恋の中国文明史 張 競 -------------------------------------------------------------------------------- 筑摩eブックス 〈お断り〉 本作品を電子化するにあたり一部の漢字および記号類が簡略化されて表現されている場合があります。 今日の人権意識に照らして不当、不適切と思われる語句や表現については、作品の時代背景と価値とにかんがみ、そのままにしました。 〈ご注意〉 本作品の利用、閲覧は購入者個人、あるいは家庭内その他これに準ずる範囲内に限って認められています。 また本作品の全部または一部を無断で複製(コピー)、転載、配信、送信(ホームページなどへの掲載を含む)を行うこと、ならびに改竄、改変を加えることは著作権法その他の関連法規、および国際条約で禁止されています。 これらに違反すると犯罪行為として処罰の対象になります。 目次 【序章】文化を解く鍵——恋 1 禁欲の表裏 2 恋とその言語表現 3 多民族文化のなかの恋 4 漢民族文化の雑種性 【第一章】閨房内の恋——中原文明の象徴 1 親が取り決める結婚 2 管理された感情生活 3 漢民族の恋の原型 4 結婚による民族の混血 【第二章】人神の恋——南方の歌垣から 1 放浪する恋人 2 南方の民俗と恋 3 異質な情熱と楚の巫術 【第三章】人怪の恋——北方民族の文化から 1 大混血の時代と「漢民族」の誕生 2 魏晋六朝の恋にあらわれた異質の要素 3 北方民族の南進と風習の変遷 【第四章】美貌の胡姫たち——長安の宴 1 遊里の風習と遊女物語の誕生 2 異国の美人たち 3 胡姫たちの唄 4 玄宗と楊貴妃の恋 【第五章】略奪婚の衝撃——漢族文化への回帰 1 恋の技術への興味 2 略奪婚から閨房内の恋へ 3 混血の帝王たち 【第六章】モンゴル文化の陰影——男女共演の舞台 1 才子佳人式恋の再興 2 異民族のあいだの恋 3 下位文化との苦闘 4 男女共演の波紋 【第七章】明代の淫らな性——『金瓶梅』の秘密 1 姦通への注目 2 性愛への傾斜 3 スワッピング、色仕掛、同性愛 【第八章】新しい恋——『紅楼夢』の謎 1 新しい恋の登場 2 満族文化の南下 3 民族文化衝突の落し子 【終章】恋愛の発見——中国文化の近代 1 恋愛との出会い 2 はじめての上位文化 3 「恋愛」の実践 4 文学というフィルター 中国史略年表 参考文献一覧 あとがき 文庫版あとがき 恋の中国文明史 【序章】 文化を解く鍵 ——恋 1、禁欲の表裏  六朝の歴史を記録した史書の一つ『南史』のなかに次のようなエピソードがある。  梁元帝蕭繹(しようえき)(五〇八〜五五四年)の妃徐昭佩(じよしようはい)は、多情な女性であるが、容姿はあまりきれいではない。夫の梁元帝はもともと女色をそれほど好む皇帝ではなく、いつも公務や読書に没頭している。それにこの妃はあまり魅力がないため、彼女のところにはたまにしか泊まりに行かない。妃は皇帝の薄情を怨み、仕返しをしようと企む。梁元帝は片目がつぶれていたので、妃は皇帝が親臨するときはいつも顔の半分だけ厚化粧して皇帝を迎える。急所をつかれた皇帝はその都度憤然となって帰ってしまう。  酒を嗜み男をこよなく愛するこの妃殿下は、もちろん後家さん同様の暮らしに甘んじるはずはない。彼女はなかなか度胸があり、皇帝の愛をえられないかわりに、隙を見てはお坊さんと密通し、あるいは皇帝の側近の美男を誘惑する。そうしたことが梁元帝の怒りを買い、また皇室の権力争いにも巻き込まれたため、後に命ぜられて自殺するはめになった。  歴代の妃のなかで徐昭佩ほど気性のはげしい者はまれである。しかし、帝王の気まぐれに不満を持ち、それに一矢を報いたい気持ちは皇室のすべての妃嬪(ひひん)に通じるだろう。さまざまな規制があるとはいえ、過剰な夢を厭くなく追い求め、奔放に生きようとする思いは女性側にも当然あったはずである。ところが、古代中国において、男の遊蕩に対してかなり寛容であったにもかかわらず、女に対する束縛はきわめてきびしかった。結局、徐妃も淫らな婦人としてしか見られず、背徳の典型にされる運命から逃れることはできなかった。  中国の儒学は子孫繁栄を前提とする夫婦の和合を容認し、かつ讃美するが、未婚男女のあいだの交際を認めない。結婚は、常識的な意味でのお似合いの配偶者を選別するシステムが考案され、婚前の感情は徹底的に抑圧された。こと恋になると、儒学者たちはほとんど何も語ろうとしない。彼らは未婚男女のあいだの恋を蔑視し、恋の情緒を思索の対象から除外した。そのため、十九世紀にいたるまで中国では恋について思想的に論じようとする試みはまったく見られない。  夫婦関係についてもさまざまな規制があって、生殖に直結しない快楽は否定されている。女色から遠ざかることはより高尚なる精神のあらわれだとされ、女性に対する親密な行為はたとえ夫婦の間柄でも認められない。少なくとも他人の前では野卑な行為とされている。男性優位の価値体系のなかで、婦人を愛することは不名誉の同義語でもある。儒学だけでなく、儒学と対立する位置にある老荘思想も男女のあいだの恋や情愛を普遍的価値としては認めない。後に宗教と化した道学は子孫繁栄と養生のための性行為を容認し、かつ評価するようになったが、老子と荘子の場合はそうではない。夫婦の情を認める儒学に比べ、性そのものを不条理とする老荘思想はむしろより禁欲的である。  ところが、こうした禁欲的な倫理観がすべて現実生活のなかで実践されていたわけではない。男と女がいるかぎり、男女のあいだのさまざまな情感もなくなることはない。『漢書』巻七十六にはこんな実話が記されている。漢代の高官張敞(ちようしよう)は家のなかで秘かに夫人の眉を画いていた。そのことが巷の話題となり、やがて皇帝の耳にも届く。皇帝の詰問に対し張敞は、「閨房のなかでは夫婦は誰でも眉を画く以上のことをしているでしょう」と答えた。  儒学倫理の実践者であるべき皇帝の私生活にはしばしば目にあまるものがある。五代十国の時代には南漢(九一七〜九七一年)と称された短命の王朝があった。そのラスト・エンペラー劉(りゆうちよう)の宮中には若いペルシア人の女性がいた。容貌がきれいで、体がグラマーであるだけでなく、賢くてセックスのテクニックにもたけている。劉は彼女に首っ丈になり、宮中で日夜淫らな生活に耽っている。彼はセックスの場面を見るのが趣味で、民間から美少年たちを選び、彼らと宮中の美女たちとを裸にしては、皇居の庭で交わらせる。その間皇帝はペルシア人の美女をつれて庭園のなかを散歩しながら乱交の場面を見物する。それにもあきたときには、みずから寵愛しているペルシア人女性とほかの男とを交わらせるなどして、ひたすらはげしい官能の刺激を求めた。  道徳の制約はときにはむしろ現実生活のはなはだしい逸脱を背景としている。また男女交際に対する禁制も場合によっては侵犯の動機を生み出す原因となる。後に官学の地位を勝ち取った儒学はたしかに中国人の恋の慣習に決定的な影響を与えたが、しかしだからといって男女関係にまつわるすべての夢と情熱がなくなったわけではない。  本能の抑制を唱える思想と逸脱する現実。それが想像と抒情を刺激し、また生み出す源泉でもある。その産物の一つとして、恋の情緒表現があげられる。有史以来、中国人の恋はどのような形態としてあらわれてきたのか。恋の感情はいかに表現されたのか。歴史のなかでそれはどう変化し、原因は何なのか。それらのことを究めるのは、中国文化の特質の解明にとって欠かせない基本的な作業の一つである。  膨大な蓄積のある「文」の記述伝統のなかで恋の表現は必ずしも主流を占めるわけではない。否、むしろ取るに足りない枝葉末節とされてきたかもしれない。しかし、いくら語っても語り尽くせない、解こうと思っても永遠に解けないこの難問に対し人々の興味が尽きたことはない。それは匿名であっても恋物語を書こうとした多くの人たちの情熱をみれば足りる。  男女のあいだの感情を表現するには二つの対立する立場があった。一つは儒学の倫理にもとづいたもので、もう一つはさまざまな規制から逸脱したものである。恋が人々の心のなかで重要な位置を占めている以上、たとえ儒学といえども完全にそれを無視することはできない。そこで儒学倫理に見合うような情緒表現が生まれる。家族の絆を強調する、夫婦のあいだの情をあらわすものがそれである。ただ、現在の基準でみると、必ずしも恋とはいえない。  今日にいう「恋」により近い情感をあらわしたのは儒学の倫理から逸脱したものである。夫婦の情を描く伝統に比べて、この種の感情世界を描いたものは時代の変化にしたがって変わっていった。新しい恋の情緒表現が登場してくる時代にはだいたい共通する歴史的背景がある。戦争や貿易などさまざまな原因によって民族のあいだの行き来が盛んになり、民族間の関係が密接になればなるほど、恋の表現に変異が生じやすく、かつ変化の度合いも大きかった。 2、恋とその言語表現  中国では恋を表現するのに、固有のことばがなかった。西洋文化が中国に入るまえに恋の事実があり、恋を記述し描写する作品もあった。ところが、不思議なことに恋の概念をあらわすことばはなかった。それだけでなく、恋物語という分類の専門用語もない。十八世紀六〇年代前後になっても「才子佳人の書」ということばしか見あたらない(『紅楼夢』第一章)。このような状況は近代まで続いた。  儒学はよくも悪くも中国人の精神生活を大きく左右したが、『論語』『孟子』のような儒学の経典には「恋」ということばはない。また儒学のもっとも有力な思想的なライバルである『老子』『荘子』にも「恋」という字は見あたらない。「恋」の最初の用例は『易経(えききよう)』にあるが、それは現在の「恋」の意味ではなく、「思う」「しのぶ」の意味であった。しかし、テキストによっては『易経』のなかの「恋」は「攣(れん)」になっているから、ほんらい「恋」ということばがあったかどうかもにわかには判断しにくい。  偽書の疑いのあるものをも含め、先秦時代に著された古文書のなかに、「恋」という字が用いられたのは『列子』(「湯問」)などほんのわずかなものだけである。それも男女のあいだの情感をあらわすものではなく、広い意味での「慕う」「惜しむ」という感情である。そのほかの書物、たとえば『荀子(じゆんし)』『墨子(ぼくし)』『韓非子(かんぴし)』『淮南子(えなんじ)』『礼記(らいき)』などの論述書や、あるいは『左伝(さでん)』『公羊伝(くようでん)』『穀梁伝(こくりようでん)』などのような歴史書にはまったく言及されていない。  漢代になると、詩に「恋」ということばが見られるようになった。しかし、その用例は少ない。漢代の詩を網羅した『全漢詩』には「恋」は七例しかない。そのうち男女間の「したいあう」感情を表すのは「子(し)は予(わ)が善(よ)く窈窕(ようちよう)たるを恋慕(れんぼ)す」(「陌上桑・楚辞鈔」)と、「長(しばら)く嘆(なげ)き思(おも)う所(ところ)を恋(れん)す」(枚乗「雑詩九首」)の二句だけ。そのほか母子の情を表す一例を除いて、残りの四例は「したう」「思う」という意味は変わらないが、「思う」対象は人間ではなく、故郷などの非情物である。  三国時代になると、詩のなかの用例はやや増え、『全三国詩』のなかに十一例ある。意味は従来と変わらないが、遠くにいる妻子を思い慕う一例を除いて、ほかはすべて友人や親族などを思う用例である。  晋代になると、詩のなかに「恋」ということばはいっそう多くなった。現存する晋代の詩のうち、「恋」の用例は二十六例あり、また「眷恋」は六例、「懐恋」も二例ある。ただ、同じ意味でも「思」ということばの方がはるかに多い。晋代の「恋」の用例は漢代や三国時代より大幅に増えたとはいえ、夫婦の場合を含めて、男女間の思慕を表すのはわずか五例にとどまる。つまり、魏晋時代になっても男女のあいだの恋という特定の意味があったわけではなく、むしろ男女関係ではない場合に多く使われている。とりわけ散文で書かれた恋物語のなかで男女の恋を表現するのに、「恋」ということばが用いられた例はまったくないといってよい。この傾向は近代まで続いており、清末になっても中国語の「恋」という漢字は恋を表現する固定の用語にはならなかった。  「恋愛」ということばは宋代の劉斧(りゆうふ)の『青瑣高議(せいさこうぎ)』に見られるが、それは現在の「恋愛」の意味ではない。一般の社会関係の人たちのあいだの「思う」「慕う」という意味だけである。現代の意味での「恋愛」は日本から逆輸入された語彙だと思われる。  「恋」と関係のあることばにはそのほかに「色」と「愛」がある。孔子はかつて「吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」と言ったことがある。このことばにみられるように、二千年余まえから男が女を好きだという意をあらわすのに、「色を好む」(好色)ということばが用いられている。ほんらい「色」は顔色を意味していたが、転じて「美しい顔」となり、さらに「美しい女性」「女色」へと意味が拡張された。  古代では美しい色彩を見たい欲望と、女色を好む欲望とが同じものだと考えられていたようだ。『孟子』のなかに「耳目の欲」ということばがあり、この「目の欲」には色欲の意味も含まれている。また『荘子』「雑篇・盗跖」の「目は色を視んことを欲し、耳は声を聴かんことを欲す」のなかの「色」も単に「色彩」だけでなく、「女色」のニュアンスもある。事実「声色」の「色」はもっぱら「女色」を指している。  この「女色」を意味する「色」に対し、歴代の儒者たちはおおむね否定する立場を取っている。『論語』に出てくる「色」はほとんど「顔色」を意味しているが、「女色」という意の「色」は二回(重複をのぞく)しか使われていない。右にあげた「吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」のほかに「少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り」があるが、いずれの場合も「色」は負の価値としか見られていない。  孔子に比べると、孟子は「好色」に対して比較的寛容である。『孟子』のなかには「好色は人の欲する所なり」ということばがあり、女色を好むことを人間の本性だと認めている。ただ一方では「礼」や「徳」の優先は「好色」の不可欠な前提条件とされ、「徳」と「色」とが両立しないときには「色」を捨て、「徳」を求めるべきだと説いている。  『礼記』になると、「色」は完全に悪の根源とされた。孔子の語録として引用された「君子色に遠ざかりて以て民紀を為す」(『礼記』「坊記」)などのことばに見られるように、「女色」は人間の堕落や政治腐敗の大きな原因の一つとされ、「徳」の対立概念として完全に定着した。後の儒学の倫理観も基本的にはこの見方にもとづいている。  道学も「色を好む」ことに対し批判的である。もっとも『老子』のなかでは女色の意の「色」には触れられておらず、「五色は人の目をして盲ならしむ」ということばが示すように、老子は美しい色彩あるいは美しい外形を持つすべてのものが人間の本性をそこなうものだとしている。  荘子も老子と同じように、女色を好むことは生命の自然を損じるものだと見ている。『荘子』「外篇・至楽」によると、人間は誰でも「身安・厚味・美服・好色・音声」つまり身の安楽、美食、きれいな服飾、みめ麗しい女性、美しい音楽を求めようとするが、しかし、それらの欲望はすべて人間の仮の外形——肉体のために過ぎない、死生を超越し無為自然に到達するためにはまずこうした愚かな考えをやめなければならない、と説いている。  一方、六朝の志怪小説、唐代伝奇をはじめとする作品群を見ると、小説の世界では「鶯鶯伝(おうおうでん)」にあるように、ときには「好色」が肯定されることもある。ただ、仏教思想の影響などもあり、時代が下がるにつれて、小説のなかでも「好色」は背徳とされるか、あるいは人間を破滅に導く悪業や、避けられない宿命とされるようになった。『金瓶梅(きんぺいばい)』では「色」が人間世界の四大誘惑の一つとされ、色を好むことは親族に災いをもたらすだけでなく、最後には必ず身を滅ぼす結果となる、ということを西門慶(せいもんけい)の一生を通して示している。  男女のあいだの感情を「愛」で表現する歴史も先秦時代に遡る。『孟子』の「昔者(むかしは)大王色を好み、厥(そ)の妃を愛せり」の用例にみられるように、女性を愛するという意味では現代の「愛 (love)」ときわめて近い。もっとも「愛」ということばそのものは『孟子』よりまえにすでに使われていた。ただそれは男女関係にかぎらず、親子関係や一般の人間関係にも広く用いられている。しかも、ほとんどの用例は後者で、女性を愛するという意味ではむしろあまり使われていない。たとえば『論語』には動詞として用いられた「愛」は九例あるが、いずれも男女のあいだの情愛ではない。「樊遅(はんち)、仁を問う。子の曰わく、人を愛す」という記述のように、孔子は人を愛することを儒学の理想——「仁」の具現だとしている。『孟子』のなかにも「愛」は三十六の用例があるが、男女関係については右にあげた一例だけである。より多く論じられたのは「人を愛する」という儒学の重要な概念である。  『荘子』のなかでも親子、師弟のあいだの愛などが賞賛され、また人を愛することが尊ぶべき善意だとされている。この点においては道学も儒学も共通している。しかし、男女関係についての用例は『老子』にも『荘子』にも見あたらない。ちなみに男女のあいだの感情を意味する「愛」は『左伝』『公羊伝』『穀梁伝』などの史書にもない。したがって、先秦時代において「愛」ということばは男女のあいだの情愛をあらわす意味こそ持っていたが、ほとんどの学者たちはこの種の「愛」にあまり興味を示さなかった、ということがいえる。  一方、男女のあいだの恋の感情はしばしば「情」ということばで表現されている。漢代の末頃から「情」はこの意味で使われはじめ、最初はおもに詩のなかにあらわれていた。それ以前の先秦時代では「情」はまだ恋の感情という特定の意味を持たない。恋の情緒はおもに恋しい人に対する思慕を通して表現される。その「思慕」という感情は六朝の詩になると、「情」という言葉で表現されるようになった。その後、詩歌だけでなく散文文学のなかでも「情」は恋の情緒を意味することばとしてしだいに定着した。  恋の概念を表現する固定した用語がない以上、恋とは何かという規定が問題になる。現在では恋はほとんど例外なく結婚の枠外の男女関係を指しているが、中国文化のなかで「恋」は結婚の有無とほとんど関係しない。男女のあいだの恋の感情はすべて「情」で表現され、恋は結婚関係の有無を問わない。したがって恋は結婚の枠内でも可能となり、夫婦のあいだでも条件によっては恋はありうる。結婚は親が取り決め、未婚男女が自由に交際できないという社会状況のもとで、恋を求める願望は自然と結婚の枠内に向けられる。この場合夫婦関係がさきに結ばれたとはいえ、まったく面識のない男女の気持ちが近付くまでにはやはり恋に類似する過程が必要であり、かつ可能であったろう。  中国文化において「恋」はおおよそ三つのパターンにわけられる。一つは夫婦のあいだの「恋」、もう一つは未婚男女のあいだの恋、そして三つ目は遊女との恋である。そのなかで、夫婦のあいだの「恋」は中国人の情緒表現において非常に重要な地位を占めている。もし「恋」を結婚関係のない男女のあいだの特定の行為だと定義すれば、『詩経』と『楽府(がふ)』の一部の詩をのぞけば、唐代までの文学のなかに純粋な「恋」を明晰な形で描いた作品はきわめて少ない。「鶯鶯伝」があらわれるまで、結婚関係にある男女の親密な感情が一種の擬似的な恋の情緒となり、未婚男女のあいだの恋情と夫婦のあいだの慕い合いの感情とは同じものと見なされていたからである。現在の意味での「恋」の情緒と「夫婦感情」とは分離されておらず、どちらの場合も、「情」に帰納されている。  唐代になって、「鶯鶯伝」系列の小説では純粋の「恋」が表現され、未婚男女の恋が物語として散文文学に描かれるようになった。しかし、「恋」をさす特定のことばは依然として見つけられていなかった。「情」はここでも恋の情緒を表現することばとして用いられている。言い換えると、唐代以降では「情」はコンテクストにより、あるいは未婚男女の「純粋な恋」の感情を意味し、あるいは擬似的な恋の情緒をあらわす。このように、「情」ということばにはつねに二重の意味が含まれており、結婚関係の有無を問わず、さまざまな男女関係のあいだの情感をあらわしている。  同じ唐代において遊里の恋が三つ目の恋の形式として登場した。「霍小玉伝(かくしようぎよくでん)」をはじめとするこれらの作品はその濫觴(らんしよう)で、後に遊女との恋が中国人の恋の情緒表現の一つの重要な部分となった。この種の物語はだいたい純情な遊女を主人公とする。彼女らはいったん好きな男にほれると、かたく操をまもり、死んでも心変わりをしない。結末はほぼ二通りある。一つは恋人同士が艱難辛苦を経て、最後にめでたく結婚するというハッピーエンド型であり、もう一つは遊女が薄情な男に捨てられ、悲しみのなかで死んでいくという悲恋のタイプである。いずれにせよ、遊里の恋を描いた物語は、後の時代に小説や戯曲などの形式によって受け継がれ、十七世紀の終わり頃には戯曲『桃花扇(とうかせん)』、十九世紀の末頃には『海上花列伝(かいじようかれつでん)』などを生み出すにいたった。 3、多民族文化のなかの恋  儒学の経典は難解な文章語によって記述され、それを理解できるのは教育を受けた人たちにかぎられている。また、煩わしい「礼」の制度も一定の経済的な余裕があってはじめて実行できる。したがって、文化の中心から遠く離れた地域、あるいは社会の底辺にいる人たちのなかに儒学の倫理は必ずしも行きわたっていたとはかぎらない。親の取り決めによる結婚は一種の風俗習慣になったとはいえ、文化の中心から遠ければ遠いほど逸脱の可能性は大きい。若い男女のあいだの恋を詠った『楽府』の民謡はその一例である。  ところが、それよりも儒学を脅かしたのは異民族文化の進入である。漢民族文化のなかには親の取り決めによる結婚が一種の「進歩的な」婚姻方式として西周の時代からすでにあった。しかし、少数民族のなかでは男女が自由に交際し、恋をし、結婚するという純朴な風習がずっと後まで残されていた。漢民族と少数民族の対立のなかで、いつのまにか儒学を中心とする漢民族文化と非儒学の少数民族文化が対立する構図ができあがったのである。やがて親の取り決めによる結婚を唱えることは、異なる民族文化を否定することを意味し、恋を排斥することは漢民族のなかに入った少数民族文化の要素を排除することになる。恋をめぐる文化的攻防は多くの場合そのまま漢民族と少数民族のあいだの緊張関係を示していたといえる。  これまで、いわゆる「中国文化」は一般にそのまま漢民族の文化と見なされ、また漢民族の文化はつねに漢民族のみによって作りあげられたものだと思われてきた。ところが、恋という問題について考えると、それが大きな誤解であることがすぐにわかる。つまり、漢民族が共有していた恋の情緒表現は漢民族文化だけの産物ではない。それは各歴史時期においてほかの民族文化の影響を受け、それらの民族文化の要素を吸収しながら、はじめて形成されたものである。  漢民族と少数民族の往来や異なる文化の交流は、しばしば特殊なかたち——民族戦争を通して行われていた。中国大陸に生活の拠点を持つ少数民族を大別すると、だいたい北方系の民族と南方系の民族に分けられる。北方系には遊牧民族が多く、南方系は農耕民族が多数を占めている。過去の歴史のなかで、漢民族を征服し、あるいはそれと対等に戦えたのはほとんど全部北方系の遊牧民族である。反対に南方系の少数民族は多くの場合、北方系の民族、あるいは漢民族との戦いに敗れ、南の僻地に逃げた民族集団である。  中原地区をはじめ中国大陸の各地に定住し、稲作、麦作など農耕をおもな生産手段とする漢民族の居住地区を侵し、その生活を脅かした匈奴(きようど)、鮮卑(せんぴ)、突厥(とつけつ)、契丹(きつたん)、女真(じよしん)、蒙古(もうこ)、満(まん)などは全部遊牧民族である。それらの民族が漢民族の政権と戦い、あるいは漢民族を征服したのは、ほとんどまだ奴隷制の時代にあったか、あるいは封建制度が確立したばかりのときであった。彼らが漢民族の政権と戦ったのは、遊牧生産ではえられない物資の略奪に起因する。しかし、物資の略奪は単に物の移動だけではなく、一種の文化の往来でもある。  民族戦争のなかで漢民族がけっしてつねに勝利を収めたわけではない。唐が滅びた後、むしろ少数民族が軍事的な優勢を保っていた。そのなかにあって漢民族だけがほかの民族にただ一方的に感化をおよぼし、彼らに文化的な影響を与えつづけることは当然ありえない。規模と結果のいかんはともかくとして、漢民族もほかの民族文化の要素を受け入れ、また多民族共存のなかで恩恵を受けたことはまちがいない。しかし残念なことに、このことはこれまでしばしば忘れられてきた。  恋と結婚について考える場合、これまで気づかれず、あるいは無視されてきたこの視角の設定は非常に重要な意味を持つ。漢民族が少数民族文化の影響を受ける場合、おおむね二つのケースがある。一つは漢民族が少数民族文化を吸収することである。これは一般によく見られる異文化受容の場合とあまり変わりはない。そのなかに、漢民族が少数民族から直接文化の影響を受ける場合と、少数民族の人々が移民や結婚によって漢民族に融合されたときにその文化習慣を漢民族のなかに持ち込んだ場合がある。  もう一つは、現象的にはむしろ他の民族文化を排斥してしまうことである。しかし、この種の排斥は多かれ少なかれみずからの文化をも変質させるので、これも異なる民族文化の進入による結果と見なければならない。  古代から近世にいたるまでの違う民族のあいだの恋と結婚を明らかにすることは、恋の文化史を解明するうえで欠かせないステップである。そしてこの作業は同時に普通あまり気づかれていない視点から、民族対立あるいは民族融和という問題にも光を当てることになる。中国のように歴史上において民族間の対立や衝突がほとんど日常茶飯事のように起きていた国の文化を考える場合、恋は文化の変遷や民族関係の推移を解きあかす有用な鍵の一つとなる。  中国文明史にはいくつもの謎が隠されている。中国は分裂をくりかえしていたにもかかわらず、なぜ最後には統一が保たれたのか。中国文化はなぜこのように長く続き、かつ活力を保ちえたのか。なぜ漢民族がこのように巨大な民族にまで膨張し、ヨーロッパ大陸やその他の地域のように、いくつかの民族が対抗する状況にならなかったのか。また、漢民族はいくたびも異民族に征服されたのに、なぜ最後に滅び、あるいは力が弱まったのが征服者の異民族であって、征服された漢民族ではないのか。  結論をさきに言ってしまえば、それは漢民族が長い歴史のなかでたえず他の民族から新しい血液を取り入れ、それがつねに新しい活力をもたらしたからだ。極端な言い方をすれば漢民族は一つの「民族」ではないからである。  文化についても同じことが言える。中国文化もけっして人々が思うように、あるいは多くの中国人たちが自負したように、ずっと純粋さをたもってきたわけではない。やがて詳しく考察するが、長い歴史過程のなかで、漢民族文化はたえず周辺民族の文化を受け入れながら発展してきたのである。そのような影響は、異民族に征服され、外来文化を強制的に押しつけられた場合もあるが、民族交流のなかで周辺の少数民族、あるいは外国の文化が自然なかたちでしだいに漢民族文化のなかに浸透した場合もある。また漢民族の人たちが意識的に他の民族文化を吸収した例も見られる。  ただ、仏教文化をのぞいて、異民族文化の吸収は、おもに生活に密着した部分にかぎられている。つまり漢民族に対する少数民族文化の影響は多くの場合、国家組織や行政管理、あるいは法律制度などの面ではなく、民間レベルの人的、物的交流によってもたらされた習俗、服飾、飲食、および行動パターンや情緒表現などにかたよっていた。 4、漢民族文化の雑種性  そもそも漢民族を意味する語彙が中国語にあらわれたのは漢代以降である。漢民族の人たちが自分の民族性に気づきはじめたのは周辺の異なる民族と接触し、それぞれの文化のあいだの違いを発見したときである。それより前の時代には民族の意識がまだきわめて稀薄だったと考えられる。たとえば商の時代(紀元前一七五〇頃〜紀元前一〇二〇年頃)、中国大陸にはまだ有力な複数の民族集団が共存しており、勢力の大きい中心的な一つの民族集団が周辺の少数民族と対立するという構図はまだできあがっていなかった。その後、西周、東周、とりわけ東周の後半の戦国時代を通して、集落あるいは民族集団のあいだの対立がしだいに小国と小国のあいだの戦争というかたちとしてあらわれ、その結果、小国家の統合が民族集団の融合を促した。言い換えると、戦国時代では中国大陸の各民族はまだ民族形成期にあった、と考えてよい。  戦国時代の荀子はかつて「楚(そ)に住めば楚をよしとし、越(えつ)に住めば越をよしとし、夏(か)に住めば夏をよしとする」(『荀子』「儒効篇」)と言ったことがある。このことからみると、戦国時代において少なくとも楚、越、夏という三つの文化圏があり、その三者のあいだに文化の大きな違いがあった。三つの地域の住民が異なる民族であったかどうかを断定することはむずかしいが、それぞれの居住地域の分布の広さから考えると、少なくともその始源が同じ集落、あるいは同じ民族集団であるとは考えにくい。  また、漢民族の主体となった集団もおそらく「純血」ではない。たとえば甲骨文で知られる商代の人はもともと遊牧をしていた東部の少数民族で、商を滅ぼした周の人たちの祖先は西域の少数民族だと言われている。それらの民族が黄河流域に移り、中原を支配するようになると、やがて地元の人たちと一緒に住み、生活上の交流により、文化が近づいてきたと考えられる。  秦始皇帝が中国を統一するまでの春秋戦国の時代は、民族が対立から融合へと変化した過渡期である。秦の統一は漢民族の形成に非常に重要な意味を持つ歴史的なできごとであった。秦始皇帝は領土の統一だけでなく、文字の統一、度量衡の統一をも行った。それらの強制的な措置は文化の帰一化をもたらした。統一を拒むため、遠く辺境の地へ逃れた人たちももちろんいただろうが、大多数の人たちはこの民族の大融合に加わった。それまで異なる民族、あるいはそのまま放置していると完全に別の民族に分化してしまったかもしれない集団が、この統一により同じ民族に融合した。  このような民族の融合はまったく文化的類似性のなかった同士の民族の統合ではない。黄河流域の文化と楚文化のように、互いに多くの文化共通性を持っていた。また、民族の歴史の浅さや、民族間の人員の流動のはげしさなどの原因も加わって、現代の民族の合併と違い、思想としても、また実践としても民族融合は可能なのであった。民族、あるいは民族とはいえない程度の集団の違いをなくし、文化の共通性を強めた諸原因のなかで、一定の役割を果たしたのは恋による感情の交流と、異民族のあいだの結婚である。それが民族の融合に一つの基盤を造った、といっても言い過ぎではない。  秦代における中国の統一は一つの民族を作り上げただけでなく、また、民族アイデンティティの自覚、周辺民族との違いを強調する意識をも生み出した。それは周辺民族との文化的距離をますます拡大した。その時点から人口の多い漢民族と周辺の少数民族という対立関係がはじめて意味を持つものとなったのである。  しかし、対立は民族関係の断絶を意味するものではない。事実秦代、漢代以降も漢民族は少数民族を吸収し、あるいは逆に少数民族が漢民族を吸収することがくりかえし起きていた。中国の地理条件から考えると、どの民族でも「純血」を保つことは不可能である。民族の対立は決して一方通行で回復不可能な動きではない。反対に、それはしばしば民族融合の下準備のようなものである。少なくとも中国の歴史において民族の対立と融合はつねに交替した。現在でこそ民族の独立は崇高な理想として神聖視されているが、過去の歴史における民族の対立は、ただ各民族のあいだの対立——融合という循環のなかの一環に過ぎなかった。  民族の対立は多くの場合、民衆たちに真の利益をもたらすものではなく、支配者の野望によるものである。そして、民族の独立心も集団内の自発的なものというよりも、むしろ腹に一物ある統治者たちにあおられた、かたよった情熱の結果に過ぎない。  民族の融和は当事者の意思による合併と、暴力による併呑、あるいは他民族への集団的な流入などの場合がある。しかし、それはただ形式のうえでの融合であって、二つの民族が本当に一つになるのは、やはり混血によってはじめて可能なのである。異なる民族の結婚とそれによってもたらされた混血——それは中国歴史および文化の形成ないし発展にとって忘れてはならない重要なことである。  このような絶えざる民族の融合を可能にした原因の一つに古典中国語がかつて公用語の性格を持っていたことがあげられる。元来、中国語は書きことばと話しことばに分かれ、両者のあいだにかなり大きな違いがある。このことは中国語の少数民族への浸透、とくに古代においてまだ文字のなかった民族への影響を大きくした。口語から遊離した中国語の書きことばは話しことばの表現や発音とかなりかけ離れている。中国には方言が多く、方言と方言のあいだの発音の違いが非常に大きい。にもかかわらず、中国語はいくつかの言語に分裂しなかった。それは書きことばの表現法が話しことばの発音とあまり関係がないからである。事実、中国語の発音がまったくできなくても、その文字と文法さえわかれば、文章の意味は理解できる。このことは日本の例をみるだけでも足りる。  二千余年来、中国の古文の表現法はほとんど変わっていない。変化があるとすればそれはただ時代の違いによる文体のうえでのごく小さな変動と、古文の中に導入された各時代の新語など、ごく少数の例外だけである。ことばが発音から離れ、書面以外にほとんど使われていない点において古典中国語は現代におけるラテン語と似ている。とりわけ中世以降になると、書きことばとしての古典中国語は人工語的な特徴がますますつよくなった。そのため、中国の各地の方言の発音がどのように変化しようと、それによって書きことばがわからなくなることは絶対にありえない。  このように人工語的な特徴を持ち、発音に一定の任意性のある中国語は方言の違いを乗り越えられるだけでなく、漢民族と異なる民族との交流をもより便利なものにした。視覚だけによって意味を伝達することができ、じっさいの発音はその言葉を使う人たちによってある程度自由に決められるからである。このことはとくにまだ文字を持たない民族にとって非常に都合がよい。符号——この場合は漢字である——の意味だけを覚えるのはなんといっても意味と発音の両方を覚えるよりはやさしい。なによりも重要なのは、中国語を借用してもその本来の発音にほとんど影響されないので、民族の言葉が滅びる恐れがないことである。つまり、日常生活のなかの本民族の言語と、文章表現の道具としての借用語——中国語の併用が可能となったのである。このような状況のもとでは、中国語が公用語として異なる民族のあいだの意思交流の道具とされたことはごく自然なことである。じっさい中国の歴史において多くの少数民族出身の皇帝や役人たちは中国語が読めるだけでなく、詩文にもたけているのである。  書きことばの借用は必然的に話しことばにも波及する。中国の書きことばと話しことばとのあいだに大きな違いがあるとはいえ、同じ言語であることには変わりはない。非漢民族の人たちは中国語の書きことばをおぼえると、話しことばも自然とおぼえやすいものとなる。とりわけ漢民族と隣接した民族の人たちは交易などの必要から話しことばを習得せざるをえなかったのである。  これはただ根拠のない推測ではない。中国南部の苗(ミヤオ)族は今世紀になっても書きことばや話しことばはなお中国語を借用していた。苗語には三大種類の方言があり、その三大方言にはさらに複数の下位方言がある。異なる方言をあやつる人たちのあいだでは、苗語でコミュニケーションができず、中国語を使って話し合わなければならなかった。また、一九四九年に苗語の文字が造られるまで、契約などの公用の書類から、手紙など私用の書面まで、すべて中国語を使用していた。  違う民族の人たちが意志交流のときに異民族のことばとしての中国語を借用することは、言語の壁を乗り越えることを可能にした。その結果、少数民族と漢民族文化との交流がいっそう盛んになり、漢民族にとって他の民族文化を吸収することがより簡単なこととなった。つまり、少数民族による中国語の借用は漢民族文化への接近だけを意味するものではけっしてない。逆に漢民族文化、とりわけ民衆文化がより多くほかの民族文化に接する機会に巡り会ったのである。  異なる民族の文化に出会い、その影響を蒙る度ごとに漢民族の文化体質は変わる。このような変化はときには緩やかなものだが、時代によっては急激になる場合もある。人々の感情生活のなかでアクセントをなし、時代や文化の諸特徴を敏感に映し出す恋の情緒表現にも同じ現象がみられる。したがって、恋の歴史の発掘は同時に文化の変遷を追跡する過程にもなる。ただ、ここで取り上げる恋は単に現在の意味の「恋」だけを対象とするのではなく、それと関連のある婚姻、性の問題もわれわれの取り扱う範囲のうちにある。そもそも文化によっては「恋」の定義も、その指示範囲も異なり、近代までの中国の場合では恋と婚姻、恋と性はしばしば分けることができず、その間にはっきりした境界線がなかったのである。  どの文化のなかでもそうだが、恋の情緒は多くの場合文学作品によって伝えられている。しかし、本書の目的は作品のなかの恋の文学的表現を分析することではない。現実生活のなかで恋がどのように行われたかを明らかにするのがわれわれの目指すところである。そのため、なるべく史書から実例と証拠を引きたい。ただ、歴代の恋物語や恋の詩は実際に中国人の恋の慣習と情緒表現を大きく左右していたので、文学のテキストを用いざるをえない場合も少なくない。しかし、そうしたテキストへの言及はいずれもその文化的意味の解読にとどまる。したがって、たとえば文学のなかの恋の史的展開や、作品中の三つの恋のパターンが生まれる原因とその源泉、あるいはその継承や発展については触れないことにする。それらの問題については別の機会に譲りたい。 【第一章】 閨房内の恋 ——中原文明の象徴 1、親が取り決める結婚  「父母の命、媒酌の言」という言葉に代表された中国の伝統的な婚姻制度は、親が結婚を取り決めることを特徴とする。『詩経』の「斉風(せいふう)」には、「妻をめとるにはどうするか、必ず父母に告げて許しを受ける」という詩句があり、親が結婚を取り決める慣習は西周の時代(紀元前一〇二〇頃〜紀元前七七〇年)にすでにあった。ただ、当初は必ずしも非常にきびしい制約があったわけではなく、男女のあいだにある程度の自由な交際はまだ可能であったと思われる。とくに春秋戦国の時代では、小国と小国のあいだに微妙な風習の違いがあり、鄭(てい)国のように、男女の交際や恋に対する禁制が、それほどきびしくない国もあった。『詩経』の「鄭風」には「(しんい)」という詩がある。 与 方渙渙兮 水と水に あたかも春になって水があふれる 士与女 方秉兮 男と女が 藤袴を取りに行くにぎわい 女曰観乎 女「見に行きましょうよ」 士曰既且 男「もう見て来たよ」 且往観乎 女「それでもまあ行って見ましょうよ 之外 洵訐且楽 水の外の処は ほんに広くて楽しいことよ」 維士与女 伊其相謔 そこで男と女は ふざけ戯れあって 贈之以勺薬 別れて贈る芍薬の華 (後略) (高田真治訳注『詩経』による、以下同様)  鄭の国は風習が乱れていたとは言われているものの、類似する情景は他の小国、とりわけ中原地域から地理的に少し離れた小国ではまったくなかったとはいえない。当時各国の文明の水準は比較的に接近しており、小国と小国のあいだの密接なつながりから考えると、同様の現象はむしろかなり普遍的であったと思われる。『周礼(しゆらい)』巻四「地官司徒下」には「(毎年の)二月には、男女を対面させる。そのとき、駈落ちすることを禁止しない」という言葉がある。その記述を見るかぎりでは、男女のあいだの交際は一時的ではあるにせよ、かつて制度によって保証された一面さえあったのである。  春秋戦国の時代を含めて八百年以上にもおよぶ周代は民族と独自の文化がしだいに形成された時期で、その間にさまざまな変化が起きていた。中原文化の成熟により男女のあいだの交際と恋の自由はしだいに狭められ、親の取り決めによる結婚が定着するようになった。  「父母の命、媒酌の言」による結婚はいくつかの発展段階を経たと思われる。最初は男女がみずからの選択について親と相談し、親の許しを得たうえで結婚するのが普通の手順であった。同じく『詩経』の「衛風」の「氓(ぼう)」という詩には次の詩句がある。 送子渉淇 男を送って淇水を渡り 至于頓丘 頓丘まで行った 匪我愆期 わたしは結婚の約束の期日をたがえようとするわけではないが 子無良媒 あなたにはまだよい仲人がないものを  仲人はただ形式的な存在に過ぎなかったことを示している。ところが、家父長制の強化により、やがて子供の結婚は家族の長の取り決めにしたがわなければならないようになった。この制度を成立させるためには、女性の社交禁止と、男女の隔離が必要である。男女の自由な交際が禁止されると、恋はできなくなり、みずからの意志による結婚相手の選択も不可能となる。青年男女にとって結婚はもはや媒酌人の斡旋と、父母の取り決めという道しか残っていない。その時点において親の取り決めによる結婚がはじめて成立したのである。  ただ、男女が隔離された時代でも、ときと場合によっては結婚相手の自由な選択は可能であった。『左伝』の「昭公元年」(紀元前五四一年)の記載によると、鄭の国の下大夫公孫楚は徐吾犯の妹と婚約したが、公孫楚の従兄弟で、上大夫の公孫黒はその女性が美しいと聞いて、むりやりに結婚を申し入れる。徐吾犯は二人が争いになるのを心配し、国政を執っていた子産(公孫僑)に調停を依頼した。子産は「こうしたことが起きたのは国によい政治が行われていないからだ。あなたは嫁がせたいと思う方へ嫁がせればよい」と答えた。徐吾犯は二人に、妹に選ばせたいと申し入れると、二人とも承諾した。そこで徐の妹はみずから結婚相手を選び、公孫楚と結婚することになったのである。しかしそれはまれにみる例外で、徐吾犯は公孫楚と公孫黒の二人を恐れ責任を逃れようとしたからこそ、妹に夫を選ばせたのである。また夫を選ぶときには男女が直接対面したのではなく、女性が部屋のなかから見ていただけである。  媒酌人が仲介し親が取り決める結婚は、それまでの近親結婚やレビレート婚(これには夫の死後、夫の兄弟の一人が未亡人と結婚する場合と、子が亡父の、実母でない妻と結婚する場合と、また未亡人が義母の兄弟と結婚するなどの場合がある)、ソロレート婚(妻の生死にかかわらず、その姉妹か姪を第二の妻とする結婚)など、さまざまな原始的な結婚の慣習に対する否定と改革において意味を持つ。当然古代においてそれは一種の開けた風習であり、また進歩の象徴でもあった。漢代の班固(はんこ)は『白虎通徳論(びやくこつうとくろん)』巻九「嫁娶(かしゆ)」のなかで「なぜ男がみずからかってにめとらず、女はかってに嫁がず、必ず父母の取り決めにより、媒酌が必要なのか。それは恥じるようなことを避け、淫乱を防ぐためである」と言ったが、媒酌の正当性はまさにその倫理性にもとづいていたのである。  新しい道徳観によって裏付けられたこのような慣習は、最初は貴族、官僚や士大夫階級のなかではやりだした。『左伝』「定公五年」(紀元前五〇六年)のなかに、楚昭王(そのしようおう)の妹が結婚相手を選ぶエピソードが出てくる。楚昭王は妹の季(きび)をある人に嫁がせようとしたが、彼女にはすでにひそかに心を寄せた男がいる。呉の国との戦争中かつて季を背負って救い出した鐘建である。そこで季は、女子は男から遠く離れているべきで、鐘建という男がすでにわたしを背負った以上、もうほかの男と結婚してはいけない、という口実を使って巧みに自分の見初めた男との結婚を果たした。また、『孟子』のなかにも、男女のあいだでは直接ものの受渡しをしてはいけない(「男女授受するに親(みずか)らせざるは、礼なり」)という倫理原則をめぐって、兄嫁が川に落ちたとき、義弟としては手を差し伸べて救うべきかどうかという議論がある。こうしたことをみると、紀元前五〇〇年ごろ少なくとも王侯や貴族のあいだでは「父母の命、媒酌の言」による結婚とその前提となる男女禁制がすでに常識化されていたのである。  媒酌による結婚は単に家父長が家族の結婚に対し決定権を持つことを意味するだけではなく、共同体の一種の集団意志のあらわれだとも言える。父母が結婚を決める権利を持っていたとはいえ、媒酌人の意思は共同体の合意を前提としている。媒酌による結婚は配偶者の選別を共同体の秩序のなかへ組み込むことを通して、集団意志の権威を具現させるものである。古代中国では共同体の存続はつねに優先され、個人の意思よりも集団の目的が重視されていた。媒酌は集団意志の尊重において文化の象徴性を持っており、同時にそれはまた古代人の生活の知恵でもある。なぜなら、共同体の優先は結果的には個人の自己保護の手段にもなったからである。  この意味において媒酌は結婚の正当性を間接的に証明するもので、この場合媒酌人は客観的に共同体の代表として結婚を承認する役割を持っていたのである。古代中国では共同体の優先はしばしば家系の優先としてしか自覚されていなかっただけに、結婚に対する媒酌の介入は逆に下位の社会構成体に対する共同体の優位を強調することになる。事実異なる家系を結ぶ媒酌は結果として共同体への求心力としてはたらく。共同体の承認の儀式としての媒酌は同時に共同体への忠誠心を取り付ける手段で、共同体の権威は承認の儀式を通して確認されたのである。  媒酌の制度が正常に機能するかぎり、媒酌の介入は結婚の機会の均等を意味するものでもある。孟子は「内に怨女(えんじよ)なくして、そとに曠夫(こうふ)なし」つまり、夫なきを怨む女もいなく、妻なきをなげく独身の男もいないことを理想社会の一つの目安としてあげている。ここには結婚を共同体の営みの一つとする考えが窺える。媒酌の制度は個人の感情を排除することにより、より「公正で」均衡の取れた結婚を可能にした。つまり、媒酌による結婚はつねに経済力や、社会分業、社会地位などにおいて「釣り合い」、あるいは互いに欠如を補い合う男女同士だけを夫婦とした制度である。このように、媒酌制度は感情生活を犠牲にすることにより、より合理的な結婚を実現させようとしたものだといえる。 2、管理された感情生活  媒酌の介在は婚姻慣習の文明化をもたらし、血縁の近い者の結婚を防ぐ作用があった。媒酌の制度はたとえ親戚関係の結婚を完全に排除しなくても、少なくとも遠い関係の男女の縁組を可能にした。また近親結婚を防ぐ役割を持つ同姓結婚の禁止も媒酌の介在によってほぼ完全に実現できたのである。  媒酌はさまざまな社会的な役割を果たしていたとはいえ、ほんらいそれは自発的な社会行為で、行政管理の手段にはならないはずである。ところが、古代中国においては事実上行政管理の手段としての「媒酌」が行われていた。『管子』巻十八「襍篇五・入国」には国の行うべき福祉政策として九項目があげられ、その一つは「独身者に対する仲介」である。全国の都市にすべて媒酌をつかさどる役所を設置し、妻のいない男と夫のいない女を集めて結婚させ、それぞれに畑と宅地を与えて家庭を築かせ、三年たってから労役に従事させる。  また、『周礼』巻四「地官司徒下」によると、かつて「媒氏(ばいし)」という官職があり、その「媒氏は万民の結婚を管理している。子供が父親に名付けされたとき(生まれて三ヶ月たったとき——引用者注)から、みなその生年月日と姓名が記録され」、「男に三十歳でめとらせ、女に二十歳で嫁がせる」という。『管子』については後世の人の加筆があるという疑いがあり、また『周礼』についても偽書説がある。しかし、たとえ『管子』と『周礼』が漢代の人たちが書いた偽書であったとしても、少なくとも漢代にはそのような制度があったことはまちがいない。  このような媒酌をつかさどる官職が行政制度として必ずしもあらゆる地域で確立され、かつ後世まで存続したとはかぎらない。ただ、官職の名前が異なり、また歴史のなかで中断があったとしても、後の時代においてこのような「媒官」が時代と地域によってはなお見られたことはたしかである。三国時代の曹植(そうしよく)の詩「美女篇」には「媒氏何の営む所ぞ、玉帛(ぎよくはく)時に安んぜず」(仲人は何をしているのやら、結納の玉や帛が折よく届いて話のまとまったという噂を聞かぬ)という詩句があり、この「媒氏」は官職だとされている。『元史』巻百八十五「列伝第七十二」に次のような記述がある。呂思誠(りよしせい)が地方の役人になったとき、その管轄下の住民に張復という人がいた。張復は非常に貧しいため、未亡人で目の不自由な叔母を養うことができない。そこで呂思誠は張復に「媒互人(ばいごじん)」という媒酌をつかさどる官職を与え、乞食をしていた叔母を養わせた。元代になっても媒酌を担当する専門の官職がなおあったことが窺える。  婚姻に関する唐代以前の法律は現在残されていないので、行政管理の一環としての媒酌がじっさいどのように行われていたかはすでに知るすべはない。しかし,人々の感情生活に干渉し,婚姻にまで立ち入ろうとする傾向はずっとあった。史書のなかの断片的な記録によれば、官吏としての「媒酌人」が設けられていない時代でも「官媒」の機能は必ずしも停止したとはかぎらない。専門の役人がいないかわりに、婚姻への行政の介入ないし強制は地方の行政長官によって代行されることがあったからである。『晋書(しんじよ)』巻三「帝紀第三」の「泰始九年」には、娘が十七歳になっても、親が結婚させない場合には、地元の行政長官がその娘に結婚相手を選び強制的に嫁がせる、と記されている。そのような行政の介入ないし強制は多くの場合、戦争、自然災害による人口減少の対策や、あるいは未開地区に対する教化として実施されていた。  中国の南方はかつて未開の地と見なされ、『三国志』巻五十三「呉書八」の「薛綜(せつそう)」には、そうした地域の「原始的な」婚姻慣習に対し、漢代から媒酌をつかさどる官職を設け、媒酌による結婚を地元の人々に教えた、と書いてある。もちろん、そのような官職としての媒酌人の設置は政治的な目的によるものが多く、必ずしもすべて文化的な原因によるものとは言い切れないかもしれない。しかし、媒酌をつかさどる官職を設けるという発想自体はやはり中原の人たちの婚姻観の一端を表しているといえよう。古代中国では恋あるいは結婚は個人のこととして見られたのではなく、共同体の文脈において、つまり共同体に役立つかどうかという角度からとらえられたことが多かったのである。  単純な社会行為としての媒酌はさまざまな弊害をもたらす可能性もある。それは単に人間の本性を束縛し、男女のあいだの感情を抹殺するという意味だけではない。儒学の倫理基準から見ても、媒酌の制度そのものが必ずしもつねに期待されたとおりに正常に機能していたわけではない。たとえば媒酌人が報酬の取得だけを目的としたために、媒酌の本来の目的を忘れるのがその一例である。この場合もちろん合理的で「公正な」結婚は望めない。  しかし、このような状況はやはり例外として見るべきだろう。そうでなければこの制度が二千年以上も続くことはありえなかった。そしてなによりも重要なのは、媒酌の制度は単に婚姻としかかかわりを持たないのではなく、中国文化の特質のあらわれでもある、ということである。  媒酌の重心は「仲介」にあり、それは宗教のない社会において契約を可能にする重要な方法の一つである。古代中国では有史から西漢にいたるまで、土俗信仰はあったが、思想としての体系性、厳密性を持つ宗教はかつて存在しなかった。「神」はしばしば人々の畏怖の対象である大自然の人格化として見られ、人間の良心、道徳が依拠する超越的な存在ではなかった。春秋時代では「神」と「鬼」——人間が亡くなった後の霊魂——とのあいだにはっきりした区別はなく、両者はつねに混同されていた。そのため、「神」の定義はきわめて曖昧かつ不安定で、「神」は社会生活に対して普遍的な制約性を持つものにはならなかった。『左伝』によると、当時の人々が祭っていたのは亡くなった先祖で、戦争勝利の祈願や結婚の報告など重要な儀式はすべて「家廟」——先祖が祭られた廟で行われていたのである。  儒学は神の存在を完全に否定するわけではないが、『論語』の中の「子(し)、怪力乱神(かいりきらんしん)を語らず」、「未(いま)だ人に事(つか)うること能(あた)わず、焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼(き)に事えん」といった言葉から窺えるように、神を超越的な存在とせず、神との相対関係のなかで思考したり行動したりしないことが提唱されている。中国における儒学の支配的な地位から考えると、古代の中国文化において神は終始はっきりした位置を与えられていなかった。土俗信仰のレベルにおいて生活に必要なときには神が思い出されるが、論理の一貫性や道徳の制約性を持つ信仰にはけっしていたらなかったのである。  古代中国では結婚は二つの家族のつながりを意味するもので、少なくとも正妻との結婚はそうであった。売買婚姻も単に一過性的な交換ではなく、二つの家族のあいだの特殊な関係を暗示するものである。国家反逆罪など重大な犯罪をおかした場合、九族(父族は四族——父親の姓を持つ一族、結婚した父親の姉妹の一族、結婚した当人の姉妹の一族、結婚した娘の一族、母族は三族——母親の父の一族、母親の母の一族、母の姉妹の一族、妻族は二族——妻の父の一族、妻の母の一族)を滅ぼすという懲罰はこの家族の関係の重要性を示している。二つの家族を結ぶ意味において中国の結婚は社会性を持つ一種の契約である。もちろんそのような「契約」は近代の法律行為のような厳密な意味を持っていたわけではない。しかし、共同体の秩序と直接的なかかわりを持つ重要な「合意」あるいは「約束事」として、家族と家族のあいだにおいて事実上契約と見なされ、また契約として機能していたのである。  古代中国では結婚という社会的契約は何に依拠して成立したのか、また契約によって生じた責任と権利はどのように保証されたのか。『漢書(かんじよ)』巻二十一「礼楽志」には「人性には男女の情があり、嫉妬の別がある。そのために婚姻の礼が作られた」という記述がある。このことばが示しているように、親の取り決めによる婚姻は礼にもとづいたものであって、法律にもとづいたものではない。同じく『漢書』「礼楽志」の「礼は人を養うことをもととし」、「教化に比べると、刑法の方が二次的なもので」、「教化は統治の根幹となるもので、刑法が統治を扶助するものである」などのことばからも窺えるように、法律は礼がよりよく守られるための補助的な「懲罰の手段」に過ぎなかった。法律には制約の範囲があり、礼が守られていない場合でも必ずしも刑罰が適用できるわけではない。結局神に頼らない儒学は「信」——虚言をせず、約束を守る道徳——の実現を通して契約の履行を求めるしかなかった。そのため「信」が儒学の基本道徳の一つとされるようになったのである。  ところが、この「信」の実現はあくまでも一つの理想であって、儒者による「信」の強調はむしろ「信」の実践が必ずしも行われていなかったという状況を背景としている。この場合実際の社会生活において契約を可能にし、かつ正常に機能させるためには仲介者の契約過程への参加が必要になる。仲介者の契約過程への参加により二重の責任関係ができあがったばかりでなく、契約者は共同体に対し義務が生じたのである。このような複合関係が成立したからこそ、契約が可能となったのである。  「父母の命、媒酌の言」ということばで示されたように、親の取り決めによる結婚は一種の契約として媒酌人の介在によってはじめて成立するのである。この契約を可能にするには単に「信」にだけ頼ってはいけないことに気付き、「父母の命、媒酌の言」を強調した孟子もやはり結婚という契約過程への参加において媒酌の文化的な意味を認めたのであろう。  媒酌が契約過程への参加を意味することは媒酌の儀式と媒酌の責任からも窺える。『儀礼(ぎらい)』の「士昏礼(しこんれい)、疏(そ)」によると、婚姻には六種類の儀式があり、それぞれ納采、問名、納吉、納徴、請期、親迎という。「納采(のうさい)」は媒酌人が結婚の意思を女性の家に伝え、女性の家の承諾を得る儀式で、「問名(もんめい)」は男の家が書を備え、使者を遣わして女の生母の姓名を問う儀式である。「納吉(のうきつ)」は男性側が祖先を祭る廟で占いをし、吉の結果をえれば、使いの者が女性の家に知らせ、結婚を決める礼である。「納徴(のうちよう)」とは男の家から女の家へ結納の贈物を送り、婚約成立の証とする儀礼を言う。「請期(せいき)」は男の家の者が女の家へ行って求婚の期日を乞うことであり、「親迎(しんげい)」は婿がみずから花嫁の家に行って嫁を迎えてくることである。そのなかで媒酌の権威を示す「納采」の儀式はもっとも重要な段取りで、ほかの儀式の前提となっている。「問名」、「納徴」、「請期」などの契約の具体的な手続きはすべて媒酌という社会行為のうえに行われ、また媒酌人は実際六種類の儀式にほとんど全部介入していたのである。社会的な身分の低い人や、あるいは経済力のない人の場合は必ずしもこの六種類の儀式をすべて行うとはかぎらない。しかし規模の大きさの違いがあっても、一般に「納采」という儀式は省略しないし、また省略することもできない。  媒酌の制度は男女隔離のうえに成り立ったものだが、それがまた逆に男女交際の禁止をいっそう強化した。その結果、婚前の恋の可能性はますます小さくなり、男女のつきあいや感情の交信は結婚内にしかありえなくなったのである。 3、漢民族の恋の原型  春秋戦国時代から六朝までの詩文を読むと、恋をあつかう作品のなかに夫婦の情を描いたものが非常に多いことに気付く。もちろん、例外がなかったわけではない。たとえば春秋戦国時代の『楚辞』、また人間と妖怪の恋を描いた六朝の志怪小説の一部などがそうである。それ以外の作品では恋がおもに夫婦のあいだの情を表現しており、恋の情緒は暗黙のうちにもっぱら結婚という制度によって保証された男女のあいだの情感を指している。  もう一つの注目すべき点は恋を表現する場合のジャンルの偏りである。漢代まで、恋はおもに賦や詩などの韻文によって描かれており、六朝になってやっと散文による恋の描写があらわれたのである。どちらの場合も、閨房のなかの恋、つまり夫婦のあいだの情を歌ったものが主流を占めている。唐代になって未婚男女のあいだの恋がやっと詩文表現の射程内におかれるようになったのである。  閨房のなかの恋を詠んだ詩はおおむね二種類に分けることができる。一つは夫婦の和合を歌ったもので、もう一つは夫と離別した妻の思慕の情を歌ったものである。両者とも古く『詩経』のなかにすでにあらわれている。『詩経』「鄭風」には「女曰鶏鳴(じよえつけいめい)」という詩がある。 女曰鶏鳴 女はいう 鶏が鳴きましたよ 士曰昧旦 男はいう もう夜も明けたか 士興視夜 あなた出て夜のようすを見てごらん 明星有爛 暁(あけ)の明星が輝いていることよ 将将翔 そこらあたり駆けめぐって 弋鳧与鴈 鳧(かも)と雁(かり)とを射(い)て来(き)ませ 弋言加之 いぐるみで鳥(とり)に中(あ)てて獲(え)たものを 与子宜之 調理して御馳走を作りましょう 宜言飲酒 それを肴(さかな)にして酒を汲(く)み 与子偕老 そなたと偕老(かいろう)の喜びをつくしましょう 琴瑟在御 琴も側(かたわら)に離れずに 莫不靜好 静かに和(やわ)らいだ音(おと)をたてる (後略)  夫婦のあいだの親密な情を歌った詩である。『詩経』の時代にはこのような詩は男女のあいだのさまざまな感情を詠んだ詩のなかの一首に過ぎず、とりわけ夫婦のあいだの情を強調しようとしたものではない。また『詩経』では夫婦や恋人あるいは愛人などの分類はまだそれほど重要ではなく、いわゆる健全な道徳の見本とされた夫婦のあいだの崇高な感情を描く場合も、淫奔者同士の恋情を描く場合も恋の感情を表現する方法においてはたいした変わりはない。重要なのは後世における受け取り方である。先行作品の情緒表現の継承における後の時代の偏った選択の趣味は『詩経』のなかの夫婦の情を描いた詩に特別な重みを与えたのである。  その偏った趣味の形成は親の取り決めによる結婚と深いかかわりがある。中原文化のなかで「父母の命、媒酌の言」による結婚が定着し、男女が隔離されるようになるにしたがって、婚前の恋はしだいにむずかしくなった。詩が文人の特権的な表現手段になってから、未婚男女の恋は詩の表現対象から排斥され、散文のなかでも唐代にいたるまでその占めるべき位置はえられなかったのである。  一方、あたかもその代償のように閨房内の恋を詠うことが、ほとんど男女のあいだの感情を表現する唯一の手段としてますます多く用いられるようになった。夫婦の和合を詠んだ詩だけでなく、辺境の警備や遠征、徭役(ようえき)などさまざまな原因で遠くへ出かけていった夫を思慕する若い女性の思いを歌った詩も多く作られた。もとをたどればこれもまた『詩経』のなかにその原型を見いだすことができる。『詩経』の「周南」には「巻耳(けんじ)」という詩がある、 采采巻耳 野辺に出て耳巻(みみな)を摘み取るに 不盈頃筐 なかなかに小さいかごにも一杯に盈(み)たぬ 嗟我懐人 ああ われは遥かに遠征の人を懐(おも)うて 彼周行 暫(しば)し筐(かご)を路傍に置いて思いに耽(ふけ)る 陟彼崔嵬 かの岩石(がんせき)の険しい山を登って行けば 我馬 我が馬も疲れてよたよたとする 我姑酌彼金罍 われは暫し金樽(きんそん)の酒を酌(く)んで 維以不永懐 心の憂(う)き懐(おも)いを忘れよう (後略)  同種類の詩は「巻耳」のほかに「伯兮(はくけい)」、「君子于役(うえき)」などいくつもある。同じ閨房内の恋を詠うものでも、夫婦の和合の詩に比べると、夫婦の離別の悲傷を歌う伝統は後の時代により多く継承され、数多く詠まれた。それは古代中国においてさまざまな原因によって夫婦の離別が日常的に起きていたこととも深い関係がある。が、一方では媒酌による結婚の成立が情緒表現の方向を左右し、感情発露の範囲を狭めたのがより重要な原因の一つとなっている。儒学が中原文化の中枢部まで浸透し、文人がほとんど儒学者であるということは、感情表現の重要な手段としての詩文から儒学倫理の許容範囲以外の恋をすべて追放したことを意味する。事実、閨房内の恋、なかでも夫婦の離別の悲しみを詠った詩について漢代以降の例をあげる必要はない。清代まで延々と続いたこの詠唱の流れのなかにそうした例はあまりにも多いからである。夫婦のあいだの相思は後々の時代まで恋の感情表現の重要な部分であり、後には「閨怨」「宮怨」といった詩題を生み出すにいたったのである。 4、結婚による民族の混血  閨房内の恋を讃美する精神は中原文化の特徴であり、生活実践における儒学の結実である。  親の取り決めによる結婚は最初は中原地区の中心部で確立され、その後しだいに周辺の部分へ拡大されていったと考えられる。春秋時代には中原地区の中心部においてすでに「父母の命、媒酌の言」による結婚が成立したにもかかわらず、文化の中心から離れたところ、とくに「夷、蛮、戎(じゆう)、狄(てき)」に近い周辺部にはすぐには波及していなかったようだ。それどころか、儒学道徳とまったく相反する両性関係もしばしば見られる。  『左伝』には親族関係の姦通がいくつか記述されているが、比較的関係の遠い者のあいだの姦通をのぞいて、兄妹、舅と嫁、叔父と姪などの近親相姦が四例ほど記述されている。晋の国の例(趙嬰(ちようえい)とその甥の妻の姦通)はそのなかの一つで、楚の国と関係のある例(蔡景公(さいのけいこう)と楚国からもらった太子の嫁との姦通)も一つである。そして斉の国と関係のあるのは二例(斉襄公(せいのじようこう)とその異母妹との不倫および斉悼公(せいのとうこう)の妻とその叔父の姦通)記載されている。  『国語』「晋語八」には、晋の国は「戎狄の人たちが取り囲んだところ」に位置しているとあり、また『左伝』「昭公十五年」によると、晋の大臣は周の景王のまえで、自分の国が深い山のなかにあり、異民族の地——戎狄に隣接し、周の王室から遠く隔たっていると言っている。そして、建国の初期には国を築いた地——夏虚(かきよ)(現在山西省夏県の東北)には戎族の人たちが多いので、「啓(みちび)くに夏の政(まつりごと)を以てし、疆(さかい)するに戎(じゆう)の索(のり)を以てせり」(『左伝』「定公四年」)、つまり中原の政治を用いて民を治めるが、法律は戎のものを用いた。  一方、楚の武王(紀元前七四〇〜六九〇年)はみずから「蛮夷」と称しており(『史記』「楚世家(そせいか)」)、中原地域と異なる文化を持っていたことを公言して恥じない。斉の国は東のはずれの方にあり、また蔡の国は地理的に楚に近い。後者はつねに楚の脅威下にあり、楚文化の影響をかなり受けていた。儒学倫理に反する近親相姦はほとんどの場合、中央から離れた国に起きていた。この傾向はそのほかの姦通例にも見られる。『左伝』の記述内容は国の運営とかかわりのあるものに偏っている嫌いがある。とはいえ、このような地域的な特徴はやはりただの偶然だけでは説明しきれない。  当時のそれぞれの小国のなかにも文化水準の不均衡が見られる。『漢書』巻二十八「地理志・下」によると、秦の国が位置していたところは「五方雑錯し、風俗は純ならず」、つまり四方八方から集まってきたさまざまな人々がいりまじり、習俗は純粋ではなかった。由緒ある名族は礼、文を好むが、豪傑は任侠や密通などを好むという。  また鄭の国については土地が狭く地理的位置が険しく、人々がみな山のなかに住んでいると言い、男女はよく逢い引きをし、その風習はかなり淫らだと記されている(『漢書』巻二十八「地理志・下」)。  燕の国も男女関係においては非常に解放的で、お客さんがくるときには接待として妻や妾を客と寝させる。そして結婚式をあげる夜には男女の区別なく、みな自由につき合うことができたという(『漢書』巻二十八「地理志・下」)。  秦代の大統一のあと、中原文化圏の拡大により、夷、蛮、戎、狄と称された地域はしだいに後退し、その一部は中原文化圏にとけ込んだ。『漢書』「地理志・下」には「武威から西の部分は匈奴の領地であったが、漢の武帝がそれを支配下におき、四つの郡を設置した」とあり、また、巴(は)、蜀(しよく)、広漢(こうかん)(いずれも現在の四川省にある)はもとは南夷(異民族の地)であったが、秦はそれを合併し郡を設置した、とも記している。中原政権に併呑された異民族の地域では結婚制度をはじめ中原文化のさまざまな要素がしだいに吸収された。それに対し後退した辺境民族の地ではもとの生活様式がたもたれ、儒学倫理にもとづく結婚制度は最後まで受け入れられなかった。ただ、中原政権の支配下に入れられた地区でも中原文化の吸収は緩やかな過程であった。このように中原地域のなかでも、また周辺民族の地域でも、ある特定の歴史時期にかぎって見ると、地域と地域のあいだの差異は非常に大きい。  このような差異から古代中国の道徳状況と、儒学の倫理制約性についてしばしば二つのまるっきり反対の結論が引き出される。人々はあるいは中国では古来儒学の束縛が非常にきびしかったといい、あるいは古代の現実生活のなかで儒学はほとんど機能していなかったという。しかし、この二つの結論はどちらも一面的でしかない。差異の遍在はむしろ文化の体質そのものを示している。またまさに差異があったからこそ儒学の有効性が証明されたのである。言い換えると古代中国における文化の不均質は儒学の先進性と有効性を際立たせ、儒学倫理の寿命を伸ばしてしまった結果となったのである。  もう一つ見逃してはならないのは、儒学に対する態度はそれぞれの民族の文化形態の異同を示す指針となったということである。儒学道徳を守るかどうかはときには異なる民族の文化の衝突を意味している。儒学が思想的版図を広めたことは周辺の少数民族が中原文化に侵食されたことを意味し、逆に異民族の移民や混血などにより周辺民族の文化が漢民族文化のなかに持ち込まれたときには中原文化は当然周辺民族の文化の影響を受けざるをえなかった。恋や婚姻においてはそれは周辺部族が儒学の結婚制度を受け入れるかどうか、あるいは逆に中原地域が周辺民族のより素朴で、しかしより奔放な恋や婚姻慣習の影響を受けるかどうかに反映される。  周辺民族と漢民族の結婚は漢民族の文化を変質させた大きな原因の一つと考えられるが、このような異なる民族のあいだの結婚は古くからあり、しかもずっと後まで続いていた。  中国では文字資料によって実証できるもっとも古い時代は周代である。夏についての記述はほとんど伝説に留まっている。商(殷)については甲骨文があるものの、それは歴史を記録したものではない。夏と同じように商に関する『史記』などの後世の史書の記述には不明な点や疑問点があり、その歴史を明らかにするにはなお十分な裏付けはえられない。しかし、史書の記述のなかでも周以降の部分となるとかなり正確である。  周は夏、商と同じように従来漢民族の起源とされている。ただ夏、商、周はそれぞれ起源の異なる部族で、のちに領土の統一によって一つの民族に合流されたと考えられている。『史記』巻四「周本紀」によると、夏の末頃に政治の混乱により、周の人たちは「戎狄」の居住地区に大挙して移住した。ここで言う戎狄は必ずしも一つの民族の名称ではない。中原と異なる民族をひっくるめて戎狄と称したことがしばしばあったからである。彼らは現在の甘粛(かんしゆく)省慶陽(けいよう)県のあたりに居住しており、地理的に近かった周とはその後も密接なかかわりを持っていた。『史記』巻四「周本紀」によると、かつて戎狄が周の所轄下の土地と住民を略奪しようとしたが、周の首領古公は民衆に苦しみをもたらす戦争を避けるため、戎狄の要求したとおりに領地を譲った。周が中原に進出し黄河中流地域の支配権を持つようになるのはそれよりずっと後のことである。  ところが、中原地域を支配するようになってからも、周王朝はなおも周辺民族とさまざまな関係を持っていた。『左伝』によると、僖公(きこう)二十四年(紀元前六三六年)に滑(かつ)の国が鄭の国との約束を破ったため、鄭の公子士泄(しせつ)が軍を率いて滑の国を攻撃した。それを知った周の襄王(じようおう)は二人の大臣を鄭の国に遣わし滑の国を許すよう要請した。ところが当時の周と鄭の国はかたちの上で上下関係ではあるが、周の襄王はもはや実権を持たなかった。鄭伯は周の襄王の命令にしたがわなかったばかりでなく、かえって周王の二人の大臣をとらえてしまった。立腹した周の襄王は狄の国に出兵させて鄭を征伐させた。狄は勝利を収め櫟(れき)というところを攻め取った。周の襄王は狄の王に感謝しその娘をめとって王后にしようとした。  周の襄王が狄の王女を后にするのは当時中原の人たちと戎狄の人との結婚がめずらしくなかったことを物語っている。事実狄の王女を王后にしようとする周の襄王のやり方に大臣の富辰が反対したのは、王女が狄の人だからではなく、女の性情が放恣にして止まることを知らず、君の寵愛をいったん失った後に恨みは非常に大きいということを理由にあげたのである。  『左伝』には中原の民族と戎、狄など周辺の民族の結婚がほかにも多く記述されている。荘公二十八年(紀元前六六六年)に晋献公は戎から二人の娘をめとった。まもなく晋は驪戎(りじゆう)を攻撃し、晋の攻撃を恐れた驪戎の王は娘の驪姫(りき)とその妹を晋献公に嫁がせた。この四人はそれぞれ息子を生んだが、驪姫だけが晋献公に寵愛されていた。のちにその「枕元攻勢」が効を奏し、驪姫が生んだ子奚斉(けいせい)は太子に立てられた。奚斉は周辺民族の血を引いていたにもかかわらず、晋献公(しんのけんこう)は彼を政権の継承者とするのに少しもためらわなかったのである。  一方、晋献公と戎の娘狐姫(こき)とのあいだにできた子重耳(ちようじ)はのちに驪姫に追われ都を去り、僖公二十三年(紀元前六三七年)に狄に亡命した。狄の王は赤狄を征伐しその娘叔隗(しゆくかい)と季隗(きかい)の二人をとらえ、晋の公子重耳に夫人にするよう献上した。重耳は妹の季隗を妻に選び、狄に十二年間留まった。後に帰国し位を継承して晋文公となったとき、狄は季隗を晋に送り届け、そのかわり重耳と季隗のあいだにできた二人の子を引き取った。  諸侯だけでなく、大臣たちも異民族の人と婚姻を結んだ。重耳が亡命したとき、随行していた趙衰(ちようし)は季隗の姉叔隗をめとり、一子をもうけた。趙盾(ちようとん)である。後に晋文公は娘を趙衰に嫁がせたが、彼女はみずから趙衰に叔隗を正妻にし、趙盾を嫡子にするよう申し出た。趙盾の母は異民族の出身ではあるが、そのことは趙盾が宰相になることに何の障害にもならなかった。  秦の国も建国したばかりのときには中原から離れたところに位置し、戎と強いつながりを持っていた。『史記』によると、秦は黄帝の末裔だが、ただ同じ『史記』のなかで匈奴のことも夏の末裔と言っているから(巻百十「匈奴列伝」)、はたしてどのぐらいの信憑性があるかは疑問である。一説では秦の公族の先祖は夷で、大陸の西部に移ってから、戎、狄の人たちを吸収して発展してきたのだという。『史記』巻五「秦本紀」のなかでは、秦の子孫たちは中原にいたのもあったし、夷狄にいたのもあった。また司馬遷は巻二十七「天官書」のコメントのなかで「秦、楚、呉、越は夷狄なり」と言っているから、秦が戎、狄など周辺の民族と血のつながりがあったことはまちがいない。  周辺民族に近かったためか、魯など中央部の国に比べると秦は男女関係においても比較的おおらかで、結婚にはそれほどきびしい制約はなかった。『左伝』「僖公二十三年」によると、晋の国の公子重耳(前述、後の晋の文公)が秦の国に亡命したとき、秦穆公(しんのぼくこう)は一度に五人の女を重耳に嫁がせたが、そのなかに娘の懐(かいえい)も含まれている。彼女はかつて重耳の甥にあたる晋の懐公(かいこう)の妻であったが、人質であった晋の懐公が国に逃げ帰ったときに彼女を秦の国に残したので、父親である秦の穆公はその娘をまた重耳と結婚させたのである。同じ女性を相前後して甥と叔父に嫁がせることに対し、秦穆公も重耳もまったく問題にしていなかった。  『史記』巻六十八「商君列伝」のなかで商鞅(しようおう)は「以前は秦の風習は戎、狄と同じで、父子の別なく同じ妻を共有していた。今では私がその風習を改めて新たな制度にし、男女の区別を立てた」と言った。秦孝公(しんのこうこう)の時代まで秦ではまだ儒学の影響を受けておらず、文化の面では戎、狄に近かったことが窺える。『史記』にあるように、秦孝公の時代に風習の改革が行われた。しかし、商鞅の改革は異民族との婚姻を禁止したものではない。秦昭襄王(しんのしようじようおう)のときに昭襄王の母である宣太后(せんたいこう)が義渠(ぎきよ)の戎王(じゆうおう)と不倫関係を持ち、二人の子をもうけたことがその一例である(『史記』巻百十「匈奴列伝」)。  『左伝』や『史記』では一般民衆のあいだの結婚についてほとんど触れることはない。しかし、異民族の影響をもっとも警戒するはずだった支配階層の人でさえ異民族と婚姻関係を結んでいたのだから、一般の民衆はさらに抵抗はなく、異民族のあいだの結婚はごく普通のことであったろう。  このような結婚による民族の混血は秦代が成立するまでのあいだは非常に盛んだったが、秦王朝が中原を制覇し統一国家を樹立させた後、中原地域と周辺地域との対立構図ができあがり、民族意識もしだいに明確になった。秦の中国統一は戎、狄から脱却し中原文化に融合したことを意味していた。やがて万里の長城に象徴される民族間の断絶が生じ、異民族のあいだの直接的なつきあいはますますむずかしくなった。史書の記述を読むと、強固にして広大な国土を持つ統一国家秦が成立した後、異民族のあいだの結婚は目立って少なくなり、漢代になると中原と周辺の関係はさらに文明と野蛮の対立として誇張され、異民族の男女のあいだにかつてあったようなつきあいと結婚も少なくなったのである。  中原の民族と周辺の民族の結婚は、上層階級同士と一般民衆同士の二種類に分けられる。ただ史書のなかで前者についての記録がわずかに残っているだけで、後者については無視されたかあるいは意識的に忌避されていた。したがって後者についての資料を見つけるのはほぼ不可能である。上層階級の異民族間の結婚はほとんどの場合、政略か利害関係が絡んでおり、一般に男女間の感情の介在はなかった。それに対し一般民衆のあいだの結婚は感情介在の可能性が非常に高いと思われる。しかし、古代において詩文という特権的な表現方法はほとんど全部中原の士大夫階級に独占されていたため、詩や散文文学のなかにも一般民衆のあいだの恋は描かれていない。  ただ一方では異民族とのあいだの恋や結婚によって獲得された新しい感情表現の方法は、一つの伏流として中原文化の体内に蓄積されたことは十分にありえただろう。事実、後に戦争などにより異民族間の行き来が再び盛んになったとき、それはかたちを変えて洗練された表現の場をえ、また異民族の文化の吸収をスムーズなものにしたのである。 【第二章】 人神の恋 ——南方の歌垣から 1、放浪する恋人  長い歴史期間のなかで中原の民俗、風習が隣接地域に浸透した例が数多くみられる。一方、周辺の民族あるいは部族の自尊心、独立意識のために中原の風習がかえって拒まれた場合も少なくない。とりわけ蛮地とされたところに生活していた人たちのあいだに中原文化に対抗しようとする意識がつねに根深く残っていた。残念なのはそうした部族や民族のことばによる記録はまったくないことである。なぜなら、少なくとも漢代までは東アジア大陸において中国語にしか文字がなく、ほかの多くの民族にはことばはあっても文字はまだなかったからである。しかし、周辺の地域にも中国語で書かれた作品はあり、それは中原文化の影響を受けた人たちによって執筆されたものである。また数は少ないが、「越人擁楫歌(えつじんようしゆうか)」のように中国語に翻訳された作品もあった。前者は中国語の文字を用いたため、当然、儒学文化の価値観や審美意識による侵食がある。にもかかわらず、そうした作品をよく吟味すると、やはりそのなかから中原と異なる文化の匂いや雰囲気を感じ取ることができる。  恋の情緒表現についても同じことが言える。そのもっともよい例は屈原の書いた「離騒(りそう)」や「九歌(きゆうか)」などの詩である。屈原(紀元前三四三年頃〜二二三年頃)は戦国時代末期の楚国の人で、はじめは楚の懐王に仕え、その抜群な行政手腕により厚い信任をえた。ところが、そのたぐいまれな才能がまわりの人にねたまれ、ほどなくして同僚の讒言により楚の懐王の怒りを買い僻地に追放された。「離騒」は屈原が追放された後に詠んだ詩である。  楚の文化と中原文化とは異なっており、またかつて楚に居住していた人々が中原の人たちと同じ部族、あるいは同じ民族ではないことは現在すでに常識となっている。楚の国の人は二つに分けなければならない。一つは土着の人たちで、もともと完全に中原と異なる民族である。もう一つは楚の地を征服した中原から移住した人たちである。彼らは楚の国に定住してから土着の民族に同化された部分もあろうが、中原と共通するところも少なくない。ここでいう楚の民族あるいは南方民族は、おもに土着の人たちを指す。  楚の国のことばも同じように二つの系統があると考えられる。中原から移り住んだ人たちが使っていたことばと、土着の楚のことばである。後者は中原のことばと異なり、しかも一種類ではないと思われる。『左伝』「荘公二十八年」には次のようなエピソードが書かれている。あるとき楚の国が鄭の国を攻めたが、鄭の内城の門はあけたままになっており、鄭の兵卒たちが「楚言」つまり楚のことばで話しながらなかから出てきた。楚の統帥は、鄭が楚の進攻に備え事前に楚のことばを話せる兵卒を配置して待ち伏せをしていると思い込み、さっそく撤兵してしまった。ここの「楚言」は楚に定住した中原の人たちのことばなのか、それとも土着の民族のことばなのかは詳らかでない。もし後者なら、まちがいなく中原のことば——つまり古代中国語——と異なる言語である。  また『左伝』などに記録されているわずか十数語の楚の語彙(発音記号としての漢字によって記録されている楚のことば)は中原のことばの語彙とまったく類似するところがない。楚のことばと中原のことば=中国語とはもともと異なる民族言語であったが、楚の人たちが中国語の典籍を読み、中国語の文字を使っているうちに、彼らの民族言語はついに中国語に同化されてしまったと言われている(張正明著『楚文化史』)。代々楚の地に生活していた土着の民族の言語にかぎっていえば、楚のことばが中国語と同じ源流ではないという推定はほぼまちがいないであろう。  興味を引くのは中国語と異なる楚の言語表現を取り入れ、楚の地の民俗を素材としてふんだんにとりあげた「離騒」などの詩にあらわれた恋の情緒表現である。「離騒」のなかに土俗信仰にもとづく幻想的な場面がいくつも出てくる。それは恋人の神女をもとめて天地のあいだを遍歴する過程を描写するもので、人間の男性が女性の神を追い求める情景は次のように描かれている、 吾令羲和弭節兮 私は太陽の御者羲和(ぎか)に車の速度をとめて、 望而勿迫 日の入る(えんじ)の山を遠く望みつつ近づかないようにさせ、日没をさまたげた。 路曼曼其脩遠兮 路ははるばるとして長く遠いが、 吾将上下而求索 私は上ったり下ったりして美人をさがし求めようとする。 (中略) 前望舒使先駆兮 月の御者望舒(ぼうじよ)を前に立てて先駆させ、 後飛廉使奔属 風の神飛廉(ひれん)を後に従えて走りながらついて来させる。 鸞皇為余先戒兮 鸞(らん)と鳳凰とはわがためにさき払いをし、 雷師告余以未具 雷神は供ぞろえがまだ十分でありませんという。 (藤野岩友訳注『楚辞』による、以下同様)  これまで『楚辞』と『詩経』の相違、『楚辞』の浪漫的な抒情は批評家たちに共通して認められたものの、二つの詩歌アンソロジーはともに儒学精神の具現だと見なされてきている。『文心雕龍(ぶんしんちようりよう)』を著した劉(りゆうきよう)が『詩経』と『楚辞』を比較し、屈原の「離騒」を楚王の悪政を風刺したことで高く評価したのはその典型的な例である。が、『楚辞』にあらわれた感情表現の特殊性、とりわけ「離騒」「九歌」のなかの恋の情緒はおよそ中原文化にありえない要素をたぶんに含んでいることはほとんど気づかれずにきた。  これらの詩のなかに描かれた恋は長いあいだアレゴリーとしか見られなかった。つまり詩のなかの美人は君主の隠喩で、かなわぬ恋は臣下が君主の寵愛をえられないことのメタファーである。中原文化のなかにおいてはたしかにそのような見方に導かれやすく、またじっさいそのような解釈しか許されなかっただろう。一方、中原文化の影響を受けた屈原が恋をアレゴリーとして用いた可能性もまったくないとは言い切れないかもしれない。  しかし、寓意として描かれたあの奔放な恋情と男女のあいだの交際の自由はやはり楚国の文化という特定の条件のもとでしか生まれない。好きな女性を求めて天上か地下かをとわずどこへも訪ねていき、どのような苦労をも辞さない男の心中がかくも大胆にしかしごく自然に表出されているのは驚くべきことである。そこには「父母の命、媒酌の言」などのような儒学の思想の束縛はつゆ見られず、中原の文人詩にあるような儒学道徳に対する配慮はみじんもない。同じく「離騒」のなかに、 苟中情其好脩兮 ほんとに心中に潔らかなことを好んでいたならば、 又何必用夫行媒 そのうえにどうして仲人などを用いる必要がありましょうか。 という詩句があり、ここの「行媒」(媒酌人)は比喩として用いられているとしても、「媒酌がいらない」という考えがあることには変わりはない。とすれば、中原の婚姻風習と異なる文化意識が示されることになる。それは一方では楚国の社会現実を再現したものであり、一方では南方民族の文化の正当性を主張するものでもある。『詩経』の詩を読んだはずの屈原はおそらく「斉風・南山」の「妻をめとるには之を如何せん、媒にあらざれば得ず」を思い出しながら右の詩句を口ずさんだのであろう。たとえ屈原の詩のなかで自由な恋がアレゴリーとして用いられたとしても、楚の文化のなかで男女のあいだの自由な交際や恋が日常的なことであり、けっして中原のように非道徳的な行為と見なされていなかったことには変わりはない。  この点は『詩経』のなかの淫奔を風刺する詩と言われる作品と比べると、いっそうはっきりする。中原ではそもそも漢代まで未婚男女のあいだの恋を詠んだ詩は『詩経』にしかなかった。そのなかに「正当な恋」とされたものはごくわずかで、ほとんどはいわゆる淫奔を風刺する詩とされている。もちろん淫奔云々とは、後世の人たちが儒学の道徳基準で断罪したものに過ぎない。しかし、新しい結婚制度が確立された中原では自由な恋は道徳からの逸脱であり、詩のなかでけっして讃美の対象になりえないのもまた事実である。「父母の命、媒酌の言」という「文明」に対し、自由な恋は通り過ぎた「過去」の遅れた風習と認識されることがあっても、けっして社会の「進歩」を意味するものにはならない。それだけに、憧憬の対象や未来のヴィジョンにはなりにくい。だから、同じく自由な恋でも、中原の詩では多くの場合「礼」にたがう駈落ちとしてしか表現されない。また、たとえ恋として描かれても、書かれた作品は淫らな風習に対する風刺としか読まれない。それに対し、「離騒」や「九歌」などは淫奔を風刺する詩として読まれる余地はまったくないのである。  一方、『詩経』のなかに自由な恋を描いた詩は量のうえでも数が少なく、恋の詩と思われるもののなかでも夫婦の情を詠んだ作品の方がはるかに多い。それに対し、『楚辞』の「離騒」と「九歌」の恋の詩は「父母の命、媒酌の言」とまったく異なるかたちの恋を描いており、逆に夫婦の情を詠った詩はまったく見あたらない。  『詩経』では異性への思慕をくりかえし詠唱するのが恋のただ一つの表現手段であるのに対し、『楚辞』では恋人を求める心はさまざまな空想的な試練と、そうした試練に果敢に挑戦する男の姿を通して表現されている。この点においても両者は対照をなしている。恋は男にとって一つの試練の過程であるという点を暗示したのは『楚辞』がはじめてではなかろうか。  太陽の車の速度をとめ、日没を遅らせるなどのレトリックは神話や土俗信仰に起源を持つだろうが、理想的な女性を捜し求めるために日、月、風の神など超自然的な力の借用をも辞さないという発想はそれまでの中原の文学にまったくなかったものである。  次々と恋の対象を変えるのも「離騒」に描かれた恋の特徴の一つである。「離騒」のなかで「わたし」は最初伏羲(ふつき)氏の娘を追い求めたが、「彼女は自分の美貌をたのみにしておごりたかぶり、毎日安んじ楽しんで遊びにふけっている(厥(そ)の美(び)を保(たも)ちて以(もつ)て驕傲(きようごう)し、日(ひ)に康娯(こうご)して以(もつ)て淫遊(いんゆう)す。)」。それを知った「わたし」は失望し、「彼女はほんとに美しくはあるけれども礼儀をわきまえていない、さあ、こんな女は棄ててしまって、外のお方をさがそう(信(まこと)に美(び)と雖(いえど)も礼無(れいな)し。来(き)たれ、違棄(いき)して改(あらた)め求(もと)めん。)」とあきらめ、またほかの女性を求めて旅を続ける。 覧相観於四極兮 四方のはてを見わたして、 周流乎天余乃下 天をあまねく巡ってから私は地に下った。 望瑶台之偃蹇兮 遥かに玉のうてなの高々としたのを眺めたが、 見有之佚女 そこに有(ゆうじゆう)氏の美女を見つけた。  こうして詩人は宇宙を旅しつづけるなかで有国の美女に出会い、彼女に一目ぼれした。が、それもつかの間、胸中を告白しようかすまいかと迷いためらううちにまた有虞(ゆうぐ)国の姚(よう)氏の二人の姫が好きになった—— 欲遠集而無所止兮 遠いところへ行ってしまおうと思うが、止まるあてもないから、 聊浮遊以逍遥 しばらくぶらぶらとあたりをさまよいまわろう。 及少康之未家兮 少康(しようこう)が娶らないうちに間にあわせて、 留有虞之二姚 有虞国の姚氏の両女を引きとめたいものだ。  しかし優柔不断の「わたし」は女性を口説ける自信はなく、思い悩んだすえみずから身を引くことにした。思いがなかなか叶わぬ詩人は巫の占いにしたがい、遠遊を決意した。  恋人を求めて遠くへ旅をし、さまざまな美しい女性に出会いながら、意中の人は思うように見つからない。次々と交際相手を変えては新しい女性に情を移していく。このような「自由な恋」はもちろんのこと、恋人を訪ねて天下を放浪するという恋の形態も『詩経』にかぎらず、ほかの中原の詩文にもまったく見られないのである。 2、南方の民俗と恋  現在、春秋戦国時代の中国大陸に居住していた南方民族に関する民俗資料はほとんど残されていない。当然のように恋の風習についての記録もあるはずはない。この意味で屈原の「離騒」や「九歌」は南方民族の生活を知るうえで貴重な資料となる。それらの作品は中国語で書かれているにもかかわらず、そのなかに楚の地に住んでいた原住民の風習が多く描かれているからである。とりわけ今日ではもはや知ることのできない、南方民族の恋の風習を照らし出した点においては他に比肩できるものはない。  ところが、そもそも屈原は恋を描くためにそれらの詩を書いたわけではない。また中原の文化に染まっていた屈原は創作過程においてむろん素材に対する取捨選択や芸術的な加工を行ったはずである。したがって、「離騒」や「九歌」のなかにあらわれたのはあくまでも南方民族の恋の風習の残像であり、楚の文化の一つの断面図に過ぎない。その二つの作品だけで当時の楚の人たちの恋の全貌を復原しようとするのははなはだむずかしい。  一方、中原の史家たちによって書かれた楚の歴史はすべて儒学の価値観のふるいにかけられている。もともと民俗や民衆の生活の記録にほとんど興味を示さなかった歴史家たちは中原と異なる風習に余分な好奇心を持つことはありえない。他方、考古学の発掘調査による新しい発見はほとんどの場合物質文明を検証するための証拠となるだけで、古代の人々の感情生活の究明に役に立つ材料はなかなか提供できない。  しかし、文字や実物による資料がないとはいえ、まったく証拠がないわけではない。現在かつての楚の地あるいはその近くに住んでいる少数民族のなかには古代の風習がなお色濃く残されていると思われる。それらの生きた証拠はわれわれにさまざまなヒントを与えてくれる。  戦国時代に楚の国に居住していた異民族たちは秦代以降になると、大部分は中原の民族のなかに融合し、後の漢民族の一員となった。一部分は奥地に後退し、現在の(トン)族、壮(チワン)族、苗(ミヤオ)族、瑶(ヤオ)族などとなっていると思われる。それらの民族の文化や風習は千年以上の歴史のなかで一定の変化があったとはいえ、地域的に中央から離れた山のなかにあっただけに、むかしのしきたりや民俗はいまでもまだかなり残されている。彼らの今日の風習から少なくとも古代少数民族の民俗の一側面を推し量ることができる。  林河は『「九歌」と湘(げんしよう)民俗』という著書のなかで、楚の遺民の一つと思われた族の民俗から「九歌」の新しい解釈を試みようとして、さまざまな新説を打ち出した。その説にまったく疑問がないわけではないが、「九歌」の背景となった地域に住んでいる現在の少数民族の民俗を「九歌」の解読の視野に入れたこと、また「九歌」のなかに巫と神との歌合わせの要素があるという指摘には耳を傾けるべきものがある。  兪頂賢が編集した『中国各民族婚俗』には現代中国の少数民族の恋や結婚について多くの調査結果が集録されている。それによると、かつての楚の国の領域内で現在の湖南省、湖北省に居住している族のあいだにいまでも古い恋の慣習が残っている。族は居住地域によっては多少風習が異なるが、同時に多くの共通点もある。  現在の貴州省と湖南省の境に住んでいる族の青年男女は、立夏(太陽暦五月五日か六日)、端午(旧暦五月五日)、中秋(旧暦八月十五日)、重陽(ちようよう)(旧暦九月九日)などの節句になると、泉や樹木の多い静かな山あいに集まり、歌垣が行われる。若い男女はきれいに着飾り、なかには数十キロ離れたところから駆けつける若者もいるという。歌垣を通して青年男女が互いに知り合い、気に入る相手がいれば、手拭などの贈物をわたしたりする。それから二人はともに食事をし、次回のデートの約束をする。意中の人がいなければ、ほかの歌垣に出かけて行く。地域によっては歌垣の日は決まっておらず、夜になると、青年たちが三々五々ほかの集落へ若い女性を訪ねに行くこともある。それは族の人たちの恋のおもな形式だという。  壮族は内部構成がやや複雑で、なかには北から流れてきた漢民族の人たちも含まれている。しかし、民族の古い伝統を守っているところもあり、それらの地域では青年男女はともに社交の自由がある。農閑期や縁日あるいは祭日になると、彼らは「歌墟(かきよ)」という場所に集まり、歌垣を行う。「歌墟」では若い娘たちがみな晴れ着や新しい靴、新しいずきんなどを身につける。恋人をさがそうとする青年男女のあいだのすべてのコミュニケーションは歌によって行われ、会話をすることは避けられている。  歌の内容は交際の深さによって異なり、初対面の歌から別れの歌まで全部で七、八種類ものパターンがある。歌詞は即興的に作られ、ほとんどは目のまえの情景に合わせて歌う者の気持ちを率直にあらわすものである。その場で歌を作ることは相手の才知を知る手段でもあるから、歌うことも与えられた試練の一つである。男女が見知らぬ場合、まず男が女に対し誘いの歌を歌い、女性はすぐそれに応じてはいけない。応えの歌を歌うと、同意を意味するからである。夜になると、男女一組ずつに分かれ、双方は恋の歌を歌って心中の思いを表現する。  湖南省武陵山などの地域にある苗族のあいだにも同じような歌垣の行事があり、青年男女はさまざまなかたちの歌垣を通して恋人を見つけ、一定期間の交際を経て結婚するのである。ほかの少数民族と違うのは若い女性は手に日傘を持ち、男と歌を交わすときには傘で顔を隠すという習慣がある点である。  同じく湖南省新田あたりの瑶族は縁日になると、青年男女は友人や家族と一緒に歌垣に参加する。族や苗族の場合と同じように、歌垣の参加者は即興の歌を歌い、歌は男女の問答のかたちで交わされる。最初のうちは家族や友人も本人たちと一緒に歌を歌い、歌というかたちで本人のかわりに難題や謎などを出し、相手の品格と才知を試す。男女が互いに気に入るようになると、応援に来た家族や友人はすぐその場から離れる。  歌垣の日は民族によって異なり、また歌垣の形式や恋歌の内容も民族により多少の違いが見られる。壮族や瑶族のように相手の家族構成、経済状況などを歌で聞くところもあり、また苗族のように同姓結婚の禁止などの習慣にしたがい、まず姓を聞くところもある。ただ、歌を通して恋しい人に心中の思慕をあらわす点においてはどの民族の場合も共通している。  貴州省剣河小広地区の族の場合、恋歌は恋の関係の深さによって「相会歌」(初対面の歌)、「連伴歌」(連合いの歌)、「相思歌」(恋し合う歌)、「盟誓歌」(契りを結ぶ歌)などの分類があり、異なる恋の段階の男女はそれぞれの交際や感情の深さに応じて歌わなければならないと言われている。  瑶族、族、壮族、苗族など少数民族のなかにあるそのような風習は決して後の時代に形成されたものではない。それらが古代文化の名残りであることを証明するのに非常に有力な証拠がある。同一の少数民族でも漢民族の居住地域の近くに住み、あるいは漢民族と雑居している地域では歌垣などを通して男女が自由に交際し、恋をする現象はしだいに少なくなり、逆に漢民族にかつてあったような親の取り決めによる結婚が多くなる傾向がある。たとえば雲南省の山奥に住んでいる苗族では恋は完全に自由で、結婚はすべて本人の意志によって決められているのに、漢民族と雑居している松桃苗族自治県では自由結婚と親の紹介ないし親の取り決めによる結婚が同時に存在している。一部の少数民族地域では産業の発展にしたがい、歌垣、あるいは夜、女性を訪ねに行くなどの伝統はしだいに失われ、親やあるいは友人の紹介による交際や結婚がかえって「先進的な」慣習として取り入れられている。この点から見ると、少数民族のあいだにある男女間の自由な恋や歌垣の風習は親の取り決めによる結婚から変化してきた可能性はまったくないといえる。  注目すべきなのはただ男女が歌垣を通じて交際し、恋をするということだけではない。もう一つの興味深いことは男性たちが恋人を求めて遠くへ出かけていくことである。歌垣は村の近くにある場合もあるが、大体は居住区から離れた人の少ないところである。とくに男性たちはよりよい恋人を求めるために、遠いところへ訪ねて行くことがある。一部の少数民族たとえば桂西地区の壮族の若い男性たちのあいだには故郷から離れる願望が非常に強いという。また瑶族のなかに通い婚が残されており、通い婚の期間は六年、十二年と終身の三種類がある。そうした恋のなかにも男の「旅」の要素はほとんど不可欠である。  前述のように、「離騒」のなかにあらわれたような、旅をしながら恋人を求めるという情景はそれまでの中原の文学にまったく見られなかったものである。このことを考えると、「離騒」のなかの放浪の恋は単に偶然の産物ではない。もちろん屈原が楚王に追放され、各地を転々としていたということが作品の背景にあるのはたしかである。しかし、同じ追放された境遇にあった多くの中原の文人たちは放浪の旅と恋の両者を結び付けようとは思いもつかなかった。「離騒」にある旅と恋の接点はやはり少数民族の民俗から見つけるべきであろう。  屈原の「離騒」や「九歌」に描かれるような、遠くへ出かけて恋人を訪ね、多数の女性と自由に交際していくことは当時楚の国に住んでいた民族の生活と風習を背景としたことはほぼまちがいない。人神のあいだの自由な恋はただ屈原の驚異的な想像力によって発見されたのではなく、そのなかに周辺民族の文化が投影されているのである。 3、異質な情熱と楚の巫術  楚の民族に見られたような、歌垣を通しての男女交際、比較的自由な恋などはかつて中原の国々にもあった。ただそれが儒学倫理の誕生により後進的な文化慣習として否定されただけである。中原の人たちは楚の地にあるような自由な恋の風習に出会うとき、すでに失われたものに対する郷愁や、あるいは自分たちの文化にないものに対する興味と好奇心が呼び起こされ、一種の知的創造の刺激を受けたことがあるいはあったかもしれない。が、一方ではより進んだ文化慣習と倫理観を持っていると自負していた彼らはそうした周辺の恋に対し、それほど尊敬の念を持たなかったであろう。ましてやそうした遅れた恋の慣習を真似するようなことはしなかったにちがいない。ところが、実際、漢代や六朝の文学における恋の情緒表現は屈原の影響を強く受けていた。その原因はいったい何なのか。  その理由はほかでもなく、「離騒」や「九歌」などの作品には人神の恋が描かれていたからだ。人間と神の恋というヴィジョンの提起は中原文化のなかに完全に欠如していたのである。  『詩経』などの作品から窺えるように、神との相関関係において人間の存在を考えることをせず、宗教の必要性を見いだせなかった儒学が支配的な位置を占める文化地域では、人間と神女の恋が自発的に生まれるはずはない。『詩経』の「大序」には「故に得失を正し、天地を動かし、鬼神を感ぜしむるは、詩より近きは莫(な)し。先王是を以て夫婦を経し、孝敬を成し、人倫を厚くし、教化を美し、風を移し俗を易(か)う」という言葉がある。このなかの「鬼神」は世界のあり方を支配し、人間精神のよりどころとなる超越的存在というよりも、むしろ亡くなった人々の霊魂だと受け止められることが多い。詩をもって夫婦ののりとし、男女のいとなみの正しい道とする考えは、人間世界をなるべく理性と秩序の支配のもとに置こうとすることを意味している。このような思考のもとでは人間のことを神の原理と混同させることはありえない。  もちろん戦国時代に楚の文化のなかにすでに厳密な論理性を持つ宗教原理があったとは言わない。「鬼神」に対する認識にかぎって言えば、楚と中原のあいだには必ずしも大きなちがいはなかったかもしれない。しかし、中原の国々に比べて、楚ははるかに巫(ふ)を崇めていた。巫とは神がその身に降り依り、神の意思を人間に伝えることのできる特殊な人たちである。彼(彼女)らはあるいは神と合体し、人間に指示を与えこれを導き、あるいは神と戯れ、その享楽の対象となって神を喜ばせる。人間が死後には「鬼神」となり、超自然的存在になると思っていた人たちは、巫術さえ使えば生前でも一時的には神と交信することができると考えていたのであろう。  それははっきりした宗教意識というよりも、むしろ一種の漠然とした土俗信仰である。楚の地に住んでいた民族は複数の神を信仰し、山の神、川の神から神話のなかの神まで何でも祭ってしまうといわれている。彼らは神の加護をえるために、巫を通して神々と対話し、なるべく神に近づこうとしていた。このように、巫が神に肉体を提供し、性的結び付きを通して神に近づこうとする願望はおそらく「離騒」にある人間と神の恋の原型であろう。  このことは屈原の「九歌」によっても証明される。「九歌」のなかの「雲中君」は男神が女巫に憑依(ひようい)し、女巫が舞いながら歌うのを描いたものである。詩の最後に女巫は憑依された状態からもとにもどり、巫の身で、 思夫君兮太息 かの君思うて溜息し、 極労心兮 つきつめて心をなやまし胸はいたむ。 と唱い、女巫が神の雲中君を思い慕う気持ちをあらわしている。また、「湘君(しようぐん)」「湘夫人(しようふじん)」「大司命(たいしめい)」などの諸篇においてはいずれも巫が神に恋心を吐露するかたちになっている。  ほんらい人間と神の恋は巫の神事行為の一部として行われ、信仰対象への同一化に対する憧れの表現である。言い換えると、人間と神の恋は土俗信仰のなかでただ巫を通して神に近づく手段の一つに過ぎなかった。ところが、やがて巫の姿が人神の恋の背景のなかに溶暗し、とりわけ詩のなかで巫だけでなく普通の人間も神の恋人となりえたのである。また人神の恋についての想像と描写が後に作品として一人歩きをし、文学表現の自律性によって肥大化していくことも見逃せない。  屈原の詩のなかでも「離騒」となると、神と恋をしているのは主人公の屈原であって、巫ではない。また人間と神の恋はすでに「祭祀」という神事行為から分離し、一つの意味構造として独立していた。いったん独立したその意味構造はもはや原型の束縛を受けず、その所属する文脈のなかで意味が拡張されていく。普遍的な文化現象としてこの恋を考える場合、人間と神という関係設定はただ恋の炎をいっそう燃えたたせる「隔絶」しか意味せず、人間と神とのあいだにある越えられない溝こそが恋の情熱の源である。  もう一人の楚の人で、屈原の弟子と言われる宋玉は「神女賦(しんじよのふ)」という作品を書いた。その「神女賦」となると、人間と神の恋というモチーフには土俗信仰の色彩がさらに薄らぎ、宗教感情との関連はただ恋の情熱の根源を暗示する背景にしかならなかったのである。人間と神の恋について、同じく宋玉による「高唐賦(こうとうのふ)」には次のような記述がある。 昔者(むかし)先王(せんおう)嘗(かつ)て高唐(こうとう)に遊び、怠(おこた)りて昼寝(ひるい)ね、夢に一婦人を見る。曰く、妾(しよう)は巫山(ふざん)の女(じよ)なり。高唐の客為(た)り。君高唐に遊ぶと聞く。願わくは枕席(ちんせき)を薦(すす)めんと。王因(よつ)て之を幸(こう)す。去るとき辞して曰く、妾は巫山の陽(みなみ)、高丘の阻(そ)に在り。旦(あした)には朝雲(ちよううん)と為り、暮れには行雨(こうう)と為り、朝朝暮暮(ちようちようぼぼ)、陽台(ようだい)の下(もと)にありと。  (昔、先王が高唐に遊ばれたときのこと、お疲れになって昼寝されましたが、その夢に一人の婦人が現れて言うには、「私は巫山の娘で、ここ高唐に来ているものです。あなたが高唐にお遊びと聞きましたので、枕席を近づけさせていただこうと思いまして」と。王はそこで彼女を寵愛されましたが、立ち去るときに婦人は「私は巫山の南、高丘の険しい所におり、朝は朝雲となり暮れには雨となり、朝な夕な陽台の下におります」と言いました。——小尾郊一訳、以下同様)  このなかで巫はすでに姿を消し、神女と恋をしたのは普通の人間としての楚の懐王である。もちろんそこに神事行為はない。夢のなかではあるが、楚の懐王は日常の状況のなかでこの非日常の体験をしたのである。「高唐賦」の本文のなかでは人神の恋についてあまり触れていないが、「神女賦」になると、恋そのものが描写の中心となり、巫による神事行為も「高唐賦」の場合と同じように完全に排除されている。神はもはや巫しか交信できない対象ではなくなり、そこには巫と神から人間と神という類比ないし類推がすでにできあがり、人神の恋の意味の派生は完成されたのである。  「九歌」のなかではほとんどの場合、人間が神を慕うことになっているが、「九鬼」だけは神女が人間を恋することになっている。一方、「神女賦」では、神が人間を恋い慕うことがいっそうはっきりしている。このような設定の変換はただレトリックの互換性によるもので、人間が神を恋する場合と同じように神への融合の願望がその原点にあったことには変わりはないのである。  「九歌」と異なり、宋玉の「神女賦」では人神の恋は作品の主旋律となった。楚の襄王(じようおう)と神女との恋の崇高性は、破滅が運命付けられる恋の悲劇を通して示される。恋が破滅する原因は人間と神の越えられない距離にあるが、熾烈な恋の感情はその破滅の運命のためにかえって無限に増幅する。「離騒」「九歌」をはじめ、「神女賦」など、最初に人神の恋を描いた作品がみな楚の地に生まれたのはとても偶然とは思えない。そこには文学者の想像力を越えた素因が働いていたとしか考えられない。中原と民族も文化も異なる楚の地の土俗信仰と民俗こそ、このような情緒表現の生みの親であろう。中原の文学者たちがいかに豊かな想像力を持っていたとしても人神の恋を思い付かなかったのはそのことのよい証拠である。人神の恋を描きえた屈原や宋玉はたしかにたぐいまれな才能に恵まれていた。とはいえ、信仰行事の一つとしての人間と神の交信や、人間と神の同一化の願望が楚の文化や日常のなかに深く根付いていたからこそ、人神の恋がはじめて文学作品のなかで誕生したのであろう。後に中原の文化に大きな刺激を与えた異質の恋の情緒は楚の地では当初ごくあたりまえのことで、かなりリアルなものであった。  このことについて、中原の民族のあいだでも同じような巫の歌舞による祭祀があったのではないか、という反論があるいはあるだろう。たしかに古代の人たちは卜筮(ぼくぜい)を信じていた。ところが、戦国時代の中原地域では巫術は邪道とされていた。とくに儒学者のあいだにその見方は根強い。『史記』「孟子荀卿列伝」には、荀子(じゆんし)が、巫の祈祷に頼り、また吉凶の占術などを信じる人をひどく嫌い憎んでいた、と書かれている。巫術に対する荀子の態度は戦国時代の儒学者の気持ちを代表しているといえる。  儒学者は祭祀には反対しないが、祭祀への巫の介入を嫌っていた。『漢書』巻二十五「郊祀志(こうしし)・上」によると、中原の国々では非常に早い時期から祭祀が行われていたものの、祭祀に女巫を参加させたのは漢高祖劉邦が中国を統一してからである。しかもそれはほんの短い期間しかつづかず、その後は巫はむしろ人心を惑乱する者と見なされ、とりわけ宮殿内では巫の歌舞やまじないは禁止された。同じく『漢書』巻九十七「外戚伝・上」の「孝武陳皇后伝」によると、陳皇后が楚服という女巫に宮殿のなかで巫術を行わせたため、皇后は廃された。女巫は処刑され、巻添えで死刑になった人は三百人以上にも及んだという。  また同じく『漢書』巻六十三「武五子伝」の「戻太子劉拠伝(れいたいしりゆうきよでん)」や、『漢書』巻四十五の「江充伝」によると、漢の武帝は巫術を嫌い、宮殿内で巫術を行った陽石公主、諸邑公主(しよゆうこうしゆ)および宰相の公孫賀親子をみな死刑にした。皇太子も巫術を行っているとして江充に陥れられ、結局、追いつめられて自殺するはめとなったのである。漢代の巫術は戦国時代の楚国の巫術と必ずしも同じものではない。しかし、漢の武帝による「巫狩り」はやはり鬼神を遠ざけ、巫を信じないという儒学の伝統が漢代までずっとつづいていたことを物語っているであろう。  『楚辞』の後にも人間と神の恋を描いた作品は作られていた。ところが、屈原や宋玉以降の文学、とりわけ六朝の志怪小説における人間と神の恋には、すでに『楚辞』にあったような意味はない。六朝の人たちは『楚辞』をテキストとして受けついだが、そのテキストの背後にあった民俗をもちろん持たない。六朝以後の社会の実状を考えると、漢民族文化のなかで人間と神の恋を題材とする文学作品はけっして人間と神の融合を表現するために書かれたものではない。屈原は後の漢民族文化に南方民族文化の要素を持ち込んだが、『楚辞』を古典として崇めた漢民族の人たちはそのなかに異民族の文化があるとはまったく気付かなかったのである。  『詩経』と『楚辞』によって恋に関する二つの異なる美学が確立された。一つは中原の恋の原点であり、一つは南方の恋の依ってきたるところである。  「父母の命、媒酌の言」を道徳とする中原では閨房内の恋を発見した。それは夫婦の離別という「隔絶」により生み出され、古代ではおびただしく発生していた状況を背景としたものである。恋の情熱と感情の昇華は夫婦の離別によって激発され、増幅されたのである。  それに対し、楚の国をはじめ南方の民族が居住していた地域、とりわけまだ中原文化にあまり侵食されていなかったところでは、男女の交際が自由にできたため、恋の情熱の源泉と恋の情緒の純化は人間と神との恋のなかに見いだされたのである。「九歌」のなかの人間と神の恋がほとんど悲劇的な結末になることが暗示するように、人間と神のあいだの越えがたい、もしくは永遠に越えられない溝が熾烈な恋の感情の源となったのである。  ただ、『楚辞』のなかに秘められた南方民族の習俗は中原の人々にその本質的な意味を理解されないままに、漢民族文化のなかに吸収された。人間と神の恋という刺激に富んだ発想は六朝の人たちに少なからぬ啓発を与え、その結果、表現形式を模倣する興味が引き起こされ、曹植(そうしよく)の「洛神賦(らくしんのふ)」のような作品を生み出すにいたった。また、散文文学のなかではのちに六朝の志怪小説の想像力の源泉の一つともなった。しかし、人神の恋の真意は解読されなかったために、やがて君臣関係の隠喩として儒学の表現手段となり、その内なる生命力を失った。文化の土壌から離れたこの種の恋の情緒は、少なくとも韻文表現において十分に成長する機会をえられないまま夭折してしまったのである。 【第三章】 人怪の恋 ——北方民族の文化から 1、大混血の時代と「漢民族」の誕生  中国の民族について考えるとき、なにをもって民族を区分する尺度とするかは大きな問題である。というのは中国では少数民族をも含めて、民族の成分は非常に複雑で、単一で固定した物差しは当てはまらない場合が多いからである。私はつねづね中国大陸に居住し、しかも特定の少数民族を名乗れない人はみな漢民族だと考えており、また事実そうであるにちがいないと確信している。  中国ではたとえその先祖が異民族であっても、本人が名乗らなければ誰も知らないし、名乗ってもまわりの人々は興味を持たない。家系図を作るために金銭で古代の有名人の名を先祖として買うことさえしばしば起こっていたのだから、そんなことは茶飲み話のネタにもならない。先祖がどんな民族であろうと、五世代以上経てばルーツの話はもはやおとぎ話以外のなにものでもない。重要なのは現在である。二、三世代中国に住めば誰でも漢民族になれるのである。  中国における「中国」ということばの意味の変遷はすでに現代の学者、于省吾、陳連開など諸氏の研究によって明らかにされている。それによると、このことばは西周(紀元前一〇二〇頃〜紀元前七七〇年)初期にはじめてあらわれたという。一九六三年に陝西(せんせい)省宝鶏の賈村(かそん)に出土した西周の尊(酒樽)に刻みつけてあった文章にはすでに「中国」の二文字がある。ただ、それは国名として使われたのではなく、国都を中心とした地域を指していた。『詩経』「大雅」にある「此の中国を恵(けい)し、以て四方を綏(やす)んぜよ」もその意味である。  歴史書のなかで「中国」ということばは『公羊伝』『左伝』にも出てくる。ただその場合ことばの意味は少し拡大され、魯、斉、鄭、陳、蔡などの小国がみな「中国」あるいは「華夏」「諸夏」と言われている。  戦国時代になると、秦、楚を含めて、斉、燕、韓、趙、魏などいわゆる「戦国の七雄」はともに「中国」と称されるようになった。『史記』の用例にみられるように、漢代になると「中国」ということばは事実上、統一国家の国名として用いられていた。ただ、一方では「中国」は多義語で、「国都」という意味もある。事実、「国都」という意味の「中国」は春秋時代から清朝にいたるまでずっと使われていた。  中国語の「漢族」ということばは日本語の「漢民族」に当たり、社会学の用語として近代に入ってからはじめて使われるようになった。それまで漢民族の呼称として、「漢人」が散見していただけである。「漢人」はその名の示すとおり、ほんらい漢代の人という意味であって、民族の名称ではなかった。もっとも王朝名、あるいは年号が用いられていた歴史書のなかに、普通「漢人」ということばが使われること自体、それほど多くない。  中国人を呼ぶ名称として「漢人」はもちろんもっとも古い称呼ではない。さらに遡れば秦代の人は「秦人」と呼ばれていたが、戦国時代より以前に統一した名称はない。ただし、中国を統一した秦王朝は戦国時代の秦の国だったので、「秦国の人」という意味の「秦人」はもちろん戦国時代にすでにあらわれていた。したがって、「秦人」ということばには二つの意味があったのだ。  秦始皇帝のときから匈奴の人たちは統一国家秦の人々を「秦人」と呼ぶようになった。この場合、当然「秦人」とは中国人という意味である。秦が滅び、漢王朝が成立した後も「秦人」は中国人の通称として使われており、その証拠として『史記』巻百二十三「大宛列伝」、『漢書』巻九十四「匈奴伝」や、巻九十六「西域伝」のなかの用例があげられる。  「漢人」ということばは後漢(二五〜二二〇年)にすでにあらわれたと思われる。『後漢書』巻八十八「西域伝」、巻八十九「南匈奴伝」、巻九十「烏桓鮮卑(うかんせんぴ)伝」などには漢王朝の人を指して「漢人」という用語があった。しかし、中国人の通称としての「漢人」はおそらく魏晋六朝時代になってはじめて定着したのだろう。「秦人」と同じように、「漢人」という名称も最初は匈奴のような周辺にある民族、あるいは中原に進出した民族などによって呼ばれていたと思われる。その後、異なる民族とのつきあいのなかで、中国人自身も自分の民族を呼ぶ名称が必要だということに気づき、やがて彼らはみずからを「漢人」と呼ぶようになったのであろう。  ところが、「秦人」にしろ「漢人」にしろ、ほんらい純血の一つの民族を指すのではなかった。それは現在の「中国人」「アメリカ人」と同じように、ただ「国民」という意味しか持っておらず、民族という意味はほんらいなかったのである。  秦が中国を統一し、秦王朝を樹立した後の民族の融合、また漢代における民族のあいだの相互浸透はそのもっともよい証拠である。とりわけ楚、越など南の民族は、後退した一部の集団を除いてほとんど「秦人」や「漢人」に吸収されたのである。  秦王朝が中国を統一するまえの秦の国と戎、狄など周辺の民族との密接な関係についてはすでに第一章で述べたが、実は秦の人たちが騎馬民族だったかもしれないことを示す資料があるのだ。『史記』巻五「秦本紀」によると、周の孝王のとき、秦の人たちは「馬及び畜を好み、善く之を養息」していたので、周の孝王は馬の放牧を非子を首領とする秦の人たちに従事させた。すると、「馬は大いに蕃息す」という。このことからみると、秦の先祖たちがかつて遊牧民であった可能性は大きい。少なくともいわゆる秦の人のなかに戎、狄など異民族の人がかなり含まれていたことはまちがいない。  ところが、支配権を争い、正統性を主張するためか、楚と違って秦の人たちはつねに異民族ではないことを示そうとしていた。早期の秦の地理的位置とも関係があったろうが、彼らは後にほかの戎の部族とよく戦い、秦の襄公(じようこう)のときに犬戎(けんじゆう)が周王朝を攻撃した際、秦は周の平王を助けた。そのため、秦の襄公は諸侯に封じられ、「襄公是に於て国を始め」(『史記』巻五「秦本紀」)、秦はついに中原の国々に仲間入りを果たしたのである。  紀元前二二一年に秦の始皇帝が中国を統一した。戦国時代においてすでに中原の文化を全面的に吸収した秦はしだいに中原のほかの小国を併呑し、と同時に戎、狄など多くの異民族と戦いをくりかえしながら、その領土と住民を吸収した。秦王朝の誕生により、異民族に「秦人」と呼ばれた中国人ははじめて一つの「民族」として歴史の舞台に登場する。もちろん、「秦人」と呼ばれた中国人はすでに混血や同化などを通して、多くの異民族を吸収していたので、彼らはほんらい一つの民族ではなかったことはいうまでもない。  古代において民族の境界線ははなはだ不明瞭であった。史書の記述を見ると、戦国時代までにはまだ「民族」という概念がなく、「礼」の秩序を認めるかどうかがつねに「異質」を見分ける基準とされた。『礼記』に見られるように、「礼」の制度は生活様式から服飾にいたるまで細かい規定がなされている。『左伝』には夷、蛮、戎、狄などは礼を知らず、信を守らないという記述がかなり多い。『左伝』「襄公四年」にある「戎狄(じゆうてき)は親(しん)無くして貪(むさぼ)る」や「戎は禽獣なり」などのことばは戎、狄などの民族が「礼」を知らないから、親愛の情がなく欲が深いことを指している。同じく「成公二年」の「蛮夷戎狄、王命(おうめい)を式(もち)いず、淫湎(いんめん)常を毀(やぶ)る」とは、君臣、父子など上下の序列をわきまえず、信がないことを意味している。  『史記』になると、生活様式、生産方式が区別の基準として言及されたが、それでも「民族」という意識はなお希薄であった。「匈奴列伝」を見ると、匈奴のことばについては「文字がなく、口頭で約束する」ことだけがあげられ、ことばの違いそのものは区別の基準ではなかった。老人を敬わず、父親が死んだ後、息子がその妾をめとり、兄弟が死ぬと、その妻をめとることなどの風習はもちろんひきつづき「礼義を知らざる」こととされている。  ところが、それとは別に漢代ではもう一つの基準として「冠帯の飾」がある。後に「礼儀の厚い風俗」という意味で用いられた「冠帯」ということばはもともと「冠を被り帯を結ぶ」ことしか意味していなかったが、『史記』では道徳、風習というニュアンスで用いられていた。「冠帯」への言及は服飾の違いが「異質」を区別する基準として意識されたことを示している。事実、同じく『史記』巻十六「秦楚之際月表」のなかで秦の始皇帝による統一を「冠帯の倫」つまり礼義を知る人々を統合したと言ったのも、秦が中原の文化を継承したという意味である。  地域の名であった秦が王朝名になったと同じように、「漢」が王朝の名になったのも、漢水という川が流れる漢中郡を領有した劉邦が漢王であったからだ。史書のなかで「漢」をはじめて王朝名としたのは『史記』であった。ただこの場合でも「秦楚之際月表」にあるように最初は楚、趙、斉、燕、魏などと並列していたに過ぎなかった。  新しい統一国家としての漢は北方民族の匈奴とのあいだに絶えず衝突が起き、その間に住民の強制連行、捕虜、投降などにより漢と匈奴との人員の流動がしだいにはげしくなった。『漢書』巻九十四「匈奴伝」によると、漢の将軍趙信はもともと異民族の胡の王であったが、漢に降ってから諸侯に封じられ、軍隊を率いて匈奴と戦ったことがある。漢に降ったときに王の趙信の統治していた領土とともに、そこの住民たちも漢に融合した。同じく『漢書』によると、紀元前一二一年に匈奴の昆邪王(こんやおう)が兵卒四万人以上を率いて漢に降ったという。一方、匈奴はほとんど毎年のように漢の領土に入り、物資の略奪や住民の強制連行をくりかえしていた。  このように民族対立がはげしい時代にもさまざまなかたちを通して漢はほかの民族を吸収したのである。 2、魏晋六朝の恋にあらわれた異質の要素  魏晋六朝時代の恋について考えるとき、漢代までの民族の構成とその変遷について振り返るのはけっして蛇足ではない。  漢代には西北における民族の衝突がくりかえされていたかわりに、長城の内側の民族融合が進み、かつての中原文化は領地を広めた。まえの時代の辺境の地をも含め、漢王朝に統轄された地域では中原文化が「中国文化」となっていった。中央政府を脅かす匈奴、東胡など辺境の異民族との違いをはっきり示すために、儒学を重視する必要性があらためて認識された。『史記』の「匈奴列伝」からも窺えるように、匈奴の社会では青壮年がよい食物を食べ、年寄りはその食べ残したものを食べるという習慣を反面教師にして、漢代の人たちは老人を敬う意味を見いだした。また、父親が亡くなった後、息子がその妾をめとり、兄弟が亡くなると、兄嫁を妻にするという匈奴の風俗に対し、中国人は男女隔離の倫理についての自信を強めたのである。漢代において儒学が官学として地位を築いたのは、ほかでもなくまさにその文化の差別化をはかるためであったろう。  漢代の詩文を読むと、恋はおもに『詩経』のなかの閨房内の恋だけを継承し、夫婦のあいだの情を詠うのがほとんど男女間の感情を表現できる唯一の方法であった。しかも、それはいっこうに衰えを見せなかったばかりでなく、のちにさまざまな詩題のヴァリアントを生み出したほどなお活力に満ちていた。中原文化は自己批判の能力と進取性を失い、「外」に対するこのうえない優越感、現状に対するかぎりない満足と上位文化にいるという陶酔のなかで、人々は不滅の王国の夢を見、永遠に他民族に優越するという幻想に浸っていた。下位文化に囲まれたときによく見られる、衰退の悲しむべき序幕であった。  やがて巨大な統一国家の体内に蓄えられたエネルギーはそうした傲慢、怠惰と約四百年という長い時間の流れのなかで消耗し尽くされ、漢王朝は終局を迎え、国家は統一から分裂の周期に入ろうとした。しかし、悔やまれる結末ではない。もはやなにかの手を打てば避けられるような状態ではなかった。如何なる文化にもそれなりの周期がある。あたかも果樹のように、春の陽光と雨露に恵まれてのびのびと成長し、青々とした葉が茂り、やがて大きな実を結んで豊饒な季節を迎える。しかし、どの木もまた葉が落ち、冷たい風のなかで冬を過ごす運命にあうのと同じである。もちろん、国家にとって悲劇であった分裂状態は多民族社会の文化にとって必ずしも悲しむべきことではない。否、むしろ他民族の新しいエネルギーを吸収し、民族の新たな体力を蓄積する機会が到来したといえるかもしれない。  漢代に続く時代はまさにそうであった。三国時代から中国はまた分裂状態に陥ったのをきっかけに、周辺に追いやられた民族はやがて再び内陸へ入り込む機会をえた。  魏晋六朝の詩文にあらわれた恋を考えるとき、何よりもまず最初に思い出されるのは曹植の「洛神賦」であろう。洛水という川を通り過ぎたときに、宋玉の「神女賦」を思いだして作った賦であるという作者の序からもわかるように、屈原の「九歌」や宋玉の「神女賦」からヒントをえたことは明らかである。ところが、かつて楚の地にあった神への融合の願望はすでにない。中原に伝わった屈原の『楚辞』は完全に中原文化の文脈のなかで解読されたのである。楚の文化を理解せず、また興味も示さない中原の文人たちにとって、中原文化のなかで消化された『楚辞』のもとの意味を詮索する必要はまったくない。君臣関係の隠喩とする一元的な批評は、この作品を中原文化に組み込むのに最良の方法だからである。  しかし、屈原や宋玉の作品の底に潜む雄大な想像力はやはり魅力的であった。屈原より数百年も後に生まれた曹植は、すでに屈原や宋玉の作品の背景となる特殊な文化を知らなかったであろう。が、かくもみごとに詠われ、しかもほかにほとんど例を見ない恋の情緒に三国時代の人々は心を強く打たれたにちがいない。  やがて、魏晋六朝の志怪小説にも人神の恋があらわれるようになった。ごく自然の成行きだと思われがちだが、韻文から散文表現への大きな、困難な一歩であった。曹丕(そうひ)の撰と言われる『列異伝』(一説には張華の撰)にはこんな物語がある。  黄原という人がある朝門を開けると、一匹の犬が外で飼犬のように番をしている。黄原はその犬を猟につれて行った。日が暮れようとするとき、突然一匹の鹿を見つけたので、犬にその鹿を追わせた。犬のあとをつけていくと大きな穴があり、なかに入って百歩あまり歩くと、突然一本の平らな道が目の前にあらわれる。槐(えんじゆ)や柳の木が道路の両側に並び、家々のまわりには垣根や塀を巡らしている。  黄原は敷地のなかに入ったが、なかには数十軒の家が立ち並び、この世にないようなきれいな女性たちばかりがいる。艶麗な服を身につけ、ある者は楽器を奏で、ある者は碁を打っている。北の高殿のところに行くと、そこには三軒の家があり、二人が番をしている。黄原を見ると微笑みながら、「この黒犬が連れてきたのは、きっとお姫様の主人になる人でしょう」と言う。そこで、一人が残り、もう一人は建物に入る。しばらくしてから四人の侍女が出てきて、黄原を建物のなかへ案内する。なかには南向きの広い部屋があり、窓から大きな池が見える。妙音という名のお姫様は容貌が艶やかで、声もきれいである。そこで二人は夫婦に結ばれる。  結婚の儀式が終わると、宴会が始まり、そして二人は一夜を共にする。数日経った後、黄原はホームシックにかかり、家に帰ろうとした。妙音は、人間と神の道は異なり、もともとそう長くいられるものではない、と言って玉を解き、袂を分かつ。別れぎわに女は涙を流しながら、もはや再び対面することはない、もしわたしのことを恋しくなったら、三月一日には飲食を慎み、けがれに触れないようにし、家に閉じ込もった方がよい、と言った。四人の侍女は黄を送り出し、半日かかってやっと家にたどりついたが、心中はなおうっとりとしている。その後、毎年三月一日になると、空中に女の乗っている牛車が飛んでいくのを見ることができる。  この物語から窺えるように、プロットの構成、典拠の使用などにおいて屈原の作品から少なからぬヒントをえている。しかし、ここの人神の恋は完全に中原文化のコンテクストのなかに吸収された。劉義慶(りゆうぎけい)撰『世説新語(せせつしんご)』「惑溺(わくでき)」にある韓寿(かんじゆ)の話が唐代の「鶯鶯伝」と発想のうえでのつながりを持っていたのと同じように、後の『遊仙窟(ゆうせんくつ)』などの作品への想像力のリレーはこの黄原の話においてすでに認められるのである。  一方、中原文化のなかの「鬼」「神」を区別しない慣習とあたかも呼応するかのように、人間と妖怪の恋を描いた作品も同じ時期に登場した。人神の恋という蚕から人怪の恋という別種の蛾が生まれたのは意外なことであり、また当然なことでもあるようだ。同じく『列異伝』にはこんな話がある(『捜神記』巻十六にも収められている)。  談という書生は四十になってもまだ結婚しておらず、よく読書に励んでいた。ある日の夜中に齢十五、六歳の女性が談の部屋にあらわれた。その女性は容姿端麗で服飾もきわめて麗しい。女性は進んで談と夫婦になろうとした。彼女は自分は普通の人と違うので、これから三年以内は灯火で照らしてはいけない、と言う。やがて二人のあいだに一人の子供が生まれる。その子が二歳になったある日、男は我慢できず、妻が寝た後、こっそりと灯火で照らしてのぞいてみた。すると、妻は腰より上の部分は普通の人間と同じだが、腰より下の部分は骸骨のままになっている。女は目が醒めて、夫にこう言った。あなたは約束を破った。わたしはもうすぐ復活できたのに、なぜもう一年待てなかったのか。男は泣きながら謝ったが、もう留められない。女は、わたしたちの夫婦関係は終わったが、子供のことが気がかりだ、あなたは貧しくて生活できそうにないから、わたしと一緒に来なさい、あげるものがあるから、と言った。男は女の後について豪華な建物に入る。なかの調度などはみな素晴らしいものばかりである。女は真珠入りの着物を男に贈り、これがあればしばらくは自給できるだろうと言った。別れぎわに男の衣の裾を少し裂いて持って行った。  男は真珠入りの着物を市に持っていき、陽王(すいようおう)の家に一千万もの値段で売った。王は着物を見て、これは死んだ娘のものだ、きっと誰かが墓をあばいて盗んだのだと言って、男を捕まえて尋問した。男は一部始終を話したが、王はなおも信じず、墓を開けてみた。が、なかはあばかれた様子はまったくなく、棺桶の蓋の下には男の衣の裾がのぞいている。そこで男の子供を呼んでみると、やはり娘と似ている。王ははじめて男の話を信じ、彼を婿として認めた。  この物語は後半の部分に重心があるにもかかわらず、中原文化のなかで人神の恋から人怪の恋への連想がごく自然であったことが示されている。この意味深い転換により、人怪の恋は人神の恋のなかへ合流し、中原文化の文脈のなかで、閨房内の恋と対立するものとして登場したのである。  魏晋六朝時代の物語にあらわれた人神の恋と人怪の恋のなかで重要な意味を持つのは、男女みずからの意志による恋や結婚である。この発見はただの現実不満からする幻想なのか、それともその背後に儒学倫理の弛緩があったのだろうか。  『幽明録(ゆうめいろく)』には次の物語がある。  ある金持ちの息子が町でおしろいを売っている美しい娘に一目ぼれし、娘にあいたいがために毎日おしろいを買いに行く。こうして何日も続いた後、不思議に思った娘は男にわけを聞いた。そこで男は胸のうちを明かし、娘を自分の家に誘う。翌日の晩に、娘は約束通り男の部屋へきた。しかし、密会をようやく果たした男はうれしさのあまりその場で死んでしまう。  翌朝、男の両親は息子の長持ちからおしろいの包を百以上も見つけ、犯人はこのおしろいと関係があると思った。やがておしろい売りの娘を突き止めたが、男の両親は彼女の言うことを信じようとしない。訴えられた娘は役所の許可をえて男の遺体と最後の対面をし、亡がらのまえで泣くと、男は生き返り、二人はめでたく結ばれた。  この物語はいくつかの興味深い問題を提起している。まず、町で商業を営むのは年増か老婦人であったはずなのに、なぜ若い女性がこのような仕事に従事することができたのか。また、なぜ男女が自由に交際することが禁止されていなかったのか。どうしてこのような現象が起こり、またなぜそれがあたかもあたりまえのことのように語られていたのだろうか。  晋の葛洪(かつこう)(二八四〜三六三年)は『抱朴子(ほうぼくし)』外篇巻二十五「疾謬(しつびよう)」のなかで当時の風習の変化についておもしろい証言をしている。 世間の慣習はつぎつぎに伝えられてゆくが、礼儀の心はだんだん崩れてきた。(中略)同輩の宴会に出ても、あぐらをかいたり、足を投げ出したり。夏の暑い日だと、冠をぬいだり、裸になったり。一生懸命にやるのは、博奕(ばくち)か弾棋(おはじき)。議論するのは歌姫・美妓の品定めだけ。ついて歩くのは薄物の上衣に太絹の袴をはいた貴族の子弟のあと。足踏み入れるのは勢力のある家、酒を振舞ってくれる人の門。 (本田済訳『抱朴子』、以下同様)  同じ本のなかに手本とすべき漢代までのことがその対照として書かれ、「現在」の風紀の乱れが嘆かれている。葛洪の時代に文化状況が大きく変質したことが示されている。  婦人生活についての記述はさらに驚くものである。 世俗の婦人は、蚕を飼い機を織る仕事を怠り、夫の身の廻りの世話もせず、何もせずに盛り場をぶらつく。料理はせず、世間との交際に努める。互いに親戚のところに往き来するのだが、星を頂いて往き炬火(たいまつ)をかかげて帰る調子で、路上に女どもの往来が絶えない。沢山のお伴を連れ、路一杯に派手な服装をひけらかし、女中や兵卒で市場のような雑踏である。道すがらも淫らな悪ふざけをして、いやらしい限り。或る者は他人の家に泊まり、或る者は夜半に帰る。寺院で遊んだり、魚捕りや狩を見物したり、山に登り川に出かけ、国の外まで慶弔に行ったり。馬車の扉を開き、車の帷は巻き上げたまま、城中を忙しく走り廻り、路上で杯のやりとりをし、道中でも管弦を奏でる。こういうことをお互いに粋だと思い、悪習が風俗になってしまう。これがともすれば腐れ縁を生じ、どんな事でもやってのける結果になる。淫心をそそのかすもとであり、無駄も甚だしい。  史書では風俗についてほとんど触れていないだけに、このまるで現代社会についてのルポルタージュのような記録を読んだ後のわれわれの驚きも大きい。儒学を貴ぶ中原のこととはとても思えない情景である。正史の記述によると、統治者のあいだに腐敗はあったものの、三国も六朝も漢代と同じように儒学がひきつづき主導的な地位にあったという。儒学者の手になる史書は王朝崩壊の原因を解釈するときをのぞいて、儒学の凋落をあまり認めたくなかったようだ。より多く書かれたのは礼教がいかに正確に守られていたかということである。  ところが、実際の状況ははるかに異なっている。仕事を怠り家事もしないで盛り場で騒ぐのが既婚の婦人だとしても、女性が派手な服装で大道に闊歩する時世には未婚女性の外出を完全に禁止することができるだろうか。このように考えると、前出のおしろい売りの娘と金持ち息子のはかない恋も完全にファンタジーの所産ではない。女性の外出禁止が緩んだ社会のなかで、おそらく「父母の命、媒酌の言」という結婚制度は有名無実のものになってしまったであろう。 事実、当時の男女関係にも大きな変化が起きている。 大晦日除夜の鐘が鳴るころになると、無頼の若者が、ほろ酔いで耳がほてったあと、徒党を組み、怪しげな連中を語らって遊びに出る。(中略)手をつなぎ袂をならべて、何とはなしに集まり、他人の家に入りこみ、そこの婦女をしげしげと見物し、背が高いの、低いの、と難をつけ、どれが美しいの、どれが醜いの、と品定めする。(中略) 或る者は、主人の案内も乞わず、いきなり皆でとびこむ。女たちがまだ身づくろいもできていないのを、こっそり様子をうかがうどころか、門に体当りしてかんぬきをへし折り、塀をとびこえ、壁に穴をあける。まるで強盗が入ったような騒ぎ。時にはその家の妾や腰元が身を隠そうとしてそのひまもないのを、物陰を捜して、つかまえ、引きずり出すことさえある。(中略) しかし落ちぶれた家の出で、骨がなく、世の中に遅れまいとする人は、こういう連中を受け容れることが親密さを示す道だと思い、これを拒めば失礼になりはせぬかと恐れ、当世ではそうせねばならぬと思いこむ。そこでわいわい言う奴を呼び迎える。彼らは部屋に通って細君をじろじろ見る。膝のぶつかるような狭いところで、目と鼻の先の相手と杯を取り交わし、淫らな音曲を絃に乗せて歌い、司馬相如が琴歌で寡婦の卓文君の浮気心をそそった例(ためし)にあやかる気でいる。叫ぶやら、吼えるやら、猥褻な冗談を言い、下(しも)がかりの限りを尽くす。  このような生き生きとした証言はとうていでっち上げだとは考えられない。正月は特別なときとはいえ、そうした習慣を容認する日常の土壌がなければ、「特殊」も生まれるはずはなかったであろう。葛洪がここで痛烈に批判したのは下層階級だけではなく、いわゆる文人をも含めている。世間の風習に大きな影響を与えた文人たちがそのような生活をしていたのなら、当時の一般の社会風紀はもう想像に難くない。  このように見てくると、六朝の志怪小説に異質の恋が登場したのは偶然ではない。またそれは当時の文人たちの突飛な幻想によるものでもない。魏晋六朝の風習の変遷は一つの下絵として志怪小説にあらわれた恋に二重写しになっているのである。 3、北方民族の南進と風習の変遷  ところで、なぜ魏晋六朝において大きな変化が起きたのだろうか。この問題を解明するためにもう少し当時の歴史背景を振り返る必要がある。  後漢の建武二十四年(四八年)に南北匈奴が分裂し、南匈奴は漢王朝に臣服した。その後、南匈奴は漢の領地内に生活し、ときには漢王朝の圧力のもとで内陸部へ移動したこともあった。章和二年(八八年)に南匈奴の単于(ぜんう)は皇帝宛の上申書のなかに、「臣などは漢の地に生まれ育ち、生活は漢の食物の給与を頼りにしている」(『後漢書』巻八十九「南匈奴伝」)と言ったことがあり、南匈奴はまえよりかなり内陸部に入っていたことを示している。  一方、分裂のために弱体化された北匈奴は西の方へ移り、それにかわって鮮卑族が残留した匈奴を統合し、後漢の終わりごろには中国北方の最大の民族となった。後漢が滅び三国時代になると、鮮卑族にくわえて、匈奴族、(てい)族、羌(きよう)族などの民族が大量に大陸の中心部に流れ込んだ。彼らはあるいは内戦に挑み、あるいは戦乱に乗じて領地を拡大した。当時、魏、蜀などの軍隊には異民族の兵士が多く、『三国志』巻三十「魏書三十・烏丸」によると、袁紹(えんしよう)は烏丸(うがん)族(烏桓(うかん))の精鋭な騎兵を傘下の軍隊に多数編入したという。また、袁紹自身が認めたように、彼はそれ以外に「戎狄の衆」をも率いている(『三国志』巻一「魏書一・武帝紀」)。一方、曹操(そうそう)は建安十一年(二〇六年)に烏丸を破り、「其の族を悉(ことごと)く徙(うつ)し中国に居せしむ」。そのため、烏丸族の軍隊は改編され、後には「天下の名騎」といわれるほどの有名な騎兵部隊となったのである。  蜀の将軍馬超(ばちよう)は祖母が羌族なので、羌、などの民族のあいだでたいへん人望が厚く、彼の率いる軍隊には族、羌族など異民族の兵士が非常に多かったという(『三国志』巻三十六「蜀書六・馬超」)。彼はその軍隊を率いて甘粛省南部の隴山(ろうさん)のほとりを攻略し、涼州を占拠し(前出)、また、建安十九年(二一四年)には族、羌族の兵士数千人を率いて曹操軍を迎撃した(『三国志』巻九「魏書九」)。  当時、族、羌族などは漢民族と雑居しており、異なる民族のあいだの関係は必ずしも悪くはなかったようである。『晋書』巻五十二「阮種」には「魏氏以来、夷虜(いりよ)は内に附き、桀桿(けつかん)の侵漁はまれに有るなり」という言葉があり、漢民族とほかの民族は平和につきあっていたことが示されている。『世説新語』「軽詆」によると、族政権「前秦」の皇帝苻堅(ふけん)が羌族の姚萇(ようちよう)に殺されたとき、皇太子の苻宏(ふこう)は母や妻子をつれて東晋に亡命した。東晋は苻宏を受け入れ、輔国将軍を授けただけでなく、太傅(たいふ)(国務大臣)の謝安はいつも懇ろに彼をもてなしたという。  貴族や官僚のあいだだけでなく、役人と庶民の関係もかなりよかった。同じく『世説新語』「方正」にはこんなことが記録されている。魏の関中都督(ととく)である郭淮(かくわい)の妻は兄の罪に連坐して、処刑されることになった。郭淮ははなはだ民心をえていたため、侍御史が捕らえにきたとき、部隊長や羌族、胡族のかしらをはじめ数千人もの人たちが町に出て、郭淮に上表して妻をひきとめることを願いでる。それにしたがい郭淮はみずから陳情して皇帝の許しをえた。  『三国志』巻三十の付録「魏略・西戎伝」には、族の人は「多くは中国語を知り、中国人と錯居す」と書かれている。西晋(二六五〜三一六年)になると、関中(現在の陝西省の地)にいる百万人以上のなかに漢民族以外の人がすでに半分を占めていた(『晋書』巻五十六「江統」)。それ以外の地域でも異民族は大挙して中原に進出し、晋文帝の司馬昭はかつて晋の「王政」がよいために八百七十万以上の異民族が晋の領地へ移住したと吹聴した(『晋書』巻二「文帝」)。そのことばにはやや誇張があるかもしれないが、漢民族の居住地に移住した北方民族の人数がかなり多かったことはまちがいない。  晋武帝の司馬炎が帝位に即いた後、匈奴の地では洪水に見舞われ、二万以上の集落が晋に帰化し、晋武帝は彼らを漢民族と雑居させた。さらに太康五年(二八四年)には匈奴の太阿厚(たいあこう)という人が二万九千三百人を率いて帰化し、二年後に都大博、萎莎(いさ)などが十万人以上を率いて帰順した。その翌年、匈奴の都督は一万一千五百人と牛二万二千頭、羊十万五千匹をつれて晋に奔った。晋武帝は大臣の反対を退け、彼らをみな受け入れた(『晋書』巻九十七「北狄・匈奴」)。帰化した匈奴の人たちのなかには固有の風俗や習慣を変えず、そのまま集団で生活していたのもいたが、漢民族と雑居し、彼らのなかにとけ込んだ人もいた。晋武帝のとき、太原では多くの匈奴や胡人が小作人として漢民族の地主に雇われ、その人数は数千人にのぼったといわれ(『晋書』巻九十三「外戚・王恂」)、漢民族への同化は生産方式の面にまで進んでいたことを示している。  漢民族の地に移り住んだ各民族は進んで中国語を学び、中国式の名字をつけ、なかには普通の中国人以上に古典に精通するものもいた。三〇四年に「漢」という名の国を作った劉淵(りゆうえん)は匈奴の出身でありながら、幼い頃から勉強が好きで、『詩経』『尚書』を学び、ことに『左伝』が好きであった。その博学ぶりは晋武帝をも驚かせたほどである。彼はまた『孫子兵法』を暗唱でき、『史記』『漢書』、諸子の書など読まないものはないという。その子の劉和、劉聡、劉宣などもみな中国の典籍を熟知していた(『晋書』巻百一「載記第一・劉元海」)。しかも、そのような人は異民族のなかに少なくなかった。  当時、漢民族の支配者は北方民族を警戒していたが、日常生活においては民族差別は必ずしもなかったようだ。晋の超(ちちよう)は人々に族の苻堅に似ているといわれると、たいそう喜んだという『世説新語』「企羨」の記述はそのよい証拠と言える。  三一六年に東晋は劉淵の養子劉曜(りゆうよう)によって滅ぼされ、中原地域を含めて、中国の北方は異民族の統治下にゆだねられた。そのときから民族融合はさらに進み、狩猟から農耕への生産方式の転換、結婚などにより、民族のあいだの区別はいよいよ二次的なものになってしまった。当時の人口の比率から見ると、漢民族(もちろん春秋時代から混血をくりかえしてきた漢民族)は多数を占めており、匈奴、鮮卑族などの北方民族は軍事的に漢民族を征服することはできたが、いずれも漢民族を同化することはできなかった。逆に六朝時代を経て多くの北方民族が漢民族のなかへ融合したのである。さらに遡れば、北方民族が中原に進出するまえに中央政権と和親した時期があり、そのときには皇室の人たちがみな漢民族と婚姻関係を結び、劉淵のように皇室の直系のなかに漢民族の血を引いた者も少なくなかった。  おもしろいことに、大陸の北部を統一した北方民族はみなみずから「中国」と称し、しかも「『春秋』の大義」を掲げていた。彼らは中国語を話し、中国の古典を読んでいただけでなく、二文字以上ある姓を中国人のように一文字にした。鮮卑族の拓跋珪(たくばつけい)が三八六年に北魏を樹立した後、漢民族の文化への同化はさらに進み、孝文帝のときになると、ついに「衣服の制を革(あ)らたむ」つまり服装を変え、朝廷では「北俗の語」(民族の言葉)を使ってはいけない、違反者は官職を罷免する、という詔書を出すまでにいたったのである(『北史』巻三「魏本紀」)。  こうした北方民族の漢民族への同化は裏返していえば、また漢民族の変質の過程でもあった。漢民族への同化は同時に自分の民族のものを漢民族文化のなかへ持ち込むことを意味する。北方民族の人たちが漢民族のなかに融合したからといって、彼らが自分の民族の風習を捨てる必要はないし、また捨てようともしなかったであろう。事実、当時では異民族の品物が重宝され、その習俗がまねされていたようだ。干宝の『捜神記』によると、「胡床(椅子の一種)と貊槃(ばくはん)(北方民族である貊(ばく)族の使う鉢の類)は、もとは北方の胡(えびす)の使う道具だった。また羌煮(羌族の料理)と貊炙(ばくせき)(貊族の肉の焼き方。丸焼きにして刀でさいて食べる)は、もとは北方の胡の料理だった。ところが太始(たいし)(二六五〜二七四年)以来、中国では貴重なものとされ、高貴の人や金持ちは必ずこれらの道具を所蔵しているし、めでたい席や客を招待するときには、胡の料理がもっとも上等とされてきた」(竹田晃訳)。『捜神記』は説話のアンソロジーであるとはいえ、こればかりはフィクションではないだろう。  ここで先に引用した『抱朴子』のなかの記述を想起すれば、漢民族文化の変質の謎がおのずと解けてくる。「沢山のお伴を連れ、路一杯に派手な服装をひけらかし、女中や兵卒で市場のような雑踏である」という現象の背後にはやはり異文化の影響があったであろう。つまり、大量の北方民族の流入は中原の風習を大きく変えてしまったのである。  そもそも北方民族と漢民族とは男女関係において大きな違いがあった。『三国志』巻三十「魏書」の「烏丸」によると、三国の蜀と関係のよい烏丸は「其の嫁娶(かしゆ)は皆先に私通し、女を略して去る」という。漢民族のいわゆる「私通」は男女の自由な恋であろう。当時、烏丸にはまだ母系社会の跡が色濃く残されており、かつレビレート婚などの風習もなお見られていた。鮮卑族は「常に季春を以って大会し、水上にて楽を作り、女(むすめ)を嫁がせ婦を娶る」(前出)。そのほかの民族も漢民族の風習と大きく異なっていた。  そうした北方民族の女たちが男女隔離や女性の外出禁制を守らなかったのはまったく不思議ではない。さらに重要なのは、ときには彼女らが異民族としてではなく、漢民族として道を練り歩いていたのである。そうした状況のもとで漢民族とりわけそのなかの庶民階級が影響を受け、女性の外出禁制の戒律が緩んだのもごくあたりまえのことである。葛洪は『抱朴子』のなかで、「晋の懐帝・愍帝(びんてい)の世(三〇七〜三一六年)、風俗が驕慢淫猥になり、まるで自分が野蛮人であるかのように振舞う」ということが、北方の蛮族が中原を乱し、長安を侵略するという事態を予告するものであった、と占卜術的に解釈していたが、事実はその反対で、その「風俗の驕慢淫猥」こそが漢民族文化と北方民族文化との衝突によるものであった。  このような状況のもとで、異民族のあいだの男女交際の機会と頻度が増えたことは容易に推察される。前秦の王嘉の『拾遺記(しゆういき)』巻九にはこんなことが記されている。石崇(せきすう)(二四九〜三〇〇年)には風(けんぷう)という侍女がいる。彼女は十歳のときに北方民族の胡(鮮卑族だと思われる)から買ってきたのだが、十五歳になると、絶世の美人となり、とりわけ体つきがきれいである。石崇は数千人の美しい侍女を抱えていたが、この侍女をもっとも寵愛していた。『拾遺記』は怪奇のことばかり記述した書物だが、石崇は晋の実在の人物である。その侍女が実在の人物であるかどうかは詳らかでないが、北方民族が数多く中原に流入した時代においてまったくの作り話とも考えられない。  事実、異民族の女性と恋をした記録は史書にも見られる。『晋書』巻四十九「阮籍(げんせき)」によると、阮籍のいとこの阮咸(げんかん)は叔母の家の鮮卑族の侍女を寵愛していた。母の喪に服しているあいだ、叔母がその侍女をつれて遠くへ移った。その話を聞いたとき、ちょうどある客が阮咸を訪ねてきた。阮咸は客から驢馬を借りると、喪服をつけたまま追いかけ、侍女をつれて帰った。その後、侍女とのあいだにひとりの子供を設けたという。  北方民族の女性たちは外を自由に歩くことができるから、漢民族とそれらの民族の女性のあいだに恋が芽生えることも当然しばしば起きていたにちがいない。そしてその影響のもとで漢民族の女性も多かれ少なかれ儒学倫理の束縛から解き放たれ、漢民族同士のあいだにも自由な恋が生まれただろう。六朝の志怪小説のなかには町や野外や、あるいは川のほとりで見知らぬ女と出会い、二人が恋におちいり、一夜を共にした話が非常に多い。そうした物語の背後に北方民族の文化の浸透があったことは見おとせない。  このように見てくると、「九歌」や「神女賦」などの作品系列からの継承が一方にあったとはいえ、六朝の志怪小説にあらわれた人神の恋や人怪の恋は魏晋六朝における異なる文化の衝突と大きなかかわりを持っていたことが明らかである。北方民族文化の刺激がなかったら、六朝文学における恋の表現はまた異なる様相を呈しただろう。  六朝の志怪小説にはもう一つ、人間と動物のあいだの恋や結婚を描いた、いわゆる異類結婚譚と呼ばれる作品群がある。『異苑』巻三に虎が美人に化けて人間を誘惑する話があり、『捜神記』巻十四に牡馬が人間の女性に恋した話や、また『幽明録』には淳于矜(じゆんうきよう)が美しい女性になりすました狐と結婚した話などがある。そうした物語は異なる民族のあいだの恋や結婚から連想された可能性がきわめて大きい。春秋時代から中原の民族は辺境の民族を軽蔑して、異民族の呼称に犬偏をつけた字を使ったり、動物を思わせる名前をつけたりする習慣がある。かつて戎族のなかに「犬戎」と称された民族があり、類似する名称はほかにも見られる。『後漢書』のように正確さで知られた史書にさえ、「蛮夷」は犬と王女のあいだにできた子の末裔だと書かれている(巻八十六「南蛮西南夷列伝」)。  漢代に匈奴と呼ばれた民族は殷のときに「粥(くんいく)」と呼ばれ、周の時代には「(けんいん)」と呼ばれていた。漢代の『説文(せつもん)』によると、「」は「(くん)」に通じ、『山海経(せんがいきよう)』では人間の顔をした犬であり「」は口の長い犬である。さらに「狄」について『説文』には、もとは犬の種である、と赤裸々に書いている。もちろん、そうした命名には動物をトーテムとする民族習慣が一部反映されていたかもしれない。が、漢民族文化の文脈では侮辱の意味があったことも否めない。あくまでも推測の域を出ないが、北方民族に対するそうした動物とつながる漠然としたイメージの連想から、女性が動物という姿で物語に登場したことは十分にありえたであろう。  ただ、これはあくまでも想像の回路をたどった試みに過ぎず、実際、六朝の志怪小説のなかでは、男と恋する女性は神であれ、妖怪であれ、あるいは動物などの異類であれ、そんなことはまったく関係はない。重要なのは恋が記述の対象として、すでに韻文から散文への転換が完成され、物語のなかで一つの意味構造として独立したことである。  異なる民族文化の進入は漢民族文化に大きな刺激を与えた。魏晋六朝の志怪小説の誕生にはさまざまな原因があったろうが、数多くの民族の人たちの出会い、異なる服飾、諸々の風習、北方民族を通して伝わってきた仏教などが、漢民族の想像力を豊かにしたことは否定できない事実である。男女関係においてそれは漢民族の恋の習慣に大きな影響を与えただけでなく、新しい恋の情緒表現を生み出す原動力の一つともなった。そして人神の恋や人怪の恋、あるいは人間と動物の恋という「怪奇」の上塗りは、非儒学的な恋の表現に対する非難を避けるための保護色にもなったのである。 【第四章】 美貌の胡姫たち ——長安の宴 1、遊里の風習と遊女物語の誕生  序章では恋はおおよそ三つのパターン、すなわち、夫婦の恋、未婚男女の恋、遊女との恋に分けられると述べたが、短編小説というかたちで登場してきたのはいずれも唐代になってからである。六朝志怪小説のほとんどがきわめて短い「雑録」風のもので、小説らしい構成も描写もまだなかったからである。  唐代小説にみられる夫婦の恋は明らかに『詩経』以来の閨房内の恋のながれを汲んだものである。結婚への憧憬、夫婦の和合によって象徴された共同体秩序への忠誠などの点においては閨房内の恋を受けつぎ、漢代、六朝にいたるまでの「思婦」の詩——遠く離れた夫を思い慕う詩とも共通している。ただ、唐代の小説において隔絶の原因はいっそう複雑になり、夫婦の離別だけでなく、他人による妻の略奪、家庭生活への侵害、男の心変わりなども障害の原因となった。しかし、新しい表現のかたちをえた夫婦の恋は儒学の理想的な恋であるという点においてはなお生命力を失っていなかった。  ところが、未婚男女のあいだの恋と遊女の恋を、事件の推移のなかで人物の心理変化を追いながら描写したのは唐代小説がはじめてである。この意味では恋は唐代において発見されたともいえる。未婚男女の恋は『詩経』のなかのいわゆる「淫奔の詩」といわれた作品、あるいは『楽府』のなかの一部の詩歌にわずかにその雛型が見えた程度で、恋が一つの独立した事象として描かれ、恋の情緒が叙述文体によって表現されるのは唐代小説の登場を待たなければならなかった。  遊女の恋と未婚男女の恋をその発生過程から見ると、遊女の恋がよりはやく意識されたと考えられる。つまり、儀式的な性格を持つ恋は最初は遊女との交際のなかで発見され、また、恋の方法や恋の段取りなども遊里の過程において形成されたと考えることができる。  唐代では遊女との交際は役人や文人の日常生活のなかの一部分で、とりわけ不名誉で不道徳的な行為ではなかった。酒を嗜み、婦人を愛することは風流だとされ、妓女をつれて遊興することも当時の文人のあいだではやっていた風習であった。都市文化の発達により、唐代の遊里は非常に盛んで、揚州だけでも妓楼は数え切れないほどあった。于(うぎよう)撰『揚州夢記(ようしゆううき)』によると、妓楼のうえの赤い薄絹を張った軒灯も数万にのぼり、夜になると一斉にこうこうと輝き、長さ九里の通りには飾りたてた美人たちがせわしく往来し、まるで仙境のようだという。  長安では享楽の気風はさらに強く、貴族の子弟や、科挙に合格した者はほとんど例外なく遊廓に通っていた。『北里志(ほくりし)』によると、長安の北門のなかに平康里(へいこうり)という遊廓の集中地があり、はじめて長安の官署に赴任した新参の官吏はこぞってそこを訪ねた。遊里はステイタスの象徴で、一種の名誉でもあったから、毎年科挙の試験に合格し新しく「進士」となった人たちはなによりもまず赤い紙の名刺を持って平康里に遊びに行くという(『開元天宝遺事(かいげんてんぽういじ)』巻二「風流藪沢(ふうりゆうそうたく)」)。  唐代の遊女たちは歌や楽器の演奏をよくするだけでなく、詩が書ける人も少なくなかった。『全唐詩』に収録された遊女詩人だけを見ても二十人に上っている。公表の機会に恵まれず歴史の闇に葬られてしまった遊女の詩作を考えると、その数はもっと多かったであろう。だから、学識や才知を衒いたがる文人たちにとってそれらの遊女たちは都合のよい遊び相手であった。李商隠(りしよういん)は『雑纂(ざつさん)』で、遊女のいる宴席で俗事を語るのが殺風景だと言ったほど、遊女との交際が雅趣に富んだことだと見られていた。  長安の進士鄭愚(ていぐ)、劉参(りゆうさん)、郭保衡(かくほこう)、などの十数人は毎年春になると、牛車に乗り、麗しい妓女を数人連れて有名な庭園曲沼(きよくしよう)に遊びに行く。彼らは芝生に座り、肌をあらわにして、酒を飲みながら、妓女と戯れる(『開元天宝遺事』巻二「顛飲(てんいん)」)。『旧唐書(くとうじよ)』巻百九十「王澣(おうかん)」によると、文章が玉の杯のように絢爛であると言われた王澣(王翰)は酒色にふけり、その馬小屋には名馬があり、家には芸者がおり、日々放逸な生活をしていたという。  『北里志』のなかに、次の詩が収録されている。 春来無処不閑行、 春来処(しゆんらいところ)として閑行(かんこう)せざるは無し、 楚潤相看別有情。 楚潤(そじゆん)は相看て別に情あり。 好是五更残酒醒、 好し是れ五更残酒醒むれば、 時時聞喚状元声。 時時状元(ときどきじようげん)を喚ぶ声を聞く。  「状元」とは科挙の廷試(官吏登用試験の及第者に対して皇帝がみずから行う試験)に首席で合格した者である。当時、遊廓に通っている人のなかに官吏や文人がいかに多かったかが窺える。『北里志』は大中年間(八四七〜八六〇年)のことを書いているとはいえ、著者自身も言っているように、遊廓そのものはかなり前からすでに長安にあったのである。  唐代の多くの詩人たちは詩のなかでおおやけに遊女との交際を描き、彼女らとの纏綿とした情愛を表現している。白楽天の詩にも「酔うて諸妓に戯(たわむ)る」「山に遊び小妓(しようぎ)に示す」など歌姫や遊女との交際を描いたものが多く、妓(女)と明記されている詩だけでも十五編を下らない。「妓に諭(さと)す」という詩には「蝋燭の蝋が溶けて袖に垂れようが、酒のシミが赤いスカートに出来ようが、そんなことを気にしないでせいぜい俺の機嫌を取るがよい。いまのうちにしておかないと、年取ってから後悔するだろう」という詩句があり、みずから奔放不羈の遊興ぶりを活写している。また窮乏の生活をしていたと言われた杜甫もかつて長安では妓女を同伴して夕涼みをしたりしていた。  遊里のほかに、家妓——おかかえの妓女を持つことも唐代の文人のあいだでははやっていた。白楽天にはおかかえの妓女が多数おり、詩のなかに名前の記述されているものだけでも前後あわせて二十数名もいる。  遊興の好きな李白ももちろん妓女とのつきあいが多く、その詩には遊女とともに景勝地を遊覧し、あるいは酒宴を楽しむ様子が多く描かれている。「江上吟(こうじようぎん)」では遊女との交遊が次のように詠まれている。 木蘭之沙棠舟 木蘭(もくらん)の(かじ) 沙棠(さとう)の舟、 玉簫金管坐両頭 玉簫金管(ぎよくしようきんかん) 両頭(りようとう)に坐す。 美酒樽中置千斛 美酒樽中(びしゆそんちゆう) 千斛(せんこく)を置き、 載妓随波任去留 妓(ぎ)を載せ波に随って去留(きよりゆう)に任(まか)す。 (後略)  また、「妓(ぎ)を携(たずさ)えて梁王(りようおう)の棲霞山(せいかざん)の孟氏桃園中(もうしとうえんちゆう)に登る」という詩にも妓女をつれて遊ぶときの心境を詠んでいる。晩年になって生活がかなり苦しくなったときでも李白はなおひとりの妓女をかかえていた。  遊女との恋と平行して、酒場の女との恋、あるいはそれに近い交際関係や、類似する感情の発生は無視できないことである。事実、唐代では酒場と遊廓のあいだにははっきりした境界線があったわけではなく、遊廓でも宴会を催し、妓女が歌や舞踏などを披露していたのである。したがって、飲み屋も遊廓と同じように、恋の発見の一つの温床であった。  このような、遊里のエチケットやしきたりはやがて恋の発見の契機となり、「恋」の方法がしだいに見つけ出されるようになったと考えられる。そのような恋の方法が後に普通の男女関係のなかにも広められたのはごく自然な成行きである。  六世紀の終わり頃、隋の中国統一により、少数民族出身の皇帝が玉座から引き下ろされ、全国の支配権は再び「漢民族」の手にもどった。唐代になると、血統のうえで共通点を持たない中国人が再び「漢民族」に統合され、そのため精神的な象徴とされた儒学がまた崇められる対象となった。さまざまな逸脱があったとはいえ、少なくとも表面上では儒学倫理の威厳が保たれた。未婚女性の外出禁制や、男女の隔離の大原則はなお機能しており、当時のほとんどの文人たちにとって結婚はひきつづき「父母の命、媒酌の言」によって取り決められ、婚前においては恋を体験する機会はほとんどなかった。  この場合、遊女との交際は肉親の女性以外の女とつきあう唯一の機会となり、とりわけ未婚の男性は遊女との交際を通してしか女性とのつきあいを知ることができない。彼らにとって遊女は女性のすべてであり、彼女らが男性との交際を職業としていることがわかっても、それ以外に女性に近づくすべを知らなかった。ましてや当時の遊女たちはただ色をひさぐのではない。少なくとも表面上では彼女らは男の性的享楽の対象ではなかった。実際、当時の遊女たち、とりわけ有名で人気のある遊女は男性を選ぶ権利さえ持っており、本人たちの合意がなければただ宴会での相手になってもらうしかなかったのである。しかも、評判のよい遊女の周囲にはつねに複数の男性がおり、この場合、地位や才能やあるいは金銭だけでなく、男女のあいだの感情も遊女を口説くのに微妙な影響を与えていた。『開元天宝遺事』巻一によると、楚蓮香(それんこう)という長安の名妓のまわりにはつねに貴公子たちが群れをなしていたほどである。  恋を経験できなかった唐代の男たちは、たとえ遊女との交際が一種の遊びに過ぎないと理解しても、知らず知らずのうちに感情の沼に陥ったことがあるだろう。それは未婚の男性だけでなく、既婚の男性にとっても少なくとも一種の代償として遊廓で恋を求めることができる。このように見てくると、遊里は単に現代のわれわれが考えているようなリビドーの放出だけでなく、恋を体験するもっとも普遍的で、しかももっとも便利で危険のない方法であった。それは多くの場合、官吏やあるいはその予備軍の文人たちの特権であったとはいえ、当時の人々が恋の願望を満足させるのにもっとも現実的な手段であった。 2、異国の美人たち  六朝時代には未婚男女のあいだの恋が現実に存在していたものの、それが美的価値として定着したのは唐代がはじめてであった。この意味において九世紀のはじめに書かれた「鶯鶯伝(おうおうでん)」は情緒表現の歴史において重要な一里塚である。そのなかに展開された恋の絢爛たる世界は後の世代の人々の感情生活を大きく左右した。  ところで、未婚男女の恋を描く成熟した作品が唐代になってあらわれたのはなぜだろうか。『楚辞』や漢代、六朝以来の人神の恋と人怪の恋の継承などはもちろん重要な原因であろう。しかし、それとは別にもう一つ注目すべき点は西域の女性との交際である。  漢代から西域諸国は中国に使節を派遣するようになったが、唐代になると社会秩序が安定し平和が続いたため、使節だけでなく、外国からさまざまな人たちが中国を訪ねた。『新唐書(しんとうじよ)』巻二百二十一下「西域下」によると、貞観(じようがん)(六二七〜六四九年)のはじめ頃に唐の太宗は西域の使節に、「西の突厥(とつけつ)はすでに降伏したから、貿易は再開してもよい」と言ったので、「外国の商人たちは非常に喜んだ」という。その後、外国との行き来はいっそう盛んになり、奈良時代の僧侶真人元開(後に還俗し、淡海(おうみの)真人(まひと)と賜姓され、淡海真人三船(みふね)と名乗った)は『唐大和上東征伝(とうのだいわじようとうせいでん)』のなかで、天宝九年(七五〇年)の広州について次のように書いた。「川にはインド、ペルシア、崑崙(こんろん)(南海諸国——引用者注)などの船が泊まっており、その数を知らない。香薬、珍宝を載せて、山のように積み上げている。船の深さ六、七丈で、師子国(ししこく)、大石国(だいせきこく)、骨唐国(こつとうこく)、白蛮、赤蛮などから人々が訪れて来たり滞在したりする。その国の数はきわめて多い」(竹内理三編『寧楽遺文』下巻所収)。また広州の開元寺には「胡人」がいるともいう。李肇撰『唐国史補』巻下「師子国海舶」によると、宝物などを積んだ師子国(セイロン島、現在のスリランカ)の船はもっとも大きく、タラップで乗り降りしている。書信を送るには伝書鳩が使われ、数千里離れても正確に故国に帰る。これらの記述から唐代にはインド、ペルシアなどさまざまな国からいろんな肌色をしている人たちが来ていたことが窺える。それらの外国人のなかには貿易のために渡来した者が多く、とりわけペルシアの商人は唐に多数来ており、一部の人は長期に唐に滞在していた。  一方、陸路でシルクロードを通って来たペルシアなどの外国の商人もおり、『新唐書』巻二百二十一下「西域下」には「伊吾城(いごじよう)には……商胡が雑居す」という記述があり、貞観年間以降、唐の領内にあった伊吾(現在の新疆ウイグル族自治区のハミ)はそれらの外国の商人の中間の拠点になっていたことが窺える。杜甫の「(えんよ)」という詩のなかに「舟人漁子(しゆうじんぎよし)歌って首(こうべ)を迴(めぐ)らし、估客胡商(こかくこしよう)涙襟(きん)に満つ」の二句があり、西域の商人は蜀(四川)にもいたことを示している。  周辺部だけでなく、唐の中心部にも彼らの足跡が見られる。『旧唐書』巻百二十四「田神功(でんしんこう)」によると、上元(じようげん)元年(七六〇年)に反乱が起きたため、鎮圧軍と反乱軍の戦争のなかで、多くの庶民と商人の資産が略奪され、当時、揚州に滞在していたペルシアの商人も巻き込まれ、数千人が殺されたという。巻添えを食った人だけでも数千人に達したというのは驚くべき数字である。  もちろん唐の歴代皇帝がそれらの外国商人の入国と長期滞在を認めたのはそれなりの理由があった。彼らが唐王朝に大きな利益をもたらしたからである。「商胡(しようこ)」と呼ばれた外国人の商人のなかでとりわけペルシア商人に金持ちが多かった。唐の李商隠の撰による『雑纂』のなかで、「貧しいペルシア人」は「字の読めない先生」「痩せた人が相撲を取る」「老人が遊廓に入る」などとともに「釣り合わない」ことの典型とされている。また、『楽府雑録(がふざつろく)』の「康老子(こうろうし)」にはこんなことが記されている。金持ちののら息子康老子はたまたま五百銭という安い値段で、町の老婆から中古の敷布団を買った。ところが、あるペルシア商人がその敷布団が非常に高価なものだと見抜き、康老子から一千万という破格の値段で買い取った。  それらの裕福な外国商人が払った税金は唐の重要な財源の一つで、『新唐書』巻二百二十一下「西域下」の「西域商胡に税し、以て四鎮(しちん)に供す」ということばが示すように、唐代の地方軍隊の一部はかつて外国商人の税金によって賄われていた。それらの西域の商人はときには寄付もし、同じく『新唐書』巻二百二十五上「逆臣上」によると、康謙(こうけん)という外国の商人はかつて山南(さんなん)という宿駅の経費を私財から出していたことがあるという。  西域の商人だけでなく、各国と各異民族の使節や代表なども多数唐に来ていた。『資治通鑑(しじつがん)』巻二百三十二によると、貞元三年(七八七年)には西域の国々の王子をも含めて約四千人の「胡客」が長安に長期滞在し、長い人は四十年以上も長安に住んでいる。彼らは土地や住居を買い、唐の女性と結婚し、子供をもうけていたという。  唐代は国勢が隆盛だったためか、外国文化に対して強い自信を持っており、外国人だけでなく、器物の輸入や楽器や音楽の受け入れに対してもかなり寛容であった。『旧唐書』巻二十九「音楽二」に「四方のえびすの音楽を受け入れるのは、(中国の)優れた道徳をそのおよぶ範囲内に広めるためだ」ということばがある。そして、周の時代からの伝統ということを理由に、進んで外国の音楽を取り入れることを正当化した。  六朝の北周の武帝(五四三〜五七八年)は突厥(とつけつ)の王女阿史那(あしな)を皇后にしたので、西域の諸国の女性との結婚が流行し、そのため亀茲(きゆうじ)(現在の新疆の庫車[クチャ]県あたり)、疏勒(そろく)(現在の新疆のカシュガルあたり)、安国(あんこく)(現在のウズベク共和国のブハラ市 [Bukhara] あたり)、康国(こうこく)(現在のウズベク共和国の南東部のサマルカンド市 [Samarkand] あたり)などの音楽は「大いに長安に聚まった」のである(『旧唐書』巻二十九「音楽二」)。そのほか東の高麗(こま)楽(がく)、百済(くだら)楽(がく)、南の扶南楽(ふなんがく)、天竺楽(てんじくがく)、北の北狄楽(ほくてきがく)などもみな唐の宮廷音楽として取り入れられた(前出)。  音楽だけでなく、「百戯(ひやくぎ)」や「幻術」と呼ばれた西域の魔術も唐の人々に好まれた。なかには刀を呑み、火を吐くなどスリリングなものもあった。天竺の幻術のなかにみずからの手足を切り落としたり、胃腸をえぐり出したりするようなものがあったが、唐の高宗(六五〇〜六八三年在位)は大衆を驚かすという理由で一時これを禁じた。しかし、禁止は長続きはせず、睿宗(えいそう)(七一〇〜七一二年在位)になると、それらの魔術はまた皇帝の前で演じられるようになった。インドから来た魔術師はあるいは鋭い刃のうえで舞踊を踊り、あるいは一人が刃のうえに横になり、もう一人がその腹のうえに立って笛を吹く。曲が終ってみるとまったく傷がないという(前出)。  西域の演奏者や踊り子たちも次々と唐に入った。『新唐書』巻二百二十一下「西域下」によると、開元のはじめに「康国」(サマルカンド)から「胡旋(こせん)」という舞踊を踊る女性が献上され、同じ開元年間にサマルカンドから百里ほど離れた「米国」(マイマールグ)という小国からもライオン、絨毯などといっしょに「胡旋女」が貢がれた。そのほか開元十五年には「史」(別名「羯霜那(きつしゆ)」、現在のウズベク共和国のシアフリ・サブズ)から、同じ頃には倶蜜(ぐみつ)(Kumedh 中央アジアのパミール山脈地域にあった国)からそれぞれ「胡旋舞女(こせんぶじよ)」が献上された。「胡旋」というのは中央アジアのソグド (Sogdiana) 地方のテンポのはやい旋舞で、唐代では非常にはやっていた。白楽天は「胡旋の女」という詩のなかで、この踊り方を次のように描いている、 胡旋女、胡旋女、 胡旋女(こせんじよ)、胡旋女、 心応絃、手応鼓。 心は絃に応じ、手は鼓に応ず。 絃鼓一声双袖挙、 絃鼓一声双袖挙(げんこいつせいそうしゆうあが)り、 廻雪飄転蓬舞。 廻雪飄転蓬(かいせつひようようてんぼう)のごとく舞う。 左旋右転不知疲、 左旋右転して疲るるを知らず、 千匝万周無已時。 千匝万周(せんそうばんしゆう)して已(や)む時無し。 人間物類無可比、 人間(にんげん)の物類比(ぶつるいたぐら)う可き無く、 奔車輪緩旋風遅。 奔車(ほんしや)も輪緩(りんゆる)うして旋風遅(せんぷうおそ)し。 (後略)  白楽天の詠った踊り方を見ると、どうやら現代のフラメンコと似ているようだ。当時「胡旋」を踊る人が多く、白楽天は同じ詩に「天宝(てんぽう)の季年(きねん)、時変ぜんと欲し、臣妾人人(しんしようひとびと)円転を学ぶ」と書いて、この外国の舞踊が唐代の人々に好まれていたことを示している。  中国文化のなかでは宗教はヨーロッパやアラブ世界ほど重要な位置を占めておらず、多くの場合、宮廷生活が文化の中心的な役割を果たしていた。唐代には仏教の影響がつよくなったとはいえ、この基本傾向に大きな変化があったわけではない。「詔」(詔書)、「論」(政論か文論)、「表」(君主などへの文書)、「書」(書簡)などのいわゆる文はほとんど全部王権行使の過程に隷属し、絵画、音楽、舞踊も宮廷生活を中心に発達したものである。詩作でさえ「採詩」からも窺えるように、最初は宮中の音楽と深いかかわりがある。皇室の趣味や嗜好は文化のなかで大きな影響力を持ち、上層階級は宮廷生活のまねをし、下級官吏や文人、商人などはさらに上層階級の生活のまねをする。このように宮廷内の審美傾向がしばしば文化全体に波及していったのである。  外国の音楽や舞踊を好み、外国人の踊り子や楽師の演出を楽しむ気風ももちろん皇居の高い塀を越えて一般社会に影響を与え、民間でも西域の踊り子の舞踊を見物したいという需要が自然に生まれた。また、労働力がより高い収入の方へ流れるという経済法則も手伝って、外国の踊り子や楽師の流入を刺激した。皇帝に貢ぎ物が多く献上された年には商人も多く渡来するのと同じように、宮廷に楽師や舞姫がたくさん貢がれたときには、民間にも同様の人たちが多数流入したことは推して知るべし。右に引用した白楽天の詩「胡旋(こせん)の女」には、 胡旋女、出康居、 胡旋の女、康居(こうきよ)より出ず、 徒労東来万里余。 徒(いたず)らに労す東に来たる万里余(ばんりよ)。 という詩句があり、西域の踊り子たちがはるばる中原にきたことが書かれている。それらの西域の女性のなかでペルシア系が大多数を占めているといわれているが、人員の流動の広さから考えると、ペルシア系だけでなく、中央アジアや西アジアの他の国々の人たちも唐の内陸部に入ったと考えられる。いずれにせよ、唐の宮廷だけでなく、民間にも外国の踊り子や楽師が多く来ていたのである。 3、胡姫たちの唄  通商とともに人的交流がますます盛んになるなかで、一つの注目すべきことがある。それは長安の町にあらわれ、「胡姫(こき)」と呼ばれた水商売の女性たちである。それについて歴史書には詳しい記録が見あたらない。にもかかわらず、唐代の詩歌からわれわれはそれを知ることができる。有名な詩人の作品を含めて、多くの詩には「胡姫」が登場し、当時の酒場には外国人ないし異民族のホステスが多数いたことを示している。李白には「少年行」という詩がある。 五陵年少金市東、 五陵(ごりよう)の年少(ねんしよう)、金市(きんし)の東、 銀鞍白馬度春風。 銀鞍白馬(ぎんあんはくば)、春風(しゆんぷう)を度(わた)る。 落花踏尽遊何処、 落花(らくか)を踏み尽して、何処(いずこ)にか遊ぶ、 笑入胡姫酒肆中。 笑って入る、胡姫の酒肆(しゆし)の中(うち)。  この詩からみると、「胡姫」のいる酒場は長安の多くのところにあり、しかも、そうしたところに行くのは当時ではハイカラのようだった。おそらく外国人のホステスのいる酒場はときのプレイボーイたちにかなり人気があっただろう。ただ、軽薄な若者だけでなく、詩人たち自身もそのような酒場を好んでいた。李白だけでなく、張祐(ちようゆう)、温庭(おんていいん)、岑参(しんじん)などはみな「胡姫」の酒場に行き、かつその様子を詩に描いている。賀朝には「酒店の胡姫に贈る」という詩がある。 胡姫春酒店、 胡姫春(こきはる)の酒店(しゆてん)、 弦管夜鏘鏘。 弦管夜(げんかんよ)に鏘鏘(そうそう)たり。 紅舗新月、 紅(こうとう)新月に舗(し)き、 貂裘坐薄霜。 貂裘薄霜(ちようきゆうはくそう)に坐す。 玉盤初鱠鯉、 玉盤(ぎよくばん)初めて鯉(こい)を鱠(かい)にし、 金鼎正烹羊。 金鼎正(きんていまさ)に羊(ひつじ)を烹(に)る。 上客無労散、 上客の散るを労する無く、 聴歌楽世娘。 歌を聴きて世娘(せいじよう)を楽しむ。  西域の若い女性のいる酒場が人気があったのは、いくつかの理由がある。彼女らはただ客と一緒に酒を飲み、品のない騒ぎをするのではなく、歌や踊りが巧みで、楽器の演奏も上手である。加えるに部屋のなかはペルシアから輸入した赤絨毯が敷いてあり、大きな鼎には羊が調理されているというエキゾチックな雰囲気を味わうことができる。このような酒場が好奇心の強い唐代の人々を魅了しないはずはない。  そもそも中央アジアの人たちは酒造の技術がかなり高かった。彼らの造った酒は非常においしく、唐の人たちに珍重されていた。漢代にすでに知られた葡萄酒は大宛国(だいえんこく)(現在の中央アジアのフェルガナ盆地)の特産であった。王翰(おうかん)の「涼州詞」の詩句「葡萄の美酒 夜光の杯」にもあるように、葡萄酒は唐の人たちに好まれた。また、唐代の李肇(りちよう)撰『唐国史補』巻下「叙酒名著者」によると、西域に産する菴摩勒(あんまろく)、毘梨勒(びりろく)、訶梨勒(かりろく)の三つの果樹の実の汁をしぼって「三勒」という酒が造られるが、その醸造法を考案し、かつ造ったのはペルシア人だったという。じっさい「胡姫」と呼ばれた異国の女性がホステスを勤める酒場は「胡人」たちによって経営されていたものもあり、唐代にはそれらの酒店が「酒家胡」と呼ばれた。  そうした異国の女性には容姿の端麗な美人が多い。顔立ちが漢民族とかなり異なる彼女らは本来、唐代の男たちの好みには必ずしも合わないかもしれない。事実ペルシアや中央アジアなど西域の女性を嫌う人もいなかったわけではない。唐の范(はんちよ)撰『雲渓友議(うんけいゆうぎ)』「巻第七」に陸巌夢(りくげんむ)の「桂州筵上に胡子女に贈る」という詩が収録されている。そのなかで西域の女性の顔をこのように描いている。 自道風流不可攀、 自(みずか)ら道(い)う風流は攀(ひ)くべからず、 那堪蹙額更頽顔。 那(なん)ぞ堪えん蹙額(しゆくがく)更に頽顔(たいがん)に。 眼睛深却湘江水、 眼睛(がんせい)は湘江(しようこう)の水より深く、 鼻孔高於華岳山。 鼻孔(びこう)は華岳山(かがくさん)より高し。 (後略)  「蹙額」とは皺をよせる額で、「頽顔」は衰えた容色の意味である。字面どおりに理解すると、年増の「胡姫」を皮肉った詩のようだが、この詩の前後には水商売の女たちをあざ笑う詩や逸話ばかり集められているから、あるいはここにも悪意ある誇張と中傷があったかもしれない。現代とは違い、彫りの深い顔は蔑まれることもあったからこそ、くぼんだ目が嘲笑され、また鼻が山より高いという風刺が成り立ったのであろう。しかし、彼女たちは普通の男では自分に簡単に近づけないとうぬぼれていたのだから、「胡姫」はやはり長安の男たちにもてはやされていたであろう。  じっさいこのような彫りの深い顔を好むものずきな人もいたのである。李白は「前有樽酒行(ぜんゆうそんしゆこう)・其二」という詩のなかでそうした異国か異民族の女性について次のように詠った。 (前略) 催絃払柱与君飲、 絃を催(もよお)し柱(ちゆう)を払(はら)って君(きみ)と飲み、 看朱成碧顔始紅。 朱(しゆ)の碧(みどり)を成すを看て顔始(かおはじ)めて紅(くれない)なり。 胡姫貌若花、 胡姫の貌(かたち)花の如く、 当笑春風。 (ろ)に当(あ)たって春風(しゆんぷう)に笑う。 笑春風、舞羅衣。 春風に笑い、羅衣(らい)を舞う。 君今不酔欲安帰。 君(きみ)今酔わず将(まさ)に安(いず)くにか帰らんとする。  このなかで李白は胡姫たちを花にたとえ、その美貌に最大の賛辞を送っている。また、「裴十八図南(はいじゆうはちとなん)の嵩山(すうざん)に帰るを送る」という詩では李白は「胡姫素手(こきそしゆ)を招き、客を延(ひ)いて金樽(きんそん)に酔う」と書き、従来美人の描写に使う言葉「素手(白い手)」を用いて「胡姫」の容貌を暗示している。李白はそうした「胡姫」が非常に好きなようで、彼女らを描いた詩はほかにも数首ある。  もちろん、これは李白の生いたちとあるいは関係があるかもしれない。『旧唐書』によると、李白の先代は隋のときに罪を犯したために西域に流され、李白は砕葉城(えいようじよう)(スーイアブ、現在のキルギス共和国トクマク市あたり)に生まれた。幼いときにはじめて蜀に居を移したのである。このことから考えると、李白が「胡姫」を好むのは例外ではないか、という疑問もあるいはあるだろう。ところが、唐代では「胡姫」がきれいだというのは李白一人ではない。楊巨源(ようきよげん)も「胡姫詞」のなかで彼女らの美貌を讃えた。 妍艶照江頭、 妍艶江頭(けんえんこうとう)を照らし、 春風好客留。 春風(しゆんぷう)客を留(とど)むるに好し。 当知妾慣、 (ろ)に当たるは妾(しよう)の慣(なら)わしと知り、 送酒為郎羞。 酒(さけ)を送って郎(ろう)の為めに羞(は)ず。 香渡伝蕉扇、 香(かおり)渡りて蕉扇(しようせん)より伝わり、 妝成上竹楼。 妝(よそおい)成りて竹楼(ちくろう)に上がる。 数銭憐皓腕、 銭(せん)を数えて皓腕(こうわん)を憐れみ、 非是不能留。 是(これ)に非(あら)ず留(とど)まること能(あた)わず。  この詩のなかの「胡姫」は伝統的な美人描写のきまり文句を踏襲しており、したがって、その美貌は「妍艶」「皓腕」などの数語で十分にあらわすことができる。また酒場の「胡姫」ではないが、李端の「胡騰児(ことうじ)」という詩にも「肌膚(はだえ)は玉(ぎよく)の如く鼻は錐(きり)の如し」という言葉があり、高い鼻は白い肌と同じように讃美の対象とされていた。  詩だけでなく、史書にも同じ見方がある。『新唐書』巻二百二十一「西域・下」によると、大食タージ国(こく)(現在のペルシア・メソポタミア・アラビア・エジプトに跨る国)のペルシア領内の女性は肌が白く、その近くの島の女は「明皙にして麗しい」という。このように見てくると、一部の人をのぞき、容貌が少々漢民族の人と異なったそうした異国の女性はやはり唐の人たちに好かれていたのである。  そればかりでなく、漢民族の男女はみずから進んで「胡人」の服飾をまねた。また唐代の陳鴻(ちんこう)が書いた「東城老父伝」によると、開元年間には「北胡」と呼ばれた人々が長安の人たちと雑居し、彼らは漢民族の女性をめとり、子供を生ませている。そのため、長安の「少年は胡心有り」という。  興味深いのは唐太宗の長男で、皇太子の李承乾(りしようけん)である。『新唐書』巻八十「列伝第五・太宗諸子」によると、李承乾は西域の文化をこよなく愛し、機会あるごとに胡人のまねをしていた。彼は胡服を身につけ、胡人のような髪型をし、突厥の言葉をしゃべるだけでなく、テントを張って住居とし、羊の肉を西域風に調理する。食事をするときは箸を使わず、肉を軍刀で切って部下とともに食べる。また、家僕たちにも胡人の髪型にさせ、胡服を着せたうえで胡の歌や踊りをさせた。  民間でも同じ傾向が見られる。唐代の姚汝能(ようじよのう)は『安禄山事蹟』巻下のなかで、天宝(七四三〜七五五年)のはじめ頃には上流階級か一般庶民かにかかわらず、男たちはみな胡服を着るのを好み、豹の皮の帽子を被り、婦人は「歩揺(ほよう)」という髪飾りをつけ、襟と袖の細い服を身につけている、識者にはすぐに異民族のものだとわかる、と書いている。袖の細い服は異国か異民族のものだということは早くから知られており、『梁書』巻五十四「列伝第四十八・西北諸戎」には、鮮卑族の女性も高昌国(こうしようこく)の女性もみな袖の細い服を身につけていると書いているから、漢民族の女性のそうした服飾は意識的に「胡服」のまねをしたにちがいない。  うるわしい女性においしい酒、それを目の前にする唐代の男たちが歓ばないはずはない。当然のようにこうした甘美な雰囲気のなかに恋心が自然に芽生えたのもまったく不思議ではない。同じく唐代の施肩吾(しけんご)には「戯れに鄭申府(ていしんぷ)に贈る」という詩がある。 年少鄭郎那解愁、 年少(ねんしよう)の鄭郎那(ていろうなん)ぞ愁いを解かん、 春来閑臥酒家楼。 春来たりて酒家の楼に閑臥(かんが)す。 胡姫若擬邀他宿、 胡姫若(も)し彼を邀(むか)えて宿(しゆく)せしめんと擬(ほつ)せば、 挂却金鞭繋紫。 金鞭(きんべん)を挂却(けいきやく)して紫(しりゆう)を繋(つな)がん。  「胡姫」が男を誘うことが実際にあったからこそ、このような詩が書かれたのだろう。もちろん「胡姫」は色をひさぐためではなく、恋をしただけであった。彼女らにとって客をもてなすのが仕事であるとはいえ、男性たちとの接触のなかでほれたりほれられたりするのはごく自然なことである。ペルシアや中央アジアの女性はもちろん儒学の束縛をまったく受けておらず、率直にみずからの気持ちをあらわし、自由に恋することができたはずであった。  もう一つ興味を引くのは彼女らの唱った歌である。李白の詩「酔後朱歴陽に贈る」の詩句「双(なら)び歌う二(ふ)たりの胡姫」にあるように、長安の風流人たちを喜ばせるために「胡姫」たちは歌を披露することもあったのである。彼女らは唐の「歌謡曲」も唱っていただろうが、一方、故郷ペルシアの歌も唱っていたと思われる。ペルシア絨毯や酒と同じように異国の歌も好奇心の旺盛な唐の人々の興味をそそったにちがいない。ところで、彼女らが唱ったペルシアの歌はいったいどんな内容だったろうか。  ペルシアは七世紀にアラブ族の侵攻を受けたが、それ以前の文学作品はほとんど散佚したといわれている。したがって、今日では唐代と同時代のペルシアの資料はすでに見あたらない。ところが、十一世紀の中頃にペルシア詩人F・A・グルガーニーが書いたロマンス叙事詩『ヴィースとラーミーン』の原典は「パルティアの伝説に由来」し、「作品のなかにイスラム以前の宗教思想、生活習慣などを見いだすことができる」といわれている(『ヴィースとラーミーン』岡田恵美子「解説」)。とすれば、イスラム文化が伝来する前後(ほぼ唐代とかさなる)のペルシア人の恋の情緒表現の片鱗をこの恋物語に見ることができる。『ヴィースとラーミーン』は八千三百の対句からなる長編叙事詩であるが、そのなかにところどころ恋唄が挿入されている。ヴィースの恋人ラーミーンが楽器を奏でながら唱った一曲を例にあげよう。 われらは共に佳き恋に身を捧げ 死を厭わず 純潔を誓いあいしわれらこそ 誠心を表す宝もの われらの喜ばしい生に悪をもたらす者は苦しみ嘆く われらは矢——仇敵の目に痛みを与えん されど仇敵に悩まされ 全き愛の境にわれら到らず (岡田恵美子訳、以下同様)  また、恋人を思う心境は次のように唱われている。 恋人よ 君のいない生命はほしくない 君のいない安楽も成功もほしくない 君を捜し 君を求めて敵を恐れない この世の全てが敵であっても  叙事の部分になると、さらにはげしい愛の告白がある。 あなたは月の美女、天女の目をもった女。妖精の頬よ、春よ、すぐ怒る女よ、愛の絆でぼくに結ばれた恋人よ! ぼくが不実だなんて考えないでおくれ。君に百の誓いをたてよう。その誓いによって、ぼくたちの結ばれはこれからも解けないだろう。生きている限り君への愛の約束は破らない。愛の命令には背かない。魂が肉体に品位を与えている限り、君への愛はぼくの魂のなかにある。そして平安の時も戦乱の時も、ぼくの心は君を忘れはしないよ。  明らかに唐代までの中国文学における恋の情緒表現とまったく異なるものである。もちろん「胡姫」が同様の唄を唐代の酒場で唱っていた証拠があるわけではない。しかし、かりに似たようなペルシアの恋唄が長安に伝わったとすれば、唐の人たちの興味を引き起こしたことは疑えない。文学的な想像をすれば、たとえ接客中でなくとも、「胡姫」たちはおそらくなにかの機会でふるさとの唄を口ずさんだであろう。唐代にはペルシア語の話せる人が多く、また大勢のペルシア商人のなかにも中国語に通じる人たちがいたはずである。もしペルシアの恋唄が長安などの都市で唱われたとしたら、その内容もきっと唐の人々に知られたにちがいない。  そうしたなかで、彼女らが自国の民族文化のなかの恋の方法や、情愛の表現法を中国に持ち込んだであろう。もちろん、唐の人たちがそのまま異国や異民族の恋の方法を受け入れたとはかぎらない。しかし、中国ではかつて見られたことのない恋の情緒と情愛の表現法が当時の人々に大きな刺激を与えたことは容易に想像できる。本国の女性とつきあう機会が少なかった男たちはいったんこの禁じられた果実の味をしめると、そう簡単にはやめられない。やがてそれはさまざまなかたちで文化のなかで結晶するにいたったのである。唐代における恋物語の隆盛はここに一因があるであろう。  もちろん六朝にも同じような条件があり、そしてその刺激のもとで人間と神、人間と妖怪、あるいは人間と異類の恋という奇想天外の世界を描き出す想像力が生み出された。ところが、六朝の想像力はまだそれに見合う表現力に恵まれておらず、結局、貧弱な語りは土から芽を出したばかりの筍(たけのこ)のように、無限の力をうちに秘めながらも、一夜のうちに成熟することはできなかった。そびえ立つ竹になるまでにはなおも月日が必要なのだ。  唐代になると状況は一変した。散文文学の発達は未婚男女のあいだの恋の情緒を表現するのにまたとない叙述形式と修辞法を提供した。六朝の志怪小説の痩せこけた体は旺盛な語りのエネルギーを吸収することによって急速に肉付きはじめ、『遊仙窟』となると、怪奇の幻想がしだいに排除され、その代わりに恋の情緒は豊富な描写法の乳汁をえて大きく成長した。異国の女性との交際という外的条件によって「父母の命、媒酌の言」的な結婚からの逸脱が保証され、その前提のもとで、洗練された情緒はいっそう熟成し、ついに未婚男女のあいだの恋の表現を飛躍させるにいたったのである。もし異国、あるいは異民族とのつきあいがなかったら、未婚男女のあいだの恋の発見はさらに遅れたにちがいない。六朝の驚異的な想像力と唐代散文の豊饒な描写力とともに、異なる文化のなかの異質な感情表現の啓発は恋の情緒の発見にとってなくてはならない、もっとも基本的な素因の一つだったからである。 4、玄宗と楊貴妃の恋  人口に膾炙する白楽天の詩「長恨歌(ちようごんか)」は唐の玄宗と楊貴妃のあいだの情愛を詠ったものとして長く人々に好まれてきた。二人の関係はほとんど例外なく恋人のように見なされ、玄宗と楊貴妃は悲恋の典型として文学のなかで再三取り上げられた。題材として、典拠として、さらに隠喩として、その後長い時代においてその内在する活力と素材としての可能性はずっと失われていない。詩だけでなく、『長恨歌伝』『楊太真外伝』などの作品が示したように、白楽天の抒情はやがて小説の分野でも強い共鳴をえ、また芝居のなかでもさまざまなヴァリアントを生み出した。  ところで、そもそも玄宗と楊貴妃は恋人関係ではなく、ただの夫婦である。たとえ二人のあいだに閨房内の恋があっても、未婚男女のあいだにあるような恋はなかったはずだ。にもかかわらず、玄宗と楊貴妃のあいだの感情を夫婦愛と受け止めた人はほとんどいない。「長恨歌」を読んだ人は誰一人としてそれを夫婦の情を描いた作品とは思わない。しかもそれは自明のことのように思われていた。いったいなぜだろうか。  もちろん「長恨歌」の叙事構造と抒情法にも原因がある。中国文学にまれに見る長編叙事詩という形式が用いられたこの作品は、玄宗と楊貴妃の死別からストーリーが始まり、永い思慕の末、夢での再会で終わるという叙述順序になっている。その間、死別の悲しさと侘しさの伏線と引立てとして、生前の楊貴妃との濃密な情愛がところどころ挿入されている。そのため、作品の展開としては夫婦の離別というよりもむしろ恋物語に無限に近い。詩的連想により叙事時間は日常から遊離し、夢幻の世界への接続を通して、情愛の深さが強調されている。このような叙事構造はたしかに悲恋という印象を与えやすい。  ところが、濃やかな情のある皇帝とその愛する妃の例なら歴史上いくらでも捜し出すことができる。しかし、従来、后妃たちとの纏綿たる情愛はほとんど例外なく淫乱と見なされ、后妃を寵愛することは国を滅ぼす原因とされていた。玄宗の場合も本来、楊貴妃のために内乱が起きたのに、「国を治め天下を太平にする」ことを人生の最大目標としたはずの文人白楽天が、なぜ二人のあいだの情を讃美し、恋として詠ったのだろうか。  ここで見逃してはいけないのは玄宗と楊貴妃のあいだの特殊な関係である。『新唐書』巻七十六「列伝第一・后妃伝上」によると、楊貴妃はほんらい玄宗の子息である寿王李瑁(りぼう)の妃であった。開元二十四年(七三六年)に玄宗が寵愛していた武恵妃が亡くなり、宮廷には玄宗の意にかなう女性はいない。そのとき寿王妃楊氏はたぐいない美しさの持ち主で、皇帝に献上すべきだと進言した人がいたため、玄宗は楊氏を宮内に招き入れ、一目ぼれした。しかし、子息の妃ということでさすがにすぐには取り上げることはできなかった。そこで玄宗は楊氏を道教の寺院に入れ、しばらく女道士の修行をさせた。道教の世界は現世と断絶があるとされたので、寺院から招かれた楊氏は玄宗と結婚しても子息の嫁をめとった、ということにはならないと解釈するためである。  しかし、それはあくまでも表面をつくろうための理屈に過ぎず、玄宗が子息の嫁を奪ったことを意識しなかったはずはない。彼が楊貴妃に夢中になるのは楊貴妃との結婚がタブーに触れたからであろう。楊氏に近づいてはいけないという禁止があったからこそ、玄宗の情熱はますます燃え上がり、楊貴妃にますます夢中になったのではなかろうか。彼は皇帝の地位と権力を利用して子息の寿王から楊貴妃を取り上げることはできたものの、楊貴妃が寿王の妃であったことには変わりはない。玄宗は楊貴妃と結婚の手続きをしても、その結婚は永遠に完成することはできないのだ。裏返して言えば、玄宗と楊貴妃の関係は永遠に恋人でしかありえず、彼らはその宿命から逃れることはできなかったのである。  ところで、父親が子息の嫁と結婚することは当時では必ずしも珍しいことではなかった。それを説明するにはまず長安という都市の変化について触れなければならない。魏晋以降、長安は辺境政権と中原政権の争奪の中心となり、町の民族構成から文化習慣まで大きく変質した。三一六年に匈奴族の政権「前趙」(漢)の劉曜(りゆうよう)が長安を攻め落とし、晋の愍帝(びんてい)はみずから上半身を裸にし、手に羊を引っ張って降伏した。そのときから長いあいだ長安は異民族支配にゆだねられた。劉曜は大軍を率いて長安に入り、それを機会に匈奴の人が大挙長安に移住した。『晋書』巻百三「載記第三・劉曜」によると、三一八年に平陽にいた匈奴の男女一万五千人が劉曜に帰順し、長安に移った。三二〇年に前趙の游子遠は(てい)、羌(きよう)族を破り、その部族の二十万余人を長安に移住させた。  三二九年に前趙が滅び、長安は羯(かつ)族政権の「後趙」の支配下に入る。三五〇年に後趙はその二代目の皇帝石季竜(せつきりゆう)の養孫冉閔(ぜんびん)に滅ぼされ、さらに三五二年に冉閔の政権「魏」は鮮卑族の政権「前燕」に滅ぼされた。  三五一年に族の苻健(ふけん)は長安を占領し、「前秦」政権を樹立した。そのときから長安は族政権の政治、文化の中心となる。三七〇年に「前秦」と敵対していた「前燕」政権は「前秦」に滅ぼされ、「前秦」の皇帝苻堅は鮮卑族の人四万世帯あまりを長安に移させた(『晋書』巻百十一「載記第十一・慕容」)。  三八四年になると、長安は羌族の姚萇(ようちよう)に攻め落とされ、苻堅も絞殺された。長安は羌族政権「後秦」の国都となる。三八六年に姚萇は即位し、長安は常安と改名された。四一七年七月に後秦の三代目の皇帝姚泓(ようこう)が東晋の太尉劉裕に投降し、長安はやっと漢民族に取り戻された。  しかし、それも束の間、息子の劉義真に長安の守備を委ねた劉裕が長安を離れると、匈奴族の政権「大夏」の皇帝赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)(赫連屈丐(くつかい))はすかさず長安を攻め、翌四一八年に占領した(『晋書』巻百三十「載記第三十・赫連勃勃」)。四二一年に鮮卑族の政権「北魏」の太武帝は長安を攻め落とし、国都とした。その北魏は東魏と西魏に分かれたが、長安は五三五年から西魏の国都としてひきつづき鮮卑族の支配下にあった。五五六年に西魏の恭帝は皇位を同じく鮮卑族の宇文覚に禅譲し、北周が成立したが、長安は依然として鮮卑族の手にあった。  五八一年に隋王朝が成立してから、長安はやっと漢民族の手にもどった。三一六年から五八一年のあいだ二六五年にもわたって長安は匈奴族、羯族、鮮卑族、族、羌族、漢民族など前後あわせて六つの民族と、前趙、後趙、(冉)魏、前秦、後秦、東晋、北魏、西魏、北周と九つの王朝の支配を経験した。そのなかで漢民族が支配したのは一年にも満たなかった。  唐王朝が長安に都を定めたのは三八年後の六一八年であった。玄宗と楊貴妃の出会いはそれから約一二〇年後とはいうものの、二六五年にわたる異民族の支配の半分の年月もたっていなかった。しかも、唐は異民族に対し、比較的寛容であった。『貞観政要(じようがんせいよう)』巻九「安辺」によると、貞観四年(六三〇年)に唐の将軍李靖は突厥族の頡利(けつり)を破り、多くの集落の首領が帰順に来た。唐の太宗は中書令温彦博の進言を聞き入れ、四つの州を設置して彼らを住まわせ、一万世帯近くを長安に定住させた。首領たちはみな将軍や中郎将を授けられ、朝廷に居並んだ。そのなかには五品以上の官職を授けられた者が百余人にも達し、数のうえでは朝廷の文官にほとんど匹敵するという。  そもそも唐の高祖李淵(りえん)は突厥人の阿史那大奈(あしなだいな)(後に皇帝から「史」という姓を賜り、「史大奈」となった)やその他の異民族の軍事力を利用して唐王朝を造ったのである。唐代にはいわゆる「蕃将」と呼ばれた将軍が多く、彼らは唐王朝を支える重要な力であった。その関係で長安およびその周辺には異民族の将校や兵士とその家族らが多くいた。  それらの民族では父親と息子が同じ女性と結婚することはタブーでないばかりでなく、むしろ民族の習慣としてずっとあった。玄宗自身も安禄山、史思明、哥舒翰(かじよかん)など異なる民族の人たちを要職に任命するほど異民族を信用していた。玄宗が子息の妃を取り上げた背後にはそのような事実があったことを見逃せない。  ところで、異民族の風習に影響されたなら、なぜ玄宗は楊貴妃を道教の寺院に入れ、みそぎをさせたのか。問題の鍵はまさにここにある。異なる民族文化の影響は表層文化を変えやすいが、人間の深層心理を左右するのは多くの場合、やはり自国文化である。次章でさらに詳しく述べるが、唐代の皇帝の多くは混血であり、玄宗自身も異民族の血をひいていたのである。しかし、漢民族の政権の帝王として育てられた彼は倫理的には儒学文化に帰属していた。したがって、彼は無意識のうちに儒学倫理をもってみずからを律したにちがいない。玄宗と楊貴妃の関係においても同じで、表面上、玄宗が禁忌をクリアしたように見えたが、彼は内心では一生その禁忌を残していたであろう。玄宗にとって、その見えない禁忌は楊貴妃への恋の情熱を無限に増幅させた源であり、子息の嫁と肉体関係を持ってはいけないという心理的な隔絶は夫婦感情であるべきものを恋の情緒に昇華させた原因であった。  なによりもその点を見抜き、かつそれを詩歌に詠った白楽天の直感は鋭かった。玄宗と楊貴妃の死別という史実は、永遠に実らない呪われた恋を暗示する象徴として利用され、死後の世界での再会への憧憬は、恋の成就を一つの遠景としながらも、恋は破られなくてはならないということを示している。しかし、「長恨歌」の意味構造があまりにも見事であるために、その含意するところはかえってずっと解読されなかった。人々は「長恨歌」に感動はするが、感動する理由は知らない。「長恨歌」によって再創作の意欲がたえず刺激されたが、玄宗と楊貴妃の恋についての白楽天の洞察を読み取ることはできなかった。「長恨歌」は中国の恋の情緒を表現する作品のなかで特異な現象であった。それは閨房内の恋とはもちろん、人神の恋、人怪の恋の流れを引いた未婚男女の恋を描いた作品群とも異なる恋を描いたものである。ただ残念なのは「長恨歌」の深層意味があまりにも深く隠されていたので、表面的な模倣例をのぞけば、その長編詩のなかにあらわれた恋の情緒はその後の文学に継承されなかった、ということだ。 【第五章】 略奪婚の衝撃 ——漢族文化への回帰 1、恋の技術への興味  『楚辞』に起源する人神の恋、六朝に誕生した人怪の恋や人間と動物の恋の流れを汲んで、異民族文化の刺激のもとで形成された唐代の未婚男女の恋には新しい情緒表現が登場した。「鶯鶯伝(おうおうでん)」に見られるように、空間的な隔たりを恋の源泉としながらも、男女間の越えられない距離が同時に禁忌であったがゆえに、禁忌への侵犯の動機が恋の情熱の源泉として昇華したのである。媒酌の排斥、詩の交換の持つ象徴的な役割の定着などにより、未婚男女の恋はついに確立されたのである。  ところが、唐代では異民族文化の参入が重要な要素であった未婚男女の恋は、宋代になると儒学文化のなかに吸収され、人々はもはやそのなかの異質な素因には気づかない。禁忌が文化融合のなかで洗われ、その毒々しさが歴史の川でしだいに溶けたとき、禁忌への侵犯を美的価値の前提とする行為もその意味を失う危機に直面する。そこで恋の方法への注目は一気に増大し、また、従来と異なった意匠の工夫も必要となる。宋代において未婚男女の恋がいかに受けつがれたかは同時代の作品からはっきりと窺える。明代の版本しか残っていないが、研究者のあいだでは宋代の話本と見られている「灯籠まつりの宵」(「張生彩鸞灯伝」)はそのような恋物語の一つである。  越州(えつしゆう)の張舜美(ちようしゆんび)というハンサムな青年が科挙の試験に落第し、灯籠まつりの夜、杭州の街を散策していたとき、たまたま容貌の麗しい若い女性に出会い、一目ぼれした。女性も張舜美に気があるようだが、互いにことばを交わすことはできない。この美人のことが忘れられない張舜美は翌晩にまた灯籠を見に出かけ、町のお寺でようやく見つけた。帰りしな女は一通の恋文を落し、そのなかで自分の住所を教え、翌日、両親と兄弟はおじの家の灯会に出かけて、家には侍女と二人しかいないから、遊びに来るようにと誘った。降って涌いたような好運に恵まれ、張舜美は大喜びで一晩眠られなかった。翌朝はやく男は女の住まいを訪ね、ようやく二人は直接ことばを交わすことができた。しかし、女の両親が戻れば、また会えなくなる。そこで二人は張の親戚のいる鎮江へ駈落ちすることにした。夜になると、女は男装して男と手を携えて出かけたが、灯籠まつりで町中はたいへん混雑していた。人ごみのなかで二人はたちまちはぐれてしまった。男は女一人では町を出られないと思って城内を捜してみたが、一晩捜しても見つからない。翌朝、川辺に女の靴が一つ見つかり、町には女が川に飛び込んで自殺したとか、誘拐されたという噂が飛び交った。それを聞いた張舜美は悲しさのあまり病気となり、寝込んでしまった。  しかし張舜美にはぐれた女性は自殺しておらず、混雑に乗じてなんとか城外へ抜けていた。彼女は張が一人でさきに目的地に行ってしまったと思い込み、船を借り切って後を追って行った。町を離れる前にわざと一つの靴を目に付きやすいところに捨てた。両親を断念させるためである。しかし、鎮江についた彼女は行く場を失い、困り果てていたときたまたま一人の尼僧に拾われて、大慈庵という尼寺に住み込んだ。  一方、病気になった張舜美はしばらく休養した後、故郷に帰り科挙の試験準備に取り組んだ。三年の後、科挙試験を受けるために船で上京した。途中強風のため鎮江で足止めされ、陸に上がり散歩しているうちに大慈庵に入り、そこで期せずして恋人と再会した。その後、男はめでたく科挙の試験に合格し、女をつれて故郷に錦を飾った。  この恋物語は明らかに「鶯鶯伝」の流れを受け継ぎ、明代以降の才子佳人小説につながる中間的な作品である。「鶯鶯伝」に比べると、恋は密室から解放され、灯籠まつりというおおやけの場に移されている。宋代の風習がその背景となっているとはいえ、新しい恋の「場」の発見は、ステレオタイプの打破と恋人選びという新しい要素を恋の情緒に書き込むためには非常に有効である。文章体と口語体という文体の違いがあるため、単純な比較はむずかしいが、ストーリーの構成は「鶯鶯伝」に比べてはるかに複雑で緻密になり、物語としての完成度は明らかにかなり高い水準に到達している。  宋代はやや想像力が不足する時代ではあった。それでも恋を表現する歴史においてまったく創意がなかったわけではない。この作品のなかで注目すべきは恋の技術についての言及である。中国では散佚した書物も含めて、性の手引書は漢代に遡ることができ、かつその数もおびただしい。が、恋の技術についての著述は見あたらない。男女が隔離され、現実のなかでの恋はほぼ不可能であり、またたとえできたとしても評価されない文化背景のもとでは恋の技術に対する興味が生まれにくいのもうなずけるが、それが遅ればせながらも宋代の話本において発見され、記述されたのは興味深い。 笑い冷たく 言葉でごまかし、ほれた顔して 酔にまかせる。腰をかがめて 気持ちをおさえて、何がなんでも ただただもちあげ、うわべだけでもまことでつくろい、心にもない お世辞ものべたて、まずは器量を ほめちぎり、交わす言葉は 慇懃第一。火のないところに 煙をたてて、人目ぬすんで みそかごと。あわぬ先には 温情を施し、あうときには策をもちいる なびきそうなら 会わずにじらせて、ぐんとまいれば やるふみ少なく。容貌もきっぷも なくてはかなわぬ、花鳥風月 やっぱり必要、あわてすぎれば ついつい手ちがい、あつかましくてもかえって失敗、なれてなじめば 機をみてものする はじめての娘にゃ とにかく押せ押せ。もてた時には あとさりげなく、ふられた時は たっぷりためいき、毎日つきまとっては みずからを慰め、日々彼女の周囲にうろついては 描いた餅で飢えをしのぐ。釣り針にかかった女なら いかに貞淑でも恐れるに足らず、いったん手に入れればしばし疎遠にするべし。 さてもみなさま 『漁色経』の 奥ゆるし 「愛心論」こそ 玄妙不可思議、いかな烈婦も ひとこえ靡くし、恋わずらいなど たちまちなおせる。ついてる時は そのままかえずに だめな時には 無理おし禁物。においぶくろは あいびきのきっかけ、ぬいとりぎぬは やくそくのふみ。(中略)はじめて対面する時は 纏綿とした情を示し、手をとらぬうちは 両目に涙を流し、抱きよせ抱きしめ じっくりやんわり いちゃつきふざけて ずっぽりぐんにゃり。うなずきゃのみこむ 咳すりゃなっとく、(中略)舌先三寸 大事な使者だよ、色目流し目 りっぱにとりもつ。 (今西凱夫訳による。一部は引用者により改訳)  ほほえましい恋のコツの伝授である。講談のテキストという性格にふさわしく、ややユーモアがこめられており、おもしろく人を納得させる語り口である。しかし、恋する男女の心理を解析したうえでの巧みな恋の技術であることには変わりはなく、講談に欠かせない、ただの笑いぐさではない。  もちろんそのなかには女をなびかせる手練手管のような要素もあり、すべて真剣な恋のための技術とは言い切れないかもしれない。もとをたどれば、女をものにするこれらの手段はほんらい遊里の手引となんらかの関係があった可能性も排除できない。したがってこの恋の技術にはすでに恋から遊離する動機を内包していたかもしれない。ただ、遊女との交際も恋、あるいは恋の代償とされていたから、恋の技術と遊里のコツとは必ずしもはっきりと分離されておらず、対象は誰であろうと、女を口説き、なびかせる手段はむしろみな同じものとされていたであろう。  このことはその他の作品に現れた恋の技術についての譚義(たんぎ)によっても証明できる。「灯籠まつりの宵」と同じく宋代の話本と推定される「命捨てし鴛鴦(えんおう)のちぎり」(「刎頸鴛鴦会」)には女と交際する「十のコツ」が書かれている。 第一は金使いの大まかなこと、第二は手数を厭わぬこと、第三はご機嫌とりのうまいこと、第四は優しく気をつかうこと、第五はわざと意地悪してみること、第六は例の技術がうまいこと、第七は作り声や唖の真似をすること、第八は気の合った仲間と連れ立つこと、第九は身に着けるものがりゅうとしていること、第十は物腰おだやかなこと。  この「十のコツ」は女をとろかす手段としてあげられたもので、「鶯鶯伝」風の恋への応用が期待されたものではない。一から五までは恋の技術としても通用するが、六から九まではむしろ遊里のコツであろう。いずれにしても、この「十のコツ」にかぎって言えば、慕い合う男女のあいだの恋も女を誘惑することも、さらには花柳の巷での女遊びもみな「色事」とされ、その方法も同じものだと見られていたのである。  日常のなかで男女が自由に交際し恋する場が失われた状況のなかで、「灯籠まつりの宵」にあったような恋の技術は発見されても、知的関心の対象とはならない。結局、恋の技術はいかに性的対象としての女をものにするかという手段へと変化していかざるをえなかった。また、それらの恋の技術には性的結び付きへの指向が強く、いずれも精神的な側面についての思索が欠落し、また恋による自己発見が欠けていた。後の時代における恋の技術の継承方法を見てもわかるように、己の人格の発見へ導かない恋の技術は結局のところ女をたぶらかす手段にしかならなかったのである。  たとえば明代に書かれた『金瓶梅(きんぺいばい)』には、密通を成就させるには五つの条件を満たさなければならないと書いているが、それは「第一に潘安(はんあん)のような顔、第二に驢馬(ろば)ほどのしろもの、第三に通(とうつう)みたいなお金持、第四に年が若く、うわべはやんわりしているように見えて辛抱強いこと、第五に閑があること」である。ハンサムな外貌、裕福であるといった条件のほかに、とりわけ目立つのは超人的な性的能力が付け加えられたことである。「灯籠まつりの宵」の恋の技術に比べてもちろんのこと、「命捨てし鴛鴦のちぎり」に比べても、女性の心を惹きつける内面的な条件がほとんど淘汰された。恋の精神的な要素が萎縮したのに反比例して、性の能力に対する崇拝の比重が大きくなり、恋の技術というよりもむしろ情事のコツという性格を持つようになったのである。  ただ、「灯籠まつりの宵」はやはり青年男女の恋の手段として説かれたもので、少なくとも宋代において恋の技術がすでに注目され、かつ書かれるようになったのは明らかである。もちろん中国では中世ヨーロッパのように、恋愛の技術について書いた専門書を生み出すにはいたらなかった。いや、恋の技術が独立した分野として思考の対象とされたことさえなかった。恋慕う女性とつき合うことが人妻を誘惑するのと同一視され、かつどちらも同じようにむずかしかった中国では結局、このような恋の技術に対する興味も十分に育つ機会に恵まれなかったのである。 2、略奪婚から閨房内の恋へ  「灯籠まつりの宵」に描かれた恋は「鶯鶯伝」系譜のもので、空間的な隔たりが恋の情熱の源泉であるだけに、しばしば離別した夫婦の「恋」に類比される。この意味で「鶯鶯伝」式の恋がのちにしだいに儒学文化に吸収されたのは当然のことだといえる。なぜならそれは閨房内の恋の一種のヴァリアントとしても成り立つからである。  ところが、離別と再会をめぐる男女の哀歓を描くものなら、なにも筋の展開が単調になりやすい未婚男女にかぎられる必要はない。異なる民族のあいだに戦争がくりかえされるなかで、夫婦の離別も恋の情緒を伝えるりっぱな題材となりうるのである。事実、五代以降、戦争や災難などによって離散した妾やお抱えの家妓や歌姫、あるいはかつてつきあった遊女に恋焦がれる気持ちを詠んだ詩や詞はかなり多くあらわれていた。また宋代の話本のなかでも男女の哀歓を表現するのに既婚と未婚の区別はほとんどなされていなかった。  「馮玉梅団円(ふうぎよくばいだんえん)」という作品には次のような話がある。  北宋の末期、女真族の政権である金の軍隊が南下し、宋の皇帝を捕虜にしたうえ、都をはじめ北方の多くの領地を併呑した。そのため、宋の人たちは異民族の支配から逃れるために、南部へ逃亡せざるをえなくなった。そのなかに陳州(河南省)の徐信(じよしん)という人も美人妻をつれてその逃避行に加わっている。ところが、途中、軍隊の略奪にあい、妻にはぐれてしまう。陽(すいよう)(河南省)というところにつき、料理店で食事をしていると、外で女性の泣き声が聞こえてきた。王進奴(おうしんど)という夫にはぐれた人妻である。持ち物も金品もすべて奪われ、途方にくれている。自分の妻のことを思い出した徐は気の毒に思い、女性のために宿を借りて住まわせ、毎日身のまわりの世話をする。そのうちに二人はもとの夫や妻を捜すのをあきらめ、夫婦となって一緒に住むようになった。  こうして三年経ったある日、徐が妻をつれて郊外の親戚を訪ねて家にもどる途中、一人の見知らぬ男に出会う。男は二人を尾行し、夫人を盗み見していた。家にもどっても男はドアの外に立っているので、徐は腹が立ち、男を問いつめた。男は最初なにか言いがたいことがある様子であったが、とうとう夫人は自分のはぐれた妻であることを話した。徐も結婚したいきさつを話し、男に詫びたが、男は自分はすでに再婚したからいまさら妻を取り返すつもりはない、ただ当初、急にはぐれたので、一言も交わさぬまま別れてしまった。もし一度対面し、互いに別後のことを話す機会がえられれば、思い残すことはない、と徐に懇願する。徐はその願いを聞き入れ、あくる日に自分の家であう約束をした。別れ際、名前を聞いたら、男は鄭州の劉俊卿(りゆうしゆんけい)だと言った。  翌日、二組の夫婦が対面すると、驚いたことに、劉俊卿の妻はなんと徐信の妻の崔氏(さいし)だったのである。夫とはぐれた崔氏はある老婦人とともに建康にたどりつき、最初の三カ月は手元にあるアクセサリーを売って借家生活していたが、最後に老婦人に説き伏せられ、劉俊卿と結婚したのである。  そこで徐信と劉俊卿は義兄弟のちぎりを結び、妻をとりかえてそれぞれもとの夫婦に返ったのである。  宋代の多くの話本は二重構造となっており、一つの作品は二つの別々のストーリーによって構成される。それぞれ「頭回」(まくら)と「正話」と呼ばれている。「正話」はおもな物語だが、「頭回」は普通それと関連のあるやや短い物語である(胡士瑩『話本小説概論』)。右のストーリーは「馮玉梅団円」の「頭回」である。  この種の物語は夫婦関係の脆弱性に目を配ったとはいえ、奇跡的な再会という結末はやはり儒学的な家庭秩序への回帰を指向するものである。宋代から儒学がいっそう強調され、さまざまな規制がきびしくなった。同様の傾向は文学に描かれた恋にもあらわれており、戦争と混乱のなかで夫婦の離別が増えたため、閨房内の恋の作品はかつてと異なった次元で意味が見いだされ、再び恋の情緒を表現する重要な方法となった。  夫婦の離別と再会を描いた「馮玉梅団円」の「正話」もその一例である。宋の建炎(けんえん)(一一二七〜一一三〇年)のときに建州(福建省建甌(けんおう))に反乱が起きた。范希周(はんきしゆう)という人は反乱軍の首領の親戚だったが、一味には加わらなかった。ある日町で両親とはぐれた馮玉梅(ひようぎよくばい)という若い女性を兵隊の手から救い、それがきっかけとなり范と女は結婚した。まもなく反乱軍は鎮圧され、馮玉梅は助け出され、政府軍の高級将校の父親と再会を果たしたが、范の一族は反乱罪で一人残らず処刑されてしまった。馮玉梅は再婚させようとする親の意向にしたがわず、独身で余生を過ごそうと心に決めた。  こうして十年の歳月が流れた。そんなある日広州から文書を届ける賀承信(がしようしん)という使者が訪れる。奥の部屋の簾を通して見ていた馮玉梅は自分の夫ではないかと疑い、父親に聞いたが、父親は范の一族は全部殺されたから、そんなはずはないと一笑に付した。半年過ぎたのち、男が公用でまた来たときに、馮の父親は娘の願いを聞き入れ、内密に男から身のうえを聞きだした。娘が推測した通り、いまは賀承信と名乗っている男はやはり娘婿である。建州が落城したときに范は混乱に乗じて逃げていたのだ。そこで馮玉梅はようやく夫と対面し、もとの夫婦にもどった。  夫婦の離別と再会はやはり男女のあいだの情愛として扱われていたのである。同じく宋代の話本と推定される「楊思温、燕山にて旧友にめぐりあうこと」には金国の軍隊に略奪された婦人が夫に対する操を守るため自殺したが、かつて節を守ることを誓った夫が再婚したので、幽霊となった妻が復讐したという話がある。これも閨房内の恋を賛美する作品である。宋代の話本に描かれた恋を見ると、既婚か未婚かをとわずこのような離別——再会型の物語がかなり多い。  「鶯鶯伝」風の恋が儒学文化に黙認され、閨房内の恋が復活し、かつ再び恋の情緒を表現するおもな方法になったのはなぜだろう。一言でいえば、それは南下した北方民族文化に対する排斥によるものだ。いままでもっぱら異なる民族文化の吸収についてだけ述べてきたが、しかし、異民族文化がつねに吸収されたとはかぎらない。吸収には一つの不可欠の条件がある。それは受容側にとってプラスになるだけではなく、伝統文化に大きな脅威を与えるものになってはならないことだ。  宋代以降、儒学文化にとって異民族文化は二つの面において脅威となった。一つは漢民族と異民族の力関係の逆転で、もう一つは文化の落差が縮小されたことである。  九〇七年に朱温(しゆおん)が後梁(こうりよう)を樹立し、二九〇年におよぶ唐王朝はついに幕を下ろした。もっともそれより二、三十年まえから中国は実質上すでに分裂状態に陥り、九六〇年に宋王朝が成立するまで、数十年もの内戦がつづいた。宋が天下を統一したとはいっても、その支配領域は唐王朝の最盛期よりはるかに狭くなり、北の方は契丹族政権の遼、党項タングート族政権の西夏など異民族の国に取り囲まれたかたちになっていた。その後それらの異民族政権の勢力がしだいに拡大し、一一二七年になるとついに北宋が滅びるにいたった。南に逃亡した宋の皇族は臨安(いまの杭州)に南宋を再建したが、その勢力はわずか南方の一部にかぎられていた。  このような状態は南宋がモンゴル族の元に滅ぼされるまで続いており、その間、黄河流域が漢民族の支配下にあったのはほんの数十年でしかなかった。かつて中原地域にいた民族が辺境にいた民族を夷、蛮、戎、狄と呼んで蔑んでいたが、いまや漢民族と北方民族の地位が逆転し、中原地域が北方民族に支配され、漢民族が蛮夷の地——南方に追いやられたのだ。  表面上、この状況はかつての魏晋六朝における中原民族と辺境民族の対立構図とそれほど変わりはなかった。しかし、宋代の場合、民族のあいだの力関係においてすでに大きな変化が起きた。魏晋六朝のときには複数の北方民族のあいだに力が分散されており、遼の契丹族や金の女真族やあるいは元のモンゴル族のように漢民族政権の南宋の国土面積をはるかに越えた国はかつてなかった。また、魏晋六朝の時代には漢民族の政権が南部しか支配していなかったとはいえ、北方民族政権とのあいだに実力の差はそれほど開いておらず、双方はほぼ互角に戦っていた。  しかし、南宋になると、国力は大きく落ち込み、遼、金、元などの北方民族の政権とほとんど軍事的に対抗できなかった。異民族の絶えざる脅かしのもとで、享楽におぼれ、安逸な生活から抜けられなくなった南宋の人々は戦闘力を失い、大金を貢ぎ、領土を献上するしか生き延びていく方法はなかった。南方の一隅で余命を保っていた南宋にとって北方民族はすでにみずからの存亡を左右する巨大な勢力となったのである。  さらに重要なのは文化のあいだの差がしだいに縮小されたことである。たしかに五代までは異民族文化は漢民族文化に大きな影響を与えた。しかし、その場合、前者に対し後者は絶対的な優位にあり、中原に進入した異民族は漢民族文化を同化する自信は持っていなかった。漢民族の人々も文化の優越感と安心感から大胆に異なる文化を摂取する余裕があり、異なる文化を取り入れることによって漢民族文化が滅びることなど真剣に心配していなかった。  ところが、五代、とくにそれにつづく宋代になると、周辺地域では民族意識が高揚し、北方民族の文化は明らかに儒学文化を崩壊させかねないほど成熟してきた。魏晋六朝には辺境の民族が中原の政治制度をまねしなければ王朝は成立できなかったが、五代以降になると遼や金などの北方民族の国は漢民族と異なる政治制度を持っていた。遼の太祖は神冊六年(九二一年)に「契丹および諸夷の法を制定した」(『遼史』巻六十一「刑法志上」)うえ、勅令によって官職の序列を立て(『遼史』巻四十五「百官志一」)、事実上の官吏制度を定めた。『三朝北盟会編』巻三「政宣上帙」によると、天慶二年から天慶四年(一一一二〜一一一四年)のあいだ、女真族の人々は「みずから法律、文字をつくり、其の一国を成した」という。  もちろんその時点では、混血をくりかえした漢民族がまだ上位文化を享有していた。軍事的に漢民族を打ち負かし、広い領土を支配下に収めることに成功した遊牧民族は、まだ宋の洗練された文化を超えるものを作り出す力は持っていなかった。しかし、儒学文化と異民族文化のあいだの差は魏晋六朝の時代に比べてはるかに縮まった。もはや悠然と異民族文化を吸収する余裕を持てなくなる。軍隊の南進とともに異民族文化は洪水のように漢民族地域を襲い、とりわけ戦争直後の一時期には後者に大きな打撃を与えた。伝統文化の崩壊に対する危機感は異民族文化に対する警戒と化し、吸収や融合よりも排斥の意識が生じたのである。  一方、魏晋六朝の時代には新鮮で魅力に満ちた北方民族の文化も時間の推移によって漢民族にしだいに知られるようになっていた。そのため、宋代になるとかなりの程度まですでに新鮮さを失ってしまったのである。  恋や婚姻の面についても同じである。かつて異民族の恋の風習は漢民族の人たちの好奇心と想像力を刺激したが、未知と希少のベールが取り除かれると、刺激の作用も失ってしまった。また、異民族文化と接触するときの形態も吸収を妨げる要因となった。平和時の人員の流動のなかでは恋が自然に民族のあいだに生まれ、異なる恋の風習は自然なかたちで伝播され、影響し合っていた。しかし、宋の時代には異なる民族のあいだの結婚は多くの場合、略奪によって成立したのである。つまり、軍事力が圧倒的に強かった異民族の人たちが力によって漢民族の女を奪い、むりやりに妻や妾にしたことが多い。そうした民族の対立、摩擦、衝突による憎しみは当然、異なる民族のもつ文化に対する嫌悪感を増大させた。  匈奴の末裔の契丹族は唐代の末期に着実に領土を拡大した。彼らはまわりの小さい遊牧民族を併呑しながら、くりかえし中原の住民を略奪し、その勢力を大きく伸ばした。『遼史』巻一「本紀第一・太祖上」によると、唐末の天復二年(九〇二年)に河東(いまの山西省)の代北に侵攻し、九万五千人を略奪した。翌年唐の劉仁恭の守備区域を数州も攻略し、その住民を家族とともに強制連行した。九一九年に遼陽城を修築し、漢民族の人たちをそこに移住させた。翌年、天徳にいた唐の節度使の宋瑶を捕虜にしたうえ、その住民を陰山の南に移らせた。九二一年にはさらに南に進出し、十以上もの都市を降し、その住民を契丹族のなかに移住させた(『遼史』巻二「本紀第二・太祖下」)。契丹族の政権「遼」が樹立した大同元年(九四七年)になると、略奪した漢民族の人口は百九万百十八所帯にのぼったという(『遼史』巻四「本紀第四・太宗下」)。  契丹族の人口略奪にはいくつかの目的がある。都市建設、農業生産、兵器の製造、軍隊の拡充などのための人材の導入はもちろん必要だが、女性の略奪も財産の収奪とともにその大きな目標の一つであった。宋代の話本にはところどころ異民族の女狩りから逃れるために南へ逃げた人たちのことが書かれており、また北方民族に略奪された女性が操を守るためにみずから命を断ったこともしばしば描かれている。  五代のとき、軍閥王処直が晋の討伐を恐れ、子息の王郁を遣わし、契丹の王に中原への出兵を勧めた。説得のせりふには「(中原には)金帛(きんぱく)は山積し、燕姫趙女、綺羅(きら)は廷に盈(み)つ」ということばがある(『新五代史』巻七十二「四夷附録第一」)。それは王郁が契丹の略奪のおもな対象が財産や女であったことを見抜いていたからであろう。事実、遼の太宗が後晋を滅ぼしたとき、宮廷内の楽師、宮女たちなどを全部さらっていった。また、相州が攻略された際、城内の十数万人の男性は老若をとわず皆殺しにされたのに、女性だけは全部連行されたこともそのよい証拠である(前出)。  『新五代史』巻十四「唐太祖家人伝」によると、西突厥の支系の沙陀(さた)人が樹立した政権である後唐の荘宗は梁軍を攻めたとき、人妻を略奪し、妃にしたことがある。また、同書巻十三によると、後梁が後唐に滅ぼされた際、後唐の荘宗は後梁の末帝の次妃郭氏を側室にしたという。同じく後唐の明宗の皇后魏氏はもともと平山というところの王という人の妻で、すでに十歳になる男の子を持つ母親であった。明宗が騎将であったとき、平山を攻め、その女を奪って自分の妻にした。明宗のおいの子の李重俊は妹と姦通をしただけでなく、その下僕の孫漢栄の妻をも奪った(『新五代史』巻十五「唐明宗家人伝」)。  皇帝や地位の高い軍人にかぎらず、下層階級にも略奪婚が起きていた。五代の後漢も後唐と同じように西突厥の支系の沙陀人政権であった。後漢の高祖劉知遠(りゆうちえん)はまだ兵士であったとき、晋陽で馬を放牧していた。ある日の夜、李という人の家に入り、女を奪って自分の妻にした。その女性はのちに皇后にまでなったのである(『新五代史』巻十八「漢家人伝」)。  遼が滅びたのち、女真族の金は南へ進出し、ついに中国の北部を支配し、宋王朝の存続を脅かす最大の勢力となった。女真族も政権を樹立した初期にはまだ略奪婚の習慣が残っており、『金史』巻六十八「列伝第六」にそれに関する記述がある。烏薩扎部(うさつさつぶ)に罷敵悔(はいてきかい)という美人がいたが、彼女はほかの部族に略奪され、二人の女の子を生んだ。その二人が大きくなった後、また昭祖と石魯に略奪された。『松漠記聞』によると、女真族には「窃盗の日」という祭日があり、その日には他人の財物や妻子を盗んでも罪にはならない。じっさいこの日を利用して女性をさらって妻とする人がいたという。そうしたことはただ個別的な事例ではなく、当時契丹や女真族のなかで略奪婚がなお習俗として残っていたことの証しである。  略奪婚の風習はのちに同じ民族のなかではしだいに少なくなったが、人口増加対策の一環として宋王朝領内の女性は戦利品として略奪され、奪われた漢民族の女性が強制的に結婚させられることはまだ多く見られた。  北方民族の軍隊による婦人の略奪は物の強奪と破壊とともに、漢民族の人々の目には当然、野蛮な行為として映った。このような背景のもとで儒学の倫理によって定められた結婚の方法は再度その先進性が認識される。略奪婚という外来の脅威を受けただけに、親の取り決めによる結婚は必ずしも束縛ではなくなる。むしろ相対的に合理性を持つようになり、漢民族の人たちの共鳴をえたのだろう。宋代にあったような民族間のはげしい対立と憎しみは結局文化の想像力を枯渇させてしまう結果となったのである。  「灯籠まつりの宵」と「馮玉梅団円」に見られるように宋代では、過去すでにあった恋の類型については文体やストーリーの構成など細部における工夫と創意が加えられたが、恋に対する洞察と思索においては過去を超えたものにはならなかった。小説類だけではない。五代以降になると、詞は詩にかわって重要な文学表現の形式となり、かつ大きな発展を遂げた。それらの詞には男女の情愛を詠ったものが多く、なかには優れた作品も少なくない。ところが、恋を唱ったそうした詞をよく吟味すると、離別した妻や妾に寄せる思いを詠んだものが大多数を占めている。異なる文化を吸収する余裕を持てなくなったため、結局恋の情緒表現は閨房内の恋という古い小屋に回帰せざるをえなかったのである。 3、混血の帝王たち  民族戦争のために、他の民族による略奪婚は民族間の必然的な結婚形態の一つとなった。少なくとも一時的にはそれはかえって民族間の溝を拡大させ、民衆レベルにおける異民族間の自発的な婚姻を妨げた。ただ、みずからの意志による結婚にしろ、略奪婚にしろ、混血が依然として進んでいたことには変わりはない。そんななかで漢民族の感情世界も知らず知らずのうちに変化していったのである。  ところで、宋代までの漢民族の混血は果たしてどのような規模のものだったのか。中国の恋と婚姻を考えるうえで無視できない重要な問題である。しかし、民衆軽視の史書からはこの問題の実状はきわめてつかみにくい。幸い儒学文化のなかで重要な位置を占める皇帝についての記述は数少なくない。漢民族出身の執筆者が多く、かつ儒学者が大多数を占める史学者の手になる歴史書には異民族出身の皇帝についてほとんどの場合二つの記述態度しか見られない。彼らを蛮族と決めつけて蔑視するか、さもなければなるべく彼らの出身民族を隠そうとする。とはいうものの、文士としての良心とプライドにより、細部の記述はさすがに正確である。そうした細部の記述からときには隠された重要な事実を発見することができる。  最高権力者である各王朝の皇帝の血筋を明らかにするために少し時代を遡ってみよう。秦代に皇帝という絶対的な支配者が誕生してから、清代にいたるまで皇帝による統治という制度は二一一七年もつづいた。統計基準や皇帝の定義によっては多少異なるが、失敗した農民反乱の「皇帝」をのぞき、皇帝あるいは天王、王という名称を持ち、かつ年号を使用した歴代の帝王の数は三百四十一人にものぼる(元号は漢の武帝が創始したので、それを持たなかった秦の始皇帝から漢の景帝までも計算に入れる)。それらの帝王のなかで純粋の異民族出身者が百四十七人で、全体数の約四三パーセントを占めている。民族数は匈奴、鮮卑、(てい)、羯(かつ)、羌(きよう)、盧水胡(ろすいこ)、鉄弗匈奴(てつぷつきようど)、突厥沙陀(とつけつさた)、契丹、党項タングート、女真、モンゴル、満など少なくとも十三を下らない。  ところが、漢民族の出身と思われていた皇帝たちも必ずしも全部漢民族の人ではなく、なかには他の民族との混血の人も少なくない。これまで漢民族は絶えず混血してきたことについてくりかえし述べてきたが、ここでいう混血はそのような目に見えないものではなく、史書の記述を通して異民族間の結婚の過程がそれぞれの皇帝の家系からはっきりとたどれる場合を指す。それなら、秦代以降そのような混血の皇帝はいったいどのぐらいいたのだろうか。  漢代の劉邦は沛(はい)県(いまの江蘇省沛県の近く)の生まれだから、漢の皇室は漢民族であった。漢が滅びると、情勢はしだいに変わる。魏晋六朝以降、数々の戦争のなかで勝利を収めたのはしばしば北方辺境の民族である。それらの民族は生活文明の水準がやや低かったものの、きびしい自然環境と戦い、生活の窮乏に耐える能力を養われていた。狩猟や放牧をおもな生産手段としていただけに、彼らは集団移動に機敏に対応する力を自然と身につけ、戦闘力がきわめて高い。戦争がくりかえされるなかで、いつのまにか中原の軍隊が弱く、北方、西北の軍隊が戦争に強いという傾向が生まれた。そのため、非漢民族の人たちが政権を勝ち取り、皇帝の玉座につく機会も当然しだいに多くなる。  なかでもとりわけ混血の人たちが皇帝の有力な候補者となった。魏晋六朝以来くりかえされた大規模な民族融合のなかで、漢民族と北方民族のあいだの結婚が激増し、また北方民族のなかに居住した漢民族も急激に増えた。彼らは戦争に強いという北方民族の長所を持つだけでなく、かつ漢民族の相対的に高い文化にも親しんでいた。そのため、政権を勝ち取る能力を持っていたばかりでなく、国を運営する方法をも熟知していた。  北朝の斉(せい)(五五〇〜五七七年)の初代皇帝文宣帝の高洋はその一人である。『北史』には、高洋が渤海蓚(ぼつかいしゆう)(現在河北省景県)の人であると書いているだけで、その民族は明示していない。ただ曾祖父の代から懐朔鎮(かいさくちん)(現在の内蒙古包頭の東北部)に居住し、数世代にわたって北方の辺境に住んでいたため、北方民族の風習に染まり、「遂に鮮卑に同す」と書かれている。  さらに、その先祖が晋のときに玄菟(げんと)(現在の朝鮮咸鏡道)の太守を命ぜられており、かつ長く鮮卑族のなかに生活していた。そんななかで一族は自然に地元の鮮卑族の人たちと婚姻関係を結んだ。高洋の父親高歓は匈奴の傍系である蠕蠕(ぜんぜん)族(柔然ともいう)の王女をめとったことがあり、そのため、少なくとも高洋の代から混血のあとがはっきりとたどれるようになる。  事実、高の一族の生活習慣はすでに漢民族とかなり異なっていた。のちに高歓の妻となる婁(ろう)氏は高歓が城壁の上で執務していたのを見て一目ぼれをし、「この人こそわたしの夫となるべきだ」と言って、侍女を通して愛を告白した。その後、ひそかに数回も私財を高に渡し、それを結納の金とした(『北史』巻十四「列伝第二・后妃下」)。このような恋は漢民族のなかではほとんど考えられない。また、彼らは日常生活のなかで鮮卑族のことばを使っていたようで、高洋が生まれたときに、鮮卑語の愛称がつけられたほどだった(『北史』巻七「斉本紀中第七」)。高の一族は高麗族であるという説もあるが、少なくともその家族は鮮卑族と混血したことはまちがいない。  隋の皇室も一般に漢民族だと思われているが、実はそうではない。『隋書』によると、楊家の先祖は北方に居住しており、初代皇帝楊堅から遡って五代まえから武川鎮(ぶせんちん)(現在の内蒙古の川西)に移り住み、歴代は武川鎮司馬、太原太守、平原太守、寧遠(ねいえん)将軍など鮮卑族の王朝(北)魏で重職を任じていた。楊堅の父親楊忠も鮮卑族の王朝(北)周の有力将軍で、後に文皇帝というおくり名を与えられた宇文泰(うぶんたい)に従い、度重なる戦功を立てた。そのため大司空(たいしくう)(水土のことをつかさどる官職)、大将軍など重要な職に任ぜられ、また隋国公という称号が贈られたうえに、「普六茹(ふりくじよ)」という鮮卑族の姓まで下賜された。  数世代も鮮卑族のなかに住んでいた楊家がその文化に染まらなかったはずはない。事実隋の文帝楊堅の姓名は普六茹堅(ふりくじよけん)というだけでなく、幼時の愛称は那羅延(ならえん)という。家族のあいだに用いられた呼び名には文化の帰属性を反映していることが多く、鮮卑語の名を持っていたということは、楊の一族のあいだに鮮卑語が用いられていたことを意味しているかもしれない。興味深いのは楊忠が「胡人」の容貌をしていることである。『北史』巻十一「隋本紀上」によると、楊忠は背丈が高く、きれいな髭をたくわえているという。隋唐の時代に髭が多く、かつ髭のかたちがきれいであることは胡人の容貌だとされたことが多いから、『北史』のこの記述にもそのような意味合いが込められているであろう。  また、楊堅の妻の独孤皇后は(北)周の将軍独孤信の娘である。『北史』巻六十一「列伝第四十九」によると、独孤家の先祖は北方の部族の首領であったという。独孤は本来匈奴族の姓であったが、独孤信は長く鮮卑族のなかに住んでいたから、すでに鮮卑族に同化していたと思われる。したがって、たとえ楊堅が漢民族であっても、少なくとも楊堅と独孤皇后のあいだに生まれた隋の煬帝楊広が漢民族と鮮卑族の混血児であることは疑えない。  さらに鮮卑族の政権(北)周の明帝宇文毓(うぶんいく)の皇后は独孤信の長女だから、楊堅は(北)周の明帝と義兄弟の関係になる。一方楊堅の長女楊麗華は(北)周の宣帝の皇后で、楊家と(北)周の皇室とは二重の姻戚関係にある。  中国では唐代が漢代と並んで理想の王朝とされており、漢民族がもっとも勢力を伸ばした時代だと思われていた。いうまでもなくそれは唐の皇室が漢民族であるということを前提とした見方である。ところが、唐代の皇帝を純血の漢民族としたのは大きな事実誤認である。もちろん専門家のあいだではそれに対する疑問がまったく提起されていなかったわけではない。しかし、事実を認めることはときにはかなり苦痛を伴うことで、どの時代のどの文化においても卑俗な大国願望と文化不滅の幻想はつねに真実の認識を妨げているのだ。  『北史』巻六十一「列伝第四十九」によると、唐代の初代皇帝李淵の母親は独孤信の第四女で、李淵が皇帝の位についたとき元貞皇后というおくり名を与えられた。さらに二代目の皇帝李世民の母親で、李淵の妻の太穆(たいぼく)皇后の竇(とう)氏は匈奴族の父親と鮮卑族の母親を持ち、その母親は(北)周の文帝の第五女の襄陽公主である。唐太宗李世民の妻、文徳皇后の長孫氏は長孫晟(せい)の娘である。『北史』巻二十二「列伝第十」によると、長孫晟は「代」つまり(拓跋(たくばつ))鮮卑人の末裔である。したがって、李世民と文徳皇后のあいだに生まれた三代目の皇帝、唐高宗の李治も混血であった。  そもそも李の先祖がはたして史書に記述されているように漢民族であるかどうかははなはだ疑わしい。また、かりに李の一族が漢民族だとしても初代皇帝の李淵は二分の一の漢民族で、二代目の唐太宗の李世民は四分の一の漢民族である。三代目の唐高宗の李治になると、漢民族の血が八分の一しかなかった。混血の度合いにちがいがあるにせよ、唐代の二十四人の皇帝は、女皇帝の武則天をのぞけば多かれ少なかれみな異民族の血をひいている。  このようなはっきりした異民族あるいは混血の皇帝のほかに、漢民族か異民族かは明らかでない皇帝もいた。たとえば(北)燕(四〇九〜四三六年)の皇帝馮跋(ふうばつ)と馮弘(ふうこう)の民族を証明する資料は残っておらず、鮮卑族か、それとも漢民族かはいまだにはっきりしない。また(冉)魏(三五〇〜三五二年)の皇帝冉閔(ぜんびん)はかつて羯族の政権(後)趙の皇帝石虎の養子の子であったが、その出身民族も詳らかではない。  宋代までは異民族の人が皇帝になってもなるべくその出身民族を隠し、唐代の皇室のように中原における支配権を正当化するために、彼らはつねに自分は漢民族の祖先を持っていると主張した。また、世代が下がるほど漢民族への帰属意識がつよくなるのも事実である。夏(四〇七〜四三一年)の皇帝赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)のように民族のほこりをはっきりと示し、漢民族の姓を匈奴族の姓に変えた例はほんのわずかであった。じっさい宋代までに漢民族あるいは華夏と名乗らずに中国を統一した皇帝は一人もいなかった。  宋代以降になると状況が変わった。政権を勝ち取った異民族はもはや出身民族の公開を恐れない。と同時に異民族と名乗っても中国の全土を統一するのになんの障害ももたらさなくなった。元王朝を樹立したモンゴル族も、清王朝を樹立した満族も異民族として中国を数百年にわたって支配したのである。  異民族と名乗った皇帝と、混血がはっきりとわかった皇帝を合わせると、その数はさらに多くなり、全部で百七十九人にものぼり、秦代から清代までの歴代皇帝のなかで五二・四パーセントを占め、漢民族の皇帝は逆に五割にもならない。  さらにその五割にもならない漢民族の皇帝もすべて純粋の漢民族とはかぎらない。混血してから時間の経過があまりにも長く、血筋がわからなくなった人や、あるいは混血を意識的に隠した人もいたかもしれないからである。  もちろん、このような混血は異民族についてもいえることで、たとえば「漢」という国名をつけた匈奴族の皇帝劉淵は母親が漢代の皇帝の娘だったから、母親の姓を名乗ったのだ。同様の例はほかにも多い。このように混血は歴代の皇室のなかでも結婚を通して頻繁に起きていたから、民衆レベルでの混血の範囲の広さと深さは想像に難くない。そして、こうした混血は確実に漢民族の文化を変質させ、また、彼らの情緒表現をも少しずつ変えていったのである。 【第六章】 モンゴル文化の陰影 ——男女共演の舞台 1、才子佳人式恋の再興  南宋を滅ぼしたモンゴル族は一二七九年に元王朝を樹立した。元代は九十年しかつづかなかったが、中国を統一した史上初の非漢民族王朝であっただけに、中国の歴史、文化に大きな影を落とした。しかし、この九十年のモンゴル民族による支配が中国の文化を大きく変えたことはしばしば看過されてきた。  モンゴル族が中国大陸を征服した後、文化の異同を見分けるのに多くの場合「言語」をおもな物差しとせざるをえなくなった。つまり中国語を用いるかどうかがなによりも重要な基準となった。元代では民族の融合がいっそう進み、モンゴル民族による支配という背景のもとで、漢民族はそれまでにもまして他の文化の吸収を強いられたのである。  唐代の詩、宋代の詞と同じように、元代はその時代のもっとも代表的で、もっとも輝かしい文化遺産——戯曲を後世に残した。豊かな表現力をもつ戯曲には当然男女の恋をあらわすものが少なくない。そのなかでとりわけ注目に値するのは「拝月亭」という戯曲である。テキストによって多少の相違があるが、大筋は次のようになっている。  十三世紀のはじめ頃、チンギス・ハーンがモンゴルの軍隊を率いて金国に侵攻したときのことである。金国の兵部尚書——国防相——の王鎮は前線を視察に行っているあいだに首都の中都がモンゴル軍隊に攻め落とされ、都は南の梁(べんりよう)に移転した。家を留守にした王鎮の妻と娘の王瑞蘭(おうずいらん)は難を逃れるために、群衆にまじって南へ逃げた。途中娘は母親にはぐれてしまい、やむなく蒋世隆(しようせいりゆう)という書生と一緒になり、夫婦と装って旅を続けた。その間二人のあいだに恋が芽生え、やがて旅路で結婚した。  ところが、ある日王瑞蘭は宿泊していた宿屋で偶然父親の王鎮の護衛兵に出会い、その結果、父親とも再会できた。蒋世隆が無一文であるため、王鎮は娘の結婚を認めず、名前も聞かずに無情にも病気中の蒋世隆を追い返した。やがてモンゴル軍隊は撃退され、王鎮は娘をつれて都に帰った。  生木を裂かれた蒋世隆は発憤して勉学に励み、まもなく見事に科挙の試験に合格し、首席合格者である「状元」となった。その間、王瑞蘭は親の再婚の勧めを拒み、一心に蒋世隆の帰りを待つ。一方、高級官僚になった蒋世隆もずっと王瑞蘭のことが忘れられず、再婚をしなかった。そして、王鎮は新しい「状元」が娘の前夫とも知らず、むりやりに蒋に娘との結婚を勧めたが、蒋世隆はその娘が王瑞蘭であることを知らないため、つめたく縁談を断る。他方、王鎮は娘にもこの話を持ちかけたが、操を守ろうとした娘に断られる。しかし、王鎮は策略を使って蒋を家宴に招待し、酒席で蒋世隆と王瑞蘭はめでたく再会した。  未婚男女が偶然の機会に出会い恋に陥り、ようやく願いが叶えられたかと思うと思わぬ邪魔が入り、二人は引き離される。さまざまな試練を経て、男は科挙に合格し故郷に錦を飾ったうえに、恋人とめでたく結婚する。このような物語は元代のその他の戯曲にもしばしばあらわれ、いわば才子佳人の恋の典型的なパターンとなっている。  才子佳人式の恋はやはり「西廂記(せいしようき)」にもっとも典型的にあらわれている。唐代の「鶯鶯伝」を原型とする「西廂記」は物語の構造の組み替えにより、原作にないさまざまな要素が加えられた。「鶯鶯伝」とのテキストの継承性を強調することを通して、「漢民族」への帰属意識と伝統への連続性を明示した。とはいうものの、細部描写の変化においては、かつてなかった異質の要素が顕著にあらわれている。このことは「西廂記」のストーリーの構成からも見ることができる。  張君瑞(ちようくんずい)は偶然の機会に美人の崔鶯鶯(さいおうおう)に出会い互いに一目ぼれしてしまった。たまたま武装した匪賊が鶯鶯を略奪しようとする騒ぎが起こり、鶯鶯の母親である崔氏は匪賊を退ける者に娘を嫁がせる、と約束する。そこで張君瑞は友人の将軍に頼み、匪賊を撃退させた。その間二人は逢い引きをし、結婚の約束をする。ところが、まもなく鶯鶯の母親は約束を破り、娘を大臣の息子鄭恒(ていこう)に嫁がせようと企む。張はやむなく都長安に出かけ、やがて科挙の試験に合格する。ところが、鄭恒は二人の仲を裂こうとして、崔氏に張君瑞がすでにほかの大臣の娘と結婚したと嘘をついた。しかし、まもなく張が帰り、誤解が解消され、二人は晴れて結婚する。  「西廂記」の底本となった唐代の短編伝奇「鶯鶯伝」では男女を隔離する塀が象徴的な意味を持ち、空間的な距離の克服が恋の過程そのものとなっていた。ところが、戯曲「西廂記」になると、空間的な距離はもはや主要な隔絶ではなくなり、ただ恋を長引かせるための小道具に成り下がった。  隔絶の形式ははっきりと変化した。男と女の家柄、地位や金銭などの面での距離が提起されるようになった。なかでももっとも興味を引くのは恋のライバルの設定である。「西廂記」では張君瑞にとって鄭恒はほとんど対抗できない強力なライバルで、彼は由緒のある家で生まれただけでなく、父親は権勢を持つ現役の大臣である。そのうえ鄭恒はまた娘の結婚を取り決める権利を持つ母親の親戚で、張君瑞にとっておよそ勝てる見込みのない相手である。唯一有利な条件は崔鶯鶯の心が張になびいたことだけだ。それだけに鄭恒の出現により崔鶯鶯に対する張君瑞の恋心がいっそう燃え上がったのである。それが「西廂記」と底本の「鶯鶯伝」とのあいだにある大きな違いの一つである。「漢民族」と思われた人たちのあいだでさえ男女隔離という儒学の倫理がすでに権力によって保証されなくなったことが窺える。  男女のあいだの恋を表現する元代の多くの戯曲はさまざまなヴァリエーションを持ちながらも、基本構造においては多くの類似点を有している。「拝月亭」では男主人公の蒋世隆のまえに立ちはだかっているのは二人のあいだにある家柄、社会的地位の相違と両家の経済力の落差であった。その落差のために女性の父親が二人の結婚につよく反対した。しかし、まさに父親のその禁止こそ二人の激しい恋情を刺激したのである。「西廂記」の場合も、ライバルの鄭恒の力がつねに崔鶯鶯の母親を通して発揮されていることを考えると、両者は共通しているともいえる。つまり「西廂記」も「拝月亭」も他者による引き裂きが恋の情熱の源泉となった。ここに外力による恋の剥奪が恋を成立させる構図をみることができる。  このような恋の成立はもちろん文学の内部にも原因があったろう。空間的な隔絶が恋の唯一の源泉とされた場合、塀を乗り越えるという行動に象徴された男女の自由な恋はやがて物語としての生命力を失い、固定された語りのパターンのなかで想像力が貧弱になるばかりであった。記述行為という点だけを考えれば、たしかに出口は物語構造の突破にしかなかった。  しかし、それとは別に、もう一つ忘れてならないのは男女隔離の倫理規制を風化させた異民族文化の浸透である。そのことは底本の内容に制限を受けた「西廂記」よりも「拝月亭」の方によりはっきりとあらわれている。娘が道ばたで知り合った男と恋に落ち勝手に結婚してしまったことに対し、父親の王鎮はまったく倫理的には責めていなかった。彼の反対理由はあくまでも男女の家柄や身分の違いだけである。言い換えれば、男の家と女の家との社会的地位が釣り合うならば、父親は娘みずからの意志による恋と結婚に反対しなかったはずだ。そのような価値観はもちろん漢民族文化のなかで自発的に生まれてきたものではない。非儒学文化の要素が関与していることが明らかである。  裏返していえば、これまで純粋に漢民族の恋の情緒の産物とされていた才子佳人式の恋は、その発展段階において異民族文化の刺激を少なからず受けていた。やや誇張していえば、異民族文化の刺激なしでは、元代の戯曲に見られた才子佳人式の恋はあるいは違う道をたどったかもしれない。  周知のように中国のどの歴史時期においても異民族文化はつねにさまざまなかたちで漢民族文化に影を落としている。しかし、歴史時期によって漢民族の文化状況も異民族の文化状況もそれぞれ異なり、その相互影響の結果も当然違うはずである。したがって元代には元代にしかありえない結果をもたらしたことはいうまでもない。 2、異民族のあいだの恋  後の時代のおびただしい模倣により、元代の戯曲「西廂記」を典型例とする才子佳人式の恋の評判ははなはだ悪い。男女の偶然の出会いと結婚の約束、第三者による引き裂き、男が科挙試験に合格し二人がめでたく結婚するという決まりきったストーリーはたしかに陳腐である。ただ、ほんらい「西廂記」や「拝月亭」は模倣された原型の一つに過ぎず、創作された時点ではけっしてステレオタイプに陥っていたわけではない。  重要なのは「拝月亭」には異なる民族のあいだの恋が描かれていることである。女主人公王瑞蘭の父親王鎮は金国の上級官僚であり、自分は女真人であると明言している。一方、主人公の蒋世隆はただ「中都路」つまりいまの北京あたりの出身であると言っただけである。しかし、民族名があげられていない場合はほとんど例外なく漢民族を意味するという記述習慣にしたがえば、漢民族の出身であることは容易に推察できる。  蒋世隆の出身民族を証明するもう一つの証拠がある。彼は両親を亡くしてから、三年間も喪に服し、科挙の試験を受けなかった。元代の刑法『大元通制』の「諸条格」には「モンゴル人と色目人(西域の諸民族)はその習俗に従う」という法律がある。蒋世隆がもし漢民族でなければ、三年間喪に服するという風習を守る必要はない。  ところが、おもしろいことに民族の違いは二人の恋になんの障害ももたらさなかった。女主人公の父親が二人の結婚に反対したのは民族が異なっているからではない。二人の交際過程を見ても、まるで同じ民族で、まったく同じ文化を共有しているかのようである。これはおそらく当時広く見られた状況を如実に再現したものであろう。金王朝の軍隊が黄河を越えて中国の北方の大部分を占領してから、女真族の人たちは大挙華北地方に移住した。漢民族と雑居した女真族、とくに漢民族の多い都会に定住した彼らはいつの間にか漢民族の風習に染まるようになった。『金史』巻四十三「志第二十四・輿服上」に「女真人が名字を漢人の名に変えたり、南人の服装をまねたりしてはいけない。違反者には棒で八十回たたく刑を課する」とあり、同様の禁令は数回も発令された。これは逆に当時そのような現象がいかに多かったかを物語っていると考えられよう。  女真族の人たちが従来の姓を漢民族の名字に直す場合に、それぞれ好き勝手に漢民族の姓を名乗ったわけではない。陶宗儀(とうそうぎ)の『輟耕録(てつこうろく)』巻一「金人姓氏」によると、女真族の「完顔(かんがん)」は「王」、「烏庫哩(うくり)」は「商」、「赫舎哩(かくしやり)」は「高」、「図克坦(とこくたん)」は「杜」、「紐禄(ちゆうころく)」は「郎」、「烏雅(うが)」は「朱」、「富察(ふさつ)」は「李」、「延扎(えんさつ)」は「張」、といったように、ある決まった法則があった。ただ、その法則が何なのかは明らかではない。おそらく英語の名字 king を「王」、White を「白」に訳すのと同じように、意訳によって中国語の氏名に直されたのであろう。  名前や服飾だけでなく、もともと暦のなかった女真族は漢民族の暦をも採用した。『金史』巻三十五「志第十六・礼八」によると、元旦、元宵(一月十五日)、端午(五月五日)、重陽(九月九日)などを祭日とする漢民族の習慣もそのまま取り入れた。この意味において女真族は漢民族に同化されたところがはなはだ多い。ただ、つねに相互に影響を与えるもので、女真族との雑居および混血により、漢民族も女真族の文化を吸収した。したがって、厳密にいえば、この二つの民族文化は互いに浸透し合い、文化はしだいに接近したといった方が正しいかもしれない。中国大陸を征服し支配したそのほかのほとんどの非漢民族と漢民族の関係についても同じことがいえる。つまり被征服民族を変えながらも、同時にみずからの民族の特性も民族のるつぼのなかで多かれ少なかれ溶解することになる。  「拝月亭」に描かれた恋は当時の複雑な民族関係、民族意識と文化心理を如実に示してくれた。その戯曲のなかでモンゴル族の人たちは「異民族」として暗にけなされ、モンゴルの軍隊は文明の地に侵入してきた「野蛮」なえびすどもだと目されている。しかし女真族と「漢人」——北方の漢民族——とはまるで同じ民族同士のように扱われ、あたかもモンゴル族より文明的であるかのように描かれている。かつて宋の人たちが同じ眼で女真族の金を見ていたことを思い起こすと、非常に興味深い。  その見方はおそらく単に偏見の二文字で片付けられるものではないだろう。かつての遊牧の慣習を捨て、漢民族と同じように都会に定住した女真人はたしかにモンゴル族の人たちに比べると、より「文明的な」生活を享受するようになった。彼らが都会に住んでいる自分たちを遊牧のモンゴル族より洗練された文化を持っていると思ったのも不思議ではない。  彼らはその間みずからの文化を失い、自然との戦いのなかで培われた体力、勇気と、戦闘力を失った。北方の新興民族——モンゴルの軍隊に攻められると、女真族の人たちはもはや漢民族の人々と同じように南へ逃げて行くしか為すすべがなかった。彼らがみずからを「文明人」と自負したとき、民族としてその存在がすでに危うくなっていた。かつて勇敢無敵な女真族も漢民族の二の舞を踏み、都会的な享楽のなかですっかり軟弱になってしまったのである。こうして、新興民族のモンゴル族によって支配民族の王座から追われた女真族の人たちは漢民族とさらに融合するようになった。辺境に残った集団を除けば、やがて漢民族の新しい一員として生まれ変わったのである。  元代は中国の歴史において重要な転換期であった。それまで異民族による中国支配があったにもかかわらず、彼らは全中国を統一することはついにできなかった。しかし、元代になると、中国大陸の全領土は完全にモンゴル民族の支配下に入った。それまで非漢民族が「異民族」であり、「野蛮民族」であったが、今度は漢民族が「異民族」となり、「野蛮民族」となったのである。またかつて政権を取った異民族の人々はつねに非漢民族であることを隠そうとしていたのに対し、モンゴル族の人々は民族の誇りを持って逆に漢民族を軽蔑し、彼らを「番人」「蛮子」(いずれもえびすども、という意味)などと呼んでいた。マルコ・ポーロがそれにならって『東方見聞録』のなかで漢民族を含めた中国北方の人々を「カタイ」つまり「契丹」(「漢人」の別称)と呼び、南方の人々を「マンジ」つまり「蛮子」と呼んでいたのはそのもっともよい証拠の一つである。  事実、元王朝は支配下の臣民を四階級に分けた。もっとも地位の高いのはモンゴル人で、その次は色目人、つまり西域の各民族である。北方にいた「漢民族」は「漢人」と呼ばれ第三階級とされた。南方の漢民族——「南人」は四階級のなかでもっとも低い地位しか与えられていない。モンゴル族の人たちが優遇されていたため、「漢人」や「南人」たちはモンゴル人と偽ることさえあった。『元史』巻三十四「本紀第三十四・文宗三」に、漢人や南人がモンゴル人と偽って宮廷の衛兵になった場合、衛兵長は五十七回棒で叩かれる刑を受ける、という法律が明記されている。また、巻七十八「志第二十八・輿服一」にも、モンゴル人と偽り宮殿の衛兵になるのを禁止すると書かれている。  しかし、元代において民族の区分はまだそれほど厳密なものではない。使用言語とともに居住地域もしばしば民族を判断する基準の一つとして用いられていた。『元史』巻十三「本紀第十三・世祖十」に元王朝が将校の階級を定めるときに、西北部に生まれかつ中国語のできない女真族や契丹族の人はモンゴル人として扱われ、「漢地」で生まれ育った女真族の人は「漢人」として扱われる、ということが記されている。  「漢民族」を「漢人」と「南人」に分けたことの背後には当時の「漢民族」の構成に対するモンゴル族の人たちの鋭い洞察が隠されている。同じ中国語を使い、それまで同じ民族だと思われた人々が実は同じではなく、地域のあいだにすでに大きな差異が生じていたのである。もっともこの分け方は当時の他の民族にとってもごく自然なことであったかもしれない。  「漢人」と「南人」の違いは元代のモンゴル族の人たちがはじめて気付いたわけではない。女真族の王朝——金の時代にすでに同じような称呼があった。『金史』巻九十七「列伝第三十五」には、「南人は実直で思い切って事をなす。漢人は性質がずるくて、肝心なときにはつねに逃げ腰になる」という金世宗の言葉がある。また、「漢人」のほかに地域の名をもって北方の漢民族を呼ぶ場合もあった。たとえば宋代では二百年以上も契丹族の支配下にあった燕京(えんきよう)(現在の北京あたり)とその周辺地域の住民は「燕人」と呼ばれていた。その地域の住民にはもともと強制的に移住させられた漢民族の人たちが多く、後に契丹族と混血した人々がいただけでなく、混血しなかった人々も契丹族との雑居などにより、その文化の影響をつよく受けていた。したがって女真族の人たちが彼らを「漢人」あるいは「契丹」と呼んで、南方の漢民族と区別したのはむしろ自然なことである。  元代になると、「漢人」の意味はまた変化した。陶宗儀(とうそうぎ)の『輟耕録(てつこうろく)』巻一「氏族」によると、元代の「漢人」は「契丹(きつたん)、高麗(こうらい)、女直(じよちよく)、準台(じゆんだい)、珠爾岱(しゆじかつだい)、哲(てつこん)、卓沁台(たくしんだい)、渤海(ぼつかい)」など八つの民族がいるという。むろん原文では「民族」ではなく、「氏族」という言葉を使い、現代語でいえばだいたい「部族」という意味にあたる。いずれにしても金代の「漢人」の定義とはだいぶ異なり、女真族も「漢人」と見なされた点は興味深い。  「漢人」と「南人」をなかば法的に分類したのは元代になってからのことで、異民族による発見でもあった。第三者でなければこのような鋭い観察力は持ちえなかったかもしれない。  「漢人」と「南人」という分類法から史書に載せられていない事実をわれわれは読み取ることができる。もし「南人」が従来の漢民族により近いとすれば、少なくとも元代の支配民族——モンゴル族の人々の目には「漢人」は北方の諸民族により近いと映ったであろう。もちろん当時の「漢人」という用語法にはあるいは契丹族や女真族が含まれていたかもしれない。ただ、人口総数と民族間の比例から見ると、「漢民族」の方が多かったことはまちがいないであろう。  「漢人」と「南人」という名の使い分けは単に呼称の問題ではない。北方に住んでいた漢民族は混血や辺境民族の文化の影響などにより、すでに南方にいた漢民族と異なった風習を持ち、少なくとも元代のモンゴル族の人たちの目には北方の漢民族と南方の漢民族とがすでに違う民族のように映っていたことを窺い知ることができる。  このような民族の対立と融合が同時に進行していた世相を描いたのが「拝月亭」である。この作品は、元代においても異民族のあいだの恋が禁止されていなかったことを示唆している。事実、異なる民族のあいだの結婚は史書の記録からも窺うことができる。  元王朝は民族差別を国策としたものの、モンゴル族と他の民族の人たちのあいだの結婚を禁止しなかった。たとえ被征服民族の「漢人」や「南人」であっても、モンゴル族の人と結婚することはできたのである。 『元史』巻十「本紀第十・世祖七」によると、至元十五年(一二七八年)に元世祖のフビライ・ハーンは、江南地域——揚子江下流の南部——の良家出身の女性を娶った官吏、軍人はその配偶者を娼家に売ってはいけない、という禁令を出した。モンゴル族の官吏や軍人が「南人」の妻妾を遊女屋に売るという事実については『元史』には詳しい記述が見あたらないが、禁令を出すというのはやはり同じ現象が多かったのだろう。フビライ・ハーンが南宋の国都臨安を攻め落としたのはその二年前の一二七六年だったので、征服者のモンゴル族の将校や兵士がおそらく多くの「南人」女性を妻や妾としたのであろう。  そのことは同じ『元史』巻百二十一「列伝第八」にも記録されている。至元十四年(一二七七年)に元王朝に仕えた董文忠(とうぶんちゆう)はフビライ・ハーンへの進言のなかに、モンゴルの軍隊が南方に入るとすぐに住民の財産を略奪し、人妻を占有したため、民衆の怒りを買った、と指摘した。  しかし、こうした強引な女性の略奪だけでなく、合意のうえでモンゴル族の役人や軍人に嫁いだ「漢人」「南人」の女性も少なくなかった。とくに南方にいたモンゴル族の官吏や将校たちのなかに、俳優や遊女、あるいは貧しさのため身を売った女性を妾とした例は多くみられる。また、モンゴル人の地位と特権に憧れ、進んで彼らと結婚した人たちもいた。元代の孔斉(こうせい)は『至正直記』巻三のなかでモンゴル人長官の息子に娘を嫁がせた例をあげ、「世の中にこのような者が多く、いちいち書き尽せない」と証言している。  『元史』巻百二十五「列伝第十二」によると、元世祖がモンゴル化した西域の人鉄哥(てつか)にモンゴル貴族の娘と結婚させようとしたが、鉄哥は母親の意思を尊重し、漢民族の女を娶ったという。同じく『元史』巻二百「列伝第八十七」には、李如忠(りじよちゆう)という漢民族の男がモンゴル人の女性と結婚した、と記録されている。また巻二百一の記述には、あるモンゴル人の将軍には「玉蓮(ぎよくれん)」という名の妾がいる、と書いている。名前から見るかぎり、漢民族であることはほぼまちがいない。  このような民族の混血が許されていたのはただ単に文化的寛容によるものではなく、モンゴル族の結婚慣習と大きなかかわりがある。元代によく見られたモンゴル族と「漢民族」の結婚では、モンゴル族の男性が「漢人」や「南人」の女性を娶る方が多かった。そうした現象の背後に勝者が敗者の女性を奪うという遊牧民族の慣習があったのも無視できない。  女真族と漢民族のあいだの恋を描いた「拝月亭」はそうした入りくんだ民族関係と、そのなかで生きる違う民族の人たちの恋の哀歓の一端を示したものである。 3、下位文化との苦闘  「拝月亭」や「西廂記」をはじめ、多くの元代の戯曲にはモンゴル文化の侵食が見られ、才子佳人式の恋は異民族文化の養分をえて飛躍的な発展を遂げた。宋代の講談に描かれた恋の大きな特徴の一つは、閨房内の恋に再び傾斜していったことである。元代の戯曲になると、その傾向がさらに顕著になった。  宋代の講談と同じように、元代の戯曲では未婚男女のあいだの恋と夫婦のあいだの情はほとんど区別されていない。そもそも中国文学においては恋を単独に分類する意識がきわめて希薄で、極端にいえば中国には「恋」という分類概念がなかったともいえる。現在「恋物語」と見なされ、あるいは便宜のために「恋物語」と称される作品は、ほんらい「きれいな女の話」や「不幸な女の話」あるいは「妖婦の話」に過ぎない。明代の王世貞はかつて男女関係を描いた伝奇、志怪、筆記、稗史、話本などさまざまなかたちのフィクションを「艶」と「異」の二字で総括し、それをみずから編んだアンソロジーの書名にした。この見方は中国人の恋についての基本的な思考法をみごとにとらえている。遡れば、虚構物語についてはじめて分類らしい意識が芽生えた宋代の文筆家は、話本の一種類として「煙粉(えんぷん)」という項目を立てたことがある。ほんらい「煙粉」は遊女や妖怪の話を指すのだが、当時「恋物語」にあたる分類がなかったため、この「煙粉」には恋を描いた話も含まれている。しかし、それはなにも「煙粉」が「恋物語」であるということを意味しない。  元代ではこの傾向が全面的に継承された。元代の燕南芝菴(えんなんしあん)が書いた声楽理論「唱論」には歌の内容として「閨中の怨女」「河辺の商婦」が、「放浪する旅人」「洞窟のなかの仙人」「色町の少年」などとともにあげられているものの、「恋」という分類は見あたらない(『中国古典戯曲論著集成』所収)。  また元代の雑劇には四つの役がある。それぞれ女子に扮する「旦」、男子に扮する「末」、悪人か道化に扮する「浄」、それ以外の登場人物に扮する「雑」などである。女主人公に扮するのは「正旦(せいたん)」という。戯曲のなかで全劇に正旦の唱を用いるものは「旦本」と呼ばれる。この「旦本」も「きれいな女」か「不幸な女」を描く劇で、恋は必ずしも不可欠な要素ではない。そうした劇のなかに多くの場合、恋が描かれているのは、きれいな女のまわりには必ず男がいるという宇宙不変の真理による結果に過ぎない。なかには艶聞——つまり恋の話——もたしかにあったが、そうでないものも含まれていた。夫婦の離別と再会はもちろん、「竇娥冤(とうがえん)」のようにぬれぎぬをきせられた美人の悲運を描くものも恋物語と同じ種類に入れられている。  このように元代の戯曲のなかには恋の描写があったものの、いわゆる「恋愛劇」という分類の意識は欠如していた。「才子佳人式の恋」も後世の人による命名で、元代の劇作家たちはまだそうした分類の意識を持っていたわけではない。  恋を描いた元代の戯曲を見ると、モンゴル文化のさまざまな要素を吸収しながらも、儒学道徳への憧憬、あるいは儒学的秩序への回帰の願望が弱められなかっただけでなく、むしろ逆にそれを求める傾向がつよくなってきている。「鶯鶯伝」の題材を用いた「西廂記」はその一例である。異民族のあいだの結婚を描いた「拝月亭」でさえ才子佳人式の恋の型を踏襲した点においてその帰属方向を示したといえる。  もし「西廂記」の底本「鶯鶯伝」が唐代において儒学道徳からの逸脱を意味するものだとすれば、儒学が官学の王座から引き下ろされた元代において、「西廂記」は逸脱を意味しないばかりか、むしろ儒学を讃美するものとなる。男が科挙の試験に合格し、役人となってめでたく女と再会するというストーリーの設定の裏には過去の秩序への憧れが隠されている。科挙試験の合格も、役人になることも、結婚に反対していた女性の親を賛成の方向に変えさせることを意味しているからだ。いずれも儒学的秩序への帰依を示唆している。  そうした状況は元代における儒学の地位とは正反対であった。元代皇帝のなかに儒学に好意を持っていた人がまったくなかったわけではない。しかし、元王朝が儒学に対しつねに警戒心を持っていたことは否めない。国家機関の重要なポストはモンゴル族の人たちに占められ、「漢人」、とくに「南人」はまったく重用されなかった。元が中国を統一してから三十数年のあいだ科挙の試験制度が廃止され、儒者の官吏登用への道は完全に閉ざされた。その後科挙の試験が断続的に行われたとはいえ、それも「南人」の不満を解消するためのポーズに過ぎず、ほんとうに儒者を起用するためのものではなかった。  儒者に対するモンゴル支配者の蔑視は、彼らの社会的な地位の低さからも窺える。宋末元初の儒者鄭思肖(ていししよう)は元代の各職業の社会的地位について「一官、二吏、三僧(僧侶)、四道(道士)、五医(医者)、六工(職人)、七猟(猟師)、八民(平民)、九儒(儒者)、十丐(乞食)」と言ったことがある。同時代にはまた「七匠(職人)、八娼(娼婦)、九儒(儒者)、十丐(乞食)」とも言われており、いずれも儒学がいかに蔑まれていたかを示すものである。もちろん、そうした言葉には元王朝に対する不満や敵意が含まれており、事実から多少のずれがあるかもしれない。しかし、儒学が権力の中枢から追いやられ、儒者たちがもはや優遇を受けられなくなったことはまちがいない。  元王朝の支配者は儒学を否定したものの、それに取って代わる思想を持ち出せたわけではない。倫理道徳の面でも同じである。モンゴル人、色目人と「漢人」、「南人」にそれぞれ異なる法律と倫理基準を適用するとはいえ、「漢人」や「南人」より高い社会的地位が保証されたモンゴル族の人たちの倫理は「漢人」や「南人」のそれより優れたものではなく、ましてや後者を心服させるほどのものではさらになかった。  女真族の場合と同じように、モンゴル族の恋や結婚の慣習は南宋の人たちに新鮮感を与えるものにはならなかっただろう。長年の戦争のなかでモンゴル人と「漢人」「南人」は互いに知り尽くし、それに民族の怨念という要素が複雑に絡み、とりわけ「南人」たちはモンゴル文化の吸収をいさぎよしとしなかった。そうした背景のもとに儒学が再び「漢人」や「南人」たちの心の灯台となったのはまったく不思議ではない。  この儒学回帰の願望は下位文化との苦闘の産物であった。十三世紀の南宋に比べると、モンゴルの生産文明ははるかに遅れていた。ところが、軍事的に強かったモンゴル族の人たちは南宋を撃ち破り勝利を収めた。征服者となった彼らは南宋の制度を部分的に取り入れたものの、国家管理の面において遊牧時代のさまざまな行政組織と慣習をも温存した。そうしたものは南宋に比べてかなり遅れており、モンゴルよりずっと発達した「漢民族」の地域に適応しなかったことは明らかである。  原始的な遊牧をおもな生産手段としたモンゴル族の人たちは軍事力によって領土を拡大できても、農耕生産についてほとんど何も知らなかった。漢民族の文士の勧めを一部取り入れたとはいえ、農業の面での失政はあとを絶たない。とりわけ初期において農地を牧地に変えたやり方は農業に大きな打撃を与えた。それに対外遠征の必要から国内への収奪がエスカレートし、民衆の生活はますます苦境に陥る。自然災害が起きると、その被害は拡大し、飢饉はたびたび農民を襲った。飢餓のために盗賊の集団が続出し、人間が人間を食うという悲劇もしばしば起きた。まえの時代に比べると、道徳水準は低下し、文明は大きく後退した。  元代に書かれた詩によると、飢饉に見舞われた人たちの群れは道路に溢れ出し、町中女や子供の泣き声が聞こえてくる。大量の流民が豊かな地域に流れ、飢餓に脅かされた人たちはやむなく妻や娘を商品のように売買する。もはや女性が人のまえには顔を見せてはならないなどと考える余裕はなかった。こうした背景のもとに男女禁制は事実上瓦解した。しかし、男女隔離が解かれた悲惨な時代より、安定した男女禁制の時代の方がましだと思うのはごく自然なことであろう。すると、一種の幻想に終始したかもしれないが、儒学倫理への羨望が充足した生活への憧憬とともに生まれたのは容易に推測できる。ただ、この場合儒学への回帰願望は儒学の復権を無条件に求めたのではなく、たとえば男女関係においては儒学倫理という枠のなかで恋の価値を見いだそうとする試みがあらわれた。結局、ほんらい別の方向へ発展したかもしれない恋の情緒はモンゴル文化の進入という外からの原因により、才子佳人式の恋という一方通行の狭い道に入ってしまったのである。  第1節では才子佳人式の恋はモンゴル文化の影響を受けたものであり、とくに物語構成や細部表現においてそれが認められると述べた。そのことはここで触れたことと少しも矛盾しない。両者はむしろ互いに補完する関係にある。中原地域に入ったモンゴル文化は一方においては儒学への回帰をもたらし、才子佳人式の恋というフレームワークの定着を外側から促したが、一方において恋物語の細部構成にさまざまな異質の要素を注入した。いずれも非漢語文化の中原進出と相関している。ただ、前者は異なる文化の侵入に対する排斥の力が働いた結果であるのに対し、後者は無意識のうちに異質の要素を吸収し、融合する力の作用によるものであった。 4、男女共演の波紋  唐代の小説「鶯鶯伝」を底本とした「西廂記」をはじめ、「恋」を描いた元代の戯曲はストーリーがそれぞれ異なるとはいえ、全体としてあるパターンにはまっている。ところが、そのようなややもすればステレオタイプに陥りやすい戯曲は長いあいだ人々に感動を与えつづけてきた。才子佳人という限界を越えられなかった元代の戯曲はなぜ人々の心の琴線に触れる力があり、後の恋の情緒表現にさまざまな刺激を与えたのか。  作品のみごとな出来栄えはむろん原因の一つである。緻密で興味の尽きないプロット、優雅な文体、ユーモラスな表現、機知に富んだ科白などは観客を魅了する重要な原因である。しかし、それ以上に大切なのは恋の情緒表現の変化である。かつてのさまざまなかたちのフィクションのなかであらわせなかったものが元代の戯曲において表現できるようになったからだ。  それらの戯曲をよく吟味すると、恋の情緒表現がはるかに繊細になり、また感情の表出もより率直なものになったことが窺える。ト書き、科白の部分が小説の描写の役割をはたし、唱いが詩の役割を担った戯曲は、それまで別々にあった記述機能を一つのテキストに融合した。新たな恋の表現の可能性が見つけ出されたのである。戯曲はそれまでの挿詩文と異なり、唱いが筋の運び、登場人物の会話の役割だけでなく、心理描写や情景描写の働きもしているからだ。  「西廂記」の第六幕に女主人公の鶯鶯が張君瑞を慕う気持ちを告白する場面がある。 張さまにお会いしてからというもの、ふわふわと魂がぬけたように、気がふさいで食事もろくにのどを通りませぬ。恋のかなしみに加えて、ちょうどいまは晩春の陽気、なんとも悩ましいこと。 と恋い煩う心境を吐露した。このような内心の告白はそれまでの小説には見られなかったもので、散文の直接話法で語られたのは戯曲がはじめてであった。  戯曲の持つ多重の機能が上演されることによって生かされた。役者は男であったとはいえ、男女役がおおぜいの観客のまえに登場したことは、恋の観念を大きく変化させた。舞台は非日常的な空間であるが、「男」と「女」が公開の場で会話を交わし、内心の想いを打ち明け、あるいは大衆のまえで戯れることは風俗習慣に直接影響を与えるものとなる。脚本のなかの科白が俳優によって語られ、あるいは歌が唱われたことは、ほんらい必ずしも普遍的ではない恋の情緒を集団的な感情の共有へと変えさせるのに、重要な通路を切り開いた。つまり、テキストの中身だけでなく、男女(役)共演という非テキスト的な要素も恋の情緒表現に影を落とした。  「西廂記」の第二十一幕に張君瑞が夢のなかで鶯鶯と話をしている次のような場面がある。 君瑞 表を叩いているのは誰だろう。あ、おんなの声だ。戸をあけてみよう。こんな夜ふけに誰だい。 (唱い略) 鶯鶯 あたくしです。母さまがお寝みになり、あなたさまが恋しゅうて、いつまた会えるかと思えばたまらなくなり、わざわざあとを追ってお伴しようとまいりました。 君瑞 お嬢さまの心づくし、うれしく思いますぞ。 (唱い略) 鶯鶯 あたしはあなたのためなら、遠い道だって平気ですわ。(あえぐ) (唱い略) (田中謙二訳、以下同様)  夢のなかの対面ではあるが、舞台のうえで男役と女役が実際会話を交わしているので、演出効果としては現実の場面とまったく同じである。  また、現実の情景のなかでも二人が逢い引きをし、直接ことばを交わし、互いに心中を打ち明けた場面が多い。さらに張君瑞は仲介役の侍女と頻繁に会い、互いにからかったり、戯れたりする。侍女は事実上女主人公のかわりに恋をしている一面があるから、舞台という空間のなかで「男」と「女」が長々と情意の込められた会話を交わしている情景が、じっさい観衆の目の前に展開されている。  科白よりも効果的なのは唱いである。唱いは独白だけでなく、会話としても機能する。この場合、唱いによる恋心の表出はつよい臨場感を与えるものとなる。二人が親の目を盗んで、夜中に密会する場面がある。そのとき、男の唱いはきわめて大胆なものである。 柳の腰はひとつかみ はじらい含み おもてえあげず 鴛鴦(おし)の枕によりかかる こがねの釵(かざし) 落ちなん風情 たぶさのゆがみ えもいえず われは手ずからボタンをゆるめ 絹のしごきをほどきやれば へやに散りみつ 蘭麝(らんじや)の香り えぇ気のきかぬひと われをてこずらせて なぜ振りむけ見せぬ いとしきかんばせ 玉のからだ わがふところにあり (中略) 人の世に春おとずれて 花はいまし色を誇る 柳の腰をゆるやかにふり 花のしべをそっと開けば 露したたりて 牡丹はな咲く うるおいあれば しびれがはしる いまやかなえり 魚水のむつみ 嫩(やわ)き蕊(しべ)はあえかに香り いまし蝶の戯るがまま 半ばいなみ 半ばしたがい かつはおびえ かつはよろこぶ 檀(あか)き唇そっとおしあつ かぐわしき頬のあたりに  かなりリアルな「濡れ場」描写である。隠喩が多用されているとはいえ、表現としてはきわめて露骨である。ところが、それは観客に向かって唱った歌詞であり、実際に上演された芝居の一コマであった。舞台の上でのさまざまなしぐさとの相乗作用を考えると、その演出効果は驚くほどのものがあったにちがいない。このような歌詞は直接話法としておよそ小説などではあらわせないものである。舞台で演じられたときには、それぞれの場と劇場の雰囲気により登場人物のしぐさや表情が加味され、誇張もされただろう。結局演出や俳優の演技によっては、はなはだ挑発的なものになる可能性も十分考えられるのである。  事実、この部分は唱いと会話と所作によって構成されており、ほんらい公共の場では見ることのできない、濃やかで色っぽい場面が観衆の目のまえに演じられている。現存の脚本ではト書きがかなり簡略で、同じく第十八幕を見ると、張君瑞が「鶯鶯に会い、ひざまずく」、張君瑞が鶯鶯の「ハンカチを見る」などのようにごく簡単にしか記されていない。また版によってはせいぜい「張生が鶯鶯を抱きしめ、鶯鶯は語らず」ぐらいのト書きが示されているだけである。ところが、男女が舞台のうえで唱い合うという形式を考えると、実際のしぐさはもっと多様であったろう。  もっとも唱いは情景描写の働きもし、また男女の所作を示しているから、そうした唱いの歌詞から舞台のうえでのしぐさを推測することもできる。「西廂記」の第二幕に二人がはじめて対面する場面がある。そのときの張君瑞の唱いには、 いどむ視線にまかせつつ きみはなよかな肩おとし 笑みをうかべて 花をいじくる ということばがあり、鶯鶯が張君瑞に見られているのを知りながらも、男の視線を避けないばかりか、むしろ見られるのを楽しんでいるかのようにわざと花をいじくっている様子が歌詞を通して表現されている。侍女に急かされ、鶯鶯はやむなくその場を離れたものの、「君瑞のほうをふりかえりつつ退場」というト書きによって男女が互いに引き付け合う様子がはっきりと描かれている。そのときの女の視線はさらに男の唱いのなかの「ちらり送った去りがけの、あのながし眼がたまらない」という言葉で補足説明されている。そうした唱いによる情景の説明は当然俳優のしぐさを伴い、あるいはそれと交叉して演じられたのである。  右の張君瑞と鶯鶯が対面するときの歌詞にも、女の腰に手を回し、上着のボタンをはずし、さらに絹の帯をほどくなどのしぐさが示されているから、舞台のうえの登場人物のしぐさもそれに呼応しているであろう。  このように科白や唱いなどの言語表現だけでなく、男役と女役の登場と舞台における恋人どうしの濃やかな情意を示すしぐさも恋の情緒の変化を促したことは明らかである。  こうした男女のあいだの恋が男役と女役によって演じられたのは異民族文化の進入と深いかかわりがあると思われる。もちろん「南戯(なんぎ)」と呼ばれた芝居の原型は南宋の紹煕(しようき)年間(一一九〇〜一一九四年)に遡るが、戯曲として成熟したのはやはり元代になってからであろう。なぜなら、初期のものはまだ劇の基本要素を十分に備えておらず、それに芝居の上演がしばしば禁止されたため、劇として発展するのがむずかしかったと推測される。事実、南宋の戯曲のテキストは現在ほんのわずかしか残されておらず、また南宋の時代に書かれたものも五、六作品だけだと推定されている。作品の内容から見ても、男女の恋を見事に表現した劇らしい劇はやはり元代になってはじめて作られたといわざるをえない。  漢民族に比べると、モンゴル族の男女交際の自由ははるかに大きい。中国大陸を支配するようになってからもその点は変わっていない。モンゴル族の人たちにとって「男」「女」がともに舞台のうえで恋を演じるのはもちろん背徳でも邪道でもない。『元史』巻七十一「礼楽」によると、元王朝の宮廷楽隊のなかに男性と女性が混在しており、かつともに歌を唱い踊りを踊っていた。女性が公共の場で顔を出すことに対し、モンゴル文化がかなり寛容であったことが窺える。  つぎの明代には劇の上演を禁止する法令がくりかえし発布され、かつ規制もきびしくなった。それに比べて元代には禁令がはるかに少なく、また内容もより緩やかなものであった(王利器『元明清三代禁毀小説戯曲史料』)。  前述の張君瑞が鶯鶯を抱きしめる場面のほかに、「西廂記」のなかには張君瑞が暗闇のなかで誤って侍女を抱きしめるという場面がある。このような情景が舞台の上にあらわれるのは宋代ではもちろん考えられないことであった。こうしたことを考えると、元代に形成され、後の時代に大きな影響を与えた恋の情緒表現は、やはりモンゴル文化の進入に負うところが大きい。文士にしか読めない小説と違って、公の場で男役と女役によって演じられた恋は一般の民衆にまでつよい影響を与えたのである。そしてその間契丹族、女真族、モンゴル族をはじめ多くの異民族が「漢民族」に融合し、観衆層も徐々にそして着実に変わってきていた。まさにそのような相乗作用が知らず知らずのうちに中国文化を変色させたのである。 【第七章】 明代の淫らな性 ——『金瓶梅』の秘密 1、姦通への注目  元末の農民反乱は元王朝の支配をくつがえし、中国大陸における漢民族の支配を回復させた。ところが明代における領域の拡大は、元代までつづいた民族の融合を中断させなかったばかりでなく、むしろひきつづき混血の温床を提供した。元代以降アジアの民族だけでなく中近東以遠の人々も中国大陸に渡り、この地に住みついていた。明代でもこのルートは絶えなかった。マッテーオ・リッチの『中国キリスト教布教史』第一の書第十一章によると、明代にはアラビア、ペルシアないしヨーロッパから、サラセンと呼ばれるイスラム教徒および、ユダヤ教徒、キリスト教徒たちが中国に渡来し、中国人のなかにとけ込んだ。元代に比べて異なるのは、ただ民族のあいだの混血が漢民族化という一方的な方向になったことだ。  国土の統一は異民族のあいだの平和的な往来の前提条件である。この点において明代と元代はほとんど変わりはない。しかし、明代の成立はかなり長い期間の平和をもたらしただけでなく、明の初期には流民をふるさとに帰らせ、農民の税金を減らすなどの措置を取ることによって農業や商業を大きく発展させた。統一国家のなかでの民族間の物的往来の増加にともない、人員の流動も増えた。金代や元代に比べると、明代では国境の外に追い出された北方民族から新しい血が流れてくることこそ少なくなったが、明王朝の疆域のなかにおいては複数の民族のあいだの混血がむしろより広く、より深く進行していた。  明王朝は元の失敗を教訓とし、元代にあった民族差別の政策を撤廃した。『明史』巻二「本紀第二・太祖二」によると、モンゴル人や色目人は才能さえあれば官吏として登用される道がつねに開かれている。またかつて元王朝で任官したことのある官吏も明王朝に起用されることがあった。こうした民族宥和の政策により、かつて金や元にあった民族の融合は、明という新しい統一国家においてそのいきおいがなくなったのではなく、時間が経つにつれしだいに目に見えなくなっただけである。  ところが明王朝の国境内において民族融合が進んだとはいえ、周辺の民族にとっては漢民族は依然として一つの民族、しかもつよい勢力を持つ支配民族であることに変わりはない。そして儒学の復活という装いのもとで、漢民族とその文化を拡張しようとする妄想が再び台頭し、民族の一元化により、異民族文化は目に見えるかたちで漢民族文化に影響を与えることはなくなったのである。  このような時代において、恋の行為あるいは恋の情緒表現はどのように変化したのだろうか。不思議なことに明代の前期、つまり一三六八年から一五五〇年までのあいだに、戯曲の分野をのぞいて恋を描くものは少なく、とくに優れた作品はほとんど見られない。ところが、明代の後期になるとおもわぬ変異が起きた。  明代の隆慶、万暦(ばんれき)年間つまり十六世紀後半にあらわれた一冊の小説は当時の中国人たちの度肝を抜いた。好色文学として知られる『金瓶梅(きんぺいばい)』である。主人公の西門慶(せいもんけい)は美人の人妻を見初めては、さまざまな手を使って次から次へと彼女らを誘惑した。ここにはいろいろなかたちの姦通が描かれている。才子佳人小説と打って変わって、ごろつき、ペテン師、無頼漢、淫婦などの悪党が登場した。主人公の西門慶は美徳の象徴であった弱々しい書生ではまったくなく、たくましく、かつ役人を兼ねている悪徳商人である。  西門慶の姦通はおよそ三種類ある。一つは雇い人や使用人の妻との桃色遊戯で、二つ目は西門慶より社会的地位の高い貴婦人との火遊びである。三番目は主従関係や上下関係のどちらでもない、人妻との不倫である。一番目には王六児(おうろくじ)、賁四(ほんし)の妻、宋恵蓮(そうけいれん)、来爵児(らいしやくじ)の妻恵元(けいげん)などとの情交があり、二番目には林夫人との密通がある。『金瓶梅』のおもな筋を構成している潘金蓮(はんきんれん)や李瓶児(りへいじ)との姦通は三番目の例である。もっとも西門慶と性関係を持つ女性は名前が記されているものだけでも二十人を下らない。  単に姦通だけなら恋の情緒の歴史とまったくつながりを持たない。ところが、『金瓶梅』は『紅楼夢』と継起の関係にあり、後者の創作が前者のつよい影響を受けたことはすでに常識となっている。裏返して言えば、『金瓶梅』はただ興味本位に淫乱を描いた物語ではなく、男女心理の機微を抉った点において『紅楼夢』と一脈通じるところがある。  西門慶と潘金蓮の出会いは従来の恋物語と違って、非常にリアリスティックで説得力がある。簾をあげようとしていた潘金蓮の竹の棒が落ちて、偶然通りかかった西門慶の頭にあたったのが、二人の交際のきっかけである。いかにも近世商業都市で起こりそうな風景である。仙境や鬼窟あるいは豪華な邸宅の裏庭など、かつての恋物語に過剰なほど使われていた大げさな舞台装置はここではすでに不要となった市のなか、民家の前、あるいはお祭りの雑踏のなかなど、市井生活の何処でも男女の出会いの場となりえたのだ。この偶然の出来事のために、西門慶はほんらい見られないものを覗く機会をえた。塀、屏風、閨房などと同じように、禁制の象徴としてここでも外からの視線を遮断する簾がある。潘金蓮はいかに淫蕩でも、夫が外出しているときに、せいぜい纏足(てんそく)の小さい足の先——男の欲心をそそるエロチックな肉体の象徴——を簾の下から少し出すぐらいのことしかできない。西門慶に顔を見られたのは、潘金蓮が門を締めるために簾をあげようとするわずか数十秒のあいだに起きた偶然の出来事であった。こうして西門慶と潘金蓮の姦通のきっかけはついに塀の外で起きたのである。  邪淫の下心を持っているとはいえ、潘金蓮を思い慕う西門慶の情熱は並々ではない。家に帰ってからも偶然に出会った美人のことが忘れられず、食事もしないで、仲人を職業とする王婆の喫茶店へ行き、潘金蓮のことについていろいろと尋ねる。四時間も経たないうちにふたたび王婆のところへ行ったが、体は喫茶店にいても目は隣の潘金蓮の家をじっと見つめている。そして日が暮れて閉店まぎわになると、西門慶は三たび姿をあらわした。翌日の早朝、王婆が店をあけるまえに男はすでに潘金蓮の家のまえの通りを行ったり来たりしている。そしていったん帰ってはまたもどってきて、たえずその近くをうろつく。想いが募り結局王婆に橋渡しを願ったのである。  李瓶児との姦通も似ている。見初めた女性のことを日夜想い、その情熱はおよそ才子佳人式の恋をはるかに超えている。話しことばによる写実的で優れた描写技巧は、その炎のような恋の情熱を見事に再現した。  ところで、儒学が復権した明代には一般的にいえば女たちは夫以外の男と対面することはかなりむずかしかったと思われる。このことについて布教のため明代の中国を訪れた宣教師たちはほとんど同じ証言を残している。また、姦通に対する法的処罰もきわめてきびしい。ポルトガル人宣教師ガレオテ・ペレイラ (Galeote Pereira) は「中国レポート」のなかで「姦通罪を犯した犯人は牢獄に入れられ、事情調査が終われば極刑に処せられる。女性側の夫は彼らを告発しなければならない。この法律は姦通を犯した男にも女にも通用する」(C. R. Boxer 編、何高済訳『十六世紀中国南部行紀』)と言っている。このようなきびしい規制のもとではほんらい姦通は起こりにくいはずである。  ところが、実際はそうではなかったようだ。明代の白話小説には姦通を扱ったものが多く、『金瓶梅』のほかに「三言二拍(さんげんにはく)」と略称される『警世通言(けいせいつうげん)』『醒世恒言(かくせいこうげん)』『喩世明言(ゆせいめいげん)』と『初刻拍案驚奇(しよこくはくあんきようき)』『二刻拍案驚奇(にこくはくあんきようき)』のなかでも姦通は重要な題材となっている。また、「公案小説」と呼ばれた裁判物語にも姦通の話はしばしば見られる。たとえば明末に書かれたと思われる『竜図公案(りゆうとこうあん)』には姦通と関連のある作品が四割も占めている。もちろん張洪謨(ちようこうばく)の『治世余聞(ちせいよぶん)』下編巻之一にも見られるように、明代では婚前の性交渉も姦通と呼ばれることがあり、姦通物語は必ずしも全部今日の意味での姦通ではないかもしれない。それにしても明代には姦通に対する関心は並々ならぬものがあった。  十六世紀五〇年代に中国を訪れたポルトガルのドミニコ会会士ガスパール・ド・クルスは『十六世紀華南事物誌』のなかで「もし夫が妻の姦通に同意していたならば、夫のほうが重く罰せられる。いとも手ひどい扱いをうけながら、裁きから裁きへ引きたてられていたシナの商人を、私はカンタン(広州)にいるとき見たことがある」(日埜博司訳)と、その見聞を書いた。偶然訪れた外国人たちにも目撃されるほどだから、当時では取り立てて珍しいことではなかったようである。  もっとも興味をそそるのはマッテーオ・リッチの記述である。リッチは『中国キリスト教布教史』のなかで「個々の家庭の姦通はいうまでもなく、王国のいたるところに公娼があふれている」と書いている。異文化からの観察者の証言として、それはでっち上げでも宗教的な偏見でもないだろう。「個々の家庭の姦通」と「公娼があふれている」こととが並列してあげられているから、ここの「姦通」は買春ではないと思われる。また、同じ書物のなかでリッチは中国人の妾をめとる風習にも別に触れているので、「個々の家庭の姦通」は妾たちとの関係を指すことでもないだろう。  おそらく二つの可能性が考えられる。一つは儒学の倫理は士大夫階級のなかでのみ守られており、明末になると庶民のあいだではそれがすでに崩れてしまったという可能性、もう一つは奴隷の身となった女たちとその主のあいだにしばしば見られた性関係がリッチにそういう印象を与えたということである。  前者については明の張瀚(ちようかん)の『松窓夢語(しようそうむご)』巻之七に関係する証言がある。それによると、江南地域とくに杭州では人々は道楽に耽り、風俗は淫靡だったという。一月十五日の灯籠まつりになると、杭州の城内は「男女(の群れで)道がふさがってしまい、(男と女たちは)互いに相追って戯れる。(これは)ほかの省にない風習である」と言っている。この記述からみると、男女が隔離されているなかでも、地域によっては祭りなど特殊な日にはやはり女性の外出自由があり、したがって姦通を誘発する下地があったかもしれない。  しかし、リッチのいう「個々の家庭の姦通」はやはり後者を指しているだろう。多くの白話小説に見られるように、金銭の売買を通して手に入れた下婢や、あるいは花嫁がつれてきた侍女や女使用人は独身か人妻かをとわず、その家の主が事実上のセックス権を持っている。このような性関係は倫理的に姦通であっても、男が女を所有しているため姦通として処罰されることはない。また、明末は政治がかなり腐敗しており、権勢のある役人が思うままに他人の妻を姦淫することも多く起きていた。このような役人や社会的な地位の高い男たちが金銭や権力によって下層の女性と姦通することはよくあっただろう。したがって、明末の小説にあらわれた姦通はやはり完全に空想の産物ではなかった。  しかし、「情」の系譜のなかでこうした姦通を見つめ、かつ表現するときには大きな問題にぶつかる。つまり、作家はそうした姦通を恋として描けなかったのである。たとえそれが実際に恋ではあっても。ほんらい姦通も恋の内である。他の男に所有された女と恋するときに必ず厚い壁——結婚という壁に激突する。まぎれもなくこの壁こそが激しい情熱の源である。後の時代における『金瓶梅』から『紅楼夢』への連想の回路はそのことを物語っている。作者の直感は見事に的中している。しかし、『金瓶梅』の作者は閨房内の恋の枠組みのなかにおいてこの姦通を描くことができないことに気付いたようだ。情緒表現は十字路に来ており、魂の共有へ導く通路は違う方向から見つけ出されなければならなかったのである。それは儒学文化における恋の情緒の避けられない結果でもあった。姦通と婚前の密通はともに禁忌に対する侵犯だが、後者は才子佳人式の恋という装いがあるだけに、結婚という逃げ道が残されている。しかし、儒学倫理のもとでは姦通はいかに粉飾しようともつくろいがきかない。姦通から恋へつながる通路は閉ざされてしまっている。残されたのはたった一本の道しかない。それは性愛の世界への没入である。 2、性愛への傾斜  中国文化のなかで恋はつねに性愛を伴う。「鶯鶯伝」にみられるように、隔離された男女の恋にとって何よりも大事なのは二人がいっしょになることである。空間的な隔たりを乗り越えなければ、最初から恋を放棄することになる。恋人同士の対面する機会が非常に少ないため、逢い引きはしばしば情事となる。男女関係が社会から切断されているから、一般の社会生活のなかで恋を表現することはできない。  姦通も同じである。女性が社会生活に加わらないため、不倫は色事としてしか表現できない。ほんらい西門慶と潘金蓮は互いに本心からほれあい、姦通にいたるまでの過程は才子佳人の恋と共通するところが多い。にもかかわらず、最後に作者はそれを善悪二分法の断頭台に乗せざるをえなかった。姦通には性欲の耽溺という出口しか残されていなかったからである。  ここで『金瓶梅』のなかの性愛の世界を貶すつもりは毛頭ない。むしろそうした試みを肯定したい。事実、明代に見られる性への関心と表現の衝動は恋の情緒表現の必然の結果である。『金瓶梅』のワイセツ性はテキストのなかにとけ込んでおり、けっして単独に取り除くことはできない。性描写のない『金瓶梅』は塩を入れないスープになってしまう。それなら『金瓶梅』のなかの性描写は何を意味し、恋の情緒表現とどのようなつながりがあるのだろうか。  最初の姦通は西門慶と潘金蓮のあいだに起こり、その次は李瓶児との姦通である。いわば才子佳人の恋ともっとも近い地点で物語が始まったのである。潘金蓮の場合は仲介者を通して、李瓶児の場合は塀を越えてそれぞれ恋が成就した。才子佳人の恋物語だと、ここまで来ると物語も終わりに近付くはずだ。ところが、『金瓶梅』はここからストーリーが始まるのだからおもしろい。つまり、再会を果たし、空間的な距離を乗り越えた後、二人がどうなるのかということに視線が向けられた。  潘金蓮や李瓶児を妾としてめとったのち、西門慶ははやくも心がほかの女性に移った。他の女との姦通の場合も同じである。西門慶は潘金蓮と姦通を果たした後、二人もの妾をめとり、しばらくのあいだ彼女のことをすっかり忘れてしまっていた。潘金蓮は西門慶の召使いを通してようやく連絡が取れたのである。そして彼女が西門慶の六番目の妾になると、西門慶はまた李瓶児などほかの女に熱をあげ、潘金蓮はもはやほかの五人の妻、妾と同じように西門慶の興味を引かなくなる。このような変化は二人のあいだの性行為についての描写からも窺える。  王婆の媒介で姦通が成就し、二人が最初に契りを結んだ情景は次のように描かれている。  その場でふたりは着物をぬぎ、帯をとき、枕を交わしたわけですが、それは、 頸(うなじ)を交じえたる鴛鴦(えんおう)は水に戯れ、頭(こうべ)を並べたる鸞鳳(らんぼう)は花を穿(うが)つ。喜孜孜(きしし)として連理(れんり)の枝生じ、美甘甘(びかんかん)として同心の帯結ぶ。一個は朱唇(しゆしん)を緊(かた)く貼(むす)び、一個は粉臉(ふんれん)を斜めに(ちか)づく。羅襪(らべつ)高く挑(かか)ぐれば、肩膊(けんぱく)の上に両彎(わん)の新月を露(あら)わし、金釵(きんさい)斜めに墜(お)つれば、枕頭(ちんとう)の辺に一朶(だ)の烏雲を堆(つ)む。海に誓(ちか)い山に盟(ちか)い搏弄(はくろう)すれば千般の(いじ)、雲に羞(は)じ雨に怯(おび)え揉差(じゆうさ)すれば万種の妖(ようじよう)。恰恰(こうこう)たる鶯声耳畔(おうせいじはん)を離れず、津津(しんしん)たる甜唾(てんだ)笑って舌尖を吐く。楊柳(ようりゆう)の腰脈脈として春濃く、桜桃の口微微として気喘(あえ)ぐ。星眼朦朧(もうろう)として細細たる汗は香玉の顆(つぶ)を流し、酥胸蕩漾(そきようとうよう)して涓涓(けんけん)たる露は牡丹(ぼたん)の心に滴(したた)る。たとい匹配は眷姻(けんえん)も諧(とも)にするといえども、まことに偸情(ちゆうじよう)は滋味美なり。 (小野忍ほか訳、以下同様)  少なくとも行為のうえでまだ閨房内の恋の流れからはずれておらず、描写が露骨になったとはいえ、才子佳人の情事と区別することはできない。前述の西門慶の情熱を思い出すと、ここでは姦通と恋のあいだの通路は完全に断ち切られたわけではない。  ところが、姦通から恋の価値を見いだせなかったため、禁忌への侵犯を保証する崇高性への道はすべて閉ざされ、姦通行為は普遍的価値としての可能性が剥奪された。言い換えると、恋の感情を独立した想念の世界として構築するという形而上的思考の欠如により、姦通は結婚との対立ではなく、逆に結婚との類比関係で同義反復になる。結局どちらも隔絶を失うことによって恋を喪失することになる。  このように見てくると、西門慶と潘金蓮の情事の場面はただ興味本位に綴られたのではない。それらのポルノグラフィー的な描写をよく吟味すると、はっきりした意図が読み取れるのである。性行為は一種の表徴として用いられ、そのなかに西門慶と潘金蓮の関係の微妙な変化が隠されている。  二人の姦通が成就したのち、とくに結婚したあとの潘金蓮は夫とのあいだにはもはや性愛しか両者を結ぶものはない。一方、西門慶の女性遍歴も結局のところ次から次へと「恋」の破滅を体験する過程に過ぎない。結婚にせよ、姦通にせよ、「恋」の成就は同時に「恋」の喪失を意味することは明らかである。この場合、人々は自然に究極の性行為のなかに男女の魂の融合を求めようとするであろう。「性」は男女のあいだに残った最後の絆だから。  『金瓶梅』のなかの性描写はまさにそれを暗示している。同じ情事の場面でも男女の関係の変化にしたがって、性行為についての描写は少しずつ変わってくる。西門慶が潘金蓮と手を組んでその夫を毒殺し、彼女を妾にした後、性行為には根本的な変化があらわれた。第二十七回もそのような例だが、ここでは第五十一回から引用しよう。 女は燭台を寝台のそばのテーブルの上に置くと、薄絹の帳をおろし、紅い子(ずぼん)をはずして、玉のはだえを露(あら)わす。西門慶は枕の上に腰をおろすと、ふたつの托子をそなえ、長大になったのを露わして、相手に見せる。あかりの下で見せられて、相手はぎょっとしました。片手にあまり、紫巍巍(しぎぎ)、沈甸甸(でんでん)としております。そこで、西門慶をじろりと睨(にら)んで、 「わかった。きっとあの坊主の薬を飲んだもんだから、こんなになっちゃったんだわ。それで、むしょうにこの奥さんをいじめに来たくなったのね。(中略)」 西門慶は笑って、 「蓮(はす)っ葉さん、まあおいでよ。吹けるものならちょいとふいてごらん。一両あげるから」 「ふざけないでよ。あんたがどんなしろものを飲もうと、あたし負けやしないわ」 金蓮はそういうと、横になって、両手で捧げ持ちました。 (中略) 西門慶はハンカチに包んだ銀の小盒の中から、小楊枝でとき色の膏薬をすくい上げ、馬口のなかへ塗り込んで、仰向けになり、跨がらせました。 (中略) こうして二時間ばかりたちました。 やがて窓の外で鶏が鳴き、東の空が次第に白んできました。女は、 「ねえ、あなた。いっこうに片づかないけど、どうしたの。晩にまたいらっしゃいよ。あたし、吹いて片づけてあげるから」  ここにいたって西門慶と潘金蓮の姦通は「純潔な恋」の世界と訣別した。同じ情事でもここでは性の享楽、しかもゆがんだ性愛の世界が描かれている。さまざまな道具が性行為のなかで使われている。しかし、それらの道具は単に快楽を追求するためのものではなくなりつつある。性行為はときには快楽そのものさえ超え、ほんらい手段であったはずの人工の補助がかえって目的になったようだ。超人的な性的能力への憧憬は、ここでは男女のあいだの関係の理想像への還元を期待している。言い換えると、無限に拡大された性能力と性行為に対する崇拝は性そのものをも越える魂の共有への不透明で、無意識な羨望を背景としているのである。  西門慶がインドの和尚からもらった秘薬を服用してから、性器は大きくなっただけでなく、性的能力が驚くほど高まったのである。性愛の道具も詳細に羅列されている。外用の膏薬のほかに、いまだに正体が解明されていない銀の「托子」、硫黄漬けのリング、薬で煎じた白いひもおよび女性用の「勉鈴」など、非日常的な性的能力を生み出す道具がすべて揃っている。性交にはさまざまな人工的な要素が注入された。西門慶はまるで物理実験でもしているように冷静沈着に決まった手順を踏んでセックスをしている。丸薬を飲み、銀の托子をつけ、さらに硫黄漬けのリングをかぶせ、そして膏薬を丸めて尿道口につめる。生殖器官と口唇の接触や、性行為の無際限の延長は、性を意思どおりに自由にコントロールできることのメタファーとして描かれている。結局ほんらい生理的であるはずの性行為はことごとく人為的なプロセスに分解されている。  性の七つ道具に武装された性行為は西門慶の思うままになった。彼はその超人的な能力をもってほしいまま美人を征服していく。しかしそれは単に性欲の満足を求めることを意味するものではない。超人的な性的能力への妄想はむしろ恋の永続を祈願する哀れな心象を映し出す鏡となっている。男女の精神的な融合を求める最後の手段として、もはや性の過剰しか残っていなかったからである。明代における好色文学の隆盛はやはりそのことに根本的な原因があるだろう。  前述のように中国では「恋物語」という分類概念はなく、恋はほとんどの場合「きれいな女の話」や「不幸な女の話」などとして語られる。明代になると、恋を描く「不幸な女の話」や「きれいな女の話」はさらに「情」と「色」の二つの系統にしだいに分化したと思われる。「情」の系列には明末清初の才子佳人小説群があるが、しかしそれらの作品にはほとんど創意がなかった。それに比べると、「色」つまり性愛を描いた方は飛躍的な発展を遂げた。「色」の世界の誕生とその発達には性愛の世界において永遠の恋を求めようとする明代の人々の想いが込められているのである。 3、スワッピング、色仕掛、同性愛  『金瓶梅』には時代状況が影を落としているとはいえ、作品としてはもちろん突発的にあらわれたのではなく、歴史のなかで変容しつつある文化の累積の産物である。『金瓶梅』のなかの恋の溶暗と「色」の世界への没入は感情表現の歴史において一つの意味深い転換点をなし、また伝統的な恋の情緒表現の必然的な行き詰まりを示している。  性を取り上げることによって「恋」の射程は著しく伸びた。姦通や性の放縦だけでなく、性にまつわるありとあらゆる現象が恋との相関性において見直される機会に恵まれる。  市井のなかで男女の色恋がつねに人々の興味を引く。ところが、恋についての哲学的思考の欠如は、結局「色」への傾斜を止められない流れにした。とりわけ、それまでに「文」という特権的な表現様式では決して表現できなかったことを異なった文体で見事に描写した『金瓶梅』の大胆不敵な記述は、後の作家たちを大いに励ました。彼らは「白話」という口語文体がきわめて表現自由度の大きい様式であることに気付き、やがて恋の情緒表現の行き詰まりをさまざまなかたちの情事に対する綿密な観察と、行為自体についての細かい描写によって克服しようとした。題材の可能性が増大したために、スワッピング、和尚や尼の色事、同性愛、美人局(つつもたせ)あるいはそのほかの諸々の色仕掛など、およそ禁忌とされた色事がほとんど例外なく網羅された。  『拍案驚奇(はくあんきようき)』の第三十二話に夫婦交換の物語が描かれている。州(べんしゆう)すなわちいまの湖北省陽県にある金持ちの家に銕鎔(てつよう)という息子がおり、その嫁の狄(てき)氏は非常に艶やかな美人である。州には女性がそとに出る風習があり、とくに金持ちや身分の高い家ではきれいな奥さんを人に見せびらかすのを楽しんでいた。銕鎔もその例外ではなく、いつも妻をいろいろなパーティーにつれていく。  ところで、銕鎔の家の近くに遊び仲間の胡綏(こすい)という人が住んでおり、その胡綏には門氏という出色の美貌の妻がいる。二人はそれぞれ相手の妻を見初め、密かになんとかして誘惑しようと企む。銕鎔はときどきそのことを胡綏にほのめかしているが、胡綏はまったく反対の色を見せない。銕鎔は自分の下心を妻の狄氏にもらしたところ、妻は怒らないばかりか、かえって夫に協力することを約束する。  それからというもの、銕鎔は毎日のように胡綏夫婦を自宅に招く。門氏を誘惑するために、銕鎔は妻と相談して、わざと胡綏とそとの部屋で酒を飲みながら遊女と戯れ、簾一枚を隔てて狄氏は門氏にそとを覗かせる。ところが、そとの淫猥な場面を見て仕掛人のはずの狄氏の方がさきに欲情を煽り立てられた。そもそも銕鎔に比べると、胡綏の方がハンサムであるばかりでなく、性格もやさしく、また品格があって風流を心得ている。狄氏はその容姿にすっかり魅了されてしまった。胡綏への想いが募ったため、狄氏はまえよりもいっそう夫に協力的になる。  銕鎔はそんなことをつゆ知らず、ただ物わかりのいい妻をえたことを喜ぶ。ある日酔いに乗じて銕鎔はついに夫婦交換を胡綏に申し出る。酒宴の後、銕鎔は妻にそのことを話すと、狄氏はわざと怒ったふりをして断る。一方、彼女は夫に隠れて胡綏に色目を使い、夫の知らないうちに二人は懇ろになる。ある日銕鎔を酔わせたのち、二人はとうとう情交を結ぶ。その秘密の関係をつづけるために、狄氏は策略を考え出した。胡綏は銕鎔に美貌の遊女を紹介し、銕鎔が外泊するのを利用して二人は逢い引きをくりかえす。  銕鎔は酒と女色に溺れ、やがて重い病にかかる。道士の呪術によってようやく一命を取り留めたが、今度は胡綏が重病になる。銕鎔は胡綏を見舞う機会を利用して、妻の門氏と不倫をする。やがて胡綏は病死し、狄氏も悲しみのあまり半年の後亡くなる。すべての財産を使い果たし、かつ妻の不倫を知った銕鎔は悟り、その後、品行を改め、門氏をめとって本分に安んずる生活をするようになった。  因果応報や道教的な説教臭さがあるものの、明代の市井生活にありうる一断面を見事に描きあげている。物語の時代を元代に設定したのは、作品に出てくる男女を隔離しない風習とかかわりがあるかもしれない。いずれにしてもこのような奇形の愛欲生活への関心があったこと自体が注目に値する。もちろん、作者はアンソロジーの名に「奇」を冠したように、夫婦交換は明代において必ずしも現実に多く見られる現象ではなかったかもしれない。しかし、欲情の逸脱行為に目をとどめ、あるいはその可能性を細部まで構想したこと自体は驚くべきことである。  もし仮にスワッピングの物語にはやや誇張があったとしても、さまざまな色仕掛を描いた明代の小説はやはり商業社会の発達と都市の巨大化と無関係ではないだろう。そうした外部条件の変化はやがて男女関係をも変貌させ、数々の奇妙な出来事と、そうしたことへの好奇心を生み出した。  『拍案驚奇』の第六話はその一つで、尼を利用して婦人を誘惑することと、婦人が色を利用して復讐したことが描かれている。  賈(か)という書生の妻巫(ふ)氏は見目が麗しいだけでなく、刺繍が上手でたいへん器用である。夫婦は非常に仲がよいが、科挙の受験勉強のために夫は半年に一度しか家に帰らない。  賈家の隣に尼寺があり、そこには趙という尼がいる。賈家は檀家であるため、尼はいつも自由にその家に出入りする。巫氏はたいへん律儀でふだんはほとんど出かけない。ある日巫氏は尼に誘われ門の外へ出ると、たまたま通り過ぎた卜良(ぼくりよう)という町きっての女たらしに出会う。彼女はあわてて身を隠したが、卜良は一目で巫氏を見初めてしまう。男はもともと尼と曖昧な関係があるので、さっそく尼に二人のあいだの取り持ちをたのむ。  しかし、尼は巫氏が非常にまじめであり、決して口説き落とせないことをよく承知している。そこで、尼は男に策略を使うことを勧める。巫氏にはまだ子供がなく、尼は彼女が子供をほしがる気持ちを利用しようとする。ある日朝早く巫氏を尼寺に誘い出し、朝食をさせずにえんえんと子宝の願をかける儀式をする。巫氏が腹が空いたのを見て、酒を大量に混ぜたケーキを食べさせる。ふだんお酒をまったく飲まない巫氏は空腹のうえに一度に多くの酒を飲まされたので、すぐに酔っぱらってしまい、その隙に乗じて卜良は巫氏を姦淫する。  酔いから醒めた巫氏はわなにかかったことを知り、一部始終を帰宅した夫に打ち明け、自殺して自分の不注意を償おうとする。夫は、妻が自殺したら自分の名誉に傷がつくだけなので、策略を使って復讐することにしようと誓いを立てる。  巫氏は尼を自宅に呼び、男にまたあいたいと告げる。尼は女がひっかかったと勘違いをし、何の警戒もせず二回目の密会を世話する。当日の夜、卜良は予定どおり巫氏の家のまえで待ち合わせる。日が暮れ、巫氏の家から約束の咳の声が聞こえると、卜良も咳の声で合図をする。するとドアが開き、卜良はすっとなかに入る。月光の下に巫氏は一人で中庭で待っている。  卜良はいきなり巫氏を抱きしめ、そしてむさぼるようにキスをする。卜良が舌を巫氏の口のなかに入れたとたん、巫氏は舌を噛み切ってしまう。卜良は不意打ちにあい、ひどい痛さのため女を放して反射的に門を出る。巫氏は噛み切った舌を手に握り、ドアを締めてから裏で待っていた夫のところに行く。夫の賈は卜良の舌をハンカチで包み、剣を持ってまっすぐに尼寺に向かう。趙という尼がドアを開けるやいなや、賈は一振りで尼の首を切り落とす。尼寺にはほかにもう一人の若い尼が熟睡していたが、賈はその尼をも殺し、卜良の舌を若い尼の口のなかに入れる。  翌日、尼寺で殺人が発見される。検死の結果、若い尼の口には舌のかけらが入っていることがわかる。すると、強姦未遂殺人ということで、舌の欠けた犯人を手配するポスターがたちまち町中に貼り出される。それを知らずに傷の痛さをこらえて街のなかをうろうろしている卜良はまもなくつかまる。取調べに卜良は弁解しようとしたが、なにしろことばがしゃべれない。公開判決を待たずに拷問によって殺されてしまう。  これは色を餌食とした復讐だが、そのほか第十八話には不老不死の仙薬が作れると自称したにせもの夫婦が、金持ちの家に入り込み、その間「妻」が女色で金持ちを誘惑し、不倫が発覚したとして、「夫」が大金をゆすり取るという美人局が描かれている。そうした不思議な話も決して日常からそう遠く離れたものではない。  スワッピングも美人局も男女のあいだの性関係を描く点においてまだ一種の「健全さ」を備えている。それに対して、同性愛に対する好奇心や並外れた性的逸脱に対する注目は情緒表現の座礁を示す黄信号であったかもしれない。同じく『拍案驚奇』の第二十六話はそのような快楽の地獄に陥った人々の生態を描いたものである。  四川省成都の郊外の井慶(せいけい)という百姓の家に器量のよい妻がいる。名は杜(と)氏という。杜氏は夫が無風流なのを悔しがり、いつもいいがかりをつけては夫と口喧嘩をする。ある日夫と口論したすえ実家に帰る。両親がなだめたりすかしたりして、女はやっと夫のもとにもどることになる。ところが、途中、大雨にあいやむなく近くの太平寺という寺で雨宿りをする。  寺には大覚という名の住職のほか弟子の智円、慧観(えかん)などがいる。慧観はまだ幼いが、智円は年が若いだけでなく、容貌もハンサムである。大覚は男色をこよなく好み、毎晩、智円を抱きながら、淫猥な話をする。一方、両刀使いの彼は女色にも目がない。寺に若い女性が来た以上、ただで帰すわけにはいかない。  智円はさっそく女性をなかに案内し、お茶を勧めながら、色目を使って女の反応をうかがう。女も智円がきれいなのを見て、おもわず心を引かれ、うっかりお茶をこぼしてしまう。智円は袖を暖炉の火で乾かすという口実で女をさらに奥の部屋に案内し、そこで女は住職の大覚に姦淫される。住職は年が年でろくに女を満足させることができず、智円はその補完作業に当てられる。味をしめた女は寺から離れられず、そのまま和尚たちのもとに留まる。  その日から住職と智円と女のあいだに淫らで奇妙な三角関係が始まる。ところが、しばらく経つと女は六十近くにもなった住職のしつこさにいや気がさし、とうとう住職を相手にしなくなる。いざこざのなかで、立腹した住職は衝動的に女を殺害する。  一方、嫁が行方不明になった夫は嫁の両親が妻を隠したとして訴訟を起こす。が、女の両親は逆に娘が婿に殺されたとして反訴する。訴状を受けた役人林大合は真相を突き止められずたいへん困っていた。  その役所には兪(ゆ)という福建省出身の門番がいる。福建省の男にはおかまが多く、兪も若くてハンサムなので林役人にたいへんかわいがられている。しかし兪は、林役人が同性愛の相手であることを鼻にかけ、増長のあまりちょっとした犯罪をやらかしてしまう。林役人は彼に罪のうめあわせをさせようとして、杜氏の失踪事件の調査を命じる。  兪は巷で太平寺に色っぽいおかま和尚がいるのを聞きつけたので、欲情がそそられ、ぜひその和尚にあおうと決心する。智円と兪は互いに一目で気に入り、住職も仲間が増えたことを喜ぶ。兪はすぐに寺に住み込むようになる。  ところが、兪をめぐって住職と弟子の智円はやがて互いにやきもちを焼き、ある日言い争いになる。性の残飯処理に怒る智円はうっかり口を滑らし杜氏のことを喋ってしまう。それを盗み聞きした兪は情事の最中に智円から事件の一部始終を聞き出し、林役人に報告する。事件の真相はついに明らかになり、真犯人が見事に検挙されたところで物語は終わる。  推理小説のようなストーリー構成であるが、物語の細部ではむしろ病的な欲情に目が向けられ、同性愛者の生活の実態は緻密な筆致によって再現されている。明代は男色のはやった時代で、マッテーオ・リッチは当時の男色風習について次のように書いている。 最も嘆かわしく、またこの国の人びとの悲惨さを明らさまに示しているのは、彼らの間では、自然な欲望のみならず、不自然な倒錯した欲望も少なからず満たされているところだ。それは法律で禁止されもせず、不正であるとか恥ずかしいと考えられることもない。したがって、それは公然と話題にされるし、どこでも行なわれ、それをやめさせる者もいない。都市のなかには、この嫌悪すべきものが隆盛をきわめているところもあり、たとえば、都市の頂点に立つこのパッキーノ(北京)には、娼婦のように化粧をした男の子供があふれている公道がある。またこうした男の子供を買い取って、楽器の演奏や、歌や、踊りを教えこむ者もいる。彼らは女たちと同様に立派な服を身に着け化粧をして、哀れな男たちにこの恥ずべき悪癖の火を燃え立たせる。 (川名公平訳『中国キリスト教布教史』)  また、ガスパール・ダ・クルスも「この国民は(中略)一つの忌み嫌うべき醜行に耽っている。すなわち、胸の悪くなるような、人間の本性に反した汚らわしい罪[男色]にひたりきっており、彼らのあいだにおいてこれはまったく異とされぬほどである」(日埜博司訳)と記述している。  しかし、マッテーオ・リッチのいう「(男色が)不正であるとか恥ずかしいと考えられることもない」という言葉はあるいは検討の必要があるかもしれない。明代の沈徳符(ちんとくふ)は『万暦野獲編(ばんれきやかくへん)』のなかで男色を二種類に分ける。一つは単身赴任、全寮制の科挙の受験勉強、あるいは兵役や監禁など女に近づけない環境のもとで起きた代償的な性行為で、もう一つは地方風習としての男色である。後者は南方に始まり、中原にまで広まったものだという。いずれも奇異な風俗としてあげられている。また同じ沈徳符による『敝帚斉余談節録(へいそうさいよだんせつろく)』には「(男色が)禽獣や盗賊、乞食のすることだ」ということばがあり、同性愛は法律的には犯罪ではなくても、道徳的には少なくとも健全であるとは考えられていなかったようである。事実『治世余聞』下編巻之三には、宴会のときに互いに寵愛している男の子を比べ、彼らと公然とセックスして戯れる役人たちが検挙されたことが記録されている。また、多くの小説のなかにあらわれた男色は背徳、堕落、破滅のニュアンスで語られている。  ただ、男色に対する社会的な寛容はやはり驚くべきものがある。『金瓶梅』のなかで潘金蓮は夫がほかの妾と寝ることにはやきもちを焼くが、夫の男色を知ってもほとんど怒らない。『万暦野獲編』には、刑務所のなかでおかまを奪うためにときには囚人たちが打ち合いになることがある、この場合、刑務官は双方のあいだに立って調停する、と記述されている。このことから見ると、男色はたしかに犯罪ではなく、ただの「色事」と見なされているだけだ。  とりわけ注目したいのは男色に対する審美的尺度である。明代の小説のなかで男色は「淫乱」として描かれることはあるが、それも女色に溺れるのと同じ程度にしか見られていない。事実「男色」ということばからも窺えるようにそれはつねに「色」の範疇に入れられている。明代の『艶異編(えんいへん)』などの「恋」に関する作品のアンソロジーでは男色はみな男女の恋と同等に扱われている。  「色」が「恋」の意味合いを持っていることを考えると、「男色」にも擬似的な恋の情緒を認めるということになる。ただ、それは姦通と同じように、中国文化のなかでつねに負の価値と結びついていたため、普遍的な恋として詠われ、描かれることはなかったのである。  中国の小説の原型は「正史」に対する「野史」の記述にあり、その意味では史書から分離し独立した表現ジャンルだということができる。このことを考えると、『金瓶梅』やその他の白話小説に描かれた恋と性は明代の現実生活の表層を映し出す部分があるであろう。マッテーオ・リッチは『中国キリスト教布教史』のなかで、中国人が「無節操」だと言い、この特徴は「柔弱で、享楽的であり、あらゆる生活必需品が豊かなこの国の人びとにきわめて顕著」だと述べている。成年を待たずに結婚することや、何人でも好きなだけ妾をめとることはやはり節度がないことのあらわれとして映っただろう。  性欲への耽溺は明代の中国にたしかにあった。この意味では儒学の権威を確立した明代でも少なくとも市井生活のなかでは儒学秩序が必ずしも思ったほど機能していなかったのかもしれない。  しかし、空想の世界として構築されたそれらの作品には現実を再現する以上のメッセージが託されていたはずである。性の逸脱についてのしつこい描写はやはり永遠の情愛への憧憬に由来するのであろう。この意味で姦通を描く動機も、スワッピングや同性愛を表現する衝動にも恋の情緒の屈折した投影があったといえよう。それまでさまざまな隔絶の発見により崇高な恋を見いだすことはできたものの、性欲の排除による超越的な恋はついに到達されなかった。老荘哲学や仏教などでは性欲の排除が肯定されたが、それは現世を否定する意味で語られていた。そこでは恋と性欲の排除をつなげる回路が断ち切られており、永遠の情愛を求めるには性欲の排除が必要だという発想はついに生まれてこなかったのである。  元代の戯曲を受けついだ明代の芝居は表現手法の向上により才子佳人式の恋の範囲内では完成度の高いものを仕上げるのに成功した。しかし、それはいわば加工と精錬にとどまり、前者を超えるものを創り出せなかった。儒学が復権したのち、才子佳人式の恋はかつて元代にあったような文化的意味がなくなり、その内在する活力もしだいに失ってしまった。明末になると、口語文体による才子佳人の恋物語がおびただしく書かれたが、ステレオタイプのストーリー構成と陳腐な描写は結局その種の小説をみずから空中分解させてしまった。少数民族文化との交信が途絶えた状況のなかで、明らかに恋の情緒表現は一種の窮状に陥った。  一方、ヨーロッパから渡来したキリスト教の宣教師たちも新しい刺激をもたらさなかった。彼らは聖職者であるが故に、恋については何も語らなかったようだ。この点においては西洋は明代の中国にほとんどなんの影響も与えなかったのである。あるとすれば宰相徐光啓のように妾をめとらないことが関の山である。ほとんどの場合文学にしか結晶しえない恋は、文学の翻訳がなかっただけに、結局明代の中国人たちに伝えられずに終わってしまったのである。  このような背景のもとに、性の豊饒が永遠の情愛に導く可能性として注目を浴びたのは自然の結果だといえよう。性の過剰は単なる欲望の満足を意味するのではなく、性欲を超克する恋を生み出す力として潜在意識的に期待されている。永遠の情愛は無限に拡張された性的能力によってのみえられるかもしれないという幻想こそ、こうした官能の世界への興味を引き起こしたのである。 【第八章】 新しい恋 ——『紅楼夢』の謎 1、新しい恋の登場  十八世紀六〇年代前後、『石頭記(せきとうき)』という名の写本が北京の巷にあらわれたとき、ヨーロッパではちょうどルソーの『新エロイーズ』(一七六一年)とゲーテの『若きヴェルテルの悩み』(一七七四年)が刊行された頃であった。かつて小説を軽蔑していた中国の文人たちは今回だけはさすがにこの作品の魅力に抗することができなかった。活字本の刊行を待たずに、この小説はたちまち世間に広く流布し、「友人同士は互いに借りて写し、われさきに読もうとする者ははなはだ多かった」(程偉元ほか「紅楼夢引言」)。また、「ものずきは一部写し取るごとに、縁日の市場に出していた。その値段は高く釣り上げられ、(一部は)金数十(両)もえられた。(写本は)たちまちのあいだに世のなかに広まった」(程偉元「紅楼夢序」)。  一七九二年に書名が『紅楼夢(こうろうむ)』に変えられた増補本が刊行されてから、その影響はさらに大きくなる。嘉慶(かけい)九年(一八〇四年)に出版された『樗散軒叢談(ちよさんけんそうだん)』によると、ある文士は『紅楼夢』が非常に好きで、心が打たれる箇所まで読むと、必ず本を閉じて考え込み、あるいは嘆き、あるいは涙を流す。寝食ともに忘れ、一カ月のあいだに七回も読み通した。最後には精神がぼんやりして、精力が尽きて死んでしまったという。また、ある少女は『紅楼夢』を読んだため、血を吐いて死んでしまう。この作品はそれほど読者を魅了したのである。  一冊の小説がこのような反応を呼び起こし、人々の心を虜にしたことは、文学史において珍しいことであった。これは一つの事実を示している。つまり、『紅楼夢』はそれまでの小説と違う性格を持ち、そのなかにはかつての小説になかったなにかが含まれている。それまで、古文体小説も旧白話小説も人々の暇つぶしのための「娯楽的な」性格がつよかった。読者は小説を「作り話」だと知っており、その鑑賞動機や批評精神を支えたのはおもに好奇心であった。彼らは作品とのあいだに心理的な距離をおき、あくまでも傍観者として小説の「おもしろさ」を楽しんでいた。  ところが、『紅楼夢』はそれらの小説と違って、読者を「本気」にさせた。これは他の小説の場合には見られなかった現象である。清代の人々の書いたエッセーを読むと、文人たちが『紅楼夢』に大きな興味を示し、ときにはその内容をめぐって論争したりしている(謝鴻申『東池草堂尺牘』)。読者、あるいは普通は醒めた目で小説を見ていた文人たちにこれほどまで冷静さを失わせたのは、この小説が人々の心の琴線に触れたからであろう。  人間心理の深層に触れ、多くの人たちの共鳴を呼び起こした『紅楼夢』のなかで、もっとも大きな比重を占め、もっとも読者を感動させたのは、いとこ同士である賈宝玉(かほうぎよく)と林黛玉(りんたいぎよく)の恋である。それまでの才子佳人小説に比べると、『紅楼夢』のなかの恋はひとしお人々の心を打つものがあった。なぜ二人のあいだの情愛がこのような魅力を持ち、それは従来の恋とどのような違いがあるのか。  賈宝玉と林黛玉との恋は封建時代の中国において、普通ほとんどありえない状況のもとで生まれたのである。二人は「幼いころから耳と鬢の毛の触れあうほどの親密さで育った」(伊藤漱平訳、以下同様)。それだけでなく、賈宝玉が十五歳になっても、林黛玉と同じ大邸宅のなかに住み、毎日対面し、公然と交際している。同じ小説のなかで、十三、四歳で結婚した例がたびたびふれられていることから考えると、同じ年齢になっても、未婚の女性と自由に交際できるのは非常に特殊だといわざるをえない。ましてや、賈宝玉は九つのときにすでに性行為を経験した早熟な少年である。「男女は七歳にして席を同じうせず」という儒学の教えにしたがうならば、ほんらいこのようなことは絶対に許されない。いとこ同士の結婚は別段孔孟の教えにそむくことではないが、婚前の交際はほかの男女関係の場合と同じようにきびしく禁止されていたはずである。このことについて『紅楼夢』では、賈宝玉が女の子から離れると、すぐ精神状態がおかしくなるので、孫を甘やかしている祖母が例外的にこのような生活を許した、と解釈している。しかし、それがほんとうの理由ではないことは明らかである。  このように非常に特殊な環境が未婚の若い男女の自由な交際を可能にした。賈宝玉と林黛玉は子供の頃から一緒に遊んで育ち、物心がついてから知らず知らずのうちに恋が芽生えたのである。この転化の過程は非常に自然で、それに、二人はもともと気心の知れた友人だから、最初の段階では「以心伝心」で心が通じ合い、明確な言語表示は必ずしも不可欠の手段ではない。したがって、「鶯鶯伝」以来の恋物語と異なり、二人は第三者の手助けをまったく必要としなかったのである。才子佳人小説のなかで、偶然の出会いでの一目ぼれ、詩文の交換、逢い引きはほぼきまりきった「三部曲」で、その過程で侍女など第三者による媒介は絶対欠かせないものであった。それに比べると、『紅楼夢』のなかの恋はまったく違う特徴を有している。  賈宝玉と林黛玉のまわりには侍女が大勢いるにもかかわらず、二人の交際は彼女たちを通す必要はない。否、むしろ下女たちの目を避けようとしたところさえある。二人は「席を同じうせ」ざる年齢になっても、まだ隣合わせの部屋に住んでおり、もちろんなんの気兼ねもなくつきあうことができた。大観園に移ってからも、賈宝玉はすでに立派な「男子」になったものの、ひきつづき自由に林黛玉の住まいである瀟湘館(しようしようかん)に出入りすることが許されている。  賈宝玉と林黛玉は自由に交際できるだけでなく、二人のあいだのつきあいは男女の禁制をはるかに越えた親密なものである。林黛玉は官僚家庭に生まれた令嬢でありながら、なんのためらいもなく恋人の身体に触れたりする。賈宝玉の顔に口紅がついているのを見ると、前かがみに身をよせ、手で擦ったり、ハンカチで拭ってやったりする。また、うっかり賈宝玉を怒らせたときには、みずから手を伸ばして賈宝玉の頬をつたう汗を拭いてなだめたりする。一方、賈宝玉の方も林黛玉に対してはなんの遠慮気兼ねもしない。彼はあるいは熟睡中の林黛玉の部屋に入って彼女を揺り起こし、あるいは彼女と同じベッドで横になりながらよもやま話をする。また、あるとき林黛玉の体に香りがすると言って、その体をクンクン嗅いでみたり、袖のあたりで匂っているのがわかると、その袖を引き寄せ、なにがたきこめてあるかを確かめようとした。二人が戯れるとき、彼は林黛玉の両の腋の下や腰の上に手をもっていって、「めったやたらとくすぐりに」かかることさえある。  未婚男女のあいだのこのような親密な交際は『紅楼夢』以前の文学にあったろうか。才子佳人小説では、一目ぼれから二回目の対面までのあいだに、男女双方の思慕しかない。したがって、男女のあいだの直接的な交際の時間はきわめて短い。それに、二回目の対面ではほとんど例外なく性交渉におよぶから、賈宝玉と林黛玉のあいだのような、清純なつきあいはありえない。一方、恋物語の影法師とも言える性愛小説でも『紅楼夢』のような清らかな男女交際は扱われていない。第一、『紅楼夢』にあった社交の条件はそれまでの文学にも、現実生活にもなかった。『紅楼夢』のなかで、男女のあいだの自由な交際が栄国邸というかぎられた空間のなかの、かぎられた人にしか許されていなかったとはいえ、状況として可能になったのはこれがはじめてであった。こうして、自然なつきあいのなかに発生し、時間の経過とともに発展するような恋は清代の半ばごろになってようやくあらわれたのである。  ところで、この新しい状況のもとで二人はどのように恋をしたのか。なによりも注目すべきは、安易な愛の告白がなくなったことだ。相手に想いを伝えようとするときにはなるべく婉曲な表現を用いる。それも隠された意味がはっきりしている言葉や、まわりの人にもすぐわかるような暗示を使わない。曖昧な表現で胸の内をそれとなく示すのがよいとされている。意味の明確な比喩はたとえ遠回しの言い方でも女性は受け入れない。第二十三回に賈宝玉が戯曲「西廂記(せいしようき)」のなかの文句を借りて、林黛玉に内心の思慕を暗示しようとした一齣がある—— 宝玉は笑いながら、「ねえ、わたしはさしずめ〈多愁多病の身〉、あなたはかの〈傾国傾城の容色〉……」黛玉はこれを聞いて、思わず頬から耳もとまで赤く染めましたものの、とたんに、しかめたようでそうでない二すじの眉根をきりりとさか立て、ねめつけるようでそうでない双の眼をかっと見開き、しなやかな頬を怒りでひきつらせ、あでやかな顔をむきにして、宝玉を指さしながら、「このお馬鹿さん、なんということをおっしゃるの! あろうことか、そんないかがわしい芝居本など仕込んでいらして、そういうやたらな文句を口まねしてわたくしを侮辱なさろうなんて。さあ、伯父さま・伯母さまに言いつけてあげますから」となじりました。  直接的な告白ではないにもかかわらず、誰にもわかる「西廂記」のなかの文句を借りているから露骨な表現ということになる。このような意思の伝達は上品な恋の表現にならない。  もちろん、これは内心の思いの伝達に会話がまったく使われていないということではない。ただ、相手への思慕の念の告白には、きびしい制限がある。賈宝玉はたびたび林黛玉に心中の思いを打ち明けようとしたが、いつも適切な表現がないのに悩んでいる。それについて彼は、 この胸のうちは、じかにあなたには打ち明けにくいのだけど、いずれわかってもらえる日がきっときます。お祖母さま・父上・母上、このお三かたは別として、四番目は黛さん、あなたなのですよ。かりにも五番目の人があるものとお疑いなら、誓いでもなんでも立てますとも。 と語ったことがある。それが二人に許されるもっとも大胆な愛の告白である。会話はふんだんに用いられているが、すべて婉曲な意思表示にかぎられている。そこで『紅楼夢』式の特殊な恋の表現法が生まれる。作者のことばを借りれば、つまり二人は、 いつも偽りの情を用いてはさぐりを入れます。先方が本心本意をかくそうとてもっぱら偽りの意を用いれば、こちらも本心本意をかくそうとて偽りの意ばかり用いる……。とこんなぐあいで二つの嘘が出会って、はては一つのまことが生じるといったあんばい。 ということである。  この新しい恋において、かつての才子佳人式の恋物語にあるような、早過ぎた性交渉が完全に排除された。重要なのは男女双方が相手に対する深い情を示すことで、そうした情は言語表現よりも相手に対する関心、いたわりなど誠意のある行動を通して表現される。「鶯鶯伝」系譜の文学のなかで、恋は結婚から分離され、独立のプロセスとして認められたものの、それはおもに思慕を意味し、つねに性交渉と融合したかたちで密室のなかで展開される。また、プロセスそのものは短く、恋はしばしば苦痛を意味する離別を伴い、社交の過程のなかで恋を完遂することはついに発見されなかったのである。  才子佳人小説のそうした特徴は『紅楼夢』のなかではすでにみられない。恋そのものが日常生活のなかに融合された一つの過程としてその意味が改めて認識され、恋は隠されたかたちではあるが、おおやけの社交の場で行われた。前世に受けた恩をこの世において涙で返すという設定はやや陳腐だが、同時にその裏には恋は必ずしも結婚に行きつかない過程である、という見方があることも見逃せない。 2、満族文化の南下  ところで、『紅楼夢』のなかに突如としてあらわれたこの新しい恋はどこからきたのか。「鶯鶯伝」以来の恋物語を継承した点があったろうが、根本的な違いがあることも否めない。なぜ『紅楼夢』にこのような恋が出現し、どのような背景があったのだろうか。  この問題を考えるとき、われわれはまず作者の曹霑(そうてん)の生まれ育った家庭と、小説の背景となる諸要素について考えなければならない。  曹霑は別号雪芹(せつきん)で漢民族の出身であるが、満族領地の東北で生まれた。曹家の先代は明末の下級将校であったが、のちに満族の捕虜となり、東北地方に定住した。曹霑の曾祖母で曹璽(そうじ)の妻孫氏は康煕帝(こうきてい)の乳母で、曹璽の子曹寅(そういん)は幼いときから康煕帝の勉強の付添いをしていた。曹家は康煕帝の信用が厚く、康煕二年曹璽は江南織造に任じられ、曹璽の死後、曹寅がその職を世襲した。織造は正式な官位ではないが、実入りの多い職である。江寧(南京)に赴任した曹寅は秘密裏に朝廷の「情報員」をしており、南方で見聞きしたことをたとえ一つの冗談でも漏れなく康煕帝に報告していた。康煕帝は六回も江南巡行をしたが、そのうちの四回は曹寅の織造署に泊まった。曹霑が子供のころ、曹家はまだ全盛期で財力も勢力も非常に大きかった。康煕帝が病死したのち、曹家は即位した雍正帝(ようせいてい)に排斥されるようになる。やがて曹霑の父親曹(そうちよう)は解任され、財産没収の処分を受けた。それ以降、家運はしだいに傾き、曹霑は晩年になると、かなり困窮した生活を送っていた。  曹霑の家系をたどっていくと、曹の一族と満族文化の特殊な関係が浮かび上がってくる。曹家の人々は宮廷生活に非常に近く、とくに康煕帝に付き添っていた祖父曹寅は幼い頃から満族文化の教化を受けていた。曹家の人々はみな漢族の出身で最後まで中国の名字を変えなかったにもかかわらず、生活習慣においては漢族文化よりも満族文化に馴染んでいたように思われる。曹璽の代からその一族はすでに満族化していたか、少なくとも満族の風俗習慣から大きな影響を受けていたことが推測できる。  曹寅は文才に長け、詩や戯曲を創作したことがあり、曹も詩文に優れていた。とくに曹霑は中国文学の学識が深く、その詩文から満族文化の影響の跡はほとんどみられない。ところが、そうした漢族文化の教養は必ずしも数世代にわたって受けた満族文化の影響を取り除くものではない。康煕帝と同じように、現実生活のなかで満族の生活習慣を保つことと、漢文化に対して深い興味と豊かな教養を持つことのあいだに根本的な矛盾はなかった。  曹家と満族文化の関係を考察するとき、二つの点に留意しなければならない。一つは曹家と満族文化とのつきあいの歴史の長さで、もう一つは曹霑の育った家庭と満族文化とのかかわりの深さである。曹家の一族は満族に降ってから曹霑の代まで少なくとも五世代になり、しかも代々満族文化の中心である宮廷生活に近い位置にあった。康煕帝は満族文化を固持していた帝王で、その生活は完全な満族のものであったことでよく知られている。その康煕帝に仕える人たちにとって、満族文化への同化がもっとも基本的な条件とされたことは想像に難くない。したがって、曹家の一族は名義のうえではまだ漢族であるにもかかわらず、生活習慣の面における完全な満族化は避けられない。  一六一六年に清太祖ヌルハチが「八旗(はつき)」という兵制を制定し、軍隊を旗色によって正黄旗、正白旗、正紅旗、正藍旗、(じよう)黄旗(黄地に赤色のふちどり、以下同様)、白旗、紅旗、藍旗の八の「旗」に編成した。満族人からなるのは「満軍八旗」、漢族人からなるのは「漢軍八旗」とそれぞれ称された。  当時漢軍八旗の満族化はかなり普遍的な現象で、漢軍八旗の将校のあいだに、征服民族としての満族の権勢と地位への羨望から、積極的に満族人になろうとし、満族文化に同化しようとした傾向が非常につよかった。その気風は一部の地域においてはやがて社会に広まり、一般の民衆のなかでも、満族を偽る人があらわれるまでにいたった。  漢軍八旗の子弟の満族化は二つの段階を経た。一つは建国初期における清王朝の強力な同化政策によるもので、もう一つは漢軍八旗が自然のうちに満族化する段階である。前者は明王朝征服のときから康煕初年までで、後者はだいたい康煕初年以降にはじまる。自然同化のおもな原因は満族の八旗子弟が政治的、経済的に優遇されていたことにある。そうした満族の人々に対する優遇は漢軍八旗の子弟にとって大きな魅力であった。曹家は清の皇族のそば近くにいる内務府の「包衣(ほうい)」(満族語で「奴隷」という意味)で、一般の漢軍八旗よりはるかに権力の中枢に近接している。そのような社会的な趨勢のなかで、彼らが満族化しないことはもちろんありえない。  曹家の人たちが他の漢族の人よりも満族化されやすかったもう一つの理由がある。曹の一族は満族が中国を征服し、清朝が成立するまえにすでに東北地方に定住し、満族と深いかかわりがあったことである。東北の多くの漢軍八旗と同じように、満族が全中国を支配するまえから彼らの文化習慣はすでに「満州の風俗に近かった」のである(『遼陽県志』)。事実、清太祖ヌルハチが兵を率いて明を攻めたとき、漢軍八旗の服飾と髪スタイルは完全に満族化され、満族の軍隊が山海関を越えたあと、漢族の人は東北に定住していた漢軍八旗の人たちを「真満州」と呼んでいたほどである。  曹家の属していた「内務府」の三旗は「『遼金の旧族』と呼ばれる東北出身者が多く、もともと満族に親しかった『家臣』であった。彼らは満州の習俗の影響をつよく受けており」、「祭祀においては六、七割の人が満州の習慣に従い、漢族の慣習にしたがったのはわずか三、四割であった」(滕紹箴『清代八旗子弟』)。彼らは満族語をしゃべり、満族の人たちのあいだに交じって生活していた。当時、中国を訪ねた西洋人は内務府の三旗の子弟を「タタール化した漢人」(ブーヴェ『康煕帝伝』後藤末雄訳)と称していた。この意味では曹家はもっともはやく満族化された漢族の人のうちに入る。逆にそれがおそらく曹家の人々が皇帝に近づけた重要な原因の一つだと考えられる。曹璽の妻が乳母になれたのは、曹璽の父親が戦争で手柄を立てたのがもちろん重要な原因だが、もし仮に曹家が完全に満族化されていなかったら、けっして康煕帝の乳母に選ばれることはなかったであろう。  また、たとえ曹家の一族が最初は満族化されていなくても、宮廷に入り康煕帝の側にいるようになると、有無を言わせずに満族化させられたにちがいない。順治帝も康煕帝も漢軍八旗の満族化に非常に大きな関心を持っており、一六八七年に康煕帝は、かつて漢軍八旗の満族化が進んでいなかったことに立腹し、統率の将校を叱ったことがあった(『清聖祖実録』)。このような民族文化に固執した帝王がまわりに満族化していない漢族の人を登用するはずはない。事実、曹家は満族の人たちと親族の関係を持っており、曹の姉の夫で、曹霑の伯父に当たる人はナルス(納爾蘇)という名の満州の王族であった。一方、曹霑の家が満族化しただけでなく、曹霑の生きていた清代において、中国文化そのものも満族文化の強い影響を受け、ある程度変質したことも見逃せない。このことはとくに北方地域で目立っていた。清王朝は中国全土の支配を果たしてから、儒学尊重など中国文化を保留する政策を取ってはいたものの、一方では積極的に満族文化を広め、弁髪や満族の服飾の着用を強要した。また、満族人の優遇も人為的に満族文化の浸透を加速させた。  満族の居住地域の拡大は漢民族の恋や結婚の風習に影を落とした。第一にあげられるのは、辺境文化の比較的自由な男女関係が、男女交際の禁制を動揺させたことである。当時の漢民族と違って、明末の満族は男女の交際に対しきびしい禁制はなかったように思われる。明王朝との戦いのなかで、清朝は婦人を従軍させたことさえあった(莫東寅著『満族史論叢』)。満族のそうした慣習はすぐには漢民族の文化を変えなくても、満族に近い漢民族の人たちは多かれ少なかれその影響を受けたであろう。  結婚制度においても、満族にはさまざまな未開の風習があった。彼らは明代の初期になって、やっと集団婚の慣習から脱却し、明末になってもなおレビレート婚の慣習をたもっていた。また、配偶者の選択に当たり、血縁や輩行関係を問わない。例えば、清太宗ホンタイジ(皇太極)の后、孝荘文皇后は夫のホンタイジが亡くなったのち、夫の弟である摂政睿親王(えいしんのう)ドルゴン(多爾袞)に嫁いだ(『清朝野史大観』)。また、清太祖ヌルハチの腹心大臣アイェト(額亦都)はまずヌルハチの妹をめとり、続いてヌルハチの娘をめとった(『清史稿』巻一六六)。そのほか、孝端后と孝荘后は叔母と姪の関係であるのに、ともに清太宗ホンタイジに嫁いだ(『清史稿』巻一六七)。そうしたことは儒学の倫理では絶対に容認できるものではない。清が中国を征服してから同様のことがしだいに少なくなったとはいえ、当時の漢民族社会に大きな衝撃を与えたことは容易に想像できる。また、同じような風習は漢民族の大衆に近かった満族の貴族や一般の人たちのあいだにもきっとまだ残っており、それらのことは中国の伝統道徳の制約の弛緩をもたらしたことはほぼ推測できる。  清王朝は初期から儒学を重視する政策を取り、また、中期以降、満族の人たちが逆に漢民族の文化を吸収し、満族の漢民族化現象が起きた。しかし、清の中期までは、満族文化の方が漢民族文化に大きな影響を与えた。そのような文化背景のもとで、満族化がかなり進んだ家庭に育った曹霑は漢詩文にどんなに優れても、無意識のうちに満族の風俗習慣を身につけたであろう。彼は漢詩文に長けながらも、一方では辺境の騎馬民族の恋や結婚の風習および感情表現を知らず知らずのうちに覚えたにちがいない。満族の生活スタイルを維持するためには、漢民族の風俗習慣や伝統道徳のきびしい規制を多かれ少なかれ放棄せざるをえない。そうした放棄のなかには当然意識的な部分もあるだろうが、多くの場合、むしろ彼ら自身も気が付かないうちに行われたのである。このことは『紅楼夢』のなかにも一部あらわれ、例えば女性の官能美の一つとされる纏足(てんそく)についてはまったく触れられておらず、また逆に、満族の子弟が必ず覚えなければならないとされた「騎射」(馬術と弓術)は何回も言及されている。  男女関係においても、満族の貴族階級の内部における若い男女の比較的自由な交際など、従来の中国に禁止されていた慣習や作法に反映している。そうした若い男女の比較的自由な交際は新しい型の恋、つまり自由なつきあいのなかで育まれる自然発生の恋を登場させ、恋を性行為から分離したものとするための基礎条件を造ったのである。  ところで、このことについてあるいは次のように反論する人がいるであろう。社会が発展し、資本主義の要素が芽生えるにともなって、清代の漢族の大家庭でも若い男女が比較的自由に交際できるようになったのではないかと。また、中国では「四世同堂」(四世代が同居する)とか「三世同堂」が当局から奨励され、世代を異にする血縁関係にあるいくつかの夫婦が一つの邸宅のなかに住んでいる場合、果たして男女交際を完全に禁止することができるか、という疑問も生じるであろう。これについて、曹霑が生きていた時代に、康煕皇帝の朝廷に宮廷画家として十三年間滞在したイタリア人宣教師マッテオ・リパは次のような貴重な証言を残している。 自分たちの家の離れに閉じ込もって自分たちだけで暮らしている女性たちの慎み深さはたいへんなものである。かの女たちの部屋には街路に面した窓はない。部屋のなかへは幼い子供を除いては男はだれも入れない。このことは身分のある者の間ではたいそう厳格に守られている。かの女たちが外出するのは正月といったような稀れな機会だけである。それも必ず輿に乗って行かなければならない。妻に対する夫たちの嫉妬心はひじょうなもので、妻に自分の父や兄と話をすることも許さない。叔父と話をすることも許さない。弟と年少の甥を除いては近親も話をすることができない。 新年に際しては、夫婦は夫の父に対して敬礼を行う。そのあと妻の実家へ挨拶に行く。夫の父の誕生日にも、妻の両親の誕生日にも同じことをする。この二日を除いては夫の父親は嫁と言葉を交わすことはない。このことでわたしが思わず笑ってしまったことがあった。ある人が嫁の行動が悪いので叱るか、笞打ちする必要が生じた。しかし嫁の部屋には入ることができないので、直接やることはできない。そこで自分の前に息子を呼び、嫁の落度を叱ったのち、息子を床の上に横にならせ、ふさわしい数の笞打ちをいくつか加えた。息子は甘んじてこれを受け、叱責に感謝した。そのあとで自分の受けたものと同じ数の笞打ちを妻に与えた。 (矢沢利彦訳)  最後にあげられたのは特殊な例であるかも知れないが、全体の記述は一般的な家庭を対象にしている。普通の家庭の住宅条件でも男女隔離がきびしく実行されていたことは明らかである。ましてや広い邸宅を持つ上層階級の家ではもっと厳格に男女を隔離することができたであろう。言い換えると、漢族の上流家庭において、このような男女の禁制はきびしくなることがあっても、緩くなることはないと思われる。  『紅楼夢』のなかの栄国邸についてもいえる。もし栄国邸が漢族の高級官僚の家庭なら、男女の禁制には非常にきびしいものがあったはずである。事実、はじめて栄国邸に着いた林黛玉は「男の兄弟ともなれば、当然住まう場所柄からして違いましょう」と言ったことがあるから、男の子と女の子とが別々に育てられるのが常識であった。ちなみにそのとき林黛玉は六歳で、賈宝玉は七歳であった。  幼い子供ならともかくとして、十数歳になっても女の子と自由に交際することは、普通の漢族の上流階級の家庭ではとうてい考えられないことである。ましてや賈政(かせい)のような頑固な儒学の信奉者を父親とする家ではなおさらありえないはずだ。ただ一つ考えられるのは、栄国邸のモデルである曹霑の家がかなり満族化し、家庭内において男女のつきあいがあまりきびしく規制されていなかった、ということである。そのような家のなかでは、たとえ賈政のような頑固者でも、この慣習を変えることができない。否、そのような環境のなかで育った賈政自身さえもそれを気にしていなかったであろう。このように見てくると、『紅楼夢』における新しい恋はやはり満族文化の影響のもとで生まれたもので、もし満族文化の南下がなかったら、おそらくこのような恋の登場はさらに遅れたであろう。 3、民族文化衝突の落し子  若い男女が日常生活のなかで理想の相手を見つけ出し、自然な交際のなかに恋が生まれる——これが『紅楼夢』にはじめて描かれた恋である。しかし、この新しい恋は単にそれだけの意味を持っているわけではない。もっとも重要なのは男女の心理的な葛藤を恋の描写を通して浮き彫りにしたところである。それが賈宝玉と林黛玉の恋の魅力の所在であり、また人々を感動させる原因でもある。  賈宝玉はおおやけに林黛玉と往来し、二人だけでひそひそ話をしたり、詩を書きあるいは禁書とされた戯曲や恋物語を読んだりすることもできる。また、まわりの人たちも二人のあいだの特殊な関係に気付いていた。しかし、それは彼らがおおやけに恋人として、思いのままに交際することができる、ということを意味しない。  二人とも恋をしてはいけないということをよく心得ている。結局、相手のことを思い慕っていながらも、一方ではみずからの恋心を抑えなければならない。ところが、はっきりした意思表示をせず、恋のコミュニケーションがなければ、恋はいつでも破綻してしまう危険がある。こうしたなかで二人は相手が心変わりをするのではないかと心配しながら、内心は大きく揺れ動く。そこで、一種のゆがんだ美学が誕生する。恋人に対する恋情は心の奥に隠すべきもので、しかもそれは深く隠せば隠すほど美しいものだとされる。  目の前に恋人がいながら、胸中の想いをむやみやたらに打ち明け、固定した恋人関係を作るのではない。恋の目的は恋人を占有することにあるのではなく、むしろ恋人に向ける情そのものにある。日夜思い慕う人に寄せる熱烈な情はなによりも大切だとされている。恋人にすべてを捧げることによって自己の存在を確認するという考えこそまだ生まれていなかったものの、恋の炎を見つめることによってみずからを凝視するきっかけはすでにあった。恋を自己の内面において完結させようとする認識はここにようやく芽生えている。それが『紅楼夢』の恋のもっとも重要なところで、かつての文学にまったくなかったものである。  ところで、恋を己の精神的な過程とする考えはどこから来たのか。たしかに満族の風習は男女の交際を可能にし、自由意志による恋を可能にした。しかし、それだけで内省的な恋が必ずしも見つけ出されるわけではない。男女の社交は必須の条件ではあるが、それだけでは十分ではないはずだ。  そもそも交際が許されるなかの内省的制約こそ、このような恋を可能にする不可欠な条件である。明らかに賈宝玉と林黛玉はこの内省的制約をもって恋をしている。もし二人が性関係を持とうと思えば、広い邸宅内ではいつでもできる。事実、賈宝玉はいとも簡単に美人侍女襲人と密通をしていた。しかし、林黛玉以外の女性との性交渉はいずれも恋のためではない。逆に熱烈に恋をしている林黛玉とのあいだにはそうした性的な行為はもちろんのこと、恋を思わせるいかなる行為も避けられている。二人のあいだの親密な行動はあくまでも幼なじみの「友情」を越えず、かぎりなく純潔さをたもっている。しかも、それは他人の耳目を欺くためではなく、二人には最初からそのような下心がなかったのである。  このような内省的制約はどこに由来するのだろうか。一言でいえば、それは満族の風習と漢民族の文化理念の衝突によるものである。『紅楼夢』の主人公たちは満族の貴族生活をしているが、彼らが依拠している思想と理念は漢民族文化的なものである(ちなみに林黛玉らの女性たちの学問は男たちをはるかに圧倒している)。賈宝玉の父親は儒者の典型で、儒学経典の勉強を最大の任務として息子に課する。もちろん賈宝玉は反抗者として描かれている。しかし、儒学が中国文化の主旋律をなしている以上、いかなる反儒学や非儒学の思想も儒学思想との対比関係でしか意味を持たないことは明らかである。老子や荘子をはじめとする道学にしても、中国化した仏教にしてもその点においては変わりはない。したがって、彼はどこに反抗の根拠を求めても結果は同じである。言い換えれば、主人公の倫理のよりどころは満族の文化にあるのではなく、漢民族の文化にある。  このような漢民族文化の教養が日常生活のなかの満族の風習と衝突することはいうまでもない。そしてこの衝突が恋における内省的制約を生み出す原動力となったのである。儒学の反逆者としての賈宝玉は行動のうえでは満族の習俗にしたがえばよいのだが、その習俗は彼が日課として熟読している儒学の経典や、あるいは彼がひそかに興味をもっている老荘思想などと真っ向から対立している。一方、満族文化には人生の指針となる思想体系が欠如しており、彼はそれ以外に依拠するものがなく、思想的選択の余地はないのである。  漢民族のなかで、男女がつきあってはいけないという禁制はほとんど習俗化されている。賈宝玉が儒学の陳腐さをあざ笑ったとき、心のうちでは十分にその威力を承知していたはずである。この点において道学も中国化した仏教思想も少しも救いにならないのはまったく同じである。この二つの思想とも男女関係についてはきわめて否定的である。賈宝玉が満族の慣習にしたがって恋人とつきあったとき、内心では一種の後ろめたさを抱いているはずだ。  満族の文化によって保証された恋は漢民族文化のものさしではかれば、まぎれもなく禁忌に対する侵犯になる。その禁忌ははげしい恋の情熱を生み出す源泉となるが、一方、恋が禁忌に対する侵犯であるという自覚は同時にまた内省的な制約を生み出す。そこに『紅楼夢』の恋が成立するのである。もし満族文化がなければ、そもそも『紅楼夢』式の恋そのものが生まれてこない。また、恋が禁忌でない満族文化だけでも内省的な制約は発見されないはずである。これが『紅楼夢』のなかの新しい恋が満族文化のなかだけでは生まれてこない理由であり、また漢民族文化においても自律的には生まれてこない原因でもある。二つの文化が出会うところに位置する男女にしかこのような心理的な葛藤はなく、また両方の文化とも熟知する曹霑のような感受性の高い人にしかこのような恋に気付くことができなかったのである。  ところが、ここにもう一つの問題がある。モンゴル族支配下の元代中国ではなぜ同様の恋が発見されなかったのか。少数民族による多数民族支配という点においてはモンゴル族も満族も同じである。  このことにはいくつかの理由が考えられる。まず宋王朝を滅ぼしたときのモンゴル族の文化は、まだ明を滅ぼしたときの満族の文化ほど発達していなかったことがあげられる。モンゴル族が十三世紀の後半から十四世紀の前半にかけて統一王朝を建てたのに比べ、満族は十七世紀のなかばになって中国大陸を統一したのである。この二つの民族が同じ発展水準にあったとすれば、四世紀近くの歳月の差はやはり文明の格差をそのまま示している。同じ遊牧民族であるにもかかわらず、清王朝にくらべて、元王朝のもたらした破壊がはるかに大きかったことはその一つの証拠だと言える。  第二に、満族は中国の支配権を手に入れてから、ほかの民族文化のエッセンスを積極的に吸収し、そうしたことを通して民族文化の水準を急速に高めた。清代の皇帝は満族の人たちに中国語の使用を許し、宮廷が積極的に漢民族の古典の整理と出版に取り組んでいた。清王朝は民族文化を保護する政策を取りながらも、他の民族文化の吸収を拒まなかった。それに比べると、元代のモンゴル族支配者はやや近視眼的であった。民族の違いにもとづく身分制度を導入し、漢人と南人がモンゴル語を習うのを禁止した(『元史』巻三十九)。結局、民族文化を保護する政策が裏目に出て、民族差別の政策を取ったモンゴルの民族主義がかえって災いをしたのである。清王朝は漢民族の髪スタイルと服装の変更に固執したが、漢民族文化を基本的に尊重する態度を取った。このような多数民族文化を配慮することが満族文化と漢民族文化の共存を可能にした。  第三に、元代に比べると、清王朝による経済の破壊はそれほど大きなものではなかった。とりわけ清王朝は元のように西への遠征をせず、農業生産に回復の時間を与えた。長い期間の平和、社会的安定と充足した生活は恋の情緒に目を向ける余裕を与えた。  もちろん、作品のなかでは違う仕掛が用いられている。恋の情熱は人間が越えられない「宿命」に源泉を持つことになっている。女主人公が前世では神仙世界の草であり、仙人だった主人公の男は毎日水をやり、面倒を見ていた。そのため、女は現世では涙をもって恩返しをすることを運命づけられ、彼女は成就できない恋のために一生悲しまなければならないことになっている。こうして二人の恋は前世によって定められ、かつ最初から破局が用意されている。だから、二人は恋をするが、それは永遠に実らないものである。目に見えない「宿命」が恋の情熱を熾烈なものにし、同時にそのような恋は精神的なものに止まらざるをえなかった。しかし、それはあくまでも作家の用いた見せかけの装置に過ぎず、その道教とも仏教ともつかない解釈は矛盾だらけのもので、けっして普遍的な意味を持つものにはならなかったのである。なによりも「宿命」は人間には知るすべもなく、したがってそれを隔絶として感じることができないところに致命的な破綻があるのである。  『紅楼夢』式の恋はいわば偶然によって発見されたのである。この恋と伝統の恋とのあいだの大きな違いを認識することはたやすいことではない。読者は賈宝玉と林黛玉の恋に感動するが、誰もその感動の原因を知らなかった。いままで読者も批評家もそこに異なる文化の影響があったことにはまったく気付かなかったのである。  このような恋は『紅楼夢』を最後にして清王朝が滅びるまで二度と中国文学にあらわれなかった。『紅楼夢』の作者曹霑と同じように異民族のなかで異民族として育ちながら、かつ漢民族の文化を身につけ、豊かな漢民族の文学を習得した人はそう多くはなかったからである。まして異なる文化の狭間にあってなおそこにしかありえなかった恋に気付き、かつ表現する者があらわれる可能性はさらに少なかったのである。 【終章】 恋愛の発見 ——中国文化の近代 1、恋愛との出会い  一八四〇年にアヘン戦争が起こり、中国は世界に門戸を開くことを余儀なくされた。十九世紀の終わり頃から翻訳などによってヨーロッパ文化は中国に広く紹介され、やがて西洋の恋愛も中国に伝えられるようになった。中国に伝わった西洋の恋愛は二つの部分に分けられる。一つはおもに文学作品のなかにあらわれた情緒表現の世界で、もう一つは西洋の文化習慣としての恋愛である。もちろんこの二つの部分には重なるところもあるが、その影響はそれぞれに異なる。前者はおもに中国文学に影響を与えたのに対し、後者は中国の風俗習慣の変革に役割をはたしたのである。  まず前者について考えよう。自然科学の場合と違って情緒表現の世界を知るには明晰な解釈による手引きはない。そのため西洋の恋愛を知るには文学作品それ自体から味得するしか方法がなかった。当時の中国人たちにとって各種の翻訳によって伝えられた西洋の恋愛は非常に異質なもので、彼らの知っていた恋とのあいだに大きな違いがあった。男女が互いに好きになり、一緒になりたいと思うだけでは恋愛ではない。また、男や女が日夜愛しい恋人を思うだけでは恋愛感情ではない。西洋の恋愛には多くの暗黙の条件があり、しかも、それは中国の人たちがかつて考えてもみなかったものばかりである。  なによりも理解し難かったのは、「女性優先」が西欧の文化習慣として恋愛の前提となっていることである。男は恋人に従順で、彼女らの気まぐれを忍耐し、忠誠を尽くして彼女らに仕える。男たちは恋人のまえでまるで奴隷のようになり、彼女らを神様のように崇めている。  二十世紀初頭の中国人読者にとってこのような「恋愛」はきわめて不可思議である。もちろん十八世紀以降のヨーロッパ小説のなかにそうした恋愛の情緒表現が必ずしも全部はっきりしたかたちであらわれているとはかぎらない。とはいえ、西洋とまったく異なる恋を理想とした中国人読者はやはりすぐに彼我の違いに気付いたのだ。中国で最初に多くの西洋小説を翻訳した林(りんじよ)は西洋の恋愛からいち早く女性崇拝の要素を発見し、西欧の人々が「美人を神のように崇め、はなはだしい場合には彼女らのまえでひれ伏して拝する」(『彗星奪婿録』序)ことに驚き、そのような習俗は非常に滑稽だと述べた。  ところが、女性優先よりもさらに中国の読者を驚かせたのは恋愛が姦通であるという西洋文学の通念である。もちろん宮廷風恋愛に起源を持つ「恋愛=姦通」という西欧的恋愛の構図をはっきりと読み取ることは、二十世紀初頭の中国人たちにとってきわめてむずかしいことであったかもしれない。しかし、恋愛はつねに結婚の枠外に発生し、また結婚生活における愛——中国人が熟知し、かつその表現史を自負していた情感——が恋愛から完全に排除されていることは多くの西洋文学作品のプロットからも簡単に読み取れるはずである。なぜなら、「『傑作』であるとの認定を受けている十九世紀小説は、程度の差はあれ様々の点で、フィクションとしてその時代に対する比類ないほど深い洞察を含んでいると考えられるが、それらのうちの多くが姦通を中心問題に据えている」からである(トニー・タナー『姦通の文学』)。しかも、それらの小説のなかで姦通はほとんど例外なく恋愛として描かれている。中国人読者は戸惑いながらも、それまでに背徳としかみられていなかった姦通が西洋文学では恋愛であるという事実に直面しなければならなくなったのである。  西欧的恋愛は苦悩によって崇高性を帯び、また死によって聖なる性格を獲得するということに、『紅楼夢』式の恋の手引きを受けた読者はある程度共感できる。また愛はつねに自己犠牲的な形態を取っていることに価値を見いだすこともそれほど理解しにくいことではない。十九世紀の終わり頃に翻訳された『椿姫』が頑固な爺たちをも泣かせたのはそのことを証明している。しかし、生命の危険を犯してまで追い求めた姦通が肉体の結合を求めるものではなく、魂の融合を究極の目的とすることは、中国人の読者にとってやはり意外である。なによりも恋愛が人間の心をより善良の方向に変えるということは目新しい。なぜなら愛することによって魂が浄化され、人格が向上されるということは『紅楼夢』にさえ見あたらないからである。  西洋文学の翻訳作品などによって西欧的恋愛は少しずつ知られるようになった。しかし、中国人がいきなりそれを受け入れたわけではない。むしろ反対に彼らはほとんどなんのためらいもなく拒否反応を示した。二十世紀の最初の十年まで、中国人読者は西洋小説を楽しんでいたが、しかし多くの場合それは中国の小説との類比関係において鑑賞されており、西洋文化の理念を受け入れようとする考えはあまりなかった。みずから西洋文学を翻訳した人たちでさえ、西欧的恋愛に真の理解を示していなかったのである。  西欧的恋愛のなかでなによりもまず婦人優先が受け入れにくい。また恋愛が姦通であるという西洋文学の認識は強い心理的抵抗にあった。恋愛によって人格が陶冶されるという観念についても最初のうちは中国人読者はほとんど興味を示していない。欧米文学の模倣そのものが遅れたこともあって、情緒表現の分野において恋愛は遅々として受容されなかったのである。  一方、西洋の習俗としての恋愛が中国に影響を与えたのもそれほど早くない。情緒表現の世界と異なり、実際の風習としての西洋の恋愛はわかりやすいものであった。その特徴は、男女の自由交際や自由恋愛以外に、せいぜい儀礼としての婦人優先ぐらいしかあげられない。ほんらい情緒表現よりもこの習俗としての恋愛の方がはるかに受容されやすかったはずであるが、実際はそれも長い紆余曲折を経てようやく受け入れられたのだ。  十九世紀の終わり頃、康有為(こうゆうい)、梁啓超(りようけいちよう)などが主導する「戊戌(ぼじゆつ)変法」が起こり、彼らは日本の明治維新にならって、近代的な政治改革を行おうとした。しかし、この変革の試みは皇帝の支持と参加をえながらも、権力闘争に破れ、最後には政敵の西太后らの保守派によって弾圧された。それをきっかけに清王朝の鎖国の傾向はかえって強まり、西洋文化の受け入れも停滞した。清末の知識人のあいだに啓蒙運動や改革の宣伝が行われていたとはいえ、政治革新がなかったため、時代にそぐわない諸制度と慣習は依然旧態たるままであった。  西洋の結婚習俗そのものがさまざまなかたちで中国に伝えられたのは十九世紀の後半である。しかし、実際に中国の習俗に影響を与えるようになるのは二十世紀に入ってからだと思われる。徐珂(じよか)の『清稗類鈔(しんはいるいしよう)』によると清代のラスト・エンペラー溥儀(ふぎ)が皇位を継承した頃、つまり一九〇九年頃、沿海の港湾都市ではいわゆる「文明結婚」と称される新しい風習があらわれた。それは「父母の命、媒酌の言」という旧い風習に取って変わり、男女双方の合意を結婚の前提とするものである。まず男の方が父母の了承をえたうえで、媒酌人を通して女性の両親に求婚の意思を伝える。女性側の親の同意をえて、はじめて男女が対面する。そこで双方が合意すれば、婚約が成立するのである。「文明結婚」の「文明」は当然「西洋文明」を指している。かつての「父母の命、媒酌の言」に比べると、一歩進んだとはいえ、この結婚も配偶者を選択する自由はかなり制限されており、恋愛という過程は依然として欠如している。女性の外出禁制と社交禁止の慣習がひきつづき残っていた社会において、この種の「文明結婚」は当時としては最大限の風俗改革の試みであった。  しかし、この「文明結婚」は当時ではかぎられた地域のかぎられた家庭にしか見られなかった。西洋文化の影響をつよく受けた沿海の都市部でさえ親の取り決めによる旧式の結婚が大多数を占めており、内陸の農村ではひきつづき従来の風習のままであった。  ところで、近代中国にとって西洋的恋愛の習俗がなぜ受け入れられなければならなかったのだろうか。そもそも近代社会は「個」の尊重を前提とし、それぞれの個人は与えられた権利と相応する義務を負わされる。しかし、前近代中国の大家族制には非常に特殊なところがある。大家庭の頂点に立つ家父長は家庭内で絶対的な権威を持ち、すべての家族メンバーが家父長の決定にしたがわなければならない。やや誇張的な言い方をすれば一つの大家族は一つの小王朝に等しく、家父長は家庭内の小皇帝である。複数の家族の小王朝が「村」や「町」など上位の小王朝のメンバーとなり、それがさらに上位の王朝を構成する。その最上部には皇帝を頂点とする大王朝が凌駕する。絶対服従を強いられた家族の成員の自由は家族的義務によってきびしく制限されている。  ところが、このような家父長家族制度は個人の活力を必要とする近代産業の構造にはなはだそぐわない。個人の自由をきびしく束縛する家父長家族制度を解体させないと、近代社会は成立しにくい。このような家族制度を維持するには親の取り決めによる、「家」の利益を守るための打算的な結婚が必要である。恋愛の自由は家父長のもっとも重要な権益の一つを剥奪するため、近代化にとってはなくてはならなかったものである。  さらに旧い時代の女性の外出禁制と男女隔離も近代社会の成立の障害であった。女性を社会活動から排除することは近代経済の機能を半減させてしまうからだ。したがって、たとえ西洋の恋愛がただ男女交際の自由と恋愛の自由しか意味しなくても、近代産業の障害となる大家族制度を崩壊させるのに、十分に役に立つ。若い男女が自分の意志で恋人を選択するということだけを取り上げてみても、明らかに大家族制のなかの「小皇帝」の権威を根幹から揺るがすものとなる。この意味で考えても、近代中国では西洋の「恋愛」習俗がより文明的な文化習慣としてどうしても受け入れられなければならなかったのである。 2、はじめての上位文化  ところが、近代中国にとって西洋の恋愛を導入する必要があったにもかかわらず、「恋愛」が中国に受け入れられたのはずっと後のことである。なぜ中国は長いあいだそれを拒んだのだろうか。明らかに問題は単に体制側にあっただけではない。民衆側にも西洋の恋愛を受け入れる心理的準備ができていなかった。近代中国について考えるとき、とりわけ日本と比較する場合にこの問題はつねにクローズアップされる。  そもそも中国の近代産業のスタートは思われているほど遅れてはいなかった。たとえば、中国の最初の兵器工場が安慶に造られたのは一八六一年で、最初の鉄道が上海郊外に敷かれたのは一八六七年である。一八六五年に上海では大規模な造船所兼兵器製造工場「江南機器製造総局」が設立され、大量の銃弾が生産されていた。一八七七年日本の西南戦争のとき、弾薬補充のため明治政府軍は中国から二百六十万発の弾薬を調達したことさえあった。また中国最初の民営近代企業「発昌機器工場」が一八六六年に設立され、一八七一年に国際電報の業務が開始された。  同時代の日本と比較してみると、さらに興味深い。いくつかの数字をあげてみよう。中国最初の製鉄所——漢陽製鉄所が完成されたのは一八九三年九月で、日本の八幡製鉄所の稼働より七年五カ月も早かった。日本では神奈川県庁付近などではじめて十数基のガス灯が設置されたのは一八七二年九月のことだったが、上海ではそれより約六年まえの一八六六年であった。上海ではじめて電灯がともされたのは日本と同じように一八八二年であったが、水道の給水をはじめたのは東京より十五年も早い一八八三年のことである。  そうしたデータは、「中国は日本よりも近代化が早かった」という愚劣なナショナリズム的な誇示欲を満足させるためのものではない。そうではなくて、わたしはむしろ逆のところに興味を持っている。つまり近代産業のスタートが必ずしも遅くなかった中国がなぜかえって日本より大きく遅れを取ったのか、また西洋文化を吸収する時間が十分あったのに、なぜ結局、遅々としてそれが受け入れられてなかったのか。  十九世紀半ば頃からつづいた西洋列強の侵略とそれによって負わされた膨大な賠償金、国家主権や領土の喪失などは中国の近代産業の発展をさまたげた重要な原因である。また、近代産業を誰が所有し、技術は誰が掌握していたかなど、ほかにも諸々の理由はあろう。が、文化の面での原因を考えると、外国の産業文明の基盤となった文化に対する理解を欠き、十分に吸収しえなかったことが第一にあげられる。つまり、西洋の技術を輸入したが、技術を作り出す肝心な文明の基礎となる思考体系を門外に拒絶したのである。「中体西用」という看板のもとで、異文化の思考体系の導入は、結局、伝統の尊重という理由で排斥された。  恋愛の受容を取ってみても、日本では明治二十年に早くも二葉亭四迷の『浮雲』のような、緻密な構成を持つ近代小説が登場し、西洋の恋愛についての理解の深さと吸収の早さが示されたが、同じ頃の中国では近代小説はまだ生まれていなかった。中国の最初の本格的な西洋小説の翻訳でさえ、日本の『浮雲』より二十一年も遅れて刊行されたのである。両国の文化人はともに電気やガスなど文明開化の恩恵を受けながら、人文科学とりわけ文芸の面において異文化をどう受けとめるかという点で決定的な違いが生じた。  中国人たちはなぜそんなに西洋文化に抵抗していたのか。原因は二つ考えられる。一つは西洋に対する感情的な反発で、もう一つははじめて上位文化に出会ったときの戸惑いである。  外来文化を吸収するときにはその文化とのあいだに適切な距離が必要である。なぜなら、異文化を受け入れる動機を発生させるにはその文化に対する幻想もまた不可欠なのだ。東洋においてまったく異質な西洋文化を移入する場合、適切な距離をたもつことが欧米憧憬の雰囲気を醸し出し、西洋模倣を促す前提条件となる。  しかし、中国の近代は不幸のなかに幕を開け、近代史そのものが不運の連続であった。日本が西洋文明の衝撃のなかで近代を迎えたとすれば、中国は文字どおり西洋文明の「打撃」のもとで近代を迎えたのである。けっして誇張ではない。一八四二年のアヘン戦争のときに、世界最高の文明を誇示していたイギリス軍隊はじつに不名誉な役を演じた。上海に上陸したイギリス兵たちの残虐な行為について当時上海の住民だった喬重禧(きようじゆうき)は『夷難(いなん)日記』で次のように証言している。「五月八日、夷匪は天妃宮に放火した」、「五月十一日、鬼(イギリス兵隊を指す)たちは四方八方で財物や鶏、あひるなどを略奪し、婦女暴行をした」と。  アヘン戦争後、英仏の軍隊は中国に駐屯するようになった。一八六〇年に清朝の太平天国の鎮圧に加担したフランス軍隊は上海の城門外の地域に放火し、大火は五日間も続いた。その間フランスの兵隊たちはほしいままに略奪し、住民を大量に虐殺した。一八六二年四月に上海にいた英仏連合軍は議定書に調印し、軍事行動のなかでどちらか一方が略奪したものを独占してはいけない、奪った財産は両軍に均等に配分すべきだと規定した。略奪、放火、虐殺、これが中国の民衆がはじめて見た西欧文明であった。  中華思想の威力を発揮するまでもない。中国の民衆たちの目にこうした残虐行為をくりかえした西洋人が、「魔法」の武器を手にした「野蛮人」に映るのはごくあたりまえのことであろう。都市を占領した英仏の兵隊たちが青天白日のもとで婦人暴行をし、ひいては住宅を焼き討ちにするのを見て、過去の異民族の侵入を連想しても、「文明」の二文字を実感することはとうていできなかった。素朴な感情を決してあなどることはできない。抑圧によって煽られた民族自尊心の高揚も手伝って、ここに民衆側に西洋文化受容の見えない関門が出来上がったのである。  一方、近代的な国際関係の観念を持たない清王朝の支配者たちにとっても、アヘン戦争にはじまる西洋の侵略は、かつて中国歴史上くりかえされた異民族の侵入に過ぎなかった。彼らは英仏などの国々を「文明国」とみるどころか、反対に文化的に遅れた国だと軽蔑していた。こうして朝野ともに心情的に西洋文化を排斥する方へ動いたのである。  西洋文化の受容を阻むもう一つの原因は、はじめての上位文化とのつきあいによる戸惑いである。それまで人口の多数を占める漢民族は構成が複雑であるとはいえ、周辺の少数民族文化とはつねに上下関係にあると自認していた。つまり、漢民族は勝手に異民族の文化を下位文化と決めつけ、無意識のうちに他の民族文化を軽視する習慣を身につけた。とてつもない規模を持つ万里の長城が象徴するように、異文化に対する慣用の手口は文化と文化のあいだの通路を遮断することであった。少数民族文化の影響を受けることもあったが、それは歳月の推移のなかで目に見えないかたちでゆっくりと進行していたため、意識的に異なる文化を体系的に吸収することはかつて一度も試みられたことがなかった。ましてや上位文化に出会う経験はそれまでまったくなかったのである。  ほんらい第一次アヘン戦争の後は中国にとって西洋諸国に習い、近代経済に見合うような政治体制に切り替える絶好の機会であった。しかし、ごく少数の知識人を除いて、官僚階級から民衆にいたるまでほとんどの人たちが西洋思想の受け入れに興味を示さなかった。上位文化との交際経験が欠如していただけに、中国人は体系的に外来文化を吸収することが非常に不得手で、西洋文化がはじめて上位文化として目の前にあらわれたとき、中国人はすっかりあわててしまい、なすすべがなかった。  清王朝の貴族たちはかつて「下位文化」の少数民族であったが、二百年以上におよぶ歴史のなかですでに「上位文化」の心境に無限に近付き、彼らの考え方は多くの面において漢民族と一致していた。統治者も民衆もかつての異民族に接する態度で西洋の諸国とつきあった。その結果、ごく一部の進歩的な知識人たちを除いて、日清戦争にいたるまで西洋文化、とりわけ西洋の文芸は中国にはあまり影響を与えていなかったのである。  時代が進むにつれ、西洋が文化的に優位にあることはいよいよ明らかになり、その事実はもはや認めざるをえなくなった。それでも、一部の知識人たちはなお「悠久な歴史」の残夢に浸っていた。清朝の大学士(閣僚)徐(じよほ)が語ったことばは清朝の旧い文人の屈折した心境をもっともよく表している——「西洋の兵器はたしかに優っているが、政教や風習となれば、わが国にはるかに及ばない」(『清稗類鈔』「宮類」)。産業や技術の面で中国が遅れていても、文学や芸術はむしろ西洋より進んでいると、清末の多くの中国人は信じ続けていた。 3、「恋愛」の実践  二十世紀に入ってから、西洋の恋愛がようやく少しずつ文明的な風習として評価されるようになった。しかし、それはおもに女性の社交の自由と恋の自由を求めるかたちであらわれた。とりわけ西洋の事情を知り、親の取り決めによる結婚に不満を持つ若い人たちのあいだにその傾向がつよい。  ところで、清末の中国では女性の外出禁止と恋愛の禁制とはいったいどのようなものであったのか、またそれはどれほどの倫理拘束力を持っていたのか。西洋的恋愛の受容について考える場合、まずこのことを明らかにする必要がある。  清王朝の支配地域は広く、統治者の意思に反して、文化の重層化はつねに避けられない問題としてあった。清朝末期には男女隔離は必ずしもすべての階層にゆきわたっていたとはかぎらず、農村や都市の下層階級は女性を貴重な労働力とし、それらの家々では未婚の女性は場合によって外出が許されていた。たとえば蘇州(そしゆう)の街頭には近郊の農家出身の花売り娘が多く見られ(『清稗類鈔』「農商類」)、また上海などでは使用人の若い女性も外出が問題とされていなかった。  男女隔離と違い、親が結婚を取り決める風習はややきびしく、しかも広範囲にわたって存在していた。ただ、まったく例外がなかったわけではない。十九世紀半ばからの欧米の侵略により統制機能が弱められ、また民衆の生活も苦しくなった。それが原因で倫理の統一性が崩れる現象もあらわれた。たとえば甘粛(かんしゆく)省では男性人口が多く、女性人口が少なかったので、兄弟数人で一人の女性と結婚することがしばしば見られた。また、貧困が原因で結婚できない男が他人の妻を借りる風習もあったという(『清稗類鈔』「婚姻類」)。  浙江(せつこう)省の紹興(しようこう)や寧波(ニンポー)では一定の期間内に妻を「質に入れる」慣習があった。品物を質に入れるのと同じように、妻と引換に一定の額の貸し金が受けられる。五年か十年経って満期になると、借金を返して抵当にした妻を請けだす。「質」に入れたあいだに女は人妻となってその家で働き、また子供を生むことなどが義務づけられている(『清稗類鈔』「風俗類」)。  ところが、都市部の中流以上の家庭では女性の社交禁止と男女隔離がきびしく、さまざまなかたちの逸脱があったとはいえ、恋は背徳として否定され、親の取り決めによる結婚は一つの普遍的な価値として社会に定着していた。男女隔離や女性の社交禁止などを守らない階層の人たちも儒学倫理に反対していたからではなく、むしろ心情的にそれに憧れていた。  だから、西洋の恋愛に対する憧れは、おもに男女交際の自由と、結婚相手を選択する自由を求めるかたちであらわれた。ほんらいそれは西洋の恋愛のなかでは枝葉末節であったにもかかわらず、中国の人たちにとっては非常に魅力的な理想像となったのである。  清末の中国において女性の社交の自由と恋愛の自由の実現は重要な意味を持っていた。こうした要求は一夫一妻多妾制や纏足の廃止、女子の学校教育を受ける権利の実現にもつながり、ひいては男女平等、女性の参政権などの問題の解決にも影響を及ぼすからだ。いずれもそれまでの社会につよい衝撃を与えるものばかりである。  直接人々の生活の根底を揺るがし、家父長家族制度にきしみをもたらし、しまいにそれを崩壊させるのが恋愛であった。もはや閨房内の恋が存在する理由はない。最初の衝突はついに閨房内において起きたのだ。  婦人革命家秋瑾(しゆうきん)の離婚は、おそらく恋愛と現象的にもっとも遠いかたちで二十世紀初頭における西洋の恋愛の受容を示している。秋瑾は一八七五年十月に浙江省会稽(かいけい)の官僚の家庭に生まれた。幼いときから読書を好み、詩文に秀でている。湖南省の富豪の御曹司と結婚した後、二人の子供をもうけたが、夫婦関係はうまくいかなかった。西洋思想の洗礼を受けた秋瑾は夫の封建的な態度につよく不満を持ち、その女道楽を見かねて離婚を決意し、念願の日本留学の旅に出る。日本に渡ってから熱心に婦人運動に参加し、執筆活動などを通して女性解放を唱えた。一九〇七年に中国で革命運動に参加したために逮捕され、まもなく処刑された。  三十三歳の若さで命を失った秋瑾は自分の一生を婦人解放運動に捧げた。秋瑾の最大の関心事の一つに、恋愛の自由があげられる。民衆を啓蒙するために書いた『精衛石(せいえいせき)』という作品には次の一節がある。 もし自分の一生に結婚する機会があったら、親に頼らずぜひ自分の意思によって(結婚相手を)自由に選択したい。(理想的なのは)男女の区別なくみな友人となり、互いに尊敬しあい相軽んじない(ことである)。普段分け隔たりのない学校の知己が婚姻を結ぶ(のが一番よい)。(なぜなら)一つには品行や学問の如何が互いによくわかり、もう一つには(互いに)性情や志を知り尽くしているからである。(そうすると)愛情の深い者同士だけが夫婦となり、一度も対面したことのない者同士(の結婚)とはわけが違う。(結婚してから)互いに親しく、愛し合い尊敬し合う。そうすると自然に家庭が円満で夫婦喧嘩がなくなる。  秋瑾の言葉に見られるように、当時の人々にとって恋愛は婦人解放の問題と分けては考えられなかった。恋愛とはいってもあくまでも円満な結婚のための手段としか考えられていなかったので、結局それは女子教育や男女同校と同じような位置づけしかえられなかったのである。  恋愛が中国の革命と関係しているのは興味深いことである。女性でありながら、生命の危険に直面したとき、彼女は死をまったく恐れていなかった。その気概は男に優ってもけっして劣らない。彼女のはげしい革命情熱に愛のない結婚が大きな影を落としたことは否めず、ある意味において愛のない結婚が彼女を革命の方向へむかわせたといえるかもしれない。事実、辛亥革命に参加した女性のなかに親の取り決める結婚に反対し、あるいは秋瑾と同じように結婚生活に不満を感じ家から逃げ出し、革命に身を投じた人は少なくなかった。  孫文は結婚に対する不満が原因で革命運動に参加したわけではない。しかし、親の取り決めによる結婚がアメリカ式教育を受けた彼の心に深い傷を残したことはまちがいない。一八六六年十一月十二日生まれの孫文は十四歳のときに兄につれられて、ハワイに渡った。苦学の末、セント・ルイス・スクールを経て、ハワイ大学に進学することができた。しかし、十七歳のときに兄は弟がアメリカ文化に同化するのをおそれて、むりやりに彼を中国に連れて帰った。帰国後、孫文の両親は自分たちの選んだ同郷の女性廬慕貞(ろぼてい)と結婚させようとした。しかし、「ホノルルにいったことがあり、中国の旧い習慣とまったく異なる、西洋の自由結婚の思想の洗礼を受けた」彼は、「最初はこの結婚に抵抗した」(Paul Linebarger, Sun Yat-sen and the Chinese Republic, The Century Co.)。が、最後には妥協して廬氏と結婚することになる。孫文と廬氏のあいだに数人の子供が生まれたが、夫婦関係の如何は詳らかでない。しかし、自分自身の命の危険を度外視して革命運動に没頭する動機の片隅に、親が取り決めた結婚による傷心と自棄が影を落としているかもしれない。  毛沢東の場合はやや事情が異なる。彼も少年の頃に親の取り決めによって結婚させられたことがあるが、「故郷脱出」という手口で見事にこの結婚から逃れた。後にアメリカの記者エドガー・スノーに語ったことばのなかに次のような一節がある。 両親は私が十四歳のとき、二十歳の女性と結婚させましたが、彼女と一緒に暮らしたことは全くなく、またその後もそうでした。私は彼女を自分の妻とは思わず、その頃彼女のことは殆んど考えませんでした。 (エドガー・スノー『中国の赤い星』松岡洋子訳)  これは一九〇七年のことで、孫文のときから二十年以上もの歳月が流れている。が、旧式結婚の風習が依然として根強く生き残っていた。親の取り決めた結婚を破棄することは地元における一族の信用をなくし、家父長を窮地に追い込む自殺的な行為であった。毛沢東の強情も最初は妻との同居を拒否するぐらいで、自分の心境をおおやけに村人に公表することはとうていできなかったであろう。結婚後まもなく彼は故郷を去り、湘潭(しようたん)に出かけた。そのことについてアメリカ人女性作家ハン・スーインは女性特有の鋭い勘で「(結婚が)強制させられたことへの反発が促したのであろう」(『毛沢東』松岡洋子訳)と言った。この推測にまちがいはない。当時の若者たちにとって愛のない結婚に反抗するには、やはり故郷から逃げ出すほかなかった。経済力があれば、上海や北京など都会の学校に進学したり、あるいは外国へ留学したりすることができるが、そうした機会に恵まれなかった一部の青年たちの行く先はもはや「革命」しかなかった。恋愛への追求が革命と微妙に絡んでいた点において、共産主義の革命家たちも秋瑾の場合とそれほど変わらなかった。  ほんらい異なる世界を知らず、対照と比較がなければ、幸も不幸もなかったかもしれない。旧い世界にいながら、新しい世界を知ることほど苦しいことはない。魯迅はそのような苦しみを身をもって体験した一人である。魯迅が母親から突然婚約の知らせを受けとったのは日本に留学しているときのことであった。相手は三つ年上の朱安(しゆあん)という見知らぬ同郷の女性である。魯迅はただちに婚約の解除を要求したが、母親は一歩も譲らなかった。一九〇六年、魯迅の手元に「母危篤、至急帰国せよ」との電報が届いた。中国に帰ってみると、元気な母親が用意した結婚式が待っていた。親孝行の魯迅は母親を失望させないために、この結婚を呑み込んだ。しかし、夫婦関係は最後までうまくいかなかった。挙式後まもなく、魯迅は朱安を故郷に残してふたたび日本に渡る。日本から帰国した後、二人が一緒に住んだことはあったが、魯迅は彼女とほとんど口をきかなかったという。  魯迅は家から逃げ出すのでもなく、また直接革命に参加したわけでもない。彼はおとなしく故郷に帰った。母親を養い、弟の周作人に生活費を送らなければならなかった。後に魯迅は「わたしは時に冒険や破壊をしたくてほとんどたまらなくなりますが、わたしには母がおり、まだわたしを愛し、わたしが平安であれかしと願っています。彼女の愛に感激するゆえに自分のしたいようにはできず、北京で口を糊するばかりの生計を求めて灰色の生涯を送るしかありません」(中島長文訳「書簡㈵」『魯迅全集』第一四巻、学習研究社)と述懐している。もし魯迅の父親が生きていれば、あるいは長男でなければ、魯迅の生涯はもう少し違っていたかもしれない。  同じ文学者の郭沫若(かくまつじやく)はまったく違う選択をした。一九一一年十月に母親が成都で勉学していた十九歳の息子に婚約を取り決めたとき、彼はさほど反対もせず、翌年、挙式の話が持ち出されたときにも、彼は賛成した。ところが、結婚当日に新婦の纏足と醜い容貌を見てショックを受け、五日後に家を離れ、その後一度もその妻のもとに帰ったことはない。  時代が進むにつれ、若者の恋愛はいよいよ大胆になる。詩人徐志摩(じよしま)のロマンスはその辺の変化をもっともよく示している。当時の多くの若者たちと同じように、彼は一九一五年十月に両親の取り決めによって上海で張幼儀(ちようようぎ)という女性と結婚した。張家は上海市宝山県の富豪兼官僚の家庭だから、この結婚を取り決めた徐志摩の両親側に打算があったことは明らかである。彼は一年後に北京の北洋大学の予科に入り、一九一八年八月にはアメリカへ留学した。さらに二年後にイギリスに渡り、ケンブリッジ大学に学んだ。西洋文化に接しているうちに、徐志摩はこの結婚に疑問を持ちはじめ、やがて妻に離婚を申し出た。ところが、徐家と張家のあいだの利害関係が絡んでいたので、彼の望みはそう簡単には通せなかった。  一九二四年四月に徐志摩は北京で親友王(おうこう)の妻陸小曼(りくしようまん)と知り合うようになる。陸小曼は外交官の家庭の生まれで、容貌がきれいであるばかりでなく、詩も絵も上手で、かつフランスと英語の二カ国語を話す、北京きっての才媛であった。後にアメリカの大統領となったアイゼンハワーとウェスト・ポイントで同級生だった王は高級官僚で、ふだん仕事がたいへん忙しく、妻を伴って遊びに出かける暇などほとんどなかった。そのため王はしばしば徐志摩に代役を頼んだ。  当時、徐志摩は中国の屈指の詩人で、文才のある陸小曼と非常に意気投合した。二人はつきあっているうちに恋に陥ってしまう。いわば、中国版の佐藤春夫—千代子夫人の恋愛事件である。二人の交際が人々に知られるようになってから、北京の社交界ではさまざまな噂が飛び交い、彼らに対する社会的な圧力もしだいに増大した。徐志摩は一度二人のあいだの恋愛を清算しようとして渡欧したが、ヨーロッパにいても陸小曼のことが忘れられない。折から陸が重病との報が届き、徐志摩は思い立って北京に帰る。そのときから二人の恋はいっそう燃え上がり、もはやどんな力でも止められない。  徐志摩はすぐに妻と正式に離婚した。しかし、陸小曼と王はまだ夫婦関係にあり、いかに王に離婚させるかが問題となった。家父長がまだつよい権限を持つ時代だったので、恋愛結婚はその家族にとってきわめて不名誉なことであった。ましてや不倫などもってのほかである。そこで徐志摩は画家の劉海粟(りゆうかいぞく)に調停を依頼する。劉海粟自身もかつて親の取り決めた結婚に反対するために逃避行をしたことがあり、友人として彼は徐志摩の気持ちを理解し、快く王の説得工作を引き受けた。劉の斡旋により陸小曼は夫と円満に離婚し、二人の恋愛はようやく実ったのである。  徐志摩の恋愛は当時の中国において小さくない事件であった。このような恋愛が最後に成就したこと自体が時勢の移り変わりを示している。徐志摩が恋愛中に書いた詩や手紙を見ると、彼の恋愛観は表面的な西洋直輸入で、かつ観念的であった。徐志摩だけでなく、当時の多くの若者のあいだで恋愛はいわば一種の強迫観念となっていた。このような恋愛は言ってみれば、ただ自由に恋人を選び、自由に結婚を決めることだったに過ぎない。西洋の恋愛は最初はこうしたかたちでしか受容されることがなかったのである。 4、文学というフィルター  文学における西洋的恋愛の受容はやや複雑である。欧米文学に刺激され、恋愛小説が書かれるようになったのは一九一〇年代の半ば以降のことである。それまでに伝統の白話小説、古文体小説の流れの創作がなかったわけではない。しかし、作品に描かれた時代が近代になっただけで、小説の出来映えとして過去の文学を超えたものはまったく見あたらない。  一九一八年に魯迅の『狂人日記』が発表され、西洋文学の方法を意識した近代小説が登場した。一九二〇年代に入ると、恋愛は小説家たちのもっとも興味を持つテーマの一つとなり、恋愛小説は一時文芸誌に氾濫した。一九二一年四月から同年六月のあいだに発表された百二十余編の作品のなかで恋愛を描いた小説は全体の九十八パーセントも占めているという。しかし、内容の雷同が目にあまるものがあり、傑出した作品はほとんどなかった。  恋愛を描くことにまちがいがあったわけではない。また作家たちが彼らのまったく知らない世界を描いたから、失敗したのでもない。まわりの中国人の生活にはたしかに恋愛が浸透しており、若い作家たちがみずから現実生活にそれを見いだすことができただけでなく、彼ら自身も恋愛を体験している。文学者は同時代の青年たちとともに恋愛の喜び、悲しみ、あるいは悩みを共有していた。しかし、日常のなかでせいぜい自由に恋愛することだけであった。それだけのことをいくら手を変え品を変えて書いてみても、「自然な付き合いのなかで生まれた恋愛——親などによる邪魔——家に対する反抗——恋愛の成就か破局」という四部曲のステレオタイプから抜け出すことはできない。その構図は才子佳人小説とあまり変わらず、ただ「偶然の出会い」が「自然な付き合いのなかから生まれた恋愛」に変わっただけである。  スタンダールが「恋愛は小説の子である」と言ったように、文学のなかに描かれた恋愛は場合によっては現実に先行し、人々の行動パターンを微妙に左右することがある。恋愛という情緒表現の世界は現実の風俗に深く根付いていながら、多くの場合、文学作品のなかでしかその面影をとらえることができない。日常のなかの恋の風習と文学のなかに描かれた恋は密接な関係を持っているが、両者が必ずしも完全に一致することはない。  新しい小説を試みた中国の作家たちはそのことに気付かなかった。彼らは現実のなかの「恋愛」を模写しさえすれば、新しい情緒表現の世界も自然に出来上がると誤解していた。それに、古来中国では文学の社会的ないし政治的効用を重視する伝統があったため、近代文学の草創期において「小説」も「恋愛」も無意識のうちに「政治変革」のアナロジーとされる一面があった。事実、近代小説は「文学革命」の、「恋愛」は「文化革命」の重大な使命を負わされていた。しかし、「恋愛」の両肩にはこの使命は重すぎる。新文学の作家たちはここで大きな壁にぶつかった。  新しい情緒表現の道は西洋小説に対する的確な理解と吟味のなかでしだいに見いだされていく。一九二四年に発表された短編小説「旅行」は西洋的恋愛の受容の好例を示している。馮君(ふうげんくん)というほとんど無名の作家の手になるこの小説はたくみにそれまでになかった恋愛を描きあげた。  一人称で書かれたこの小説の梗概はいたって簡単である。主人公の「わたし」は女子学生で、恋人の「彼」の計画により、二人で十日間の旅に出かける。「彼」はすでに結婚しているが、親が取り決めた結婚なので、本人はそれを認めていない。途中の汽車のなかでも、目的地の旅館でも、「わたし」は「彼」との関係においてさまざまなことを発見し、そのたびに新鮮な感動を体験する。旅行先の旅館は彼らの愛の小さい世界になり、まわりの人々の冷たい視線のなかで、二人は愛の幸せを思う存分に味わった。やがて、十日間の愛の冒険は旅とともに終わり、二人がもとの学生生活に戻ったところで小説は終わる。  一口でいえば、ロマンティックな恋愛から抽出された「純潔な恋」を受容したところにこの作品の意義がある。つまり肉体的な結合を意識的に排除し、「魂の融合」を理想とする恋愛の観念である。  かつて想像もできなかったような男女の状況が物語られている。この青年男女は寝床を同じくしながら、一歩も男女の境界線を越えようとしない。しかも、愛し合うがゆえに、肉体の誘惑に打ち勝つことができるのだ。ここには純潔を前提とする恋愛のヴィジョンがたくみに提起されている。互いに愛し合うという状況は男女双方によって認識され、二人はまわりの人々の冷たい視線をよそに、一心同体で愛の小さい世界を築こうとする。『紅楼夢』にも見られない恋の新しい表現方法である。  この作品に描かれた恋愛はおおよそ三つの部分に分けられる。一つは西洋的恋愛から来たものである。このなかには中国文化のコンテクストに「希釈」されたものも含まれている。二つ目は中国化された西洋的恋愛である。三つ目は伝統文学から継承したものである。  「旅行」のもっとも成功したところは新しい「純潔な恋」のモデルを作り上げたことである。これは自己犠牲によって象徴される献身的な愛、また、愛することによってえられる人格の向上および魂の浄化などの点で達成されている。  また、西洋的恋愛を中国化することにおいても驚くほどの成功を収めた。この「中国化」には、二つの戦術が含まれる。一つはわざと伝統文学と違う要素や欧文脈を匂わせることであり、もう一つは伝統との連続性に気を配りながら欧文脈を中国語の表現に合うようになおし、それを中国語の新しい表現とすることであった。  一方、ほどよく抑えられた恋の情熱、美しい情趣、甘美な感情を表現するのに「鶯鶯伝」や『紅楼夢』の流れから描写の精髄を見事に吸収し、かつなめらかな文体にとけ込ませたこともこの小説の出来映えをよくした。こうして西洋的恋愛の影響を受けながら、中国人の文学鑑賞習慣に見合うような内容と形式を持つ新しい恋愛小説が出来上がったのである。  「旅行」に見られるように、西洋的恋愛はそのまま中国の近代文学に受容されたわけではない。とりわけ姦通=恋愛という西洋文学の通念ははっきりと排斥された。今日でもなお受容されていないと考えてよい。姦通を描いた小説そのものがまったくなかったという意味ではない。しかし、姦通は恋愛のおもな表現形式として一般に受け入れられてはいなかった。また、姦通を描いた少数の作品は読者を納得させ、感動させるものにはならなかったのである。外来文化に対する頑なな抵抗によるものではない。原因は中国文化と西洋文化のあいだの埋められない深い溝にあった。  キリスト教文化圏では結婚の愛は必ずしも無条件に賞賛される美徳ではない。もちろん結婚の正当性はキリスト教の神権によって保証されている。しかし、結婚は性行為を伴う意味で、キリスト教の原罪につながる。未婚男女の恋愛も結婚——性行為への自然な成りゆきがあるだけに、最終的には人類の原罪に帰着する。言い換えると、西洋において制度によって保証された恋愛はその行き着くところは絶対的価値ではなく、宗教の観点からみて結婚やあるいはそれと類似する意味を持つ未婚男女の恋愛も無条件に讃美できるものではない。  一方、姦通、とりわけその原点である中世の宮廷風恋愛のなかでの姦通はほんらい肉体の結合を排除し、魂の融合を指向している。そのため、性交渉を伴わない恋愛——姦通の方が必ずしも結婚より劣っているとはいえない。倫理性の面から考えると、少なくとも結婚が姦通より高尚であるということは成立しない。この意味においてヨーロッパ文化の根底には結婚を指向する恋愛を否定する要素が含まれているともいえる。  中国ではそのような宗教的な背景はもちろんなかった。姦通は中国人が理想とした礼、信、仁、義に反し、一般に非礼、背信、仁義がないというイメージがつきまとう。そのため普遍的価値とされる可能性はほとんどありえない。事実、いまでも庶民用語のなかで女性の姦通は「男を盗む」(「偸漢子」か「偸人」)と言われ、盗みと同じように見られている。近代化のために西洋の恋愛の習俗が導入されたが、伝統とのつながりがすべて断ち切られたわけではない。二十世紀の中国では、西洋文学のなかの未婚男女の「純愛」を受け入れる文化的な下地はあったが、姦通=恋愛という認識を受け入れる心理的準備はできていなかった。また近代化という功利的な目的からみても姦通=恋愛を導入する必然性はまったく見あたらないのである。  事実、その後の中国文学を見ると、青年男女の純情なラブストーリーあるいはその延長にある物語が好まれ、作家もあまりその域を超えようとしない。結婚の枠内の愛はかたちこそ変わったが、ひきつづき重要な題材として文学のなかで確固たる地位をえている。人間の「近代化」という最大のテーマと相まって、恋愛は内面世界に影響をおよぼし、人格を向上させる力として表現されるようになった。そしてとりわけ新しい発見でもないが、愛が苦悩によって純化され、死によって崇高化されることも愛の位相として描かれている。今後どう変わるかは断言できないが、少なくとも現時点では、姦通=恋愛という認識はなお門外に閉め出されたままである。 中国史略年表 王朝 皇帝の出身民族 年代 本書で扱う主要作品 周 西周 前一〇二〇頃〜前七七〇年 『詩経』  東周 春秋時代 前七七〇年〜前四〇三年  戦国時代 前四〇三年〜前二二一年 「離騒」「九歌」「高唐賦」「神女賦」 秦 漢族 前二二一年〜前二〇六年 前漢 漢族 前二〇六年〜八年 新 漢族 九年〜二三年 後漢 漢族 二五年〜二二〇年 三国 魏 漢族 二二〇年〜二六五年 「洛神賦」『列異伝』  蜀 漢族 二二一年〜二六三年  呉 漢族 二二二年〜二八〇年 西晋 漢族 二六五年〜三一六年 東晋 漢族 三一七年〜四二〇年 『捜神記』『抱朴子』『世説新語』『幽明録』 東晋諸国 成漢 巴族 三〇三年〜三四七年 『拾遺記』  前趙(漢)匈奴族 三〇四年〜三二九年  前涼 漢族 三一四年〜三七六年  後趙 羯族 三二八年〜三五一年  冉魏 不明 三五〇年〜三五二年  代 鮮卑族 三三八年〜三七六年  前秦 族 三五一年〜三九四年  前燕 鮮卑族 三五二年〜三七〇年  後秦 羌族 三八四年〜四一七年  後燕 鮮卑族 三八四年〜四〇九年  西燕 鮮卑族 三八四年〜三九四年  西秦 鮮卑族 三八五年〜四三一年  後涼 族 三八六年〜四〇三年  南涼 鮮卑族 三九七年〜四一四年  北涼 匈奴族 三九七年〜四六〇年  南燕 鮮卑族 四〇〇年〜四一〇年  西涼 漢族 四〇〇年〜四二一年  夏 匈奴族 四〇七年〜四三一年  北燕 不明 四〇九年〜四三六年 南朝 宋 漢族 四二〇年〜四七九年 『異苑』  斉 漢族 四七九年〜五〇二年  梁 漢族 五〇二年〜五五八年  後梁 漢族 五五五年〜五八七年  陳 漢族 五五七年〜五八九年 北朝 魏 鮮卑族 三八六年〜五三四年  東魏 鮮卑族 五三四年〜五五〇年  西魏 鮮卑族 五三五年〜五五一年  北斉 混血 五五〇年〜五七七年  北周 鮮卑族 五五九年〜五八一年 隋 混血 五八一年〜六一九年 唐 混血 六一八年〜九〇七年 『遊仙窟』「鶯鶯伝」「霍小玉伝」「長恨歌」 五代 後梁 漢族 九〇七年〜九二三年  後唐 突厥沙陀族 九二三年〜九三六年  後晋 突厥沙陀族 九三六年〜九四六年  後漢 突厥沙陀族 九四七年〜九五〇年  後周 漢族 九五一年〜九六〇年 十国 前蜀 漢族 九〇八年〜九一〇年  呉越 漢族 九〇八年〜九三二年  南漢 漢族 九一七年〜九七一年  呉 漢族 九一九年〜九三七年   漢族 九三三年〜九四五年  後蜀 漢族 九三四年〜九六五年  南唐 漢族 九三七年〜九五八年  北漢 突厥沙陀族 九五一年〜九七九年 宋 漢族 九六〇年〜一二七九年 「灯籠まつりの宵」「馮玉梅団円」 遼 契丹族 九一六年〜一一二五年 西遼 契丹族 一一二四年〜一二一一年 西夏 党項族 一〇三二年〜一二二七年 金 女真族 一一一五年〜一二三四年 元 蒙古族 一二六〇年〜一三六八年 「拝月亭」「西廂記」 明 漢族 一三六八年〜一六四四年 『金瓶梅』『拍案驚奇』 清 満族 一六四四年〜一九一一年 『紅楼夢』 (注)この年表は『辞源』の「歴代建元表」をもとに作成されたもので、年号のない王朝は省略されている。そのため、「十国」の欄には八つの王朝しか収録されていない。 参考文献一覧 ドニ・ド・ルージュモン『愛について——エロスとアガペ』(鈴木健郎ほか訳、岩波書店、一九五九年) アンドレアス・カペルラヌス『宮廷風恋愛の技術』(ジョン・ジェイ・パリ編、野島秀勝訳、法政大学出版局、一九九〇年) C・S・ルーイス『愛とアレゴリー』(玉泉八州男訳、筑摩書房、一九七二年) 金子晴勇『愛の秩序』(創文社、一九八九年) R・フラスリエール『愛の諸相——古代ギリシアの愛』(岩波書店、一九八四年) 今道友信『愛について』(講談社現代新書、講談社、一九七二年) 秋山駿『恋愛の発見』(小沢書店、一九八七年) 中西進『日本人の愛の歴史』(角川選書、角川書店、一九七八年) 野口武彦『近代日本の恋愛小説』(大阪書籍、一九八七年) トニー・タナー『姦通の文学』(高橋和久ほか訳、朝日出版社、一九八六年) 大岡昇平「姦通の記号学」『小説家夏目漱石』所収(筑摩書房、一九八八年) 矢沢利彦『西洋人の見た十六〜十八世紀の中国女性』(東方書店、一九九〇年) Raymond Dawson『ヨーロッパの中国文明観』(田中正美ほか訳、大修館書店、一九七一年) 陳顧遠『中国婚姻史』(商務印書館、一九三六年版、のち上海書店、一九八四年) 前野直彬『中国小説史考』(秋山書店、一九七五年) 兪頂賢編『中国各民族婚俗』(北方婦女児童出版社、一九八八年) 林河『「九歌」と湘民俗』(上海三聯書店、一九九〇年) 張紫晨『中国巫術』(上海三聯書店、一九九〇年) 張正明『楚文化史』(上海人民出版社、一九八七年) 韓養民ほか『秦漢風俗』(陝西人民出版社、一九八七年) 林幹編『匈奴史料彙編』上、下(中華書局、一九八八年) 費孝通ほか著『中華民族多元一体格局』(中央民族学院出版社、一九八九年) 翁独健主編『中国民族史研究』(中央民族学院出版社、一九八七年) 鮮于煌編注『中国歴代少数民族漢文詩選』(民族出版社、一九八八年) 竹田晃『中国の幽霊——怪異を語る伝統』(東京大学出版会、一九八〇年) 竹田晃「六朝志怪から唐伝奇へ——志怪に見られる“物語り化”の可能性」(東京大学『人文科学科紀要・国文学漢文学』第三十九輯、一九六六年) 竹田晃「六朝志怪に語られる『人間』」(前掲誌第五十輯、一九七〇年) 竹田晃「中国小説史の萌芽期に関する一私見」(前掲誌第九十一輯、一九七〇年) 高橋稔『中国説話文学の誕生』(東方選書 17、東方書店、一九八八年) 松浦崇編『全漢詩索引』(櫂歌書房、一九八四年) 松浦崇編『全三国詩索引』(櫂歌書房、一九八五年) 松浦崇編『全晋詩索引』(櫂歌書房、一九八七年) 竹内理三編『寧楽遺文』下巻(東京堂、一九六二年) 石田幹之助『長安の春』(講談社、一九七九年) 李志慧『唐代文苑風尚』(陝西人民出版社、一九八八年) 内田知也『隋唐小説研究』(木耳社、一九七七年) 近藤春雄『唐代小説の研究』(笠間書院、一九七八年) 劉開栄『唐代小説研究』(商務印書館、一九四七年) F・A・グルガーニー『ヴィースとラーミーン——ペルシアの恋の物語』(岡田恵美子訳、平凡社、一九九〇年) 王可賓『女真国俗』(吉林大学出版社、一九八八年) 宋徳金『金代の社会生活』(陝西人民出版社、一九八八年) 陳洪謨ほか『治世餘聞 継世紀聞 松窓夢語』(元明史料筆記叢刊、中華書局、一九八五年) 徐夢『三朝北盟会編』(上海古籍出版社影印本) 鄒元初『中国皇帝要録』(海潮出版社、一九九一年) 楊剣宇『歴代帝王録』(上海文化出版社、一九八九年) マルコ・ポーロ『東方見聞録』1、2(平凡社、一九七〇年) 中国戯曲研究院編『中国古典戯曲論著集成』一〜十(中国戯劇出版社、一九五九年) 王利器『元明清三代禁毀小説戯曲史料』増訂本(上海古籍出版社、一九八一年) 方銘編『金瓶梅資料彙録』(黄山書社、一九八六年) C. R. Boxer 編注『十六世紀中国南部行紀』(何高済訳、中華書局、一九九〇年) マッテーオ・リッチ『中国キリスト教布教史』(川名公平訳、大航海時代叢書第㈼期8、岩波書店、一九八二年) 尾上兼英「今古奇観の文学」(大阪市立大学中国文学研究室編『中国の八大小説』、平凡社、一九六五年) 尾上兼英「明代白話小説ノート」(東京大学東洋文化研究所編『東洋文化研究所紀要』第四十四冊、一九六七年) 胡士瑩『話本小説概論』上、下(中華書局、一九八〇年) 小野四平『中国近世における短編白話小説の研究』(評論社、一九七八年) 中国社会科学院歴史研究所清史研究室編『清史資料』第一輯〜第五輯(中華書局、一九八〇年) 周遠廉ほか『清代八旗王公貴族興衰史』(遼寧人民出版社、一九八六年) 『清朝野史大観』(上海書店、一九八一年) 〈民族問題五種叢書〉遼寧省編輯委員会編『満族社会歴史調査』(遼寧人民出版社、一九八五年) 満学研究会編『清代帝王后妃伝』上、下(中国華僑出版公司、一九八九年) 莫東寅『満族史論叢』(生活・読書・新知三聯書店、一九五八年) 滕紹箴『清代八旗子弟』(中国華僑出版公司、一九八九年) 周汝昌『紅楼夢新証』(増訂本)上、下(人民文学出版社、一九七六年) 朱一玄編『紅楼夢資料彙編』(南開大学出版社、一九八五年) 周汝昌『曹雪芹』(作家出版社、一九六四年) ブーヴェ『康煕帝伝』(後藤末雄訳、平凡社、一九七〇年) ガスパール・ダ・クルス『十一世紀華南事物誌』(日埜博司訳、明石書店、一九八七年) 徐珂『清稗類鈔』(商務印書館、一九一七年) P. Linebarger, Sun Yat-sen and the Chinese Republic, (The Century Co. 1925) 中国科学院上海歴史研究所籌備委員会編『鴉片戦争末期英軍在長江下游的侵略罪行』(上海人民出版社、一九五八年) 吉田光邦『日本と中国——技術と近代化』(三省堂、一九八九年) エドガー・スノー『中国の赤い星』(松岡洋子訳、筑摩書房、一九五二年) ハン・スーイン『毛沢東』(松岡洋子訳、毎日新聞社、一九七三年) 丸山昇『魯迅——その文学と革命』(平凡社、一九六五年) 伊藤虎丸、祖父江昭二、丸山昇編『近代文学における中国と日本』(汲古書院、一九八六年) あとがき  この本は「縦」の比較文化論を試みたものであり、「固有」で「不変」だと思われがちの文化について、他の民族文化との交叉において検証し、時代による差異とその原因を探ったものである。恋というプリズムを通して中国人の情緒表現を時代ごとに解析していくと、異なる民族文化の衝突による文化変容の一端がはっきりと浮かび上がってきたのである。  感情世界の変遷を把握するのに、恋を文化の表徴として考証の対象に選んだ。多彩多様な人間生活のなかでつねにアクセントをなし、かつもっとも興味をそそるものはなんといっても男女関係をおいてほかにないと思ったのはもちろんだが、わたしにはもう一つの理由があった。  中国の知識人は人のまえで男女のことを語らない、といわれて久しい。その点ではチャイナ・ガウンを着た古代の読書人と、人民服を身につけたインテリのあいだにどうやら違いはないようだ。中国の大学に勤務していた経験からいうと、同僚のまえでわい談をするのは人格の自殺にひとしい。しかし、日本ではまるで違う。いかなる紳士でも平気でわい談をする。学者や教師もまたしかり。しかも、弟子のまえでもだ。カルチャー・ショックを受けるべきところだったが、だらしない筆者はそれがうれしくてたまらなかった。  日本の近代小説を読んでもっとも驚いたのは、「やわらかい」主題の作品に対する社会的寛容である。中国の近代文学はこの点において大きく異なり、男女のあいだの情愛だけを描いた作家は蔑まれ、批評家たちが評価しないだけでなく、読者も彼らを見くびっていた。中国でなら、永井荷風、谷崎潤一郎、吉行淳之介はいうにおよばず、おそらく川端康成もその「不真面目さ」ゆえに、象牙の塔から「永久追放」されたであろう。  大衆娯楽としての映画もそうだ。一九三〇年代には恋愛だけを表現し、「軟性映画」と呼ばれたメロドラマを作った監督たちはときの良心的な知識人の一斉糾弾を受けた。中華人民共和国が成立するまえのことだったから、イデオロギーとは無関係のようだ。この分野でも日本と対照をなしている。そうした日中文化の違いに対する興味は、そもそもこのテーマに取り組んだ最初のきっかけであった。  ところが、恋という問題を考えているうちに、漢民族と異民族の文化関係を視野にいれなければならないことに気付いた。多民族の中国において、ほんらい民族のあいだの関係を無視しては中国文化は語れない。自明なことではあるが、いままで見過ごされてきたのもまた事実だ。ことに恋について、民族文化との交渉という角度から論じたものはまったく見あたらない。そこであえて一石を投じ、読者のみなさんのご教示とご批判を仰ぐしだいである。  この問題を考える際、狭隘な民族主義からの脱却は欠かせない前提条件となる。どの時代でもそうだが、文明水準の高低はあっても、民族や文化のあいだに優劣はない。本書のなかで歴史上の少数民族を指して「異民族」や「下位文化」という用語を使ったが、それはあくまでも行文の便を考慮して用いたもので、少しも差別的なニュアンスは含まれていないのである。  序章をのぞいて、各章はいちおう歴史順になっている。心情としては第三章あたりから始めたかったが、縦の軸を設けている以上、論述の整合性も考慮せざるをえない。第四章は唐代伝奇に描かれた恋を議論の前提としているけれど、この種の作品は数多く訳出され、物語の内容はひろく知られているから、テキスト紹介の煩をはぶいた。各章とも大きな問題を扱っているだけに、これから解明しなければならない問題はなお多く残されている。いずれも今後の課題としたい。  脱稿してみれば、日本語で書くことは楽しくももどかしい作業であった。日頃の勉強不足を改めて感じさせられた。繊細で魅力にみちた言語であるだけに、不器用な筆者にとっては一字一句を綴るのも、けわしい山にのぼるようなものだ。「は」と「が」の語感がいつまでもつかめないときの心境は、すでに苛立ちや負け惜しみを通り越し、自暴自棄の境地に達している。それでも、ない智恵をしぼってこうして書いているのは、一にこの美しい言語に対する、母国語に劣らない愛着によるものだ。  一年余におよぶ執筆期間中に、丁寧に拙稿をお読みくださり、辛抱づよく「てにをは」のまちがいからなおしてくださった筑摩書房の井崎正敏氏にはすっかりお世話になり、感謝以外のことばは見つからない。文字どおりの叱咤激励もいまやなつかしい思い出となった。  この書物は筆者にとっては学位論文の延長であり、またそれに対する補完でもある。上梓にあたってまず公私にわたっていろいろとお世話になった恩師芳賀徹先生に深く感謝を申し上げたい。大学院時代の親身なご指導がなかったら、不敏なわたしはとうに学問に専念する力と根気を失ったであろう。竹内信夫先生のご助言は大きな啓発となった。それがなければ本書の構想はあるいは生まれてこなかったかもしれない。  再校が出た後、竹田晃先生と丸山昇先生に目を通していただき、ご指導を仰いだ。ご多忙にもかかわらず、ご無理をお聞きくださり、短い期間のあいだに念入りに原稿をお読みくださった。語句や表記だけでなく、竹田晃先生には漢詩の訓読について、丸山昇先生には内容についてそれぞれ貴重なご教示をいただいた。記して深く御礼を申し上げる。  また東京大学総合文化研究科でご指導をいただいた平川弘先生、小堀桂一郎先生、亀井俊介先生、新田義之先生、川本皓嗣先生、岡本サエ先生にも感謝の意を表したい。遅れた宿題をついに出すことができた。いままでお世話になった先生や友人はほかにも多く、みなさま方の導きや、支えがあったからこそ、今日やっと第一歩を踏み出すことができた。お名前をいちいちあげないが、この場を借りて心からの感謝を申し上げるしだいである。 一九九三年四月九日 雪が消えた戸神山山麓にて 張競 文庫あとがき  本書がちくまライブラリーの一冊として刊行されてから、はやくも四年の歳月が流れた。その間、多くの方々からさまざまなご批評,ご教示をいただいた。学問のスタートラインに立つひとりの新人としてこれよりありがたいことはない。  中国文化における恋の情緒表現を検証するのが本来の目的だったが、そのことを通して漢民族文化の重層性、大陸における辺境民族文化の役割についてもいろいろと考えることができた。その後、本書で扱いきれない問題や、残された課題は別の形でまとめる機会にもめぐまれた。  この本で示した基本的な観点はいまでも変えようとは思わないし、また変える必要もない。むろん補足するところはまったくないわけではない。新しい資料をいくつか発見し、叙述もできれば少々直したい。しかし、高速道路のように、ただひたすら補強材を流し込み、むやみに橋脚を太くすればよいというわけではない。書物には適切な張力というものがある。あえてそのバランスを壊したくない。  このたび文庫に収められるにあたって、語句や誤植の訂正のほか、二、三箇所資料を補足するに止まった。大幅な修正はほどこしていないから、初版とほぼ同じ形を保つことができた。余計なつくろいをせず、稚拙であっても,もとの形のまま読者の方々に呈したいのは、著者の願いである。  丸谷才一先生から解説をいただいたのはこのうえない光栄であり、最高の喜びでもある。本書が刊行されてから、いろいろとご教示を賜り、学問の道を踏み出したばかりのわたしにとって大きな励みになった。この場を借りて心から深謝を申し上げたい。  文庫版を作るにあたって、筑摩書房の大山悦子さんから多大な力添えをいただいた。記して御礼申し上げる。  最後に私事にわたって恐縮だが、この四年のあいだに、仕事においても、身辺においても一連の変化があった。なによりも母の突然の死は最大の心残りである。もし許してもらえれば、このささやかな一冊を、サンフランシスコ郊外サイプリス墓地の一隅に眠る母に捧げたい。 一九九七年三月八日 張競 張競(ちょう・きょう) 一九五三年、上海に生まれる。文化大革命下に青春を送り、その後、華東師範大学を卒業。同大学助手を経て、日本に留学。東京大学総合文化研究科比較文学比較文化博士課程終了。東北芸術工科大学教養部助教授、国学院大学文学部助教授を経て、現在、明治大学法学部教授。九四年、本書で読売文学賞、九五年『近代中国と「恋愛」の発見』でサントリー学芸賞を受賞。他に『中華料理の文化史』『性史』『美女とは何か』などの著作がある。 本書は一九九三年五月、ちくまライブラリーの一冊として刊行され、一九九七年四月、ちくま学芸文庫に収録された。 なお、電子化にあたり解説は割愛した。 恋の中国文明史 -------------------------------------------------------------------------------- 2003年1月31日 初版発行 著者 張競(ちょう・きょう) 発行者 菊池明郎 発行所 株式会社 筑摩書房 〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3 (C) CHO KYO 2003