[#表紙(表紙.jpg)] ほんとに「いい」と思ってる? 姫野カオルコ 目 次  第一章 ブランドの烙印     どろりとしているからサラリに憧れ、     サラリとしているからどろりに憧れる   ブスに希望を与えた功績   それでも地球は回っているのだがなあ、と宗教裁判でつぶやいたガリレオのように、それでもヴィヴィアンはイヤなんだけどなあとつぶやく   サイケは遠くなりにけり   ヤッとく、納得、ハイトク   名鑑はラビリンス   ハーブティーが好きな人が「いいな」と思うような関係   官能の才能の欠如  第二章 やっかいな自意識     女には自意識がないと、     ある男性作家が昔言ったそうだ   イルカに乗った少年   少年に大志を抱くな   犬に乗った少年   コメディが賞をとるには   太宰治とつきあっている女   田舎は善で都会は悪という洗脳   理想を嫌うくらい、やさしい人   なぜ「読む」のか、なぜ「見る」のか  二章と三章のあいだに     フェリーニの映画は81/2 ここは21/2章   #親戚づきあい   #リングの向こうにいるお嬢様を想うプロレス観戦つれづれ   #怒らせてくれるな  第三章 意義あり!     「いい」って言われてるけど、     ほんとに「いい」って思ってる?   感性なんか、とぎすまされてなくていーよ!   年相応でいいじゃないか、ルイ。キャンディスもそう言うよ、きっと   美形御三家あらためステキ御三家に訂正しないか   暴露本の定義   松田聖子が愛される理由   正真正銘の暴露本   「大ヒット=おもしろくない」のか?   他人は自分ではない。自分は自分である。  第四章 オススメ     「いい」ってあまり言われてないけど、     とても「いい」と思う   「このミス」の投票って……。   美人は美人らしく   ナポリは遠いので   ヤツハカじゃなくてウシミツのほう   そんなに言うなら「泣ける本」を紹介しますよ   夢見るころを過ぎても   ヒットしなくて大いに泣く   青春時代の花   筆名の耐えられない軽さの重さ   ヒメノばあさんとカオルコばあさんのおすすめ  あとがき……解説にかえて…… [#改ページ]   第一章 ブランドの烙印     どろりとしているからサラリに憧れ、     サラリとしているからどろりに憧れる  ◆ブスに希望を与えた功績 「きみ、めったなことを言うもんじゃない」  サカウエさんは私に注意した。 「そんなこと公の場で言ったら、大勢の人間を敵にまわすぞ。敵にまわって喧嘩《けんか》してくれるならまだしも、きみはただバカにされる。ぜったいバカにされる」  サカウエさんは某新書の編集長である。小説を出す出版社の編集者ではないので、いっしょに仕事をすることはないが、ものを書くにあたり私は彼を信頼している(一方的に。十年前に会ったきりなので、向こうはもう私のことを忘れているかもしれない)。 「そんなこと言ったらね、きみは、なんてセンスの悪いやつなんだろう、なんて鈍感な感受性のやつなんだろう、なんて泥くさいやつなんだろう、なんてワカッテナイ、ダサイ、カッコワルイやつなんだろう、キライだわ、この人、って思われる。賭けてもいい。そう思われる」  サカウエさんは忠告に忠告を重ねたあとに、 「でも、言ってしまうんだろうなあ、きみのことだから」  と、力なげな笑みを浮かべた。 「しかたないな。じゃ、せめて言う時期を一年遅らせろ」  そして立ち去った。  それから一年。  サカウエさんの忠告を守って時を待っていたのではない。たんに結果的に守ったことになっただけなのだが、『CUT』という映画雑誌で、私は言った。 「『ピアノ・レッスン』という映画のどこが女性に受けたのか、私にはわからない」と。  言うのはやめろと、サカウエさんが止めたのはコレである。自分だって、 「俺、腹がたつほどがっかりした。前作の『エンジェル・アット・マイ・テーブル』があんなによかったから、どれだけ期待していったことか。まったく裏切られたとはあのことだよ」  などと言っておきながら、私には言うのをやめろと止めたのである。 「なにかの雑誌で映画評読んでたら�前作もすばらしかったが、退屈な部分があるのは否めなかったカンピオンがこの作品ではみごとに全シーンを緊張感で埋めている�って書いてあって、俺はまったく逆だと思う。『ピアノ・レッスン』ってダラけてて、退屈なシーンが多すぎるよ」  ここまで言っておきながら、私には言うのをやめろと止めたサカウエさんである。私は彼ほど『ピアノ・レッスン』を嫌いはしない。なんといっても映像がきれいだし、音楽もいい。見て損したという気はしない。  しないが、よくわからん。  あの映画にたくさんの女性がジーンとしたというのが、よくわからん。  私は『ピアノ・レッスン』を見て、さがみゆきの漫画のようだと思った。さがみゆき、というのは貸本専門の恐怖漫画を描いていた人である。とくにさがみゆきにかぎらなくてもよくて、森|由岐子《ゆきこ》でも浜えい子でもいいし、とくに貸本にかぎらなくてもいい。とにかくあのタイプの恐怖漫画である。あのタイプの恐怖漫画の特徴は「根本的に設定が不自然」なことで、そこがまた「不自然ゆえに、ただキャアキャアと言っていられるたのしさ」を読む者に与えてくれる。  たとえば後妻が先妻の子(これがヒロイン)を殺そうとする。恐怖漫画だから当然、その恐怖が作品の中心となる。ところが、その後妻は実年齢300歳の女で、若い女のおめんをかぶって後妻になっているのである。おめんをかぶっていることになぜ周囲が気づかないのか、根本的に設定が不自然で、成人してから読むと、たいへんおかしい。 『ピアノ・レッスン』は、まさしく貸本恐怖漫画のように、おかしいのである。主人公の女の人は、口をきかない。しかし、勝手に口をきかないんである。おかしい。  感受性が強いことを自慢したくて口をきかない女がヒロインという、根本的におかしい設定にもってきて、ヒロインがピアノを弾こうとするたびに悪いことがおこる。  長旅の末に迎えが来てくれなかったり、不倫さわぎがおきたり、あげくはピアノを海に捨てようとするとヒロインも足をすくわれて海に落ちる。これはもう、『怪奇・呪いのピアノ』以外のなにものでもない。  そして、昔の恐怖少女漫画に必ず登場する「これでもかというほど高飛車なお嬢様、これでもかというほど傲慢《ごうまん》なまま母」といったキャラクターが、そのままホリー・ハンター扮《ふん》する主人公である。  この人、恐怖漫画のお嬢様のように、どこへ行ってもチヤホヤされる。  まず、最初の結婚相手にはげしく愛されて娘をもうける。娘もはげしくヒロインを愛している。まだ年端もゆかぬのに自分のたのしみも投げうって母のしもべとなっている。  再婚しても、再婚相手に愛される。その愛し方は、嫁であってくれさえすればいいという原始的なものかもしれないけれど、彼女が浮気していると知って彼は嫉妬《しつと》するのだから原始的♂としてはげしく♀の彼女を愛している。  はげしく再婚相手に愛されながら、この人は浮気をする。浮気相手は名優ハーヴェイ・カイテルが演じているのだが、カイテルにもはげしくはげしくはげしく絶倫に愛される。一回セックスするごとに鍵盤《けんばん》を一つ返却するという申し出は、「金を払うから俺とやってくれ、頼む、お願いだ」と土下座しているのと同じである。文明にまみれた人間からは拙《つたな》い愛の表現方法に見えるかもしれないが、彼は文明にまみれていない人間なわけだから、これほどクリアーに女の価値を認めた申し出はほかにない。  それなのに、このチヤホヤされることしか知らないヒロインは情け容赦なく自分の女体の値段をつりあげて、 「いいえ、三万円いただかなくっちゃね」  と、指を三本出すんである。 「ビタ一文負けませんからね、あたしゃ」  と、きっぱりと首をふって。  あんまりだ。あんまりだよ。  こんなに男の純情をバカにした鈍感なリアクションがあるだろうか。  バカにされてもカイテルは彼女を愛する。三万円で手を打った彼女はヤリまくる。娘がすぐ外にいても、娘は彼女にとってしもべだから、しもべは御主人様がセックスを終えられるのを庭でひたすら待つ。かわいそうにしもべ娘は外でひとり犬と遊んでいる。母親が不倫してるあいだに娘が遊ぶ犬の名前が、あろうことかフリンである。  で、ハーヴェイ・カイテルのセックスがいいとわかったら、この女は迷わず再婚相手を捨て、さっさとカイテルと再々婚するのだった。  なんという超ハッピーな浮気妻の話なのだ。『ピアノ・レッスン』という映画は。  この映画が女性に人気があったというのは、とにかくわがままをおしとおす人生に対する憧《あこが》れなんだろうか。  わがままをおしとおせるのはカワイイ顔をしている人だけだわ、とあきらめていたのが、このヒロインは顔も悪いしスタイルも悪かったので、ブスでも自信満々に指を三本たてて値をつり上げればチヤホヤされるし、わがままもとおせるんだわ、ワタシならホリー・ハンターより顔だってスタイルだって上なんだから、もっとチヤホヤされてわがままもとおるにちがいないわ、と希望を与えられたのだろうか。 『CUT』で発言してから、もうずいぶんな年月がたったが、いまだにわからない。  ただ、前作(傑作『エンジェル・アット・マイ・テーブル』)のヒロインが異様に謙虚な女だったので、次作は異様に傲慢な女に設定することで、カンピオン監督は気分のバランスをとったのかなと、今は思うようにしている。 [#改ページ]  ◆それでも地球は回っているのだがなあ、と宗教裁判でつぶやいたガリレオのように、それでもヴィヴィアンはイヤなんだけどなあとつぶやく  あれを思い出すたび、いつも私は唇を噛《か》みしめる。  眼球の奥のほうに液体がたまる。  その液体を顔の表面にあふれさせまいと、唇を噛みしめる。  ひとたび、あれについて私が口にすれば、たちまちにして人はびっくりする。  そう、人々はびっくりするのだ。 「なぜ、そんなことを気にするの?」 「どうして、そんなに怒るの?」  なぜ、そんなことを気にするの? どうして怒るの? びっくりして、げらげら笑う。その明るい声のひびきが、ますます私の心を暗くする。  なぜ?!  叫びたいのは私なのに。  このやりきれぬ感情を、疎外感と呼ぶのだろうか、私は知らない(サガン調)。  あの映画、それは『プリティ・ウーマン』。公開当時から大ヒットし、今でも女性に大人気の映画。私はあの映画を思い出すたび、いや、正確に言いなおそう、あの映画に対する女性の反応を思い出すたび、生きる気力を失いそうになる。  高校を中退した二十代前半のヴィヴィアン(ジュリア・ロバーツ)は、その日暮らしをしていたが、とうとうお金がなくなり、道路に立って娼婦《しようふ》をすることに決める。初日に、彼女を買ったのが大会社の二代目社長(リチャード・ギア)。セックスが目的なのではなく、会社の取引の事情で、ちょっとしたコンパニオンが必要だった。パーティに、買い物に、オペラにと、いっしょに時間を過ごすうち、ふたりは仲良くなって離れがたくなる。「定期的にデートしよう、おこづかいもあげる」とリチャード・ギアは申し入れる。「そんなんじゃいや」とジュリア・ロバーツは言って、いったん自分のアパートに戻る。が、あとからリチャード・ギアが花を持って迎えに来て、「きみのための部屋を借りた」と言うと「それならいいわ」とジュリア・ロバーツが言って、終わり。  こういう話なんだが、私がこの映画がイヤだと言うと、 「おとぎ話のようなラブロマンスを馬鹿にしてるのね」  と、なにをどうトチ狂ったか、あきれるような誤解をする人がいる。  私はおとぎ話は好きである。ハリウッドの虚飾でコテコテのハッピー・ラブロマンスはたのしい。この世の憂さを忘れる。『ローマの休日』など何度見たかしれない。 『ローマの休日』のように脚本・カメラ・俳優陣ともに最高の映画に虚飾という形容詞をつけると気分を害する人もいるかもしれないが、「現実にはありそうもない」という意味でなら、あれは現実にはまずない話で、王女様の隠し撮りフィルムを現実には売ってしまう新聞記者のほうが多いだろうし、あんなにかわいい王女様もあんなに精悍《せいかん》で誠実な新聞記者もいないだろうし、いてもめぐりあわないだろうし、めぐりあってもあんなにロマンチックな恋に落ちないだろうし、なにもかもが、現実にはありっこない、現実にはそうはいくはずのないことばかりである。だけどいい。だからいい。だからおとぎ話なのだと言うのである。 『プリティ・ウーマン』がイヤなのは、この映画が、 「現実の阿漕《あこぎ》さ、現実のさもしさ、だけを、べとべとに塗り込めて泥まんじゅうにして観客の口につっこんでくるから」  である。  おとぎ話の反対の、この世の憂さをしばらく忘れていたのに思い出させる、チョー現実的な映画だからである。  しかも、『道』『誓いの休暇』のように、現実の哀しさを見据えてもなお、人のあたたかさを掬《すく》ったり、『プラトーン』や『居酒屋』のように、現実の残酷さを見据えて、問題を提起したりするわけでもなく、ただ、現実の汚らしい、さもしい部分を掬った、ほとんど露悪的なまでに現実的な映画だからである。  まず主人公の女だが、こいつが何もしない。勉強もしてこなかったし、労働もしてこなかった。  娼婦になることにしたと言っても、娼婦としての労働(=客とセックスする)をする前に、男と知り合っている。  なにひとつ自分の手で掴《つか》みとろうとしないまま、ただ他人からは尊敬されたいと思っている。  高級ブティックで店員が彼女の「いかにも娼婦なかっこう」を見て冷たくすると、「娼婦だと思ってバカにしないで」と怒る。でも、娼婦になると決めた女に「娼婦だと思うな」という要求はすごくヘンだ。  でもまあ、「決めただけでなりきってはいない」ということにして百歩譲ろう。精神は高潔なのだ、と主張するシーンなのだとしよう。  しかし、高潔な精神の持ち主なら、高潔な精神の持ち主にふさわしい労働を選ぶだろうし、プロとして娼婦の労働をするのだと決めたのなら(合法的かどうかはともかく)高潔なわけだし、ならやっぱり娼婦に見られたのを怒るのは矛盾しており、百歩譲るのはすごく難しくて論理が破綻《はたん》してしまい、先がつづかなくなるので、百歩譲るというより、ちょっと目をつぶって、にしておく。  で、この女は怒って、リチャード・ギア若|旦那《だんな》にチクる。と、ギア若旦那社長は、この女が自分の関係者だと店員にわかるように手配する。  この手配というのが、ピザをブティックにデリバリーさせるという、べつに若旦那じゃなくても私にでもできそうなスケールのちっぽけなしみったれた手配なんだが、ブティックの店員もしみったれた性格だったのか、これくらいの手配で、とたんに態度をよくする。と、とたんに女も大喜びする。  また矛盾している。高潔な精神の持ち主なら、こんなふうな店員の態度(客を値踏みするような態度)にこそ怒るはずである。  現実にはどうなのかはしらないし、また、過去はそうだったが、現在はちがってきているのかもしれないが、ティファニー宝石店の従業員について『ティファニーで朝食を』という映画でオードリー・ヘプバーンが「どんな客にも礼儀正しい」から「すごくイカしたところよ」と言っている(この映画でのオードリー・ヘプバーンはやはり娼婦役である)。 [#この行4字下げ]オランダに一泊、日本円にして八万円のアムステル・ホテルという高級ホテルがあるが、ここが、このときのオードリーがいうようなホテルである。ぼろぼろのバックパックを、ぼろぼろの洋服に背負った、ろくに外国語もしゃべれないひとり客に対しても、あくまでもレディとして、ジェントルマンとして応対する。すごくイカしたホテルである。  値踏みされたのにプリティー・ウーマンは怒らない。怒らないどころか、喜々としている。若旦那の札びらで(=他人の札びらで)ブティック店員の頬をはたく態度とはこのことである。  こんな札びら好きな女なので、彼女は若旦那社長から貴金属をもらっても大喜びだ。  女が女なら、若旦那も若旦那で、若旦那だけあって、ほんと、落語に出てくるバカ若旦那のように、自分ではなんっっっっにもしない。みごとに何もしない。会社も親からもらったもの。仕事も副社長にまかせっきり。事務も執事まかせ。  でもまあ、王子だって社長だって世襲制なんだし、百歩譲ろう。でも、恋くらいは自分で行動するのかと思っていた。だって「おとぎ話」という宣伝文句だったんだから。  ところが、恋の場面でも何もしない。ヴィヴィアンを好きになっても、彼女がかなしんでいるときにもなにもしない。なぐさめもしない。私はせめて「ぼくにはどうしてあげればいいのか……」とかなんとか言って、なにもしないなりにも、どうしてあげればいいのだろうかと考えてほしかった。  こいつときたら、どうしてたと思う? 映画見た人、おぼえてますか? ヴィヴィアンがかなしんで目をうるませているときに、となりで……グーグー寝てただけでしたね。  ヴィヴィアンをだれがなぐさめ、励ましました?  そう。優秀なホテルの支配人さんでしたね。あの、ちょっと頭髪が後退した支配人さんだけが『プリティ・ウーマン』の中でみるべき人でしたね。  こんなにバカぼっちゃま若旦那社長なので、当然、とっととヴィヴィアンに逃げられる。  ところが、彼女が去ってもショボンとしているだけで、またこの若旦那、何もしない。  ヴィヴィアンの居所をだれが調べましたか? そう。またあの優秀な支配人さんでしたね。  ヴィヴィアンのところまで、だれが車を運転しましたか? 若旦那じゃありませんでしたね。あの優秀な支配人さんからよろしく頼まれた、運転手さんでしたね。若旦那は花を持ってゆきましたが、この花も支配人さんが買って、支配人さんが若旦那に持ってゆくよう渡したんです。  もうほんと、ほんとに何もしない若旦那である。そしてついにラストシーン。ラストシーンでもなにもしない。 「ラストシーンでは何て言えばいい?」  と、ヴィヴィアンに訊《き》くしまつ。訊かれてヴィヴィアンが答えた、その答えを、そのまま復唱しただけでジ・エンドが出たら、怒るほうが「ふつう」だと思わないか? 「客をバカにすんのもいーかげんにしろ!」  私、思わず席でスクリーンに向かって叫びましたよ。  この映画をおとぎ話だと言うのなら………、ヴィヴィアンは娼婦になっていやな客にいやなことを言われ、いやなセックスをして傷ついているところへ、白馬の王子たるリチャード・ギア社長とめぐりあうストーリー展開ではないのか?  そしてギア社長は、周囲の反対をおしきって、「自分で」タクシーをつかまえ、「自分で」花を買って、これが無理なら、せめてせめて「自分から」彼女を抱きしめてキスしないと。  だが、大勢の女性が『プリティ・ウーマン』にうっとりしたという。  なぜ? 「なーんも努力しないで、ある日、ぽんと大金の入った鞄《かばん》を拾わないかなあ」  という願望を満たした映画だから?  リチャード・ギアは「一個の人間」ではなくて「大金の入った鞄」で、ジュリア・ロバーツは「その鞄に入ってた金で買い物をたくさんできる人」になったから? そういう点では男性に対するセクハラ映画ですね。  ああ、なんと夢のない映画なのだ、『プリティ・ウーマン』。なんと志の低い二人の映画なのだ、『プリティ・ウーマン』。本当に娼婦と客の実録だ。 [#改ページ]  ◆サイケは遠くなりにけり 「今の若い人にはわからんだろうね」  みたいなことを、おじいさんが言うことがある。  鶴のようにやせて、注文仕立てのスーツを着て、つばのある帽子をかぶって、鎖のついた懐中時計を持ったおじいさんが、やさしそうに笑うでもなく、意地悪く見下すのでもなく、東風が吹いてゆくようにひとこと「今の若い人にはわからんだろうね」と言うと、言われたほうの若い人は、わかった時代のことを聞いてみたくなったりする。  そんなおじいさんになりたいものだ、と私も最近は思うようになった。  最近は、どこででも、だれにでも、女の裸が見られる。小学生でも、成人女性の裸が見られる。裸だけでなく陰毛も見られる。性器だってちょっとなんとかすれば、見られる。  だから、今はむかしとはちがう。  むかしはそうじゃなかった。  そうじゃなかったんぢゃよ。むかしはのう。  むかし、万国博覧会が大阪で開催されることが決まって、それはアジアでははじめてのイベントぢゃった。わしは小学生ぢゃったよ———————。  そのころ、すごいことがおこった。  すごかった。そりゃもうすごかった。日本中が度肝を抜かれた。  とくに小学生高学年という、人生でもっとも多感な年齢にある人間にとっては、頭のヒューズがぶっとんだかんじだった。  永井|豪《ごう》の『ハレンチ学園』。  この漫画は「事件」だった。『バガボンド』『千と千尋の神隠し』が大人気だったり、『宇宙戦艦ヤマト』が大ブームだったり、『ドラゴンボール』がバカ売れだったりしたのとは、まったくちがう。漫画の枠を完全に超えて、社会的事件だった。日本中を震撼《しんかん》させた。 「とんでもないことである!!」  と、大人はカンカンになって怒った。作者、永井豪はいつも攻撃された。罵声《ばせい》といっていい攻撃だった。『ハレンチ学園』に反対する団体が広場で漫画を燃やす抗議運動をしたこともある。  NHKの朝のニュース番組に「スタジオ102」というのがあった。これにも永井豪は引っ張りだされた。  小学生だったわしは、はじめて見る永井豪の姿に驚いた。その朝「スタジオ102」を見るまでにも、永井豪の写真は見たことがあったが、不鮮明だったから、動いたりしゃべったりする永井豪を、鮮明な画像で見るのははじめてだった。  すごく意外だった。能登《のと》半島出身だけあって、肌理《きめ》こまかな、色白の、やさしそうな、甘いマスクの、ほっそりした二枚目だった。考えてみれば、当時、彼は二十歳そこそこだったのだから、それくらいの歳の男は、たいていやせているものである。後年、丸顔になったのは、職業がらすわりっぱなしの作業だったからだろう。  アナウンサーから永井豪への質問は、 「どのような意図で創作なさってるんですか。この漫画の主題は何なのでしょう」  と、表現が変わっただけで言ってることは、他の、日本中の、怒っている大人と同じだった。  永井豪は、はあ、とか、まあその、とか言ってうつむいているばかりの、漫画家のほとんどがそうであるように能弁の反対で、それがいよいよ、やさしそうを通り越して、気弱に見せた。  わしは、先生を怒らせることのない、おとなしい模範児童であったので、表向きは『ハレンチ学園』など読んだことがないふりをしていたが、実は大好きだった。いや、大大大大大大大大大大大大大大好きだった。  しかし、女子であったので、それは秘密にせねばならなかった。『男一匹ガキ大将』なら「好き」だと言っても、「さすがは、学級委員長。女子なのに話せるじゃん」みたいな信用を、男子からも女子からも得られるが、『ハレンチ学園』を女子が好くことは禁忌だったのぢゃ。  なぜ女子なら禁忌なのか、そのあたりの詳細は『サイケ』という小説がじつによく描出している。この時代の空気を知るにも歴史小説として読める。こんなに誉めるのは、『サイケ』の作者はわしだからである。文庫になるのは二〇〇三年であろう。角川文庫に他社の宣伝をしてもうしわけないが、まあ角川は太っ腹なところをみせてくれると信じて、集英社販売部の電話番号03(3230)6178もここに書いとこう。  で、わしが『ハレンチ学園』をなぜそんなに好きだったかといえば、カンカンになったPTAのおばさんの言うとおり「青少年にゆゆしき悪影響を与える漫画」だったからである。  当時、売れっ子タレント評論家(? タレントを評論するのではなく、タレント的な人気のある評論家の意)だったカバゴン先生が、 「この漫画は体制に管理された子供たちの反乱なのだ」みたいなことを一生懸命おっしゃってくれておったが、わしはPTAのおばさんの言ってたことのほうが正しいと思う。ゆゆしくて悪いからこそ魅力的だったのぢゃよ。  カバゴン先生の言うような、明るい作品ではなかった。暗い漫画だった。男の性の興奮の暗い爆発。作品の中の女の子は、ひとりの例外を除いて、みんな道具扱いで、男のいいように裸にされていやらしいことされるばかりで、そういうシーンを見るのがわしは好きだった……と言うと、あわてんぼうの人は、 「ははあ、なるほど。エッチなことされる女の子に自分を重ね合わせてたんですね」  と妙な納得をするのだが、ちがう。  わしは、山岸くんやヒゲゴジラ先生や丸ゴシ先生といった男の登場人物に自分を重ね合わせておった。  だから、十兵衛こと柳生みつ子には頭があがらなかった。 「ただ一人の例外」と先述したのは、彼女のことだ。十兵衛は強かった。肉体も精神も、あえて女性|蔑視《べつし》的な形容詞を用いるなら、男らしかった。やさしくかわいい顔だちで、グラマーでセクシーで男らしかった。  永井豪の素晴らしさは、一九六九年、日本が来《きた》る万博に浮かれているあんなころにもう早くも、新世紀のバブルがはじけた現代社会においても充分に新鮮な女性像を打ち出していたことである。  十兵衛は男らしいだけでなく、清潔だった。  日本の女性美の伝統では、セクシーなこと、強いこと、清潔感、この三点はみんな別々のバラバラな方向にベクトルを向けていて、たいていどれかのベクトルが突出しており、三点の同時存在はありえなかった。それなのに十兵衛はみごとに三ベクトルともに均等に突出していた。  小学校5年にして「十兵衛のような女性を見習おう」などという大志をいだかず、さっさとあきらめて、「十兵衛には頭があがらない」と骨の髄からヒゲゴジラ先生になってしまったわしは、後年、スケールの小さな大人になってしもうた。森永エールチョコレートをもっと食べておくべきだったかのう。どうもあのチョコレートは脱脂粉乳増し(水増しにあらず)したみたいな味で好かんかってのう。一九六九→一九七〇年よ、サイケな時代よ、げに遠くなりにけり。 [#この行4字下げ](注)森永エールチョコレート……作曲家で指揮者の山本直純が、「大きいことはいいことだ、大きいことはいいことだ」と歌って指揮するCMが七〇年頃、流行。 [#改ページ]  ◆ヤッとく、納得、ハイトク  セックスをする機会に恵まれない人間というのがいる。そういう人間は助平になってゆく。前頭葉が助平になってゆく。前頭葉の前端部だけが助平になり、反して肉体は石像に近くなる。この状態の初期にある人間は巷間《こうかん》ではオナニストと呼ばれることが多い。だが末期になると、セックスをする機会に恵まれに恵まれて飽食してしまった人間と、結果的には同じになる。 「ああ、何見てもムラムラしねえな」と陶器をしみじみ眺めたり、「最近、ドキドキした瞬間なんかあったかね」と古寺を訪ねたりして、そのうちすっかり墨絵のような人間になる。しかし本当の墨絵になって掛け軸から抜け出せなくなると困るのでなんとかしようとする。  なんとかしようとした工夫の一環で、『燃えよ剣』を読み直した。おっ、ドキドキしてきた。喉《のど》のはばが狭まったようなぐあいになり、乳房が平素より膨らんだようなぐあいになり、骨盤が熱をおび、心臓が早鐘を打つ。遠くなったサイケの時代よりはもうちょっと現在に近いころに好きになった男子同級生を廊下でみかけたときのようなかんじ。  読み進めるともっとドキドキした。前頭葉がムラムラしてきた。どうやら、まだ完全に墨絵にはなっていないのだな。生唾《なまつば》を呑《の》む。  もちろん、司馬《しば》本の、剣法にあらず筆法時代斬りはたまらない。深遠で新鮮。人物がカッコいい。真実味と親近感。司馬本の魅力は、何も私がここであらためて言わずとも、もうすでにあまたの人々が賛美しきっている。  だからもうひとつ賛美を加えたい。司馬本には、みっしりと官能のたちこめる魅力があると。明瞭《めいりよう》で、スピーディで、ラクウェル・ウェルチを壁ぎわに追いこんでゆくような興奮がその文体にはあると。そこには決して、弱々しい女を追いこむもたつきがない。『燃えよ剣』にはラブシーンなど皆無に等しいのに、文章! 文章それ自体が痺《しび》れるほどセクシーである。墨絵になりかかっている人間をドキドキさせムラムラさせるほど。  こんなにセクシーな文章を書いていたら、書いていて自分で呼吸困難になりはしませんか、と恐る恐る尋ねてみたくなる。  司馬本を、独自の歴史観や哲学がたいへん勉強になる、と居住まいを正して読んでおられる方が多い中、生唾を呑みながら司馬|遼太郎《りようたろう》を読むと、どことなく背徳的な気分になり、それがまた生唾を湧かせる要因となるのである。 [#改ページ]  ◆名鑑はラビリンス  そういうわけで、墨絵になって掛け軸から抜け出せなくならないように、末期的人間は自己鼓舞をしなくてはならない。  もともと官能的でなく生まれついた者には、この自己鼓舞はたいへんである。なにせ肉体が「ドキドキしにくい」ようになっているのだから、あの手この手で工夫をしなくてはならない。その一環が「名鑑」である。  ドキドキせんとして読書をしている私は「名鑑」の類を、長々と読むんである。資料として読むのではない。余暇として読むんである。  科学者の名鑑、文学者の名鑑、怪獣の名鑑も読むが、犬の名鑑(図鑑?)をよく読む。道で犬を散歩させている人に「おや、ウエストハイランドホワイトテリアですね」とか「まあ、セントシューバートタイプジュラハウンドですね」とか、たちどころに言うので相手はたいへん喜ぶ。喜んでポケットから弄《あめ》をくれた人がいた。そういう利点もある。  だが、なんといっても、性的な興奮を得る=ドキドキするというよろこびこそ、読書のよろこびではないだろうか。  そういう目的では、俳優の名鑑にまさるものはない。キネマ旬報社から出ている『日本映画俳優全集』と『外国映画俳優全集』。これがいいのだ。(注・現在は絶版)  邦画、洋画ともに女優編と男優編があって一冊は七〇〇〇円ほど。ちょっと高いが買って損はなかった。すくなくとも私にかぎっては。なにせこの名鑑でどれだけ性的な興奮をおぼえたか、回数にすると手足の指の総計ではたりない。  さて、ここまで読んで、「ほほう。キネマ旬報の俳優名鑑には、宮下順子『四畳半|襖《ふすま》の裏張り』のストーリーがこまかに記載されているのか。よし買ってみよう」などと、あわてた想像をする人がいるかもしれないが、そういう記載はとくにない。また、そういう映画の写真が満載されているわけでもないし、そういう映画の記述について興奮するわけではないのである。  たとえば「久野あかね」という人の項を読む。久野あかねという人を、私は知らない。映画を見たこともない。  名鑑には日本髪を結った切手大の写真が不鮮明に載っている。そして「1907年7月19日、東京府多摩郡板橋町の生まれ。本名・小崎久江(旧姓・上野)。薬種商だった父・上野金三郎の一人娘だが幼いときに父と死別。母・はるに連れられ、大阪市で米問屋を営んでいた母の兄を頼って大阪市へ移り22年に曾根崎《そねざき》尋常高等小学校高等科を卒業して家政科へ進むが23年3月に中退。25年に新国劇の総帥・沢田正二郎夫人で元・帝劇女優の渡瀬淳子《わたせじゆんこ》が大阪市南区桃谷町に開いた演劇学校に学ぶ……」とまあ、たいへん詳しく書いてある。詳しいが、カルテのごとく情感を欠いている。その情感を欠いたくだりを読んでいると、えもしれずワクワクしてくる。情感を欠いたくだりには書かれていない光景が目のあたりに浮かぶのである。イマジネーションをいちじるしく刺激され、ひいては脳から興奮物質が肉体に伝達され、興奮するのである。  調査、執筆は数名におよぶ名鑑であるが、事実だけを詳細に記載する文のなかに、ほんのちょこっと、冷静に徹しきれない執筆者の「思い」のようなものがあると、ますます興奮する。「思い」のくだりは「新境地をきりひらこうとしたが成功したとはいえない」みたいに尻《しり》きれとんぼに終わっていて、そのじれったさが、まるで「お互いに好き同士なのに、なにかストッパーがかかってしまう事情があってキスできない男女」になったような心地にさせ、ドキドキしてくるのである。  ただ興奮すると、興奮をぶつける相手がいない者にはあとがたいへんなので、そこがこの名鑑のデメリットといえる。ぶつける相手なんかいないほうがよい、ひとりで興奮しているほうがよいという自給自足な性格の人には向いている。 [#改ページ]  ◆ハーブティーが好きな人が「いいな」と思うような関係 「××子ちゃんが、もしこの文庫をここまで読んだら、�なにもそんなに無理してドキドキしなくったって、もっと、ふつうっていうか、ナチュラルにしていればいいじゃない�とか言いそうだな」  と思ったあなた!  あなたの知り合いの、その××子ちゃんって、ハーブティーを飲んでたりしませんですか? 薄く焼いた陶器のカップでハーブティーを飲んで、好きな男性のタイプはスナフキン(ムーミンに出てくる人)だったりしませんですか?  服といい、髪形といい、観る映画といい、読む本といい、××子ちゃんって、すべてが、そう、顔や体つきまで、さらりとしてませんですか?  だから「そんなに無理してドキドキしなくったって」と××子ちゃんなら言うかもしれません。しかしですな、××子ちゃんって、さらりとしてるわりに、いつも恋愛関係ではビジーなんですな、これが。  なものだから、ほかの分野ではさらりとしておかないとバランスがとれないんですな。××子ちゃんは、だから「恋愛分野においてさらりとしておこうと努力しなくてもさらりとなってしまう人」のことがわからない。そういう人がバランスをとろうとして、他分野くらいではどろりとしていようとするのがわからない。  ××子ちゃんは、きっと良寛と貞心尼《ていしんに》のようなつきあいを、いいなと思っちゃったりするんだろうな。  良寛のお話を小さいころに絵本で読んだ人もいるだろう。子供といっしょにかくれんぼをしたところ、鬼役の子が良寛を見つけられなかった。そのうちに夕暮れて、子供たちは鬼役の子もふくめ家に帰ってしまった。それでも良寛はいつまでも隠れつづけ、村の人に「あれ、こんなところで何してなさる?」と訊《たず》ねられても「しぃーっ」と言った、そんなエピソードで有名な人だ。  その良寛は、晩年に貞心尼という女性と交際していた。二人は美しい愛情を育《はぐく》んだのだそうである。『蓮《はちす》の露』という本にまとめられている。  彼らがどのような愛を紡いだか、実際に知る人は今の世にはいない。仮に存命していたとしても、男女の仲は当事者しか知らない。  二子山《ふたごやま》部屋親方夫妻の事情も、石坂浩二夫妻の事情も、松田聖子夫妻の事情も、ジェームス三木夫妻の事情も、いろいろ噂は飛ぶけれど、実態は本人同士しか知らないし、本人同士だってよくわからないことだろう。だからこそ巷間《こうかん》は噂をしたがるのである。  松田聖子夫妻は平成の夫妻なので、愛情事情はともかく、使っている洗濯機がナショナルの全自動だと言われれば頭に映像も浮かべられるが、ジェームス夫妻となると、夫が女遊びをしていたころが昭和初期になっただけでもう、おぼつかない。暴露本には「昨夜遊んだ彼女は五尺二寸、十四貫ほどのグラマア」などと書いてあるのだ。今や明確に「五尺二寸、十四貫」の女性を浮かべられない人のほうが多いと思う。  ましてや良寛と貞心尼の和歌のやりとりを集めた『蓮の露』を全編読んだところで、二人の愛のかたちがありありと見える人はとても少ないと思う。  しかし、見えないからこそ想像は幾重にもひろがる。先項の名鑑の、カルテのような情緒を欠いた詳しいくだりのように。  そもそも良寛が貞心尼と仲良くしていたころというのは、いつか。  ナポレオンがオランダを征服し、オランダの東洋植民地にイギリスが目をつけた。イギリス船が日本近海によく来るようになる。アメリカの捕鯨船もよく来るようになる。トラブル多発。幕府、異国船打払令を出す。これが一八二五年。元号でいうと文政八年、このころである。  このころ二人ははじめて出会った。  良寛は六十九歳。貞心尼二十九歳。年齢差は四十。  良寛は各地への修行の旅を終え、村のとある屋敷内にある庵《いおり》で清貧の一人暮らし。  貞心尼は尼になって六年目、良寛の庵からは小山を隔てて離れたお堂で一人暮らし。  二人の住居間の距離は、歩いて一日がかりといったところだった。  貞心尼は俗名を「ます」といった。長岡藩士の二女である。  娘ざかりのころは、才色兼備の誉れ高く、懇願されて医者のもとへ嫁いだ。だが、五年で夫と死別。出家して貞心尼となった。  むろん、さいしょは某寺で二人の尼に教えを乞《こ》うかたちで仕えた。仏教修行だけでなく家事雑事も謹順であった。  こうした生活のなかで、貞心尼はいくどとなく良寛の高徳の噂を聞き、またそのやさしさあふれる歌にふれるうち、尊敬と憧憬《どうけい》のまじった感情を抱くようになった。  六年が経ち、貞心尼は閻魔堂《えんまどう》というお堂に移り住む。と、良寛の庵のある屋敷の主とふとした縁ができた。そこで彼女は良寛を訪ねたわけである。  尊敬し憧《あこが》れた良寛に会うために、貞心尼は手まりを持参した。良寛が手まりをつくのがことのほか好きなことを知っていたのだ。手まりは彼女が一針一針、心をこめて作ったものである。  だが、あいにくと良寛は不在であった。そこで貞心尼は手まりに歌を添えて置いて帰る。   これぞこの仏の道にあそびつつ    つくやつきせぬみのりなるらむ  庵にもどった良寛は、思いがけない置きものを見て、その美しい絹の球体と水茎うるわしい筆跡の綴《つづ》る歌をよろこんだ。   つきてみよひふみよいむなやここのとを    とをとおさめてまたはじまるを  貞心尼に返歌を送った。貞心尼は躍らんばかりによろこび、いまいちど、良寛の庵を訪ねる。   君にかくあひ見ることのうれしさも    まださめやらぬ夢かとぞおもふ  二人は出会いをともによろこび、夜更けまで語りあう。時間のことを良寛が気にかけると、   向かひゐて千代も八千代も見てしがな    空ゆく月のこと問はずとも  という歌を詠み、良寛もまた、   心さへかはらざりせばはふ蔦《つた》の    絶えず向かはむ千代も八千代も  と、返した。二人は、はじめて二人きりで会ったときから精神的な波長がぴったりだった。  その日の後もさらに、歌を交わし、語り、手まりをともにつきながら、二人は親交を深めに深めてゆく。  良寛は、あるときは仏の道を、あるときは人生の機知を、修行を重ねた徳の高い年長者の立場から語り、貞心尼は謙虚に聡明《そうめい》に、そしてなによりも柔軟な若い頭脳で彼に応《こた》えた。良寛を襲った直腸癌という病が二人を分かつまで。  これが良寛と貞心尼の愛のかたちである。 「二人の愛情は性別を超越した清々しいものであり、究極のプラトニック・ラブである」  と評されることが多い。しかし、プラトニックでありながらもかつ、   いかにせむ学びの道も恋草の    しげりて今はふみ見るも憂し(貞)   いかにせむ牛に汗すと思ひしも    恋の重荷を今は積みけり  (良)  と、たいへん情熱的な歌を交換している。このことから、 「いや、実は二人はセックスしていたのではないか。良寛の年齢からすると合体は無理でも肌と肌を触れ合わせる濃厚な愛撫《あいぶ》なら可能である」  といった推察をする人もいる。  私はどちらか。  迷わず「してなかった派」である。五〇〇万円賭けてもいい。ぜったいに二人の間にセックス(準セックスも含めて)はなかった。  そう思う理由は、私自身の育った環境が、二つの想像をさせるからである。二歳半のころより、私はキリスト教の施設に預けられていた。古くて暗い建物で、壁にかかった神様の絵と賛美歌がなにか無言で戒めめいたものを、私にいつも感じさせた。そのまま年|長《た》ければ、宗教の道に入った人の性の戒律の厳守は「ごくふつう」だと感じる。また、自分の両親は、クリスチャンではなかったが、私が生まれてからは、別居のようなかたちで暮らしていたので、ずーっと家の中に性はなかった。ずいぶん長いあいだ私は自分を小尼《こあま》(小僧じゃなくてね)のように感じていた。小尼も当然、性には無縁の生活をする。  もちろん貞心尼は、私などの持つ「気分的な尼意識」とはちがって事実、尼であり、その名のとおり貞亮《ていりよう》なる貞実なる心の尼であったから、そのような人が戒律を冒すとは断じて信じられない。いわんや良寛をやである。これが一つめの想像。  二つめは、戒律を守らねばならぬ立場だからこそ、その思いはふつう以上に強くなるはずだという想像。   いかにせむ学びの道も恋草の    しげりて今はふみ見るも憂し (貞)   いかにせむ牛に汗すと思ひしも    恋の重荷を今は積みけり  (良)  この二首の思いの熱さ。二人の波長がぴったりかさなって振動している。  では、二人は肌と肌をふれあわせたいのに戒律ゆえに「耐えて」いたのかというと、そうではない。  ふれあわせずともいいのである。ふれあわせないからいいのである。ふれあわせぬゆえに、前頭葉と前頭葉が熱く抱擁を交わせるのである。いわば前頭葉セックスである。  互いに尊敬しあい、いつくしみあい、それでいてセックスがなく、なおかつ情熱を交わす愛のかたちというのは、究極のエロスではないだろうか。  二人の愛は仏の慈悲を信じる者同士の、知性をきわめた心と心のふれあいのスパークだったのだ。美しい情熱のスパークだったのだ。美しいと思う。  こう思う上で、私はさらに言いたい。 「こんな関係、大嫌いだ。私はことわる。かんべんしてください。けっこうです」  と。私には貞心尼のような謹順さも知性もない。美貌《びぼう》もない。にもかかわらず、無謀にも私は貞心尼と良寛の愛のかたちを、ある男性に対して求めたことがあった。  高校生のころのことだ。ある男性の作家に先述の表現のとおりの「尊敬と憧憬のまじった感情」を抱いた。彼は私より四十歳ほど年上だった。  むろん、その作家と面識はない。作品からこうした感情を抱いた。その感情はどんどん強いものになり、盲目的、狂信的なまでであった。それでいて、彼のすがたを想像して自涜《じとく》にふけることはないのである。彼とのセックスなど考えてもみない。  女子高校生の純情がそうさせるのではない。純情どころの話ではなくて、セックスを通り越してさらにその先を望んでいたのである。その先とは、いろんな話をすること。いろんな話ができる愛情関係というのは、書くとなんてことないように見えるかもしれないが、この世でもっとも難しい結びつきである。ましてや出会う縁のない人物と。己を知らない無謀な夢だった。  私は反省し、自分の生活の中で縁のある人とふれあおうとした。ところが、反省に反省をかさねても、前頭葉先走り傾向はなかなか私の体質から払拭《ふつしよく》されない。  たとえば、私はA(男)のことが好きである。Aも私のことを好きだと言ってくれる。堅苦しいあいだがらではなく、気も合う。Aはルックスもいい。お互い独身。キスもセックスも皆無。  こうした関係は、私もすばらしいものだと思うし、誇りにも思っている。しかし、Aとのような関係がBとも、Cとも、Dとも、E、F、G、H、I、J、K、L、M、N、OP、Q、R、S、T、U、V、W、X、Y、Zとも成立して三十四年もたてば、もうたくさんだ、と思うのも、そんなに不自然なことではあるまい。 「これから出会う人とは、知性が介在しない関係を持ちたいです。ぜひぜひ獣のように交際したいです」  と、願うのも、また、 「だいたい良寛と貞心尼の愛のかたちをステキがる人っていうのは、さんざんセックスをしてる人なんじゃないの? ゲイの人と暮らしたいとか言う女の人とかさあ。セックスをしないでいる男女っていうのが神秘的に思えるほどセックスする機会にめぐまれた人生だったのね。でも世の中にはそうじゃない人だって大勢いるのよ。五尺二寸・十四貫より想像がつかないんでしょうけど」  と、下卑《げび》て意地悪く言いたくなるのも、不自然なことではあるまい。 「あなたと会うと有意義な会話ができる」 「あなたは礼儀正しい」 「(顔ではなくて)字がきれいですね」  こんなふうなことを私はよく言われるが、   歌もよまむ手まりもつかむ野にもでむ    こころひとつをさだめかねつも  などと、もしこんな歌など詠まれたらさっさと帰る。こころひとつもさだめず行動もしない男の知り合いはもういっぱいいますんで。   梓弓春になりなば草の庵を    とく出て来ませあひたきものを  などと、なぜ春になるまでのろのろ待っているのか。会いたければ白馬に乗ってとまでは言わないから、駕籠《かご》でも呼んで自分から来ればいいではないか。禅宗のくせに浄土宗みたいな他力本願な奴め。   いかにせむ学びの道も恋草の    しげりて今はふみ見るも憂し  女が自ら「私、本なんか読んでいたくないのよ」と告白してるのだ。それなのに、   いかにせむ牛に汗すと思ひしも    恋の重荷を今は積みけり  などと、なにを牛歩戦術をしているのだ、この旧・社会党的性格。山口百恵の『美・サイレント』という歌をうたってやろう。  ♪ 女の私にここまで言わせて    じらすのは    じらすのは    たのしいですか〜 ♪  そうだ、女はあんたに言っとるんだぞ。  ♪ あなたの××××が欲しいのです    燃えてる××××が好きだから ♪  沈黙《サイレント》はちっとも美なんかじゃない。そりゃ、ただの弱腰だ。自己保身だ。   たちかへりまたもとひこむたまぼこの    道の柴草《しばくさ》たどりたどりに  ほら、女がなにもしない男にがっかりして「今度はヤってね」としょぼんとして帰っていくのだから、   またも来よ柴の庵をいとはずば    すすきをばなの露をわけわけ  などと部屋が汚いことくらい気にせんと、追いかけんか。走らんか。走れ。走って女の腕を掴《つか》め。そんな簡単なことがなぜできん。 「いやっ、私、帰るわ。はなして」  女は言うだろう。そりゃそうだ。しょぼんとして帰ろうとしたのだから欲情が消えて、がっかりになっているのだ。 「帰さない!」  がっかりさせたのは自分なんだから、ここでこれくらいのことは言いなさい。 「いやっ」  と、女にちょっとキイキイ言われることくらいそんなに厭《いと》うな。減るもんでもなかろうが。ビンタをくらうくらい何がどうした。 「帰るっ」  なおも引き下がるな。ここでキスをせよ。女は黙る。しがみついてくる。  そりゃ、あんたに惚《ほ》れてない女を相手にこんなことをしちゃいかん。言語道断。磔刑水牢《たつけいみずろう》打ち首だ。しかし、この女は、さっきから長々と説明しているように、   向かひゐて千代も八千代も見てしがな    空ゆく月のこと問はずとも  と、明言しているではないか。「好きよ。時間のことなんか気にしちゃいや」と。ではポスト山口百恵というふれこみで出てきた松田聖子の歌を、今度は歌おう。  ♪ 何故あなたが時計を    チラッと見るたび    泣きそうな気分になるの ♪  蓮《は》の花の歌ではないが赤いスイートピーの歌だ。これも、ぐずでのろまな男に惚れた女の歌だぞ。  ♪ 何故 知りあった日から    半年過ぎても    あなたって 手も握らない ♪  嘆かわしいと思っていた私であったが、もしかしたら、こんな宦官《かんがん》っぽい男性を新鮮に感じる女性も少なくないのかもしれない。「ちょっぴり気が弱いけどステキな人」だと聖子もかばっている。  良寛と貞心尼の愛のかたちは美しい。二人はあれでいい。出家した者同士なんだから。  それに貞心尼は結婚した経験がある。それも、美人の彼女は、今でいう「玉の輿《こし》」に乗って医師のもとへ嫁いだのである。医師の関長音は、彼女よりはかなり年長の男性だったそうだ。  彼女の出家の機は「最愛の夫との死別によるかなしみ」であるというのが定説になっているくらい関医師は妻をかわいがった。ずっと年下の若い妻である。熱心にセックスしてくれたことだろう。充分に蜜月《みつげつ》の五年間の性生活を経験したのである。  また、良寛だって出家する前は裕福な庄屋の息子。幕府が異国船打払い令を出している時代にあって、良寛の身長は一八〇センチ(尺でいうとどうなるのかジェームス三木に教えてほしいが)。一八〇センチでスリムで裕福な家の息子とくればこれがモテないはずがない。良寛だって充実した性生活を経験したことだろう。  二人とも、もうおいしい果実は食べたのだから未練はないのかもしれないけれど、食べてないものは、俗な望みを持つよ、そりゃ。俗な望みの実態を知りたいと思うよ。  だから「良寛と貞心尼、その崇高なる愛のかたち」、こんなかたちは大嫌いだ。ごめんこうむる。かんべんしてください。小尼暮らしも三十四年。四十四になったらまた出家しますから、知性と情感に満ちた語らいと和歌のやりとりは、たのむからしばらく休ませてくれ。知性などいらない。肉体を返してくれ。私は洗礼受けてないんだから。 [#改ページ]  ◆官能の才能の欠如  つまり、官能には才能が要るのである。  才能のある××子ちゃんにはわからないかもしれないけれど。  私には官能の才能がない。それで、とても困っている。  知らない人が多いのだが、私はほそぼそと小説を書いている。小説を書く女に官能の才能が欠如しているのは、とても困ることである。医大に通っている女の人には「眼科か皮膚科に」と勧めるのが医療界における長い慣例になっていて、その慣例に結局は倣う人が多いように、小説界では女の人には官能科を勧める、というより進路決定用紙を出す前からそこへ進むものだと期待される。私は人の顔色を窺《うかが》う小心者なので、期待に応《こた》えようとする。しかし応えられない。とても困っている。 「どうしたら官能を身につけられるのだろうか。いや、身につける前に、どうしたら官能に興味が持てるだろうか」  なんとか官能に興味が持てるよう、持てないまでも、持っていると他人をダマせるように努力した。血のにじむような努力といってもよいほどがんばったが、持てない。身につけられない。  官能。抽象的な語である。官能。漠然とした語である。  だから人は、たとえば骨董品《こつとうひん》の壺《つぼ》の曲線が「実に官能的である」などと言ったり、戦前の映画の中でコリンヌ・リュシェールが怒って叫ぶシーンを「なまめかしげな場面でもないにかかわらず、眉間《みけん》の寄せ方がすごく官能的なんだよね」などと言ったりする。直截《ちよくせつ》に接吻《せつぷん》や性交や裸体を描いていない対象をして、官能的だと言うほうが知的だったり粋だったりする風潮もある。  壺や怒っている女優を官能的だと言う人は、なにも風潮を狙って官能的だと言うのではあるまい。本当に官能的だと思っているのだと思う。官能を語る題材の風潮も含め、私には官能の才能がないのである。  なぜか。女が「選ぶ立場にある性《ジェンダー》」だと、どうしても思えないからである。  ここにA子(女)がいて、B夫(男)がいるとする。B夫がA子を暗闇で抱きしめる。A子は問う。「私のこと愛してる?」。B夫は答える。「ああ、愛している」。「じゃあ、いい……」。それでA子はB夫に肉体を許したのだった。  このようなシチュエーションは、古今東西のドラマに描かれてきたし、今も描かれつづけている。具体的なことばは変わっても、要するにこういう経緯が。  そして、多くの男が、このシチュエーションにおける女を揶揄《やゆ》する。バカめ、愛しているなどと男が言うのを信じるのか、愛なんかじゃない、性欲なのだ、とかなんとか。揶揄しない男も、もちろんいる。しない男はこのようなシチュエーションの女の、バカさがかわいいと賛美する。  同時に、多くの女が、揶揄する男と賛美する男を、揶揄する。バカね、愛していると言われて信じてるわけじゃないのよ、女にも性欲があるのに決まってるじゃないの、その理由づけを言わせてるだけよ、とかなんとか。揶揄しない女も、もちろんいる。しない女はこのような男たちをかわいいと許す。そして許した女は、次には男の側から、母的なるものを感じられて、また賛美されたりなどする。  男女どちらの立場にせよ、私にはこのシチュエーションそのものがわからない。  A子の「じゃあ、いい」は、「じゃあ、セックスさせてあげる」ということである。なぜ? なぜ「させてあげる」なのか?  私がこの疑問を問うたび、男も女も、私を哀れんだ。叱ったりもした。  哀れみと叱りの内容はおもにふたてにわかれる。 「こっちこそわからない。なぜ、あなたはそんなに自己卑下するんだ?」 「させてあげる、と思わないなら、していただく、と思うのか? あなたはそんなに醜女なのか?」  つまり、私のような疑問を抱く女は「卑下しすぎ」か「ブス」かの発想しかないのである。なぜなら、多くの国においては長いあいだ、男が女を追いかけ、女は追ってきた男の中から選ぶ=セックスさせてあげる、という性《ジェンダー》だったからである。そして、官能とはこうしたジェンダー意識のもとに成り立っている感性である。この感性のバリエーションとして、壺や怒っている女優は在るのである。ウーマン・リブとかフェミニズムと呼ばれる運動の大半も、この感性のそっくり裏返しのバリエーションである。  いかなるジェンダー意識が正しいかなどと、主張するつもりはない。ただ、自分には慣例的な意識が欠落しているため、したがって官能の才能もないのだと主張するのである。  しかし、ジェンダーに基づく感性に一度も疑問を抱いたことのない人の数がものすごく多いため、私の疑問は「卑下しすぎ」であったり「ブス」であったりするだけのものとなる。疑問そのものが伝達されない。官能の才がないとは、困ることなのである。 [#改ページ]   第二章 やっかいな自意識     女には自意識がないと、     ある男性作家が昔言ったそうだ  ◆イルカに乗った少年  十字架のような存在というのはある。数珠のような存在でもよい。 「なんぴともぜったいにけなしてはならじ、であるもの」  のことである。 「それをけなせば、人にあらず、とされるようなもの」  のこと。  だれもけなさない映画とか、だれもがよく言う人とか、それを賛美することでおしゃれな感性の人であると認定される絵とか、本とか写真とか音楽とか、そういうもののこと。  だが「絶対なるもの」は、本当は神しかいないのだから、絶対的に良い映画も絵も本も音楽も、本当はないのである。好きな人もいれば嫌いな人もいる、それが、映画や絵や本や音楽や、それに人間というものであり、映画や絵や本や音楽や人間を評価することは本来できないのである。  できるとしたら、評する側が、対象の、ある部分にかぎって[#「ある部分にかぎって」に傍点]、よかったとかよくなかったとか、結局のところ評する側の情感が受け取った印象を語るしかない。  よって、映画も絵も本も音楽も人間も、対象についての感想は十人十色なはずなのに、大雪の朝に、あるいは草深い原に、はじめに足跡をつけた人のあとを、次の人もなぞり、また次の人もなぞり、また次の次の人もなぞると、うっすらと道ができ、その次の人からはもう考えることなく当然のようにそこを歩くから、しっかりとそこには道ができる。このようなあんばいで、観る前から読む前から聴く前から、道がすでにできあがっている感想がある。  すでにできあがっている感想なのだと、本人は感じない。いちいち新たな道をつけてみようとするほど、人は体力も時間的余裕も気力もない。  たとえば映画なら映画を観たとしよう。観たあとに二十秒ほど、その人は心のなかで、いきいきとした対話を自分自身とかわしている。だが「お母さん、おなかすいた、ごはんまだー」とせっつかれたひょうしに、「本日限り、冬物オール半額」の垂れ幕を見たひょうしに、対話記録は散ってしまう。なので、各人のチェックは結局なにもされぬまま、「これはすばらしい」とされた映画は、「すばらしいとされているからすばらしい」でしかなくなり、十字架になる。数珠になる。ブランドになる、といったほうがわかりやすいだろうか。  十字架になった(数珠になった)ものは、けなしてはいけない。 『プリティ・ウーマン』を嫌いだと『クロワッサン』という雑誌で言った(本書第一章とはまた別の機会に)私は、山ほど「抗議のおたより」をもらったし、『ピアノ・レッスン』について書いたときも、『プリティ・ウーマン』ほどけなしていないにもかかわらず(むしろなかなかおもしろかったと書いたつもりでいたのに)、掲載雑誌創刊以来のたくさんのおたよりが編集部に届いた。 「二度あることは三度」という諺《ことわざ》がある。諺を踏襲しようとしているような気がする。 『グラン・ブルー』って、そんなにいい映画かなあ。  どうだろう? 踏襲しただろうか? ああ、してしまったか……。 『グラン・ブルー』が「けなしてはならじ」の十字架映画になっているのは、イルカという動物も十字架的存在になっているのが三割要因である。  あ、ちょっと待って。十字架映画、っていう言い方、変えたほうがぴんと来ます? ブランド映画のほうがスムーズに読める? なら変えますね。じゃ、もいっかい最初から。 『グラン・ブルー』が「けなしてはならじ」のブランド映画になっているのは、イルカという動物もブランド的存在になっているのが三割要因である。  想像してみてくれ、イルカ。イルカ。頭に像が浮かんだだろうか、イルカ。 「賢くて優美な動物」  そう思わないだろうか?  私はそう思う。事実、イルカはとても賢いのである。そしてとてもかわいい顔をしているしシルエット全体もしなやかである。 『イルカに乗った少年』という歌があった。城みちるの歌ではない。ソフィア・ローレンが世界中にその名を知らしめるきっかけとなった名作映画の主題歌である。たしか十二歳の春だった。なにかの都合で学校から早く帰ってきた日の昼下がり、NHK教育で放映していたのをふと見たのだった。イルカに乗った少年の彫像が海に沈んでいて、それを探すシーンのときに流れたようにおぼえているのだが、ちがったかもしれない。イタリア歌曲特有の、哀愁をおびたメロディと哀愁をおびた言語がとてもロマンチックな歌だった。以来、 「好きな動物はなんですか?」  と、尋ねられるとイルカだと答えた。  成人後(二十歳以降)、自分がなぜ、こう答えたのか、理由が、放火した犯人が火事現場を見ているようにわかる。  イルカが好きである自分に陶酔していたのだ。  陶酔するとは、実体を正確に把握せぬまま、ムード、雰囲気で「思い込むこと」である。  私はイルカをどれだけ知っていただろう?  イルカの表皮がとても粗くてザラザラで、イルカでも肌はサメ肌で、自分の体重の二倍くらいの魚を食べ、鋭いキバがあって、笑っているように見えるあの顔は、そのキバを含んだあまたの歯を合理的に顎《あご》に収納するために口の角が上を向いているのであって、人間とはことばが通じず、犬のように陸上の空間でいっしょに寝たり、走ったりできない動物であることを、どれだけ知っていただろう? 「恋はもっとも美しい錯覚である」  と、かつて大詩人は言ったそうだが、錯覚も自己陶酔も「好き」のうちではあろう。そういうものであろう。  たとえ「イルカが好き」だと思うその心理が、自己陶酔によるものであったとしても、イルカの知能が高くて、優美なシルエットをしていることは事実であるし、少女期の自分が「好き」だと感じていたことも事実であるのである。  今だってイルカは好きだ。どんなにあの顔が、ただキバ状の歯を顎に収納するために口角が上を向いているのだと知っても、自分にほほえんでいるように見える。  しかし。  ならば、ただ「うっとり」としていればいいのである。ただ「好きだわァ」と幼な子の反応をしていればいい。少年は成人ではない者、少女は成人ではない者、ただそれだけのことだ。  少年あるいは少女に、なにか特別な「美」の意義、特別な「正義」の意味、特別な「純潔」の意味など、ないのである。少年と少女に特別な美を意味づけすれば、イルカを賛美する心理はたちまちにして、 「かわいいビビアン・スーは殺してはダメ。かわいくない野村沙知代は殺してもよい」  という、愚鈍な幼稚さにつながる。 『グラン・ブルー』を賛美する人々は、もし主人公がタコを愛する青年だったら、フグを愛する青年で、フグ刺しを食べる日本人に反対運動するために海にもぐる青年だったら、同じような賛美をあの映画に与えただろうか?  あの映画は画面がすごくきれいな映画だったね、と、私はこれだけでいいと思うのである。イルカは見ているときれいだね、と、それでいいと思うのである。ただそれだけのことだ。それ以上の幻想価値をつける必要はないのではないか。知ってるかい? 「イルカ」って漢字で書くと「海豚」よ。 [#改ページ]  ◆少年に大志を抱くな  三度あることは四度あるのか。 『グラン・ブルー』ひとつで決めてはいけないと私は思った。 「二度あることは三度」という諺は古くからあるが、一九八〇年以降にできた新しい諺に「味のある人間ほど合コンではぱっとせず、うすっぺらい性格の人間ほど、めあての異性をゲットする」というのがあるから、ひとつだけで判断してはいけないだろう。 『グラン・ブルー』のあと『ニキータ』と『レオン』を見たのである。 『ニキータ』は、おもしろかった。同じアクションでもフランス映画になるとアメリカ映画のそれとは、 「ちとちがうぜ」  というのが、いい案配に出ていた。アメリカンとちがってフレンチはテンポがのろい。ちとモタモタする。のろくてモタモタする映画ばっかり輸入されてる状況で『ニキータ』を見たら、おもしろくなかったかもしれないが、現状はアメリカ映画が多く輸入されているので『ニキータ』のテンポは、目先がかわったかんじがする。「ちとのろい」のが、一抹のリリカル、というかんじに響くところがよかった。主演女優も、実年齢は若くないのに若々しい演技でよくがんばっていた。  が、この「ちとちがうぜ」が、「なにいい気になってんのよ」と、出たのが『レオン』だった。  殺し屋と少女。この組み合わせ! 「桜の下には死体が埋まっているのよ」的、手垢《てあか》にまみれた発想である。  もちろん「昔っからあるけれどいつの時代になってもみんなが憧《あこが》れるモチーフ」というのは、ある。中年男と少女、この組み合わせも、そのひとつである。それが「いつの時代になってもみんなの憧れ」となるか「手垢にまみれた」になるか、その分かれ道は作り手の客観性に負う。 「このモチーフは、もう昔からあるものなんだよね。でも、ぼく、恥ずかしいけど、やっぱりいいなって思うんだよね」  もしベッソンが、こんなふうに恥を知っていたなら、謙虚さというものを持っていたなら、ジャン・レノとナタリー・ポートマンが「きみはぼくに生きることのすばらしさを教えてくれた」と浪花節《なにわぶし》ふうに見つめあうラストシーンにも、「あれだけ人殺してきて、こう言われてもな」という文句もひっこめる。  だが、ベッソンには恥じらいとか謙虚さというものがまるでなく、合コンで、わざと15分くらい遅れてきて注目度をアップさせるとか、カレシ(カノジョ)と最近うまくいっていないと嘆いて注目度をアップさせるとかいった程度の作戦をたてるタイプだった。  つまり大したテは使えない奴なものだから、ナタリー・ポートマンに、歌手マドンナのメイクやふりつけを披露させる。さびしそうな横顔をアップにする。たあいないことで大喜びさせる。そして、 「どうだい?! 少女の無垢《むく》の中にドキッとさせる大人の女が存在しているだろ。ドキっとするだろ?!」  と、うるさいくらい「言いたげ!」な演出をする。ほんとにうるさい。合コンでのあのタイプが必ずうるさいようにうるさい。このうるさい演出に、ゲイリー・オールドマン扮《ふん》する検察官が、またうるさい演技をする(させられる?)。  オールドマンはいい俳優だと思うが、ベッソンは彼のアクを使いきれず、ジャン・レノのよさも生かせず、結局、「うるさい」も二乗すると「どーってことない」になるのね、という映画になってしまった。  ところが驚いたことに『レオン』がよかった、じーんとした、という人がずいぶんいたのである。そこでもう一回、『グラン・ブルー』を思い返すのだが、だいたいあの潜水夫は、なんで避妊をせんのだ?  海でしか生きられないのなら、家庭をもって子供を育てていくことなどできない人間だというなら、 「さいしょから、あのお姐《ねえ》ちゃんとセックスすんな」  と言いたい。するならちゃんと避妊せんか。  あのお姐ちゃんもなんで潜水夫に、妊娠したと知らせないのか、わからない。 「�ああ、この人は永遠の少年なのね�と、彼女は悟ったからなのよ。わかるわ。いつまでも少年の瞳《ひとみ》を持っている彼を、彼女は愛したのだもの」  と、解説してくれる女がいやに多いのも、わからない。  そういう女たちは「いつまでも少年の瞳を持った男」が好きだと言う。嘘つけ。つきあった男が、いつまでも少年の瞳を持って、ある日ふらっと『スタンド・バイ・ミー』を口ずさみながら吊り橋を渡る旅行に出かけてしまったら怒るくせに。会社に行かずに、ヌードグラビアを見ながら部屋でオナニーばかりして(だって少年期って一晩に二回くらいオナニーするというではないか)、金を稼がなかったら怒るくせに。  ナタリー・ポートマンといい、潜水夫といい、少女や少年に対し、過剰な憧憬《どうけい》や神秘の幻想を抱く人というのが、私にはほんとにわからない。そういう人は、九州からバスを乗っ取って乗客を殺した犯人に対しても「ああ、少年の傷つきやすいナイーブな感性がそうさせたのね」と涙ぐむのか。私は殺害された乗客のほうに涙ぐむが。  結局、ちゃんと三本見た今、私は積極的にリュック・ベッソンが嫌いである。「少年の瞳を持った人」より「少年の視力を持った人」のほうが、みんなだっていいんじゃないの? 近年はPCの普及で目が疲れやすい世の中だしさ。かすみ目はつらいよね。今の小学生なんか、ゲームのやりすぎで、小学生のころから老人の視力の子が増えてるし、目は大切にしましょう。 [#改ページ]  ◆犬に乗った少年 「いつまでも少年の瞳を持った人が好きな人」や「少女のエロスを描きたい人」や「少女のエロスなど描かれてないのに、すみっこから発見してきて感動する人」も多いが、並んで多いのが「子供は純粋だと言う人」である。 「子供は純粋だと言う人」は、ほぼ「ふるさとにはぬくもりがある、豊かなみどりは美しいとよく言う人」と重なっている。「高校野球が好きな人」ともわりに重なっている。「子供は純粋だと言う人」の好きな映画は『となりのトトロ』である。このグループに属する人は、 「子供は純粋。ふるさとは善。純粋な子供の目にはトトロが見える」  と言って、私のはらわたを煮えくりかえらせる。  子供というのはとても汚いものだ。とてもずるくて、日和見で、浅はかで知性がなくて、しかも残酷でいやらしいものだ。そして、ひたむきだ。  自分の子供のときを思い出してみてくれよ。そうだったじゃないか。つごうよく改竄《かいざん》しないでくれよ。  大人になって子供のころの汚さ、ずるさ、浅はかさ、残酷さ、いやらしさ、を受け入れる度量ができるからこそ子供がかわいいのではないのか。  ……と、このエッセイを『an・an』に書いた一九九四年のころは思っていたのだが最近(二〇〇二年)になって、たんにほんとにおぼえていない人もいるのだなということを知った。  そういう人はほんとにおぼえていないので、 「あなたの書いた『特急こだま東海道線を走る』を読んだけど、あんなに子供のころのことを鮮明におぼえているのはへんだ」  と、買わずに図書館で読んで、感想をぶしつけにつたえて立ち去る。ほんとにおぼえていないので、『となりのトトロ』に描かれるような子供のほうが真実で、『特急こだま東海道線を走る』に描かれるような子供は嘘だと、ほんとに、心から思っているから、しかたがない。  映画『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』は、一九六〇年代に田舎の村で過ごした少年の思い出を、極端に美化することもなく露悪することもなく、たんたんと描いた、実にいい映画である。少年を描いたというより、一九六〇年代の空気をたんたんと描いたいい映画であると言いなおしたほうがいいか。  ある日に映画館で見て、またべつの日にも映画館に行った。原作本を売っていたので、それも買った。  気に入った映画の原作を読むということを、私はめったにやらない。二十歳前まではよくやった。原作を読んでから映画を見たり、映画を見てから原作を読んだりした。たいていの場合失敗に終わった。  先に映画を見た場合は映像のイメージが足を引っ張って原作の世界にひたれず、先に原作を読んだ場合は活字のイメージが足を引っ張ってスクリーンに出てくる俳優の顔に違和感をおぼえ、結果、原作も映画も双方ともに印象が薄れることとなった。 [#この行4字下げ]おっといかん。角川文庫で「読んでから見るか、見てから読むか」商戦に水さすようなことを言ってしまった……。みなさんは角川映画も角川書店刊の原作もぜひ両方たのしんでくださいね。  しかし、現在の日本の出版状況では北欧の現代文学がさかんに輸入されているとは言いがたい。『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』上映館の売店にこの原作本があるのを見たとき、「スウェーデン現代作家の本なんて、この機会を逃したら一生手に入るまい」と思い、買ったのだ。  これがよかった。映画は映画でよく、原作は原作でよいという稀《まれ》な結果なのである。  映画はリリカルな佳作にしあがっているが、原作は子供の真実の姿が描かれてあるからハードである。母親をひそかに憎む子供の真実の真理を描いてあるからシビアーである。母を憎む自分と戦っている主人公がヘヴィーである。しかも、そうした過去をひじょうに客観的に書いた文章だから美しい。この美しさは、訳者の木村由利子さんの功績が大きいと思われる。ロバート・マキャモンの『少年時代』より五倍くらいおすすめしたいところだが(犬と少年というアイテムで比較しただけ)、『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』の原作はもう入手できないだろうと思われるので、しかたがないので映画のほうだけでもどうぞ。 [#改ページ]  ◆コメディが賞をとるには  映画『Shall we ダンス?』が数々の賞を獲得した。  うれしい。  コメディが賞をとったのである。コメディを作りつづける世のすべての表現者に、あらためて声援を送りたい。  周防正行《すおうまさゆき》監督は『ファンシイダンス』を撮ったあと、さぞ悔しかったことと思う。 『シコふんじゃった。』より『Shall we ダンス?』より、『ファンシイダンス』のほうがずっとおもしろいんである。三作品は同じストーリーである。同じストーリーというのは乱暴か。ストーリー展開と目のつけどころ、アングルが同じである。  同じにしたのは、周防監督の復讐《ふくしゆう》なんじゃないかと思う。 『ファンシイダンス』は評価面からも興行面からも大々的な成功をおさめなかった。なんでかというと『シコふんじゃった。』のように竹中直人が下痢を我慢してお尻《しり》をもぞもぞさせたり、『Shall we ダンス?』のように渡辺えり子がどぎついメイクと衣装で踊ったりする場面が『ファンシイダンス』にはないからである。  周防監督は復讐した。 『シコふんじゃった。』と『Shall we ダンス?』では、ザ・ドリフターズが『8時だよ!全員集合』でやっていた劇のように、笑いを最大公約数にしたのである。  なにが難しいといって、「人を笑わせる」より他に困難で技術を要されるものはない。泣かせるのは笑わせるより、はるかに簡単である。  作り手からすれば、悲劇よりも喜劇を作っているときのほうが血ヘド吐くほど肉体は疲労し、脳みそが爆発しそうなほど精神はフル操業し、それこそ泣きたいのである。  にもかかわらず、世間は笑わせるものより泣かせるものが高級だとする。その世間がコメディに賞を与えた。  しかし、それが『ファンシイダンス』ではないところがかなしく、かなしい理由を考えると、そのまま、コメディの困難さという、最初にまたもどってしまう。  竹中直人も渡辺えり子も私はファンである。が、竹中直人と渡辺えり子の一番いいところを極力消した笑いが『シコふんじゃった。』と『Shall we ダンス?』である。  モックンもいいところを消していた。消した演技をしたのだから、それはそれで彼らの俳優としての優秀さである。  比して『ファンシイダンス』のモックンは魅力全開だ。あれはモックンでひっぱっていたといえる。ひとりだけで一本ひっぱれる俳優がいなくなった時代に特筆すべき映画だ。モッくんを助演する竹中がまたいい。彼の陰影のある笑いが発揮されている。弟役の新人も、糖尿病役の俳優も、京都の一人娘にフラれる役の俳優も、いい。なにげないカットにも各人のよさが光る。空想シーンにゲスト出演する大槻《おおつき》ケンヂまで適材適所である。  ところが、こんなによくできた『ファンシイダンス』には最後まであとあじの悪い部分が一点ある。それはマドンナの処理だ。作中に僧侶《そうりよ》たちからマドンナとあだ名される田舎娘が出てくる。「女人禁制の山寺ではこんなのがマドンナに見えたのか……」と竹中直人が落胆するのである。モックンを訪問した鈴木保奈美を見て。それが一回だけならまだ目をつぶれるのだが、この娘がそのあとも何度も、配慮のない演出をされるのである。ラストまでそれはつづく。  このマドンナは笑いの一要素として配置されている。その笑いは、身体障害者を、子供が子供の鈍感さで揶揄《やゆ》するような笑いである。笑いやコメディが難しいのは、それが常に残酷さと表裏一体だからであるが、私はどうもこのマドンナの処理の仕方には、残酷というより鈍感を見る。そのため鈴木保奈美(扮《ふん》する娘)がすごくゲスなバカ女に見える。それがあとあじの悪さとなって『ファンシイダンス』の足をひく。 『ファンシイダンス』の、この足引き要素を「大切に温存」して、ストーリー展開を単純化して『シコふんじゃった。』を作り、さらにバリエーションを変えて『Shall we ダンス?』を作ったのは、やはり監督は世間に復讐したのである。意図しなかったとしても。  雑誌に寄せたエッセイは、一冊にまとまるときには時期的に話題がずれてしまうのが何ともつらい。この話題が出たからには、当然、映画好きな読者は矢口|史靖《しのぶ》監督への言及を期待されると思う。矢口監督は大大ファンだが、この項を雑誌に書いていたときに、自分が『裸足のピクニック』をまだ観ていなかったのが悔やまれる。  最高でしたね、『裸足のピクニック』。次の『ひみつの花園』もよかったし、『アドレナリンドライブ』もよかった。でも、やっぱり公開順に笑いの質を、巧みに最大公約数的に変化させてますよね。矢口監督の場合は、確信犯的な復讐だと思うけど。  ほかに、『ひみつの花園』と並ぶ傑作『バウンス Ko GALS』の原田眞人監督も、この先、どう復讐していくのか気になるところ……。 [#改ページ]  ◆太宰治とつきあっている女 「週末は太宰治とつきあっています」  小泉今日子がラジオで言って、太宰治の売上が伸びたとか伸びないとか。市場調査はともかくとして、小泉今日子がこう言ったのは本当らしい。それを聞いて私が小泉今日子に対し急速に魅力を感じなくなったのも本当である。  太宰治を読むからではない。太宰を読んでいると発言する行為が、彼女から輝きを奪ったのだ。もし松嶋菜々子がこう言ったなら、ふうん、そうかそうか、くらいに思っただろう。しかし私は小泉今日子に期待をしすぎていた。自意識の強い個性的なタレントだと、たとえそれがバックのチームによる商業作戦の一環であったとしても、ともかくもタレントという商品としてみなの前に出るときは、そういうキャラクターなのだと期待していた。  自意識の強いタレントなら、太宰治を好きなことは隠さなくてはならない。フランソワーズ・アルディが好きなことは隠さなくてはならない。立原道造の詩を暗唱していることは隠さなくてはならない。それが自意識が強いということだからだ。  太宰やアルディや立原道造が創造作品としてくだらないと言っているのではない。私は創造作品というものは、好悪の差はあれおしなべてすばらしいものだと思っている。批評という名のけなしは、創造するよりはるかにかんたんにできるのだから。また、太宰治の小説とフランソワーズ・アルディの歌と立原道造の詩はぜんぜんちがう質のものだし、その質をどう受け取るかも受け取り手の自由な判断によるべきものである。  この項でいう自意識とは、たとえとして挙げた作品のことではなく、受け取り手の側にある意識のことだ。  アルディの『さよならを教えて』を聞いて涙ぐんでいる姿が果して自分のツラに似合っているかどうかまで考える時間が、自意識である。立原道造の詩にうっとりしながらも、自分はもし親が寝たきりになったら尻拭《しりふ》き、おむつを洗濯していけるかどうかを考える時間が、自意識である。だから、自意識が強いとは、自分を恥ずかしいと思うことなのかもしれない。  しかしまあ、小泉今日子が自意識が強いタレントだというのは、私が勝手に思っていただけで、そんな私の勝手な期待に小泉今日子が応《こた》える必要も責任もないから、彼女はみんなに好かれるアクのない、企業のコマーシャルに向いたタレントでいいのである。これからもこの調子で、「週末は辛酸なめ子さんに夢中です」などと発言したりせぬよう、活躍|乞《こ》う。 [#この行4字下げ]ところで、辛酸なめ子の、女子学生が高齢の大学教授のペニスをやさしくそっと舐《な》める淡い恋を描いた作品については、なぜ文壇でちっとも話題にならないのだろう? 透明感があるとは、あの話のためにある形容だと思うのだが……。 [#改ページ]  ◆田舎は善で都会は悪という洗脳  一九八九年公開の伊・仏合作映画『ニュー・シネマ・パラダイス』はいい映画であった。私はよく人に「よかったねえ」とか「好きな映画です」などと言っていた。そう言うたびに相手も「ほんと。わたしも大好き」「ぼくも、あれ、大好き」などと言うので、すっかり、自分の意見は多数の同意を得ているのだと思っていた。だが、まちがいだったのである。「多数の人」には二種類あって、 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰幼年時代(6歳〜12歳)のトト坊やがかわゆい。トト坊やに扮していた子役がかわゆい。子供の純粋さに胸キュンとなる。少年時代(12歳〜17歳)のトトくんがカワイイ。トト少年に扮していた少年俳優がステキ。少年の純粋さに胸がキュンとなる。 ㈪ラストシーンが、もうもう胸ジーンとなる。発禁だった古い映画のキスシーンが連続的に映されるところ。あそこは最高! 傷つきやすい繊細な部分が大事にそっと保存されていて、それが観る者を圧倒するかに次々とよみがえってくる。 [#ここで字下げ終わり]  という、二種類である。  ㈰族は、ひごろあまり映画を観ない人で、かつ婦人に多く、㈪族は、ひごろはまあまあ映画を観ており、かつ前衛舞踏ふうの演劇をやっている人と商社勤務の理系学部卒の人に多い。  ㈰+㈪の混合型は、いわゆるそのへんの若い人である。  ㈰族、および、㈰+㈪の混合型族については、私も、 「まあ、平均ということはそういうことなのかな。メジャーということはそういうことなのかな」  と思う。きれいなこころ、というのが平均である。捩《ね》じれがない、というのがきれいなことであり、すなわち平均なるこころなのである。  問題は㈪である。  ㈪はやっかいである。  前衛舞踏をやる人と理系学部卒の商社マンというのは、一見かけはなれているように見えるのだが、実は両者はたいへん似ている。「踊る少女」と「ちょっぴり数学少年」(数学少年と言っていない。ちょっぴり、が付いている)はそっくりなんである。両者ともに「ロマンチスト」であり、両者ともに「わかりやすいロマンチスト」なのである。6を3で割れば2。このシンプル性が行動に出るのが踊り子で、頭脳に出るのがちょっぴり数学という差か。  わかりやすい、というのはどういうことかというと、「少女は繊細で謎めいている」と宗教の域に達するくらいに信じていて、繊細で謎めいている少女の象徴として「大正時代のファッション」や「昔の夏祭りのときに売っていたキツネのお面」を使うと「グッとくる」神経を、二十五歳を過ぎてもアナクロに所有しつづけていられる「逞《たくま》しさ」のことである。一種の鈍磨と言ってもよいが、これもまたヘルシーできれいなこころである。  しかし、『ニュー・シネマ・パラダイス』の魅力というのは、㈰よりも㈪よりも、なによりも、「あの、おじいさん」に凝縮されている……と、私は思って、それで「あの映画はよかった」と言っていたのである。 「あの、おじいさんの、プラットホームでのシーンだけのために、あの映画は作られた」 のである。 「トト、村には帰ってくるな」  おじいさんは、高校を卒業した少年に駅のホームで言う。 「ぜったい、帰ってくるな」  あのひとこと。海のように哀しく、空のように寛《ひろ》いひとこと。  あのひとことに対して、「ぼくも(わたしも)、巣立つべき時にあのことばを聞いていれば、どんなに救済されただろうか。他人を思いやれただろうか。ベストを尽くせただろうか」と泣き、映画館を出たあとも泣き、布団に入ってからも泣いた、「閉鎖された環境でもがいていた臆病《おくびよう》で卑怯《ひきよう》で不器用だったかつての」少年少女たち、に贈られた映画が『ニュー・シネマ・パラダイス』だ…………と思って、「あの映画はよかった」と言っていたのだが、こう思って「よかった」と言っている人の数はすごく少なかった。  この少ないグループを㈫とすると、㈫が「『ニュー・シネマ・パラダイス』はよかった」と言うと、すぐさま㈪が「この人ならわかってくれる」と寄ってきて、自分の公演のチケットを買って買ってと言ったり、自らのロマンチシズムを語ったりする。やっかいである。発言は慎重にしないとならない。 [#ここから4字下げ] 私はあのラストは「テクニックとしてはたいへんうまい」とは思うものの、「最高!」とは感じませんでした。それより、かつては甘いマスクの王子様役でならしたジャック・ペランがあんなオッサンになりよったんかいなというショックのほうが大きかったです。 『ロバと王女』というペローの童話を映画化したやつがあって、当時世界一の美女と評されたカトリーヌ・ドヌーブが王女様役で、王子様が、このジャック・ペランだったんですね。ほら、あの中世のタイツはいたみたいな王子様のかっこうあるじゃないですか、あのかっこうがすごく似合う顔でした。それがあんなオッサンになったのかと、げに月日の経過を感じて、そういう意味ではあのラストは感慨深いものがあったです。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  ◆理想を嫌うくらい、やさしい人  有名な映画の中でもベスト5に入るほど有名な映画『サウンド・オブ・ミュージック』は「有名であればあるほど悪口も言われる」という定説にのっとり、世界的に「大っ嫌いな映画の代表」にもなっているのではないだろうか。  世界中に、 「俺、『サウンド・オブ・ミュージック』って大っ嫌いなんだ」 「わたし、『サウンド・オブ・ミュージック』みたいな映画はダメだわ」  と言う人がいると思う(映画を見ることが一般的ではない国は別として)。 『サウンド・オブ・ミュージック』は「みんな」から嫌われているくらい、「みんな」から好かれている有名な映画である。  巨人軍を好く人は多くて、巨人軍を嫌う人も多い。「野球は巨人に決まってるじゃないか」と言う人と「巨人以外[#「以外」に傍点]を応援している」と言う人がいて、両者は「同じ」なのである。なぜゆえかような「同じ」が、あっちとこっちに存在するかというと、巨人軍が日本野球チームの代表だからである。 『サウンド・オブ・ミュージック』を好きな人と嫌う人の同時存在は、巨人ファンとアンチ巨人の関係に似ている。ファンとアンチの比率がほぼ半々なところも似ている。『サウンド・オブ・ミュージック』は、ある種の映画の典型なのである。 「セットに金をかけ、カット、カットでフィルムをつなぎあわせ、撮影後には最高技術を駆使したスタジオ録音の歌や音楽をかぶせ、ストーリーはあくまでも愛と感動をハッピーエンドにした、不自然につぐ不自然を、力ずくで自然へ持っていくアメリカ映画」  の典型である。  この種の映画を「偽善」だと、アンチな人は呼ぶのである。 「見習いの尼さんが歌いはじめると、町の人も笑顔でいっしょに歌いはじめる。あんなことがあってたまるか」 「厳しい大佐が、はじめはマリア(主人公)のことを、騒々しいお転婆娘だと嫌っているが、しだいに�きみのやさしさが好きだ�みたいなふうになるのが、二人が出てきてすぐにわかる。フン」  アンチな人はこんなふうな文句を言う。 「まあまあ」  と私は言う。まあまあ、みなさん、いいじゃないですか、という「まあまあ」だ。 「まあまあ、いいじゃないですか、尼さんといっしょに町の人が歌ったって。ミュージカルは�そういうことになってる�もんなんだし」 「まあまあ、いいじゃないですか、トラップ大佐がマリアと再婚したって。�内面の美�というやつが認められたってことっスよ」  と、私は思うんである。 「偽善」と「理想」は、巨人ファンとアンチ巨人と同じくらい似ている。似ているが、ちと違う。偽善というのは、 「自分の希望や自分自身が、他者より高位におかれる状態を、無意識のうちに要求して、それが満たされたときにも、無意識のままである」  ことで、理想というのは、 「自分も他者も、かくあるべきだ、という状態および、その状態になるよう努力する」  ことである。  ただし、理想は必ずしも実現化できるとはいえない。『サウンド・オブ・ミュージック』はキリスト教、とりわけプロテスタント的理想に満ちた映画である。あの映画に欠落しているのは「現実の冷たさ」である。  だがしかし、あれを作った監督だかプロデューサーだか脚本家だか、だれかは知らないが主たる制作者は「現実の冷たさ」をいやほど知っていて、だからこそこれを意識的に無視し、フィルムの中にだけでも「理想」を凝縮しようとしたのではないかと、私には思われてならない。あきらめきった怒りの抗議《プロテスト》のように思われてならない。  アンチ『サウンド・オブ・ミュージック』の人よりもはるかに、『サウンド・オブ・ミュージック』制作者のほうが、『サウンド・オブ・ミュージック』の世界を信じていないような、いや、信じられないような、それほど冷たい心の持ち主に思われてならない。  そして、彼の悲しみは、はからずも結果的には自分の制作物によって救済されたように思われるのである。  だから私は『サウンド・オブ・ミュージック』が好きである。いい映画ではないか。 [#改ページ]  ◆なぜ「読む」のか、なぜ「見る」のか  その昔、フランチェスコという青年がいて、たいそう裕福な家に生まれたのだが、ある日、現代語(ヘブライ語やラテン語ではない)で書かれた聖書を読んで、なにもかもを捨てて、荒れ野の教会に暮らすようになった。  自分はなにひとつ所有せず、ぼろ布だけをまとい、やぶれてきたら繕ってまたまとい、病む人、貧しい人の世話をして、聖書を読んで、そうして暮らした。私はフランチェスコに会ったことがない。会ったことがない上に、彼が生きた時代はずっと昔である。おぼろげにしかフランチェスコの実体は私の脳内で像を結ばず、だからこそ、とんでもなく気儘《きまま》に私だけの像を結んでいたのかもしれない。 「とてもふつうの人で神様の愛を信じてとても素朴に暮らしました」  そんなふうに思い、そんなふうな像は私にいつも涙させた。かなしみの涙ではない。哀れの涙でもない。  では、なにの涙であるのか、その正体の一部だけでもとらえたくて書いた物語を『受難』という。主人公はフランチェス子という女性である。  さて、急に話がとぶ印象を与えるかもしれないが、私の筆名であるカオルコというのは、オカルトとオマンコとコミカルに似ているからつけた。それでいいや。それがいいや。そう思って、香子という自分の名前を片仮名にしたのである。小説を書くということは世間からすれば、オカルトでオマンコでコミカルな、そんなものだと思うのである。 「ははあ、こりゃぴったりだね、チョイナ、チョイナっと……」  嘯《うそぶ》きながら親戚《しんせき》一同、小中高の同級生および故郷の住人一同には、 「東京にある共同印刷という会社の在宅勤務をしている。ワープロを使って電算写植のオペレーターをしている」  と言っていた。私の生まれ育った村の人々のほとんどは雑誌を読まない。本も読まない。映画も見ないし絵も見ない。 「そんなもん、生活にはなくったっていいものです」  と思っている。 「学校にいるうちは学校の勉強に努め、卒業したら役場なり田畑なりで、その日の勤めに精を出し、朝におはよう、夜にはおやすみなさいを言って寝る。それが健全な人間というもので、本を読む、ましてや本を書くなどという行為は蔑《さげす》むべきものです」  と思っている。そのとおりだと思う。まっとうである(私の言いわけは十五年目にして今年の一月、ついにばれ、やはり老親は嘆いていた)。私の育った村の人にかぎらず、おそらくほとんどの人がこう思っていると思う。  しかし、それでも読まずにはいられない、それでも書かずにはいられない、という人も世の中にはいて、自己の内にある忌むべき凶々《まがまが》しいものを、なんとかプラスに転化させるべくくふうした結果が、出版産業なのではないだろうか。もちろん私はあらゆる先達の作家、編集者には敬意を抱いている。私の村の人が無視|蔑視《べつし》したぶん、彼らのぶんまで抱いてやると、りきむくらい抱いているが、ときどき、カオルコなどという名前は文学をナメているみたいだから変えたらどうですか、と言う人がいて、そういう人は、 「私は『赤毛のアン』がそばかすに悩んでいることや太宰治が恋人と心中しようと悩んだことが、かっこいい悩みにすぎていっしょに悩めなかった。興味がわかなかった」  と私が言おうものなら、あの名作をけなすなんてなにごとですかっ、あの太宰治をけなすなんてなにごとですかっと、しばきかねないくらいに怒る。私はなにもアンや太宰氏を誹謗《ひぼう》したつもりはないのでとても困る。  赤毛とそばかすに悩んでいるアンはだれかに相談できそうだが、一日に鼻毛が15センチのびてしまうことに悩んでいる人は、もしそれが思春期の少女だったりすれば他人に相談できないと思う。 「だれにも言えなくて投稿しました。ぼくの睾丸《こうがん》は黒い上に、一か所、赤いほくろがあるのです」  こんな相談が中学生向きの学習雑誌の悩み相談コーナーには必ずといっていいほどあったものだ。今からすれば笑い話だし、当時だって笑い話だっただろう。しかし滑稽さゆえに、当人は苦しく、悩むのである。かなしみというものは常に滑稽さのなかに寄生している。はかなげな美少女が花粉に粘膜を攻撃されるより、体内にさなだ虫がいて腹を攻撃されるほうが、私はかなしいと思う。滑稽さとかなしみは、愚かな民には表裏一体であることを知ることが、絶対である神ではない者の謙虚さであると思うのだ。  聖書の、たとえばマタイ伝には『自分の義を、見られるために人の前でおこなわないように、注意しなさい。そうしないと天の父から報いを受けることがないであろう』『祈る時には偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む』というような箇所がある。こうしたことを考えて考えて考えすぎると、動作の一つ一つにも己の偽善が含まれているのではないかと自分を憎み、なにもできなくなる。聖書に悩んだと言えば一見、たいそうな悩みに見えるかもしれないが、その表に見える行動はものすごく滑稽なことであり、かなしいことである。だが、滑稽さに常にかなしみが寄生するように、かなしみは常によろこびを兆している。  フランチェスコも、ぼろ布をまとい、お尻《しり》を出して裸同然で教会に立ったときには人々からゲラゲラ笑われたが、彼は謙虚で心はやすらかであった。彼の内部にはどのような幸いが積もっていったのだろうか、その幸いを全身で受けるためにどのように自己を克服したのだろうか。彼の崇高な境地に至るのは、私などにはとうてい不可能だが、それでも、聖フランチェスコの足の裏のちょこっとくらいの部分が現代に生まれ変わったらフランチェス子ちゃんのようになるのではないかと思い書いた物語である。 [#この行4字下げ]角川文庫ではなく文春文庫で出ているので、「この項トル」と編集部から指示が出ないよう明日つけとどけをしておこう……。 [#改ページ]   二章と三章のあいだに     フェリーニの映画は81/2 ここは21/2章 [#ここから2字下げ]   #親戚づきあい  私はプロレスラーの坂口征二といっしょに泳いでいる。同じレーンを半分に分けて泳いでいる。  しかし、すみません。べつに私が�世界の荒鷲《あらわし》�に電話をかけて、 「じゃあ○時にプールでネ」  などと言い、約束し合って泳いでいるわけではない。  真相は、たまたま通っているプールが同じで、そこのプールは狭いので、混む時間には一レーンを、二人で分けて使用しなくてはならないことがあるというだけである。  向こうは、私と「いっしょに泳いでいる」とは全然思っていないだろう。だが、私はとてもうれしいのである。晴れがましく誇らしい気分になるのである。これはどういう心理なのだろう。自分も強くなった気がするのだろうか。  そんな私は、つい最近、びっくりする話を伯母《おば》から聞いた。  伯母といっても年齢差がある。八十歳だ。が、彼女の頭は、私よりよほどはっきりしている。目鼻だちもはっきりしている。  当然、若いころは美しいモダンガールだった。彼女はある女性と文通をしていた。自分の娘にあたる……ような女性と。 「私とは正反対の、着物の似合うやまとなでしこタイプの人でね。今はアメリカで日本のカルチャーを紹介してるのよ」 「ふうん」 「あんた、会いに行ってきたらええのに」  その女性は、私のいとこにあたる……とも言える。  伯父《おじ》(つまり伯母の夫)が、生前、ある事情あって養女にした女性なのである。妙にあいまいな言い方をしていたのは、伯父が戸籍変更の手続きまではしなかったからだ。  戦後まだまもないころのことである。人々が街頭TVに集まり、力道山に拍手|喝《かつ》していたころのことである。日本人は現在のように全員が中流ではなく、みな、質素に暮らしていた。  伯父は、女性を養女のかたちにして、生活の世話をしていた。やがて彼女を嫁に出した。  ある日、パレードをしていたプロレスラーが彼女をみそめたのである。ものの本によると「病院へ知人のお見舞いに来ていた彼は、同じく知人を見舞っていた彼女をみそめた」とあるが、パレードで通りに立つ彼女をまなうらに焼き付けた後日に、病院で再会したのではないだろうか。  ともかくも、私のいとこにあたるような女性と、そのプロレスラーは結婚した。国際結婚だった。プロレスラーはアメリカ人だった。 「なんていうレスラー?」  私は伯母に訊《たず》ねた。伯母は答えた。 「噛《か》みつき魔、とか言われてはった人や。試合を見てたお客さんがショック死しはったこともあるそうや」 「えっ!」  噛みつき魔。銀髪の吸血鬼。現役時代にそう呼ばれて恐れられたヒール役のレスラーといえば、フレッド・ブラッシーである。 「じゃあ、私ってブラッシーのいとこ?!」  これは、東武動物公園で藤波|辰巳《たつみ》とすれちがったことを自慢しているどころの騒ぎではない。歌舞伎町で上田馬之介がタクシーに乗るのを見たと悦に入ってるどころの騒ぎではない。人物の比較ではなく、ゆかりの比較の問題である。 「すれちがった」「見た」「いっしょのレーンで泳ぐことがある」と、「いとこ」では、ゆかりの濃さが雲泥の差ではないか。たとえ内縁のいとこ(?)であろうとも。  小説において歯並びの描写がやたらに詳しい私には、いとこの影響があったのである。アメリカには法事はないのか。晴れがましく出席したい。 [#改ページ]   #リングの向こうにいるお嬢様を想うプロレス観戦つれづれ  蝶野正洋《ちようのまさひろ》というプロレスラーがいる。  蝶野が好きだ。  と、女が言えば誤解する人間が多い。男に多い。 「なるほど。ああいうのにワイルドに犯されたいのだな」  といった誤解。「犯す」が過剰表現だと言うなら、婉曲《えんきよく》表現に変える。そうだな。「さらう」を使うか。 「犯す」と夢まぼろしのなかで発音するとき、どんなに正直になっても、そこに現実感はまるでないわけだから、じっさい「さらう」のほうが適している。  蝶野が好きだと言う女がいると、 「なるほど。ああいうのにワイルドにさらわれたいのだな」  といった誤解をする男が多い。そういう誤解をする男は、  蝶野=矢吹丈  蝶野を好きな女=白木葉子  と設定してしまうからである。  設定がまちがっているために誤解するのである。乱暴な男と、その乱暴な男を毛嫌いしないながらも強く魅せられてしまうハイソ階級の女、という設定はまちがっている。乱暴な男にひかれる女はいるかもしれないが、少なくとも蝶野にこの設定を用いるのはまちがっている。  少なくとも私は、蝶野に矢吹丈を見ない。蝶野が白木葉子なのである。 「蝶野=白木葉子」  と映して、試合を見ている。 『あしたのジョー』において、矢吹丈は常に白木葉子を罵《ののし》る。罵りながらも白木が好きでたまらないのだから、罵りは口実ではある。罵る口実と彼女にひかれる理由は同じもので、それは白木葉子のやることなすことすべて「お嬢様の憂鬱《ゆううつ》」だからである。お嬢様の憂鬱こそ、白木葉子の魅力であり、蝶野正洋の魅力と同じである。 「おぼっちゃまの憂鬱」 「おぼっちゃまの反抗」  あるいはもうすこし手厳しく言うなら||手厳しく言ってやりたくなる嗜虐《しぎやく》心をかきたてる、どんなに隠そうとしても隠せない育ちの良さからくるかわいらしさが蝶野にあるために、口実の意地悪をせずにはおれなくなるのだが、 「恥ずかしがり屋の遠吠《とおぼえ》」  と言ってもよい。罵りながらも矢吹が白木を好きでならなかったように、おぼっちゃまの憂鬱は、ひたすらかわいい。蝶野が好きな女は、彼の家庭教師になって竹刀でビシバシ鍛える光景を夢みるはずである。 「男にワイルドにさらわれたい」  などと願望するお嬢様というのは、ならばその妄想のなかで求めるのは、蝶野ではないだろう。こういう女は、やはり藤原喜明を求めると思う。  藤原は「日本一、ステテコ姿がセクシーな男」といえる。藤原のステテコ姿を見たことはないが、着たらきっとお嬢様はシビれて嬉《うれ》し泣きだ。  そういうわけだから、蝶野が好きだと女が言うとき、男はまちがった設定による誤解をするべきではない。 [#改ページ]  #怒らせてくれるな  しゃべれないから書いている。口ではかなわない。怒ると暴力に訴える。口喧嘩《くちげんか》などとんでもない。あれは頭の回転が速い人間のすることで、回転の遅い私は先に手がでる。 「そうは見えない」  いつも言われる。いつもそう見られる。私は実にトロそうな顔をしているからだ。やさしいという形容詞と、やさしそうな自分の顔が、私は大っっっっ嫌いである。なので、自分の顔を憎んでいる。ひっぱたきたくなる。事実、よくひっぱたく。自分と似た他人の顔もひっぱたきたくなる。顔がおっとりしているからといって、性格もそうにちがいないと短絡視する人間もひっぱたきたくなる。よって、ほとんどの人間をひっぱたきたくなる。  しかし、自分の顔をひっぱたく以外は罪になるので、がまんしている。ひたすらがまんしている。がまんしながら、もともと巡りの悪い頭でしゃべるのは難儀である。私のしゃべりは「超スローモー」になる。  と、やっぱりこの人は顔のとおり、のんびりした怒らない人なのだと思われる。ますますがまんしなくてはならない。たいへんである。がまんと怒りが、年利6・03%で増えていく。  小学生のころ、私は「泣かない女子」だった。女子は最後には泣く、泣いたら悪さをやめる、そういう紳士的なルールが男子にはあったが、やさしい顔つきの私が予想はずれに泣かないので、ある日「決闘」というものをした。  ほんと、笑っちゃうけど「決闘状」というのをもらったのである。クラスで一番の「強い男子」となっている子から。放課後、教室の机と椅子を前のほうにずずーっと寄せて、それはおこなわれた。勝った。相手が泣いたら、そこで勝ちだ。なに、勝つのは簡単だった。私は、だって大きかったんだから。大きいというと、わりと人は、長身という意味に受け取るのだが、私は骨格のことを指している。私は骨組みがたいていの男子より大きく、頑丈だった。決闘の相手の男子はプレハブ、こっちは鉄筋。その差。フランク・ロイド・ライトの作った帝国ホテルが関東大震災でもびくともしなかったように、骨太でしかも身体がものすごく柔らかい耐震設計の私は、肘《ひじ》を逆方向に押さえつけられても(関節わざをかけられても)ひょうっと相手から抜け、抜けたところでむんずと相手の髪をひき掴《つか》み、ごそりと抜いてやる心得で頭ごとひっぱった。決闘男子は火がついたように泣いた。ここで終われば幼年風景を綴《つづ》った爽《さわ》やかなエッセイになるのだが、後年になると、いやなことを言われて、すぐそばにあったカマをふりおろし、相手の足を切りつけた(凶器使用)こともある。階段からつきとばしたこともある(退場級反則)。腹がたつと、言語より先に手が、本当に出るのである。いつか障害罪で捕まるのではないかと、真剣に自分を恐れている。捕まらぬ事態にならぬよう、がまんにがまんを重ねている。  あまりがまんばかりしているのもよくないから、最近は元ボクサーの指導下、ミットを殴ることにした。スポーツは得意だが、いかんせん年齢のせいで指導になかなか追いつかない。ああ、もっと早くからボクシングをやっていればよかった。腹がたつ。煮えたぎるほど後悔している私の怒りを、この先、どうかだれも爆発させてくれぬよう祈る。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   第三章 意義あり!     「いい」って言われてるけど、     ほんとに「いい」って思ってる?  ◆感性なんか、とぎすまされてなくていーよ! 「総務課のニシヤマって、ほんとにいやなやつ、こないだなんか云々《うんぬん》」  といった悪口は、ニシヤマさんが勤務する会社でしか成り立たない。 「ユカリちゃんっていじわるなんだよ、授業中にさあ云々」  というのも、ユカリちゃんの周辺の人のあいだでしか成り立たない。ニシヤマさんやユカリちゃんとはちがうところで暮らしている人にはわからない。  犯罪者はべつとして、「連日週刊誌やTVでなんのかんのと悪口を言われる人」というのがシーズンごとに出てくるけれども、それは裏を返せば「悪口を言われるくらい、その人はその道ではなんらかの業績をあげた」ということであるし、「人々がその人をうらやましがっている」ということなのである。今さらわざわざ念押しすることでもないが。私もジュリア・ロバーツがうらやましいよ。ああ、うらやましい、うらやましい。ジュリア・ロバーツこそ世界のアイドル。世界を魅了する天使。純白の心と純白の感性がまばゆく輝く最高の女性。ああ、うらやましい。うらやましい。悪口なんかめっそうもない。おお、ジュリア・ロバーツ様はすてき。さ、それはそうと、『狂気の愛』である。『狂気の愛』の悪口を言っても、悪口として成り立たない。 「『狂気の愛』? なにそれ? どんなやつ?」  って首かしげる人、多いと思う。じゃ『ポゼッション』は? これもダメだよね、きっと。題名だけ見て、「あ、あの話か」ってすぐに思い出せる人はごく一部で、どっちも見てない人のほうが多いよね、きっと。  筆者からして、両方とも二回ずつ見たけど、よく話のすじをおぼえてないくらいだから。おぼえてないから、前に一回見たのを忘れて二回見たくらいだから。そんな、興行的、知名度的にマイナーな映画の悪口を言うのは違反である。 「悪口は、ベストセラーになったものや有名な賞をとったものや大スターの地位を獲得した人物についてのみ言うものである」  これが鉄則だ。  鉄則を犯してまで『狂気の愛』の悪口を言おうとしているのは、ソフィー・マルソーとイザベル・アジャーニなら、だれもが知っているところの「大スターの地位を獲得した」に該当する名前だと思うんだが、どうかな……。↑鉄則違反には変わりないので腰がひけている。 「うんうん、ソフィー・マルソーっちゅうのは、じつにこう、顔からしてエッチだよなあ、カラダつきにいたってはもう、そりゃもう、えへへへへ……」 「うんうん、イザベル・アジャーニって、美人だよなあ、あの目でみつめられたらなんでもしちゃうって、そんなかんじだよ、えへへへへ……」  と思っている人は大勢いる。正常な男性ならマルソーの顔見ただけで勃《た》つ。アジャーニの顔見ただけで恋する。私もそうだ。だから女優見たさで『狂気の愛(マルソー主演)』も『ポゼッション(アジャーニ主演)』も見たのだが、偶然にも、どちらもアンジェイ・ズラウスキーとかいう人が監督の映画だった。  そしてどっちも、美しさの内面にひそむ狂気とエロスを描いている《らしい》。早い話が「なんや、難しゅうてようわからんわ」という映画だった。  で、私はこの「難しゅうてようわからんように」作った映画というのが嫌いなんである。  難しいモチーフというのはある。深刻なモチーフというのもある。他国の人には理解しにくいモチーフも、見たあとに気分が沈むほど重いモチーフもある。そういう作品のうち、自分が共感したものに対しては、「重かった。でもおもしろかった」と思うし、共感できなかったり、こちらに専門知識がなくてよくわからなかったもの(あまり日本人にはなじみのない国の独自の宗教観を描いたものとか)に対しては、「私にはわからなかった」と思う。  でも、そういう作品とは別に、たんなるムードづくりで�難しそうに�作った映画が嫌いなんである。もっと正確に言うと「そういう映画を己が知的人種であることの宣伝みたいに鵜呑《うの》みに褒める人々」が大嫌いなんである。  たとえば『狂気の愛』のなかで、マルソーが裸でナワトビをする。暗いバックで暗い目つきで飛ぶ。たとえば『ポゼッション』のなかでアジャーニが、どもってしゃべる。暗い目つきで脈絡のないひとりごとをどもってしゃべる。  あーっ! カンベンして。この、塗り絵のようにベタな「狂気の愛の演出」。ファミリーマートでもセブン—イレブンでも買える「狂気」の演出はカンベンしてえな。だれだったかなあ。だれか偉い人の格言にこんなのがあるのよ。 「才能のない奴ほど狂気を売り物にする」  っての。書道三段の墨文字ででっかく書いてズラウスキー監督にエアメールで送ってやりたいわ。  この監督の作品にかぎらず、『赤い航路』『ヘカテ』『鬼火』『ルナ』『溝の中の月』『ベルリン・天使の詩』『パリ、テキサス』などなど、「ベタの狂気」と「ベタの淋《さび》しい」で塗りたくった中学生日記を、もったいぶって褒めるやつが近寄ってくるといつも、感性なんかとぎすまされてなくていーよ、と叫んで帰る。 [#この行4字下げ]『赤い航路』と『ヘカテ』と『ルナ』と『溝の中の月』『パリ、テキサス』における女優さんの魅力はすばらしいです。もちろん『狂気の愛』も『ポゼッション』も。ようするに、こういう映画は、ソフィー・マルソーやイザベル・アジャーニやナスターシャ・キンスキーの美しいすがたと魅力を堪能《たんのう》していればそれでいい映画だと思うんで、狂気のうっとうしい解釈はやめてくれよと言いたいのだった。 [#改ページ]  ◆年相応でいいじゃないか、ルイ。キャンディスもそう言うよ、きっと  ルイ・マル監督って好きだった。  小学生のころ、当時の至福の時間だった「日曜洋画劇場」で『私生活』というブリジッド・バルドーの映画を見て、せつなかった。『死刑台のエレベーター』というジャンヌ・モローの映画を見て、せつなかった。『地下鉄のザジ』を見てキュンとした。『好奇心』を見てキュンとした。『恋人たち』と『世にも怪奇な物語』を見て、どきどきした。あとになってから、これらがみんなルイ・マル監督の映画だと知り、 「シリアスな作品もコミカルな作品も、みんなキュンとしてせつないルイ・マルの映画が好きです」  というようなエラそうな発言をしていた。小学生という、なんでもかんでも吸収してしまう頃に見たせいもあっただろうけど、でも、小学生以上の年齢で観た人でも、賛成してくれる人は多いと思う。  月日は流れ……。 『ダメージ』という映画が公開された。  観てきた人が言った。 「ルイ・マルももうダメね」  そうか、もうダメなのか。私はその人に相槌《あいづち》を打ったが、見に行った。見る前にすでに「構え」ができてしまっているという点では、純粋な鑑賞方法ではないが。  不純ながら、ダメだと先に聞かされた映画は「意外におもしろかった」になり、先に「すごくおもしろかった」と聞いた映画は「意外につまらなかった」に、おうおうにして、なるものである。  が、『ダメージ』の場合、「ほんとだー」と私も見たあと同意してしまった。 「ブルジョワの贅沢《ぜいたく》さを根底にたたえつつ、せつなさをみずみずしく描いたルイ・マルもさすがに年齢には勝てなかったのね、ちょっとさびしいナ」  というくらいの残念さであったら、わざわざここで紹介しないのだが、「さびしいナ」などとファンシーな言い方をしているヒマもないくらいつまらなかった。  ジェレミー・アイアンズはセクシーな俳優だと思う。『戦慄《せんりつ》の絆《きずな》』などとてもよかった。嗜虐心《しぎやくしん》をそそる神経質なインテリ顔。「あいつの苦悩する顔が見てみたい、ヒヒヒ」と思わせる顔をしている。  ルイ・マルもそう思ったのか、『ダメージ』ではジェレミー・アイアンズにたっぷりと苦悩させる。苦悩のモトは、息子のフィアンセとの不倫の恋愛である。 「イヨーッ、待ってました苦悩男!」  とおひねりを投げてあげたかったのだが、これがどうも、なんともはや、コメディアンに見える。 「ちょっとちょっと、アイアンズはん、なに悩んではりますのん」  と、背中をどんと叩《たた》いてギャハハハと笑ってあげないとならない気分になってくる。  なぜだろう、なぜかしら? こういう題名の教育番組が昔あったが、なぜだろう、なぜかしら? わかった。原因は相手の女役のジュリエット・ビノシュですね。  ジュリエット・ビノシュは、フランスの中田喜子である。中田喜子が若い人にはわからなかったら山口智子でもいい。  三人とも純朴な明るさがある。丸顔で目が大きく親しみやすい。その昔、『ありがとう』というドラマをやっていた時間枠で、おてんば婦人警官とか、おてんばの看護婦さん、みたいな役で出るといきいきと輝く。  ところが『ダメージ』で、ジュリエット・ビノシュは、頽廃《たいはい》的な役なのである。懸命に頽廃的になって「禁断のセックス」をするのである。観ているほうは落ち着かないのである。主演女優が明るいので、映画全体に頽廃的な空気をかもしだせず、ひいては、太陽のふりそそぐ明るい牧場で、ひとりジェレミー・アイアンズが「なんかしらんが悩んでいる」ようになり、コメディアンに見えるのである。  なので、アイアンズの息子もコメディアンに見えるのである。  この息子、ラストがずばりコメディアンだった。父とビノシュがセックスしているところを見て、ショックであとずさりしてそのまま手すりも越えて転落して死ぬんだが、すごく正確にあとずさりするのである。  だって、脳の検査で、よく後ろ向きに歩けるかどうかを調べるじゃない?  父と自分のフィアンセがセックスしているところを目撃して大きなショックを受けているのに、部屋からドア、ドアから廊下、廊下から手すりを、正確に後ろ向きに進んでいくのはいかがなものか。  ルイ・マル、この映画、やる気なかったのかな。  それとも、やっぱりもう老けてしまったのかな。  人間が年をとるのはあたりまえで、年とったのに年とってないようにしようとすると老ける。とったらとったで、とったようにしてると若々しい。  年とったルイ・マルが、年寄りっぽい映画撮って、それを年寄りがしみじみーっと見るってのもいいじゃないか。若者だけじゃなくて、年寄りにも、映画好きな人がちゃんといるんだから。  ……と思っていたんだが、あちこちで『ダメージ』は「いい」「いい」と言われていた。私が見落としているいいところが、きっとたくさんあったのだろう……。 [#改ページ]  ◆美形御三家あらためステキ御三家に訂正しないか  この項は三人まとめて、ブラッド・ピットとレオナルド・ディカプリオとキアヌ・リーブスである。三人の映画についての話ではない。 「ディカプリオとブラピとキアヌ、三人まとめて、どこが美少年なの?!」  という文句である。  キアヌの映画は何本か見た。ブラピのも見た。ディカプリオのも。御三人の映画は、おもしろいものもあり、おもしろくないものもあった。  映画のよさより、映画のなかでの彼らが「いいわァ!」という人が大勢いる。それは当然のことである。映画俳優(女優も含む)に対する感情というのは疑似恋愛であるから、他人の恋愛についてとやかく言うつもりは毛頭ない。  ナイーブでかつワイルドな風貌《ふうぼう》にグッとくるのであろう、ブラピ。シャープな少年のしぐさにドキッとさせられるのであろう、ディカプリオ。コンサバでシャイな風情がかわいいのであろう、リーブス。  推測するにこんなふうなところがいいのだろうと三人については推測するし、人々が彼らを見てこんなふうに感じることもわかる(=想像はできる)。  彼らのファンであることについても、彼らの魅力についても、なにひとつ文句を言うつもりはないので、そこのところはくれぐれも誤解なきよう、あわてて今からキィーッ! と怒らぬように。  私はただ「美少年」という形容詞の用い方が、この語に対するずさんさが気に障るのである。  美少年というのは「きれいな少年」のことである。きれいというのはどういうことかというと、 「顔の骨のカーブや角度や肉のつきかたのラインが整っている」  ということである。この判定基準からしか美少年判断はしてはならない。  ブラピは真正面から見たときに下顎《したあご》が張りすぎているし(そこがピュアな表情をみせるのに一役買っていいという意見には文句はない)、キアヌはまぶたの肉が腫《は》れぼったいので目が顔に比して小さく見える(そこがあっさりとあぶらっこくなくていいという意見には文句はない)し、ディカプリオにいたってはどこも整っていない。しじゅうツバをとばしてピーチクパーチクうるさくしゃべっていそうな、ロスかフロリダの郊外のドラッグストアでレジあらしをしていそうなチンピラのようだ(そこが、生意気な少年っぽくてかわいいという意見にはなんの文句もない)。  この三人が台頭するまではジュリアン・サンズとダニエル・デイ・ルイスというのも耽美《たんび》派として女性に人気があった。耽美派……にしては、サンズは鼻が大きすぎる。デイ・ルイスは肌のキメが粗すぎる。キメが粗いうえに、キメにあぶら症の老廃物がたまって凸凹になっている。  あえてひどい言い方をした。あくまでも定規と分度器ではかったとしたらという基準で顔を観察した場合、という視点がわかるように、あえてひどい言い方をした。こんな言い方をしたのは、私が五人を嫌っていない、ということが言いたかったからである。  つまり、好きだということと、きれいだ、整っているという事実とはべつのものだと言いたいのである。 「美少年」という形容を冠につけるならば、私は和泉元彌とビョルン・アンドレセンの名前しか挙げることができない。が、元彌は成人してしまっているので、ただ一人アンドレセンを残す。  それはビョルン・アンドレセン……。文豪トーマス・マンの原作にしてルキノ・ヴィスコンティ監督の代表作『ベニスに死す』でタジオ少年を演じたスウェーデンの少年だ。当時十六歳であった。  だいたい「少年」と呼んでいいのは十五歳までか、かろうじて十六歳までで、二十三歳のディカプリオはもうアウトである。  しかしだからといって、十六過ぎた男は嫌いだという意味ではない。六十代の小松方正にも五十代の泉谷しげるにも、たいへんなセックスアピールがある。こうしていちいちフォローをしなければならないほど、すぐに人は「整っていると評するの」と「好きだ」という感情をごっちゃにするのが、私は気に障るのである。  ビョルン・アンドレセン(と少年時代の元彌)と比べたらブラピもレオ様もキアヌくんも地べたにひれふして「すみません」「申しわけありませんでした」と美少年の形容を否定しなくてはならない。ビョルン・アンドレセン。『ベニスに死す』のあと交通事故で死んでしまったと聞くが(ベニスではなくストックホルムで)、本当にきれいな顔をしていた。ただし、ちっとも好きじゃなかったことも、最後までくどくどしくつけくわえておこう。  世間は自分の好きな俳優について、もっと正しいボキャブラリーでキャアキャア言って欲しい。 「ブラピってね(キアヌってね/レオ様ってね)、美少年っていうんじゃないけど、すっごくチャーミングなのよ※[#ハート白、unicode2661]」  とかさ。 [#改ページ]  ◆暴露本の定義 「暴露する」。この行為は昔々から根強く世の中にはびこってきたものである。なんで、はびこってきたのかというと、それは、ニーズがあるからである。ニーズ=もとめるもの=好きなもの。ニーズが高いとは、みんなが大好きなものである。  筑波大学を卒業した医師が妻子を殺害した事件があった。奥さんはまぎれもなく被害者であるのに、ランジェリーパブでバイトしていたとか、三〇万円のミシンを買ったとか、着ていたトレーナーのメーカーはどこそこだったとか、私生活をさんざん暴かれていた。暴いたTVは連日、高視聴率だった。この医師の奥さんは専業主婦である。歌をうたっていたわけでも、映画に出ていたわけでも、CMに出ていたわけでもない。それなのに、こんなに暴かれるのである。みなさん、よほど、この奥さんが好きだったらしい。  ならば、ましてや歌をうたったり映画に出たりCMに出たりしている人に対して、みんなはもっともっと暴露をニーズする。そうした大衆の心理にフィットする商品、すなわち暴露本は、売れる。  売れるから出版されるのであって、たとえば川崎市麻生区に住む三十四歳の男性会社員が、休日に船の模型を作るのを趣味としていることや奥さんとは大学の同級生であることや、子供は近所の幼稚園のトマト組であることを書いた本が出ても、99パーセント売れない。だいたい、ハナからそんな本を出す会社がない。あるとすれば自費出版専門の会社だ。  昭和三十年代には、美空ひばりの自宅のごみばこが誰かによってあらされたことがあるというし、近藤マッチはお母さんのお墓まであらされた。 「有名税なのよ、しかたがないわ」  とは言えない。度を越している。  有名人であるということは、プライバシーはほとんどない、とは覚悟すべきではある。なぜならその代わりに有名人であることによる恩恵も彼らは受けているわけだから。ただし、プライバシーがほとんどない、ということは「プライバシーがない」ということとはちがう。「いくらなんでも」というラインはあるのだ。「度」だ。 「度」を守る側は、有名人側にではなく「みんな」のほうにある。 「みんな」が毅然《きぜん》としてラインを守れば、本は売れないから、よって誰も本を書こうと思わないし出そうとも思わないはずである。暴露本が出るのは「みんな」が読みたそうにしているからだし、だから売れるだろうと計算する人がいるからである。よって、暴露本を出しているのは「みんな」であるとも言える。  でもなあ、資料として渡された明菜《あきな》本とりえ本とダイアナ本とジャクリーヌ本を読んだんですけど、ちっとも衝撃的じゃなかったし、空想物語としてもおもしろくなかったんだが、売れたんですか? あんなのにニーズあったのかしら? 何もえげつないことまで暴露しなくていいから、彼らの本音を綴《つづ》った本のほうが読みたいなあ。幼稚園でかなしかったできごととか、中学校の修学旅行でたのしかったこととか、好きな食べ物とか、お化粧のしかたとか。たんに「資生堂のなんとかローションを使っています」といった一行でおわってしまうような本音ではなく、ひとつの質問につき原稿用紙30枚は答えているようなやつ。 [#改ページ]  ◆松田聖子が愛される理由  聖子のクリトリスは大ぶりで、僕がひとさし指でちょっと触れただけでも棘《とげ》のように固くなる。抱きしめると彼女はすぐに高い声であえぎ、全身をくねらせるのだった……というようなことが暴露されているにちがいないと、多くの人は想像するのだろうか。ジェフ・ニコルス著、三枝靖子訳、ラインブックス発行『真実の愛—True Love』、定価一五〇〇円。ベストセラー。  読んでみたところ、冒頭のくだりのような記述はいっさいないので、冒頭のくだりのような記述が満載されていることを期待している人には「読むな」と言おう。  では、「読め」に進むべき人はどういう人かというと、冒頭のようなくだりを全然期待していないところの次の三タイプである。  ㈰聖子のファン。  ㈪陸奥A子のファン。  ㈫朝に天麩羅《てんぷら》そば、昼にカツ丼、夜に接待酒をして胃のもたれている人。  ㈰㈪㈫のいずれかにあなたが該当するならば、この本を読んで後悔はしない。  ひとことで感想を言うなら「さわやか」。書かれていることが、題名どおり「真実」なのか否かはどうでもよい。聖子という名のヒロインが登場するひとつの小説としてさわやかな一冊であった。  構成は拙《つたな》い。伏線もなく、時間経過にそって綴られているだけで、そのくせ時間経過がまるでわかりづらい拙さ。  しかし、ジェフくんの「恋する気持ち」が初々しい。恋する若者のときめきと甘味が青い珊瑚礁《さんごしよう》のようにきらきらしている。物語中で描写される聖子は、赤いスイートピーのように愛らしい、やさしい女性である。そして二人の会話や行動は、 「いいなあ、恋するって。いいなあ、たのしそうだなあ」  と、素直に感じさせ、チェリーブラッサムのようだ。ふう、聖子ちゃんのヒット曲のタイトルにあわせて誉めるのはちょっとしんどかった。 [#この行4字下げ]暴露本にあらず暴露行。ほかの方はどうか、私には「ふうふう書評」「ふうふう映画評」があります……。新刊本や新公開映画はぜったいけなさない、という方針でいるんですね、私は。だって、これから味わう人が大勢待ってるときには、対象の長所だけを教えるのが、先に試写会で見られたり、見本本をもらえたりする立場にある者のエチケットじゃないですか。それでもねえ、どうしても長所を見つけられないものもあって、そういうのを「ふうふう評」と呼んでいます……。ジェフくんの本は、いいところがずいぶんありましたよ、ここに書いたように。ちょっと、ふう、と息が切れてるかもしれないけど。「ふうふう」だったのは、××さんの×××と○○監督の○○。あれは辛かった。部活時代のうさぎ跳びのように、ふうふうどころかゼイゼイで誉めたけど……。  こんなにたのしくうまくいっている二人がなぜ別れなければならないのか、別離に向かう展開がきわめて曖昧《あいまい》で、そこがこの手記の最大の欠点といえる。 『ニューヨークでは、日本の芸能記者が相変わらず僕の帰りを待ちかまえている。オーケー。知りたいなら、話してもいいさ。しかし……あれは、もう昔の話だ』  ジェフくんはひとりごちるのだが、このセリフは、おそらく訳者が最初に発案したのではないか。小意気なハードボイルドふうに〆にする、このセリフ。これでラストをキメたかった御心情はお察しできるが、いかんせん、読者よりも訳者よりもだれよりもジェフくん本人がいちばん、 「なんで別れなきゃいけないわけ?」  と、曖昧な気分でいる(推測)ので、全然キマっていない。聖子ちゃんの『私には、自分の送りたい人生と、送らなければならない人生とがあるの』という発言は、芸能人にはプライバシーがほとんどない覚悟をしているところがうかがえてよかった。  ……と、『真実の愛』の感想文を雑誌に書いてから十年近くがたってしまい、今やこんな本があったことをおぼえている人がいったい何人いることやら。今、ジェフくんはなにをなさっているんでしょうか。『アサヒ芸能』だっけ。「あの人は今!」特集をやる雑誌。あれでぜひ追跡ルポしてほしいものだ。「あの人は今! 有名外人特集」。トレーシー・ハイドとマーク・レスターとジャック・ワイルドの『小さな恋のメロディ』トリオははずせないとして、アニセー・アルビナとショーン・バリーの『フレンズ』コンビ、アン・ソフィ・シリーンとロイ・アンデルソンの『純愛日記』コンビも入れて、ハニー・レーヌ、サンドラ・ジュリアン、クリスチナ・リンドベルイといった『アサヒ芸能』の得意分野であるお色気系の人もしっかり『アサヒ芸能』本来の読者用におさえといて、私としてはぜひエドアルド・ネヴォラ少年のその後が知りたい。「だれだす? この人」と思われる方がほとんどでしょうが、わかる方もいるかな? わかった方は角川文庫編集部まではがきでご回答をお寄せください。正解者の中から抽選でセイシェルの夕陽を見られるツアーチケットが当たります、と言いたいところだが、当たりません。ただ、この項の最後らしく聖子ちゃんのヒット曲タイトルで〆にしようとしただけなのだった。ごめん。 [#改ページ]  ◆正真正銘の暴露本  中学と高校で同級生だった鈴木智子さんっていませんか?  成績がよくて体育もできて、文化祭でも実行委員に選ばれる鈴木智子さん。まじめだけれど気取ってなくて明るくて親切でがんばりやの鈴木智子さん。鈴木智子という名前ではなかったかもしれないけれど、こんなふうな同級生って誰もがひとりは思いつくのではないでしょうか。言ってみれば「ごくふつうの優等生」。  金賢姫《キムヒヨンヒ》は北朝鮮に住んでいた鈴木智子さんだった。  食うに困ることはない平均よりはちょっと上の家庭の長女に生まれて、小さいときはチョコレートが大好きで、いつもいつもチョコレートで口のまわりを汚しているものだから「チョコレート大将」というあだなをつけられていた。  長女だから年の離れた弟の世話もする。でも子供だから弟が何度もおしっこをもらしてオムツを何度も替えさせられるハメになると「にくらしい」と正直に思ってしまう。  おだやかな父とやさしい母。両親の愛情にはぐくまれ、この北朝鮮の鈴木智子さんはすくすくと育ってゆく。お嫁さんをロマンチックに夢みたりはするけれど、チャラチャラと男の子に色目をつかうなぞそんな器用なことはできない「ごくふつうの優等生」として。根がまじめだから、学校に行っても勉強をがんばった。スポーツも、学校行事もがんばった。イヤミな点取り虫ではない。素直な性格なので先生から言われたとおりにやっているだけだ。それが「たまたま」ひじょうに優秀な成績であったために共産党の幹部のお偉方の目にとまってしまう。 「きみは優秀だからね、この学校へ行きなさい」  ある日、迎えが来て特別学校へ入学させられる。それはスパイ養成学校だったのだが、まじめで素直な彼女は、そこでも言われたとおりに勉強に励むのである。その結果が大韓航空爆破事件である。  私はこの本をふと買った。仕事があったので後日に読むつもりだったが、ふとページを開いた。それが夜の十時。時間経過。気がついたら朝の十時になっていた。一気である。一気に読めてしまう。それほど読ませる。  そんなにうまい文章ではないかもしれない。ただ事実を書いているだけの技巧のない文章である。が、その事実が読む者を圧倒してくる。 「そりゃ、あんな事件を起こした人なんだから」  と、思われるかもしれないが、あの事件についての詳細が目を引くのでは決してない。北朝鮮の実態が目を引くのである。  なぜなら、かの国は私たちが「もっとも知らない部分」だからだ。これだけ情報が発達した世界においてさえまったく未知で特殊な世界だからだ。知らないことは知りたくなる。現実でありながら非現実のような、だがまぎれもなく現実の国のことを。  爆弾を大韓航空機にしかけるにあたり、金賢姫はまずはヨーロッパに滞在するのだが、爆弾をしかけることと同じ次元で、国家から渡されているお金の範囲内で「どうやって幹部の偉い人におみやげを買えばいいのだろう」と真剣に悩む。ごくふつうの女の子の、恋もろくに知らないごく素直な女の子の、たどたどしいまでの怖ろしい悩みである。  北朝鮮という未知で特殊な国家の驚くべき実態を、スパイ養成学校の優等生というさらに特殊な人物が、「ごくふつうの女の子」のリアルな告白として書き綴《つづ》った、圧倒的迫力の二巻組が、『いま、女として/上・下』だ。 [#この行4字下げ]あっ、いかん、また文春文庫だ。角川文庫にもたくさんいい作品が入っていますので、角川文庫もよろしく。 [#改ページ]  ◆「大ヒット=おもしろくない」のか?  たぶん私は日本でもっとも古くからのジョディ・フォスターのファンのひとりであろう。自信がある。同じキャリアのファンは国内に数人しかいないはずである。 「へえ、じゃ『タクシードライバー』のころから?」  などと言う者は甘い。ジョディ・フォスターは芸歴がとても長いんである。私のファン歴もしたがって長いんである。彼女が「まだ子役」だったころからのファンである。 「子役? じゃ『ダウンタウン物語』のころから?」  と言う者も甘い。ジョディが日本公開作品に初めて出た映画からのファンである。 『カンサスシティの爆弾娘』だ。  この映画を知っている人も少ないだろうが、今となってはラクウェル・ウェルチを知っている人も少なくなってしまった。  一九六〇年代後半から七〇年代前半のハリウッドのセックスシンボルに、ラクウェル・ウェルチという人がいたのである。『カンサスシティの爆弾娘』は、彼女が主演するつまらない映画である。ローラーゲームの女王(時代を感じさせる設定)にラクウェル・ウェルチは扮《ふん》していた。その、ウェルチの娘の役がジョディだったのである。そのころ私も小学生である。ジョディとは同世代なので、子役を見る目ではなく、同世代的な憧《あこが》れで彼女にひたすら夢を託していた。  私はおよそ知的とは言いがたい顔をしている。アホづらである。このアホづらがいやでならず、ジョディを見るたびに、 「なんて賢そうな顔だろう。なんてクールでさわやかな顔だろう。そうだ、きっと彼女はかなわなかった私の夢を、代わりに私に見せてくれる人なんだわ」  と涙ぐむ純真なファンだった。  ファンのピークは『アリスの恋』で迎えた。 「ヘンな町なんだよ、ツーソンってのは」とヘンな服を着て「そいじゃあ、みなさま、さらばあ」とヘンな言い方で言うチョイ役をジョディ・フォスターはやっていた。この映画のときのジョディは最高だった。ほんとうに最高だった。まだ歯を矯正する前で、前歯にすきまがあいていた。最高にかわいかった。  だが、当時は「ジョディ・フォスターが好きだ」と言ってもだれもが、 「ああ『がんばれ!ベアーズ』おもしろかったわね」  と、テータム・オニールとまちがえるのだった。  その後、私が大きくなるように彼女も大きくなり、大きくなりすぎて『フォクシー・レディ』では、もはや「首がない状態」に太っていたが、それもまた不器用そうでよかったし、やがて大人の女になり『君がいた夏』では、強さと弱さの陰影を辛口のロマンチシズムで表現。胸にせまるかっこよさであった。  ジョディに興味がなくなったのは『羊たちの沈黙』からである。理由は一つ。つまらないのである。作品が!  アカデミー賞をとったというニュースを聞いたときは、思わず叫んだよ。 「えーっ、なんでぇ??」  と。だって、ほんとにつまんないじゃない? なんで? 私にはあの映画は、「たんなる原作のあらすじ」としか感じられなかった。こう言うとすぐに、 「それは原作を読んだからよ。原作を読んだ人はみんなそう言うよね」  と聞いた人は言うのだが、私は原作は読んでいない。あるのも知らずに映画を見て、 「きっと原作があって、それのあらすじだわ」  と感じたのである。そう感じさせるほど、ただパタパタパタッとすじをはしょっただけの映画だった。アンソニー・ホプキンスの異常さが恐ろしいと言うが、それは彼の演技(表情?)であって、映画の構成やストーリー展開とはべつものでは? 「ちょっとはなにかこう、伏線ちゅうか、布石というか、そういう芸を見せてはくれんもんかね」  と、言いたくなる。あれでは「忙しい勤め人が会社から帰ってきて、ちょっと電話連絡したり、爪切ったり、レトルトのカレーを作って食べたりしてでも、気楽に混乱せずに見ていられる火曜サスペンス劇場」ではないか。  火曜サスペンス劇場は「たのしんで見る」ことを主眼に作ってあるので、たとえご都合主義でも文句はないが『羊たちの沈黙』は、やたら大上段なかまえで作ってあるぶん鼻白む。  ところが、ジョディはこれ以後、おもしろくない作品にばかり出るようになった。そればかりか、この作品でジョディ・ファンとやらが急増し、アイスコーヒーや化粧品の日本CMに登場し、「わたし、すっごくジョディ・フォスターが好きなの」と、古くからのファンである私に断りもなくファン顔をする輩を増やしたので、古くからのファンである者の常として、ファン街道のわきの林の奥の小屋にひっこんでひとり暮らしをするようになってしまった。 「みんなに売れる」というのは、つまりは「そんなにおもしろくない」ということなのだろうか。 「それがショービズよ」  と、かつて『ダウンタウン物語』でパイを顔にぶつけられながら、ジョディはクールにこのセリフを言ったものだが。 [#改ページ]  ◆他人は自分ではない。自分は自分である。  シャネルだから好き、これはヘンだ。好きだと思った服のメーカーを後で知ったらシャネルだった、これはヘンではない。  ゴルチエは前衛的でかっこいい、これもヘンだ。前衛的でかっこいい靴だと思って買ったらゴルチエだった、これはヘンではない。  さらに、シャネルだと自慢したいわけではないがシャネルを買う、これはヘンだ。シャネルだと自慢したいからシャネルを買う、これはヘンではない。  つまり、本人が本人の心で判断するのはヘンではないが、他人の貼ったレッテルを鵜呑《うの》みにして自分で判断しないのはヘンである。  だから、たとえばレストラン案内の本や雑誌などを見て、 「ほほう、これが四つ星のレストラン、○○○か、なんだたいした味じゃないではないか」  と、思うのも、 「ほほう、これが四つ星の○○○か、ううむ、さすがにうまい」  と、思うのも、「あらかじめ�構え�ができてしまっている」という点では、ヘンな味わい方法である。  道を歩いていたら腹がへった。近くにあったレストランに入ったらうまかった、あるいはまずかった。味わい方法としては、このほうが純粋である。  デビッド・リンチについて、私は純粋な鑑賞をしてきたと思う。  時は一九八〇年、ほとんどの人が彼の名前など知らなかった時代、私ももちろん知らなかった。  ある夜、王子まで映画を見に行った。オールナイトで四本立てである。当時はビデオデッキがまだ普及していなかったので、レンタルビデオ屋というのもなかった。ロードショー公開時期を過ぎた映画は、三番館で観るしかなかった。三番館はよくオールナイトというのをやった。夜の九時にスタートして朝の五時半ごろまで、四本から五本の映画を上映するのである。ものすごく体力がいるし暇もいるが、学生はどちらも持っている。  で、王子のオールナイトで『イレイザーヘッド』を見た。題名すらよく見ずに見た。私の好みでは全然なかったが、よくできていると思った。映像感覚も演出も、起用した俳優も個性的だった。残念なのは、奇形の子が生まれるという設定で、これは女性には本能的な嫌悪感を与えるから、労少なくして不気味なムードを最大に出せる。ずるいといやずるい手法だ。でも、そのずるさを補ってあまりあるシュールな俳優陣だったし、物語としてよく消化し、まとめあげていた。その演出技術を買う。  それからしばらくして『エレファント・マン』という映画を見た。同じ監督だと知らずに見た。やっぱり好みではなかったが、なんだかどっちつかずのところが、目新しい感じがした。どっちつかず、というのは……、 「奇形でも強く生きよう。社会はあたたかい光を向けよう」という文部省推薦的ヒューマニズム映画なのか、「おそろしいことにね、象に踏まれた女が象の子を生みましてね……」という昔の見せ物小屋的なB級ホラー映画なのかどっちの方向性で作るかにあたり、 「どーでもいーや、俺もよくわかんないからさ」  と制作者本人の思惑がどっちつかずなところ……、が、目新しかった。  それからまたしばらくして『デューン/砂の惑星』を見た。監督がだれかも見ずに見た。これはつまらなかった。ぬるま湯に三日間つけておいて忘れた麩《ふ》みたいだった。 「ったく、だらだら、だらだらと。しゃきっとせんかい、しゃきっと」  竹刀ではたきたくなった。でもまあ、私はそもそもスペース・オペラというのに興味がまったくないから、そのせいだろうと、自分のせいにした。  それから『ツイン・ピークス』全14巻を見た。  1巻目を見おわったときは、ケーッと思った。ねえ、不気味でしょ、不条理でしょ、と言いたげな得意顔な作りに。「いまだにこの手法でやってる人がいるのか」とあきれもした。そのうえ、1巻目からして犯人がわかってしまった。「××が犯人じゃないの?」と、もう見た友人に電話で言ったら「そうだよ」とバラしたので、よって犯人当てのたのしみなく、残り13巻を見るハメに……。  ところが、2巻目のとちゅうからものすごくおもしろくなった。やめられないとまらないかっぱえびせん状態。  ところが、13巻の後半から、崖《がけ》から落ちるがごとくのつまらなさだった。 「あんなにおもしろかったのに、なぜ最後だけ急につまらなくなったのだろう?」  と首をかしげた。  後日、映画業界の人が私に教えた。 「『ツイン・ピークス』を監督しはじめたリンチは、とちゅうから他の仕事で抜け、べつの監督が数人で交代し、ラストだけまたリンチが監督したんだよ」  と。つまり、私はリンチが監督しなかった部分だけ、おもしろいと思っていたわけである。  それでも懲りずに『ブルー・ベルベッド』を見た。  ひとえにクーパー捜査官の威力である。  クーパー捜査官というのが『ツイン・ピークス』に出てくるのである。カイル・マクラクランが扮《ふん》している。  カイル・マクラクランは、現代ふうの二枚目ではない。ちょっと昔ふうの、かつ王道をゆく大衆的二枚目からはそれた、そういう二枚目である。そうした外見とクーパー捜査官のキャラクターはみごとにフィットしていて、たぶんカイル・マクラクランという俳優の、俳優人生の頂点であったと思う。『ブルー・ベルベッド』も、だいたい同じ次期の作品なので、カイル・マクラクランの魅力的な表情をとらえたカットが満ちている……。ええ、ほんとに……。まだ青くささを残す若いカイルのナイーブな……。……。ことばじりがフェイドアウトしてゆくのは、 「カイルはよかったね」  くらいしかほめるとこがないのが『ブルー・ベルベッド』なのだった。  なんというかわりばえしない、平凡な、ステロタイプの「不気味」なのだ。なんというわかりやすい、ほほえましい「狂気」なのだ。  火のついたたばこの吸い口のアップ、ぶーん、ぶーんと飛ぶ虻《あぶ》だか蠅だかの音、切り取られた耳、マザコンのやくざ……。もう何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も何年も前からあったアイテムをだらだらと撮って、本人は、 「どうだい? おれって、大衆にはちょっとやそっとで理解できない斬新《ざんしん》な発想と狂気の持ち主だろう?」  と悦に入っている映画である。  何年も前からあって、いつの時代もみんなが憧《あこが》れるものや雰囲気というのはある。それに憧れるのはおかしなことではない。おかしなことではないどころか、私もようくわかる。だが、前項でも言ったように、憧れるなら、ストレートに憧れていればいいではないか。腹が立った。  それなのにまだ懲りずに『ワイルド・アット・ハート』を見た。  ひとえにニコラス・ケイジの威力である。  ニコラス・ケイジが出てるから見たのである。私は彼が好きである。彼が出ていれば、たとえ話がつまらなくてもロードショー代金のモトはとれるだろうと寛容な見通しをしていたのである。ところがモトもとれなかった。 「いーかげんにしろよな! デビッド・リンチ。リンチくらわしたろか」  しょうもないサイテーのダジャレまでつけて、にぎりこぶしをプルプルさせたのが、この映画であった。 「よっくもまあ!」  である。またしてもたばこの吸い口のアップなのは、これはこれでリンチ印というかリンチのロゴとしても、「よっくもまあ」な主原因はニコラス・ケイジの使い方である。  ニコラス・ケイジというのは、背骨、背中、腕、声、いたるとこからフェロモンがぶんぶん放出されている男で、こわれた水道か風呂桶《ふろおけ》みたいに、フェロモンを垂れ流している。このエッチの体現化みたいな俳優を起用しておきながら、 「よっくもまあ、これだけエッチじゃなく撮れたもんだ!」  と、そのあまりのダサさ、あまりのしまりのなさに、激怒した映画が『ワイルド・アット・ハート』だった。  リンチというのはほんとうに性的な嗜好《しこう》が、 「健全!」  なんである。もう富士通提供TV番組『世界の車窓から』みたいにド健全、ド清潔なんである。清教徒ふうのつつましやかなセックスしか『ワイルド・アット・ハート』には描かれていない。清教徒ふうのつつましやかなセックスにも、清教徒ふうのつつましやかな生活を送っている方々にも文句はなにひとつない。この映画が滂沱《ぼうだ》たる涙ほどダサイのに文句があるのである。ワイルドじゃないのにワイルドだろうと言いたげなところが。映画館を出て、怒りながら帰宅した。  それなのに、とうとう『ロスト・ハイウェイ』まで見たのは、さすがに自分の意思ではない。  某週刊誌で映画コメントを連載していたおり、編集部から「これを見よ」と言われたからである。まさか、もうたばこの吸い口アップはないよねと思っていたら、これがあるんである。さすがに匙《さじ》投げた。 「これは『パタリロ』だ。『パタリロ』の手法をとってるんだ」と言い聞かせて、試写会会場をあとにした。 [#この行4字下げ](注)ギャグ漫画『パタリロ』は必ず「常春の国マリネラ…」からはじまる。  でもさ、最後に訊《き》きたいの。 「いい」って言われてるけど、みんなほんとに「いい」って思ってるの?  シャネルの定番のスーツ、あれは私にはどうしても、野井戸(肥だめのこと)の匂いがほのかにただよう田舎の小学校のPTAの会合におばさんが着ていくようなデザインにしか見えないんだけど。あの襟のカットだと着た人が、猪首《いくび》の、エラが張った四角い顔に見えるんだけど。野井戸の匂いのする村の小学校のPTAの会合にはあってるよ。でも、それにしちゃ、値段が高すぎないか? ものの値段には常識っちゅうもんがあるから、「この壺《つぼ》を玄関に飾っておくと運気を呼ぶから三〇〇万円いただきます」なんてこというセールス業者が摘発されるんじゃないの? お金持ちなら、シャネルのスーツの半額で、自分の体型にぴったりフィットしたスーツを仕立ててもらえるんじゃないの? そのほうが着たとき、きれいだと思うんだが。ケリー・バッグとかってやつも、物が出し入れしにくい、使いづらい、機能性を欠いた汚いデザインに見えるんだが。フェラガモの靴だって足入れが浅すぎて足がべたっと大きく見えるし、足首も太く見えて、膣《ちつ》の締まりが悪いという俗説を思い出させるんだが。みんな、ほんとに「いい」って思ってるの? ほんと、ふしぎだよ……。 [#改ページ]   第四章 オススメ     「いい」ってあまり言われてないけど、     とても「いい」と思う  ◆「このミス」の投票って……。  ダン・ゴードン著、池田真紀子訳、新潮文庫から出ている「死んだふり」。  文庫の厚さ8mm。  この薄い文庫を読了するのに4日かかった。一ページ読むのにとても時間がかかる。ぐいぐい読み進んでゆく、ということができない。こういう本は良書である。  たとえば本書と同じアメリカのミステリー、ノーラ・ロバーツの『スキャンダル』は厚さ18mm。上・下巻合わせて36mm。読了に半日もかからなかった。ばんばんページが進む。読んでいるあいだじゅう、なんの味もしないからである。紙の上にたんに「できごと」だけが羅列するのみ。そして読んだ後もなにも残らず、数カ月経た今となっては主人公の名前どころか職業も、舞台となった都市もおぼえていない。こういう本を時間つぶしという。  しかし、時間つぶし本は、これはこれでよいのである。手術をすることになり、腹にメスが入るのを待つ間に私は読んだのだが、そのような時に最適だった。手術への不安がまぎれる。人から思考機能を奪ってくれるありがたさがある。だれが犯人かな、きっとこいつだろう、やっぱりこいつだった、オワリ、である。  8mmの『死んだふり』は、この種の本とまったく反対の本である。犯人がだれかは、あまり問題ではない。そこに居る人間。その関係、その背景、その心の内などの妙を噛《か》んで味わう本だ。味が濃い。文章上に現れた触感。行間に滲《にじ》み出てくる汁。濃い。それに、噛むたびに、歯と歯のあいだに噛み滓《かす》がはさまる。しばしばページを繰るのをとめ、舌で滓をすくい出さねばならない。  事件はハワイで起こる。大金持ちのおっさんと、おっさんより二十歳ほど年下の妻と、妻より十歳ほど年下の愛人男。妻の愛人なのか、おっさんの愛人なのか、人間関係は、ハワイ警察の下っぱ刑事たちも含め、事件の展開とともに微妙な変化をみせてゆく。  おっさんは妻が「自分を殺そうとしている」のを知っている。妻もおっさんが「自分を殺そうとしている」のを知っている。愛人もおっさんか妻(自分の不倫相手)が「自分を殺そうとしている」のを知っている。  そのうえ、おっさんも妻も愛人も、相手が「自分を殺そうとしているのを知っている」のを知っている。  だから、事がひとつ進むたびに、どう進んだかを全員が知ることになる。手の内があらかじめ明かされたミステリーだ。  が、『刑事コロンボ』『太陽がいっぱい』のような「犯人側から描出した」ミステリーではない。殺人計画の手の内が徹底的に明かされてしまっているということは、もはやすべてが謎になってしまうのである。心の裏の裏の裏の裏にまで想像を及ぼさねばならなくなる。自分の感情さえ不確かになってゆく。  と、読み手のほうの感情も、あちこちに飛び、そのたびに、かつての自分自身の怒りや恐怖、喜びや哀愁が甦《よみがえ》る。あるいは、今までには抱いたことのなかった種類の感情が湧く。くらっとする。SFX駆使の映画よりよほど。めまいの中でしばしページを繰るのをとめる。だから読了するのに時間のかかる本だと言うのである。  それに、この本はコメディである。コメディは読むのに知力を要する。書くにも訳すにも労力を要する。小説を訳したことが自分にはないが、さぞかし大変な作業であったろうと想像して訳者に敬服する。  泣く本が良書だとする肌理《きめ》の粗い区分けが、愚かにも巷間《こうかん》に流布しているが、涙するほうが笑うより、単純な脳反応であることは、ほんのすこし考えてみれば明らかである。苦痛時にはサルも反応する。だが、快楽時に口を開けて笑い、その笑いにさまざまな種類があるのはヒトだけである。  とくに「笑いながらも悲しい、悲しいのに笑える」といった感情はヒトの知力を示すものであり、この感情のバリエーションの多さに、知性の高さは比例する。  すでに何度も言ってきたことだ。悲劇はつねに滑稽であり、滑稽はつねに悲劇である。恋する相手を前にすると緊張のために頬赤らめ言葉少なくなる者と、緊張のために内臓が圧迫され放屁《ほうひ》しつづける者と、いったいどちらが悲劇か。どちらが繊細か。  前者を描けば高尚で、後者を描けば低級だとする者を、はなから思い切りよく切り捨てた本書を、だから良書と言うのである。思い切りよく捨てたせいか、この本、売上が芳しくないと版元の人間から聞いた。「このミステリーがすごい!」でもまったく票をかせがなかった。「このミス」の信用度にもかかわるゆゆしき結果。なんとも、もったいないではないか。よってここに推薦する次第である。514円である。 [#改ページ]  ◆美人は美人らしく  それはいつのことか誰も知らない。ある日、ひとつの細胞がしたたり落ち、豹《ひよう》族が生まれた。人間でもなく獣でもない。暗い定めを闇に隠れて生きつづける……という『妖怪《ようかい》人間』のような豹族がいて、平素は人間のすがたかたちをしているが、セックスすると豹に変身するため、相手が驚いてしまい、「早く人間になりたい!」ならぬ、「早くお嫁に行きたい!」と嘆いているのがナスターシャ・キンスキー演じる娘である。「それは無理だよ。だってぼくたち豹族だからね。おまえのセックスの相手はぼくしかいないんだよ、妹よ」と近親|相姦《そうかん》をもちかける兄を演じるのがマルコム・マクダウェルである。この映画の題名を『キャット・ピープル』という。  この映画がまだ制作中だったとき、私はアメリカに滞在中だった。ユニバーサルスタジオで、制作中の旨、知った。「オオ!」とガイジンのように両手を大きくひろげて喜んだ。マルコム・マクダウェルとナスターシャ・キンスキー。「Oh! My best favorite acter and actress」なのである。  クランク・アップと日本公開を、期待に期待に期待に期待に期待に期待をし、そして裏切られた。  そんなにつまらない映画であったわけではない。激しいセックスで豹に変身、という設定はとてもナスターシャに似合っているし、近親相姦の禁忌をそそのかしにくる悪い兄というのもマクダウェルにとても似合っている。妥当なキャスティングであり、妥当な設定でもある。だが、その妥当さゆえに、すでにもう前に何度も見たような気がして、期待が大きかっただけに、落胆も大きかったのである。 『キャット・ピープル』にかぎらない。ナスターシャ・キンスキー主演の有名作品はたいていつまらない。『パリ、テキサス』『溝の中の月』『ワン・フロム・ザ・ハート』。みんなつまらない。非有名作品の『ターミナルベロシティ』『恋の病い』もつまらない。『ハーレム』にいたっては特筆級につまらない。新作『ワン・ナイト・スタンド』もつまらない。  つまらない原因はナスターシャ・キンスキーにある。こう言うとヒステリックな抗議の声が聞こえてきそうだが、まあ、待ってくれ。当項の冒頭で言ったように、私は彼女の大大大大大大大大ファンなのである。全作品を見ている。日本未公開の作品もツテを頼って見ている。写真集も買いそろえている。 「美しい!」、これにつきるナスターシャである。が、整った顔ではない。目は白目が多すぎるし、鼻は大きすぎるし、口もと(唇、鼻の下、口のうえのあたり)全体が前に出っ張っているし、歯並びにも乱れがある。一歩まちがうと怪奇な顔である。さすがはクラウス・キンスキー(怪奇俳優)の娘だ。整った顔というのはエリザベス・テーラーとかエリナ・パーカーとか、ああいう顔を言うのであって、ナスターシャ・キンスキーのような顔ではない。  しかし、美しい! 「整っている」というのと「美しい」というのは別の話だ。ナスターシャ・キンスキーは、本当に美しい。  つまらない話ばかりに出るナスターシャの、そのつまらない映画を見て、私はいつも泣きそうになる。そのあまりの美しさに。「哀しいほど美しい」、この手垢《てあか》のついた形容をされても、納得するばかりな女優がナスターシャ・キンスキーの他にいるだろうか。震えがくるほど美しい。『ターミナルベロシティ』では、ほとんど全編、鼻の穴から口の脇にかけて鼻血がどす黒く、こりかたまって付着していたが、鼻血さえも高価な宝飾品に見えるほど美しい。  だから大勢の監督、脚本家が、彼女からインスピレーションを与えられ、自作に起用したがる。よくわかる。でも、彼女の蠱惑《こわく》の美しさのほうがより勝ってしまい、結局、彼女を生かしきれぬ作品となり、したがってつまらなくなるのである。『パリ、テキサス』も『溝の中の月』も『ワン・フロム・ザ・ハート』も、別の女優が主演だったら、そこそこにたのしめる映画だったかもしれない。  その点、ポランスキーはやはり偉かった。なにしろ『テス』はまるで伏線のない、ただえんえんとキンスキーの美しさを追って撮っただけの映画なのだから。  つまりナスターシャ・キンスキーというのは、たらば蟹《がに》か近江《おうみ》牛のフィレなのである。たらば蟹は、そのまま何もつけず、つけてもほんの少しのポン酢。上等の近江牛フィレなら、ただ塩|胡椒《こしよう》で焼くか、あぶってさっと醤油《しようゆ》。これが一番おいしい。べとべとしたソースをかけたり、揚げてみたり、ごちゃごちゃいじればいじるほどまずくなる。  なもので『キャット・ピープル』は、せっかくのたらば蟹をフリッターにしてケチャップかけちゃったような味になってしまった。そこいくと『テス』はシンプルな近江牛ステーキだった。『ホテル・ニューハンプシャー』はローストビーフかな。  なんといってもナスターシャのベストは『殺したいほど愛されて』と『マリアの恋人』である。たらば蟹の刺し身と近江牛フィレ刺しの味。美人はそのままで美味なのである。にもかかわらず『殺したいほど愛されて』と『マリアの恋人』の評価が低すぎる。とくに『殺したいほど愛されて』。主演のダドリー・ムーアも最高にいい味出してたのに、あまりにも不当な評価をされている! [#改ページ]  ◆ナポリは遠いので  美しいといえば、日本を代表するのは坂東《ばんどう》玉三郎。彼の名前が世間の話題となって、もう時久しい。話題になりはじめたのは昭和五十二年ごろではなかったか。各所で公演の宣伝用ポスターが次々と盗まれる事件が多発していた。玉三郎のポスターを盗む行為さえも彼に対するオマージュのようなムードがあった。  ムードに流されて私も一枚入手し、部屋に貼った(盗んだのではない。本屋さんからもらった)。篠山紀信《しのやまきしん》撮影の美しいポスターであった。一人でずっとながめていられたし、部屋を訪れる者があると、このポスター一枚から次々と話題が生まれるのだった。  ましてや実物を見た者は興奮して、あたかも昔の人が善光寺や石清水八幡宮《いわしみずはちまんぐう》に詣《もう》でたことを伝えるかのように、まだ実物を拝まない者に玉三郎を語った。そのため、 「それはもう美しいそうな。この世のものとも思われぬくらい美しいそうな」 「息をのむほどに美しく、舞台からは後光が射すそうな」 「阿彌陀如来を見るごとく、思わず手を合わせて読経してしまうそうな」 「なんでも見た者は一瞬にしてたましいを抜かれてしまうそうな」  などなどと、話題は話題を呼び、噂は噂を呼び、もはや玉三郎については「伝説」「神話」の域にまで達してしまった。  そしてついに私も実物を拝む幸運を得た。みんなが「いい」と言っている坂東玉三郎は、ほんとに「いい」であった。神話は事実であった。さすがに読経はしなかったが、これまで耳にしていた玉三郎についての語りは、受け売りではなく、見た人の本心だったことがよくわかった。  ン十年も遅ればせながら、私も言っておこう。「それはもう美しいのでした」と。ほかの説明はいらないくらいだ。 「会いたい、会いたい、吉三郎さん」と、玉三郎の八百屋お七が舞えば、見ている者は、それが物語の中の人物の思いではなく、自分の思いのようになってしまう。木戸が閉まっているために会いには行けないということなど、現代の人間にとっては実感のない障害であるし、現代にあっては死ぬほどの恋とか胸焦がす情熱とかいった感情にも無縁なことが多い。にもかかわらず、玉三郎が首を曲げれば、見る者も若い侍《さむらい》に恋をし、玉三郎が雪の中で手をのばせば、見る者も若い侍に会いたいと焦がれるのである。舞台にひきこまれてしまうのである。 「ナポリを見て死ね」という格言があるけれども、ナポリは遠いので、日本人なら死ぬ前に一度は玉三郎を拝もう。 [#改ページ]  ◆ヤツハカじゃなくてウシミツのほう 『丑三《うしみ》つの村』はいい。  日本映画の話になるたび言う。  そのたびに、相手は「ああ、横溝正史の、あの�たたりじゃあ�の」とまちがえる。  ヤツハカじゃなくてウシミツ。古尾谷雅人が主演して、夏八木勲、五月みどり、池波志乃、それにまだ新人だったころの田中美佐子などが共演した奥山和由製作、田中登監督の一九八三年の松竹・富士映画。  傑作である。もちろん、ほかにも日本映画には傑作がたくさんある。が、『丑三つの村』は、その傑作度に比して、評価が低すぎる。公開当時もほとんど話題にならなかったから知名度も低すぎる。合コンの不条理だ。はい、私、デュエット曲、作りました。題して「不条理の合コン」。勝手にふしつけてうたってね。 ♪女♪  ブスがブスだと相手にされないのはしかたがないわ。  美人が美人だと称賛されるのも当然よ。  腹が立つのは、ブスが美人だと言われているときなの。 ♪男♪  ショボ男がショボ男だと相手にされないのはしかたがないさ。  地位持ち金持ちがイレグイなのも当然さ。  腹が立つのは、ショボ男がワイルドなのにやさしいとか言われているときだ。 ♪男女で♪ 「いいことない」ものが「いいことない」と言われるのはしかたがない。 「いい」ものが「いい」と言われているのは当然だ。  腹が立つのは、「いいことない」ものが「いい」と言われるときだ。  みなさんのお気持ちはわかりますともさ。  しかし、女も男も見過ごしがちです。 「いい」のに「いいことない」と言われているものもあるということを。 「いい」のに「いいことない」と言われていても、たいていの人は見過ごす。せいぜい「わたしはいいと思うんだけどなあ」くらいで終わる。  みんなが「いいことない」と言っているのだから「いいことない」のかもしれない。私のほうがまちがっているのかも、と心配するのかもしれない。  だが、「いい」のに「いいことない」とされていると、使命感に燃えて「いい」点を世の中に知らせたい性格の者も、数は少ないかもしれないが、いる。  そこで『丑三つの村』に話はもどる。  すごく「いい」のに、あまり「いい」と言われていない。「いいことない」とさえ言われたりしている。 『丑三つの村』はたたりの話ではなくて、太平洋戦争に突入していた一九三八年に岡山県で、ある男が三十人の村人を一夜のうちに殺害した、通称「津山三十人殺し事件」をベースにした物語である。  いわゆるバイオレンス映画ではない。バイオレンスだとしたら、主人公から村人に対するそれではなく、村人から主人公に対するそれを鬼気せまるリアルさで描出したところである。「村社会」がどれほど怖ろしい場所であるかを、村人の息づかいが聞こえてきそうなほどリアルに描いた映画はそうそうない。しかも太平洋戦争中という、一国全体が「村」と化していた時代と重なっているのだ。ロケによる影像も怖ろしくも、また美しい。  怖ろしくも美しい村のなかで、主人公の青年の嘆きとはかなさと絶望と憎悪がまたみごとにミックスされていく経緯は、見る者の肌に粟《あわ》を浮かばせる。 「みなさま、いまにみておれでございますよ」  古尾谷雅人は言う。ぽけっと言う。彼の表情と声も絶品だ。恐怖と笑いが暗く合体した世界にひきずりこまれる。かつてない哀切の�ふるさと映画�。 [#改ページ]  ◆そんなに言うなら「泣ける本」を紹介しますよ  ある日、「いままでで一番泣いた本は?」と訊《き》かれた。 『さまざまなエンディング』(橋本治著・主婦の友社)と答えた。 「泣いた一番」を選ぶというのは難しかったので、質問を受けた前日に読んだものを答えた。すると、 「橋本治で泣く?」  質問者は首をかしげた。  私もかしげた。  彼は私が橋本治に泣くことに対して、私は彼に首をかしげられることに対して。  だが彼が、 「あの人、泣くような、そんなかわいそうな話を書きましたっけ?」  と言うのを聞き、私は合点がいった。彼は「悲しいとき」に泣くのである。  私は悲しいときには泣かない。喜怒哀楽の感情のうち「怒」のときにもっとも泣き、次いで「喜」である。つまり興奮度が激しいときに汗のように涙が出るのである。  本を読んで「怒」の状態になることはめったにない。たまに、あまりにつまらなくてハラが立つこともあるにはあるが、せいぜい舌打ちをする程度だし、つまらないといってもそれは好みの問題だと思うので、泣くほど「怒」になることはない。  したがって本を読んで泣くというのは「喜」になって泣くということである。アルキメデスは法則を発見して風呂《ふろ》から飛びだしたとききっと泣いていたと、だから私は思ってしまう。 『さまざまなエンディング』はべつにかわいそうな話ではない。評論である。『太陽がいっぱい』『ウエストサイド物語』といった有名な映画をとっかかりにして章が構成されている。いわゆる映画論ではない。映画はあくまでもとっかかりで、でもそれでいて無意味なとっかかりではない社会評論である。私はこの本を焼鳥屋で読んでいた。ごく少量の酒とおいしい肴《さかな》をかたわらに本を読むのは私のたのしみの時間なのである。しかし『さまざまなエンディング』があまりにおもしろく、しだいに涙がにじんできた。念のためくどくどしく断っておくが、「おもしろい」というのは「興奮する」ということである。その鮮やかな論理の展開! たとえばジェットコースターに乗ると興奮して泣く人がいるように、私は橋本治の論理の展開の鮮やかさに泣き、つきつけられる核心に痺《しび》れて泣く。焼鳥屋にいるゆえ、はじめのうちは人目をしのんで泣いていたが、そのうち全身が完全に痺れ「喜」がみなぎり、周囲なんかどうでもよくなって号泣した。  焼鳥屋の人が「その本はそんなにかわいそうな話なんですか」と支払いのさいに訊いたような気がする。たぶん多くの人はかわいそうであったり悲しかったりするときに泣くのであろう。  またある日、「最近、泣いた本は?」と訊かれたので『ナインティーズ』(橋本治著・河出文庫)だと答える。これはもう名著中の名著の、世界史評論である。これを読まないでいるのは四三〇〇万円くらい損をしていると言ってもよい。宗教とユダヤ人の考察から世界史を一刀両断、侃々諤々《かんかんがくがく》、旗幟《きし》鮮明、不偏不党、空前絶後のおもしろさ。巻末の橋本年表まで洟水《はなみず》たらして泣きわめく本である。まだ読んでいない人はいますぐ本屋に買いに行ったほうがよい。ちなみに68ページまでは前作との関わりについての長い前書きなので、68ページからスタートしたのでいいと思う。 [#この行4字下げ]この原稿を書いているときにはまだ『二十世紀』が刊行されていなかった。『二十世紀』は『ナインティーズ』よりさらに名著である。売れたのでわがことのようによろこんでいる。おもしろい本もちゃんと売れるのではないか。やっぱり公約数のセンスも捨てたもんじゃないじゃないか。やるじゃないか公約数。 [#この行4字下げ]未読の人は七八〇〇万円くらい損をしているから、すぐに本屋さんに注文して買うといいです。本が本屋にあると思うのは錯覚よ。本は本屋に注文しないとないものなのよ。  またまたある日、「読みながらおもわず泣いてしまった本はなにか」と訊かれたので『虹《にじ》のヲルゴオル』(橋本治著・講談社文庫)と『美男へのレッスン』(同著・中央公論社)だと答える。 『美男へのレッスン』は馬鹿の美しさについての、『虹のヲルゴオル』は愚か者の純粋さについての真実を語った本である。語るというより、真実をつきつけている。だから馬鹿と愚か者にとってはとても恐ろしい本である。真実を決して直視しようとしないのが、馬鹿と愚か者であるから。よって私にとってもとても怖い本だった。でも恐ろしさより真実を考察する興奮のほうが勝るので泣いてしまった。  またまたまたある日、「泣ける恋愛小説はなにか」と訊かれ、『きりん』(橋本|治《おさむ》作・「野性時代」掲載)だと答える。  最近、同性愛者であることを、なにかとんでもなく大袈裟《おおげさ》に告白する人がいるが、カトリック国ではともかく、日本においては、昼間から陰毛丸出しの女の写真がビジネスマン向きの雑誌を飾っているくらい規制が緩いのだから、どうもよくわからない。セックスがただひたすらに子孫を作るためのものではなくなって久しいのだから避妊が変態でないように、好きだなあと思う相手が同性だからといって、衆道の伝統のある日本でなら、なにもそんなに大袈裟に告白することもあるまいに。  その点、『きりん』はきわめて静かに主人公二人の男が恋愛をしている。といって男同士も恋愛していいのだ! といったような説教くささもなく、人物たちは世間体も一応とりつくろったりしている。その「一応とりつくろっている」ところがまた自然である。男Aは旅館の浴衣《ゆかた》がかっこよく着れず、その浴衣すがたのキマらなさの描写の行間に、彼に対する男Bの慈しみがよく出ていて情感のある佳作だった。  そうこうするうち、「今年読んだ本のベストを挙げよ」とトーハンの『新刊ニュース』の人から言われ、今年もっとも泣いた本を選び、『窯変 源氏物語/全14巻』(橋本治著・中央公論社)と『源氏供養/上下巻』(同著・中公文庫)とアンケート用紙に記入する。  ようするに私は橋本治を読むたびに泣いているのである。その知性に興奮させられ、敬服して泣くのであるが、共感して泣いている部分も多々ある。もちろん知力においては私など橋本治の足もとどころか、足のツメのアカにも及ばないので、私に共感されても彼にとっては迷惑なのではないかとびくびくしてしまうけれども、生理的というか感情というか、そういった部分で共感する。たくさん本があるなかで橋本治に会えてよかったと心から思い、また泣く。 [#改ページ]  ◆夢見るころを過ぎても  映画『月の輝く夜に』は、どう考えてもありっこないオハナシであり、ロレッタ・カストリーニとロニー・カマレリがあのあとうまくいくとも、およそ考えられない。  でも! なんである。「でも!」。この映画の魅力は「でも!」なんである。  物語がはじまってすぐあたりに、葬儀屋でせっせと働く三十七歳のロレッタが薔薇《ばら》の花に頬を寄せる一秒ほどのショットがある。 「花なんかに大枚はたく人の気がしれない」と言った彼女に、花屋が葬儀用の花を一本抜いてサービスしてくれたのだ。  あのショットをもし、二十歳のシェールが演っていたら、私は見過ごしたと思う。櫛に流れる奢りの春の美しき乙女と薔薇。与謝野晶子の短歌さながらにその組合せは、商品価値ばっちりだけど、ばっちりゆえに見過ごした。 �I got no man,no baby,no everything�という現実を知っている三十七歳のロレッタが頬よせるから目に焼きついたのだ。夢見る年齢をとうに過ぎたことを、彼女はよくわかっている。もう夢なんか見てなるもんか、くらいに思っていそうだ。でも! 不覚にも一秒間だけ薔薇に夢見てしまったいじらしいショットである。  オペラを見に行くシーンもそうだ。シンデレラじゃない。ちゃんと自分で服買って靴買って、自分で美容院へ行き、自分で美容院代を支払う(で、その美容院の名前だけは�シンデレラ�だったりして、ここがまたいじらしい)。そして、そんなことをしてしまったことに部屋であきれている。ぼーっとあきれ顔の二秒ほどのショットがある。でも! 鏡の前で服をあわせてみる。あのシーンのいじらしさ。  この文庫の第一章でとりあげた、あの客と娼婦の実録映画の主人公ヴィヴィアンが、客の金で買った首かざりやドレスで身を飾りたて、オペラ会場ではすぐに泣いて「ワタシってバカっぽく見られがちだけど、ほんとはオペラに感動できる豊かな感性の持ち主で、とても繊細なんです」とデモンストレーションしているのとは、同じオペラのシーンでも大違いだ。ヴィヴィアンには、ロレッタのように涙を見せまいとして「部分、部分はよかったけどね」と、感性を隠す恥じらいはこれっぽっちもない。ヴィヴィアンには、亡き手塚治虫先生がコマのはしっこに「ひょうたんつぎ」を描かれた御心情など、未来永劫、地獄に落ちてもわかるまい。ヴィヴィアンには、手塚先生の恥じらいなど「異常」にさえ映りかねない。当然、ロレッタのお母さんが、ナンパを断る心情など、ヘンタイ扱いしかねない。  いつも女子大生とラブアフェアの関係を持ち、いつも最後には女子大生から水をかけられることになる大学教授と、ロレッタのお母さんは、ひょんなことからいっしょに食事をする。食事のあと、レストランから家まで一緒に歩く。食事と徒歩と、時間にして一時間半くらいか。  この間に、もしかしたらロレッタのお母さん……いや、ロレッタのお母さんではなく、ミセス・カストリーニでもない、ミズ・カストリーニの頭の上からも、静寂な月光が降っていたかもしれない。 「ぼくの部屋へ来ないか」と教授が誘う。教授は若くない。ミズ・カストリーニも若くない。部屋へ行くのは、セックスをしようという意味ではなく、甘い語らいていどだと心得ていただろう。  でも! ミズ・カストリーニは答えるのである。�I know who I am�と。彼女が若さを捧《ささ》げた時代の倫理を大切に守った大人なんである。慎み深さを尊んだ時代の。でも! その彼女だって、乙女のころには、ロレッタのお父さん《コズモ》と恋に落ちたのである。巨大な雪玉のような月の輝く夜に。だから現在があるのである。 「コズモの月だ」  その月をそう称したロレッタのおじさん夫婦だって、かつては恋に落ちた。初老の男女には「恋」ということばは遠い遠い過去のものなのかもしれない。おじさんの頭は禿《は》げて、おばさんはでぶっちょになった。  でも! 月光の窓辺に立つおじさんを見て、おばさんはほほえむ。 「あなた、そうして月の窓辺にたっていると二十五歳に見えるわ」  くやしいが、私はこのシーンでティッシュを使った。  べつの意味でティッシュを使う人もいるかもしれないシーンもある。ロレッタとロニーのラブシーン。ラブシーンなんてとこまでいかない。ほんのキスシーンである。画面には乳房ひとつも出ないし、びっくりするような場所で抱き合うわけでもない。でも! あのキスシーンはすごい。「すごいっ」と「っ」を加えておこう。  このすごいっキスをするニコラス・ケイジは『ペギー・スーの結婚』(これも名作なんだが)では、あんなイカレポンチだったのに(イカレポンチという言い方がぴったりのイカレポンチ)、『月の輝く夜に』のクランク・インまでのあいだにせっせと手持ちのフェロモンを高金利で利殖したのか、ロレッタからはじめての電話をうけるパン焼き炉での後ろすがたなど、後ろすがただけなのに、目がくらみそうなほど助平だ。 「……それはむしゃぶりつきたくなるようないい女で、若い男なら姿を見ただけで射精してしまう」  という、思わず「いったいどんな女やねん」とつっこみたくなる表現が、ある新書ノベルスに出ていたことがあったが、まあ、その男版である。  この男がロレッタにキスするんだから、いやもう、すごいっ。今まで見た映画の中で一番すごいっ。キスへの移行の仕方が「っ」だ。  うむ。この手の移行ぶりは、古くからある。とりわけハリウッドはこの展開がお得意である。でも! さすがはサンタルチアとオーソレミオの国の血を引くロニー・カマレリだと感心する移行ぶりなのである。イタリア男の心意気。キスへの至り方がさすがはイタリーと、ちょっとどうにかして、このくそくだらないシャレ。 「うん、ほんとにくだらなかった。あんな映画、どこがよかったのかわかんない」  そう言った人も何人かいた。おおむね十代から二十代前半の人だった。気持ちはわかる。私だって二十五歳以下のときにこの映画を見たら、ほんわかとしただけの印象の薄い映画だと思ったような気がする。  なぜなら登場人物がみんな大人だからだ。カストリーニ家の家族関係も大人だし、ロニーのお兄さんのジョニー・カマレリだって、マザコンだが、男は洩《も》れることなくマザコンなのだし、それをよくわかっているロレッタから「外出するときは帽子をかぶるのよ」と注意されたりしている憎めない坊ちゃん大人である。ロレッタのお父さんだって、お父さんの愛人だって、お父さんのお父さんだって、レストランのマスター、ボボだって、出てくる人出てくる人、全員が大人である。  大人って、でも! そんなにいつも大人ではいられないんである。その不覚さにつけこむものこそ、そう、月の輝きなのだ。 『月の輝く夜に』は夢見るころをすぎてこそたのしめる映画である。 [#この行4字下げ]霞雅樹(仮名)という男性(当時三十五歳)にこの映画を勧めたところ「ふざけた話だから、あまり見がいがなかった」というようなことを言われた。それでも彼は、ヨーロッパのコメディには点が甘かった。アメリカ映画を、アメリカ映画というだけで馬鹿にし、ましてやアメリカ映画のコメディはさらに馬鹿にしていた霞さん。あなたのそばにも、霞さんみたいな人、いません? [#改ページ]  ◆ヒットしなくて大いに泣く 「いいと言われてないけどいいと思うもの」を挙げようとすると、みんなからいいと言われにくいもの=コメディが増えてしまうので、また『カポネ大いに泣く』をここに出すのはジャンルの品揃え的にどうかなとためらっている。コメディにしか近寄らないわけではない。原田美枝子の『愛を乞《こ》うひと』もピエトロ・ジェルミの『刑事』も、ぐっと耽美《たんび》的にシャーロット・ランプリングの『愛の嵐』も優れた作品である。が、どれも充分に「いい」と言われているし、知名度も高いので、やはり『カポネ大いに泣く』にしよう。 『カポネ大いに泣く』はいいかげんな映画である。監督は鈴木|清順《せいじゆん》。弟の元NHKアナウンサー鈴木健二とは大違いの性格に見受けられる。弟さんは几帳面で、お兄さんはいいかげんな人に見える。風のようだ。私はこんなおじいさんになりたい。  鈴木清順の、たぶんずいぶん若いころの作品だと思うが『木乃伊《ミイラ》の恋』というドラマがあった。これがまたいいかげんでよくて、すごく好きだった。だいたい『ツィゴイネルワイゼン』も『陽炎座』も酔っぱらって撮ったような、いいかげんな映画だったが、それでもセットや美術は几帳面だった。『カポネ大いに泣く』はみんないいかげん。大好きだ。「くすくす」というか、「うふふ」というか、声を出す寸前の、いや、笑うという行為寸前の、すれすれのおかしさがある。すれすれのおかしさだから、下腹のあたりや耳たぶなんかがもぞもぞしてきて、そのもぞもぞしたカンジが気持ちいいんである。  例えば、朝、目覚まし時計が鳴って「あ、起きなくちゃ、起きなくちゃ」と思いつつ布団のぬくもりの甘い誘惑に負けてまた瞼《まぶた》を閉じてしまったときに見る夢のたのしさ。これと同じ味がこの映画にはある。なにかで読んだのだが、鈴木清順はうたたねをするのが好きなんだそうである。書庫に本を取りにいって探しているとちゅうにうたたねをしてしまい、また起きて、本を読んで、またうたたねをするんだそうである。こうした私生活を涼しい顔でまたいいかげんに話していた。ああ、イイ。 『カポネ大いに泣く』も、うたたねしながら撮ったのかな。イイんである。ジュリーの学芸会のようなセリフまわしが、かえって彼の良さ(華があって且つトボケた)をうまく出しているし、カポネ役のチャック・ウィルソンも、名前がわからないガイジンの女の人も、ひとりを除いて全員「くすくす寸前」な良さを出していた。除いたひとりは田中裕子で、「スタンプ式のふしぎなエロス演技」が出てくると画面が一気にシラけたものの、主役のショーケンが天才的妙味でカバーしている。カバーしてあまりある。切腹シーンがとくにいい。いいかげんなセットまでいい。  アキ・カウリスマキの『マッチ工場の少女』『浮き雲』が好きな人なら『カポネ大いに泣く』もたぶん好きでは? あのいいかげんな味は、常人には計画して出せない。 [#ここから4字下げ] 現在は、電機メーカーのCMで「気のいい母さん」のイメージが定着してしまっている田中裕子であるが、一九八〇年代前半、田中裕子はインテリ男性のブランドだった。 「コイケ・ノリカ(仮名・いわゆるセクシータレント)なんか、どこがいいのか、俺、ぜんぜんわかんない。いい女っていうのは、田中裕子のことだよ」 とかなんとか言うと、その男性はすぐに「知的でセンスのいい人」という保証書がもらえた。そういう存在だった。 田中裕子自体はチャーミングな人だと私は思う。彼女に「スタンプ式のふしぎなエロス演技」を求める輩にカチンとくるだけだ。スタンプ式というのは……お正月に年賀状が来るだろう? そのなかに、こちらが出してないのにくれた人のもあるだろう? 「あ、いけない」と思うだろう? ところがもう今年用の年賀状がなかったりするだろう? で、ふつうの官製はがきに「あけましておめでとうございます。早々に賀状をいただきありがとうございました」と書いて郵便局へ行くだろう? と、郵便局の台に、勝手にだれかが持っていかないようにヒモでゆわえつけたスタンプがあるだろう? 今年の干支《えと》がファンシーに彫ってあるスタンプ。あのスタンプみたいに、ぽんと押したような「あけましておめでとう。ふしぎなエロス」みたいな演技を求めることが知的な証明になる安易さにカチンとくるということだ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  ◆青春時代の花  昭和三十二年に日活は『幕末太陽伝』という映画を作った。監督は、川島雄三。主演はフランキー堺。チョイ役で石原裕次郎も友情出演している。落語の『居残り佐平次』『品川心中』などを元ネタにした物語である。  もうすぐ明治というころにですな、ある遊廓《ゆうかく》にフランキー堺|扮《ふん》する佐平次がやってきまして。お金がないので、はなから無銭飲食のつもりのこの佐平次、遊廓に居残って、代金代わりに、まあ、便利屋稼業のようなことをいたしまして、居残りだからイノさんと愛称までもらっちゃったりして……と、べつに落語の口調にする必要もないのだが、この居残りのイノさんを中心に遊廓や幕末の様子がデタラメかつ核心をついて描かれている。ラストで裾《すそ》をはしょって走っていく佐平次は、死病をふりきったのか、カラ元気なのか。明るい希望と現実の残酷を両方見せて秀逸である。  この『幕末太陽伝』にかぎらず、『にっぽん昆虫記』も『野菊の如き君なりき』も『豚と軍艦』も『赤い殺意』も『安城家の舞踏会』も、敗戦後しばらくから昭和三十年を頂点とした昭和四十年までの時間的な山における日本映画は粒ぞろいである。この時期、日本映画界は、人間でいうと青春時代だったのだろう。みごとな花をいくつも咲かせている。実験的な手法もずいぶん編み出された。  なので邦画を見るとなると、学生時代はオールナイトで、社会人になってからはレンタルビデオで、どうしてもこの時期のものを選んでしまう。そのせいか、なにかの話をしているさいに、私がひきあいにだす芸能人名はみな古い。 「赤木圭一郎と峰岸徹の風貌《ふうぼう》は似ている」とエッセイに書いたら、十歳年下の編集者から「世代差を感じるなあ」と言われたことがあるが、私は同世代の人と映画の話をしても「世代差を感じるなあ」と言われる。前項の一九八〇年代における田中裕子を知っているかいないかなどは、世代差かもしれないが、赤木圭一郎がトップスターだった時代を、べつに私は実感しているわけではない。ぎゃくに、一九八〇年生まれの人でも、映画をよく見ている人は原節子を知っているし、彼女がどんなスターだったかの知識も持っているわけだから、世代差というよりは、データ差といったほうが適切なのではないかと思う。  むしろタイムラグ=世代差は洋画について生じている。  私の洋画熱のピークは、小学校5年、6年だった。これが「洋画熱のピークとしては平均年齢」だと長いあいだ思っていたが、いろいろと聞き込み調査をするうち、どうやら平均は大学生時代らしい。小学校高学年を11歳、大学生を20歳として、20−11=9。……㈰  つぎに、11歳の小学生なのだから、外出にも制限があり映画館にも自由に出入りできなかった。当然、TVで洋画を見ていた。私が11歳だったころ、TVの洋画劇場というのは、現在のように新しい映画はめったにオンエアされず、10年前くらいのものが多く、字幕ノーカットだと20年前くらいのものが多かった。平均して15年前のものが多かったとしよう。これに㈰の9年をたすと、9+15=24。……㈪ ∴ 姫野カオルコが洋画の話をすると、人は姫野カオルコは一九三四年生まれのように感じる。  そういえば、出版関係者内で閲覧する文芸年鑑には「姫野カオルコ(ひめの・かおるこ)・昭和八年生まれ」となっていた。 [#この行4字下げ]その年鑑を見たS社の編集者が、S社の私の担当編集者に「姫野さんって、昭和ヒトケタ生まれなんですか。雑誌の写真なんかで見るとずいぶん若く見えるんですね」と言ったそうである。おいおい、いくらなんでも……。 [#改ページ]  ◆筆名の耐えられない軽さの重さ 『存在の耐えられない軽さ』という映画があった。「題名の耐えられない重さ」な映画だった。  私は重い映画は好きだ。食べ物も小説も随筆も人間も、重いものは好きである。 「え? でも、さっきから�笑い�を推薦してませんでしたか?」  と問われるならば、こちらのほうから問い返したい。 「笑い」とは、そもそも重いものではないのか? と。  笑う行為の下には幾層もの重みがあるものである。そして地表には羽布団が敷かれてあるとき、それは芸術に達するのではないのか。南斗水鳥拳だ(わからない人は『北斗の拳』で調べてネ)。『存在の耐えられない軽さ』の作者を含め、どうもさかさまに思っている人が多いようだが。  さて、私の名前はチャラい。「筆名の耐えられない軽さ」に嫌悪感をもよおし、本屋で本を見かけても手を引っ込めてしまうお客さんも多いと思う。  チャラい私は、高橋玲子と伊藤|茉莉子《まりこ》に小学生のころから憧《あこが》れていた。だれも知らない人である。私も知らない。こんな名前だったらいいのに。そう思って憧れていたのである。毛筆習字のお稽古のとき、いつも半紙に書いていた。高橋玲子。伊藤茉莉子。墨で筆で書くとすごく上手に見える名前。字画のすわりがいい。奇抜ではないのに、シックなかんじがする。いいなあ、こんな名前。こういう名前がいいなあ。うっとりと二人の名前を見つめていた。  月日が経ち、筆名を考えるにあたって、だから当然「高橋玲子か伊藤茉莉子だ」と思った。しかし周囲に反対された。奇抜ではないがシックだと私が思ったのと同じことを、周囲も思ったのである。そして、みんなは言った。そんなんじゃ目立たないと。 「いい? あなたはちっとも有名な人じゃないの。有名な人の娘でもないし、有名な人の推薦もないし、そのうえ美人でもなんでもないの。もし本を出せても書店で平積みになんかしてもらえないの。いいとこ書店のすみっこの本棚の、下のほうの見えにくいところに一冊並ぶだけなのよ」  書きはじめて間もないころに、なにかとアドバイスをしてくれた某社の編集長は、さらに詳しく反対した。だから、だれにでも読めて(茉莉子という名前は読めない人もいると彼女は教えた)、だれにでもおぼえられ(高橋玲子は見たら一秒後に忘れられると教えた)て、目立つ名前にしなさい、ということだった。 「でなけりゃ、本名の字を変えるとか、それくらいのほうが自分で責任が持てるわよ。なじみもわくしね」  みたいなことも言われた。なるほど。心から納得したが、しかし、私は本名で書くわけにはいかなかったのである。今でもそうなんである。  第二章の「なぜ読むのか、なぜ見るのか」項とだぶるが、私の親族一同は鄙《ひな》びた土地に住んでおり、旧弊な考えの人々である。小説を書くなど肺病病みのすること、河原|乞食《こじき》のすること、世間の恥。そういう考えである。私自身は河原乞食と言われてかまわないし、だいいち村を出ている。だが、村で生活をする親類縁者に肩身の狭い思いをさせるわけにはいかない。しかたがない。親族には「共同印刷の嘱託をしている。在宅勤務で電算写植をしている」と嘘をつきつづけた。一九八一年から一九九七年まで、つきつづけた。  十七年もの間、ばれなかったのは、親類縁者が小説も雑誌も読まないからである。ついでに映画も見ない。読むのは朝日新聞の連載小説、灰谷健次郎、オリンピックで金メダルをとった人の自伝や感動悲話。映画なら文部省推薦のもの。親族は古い村でひたすら短歌を、いや短歌というより和歌を詠むのである。俵万智氏の短歌ですら「乱暴でついていけない」というのだから、どんなに古いところかわかってもらえると思う。  このさいだから、ひとつ自慢話をするが、ある文芸編集者が私の小説を「タランティーノのタッチの文学」と評してくれた(自慢話はここまででオワリ)。タランティーノである。俵万智が乱暴と言われる村で、タランティーノの私など石投げにあう。私の親族は胸に「T」と緋《ひ》文字で刺繍《ししゆう》した服を着ろと役場から命ぜられる。  そこで私は工夫した。自分の本名の読み方を変えて、さらにカタカナにしたのである。馨子だったり薫子だったらばれてたかもしれない。カタカナにするとまったく印象がかわる。そのうえ先の編集長のアドバイスにも従うことができている。そのうえ姓名判断の易者のアドバイスにも従うことができている。実は筆名を考えるにあたり姓名判断をしてもらったのだ。 「カタカナにすると芸術分野の職業において成功する総字画数になる」  と易者(姓名判断師?)は言った。べつに易者に全面的心服をおいていたわけではないが、縁起ものの置物を買うくらいの気分はあって従った。縁かつぎ以上に、チャラい名前を自分が気に入ったと、これまた第二章の項で書いたとおりである。 『ひと呼んでミツコ』という小説が本になったとき、生まれてはじめての自分の単行本に記された自分の名前を見て、 「初心忘るべからず」  と居住まいをただしたものだ。地層の一番上の地表には羽布団を敷かんとする努力と、敷ける技術の錬磨と、なにより人といっしょにたのしもうとするタランティーノの気骨を生涯忘れまじと。ほとんど「ちょっと高望みすぎない?」とクレームつけられそうな理想である。  凡人が、こんな努力と錬磨と気骨を忘れずにいるのは、ほんに骨の折れることである。自分の筆名の軽さの重みにぐったりすることが、おうおうにしてある。軽さを筆にするのは実に重い作業である。 [#ここから4字下げ]  ただ、私、昭和八年生まれなのだから、カタカナの名前はあってるのかも。�「筆名の耐えられない軽さ」に嫌悪感をもよおし、本屋で本を見かけても手を引っ込めてしまうお客さんも多いと思う�と言ったが、でも、ここの部分を読んだ人は、引っ込めなかった人なわけですよね。「姫野カオルコってなんだか名前がチャラくて読む気になれないわ。トレンディドラマなんでしょ?」とかなんとか、お近くに引っ込めておられるお友達がいらしたら、この項だけでもコピーして事情を伝えてあげてください。「まあ、なに言ってるのよ、あなた、この人は昭和八年生まれのばあさんだから名前がカタカナなのよ」と。  昔は、女の人はよくカタカナの名前をつけられていた。明治生まれの女の人で、コウさんとかユキノさんとかサクラコさんとか、私の知人にもいますよ。彼女たちのことを思えば、カオルコもおばあさんらしい名前かも。ヒメノっておばあさんなんかほんとにいそうだ。ヒメノばあさんとカオルコばあさん。天気予報はヤン坊マー坊。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  ◆ヒメノばあさんとカオルコばあさんのおすすめ  ばあさんは、長いこと生きてきたので、「あなたの好きな映画ベスト5を挙げてください」とか「あなたの好きな本のベスト5を挙げてください」といったアンケート依頼を受けると困る。五つにしぼるのはとても困る。十でも困る。  それで、ばあさんはとりあえず、アンケート回答がどういう媒体で発表されるかで選ぶ。若い女性に向けた雑誌なら若い女性にすすめるものを、旅行雑誌なら旅行先に持っていくのにいいものを、ビジネスマン向きの雑誌なら会社通勤中に読むのにいいものや、会社帰りに見るのにいいものを。  自分で「制限」をつけてしまうこともある。たとえば、映画なら二十五歳を過ぎてから見たものに限定する。なぜなら、たいていの人にとって二十歳以下で見た映画はどれもみなそれぞれ印象に残るから、回答結果を得票とカウントしてベストテンを発表するようなアンケートの場合、映画の評価というよりノスタルジック評価になって、正確な統計にならないと思うからである(アンケートする側は、質問のさいにもっと回答に制限をつけたほうがよいよ)。  それでも悩んでしまって、あるときなど選ぶのに一週間も費やしたことがある(B社のC誌)。「あなたの少女漫画ベスト10は?」というアンケートだった。一週間も吟味に吟味を重ね、わずか数行のコメントにも推敲《すいこう》を重ね、「りぼん・マーガレット系」と「なかよし・少女フレンド系」のバランスも配慮し、あげくのはてにボツになった。「あまりにもマニアックすぎて今回は発表を控えさせていただきました」との連絡が来たときのショックといったら(しかもボツになったことで謝礼もナシということで)……。  ちなみに、そのときの回答用紙は郵送したのでもう手元にはなく、順位やコメントをどうしたのか忘れてしまったが、挙げた作品は、『ガラスのバレーシューズ(松尾美保子)』、『エンゼルちゃん(長谷川はじめ)』『白い部屋のふたり(山岸凉子)』『乙女の祈り(赤松セツコ)』『海の星山の星(望月あきら)』『ガラスの城(わたなべまさこ)』『マリイ・ルウ(西谷祥子)』『彼はスパニッシュ・フリー(平田真紀子)』『さよならパディ(つのだじろう)』『男性失格(大島弓子)』だったはず。  なぜ『ベルサイユのばら』や『動物のお医者さん』や『日出処《ひいづるところ》の天子』が入ってないのかと思われる方もおられるかもしれないが、これらは「少女漫画」が日陰の文化ではなく、ちゃんと市民権を得てからのものだから、「少女漫画」ではなく「漫画」と呼ぶべきだとし、あくまでも「少女」漫画として強烈な記憶のあるものを選んだのだった。  この事件(?)以来、この種のアンケートにはいたっててきとうに回答することにしている。好きでもないものを選ぶという意味ではなく、当項冒頭のようなとりあえずの自主制限を設けて、たまたま回答用紙記入日に思い出したものを書く、と。  たとえば、ある映画のアンケートには私は『ディア・ハンター』をベスト5入りさせているが、たまたま回答日の前夜にビデオで見ていたので記憶が鮮明だったのだ(今となってはつまらない映画だ、と言っているわけではないので誤解しないように)。  どう回答するのかもたまたまだが、それ以上に、見たり読んだりするのもたまたまである。映画も本も「ご縁」だなあと思う。その日は体調がよかったのに、夕方になってなぜか急に頭が痛くなることもある。そんな夕方に友人といっしょに映画を見に行く約束をしていたりすると、頭が痛いまま見る。すると見た映画もそんなにおもしろいとは思えない。じとじとじめじめした雨の日に、カナダの高原を舞台にした映画を見たりするとさわやかに感じたりする。通勤電車内でしか本を読まない人は、二駅くらいでちょうどページの区切りのつくエッセイを好み、時間軸と背景が複雑に凝った小説を読んだりするとつまらなく感じる。同じ人が、スペインへ旅行するにあたり、同じ本を飛行機の中で読めば感想もまたちがってくる。なにごともご縁である。 『ディア・ハンター』をベスト5入りさせたアンケートで、私が選んだ他の作品は、たしか『エンジェル・アット・マイ・テーブル』『バッフィ・ザ・バンパイア・スレイヤー』『フライング・ハイ(1、2共)』『道』『ブッチャー・ボーイ』だったような。  とことん暗い、とことん重い、とことんくだらない(バッフィとか)、とことんヘン、とことん哀しい、とことんイジワルという、味付けの濃いものを好く傾向にある。  ところで、去年、はじめて『幻の湖』という邦画を見たんだが、比較的新しい(たんに私が見てから)ということで、この文庫の最終章で挙げておこうと思う。この映画、『地獄』『怪奇奇形人間の島』とならんで、「トンデモものマニア」のあいだでは超有名な映画なのだそうだ。見たあとで知った。第二章で述べた純粋な鑑賞方法を私はすることができたが、この文庫を読んだ人は、さいしょから不純な鑑賞方法をせざるをえない。すみません。 『地獄』と『怪奇奇形人間の島』は学生時代に見ていた。たしかにトンデモ映画だが、それゆえにたのしく複数回見た。低予算で作られていたり、制作進行日数が少なかったり(=急いで完成させた)したので、「トンデモ」になるのもしかたないところがある。「バッフィ」も。  だが『幻の湖』は東映創立何十周年か忘れたが、創立記念大作品なのである。制作日数は相当かかっているはずだ。製作・原作・監督・脚本は橋本忍。大作『日本のいちばん長い日』の脚本を書いた人で、制作に大山勝美、野村芳太郎も名を連ね、音楽は芥川也寸志(龍之介息子)で、出演者の顔ぶれも北大路欣也、関根恵子、大滝秀治、星野知子(公開当時はNHK朝の連続ドラマのヒロイン役を終えたばかり)。たぶん社運を賭けた超大作(になる予定)だったのだろう。 『地獄』は近親|相姦《そうかん》の恋愛ものである。『怪奇奇形人間の島』はホラーものである。『バッフィ・ザ・バンパイア・スレイヤー』はゾンビものである。とにかく一応「○○もの」と便宜上のふりわけができる。 『幻の湖』は、恋愛もので、観光もので、ミステリーもので、お色気もので、動物もので、スポ根もので、サイコもので、歴史もので、SFものなのである。  美術館でも映画館でも、道を歩いていてふらりと入る私は、この映画もふらりと入った。いつもガラガラのその映画館がその日にかぎって超満員なのは「?」だったが、映画が始まり、見ていると「?」は「???」とどんどん増えていく。なにせ恋愛もので観光ものでミステリーものでお色気ものなだけでも、視点の拠り所を失いクラクラめまいがしてくるのに、動物ものでスポ根ものでサイコものとなれば、めまいもツイストを踊る。さらに歴史もので、SFものなのである。久しぶりにハンカチで涙を拭《ふ》くほど笑って鑑賞を終えた。コメディだけを入れずに、全ジャンル網羅すると、一大コメディになるということを、大予算を費やして人々に示した奇作が『幻の湖』である。  もしかしたら橋本忍にとっては「なかったことにしたい」痛恨の作品なのかもしれないが、いやいや、二十一世紀の映画館で、映画終了後、観客がいっせいに大拍手をするような作品は、映画史上、他にないのではないだろうか。  残念ながらビデオにもDVDにもなっていない(なる予定もなさそう)し、めったに映画館で上映されない。ふらりと入った私は幸運だったのである。あとで思えば。  こういうわけで、みなさん、映画も漫画も本もお芝居も、そして人とのめぐりあいも、ご縁を大切にしてくださいましね。ばか高いハンドバッグや時計を買いすぎてサラ金なんかの¥結びを大切にするはめにならないようにね。みなさんの経済生活を心配するのは、これぞばあさんの老婆心。売る側の言うことや、それにヒメノばあさんとカオルコばあさんの言うことも鵜呑《うの》みになさらず、御自身でよくおたしかめなさいましね。ではまた。 [#改ページ]   あとがき……解説にかえて……  本書はオリジナル文庫です。単行本から文庫にするのではなく、最初から文庫の形で出版するものを、文芸出版界では慣習的にこのように呼びます。  出版にあたり、いろいろな雑誌に私が寄せたエッセイを、優秀なるフリー編集者、高相里美さんが編集してくださいました。たいへんな作業であったと思います。ある連載エッセイの第一回目から最終回までを一束として、それを二〜四束ほどまとめて一冊の大束にするのならともかく、まったく束になっていないエッセイを、二十誌以上の雑誌から、しかも一九九一年から二〇〇二年の十年以上の長期間にわたって探して集め、精読し、編んでくださったのです。本人でさえ、こんなの書いたかなと驚いたり、こんなふうに感じていたのかと呆《あき》れたりした「埋もれてしまっていたエッセイ」にずいぶん再会したほどです。  しかし、再会したままの、それだけの状態ですと「一冊の読み物」としては、文のリズム、文体がてんでばらばら、まるで使い物になりませんでした。そこで、高相さんの編纂《へんさん》の章立てと、元の原稿の主旨に従い、最初からすべて書き直しました。雑誌寄稿のときのままの状態をとどめている項もいくつかはありますが、ほとんどは、主旨はそのときのままで、文章は書き下ろしといったエッセイ集にしあがっています。  ただ、主旨はそのときのままである以上、あくまでも雑誌寄稿時を「現在」時点としました。よって筆者本人にしてみれば、十年以上も前に撮ってもらった自分の写真を見て、なつかしいやら恥ずかしいやら困ってしまうような気分にさせられる項もたくさんありましたが。 『ほんとに「いい」と思ってる?』という本書の題名を見て、「何のこと? 何をいいと思っているかと訊《き》いているの?」と思われる方もいらっしゃるでしょう。「もしかしてアノこと?」と、あなたが思われたことがあるとしたら、そう、きっとソノことですよ……。  高相さん、それから高相さんの編纂を受けて、出版までの実務をしてくださいました角川書店文庫編集部の宮脇眞子さん、たいへんお世話になりました。ここに厚く御礼申し上げます。また本書をお買い上げくださいました読者の皆々様、ありがとうございました。   二〇〇二年九月 [#地付き]姫野カオルコ   本文中、下記の歌詞を引用させていただきました。 「美・サイレント」 作詞 阿木燿子 「赤いスイートピー」 作詞 松本隆 本書は雑誌等に掲載されたエッセイを大幅に加筆訂正し、あらたに編集した文庫オリジナルです。 角川文庫『ほんとに「いい」と思ってる?』平成14年9月25日初版発行