細い体つきだ。揺《ゆ》れる金髪《きんぱつ》などはどことなく気品すら感じさせていた。  もっとも、見た目が若いとはいえ荷馬車三台分も鮮魚《せんぎょ》を運ぶ商人なのだ。油断してはならない。 「失礼ですが、行商人の方ですか?」  人当たりのよい笑顔《えがお》は生来のものなのか、それとも商人のものなのかちょっと判別ができないが、どちらにせよロレンスは笑顔で返事をする。 「ええ、リュビンハイゲンから来たところです」 「そうですか。それでしたら、私たちが今来た道をたどって半日ほどの所に湖があります。漁師《りょうし》の方たちと交渉《こうしょう》すればおそらく譲《ゆず》っていただけますよ。ここのところ鯉《コイ》の良いのが獲《と》れてますね」 「ああ、いえ、買いつけではなく、今晩のおかずに何匹か譲っていただければと思ったんです」  若い商人が笑顔から一転して驚いた顔になったのは、そんな申し出を受けるのが初めてだからかもしれない。  塩漬けの魚を長距離《ちょうきょり》で輸送する魚商人なら、道中で食事用にと求められるのは日常|茶飯事《さはんじ》だが、近隣《きんりん》の湖と町を往復するだけだとなじみのないことなのだろう。  しかし、若い商人はすぐに驚きの顔から思案顔へと様変わりする。  これは自分の商売の常識とは違《ちが》う事態に出会ったから、それが新しい商売にならないかと考えている顔だろう。 「商売熱心な人だ」  ロレンスが言うと、若い商人は「あっ」と我に返って恥《は》ずかしそうに笑ったのだった。 「恥ずかしいところを見られてしまいました。ところで、夕食用の魚をお探しということは、今晩はクメルスンにお泊《と》まりでしょうか?」 「はい。冬の大市《おおいち》と、祭り見物に」  クメルスンとはこれから向かう町の名で、今はちょうど夏と冬に行われる年に二回の大市の開催《かいさい》期間中だ。  また、冬の大市にはそれに合わせて大きな祭りも開催される。  詳《くわ》しい祭りの内容はロレンスも知らなかったが、教会の人間が見たら卒倒《そっとう》するといわれる異教の祭りという評判だけは聞いたことがある。  北への異教徒|討伐隊《とうばつたい》の補給基地を未《いま》だに兼《か》ねる教会都市リュビンハイゲンから六日もかけて北上すれば、もはやそこでの正教徒と異教徒の関係は南のほうほど単純ではない。  リュビンハイゲンの北に広がる広大な地域を治める国、プロアニアには王族にも多数の異教徒が存在する。正教徒と異教徒が混在して町にいるのは当たり前のことといえた。  そんなプロアニアの有力貴族が所有する町クメルスンは、そういったややこしい宗教の問題からなるべく離《はな》れ、経済の繁栄《はんえい》を願って造られた大きな町だ。そのために町には正教徒の教会がなく、正教徒の布教活動も禁止されていた。そんな町で行われる祭りも正教か異教かを問うことは禁忌《きんき》で、伝統的なこの町の祭りという形で説明される。  もともとの祭りの物珍《ものめずら》しさと、異教徒たちも安心して来られるということもあいまって、ラッドラ祭と呼ばれるこの祭りには毎年|物凄《ものすご》い数の人が押し寄せるらしかった。  ロレンスはクメルスンには毎年夏にしか来ず、生憎《あいにく》とその祭りを見たことがない。  だから聞いた話だけを頼《たよ》りに少し早めに町に着くようにと荷馬車を進めてきたのだが、どうやらロレンスの認識《にんしき》は甘《あま》かったらしい。 「ええと、宿はご予約されましたか?」  心配顔でそんなことを言われてしまったのだ。 「祭りは明後日《あさって》からですよね。まさか、もう宿が足りなくなっているとか?」 「そのまさかです」  隣《となり》でホロがわずかに身じろぎしたが、宿を心配しているのかもしれない。  狼《オオカミ》の姿ならいざ知らず、人の姿のホロは普通の人と同じで寒さに弱い。いい加減この寒い時期の野宿は限界だろう。  もっとも、それならそれでロレンスにも当てはあった。 「それなら、毎年大市に合わせて商館が宿を手配してくれているそうですから、そちらを頼ってみます」  商館を使うとなればホロのことを根|掘《ほ》り葉掘り聞かれるかもしれなかったので、できれば頼《たよ》りたくはなかったが背に腹はかえられない。 「あ、組合所属の方でしたか。失礼ですが、どちらの組合に?」 「ローエン商業組合の在クメルスン商館です」  その瞬間《しゅんかん》、若い商人の顔がぱっと輝《かがや》いた。 「なんと素晴《すば》らしい偶然《ぐうぜん》。私もローエン所属なんです」 「おお、これは神のお導き……と、この辺りでは禁句でしたね」 「あはは、大丈夫《だいじょうぶ》です。私も南出身の正教徒ですから」  若い商人は笑い、それから小さく咳払《せきばら》いをした。 「では私から名乗らせていただきます。クメルスンで魚の仲買人をしています、フェルミ・アマーティです。商売上はアマーティで通っています」 「行商人のクラフト・ロレンスです。同じくロレンスと呼ばれています」  二人とも荷馬車の上での名乗り合いだったが、楽に手の届く距離《きょり》だったのでそのまま握手《あくしゅ》もする。  こうなると、次はホロも紹介《しょうかい》しなければならない。 「こちらは旅の連れのホロ。訳あって共に旅をしていますが、夫婦《ふうふ》ではありません」  ロレンスが笑いながらそう言うと、ホロが少し前かがみになってアマーティのほうを見てにこりと笑う。  やはりおとなしくしているホロはかなりのものだ。  アマーティは慌《あわ》ててもう一度名乗ったが、その頬《ほお》は赤かった。 「ホロ、さんは修道女の方ですか?」 「一応は遍歴《へんれき》の修道女です」  巡礼《じゅんれい》の旅はなにも信仰《しんこう》心に目覚めた男だけのものではなく、一市民の女性たちも普通《ふつう》に行っている。  そして、その際に彼女らが名乗る身分で最も多いのが遍歴の修道女だ。巡礼中の市民と答えるよりも、このように答えることで格段にさまざまな面倒事《めんどうごと》が免除《めんじょ》される。  しかし、クメルスンに教会の人間であると一目でわかるような格好で入るには問題があるため、そういった者たちが町に入る際には服のどこかに羽を三本つけるという習慣がある。ホロのフードにもみすぼらしい茶色の鶏《ニワトリ》の羽が三本ついていた。  南出身というアマーティは、若いなりにそのあたりのことをすぐに理解したらしい。  行商人と若い女の二人旅にもなにか理由があるのだろうと、それ以上の追及《ついきゅう》はしてこなかった。 「それでは、多少の旅の困難は神からの試練ということですね。と、言いますのも、宿を一部屋くらいならば都合できるのですが、残念ながら二部屋となると少し難しい」  そんな申し出にロレンスが驚《おどろ》くと、アマーティは笑ってあとを続けた。 「同じ組合所属というのもまさしく神のお導きでしょう。魚の取引先の宿屋に頼《たの》めば一部屋くらいならば都合をつけてもらえるはずです。女性の方を連れて商館から宿を都合してもらえば、色々と古株の人たちがうるさいでしょう」 「ええ、まったくそのとおりです。ただ、よろしいんですか?」 「もちろん、私も商人ですから商売を考えてのことです。つまり、宿泊《しゅくはく》先の宿でたっぷりとおいしい魚を召《め》し上がっていただきたいということです」  この若さで荷馬車三台分もの魚を扱《あつか》っているアマーティはやはり只者《ただもの》ではない。  如才《じょさい》ないとはこのことだ。  ロレンスは悔《くや》しさ半分、感謝半分で返事をしていた。 「やはり商売がお上手だ。それでお願いできますか」 「わかりました。お任せください」  アマーティは笑い、それから一瞬《いっしゅん》だけ視線をロレンスからそらした。  ロレンスは気がつかなかったふりをしたが、視線はホロに向けられたはずだ。  もしかしたら、自分の商売の足しにするだけでなく、ホロにいいところを見せようとしての申し出だったのかもしれない。  そんなところを見ると、ホロと旅をしているロレンスとしてはちょっとした優越《ゆうえつ》感を覚えてしまうのだが、また余計なことを思っているとホロにからかわれる。  ロレンスは頭から余計なことを払拭《ふっしょく》して、それからはこの自分よりも若い優秀《ゆうしゅう》な商人と親交を深めることに専念した。  クメルスンの町には、それからしばらくの後、日が落ち始めた頃《ころ》にたどり着いたのだった。  食堂のテーブルには鯉《コイ》の切り身と根菜《こんさい》を煮込《にこ》んだスープの入った鍋《なべ》を中心として、魚介《ぎょかい》類を中心にさまざまな料理が並べられていた。  宿に口を利《き》いてくれたアマーティが魚の仲買人ということもあるだろうが、食事といえば肉料理が中心の南とはやはり趣《おもむき》が違《ちが》う。その中でも特に目を引くのは巻貝を蒸《む》したものだ。  海の巻貝は長寿《ちょうじゅ》の薬、川の巻貝は腹痛の原因といわれるように、クメルスンよりも南では二枚貝を食べても巻貝を食べることはない。教会のお触《ふ》れでも悪魔《あくま》が住み着いているので食さないように、と言われるほどだ。  もっとも、それは聖典に書かれた神の教えというよりも、実際的な注意の意味合いが濃《こ》い。ロレンスも昔行商の途中《とちゅう》で道に迷って川に突《つ》き当たった時、飢《う》えに負けて巻貝を食べたら猛烈《もうれつ》な腹痛に襲《おそ》われたことがあり、それ以来巻貝は海のも川のも見ることさえ嫌《いや》だった。  幸いなことといえばそれらの料理が小分けにして出されていないことと、ホロがいたくそれをお気に召《め》していること。  苦手な食べ物は全《すべ》てホロに食べてもらうことにした。 「ふーむ。貝はこんな昧だったのかや」  と、感心しながら次々と貝の身をロレンスから借りたナイフの切っ先で引きずり出しては口に運んでいる。ロレンスはといえば、たっぷりと塩の振《ふ》られたカワカマスの塩焼きをつついていた。 「あんまり食べると腹痛を起こすぞ」 「うん?」 「川の巻貝には悪魔が住んでいる。うっかり食べるとひどい目に遭《あ》う」  ホロは引きずり出したばかりの貝の身を見て、少し首をひねってからそれを口に運ぶ。 「わっちを誰《だれ》じゃと思っとる。わっちがわかるのは麦の良し悪しだけじゃありんせん」 「唐辛子《とうがらし》を食べてひどい目に遭ったと言っていたのに?」  その指摘《してき》には少しむくれた。 「さすがに見ただけでは味までわかりんせん。見た目は真っ赤によく熟《う》れた果実のようじゃろう?」  喋《しゃべ》りながらも貝の身をほじくり出し、時折コップに口をつけては目をきつく閉じている。  この辺では、教会の目が光っていると危険な酒ということでおおっぴらに売ることができない蒸留酒が平気な顔をして出回っている。  ホロとロレンスの手元にあるコップの中身は、燃えるぶどう酒と呼ばれている色が透明《とうめい》に近い酒だった。 「甘《あま》い酒を頼《たの》んでやろうか?」 「……」  ホロは無言のまま首を振《ふ》って、きっとローブを剥《は》いだら膨《ふく》れ上がった尻尾《しっぽ》が出てくるだろうというくらいにきつく目を閉じている。  それからようやく酒を飲み下すと、長く息を吐《は》き出して袖口《そでぐち》で目尻《めじり》を拭《ぬぐ》っていた。  魂《たましい》を揺《ゆ》さぶる酒、とも呼ばれるそれを飲んでいるホロはもちろん修道女の格好ではない。三角巾《さんかくきん》を頭に巻いた町娘の格好をしていた。  食事の前に着替《きが》えたホロと共にアマーティに改めて礼を言ったのだが、その時のアマーティの顔といったら、ロレンスのみならず、その様を見ていた宿の主人も思わず笑ってしまうくらいの情けないものだった。  当のホロはそんな罪をさらに重ねるように、いつも以上に気合を入れておしとやかに礼を言っていた。  それがこの飲みっぷりと食いっぷりを見たら、アマーティの夢もたちまち覚めることだろう。 「……ぐす。懐《なつ》かしい味じゃ」  酒のきつさからか望郷の思いからか、少し涙《なみだ》ぐんでそんなことを言う。  確かに、北に行けば行くほど魂を揺さぶる酒は多い。 「これだけ蒸留してあると俺なんかには味がわからないな」  さすがに貝に飽《あ》きたのか、時折焼き魚や煮魚《にざかな》に手を伸《の》ばし始めたホロは楽しそうに答えた。 「姿かたちは十年もすれば忘れるがの、ものの味や匂《にお》いは何十年|経《た》ってもそうそう忘れるものではありんせん。この酒は懐かしい味じゃ。ヨイツのものにとても似ておる」 「北は強い酒が多いからな。昔からこんなのばかり飲んでいたのか」  コップの中身とホロを見比べると、口の端《はし》に焼き魚のかけらをくっつけたホロが得意げに口を開く。 「気高き賢狼《けんろう》には甘《あま》い酒など似合わぬじゃろう?」  甘い酒どころかミルクと蜂蜜《はちみつ》が似合いそうな少女の姿のホロだったが、ロレンスはここは軽く笑って同意しておいた。  きっと、酒の味に故郷のことを思い出しているというのは事実なのだろう。  久しぶりのうまい飯とはいえ、ホロの楽しそうな笑顔《えがお》はそれだけで説明できるものではない。  ひょんなところで故郷のヨイツに近づいてきたということが実感できて、予期せぬ贈《おく》り物《もの》をもらった少女のように本当に楽しそうだった。  しかし、ロレンスはそんなホロからつい目をそらしてしまっていた。  見惚《みと》れてしまい、それをホロにからかわれるのが嫌《いや》だというわけではない。  ロレンスはヨイツがとっくの昔に滅《ほろ》びてしまっているという話があるのをホロにはひた隠《かく》しにしてきている。その事実が無邪気《むじゃき》に故郷のことではしゃぐホロの笑顔を目に痛い太陽に変えていた。  それでもせっかくの楽しい食事を台無しにすることもない。  ロレンスは悟《さと》られぬように気持ちを切り替《か》え、鯉《コイ》の煮物《にもの》に手を伸《の》ばすホロに笑って言葉を向けていた。 「鯉の煮物がお気に召《め》したか」 「うむ。鯉は煮ると……こんなにうまいんじゃな。おかわり」  鯉の煮物は大|鍋《なべ》に盛られているのでホロでは手が届かない。なのでロレンスが取ってやることになるのだが、その都度木の皿《さら》の中にタマネギが増えていく。どうやら、煮ても食べられないらしい。 「鯉なんてどこで食べたんだ。鯉を食べられる所なんて少ないだろう」 「うん? 川で。のろまな魚じゃからな。楽に獲《と》れる」  納得《なっとく》した。きっと、狼《オオカミ》の姿で魚獲りでもしたのだろう。 「生の鯉は食べたことないな。うまいのか?」 「鱗《うろこ》が牙《きば》の間に挟《はさ》まる。骨が多い。鳥がよく小魚を丸呑《まるの》みにしておるからうまいかと思ったんじゃがな、わっちの口には合わんかった」  大きな鯉を仕留め、バリバリと頭から噛《か》み砕《くだ》くホロの姿を想像する。  鯉は長生きする魚として知られていて、教会からは聖なる魚とも悪魔《あくま》の手先とも呼ばれている。そのため食するのは北のほうの地方に限られる。  確かに、ホロのような狼がうろうろしている北の地方だったら、多少長生きする程度の鯉に畏《おそ》れを抱《いだ》くのは馬鹿《ばか》らしいことなのかもしれない。 「人がする料理というのは相変わらずよい。けれども、それだけではなく選んでおる魚がどれもよいらしい。あのアマーティという若僧《わかぞう》、なかなかの目利《めき》きじゃな」 「あの若さでな。それに、取り扱《あつか》っている量も並みじゃなかった」 「それに引き換《か》え、ぬしの積んでおった荷、あれはなんじゃ」  ホロの目が途端《とたん》に冷たくなる。 「ん? 釘《くぎ》だな。このテーブルには……使われてないか」 「釘くらいわかりんす。もっとぱっとしたものを扱えということじゃ。それとも、リュビンハイゲンで失敗したのが応《こた》えたのかや」  その言葉には少しむっとするが指摘《してき》されたことは事実なのでなにも言えない。  調子に乗って財産の倍というとんでもない金額の武具を買ったことが原因で破産の危機に遭《あ》い、危《あや》うく死ぬまで奴隷《どれい》となるところだった。その上ホロにも迷惑《めいわく》をかけてしまい散々な目に遭《あ》った。  それらを踏《ふ》まえて結局リュビンハイゲンでは釘《くぎ》を仕入れたが、その金額はトレニー銀貨で約四百枚。手持ちにかなり余裕《よゆう》を残しての弱気な仕入れといえた。 「ま、荷は地味だがそれなりに利益は出るはずだ。それに、ぱっとしないものばかりを扱《あつか》っているわけじゃない」  ホロがカワカマスの背骨を野良《のら》猫《ネコ》よろしくくわえながら、少し首をひねってロレンスを見る。  ロレンスはちょっとした良い文句を思いついたのだ。  小さく咳払《せきばら》いをしてから口を開く。 「俺の荷馬車にはお前がいるからな」  あまりにも気障《きざ》ったらしいといえばそうだが、ロレンスは我ながらうまいことを言ったと笑ってしまう。  しかし、笑いながらぶとう酒を飲んでホロのほうを見れば、ホロはその手を止めて呆《あき》れ返っていた。 「……まあ、ぬしじゃその程度じゃな」  そして、そんなことを言ってため息をついたのだった。 「お前、もう少し俺に気を遣《つか》っても罰《ばち》は当たらないだろう?」 「雄《おす》は優《やさ》しくするとすぐ図に乗りんす。味をしめて繰《く》り返しそんな台詞《せりふ》を聞かされてはたまらぬからな」 「ぐ……」  言わせておけば、とロレンスは反論する。 「わかった。なら俺も今後は——」 「たわけ」  そして、遮《さえぎ》られる。 「雄は優しくてなんぼじゃ」 「……」  顔をしかめて酒に走っても、狩人《かりうど》たる狼《オオカミ》は逃がさない。 「それに、わっちがしゅんとしておればぬしは優しくしたくなろう?」  そんな言葉を無邪気《むじゃき》な笑顔《えがお》で言われたら、ロレンスにはもはやなす術《すべ》がない。  ホロはずるい。  恨《うら》めしげな視線を向けると、ホロはにこりと笑ったのだった。  何日ぶりかのまともな食事を終え、宿の部屋へ戻《もど》る頃《ころ》にはさすがに外の通りも静かになっていた。  クメルスンにロレンスたちが到着《とうちゃく》したのは夕暮れ時だったのだが、町の混雑《こんざつ》はロレンスの想像以上だった。  もしもアマーティに出会っていなければ、まず間違《まちが》いなく商館に行って宿の手配を頼《たの》んでいたに違いない。それどころか、もしかしたら商館の一室を借りる羽目になっていたかもしれない。  クメルスンの町のあちこちには、なにを象《かたど》ったものなのか不明な藁《わら》の人形や木の彫刻《ちょうこく》が並び、大通りはもちろん狭《せま》い路地までも楽隊や道化師が見物人を引き連れて歩き回っていた。  そんな町の南側の大広場では営業時間を大幅《おおはば》に引き延ばされた市場が開かれ、大市《おおいち》の名に相応《ふさわ》しい活気を見せている。その上、普段は商品の小売を許されていない職人連中までもが市場の外の大通り沿いに露店《ろてん》を並べていた。  きつい酒で火照《ほて》った体を少し冷まそうと木窓を開ければ、綺麗《きれい》な月明かりに照らされて、まだ後片づけをしている露店がいくつも見える。  アマーティが都合してくれた宿はこの町でも有数の高級な宿で、普段《ふだん》ならば絶対に泊《と》まろうとは思わないくらいのもの。部屋は町の中心を南北に通る大通りに面した二階で、東西に伸《の》びる大通りとの交差点の近くにあった。ホロのお望みどおりベッドは二つ。もっとも、邪推《じゃすい》すればこのへんはアマーティが意地でも二つのベッドの部屋を用意したと思えなくもない。  少し心地《ここち》よい邪推ではあったが、少なくとも部屋を用意してくれたことにはとても感謝しているので、ロレンスはそれをやめて視線を外に向けた。  広い通りを歩く人たちはみんな揃《そろ》っての千鳥足だ。  ロレンスが少し笑いながら後ろを振《ふ》り返れば、こちらはまだ飲み足りないとばかりにベッドの上で胡坐《あぐら》をかきながら酒を木のコップに注《つ》いでいる最中だった。 「お前なあ、明日ひどい目に遭《あ》っても知らないぞ。パッツィオで二日酔《ふつかよ》いでひどい目に遭ったのを忘れたのか?」 「んー? 大丈夫《だいじょうぶ》じゃろ。よい酒はいくら飲んでも尾《お》を引かぬからの。されどわっちの後《うし》ろ髪《がみ》は引く。飲まぬ手はあるまい」  注ぎ終わると嬉《うれ》しそうに口をつけ、夕食で食べ切れなかった鱒《マス》の干物《ひもの》をくわえている。  放《ほう》っておけばきっと一人で嬉々《きき》としながら酔《よ》いつぶれるまで食って飲むだろうが、ご機嫌《きげん》でいてくれる分には好都合といえた。  というのも、ちょっと切り出しにくい話があったからだ。  毎年似たような道程を行き来する行商路を変更《へんこう》し、いつもは夏にしか来ないクメルスンに冬のこの時期に来たのは言うまでもなくホロの故郷を目指してのこと。  しかし、ロレンスはホロの故郷であるヨイツがどこにあるのかを詳《くわ》しく聞いていない。その名前を聞いたことはあるものの、それは昔話の中だけで具体的な場所まではわからない。  これまで詳《くわ》しい場所を聞いてこなかったのは、故郷の話をするとホロは懐《なつ》かしさで一時《いっとき》笑顔《えがお》になるものの、すぐに時間的にも距離《きょり》的にも遠いそこを思って哀《かな》しそうにするからだ。  情けないことだが、故郷の話を切り出すのをためらうにはそれだけで十分だった。  ただ、今ならその話を切り出してもきっと哀しむことはないはずだ。そう意を決して、ロレンスは壁《かべ》に備え付けの机の上に腰掛《こしか》けてから、口を開いた。 「で、酔《よ》いつぶれる前に聞いておきたいことがあるんだが」  丸出しになっているホロの耳と尻尾《しっぽ》がすぐにピクリと反応した。  遅《おく》れて、ホロの視線がロレンスに向けられる。 「なにかや?」  聡《さと》い賢狼《けんろう》はロレンスの声の調子から気軽な世間話ではないということを察したらしい。口元に薄《うす》く笑みをのせて、今は機嫌《きげん》が良いことを知らせてくれた。  ロレンスの口から重い蓋《ふた》がゆっくりと外される。 「お前の故郷の場所のことなんだが」  そう切り出すと、ホロは途端《とたん》に声なく笑ってコップに口をつける。  てっきり真剣《しんけん》な顔つきになると思ったので、その反応は意外だった。  すでに酔っているのか、と思う間もなく、こくりと喉《のど》を鳴らしたホロの口が開かれた。 「やはりぬしは場所を知らぬか。うすうすそうじゃないかと思っていたからの。わっちゃあいつそのことを聞いてくれるのかとずっと心配してたんじゃがな」  そして、酒に映る自分の顔を笑うようにコップの中を見ながら、小さくため息をつく。 「どうせヨイツの話を聞こうとすれば、またわっちがどうにかなると思ったんじゃろう。わっちはそんなにか弱く見えるかや?」  故郷の夢を見て泣いていたことを指摘《してき》しようかとも思ったが、ホロはそれをわかっていて言っているのだろう。尻尾が楽しげに揺《ゆ》れていた。 「いや、まったく見えないな」 「たわけ。そこはうんと言うところじゃろう」  望んでいたとおりの返答が得られたようで、ホロは一段と嬉《うれ》しそうに尻尾を振《ふ》る。 「ぬしは本当に妙《みょう》なところで気を遣《つか》うな。ようやくその話を切り出したのも、どうせ飯の時のわっちを見て大丈夫《だいじょうぶ》だと判断したからじゃろう? まったく……お人好《ひとよ》しが」  酒を飲みながら言うホロは、くすぐったそうに笑っていた。 「わっちとしてはそれが嬉しくなくもないがの、どちらかと言えばその間抜《まぬ》けさが見ていて楽しい。このまま黙《だま》って北に行って見当外れの所に行ったらどうするつもりだったんじゃ」  ロレンスは肩《かた》をすくめるだけでその言葉をかわし、さっさと目的を告げる。 「間抜けな俺が道を間違《まちが》えないようにヨイツの場所を聞きたいんだがな」  ホロはコップに口をつけて間を設ける。  それから、細く長く息を吐《は》いた。 「実は、詳《くわ》しく覚えておらぬ」  冗談《じょうだん》だろう、というロレンスの言葉を封《ふう》じるようにあとが続く。 「方向くらいならばすぐにわかりんす。あっちじゃ」  ぴしり、とホロが指を差す方向を見て、ロレンスはそれが北であることをすぐに理解する。 「じゃが、いくつ山を越《こ》えて、川を渡《わた》って、どれだけ草原を歩いてきたのかはまったく覚えがありんせん。近くに行けば思い出すじゃろうと思っておったんじゃが、それではまずいのかや」 「場所がわかりそうな手がかりはないか? 道はまっすぐに伸《の》びていないし、北に行くと当てになるような地図もなかなかない。場合によっちゃ遠回りの道じゃないとたどり着けないこともある。例えば、どこか町の名前を覚えてないか。それを手がかりにしてもいい」  ホロはしばし黙考《もっこう》したあと、こめかみに人差し指を当てて口を開いた。 「わっちが覚えておる町の名は、ヨイツと、それにニョッヒラ。あとは……うう、なんじゃったかな……ピ」 「ピ?」 「ピレ、ピロ……そうじゃ、ピローモテン」  胸のつかえが取れたとばかりに嬉《うれ》しそうな顔をするホロに、ロレンスは首をひねる。 「聞いたことがないな。他《ほか》にはないか」 「うー……町はいくつかあったが、今みたいにそれぞれ名前などついておらぬ。山向こうの、とか言えば通じるんじゃ。必要ないじゃろう」  確かに、ロレンスも初めて北の地方を回った時は何度か驚《おどろ》かされたことがある。なんとかの町、という所に行くと、旅人しかその町の名前を知らないとくる。その町に住む者や、その近辺に住む者たちは町の名前など知らないと言うのだ。  町に名前をつけるとよくない神様に目をつけられる、と言っていた老人もいた。  きっとよくない神様というのは教会のことなのだろうが。 「じゃあ、ニョッヒラを基点にして考えるか。そこなら俺もわかる」 「懐《なつ》かしい名前じゃな。まだあそこは湯が出るのかや」 「異教徒の町だというのに長い旅路をものともせず、お忍《しの》びでありがたそうに湯に浸《つ》かりに行く大司教や国王がたくさんいるという話だ。噂《うわさ》じゃあ、温泉があるからニョッヒラは異教徒|討伐《とうばつ》の軍がやってこないという話だ」 「あそこの湯の中だけは誰《だれ》の縄張《なわば》りでもないからの」  そう言って笑ったホロは、「で、じゃな」と小さく咳払《せきばら》いをする。 「ここをニョッヒラとすると、あっちじゃ」  ホロが指差したのは南西の方向。さらに北を指差されなかったことには正直ほっとした。  ニョッヒラよりも北になれば夏だというのに雪が溶《と》けないような所ばかりだ。  ただ、ニョッヒラの南西というだけではあまりにも広すぎる。 「ニョッヒラからヨイツまでどのくらいだった?」 「わっちの足で二日。人じゃと……わからぬ」  リュビンハイゲン近くで狼《オオカミ》姿のホロの背中に乗ったことを思い出す。きっと道なき道を軽快に歩けるのだろう。  そうなると、やはりニョッヒラから相当な範囲《はんい》が捜索《そうさく》範囲となる。そこからひとつの町、もしかしたら小さな村かもしれないヨイツを見つけるなど砂漠《さばく》に落とした針を見つけるようなもの。広大な世界に点在する町から町を歩く行商人だからこそ、その困難さがわかる。  しかも、ロレンスが聞いた昔話の中ではヨイツの町は熊《クマ》の化け物によって滅《ほろ》ぼされている。  もしもそれが本当の話なのだとしたら、そんな大昔に滅びた町の跡《あと》を見つけるのは絶対に不可能だ。  ロレンスは一生涯《いっしょうがい》に渡《わた》って暇《ひま》をもてあます貴族ではない。本来の行商路から外れる場所をうろつけるのはせいぜい半年程度。しかも、リュビンハイゲンでの失敗からまた町に店を持つ夢が遠のいてしまった。余計にもたもたしている暇はない。  そんなことを考えていたら、ふっと思いついたことが口から出ていた。 「ニョッヒラからならお前一人でも帰れないか? 方向はわかるんだろう?」  ニョッヒラから二日程度という距離《きょり》ならば、きっとホロが自分で言ったとおりに近くに行けば思い出すだろう。  なので、他意なく口からぽろりとそんな言葉が出ていたのだが、直後にそれは失言だったと思った。  ホロが、呆然《ぼうぜん》としてこちらを振《ふ》り向いていたからだ。  ロレンスが驚《おどろ》くのと、ホロが目をそらすのは同時だった。 「そ、そうじゃな。ニョッヒラまで行けばわっちゃあきっとヨイツまでの道を思い出すじゃろ」  それから浮かべたのは作り笑いだ。一体どうしたのかと考えて、ロレンスは「あっ」と声を上げていた。  ホロは港町パッツィオで、孤独《こどく》を死に至る病と言った。  孤独をそれほどに恐《おそ》れるホロだ。ロレンスにその気がなくとも、いくらでも悪い方向に考えてしまう可能性はある。それに、ただでさえ酒が入っているのだ。  もしかしたら、ホロはロレンスが故郷探しを面倒《めんどう》くさく思い始めていると解釈《かいしゃく》したのかもしれない。 「おい、ちょっと待てよ。悪い方向に物事を考えるな。二日程度で行って帰れるならニョッヒラで待つくらいわけもない」 「うん。それで十分じゃ。ニョッヒラまでは案内してくれるんじゃろ? わっちはもう少し色々町を見たいからの」  拍子抜《ひょうしぬ》けするほどかみ合ったやり取りだが、ホロのよく回る頭が話をうまくつなげているようにしか思えない。  言葉のやり取りとしてはうまくつながっていても、その裏にはずれがある。  ホロはもう何百年も故郷から遠ざかっている。ロレンスが聞いた昔話のように、ヨイツの町がなくなっている可能性もきっと考えているだろうし、それでなくてもさまざまなことが大きく変わるには十分すぎる年月が過ぎている。ホロの不安はとても大きいものだろう。  きっと、ホロは一人で故郷に行くのを怖《こわ》がっている。  酒の味でヨイツのことを思い出し、無邪気《むじゃき》に笑っていたのもその不安の裏返しなのかもしれない。  それは少し考えればわかるはずのこと。ロレンスは自分の迂闊《うかつ》な発言を後悔《こうかい》した。 「いいか、俺はできる限り協力するつもりだ。さっき言ったことは——」 「雄《おす》は優《やさ》しくてなんぼじゃとさっき言ったがな。ぬしよ、あまり気遣《きづか》われるのも困りんす」  ホロは作り笑いに困った表情を混ぜて、手に持っていたコップをベッドの下に置いた。 「わっちゃあいかんな。どうしてもわっちのものさしで物事を考えてしまう。ぬしらはわっちが瞬《まばた》きをする間に年老いてしまうからの。そんな短い生涯《しょうがい》の中の一年はとても大事じゃ。どうしてもそれを忘れてしまう」  木窓から入る月明かりにホロの体が照らされる。それが一瞬《いっしゅん》幻《まぼろし》のように見えて近づくことをためらった。近づけば、霧《きり》の塊《かたまり》のように掻《か》き消えてしまうような気がしたのだ。  ホロがコップを置いたままうつむかせていた顔を上げると、やはりその顔は困ったように笑っていた。 「ぬしは本当にお人好《ひとよ》しじゃな。そんな顔されるとわっちのほうが困りんす」  こんな時になんと言うべきなのか。ロレンスは頭の中に的確な言葉を持たない。  今この場で二人の間にずれがあることは明白だ。  しかし、それを是正《ぜせい》するための言葉が出てこない。場当たり的な嘘《うそ》を言ってもホロに対しては通じない。  それに、なによりもホロの言葉がロレンスの口を重くさせる。何年かけてもヨイツを見つけてお前を連れて行ってやる、とはとても言えない。その台詞《せりふ》を口にするには、商人というイキモノはあまりにも現実的過ぎる。何百年と生きるホロの存在は、あまりにも遠かった。 「当たり前のことを忘れておったのはわっちのほうじゃ。ぬしの側《そば》は居心地《いごこち》がいいからの。つい……甘《あま》えてしまう」  照れ笑いながら言うホロの耳が、くすぐったそうにひくひくと動いている。少女のような言葉はかなり本心に近いものなのかもしれない。  ただ、そんな言葉を聞くロレンスは少しも嬉《うれ》しくない。  まるで、別れの挨拶《あいさつ》みたいだからだ。 「くふ、わっちゃあ酔《よ》っとるみたいじゃ。さっさと寝《ね》ないと次になにを言うかわからんな」  ホロは決して無口ではないが、自分だけ饒舌《じょうぜつ》に喋《しゃべ》る様子から余計になにか無理をしているように見えてくる。  それでも、結局ロレンスはホロになにも言葉をかけられなかった。  ロレンスにできることといえば、寝静まってからホロが一人で旅|支度《じたく》をして部屋から出て行かないかに注意することくらいだ。まさかとは思うが、ホロにはどことなくそんなことをしかねない雰囲気《ふんいき》がある。  ただ、そんな注意しかできない自分が無性《むしょう》に情けなく、大声で罵《ののし》りたかった。  夜は静かにふけていく。  閉じた木窓の向こうから、酔《よ》っ払《ぱら》いの笑い声が空《むな》しく聞こえてきたのだった。 [#改ページ]  第二幕  どれほど心配事があっても夜はきちんと眠《ねむ》れるようにできているのが商人らしい。  ホロが一人で出て行かないかと心配していたのに、気がついたら木窓の向こうから小鳥の鳴く声が聞こえていた。  慌《あわ》てて飛び起きるような失態は演じなかったものの、隣《となり》のベッドに視線を向けて、ホロがいることを確認《かくにん》した途端《とたん》に安堵《あんど》のため息をついていた。  ベッドから降り、木窓を開けて顔を出す。部屋の中も十分寒いがさすがに早朝の外の空気は段違《だんちが》いに寒く、吐《は》く息は煙《けむり》よりも白くなる。  その代わりに空は綺麗《きれい》に澄《す》み渡《わた》り、水晶《すいしょう》のような朝だった。  宿が面している大通りにはすでに人がいる。早起きが自慢《じまん》の行商人よりも早起きな町商人たちを見て、ロレンスは頭の中で今日一日の予定をおさらいしてから「よし」と一つ気合を入れた。  昨日の失敗を償《つぐな》うというわけでもないが、明日より始まる祭りをホロと共に存分に楽しむには雑務《ざつむ》を今日中に終わらせるのが望ましい。  まずはリュビンハイゲンからの積荷を売却《ばいきゃく》することからだ、と思って部屋の中を振《ふ》り返る。  そして、昨日の今日で少し気が重かったが、相変わらず眠りこけている相棒を起こそうと歩み寄ってから、ロレンスはふと眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せた。  貴族よろしく昼過ぎまで眠りこけていることも珍《めずら》しくないのでそれ自体は別にどうとも思わなかったのだが、ふとあることに気がついたのだ。  いつもなら聞こえてくる間抜《まぬ》けないびきがない。  もしや、と思って手を伸《の》ばすと、それに気がついたようにほんの少しだけ毛布がピクリと動いた。  ロレンスは毛布を軽くめくる。  直後についたため息。  毛布の下には、捨てられた子|猫《ネコ》も負けそうなほど弱々しいホロの顔があった。 「また二日酔《ふつかよ》いか」  頭を動かすと痛いのか、ゆっくりと耳を動かすだけ。  軽く説教の一つでもしてやりたくなるが、昨晩のことを思い出してすんでのところで飲み込んだ。それに、言ったところで聞く耳を持つとも思えない。 「あとで水差しと、万が一の時のために桶《おけ》を用意してもらっておくから、おとなしく寝《ね》てろ」  おとなしく、というところにだけ力を込めて言うと、やはり弱々しく耳が動かされた。  無理に言い聞かせたところでおとなしく寝ているとも思えないが、これほど辛《つら》そうならふらふらと出歩きはしないだろう。また、同様にロレンスの留守中に一人で旅|支度《じたく》を整えるというのも無理なわけだから、その点では少しほっとする。  もちろんホロの演技と思えなくもないが、顔色まで変えられるような演技はいくらなんでもできないだろう。  ロレンスはそんなことをつらつらと思いながら、それ以上ホロにはなにも言わず手早く宿を出る準備を終えて、寝返りすら打てないらしいホロにもう一度歩み寄って言葉をかけた。 「祭りは明日からが本番だから慌《あわ》てなくてもいい」  辛そうな、というのを通り越《こ》して脱力《だつりょく》しきった情けないホロの顔に、途端《とたん》に安堵《あんど》の色が浮かぶのを見て笑ってしまう。  二日酔いの辛さよりも、祭りのほうがホロには重要なようだった。 「昼過ぎには一度帰ってくる」  この言葉には興味がなかったようで、今度は耳が動かない。  ホロのあからさまな反応に苦笑いをしていると、ゆっくりとホロの瞼《まぶた》が開いて口元が笑った。  わざとやっていたらしい。  ロレンスは肩《かた》をすくめて毛布をホロの頭にかぶせた。きっと、毛布の下でホロは笑っていることだろう。  それでも、昨晩のことが尾《お》を引いていないことには素直《すなお》にほっとする。  部屋から出る直前にもう一度ホロのほうを見ると、毛布からはみ出していた尻尾《しっぽ》の先が手を振《ふ》るように二度ほど揺《ゆ》れた。  なにかうまいものを買ってきてやろう。  そう思ってロレンスは部屋の扉《とびら》を静かに閉めたのだった。  市場開放の鐘《かね》が鳴る前の商取引は、基本的にどこの町でもあまり好まれることではない。特にそれが市場のど真ん中であればなおさらだ。  ただ、そんな規則も時と場合によっては大目に見られたりもする。  クメルスンも大市《おおいち》期間中に限っては、市場が開放されてからの混雑《こんざつ》を緩和《かんわ》するために時間外の取引を半ば推奨《すいしょう》していた。  なので、ようやく建物の向こう側に太陽が見え始めてきたという早朝にもかかわらず、クメルスンの南広場の半分以上を占《し》める市場では、すでにたくさんの商人たちが忙《いそが》しく立ち回っていた。  方々に積み上げられた木箱や麻袋《あさぶくろ》に、それら荷物と露店《ろてん》とのわずかな隙間《すきま》に繋《つな》がれている豚《ブタ》や鶏《ニワトリ》などの家畜《かちく》類。それに、海から遠いこの地方で魚の最大出荷地も兼《か》ねるクメルスンならではの、アマーティが昨日運んでいたような巨大な樽《たる》の中で泳いでいる魚の姿なども見受けられた。  ホロが町に立ち並ぶ食べ物屋の露店を見るとそわそわしてしまうように、ロレンスも市場のさまざまな商品を見ていると自然と心が弾《はず》んでくる。  あの商品をあの町に運べばどのくらいの利益が出るだろうか、とか、あの商品がこれだけあるとあの地方ではかなりだぶついて値が下がっているのではないか、など、次から次へと色々な考えが頭の中を駆《か》け巡《めぐ》っていく。  駆け出しの頃《ころ》はほとんどの商品について高いのか安いのかわからずただただ市場を右往左往していたのに、今では色々なことがすぐにわかる。  網《あみ》の目のように張り巡らされた商品の相関図を完全に把握《はあく》した時、商人は錬金術《れんきんじゅつ》師になる。  なんとも格好いいその言葉に少し酔《よ》いしれてしまうが、ロレンスはリュビンハイゲンでの失敗を思い出して少し苦笑いをした。  上ばかりを見て欲を掻《か》くと足元をすくわれる。  一度深呼吸をして浮《うわ》ついた心を落ち着けると、手綱《たづな》を握《にぎ》りなおして市場の中を行く。ようやくたどり着いた目的の露店は、他《ほか》の店同様この早朝から商談の真っ最中のようだった。店の主人はロレンスと一つ違《ちが》いの商人で、元々はロレンスと同じ行商人。それが今では小さいなりに市場で屋根付きの露店を出すことのできる町の小麦商人になっているのは、自他共に認める幸運のお陰《かげ》だ。この地方の町商人を示す特徴《とくちょう》ともいえる、顔が四角くなるように整えられた髭《ひげ》もすっかり堂に入っている。  そんな麦商人マルク・コールは、ロレンスに気がついて一瞬《いっしゅん》驚《おどろ》いたように目をしばたかせると、笑顔になって軽く手を上げてきた。  商談相手の商人もロレンスのほうを見て軽く目礼する。どんなことがきっかけで知り合いになり、自分の商売の足しになるかわからない。ロレンスは商売用の笑顔《えがお》でそれに応《こた》え、商談の続きをどうぞとばかりに手を差し出した。 「レ、スパンディアミルト。ワンデルジ」 「ハハ。ピレージ。バオ」  すると、ちょうど商談も終わりだったのか相手の商人は聞きなれない言葉をマルクにかけて立ち去った。もちろん、去り際《ぎわ》にはロレンスに商人としての笑顔を向けるのも忘れない。  どこかの町で再会してもいいように、ロレンスはしっかりとその顔を記憶《きおく》にとどめておく。  こういった地道な積み重ねが思わぬ利益を生むものなのだ。  おそらくは北のどこかから行商にやってきたのだろう商人が人ごみにまぎれてから、ロレンスはようやく荷馬車を降りた。 「商談中に邪魔《じゃま》したみたいだな」 「なに、ピトラの山の神様のありがたさを熱心に説かれていたところだ。助かったよ」  木の長持ちの上に座り、手元の羊皮紙を丸めながらマルクは言って、うんざりするように笑った。  マルクはロレンスと同じローエン商業組合の商人だ。二人は毎年同じ時期同じ市場に行商に来ていたのがきっかけで知り合った仲で、互《たが》いに駆《か》け出しの頃《ころ》に知り合ったということもあって言葉|遣《づか》いに遠慮《えんりょ》はなかった。 「下手に向こうの言葉は覚えるもんじゃないな。あいつら、根は悪い奴《やつ》らじゃないんだが、言葉が通じると思うと熱心に土地の神様のご利益《りやく》を説いてくる」 「金ぴかの神殿《しんでん》の中から出てこない神様より、土地の神様のほうがご利益あるかもしれない」  ロレンスが言うと、マルクは丸めた羊皮紙でぽこんと頭を叩《たた》いて軽快に笑った。 「はは、違《ちが》いない。豊作の神様は大抵《たいてい》が美人だというしな」  ホロの顔が脳裏に浮かび、ロレンスは笑いながらうなずいておく。  ただ、性格は悪いかもしれない、とはもちろん口に出さなかったが。 「さて、こんな話をしているとまた嫁《よめ》にどやされる。商売の話でもしようか。そのつもりで来たんだろう?」  マルクの顔が世間話用から商談用に変わる。遠慮のない言葉のやり取りをする仲だといっても、それは商人としての打算的な人間関係だ。ロレンスも気を引き締《し》めて口を開いた。 「リュビンハイゲンから釘《くぎ》を持ってきたんだが、それを買い取ってもらいたい」 「釘? うちは麦の商店だ。麦の詰《つ》まった袋《ふくろ》を釘で打ちつける話でもどこかで聞いたのかい」 「長い冬を越《こ》すための北からの客が多いだろうと思ってね。麦を売るついでに釘も売れるんじゃないかと思ったまでだ。雪対策の補修には必需《ひつじゅ》品だろう」  マルクの視線がくるりと宙を泳ぎ、ぴたりとロレンスに向けられて止まる。 「確かに需要《じゅよう》はあるが……釘《くぎ》、ねえ。量は?」 「三パテの長さが百二十本、四パテが二百本、五パテも二百本。質の良さはリュビンハイゲンの鍛冶《かじ》屋組合の折り紙つき」  マルクが丸めた羊皮紙で頬《ほお》を掻《か》き、小さくため息をつく。もったいぶるのは町商人の癖《くせ》だ。 「十リュミオーネ半なら買い取るよ」 「リュミオーネの相場は? トレニー銀貨で」 「昨日の市場終了時で三十四枚ちょうど。だから……三百五十七枚か」 「安すぎるな」  仕入れ値よりも安い。即答《そくとう》したロレンスの言葉に、マルクが眉根《まゆね》をゆがめた。 「武具の暴落の話を聞いていないのか? 今年は北の大|遠征《えんせい》がなくなったせいで剣《けん》や鎧《よろい》が投げ売られてる。すなわち鋳潰《いつぶ》される鉄が増えたということだ。釘の相場だって下がってるだろう。十リュミオーネだって高いくらいだ」  予想できた反論だったので、落ち着いてやり返す。 「それはもう少し南のほうの話だろう。鋳潰される物が増えたところで、鋳潰すための燃料が高騰《こうとう》しては話にならない。この季節にプロアニアで鉄を溶《と》かしている鍛冶場があればお目にかかりたいな。そんなことをすれば薪《まき》を割るための斧《おの》で頭を叩《たた》き割られるだろう」  雪の降る地方では冬場になると薪の供給も滞《とどこお》る。そのせいで鉄を溶かすために炉《ろ》に無制限に薪をくべる必要のある鍛冶仕事は冬の間行われない。冬に鍛冶仕事をすればたちまちのうちに燃料の薪は高騰し、町の人間から罵声《ばせい》を浴びせられるだろう。すると、たとえ釘の材料になる剣や鎧|兜《かぶと》が増えたといっても、この近辺では釘の値段は据《す》え置きのはずだ。  この程度は多少経験を積んだ行商人ならわかって当然のこと。  案の定、マルクはにやりと笑った。 「まったく、麦商人に釘なんか売りつけにくるなよ。麦に関しちゃあ安く買い叩く方便をそれなりに持ってるが、釘なんか専門外だ」 「それじゃあ十六リュミオーネでどうだ」 「高い。十三リュミオーネ」 「十五」 「十四と三分の二」  ロレンスより少し背の低い、中肉中背のマルクが一本の丸太のような雰囲気《ふんいき》に変わる。  これ以上は梃子《てこ》でも動かないという意思の表れだ。  無理に押せば関係に傷がつく。ロレンスはうなずいて、右手を差し出した。 「それで頼《たの》む」 「はは、さすがだな兄弟」  握手《あくしゅ》をしながらマルクはそう言って笑った。  マルクとしてもかなり妥協《だきょう》した値段なのだろう。  麦商人として店を開くマルクは本来なら釘《くぎ》の売買には関与《かんよ》できない。どこの店がどの商品を扱《あつか》うかについては各組合によって決められていて、新しい商品を扱う際には既存《きそん》の取り扱い商人たちに許可を願うか、いくらかの分け前を差し出さなければならないからだ。  一見、円滑《えんかつ》な商取引を阻害《そがい》する不合理な取り決めだが、そうしなければ巨大な資本を持つ大商会があっという間に市場を食い尽《つ》くしてしまう。そういう事態を避《さ》けるための措置《そち》だった。 「で、現金|払《ばら》いか、それとも貸しか?」 「ああ、貸しで頼《たの》みたい」 「助かるな。この時期は現金払いが多くて参《まい》るよ」  商人同士なら帳簿《ちょうぼ》の上のやり取りや証書で取引ができるものの、村や町から商品を持ってきて現金を欲しがる者たち相手にはそうもいかない。  しかし、貨幣《かへい》不足はどこの町でも深刻だ。商品を買い取る資力はあるのに支払うべき貨幣がなければ商売は成り立たない。文字も読めない農夫には証書など鼻紙程度の値打ちしかない。  荒野《こうや》では剣《けん》を持つ騎士《きし》がもっとも強いが、町中では現金を持つ者が一番強い。教会が経済的に豊かになる原因はここにあったりもする。毎週毎週寄付金という形で現金が手に入るのだから、強くないわけがない。 「それでだ、貸しでいい代わりに、頼みたいことがあるんだが」  長持ちから立ち上がり、荷馬車の荷台に積まれている釘を取りにこようとしたマルクに声をかけると、途端《とたん》に警戒《けいかい》心を顕《あら》わにした視線を向けられる。 「本当に大したことじゃない。ちょっと用があって北のほうに行きたいんだが、道や土地の情勢を北の連中に聞いてもらいたいんだ。さっきみたいに客として来るだろう?」  商売の損得《そんとく》に関《かか》わらない頼み事だからか、マルクはあからさまにほっとした顔をする。  わざとらしいマルクの仕草に苦笑いだが、釘をロレンスに都合の良い値段で買い取らされたささやかな仕返しだろう。 「ああ、それくらいならお安い御用さ。しかし、それなら毎年のように夏に来れば苦労も少なかっただろうに。わざわざ冬の中行こうとするなんざ、よっぽどのことだな」 「まあ、色々あってね。儲《もう》け話じゃないとだけは言っておく」 「ははは。旅から旅の行商人でも、渡世《とせい》の義理だけは追いかけてくる、ってやつか。それで、どの辺に行くつもりだ」 「目的地はヨイツという場所なんだが、わかるか?」  片眉《かたまゆ》を器用に吊《つ》り上げ首をひねり、荷台の縁《ふち》に手をかけながらマルクは答える。 「知らないな。が、俺たちの知らない町や村なんて山ほどあるからな。その名前を知っている奴《やつ》を見つければいいのか?」 「ああ、いや、とりあえずはニョッヒラを目指すつもりだから、ヨイツのことはついでに聞いてくれるだけでかまわない」 「おう、わかった。ニョッヒラ方面ならドラン平原経由だな」 「話が早くて助かる」  マルクはうなずきながら任せろとばかりに胸を叩《たた》く。マルクなら旅に必要な適切な情報を集めてくれるだろう。  ロレンスが麦商人であるマルクに釘《くぎ》を売りつけに来たのはこれを期待してのこと。ただ、目も回るほど忙《いそが》しいはずのところに情報収集を単に頼《たの》むのは心苦しいし、マルクもよく思わないはずだ。  だから、ロレンスは麦商人であるマルクに釘を売りに来た。ロレンスはマルクが鉄細工師と懇意《こんい》にしているのをよく知っている。つまり、ロレンスから買い取った釘を右から左に転売してそれなりの利益を得られるはずなのだ。  それに、釘を売りつける際にいくらかを現金払いにさせることもできるだろう。今が今年最後の稼《かせ》ぎ時という麦商人には、現金を手に入れる手段ができることのほうが些細《ささい》な利益よりもよほど嬉《うれ》しいはずだった。  予想どおりマルクは二つ返事で了承《りょうしょう》してくれた。これで旅路に関する情報収集は一段落だ。 「ああ、そうだ。もう一つ聞きたいことがある。大丈夫《だいじょうぶ》、ここですぐ終わることだ」 「俺がそんなにケチに見えるのかよ」  マルクの苦笑いに合わせてロレンスも笑い、口を開く。 「この町に年代記作家とかいなかったか?」  そして、マルクはきょとんとする。 「年代記、作家? ってあれか。延々と町の日記をつけている奴《やつ》らか」  教会や貴族から報酬《ほうしゅう》を貰《もら》い、町や土地の歴史をつづる役目を負っているのが年代記作家だ。  しかし、それを町の日記をつける奴と評するマルクの乱暴さには笑うしかない。  それに、当たらずとも遠からずなのがなんとも面白《おもしろ》い。 「そんなふうに評されたら怒《おこ》るだろう」 「一日中|椅子《いす》に座って文字を書いているだけで金がもらえるなんざ気に食わねえな」 「呆《あき》れるような偶然《ぐうぜん》からこの町で露店《ろてん》を開けるようになったお前に言われたくないと思う」  マルクの偶然話はこの町では有名だ。  ぐっと言葉に詰《つ》まったらしく、ロレンスは改めて笑った。 「で、いなかったか」 「あー……確かいたな。ただ、あんまり関《かか》わらないほうがいいぜ」  ロレンスの荷馬車の荷台から釘の詰まった袋《ふくろ》を手にしながらマルクはあとを続ける。 「どこかの修道院から異端《いたん》視されて逃げてきたという話だ。この町にはそういう連中が多いだろう?」  正教徒と異教徒のいがみ合いよりも経済の発展を重視して造られたクメルスンは、自然と教会権力を排除《はいじょ》する形になるためこの町に逃げ込む自然学者や思想家、それに異端《いたん》者は多い。 「ちょっと話を聞きたいだけだ。年代記作家は土地の昔話や言い伝えなんかも集めてたよな。そのへんを聞きに行きたいんだ」 「また妙《みょう》なものに興味を持ったもんだな。北のほうに行った時の話の種作りか」 「まあそんなもんだ。それで、いきなり訪ねるのもなんだから、誰《だれ》か仲介《ちゅうかい》できるような人も知らないか」  マルクは少し首をひねってから、釘《くぎ》の詰《つ》まった袋《ふくろ》を片手に露店《ろてん》を振《ふ》り向いて大声で人を呼ぶ。  奥に積み上げられた麦袋の山の陰《かげ》から出てきたのは少年だ。マルクはいつの間にやら弟子《でし》を取れるような身分になっていたらしい。 「一人いたな。ローエンの奴《やつ》のほうがいいだろう?」  弟子の小僧《こぞう》に釘の詰まった袋を次々押しつけながら言うマルクを見ていると、ロレンスの胸中でますます早くヨイツを見つけて元の行商に戻《もど》りたいという気持ちが強くなる。  ただ、そんなことをホロに悟《さと》られればまた面倒《めんどう》なことになるし、ロレンスとしてもホロと早々に別れたいと思っているわけではない。  この相反する気持ちの整理をロレンス自身つけられない。  ホロと同じ時間を生きられるのならば、一年や二年商売を放り出したってかまわない。  しかし、ロレンスの人生はあまりにも短い。 「どうした?」 「え? あ、いやなんでもない。ああ、組合にいるのならそのほうがいい。仲介を頼《たの》めないか?」 「もちろんそのくらいならかまわないぜ。無償《むしょう》でやってやるよ」  無償で、のところに力を入れたマルクに思わず笑ってしまう。 「早いほうがいいか?」 「できれば」 「なら、先に小僧を走らせておくか。商館にギ・バトスって名前の古株の行商人がいると思う。恐《おそ》れ知らずの人でな、この町で最も関《かか》わっちゃならない連中と商売をしている。確か年代記作家の異端の修道士とも懇意《こんい》のはずだ。毎年祭りの前後一週間くらいはのんびり休養してるような人だから、多分昼|頃《ごろ》行けば商館で飲んだくれてるだろう」  同じ組合所属であっても、行商人同士であったり、アマーティのようにあまり接点のない商売をしていると顔や名前を知らない場合がたくさんある。  ロレンスはギ・バトスの名前を復唱して、頭に刻み込んだ。 「わかった。恩に着る」 「はは。この程度で恩に着せてちゃあとが怖《こわ》い。それより、お前も祭りが終わるまでは町にいるんだろう? 一回くらいうちに飲みに来いよ」 「ああ、恩返しに一度くらいはお前の家|自慢《じまん》を聞きに行くとするよ」  マルクは声を上げて笑うと、最後の釘《くぎ》の詰《つ》まった袋《ふくろ》を小僧《こぞう》に押しつけて小さくため息をついた。 「だが、町商人になっても悩《なや》みや苦労は尽《つ》きないもんだな。行商人に戻《もど》りたい、と思うことがしょっちゅうだ」  依然《いぜん》として行商人の身で、日々店を持つために金を稼《かせ》ぐロレンスには曖昧《あいまい》に同意することしかできない言葉だったが、マルク自身それに気がついたようだ。「忘れてくれ」とばつが悪そうに笑った。 「ま、互《たが》いに頑張《がんば》るしかない。商人はいつだってそうだろう?」 「そうだな。互いに頑張ろう」  ロレンスはマルクと握手《あくしゅ》を交《か》わし、新たに客が訪《おとず》れたこともあってマルクの店をあとにした。  荷馬車をゆっくりと進めてから人ごみにまぎれる直前、ロレンスは後ろを振《ふ》り向いてマルクの露店《ろてん》を見る。  もうロレンスのことなど忘れて次の客と商談に入っているマルクの姿は正直ロレンスにとって羨《うらや》ましいものだ。  しかし、そんな町商人になったマルクでも行商人に戻りたいと思うことがあるという。  その昔、自国の窮状《きゅうじょう》を打破するべく豊かな隣国《りんこく》へ戦争を仕掛《しか》けようとした王様にある宮廷《きゅうてい》詩人がこう言ったという。  自分の領土《りょうど》は悪いところだけが見え、隣《となり》の領土は良いところだけが見えるものでございます、と。  ロレンスはその言葉を思い出して少し我が身を振り返ってみる。  ホロの故郷探しのことやリュビンハイゲンでの騒《さわ》ぎから店を持つ夢が遠のいたことなどばかりが目につくが、よくよく考えればホロという得がたい連れと旅ができているのだ。  もしもホロと出会わなかったと考えれば、今も独《ひと》りで孤独《こどく》に苦しみながら同じ行商路をぐるぐるしていたことだろう。  しかも、荷馬が人に変わって話し相手になってくれないか、などと半ば本気で思っていたくらいなのだ。それを思えば今のロレンスは一つの夢が実現した状態ともいえる。  この先、また独りの行商に戻る可能性は高い。そうなった時、きっとロレンスは今のことを懐《なつ》かしく思い出すだろう。  それを思ってロレンスは手綱《たづな》を握《にぎ》りなおす。  商会や商館への挨拶《あいさつ》回りを午前中で終えたら、ホロにとびきりうまい昼飯を買って行ってやろうと思ったのだった。  教会のないクメルスンでは、昼を告げる際にはこの町で最も高い屋根を持つ貴族の家に取り付けられた鐘《かね》が盛大《せいだい》に叩《たた》かれる。もちろんその鐘には豪奢《ごうしゃ》な彫《ほ》り物が施《ほどこ》され、町のあちこちから視線を向けられることになる屋根は一流の職人によって手入れをされている。  貴族が見栄《みえ》のためだけにわざわざしつらえた鐘と屋根は、総額で三百リュミオーネをくだらないといわれているが、そういうことができるからこその貴族なのだろうと妬《ねた》むことすら忘れてしまう。  倉庫の中に金貨をしこたまためこんでいる豪商《ごうしょう》のほとんどが妬まれるのは、こういった遊び心がないからなのかもしれない。粗暴《そぼう》で有名な騎士《きし》だって、金|遣《づか》いの荒い者は町で人気者だ。  ロレンスがそんなことを考えながら宿の部屋の扉《とびら》を開けると、途端《とたん》に鼻につく酒の臭《にお》いに思わず顔をしかめていた。 「こんな臭《くさ》かったのか……」  ろくに口もすすがずに外に出たのは失敗だったかなと思ったが、多分この臭いのほとんどが未《いま》だ眠《ねむ》っている狼《オオカミ》のせいだろう。  ロレンスが部屋に入っても一向に起きる気配はなかったが、いつもどおりの間抜《まぬ》けないびきが聞こえていたので体調はだいぶ回復したのかもしれない。  あまりに部屋が酒臭いので木窓を開けてからベッドに歩み寄ると、そのすぐ側《そば》には空になりかけている水差しと、幸いなことに空のままの桶《おけ》が置かれていた。毛布からはみ出た顔も血色が良くなっている。甘《あま》い蜂蜜菓子《はちみつがし》の代わりに滅多《めった》に買わない小麦パンを買ってきたのは正解だった。  きっと、目を覚ましたら開口一番腹減ったと言うに違《ちが》いない。  手に持っている小麦パンの入った麻袋《あさぶくろ》をホロの鼻に近づけると、小さな鼻がヒクヒクと動く。硬《かた》くて苦いのが当たり前なライ麦や燕麦《えんばく》のパンとは違い、甘くて柔《やわ》らかい小麦パンはその香《かお》りもうまそうだ。  本当に眠っているのか怪《あや》しくなるほど匂いを嗅《か》いでいたホロは、やがて「ふが」と間抜けな声を出し、直後にもそもそと毛布の中に顔をうずめた。  視線をホロの足元のほうに向ければ、毛布からはみ出た尻尾《しっぽ》がふるふると震《ふる》えている。  大|欠伸《あくび》でもしているのだろう。  しばし待つと、案の定|涙《なみだ》を滲《にじ》ませたホロが毛布の下から顔を出した。 「むう……なにか物凄《ものすご》くよい匂いが……」 「気分はどうだ?」  ホロはこしこしと目をこすってから、もう一度欠伸をはさんで独《ひと》り言《ごと》のように返事をする。 「……腹減った」  ロレンスはこらえきれずに笑い出してしまった。  しかし、ホロは特に興味もなさそうにゆっくり体を起こして、もう一度|欠伸《あくび》をする。それから、ふんふんと鼻を鳴らすと無遠慮《ぶえんりょ》な視線をロレンスが持つ麻袋《あさぶくろ》に向けてきた。 「そう言うだろうと思って、奮発《ふんぱつ》して小麦のパンを買ってきたんだよ」  麻袋ごと渡《わた》すと、気高い賢狼《けんろう》は途端《とたん》に匂《にお》い袋を前にした猫《ネコ》になったのだった。 「ぬしは食べんのかや」  ベッドに腰掛《こしか》けながら麻袋を抱《かか》え込み、真っ白い小麦パンをがっつく様はどう見ても袋の中身を他人に譲《ゆず》り渡すような心の広い食べ方には見えない。  大体、そんなふうに聞きながらも目つきは獲物《えもの》を盗《と》られまいとする猟犬《りょうけん》のそれなのだ。  食べ終わる前に一応聞いておくというのが、ホロなりに精|一杯《いっぱい》の気遣《きづか》いなのだろう。 「ああ、俺はいい。先に味見で食べてきた」  普通ならば勘《かん》ぐるところだが、嘘《うそ》を見|抜《ぬ》けるホロはその言葉が真実だと即座《そくざ》にわかったらしい。あからさまにほっとした顔をすると再びパンへの猛攻《もうこう》を開始した。 「喉《のど》に詰《つ》まらせるなよ」  ホロと出会ってすぐに立ち寄った教会で、ジャガイモを喉に詰まらせていたことを思い出す。ホロは嫌《いや》そうな顔をして睨《にら》んできたが、ロレンスは軽く笑って腰掛けていた机から体を離《はな》し、椅子《いす》を引いて座った。  机の上には蝋《ろう》で封《ふう》をされた数枚の手紙。商館にもひとまず顔を出してきたら、ロレンス宛《あて》でいくつかの町から送られてきていたのだ。  年中旅に暮らす行商人といっても、季節ごとに立ち寄る町は決まっているので意外と手紙を受け取る機会というものは多い。  どこそこの町を経由してくるのならば来年あの商品を買ってきてくれれば高く買い取るだの、今この商品が高いがあちらの地方はどうだった、などさまざまだ。  それにしても、とロレンスは思う。クメルスンには毎年夏にしか来ないというのに、冬を目前にしたこの時期にすでに手紙が来ているというのは珍《めずら》しいことだ。下手をすればこの手紙は半年以上商館の棚《たな》の中で眠《ねむ》っていることになったかもしれない。今回の場合はその手紙がクメルスンに着いてから二週間以内にロレンスが来なければすぐさま南に向けて送るようにとすら書いてあったが、手紙を送るには言うまでもなくそれなりの金がかかる。  かなり急を要しているのがよくわかった。  差出人はどちらもプロアニアの北のほうに位置する町に住む商人だ。  ロレンスが慎重《しんちょう》に蝋《ろう》をナイフで削《けず》っていると、ふと気配を感じたので顔を上げればホロが興味探そうに覗《のぞ》き込んでいた。 「手紙だよ」 「ふむ」  ホロは短く返事をして、パンを片手に机に腰掛《こしか》ける。  見られて困るものでもないので、ロレンスはそのまま封《ふう》を開けて中身を取り出した。 「親愛なるロレンス殿《どの》へ……」  神の御名《みな》に於《お》いて、という文句から始まらないのがいかにも北からの手紙らしい。  ロレンスは前口上を飛ばして本文に目を落とす。  相当|慌《あわ》てて書かれたことが窺《うかが》える乱れた筆跡《ひっせき》を目で追っていくと、内容は一瞬《いっしゅん》で把握《はあく》できた。  確かに商人にとって重要な情報がそこには書かれていた。  しかし、ロレンスはもう一通の手紙にも目を通し、同じ内容が書かれているのを確認《かくにん》してため息をつき、それから小さく笑ったのだった。 「なにが書いてあったんじゃ?」 「なにが書いてあったと思う?」  質問に質問で返されたのが不快だったのか、ホロは少しむっとしたものの視線を宙に泳がせてから答えた。 「恋文ではなさそうじゃな」  こんな荒々《あらあら》しい筆跡の恋文をもらったら百年の恋も冷めるというものだろう。  ホロに手紙を差し出しながら、ロレンスはもう一度笑った。 「必要な情報というものは、大抵《たいてい》いらなくなってから来るものだ」 「ふむ」 「親切心で送ってくれたんだから礼の一つもしなきゃならないが、まったくどう思う?」  さすがに満腹になったのか、それとも全部食べてしまったのか、ホロは指をなめながらもう片方の指でつまんだ手紙に目を走らせる。  そして、不機嫌《ふきげん》そうにつき返してきた。 「わっちゃあ字が読めぬ」 「あれ、そうなのか」  少し驚《おどろ》いて手紙を受け取ると、ホロの目がすっと細まった。 「わざと言っておるのであればぬしも腕《うで》を上げたの」 「いや、悪い。知らなかった」  ホロは言葉の真偽《しんぎ》を見定めるようにじっとロレンスのことを見てから、そっぽを向いてため息をついた。 「大体じゃな、まず覚える文字の種類が多すぎる。それからじゃな、不可解な組み合わせが多すぎる。喋《しゃべ》っておることを決まりに従って書けばよいとはいうが、明らかにそれは嘘《うそ》じゃろう」  どうやら、ホロは一度文字を覚えようとしたらしい。 「子音《しいん》表記とかか」 「なんと呼ぶかは知らぬが、ややこしい決まり事じゃ。ぬしら人がわっちら狼《オオカミ》より優《すぐ》れておるとすれば、その不可解な文字を操《あやつ》れるということじゃ」  危《あや》うく、他《ほか》の狼たちも書けなかったのかと聞くところだったが、すんでのところで飲み込んで同意をしておく。 「けど、皆《みな》簡単になんか覚えられないだろ。俺も散々苦労したよ。しかも間違《まちが》えるたびに師匠《ししょう》に頭を殴《なぐ》られてたからな。頭の形が変わるかと思ったよ」  ホロは疑わしげな視線を向けてくる。単なる気遣《きづか》いの嘘《うそ》なら直ちに怒《おこ》ると言わんばかりだ。 「嘘がないことくらいわかるだろう?」  ロレンスがそう言うと、ホロはようやく疑わしげな視線をそらした。 「で、なんと書いてあったんじゃ?」 「ああ、今年は北の大|遠征《えんせい》が取りやめになったから、武具の扱《あつか》いに注意しろ、だとさ」  ロレンスが受け取った手紙を放《ほう》り投げながら言うと、ホロはきょとんとしたあとに苦笑いをした。 「その手紙を早くに受け取っておれば、あんなことにはならなかったのかや」 「そのとおりだ……が、まあ結果論だ。この手紙を出してくれた二人が、金を使ってでも俺にこの情報を知らせてくれようとしたということがわかっただけ儲《もう》けものだ。この二人は今後とも信用できる」 「ふうん。じゃが、手紙を見ると見ないとでは天国と地獄《じごく》じゃな」 「笑えないが、まったくそのとおりだ。手紙一枚に入る情報が、本当に運命の分かれ道だ。情報がなければ商人は戦場で目隠《めかく》しをするようなものだ」 「ぬしは照れ隠しならいつもしておるがな」  手紙を封筒《ふうとう》にしまおうとしていた手が止まり、その瞬間《しゅんかん》にしまったと胸中で呟《つぶや》いていた。 「あふ。ぬしをからかっても眠気《ねむけ》すら覚めんな」  欠伸《あくび》をしながら机から下り、ベッドのほうに歩いて行くホロを苦々しく目で追うと、くるりと振《ふ》り返ってこちらを見た。 「で、ぬしよ、もう祭りに行けるんじゃろ?」  ベッドの上に脱ぎ捨ててあったローブを手にするホロは、音がしそうなほど目をらんらんと輝《かがや》かせている。そんな様子を見ていると連れて行ってやりたくもなるが、生憎《あいにく》とまだ用事が残っていた。 「悪いな、まだ無理……」  と、言葉が途中《とちゅう》で切れたのは、ホロが瞬時に泣きそうな顔に変わってローブを握《にぎ》り締《し》めていたからだ。 「冗談《じょうだん》でもそういうのはやめてくれないか」 「やはりぬしはこういうのに弱いのかや。覚えておく」  ホロの演技を見破ったはいいものの、そんな言葉に抗《こう》する術《すべ》は持たない。  また一つ嫌《いや》な弱点を知られたと、げんなりしながら机のほうに向きなおった。 「うむ……しかしぬしよ。わっちだけで町に行っては駄目《だめ》かや?」 「駄目だと言ってもどうせ行くだろう」 「む、そう言われるとそうなんじゃが……」  封筒に手紙を入れなおしてから再び振り向くと、ホロは気まずそうにローブを握っていた。  言ったそばからその手を使うのかと、半ば呆《あき》れながら思ったもののすぐに気がついた。  金も持たずに祭りに行けば、立ち並ぶ露店《ろてん》を前に生殺しの憂《う》き目《め》に遭《あ》うのは間違《まちが》いない。  要するにいくらか軍資金が欲しいのだろうが、それをすんなり口に出せるほどホロも堕《お》ちてはいないようだった。 「ちょっと今細かいのがないが……あんまり派手に使うなよ」  椅子《いす》から立ち上がり、腰《こし》にくくりつけてある皮袋《かわぶくろ》からイレード銀貨と呼ばれるものを一枚取り出して、歩み寄ってきたホロに手渡《てわた》した。  クメルスンを所有する貴族の、七代目当主だかの肖像《しょうぞう》が刻まれた貨幣《かへい》だ。 「トレニー銀貨ほどの価値はないから、店でパン一つ買っても嫌な顔はされない。きちんと釣《つ》りは渡してくれる」 「うむ……」  ホロは銀貨を手にしてもまだ歯切れの悪い返事をする。次にロレンスの頭に浮かぶのは、どうにかしてもっと銀貨をせしめようと画策しているのではという疑念。  ただ、警戒《けいかい》心を悟《さと》られてはさらにそこをうまく突《つ》かれてしまう。  ロレンスは努めて平静を装《よそお》って訊《たず》ねていた。 「どうした?」 「んむ? うん……」  しおらしい態度の時は要注意。  ロレンスの頭が商談用に切り替《か》わる。 「やはり、一人で行っても仕方ないかやと思っての」  そして、その瞬間《しゅんかん》頭は空転した。 「ぬしはなんの用事が残っておるのかや。そっちに連れて行ってもらえるなら、銀貨は返しんす」 「え、あ、いや、なんだ、人と会うんだが……」 「どうせぶらぶらするのは同じじゃからな。わっちと連れ立っておるのがまずいなら離《はな》れておる。それでもよいから、連れて行ってくれぬかや?」  特別|媚《こ》びるわけでも、しおらしくしているわけでもなく、普通《ふつう》に連れて行ってくれと頼《たの》んでいるように見える。  連れて行ってくりゃれ? と小首を傾《かし》げて言われたら少し演技を疑ったかもしれない。  ただ、今回は頼《たの》み方が普通な割に妙《みょう》に弱気だ。  これが演技なのであれば、引っかかってもかまわない気がする。  それに、もし演技でなかったとしたら、こんな様子のホロを疑えばきっとホロは傷つくだろう。 「本当にすまないが、今日一日は一人でいてくれないか。このあと、人に会わなくちゃならないし、そのままその人の紹介《しょうかい》で別の所に行くかもしれない。外で待ってもらうにしても、ほとんどずっとになる」 「うむ……」 「今日中に雑用を全部片づけてしまえば明日からは落ち着いて祭りを見物できるはずだ。だから、今日一日は一人で我慢《がまん》してくれないか」  両手の指の数で足りてしまうような年齢《ねんれい》の女の子を諭《さと》すような口調になってしまったが、ベッドの横に佇《たたず》んでいるホロの様子はそれくらいか弱い。  それに、ホロの気持ちもなんとなくわかった。  ロレンスがクメルスンには夏にしか来ないのも、冬の大市《おおいち》と共に開かれる祭りに一人で参加したくないからだ。  体が触《ふ》れ合うほどの人ごみであればあるほど、一人でいることの寂《さび》しさが身にしみる。  商館で宴会《えんかい》を催《もよお》していて、一人だけ旅人用の宿に帰るなんてことも同じくらいに寂しい。  連れて行ってやりたいのはやまやまだが、このあとの用事に同席させるわけにはいかない。  このあと、ギ・バトスの紹介《しょうかい》でこの町の年代記作家に会うことになっている。年代記作家のことは商館の館長も知っていたらしく、手紙を受け取るついでにいくらか話も聞いた。その年代記作家はロレンスが予想したとおりにプロアニア一帯はもちろんのこと、プロアニア以北の異教の物語も収集し書物にしているらしい。  そこにホロを連れて行き、万が一ヨイツに関する昔話が出たとしたらまずいことになる。ロレンスが聞いたことのある昔話がヨイツの町が熊《クマ》の化け物によって滅《ほろ》ぼされたというものであるのだから、実はヨイツの町は今でも繁栄《はんえい》していますという話が出てくるとは到底《とうてい》思えない。  それをずっと隠《かく》し通すのは難しいことだろうが、頃合《ころあい》を見計らって言うくらいのことはするべきだと思った。この問題は、とても繊細《せんさい》なのだから。  ホロとの間に少し沈黙《ちんもく》が流れる。 「うむ、まあ、ぬしの邪魔《じゃま》をするのもよくありんせん。それに、またぬしに手を叩《たた》かれても困るからの」  殊更《ことさら》悲しげに言ったのは演技だろう。  それでも、リュビンハイゲンでホロの手を叩いてしまったことは未《いま》だロレンスの胸を痛ませる。察しのいい賢狼《けんろう》はそこのところをわかっていてわざと言っているのだろう。自分のわがままを聞いてくれなかったことに対する、ささやかな復讐《ふくしゅう》だ。 「なにか土産《みやげ》を買ってくるから、今日のところは我慢《がまん》してくれ」 「……また物で釣《つ》るのかや?」  批難《ひなん》がましい目つきのくせに、尻尾《しっぽ》は期待するように揺れている。 「じゃあ甘《あま》い言葉のほうがいいか?」 「ふん。ぬしの言葉なんぞ青くてしょっぱくて食えぬ。こちらから願い下げじゃ」  ひどい言いようだが、ホロが機嫌《きげん》を直したように笑っているので、ロレンスはおとなしく降参を示して手を振《ふ》った。 「ま、一人でぶらぶらしてきんす」 「悪いな」  ロレンスが言うと、ホロはなにかに気がついたように声を上げた。 「そうじゃ、帰りが二人になっておったら、ぬしは悪いが部屋から出てくりゃれ?」  一瞬《いっしゅん》どういう意味かわからなかったが、すぐに町で誰《だれ》かを引っ掛《か》けてきたらという意味なのだと気がついた。  ホロくらいの器量ならばいくらでもありえそうな気がする。  しかし、その言葉に対しどんな顔をすればいいのかわからない。  怒《おこ》ればいいのか、笑えばいいのか。いや、無視するのが一番だと気がついた時には、ホロが心底楽しそうに笑っていた。 「ぬしの可愛《かわい》い顔が見れたから、今日一日くらい一人でも大丈夫《だいじょうぶ》じゃな」  からからと笑うホロに、ロレンスはため息をつくほかない。  本当に、腹の立つ狼《オオカミ》だ。 「ま、今のところぬしの腕《うで》の中が一番じゃからな。安心するがよい」  またしても言葉に詰《つ》まる。  本当に、本当に腹の立つ狼だった。  昼過ぎということもあり、さすがに商館の扉《とびら》を開けると人の数は増えていた。  クメルスンの町商人や、クメルスンを中心に商売を行う行商人たちの中には祭りを楽しむためにしばらく開店休業の者たちも多いらしく、商館は昼から酒と笑い声に満ちていた。  年代記作家への仲介《ちゅうかい》役を頼《たの》むことになっているバトスはマルクが言うほど飲んだくれでもないらしく、午前中に商館に立ち寄った時は商用で町に出ているとのことだった。  館長に聞けばまだ帰っていないとのことで、人と会うので酒が飲めないロレンスはどうやって時間をつぶそうかと少し悩《なや》む。  似たような境遇《きょうぐう》の商人も何人かいるにはいるが、彼らも酒場のような雰囲気《ふんいき》に飲まれてカード博打《ばくち》にいそしんでいるので迂闊《うかつ》に声をかけられない。  仕方がないので同じく酒を飲んで酔《よ》っ払《ぱら》うことのできない館長と世間話をしていたのだが、そのうちに扉《とびら》が開いてまた一人商館にやってきた。  入り口から真正面に入った所で館長と話していたために誰《だれ》が入ってきたかはすぐにわかった。商人というよりも貴族の三男坊が似合う、アマーティだ。 「ロレンスさん」  アマーティもすぐに気がついたようで、入り口付近で飲んでいた商人連中に軽く挨拶《あいさつ》をしてから声をかけてきた。 「こんにちは。宿の件、助かりました」 「いえ、こちらこそずいぶん魚料理を頼んでいただけたようで助かります」 「味にうるさい連れが絶賛していましたよ。魚の目利《めき》きができていると」  ロレンス自身が魚をうまかったと言うよりも効果的だろうと思ったら、案の定だった。  アマーティの顔が、商人ではなく少年のように輝《かがや》いた。 「はは、そう言っていただけると嬉《うれ》しいです。なにかご希望の魚があれば明日にでもとびっきりのものを買いつけてきますよ」 「鯉《コイ》が特にうまいと言ってましたね」 「なるほど……わかりました。また喜んでいただけるようなものを見つけてきましょう」  ロレンスは自分の好みを聞かれなかったことに胸中で苦笑いだったが、きっとアマーティはそんなことにも気がついていないだろう。 「あ、ところで、ロレンスさんはこのあとなにか御用事が?」 「バトスさんとお会いしたく時間をつぶしている最中です」 「そうですか……」 「どうかしましたか?」  アマーティは突然顔を曇《くも》らせて口ごもるが、切った張ったの魚の買いつけに明け暮れる商人らしく、すぐさま意を決して口を開いてきた。 「ええ、実は町のご案内でもできればな、と思いまして。ロレンスさんと買いつけの道すがら出会ったことも神のお導きでしょうし、行商人の方のお話を伺《うかが》えれば見聞も広まるのではないかと」  うまく下手に出てはいるが、ホロ目当てなのはロレンスにだってわかる。ホロではないが、アマーティに尻尾《しっぽ》がついていればそわそわと揺《ゆ》れている様が透《す》けて見えるようだった。  そして、ロレンスはちょっとした名案を思いついた。 「せっかくお誘《さそ》いいただいたのに残念です。連れのホロも町を見て回りたいと朝からごねてましたのでよい機会だったのですが……」  アマーティの顔色が変わった。 「もしよろしければ、ホロさんだけでもご案内いたしますよ。実は、今日はもう仕事がなくて暇《ひま》なんです」 「そんな、申し訳ないです」  うまく驚《おどろ》けたかどうかわからなかったが、アマーティにはロレンスの細かな表情の変化など読み取れてはいないだろう。  その視線の先にはホロしかいない。 「いえ、一人でぶらぶらしていると酒で商売の儲《もう》けを飲んでしまいますから。ちょうどいいというと言葉が悪いですが、ご案内いたしますよ」 「そうですか? ただ、一人で宿にいてくれと言っておとなしくしているような奴《やつ》ではないので宿にいるかどうかわからないのですが」 「はは。ちょうど宿のほうに仕入れの相談もありましたので、顔を出しがてらいらっしゃったらお誘《さそ》いします」 「申し訳ないです」 「いえいえ、その代わり、今度はロレンスさんも町をご案内させてください」  このへんの口上はきちんとした商人のものだ。  ロレンスよりもおそらく五か六は若いし、見た目は頼《たよ》りないアマーティだがその実しっかりとした商人なのだろう。  ホロに気を奪《うば》われつつも押さえるところはしっかりと押さえてくる。  うかうかしていられないな、とロレンスが思っているところに再び商館の扉《とびら》が開いた。  ロレンスと同時に扉のほうに視線を向けたアマーティが「ちょうど良い頃合《ころあい》でしたね」と言ったのでそれが誰《だれ》かすぐにわかった。  待ち人|来《きた》れり、というやつだ。 「それでは、ロレンスさん、私はこれで」 「あ、はい。よろしくお願いします」  他《ほか》になにも用事がなかったのか、それともホロのことで頭が一杯《いっぱい》で用事を忘れてしまったのか、アマーティはそう言って商館から出て行った。  銀貨を渡《わた》してきはしたが、ホロはきっと今頃ベッドの上でごろごろしていることだろう。  アマーティのあの様子ならばねだればねだっただけ物を買ってもらえそうだし、ホロのいいカモに違《ちが》いない。  そんなアマーティを思うと少し気の毒ではあったが、あの様子なら喜んで財布《さいふ》の紐《ひも》を緩《ゆる》ませるはずだ。  他人の財布でホロの機嫌《きげん》を買えるのならこれほど嬉《うれ》しいこともない。  ただ、残念なのはこれくらいの頭の回り方がホロの前だとできないということだ。  常に一歩先どころか、小手先であしらわれてしまう。  やはりホロが長生きしている分だけ差があるのだろうかと思っていると、アマーティと入れ替《か》わりに商館に入ってきた男が、ぐるりと一通り商館の中を見回したのちにロレンスのほうに歩いてきた。  マルクの店の小僧《こぞう》がクメルスンの町を駆《か》けずり回ってくれたらしく、事前にロレンスのことがバトスに連絡《れんらく》が行っているはずなので当たりをつけてきたのだろう。  ロレンスは軽く目礼して、商談用の笑《え》みを顔に浮かべた。 「クラフト・ロレンスさんですか。ギ・バトスです」  そう言って差し出してきたバトスの右手は、歴戦の傭兵《ようへい》のようにごつく、分厚かった。  マルクの説明を聞いた感じでは、バトスは商売の儲《もう》けよりも儲けた金で酒を飲むのが楽しみな行商人のようだったが、実際に会ってみるとまったく逆の雰囲気《ふんいき》を身にまとっていた。  道を歩くバトスの体は棺桶《かんおけ》を少し縦《たて》から潰《つぶ》したような安定感のあるもので、ウニの棘《とげ》のような無精髭《ぶしょうひげ》が生えている顔は風と砂埃《すなぼこり》に鍛《きた》えられたなめし革《がわ》のようだ。握手《あくしゅ》をした右手ものんびり馬車馬の手綱《たづな》を握《にぎ》って日々を過ごすようなものではなく、年中重いものを持っていることがすぐにわかるほど。  そのくせ、頑固《がんこ》そうでも偏屈《へんくつ》そうでもなく、出てくる言葉は温和な聖職者のように柔《やわ》らかい。 「最近はロレンスさんのように諸国を巡《めぐ》る方のほうが多いようですね。同じ所を行ったり来たりしている私はそろそろ同じ商品を扱《あつか》うのに飽《あ》きてきました」 「そんなこと言ったら町の小売商や職人の方に怒《おこ》られてしまいますよ」 「はははは。違《ちが》いない。皮ひもを扱《あつか》って五十年、なんて方たちもごろごろいらっしゃいますからね。飽きたなんて言ったら確かに怒られてしまいます」  そう言って笑うバトスは、ヒョーラムと呼ばれる地方の鉱山地帯を回る貴金属の行商人で、三十年近く険しい山々とクメルスンを往復しているのだという。  風が強く、木もあまり生えない険しいヒョーラムの山々を、とてつもなく重い荷物を背負って何十年も歩くというのは並大抵《なみたいてい》のことではない。  大市《おおいち》の前後に一週間ほどクメルスンに逗留《とうりゅう》するというのも、それくらいの休憩《きゅうけい》が必要だということなのだろう。 「しかし、ロレンスさんもずいぶん物好きな方ですね」 「え?」 「北の地方の昔話などを聞きたくて年代記作家を探しているということですが。それとも、なにか商売の種にする目論見《もくろみ》が?」 「いえ、そういうわけではありません。そうですね。酔狂《すいきょう》かもしれません」 「はははは。まだお若いのに良い趣味《しゅみ》をお持ちです。私が昔話などに興味を持ったのはここ最近です。本当は商売にするつもりだったのですが、逆に虜《とりこ》にされてしまいました」  昔話を商売にする、というのがちょっとロレンスには思いつかないが、バトスの話が面白《おもしろ》そうだったので黙《だま》って聞いておくことにした。 「何十年も同じ場所を行き来していて、ふと思ったんですよ。私が知っている世界というのは物凄《ものすご》く狭《せま》いです。しかし、その場所ですら何百年も前から人が行き来していて、当然私はその時のことを知らないということに」  ロレンスもバトスの言うことがなんとなくわかる。  世界の広さは、たくさんの地域を回れば回るほど無限に自分の目の前に広がっていく。  それを池の広さに喩《たと》えるとしたら、バトスが感じているのは池の深さのことだ。 「私ももう年ですし、どこか遠くに行く気力もありませんし、大昔に戻《もど》ることもできません。ですから、私が見てこられなかった世界と、また神様の意地悪のせいで遡《さかのぼ》れない大昔のことをお話としてでいいので知りたくなったのです。若い頃《ころ》は目先の利益ばかりを追いかけていてこんなことは露《つゆ》ほども思わなかったのですが、当時の私に少しでもそういった余裕《よゆう》があれば、私の人生はもっと違《ちが》ったものになったかもしれない……と。ですから、今からご興味を持たれているロレンスさんが少し羨《うらや》ましい。はは、年寄り臭《くさ》い言葉ですが」  自嘲《じちょう》気味に笑うバトスだったが、その言葉は多少なりともロレンスに感銘《かんめい》を与《あた》えていた。  確かに、そう考えると昔話や言い伝えは、自分には絶対に経験ができなかったことを知ることができるという素晴《すば》らしいものだ。  ホロと出会って数日しか経《た》っていない時、ホロが何気なく言った言葉の重さがわかったような気がした。  ぬしとは生きてきた世界が違《ちが》う。  ホロが生きてきた時間の大半は、今となっては同じ時代を生きた全《すべ》ての人間がとっくに死んでいる知られざる時間だ。  その上、ホロは狼《オオカミ》であり人ではない。  そう考えるとホロの存在がまた違った意味で特別に思えてくる。  ホロがなにを見て、聞いて、旅をしてきたのか。  宿に帰ったら、ホロがどんな旅をしてきたかを聞いてみたくなった。 「ですが、昔話や言い伝えなどは教会から見たら迷信か異教の物語でしかないですからね。教会の目があるとなかなか集められません。ヒョーラム地方は山岳《さんがく》地帯ということもあって面白《おもしろ》い話が多いのですが、あの辺は教会が目を光らせていますからね。クメルスンはその点いい町です」  プロアニアは異教徒と正教徒が混在する国だが、混在する所だからこそ教会が力を持っている地方や町では厳格な対応が取られていることが往々にしてある。  そして、そんな教会の力を排除《はいじょ》しようとしている異教徒の町は、常時臨戦態勢という物々しさだ。平和的にそれらの問題から切り離《はな》されているクメルスンは、プロアニアでは特別な存在といえるかもしれない。  しかし、そんな町であってもやはり全ての対立がなくなっているかと問われればそんなことはない。  ロレンスとバトスは年代記作家に会うために、クメルスンの北側の地区にやってきた。  クメルスンの町は拡張《かくちょう》を前提に造られているために市壁《しへき》も取り壊《こわ》しが容易《ようい》な木組みのもので、その分、道や建物はどこもゆったりとした造りになっている。  そんな町だというのに、町の中に背丈《せたけ》を超《こ》える石壁が存在した。  南やプロアニアの他《ほか》の町から教会に追われてきた者たちが住む区画を区切る石壁。  この区画が石壁で区切られているのは、町の人間がそこに住む者たちを厄介者《やっかいもの》だと思っている証拠《しょうこ》だ。この町の中では罪人でなくとも、例えばリュビンハイゲンに行けば即《そく》縛《しば》り首《くび》のような連中なのだから当然ともいえる。  しかし、とロレンスはすぐに思いなおした。  この石壁は単に彼らを隔《へだ》てるためのものではなく、必要にも迫《せま》られてそうしているのではないのかと。 「これは……硫黄《いおう》ですか?」 「はは、ロレンスさんは薬石まで扱《あつか》いますか」  数々の鉱石について有数の採掘《さいくつ》量を誇《ほこ》る鉱山がいくつもある、ヒョーラム地方を回るバトスには嗅《か》ぎなれた臭《にお》いなのかもしれないが、ロレンスはこの独特の臭気《しゅうき》につい顔が歪《ゆが》んでしまう。  石壁《せきへき》に設けられた扉《とびら》をくぐった途端《とたん》に鼻をついたその臭いは、この区画に一体どんな人間がいるのかを瞬時《しゅんじ》に知らしめる。  教会の最大の敵、錬金術《れんきんじゅつ》師だ。 「いえ……知識として知っているだけです」 「知識は商人の武器です。ロレンスさんはよい商人ですね」 「……恐縮《きょうしゅく》です」  石壁に設けられた扉をくぐると、そこは町中よりも数段地面が低くなっていた。  建物同士の間隔《かんかく》も狭《せま》く、見なれた町の路地を思い起こさせるが妙《みょう》なところもいくつかある。  まず、細い道を歩いているとやたらと鳥の羽が目についた。 「毒の風が常に臭《くさ》いとは限りませんからね。小鳥を飼《か》っておいて、彼らが突然《とつぜん》死んだら要注意です」  鉱山などに用いられる安全策というのは知っていたが、いざ実際に用いられている場所に来ると背筋を冷たいものが這《は》う。  毒の風というのは言い得て妙《みょう》だが、ロレンスとしては教会が好んで用いる死神の手という表現のほうがしっくりくる。妙に冷たい風だな、と思うと体が凍《こお》ったように動かなくなるところからきているらしい。  路地のあちこちに猫《ネコ》がいるのも、やはり鳥と同じ目的で飼《か》われているものなのか、それともその鳥を狙《ねら》って集まってきているだけなのか。  どちらにせよ、不気味な感じしかしなかった。 「バトスさん」  黙《だま》って歩いていることが苦になるというのは久しぶりだった。  猫の鳴き声と鳥の羽ばたき、それに怪《あや》しげな金属音と鼻を突《つ》く硫黄《いおう》の臭いに満ちた薄暗《うすぐら》い路地の雰囲気《ふんいき》に耐《た》えられず、ロレンスは前を行くバトスに声をかけていた。 「この区画にはどれくらいの数の錬金術師がいるんですか?」 「そうですねえ……おそらくお弟子《でし》さんも含《ふく》めて二十人いるかいないかでしょうが、なにぶんにも事故が多いので正確な数はわかりません」  しょっちゅう死人が出ているということだ。  質問を間違《まちが》えたと後悔《こうかい》して、商人らしい質問に切り替《か》えた。 「錬金術師相手の商売というのは儲《もう》かりますか? 危険もたくさんつきまとう気がするのですが」 「うーん……」  と、一体なにが入っていたものなのか、目も覚めるような緑色のなにかが付着した樽《たる》を避《さ》けながら、バトスはのんびりと答える。 「貴族様の後《うし》ろ盾《だて》をお持ちの錬金術《れんきんじゅつ》師の方たち相手の商売は大変|儲《もう》かります。金、銀、銅は言うに及《およ》ばず、鉄、鉛《なまり》、錫《すず》、水銀、硫黄《いおう》、リンなどをたくさん買っていただけますからね」  意外に普通の商品に驚《おどろ》いてしまう。  もっと怪《あや》しげな、例えば足が五本の蛙《カエル》などを買うのかと思っていた。 「ははは、意外ですか? 北を回っている方でも錬金術師は魔術《まじゅつ》師と思っている方が多いですからね。実際は金細工師と大して変わりません。金属を熱したり、酸で溶《と》かしたりしているだけです。もっとも」  狭《せま》い路地の十字路を右に曲がる。 「魔法を研究されている方がいるというのも事実です」  後ろを振《ふ》り向いたバトスが、にやりと犬歯《けんし》を見せて唇《くちびる》を吊《つ》り上げる。  ロレンスはついたじろいで足を止めてしまうが、バトスはすぐにいたずらを詫《わ》びるように笑ったのだった。 「ただ、私も噂《うわさ》程度にしか聞いたことがありませんし、この区画にいる錬金術師の方たちでも実際にそういう方に会ったことのある人はほとんどいないそうです。ちなみに、この区画にいる方たちは皆《みな》さんいい人たちですよ」  文字どおり神をも恐《おそ》れぬ所業に日々を費やすといわれる錬金術師を、いい人、などと評するのを初めて聞いた。  彼らの話題を口にする時、人はいつも恐れと好奇《こうき》のない交ぜになった言い知れぬ背徳感を覚えるものだ。 「まあ、儲けさせていただいているのですから、悪い人たちなどとは口が裂《さ》けても言えませんよ」  バトスの商人らしい言葉に、ロレンスは少しほっとして笑ったのだった。  それから間もなくして、バトスは一|軒《けん》の家の扉《とびら》の前で立ち止まった。  陽が当たらず、穴だらけの道にはどす黒い水|溜《たま》りがいくつもある。  狭い路地に面した壁《かべ》に取り付けられた木窓はひび割れていて、二階建ての建物は心なしか斜《なな》めに歪《ゆが》んでいる。  見た目はどこの町にもある貧民窟《ひんみんくつ》の一角だが、決定的に違《ちが》う点が一つある。  それは、子供のはしゃぐ声がまったくせず、静まり返っているということだ。 「そんなに緊張《きんちょう》せずとも、実に気の良い方ですよ」  何度目かわからない気遣《きづか》いの言葉を受けても、ロレンスは情けなく曖昧《あいまい》に笑うほかない。  しかし、緊張するなというほうが無理だ。  この区画には、この世でもっとも逆らってはいけないところから重罪人の烙印《らくいん》を押された者たちが住んでいるのだから。 「ごめんください」  それでもバトスは臆《おく》するふうもなく扉《とびら》をノックし、気軽な口調でそう言った。  しかし、乾《かわ》きすぎた扉はもう何年も開かれていないようにすら見える。  小さく、猫《ネコ》の鳴き声がどこからか聞こえた。  異端《いたん》の廉《かど》で修道院を追われた修道士。  やせ細った蛙《カエル》の干物《ひもの》のような老人が、ぼろぼろのローブを身にまとっている姿が脳裏に浮かんでは消えていく。  普通《ふつう》の行商人は立ち入らない世界。  そして、ゆっくりと扉が開かれた。 「あれ、バトスさんじゃない」  そんな言葉が聞こえた瞬間《しゅんかん》、ロレンスは膝《ひざ》から力が抜《ぬ》けそうなほど拍子《ひょうし》抜けしてしまった。 「お久しぶりです。お元気そうでなによりです」 「それはこっちの台詞《せりふ》よ。ヒョーラムの山を歩き回って無事だなんて、よほど神様に好かれているんだね」  薄《うす》い木の扉を開けて顔を見せたのは、背の高い青い瞳《ひとみ》の女性だった。年の頃《ころ》はロレンスよりもいくつか上くらいだろうか、ローブを身にまとっているがゆったりと着こなしているそれが逆に妖艶《ようえん》に見える。  口調も軽快で、それにどちらかというまでもなく美人だ。  しかし、ロレンスはとっさに錬金術《れんきんじゅつ》師が探し求める不老不死の法、というものを思い出した。  魔女《まじょ》。  その言葉が頭に浮かんだ瞬間、女性の瞳がロレンスに向けられた。 「あらいい男。けど、その顔は私を魔女だと思っている顔ね」  ずばりと胸中を言い当てられ、取り繕《つくろ》う間もなくバトスが口を挟《はさ》む。 「なんならそのように紹介《しょうかい》致《いた》しましょうか?」 「やめてよただでさえ辛気臭《しんきくさ》い場所なんだから。だいたいこんな綺麗《きれい》な魔女がいるものですか」 「美しさゆえに魔女といわれる奥方も多いそうですよ」 「バトスさんは相変わらずね。さぞヒョーラム地方にはたくさんの巣《す》がおありなんでしょうね」  なにがなんだかまったくわからないが、ロレンスは現状|把握《はあく》を放棄《ほうき》してとにかく落ち着くことに専念した。  探呼吸を一回半。  直後には、背筋を伸《の》ばして行商人ロレンスになっていた。 「で、姐《ねえ》さん。今日用があるのは私ではなく、こちらのロレンスさんなのですが」  ロレンスが立ちなおったことを気配で察したのか、的確な頃合《ころあい》でなされたバトスの紹介《しょうかい》に、ロレンスは一歩前に出て商談用の笑顔《えがお》を浮かべて挨拶《あいさつ》をする。 「大変失礼|致《いた》しました。行商人のクラフト・ロレンスと申します。本日はディアン・ルーベンス氏にお会いしたく参りましたが、氏はご在宅でしょうか?」  滅多《めった》に使わない、ただ丁寧《ていねい》なだけの丁寧な言葉|遣《づか》い。  しかし、扉《とびら》に手をかけたままだった女性はきょとんとして、それからすぐに楽しそうに笑った。 「なんだ、バトスさん話してないの?」 「あ」  うっかりしていたと言わんばかりにバトスは額を軽く叩《たた》き、ロレンスに申し訳なさそうな視線を向けてきた。 「ロレンスさん、こちら、ディアン・ルーベンスさんです」 「ディアン・ルーベンスです。男性名みたいでしょう? ディアナとでもお呼びください」  打って変わって上品な雰囲気《ふんいき》でにこりと笑ったディアナ。そんな振《ふ》る舞《ま》いは相当高貴な修道院にいたのではないかと思わせるのに十分だ。 「まあ、こんなところではなんなので、奥にどうぞ。取って食ったりは致しません」  扉を開ききって家の奥を指し示しながら、ディアナはいたずらっぽく言ったのだった。  ディアナの家は、外見に違《たが》わず中も相当な荒《あ》れ具合で、嵐に見舞われ難破した船の船長室といえば通じるかもしれない。  盗賊《とうぞく》の宝箱を思わせる鉄の補強がついた木箱がだらしなく蓋《ふた》を開けられたまま部屋の隅《すみ》に積み上げられていたり、そこそこ値が張りそうなしっかりとした椅子《いす》が衣類や書物の下敷《したじ》きになっていたりする。  また、そんな部屋の中には一体なんの鳥の羽なのか、そこで巨大な鳥が思う存分毛づくろいをしたかのように見事な純白の羽根ペンがたくさん散らばっていた。  混沌《こんとん》とした、という言葉が相応《ふさわ》しい部屋の中で、わずかばかりの秩序《ちつじょ》があるのは本棚《ほんだな》と、ディアナが作業をする場所であろう大きな机の周りだけだった。 「それで、ご用件というのはなんでしょう?」  奇跡《きせき》的な間取りなのか、そこだけ光の当たる机の椅子を引いて腰掛《こしか》けながら、ディアナはロレンスたちに椅子を勧《すす》めるでも白湯《さゆ》を注《つ》ぐでもなくそう口を開いた。  白湯はともかく椅子もないのはどうにかならないのかと思っていたら、バトスがいつものことといった感じで荷物置き場となっている椅子《いす》の上から勝手に物をどけて、一つをロレンスに勧《すす》めてくれた。  傲岸不遜《ごうがんふそん》な貴族であっても、来客には椅子くらい勧めるものだ。  しかし、そんな型破りな性格でも嫌味《いやみ》なところが感じられず、それもひとつの愛嬌《あいきょう》となっている気がした。 「突然お邪魔《じゃま》した非礼をまずお詫《わ》びします」  こんな型どおりな挨拶《あいさつ》にも、ディアナは笑顔《えがお》で小さくうなずいた。  ロレンスは一度小さく咳払《せきばら》いをしてあとを続ける。 「実は、ルーベンスさんが——」 「ディアナです」  と、即座《そくざ》に訂正《ていせい》を挟《はさ》んだディアナの目は真剣《しんけん》だ。  ロレンスがなんとか動揺《どうよう》を隠《かく》し「失礼」と言うと、ディアナの顔には柔《やわ》らかい笑顔が戻《もど》った。 「えー、実は、ディアナさんが北の地方の昔話に詳《くわ》しいとお聞きしまして。もしよろしければ話をお聞かせ願えないかと」 「北の?」 「はい」  ディアナは少し思案顔をしながら、視線をバトスに向ける。 「てっきり商売の話かと思ったのに」 「ご冗談《じょうだん》を。商売の話に来たら叩《たた》き出しますでしょう」  バトスの言葉にディアナは笑うが、なんとなくそれが本当のように思えた。 「けれども、私がお望みの話を知っているかどうか」 「それは私がまるっきりの作り話を聞かされている可能性もありますから」 「あら、それならそれで新しいお話としてこちらが拝聴《はいちょう》させていただきますね」  ディアナの優《やさ》しい笑顔に、ロレンスはつい目をそらして咳払いをしてしまう。  ホロが側《そば》にいなかったのは本当に幸いだ。 「それで、私がお聞きしたいのはヨイツという町についての昔話なのですが」 「ああ、月を狩《か》る熊《クマ》に滅《ほろ》ぼされた、という町ですね」  即座に記憶《きおく》の引き出しが開いたらしい。  しかし、いきなりその話が出てきたことに、やはりホロを連れてこなかったのは正解だったとロレンスは思う。おそらくヨイツは本当に滅びてしまったのだ。それをいかにしてホロに伝えるかと考えると頭が痛む。  ロレンスがそんなことを思っているとディアナはおもむろに立ち上がり、この部屋の中では奇妙《きみょう》な秩序《ちつじょ》を保っている本棚《ほんだな》に歩み寄って、整然と並ぶ大きな本の中から一|冊《さつ》を手に取った。 「確かこの辺に……あったあった。月を狩る熊、イラワ・ウィル・ムヘッドヘンドとでも発音するのかな、その熊《クマ》に滅《ほろ》ぼされた町ヨイツ。この熊のお話ならいくつかありますよ。かなり古いお話ですけど」  本のページをめくりながらすらすらと話すディアナの人差し指はペンだこで痛々しく腫《は》れている。もしかしたら、本棚《ほんだな》に並ぶ全《すべ》ての本はこのディアナ自身が書いたものなのかもしれない。  どれほどの異教の物語や迷信《めいしん》がそこに詰《つ》まっているのだろうか。  と、ロレンスはふと気がついた。バトスが昔話や言い伝えを商売にしようとしたのは、きっとこのディアナが書いた書物を教会の手に売り渡《わた》すことだろう。  ここにある書物があれば、どの地域にどんな誤った教えが広まっているか一目瞭然《いちもくりょうぜん》なのだから、教会関係者は喉《のど》から手が出るほど欲しがるはずだ。 「その熊の話ではなく、ヨイツの町についてなのですが」 「町について?」 「はい。とある理由からヨイツの場所を探しています。昔話や言い伝えの中から場所がわからないものでしょうか」  なにかの商品の名産地ではなく、昔話の舞台《ぶたい》はどこなのかと聞かれれば大抵《たいてい》の人間は困惑《こんわく》するものだ。  ディアナも少し意表を突《つ》かれたといった顔をしてから、本を机に置いて考え始めた。 「場所、ねえ……場所、場所……」 「わかりませんか」  ロレンスが再度|訊《たず》ねると、ディアナは頭痛に襲《おそ》われでもしたかのように手を額に当て、残る手で待てと言ってくる。  黙《だま》っていればどこかの高貴な女修道院の院長として通りそうなディアナだが、そんな様子を見ているととてもひょうきんな性格のように見える。  固《かた》く目を閉じ、しばらく唸《うな》ってからようやく顔を上げたディアナの顔は、初めて針に糸を通すことができた少女のような笑顔《えがお》だった。 「思い出した。プロアニアよりももっと北を流れるローム川の源流に、レノスという町があってそこにこんな昔話があるわ」  突然《とつぜん》、バトスに向けていたようなくだけた口調になったディアナに面食らってしまう。  どうやら昔話のこととなると我を忘れる性格らしい。  そんなディアナが、咳払《せきばら》いをしたのちに目を閉じて古《いにしえ》の文を暗誦《あんしょう》し始めた。 「はるか昔、村に一|匹《ぴき》の大きな狼《オオカミ》が現れり。名をヨイツのホロウと名乗り、身の丈《たけ》は見上げるほどに高い也《なり》。すわ村への天罰《てんばつ》かと思いきや、ホロウは東の深き山々の森より出《い》でて、南へ向かう途中《とちゅう》なのだと語れり。酒を好み、時折|娘《むすめ》の姿に成り代わり、村の娘たちと踊《おど》れり。見目良く、年の頃《ころ》若し。けだし、人の物ならざる尾《お》を有すなり。しばし戯《たわむ》るる後、村の豊作を約束し南へと下る也《なり》。その年より豊作続き、我ら、狼を麦束|尻尾《しっぽ》のホロウと名づける也」  淀《よど》みなく語るその様も驚《おどろ》きの対象なら、突然《とつぜん》ホロの名前が出てきたのも驚きだ。  多少発音は異なっていてもまず間違《まちが》いなくホロのことだろう。豊作を約束したというのもそれを裏付けするし、娘《むすめ》の姿になり尻尾を有していたというのも符合《ふごう》する。  ただ、そんな驚きもディアナの語った話の内容からすれば瑣末《さまつ》なもの。  ローム川の源流に位置するレノスという町は現存する。そこを基点にして東の山々の森とわかれば、ニョッヒラから南西に線を引き、レノスから東に引いた線と交わるところがヨイツの町だ。 「お役に立てた?」 「ええ、レノスから東の山となれば限られますからね。十分な手がかりです」 「それはよかったわ」 「このお礼はぜひ近いうち——」  という言葉の先はディアナの手で制された。 「私はこのとおり、教会から追われてもなお異教の地の昔話が大好きなの。それも、教会に配慮《はいりょ》して中身を捻《ね》じ曲げていない、きちんとした言い伝えどおりの昔話がね。見たところロレンスさんは行商人のようですから、なにか面白《おもしろ》い話の一つでもあるでしょう? それを聞かせてもらえれば、お礼なんて結構よ」  教会にて歴史をつづる者たちは教会の権威《けんい》のために。貴族に囲われる者は主《あるじ》である貴族をたたえるために歴史をつづるのは当然といえば当然といえる。  教会都市リュビンハイゲンの名前の元となった、聖人リュビンハイゲンにまつわる話も町に言い伝えられている話とホロの話との間には大きな違《ちが》いがあった。それは教会の権威を保ち、さらに飛躍《ひやく》させるために意図的に書き換《か》えられていた。  信仰《しんこう》と経済の自由な町クメルスンの、こんな貧民窟《ひんみんくつ》のような所で暮らしているディアナはそれらが許せないほどに昔話が好きなのだろう。  異端《いたん》の廉《かど》で修道院を追われたというからどれほど危険な思想の持ち主なのかと思えば、単に自らの命を忘れるほどの趣味《しゅみ》人のようだった。  ロレンスは「わかりました」と答えると、とっておきの話をした。  それはとある麦の大産地の話。  麦の豊作を司《つかさど》る狼《オオカミ》の話だった。  結局多少の酒も入り、ディアナとはバトスも交えてさまざまな地方の色々な昔話や伝説について熱心に話し込んでしまっていた。  日が傾《かたむ》きかけてようやくロレンスは我に返り、引き止めるディアナを丁重に断ってバトスと共に家を辞した。  バトスと二人で狭《せま》い路地を歩いている途中《とちゅう》、話の席のことを思い出してどちらともなく笑い出してしまうくらい、話は盛り上がっていた。  伝説の竜《りゅう》や黄金の都といった、今ではすっかり眉《まゆ》につばをつける癖《くせ》がついてしまった話がこれほど楽しかったのは久しぶりだ。  行商人の師匠《ししょう》の下《もと》に弟子《でし》入りしてからもしばらくは、ロレンスだって剣《けん》を手に取り諸国を旅する遍歴《へんれき》の騎士《きし》になる憧《あこが》れを捨てていたわけではない。師匠と共に行く行商の途中で聞く、火を吹《ふ》く竜や、天を覆《おお》い尽《つ》くすほどの巨大な鳥、そして山々すらを自由自在に動かす大|魔法《まほう》使いの話に、密《ひそ》かに心|躍《おど》らせていたのも事実だ。  もっとも、いつしかそれらの話は作り話なのだとわかるようになっていった。  それがこれほどまでに楽しめたのは、やはりホロとの出会いがあったからだろう。  数々の伝説や昔話は決して作り話ではなく、世界を歩いて回る行商人にも遍歴の騎士と同じく大冒険《だいぼうけん》の可能性がある。  それに気がつくだけで、もう何年も忘れていた心地《ここち》よさが胸の中に広がっていた。  ただ、そんな酔《よ》いもリュビンハイゲンへ金《きん》を密輸する最中のことを思い出して苦笑いに変わる。  姿こそ見ていないが、リュビンハイゲンに程近《ほどちか》い不気味な噂《うわさ》の絶えない森にはホロのような狼《オオカミ》がいたはずなのに、ロレンスにできたことといえば痛快な冒険活劇の主役ではなく、状況《じょうきょう》に流されるだけの協役《わきやく》だった。  やはり、商人には商人らしい生活がお似合いということだ。  そんなことを思いながら、宿に続く大通りに出たのでロレンスはそこでバトスと別れた。  仲介《ちゅうかい》役を買って出てくれたことに礼を言ったら、「一人で姐《ねえ》さんの所に行くのも色々と方々がうるさいので、よい口実でした」と返事が来た。  確かに、あんな気さくで美人で、なおかつ錬金術《れんきんじゅつ》師がたむろする地区に住んでいるとくれば、一人でそんなディアナに会いに行くことがどれほど周りの人間の好奇《こうき》の目を引くかわからない。  商館の連中は、そういった話に目がないのだから。 「また是非《ぜひ》誘《さそ》ってください」  というバトスの言葉も、挨拶《あいさつ》としてではなく本当にそう思っているようだった。もちろんロレンスも楽しい時間が過ごせたので、それには嘘《うそ》なくうなずいていた。  夕日はそろそろ家々の屋根の向こうに消えそうな時間で、町の大通りも仕事帰りの職人に、商談を終えた商人、それに村から運んできたのであろう作物や家畜《かちく》を売り払《はら》い帰途《きと》に就《つ》く農夫たちが多く行き交《か》っている。  大通りを南に下り、町の中心部に近づけばそれらの人ごみに酔《よ》っ払《ぱら》いや子供たちが混ざり出す。  いつもならば日が暮れかける時間になると途端《とたん》に数が少なくなる町娘《まちむすめ》の姿もとても多く、どうやら前夜祭といった感じだ。所々に人垣《ひとがき》ができていて、中には占《うらな》い師などが堂々と人をたくさん集めて占いをやっていたりした。  ロレンスはそんな人ごみを抜《ぬ》け、通り沿いにある宿も素通《すどお》りして一路《いちろ》クメルスンの市場へと向かっていた。  ディアナの話からヨイツのある程度の場所がわかったため、ニョッヒラを目指すのではなくひとまずレノスという町を目指すことにした。  距離《きょり》的にそちらのほうが近いということもあったし、道が整っているということも挙げられる。それに、レノスの町に行けばもっと詳《くわ》しいホロの伝承が残っているかもしれないという期待もある。  そんなわけで、旅に必要な情報を集めてもらうためにマルクの露店《ろてん》を再度|訪《おとず》れたのだった。 「お、色男」  しかし、ロレンスが露店を訪れるとマルクは酒を片手にご機嫌《きげん》の様子で、店の奥ではバトスへの連絡《れんらく》を張り切ってやってくれた小僧《こぞう》が顔を真っ赤にして仰向《あおむ》けに倒《たお》れている。  そんな飲んだくれの男二人の代わりに、積み上げられた商品に夜露《よつゆ》対策用の幌《ほろ》をかけたりして店じまいの準備をしているのはマルクの妻、アデーレだ。  ロレンスに気がつくと軽く一礼した後、旦那《だんな》であるマルクのことを指差して苦笑いをしていた。 「どうした? まあ飲めよ」 「ああ、朝に頼《たの》んでおいた情報集めのことだが……おい、いれ過ぎだ」  茶色の陶器《とうき》製の酒入れからだばだばと木のコップに酒を注《つ》ぐマルクに注意しても、聞く耳はすでに持っていないらしい。  なみなみと酒の注がれたコップを手に取るまでは返事はしない、とばかりの顔つきだった。 「まったく」  ロレンスは呆《あき》れ気味にコップを手に取って口をつけたが、なかなかのぶとう酒でうまい。塩の効《き》いた干し肉が欲しくなってくる。 「で、なんだって? 行き先でも変更《へんこう》したいのか」 「ああ、そのとおりだ。ローム川の源流にレノスって町があるだろう。確か材木や毛皮で有名だったな。そこに行きたい」 「なんだ、結構な行き先変更だな。ニョッヒラ方向についての情報はすでにいくつか話が集まっていたんだがな」  酔《よ》ってはいても常に頭のどこかが覚めていなければ商人ではない。 「悪いな。ちょっと事情が変わった」 「ほう」  と、マルクは笑って酒を水のように飲む。  それから、実に楽しそうな目をロレンスに向けてきた。 「連れと仲違《なかたが》いという話は本当だったのか」  数|拍《はく》の間をあけてから、ロレンスは聞き返した。 「なんだって?」 「はははは。調べはついてるぜ色男。お前が上等の宿にえらく美人な修道女と泊《と》まっているのは周知のことだ。まったく神をも恐《おそ》れぬ所業とはこのことだ」  クメルスンくらいに広い町であっても、リュビンハイゲンほどの大都市でなければ知り合いの知り合いまでたどればほぼ全《すべ》ての町商人にたどり着くことができる。それくらいに町商人たちの横のつながりは強い。誰《だれ》かがロレンスとホロを見かけ、口伝《くちづて》で広まっているのだろう。  市場で店を開いているマルクがホロのことを知っているのだとすれば、商館の連中が知らないわけがない。バトスとあのまま商館に帰らなくて良かったと、その点ではほっとする。  しかし、解《げ》せないのはマルクの言った仲違いという言葉だ。 「俺と連れは酒の肴《さかな》になるような間柄《あいだがら》じゃない。だが、仲違いというのは?」 「へっへっへ、色男はとぼけ方もうまいな。だが仲違いといわれちゃ本音が顔に出るな」 「なにせ美人なのは間違《まちが》いないと思うからな。仲違いとなっては大きな損失《そんしつ》だろう」  日頃《ひごろ》のホロとのやり取りのお陰《かげ》か、落ち着いて対処できた自分に少し驚《おどろ》いてしまう。  ただ、できればこんなことがうまくならないで商談の技術が上がって欲しいところだったが。 「げふ。なに、ついさっきだがな、件《くだん》のお前の連れと、うちの組合の若い奴《やつ》が連れ立って歩いていたという話が入ってきた。ずいぶん仲良さそうだったということだぜ」 「ああ。アマーティ、さんのことか」  年下だが呼び捨てはよくないかとも思ってさん付けにしたが、少し卑屈《ひくつ》すぎたかとも思う。 「なんだすでに諦《あきら》めたあとか」 「残念ながらそういうことじゃない。俺が今日一日は用事があって連れの相手をできないのと、アマーティさんが暇《ひま》で俺たちの町案内を買って出てくれた。この二つが組み合わさったということだ」 「ふーん……」 「不満か?」  マルクはてっきりつまらなそうな顔をするのかと思ったが、突然《とつぜん》気遣《きづか》うような顔になってロレンスは面食らう。 「同じ行商人だったよしみから忠告するが、アマーティの奴《やつ》は見た目より相当したたかだ」 「……どういう意味だ?」 「うかうかしていると本当に連れを取られちまうぞ、ってことだ。あの年の奴らが一度夢中になったらどんな無茶でもやってのけるしな。それに、アマーティがあの若さでどれだけの量の魚を扱《あつか》っているか知ってるか? しかも、あいつは南のほうの国の結構いい所の生まれなんだがな、末の子だから一生兄貴たちの下で飼《か》い殺しが目に見えている、ってことで三年ほど前に単身家出してここまでたどり着いて商売を始めたんだ。すごい話だろう」  線の細いアマーティの見た目からはとても信じられはしない話だが、現にアマーティが人を雇《やと》って荷馬車三台分の魚を輸送しているのを見た。  しかも、魚の納入先とはいえ人通りに面した宿の部屋をあっさりと確保してくれた。旅人で溢《あふ》れ返る中、そんな芸当はそうそうできるものではない。  じわりとロレンスの胸の中に危機感が芽生えるが、同時にホロがあっさりとアマーティに転ぶわけがないとも思う。  ホロと出会ってからのことを思い返してみても、ますますその気持ちは強くなる。 「心配無用だ。連れはそんな軽薄《けいはく》な奴《やつ》じゃないよ」 「ははは。すごい自信だな。俺はアデーレの奴がアマーティと連れ立って歩いてるなんて聞いたらもう駄目《だめ》だとあっさり諦《あきら》めるな」 「あたしがアマーティさんとなんだって?」  飲んだくれの亭主《ていしゅ》の代わりに店の後片づけをしていたアデーレがいつの間にかマルクの後ろに立っていて、凄《すご》みのある笑《え》みを浮かべながらそう言った。  四年前、クメルスンに行商に来ていたマルクと出会いがしらにぶつかった拍子《ひょうし》に恋に落ちたという、三流|吟遊《ぎんゆう》詩人だって呆《あき》れるような、クメルスンでは有名な恋物語を経てマルクと結婚《けっこん》したアデーレは、麦商人の妻《つま》として年々|貫禄《かんろく》がついてきているようだ。  ロレンスが初めて見た時はか弱そうだったアデーレも、今ではマルクよりも体がでかい。  二年前に子供も生まれたということだから、母は強しということかもしれない。 「お前がアマーティと連れ立って歩いていたら、お前が愛《いと》しくてたまらない俺は嫉妬《しっと》の炎《ほのお》で身を焼かれてしまうと言ったんだ」 「勝手に焼いてればいいさ。あんたが燃え尽《つ》きて炭になったらわたしゃそれで火を起こして、アマーティさんのためにおいしいパイを焼いてやるからさ」  アデーレの啖呵《たんか》にマルクは二の句が継《つ》げず酒に逃《に》げている。  女が強いのはどこも一緒《いっしょ》なのかもしれない。 「で、ロレンスさん、こんな所でこんな飲んだくれに付き合ってたらうまい酒もうまくないでしょう。もう店を引き上げますから家に来ればとびっきりの料理をご馳走《ちそう》しますよ。ちょっと子供がうるさいかもしれないけどね」  マルクの子供と聞くだけでどれだけ腕白《わんぱく》なのか想像もつかない。  子供が苦手なロレンスとしてはそれだけで腰《こし》が引けてしまうが、それとは別の理由で誘《さそ》いを断った。 「まだやりかけの仕事が残っていますので」  もちろん嘘《うそ》だが、アデーレは疑うそぶりも見せず残念そうにした。  しかし、マルクはロレンスの胸中を見|透《す》かしているように小さく笑っている。 「残した仕事は大きいからな。ま、頑張《がんば》れよ」  やはり見透かされているらしかったので、ロレンスは苦笑いを返しておく。 「ああ、そうだ。行き先|変更《へんこう》は了解《りょうかい》した。祭り期間中もうちは店を開けてるからな。これ以上ないくらい確かな情報が手に入るだろうさ」 「助かる」  コップの中身も全《すべ》て飲み干《ほ》し、ロレンスは改めて札を言ってマルク夫妻に別れを告げた。  一人で活気と喧騒《けんそう》に満ちた夜の市場を歩いていると、自然と足が速くなってしまう自分に気がついてロレンスは苦笑してしまう。  やり残しの仕事なんていうのは大嘘もいいところ。  本当のところは、マルクとアデーレのやり取りを見ていて宿に帰りたくなったのだ。  その理由を明確に言葉にするのは自分の胸中ですら嫌《いや》だったから、もちろん人前で言えるわけもない。  頭の中にアマーティと連れ立って楽しそうにしているホロの様子が浮かんでは消える。  悔《くや》しいが、ロレンスは自分の足が速くなっていることに何度も気がついたのだった。  夜が更《ふ》けるにつれますます賑《にぎ》やかになっていく木窓の外の喧騒《けんそう》を聞きながら、宿からペンとインクを借りて今後の行商計画を立てているところにホロが帰ってきた。  やや慌《あわ》てながら宿に帰ってもホロはまだ出歩いていたらしく、肩《かた》透かしを食らった感じにはなったが慌てている様子を見られなくて助かったと少しほっとした。  ホロはアマーティと宿の前で別れてきたと言うので一人だったが、首に子《こ》狐《ギツネ》の毛皮の襟巻《えりま》きを巻いているのを見ても相当アマーティを手玉に取っていることがわかる。この分だと他《ほか》にも色々と買ってもらったに違《ちが》いない。  アマーティにどんな礼をするべきかと考えると、無事ホロが宿に帰ってきてくれたことに対する安心と喜びよりも、頭の痛みのほうが大きかった。 「うー……苦しい。むう……ぬしよ、ちょっと……手伝ってくりゃれ」  一体どれだけ食べて飲んだのか、自力では絹の腰帯《こしおび》が解けないらしい。  ロレンスは呆《あき》れつつも仕方がないので椅子《いす》から立って、ベッド脇《わき》で悪戦苦闘《あくせんくとう》しているホロの腰帯を解いてやり、腰巻きスカートにしているローブも取ってやった。 「ほら、横になるなら襟巻きとケープも外せ。変な癖《くせ》がつくぞ」  という言葉にもほとんど生返事《なまへんじ》だ。  ベッドに腰を下ろしたホロがそのまま横になるのをなんとか食い止めて、襟巻《えりま》きと兎《ウサギ》皮《がわ》のケープ、それに頭に巻いた三角巾《さんかくきん》を外してやる。  されるがままになっている最中にすでにホロはうつらうつらとしている。宿の前でアマーティと別れてきたのは、無様を晒《さら》さないでいられる限界が宿の前だったからだろう。  そんなホロから襟巻きとケープと三角巾をなんとか外してやると、そのままこてんと横になってしまう。  お気楽な様子のホロについ苦笑いが浮かんでしまったものの、ロレンスは手にした狐《キツネ》の襟巻きの毛並みを見て小さくため息をついてしまう。こんな質の良い商品、転売に用いるならばまだしも贈《おく》り物《もの》にするなどロレンスには考えられなかった。 「おい、ちょっとお前、他《ほか》になにか買ってもらったものはないか」  この分だと他になにかとんでもないものを買ってもらっているかもしれない。  しかし、ホロは足をベッドに上げる気力も残っていなかったようで変な姿勢のまますでに寝息《ねいき》を立てている。ロレンスの言葉にも自慢《じまん》の耳すら反応せず熟睡《じゅくすい》の態勢だ。  仕方ないとばかりにロレンスはホロの足をベッドに上げてやったが、それでも一向に目を覚まさない。  ここまで無防備なのはロレンスを信頼《しんらい》しているからなのか、それとも侮《あなど》っているからなのか。  ついつい自問してしまうが、考えても損《そん》しかしなさそうなことなのでそんな疑問を頭から追い払《はら》い、襟巻きとケープを机の上に置いてローブをたたみなおそうとした。  そんな拍子《ひょうし》になにかがローブから落ちて、ことんと音を立てる。  拾い上げてみれば、綺麗《きれい》な立方体の金属だった。 「鉄……? いや、違《ちが》うな」  入念にやすりで削《けず》ったかのように尖《とが》った角と、月明かりに照らして見ても見事というほかない平らな面。鉄細工にしても値が張りそうだったが、これがなにかを問いただすためにホロを起こせばどれほど怒《いか》り狂《くる》うかわからない。  明日、目を覚ましたら聞いてみようと思い、机の上に置いた。  ローブを椅子《いす》の背にかけて三角巾もたたみ、腰帯《こしおび》は皺《しわ》を伸《の》ばしてから丸めておく。  なんで下男でもないのに自分がこんなことをしなければならないのかと思ったものの、早速《さっそく》間抜《まぬ》けないびきをかいて眠《ねむ》るホロを見るとそんな気持ちも消えてしまう。  自ら動く気配がまったくなかったので、ベッドに歩み寄って毛布をかけてやり、もう一度苦笑する。  それから、机に着いて再び行商の計画に舞《ま》い戻った。  行商の都合でヨイツを探しながら北の地に長く滞在《たいざい》することができないのなら、北の地を回ることを前提にした行商に変更《へんこう》すればいい。その案を実行するか否《いな》かは別にしても、考えておいて損《そん》はない。  それに、さまざまな町と行商路を紙に書いて、特産品や利益率の高い商品を列挙してあれこれと行商路を考えるのは久しぶりだ。  寝《ね》る間も惜《お》しんで計画を立てていた昔を思い出して懐《なつ》かしくなる。  しかし、昔と今では決定的に大きな違《ちが》いがあった。  その計画が自分のためなのか、それとも他《ほか》の誰《だれ》かのためなのか。  間抜《まぬ》けないびきを聞きながら、ロレンスは獣脂《じゅうし》の蝋燭《ろうそく》が燃え尽《つ》きるまで羽根ペンを手にしていたのだった。 「食べ物、酒、それと襟巻《えりま》きに、このサイコロ」 「他には?」 「それだけじゃな。あとは、山ほどの甘《あま》い言葉をもらいんす」  尻尾《しっぽ》の毛を梳《す》く櫛《くし》を少し噛《か》みながらうっとりと言うホロに、ロレンスはげんなりした顔を向けた。  目が覚めると幸い二日酔《ふつかよ》いではなかったようなので昨晩の事情|聴取《ちょうしゅ》を行っていたのだが、明るいところで改めて見るホロの土産《みやげ》はやはりかなり値の張るものだった。 「酒と食い物も相当飲み食いしてたようだし、なによりこの襟巻きだ。こんなものもらってきやがって……」 「実に質の良い毛皮じゃ。わっちの尻尾には劣《おと》るがな」 「これはお前が買わせたのか?」 「わっちゃあそれほど恥《はじ》知らずじゃありんせん。向こうが勝手に勧《すす》めてきたんじゃ。ま、贈《おく》り物に襟巻きとはなかなか洒落《しゃれ》が効《き》いておる」  ロレンスが狐《キツネ》の襟巻きから視線をホロに向けると、ホロは楽しげに言った。 「わっちに首ったけ」 「誰《だれ》がうまいこと言えと言った。こんな高価なものもらったら、もらいっぱなしというわけにはいかないだろう。まったく、タダでお前の機嫌《きげん》が買えると思ったらとんだ赤字だ」 「うふふ、やはりそんなこすいことを考えておったかや。まあそんなところじゃろうとは思ったが」 「この襟巻きの礼の分は祭りで使うつもりだった予算から引いておくからな」  途端《とたん》にホロが不満げな視線を向けてくるが、睨《にら》み返すとすぐに素知らぬ顔でそっぽを向く。 「……ったく。まさかとは思うが耳や尻尾は晒《さら》してないだろうな」 「それは大丈夫《だいじょうぶ》じゃ。わっちだってそこまで間抜けではありんせん」  昨日部屋に帰ってきた時の様子を思い出すとそれすら怪《あや》しくなくもないが、さすがにそのへんは注意しているかと思いなおす。 「俺との関係は聞かれなかったか?」 「なんでそんなことをぬしが聞くのかわっちゃあ聞きたい」 「口裏を合わせておかないと色々|勘《かん》ぐられるだろう」 「ふむ。その考えは当たっておる。すでに色々|追及《ついきゅう》された。わっちゃあ旅の修道女で、わっちを売り飛ばそうとしておった悪い輩《やから》からぬしが助けてくれた、と答えておいた」  ホロが修道女ということ以外はなんとなく事実に沿っている。 「で、わっちはぬしから助けられたがぬしに大借金を負う羽目になり、とても返せぬので道中の安全を神に祈《いの》ることで返済している最中の、哀《あわ》れな身の上でありんす……よよよ、と哀《かな》しげに言っておいた。どうじゃ、見事につじつまがあっておるじゃろう?」  なんだかロレンスが悪者に取れなくもない筋書きだが、一応相手が納得《なっとく》しそうな説明ではあった。 「そんな話をしたら、突然《とつぜん》襟巻《えりま》きを買ってくれりんす」  旅の偽《にせ》修道女は、小悪魔《こあくま》のような笑《え》みを浮かべてそう言ったのだった。 「まあそれでいいか。で、このサイコロはなんだ? なんでこんなもの買ってきたんだ」  昨晩は月明かりの下で見たせいで色がわからなかったが、一流の鉄細工師の手にかかったような見事な正方体を成《な》している金属のサイコロは黄色がかった鉱物だった。  ぱっと見だと、磨《みが》かれていない金にも見える。  しかし、ロレンスはこの金に似た鉱物に見覚えがある。  これは人の手によって作られたものではない。天然の鉱物だ。 「それかや。それは占《うらな》い師が使っておってな。運命が見えるサイコロだと言う。見事な形じゃろう? よくこんなものを作ったと感心するほどじゃ。高値で売れること間違《まちが》いなしじゃな」 「たわけ。こんなものが売れると思うのか」  ホロと同じ罵《ののし》り方をしてやると、ホロの耳が爪弾《つまはじ》かれたようにピクリと動く。 「こいつはサイコロじゃない。黄鉄鉱《おうてっこう》と呼ばれる鉱物だ。それに、こいつは人が作ったものでもない」  その言葉は意外だったのか、ホロが訝《いぶか》しむような表情を作るが、ロレンスはそれを無視して机の上の黄鉄鉱の結晶《けっしょう》を指でつまんでホロのほうに放《ほう》り投げた。 「豊作を司《つかさど》る賢狼《けんろう》も石には詳《くわ》しくないのか。そのサイコロは、そのサイコロの形のまま採掘《さいくつ》されるんだよ」  まさか、という顔でホロは笑い、受け取った黄鉄鉱を弄《もてあそ》ぶ。 「俺の言葉に嘘《うそ》がないことはわかるだろう」  ホロは小さく唸《うな》り、黄鉄鉱を指でつまむ。 「特に使い道もなく、よく土産《みやげ》物として売られてるな。あとは、見た目が金に似ているから詐欺《さぎ》に使われたりもする。他《ほか》に買っている奴《やつ》なんていたのか?」 「たくさんおった。このサイコロを使って占《うらな》いをしておる占い師の腕《うで》が良くてな、その見事さはわっちも唸《うな》るほどじゃ。そして、占い師がこのサイコロを持てば誰《だれ》でも自分の運命を予測できるとぬかしてな、そのせいで占い師が売るこのサイコロを欲しがる者はとても多かった。他《ほか》にも色々理由をつけて売っておった」 「こんなものが?」 「うむ。これほど見事ではない不細工な形のものも、病気が治るとか魔除《まよ》けになるとか色々言っておった」  うまい商売を考えつくものだと感心する。祭りや大市《おおいち》だと時折|妙《みょう》なものが流行したりする。  文字どおりお祭り騒《さわ》ぎに便乗しての商売だろうが、黄鉄鉱《おうてっこう》とは考えたものだ。 「そのサイコロも、アマーティが競《せ》り落とした」  しかし、さすがにそれにはびっくりする。 「競り落とした?」 「かなりみんな熱くなっておったな。わっちゃあ競りなんて初めて見たが、すごかった。じゃから、高値で売れると思いんす」  ロレンスはその話を聞いて、ヒョーラム地方の鉱山地帯を歩き回るというバトスのことを思い出していた。  バトスはこの話を知っているだろうか。もしもバトスが黄鉄鉱の在庫を持っているか、またはその調達に伝《つて》があるのだとしたら、これは大儲《おおもう》けにつながるかもしれない。  そう思っていた矢先だった。  扉《とびら》をノックする音がしたのだ。 「?」  一瞬《いっしゅん》、ホロがアマーティに耳と尻尾《しっぽ》を実は見られていて、などという可能性を考えたがそういうことなら勘《かん》の良いホロが気づくはずだ。  視線を扉からホロに向けると、ホロはのそのそと毛布を頭からかぶっている。どうやら港町パッツィオの時のような危険な来客ではないらしい。  ロレンスは扉に歩み寄って、ためらわずに扉を開く。  扉の向こう側にいたのは、マルクの露店《ろてん》にいた小僧《こぞう》だった。 「朝早くから申し訳ありません。主人からの言伝《ことづて》があります」  朝早く、というほど早朝でもないが、ようやく市場が開いたかどうかというこの時刻に小僧を走らせてまで伝えるようなことがロレンスには想像がつかない。  一瞬、マルクが重病にでもかかったかと思ったが、それなら主人からの言伝とは言わないだろう。  ホロももそりと動いて顔だけ出している。  小僧がそれでホロに気がついたらしく視線をそちらに向けたが、ベッドの上で毛布を頭からかぶっている少女を見ていらぬ想像をしたらしい。一瞬《いっしゅん》で顔を真っ赤にして顔をそらしている。 「で、言伝《ことづて》というのは?」 「あ、は、はい。すぐに知らせるようにと言われ走ってまいりました。実は——」  とんでもないその内容を聞いたあと、ロレンスもクメルスンの町を走ることになったのだった。 [#改ページ]  第三幕  クメルスンの町は朝早くから動き出していた。  町を南北に抜《ぬ》ける大通りを渡《わた》り、商館のある西に向かう途中《とちゅう》、ところどころで標識のようなものを立てている人々が見えた。  小僧《こぞう》と連れ立って駆《か》けながらそれらに目をやると、やはり標識のようなのだがなんと書いてあるかはわからない。見たこともない文字が書かれ、中には花やカブの葉や藁束《わらたば》が巻かれているものもあった。  おそらく今日から始まるラッドラ祭で使うものなのだろうが、生憎《あいにく》と今はそんなことを詮索《せんさく》している暇《ひま》がない。  日がな一日マルクにこき使われているせいか、小僧の足はとても速くまったく息も切れていない。体力にはそれなりに自信のあるロレンスだったがついて行くのがやっとだ。息が切れ始めてようやく商館にたどり着いた。  普段《ふだん》はぴったりと閉じられ、身内意識を強く感じさせる頑丈《がんじょう》そうな木の扉《とびら》が開け放たれている。入り口には朝から酒を片手にしている商人たちが三人ほど。  視線を商館の中に向けて楽しげに話していたが、ロレンスに気がつくや手招きしながら商館の中に向かって声を張り上げた。 「おい! 件《くだん》の騎士《きし》、ハシュミットがご到着《とうちゃく》だ!」  騎士ハシュミットといわれ、ロレンスは小僧の言ったことが嘘《うそ》や冗談《じょうだん》ではないことを確信する。  海とブドウ畑の情熱の国、エレアスに伝わる有名な恋物語。  宮廷騎士《きゅうていきし》、ヘント・ラ・ハシュミットはその主人公だ。  しかし、騎士と呼ばれてもロレンスはまったく嬉《うれ》しくない。  騎士ハシュミットは愛する貴族の娘《むすめ》イレーザのために勇敢《ゆうかん》に戦ったが、国王の息子《むすこ》フィリップ三世からイレーザを賭《か》けた決闘《けっとう》を申し込まれ、悲運のうちに命を落としてしまう。  石段を駆《か》け上《のぼ》り、囃《はや》す商人連中を掻《か》き分けて商館の中に飛び込んだ。  全員の視線が、磔《はりつけ》にされた罪人に群がる槍《やり》のようにロレンスに集まってくる。  その一番奥、商館館長が居座るカウンターの前。  そこに、国王の息子フィリップ三世がいた。 「改めて宣言します!」  甲高《かんだか》い、少年のような声が商館ロビーに鳴り響《ひび》く。  魚の仲買人が着る、油を塗《ぬ》ったなめし革《がわ》の外套《がいとう》ではなく、儀礼《ぎれい》用のマントを身にまとったまさしく貴族の子息のようないでたちのアマーティ。  その視線がまっすぐにロレンスを射|抜《ぬ》き、ロビーに居合わせている商人たちが息を飲んでそんなアマーティに注目する。  アマーティはそこで、短剣《たんけん》と共に一枚の羊皮紙を掲《かか》げて宣言した。 「私は遍歴《へんれき》の修道女の細い肩《かた》にかかる借金を弁済し、麗《うるわ》しき神の娘の身が自由になった暁《あかつき》には、ローエン商業組合を天より見守ってくださる聖人ランバルドスに誓《ちか》って、遍歴の修道女ホロに誠実なる愛を申し込みます!」  笑い声と感嘆《かんたん》のため息が混じったような、不思議な熱気のこもったどよめきが起こる。  アマーティはそれら一切を気にすることなくゆっくりと手を下ろし、右手に持っていたナイフをくるりと半回転させ、刃《は》をつまんで柄《え》をロレンスのほうに差し出した。 「ホロさんから、その身に降りかかった苦難、そして処遇《しょぐう》についてお聞きしました。私は自由人たる己《おのれ》の身分と財産により、彼女に自由の羽を取り戻《もど》させたいと思います。そして、その上で結婚《けっこん》を申し込みたいのです」  昨日の、マルクの言葉が鮮明《せんめい》に蘇《よみがえ》る。  あの年の奴《やつ》らが一度夢中になったらどんな無茶でもやってのける。  ロレンスは苦々しい思いでアマーティの差し出したナイフの柄を見て、さらに羊皮紙に目を向ける。  少し距離《きょり》があるせいで書いてある内容は見えなかったが、おそらく今アマーティが言ったようなことが具体的に文書にしたためてあるのだろう。羊皮紙の右下の赤い印は、きっと蝋《ろう》の判ではなく血判だ。  公証人のいない地域や、公証人に任せるよりもはるかに尊い契約《けいやく》をする際に用いられる契約法がある。契約《けいやく》書に血判を押した者が、そのナイフを相手に渡《わた》し、神に誓《ちか》わせるのだ。  この契約を守らぬ際は、そのナイフで相手を殺すか、自らの喉《のど》に突《つ》き立てる。  アマーティの差し出すナイフを手に取れば、この契約は結ばれる。  しかし、ロレンスはもちろん動けない。こんなことになるとは露《つゆ》ほども思っていなかったのだから。 「ロレンスさん」  アマーティの目が言葉を発したように見えた。  下手な言い訳や無視が通じるようには思えない。  ロレンスは苦し紛《まぎ》れに時間|稼《かせ》ぎの台詞《せりふ》を口にしていた。 「ホロが私に借金を負っているのは事実ですし、その返済の代わりとして道中の安全を祈《いの》ってもらっているのも事実です。しかし、借金がなくなったからといって彼女が旅の同伴《どうはん》をやめるとは限りません」 「もちろんです。ですが、やめてくれる自信が私にはあります」  おおっ、と小さいどよめきが再度起こる。  酔《よ》っているようには見えないが、まったくのフィリップ三世がそこにはいた。 「……それに、ホロは曲がりなりにも遍歴《へんれき》の修道女です。結婚《けっこん》は——」 「私がそのあたりのことを知らないと思っているのなら心配はご無用です。ホロさんがどこの修道会にも属していないのはわかっています」  ロレンスは、しまった、という言葉が口から漏《も》れ出ないために口を引き結ぶしかない。  遍歴の修道女には二種類存在する。一つは教会から認められた托鉢《たくはつ》修道会などの拠点《きょてん》を持たない宗派の修道士。もう一つは、どこの修道会にも属さない「自称」の修道士だ。  遍暦の修道女の大半はこの自称修道士であり、旅の便宜《べんぎ》上名乗っているにすぎない。もちろん、どこの修道会にも属していないために聖職者に課される結婚の禁止などは存在しない。  アマーティはそこを知っている。そうなると、今更《いまさら》どこかの修道会に口裏を合わせてもらうなどということは不可能だ。  アマーティの口が流暢《りゅうちょう》に言葉を紡《つむ》ぎ出す。 「私もこのような形でロレンスさんに契約を申し込みたくありません。この場に居合わせている方々は、私の姿を騎士《きし》ハシュミット物語のフィリップ三世だとお思いでしょう。しかし、クメルスンの都市法では女性が借金を負っている場合、彼女の後見人はその借金の主となっています。もちろん」  そう言ってアマーティは言葉を切り、咳払《せきばら》いをしてからあとを続けた。 「後見人であるロレンスさんが私のホロさんに対する求婚を無条件に認めてくださるのならば、このような契約書は持ち出さずにすみますが」  滅多《めった》に見られない女の取り合い劇は最高の酒の肴《さかな》だ。  商人たちが低い笑い声を漏《も》らし、事の推移《すいい》を見守っている。  経験を積んだ商人であるのならば、大方がホロとロレンスの関係を言葉どおりには捉《とら》えていないだろう。借金を負った遍歴《へんれき》の修道女が、本当に借金返済の代わりに商人の旅の安全を祈《いの》っているなどと思うほうがどうかしている。借金のかたに売られるのが嫌《いや》で商人に付き従っているか、または好きで付き合っているかのどちらかと考えるのが自然だ。  もちろんアマーティもそのへんは考えているのだろうが、きっと前者のように思っているだろう。  これほど派手で堂々とした真似《まね》をできるのも、哀《あわ》れで美しい不運の修道女を、借金の鎖《くさり》から救い出すという大義名分があるからに違いない。  実際はそうではなくとも、これではロレンスのほうが悪者になってしまう。 「ロレンスさん、契約《けいやく》のナイフ、受け取っていただけますね?」  見守る商人たちが歯をむき出しにして声なく笑う。  美しい女を連れた行商人が、脇《わき》を甘《あま》くしていたばっかりに、今、若い魚商人に取られようとしているのだ。  こんな見世物|滅多《めった》にない。  そして、ロレンスに無様でない逃《に》げ道などない。  ならばアマーティに負けぬほど堂々とするのみだ。  それに、ホロが借金を完済してもらったくらいでロレンスとの旅をやめるなど絶対に考えられはしないのだから、恐《おそ》れることはなにもない。 「契約書も見ずに契約を締結《ていけつ》するほど私は不注意ではありません」  アマーティはうなずき、ナイフを引っ込めて代わりに羊皮紙の契約書を差し出してきた。  注目の集まる中、ロレンスはゆっくりと歩み寄り、その契約書を受け取って目を通す。  書かれていることは案の定アマーティが先ほど宣言したようなことで、それが堅苦《かたくる》しい表現になっているだけだった。  そんな中、ロレンスの最大の関心はアマーティが完済すべき惜金の額。  一体いくらと言ったのか。  アマーティがこれほど自信満々に言うのだからもしかしたら相当安い金額なのかもしれない。  そして、一文の中にその金額を見つけた。  一瞬《いっしゅん》、目を疑う。  トレニー銀貨で千枚。  ロレンスは安堵《あんど》感が胸に広がるのを実感した。 「この契約書の記述どおりで間違《まちが》いないですね?」  再度上から見直し、容易《ようい》に曲解ができるような罠《わな》の文言《もんごん》が入っていないかも確認《かくにん》する。もちろん罠《わな》としてではなく、自分にも利用ができないかと探してみる。  しかし、堅苦《かたくる》しいがちがちの言葉で書いてあるのはそういった余地を残さないためであり、足元をすくわれない予防策でもある。  アマーティはうなずき、ロレンスもうなずくほかなかった。 「わかりました」  そう言って契約《けいやく》書をアマーティに渡《わた》し、目配せをする。  再度アマーティの手に持たれたナイフが柄《え》を向けてロレンスに差し出される。  ロレンスがそのナイフに手を伸《の》ばし、契約が成立する。  この契約の証人はこの場にいる全《すべ》ての商人と、なによりもこのナイフによって誓《ちか》われた組合の守護聖人ランバルドスの名だ。  一斉《いっせい》に商人たちが声を上げて杯《さかずき》をぶつけ合わせ、この見物の結末を好き勝手に語り出す。  そんな騒《さわ》ぎの中、当事者二人は静かに視線を合わせ、やれやれといわんばかりの顔をした館長に契約書とナイフを預けた。 「この契約の履行《りこう》期限は祭り最終日である明日の日没《にちぼつ》時。よろしいですね?」  アマーティの言葉にうなずき、「トレニー銀貨千枚を現金で。値切り、分割|交渉《こうしょう》には一切応じない」と言ってやる。  いくら荷馬車三台分の鮮魚《せんぎょ》を運ぶ魚商人とはいっても、トレニー銀貨千枚をぽんと出せるほど金に余裕《よゆう》があるわけがない。それほどの商人であれば絶対にロレンスの耳にも入っている。  もちろん、銀貨千枚分の仕入れ、というのならきっと楽にやってみせるだろう。  しかしこれは言葉を悪くすればホロを銀貨千枚で買うということに等しい。ホロを転売するつもりでもなければ、その銀貨千枚はまるまるアマーティの懐《ふところ》からロレンスの懐へと移動するだけなのだ。  そんなことをすれば明日の魚の仕入れにも困るに違《ちが》いない。万が一ホロがアマーティの求婚《きゅうこん》を受け入れたとしても、待っているのは厳しい生活と商売だろう。愛は金で買えないと詩人は言うが、その逆もまた真なのだから。 「それではロレンスさん、明日、またこの場所でお会いしましょう」  それでも、アマーティは依然《いぜん》興奮《こうふん》冷めやらぬといった顔で、大股《おおまた》歩きに商館ロビーから出て行った。その背中に声をかける者はおらず、すぐに視線は一斉にロレンスに集中する。  ここで一言言わなければ、アマーティにしてやられた取るに足りない行商人と思われてしまう。  ロレンスは衿《えり》をただし、自信満々に言ってやった。 「まあ、借金を肩代《かたが》わりしてもらったくらいでは、私の連れは彼になびかないでしょうね」  よく言った、とばかりに歓声《かんせい》が上がり、直後に「ロレンスが二、アマーティが四だ! さあ張る奴《やつ》はいないか!」という言葉が商館を駆《か》け抜《ぬ》けた。  胴元《どうもと》に躍《おど》り出たのはロレンスも知る塩商人で、視線を向けるとにやりと歯を見せて笑った。  ロレンスの倍率が低いということは、この場にいる商人たちの意見としてはアマーティの分が悪いという判断になる。銀貨千枚という記述を見た時に広がった安堵《あんど》感は、なにも希望的観測ではない。常識的に考えれば、間違《まちが》いなくアマーティは無謀《むぼう》だ。  次々と賭《か》けを申し込む者たちも、その多くがロレンスに賭けていく。金が自分に賭けられれば賭けられるほど自信の後押しになっていく。  アマーティが求婚《きゅうこん》を宣言した時には肝《きも》を冷やしたものだが、それが実現する可能性はかなり低い。  そして、この時点でアマーティはすでに劣勢《れっせい》であるのに、ロレンスがもっとも安心することのできる最後の関門がある。  即《すなわ》ち、ホロが首を縦《たて》に振《ふ》らない限りアマーティはホロと結婚することなどできはしない。  ロレンスはこの点に関して絶対の自信がある。  ホロがロレンスと共に北の故郷を目指しているということをアマーティは知り得ない。  情報は商人にとって重要なものであり、それを手に入れられないことは戦場で目|隠《かく》しするようなものだとホロに言った。  これはまさしくその典型といえる。アマーティは下手をすれば、町を駆けずり回って必死に集めた銀貨千枚でホロの借金を返済しても、なおホロがロレンスと共に北へと行ってしまう可能性が十分に考えられるのだから。  ロレンスはそんなことを考えながら、不可抗力《ふかこうりょく》ながら騒《さわ》ぎの原因となってしまったことを館長に一言|侘《わ》び、すぐにその場をあとにした。  賭けが一段落ついて商人たちの関心が自分に向く前にここを出るのが得策だ。酒の肴《さかな》にされてはたまらない。  結構な人数の商人たちを掻《か》き分けてロレンスが商館を出ると、外に見知った顔の人がいた。  年代記作家のディアナを紹介《しょうかい》してくれた、バトスだ。 「厄介《やっかい》なことに巻き込まれましたね」  苦笑いのロレンスに、バトスも同情するように笑った。  ところが、すぐに「ですが」と言葉を続ける。 「アマーティさん、資金の調達に当てがあってのことだと思いますよ」  バトスの意外な言葉に、ロレンスの顔から苦笑が消える。 「まさか」 「もちろん、あまり感心できる方法じゃないようですが」  よもやリュビンハイゲンでロレンスが取ったような方法ではあるまい。  クメルスンでは高額の関税がかかるような商品はなく、税がかからなければ密輸は意味を成さない。 「さして間をあけず皆《みな》さんのお耳にも入るかと思いますので、詳《くわ》しい内容は言いません。あまりロレンスさんにだけ肩入《かたい》れするのも、勇気を振《ふ》り絞《しぼ》って商館であれほどの宣言をしたアマーティさんが気の毒ですしね。ただ、ロレンスさんには早めにそのことを伝えておきたかった」 「なぜです?」  バトスは少年のように笑った。 「どんな理由であれ、共に旅をしてくれる相手がいるのは嬉《うれ》しいことですからね。それを取られるのは行商人としてあまりにも辛《つら》い」  笑顔《えがお》で言うあたりが、偽《いつわ》らざる本音と感じさせる。 「早く宿に帰り、対策を練られたほうがよろしいでしょう」  ロレンスは大きな商談を良い条件でまとめてくれた商売相手にするように礼をして、足を宿に向けた。  アマーティには資金調達の当てがある。  これは誤算だったが、やはりホロとロレンスとの間にはバトスの知らない事情がある。  祭りのために通行も制限された大通りを歩きながら、胸中で何度も試算した。  結論は、ホロがアマーティになびくわけがない、だった。  事のあらましを宿に残っていたホロに告げると、思いのほか反応は薄《うす》かった。  マルクが寄越《よこ》してくれた小僧《こぞう》の言葉を聞いた当初こそ驚《おどろ》いていたものの、今のところ尻尾《しっぽ》の毛づくろいのほうが重要らしい。胡坐《あぐら》をかいたままその上で尻尾をいじくっていた。 「それで、ぬしはその契約《けいやく》を受けたのかや」 「ああ」 「ふうん……」  こんな調子で、すぐに尻尾に目を落としてしまう。アマーティには気の毒だがホロの関心は薄い。  案ずるまでもなかったか、とロレンスが木窓の外に視線を向けると不意にホロが声を上げた。 「ぬしよ」 「なんだ?」 「もしもあの坊《ぼう》やがぬしに銀貨千枚を渡《わた》したらどうするんじゃ?」  なにをどうする、と聞けばつまらない顔をするに違《ちが》いない。  ホロは、ロレンスがこんなふうに聞かれた時、真っ先に頭になにが浮かぶかを訊《たず》ねているのだろう。  ロレンスはしばし考えるふりをしてからわざと最良の選択肢《せんたくし》を外して答えた。 「お前が使い込んだ金額を清算したら、残りはお前にやるよ」  ホロの耳がゆっくりと頭の上で動き、瞼《まぶた》が瞳《ひとみ》を半分ほど隠《かく》す。 「わっちを試《ため》すでない」 「俺ばっかりいつも試されてるのは不公平だろう」 「ふん」  つまらなそうに鼻を鳴らして、ホロは手元の尻尾《しっぽ》に視線を落とす。  ロレンスはわざと真っ先に頭に浮かんだことを言わなかった。  そして、ホロがそれに気がつくか試したのだ。 「もしもアマーティが契約《けいやく》を完遂《かんすい》したら、俺も契約を守る」 「ほう」  ホロは視線を下げていないが、目は尻尾を見ていないことくらいわかる。 「もちろん、お前は自由の身だ。好きにすればいい」 「すごい自信じゃな」  胡坐《あぐら》を解き、足をベッドから下ろす。  それがいつでもロレンスに飛びかかれるようにするための準備に見えて少したじろいでしまったが、ロレンスは自信を持って答えていた。 「自信じゃない。俺はお前を信じているだけだ」  ものは言いようだ。  結局指し示す事態は同じなのに、このように言うととても格好いい。  ホロも一瞬《いっしゅん》きょとんとしてしまっていたが、よく回る頭でそのことに気がついたらしい。  楽しそうに笑ってから、一息でベッドから立ち上がる 「まったく。おろおろしておったほうがまだ可愛《かわい》げがあるというものじゃな」 「自分でもだいぶ成長したと実感できるくらいだ」 「ふん。落ち着いて振《ふ》る舞《ま》うだけで大人かや」 「違《ちが》うのか」 「勝てる博打《ばくち》かどうかを見極《みきわ》めて、自らに有利と踏《ふ》んだからこその余裕《よゆう》など、単なる小賢《こざか》しさといえような。そんなもの大人じゃありんせん」  御歳《おんとし》数百|歳《さい》の賢狼《けんろう》の御高説《ごこうせつ》に、胡散臭《うさんくさ》い売り込みを聞いている時のような顔になってしまう。 「例えばじゃな、アマーティに契約を申し込まれた時、契約を受けないこともまた立派なことだったじゃろう?」  それはない、とロレンスが口にする前にホロがあとを続ける。 「どうせぬしは周りを見て、恥《はじ》か否《いな》かを判断したんじゃろうが」 「う」 「仮に逆の立場になったと考えてみよ。つまり、こうじゃな」  ホロは咳払《せきばら》いをして、胸に右手を当てて語り出した。 「わっちゃあその契約《けいやく》を受けることなどとても考えられぬ。わっちゃあロレンスといつまでも一緒《いっしょ》にいたい。たとえ借金といえどもそれはわっちとロレンスをつなぐ絆《きずな》の一つ。どれほどたくさんの糸がロレンスとつながっておっても、その一つが切れることなどこの身には堪《た》えられぬ……。なれば、この場で恥《はじ》を受けようとも、その契約は受けられぬ……とな。どうかや?」  まるで歌劇の一場面のようだ。  それほどホロの表情は真剣《しんけん》で、その言葉はロレンスの胸に深く重く響《ひび》いた。 「わっちゃあこんなことを言われたら、嬉《うれ》しさで胸が詰《つ》まってしまいんす」  もちろんそれは冗談《じょうだん》だろうが、ホロの言葉にも一理ある。  しかし、素直《すなお》に認めるのもロレンスには面白《おもしろ》くない。これでは、ロレンスが外聞を気にして契約を受けてしまった根性《こんじょう》なしだということになってしまう。それに、こんなあまりにも率直《そっちょく》すぎることを人前で宣言したら、その場はいいとしてもあとが困る。 「確かにそれは男らしいことかもしれない。しかし、それが大人かというとまた別問題だろう」  ホロは腕組《うでぐ》みをしながら少し視線を泳がせて、小さくうなずいた。 「確かに、良さ雄《おす》ではあるが向こう見ずな若々しさに溢《あふ》れすぎじゃな。言われたら嬉しいかもしれぬが、げっぷが出そうじゃ」 「そうだろう?」 「ふむ。そう考えると良き雄であることと、良き大人であることは相|容《い》れぬことなのかもしれぬ。良き雄は子供じみておる。良き大人は腑抜《ふぬ》けておる」  頑迷《がんめい》な騎士《きし》が聞けば激怒《げきど》して剣《けん》を抜きそうなほど男を小|馬鹿《ばか》にした言葉だ。  からかうような笑《え》みも向けられて、もちろんのことロレンスは反撃《はんげき》を試みる。 「ならば良き女でありつつ良き大人であられる賢狼《けんろう》ホロは、アマーティに契約を申し込まれたとしたらどう対処するんだ?」  ホロの笑みは一向に消えない。  腕組みすら解かず、ホロは即座《そくざ》に返事をした。 「笑って受けるに決まっておる」  ロレンスは言葉に詰まり、ホロの笑みに追い詰められる。  軽く笑って少しも力まず、アマーティの契約をさらっと受けるその様が、とてつもない余裕《よゆう》と懐《ふところ》の広さを想像させた。  しかし、そんな発想はロレンスにはない。  目の前にいるのは、賢狼を自称《じしょう》するホロだった。 「もちろん、契約を受けて宿に帰ってきたらの、こう、なにも言わずにぬしの下《もと》に歩み寄ってな……」  と、ホロはロレンスを窓際《まどぎわ》に追い詰《つ》めて、腕組《うでぐ》みを解くとそっと手を伸《の》ばしてくる。 「うつむくんじゃ」  尻尾《しっぽ》と耳も伏《ふ》せ、肩《かた》も落とすと実に儚《はかな》げだ。こんな罠《わな》を張られたらまず見|抜《ぬ》けないだろう。  直後に聞こえてきたホロの忍《しの》び笑いが、底知れぬほど恐《おそ》ろしかった。 「ま、ぬしはそれなりに良き商人じゃ。勝てる博打《ばくち》だと踏《ふ》んで契約《けいやく》を結びはしたろうが、きっと水面下でさまざまな動きをし、裏工作をして万全を期すに違《ちが》いない」  うつむかせていた顔を上げ、耳も尻尾も楽しげに揺《ゆ》らしながらするりと体を半回転させロレンスの横にぴったりと付く。  ホロがなにを言っているのか、すぐにわからないロレンスではない。 「祭りに連れて行けと?」 「契約のためならば賄賂《わいろ》も辞さぬ商人様じゃろ?」  アマーティとの契約そのものには直接ホロは関係しない。それでも、アマーティの求婚《きゅうこん》が成功するか否《いな》かがこの騒《さわ》ぎの終着点である。あえて言葉を選ばずに言えば、銀貨千枚が丸儲《まるもう》けできるか否かはホロの機嫌《きげん》一つにかかっている。  ロレンスとしては、裁判官たるホロに賄賂を贈《おく》らない手はない。 「どちらにせよアマーティの情報集めに動かなきゃならないからな。ついでに連れて行ってやるよ」 「わっちを連れて行くついでに、じゃろうが」 「わかったよ」  わき腹を殴《なぐ》るホロに、ロレンスは笑いながらため息をついて返事をしたのだった。  まず調べるべきはアマーティの財産だ。  推測《すいそく》では銀貨千枚をぽんと出せるわけもないと思ったし、バトスが言うにはあまり感心できない方法を用いてまで金策を行っているというのだから、やはりそうなのだろう。  しかし、万が一があっては困るのでロレンスはマルクの露店《ろてん》を訪《おとず》れて協力を要請《ようせい》した。  祭り期間中も店を開けているせいで、件《くだん》の騒ぎをじかに見れなかったマルクは二つ返事で了承《りょうしょう》してくれた。噂《うわさ》ばかりが先行してホロの姿を実際に見ていない商人が多い中、ホロを連れて露店を訪れたのも効果的だったようだ。  騒ぎの経緯《けいい》を一番近い席で見れるというのなら、それくらいお安い御用というわけだ。 「それに、町を走り回るのは俺じゃない」  使い走りの小僧《こぞう》に同情してしまうが、誰《だれ》もが通る道といえばそうなので、なんとも複雑な気分だった。 「しかし、件《くだん》の美女を連れて歩いて大丈夫《だいじょうぶ》なのか」 「ラッドラ祭を見たいと言うし、それに、鍵《かぎ》かけて宿に閉じ込めておいたら本当に俺が借金で縛《しば》りつけているみたいじゃないか」 「と、ロレンス氏はおっしゃっておりますが事の真相は?」  マルクは笑いながらホロに話を振《ふ》り、いつもの町娘の格好にアマーティからの贈《おく》り物《もの》である狐《キツネ》の襟巻《えりま》きを巻いたホロは、心得たとばかりに胸に両手を当てながら返事をする。 「真相もなにも、わっちゃあ莫大《ばくだい》な借金の鎖《くさり》で縛られていんす。明日も見えぬこの鎖は、わっちが走って逃《に》げることすらできぬほどに重い……。もしもぬし様が外してくれるなら、わっちゃあ喜んで麦の粉で白くなりんす」  マルクの顔が、一気に大笑いへと進化する。 「わはははは。アマーティが参るわけだ。この分だと縛られているのはロレンスのほうだな」  ロレンスは取り合わずそっぽを向く。マルクとホロの両方から攻《せ》められては負けるのが目に見えているからだ。  ただ、日頃《ひごろ》の行いが良かったのかちょうどよい頃合で救世主が現れた。  人ごみの間をすり抜けて走る小僧《こぞう》が帰ってきた。 「調べてまいりました」 「おお、ご苦労。どうだった?」  小僧《こぞう》はマルクに報告しがてら、ロレンスとホロにも挨拶《あいさつ》をする。  小僧が一番欲しかったのは、マルクやロレンスからのねぎらいではなくホロからの笑顔《えがお》に違《ちが》いない。  そこのところを心得ているホロが殊更《ことさら》おしとやかに小首をかしげて微笑《ほほえ》むと、その罪な振《ふ》る舞《ま》いに小僧の顔が耳まで真っ赤になっていた。 「で、とうだった?」  ニヤニヤ笑うマルクに小僧は慌《あわ》てて返事をする。マルクのことだから、小僧はきっと長い間からかわれることだろう。 「は、はい。えっと、納税台帳には、二百イレードの課税があったそうです」 「二百イレードか。そうすると……トレニー銀貨で八百枚くらいが町の参事会が把握《はあく》しているアマーティの現有財産だな」  ある程度財産を持っている町商人ならば、いくらかの例外を除いて町に税金を納めている。その額はすべて納税台帳に記載《きさい》され、取引関係にある者ならば誰《だれ》もが閲覧《えつらん》できる。マルクの知り合いを通してアマーティと取引関係にある者にアマーティの納税額を調べてもらったのだ。  ただ、町商人が町の参事会に正確な財産を申告しているわけもなく、いくらかの隠《かく》し財産があるものと見たほうがいい。それに、商人ならば財産の多くを売掛債権《うりかけさいけん》などの形で持っている。  が、それでもホロの身柄《みがら》を銀貨千枚でぽんと買えるような財産ではない。  となると、もしもアマーティに契約《けいやく》完遂《かんすい》の成算があるのだとしたら、借金か博打《ばくち》などの短期間で大金を集める方法に絞《しぼ》られる。 「この町の賭場《とば》は?」 「うるさい教会がないから野放し、というわけでもない。カード、サイコロ、兎《ウサギ》追い、くらいしかないな。賭《か》け金の上限も決まってる。博打では無理だな」  少ない言葉の質問にすぐに的確な答えを返してくるあたり、マルクもマルクなりにアマーティの金策の方法を考えているのだろう。  なにせ、銀貨千枚で換金《かんきん》不可能な商品を買うというのに等しいのだから、その資金の出所が気にならない商人など存在しない。  ロレンスがそんなことを考えながら、次になにを調べてもらうか考えているとマルクが不意に口を開いた。 「そうそう。博打といえば、アマーティとの契約がどうなるかの他《ほか》に、その先の賭けもできているらしいな」 「その先?」 「ああ、契約がアマーティの勝ちになり、さらにその先の勝負がどうなるか、だ」  マルクの顔が挑発《ちょうはつ》的に笑い、ロレンスの顔は反対に渋《しぶ》くなる。  当のホロはマルクの露店《ろてん》の奥に積み上げられている麦の束や麦粉に興味を持ったらしく、小憎《こぞう》の甲斐甲斐《かいがい》しい案内を受けながら見て回っていた。  そんなホロの耳にも聞こえたらしく、視線を向けてくる。 「今のところお前が有利だが、倍率は一・二。接戦だな」 「胴元《どうもと》にいくらか分け前を請求《せいきゅう》しないとな」 「ははは。で、実際のところどうなんだ?」  賭《か》けに有利な情報を聞き出して儲《もう》けようという魂胆《こんたん》はもちろんのこと、単純に野次馬根性からも聞いているのだろう。  ロレンスはまともに取り合わず肩《かた》をすくめただけだったが、その質問にはいつの間にか歩み寄ってきていたホロが答えた。 「答えが用意されている質問であっても、容易《ようい》に答えられないものが多いのが世の中でありんす。例えば、麦粉の混ざり具合など、の」 「うっ」  マルクは慌《あわ》てて小僧に視線を向けるが、小僧は自分はなにも言っていないとばかりに首を振《ふ》る。麦粉の混ざり具合とは、きっと純度のことだろう。小麦の粉の中に他《ほか》の安い麦の粉をいくらか混ぜて嵩《かさ》を増やすのは麦商人の常套《じょうとう》手段だ。  日々麦粉を扱《あつか》う麦商人であっても、わずかな混ぜ具合では判別など不可能だろうが、麦に宿るというホロには一目瞭然《いちもくりょうぜん》なのだろう。  ニヤニヤと笑ってあとを続けた。 「もしもわっちの借金が返済されたらどうするか、聞いてみたいかや?」  ホロの得意|技《わざ》、笑っていない満面の笑《え》みだ。  マルクは小僧《こぞう》同様に首を激しく横に振《ふ》り、ロレンスに助けを求めるような視線を向けたのだった。 「しかし、こうなると直接相手の行動を監視《かんし》するしかないか」 「陰険《いんけん》じゃな」  的確なホロの意見がロレンスの胸に突《つ》き刺《さ》さる。 「水面下の戦いと言って欲しいな。どうせ向こうもこっちの行動を逐一《ちくいち》誰《だれ》かに監視させてるだろうからな」  ところが、それには立ちなおったマルクが異論を唱えた。 「いや、それはどうかな。アマーティはほれ、ああ見えても単身家出してこんな辺境の町までやってきて、独力で今の稼《かせ》ぎを得ているくらいだからな。それに加えてあの若さだ。結構我が強いんだよ。俺ら町商人みたいに横のつながりをあまり重視しないどころか、今言われたみたいに陰険だと軽蔑《けいべつ》している節がある。信じているのは自分の魚の目利《めき》きと、売り込みに行く口のうまさ。それと、神のご加護だろう」  まるで騎士《きし》だなと、そんなやり方で今の地位を築いているアマーティを少し羨《うらや》ましくも思う。 「だからこそ、ふらりと町にやってきた魅力《みりょく》的な娘っ子にのぼせちまったんだろうな。町にいる女共は町商人以上に強い横のつながりの中で生きているからな。周りの評判ばかりを気にして、互《たが》いに監視《かんし》し合い、少し突出《とっしゅつ》している奴《やつ》らがいれば全員で攻撃《こうげき》する。そういうのは軽蔑《けいべつ》の対象なんだろう。もちろん、そんな奴らばかりじゃないのは、俺はアデーレと結婚したことでわかっているがな」  行商人からするとマルクの言った説明はよくわかる。確かに外から見ているとそう思えるものだ。  ロレンスは隣《となり》に寄ってきたホロを一度見て、そんな状況《じょうきょう》でホロのような娘《むすめ》に出会ったら一発で参ってしまうかもしれないと思う。それに、ホロのことを普通《ふつう》の娘だと思っているのだからなおさらだろう。 「だが、アマーティさんがそうであったとしても、俺は商人の横のつながりを使うことになんのためらいもない。騎士同士の戦いならば陰険な行為《こうい》はとがめられるだろうが、商人同士の戦いに泣き言は存在しないからな」 「まあ、俺もそれには賛成だな」  マルクはそう言ってから、視線をホロに向ける。  ロレンスも再びホロを見ると、ホロはそれを待っていたかのように頬《ほお》に両手を当てて恥《は》ずかしがるように口を開いた。 「わっちはたまには正攻《せいこう》法で攻《せ》められたいの」  きっとマルクも、ホロには敵《かな》わないと悟《さと》っただろうなと、ロレンスは思ったのだった。  結局マルクに伝《つて》を使ってもらいアマーティの情報を集めることにした。その際、バトスがアマーティの資金調達に心当たりがあるようなことを言っていたことも付け加えておいた。  ホロのことを信用しているといっても、その信用の上に胡坐《あぐら》をかいていればホロにどんな足元のすくわれ方をされるかわからない。それに、場合によってはアマーティの金|儲《もう》けに便乗できるかもしれない、という考えもある。  ロレンスとホロはいつまでもマルクの店の前にいても商売の邪魔《じゃま》なので、マルクに情報収集を頼《たの》んでから店をあとにした。  町はますます活気に満ちているようで、市場から広場に出ても市場の中と変わらないほどの人出だった。  時刻は昼に近く、道すがら気になる露店《ろてん》にはどこも人が並んでいる。もちろんそんなことでめげるホロではなく、気になる露店にはロレンスから巻き上げた貨幣《かへい》を握《にぎ》り締《し》めて並んでいる。  そんな様子を遠くから眺《なが》めながら、そろそろ昼を告げる鐘《かね》が鳴り響《ひび》くだろうと思っていた頃《ころ》、不意に間延びした低い音が聞こえてきた。 「角笛?」  角笛といえば羊|飼《か》いで、リュビンハイゲンで共に危ない橋を渡《わた》ったノーラのことを思い出してしまうが、勘《かん》のいいホロに見|抜《ぬ》かれるとまた厄介《やっかい》だ。  頭から追い出しつつどこから聞こえてきたのかと探していると、目当ての揚《あ》げパンを無事買えたらしいホロが帰ってきた。 「今、羊飼いのような音がしなかったかや」 「したな。お前がそう思ったということは、やっぱり角笛か」 「食べ物の匂《にお》いに溢《あふ》れておって、とても羊がおるかどうかなどわからぬ」 「羊なら市場にもたくさんいるだろうが、町中で角笛なんか吹《ふ》かないだろう」 「羊飼いの娘《むすめ》もおらぬじゃろうしの」  言うと思ったので、さほど動揺《どうよう》はしなかった。 「むう。ぬしが動揺せぬと、わっちがぬしの気を引いておるみたいじゃないかや」 「それは恐悦至極《きょうえつしごく》だな。恐悦すぎてあとが怖《こわ》い」  ホロは楽しそうに揚げパンを音を立ててかじる。ロレンスも少し笑いながら改めて視線を周りに向けると、人の流れが一方向に向いていることに気がついた。人々は町の中心に向かっている。さっきの角笛は祭り開始の合図だったのだろう。 「多分祭りが始まったんだろうな。見に行くか?」 「食べてばっかりもつまらぬ」  ロレンスが苦笑いで歩き出すと、ホロはロレンスの手を取ってついてきた。  人の波に逆らわず、市場を横目に北へと歩いて行くと、やがて笛や太鼓《たいこ》の音の合間に歓声《かんせい》が聞こえてきた。  ホロのような格好をしている町娘《まちむすめ》や、職場から抜け出してきたような顔を真っ黒にした職人の見習いふうの小僧《こぞう》、それに服に羽を三本つけた旅の説教師と思われる者や、軽装の騎士《きし》か傭兵《ようへい》と思われる者など、とにかくさまざまな種類の人たちが集まっていた。  位置的に、歓声の聞こえてくる場所はクメルスンを東西南北に分ける二本の大通りが交わる場所なのだが、人だかりのせいで交差点を見ることはできない。ホロはなんとか見えないかと背伸《せの》びをしたりしているが、ロレンスでも見えないのでそれより背の低いホロが見えるわけもない。  ロレンスはふとあることを思いついてそんなホロの手を引いて、大通りから脇《わき》の小道へと入った。  喧騒《けんそう》ざわめく大通りとは違《ちが》い、少し小道に入ると静かなものだ。表の騒《さわ》ぎとは無縁《むえん》といった顔で物乞《ものご》いがボロに包《くる》まって眠《ねむ》っていたり、露店《ろてん》で売るためなのか職人たちが忙《いそが》しそうに開け放たれた作業場で仕事をしていた。  ホロはすぐにどこに向かっているのか察したらしく、黙《だま》ってついてくる。  大通りで祭りが行われているならば、ロレンスたちが泊《と》まっている宿からは祭りの様子がよく見えるだろう。  人通りの少ない小道を軽快に歩き、宿の裏口から入って二階へと上《のぼ》る。  どうやら同じことを考え、それを商売にしている者もいるようで、二階に上がると通り沿いの部屋の扉《とびら》がいくつか開け放たれており、入り口では小ずるそうな商人が椅子《いす》に座って暇《ひま》そうに貨幣《かへい》を弄《もてあそ》んでいた。 「この点はアマーティに感謝だな」  部屋に入り木窓を開けるや、一瞬《いっしゅん》でそこが特等席だとわかった。  少し顔を出せば東西と南北に町を抜ける大通りの交差点がまるまる見えるし、普通に外を覗《のぞ》くだけでも十分に見|渡《わた》せた。  交差点で笛や太鼓《たいこ》を鳴らしているのは頭からすっぽりと真っ黒いローブをかぶった不気味な連中で、男なのか女なのかすら判別がつかない。  そんな黒|装束《しょうぞく》の者たちのあとをこれまた不思議な格好をした者たちがついて歩いている。  数人分の布地を縫《ぬ》い合わせた大きな服の中に人が何人も入って頭上に人の顔を模《も》した仮面を掲《かか》げていたり、おそらく肩車《かたぐるま》をしたまま頭からすっぽりとローブをかぶって巨人《きょじん》に扮《ふん》し、細い木を組んだ大剣《たいけん》を持った者、それに身の丈《たけ》を超えるような大弓を持っている者もいる。そんな者たちが大剣を振《ふ》り回したり大弓を振り回したりするたびに、見物人から歓声《かんせい》が上がっていた。  しかし、ただこれだけのことなのかとロレンスが思っていると、一際《ひときわ》高い歓声が上がり新たな楽器の音色が聞こえてきた。  ホロも小さく声を上げ、ロレンスはホロの邪魔《じゃま》にならないように窓から顔を出した。  宿は交差点の南東に位置していたが、どうやら東側からまた奇怪《きかい》な格好をした集団が現れたらしい。  先頭を黒装束の者たちが行くのは同じだったが、その後ろについて歩く者たちの格好は交差点にいる者たちとは明らかに違《ちが》っていた。  ある者は顔を黒く塗《ぬ》って頭に牛の角を二本くっつけていたり、ある者は鳥の羽のようなものを背負っている。獣《けもの》の皮をかぶっている者も多く、ホロが耳と尻尾《しっぽ》を出して混ざっていてもわからないような気がする。そんな一行が通り過ぎたあと、歓声というよりもどよめきと共に現れたのは、人の身の丈を優《ゆう》に超《こ》える藁束《わらたば》の人形だ。犬かなにか、四足《よつあし》の獣の形をしたその大きさはホロの狼《オオカミ》の姿よりも大きい。それが木を組んだ支えの上に乗っていて、支えを十人ほどの男たちが担《かつ》いで運んでいる。  よほどホロになにか話しかけようかと思ったが、一心不乱に祭りの様子を見つめていることに気がついてそれはやめた。  次から次へと動物を思わせる格好や、動物を象《かたど》った人形などが列を成してやってきて、広場になっている交差点をうろうろする。  やがて先頭を行く黒|装束《しょうぞく》の者たちが、交差点のあちこちに立てられている標識のようなものを見て、さまざまな方向を指差しては歩き回っている。  それを見る限り、この祭りは単なる仮装行列ではなく、なんらかの物語性を持つのだろうが生憎《あいにく》とロレンスにはわからない。あとでマルクにでも聞いてみようかと思っていたら、今度は南北に抜《ぬ》ける大通りの北側からまた行列がやってきた。  今度は普通《ふつう》の人間の列だったが、ある者はボロを身にまとい、ある者は貴族の格好をし、ある者は騎士《きし》の格好をしている。共通しているのは皆《みな》が手にスプーンを持っていること。一体なぜスプーンを持っているのかと不思議に思っていたら、三つの行列が交差点の真ん中でぶつかり合い、口々に聞いたことのない言葉を叫《さけ》んでいく。見物人たちはわずかなどよめきと緊張《きんちょう》感を持ってその言葉のやり取りを聞いていて、ロレンスも少し緊張してしまう。  これからなにが起こるのかと思っていたら、黒装束の者たちが一斉《いっせい》に同じ方向を指差した。  それは交差点の南西で、皆の視線も一斉にそちらを向く。  すると、そこにはいつの間に用意していたのか大きな樽《たる》を載せた台車がいくつもあり、台車の周りにいた者たちがわざとらしい大笑いをしたかと思うやその台車を引いて交差点にやってきた。  黒装束の者たちは一斉に手にしている楽器をかき鳴らし、奇怪《きかい》な格好をした者や、動物を象った人形を引く者たちも歌い出し、樽の蓋《ふた》を開けた者たちがひしゃくで中身をすくっては辺りにまき始めた。  そして、それが合図だったかのように遠巻きに眺《なが》めていた見物人たちも交差点に入り、各々《おのおの》勝手に踊《おど》り出す。  その踊りの輪はどんどん広がっていき、奇妙《きみょう》な格好をした者たちも何人かが交差点から飛び出して大通り沿いを踊りながら歩いて行く。  それに釣《つ》られて踊る者たちもいて、あっという間に大通り全体が大きな舞踏場《ぶとうじょう》に変わってしまう。交差点の真ん中では先ほど行列を成《な》していた者たち同士が肩《かた》を組んで輪舞《りんぶ》を踊っていたりもする。もうこうなってしまっては収拾などつかないだろうから、きっと今日はこのまま夜まで歌って踊って騒《さわ》ぎ通しだろう。  祭りの進行というよりも、大騒ぎの開始の合図が一段落ついたことが見て取れた。  ホロもほとんど身を乗り出していた窓から体を引っ込めて、ロレンスのほうを向くや否《いな》やこう言った。 「わっちらも踊りに行こう」  生まれてこのかた踊りを踊ったことなど片手の指で数えられるほどしかない。こういった祭りは避《さ》けていたのもあるし、一人で踊っても悲しいだけだったからだ。  そんなことを思って一瞬《いっしゅん》ためらってしまったが、差し出されたホロの手を見て思いなおした。  どうせ周りは酔《よ》っ払《ぱら》いばかりだ。多少へたくそでもかまわない。  それに、差し出された小さな手は万金に値《あたい》する。 「よし」  ホロの手を取り覚悟《かくご》を決めてロレンスはそう言った。  そして、そんなロレンスの気負いを察したのかホロが笑いながら言葉をかけてきた。 「わっちの足を踏《ふ》まぬようにと注意するだけでよい」 「……努力する」  二人|揃《そろ》ってそのまま宿を出て、大騒ぎの中に飛び込んだのだった。  これほど騒いだのは何年ぶりだろうか。  それくらい踊って笑って酒に酔っていた。  楽しさの余韻《よいん》に浸《ひた》る、なんてことも初めてだったかもしれない。  楽しさのあとにはいつもそれらを打ち消して余りあるほどの寂《さび》しさがあったからだ。  しかし、酒を飲んではしゃぎすぎ、足元もおぼつかないホロの肩《かた》を支えながら宿の階段を上《のぼ》るロレンスの胸のうちには、いくらか熱が冷めてちょうどよい温かさになった楽しさが残っている。ホロといる限り、ずっと大|騒《さわ》ぎが続いているような気がしていた。  部屋に入ると開けっ放《ぱな》しだった木窓の向こうからは依然《いぜん》として町の喧噪《けんそう》が聞こえてくる。夜は始まったばかりでこれから昼間の騒ぎに入れなかった職人や商人連中の騒ぎが始まるだろう。  しかも、祭りは新たな局面に入るらしく、宿に戻《もど》ってくる途中《とちゅう》に交差点のほうを見ると人があわただしく行き交《か》っていた。  ホロも体力があれば見たがっただろうが、生憎《あいにく》とこの様《ざま》だ。  ホロをベッドに寝《ね》かせ、昨日に引き続き下男よろしく寝|支度《じたく》を整えてやってから一つため息をつく。  ただ、それは悪いため息ではない。頬《ほお》を赤くして無防備に横になるホロを見て、笑《え》みと共に出てきたため息だ。  アマーティには悪いが、もはやロレンスはアマーティとの契約《けいやく》になんの恐《おそ》れも抱《いだ》いていない。  それどころか、宿に帰ってくるまでそのことをすっかり忘れていたくらいだ。  宿に帰ってきたロレンスに言伝《ことづて》があると宿の主人が教えてくれた。送り主はマルクで、アマーティの金|稼《かせ》ぎの方法がわかったので大至急店に来いという内容だった。  それを聞いても真っ先に頭に浮かんだのは、明日でいいか、といういつもならば絶対に思わないようなことで、自分の中で恐ろしく優先順位が下がっていることがよくわかった。  それよりも気になっていたのは、言伝と共にロレンス宛《あて》に送られてきていた手紙のほうで、封《ふう》には蝋《ろう》が使われ、差出人には綺麗《きれい》な字でディアナの名がある。手紙を持ってきたのは棺桶《かんおけ》のような体格の男、ということだからきっとバトスだろう。  ヨイツのことについてなにか他《ほか》に思い出したら教えてくれと頼《たの》んでおいたのでそのことかもしれない。今すぐ封を開けて見てみようかとも思ったが、腰《こし》を下ろして手紙を読んだらますますマルクの所に行くのが億劫《おっくう》になりそうだったのでやめた。  一回取り出した手紙をもう一度上着の中にしまい、喧騒《けんそう》が聞こえてくる木窓を閉めて部屋を出ようとする。  扉《とびら》に手をかけたところで背中に視線を感じ、振《ふ》り向けば他に誰《だれ》がいるわけでもない。ホロが眠《ねむ》そうな瞼《まぶた》をこじ開けるようにしてロレンスのほうを見ていた。 「ちょっと外に行ってくる」 「……雌《めす》の匂《にお》いがする手紙を胸に忍《しの》ばせてかや」  不機嫌《ふきげん》そうなのは、眠気をこらえているからではなさそうだ。 「すごい美人だったな。気になるか?」 「……たわけ」 「年代記作家の人だ、と言ってわかるか? ヨイツの情報を提供してくれた人だよ。北のほうの昔話や言い伝えに詳《くわ》しい人だ。まだ手紙の内容は見てないが、昨日話をしただけでも有益な情報は手に入った。お前の話なんかも聞けたよ」  猫《ネコ》が顔を洗うように目をこすってからホロはむくりと体を起こした。 「……話? わっちの?」 「レノスって町にお前の言い伝えが残ってた。麦束|尻尾《しっぽ》のホロウ。お前のことだろう」 「……わからぬが、有益な情報とはなにかや」  さすがに故郷がらみの話で目が覚めたらしい。 「町の言い伝えに、お前がどの方角から来たかというのが残っていた」 「そ……」  と、目を見開いたまま固まり、遅《おく》れて感情が顔に表れてきた。 「それは、本当かや」 「嘘《うそ》をついても仕方がないだろう。レノスという町の東のほうの森から来たらしい。ニョッヒラから南西で、かつ、レノスから東に行った山にあるところがヨイツだ」  その予想もしていなかったであろう話に、ホロは握《にぎ》り締《し》めていた毛布を抱《だ》き寄せてうつむいた。ホロの狼《オオカミ》の耳は、毛の一本一本に嬉《うれ》しさが詰《つ》まっているようにふるふると小刻みに震《ふる》えている。  迷子《まいご》になったまま長い時間を過ごし、ついに見知った道を見つけて安堵《あんど》する少女がそこにいた。  ホロはゆっくりと長く息を吸い、それから大きく吐《は》き出す。  その場で泣き出さなかったのは賢狼《けんろう》としての意地かもしれない。 「よく泣かなかったな」 「……たわけ」  少し唇《くちびる》を尖《とが》らせたのは本当に泣きそうだったからだろう。 「ニョッヒラから南西ってだけじゃ正直厳しかったが、これならかなり狭《せば》まったな。まだこの手紙は開けてないが、多分追加の情報だろう。この分なら思ったよりも楽に目的地に着けるかもしれない」  ホロはうなずいてから少し視線をそらし、毛布を抱いたまま改めて窺《うかが》うような視線をロレンスに向けてきた。  赤味がかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》が期待と不安の入り混じった輝《かがや》きを帯びる。  尻尾は不安げに先っぽだけを揺《ゆ》らし、そんな様子は苦笑いしてしまうくらいにか弱い少女だ。  しかし、この視線の意味がわからないようではそんなホロに喉笛《のどぶえ》を噛《か》み千切られても言い訳はできない。  ロレンスは咳払《せきばら》いをして、すぐに答えた。 「半年も探せば見つかるだろうな」  石像のように硬《かた》くなっていたホロの体に血が流れ出すのがよくわかる。  ホロは、「うん」と嬉《うれ》しそうにうなずいた。 「そういうわけで、この手紙の差出人は福音《ふくいん》を告げる鳩《ハト》のような人だ。無粋《ぶすい》な詮索《せんさく》をしたことを反省するんだな」  ホロは不機嫌《ふきげん》そうに唇《くちびる》を尖《とが》らせたが、それがわざとだとわからないわけがない。 「で、今からちょっとマルクのところに行ってくる」 「雌《めす》の匂《にお》いのする手紙を胸に忍《しの》ばせて?」  再び向けられたホロのそんな言葉に思わず笑ってしまう。  手紙を置いていけ、ということだろう。  それをそのま言えないのは、読めもしない手紙でも置いていって欲しいと思うほどそわそわしていることが恥《は》ずかしいからだ。  ロレンスは、なかなか見ることのできないホロの丸わかりの心境を楽しみながら、手紙を手渡《てわた》したのだった。 「差出人は美人じゃと言ったな?」 「大人の雰囲気《ふんいき》を身にまとった、な」  片方の眉《まゆ》だけを器用に吊《つ》り上げて、手紙を受け取ったホロは目を細めてロレンスを睨《にら》む。 「お前は大人すぎて老獪《ろうかい》なんだよ」  すると、牙《きば》を見せて笑った。 「で、アマーティが銀貨千枚を調達する方法がわかったらしい。それを聞きに行ってくる」 「そうかや。せいぜいわっちを買われぬように対策を練ることじゃ」  これだけのやり取りをしてその言葉を真に受けるわけもない。  ロレンスは軽く肩《かた》をすくめてそれをかわす。 「読みたければ勝手に手紙を開けてもいい。読めればの話だがな」  ホロは鼻を鳴らして手紙を持ったままベッドに横になり、さっさと行けと言わんばかりに尻尾《しっぽ》を振《ふ》る。まるで骨をくわえて寝床《ねどこ》に戻《もど》った犬のようだ。  とてもそんなことなど言えはしないので、声なく笑って扉《とびら》を開け、部屋を出る。  扉を閉じ際《ぎわ》にもう一度ホロを見ると、見|越《こ》していたかのように尻尾が振られた。  それを見て小さく笑い、大きな音を立てないように、ロレンスはゆっくりと扉を閉じたのだった。 「まったく、人にものを頼《たの》んでおいていいご身分だな、ロレンス」 「悪かった」  マルクの家に行こうか迷ったが、まだ市場にいるかもしれないと思って先に露店《ろてん》に行ったらそれが正解だった。  市場では露店のあちこちで月明かりを頼《たよ》りに酒を酌《く》み交《か》わす者たちが多く、商品を見張る夜警の者たちの中にも誘惑《ゆうわく》に負けて酒を飲んでいる連中がかなりいた。 「ま、実際のところ祭り期間中は結構|暇《ひま》だから別にいいんだが」 「そうなのか?」 「ああ、祭り中に荷物を持ってうろうろしたくないだろう? 麦みたいにかさばるものは特に、祭りが始まる前に売って終わる頃《ころ》に買う。後夜祭はまた別だがな」  本祭と呼ばれる二日間にわたる催《もよお》しののちに、大市《おおいち》よりも長く続く後夜祭は単なる酒宴《しゅえん》だと聞く。もっとも、大|騒《さわ》ぎをして酒を飲むのに祭りを口実にしたくなる気持ちもわからないではなかった。 「それに、こっちもお前の情報のお陰《かげ》ですでにいくらか儲《もう》けさせてもらっているからな、今回は勘弁《かんべん》してやろう」  そう言って笑うマルクの顔は商人のそれだ。  どうやらアマーティの金|稼《かせ》ぎの方法は便乗が可能なものだったらしい。 「便乗したのか。で、どんな方法だった?」 「おう、これがまたうまい話だ。なに、儲けるからくりがうまいとかじゃない。濡《ぬ》れ手で粟《あわ》のぼろ儲けという意味だ」 「それは商人として興味《きょうみ》津々《しんしん》だな」  手近にあった丸太を短く切った椅子《いす》に座りながらロレンスが言うと、マルクは言葉の含《ふく》みににやりと笑う。 「騎士《きし》ハシュミットは踊《おど》りがお上手という話が入ってきているがな。このままじゃ浮かれている間に銀貨千枚を積まれて麗《うるわ》しの姫《ひめ》を取られちまうぞ」 「俺はお前がアマーティさんに全財産を賭《か》けようとかまわないが?」  ロレンスの切り返しを、マルクは盾《たて》ではなく剣《けん》で受け止めた。 「そのフィリップ三世だが、お前のことを色々言っているらしいぜ」 「え?」 「哀《あわ》れな娘《むすめ》に借金を背負わせて好き勝手に連れ回しているとか、旅の道中も冷たくて苦い麦の粥《かゆ》しか与《あた》えずに過酷《かこく》な仕打ちを行っている、とかな」  マルクは笑い話でもするかのように面白《おもしろ》そうに喋《しゃべ》っているし、ロレンスもそれを聞いて苦笑いしか出てこない。  アマーティはロレンスの悪い噂《うわさ》を流し自分の行為《こうい》を正当化しようとしているのだろうが、ロレンスとしては名誉《めいよ》を傷つけられる痛みというよりも顔の周りを蚊《カ》が飛び回るような鬱陶《うっとう》しさに頬《ほお》が引きつってしまう。  大体、剣を手にした傭兵《ようへい》ならばいざ知らず、行商人が借金を背負わせて無理やり旅を共にさせるなど無理もいいところだ。後ろ盾のある町の中ならともかく、野原に出てしまえば証文などなんの効果もない。  それに、旅なれた者であれば道中の食事がまずい粥だけであったとしても不思議には思わないだろう。むしろ儲《もう》け最優先の商人であれば飯すら食わない場合があってもおかしくはない。  アマーティの言葉をロレンスの悪評として受け取る者など皆無《かいむ》だろうが、問題はそこにはない。重要なのはロレンスがそんなアマーティと同じ土俵に立って女の取り合いをしているという、その事実を言い触《ふ》らされているということだ。  それが直接的に商売に影響《えいきょう》するとかいうわけではなくとも、一人前の商人としてそれはあまり喜ばしいことではない。  マルクのニヤニヤとしたいやらしい笑みも、そんなむずがゆい腹立たしさをわかっているからだろう。ロレンスは小さくため息をついて、この話は終わりだとばかりに手を振《ふ》った。 「それで、儲《もう》け話というのは?」 「おうよ、それだ。バトスさんが見当をつけている、みたいな情報から調べたらすぐにわかった」  と、するとバトスの商売がらみだ。 「宝石売買?」 「近いが違《ちが》う。およそ宝石とは呼べない代物《しろもの》だ」  鉱山地帯を回る商人が扱《あつか》う商品の列が一斉《いっせい》に頭の中を駆《か》け巡《めぐ》っていき、ふと思いつくものがあった。  ホロとの話で出た、金《きん》に似た鉱石。 「黄鉄鉱《おうてっこう》」 「ほう、すでにその話を耳にしていたのか」  正解だったらしい。 「いや、俺もうまい商売にならないかと思っただけだ。占《うらな》い師がらみだろう?」 「らしいな。本人はすでに町を出たあとだというが」 「そうなのか」  突然《とつぜん》湧《わ》き起こった歓声《かんせい》に視線を向ければ、再会を喜んでいるのか旅装の男たちと町商人が聞きなれない声を上げながら次々に抱擁《ほうよう》を交《か》わしていた。 「ただ、一応表向きの理由じゃ占いの腕《うで》が良すぎて教会の異端《いたん》審問官《しんもんかん》に目をつけられたため、とかなっているが怪《あや》しいものだ」 「その根拠《こんきょ》は?」  マルクは酒を一口飲み、後ろの物置台から小さい麻袋《あさぶくろ》を手に取った。 「大体そんな教会の奴《やつ》がこの町に来れば大|騒《さわ》ぎだ。それに、黄鉄鉱の流通量がちっとばかし多い気がする。多分、どっかの町から買いつけてきて、売り捌《さば》けたから町をあとにしたんだろう。それと……」  麻袋の中身を交渉《こうしょう》台の上にぶちまけると、月明かりに照らされて白く輝《かがや》く黄鉄鉱が転がり出る。形は綺麗《きれい》なサイコロ形から、パンをいびつにしたような塊《かたまり》状《じょう》のものもある。 「希少感を煽《あお》るためじゃないのかと思ってる。これ、今いくらすると思う?」  マルクが手に取ったのは、一応黄鉄鉱の中では最も高い値をつけるサイコロ形のもの。本来なら十イレード、トレニー銀貨にすれば四分の一枚程度だろう。  しかし、ホロがアマーティから黄鉄鉱を買ってもらった時に競《せ》りになっていたという話を思い出して、少し大胆《だいたん》に値を言った。 「百イレード」 「二百七十だ」 「ま」  さか、という言葉を飲み込み、ホロの話を聞いた直後に在庫の買いつけに走らなかった自分を罵《ののし》った。 「俺たち男からすりゃ宝石だって馬鹿《ばか》げた値段だが、こいつの今の値段はもっと馬鹿げている。明日、市場が開けばもっと上がるだろう。今、町の女たちはこぞってこいつを買い求めてるからな。占いと美容の秘薬はいつだって人気商品だ」 「それにしたって、これが? 二百七十?」 「サイコロ形に限らず、さまざまな形のものも色々な効用があるとかで高値をつけている。女連中は大市《おおいち》に来て懐《ふところ》が温かい商人や農夫の連中をたぶらかしてるからな。しかも、どの女たちもにわかに注目を集めているこの奇跡《きせき》の石をどれだけ買わせたかで周りと競っている節がある。そんなわけだから、女が甘《あま》い声一つ出すたびに黄鉄鉱の値段が上がっていくという按配《あんばい》だ」  酒やちょっとした装飾品《そうしょくひん》を町娘《まちむすめ》にねだられ買ったことのある身としては耳が痛い。  もっとも、それよりもロレンスにとってはあまりに大きい商取引の機会をみすみす逃《のが》したことの後悔《こうかい》のほうが痛い。 「仕入れに対して儲《もう》けが何割という次元じゃない。何倍、何十倍の話だ。お前の姫《ひめ》を狙《ねら》うフィリップ三世はすさまじい荒稼《あらかせ》ぎをしているという話だ」  ホロの借金を返済するなどという発想は、爆発《ばくはつ》的に増える懐の銀貨を見てのことだったらしい。  アマーティがホロに黄鉄鉱《おうてっこう》を買ってやった時点でこの儲けに手を出していたとすると、すでに相当の稼ぎを出していてもおかしくはない。本当に明日中に銀貨千枚を用意してしまいかねない。 「この商売にちょっと首を突《つ》っ込んだ俺でさえ、すでに三百イレード儲けている。それくらい値段の上がり方が異常だ。これをみすみす逃す手はないというものだ」 「このことを知っているのは?」 「朝には市場に知れ渡《わた》っていたようだな。俺としたことが知ったのはかなり遅《おそ》い部類だったらしい。ちなみに、お前がお姫様と踊《おど》っていた頃《ころ》には石商人の露店《ろてん》の前はえらい騒《さわ》ぎだったぜ」  酔《よ》いはとっくに覚めているというのに、酒を飲んでいるマルクよりも顔が赤くなってしまう。  それはホロとのことをからかわれてではなく、目端《めはし》の利《き》かない商人だって飛びつくようなうまい話が市場を駆《か》け巡《めぐ》っていた頃《ころ》、一人その横で踊《おど》りに現《うつつ》を抜《ぬ》かしていたことについてだ。  まともな商人ならいくら赤面したってしたりない。  商人失格。  リュビンハイゲンでの失態に引き続き、ロレンスは頭を抱《かか》えたくなった。 「まあ、アマーティがややこしい商売に手を出していたりすれば、つついて邪魔《じゃま》のしようもあるだろうが、こればっかりは止められないだろうな。気の毒だが樽《たる》の中の魚だな」  調理されるのを待つだけ、という意味だろうが、ロレンスはそのことで落ち込んでいるのではない。大きな儲けを逃し、ホロと遊んでいた自分に対して落ち込んでいた。 「それと、この儲け話だが、商人連中に話が広まってると言ったろう? 転売目当ての商人たちが買いに走っているから値段はますますうなぎのぼりだ。要は風が強くなったばかりだ。ここで帆《ほ》を張り損《そこ》ねれば一生の後悔《こうかい》だろうよ」 「そうだな。座して帆を張る船を見送る手もない」 「そうだそうだ。それに、万が一の場合があった時には、新しい姫《ひめ》を買う金もいるだろう?」  にんまりと笑うマルクにロレンスは苦笑いだが、リュビンハイゲンでの赤字を補填《ほてん》するにもいい機会だ。 「じゃあ、とりあえず釘《くぎ》の売掛《うりかけ》代金分でいくらかこの黄鉄鉱《おうてっこう》を買わせてもらうかな」  ロレンスの言葉に、マルクは失敗したとばかりに嫌《いや》そうな顔をしたのだった。  結局四つの黄鉄鉱をトレニー銀貨三十枚分で買ったロレンスは、かがり火に照らされながら歌って踊る人たちの間を縫《ぬ》って宿へと向かう。  その頃《ころ》には祭りの第二部も始まっていたようで、荒々《あらあら》しい大鼓《たいこ》の音が聞こえてくる。  人が多くてちらりとしか見ていないが、昼間から始まったものとは違《ちが》い荒っぽいものらしい。藁束《わらたば》で作られているのだろう人形同士がぶつけられたり、剣舞《けんぶ》を舞っている者たちも見えた。  日が暮れるまでは肩《かた》を組んで踊《おど》り、酒を飲んでいたのに唐突《とうとつ》な展開だった。  ただ、祭りが見たければ部屋から見るのが特等席だ。  さっさと人ごみを掻《か》き分けて宿を目指す。  それよりも、考えることが少しだけあった。  アマーティがトレニー銀貨で千枚という大金を稼《かせ》ぎ出してロレンスに叩《たた》きつける可能性は濃厚《のうこう》となったが、やはり動揺《どうよう》することも心配することもない。  気にすることといえば手元の黄鉄鉱がいくらになりどれだけ儲けられるかということで、ホロがアマーティから買ってもらったという黄鉄鉱をどう言いくるめて安く買い叩こうかということだった。  普段《ふだん》はさして価値のないものが突然《とつぜん》黄金に化けることがある。  祭りの空気というのはどこか独特だ。  大通りの騒《さわ》ぎや明かりから少し離《はな》れた路地への入り口などでは、人目もはばからずに騎士《きし》や傭兵《ようへい》連中が女を口説き、また肩《かた》を抱《だ》いていた。  盗賊《とうぞく》と変わらないような暗い目つきをした怪《あや》しげな騎士に体を預けているのは、商売女でもなさそうな普通の町娘《まちむすめ》で、きっとこんな祭りの時でもなければもっと身持ちの堅《かた》いしっかりとした男としか話さないだろう。  ただ、そんな怪しげな媚薬《びやく》のように人の目を曇《くも》らせる祭りの熱気があるからこそ、黄鉄鉱の高騰《こうとう》なんていうことが起きるのだと思えば、商人としてはそれもまた結構なことだった。  ロレンスはそんなことを思いながら、露店《ろてん》で酒の熱さに喉《のど》を焼かれた連中用に売られている冷たい瓜《ウリ》を二つ買い、ホロへの土産《みやげ》にした。  手ぶらで帰ればどんな憎《にく》まれ口を叩かれるかわからない。大きな鳥の卵のような瓜を一つ脇《わき》に抱《かか》え、一つを手に持って苦笑いをする。  宿の一階にある食堂も外と変わらぬ賑《にぎ》やかさで、それらを横目に階段を上《のぼ》って二階に行く。  二階に来れば一階の騒ぎも対岸の火事のようにどこか非現実的だ。  小川のせせらぎにも似た小さなざわめきを聞きながら扉《とびら》を開け、部屋に入る。  ずいぶん部屋が明るいなと思ったら、木窓が開け放たれていた。  きっと、手紙を読むのに暗かったのだろう。  ロレンスはそんなことを思ってなにかおかしいことに気がついた。  手紙?  部屋に入り、木窓の明かりの下で手紙を手にしていたホロと目が合った。  怯《おび》えるような目。  いや、違《ちが》う。  茫然自失《ぼうぜんじしつ》から我に返った者の目だ。 「お前……」  字が読めたのか、と聞く前にロレンスの言葉は喉《のど》の奥でかすれた。  ホロの唇《くちびる》がわなわなと震《ふる》え、たちまちのうちに肩《かた》が震え出す。ホロの細い指にかじかんだように力がこもっているのが見て取れたが、その指の間から手紙が舞《ま》い落ちる。  ロレンスは動けない。動けば、雪像のように固まっているホロが砕《くだ》け散ってしまいそうな気がした。  ホロが手にしていたのはディアナからの手紙のはず。  それを見てホロがこんな様子になっているのだとすれば、考えられる可能性は多くない。  頭に浮かんだのは、ヨイツのこと。 「ぬしよ、どうしたのかや?」  平素と変わらぬ口調でホロの口から言葉が聞こえる。今にも崩《くず》れ落ちるか意識を失ってしまいそうなほど危《あや》うい様子なのに、うっすらと笑顔《えがお》すら浮かべて喋《しゃべ》るホロの様子は、あまりにちぐはぐでなにか夢のようだ。 「わっちの顔になにか……つ、ついて、おるかや?」  笑って喋ろうとしても、最後のほうは唇《くちびる》が引きつっていてうまく喋れていない。  ホロと目が合っているのに、ホロはもうどこも見ていない。 「なにもついちゃいない。ただ、お前は少し酔《よ》っ払《ぱら》っているかもしれない」  黙《だま》ってホロの前に立つことができずに、なんとか刺激《しげき》しないようにと言葉を選んでそう言った。  次になにを言うべきか。いや、ホロがなにをどのように知ってしまったのかを知るほうが先だと思い至る前にホロが口を開いていた。 「う、うむ。わ、わっちゃあ酔っておる。そのはず、じゃ。酔っておるに違《ちが》いない」  かたかたと歯の根を鳴らしながらホロは笑い、ぎこちない動作でベッドに歩み寄って腰《こし》を下ろした。  ロレンスもそれを受けてようやく扉《とびら》の前から動けた。臆病《おくびょう》な鳥が飛び立ってしまわないようにと注意しながら、なんとか机までたどり着く。  二つの瓜《ウリ》を机の上に置き、ホロが落とした手紙にさりげなく視線を向けた。  ディアナの綺麗《きれい》な字が月明かりで浮かび上がっている。  昨日お話しした、古《いにしえ》に滅《ほろ》びしヨイツの町について……。  そんな文がロレンスの目に飛び込み、思わず目を閉じた。  ホロは、後々ロレンスを驚《おどろ》かすか、からかうかするために文字が読めないなどと言っていたのだろう。ちょっとしたお遊びでそう言って、早速《さっそく》機会|到来《とうらい》とばかりにロレンスが置いていった手紙を読んだに違《ちが》いない。  それが裏目に出た。  ホロはヨイツについて書かれているであろう手紙の内容が気になって仕方がなかったはずだ。  うきうきと、はやるように手紙の封《ふう》を開けるホロの様子が目に浮かぶ。  そして、突然目に入ったヨイツが滅んだという記述。それがどれほどの衝撃《しょうげき》だったか想像もつかない。  ホロはベッドに腰掛《こしか》けたまま、ぼんやりと床《ゆか》を見つめている。  ロレンスが言葉をかけあぐねているうちに、ホロがゆっくりと顔を上げた。 「ぬしよ、どうしよう」  口元に引きつった笑《え》みが浮かぶ。 「わっちゃあ……帰る場所が、なくなってしまいんす……」  瞬《まばた》きも嗚咽《おえつ》もなく、ただ涙《なみだ》だけが血のように溢《あふ》れ出る。 「どうしよう……」  大切なものを壊《こわ》してしまった子供のように、ただ呟《つぶや》くだけのそんな姿が痛ましくて見ていられない。故郷を思い出す時、人はいつでもそこでは子供だ。  ホロは何百年も生きてきた賢狼《けんろう》なのだから、もちろんヨイツが時の流れの中に埋没《まいぼつ》してしまっていることも考えただろう。  しかし、子供に理屈《りくつ》が通じないように、あまりにも大きい感情の前には理性などなんの役にも立たないのだ。 「ホロ」  ロレンスが名を呼ぶと、びくりと体をすくませて我に返る。 「あくまでも、昔話だ。誤った言い伝えも多い」  諭《さと》すように、できる限り真実味を帯びるようにそう言った。可能性という話をするのなら、そんな可能性は恐《おそ》ろしく低い。何百年も消えることなく存続する町というのは誰《だれ》もが知っているほど大きい町でなければほとんどない。  しかし、とてもではないがロレンスには他《ほか》に言うべき言葉がない。 「あや……まった?」 「そうだ。新しい王や部族に支配された場所なんかは、新たな領地になったことを示すようにそういった昔話を作らされることが多い」  嘘《うそ》ではない。そういった話を何度か聞いたことがある。  しかし、ホロは突然首を横に振《ふ》った。涙《なみだ》が頬《ほお》の上を右に左にと横滑《よこすべ》りする。  ホロの目に、嵐《あらし》の前の静けさのような色が宿り始めていた。 「なら、なぜ、ぬしは、それをわっちに黙《だま》っておった?」 「頃合《ころあい》を見て言おうと思っていた。これは繊細《せんさい》すぎる話題だ。だから——」 「うふ」  咳《せ》き込むようにホロが笑う。  なにか、嫌《いや》なところに魔物《まもの》が入ったような気がした。 「そん、そんなことも知らず、に、暢気《のんき》に浮かれておったわっちの様子はさぞ面白《おもしろ》かったろう?」  一瞬《いっしゅん》、ロレンスは頭の中が真っ白になる。そんなこと思うわけがない。なぜそんなことを言うのかと怒《いか》りが喉《のど》までせりあがってきた。  しかし、なんとかそれはこらえた。  ホロは自分でもなんでもいいから傷つけたいだけなのだと気がついたからだ。 「ホロ、落ち着いてくれ」 「落ちっ落ち着いておる。こんなにもわっちの頭が巡《めぐ》っておるんじゃからな。ぬしは、ヨイツのことを前から知っておったな?」  唐突《とうとつ》に図星をつかれ言葉に詰《つ》まってしまう。  それが致命《ちめい》的な失敗だったとわからないわけがない。 「じゃろうな、そうじゃろうな。ぬしはわっちと出会った時からそれを知っておったろうな。そうであれば、色々説明がつく」  ホロの顔が追い詰められた狼《オオカミ》のそれに変わる。 「ふふ、ぬしは、あ、哀《あわ》れでか弱い子羊が好きじゃからな。なにも知らず、とっくに滅《ほろ》びた故郷に帰りたいなどと言っておるわっちはどうじゃった? 間抜《まぬ》けで可愛《かわい》かったじゃろう? 哀れで愛《いと》しかったじゃろう? わがままも許して優《やさ》しくしたくなったじゃろう?」  ロレンスが口を開くのを遮《さえぎ》って言葉を重ねる。 「ニョッヒラから勝手に帰れとぬしが言ったのも、わっちに飽《あ》いてきたからじゃろう?」  自暴自棄《じぼうじき》な笑顔。口にしていることが悪意に満ちた曲解であることはホロだってわかっているはずだ。  怒《おこ》って殴《なぐ》りかかれば、ホロは喜んで尻尾《しっぽ》を振《ふ》るに違《ちが》いない。 「本当に、そう思っているのか?」  ロレンスが言葉でホロの頬《ほお》を叩《たた》くと、真っ赤に燃えた瞳《ひとみ》がロレンスを射|抜《ぬ》く。 「ああ思っておる!」  立ち上がったホロの両手が真っ白になるくらい握《にぎ》り締《し》められぶるぶると震《ふる》えている。  むき出しにされた牙《きば》はかちかちと音を立て、尻尾はぱんぱんに膨《ふく》れ上がっている。  それでも、ロレンスはたじろがない。ホロのその怒《いか》りは、あまりにも濃《こ》い悲しみだったからだ。 「思っておる! ぬしは人じゃ! 獣《けもの》を飼育《しいく》する唯一《ゆいいつ》の存在じゃからな! ヨイツを餌《えさ》に間抜《まぬ》けなわっちの様を見るのはさぞ楽——」 「ホロ」  取り乱して腕《うで》を振《ふ》り回すホロに一息で近づき、その腕を掴《つか》む。力の限りに掴む。  捕《と》らえられた野犬のように怯《おび》え、怒り、抵抗《ていこう》するホロの力は見た目どおりの少女のもの。  がっちりと腕を捕らえられれば力の差は歴然としている。  ホロは徐々《じょじょ》に抵抗をやめ、一変してすがるような目を向けてきた。 「わ、わっちゃあ独《ひと》りになってしまった。どう、ど、うすればよい? わっちの帰りを待ってくれる者はもうおらぬ。どこにもおらぬ……。わっちゃあ……独りになってしまった……」 「俺が、いるだろ」  嘘《うそ》偽《いつわ》りのない言葉。  それに、こんな台詞《せりふ》、おいそれと言えるものではない。  しかし、ホロは嘲《あざけ》るような笑《え》みを浮かべて言い放った。 「ぬしはわっちのなんじゃ? ……いや、わっちはぬしのなんじゃ?」 「っ」  即座《そくざ》に言葉が返せない。考えてしまった。  嘘でもなんでも答えれば良かったのだと、一瞬《いっしゅん》後に気がついた。 「嫌《いや》じゃ! もう独りは嫌じゃ!」  ホロは叫《さけ》び、直後にぴたりと動きを止めた。 「なあ、ぬしよ、わっちを抱《だ》いてくりゃれ?」  もう少しで掴んだホロの腕を放すところだった。  鬼気《きき》迫《せま》る笑顔。ホロが嘲《あざけ》っているのは、取り乱している自分自身だ。 「わっちゃあもう独りじゃ。じゃが、子がいれば二人じゃ。今のわっちはほれ、人の形を成しておる。人であるぬしとできぬこともあるまい。な? ぬしよ……」 「喋《しゃべ》るな。もう、頼《たの》むから」  ホロが胸のうちのどうしようもない感情を溜《た》めきれずに、毒と刃《やいば》の言葉に変えて口から出しているのが痛いほどわかった。  しかし、ロレンスにはそれを真綿に包んで冷えるまでおいておくなどという芸当ができない。  だから、そう言うのが精|一杯《いっぱい》だった。  ホロの笑みが一段と強まる。それに釣《つ》られて涙《なみだ》がまた溢《あふ》れた。 「ふふ、あは、うふふははは、そうじゃよな。ぬしはお人好《ひとよ》しじゃからな。期待などしておらぬ。じゃが、かまわぬ。わっちは思い出した。わっちを……そうじゃ、わっちを愛する者がおることをな」  ロレンスに腕《うで》を掴《つか》まれ派手にもがくことこそしないものの、隙《すき》あらばいつでも腕を引き抜《ぬ》けるようにと力がこめられていたホロの拳《こぶし》がふっと緩《ゆる》められる。それに伴《ともな》い、ホロの体からも緊張《きんちょう》が抜けた。ロレンスが掴んでいたホロの腕を放《はな》すと、弱った蝶《チョウ》のような言葉がもれ出てきた。 「ぬしがその話で慌《あわ》てておらぬのも、そういうことだったのじゃろう? 銀貨千枚とならば惜《お》しくもないと思ったからじゃろう?」  なにを言っても無駄《むだ》だというのがありありとわかり、ただ黙《だま》って聞くほかない。  ホロ自身最後の燃料で火を起こしたといった感じで、そのまま黙りこくってしまう。  それからしばらく沈黙《ちんもく》が続いたが、ロレンスが再び手を伸《の》ばそうとした瞬間《しゅんかん》、ホロは不意に弱々しい声で口を開いた。 「……すまぬ」  ゴゴン、と低く重い音を立ててホロの心が閉じられた音が聞こえた。  ロレンスの体は動かない。せいぜい後ろに下がるのが精|一杯《いっぱい》だった。  ホロは座り込み、床《ゆか》を見たまま動かない。  後ろに下がったロレンスは、ほんの少しの間もじっとしていることができずにホロが落としたままのディアナからの手紙を拾い、逃《に》げるように文面に目を通す。  ホロが昔|訪《おとず》れたレノスという町に行く途中《とちゅう》の村に、北の神々の話だけを専門に集める知り合いの修道士がいるから一度会うといい、というようなことが書いてある。裏面にはその修道士の名前が書かれていた。  目を閉じ、悔《く》やむ。  自分が先にこの手紙を見ていれば。どうしてもそう思ってしまう。  一瞬、手紙をむちゃくちゃに引き裂《さ》きたくなったがそれが単なる八つ当たりだとわからないわけではない。  これはヨイツへの重要な足がかりになる。  それがホロとの数少ないつながりを保つ細い糸のように思えて、ロレンスは手紙をたたんで懐《ふところ》にしまった。  それから視線を再度ホロに向けたが、ホロは一向に顔を上げてくれはしない。  手を伸《の》ばそうとした時の、「すまぬ」という言葉が蘇《よみがえ》る。  ロレンスに残されていることは、ただ黙って部屋から去ることだけだ。  一歩下がり、二歩下がる。  その直後、窓から大|歓声《かんせい》が飛び込み、それに乗じて身を翻《ひるがえ》すとロレンスは部屋から出た。  そのほんの一瞬、ホロが顔を上げたような気がしたが、きっと希望が見せた幻《まぼろし》だろう。  後ろ手に扉《とびら》を閉じ、なにもかもを見たくないとばかりに目を覆《おお》う。  しかし、それで全《すべ》てがなかったことになるわけではない。  どうにかしなければならない。  どうにかしなければならないが、一体、なにを、どうやって?  ロレンスは宿を出る。  町は、見知らぬ人間で溢《あふ》れ返っていた。 [#改ページ]  第四幕  町に出たはいいものの、そこに居場所などなかった。  日が暮れてから始まった祭りの続きは昼間のものとは正反対のもので、楽しげな様子などかけらもない。  仮装をした者はもちろんのこと、藁《わら》や木でできた人形も各々《おのおの》武器を持ち、それを持たない大きな人形たちはその体を武器として戦いを繰《く》り広げていた。  怒号《どごう》と共に大きな藁の人形同士がぶつけられ、破片《はへん》が飛び散るごとに歓声《かんせい》が上がる。その周りでは戦いの荒々《あらあら》しさに勝《まさ》るほどの勢いで楽器が奏《かな》でられ、黒|装束《しょうぞく》の者たちによる不気味な戦《いくさ》の歌が歌われていた。  ロレンスは人ごみを避《さ》け、足を北の方向に向ける。ざわめきが直接頭の中をかき回すようでとても耐《た》えられない。  長く伸《の》びる道を歩いていても、文字どおりのお祭り騒《さわ》ぎが延々と続くかのように思えてくる。精神を蝕《むしば》む魔女《まじょ》の呪詛《じゅそ》のような騒ぎにさいなまれながら、先刻のやり取りがまざまざと蘇《よみがえ》る。ホロを前にした自分の姿が見えてくる。あまりの自分の不甲斐《ふがい》なさに叫《さけ》び声も出したかったが、それだけはぐっと飲み込んだ。  そんなことをするくらいならば、その気力と体力を現状の打開に向けるべきだという理性くらいは残っていた。  ただ、その理性が現状を把握《はあく》すると、そこには一片の可能性も残っていないような気がする。  今のホロの状態なら本当にアマーティの求婚《きゅうこん》を受け入れてしまうかもしれない。  アマーティはこの濡《ぬ》れ手で粟《あわ》の高騰《こうとう》騒《さわ》ぎに一番早く参戦した商人なのかもしれないのだから、手にしている利益はすでに相当のものと考えたほうがいい。  下手をすれば明日の日没《にちぼつ》を待たずに自身の財産を切り崩《くず》して契約《けいやく》の完了《かんりょう》を宣言してくるかもしれない。  それは決して悲観的な予測ではない。 「……」  緊張《きんちょう》が胃の腑《ふ》を握《にぎ》りつぶし、嗚咽《おえつ》のようなものが出てしまう。  暗い空を仰《あお》ぎ、目を覆《おお》う。  アマーティの荒《あら》稼《かせ》ぎを止められなければ、ロレンスにできることは宿に帰ってホロと仲直りをすることだ。  しかし、それがアマーティの荒稼ぎを阻止《そし》すること以上に難しいであろうことは火を見るより明らかだった。  わっちはぬしのなんじゃ? というホロの質問にロレンスはとっさに考えてしまった。  少し時間をあけた今だってその質問に答えることなんてできない。  旅を共にしたいと思うのは確かだし、例えばアマーティの下《もと》に嫁入《よめい》りするなんて考えるといてもたってもいられなくなる。  しかし、ロレンスはつい先刻の記憶《きおく》を牛のように反芻《はんすう》して、胃液よりも酸《す》っぱいそれにこれ以上ないほどに顔をしかめてしまう。  ホロのことは嘘《うそ》偽《いつわ》りなく大切な存在だと思っているが、ではそれがなにかと問われても明確に答えられるものではない。  ロレンスは頬《ほお》が強張《こわば》って、無理やりほぐすように頬を撫《な》でる。  こんなことが起こり得《う》るのか。  楽しかったお祭り騒《さわ》ぎが夢だったように思えてくる。たった数時間でこんなことになるなど全知全能の神だって予想ができなかっただろう。  ロレンスの視線の先では剣舞《けんぶ》を交えながら大通りを練り歩く集団がいる。その荒々《あらあら》しさと禍々《まがまが》しさは、昼間の宴《うたげ》の様子など微塵《みじん》も感じさせないものに変わり果てている。まるで今のホロとの関係を示しているようで、目をそらし足を速めた。  あの時、机の上に手紙を残してきたことを後悔《こうかい》した。もしも手紙を残さなければこんなことにはならなかった。頃合《ころあい》を見計らって言えば、あれほど頭の回るホロなのだからこれほどまでに取り乱しはしなかっただろう。  その上、ホロの口から出てきたのはロレンスの身勝手さと覚悟《かくご》のなさを露呈《ろてい》させるものだった。のこのことホロの前に再び顔を出してもまともに話ができるとすら思えない。  しかし、結局名案が浮かばないままロレンスは気がつくとクメルスンの北の寂《さび》しい地域にまで来てしまっていた。  ゆっくりと歩いていたから結構な時間をかけていたことになるが、そんな自覚はまったくなかった。  町のどこもかしこも人だらけという感じであったのに、さすがに北の地区になると大通り沿いであっても人の姿がまばらになる。祭りの連中もここまでは来ないらしい。  そんな静寂《せいじゃく》の中で、ようやく落ち着いて深呼吸をできたような気がした。  踵《きびす》を返し、再びゆっくりと歩きながら、もう一度考え直す。  一つ。  今更《いまさら》誠意だけでホロが話を聞いてくれるとはとても思えないこと。第一、ロレンス自身がホロのことをまっすぐに見る自信がない。  で、あればホロと関係修復ができるかどうかはともかくとして、ホロがロレンスの下《もと》を去り、アマーティの下に行く大義名分を与《あた》えてはならない。  アマーティが銀貨千枚を用意できなければ、ホロは依然《いぜん》としてロレンスの借金の鎖《くさり》のうちにいることになる。ホロが言うことを聞いておとなしく側《そば》にいてくれるかはやはりわからなくとも、少なくともそのように主張することはできる。  すると、やはり話はアマーティの契約《けいやく》遂行《すいこう》を阻止《そし》するところに移る。  黄鉄鉱《おうてっこう》はこの祭り独特の空気の中、異常ともいえる値段の上昇《じょうしょう》をし、マルクの読みでは今後さらに値上がるという。アマーティがどれほどの量を手中にし、儲《もう》けているかはわからない。しかし、仕入れ値の何倍、何十倍という値をつけているらしい黄鉄鉱なのだから、投資金額によってはとっくに銀貨千枚に達している可能性もある。  ただ、その点では幸いといえるのか、黄鉄鉱はそれほど数が存在しないものだ。  たとえ仕入れ値の何倍何十倍になろうとも、投資金額が小さければ儲けなど高が知れていることになる。  もっとも、銀貨千枚をまるまる黄鉄鉱で稼《かせ》がなくともいいわけだから、もちろんその点は気休め程度にしかならない。  ロレンスはアマーティの荒稼《あらかせ》ぎを阻止《そし》しなければならない。もっと言うならば、損《そん》をさせなければならない。アマーティがその気になって財産を切り崩《くず》し、今後の商売に影響《えいきょう》が出てもかまわないという覚悟《かくご》で臨《のぞ》めば銀貨千枚を用意することはおそらく可能だからだ。  しかし、荒稼ぎを阻止することが難しいのであれば損をさせることなどもっと難しい。  正攻法《せいこうほう》でそんなことができるとはとても思えない。黄鉄鉱の高騰《こうとう》から着実に利益を引き出せるのだから、無理をする必要などどこにもない。  無理をする必要がなければ、詐欺《さぎ》に引っかける余地もない。  ではどうするのか……。  何度目かの思考もやはり同じ壁《かべ》に突《つ》き当たって、ロレンスはふと隣《となり》に視線を向けていた。 「なあ、ホ——」  ロ、と言わなかったのがせめてもの救いだったが、すれ違《ちが》おうとしていた職人風の男に奇異《きい》の目を向けられた。  隣にいて、不敵な笑《え》みを浮かべている小さなその姿の大きさに改めて気づかされる。  これまで一人でやってこれたのが嘘《うそ》のように思えてくる。  ホロなら名案を思いついてくれるかもしれない。それでなくとも、名案に向けた筋道を提示してくれるかもしれない。  そんな甘《あま》えがいつの間にか芽生えていることに気づかされる。  わっちはぬしのなんじゃ?  このままではこの問いに胸を張って答えることなどできはしない。  だとすれば、ロレンスが口にするべきはこの言葉だ。 「ホロなら一体どう考える?」  摩訶不思議《まかふしぎ》としかいえないようなホロの思考を完璧《かんぺき》に真似《まね》できるなどとは思っていない。  それでもロレンスは商人だ。  未知の発想に触《ふ》れれば次の日にはそれを我が物とすることで競争相手を出し抜《ぬ》いていく。  ホロの発想はとにかく全体をよく見ることに尽《つ》きる。  そして、目の前のことについて分け隔《へだ》てなく、満遍《まんべん》なくさまざまな方向から考える。  簡単なようで難しい。天才的な閃《ひらめ》きのようでいて、その実それは当たり前のことだったりする。  黄鉄鉱《おうてっこう》の上昇《じょうしょう》から利益を引き出すアマーティに大損をさせる方法。  その最も単純で最も閃《ひらめ》きにくいことはなにか?  ロレンスは考える。  商人としての常識に囚《とら》われず考える。  そうすれば、出てくる答えは一つしかない。 「黄鉄鉱が値下がればいい」  ロレンスはそんな言葉を口にしてから、馬鹿《ばか》馬鹿しいと笑った。  やはり自分がホロの真似をしてみてもこの程度なのだ。  黄鉄鉱が値下がってくれればそれ以上|万々歳《ばんばんざい》のことなどない。  しかし、黄鉄鉱の相場は上昇の一途《いっと》でとても下がりそうにない。なにせその価値は元の十倍や二十倍ではきかなくなっている。このまま上がり続け、そして——。 「……そして?」  立ち止まり、ロレンスは重大なことに気がついた。 「十倍? 二十倍? ならば……次は三十倍? その先は?」  ホロが鼻で笑う様が見えたような気がした。  黄鉄鉱の値段が無限に上昇を続けることなどありえない。この手の騒《さわ》ぎはいつか必ず破綻《はたん》する時がくるのが定石《じょうせき》だ。  嗚咽《おえつ》のような叫《さけ》び声が漏《も》れそうになり、慌《あわ》てて口を押さえて飲み下す。  だとすれば問うべきは二つ。  それはいつで、そこにアマーティを巻き込むことは可能だろうかということ。  ロレンスは口を押さえたまま歩きながら考える。  暴落が起きるにしても、アマーティが漫然《まんぜん》とそれに巻き込まれ手をこまねいたまま大損するというのはあまりにも見くびりすぎというものだろう。  するとここには一工夫《ひとくふう》必要になるが、問題が具体的な形をとってくれさえすればロレンスは自分の頭がホロに劣《おと》るとも思っていない。  おあつらえ向きの取引が頭に浮かび、冷たくて重いものがすっと腹の底に溜《た》まる。何度も経験してきたこの感覚。理屈《りくつ》ではなく、勝負になると勘《かん》が告げるこの感覚。  深呼吸をして、最も重要なその暴落がいつ起こるかということについて考える。  黄鉄鉱のこの異常な相場がいつまでも続かないのは自明でも、それがいつ起こるか、もっといえばアマーティと交《か》わした契約《けいやく》の期限である明日の日没《にちぼつ》までに起こってくれるかどうかはわからない。  暴落の日時を予想するなどそれこそ占《うらな》い師であっても無理だろうし、そんなことをできるのは全知全能の神だけだ。  ただ、ロレンスは麦の大産地である村の人々が、神が司《つかさど》ってきた仕事を人間の手で成し遂《と》げようとしている場面に出くわした。  神頼《かみだの》みで戦々恐々《せんせんきょうきょう》と暴落を待つのなら、いっそのこと神に成り代わればいい。  そんな大それたことを思った矢先、遠くから歓声《かんせい》が聞こえてきて視線を上げた。  いつの間にかかなり歩いていたようで、ロレンスは再び町の真ん中の交差点にさしかかっていた。  そこでは怒号《どごう》と共に大きな藁束《わらたば》の人形同士がぶつけられていて、ぶつかるたびにばらばらと藁が崩《くず》れ歓声が上がっている。その様子はまるで本物の戦場だ。  頭の中を駆《か》け巡《めぐ》っていた策略を他所《よそ》にしばらくその迫力《はくりょく》に飲まれ見つめていたものの、ふと気がついたことで我に返った。  一瞬《いっしゅん》、首筋の毛が逆立ったような気さえした。  アマーティ。  アマーティが、いたのだ。  これほどの人ごみの中、偶然《ぐうぜん》アマーティに出会うなど神の嫌《いや》がらせかと思ったのもつかの間、それが偶然だとしても意味のあるものだと気がついた。  ロレンスが立っていたのはクメルスンの町の中心。  東西南北に伸《の》びる大通りが交わる交差点。  アマーティはホロがいるはずの宿に背を向けて歩いている。  そして、立ち止まるとゆっくりと振《ふ》り返る。  一瞬《いっしゅん》、こちらの視線を気取られたのかと思ったが、アマーティはまったく気がついていない。  ロレンスはすぐさまその視線を追いかける。  行き先は決まっている。  しかし、そこになにがあるのか知りたかった。  ゆっくりと歩くアマーティが振り向いたそこ。  大通りに面した宿の二階の窓際《まどぎわ》には、首に襟巻《えりま》きを巻いているらしいホロがいた。  ロレンスは胃の辺りに腹痛に似た緊張《きんちょう》が宿るのを感じる。怒《いか》りに似た焦《あせ》りともいえそうなそれの味は格別に苦い。  ホロが、暖かそうな襟巻きに口元を寄せ、少しうなずいた。  対するアマーティが神に忠誠を誓《ちか》う教会|騎士《きし》のように胸に手を当てているのが見えた。  ホロが招き入れたのか、アマーティが図々《ずうずう》しく上がり込んだのかはわからない。  けれども、そこから察せられることを否定するには楽観的な材料が少なすぎた。  アマーティはそれからすぐに前を向き、宿に背を向けて歩き出す。やや前傾《ぜんけい》姿勢で、逃《に》げるような速さで立ち去る様がますます疑念を積もらせる。  あっという間にその姿は人ごみの向こうに消えてしまい、ロレンスは再び視線を宿の一室に向ける。  そして、息を飲んだ。  ホロが、間違《まちが》いなくロレンスのほうに視線を向けていたからだ。  ロレンスが人ごみの中アマーティを見つけられたくらいなのだから、目ざといホロが人ごみの中にロレンスを見つけないわけがない。  ただ、ホロはすぐに目をそらすでも、もちろん笑いかけるでもなく、じっとロレンスのことを見ていた。  どれくらいそうしていたのか、ロレンスが飲んだ息を消化しかけた頃《ころ》、不意にホロは体を窓の中に引っ込めた。  そのまま木窓を閉じられていたら、動けなかったかもしれない。  しかし、ホロは奥に引っ込んでも木窓を閉じることなくそのままだった。  ロレンスの足はそんな木窓に吸い寄せられるように宿のほうへと向かって行く。  ホロとアマーティが窓|越《ご》しに言葉を交《か》わしたと考えるほどロレンスはお人好《ひとよ》しではない。  ホロは単なる町娘《まちむすめ》ではなく、アマーティはホロに関してはおよそ冷静とは言いがたい状況《じょうきょう》なのだから、二人が部屋の中で何事かを話し合ったと考えない理由はない。  それでも、ホロがロレンスのことを黙《だま》って見たまま慌《あわ》ても驚《おどろ》きもしなかったのは、それが見られて困るものではないからだろう。  だとすれば、それはあてつけに他《ほか》ならない。  そして、あてつけられて動かない男がいるものだろうか。  リュビンハイゲンでのやり取りを思い出す。思いのままを告げればホロは必ずわかってくれるはずだ。  ロレンスは宿に向かいながら、腹の底で覚悟《かくご》を固めたのだった。  宿の扉《とびら》を開けると、目に入ってくるのは楽しげな酒宴《しゅえん》の様子。  各々《おのおの》のテーブルにはさまざまな食べ物が並び、あるいは語らい、あるいは歌いながら酒を楽しんでいる。  本当ならこの楽しげなテーブルのどこかに自分とホロの姿があったはずだと考えると、決して後悔《こうかい》はしないことを誇《ほこ》りとする商人であってもため息をついてしまう。  ただ、可能性はあるはずだ。もしもロレンスを完全に拒絶《きょぜつ》するのであればホロは木窓を閉めたはず。  ロレンスはその考えを信じ、カウンター脇《わき》の二階へと上がる階段に足をかける。  声をかけられたのはその瞬間《しゅんかん》だった。 「ロレンス様」  穏《おだ》やかではない胸中のこともあり、ロレンスが驚《おどろ》いて振《ふ》り向くと相手も驚いたらしい。  カウンターに軽く身を乗り出してロレンスの名を呼んだ宿の主人が目をしばたかせていた。 「……失礼。なにか?」 「え、ええ、ロレンス様にお手紙を渡《わた》すように仰《おお》せつかっております」  手紙という言葉にまた胸の内がざわつくが、咳払《せきばら》いと共にそれを追い払う。  ロレンスは階段にかけた足を下ろし、カウンターに歩み寄って主人の差し出してきた手紙を受け取った。 「これは、どちらから?」 「お連れの方でこざいます。つい今しがたのことですが」  ぴくりとも表情を変えなかったのは上出来だった。  宿の主人は言うまでもなく宿に泊《と》まっている人間と出入りする人間の全《すべ》てを把握《はあく》している立場にいる者だ。  ロレンスが部屋にホロを残したまま外出し、その合間にアマーティがホロを訪《おとず》れ、そのホロが今度は直接話さずに手紙でロレンスになにかを伝えようとしている。  そのやり取りを見て、なにもないと思うほうがおかしい。  ただ、主人はそのようなことは一切知りませんといった顔でロレンスのことを見ている。  町商人の横のつながりは強い。  ここで無様な対応を見せればその噂《うわさ》はすぐに広まるだろう。 「明かりを頂けますか」  努めて冷静な口調でそう言うと、主人は小さくうなずいて奥から銀の燭台《しょくだい》を持ってきた。  獣脂《じゅうし》のランプではない、蝋燭《ろうそく》の強い明かりに仮面の下のざわめきを見られそうな気がした。  そんなことを思っている自分を頭の中で冷笑し、ロレンスは腰《こし》から短剣《たんけん》を抜《ぬ》き取り手紙に施《ほどこ》された蝋の封《ふう》を丁寧《ていねい》にはがす。  宿の主人は手紙の中身を見るのは失礼だと心得ているようにその場から離《はな》れたが、視線がちらちらとこちらに向けられていることくらいわかる。  ロレンスは小さく咳払《せきばら》いをし、封を解き終わると中身を取り出した。  一枚は羊皮紙。もう一枚は普通の紙。  心臓が高鳴るが、ここでためらうのはホロを信じていないのと同じだ。  可能性としてならば、それが和解を望む文章であったとしてもおかしくはない。  二つ折りにされた紙をゆっくりと開くと、紙の間から砂が零《こぼ》れ落ちる。  文字を早く乾《かわ》かすために用いられたのだろうが、これでこの手紙がつい先ほど書かれたことがわかる。  絶縁《ぜつえん》状か、それとも復縁状か。  文面が、目に飛び込んできた。 『現金、銀貨二百枚。手持ちの黄鉄鉱《おうてっこう》、銀貨三百枚分。処分可能な……』  前文もなにもなく、いきなりそんな文面で始まっており面食らって顔を上げる。  現金? 黄鉄鉱?  読めばホロの声が聞こえるような文章を想定していたのに、そこに書かれているのはあまりにも無機質な文字の羅列《られつ》だった。  しかし、ロレンスは再度目を落としてその内容に思わず奥歯を強くかみ締《し》めた。 『……銀貨三百枚分。処分可能な財産、銀貨二百枚分』  これは、考えるまでもない、アマーティの財産の内訳だ。  凍《こお》ったパンにお湯を注いだようにロレンスの肩《かた》から力が抜《ぬ》けていく。  ホロはアマーティからこの情報を聞き出すために部屋に入れたのだ。  だとすれば、それがロレンスのためでないはずがない。  これはホロの遠まわしな復縁状だ。  顔が笑ってしまっても、少しも隠《かく》そうとはしなかった。  また、文面の最後には『この書は人の手による』とある。  読めはしても書けない者というのはたくさんいる。きっとホロはこの情報を聞き出すや、厠《かわや》にでも行くふりをして部屋から抜け出し、誰《だれ》か通りすがりの商人に頼《たの》んでこの文を書いてもらったに違《ちが》いない。アマーティの字は一度|契約《けいやく》書で見て覚えている。この字は、アマーティのものではない。  ロレンスは万金に値《あたい》する価値を秘めた手紙を丁寧《ていねい》にたたんで懐《ふところ》にしまい、続いてもう一枚の羊皮紙に手をかけた。  もしかしたらホロがその手練手管でアマーティになにかとんでもない契約書でも書かせたのかもしれない。  つい先ほどの、ホロとの秘密の逢引《あいびき》をして得意満面だったアマーティの顔が蘇《よみがえ》る。  ホロは自分との旅を望んでいるのだ。  安堵《あんど》と優越《ゆうえつ》感に浸《ひた》りながらためらいなく羊皮紙を開く。 『神の御名《みな》に於《お》いて……』  凜々《りり》しく、力強い字で書かれていた。紛《まご》う方なきアマーティの字。  ロレンスははやる気持ちを抑《おさ》えて続きを読む。  一行。二行、三行と追いかけていく。  そして。 『以上の誓《ちか》いを以《もっ》て、二人は夫婦になるものとする』  末尾《まつび》を見終わった瞬間《しゅんかん》、ロレンスの周りで世界がぐるりと一周した。 「……え?」  そんな呟《つぶや》きとも取れない声も、どこか遠くのほうから聞こえてくるような気がした。  目をつぶっているはずなのに、眼前にはありありとたった今読み終わった文章の内容がある。  婚姻《こんいん》誓約《せいやく》書。  神の御名において誓われた婚姻の誓約書の下には、若き魚の仲買人、フェルミ・アマーティの名前と、ホロの名前。  ホロの後見人の欄《らん》は空白になっている。  しかし、ここに後見人の名前を書いて判を押せば、この文書がどこかの町の教会に出されることで晴れてアマーティとホロは夫婦《ふうふ》になる。  ホロの名前は汚《きたな》い字で書いてある。  いかにも文字を書けない者が見様見真似《みようみまね》で書いたという文字。  ホロが、アマーティの書いた文字を見ながらたどたどしく誓約書に記入する様が目に浮かぶ。  懐《ふところ》にしまった万金に値する価値を秘《ひ》めた手紙を取り出して、再度開いて中身を見る。  これがアマーティの財産の内訳であることはきっと間違《まちが》いないだろう。非現実的な値ではなく、十分にありえる数字が書かれていることがその根拠《こんきょ》だ。  ただ、これはホロがロレンスのために聞き出してしたためたものではなく、現状の厳しさを伝えるためにしたためたものだった。  一体なんのために、と問うことすら馬鹿《ばか》らしい。  婚姻《こんいん》の誓約《せいやく》書と合わせればすぐにわかる。  アマーティはロレンスとの契約《けいやく》完遂《かんすい》の一歩手前であり、ホロはロレンスの下《もと》を去ることを考えている。  元々が偶然《ぐうぜん》出会った仲なのだ。  若くて向こう見ずで愚直《ぐちょく》だけれども、優秀《ゆうしゅう》で一途《いちず》に自分のことだけを考えてくれるアマーティならば、新しい伴侶《はんりょ》に相応《ふさわ》しいと思ったのかもしれない。  そんなまさか、と思う材料はなくなった。  この誓約書を握《にぎ》り締《し》めて階段を駆《か》け上がり、そんなことはやめてくれと言ったところでホロ一流の追い返し方をされるだけだろう。  ならば、腹をくくるしかない。  ホロがアマーティの財産内訳を晒《さら》したのは、見事アマーティの目論見《もくろみ》を粉砕《ふんさい》した暁《あかつき》にはロレンスの言い訳に対して聞く耳を持ってくれるということだろうが、逆に言えば粉砕できなければそれまでということだ。  アマーティの目論見を粉砕する当てはあるのだ。まだ、望みはある。  ロレンスは手紙と誓約書を手早くしまい、視線を宿の主人に向けた。 「預けてある現金の一切を出してくれ」  ホロとの旅は、万金に値《あたい》するのだ。  アマーティを合法的に素寒貧《すかんぴん》にすることができる。  問題は、その可能性を含《ふく》む取引を受けてくれるかどうか、まずそれにかかっていた。  ロレンスの予測では持ちかけようとしている取引のことをアマーティが知らない可能性が高い。それはアマーティを侮《あなど》っているのではなく、職種として縁《えん》のない取引だからだ。  誰《だれ》しもあまり詳《くわ》しくない取引には手を出したがらない。  それに、持ちかける人間は仇敵《きゅうてき》ともいえそうなロレンス。  そのため、取引を受ける確率は一|分《ぶ》九分でもいいほうだろう。ロレンスは煽《あお》ってでも挑発《ちょうはつ》してでもそれを受けさせなければならない。  それに、表面上はまともな取引であったとしても、持ちかけられているものが完全に敵対的な商取引に他《ほか》ならないことを、アマーティもきっと気がつくだろう。  ならば煽りと挑発に満ちた喧嘩腰《けんかごし》でちょうどいい。  これは商売ではない。ロレンスは得をしようと最初から思っていない。  商売の損得以外のことを考えるのは損以外のなにものでもないという、そんな商人として当たり前の考えがどこかに吹《ふ》き飛んでいってしまっている。  アマーティが立ち寄りそうな酒場を宿の主人に聞き、一|軒《けん》一軒回って四軒目でついに見つけた。祭りの真っ最中だというのに、静かな酒場で一人酒を飲んでいた。  どことなく疲《つか》れた面持《おもも》ちなのはホロと婚姻《こんいん》の誓約《せいやく》書を交《か》わすという幸運の大仕事を終えた緊張《きんちょう》のあとだからか。それとも、未《いま》だ懐《ふところ》の銀貨が千枚に到達《とうたつ》しないからか。  ただ、アマーティがどんな心境であっても関係ない。  商売は常に万全の状況《じょうきょう》で行えるわけではない。そこをうまくこなすのが商人としての力だ。  それに、明日を待っていては余計に交渉《こうしょう》が難しくなる。  ロレンスが持ちかけようとしているのはそういう類《たぐい》のこと。  深呼吸を一回だけすると、向こうがこちらに気がつく前にアマーティの視界へと入った。 「あ……」 「こんばんは」  嫌《いや》な奴《やつ》と偶然《ぐうぜん》出くわした、と思うほどアマーティも甘《あま》くはないらしい。  声を詰《つ》まらせるくらいに驚《おどろ》いておきながら、数瞬《すうしゅん》後には魚の仲買人の顔になっていた。 「そんな警戒《けいかい》なさらないでください。商売の話に来たのです」  うっすらと笑顔すら浮かんでしまったのは自分自身意外だったが、アマーティはロレンスの言葉を聞いて少しも楽しくなさそうに答えた。 「商売の話なら、なおのこと警戒しないといけません」 「はは、そうですね。それで、お時間を頂けますか?」  アマーティはうなずき、ロレンスはアマーティと同じテーブルに着く。面倒《めんどう》くさそうに注文を取りに来た店主には、ぶどう酒、とだけ短く伝えた。  テーブルの対面に座る相手は、見た目こそ娘《むすめ》のように線が細いものの、単身家出をしてきてこの町で成り上がろうとしている魚の仲買人だ。少年のような見た目に騙《だま》されてはならないし、油断してはならない。  そして、警戒させてもならない。  ロレンスは気取られないように咳払《せきばら》いをしてから、少し辺りを見回して口を開いた。 「静かな良い店ですね」 「他《ほか》の店だと静かには飲めません。ここは貴重な場所です」  なのにいきなり嫌《いや》な奴《やつ》に話しかけられて迷惑《めいわく》だ、という言葉が裏にあるのではないかと思ってしまうのは考えすぎだろうか。  ただ、さっさと用件を終わらせたいのはロレンスも同じだ。 「さて、突然《とつぜん》の申し出で驚《おどろ》かれているかとは思いますが、私も驚くことがありましたのでご勘弁《かんべん》願えればと思います」  アマーティがどんな言葉でホロに取り入って誓約《せいやく》書に判を押させたのかはわからない。いくらホロの頭が回るといっても、婚姻《こんいん》の誓約書を書こうと思うような発想はないだろう。  だとすればそそのかしたのはアマーティで、ホロはそれに乗っかった形のはず。  ただ、ロレンスにはそれを責める権利はない。  部屋に招き入れたのはホロであり、そんなことになってしまったのはロレンスが原因なのだから。  ホロからどんなふうに事の推移を聞かされたかはわからないが、アマーティがきっとそのことを言おうと口を開きかけたのだろうところを、ロレンスはとっさに右手を上げて制した。 「いえ、私はそのことについての話をしにきたのではないのです。それがアマーティさんに商売の話を持ってくる原因となった、というのは確かですが、そのことをどうこう言うつもりはありません。なにせ、全《すべ》ての決断はホロの自由なのですから」  やや気色《けしき》ばんだ表情でロレンスのことを見つめ、アマーティは小さくうなずく。  その目はまだロレンスの言葉を疑っているようだったが、それ以上疑いを晴らす努力をするつもりはない。  なにせ、もっと怪《あや》しげなことを言わなくてはならないのだから。 「ですが、持ち掛《か》けたい取引を思いついた原因が原因なため、まともな商売の取引とは言いかねるかもしれません」 「一体、なにを企《たくら》んでいらっしゃるのですか?」  アマーティのそんな言葉もいちいちもっともだ。  しかし、ロレンスは怯《ひる》まずにあとを続けた。 「率直に申しますと、黄鉄鉱《おうてっこう》を買っていただきたいのです」  アマーティの青い瞳《ひとみ》が、一瞬《いっしゅん》ロレンスのはるか彼方《かなた》に向けられた。 「え?」 「黄鉄鉱を買っていただきたいのです。現在の相場で、トレニー銀貨およそ五百枚分の黄鉄鉱を」  口を半開きにしたままはるか彼方から焦点《しょうてん》を戻《もど》してきて、アマーティは軽く笑ってため息をついた。 「ご冗談《じょうだん》を」 「冗談ではありません」  すっと笑《え》みが引っ込み、怒《いか》りに似た鋭《するど》い視線が向けられる。 「私が黄鉄鉱の転売で儲《もう》けていることはご存《ぞん》じでしょう? だというのに私に黄鉄鉱を売るなんてどういうことですか。手持ちの在庫が多くなればそれだけ利益も大きくなります。私にはとても信じられません。それとも」  と、一旦《いったん》言葉を切り、明確に目に怒りを乗せて言葉を放つ。 「借金さえ回収できればホロさんのことはどうでもいい、というのは本当なのですか」  ホロがなにを言い、アマーティがなにを思ったか一瞬でわかる台詞《せりふ》だった。  そのまっすぐな騎士《きし》のような心根《こころね》に、ロレンスは少し眩《まぶ》しい思いがした。 「いいえ、私にとってもホロは大切な存在です」 「ならばそんな——」 「もちろん、単純にお売りするわけではありません」  切った張ったの競《せ》りにおいてはきっとアマーティのほうがうまいのだろうが、一対一の商談においてならばロレンスだって負けはしない。  アマーティの呼吸を掴《つか》み、自らが有利になるように流れを支配する。  ロレンスはあくまで落ち着いた声音《こわね》で、用意しておいた台詞を述べた。 「信用売りをしたいのです」  聞きなれない言葉だったのか、アマーティが聞き返す。 「信用、売り?」 「はい」 「それは、一体……」 「私は、現在の相場でトレニー銀貨五百枚分の黄鉄鉱《おうてっこう》を、明日の夕刻にお売りしたいということです」  眉根《まゆね》に皺《しわ》が寄る音が聞こえる、とホロが耳のよさを自慢《じまん》する時に言うが、ロレンスもそれが聞こえそうな気がした。  それほど、アマーティは不可解そうな顔をした。 「ならば、明日の夕刻にお声をかけていただければ……」 「いえ、代金は今頂きたいのです」  ますます怪訝《けげん》そうな顔をする。  ホロ並みの演技者でなければ、アマーティは信用売りについての知識がない。  商人が情報を持たないのは戦場で目隠《めかく》しをするようなものだ。  ロレンスは引き絞《しぼ》った弓を放す準備をする。 「つまり、私は今ここで銀貨五百枚をアマーティさんから受け取り、明日の夕刻、今この時点で銀貨五百枚に相当する黄鉄鉱《おうてっこう》をお渡《わた》しするということです」  アマーティは必死に頭を巡《めぐ》らせる。表面的な仕組みとしてはそう難しいことではない。  やがて、なんとか仕組みを理解したらしい。 「それは、明日の夕刻の時点で黄鉄鉱の値段が今より上がっていたとしても、今の値段で評価した黄鉄鉱を頂けるということですか」 「そうです。例えば現時点で千二百イレードの黄鉄鉱を一つ信用売りしたとすれば、私は今この場でアマーティさんから千二百イレードを受け取りますが、明日の夕刻同じ黄鉄鉱が二千イレードになっていても、私は黄鉄鉱をアマーティさんにお渡ししなければなりません」 「……逆に言えば、明日の夕刻に二百イレードになっていても、私は黄鉄鉱を一つしかもらえないわけですね」 「そういうことです」  やはり頭の回転は速い。  ただ、この取引の意味に気がついてくれるかが心配だった。  信用売りは、単純に考えると手元にある商品を売る現物売りとなにも変わらない。  手元にある物を売って、売った後に値上がりすれば売らなければよかったと後悔《こうかい》し、値下がりすれば売っておいてよかったと安堵《あんど》する。  しかし、金のやり取りと商品のやり取りの間に時間差が存在するという決定的な違《ちが》いがある。  ロレンスはそこに気がついて欲しかった。  そうでなければこの取引を受け入れてくれない可能性が高い。  アマーティの口が開く。 「これは、結局、普通の売買と変わらないのでは?」  理解していなかった。  ロレンスは舌打ちをしたい気持ちを押さえ、うまく理解に誘導《ゆうどう》するための口上を展開しようとする。  そこを、アマーティが遮《さえぎ》った。 「違う、違いますよね」  意を得たり、といった笑みを浮かべ、少年のようなアマーティの顔が、損得《そんとく》でしか喜怒哀楽《きどあいらく》を表せない商人の顔になる。 「ロレンスさんは乗り遅《おく》れた商売からせめてもの利益を得ようとしている。そうですよね」  どうやら説明する必要はなかった。  商人は意味のない取引を行わない。一見無意味に見える時は、それをきちんと理解していない証拠《しょうこ》だ。 「信用買いが手元にお金がないのに商品を得る方法なら、この信用売りというやつは手元に商品がないのにそれを売ってお金を得るものですね。信用買いが手元にある品物の価値が上がることで利益になるのなら、信用売りはお金の価値が上がればいい。つまり、売った商品の値段が下がればいいということですよね」  しかも、その売る商品というのは売る時には手元に存在しなくてもいい。  あとで渡《わた》しますよ、という信用の下《もと》に売るのだから。 「はは、こんな商売があるのですね。魚の売買だけをしていては世間の広さはわからないようです。その商売相手に私を選んだのは……いえ、言うまでもないですよね。私がロレンスさんから追加で銀貨五百枚分の黄鉄鉱《おうてっこう》を買えば、その分値上がった時の儲《もう》けも大きくなりますが、値下がった時の損失も大きくなる。ロレンスさんが儲かる時、私は損をする格好になります」  アマーティが胸を張り、自信に満ちた顔つきに変わる。  ロレンスは反して自分が無表情になっていくのに気がついた。  弓を引き絞《しぼ》る手が緊張《きんちょう》に震《ふる》えている。  アマーティの言葉があとに続いた。 「これは、つまり……」  ロレンスは、遮《さえぎ》って弓を放った。 「アマーティさん、あなたに決闘《けっとう》を申し込んでいるのです」  魚の仲買人の唇《くちびる》が釣《つ》りあがる。  商人らしい笑《え》みだった。 「決闘とは呼べないでしょう」  しかし、出てきたのはそんな言葉だった。 「決闘とは互《たが》いに対等の条件で行うべきですが、これはまったく対等ではない。まさかとは思いますが、その信用売りが私とロレンスさんの間だけでしか意味をなさない、ということではありませんよね?」 「というと?」 「よもや証書も交《か》わさず取引を行うわけではないですよね? その証書を、別の誰《だれ》かに売り渡《わた》すのは可能かという意味です」  債務《さいむ》債権の売買はよほど遠方の国のものであったりしない限り普通《ふつう》に行われる取引だ。  もちろん、信用売りの証書だけが売買できないなんてことはない。 「そのような不自由な取引は受け入れていただけないでしょう? あまりにも危険が大きすぎます」 「そうですね。仮にロレンスさんがご想像なさっているように、明日の夕刻に黄鉄鉱《おうてっこう》の値が下がるのだとしても、明日の昼間に値が上がって私の必要な全部を満たしてくれれば、私はそれを売りたい。その時にそれができないとなれば、私はその取引をためらう。ですが、そこのところをロレンスさんが受け入れてくださるのだとすれば、この取引はまったく対等な条件ではない」  ロレンスは黙《だま》って聞き、アマーティは引き続き口を開く。 「あまりにもロレンスさんの分が悪すぎる。なぜなら、私は少しの値上がりで目標を達成できることになってしまうからです。ですが、私は自己の利益のためにロレンスさんが有利になるような取引は受けたくない」  つまり、どちらにせよこの取引は受けたくないということだ。  たが、一度断られたくらいで契約《けいやく》を諦《あきら》めるような商人はいない。  ロレンスは、落ち着いて言い放った。 「この取引だけを見ればそうかもしれませんが、もう少し広い視野で見ればこのくらいの分の悪さでちょうど良いのです」 「……というと?」 「ホロが、婚姻《こんいん》の誓約《せいやく》書を破り捨てる可能性があるということです。アマーティさんも控《ひか》えをお持ちなんでしょう?」  アマーティが、呆《ほう》けたようにロレンスのことを見る。 「アマーティさんは私に銀貨千枚もの借金を返しても、ホロが首を縦《たて》に振《ふ》らなければどうにもならないという危険と背中合わせです。この程度の分の悪さ、それに比べれば小さいものです」  しかし、アマーティはすぐに鼻で笑うような笑《え》みを浮かべ、反撃《はんげき》に打って出る。 「はっ。そんな心配はご無用かと存じますが? ずいぶんと激しい喧嘩《けんか》をなされたようですね」  焼けた鉄棒が背中に突《つ》き刺《さ》さったかのように体が熱くなったが、商人としての全《すべ》ての経験と力量を用いてそれが顔に出る前に切り返した。 「ホロは旅の途中《とちゅう》、私の腕《うで》の中で三度泣きました」  すると、感情が顔に出てしまったのはアマーティのほうだった。  軽く笑ったままの顔で凍《こお》りつき、ゆっくりと、細く、長く音を立てて深呼吸をしている。 「そんな時はなかなか可愛《かわい》いホロなのですが、生憎《あいにく》と意地っ張りなのでね。本心とは違《ちが》う言動を取りたがることがあります。つまり——」 「受けましょう」  ロレンスの言葉を強引に遮《さえぎ》ったその顔は、手袋《てぶくろ》を叩《たた》きつけられた騎士《きし》そのものだった。 「ロレンスさんの申し出を受けましょう」 「よろしいのですか?」 「くどいです。受けましょう。私は……私は、失礼ながらロレンスさんからなにもかもを奪《うば》う結果になってしまってはあまりにも酷《こく》だと、そう思い先ほどのように言いました。しかし、ロレンスさんがそのように仰《おっしゃ》るならば受けて立ちましょう。そして、ロレンスさんの財産もなにもかもを全《すべ》て奪って差し上げます」  怒《いか》りで顔が真っ赤になっているアマーティ。  ここで笑わなければ嘘《うそ》だ。  ロレンスは罠《わな》にかかった獲物《えもの》に手を伸《の》ばす狩人《かりうど》の笑みを浮かべて右手を差し出した。 「取引を受けていただけますね?」 「望むところです」  力の限りに握《にぎ》られた手は、互《たが》いの大切な物を奪い合おうとする手だ。 「それでは、早速《さっそく》書面の作成に取り掛《か》かりましょう」  しかし、ロレンスは冷静な頭で判断して結論づける。  ロレンスとアマーティは、この信用売りの取引の時点でほぼ互角《ごかく》。むしろ、アマーティのほうが分が悪いというのが妥当《だとう》なところのはず。  アマーティがそれに気がついているかは定かではない。いや、気がついていないからこそ取引を受けてしまったのだろう。  しかし、もはや気がついたところで後の祭りだ。  二人は店主から紙とペンを借り、その場で書類を作成し、契約《けいやく》を交《か》わした。  ただし、アマーティが現金で銀貨五百枚を用意するのが困難だというため、不足の銀貨二百枚分はアマーティが所有する馬三頭で合意した。現金の受け渡《わた》しは明日、市場開放の鐘《かね》が鳴ってから。馬の受け渡しは夕刻後。  ホロの言葉を信じるなら、アマーティの手持ちは現金で銀貨二百枚、黄鉄鉱《おうてっこう》の在庫が銀貨三百枚分、そして財産を処分して用意可能なのが銀貨二百枚。  それと比べると手持ちの現金の分が百枚分多かったが、馬三頭で残りの二百枚分を補填《ほてん》したことを考えると、この馬が処分可能な財産だったのだろう。  こうなるとアマーティは手元に銀貨八百枚分の黄鉄鉱を持つのと等しくなる。これは黄鉄鉱が二割五分値上がりするだけで銀貨千枚に達することを意味する。ホロの情報よりも多ければ、もっと少ない値上げ幅《はば》でいい。  だが、ロレンスはそれでもなお分が悪いとは思っていない。 「明日の夕刻、決着をつけましょう」  最後に判を押し、顔を上げ興奮《こうふん》した物言いのアマーティに、ロレンスは落ち着いてうなずいた。  ホロが腕《うで》の中で泣いた、という言葉は相当に効《き》いたらしい。  ロレンス自身、逆の立場だったら、と思わなくもない。  まったく、商人が商売以外のことにかかずらうとろくなことがないらしい。 「では、私はこれで。良いお酒を」  契約《けいやく》書を取り交《か》わすと、ロレンスはそう言って酒場を出た。  ロレンスが放った弓矢はまっすぐにアマーティの胸を射た。それはアマーティ自身感じていることだろうが、ロレンスは黙《だま》っていることが一つある。  その弓矢には、信用取引に慣れている者だけが知る遅効《ちこう》性の毒が塗《ぬ》ってあるということだ。  商人の狩《か》りは卑怯《ひきょう》と誠実の合間を行く。  全《すべ》てを語ってやる必要など、どこにもありはしない。  なにせ、商人は、陰険《いんけん》なのだから。  アマーティと黄鉄鉱《おうてっこう》の信用売りの契約を交わしたロレンスは、そのまま足を市場へと向けた。  当然|商《あきな》いは終わっているものの、市場の賑《にぎ》やかさは昼間とさして変わっていない。月明かりを頼《たよ》りに商人たちが酒盛りをし、夜警の者を巻き込んでの大|騒《さわ》ぎを繰《く》り広げている。  ロレンスがマルクの露店《ろてん》を訪《おとず》れると、やはり家ではなくそこにいた。  誰《だれ》かと飲んでいるわけでもなく、一人で騒ぎを肴《さかな》に飲んでいるのがなんとも行商人上がりらしかった。 「おや? どうした。姫《ひめ》の相手はいいのか」  そして、近づくや否《いな》や開口一番そう言われ、ロレンスは肩《かた》をすくめて苦笑いをする。  マルクは笑い、「まあ飲めよ」と、空いていたジョッキに陶器《とうき》の瓶《びん》からビールを流し込んでいく。 「邪魔《じゃま》じゃなかったか」 「はは、酒の席にしらふは邪魔だが酔《よ》っていれば問題ない」  丸太を切った椅子《いす》に座り、銀貨や金貨の詰《つ》まった麻袋《あさぶくろ》を置きながら、ロレンスは注《つ》いでもらったビールに口をつける。よく泡立《あわだ》ったそれを一口|含《ふく》むと途端《とたん》に芳香《ほうこう》が口いっぱいに広がり、痺《しび》れる苦さが喉《のど》をかけぬけていく。  これはホップがよく効いている証拠《しょうこ》だ。  さすが麦商人はビールの良さもわかっているらしい。 「いいビールだ」 「今年はどの麦も実りが良かったからな。不作になるとビール用の大麦までパンにしなきゃならない。豊作の神に感謝というわけだ」 「はは、そうだな。しかし」  と、ロレンスはジョッキを交渉《こうしょう》台の上に置いて言った。 「酒の肴《さかな》には少しばかり固《かた》い話があるんだが」 「んぐ……げふっ。儲《もう》け話か?」 「いや、どうかな。場合によっては儲かるが、それが目的ではない」  マルクは魚の切り身の塩|漬《づ》けを口に運び、ざりざりと塩を噛《か》む音をさせてから口を開く。 「正直だな。儲かると言えよ。喜んで協力してやるのに」 「もちろん手間賃は払《はら》うし、場合によってはそっちの利益になるかもしれない」 「というと?」  ロレンスは口の端《はし》についたビールの泡《あわ》を拭《ぬぐ》い、言った。 「麦の買いつけは祭りが終わる頃《ころ》に集中しなかったか」 「するな」 「そこで一つ、噂《うわさ》を流してもらいたいんだ」  マルクの顔が、麦粉の良し悪しを選別する時のものに変わる。 「危ない話はお断りだぞ」 「マルクが言えばそうかもしれない。が、小僧《こぞう》が言うくらいなら問題のないことというのがあるだろう?」  本当に、ちょっとしたことなのだ。  が、噂の力というものは恐《おそ》ろしい。  その昔とある大国が滅《ほろ》んだのは、城下町の一人の少年が王様は実は病気らしいと言ったからだといわれている。その話が巡《めぐ》り巡って周辺諸国へと伝染《でんせん》し、ついには同盟が崩壊《ほうかい》し大国は占領《せんりょう》、分割されたという。  話の種というものはそうそういくつもあるわけではない。  人の耳は小さな噂を聞きつけて、口はそれを大きく喋《しゃべ》るためにある。  マルクの顎《あご》が、言ってみろ、というふうにしゃくられた。 「俺が指示したら、ある場所でこう言って欲しいんだ。つまり、そろそろ麦の値段も上がる頃《ころ》かな、と」  その瞬間《しゅんかん》、時が止まってしまったかのように動きが止まり、その目はどこか遠くを見つめている。マルクはロレンスの言葉がなにを示しているのか考えているのだろう。  やがて、呆《あき》れ笑う目になって焦点《しょうてん》が戻《もど》ってきた。 「噂で例の石の値段を下げようって腹か」 「そんなところだ」  黄鉄鉱《おうてっこう》の売買に手を出しているのはその大半がこの町になにかを売りに来て、帰りになにかを買っていく者たちだろう。  帰り荷として最も多いのはおそらく麦。  買いつけが集中し麦の値段が上がると聞けば、皆《みな》小遣《こづか》い稼《かせ》ぎ程度に持っている黄鉄鉱《おうてっこう》を売り払《はら》い、本来の目的の品物を買いに走るだろう。  そうなれば、黄鉄鉱は必然的に値段が下がっていく。  そして、ある時点を境に一気に暴落への道をひた走るだろう。  麦商人は、ビールを呷《あお》ってから冷静に言った。 「まさかお前がそんな単純な思考の持ち主だったとは思わなかった」 「相当量の黄鉄鉱を同時に売りに出したとしても?」  ぴくりとマルクの瞼《まぶた》が反応し、少し考え込んでから「いくら分だ?」と言ってくる。 「トレニー銀貨千枚分」 「ばっ……千枚? 馬鹿《ばか》か、そんなことをしたらいくら損《そん》するかわからないぞ」 「いくら下がろうとかまわない」  マルクは苦りきった顔でぞりぞりと髭《ひげ》を撫《な》で回し、視線をあっちこっちに向けては唸《うな》っている。ロレンスがなにを考えているのか測りきれないといった様子だ。 「黄鉄鉱があと銀貨五百枚分現物で揃《そろ》えば、値段が上がろうが下がろうがこちらの懐《ふところ》は痛まない」  ロレンスがアマーティに持ちかけた取引は、アマーティのほうが分が悪い。  その理由は、これだ。 「くそ、信用売りか」  手元にある商品の値段が上がるならまだしも、下がっても懐が痛まないとなればそんな特殊《とくしゅ》な状況《じょうきょう》はいくつもない。  売った商品の値段が下がれば、のちに下がった値段で買い戻《もど》して契約《けいやく》相手に渡《わた》せばいい信用売りと、手元の商品が値上がればそれがそのまま利益になる通常の商売を組み合わせることで、黄鉄鉱の値段が上がろうが下がろうがロレンスの財産は増えも減りもしないという状況を作り出すことができる。  そして、ロレンスにとって決定的に有利な点は、商品の値段というものはたくさん売られれば必ず下がるということと、アマーティはどうしても利益が得たいのだから、黄鉄鉱の値段は上がってくれなければならないということ。  つまり、ロレンスはアマーティに信用売りをして受け取った銀貨五百枚と手持ちの現金をつぎ込んで、買いあさった黄鉄鉱の浴びせ売りをして暴落を引き起こそうと目論《もくろ》んでいるのだ。  利益を度外視すればこんなことだってできる。  行商人上がりのマルクはすぐにそれに気がついた。  その相手が誰《だれ》なのかも。 「無知につけ込まれた哀《あわ》れな魚の仲買人に同情するな」  ロレンスは肩《かた》をすくめてそれをかわす。  しかし、一見するとこれほど有利なのに落ち着いて笑えない理由がロレンスにはある。  完璧《かんぺき》な計画など、存在するわけがない。 「慣れない取引に手を出すことがどれほど危険か知らない奴《やつ》には思えなかったがな」 「いや、知っていて受けたんだろう。それくらいのことを言った」  喉《のど》で小さく笑い、マルクは残りのビールを飲み干《ほ》すと表情を改めた。 「で、俺に頼《たの》みたいのはそれだけか?」 「もう一つある」 「言ってみな」 「黄鉄鉱《おうてっこう》を買い集めて欲しい」  すると、マルクは虚《きょ》を突《つ》かれたといった顔になってロレンスの顔をまじまじと見る。 「買う当てを作ってから契約《けいやく》したんじゃないのか」 「残念ながらそんな余裕《よゆう》がなかった。頼めないか?」  笑えない原因はこれだ。  いくら理想的な計画も材料が揃《そろ》わなければどうすることもできない。  そして、その材料調達は難しい。  夜が明けてから市場で黄鉄鉱を買うという手段はもちろんあるが、そんなところで銀貨数百枚分の買いを出したらそれこそ黄鉄鉱の値段がうなぎのぼりに上がってしまう。  秘密裏に、相場に影響《えいきょう》を与《あた》えず買い集めなければならない。  それには、町商人に頼み、伝《つて》で小額ずつ大量に集めてもらうのが最適だった。 「条件は現金買いつけ。相場より多少高くてもいい。ある程度まとまった量ならリュミオーネ金貨で払《はら》う」  トレニー銀貨が剣《けん》だとしたらリュミオーネ金貨は槍衾《やりぶすま》だ。高額の商品買いつけでこれ以上強い武器は存在しない。  ただ、ロレンスには現金があっても伝がないし、マルク以外に頼《たよ》れるような知り合いもいない。  ここを断られるとロレンスは自分の足で黄鉄鉱を集めなければならない。  毎年数日間だけ行商に来るような場所で、地道にたくさんの黄鉄鉱を買い集めることがどれほど難しいかは考えなくてもわかる。  しかし、マルクはあらぬ方向を見たまま動かない。 「札はする。それなりの金額だ」  単なる手間賃ではないということ。  マルクはその言葉にちらりと視線を向けてきた。  やはりここは商人だ。ただ働きなどしたくはないということだろう。  そして、短く口を開いた。 「駄目《だめ》だ」 「そうか、なら……え?」 「駄目だ」  今度はロレンスの目を見てそう言った。 「な——」 「その頼《たの》みには応じられない」  ぴしゃりと言い放つマルクに、ロレンスは身を乗り出して訴《うった》えた。 「礼はする。手間賃などというけちなことは言わない。お前は絶対に損をしない、うまい話だろう?」 「損はしない?」  顔が四角くなるように髭《ひげ》が整えられたマルクの眉根《まゆね》に皺《しわ》がよると、まるっきり岩石のようだ。 「だってそうだろう。俺は、お前に黄鉄鉱《おうてっこう》を買い集めてくれと頼みたいんだ。投資しろというわけじゃない。もちろん支払《しはら》いは現金払いだ。それでなぜ損をするんだ」 「ロレンス」  その言葉は、どんな静止の合図よりも強力にロレンスの言動を止めてしまう。  しかし、ロレンスは訳がわからない。相応の報酬《ほうしゅう》を支払われ、また危険もないとわかればそれを断る商人などいはしない。  一体なぜ駄目なのか。  それとも、マルクはロレンスの足元を見ているだけなのかと、そんな怒《いか》りにも似た疑念が腹の中に渦巻《うずま》いてくる。  そこに、マルクがあとを続けた。 「お前が支払えるのは、せいぜいが十リュミオーネだろ」 「代理|購入《こうにゅう》の報酬ならそれで十分すぎるほどだろう? なにも険しい山々を一晩で越《こ》えて一人で隊商並みの量を持って帰ってこいというわけじゃない」 「俺に市場を駆《か》けずり回り、黄鉄鉱を買い集めろとお前は言っているんだろ? 同じことだ」 「一体それの……!」  ごとん、と座っていた丸太が倒《たお》れ、ロレンスはマルクに掴《つか》みかからんばかりの勢いで身を乗り出して我に返った。  しかし、マルクは一向に動じない。  徹底《てってい》して、商人の顔を崩《くず》さない。 「ぐっ……一体、それのどこが同じなんだ。一晩中走れというわけでも、重い荷物を持てというわけでも、遭難《そうなん》や事故の可能性が高い険しい道を行けとも言っているわけじゃない。ただ、お前の伝《つて》を通じて黄鉄鉱を買いつけてくれないかと言っているだけだ」 「それが同じことだというんだ、ロレンス」  マルクは、ゆっくりと言った。 「お前は野を行く行商人で、俺はこの市場を戦いの場にしている商人だ。お前が考えている危険というものは全《すべ》て行商人のものだ」 「あ……」  声を飲み込むと、マルクも苦いものを口にしたようなしかめっ面《つら》になる。 「儲《もう》け話を見つけたら、一も二もなくすばやく飛びつくことは町商人にとって決して美徳ではない。町商人は、副業で大儲けをするくらいなら本業でつつましく稼《かせ》ぐのを良しとする。この露店《ろてん》の主人は俺だが、この露店にかかっている名誉《めいよ》は俺の名前だけじゃない。この露店には俺と俺の嫁《よめ》、それに血のつながる全《すべ》ての者たちの名誉と、この店と懇意《こんい》にしてくれている者たち全ての名誉がかかっている。ちょっとした小遣《こづか》い稼ぎ程度なら、あぶく銭《ぜに》でも目ざとく手に入れるのは決して悪いことじゃない」  マルクはそこでビールを再び注《つ》ぎ、一口飲む。しかめっ面がほぐれないのは、ビールが苦いせいではないはずだ。 「だが、お前が欲しがっているような銀貨五百枚分などといった金額の黄鉄鉱《おうてっこう》を買い集めるとなると話は別だ。周りはそんな俺を見てどう思う? 本業をほっぽりだして博打《ばくち》にのめりこんでいるどうしようもない奴《やつ》、となるだろう。お前はその危険に見合うだけの報酬《ほうしゅう》を支払《しはら》えるのか? 俺も行商人上がりだから敢《あ》えて言うが、多少の儲けを手にした程度の行商人では太刀《たち》打ちできないくらいの金額を取り扱《あつか》うのが町商人だ」  なにも言うことができない。  マルクが、最後の一言を放った。 「これくらい小さな店でもな、その看板の値段というものは驚《おどろ》くくらいに高い。傷をつけたらその修理の費用は十や二十の金貨ではとても足りはしない」  決定的な一言。  ロレンスは二の句が継《つ》げず、視線をテーブルに落とした。 「そういうことだ」  足元を見ているわけでも、ましてや嫌《いや》がらせでもない。  マルクの言葉は至極《しごく》もっともだ。  ただ、それはロレンスとマルクが同じ商人であってもまったく住む世界の異なる者であるということをまざまざと知らしめた。 「悪いな」  という言葉にもうまく返事ができない。  残る調達の当ては、数えるほどもない。 「い、いや、無理を言ってすまなかった」  残る当てとなれば、ロレンスにはバトスくらいしか思い浮かばない。  マルクの線が切れた以上、そちらに賭《か》けるほかない。  しかし、バトスがロレンスにアマーティの企《たくら》みの手かがりを教えてくれた際、アマーティのしていることをあまり褒《ほ》められない方法と言ったことを思い出す。  険しい山々を重い石を担《かつ》いで運ぶバトスには、右から左に黄鉄鉱《おうてっこう》を捌《さば》いて大|儲《もう》けすることが汚《けが》らわしい行為《こうい》に思えるのだろう。  それを考えると可能性はとても低いが、行くしかない。  ロレンスは覚悟《かくご》を決め、腹に力を込めて顔を上げた。  マルクが口を開いたのはそんな瞬間《しゅんかん》だった。 「いつも澄《す》まし顔だったお前がそんなふうになるのか」  呆《あき》れるわけでも、笑うわけでもなく、少し驚《おどろ》いたような顔でマルクはそう言った。 「ああ、悪い。怒《おこ》らないでくれ。意外に思えるんだよ」  慌《あわ》てて取り繕《つくろ》ったマルクに、ロレンスはもちろん怒るわけもなく、ロレンスのほうも驚いてしまっていた。 「まあ、あの連れ相手じゃそうもなるか。だが、そんなに必死になってまでアマーティの奴《やつ》の邪魔《じゃま》をしなくとも、連れはそう簡単に向こうになびかないだろう? 初めてお前の横にいる姿を見た俺だってそう思うくらいなんだ。もっと自信を持てよ」  ここで初めてマルクは笑ったが、ロレンスは無表情になって答える。 「署名入りの婚姻《こんいん》誓約《せいやく》書を突《つ》きつけられた。もちろん、相手はアマーティだ」  マルクの目が点になり、次いでまずい話題に触《ふ》れたとばかりにぞりぞりと髭《ひげ》を撫《な》でる。  ロレンスはそんな様子を見て、少しだけ肩《かた》の力が抜けた気がした。 「なにもなければ、そりゃ、俺だって自信がないわけではない。だが、そのなにかがあった」 「お前がここに来て帰ったあとにあったのか。世の中一寸先は闇《やみ》だな……。それでもまだ望みがあるからお前は走っていると、そういうわけか」  うなずくと、マルクは下唇《したくちびる》を突《つ》き出してため息をついた。 「只者《ただもの》じゃないとは思ったが、そんな大胆《だいたん》なことをするのか……。で、お前、他《ほか》に当てはあるのか?」 「とりあえず、バトスさんに話を聞いてもらう」 「バトスさんか、なるほど、あの女に話を通してもらうつもりか」  マルクの呟《つぶや》きに、ロレンスは聞き返していた。 「……あの女?」 「あ? あの女に話を通してもらうんじゃないのか。年代記作家の。会ったんじゃないのか?」 「ディアナさんのことなら、会ったが、話のつながりが見えない」 「後難《こうなん》の可能性を恐《おそ》れないのであれば、あの女に交渉《こうしょう》を持ちかけてもいいと思う」 「だから、なんの話だ」  ロレンスが問うと、マルクは辺りを少し見回してから、声をやや潜《ひそ》めて話し始めた。 「あの女は、北の地区を取りまとめている人間だ。特に錬金術《れんきんじゅつ》師連中の窓口になっているといっていい。様々な理由で狙《ねら》われやすい錬金術師たちがあんなに群れてられるのはな、あの女がいるからだというのが俺らの見解だ。もっとも、詳《くわ》しいことは町の貴族や組合の長《おさ》連中しか知らないがな。でだ」  ビールを一口飲み、マルクは続ける。 「錬金術師たちなら黄鉄鉱《おうてっこう》を持ってるだろうってのはこの町の人間なら真っ先に思ったことだ。しかし、波風立たせずにこの町で商売をするには関《かか》わっちゃならない連中だ。バトスさんだって錬金術師相手に商売をしているせいで、それ以外とは滅多《めった》に取引しない。しないというよりできないんだがな。だから、後難を恐れないのであれば、バトスさんを通じてあの女に話を通してもらうという選択肢《せんたくし》もある」  突然の話にその真偽《しんぎ》を見|極《きわ》められないが、マルクが嘘《うそ》を言っても益するところはなにもない。 「場合によっては試《ため》す価値はあるんじゃないのか。かなりケツに火がついてるんだろう?」  情けない話だが、マルクに断られるとは思っていなかったために状況《じょうきょう》は芳《かんば》しくない。 「お前がこの町で俺を頼《たよ》ってくれたのは嬉《うれ》しく思うが、俺にできるのはこのくらいだ」 「いや、助かった。大きな可能性を見過ごすところだった」  それに、ロレンスの話を断ったのは至極《しごく》もっともなことだとロレンス自身思う。  マルクは町商人で、自分は行商人なのだ。立場が違《ちが》えば、できることとできないことの違いはとても大きくなる。 「お前への協力を拒《こば》んでおいてなんだが……成功を祈《いの》る」  今度はロレンスのほうが笑顔《えがお》になれた。 「一つ勉強になった。それだけで儲《もう》けものだ」  嫌味《いやみ》ではなく、他意なくそう言った。これから先、町商人相手に交渉《こうしょう》をする時は今回みたいなことも考慮《こうりょ》に入れて交渉をすることができる。勉強になったというのは嘘《うそ》ではない。  ただ、マルクはその言葉を聞くや否《いな》や、ぞりぞりぞりと髭《ひげ》を撫《な》で回す。  それから思い切りしかめっ面をして、他所《よそ》を向きながら言った。 「俺は表立って動けないが、他人の懐《ふところ》具合をぼそりと呟《つぶや》くくらいならできる」  ロレンスが驚《おどろ》くと、マルクは目を閉じて口を開く。 「またあとで来い。可能性のある買いつけ先を示すくらいのことはしてやれる」 「……助かる」  心の底からそう言うと、マルクはなにかを諦《あきら》めるように吹《ふ》き出した。 「お前がそんな顔をするのならな、そりゃあ、あんな娘《むすめ》っ子も大胆《だいたん》なことをするだろう」 「……どういう意味だ?」 「なんでもない。商人なら商売のことだけを考えろということだ」  笑うマルクを問いただしたかったが、ロレンスの頭の中はすでにバトスとディアナへと向けられている。 「ま、がんばれ」 「あ、ああ」  釈然《しゃくぜん》としない思いを抱《かか》えつつも、交渉《こうしょう》に行くなら早いほうがいい。  ロレンスは手早く礼を言い、マルクの露店《ろてん》をあとにした。  ただ、なんとなくだが、行商人には友達すらできないというのは間違《まちが》いかもしれないと、道すがら思ったのだった。  ロレンスが真っ先に向かったのは商館だった。  目的は二つ。一つはバトスが黄鉄鉱《おうてっこう》の在庫を持っているか、または心当たりがないか聞きに行くため。もう一つは、バトスにディアナとの仲介《ちゅうかい》を再び頼《たの》むこと。  しかし、アマーティが手を染めている黄鉄鉱売買のことを、あまり褒《ほ》められない方法、と言ったことを覚えている。  鉱山地帯から厳しい道のりを経て宝石や金属を運ぶ行商人であるバトスには、黄鉄鉱の投機的な取引が汚《けが》らわしいものに見えるのかもしれない。  それでも、無理は承知であっても行かなければならない。  深夜まで続く暴動にも似た雰囲気《ふんいき》を持つ祭りを横目に、路地を抜《ぬ》けながら商館を目指す。  ようやく商館が並ぶ通りにたどり着くと、そこでは各々の商館がかがり火を焚《た》き、たくさんの人が輪になって踊《おど》っている。時折|剣《けん》を構えて商館の人間同士で不恰好《ぶかっこう》な演舞《えんぶ》を交えるのは祭りの進行に沿った宴会《えんかい》だからかもしれない。  道に溢《あふ》れる人をすり抜けながらローエン商業組合の建物を目指し、開け放たれた扉《とびら》の周辺にたむろしながら酒を飲んでいる組合員たちが声をかける間もなく建物へと滑《すべ》り込む。  どうやら建物の中と外でゆっくり飲みたい奴《やつ》と騒《さわ》ぎたい奴のすみわけができているらしく、独特の匂《にお》いがする魚油《ぎょゆ》の壁掛《かべか》けランプに照らされながら、ロビーには柔《やわ》らかな談笑《だんしょう》が満ちていた。  そのうちの何人かはロレンスに気がつき好奇《こうき》の視線を向けてくるが、大半は酒宴の楽しみのほうに関心がいっているようだった。  そんな中、目当ての人物を見つけまっすぐに歩み寄る。  一際《ひときわ》年齢《ねんれい》の高い商人たちが集まるテーブルに着いている、ランプの薄暗《うすぐら》い明かりに照らされていると隠者《いんじゃ》のように見える男。  ギ・バトスだ。 「お楽しみのところ大変申し訳ありません」  周りの談笑よりもやや小さいくらいの控《ひか》えめな声でそう言うと、海千山千《うみせんやません》の商人たちはロレンスが一体|誰《だれ》に用があって来たのか即座《そくざ》に見|抜《ぬ》いたらしい。  無言で酒に口をつけながら、ちらりとバトスに視線を寄越《よこ》す。  対するバトスは、柔《やわ》らかに笑いながら口を開いた。 「おや、ロレンスさん、どうされました」 「突然《とつぜん》のことで申し訳ないのですが、折り入ってお話が」 「それは商売のお話で?」  わずかにためらってから、うなずく。 「では、ちょっと離《はな》れて話しましょう。せっかくの儲《もう》け話を聞かれては困ります」  同じテーブルに着いていた他《ほか》の商人たちは笑い、勝手にやっているよとばかりにジョッキを軽く持ち上げる。  ロレンスは軽く頭を下げ、商館の奥に入っていくバトスのあとを追う。  酒の匂《にお》いと談笑が満ちているロビーとは違《ちが》い、商館も廊下《ろうか》を少し奥に入ると路地裏と変わらない。あっという間にランプの明かりが届かなくなり、喧騒《けんそう》は川の向こう岸から聞こえてくるようになる。  バトスはそこで止まり、振《ふ》り向いた。 「それで、お話というのは?」  回りくどく言っても益はない。単刀直入に言った。 「はい。実は黄鉄鉱《おうてっこう》を仕入れたく、在庫を探している最中なのですが、バトスさんならばお心当たりがあるのではないかと」 「黄鉄鉱?」 「はい」  バトスの瞳《ひとみ》は黒に近い紺色《こんいろ》だ。黄味がかった赤いランプの光加減によっては灰色の瞳に見えなくもない。  そんなバトスの目が、ロレンスをじっと見つめていた。 「お心当たりありませんか?」  重ねて問うと、バトスはため息をついて目頭《めがしら》を揉《も》んだ。 「ロレンスさんは」 「はい」 「私がアマーティさんの企《たくら》みの手がかりをロレンスさんにお話しした時の言葉を覚えておられませんか?」  ロレンスはすぐにうなずく。もちろん、覚えている。 「それだけではなく、ディアナさんが商売の話を嫌《きら》っているらしいということも覚えています」  目頭から指を少し離《はな》したところで止まり、バトスの目が初めて商人らしいものに変わる。  過酷《かこく》な行商に身を投じる、いかに儲《もう》けるかを問うのではなく、いかに無事に運搬《うんぱん》を行うかを問う行商人の目。  その目は、心なしか狼《オオカミ》に似ていた。 「錬金術《れんきんじゅつ》師の方たちの在庫まで当てにしているのですか」 「話が早くて助かります。ですが、ディアナさんの許可がないと商売は行えないと聞きました。そこでバトスさんにお願いがあるのです」  伝《つて》もなにもなく、飛び込みで強引な交渉《こうしょう》をしては新しい商売を増やしていた駆《か》け出しの頃《ころ》を思い出す。  バトスは少し驚《おどろ》いたように目を大きく開け、そして引き絞《しぼ》る。 「そこまでわかっていてなお取引を申し出るというのは、それほど黄鉄鉱《おうてっこう》が儲かるからですか?」 「いえ、違《ちが》います」 「では……噂《うわさ》通りに運命を知ったり、万病を治すために?」  孫をあやすような笑みを浮かべて言ったのは、それがバトス一流の嘲《あざけ》りだからだろう。  それでも、当然ロレンスは怒《おこ》らない。焦《あせ》らない。  じりじりと動く天秤《てんびん》を見つめ、自らの利益のためなら一晩だって明かしてみせるのが商人だ。 「私自身の利益のために動いているのは事実です。それは否定いたしません」  バトスは身じろぎすらせず、ぎょろりと目を動かす。  ここでバトスに門前払《もんぜんばら》いをされては、黄鉄鉱の在庫にありつく大きな可能性が消えてしまう。  それを許容できるほど今のロレンスに余裕《よゆう》はない。 「ですが、私はあぶくのように膨《ふく》れていく黄鉄鉱の値段から利益を引き出そうとしているわけではありません。それよりも、もっと……もっと根本的なことです」  口を挟《はさ》まれないのは先を促《うなが》す合図だと受け取って続ける。 「バトスさんも行商人であれば、背負っていた荷物が谷底に落ちそうになったことも少なくないのではないですか?」  無言。 「荷馬車がぬかるみにはまり立ち往生すれば、私たちはそれを見捨てることと、意地でもぬかるみから取り出すことを天秤にかけます。積荷の商品価値、利益、手持ちの資金、日程、それに誰《だれ》かに手伝ってもらったとしての報酬《ほうしゅう》。またはまごまごしているうちにたちの悪い連中に見つかるかもしれない危険。そういったもろもろのことを考えて、積荷を捨てるか否《いな》か判断すると思います」  バトスはゆっくりと口を開く。 「今がその状況《じょうきょう》だと」 「そうです」  見通しの利《き》かない道で、その先になにがあるのかを見|透《す》かすような目。  何十年も同じ道を歩き、なおその道で自分の見られなかったものを見るためにディアナの下《もと》で昔話を聞くというバトス。  その目の前では商人の嘘《うそ》などたちどころに見透かされてしまうだろう。  しかし、ロレンスは怯《ひる》まない。  その言葉に、嘘はないのだから。 「私は、積荷を諦《あきら》めたくないのです。それを再び荷台に載《の》せられるのなら、多少の無理は通します」  積荷がなにで、どういった状況になっているのか察せないバトスではないだろう。  それでも、バトスはゆっくりと目を閉じたまま黙《だま》ってしまった。  なにかを言うべきか、それとも追撃《ついげき》を放つべきか。  後ろから聞こえてくるロビーの談笑《だんしょう》が嘲笑《ちょうしょう》に聞こえてくる。  限られた時間がじりじりと過ぎる。  ロレンスは口を開きかける。  そして、すんでのところで踏《ふ》みとどまった。  嘆願《たんがん》は、待つことこそ最大の法という師匠《ししょう》の言葉を思い出したのだ。 「それを待っていました」  その瞬間《しゅんかん》、バトスはそう言って小さく笑った。 「どれほど時間がなくとも、他《ほか》に道がなければ辛抱《しんぼう》強く待つのが良き行商人ですから」  試《ため》されていた、と気がついてロレンスは背中から冷《ひ》や汗《あせ》がどっと噴《ふ》き出すのを感じた。 「とはいうものの、私の時はもっと強引でしたけどね」 「あの……」 「ああ、私の手元には黄鉄鉱《おうてっこう》の在庫はありません。ですが、錬金術《れんきんじゅつ》師の方たちなら持っているのではないでしょうか」 「それじゃあ」  バトスは小さくうなずいた。 「白い羽をしまう箱を買いに来ました、と言えば通じると思います。あとはロレンスさん次第です。うまく姐《ねえ》さんを口説いてください。多分、まだ他の誰《だれ》も黄鉄鉱の買いつけには行っていないと思いますよ」 「ありがとうございます。このお礼は——」 「なにか昔話を聞かせてくれればそれで結構。どうです、姐さんみたいな貫禄《かんろく》がありますかね?」  バトスは子供のように笑い、ロレンスもそれに釣《つ》られて笑ってしまう。 「姐《ねえ》さんはいつ寝《ね》ているのかわからないような人ですから、今から行っても大丈夫《だいじょうぶ》でしょう。行くなら早くに行くべきです。時は金なり、ですからね」  言いながらバトスの指が商館の奥を指差した。 「裏口から出れば誰《だれ》にも声をかけられず行けます」  ロレンスが礼を言って廊下《ろうか》を奥に進み、一度|振《ふ》り返るとバトスは笑っていた。  ロビーの明かりを背にしたバトスの姿は、少しだけ師匠《ししょう》に似ていたのだった。  商館を出て北に向かって走れば、さして間もなく石壁《せきへき》へとぶち当たる。  運悪く入り口に当たらず、しばらく壁沿《かべぞ》いに走りようやく入り口を見つけ、立てつけの悪い扉《とびら》をこじ開けるようにして中に滑《すべ》り込む。  当然辺りに明かりなど存在してはいないが、走っている最中に闇夜《やみよ》に目が慣れているし、野営の多い行商人ならば多少の暗闇などなんともない。  ただ、闇夜の中でぽっと見える傾《かたむ》いた木の扉《とびら》の隙間《すきま》から漏《も》れ出る明かりや、どこから聞こえてくるのかわからない猫《ネコ》の鳴き声と鳥の羽ばたきの不気味さは昼間の比ではない。  一度行った場所ならばどの方角からでもたどり着けるという行商人独特の力がなければ、道に迷って恐怖《きょうふ》のあまりに逃げ出していたかもしれない。  ようやくディアナの家の前に出た時は偽《いつわ》りなくほっとした。  不気味な森の中で、知り合いのきこりの家にたどり着いた時のような安心感。  しかし、ロレンスが立つ扉の向こう側にいるのは無条件にロレンスの訪問を歓迎《かんげい》してくれる知り合いではない。  バトスから合言葉をもらったとはいえ、ディアナとのやり取りを思い出すと本当に商売そのものが嫌《きら》いそうなのだ。  うまく黄鉄鉱《おうてっこう》が買いつけられるだろうか。  その不安が胸のうちにじわりじわりと浮かんできたが、深呼吸をするとその全《すべ》てを腹の底に押し込めた。  買いつけなくてはならない。  ロレンスは、この先もホロと旅がしたいのだ。 「ごめんください」  扉を軽く叩《たた》き、殊更《ことさら》控《ひか》えめにそう言った。  人が寝静まっている時の静けさと、誰もいない時の静けさというのはまた質が違う。  前者の静けさが漂《ただよ》う中、声を出すのはどうもはばかられた。  しかし、扉の向こうに反応はない。  扉《とびら》の隙間《すきま》からはほんのりと明かりが漏《も》れているので一応はいるらしかったが、寝《ね》ているのかもしれない。  町の規則で火の不始末は厳罰《げんばつ》に処されるが、ここまで見回りに来る度胸のある者がいるかというとそうは思えない。  もう一度扉を叩《たた》こうか、と思って手を構えた直後に扉の向こうで誰《だれ》かが動く気配がした。 「どちら様?」  少し眠《ねむ》たそうな、気だるそうな声が聞こえてきた。 「夜分|遅《おそ》くに申し訳ありません。昨日バトスさんと共に寄らせていただいたロレンスです」  そう名乗ると、わずかの間をあけてから衣擦《きぬず》れの音がし、扉がゆっくりと開かれた。  明かりが漏れ出て、ついでディアナの家の中の空気が漏れる。  ディアナの目は、不機嫌《ふきげん》そうにも眠たそうにも見える。  格好は昨日ロレンスが訪《おとず》れた時と同じローブ姿だが、元修道女であるのなら一年中朝も昼も区別なしにこの格好だから、寝ていたかどうかの判断材料にはならない。  そんなことよりもそもそも夜中に一人で暮らしている女性の家を訪ねるのがどれほど非礼かは心得ているつもりだったが、ロレンスは臆《おく》することなく口を開いた。 「失礼を承知で参りました」  続けて、言う。 「白い羽をしまう箱を買うべく」  バトスから教わった合言葉を口にすると、ディアナの目が一瞬《いっしゅん》細められ、それから無言で身を引くと仕草で中に入るようにと促《うなが》された。  硫黄《いおう》の匂《にお》いとは無縁《むえん》なディアナの家の中は、昨日よりもさらに一段と汚《よご》れているような気がした。  数少ない秩序《ちつじょ》を保っていた本棚《ほんだな》もほとんどの本が下ろされ、そのうちのさらに半分は口を開けたままだらしなく天井《てんじょう》を仰《あお》いでいる。  そして、ますます多く散らばっているたくさんの大きな真っ白い羽根ペン。  ほとんど新品のように思える綺麗《きれい》なそれらが散らばる光景には、どことなく空恐《そらおそ》ろしい雰囲気《ふんいき》さえあった。 「一日のうちに何人もお客さんが来るなんて珍《めずら》しいわ。やっぱり祭りは人を呼ぶのね」  そんな中、相変わらず椅子《いす》を勧《すす》めることもなく、自分だけ椅子に座りディアナは独《ひと》り言《ごと》のようにそう言った。  ロレンスは荷物が載《の》っていなかった椅子の上に座ろうとして気がつく。  立て続けに何人も。  それはつまり、ロレンスの前にも誰かが来たということだ。 「それで、白い羽をしまう箱を買いに来たということですが、それは、やはり、バトスさんから?」  先客がどんな用件でここに来たのかと、不安と共に頭を巡《めぐ》らせていたロレンスは我に返ってうなずく。 「は、はい。無理を言ってディアナさんに取り次いでもらうようにと……」 「あら、そう? 強引にねじ込んでどうにかなる人じゃないでしょう、あの人は」  そう言って楽しそうに笑われては、それ以上なにも言うことはできない。  質は違《ちが》うけれども、まるでホロを相手にしているようだった。 「あの頑固《がんこ》者を口説いてまで、どんな商売をしようというのかな」  錬金術《れんきんじゅつ》師たちの生み出した薬や技術はさまざまな立場の人間がさまざまな理由で欲しがっている。  ディアナはきっとそんな欲望の防波堤《ぼうはてい》になっているに違いない。  それがとんな理由からかはわからなかったが、椅子《いす》に座りまっすぐにロレンスのことを見つめるディアナは、鉄の羽で卵を守る、大きな鳥のように見えた。 「黄鉄鉱《おうてっこう》を、買いつけさせてもらいたいのです」  半ば気圧《けお》されながらも答える。  ディアナは白い手を頬《ほお》に当てて言った。 「高騰《こうとう》しているらしいですね」 「ですが——」 「もちろん、バトスさんが単純な金|儲《もう》けの片棒を担《かつ》がせるとは思っていません。なにかしら理由があるのでしょう?」  全《すべ》てを先回りされているような感覚。ディアナの頭の巡りは常にロレンスの先を行っており、ディアナはそれを見せつけようとしている。  それでも怒《おこ》ってはならない。きっと、試《ため》されている。  ロレンスはうなずいて、答えた。 「商売ではなく、勝負のために黄鉄鉱が必要なのです」  ディアナは小さく笑い、目を細めて訊《たず》ねる。 「誰《だれ》との勝負?」 「それは……」  アマーティ、と答えようとしたのをためらったのは、別にアマーティの名前を出すのがよくないと思ったからではない。  本当に自分の勝負の相手はアマーティなのだろうかと、そう思った。  アマーティはあくまでも外堀《そとぼり》であり、その奥に落とすべき相手がいる。  ロレンスは「いえ」と言いなおし、ディアナに改めて視線を向けた。 「それは、積荷です」 「積荷?」 「行商人の敵はいつだって積荷です。その価値を測り、扱《あつか》いを熟慮《じゅくりょ》し、送るべき先を吟味《ぎんみ》する。そのどれか一つを見誤っても、行商人は負けてしまいます。今、私は荷台から転げ落ちそうになっている積荷を荷台に戻《もど》そうとしています。その価値と、扱いと、送り先を再|検討《けんとう》したうえで、その積荷は荷台から絶対に落とすわけにはいかないと思ったからです」  風が吹《ふ》いた、と思ったのは、ディアナの前髪《まえがみ》が揺《ゆ》れたからだ。  しかし、それは風ではなく、彼女自身の息だった。  ディアナは小さく笑い、そして、足元の羽根ペンを一つ手に取った。 「白い羽をしまう箱を買い取る、なんて大仰《おおぎょう》な合言葉ですけど、本当のところは私を少しでも楽しませてくれればいいっていうくらいの意味なんです。鳥が喜んで羽ばたけば羽が落ちるでしょう。人の選別は合言葉を授《さず》けてある人たちがやってくれますしね。私はちょっとしたところを見るだけ。かまいませんよ、黄鉄鉱《おうてっこう》に限って、買いつけをしていただいても」  ロレンスは思わず椅子《いす》から立ち上がっていた。 「ありがとうござ——」 「ですが」  と、言葉を挟《はさ》まれ嫌《いや》な予感が再びよぎる。  一日に複数の客という言葉。荷物の載《の》っていなかった椅子。  まさか、とロレンスの胸の中に黒い文字が浮かび上がる。  ディアナの顔が、申し訳なさそうなものに変わる。 「すでに買いつけに来られた方がいます」  不安は的中した。  ロレンスは商人として当然の台詞《せりふ》を口にする。 「いくつを、いくらで?」 「落ち着いてくださいね。その方は掛《か》けで買われ、現物も持って行ってはおりません。いわば予約みたいなものです。私としましては、ロレンスさんにお譲《ゆず》りしても良いかと思います。ですからその方と交渉《こうしょう》をしてみましょう。なお、量は確か今日の相場でおよそ一万六千イレード分です」  トレニー銀貨にして四百枚。それをものにできればロレンスの計画はかなり前進する。 「わかりました。あの、それで、その方のお名前は」  万が一アマーティとでも言われればロレンスの挽回《ばんかい》策は木《こ》っ端《ぱ》微塵《みじん》に砕《くだ》け散る。  しかし、ディアナは小さく首を横に振《ふ》り、落ち着いた声音《こわね》で言った。 「交渉は私がいたします。安全策として、誰《だれ》が錬金術《れんきんじゅつ》師の方たちと取引をしているか互《たが》いに知らせないようにしているのです」 「で、ですが……」 「ご不満が?」  笑っていない笑顔《えがお》。  ものを頼《たの》む立場として、ロレンスは黙《だま》るほかない。 「勝負とお聞きしては尋常《じんじょう》ではありませんから、尽力《じんりょく》いたします。結果もなるべく早くにお伝えします。明日、ロレンスさんが確実につかまる場所はどちらでしょうか」 「あ、え……市場の、石商人の露店《ろてん》の前、です。そこでなら、市場が開く時間の前後からつかまると思います。または、麦商人マルクの露店に連絡を寄越《よこ》していただければ。場所は……」 「大丈夫《だいじょうぶ》です。わかりました。なるべく早く使いの者を走らせます」 「お願いします」  そう言うほかなく、ロレンスはそう言った。  しかし、場合によっては手に入れられない可能性がある。そうなればあまりにも致命《ちめい》的な結果をもたらしてしまう。  それでもロレンスに言える言葉など、限られている。 「金に糸目はつけません。相場の倍、などと言わなければかなりの高値で買ってもかまわないとお伝えください」  ディアナは笑顔でうなずき、椅子《いす》から立ち上がった。  それで去り時を察する。こんな時間に突然《とつぜん》押しかけ、門前|払《ばら》いを食らわされなかったのは奇跡《きせき》だろう。 「夜分に突然押しかけて申し訳ありませんでした」 「いいえ。昼も夜もない生活ですから」  それが冗談《じょうだん》に聞こえず、かえって笑うことができた。 「それに、面白《おもしろ》いお話を持ってきていただければもちろん一晩中だっていてもかまいません」  なんとも蟲惑《こわく》的に聞こえそうな台詞《せりふ》だが、きっと本心なのだろう。  ただ、面白い話はもうすでに喋《しゃべ》ってしまっている。  その代わり、ふと聞いてみたいことが頭をよぎった。 「どうしました?」  突然《とつぜん》頭をよぎったその考えに、驚《おどろ》いて足を止めてしまっていたらしい。  ディアナにはなんでもないと慌《あわ》てて答え、扉《とびら》へと向かう。  頭をよぎった質問は、それくらい突拍子《とっぴょうし》もなかった。 「女性の家から帰る時に思わせぶりな仕草をするなんて、まったく神の罰《ばつ》が下りますよ」  再度向けられた言葉はいたずらっぽい少女のようなものだったが、楽しそうに笑うディアナはどんな質問にも真面目《まじめ》に答えてくれそうな気がした。  それに、きっと答えられるのもディアナくらいだろう。  ロレンスは扉に手をかけながら、後ろを振《ふ》り向いた。 「質問が、あるのですが」 「なんなりと」  あっさりと言われ、ロレンスは咳払《せきばら》いをしてからそれを口にした。 「異教の神々と、人が……その、番《つがい》になったという話はあるのですか?」  なぜそんなことを聞くのか、と理由を問われたら即座《そくざ》に言葉に詰《つ》まる。  それでも、その危険を顧《かえり》みずに聞いてみたかった。  ホロは独《ひと》りになってしまったと言って泣き、子を生《な》せば二人になれると言った。  もしもそれが可能なのであれば、一つの希望としてホロにそれを教えてやりたかった。  そして、ディアナはさすがに突拍子《とっぴょうし》もなさすぎるその質問に面食らった様子だったが、すぐに澄《す》ました顔に戻《もど》る。  それから、ゆっくりと答えた。 「たくさんあるわ」 「本当ですか」  ロレンスは思わず声を上げていた。 「例えば——と。お急ぎでしたね」 「あ、え、ええ、はい。ですが、今度、また、詳《くわ》しいお話を……お聞きしてもよろしいですか?」 「もちろん」  幸いなことに、なぜそんなことを聞くのかという理由は聞かれなかった。  ロレンスは重ねて丁重《ていちょう》に礼を言い、ディアナの家をあとにしようとした。  その、扉《とびら》の閉まる直前、ディアナはぽつりと呟《つぶや》いたような気がした。 「がんばって」  ロレンスが聞き返そうとすると、もう扉は閉まっていた。  ディアナはアマーティとの攻防《こうぼう》を知っていたのだろうか。  それにしてはどこかちぐはぐなような気がしたが、それ以上は考えている暇《ひま》がなかった。  これからマルクの露店《ろてん》に戻《もど》り、改めて黄鉄鉱《おうてっこう》を大量に抱《かか》えていそうな者たちの下《もと》へ足を運ばなければならない。  時間はないし、なによりもまだ手元に黄鉄鉱がほとんどない。  これでは勝負になるどころか本当に神|頼《だの》みになってしまう。  マルクに多少無理を言ってでも当てになりそうな人を教えてもらい、色をつけてでも買い取らなければならない。  ただ、夜の町を走っていることで、少しでもホロに近づいているのだろうかと自問すると、不安な答えしか返ってこなかった。  マルクの露店《ろてん》に戻《もど》ると、マルクは先ほどと同じようにテーブルに着いて酒を飲み、その隣《となり》では小僧《こぞう》がパンをがっついていた。  こんな時間に食事など珍《めずら》しいなと思っていると、ロレンスに気がついたマルクが視線と言葉を寄越《よこ》してきた。 「首尾《しゅび》は?」 「ご覧《らん》のとおりだ」  ロレンスは両手を軽く振《ふ》り、それからまっすぐにマルクの眼を見て言葉を紡《つむ》ぐ。 「ディアナさんに話は通った。しかし、先客がいてどうなるかわからない」 「先客が?」 「だから、俺は、お前が言ってくれたことに期待をかけるしかない」  ディアナが協力的な発言をしてくれたのだから、可能性は七分三分だとロレンス自身は踏《ふ》んでいる。  ただ、マルクにはもうあとがないふうに見せておいたほうがより効果的なはずだ。  町商人にとっては無理なことを頼《たの》んでいるのだというのが先ほどのやり取りでわかった。  ならば情に訴《うった》えるしかない。  しかし、ロレンスの言葉を受けたマルクの反応は鈍《にぶ》かった。 「ああ……それについてだがな」  そして、口から出たそんな言葉に血の引く音が耳元を掠《かす》める。  が、その直後にマルクはパンをがっつく小僧《こぞう》の頭を叩《たた》き、顎《あご》をしゃくった。 「結果を報告しろ」  頭を小突《こづ》かれた小僧は慌《あわ》ててパンを飲み下し、切り株の椅子《いす》から立ち上がって口を開く。 「トレニー銀貨での現金|払《ばら》いならば、三百七十枚分の、えーと、黄——」 「みなまで言うな。そういうわけだ」  小僧の口をそのごつい手で封《ふう》じながら辺りを一瞬《いっしゅん》見回したのは、マルクとしては周りにうっかり聞かれると困る話だからだろう。  ただ、ロレンスは呆然《ぼうぜん》としてしまう。  トレニー銀貨で支払うなら? 三百七十枚分? 「はは、そんな顔をしてくれると俺も嬉《うれ》しくなるな。なに、お前が行ったあとにな、考えてみたんだよ」  小僧の口から手を離《はな》すと、それをそのまま酒の注《つ》がれたジョッキに持って行き、楽しげに言った。 「俺が名誉《めいよ》のためにお前の申し出を受けられないのなら、それは他《ほか》の連中も同じだ。しかし、俺が小遣《こづか》い稼《かせ》ぎ程度なら、ということで例の品物を買ったのなら、それも当然他の連中もおんなじだ、ただな、俺がつつましい小遣い稼ぎ程度に抑《おさ》えられたのは手元に金がなかったからともいえる。本来なら帰り荷を買っていく連中が麦を買ってくれないせいで麦の相場は落ち込んでいる。そのくせ、麦を売りに来る奴《やつ》はさっさと売りに来るからな、手元に現金がまったくない。ならば」  マルクはぐびりと喉《のど》を鳴らし、気持ち良さそうなげっぷと共に続きを喋《しゃべ》る。 「ならば、金のある連中は? 俺には、とても我慢《がまん》できたとは思えない。秘密裏に、こっそりと、たくさん買い集めただろうな。だが、そこで俺のした話だ。皆《みな》一匹狼《いっぴきおおかみ》の行商人ではない。立場と店の名誉《めいよ》がある商人たちだ。買ったはいいものの値段が上がりすぎて売るに売れなく困っている。ちょっとした量を売るだけでも驚《おどろ》くような儲《もう》けにつながってしまう。特に繊細《せんさい》な神経の持ち主ならなおさら気にするだろうな。あとはどうしたか、お前にならわかるだろう?」  最後にそう話を振《ふ》られ、ロレンスはしばし間を置いたあとにうなずいた。  きっと、この小僧を走らせて、マルクはこう言わせたに違《ちが》いない。  欲に目がくらんだ行商人が、現金払いで黄鉄鉱《おうてっこう》を買ってくれるというのですが、どうでしょう。値が上がりすぎて売るに売れない黄鉄鉱をここいらあたりで処分しては。  話を持ちかけられた相手は渡《わた》りに船だと思ったに違いない。  当然、マルクは黄鉄鉱を秘密裏に現金に替える代わりに手数料を取る契約《けいやく》を結んでいるに違いない。  相手に恩を売る形で黄鉄鉱《おうてっこう》を引き取る妙案《みょうあん》といえる。  しかし、それで銀貨三百七十枚分も集まるというのは、相当な売り圧力が存在することを示しているような気がした。 「そういうわけだ。お前さえ良ければ、今すぐ小憎《こぞう》を走らせよう」  断る理由がない。  ロレンスはすぐに肩《かた》から提《さ》げていた麻袋《あさぶくろ》の口を開く。 「だが……」  と、ふと手を止めてしまった。  マルクが怪訝《けげん》そうな視線を向けてくる。  ロレンスは我に返り、慌《あわ》てて中から銀貨の詰《つ》まった袋を取り出してテーブルの上に載《の》せる。  そして、呟《つぶや》くように言った。 「すまない」  すると、マルクが呆《あき》れるような顔をしてため息をついた。 「そこは礼の言葉を言うところだろうが」 「え? ああ、そうか、すま……いや」  まるでホロを相手にしているようだと思いながら、ロレンスは改めて言った。 「ありがとう」 「くはははは。お前がこんなに面白《おもしろ》い奴《やつ》だとわかってればなあ。いや、違《ちが》うか」  ロレンスが取り出した銀貨の袋を受け取り、目で確認《かくにん》をとったのちに紐《ひも》を解いて小僧に手渡《てわた》し、小僧が中身を手早く積み上げて枚数を数えていく。 「お前は変わったんだろうな」 「……そうか?」 「ああ。お前は商人として優秀《ゆうしゅう》というよりも、頭のてっぺんからつま先まで裏表なく商人だった。お前、俺のことを友人だと思ったことなどなかっただろう?」  図星を突《つ》かれ言葉に詰《つ》まる。  しかし、マルクは楽しげに笑う。 「今はどうだ。まだ商取引の相手に都合のいい商人という位置づけか?」  そんなことを真正面から聞かれ、首を縦に振《ふ》ることなどできない。  それでも、ロレンスはほとんど不思議な奇術《きじゅつ》の真《ま》っ只中《ただなか》にいるような心持ちで、首を横に振った。 「長いこと行商人をやった連中が町商人になってうまくいかない理由はここだ。だがな、そんなことよりももっと面白いことがある」  酒が入っているからか、それとも他《ほか》のなにかだろうか。  マルクは本当に楽しげに言葉を続け、四角くなるように髭《ひげ》が整えられているにもかかわらず、その顔は丸いいがぐりのようだった。 「一つ聞こう。お前は、俺と今生《こんじょう》の別れになるとなった時、これほど必死になってこの町を走り回るだろうか?」  マルクを主人として日々を生きる小僧《こぞう》が顔を上げて、二人のことを見比べる。  ロレンスは、本当に不思議でならない。  マルクのことを友人だと思えていたのに、正直にその質問にうなずくことができないのだ。 「はははは。ま、これからに期待だな。だが」  ぴたりと言葉を切ったあとに、静かに告げられる。 「お前は連れのために必死にこうしている」  その瞬間《しゅんかん》、熱いものが喉《のど》を通り、胃の中へと落ちていった。  マルクは小僧に視線を向けてからかうように言う。 「これが女に骨|抜《ぬ》きにされた男の姿だ。だが、木の枝は柔《やわ》らかくなければ強い風には耐《た》えられない」  一人で過ごす一年は二人で過ごす半年にも満たない。  ならば、マルクは一体どれほどロレンスの年上なのだろうか。 「お前は俺と同じだと思う。きっと、行商人の呪《のろ》いをかけられている」 「のろ、い?」 「それが解けかかってるからそんなに面白《おもしろ》い奴《やつ》になったんだろうよ。わからないか? お前、今の連れとは単なる幸運で旅をするようになっていないか?」  荷馬車の荷台に麦を積んで村を通り過ぎたら、偶然《ぐうぜん》ホロが荷台の麦に宿って潜《ひそ》んでいた。  ホロと親しくなれたのも、ほとんど幸運の賜物《たまもの》といっていいような気がする。 「くはははは。アデーレと出会った時の自分を見ているようだ。お前は呪いをかけられている。行商人の呪いをかけられている」  ロレンスは、ようやくわかったような気がした。  ホロのことを大切な存在だと思いつつも、どこか距離《きょり》を置いて冷静になってしまう部分ができてしまうことに。  そして、そのせいで逆にホロのために自分がどれほど周りが見えなくなっているかにも気がつかない。  このあまりにもちぐはぐな状況《じょうきょう》。  その理由にようやく気がついた。 「呪いは……あの有名な、行商人の愚痴《ぐち》、だろう?」  マルクは一段と笑《え》みを強くしてから、手の止まっている小僧の頭を叩《たた》いた。 「愛は金で買えないと詩人は言い、金より大切なものがこの世には存在すると説教師が言う。ならば、金を稼《かせ》ぐことすらこんなにも苦労するというのに、どうしてそれよりも大切なものが我々の手の中に入るのだろうか」  ホロが自分にとって一体なにかと考えた時、わずかに考えてしまうのはあまりにもホロがあっさりと側《そば》にいてくれるからだ。  苦労して、苦労して、ようやく手に入れたものならば、きっと迷うことなどないだろう。  そして、大切なものとはそうやって手に入れるものだとばかり思っていた。  わっちはぬしのなんじゃ? という質問に、今なら答えられるような気がした。 「ああ、久しぶりにいい話をしたと俺は思うぜ。北の地の情報と合わせて十リュミオーネ取っても安いくらいだな」 「それらが受け売りだとすればぼろい商売だ」  悔《くや》しくてそう言ってやると、マルクは歯をむき出して声なく笑い、ロレンスも釣《つ》られて笑う。 「お前の目論見《もくろみ》、うまくいくといいな」  雲のない夜空のように澄《す》み渡《わた》った気持ちで、ロレンスはうなずいた。 「だがまあどっちに転んでもお前|次第《しだい》だとは思うが……」 「え?」 「なんでもない」  マルクはかぶりを振《ふ》り、銀貨を数え終わったらしい小僧《こぞう》に向かい指示を出し、小僧は忠実な僕《しもべ》の見本のようにてきぱきと行動を開始し、数瞬《すうしゅん》後には支度《したく》を終えていた。 「よし、行ってこい」  そんなふうに小僧を送り出してから、マルクはロレンスを振《ふ》り向いて言った。 「で、お前今日の寝床《ねどこ》は?」 「決めていない」 「なら」 「いや、やはり決めた。今日はここで寝かせてくれないか」  マルクはきょとんとして、聞き返す。 「ここで?」 「ああ。麦を入れる袋《ふくろ》があるだろう? それを貸してくれ」 「それくらいいくらでも貸すが……うちに来いよ。料金なんか取りはしない」 「験担《げんかつ》ぎ、かもしれない」  行商人にはそういうことをする者が多い。  マルクはそう言われ、それ以上|誘《さそ》うことを諦《あきら》めたようだった。 「じゃあ、夜明けにここでまた会うか」  ロレンスはうなずき、マルクはジョッキに手をかける。 「願掛《がんか》けの乾杯《かんぱい》といかないか」  それを断る理由は、ロレンスにはなかった。 [#改ページ]  第五幕  盛大《せいだい》なくしゃみをしてしまった。  一人旅ならいざ知らず、ここしばらくは口うるさく小生意気《こなまいき》なのがいるので気をつけていたのだが、つい気が緩《ゆる》んでしまったらしい。  慌《あわ》てて同じ毛布の中の旅の連れが目を覚ましていないかと探《さぐ》ろうとしつつ、今日はやけに冷えるな、などと思っていた。  そして、ようやく昨晩はマルクの露店《ろてん》の側《そば》で一人で眠《ねむ》ったことに気がついたのだった。 「……」  半ばそれを覚悟《かくご》して、わざと一人で眠ることを選んだというのにやはりその喪失《そうしつ》感はとても大きいものだった。  目を覚まして隣《となり》に誰《だれ》かがいる。  それはすぐに慣れてしまうけれども、失うととても大きい尊いものだった。  ロレンスは未練たらしく布の内側の暖かさを追うことをやめ、思い切って立ち上がる。  すると、たちまちのうちに寒さが体を襲《おそ》ってきた。  まだ空は黒い部分のほうが多い時間だというのに小僧《こぞう》はもう起きていて、露店の前の掃《は》き掃除《そうじ》をしていた。 「あ、おはようございます」 「ああ、おはよう」  ロレンスという、主人の知人が側《そば》にいるからという感じでもなく、普段《ふだん》からこの時間に起きて店を始める準備をしているのかもしれない。露店《ろてん》の前を通る同様の少年たちとは気軽に挨拶《あいさつ》をしている。  良くできた小僧《こぞう》だ。  マルクの教育が行き届いているというよりも、きっと個人的にもともと優秀《ゆうしゅう》なのだろう。 「そういえば」  と、声をかけると機敏《きびん》に振《ふ》り向いた。 「今日、なにをするかマルクから聞いているかな」 「いえ、聞いていませんが……その、非道の輩《やから》を罠《わな》に嵌《は》める手伝いだとか」  声を潜《ひそ》め、表情を一変させて仰々《ぎょうぎょう》しく言った小僧の言葉にロレンスは一瞬《いっしゅん》驚《おどろ》いてしまったが、そこは商人らしく変わり身の速さですぐさま深刻そうにうなずいた。 「詳《くわ》しくは言えないがそんな感じだ。君にはその中で難しい仕事を頼《たの》むかもしれない」  藁《わら》を束《たば》ねた箒《ほうき》を長剣《ちょうけん》よろしく脇《わき》に携《たずさ》えた小僧は固唾《かたず》を飲む。  ロレンスはその様子を見て一つ確信できることがある。  それは、麦商店の使い走りとしての仕事を小僧がきちんとまっとうしていても、その心はいまだ騎士《きし》や傭兵《ようへい》といったところに憧《あこが》れているということだ。  非道の輩、なんて言葉は物語の中にしか出てこない。  昔の自分を見ているようでなんともこそばゆかった。 「君、名前は」 「え? あっ、あの」  商人が名前を聞くのは相手を一人前だと思っている証拠《しょうこ》だ。  小僧はきっと今まで一度も名前など聞かれたことがなかっただろう。  それがその慌《あわ》てぶりから察せられたが、やはり優秀《ゆうしゅう》な小僧だ。  すぐにしっかりとした口調で答えてきた。 「ラント。エウ・ラントといいます」 「ここよりももっと北の生まれか」 「はい。雪と霜《しも》で凍《こお》った村から来ました」  それが村の様子をわかりやすく伝える喩《たと》えなのではなく、この少年が最後に村を振り返った時の様子なのだろうというのはすぐにわかる。  北というのはそういう地だ。 「なるほど。ラント、今日はよろしく頼む」  ロレンスが右手を差し出すと、ラントは慌《あわ》てて手のひらを服でこすってから握《にぎ》ってきた。  まめはできているしそこそこ硬《かた》い手のひらだったが、まだまだどんな形になるかわからない手だ。  負けていられない。  ロレンスはそう思いながら、手を離《はな》した。 「さて、とりあえず腹ごしらえをしたいんだが、この時間から食べ物を売っている所はあるかな」 「旅の方たちのために乾燥《かんそう》パンを置いている露店《ろてん》があります。買って参りましょうか?」 「お願いするかな」  と、ロレンスは銅貨のように黒いイレード銀貨を二枚取り出してラントに渡《わた》した。 「あの、一枚で十分な量が買えますが」 「もう一枚はひとまず報酬《ほうしゅう》の先|払《ばら》いだ。もちろんきちんと別に報酬は支払うから安心するといい」  ぽかんとしているラントに、ロレンスは笑いながら付け加えた。 「ぐずぐずしているとマルクが来るぞ。朝食など贅沢《ぜいたく》だと言われるだろう?」  その言葉に慌《あわ》ててうなずき、ラントは走って行った。  そして、その背中を見送ってから通りを挟《はさ》んだ向かい側の露店同士の隙間《すきま》に視線を向ける。 「うちのを甘《あま》やかすなよ」 「なら止めればいい」  荷物の隙間から姿を現したマルクはつまらなそうに顔を歪《ゆが》め、ため息と共に言葉を吐《は》いた。 「ここんところ寒いからな。腹をすかせて風邪《かぜ》でもひかれたら困る」  マルクなりにラントを可愛《かわい》がっていると窺《うかが》える台詞《せりふ》だ。  ただ、ラントに朝食を食べさせようというのはラントが本当にロレンスの計画の中では重要な位置にいるからで、純粋《じゅんすい》に親切心からではない。  商人は教会の聖職者ではない。なにかをする時は、必ず別の目論見《もくろみ》がある。 「今日もよく晴れそうだ。物がよく売れるぞ」  マルクの言葉にうなずき、ロレンスは深呼吸をする。  朝の冷たい空気が心地《ここち》よい。  そして、息を吐き出すと余計なものは全《すべ》て出て行った。  これから考えるのは全て計画を成功に導くためのことのみ。  迷い、考えるのは成功したあとでも十分だ。 「さて、腹ごしらえだな」  息せき切って帰ってきたラントを見ながら、ロレンスは気合を入れてそう言ったのだった。  空気の質そのものが違《ちが》う。  その場に来て思ったことがまずそれだった。  一見すると湖面のように静かなのに、ひとたび指を入れると熱湯のように熱い。  夜が明け、日が昇《のぼ》った直後からその一角だけ異様な人の密集度で、彼らの視線はたった一つの露店《ろてん》に向けられている。  クメルスンの町で唯一《ゆいいつ》の石を専門に扱《あつか》う露店。彼らが見ているのは、露店の前に置かれた急遽《きゅうきょ》作られたのであろう板製の値段表。  そこには、黄鉄鉱《おうてっこう》の形状と重さが書かれ、その横には値段と買い待ちの人数が書かれた木の札がぶら下がっている。  一応値段表には売り待ちの欄《らん》もあるにはあったが、そこに木の札がぶら下がることはないだろう。  値段表から需給《じゅきゅう》状況《じょうきょう》は一目瞭然《いちもくりょうぜん》で、黄鉄鉱は需要過多にある。 「平均で……八百イレードか」  元の値段はその八十分の一程度だ。  馬鹿《ばか》げた値段というほかないが、勢いのついた馬を止められる者がいないのと同じ原理で、値段の上昇《じょうしょう》はそうそう止まらない。  濡《ぬ》れ手で粟《あわ》の前では人の理性など泥《どろ》の綱《つな》と変わらないのだから、馬を制御《せいぎょ》できる理由もない。  市場開放の鐘《かね》までにはまだ間があったが、事前の取引は黙認《もくにん》されている。そのためにロレンスが露店の前に着いてからもちょくちょくと商人が露店に歩み寄っては店主に耳打ちし、いくらか数がたまってから店主がおもむろに値段表の木を掛《か》け替《か》えていく。  即座《そくざ》に値札を替えないのは誰《だれ》がどれにいくらの値段をつけたかわからせないためだろう。  どちらにせよ、買い待ちは増える一方で減ることがない。  さて買い待ち全《すべ》てでいくらになるかと暗算しようとしたところに、目の隅《すみ》になにかが映った気がした。  視線を向ければ、アマーティの姿があった。  昨日の夜はロレンスが先にアマーティを見つけたが、向こうも儲《もう》け話は逃《のが》すまいとしている商人だ。目ざとさではさして変わらないらしく、目を向けるとその音が聞こえたかのようにこちらを振《ふ》り向いた。  親しげに挨拶《あいさつ》をする仲でもない。  ただ、アマーティとは市場開放の鐘が鳴ってから現金を受け取る約束だったのであまり突《つ》っぱねても気まずいものがある。  ロレンスが一瞬《いっしゅん》のうちにそんなことを思っていると、向こうが先に笑《え》みと共に軽く会釈《えしゃく》をしてきた。  驚《おどろ》いたのもつかの間、すぐにその理由がわかった。  隣《となり》に、ホロがいたのだ。  ホロはどういうわけか町娘《まちむすめ》の格好ではなく修道女の格好をしていて、遠目にもわかるほど大きな純白の羽を三本、フードのところにつけている。  視線は露店《ろてん》に向けたまま、ロレンスに向けようとはしない。  アマーティの笑顔《えがお》に腹の底が少しだけ熱くなる。  しかし、ホロに何事かを耳打ちしたあとに、こちらに向かって居並ぶ商人たちの間をすり抜《ぬ》けてくる様子を見て、そんな感情はこの世に存在しないとばかりに平静を装《よそお》った。  化けの皮は、ホロでもなければそうそう剥《は》がされるものではないという自負がある。 「おはようございますロレンスさん」 「おはようございます」  笑顔で挨拶《あいさつ》するアマーティを前に、完全な平静を装うのはそれでも多少の苦労があった。 「市場の鐘《かね》が鳴れば途端《とたん》に人出が多くなりますからね。早めにこれをお渡《わた》ししようと思ったのです」  そう言ってアマーティは懐《ふところ》から麻袋《あさぶくろ》を取り出した。  巾着袋《きんちゃくぶくろ》といってもいい、小さな袋だった。 「これは?」  銀貨を渡しに来たのだとばかり思っていたので思わず聞き返していた。  銀貨三百枚にしては、あまりにも袋が小さい。 「お約束のものです」  しかし、アマーティはそう言った。訝《いぶか》しみながらも、袋を差し出されたら受け取らないわけにはいかない。  そして、受け取った袋の口を開いてロレンスは目を見開いた。 「差し出がましいかとは思いましたが、銀貨を三百枚も持たれていては重くて難儀《なんぎ》されるでしょうから、リマー金貨でお支払いいたします」  一体どこでどうやって両替《りょうがえ》したのか、袋の中にあるのはまぎれもない金貨だ。  リュミオーネ金貨よりは価値が劣《おと》るものの、クメルスンが属する国プロアニアでも西の沿岸地方に多く流通している金貨で、おそらく相場としてはトレニー銀貨二十枚前後になるだろう。  それにしても、貨幣《かへい》不足に陥《おちい》るこの時期に金貨へと両替するのは手数料もさることながら大変だったに違《ちが》いない。  それをわざわざやってきたのは、それほど手持ちに余裕《よゆう》があるという心理的な揺《ゆ》さぶりに他《ほか》ならない。  ホロを連れて歩いていたのはロレンスの注意をそちらにそらすためだろう。  思わず目を見開いてしまったくらいなのだ。この動揺《どうよう》を隠《かく》すことはできない。 「本日の最新の相場でご用意しました。リマー金貨十四枚です」 「……わかりました。確かに、受け取りました」 「枚数は数えなくてもよろしいのですか?」  本当ならばここで余裕《よゆう》を見せて「必要ない」と言うべきところだが、ロレンスがなんとかその台詞《せりふ》を口にしても、それは強がりにしかならなかった。 「それでは、銀貨三百枚分の契約《けいやく》書を頂きたいのですが」  そんなことも、言われてから出し始める始末だ。  完全に一歩先を行かれている。  現金と契約書の一部を交換《こうかん》し、「確かに」という決め台詞すらアマーティに言われた。  立ち去るアマーティの背中を見ていると次から次へと嫌《いや》な予感が脳裏をよぎっていく。  もしかしたら、昨日の契約の中で、アマーティが現金が足りないと言って馬三頭を差し出したあれは作戦だったのかもしれない。  手持ちの現金を常に残しておくのは全《すべ》ての商人に共通する基本|事項《じこう》だ。  その上で、アマーティは夜が明ける前にロレンスたちがしたように黄鉄鉱《おうてっこう》を買い集めたのかもしれない。  黄鉄鉱の在庫を増やせば増やすほど、わずかな値上がりですむことになる。  契約書を差し出し、それを受け取ったアマーティが優雅《ゆうが》に一礼して踵《きびす》を返したのを見ても、それを虚勢《きょせい》として見ることがなかなかできない。  一体どのくらいの在庫を手にしているのか。  ロレンスは鼻をこするふりをして親指の爪《つめ》を噛《か》む。  当初の予定では昼過ぎまでは見《けん》に徹《てっ》し、頃合《ころあい》を見て上昇《じょうしょう》を緩《ゆる》めるくらいの量の黄鉄鉱を出していこうと思っていた。  それを早めるべきか、という考えが頭をよぎる。  ただ、依然《いぜん》としてディアナの使いがロレンスの下《もと》にはやってこない。  大口の在庫の調達の有無がわからなければ動きようがない。  その結果を聞く前に今アマーティがロレンスに渡《わた》した金貨で黄鉄鉱を新たに買いに走るといっても、もしもディアナの交渉《こうしょう》がうまくいきロレンスの下に銀貨四百枚分の黄鉄鉱も来るとなるとまずいことになる。  ディアナに支払う分の銀貨は別にあるので問題はないが、今度はあまりにもロレンスの手元に在庫が集まりすぎるという大問題が起こってしまう。  ロレンスは黄鉄鉱の値下がりを起こすべく黄鉄鉱を集めてはいるが、その値下がりで被《こうむ》る損《そん》は自分の身が破滅《はめつ》しない程度のものに抑《おさ》えてある。  文字どおり身をなげうって破滅|覚悟《かくご》でホロのためにアマーティの計画を阻止《そし》すれば、ホロはロレンスの真意をきちんと受け取ってくれるかもしれない。  しかし、話はそこで終わるわけではないのだ。ロレンスはその先も生きていかなければならない。  現実という制約は、手元の金貨よりも重い。  石商店の値段表がまた更新《こうしん》される。  誰《だれ》かが大口の買いを入れたらしく、大幅《おおはば》に値段と買い待ちの数が上昇《じょうしょう》する。  今の上昇でアマーティの黄鉄鉱《おうてっこう》は総額でいくらになったのか。  それを考えるといてもたってもいられなくなる。  しかし、冷静さを欠いては負けだ。  目を閉じ、爪《つめ》を噛《か》むのをやめ、ロレンスはゆっくりと深呼吸をする。  今考えたそれら全《すべ》てのことが、アマーティがそう考えるようにと仕向けた罠《わな》とも考えられる。  なにせ、向こうにはホロがついているのだ。裏の裏まで読んでちょうどいいところだろう。  そんな折に頭上を鐘《かね》の音が走っていった。  市場開放の合図だ。  戦いは、今、始まった。  妙《みょう》な興奮《こうふん》状態にある時のほうが、人は律儀《りちぎ》に規則を守るらしい。  皆《みな》、鐘が鳴る前から露店《ろてん》の前で待機していたというのに鐘が鳴ってから動き始めていた。  そして、注意深く見ていると旅人風の者や農夫などが悪いことをしているようにこそこそと黄鉄鉱を売っているのがわかる。  もっとも、多少の売りは相場を過熱させる要因にしかならない。  まったく売りが出ないと得をするのはすでに在庫を手にしている者たちだけ。若干《じゃっかん》の売りがあり、それを新たに手に入れられる者がいるからこそ、皆が躍起《やっき》になって露店の前から離《はな》れなくなる。  自分にも利益を得る機会があるとわかればこそ、そこに張りつくのだ。  やはり、この連鎖《れんさ》には並大抵《なみたいてい》の量の黄鉄鉱では太刀打《たちう》ちできそうもない。  人の波に遮《さえぎ》られても、その合間合間に見える値段表はどんどん加熱している相場の温度計だ。その温度は、上昇の一途《いっと》を辿《たど》っている。  ディアナからの使いの者はまだ来ない。  もしも結果が駄目《だめ》なのであれば早めに動かなければ時期を逸《いっ》することになる。  ひりつくような思いで値段表を眺《なが》めていると、露店の前に立つアマーティの姿が目に入った。  一瞬《いっしゅん》で総毛立《そうけだ》ち、懐《ふところ》に入れてある黄鉄鉱を握《にぎ》り締《し》め走り出しそうになる。  しかし、それがアマーティの揺《ゆ》さぶりだったら目もあてられない結果になる。中途半端《ちゅうとはんぱ》な量を売りに出すと、買い待ちを出しておけば黄鉄鉱が手に入るという期待を煽《あお》るだけになり、買い待ちの量が増えればますます値段は上がっていく。  なんとかその場に踏《ふ》みとどまり、それがアマーティの揺さぶりであることを神に祈《いの》った。  そして、ふと気がついた。  ホロの姿がない。  視線を巡《めぐ》らせると、いつの間に移動していたのか、この異様な熱気|渦巻《うずま》く人垣《ひとがき》の外からホロはロレンスのことを見つめていた。  そして、目が合うと不機嫌《ふきげん》そうに目を細め、くるりと背を向けて歩き始めた。  それを見てロレンスはどっと背中に汗《あせ》が噴《ふ》き出すのを感じた。  これはホロが入《い》れ知恵《ぢえ》した罠《わな》に違《ちが》いない。  アマーティから黄鉄鉱《おうてっこう》を取り巻く状況《じょうきょう》を聞いたうえでならば、ロレンスを罠に嵌《は》めることを考えるくらいわけはないはずだ。ホロほど頭が巡れば、説明する側のアマーティでさえ気がつかないようなことにやすやすと気がつくに違いない。  しかも、人の心を読むことに長《た》けているのだ。こういった場でホロほど強い存在はない。  その考えに行き着いた瞬間《しゅんかん》、ロレンスは目の前すべてが泥《どろ》でできているような錯覚《さっかく》に襲《おそ》われる。  どこに足を置いてもずぶりと嵌まり、誰《だれ》の行動に注目しようともその行動は真実を表さない。  全《すべ》てはホロの策略なのではないかという疑い。  じわりと体を取り巻くのは狡猾《こうかつ》な狼《オオカミ》が敵に回る恐怖《きょうふ》。  それでも、ホロが意地を張っているからこそこんなことをしているという希望も捨てられない。  仮定と疑念の毒がロレンスの頭の中を侵《おか》していく。  無表情で値段表を見つめていたのはわざとではない。それ以外に術《すべ》がなかったのだ。  じりじりと黄鉄鉱の値段が上がっていく。  幸いといえるのは、黄鉄鉱の値段が上がりすぎているせいで割合的には小さい値幅《ねはば》上昇《じょうしょう》だということだ。  それでもこのまま上昇を続ければ昼|頃《ごろ》には軽く二割近い上昇を達成するだろう。  ロレンスが把握《はあく》しているアマーティの黄鉄鉱の在庫は銀貨八百枚分。二割上昇すれば、残り四十枚で千枚を達成する。  四十枚程度ならば、無理をしたところで高が知れている。  きっと即座《そくざ》に財産を切り崩《くず》して見事アマーティは契約《けいやく》を完遂《かんすい》してしまうだろう。その場合、おそらくロレンスが期待している信用売りの毒は効果を表さない。  ディアナからの使いの者はまだなのか。  腹の中身が溶《と》けてしまいそうなほどの焦燥《しょうそう》感を持って、その言葉を呟《つぶや》いてしまう。  今更《いまさら》黄鉄鉱を買いに走ってどれほどの数が集まるというのか。  昨晩のように市場が閉まっており、夜が明けてから上がるのか下がるのかわからないといった状況ではなく、一目瞭然《いちもくりょうぜん》で黄鉄鉱の値段が上がっているとわかる状況なのだ。  ここでおいそれと金のなる木を売ってくれるようには思えない。  するとやはり、ロレンスの計画はディアナから黄鉄鉱《おうてっこう》が届いて初めてどうにかなる可能性が出てくるのだ。  しかし、このままではアマーティと交《か》わした信用売りのせいで大打撃《だいだげき》を食らう可能性だってある。  ロレンスは目頭《めがしら》をつねるようにつまんで考える。冷静に、自分の目的をしっかりと据《す》えてまっすぐに行動を進めてきたつもりが、とんでもない袋小路《ふくろこうじ》に嵌《は》まってしまったような気がする。  いや、と思いなおす。  原因はわかっている。  黄鉄鉱の値段の上下は副次的なものでしかない。  その先にある、ホロとのことに絶望的な考えを抱《いだ》いてしまっているのだ。  早朝からアマーティと共に行動していたことをとっても、夜が明けてから落ち合ったのではなく、一晩を共に過ごしたと考えることだってできる。  ロレンスがアマーティと信用売りの取引を結んだあとに、改めてアマーティを宿に呼んだとしても不思議はない。  場合によっては、耳と尻尾《しっぽ》を晒《さら》し、正体を明かしてしまっているかもしれない。  そんなまさか、と思おうとしても、そもそもホロはロレンスに正体をあっさり明かしているのだ。自分だけが特別な心の広さを持ち、ホロがそれを見|抜《ぬ》いてくれた、と考えるのはあまりにも都合が良すぎる。  アマーティはホロに惚《ほ》れているのだし、ホロなら相手に正体を明かしても大丈夫《だいじょうぶ》かどうかの判断くらいできるだろう。  そして、アマーティがホロの正体を受け入れていたとしたら。  先ほどのアマーティの笑みが強烈《きょうれつ》に脳裏をよぎる。  ホロは一人になるのを恐《おそ》れている。  しかし、ロレンスとだけいたいと思っているかはわからない。  それが考えてはならないことだったと気がついたのは、その瞬間《しゅんかん》に足元がぐらりと揺《ゆ》れたからだ。  そのままよろめかなかったのは偶然《ぐうぜん》にすぎない。  直後に響《ひび》いたどよめきのせいで我に返ったのだ。 「おおっ……」  と、いう声に目を向ければ、最高値を示していた黄鉄鉱の値段が大幅《おおはば》に更新《こうしん》されていた。  誰《だれ》かが高額の入札をした。  これを受けて他《ほか》の連中はあとを追うだろう。  もう、アマーティの契約《けいやく》完遂《かんすい》を阻止《そし》することは不可能かもしれない。  ディアナからの連絡が未《いま》だにないということは、相手が渋《しぶ》っている証拠《しょうこ》であり、黄鉄鉱《おうてっこう》の値が上昇《じょうしょう》傾向《けいこう》にあればますます売ってくれる可能性は薄《うす》くなる。  もはやその目論見《もくろみ》は失敗したと考えて動いたほうが賢明《けんめい》かもしれない。  だとすると、それこそこの計画は神に奇跡《きせき》を望むのと同じ格好になる。  手元にある武器といえば、銀貨四百枚分の黄鉄鉱と、ラントに流してもらう予定の噂《うわさ》だけということになる。  笑ってしまうような貧相な武器。そもそも、噂程度でどうにかなると本気で思っていた自分の考えを疑ってしまう。昨日の時点では、間違《まちが》いなくそれを確かな経験に基づいた知られざる秘法のように思っていた。  自分がどれほど酔《よ》っ払《ぱら》っていたかをまざまざと実感する。  思考が、ついに後ろを向いて退路を探す。  このままじっとしていれば、少なくともアマーティから銀貨千枚が支払《しはら》われるのだから信用売りの損《そん》を引いても十分すぎるほどの収入になる。  そう思った瞬間《しゅんかん》、悲しくなるほど身が軽くなった。  銀貨千枚となら惜《お》しくないと思ったんじゃろう、というホロの指摘《してき》は的を射ていたことになる。  ロレンスは、懐《ふところ》に入れておいたディアナからの手紙を思い出した。  ホロの故郷であるヨイツの場所を探す手がかりとなる情報。この手紙は、もうロレンスが持つべきものではないのかもしれない。  やはり、自分は一介《いっかい》の商人だった。  ホロを目で探しながらそんなことを思った。  港町パッツィオと、教会都市リュビンハイゲンでの出来事は夢物語だったのだ。  そう思えばそんなふうに思えてくるから不思議だ。  熱気と欲望|渦巻《うずま》く人ごみの中、ロレンスは視線を巡《めぐ》らせながら苦笑いをし、ホロが見つからなかったので少し場所を移して探してみる。  市場が開いて時間が経《た》ち、祭りも始まっていないからか人出がますます増している。  ホロはなかなか見つからない。  こんな時に限って、と思ってふと思い出した。  ホロはロレンスと目が合ったあとに人垣《ひとがき》の外に向かって歩き出していた。  あのままどこかに行ってしまったのだろうか。  だとすればどこに、と考えてしまうが、もはやロレンスの敗北は必至と見てさっさと宿にでも帰ったのかもしれない。  さもありなん。  自分でもどうかしていると思うくらいに卑屈《ひくつ》な考えに、すぐに同意してしまう自分がいる。  酒が飲みたい。  そう思った直後、短く声を上げていた。 「え?」  狭《せま》い領域で人を探していれば、やがて目に入るのは当たり前。  アマーティの姿が視界に入ったのだが、それを見てロレンスは驚《おどろ》きと疑問の声を上げていた。  右手で懐《ふところ》を押さえているのはきっとそこに黄鉄鉱《おうてっこう》と現金が詰《つ》まっているからだろう。  問題はそこではなく、アマーティが焦《あせ》りを浮かべてロレンス同様きょろきょろとしていたからだ。  演技かと疑った。  が、人ごみがアマーティとの間に奇跡《きせき》的にわずかな空間をあけているその数瞬《すうしゅん》で、向こうもこちらに気がつき驚きの表情を浮かべる。  それから、垣間見《かいまみ》えた安堵《あんど》の表情。それはすぐに人ごみに遮《さえぎ》られて見えなくなったが、見|間違《まちが》いではない。  ロレンスの頭はなにも考えていないのに一つの考えを弾《はじ》き出す。  アマーティもホロを探している。のみならず、ロレンスの側《そば》にホロがいないことを安堵していた。  どん、と後ろから誰《だれ》かの肩《かた》がぶつかったような気がした。  振《ふ》り向くと後ろでは商人風の男が誰かと熱心に会話をしていた。  なにかおかしい。そう思っていると再びどんという衝撃《しょうげき》が背中から胸を抜《ぬ》けていく。  それでようやく気がついた。  心臓が、高鳴っているのだ。  アマーティが焦りの表情を浮かべながらホロを探し、あまつさえロレンスの側にいる可能性を考えていた。  それは、アマーティがホロのことを頭から信用しているわけではないということになる。  だとすれば、なにかしらの不安要素があるということ。  それはなにか。 「まさか?」  と、ロレンスは口に出す。  アマーティがホロのことを探しているということは、ホロが行き先を告げていないということだ。  それに、その程度でおたつくのであれば、ホロがアマーティを信用して耳と尻尾《しっぽ》を晒《さら》しているとはとても思えない。  つい先刻までの暗く重い仮定の連鎖《れんさ》から、一転して光明へ向けての連鎖を紡《つむ》ぎたくなる。  しかし、それが自分に都合のよいものでないのかと冷静に判断できる自信がない。  じれったさに吐《は》き気《け》を覚える。  そこに再びどよめきが上がる。  慌《あわ》てて露店《ろてん》を見れば、いつのまにか異常な最高値をつけていた買い待ちの木札が外されていた。  つまりその値段で黄鉄鉱《おうてっこう》が売られたのだ。  そして、どよめきはそのことについてのものではない。  一斉《いっせい》にさまざまな形状の黄鉄鉱について最高値をつけていた木札が取り外され、買い待ちの木札の数が減少した。  誰《だれ》かがそれだけの黄鉄鉱を売りに出した。  吐き気に似た焦燥《しょうそう》感を飲み下し、ロレンスは血眼《ちまなこ》になってアマーティを探す。  露店の前にはいない。  その近くにもいない。  人ごみの中。そこに再び姿を見つけた。  アマーティは驚《おどろ》きの目をして露店を見つめていた。  違《ちが》う、アマーティが売ったわけではない。  ほっと安堵《あんど》するのもつかの間、即座《そくざ》に新たな買い待ちの木札が並び、再びどよめきが人ごみの中を伝播《でんぱ》する。  ここにいるのは少なからず黄鉄鉱の在庫を持ち、買いと売りの頃合《ころあい》を見計らっている者ばかりだろう。ここに至って大きく黄鉄鉱が動き始めたことで、彼らの考えは新たな局面に入ったに違いない。  即《すなわ》ち、売り時かもしれない、と。  諦《あきら》めかけた考え。売り浴びせを仕掛《しか》ければどうにかなるかもしれない、という考えが再び息を吹《ふ》き返す。  しかし、と臆病《おくびょう》な兎《ウサギ》のようにすぐに思いなおす。  ホロがなにを考えてどこに行ったのかすら予測がつかないくらいなのだ。人の心はそんなに簡単にわかるものではない。そんな安易《あんい》な考えを抱《いだ》くのはあまりにも危険だ。  それでも、とロレンスは思ってしまう。  期待と、猜疑《さいぎ》と、仮定と、事実が、四つの爪《つめ》でロレンスの考えをばらばらに引きちぎっていく。  こんな時、賢狼《けんろう》ホロならどんな助言をくれるだろうか。  情けなくもそんなことを思ってしまう。  ホロがたとえ適当なこと言ったとしても、ロレンスはその一言で決断を下せるような気がする。  それは、ホロを、信用しているのだから。  その瞬間《しゅんかん》だった。 「あの」  そんな声と共に服の裾《すそ》が引かれた。  弾《はじ》かれたように振《ふ》り向き、そこに小生意気《こなまいき》な娘《むすめ》の姿を期待した。  しかし、そこにいたのは少年であり、よく見ればラントだった。 「あの、ロレンスさん、よろしいですか」  物凄《ものすご》い勢いで振り向かれ、ラントは幾分《いくぶん》驚《おどろ》いていたようだったが、表情はすぐに差し迫《せま》ったものに変わる。  緊張《きんちょう》が走り、辺りを見回してから幾分背の低いラントに顔を近づけてうなずく。 「お店のほうに麦の決済を石で行いたいという方がいらっしゃいました」  即座《そくざ》に理解する。ロレンスが現金で買い取るなら、マルクはその申し出を受けるということだ。 「いくら分?」  わざわざ小僧《こぞう》を走らせてまで知らせるのだから安い金額ではあるまい。  固唾《かたず》を飲み、その返事を待つ。ラントの口が、開かれた。 「二百五十枚」  歯を食いしばり、予想外の事態に悲鳴を上げないでいるのが精|一杯《いっぱい》だった。  豊作を司《つかさど》る狼《オオカミ》には見放されかけても、幸運の女神には見放されていない。  ロレンスは即座にアマーティから受け取った巾着袋《きんちゃくぶくろ》をラントの手に押しつけた。 「可能な限り、早く」  ラントは密命を帯びた特使のようにうなずき、即座に走り出した。  相場は引き続き揺《ゆ》れ動いている。  もはや上昇《じょうしょう》の一途《いっと》ではないのが買い待ちの木札の数がめまぐるしく変わることから窺《うかが》えた。  売りと買いが軋《きし》みをあげながら拮抗《きっこう》しているのが見て取れた。  この値段ならもはや売ってもいいと思う人間が売り始め、もっと上がってくれないと困るという人間が買っているのだ。  人ごみの向こうに時折アマーティの姿が見えるのは、向こうもロレンスの出方を窺っているからに違《ちが》いない。  そして、すぐさま黄鉄鉱を売りに行かずロレンスと露店の様子を窺っているということは、銀貨千枚分を未《いま》だ達成できない状況《じょうきょう》だからなのだろう。  いや、と思う。  もしかしたらすでに銀貨千枚分を達成はしているものの、この動揺《どうよう》した空気の中で手持ちの黄鉄鉱《おうてっこう》を売ってしまっては、下手をすれば全《すべ》てを売り捌《さば》く前に暴落が起きてしまうかもしれないという可能性を考えているのかもしれない。  そうなれば、アマーティはロレンスと信用売りの契約《けいやく》を交《か》わしているのだから、信用売りの契約における損失《そんしつ》分が大きく響《ひび》いてくることになる。  その上、もう一つ重大なことがある。  アマーティは銀貨五百枚分の黄鉄鉱《おうてっこう》を、現物ではなく証書で持っているということだ。  それは売買可能な証書であるといっても、黄鉄鉱の現物そのものは今日の夕方になってから渡《わた》されるというものなのだ。  相場が動揺《どうよう》し、これまでのように上昇《じょうしょう》の一途《いっと》ではなく、下落に転じる可能性もあるという空気が流れ始めたところで、そんな証書を売ろうとすればどうなるか。  信用売りは金と品物のやり取りに時間的な差が生じる。  値段が下がるかもしれないという空気の中、将来品物を渡す代わりに金を寄越《よこ》せという信用売りの証書は、魔女《まじょ》が笑うジョーカーのカードに他《ほか》ならない。  相場が下がるのであれば、最後までそれを持っていた者が破滅《はめつ》する。  ロレンスが信用売りに期待した、遅効《ちこう》性の毒が効果を表した。  アマーティが必死に辺りに目を配る。  ホロを探しているに違《ちが》いない。  おそらくはロレンスがなにをしようとしたのかを考え、アマーティに助言を与《あた》えていたホロ。  風向きが変わろうという空気の中、攻守《こうしゅ》すらが逆転しようとしている。  ここで追撃《ついげき》を放たなければ千載一遇《せんざいいちぐう》の奇跡《きせき》を見|逃《のが》すのと変わらない。  石商人の露店《ろてん》の前には人が殺到《さっとう》し、次から次へと値段表の木札が変えられていく。  懐《ふところ》の黄鉄鉱を握《にぎ》り締《し》め、ラントが帰ってくるのを今か今かと待ちわびる。  マルクの露店まで行って帰ってもそれほどの時間にはならない。  そして。 「買いが入ったぞ!」  そんな声が響き渡った。  興奮《こうふん》に任せて誰《だれ》かが叫《さけ》んだに違いない。  その瞬間《しゅんかん》、風に煽《あお》られ揺《ゆ》れ動いていた船が体勢を立て直すように、周辺の空気が一斉《いっせい》に一つの方向を向いて吹《ふ》き始める。  大口の買いが入った。これはまだ値が上がる予兆《よちょう》。  そんな期待が浮き足立った足元を固めて落ち着かせてしまう。  ラントはまだ来ない。  時間が経《た》てば経つほど空気はどんどん安定を取り戻《もど》していく。  しかし、今ならば買い待ちの人数が減っている。これなら、手持ちの黄鉄鉱を売り浴びせることで掃討《そうとう》しきれるかもしれない。  そうすれば、一瞬《いっしゅん》であっても売り待ちの木札を下げることができるかもしれない。  それが与《あた》える影響《えいきょう》は、今この瞬間、絶大のはず。  ロレンスは動いた。  人垣《ひとがき》の間をすり抜《ぬ》け、懐《ふところ》から麻袋《あさぶくろ》を取り出し、露店《ろてん》の前に躍《おど》り出た。 「売りだ!」  全員の注目が集まる中、ロレンスは店主の目の前に麻袋を叩《たた》きつけた。  店主と手伝いの小僧《こぞう》が一瞬|呆気《あっけ》にとられたのちに、すぐさま作業に取り掛《か》かる。  静かになりかけた湖面に石を投じた手ごたえがあった。  手早い計量が行われ、買い待ちの控《ひか》えの札を持った小僧たちが顧客《こきゃく》に黄鉄鉱《おうてっこう》を引き渡《わた》すべく走っていく。  すぐに支払《しはら》われる代価。  ロレンスはそれをろくすっぽ数えもせず、握《にぎ》り締《し》めて再び人垣の中に飛び込んだ。  その時にちらりと見えた、悲痛な顔をしたアマーティ。  それを気の毒だとは思わない。いい気味だとも思わない。  考えるのは、自分の商売のこと。目的のこと。  手持ちの黄鉄鉱を全《すべ》て売ってしまった。更《さら》なる追撃《ついげき》のためには補給を待たなければならない。  ラントは、そして、ディアナの使いはまだなのか。  ここでディアナから四百枚分の黄鉄鉱が来れば、まず間違《まちが》いなく相場の空気は一転する。  運命の分かれ道。  そこに、声がかかる。 「ロレンスさん」  額にびっしりと汗《あせ》を浮かべたラントが人の間からロレンスの名を呼び、ロレンスはすぐさま走り寄って差し出された袋を手に取った。  銀貨二百五十枚分の黄鉄鉱。  ロレンスは迷う。今すぐこれを先ほどの店に再び叩《たた》きつけてくるか、それともディアナの使いの者が来るのを待って万全を期すか。  そこでロレンスは自分を罵《ののし》った。  ディアナの線は先ほど破棄《はき》したばかりじゃないかと。  交渉《こうしょう》が長引いているというのに、ここに至って念願かなってやってくるなどご都合主義にもほどがある。  ならば、博打《ばくち》を打つならここしかない。  ロレンスは身を翻《ひるがえ》し、走り出そうとした。  それを止める、大|歓声《かんせい》。 「おおおおおおおお!」  人ごみに遮《さえぎ》られてなにが起こっているのかわからない。  しかし、その声を聞いた瞬間《しゅんかん》に悲鳴を上げて走り出しそうになった商人としての勘《かん》が最悪の事態を告げていた。  人ごみを掻《か》き分け露店《ろてん》の値段表が見える位置にまでたどり着く。  その場に膝《ひざ》をつかなかったのは上出来だ。  値段表の最高値が更新《こうしん》されている。  買い支えられたのだ。  その直後、つい今しがたまでのことは一時的な相場の動揺《どうよう》だったと判断した連中がこぞって買いの注文を出したらしい。  最高値の木札の横に怒濤《どとう》のように買い待ちの木札が掛《か》かっていく。  えずきそうになる喉《のど》をなんとか抑《おさ》え、手持ちの黄鉄鉱《おうてっこう》を再び叩《たた》きつけるかの判断を迫《せま》られる。  今ならまだどうにかなるかもしれない。  いや、ここはディアナの結果を待つのが賢明《けんめい》のはずだ。  なにせ、昨日の時点で銀貨四百枚分に至る量の黄鉄鉱なのだから、今になれば五百枚を超《こ》えていることだってありうる。  それさえ手に入れば手元のものと合わせて再び売り浴びせを行える。  そんな小さい可能性に望みをかけている最中、一転して余裕《よゆう》を取り戻《もど》したアマーティが露店に歩いていく姿が見えた。  売るつもりだ。  全《すべ》てかどうかはわからない。  それでも、いくらかを現金に替《か》えておくつもりなのだというのは明白だ。アマーティ自身、遅効《ちこう》性の毒に気がついたはず。ならば証書のほうから処分するつもりだろうか。  ディアナの使いはまだなのか。ここで神は自分を見放すのか。  胸中で叫《さけ》ぶ。 「ロレンスさん、でしょうか?」  だから、その言葉は空耳なのだと思った。 「ロレンスさんですよね?」  顔の半分以上を布で覆《おお》い、目だけをのぞかせた少女なのか少年なのかわからない小柄《こがら》な人物がロレンスの隣《となり》に立っていた。  ラントではない。  だとすれば、これは、念願の待ち人なのだ。 「ディアナさんから言伝《ことづて》があります」  淡《あわ》い、薄《うす》い緑色の瞳《ひとみ》は、この一角に渦巻《うずま》く異常な空気とは無縁《むえん》の静かさをたたえていた。  それは神の使いだと思っても仕方がないほどの神秘的な雰囲気《ふんいき》を持っていた。  だとすれば、奇跡《きせき》がそこにあったとしてもおかしくはない。 「交渉《こうしょう》に失敗した、と」  一瞬《いっしゅん》の間があく。 「え?」 「やはり、売ってはくれなかったと。ディアナさんは言いました。期待に応《こた》えられず、申し訳ないと」  よどみのない、澄《す》んだ声で死の宣告のように告げられる。  ここで、ここでこうなるのか。  絶望とは、初めから望みがないことではない。  わずかな希望がついに叩《たた》き潰《つぶ》されることを以《もっ》て、絶望というのだ。  ロレンスは返事ができない。  使いの者は、そんなロレンスの様子を理解したようにそれ以上なにも言わず、音も立てずに背を向けた。  幻《まぼろし》のように人垣《ひとがき》の中に溶け込み消えたその後ろ姿が、パッツィオの地下水道でホロが立ち去った時の姿と重なった。  錆《さ》びついた甲冑《かっちゅう》を着込んでいる老|騎士《きし》のように、ロレンスは視線を露店《ろてん》の値段表へと向ける。  買い持ちの人数は元に戻《もど》り、再び相場は上昇へと向けて動き出している。  相場の流れに乗ることはできても、それを操《あやつ》ることは神にしかできない。  有名な商人の言葉を思い出す。  もう少し、もう少し幸運が続けば神になれた。  どのくらいの黄鉄鉱《おうてっこう》を換金《かんきん》したのか、アマーティが余裕《よゆう》の表情で露店の前から外の環《わ》に帰ってくる。  ただ、勝ち誇《ほこ》ったような視線をロレンスに向けるかと思っていたのに、それは一度も向けられてこなかった。  そうなれば、その視線の先にいる者は他《ほか》にいない。  ホロがアマーティの下《もと》に戻ったのだ。 「ロレンス、さん?」  ロレンスに声をかけてきたのはラントで、ホロはこちらのほうなど一切見ずにアマーティと話している。 「ああ、すまない……。今回は……その、色々苦労かけたな」 「え、いえ、そんなことはありませんが……」 「マルクに伝えてくれないか。計画は失敗したと」  口に出してみると実にあっさりとしたものだ。  それでも、商人としてならば上々の結果になっているというのが皮肉なものだ。  手元に黄鉄鉱《おうてっこう》の在庫があるものの、これにいくらか買い足して夕刻にアマーティに引き渡《わた》せば、先ほど売った黄鉄鉱の代金と差し引きでむしろ利益が出ている計算になるだろう。  その上、アマーティから銀貨千枚が入るのだから、むしろ大|儲《もう》けといって差し支《つか》えない。  期せずして儲けられれば商人としてこれ以上|嬉《うれ》しいことはないはずなのに、これほど空《むな》しいこともない。  ラントは困ったように視線を泳がせていたが、ロレンスが報酬《ほうしゅう》を渡《わた》そうとして、初めてその目に意志が宿った。 「ロレンスさん」  銀貨を数枚|握《にぎ》った手が止まるくらい、真剣《しんけん》だった。 「あ、諦《あきら》めるのですか」  ロレンスがまだ弟子《でし》だった項《ころ》、師匠《ししょう》に意見するのは殴《なぐ》られるのを前提にしてのことだった。  ラントもそれを覚悟《かくご》してのことだろう。いつ挙《こぶし》が来るかと左目の瞼《まぶた》が震《ふる》えている。 「商人は軽々しく諦めるなと、主人にいつも言われています」  銀貨を渡そうとしていた手を引っ込めると、ラントの肩《かた》がびくりとすくむ。  それでも、目はそらさない。  本気で言ってくれているのだ。 「いつも言っています。か、金|儲《もう》けの神様は祈《いの》っている奴《やつ》の所に来るのではない。諦《あきら》めの悪い奴《やつ》の所に来てくれるのだ、と」  その言葉に異論はない。  けれども、これは金儲けではない。 「ロレンスさん」  ラントの視線が突《つ》き刺《さ》さる。  ロレンスは、ちらりとホロを見てから、ラントに視線を戻《もど》した。 「私は……一目見てから、ホ、ホロさんが好きです。ですが、主人に言われました」  黙々《もくもく》と言われたことをこなす麦商人の優秀《ゆうしゅう》な小僧《こぞう》が、単なる少年の顔になって言う。 「それをロレンスさんの前で言ったらぶっ飛ばされると」  半泣きになって言うラントの言葉に、ロレンスは軽く笑い、そして拳《こぶし》を振《ふ》り上げた。 「っ……」  と、いうのはラントが息を飲んだ音。  ロレンスは、拳を軽くラントの頬《ほお》に当てて、それから笑った。 「ああ、ぶっ飛ばしたい。思い切り殴《なぐ》りたいよ」  笑って、それから泣きたくなった。  ラントはロレンスよりも十は年下だろうか。  それが、なんて様《ざま》なのか、ロレンスはラントと変わらない。  くそっ、と胸中で自分を罵《ののし》った。  ホロを前にすると、誰《だれ》しもが鼻の奥がつんとするような少年になってしまうらしい。  ロレンスは、頭を振《ふ》った。  諦めの悪い奴?  笑えてきてしまうその単語に、それでも悪魔《あくま》的な魅力《みりょく》を感じて天を仰《あお》ぐ。  十も年下の少年に言われた言葉で頭の中の黒いどろどろとした仮説と疑念の渦《うず》がどこかに消えてしまっていた。  そうだ。  ここまで来て、手元に残った利益は負けの証《あかし》に過ぎないのだから、それを失ったところで痛くはない。  ならば、最後に一度くらいなにもかもを都合よく考えたうえで行動してみたっていいはずだ。  大切なものが苦労の末に手に入るとは限らない。  そのことをマルクに気づかされたばかりなのだから。  ロレンスは自慢《じまん》の記憶《きおく》力を全開にして自論を組み立てる材料を引っ張り出す。  その柱となるのは、つい先ほどまでロレンスが忘れていたことだ。 「諦めが悪い奴ってのは得てして信じられないような希望的観測をする奴ばかりだ」  言われたことをきちんとこなし、言われないことまでもこなせそうな小僧《こぞう》の時の顔よりも、年《とし》相応の顔をしている今の顔のほうがラントは可愛《かわい》げがあると思う。  きっと、マルクは自分の子供並みにラントを大事にしていることだろう。 「商人は計画を立て、予測をし、事実と照らし合わせて商売をする。わかるな?」  突拍子《とっぴょうし》もない言葉だったが、ラントはおとなしくうなずく。 「あれを売ればこうなり、これを買えばああなる。そういった仮説も大事だ」  再びうなずき、ロレンスはそんなラントに顔を近づけて言った。 「正直、仮説というものはいくらでも好きなように立てることができる。だからあまりに立てすぎるとすぐに迷ってしまう。どんな商売も危険に満ちているように思えてしまう。そこで迷わないように一つの道しるべを持っておく。それが商人に必要な唯一《ゆいいつ》のものだ」  少年ラントは、少しだけ商人の顔になって「はい」と言った。 「その道しるべが信頼《しんらい》できるのなら、どんな突拍子もない考えも」  顔を上けて、目を閉じる。 「信じるべき……なのかもしれない」  まさか、という考えが嘲笑《ちょうしょう》と共に頭にあった。  それでも、ホロの姿を見て半ば確信する。  もしかして、ホロの格好はそういうことではないのかと。  それが可能かどうかを検証してみれば、容易《ようい》には信じられないが可能性としては十分にできるような気がした。  しかし、それらが成立するにはある一つの前提が必要になる。  即《すなわ》ち、ロレンスが忘れていた、ホロがロレンスのことを見放していないという前提が。  ここに至ってそんなことを思うのは徹底《てってい》的に諦《あきら》めが悪い奴《やつ》にはお似合いの希望的観測、と言えなくもない。  それでも、この期《ご》に及《およ》んでなおアマーティの計画を阻止《そし》できる可能性が存在する、と考えるよりははるかにましで、ロレンスはそんな夢物語の可能性を見つけている。  ラントはどんな話をマルクから聞かされてロレンスに協力してくれているのかわからない。  それでも、ホロのことを好きだと言った言葉はきっと本心なのだろう。  それをロレンスに言った勇気は賞賛に値《あたい》する。少なくとも逆の立場であればロレンスはそんなことをする自信がない。  ならば、せめて諦めの悪い商人としての矜持《きょうじ》を見せなければ立つ瀬《せ》がない。  ラントの肩《かた》を改めて軽く叩《たた》き、ロレンスは深呼吸をしてから言った。 「俺が露店《ろてん》に石を売ったら、頼《たの》んでおいた噂《うわさ》を流してくれ」  ラントの顔が輝《かがや》き、小僧の顔に戻《もど》ってうなずく。 「頼む」  そして、ロレンスは身を翻《ひるがえ》そうとして思いとどまった。  ラントが物問いたげな視線を向けてきたが、質問をしたのはロレンスのほうだった。 「君は、神を信じるか?」  さすがにぽかんとしたラントに、「頼《たの》んだ」とだけ言って歩き出した。  手元にあるのは銀貨二百五十枚分の黄鉄鉱《おうてっこう》。露店《ろてん》の値段表に掲《かか》げられている買い待ちの黄鉄鉱はざっと数えただけで四百枚分に上《のぼ》る。売り浴びせてどうにかなるものではない。  けれども、なるはずだ。考えが合っていれば、なるはずだ。ロレンスは一度だけ振《ふ》り向き、視線をアマーティの隣《となり》に立つホロに向けた。  たった一瞬《いっしゅん》でいい。ホロがこちらを見てくれれば、それで用は足りる。  そして。  ロレンスは露店の前に立つ。買いの注文が一段落し、幾分《いくぶん》落ち着いた露店の主人は再び石を売りに来たロレンスを見て「おや」という顔つきになった。それから笑った顔は、ずいぶん儲《もう》けているようだね、と言っていた。  ロレンスは言葉も交《か》わしていないのにうなずいてしまう。これから、もっと儲けるのだ。  ラントから受け取った黄鉄鉱の詰《つ》まった袋《ふくろ》を露店の主人の前に差し出して、一言言った。 「売りだ」  取引があればそれだけ手数料が取れる主人は満面の笑《え》みでうなずき、直後にきょとんとした。  ロレンスは目を閉じて笑う。  ロレンスの中の道しるべは、正しかったのだ。 「店主、これも売りじゃ」  懐《なつ》かしい感じすらするその声。  そして、どす、という重い音と共に置かれたロレンスの袋よりも倍近くでかい袋。  隣を見れば、今にも噛《か》みつきそうな顔をしたホロがいた。 「たわけ」  その一言に、ロレンスは一切の他意なく笑いながら言った。 「悪かったよ」  店主は呆然《ぼうぜん》としたのちに、すぐさま小僧《こぞう》を走らせて値段表の買い待ちの木札を一斉《いっせい》に全《すべ》て外させた。  少なくとも合わせて銀貨六百五十枚分の黄鉄鉱。  ホロの持っている分はいくらか値上がる前のものだから、現時点ではもっと高いだろう。ディアナから黄鉄鉱を買ったのは他《ほか》ならぬホロだ。  すなわち、千枚に匹敵《ひってき》しようかというほどの一斉の売り。  もはやこれを買い支えることはできまい。  ロレンスは、ホロのフードに差さっている白い羽を一本取り、言ってやった。 「誰《だれ》かさんとは違《ちが》い、大人っぽい美人だっただろう」  ホロの拳《こぶし》がわき腹に突《つ》き刺《さ》さる。  けれども、その手はそのまま離《はな》れない。  それだけで、十分だ。  背後に押し寄せる殺気立った連中の波にもまれる中、ロレンスは決してその手を離さなかった。  ただ、アマーティに見せつけてやりたい。  そんな大人気《おとなげ》ないことを思って、苦笑いしたのだった。 [#改ページ]  終幕  暴落は一瞬《いっしゅん》の出来事だった。  出されていた買い待ちは全《すべ》て捌《さば》かれ、さらに追加でいくらかの買いは入ったものの、銀貨千枚に及《およ》ぶ売りはなお一層の売りを呼び、結果、これまでの流れが完全に逆回転をし下落の道をひた走った。  最大のババを引いたのは当然のことながら最高値で買い待ちを出していた者たち。  ロレンスとホロの様子に気がつき即座《そくざ》に売りに来た目ざとい者たちですらかなりの損を食った。  相場が強気のうちに信用売りの証書を処分しなかったアマーティがどうなったかは言うまでもない。  それ以前に、ホロが大きな袋《ふくろ》を持って突然《とつぜん》露店《ろてん》に走ったのを追いかけるように手を伸《の》ばしたままの姿勢でずっと固まっていた。  手元の証書が紙くずになったことよりも、ホロが突然手のひらを返したことのほうがよほど衝撃《しょうげき》だったに違《ちが》いない。  その点には同情してしまうが、ホロは元々アマーティになびくつもりはなく、それどころか手ひどい別れ方を考えていたらしい。  その理由は、アマーティがなにか腹に据《す》えかねることを言ったことらしかった。  なにを言われたのかは怖《こわ》くて聞けなかったが、同じ轍《てつ》を踏《ふ》むことを避《さ》けるために聞いておきたいという気持ちはあった。 「で、契約《けいやく》は終わったのかや」  アマーティとの契約を終え、マルクの露店《ろてん》にも行きひとまず礼を言ってから宿に戻《もど》ったロレンスに、ホロは尻尾《しっぽ》の毛づくろいをしながら顔も上げずにそう言った。  まだ言葉の端《はし》にちょっとした尖《とが》ったものがあるのは、散々|互《たが》いに意地を張り合ったあとだから、というわけでもない。  ロレンスはもちろん原因がわかっている。  荷物を置いて、椅子《いす》に座りながら答えた。 「終わったよ。これ以上ないくらいに綺麗《きれい》にな」  冗談《じょうだん》でもなんでもない。  意気|消沈《しょうちん》し、抜け殻《がら》と化したアマーティ相手の契約は滞《とどこお》りなく進んだ。  結果としては、アマーティも損をしたわけではない。ロレンスが仕掛《しか》けた信用売りの損と、それまでに転売で稼《かせ》いだ儲《もう》けを比べればいくらか儲けのほうが上回っていた。  けれども、破産に匹敵《ひってき》する大損をしたという気持ちはロレンスにもわかる。最後の最後まで、ロレンスはまさしくその空気のどん底にいたのだから。  結局、アマーティがロレンスと交《か》わしたホロへの求婚《きゅうこん》を賭《か》けた契約は遂行《すいこう》されず、信用売りの決済についてはごみと化した黄鉄鉱《おうてっこう》を引き渡《わた》して終わった。  万が一アマーティが逆上した時の仲裁役として商館の館長にも立ち会ってもらったが、館長は「人の女に手を出した罰《ばつ》だな」と言っていた。  ホロがロレンスの女かどうかはともかく、少し天狗《てんぐ》になっていたアマーティに灸《きゅう》を据《す》えた形となった。  そんな経緯《けいい》を簡単に説明すると、ホロはベッドの上で尻尾の毛づくろいをやめ、品定めをするような目つきになってロレンスを見る。 「で、これで一件落着とか思っておるわけじゃあるまいな」  品定めというよりも、量刑《りょうけい》を決める審判《しんぱん》の時といったほうが正しいかもしれない。  ロレンスは自分の犯《おか》した過《あやま》ちを理解している。  立ち上がり、降参するように両手を肩《かた》の高さまで上げた。 「悪かった」  しかし、ホロは少しも表情を変えてくれはしない。 「なにが悪かったのか本当にわかっておるのか」  大の男が実に情けない怒《おこ》られ方をしているものの、ロレンスとしては甘《あま》んじて受けるほかない。  それくらい、大きな過ちを犯していたのだから。 「わかっている」  狼《オオカミ》の耳がピクリと動く。 「つもりだ」  ホロは鼻からため息をつき、不機嫌《ふきげん》そうに腕《うで》を組む。  やはりこの程度では許してくれないらしい。  覚悟《かくご》を決めて、ロレンスなりの謝罪を口にした。 「アマーティとの契約《けいやく》をどうこうするというのは完全に俺の独《ひと》りよがりだった。そうだろう?」  胃の腑《ふ》が溶《と》けそうなほどに焦燥《しょうそう》感で身を焼いたというのに、それほどまでして奔走《ほんそう》し成し遂《と》げようとしたアマーティとの契約|妨害《ぼうがい》は、徒労《とろう》どころか口にしたとおりに独りよがりのことだった。 「要は……お前を信じていなかったということが最大の問題点だった」  ホロは目をそらし、片耳だけを向けてくる。  聞く耳だけは持ってやろう、ということなのだろう。  そのあまりにあんまりな態度に当然|悔《くや》しいが、ここで居直れない自分を認めるしかない。  一回|天井《てんじょう》を仰《あお》いでから、あとを続けた。 「ローブに白い羽を差していたのは、ディアナから黄鉄鉱《おうてっこう》を買ったのは自分だと知らせてくれていたんだろう?」  ホロは不機嫌そうにうなずく。 「しかし、アマーティが思わせぶりに露店《ろてん》に石を売りに行った時、あれを俺はお前の罠《わな》だと思ったんだ」 「えっ」  と、ホロは小さく声を上げてロレンスのことを見て、ロレンスは慌《あわ》てて口を押さえた。  余計なことを言った、と思ったがもう遅《おそ》い。ホロが胡坐《あぐら》を解いて片足をベッドから下ろしながら問い詰《つ》めてくる。 「詳《くわ》しく言ってみよ」  赤味がかった琥珀《こはく》色の瞳が、鈍《にぶ》く光っている。 「あれを、俺は、勇み足を踏《ふ》ませるための罠だと思った。あれを見て、むしろお前が完全にアマーティの味方に回ったと思った。だから白い羽のことを気にかける余裕《よゆう》なんてなかった。ただ、実際は違《ちが》った……だろう?」  当然だ、とホロの目が言っている。  もちろん今ではホロの真意がわかる。 「あれは、アマーティが十分な在庫を手にしているからさっさと売り浴びせをしろと、そういうことだったんだろう?」  ロレンスはホロを信じておらず、ホロはロレンスを信じていた。  構図としてはそんな感じなのかもしれない。  だからホロはあの時のロレンスからすればそんな解釈はとても無理なことをアマーティにやらせたのだろうし、ロレンスはロレンスでアマーティが自分の判断でロレンスに揺《ゆ》さぶりをかけたのではなく、ホロが敵に回って罠《わな》に嵌《は》めようとしているなどと思ってしまったのだ。  あの時点で正解だったのは、ホロがロレンスのしようとしていることを理解していたということだけだった。  きっと、白い羽に気がつきロレンスがその旨《むね》を目で合図でもすれば、ホロはロレンスと共にあの時点で黄鉄鉱《おうてっこう》を売りに行ってくれたに違《ちが》いない。 「まったく……」  と、ホロが呟《つぶや》く。  そして、次を言えと顎《あご》をしゃくる。 「その前は、お前がアマーティの用意した誓約《せいやく》書に名前を書いて判を押した、あれだが、あれは……」  気恥《きは》ずかしいが、言うしかない。 「俺が怒《おこ》りやすいようにと用意してくれた……だろう?」  ホロの耳がひくひくと動き、大きく一度深呼吸をする。  思い出して怒《いか》りがふつふつと湧《わ》いてきているのかもしれない。  あの時、きっとホロは誓約書を手にしたロレンスが二階に上がってくるのを今か今かと待っていたに違いない。  それが、待てど暮らせどやってこず、もしかしたらそのまま夜を明かしてしまったかもしれない。  それを思うと、ロレンスはホロに噛《か》み殺されても文句は言えないような気がしてくる。 「リュビンハイゲンで言ったことだろう? 下手な小細工をしないで、本心をあるがまま言えと。互《たが》いに怒鳴《どな》り合ったほうが早く問題が片づくと」  ホロはもうこれ以上怒りを表現できないとばかりにかりかりと耳のつけ根を掻《か》く。  アマーティが宿から出て行ったところを見られても動じることなく、わざわざ誓約書まで用意していたのは怒らせて本心を言いやすくさせるため。  それを、ロレンスは最後|通牒《つうちょう》だと思ってしまった。  ただ、今考えればあの時の状況《じょうきょう》は確かに感情に任せてホロにアマーティの求婚《きゅうこん》を受け入れて欲しくないと言うには最高の条件だった。  そして、それで十分だったらしい。 「で、最初のボタンの掛《か》け違いだ」  そう言うとホロは顎を引き、不機嫌《ふきげん》なというよりも、もはや恨《うら》むような視線を向けてくる。  それほどの勘《かん》違いを、ロレンスはしたのだ。 「お前が……その、ヨイツのことで取り乱した時……あの最後で俺に謝《あやま》ったのは……」  すまぬ、というホロの掠《かす》れるような声が蘇《よみがえ》る。 「我に返ってのこと……だったんだろう?」  ホロはロレンスを睨《にら》む。睨んで牙《きば》まで剥《む》いてきた。  ホロは散々悪意に満ちた曲解を言葉に変えてロレンスにぶつけたあと、すぐに自分のしたことのひどさに気がついた。  そして、そこで妙《みょう》な意地を張るホロではない。  すぐに謝《あやま》ってくれた。本心から、謝ってくれた。  それをあろうことかロレンスはホロが心を閉じた最後の言葉だと思ってしまった。  あの時のことを思い出すとロレンスは頭を抱《かか》え込みたくなる。  ホロの言葉で止めた、伸ばしかけたあの手。  せめてホロに一言声をかけていれば、まだどうにかなっていたかもしれない。  しかし、ホロはあの時、きっと呆然《ぼうぜん》としてしまったと思う。  なにせ取り乱してひどいことを散々言ったことを謝ったのに、ロレンスはうんともすんとも言わないどころか、後ずさって部屋から出て行ってしまったのだから。  ホロのことだからあれからすぐにロレンスがどんなボタンの掛《か》け違えをしていたか気がついたに違いない。  ただ、それに気がついたとしてもどこがどう間違っているかと説明することほど間抜《まぬ》けなこともない。  ホロはさっさと気がつけと要所要所で思っていたのだろう。  その怒《いか》りが今、目の前にある。 「この、たわけが!」  ベッドから立ち上がり、ついに怒鳴《どな》った。 「下手の考え休むに似たりとはこのことじゃ! わっちの苦心をなにもかも台無しにしおって、あまつさえわっちがぬしの敵に回っておったじゃと? その上|妙《みょう》に若僧《わかぞう》との契約《けいやく》に執着《しゅうちゃく》しおって、そのせいでどれほどややこしくなったかわかっておるのか! ぬしと出会ったのは確かにほんの最近じゃ。それでもわっちゃあぬしとは浅からぬ絆《きずな》ができていたと思う。それはわっちの思い込みだったのかや? それともぬしは本当に——」 「俺はお前と旅を続けたい」  机とベッドの間などほんの数歩の距離《きょり》。  人と狼《オオカミ》と、商人と商人でないことの差など、たったそれだけのことなのだ。  手を伸《の》ばせばすぐに届く。  ホロの手を取ると、少しだけ震《ふる》えていた。 「俺はこれまで商売に明け暮れてきて、これからもそのつもりだ。だから、それ以外のことにはあんまり頭が回っていないと思ってくれ」  ホロの顔がすねたような表情に変わっていく。 「それでも、俺は確かにお前と旅がしたい」 「なら、わっちはぬしのなんじゃ?」  ロレンスが言葉に詰《つ》まった質問。  今なら、はっきりと言える。 「言葉ではとても言い表せない」  ホロは目を見開き、耳をぴんと張り、それから。  それから、泣きそうなくらい呆《あき》れたように笑った。 「なんじゃそのしょっぱい台詞《せりふ》」 「塩が効《き》いてる干し肉が好きだろう?」  両の牙《きば》を見せて喉《のど》で笑うと、ロレンスの手を口に近づけて言った。 「大|嫌《きら》いじゃ」  手の甲《こう》に走った痛みは、罰《ばつ》だと思っておとなしく受け取った。 「ただ、こっちも一つ聞きたいことがあるんだが」 「うん?」  と、それなりの怒《いか》りを表すくらいに噛《か》みついていたホロは顔を上げて聞き返す。 「なんで黄鉄鉱《おうてっこう》が錬金術《れんきんじゅつ》師の所にあると……いや、それはアマーティから聞いたのか。それよりも、どうやってディアナさんから黄鉄鉱を買いつける約束を取りつけたんだ? そこだけがわからない」  そんなことか、という顔をしてホロは視線を窓の外に向けた。  日は暮れ、これから二日目の夜祭りが始まろうとしている。  使われるのは昨日の夜からひたすら戦いっぱなしだった人形たちらしく、大きな犬を象《かたど》ったものなどは頭が半分もげている。夜祭りに参加する者たちも疲《つか》れていることが遠目にわかるほどふらふらとしていて、冗談《じょうだん》ではなく尻餅《しりもち》をついている者までいた。  それでも笛や太鼓《たいこ》の音に釣《つ》られてなんとか隊列を組んで練り歩いている。  ホロはロレンスに視線を戻《もど》し、窓際《まどぎわ》に行こうと目で言ってくる。  断る理由もないので共に窓際に寄った。 「わっちゃあアマーティの若僧《わかぞう》から逐一《ちくいち》知らされる話で、ぬしがやろうとしていたことはほぼわかっておった。ただ、それについてはよくもまあ思いつくものじゃと、褒《ほ》めておこう」  ロレンスに背中からもたれるようにしてホロは祭りに目を向けている。  そのせいで表情が見えないが、褒められたのだからそこだけは素直《すなお》に受け取っておく。 「で、ディアナといったか。あれじゃがな、わっちゃあ別の目的で行ったにすぎぬ」 「別の目的?」 「頼《たの》み事、というほうがしっくりくる。場所は手紙の匂《にお》いからわかりんす。あの強烈《きょうれつ》に温泉|臭《くさ》い場所には難儀《なんぎ》したがの」  そんなことまでできるのかと驚《おどろ》きつつ、だとすればあそこは相当|辛《つら》かったに違《ちが》いないと思う。  そして、ホロは小さくため息をついてから決してロレンスのことを振《ふ》り向かずに言った。 「わっちゃああれにこう言った。ヨイツは実はまだどこかにあるかもしれないという話をでっち上げて、ぬしに伝えてくれぬかと」  一瞬《いっしゅん》首をひねる。  それからすぐに気がついた。  もしもその話をディアナから聞いていれば、ロレンスはきっともっとたやすくホロと会話を再開できたに違いない。  そのきっかけとして、これ以上のものはない。 「じゃがな」  と、続いたホロの口調は突然《とつぜん》不機嫌《ふきげん》なものになった。 「わっちから事情を聞くだけ聞いておきながら、あの小娘《こむすめ》、わっちの頼《たの》みを無下にしおった」 「そう、なのか?」  ロレンスがディアナの家から去り際《ぎわ》に言われた「がんばって」という言葉を思い出す。  あれは、皮肉だったのだろうか。 「その原因はぬしじゃ。反省しろ」  足を踏《ふ》まれ我に返る。  しかし、意味がわからない。 「まったく……。恥《はじ》を晒《さら》して事情を話し、もう少しで頼みを聞いてくれようというところにぬしが来た。それであの小娘、要《い》らぬ策をめぐらせたんじゃ」  え、という言葉もない。あの場にホロがいたというのか。 「ぬしの覚悟《かくご》のほどを見|極《きわ》めれば良いと……知ったふうな口をききよって」  それであの「がんばって」なのかと合点がいった。  ただ、ロレンスはなにか重大な見落としをしているような気がしてならない。  それがなんだったかと思っていると、ホロが振り向いて呆《あき》れ顔を向けてきた。 「ぬしのたわけた質問もしっかりとこの耳に入ってきんす」 「あっ!」  ロレンスが悲鳴に近い声を上げると、ホロは底意地悪く笑ってくるりと身を翻《ひるがえ》してきた。 「人と神が番《つがい》になった話はたくさんあるそうじゃな?」  上目遣《うわめづか》いに笑いかけるホロの顔がとても怖《こわ》い。  するりと背中に回された細い腕《うで》が、獲物《えもの》を逃《のが》さない蛇《ヘビ》のように思えてくる。 「ぬしがその気ならわっちはかまわぬ。その代わり……」  外から入るかがり火が、ホロの顔を赤く染める。 「優《やさ》しくしてくりゃれ?」  ホロは本当は悪魔《あくま》なのではないか。  半ば本気でそう思ったものの、拍子抜《ひょうしぬ》けするほどあっさりとそんな演技をやめた。 「なんてな。あの小娘《こむすめ》と話したあとじゃ気分も乗らぬ」  疲《つか》れたように言って、それでもロレンスに抱《だ》きついたまま顔を窓の外に向ける。  その目は、祭りよりもどこか遠くを見つめていた。 「あの小娘、人ではないと気がついたかや?」  まさか、という言葉すら出ない。 「部屋にたくさん羽が落ちておったじゃろ。あれは小娘のものじゃ」 「……そうなのか?」  そう言われて、ディアナを見て鳥を連想したことを思い出した。  ホロはうなずいてから続けた。 「元はぬしよりもでかい鳥じゃ。それが旅の僧《そう》に惚《ほ》れ、長い年月をかけて共に教会を作ったはよいが、いつまで経《た》っても年を取らぬ小娘を僧は怪《あや》しんだ。あとはわかるじゃろう?」  心なしか、ホロが回した腕《うで》に力がこめられる。  ロレンスはディアナが昔話を集め、そして錬金術《れんきんじゅつ》師たちを守る理由がわかったような気がした。  ただ、それは言葉にするととても苦い。ホロだって聞きたくないはずだ。  だからロレンスは言葉にしない。  代わりに、ホロの細い肩《かた》を抱いた。 「わっちは故郷に帰りたい。たとえ……なくなっていても」 「ああ」  窓の外では巨人を象《かたど》った人形と、大きな犬を象った人形がついにぶつかり合い、歓声《かんせい》が上がっている。  ただ、それは戦いを模《も》したものではないとすぐに気がついた。  ぼろぼろになったそれを操《あやつ》る者たちは皆《みな》笑っていて、見物人たちも手に手に酒を持っている。  あれはぶつかり合ったのではない。きっと肩を組んでいるのだ。  そして、歌と踊《おど》りが始まるや交差点のど真ん中で人形に火が放たれた。 「うふふ、人は派手なことをするの」 「ああ、すごいな」  かなりの距離《きょり》があっても熱気が頬《ほお》に当たるようだった。  月など軽く塗《ぬ》りつぶされてしまうような火の塊《かたまり》の周りで人々は歓声を上げて乾杯《かんぱい》をしている。  クメルスンのこの町で、さまざまな所から来たさまざまな人や神は、いさかいを経て再び酒盛りを始めた。  対立は、やがて終わるのだ。 「わっちらも行くかや」 「そうだ……な?」  しかしホロは動かず、ロレンスが訝《いぶか》しむとホロは顔を上げて言った。 「わっちゃあ、あの人形のように情熱的なことでもかまわぬが?」  火を放たれた藁束《わらたば》の人形はゆっくりと折り重なって一つになる。  それでも、ロレンスは笑って答えていた。 「酔《よ》った勢いがあればなんとかなるかな」  ホロは両の牙《きば》を見せて笑い、尻尾《しっぽ》をわさわさ揺《ゆ》らしながらこれ以上ないくらいに楽しげに言った。 「ぬしまで酔ったら誰《だれ》がわっちを介抱《かいほう》するんじゃこのたわけ!」  笑うホロはロレンスの手を取り部屋を出る。  クメルスンの町は再び騒《さわ》がしい夜となった。  ただ、そこに本物の女神が混じっていたという噂《うわさ》は、それからしばらくのちに流れるのであった。 [#地付き]終わり [#改ページ] あとがき  お久しぶりです。支倉《はせくら》凍砂《いすな》です。三巻目です。  今回は登場人物の性格を忘れることなく書けました。その代わり、このあとがきの締《し》め切《き》りを完全に忘れていて、つい先ほど担当様から、笑っていない笑顔《えがお》が受話器の向こうに見えるような電話を頂きました。  こんな私なので読者の皆様《みなさま》から忘れられていないか心配です。  さて、三巻というと本を三|冊《さつ》で、長編三本です。去年の今|頃《ごろ》は電撃《でんげき》小説大賞の一次選考通過を知り狂喜乱舞《きょうきらんぶ》し、二次選考の結果発表を正座しながら毎日待っていた頃です。あの頃、長編を一本書くのはとても大変なことで、書いては投げ出して書いては投げ出してでした。  なので、去年末からは快挙といえる執筆《しっぴつ》ペースであり、それだけでも少し成長できたかなあと思うところがあります。  さて、そんな私の最近の趣味《しゅみ》は不動産物件のホームページ巡《めぐ》りです。それも普通のじゃありません。いわゆる億ションと呼ばれる億の単位で売りに出されている高級マンションです。  高い所からの景色が好きなので、都内の夜景がよく見えるマンションとかいつか住みたいなあと思い、そんな高級マンションのモデルルームとか見ていたのですが、すごいですね。なにもかもが想像もつかないほどのもので圧倒《あっとう》されっぱなしで、ついついはまってしまいました。  ただ、極度の乱視かなと目頭を揉《も》んでしまうほどゼロがたくさん並ぶ見積書の中に、町会費二百円という記述を見た時、とても安堵《あんど》しました。なんとなく、この先もがんばって生きていけそうな気がしました。とあるマンションなのですが、駐車《ちゅうしゃ》場とマンション設備のワインセラー(そんなものが設備としてあるなんて!)を利用すると今私が住んでいるアパートの家賃を軽く超《こ》えるという事実を知った時にはどうしようかと思いましたが。  そんな小市民な私ですが、これからもよろしくお願いします。  以下、謝辞《しゃじ》を。  イラストを担当してくださっている文倉《あやくら》十《じゅう》先生。お忙《いそが》しい中毎回|素敵《すてき》なイラストをありがとうございます。イラストに負けないような文章を書けるようにと毎回|刺激《しげき》になっています。  それから担当様、校閲《こうえつ》様。今回も的確な文章への指摘をありがとうございました。今後はさらに日本語の直しを少なくすると共に、さらにその先のことにも気が回るように精進《しょうじん》してまいります。  そして読者の皆様。お手に取っていただきありがとうございました。  それでは、また次回お会いいたしましょう。 [#地付き]支倉凍砂 [#改ページ] 狼と香辛料㈽ 発 行  二〇〇六年十月二十五日 初版発行      二〇〇七年二月五日 四版発行 著 者  支倉凍砂 発行者  久木敏行 発行所  株式会社メディアワークス