渋谷区のある一角は、戦災を|免《まぬか》れた。あるころまでは東京でも、歩いているとひどく古い一角にはたと出てしまうことがあったのである。ディズニーランドが開園した年、そうした一角で、|康介《こうすけ》は男に会った。  男は七十一歳だと言った。康介は大学生。二十歳だった。 「|佐《さ》|藤《とう》と言います」  男は名乗った。彼の所有地で。  土地には古い建物が建っていた。康介はそこに不法侵入していて、持ち主の男に会ったのである。  大学の裏門を出て通りをわたり、ビルとビルのあいだの路地を抜けると、某国大使館の壁にぶつかる。ぶつかったところをさらに細い路地へ入る。と、その路地にさらにもうひとつの路地がぶつかるところは、大使館の重厚な装備のなされた塀が邪魔をして、ちょうど|三角《さんかく》|州《す》のようになっている。そこに古い建物はあった。  すぐ近くには|瀟《しょう》|洒《しゃ》なビルが林立しており、ビルの壁面やら大使館の塀やらで、隠れる具合になっている。  三限の音声言語学の講義が休講になったある日、茶を飲みに行こうという級友の誘いを断って、康介はひとりで路地を歩いていた。漠然といろいろなことについて考えながら歩く。歩きながら唇をさわったりもする。専攻が言語学だから、|読唇《どくしん》に関する、福祉学科との共通講義も|択《と》っている。二限の講義がそれだった。 「アー、ウー、オー」  母音を発音する唇のかたち。 「ぱ、ば。ぶ、ぷ」  破裂音と濁音での唇の動きの微妙なちがい。康介はわりに二限の講義を気に入っていた。どちらかといえば遊ぶほうに熱心な大学生だったが。 「やっぱ、行きゃよかったかな」  よって級友たちの誘いを断ったことを後悔したりもする。それでも、今日は喫茶店に行く気にはなれなかった。  退屈していたのである。たのしく明るいキャンパス・ライフに。  古い建物は、康介の目に非日常的に飛び込んできた。 「なんだろう、これ」  立ち止まる。木造の、すすけた壁。白色なのかクリーム色なのか灰色なのか、褪色してしまってもとの色がよくわからぬペンキが塗られている。ずいぶん|剥《は》げて、全体にうろこのようにささくれている。 「こんなの、前からあったっけ?」  つったって、首を下に横に、そして上に向けた。  屋根はとんがっている。建物全体は|角錐《かくすい》なのだろうか。大使館の塀とビルにはさまれているから、周囲をぐるりと歩いてながめることができない。 「あったっけ?」  立っている路地をもっと先にずーっと行ったところにある店で、よくコンパをするから、このあたりは何度も通っている。教養課程のときはなかったが新しくできた、というはずはない。この古さでは。 「そういや、ここ、長いこと工事してたからな」  隣接のビルは真新しい。建設作業時には安全幕が張られるから、隣もいっしょに覆い囲まれてしまっていたのだろう。  真新しいビルの下で、木造の小さな建物はいかにも古かった。  すすけた壁に小さな窓がひとつある。セブン‐イレブンの弁当の蓋くらいのサイズの窓。鉄の柵がついている。柵に塗られたペンキも、ほかと同様、剥げている。それとも鉄の|錆《さび》が、ペンキが剥げたように見えるだけなのかも。  平屋、というよりは小屋である。ぴかぴかのビルと、ものものしい塀のはざまにあって、よけいに古くぽつんとして見える小屋は、しかし郷愁をそそるものがあった。 「これが入口なんだろうか?」  窓のななめ下には、小さなドアがあった。三泊四日程度の海外旅行に持っていくスーツケースの一面ほどのドアである。子供ならともかく、大人なら身をちぢこまらせないと通り抜けできない寸法だ。  重たそうなノブがついていて、鍵穴がある。康介はそこから中を覗いた。なにかたくさんのものが乱雑に置かれているようである。康介の立っている場所はさんさんと日が照り、中は暗いのでよく見えない。 「表札もないんだな」  康介はドアをしげしげと見る。なんとなく気づく。 「ここ、もとは裏口だったんじゃないのかなあ」  今でこそ、康介の立っている側が、唯一、道というか路地に面してはいるが、もとはこちらのドアが裏手に当たったのではないか。なんとなくそう思った。 「こんな小屋に裏口も表口もないだろうが……」  そうも思った。  大使館の塀と小屋の間は、身体を横にして歩けば通れそうである。だれかが住んでいそうでもなかったので、康介はそうして反対側へとまわった。  と、ドアがあった。塀とビルの壁が直角をなして迫る、わずかな部分に。  標準的なドアに比べれば、幅がせまく、|縦《たて》も短くはあるが、さっきのドアとはちがい、大人が立って通れる。長身なら首を曲げれば。  ドアの上には|庇《ひさし》がある。脇には窓がある。こっちはセブン‐イレブンの弁当の蓋よりも小さい。岩波の国語辞典くらいしかない。のぞき窓なのか。上下開閉式だ。死んだ貝のようにぴっちりと閉まっている。ざらざらした表面のガラスはほこりで灰色になっている。 「やっぱり、もとはこっちが正面だったんだ」  庇の下に表札がかかっていた。表札なのか看板なのか、横に細長い金属板に字が一列に並んでいる。 「なに、これ?」  はじめ、康介は左から右に字を読んで首をかしげ、すぐに右から左に読みなおした。 『亞細亞奇術魔法團』  昨夜、|六本《ろっぽん》|木《ぎ》で踊った康介の胸はせつなくなる。亜細亜、奇術、魔法、そのノスタルジックなことばに。旧字の團という文字に。 「魔法團……。そんなものがいまどき、なんでこんなところに……」  おそらく、むかしむかしに興行していた団体で、とっくに興行はやめたか、やりくちをかえたかしたところが、物置がわりにしている小屋なのだろう。看板だけがそのままになっているだけなのだろう。それにしても、魅力的だ。 「レトロだ」  康介は小屋の中に入りたくなった。ノブをまわした。 「開くはずがない」  わかっていたが、まわしてみたのである。引いた。開かない。押した。ぎい、と音をたててドアは開いた。 「えっ?」  自分でまわしておいて康介はとても驚いた。ほこりっぽい、|黴《かび》臭い匂いが|鼻《び》|孔《こう》に流れ込んでくる。 「ごめんください」  人など住んでいない。そんな気配はまるでない。わかっていたが、一応、言った。しんとして応答はない。  十月にしてはぬくぬくとした昼下がり。幹線道路からはひっきりなしに車の走る音がする。路地からも自転車のブレーキの音が、自動販売機から缶ががちゃんと落ちる音が。大都会の|喧騒《けんそう》は、ぬくぬくとした大気いっぱいに拡散している。 「だが、渋谷区にいる人間はだれひとりとしてぼくが『亞細亞奇術魔法團』のドアを開けたことを知らない」  自分が今立っている場所だけが時間をさかのぼり、亜細亜だの奇術だの魔法だのが|流《る》|布《ふ》していた時代、人々が日常的に、団という字を團と書いた時代に来たような錯覚に、康介は酔った。  悪いことをする気分はなかった。ためらう気分すらなかった。さりとて、確信犯的な気分もなかった。大使館の塀とのすきまを抜けてきたときのように、康介は身体をはすかいにして、吸い込まれるように小屋の中に入った。  雑然としている、ようだ。明るい場所からうすぐらい場所に来て、目がそこに慣れるのにしばらくかかる。  布が乱雑にたたんで積み上げてある。かどばったものもずいぶんたくさんある。どれも|無《む》|頓着《とんちゃく》に置かれている。量はさほど多くはない。  最初に康介が立ち止まった小さなドアのそばにあった鉄柵のある窓。入ってきたドアの脇の窓。採光は二箇所だけだが、快晴なので目が慣れると物の形がよく見えてきた。布は黒い暗幕だとわかった。かどばったものはダンボール箱で、花や鳥籠がその中につっこまれている。蓋はされていない。 「小さなイベントで使ったのかな」  ひとつふたつ抜いては窓のほうへかざしてみた。花も鳥籠も、古い。あまり古くて、むしろアンティークとして価値があるのではないかと思われるほどである。|細《さい》|工《く》も、現代のものとはちがい|丁寧《ていねい》である。  壁は五面ある。うち、窓がついているのは二面。しかもどちらの窓もすごく小さい。  窓のない残り三面には、かまぼこ板を長くしたような木材が、縞模様を作るように、間をあけて張りつめられている。木材のでっぱりと、壁のひっこみ。ひっこんだ部分には鏡がほそながく|嵌《は》め込まれている。すっかりすすけたそれが鏡だとわかるには、康介が、顔をそばにじっと寄せてみる必要があったが。  ただ、鏡がすすけてさえいなければ、めまいをおこしそうな部屋である。 「この小屋自体をなにかに使ってたのかもしれないな。ビックリハウスとか」  入ってきたドアの脇にあった、小さな上下開閉式の窓。あれは入場券をもぎるための窓だったのではないか。  団を團と書いた時代の人々の、好奇を|煽《あお》るような名前をつけて、ちょっと大きな揺り椅子でも設置した、ちゃちな仕掛けの見世物小屋。使わなくなったそこに、同じように使わなくなったがらくたをしまったまま、所有者さえもあいまいになりかけているような建物、物、土地。 「きっとそんなところだな。戦前のものなのかなあ、これ」  康介は、いやにリアルに目玉の嵌め込まれた猫のぬいぐるみを、ダンボールからとってながめる。もどす。 「あれは、ずいぶん立派そうだ」  部屋のすみに大きな箱があった。ダンボールではない。アラジンが盗賊のアジトで見つけた宝箱のふうの、|頑《がん》|丈《じょう》な錠のついた、鉄の細工で|角《かど》を覆った箱。たぶん模造だろうが赤いルビーが──これもすすけていたが──錠を囲っている。  蓋を開けてみたい。自然と康介は欲した。しかし、|豪《ごう》|儀《ぎ》な大箱の上には、大箱同様、ほこりをかぶった箱が積まれている。それをどけてまで開ける気にはなれなかった。ほこりが舞ってはたまらない。手も汚れる。  片目をつぶり、鍵穴に顔を寄せてみた。うすぐらい小屋に何十年も放っておかれたままであろう箱の、内部は見えようはずもない。  |湿《し》|気《け》た、酢のような匂いがした。古い|餃《ぎょう》|子《ざ》のような匂いもした。かすかに。  康介は箱から離れた。  がちゃがちゃと音がした。  だれかが、小さいほうのドアの鍵穴に鍵をつっこんでいる。 「どうしよう」  入ってきたほうのドアから走って逃げようか。いや、そんなことはしないほうがいい。盗みを働きにきたわけではないのである。素直に謝ったほうがよい。 「すみません。持ち主の方ですか?」  康介は腰をまげて、ドア越しに言った。  がちゃがちゃという音はやみ、一瞬、沈黙があった。 「すみません。近所の学生なんです。こっちじゃないほうのドアが開いてたんです」  大きな声で言った。え、とか、なに、とか、聞き返す声が、ドアの向こうでした。しゃがれて、小さい声で、よく聞き取れない。  ふたたび、がちゃりと鍵のまわる音がした。康介は、だれかが入ってくるのを|身《み》|構《がま》えて待った。  小さなドアから、男が身をかがめて入ってきた。懐中電灯を持っていた。それが佐藤だった。 「なにか御用ですか?」  しゃがれた声で、康介にさほど驚いたようすもなく、男は訊いた。 「あ、あの。すみません……ぼくは……」  康介は、|咄嗟《とっさ》にポケットから学生証を出して、名乗った。 「ああ、学生さん」  男はおだやかに応じ、学生証をさしだした康介の腕を、もどして、と手ぶりで言った。 「学校、そこなんで……。その、授業が休講になっちゃったもんで、散歩してたら、こんな面白い建物があったんだって思って、あっちまわってみたら、ドアが開いてたんで……つい……」  康介は頭を下げる。 「すみません。勝手に入って」 「そうですか。たまに興味を持って窓から覗かれる方がいるんですよ。ドアを開ける方もおられます。鍵穴がないから開いていそうに思われるんでしょうか。たいした物はなにも入っちゃいませんのに」 「本当にもうしわけありませんでした」  いまいちど頭を下げて、康介は、佐藤の入ってきたほうのドアから出ていこうとし、佐藤は奥へ進もうとする。ふたりがちょうど並列になった瞬間、佐藤は言った。 「こっちの鍵を忘れたような気がして確かめに来たんですよ」 「あ、そうですか。そうですよね。ふだんは鍵をかけてらっしゃるんですよね」  そりゃ、そうだろう。いくらたいした物はなにもないといっても、大きいほうのドアにも鍵をかけておかないと不用心だ。家のない者が入り込んだりした場合、火元の責任がある。康介は思った。 「この小屋は、昔は、それはそれはきれいだったんですよ」  時代もきれいだった、と佐藤は言う。 「時代?」 「そう。きれいな時代があった。戦前には」  老人は過去を美化するので困る。過去を美化して長々と美化話をつづける。康介の祖父母や退官まぎわの教授、よぼよぼの非常勤講師、彼らも話しているとちゅう、本題から脱線してとめどなく過去の美化話をつづける。  早々に引き上げねば。康介は思い、 「では」  と、再度頭を下げたが、佐藤は康介の肩にぽんと手を置いた。 「授業は休講になったのでしょう」  だからここにいろと佐藤は言ったわけではない。休講になったからといってぶらぶらしてないで図書館で読書でもしたらどうかと|諫《いさ》められてもおかしくはない。他人の敷地|家《か》|屋《おく》に不法侵入していたのだから、今後はこういうことはやめてくれと注意されても当然である。  だが、なぜか康介は身体の向きを変え、帰るのをやめた。 「そこにおすわりになるといい。その箱はすわりごこちがいい」  ルビーの装飾のある大箱を、佐藤は指した。上に積まれた箱は、床に置いた。ほこりが多少舞ったが、|咳《せ》き込むほどではなかった。  佐藤自身は、ぐらついた丸椅子にこしかけた。 「あなたの行かれている大学では、わたしの知り合いの博士が|教《きょう》|鞭《べん》をとっておられたんですよ」  名前は伏せておく。仮名でX博士とする。そう佐藤は言った。もともと低い声をさらに低くして。 「はあ。それは、その、きれいな時代、のことですか?」 「そうです。戦前のことです。東京行進曲がはやっていた。ご存じですか? あの歌」 「いえ……。すみません」  ジャズで踊って、リキュールで更けて。ふしはつけないが、うたうように、佐藤は歌詞を聞かせた。 「今の歌など、詩情がまるでないが、あの歌はきれいな歌でした。機会があったらどこかでご鑑賞なさるといい」  詩情があったきれいな時代に、佐藤は旧制高校から大学への受験に失敗してX博士の|書生《しょせい》をしていたのだという。 「博士の……、いや、どうもぼくはその、博士という呼び方に慣れないもので、教授と言わせてもらいますが……、そのX教授の、ご専門は何なんです?」 「法学です。ワイマール憲法の成り立ちについての論文が学会で話題になりました」  司法試験合格者を群を抜いて|輩出《はいしゅつ》するX博士の教室は、厳しい授業で有名だった。学生は教室では震えて背筋をのばしていた。 「この小屋は、X博士からいただいたものなんです」 「土地も、ですか?」 「そうです」 「じゃ、この小屋は、もとは教授の自宅かなんかの敷地内に建ってたんですか?」 「いいえ。博士のご自宅は|根《ね》|津《づ》のほうで、ここは草っぱらでした。このあたりは、戦前のあのころ、草っぱらだったんですよ。そう広くはありませんでしたが」 「へえ」 「あるとき|曲《きょく》|馬《ば》|団《だん》が来てテントを張りました。有名な曲馬団ではありませんでした。見世物小屋も作りました。この小屋はからくり小屋だったんです」  からくり小屋というのは、ビックリハウスのことか。佐藤が発音すると曲馬団の団も團と、康介には聞こえる。 「教授はサーカスに出資したということですか?」 「いえ。曲馬団がひきあげるさいに、この小屋だけを土地ごとお買いになったんです」 「なんでまた?」 「きれいだったからですよ。土地も安かったし。ほんの数坪ですからね」  X博士は学究の徒というよりは官僚的エリートで、ゆくゆくは政界への進出を|狙《ねら》っていた。事業家との交流も盛んで、株式の売買でけっこうな副収入があった。 「奥様も財界の大立者のお嬢様でしたしね」 「|酔狂《すいきょう》で買ったというわけですね。そりゃ、いいや。そういうこともあった時代だったんですね」  康介は笑った。佐藤は笑わない。 「浮かれた時代ではなかった。情趣というものが人間の生活の中でもっとも価値あるものとされた時代だったということです」 「あ、すみません……。そうか、このあたりは戦前ははらっぱだったんですね。あー、そのころにぼくのおじいちゃんも土地買っとけばよかったのになあ」  自分の言い方が佐藤の気を害したかと、康介は軽口をたたく。佐藤は笑わない。 「きれいな時代でした。大東亜戦争に突入してしまったために、あの時代の美しい部分まですべて否定されてしまいましたが」  その時代を残しておきたくて、佐藤はずっと小屋をこのままにしているのだろうか。 「X教授が、きれいだからというだけの理由でこの小屋を買われたのはわかりましたが、それをなぜ佐藤さんがもらわれたんですか? 遺産ですか?」  書生勤めをありがとうと、冷厳な教授がいまわのきわで、遺産代わりに小屋を譲ろうと青年佐藤に言っている光景を、康介は想像してみた。 「いいえ。先生は旅に出られましたので、旅立つ直前に、わたしにくださいました」  中国|柳条溝《りゅうじょうこう》で爆破事件のあった年だそうである。水場もない小屋に住むわけにもゆかず、もらったものの、佐藤は下宿暮らしをつづけていた。 「X教授は外国留学されたんですか? ドイツの法制史だかがご専門だったんでしょ?」 「さあ。外国に行かれたのか、国内に行かれたのか、わたしは存じません」  佐藤はX博士の生死も知らないという。旅立つときが、博士の最後だったと。 「アリサといっしょに行かれたのです」 「アリサ? だれです?」 「曲馬団の少女、アリサ」  なんだ女がらみか。冷徹な法学博士が若い女に血迷って家庭を捨てた、と。康介はいくぶん拍子抜けした。 「言っては失礼ですが、ワイドショーでよくあるような話じゃないですか」  浮気の果てに譲られただけのような、こんな役にも立たぬ小屋を、なぜ佐藤は後生大事にしている必要があるのだろう。 「よくある話? それはあなたがアリサをご存じないからですよ」  サーカスの女に血迷ったのは教授であって、自分ではないだろうに佐藤は女をかばう。そんなにいい女だったのか。 「アリサをご覧になりますか?」 「写真があるんですか?」 「映画があります」 「映画? 8ミリですか」 「16ミリです」 「そりゃすごいや。戦前の撮影でしょ?」 「わたしが撮りました。ベル・ハウエル社の重たいやつです。手動の鉛筆削り、わかりますか? 当時の撮影機はね、あれをうんと大きくしたようなかたちで……」  康介には、その旧式のハードウェアの状態は想像がつかない。 「撮るほうがうつむく塩梅でのぞいて、右側でくるくるくるとハンドルをまわす式のやつです。曲馬団の興行を撮ったんです」  アリサをご覧になりますか。佐藤はくりかえした。 「ええ、そんな古いフィルムをお持ちなんでしたら」 「そうですか」  はじめて佐藤は笑った。喜色満面だった。 「すぐ用意しますよ」  ルビーの装飾のある大箱の上に置かれていたものこそ映写機だった。  康介が手伝う暇もないくらいの素早いてぎわで、佐藤は暗幕を二つの小さな窓にかけ、がらくたのなかから画板のようなものをみつくろい、壁にもたせかけた。 「あの板に映します。撮影アングルには自信がありますよ……」  康介に|囁《ささや》く。カタカタと音がして、すぐに壁に像が写った。  ちょこまかした動作で大勢の人が動いている。中央にまるくステージがある。フィルムの保存はいい。安定した画像に傷はほとんどついていない。  馬が二頭ちょこまかと走っている。馬は黒っぽい。そのうちに白い馬がまじる。  白馬には|鞍《くら》がついている。鞍には布がかかっている。布が落ちる。  はらりと布が落ちた下から、うずくまっていた少女が立ち上がる。両腕を上げる。観客がどよめく。  音はない。どよめきが聞こえるように康介が感じただけである。  少女は投げキスをする。水着のような服を着ている。  画面が黒くなる。傷が白く映る。画面全体がゆれる。  次には少女がアップになっている。  舞台化粧をしている。まっしろな顔。口紅の色は出ない。紅は黒になる。濃い紅をつけている少女は、だから唇が真っ黒である。静脈血に見える。  アイシャドーの色も出ない。目のかたちがくっきりと黒く、まっしろな顔についている。しびとに見える。しびとの少女は哄笑する。  静脈血を|啜《すす》ったような唇の口角が上に向く。裂けたように。歯が黒い。本来歯の生えている部分がずらりと黒い。  少女ではないのかもしれない。既婚女性の|証《あかし》に歯を染める風習が、かつてあった。長くその風習を残した地方に育った女。戦前ならば、夫に先立たれれば、女は|安穏《あんのん》には暮らしてはゆけなかったろう。魔法團はお歯黒をした|年《とし》|増《ま》女を少女にしたてたのかもしれない。  が、もしかすると反対に、娘の年齢にさえ達していないのかもしれない。死病にかかって|歯《は》|茎《ぐき》や歯が黒いのかもしれない。わからない。何歳にでも見える。  |痩《や》せた身体。それでいて肉感的である。薄い胸。それでいてむちむちと音を立てるようだ。たしかにそそる。  少女は空中ブランコをしている。ブランコの綱がない。綱と背景の色が似ていて、|旧《ふる》い撮影技術ではとんでしまうのか。  少女は膝を曲げる。のばす。曲げる。のばす。アリサ。たしか名をアリサと。アリサは、では関節がはずれているのか。ぐにゃぐにゃに曲がるまっしろな脚。ブランコの綱がない。下方にはたしかに観衆の頭が映っている。ブランコの綱がない。  アリサはブランコの板の上に尻をおろす。脚を開く。|鼠《そ》|蹊《けい》|部《ぶ》に濃い陰がつく。|蝙蝠《こうもり》がとまったように。血を啜った唇が裂ける。しびとの誘惑。観客がひとり泣いている。  傷。8。9。数字がぱっ、ぱっと出る。傷。暗くなる。  男の顔が映る。泣いている。観客だ。カイゼル|髭《ひげ》の男。三つ揃いの背広を着て、地べたに膝をついている。ステッキがそばにころがっている。  いっせいに笑う観衆。声は聞こえない。聞こえるような気になる。  観衆に笑われて、男は泣いている。笑っている。|嬉《うれ》しくて泣いている。  でれでれと膝をつき、顔を斜め上に突き出し、口をあける。阿呆のようだ。  小さな爪が男の顔の前に見える。足の爪。小指。薬指。親指。アリサの足だ。  アリサは男より高い場所にしゃがんでいる。フリルのついたスカート。ちょうちん袖のブラウス。縞のリボン。スカートをまくりあげ、アリサは男の口に向けて放尿する。男の頬は|恍惚《こうこつ》にもりあがる。まなじりから恍惚の涙が一条つたう。  アリサ。アリサ。すりよる男の口の動きからなんと言っているのかが読み取れる。アリサ、ああアリサ。小便で男の唇はてらてら光っている。××××して×××。なんと言った? ちょこまかした動きの古いフィルムでは即座には読唇できない。だが男は同じことを繰り返し言う。××××して……。して……。しておくれ、か。×××しておくれ。どうか、と言っている。どうか。もっと。どうか。もっと。ウ……。ウ……。ウヨク? 違う。濁音が入っている。ぶじょく? どうかもっと侮辱しておくれ。顔に小便をかけられた男はこう|乞《こ》い、アリサは男の顔を地べたに踏みつける。男は泣く。どうか、もっと。  アリサは離れる。男の上方にしゃがんで、笑う。まっしろな顔。黒く裂けた唇。黒い口の中。しゃがんでいるのはどこだ。椅子なのか。ならば椅子の脚がない。  カタカタと音がして画面は消えた。  侮辱されて恍惚としていた男がX博士なのだ。康介は思った。男については訊かなかった。椅子とブランコについて訊いた。 「アリサはどこにしゃがんでいたんですか? ブランコもどうやって|吊《つ》るしていたんです? フィルムが古いからよくわからなかった」 「中空を舞ってたんですよ」  佐藤は答えた。 「まさか」 「まだ、フィルムがあるんです」 「いえ、もうけっこうです」 「いや、こっちのは、ちょっとです。一分くらいです。燃えてしまったんでね。一分くらいぶんだけ残ってるのがあるんです」  佐藤は康介の答えを聞く前に、ふたたび映写をはじめた。  X博士が下着だけで立っている。決まっている。この男がX博士なのだ。博士は箱に入る。蓋が閉まる。ルビーの装飾。この箱だ。今自分がこしかけている、この箱だ。アリサが箱の前で万歳する。まっしろな脚。細い。黒い手袋。盆の上から剣をとる。剣を箱にさしこむ。また剣をとる。剣を箱にさしこむ。また剣をとる。さしこむ。  それだけだった。一分もなかった。現代のマジックショーでもよくある箱刺し奇術である。 「美少女でしょう?」 「え、ええ……」  康介は肯定した。美という形容がもし、局部に絡みつく|懊悩《おうのう》を指すならば、たしかに彼女は。 「アリサに|魅《み》せられた先生はとうとう曲馬団に入団されてしまって……。芸などできるはずないじゃないですか。次期学長も確実だった、そんなふうに生きてきた人に……。だから芸がなくてもできるような……奇術を団員がするときに、いわば道具として使われる道化でした……」  箱刺し奇術は大成功し、観客からアリサは|喝采《かっさい》をあびた。満面の笑みのアリサから「役立たずのピエロ」と観客の面前で|罵《ののし》られるのが、X博士の悦楽だったのだという。 「頭のよすぎる人は、並の人とはどこか感覚がちがうんでしょうね。わたしなどには理解できませんが……。アリサをご覧になったあなたならおわかりでしょうが、えもいわれぬ|妖《あや》しい魅力がございましたよ、それはもちろん。でも、ああいうことはね……ああいう趣味はわかりません。わたしには……」  ありがとうございましたと、佐藤は康介に礼をした。 「いや、ぼくは、そんな……」 「だれかにあの映画をお見せすることなど、よもやないと思っておりました。あなたにアリサをご覧に入れたかったのですが、アリサをお見せするということは先生の恥部も暴いてしまうことになります。先生がされてらしたことの映った部分は、どうかあなたおひとりの胸にしまっておいてくださいますよう。人前であんな恥ずかしいことをなさっているのですから」 「もう時効でしょう」 「そうでしょうか──」  アリサの曲馬団がよその町へと移動するにあたり、X博士もいっしょについてゆくことになった。そのときに小屋と、大成功をおさめたルビーの装飾のある箱と── 「それと、当時にはちょっと見にこぎれいできらきらしたふうなものを何点かあつめて、わたしにくださったのです。それがここにある物です」  家族は戦時中の爆撃で亡くなったのに、どういうわけかこの小屋は戦災を逃れた。そのせいか意地になって今日まで残してきたが、さすがにもう疲れたと、佐藤は告白した。 「土地ともども処分することにいたしました」 「この場所なら狭くても、けっこう高く売れるでしょうからね」 「特別に譲るんですよ」  佐藤の口元にかすかに浮かんだ笑みからすると、どうやら康介がふんだ以上の高値での売買が待っているのだろう。 「じゃあ、ぼくはすんでのところで珍しいものを見せていただいたというわけですね」  腕時計を見る。四限がもうすぐはじまる。 「ぼく、もう失礼します」 「ええ。わたしも行きます。鍵を確かめにきただけでしたのに、とんだ長居をしてしまいました」  佐藤はルビーの装飾のある箱の鍵穴に鍵をつっこみ、がちゃんと音をたてた。 「じゃあ、まいりましょう」  そして、佐藤は康介をうながして、小さなドアから身をかがめて表に出たのである。 「あ、あの、向こうのドアの鍵は……?」  すでに外に出た佐藤に訊けば、あそこはいいんです、と言う。この五角錐の設計は、壁の一面だけをわずかに傾かせてあるのだそうだ。 「入って内から閉めると、一面だけでなくほかの壁もぜんぶがつっかえをしてきて、あっちのほうのドアは開かなくなるんです」 「そうなんですか。じゃあ、さっきは声をかけてよかった。あやうく閉じ込められるところだった」  そして、康介は身をかがめた。小さなドアをくぐりぬけるために。  身をかがめて、しかしとちゅうで、半分だけ表に出した身体をもどした。 「あれ? じゃ、鍵を確かめに来たというのは……?」  こっちの小さなドアのほうのことだったのか。それともあの箱のことだったのか。 「でもそれならあまりにうかつな……」  あの箱にもし高価な品物が入っているのなら鍵をかけ忘れるなどというのはうかつに過ぎる。あんなに恩師のフィルムを大切に保管している佐藤にしては……。  うしろをふりむいた。あの箱。なにが入っているのだろう。  だいたい、佐藤の話は根本がへんだ。聞いているときは、枝葉に気を取られ、なるほどと思ったが、いくら書生のときに世話になったからといって、いくら譲り受けたからといって、戦災を免れただけの小屋や奇術小物や箱を、佐藤が管理しつづける理由がわからない。 「あそこには何が入っているのだろう?」  箱刺しの芸は大成功だったと佐藤は言った。本当なのか? 「失敗したんじゃないんだろうか……」  康介は、かがめた身を起こし、箱の前までもどった。 「まさか、ね」  ミイラ化した死体を想像した自分を笑ったあと、康介の顔は|蒼《あお》ざめた。小屋には電源がない。フィルムを映写できるような電源が。バッテリーも使っていなかった。  視界が暗くなった。小さなドアが閉まったのだ。 「佐藤さん」  ドア越しに叫ぶ。応答はない。ドアは開かない。押しても、引いても。男は佐藤という名前ではない、きっと。七十一歳ではない、もっとはるかに老けている、きっと。  特別に譲ることにしました。男は言った。だれに? きっと、ぼくに。男は、箱の鍵をかけにきたのではなく、はずしに来たのだ。康介が気づいたとき、ルビーの装飾をした蓋が大きく開いた。カタカタとフィルムがまわりはじめた。