[#表紙(表紙.jpg)] 殺意の法廷 姉小路祐 目 次  第一章 ふたつの死体  第二章 逮捕された容疑者  第三章 怒濤《どとう》の公判  第四章 疑惑の濃霧  第五章 天のみが知っていた真実 [#改ページ]  第一章 ふたつの死体      1  博多グレートホテル。  福岡市北区に位置し、JR博多駅からタクシーで約五分で着ける。客室数五百七十七、宿泊定員八百四十一人の大型ホテルだ。  十一月二十六日。勤労感謝の日と日曜日の飛び石連休が終わったばかりの月曜日というのに、今日はほぼ満室となっている。ここに部屋を取る者には、様々なそれぞれの目的がある。商談のために出張してきたビジネスマン、団体観光客、新婚旅行中の若いカップル、フルムーン旅行の熟年熟女、終電車に乗り遅れたOL、そして逢引《あいび》きの二人——  さまざまな人間がそれぞれの部屋で、それぞれの人生の一日を送っている。しかし、隣室、あるいは上下の部屋で何が行なわれているかは、ほとんど無関心だ。それは、現代の日常生活における他人の生活への不干渉や近隣意識の薄《うす》さと無関係ではなさそうだ。  五三三号室でシャワーを浴びた辻井文昭《つじいふみあき》は、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。チェックインする前に、酒屋の自動販売機で買って持ち込んだものだ。辻井は関西にある政令指定都市の職員である。公費出張では、ビール代までは出ない。ホテルの冷蔵庫備えつけの高いビールの栓を抜くのではなく、酒屋の自動販売機で買ったものを持ち込み、ホテルの冷蔵庫の狭い空きスペースに押し込んでおく知恵は、これまでの出張で身に付いた一種の習性となっている。ツマミのピーナッツも、外のコンビニエンスストアで買ったものだ。  缶ビールのリングを抜く。こんなケチくさいことをやって……という一抹の寂しさが泡と共に吹き上げる。 「まあ、楽な仕事をやってきただけやから、こんなもんやで」  辻井は自分を慰めるようにひとりごちた。今回の出張は楽だった。市の施設をふたつばかり視察して、あとは向こうの担当職員の話を聞くだけでおしまいだ。年末近くになると時々こんな物見遊山的な出張が舞い込んでくれる。年内に予算額を消化しておかないと、次年度の予算の割当が減額査定されるので、何でもいいから使っておけというわけだ。  辻井自身、そんな税金の使い方がいいとは思っていない。けれども、一係員の彼がいくら声を大にしたところで、現行の悪弊はなくならないだろう。  バシン——とつぜん、上の部屋から鈍い衝撃音が聞こえた。何か重い物を床へ落としたような音だ。 「ひ、人殺しー」  そして、女の悲鳴のようなものが聞こえた。辻井はビールを飲む手を止めて天井を睨《にら》んだ。確かに、人殺しと聞こえたのだ。  けれども、悲鳴はそれ以上続かなかった。辻井は腕時計を見た。午後九時を少し過ぎたところだ。この時間帯は、テレビのサスペンス劇場や刑事ものが盛んに放映されている。あるいはテレビドラマの中の悲鳴かもしれない、と辻井は思った。ホテルに一人で泊まれば、テレビを見るのが最大のヒマ潰《つぶ》しだ。この博多グレートホテルのように一時間百円也の有料であっても、テレビをつける客は多いだろう。テレビというものは機種が違うと、使い勝手が分からないことがある。ボタンをあちこちいじっているうちにボリュームを上げてしまい、スイッチがオンになったときはいきなり音声が鼓膜をつんざかんばかりに最大限になっていたという経験は辻井にもある。 (しかし、あの重い物を落としたような鈍い音は何なんだ?)  辻井はもはや沈黙を保った天井を見つめた。最近のホテルは防音設備がよくなっていると思う。ちょっとぐらいのことでは階下の部屋には響かないようになっているはずだ。  フロントに電話で連絡を入れてみようかという気がふと起こった。 (やめとけ、やめとけ)  辻井は自分にそう言い聞かせて、ビールをぐいと飲んだ。もしもフロントに電話をするとしたら当然自分の号室を告げてから、「人殺しという悲鳴が上の部屋からしましたが」ということになる。それで何事もなかったら、赤恥をかくことになる。 (公務員人生は、消極さが大切だ)  辻井は、八年前の高卒の新採職員で区役所に配属されたときの上司の言葉を思い出した。その夏、冷房のきいた区役所に毎日必ず訪れるきたない服装の老人がいた。決して用事があるわけでなく、正午ごろにぶらりと姿を見せて四時過ぎにまたひょいと腰を浮かして帰っていくのだ。涼みに来ているということは明らかだったので、当時戸籍係窓口担当だった辻井は、その老人を追い出そうとした。 「辻井君、ほおっときなはれ。別に誰に迷惑かけとるものやあらへんがな」と、上司が引き止めた。 「だけど、目的外の来庁ですよ」  辻井は若かった。公務員になったばかりだという気負いもあった。 「他の市民から苦情が出てから、対応しても遅うないんや。今、下手に追い立てたら、人権とか福祉とかにこじつけて批判されかねへんで。暑いときに涼んで帰るくらい、物を盗むのとはわけが違うんや。ほっとけ、ほっとけ」  上司は、なおも不服な顔をした辻井の肩を叩《たた》いた。「ええか、公務員というのは消極さが大事なんや。やり過ぎたら、どこかから批判がきよる。積極的に物事をやって、誉《ほ》められることはほんまに少ないんや。どうしようもないことだけを、こなしていったらそれでええのやで」  そのときは上司の言わんとすることはまるでわけが分からなかったが、今にして思うと一つの極意だと辻井は思う。  その老人は、その年の冬の寒い夜にビルの谷間でダンボール箱を敷いて野宿していて凍死したそうだ。市の福祉事務所の所員が、もっと積極的に保護に努めていれば、老人は死ななくて済んだかもしれない。けれども、その凍死に関して、役所に非難が寄せられたとか新聞紙上で叩かれたという話は、辻井は聞いていない。 (よけいなことはせんこっちゃ)  辻井はピーナッツをボリボリと頬張《ほおば》った。今の物音も、上の部屋の宿泊客がベッドから転げ落ちたときのものだろうと思うことにした。——しがないセールスか商用でこの博多を訪れた男が、商談が巧くいかずに、ヤケ酒を呷《あお》った。中洲《なかす》のネオン街へ足を向けるほどの金も馬力もなく、博多名物の屋台で安い酒を飲んだ。そしてホテルに帰ってきて、ベッドの上にゴロ寝をしてそのまま眠りに陥ってしまった。背広姿で朝まで熟睡できるはずもなく、男は寝返りをうち、ベッドから転げ落ちて床にしこたま体をぶちつけてしまった。「おれは何やってんだろ」と舌打ちしながら、所在なくテレビをつけることにした。寝ぼけまなこでスイッチをまさぐったために、音声がバカでかく「ひ、人殺し」と出た。男はまた舌打ちして、慌ててボリュームを下げた。  そんなしがないセールスマンの行状を、辻井は想像で描いた。  そのころ、東京にある名門私立大学の工学部教授の南忠正《みなみただまさ》は、博多グレートホテルの一階でエレベータが降りてくるのを待っていた。  今日は国立・博多大学で学会が開かれた。久しぶりに旧友の博多大学教授と会食をして、ホテルに帰ってきたところだった。去年胃の手術をして以来、医者に飲酒を止められている。せっかくの玄海灘《げんかいなだ》の新鮮な魚を前にして、好物だったアルコールが飲めないのは辛《つら》い。そうでなければ、こんな九時を少し回ったくらいの時刻にホテルに戻ってはこない。  南の待つエレベータは順調に降りてきたが、六階で停まった。南は、高層ホテルのエレベータは時間がかかるので嫌いである。  南は別段急ぐわけでもないので、じっとエレベータの階数表示板を見ていた。六階で停まったものの、すぐさま下へ降りてきた。あとはどこにも停止することなく一階に辿《たど》り着いた。  エレベータのドアが開くと同時に、まるで洞窟《どうくつ》からコウモリが凄《すさ》まじいスピードで飛び出してくる感じで、中にいた黒いロングコートをまとった男が弾かれるように出てきた。勢い余ったロングコートの男の堅い肩が、南の体にぶつかった。南はたまらずバランスを崩し、腰をホールの床に打ちつけてしまった。 「君いっ、失敬な」  抱え起こすどころか、謝りの言葉すらかけずに急いで立ち去ろうとするロングコートの男に、南は叱責《しつせき》の言葉を口に出した。最近の学生たちは、ろくに礼儀を知らない。狭い廊下ですれ違っても、なかなか学生の方から道を譲ろうとはしない。研究室に入るときにノックをしないぐらいは日常茶飯事だ。しかし、ぶつかって相手を倒しておきながら、声もかけない学生はさすがに滅多にいない。  黒いロングコートの男はほんのちらりと南に一瞥《いちべつ》を加えたあと、背中を向けたまままるで逃げるように走り去った。 「こ、こらっ」  南は虚《むな》しく叫んだ。しかしもはや相手は疾風のように、ホテルの出口から姿を消してしまった。何人かの客がホールに居たが、みんな南の声に驚いた顔をこちらに向けただけである。  南は一人でむっくりと起き上がり、ズボンに付いた埃《ほこり》を手で払った。今のロングコートの男の行為は犯罪と言えるほどのものではないだろう。しかしあまりの無礼さに、南は煮えくり返りそうなほどの腹立ちを覚えていた。  エレベータに乗り、四階の自室に入った南は、その怒りを何かにぶちまけたかった。酒が飲めれば、気分を取り直しに最上階の展望ラウンジへでも出かけるのだが、胃がそいつを許してくれない。  ふと小机を見ると、ペン立てが置かれ、その下に便箋《びんせん》と封筒とハガキのセットが敷かれている。ホテルのネームが入った半ば宣伝用のそれらだが、一番底に〈支配人へのお手紙〉と印刷された封筒があった。〈博多グレートホテルにつき、お気づきの点やご意見がございましたなら、お書きください〉とある。  南はその封筒を取り出し、ペンを取った。このホテルには何の責任もないことかもしれないが、こうでもしないと怒りの気持ちは収まらなかった。  翌朝、午前九時。五三三号室に泊まった辻井は、荷物をまとめ、部屋を出た。  チェックアウトを済ませたあとは、大濠《おおほり》公園へ足を伸ばす予定だ。今日の夕方までに帰ればいい。時間的には余裕がある。  辻井はエレベータに乗り込んだ。本当は今夜は別府温泉で豪遊でもできればいいのだが、一介の公務員である自分の給料では、市バスで行けて入場無料の大濠公園がお似合いなところだ、と辻井は思った。  エレベータの壁に掛けてあるホテルの案内表示図に辻井は眼を停《と》めた。地下にはレストランやバー、そして最上階には展望ラウンジもあるのに、どちらも行かずじまいだ。辻井は手にしたコンビニエンスストアのビニール袋を持ち直した。中には、昨夜持ち込んだビールの空き缶と、ピーナッツの入っていた袋が無造作に突っ込んである。 (おや、このホテル、六階以上はみんなツインルームか)  辻井は案内図を見ながら心の中で呟《つぶや》いた。確かに建築構造から考えると、上部の方にツインルームを持ってくるのが合理的だろう。ツイン用の部屋の方がシングル用のそれよりも広い分だけ、柱の数は少なくなることになる。柱の数が少ない部屋は、上部に持ってきたほうが、建築物としての安全性も高いと言えそうだ。 (ということは、昨日の「ひ、人殺し」という悲鳴は、ツインルームからのものか……)  ぼんやりと案内図を見ていた辻井は、ちょっと眼をしばたたかせた。しがないセールスマンが、独り淋《さび》しく屋台でヤケ酒を呷《あお》って、ゴロ寝して、ベッドから落ちて、寝ぼけ眼《まなこ》でテレビのスイッチを入れて——という昨夜の想像は、二人の人物が居たはずのツインルームでは、ちょっと成り立たなくなる。 (あれはひょっとして、本物の悲鳴やったんやろか)  辻井はかすかに、背筋の震えを感じた。  もしも本物の悲鳴だとしたら、上の部屋で起こっていたことはテレビドラマの音声ではなく、正真正銘の殺人か傷害の事件ということになる。 (いや、あんまし深刻に考えんほうがええ)  例の消極的精神が、頭をもたげた。 (けど、人殺しとなるとおおごとやなあ。全く知らん顔を決め込むのも、かえってよくないかもしれへん)  エレベータは一階に着いた。アメリカ人の団体客約二十人がロビーを占拠していた。さかんに英語が飛び交い、さながら辻井の方が海外旅行をしているのでは、という錯覚を受ける。  フロントのキャッシャーでルームキーを差し出す。 「お会計でございますか?」  たとえ分かっていても、確認しろと教育されているのだろう。白のカッターシャツにチョーネクタイの若いホテルマンが丁寧な口調で訊《き》いてくる。辻井は黙って頷《うなず》いた。 「冷蔵庫のご使用は、ございましたでしょうか?」 「いえ」  と辻井は短く答えた。そのためにわざわざこうして、コンビニエンスストアのビニール袋を持っているのだ。 「しばらくお待ちください」  ホテルマンは手慣れた仕草でマイコンを操作した。マイコンが数字を打ち出す甲高い機械音が響く。役所も以前よりはコンピュータ化が進んだが、こんなサービス業の現場に比べたら、まだまだ提灯《ちようちん》と吊《つ》り鐘《がね》くらいの差があると辻井は思う。 「ありがとうございます。消費税込みで、九千四十円となります」  辻井がガイドブックで調べて出張費を請求したとおりの額が出された。辻井は小さな満足を覚えながら、一万円札を差し出した。 「一万円お預かりします」  レジを開けるホテルマンの手を見ながら、辻井は昨夜の悲鳴のことを告げようかどうか迷っていた。旅先ゆえの解放感と好奇心もある。 「あのー、僕の上の階の部屋に泊まっていた人、もう無事にチェックアウトしはった?」  辻井は迷った挙句、そういう訊《き》きかたをした。上の階の宿泊客が無事に会計を済ませて、チェックアウトをしているのなら、「ひ、人殺し」は単なる冗談みたいなものと見ていいだろう。新婚旅行中の若いカップルなら、小学生並みの悪ふざけをすることだってある。 「お待ちください」  ホテルマンは律義に、キーボックスの方へ体を翻した。「いえ、まだのようでございますが、それが何か?」  彼の眼になぜそんなことを訊くのかと言いたげな疑問が浮かんでいるのを、辻井は見て取った。 「いや、何でもあらへん。僕はちょっと出がけに片付けものをしてゴトゴトいわせたものだから、まだ寝てはったのなら悪いなと思ってね」  辻井はそう言ってごまかした。 「そうですか。でも、このホテルは防音がしっかりしてございます」  若いホテルマンは愛想笑いを浮かべた。 「そういうことだね。ついつい自分の住んでいるオンボロ団地と同じように思ってね」  辻井は照れ隠しに頭を掻《か》き、釣銭を受け取ったあと、フロントに背を向けて出口に向かった。  うまい具合に、大濠公園行きのバスが交差点の赤信号で停まっていた。辻井は、バス停に向かって、ダッシュした。      2  辻井から料金を受け取ったフロント係の丸谷陽彦《まるたにあきひこ》は、妙なことを訊《き》く客だなと思った。知り合いでも何でもないのに、自分の上の部屋の客がチェックアウトしたかどうかを尋ねる必要がどこにあるのだ?  丸谷は、辻井が出ていくのを見送りながら、宿泊客カードを繰った。訊かれた六三三号室のカードには宿泊者として、�木村良子(25歳)�という名が書かれてあった。若い女性の宿泊客の行動を男が尋ねた点に丸谷は引っ掛かりを覚えた。ついで、今の男の五三三号室の宿泊客カードを探した。辻井文昭という氏名が楷書《かいしよ》体できっちりと記され、勤務先として関西にある大都市の役所名が書かれてある。もしも本当に公務員なら、一般の会社員よりも処分の対象になりやすい職業だけに、そう破廉恥《はれんち》な行動はできないだろうと丸谷は思った。もちろん、上の部屋の客がチェックアウトをしたかどうかを尋ねること自体は、違法行為でも何でもない。 「エクスキューズミー」  ロビーに居たアメリカ人の一人が、市内の地図がないかと尋ねてきた。フリー(無料)だと答えて差し出すと、次々と他のアメリカ人も欲しいとやってきた。  それやこれやで、忙しい雑用にその朝の丸谷は追われた。  ようやく一段落して、時計を見ると、午前十時三十分になっていた。丸谷はキーボックスを確認した。連泊の客室を除いて、例の木村良子のツインルームだけが鍵《かぎ》が戻っていなかった。  チェックアウトは午前十一時となっている。チェックアウトの時刻を過ぎると、追加料金をもらうという約款の定めがある。  丸谷は館内電話の受話器を取った。チェックアウトの時刻のことを知らせておかないといけない。いくら約款上に定めがあっても、いきなり午前十一時一分に部屋へ押し掛けて、追加料金の支払いをお願いしますというわけにはいかない。  丸谷は受話器を耳に押し当てた。コール音が数度なるにもかかわらず、相手は出ない。丸谷は万一部屋番を間違えていてはと思って、もう一度ダイヤルをかけ直した。しかし、結果は同じだった。  このようなことは前に一度だけ経験がある。そのときの客は、チェックアウトの制度を知らずに、優雅にバスルームで朝風呂《あさぶろ》を楽しんでいたのだった。  丸谷はフロントの奥に行き、スペアキーを取り出した。博多グレートホテルは全室オートロック式になっているので、うっかり部屋の中に鍵を置き忘れたまま、あわててフロントに駆けてくる客も少なくない。そのために、スペアキーはフロントのすぐ奥の部屋に置かれてある。  スペアキーを持ちながら、丸谷はふと思いついて宿泊予約簿を手にして、繰った。問題の六三三号室は昨日の〈当日午前中に予約〉となっていた。予約の電話を入れてきた人物は木村良子自身で、彼女はツインルームに一人で泊まると申し込んでいた。このようなケースでは、三つの理由が考えられる。一つめは純粋に、シングルルームでは狭苦しく感じるから、とツインルームを取る場合だ。二つめはシングルルームが満室のため、しかたなく一人なのだがツインルームに泊まるというときだ。ただし昨夜は、ほぼ満室状態ではあったが、シングルの方にもまだ少し空きが残っていた。三つめは情事目的だ。二人並んでやってきてフロントに顔を見せるのは、たとえ偽名を宿泊名簿に連ねるにしろ、どうも格好が悪いというカップルはこの手を使う。どちらか先に片方が来て、さも一人旅のように装ってルームキーを受け取り、部屋で相手を待つのだ。ホテルには宴会場やラウンジやレストランがあり、宿泊とは関係なしに訪れる客も多いから、フロントとしては、宿泊名簿には氏名の記載のない情事の相手が黙ってロビーを通り過ぎて部屋に向かっても、チェックのしようがない。ホテルとしても、ちゃんと宿泊者分の料金さえもらえば異存はない。もっとも、丸谷の経験では、男の方が先に来て部屋を取るケースが圧倒的に多いのだが……。 (いずれにしろ、電話をかけても返答がないというのはいただけない)  丸谷はエレベータに乗りながら、軽い胸騒ぎを覚えていた。先ほどの辻井の言葉がひどく気になり出していた。 (チェックアウトのことを知らず、優雅にバスルームにでも入っててくれればいいが)  丸谷はそう思いながら、絨毯《じゆうたん》の敷き詰められた六階の廊下を急ぎ足で歩いた。自分の勤め先でありながら、ホテルというのは妙な世界だと改めて思う。両側に並ぶ部屋は、到着から出発までは宿泊客の城である。その城と城が、この廊下で繋《つな》がっている。ところが廊下は、絨毯こそ敷き詰められているが、その実は一般道路と変わらない。外部から、関係のない人間が入ってきてエレベータに乗り込んでいったとしても、フロントではチェックのしようがない。したがって、この廊下までは、誰でも入れるのだ。  もしも一般道路に面する形で、このような薄い木製のドア一枚だけのワンルームマンションが立ち並んでいたなら、たちまち入居者は防犯|云々《うんぬん》を問題にするのではないだろうか? ところが、ホテルではそんなことを気にする客はまずいない。部屋の鍵《かぎ》はかけても、チェーンはせずに寝る者も少なくないと聞く。  丸谷は、六三三号室のドアの前に立った。軽くノックする。しかし返答はない。 「お客様、いらっしゃいましたなら、ご返事をくださいませ」  丸谷は今度は強くノックした。けれども反応はない。 「失礼いたします」  丸谷は、持ってきたスペアキーを差し込んでドアを開けた。午前十一時近いというのに、中には照明が点《つ》けられたままだ。  頭を押し入れるようにそっと覗《のぞ》いた丸谷は、思わず唾《つば》を飲み込んだ。ベッドの上に、なまめかしい下着姿の女の肢体《したい》が見えたのだ。 「も、もしもし、お客様」  丸谷は、自分自身にホテルマンだということを言い聞かせるようにチョーネクタイを直しながら、中に足を踏み入れた。ベッドの上の下着姿の女性は微動だにしない。 「あっ」  刺激的な紫色の下着を纏《まと》った女性の肢体につい視線を取られながら恐る恐る前進を始めた丸谷は、堅い棒のようなものに躓《つまず》いてバランスを失った。丸谷はその棒を見た。そして凍りつかんばかりに驚いた。それは男の足だった。壁に背中をもたせかける格好で、背広姿の男が倒れていた。男の頭の後ろに位置する壁には、丸い赤い輪がまるで紋様のように入っている。赤い輪は壁伝いに滴り落ち、床にまで続いている。  驚愕《きようがく》に支配された丸谷の脳細胞が、それが血の流れであることを理解するのにはしばらくの時間を要した。そして彼は、ベッドに横たわった若い女の方にやっとの思いで眼を向けた。生気のない蒼《あお》ざめた顔に、動かぬ苦悶《くもん》の表情が浮かんでいた。そして白い首に、絞められた痕《あと》がうっすらと見えた。 「わ、わわわわ」  声にならぬ声を出しながら、丸谷は廊下に転がり出た。心臓が喉《のど》から飛び出るかと思った。死体をまのあたりにしたのは初めてのことだった。映画やテレビのそれとは、迫力が違った。それも丸谷は、一度に二つの死体と遭遇したのだ。  ホテルから、すぐに警察に連絡がなされた。  幸いチェックアウトタイムが迫り、しかも地階のレストランがランチタイムの開店前という時間帯だったので、ホテル内に居るのはほとんどが従業員という状態で、弥次馬《やじうま》などによる混乱は免れた。  所轄の北署は、博多グレートホテルから約二キロと近く、戸狩《とがり》警部をキャツプとする刑事課員が直ちに駆けつけた。  戸狩警部は現場保存、ならびに実況見分を指揮した。  女の死体は、顔面に著しいチアノーゼと浮腫《ふしゆ》を呈していた。眼球の溢血点《いつけつてん》も顕著であった。これらはいずれも扼死《やくし》の典型的特徴である。扼死の場合は、自殺はあり得ないと一般的にされている。仮に本人が自分の手指を使って頸部《けいぶ》を圧迫して自らを窒息させることができたとしても、窒息が進むと意識を失うことになり、意識がなくなれば手指の圧迫力が抜けて蘇生《そせい》するからだ、と説明されている。  一方、男の方の死体は、後頭部の頭蓋骨《ずがいこつ》が陥没していた。おそらく壁に後頭部を強打して、脳挫傷《のうざしよう》を起こして死亡したものと思われた。これも自殺というのは、まずあり得ない。自らの頭を後ろ向きに壁に強打させて死ぬというやり方は、戸狩は聞いたことがない。それならあっさりと、飛び降り自殺をした方が、確実に死ねるはずだ。  宿泊名簿に書かれた木村良子の自宅の電話番号に連絡が試みられた。しかし、現在使用されていない、でたらめの電話番号であった。住所として記された場所を管轄する区役所に照会がなされたが、その地番も実在しない架空のものであることが分かった。  戸狩警部は直感的に、この事件は痴情関係の縺《もつ》れからくる殺人事件ではないか、と次のように推察した。  まず死体の状況から考えて、自殺や事故死というケースは考えにくい。したがって、何者かがこの部屋に入って二人の男女を相次いで殺害したと見るのが妥当だろう。もっとも、可能性としては——男が女の首を絞めようとしたところ、女が断末魔の力を振り絞って抵抗し、男を壁に突き飛ばした。男はそれで後頭部を壁に打ちつけて死亡し、女の方は息絶えてしまった——というようなことも全くないわけではないかもしれないが、その確率は極めて薄いだろう。  室内には特に抵抗の跡はない。とすれば、部屋に入った第三者は二人の男女と顔見知りの人物ということになるだろう。ただ、女の方が下着姿になっていたというのが引っかかる。いくら顔見知りでも、普通は下着姿ではドアは開けないだろう。  あるいは、侵入者がホテルの従業員に扮《ふん》してドアをノックしたのかもしれない。一般家庭でも、小包配達人や電気メーター検針員を名乗れば容易に玄関の中に入れるように、ホテルの客たちは「従業員ですが」と言われれば、さほど神経を払わないだろう。ドアスコープから覗《のぞ》くとしても、このホテルの男子従業員のような黒のスーツ、白のカッターシャツ、そしてチョーネクタイというスタイルを装うことは比較的容易だ。  戸狩は、女の被害者の下着が刺激的な紫色であることに着目した。素人の娘なら、まずこんな色は好まないだろう。爪《つめ》のマニキュアだって毒々しいほど赤いし、髪の毛も栗色《くりいろ》に染めている。もしも水商売の女だとすると、複数の男関係があったという可能性も低くないだろう。もっとも最近では、水商売の女ばかりが男を手玉に取っているとは言えないが……。  戸狩の頭には次のような場面が思い描かれていた。——男が情事を始めるべく、女をベッドに寝かせ、上着を脱がせる。そこへホテル従業員に変装した殺人者がドアをノックする。「電話器の調子が悪いようなので点検したいのです。すぐ終わります」とか、「窓に、上の階のお客様のタオルが落ちて引っ掛かってしまいました。恐れ入りますが、取らせてください」とか、何とでも理由はつけられそうだ。男は軽く舌打ちしながら、ドアを開ける。男は、相手を室内に入れてしまってから、それがホテル従業員に変装した三角関係の恋敵であることを知る。けれども、既に時は遅かった。男は、殺人者に強打され、後頭部を朱に染めて崩れ落ちる。返す刀で、殺人者は、容赦なく女の首を絞め上げる。苦悶に顔を引きつらせながら、女は絶命する。      3  県警本部から、星崎《ほしざき》警部を代表格とする捜査一課員や鑑識課員が到着した。彼らは、所轄署の捜査員よりも手慣れた動作で現場検証を開始した。メジャーで計測がなされ、フラッシュが焚《た》かれる。  星崎警部は、男性被害者の胸元に付けられたバッジを見て、おやと思った。確かそれは市会議員のバッジであった。県警は言うまでもなく、県の一行政組織である。したがって県会議員のそれであるなら、文句なく星崎も記憶している。だが、市会となると行政母体は別だ。  星崎は近くにいた若い刑事に、市役所の市会事務局まで車を飛ばしてこいと命じた。 「被害者《ガイシヤ》の男の顔を良く憶《おぼ》えてから行くんだ。もしも市会議員の顔写真を見て、その中に該当者がいたなら、すぐにこっちへ電話をかけてくるんだ」  星崎はそう言って、部下を送り出した。被害者が市会議員となると、そこに何らかの政治性が絡んでいる可能性がある。そうなると、捜査はより慎重さを要求されることになりそうだ。マスコミだって、注目度を高くするだろう。  現場検証に立ち会った星崎は、冷蔵庫の横の小さなテーブルの上にグラスが二つ置かれていることに注目した。そのグラスの間には、ビール瓶があった。室内に備え付けの冷蔵庫の中をホテル従業員に点検させたところ、「一本抜かれています」ということだった。瓶の中身は半分ほどがなくなっていた。一方のグラスにはビールが七分目あたりまで湛《たた》えられているのに、他方は空《から》であった。そしてそれに関して特筆すべきは、男の死体の胸のあたりからビールの臭いがしたことである。即断はできないが、二人を殺した犯人がビールを男の死体にぶっかけていったと推測すると、巧く説明がつきそうだった。 (怨恨《えんこん》による殺人かもしれない)  星崎が過去に扱った事件で、町の金融業者が惨殺された事件があった。金融業者の顔の上には、小便がかけられていた。当初は猟奇的犯行と見る向きもあった。捜査が開始されて、被害者から激しく貸し金を取り立てられていた若い男が取調べられ、やがて犯行を自供した。「あいつが憎くて憎くてたまんねえけん、小便ばかけてやった」と男は告白したのだった。 「警部、電話が入ってます」  市会事務局に走らせた部下からの連絡に、星崎は回想を破られた。 「男の被害者は、やはり市会議員でした。乗松三喜夫《のりまつみきお》、四十九歳、所属政党は与党である保守党、当選三期目で総務・開発委員会の委員長を務めています。現在、市議会は閉会中とのことです」  若い刑事は、いくぶん興奮気味に伝えた。 (地方議会の議員とはいえ、政治関係者が怨恨絡みで殺されたとなると、これは結構厄介な事件《ヤマ》になるかもしれんな)  星崎はそう思いながら、受話器を握り締めた。      4  その翌日、所轄の北署に、捜査本部が設置された。  被害者である男の方の身元が分かったことと、ホテルの部屋に備え付けのクローゼットの中に入っていた女物のバッグから出てきた免許証により、もう一人の被害者である「木村良子」の身元も判明した。広川朱美《ひろかわあけみ》、二十六歳、独身、中洲の高級クラブ「プラチナの砂」のホステスだった。朱美は昨夜は店を休んでいた。乗松が朱美のパトロンであったことは、店では公然の秘密であった。  第一回の捜査会議が開かれた。  被害者の男女の身元と、二人の間柄については、早期にそして容易に判明した。けれども、それ以外の手掛かりについてはたいしたものは得られていなかった。  まず、現場検証の結果がまとめて報告された。 〇ホテルの室内からは、被害者である乗松三喜夫と広川朱美のものを含め、十数種の指紋を採取。ただし、ドアのノブからは発見者である博多グレートホテル従業員の丸谷陽彦の指紋しか検出できず、犯人が拭《ぬぐ》って出た可能性が強い。 〇テーブルの上の二つのグラスのうち、ビールの入った方からは広川朱美の指紋が出たが、空の方のグラスはやはり拭い去られていた。犯人は自分の指紋をすべて消して出た可能性が高く、室内の十数種の遺留指紋は、いずれも従業員や事件以前の宿泊客のそれであるとの推測もでき、今後照会をしていく予定。 〇なお、グラスの中に残っていたのはS社製造のビールであり、毒物類の混入はなし。  続いて、出たばかりの司法解剖結果の概略が報告された。 〇乗松三喜夫の死因は、後頭部強打による脳挫傷《のうざしよう》。かなり強い勢いで、壁に頭をぶちつけられたものと思われる。死亡推定時刻は、昨夜の午後九時から十時の間。なお、彼が浴びせられていた液体は、ビールと判明。 〇広川朱美の死因は、頸部《けいぶ》圧迫による急性窒息死。首の前部の圧痕《あつこん》から、犯人は被害者の首の後ろから腕を巻き、ぐいぐい絞め上げたものと思われる。したがって、女性や老人の力では、まず犯行は不可能と言える。朱美の死亡推定時刻も、乗松と同じ昨夜の午後九時から十時の間。なお、彼女は下着姿であったが、情交を受けた形跡はなかった。  そのあと、聞き込みの結果が報告された。 〇発見者の丸谷陽彦は、室内には電灯が点《とも》ったままであったと証言。また彼はドアのノブを除き、現場にほとんど手を付けていない。 〇丸谷陽彦からの事情聴取により、下の部屋の宿泊客である辻井文昭が「上の階のお客さんは、もうチェックアウトしましたか?」と尋ねていたことが判明。宿泊者名簿を頼りに、捜査共助課を通じて辻井の勤務先である役所を管轄する府警に連絡。辻井に事情聴取を行なう。彼は「昨夜、上の階の部屋から『ひ、人殺し』という若い女の悲鳴のようなものを聞いた。時間は午後九時を少し過ぎたところだった。さらにその直前に、物が床に落ちたような鈍い衝撃音が響いた」と供述した。 〇市会事務局の職員に聞いたところ、殺された乗松三喜夫は、市議会で「マムシ」という異名を取っていた。マムシの由来は定かではないが、いったん噛《か》み付くと相手がぐうの音が出なくなるまで叩《たた》きのめす乗松の気性から来ているらしい。乗松は博多の高校を卒業したあとすぐに上京し、福岡六区の選出で保守党大物代議士である深林寺栄造《しんりんじえいぞう》の秘書を二十年にわたって務め、九年前に市会議員の選挙に深林寺の応援を得て初出馬し、北区でトップ当選する快挙を成し遂げた。  明確な手掛かりがないだけに、捜査会議の場では様々な意見が出た。  所轄の北署・戸狩警部のように、朱美をめぐる愛憎関係の縺《もつ》れを唱える者もいた。また、殺害方法の荒っぽさを理由に、暴力団関係者の犯行ではないかと発言する刑事もいた。だが、捜査員の多くは、被害者が市会議員だけに、何らかの政治絡みの犯行で、朱美は乗松の愛人としてその場に居合わせた結果、巻き添えを食らったのではないかという見方をしていた。星崎警部もその考えの一人であった。星崎は、乗松にわざわざビールがぶっかけられていたことが、犯人の怨恨《えんこん》を示しているような気がしてならなかった。  結局、当初の捜査方針としては、星崎たちの主張する〈政治絡みの犯行〉という見方を基本として、捜査活動を進めていくという方向が打ち出された。  長時間の捜査会議から解放された星崎は、ソファに身を深くもたせかけ、靴を脱ぎ、ネクタイを弛《ゆる》めて、煙草を一本吸おうとした。その途端、「福岡地検から、警部|宛《あ》てに電話がかかっていますが」と、若い刑事が駆け足で呼びに来た。  星崎はすぐに靴を履いて、立ち上がった。ゆっくりと休みたいのはヤマヤマだが、相手が地検とあれば、あとからかけ直してくれと言うわけにはいかない。 「もしもし、星崎ですが」 「地検検事の将田《しようだ》です。私のこと、憶《おぼ》えていますかね?」 「ええ、もちろん」  星崎が、被害者がビールをかけられているのを怨恨ではないかと考えるのは、去年扱った〈顔に小便をかけられて惨殺された金融業者〉の事件のことが脳裏にあったからだ。その事件を公判で担当したのが、将田検事だった。この地に赴任したての、まだ少壮の検事であったが、その鋭い切れ味の公判を星崎は小気味良く記憶している。犯人の青年は、警察での取調べでいったん自供をしながら、裁判では罪から逃れたい一心で自供を撤回した。それを将田検事は法廷で鮮やかに逆転させたのだ。捜査に携わった人間として、胸のすくような思いを星崎は味わうことができた。 「乗松市議の殺害事件の担当となって、忙しいでしょう」  将田はいきなりそう言ってきた。 「私が担当ということがよく分かりましたね」 「県警本部に尋ねれば、担当者の名を知るのはわけないですよ。その中に顔見知りの星崎警部が居てくれてよかったです」  将田は軽く笑った。「乗松市議のことでいろいろ訊《き》きたいんです。忙しいと思うが、こちらにちょっと来てください」 「と申されますと?」 「実は乗松市議に関しては、汚職の密告が地検の方にありましてね。私は密《ひそ》かに乗松のことを追っていたんですよ」 「ほう、そうですか」  まだ捜査本部が掴《つか》んでいない事実だった。「それで、情報提供をしてくださるということですか」 「いや、これから警部に事情を訊いて、場合によっては、地検としても捜査をしたいと思っているんです。何しろ、地方議会とはいえ、政界の人物が殺害されたんだから」 「はあ」  星崎は受話器を持ち直しながら、この事件《ヤマ》はますます複雑になるのではないかという気がした。 「とりあえず、こちらまで寄ってくださいな」 「分かりました」  星崎は、弛《ゆる》めていたネクタイを整えた。  晩秋は暮れていくのが早い。午後五時近くなると、もう東の山の端は切り絵のように黒い。  星崎は、その暮れなずむ空のもと、地検へ向かって車を運転していた。夕方の渋滞が始まるまでに着こうと、星崎は急いでいた。北署から地検までは、十キロ余り離れている。 (検事さんはいい気なもんだ。電話一本かけりゃ、それでいいかもしれない。でもこっちはそのためにこうして貴重な初動捜査の時間が取られる)  不満が胸に湧《わ》き出た。もちろん、地検に着いたあと自分より二十歳近くも若い将田検事に向かってその苦言を呈する勇気はない。星崎は、検事という人種に対して一種のコンプレックスを持っている。日本一難関のテストと言われる司法試験を突破した頭脳には、まるで勝ち目はない。法律知識や法的構成力は、足元にも及ばない。法廷における巧みで迫力のある弁論も真似《まね》ができない。  これらの負い目は自分だけではなく、多くの捜査員が共通項として抱いていると星崎は思う。もちろん、自分たちには捜査の修羅場を何度も潜ってきたという自負はある。しかし、検事の中には、英・独・仏の外国語を駆使して外国の司法当局と国際電話でやり取りする者や、会計帳簿に関して公認会計士並みの知識を持つエキスパートが居ると聞くと、やはりある種の尻込《しりご》みを感じざるを得ない。 (制度の上でも、警察官より検事さんの方が上、ってことになってんだから)  星崎は、胸の中で呟《つぶや》いた。星崎が警部昇任試験に合格した年に、〈警察と検察の関係〉という項目が記述試験の論題として出された。彼はある程度ヤマをかけていたところだけに、小躍りした。したがって、その内容は今でもよく憶《おぼ》えているのだ。  ——戦前の刑事訴訟法は「検事は全捜査手続きの主宰者であり、警察官はその補佐」という趣旨の上下関係の定めをしていた。戦後に制定された新刑事訴訟法は、警察官に第一次捜査権を与え、検察とは協力関係に立つということを原則にした。しかしながら、その一方で、「検察官には、その管轄区域において、警察官にその捜査に関し必要な一般的指示をすることができる」という規定を置き、さらに「検察官は、自ら犯罪を捜査する場合において必要があるときは、警察官を指揮して捜査の補助をさせることができる」とも定めている。そして「警察官がもし、正当な理由がなくこれらの指示に従わないときは、検察官は懲戒の訴追ができる」ということになっている。したがって、戦前の上下関係は、現在もなお一部で生きていると言えるのである。 (実際、おれたちがいくら苦労して犯人《ホシ》を逮捕《あげ》たとしても、検事さんが起訴しないといったら、おれたちの考えは通らない結果となる)  星崎の感覚でいくと、警部とはいえ警察官である自分と検事とは、江戸時代の同心と奉行くらいの開きがあると思えた。      5 「やあ、ご苦労さん」  将田検事は、エアコン暖房の入った快適な検事室で星崎を待っていた。 「失礼します」  星崎は、年下の将田に頭を下げた。ここに来る途中の車内で抱いた不満は、もうどこかに置き去っていた。 「さっそくだが、乗松市議の殺人事件について、現在までの捜査で分かったことをかいつまんで教えてほしいんです」  将田のスチール机の上には、事件の概要が割り込むように二段組みで報じられた今日の夕刊が拡《ひろ》げられている。 「はい、分かりました」  星崎は先ほど開かれていた捜査会議の内容を話し始めた。将田はメモを取りながら、ときには確認の質問を挟み、熱心に聞き入った。  かれこれ三十分以上の時間が費やされた。ようやく星崎は説明を終えることができた。 「先ほど、検事さんは、乗松市議には汚職の密告があったと申されましたが、それはどんな内容ですか?」  星崎はようやく質問をする側に回った。 「匿名による投書で出所すらはっきりしないんだが、乗松市議が現ナマを接受しているのではないかという内容のものが地検に寄せられましてね。現在、私が担当となって密《ひそ》かに調べを始めたところなんですよ」 「どのような件に関する汚職ですか」 「市有地である筑紫《ちくし》湾の埋立地の払い下げに関するものだが、まあ、それ以上の質問は勘弁してください」  将田検事は手のひらを星崎の方に向けた。こっちの情報は詳しく要求するのに、自分の手の内は見せたがらない相手の態度に、星崎は軽い抵抗を感じた。けれども、汚職という捜査二課の担当になる事件は星崎のいわば専門外である。ましてや政治絡みとなると、いろんな制約を受けやすい警察よりも検察の方が突っ込んだ捜査ができるのではないかと星崎は思っている。告発する側もそのへんを心得ていて、政治家の犯罪や公務員の汚職については、警察ではなく検察庁の方に出すことが多いという話を聞いたこともある。 「今のところ、その汚職の告発と、乗松市議の殺害がどのような関連性を持つのかは、私もよく分からない」  将田は早口で続けた。「ただ、死んだのが現職の市議ということもあり、さっき電話でも少し言ったように、私の方でも殺人事件のことを追いたいのですよ。この点については、私の上司である検事正の内諾も得ましたよ」 「はい、そうですか」  検事正ともなれば、星崎にとっては奉行以上の存在だ。 「星崎警部とは去年の金融業者殺し事件を通じての知り合いですね。これも何かの縁だと思って、私の捜査に協力してくれませんか。検事が直接動かせる人間は、検察事務官しかいない。しかし検察事務官は、殺人事件の捜査に慣れているとは言えないのです」 「はい、私でよろしければ」  星崎は顎《あご》を引いた。ここまで地検に協力する経験は星崎は初めてだが、検事正の内諾まで得た検事の要請があれば、断るわけにはいかない。 「ところで、今の警部の話の中に、もう一人の被害者であるホステスをめぐる三角関係の縺《もつ》れではないか、と推理した捜査員がいたということでしたが」 「ええ」  所轄である北署の戸狩警部が、その考えだった。 「私にその捜査員を紹介してくれませんか」 「はあ、それはまたなぜですか?」 「私は、痴情|怨恨《えんこん》の線も検討する余地があると思うんです。ぜひ一度、その捜査員と直接話をしたい。こちらまで、連れてきてくださいよ」 「分かりました」  これでは、捜査本部長がもう一人居るようなものだと星崎は思った。けれども、刑事訴訟法自体がこんな双頭捜査を認めているのだから致し方ない、と星崎は自分を納得させることにした。  そのころ、女性検事の花木理恵《はなきりえ》は、福岡地検・検事正の部屋のドアをノックしていた。  花木理恵——三十七歳、独身。大学在学中に司法試験にパスした彼女は、既に検事に任官して十三年のキャリアを持つ。凛《りん》とした姿勢で、寒色系のスーツを好んで着るその姿は、知性派女優のような理知的で清冽《せいれつ》な美しさを漂わせている。しかし、裁判での追及や弁論には決して妥協を許さない厳しさで定評がある。 「検事正、先ほど連絡をいただきました点について、もう少し詳しい説明をいただきたいのです」  花木は、さっき検事正の永畑《ながはた》から、庁内電話を受けていた。今日結審した担当事件の訴訟資料整理のために席を外していた花木は、受話器を取れず、同室の検察事務官が伝言を聞いてメモ書きを彼女の机に置いていた。 〈永畑検事正より連絡あり。昨日発生した乗松市会議員の殺人事件の担当を将田検事にしたい、とのことです〉  そのメモ書きを読んだだけでは、花木は理解ができなかった。今日結審となった事件に追われて、市会議員が殺された事件の存在すら知らなかったのだ。あわてて夕刊に目を通し、検事正の部屋に出向いたのだ。 「将田君から、ぜひこのたびの事件を担当したいという申し出があってね」  永畑は禿《は》げ上がった頭を撫《な》でながら説明した。「順番で行くと、花木君の担当となるはずだが、それを了解してもらいたいということだよ」  花木理恵は、この四月までは、同じ福岡地検でも小倉支部の方に居た。したがって、この永畑とは半年ほどしか直接のつき合いはない。しかし、花木はどうもこの検事正が好きになれない。検察官というより役人の臭いがするのだ。 「この事件は昨日発生したばかりで、犯人はまだ逮捕されておらず、もちろんまだ送検もされていません。そんな早い段階で、将田検事が担当される理由は、何なのですか?」 「花木君もよく知ってのとおり、将田君はかつて東京地検特捜部でロッキード事件を始めとする政治事件を扱ってきた。この地に転任してきてからも、選挙違反や公務員犯罪に積極的に取り組み、貢献もしてくれている」 「ええ、分かっているつもりですわ」  花木は将田と同年齢であり、司法研修所でも同期だった。永畑に負けないくらい、将田のことは知っている。将田の実父は、最高検次長の要職にある将田|誓輔《せいすけ》で、親子二代の検事である。最高検次長の将田誓輔は、その著書や検察庁内報などを通じて、福岡地検特捜部設置の必要性をさかんに説いていた。特捜部、正確には特別捜査部は、その名のとおり公判よりも捜査と犯罪の摘発を担当する特殊部門で、これまで数々の政治疑獄事件や財政経済事件などを手掛けてきている。その特捜部は、現在のところ東京地検と大阪地検だけに置かれているが、この福岡にも設置すべしというのが将田最高検次長の持論だ。博多はいわば九州の首都として、全九州の政治・経済・文化の中心地としてますます発展しつつある。加えて、アジアに対する日本の玄関口として、これからさらに国際化していく将来像が描かれている。それだけに政治事件や汚職事件も起こりやすい要素を孕《はら》んでいるが、その博多での特別捜査は、遠く離れた東京地検や大阪地検では物理的に困難である——というのが、将田最高検次長の持論の骨子だ。彼自身が、この福岡県の出身だけに、博多の地域性に根ざした論旨には説得力がある。  その長男・将田|知彦《ともひこ》は、二年前に東京地検特捜部から、この地に転任してきた。地検内部では、父親の将田最高検次長が、福岡での地検特捜部設置の足掛かりとして送り込んだのでは、という噂《うわさ》がなされている。息子にいろんな政治事件や汚職事件を摘発させ、�福岡にもこれだけの特捜部設置の必要性がある�という実績的数字を出させるための人事異動ではないか、という推量である。 「死んだ人間が市議だから、政治絡みの可能性がある。だから、将田検事に担当させたい。検事正は、そうおっしゃりたいのですね」 「まあ、そういうことになるかな」 「あたしが担当者では、力不足だということでしょうか」  花木はやや皮肉っぽい訊《き》きかたをした。司法試験というのは、合格した際に、その席次が本人に知らされる。花木は首席合格だった。将田知彦の順位は知らないが、花木と同期の合格なのだから、少なくとも第二位以下だ。花木にはその自負がある。 「そうは言っていない。ただ将田君は、東京地検特捜部にいたスペシャリストだから適任と思うわけだ」  永畑はまた禿《は》げ上がった頭に手をやった。 「検事正、あなたは最高検次長におもねりたいのですか?」  花木はストレートに訊いた。  検察官というのは、日本の行政制度において独自の地位を占める。検察官は法的には〈独任官庁〉と呼ばれ、個々の検察官が一つの官署扱いを受ける。すなわち、検察官という一人の人間が一個の官署扱いを受けるのだ。それだけ、各検事には独立性が認められているということだが、その反面、官署であるだけに、行政機関としての統一性・組織性を要求される。起訴などの重要な公益的行為を行う検事が、全くバラバラでは国家としても困るということである。したがって、最高検には検事総長、高検には検事長、地検には検事正といった各指揮監督者が置かれ、ピラミッド型の組織体を形成している。  もちろん、ピラミッドの上に行くほど、給料が増え、権限が強まるというのは、他の社会と変わらない。したがって、いわゆる出世がしたければ、〈独任官庁〉とはいえ、検事も上の者に対していろいろと気を遣わなければならない点は、一般の公務員やサラリーマンと同じだと言える。花木は一度もしたことはないが、自分の上席の者に中元や歳暮の贈答を欠かさない検事も少なくないと聞く。 「花木君は女だから、なかなか分からんだろう」  永畑は呟《つぶや》くように言った。 「それ、どういう意味ですか? 女だから、出世を求める気持ちは理解できないとおっしゃりたいのですか?」  花木の口調は厳しくなった。確かに自分には出世をしたいという気持ちはない。だがそれは「女だから」とかいう理由によるのではない。検事という正義の担い手には、出世を求める姿勢は相容れないと思うからだけだ。 「君には、子供も夫もいないだろう……」  永畑はもごもごと口を動かしたあと、黙ってしまった。 「検事正は、東京へ転任で帰りたいのですか?」  検事には転勤がつきものだ。二年から三年サイクルで変わる例が多い。この永畑検事正は、東京に妻子を残しての単身赴任者だ。彼がもしも東京に戻ろうとするなら、それだけ上に気を遣うことになるだろう。  花木は検事になって初めて知ったが、この世界はとても狭い。全検事の総数は、千二百人足らず。その検事たちは、血縁、学閥、地縁、閨閥《けいばつ》、といったさまざまな要素で絡んでいることが往々にしてあるのだ。最高検次長という要職者に睨《にら》まれたなら、出世や転勤を気にする者にとっては大変なことだろう。 「…………」  永畑は、もう花木の質問には答えようとしなかった。 「失礼します」  花木はスカートの裾《すそ》を翻した。こんな現実を知らずに、一心不乱に法律の勉強をしていた学生時代が、ひどく懐かしく思えていた。      6  翌二十九日の朝。星崎警部は、捜査のために市役所に出向いた。地検からは、金内《かなうち》事務官が同行することになった。金内は、将田検事と同室で、いわば将田の副官役として働いているということであった。  星崎は、まず市会事務局の職員に聞き込みを始めた。市議としての乗松の行状について情報を仕入れ、容疑への手掛かりとしようとしたのだ。しかし、昨日の捜査会議で出された以上のものは得られなかった。職員たちは、一様に口が重くて非協力的であった。だが、何かを隠して口を噤《つぐ》んでいるというふうでもない。午前中を費やしたにもかかわらず、成果はゼロと言ってよかった。星崎と金内は、昼食を取ることにした。 「星崎さん、これは将田検事からの提案なんですが」  市役所地下の食堂で、金内が箸《はし》を割りながら、切り出した。「もしも市会事務局の職員に聞き込んでめぼしい結果が得られなかったら、野党の市議に事情聴取をしてみてはどうかということです」 「野党の議員に?」 「それもマムシの異名を取った乗松と一番仲の悪かった野党の市議のところへ足を運ぶべきだというのが、将田検事の意見です。犬猿の仲であった政敵なら、あることないこと含めて、乗松のいろんな政治活動の実体を知ることができるのではないか、ということです」 「なるほど」  星崎は野党の議員というのが、生理的に好きではなかった。県議会の場で、時々警察行政に対する批判的質問をなすのが、決まって野党の議員であることが影響しているのかもしれない。しかし、今はそんな好き嫌いにこだわっている場合ではないだろう。  昼食を終えた二人は、さっそく市会事務局の職員を何人も掴《つか》まえて、乗松と最も仲の悪かった市議の名前をようやく聞き出した。県政刷新クラブの龍野《たつの》という一風変わった市議だという。乗松にマムシという仇名《あだな》を付けたのも、どうやらこの龍野らしい。龍野は乗松と同じ北区の選出だ。乗松が市議選に初出馬してトップ当選を果たしたとき、龍野はその煽《あお》りで落選した。二人の因縁はそこから始まっているという。 「じゃ、これから行きますか?」  龍野市議の事務所所在地を控えた手帳を星崎はポケットにしまい込んだ。 「ちょっと待ってください。もし行くことになったのなら、将田検事に連絡をすることになっていますから」  金内は、ゆっくりとテレホンカードを取り出した。  電話連絡の結果、将田検事も現地で合流することになった。星崎は何となく心強い気持ちになった。どうも政治家というのは、苦手である。  少し時間が余ることになった星崎は、金内と共に乗松の事務所を覗《のぞ》いてみることにした。 〈あなたの声を市政に活かします 市会議員 乗松三喜夫〉と書かれた看板が掛かる事務所は、門が閉められひっそりとしていた。事務所はプレハブ建ての二十坪ほどのものだが、市議のそれとしては決して粗末なものとは言えないと星崎は思った。  事務所から約百メートルほど奥に入ったところに、乗松の自宅があった。こちらの方は数寄屋造りの純和風調で、庭を入れると二百坪ほどありそうだ。星崎の収入では、一生かかっても手に入りそうもない。塀越しに応接室が見え、顔見知りの刑事仲間が、市議の妻と思われる婦人を相手に事情聴取を行なっていた。  今回の事件が新聞などで報道された結果、一番|辛《つら》い思いをしたのは乗松市議の妻かもしれない。朝刊には、乗松と一緒に死んでいた下着姿の女が、中洲の高級クラブのホステスであり、そのパトロンが乗松であったことが報じられていた。  総理大臣や内閣官房長官までが、ピンクスキャンダルに登場してくる昨今ではあるが、市議の妻としては、夫に愛人が居てその愛人と一緒に殺されたという知らせは、大きなショックであるに違いない。彼女自身、これからしばらくはマスコミや巷間《こうかん》の好奇の眼に晒《さら》されなくてはいけないだろう。  そんな軽い同情をしながら、星崎は龍野市議の事務所に向かった。龍野の事務所は自宅兼用となっていた。大きな看板も掲げられていない古びた木造のしもた屋だ。広さはさっきの乗松の自宅の半分もないだろう。 「やあ、待たせましたね」  将田検事がタクシーを乗りつけてやって来た。彼は領収証も受け取らず、車外へ出た。こんなときのタクシー費用は地検から出ないのだろうか? と、そんなどうでもいいことが星崎には気になった。  将田が地検から伺う旨の連絡を入れておいたということで、龍野は三人を待ち構えていた。口髭《くちひげ》と顎鬚《あごひげ》を無造作に生やし、和服をはおったその姿はどこかの宮大工の棟梁《とうりよう》のような印象さえ受ける。  星崎は、将田と共に名刺を差し出した。龍野の所属する県政刷新クラブは最も野党色の強い政党だと聞いている。ただでさえ政治家が苦手の星崎は、いやがうえでも緊張を覚えた。 「県警の警部さんと、地検の検事さんが、雁首揃《がんくびそろ》えておでましかい」  龍野は、まるでトランプ遊びをするかのように名刺を玩《もてあそ》んだ。「乗松のことについていろいろと話を聞きたいという検事さんの電話だったが、大体の想像はついてるんだ。市議会における乗松の敵《かたき》役とでも言うべきわしのアリバイを訊《き》きに来た、そうじゃないかね?」 「ほう、敵役の犯行ですか。そいつはおもしろいですね」  将田は口許《くちもと》に笑みを湛《たた》えた。「私にはとてもそこまでインスピレーションが働きませんでした。しかし、ご指摘をいただきますと、確かに殺人の動機として成り立ちそうですな。ただしこれが小説の上での話なら」  将田の物言いは、解釈のしようによっては挑発的とも取れた。 「乗松の殺された時刻はいつなんだ?」  龍野の方はその挑発に乗る様子はない。 「司法解剖の結果、死亡推定時刻は一昨日の午後九時から十時ですよ」  将田は手の内を隠す素振りもなく、あっさりと答えた。 「それなら、あんたたちは無駄足だ。わしには完全なアリバイがある」  龍野は顎鬚《あごひげ》を摩《さす》った。「一昨日、わしは県政刷新クラブ主催の『早良《さわら》区の自然を守る集会』に出ていた。あんたたちは知らんかもしれんが、早良区では今、新しいゴルフ場建設の話が持ち上がっているんだ。そこでの地域住民との反対集会に出て、そのあと午後十時まで反省会をやっていたね。反省会って言っても、保守党さんのそれのように料亭で酒を飲むってやつじゃねえよ。公民館を借りての正真正銘の反省会だ」 「龍野さん、乗松市議が殺されたのは、どこだったか、御存知ですか?」  将田は全く表情を変えない。 「確か、新聞には、博多グレートホテルと出てたと思うが……」  龍野は、記憶を呼び起こすように眉根《まゆね》を寄せた。 「そのとおりです。乗松市議はホテルの一室の中で、さしたる抵抗の跡もなく、即《すなわ》ち犯人を中に招き入れる形で殺されていました。私は、乗松市議が犬猿の仲であるあなたを、歓迎して招き入れたとは到底思えないのです」  将田は早口で説明した。「したがって、私はあなたを容疑者とは考えていないのです。私が知りたいのは、乗松市議に関する情報です。たとえば、あなたは今、早良区でのゴルフ場建設の話をなさいましたが、乗松市議はその推進派だったわけですか?」 「いや、ゴルフ場開発会社と結びついて推進をやっていたのは別の人物だ。しかも乗松の選挙区である北区での話ではない。もっとも、このあと建設計画が具体化していったなら、市議会の総務・開発委員会の委員長である乗松に、推進派から何らかの働き掛けがあっただろうことは想像に難くないが……」 「では、乗松市議は自らが中心となって、どんなことをやっていたのですか?」  将田は畳み掛けるように訊《き》いた。 「それは、奴《やつ》のことだからいろいろあるだろうさ」  龍野は将田の矛先をかわすかのように、そう答えた。 「龍野さん。あなたは当然、次の選挙のときには明らかにしようと乗松市議を攻撃する材料を持っていたはずだ。今度選挙があるのはまだ先だが、人口に比例するように議員定数を見直そうという動きも出ていますね。今の段階での議員定数改正案が通れば、あなたや乗松市議の選出されているこの北区は一名減となります」  将田は鋭く突っ込んだ。星崎はただ傍観しているだけだ。市議定数改正の話など初耳だった。 「一度落選の憂き目を味わったあなたは、何としても当選したい。そのためにライバルである乗松市議に対する攻撃爆弾を集めていたはずでしょう。それらは、乗松市議の死によって、一応要らなくなった。けれども、だからといって、あなたがじっと腹の中に収めておくという手はないでしょう。あなたが能力のある市議だということを示すためにも、公開は有益なはずです」 「しかし、死者を鞭《むち》打つことはしたくない」 「鞭打つのとは違うと私は思います。それとも、龍野さんは乗松市議を殺害した犯人が闇《やみ》に消えたまま検挙されない方がいい、とでもお考えですか」 「そんなわけではない」  龍野は太い首を横に振った。  結局、龍野は将田に押し切られる形で、乗松に対する次の四つの疑惑を掴《つか》んでいることを話した。 〇市道拡幅に関する疑惑——市は北区の市道、天神=平和台線の交通量が多く、渋滞が慢性化しているために拡幅を計画している。そのために市道の南北に並ぶ建物群のどちらかを立ち退《の》きさせなければいけない。立ち退きからのがれた側は、それだけ地価の上昇が見込める。乗松は北側に位置するビルのオーナーから、立ち退きは南側にするように働きかけられていたのではないか? 〇市営住宅建て替えに関する疑惑——市では現在老朽化した木造平屋建て市営住宅を逐次、高層鉄筋化している。鉄筋高層化すればそれだけ人口増加が見込める。乗松は北区にある市営住宅横の商店街から、早期に建て替えをしてもらいたいとの陳情を利益供与と共に受けたのではないか? 〇市営バス路線改変に関する疑惑——現在、市ではバス路線の見直しを進めている。乗松は、北区にある私立学園からの要請を受けて、学園の通学に便利なような路線の新設を働きかけているのではないか? 〇老人ホーム建設に関する疑惑——やはり北区で建設が予定されている老人ホームの建設に関して、乗松は地元建設業者から要請を受けて、談合の仲介をしたのではないか?  星崎は龍野の事務所兼自宅を辞したあと、タクシーで来た将田検事を車で送ることにした。金内事務官は将田と入れ替わる格好で先に帰っていた。 「検事。もし龍野市議の指摘をすべて本当のものだとすると、乗松市議はいろんな疑惑に取り囲まれているわけですね」  この他にも、昨日この将田検事から、乗松には筑紫湾《ちくしわん》の埋立地払い下げに関して不正の容疑があると聞いていた。もちろん、この他にもまだ明らかになっていないものもあるかもしれない。これだけの疑惑を一つ一つ解明していき、それを通して乗松を殺害した容疑者を絞り込んでいくとなると大変な作業となりそうだ。ただ単なる殺人事件の捜査というだけではなく、地方政治の裏舞台にも関わっていくことになる。その意味では、この将田検事が捜査に参入してくれるのはありがたい面もあった。昨日、地検に呼びつけられたときは、検事という優越的立場から介入を言い出す将田に腹立ちを覚えたのも確かだが。 「まあ、国会議員にしろ、地方議会議員にしろ、政治家というものは、その大半が大なり小なり疑惑に囲まれているもんですよ」  将田はややぶっきらぼうに答えた。「政治家の仕事はいやがうえでも利権と結びつきます。政治的権限の正当な行使と、汚職に基づく乱用とは紙一重と言ってもいいです。今、龍野市議が列挙したものを考えてみてください。市道拡幅、市営住宅建て替え、市営バス路線改変、老人ホーム建設、そのどれを取ってもそれ自体は、地方自治体にとって必要な行為であることには違いないです。それを純然たる公益的立場から論ずるのが本来のあるべき議員の姿だが、利害関係の絡む人間はそれを放っておかない。とりわけ、市議となると選挙区が小さいだけに、十票二十票であっても、貴重なものとなる。得票を餌《えさ》にしたうえに、金を積まれたなら、市議としても食指を動かしたくなります。権限というものは、それを巧く理由付けさえできれば、いかようにでもごまかせる要素があります。例えば、道路の北側を拡幅するか南側を拡《ひろ》げるか、それをどっちに決められても、たいていの場合は明白に不合理とは言えないでしょう」 「なるほど、そりゃそうですね」  星崎は今走っている道路を見た。道のどちら側にも、家や商店や小さなビルがほぼ均等に並んでいる。どちらが立ち退《の》きを言われても、それでおかしいというものではない。ましてや走るだけに道路を利用する一般ドライバーにとっては、どの側が拡幅されても、自分の知ったことではない。 「政治というのは、そんな微妙な匙《さじ》加減というものがあります。そこに不正が絡んでいることを、明らかにし、立証する。口で言うのはたやすいが、こいつは大変なことなんですよ」  将田は、珍しく気弱な表情を垣間見《かいまみ》せた。 「そうでしょうね。私たちのような強力犯の捜査も大変ですが」  星崎は、地検の方へ曲がる車線を選んだ。 「警部。すまないが、市役所へ寄ってくれませんか。調べておきたいことがあります」  将田はすぐに、いつもの精悍《せいかん》な顔つきに戻っていた。 「はい、分かりました」  午前中に行ったばかりの市役所にまた戻るのは少し億劫《おつくう》な気もしたが、検事の要請とあらば二つ返事以外にはない。星崎は、もとの車線にハンドルを切った。 「何を調べるのですか?」 「龍野市議が言っていた件に関するそれぞれの市の担当者に当たっておきたいんですよ」 「担当者ですか?」 「国の政治でもそうだが、現代は行政権の肥大化した時代だと言われる。ついつい政治家が目立つ地位にいるが、複雑化し専門化した国家や自治体を実際に動かしているのは、行政の中心にいる幹部職員ですよ」 「行政権の肥大化、そんなもんですかね」 「警部もこの私も、そういう行政の一員です」  将田はかすかに笑った。 「ありがとう、これから先は私一人で充分です」  市役所に着くと、将田はシートベルトを外した。「警部の方は捜査本部へ戻って、また何か新しい情報が入っていたら、教えてください」 「はい」  新しい情報が入っている期待は薄いのではないか、という気が星崎にはしていた。これまでの経験で、捜査の最初の段階で犯人を示す手掛かりが少ない場合は、その後も手掛かりは少ないということが言えた。たとえば深夜の人気のない公園での行きずり的犯行の場合など、あとでいくら聞き込みを頑張ってみても、当初以外の新しい目撃者などは出ないのが普通だ。本件も、初動捜査での段階での情報は少ない。 「もしかしたら、今夜にでも警部の自宅に電話を入れるかもしれないが、そのときはよろしく」  軽く手を上げて市庁舎に入っていく将田を、星崎は期待を込めて見送った。検事という人種にコンプレックスを持っているせいもあろうが、将田のような弁舌の鋭い切れ者タイプは警察には居ないと思う。彼は頭が良いだけではなく、行動力もある。たとえてみれば、難工事の予想される建設現場に、建築知識に精通した設計技師がやって来て、とっかかりが掴《つか》めなくて困っている作業員に混じってブルドーザーを動かし始めたようなものである。出しゃばり過ぎのきらいはあるが、ここは一つ彼に期待を持つのもいいのではないか。星崎はそう思った。      7  そのころ、北署の戸狩警部はもうすぐネオンが点《とも》り始める中洲の町を歩いていた。  中洲という地名は、博多川と那珂《なか》川に挟まれた真ん中の島という地形からきている。この中洲を挟んで、東が博多と呼ばれ、西が福岡と呼ばれる。  この中洲は九州最大の、そして日本でも指折りの盛り場である。約二千軒の店々が犇《ひしめ》くように並び、色とりどりのネオンの下には様々な屋台が並び、毎日が祭りのような賑《にぎ》わいを見せる。しかしその賑わいの蔭《かげ》には、金と欲望と嬌声《きようせい》が渦巻き合っている。美しい熱帯魚が優雅に泳ぎ回る紺碧《こんぺき》の南海でも、そこには弱肉強食の生存競争があるように、このきらびやかな町にも、水面化で肉を食い合わんばかりの激しい争いが行われていると、戸狩は思っている。  目指す「プラチナの砂」は、シースルーエレベータの付いたビルの三階にあった。三階の全部を借り切っているところに、この店の広さとグレードの高さが窺《うかが》える。 (わしの給料じゃ、とても行けんな)  戸狩は苦笑いをしながら、エレベータの昇りボタンを押した。早いところではもう忘年会が始まっていると聞く。その客が流れてくる時間帯になると、とても聞き込みどころではなくなる。開店前の今がチャンスだ。彼のこれまでの経験だと、水商売関係の女が被害者のとき、普通のOLの場合などに比べて協力してくれる同僚は少ない。それぞれが、ある種の個人業者としてそれぞれの器量と色気だけを頼りに「商売」をしているからかもしれない。けれども協力者の数は少なくても、その中にはまるで自分の姉妹が殺されたかのような親身さで応対をしてくれる者や、普通OLとは比べものにならない鋭い観察力に基づく情報が寄せられることがある。 (そいつに期待じゃ)  戸狩は降りてきたシースルーエレベータに乗り込んだ。  一時間にわたる聞き込みの結果、戸狩は次のような成果を得た。 〇この「プラチナの砂」は四年前にこのビルができた当時にオープンした。店のオーナーはこのビルの所有者でもある北区の土建会社社長である。その土建会社社長の知己である乗松は、資本を出資していたようである。その関係もあって、乗松はこの店にいつでも料金ゼロでやってくる特権を持っていた一人であった。 〇広川朱美は、一年前にこの店にやって来た。それまでは天神のスナックに勤めていたらしい。乗松はこの朱美に眼をつけ、朱美も適当なパトロンを欲しがっていたようであり、二人の「合意」は比較的容易に成立した模様である。 〇朱美の郷里は鹿児島である。漁師だった父は、彼女が三歳のときに海難事故で死亡。母親も高校二年のときに病死し、高校卒業と同時に北九州へ出てくる。最初は化粧品のセールスレディとして勤めるが、三カ月ほどで辞めて、以後いくつかの職を転々とした模様。 〇彼女は店では二十三歳ということになっていたが、実年齢は二十六歳であった。兄弟姉妹はいない模様である。 〇彼女が殺される四日前、ちょっとしたハプニングがあった。開店前のホステス控室に三分刈り頭で目つきの鋭い長身男が尋ねてきた。 「天神で朱美さんの居た店の隣で働いていた者だ」  三分刈り男はそう名乗った。朱美は 「あら、あんた、もう娑婆《しやば》に出て来たの」と言いながら廊下へ出て行った。  そのあとのやり取りを詳しく聞いたホステスはいない。ただ、しばらくやり取りが続いたあと、三分刈り男が廊下に土下座している姿を見た者がいる。そのとき男は 「兄貴はこれまで順調にやって来たんだ。思わせぶりな美人局《つつもたせ》はやめてくれ」  と頼んでいたという。しかも、その翌日も翌々日も、三分刈り男は姿を見せ、同じように朱美に頼み込んでいたというのだ。  戸狩は、この情報に興味を覚えた。まず、土下座するということが尋常とは思えない。次に「もう娑婆に出て来たの」という朱美の言葉は、相手の三分刈り男が刑務所に入っていた人間ということを意味するものだろう。そして彼の言っていた「兄貴」とは本当の兄弟のことか、それともその筋で言う舎兄のことなのか。 「プラチナの砂」をあとにした戸狩は、その足で天神に向かった。「天神で朱美さんの居た店の隣で働いていた」という男の言葉を頼りに、彼の正体を掴《つか》んでやろうと思ったのだ。  ようやく「プラチナの砂」で聞いてきた天神のスナックを尋ねあてると、右隣は一時預かりのモータープール、そして左隣はもう既にシャッターの降りた信用金庫であった。隣の店というのは、存在しない。  戸狩はスナックの扉を押した。  そこで聞き込みを粘って、朱美は二年半前までスナックに居て、そのあとやはり同じ天神のアルサロへ移り渡っていたことが分かった。彼女は、「プラチナの砂」ではアルサロ勤めの前歴を隠していたわけだ。これで、三分刈り男の言っていた「朱美さんの居た店の隣」というのは、�アルサロの隣�という可能性が出てきた。  戸狩は倦《う》まずに、そのアルサロへ向かった。      8  その夜、星崎警部は自宅で将田検事から電話を受けた。 「今日はご苦労様でした。検事」 「いや、警部の方こそ、ご苦労さんでした」  将田の声はこころなしか弾んでいるかのように、星崎には聞こえた。 「それで、市役所の方での成果はいかがでしたか?」  星崎は晩酌でビール二本を開けたばかりだった。電話で臭いが伝わるべくもなかったが、星崎は思わず口を手で隠した。 「私はまず人事課へ足を向けてみました。そして龍野市議の指摘した乗松に関する四つの疑惑のそれぞれの主管担当課とそこで働く職員の名前を詳しく聞き出したんですよ」  将田はやはり上機嫌のようだ。昼間よりも饒舌《じようぜつ》だ。「そのあと私は都市計画局道路開発課へ行った。例の市道拡幅の主管担当課ですよ。私が調べ上げたいと考えたターゲットは、野々口浩一《ののぐちこういち》という道路開発課の課長です。まだ三十四歳と若いが、市の筆頭助役を岳父に持つエリート上級職です。道路拡幅の具体的実行はこの野々口課長の決裁によるところとなります。私がもし乗松の立場なら、何とかこの野々口という男に近づき、取り入りたいと思うでしょう」 「そりゃそうですね」  星崎は口を覆ったまま頷《うなず》いた。 「野々口はエリートだけに、嫉《ねた》みを持つ男も少なくなさそうです。警部、私は、調べ上げたい相手に反感を持っていそうな奴《やつ》を探し出して、そいつからいろいろと引き出すという手をよく使います」 「ええ」  乗松と同一選挙区で宿敵とでも言うべき龍野市議にあたったやり方が、そうだった。 「私は、その中から糸岡《いとおか》というやはり市に勤める男に話を聞くことができましたよ。糸岡は野々口より一年先に入庁し、大学も一年先輩に当たります。しかし糸岡はまだ係長でくすぶっています。しかも清掃事務所の窓口係長ですよ。噂《うわさ》によると、糸岡は大学時代に同じサークルで野々口に先輩面をして偉そうに振る舞い、野々口がつき合いかけていた女性マネージャーを横取りしたというんですよ。そしてそのときの怨《うら》みで、助役が岳父という七光を持つ野々口の影響で出世ができていないというんです。まあ、もちろんこいつは口さがない連中の噂であって、糸岡の行政マンとしての手腕のなさだけが原因かもしれんのですが」  星崎は改めて将田の行動力に舌を巻いた。今日の午後の、たった一人の調べでこれだけのデータを掴《つか》んでいるのだ。もちろん、それには検事の肩書きがモノを言っているようにも思う。一般人は警察官と話をする機会はあっても、検察官となると特別の経験だろう。裁判所での尋問の連想も働いて、ついつい正直に喋《しやべ》ってしまうこともあるかもしれない。しかしたとえそうであったとしても将田の能力は凄《すご》い、さすがは東京地検特捜部で鳴らしただけのことはあると、星崎は感心した。 「私は、その糸岡に会って、彼からちょっとしたネタを掴んだんです。野々口課長が若い女を連れて、中洲の街を歩いているのを見たと言うんですよ。それも二週間ほど前に」 「中洲の街ですか?」  星崎は酔いを覚ますかのように一回首を振ってから聞き直した。中洲ということから、殺された広川朱美のことが連想として浮かんだのだ。朱美が勤めていた「プラチナの砂」は、中洲のど真ん中にあった。 「残念ながら、糸岡は同僚の歓送迎会が行なわれた居酒屋の窓越しに見かけただけで、夜でもあっただけに、相手の女の顔ははっきりとは憶《おぼ》えていないと言うんです。しかし、もしそれが広川朱美だったとすれば、面白いとは思いませんか」  将田は、星崎の連想したことと同じことを言った。 「その連れの女性は、奥さんだったということはありませんかね」  星崎は、少し興奮をし始めた自分を押さえるように訊《き》いた。 「糸岡は、筆頭助役の娘である野々口の奥さんの顔を知っていて、奥さんではなかったと言っています。それと、これは野々口課長の部下から聞いたんだが、奥さんの親父、即《すなわ》ち野々口の義父に当たる助役は膵臓《すいぞう》を痛めて一カ月前から、市民病院で入院中です。野々口の妻は、しばしば病院の方に付き添いに行っているそうです」 「なるほど、そうすると、その野々口課長は奥さんにほったらかしを食らって、半ばヤモメ暮らしのような生活を強いられてるということになりますね」 「それだけに、心に隙《すき》ができていて、女が近づきやすい要素はできていたと言えるでしょう。しかも野々口はいわゆる逆玉の輿《こし》というやつで、結婚以来ずっと妻や義父に頭の上がらない生活を強いられて、不満が溜《た》まっているはずです。もしもあの乗松が、朱美を巧みに近づけさせたとしたら、野々口は誘惑に乗ってしまうのじゃないですか?」 「そして乗松はそれをネタに、野々口という男を脅そうとしたわけですか。でも、将来が嘱望されているエリートが、そんな美人局《つつもたせ》のような手に簡単に乗りますかね」 「いや、エリートだからこそ危ないんです。ろくに俗世間のことを知らずに順風に来た人間ほど、思わぬ落とし穴に陥りやすいものです。エリートには、そんな脆《もろ》さがある」 「そんなもんですかね」  高卒の現場|叩《たた》き上げの星崎には、エリートというものがどんなものか分からない。しかし市役所の若き課長以上のエリートである将田がそう言っているのだから間違いない、と星崎は自分を納得させた。 「そこで警部に頼みだが、この野々口課長を洗ってほしいんですよ。特に事件当夜のアリバイの確認をやってほしい。野々口に直接あたってもらって構わないです」 「分かりました」  星崎はメモ帳を取り出した。そして野々口浩一の住所を書き取った。  翌日からさっそく野々口浩一に対する星崎の捜査が始まった。  野々口の自宅は、博多でも十指に入るほどの高級住宅街にあった。広さはそれほどでもないが、三十四歳の公務員課長の給料だけでは取得はとうてい無理と言えた。表札を見ると、〈野々口浩一・幸代〉の上に〈水沢勝雅〉という一回り大きい古い木の表札が掛かっている。おそらく将田検事から電話で聞いた、市の筆頭助役である彼の義父が水沢であり、婿入の形で同居しているものと想像できた。強い縁者をバックに持つのもエリートの要件かもしれない、と星崎は思った。  星崎は、まず隣家から聞き込みを始めた。そしていきなり、成果を得た。野々口が先週の日曜日の夕方、赤のアウディに乗った栗色《くりいろ》の髪《かみ》の女に送られて到着したのを、隣家の主人が目撃していた。  殺された朱美は髪を栗色に染めていた。星崎はさっそく捜査本部に照会をした。果たして朱美の持っていた車は、赤のアウディであった。これで、野々口と朱美を結びつける線が濃くなった。  さらに聞き込みを続けた結果、次のような事柄が分かった。 〇野々口には既に両親はなく、その父親も平均的な国鉄職員であった。  野々口はまさしく、将田の言うように「逆玉の輿《こし》」という存在である。  野々口夫妻の夫婦仲は良いとは言えないようで、そろって遊びに出かけるようなところはあまり見かけない。 〇星崎が想像したとおり、家には野々口の義父である市助役・水沢勝雅《みずさわかつまさ》が同居していた。ただし、水沢は一カ月前から、入院している。なお、水沢夫人は数年前に癌《がん》で死去している。  水沢の入院以来、野々口浩一の妻・幸代《ゆきよ》は週に二度ばかり夜遅くまで病院に行っている。病院には付添婦を雇っているが、付添婦が休みの日には幸代が代わりを務めているようだ。  星崎はそのあと、しばらく野々口の家の前に車を停めて、張り込んだ。  腕時計の針が午後四時を指したころ、予約車の表示を出した一台の空車タクシーが横付けされた。運転手が車から降りて、野々口家の冠木門《かぶきもん》の下のチャイムを押した。  しばらくして、ダッフルコートを着た背の低い色白の二十代の女が出てきた。冠木門の錠が閉まっているのを、二度三度と確認したあと、タクシーに乗り込んだ。 「北区市民病院とお伺いしてますが、それでいいんですね」  運転手が行き先を確認する声が星崎の耳に届いた。女はちょこんと頷《うなず》いた。白い手に持った紙袋からは、着替えの下着らしいものが見えた。 (あの女が幸代だな)  決して美人タイプではないが、着ている服装や物腰は、お嬢さん育ちを感じさせる。それにしてもああして付添婦が休みの日は娘に面倒を見に来てもらうとは、水沢という助役も、いい年をしてずいぶん甘えん坊のように星崎には思えた。  そして午後八時ごろ、野々口が帰宅した。銀ぶちの眼鏡をかけ、ダークスーツにきちっとネクタイを締め、黒の手さげ鞄《かばん》を持ち、頭髪を七三に分けている。いかにもエリート公務員然としている。星崎は車の中から出た。 「野々口浩一さんですね」  星崎は、冠木門の錠を回す男の背後から声をかけた。 「はい、そうですが……」  野々口はびくっとしたように、太い眉《まゆ》を吊《つ》り上げて振り向いた。 (案外気の小さな男かもしれない)  星崎は瞬間的にそう思った。 「警察の者ですが」  星崎は警察手帳を見せた。 「広川朱美さんが殺された事件なら、私は関係ありませんよ」  いきなり野々口はそう答えた。かすかに酒臭い匂《にお》いがした。おそらく妻が出かけたために、外で食事を済ませてきたのだろう。 「ほう、どうしてその件だとお分かりなのですか」  わざと星崎は口を丸めた。 「そりゃあ……」  野々口は、低い声でそれだけ言って、あとは黙った。 「広川朱美さんと、知り合いだということは認めるのですな」  星崎は、半歩前に進んだ。 「ええ」  野々口は諦《あきら》めたかのように、小さく頷《うなず》いた。「あなたたちはとっくに調べ上げているのでしょう。今ここで否定して、変に心証を悪くしたくありません」 「心証を悪くしたくない、とはどういう意味ですかな?」 「彼女が殺されたのを新聞で知って、私は驚きました。いずれ私のところにも、事情聴取があるのでは、と薄々予想もしていました。しかし、天地神明に誓って、私は彼女を殺してなんかいません。わたしは騙《だま》されただけなのです。私だって、被害者なのです」 「あなたが、被害者? 詳しく話してもらいましょう」 「恥ずかしいことですが、正直に告白することにします。でないと、あらぬ容疑を掛けられますから」  野々口は、そう前置きしてから、早口で説明を始めた。「あの女とは、こうして私が外で食事をして少し酒に酔って帰った夜の歩道橋の上で出会ったんです。もちろん、そのときまで、会ったことは一度もありませんよ。彼女はうずくまるようにして身を屈めながら、私に『すみませんが胃が痛いので、薬を買ってきてもらえませんか?』と財布を差し出してきたんですよ。魅力的な若い女だったこともあって、私はつい親切心を動かしてしまって、『もう近くの薬屋は閉まっている時刻です。でも胃薬なら、私の家にあります。持ってきてあげましょう』と答えてしまったんです」  野々口は忌々しそうに手を握りしめて拳《こぶし》を作った。 「彼女は私が持ってきた胃薬と水を飲み、しばらくしてから『お蔭《かげ》様で、少し楽になりましたわ』と立ち上がりました。私は、彼女のためにタクシーを掴《つか》まえて、見送りました。そこの道路ですよ」  野々口は、振り向いて後ろの道路を指差した。歩道橋が架かっているのが、星崎にも見えた。 「そして、一週間後の夜、彼女は同じ歩道橋の上で私を待っていたんです。『先週のお礼がしたくて』と、彼女は微笑《ほほえ》んだ。私はいったんは断ったんだが、つい酔いも手伝って、彼女と喫茶店へ入ってしまった。それから何度か、誘われるままに、朱美と会うことになった。しかし、しばらくして、私は朱美が乗松議員の女だということを知った。私はシマッタと思った。乗松議員が裏で糸を操って、わざと近付けたということが分かったんだ」  野々口はだんだんと言葉遣いを粗野にさせて、吐き捨てんばかりの口調でそう喋《しやべ》った。 「乗松議員から、仕事に関して何らかの要求はあったのですかな?」 「いや、そいつはまだです」  野々口は、大げさなまでに両手を拡《ひろ》げた。 「じゃあ、これから脅迫が始まるというところだったのですな……」 「刑事さんは、私が朱美を殺害する動機は充分だと言いたいんですね」  野々口は星崎の言葉を遮った。さすがに頭の回転は早いようだ。「待ってください。私は断じて、あの二人は殺してません。乗松議員は市会でマムシと異名を取るほどの男です。私以外にも、同じような手口で狙《ねら》われた男がいるに違いないです。その男が、あの二人を殺してくれたんですよ」 「さあ。人生というものは、そう巧く行きますかな」  星崎はエリート市職員に首をかしげてみせた。「では、事件のあった夜のあなたのアリバイはどうなのですかな」 「あの日も、今日と同じように外食を済ませて、今ごろの時刻に帰宅しました。そしてそのあとずっと家に居ました」 「奥さんは、やはり病院に出かけられてましたのですな?」 「ええ、いつものように十時前後に、帰ってきました」 「要するに、一人で午後八時から十時ごろまで家に居たというわけですな」 「確かに家に居たことを証明することはできません。でも私は何もやってません。アリバイなんて、そんなものでしょ。毎日毎時間について、アリバイをしっかり証明できる人間なんてめったにいやしませんよ。平凡な勤め人なら、たいてい夜は自宅にいるもんですよ。たとえ女房が一緒にいたとしても、その証言だけじゃアリバイは成立しないんでしょ。アリバイなんて、ない人間が大半ですよ」  野々口はいっきに続けた。 「私は、アリバイに関するあなたの講義を聞きに来たのじゃありません。要するに、事件当夜のあんたのアリバイはないということですな」  星崎はそう皮肉っぽく、野々口の話の腰を折った。 「刑事さん。あなたの論理には飛躍があります」  野々口は銀ぶち眼鏡の奥の細い眼を光らせて、負けずに反撃してきた。「私は確かにあの女の誘惑を受けました。あとになってそれが美人局《つつもたせ》であることを知って慌てました。けれども、だからといってただそれだけの事情と、アリバイがないっていうことで、犯人扱いされたら堪《たま》りませんね。人権|蹂躪《じゆうりん》ですよ」 「そこまで自分が潔白だと言いたいのなら、講義をするのではなしにもっとあなたの事情を説明すべきでしょうな」 「事情を説明するって、どういうことですか?」 「朱美さんとは、寝たんですか?」  星崎はあえて俗っぽい訊《き》きかたをした。 「一度だけです。それも向こうから誘惑してきたのです」  野々口は俯《うつむ》きながら、言い訳めいた答えをした。 「それはいつのこと?」 「十一月の十九日です」  朱美と乗松市議が殺されたのは、一週間後の十一月二十六日だ。 「それで、美人局ということをどうして気づいたのですかな?」 「私が彼女の車に同乗しているところを、弟が見かけたんですよ。弟は天神でバーテンをやっていたことがあり、彼女がその隣のアルサロで働いていることを知っていました。そこで妙に思った弟が電話で知らせてくれたのです」 「ほう、弟さんですか?」  野々口に弟がいることは、星崎はまだ掴《つか》んでいなかった。 「できの悪い弟ですが、たまには役に立ちます。そのあと弟はあの朱美が中洲でホステスをやっていて、乗松市議がパトロンということを調べ上げてくれました。さすがに私は血の気が引きました。あのマムシ市議が、私を嵌《は》めようとすることが分かったのです」 「なるほど」 「刑事さん、誤解しないでください。私はだからといって、乗松市議や朱美を殺したりしてませんよ。疑われたくないために、こうして事情を話しているのです」 「あなたが犯人でないかどうかは、我々がこれから捜査をしたうえで、決めることになります」 「私は、殺人犯人なんかじゃありません」  野々口は半ば怒ったような口調になった。「刑事さんが、疑いの色眼鏡をかけて見ようとするから、私が怪しく映るだけです。何度でも繰り返しますが、私は何もやってません。さっきも言いましたように、あのマムシ市議のことです。蔭《かげ》でどんなことをやっているか、分かりません。私の他に、同じように嵌められた人間はいるはずです」 「その人間が犯人だと言いたいのですか?」 「少なくとも、私じゃありませんよ」  野々口は細い眼で睨《にら》みつけるように、星崎を見た。      9  その翌日、地検検事室では、北署の戸狩警部が将田と相対していた。 「検事、私はどうもこの野々口雄次という男が気になります」  戸狩は野々口雄次の前科者カードのコピーを机の上に置いた。三分刈りの、鋭い目つきの男の顔写真が映っている。 「事件の四日前、朱美に土下座して頼んでいた男というのが、こいつです」  戸狩は一昨日、「プラチナの砂」で聞き込んだそのネタを追った。  ——朱美が前に勤めていたアルサロで聞き込んだとき、支配人が 「事件の起こるちょっと前にも、朱美のことを訊《き》きに来た男がいましてね」  と言った。 「どんな男ですか?」  戸狩はそれを聞き逃さなかった。 「以前に隣のパブでバーテンをやっていた野々口雄次という男ですよ」  支配人は右隣の壁を指差した。「朱美は今どこの店に勤めているか知らないかって、結構勢い込んでいました。野々口とは見ず知らずの間柄ではないので、『プラチナの砂』の名前を教えましたよ」  戸狩は、すぐに隣のパブ「マルガリータ」へ足を運んだ。 「野々口雄次は、もうここには置いてませんわよ」  女主人は不愛想だった。置いていない、とまるでキープ用のボトルに対するような表現を使った。「あなた、警察の人なのに、一年前に野々口が傷害致死事件を起こして、刑務所に入っていたのを知らないの」 「警察官だからといって、発生したすべての事件をコンピュータのように憶《おぼ》えているわけではないですよ」  戸狩はそう答えながら、野々口雄次に犯罪前歴があるなら、前科カードでデータが得られるなと思った。「それで、彼の現住所は知りませんか?」 「そんなもの知りませんわ。人を死なせて、うちの店の名前を落とした男の顔なんてみたくありませんよ」 「少し前に、野々口雄次は隣のアルサロを訪れているんですけどね」 「こっちには来てませんわよ」  女主人は、蛇でも見るような眼で唇を曲げた。 「検事。現場となった博多グレートホテルの六三三号室からは、犯人のものとおぼしき指紋が見つかりませんでしたね」  戸狩は居ずまいを正した。 「ええ、そうです。ドアのノブとか、グラスとかには付いていたはずだか、拭《ふ》き取られていましたよ」 「わしはそこに、前科者らしい配慮を感じるのです。前科者は指紋というものに敏感です。指紋が遺留されていたら、前科カードから直ちに自分にアシがついてしまうのですから」  戸狩は手帳を取り出した。「わしは昨日、野々口雄次のことを調べてみました。彼は独身で、二十七歳になります。生まれはこの博多です。中学時代に二回ばかり補導歴があります。私立高校に進学したものの、そこで教師を殴って退学処分になっています。それから定時制高校に行ったものの、原級留置になったこともあって、辞めております。そのあと、塗装の見習い、植木職人の手伝い、建築解体業、と職を変えますが、どれも長続きしません。そして居酒屋の店員を経て、天神のパブ『マルガリータ』に勤め、ここは五年あまりいつくのですが、小倉で通行人と喧嘩《けんか》をして傷を負わせ、打ちどころが悪くて相手は息を引き取り、傷害致死で逮捕され、懲役一年の実刑判決を受けて服役します。そして十一月の七日に仮出所したばかりです。保護司の世話で、東区の方にアパートを借り、一人暮らしをしながら、小さな印刷工場に勤めています」 「警部は、その野々口雄次の兄弟姉妹のことを調べましたか?」 「いえ、まだそこまでは」 「警部の報告によると、野々口雄次は事件の四日前に、広川朱美の勤める店に行って『兄貴はこれまで順調にやって来たんだ……』と言っていたわけでしょう。その『兄貴』が、野々口雄次の兄を示すのかどうかは大事なポイントです」 「ええ」  戸狩は頭を掻《か》いた。さすがに将田の指摘は鋭い。「さっそく、これから調べます」 「いや、それには及びません。野々口雄次の兄とおぼしき人物が、県警の星崎警部の方から報告されています。野々口浩一という市職員です。二人の戸籍を当たれば確認は容易にできます。その作業はうちの金内にやらせましょう」  将田はかすかに微笑を浮かべた。「戸狩警部のお蔭《かげ》で、事件の輪郭がかなり見えてきました。野々口雄次、広川朱美、乗松三喜夫、野々口浩一、この四人が環状の鎖で繋《つな》がる可能性が出てきたわけです」 「やはり、野々口雄次が犯人《ホシ》ですか?」  戸狩は気持ちの弾みを覚えた。もしそうだとしたら、事件はスピード解決となる。 「即断はできません。でも、有力容疑者の一人と言えるでしょう」  将田はあくまでも冷静だった。「警部は野々口雄次の事件当日のアリバイを調べてください。分かり次第、電話で連絡をください。私は、しばらくこの検事室にいて、考えをまとめてみます」 「分かりました」  戸狩は将田に敬礼をした。  その日のうちに、野々口浩一と雄次が実の兄弟であることが、戸籍を調べに行った金内事務官から将田検事に報告された。  そして、戸狩警部からは「野々口雄次は事件当夜の夜は一人でアパートに居て、テレビを見ていたと言っていますが、それを立証する者はおりません」という電話が入った。      10  その翌々日に、まず野々口浩一が星崎警部に同行を求められて、地検の取調べ室へ入った。二時間に及ぶ将田検事の事情聴取が行なわれた。 「市役所に同行を求めに来るのはよしてください。同僚からあらぬ疑いをかけられるじゃありませんか。今度役所に来たなら、私は同行を拒否しますよ。あくまで任意の同行なんでしょ」  野々口浩一は不機嫌そうにそう言い残して帰った。  そして入れ替わる形で、野々口雄次が戸狩警部に連れられて、地検の取調べ室にやってきた。  野々口兄弟は、廊下で擦れ違った。 「兄さん」  雄次は低い声をかけた。浩一は黙ったまま軽く会釈をした。 「あいさつをしとる場合じゃない」  戸狩警部に促されて、雄次は押し込まれるように取調べ室に入った。 「君が野々口雄次だね」  将田は雄次の顔を覗《のぞ》き込むように見た。「十一月二十六日夜の君の行動を訊《き》かせてもらおうか」 「さっきの刑事さんにもう話したじゃないか」  雄次は少しふてくされたように答えた。雄次は太くて長い腕をぐいと組んだ。 「アパートで、テレビの映画劇場を見ていたぜ」 「一人でだな」 「ああ」  雄次は濃い眉《まゆ》をぴくりと動かした。 「外へは出なかったのか?」 「今は遊びに出る金がない。印刷所では見習工扱いだ」  相変らず、腕は組んだままだ。 「誰かが尋ねてきたとか、電話がかかってきたとかいうことはないのか?」 「ないな」  雄次は、狐《きつね》を連想させるつり上がった眼を細めた。 「では、博多グレートホテルというホテルを知っているか?」 「名前は聞いたことがある」 「行ったことは?」 「ない」  雄次は極めて短く答えた。  その翌日も野々口兄弟に対する地検の事情聴取は行なわれた。そしてその次の日は、今度は野々口雄次だけが呼ばれた。 [#改ページ]  第二章 逮捕された容疑者      1  乗松市議と広川朱美が殺害された日から十日後の十二月五日、野々口雄次が容疑者として逮捕されたことが発表された。  例えば九州新報の朝刊には、次のような記事が載った。  ——市議・ホステス殺し、印刷見習工を逮捕  先月二十六日、博多グレートホテルで市会議員の乗松三喜夫さん(49)とクラブホステスの広川朱美さん(26)が殺された事件の捜査を進めていた福岡地検は、東区松崎四丁目十七明和荘に住む野々口雄次容疑者(27)に対する事情聴取を続けていたが、このほど野々口容疑者の自供が得られたため逮捕した。  野々口容疑者の自供によると、乗松市議が広川朱美さんを使って、市職員をしている野々口の兄に付け入ろうとしたため、談判に行き、その話し合いがこじれて殺害に及んだということである。  なお、野々口容疑者は昨年北九州市で傷害致死事件を起こし、懲役一年の実刑判決を受け、この十一月に出所したばかりだった。——  老弁護士の朝日岳之助《あさひがくのすけ》は、皺《しわ》の目立つ手でカップラーメンに湯を注いだ。家事はあまり得手ではない。カップラーメンと明太子《めんたいこ》と、食後の缶コーヒーというのが、家に居るときの昼食の決まったメニューであった。近くには鄙《ひな》びた近郊農家が立ち並び、外食に適する店はほとんどない。  机の上にはもう五年来使い古した鞄《かばん》が置かれている。午後からは、少ない水揚げに困って、他人の養魚場から魚を掠《かす》め取った男に対する結審が開かれる予定だ。日本は豊かになったと言われるが、貧困ゆえの犯行が決して絶滅したわけではない。朝日はそんな事件の弁護を進んで引き受けた。報酬はもちろん弁護士費用の回収すら望むべくもない。  カップラーメンがほぐれるのを待つ間、朝日は新聞を取り出した。貧乏暇なし、という言葉があるが、ゆっくり新聞を読む余裕はなかなかない。 「こ、この男は……」  朝日の目は容疑者の四角い写真の載った新聞記事に引き寄せられた。 「野々口雄次《ののぐちゆうじ》、確かにこの男じゃ」  朝日は眼を凝らした。六十を超えて今、視力はかなり落ちてきた。しかし、その写真の面影は、過去の記憶と合致していた。  朝日は腰を上げて、木製の古い書棚の前に立った。一番上の棚から、すっかり埃《ほこり》をかぶったガリ版刷りの冊子を取り出した。〈野々口健蔵君の無罪を勝ち取る会 会員名簿〉と書かれた表紙はすっかり茶色にくすんでいる。何しろ、もう十五年前になる。 「間違いなか、野々口雄次という名前たい」  朝日はぺージを繰って確認した。一番最初に野々口|健蔵《けんぞう》の家族として、妻・妙子《たえこ》、長男・浩一、次男・雄次の名があった。そのあとはかつての国鉄労働組合の同志の氏名が並んでいる。その中に朝日岳之助の名が連ねられている。 「あの忌まわしか事件は、もう十五年も、前になる。やはり、年末のことじゃった」  朝日は小さく溜息《ためいき》をついた。  朝日が国鉄の保線職員から弁護士へという異色の転身をしたのは、野々口健蔵が受けた濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》が原因だった。  昭和五十年、国鉄労働組合が中心になってスト権ストを敢行した。十一月二十六日から十二月四日まで、日本全土の国鉄はストップし、未曾有《みぞう》の百九十二時間の完全機能停止となった。スト権ストが解除された翌日、鹿児島本線で何者かによって架線が切断され、数本の運休列車が出る事故が発生した。三週間後、朝日の組合仲間の野々口健蔵がその切断犯人として福岡県警に逮捕された。朝日は仰天した。犯行時刻とされた時刻に、野々口は朝日の自宅で胃が潰《つぶ》れるほど飲んでいたのだ。  スト権ストが中途半端の状態で終わったことを嘆いて、朝日は熊本に家族を残して福岡に単身赴任していた野々口を酒に誘った。二人とも口惜し涙を拭《ふ》きながら酒を呷《あお》っていた。  朝日は直ちに血相を変えて警察に走った。だが朝日のアリバイ申し立ては、組合同志の証言という割り引いた評価しか受けなかった。不幸なことに、朝日の他にアリバイを証明してくれる人間はいなかった。  野々口健蔵は起訴された。朝日は証言台に立った。そのときの検事との遣り取りを朝日は今もなおはっきりと憶《おぼ》えている。 「証人は、被告人と一緒に酒を飲んでいたと言うのですね」 「はい」 「どのくらいの量を飲んだのですか?」 「あんときはなかなか腹の虫の収まらず、二人で日本酒一升とウイスキーのボトル一本ぐらい空けたとではなかかと思います」 「証人は酒は強いほうですか?」 「いえ、まあ普通ですたい」 「それでは証人が被告人と一緒に酒を飲んでいたという証言が仮に真実であったとしても」  検事は朝日の顔を睨《にら》むような眼で見た。「証人はそのとき酩酊《めいてい》、もしくは居眠ってしまって被告人が抜け出したことに気づかなかったのではありませんか?」 「そげんことはなかとです。だいいち野々口はぐでんぐでんに酔っ払っとったけん、架線を切る行為などできっこありゃせん」  朝日は証言台で検事に向かって怒鳴《どな》った。 「証人はこちらの質問事項にだけ答えてください」  検事は冷静だった。 「ばってん、あげん行為は野々口にはでけんばい。野々口は気の小さか男じゃ」  朝日はやめようとしなかった。証言台から身を乗り出して、裁判長を祈るように見上げた。 「判事さん、わしの話を聞いてくだされ」  朝日は唾《つば》を飛ばして裁判長に縋《すが》った。野々口を救えるのは自分だけだと必死だった。 「証人は勝手な発言をしないように」  裁判長は朝日の嘆願を取りあわなかった。 「ば、ばってん……」 「証人には被告を弁護する権限はありません。弁護人に任せなさい」  裁判長の平板な声が法廷に響いた。  結局、野々口は一審で有罪となり懲役六カ月の判決が下された。国鉄当局は解雇を通告してきた。野々口は涙ながらに控訴した。 「真実は一つたい。わしはあんたば救うぞ」  朝日は、野々口に誓った。しかし鉄道のことしか知らぬ男のままではどうしようもなかった。朝日は弁護士になって野々口を擁護することを思い立った。弁護士になるのはもっと簡単だと考えていた。朝日は法律書を買い込んで勉強を始めた。だが雲を掴《つか》むようにさっぱり分からない。福岡市に同学のサークルがあると聞いて参加した。遥《はる》かなる道のりを知らされた。それでも朝日は諦《あきら》めなかった。ここで退いたのでは自分の存在がなくなるという気がした。朝日は思い切って国鉄を退職した。すでに妻は病気で先立っており、子供もいない気楽な身であった。退職金を懐に東京に出て司法試験専門の学校に通った。  六年が経《た》ち、朝日は遂に宿願を果たした。視力が一・五から〇・二にまで落ちてしまっていた。野々口の事件は上告審にまで掛かっていた。朝日はすぐにでも弁護がしたかった。だが二年間の司法修習を済ませないと弁護士になれなかった。司法修習が始まった四月、野々口健蔵は脳溢血《のういつけつ》で倒れ、そのまま不帰の客となった。  朝日は運命を呪《のろ》った。我が身を削る思いの六年間の勉強はいったい何だったのか。酒に溺《おぼ》れる日が続いた。  しかしやがて朝日は新たな決意をした。野々口と同じような被告人は広い世の中のどこかにいるはずだった。第二第三の野々口を弁護することが、今の自分に与えられた使命なのだ。天はそれをさせるために自分を法曹に向かわしめ、もはや初老と言ってもいい年齢にもかかわらず難関の司法試験を突破させたのではないかと。  そして弁護士となった朝日は、幾つかの冤罪《えんざい》事件を手掛け、無罪判決を勝ち取ってきた。これまでの弁護士人生の中で、一番の悔いは野々口健蔵に対して何もしてやれなかったことである。朝日自身が彼の無実を証明する最も近い立場にいながら、証言を認めてもらえず、結局野々口健蔵の雪冤《せつえん》を果たせなかったのだ。  その息子が、二人の男女を殺害した犯人として逮捕された。十五年前と違って、朝日は弁護士という資格を有していた。 「あんときは、野々口にほとんど何もしてやれなかったばい。せめて息子さんの雄次君のために何かしてやりたか」  野々口雄次の犯行は果たして冤罪かどうか、この短い新聞記事からは分からない。もし彼が犯行をなしていたなら、犯罪に至った背景や事情を徹底的に公判で明らかにして、裁判官の公平な量刑を求めるのが朝日のやり方だ。 「いずれにしても、午後からの法廷が終われば福岡へ出向こう」  たまたま拡《ひろ》げた新聞に野々口雄次の写真が出ていたことに朝日は奇遇さを感じた。まるで天国にいる野々口健蔵が、息子のことをよろしく、と頼んでいるかのような気がするのだ。 「わしはじっくり腰ば据えて、この事件に取り組むたい」  いつのまにか、カップラーメンは嫌というほど湯を吸い込んで、完全に伸び切っていた。      2  熊本での公判を終えた朝日は、その足で博多行きの高速バスに乗り込んだ。朝日は元国鉄職員だが、どうしてもJRよりも料金が安い高速バスを利用してしまう。  朝日はオンボロ鞄《かばん》の中から、新聞記事の切り抜きを取り出した。おそらく警察署で撮られたものと思える野々口雄次の顔写真は、頬《ほお》を強張らせ、ひどく非道の男のように映っている。  野々口健蔵が脳溢血《のういつけつ》で死んで四カ月ほど経《た》って、野々口の妻・妙子があとを追うかのように病死した。東京で司法修習生をしていた朝日は、健蔵の葬儀のときと同様に、数珠《じゆず》を片手に博多行きのブルートレインに乗った。その妙子の告別式以来、野々口の二人の息子とは会っていない。長男の浩一はすでに市役所に勤めており、かつての組合同志から申し出のあった遺族援助カンパを浩一が丁重に断った。  聡明《そうめい》で落ち着いた浩一に比べて、次男の雄次は短気な性格だった。朝日は、雄次に初めて会ったときのことが印象的である。  野々口が逮捕された直後に結成された〈野々口健蔵君の無罪を勝ち取る会〉の場に、野々口の家族三人が初めて姿を見せたときのことだ。野々口の妻はまだ若く、会の結成式に姿を見せた彼女はけなげにメンバーの一人一人に頭を下げて「よろしくお願いします」と回った。その後ろに学生服に身を包んだ中学生がいた。それが雄次である。ブレザーに博多大学のバッジを付けた浩一が野々口の妻と同じように頭を下げていたのに対し、雄次は「お父さんを無実の罪に陥れてしまった人は、正直に名乗り出てください」と叫ぶように言った。 「君のお父さんを無実の罪に陥れたのは、警察当局だよ」と勝ち取る会の代表であり、労働組合の分会長であった男が雄次に説明した。 「いいえ、架線を切って列車を運休させるという行為は、国鉄内部の人でなきゃできません」  当時中学生だった雄次はまだあどけなさの残る顔で反論した。「警察だって、何の根拠もなしにお父さんに目をつけたわけじゃないでしょう。真犯人はこの会に居る人物かもしれません。もし居るのなら名乗って父を救い出してください」  雄次の言葉に、一同はシーンとなった。確かに全くの第三者の仕業とは考えにくかった。中途半端なままに終わったストライキに対して、もっと実力行使を続けるべきだと考える闘士が架線を切って列車を運休させた可能性は高い。そうすると、何食わぬ顔でこの会に参加している者の中に、真犯人が居ることだってあり得るのだ。みんなは申し合わせたように自分の顔を俯《うつむ》かせながら、視線だけは下げずに周りの人間の表情を窺《うかが》った。疑心暗鬼、という表現がまさにぴったりだった。朝日はひどく嫌な思いを味わった。普段は声を合わせて「団結、ガンバロー」というシュプレヒコールを上げている仲間同志が、「もしやあいつが……」という眼で見合うのである。とりわけ野々口と一緒に飲み明かしていたと主張する朝日の背中には、視線が多く注がれた。勘繰れば、朝日が他の誰かと共謀して野々口を飲みに来ないかと自宅に誘い、アリバイを封じておいて、野々口に罪を着せようとしたという想像も成り立たないわけではない。  朝日はそのことがあっただけに、法廷では必死で証言した。だが、それは受け入れられなかった。 「あれから十五年、雄次君はお父さんの事件のことをどげん思うとるじゃろか……」  朝日は小さく呟《つぶや》いた。十五年と言えば、殺人の罪ですら時効とされる年数である。けれども、朝日の心の中から野々口の冤罪《えんざい》が消え去ることはない。おそらく雄次にとっても、忘れられない出来事だろう。  高速バスに揺られながら、朝日は改めて雄次逮捕を伝える記事を読み返した。  雄次は自供が得られたために逮捕された、ということが書かれている。朝日はたとえ被疑者本人が自白をしていても、それで直ちに彼が犯人だとは考えない。ときには拷問に近い形で、被疑者への自白が強要されることが皆無ではないと思っているからだ。暴力による自白強要が指摘された有名な例では、八海事件や幸浦事件などがある。八海事件では破られた被疑者のジャンパーが証拠として提出され、幸浦事件では被疑者の手や耳にできた火傷痕《やけどあと》が焼け火箸《ひばし》を使った拷問によってできたものだとの主張がなされた。  比較的最近の例としては、東京芸大バイオリン事件がある。これは芸大が楽器商からバイオリンを購入するにあたって、その購入選定に関与した音楽学部教授が楽器商から賄賂《わいろ》を受け取ったとして、東京地検特捜部に逮捕された事件である。その取調べの際に担当検事が被疑者の座っている椅子《いす》を突然|蹴《け》りつけて床に倒したり、後頭部を手で押さえ込んでボールペンを瞳《ひとみ》近くまでぐいぐいと突き付けた、と公判で弁護側から主張がなされた。被疑者は、繊細な神経のもとで現役バイオリニストとしても生活をしてきた音楽学部教授であり、このような屈辱的な検事の取調べは到底耐えられなかったはずだと、弁護人は指摘したのだ。  バイオリニストだけでなく、一般人にとっても、密室状態での長時間の取調べというのは、大変な肉体的精神的難業だと朝日は思っている。自由過ぎるくらい自由な現代の日本で、これまで警察や検察の捜査とは無縁のところで生活してきた市民が突然身柄を拘束され、取調室という異様な雰囲気の充満した部屋の中で延々と入れ替わり立ち代わりの激しい取調べを受ければ、それだけで音《ね》を上げてしまうのが普通だろう。取調べは一日何時間以内に限るという法的制約はなく、たとえ取調べにあたって暴力の行使や詭計《きけい》が弄《ろう》されたとしても、その立証を被疑者が行なうことは極めて困難なのだ。  博多駅前に着いた朝日は、地下鉄に乗り換えて福岡地検に向かった。通常の場合は警察が捜査をし、逮捕状請求も行なうが、新聞記事によると地検が直接捜査を行なっていた。その点では、東京芸大バイオリン事件と同じであった。朝日は事件を担当した検事に面会を求め、詳しい事件の経緯《いきさつ》を聞くつもりだった。 「朝日先生ではありませんか?」  地検のある法務合同庁舎の庁内案内板を見上げていた朝日は、女性の声に振り向いた。 「おや」  訴訟書類を抱えた花木検事が微笑を浮かべて立っていた。 「しばらく、ご無沙汰《ぶさた》しております」  花木は軽く頭を下げた。「あたし、この春に小倉支部からこちらへ転任してまいりました」  朝日が、この花木と初めて顔を合わせたのは昨年小倉で起きた「竹之内事件」であった。鋳物工場の社長が殺され、竹之内という若い従業員が逮捕された。無実を主張する朝日に、公判で相対した検事が花木理恵だった。 「竹之内事件では、先生のお蔭《かげ》で本当にいろいろと勉強させていただきました。あたし、少し考え方や物の見方が変わったような気がします。あのときまでのあたしは、表面的な証拠ばかりを重視して、人間というものをよく見なかったような気がします」  被告人の自白を始め様々な証拠を根拠に有罪を強く主張する花木に対し、朝日は粘り強く弁護活動を展開し、遂に竹之内は無罪であるとの判決を獲得した。 「そりゃあ、よかことばい」  朝日は柔和な眼差《まなざ》しを送った。「それにしても、検事さんというのは、転任がよくあるようじゃのう」 「ええ、転がる石には苔《こけ》が生えないをモットーに、転勤は二、三年のサイクルで行なわれますわ。これではゆっくり恋愛などしてられませんね」  花木はいたずらっぽそうに笑った。朝日は小倉での「竹之内事件」の際、花木に向かって「犯罪心理学の本を読むのもよいが、恋愛ばして、もっと人間というものを知らんといかん」と、独身美人検事を諭したのだった。 「ところで、先生。今日は何の御用なのですか?」 「野々口雄次という男が被疑者とされとる事件で、担当検事に話を聞きたかと思うてやって来たんじゃ」 「野々口雄次の事件なら、担当は将田という検事です。でも、将田はけさから東京へ研修で出張ですわ」  花木の顔から笑みが消えた。「順番で行くと、あたしが本当は担当だったのですわ。それを将田検事は、被害者が市議ということでかなり強引に自分の受け持ちとしました。あたし、今でも不満です」 「ということは、取調べも強引さがあったと言えるかもしれんな」 「それは分かりません。でも将田検事は早々と自供を引き出して、意気揚々と東京へ出かけました。うちの検事正は、彼の手腕を高く評価しています。さすがに最高検次長の長男だと」 「ほう、最高検次長のう」  最高検次長は、天皇によって認証される重要役職で、検事総長、東京高検検事長、大阪高検検事長に次いで、検察の世界で四番目に位置するとされている。しかも検察人事を左右できる地位にある。若くして検事となり、着実に実績を上げていかないと、まずこの要職には就けないと言える。初老に近い年齢でやっと司法試験に受かった朝日は、逆立ちしてもなれっこない。 「それで、野々口雄次君の身柄は?」 「福岡拘置支所ですわ。昨日送致されていきました」  花木は拘置支所のある西の方角を指で差した。「あたし、小倉支部時代にも、地裁支部で野々口雄次を見かけたことがあるんです。彼は小倉で傷害致死事件を起こし、刑事裁判にかけられたのです。あたしの担当ではありませんでしたけど」  朝日が鞄《かばん》にしまっている新聞にも、傷害致死事件を起こし懲役一年の実刑判決を受けて、先月に出所したばかりだと書いてあった。 「どげん傷害致死事件を、彼は起こしたのかな?」  朝日はその傷害致死事件を全く知らなかった。忙しくてときには新聞を読む暇のない日もある。うっかり見落としたのかもしれない。あるいは小倉で起きた傷害致死事件ということで、熊本で発行される紙面には載らなかったのかもしれない。 「詳しくは知りませんが、酔っ払いに絡まれて、殴り合いの喧嘩《けんか》となってしまい、酔っ払いはガードレールに頭をぶつけて昏倒《こんとう》し、打ちどころが悪くて二日後に息を引き取ったというものです」 「そいつは、決して凶悪な犯行ではなか」  朝日は呟《つぶや》いた。悪質な故意による犯行は、しばしば法律違反意識が鈍磨して累犯となるケースが見られる。いわゆる常習犯と呼ばれるものである。けれども、そうでない場合は、もう二度と犯罪を繰り返さないでおこうと改悟するのが一般的だ。刑務所は決して暮らしやすいところではない。出所したばかりの人間が、相手の打ちどころが悪かったという傷害致死事件よりはるかに重罪と言うべき、二人の人間に対する殺人行為をやすやすと行なうものだろうか? 朝日の胸に疑問が湧き起こった。 「わしは、これから雄次君に会ってくる」  朝日は鞄《かばん》を持ち変えた。まず直ちにすべきことは、雄次と会って、詳しい事情を聞き、自分を弁護人に選任してもらうことだ。 「朝日先生、要望があればあたしのできる範囲で、先生に協力しますわ。本当は検事がそんなことをしてはいけないのですが、あたし、先生の裁判に取り組む姿勢と生きかたを尊敬しております。それに、本来、あたしが担当すべき事件だったのですから」  花木はそう言って、朝日を見送った。      3  福岡拘置支所。福岡市|早良《さわら》区|百道《ももち》にあるこの灰色の建物は、いったん刑が確定しながらも再審によって無罪判決を勝ちえた初の死刑囚である免田栄氏を二十九年に渡って収監していた。彼はそのあと八代《やつしろ》拘置支所に移され、都合三十四年間という気の遠くなるほどの歳月を鉄格子の中で過ごすことになる。二十三歳で逮捕され、再審無罪を勝ちえたのが五十七歳、人生のもっとも花のある時期を、国家は司法の名のもとに奪ったことになる。  免田氏は、この福岡拘置支所にいた間に、七十人近い死刑囚を見送った。死刑の執行は事前に予告されるわけでなく、当日の朝に突然実行される。朝食を終えた午前九時ごろ、刑務官がやって来て、独房の前に立ち停まり、鍵《かぎ》を差し込む。そして鉄の扉を開ける重い響きが、廊下に響き渡る。その音がどこで聞こえるかで、けさは誰が連れていかれるか、毎日をその廊下に面して過ごしている他の収監者には容易に分かるという。連れ出された男は、廊下にしゃがみ込んで「お世話になりました。お先に行きます」と仲間に告げる。  一人、また一人と、そうして仲間が絞首台に消えていく。そのお迎えが明日にも自分のところへ来るかもしれないのだ。まさしく死と向かい合う恐怖の毎日だ。その死刑確定囚という絶体絶命の淵《ふち》から這《は》い上がった男は、免田氏だけではない。財田川事件の谷口繁義氏、松山事件の斎藤幸夫氏、島田事件の赤堀政夫氏……起死回生の死刑台からの生還を果たした彼らのことは、マスコミも派手に取り上げ、世間の人々の多くも知っているだろう。だが、それらは軽重さまざまな冤罪のほんの一部の現象だと朝日は思っている。死刑台からの生還を果たした彼らは、富士山の万年雪をかぶった頂上部分のようなものである。その頂上部分の下には、中腹があり、山麓《さんろく》が広がり、そして裾野《すその》が構えている。無実の死刑という頂上の下にはピラミッド状に、間違った有罪、誤った起訴、そして誤認逮捕がある、と朝日は確信している。  ところが、今の日本社会には、逮捕されたというだけで、罪人扱いされる風潮が厳然として残っている。逮捕され、手錠をかけられたまま無抵抗に連行される被疑者の姿をカメラの放列が、まるで江戸時代の「市中引き回し」のように捕える姿は日常茶飯事だ。このような人権|蹂躪《じゆうりん》を是正し、人間がやる以上は逮捕にも起訴にも裁判にも誤りがあることを指摘することのできる者は、弁護士をおいて他には居ない。残された人生の時間のすべてを、それに捧《ささ》げたいと朝日は強く思っている。 「わしが体験した野々口健蔵の事件も、間違った有罪じゃった」  朝日は独りごちながら、拘置支所の門を潜った。  野々口健蔵が逮捕されたのが十五年前だ。その間に、社会にはさまざまな出来事があった。日常生活は、どんどん便利になり、休日も増えた。けれども、間違った有罪や誤認逮捕であっても、〈それが当局によってなされたという理由だけで、正しいものと受け止める〉巷間《こうかん》の風潮は全然変わっていないようだ。 「その野々口の息子が逮捕された。何とかせにゃいかん」  朝日は拳《こぶし》を握り締めた。「ばってん、雄次君が無実だとしても、その弁護はかなりの苦戦になりそうじゃ」  朝日のこれまでの経験でいくと、被疑者が自白をしたときはそれを覆すには大変な労力がいる。理由はどうであれ、本人が「やりました」と認めた以上、その内容は自白調書にまとめられ、審理にあたる裁判所としては重大な有罪認定の資料と見るのだ。  弁護人接見室に入った朝日は、ゆっくりと椅子《いす》に腰を降ろした。野々口雄次はまだ姿を見せていない。接見室には出入り口が二つ作られている。一方は弁護人用、他方は収監者用である。ちょうど真ん中に境界としてのカウンターが置かれ、そのカウンターには透明のプラスチックボードが埋め込まれ、それが天井までぴったり嵌《は》められている。  朝日はカウンターの上に皺《しわ》の目立つ手を置いた。 「あれから十五年、雄次君はお父さんの事件のことをどげん思うとっとだろか」  朝日は小さく呟《つぶや》いた。十年一昔というが、それからさらに五年が経《た》っている。けれども、朝日の脳裏から野々口健蔵が受けた濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》の記憶が消えることはあり得ない。  接見室の収監者側の扉が開いて、その雄次が姿を見せた。健蔵の妻・妙子の葬儀以来八年ぶりに見る野々口雄次は、ずいぶん老け込んだ印象を受ける。まだ年齢的には二十七歳のはずだ。しかし、年を知らなければ、三十歳を越えた風貌《ふうぼう》に映る。三分刈り頭には、所々に白髪《しらが》が混じり、目の下には皺が寄っている。 「まあ、座り給え」  朝日はゆっくりと声をかけた。青年期を過ぎつつある雄次は、父親の健蔵に似てきたように思える。  雄次は黙って腰を引いて、堅そうな丸|椅子《いす》に座った。 「わしのことは、憶《おぼ》えておるか?」  朝日は自身を指差した。 「忘れやしませんよ」  低い声で突き放すように雄次は言った。「十五年前に、あんたがうちの親父を飲みに誘わなければ、親父はあんなことにはならなかったんだ」  いきなり、朝日の心の疼《うず》きを雄次は抉《えぐ》り出した。  当時、熊本に家のあった野々口健蔵は、単身赴任の形で博多の寮に住んでいた。あの夜、もし寮に居たなら、賄《まかな》いのおばさんなどの組合員同志以外のアリバイ証人を立てることができて、彼の無実は容易に証明できただろう。二人だけで朝日の自宅で飲み明かしていたということが、不運の一因であった。 「その件に関しては、わしにもある種の責任があると思うとるばい。だけん、わしは必死で証言台に立った。そこで非力ば思い知らされて、わしは弁護士ば目指した。そしてこげなふうに、弁護士になったばい」  朝日は胸のバッジを指し示した。 「あんたは偉い人だよ」  雄次は鼻先で軽くフンと笑った。「だけど、おれの親父に何かしてくれたのかい。親父は、脳溢血《のういつけつ》で四十九歳で死んだんだよ。あの濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》が親父の寿命を縮めてしまったに違いないんだ。あとを追うように病死したオフクロだってそうだよ。あの事件以来、ガリガリに痩《や》せこけて衰えていったんだ」  朝日は唇を噛《か》んだ。職をなげうち、上京しての司法試験合格のための猛勉強は結局、健蔵の役にはひとかけらも立たなかった。 「あんた、それから、おれたちに何か詫《わ》びをしてくれたのかい。親父とオフクロの葬式に来たきりじゃないか」 「すまん」  司法修習生の二年間は、正直言って研修のカリキュラムに付いていくのがやっとだった。周りの修習生のほとんどは、一流大学の法学部を卒業した二十歳代の若い頭脳の持ち主だった。いくら司法試験にスレスレで受かっても、二年間の修習の最後に課せられる二回試験と呼ばれる関門を突破しなくては、弁護士にはなれないのだ。朝日にとっては、必死の研修所時代だった。  開業後も、忙しい日々が続いた。無辜《むこ》の罪を訴える人の数は、朝日が予想していたよりはるかに多かった。無実の人間を救うための東奔西走の毎日が弁護士・朝日を待っていた。 「決してあんたの親父さんのことを忘れたわけではなか」  朝日は白髪《しらが》頭を下げた。  忙しさにかまけて、野々口事件のことを調べなかったわけではない。朝日は、野々口事件の公判記録を閲覧した。架線切断現場近くの枕木《まくらぎ》の上に野々口健蔵がいつも使っていたペンチが落ちていた。それが有罪判決の最大の根拠となっていた。朝日は暗澹《あんたん》たる思いがした。仲間うちの誰かが、架線保持係であった野々口のペンチを盗み出し、うっかり落としてしまったか、わざと捨てたのだと思えた。しかしそれが誰の仕業であるかを突き止め、立証するのは至難のわざと言えた。時間の経過は著しく、現場の周囲の光景はすっかり変わり、関係者の記憶もずいぶん曖昧《あいまい》なものになっている。国鉄自体が、分割民営化されてJRとなってしまった。  死んだ野々口の名誉を回復させたい気持ちはもちろんあった。しかしそれは朝日の力量を完全に超えていた。昔の仲間の誰かの犯行だということを指摘する辛《つら》さもあった。しかも朝日自身が事件に関わった一人であり、調査をしようとしてもかえって変に勘繰られる向きもないではなかった。  あの組合活動に熱心な野々口なら、仲間の犯行を許すじゃろ——朝日はそう自分を納得させようとした。架線切断行為自体は、犯人は決して私利私欲のためにやったのではなく、彼なりの正義感に基づいてなしたものなのだ。朝日自身も、あのときのスト権ストは中途半端に終わったと思っている。あの昭和五十年をピークに、国鉄労働組合は力を衰退させ、ひいては日本の労働運動自体が弱くなって行ったという印象を持っている。 「帰ってくれよ」  雄次は冷たい口調で言った。 「いや、わしはあんたの弁護人になろうと思うて、ここまで来た」  朝日は、野々口の家族と疎遠になってしまったことは、いくらでも詫《わ》びたかった。しかしここに来た目的は謝罪ではない。 「おれには弁護人などいらねえ」  雄次はプイと横を向いた。 「そうはいかん。弁護人抜きの刑事裁判というのはなか」  殺人罪など一定以上の罪に関する刑事裁判については、必ず弁護人が付くという趣旨のことが、法律に定められている。 「たとえ弁護士を立てるとしても、貴様はごめんこうむるね」  雄次は睨《にら》みつけるように朝日を見た。 「雄次君、わしは今回のことを神がわしに与えてくれた千載一遇のチャンスだと思うとる。あんたのお父さんを守れなんだ失態を、ここで回復したか」 「こっちはごめんだね。犯人とされた男の家族の苦しみが貴様に本当に分かるのか。十五年前、おれはまだ中学生だった。学校の連中は、あれ以来ずっとおれを遠ざけ、冷たい目で見るようになりやがった。近くの者どもは、顔を合わしてもろくに挨拶《あいさつ》もしてくれない。まるで村八分だ」  朝日はあの事件の犯人逮捕の報道が、殺人や強盗並みに大きかったのを良く憶《おぼ》えている。組合は、�国鉄当局によるマスコミを利用した弾圧攻勢だ�と抗議をしたが、効き目はなかった。 「あれ以来、おれの人生は狂わされてしまったようなものだ。落ち着いて勉強なんてできるわけがない。当時つき合っていたガールフレンドにも、あっさりとフラれてしまった」  朝日は、また冤罪《えんざい》の悲劇を垣間見《かいまみ》たような気がした。冤罪は、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を受けた当人だけでなく、その家族をも巻き込んでしまうのだ。多感な中学生の時期だけに、雄次が蒙《こうむ》った精神的被害は計りしれないほど大きなものだっただろう。 「貴様らはいったい親父に何をしてくれたと言うんだ。つまらねえ無罪を勝ち取る会を作ってマスターベーションみたいなことをやりやがって、身内に犯人が絶対に居るはずなのに、そいつを警察に突き出すことはこれっぽっちも考えちゃいなかった」 「雄次君、無罪を勝ち取る会の目的は、真犯人を見つけることではなかったばい」 「真犯人が出てりゃ、親父はその時点であっさり救われたんだ。たとえ長い時間をかけて無罪を裁判で得ても、そんな灰色じゃ、世間は信用しねえ」  雄次の言葉を聞きながら、朝日は弁護士活動をしていて感じる限界をオーバーラップさせた。被告人を無罪に持って行けば、それで弁護士の使命は果たしたことになる。けれども一片の無罪判決文を以て、社会がそれまで被告人に向けていた非難の眼を百八十度変えてくれるかどうかは別である。再審無罪の元死刑囚・免田氏は、再審判決を支持してくれる人とそうでない人は三対一くらいだったと述懐している。巧いこと罪を逃れやがって、という無罪批判の投書も少なくなかったようだ。  そうなると、被告人を完全に復権させるには、真犯人を見つけ出し真相を明らかにするしかないことになる。だが、捜査権のない市井の弁護士に、そのようなことはまずできない。 「あんたの親父さんのことより、まずあんたのことじゃ」  朝日は引かれる後ろ髪を振り切る思いで、前に身を乗り出した。野々口健蔵にまつわる様々な無念さは、この雄次の弁護にぶつけたい。 「おれのことはもういい」  雄次は朝日の視線を反らすように横を向いた。「市議とその情婦《スケ》を殺《や》ったのは、おれだ」 「雄次君、本当にあんたが犯人なのか? 取調べの際に、検事から暴行を受けたというようなことはないのか?」 「そんなことはない。おれが犯人だ」  雄次は吐き捨てるように言った。「もう帰ってくれないか。市会議員たちを殺った事件のことをあれこれ詮索《せんさく》されるだけでも腹が立つのに、十五年前の親父の事件の辛《つら》い記憶をほじくりだされちゃ、かなわねえ」 「雄次君、落ち着いて、もう少し話を続けようじゃないか」  朝日はなるべく穏やかに声をかけた。 「帰ってくれと言ったら、帰ってくれ」  雄次は立ち上がった。「そもそも貴様が十五年前に、親父を飲みに誘っていなければ、おれは周りの冷たい眼に押し潰《つぶ》されて非行に走ることなんかなかったし、平凡な成績でも楽しい中学校生活を送り、高校も卒業していたはずだ。そうすりゃ、もっと陽《ひ》の当たる道を歩けていたんだ。いくら頭を下げても、貴様のその罪は消えねえぜ」 「…………」  朝日は黙って、長身の雄次を見上げた。  十五年前に朝日が一緒に酒を呷《あお》らなければ、野々口健蔵が冤罪《えんざい》の穴に落ちなかったのは間違いない。朝日はたまたま線路保全係、野々口は架線保持係という職分が逆であれば、あるいはあのとき逮捕されたのは朝日であったかもしれないのだ。慎《つつ》ましやかに暮らしている者の前に突如刑事が現われ、逮捕状を突き出す。冤罪のアリ地獄はどこに待ち構えているか分からないのだ。それは社会生活をしている誰もが当たる確率を持っている不運な宝クジである。そしてそのアリ地獄は、周りにいる人間をも引き込んでしまう怖さを持っている。雄次はその一人である。そして朝日もまた、ある種の十字架を背負わされている。 「帰ってくれ。もう貴様の顔も見たくねえ。声を聞くのも嫌だ」  雄次は朝日に向かって唾《つば》を吐き付けた。唾の塊はプラスチックボードに当たって、巨大な血涙のようにゆっくりと垂れ流れた。 「今日のところは帰ろう。ばってん、わしはまた来るばい」  朝日は立ち上がった。このまま引き下がったのでは、野々口健蔵のときよりもさらに深い悔いと自責が朝日を捉《とら》えるのは必至だった。 「もう来るなよ」  朝日の背中越しに、雄次は怒りの声を上げた。 「いや、わしは絶対に諦《あきら》めんたい。さもないと、天国にいる健蔵に申し訳の立たん」  振り向いた朝日は、ぐいと口許を引き締めた。自分の存在と弁護士生命を賭《か》けて、戦うべき事件であった。      4  朝日は、電話帳で住所を調べて、野々口浩一の自宅へ向かった。  雄次本人が、朝日を弁護人に選任するように説得するには相当時間がかかりそうだ。弁護人の選任は、兄弟姉妹などの親族でも可能とされるので、ここは雄次の兄である浩一にとりあえず選任届を書いてもらうのが賢明と言えた。  夕暮れの中、野々口浩一の住所と同じ町名のところまで来た朝日は、腹ごしらえと道順を尋ねることを兼ねて、マンションの一階に格子作りの店を構える小奇麗な寿司屋に入った。朝日には、青い暖簾《のれん》に「めし、うどん」と書かれた木造の大衆食堂が似合いだが、このあたりには高級住宅街の家並みが続き、そういった古びた店は見受けることができない。  朝日は一番値段の安いチラシずしを注文した。昼がカップラーメンで夜がチラシずしでは栄養は不充分なのは分かっているが、食事に金をかける気持ちも余裕もない。カウンター越しに、この店の主人らしい男に野々口浩一の家への道順を尋ねた。横の道を五十メートルほど奥へ行った近さだった。 「野々口さんのところへは、ときどき出前に行くんですよ」  ハチマキを前で結んだ主人らしい男は手を動かしながら愛想良く喋《しやべ》った。「野々口浩一さんの義理のお父さんは、水沢勝雅という市の偉いお役人さんです。浩一さんは、その水沢さんの娘さんと結婚して、姓こそは変わりませんでしたが、婿養子同然に水沢さんの屋敷に同居しているわけです。いわゆるマスオさんって、やつですよ」 「マスオさん?」 「ほら、サザエさんに出てくるマスオさんは、入婿だけれど、結婚しても自分の姓を名乗っているでしょ」  そう説明されても、朝日にはサザエさんが何のことであるか、分からなかった。 「だけど浩一さんには、サザエさんの世界のようなホンワリした雰囲気は感じられないですよね。前に一度、中洲のネオン街で浩一さんの姿を見かけたことがあるんですけどね。酔い潰《つぶ》れた格好で、路上に座り込んでいましたよ、一人ぽっちでね」 「ほう」  国鉄時代の朝日が知っている浩一は、博多大学法学部に席を置く前途ある青年であった。 「出世のために婿養子になったものの、義理の親父さんに頭が上がらないっていうのがおもしろくないんでしょう。奥さんの幸代《ゆきよ》さんとも、それほど仲が良くなさそうですしね」  朝日は、話好きの寿司屋の主人からいくつかの情報を仕入れることができた。浩一と幸代の間には、まだ子供は居ないこと。水沢勝雅がすでに配偶者に先立たれているだけに、幸代は水沢の世話をよくしていること。水沢は現在|身体《からだ》を悪くして入院中だけに、ここの店の折り詰めなどを持って幸代は足|繁《しげ》く病院に通っていること、などである。  寿司屋を出た朝日は、教えられた道を歩いた。両側に高い塀の続く邸宅街だ。夜の帳《とばり》が降りて門灯のぼんやりとした明かりが映え始める時刻に、立ち並ぶ屋敷の前庭の様々な木々の枝が緑の競演をしている。  黒塗りの海鼠壁《なまこかべ》に冠木門《かぶきもん》の和風作りの屋敷の前で、朝日は立ち止まった。「水沢勝雅」と書かれた表札の下に、少し小さめの「野々口浩一・幸代」という表札が架かっている。中の建物は一棟建てだ。  朝日はインターホーンを押した。 「はい」と女性の声が返ってきた。朝日はこのインターホーンというものが好きではない。相手の言葉を聞くときにも、ボタンを押してなければいけないのかどうか、いまだによく分からないのだ。 「弁護士の朝日岳之助という者です。弟の雄次君のことで、野々口浩一君と話ばしたかと思うて来ました」 「は、はい。お待ちください」  少し慌てたような声が返ってきた。しばらくして、玄関が開けられる音がして、そのあと冠木門の錠が外された。  小柄で色白の女性が軽く頭を下げた。 「野々口の妻の幸代と申します。あいにく、夫はまだ役所の方から帰っておりません。もうそろそろ帰宅する時刻と思いますが」  幸代は丁寧な言葉で答えた。もし街で見かけたなら、とても既婚者とは思えないだろう。まだ子供を生んでいないというせいもあるだろうが、肌の艶《つや》は若々しく、ストレートの長い髪や清楚《せいそ》な顔立ちは女子大生と言っても通用しそうなくらいだ。 「できれば、待たして欲しかと思うとですが」 「ええ、どうぞ」  幸代は冠木門を大きく開いた。  朝日は、通された広い応接間を見渡した。洒落《しやれ》た間接照明のライトが四方の壁に埋め込まれている。飾り棚には高価そうな陶器の皿が三つ並んでいる。敷かれた絨毯《じゆうたん》は踏むのがはばかられるほど、豪華で美しい。朝日の事務所兼自宅とは、雲泥の差だ。朝日のところには、応接間というのはない。書斎が仕事場であり、来客ともそこで会っている。ソファはなく、折り畳み式のパイプ椅子《いす》を勧めるだけだ。屋根はトタン張りで、雨の日は声を大きくしないと会話が聞き取りにくい。  幸代はジャスミンティーを入れた白いカップを運んできた。冷蔵庫から百円の缶コーヒーを出すだけの朝日のところとは月とスッポンである。 「雄次さんの弁護をなさるのですか?」  幸代は絨毯の上に膝《ひざ》を落として訊《き》いた。 「ぜひとも、やりたかと思うとります。ばってん、まだ本人の選任ば得とらんとですたい」  朝日はジャスミンティーを音を立てて啜《すす》った。朝日は味覚には無頓着《むとんじやく》だ。砂糖を入れても入れなくても、味の違いはよく分からない。 「雄次さんとは、まだお会いになっていないのですか?」 「いや、さっき会うてきました」 「雄次さん、元気でしたか?」 「ああ、元気過ぎるくらいでしたな」  朝日は苦笑した。「ところで、雄次君は、ここへよく訪ねてきますか?」 「ほとんど来ませんわ。いえ、全然来ないと言ったほうが正確かもしれません」 「それは、なしてですか?」  普通の兄弟なら全然行き来がないことは珍しい。朝日には妹が一人居るが、仲は良い。達也という甥《おい》などしょっちゅう朝日のところに泊まっていく。 「夫が嫌っているからだと思いますわ。高校を中退してしまったために堅気の仕事に就かなかったり、そのうえ傷害致死で服役して、いろいろ迷惑を受けたと夫は思っているようです。あたしの父も、雄次さんのことを嫌っています。二人とも公務員だけに、身内に素行の良くない者が居ると役所でとやかく陰口を叩《たた》かれるそうなんです。出世に響くこともあるみたいですわ」 「ほう、そんなもんですかのう」  朝日の感覚からすれば、仕事とは関係のない身内のことが勤務査定などに影響するのは、とても不合理なことだと思えるが。 「あたしは、一人っ子ですから兄弟というものがよく分かりません。でも、主人と雄次さんには『兄弟は他人の始まり』という言葉が当てはまりそうですわ」 「兄弟は他人の始まり、か……」  かつての〈野々口健蔵君の無罪を勝ち取る会〉で会っていたころの浩一と雄次は、性格のタイプは違っていたが仲はそんなに悪くなかったとの印象を朝日は持っている。もっとも東京へ行って以降、朝日は彼らのことをよくは知らない。 「ばってん、雄次君の素行のことだけが、浩一君が彼を遠ざけている原因じゃろか?」 「そんなこと、あたしに訊《き》かれたって」  突然、幸代は甲高い声を出した。「朝日先生は、主人と雄次さんの兄弟関係を調べる目的でわざわざここまでいらしたのですか」 「いや、そげんわけでは」  朝日は手のひらを幸代に向けた。穏やかな晴天から、にわか雨が落ちてきたような戸惑いを朝日は感じていた。  玄関の扉が開く音がした。 「幸代、誰かお客さんか?」  浩一が帰ってきた。 「やあ、久しぶりですな。朝日ですばい」  朝日は腰を上げた。幸代は奥に姿を消した。 「朝日さん? ああ、父の同僚だった朝日さんですか」  ダークグレーのブレザーに身を包んだ浩一は応接間に入ってきて、かすかに愛想笑いを浮かべた。八年ばかり見ないうちに、浩一はすっかり貫禄《かんろく》が付いている。 「まあ、お掛け直しください。父のことで、何か?」 「いや、そうではなか。わしは司法修習ば終えて、熊本の方で弁護士ばやっておる」  朝日は名刺を差し出した。 「国鉄の保線員から弁護士への転身というのは本当に凄《すご》いですね。うちの役所にも、司法試験を目指したけれども失敗して公務員になったという大卒者がわんさか居ますよ」 「まぐれで受かっただけじゃ。そげんことより、わしはさっき雄次君に会ってきたばい」  雄次の名前が出た途端に、浩一は銀ぶち眼鏡を光らせた。 「雄次が逮捕されたニュースが、新聞や地元テレビ局で流されました。全く参っています。昨年の傷害致死事件だけでも、ずいぶんこっちは迷惑しました」 「あんたはもう面会はしたとか?」 「いえ」  浩一は首を振った。「でも、いずれは一度くらいは行かなくてはいけないでしょうね」  まるで他人に関するような物言いだ。 「弁護人はもう決まっとるのか?」 「まだです」 「ならばぜひとも、わしにさせてもらいたか」 「そりゃあ、構いませんが……」  幸代が、浩一にもジャスミンティーを運んで来た。 「あらかじめ言っておくが、わしは今回弁護料や報酬を取る気は全くなか。さっきも雄次君にわしは叱《しか》られた。十五年前のスト権ストが中止になった夜に、わしがあんたらのお父さんば飲みに誘わんかったらば、自分の人生はもっと順調だったと」 「はあ」  浩一は幸代からティーカップを受け取って、旨そうに一口飲んだ。  十五年前は、雄次はまだ中学生だったが、浩一は既に博多大学の新入生であった。多感な年ごろに中学校で心ないクラスメートのいじめを受けた弟と、既にエリートの国立大学生の地位を得ていた兄とでは、同じ父の冤罪《えんざい》でも受けた影響には大きな差があったようだ。 「雄次君へのせめてもの罪滅ぼしじゃ。わしは精一杯戦うばい。わしの勘では、雄次君は犯人ではなか」 「あっ」  幸代が、カップを運んできた盆を落としてしまった。盆は机の上のシュガーポットを直撃した。シュガーポットから噴水のように、グラニュー糖が弾《はじ》けた。朝日のズボンはたちまち吹雪を受けたかのように白くなった。 「す、すみません」  幸代は悲鳴に近い声を上げた。      5  翌日も、朝日は熊本・博多を結ぶ高速バスから降り立った。  福岡城の外濠《そとぼり》を利用して作られた大濠公園へ朝日は足を向けた。この大濠公園を東に抜けると福岡地裁がある。さらに北東に五分ほど歩くと、福岡地検がある。  朝日は、喫茶店を待ち合わせの場所とすることがあまり好きではない。BGMが鳴っていたり、人の出入りがあったりで、どうも落ちつかないのだ。  大濠公園には何度か来たことがある。楕円形《だえんけい》の池の長い方の中心線を針のように細い中島が貫き、その中島と池端が橋で結ばれて通り抜けられるようになっている。この長さ約一キロの、針のように細い中島を歩くたびに、朝日は刑事裁判の難しさを連想する。  無罪と言う名の対岸は遠くてなかなか見えず、どちらか左右に大きく外れたらたちまち水の中に落ちてしまう。歩くというよりも、自転車の曲乗りをして通るという方が、当を得ているだろう。被告人は逮捕され起訴された段階で、捜査権を持つ国家機関によって一定の証拠を固められている。それを捜査権のない弁護士が裁判を通じて突き崩していくのは容易なことではない。起訴された被告人が無罪判決を受ける可能性は、一パーセント未満という驚くべき統計数字がある。しかも年を追うごとに、無罪率は低くなっていくという現象が見られる。たとえば昭和四十九年の無罪率は○・ 五九パーセント、以下二年置きに見ていくと昭和五十一年が○・ 三九パーセント、昭和五十三年が○・ 三パーセント、昭和五十五年が○・ 二三パーセント、昭和五十七年が○・ 二パーセント、昭和五十九年が○・ 一四パーセント、そして昭和六十一年がやはり○・ 一四パーセントという具合である。無罪率○・ 一四パーセントということは、裏を返せば有罪率が九九・八六パーセントの超高率になる。これでは裁判官にとっては、無罪判決を下すことは千回に一度か二度しかない例外的な行為となり、無罪を宣告することは相当な勇気が要ることになるだろう。  この無罪率は、他の先進国に比べて異様なまでに低いという指摘がなされている。それに対しては、日本の警察・検察がそれだけ優秀なのだという意見もある。しかし、朝日は自らの十五年前の体験や弁護士をしてからの経験から、この無罪率の低さを諸外国に誇れるものとは思っていない。拷問と言っても過言ではないケースすらある自白強要、別件逮捕などの便法の行使、検察側に都合の良い証拠の取捨選択、といった様々なやり方で犯人が造られた例は枚挙に遑《いとま》がないほどである。  免田事件のような死刑台からの生還は大きく報道されよく知られているが、軽微な罪だと精神的重圧や嵩《かさ》む裁判費用に根負けして泣き寝入りのまま有罪判決に服した者も少なくないと朝日は思っている。そのような人間たちを犠牲にしたうえでの有罪率が九九・八六パーセントだとしたら、むしろ日本の恥ずべき数字だと朝日は言いたい。  大濠公園の池端から中島へ続く観月橋を渡り切ったところで、花木理恵が佇《たたず》んでいた。水面を背景にした理知的な横顔が、涼やかで美しい。 「やあ、待たせてすまなんだばい」  朝日はちょいと手を上げて謝りながら、そばのベンチを顎《あご》で示した。「ちょっとそこへ座らんか。立ち話は老体にきつか」  花木は微笑みながら、腰を降ろすことで返答に代えた。 「朝早くから電話をしてしまって、申し訳なか」  朝日は白髪《しらが》頭を下げた。けさ一番に、朝日は地検に電話を入れた。あまり気は進まなかったが、検察側の情報を手に入れるには、彼女に頼るしか術がなかった。 「あたし、本当なら、今回の事件の担当検事として、朝日先生とまた鍔迫《つばぜ》り合いをしていたはずですわ。そんな人間が勤務時間中に抜け出してここまでやって来て、被疑者の取調べ調書の内容を洩《も》らすなんて、懲戒処分ものですね」  花木はクスクスと笑った。「上司の検事正にバレたなら、たちまちあたしは地方に左遷されて、出世街道から外されますわ」 「ほう、あんたもやはり出世を考えなさるか」  検事は一般的に権力志向や出世志向が強いと聞いている。官僚と同じようなピラミッド型の人間配置のもとで、上と下では給与も待遇も官舎も少なからぬ差があるというわけだ。 「まさか」  花木は笑いながら、手を左右に振った。「でも、出世を望まないのは、女だからという理由ではありませんわ。あたしは、正義の担い手という立場としての検事に憧《あこが》れたのです。江戸時代の仇討《あだう》ちのように、被害者が報復をすることは現代では許されてません。被害者に成り代わって、犯罪を摘発し、悪を栄えさせない。この仕事ができるのは検事だけです。その職務を全うすることが検事として大切なのであって、役職を登り詰めることが検察官のあるべき姿ではないと思っています」 「なるほど」  朝日は頷《うなず》いた。花木の今の言葉には異存はない。 「あたしは朝日先生のお蔭《かげ》で、少し視野が拡《ひろ》がりましたわ。犯人を誤ってしまうことは、その間違われた人間にとって不幸なのはもとより、当該事件の被害者にとっても大変な苦しみを与えることなのですね。長い時間が経《た》ったあとに、再審で被告人が無罪ということになれば、被害者や被害者の遺族は今まで幻影を相手に怨《うら》みをぶつけていたことになります。そして、本来処罰の対象になるべき真犯人はもはや見つかるべくもなく、持って行き場のないやるせなさに苦しむ日々が続くのです。あたしたち検事には、犯罪の被害者のためにも、そして本当の犯人を取り逃さないためにも、冤罪《えんざい》を発生させない義務があります。だから、もし無実の可能性があるなら、検察の体面などを気にかけずに徹底的に究明すべきでしょう。その際に仮に弁護士さんの力を借りても恥だとは思いませんわ。むしろ、体面を重んじて真実を究明しない態度こそが恥ずべき行為でしょう」  花木はちょっぴり照れくさそうな眼で、朝日を見た。「すみません。お釈迦《しやか》様に説法をしてしまいましたわ」 「いやいや、全国千二百人の検察官に、今のスピーチば聞かせてやりたか」  朝日は拍手をしたい気持ちだった。 「ところで、朝日先生のご依頼の件ですが、東京に出張中の将田検事の作成した調書からすると、彼は次のように事件を捉《とら》えて起訴の準備を進めています。野々口雄次は、かつて博多の天神の街で隣の店に居た広川朱美が兄の浩一を助手席に乗せて走っているのを、偶然目撃しました。広川朱美は一種の美人局《つつもたせ》で、裏には乗松市議がいたわけです。雄次はそれを広川朱美にやめさせようとして、三度も彼女の勤めている店へ行って頼み込みました。広川朱美は『あたしにいくら言ってもダメよ。博多グレートホテルへ来たら、あたしに指示をした男に会わせてあげるわ。あなた、その男に土下座して頼みなさい』と言ってきました。けれども、行ってみると朱美はビールを勧め、下着姿になって雄次を誘惑してきました。そこへ乗松が突然現われて、『お前も兄貴と同罪だ。他人の女に手を出そうとした』と詰め寄ってきました。乗松はやはり美人局の手段で、雄次を黙らせようとしたのです。雄次はカッとして乗松を突き飛ばしました。乗松は壁に後頭部を強打したのです。そして『ひ、人殺し』と悲鳴を上げて逃げようとした朱美の首を絞め、殺したのです」 「雄次君は、そう自白しとるのじゃな」 「はい、自白調書は既に作成済みです」 「雄次君は、兄のためを思った行為が原因で罪を犯したわけか……」  朝日は銀ぶちの眼鏡をかけた浩一の顔を思い起こした。あれだけ浩一に疎んじられていながら、雄次は兄のためを思って行動したことになる。 「壁に頭を打ちつけて死んだ乗松市議に対しては、突き飛ばすつもりだけで殺意まではなかったということで傷害致死罪、一方、扼殺《やくさつ》された朱美に対しては殺意が認められるということで殺人罪で起訴される予定です」  花木はひと呼吸置いて、言葉を継いだ。「ところで、彼が起こした小倉での昨年の傷害致死事件ですが、その死に至らしめかたが乗松市議のケースとよく似ています。前にも少し概要を言いましたが、野々口雄次は小倉の街で酔っ払いに絡まれました。そして殴り合いの喧嘩《けんか》になって、野々口雄次のパンチを浴びて倒れた酔っ払いはガードレールに頭をぶつけて、死亡したのです」 「その傷害致死事件については、正当防衛の成立する状況はなかったとか?」  朝日には悔いがある。この昨年の事件を知っていたら、恐らく雄次のところへ駆けつけて、弁護人となっていただろう。そうすれば、雄次が今回の事件であれほど拘置支所で反抗的な態度を取ることはなかったようにも思えるのだ。 「お互い殴り合っていた状況で、しかも相手は野々口雄次よりずっと体格の劣る中年男でしたから、正当防衛にはならないという判断を地検支部はしました」  一般的に喧嘩の場合は正当防衛が成立しにくいと言われる。喧嘩というものは通常殴ったり殴られたりし合うもので、その一つ一つの動作についての侵害とか防衛とかを判断するのは難しいからである。 「ばってん、なして執行猶予の付かんだったとだろか」  朝日はまるで法廷で尋問するかのような口調で訊《き》いた。ここでそんなことを言っても詮《せん》ないことは分かっているのだが、黙っている気にはならない。 「殺意はなくても、相手が死にましたから。それに野々口雄次自身も、『実刑判決を望んでいます』と公判で申し出てます」 「実刑判決ば望んだ?」  朝日は小首をかしげた。朝日がこれまで関わった被告人の中にはそのような人間はいない。執行猶予付きの判決となれば、猶予期間が無事に過ぎれば一日も刑務所に入らなくてすむ。誰だってその方がいいはずだ。 「あたしも、そこが引っかかるんですよね。だから訴訟記録を読み直しました。でも、野々口雄次は確かに『服役することで罪を償いたい』と裁判長に申し立ててます」 「実刑判決の希望か……」  朝日には、雄次が乗松市議と朱美を殺害したことをすんなりと認めていることが、そのことと似ているように思えた。「一年前の傷害致死事件を弁護したのは、何という弁護士じゃ?」 「池木さんとおっしゃいます。池木さんは何分ご高齢で、今年のお正月に心筋|梗塞《こうそく》で亡くなられたそうですわ」 「そうか、それじゃ弁護人に訊きに行くわけにはいかんな」  朝日は、池木という弁護士のことがひと事とは思えなかった。朝日は現在六十三歳、高齢と言われても否定のできない年齢である。弁護士には定年はないが、体が続かなくなってはおしまいである。元気な間に、少しでも多くの刑事事件を手掛け、人助けをしなくてはいけない。朝日にとって最も辛《つら》いのは裁判が長期化することである。事件が上訴を重ね、最高裁に行くとなると、十年以上の歳月を要することはざらである。その途中で、朝日は自分の肉体が無念にも潰《つい》えてしまうことを想像すると、ひどくやり切れなくなる。  とりわけ今回の雄次の事件は、野々口健蔵のことがあるだけに、絶対に自分の眼の黒いうちにやり遂げたい。そう思うと、一日でも早く、いやたとえ一時間でも早く満足できる結果を得たいと焦る気持ちに駆り立てられてしまう。 「あたし、別のことで少し気になるところがあります。市議会でマムシという異名を取る乗松市議のことですから、美人局《つつもたせ》のような手段を弄《ろう》したことは考えられないことではありません。でも、その乗松市議が、標的にした野々口浩一の弟・雄次から美人局を指摘されたからといって、命懸けでそれを阻止しようとしたというのは、ちょっと納得が行かないのです」 「ほう」  花木は、将田が起訴すると予想される内容について疑義を出した。 「乗松市議は道路拡幅の件で、野々口浩一に朱美を接近させたわけですが、ある程度朱美を近づけることに成功したら、それで野々口浩一に対するかなりの脅しのネタは得られたのではないでしょうか」 「つまり、野々口浩一に対する脅迫材料をしっかりと握ってさえいれば、その弟に対しても脅しは効くはずだというわけじゃな」 「ええ、そうです。それに、あたしには引っ掛かることが、もう一つあります」  花木は理知的な切れ長の眼を、朝日の方に向けた。「将田検事は当初県警の警部たちと、市議や市職員に事情聴取をしています。市政絡みの事件という線で、捜査を行なっていたわけです。ところが、野々口雄次が捜査線上に浮かんだとたんに、充分な根拠もなしに政治絡みの線を追いかけることをやめています」 「前科者でもあり、ろくに味方する人間もおらん雄次君に狙《ねら》いば付けて、集中攻勢ば仕掛けたというわけか……」  これまでのさまざまな冤罪《えんざい》事件では、社会的立場の弱い者やハンディを負った人間が、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》の対象になったことが少なくない。 「あたしなりに、もう少し事件の内容や背景を調べてみます」 「よろしゅう頼みますばい」  朝日は頭を下げた。「ばってん、あんまり上司に睨《にら》まれんように、気をつけて欲しか。あんたに迷惑のかかってはいかん。今日こうしてここに来てもらっているだけでも、悪か気のするばい」 「あたしは、朝日先生に頼まれたからという理由だけで、調べるのではありませんわ。一人の検事として、真実を知りたくて動くのです。いい加減な起訴をしないことこそ、検察の何よりもの使命ですわ」  風が吹いた。花木はその風に髪をなびかせながら、池に眼を移した。ひとつがいの雁《がん》が、仲|睦《むつ》まじく水面に首を突っ込んで餌《えさ》を探していた。  花木と別れた朝日は、その足で拘置支所に向かった。  雄次は、また来たのかと言いたげな表情で、接見室に姿を現わした。 「まあ、掛けたまえ。今日は、昨日よりゆっくり話をしたか」  朝日はなるべく穏やかに声をかけた。雄次の弁護人となることについて、浩一から選任を得た。しかし、この選任は本人である雄次が解任すれば、消えることになってしまう。 「座る座らないは、おれの勝手だろ」  雄次はそう言ったまま、じっと突っ立っている。 「確かに、あんたの勝手たい」  朝日はわざと頷《うなず》いて、納得したような顔つきを見せた。ここで雄次との繋《つなが》がりを切ってしまっては、朝日は彼の弁護人として法廷に立つことができない。 「雄次君、あんた、一年前に傷害致死事件ば起こしておるな」 「それがどうしたんだよ」 「実刑判決を受けて服役し、あんたは先月仮出獄ばした。仮出獄中にまた犯行を重ねたら、情状が重くなり、有罪の言い渡しを受けたときは刑もいきおい厳しくなることは知っとるな?」  雄次は黙って少し視線を下げた。 「一年前の事件であんたを弁護した池木弁護士はもう他界しておるけん、詳しか事情ば訊《き》けん。そこであんたに教えてもらいたか。あんたはなして、実刑判決ば希望したのじゃ?」 「相手を死なせてしまったんだ。罪を償うのは当然じゃねえか」 「ばってん、あんたは酔っ払いに絡まれたわけであり、情状酌量の余地はあったと思えるばい。それをなして実刑ば望んだか、わしは知りたか」 「そんなこと、おれの勝手じゃねえか」  突然、雄次は大声を張り上げた。「おれの人生だ。生き方はおれが決める。実刑になろうと、死刑になろうと、あんたの知ったことじゃない」  雄次は太い眉《まゆ》をぴんと吊《つ》り上げている。 「そうはいかん。わしは弁護士じゃ。被告人が、やった行為相当の罪以上の重か罰を受けるとば黙っとるわけにはいかん。ましてや、やってもおらん罪を着せられるのを、傍観しとる気はなか」 「それじゃあ、親父の事件はどうなんだよ。親父は何も知らないっていうのを、むりやり罪人扱いされて、残念残念って呻《うめ》きながら死んでいったんだぜ」 「だけん、わしは弁護士になろうとした」 「あんた、偽善者だ」  雄次は怒りに頬《ほお》を紅潮させて椅子《いす》を蹴《け》り上げた。あえない悲鳴を上げて、椅子は床に転がった。「カッコばかりつけんなよ。あんたは逮捕された経験があるのかい。きっとないはずだ。それじゃあ、こうして捕われて檻《おり》の中に居る者の気持ちが本当に分かるはずがない」 「雄次君……」 「帰ってくれ。おれはあんたが大嫌いだ」  雄次の眼には憎悪の色さえ浮かんでいる。  被告人と弁護人は、オールを一本ずつ漕《こ》ぐボートに乗った二人にたとえられる。信頼の絆《きずな》に結ばれてオールを漕ぐ呼吸が一致していれば、ボートは前に進んでくれる。けれども二人の間に精神的断層があると、そうはいかない。どちらか一方が懸命にオールを動かしても、他方とテンポが合わなければボートは同じところをグルグルと回るだけだ。最悪の場合は、転覆ということもあり得る。 「分かった。また、来ることにしよう」  朝日はゆっくりと腰を上げた。たとえ何時間かかろうと、まずは雄次の心を開くことが大切だ。ここは焦りは禁物だ。 「もう、来《く》んなよ」  雄次はダメを押すような大声を上げた。 「雄次君、わしはあんたと話がでけるまで待つ。このままオメオメと消えてしまったのでは、わしはそう遠くない将来に天国に行ったとき、あんたの親父さんに叱《しか》られるに違いなか」  朝日は雄次に背を向けながら、ふと思い付いて振り向いた。「その椅子《いす》ば直しておいてくれんか。あんたがわしにどげん感情を持とうと自由じゃが、ばってん椅子には何の罪もなか」  朝日は拘置支所の門を潜りながら、どんよりとした空を仰いだ。  弁護士となって七年の歳月が過ぎる。つくづく弁護士という仕事は難しいと思う。警察とやり合うときや、企業がらみの事件で銀行や大企業の幹部と相対するとき、こちらも弁護士然としていないと付け込まれることがある。けれども、刑事被告人と会うときは、弁護士なんだという態度で臨んではむしろ巧く行かないことが多い。接見室という、握手すらできない異様な部屋の中で二人っきりとなり、ときには相手の人生の機微に触れる心の奥底を聞き出さねばならないのだ。 (ばってん、彼も人間、わしも人間たい。人間同士、心が通じ合わんわけはなか)  朝日は自らを鼓舞した。      6  地裁小倉支部で、朝日は雄次が一年前に引き起こした傷害致死事件の公判記録を調べた。  確かに、雄次は公判で「悪いのは自分です。実刑にしてください」と申し出ている。「充分な損害賠償などできず、相手の遺族の方に申し訳ない。せめて懲役になることで、罪滅ぼしをしたいです」とも言っている。  朝日の経験では、相手に充分な損害賠償をすれば、それだけ罪への反省と誠意が見られるということなのだろうか、判決では執行猶予が付きやすい。逆に賠償が充分でないと、実刑判決が下りやすい。地獄の沙汰《さた》も金次第という言葉があるが、金を払うかどうかで刑務所に入るか入らなくて済むかが分かれる印象さえ受ける。朝日はそんな裁判所の対応が極めて不満である。たとえば、強盗や窃盗では、犯人は金がないから犯行に及ぶというケースが大半である。そんな被告人が、損害賠償をしていないからといって、服役を余儀なくされるのは同情を禁じえないのだ。  雄次の傷害致死事件を担当した裁判官が、果たして賠償の有無を考慮に入れたのかどうかは定かではないが、雄次は彼の希望(?)通り、実刑に処せられた。  訴訟記録によると、事件の概要は以下のとおりである。  ——平成元年七月二日午後八時ごろ、北九州市小倉北区魚町五丁目の路上で、建設作業員・荒岡元滋と野々口雄次の肩が触れ合った。酒に酔っていた荒岡はそれを怒り、野々口雄次に突っ掛かった。雄次と荒岡は殴り合いの喧嘩《けんか》となった。雄次はその間数発殴り、荒岡はガードレールに後頭部をぶつけて血を流した。雄次は通り掛かった車を停め、救急車を呼んで欲しいと頼んだ。救急車が着いたとき、いったん荒岡はフラフラと起き上がった。しかし病院に運ばれたとき、荒岡は意識を失くしていた。脳内|血腫《けつしゆ》を取り除く手術が行なわれたが、二日後に荒岡は息を引き取った。—— 「どう見ても、雄次君には気の毒な事件じゃ」  打ちどころが悪い後頭部の打撲で死亡してしまった荒岡も不幸だ。しかし、雄次はもっと不運である。酔っていた男に突っ掛かられた挙句、傷害致死の責任を負うことになったのである。 「返すがえすも、この事件の弁護のでけんだったことが残念じゃ」  地裁支部を出た朝日は、一年前の事件の舞台となった魚町五丁目へ足を向けた。  この魚町|界隈《かいわい》は旦過《たんが》とも呼ばれている。小倉の人の間では、「旦過する」と言えば、大衆酒場に飲みに行くとの意味だとも言われている。確かにこうして歩いてみると、居酒屋が多い。そしてパチンコ屋もあれば、テレフォンクラブもある。観光客の姿が目立つ小倉駅前と違って、道を行き交うのは地元の人間が大半のようだ。夕刻を迎えて、店々の�準備中�の札が取られ、次第に賑《にぎ》わいを呈している。  朝日は改装工事中のビジネスホテルの前の路上で足を止めた。先ほど調べた公判記録によれば、雄次はここで荒岡と喧嘩《けんか》となった。 (ビジネスホテルか……)  朝日は、工事用の養生シートを見上げた。  博多で乗松市議と広川朱美が殺されたのも博多グレートホテルだったという点に、朝日は奇縁を感じた。  朝日は白いペンキがあちこち剥《は》がれた古いガードレールに視線を落とした。荒岡はこのガードレールのどこかに頭をぶつけたために、脳内出血で死亡することになった。 (打ちどころさえ悪くなければ、単なる喧嘩だけで済んだものを、本当に運が悪か)  朝日の眼底に、野々口健蔵の顔が浮かんだ。雪冤《せつえん》を訴えながら果たせずに死んだ父親に劣らず、雄次も悲運の持ち主と言えた。  朝日は健蔵を救うことができなかったし、雄次の傷害致死事件にも何ら関わることができなかった。過去二度の自らの悔悟を濯《そそ》ぐためにも、今回だけは何としても退きたくはなかった。 (ばってん、雄次君は犯行ば認め、わしには心ば開いとらん)  ふと、弱気の虫が頭をもたげた。 「岳之助、何を尻込《しりご》みしちょるか」  朝日は声に出して自らを叱責《しつせき》した。「ここが、わしの正念場たい。この事件ば解決でけんでは、わしには弁護士の資格などなか」  朝日は胸の弁護士バッジを触った。もしこの事件が不本意に終わったなら、あっさりとこのバッジを捨てよう——朝日はそう決意した。  そのころ、花木理恵は、福岡地検の資料室で乗松市議のことを調べていた。  乗松は、昭和十六年、博多の生まれ。県立高校を苦学の末に首席で卒業したあと、高校時代の教師の紹介状を片手に単身上京し、福岡六区選出の代議士・深林寺栄造の東京事務所に運転手として勤める。そのかたわら、乗松は通信教育で私立の大学を卒業する。そして深林寺に認められて私設秘書となる。以後、二十年にわたって秘書を勤め上げたあと、福岡市北区市議に立候補する。保守党県連の全面的支持を受けて、乗松はその選挙にトップ当選した。以降、三期にわたって市議を務め、今や保守党市議団の中核的存在の一人となっている。  市議会では六年前から総務・開発委員会に席を置き、今年は委員長を務めている。  乗松には、政治的嫌疑がかかったことが過去に二度ある。  一つは収賄容疑である。市が競争入札させた駅前再開発ビルの受注工事に関して、乗松が落札価格を洩《も》らしたのではないかという告発が、受注を逃した建設会社からなされた。しかし証拠が掴《つか》めず、乗松は逮捕されるには至らなかった。  もう一つは、公職選挙法違反容疑である。前回の市議選において、乗松が、後援会の役員に現金を渡して票の取りまとめを依頼したという疑いが持たれた。だが、現金の接受が立証できず、事情聴取されただけに終わった。  この二つを見ただけでも、乗松がマムシと呼ばれることが窺《うかが》い知れる。きわどい綱渡りをしながらも、決して尻尾《しつぽ》を出さないしたたかな叩《たた》き上げの人物像がイメージできる。  しかし、そのマムシはあえない最期を遂げた。 (本当に、道路拡幅をめぐる利益だけのために、乗松は死んだのだろうか?)  花木の胸に疑問が浮かんだ。  道路拡幅は、乗松に頼んだ者にとっては、少なからぬ経済的影響のあることかもしれない。しかし、乗松本人にとっては、命を賭《と》してやらねばならない死活問題ではないはずだ。 (利権というものは、もっと底が深くて、いやらしいものではないかしら……)  花木は、顎《あご》に手を当てがった。      7  朝日は弁護人選任届を携えて、拘置支所に足を運んだ。拘置所に収監されている被疑者へ直接に書類を手渡すことはできない。したがって、拘置所の職員に頼んで、選任届の署名をもらってもらうことになる。もちろん、その前提として、被疑者が選任するという意思が必要である。朝日は、まだその雄次の意思を得ていないのだ。  弁護人接見室に現われた雄次は、飽きもせずにまた来たのかと言わんばかりのふてくされた顔つきを見せた。 「今日は、あんたに弁護人選任届に署名して欲しかと思うてやって来たばい」  朝日は、今日も座ろうとしない雄次に向かって話しかけた。 「おれには弁護人なんて要らないんだ」  雄次はそっぽを向くように言った。 「そうはいかん。前にも説明したと思うが、殺人容疑の刑事事件では必ず弁護人の付く」 「前の事件で世話になった池木弁護士が死んでなきゃ……」  雄次は口惜《くや》しそうな声を出した。 「雄次君、あんたはそげんわしのことが嫌いか」  朝日は拳《こぶし》を作ってカウンターの上に置いた。 「ああ、大嫌いだ」  雄次は太い眉《まゆ》を吊《つ》り上げた。「あんたが父と何も関わりを持っていなかったら、おれの人生はもっと変わっていた」 「そうか、憎いか」 「憎いね」 「ならば、わしをもっと苦しめてみらんね」  朝日は雄次の顔を覗《のぞ》き込むように言った。「わしはこの事件が不本意な結果に終わったなら、弁護士ば辞めようて思うとる」 「いい加減なことを言うなよ」  雄次は失笑した。「たった一つの事件の結果だけで、弁護士の地位を捨てるわけがないだろ」 「いや、わしは本気じゃ」 「弁護士というのは、口達者で詭弁《きべん》をしょっちゅう使うんだろ」 「詭弁ではなか。わしはこげんことを口に軽々しく出したりはせん。全力を出し尽くして、最高裁まで戦ってそれでなお勝てなかったときは、わしにはもはや弁護士を続ける資格はなか」 「じゃあ、とりあえず、もし今度の地裁の判決でおれが無罪にならなかったら、どうする?」  雄次は初めて朝日にまともに視線を向けた。 「そんときは」  朝日は白髪に手を遣《や》った。「この頭ば丸めよう」 「こいつはおもしろい」  雄次はシニカルな笑いを口許《くちもと》に浮かべた。「今の言葉は嘘《うそ》っぱちじゃないな」 「嘘ではなか。あんたに念書ば入れてもよか」  朝日は破天荒な提案をした。被疑者に頭を丸める約束をして、しかも念書まで入れる。こんなことはどんな弁護士もしたことはないに違いない。 「おれは犯行を認めてる。そんな事件の無罪をどうして勝ち取れるんだ」 「成算はわしにもなか。ばってん、わしはあんたの無実ば信じとる」 「どこに根拠があるんだ」 「根拠はなか。強いて言えば、あんたが健蔵の血を引く息子ということと、あんたの犯行と考えるのはどうも納得のいかんということだけたい。あとの根拠はこれから、探し出す。あんたの選任ば受けてな」 「貴様、正気かい」 「正気に決まっとる。あんたはわしが憎いのなら、うんとわしを苦しめればよか。それであんたに対する罪滅ぼしができるのなら、わしはそれでもよかと思うとる。ばってん、わしもムザムザとは負けんばい」 「おもしろい。貴様を選任しよう」  雄次はこくりと頷《うなず》いた。 (これでよか)  朝日は自分自身に評価を下した。  とにもかくにも、雄次の選任は得られた。ただし、雄次の心を開いて得たものではない。これから先、朝日は〈守るべき被告人と対立した弁護人〉という前代未聞の立場に自らを追い込んでしまった。検察側と戦い、かつ被告人である雄次からの反目を受けながら、公判を続けていかなくてはいけないのだ。 (野々口健蔵よ、何とかわしを助けてくれ。そして、雄次君を守ってやってくれ)  朝日は、心の中でそう念じた。 [#改ページ]  第三章 怒濤《どとう》の公判      1  平成二年十二月十四日。暖冬と言われたこの冬も、さすがに本格的な寒波に見舞われる時期を迎えていた。朝から粉雪の降り続く中、野々口雄次に対する第一回公判が開かれていた。 「ただ今から、開廷します。被告人は前へ」  仲岡裁判長の低い声が法廷に響く。  検事席では、将田がいくぶん緊張気味の表情でじっと書類に眼を通している。一方の弁護人席では、朝日が意味もなく白髪《しらが》頭を掻《か》き上げている。傍聴人席の最前列には、胸に喪章を付けた乗松の妻・フミ子が陣取っている。そしてその後ろにネクタイ姿の司法記者が三人座り、そこからずっと離れて雄次の兄嫁である幸代が心配げに前方を見つめていた。 「被告人の氏名は?」  仲岡裁判長は人定質問と呼ばれる手続きを始めた。人定質問は刑事裁判の最初に必ず行なわれるもので、それにより被告人が人違いでないかどうかを確認する。 「野々口雄次です」 「年齢は?」 「二十七歳です」  雄次は淡々と人定質問に答えていった。 「それでは、検察官。起訴状の朗読を」  雄次を被告人席に退けたあと裁判長は、将田の方を向いた。 「はい……」  将田はほんの少し頬《ほお》を紅潮させながら、起訴状を手にした。起訴状には、㈰被告人の氏名・住所等、㈪犯罪として法律的に構成される具体的事実(公訴事実)、㈫犯罪の名称と罰条(例えば殺人罪、刑法第百九十九条)、という三つの項目が記載されている。  そもそも「刑事事件」というのは、通常、「誰」が、「いつ」、「どこで」、「何をまたは誰に対し」、「どのような方法」で、「何を」したか、ということがその要素となる。公訴事実はその六つの要素を文書にしたためたものであり、この公訴事実に書かれた事項を検察官が公判を通じて立証できれば、被告人は有罪となる。 「——公訴事実。被告人は、平成二年十一月十九日、兄の野々口浩一(当三十四歳)が、広川朱美 (当二十六歳)運転の車に同乗しているところをたまたま見かけた。被告人は、かつて、福岡市の天神においてバーテンとしてパブに勤めていたことがあったが、そのときに隣のアルサロでホステスをしていた広川朱美の顔を知っていた。  兄の浩一にそのことを問い質すと、広川朱美と性的関係に陥りかけていることを匂《にお》わせたために、十一月二十二日被告人は広川朱美の勤める中洲のクラブへ行き、『兄から手を引いてくれ』と土下座をして頼んだ。広川朱美はその場で断ったものの、被告人はなおも二日連続で広川朱美の店に足を運んで頼み込んだ。広川朱美は『博多グレートホテルへ来てくれれば、あたしに指図をした人物に会わせてあげます。あなた、そこで彼に土下座しなさい』と雄次に告げた。  それゆえ被告人は十一月二十六日午後八時半ごろ福岡市北区菊田町の博多グレートホテルへおもむいた。同ホテル六三三号室で待ち構えていた広川朱美はビールを勧め、下着姿となり、被告人を誘惑してきた。被告人がそれを拒みかけたところへ、福岡市議・乗松三喜夫(当四十九歳)が突如隠れていたバスルームから姿を現わして、『お前はおれの女に手を出したな。告訴されたくなかったら、とっとと帰って、二度と彼女の前に姿を見せるな』と怒鳴《どな》った。  第一、罠《わな》に嵌《は》められたことを知った被告人はカッとなって、乗松市議を突き飛ばしたところ、乗松市議は、部屋の壁で後頭部を強打して、脳内出血で死亡するに至った。  第二、広川朱美は『ひ、人殺し』と叫んで逃げ出しかけたため、犯行の発覚を恐れた被告人は、咄嗟に殺意を持って彼女の首に腕を巻きつけたうえで力いっぱい絞めつけて、よって同女を窒息死するに至らしめたものである。  罪名および罰条。乗松三喜夫に対する第一の行為、傷害致死、刑法第二百五条。広川朱美に対する第二の行為、殺人罪、刑法第百九十九条」  将田はこの起訴状を淀《よど》みなく一気に読み上げた。 「被告人、前へ」  再び雄次が裁判長に呼ばれた。「被告人は、聞かれたことについて答えたくないときは答えなくてもよろしい。そしてこの法廷で話したことは、被告人にとって有利にも不利にも証拠とされることがあるので、そのつもりで」  裁判長は、黙秘権の存在を告げた。雄次は黙って小さく顎《あご》を引いた。 「それでは、検察官が読み上げた起訴状の内容について、被告人の言い分を訊《き》きます。起訴状の内容に違ったところがありますか、ありませんか?」  雄次は一呼吸置いてから、意を決したように裁判長を見つめた。 「ありません。おれが二人を殺しました」  雄次は、はっきりとした口調でそう言った。検事席で、将田がかすかに笑みを浮かべた。 「弁護人の意見は?」  裁判長は朝日の方へ眼を遣《や》った。  朝日は、ゆっくりと立ち上がった。 「弁護人としては、公訴事実は全部違っておりますけん、被告人の無罪ば主張します。わしは、野々口雄次君がそげん犯行をする人間とはとても思えんのです」  朝日は、法廷だからといって標準語を使うということはしない。 「被告人は犯行を認めているが、弁護人としてはあくまで無罪を主張する、ということですね」  裁判長は確認するように訊いた。被告人と弁護人の発言内容が正反対に食い違う公判など、そうそうあるものではない。 「そういうことですたい」  朝日は、口許《くちもと》を引き締めた。 「では、検察官。冒頭陳述を始めてください」  将田は険しい視線を朝日の方に向けている。被告人がはっきりと犯行を自白しているのに、なぜあえて無罪を主張して公判を紛糾《ふんきゆう》させようとするのだ、と非難したげな眼である。  法廷の後ろの扉が静かに開いて、花木がブルーのスーツ姿を現わした。本来の順番なら、この事件の検事席に座っていたはずの花木は、傍聴席に腰を降ろして、裁判の成り行きを見守った。  将田検事の冒頭陳述は、被告人・野々口雄次の経歴、犯行に至る経緯《いきさつ》、犯行の方法へと移り、そして証拠の提出とそれらの立証趣旨へと進んだ。  仲岡裁判長は、再び朝日の方に顔を向けた。 「いま、検察側から証拠の申請がありましたが、弁護人の意見はどうですか?」 「先ほども述べましたように、わしは野々口雄次君の無罪ば信じとりますけん、申請のあった証拠については、すべて不同意とします」  不同意とされると、検察官としてはそれらの証拠書類を法廷に提出するのを差し控えなければならず、いちいち証人を法廷に喚問して証言させなければならなくなる。将田は明らかに不満な表情を浮かべている。 「それでは、次回公判期日に、検察側は証人を立ててください」  裁判長は低い声で、将田に促した。将田は、渋々といった感じで顎《あご》を引いた。  これで第一回の公判は終わった。 「朝日先生」  法廷を出た廊下で、野々口幸代が朝日を呼び止めた。 「もしも、有罪ということになったら、雄次さんは死刑になってしまうのでしょうか?」  幸代は心配そうな視線を向けた。「雄次さんに、傷害致死の前科があることが不利に働くわけでしょう」 「一概に、前科のあることが不利とは言えんばい」  朝日は少し大げさに首を振って、彼女の心配を和らげようとした。「雄次君は傷害致死の罪に関しては、懲役刑に服して罪を償ったのじゃ。もはや本件とは別と考えるべきばい」  そう答えながらも朝日は、肚《はら》の底では将田検事が厳しい求刑をしてくる懸念に捉《とら》われていた。服役したとはいえ、仮出獄中に、二人の人命を奪った容疑がかかっているのだ。 「雄次さんに裁判の勝ち目はあるのですか?」  幸代の眼に浮かぶ心配げな色は、減少されていなかった。 「あると信じとるばい」  朝日はそう表現するのが精一杯だった。 「朝日先生、あたし……」  幸代は、ためらいを口許《くちもと》に漂わせた。 「朝日弁護士——」  背後から将田検事が声をかけたために、幸代との会話はそこで中断されてしまった。 「あなたも弁護士なら、もっと被告人の利益のために活動すべきでしょう」  将田は怒りを肩に込めているように見えた。「被告人が犯行を認めているのに、弁護人がそれを否定するという展開は私には経験したことも、聞いたこともありませんな。弁護人としては、犯行を否定するレベルで争うのではなく、情状酌量で争うのが筋でしょう。もしも弁護人が情状に言及しなかったために、被告人に不利な判決となったらどうする気ですか」  将田は一気にまくしたてるように喋《しやべ》った。その勢いに押し出されるかのように、幸代は朝日に黙礼してその場を離れていった。朝日は少し心残りであったが、幸代とじっくり話す機会はこの先まだまだあると思えた。 「将田君。弁護士というのは、確かに依頼人の利益を擁護することが大切かもしれん。ばってん、真実を明らかにするというもっと大事な使命のある」 「それじゃあ、被告人の利益はいったい誰が守るのですか?」 「真実に反してまで、被告人が自己の利益ば主張することはできん、とわしは思うとる」 「朝日弁護士。それは検察の言うべき論理です」 「真実を明らかにするのに、検察とか弁護側とかこだわるべきではなか」  法廷というのは真実を極める場であって、検察官とか弁護人というのはそのための便法的道具に過ぎないというのが朝日の持論であった。 「朝日弁護士。あなたは独り相撲をやっていませんか。犯行を否認しているのはあなただけなのですよ」  将田はあくまでも食い下がる姿勢を見せた。 「たとえ孤軍奮闘の状態が続こうと、わしは納得の行くまでやるばい」 「しかし、公判は野々口雄次を裁くためにあるのであって、朝日弁護士の趣味のために存在するのではありませんよ」 「分かっとるたい」  朝日は厳しい口調で返した。趣味と表現されたことに憤慨を覚えたのだ。「わしは法曹に入ってからの経験年数は、あんたよりも浅か。もちろん、頭の出来もあんたにはとても及びはせん。ばってん、あんたの倍近く、わしは人間ばやっておる」 「年齢が上ということと、今回の事件とはどういう関係があるのですか?」 「わしは、年を食っている分だけ、人間ば見る眼は肥えとるつもりじゃ。雄次君は、殺人を犯した男とは、わしには思えん」 「そんな非科学的な根拠で……」  将田はあきれたように、肩をすくめた。 「第二回以降の公判で、あんたと勝負たい」  朝日は、将田をじっと見据えた。      2  第二回公判は、十二月十九日に開かれた。  朝から、みぞれ混じりの雨となった。今日の傍聴席には、花木が公判の始まる前から座っていたが、幸代の姿は見えなかった。 「起立っ」  廷吏が声を張り上げて、開廷となった。  本日は検察側の証人が、三人登場することになっている。  まずトッブバッターとして、北署の戸狩警部が証人台に立っていた。 「すると、証人は被告人が被害者・広川朱美に土下座して頼んでいたという話を聞き込み、不審を抱き始めたということですね」  将田は勢いよく主尋問を続けていた。 「ええ、そうです」  戸狩は太い声で答えている。 「あなたの被告人容疑への心証は?」 「クロに間違いありません」 「これで主尋問を終わります」  将田は満足げに座った。  朝日の反対尋問の番となった。 「あんたは、どげん根拠で、野々口雄次君の容疑ばクロと思うのじゃ」 「それは彼が自白をしていることと、あとで証人として登場する博多グレートホテルにおける目撃者が居るからです」  戸狩は、被告人席の雄次を責めるように見た。 「あんたは、被告人が広川朱美に土下座して頼んでいる様子を聞き込み、すぐに被告人を取調べたのかな?」 「いえ、あとは将田検事に任せることになりました」 「ほう。では、警察としては捜査ば途中でやめて、将田検事に引き継いでしまったわけですな」 「途中でやめてという表現はどうかと思いますが、結果としてはそうなります」 「あんたは、徳島ラジオ商事件というのを知っていますかな」 「ええ、名前は聞いたことがあります」 「警察が進めていた捜査を検察が取って代わることによって、無実の富士茂子さんが逮捕され、証人にデッチ上げられた挙句、懲役十三年の冤罪《えんざい》に処されてしまった事件ばい」 「異議あり」  将田が手を挙げて発言を求めた。「弁護人は本件とは何ら関係のない徳島ラジオ商事件を持ち出し、それを無理やり本件に当てはめようとしており、あまりにも論拠を欠く暴論であります」 「異議を認めます。弁護人は注意してください」  裁判長は、諭すように言った。 「反対尋問ば終わります」  朝日はちょいと片手を裁判長の方へ挙げて謝意を現わしながら座った。  次に、戸狩警部の話の中に出てきた〈野々口雄次が土下座をしているのを見た〉朱美の同僚ホステス・垣内圭子《かきうちけいこ》が登場した。  刑事訴訟法には、伝聞証拠の禁止という原則がある。伝聞証拠というのはいわゆる�また聞き�である。�また聞き�をした内容を法廷で供述することを認めると、反対尋問に晒《さら》すことができないのでそれを禁止しているのである。すなわち、本件に即して言うと、土下座しているのを見たと垣内圭子から聞いたといくら戸狩が発言しても、その内容について朝日の方は戸狩に反対尋問をしてその土下座の様子を質そうとしても不可能なわけである。そこで垣内圭子を直接法廷に呼ばないかぎり、戸狩の供述した伝聞内容を証拠とすることはできない、と刑事訴訟法は定めているわけである。  垣内圭子は冬にもかかわらず、下着の線がくっきりと浮き出るほどの薄いブラウスで証言台に立った。ピンクのマニュキアも、茶色に染めた髪のマッシュルームカットも、膝《ひざ》がしらが見えるミニスカートも、法廷には不釣り合いという印象を受ける。 「あなたが見たままを話してください。被告人は、広川朱美さんに何と言っていたのですか?」  将田は主尋問を開始した。 「確か、『兄貴はこれまで順調にやって来たんだ。思わせぶりな美人局《つつもたせ》はやめてくれ』だったわ」 「土下座をしているのを見たというのは、本当ですね」 「ええ。あたしが嘘《うそ》言ったって、仕方ないわよ」 「被告人が店に訪れて、広川朱美さんに頼み込んでいるのを見かけたのは、一度だけだったのですか」 「違うわよ。前日にも、そのもう一日前にも見たわよ」 「ということは、三日連続ですね」 「そうよ」  圭子はややぞんざいに答えた。 「店にまで押しかけて来たときの、被告人の態度や様子はどうでしたか?」 「態度や様子って訊《き》かれても」  圭子は答えかたに困って、厚化粧の顔を歪《ゆが》めた。 「深刻に思い詰めた、というようなことはありませんでしたか?」 「そう。そんな感じだったわよ」 「これで、終わります」  将田は満足そうに座った。  朝日が反対尋問に立った。 「あんたは、朱美さんとは仲のええほうじゃったか?」 「どちらかと言えば、いいほうだったわね」 「あんたに、土下座ばされたところを見られ、美人局という言葉まで聞かれて、彼女はあんたに何も打ち明けんだったとか?」 「ええ、別に」 「どうして、そげん男が押しかけて来たか、言い訳すらせんだったわけか?」 「そんなこと、あの店で働いているものはみんなそれぞれ負い目があんだもの、平凡な団地妻のような詮索《せんさく》はしないわ」  圭子は唇を尖《とが》らせた。「あたしが仲の良かった朱美の仇《かたき》を討ちたくて、嘘《うそ》の証言をしているのじゃないかって疑っているのなら、お門違いだわ。あたしはそこまで朱美のためにするほど、お人好しじゃないわよ」 「いや、そげんことは思うとらん」  朝日はやや声を掠《かす》らせながら、反対尋問を終えた。ここまで朝日は劣勢が続いている。  三人目の証人は、南忠正教授である。戸狩が言っていた〈博多グレートホテルにおける目撃者〉が、この南であった。 「あなたは、十一月二十六日、博多グレートホテルに宿泊しましたね」  将田は畳み掛けるような口調で主尋問を開始した。 「その、あなたはそこに居る被告人を目撃しましたか」 「ええ」  南教授は頷《うなず》いた。 「それは何時ごろですか?」 「私が外から帰ってきたのが九時過ぎでした。自室に戻ろうとエレベータを待っているところで、この男とでくわしたのです」  南は雄次を指差した。雄次はかすかに眉《まゆ》をぴくりと吊《つ》り上げた。 「かなり印象が鮮明のようですが、何かわけがあるのですか」 「はい。彼は、慌ててエレベータから出てきて、私にぶつかりながら、詫《わ》びも言わずに逃げるように走り去っていったものですから、とても印象深いのです」 「なるほど。それでそのとき、他に何か記憶に残っていることがありますか」 「ええ。私はエレベータを待っている間、その階数表示板を見ていましたが、彼の乗っていたエレベータはいったん六階で停まり、そして降りてきました」 「六階ですね」  将田は六階という点を強調して、主尋問を締め括《くく》った。犯行現場の六三三号室は、六階の一室であった。  続いて朝日の反対尋問。 「あんたが、こうして証言をするようになったのは、どういう経緯《いきさつ》からですかな?」 「私が、この男の無礼さに腹を立てて、博多グレートホテルの支配人に苦情の手紙を書きました。それを捜査員の人が見つけて、私のところへ連絡が来て、検察庁で面通しということになったのです」 「その面通しの有様を詳しく述べて欲しかとですが」  朝日はやや上体を屈めるようにして訊《き》いた。 「異議あり」  将田が立ち上がった。「証人の証言内容を問うのではなく、面通しの様子というような形式的なことを聞くというのは時間の無駄と考えます」  仲岡裁判長が朝日に声をかけた。 「弁護人、質問の趣旨は?」 「目撃証言というものは、しばしば作られるものですばい。だけん、証言の中身よりも、証言に至る課程を重視せんといかんと私は思うとりますたい」  朝日はそう力説した。 「弁護人は質問を続けてください」  裁判長は、将田の異議を退けた。 「では、遠慮ばせんと訊くが、まず証人はどげんふうに言われて、面通しに呼ばれたとですか」 「容疑者が浮かんだから、検察庁まで来て欲しいという電話がありました」 「なるほど、『容疑者が浮かんだから』という言い方は、いかにも証人に先入観ば与える暗示の方法じゃな」  朝日は独りごちるように小声でブツブツと言った。将田が異議を出しかかったが、朝日は素早く次の質問に移った。 「それで、検察庁におもむいたあんたは、どげんふうに面通しばしたとですか?」 「マジックミラーで中の様子が窺《うかが》える部屋に、三人の男がそれぞれ別々に入っているところを見せられて、博多グレートホテルでぶつかった男は誰ですかと質問されました」 「それで、その三人はどげん風体の男じゃった?」 「初老の痩《や》せた男と、中年の禿《はげ》頭の男と、そして彼です」  南教授は、再び被告人席の雄次を指差した。 「ばってん、それだけ年齢の違う三名の中から、あんたにぶつかった男ば指摘しろと言われたなら、たとえ野々口雄次君でなくて、他に三十歳前後の男が居たとしても、あんたはその三十歳前後の男ば、ぶつかったまま走り去った人間として答えるのではなかですか?」 「そりゃ、そうかもしれませんが……」  南は少し当惑したような表情を垣間見《かいまみ》せた。「しかし、私の他にも、もう一人、あのときのロビーに居合わせたという男性が面通しで一緒にいて、『ぶつかっていったのは、絶対に彼です』と証言していましたから、やはり、間違いありませんよ」 「ほう」  朝日はやや大げさに、唇を丸めた。 「裁判長、本件は先ほど触れました徳島ラジオ商事件と同じく、検察が捜査の主導権ば取った事件であります。だけん、異例かもしれませんが、ここで捜査の指揮ば取った将田検事に釈明ばして欲しかとです」  仲岡裁判長は両脇《りようわき》の陪席判事に声をかけて、同意を受けてから、 「求釈明を認めます」と首肯した。 「では、将田検事。この南証人以外に、面通しに立ち会った人物が居たかどうかを教えて欲しか」  朝日は、真向かいの検事席に向かって、問いかけた。 「居ました」 「その人物は、この法廷に登場しますか?」 「いいえ、その予定はありません」 「なして、証言ばせんとですか?」 「理由は二つです」  将田は落ち着いた態度で答えた。「一つは証言内容が、ここに居る南証人と同一であるためにあえて重複は不要と言えることです。二つめは、その面通しに立ち会った人物は、匿名を前提に協力を申し出てきた者であり、証人として喚問しようがないのです」 「ほう、匿名を前提に……」  朝日は宙を見上げるような仕草をした。「もう少し詳しく説明して欲しか」 「その協力者は、博多に住んでいる人間で、博多グレートホテルのレストランに食事に来た帰りの人間だということです。あの夜、南教授にぶつかっていった男が、あまりに慌てていたことが気になり、住所・氏名を述べないということを前提に、協力したいと警察に申し出たのです。その彼が、警察から地検に回されてきた日がたまたま南証人にご足労願った日と同じだったもので、一緒に面通しをしてもらったというわけです」  将田は説明を続けた。「あくまで、匿名が条件の協力でした。博多に住んでいるだけに、どのような後難に見舞われるか分からないと、えらく慎重でした。我々は協力してもらえるだけでも、ありがたいので、あえて氏名等を聞きませんでした。したがって、証人としてこの法廷に喚問することはできません」 「わしには、どうも解《げ》せんのう。あんたほど頭の切れる検事なら、匿名での証言など、いざ法廷闘争となったときにろくに武器にならんことくらいは百も承知のはずじゃ」 「先ほど申しましたように、南教授の証言がありますので、それで充分なわけです」  将田は投げつけるような視線を朝日に送った。「それに、被告人があっさりと自白している事件に対して、弁護人だけの判断によって、ここまでバカ丁寧なほどの証拠調べを余儀なくされるとは、正直言って予測できませんでしたからね」 「バカ丁寧とは、何事じゃ」  朝日は怒りを現わした。 「弁護人も、検察官も、冷静に」  仲岡裁判長が軽くたしなめた。 「裁判長、すまんがここでしばらく休廷してもらえんじゃろか」  朝日は仲岡の方を向いた。「急いで調べたかことのありますけん」 「検察官の意見はどうですか?」 「弁護人が頭を冷やされるのに、休廷は有効と考えます」  将田は揶揄《やゆ》するような返答をした。  裁判長は陪席判事の同意を確認したうえで、三十分の休廷を宣した。  朝日は傍聴人席の花木のところへ足を運んだ。そして隣に腰掛けて、何事かを耳打ちした。花木はしばらく朝日の顔を見つめていたが、やがて決心したかのように勢いよく立ち上がって法廷を出て行った。その有様を将田は、訝《いぶか》しげに注視していた。  朝日は法廷を出て、廊下の長椅子《ながいす》に座り込んだ。その姿は、疲れた老ライオンを想起させた。これまでのところ、朝日に有利な材料は全く出ていない。そして被告人である野々口雄次は朝日に心を開く気配を見せず、犯行を認める態度を貫いている。統計によると、起訴され刑事裁判にかけられた被告人が無罪判決を勝ち得る確率は千に一つか二つしかないわけだ。しかも被告人が一貫して犯行を認めていながらも、無罪となったというのはまず前例がないであろう。朝日は極めて難渋な戦いを始めてしまったわけである。  法廷が再開される寸前に、花木が急ぎ足で戻ってきた。彼女は手にしたファイルを朝日に渡した。朝日は頭を下げて、それを受け取った。さっそうとした美人検事とうだつの上がらぬ老弁護士という取り合わせは、奇妙な対照であった。  ほどなくして、仲岡裁判長が黒い法衣姿を現わして、再び審理が始まることになった。証言台の南教授は、三十分待たされたことに気色ばんだような表情をしていた。この法廷のためにわざわざ飛行機に乗って東京からやってきた南は、三十分遅れるとそれだけ帰京するのが遅れる。下手をすると、博多で一泊しなくてはならないのだ。 「それでは、弁護人は反対尋問を再開してください」  裁判長は朝日を促した。  朝日はゆっくりと立ち上がった。 「証人は、記憶力はよかですかな?」 「はい。子供のころから、記憶力はいい方でした」  南教授は自信ありげに答えた。 「わざわざ東京からこの法廷に来てくれたあんたに、悪意はなかと思うとる。ばってん……」  朝日は一呼吸置いたあと、演説をするかのような口調で喋《しやべ》り始めた。「わしには、あんたが面通しばしたときの状況が引っ掛かってならんばい。人間というものは、周りの環境条件によって、過去の記憶ば変容させてしまうことがある。そして重要なことは、証言者がその変容に気づかないまま堂々と供述してしまうことたい。大学教授のような、おのれの知力に自信を持っている者ほど、その陥穽《かんせい》に落ちてしまったことを気づかずに誤った記憶ば固持してしまうものじゃ」 「異議あり」  将田が声を張り上げた。「弁護人の陳述は、本件審理から逸脱した空想をいたずらに展開するばかりであります」 「異議を認めます。弁護人は、証人に対する反対尋問を行なってください」 「では、証人に訊《き》くが、あんたは休廷前のわしとのやり取りで、面通しを受けた際にもう一人匿名の男性が一緒だったと発言しましたな?」 「ええ」 「その男性の風体や容貌《ようぼう》について、答えて欲しかとですが」 「急にそんなことを訊かれても」  南は戸惑いの表情を隠し切れなかった。 「あんたは、記憶力のよかはずじゃ」  朝日は間髪を入れずに迫った。 「確か、年齢は四十歳過ぎで、丸顔で、色が浅黒くて、少し小肥りで……」  南は額に皺《しわ》を寄せて、懸命に記憶を呼び起こしていた。 「では、これからあんたに見せる顔写真の中に、その男が居るかどうか確かめて欲しか」  朝日は弁護人席から前へ進み出て、先ほど花木が持ってきたファイルを証言台の上に置いた。 「さあ、ここに映っている集合写真の中に、その男がおらんかどうか、落ち着いて見て欲しか」  南は眼を凝らすようにして、集合写真を見つめた。誰かが一つしたしわぶきが、やけに法廷に響いた。 「この人が、よく似てますが……」  南はやや頼りなさげに、集合写真の最後列に映っている男を指差した。 「あんたが、今見ておる写真はどげん人たちを映したものか分かりますかな?」  南の横に立った朝日が尋ねた。 「いいえ」  南はかぶりを振った。 「ほら、ここに知った人がおるとではなかですか」  朝日は、胸ポケットから鉛筆を取り出し、集合写真の最前列の男を示した。 「検事さん……」  南は口をあんぐり開けて、将田の方を見た。 「そうです。これは福岡地検の職員写真ですばい。あんたが指で差した男は、写真に対応して記された氏名表示で確認すると金内則夫とありますな。彼は将田検事に付いとる事務官ですたい」 「何ですって」  南は信じられないというふうに、眼をむいた。 「あんたはこの金内事務官をサクラ役にされて、証言を誘導されたわけじゃ」  朝日は持っていた鉛筆を使って、ファイルの背表紙に三本の線を引いた。等間隔に位置する三本の線は、真ん中の一本だけが明らかに長く、両端の二本はそれよりも短く描かれている。 「アメリカの心理学者であるソロモン・アッシュという人が、面白か実験ばしておる」  朝日は、三本の線を掲げた。「実験室に八人の人間ば入れて、このうちのどの線が長いか? という幼稚園児でも分かるような質問がなされる。最初の人間は、短かはずの『右端の線』と答える。誰の眼にも、見間違いであることは明らかのはずばい。ばってん、次に指名された人間も『右端の線』と答える。そしてその誤答が七人目まで続く。実はこの七人目までが全部サクラで、最後の八人目の被験者だけがそれを知らんのじゃ。そうすると、返答ば求められた八番目の者は、三割以上の確率でついつい誘導されて『右端の線』と答えてしまう、という実験結果が報告されておる。このような幼稚園児でも分かる三本の線を眼の前で見続けていながら、そげん結果になるのじゃ。これがもし、いったん三本の線を見たあと、それが隠されて、同様の解答を求められたら、もはや確認のしようがないけん、前の人間に同調してしまう者はさらに増える。さらにこれが数日前、そして数週間前の記憶を辿《たど》るということになれば、もっと誤答は多くなる」  朝日は三本の線が引かれたファイルを伏せた。「こげん実験結果ば聞いただけでも、人間というもんが、いかに同席者の誘導に弱かかということが分かる。もし、面通しの際に、サクラ役の検察事務官が一緒におって、あんたに暗示をかけていたとしたらどうじゃ」 「異議あり」  満を持していたように、将田が声を上げた。「今の弁護人の発言は、まさに誘導であります。心理学者の実験例を引き合いに出して、証人に余計な先入観を与え、弁護人側に好都合な証言を引き出そうとする卑劣なやり方であります」 「ばってん、この金内事務官が面通しの場でサクラ役を働いていたということこそが、卑劣じゃ」  検事と弁護人が法廷でお互いを論駁《ろんばく》するということは、滅多に見られない光景である。それがこの事件では、早くも第二回の公判で、露呈していた。 「検察官も、弁護人も、落ち着いて尋問を行なうように」  仲岡裁判長の注意も、これで二度目である。 「裁判長。検察としては、ここで証人に対する再主尋問を致したく思います」  将田の方が、裁判長の注意に素早く対応した。裁判長は、軽く首肯してそれを認めた。  将田は、検事席を離れて、証言台の後ろに回った。 「弁護人、私はこれから再主尋問をします。席に戻ってくれませんか」  将田は、まだファイルを手にしたまま南の横につっ立っている朝日に言った。朝日は渋々、弁護人席に足を向けた。 「証人は、先ほど弁護人の反対尋問に対して、自分の記憶力はいい方だと言いましたね」  将田は、証言台の後ろの位置から、質問を始めた。 「…………」  南はポケットからハンカチを取り出して首筋の汗を拭《ぬぐ》った。まさかこんな展開になるとは予想だにせずに、東京から公判にやってきたのだろう。 「答えてください。自分の記憶力はいい方だ、と言いましたね」  将田は容赦なく迫った。 「はい、申しました」  南の声は力がない。 「では、わたしがしているネクタイは何色ですか? そして柄はどのようなものですか? 振り返らないで回答してください」  南は、ハンカチを気忙しく動かし、細い眼をしきりにしばたたかせた。 「さあ、早く返答してください」  将田は容赦なく訊《き》いた。 「ブルーの地に、白の水玉が入っていたでしょうか」  南の返事に、将田はかすかに口許《くちもと》を弛《ゆる》めた。将田の胸元を締めるネクタイは、グレーとブルーのストライプである。 「では、私のカッターシャツの色は?」 「白、ですか」  南は自信なさげに声を出した。  将田は黙って前へ回った。そしてベージュのカッターシャツを、これみよがしに南に示した。 「あなたは、面通しのときに同席した男性が、先ほど弁護人が見せた集合写真の人物だと、百パーセントの確信をもって断言できますか?」 「いえ……」  南は脂汗を滲《にじ》ませて、首を振った。「私には、よく分かりません。もう、尋問を続けるのは勘弁してください」  南の消え入りそうな声が、ようやく聞き取れた。      3 「なぜ、君は検察官でありながら、あんな老いぼれ弁護士の味方をするんだ」  将田は、第二回の公判が終わるなり、花木を半ば捕まえるようにして検事控室に連れて行き、激しくなじった。 「弁護人の味方をしている気はありませんわ」  花木は、腕にかけられた将田の手を振り払った。「あたしは、法廷は、正義を実現する場だと考えているだけです」 「それがどうして、職員写真を弁護士に貸す行為の根拠になるんだ」  将田は怒りで頬《ほお》を紅潮させている。  公判の最後で、南証人の記憶力の曖昧《あいまい》さを強引に指摘することで、将田は何とか決定的な打撃を免れた観があった。しかし自らが連れてきた検察側の証人の証言価値を潰《つぶ》さなければならなかっただけに、将田に少なからぬ失点が付いてしまったと言えた。花木の朝日に対する協力がなければ、将田は鮮やかな攻勢を続けることができて、以降の公判においてさらに優位に立つことができたはずだった。 「検察官が持ちうる資料と弁護人が持ちうるそれとは、対等であるべきですわ。そうでなければ、不公平な裁判を招くことになります」  花木は、現行の刑事裁判において、検察官と弁護人は必ずしも同等のフェアな地位にいないことに気づき出していた。検察官は、捜査員を指揮する権限を持ち、ときには直接捜査に携わることさえできる。いきおい、証拠などの捜査資料は、検察官の手元に集まってくる。検察官はその中から、被告人を有罪に導くものを選んで、法廷に順次出していけばいいわけである。ところが一方の弁護人側には、捜査権が認められていない。費用の面でも、人員の面でも、弁護人は大きな制約とハンディを背負っている。 「君の行動および発言は、検察一体の原則を大きく乱すものだ。私は、直ちに永畑検事正に報告することにする。君も知っているはずだが、私の父は最高検次長の職にある」  将田は高圧的な口吻《こうふん》で言った。検察一体の原則とは、各検事が上命下服の関係に立ち、権力組織として同一体を形成することをいう。 「あなたは何かあると、お父さんという切り札を持ち出すのですね。そんなあなたこそ、検察一体の原則を逸脱していますわ。そもそも、この事件はあたしが担当するはずだったのです」 「君はまだ、そんな些細《ささい》な担当|云々《うんぬん》にこだわっていて、私に妨害を加える気なのか」  将田はあきれた顔つきを見せた。 「そうじゃありません。あたしは、ただ公正で真実に即した刑事裁判を望んでいるだけです」  花木は、眼底に朝日の朴訥《ぼくとつ》な風体を思い描いていた。朝日ほど、真実の追及に情熱を燃やす法曹人を花木は知らない。「横紙破り」という仇名《あだな》がつくほどの独特の法廷弁論を展開する一見取っつきにくい偏屈な老弁護士の内実は、あくまでも朴直で篤厚で廉潔である。拝金主義と表面的なカッコ良さが横行する今の世の中にあって、その姿は凄《すさ》まじいほど時代遅れである。けれども、その猫背には、現代の物質的豊かさの中に溺《おぼ》れている観のある日本人がどこかに置き忘れてしまったヒューマニティが脈々と息づいている。 「それは検察官が発言すべき言葉ではないな」  将田は横を向いた。「検察というものは、充分な検討をしたうえで起訴に踏み切っている。そんな検察がボロボロと法廷で負けたなら、検察に対する国民の信頼はどうなる。今のわが国の治安の良さは、警察の努力による高い検挙率と検察の勝ち取る百パーセント近い有罪率によって支えられていると評しても過言ではない」 「でも、そのためには、何をしてもいいというのではありませんわ」  花木は、逆に将田に迫った。「将田検事、あなたは朝日弁護士が指摘したように、金内事務官をサクラ役に使って、南教授の証言を引き出したのでしょう」 「バカなことを言うんじゃない」  将田は声を荒らげた。「老いぼれ弁護士の受け売りをするのはやめたまえ」 「では、金内事務官でないとしたら、南教授の面通しに同席した人物はいったい誰なのですか?」  花木は怯《ひる》まなかった。 「公判で述べたように、匿名前提の目撃者だ。君だって検事をやっていて、後難を恐れて、どうしても氏名を明らかにしたがらない目撃者を取り扱ったことは、一度や二度じゃないだろ」 「でも、せめて連絡先くらいは控えさせてもらえなかったのですか?」 「それすら断る人間だっているさ。一般市民にとって、検察側の証人になることは弁護人側の証人になることよりも嫌なものだ。自らの発言により、被告人を刑に服させるんだからな」  将田は両手を拡《ひろ》げた。「どうも君とは検事同士で話しているという気がしない。忠告しておくが、こんなことを今後繰り返すなら、君は検察庁に居られなくなるぞ」 「忠告、御馳走《ごちそう》様ですわ。でも、そんな正義の旗を降ろした検察庁なら、あたしの方から願い下げです」 「いい加減にしろっ。君も朝日弁護士も、いずれは泣きを見るぞ」  将田は顳《こめ》|※[#「需+頁」、unicode986c]《かみ》に青筋を立てて怒鳴《どな》った。「この裁判には何としても勝つぞ。私は自分の存在を賭《か》けて、あの老いぼれ弁護士と戦う。そして必ずや、有罪判決を取ってやる」  これほど冷静さを欠く将田を見るのは、花木にとって初めてのことだった。鬼のような、という表現では足りないほどの凄《すさ》まじい執念が彼の体躯《たいく》から発散されていた。  そのころ、朝日は野々口幸代の家に向かっていた。今日の法廷には、彼女の姿はなかった。第一回の公判では、開廷のずっと前から傍聴席に座り、終わったあと朝日に「雄次さんは死刑になりますの?」と心配げに訊《き》きに来たのにもかかわらずである。  朝日には、その落差が引っ掛かった。  市バスを乗り継いで、幸代の自宅のある北区に向かう。朝日は滅多にタクシーを使わない。それだけの金銭的余裕はとてもないのだ。  バスの車窓越しに、小ぢんまりとした商店街が見える。〈店じまいセール〉と書かれた幟《のぼり》が揚がった小さな電気店に、エプロン姿の主婦が群がっている。主婦の一人が、携帯ラジオを品定めしている。 (今回の事件は、徳島ラジオ商事件に似とるところがあるばい)  朝日はさっきの法廷でも、そのことに言及していた。  徳島ラジオ商事件——昭和二十八年十一月の早朝に、徳島駅前のラジオ店で店主が何物かに刺し殺された。店主と同じ部屋に寝ていた内妻の富士茂子さんの供述によると、まだ夜が明けきらぬ薄暗い裏口から声を掛ける者がいたので、店主が戸を開けた。その途端、男と店主が格闘となった。富士茂子さんは、電灯のスイッチを捻《ひね》ったがつかなかった。侵入した男は店主を倒し、さらに富士茂子さんの脇腹《わきばら》をひと刺しして、表通りへ逃げていった。この富士茂子さんの言葉を裏付けるように、表通りへの出入り口付近に血痕《けつこん》があり、逃げて行く人影を見たという通行人も二人現われている。  富士茂子さんの叫び声によって、裏の別棟に寝ていた十七歳と十六歳の住み込み店員が駆け付けた。そのうちの一人が医者を呼びに行ったが、店主は既に死亡しており、富士茂子さんも負傷入院することになった。  徳島警察署は、犯人はあらかじめ屋根の上で電灯線を切断したうえでラジオ商宅に裏口から押し入ったと見て、捜査を始めた。すなわち、当初は、犯人は外部から侵入したと警察は考えていたのである。ところが、徳島地検が警察とは別に捜査を開始した。まず地検は二人の住み込み少年店員を、取調べて、別件で逮捕した。別件逮捕の容疑は、屋根に上がって電灯線を切断したという容疑であった。少年店員は、切断されていた電灯線を屋根に上がって復旧させただけだと弁明したが、検察官は取り合わなかった。少年店員は一カ月以上も留置され、とうとう「僕は富士茂子さんから頼まれて、屋根に上がって電灯線を切りました」「事件の朝、ドタンバタンという音で目を覚まし、店主と茂子さんがもつれあって格闘しているのを見ました」と証言をした。地検は、この証言を足がかりに、富士茂子さんを内夫殺害容疑で逮捕した。富士茂子さんは取調べにおいて犯行を否認したが、のちに自白調書を二通残している。そして公判では犯行を否認したが、徳島地裁で懲役十三年の有罪判決を受け、高松高裁も控訴を棄却した。富士茂子さんは、経済的理由と裁判への不信から、上告を取り下げてしまった。  その後まもなく、二人の住み込み店員が、証言は検事に強要されたものだと告白し、その告白をもとに富士茂子さんは再審を請求した。しかし再審が認められないまま、彼女はガンで死去する。そして遺族が再審請求を引き継ぎ、日本の裁判史上初の死後再審が実現した。そして昭和六十年七月、再審無罪が確定した。——  検察が、警察をリードする形でどんどん捜査を進めていったところや、被告人が諦《あきら》めを抱いてしまった点や、証言が検事によって作られたことが、徳島ラジオ商事件と今回の野々口雄次事件の類似点だと、朝日は思っている。  徳島ラジオ商事件では、再審無罪判決が下るまでにじつに三十二年の歳月を要した。その間に富士茂子さん自身が他界してしまった。残された遺族の苦しみは、筆舌に尽くしがたかったであろう。そして強要されたとはいえ偽証をしてしまったかつての住み込み少年は、長い間良心の呵責《かしやく》にさいなまれ続けたであろう。朝日はそのことを想像するだけで、胸に疼痛を覚える。 (わしには、三十二年も裁判に携わっている時間はとてもなか)  朝日に与えられた天寿はそんなに余裕のあるものではなかった。遅くとも、控訴審判決くらいまでに野々口雄次を救い出す必要があった。  朝日は、前に一度訪れたことのある野々口幸代の家のチャイムを押した。 「どちらさまですか?」 「弁護士の朝日ですばい」 「先生……」  幸代は、公判のあとすぐに駆けつけた朝日に驚いた様子だった。  しばらくして、冠木門《かぶきもん》が開けられ、幸代が化粧気のない顔を覗《のぞ》かせた。  朝日は前回訪問したときと同じ応接室に通された。 「一人で留守番かな?」 「ええ、父はまだ入院中ですし、夫は役所へ行っています」  今日の公判は、第一回の公判と同じ午前十時の開廷であった。来ようと思えば、特に支障はなさそうだ。 「今日の傍聴席にも、あんたが来てくれるものと予想しとったばい」  朝日は、素直に思いを口にした。 「先生、今日の裁判の進展はどうだったのですか?」  幸代が運んでくるコーヒーカップがかすかに擦れ合う音がした。 「あんた、そこまで裁判の様子ば気にしとるなら、なして来なんだのじゃ?」  朝日は幸代の指先のわずかな震えを見逃さなかった。「あんたは、第一回の公判には早くから姿ば見せとった。そしてわしをわざわざ掴《つか》まえて『雄次さんは死刑になるのですか?』と心配そうに尋ねた。あんたは、雄次君の義姉という立場ばい。夫の浩一君すら公判に来ておらんのに、あんたは来ておった。浩一君の代理というわけでもなさそうじゃった」  幸代は顔を俯《うつむ》かせた。 「それなのに、今日は別に支障があったわけでもない様子なのに家におって、そのくせわしに裁判の成り行きば尋ねておる」 「先生」  幸代は唇を噛《か》み締めた。「あたし、本当は今日も行こうと思っていたのです。でもけさになって、急にためらいが生じました。裁判が雄次さんに有利に展開したときは、それほど苦しまなくてもいいでしょう。でも、もし雄次さんが不利な立場になっていくのを見たら、きっと取り乱してしまうに違いありません。それならいっそのこと、じっと家で我慢をしていた方がマシですわ」 「幸代さん、あんた、なしてそこまでこだわるのじゃ」  朝日は、蒼《あお》ざめた幸代の顔を覗《のぞ》き込んだ。 「あ、あたし……」  幸代は、そう言いかけて、言葉を詰まらせた。 「すみません。朝日先生」  逃げるかのように幸代は立ち上がり、奥の部屋に姿を隠した。そして、嗚咽《おえつ》が朝日の耳に届いた。 「幸代さん」  第一回の公判が終わったあとも、幸代は朝日に何か言い掛けようとして、やめていた。  朝日は、くたびれて膝《ひざ》の部分が薄くなった自分のズボンを見つめた。前にここを訪れたときに、朝日が「わしの勘では、雄次君は犯人ではなか」と言ったときに、幸代は盆を落としてシュガーポットをひっくり返し、朝日のズボンを砂糖だらけにしたのだ。  幸代は、あまりにも雄次に関して鋭い反応を示し過ぎている。 「幸代さん、こっちへ姿を見せてくれんか」  朝日は、しわがれた声で穏やかに言った。「違う部屋にいては、話のでけんばい」  そのまま朝日はしばらく待った。  ようやく、幸代は扉を開けて、戻ってきた。その頬《ほお》は、まだ濡《ぬ》れたままだ。 「幸代さん、わしはあんたの敵ではなか。あくまでも雄次君の無実ば信じ、何とかしたかと思うとる弁護士ばい」  やはり雄次の名を出した瞬間、幸代の濡れた頬がかすかにぴくりと動いた。「わしはそのために、少しでも多くの真実が知りたか。真実というのは、ときには辛辣《しんらつ》なこともある。ばってん、真実こそが結局は一番重く、そして尊いと思うとる」 「…………」  幸代は、黙ったまま、焦点の定まらない眼を俯《うつむ》かせた。 「あんたの行動は、雄次君の義姉という立場だけでは、どうも納得のいかん。いや、決してあんたを責めとるわけではなか。ばってん、真実のために、わしは訊《き》きたか」  朝日は思い切って、推測を幸代にぶつけた。そうでもしないと、突破口は得られそうもなかった。「あんたと雄次君の間には、恋愛関係があった。そげんことはなかか?」  幸代は、驚いたように朝日を見た。そして、すぐにまた下を向いた。 「心配せんでも、わしは絶対に秘密ば守るけん」  朝日はきっぱりと保証した。 「あたし、夫と知り合ってからしばらくの間、雄次さんと交際していたのです」  ようやく幸代は口を開いた。 「夫と知り合ってから、とはどげん意味じゃ?」  朝日は一瞬、浮気ということかと思った。しかし、この幸代という上品な女性からは、浮気というイメージはどうも湧《わ》いてこない。 「あたし、父の引き合わせで今の夫とお見合いをしました。父は、一人っ子であるあたしを箱入り娘として育てて、これはと父が思った男と結び付けて、婿養子にしようと以前から考えていたのです」  幸代は、ゆっくりと喋《しやべ》った。「言ってみれば、あたしは、父の人形のような存在でした。小学校からずっと私立の女子校に通い続け、女子大を卒業したのちも就職せずにお茶やお花といった花嫁修業で毎日を送らされていました。そんなあたしの結婚相手として選ばれたのが、今の夫の浩一さんでした。あたしにとっては、初めてのお見合いでした。でも父は、もう既に心の中で、浩一さんとあたしが結婚することを決めているようでした」  幸代は、頬《ほお》を拭《ぬぐ》った。 「浩一さんとはそれから二度三度と会ったのですが、あたしは面白くありませんでした。浩一さんが連れて行ってくれた高級レストランにしろ、美術館にしろ、ピアノコンサートにしろ、それまでに何回も足を運んでいる世界で、珍しくはありませんでした。あたしは浩一さんに『うんと大人びたところに飲みに連れて行ってください』とねだりました。信じられないかもしれませんけど、あたしはそのときの年齢である二十三歳になるまで、外でお酒を飲んだことがありませんでした。厳しい父から、門限は午後七時と決められていたのです。女子大時代も、合コンやスキーツアーといった普通の若い女性にとっては当たり前のことが、まるで別次元だったのです」 「ほう」  朝日には、幸代が言った合コンという若者用語の意味が正確には理解しかねた。けれども大体のニュアンスは分かった。 「あたしにねだられた浩一さんは、雄次さんがバーテンとして勤めていたパブに連れていってくれました。浩一さんも遊び人というわけではなく、金曜の夜という混んだ時間帯にうまく席を作ってくれるだけの店を他に知らなかったのだと思います。それに夫と雄次さんは、あたしが二人と関わりを持つまでは、結構仲が良かったのです」  今まで誰にも打ち明けられずにじっと溜《た》めていた鬱積《うつせき》を吐き出すかのように、幸代は喋《しやべ》り続けた。「あたしは、カウンターの中で甲斐甲斐《かいがい》しく働く雄次さんに引かれました。あれほど野性味を全身から発散させた男性は、せいぜいテレビドラマを通じてしか知りませんでした。浩一さんから紹介を受けた雄次さんは、あたしにとても親切にしてくれました。次に浩一さんと会った日にも、あたしは『同じ店に連れていってください』と言いました。雄次さんは、やはり魅力的でした。あたしは、その翌日とうとう我慢できなくなって、一人でその店を訪れました。そして雄次さんにカラオケのデュエットをねだり、歌ってもらいました。雄次さんの方も、あたしにまんざらでないのでは、という気がしました。あたしが『七時までに帰らなければ』と洩《も》らすと、彼は仕事を抜け出して車で送ってくれたのです。そのとき、あたしは思い切って『今度の休みの日に、遊園地に連れて行ってください』と頼みました。まるで高校生のようなデートの誘い方でしたわ。でも、そのときまで、あたしはデートというものをしたことがなかったのです」  恋愛は朝日の不得手領域である。死んだ妻とは、妹から友人を紹介されて、勧められるままにすぐに結婚した。そんな朝日でも、幸代のような現代女性が極めて少数派であることは理解できた。 「それからあたしは何度か雄次さんとの逢瀬《おうせ》を重ねました。幸い、雄次さんは夜の仕事であったため、昼間にデートをしても、父には気づかれずに済んだのです。その一方で、あたしは浩一さんとの交際も続けました。あたしとしては、断りたかったのですが、父がなかなかウンと言ってくれません。父の機嫌を損ねては昼の外出も禁じられるような気がしましたので、仕方なく曖昧《あいまい》にして、交際を継続したのです」  見合いで知り合った男の弟に惹《ひ》かれ、弟と愛情を深めながら、体裁だけは兄と交際を進める——こう表現するとひどくしたたかで節操のない女のように聞こえてしまうかもしれないが、それが幸代の取りうる精一杯の策だったのだ。 「浩一さんは、あたしが雄次さんと密《ひそ》かに会っていることを知りませんでした。あたしは、浩一さんをごまかしながら、雄次さんと会い続けました。雄次さんは何度も『こんなことは早くやめた方が、君のためだ』と言ってくれました。そのたびに、あたしは激しくかぶりを振りました。結婚もしていないのに、不倫という形容はおかしいかもしれませんけど、とにかく道ならぬ恋でした。二人がどれだけ愛していたとしても、決して結ばれることはないでしょう。雄次さんが高校中退のバーテンというだけで、父は絶対に結婚を許してくれません。何不自由なく育ってきたあたしも、水商売の男性の妻がつとまるかどうか全く自信はありません。けれども結婚からどれだけ遠くても、あたしは雄次さんを離れることはできませんでした。雄次さんだって、『兄貴を騙《だま》していても、こうして君と会っているときが一番幸せだ』と言ってくれました。明日の見えない恋だからこそ、余計にメラメラと燃え上がったのかもしれません。そんな関係が、三カ月ほど続きました。でも、あたしたちにまるで天罰が下ったかのような忌まわしい事件が起きたのです」  幸代は、再び瞳《ひとみ》を潤ませた。 「雄次君が傷害致死ば引き起こしたことじゃな?」 「そのとおりです」  幸代はこくりと頷《うなず》いた。「実は北九州市で起きたあの事件のとき、あたしも一緒にいたのです」  幸代はまた意外なことを口にした。 「博多で会うのは人の目があると、あたしたちは小倉まで足を伸ばしてデートを続けていたのです。小倉なら新幹線で、わずか二十分で博多に通えます。朝日先生は軽蔑《けいべつ》なさるかもしれませんけれど、あたしたちもうプラトニックラブの段階ではありませんでした。人目を忍んでホテルを使う関係になっていたのです。だから、余計に小倉まで行く必要があったのです。もっともホテルといっても、露骨なラブホテルは好きじゃないので、安いビジネスホテルをもっぱら利用しました」  朝日の脳裏に、前に足を運んだことのある傷害致死事件の現場の風景が浮かんだ。確かにすぐ横に改装中のビジネスホテルがあった。 「ビジネスホテルから腕を組んで出てきたあたしたちは、あの酔っ払いに『ようよう、きれいなねえちゃんを連れて、昼下がりの情事かい。いい気なもんだね』と絡まれました。雄次さんは相手にせずに立ち去ろうとしましたが、酔っ払いはますます絡んできました。雄次さんが酔っ払いを怯《ひる》ませるために『うるさい』と怒鳴《どな》ったのが逆効果で、酔っ払いは雄次さんに掴《つか》み掛かりました。雄次さんは身を守るために、相手を殴りつけ、不運にもガードレールに頭を強打させてしまいました。酔っ払いが頭から血を吹き出して苦悶《くもん》する姿を見て、雄次さんはあたしに『君は先に新幹線に乗って帰るんだ』と指示しました。あたしは『そんなことできないわ』と言いました。雄次さんは『おれは救急車を呼んで、一緒に病院に付いて行かなくてはいけない。君が同行すれば、おれたちの関係を警察に話さなくてはならなくなる。もちろん、君が門限までに博多に帰宅することもできなくなる』と説明しました。あたしはどうしたらいいのか分かりませんでした。そのとき、向こうから車が一台、通りかかったのです。『おれの言うようにするんだ。おれは警察で調書を取られることになるが、明日には帰れるさ』とあたしを後方に押し出しながら、雄次さんはその車に向かって大きく両手を上げて走り出しました。車のドライバーからあたしの姿を隠そうとする意図が分かりました。あたしは彼の好意を無駄にしないようにと、その場から駆け出しました」  幸代の眼から、涙がとめどなく流れ落ちる。朝日は正視ができずに、視線を下げた。  彼女には、〈箱入り娘として育てられ、純粋培養のようなエスカレータ式の女子校を出て、見合いをして婿養子を取る〉というレールが、厳格な父の手によって否応なしに敷かれていたのだ。経済的には何不自由のないお嬢さん生活ができたとしても、父の指示のままにまるでロボットのように生きなければならなかったのは大変な苦痛だったに違いない。普通の家庭に生まれた娘が、OL勤めをしながら自分の眼で恋人を選び交際している姿を見て、何度も羨《うらや》ましく思っただろう。そんな封緘《ふうかん》された青春を解放してくれるかのような男性が、彼女の前に現われた。だが、それは皮肉にも、見合い相手として父が選んだ野々口浩一の実弟・雄次だったのだ。彼女は浩一と見合い後の交際を続ける一方で、雄次に身も心も傾けていく。それは決して長くは続かない綱渡りだった。もはや父を捨てて雄次と駆け落ち同様の行動を起こすか、父との絆《きずな》を切れずに雄次と別離の道を歩くか、二つに一つだった。 「あたしはそのとき雄次さんが突き飛ばした酔っ払いの負傷は、たいしたことはないだろうと思っていました。現にあたしが走りながら振り返ったとき、酔っ払いがむっくりと起き上がりかけたのが見えました。だけど、救急車で運ばれるうちに容態が急変したのです。あたしはそのことを、病院に付き添って行った雄次さんからの電話で知りました。雄次さんはあたしに『もしかしたら、相手は死ぬかもしれない。これは天罰だと思う。兄貴を欺き、君の親父さんの目を盗んで逢引《あいびき》していたおれたちが悪いんだ』と涙声で言いました。『君は今日のことは、絶対に誰にも話してはいけないぞ。君とおれが二人とも不幸な落とし穴に入る必要はない。いいか、君は良家のお嬢さんとして、この先も生きて行くんだ。おれとのことはちょっとした寄り道だったと、君だけの思い出の引き出しにしまっておいてくれ』と、雄次さんはまるで宣告するような口調で言いました。あたしは『そんなの嫌だわ』と受話器の向こうにかぶりを振りました。『バカやろうっ、自分をもっと大切にしろ』と、雄次さんはあたしが聞いたこともない怒声を上げました。『おれはこれから、警察署に連行されることになっている。もう電話をかけることなんかできないと思う。いいか、おれの遺言だと思ってよく聞け。君は野々口雄次なんて不良あがりの男とは、一度も会わなかったんだ。何の関係もないんだ。もちろん、今日は小倉になんかは行っていない。そう思い込むんだ。おれのことが好きなら、おれの言うとおりにしてくれ。おまえは地位も肩書きも収入も文句のない男といくらでも結婚ができる立場に居るんだ。君とふさわしい男と一緒になって、幸せに暮らしてくれ。おれは君と会えてよかった。何の悔いもない』——雄次さんは一気にそう喋《しやべ》って、思い切ったようにガチャンと受話器を置きました。あたしは、まるで悪夢を見ているようでした。受話器を降ろすことも忘れたまま、茫然《ぼうぜん》と突っ立っていました」  幸代は、止まらぬ涙に苦しそうに肩で息をした。 「それから雄次さんは、傷害致死罪で起訴され、裁判にかけられました。裁判では是非とも実刑判決に処してくださいと発言したそうです。あたしは浩一さんからそのことを聞いたとき、雄次さんはあたしとの関係を完全に断ちたくて、実刑を望んでいるのだわと思いました。刑務所に入ってしまえば、あたしが完全に雄次さんのことを諦《あきら》めるだろうと……」 「あんたは、もしかして、雄次君と繋《つな》がりば持ちたくて、浩一君と結婚ばしたのか?」  朝日はようやく問いを発する隙《すき》を、幸代の涙の狭間《はざま》に見つけた。 「自分でもよく分かりません」  幸代は、小さく首を左右に振った。「彼の望んだとおり、お見合いをして白無垢《しろむく》姿の花嫁になりきるのがいいのだとあたし自身に言い聞かせました。でも、あたしのために身を退き、犠牲になってくれた大切な人のことをそんなにあっさり忘れられっこありません。浩一さんと結婚すれば、雄次さんのことがいろいろと訊《き》けるだろうという計算は、確かに働いていました。もちろん、浩一さんと結婚することで、父は喜んでくれます。でも、だからといって、あの雄次さんが兄の妻となったあたしに、以前のような深い関係を持ってくれるとは到底思えませんでした。もちろんあたしだって、それが良くないことは分かっています」  浩一と雄次と幸代、この三人は不思議な三角形の縁に結ばれていた。幸代も、そして雄次も、皮肉な運命にさぞかし苦しんだことだろう。 「浩一君は、いまだにあんたと雄次君のことは知らんのか?」 「プラトニックでない間柄だったことや、小倉での傷害致死事件のときにあたしが居合わせたことなどは気づいてません。ただ、あたしがあまりにも雄次さんの傷害致死事件の裁判の様子などをしつこく訊いたために、少し妙に思った気配はありました」  幸代は、両手で白い顔を覆った。「あたし、本当にいけない女です。感情のおもむくまま雄次さんと交際しておきながら、その兄の浩一さんといい加減に結婚するなんて。あたし、雄次さんから別離の電話があったとき、父を捨てて家を飛び出すべきだったかもしれません。どこかに働き口を見つけて、雄次さんが刑務所から出てくるのを待つことにすれば、一番自分の気持ちに忠実だったでしょう。でも、あたしってとても臆病《おくびよう》なんです。それまでアルバイトですら働いた経験はなく、とても独り暮らしなんてどうやったらいいのか分かりません。そしてあそこまで言い切ったまま警察へ連行された雄次さんに、本当にあたしのことをきっぱりと忘れるつもりなのかどうか確かめる勇気もありませんでした……」 「幸代さん。よう話してくれた」  朝日はそっと幸代の肩に手を置いた。「本当は、このことは誰にも喋《しやべ》らずに墓場まで持って行こうと、あんたは決めとったのじゃろ」 「ええ」  幸代はこくりと頷《うなず》いた。「今日の公判だって、行きたくて行きたくてしようがなかったのです。でも、行って雄次さんの姿を見ると、公判の途中で声を上げて泣いてしまいそうで、雄次さんにまた迷惑をかけてしまいそうで……」  顔を覆った指の間から、涙の雫《しずく》がこぼれ落ちた。 「もうよか。これ以上自分を責めんほうがよか」  朝日は、幸代の肩に置いた手を二度三度と軽く叩《たた》いた。  幸代の家を辞去した朝日は、その足で拘置支所へ向かった。  雄次は公判が始まってからも相変らず、朝日に心を開いていなかった。しかし朝日は今一つの事実を知った。雄次が示す、犯行をあっさりと認める投げ遣《や》りとも言える態度の奥には、幸代の影が見えるのだ。  昨年の傷害致死事件で、もう関係が切れたと雄次は思ったのに、幸代は兄の浩一と結婚していた。出所した雄次は戸惑っただろう。しかし、もはや元に戻るわけにはいかない。幸代の夫は、自分の兄なのだ。自分さえ我慢を続ければ、兄も幸代も不幸の陥穽《かんせい》に落ちることはない。そう自分を納得させながらも、雄次は幸代への思慕をなかなか断ち切れなかったのではないか。  そんな雄次に、乗松市議と広川朱美殺害の容疑が降って湧《わ》いたように起こった。初めは否認したものの何度か検察庁で取調べを受けるうちに雄次は、ここでもう一度服役者となれば完全に幸代との関係が切れると計算したのではないだろうか。同じ博多で暮らしている以上、どこで幸代とバッタリ再会しないとも限らない。たとえ博多を離れたとしても、幸代は義姉であり、全く顔を会わさないというわけにはいきそうもない。ちょうど彼女の父・水沢助役は病気で入院中だけに、幸代にとっては箍《たが》がはずれた危険な状態と言えるのだ。いっそのこと、再び鉄格子の中に入れば、幸代も自分もどうしようもない。そのうち、浩一との間に子供でもできれば、自分のことは忘れてくれるのではないか。雄次はそう考えて、思い切って犯行を認めたのではないだろうか。——  朝日は希望を込めた想像をめぐらしながら、この拘置支所までやって来た。 「是非とも、あんたと話したかことがあるけん」  接見室に現われた雄次に、朝日は椅子《いす》に座るように勧めた。だが、雄次は相変らず聞き入れずにつっ立ったままだ。 「雄次君、わしは今幸代さんから話ば聞いてきた。彼女は、涙を流しながら、墓場まで持って行こうと思っていたことば打ち明けてくれた」  雄次の太い眉《まゆ》が微妙に動いた。 「今度はあんたの番じゃ。正直に話してくれ。あんたは本当に乗松市議と広川朱美を殺したのか?」 「朝日さん。おれはあんたがどうしても好きになれねえ」  雄次は、厳しい口調で突き放すように言った。「十五年前は親父を冤罪《えんざい》に突き落とすきっかけを作って苦しめ、中学生だったおれに辛《つら》い思いをさせ、そのうえ今また人の過去のプライバシーをこそこそ嗅《か》ぎ回って幸代まで泣かせた」 「雄次君、あんたがわしにどげん評価ばしようと構わん。ばってん、真実ば曲げてはいかん。あんたが小倉の傷害致死事件で、幸代さんと一緒じゃったということを隠そうとした態度は立派ばい。ばってん、そのことで幸代さんはかえって辛か思いをしたかもしれんのじゃ」 「じゃあ、幸代とホテルに入っていたと告白した方がよかったって言うのかい」  雄次は声を張り上げた。「バカを言うのもいい加減にしろや。あいつは、父親が厳し過ぎて全く男に縁がなかったために、おれみたいな不良上がりにほんの一時期ホレちまっただけなんだよ。そんな純な女に、キズ物になりましたってレッテルを貼《は》って、何がいいんだよ」 「雄次君、落ち着くんじゃ。わしもそこまでは言うとらん。ばってん、あんたは自分さえ犠牲になればよかと思い過ぎとらんか。犠牲になってもろた方も、またそれなりに苦しかということを忘れてはいかん」 「おれの親父に犠牲になってもらって、朝日岳之助は良心の呵責《かしやく》にさいなまれました。そう言いたいのか」 「違うたいっ」  今度は朝日が大声を出した。「わしのことば話に来たのではなか。わしはあんたの殺人事件の弁護人としての立場でここへ来とるとばい。殺人事件について、真実を話して欲しかと思うて、こうしてあんたと向き合《お》うとる」 「あの殺人事件は、おれがやったんだ。それが真実さ」  雄次はこれまでと同じ言葉を繰り返した。朝日は胸の中で天を仰いだ。 「わしは、あんたが幸代さんから完全に離れるために、わざと犯行ば認めとると睨《にら》んどる」  朝日は必死の思いで食い下がった。ここでおめおめと退却はしたくない。 「甘いな、爺さん」  雄次は侮蔑《ぶべつ》の眼差《まなざ》しを送った。「ピントはずれの弁護をやって、精々頭を抱えるがいい」  雄次は踵《きびす》を返した。 「雄次君……」  朝日は立ち上がった。しかしプラスチックボードが障壁になって、前に進めない。朝日はガラス瓶に入れられたカエルのように、空しく手のひらをプラスチックボードにくっつけた。  そんな朝日に一瞥《いちべつ》もくれず雄次は、扉を引いて接見室から出て行った。 [#改ページ]  第四章 疑惑の濃霧      1  第三回の公判が始まった。  今日は検察側の証人が、午前に二人、午後は四人登場する予定になっている。  午前中の証人二名は共に、被害者・乗松市議の人となりを語る人物であった。まず乗松の妻であるフミ子が登場した。フミ子は夫を弔う気持ちを現わすかのように、黒の喪服に身を固めていた。 「あなたは乗松三喜夫さんと結婚して、どのくらいになりますか?」  主尋問を行なう将田検事が立った。 「あと三カ月で銀婚式を迎えるところでした。銀婚式を記念してヨーロッパ旅行をすることになっておりましたの。そのことを主人もあたしも楽しみにしておりましただけに、とても残念ですわ」 「あなたにとってどんな夫だったのですか?」 「外ではマムシとか呼ばれていたそうですけど、家ではとても優しい、かけがえのない夫でした」 「なるほど、ご心中お察し申し上げます」  将田は軽く頭を下げた。将田の狙《ねら》いは、まず乗松のダーティなイメージを払拭《ふつしよく》することにあるようだ。この先、朝日が無罪主張を取り下げ、野々口雄次の情状酌量を争うようになったときのことを予想して、早々と伏線を張っておく効果をも考えているのだろうか。 「ところで、事件当日、乗松三喜夫さんが自宅を出たのは何時ごろでしたか?」 「市議会が閉会中ということで、午後二時くらいだったと思います」 「何かあなたに言っていましたか?」 「特には聞いてません。家ではあまり仕事のことを話さない人でしたから。ただ、その日は『もしかしたら遅くなるかもしれないので、先に寝ておくように』と優しく言ってくれました。それが、あの人の最後の言葉になったのです」  フミ子は肩を落とした。 「先に寝ておくように、と指示することはよくあったのですか」 「いいえ、珍しいことでした。だから、何か大事な会合か何かがあるのだろうと思いました。今夜はきっとあの人にとって大きな仕事だわ、と直感しました。その根拠は他にもありました」 「他の根拠と言いますと?」 「主人が締めていったベルトですわ。あのベルトは、代議士の深林寺先生のところから独立するときに、主人が尊敬する深林寺先生からいただいたものですわ。選挙の開票日とか、市議会で激しい論戦を戦わせるときとかといった大一番には、夫は縁起を担いで、必ずそのベルトを締めていたのです」  いかにも妻らしい見方だった。 「最後に、少し立ち入ったことを訊《き》きますが、広川朱美さんという女性を御存知でしたか?」 「ええ、主人の留守中に何回か広川さんからの電話を受けたりしてましたから」 「愛人関係にあったことは?」 「薄々は気づいておりました。でも」  フミ子は一瞬ためらいの表情をちらつかせたが、すぐに言葉を続けた。「あたしは、夫が単なる遊びの気持ちなら、と思っていました。男の人は、とりわけ主人は、生き馬の目を抜くような政界に身を置いていましたから、いろいろとストレスが溜《た》まるでしょう。それを紛らわせるだけで、結局はあたしのところへ戻ってくれるなら、あたしは我慢するつもりでした」 「終わります」  将田は低い声で告げた。  続いて朝日の反対尋問。 「あんたの御主人は、オーディオの趣味はありましたか?」  一瞬、場違いな印象を与える質問がなされた。フミ子は眼をパチパチさせている。 「わしは、あんたの御主人が、もし広川朱美さんば美人局《つつもたせ》に使ったとしたら、たとえば録音テープなどにその有様ば取って、証拠にしたのではなかかと睨《にら》んどる。政界に身を置きマムシと異名ば取る男には、そげんしたたかさがあって当然のはずばい」  朝日は質問の趣旨を説明した。 「録音テープレコーダーは、うちにはありませんわ。あたしも主人も、音楽に関しては全くダメで、カラオケなどもやりませんの」 「ではカメラは?」 「カメラは二、三台持っていました」 「あんたの御主人は、例えば広川朱美が誰か他の男と肩ば組んで歩いとるような写真ば、残しとりませなんだか?」 「いいえ、そんなものは見たことがありません」  フミ子は大きく首を振った。 「御主人の遺品はすべて整理済みですかのう?」 「まだすべてというわけには。何しろ突然の訃報《ふほう》でしたから」 「ならば、机の引き出しの奥にしまってあるものを、あんたが見落としばしとるという可能性はないわけではなか」 「異議あり」  将田が腰を浮かした。「弁護人の発言は証人に何ら義務のない行為に関して、いたずらに証人を責めるものであります」 「異議を認めます」  裁判長は軽く頷《うなず》いた。 「反対尋問ば、終わりますばい」  朝日は、白髪頭を掻《か》き上げた。  続いての証人は、フミ子の話にも出てきた代議士・深林寺栄造であった。深林寺は和服姿で登場した。法廷と和服というのは本来マッチしないものと言えそうだが、こと深林寺に関しては不思議な調和感があった。保守党のベテラン代議士として閣僚入りも噂《うわさ》されている貫禄《かんろく》が、その全身から漂っている。 「本日は、わざわざこの法廷のためにご足労をおかけしました」  将田は主尋問を始めるにあたって、東京からやってきた深林寺に謝意を述べた。検事が証人にこのような態度を取ることは異例のことである。 「さて、先生は乗松三喜夫さんのことをよく御存知ですね」 「ええ、そいつはもう。何しろ長いつき合いですからな」  深林寺は野太い声で答えた。 「どのような人物でしたか?」 「愛すべき男でしたな。わしの秘書として、じつに良く働いてくれた。かつて木下藤吉郎時代の豊臣秀吉は、主君の信長の草履を胸で暖めたというが、乗松は藤吉郎のような好漢だった」  深林寺は大きな眼を瞬《しばたた》かせた。 「今回の事件に関して、先生は何かお気づきのことがありますか?」 「実は乗松君が殺される五日前に、わしは彼と会っておる。この福岡にある製鉄会社の社長の御曹子の結婚式に招かれて、乗松君と同席したのだ。そこで彼はわしに愛人のことを少し洩《も》らした。若いホステスで、とても忠実に働いてくれる。夜の秘書として、ときには美人局《つつもたせ》役としても使いたいと、彼は言っておった」 「ほう、美人局に使いたいと打ち明けていたのですか」  将田はわざとらしく訊《き》き返した。ここが将田が強調しておきたいところのようだ。 「わしは、そんな姑息《こそく》なことはやめたほうがいいぞと忠告したが、まさにそのとおりとなってしまった」  深林寺は残念そうな表情を見せた。「本当に、惜しい男を亡くしたものだ」  朝日が反対尋問に立った。 「今日は国会は休みじゃったですかのう?」  将田の物言いとは対照的なまでに、朝日の訊きかたには遠慮がない。 「いや、現在は通常国会が開会中だ」 「あんたは、国政のプロとして、大事な国会ば欠席しとってはいかんばい」  朝日は非難を込めて言った。 「異議あり」  即座に将田が反応した。「弁護人は、本事件とはまるで関係ない証人の行動に対する非難をしております。しかもその非難には根拠がありません。法廷で証言することは公民権の行使として、たとえ国会議員であったとしても大切な意味を持つものであります」 「異議を認めます。弁護人は注意してください」  仲岡裁判長は、また将田の異議を採った。 「ばってん、あんたほどの大物代議士がわざわざ国会を抜けて博多くんだりまでやって来なくてはいかん証言内容ではなかと、わしには思えるばい」  朝日はなおもブツブツと呟《つぶや》いた。 「自分は、乗松君の命を卑怯《ひきよう》にも奪った人物を厳罰に処して欲しい気持ちで、あえてここまで乗り込んできたのだ」  深林寺は太い唇を真一文字に結んだ。 「さっきあんたは、乗松市議が愛人を美人局《つつもたせ》に使いたかと打ち明けたと証言ばしたが、誰に対して美人局ばしかけるとは聞かなんだか?」 「聞いていませんな」 「では、その美人局に使う女性が、広川朱美という名前じゃということは?」 「そこまで詳しくは」  深林寺は猪首《いくび》を振った。  法廷は昼の休廷に入った。午後からは、これまでの公判を通して最も重要な証人が四人登場する。  今回の事件で、野々口雄次の犯行を直接裏付けるような物証はなかった。検察側としてはまず、雄次が広川朱美に「兄貴から手を引いてくれ」と土下座して頼んでいたことを明らかにしたが、それはあくまで状況証拠の域を出ない。次いで、検察側は目撃証人として南教授を立てたが、朝日にその信憑性《しんぴようせい》を崩される結果となった。  こうなると、第一回の公判以来一貫して雄次が犯行を認めている点が、ポイントになってくる。雄次は地検での取調べでも自白をなし、その中身は自白調書の形でまとめられているが、朝日が調書の提出に不同意かつ任意性を争うとの姿勢を採ったため、裁判官はまだその内容を読めないでいる。  検察側としては、雄次の自白が真実性を持つものであることを、午後からの法廷で示さなくてはならないのだ。  午後一時に法廷は再開された。再開とほぼ同時に、花木が傍聴席に姿を見せた。幸代は今日も来ていない。  午後からの公判の最初の証人は、地検の金内事務官であった。金内は丸眼鏡を丁寧に拭《ふ》いてから、証人宣誓書を読み上げた。 「証人は、検察事務官となって何年になりますか?」  将田の口調は歯切れがよい。いわば身内が、援軍として証言台に立っているのだ。 「昨年、勤続二十年の表彰を受けました」 「証人は、検察庁で行なわれる被疑者の取調べに立ち会ったことも多いでしょうね」 「ええ、もうとても数えられるものじゃありません」 「取調べの様子はどんな具合ですか」 「厳正に、法に則《のつと》って行なわれます」 「今回の取調べの模様はどうでしたか? 暴力や脅迫の類は行なわれましたか?」 「いいえ、とんでもありません。そんなことはただの一度もありません。被告人は観念したように『おれが、殺しました』と頭を下げて、自白を始めました」  朝日はじっと眼を閉じて居眠っている。こんな身内の証言など時間の無駄だと言わんばかりだ。 「弁護人、反対尋問を始めてください」  裁判長に促されて、朝日はようやく眼を開けた。 「あんた、将田検事に頼まれて、南教授の目撃証言を誘導する役を演じましたな」  朝日は、眼を閉じていたときの表情からは想像もできないほどの厳しい視線を向けた。 「そんなことは、言いがかりです」  金内は丸眼鏡を光らせた。 「ばってん、南教授があんたの顔写真を見て、良く似ていると述べておる」 「それは他人の空似というものです」 「他人の空似というものはそうあるものではなか」 「しかし、私はそんなことをやっていないのですから、他人の空似としか言いようがありません」 「異議あり」  朝日が金内を責めることを予想していたかのように、将田が立ち上がった。「弁護人の指摘は、これ以上繰り返しても、水掛け論になるだけです」 「弁護人は、被告人の自白に関して、証人に訊《き》くことはありませんか?」  仲岡裁判長はそう述べた。既に前の公判で出た南教授の証言に対する信用度を蒸し返すよりも、被告人・野々口雄次の自白についての掘り下げをして事件の核心に迫るのがベターではないかという示唆である。 「雄次君の自白の有様について、わしがいくら質《ただ》しても、これまた水掛け論になるのは決まっておりますばい。わしが『取調べは、全く被告人の自発的なものじゃったか?』と問えば、証人は『何の問題もありませんでした』と答えるのは、火を見るより明らかたい」  朝日は法廷を見回しながら、半ば訴えるように言った。「わしはこれまでいくつかの冤罪《えんざい》事件を手掛けてきた。その大半は、自白が警察署や検察庁の取調室という一種の密室の中で行なわれとるところに原因があった。たとえ取調官によって強制や偽計がなされたとしても、外部からは分かりようがなく、その立証は極めて困難ばい。これだけ便利な電気製品が家庭にも職場にも普及している時代なのに、なして取調室だけが旧態以前の古いままなのじゃと、わしは常々思うとりますたい。金融機関の防犯用カメラのように、取調べの様子を始終写し出しておるビデオテープが回されておったなら、自白に至る経緯《いきさつ》や被疑者の表情も分かり、何よりも取調べに伴う強制や偽計という密室犯罪が防げるはずばい」  将田がいつまでも朝日の独演会を許しておけないと、「異議あり」の手を上げかけた。朝日はそれを目敏《めざと》く見つけて、発言を終わった。  次に、事件当夜に博多グレートホテルの五三三号室に宿泊していた公務員・辻井文昭が登場した。 「異例かとも思いますが、主尋問を始めるに先立って、被告人・野々口雄次に対する質問を認めていただきたいと思います。その際、証人にはいったん法廷外に出てもらいたいのです」  将田は、裁判長にそう申し出た。「横紙破り」の異名を持ち法廷で独自の弁護を展開する朝日に太刀打ちするためには、検察側も正攻法を採らない、と言外に言っているように受け取れる。 「その意図は、どういうことですか?」  と仲岡裁判長は耳を傾けた。 「はい」  将田は自信ありげに顎《あご》を引いた。「これから被告人に犯行の模様の一部を訊《き》きます。それは報道機関には伏せてあったものです。そのあとで、いったん出ていただいた証人に再登場願って、同じ内容を訊きます。もしも両者が合致すれば、被告人の告白内容は真実であることが証明できます」 「要するに、被告人の自白内容と証人の証言の突き合わせを、法廷で現出させるということですね」 「そうです」  仲岡裁判長は、陪席判事と短く言葉を交わしたあと、それを認めた。  証人宣誓を済ませた辻井は、廷吏に連れられて証人控室に戻った。辻井にはこれからの法廷の様子は知ることができない。  辻井に代わって、雄次が被告人席から証言台に向かった。 「あなたは、広川朱美さんという、バーテン時代に知っていた女性を殺害しましたね」  将田はゆっくりと質問を始めた。  雄次は黙って頷《うなず》いた。 「どういう方法で殺したのですか?」 「首を絞めました」 「よく思い出してください。その前後に、彼女は何か言葉を発しましたか?」 「彼女は、乗松が壁に頭をぶち付けて倒れたのを見て、『ひ、人殺し』と叫んで逃げようとしました。おれは、逃げられたのでは犯行がバレるとおもって、とっさに彼女の首を絞めました」  将田は満足そうな微笑をたたえながら、辻井の再登場を求めた。  今度は辻井が証言台に立った。 「あなたは、ひとつ下の部屋である五三三号室に泊まっていたのですね」 「はい、そうです」 「午後九時過ぎに、上の階から、何か物音とか人の声が聞こえませんでしたか?」 「聞こえました。先にドンという何かを激しくぶつけたような音がして、それから女の『ひ、人殺し』という悲鳴がしました」 「なるほど、『ひ、人殺し』という悲鳴ですね。それであなたはどうしました」 「テレビの音声かもしれないし、あまり騒ぎを起こしたり、事件に巻き込まれるのは嫌なので、気にかけないことにしました」 「あなたは出張で、博多グレートホテルに泊まっていたのですね」 「ええ、翌日には関西に帰りました」 「では、『ひ、人殺し』という悲鳴のことは誰かに話しましたか?」 「そのあと事情聴取に来られた警察の人と、自分の女房とごく親しい友人の二人だけです」 「もちろん、あなたの奥さんや親友のかたは関西に在住ですね」 「はい」 「では、『ひ、人殺し』という悲鳴があったことは、犯人以外の九州在住の人間があなたの奥さんや親友から聞き知ることは難しいですね」 「はい、そう思います」  将田の言い回しはやや婉曲《えんきよく》であったが、要するに野々口雄次が犯人でなければ、マスコミに報道されていない広川朱美の「ひ、人殺し」の絶叫について自供はできっこないと指摘しているのだ。 「弁護人、反対尋問は?」  裁判長が促した。 「被告人がなして自白ばしたかについては疑問ば抱いとりますが、辻井証人に対しては反対尋問はなかとです」  朝日はこれまでの公判を通じて初めて、反対尋問をしなかった。  続いて、博多グレートホテル従業員・丸谷陽彦が呼ばれた。丸谷は辻井と同じように、被告人質問に先立って、法廷の外へ連れ出された。 「被告人が、犯行を行なったのは午後九時過ぎですね」  将田の声には弾みがついている。 「ええ」  野々口雄次は低い声で答える。 「夜ですから、もちろんのことですが、あなたが六三三号室に入ったとき、部屋の電気はついていたのですね」 「そうです」 「あなたが二人を殺害して、出ていくときはどうでした」 「ついたままにして、出ました」 「なぜ、消さなかったのですか? 現場からはドアのノブをはじめ、指紋が丁寧に拭《ぬぐ》われていた形跡がありましたが、そのことで頭がいっぱいで消すことを忘れたのですか? それとも、電灯がついているほうが、かえって怪しまれないと思ったのですか?」 「まあ、その両方ですね」 「分かりました。いずれにしろ、あなたは部屋の電気を消さなかったわけですね」  そう確認してから、将田は丸谷の登場を求めた。 「あなたは、乗松三喜夫と広川朱美の死体の第一発見者となったわけですが、そのいきさつを話してください」 「はい。チェックアウトの時間が迫っていましたので、一度お部屋に電話を入れましたが返事がございません。そこで、スペアキーを持って、お伺いしました」  丸谷は勤務中にこの法廷に駆けつけたらしく、ホテルの制服姿に身を包んでいる。それだけに、丁寧な言葉遣いと相俟《あいま》って、慇懃《いんぎん》な印象を受ける。 「博多グレートホテルの部屋は、オートロック式ですか?」 「さようでございます」 「では、六三三号室から犯人が出てしまえば、そのあとは第三者が入ることはできないわけですね」 「そうなります」 「それで、あなたがスペアキーを持って六三三号室の鍵《かぎ》を開けて中に入ったとき、室内の電灯はどうでしたか?」 「ついておりました」 「それは確かですか」 「はい、午前十一時近いのに、点灯していたので妙に思ったことをはっきり記憶しております」 「そのことを誰かに言いましたか」 「直属の上司には、報告しました」 「友人には?」 「いいえ。職務上知り得た秘密、と申しますと大げさかも知れませんが、仕事をしていて知ったことは他言無用をホテルから教育されております」  丸谷は制服の胸を張って答えた。  ここでもマスコミに発表されていない事実を、野々口雄次が知っていることが証明された。  朝日はまた、反対尋問なしを告げた。  検察側の最後の証人は、乗松三喜夫と広川朱美の遺体を解剖した北九州医大法医学教室の坂下助教授であった。  坂下助教授に対しても、先に野々口雄次への被告人質問が行なわれた。 「被告人は、乗松市議をどういう方法で殺しましたか?」  先に辻井への尋問を通じて、広川朱美に対する殺害方法を訊《き》いた将田は、今度は乗松に関しての殺害方法を尋ねた。 「殺す気はなかった」  雄次の声は相変らず低い。 「もう少し具体的に話してください」 「兄貴から離れてくれることを頼みに行ったのに、朱美の奴《やつ》はビールをおれに勧めたうえで突然服を脱ぎ出した。そこへバスルームに隠れていた乗松が飛び出してきて、『お前は、人の女に手を出したな』って罵声《ばせい》を浴びせやがった。『訴えられたくなかったら、とっとと帰れ』という言葉を吐かれて、乗松の野郎がおれを黙らせるために、美人局《つつもたせ》の芝居を打ちやがったなと直感したんだ。おれはカッときて、乗松の野郎を思いっ切り突き飛ばした。あいつは勢いよくブッ飛んで、壁にしこたま頭をぶつけた。そしてぐったりと動かなくなった。だから、初めは殺す気はなかったんだ」 「なるほど、殺意はなかったということですな」  将田は口許《くちもと》を満足げにほころばせた。将田は起訴状で、乗松に対しては傷害致死罪で起訴している。すなわち将田は、乗松に対する殺人の故意はなかったとしているのだ。今の野々口雄次の陳述は、それと合致する。  将田は質問を続けた。 「被告人が言及したビールに関して訊《き》きますが、被告人はビールを飲みましたか?」 「いや」 「乗松市議は?」 「いや」 「広川朱美は飲みましたか?」 「ええ」 「被告人に出されたビールはどうしました?」 「腹が立ったので、ブッ倒れた乗松の野郎の顔にぶっかけてやりました」  証人控室に居た坂下助教授が呼ばれた。 「先生が司法解剖なさった結果、乗松三喜夫に関する死因は何でしたか?」 「頭蓋骨《ずがいこつ》陥没による脳内出血です」 「陥没は頭蓋骨のどの部位ですか?」 「後頭部です」  坂下は自らの頭の後ろに手を置いた。 「他に受傷した個所は?」 「ありません。後頭部の致命傷以外には、傷らしい傷はありませんでした」 「先生は、乗松三喜夫がどうやって死に至ったと推察されますか?」 「現場写真や鑑識結果を見せてもらったのですが、バスルームを出たところの壁に血痕《けつこん》や頭皮組織が付着していましたから、犯人に突き飛ばされて壁に後頭部を激突させてしまったものと思われます」  坂下助教授の言葉は見事なまでに、野々口雄次の自供と一致していた。 「もう一つお訊きしますが、二人の被害者の胃袋の中からビールは検出できましたか?」 「女性の方からは検出されました。しかし、男性の方からは出ませんでした」 「ありがとうございました」  将田は頭を下げた。嬉《うれ》しさを隠し切れないような仕草だ。 「弁護人、反対尋問はどうします?」  仲岡裁判長は朝日の方を向いた。 「なかとです」  朝日は小さく答えた。  第三回の公判は終わった。 「こりゃ、有罪で決まりだな」  傍聴していた記者が独り言を洩《も》らした。  冬の弱い陽射《ひざ》しの夕日を浴びながら、朝日は地裁の前庭の植え込みに腰を降ろしていた。両手で抱えたオンボロ鞄《かばん》がひどく重そうだ。野々口雄次の犯行を否定するのは、朝日ただ一人という今日の公判であった。その朝日すら、なすべき反対尋問が見つからず、手も足も出ない状態であった。 「朝日先生、こんなところにいらしたのですか。探しましたわ」  美しい声と共に、花木がライトグレーのスーツ姿を見せた。 「情けなかことばい」  朝日は植え込みに座ったまま、花木を見上げた。「わしは野々口雄次君の無罪ば主張するために弁護人ばなったとに、ろくに反対尋問もできんかった」 「どんな弁護士でも、今日の朝日先生の立場なら、同じですわ」  花木は慰めるように言った。 「ばってん、わしはまだ雄次君の無罪の主張は曲げんたい。わしが納得せん限り、雄次君にたいする冤罪《えんざい》ばあくまで追及するたい」  朝日は自らを奮い立たせんばかりに、立ち上がった。「今日の公判で見る限り、雄次君の自白は、確かに状況に合致しとるような印象ば与えるかもしれん。ばってん、あまりにも合致し過ぎとる。そう思わんか」  取りようによっては、傲慢《ごうまん》な負け惜しみを続ける老人特有の頑固さの現われと取れなくもない言い草だ。しかし、花木は朝日の底力を知る一人であった。 「朝日先生、あたし、午前中県警本部へ足を運んできました」  花木が傍聴席にやって来たのは午後からだった。「そこで今回の事件の警察の捜査の有様を詳しく聞きました。朝日先生もご承知のように、将田検事が積極的に捜査権を行使したために、本来は第一次的な捜査機関である警察は、今回は脇役《わきやく》に回りました」  朝日は黙って、花木の話に聞き入った。 「そのあと、午後から公判を傍聴して、あたしは直感として、野々口雄次は誰かを庇《かば》って、犯人になっているのではないかと思ったのです」 「ほう」 「野々口雄次には、先生を苦しめたいという気持ちが確かにあると思います。けれども、そんな憎悪《ぞうお》の感情だけで、殺人のような罪を引っかぶれるものではありませんわ。だいいち、先生に拘置支所で会う前に、野々口雄次は地検の取り調べで犯行を認めているのです」  花木は自説を続けた。「今日の公判を見ると、野々口雄次は彼自身が犯人か、もしくは犯人から詳しく事情を聞いたとしか思えない正確な自供をしています。野々口雄次自身が犯人ではないとすると、消去法でいって、真犯人から事情を聞いたということになります。つまり、彼に身近な人物から犯行の様子を打ち明けられて、庇おうとしているということです。何の根拠もなく言っているのではありません。県警は当初、野々口雄次とは別の人間をマークしていたのですわ」 「その別の人間とは?」 「実兄の野々口浩一です」 「…………」  朝日は吐息をついた。 「乗松市議は道路拡幅の件で、その担当権限を持つ野々口浩一に対して弱みを掴《つか》むために広川朱美を近づけていました。それをやめさせようと、野々口雄次は朱美に土下座までして頼み込んでいたのでしたね。ここまでは、まず間違いない事実だと思えます」  前回の公判における朱美が勤めていた「プラチナの砂」の同僚ホステス・圭子の証言や、今日の公判での深林寺の発言からもそれは裏書されている。 「将田検事はそこから、短絡的に野々口雄次が犯行に及んだと推論しました。小倉における傷害致死の前科に引きずられたのかもしれません。相手を突き飛ばした結果、脳内出血で死亡させてしまった点が共通ですから。でも、あたしには、むしろ一度傷害致死事件を起こしてしまった人間は、逆に同じ過ちを起こさないように注意するように思えるのです。交通事故だって、たとえば車間距離を詰め過ぎて追突事故を起こした人間は、普通は次から車間距離に注意して走るはずです。先ほどの公判で、野々口雄次は乗松市議の卑劣な行為にカッときて、彼を壁に突き飛ばしたと言っていますが、本当にそうでしょうか? 野々口雄次は確かに気が短い性格のようですが、乗松市議の画策によって被害を受けるのは、自分自身ではないだけに、そこまで頭に血が昇って気が動転するのは行き過ぎのようにも思えます」  花木はちょっと言葉を切った。「だけど、もしあのとき、博多グレートホテルに行ったのが、野々口雄次ではなく野々口浩一だったと仮定してみたらどうでしょうか? 野々口浩一は広川朱美に誘惑されていた本人です。乗松にしても、市の道路拡幅の担当者である彼本人を博多グレートホテルに呼び出して脅す方が、ずっと効果があるはずです」 「つまり、あのとき、乗松市議ば突き飛ばし、広川朱美の首ば絞めたのは、野々口浩一じゃと、あんたは考えるのか?」  朝日はようやく言葉を出した。 「それで辻褄《つじつま》が合いますわ。先生がご指摘なさったように、南教授の目撃は曖昧《あいまい》です。三十歳くらいの男ということくらいしか、はっきりしていないと言えますわ」 「雄次君ではなくて、浩一君の犯行……そげんこつは信じたくなか」  朝日は首を振った。どちらも野々口健蔵の息子である。朝日にとっては、たとえ野々口雄次の無罪が立証できたとしても、そのかわりに野々口浩一が真犯人として逮捕されてしまうのは、元も子もない結果となってしまう。 「野々口雄次が、兄の浩一を庇《かば》う事情を先生は御存知ありませんか? 強いて探すとすれば、高校中退の学歴のうえ前科のある者として世間から冷たい眼で見られる自分よりも、エリート公務員で勢力のある岳父を持つ兄の人生の方がずっと重いと考えたことでしょうが、それだけでは罪をかぶる動機としては少し薄弱と思えます」 「雄次君は……」  朝日はそれだけ言って、言葉を飲んだ。幸代から涙ながらに打ち明けられた話が、朝日の胸の中に拡《ひろ》がっていた。結婚前の幸代と雄次は愛し合い、深い関係にあった。このことは、二人以外の誰も知らない。雄次はそのことを明らかにしたくないために、小倉での傷害致死事件を自分一人が居たときのこととして貫き、幸代から離れようと実刑を望んだ。ところが出所してみると、その幸代は浩一と結婚していた。雄次としては、兄の浩一に対して申し訳ない気持ちになったに違いない。結婚前に、弟が先に手を付けてしまった結果となったのだ。  雄次が依然として幸代を愛しているのは、想像に難くない。服役中に女性と知り合うことは不可能である。出所して、半月足らずということでは、新たに恋人ができたとも思えない。身を退《ひ》いたものの、雄次の頭の中にはずっと幸代のことが詰まっていたはずだ。接見室で朝日が幸代の名を出したときの、雄次のムキになった素振りからもそれが窺《うかが》える。  もしも犯人が浩一として、彼が殺人犯人として逮捕されたなら、幸代は殺人者の妻という汚名を背負い込むことになる。もちろん浩一は市役所を懲戒免職になるだろうし、父の水沢勝雅もせっかく昇り詰めた助役の地位を引退せざるを得なくなるだろう。�入婿である浩一の犯行�と�その弟である雄次の犯行�とでは、水沢が受ける風当たりは相当違ってくるはずだ。マスコミの中には、〈エリート公務員が嵌《は》まった色仕掛けの罠《わな》と凶行〉といった煽情《せんじよう》的なテーマで、幸代に遠慮のない取材攻勢をかけてくるものもあるだろう。何ら責められるべき理由のない幸代が、不幸のどん底に転落させられ、世間の好奇の視線に晒《さら》されるのは目に見えていた。  ただ兄のためだけでなく、幸代のためでもあるという二重の意味で、罪を引っかぶる理由は雄次にあると言えた。 「ばってん、わしは浩一君が真犯人などと信じたくなか」  朝日は再び植え込みに腰を降ろしてしまった。 「でも、そう考えないと、野々口雄次があれだけ詳細に、報道公開されなかったいろいろの状況を詳しく供述できたことが説明できませんわ。野々口浩一としては、広川朱美が美人局《つつもたせ》であることを雄次から知らされたのですから、朱美たちを激昂《げつこう》のあまりつい殺害してしまったことを、真っ先に雄次に打ち明けたことは容易に想像できます。浩一から打ち明けられた雄次が、『兄さん、もしも捜査の手が伸びてきたら、おれが罪をかぶるから心配しないで』と慰める姿が、あたしの脳裏に浮かびます」  花木の言葉に、朝日は耳を覆いたくなった。  見かけによらず、野々口雄次は心の優しい男であった。小倉での傷害致死事件の際に幸代を一人帰したうえに、不釣り合いゆえに結ばれそうにない恋に幸代をいつまでも巻き込むべきではないと考えて服役という形で身を退《ひ》こうとしたのだ。 「雄次君……」  確かに一貫して犯行を認め、朝日の無罪主張に決して同調しない頑《かたく》ななまでの態度は、ただ朝日に対する怨《うら》みというだけでは説明できない。 「野々口健蔵よ、わしはどうしたらいいんじゃ」  朝日は独りごちた。 「朝日先生。失礼ながら、先生は元同僚の息子さんが事件関係者ということに、引きずられ過ぎていませんか? 生意気なことを申すようですが、私情に捉《とら》われると、真実は見えてこなくなりますわ」  これまで朝日に対する尊敬の姿勢を保ち、協力的な態度を続けてきた花木が、初めて朝日への批判を口にした。「あたしは自分なりに、野々口浩一に対する調査をしようと思っています」      2  朝日の足取りは重かった。  もしも花木が言うように浩一が真犯人だとしたら、朝日のこれまでの懸命の弁護活動は、兄を庇《かば》おうという雄次の意志に反し、野々口健蔵が自慢にしていた長男の犯罪を暴き、その妻・幸代を奈落《ならく》の底に陥れ、岳父・水沢を窮地に追い込む結果を招くことに繋《つな》がる。朝日がしゃしゃり出たことで、雄次は彼の意に反して救われるかもしれないが、その代わりに浩一たちを不幸につき落とすことになってしまうのだ。  私情に捉われると、真実は見えてこなくなりますわ——花木の言葉が朝日の脳裏で響いていた。 「ばってん、まだ浩一君が犯人だとも、雄次君が有罪だとも、決まったわけではなか」  朝日は呟《つぶや》いた。公判は検察側の証人が登場し終わり、これから弁護側の証人を立てることになる。それから検察側の論告求刑がなされ、弁護人の最終弁論があって、判決言い渡しとなる。まだまだ裁判は、道半ばだ。しかし、朝日には手持ちの駒《こま》が現在のところ、全くなかった。弁護側の証人として立てられる人間がいないのだ。  朝日は、市庁舎に向かってトボトボと歩いていた。  朝日としては、野々口浩一に直接会って、事件のことを当たってみるしか他にこれと言った方法が見つからないのだ。花木の推測は論理的であった。とりわけ、報道機関に伏せられた〈犯人しか知りえない事情〉をあれだけスラスラと供述できるということは、雄次自身が犯人か、もしくは雄次のごく近しい人物が犯人で犯行の模様を打ち明けられたか、のいずれかだという命題は、突き崩すことが極めて困難である。  雄次が罪をかぶってまで守ろうとするごく近しい人物は、浩一と幸代だけだろう。幸代は女であり、目撃者である南教授が性別まで見紛《みまご》うことは考えにくいし、広川朱美を力づくで絞殺することもまず不可能と言ってもよい。そうなると、朱美に美人局《つつもたせ》目的で近づかれていた張本人である浩一だけが、残る。  もしも浩一が観念して朝日に犯行を自供したときの暗澹《あんたん》たる結果を慮《おもんぱか》ると、尻込《しりご》みを覚えるが、ここは手をこまねいて静観している場合ではなかった。  ちょうど市庁舎に、執務終了を告げるチャイムが鳴ったときに、朝日は到着した。多数の職員が、新聞紙やバッグを片手に帰途につくために出てくる。朝日はその人の波に逆らうように玄関口を潜り、庁舎案内板で浩一の所属する道路開発課が四階にあることを確認し、昇りのエレベータに乗った。下りのエレベータには溢《あふ》れんばかりの男女が乗っているのに、昇りの方は朝日一人であった。朝日には何となく、今回の事件を象徴しているように思えた。被告人である雄次につれない態度を取られ続け、今また花木とも袂《たもと》を分かつ結果となった。光の見えない孤高の戦い、という形容がぴったりであった。  道路開発課に、浩一の姿は見あたらなかった。居残っていた職員に訊《き》くと、今しがた人事課から呼び出しがあって、席をはずしているという。朝日は待たせてもらうことにした。  部屋の壁には、市内の道路整備計画が図示されている。赤や青の線がさながら毛細血管のような複雑な模様を描いている。ますます車社会に傾いていく現代では、多少の道路整備を進めても、なかなか渋滞や事故の解消には繋《つな》がらず、焼け石に水の状態であろう。土地の価格も高騰し、用地買収も進まないに違いない。 (そげん道路の拡幅の利権に絡んで、乗松は命を失ったわけか)  確かに全く旨味がなかったわけではなかっただろうが、乗松としてはあまりにも高価な代償となってしまった。  荒々しく部屋の扉が開いて、野々口浩一が戻ってきた。浩一は朝日の存在に気づかぬまま、早足で自分の机のところまで行き、どっかと腰を降ろして頬杖《ほおづえ》をついた。  朝日はゆっくりと浩一に近づいた。エリートらしくもなく、浩一は眉毛《まゆげ》を苛立《いらだ》たしそうに掻《か》き毟《むし》っている。朝日にはまだ気がついていない。胸ポケットからタバコを取り出して口にくわえ、机上のライターを手に持ってつけようとするが、カチカチと音がするばかりでなかなか点火しない。 「浩一君」  朝日の声に、浩一は驚きの表情を見せ、口からタバコを落とした。 「突然、押しかけて申し訳なか。あんたに訊《き》きたかことのあってな」 「外へ出て、喫茶店へでも行きましょう」  浩一は机の上に転がったタバコを拾おうともせずに、腰を浮かした。  廊下に出て、浩一はまた眉毛を掻《か》き毟《むし》った。 「たった今、人事部長に呼びつけられましてね」  浩一は早足でエレベータのところへ向かった。「予想はしていたことですが、左遷の内示を受けました。来月から区役所の課長として、本庁から追い出されます。原因は、私が美人局《つつもたせ》に乗ったことが、明らかになったからです」  そんな浩一の言葉からは、二人の男女の命を奪った犯人かもしれないという印象を、朝日は受けなかった。彼が真犯人なら、その程度の左遷|云々《うんぬん》を気に掛けている場合ではないだろう。もっとも、朝日の身《み》贔屓《びいき》のために、そう映るだけかもしれないが……。 「課長のままなのに、左遷になるのかね?」 「本庁勤めと、区役所じゃ違いますよ。義父が助役だから、あからさまに係長への降格ができないだけですよ」  浩一は苛《いら》ついた仕草でエレベータのボタンを押した。ほどなく、エレベータのドアが開いたが、帰途につく数人の職員が上の階から乗っていた。 「ここは四階なんだから、階段で降りましょう」  浩一はろくに朝日の承諾も得ずに、階段の方へ足を向けた。朝日は付いて行くのがやっとだ。 「役所というところは、スキャンダルが出世に響くんです。民間企業のような、売り上げがいくらとか獲得契約が何件とかいった数字では、働きぶりが評価できないでしょう。だから、いきおい、学歴とか人脈とかが重視されるのです。出世のプラス要因がそんな不明確なものだけに、スキャンダルは大きなマイナス要因として扱われてしまいます。市議が仕掛けた女に誘惑されて、ホイホイ乗ってしまうなんて、文句のないマイナスです」  浩一は階段を音を立てて降りる。 「あんた、そこまで役所の体質を熟知してながら、なして美人局《つつもたせ》なんかに引っ掛かったのじゃ」  朝日は息を切らせながら訊《き》いた。 「われながら面目のない話です。私は、助役の娘と結婚できることで、出世の大きなサポートを得たと喜びました。その、いわゆる逆玉の輿《こし》こそが、私を毎日|憂鬱《ゆううつ》な気持ちにさせたのです」  浩一は辛《つら》い気持ちを吐露することで安らぎを得るかのように、喋《しやべ》った。「先生には分かりますか? 毎日毎日エライさんの義父と同居です。役所から帰ってきても、また役所がもう一つあるような生活なんですよ。同僚たちは私を嫉《ねた》みと羨望《せんぼう》の眼で見るだけに、役所では仕事の手は抜けません。それで、心身共に疲れて帰ってきた家庭が、義父の厳しい監視付きです。息が詰まりそうになります。それでもまだ妻と愛し合っていたなら、救いはあるでしょうが、所詮《しよせん》私は出世が目的の結婚で、幸代は父に言われるがままの結婚です」  一階に降りた浩一は、相変らず早足で庁舎玄関から外へ出た。夕暮れが辺りを支配し始めていた。北風が冷たい。 「そんな圧迫された生活が続く毎日に、ふとしたことで知り合った女性が私に思慕を抱いているような素振りを見せてくれたのですよ。ついつい、惹《ひ》かれてしまう弱さって、どんな人間でもあるじゃないですか」  朝日はふと気配を感じて、後ろを振り返った。オーバーコートの襟を立てた長身男の二人連れが歩いている。 「浩一君、もしかしたら、警察があんたの尾行ば始めたかもしれん」  朝日は、浩一の耳元で小さく囁《ささや》いた。 「えっ、どうして私が」 「急に振り返ってはいけんばい。次の交差点を右に折れるんじゃ」  朝日はそう指示した。浩一は言われるままに、朝日と一緒に右に曲がった。 「相手に感づかれんように、そっと後ろば見よう」  長身男の二人連れは、同じように付いてきていた。 「市庁舎に帰りましょう」  浩一は参ったとばかりに、肩をすぼめた。  誰もいない職員食堂で、朝日と浩一は堅い丸椅子《まるいす》に並んで腰掛けていた。 「なぜ、私に尾行が……」  さっきまでの饒舌《じようぜつ》は、浩一から消えていた。 「あんたが、乗松市議と広川朱美を殺害した容疑の線が出とるんじゃ」  朝日は直截《ちよくせつ》的に切り出した。当たって砕けろ、の肚《はら》づもりでここへ乗り込んで来たのだ。 「何ですって」  浩一は驚きの表情を露《あらわ》にした。「それじゃあ、雄次は?」 「雄次君に対する疑惑が消えたわけではなか。まだ裁判は進行中ばい。ばってん、あんたに対する疑いを抱き出した検事がおる。先ほどの尾行刑事は恐らくその検事の指示じゃろ。もともと警察も当初、あんたをリストアップしておったそうじゃ」 「ええ、確かに星崎とかいう警部が事情聴取に来たことがありましたけど」  浩一は力なく答えた。「だけど、私は乗松市議たちを殺してなんかいません。もちろん、美人局《つつもたせ》に嵌《は》められたと知ったときは、殺したいほどの憎しみを持ちましたが、そんなことをしたらたちまち破滅ですよ。左遷程度では、とてもじゃないが済みません」 「浩一君、あんたの事件当夜のアリバイは?」 「午後七時ごろまで仕事をして、食事をしてから八時前後に家に帰りました。そのあとはずっと家に居ました」 「それば証明でける人は?」 「居ません」 「ばってん、少なくとも奥さんは……」 「あの日は月曜日だったから、妻は父の入院先である市民病院に午後十時くらいまで詰めていました。今日もそうですが、月曜日と金曜日は雇っている付き添い婦の人が休む日なので、代わりに妻が病院に行くのです」  浩一は、銀ぶち眼鏡のズレを指で直した。 「浩一君、あんたは広川朱美とどこまでの関係になっておったのじゃ?」  朝日はあまりこういう質問が好きではない。しかしここは四の五の言っている場合ではなかった。 「ドライブのあと、彼女のマンションまで行って、誘惑されるままに一度だけ寝てしまいました」  浩一は辛《つら》そうに答えた。 「それはいつごろのことじゃ?」 「事件が起こる一週間前の月曜日のことです」  浩一は言い訳めいた言葉を付け足した。「幸代が遅くまで病院に行っている日だけに、ついつい解放感があったのです」 「雄次君が、あんたが広川朱美の助手席に乗っているのを見かけて、あんたに彼女の正体ば教えたのはいつのことじゃ?」 「ええ。ちょうどその夜に、出所して間もない雄次は偶然、私が朱美の車に同乗して帰宅するところを天神通りで目撃して、電話をかけてきてくれたのです」 「あんた、それから乗松市議から脅しを受けんだったか?」  朝日は浩一の顔を覗《のぞ》き込んだ。  浩一は口許《くちもと》を引き締めて黙り込んだが、その唇はかすかに震えている。 「どうなんじゃ、これは大切なことたい。正直に話してくれ」 「恥ずかし過ぎて、自分の口からは、とても喋《しやべ》る気になりません」 「甘ったれるでなか」  朝日は突然テーブルを平手で叩《たた》いた。誰も居ない職員食堂に、激しい音が谺《こだま》した。「おのれがしでかしたことを、自分の口から言えんとは、それでもあんたは九州男児か。わしは、野々口健蔵をよく知っとるぞ。あの男は、そんな肝っ玉の小さかアブラムシのような奴《やつ》ではなかったたい」  アブラムシというのは、九州弁で言うゴキブリのことである。 「朱美と寝た翌日に、脅しを受けました」  浩一は短く答えた。 「どげん脅しじゃ」 「市道の拡幅に関して、乗松の要求することを聞くようにと」 「それで、あんたはどうした?」 「このまま将来にわたって、ゆすり同然の行為を受けるのはたまらないと思いました」 「それで雄次君に相談ばした?」 「ええ、雄次の奴は『おれが何とかしよう、だからあまり心配しないで』と言いました。それで私は頭を下げて、あいつに任せることにしました」      3  市役所を出た朝日は、すぐ近くを流れる薬院新川に架かる天神橋の上に突っ立っていた。九州随一の歓楽街である中洲の色とりどりのネオンが天神橋からよく見える。この橋を西に渡れば中洲へ行けるし、東へ行けばこれも繁華街である天神に繋《つな》がる。  夜の帳《とばり》が降りたばかりの時間帯だけに、橋を渡って中洲へ行く者が多い。恋人同士、同僚連れ、一人でぶらり、とその様態は様々だが、中洲へ向かう者はみんな、それぞれ楽しそうである。そんな中で、朝日だけは場違いなほど重々しく佇《たたず》んでいた。 「あちらも立たねば、こちらも立たずじゃ」  朝日はネオンが映える薬院新川の水面を見つめた。  先ほどの浩一の話を信用する限り、浩一は乗松から脅しは受けたがその処理を雄次に任せたことになる。雄次は「おれが何とかしよう」と約束したのだ。これを法廷で出すと、雄次の犯行容疑を濃くする状況証拠となってしまいそうだ。  かといって、浩一にはアリバイはなく、真犯人は浩一で雄次はそれを庇《かば》っているとする花木の推説を覆すことに繋がる要素は何も得られなかった。  朝日は市民病院に足を向けた。今日は金曜日で、幸代は入院している水沢のところへ行っているということだ。もはやこうなったら藁《わら》にも縋《すが》る思いだ。もう一度幸代に話を聞いておきたいし、水沢にも会っておきたい。  市民病院に着いた朝日は、水沢の病室を訊《き》いた。 「最上階の特別室です」と受付の職員が教えてくれた。現職の助役ということで、市営の病院では特別の待遇が受けられるのであろう。 「あのう」  受付の職員がためらいがちに朝日に言った。「少し顔色がお悪いようですが、大丈夫ですか?」 「なに、平気じゃよ」  朝日は笑ってみせたが、全身に疲労が溜《た》まっていることは否めない。歩き回って、足がだるい。そして何よりも、模糊《もこ》として先が見えない精神的圧迫感が重くのし掛かっている。 (ばってん、ここで力尽きてしまえば、負け犬ばい)  朝日は拳《こぶし》を握り締めた。  水沢の個室は、畳敷きにして十五畳ほどの、さながら高級ワンルームマンションのようであった。バスもトイレも付いており、掃き出し窓を開《あ》けると見晴らしの良いベランダへも出られる。朝日は病死した自分の女房が、終始大部屋に入っていただけにその豪華さに驚いた。 「雄次さんの弁護をしてくださっている朝日先生よ」  付き添っていた幸代に紹介されて、上半身をベッドの上に起こしていた水沢は軽く黙礼した。恰幅《かつぷく》のある体格と艶《つや》のある肌は、先月|膵臓《すいぞう》の手術をしたばかりとは思えない。 「体調の方は、いかがですかな」  朝日はふと、水沢は美食が過ぎたのが疾病の原因ではないかと思った。 「もう一週間か十日ほどで退院の予定ですわい」  水沢は鼻の下に一文字の口髭《くちひげ》をたくわえている。入院の身ではあるが、髭はきれいに整えられている。「早く市政の第一線に復帰がしたくて、今からむずむずしておりますわい」 「それは結構ですな」 「今回はこやつの旦那《だんな》が、美人局《つつもたせ》に引っ掛かるスキャンダルを起こしよりました」  水沢は太い指で幸代を差した。「まだまだケツの青いガキですわい。もっとも、非はマムシ市議の乗松にありますでしょう。法律的にもそうですな、朝日先生」  朝日はどう答えたらいいか分からずに苦笑した。入院先で初対面の朝日にさえ、これだけ自儘《じまま》で強引な態度を見せるのだ。浩一の「家へ帰っても、もう一つ役所があるようなものでした」という言葉が思い起こされた。 「そしてその浩一の弟が、本当に困ったことをしでかしよりました。娘婿の弟の不祥事ということで、わしには直接に累は及ばんでしょうが、ずいぶん肩身の狭い思いをせにゃならんでしょう」  水沢は、しかめっ面を見せた。「わしは私立の大学専門部しか出とりません。それでも助役にまで昇り詰めましたのですわい。それだけに、人には言えん苦労もたくさんしております。そうして築き上げたわしの城を、わしとは血の繋《つな》がりのない娘婿の兄弟に汚されるのは不本意ですわい」  この水沢がもっと温厚な性格だったら、浩一が広川朱美に誘惑されることもなかったに違いない、と朝日は思った。そして浩一が朱美と何らの関わりを持たなければ、雄次が殺人容疑で逮捕されて刑事裁判にかけられることもなかったはずだ。しかし、この体格と貫禄《かんろく》だけは人一倍の傲慢《ごうまん》男に説いても、聞くだけの耳は持たないであろう。 「まあ、朝日先生。頑張って、何とか寛大な刑を勝ち取ってくだされ。少しでも刑は軽いにこしたことはありませんからな」 「雄次君は、もしかしたら、何の罪も犯していないかもしれませんたい」  朝日は、よせばいいのにと自らに思いながらも、そう口に出した。 「何ですって、無罪ですと? しかし、警察が逮捕し、彼も犯行を自白したそうじゃないか」 「逮捕したのは、警察ではなく検察ですばい。それに自白が得られたからといって、それで直ちに有罪とはなりません。憲法も、唯一の証拠が自白の場合は被告人は有罪とされないと規定しておりますたい」  このような相手には、大上段に憲法を持ち出すのがよいと朝日は思った。 「そりゃ、無罪なら、その方がいい。わしはそれだけ胸を張って復帰ができる」  水沢は口髭《くちひげ》を摩《さす》った。  しかし浩一君が犯人なら、そうはいかんでしょう。義理とはいえ息子であり、しかもあんたが入婿に選んだのですからな、と言おうとして朝日はやめた。心配そうに朝日と水沢のやり取りを見つめる幸代の視線に、気づいたからだ。  ドアが開いて点滴瓶を持った看護婦が一礼して入ってきた。 「お話し中、失礼いたします。点滴の時間です」  特別室という理由からか、看護婦の物腰や言葉遣いは丁寧だ。 「幸代さん、ちょっとベランダへ出てみるか」  朝日は幸代に声をかけた。幸代は頷《うなず》いて、腰を上げた。 「浩一さんに、警察の尾行が……」  幸代は驚いた声を出した。そのうち、花木の指示を受けた刑事が、幸代にも事情聴取に来るかもしれない。そのときにショックを受けないためにも、ここであえて知らせておいた方がよいと朝日は判断したのだ。 「そんな、雄次さんが容疑者でないとしたら、浩一さんが犯人かもしれないなんて」  幸代は頭を抱えて屋上フェンスにもたれかかった。どちらも成立してはならない命題が、二者択一の様相を呈し始めている。野々口兄弟をどちらも殺人犯とは思いたくない朝日に勝るとも劣らない二重苦を、幸代も味わっているのだ。愛した恋人と、今の夫との狭間《はざま》で幸代は金縛りに遭っていた。 「あたしが、雄次さんを愛しながら浩一さんと結婚したのが、いけないのですわ」  やり場のない感情を、幸代は自身を責める方向に向けた。 「諦《あきら》めるでなか。まだ裁判は終わっとらん」  朝日は自らに言い聞かせるように呟《つぶや》いた。 「でも、朝日先生、どうやったら二人とも無実だなんてことが証明できますの?」  幸代は苦しげに俯《うつむ》いた。 「いっぺんに二つのことは、人間にはでけん。まず今は、被告人となっておる雄次君の無罪ば、全力でわしは勝ち取ろうて思うとる。もしもその結果、浩一君に容疑が傾き、逮捕され起訴されることになったら、今度は浩一君の無罪ば目指してわしは戦うことになる」  朝日は、ようやく自分なりの今後の方向を見い出しかけていた。 「朝日先生は、あくまで二人の無罪を信じてくださるのですね」 「当たり前じゃ。二人はかつてのわしの親しか同僚の息子ばい」 「あたしも、雄次さんも浩一さんも、どちらも人殺しのできない人間だと確信しています。雄次さんの恋人だったあたしには、そして浩一さんの妻であるあたしには、それが分かります」  幸代は顔をわずかにほころばせた。「あたし、二人の無罪を得るためなら、何でもします。先生がおっしゃるなら、証言台にも立ちます」 「ばってん、それは……」  朝日は首をかしげた。雄次と幸代の関係は、当事者以外には朝日が知るのみである。そのことを法廷で明らかにすることは、忍びない。 「いいんです。父の耳に伝わって勘当されても」  幸代は覚悟を決めたかのように、軽く唇を噛《か》んだ。 「あんたの好意はありがたか。ばってん、不幸な冤罪《えんざい》を救うために、新たな不幸を産み出してしまうのは、わしの性には合わんばい」  朝日は、幸代の横に並ぶようにフェンスの前に立った。筑紫湾の埋立地を通って、冷たい海の夜風が朝日の耳を切らんばかりの冷たさを運んでくる。  今後の方針を何とか決めたものの、朝日には十日後に予定されている公判で出せる弁護側の証人という持ち駒《ごま》が皆無であることには変わりがなかった。 [#改ページ]  第五章 天のみが知っていた真実      1  第四回の公判が開かれた。  朝日はこの十日間、足を棒のようにして歩き回った。しかし、有力な証人がそう簡単に見つかるべくもなかった。  わずかに雄次が小倉で引き起こした傷害致死事件の被害者・荒岡の妻が「野々口雄次さんは、刑務所から手紙をくれて、二度とこのような過ちをしないから許して欲しいと、なけなしの刑務所での労働報酬金と共に私のところへ送ってくれました」という話が聞けたことが、好材料と言えば好材料だった。  朝日はその荒岡の妻・節子を最初の弁護側の証人とした。 「あんたは、その刑務所からの雄次君の手紙となけなしの金ば見て、どげん思いばしましたか?」 「もうこの人は罪を犯さないだろうと思いました」  被告人席の雄次を見る節子の眼には、夫を奪った男に対する宥恕《ゆうじよ》の色が浮かんでいた。  弁護側の証人であるので、反対尋問は将田検事が行なう番である。 「あなたは特殊な超能力があると思いますか?」 「はあ」  将田の発問に、節子はあんぐりと口を開けた。 「あなたは一片の手紙を読んだだけで、被告人の将来的行動に対して一種の予言をしているのですよ。これはあなたに特殊な超能力がなければできない芸当でしょう」 「そんな超能力なんてありません」 「では、あなたが被告人が本事件の犯人ではないとする理由は何ですか?」 「あたしは、別に、この人が犯人ではないとは言っていませんわ」  節子は当惑したように答えた。  将田は、朝日が予想したとおりの攻め方をしてきた。 「異議あり」  朝日は皺《しわ》の目立つ手を上げた。「検事の指摘は、到底不可能な本事件に対する断定を求めるものですばい。証人に『犯人でないと断言できるか』と誘導尋問ば仕掛ければ、『断言できません』という答えの返ってくるとは当然ですたい」  二人目の弁護側の証人として、朝日は若江健吾という男を法廷に呼んでいた。若江は乗松市議の後援会のメンバーであり、乗松が道路拡幅の件で浩一に働き掛けようとしていた道路にテナントビルを所有していた。  若江は法廷に出ることを渋ったので、朝日は喚問手続きを取った。喚問されると、特別な場合を除いて証言を拒否できない。 「あんたは、自分が所有するビルの反対側を拡幅決定してもらいたかと、乗松市議に持ちかけましたな」 「ええ」  若江は渋々といった感じで認めた。「でも、賄賂《わいろ》とかは渡していませんよ」  若江は自分に贈賄の容疑が掛かることを恐れている様子であった。 「ばってん、何か見返りのなかと、市議は動かんとじゃなかろか」 「乗松市議が尽力してくれたなら、後援会のメンバーを三十人増やすことを約束しただけです。わたしのビルの道路側にある土地の所有者を引き入れれば、それぐらいの人数は集めることができます。みんな、乗松先生のお蔭《かげ》で恩恵を受けるのですから」  朝日の感覚からすれば、票の取りまとめを約束することも、金品の供与とさほど異質とは思えないのだが、それに言及すると大きく核心から外れることは明らかであったので、朝日はここでは突き詰めないことにした。 「反対側の道路が拡幅になると、あんたの得られる利益は大きかろうねえ?」 「そりゃ、立ち退《の》きとなる側になってもそれなりの補償金は貰《もら》えます。でもこれだけ地価が上がっている現在では、やはり土地を手放さないほうが有利です。それに、あそこは近い将来もっと価値のある道路になるはずですから」 「価値のある道路になるとは、どげんことじゃ?」 「私のビルを東に行ったところにある市民病院が、もっと空気のいい郊外に移転し、そこに都心型の超高層ホテルが建つ計画があるのです。そうなってくれれば、わたしのテナントビルは、駅と超高層ホテルの間に位置することになり、通行するお客さんが多くなって、テナントになりたいと言ってくる店も増えます。そうなれば、私としてはテナント料を引き上げることもできます」  風が吹けば桶屋《おけや》が儲《もう》かるたとえではないが、こういった開発は大小様々な波及利益をもたらすようだ。 「市民病院がそげんホテルになるという話は、あんたは誰から聞いた?」  朝日は十日前に、水沢助役を尋ねて市民病院に足を運んだばかりだった。決して新しくはないが、まだまだ病院としての機能は充分と思えた。 「乗松市議からです。あのマムシさんは何かと早耳ですから」 「あんたは乗松市議からそのことば小耳に挟んで、道路ば拡幅するなら立ち退きは反対側にして欲しかと申し出たわけじゃな」 「ええ、まあ」 「それで、乗松市議は、どげんふうに答えた?」 「マムシさんは『もちろんそのつもりだ。その代わり、お前さん側の道路の土地の所有者を全員、わしの支援者にしてくれ』と答えました」 「あんたの側の道路の土地の所有者は、全部で何人じゃ」 「ざっと、三十人ですね」 「北区の住人は四万八千人を超えるばい」  朝日は独りごちるように言葉を出した。「そのうちの三十人の支持ば得るために、乗松市議は命を落としたということかのう」  検事席で、将田は口をもごもごさせている。朝日が巧みに独り言という形を取ったため、将田としては異議を差し挟むタイミングを外されてしまった様子だ。  その将田の反対尋問。 「証人は乗松市議の後援会に入って何年ぐらいになりますか?」 「もう、六年ほどですな」 「それでは、証人のたっての頼みとあれば、乗松市議は断れないでしょうな」 「そりゃ、まあ」 「ところで、証人は、乗松三喜夫がなぜマムシと呼ばれるのかを知っていますね」 「まあ、噂《うわさ》はいろいろと」 「彼の強引な性格も熟知していますね」 「ええ、一応は」 「証人は、あえてそこまで分かっていながら、乗松三喜夫に強引な美人局《つつもたせ》を強要したのではありませんか」 「そんなことはありません」  若江は首をすくめた。 「しかし、証人の行為は、自らの経済的利益を追及するあまり、本来市の行政が公益的立場から決定すべき道路拡幅について、無理やり圧力を加えようとするものですよ」  将田は、若江が一番指摘されたくないところを鋭く突いてきた。  さっきの節子にしろ、この若江にしろ、ほとんど弁護側に有利な材料は提供していないと言える。  朝日は肚《はら》を決めるように、よれよれのネクタイを締め直した。  三人目の証人を申請するか、やめておくか、朝日はこの段になっても、まだ迷っていた。朝日にとって両刃の剣となってしまうことは、予想できた。朝日はいつでも出せるようにと、証人取り下げ申請書まで用意して弁護人席の机の上に置いていた。 (ばってん、ここで前へ進まん限り、勝ち目はなか)  朝日は勇気を奮い起こして、証人取り下げ申請書を丸めて、ポケットにねじ込んだ。  廷吏に先導されて三人目の証人が、法廷に登場した。グレーのスーツに身を固めた花木検事であった。  花木は落ち着いた声で、証人宣誓書を読み上げた。  現職検事が、弁護側の証人として登場することは異例中の異例のことと言えた。  花木の方から、昨夜朝日の自宅まて電話をしてきて、そのことを申し入れてきたのだ。 「朝日先生、その後、有力な弁護材料が出ましたか?」  前回公判の終わったあと地裁の前庭で半ば喧嘩《けんか》別れのような別れかたをして以降、花木とは連絡を取っていない。 「何もなか。浩一君に尾行の付いたことだけは掴《つか》んだが」  朝日は好物の明太子《めんたいこ》を食べることで、今後の公判の戦いかたを考えあぐねて疲れ切った頭を休めていたところだった。 「あたしを証人として、お立てになりません?」  花木はさりげない口調でそう切り出した。 「バカなことを言うでなか。検事が法廷で弁護人に有利な証言ばした話は聞いたことがなか」 「でも、先生は真実の発見のためには、そのような常軌を逸したこともあってよい、という意見の持主ではないのですか」 「それはそうじゃが、そげんことばしたら、あんたは検事のバッジば付けておれんようになるかもしれんぞ」 「大丈夫ですわ。あたし、先生のための証言ではなく、あたし自身のための証言をしたいのですから」 「あんたのため?」 「あたしは野々口浩一を容疑者と睨《にら》んで、捜査を進めています。県警は事件を担当していた星崎という警部を中心に尾行などの協力をしてくれています。でも、あたしの上司に当たる地検の永畑検事正は、いくら上申しても聞き入れてくれません。検事正に確信があるわけではないのですよ。ただ、将田検事の実父である最高検次長の存在が怖いだけなのです」  花木は珍しく早口で喋《しやべ》った。「将田検事は今やもうあたしが何を言っても、話し合おうとしません。でも、あたしが、弁護側の証人として立てば、将田検事は反対尋問を通じて否応なしに、公の場で議論を戦わせなければいけないのです」 「あんた、前にわしに『個人的感情に捉《とら》われると、真実が見えなくなりますわ』と忠告ばしたことがあったばってん、今のあんたは感情に捉われ過ぎておらんか?」  花木は元々順番でいけばこの事件を担当する予定であったのに、将田に横取りされたという因縁を持ち合わせている。 「確かにそうかもしれません。でも、検事だって、弁護士だって、人間です。感情の裏づけなしに、あくなき闘志は湧《わ》いてきませんわ」  花木が受話器の向こうでかすかに笑った気配が、朝日の耳に伝わった。 「もし証言台に立ったなら、あんたは何を話す気じゃ?」 「まず、将田検事の杜撰《ずさん》さを指摘しますわ。当初、市会議員が被害者で政治絡みの要素が強いからという理由で、本来の担当者であるあたしから力尽くで事件を取り上げておきながら、結局政治絡みの線をろくに追っていないのです」  その思いは、朝日も抱いていた。彼が東京地検特捜部で鍛え上げたはずの政治事件に対する敏腕ぶりは、公判でまだ発揮されていないのだ。 「あたし、乗松市議のことをさらに調べてみました。乗松の背後には、前に公判に登場した深林寺代議士の姿が見え隠れします。深林寺代議士は、旧財閥系の名星グループの懐刀とも言われています。名星グループは、全国各地で、都市型の超高層ホテルやレジャーランドを建てる計画を進行中です。この博多も、その候補地の一つになっているようです。それだけに、水面下でマムシ市議の異名を持つ乗松が暗躍していたことも想像できますわ。市内で超高層ホテルやレジャーランドを造るだけの広い用地を確保しようとすれば、たとえば市有地の払い下げをしてもらうというような方法が手っ取り早いわけです。現に、そんな噂《うわさ》もあるのです」  花木は、怒りを込めた口調で続けた。「将田検事は、そのような乗松市議の動きについて、公判では言及していません。けれども、それを抜きにしては、乗松市議が殺された真相など掴《つか》めないと思いますわ」  さすがに花木は鋭い指摘をしてきた。 「朝日先生は、明日の公判では、どのような弁護側の証人をお立てになるのですか?」  花木は、そう訊《き》いてきた。 「この十日間、方々を歩き回ったものの、全く不作の状態ばい」 「それならぜひ、あたしを立ててみてください。野々口浩一に対する容疑が出てくるということは、それだけ被告人・野々口雄次が無罪という可能性が高くなるということですわ」 「それはそうじゃが……」  朝日はなかなか結論が出せないまま、受話器を置いた。  昨夜の寝床でも、今朝の朝食時でも、何度も迷った挙句、とうとうここまで来てしまった。 「では、証人にお尋ねばします」  かつて検事と弁護人として相まみえたこともある花木が証言台に立っている光景に、朝日は軽い抵抗を感じながら主尋問を始めた。「あんたは、わしに対して、証言ばしたいと申し出ましたが、それはなしてですか?」 「はい、あたしは、将田検事の本件に対する捜査方針と検察活動の方向に疑問を持っているからです」 「どげんふうに、疑問ば持っておるとですか?」 「被告人はある人物を庇《かば》っていると、あたしは睨《にら》んでいます。将田検事は、被告人がかつて引き起こした傷害致死事件に先入観で引きずられてしまって、それが見抜けないでいると思います」  将田は検事席で顔面を紅潮させながら、花木を糾弾《きゆうだん》するような視線を送っている。 「その根拠は?」 「県警は当初、別の人物を有力容疑者として上げていました。その人物が犯人である可能性を将田検事は否定できていません」  花木は朝日に気遣いをしているのだろうか、まだ野々口浩一の名前を出していない。 「や、やめろ」  突然、被告人席の雄次が声を上げた。これまでずっとおとなしく公判を見守る態度を続けていた雄次が、異常なまでに興奮している。 「被告人は静粛に!」  裁判長が厳しい口調で雄次をたしなめた。 「以上で、主尋問ば終わります」  朝日は早々に着席した。これ以上、尋問を続けるのは辛《つら》かった。 「検察側、反対尋問をどうぞ」  裁判長に促されて、将田はむっくりと立ち上がった。紅潮した顔面と吊《つ》り上がった眼が、仁王《におう》像を連想させる。 「証人は、検事の職にありながらこのような暴挙をなすことを、何とも思わないのですか?」 「自らの見込み違いを、冷静に振り返るゆとりもなく、ただ被告人の自白のみを鵜呑《うの》みにして、肝心の真犯人を裁き逃すほうがよっぽと暴挙だと考えます」  花木も負けていなかった。 「検察一体の原則はどうなります」 「検察一体の原則というのは、正しい起訴を前提にしていますわ。別の人物に対する充分な調査もしないで、無実の人間を起訴してしまうような検事こそ、検察の名を落としています。公訴権は検事にのみ与えられていることの意味を、もっと深く反省してください」 「ここは法廷です。証人がつまらない忠告を述べる場ではありません」  将田は露骨に眉間《みけん》に怒りを現わしていた。平素は冷静沈着そのものの将田がこれほど感情的だとは、朝日には想像だにできなかった。「証人は、先ほどからしきりに、別の人物と言っていますが、それは具体的に誰のことなのか? そいつをはっきりさせて欲しいですな」 「それは」  花木はちらりと朝日の方を見た。 「もう、やめてくれ。犯人はおれなんだ」  雄次が立ち上がった。慌てて刑務官が雄次を取り押さえる。 「被告人は発言を慎みなさい」  仲岡裁判長までが声を荒らげている。破天荒な法廷となった。 「証人にもう一度尋問します。証人の言う真犯人は誰なのですか?」  将田は、まだ冷静さを欠く口調で発問した。 「あたしは、野々口浩一が真犯人だと思います」  花木は突き放すように言った。「野々口浩一は、乗松市議から美人局《つつもたせ》を仕掛けられました。乗松の本当の狙《ねら》いは、道路拡幅といった小さなものではなかったのです。野々口浩一の後ろ楯《だて》である水沢助役に対して、市有地払い下げに尽力させるために、野々口浩一への脅しのネタを握ろうとしたのです。その陥穽《かんせい》を知った野々口浩一は、脅迫を芽の段階で摘み取るために、乗松市議を朱美と共に殺害した。そう考えます」 「や、やめるんだ」  雄次が刑務官と揉《も》み合いながら、なおも叫んだ。 「証人が『考えます』と言うのは、根拠のない単なる当て推量だからですね?」  雄次の絶叫を無視するかのように、将田はじっと花木を睨《にら》み据えた。 「違います。当て推量ではありません。あたしはこれから県警の星崎警部たちと協力して、野々口浩一の容疑を必ず固めていきますわ」  花木はまるで宣戦布告するかのごとく、挑戦的に答えた。      2  閉廷が宣せられ、訴訟関係人や傍聴人がすべて出ていったがらんどうな法廷の中で、朝日はぽつんと一人残っていた。  花木への尋問の際に、雄次は二度にわたって「やめろ」と叫んだ。雄次のその態度には、浩一を庇《かば》おうとする姿勢が見えた。あるいは雄次からそんな叫びを引き出すことが、証言台に立った花木の本当の狙《ねら》いだったのかもしれない。  雄次の発言は、被告人尋問に対する返答ではないため、おそらく訴訟記録には載らないだろう。しかし法廷という裁判官の面前でなされた言動だけに、もはや消し去りがたい印象を顕出してしまった。  被告人は、言いたくないことは答えなくても構いません。そして供述したことは、被告人にとって有利にも不利にもなりますので、そのつもりで。——第一回公判の冒頭手続で仲岡裁判長が述べた黙秘権告知の言葉が、朝日の耳元に蘇《よみがえ》った。先ほどの雄次の言動は、まさに彼にとって有利にも不利にも働くものであったかもしれない。雄次の無実と彼が庇《かば》おうとした兄の犯行を暴くものとして。  将田検事は顔面を赤くしたまま、そそくさと法廷を引き揚げて行った。これまでの公判は、南教授の目撃証言を除いて、ほぼ将田にとって有利に展開してきた。しかしここへ来て、裁判の成り行きは微妙になった。  朝日にとっても、今回の公判は決して歓迎すべきものではなかった。雄次があのような行動を取ることは予想していなかったのだ。 (やはり両刃の剣じゃった)  花木だけが、颯爽《さつそう》とグレーのスカートの裾《すそ》を翻して法廷を出て行った。花木が、自分が証言台に立ち野々口浩一の名前を勿体《もつたい》をつけたうえで切り出すことで、雄次がああいった言動を示すことを予測していたとしたら、朝日は改めて花木の法廷能力を見直さなければならない。花木は事件担当検事でもないのに、巧みに公判の場で自分の考える犯人の氏名を指摘し、雄次の態度という有力な根拠を裁判官の前で露《あらわ》にしたのである。  今回の裁判は、前代未聞の三つ巴《どもえ》の様相を呈してきた。  将田は野々口雄次を起訴し、花木は途中からは野々口浩一の犯行を主張し始めた。朝日は野々口雄次の無罪を唱え、野々口浩一が犯人であることも否定したがっている。  どう贔屓目《ひいきめ》に見ても、三者の中で、朝日が一番|分《ぶ》が悪かった。  地裁を出た朝日は、足を引きずるようにして、市庁舎に向かった。  前に市庁舎を訪れたとき、浩一は朝日に、「私は犯人なんかではありません」と明言した。野々口健蔵の息子であるその言葉を、朝日はあくまで信じたかった。  もう一度、浩一に会って、彼の口から同じ言葉を聞きたかった。  市庁舎を訪れるのは二度目だっただけに、庁内案内板を見ずに四階へ向かった。  この前と同じように、浩一は席に居なかった。あるいは彼が内示があったと打ち明けていた区役所への異動が、正式に発令されたのかとも思ったが、机上には〈課長 野々口浩一〉の名札が置かれてある。  近くの席の職員に、朝日は浩一の所在を尋ねてみた。 「おたくはどちらさんなの?」  職員は怪訝《けげん》そうな眼で朝日を見た。 「浩一君の知り合いの弁護士じゃ」 「課長なら、つい今し方、警察の人が来て、任意同行で引っ張って行きましたよ」  職員は持っていたボールペンで出入り口の方を差した。  雄次の法廷での言動をテコに、花木はいよいよ警察にゴーサインを出したようだ。朝日は仕方なく踵《きびす》を返した。 (ばってん……)  エレベータへ向かった朝日は、この前ここを訪れたときから、すでに刑事の尾行が浩一に付いていたことを思い出した。あれから十日|経《た》ってやっと任意同行だ。 (花木検事の方も、十日もの間動いて、これといった決め手が得られなかったのではないじゃろか)  もしあれば、花木が昨夜証人として発言したいと朝日のところへ電話をしてくることもなかったように思えるのだ。 (花木検事も、圧倒的優位におるわけではなか)  朝日は、そう自分に言い聞かせることにした。逮捕状を取らずに任意同行で呼んでいることも、それを裏書すると言えそうだ。  朝日は拘置支所に足を向けた。  今、警察へ行っても、取調べ中の浩一には接見させてもらえないだろう。こうなったら、もう一人の当事者である雄次に会って、話をしてみようと、朝日は考えたのだ。  雄次はこれまで一貫して、朝日に反抗的とも非協力的とも言える姿勢を続けてきた。しかし、今日の公判で、感情を剥《む》き出しにした彼は、何か変わった対応をしてくれるのではないかという期待もあった。 (あれほどまでのわしに対する強硬な拒否は、いったん崩れかかると案外|脆《もろ》いかもしれん)  朝日はこれまでおとなしく被告人席に座っていた雄次が見せた豹変《ひようへん》ぶりに、希望をこじつけた。もっともその豹変を引き出したのは、朝日ではなくて花木であったが……。 「現在は、接見できません」  拘置支所の職員は事務的に告げた。「将田検事が取調べ中ですから」  朝日は小さく溜息《ためいき》を吐いた。三すくみの関係にある双方の敵に、それぞれ兄と弟を押さえられていた。  朝日は弁護士という立場の泣き所を感じた。検察や警察は、公的機関として権限と組織力を持っている。必要とあらば任意同行を求めることもできるし、この拘置支所などの官公署からもいきおい好意的な助力を得られる。しかし、弁護士はあくまで捜査権のない市井《しせい》の人間なのだ。とりわけ、朝日のようにたった一人で動くのは、時間的にも物理的にも限界がある。 (ここはじっくらと待つしかなか)  朝日は接見控室にどっかと腰を降ろした。  そして、一時間が経《た》った。 (いくら何でも、長か)  朝日は拘置支所の職員に、自分が待っていることを取調べ中の将田検事に伝えて欲しいと願い出た。職員は無愛想に黙って顎《あご》を引き、奥に消えた。  それからさらに三十分あまりが経過した。  控室の扉が静かに開けられ、金内事務官が丸眼鏡をかけた顔を覗《のぞ》かせた。 「朝日さん、これから将田検事が地検で記者発表を行ないます。同席してみてはどうですか」  金内の声はひどく弾んでいた。 「記者発表、どげんことですかのう?」 「来ていただければ、分かります。野々口雄次に関する新たな供述と、新しい証拠が得られたのです」 「新しか証拠、雄次君に関する新証拠か?」 「当然です」 「どげん証拠じゃ?」 「それは記者発表の場に来ていただければ、分かりますよ」  勿体《もつたい》をつけるように言って、金内は丸眼鏡を光らせた。  地検の会議室には、十人を越える新聞記者が集まっていた。  今日の公判では、現職検事の花木が証言台に立ったうえに、将田検事と激しい火花を散らせた。かなりの新聞がその模様を報じると思えた。それに加えて、公判進行中の事件に関しての、新証拠発見という異例の記者発表である。いやがうえでも、会場には熱気が籠《こも》っている。  駆けつけた朝日は二列目に空席を見つけて、半ば割り込むように座り込んだ。  一分も間隔を置かず、花木が強張った顔で、入室してきた。金内事務官あたりが、花木に連絡したものと思われた。記者たちの視線が彼女に集まった。二時間前に華々しく法廷で活躍したヒロインが、どんでん返しを受けるかもしれないのだ。花木はその視線を避けるかのように最後列に席を取った。しかし慌てて椅子《いす》を引いたために、危うく体勢を崩しかけた。  花木に集まっていた記者たちの視線が、一斉に前を向いた。  金内事務官を先頭に、将田検事、そしてダンボール箱を小脇《こわき》に抱えた北署の戸狩警部の三人が縦一列になって、歩を揃《そろ》えるように入ってきた。さながら、相撲の横綱の土俵入りのような観がある。金内が露払い、戸狩が太刀持ちである。  三人は記者や朝日たちに向き合う形で、ゆっくりと座った。部屋はまるで判決が言い渡される直前の法廷のように、しんと静まり返っている。 「本日、被告人・野々口雄次に関する第四回の公判が開かれました」  主役の横綱・将田が口を開いた。「その有様を報じられる新聞社もあるかと思います。その際には、是非ともこれから申し述べます事柄を斟酌《しんしやく》したうえで報じていただきたく、この様な場を設けました」  将田は斟酌という法律の世界でしばしば使われる用語を使った。 「記事の締め切り時間が迫っているところもあるかと思いますので、さっそく発表内容に入ります」  将田は胸ポケットから紙を取り出して、読み上げた。「市会議員・乗松三喜夫に対する傷害致死罪、ならびにホステス・広川朱美に対する殺人罪で起訴中の野々口雄次は、先ほど私が行なった補充取調べにおいて、新たに注目すべき発言をなしました。以下、その供述の要点を述べます。犯行当夜、広川朱美から博多グレートホテルに呼び出された野々口雄次は、そこで下着姿になった広川朱美から誘惑を受けました。そして潜んでいたバスルームから飛び出してきた乗松三喜夫から写真を撮られました。乗松としては、現場をフィルムに収めることにより、証拠を残そうとしたようです。その狙《ねら》いは、野々口浩一に対する美人局《つつもたせ》をやめてくれと言って来た野々口雄次の口を封じる目的です。自らも誘惑に落ちたということになれば、たとえその証拠写真が捏造《ねつぞう》のものであっても、もはや野々口雄次としては乗松に弱みを握られたことになりますから」  将田の説明を居合わせた十人余の人間は、固唾《かたず》を飲んで聞き入っている。 「乗松からフラッシュを焚《た》かれた野々口雄次は、カッとなって、乗松を突き飛ばしました。乗松は、壁に後頭部を激突させて絶命しました。野々口雄次は、逃げようとした広川朱美の首を絞めて殺したあと、乗松のカメラを取って逃げました。足は自然と、勝手を知った天神の街の方へ向いていました。彼は薬院新川の上に架かる天神橋の上に来たところで、カメラとフィルムを早く処分したい気持ちに駆られました。二人の人間の命を奪い、現場から必死で走ってきたのですから、物凄《ものすご》い形相になっていたに違いありません。不審に思った警邏《けいら》中の警官が職務質問でもしてきたら大変です。カメラの中には博多グレートホテル六三三号室での自分の姿、という動かしがたい証拠が映っているのです。処分は早い方がいい、と野々口雄次は考えました。彼はフィルムを巻き戻さないままカメラを開けて、フィルムを露光させて無効にしたあと、薬院新川の水面に向かって、カメラとフィルムを投げ捨てました」  将田は、投げ入れる仕草をした。「要するに、私どもが公判を通じて主張していた内容を確認できる供述だったのですが、カメラの件は私どもも掴《つか》んでおりませんでした。私はさっそくここに居ます北署の戸狩警部にお願いして、薬院新川の川ざらえを行ってもらいました。そしてたった今、乗松市議のものと思われるカメラを発見したわけです」  将田は、横に座った戸狩に眼で合図した。戸狩は持っていたダンボール箱からビニール袋に入ったカメラを取り出して、一同にかざした。戸狩はしてやったり、と満足げな表情だ。 「以上が、私が皆さんにお伝えしたい内容です。繰り返しますが、今日の公判の有様を記事にされるときは、このことを是非とも斟酌《しんしやく》してください」  将田はそう締め括った。 「フィルムも見つかったのですか?」  記者の一人が質問した。 「残念ながら、フィルムは見つかりませんでした」  戸狩が答えた。「カメラと違って、フィルムは軽いものですから、流されてしまったものと思えます。もっとも、カメラから抜き出して露光させてダメになったフィルムでは、発見してもあまり意味はありませんが」  薬院新川は天神橋を過ぎてすぐのところで、那珂川に合流する。そしてその那珂川は一キロ足らずで博多湾に注ぐ。広い博多湾に流れてしまえば、もはや底ざらえは不可能だ。 「野々口雄次は、どうして今になって供述をしたのですか?」  別の記者が尋ねた。 「彼は当初、自分が犯行をしたと自白をしただけで、有罪として処理されると確信していたのです。私どもも同じでした。ところが、公判では弁護側は、被告人本人が自白をしていることを無視して無罪を主張し、そのうえ真犯人は野々口雄次の兄・浩一であると暴論を吐く現職検事も現われました」  将田は挑戦的に、朝日をそして花木を見た。「野々口雄次はこのままでは、公務員をやっている兄があらぬ嫌疑を受けて迷惑を蒙《こうむ》ると考え、何か自分の犯行を確実に裏付けるものはないかと考えました。そして当初の自白のときには、興奮していて思い出せずに触れなかったカメラとフィルムのことを想起したのです」 「そのカメラが乗松市議の所有のものであったことが証明できるのですか? そして確かに野々口雄次が捨てたものと特定できるのですか?」  最後列から、花木が質問を発した。こころなしか、花木の声は震えて聞こえる。もしもその両方が明確にできれば、野々口雄次の犯行を一貫して主張してきた将田検事が決定的優位に立ちそうだ。 「それはこれから、このカメラを鑑識に回し、その他様々な調査をすることによって、証明することになる。私は、必ず証明してみせる」  将田は記者たちに対するとは打って変わったような粗野な言葉で花木に答えた。「そして、裁判長に申し立てて、検察側のための公判を追加的に開いてもらう」      3  その公判は、五日後に開かれた。  今回は、検察側の証人が二人追加申請されたために実施される公判だ。  まず、科学捜査研究所の羽宮《はねみや》技官が証言台に足を運んだ。 「証人は、このカメラの鑑識を行ないましたね」  検察側の証人であるために、将田が先に主尋問を行なう。 「はい」 「その結果は、どうでしたか?」 「カメラの内部から、被告人・野々口雄次の右手親指の指紋を一個検出しました」 「それは鮮明なものだったのですか?」 「ええ、照合するに十二分の、くっきりしたものでした。被告人の指紋に間違いありません」  羽宮技官はきっぱりと言い切った。  朝日が反対尋問を行なう番となった。 「あんたはカメラの内部から指紋ば検出したと説明したばってん、どげん個所に付着しとったのですかな?」 「カメラの蓋《ふた》の内側です。フィルムを出し入れするときに、カメラの背中側の蓋を開けますね。その蓋の裏に付いていたのです」  羽宮は証言台の上でカメラの蓋を開ける仕草をした。「フィルムを取り出すために開けるときに、親指で蓋の裏を触って押し上げますね。そのときに付着したものと思えます」 「他には被告人の指紋は付いとらんとですか?」 「ええ。蓋の裏を除いて、カメラの表面などからは被告人のものに限らず、指紋らしいものは検出されませんでした。川の中に三カ月ほど放置されてあったのですから、指紋はすべて洗われてしまったものと思われます」 「ほう。ばってん、たとえばシャッターボタンや絞り用ダイヤルなどには、所有者の指紋ぐらい残っとらんのですか?」 「ええ、そこには残っていませんでした。薬院新川は結構流れもありますので、きれいに洗われてしまったのでしょう」  羽宮は付け加えるように言った。「ただ所有者である乗松三喜夫さんの指紋は、やはりカメラ内部で検出できました。カメラはストロボ内蔵型のものだったのですが、ストロボの電源である単三型乾電池に付着していた指紋は、乗松さんのものと合致しました」  続いて、博多駅の近くで写真店を営む溝岸一郎《みぞぎしいちろう》が証人として呼ばれた。 「証人は、乗松三喜夫を知っていますね」  将田検事は勢い良く訊《き》いた。もはや勝利を確信してゴールの競技場に入ってきたマラソン選手のような表情を見せている。三つ巴《どもえ》の苦しいレースだったが、ほどなく月桂樹《げつけいじゆ》は自分の頭上に輝く——そんなゆとりさえ感じさせる。 「ええ、お客様の一人です。私の女房が、乗松先生の後援会に入っている関係でよく利用していただいてました」 「ところで、カメラのボディナンバーというのは、どのようなものですか?」 「メーカーにもよりますが、安価なものは別にして、高級カメラのボディならその一台一台にメーカーが番号を付けて特定をしているのです。それによって、万一不良品が出たときでも、製造工場や製造年度が分かるということです」 「高級時計の裏側に製造ナンバーが刻まれているようなものですね」 「ええ、そうです」 「証人は、お客にカメラを売るときはボディナンバーを控えていますか?」 「ええ、保証の関係もありますから、メーカー名、製品名、と共に控えて、お客様の住所氏名と一緒に記録しておきます」 「証人には、前もって、トリミング社のSR303タイプのボディナンバー226890のカメラについて調べておいてくださいと依頼しましたが、その結果はどうでしたか?」 「はい。そのナンバーのものなら、昭和六十二年九月二十日に、確かにうちで売ったものです。お買上げいただいたお客様は、確かに乗松三喜夫先生です」  法廷での証言に間違いがあってはいけないと考えたのだろう、溝岸は手に握ったメモをチラリと見遣《みや》りながら、答えた。  続いて、朝日が反対尋問をする番だ。 「乗松市議は、あんたの店をよく利用ばしとったということじゃな」 「はい、ご贔屓《ひいき》いただいていました」 「それでは、あんたのところで、乗松市議が現像や焼き付けをすることも多かったのじゃな」 「ええ」 「では、あんたが現像ばした写真の中に、この女性ば映したものがありましたかいのう?」  朝日は証言台まで歩を進め、乗松が殺害されたことを報じた新聞紙を溝岸にかざした。乗松の顔写真の下に広川朱美が映っている。 「さあ、よく分かりません」  溝岸は首をかしげた。「今は現像も焼き付けも機械がやってくれますし、感度不良や巻き取りミスなどで不良のものが出ないかぎり、なかなか写真の被写体までは見ませんよ。毎日何百枚も焼くこともありますし、あまりお客様のプライバシーを覗《のぞ》き見するのもいけませんし」 「この女性が、乗松市議ではなくて、三十過ぎの男と映っている写真を憶《おぼ》えとらんか?」  朝日はなぜか、執拗《しつよう》に尋ねた。 「いえ、無理です。憶えてません」  溝岸は手を左右に振った。  検察側の追加証人は、二人とも将田に有利な材料を提供した。  羽宮技官の証言により、カメラに野々口雄次の指紋が付着していたことは、彼の自供にあった「フィルムを抜き取って薬院新川に投げ込んだ」ことを補強するものであった。また同じく羽宮技官がストロボ用の乾電池に乗松の指紋が付いていたと話したことと溝岸のボディナンバーに関する供述は、そのカメラが乗松の所有していたものであることを確実にした。      4  公判がひけたあと、地裁を出た朝日を花木が待っていた。 「朝日先生」  花木は肩を落としている。いつもの凛《りん》とした姿勢は見られない。「あたし、今の公判を傍聴していました。とても口惜《くや》しいですけど、あたしも先生も、ちょっと勝ち目はないかもしれませんわ」 「なして、そげんこつば言える?」  朝日は穏やかな声をかけた。彼女が野々口浩一真犯人説を唱えて以来、前のような協同関係は続けられなくなった。しかし、朝日は花木と、修復不可能な絶交をしたとは思っていない。花木の方も、そうは考えていないから、こうして待ち伏せをしていたのだろう。 「だって大局的に見たら、第一回の公判からずっと、将田検事優勢のままここまで来たじゃありませんか。被告人は当初から一貫して犯行を認め、その自白を裏付ける博多グレートホテルの従業員などの証言もあり、今また、カメラという物証が出たじゃありませんか」 「では、あんたは、野々口浩一犯行説ば撤回するのか?」 「撤回はしたくありませんわ。でも、あたしたちには、形勢を逆転できるだけの時間も材料もないのです。判決は、どう考えても、野々口雄次有罪と出されてしまうでしょう」 「わしはそうは思わん」  朝日は穏やかな口調を続けながらも、口許《くちもと》を引き締めた。 「だけど、ここまでの五回の公判を通じて将田検事側にとって不利な要素は、とても少ないですわ。南教授の証言の曖昧《あいまい》さと、あたしが証言台に立ったときに被告人自身が発した異常なまでの罵声《ばせい》くらいでしょう。何よりも、ああして物証が出てきたことが、将田検事にとっての切り札になりましたわ」 「ばってん、その切り札が将田検事の命取りになるかもしれん」  朝日は引き下がらなかった。 「でも、朝日先生もよく御存知のことですけど、物証の存在は裁判に大きく影響しますわ」 「確かにそうじゃが、物証はあくまでも一つの資料に過ぎん。あんたはいつじゃったか『感情に捉《とら》われては、真実は見えてこなくなる』とわしに説教したが、『物証に捉われると、真実は見えてこなくなる』ということも言えるばい」 「先生は、物証は捏造《ねつぞう》だ、とおっしゃるのですか?」  花木は賛成できかねるとばかりに、眼を瞬《しばたた》かせた。 「将田検事の物証の出しかたは不自然と思わんか。あれは、あえて追加公判まで伏せていたものではなく、あんたが証言してから慌てて対策を立てたと見るべきじゃ。事件の起こったときから勢力的に捜査のイニシアチブば取り、雄次君の自白は早くから得ていた彼が、なしてあれほど決定的な物証ば、起訴のときから手元に持っていなかったのじゃ?」 「ええ、そう言われると確かに、カメラのことはもっと早くから分かっていてもいい気がしますわ。将田検事は東京地検特捜部で鳴らしたのですから、被疑者の取調べについては精通しているはずです」  特捜部は、捜査を直接行なうエキスパート集団だ。公判だけを担当してきた検事に比べて、被疑者の取調べに関しては技術も持ち経験も積んでいるはずだ。 「これまでに起きた冤罪《えんざい》事件を見ると、決め手となる物証自体が捏造された事件が決して少なくなか。弘前事件では、証拠となった血痕《けつこん》は押収当時の被告人のシャツには付いていなかったはずだと再審判決で示された。白鳥事件では現場から出てきたとされる弾丸が虚偽のものだと言われたし、菅生事件ではもっと大掛かりに、犯行現場そのものが造り上げられたと指摘されておるばい」  朝日は熱弁をふるった。冤罪という名の、国家権力がなす犯罪に対するこの老弁護士の反感には、鬼気|籠《こも》るものさえ感じられる。 「検事であるあたしとしては考えたくないことですけど、たとえば現場に駆けつけた戸狩警部なら、逸早《いちはや》くカメラを押収しておくこともできるかもしれませんわね。もしもカメラの指紋がドアのノブなどと同じようにきれいに拭《ぬぐ》い去られていたなら、ほとんど証拠価値はないけれども、もし容疑者の指紋をあとからでも付着させることができれば、大きな意味を持ちます。事情聴取の際に、容疑者にこのカメラを知らないかと触らせて、指紋を得ることも不可能じゃないかもしれませんわ」  花木は呟《つぶや》くように口に出した。 「指紋というものは、万人不同のものだけに物的証拠の王様と言われるが、それが付着した時期ば特定でけんという欠点も持っておる。犯行前に付いたものも、犯行後に付けられたものも、区別はでけんたい」  朝日はそう強調した。  その夜、朝日は野々口浩一の自宅近くの歩道橋の上にじっと立っていた。  野々口浩一はここで、仮病を使った広川朱美に声をかけられ、彼女と知り合うきっかけとなったと話していた。  夜ともなれば、野々口浩一の住区に向かう者ぐらいしか通行はなく、確かに待ち伏せるには格好の場所と言えそうだ。  その野々口浩一が、ようやく姿を見せた。街灯に照らし出された明かりのもとでも、その顔が赤いのが分かる。足元も少しぎこちない。義父の水沢が退院したので、幸代が病院に行っていることはないはずだが、外食をして酒を飲んできたようだ。しかも、その量はずいぶん多いようだ。 「浩一君」  手すりに掴《つか》まりながら歩道橋の階段を上ってくる浩一に、朝日は声をかけた。 「朝日さん……」  浩一は眼を凝らした。 「先日は、警察の星崎という警部から任意同行ば求められとったようじゃな。わしはあんたに会おうとしたが、会えなんだ」 「あん畜生が、役所に土足で踏み込んでくるもんで、こっちはえらい迷惑ですよ。結局区役所への左遷も早まって、今日から行くことになったんです」 「不本意な転任ばさせられたヤケ酒というわけか」 「酒でも飲まなきゃどうしようもないですよ。ヤケ酒のどこがいけないんですか」  手すりに身をもたせながら、浩一は突っ掛かるような言い方をした。 「いかんとはひとことも言うとらんたい。わしだって、国鉄のスト権ストが中途半端に終わった夜は、あんたの親父さんと浴びるほどヤケ酒ば呷《あお》っとったばい」  朝日は浩一の腕を取り、自分の肩の上に乗せた。「わしともう少し飲もうじゃなかか。水沢助役はもう退院ばしているけん、家に帰ると、あんたの言う『もう一つの役所がある』みたいで酔うわけにはいかんじゃろ。幸いにも、この博多には安くて旨か屋台がいっぱいあるばい」  朝日はまるで親友と肩を組むようにして、歩道橋を降りた。  おでんの匂《にお》いが漂う屋台の隅に、朝日と浩一は腰を落ち着けた。 「これでも、わしはかつての組合同志の間では一番の酒豪じゃった。そしてあんたの親父さんが二番手だったばい。その息子であるあんたが飲めんわけはなか」  朝日は徳利を浩一に差し出した。浩一はぐいと一気に杯を空けた。 「朝日さん、私はつくづく役所というところが嫌になっています。表面的には、市民の公僕のような顔をしていますが、中へ一歩入ると伏魔殿のようなものです。いろんな政治的圧力の存在に苦しんだり、様々な関係団体からの突き上げの調整に腐心させられたり、複雑な人間関係のしがらみに捉《とら》われたり……」  浩一は朝日が満たした杯を再び飲み干した。「大学を出て公務員になったころは、それなりの希望と責任感に燃えていたのですが、もうすっかりくたびれてしまいました」 「水沢家に婿に入ったことば、悔いとるとか?」 「ええ、正直言って後悔しています。私は自分の将来のためを思って、好きでもない女と結婚してしまいました」  浩一は鼻を啜《すす》った。「そこまで自分を売ったのに、左遷ですよ。私は、これまで同期入庁の者の中では出世頭だったのですが、これでずいぶん遅れをとることになりました。全く、もう役所なんて辞めてしまいたいです」 「ならば、辞めてはどうじゃ。転職ばしてはいかんという法律はどこにもなか」 「私くらいの年齢で転職したら、余計に不利になりますよ。せっかく無理に結婚したことも、意味がなくなります」 「無理に結婚したのなら、それも続ける必要はなか」 「朝日さん」  浩一は少しムッとしたように言った。「人ごとだからと思って、そんなに軽々しく言わんでください。人生というのは、そんなに容易にやり直しはきかないでしょ」 「決して人ごとだとは思うとらんたい。確かに人生のやり直しは簡単ではなか。ばってん、できないわけではなか」  朝日は負けずに杯を干した。「実は、今日、雄次君の公判のあった」 「また、その話ですか」  浩一は下を向いた。 「あんたは、たった一人の弟の言葉、どげん思うとる? 本当に、雄次君の言うように、彼が二人の人間の命ば奪ったと受け止めておるのか?」 「だって、あいつがそうだって自白してるんでしょ」  浩一は酔いを和らげるかのように、頭の後ろを拳《こぶし》で軽く叩《たた》いた。 「雄次君は、あんたのために広川朱美とホテルで会い、二人を殺害するに至ったことになっておる」 「私のために殺人をしてしまったという点は、確かに申し訳ないと思っていますよ。でも、私は雄次に『殺してくれ』とは一度も頼んではいません。ましてや、星崎とかいう刑事や花木とかいう名前の女検事が追及してきたような、私が犯人ということは金輪際《こんりんざい》ありません」  浩一は酒で頬《ほお》を紅潮させながらも、はっきりと喋《しやべ》った。 「わしはあんたを疑ったことは一度もなか」  朝日は、浩一の杯を満たした。「ばってん、疑問に思うたこつが一つある。それはあんたが、たった一人の弟の有罪・無罪のかかった公判なのに、一度も傍聴に来なかったことじゃ」  彼の妻・幸代は来ていたことがある。朝日はそれをきっかけに、奥に隠された幸代と雄次の関係について、知ることができた。 「法廷があるのは平日ですし、なかなか仕事を抜けてというわけには。それに、経験のない者には、傍聴というのは行きにくいものです。裁かれているのが弟だと思うと、余計にそうですよ」  浩一は杯を口に持っていった。その指先がかすかに震えている。 「あんたが来なかった理由は他にもあるとじゃなかか」  朝日は自らの杯に酒を注《つ》いだ。「傍聴というのは、裁判のやり取りを生《なま》で見ることがでける。検事も弁護人もまのあたりにすることがでける。ばってん、それは裏を返せば、検事や弁護人の側からも傍聴席が窺《うかが》えるということばい。今回の公判は、さほど世間の耳目を集めとるというわけでもなく、傍聴人は少なかった。そげん中で傍聴席に座り、裁判の進行を見るあんたが、検事席の将田から表情を読まれるのが怖かったとではなかとな。いや、あるいは、わしに観察されることが怖かったのかもしれん」 「ど、どういう意味ですか?」 「将田検事の起訴状によると、乗松市議は、道路開発課長であるあんたの弱みば握ろうと思うて、美人局《つつもたせ》ば仕掛けたことになっておる。ばってん、乗松市議がそこまで策を弄《ろう》するほどの利益が道路拡幅にあるとは、わしには思えんかった。そこでわしは問題の道路にビルば持っている若江という男に尋問ばしたところ、道路の拡幅の話は市民病院の移転絡みで起こっておることが分かった。市有地の払い下げということになれば、単なる道路拡幅どころではない大きな利権が出てくる。もちろん、広い市有地の払い下げともなれば、失礼ながらあんたのような課長クラスの人間が裏で動いただけではどうもならん」 「…………」  浩一は黙ったまま、朝日を見つめている。 「ばってん、市長に次ぐ地位にあるあんたの義父なら、そいつがでけるかもしれんな。乗松が、美人局ば弄してあんたの弱みを握ろうとしたのは、それが本当の狙《ねら》いではなかろか。もちろん、乗松のような一市会議員が、市有地の払い下げを超高層ホテル建設をしたがっておる名星グループに仲介したとも考えにくい。乗松市議の弔いということを理由に、わざわざ東京から裁判の進行にさして影響のない証言をしにやって来た深林寺代議士が、その仲介者じゃろ」  浩一は持っていた杯を落としてしまった。杯にまだ残っていた酒が、ズボンを濡《ぬ》らしたが浩一は拭《ふ》こうとはしない。 「深林寺代議士は、早く雄次君を犯人として裁判を終わらせたかったように見えた。深林寺と水沢助役の間には、すでに市有地払い下げの密約話が進行しておったようじゃ。わしはここに来る前に、水沢助役の病室付き添いばしとった女性のところへ足を運んで確認ば取って来た。深林寺代議士とおぼしき人物が、あんたや乗松市議と共に、入院中の水沢助役の病室ば訪れ、彼女は人払いされてしまったと話しておった。事件の起こる二日前のことばい」  朝日は、浩一のズボンの上に転げたままの杯を拾い上げた。「乗松市議が、そこまで強行に話を進められたのは、義理の息子であるあんたのスキャンダルという隠し玉ば持っておったからと違うか」 「朝日さん……」  浩一は声を掠《かす》らせた。 「あんたも深林寺代議士も、将田検事がその市有地払い下げにまつわるキナ臭いことば嗅《か》ぎつけるのを恐れたはずじゃ。将田は東京地検特捜部の腕利き検事であったし、福岡地検特捜部の設置ば唱えておる将田誓輔・最高検次長の息子として、政治絡みの犯罪の摘発に高い関心ば持っておった」 「あ、あの敏腕検事に市有地払い下げの密約を掴《つか》まれてしまったら、私の義父は破滅してしまう。もちろん、密約の引き金を作り、義父への橋渡し役をしてしまった私も、役所で生きていくことはできません」  浩一はようやく、言葉を吐き出した。 「あんたは、雄次君が自供したのを幸いに、道路拡幅の件で美人局《つつもたせ》を受けかけたということにして、義父には累が及ばないようにしたのじゃな」 「その程度なら、私は一時的に出世コースから外されることはあるだろうが、義父の威光がある以上、馘《くび》になったりはしないだろうとの計算がありました」  浩一は苦しそうに、ネクタイを緩めた。 「浩一君、あんたはそげん計算ば、雄次君が逮捕される前からしておったとか?」 「いえ、違います。私は、雄次より先に取調べを受けました。そのときはもう市有地払い下げの密約が発覚してしまうことをほとんど観念していたのです。ところが、将田検事は私に乗松市議が仕掛けてきた美人局のことを正確に把握していなかったのです」 「それは、なして分かった?」 「恥ずかしくて面目ないことですが」  浩一は意を決めたように続けた。「私は広川朱美のマンションまで行って、そこで誘われるまま寝ました。私は、瞬時の悦楽に陥りました。もちろん、そのときは平凡なOLだという彼女の自己紹介を信じていました。そこへ突然、フラッシュが焚《た》かれたのです。乗松市議が、してやったりと卑屈な笑いを湛《たた》えて立っていました。私の痴態は、証拠写真に撮られてしまいました。乗松は、このことを公表されたくなかったら、義父に取り入ってくれと半ば恐喝気味に交渉してきました。私は仕方なく、すぐに義父に話を持ちかけました。大きな声では言えませんが、義父はこれまでにも、法律に触れるような職権乱用をやったことがあります。その金は出世のために使ったようです。そうでなければ、二流の私立大学の専門部出で、市のナンバー2の地位にまで昇り詰めることはできなかったでしょう。義父は、乗松の申し出を承諾しました」  浩一は口惜《くや》しそうに唇を噛《か》み締めた。そして再び喋《しやべ》り出した。 「ところが、地検に呼んで私を取り調べた将田検事は、乗松市議に撮られた私の痴態写真を掴《つか》んでいませんでした。捜査のリーダーシップを取っているはずの検事が知らないということに、私は希望をつなぎました。あれは撮られたものの、カメラが故障したかピントが外れたために巧く映らなかったのではないか、と思うことにしました」 「ということは、あんたは焼き付けされた写真そのものは見とらんとじゃな」 「ええ、乗松市議はフラッシュを焚《た》いたその場ですぐに脅迫をしてきましたから」 「写真は何枚撮られた?」 「二枚です」  朝日は考え込んだ。ここでも、今日の公判でポイントになったカメラのことが登場した。ぼんやりとではあるが、何かが見えてきそうだった。 「あんたが将田検事に事情聴取されたとき、深林寺代議士や水沢助役のことについては、全く触れられんかったのじゃな」 「ええ、私にとっては不幸中の幸いでした。密約のことがバレなければ、私は乗松市議や朱美を殺してなんかいないのですから、負い目はありません。私は、将田検事の事情聴取をだんだんと落ち着いた気持ちで受けることができました」 「事情聴取を地検で受けたとき、雄次君と顔ば合わせんだったか?」 「一度、取調室の前の廊下で、すれ違いました」  浩一は眉根《まゆね》を寄せて、記憶を呼び起こした。 「雄次君が自白したと知ったのは?」 「新聞の報道です」 「そのとき、どげん思うた?」 「とても複雑でした。私の犯行でないということがはっきりしたことは歓迎すべきことでした。でも、弟が容疑者というのはショックでした。私は確かに弟が朱美と知り合いだということを聞いて、殺してくれとは絶対に言ってませんが、何とかしてくれとは頼みました。この先、ズルズルと乗松市議に腐れ縁を持たれるのは嫌ですから。だから、弟の身辺を洗うことで、将田検事が密約を嗅《か》ぎつけてしまうのではないかという不安は強かったのです。さいわい、それは逃れましたが、将田検事の眼が怖くて公判にはなかなか足が向きませんでした。勘繰られたくないので、弟には悪いが、なるべく疎遠な仲だという姿勢をとりました」 「雄次君には、あんたが乗松市議に証拠写真ば撮られたことを話したのか?」 「いいえ、打ち明けたのは義父だけです。今も言いましたように、雄次とはそこまで親密な関係じゃありません。いくら兄弟でも、バーテンをしていて、傷害致死事件で服役した人間と親しくすることは、やはり公務員としての出世に関わるのですよ」  浩一は寂しげに笑いを浮かべた。「役所の連中は、私が国立・博多大学の法学部を出ていることや逆玉の輿《こし》に乗ったことで、庁内屈指のエリートと見ているようです。確かに、私は同期入庁者の中で一番早く三十二歳で課長になりました。でも、エリートなんて、内実はとても苦しくて不自由で孤独なんですよ。大濠公園や福岡城の濠で白鳥を見るたびに、私は自分自身を投影してしまいます。外面的にはとても雅《みやび》やかに水面を泳ぎ、周りからは優美の象徴として扱われるけれど、見えない水の下では必死に足をばた付かせ、水掻《みずか》きをいっぱいに拡《ひろ》げているんですよ」 「エリートさんの辛《つら》さか……」  朝日は徳利を手に持ってくゆらせた。朝日はお世辞にも、エリートとは言えない経歴だ。 「脆《もろ》いもんですよ、エリートなんて。負けた経験がないだけに、ちょっとした躓《つまず》きで、たちまち崩れちゃいます。そのくせ、それを取り繕うのに必死になるんですよね。人一倍、自分のことが可愛《かわい》くて」 「取り繕うのに必死か……」  確かに、浩一は今まで自己の保身のことしか考えずに、雄次のことをろくに省みていなかった。 「ばってん、よう話してくれた。さすがに野々口健蔵の長男ばい。あるいはもしかしたら、あんたの弟さんば救えるかもしれん」  朝日は徳利に直接口をつけて、すっかりぬるくなってしまった中の酒をぐいと飲み干した。  浩一と別れたあと、朝日は酔いの回った足取りで、天神橋の方へ向かった。  金曜日の夜ということもあって、多くの酔客が、天神橋の上を行きかう。さまざまな人生がこの橋の上で交錯している。上役への悪口を肴《さかな》に盃《さかずき》をかわして平素の溜飲《りゆういん》を下げたサラリーマンもいれば、取引先との接待で旨くない酒を飲んだセールスマンもいるだろう。甘いグラスを重ねた新婚カップルもいれば、失恋のヤケ酒を呷《あお》った若者もいるに違いない。  ただ、彼らに共通して言えることは、それぞれの酔いに浸りながら、自由にこの橋の上を渡れるということだ。拘置支所に身を横たえる雄次は、酒を飲むことはおろか、外出すらも許されないのだ。 (ばってん……)  天神橋の上に立った朝日は、薬院新川の暗く、どんよりとした流れに視線を向けた。  この薬院新川に投げ込まれたカメラが、決定的な物証として将田から提出された。客観的には、もはや雄次の犯行は動かしがたい盤石なものとなったという様相を呈している。  しかし、朝日には、記者会見まで開いてカメラを切り札として提出した将田の態度に、かえって作為が匂《にお》った。  そしてたった今、浩一と会って、乗松の画策は単なる道路拡幅|云々《うんぬん》のレベルではなく、市民病院の移転や筑紫湾の埋立地払い下げの問題にまで関わっていることがはっきりした。そして、水沢助役や深林寺代議士が裏で絡んでいることも分かった。 (東京地検特捜部で鳴らした敏腕検事の将田が、なぜそんなことを看過して、あくまで野々口雄次の犯行説に、血道を上げるのじゃ。将田ほどの男なら、深林寺代議士の暗躍に気づいた可能性も充分と思えるのじゃが……)  一瞬、将田が深林寺から賄賂《わいろ》を受けていたとしたら、という想像が朝日の脳裏をかすめた。しかし、朝日はすぐに、それを打ち消した。最高検次長の実父の宿願である福岡地検特捜部設置の夢を実現に近づけるべく博多に乗り込んできた将田が、そんな贈賄の誘惑に負けるとは思えなかった。  川面を通る夜風に、朝日は次第に寒さを感じて、ポケットに手を入れた。丸めた紙に、朝日の指が当たった。花木を証人とすることに対する〈取り下げ申請書〉であった。  朝日は第四回の公判で、勇気を奮い起こして〈取り下げ申請書〉を丸めて、花木を証言台に立たせた。しかし、それが朝日と花木と将田を鼎立《ていりつ》させる直接のきっかけとなった。  朝日は、この事件に携わり始めたころ、花木から次のような話を聞いていた。  将田は当初、政治絡みのものとして県警の星崎と共に捜査を開始し、野々口浩一をマークした。ところが、北署の戸狩警部が野々口雄次のことを調べ出しているのを聞くと、そのあとは野々口雄次を容疑者として絞り込み、あくなきまでの執念で今に至っている。  花木は、そのことが念頭にあったのだろう、野々口浩一犯行説を唱えた。  野々口浩一から犯行の模様を聞いたからこそ、雄次が�下の階に居た辻井文昭の聞いた「ひ、人殺し」という悲鳴や博多グレートホテル従業員の丸谷の「部屋には電気がついていました」という目撃証言などの、犯人しか知りえない事情�を供述できたのだとする花木の論理は、確かに一理ある。  けれども、花木の浩一犯人説は、将田が提出した�雄次の指紋の付着したカメラ�という物証の前にあっさりと砕かれた観があった。  しかしよくよく考えてみると、将田が当初、自ら進めていた�浩一に対する捜査�を途中でなにゆえに�雄次に対する捜査�に切り変えたのか? の説明はなされていない。捜査過程で、カメラの指紋という物証が出てきたのならともかく、それは捜査が完了し起訴がなされたあとの、公判の途中で登場しているのだ。  朝日は、手にした〈取り下げ申請書〉を丸めたまま、薬院新川に投げ込んだ。〈取り下げ申請書〉の白い紙は、くるくると回転しながら、音も立てずに水面に落ちた。川面に映った中洲のネオンサインの上で、かすかな波紋が描かれたが、すぐにそれは消えた。一輪の花を想像させる白い紙は、ゆっくりと流れに身を任せ、そして橋杭に引っ掛かって停まった。 (野々口雄次が乗松市議から取り上げて、この川に投げ込んだとされるカメラ本体は見事なまでに雄次の指紋ば残して発見された。ばってん、フィルムだけは流されてしまった。そげん都合のよかことがあるじゃろうか)  朝日は、橋杭に引っ掛かったままの紙の花をじっと見据えたまま、動こうとしなかった。  先ほど、浩一は美人局《つつもたせ》の証拠写真を乗松市議に二枚撮られたと言っていた。ところがその二枚の写真は、浩一自身すら見ていないうちに、乗松は死んでしまった。雄次が露光させて投げ込んだとされるフィルムにその二枚の写真が写されていたとすれば、それは一応の説明がつく。ただ、その結論は、あまりにも浩一に有利な印象を受ける。美人局によって、乗松市議から脅されるネタが巧く消えてくれたのだ。  しかし朝日は、浩一が犯人だとする花木説には、それでも賛成できない。  もしも浩一が博多グレートホテルで乗松と朱美を殺害したのなら、浩一は美人局写真を撮られたフィルムをいったいどうやって手に入れたうえで処分したのだ。強いてこじつければ、浩一が「取引をしたいから、フィルムを持ってきてくれ」と言って、乗松に博多グレートホテルまで持ってこさせておいて彼を殺したということになろう。だが、マムシと異名を持つ乗松が、充分に利用もしないままに、そう簡単にフィルムを言われた通り持ってくるとは思えない。しかも、カメラに、雄次の指紋が付着していたことも説明できない。 (カメラに付着した指紋が、大きな意味を持ちそうじゃ)  今日の公判における溝岸証人の発言やボディナンバーからして、そのカメラが乗松所有のものであることは、まず間違いない。  カメラは、ここの薬院新川に大量の人員を投入して川ざらえをして得たものであるから、何者かが投げ込んだことは確実だと言える。ただ、それが投げ込まれた時期は、犯行の直後とは断定できない。 (今日の公判に登場した羽宮技官は、『指紋は、照合するのに十二分のくっきりしたものでした』と発言ばしておる。案外、最近の付着かもしれん)  朝日は、腕を組んだまま、ゆっくりと息を吐いた。  雄次が逮捕されて、三カ月が経《た》つ。もしも浩一が、雄次に指紋を付けさせたとしたなら、少なくとも三カ月前ということになる。逮捕以降に、浩一が雄次の指紋を付けることは不可能だ。拘置支所に面会に行ったとしても、分厚いプラスチックボードがそれを阻止する。しかも弁護人以外の者との面会の場合は、刑務官の立会がある。したがって、たとえば「公判の雲行きが微妙だから、ここでカメラのことを告白するんだ」といった類の指示を出すこともできない。  かといって、将田が記者会見の場で呈示した、�雄次が公判の展開を見ていくうちに、カメラとフィルムのことを思い出した�という説明にも、納得がいかない。そんな重要なことを、当初の自白の段階で思い至らなかったというのは、どう考えてもおかしい。朱美の「ひ、人殺し」という悲鳴などの細かな点まで、ちゃんと供述しているのだ。 (もしも、カメラの投げ込みが作為としたなら、そげん作為がでける者は誰じゃ?)  何かが、薬院新川をじっと見据える朝日の脳裏で胎動を始めていた。      5  一週間後、第六回の公判が開かれた。  朝日はもはや新たな弁護側の証人を申請しなかった。  したがって、裁判は最終段階である検事の論告求刑に移行した。このあと、弁護側の最終弁論があって結審となり、あとは判決言い渡しを待つだけとなる。  将田検事はおもむろに立ち上がった。手にはこれから朗読を始める論告求刑書を持っている。 「本件公訴事実に対し、被告人は一貫して犯行を認める自白をしている。これは揺るぎない事実である。しかるに弁護人はろくな根拠もなく、被告人の無罪を主張した。そのために、被告人の減刑に対する主張は何もなされていない。このことは、弁護人としての権限逸脱行為と評価してもよく、強い憤りを感じざるを得ない」  将田は読み上げながら、弁護人席の朝日に非難の視線を送った。「これまでに出された人的証拠および物的証拠を振り返っても、被告人の犯行は明白である。たとえば『ひ、人殺し』という叫びを聞いたという辻井証人や『部屋の電灯がついたままだった』という丸谷証人の発言は、いずれも未発表のものであり、犯人以外の人間が決して知る由のないものである。そして被告人の指紋が内部に付着した乗松三喜夫所有のカメラが、被告人の供述どおり薬院新川の川底から発見されたことによって、被告人が犯人であることは盤石のものとなった。しかるに、弁護人側は公判に証人も物証も何も提出していないに等しく、到底検察側の立証を崩せていない」  将田は演説でもするかのように、廷内を見回した。  今日の公判には、初めて浩一の姿があった。浩一は俯《うつむ》いたまま将田の論告求刑を聞いている。その横では、幸代がハンカチを握り締めている。その後方では、花木がじっと視線を注いでいる。  将田検事の朗読は、被告人の情状、量刑の点に移った。 「——被告人が二人の人物の生命を奪ったことは、非難に相当する。しかし、自分の兄が美人局《つつもたせ》を仕掛けられて苦しんでいるのを救おうとしたという背景には同情を禁じえない。とりわけ、乗松市議に対しては、突然フラッシュを焚《た》かれたための動転と卑怯《ひきよう》さへの怒りから、つい突き飛ばしただけであり、そこに殺意は認定しがたい。広川朱美に対しても、逃げられれば自己の犯行が発覚してしまうという事情が存した。そして、起訴前の取調べの段階および公判を通じて、一貫して素直に犯行を認めている点は有利に評価すべきものと考える。加えて弁護人に不充分な弁護しかなしてもらっていない点は、情状酌量に値する」  将田はもう一度朝日の方を睨《にら》んだ。「以上の諸要素を鑑み、懲役六年が相当と思われる」  論告求刑書を力強い口調で読み終えた将田は、小さく息をついてからゆっくりと腰を降ろした。 「では、弁護人は最終弁論を始めてください」  仲岡裁判長が、朝日の方を向いた。 「本件控訴事実は、被告人が乗松三喜夫に対する傷害致死並びに広川朱美に対する殺人ということでありますが、わしは共に否認いたしますたい。公判の当初から主張ばしておりますように、被告人は無罪であります」  朝日は最後の最後まで全面的に対立する構えを見せた。将田の鋭い論告求刑の朗読によって廷内に張り詰めた緊張感が、朝日の毅然《きぜん》とした態度により一層ボルテージを上げた。「わしはこの最終弁論ば通じて、被告人の無罪ば証明したかと考えております。正直に申しまして、第一回の公判が始まるまではわしは被告人の弁護委任ば受けるのに精一杯の状態でしたばい。そして裁判が開始されても、被告人の無実ば信じるものの、これといった決め手はなかとでした。真相がぼんやりと見え出したのは、花木証人が登場したあたりからですばい」  朝日は傍聴席の花木の方を一瞥《いちべつ》した。 「花木証人は、わしが思いもよらんかった考えば持っておりました。真犯人は野々口浩一君であって、雄次君はその兄を庇《かば》っているのだと、いうことでしたばい。花木証人は公判でそのことを指摘し、被告人は珍しかほどの動転ば見せました」  被告人席の雄次は、心配げな眼で朝日の方を見据えている。いったいこれから朝日がどんな弁論の展開をするのか、その思いで胸をいっぱいにしているようだ。 「そのことが、わしにひとつのヒントば与えてくれました。本当は、犯行ばしとらんのに、兄が犯行ばしたと思わせられてそれを庇おうとしたのですばい。要するに、やってはおらん兄の犯行ば、存在したと検察側から思い込まされて、雄次君はその罪をかぶっておったのじゃ」  朝日は挑戦的に机を平手でバンと叩《たた》いた。 「異議あり」  将田が興奮気味に立ち上がった。「本来、弁護人の最終弁論の途中で異議を申し述べるのは変則的なことです。しかし、何の根拠も示さずにありもしないことをデッチ上げられて検察の名誉を汚されたら、黙っているわけにはいきません」 「ありもせんことばデッチ上げて、無辜《むこ》の人間ば陥れて、検察の名誉を汚しておるのは、むしろあんたたい。これからその根拠ば示そう」  朝日は、将田を指差した。「裁判長、ここで質問したか証人のおりますけん、尋問ばさせてください」  仲岡裁判長は、面食らった表情を隠しきれなかった。最終弁論の途中での証人の登場など、まず前例がない。  三人の裁判官は壇上で小声で話し合った。破天荒な朝日の法廷闘争は、ここに極まった感がある。 「この段になって、証人を立てることについて検察官の意見はどうですか?」  仲岡は将田に訊《き》いた。 「根拠なく、いい加減なことを言われるよりは、マシですな」  将田は眉《まゆ》を吊《つ》り上げて答えた。 「裁判所としても、弁護側の主張する理由については、興味があります。異例ではありますが、証人申請を認めたく思います」  仲岡は、そう断を下した。 「では、まず野々口浩一君ば証人とします」  朝日は傍聴席を振り向いた。  浩一は決心したかのように立ち上がった。 「あんたは乗松市議から、広川朱美を美人局《つつもたせ》として、仕掛けられたわけじゃが、どげん要求のされかたばしましたか?」 「私が朱美とベッドで寝ているところを、乗松市議に写真を撮られました。そして乗松市議は、私に対して義父に市民病院移転後の跡地について、深林寺代議士が仲介役を務める名星グループへ秘密裏に払い下げるように進言せよと持ちかけてきたのです——」  浩一は屋台で朝日に告白したとおりを、公判で明らかにした。傍聴中の記者たちの間からざわめきが起こった。 「あんたは、乗松市議に撮られた写真ば見たことがありますかな?」 「いいえ。でも、もうああやって現場に乗り込まれた以上、否定のしようがないと私は諦《あきら》めていました」  浩一の答えに、雄次は被告人席で眼をパチクリさせた。朝日はそれをめざとく見つけた。 「次に、被告人に訊《き》きたかことがあります」  浩一と交代する形で雄次が証言台に立った。 「今の浩一君と広川朱美の現場写真ば、あんたは見たことがありますか?」 「え、ええ」  雄次は初めて朝日に対して素直な姿勢を見せた。 「それはどこでですか?」 「地検での取調室です」 「あんたは、それを見て、乗松市議と広川朱美を殺したのは兄さんだとの確信を深めたのではなかとですか?」 「…………」  雄次は俯《うつむ》いて口を噤《つぐ》んだ。 「雄次君、あんたが兄さんと幸代さんば、守ろうという気持ちは尊かと思う。ばってん、昨日わしはあの二人と話し合った。あんたが本当のことば喋《しやべ》ってほしかと、二人とも熱望ばしとるたい」  朝日はいったん雄次への質問をやめて、今度は幸代を証言台に導いた。朝日としては、彼女を証人として法廷に出すことは反対だった。けれども幸代は、どうしても雄次の前で証言をしたい、と朝日に強く申し出たのだ。 「あんたは、今でもこの雄次君のことが好きか?」  およそ、法廷での弁護士の尋問としては不似合いなセリフであったが、誰も笑わなかった。それほど真摯《しんし》な空気が廷内に漲《みなぎ》っていた。 「はい。あたし、今度の事件があって本当にいろいろと悩み、迷いました。そしてやっと、自分の気持ちに素直に生きることが何よりも大切であることに気づきました。これまで、あたしは父の人形としての息の詰まりそうな人生しか歩いてきませんでした。結局、臆病《おくびよう》だったんだと思います。今、ようやく口に出して言えます。雄次さん、あなたのことが好きです。ですから、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をかぶらないでください」  雄次は、電流に触れたかのようにビクリと体を震わせた。  幸代はそのあと、浩一との結婚前に雄次と関係があったこと、そのことに引け目を感じて雄次が小倉での傷害致死事件で真実を隠して実刑判決を望んだこと、そして今回の事件でも自分たち夫婦のために身を退《ひ》こうとしている姿が想像できることを、瞳《ひとみ》を潤ませながらも懸命に喋《しやべ》った。  朝日は、幸代の勇気に感嘆し、彼女の雄次への愛の深さを再認識させられた。そして、朝日は自らに言い聞かせた。 (幸代さんは自分自身を鞭《むち》打つように、衆人の前でああまで過去ば曝《さら》け出している。彼女の心意気ば活かすためにも、ここは何としてもわしが踏ん張らなくてはいかん)  朝日は再び、雄次を証言台に求めた。 「雄次君、あんたは乗松市議と広川朱美の命ば奪ったのは兄さんじゃと、独り善がりをしとったのじゃ。いや、させられとったのじゃ。兄さんと朱美がベッドにおる写真ば見せられ、しかもあんたは地検の取調室で事情聴取ば受けた兄さんと、わざと廊下ですれ違わされとる」  朝日は語りかけるように雄次に話した。「ばってん、あんたの兄さんは犯人ではなか。わしがこのあと証明ばして見せる。だけん、本当のことば喋るんじゃ。今この場で見たように、幸代さんはそのことを何よりも望んどる」 「お、おれは、地検で、『貴様の犯行か、さもなくば貴様の兄貴の犯行だ』と迫られたんだ」  ようやく雄次は口を開いた。「兄貴が朱美に引っ掛けられたのを、おれは偶然の目撃から知った。おれは朱美と顔見知りだったから、土下座して頼み込んだ。だけど、彼女はとても聞き入れてくれなかった。もし兄貴が頼んでも、同じ強硬な態度だったと予想できた。その朱美が、何者かに殺されたことをテレビのニュースで見た。そして突然、戸狩とかいう刑事がやってきて、朱美が殺された事件で事情聴取がしたいからと地検に連れて行かれた。おれは地検の廊下で兄貴とすれ違い、兄貴に嫌疑がかかっていることを悟った」  雄次は、検事席の将田を真っ直ぐに指差した。 「そしてあの検事から、兄貴が朱美と裸で絡んでいる写真を見せられ、道路拡幅の件を聞かされた。『広川朱美と乗松三喜夫が死んで、誰よりも得をするのは、貴様の兄貴だ。朱美と言い争っていた貴様が兄貴のことを思ってやった犯行か、さもなくば貴様の兄貴の犯行だ』と何度も検事に迫られた。おれは、兄貴のために身代わりになってもいいと思った。それが幸代さんのためにもなるに違いないし、婚前に幸代さんを盗《と》ってしまったおれの兄貴に対する罪滅ぼしにもなると考えた。高校中退で前科という脛《すね》に傷を持つおれが娑婆《しやば》で苦労して生きていくよりも、二人が幸せに生きてくれたらずっと値打ちがあるんじゃねえかって、思ったんだ」 「異議あり」  将田が耐え切れないという表情で立ち上がった。「ただいまの被告人の発言は、弁護人の誘導によるものです。弁護人は何ら当てもなく『あんたの兄さんが犯人でないことをこのあと証明して見せる』と吹き込んで、被告人を暗示にかけているのです」 「暗示ではなか。わしは、すぐに証明ばして見せる。弁護士生命ば賭《か》けてもよか」  朝日は唾《つば》を飛ばして反論した。 「異議を退けます。続けてください」  仲岡裁判長は低い声で言った。 「雄次君。あんたは、花木証人が浩一君の犯行説ば指摘して、ひどく慌てたな」 「ええ。あんな形で兄貴の犯行が発覚したなら、せっかくのおれの身代わり行為は無駄になってしまう」 「そのあと、あんたは将田検事に言われるままに、拘置支所の取調室でカメラに指紋ば付けた。そうじゃな」 「そ、そのとおりだよ。そうしなきゃ、兄貴の犯行がバレるって思ったから、検事が差し出したカメラの蓋《ふた》の裏に親指を押しつけたんだ」  雄次ははっきりと肯定した。将田は検事席で、視線を下げながら、意味もなくペンを握り締めた。 「裁判長、私はこれから、この事件をもう一度、最初から振り返ってみたかと思いますたい。そのことが、先ほど申しました『証明』に繋《つな》がると思いますけん」  朝日は、この場で真犯人を指摘するつもりで、この公判に臨んでいた。犯人が野々口雄次でもなく、野々口浩一でもないことを明確にするには、真犯人を指摘することこそが決め手と言えた。攻撃は最大の防御、である。 「この事件には、少なくとも五つの不可思議な点がありますたい。順を追って、それを挙げたかと思います」  朝日はここで一つ咳払《せきばら》いを入れた。「そもそも、この事件は検察が捜査の第一線に乗り出してきたというのが、その幕開けですばい。徳島ラジオ商事件をはじめとして、検察が警察の捜査にしゃしゃり出てきたために、事件解決が却って紛糾《ふんきゆう》した例は幾つかあります。ばってんこの事件には、被害者の一人が市会議員ということで政治性が絡んでいる可能性があったという特徴がありましたばい」  朝日は、傍聴席の後方にいる花木の方に視線を向けた。 「その政治性ば理由に、本来の順番ならば、花木検事の担当であるはずなのに、将田検事が永畑検事正に掛け合って、自分の受け持ちにしたといういきさつがあります」 「そのとおりです」  花木は傍聴席から、透き通った声で返答した。傍聴席からの発言は許されないものだが、仲岡裁判長も将田検事もそれをとがめなかった。 「九州にも地検特捜部を設置すべしという持論をかねてから唱えておったという将田誓輔・最高検次長が実父というかねあいもあったのでしょう、永畑検事正は、花木理恵検事ではなく将田知彦検事に本事件ば担当させました。ばってん、逮捕されたのは野々口雄次君であり、その動機も『市道拡幅に関して美人局《つつもたせ》攻勢ば受けた兄・浩一から手を退《ひ》いてくれと頼みに行って、逆に乗松から脅されて激昂《げつこう》した』という政治性のさしてなかものでした。これが不可思議の第一点ですばい」  朝日は続けた。 「この事件の公判では、南教授の証言に関して、検察側は事務官をサクラ役に使うという姑息《こそく》な手段に出ましたばい。確かに、過去の冤罪《えんざい》事件ば見ても、検察側が詐術を弄《ろう》した例は枚挙に遑《いとま》がなか。ばってん、そのほとんどは被告人が犯行ば否認しているために、どうしても証拠ば捏造《ねつぞう》する必要がある場合ですたい。雄次君は一貫して、犯行ば認めとるにもかかわらず、南教授に策を仕掛けとる。これが不可思議の第二点ですばい。そして、この法廷に多忙な代議士・深林寺栄造が証人として現われたのも、不自然じゃ。もし乗松三喜夫が被告人としてその有罪・無罪が問われているのならともかく、これは乗松が被害者の事件なのですばい。これが第三点目の不可思議」  朝日のしわがれた声が、静まり返った法廷につんと響いている。 「そして、花木証人に迫られた結果、カメラという物証が突然登場した。このような重要な物証があるならば、公判の最初に登場していてしかるべきじゃ。現場の状況と逐一合致する正確過ぎるほどの自供ば聞き出しておきながら、カメラのことだけ引き出せんかったとは、到底納得のいかん。これが不可思議の第四点じゃ。そしてこれに関しては、たった今被告人の供述により、将田検事に言われるまま差し出されたカメラに指紋ば押したことがはっきりしましたたい。拘置支所において、わしら弁護士が接見するときには、被告人との間に冷たかプラスチックボードば立てられとります。わしは今回、なかなか心ば開いてくれん雄次君と相対するのに、プラスチックボードの存在が本当に邪魔になりましたばい。ばってん、検察側が取調べるときには、そのような障壁はなか。だけん、カメラに指紋ば付けさせる工作も可能たい。こんな不公平なことはなか」 「異議、異議あり——」  将田は手を上げたが、あとの言葉が続かない。 「語るに落ちる、という言葉があるばい。将田検事、あんたにとって、カメラの物証を出したこつが命取りになったごたる」  朝日は、揺るぎない視線を将田に注いだ。「野々口雄次君の指紋ば付けたカメラば、あんたは薬院新川に捨てた。そして、事情ば知らん戸狩警部を使って、川ざらえばさせた。発見されるのは、当たり前たい。そのカメラには、二つの特徴のあった。一つはカメラの表面に誰の指紋もなかったということじゃ。もう一つは、フィルムが抜き取られてしまい、見当たらなかったことばい。この二つはフィルムを抜き取るときに、うっかりカメラの蓋《ふた》の裏に指紋を残してしまうという見事なまでの接点が用意されとった。そして、羽宮技官ば証人として尋問を通じて、『表面の指紋は約三カ月の間、川底に放置されたために水流に消されたのであり、フィルムについては軽いゆえに博多湾まで流されてしまったのでは』という答えば巧みに引き出した。つくづく感心ばする法廷技術たい」  将田を見据えた朝日の視線は一段と鋭さを増した。 「ばってん、その本当の狙《ねら》いは、カメラの表面についたあんたの指紋を消し、フィルムに映っていたあんたの姿をこの世に無きものとするためであったはずたい」 「な、何を言い出すんですか」  将田は声を掠《かす》らせた。朝日はそれを黙殺するかのように、続けた。 「五番目の不可思議な点は、野々口浩一君が広川朱美から誘惑ば受けて彼女のマンションで撮られたはずの現場写真が、地検で雄次君には見せられ、浩一君には示されていなかったことですばい。それは雄次君に対してはさも兄がやった犯行のように思わせる必要があるため、写真を見せたのであり、逆に浩一君に対しては美人局《つつもたせ》を通じての水沢助役や深林寺代議士の密約があることを検察がまだ気づいていないと思わせるため、示さなかったと考えると辻褄《つじつま》が合いますばい。そうすれば、雄次君としては、兄貴のために罪をかぶる気になるし、浩一君としては密約を感づかれないように将田検事から遠|退《の》き、裁判を少しでも早く終わらせたいと思うようになるからですたい」  朝日は大きく両手を拡《ひろ》げた。「ここで考えねばいかんことは、警察が現場検証や乗松市議の家宅ば捜索しておるはずなのに、その写真の存在ば知らんことですたい。その写真をなして将田検事が雄次君に見せることができたのか? そして雄次君に指紋ば押させて薬院新川に投げ込んだカメラをどうやって入手でけたか? それは将田検事が現場である博多グレートホテル六三三号室に居合わせて、フィルムの入ったカメラを奪うことができたからじゃと、わしは考えますたい」 「…………」  将田はもはや返すべき言葉を失っていた。 「乗松市議は、浩一君と広川朱美の写真ば二枚撮った。ばってん、その写真を映したフィルムはまだカメラの中に残っておったとすると、巧く説明のつく。さすがに何度も美人局写真を現像に出すのは気が引けたのか、それともすぐに将田検事を嵌《は》めた写真を撮ることが分かっておったからまだ二枚しか使っとらんフィルムば装填《そうてん》しておったのか、いずれにしろ乗松市議は博多グレートホテルへ〈浩一君の姿ば映したフィルム〉の入ったカメラを持ち込み、浩一君のときと同じようにバスルームに隠れておった。つまりあのマムシ市議は、美人局作戦を浩一君に対するだけでなく、あんたにも使ったわけじゃ。家庭に不満ば抱いとる浩一君については、広川朱美を誘惑役として使った。あんたに対しては、おそらく広川朱美は情報提供者としての演技ばして、博多グレートホテルにあんたを呼び出したのではなかかと推測する。そして突如下着姿になった朱美と一緒に居るあんたの姿ば、乗松市議はフラッシュば焚《た》いてカメラに収めた」  朝日は供述書を差し出した。「わしは一昨日、野党の市議と会って、乗松市議に関する疑義を質してきた。その中に、筑紫湾埋立地の払い下げに関する疑義があった。名星グループはそこに遊園地を中心とするレクレーション施設ば造りたかと思うているようじゃ。その埋立地は、同じく名星グループが超高層ホテルの建設ば狙《ねら》っておる市民病院跡地と目と鼻の先ばい。将田検事、あんたは密《ひそ》かに、名星グループの政治的代理人とでも言うべき深林寺代議士と市との癒着《ゆちやく》を密かに追っていたはずばい。それがうまく摘発できて実績を上げられれば、福岡地検特捜部の設置というあんたら親子の宿願がまた一歩近くなるはずじゃった。ばってん、地検特捜部がでけるまでは、その役割を一人で遂行せねばならんことがあんたの悲劇だった。『将田という検事がわしの身辺を嗅《か》ぎ回っている様子だ。何とかしてそれを阻止しろ』と指示を受けた乗松は、広川朱美を情報提供者役に仕立てて、あんたを誘《おび》き出す。そしてあんたと朱美がさも情事をしているかのような写真を撮り、あんたを黙らせようと乗松はフラッシュば焚いた。あんたはそれに怒り、乗松を壁に突き飛ばした。後頭部ば強打した乗松は絶命してしまった。そして『ひ、人殺し』と悲鳴を上げて逃げようとした朱美の首を絞めて、殺害した。そしてカメラを持ち去った……」  将田はとうとう頭を抱えた。 「雄次君が現場の状況をこと細かく供述して、〈犯人しか知りえない事情〉を話せたのは当然じゃ。取調べに当たって雄次君の自白ば誘導したあんたこそが、真犯人だったのだけん。あんたは雄次君を、乗松市議に対しては殺意なしとして傷害致死罪で起訴した。それは真犯人であるあんた自身が乗松市議になした行為の正確な投影ばい」  朝日はなおも手綱を緩めなかった。「必死の思いで指紋を拭《ふ》き取り、星崎警部たちと捜査した町の金融業者殺しのことをヒントにさも怨恨者《えんこんしや》の犯行と見せかけるために乗松の顔にビールばぶっかけて博多グレートホテルからほうほうの体で逃げ去ったあんたは、さぞかし焦りを覚えたじゃろう。理由はどうであれ、現職検事が二人の人間の命ば奪ったことは日本検察史上空前の不祥事ばい。発覚すれば、懲戒免職はもちろんのこと、福岡地検特捜部設置というあんたら親子の夢など微塵《みじん》のごとく吹き飛んでしまう。そこで、あんたは検事正に申し出て、この事件ば担当することにし、警察を先導する形で捜査ば精力的に進めた。自分が捜査の陣頭指揮をしている間は、あんたは安全と言えた。その間に、あんたは哀れな生贄《いけにえ》を物色した。まず県警の星崎警部が、広川朱美の線からの浩一君ばマークした。そして所轄署の戸狩警部が、広川朱美に土下座して頼んでいた雄次君ば掴《つか》んだ。あんたは捜査担当検事の立場を利用して、彼らのアリバイなどを調べさせたうえで、雄次君に罪ば着せることを決めた。雄次君は出所したばかりの前科者であり、社会的地位のある浩一君よりもはるかに冤罪《えんざい》に落としやすいと考えたのではないか? そしてあんたは、雄次君の幸代さんや兄に対する優しさに付け込み、現場から持ち帰ったカメラのフィルムに写っていた浩一君の写真などば利用して、巧みに雄次君の自白ば引き出した」  頭を抱えた将田の手が小刻みに震え出した。 「あんたは自白ば得たことによって、起訴に踏み切った。勝算は充分じゃったはずばい。ばってん、あんたは一つ気掛りがあった。急いで博多グレートホテルのエレベータから飛び出したために、ぶつかってしまった南教授の存在ばい。ほとんど振り返らなかったために、はっきりとは顔を見せてはいないはずじゃったが、あんたの姿ば認めた唯一の目撃者だけに、犯罪者特有の心理としてどうしても気になった。そこで金内事務官をサクラ役に立てて、無理強いで〈南教授が見かけたのは雄次君だ〉という証言ば取ろうとした。南教授にあんたの顔を見せる危険がないわけではなかったばってん、南教授には、地検で検事の名刺を差し出したうえであったに違いなか。一般人が、まさか取調べにあたる検事が犯人であるはずがないという先入観が、あんたに有利に働くと計算ばしたわけじゃろう」  中立の立場が要求される裁判官は法廷で表立った顔つきや仕草を現わしてはいけないのだが、左陪席に座った若い判事が思わずこくりと首肯した。 「わしが、花木検事の力ば借りて、金内事務官の顔写真を南教授に示してサクラ役の作為ば追及したことで、あんたは焦ったじゃろ。南教授の背後に回って、自分のネクタイの柄を訊《き》いたりして懸命に南教授の記憶の曖昧《あいまい》さを露呈して、その場を取り繕おうとした。あんたにとって、同じ地検に身を置き捜査権ば持つ花木検事の存在は眼の上のたんこぶ的存在であったはずじゃ。深林寺代議士の件などまるで追っておらなかったという振りばするため、深林寺を検察側の証人として呼んだり、浩一君犯人説ば法廷で出されたために、慌ててカメラという物証ば造り、記者発表まで行なった。できればカメラのことは、出したくなかったはずばい。雄次君の供述と、南教授の目撃証人などで、有罪判決ば導けると、あんたは踏んどったはずじゃ」  朝日は厳しい語調で将田に迫った。「わしとて、今回の事件で花木検事がおらんかったら、もっともっと苦戦ば強いられておったに違いなか。検事というのは、捜査と起訴に関してそれほど凄《すご》か地位に立ち、権限ば認められておる。ばってん、それはあんたという人間に与えられたものではなく、公務員としての職責に対して付与されたものたい。そこを間違えてはいかん。検事も、そして裁判官も、公務員である以上は国民のための公僕であることを忘れてはいかん。どげん事情のあっても、無辜《むこ》の市民に濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せることは絶対に許せん。司法権力を持つ者が持たない者を嵌《は》めれば、持たない者は冤罪《えんざい》のアリ地獄でもがき苦しむことになる。そげん権力の乱用は、絶対にあってはいかんこつたい」  頭を抱えたきりの将田が、かすかに嗚咽《おえつ》を洩《も》らし出した。朝日はややトーンを落とした。 「ばってん、わしはあんたの論告求刑ば聞いて、一縷《いちる》の救いば感じることがでけた。あんたの雄次君への求刑は懲役六年じゃった。いくら一貫して自白ばしていたとしても、二人の命ば奪った行為に対する求刑としては軽過ぎると言える。裁判所が下す判決は、起訴権を持つ検事の求刑より重く宣告されることはなか。あんたは、さすがに雄次君を冤罪の奈落《ならく》に落とすことに引け目ば感じていたはずじゃ。わしは、そのことが確かめたくて、あえてあんたに求刑ば先にさせてから最終弁論の中で真相究明ばしようとしたわけたい」  朝日は弁護人席を出て、二歩三歩と将田の方に進んだ。「あんたがもし根っからの奸物《かんぶつ》ならば、もっと雄次君の犯行を悪辣《あくらつ》なものにしておったじゃろ。乗松市議に対しても殺意のあったとして、二人に対する殺人罪として起訴し、雄次君が服役を終えて出所したばかりだという点ば強調して、死刑を求刑することも不可能ではなかったはずばい。雄次君が死んでしまえば、この事件は完全に闇《やみ》に消えることになったけん。ばってん、あんたは雄次君という三人目の命は奪おうとしなかった。わしは、雄次君に対する殺意ば欠いたあんたの法廷活動に、あんたの人間性ば認めたか」  朝日は諭すように将田に語りかけた。 「さあ、あんたも正義と法に携わる者として、自分のやった行為を潔く認めることじゃ。あんたが付けている検事のバッジのデザインは秋霜烈日を現わしているそうじゃな。秋の冷たか霜と夏の烈しい光という厳しさを象徴しているわけたい。さあ、あんたも、その検事の名を穢《けが》さん態度ば、せめて最後は取って欲しか」 「わ、私は、乗松市議の罠《わな》に嵌《は》められたんだ」  唸《うな》るような声を将田は搾り出した。「乗松を殺す気はなかった。だが、壁に突き飛ばしただけで、あの男は打ちどころが悪く息絶えてしまった。人殺しとわめいて逃げ出そうとする朱美を、手をこまねいて見ているわけにはいかなかった。私は、結果的に二人の人間の命を奪うことになってしまった。必死でその場を取り繕って逃走したものの、いったんは自首を考えた。でも、私が殺人犯ということになれば、私だけの問題では済まなくなる。福岡地検特捜部の夢はあえなく頓挫《とんざ》するし、政治家の犯罪や汚職を果敢に追及している東京や大阪の地検特捜部までもが、弱腰になってしまう。もちろん、最高検次長の親父の面目は完全に潰《つぶ》れる……もはや、犯人を作り上げるしか仕方がなかった」  将田は、とうとう大声を上げてオイオイと泣き出した。  野々口浩一がそうであったように、エリート街道を突き進んできた人間は、いざ逆境に囲まれると、脆《もろ》さをあえなく露呈した。      6  五日後、野々口雄次に対する無罪判決が言い渡された。  朝日は拘置支所まで、雄次を迎えに行った。 「最後の公判を迎えるまで、長いこと朝日さんのことを信じられなくて、済みませんでした」  晴れて自由の身になった雄次は、朝日に頭を下げた。「おれ、親父だけが逮捕されて、朝日さんが捕まらなかった事件のこと、咽《のど》の奥に刺さった魚の骨みたいにずっと引っ掛かっていたんですよ。親父と二人で架線を切っておきながら、朝日さんだけが国鉄の上層部に情報を売って、要領よく罪を逃れたんじゃないかって、疑ってもいたんです。でも、ようやく、朝日さんがそんな人じゃないと、分かりました」 「じゃあ、あんたは、親父さんが架線を切ったかもしれんと思っておったのか?」 「ええ、だけど、今は親父は何もやっちゃいないと完全に信じられます。権力が人間に罪をデッチ上げて濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せるってことの容易さと恐ろしさが、今回の事件を通じて身にしみましたから」  雄次は、少し照れを含んだ笑いを浮かべた。朝日が初めて見る彼の笑顔だった。 「そうじゃよ。あんたの親父さんは、架線ば切っとらん。そげんことのでける男ではなかった。わしがそれは保証する」  朝日は雄次の手を取った。「そしてその二人の息子たちも、殺人などしとらん——わしはずっとそう信頼して、戦ってきたとたい」 「本当にすみませんでした」  雄次は朝日の手を強く握り返した。これまで二人の間に透明の障壁となっていたプラスチックボードはもはや存在しなかった。  拘置支所を出たところに花木が立っていた。 「朝日先生、今回もまた勉強をさせていただくことができました。浩一さんが犯人だと考えるなんて、読みが浅かったですわ」  花木は朝日に一礼した。「そして、同じ検察の一員として、将田検事の不祥事をお詫《わ》びいたします」 「いや、あんたが謝る筋合いのものではなか」  朝日は慌てて手のひらを向けた。 「あたし、懲戒免職が決まった将田元検事に対する起訴担当を仰せつかりそうですわ」 「そうか。ばってん、少し前まで同僚だった男を起訴するのは辛《つら》かじゃろ」 「ええ。でも、徹底的にやりますわ。それが迷惑をかけてしまった雄次さんへの何よりもの贖罪《しよくざい》ですもの」  花木は朝日の横の雄次を見た。雄次は照れ臭そうに、一時間前に無精髭《ぶしようひげ》を剃《そ》ったばかりでまだ青さの残る口許《くちもと》に手を遣《や》った。 「朝日先生。あたし、今回の事件で一時は検察官を辞めようかと思いました。だけど検察自体の不正の告発は、検察内部に居る者しかできないだろうと思います。だから、あたしは、検察官をやり続けることにしました」 「それはよかことばい。ばってん、あんたも恋ばして、そろそろ結婚することも考えてはどうじゃ。そいつが、あんたを一回り大きか検事に成長させるように思うばい」  花木はくすぐったそうな視線で朝日を見たあと、話題を反らすかのように、右手を向こうに差し出した。 「あたし実は、幸代さんに頼まれて、彼女を連れてきてしまいました」  街路樹の蔭《かげ》から、幸代が姿を現わした。 「幸代……」  雄次が溜息《ためいき》混じりに小さく名を呼んだ。  幸代は涙を浮かべて、じっと雄次を見つめたまま動こうとしない。 「雄次君、彼女のそばへ行ってやれ。積もる話もあるはずじゃ」  雄次はゆっくりと、そして次第に早足で幸代のところへ歩いていった。 「雄次さん。疑いが晴れて、本当に良かったですわね」  幸代は涙声で小さく叫んだ。 「さてと、わしらはこっちへ歩こうか」  朝日は逆方向に踵《きびす》を向けた。花木は微笑《ほほえ》んで、朝日の横に肩を並べた。 「浩一君は、市役所を退職することにしたそうじゃ。学歴や義父の威光に縋《すが》っていた自分が情けないと、ほぞば噛《か》んでおった」 「水沢助役と深林寺代議士の市有地払い下げの件については、現在、地検で逮捕の方向で準備が進んでいますわ」 「そりゃあ、よかことじゃ。地位を利用して濡《ぬ》れ手に泡のような利益を得ることの横行ば許しておったのでは、真面目《まじめ》にコツコツ働いとる庶民は浮かばれんたい」  花木はちょっと後ろを振り返った。 「幸代さんは離婚して、雄次さんと一緒になるのでしょうか?」 「さあ、それは当人たちが決めることたい」 「そうですわね」  花木は前を向いた。「でも、あたしとしては、幸代さんは雄次さんと二人三脚で本当の幸せを掴《つか》んで欲しいですわ」 「人のことを考えるより、自分のことはどうなのじゃ」  朝日は軽く花木の肩を叩《たた》いた。  朝日と花木を包み込む暖かい風は、もうすっかり春の訪れを告げていた。 [#改ページ]  後 記  この作品はフィクションであり、作中に登場する個人名・団体名等は、すべて架空のものです。  〈参考文献〉 「刑事裁判の光と陰」 大野正男・渡部保夫編(有斐閣) 「裁判官の犯罪」 稲木哲郎(晩聲社) 「死刑台からの生還」 鎌田 慧(立風書房) 「誤った死刑」 前坂俊之(三一書房) 「現代の検察」 法学セミナー増刊総合特集シリーズ(日本評論社) 「東京地検特捜部」 山本祐司(角川書店)  本作品を書くにあたっては、弁護士の原誠先生に大変にお世話になりました。この場を借りて謝辞を述べさせていただきます。 カドカワノベルズ『殺意の法廷』平成3年8月25日初版発行