[#表紙(表紙.jpg)] 悪夢探偵 塚本晋也 [#改ページ]   プロローグ  暗い生温《なまぬる》い水の中を沈んでいく。  順調な速度で、落ちるように沈んでいく。  何も聞こえない。何も見えない。  ただ、ひたすらに沈んでいく。  幼いころからその夢をよく見た。  パジャマを脱ぎ捨て、全裸になり、水がじかに肌にあたるようにする。  頭上には、畳に敷かれた布団があるようにも、巨大な船が停泊している水道の海面があるようにも思える。  そろそろ戻らないと、戻れなくなる。今戻らないと、息が続かなくなる。  そう思いながらも手足はまったく動かず、体が沈んでいくままに任せている。  今、折り返し地点は過ぎた。どうする。今ならまだ戻れるかも知れない。  心ではそう思うが、手足は動かない。裸の体はさらに深い闇の水底に沈んでいく。  十代も半ばになったとき、その夢を見る頻度は減ったが、二十代を過ぎ、人の夢に入るようになって、また頻繁に見るようになった。  京一は今、他人の夢の中にいる。  好き好んで入っているわけではない。亡くなった父親の恩師のたっての願いだったからだ。  大石と言うその男の夢に入るとき、子供のころに嗅《か》いだ父親の枕の匂いがした。甘辛い煙草の匂いだ。父親はこの大石という男を敬愛していたというが、その匂いを嗅いだとき、少しだけ信じられる気がした。  夢の中で、定年間近と思われる大石は、狭く貧しい畳の部屋にいた。  小さな木製のテーブルの前に座り、ステテコ姿で新聞を読んでいる。会社から帰ってきたばかりのようで、ワイシャツの襟を緩め、ズボンは皺《しわ》にならないように衣紋掛《えもんか》けに吊《つ》ってある。  生活に必要なたいがいのものは、大石が座った場所から手の届く範囲に整理されているようだった。古いライターやウイスキーの瓶、鼈甲《べつこう》をあしらった大型の爪切り。それらは京一が子供のころに父親の周囲で見た懐かしいものばかりだ。  会社では重要なポジションにいるのであろう大石の恰幅《かつぷく》は、その部屋の雰囲気とかなりずれている。ここは今現実のどこかにある部屋ではないという気がした。彼が若いころに住んでいた思い出の場所なのだろうか、あるいは心の底の願望が作り出す、ある意味理想の落ち着き場所なのか。おそらくはその両方の要素が入っているのだろう。  いずれにしてもそこにいるのんびりした大石の様子は、 「悪夢を見て困るので、取り除いてくれないか」  という電話での切実な依頼とは噛《か》み合っていなかった。  大石は新聞から顔を上げ、京一に気づくと、 「ああ、待ってたよ」  と当たり前のように言った。  京一は人の夢に入るときも裸にならなければならなかった。  初めて人の夢に入ったとき、そのことに気づいた。そのときも、やはり水の中に沈んでいった。最初に人の夢に入ったのは偶発的なできごとだったので、それが他人の夢だとは知らずに服を脱いだ。裸になるのは闇の水を肌で感じたかったからだが、同時に服を着たままだとうまく沈んでいかないことに気づいた。水面に戻ることを諦《あきら》め身を任せていると、体が痺《しび》れてきて、気がつくといつもと違う感触の場所にいた。眠る前に一緒にいた相手も暗い顔をしてそこにいる。もしかしたらそこは、目の前にいる女の夢の中ではなかろうかとふと感じたが、そんなこともなかろうと、裸のまま女と夢の中をさまよった。目覚めたとき女に確認して、寸分|違《たが》わぬ夢を見ていたことを知り、以来、人の夢に入るときは、裸の上に近所のショッピングセンターで買った安物の雨合羽《あまガツパ》を羽織るようにしている。それならば、着たままでも水を感じることができるからだ。  今も、暗黒の水流でまくれ上がった合羽を引っ張りおろし、大石という厳格さをもたずさえた初老の男の前で、むき出しになった裸身を隠した。 「あれですね」  京一は、大石の背後を見た。古ぼけた壁から女の長い髪がたれ下がっている。 「うん」  大石は軽く頷《うなず》くと、また新聞に目を戻した。  その髪は、かつらを壁に吊るしているのではなく、あたかも持ち主の頭がすぐ壁の向こう側にあり、髪の根元が壁と同化し、そこから毛先をこちら側にたらしているような具合で、明らかに別次元の女の存在を感じさせた。  どこかまた異なる次元で女が大石に会おうとでもしているのか、髪の毛だけが今いる夢の世界にこぼれてきたという感じだ。  京一は人の夢に入るとき、これでもう二度と現実の世界には戻れないかも知れない、といつも思う。二度目に人の夢に入ったのは、最初に偶然夢に入ってしまった女の知り合いだった。悪夢を見て恐ろしくて眠れない、助けてくれ、と詰め寄られたが、自分はたまたま人の夢の中に入ることができただけで、また同じことができるかどうか分からない。もしできたとしたところで、それ以上は何もできないしするつもりもない、と断った。  しかし依頼人の顔が日ごとに憔悴《しようすい》し、しまいに狂気を孕《はら》んできたので、仕方なく引き受けた。  大後悔した。思えば人の見る悪夢など、他人事《ひとごと》として聞いている分には何でもないが、現実と同じ臨場感で体験することほど馬鹿げたことはない。これ以上恐ろしいものなどこの世にないと言ってもよい。なぜそれに気づかなかったか。そして結果は惨憺《さんたん》たるものだった。悪夢を取り除いてやれるどころか、危うく恐ろしい悪夢の餌食《えじき》になりそうになり、命からがら逃げ帰ってくると、依頼人は精神に異常をきたしていた。夢の中で負った傷は起きてもなお疼痛《とうつう》を残しており、人の夢の中で死んでしまったら、もう現実の世界には戻れないだろうと容易に想像できた。それどころか夢を見ながら依頼人が死んでしまったら、自分は永久に他人の深層をさまよう迷い人になってしまうだろう。  その後、恐ろしい夢を見て困ると、わらにもすがる思いでやってくる者が何人か続いた。  仕事としてのれんを出しているわけではないので、その数は知れたものではあったが、噂を聞きつけて、どうしても会いたいとどんなに遠くからでもやって来る者があった。京一は理由を説明して断ったが、放っておけば死んでしまうかも知れないという思い詰めた相手の顔を見ているうち、しまいにはどうでもいいような気持ちになって渋々依頼人の夢の中に入った。だからあれほど言ったのに、と後悔させるつもりもあった。  また、何人かの夢の中に入るうちに、依頼人の哀しい精神の有り様に共感して、自分などもう現実の世界なんかに戻らなくていい、と思うようにもなってきた。昔から何ひとついいことなどなかった。自分なんか生きていても仕方がないと常々思っていた。助けられないまでも、悪夢を見て困る人の深層に寄り添うことで、その人の気が少しでも休まるなら、そうしてやろうと思った。そしてもし夢の中で自分が死んでしまったら、それならそれでいいとさえ思うようになった。人の夢に入っても、悪夢を取り除くことに成功したことなどない。様々な種類の悪夢と遭遇し、恐ろしい体験をするだけで終わった。人の心に潜む恐ろしいような憎悪や想像を絶するイメージにいつも打ちのめされておしまいだ。最後には夢の世界からおっ放《ぽ》り出されるように現実の世界に戻ってきた。  今、目の前にいる大石という男は、父親が敬愛していたらしいということは分かった。ならば、その男の深層につき合い、そう決めたならどういう結果になっても文句はないと思った。  京一は、別次元の女と会うために、大石の座る座布団と畳の隙間に手を伸ばして滑り込んだ。  夢の中で別の次元に行くときは、いつも線を探した。何でもいい。ビルと風景の境目の線でもいいし、部屋の中なら壁と柱の境目でもいい。机の上面と側面の作り出す線でもいい。曲線でもなんとかなったが、直線に近い方がスムーズに入れた。  京一は水の中を沈んでいった。ある次元からある次元に移る、そのたびごとに水の中を沈んでいかなければならない。その間は自分が夢を見ていることを忘れる。別の次元に移行してから、またゆっくりと事情を思い出すのだ。  今度たどり着いたところは、何やら混濁した場所だった。  水に沈んでいくときの、もう海面に戻ることを諦めた精神状態が続いている。  そこで髪の毛の持ち主と会った。  大石の部屋に戻ると、そのことを報告した。  窓の外は漆黒で、さっきまでは空洞を感じさせたが、かすかに風が出てきたようだ。  外から建物の軋《きし》む音がした。 「今、見て来ました」  大石は新聞に目を落としたままだ。 「あ、お疲れさま」 「あの髪の毛の持ち主は、あなたのお嬢さんでした」  大石は、ゆっくりと新聞から顔を起こした。 「え? いや、私には娘はいませんが」  京一は躊躇《ちゆうちよ》せずに続けた。何でもないことのように手早く言ってしまおうと思った。 「はい、この世に生まれることのなかったお嬢さんです」  大石は黙ったままだった。呑《の》み込めない話には反応を見せない。長年培ってきた処世術のようだった。 「今のお子さん方が生まれる前に一度だけ、堕《お》ろしていらっしゃいますよね」  大石は、黙っている。少し目を逸《そ》らせてじっと考えている。 「そんなことがあったっけかな」 「はい」  大石は少しの間じっとしていると、何かを思い出したように顔を上げた。 「ああ、そうか」  と一言言うと、また黙り込んでしまった。  京一は大石が、まずそのことを思い出すのを待った。  大石の目の色が変わって様々な表情を見せ始めた。  京一は少し後ろに身を引いた。近づいた人間の心の声が聞こえてしまうからだ。  夢に入れることと何らかの関係があるのだろうか。子供のころは目が見えるとか耳が聞こえるのと同じ、誰もが持っている能力だと思っていた。聞こえてくるたいがいの声が自分への悪意に満ちたものだったので、京一は人に近づくのが怖かった。  今は、大石の心の声を聞くのは心苦しい気がして、聞こえなくなる距離まで下がったのだ。  大石は、やがてうつむいてしまった。  そしてすすり泣きを始めるのだった。  ひとしきり目頭を押さえたり、鼻をかんだりすると、居住まいを正して京一に向かって頭を下げた。 「そうでしたか。やはりあんたに頼んでよかった。いや、いろいろありがとうございました」  そして壁から生えている髪の毛を愛《いと》おしそうに見るとこう言うのだった。 「それじゃあ私は、この子とここに残ります」  京一は、そうか、やはりそういうことになったか、と思った。それならそれでいい。自分もこの夢につき添ってふたりを見守りながら一生を終わらせてもいいし、邪魔というならとりあえず元の世界に戻ってもいい。  しかし、一人の人間の生死に関わることを簡単に受けとめてしまっていいはずはなかった。 「あの、確かに初めはあなたからの依頼でやって来ました。でも、今はご家族の皆さんが心配しています。どうかあっちの世界にとりあえず戻ってあげてくださいませんか」 「あっち?」 「現実、と言われている方の世界です」 「あのな、誰も俺のことなんか心配しちゃいねえんだよ。そんなことあんただって分かるだろう」  京一はどう反応していいか分からなかった。 「とにかく私は、あいつらのところには帰りません。この子とここにいます」 「お嬢さんには僕の方から話してきました。これ以上お父さんの夢には出てこないでください。そうじゃないと、お父さんは夢の中にいる時間が長過ぎて、現実の世界で抜け殻のようになってしまうんですと」 「で、何て言ってた? 納得したのか、娘は」  京一は答えられなかった。別次元で大石の娘はすでに中年になっていたが、京一がそう話したとき、皺《しわ》の刻まれた顔を震わせて少女のように泣きだしてしまったからだ。  答えられない京一を見て、大石は言った。 「ほら見ろ。誰が納得するかよ。あんなどうしようもない無茶苦茶《むちやくちや》な家族をだな、あの子は心配して俺の前に出てきてくれたんだ。もし私が生まれていたら、お父さんの味方になってあげたのにって」  と、涙ぐむのだった。  京一はもう何も言うことがなかった。黙って大石の言いたいことを聞くしかない。 「別にだだこねてるんじゃないんだよ。確かに初めはあの髪の毛の夢を毎晩見て困るんで、あんたの噂を聞いて取り除いてもらおうと思った。何で取り除きたかったか。髪の毛が不気味だったからか。そうじゃないよ。あの髪の毛と一緒の場所にいると居心地がいいからだよ。確かにちょっと不安だったんだ。このまま自分がどうなっちまうのかって。でもいいんだ。第一戻って何の意味があるんだ。あんな世界にどんないいことがあるんだ、え?」  それは自分の方が常々感じていることだと京一は思った。  大石は、どうやら完全にこの世界に残ることを決めたようだった。何十年もかけて培ってきたと思われる会社人間の硬質な表情が取れ、穏やかな笑みを浮かべている。  一方で何か凄《すさ》まじい力が京一の体を締めつけてくるのだった。  大石の顔が京一の激しく振動する視界の向こうに見えた。 「ありがとう。ありがとうな。よく調べてくれた。恩にきるぜ、悪夢探偵」  と言うと、缶ビールのタブを引いて乾杯、と小さく掲げた。 「あんたは早く帰りな。すごい汗だ。このままだとやばいぜ」  京一は、どうしたらいいのか分からずにもがいた。  息ができない。海底で水圧に押しつぶされると、こういう感じになるのだろう。  頭の中が鬱血《うつけつ》して爆発しそうになるのを、うめき声で少しずつ逃がした。 「さあ、早く帰れっ」  京一の視界がゆがんできた。湾曲した世界で、大石は壁の髪の毛をやさしく見つめるのだった。  気がつくと周囲は暗黒の水になり、京一はその中を沈んでいた。  息が通るようになり、目頭の奥に甘|痒《かゆ》い痛みが残っていた。  目の前に白い布が見え、続いてそこに置かれた腕が見えた。  京一は自分の腕に俯《うつぶ》して眠りの世界に入っていたのだ。  腕の先に、初老の男が寝ている。京一の指は、男の首にあてがわれている。  男は大石だった。首に手をあてがうのは、初めて他人の夢に入ったとき、偶然とっていた行為だ。以来人の夢に入るときは、必ず依頼人の首に手をあてがうようにしていた。  頭を動かさずに目で追うと、大石はベッドの上に寝かされている。  白衣を着た医師が、大石の顔を無表情に覗《のぞ》き込んでいる。目が暗い色をしている。  医師の後ろの心電計が電気的な音をけたたましく鳴らしている。  京一は、その心電図がフラットな線を描いているのを知った。  医師が大石のまぶたを開けると、ペンライトの光で照らし、 「午前五時四十分、ご臨終です」  と言った。  ここは病院の一室だ。現実の大石が入院している場所だった。  京一が大石の依頼を受けて来てみると、そこは大きな私営病院の高級な作りの個室だった。  大石の妻も三人の息子たちもいぶかしく京一を見ていたが、大石が断固京一の邪魔をするな、と言って聞かせたのだ。そして京一は皆が見守る中、大石の夢の中に入ったのだった。  大石が何の病気であるのか知る由もなかったが、生死をさまようほどのところにいたとは京一も読み取れなかった。これだけ近くにいて読み取れない大石の心とはどこにあったのだろう。  今、こうして夢の世界から帰ってくると、周りにいる家族の圧迫を感じる。  京一は顔を起こし、家族の様子を横目で見た。  ビジネススーツを着た最年長の男が言った。 「ご臨終って?」  そして京一を冷たく光る眼鏡の奥から見ると、 「おい、殺しちゃ困るよ。助けてくれって親父は言ってたんだろう」 「お前ね、親父がお前のこと離さないから様子見ててやったんだよ。それが何だよ、これ」  そう言ったのは次男だろう。ラフな上着を着ているが、鋭利な印象を与えた。 「で、何か言ってたのかよ、夢ん中で、その、遺言」  と長男が言うと、すかさず次男が追った。 「夢ん中で言った、なんて誰に言えるんだ。起きてるときに言ってもらわなきゃ」  奔放そうな三男も険しい目を京一に向けると、 「大体夢の中に入るって何だよ、それ」  と呆《あき》れ果てたように言った。  長男は、京一に何かを期待するのは意味がないと思ったらしく、京一を立ち上がらせて大石から離すと、 「とりあえず、あんたはもう帰っていいよ。これお礼」  と封筒を京一に握らせようとした。  京一は、慌てて、 「いえ、これは受け取れません」  と身を引いた。 「いいから、いいから」  と言うと長男は京一を入り口の方へ押しやった。  皆と同じ目の高さになると、雨合羽《あまガツパ》ひとつで内側は全裸の自分が、この常識を塗り込めたような空気の中でことさらに寒々しく感じた。  京一は、夢に入る前に脱いだ服を取りに、ベッドに少し近づくと、動けなくなった。  また聞こえてきたのだ。  家族は皆、大石の死を悼んでいるような表情を作り出している。  しかし心の声はまったく逆のことを言っていた。 「恥知らずな男。死ぬまで傲慢《ごうまん》で。お金を入れれば亭主の役割を果たしてると思ってるんだから始末に負えないわよ」  大石の妻は、ハンカチで目頭を押さえていたが、京一にははっきりそう聞こえた。それを皮切りに兄弟たちの声が次々と京一の耳に飛び込んできた。 「子供のころから男のビジョン、男のビジョンて、自分の考え方ばかり押しつけてきやがって、この糞《くそ》親父」 「今日会社抜けてくるのがどれだけ大変だったと思ってんだよ。夢がどうしたとかくだらない話につき合ってる暇ないんだよ」 「兄貴らばっかりに手をかけて俺のことなんかくず扱いしてたくせに」 「ああ、すっきりした。これでこれからは自由だわ」 「確かにあんたは会社人間としてかなりのところまで行ったよ。でもそれはあんたの時代のやり方だろう」 「遺産はどうするんだよ。ちゃんとしてくれよ」 「こいつらが忙しいからって俺にばかり看病させやがってよ」 「好きにやらせてもらいますからね」 「息子にまで古くさいやり方押しつけるんじゃないよ」 「ふざけんなよ」 「馬鹿臭い」  京一は耳を塞《ふさ》いだ。  家族の罵詈雑言《ばりぞうごん》が矢継ぎ早に飛び出し、実際は無音の病室が大|賑《にぎ》わいになったのだ。  いつもこうだ。こんな調子だ。よかれと思って何かをしても、いい結果なんかひとつも得られやしない。ああ、いやだ。ああ、いやだ、いやだ、いやだ。 [#改ページ]   女刑事  事件が起きたのは、慶子が警視庁刑事部に着任したまさにその日の朝だった。  それも、まだ着任先の人間に挨拶《あいさつ》もしていない、それどころか、緊張で朝方まで眠られず、ようやくうとうとした矢先に捜査一課の人間から携帯に電話がかかってきたのだった。電話の相手は、「少女。死体」と簡潔に言うと、集合場所を手短に伝えて切れた。  胸の奥で熱い液体がわき出た。心臓が脈打ち、血が体中に広がっていくのを感じた。  ベッドの上で半身を起こしたまま大きくひと呼吸した。寝不足で残った小さな頭痛を振り払うようにしてベッドから出ると、ひとりがけのソファーにていねいにかけておいたスーツを手にする。この日に着ていこうと決めてあったものだ。ベッドに入る前にアイロンをあてておいた。着任初日に事件があるとは思っていなかったので、少し華のあるものを選んでおいた。もう少し地味で動きやすいものに変えた方がいいかとも思ったが、考えあぐねている時間もなかった。  タクシーをまず呼んだ。冷たい水で顔を洗い、髪をブラシで簡単に梳《と》かし、スーツを着ると気持ちがしゃんとした。  必要と思われるものを用意していたハンドバッグに入れると、マンションを後にし、タクシーに乗り込んだ。  まだ暗かったが、間もなく夜は明けるのだろう。  移動中の車の中でメークアップをした。膝《ひざ》上少し短めのスカートは腰掛けると太もものあたりまで上がり、脚が前の座席につかえないよう膝を少し横にずらした。幼いころに人に言われて自分の脚が周りの子供たちよりかなり長いことに気づいた。少女のころからその脚で地面を踏みしめると、伸びやかに成長した体を持っているというだけで自由を獲得した、という気持ちになった。  慶子はこれまで警察庁刑事局刑事企画課にいた。  あらゆる警察機構で中心となるその場所に慶子は着任し、数々の業績を残した。東京大学法学部をトップで卒業し、警察庁に入庁し、警部に昇任するまで一年強。様々な事件を独特な視点から分析解明し、上司たちを驚かせた。某企業の贈収賄事件の仕組みを正確に暴きだし表彰されたのが、二十五歳のことだった。  のち、バージニア州にあるFBIアカデミーと呼ばれる研修学校で、プロファイリングや、文章鑑定、DNA鑑定などの科学捜査と呼ばれるものを勉強し、将来を有望視されていた。  電話で指定された場所に近づくと、パトカーのサイレンが聞こえ、目的の場所が近いことが分かった。だが、道が入り組み、一方通行ばかりで中々行き着かない。  しびれを切らし携帯を手にすると、一台の車が目の前で急ブレーキをかけた。危うく衝突しそうになったその車は、車体の上で赤いランプが回っている。サイレンの音がすぐ間近で鳴り、慶子は恐ろしさを覚えた。  料金を運転手に渡すと、ドアを開け、相手の車のウインドウをノックし、 「霧島です。今度捜査一課に異動しました」  と叫ぶように言った。大きな声を出し慣れていないので、声が震えた。  車の中からこちらを見ていた五十歳くらいの男が、素早くウインドウを開けると、 「君が?」  と言って慶子の全身を一瞥《いちべつ》した。驚きを隠せないようだったが、そういう表情で見られることに慶子は慣れていた。男はすぐにドアを開けて入るように示した。慶子が素早く乗り込むと車はまた走り出した。サイレンの音をこれだけ間近に聞き続けるのは初めてだ。いよいよ事件の場所に近づいているのだと感じた。  慶子が一流と言われるポジションからこの刑事部に異動したのは、慶子自身の希望によるものだった。周囲は、せっかくの地位を棒に振る慶子を惜しみ、またいぶかしがりもした。受け手の刑事部の人間も皆一様に難色を示した。キャリアの恩恵により慶子は二十六歳でいきなり警部として新しい席を用意された。これは慶子のような警察庁からのキャリア組ならではの昇格の例であり、警察署などで働く、ノンキャリア、いわゆる叩《たた》き上げの人間からすれば鼻持ちならないことだったのである。  慶子は一流を目ざし、警察庁で数々の業績を残した。しかし、実際この都市のどこかで起こっている事件を、警察庁という枠の中で分析解明していくことになぜか限界のようなものを感じた。そうして希望した場所は、警視庁刑事部、それも、殺人や強盗、誘拐の凶悪犯罪などの重大事件を担当している捜査一課への異動だった。これまでには例のない特例中の特例だ。  慶子を車に乗せた男は、善人とも悪人ともとれない顔をしている。  男は自分の名を関谷と言った。 「大関の関に谷川の谷、関谷。普通の名前でしょ。みんな中々覚えてくれないんだよ。霧島くんって言ったっけ? 係長から聞いたよ。すごいんだって? ここに警部でいきなり来ちゃうんだからそりゃよっぽどすごいんだろうねえ」  目の中は無表情で何を考えているか分からなかったが、意外に気さくなところもある男のようだった。 「現場は初めて? そりゃ緊張するよねえ。緊張しないわけないか。でも何だって君みたいな女の子が、ってこりゃ失礼か、だって君、年齢うちの娘と同じくらいじゃない? 顔形は全然違うけどさ、びっくりするよ」  たいがいの男から好奇の目線と慶子を自分より低い位置に置こうとする保守や虚栄を感じたが、この男からもそういう匂いがした。関谷の腕が、慶子の座る後ろ側に馴《な》れ馴《な》れしく移動してきたとき、不快ははっきりしたものになった。  慶子は関谷の軽口にはいっさい乗らないことに決めた。  車内には、関谷の他に運転をしている男と助手席にもうひとりいた。それぞれが後ろを見ずに自分の名を名乗った。慶子も挨拶を返した。  車は事件の現場に到着した。  入り組んだ細い道の奥に少し開けた場所があり、いくつかのマンションが密集している。  そのうちのひとつの前にひとだかりができていた。どのマンションもとりたてて特徴がなく、全体に閑散とした雰囲気を漂わせている。  男たちは車が着くとすぐにドアを開けて外に出た。  慶子も後れをとらないようドアを開けた。脚がやけに重く感じられ、地面におろしたときもはっきりとした感触が得られなかった。  今までずっと鳴っていたサイレンが止まり、周囲の町の音響が生々しく立ち上がってくる。マンションを取り囲む人ごみの声。警官によるトランシーバーのやりとり。頭上から聞こえてくるヘリコプターの音。もう行くしかない、という覚悟が決まる。しかしこれから起こることは何から何までまったく初めてのこと。周りと足並みを揃えるだけで精一杯の状況である。  人ごみの中を男たちと連れ立って歩いていく。マンション入り口の前にロープが張られている。一般人の侵入をせきとめているのだ。警官が、関谷たちに敬礼するとロープを高く上げる。関谷たちが通過していく。慶子もロープをくぐって続いた。  外観よりも古いマンションのようで、廊下の壁はヒビの目立つところも多々あった。特徴のないマンションだが、ひとつひとつのドアの前に置かれているものから、そこに住む人々の特徴を知ることができた。  エレベーターの中で関谷が慶子に手渡したものは、白い手袋だった。  関谷と周りの男たちがすぐに手袋をし始めたので、慶子も倣ってそうした。  エレベーターを降りると、ひとりの警察官がある部屋の前で関谷たちを待っていた。開いたドアの内側に、蝶々《ちようちよう》や花や星、漫画のキャラクターなどのシールがまばらに貼ってある。そこが目的の場所なのだろうと理解できた。  歩調をゆるめず関谷が入っていくので慶子も続いた。部屋の中まで土足で入っていくことに躊躇《ちゆうちよ》があったが、関谷たちに倣って、少し歩幅を縮めながらもそれに準じた。ハイヒールの踵《かかと》が、リノリウムの床で音を鳴らした。小さなダイニングキッチンは、若い女が使う日常のものであふれ返っている。整理をするということをほとんどしなかった女なのだろう。  ダイニングと向こうのリビングの仕切りにプラスティックでできた玉すだれがかかっている。異国趣味と安っぽさを同時に感じさせるものだった。関谷はそれをくぐり、中に入っていった。すぐに「へえー」という声が聞こえた。その声には関谷の多少の驚きと、捜査に対する慣れのようなものが感じられた。慶子も覚悟を決めて玉すだれに手をかけた。そして中を覗《のぞ》いた。  部屋は、移動中に明けた朝の光で満たされていた。マンションの質素な雰囲気に逆らうように、少女の嗜好《しこう》性による道具や玩具《がんぐ》であふれている。  いたるところに衣紋掛《えもんか》けで吊《つ》ってある服は、着せかえ人形の服がそのまま等身大になったようなものばかりだ。日常に必要なものは、みなくどい装飾が施されている。それ以外は何の目的で使うのかさえ分からない。壁にはロックバンドのポスターが貼られ、テレビやCDプレーヤーなど装飾的でないものには、毛皮などをあしらって好みの形に変えてあった。  人形が眠るような装いのベッドのシーツの上に、等身大の人形は眠っていた。それは、少女趣味なコスチュームを着たまま仰向《あおむ》けに静止している少女だった。顔中に血の飛沫《ひまつ》が飛んでおり、服の皺《しわ》のへこみに血がたっぷり溜《た》まっている。スカートから出た太ももは鋭い刃物で切られたように口を開き、内側の肉壁を覗《のぞ》かせている。髪の毛が顎《あご》や首に貼りついているのではっきり確認できないが、頸《けい》動脈のあたりがやはり鋭い刃物で切られたように血に濡《ぬ》れ、そこだけいっそう黒く落ち窪《くぼ》んでいる。目もフランス人形にように大きく、開いたまま上を見ているので、白目の部分が大きく感じられた。 「どうしたの? 気分悪いの?」  聞いてきたのは関谷だった。  玉すだれをくぐり抜けたまま固まっている自分に気づいた。 「何でもありません」  と部屋の中に進もうとしたが、そう言う声が震え、足がさらに重くなっていることに気づいた。  関谷が揶揄《やゆ》するような微笑みを浮かべている気がして、慶子は動揺を隠すのに苦労した。  思えば、本物の死体を見るのは初めてだ。子供のころ祖父母の遺体を見たことはある。だが、こうしてまだ充分に生命を延長できそうな若者が体を著しく壊して動かなくなっているのを見たことはなかった。やはり写真とは違う。プロファイリングの勉強のために様々な死体の写真を見て、それはそれで恐ろしいものだったが、本物はまったく別のものだった。  ミニスカートが急に心もとなく感じ、やはりもう少し硬い印象の服を着てくるべきだったと後悔した。  関谷は、近くにいる若い刑事と検証を始めた。  慶子は、心臓の鼓動が速まり、顔に血が昇ってくるのを他の男たちに気づかれないようにした。そして皆に背中を見せて恐る恐る少女に近づいていった。  首から噴き出したらしい血が、壁や、そこに貼られてあるポスターにかかって朝の日を浴びている。  まだ息絶えてから時間がたっていないらしい。すべてのものが生々しい。  慶子はさらに近づいた。少女の太ももの鋭利な傷。それを取り巻く皮膚の表面は鳥肌がたったまま固定されている。  首はやはり太ももと同じように鋭利な刃物で切られていた。傷は首の円筒の半分にまで達しているようで、少女の首と体は不自然なつながり方をしている。  ガラス玉のように静止してもはや何も見ていない目は、つい今しがたまで何を見ていたのだろう。  慶子は目を逸《そ》らせた。長く見続けることができなかった。  ベッドの脇にハサミが落ちていた。血が弾《はじ》いてついている。すでに鑑識によるプレートがそばに立ててある。  関谷は若い刑事にどんどん質問を投げかけ、手っ取り早く結論を導きだそうとしているようだった。  ハサミによる自殺。確かにそれが一番適切な結論だろう。部屋を一瞥《いちべつ》して事件性はほとんどないと慶子にも感じられた。しかし、曲がりなりにも自分は警察庁からやってきたのだ。まったく無視されるのは悔しかった。  すでに動揺する姿を見られてしまっている。気合を入れて持ちかえさなければならない。  慶子はハサミの前に屈《かが》んだ。ベッドの上の死体も目の前に近づいてくる。慶子は少女を見ないようにした。  ハサミの状態を確認すると、現場に詳しい様子の若い刑事にとりあえずの質問を投げかけた。 「一人暮らし?」  振り向いたのは関谷だ。驚いたような顔をしている。  若い刑事にとっては慶子も上司にあたるので、すぐさま返答してきた。 「そうです」 「物取りの可能性は?」  慶子が聞くと、若い刑事は弾力のある声で返答した。 「ないと思います。怪しいものが侵入した形跡はないですし、部屋も荒らされていません。鍵《かぎ》もしまったままだったということですから、自殺の可能性が高いですね」  関谷は、自分のやることにいちゃもんをつけられたようないやな顔をした。  慶子も若い刑事に異論をはさむ気はなかった。  特にこうして生々しい現場を見ると、早くこの場を切り上げたくなるのだった。しかし、と慶子は考えた。これを警察庁でやっていた仕事に譬《たと》えたら? 事態はあるひとつの結論を簡単に導きだせる様相を呈していても、それとは違う別の角度、あらゆる可能性を過去のデータから模索する。それには事件を考察する人間の発想力と想像力も必要だった。これが実際の現場でなく、想像力を働かす警察庁での仕事なら……。最終的には関谷と同じ結論に達するとしても、そこに至る工程は、自分の今までのやり方を生かさないと意味がない。  関谷は慶子を無視して、若い刑事に言った。 「じゃ、やることやって早いとこすませましょ、若宮」 「はい」  若い刑事は答えた。若宮という名だということが分かった。  関谷は慶子を見ないようにして言った。 「ビール飲みに行こう。うまい焼き肉屋見つけたんだ」  若宮は驚いたように言った。 「え、朝からですか?」 「一杯ひっかけて締めないとやってられないよ、こんなこと」 「不謹慎です。冗談はやめてください」  慶子のはっきりした物言いに、関谷はもちろん、若宮、同じ課の人間と思われる刑事たち、鑑識の人間までもが手を止めて慶子を見た。  関谷は、若宮に耳打ちするように言った。それはまったく慶子の耳に筒抜けだった。 「おい、あの女何とかならないの? 冗談のひとつでも言わないと、つらい仕事がますますつらくなるじゃん」  慶子は聞こえない振りをして仕事を続けた。 「周囲に住んでる人で、何か変わったことに気づいた人はいない?」  関谷は、若い女の子に言って聞かせるようにした。 「あのね、これはどうほじくりかえしたってだめよ。君、警察庁ではものごとうがって見ることで有名だったらしいけど、これどう見ても、自殺、ね」 「調査なしに結論は出せません」  若宮が、空気を読みながら、関谷とも慶子にともつかないように言った。 「あの……、目撃者はいないんですが、隣人が、助けて、怖い、という悲鳴を聞いたみたいなんです」 「そりゃ死ぬんだもん、怖いよ」  とすぐに関谷。  若宮は言いにくそうに続けた。 「ただ、その叫び声が、普通じゃなかったらしくて、あまりに異常な声だったんで警察に電話してみたらしいんです」  慶子は鑑識の札が立つ携帯を手にした。いかにも死んだ少女が持ちそうな携帯だ。いろいろなもので装飾が施されている。  着信履歴と発信履歴を見た。  いくつかの名前があったが、発信履歴の最後の方に「0」という名があり、直感的に気になった。 「あの」  と若宮に言うと、 「何」と苛立《いらだ》たしげに答えたのは、関谷だった。  慶子は関谷を無視して、若宮に、 「昨夜から今日の朝にかけて何人かと話してるみたい。このへんの相手、調べといて」  と携帯を若宮に渡した。  若宮は、了解した、というふうに携帯を受け取るのだった。  何台かの覆面パトカーに分乗して警視庁に戻ることになった。  慶子にしてみれば、これでようやく新しい職場に初出勤、ということになる。  慶子は若宮と一緒の車に乗った。  朝日が車内を照らしている。 「初の現場捜査、お疲れさまでした」  若宮の年はいくつくらいだろうか。童顔と屈託のない態度から初め年下に感じたが、現場での立ち振る舞いからして、慶子よりふたつみっつ年上かも知れない。 「霧島さん、ひとつ聞いていいですか」 「うん」 「霧島さんって、何でキャリアの座まで捨ててここに異動したんですか?」  いろいろな人に何度も聞かれたが、筋道立てて考えたことがなかった。現実を見てみたい。そう説明して誰が納得してくれるだろうか。漠然とした理由ではあり得ない異動だったが、漠然とした強い希望だった。  慶子が黙っていると、 「熾烈《しれつ》な出世争いに疲れたとか。まあ、僕だったらそんな選択はしないなあ」  と若宮は外の風景を見ながら眩《まぶ》しそうに言った。  若宮という男は人をほっとさせる素質を持っているようだ。質問も他意のないものだと分かった。 「若宮くん」  答える代わりに今度は慶子が口を開いた。 「はい?」 「焼き肉、行かなくていいの?」 「え? ああ、あれ、関谷さんの冗談ですよ、行きませんよ、朝から」  と言っておかしそうに笑い出した。  慶子も少し笑った。  若宮は、笑顔の余韻を残しながら言った。 「さっきの自殺ですよね。霧島さんは、どう考えますか」  慶子は、正直に言った。 「遺書がないからね。まだ分からない」  高層ビルの間を車でくぐり抜けていくと、警視庁は忽然《こつぜん》と現れた。  近代的な建物が並ぶ都市の中でその建物は、物々しく異彩を放っている。西洋の古い建築を思わせる重厚な造りだ。  ここが今日から働く職場だ、と車の動きに合わせて変化する建物のパースを見ながら慶子は思った。  聖堂を思わせるロビーを通り、刑事部のあるフロアーには透明で先鋭的なエレベーターで上っていった。  捜査一課は想像していたより広く、天井も高く、上辺がアーチ状になった窓から朝の光が降り注いでいる。シンプルで機能的なデスクがたっぷりと間をとって置かれ、刑事たちの声は想像していた喧噪《けんそう》の世界とはほど遠く、高い天井に柔らかく反響し吸われていた。  いかつい中年の男がやって来て、自分の名を言ってから、 「係長です」  とつけ加えた。この部屋でトップの人間になる。  相好をくずして微笑んでいるが、目の奥は笑っていなかった。  係長は部屋の正面奥にある自分のデスクへ慶子を連れていくと、皆に注意を呼びかけ、慶子を紹介した。  警察庁でのキャリア勤め、事件を独特の視点で分析し、早期解決に導くこと多数。係長は具体例として、一番話題になった会社組織内の贈収賄事件の構造を研究解明したことに触れた。そしてこのたびの異動が慶子自身の意思で行われたこと、それが非常にまれであることを強調した。  課の人間は皆起立して聞いていたが、関谷は、向こうの窓の桟に腰掛けてコーヒーを飲みながらこちらを見ている。  若宮の笑顔が見えた。背の高い刑事の肩越しから、背伸びをして慶子を見ているのだった。  新しい職場の第一日目が終わると、一気に疲れが出てきた。  慶子はフィットネスクラブに通っていた。頭を使う仕事で自分の肉体が脆弱《ぜいじやく》になってしまいそうな不安が起こり、仕事の帰りに通うことにしたのだった。深夜までオープンしている時間の融通の利く所を選んだ。ジムで準備体操をじっくり行ってから一時間ほど筋肉トレーニングをし、そのあと時間が許す限り水泳をする。  プールの天井は透明のガラスで被《おお》われ、夜の空が見えた。側面の壁も同じで、プールサイドに上がり、下を見ると、町のネオンのイルミネーションがずっと広がっている。  帰っても家族がいるでもなく動物が待っているわけでもないので、ゆっくりフィットネスクラブにいることが多かった。自宅のマンションは防音などが想像以上に行き届いていて、あまり早く帰ると世界から隔絶された気分に陥ることがあった。人はいるが自分に干渉してこないフィットネスクラブは、慶子にとって居心地のいい場所となった。日曜などは、太陽の光を充分に取り入れた空間で、格別に贅沢《ぜいたく》な時間を味わえると思ったが、人が多過ぎるのも苦手だった。日曜祭日に来るときも深夜を選んだ。  しかし今日はどうだろう。一応やめにしてもよいと思った。フィットネスは継続が命なので週に三回は通うのを理想としたが、体が重いし、新しい職場に通い始めた特別な日でもある。パスをしてもよい、と自分に許可を下した。かと言って家にいきなり帰るのも寂しいので、外食でもして少しアルコールを入れて帰ろうと思った。だが結局帰宅するのが億劫《おつくう》になりそうで、しばらく歩道橋の上で町の動きを見たあと、帰ることにした。  マンションの部屋に戻ると、冷蔵庫から簡単なものを出し、テーブルに並べた。  アルコールは白ワインを選んだ。  慶子のマンションは、結婚はおろか恋人の存在すら感じさせない娘を心配した両親が、頭金を出して慶子に買わせたものだった。月々の支払いは慶子がしている。  慶子には広すぎる作りだったが、ものが少ないので掃除に手間取ることもなかった。  食事をすますと、すぐに食器を自動の食器洗い機に入れて、部屋の状態がきれいに整っているかチェックした。自分の体だけでなく、自分の身の周りもデザインの感覚が行き届いていなければ気がすまなかった。友人が来ると慶子の趣味を驚き喜んでくれて嬉《うれ》しかったが、どちらかと言うとひとりでいる方が好きだった。  モノの置き方に自分なりの工夫を凝らし、可愛い少女っぽいものをポイントで置くと温かい気持ちになった。  部屋の状態が完璧《かんぺき》であるのを確認すると、早々にベッドに入ることにした。  まだ寝るには早い時間だったので、明かりは中くらいに設定して、起きたくなったらいつでも起きて過ごそうと、気楽に構えようとした。  ベッドに入っても、今日の職場での興奮は中々静まらなかった。  やはり少女の死体を間近にしたことが原因だろうか。  記憶に残さないよう、見続けることに本能的な拒否が働いた。関谷たちに馬鹿にされたくなかったので、死体のすぐ近くで現場調査を続けたが、最初に一瞥《いちべつ》してからふたたび少女の死体を見ることはできなかった。  あの不思議な人間とも人形ともつかないものは何だったのだろう。拍子抜けしたようにベッドの上で寝転ぶ、あの限りなく人間に近い、でもすでに人間でなくなってしまったものは。こんなことで動揺している自分とはやはり、関谷や、多分刑事部の人間すべてが思っているようになまっちょろい頭でっかちのお嬢さんなのだろうか。  恐ろしさと同時に何か体の奥からあいまいにわき上がってくるものがある。  気づくと、いつの間にか深夜の三時近くになっていた。そういえば、昨日も異動初日の緊張で結局一睡もしていない。そろそろ寝ないと明日に差し支える、と思い、少しうつらうつらしたのだろうか。そのとき、また携帯が鳴った。着信音に違いがあるわけではないが、警察からだということがすぐに分かった。出ると、昨日とは違う人間の声がした。若宮だった。 「霧島さん、すいません、朝早く。またです。また昨日と同じような死体が見つかりました」  現場に着くと、関谷も若宮も先に着いていた。  夜はまだ明けていない。  鑑識による調べもどんどん進行していた。  慶子は、また脚が重くなるのを感じた。ついさっきまで少女の死体のことが頭から離れず悶々《もんもん》としていた。この上さらに新しい死体を見るとなると、この先どうなっていくのだろうと思った。それとも刑事という職業を続けていくうちに慣れていくのだろうか。  今回も何の特徴もない巨大なマンションの一室でのことだった。  慶子は皆が集まっている寝室に赴いた。昨日の少女が死んでいたのもベッドの上だった。  寝室に入ると、何人かの捜査一課と鑑識の人間が作業をしていた。関谷と若宮の姿もある。  鑑識は主にベッドの周りに集まっており、ちょっとした人垣ができたようになっている。人垣の間からベッドの上が少し見えた。掛け布団は赤と白のまだら模様なのかと思ったが、すぐにその赤が本物の血であると気づいた。  まだら模様は爬虫《はちゆう》類の体の模様を思い出させた。  慶子は肝をすえて、人垣の間からベッドの上を見た。  そこにはパジャマ姿の巨躯《きよく》の中年男が仰向《あおむ》けに寝ていた。  パジャマは鋭い刃物で切りまくりに切りまくられている。もとは別の色だったのだろうが、最初から赤であったかのように血に染まり、濡《ぬ》れぞうきんのようにたっぷり水気を帯びている。  パジャマの切り口から鋭利に切られた皮膚が覗《のぞ》いた。肥満の体の皮膚に豪快な割れ目が入っており、傷口の内壁が見えている。首筋も同じで少女と同じく傷口が深く入りすぎて、頭部が大きな体から外れそうになっている。体から外れそうになってもなお大人の男の顔をきちんととどめている異形のオブジェを見て、慶子は嘔吐《おうと》がこみ上げてくるのを抑えることができなかった。慌てて寝室から出てトイレに向かった。トイレに行き着く前にサッシの窓が見えたので、それを開いて外の空気を吸った。  窓の外は特徴のないビルディングが広がって林立し、夜明け前の風を浴びていると少し楽になった。  しかし、これは無理だ、と思った。これを日常の仕事にしていくのは不可能だ。いや、迷うとかそういう次元の問題ではない。まったく無理だ。しかし今更警察庁の方がやはり向いているので戻りたい、とは絶対に言えない。  気を取り直して、寝室に戻ったが、もう死体を見ることはできなかった。  関谷は皮肉な微笑みを浮かべて言った。 「刑事の鑑《かがみ》ですね、お嬢さん」  若宮は、部屋の隅で呆然《ぼうぜん》と椅子に座っている中年女に事情聴取をするところだ。  中年の女は、何もない一点を見つめたまま固まっていた。返り血の飛沫《ひまつ》がパジャマや顔に飛んでいる。 「あの、ご主人のそのときの様子を詳しく聞かせていただけますか」  そんな聞き方で、この茫然《ぼうぜん》自失とした女が答えるのだろうかと思った。若宮はやはりまだ経験が豊富な刑事ではないのかも知れない。しかし女は意外にも一点を見つめたまま、口を動かすのだった。 「はい……ええ……、それが……、何か、その……夢を、夢を……見ているようでした。助けて、助けて、って言いながら、自分の体を……カッターで……」  見つめている一点は、自分の夫が死ぬときの様子だったのだ。  夢。夢を見ながらカッターで自分を切り刻んだ。  死んだ巨躯の男は、眠りながら自分を切り刻んだ、ということか。  死に方は昨日の少女と酷似していた。少女のベッドの脇には血塗《ちまみ》れのハサミが落ちていた。少女もこの男と同じように、夢を見ながら自分を切り刻んだのだとしたら……。  小さな音がして、天井の蛍光灯の一本が明滅し始めた。  あたりが不安定に明るくなったり暗くなったりし出す。  暗くなると、闇に鈍い色が混じって不穏な印象になった。  窓の外は暗黒で、ガラスに映った自分の顔が妙に汗ばんでいるのに気づいた。  見ると、この部屋にいる全員の顔が脂汗のようなもので光っている。  蛍光灯の明かりの明滅で皆の顔は見えたり見えなかったりするのだが、暗くなっても、顔の照りだけは浮かんで見えた。  部屋は少しも暑くはない。むしろ体にはいやな寒気が走っているのだ。  関谷がため息を漏らしながら言った。その声はなぜか小さくこもってこちらに届いてくるのだった。 「何だかいやな感じだな。どうなっちゃってるんだろうな。まったく別の場所で、続けて同じような死に方する仏さんが出てくるなんて……」  部屋にいる全員が何か負の力に引っ張られそうになるのを感じると、関谷もそれを察知したのか、声の調子を上げて言った。 「ま、今回は自殺の現場を奥さんが見ているわけだし、事件性はなし、ということで」  すかさず、若宮が言った。 「ちょっと待ってください」  若宮は、鑑識のひとりから遺留品をおさめたビニール袋のひとつを受け取り、中から携帯電話を取り出した。それを素早く確認すると慶子に見せた。 「ちょっと、若宮、なんで先に霧島くんに見せるのよ」  慶子は若宮が開いた携帯を見た。  発信履歴が表示されている。  あった。  昨日の少女と同じところに電話をしている。 「0」という名前がそれだった。  警視庁に戻ると、課の人間は二日連続で起きたことに事件性があるか関連を追及することになった。  慶子は、「自殺」というキーワードと「0」という何者かの接点を求めてまずはインターネットに入り込んでいった。 「0」が、その名でホームページを開いている可能性を感じたからである。おそらくはそこで自殺志願者が集い、互いに自殺を誘うような書き込みがされているのではないかとにらんだのだ。  慶子は、熱いコーヒーを立て続けに飲んだ。  二日間寝ていないので、警察庁にいたときと同じ集中力が保てなくなったらまずいと思った。  死んだ少女と巨躯の男も、そのホームページで「0」を知った可能性が高いと考えた。  しかしかなり深く探していっても、中々そのホームページは見つからない。  やはり「0」は、早々にホームページを切り上げてしまったのだろうか。  とすると、「0」とコンタクトをとれる人間が、今、潜在的にどれくらいいるのかがまったく計り知れなくなってしまった。  ふたりが残した携帯電話はいくつかの謎を残していた。  まずは、両方とも「0」に電話をかけたあとに不思議な行動をとっている。  それぞれ「0」のあとに別の人間と電話で話しており、その最後の相手との会話を録音機能に収録している。  そのあとに、ふたりとも揃って電源を落としている。  そして会話の内容は、というと、それはまったく何でもないものだった。  少女のものにはボーイフレンドらしい男との会話が録音されていた。男がしきりに自分のうちに来いと誘っているのを、もううちに着いていて面倒くさいからまたにして、と断っている。とすると、男に電話したのはもう部屋に戻ってからと推測できる。  巨躯の男は、会社からの帰宅途中らしく、自宅のマンションの一階で妻に電話をしている。もうエレベーターに乗るところだから、という会話と夕食の内容のやりとりが吹き込まれている。  変わっていたのはそのあとだった。どちらも電話を切る直前に不思議な声が入っていた。何と言っているのか聞き取りづらくてはっきりしないが、幼い女の子の声のようだった。さらに不思議なのは、両方とも同じことを言っているようなのだ。初めは雑音が紛れ込んだのかと思った。何か別の音が声に聞こえることはよくある。しかし、電話をしている環境の違うふたつの電話から同じ声が聞こえるのはまったく不自然だった。今若宮が鑑識課に、その声紋を調べに行っている。  一番考えられるのは、ふたりとも「0」に何か暗示をかけられたという可能性だ。  奇行はすべて「0」との電話を切ったあとから始まっている。  不思議な少女の声は、いずれにしても説明できるものではなかったが。  海坊主のようながたいの刑事が、携帯の発信履歴から裏をとろうとしたが無理だった、ということを係長に報告している。  係長は、表情を変えずに言った。 「遺体の解剖の結果は?」  海坊主が答える。 「二体からは、特別何も見つかりませんでした」  係長は小さくため息をつくと、こう言った。 「じゃあ、『0』に行き着くには、携帯でリダイヤルするしかないか」  中堅に見える別の刑事が言った。 「昨日の少女もやはり夢を見ながら自分を切り刻んだんですかね」  係長は、慶子が思っているのと同じことを言った。 「その『0』ってやつにふたりとも何か暗示でもかけられたのかな。そしたら、簡単な自殺関与じゃないよなあ」  関谷が係長に声を放った。 「係長、自殺の現場を妻が目撃してるんです。いいじゃないですか、自殺ということで。これあんまり面白い成果得られませんよ」  慶子はパソコンから顔を上げ、係長のデスクまで歩いていった。 「いずれにしてもリダイヤルは慎重に進めるべきだと思います。一回失敗して警察だと知られたら手だてがなくなります。うちの誰かが自殺志願者の振りをしてかけてみて、『0』にたどり着くしかないと思います」  関谷が口をはさんだ。 「ちょっと、ちょっと。誰がかけるの?」  海坊主がすかさず言った。 「関谷さんがこの中じゃ、一番暗示にかかりそうにないんじゃないですか?」 「やだよ、俺」  と、関谷。 「皆さんがやらないなら、私がやります」  慶子が言った。「0」に電話するのは危険を孕《はら》んでいると思ったが、手をこまねいて見ているのもいやだった。  関谷は目を細めて言った。 「君が? 君が電話したら、相手の開く心も閉じちゃったりして」 「どういう意味ですかっ」  慶子は自分でも驚くほどの大声を出していた。この関谷という男がいちいち突っかかってくることに我慢がならなかった。  若宮が走り込んできた。 「係長、不思議なことが遺体の携帯電話から分かりました」  若宮は、振り返る皆の視線を浴びながら、係長のデスクまで足早に行き、ふたつの携帯をビニール袋から出してデスクの上に置いた。  殺された少女と巨躯《きよく》の男のものだ。  皆が集まってくるのを見ながら若宮は口を開いた。 「まずます事態を混乱させてしまうかも知れませんが、いいですか」  と、デスクに置いた携帯の、それぞれの録音機能の再生ボタンを押した。  少女と巨躯の男の最後の会話が再生される。これはすでに何回か聞いたものだ。  関谷は、いぶかしげに若宮に聞いた。 「で、これが?」  若宮は例の少女の声の箇所に来ると、 「ここです」  とテーブルの上の携帯を指した。  少女の声がまぎれもなく入っている。  何度聞いてもいやな気がすると慶子は思った。意味を超えて鳥肌が立ってくるのだ。  若宮は説明した。 「鑑識で声紋を調べてもらったんですが、この少女の声に聞こえるのは、それぞれ本人がしゃべったものでした」  本人が? この少女の声を?  馬鹿な、と慶子は思った。今までいろいろな事件に出くわし様々な可能性を追及してきたが、そんなケースは聞いたことがない。  係長はテーブルの上の携帯から若宮に顔を向けると口を開いた。 「で、これは何て言ってるの?」 「はい。鑑識によれば、その……『助けて、お兄ちゃん』と言っているということです」 「助けて、お兄ちゃん?」  関谷と海坊主が異口同音に言った。  若宮は、また再生ボタンを押した。  少女の声がする。ぶつぶつと途切れたようなしゃべり方だが、そう言われてみると、何となく「助けて、お兄ちゃん」と言っているように聞こえなくもなかった。  若宮は、その声を巻き戻しては再生した。  そうして聞くと、確かに、その声は「助けて、お兄ちゃん」と言っているようだった。繰り返し聞くうち、それ以外には聞こえなくなってきた。  しかし声のトーンは? 何度聞いても死んだふたりがしゃべっているようには聞こえない。明らかに少女の声であり、それも両方がまったくと言っていいほど、似た声に聞こえる。  慶子の体に悪寒が走った。  一緒に聞いている誰もが同じような気持ちを味わっているようだった。  関谷もさすがにそれを揶揄《やゆ》することはできないようだ。  慶子は、やはりすべてが「0」という何者かの暗示によるものだと思った。  係長もそう思ったようだ。 「やっぱりかなり込み入った暗示かも知れないな。ちょっと普通じゃないよな」  と言うと、やれやれ、というふうに窓際にいる初老の小男に顔を向けた。 「何があるか分かりませんし、手遅れにならないように、一応あっちにも頼んでみますか」  きれいに禿《は》げ上がっている小男は、静かに顔を上げると、 「は? ああ。そうですね。そうしますか。一応あっちとこっち、両股《りようまた》でいきますか」  と言った。浪花節《なにわぶし》調の独特なつぶれ方をした声だ。  あっちとこっち。まるで当たり前にようにふたつの方法を挙げているが、慶子には何の隠語か分からなかった。  係長は続けて言った。 「そうだね。じゃあ、こっちは関谷を中心に。霧島くんは……」  と言うとなぜか関谷と目配せをしたように見えた。 「霧島くんは、若宮をつけるから、あっちをちょっと探ってみてよ」  係長に言われるまま、若宮について廊下を歩き、あっち、という言葉の意味を聞くと、警察には、いわゆる世間が認識している表側の捜査と、不条理を承知で行われる裏側の捜査というのがあるということだった。たとえば霊媒師などに依頼して、迷宮入り直前の事件の被害者が埋められている場所の方角や周りの風景をイメージしてもらい、それに適合する実際の場所を探して掘り起こしてみたら、白骨状態の被害者が出てきたりすることが稀《まれ》にあるということらしかった。そして、驚くべきことに公表こそされないが、それは実はけっこう頻繁に行われている、ということなのだ。慶子は今まで刑事事件の仕事に携わってきて、そんな非科学的なことが行われているとは聞いたことがなかった。それにしても係長は、なぜ警察庁での合理的な方法で業績を上げてきた自分に、よりによってそんないんちきめいた呪術まがいのことを担当させようとするのか。係長は、人望の厚さのようなものを感じさせたが、こと自分に対しては一人前の人間扱いしていないのではないか。自分のこれまでの業績を完全に無視してなきものにしている。さっき自分に裏側の捜査を頼むとき、関谷と目まぜをかわしていた。そうか、関谷が現場での自分のことを、死体もろくに見られないお嬢さんだとかなんとかまた例の調子で揶揄して、共謀して自分を第一線から外そうとしているのだ。そう思うと悔しくてわなわなと震えてくるのだった。  廊下を歩きながら、思わず、 「ちくしょうっ。ちくしょうっ。馬鹿にしやがって。くそっ」  とつぶやいてしまうのだった。  一緒に歩いていた若宮は居心地悪そうにしていたが、慶子と若宮の先を歩く禿《はげ》頭の小男はまったく気にかけていないようだった。  黄泉の国への誘い人のような初老の小男に連れて来られたところは、地下の資料室だった。  どこかに占い師でも飼っていると言うのか。慶子は取り立てて何の特徴もない資料室を見回してそう思った。  小男が、先導するようにさらに奥へ歩いていく。  地下の部屋はあとで作られたのか、建築の様式美は反映されておらず、コンクリートの壁の前にいくつものステンレスの棚が並んでいるだけだった。  一番奥に行き着いてしまったが、そこにはワイシャツ姿の真面目そうな男が棚の書類を整理している以外何も変わったところはない。  初老の小男は、その男に話し始めるのだった。  男は、きれいにアイロンをかけたワイシャツに、普通手首から肘《ひじ》までつける腕カバーを二の腕まで引き伸ばしてぴっちりつけている。髪が真っ黒で分量が多いのと姿勢がことさらによいので若い男と思ったが、近づいて顔を見ると、地味な顔に皺《しわ》がおびただしく刻まれていた。  初老の小男は、黒髪の男に、今度の事件のあらましをしゃべると、うまい考えはないかと聞くのだった。  どうやらこの黒髪の男が、事件の内容に合わせて適当な霊媒師なり占い師なりを紹介するらしい。  黒髪の男はひととおり小男の話を聞くと、 「その件だと難しいな。専門の人間でもちょっと該当するのがいないですね」  と言った。  黒髪の男は、公式には情報管理課に籍を置き、裏の捜査の必要があるとき、自分の知識から具体案を提示しているようだった。 「携帯電話を見つめるだけで、『0』が誰だか分かっちゃう人なんていませんか」  と若宮が単刀直入に聞いた。若宮もあまり裏の捜査には詳しくないようだ。  黒髪の男は、黒く落ち窪《くぼ》んだ目で若宮を見ると、 「そんな人がいたらいいよね」  と言った。  若宮は、 「いないですよね、そんな人」  と、顔を赤らめて半歩下がったが、また思い出したように聞くのだった。 「じゃあ、あの、夢判断と言いますか、人が見た夢から、その犯人像を割り出せる人とかいませんか」 「夢?」  と黒髪の男は若宮を見た。  小男もすかさず、 「ふたりが亡くなる前、夢を見ていたようなんです」  と、つけ足した。  黒髪の男は三人から目を逸《そ》らすと、少し考えている。  小男と若宮が身を乗り出すように黒髪の男を見ている。慶子はそれがおかしくて馬鹿らしく、笑いたいのを通りこして、ふたたび腹が立ってくるのだった。  黒髪の男は、思いついたように顔の角度を少し変えると、ひとりごちるように言った。 「あ、そうそう、ひとりいるなあ」  小男と若宮がさらに身を乗り出した。  黒髪の男は、いったん小男と若宮を見たが、また顔を逸らせると、 「あ、でも、あいつは、ちょっとなあ」  ともったいぶるように言うのだった。 「いや、以前にね、何件か、悪夢を見て困る、という人のですね、夢の中に、その、自分の意識を入れることに成功した人間がいるんですよ。いえ、これは、裏のプロファイラーとして警察に協力を約束した人間じゃないんで、記録は残ってないんですけどね。そのあと依頼人が悪夢を見ないようになったかどうかは、あれ、どうだったっけかなあ」  水先案内人となった初老の小男は、その先の仕事を慶子と若宮に任せると自分はさっさと刑事部に戻ってしまった。  慶子は、若宮について、黒髪の男が書いたメモを頼りに車を走らせるのだった。  車は、鈍い色の空の下に林立する、巨大なビルディングの群れの中を通り抜けていき、都市開発の中途で手つかずになっている古い家屋と立ち退き後の空き地がまばらに入り交じった、都市の吹きだまりのような場所に入り込んでいった。  空模様がどんどん怪しくなってきた。灰色の中に不気味な赤紫色をたずさえた雲が町中を同じ色に染め上げていた。  狭い路地に入り、車体の下から、タイヤが砂利を踏みしめる音が聞こえ出した。  若宮は慶子に、 「その男にちょっと賭《か》けてみませんか?」  と言った。  慶子は、何かを反応してみせる気にはまったくなれなかった。  車は、路地の奥まったところにある、古いアパートの前で止まった。  若宮が、黒髪の男からもらった紙片とアパートの住所を照らし合わせてうなずくと、ドアを開けて降りていった。  この大都市にも、裏側にはまだこんな所があるのか、と思わせる場所だった。  漆喰《しつくい》の塀は多くが剥《は》がれ落ち、門の先に古いモルタルのアパートがある。  アパートを取り囲む塀とアパートの間には土が見え、石の階段でつながっている。石階段は不規則な並びを見せ、欠けたり、土に潜り込んだりしている。  慶子は土というものを見るのも久しぶりだと思った。  玄関に入ると老朽化した下駄《げた》箱や郵便箱があり、廊下の木はまだ艶《つや》を残している。  相当に古い建物で、玄関から廊下に上がると、若宮と同じ場所に立つのさえ、床が抜けそうではばかられたが、造りは、多分建てられた当時は、和洋折衷のモダンな建物だったのではないか、と思わせた。ある時期まではていねいに磨かれ維持されていたが、今はその緊張から解放されて、朽ちるまでのわずかな時間を待っているといったふうだった。  若宮は、紙片を見ながら、部屋番号を何度となくつぶやき、奥へと入っていった。  全体がこぢんまりと作られていて、少し縮小された寸法の場所にいるような錯覚を覚えたが、廊下はかなり長いものに感じた。角を曲がると奥の方がさらに暗かった。が、一番奥の部屋のドアが開いて、そこからわずかな光が漏れていた。周りに住人たちが群がっている。  若宮は、歩調をゆるめずその部屋に向かった。慶子も何も言わずにとりあえずついていった。  住人たちは顔をしかめて部屋の中を覗《のぞ》いていた。  部屋の中から老いた女の悲痛な叫びが聞こえてくる。  数人の子供たちが慶子たちを後ろから追い越して、廊下を走り、その部屋に入っていった。  裏で犬が激しく吠《ほ》える声がした。  部屋の前にいる住人たちは口々に、 「まったく何やってるんだろうねえ」 「またやらかしたよ、このバカが」  と、ため息をつくように言っている。  尋常な様子ではない。慶子と若宮は部屋を覗いてみた。  部屋の中では、今飛び込んでいった子供たちが、ひとりの寝そべっている男を取り囲んでいる。  老女が、泣き出しそうな顔でその男の肩を揺さぶったり、頬を叩《たた》いたりしている。  倒れているのは、まだ若い男で、顔はほっそりと青白く、自分でも事情が分からないといったふうに天井あたりに目を泳がしていた。  よく見ると、若い男の首には、縄が巻きついている。首を一周し、一点で結ばれ、そこから外側に流れているが、先端が引っ張られたようにちぎれている。  慶子は、若い男が倒れているあたりの天井を見た。鴨居《かもい》の奥側から同じ色形の縄がたれ下がって先端がやはりちぎれている。  若い男は首つりに失敗したらしい。  若宮はため息をつくように慶子に耳打ちした。 「この男に賭けようと思いましたが、それ以前の問題みたいですね」  慶子は、じゃあ、この男が黒髪の男の言っていた……と尋ねるように若宮を見た。  若宮は、紙片と部屋の番号を比べると、慶子を見てうなずいた。  慶子が若宮と住人たちに協力して事態を落ち着かせると、住人たちはおのおのの部屋に戻っていった。  若い男を間近で揺さぶっていたのは、このアパートの大家だった。男にまったく元気が感じられないので常々心配して食事を作って持っていったり、甘いものを差し入れたりしていたらしい。両親の存在が感じられないので気にしていたが、まあ深く詮索《せんさく》することもなかろうと、自分が親代わりになった気でいた。家賃を滞納することもよくあったが、金が入ったときは、手持ちを残しておこうとしないで全部を渡そうとするので、ますます自分が面倒を見てやらなければいけないと気にかけていたようだ。  調子のいいときは住人の子供たちと遊ぶこともあったが、他の住人たちと交流することはないということだった。仕事はバイトをしている、と本人は言うが、実際は何をしているのかも知らないし、普段何をしているのかも分からない、と老女は言った。電話が一台あるので、それが唯一周囲とのつながりを持つものと思っていたが、それはこの男の父親が、生きているのか死んでいるのか分からない息子を心配して、無理矢理置かせたらしい。大家もその父親自体を見たことがないので、男自身の口から聞いたことだと言った。その父親も近頃亡くなったということだった。  人の良さそうな老女の大家が自分の部屋に戻ると、慶子は若宮を見た。  若宮が署に戻ろうと目まぜをしているのだと思い、玄関に向かおうとしたが、意外にも若宮はそのまま若い男の部屋に入っていくのだった。  慶子も仕方なく続いて入っていくと、若い男は、半身を起こして、窓の外を見ている。  若宮は静かに座ろうとして、思いついたように廊下に出ていった。小さな炊事場からコップを手にして行ったので、若い男の気を静めるための水を汲《く》みにいったのだろう。  ひとり残された慶子は、ばつが悪かったがとりあえず入り口に近いところに腰を下ろした。  若い男は外を見たまま、まったくこちらを振り向くような気配を見せない。  質素な服からはみ出した手首やすねが細く、くるぶしがくっきりと張り出している。  若宮が戻ってきた。いそいそと水の入ったコップを若い男の横に置くと、入り口近く、慶子の横に並ぶようにして座った。  気詰まりな時間が流れた。それもそうだ。今目の前にいる男はつい今しがた死のうとして首つりに失敗したばかりなのだから。  若宮は言いづらそうに口を開くのだった。 「あの、影沼さん、こんなときで申し訳ないんですが、ひとつ頼みがあって来ました」  影沼。慶子はこの捜査自体に関心を持たなかったので、今そこにいる男の名前も知らなかった。  若宮は事情を説明した。  ふたりの人間が眠っている間に死んだこと。直接体を切り刻んだのは本人であること。ふたりとも死ぬ前に「0」という何者かに携帯で連絡していること。 「どうやらその『0』という何者かがふたりに暗示をかけたのだと解釈できるのですが、亡くなった二名の携帯の録音機能にそれぞれ最後に話した声が録音されていまして、考えられないことですが、切り際にまったく同じ少女の声がしたんです。声紋を調べたら確かに亡くなった本人の声なんですが、暗示にしては込み入っています。この『0』という何者かに警察の方で電話をかけてみようと思っています。そこで、影沼さんに、その電話をかけた刑事の夢に入っていただき、一体何が行われているかを調べて欲しいんです」  若宮は、一気に結論までしゃべり通した。若宮はときに短絡的で結論を急ぎ過ぎ、未熟さを感じさせることがあったが、その直線的な仕事の進め方が功を奏することが多いことに慶子は気づき始めていた。もしかしたら、この目の前にいる影沼という若い男は、若宮の問いかけに応じて何らかのアクションを起こすのだろうか。しかし何を。夢に入るという馬鹿げたことが本当にあるとは思えないが、一種の催眠術のようなものでもあるのだろうか。また、もしこの影沼という男が首を縦に振ったら、それから自分はどうしたらいいのだ。そんな馬鹿げた捜査になし崩し的に参加していくのはこちらから遠慮したい。  しかし、予想に反してというか、予想通りと言うべきか、影沼という若い男は窓の外を見たまま、まったくこちらを見ようともしなかった。  若宮は慶子を見ると、無理だ、というように首を振った。  そのときだった。  窓の外を見ていた若い男がゆっくりこちらに振り返った。  ガラス玉のように透明な、しかし何も見ていないような目で若宮を一瞥《いちべつ》し、そして慶子を見た。  いきなり、男の手元から水が噴出した。  慶子と若宮は驚いて身を引いた。  水は全部を慶子が浴びた。逃げる隙がなかった。  慶子はあまりの事態に一瞬何が起き、どう反応していいのか分からなかった。  空になったコップが、男の手の中に残っている。  水は、若宮が持ってきたものだった。  男はまた顔を窓に戻すと、黙って外を見た。  若宮が立ち上がった。 「お前っ、何わけの分かんないことやってるんだよ」  慶子は怒りよりも驚きしか感じなかった。自分でも怒りが起こらない理由がまったく分からない。それどころか、自分の方が悪いことでもしていたような狼狽《ろうばい》を強く感じてしまうのだった。急いで若宮に、 「いいのよ、若宮くん」  と言うと、素早く名刺ケースから名刺を一枚抜き取り、影沼という男に差し出した。  そして若宮を連れて、早々にその場所を退散するのだった。  帰りの車で、若宮に黒髪の男の書いた紙片を見せてもらった。  そこには男の名前と住所が書かれてある。  男の名は、影沼京一ということが分かった。  表側、つまりは慶子と若宮以外の捜査一課の刑事たちは、「0」という何者かにリダイヤルして、少なくともその男の着信エリアを特定しようということで話が進んでいた。  慶子は、まだ京一という青白い顔をした青年に水をかけられたときの感覚を消せないでいた。それが何なのかは分からなかったが、京一の自分を見る目が恐ろしかった。  トイレに行って、洗面所の前に立った。  水道の栓を大きくひねって水を勢いよく出した。  その水の流れを思わず見つめてしまった。  じっと見ているうちに、水に吸い寄せられて激しく流されてしまうような錯覚を起こし、慌てて顔を洗った。冷たい水で意識をはっきりさせたかった。  京一という男のあの目を見てから、自分も何かいやなものに引っ張られているのではないかと思ったが、そんなことがあるはずもないと少し笑った。そうだ、この捜査一課に異動してからまる二晩、初日の前日と合わせて三日間ろくろく眠っていない。京一に水をかけられて緩慢だった意識が醒《さ》めたのも、こうして水を見て吸い寄せられそうになったのも、ただ自分が眠いだけだと思いついた。  部屋に戻ると、まさに刑事たちは「0」に電話をしようとしているところだった。  どうやら電話をかけるのは関谷らしい。  他の刑事たちも関谷の席の周りに集まっている。  関谷は、まず自分の席の電話で、専用回線がひいてあるという電話会社を呼び出すと、 「じゃあ、今から電話しますんで。相手の着信エリアの特定をお願いします。ええ、分かってますって。相手に切らせないように話すのは私の最も得意とするところなんで」  と、いつもと変わらない調子で言い、受話器を置いた。  すぐ脇に若宮が立っており、 「これに『0』の番号を登録しておきましたから」  と録音装置に接続された携帯電話を渡した。  関谷は、それを受け取ると、周りを囲む男たちの顔を見て、小さく咳《せき》払いをした。  現にふたりの人間がこの「0」という何者かに電話をし、そのあとまったく同じようなやり方で自分を傷つけ死んでいるのだ。一応身構えてかかるに越したことはない。 「くれぐれも言っておきますけど、きちんと自殺志願者を装ってくださいね」  若宮が念を押した。 「分かってるよ」  関谷はぶっきらぼうに答えると、皆に向かって、携帯を軽く振るような仕草をし、 「じゃ、いくよ」  と言った。  一応専門家から、暗示にかからないためのレクチャーは受けているらしかった。  しかし、それにどれほどの効果があるのかは分からなかった。  皆、固唾《かたず》を呑《の》んで見守っている。  関谷は、何でもない雰囲気を装うためか少し不機嫌な様子になっている。  そして、携帯のボタンを押し、電話をした。  係長は不在だったが、それ以外の者はほとんどがいた。  皆、真剣に関谷を見守った。  しばらくの間じっと関谷は相手が出るのを待った。  関谷の額の髪の毛の生え際に汗が噴き出していた。やはり恐ろしかったのだ。  やがてしびれを切らした関谷は、 「何だよ、出ないじゃないかよ」  と携帯の呼び出しをやめてしまった。  怒りながらもどこかでほっとしているようだった。  他の連中も皆、目的には行き着けなかったが、とりあえずほっとしている。  その様子を見て、すぐ近くで大きな声がした。 「私が電話しましょうか」  驚いて我に返ると、そう言っていたのは自分だった。  皆も驚いてこちらを見ている。  慶子は自分がなぜそんなことを言っているのか分からなかった。  今朝もその話になったとき、自分が電話をしましょうと口走ってしまった。  それは、誰もやらないなら自分がやる、という売り言葉に買い言葉的なものであったかも知れない。あるいは新しい職場で自分の株を早々に上げていきたかったからか。女だからといって甘く見られたくはないし、大事にしてもらう必要もない、という意思の表れだったかも知れない。  今は……? 今はどうだ。何か自分の知らない力で突き動かされているように感じなくもなかったが、よくは分からなかった。  関谷は、また君か、という嫌な顔をもう隠すこともなく、 「いいからいいから。君はさ、あっちの捜査に専念してくれよ」  と、あっちの捜査というところを強調して言った。  関谷の態度から、やはり自分は彼らの輪から完全に外されているのだと悟った。  慶子はふたつの死体にまつわる資料を一式持って、この日はもう誰も使う予定のない会議室に入った。そこで、死亡診断書から鑑識が撮影した遺体の写真をくまなく見た。刑事部の人間からこうまで馬鹿にされ見下《みくだ》されてしまっては、警察庁で業績を上げた人間としてみすみす引っ込んで大人《おとな》しくしているわけにはいかない。  本来の実力で巻き返しを図り、課の人間をあっと言わせてやらなければならない。  あのとき、正視できなかったふたつの死体。  写真は生々しくそれぞれを捉《とら》えている。  全身。顔のアップ。切り傷のアップ。  写真を通して、本当の死体を見たときのリアリティーが甦《よみがえ》りそうで恐怖がわいてくる。  気がつくと、慶子は時間がたつのを忘れるほど、それらの写真を見ていた。  その間に捜査にまつわる考察をしていたか。していたとも言えるが、まったくしていなかった気もする。いずれにしても何も際立った閃《ひらめ》きはわいてこないのだった。  やがて、あの現実の死体を見た恐怖がじょじょに甦ってきた。  しかし不思議なことにあのときの恐怖にまではいたらず、何か茫漠《ぼうばく》としたとりとめのない感情もわいてくるのだった。思い出すにはあまりにも早く目を逸《そ》らしすぎた。きちんと見つめていなかった。あのときあんなに恐怖に感じた遺体の顔も拍子抜けしたような人形の顔として甦ってきさえした。一方でひりつくような痛みが体の中に起こるのも避けられなかった。茫漠としたとりとめのなさに、暗い甘|痒《かゆ》い痛みがこみ上げてくるのだ。  そのとき、慶子の肩に手をかけてくる者があった。  驚いて振り返ると、若宮だった。  自分が人に見られてはいけない悪い遊戯をしていたような気になって思いがけず狼狽《ろうばい》してしまった。  手をかけた若宮も、慶子の様子に驚いている。 「あ、失礼しました。お休みでしたか」 「あ、ごめん。少しうつらうつらしていたかも知れない」  若宮は、慶子の横の座席の椅子を引きながら、 「あれからずっと電話していますが、出ませんね」  と言って腰掛けた。 「そう」  慶子は小さく言った。 「霧島さん」 「え?」  慶子が振り向くと、若宮はやわらかい表情で言った。 「ちょっと飛ばし過ぎですよ」  慶子は何のことだかすぐには分からなかった。 「しなくていい喧嘩《けんか》はしないに限りますよ」  喧嘩? 何のことだ。自分は喧嘩なんかしているつもりはない。若宮は多分一連の関谷とのやりとりのことを言っているのだろう。あれは喧嘩なんかじゃない。向こうから一方的にしかけてくるのを返しているまでだ。いつもの自分ならそう言うだろう。しかし、この若宮という柔らかい相好の男の前では不思議と自分が素直になれると感じる。今も若宮の明瞭《めいりよう》な物言いに、ネガティヴな感情が溶けていくのを感じた。  窓の外の夜が涼やかに透明度を増していた。  慶子は微笑んで息をついた。 「ありがとう」  自分でも驚いたが、素直にそう言ってみたい気持ちになった。  この若宮という男がどういう育ちをしたのか知らないが、おそらく品のよい家庭で純粋な心をねじ曲げられずにそのまま大人になったのだろう。  若宮は、 「え?」  と言って照れると、 「え、どうしたんです? 霧島さんらしくないなあ」 「らしく、って、どのらしくよ。まだ会って二日しか経ってないじゃない」  と慶子が言うと、若宮は笑った。 「私、不器用なのよね。よく上の人とぶつかっちゃうでしょ。偉そうにしてる男とか見るとほんと人間関係やんなるわよ」  若宮はまた笑った。 「聞かなかったことにしておきますよ。でも警察庁ではどうだったんですか。業績を上げたってことは、妨害もなかったってことでしょ」 「なかったことはないわよ。むしろほとんどの男が敵だと思ったわ。一番信頼できたボスの人徳よ。そういう人もいるのよ、たまには」  若宮は、目を細めて、 「へえー」  と声に出さずに言った。 「とにかく、このあとも電話はし続けますんで、霧島さんはうちに帰って少し休んでください。明日は霧島さんと交代で僕も休ませてもらいますから」  若宮にそう言われてその通りにしようと思った。考えてみれば、このまま警察にいて朝を迎えてしまったら、三晩続けて一睡もしないことになってしまう。いざというときに使い物にならなかったらそれこそ大変だ。慶子は自宅に戻ることにした。ただ若宮が電話をし続けるのは不安だった。 「あの、電話はみんなで交代交代でしてね」  と、慶子が言うと、若宮は、 「何ですか、それ」  と、大声で笑い出すのだった。 「大丈夫です。暗示にかからない会話のレクチャー、関谷さんよりちゃんと聞いてましたから」  その日自宅のベッドに入って早々に寝ようとしたが、なぜかまったく眠くならなかった。  体の内側から理屈を超えた本能的な力がわいてきて、興奮していた。  今日もフィットネスクラブに行けなかった。明日こそは行って思い切り体を動かしたい、と思った。  布団に入っていると逆にいつまでも寝られない、と踏ん切りをつけて起きた。まだ朝までには間がある。眠るきっかけはまだまだある。  恐ろしい事態に身を置いているというのに、窓の外を見ると、これまで漆黒に感じた夜の闇が不思議に青く輝いている気がした。  アルコールを口にすると、利きすぎて朝起きるのが難しくなるかも知れないと思いながらも、少しずつ、口にした。  そしていよいよ寝ないとまた眠るタイミングを失う、という時間になり、ベッドに入った。  横になって本を読むと眠くなることが多かったので、夢にまつわる本を読み始めた。帰りに深夜まで開いている大型の書店に行って買ったものだ。ユングやフロイトなどの基本的なものは昔かなり読んだので、もう少しイレギュラーなものや専門的なものを多めに買っておいた。  それでもまったく眠れそうな気配はやってこなかった。  自分の目が潤んでいるのが分かる。目の周りが鈍い重さを持っている。 「ああ、そろそろ寝ないと」  唇から漏れるため息に温度があるように感じた。  体の内側からやってくる力で体が熱くなり、掛け布団を外そうとした。  そのときだ。動かそうと思った手が動かない。途端、体ががたがたと震え出した。  今日会議室で見続けた死体の写真がまぶたの裏に浮かび、実際の現場で見た本物の死体の生々しさを思い出しそうになった。拍子抜けしたような抜け殻。  自分の体が、悲鳴のような声をあげて震えている。肩が。首が。背中が。腰が。脚が。  必死に体を動かすと、あたりがいきなりひんやりした。  今までの時間と今の時間が分かれている感覚があり、やはり少し眠ろうとしていたのだろうか。眠れない神経と眠ろうとする肉体の摩擦が引き起こした体の震えだったのだろうと思うと合点がいった。  気がつくと、携帯の呼び出し音が鳴っている。  ずっと鳴っていた気がする。  眠りそうになっていたところを、この携帯の音で引き戻されたのかも知れない。  頭をずらして時計を見ると、さきほどからまったく時間がたっていない。  携帯を取ろうと思うが、体が緩慢で迅速に動けない。  ひんやりした空気の中で自分の体がやけに汗ばんで濡《ぬ》れている。一度シャワーを浴びないとこのままではとても仕事場にいけない。  甘|痒《かゆ》く浮き上がってしまった体を言い聞かせるように起こすと、相当に大儀な動きになった。  もしかしたらまた第三の死体が見つかったのかも知れない。  あるいは、若宮が「0」との通話に成功したのか。  いずれにしろ、それに近い重大な電話である可能性が高い。  枕元の小机に手を伸ばし携帯を取ると、通話ボタンを押した。 「はい」  かかって来たのは警察だと思ったが、相手は何も言ってこない。  慶子はもう一度言った。 「はい」  応答がない。 「どなた?」  少し待って、いたずら電話だと思い切ろうとしたころ、 「あの」  というかぼそい声が聞こえてきた。 「はい」  慶子は集中し、相手の声を聞き漏らさないようにした。 「あなたは……さっきの電話をしないでください」 「えっ」 「あなたは、さっきの電話をしないでください」  すぐに分かった。昼に若宮と訪れた若い男の声だ。  首を吊《つ》って死にかけて、自分にコップの水をかけた……。 「あなた……さっきの……」  と言うと、電話はすぐに切れた。  慶子は、事態を整理しようと考えた。  すぐにまた携帯の呼び出し音が鳴った。  反射的に出ると、叫ぶように言った。 「影沼さんですかっ。それはどういう意味ですか?」  しかし電話の相手は影沼京一ではなかった。 「霧島さんっ、どうしたんですっ? 大丈夫ですか?」  かけてきたのは若宮だった。 「霧島さん、あの、今『0』につながりました」  慶子は思わず、 「えっ」  と驚きの声をあげてしまった。 「今、僕が『0』の携帯に電話しました。残念ながら相手のエリアは特定できませんでした」  若宮の背後には関谷がいるようだ。他の刑事と馬鹿笑いしながら話している声が聞こえてくる。 「男の声でした。初めは、お前に用はないって切られそうになったんですが、急に何か興味を持ったらしくて、少しの間話しました」  慶子はただ聞くことしかできなかった。 「暗示をかけていた様子はないですね。何かちょっと変な気分なのは、最後に小さい声で、あ、と言うんですよ。どうしたのか聞いたら、今、タッチしました、って言うんですよ。それはちょっと不気味でしたけどね」  腋《わき》の下に冷たいものが流れた。 「でも、大丈夫です。相手もこっちが警察だって気づいていませんし。またかけてみますよ」  若宮の声はいつもと変わらない明るい調子だ。 「くれぐれも気をつけてね。本当に暗示にかからない方法を知っているのね。それは確かなのね」  と言おうと口を開いた、まさにそのときだった。  受話器から、最も聞きたくない戦慄《せんりつ》すべき声が聞こえた。 「助けて、お兄ちゃん」  初めは何なのか分からなかった。電波の状態が悪くなって雑音がまぎれこんだのかと思った。  すぐに、刑事部で聞いた、死んだふたりの携帯から聞こえたのと同じものだと気づいた。  もしふたつの携帯から聞こえたあの声をあらかじめ聞いていなかったら、その音が「助けて、お兄ちゃん」と言っているとは到底気づかなかっただろう。しかし、慶子にははっきり聞こえた。その音が、その声が、はっきりそう言っているのを。 「若宮くん……!」  と叫ぶのと電話が切れるのはほぼ同時だった。  今の声は、間違いなく若宮の口から発せられた言葉だろう。とすると若宮は、死んだふたりと同じように暗示にかけられた可能性が高い。思えば、若宮も死んだふたりとまったく同じ経緯をたどっていることになる。「0」に電話をして会話をし、そのあとそれ以外の人間と話し、少女の声を発している。  慶子は、すぐに若宮にリダイヤルした。  しかし若宮の携帯は電源を落としているようだった。  死んだふたりも最後の電話のあと、電源を切っていた。  慶子は胸騒ぎではすまされない思いに包まれていた。  それは確信だった。  若宮は暗示をかけられている。  すぐに服を着替えた。  着替えながら、捜査一課に電話をした。  出たのは関谷だった。  若宮に代わるよう頼んだが、若宮はトイレに行っているということだった。 「それじゃあ、関谷さん、若宮くんから目を離さないようにお願いしますっ。『0』の暗示にかかった可能性が高いです。お願いします」 「はいはい、了解」  という関谷の声が聞こえてきた。その声には、本当に若宮を守ろうとする真剣味がまったく感じられなかった。 「今から私もそちらに行きます。もし若宮くんが仮眠をとるようだったら、どうか関谷さん、眠らないで若宮くんを注意して見ていて欲しいんです」 「え、こっち来るの? いいよいいよ、今日は来なくて」  若宮が少女の声を出したことを伝えようとすると電話は一方的に切れた。関谷はまったく頼りになる感じではない。一刻も早く警察に到着して、自分自身で若宮を見ることから始めなければならない。  タクシーを呼びつけているのももどかしかった。  自転車に飛び乗った。警視庁にどんどん近づいていかなければならないと思った。  途中でタクシーが見つかったら、すぐに乗り換えればいい。  慶子は自転車を漕《こ》いだ。タクシーとは中々出くわさない。心臓が激しく鳴り出し、汗が噴き出してきた。気ばかりが焦って脚が緩慢な動きしかしていないようでいらついた。  走っているうちに額の裏側に熱が溜《た》まり、こめかみの血管が速く脈打ち始めた。  まずい、と思った。この冷静さを欠いた行動は危険だ。ほころびを見せ始めるのも時間の問題だろう。と思い始めたまさにそのとき、慶子の目の前ぎりぎりを一台の車が通り過ぎていった。危うくぶつかるところだった。新しい汗が全身に噴き出してくるのを感じた。目を覚ませ、冷静になれ、と頬を叩《たた》かれたような気がした。耳の中で急ブレーキの音が、車が去ったあとも残響している。  気がつくと、慶子は緩慢な動きで、携帯を取り出していた。自分でもどこにかけようとしているのか分からなかった。警察にもう一回かけて、若宮の身に別状がないか確かめようとしているのだろうか。しかし慶子自身の予想に反して、リダイヤルの目的で着信履歴を出し、選んだのは、影沼京一だった。ついさっきまでまったく問題視していなかった人間だ。夢の中に入るなど、慶子が今まで培ってきた仕事の内容から考えてもまったく馬鹿らしい空想だった。しかし、こうして暗示のようなものを受けて、ふたりの人間が自らを殺害し、またもうひとり、同じ道をたどろうとしている人間がいる。夢の中に入る、という言葉をそのまま受け取ると馬鹿げたことに聞こえるが、眠っている者と何らかの精神的接触を図るのは理論的にも可能なことだろう。京一という男は、そういう技術を持っているのかも知れない。  そして水をかけられたことも気になっていた。  怒りではなかった。なぜ京一という男は自分に水をかけたのか、何か目を覚まされたような不思議な気分もあり、それがじわじわと広がっていくのを感じていたのだ。  発信ボタンを押した。躊躇《ちゆうちよ》している暇はなかった。  呼び出し音が鳴っている間、心臓の鼓動が速くなった。  自分に水をかけた男が電話口とはいえ接近してくるのが恐ろしいような気分にもなった。  しかし、京一は出なかった。  代わりに留守番電話の応答があった。その機械的な女の声を聞くうち、京一に自分の言葉を届かせるのは難しいと感じた。  慶子は、それでも、言うべきことをなるべく明瞭《めいりよう》な声で的確に言い放とうと思った。 「聞いていますか? 影沼さん。さっき部下の若宮が例の『0』と電話しました。どうやら相手に暗示をかけられたみたいなんです。若宮が、夢の中で何を体験するのか見当もつきません。影沼さんの力で、若宮の夢に入っていただき、事件の解明にご協力願いたいんです。若宮は警視庁にいます。私もすぐに警視庁に到着します。影沼さん、あなたもそこに来てください。お願いします」  そして警視庁の場所を言い、電話を切った。  夢の中に入る。それこそそんな夢のようなことを自分が頼りにすることになるとは想像もしていなかった。  しかし京一というまったく不可解な男に電話をしたあと、慶子は不思議に安定した気分になっていくのを感じた。  あとはとにかく早く若宮のもとに行き、彼の安全を確かめるのみだ。  巨大なビルディングの群れから、荘重な警視庁の建物が姿を現した。  頑丈な造りの門を自転車でくぐり抜け、入り口に立つ守衛の大男に一礼すると、建物の中に急いだ。  夜も深まった捜査一課にはひとりの当直の刑事が残っていた。  慶子が、若宮の所在を聞くと、まだうら若いその刑事は言った。 「ちょっと仮眠をとるって、関谷さんと出て行きました。会議室か、じゃなかったら階段の長椅子だと思います」  慶子は、うら若い刑事が最後まで話し終わるのを待たず、刑事部を後にし、まず会議室に行った。  いない。  ついさっき若宮が自分にやさしい言葉をかけてくれた部屋だ。その時間がすでに遠くに感じられる。  すぐに階段に向かった。  刑事部の奥にある石造りの階段は、最上階まで吹き抜けになっており、冷たい印象に改築された建物の中で不思議に落ち着く場所だった。泊まりになった刑事たちが多分ここを仮眠の場所として利用するのだろう。刑事部と同じフロアーの二階の踊り場にまず行ってみた。多分各階にひとつずつ長椅子が置いてあるのだろう。そばに脚つきの吸い殻入れが置いてある。頭に上着をかけて寝ている者がいる。慶子が急いで駆け寄って確かめると、それは若宮ではなく関谷だった。目を固く閉じ、口をへの字に閉じて眠っている。すぐに階段を上り始めたが、関谷の眠っている顔を見て、子供のころに見た、亡くなった祖父の顔を思い出した。棺桶《かんおけ》の小窓から覗《のぞ》いた顔だ。  慶子は階段を上る。三階の長椅子にも人が横たわっていた。しかしその太った容姿から一目見て若宮でないことが分かった。慶子はまたすぐに階段を上る。  最上階の四階の長椅子に若宮はいた。上着を胸元にかけて寝ている。  最上階は、屋上へ行くときにだけ利用する踊り場で、掃除もわずかに手を抜いているようで、少し埃《ほこり》っぽく感じた。  長椅子の周りは飲み終わったコーヒーの缶や、ペットボトルの空になったものがわずかだが片づけられないままになっていた。階段の暗い常夜灯は踊り場の隅まで照らすことができず、若宮の寝ている長椅子は、闇に半分溶け込むようにしてあった。腹ぐらいから下は見えたが、顔がよく見えない。慶子は一刻も早く若宮の顔を確認したかった。だが、動かない若宮の顔を見ることにわずかな躊躇があった。  慶子は、恐る恐る若宮に近づいていった。  不吉な胸騒ぎがした。  関谷の眠っている顔を見て思い出した、亡くなった祖父の顔が浮かんだ。  その顔と若宮がまた結びつきそうになって、怖かった。いよいよ顔が見えそうになったとき、やはりいやな予感は当たっている、と根拠のない確信がわいて、若宮の顔を見るのがいっそう怖くなった。  長椅子の前に立ち、天窓から忍び入る淡い月光で若宮の顔を見た。  それは、やすらかな寝顔だった。  少し微笑んでいるような、きっと子供のころから同じ寝顔を見せて母親や父親に幸福をもたらしていたのだろう。  慶子は、ここに来るまでの加速してうわずった気持ちと体を急速に落ち着かせていくのだった。今のところまだ「0」の悪い影響は若宮には出ていない。とにかく今のところは。  慶子は、隅に重ねられた折りたたみパイプ椅子のひとつを取り出し、軽く埃を払うと腰掛けた。  しかし、これからいつどういうことが起こるか分からない。  とにかく今日は、若宮を見張っていよう。今日をうまく乗り越えられたら、これからどういうふうにでも打つ手はあるはずだ。とりあえず若宮の身の周りに凶器になるようなものがないかを確かめた。ない。胸元にかかっている上着の内ポケットに柄の尖《とが》った櫛《くし》が見えたのでそっと外した。  ゆっくりパイプ椅子に腰掛け、考えた。  京一という男は、ここに来るだろうか。  自分のかけた電話の切実さを理解してくれるだろうか。なぜだか来てくれるような気がした。  しかし、ふらふらと自殺を繰り返しているような男だ。人助けをして、嬉《うれ》しいとか嬉しくないとか、そういう次元を超えたところにいる人間かも知れない。  来てくれるかも知れない、という淡い希望と同時に、まったく箸《はし》にも棒にもかからない話にも思えた。  緊張はピークに達していると思ったが、体を存分に動かした疲労と、若宮がとりあえず無事でやわらかい顔をして眠っていたこと、そして何より慶子が二晩とさらにこの夜をまったく寝ずにきていることから急に眠気がやってきた。  踊り場の暗い照明も慶子の睡魔に力を貸した。  マンションの落ち着くはずの寝室ではいくら努力しても眠れなかったのに、こんな暗いすすけた警察の踊り場で、まして、緊張すべき事態の渦中に眠くなってくるとは、と思うと、疲労からか、おかしいような気分もわいてくるのだった。  あの男は来るだろうか。どこかできっと来る、という確信めいたものがあった。  それが慶子を安心させている理由のひとつかも知れなかった。  しかしいざ眠りに落ちそうになると、それがまったく根拠のないことで、むしろ絶対に来ないのではないか。それどころか京一という男は自分の吹き込んだ留守番電話すら聞いていないのではないか、という想念がわいてきて、身震いして体を起こした。  睡魔が押し寄せてくるたび、この数日にあった様々なことが混濁して意識の中に現れては消えていったが、京一という男が来ない、という想念に達すると恐怖して体を震わせ起きた。  天窓の月明かりを見た。  カビの匂いが混ざったようなこの屋上への階段の踊り場で、月の光は何も物語らず、ただ透明な青さだけを見せ続けるのだった。 [#改ページ]   夢に入る男  どうしたわけだ。体がまったく動かない。  いやなことというのはいったん起こると立て続けに起こるものだ。  ずっとそんなことを頼んでくる人間などいなかったのに、ここのところ馬鹿に続いた。そもそも最初に夢に入れたのだってまったくの偶然であり、自分がそうしたくてしたことではない。その気もないのに、悪夢を見て困る、という人間の夢の中に入ってひどい目に遭った。  また夢の中で哀しい人間の深層につき合って、もう現実の世界などに戻らなくていいと思うと、今度は夢の方からおっ放《ぽ》り出される。  先日の大石という初老の男の夢は恐ろしいと言えるものではなかったが、夢から出たあとがいけない。家族が心の中で大石の悪口ばかり言っている。顔では常識人を装いながら、心では哀しくなるような繰り言を続けている。  もういやだ。もうごめんだ。もうそんなやつらとつき合いたくない。同じ空気すら吸いたくない。  一緒にいても苦にならないのは、このアパートの大家の老女と、子供たちだけだ。  老女と子供たちからはいやな声は聞こえてこない。悪口が聞こえてきても、それと同じ表情を顔が作り出しているので裏表がない。子供たちとは時々近所の公園で遊ぶことだってある。先日遊んだときは雨が降りそうだったので、夢に入るときに使う雨合羽《あまガツパ》を着ていったら、全身黒ずくめでカラスみたいだと言って笑われた。カラスの真似をしてゆっくり追いかけたら、子供たちは腹の底の方からごろごろと面白いほど可愛らしい声を出して笑うので楽しくなった。  親が勤めに出ていて鍵《かぎ》っ子の子供たちが多く、大家の老女が仕方なく子供たちの面倒を見ていたようだが、京一がそうやって時々遊んでやるので、大家の老女も楽ちん楽ちんと言って京一にカレーなどを作って持ってきてくれるのだった。  大石という男の夢に入ってほとほと人間というものに愛想がつき、しばらく外に出るのも億劫《おつくう》だったが、その日は、天気雨が降って、不思議な空の色だったので子供たちと少し外に出て遊んだ。大家の老女がぜんざいとかいう甘い飲み物を茶碗《ちやわん》に入れて持ってきてくれたので、それをすすって昼寝して起きたら、皆が自分を取り囲んでいた、という具合だった。  いつ首を吊《つ》ったか、まったく記憶になかった。初めてふとそんなことをしてみようか、という気になったのはいつのことだったろうか。ずいぶん以前のことだから思い出せない。絶対そうしてやる、というほどの意気込みもないので、ずるずると計画は失敗に終わる。まさに首をくくろうとしているときに見つかって止められることもあるし、ロープに結び目を作っている段階で止められたこともある。今回は縄が古くなっていたので、ちぎれてしまったらしい。  首はちゃんと吊った、ということだから、縄が切れていなかったら、本当にこの世とおさらばしていたかも知れない。それならそれで今はもうそれを憂える自分もいないのだから楽でよろしい。  そのときだった。あの二人連れの刑事が自分の部屋に訪れていると知ったのは。  ひとりは若い男の刑事で、刑事然とした感じの男ではなかった。柔らかい育ちのいい相好の男で、甘い匂いを漂わせていた。誠実な面もあり人に不快を与えない様子だが、正直、あまり近寄って欲しくなかった。本当に誠実な人間は確かにいるのだろうが、たいがいの人間は皆同じで、表と裏の比重のかけ方でバランスを取っている。表に誠実さを出しすぎている人間の裏側は見たくなかった。  問題なのは、女の方だった。  男の刑事より後ろに下がって、自分からは離れた場所に座っているのに、いやなものがかなり出ている。男とは関わり合わない距離を保てたが、この女のいやなエネルギーは、男の比較にならないほど強く、それは単に自分を歯牙《しが》にもかけていないというどう考えても見え見えなもの以外のもっと大きな感情だった。それが自分に届きそうになったので振り払おうと思った。  気づいたときには、女にコップの水をかけていた。  刑事たちがそのせいでとっとと帰ってくれてせいせいした。  それにしてもまた人の夢に入れとは。人の夢に入って、ほとほと人間という生物にうんざりしているというのに、また入れと言ってくる者がいる。  本人たちが夢を見ている当人ではないので、真剣に頼んでいるようで、それほどでもない。真に恐ろしい悪夢を見て困っている人間の頼み方は、およそ逃げられるものではない。しかしどうやって自分のことを調べてきたのだ。今度ばかりは不思議だった。今までは人づての範囲に留《とど》まっていた。警察というのは自分が想像しているよりある意味優秀な機構なのかも知れない。  男の刑事が言っていた話の内容は確かに気になった。  ふたりの人間が別々の場所で夢を見て自分を切り刻んだ。  本当にふたりが夢を見ていたのだとしたら、それは相当に恐ろしい夢だろう。なにしろ自分を恐怖で切り刻んでしまうくらいだから。  しかしとにかく刑事たちは諦《あきら》めて帰っていった。  そんな恐ろしい夢に、こちらはリスクを冒して入らなければならない理由がどこにあるのだ。そんなことを人に簡単に頼める無責任さに怒りを覚える。  いずれにしても自分の様子を見た刑事たちはもう二度と来ないだろう。  夜になって、起きているのだか眠っているのだか分からない時間が過ぎ、深夜に目覚めた。  月の光が窓を通して畳を照らしている。  京一の胸の奥に熱いのか冷たいのか分からない濃い水のしずくがたまっている感じがある。  昼間にやって来た女刑事のことが気になった。  まさに洗練された都会の女という感じで、自分の近くには一度も現れたことのないタイプだ。  完璧《かんぺき》に着こなされたタイトなミニスカートから伸びた脚は細かったが力強かった。  よくは分からないが、日常歩くためだけに使っていてもああいう形にはならないだろうと思った。運動などをして自分で意識的に作り出している強さがあった。その感覚は服装全体、髪型、化粧、姿勢の保ち方、表情、すべてに厳格なまでに行き渡っていた。しかし、女刑事の完璧な容姿のどこかにほつれを見た気がした。きちんと決め込んだスーツに、こぼした醤油《しようゆ》がついて、必死に落とそうと努力したあとが見える。実際見えたわけではない。そんな気がしたのだ。その柔らかい感触のほつれを見た気がしたとき、京一は女刑事のことを痛ましい、という感情で思った。そしてあの全体から発する悪い不吉なもの。  それは京一自身が持っている不吉なものと似ている気がした。  女刑事に水をかけたのは、衝動的にしてしまったことだが、そのいやなものに冷や水を浴びせたかったからかも知れない。あるいは自分自身に水をかけているような不思議な気もした。  夜が冴《さ》え冴《ざ》えと青く、女の負の力を見た感情が心を満たしていった。  さっき若い刑事が言っていたできごと。ふたりの人間が夢を見ながら自分を切り刻んだ。それは「0」とかいう何者かの暗示によるものかも知れないと言っていた。  そして警察の誰かが「0」に電話をし、「0」と話し、わざと暗示をかけられ夢の中で真相に迫る。すべてが本当だとしたら恐ろしくやっかいな話だ。警察の誰かが夢の中に入る? 無茶だ。誰がそんなことを買って出るというのだ。そのとき、若い男の刑事と女刑事の顔や姿が浮かんだ。あいつらが今日ここに来たのは偶然でなく、何かの因縁だったのではないか。畳に座ってこちらを見ていたふたりが急に幽鬼のようになって京一を見ている映像にすり替わった。その仕事を担当することになるのは、この若い刑事か女刑事なのではないか。 「いやだいやだ」  思わずそうつぶやいていた。  京一の口癖だった。  何で皆愚にもつかないことに首を突っ込もうとするのだ。いやだいやだ。  もう自分のところになんかに誰も来ないでくれ。いやだいやだ。  何もかも捨ててしまいたい。いやだいやだ。  それどころかこんな世の中から消えてしまいたい。いやだいやだ。  そもそもこんな世の中何であるんだ。いやだいやだ。  女刑事が「0」に電話をかける場面が頭を内側から突くように浮かんできた。  女刑事の持っていた負の力が、何かもっと巨大で重要なものをみすみす闇に突き落としてしまうような恐怖に似た感情がわいた。 「いやだいやだ」  こんなことには関わり合いたくない。なぜ来た、なぜそんなやっかいな荷物を持ってきた。ほとほといやになる。助けてくれ。  京一はほとんど動くことを拒否している体を少しだけ動かして、女刑事が置いていった名刺に手を伸ばした。  手にして見ると、女刑事の名前と、警視庁の住所と電話番号が書いてある。その横に手書きで携帯電話の番号が書かれていた。  女刑事の名前は「霧島慶子」。  とりあえずこの女刑事にだけは忠告しておこう。  そして、また重い体を動かし、押し入れにしまってあった電話機を取り出し、配線を壁のプラグにつなぐと名刺にある携帯の電話番号にかけた。  しばらく呼び出し音が鳴って、ようやく女の声がした。慶子だということはすぐに分かった。 「あなたは、さっきの電話をしないでください」  相手は聞き取れないようだった。  あるいは言葉の意味が呑《の》み込めないらしい。  京一はもう一度言った。 「あなたは、さっきの電話をしないでください」  羞恥心《しゆうちしん》のような感情が爆発しそうになった。  慶子が何か言ってきたので、すぐに電話を切った。  電話機を押し入れに放りこんで万年床に寝っ転がった。  しばらくして電話が鳴った。留守番電話に慶子の声が吹き込まれていく。荒い息を整えながら話しているのが分かる。電話は予想通り恐ろしい事実を語っていた。  若宮というのはさきほどの若い刑事だろう。やはりその男が「0」に電話をしてしまったようだ。暗示にかけられたようだと言っている。そしてまた京一に若宮という刑事の夢に入れと言うのだ。  まずは刑事たちのお気楽さに失望する。  よくもそんな危険な電話をみすみすかけたものだ。  次に刑事たちの無責任さに絶望する。  よくもそんな大役を自分に頼むものだ。  しかし自分がこの流れにストップをかけないと、次に電話をするのは、おそらく、いやほとんど間違いなく慶子だろう。ここですべてを終わらせなくてはいけないのではないか。 「いやだいやだ」  京一は重い体を持ち上げて、立ち上がり、部屋の中をさまよった。  月の光が京一を照らした。 「いやだいやだ」  窓の外を見たり、壁に頭を擦《こす》りつけたりした。 「絶対行かねえ。冗談じゃない」  と言いながら、廊下に出た。  無意識のうちに、雨合羽《あまガツパ》を羽織っていた。  おいおい京一、どこに行くのだ。今日は月がきれいで雨なんか一滴も降っていないぞ、と自分で言いながら廊下を歩いた。角を曲がると、ひとつの部屋からパジャマを着た子供が顔を出した。  廊下の床を軋《きし》ませて、忍び足で出てくると、京一の前に立った。  別のふたつの部屋からもそれぞれ示し合わせたように子供が出てきて、忍び足で近づいてくると最初の子供の横に並んで京一を見上げた。  京一は子供たちと向かい合う形でしばらく見つめ合ったが、何を言うでもなく、吹っ切るように子供たちから離れて外に向かった。  子供の声が後ろから追いかけてきた。 「帰ってくるよね」 「また一緒に遊んでくれるよね」  またこうしてろくでもないことに首を突っ込んでしまっている自分を呪いながら京一は馬鹿に月の明るい夜の町を歩いていった。  名刺に書かれてあった警視庁の場所は京一のアパートからそう遠くはない。  開発からこぼれ落ちた京一の周囲の風景は閑散としていたが、少し歩くとすぐに林立するビルディングを見上げる形になった。  住所からすると、ビルディングの群れの中を探せば、警視庁はすぐに見つかるはずだ。  ビル街に入ると、名刺の住所の場所は、京一も知っている所だと分かった。  無機的な風景にあっては、面白い雰囲気の建物なので覚えていた。  周りのビルと比べるとかなり低いが、古い西洋の教会のようで目を引いた。  他の場所より落ち着く気がして、裏の塀と建物の壁面の一番狭い隙間にはさまるように昼寝をしたことがある。落ち着くが、気取った建物にも思え、京一は警視庁だと知らずに壁に小便をかけて帰ってきた。その場所に、確か窓ガラスが破れ、ボール紙をあてがって応急処置をしたドアがあった。裏の非常口のような所だった。ボール紙がかなり古かったので、京一は今もあのままだろうと思い、そのドアを探し、段ボールを外し、鍵《かぎ》を開け、中に入ろうと思った。  警察から呼ばれたのだから表から堂々と入ってもよかったのだが、入り口の立ち番などに事情を説明するのが鬱陶《うつとう》しかった。  塀をよじ登り、建物と塀の隙間に下り、ドアを探した。  巨大な配管がむき出しになっており、そこから低音が鳴り、あたりの空気を生温《なまぬる》くし、呼吸がきれいに胸まで届かなかった。  足元の配管を踏み越え、歩くと、今度は空気が湿り、息がしやすくなった。  古い建物の壁面が暗い陰影をたたえ、そこに錆《さび》の浮いた鉄製のドアがあった。  やはり窓の所にボール紙が貼ってあった。以前のままだ。  京一はボール紙を外すと、手を突っ込み、鍵を開けると中に入った。  暗い廊下が延びている。  非常口を知らせる薄暗い明かりだけが、間隔をあけて壁面についている。  京一はそこを歩いていった。  建物の構造上、京一が入った裏手からの階は、表側から入ると地下にあたるようだった。  暗い資料室のような場所を通り越し、階段を上ると広いフロアーに出た。  大理石と石壁で中世の西欧建築をイメージして建てたようだが、この建物の築年数もかなりのもののようだ。  慶子がいる刑事部とはどこだろう。  すぐ目の前の、地下からそのまま上に延びている階段を上っていこうと思ったが、一階フロアーからさらに奥に延びた廊下の突き当たりが気になった。  歩いていくと、廊下の途切れたところが少し広いスペースになっていて、天井まで吹き抜けになっている。階段は周りの壁に沿って屋上まで延びているようだ。  中世の建築の様相はここが一番際立っていた。これまで見てきたのは、老朽化した建物にかなり手を入れ、ペンキも塗り直し、もとの形だけは残そうと手を加えられたものだった。ここは少なくとも二、三十年は手つかずの様子だ。  壁も他の場所のようにぺったりとした塗装ではなく、歴史を感じさせ、階段や手すりの大理石は丹念に磨き続けられた光沢を出している。窓は上辺がアーチ状になっていて、表側から見た印象と同じ教会のような荘重さがあった。  天井の天窓から月の光が入ってきている。  天窓の下、最上階の手すりにひとりの女のシルエットがもたれている。  髪型や雰囲気で間違いなく、昼間訪れて来た女、慶子であるのは間違いない。  昼間に会ったときは、自分から最も遠いところにいる女だと思った。  見かけも、住む世界も違うし、女の心も上の空だった。  それが、切実な思いを抱いて自分などに連絡をして、こうして青白い月の下でこの自分を待っている。不思議なことだ。  京一は階段を上がっていった。  早く行ってやらなければ、という思いと、すぐにでも逃げ出したい気持ちの両方があるのはいつものことだ。  物事をあまり重大に捉《とら》えるつもりもないが、京一はいつものように、万一現実の世界に戻れなかったら、それは仕方のないことだ、と思おうとした。今回は、先日の大石のような類《たぐ》いの悪夢でないことははっきりしている。正直言って恐ろしい。  今度ばかりは、死ぬかも知れない、と思った。同じ死ぬのでも、普通に生きていれば一生味わうことのない恐怖を抱いて死ぬのだからたまらない。何で自分はそんなことをしなければならない星の下に生まれてきたのだ。  最上階に着く少し前の階段の途中で止まり、パイプ椅子に座る慶子の後ろ姿を見た。手すりに肘《ひじ》をかけ、腕をつっかえ棒のようにして頭を支え静かにしている。眠ってしまっているのか。  そこは最上階と言っても、屋上に出るためのドアがあるだけの、踊り場の役目しか果たしていない小さなスペースで、奥の方の暗闇の長椅子でひとりの男が眠っている。それが若宮であるのは間違いないようだ。  慶子は、向こうを向いたまま、ふと顔を上げると、こちらに振り向いた。 「影沼さん」  と言って立ち上がった。  立ち上がったが、すぐに次の言葉が出ないようだ。  京一も慶子の視線に耐えられず、少し目を逸《そ》らした。 「来てくれたんですね」  と言うと、慶子は京一に近づいてきた。  京一は思わず、一歩下がった。  女のいやなものが見えそうで、極端な動きになってしまった。  慶子は足を止めた。 「僕……さっき、あなたの心の中が一瞬見えそうになってしまいました」 「え?」 「初めてあなたを見たとき……」  慶子は意味が分からないという顔をした。  顔の繊細な筋肉を動かして作り出す表情を見て、事態と関係なく、きれいな顔だと思った。 「僕だって、本当は見たくない……」 「私の心に……何を見たの?」  慶子は、自分では気づいていないようだった、その負のエネルギーを。  京一もすぐに体を引いたので、いつものように心の声としてはっきり聞いたわけではない。  京一が黙っていると、慶子は返事を待っているように押し黙っている。  京一が、分からないままに何か話そうと口を開くと、 「やめて。やっぱり聞きたくありません」  と少し目を逸らせた。 「あの、ひとつだけ、約束してくれますか」  慶子は、何? というふうに黙って京一を見た。 「もう二度と頼まないでくれ」  慶子は、京一を見つめた。 「もし生きて帰ってこられたら、二度と頼まないでくれ」  慶子は真剣に京一の言葉を聞き漏らさないようにしている。 「僕は、これを仕事にしているわけではないんです。これまでは、知り合いが苦しんでいるから仕方なく夢の中に入った。でも、僕にできるのはそれまでで、それ以上何を望まれても困るんです。いつも多くの傷を残して終わります。いやなものも見ます。これ以上ないくらい恐ろしいものも。できたらこんなことしたくない。あなたは自分の都合で僕に頼むが、夢に入るのはすごいリスクなんです。夢の中で悪夢に呑《の》み込まれたら、もう二度とこちらの世界には戻ってこられなくなる。僕だけじゃない。夢を見ている当人だって、少しボタンをかけ間違えたら、精神に異常をきたしてしまうことだってある」  慶子は瞬《まばた》きもしないで聞いている。唇をきっちり結んでいる。 「だから夢に入ったところで、何ができるか分かりませんよ。この人の精神が危ないと思ったら、いっさい深追いはしないで帰ってきますよ。いいですか」  慶子は、やはりそれだけのリスクがあるとは知らなかったようで、固く閉じた唇を細かく震わせているように見えた。  しかしついさっきまで自分のことなど歯牙《しが》にもかけていなかった女が、なぜここまで夢に入るということに固執するようになったのか。 「影沼さん、そんな恐ろしいことだとは知らずに本当に申し訳ありません。でも、何とか、この若宮の命だけは助けて欲しいのです」  京一は、慶子の横を少し離れながら通り過ぎ、若宮の寝ている長椅子の前に来た。  慶子も一緒に来ようとしたが、京一は無言で手を動かして示し、止めた。  慶子が近づいてきては気が散る。集中できない。どんな人間がいても気は散るが、慶子には気が散る要素が多すぎる。  若宮は、仰向《あおむ》けで天窓からの月明かりを浴びて、やすらかな顔で眠っている。  京一は若宮を見下ろしながら慶子に聞いた。 「この人が眠ってからどれくらい経ちます?」  慶子は腕時計を見て言った。 「私が来たときには寝ていたから、二時間と少し……」 「そうですか。じゃあ、この人のまぶたがぴくぴく動いたら教えてください」  京一はそう言うと、雨合羽《あまガツパ》の下の衣服を脱ぎ始めた。  すでに人の夢に入るために気持ちを整えて、若宮から目を逸らさないようにしていた。  一瞬前までは、たとえ雨合羽で隠しているとはいえ、慶子という女の前で服を脱ぐことなどはばかられただろう。しかし京一は夢の中に入っていかなければならない。諦《あきら》めに近い感情ながら、前向きな意思を持たなければならない。それには集中力が必要だった。  夢に入るには裸にならなければならない。今夢に入ると決めた。だから服を脱ぐ、という至極当然の道理で京一は服を脱いでいった。慶子がどういう気持ちでいるかはもう分からないし気にしている暇はなかった。  京一は雨合羽の中の服を全部脱ぐと、合羽から出して、床に置いた。  そして若宮の前に屈《かが》み込むと、自分の手を、眠る若宮の首筋に持っていった。  とりあえず動脈の流れを見て、若宮の血の流れに自分の血の流れを合わせるようにした。その深層に触れる準備のために目を閉じた。  どれくらい時間がたっただろうか。若宮の体から発する波動を捉《とら》えると、ちょうど同時に慶子の声が聞こえてきた。小さいが、はっきりした声だった。 「影沼さん、まぶたが」  京一は目を開けないまま答えた。 「来ましたか」  若宮はレム睡眠の状態に入ったらしい。  この間に人は夢を見る。  京一は若宮につぶやくような小さな声で質問をした。まったく論理をなさない、感覚的な、あとで思い出そうとしても思い出せないような質問だ。しばらくすると若宮の小さな声が聞こえてきた。自分の質問に答えている。蚊の鳴くような声で。  いくつもの質問を浴びせた。目をつぶったまま、若宮から出る波動を逃がさないように、集中して。  質問しているうち、若宮の柔和なトーンが、鋭くささくれだったものに感じ始めた。  目の前に、黒光りする鉄板のようなものが浮かんで、それが煙は出していないのに熱で焼けている、という想念が起こった。  鉄板の表面は油で光っている。  そのうちに、京一は若宮がひとつの言葉を連呼しているのに気づいた。 「面白くない。面白くない。面白くない」  京一は目を開けずに集中した。体が熱くなって、現実の世界では自分の体はもう身動きを止めてしまっているのだろう。  若宮の声がすぐ耳元でしゃべっているように明瞭《めいりよう》に聞こえた。 「面白くない。全然面白くない。何のために、誰のためにここにいるんだ。いるのは狂った犯罪者か、自分勝手なアホばかり」  遠くから、 「何の夢を見ているの」  という慶子の悲痛とも言える声が聞こえたが、すぐに若宮の声にかき消された。けだものが喉《のど》を鳴らしているような声だ。 「こんな糞《くそ》の世の中消えちまえばいいんだ、消えろ、消えろ、消えろっ」  京一は、水の中を沈んでいった。  いつもこの夢を見る。またこの夢だ、と思いながら、その間は、そこにいたる事情を忘れている。  雨合羽の下の裸の体に生温《なまぬる》い暗黒の水を感じながら、底に向かってひたすらに落ちた。  気がつくと、暗い都市の風景を一望にしていた。ネオンも大方が消え、家々の明かりもところどころが光っているのみだ。  暗黒の濃度が深く、墨のような闇だった。  京一は非常に不安定な所に立っていた。  細く長い電信柱の上だ。  目を凝らすと、墨のように黒いと思った闇が、ざらざらとした粒子の固まりであるのが分かり、粒子は一見静かな景色の黒の中で荒々しく飛び回っていた。  京一は、事情を思い出し、若宮の深層のかなり端の所に降りてしまったと思った。  中心から逸《そ》れている。  若宮の中心に近づくためには、次元を超えなければならない。夜の町をほっつき歩いている暇はない。何で電柱の上なんかにとぼやきながらも素早く下り、適当な線を探した。一番近いものでマンホール。その円周のライン。直線の方が入りやすかったが、向こうの壁と地面の作る明瞭な直線までは少し遠い。急がなくてはならない。京一は若宮のなるべく中心へ行けるように意識を集中して、マンホールの円周のラインに手から滑り込んだ。  落ちる。水の中を落ちる。また直前の記憶がない。  気がつくと、あ、そうか、と今の緊張すべき事態を思い出し、今度来たのは若宮の精神の純度の高い場所であることが分かった。闇の粒子はさらに激しく飛びかっている。京一はビルディングの裏階段にいた。鉄板の階段の隙間から下の風景が見える。窓のないコンクリートの壁が背後にそびえている。閑散とした暗い場所だ。かなり高い場所にいる。歩道橋がすぐ下に見える。その上を若宮は歩いていた。  若宮は、京一の部屋で見た柔和な面持ちとはかなり違う表情をしている。酒でも飲んで正気をなくしているのか、目は赤く潤み怒気をはらみ、口にはふてくされたような嘲笑《ちようしよう》をたたえている。  そしてその童顔からは想像もできないようなことを叫んでいるのだった。 「世界をぶっ壊す一番いい方法は何でしょう。そうです。自分をぶっ壊す。そうすりゃこんな世の中おさらばだっつうのっ。ずっと前から分かっていた。黙っていたけど、ずっと前から分かっていましたっ」  と言うと、突然|噛《か》み締めるように泣き出すのだった。  若宮は短い間、うつむいて鼻をすすると、顔を上げ、今度は、今のは冗談でした、と言わんばかりにへらへらと笑うのだ。  一体この男の心の構造はどうなっているのだ、と思って見ていると、若宮は、近くに落ちていたガラスの瓶を手にし、いきなりコンクリートの床面にぶつけて砕いた。そのまま迷いなく、割れて鋭利な断面を自分の喉元に持っていった。  京一は慌てて、裏階段の手すりから落ちそうになるほど身を乗り出して、若宮に向かって手を伸ばしていた。  夢の中で、夢を見ている本人が死んでしまったからといって現実で本人が死ぬとは限らない。しかし今の若宮の状況は計り知れない。夢を見ながら若宮が死んだら、現実でも死ぬ可能性が極めて高い。そうしたら、京一は永久に元の世界には戻れなくなる。その覚悟はしているつもりだ。しかし目の前で唐突にその事態がやってくるとやはり反射的に狼狽《ろうばい》してしまう。まず事情が分からない。分からないでいきなり現実の世界とおさらば、というのはごめんこうむりたい。  そのとき、大きな音がした。  歩道橋の下あたり、いやどこかは分からない。  若宮もその音に驚いて、瓶を持つ手を止めた。  そして彼もまた歩道橋の下を見回すのだった。  ここはどこだ。若宮の深層でここはどういう役割をしている場所なのだ。  ビル街に、忽然《こつぜん》とある歩道橋。周りに人の気配はない。遠くのビルの明かりの中に、人々の生活があるようには感じられない。  この歩道橋はあまり人の利用する場所ではないらしい。だが、重層的に入り組んで、二層三層に歩道が重なっている。現実には見たことのない形だ。一目ではどこが上がり口でどう重層の歩道が繋《つな》がり合っているのかが分からない。激しい物音も、明らかに歩道橋の下から聞こえてくるが、畳まり重なった構造の中でどこが音の出元なのか掴《つか》めない。  しかしその物音は次第に激しくなり、今や歩道橋が激突の余波で音叉《おんさ》のようにきいんと音を響かせ、天空に抜けている。  激突音から次の激突音までの距離がかなりある。ぶつかっているものは複数だと思ったが、音を繋ぐ短い間に、地面を激しく擦《こす》る獰猛《どうもう》な気配がある。何かは単数だった。とするともの凄《すご》い勢いで移動していることになる。自分を切り刻んで死んだふたりと同じ夢を見ているのだとしたら、この暴れ回る何かは、死んだふたりの夢にも現れた可能性が高い。  何かは、目標に行き着かないのをもどかしがっているかのようにのたうち、あたりへ無茶苦茶《むちやくちや》にぶち当たり始めた。もうこれ以上我慢できない、一瞬でもじっとしていられないと狂おしいほどに。  下を覗《のぞ》き込む若宮の胸ポケットから名刺ケースが滑り落ちた。  銀色に光る名刺ケースが、歩道橋の下に落下し、地面で鋭利な音を出した。  激しくのたうつ何かは、ほんの一瞬静かになり、その後再び激しく周りに激突しながら、今度は別の方向に突進していった。  そのとき、見えてしまった。歩道橋の下の柱の隙間から、そのものの一部が。  それは、人間の手だった。  赤黒く光っていた。歩道橋の柱にあてがわれ、柱を押し出すような動きをして消えた。ある方向に走り出すために、自分の体を放ったのだ。柱には血の痕《あと》がべったり残った。  激しい音は、今度は階段を勢いよく上っている。  分かった。その人間の形をしているらしい何かは若宮に向かっているのだ。  若宮もそれに気づいたようだ。周りを激しく見回している。  何かは若宮の体に突っ込んでいった。  直前若宮は不自然な形で足を滑らせて転んだ。  何かは若宮の体を正確に捉《とら》えられず、歩道橋の柵《さく》を飛び越えて落下し、地面に叩《たた》きつけられた。  一瞬のことだった。  その間、その人間に思える何かが見えたには見えた。やはり人間のようだった。しかし全身が血に濡《ぬ》れていて、赤黒い影が若宮を通り過ぎたようにしか見えなかった。  何かは地面に叩きつけられ、血を飛び散らせると、勢いよく転がってまた歩道橋の下に見えなくなった。そしてさらに激しい激突音を響かせて暴れ回るのだった。  見ると若宮の胸が鋭利な刃物で切られたように裂けている。若宮がたまたま転ぶという形でかわしたので、傷は浅いようだ。  その裂け目を見て若宮は何者かに向けて怒鳴った。 「どうせおさらばしようと思ってるんだ。殺《や》るんだったら、早く殺ってみろってんだよおっ」  何者かは、また先ほどと同じ階段を上っていった。  若宮は動揺していた。いや、錯乱していた。激しく周りを見回すと、本能的に音とは反対の方角に走り出した。  若宮の走りなどは、獰猛な何者かのスピードに比べれば比較にならない。すぐに追いつかれてしまうだろう。  そうならなかったのは、何者かが地面に叩きつけられたダメージで加速する方向がめちゃくちゃになったからだ。周りにおびただしく血をまき散らしているので、血が目に入ってよく見えないのかも知れない。しかし激しさと獰猛さは、若宮を捕まえられない時間が長引けば長引くほど増していくのだ。  若宮は何者かが上がっていったのとは反対の方の階段から転げ落ちるように降りていった。そして近くに停めてあった自転車に乗ると必死に漕《こ》いだ。  京一は身構えた。自転車はこのまま走れば、京一がいる裏階段の真下を通過する。  若宮は加速しきらない自転車を立ち漕ぎで操っている。スピードが乗ってこないことにいらついている。  ようやくスピードが乗った瞬間と、何者かが、歩道橋を降りて姿を現したのがほぼ同時だった。  何者かはやはり人間だった。  ものすごい勢いで駆けてきたが、一歩走るごとに体は片側に大きく傾《かし》いだ。体にはいくつもの鋭利な切り傷があり、その深さが著しく、赤黒い血が流れ出している。上顎《うわあご》と下顎は切断されて無関係な位置にあった。腹の傷は何回も切られた傷がつながり内臓が見えている。足の傷も大小様々で、ひとつは骨をも断ち切ったようで一歩踏みしめるごとにぐにゃりと曲がった。体が一歩ごとに大きく傾ぐのはそのためだった。  折れた足で一歩ごとに傾ぎながらも、そのスピードは常人とは比較にならない。  怪物は、その手に出刃包丁を握っていた。  刃物が目に入った瞬間、京一の目の前の風景が一気に流れた。地面が急速に近づく。京一は裏階段から飛び降りたのだ。  自転車が京一の足元を通過した。  包丁を掲げた血塗《ちまみ》れの怪物が、若宮の自転車に一気に追いつき、後ろの荷台に飛び乗った。  飛び乗った瞬間の怪物を京一が捉えた。  怪物と一緒にコンクリートの地面を転がった。  鉄分の匂いが鼻を突いてきた。血の匂いだ。  怪物は京一から引き離され、激しく回転して向こうの壁に激突した。  京一は体を起こして怪物を見た。  若宮は京一の背後、離れたところで自転車と一緒に倒れている。  とりあえず怪物は、京一を通過しないと若宮にはたどり着けない形になった。  京一は、しかし、この先どうしたらいいのか分からなかった。まったく分からなかった。  怪物は向こうで悶絶《もんぜつ》するように暴れると、体勢を立て直し、京一に向かって突っ込んできた。雨合羽《あまガツパ》のボタンが怪物とぶつかったときに半分以上ちぎれていた。  京一は、衝動的に雨合羽を広げた。  残りのボタンも弾《はじ》け飛んだ。  若宮の手前でとおせんぼうでもしているのか、自分でも分からない。  怪物が近づくにつれ、恐ろしい風を受けた。  雨合羽が帆船の帆のように膨らんだ。  京一はそれを闘牛士の赤い布のようにひるがえした。雨合羽の闇に怪物を入れて、どこかの次元に飛ばせないかと瞬間的に思ったのだ。  怪物は、獰猛な野生の動物のように京一に飛び込んできた。衝撃を受け、雨合羽の内側の暗黒に怪物は呑《の》み込まれた。  すぐに怪物の行方を推し量った。怪物の動きにうまく波動を合わせることができたら、そのまま怪物を深層の吹きだまりに吹き飛ばしてやろう。  しかし、一向に捉えることができない。それどころか、どんどんある方向に向かっているようだ。それは京一が近寄りたくないと触れずにいた闇の領域だった。  しまった、と京一は思った。  夢の主導を握られている。  怪物がそこまで計算しているとは信じがたかったが、雨合羽に入るとき、闇というより、雨合羽と体の作る線に消えていった気がした。  怪物は京一と同じ能力を持っているのだ。  不覚にも、怪物に引っ張られるようにあたりは闇になり、気づくと京一は水の中を落ちていった。  すべての事情を忘れ、闇の水を落ちていく。  生温かい水。雨合羽の下から裸の体に触れて、肩口から上に抜けていく。  どんどん沈んでいく。どんどん。  そろそろ戻らないと息が続かなくなる。  今戻らないと後戻りできなくなる。  しかし、手足は動かない。  動かそうと思えば動くのかも知れないが、その気が起こらない。  今戻れば命は紡がれる。しかし戻らない。  生温《なまぬる》い水の温度が上がってくる。雨合羽の中で下半身も温かくなっていくのが分かる。  水上に戻るのを諦《あきら》めてさらに水に沈みながら、物悲しくもある、蠕動《ぜんどう》する中心に向かっていると感じた。  闇の中にいくつかの意味をなさない映像の断片が現れては消えた。  耳を塞《ふさ》いで自分の声を発したときのような、くぐもった声が聞こえてくる。  やがてはっきりと見えるようになった世界は、胸が痛くなるような懐かしい場所に思えた。  京一は、自分が夢の中にいるのを思い出した。  それもいつもとは勝手が違う。  シンプルな夢ではない、そうか、今は人の夢の中に入って、さらに次元を超えたあげく、見知らぬ敵に夢の主導を握られているのだ。  いやな予感がした。いやなところに連れてゆかれる気がした。夢で攻める暴力は、肉体的な痛みを超えて、恐ろしいところを突いてくる可能性がある。  そうか、ここは子供のときの記憶の次元なのかも知れない。温度、匂いまでが生々しく甦《よみがえ》ってくる。今よりずいぶん低い視点で物が見える。低いからこそ見えるもの、嗅《か》げる匂いがあると気づく。まだ生を受けて数年という人間の感受性が、同時体験的に今の自分の感覚と呼応している。  思い出した。ここは子供のころに住んでいた古い家の風呂場《ふろば》の脱衣所だ。  暗がりの中に淡い光が二カ所見える。磨《す》りガラスの小さな窓と、模様のついたガラスだ。片方はトイレの戸の小窓で、片方は風呂場の戸についていたガラスだった。  薄闇に洗面台がぼんやり見える。その下の暗闇に水道の配管や洗剤の古いデザインや洗濯カゴがうっすら見える。カゴの中にいくつかの衣類があるようだが、白いものだけが闇にひっそり浮かんでいる。そこからすがりつきたくなるような懐かしい匂いがする。  洗面台の上には、石けんや父親のひげを剃《そ》る剃刀《かみそり》などが見える。歯ブラシは家族全員のものがコップに立てられている。ブラシの毛先がかなり左右に飛び出している。コップは底の方に少し湯垢《ゆあか》がついている。  声がした。風呂場からだ。模様のついたガラスの向こうからすすり泣きが聞こえてくる。うちひしがれるような悲痛な女の泣き声だ。  すすり泣きは、ときに激しくときに静かに、うらめしそうになったり、恐怖で耐えられない、といったふうに恐ろしい震えを伴ったりした。  低い視点のまま、風呂場に近づいてみた。  ガラス戸の隙間から男の後ろ姿が見える。  父親だ。若いころの父親だ。  父親が、風呂場の奥を見て、しきりに何かしゃべっている。 「怖くなんかないよ。何にも怖がることなんかないよ。大丈夫だよ、大丈夫だよ」  父親の背中の向こうの浴槽の中に、誰かがいる。  父親に見え隠れしながら動いている。  女だ。女が浴槽の中に入って半身を出しているのだ。  がたがた震えているから、浴槽の中は湯ではなく水が入っているのだろう。前日使って流さなかった水にその女は入っているのだ。それは母らしかった。父のように確信せずに、らしい、としか思えないのは、明らかな拒絶反応だ。分かることへの躊躇《ちゆうちよ》だ。  女は、父親が何を言っても、 「いや! いや!」  としか叫ばなかった。  父親の言うことに激しく首を振りながら、奥の壁に自分の体を擦《こす》りつけている。  そのとき、女が急に黙り込んだ。  警戒するような顔をしている。  ゆっくり父親の背中越しにこちらを覗《のぞ》いてくる。  そして、こちらを見た。  目がこれ以上ないくらい見開き、毛細血管が白目にたくさん浮いている。  大きく開いた目は、開きすぎて、黒目が周囲のまぶたから完全に独立して灰色に薄まっている。それは普段見ないものを見てしまった目だった。  女は顔を引きつらせ、唇を不気味なくらいにゆがめて、全身で絞り出すように人間とは思えない凄《すさ》まじい声を出した。  こちらから逃げようとして、奥の壁に体を打ちつけ、逃げられないと分かると、震えて頭を抱えながら水の中に沈もうとした。  そのとき、この世界に一緒に飛び込んできた例の怪物の存在を意識した。  と思う間もなく、怪物は脱衣所の暗闇から飛び出してきた。すぐ目の前だった。出刃包丁を振り上げている。  慌ててかわしたが、頬を切られた。  怪物は、勢いあまって、薄暗い電球の灯《とも》る居間に飛び出していった。  すぐに戻ってきた。逃げ場はなかった。  立ち上がろうとして洗面台に手をつくと、京一の頬にできた傷の線にいきなり飛び込んできた。  衝撃があって、かき乱される、という恐怖がわいた。  洗面所の鏡に京一の顔が映っている。  咄嗟《とつさ》の判断で、その頬の傷に京一自身も飛び込んだ。  これからゆっくり悲痛の感情を味わうのだろうと思った。その感情を怪物に片手で捕まえられながら、大振りに別次元の世界へ飛ばされるのだろうと思った。  水に沈み、闇が開くと、さっきまでいた歩道橋下の歩道だった。  頬に傷がついている。頭を振って、水の中で忘れた状況を素早く思い出すと、傷は前の次元でついたことを思い出した。これは目が覚めてもついたままだろう。  母親が自分を見る目を思い出し、哀しみで動けなかった。  怪物がすぐに包丁を振るって襲ってきた。  雨合羽《あまガツパ》の胸と腹が一気に切られ、すぐ下の裸の体から血が溢《あふ》れ出す。  激痛が走り、歩道に倒れ込んだ。  怪物は、京一を襲った勢いで歩道の向こうまで弾《はじ》け飛んだ。すぐに体勢を立て直したが、そこは、すでに京一より若宮に近い場所だった。  怪物は、飢えたように喉《のど》を鳴らすと、すごい勢いで今度は若宮に襲いかかった。  京一は立ち上がろうとした。が、刃物で切られた場所の激痛で動けない。  無理に動かそうとするとおびただしく血が流れ出した。地面にねじふせられるように倒れ込んだ。  怪物は、若宮の首を滅多斬りにした。長い飢えは目標のポイントを執拗《しつよう》に攻めた。そのまますぐに血を吸い上げた。喉を鳴らして切り口から血を飲んでいる。アフリカのライオンが他の動物を仕留め、まだ息のある獲物に爪と牙《きば》を立てているように。  上顎《うわあご》と下顎がずれているので、どう血を吸っているのかよく分からない。かなりの量がこぼれてしまっている。飲み込んだはずの血も、大部分がむき出しになった内臓を洗うように流れ出している。  だが、内臓の中にも充分に血が入っているのだろう、鈍くなった色に艶《つや》が出て、生き生きと動き始めた。  京一は一刻も早く現実の世界に戻らなければならないと思った。  しかし体は動かない。  一番近くにある線を探した。  適当なのが見つからない。雨合羽の片|袖《そで》を外す。その皺《しわ》を伸ばすように地面に押しつける。地面と合羽の間に無理矢理線を作り、体をねじ込ませた。  水に沈み、目が開くと、そこは警察の屋上に近い階段の踊り場だった。  女刑事の慶子が、眠っている若宮に組みついている。  長椅子は逆さになって転がっており、若宮は床にいた。  割れた牛乳瓶を握りしめ、それで何度も自分の首を切りつけている。  慶子は、その腕に組みついて若宮を止めようとしているのだ。  しかし、若宮の瓶を振る強い力に弾き飛ばされてしまった。  階下から凄まじい足音がし、ひとりの中年の男が駆け上がってきた。  慶子は、その男を確認すると、 「関谷さんっ、救急隊っ、お願いしますっ」  と叫んで起き上がり、若宮が握る割れた瓶を正確に蹴《け》り飛ばした。  ガラスの瓶はどこかに飛んでいき、壁にぶつかって砕ける音がした。  関谷と呼ばれた中年の男は、若宮を見ると、意味不明の音を発した。 「救急隊お願いしますっ」  と悲痛に訴えながら、慶子は、若宮の首からあふれる血の量が少しでも少なくなるよう手で押さえた。顔は若宮から逸《そ》らせている。  関谷は、悲鳴とも了解したともつかない動物のような声を出しながら、階下へ転がるように駆けていった。  京一は、呆然《ぼうぜん》とそれらを見ることしかできなかった。  胸と腹の切り傷から血が流れ続け、体を動かそうとしてもまったく力が入らない。  慶子が組みついている若宮の体は、急速に萎《な》えていった。  若宮は、慶子の顔を驚いたような表情で見ている。その目は白目を完全に失うほど充血している。  必死に口を動かすと、 「霧島さん……いつから僕……死にたかったんだろう……」  と声を絞り出した。  慶子は、若宮の名を声を嗄《か》らして呼んだ。どうしようもなく自分の手の中ですぼんでいく肉体と魂を前に、出血の速度を少しでも遅くすることに全力を投入していた。しかし血は、慶子の手を赤く染め上げながら容赦なく流れ出していった。  若宮は、ほとんど目を閉じ、唇の色もなくなり、いよいよ顔を横たえようとしたとき、もう一度目を開いた。  その目は、もう慶子を見てはいなかった。  何かが憑依《ひようい》したかのようにふたたび顔を上げると、信じられない力で体を起こしていった。  慶子は体勢を崩して床に倒れた。  若宮が体を起こしていくと、切り刻まれて細くなった首のせいで、頭が体に遅れてついていくような動きを見せた。  京一は、床に突っ伏しながら若宮を見上げた。  若宮は、腕を天空に掲げた。  背後の天窓から朝日が射し始めている。  光は、両手を広げている若宮を背後から照らした。  若宮は、大きな声を出した。笑っているようにも見えた。  聖堂のような空間で若宮の凄まじい声が反響する。  喉にたまった血で、笑い声はうがいをしているような音になった。  若宮は踊り場からいきなり姿を消した。  手すりから落ちたのだ。  慶子は、悲鳴を上げた。全身で悲鳴を発した。  京一は固く目をつぶった。  慶子は、手すりにすがりついて下を見た。  若宮が一階まで続いている階段の一番下まで落ち、全身を叩《たた》きつけて動かなくなっているのは言うまでもなかった。  慶子はすぐに目を逸らし、屈《かが》み込むと、目を固く閉じ、耳を塞《ふさ》ぎ、絞り出すように何度も悲鳴を上げた。  京一は何も見たくなかった。  母親の記憶の映像を見せつけられて骨抜きにされたあげく、目の前でひとりの人間が殺された。  それにまた自分は深く関わってしまったのだ。もういやだ。絶対いやだ。助けてくれ。誰か助けてくれ。  もう何も考えたくない、感じたくない。  京一は固く目をつぶり、外の世界をシャットアウトするのだった。 [#改ページ]   女刑事  朝から若宮の通夜が準備された。  警察病院の霊安室で通夜は行われることになった。  若宮の両親は、息子のあまりに変わり果てた姿を見て表情をなくしていた。  本来なら大きな葬式が準備されてしかるべきだったが、両親の希望で身内とわずかな関係者だけで行うことになった。  集中治療室から霊安室に若宮の遺体を移すとき、慶子は、病院側と相談し、棺《ひつぎ》を早く出してもらうように頼んだ。一晩中つき添う両親が若宮の姿を見続けるのを慮《おもんぱか》った。  棺に入った若宮の前にずっといたいと思ったが、もうひとり胸が押しつぶされそうになる男がいた。  影沼京一だ。  京一は、慶子がこの一件に無理矢理引っ張り込んだのだ。  彼は今、同じ病院の集中治療室にいる。  何度も若宮と京一の居場所を行ったり来たりしたが、京一は面会謝絶のままだった。  明け方から始まった騒ぎも午前十時を過ぎるとようやく落ち着きを見せ始めていた。  京一の治療室から出てきた医師が、慶子に、少し深い箇所もある傷だったが、命に別状はない、と伝えた。若宮が、眠りながら長椅子から落ちると、他のゴミと一緒に置いてあった牛乳瓶を叩き割り、いきなり自分の胸を切ったと思うと、やはり眠っている京一の頬を切り、胸や腹を数回切ったあと、また自分の首をメッタ刺しにしたのである。  慶子は医師に、京一の部屋に入っていいかと尋ねたが、あと少し寝かせてやるようにと言われた。午後になれば目を覚ますだろうということだった。  偶発的な自殺の可能性も念頭に置いていた警察庁だったが、この一連のできごとで、ついに犯人の暗示による殺人の可能性が高いとし、本格的な事件として追及する姿勢で一本化した。  この時点で、自分を切り刻んで死んだ三人は、被害者と呼ばれるようになった。  事件に一番近いところで関わっていた慶子だったが、周囲がいろめきたつと、課の人間たちからほとんど無視された。  関谷はもちろん、係長も、若干慶子に気を遣っていた刑事たちでさえ現場経験の浅いうら若い女に関わっている暇はない、という露骨な態度を示した。  生きていればきっと親身になってくれたであろう若宮はもういない。  底知れぬ脱力感に打ち勝とうと刑事たちに食いつこうと思うが、三日間眠っていない頭が行動を起こす信号を正しく体に送らない。しかし眠れる心境ではまったくない。昼の光が目に痛く、しきりに涙が流れた。光を敏感に捉《とら》えすぎて、頭痛が始まった。  働く刑事たちが遠くに感じられ、慶子は部屋を出ていった。  屋上に上がってみた。  若宮のことを考えた。刑事部の喧噪《けんそう》に呑《の》み込まれず、きちんと考えてみたかった。  自分に唯一やさしく接してくれた存在。  生きていれば、これからどんな人間関係を築いていけたのだろう。  そう思うと、哀しいとか悔しいとか残念という言葉では到底飾れない大きな暗黒がのしかかってくるのだった。  昨晩、京一が若宮の夢に入る直前、若宮がいきなりしゃべりだしたことは何だったのだろう。何を意味するのだろう。ひとりの人間の中に、一体どれくらいの種類の人格があるのだろう。若宮とはどういう人間だったのだろう。しかしどうあがいてもその男はもうこの世にいないのだ。若宮は死ぬとき、一体どんな夢を見ていたのだろうか。  それを知っているのは、もちろんあの男しかいない。  捜査一課の人間は、係長でさえも表側の捜査に一本化する姿勢を固めて、京一の存在を無視した。慶子が京一に会うのは、これから先、警察と関係のない慶子個人の問題にするしかない。  行き場を失ったような形で、もう一度京一の治療室を訪れた。  慶子が着くと、ちょうど看護婦が出ていったところだった。  ドアを開けると、中を覗《のぞ》いてみた。  無菌室のような窓のない部屋で、京一は、ベッドの上に寝かされていた。  点滴はされているが、酸素マスクをつけているわけでもなく、大げさな器具もチューブも取りつけられていない。胸、腹には包帯が巻かれているのだろうが、無彩色ののっぺりした衣類に隠されて見えなかった。  確かに命に別状はないようだ。  慶子は、治療室に一歩を踏み込んだ。そしてそのまま京一のベッドまで歩いていった。  重傷でないのは分かったが、頬の傷を被《おお》う頭から顎《あご》にかけての包帯は痛々しかった。鼻の頭や喉《のど》に細かい汗の玉が浮いている。  寝ている顔を顎の角度から見ると、まだ子供の顔をしている。  そう思うと、慶子はますます罪深いことをしてしまったと思うのだった。  くぐもった声がした。京一だ。小さな声だが、うなされているようだ。  目をさらに固くつぶり、顔中を細かい汗のしずくが被った。 「お母さん」  京一はそうつぶやいた。 「お母さん」  苦しそうに首を振った。  慶子は、医師を呼ぶべきか考えた。  しかし京一は、大きく息を漏らすと、また安定した様子に戻っていった。  口が小さく動いている。 「なんで……僕を怖がるの……」  とほとんど動いていない口でそう言った。  慶子は、この未知の青年の心の中にいきなり近づいてしまった気がした。  ベッドの横に屈《かが》み、京一の顔を近くで見た。  時計を見る。昼前だ。  そして、腕に差し込まれた点滴の管に目を移した。  細い管の中をゆっくり液体が移動している。  その動きを見ているうちに、一瞬わけが分からなくなった。  喧噪がした。  繁華街が、眩《まぶ》しい日差しの中で揺れて見える。  昼食に出かけているサラリーマンたちの顔が見える。  いろいろな種類の人々がいる。男もいれば女もいる。  皆、顔は無表情だが、ひとりひとりの心の声がこちらに伝わってくる。  会社の悪口、同僚の悪口、家族の悪口、恋人の悪口を言っている。  顔は日光を浴びて眩しそうにしているが、それぞれの心の声が耳のすぐそこでしているように聞こえてくる。罵詈雑言《ばりぞうごん》は、低い恨みがましいものから、激しく怒鳴っているものまでが入り混ざって絡み合い、やがてそれは相乗的に渦巻きのように大きく巻き上がり、無数の悪口が畳まり重なった絶叫のようになった。  気がつくと、今度は夜の都市にいた。  遠くでビルが林立し、まばらに窓明かりがついているが、そこには人のいる気配がない。  目の前に重層的で複雑な形をした歩道橋がある。階段が放射線状に歩道、どこかの駅ビル、漆黒のトンネル、地下道へと延びている。  慶子の少し先に自転車が転がっている。  近寄ってみると、歩道がべっとり血で濡《ぬ》れている。  慶子は分かった。それが若宮の血であるということを。  足元から重い振動のような気配が立ち昇ってくる。  慶子はしゃがんだ。  そっと地面にたまった血に手を伸ばしてみる。  一番長い中指の先に血がつく。  その指を目の前に持ってくる。  そのとき、慶子は、新しい職場に異動した本当の意味が分かった気がした。  それは足元から来る重い振動と呼応して体を揺さぶり、天空の闇をさらに濃くし、慶子にのしかかってきた。  しゃがんで見える自分のスカートから覗く脚を生々しく感じた。  闇の中から誰かが自分を見ていると、慶子は感じた。  それは、今まで気がつかなかった自分を感得したもうひとりの自分であるとも思った。  途端に目の前が暗くなり、また明るくなると、どこかに向かって落ちている。慌てて顔を上げると、そこはマンションの自分の部屋だった。  慶子はソファーでうたた寝していたようだ。落ちている、と感じたのは、大きく船を漕いでしまっていたらしい。  今まで何か重要な夢を見ていた気がするが、起きた今となっては思い出せない。  慶子は、仕事がない日などに、ひとりでマンションにいていつの間にかうたた寝してしまうことがあり、そのことを恐れていた。起きたときにどうしようもない寂しさが押し寄せてくるからだ。それが夕方の時間であったりするとなおさらだ。  寂しい、とかいう生やさしい感情でなく、もう一度眠りの闇に引っ張られそうになり、深い闇に落とされるような恐怖を覚える。  夢の中に登場していた人物たちの喧噪が耳に残っている、その人たちは実際にはいない慶子の頭の中で作り出した人物なのだ。その人物たちといることにずいぶん時間を使ってしまった。いつもそう思う。いない人物のことで頭の中が甘く痛くなっている。  今はどうか。同じようだとも言えるし、少し違う気もした。  起きてしまうと夢の内容は忘れてしまうので、はっきりとは分からない。  一体いつから寝てしまっていたのだろう。あたりは真っ暗になっている。  つけっぱなしのテレビが、定点カメラで都市の一部を映している。テレビ局のある場所から固定カメラで写しているのだろう。画面の下に、天気予報のテロップが左から右に流れている。画面に映る都市の建物は、ボール紙で作ったミニチュアに見える。  夜中に番組が終了する直前に流れる映像だ。  テレビの映像が不気味な無機質を感じさせるので、消そうと思い、緩慢な体を無理に動かしてソファーから立ち上がると、目から何かが落ちた。  え、と驚いて目頭を押さえた。  濡れている。  それは、涙だった。  何で、自分の目から涙なんかが。  テレビを消すと、暗くなった画面に自分が映っている。  そこに映っている女はなぜか哀しい顔をしていた。  慶子は、見つめないようにしてきたものを見てしまった気がした。  そう思った瞬間、今いるこの場所は現実ではない気がしてきた。  テレビの画面の中、自分の後ろにひとりの男が立ってこちらを見ていた。  その男のことは知っていた。  京一だ。  夢だ。  今いるここは夢の中だ。  と思った瞬間、風船がしぼむようにあたりの風景が収縮して、外側の闇が見えてきた。風景がしぼみ切ると、闇に自分だけが存在していて、それはもう覚醒《かくせい》時と同じ感覚だった。  目を開けると治療室だった。目の前に、男の腕があり、そこに点滴の管が刺され、液体が移動している。京一のいるベッドに頭を持たせかけて寝てしまっていたのだった。  三日間眠っていなかった。かなりの時間が経ったのだろうか。この間他に誰もこの治療室を訪れなかったのか。慶子は時計を見た。  昼前。うたた寝する前にも時計を見た。ほとんど同じ時間だった。これではまったく眠っていたとは言えない。  不思議なのは、実際に経過した時間より夢の方が長く感じられたことだ。意識を失ったのは、ほんの一瞬だった。  今見た夢は全部覚えていた。  相当に混乱した夢だった。  それもそうだ。若宮は死に、目の前の京一という男も傷を負った。それはすべて一連の想像を超えた事件に関与している。  気配を感じて、京一を見た。  京一は目覚めていた。  まっすぐに慶子を見ている。  慶子は思わず飛び退きそうになった。  しかしそうせずにそのまま京一の顔を見続けた。  京一も瞬《まばた》きをせず慶子の顔を見ている。 「来た? 今、私の部屋に」  京一の瞳《ひとみ》が揺れた。  何も答えないが、明らかに肯定を意味していた。  昨日の昼に初めて会ってから昨晩にいたるまで、この若い男のことなどまったく気にしていないと思っていた。夢に入るなどとは馬鹿馬鹿しくて相手にできないと思った。しかし急に信じられる気がしたのはなぜだろう。それにすがるしか若宮を救う方法はないと思った。若宮が殺されたとき、課の人間は皆京一のことを無視した。確かに、誰も若宮の夢を実際には見ていない。誰も京一が若宮の夢の中でしたことを知らない。慶子だって同じだ。しかし慶子は、京一の力をなぜか信じられる気がした。なぜだかは分からなかった。警察庁で自分を評価してくれた連中が、今の自分を知ったらどう思うだろうか。苦笑して首を振るのだろうか。しかし、一番笑い出したいのは自分自身なのだ。一体自分はどうしてしまったのだ。  京一は、つい今しがたまで慶子の夢の中にいた。  夢の中で、それまで夢を見ていたと思って目覚めた場所は、自分の部屋だった。  あれは、特殊な夢ではない。現実の生活でも実際によく起こっていることだ。  ではなぜあの状況が選ばれたのか。自分にとって、あの夢がどれほどの意味を持つというのか。  最初の町での罵詈雑言《ばりぞうごん》。あんな夢を見たことはなかった。あれは京一の心の中で起こっていることではないか。それを自分が見たのではないか。しかし夢に入れるのは京一であって自分ではない。もしかしたら、あの罵詈雑言は、自分の中の深層に隠していたものをこの男が見つけて引っ張りだしたのか。あれは自分の心の映像だったのではないか。  いや、と思う。それも考えられなくはないがそれだけではない。やはり自分の夢と京一の夢はどこかで共振し、溶け合っていた。  あの若宮の血に濡れた場所は、若宮が死ぬとき、京一がいた場所だろう。  間違いなくそうだと思った。  無表情の京一は、じっと慶子を見ている。  その顔は、目の前にするとますます子供っぽく見えた。  痛ましさと同時に親和感のようなものがわいた。  そう思った瞬間京一が瞬きをしたので、慶子は立ち上がり、京一から少し離れた。自分の心が読まれている、と感じたからだ。  京一は、若宮の夢に入る前も、自分に近づこうとしなかった。近づくと相手の心の中が見えてしまうのだろう。京一自身がそんなことを口にしていた。  慶子は、そのままいったん治療室から抜け出し、屋上に行って風にあたった。  夢の中で見た、今まで触れないようにしてきた感情をまた思い出していた。  なぜ自分は、警察庁での机上の仕事を放棄して、これほどまでに生々しいものを見なければならない場所に移ったのか。何をしたいのだ、自分は。何がやりたいのだ。  慶子の中で立ち上がってくる感情があった。  それは自分の手で犯人を突き止めたい、という正義なのか、若宮を殺した相手に制裁を加えたい、という復讐心《ふくしゆうしん》か。  前のめりになるほどの新しい情念を抑えることができない。焼けるような温度を持っているのに、しんとした冷たさをも併せ持った今まで味わったことのない感情。  気がつくと目の前の都市の風景が夕日で赤く染め上げられていた。屋上に上がってきたのはまだ昼前。どういう時間が流れていたのか。  慶子は治療室に戻った。  そして京一に告げるのだった。 「はっきり言います。この事件を解決できるのはあなたしかいない。夢の中で若宮を殺した何者か。その何者かに行き着けるのはあなただけです」  京一は、何を言われているのだか分からないという顔で慶子を見ている。 「これから毎日人が殺され続けるかも知れません。お願いします。この事件の捜査に協力してください」  慶子は、京一に名刺を差し出した。  この二回目に差し出す名刺には、考えられる限りの連絡先を書いておいた。自分の住所さえ書き込んだ。  京一はあっけにとられたように慶子を見ていたが、やがて肩を揺すって笑い出した。 「あなたのおかげで僕がどんな思いをしたと思ってるんです。いいですか。そんなことを僕に頼めるあなたみたいな人間を悪魔だと言うんです。地獄に落ちる人間を決めるのは難しいが、あなたはきっちり地獄に行けると思います」 「なぜですか」 「なぜって、あなた本当に人の命のことを考えているんですか? じゃあ僕の命はどうなるんです。どうせ自殺を繰り返してる男だ。死ぬのなんか怖くないだろう。同じ死ぬなら、人の命をひとりでも救ってから死んだらどうだ。そう思ってるんでしょう」  慶子は、すぐには二の句が継げなかった。しかし一歩も引く気にはならなかった。 「ほら見ろ。地獄行き決定だ」  慶子は姿勢を伸ばしたまま言った。 「地獄も結構でございます」  京一は、呆《あき》れたように慶子を見ると、向こうの壁に顔を逸《そ》らした。全身で向きたいが体が言うことを聞かないので、顔だけでもなるべく遠くに離そうとしているふうだ。 「あなたと話しているだけで、生きてるのが充分にいやになります。そうです。僕は死にたい。この世からおさらばしたい。でも人の夢の中で死ぬのだけはごめんだ」  慶子は、京一を見つめた。  京一の後ろ頭は動きそうにない。  慶子は立ち上がって、京一から離れると、ある行為に一直線に向かった。  京一にかまをかけるためではない。はっきりとした決意があった。  慶子は京一に背を向けると、ポケットから携帯を取り出した。  そして、アドレス帳から「0」の電話番号を出し、迷いなくコールした。  少し間をおいて、呼び出し音が始まった。息をつめて待った。一回。二回。三回。迷いはないが、少し息を整えようとすると、極端に震えてくるのだった。  呼び出し音を聞いているうちに、体の中から痺《しび》れるような興奮が迫《せ》り上がってきた。もう切らない。絶対切らない。と思うとその興奮はいやがおうでも高まってくるのだ。  呼び出し音がなくなった。  切れてしまったのかと思った。  耳を澄ませた。  空気音がする。  携帯が軽くなった気がして、この室内の空気が直接耳に触れてきたのかと思った。  違う。携帯の向こうで何者かが電話に出たのだ。空気音は、電話に出た何者かを取り巻く環境音だった。  つながった。  つながっている。  慶子は声を発してみた。 「もしもし」  空気音の中の気配を聞き漏らさないようにと、耳に神経を傾けた。  京一のことをもはや考えている余裕はなかった。今京一はこちらを見ているのか。あいかわらず向こうに顔を逸らしているのか。  慶子はもう一度声を出した。 「もしもし」  空気音の中から、声がした。 「はい」  重くもない、軽くもない、普通の男の声だ。 「はい?」  ともう一度言ってきた。  慶子は、自殺志願者になりきろうと気持ちを立て直した。 「あの……あの、私、自殺したいんです。ネットで見て、あなたなら、一緒に死ぬのにふさわしいんじゃないかと思って」 「やめろっ」という嗄《か》れた声が背後から聞こえた。  京一だ。大きな物音がしたから、ベッドから落ちてしまったのかも知れない。  慶子は、相手に京一の気配を悟られないよう京一からさらに離れた。  京一は苦しそうなうなり声を上げるばかりで、それ以上大きな声を出してこなかった。  携帯の向こうから、男の小さく笑うような声が聞こえた。 「僕は、あなたが、本当のことを言ってるのか、嘘を言ってるのかすぐ分かりますよ」  暗くもない、明るくもない、しかしどちらかと言えば、軽い調子でそう言った。携帯で話すだけで人の心に入れる男だ。自分が自殺志願者の振りをしていることぐらいすぐに見透かしてしまったのだろうか。もしかしたら警察の捜査だということすら見抜いているのかも知れない。腋《わき》の下に冷たいものが流れた。  そして男は言った。 「あなたは、嘘を言っていない。本当のことを言っている」  いろいろ考えすぎたせいで、すぐには何を言われたのか分からなかった。 「あなたは今している仕事で自分の中の誠実を図ろうとしているが、本当は世の中に対する猜疑《さいぎ》心や憤怒でいっぱいだ」  何を言っているのだ、この男は。 「ずいぶんがんばりましたね。いや、大変でしたね。仕事だから大変なのは当たり前、ですか。あなたは何でそこまで明瞭《めいりよう》な、正義、というものを追求しようと思ったんですか? 世の中があいまいで頼りなさ過ぎるから? 何でそこまで一流になることにこだわったんですか?」  予言者の振りをしているのかも知れないが、言っていることは皆抽象的なことばかりだ。何か言えば当たるだろう、それくらいの内容だ。  少し拍子抜けした気がした。そうか。ばれてはいなかったのだ。大丈夫だ。自分を自殺志願者だと思い込んでいる。 「あ、だからか。あなたが時々こんな夢想をするのは。デパートのトイレとかで、誰か恐ろしい強盗殺人犯が襲ってきてあなたを刃物でばらばらに裂く。ばらばらになったあなたは赤いバラのような体内をむき出しにして冷たい大理石の床に打ち捨てられる。それは初めエロティックな夢想でした。元気いっぱいではち切れそうだったあなたは、ふとそういう夢想をすることでバランスをとっていたんです。でもそういう夢想をしたのは、あなたが気にしないようにしてきた小さな理由もあったかも知れませんね」  男は壊れた機械のようにどんどん慶子の耳に言葉を浴びせるのだった。 「男への不信感ですか。いや、他にもいろいろあるか。でも、それが一番かな。あなたは最初の恋愛で別れた男を愛していた。その美しい星のような恋愛が終わってから、あなたは残酷な夢想をすることで気持ちの安定を図っていたんですね。あなたは、男との別れをずっと些細《ささい》なことと思おうとしていた。ところが、あなたはそのときから人と心を分かち合うことがなくなった。あなたはあなたの野心の追求にすべての力を使った。それから起こったことがあまりに大変で、あなたはなぜそんな大変な思いをしているのかさえ忘れていた。いや、実際男との別れは些細なことだったのでしょう。でもそれをきっかけに知らず識《し》らず大きなことが始まっていたんです。いろいろなものがあなたに積み重なっていった。あなたが死んでしまいたい、と思うようになるために、です。一番の原因は、あなたはいつの間にか現実感を失っていた。問題は、あなたを取り巻くこの環境です。生きている実感を探しているが、この広大なコンクリートの箱の世界であなたは動物としての喜びを忘れ、青白い蛍光灯の光の中に吸われてしまいそうだ。自分の体をいじくり回したい。自分を壊してみたい。恐ろしい目に遭いたい。心にあいた空洞を埋めるにはそれしかない。いつもあなたは心の奥底で死ぬことを考えている」  慶子は大笑いしたいような衝動にかられた。  誰だって異性との決別で自暴自棄になることはある。仕事に対して前向きにだってなる。そういう抽象概念をとうとうと述べたくらいでこの男は人の夢に入ることができたというのか。  無理矢理おぞましい死のイメージを放り投げて、それを自分の感情にしろとでも言うのか。  慶子は笑おうとしたが、目の前の風景が揺れたので不思議に思った。自分でも意外だったが、慶子は泣いていたのだ。涙で目の前がゆがんだのだ。不吉な感じがした。実際そうは思っていなくても、そう思わせる。それこそが暗示だ。そのつもりはなくても自分の感情が涙を作り出している。男を夢に誘い込むためにした電話だったが、背中に冷や水を浴びせられたような気がして、反射的に携帯を切った。  そのときだ。切るまさに直前、男の声がはさまった。 「あ、今、タッチしました」  慶子は携帯を切ったまましばらく動けなかった。  タッチした、とは、若宮が「0」に電話したとき、切り際に言われた言葉だ。若宮がそう言っていた。今、自分もまったく同じ言葉を「0」から聞いた。  体がしんとした。  腕や、背中、太ももあたりが冷たくなっていくのが分かる。  これで、自分は今度眠ったとき、「0」という男に殺されることが決定したのだろうか。にわかには信じられないが、多分、きっと、いや絶対、決定したのだろう。  慶子は、振り返って京一を見た。  京一はベッドの下の床で、操り手のいなくなった人形のように倒れている。  慶子は、京一をまっすぐに見つめて言った。 「あなただけにリスクは背負わせないわ。これで、今度眠ったとき、私はあいつに殺される。お願い。私の夢の中に入って。それで、私と一緒に犯人を捜して」  言いながら体が興奮で震えてきた。  自分は今度眠ったら死ぬ。その極限の魂に入ってくれと男に頼んでいる。それは慶子が経験したことのない感覚だった。なぜこの京一という男にそこまでの期待をするのか、できるのか。  理由はなかった。ただ、この青白い顔をした、まだ童顔を残す、手足の細い、くるぶしのでっぱった男をたぐり寄せたいと思った。この精彩を失ったかに見える男は、いざというときに自分の核心に触れてきてくれると思った。  しかし、京一は動かない。  動くことを忘れてしまったモノのようだった。  見ると、目は焦点があっておらず、鼻水が少し出て糸を引いている。  慶子は、その様子を見て、動揺した。 「怖い……」  京一は小さく唇を動かしてそう言った。 「怖い……怖い……怖い……」  糸を引いた鼻水が口にかかって、それも気にせずに京一はつぶやき続けた。  慶子はあらためてこんな若い男を恐ろしい事件に巻き込んでしまった罪を感じたが、もうあとには引けなかった。  京一は突然、何を思ったか顔を起こした。  その顔はさらに青白くなり、体はやつれ、ふと老人を見ているような錯覚に陥った。  空中の一点を見つめ、口の中で何か小さくつぶやいている。  やがて慶子に目線を移した。 「そうだ。今、ここで一緒に死にましょう」  慶子は、京一の顔を見て、思わず後ずさってしまった。 「夢の中で死ぬのは怖いでしょう」  京一から目を逸《そ》らすことができない。 「そうだ、それがいい。夢の中は恐ろしすぎる。今ここで死にましょう」  と、不自由な体を引きずるように歩いてきた。  慶子は足がすくみ、動けないでいるところを京一の手が伸びて、慶子の首に巻きついてきた。  冷たい感触の手だった。実際自分の首に巻きついた手は、思ったより大きいと感じた。  京一は片手を離すと、慶子の手をとり、京一自身の首を絞めるようにうながした。  慶子は抵抗できず、されるがまま京一の首に触れた。  間近に見る京一という男の顔は、想像以上に線が細く鋭利だ。  薄い繊細な唇は閉じ、その周りに無精髭《ぶしようひげ》が生えている。  京一は、慶子に強く絞めるのをうながすように、自分からまず力を入れて絞めてきた。  京一の目は、まともな精神を持っている人間のものではなくなっていた。  慶子は京一の力に押されないよう体に力を入れた。 「ねえ。あなたを、そこまで死ぬことに取り憑《つ》かせてしまったものは何?」  京一は、ますます力を入れてきた。 「何があったの? 何があなたをそうさせたの?」  言いながら慶子自身の体が、顔が熱くなっていくのを感じた。  京一の感情も極まっていくようだった。 「うるさいうるさいうるさいっ」  と叫びながら手を離すとベッドに飛び乗った。  そして腹部の激痛に身をよじるのだった。  だめだ。この男はもう人の夢に入るという気力をまったく失っている。  じゃあ、どうすればいいのだ。今度眠ってしまったら、自分は他の被害者と同じ道をたどることが決定している。しかしこの男にはもう夢に入る気持ちはまったくないらしい。  慶子は急に自分の傲慢《ごうまん》さに気づいた。自分が命をかけて願っていることは叶《かな》うのではないか、とどこかで期待していた。警察庁でも自分が真剣に頼んだことは大体すべて通ってきた。敵はいつもいたが、一方で、皆が自分の願いを叶えることに喜びを感じていることも知っていた。今回は、命を引き換えにしている。願いは叶うと思っていた。しかし相手の男も命がけなのだ。なぜこの自分に命を張ってくれるという甘い期待を抱いたか。慶子は、相手のことをまったく考えていなかったことに気づいた。自分で電話をしたのだ。自分で「0」と会って戦えばいいではないか。少なくともこの目の前にいる生への欲望を捨ててしまった人間よりちゃんと「0」と対峙《たいじ》できるのではないか。そう思うのが自然だった。  慶子はどうすることもできずとりあえず病院を飛び出し、警察庁に向かった。  人を頼らず自分で戦う。どうやって? 武器を持つ? 何を持つ? 刃物しか思い当たらないが、それを使うときは、自分の体を裂くときだ。夢の中でどういうことが起こるか分からない以上何を持っていっても無駄だ。  慶子は、表側の捜査がどれくらい進行しているかを知りたかった。  捜査一課には、数人の刑事たちが残っていて、尋ねると、捜査は難航しているということだった。  慶子は、腰の力が抜けて、皮膚の表面がじりじりしてくるのを感じた。  他の刑事のデスクの上に置かれた被害者の詳細が記された報告書を一式手にすると、隠れるように会議室へ持って入った。  生きている若宮と最後の会話をした部屋だ。あのときも被害者の報告書を見ていた。  慶子は、会議室に入るとテーブルの上に報告書を一式置いた。そしてこれまでの被害者の写真を取り出して並べた。  少女の写真。巨躯《きよく》の男。そして若宮。皆|凄惨《せいさん》に体を破壊され、人間ともモノともつかない状態になって体を投げ出している。  虚《うつ》ろになった目。少し開いた唇。おぞましい傷口。すでに精神を宿さなくなって置き去りにされたように他人行儀な肌。  人間の形をしているが、もうそこにはこの世を思う意思も記憶もない。  そして、もうすぐ自分もこの写真の被害者と同じ道をたどり、この人間ともモノともつかぬ異形のものになるのだ。それはまさにもうすぐなのだ。  そこに至るまで自分はどういう体験をするのだろう。どんな恐ろしい夢を見るのだろう。そしてその恐ろしい夢を見たあと、目覚めることでああ恐ろしい夢だったと振り返ることもできないのだ。この世のものとは思えぬ悪夢を見たあと、自分はその恐怖の体験が原因で死ぬ。もうこの世に戻ることはないのだ。  慶子の体が極端に震え始めた。止めることができない。  座っていられなくなり、立ち上がった。  嘔吐《おうと》がこみ上げてくる。  自分の両方の二の腕を両手で握りしめた。  自分で自分を抱きしめるようにした。抱きしめる手を腰のあたりまで下ろしていった。力をこめてそうした。自分の体が確かにここにあるのを確かめるように。  腰を抱きしめた。  太ももをわしづかみにした。  熱い息が口から吐き出される。体勢を崩して壁にもたれた。  目を開けると、また、恐ろしい写真を追ってしまう。  自分の体ももうすぐこの被害者たちと同様、刃物が刺し込まれ、裂かれ、壊されるのだ。頬を両手で触った。柔らかいその感触を感じ取ろうとした。そのまま頭を抱え、髪をかきむしり、唇に触れた。唇の間に指を差し込み温度を感じ取ろうとした。  腰が鈍く重くなって感覚がなくなり、そのまま壁を伝って座り込んだ。  スカートから自分の膝《ひざ》が出ている。その両膝を両手でそれぞれ握りしめた。  すねを握りしめた。  熱い息の中に声がかすれて混じった。  その声は思いがけず大きなものになった。  自分の喉《のど》から、獣のような叫びが上がった。  どこからか、男の声がした。  体の表面に電気が走ったようになって、慶子は振り返った。  ドアを開けて、ひとりの中年男がこちらを見ていた。  関谷だった。  色を失ったような表情で慶子を見ている。  関谷の顔からは、これまでの皮肉な表情は消えていた。 「若宮くんは、確かにあれは、ただの自殺じゃない。何としてでも真相を解明したい。その気持ちは私も同じだよ。でも、君も少しは寝ないと、判断力が鈍るだろう」  日常にしっかり根を下ろしている関谷が、遠くに感じられた。  慶子は目を閉じて、そしてもう一度関谷を見た。 「どうした?」  関谷は聞いた。 「電話しました」 「え?」 「『0』に、電話しました」 「え、だって、なぜ」 「だから、眠れないんです、事件を解決するまでは」  と言うと、唇が震え出し、意思に反してへの字型に曲がっていくのだった。  関谷という中年男の前で、自分が小娘になった気がして、大泣きに泣いてしまいそうになった。 「だって、君。ここのところ、ろくろく寝てないじゃない」 「『0』が他の誰かに電話するよりマシです。毎日被害者が出ています。今日私が殺されたら、明日もあさってもこの殺人は続きます。私は、私が入る夢の中で戦います。だから関谷さん、表側からも早く解決してください」  慶子は泣き出してしまうのを最後の力で抑え、関谷にすがりつき、会議室の外に押し出した。  関谷たちが今晩中に事件を解決できないことは分かっていた。もう慶子には逃げ場がなかった。  慶子は頭を抱えた。  何も浮かんでこなかった。  関谷を外に押し出すとき、中年の男の匂いがした。  その匂いが、自分が生きている間に感ずる最後の人間の匂いになるのかも知れなかった。  突然、あれほど毛嫌いしていた関谷という男が、そんなに悪い人間ではないのではないかと思えた。悪い人間とはその本人がまさしく悪人であることもあるだろうが、悪くなるかならないかは、そう感じる側の態度いかんであるような気がした。関谷を悪い人間にしているのは、その相手となっている自分に責任があったのではないか。その証拠に関谷は皆から嫌われているわけではない。むしろ部下の人間たちからも敬愛され係長からも信頼されている。自分だったのだ。原因は自分にあったのだ。自分が男たちを最初から拒絶し、その感情に火をつけてきたのだ。しかしもう遅い、人間関係を取り戻すには、もうすべてが遅すぎる。  眠る瞬間を警察で迎えるのは、耐えられない気がした。  関谷たちに頼んで、自分が眠ってしまったとき、周りから危険なものを取り除いてもらい、自分の手足を縛ってもらおうかとも思ったが、いったん暗示にかかってしまった以上どんな方法を使ってでも自分を壊す方法はあると思った。若宮の死に様を思い出してそう思った。舌を噛《か》み切るかも知れないし、頭を床に打ちつけるかも分からない。そんな姿を関谷や、自分に嫌悪感さえ抱いている刑事部の人間に見せるのはいやだった。  慶子は警察に停めてあった自転車に乗り、体を必要以上に動かして覚醒《かくせい》をうながしながら自分のマンションに急いだ。  コーヒーを沸かし、台所で、包丁やフォーク、その他鋭利なものを全部一カ所に集めた。台所だけでなく、リビングの棚にあるハサミやカッター、寝室のヘアーピンまで集め、全部を革製の鞄《かばん》に詰め、ガムテープでぐるぐる巻きにして、マンションの一階にあるゴミ捨て場に持っていって捨てた。  コーヒーは水を乱暴に入れたせいで、泡を吹き、水がコーヒーメーカーの熱板にこぼれ、湯気を上げ、激しい音を出していた。  慶子に今できることはひとつだった。  一番恐ろしい敵にあえて触れてしまうこと。  そこから逃げて遠ざかっているより、その敵に触れ、今現在敵が何をし、何を考えているのかを知ることが、せめて一時的にせよ恐怖から逃げられる唯一のことだと思ったのだ。  慶子は部屋の明かりを全部つけてダイニングのテーブルに座り、熱いコーヒーを口にすると、携帯をポケットから取り出し、少し見つめると、ボタンを押していった。  しかしいくらコールしても、「0」は出ない。  見ると、何度も呼び出していたのは「0」ではなく、京一だったことに気づいた。  何でこんなミスを。やはり意識が相当に散漫になっているのだ、と思い、慎重に「0」へ電話した。  いくつかの呼び出しコールのあと、電話は通じた。  慶子は、すぐに声を発した。 「あ、私です。今夜一緒に自殺する」 「あ、こんばんは」  男の声が聞こえた。さっき聞いた、やはり特徴のない普通の声だ。  この声の持ち主が一連の事件に関わっているとは到底思えない。 「夜も遅くなってきたし、そろそろ僕は死のうと思っているところです。あなたはどうですか? 準備できましたか」  男の声は、落ち着いていて、小さな声だったが、一言一言が脳のひだにひっかかり、朦朧《もうろう》とした頭が覚醒していくのを感じた。  眠気防止のために明るくしたが、いろいろ見えすぎてしまう部屋では、何か重要なものを取り逃がしてしまう気がした。  慶子は部屋の電気を消した。怖かったがそうした。  レースのカーテンの向こうに夜の清冽《せいれつ》な気配を感じた。  慶子が応答しないので、男は言ってきた。 「あれ、死ぬのをためらっているんですか」 「そういうわけじゃないわ」  闇の中で精神が鋭敏になっていく。  蛇口から落ちる水の音が明瞭《めいりよう》に聞こえてくる。 「あなたがこの世は無意味だってことに気づいたのはいつのことだろう。ずっと前からだったのかも知れませんね。知っているくせにそれを否定しようとして、いっそうあくせくがんばってしまう。大変でしたね」  目が慣れて、闇の中に家具の形が浮かび上がってきた。  窓の外の夜の気配は、それにつれ青さを増し、海底の暗黒から、月の夜の海面に浮かび上がっていくような気がした。 「もういいですよ、そんなあくせくやめましょうね。全部意味ないですものね。人はいずれ死にます。自分が消え、人類もやがて消え、地球がただ回り続ける。ぐるぐるぐるぐるただ回る。その静寂。すごいきれいでしょうね」  夜の青さが明るく感じられるほどになって、空気から濁りは消え、はりつめたような厳格さが漂い始めた。  その時間、慶子は眠気を忘れた。 「始まりがあれば終わりもある。地球も太陽に呑《の》み込まれる。太陽もやがて燃え尽きる。宇宙を作ったエネルギーにも果てがある。そうでしょう。そんな世界であくせくがんばって何の意味があるんですか」  まさに回転する静寂の地球にひとりいる。その青さだけをたずさえて。慶子はそう思った。 「ひとりで生きるのは強い人じゃないとできない。あなたはそれをやっている。世界は空虚だ。みんなハリボテの絵空事です。刃物でまっぷたつに切り裂いてやりましょう」  慶子は頭を振った。我に返ろうと気を引き締める。急に自分個人の話に触れてきて共感を持たせようとするその手口。もういい。やめて欲しい。いずれにしても自分はもうすぐ眠る。そしてお前の思惑《おもわく》通り自分を切り裂いて死ぬのだ。もういいではないか。でも部屋に刃物はない。どうやって自分を切り裂くというのか。やはり舌を噛み切るのか。頭を床に打ちつけるのか。  慶子は、そっと通話を切った。  精神がこれ以上ないくらい鋭敏になり、水道から落ちる水の音が強迫的に大きく聞こえてきた。  慶子はキッチンへ行って、水道を見た。水は出ていない。  洗面所に行った。出ていた。こんなに離れた場所の水の音があれほどまでにはっきり聞こえていたのか。  慶子は蛇口をきつく締めた。  洗面所の鏡に自分が映っている。  痛んでぼろぼろになった自分の顔があるはずだった。  しかしそこにいる女は、何か思いがけない宝物を見つけたように頬を紅潮させているのだった。  驚いた。鏡の中の女もゆっくり真顔になっていった。  そのときだ。  今一瞬意識が途切れなかったか? と思った。  鏡を見ていたのは今のことか、さっきのことかと素早く自問自答した。  いよいよ限界が近づいていると思った。  とたん、背中と胸が連動して震え、口と鼻から震える息がこぼれ、鼻の奥が痛くなり、目が熱くなり、また自分が泣いている、と気づいた。  もうだめだ。もうもたない。  がんばってもきっと意識は自動的に消える。  今。今自分は生きている。でもあと少し先の、今、という時間はもう起きてはいないだろう。そこでこれ以上ない恐ろしい体験をして、そしてそのあともう二度と目覚めることはない。確実に死ぬ。明日の朝、切り刻まれた自分の死体を最初に見るのは、自分の勤める捜査一課の連中だろう。関谷が「昨日の夜までは元気だったのにな。焼き肉でも食うか」と言うのだろうか。関谷たちはまだこれから命を紡いで、それこそ焼き肉を食べたり、家族と団らんをしたり、いろいろなことがあるのだろう。しかし自分は、一時間先か三十分先か、いや一分後かも知れない。眠り、そして死ぬ。  慶子は泣いた。上を向いて、何のためらいもなく、思い切り声を出した。  ひとしきり泣くと、慶子は、携帯をとって、両親のいる実家に電話をした。  そういえばしばらく電話をしていなかった。久しぶりの電話だ。  父と母の声を聞くのが怖かった。最も落ち着く温かい声を聞いて自分がどうなるか分からなかった。  幸か不幸か呼び出し音が少し鳴ったあと、留守番電話になった。  機械的な女の声が伝言をうながしている。  思えばこんな夜中だ。寝ている方が自然だった。  もし電話に出てくれたら言いたかったことは何だろうと、思った。  ちょっと明日から海外に出張に行ってくるというくらいの気軽さで遠くに行くことを話すだろうか。もし、今までの礼を口走ってしまったら、自分は絶対にまた泣いてしまうだろう。両親の声が聞けないのは残念だったが、やはり直接しゃべらないのは正解かも知れない。留守番電話に、感謝の気持ちを残そう。それもなるべくさりげなく。両親は、自分が自殺したのだと思うのだろう。そして自分の凄惨《せいさん》な姿を見ることになるのだろうか。これから両親が感じなければならない多くの感情を思うと胸が締めつけられる思いがした。その一切を知らないで今は眠っているのだ。留守番電話に一言だけ残そう。これからいろいろあるが、自分は本当に親に感謝している。それは本当だから、それをずっとずっと思ってください。  伝言をうながす機械的な女の声が終わり、信号音が鳴った。  慶子は、伝言を入れようと、渾身《こんしん》の力をこめた。  しかし、なぜか声は出なかった。  早く言え、早く言え、と心では思うが声が出ない。  きちんと伝えないと、両親は一生悩み続けるぞ、と思ったが、声は出なかった。  電話を切った。  暗い部屋に、慶子はひとりでいた。  そのとき、不思議な親和感がわいていた。  このひとりぼっちの空間。  そうか、自分はこの孤独を求めてずっと努力をしてきたのだ。  ひとりで生きられる強さ。誰の力も借りずに、自分だけで人生や生活をデザインする。自分はこうして、自分が求めてきたとおりに人生を生きてきて、死ぬのだ。姿勢を正してそのときに望まなければならない。そう思った。  そのとき、ソファーに置かれたクッションがなぜか気になった。  クッションだけが、際立って浮いているように感じる。  手に取ってみた。それをいろいろな角度で見てみるが何も変わったところはない。見るとソファーの上、クッションの置いてあったところにカッターが置いてあった。  慶子は、なぜそんなところにカッターが置いてあるのかまったく分からなかった。誰がこんなところに置いたのだ。どうやって。そしてすぐに分かったことは、自分以外にそんなものをここに置く人間はいないということだ。自分を切り刻む可能性のあるものは全部捨てたと思い込んでいた。しかしきっと暗示にかかってしまった自分は、無意識のうちにこういう行動をとっていたのだろう。他にもどれだけの凶器がこの部屋に隠されているか分からなくなった。  そのとたんまた新たな恐怖がわき上がってくるのだった。  この人の気配のまったくしない部屋でひとり、死ぬ。  かといって両親の前で恐ろしい死に様を見せるわけにはいかない。  いやもうすべてを話して、眠りたくない、死にたくない、と絶叫して両親にすがりつきながら眠り、死んでいくべきか。それが本当にすべきことのようにも思えた。  慶子はとにかく外に出た。  両親のところへ行くか。  しかし慶子は別の方向に向かっていた。  とにかく賑《にぎ》やかな場所へ。夜中でも人の賑わう繁華街へと自転車を飛ばしていった。  繁華街は、夜中にも拘《かか》わらず人ごみで賑わい、車のクラクションは止むところがなかった。クラクションは慶子の神経に触れて覚醒《かくせい》を呼び起こしはしたが、同時に頭痛も引き起こした。人間の温《ぬく》もりを感じたく、今の状況からどんな他人にでもそれを感じられると思ったが、人々の顔は、下品なネオンの中で青白く浮かぶ、不気味な人形のように見えるばかりだった。  慶子は、ほんの短い時間でもそこにいることに耐えられなくなっていた。  街の喧噪《けんそう》から逃れ、自転車を走らせたが、もう何の考えも浮かばなかった。  自転車を停めようとした。  そのとき、目の前にあの映像が浮かんだ。  死んだ少女と、巨躯《きよく》の男、そして若宮の死に様だ。  実際に死体を見たのは一瞬だった。恐ろしくて長く見ることはできなかった。  若宮の首から出た血の温度が忘れられず、一連の死体を生々しく甦《よみがえ》らせたのだ。 「あんな死に方ごめんだわ」  慶子はそうつぶやいていた。  そして無意識にとっていた行動は、どの車にぶつかって死のうか、とか、どのビルから飛び降りようか、ということだった。  適当と思われる死に場所を必死に探しているうちにたどり着いたのは、警察病院の前だった。  何も考えてはいなかった。  慶子は、病院に潜り込み、ある病室の前にたどり着いた。  部屋の前に入院患者のプレートが貼ってある。 「影沼京一」の名があった。  慶子はそっとドアを開けて入っていった。  京一に何かを期待して来たわけではなかった。何を考えどうしたいというわけでもなかった。ただ最後に見る人間を誰かと考えたときに、京一が浮かんだ。この男は曲がりなりにも、自分の願いを聞いて、若宮の夢に入ってくれた。多くのリスクがあるのも承知でだ。この男が仮に自分の夢に入ってくれたところで、どうにもならないのは分かっていた。ひとり死ねばいいところがふたりの死者を出す結果になるだけだ。意味がない。もうこれ以上この男を危険な目に遭わすわけにはいかない。  ベッドの上で京一は目を閉じていた。  慶子は京一を見た。  ひたすらに見た。  やがて京一はゆっくり目を開けた。  慶子をしばらく無表情に見ていたが、目をつぶった。  慶子は、「0」に関わってから月の光をことさらに強く感じるようになったが、今、自分がその月の光そのものになった気がした。その光で京一を照らしてやりたい、と思った。  慶子は京一に言った。 「私は分かったの」  何をしゃべるのだろうと慶子自身が思いながら聞き、しゃべっていた。 「死は無になる怖さじゃなくて永遠になれる喜びだって。また甦ってくるなんてことがあったらそれこそ恐怖よ。死こそもう二度と目覚めない平安なのよ」  慶子は意外なことを耳にするように自分の声を聞いていた。  もうひとりの自分が朗々と話す。その淀《よど》みなさに快感すら感じていた。  京一はまったく動かなかった。 「確かに死ぬのは怖いわ。でも怖いのは死ぬときだけ。死ねば怖いも怖くないもない。いろいろしても何もしなくても死は必ずやってくる。そのときはもう何も感じない。同じなのよ」  京一はまた目をゆっくり開けた。それは本来なら京一がしゃべるべき言葉だろうと思った。 「人の憎しみが見えちゃうんでしょう。それじゃあ怖かったね。ずっと怖かったね」  慶子は自分がどういう方向に行こうとしているのか分からなかった。  京一にはやはり夢に入ってきて欲しいのか。  本当はそれを渇望しているのではないか。  慶子は、京一のベッドに近づくと、手を伸ばした。  慶子の手は、男の細い首に巻きついた。 「もういいよ。全部やめましょう。今ここで一緒に死にましょう」  とその手に力を入れた。  京一は、初め驚いたように慶子を見ていたが、やがて目の力が抜け、潤んできた。 「僕は、誰にも望まれずに、生まれてきてしまった……」  慶子は京一にうなずき、微笑んでみせた。 「もう苦しまないで。今、ここで死にましょう。死にましょうね」  と、京一を絞める手に力を入れるために、ベッドの上に片|膝《ひざ》を乗せた。 「私の首も、絞めて。絞めて」  京一は言われるまま、慶子の首に手を回してきた。  慶子はベッドの上にもう片膝を乗せて、さらに京一の首を強く絞めようとすると、力が入りすぎて、京一を押し倒してしまった。  寝ている京一にまたがり、上から力を入れると、京一の首を絞めるには最も効果的な姿勢になった。  慶子を絞め返してくる京一の手にも力がこもってきた。  これは京一がずっと望んでいたことだ。京一が。  自分も恐ろしい夢を見ず、体をおぞましく切り刻むこともない。すべてこれでいいではないか。  しかし久々に人と触れ合っていると慶子は思った。  その接触が、互いを殺し合うという最終手段でやってくるとは不思議な気がした。  息ができなく、頭部が爆発しそうになった。  手を離したのは、京一のようだった。  いや、自分が我に返って手を離したのかも知れない。  慶子はベッドから離れて、全身で呼吸をした。京一をただ見つめることしかできなかった。  京一はベッドの上で小さくしぼんでいった。  一瞬前まで一番近くにいた男は、今一番遠くにいると感じた。  慶子は静かな気持ちで京一を見ると、病院をあとにした。  そろそろ朝が近いのだろうか。まだだろうか。慶子は自転車で坂を下っていった。  頭の中は、すべてが凝固してしまっていたが、慶子はなるべく透明な気分を保ちながら、坂を下っていった。  マンションに戻った。寝室に向かい、クローゼットから自分の一番好きな服を選んだ。それに着替えるとき、手が重くなって、着替えるということが、自分が生きているうちにする最後の行為になるだろうと思った。  その服を着て早くベッドに横たわりたかった。  着替え終わると、携帯のボタンを押してベッドに横たわった。 「0」にコールしたのだ。体の力を抜いた。  静かだ。  間もなく「0」は電話に出た。  聞こえてきた声は携帯から聞こえるのか、部屋全体から聞こえてくるのか、もはや分からない。 「あ、あなたですね。僕は準備が整いましたよ」  慶子は、ふふ、と小さく笑った。 「実はね、私は、あなたを捜査している刑事なの。驚いた?」 「0」は黙っている。 「どうしてもあなたを挙げたかった。でも、私の負けね」 「0」は黙ったままだ。 「それでね、最後にひとつだけ教えて欲しいの」  声は出さなかったが、相手が近くに存在している気配は濃密だった。 「どうやって人の心に入ったの?」  やがて、「0」のまったく特徴のない声が、聞こえてきた。 「どうして?」  慶子は、また、小さく笑いそうになりながら言った。 「真実を知りたい。それだけのこと」 「0」は少し考えてしゃべりだした。 「なんだろう。共感じゃないでしょうか。お互いの心を分かり合う共感ていうんですかね」  一息つくと、静かに話し出した。 「いや、僕も初めは、死んだ人たちと一緒の立場だったんですよ。僕のホームページをたどってきた人たちと一緒に、初めはただ本当に死ぬつもりでした。なぜ僕だけこんなことになっちゃったんだろう。最初の子は、四日前になるのかな。若い女の子でした。あ、あなたは刑事だから、全部知っているのか。僕は、その女の子と一緒に、携帯でお互いを感じながら別々の場所で同時に死のうと話し合ったんです。女の子はどこかトンネルの中みたいなところにいるようでした。携帯から車の走る音が反響して聞こえてきましたからね。僕は自分のアパートの風呂場《ふろば》にいました。風呂に入ろうと思ってセーターとズボンを脱いで、前日ためて入りそびれたお湯をもう一回沸かそうとしていたんですね、そのとき電話が鳴りました。自殺志願者だと聞いて急いで包丁を台所から取ってくるとまた風呂場に戻りました。死ぬんだからどこで死んでもいいんですが、誰かが僕の死体を片づけるときに掃除しやすい方がいいと思ったんですね。女の子はバッグからいつも持ち歩いているハサミを取り出したと言っていました。そのとき、何か女の子の大事なものが僕の心の中に飛び込んできた気がしました。僕は思わず、あ、と声を出していました。女の子とは意気投合して、僕は自分のお腹を包丁で刺しました。そうしたら、その気配を感じた女の子は、嬉《うれ》しそうに、よし、私も、と言ったまま、電話を切ってしまったんです。女の子は携帯を切ったあとちゃんと自分をハサミで切ったんでしょうか。いや、やってない、と感じました。ああ、やっぱりな、自分なんかと一緒に死んでくれる人間がこの世にいるわけない、と思いました。ただ、あの一瞬、確かに女の子の何かが自分の心とつながった。それは確かだったんです。それは信じられた。初めてだったんです。人と、その、そこまで通じ合えたのは。下着のシャツに包丁を刺した切れ目があって、そこから血がずくずくと出てきました。バスタブに腰掛けていたんですが、足元のタイルに血が落ちてたまっていきます。裸足《はだし》の足の周りに血がどんどん広がっていった。僕は座っていられなくなって、タイルの上に寝転がりました。血は一気に、ではないですが、順調な速度で流れ出ていきます。意識が遠くなってきました。そのとき、僕は薄れていく意識の中で、夢のようなものを見ました。すると、声だけしか知らないはずの携帯をかけてきた女の子が、トンネルの向こう、車道の脇の歩道に見えました。車は頻繁に通っていますが、人の気配はしません。オレンジ色の照明でそれ以外の色が無彩色に見えました。女の子は、そこで、ハサミを自分の首に刺そうとしています。女の子と電話した時間からはずいぶん経っていました。女の子がまだその場所にいるとは考えにくい。ははあ。これは、女の子がうちに帰って、眠っている間に見ている夢だな、と感じました。しかし不思議な現実感がありました。僕は体の出血がひどくて、それはものすごい感覚でした。そのとき、その女の子がものすごくおいしそうに見えたんです。どうしても食べたい。食べないと恐ろしいことになってしまう。そのどうしても食べたい、という感情はもう想像を絶するものでした。女の子が、僕の気配に気づくと逃げ始めたので、僕は追いかけました。僕は手に自分のお腹を刺した包丁を握っていました。早く女の子の血を自分の体に入れないと、自分はひどいことになってしまう、そう思いました。トンネルを出るとビルに囲まれた町でした。でもやっぱり人の気配はしません。女の子が近くのマンションに飛び込んでいったので、僕は、死にものぐるいで追いかけました。体の渇きは一秒でも早く早くと僕をせき立てました。女の子の血を一秒でも早く自分の体に入れろ。女の子が自分の部屋の鍵《かぎ》を開けているので、僕はようやく捕まえたと思って、女の子に包丁を振りかざしました。ところがあろうことか勢いが激しすぎて、僕は女の子の横を通り過ぎて、廊下のかなり先まで吹っ飛んでいってしまいました。女の子を通り過ぎるときに振り回した包丁がちゃんと女の子を捉《とら》えたかどうか分かりませんでした。女の子のむき出しになった太ももと、一番血がおいしそうに見えた首に刃物を向けたつもりでした。向こうで女の子が自分の太ももを見て叫んでいたので、太ももは捉えたのでしょう。髪の毛が切れて落ちたけど、それだけのようだったので、首の方は深く入らなかったかも知れないと思い、体勢を立て直してまた襲いかかりました。女の子はドアを開けて中に入りました。僕もドアを開けて追いかけました。ダイニングを越え、奥の部屋のベッドのところで女の子を追いつめました。女の子は叫びました。そうしたらそのときになって、女の子の首から血が噴き上がりました。噴水のように噴き上がりました。やはり包丁は女の子の首を捉えていたんですね。僕はその噴水を自分の口で押さえ込むようにして、音をたてて飲んでいきました。  死にかけた自分の体に血が満ちていく気がしました。そうして力をすっかり取り戻したのです。気がつくと、ぼくはふたたび自分のアパートのバスタブにいました。タイルの上に倒れたままでした。でも不思議に力がわいてくるのを感じていました。  体を動かしてみると、お腹の痛みがない。驚いて調べてみると、下着のシャツの脇腹には穴があいているのに、その中の肌は無傷になっている。シャツについた血はそのままです。風呂場の鏡を覗《のぞ》くと、風呂上がりのようにさっぱりした顔をしている自分がいました。僕には、あのトンネルからマンションまでのできごとが夢なのか本当なのか分かりませんでした。こんなことがありますか? あっていいんですか?  そのときからですよ、僕の周りがおかしくなりだしたのは。  風呂場はいつものままだったんですが、一歩そこからダイニングに出ると、雰囲気が変わっている。向こうのリビングの壁が何となく緑色に濡《ぬ》れて黴《か》びたようになっている。あれ、もしもし。寝ちゃいましたか?」  慶子は自分が寝てしまったのかまだ起きているのか分からなかった。  体を動かそうという意思が消えてしまっているから、それこそ今いる世界が現実なのか夢なのかすでに分からなくなっていた。 「0」の声は部屋中から響くように届いてくるので、意識に直接伝わってくるように感じられた。 「自分の体を切って、血がどんどん流れ出して、それを取り戻したい、という渇望は想像を絶するものでした。でも、それは今まで感じたことのない新しい感情でした。そのものすごい感情を味わいたくて、僕は翌日も自分の体を包丁で切りました。今度電話をしてきたのは、サラリーマンらしい男でした。声の感じからすると、相当に大柄で太った男のようでした。男は、血を吸った女の子と同じで、簡単に死んでしまいたい、と言っていました。携帯で互いを感じながら死ぬ? オツな死に方ですね、と軽口を叩《たた》いていた。そのときも僕は何か男の大事なものに触れた気がしました。しっかりタッチした、と思ったんです。男は本当に死のうと思っていると感じました。僕は、しかし今慌てて死ななくてもいいと思いました。いったんタッチしたからには、また男が眠ったあとに夢の中で男を追いかけて、思う存分血を吸ってやりたいと思ったんです。でかい体だろうからさぞかし醍醐味《だいごみ》があるだろうと思いました。そして、風呂場で包丁を持って待ちました。この広い都会のどこかで、男が眠るのを感じることができる。なぜかそう思いました。しばらくすると、感じた。どこかで男が眠った。僕は、今度は、お腹だけでなく、胸も切った。二カ所も切ったので、女の子のときよりも恐ろしい苦痛と恐怖が起こりました。そしてタイルにまた血が流れ、意識をなくすと、すぐに別の場所に来ていると感じました。そこは、男のマンションの地下のようでした。男は、地下の通路の向こうでパジャマ姿のままでいました。カッターで今しも自分の首を切ろうとしています。僕は、昨日の少女のときより出血がひどく、昨日よりも早く、そしてもっと多く血を飲まないと恐ろしいことになると感じました。刃物で男の巨大な腹を裂きました。すかさず次は首を切りました。昨日より僕自身の傷も多い分、渇望は大きく、一気に男の首にむしゃぶりつき血を吸い上げていきました。そのときの気分はこれ以上ないくらいでした。砂漠で死ぬ直前に味わうオアシスも、この喜びに比べたら子供みたいなものでしょう。そして目が覚めると、自分のうちの風呂場にまた戻っていました。風呂場から出ると、ダイニングの壁が緑色になっていて、向こうのリビングの壁は濃い緑色でただれたようになっている。そしてまた発見したんです。僕の体からふたつの傷が消えているのを。僕はこの悪癖とも言える行いをもう止めることができませんでした。次の日にかけてきた男は若い男のようで、初めはひやかしと思いましたが、これまでのふたりより深い暗部を抱えていると気づきました。そしてはっきりした手応《てごた》えでタッチしたんです。僕は、これでもか、これでも戻れるか、俺の体は、と今度は腹に胸、足も思いきり切ってみました。切るというより骨まで叩き折るように切りました。二回|甦《よみがえ》ることができたとは言え、今度は死ぬ、と思いました。そう、毎回切るごとに、本当に死ぬ、と思ったんです。腹はたくさん切り過ぎ、内臓があらわになりました。最後に自分の頬に刃物をあてがい、口の中を通して反対側の頬まで一気に切りました。血を吸って甦りたいという願望はそれまでとは比較になりません。電話をしてきた若い男は暗い都市の歩道橋にいました。割れたガラスの瓶で自分の首を切ろうとしていた。若い男の血を吸うと、今までのふたりとは比較にならない快楽で蘇生《そせい》しました」  慶子は「0」の声を世にも恐ろしい子守|唄《うた》として聞いていた。  それは明瞭《めいりよう》な音となって響いていたが、多分「0」は今聞いているのと同じ分量はしゃべっていないだろうと感じた。少ない情報を慶子の頭で再構築しているか、あるいは声はほとんど出しておらず、それこそ意識に直接語りかけてきているのではないか。いずれにしてもひどい誇大妄想を持った男だ、と思おうとしたが、意識に直接響いてくる声は、嘘をついていない、と感じた。本当のことを言っている。これを本当のこととして語っている男の精神は尋常ではない、と思いたいが、「0」は多少興奮気味にしゃべりながらも、実に正常な精神の波動で語りかけてくる。慶子は死の際になって、生きている間では知り得なかった世界があったのではないか、という、底知れない不可解と、それを知らないで死んでいくことへの取り返しのつかない後悔を感じた。  すでに自分は眠ってしまっているのだろうか。ねじ伏せるような睡魔と、到底眠ることなどできない緊張が動かない体の中で戦っていた。  もういいから寝させてくれ、と逆に眠れない苦痛を訴える自分さえいるのだった。  慶子は、一つだけ質問した。口が思うように動かなかったが、ゆっくりとしゃべった。 「あなたがタッチした相手が、最後に『助けて、お兄ちゃん』って言うのはなぜ?」  携帯の向こうの空気が動かなくなった。 「何ですか、それ」  ここまでしゃべり続けた「0」に、この期に及んで何か隠すことがあるのか、と不思議に思った。 「知らないの?」 「0」は黙っている。 「0」は暗示をかける手段として意識的に相手に「助けて、お兄ちゃん」と言わせていたと思っていた。そうとしか思えなかった。しかしここまでしゃべり続けた本人が知らないふうである。この段になってしらばくれるとも思えない。とすると一連の、その言葉を録音機能に入れて、入れたあと携帯の電源を落とす、というのは、「0」が意識的に被害者にさせた行為ではなかったということか。だとすると、「0」さえも知らないことがこの男を取り巻いていることになる。そもそも事件には偶発的に関わり始めた、と言っている。それが本当なら、あり得ないことではない。 「今度は、無茶苦茶《むちやくちや》に切り裂いてみようと思いますよ。どうやったら元に戻れるんだろうと思うくらい無茶苦茶に。そこから戻りたいという気持ちであなたの所へ行きますよ」  覚悟はしたつもりだが、慶子は、痺《しび》れた体の奥からわき上がる更なる恐怖を感じていた。  体中の皮膚が痺れたようになってきた。慶子は、中心で戦慄《せんりつ》しながらも、体は輪郭がはっきりせず、大きな波に揺すられるような気分になってきた。  声が聞こえた。 「助けて、お兄ちゃん」  すぐ耳元で聞こえた。  そしてボタンを押して電源を落とした。  はっとした。  ボタンを押す、という行為で一瞬の覚醒《かくせい》があった。  その前に聞こえた声。「助けて、お兄ちゃん」。あれは自分の声だった。  そのとき、手の中の携帯電話が、とろりと溶けて、電話を持っていた左手にしなだれてぶら下がった。だらしない動物の舌を思わせた。 「あっ」  と慶子は大きな声を出した。  寝ている。ついに寝てしまっている。  その途端、今までの強烈な睡魔が消えた。  ジェットコースターの頂上に来たときのような緊張がやってきた。  体中の皮膚が電気に触れたようにざわめき始めた。  さあ、あとはまっすぐに下っていくだけだ。そのジェットコースターは信じられない角度で傾斜し、先が切断されていてあとは暗黒なのだ。  慶子は夢に入ってもまだ、自分の部屋の寝室にいた。  携帯が溶けて飴《あめ》のように糸を引いて手から落ちてしまった。  部屋の中が暗黒になり、混濁した映像が浮かんでは消えた。  慶子の意識はそこにあるが、夢の中で慶子は、これまでの事情を忘れた。  また闇になると、底の方から、赤ん坊が笑うような、カエルが鳴くような、おもちゃに録音された笑い声のような、小さな笑い声が聞こえてきた。  慶子は、リビングにいた。  そこで目を覚ました。そういう感じがした。  何かたくさん夢を見ていたようだが、思い出せない。  ごちゃごちゃと夢を見て、賑《にぎ》やかでさえあったような気がするのだが、その喧噪《けんそう》は、起きて時間が経てば経つほど遠のいていってしまう。  リビングのソファーでうたた寝している間に夜になっていた。  いつ寝てしまったのだろうか。体が重くて簡単に動かせない。ずいぶん長く眠ってしまっていたようだ。電気がついていないので、やはり昼のうちから眠っていたらしい。テレビだけがつけっぱなしになっていた。ビルの群れを定点カメラで捉《とら》えているが、建物の群れはミニチュアの玩具《がんぐ》にしか見えない。画面の下に明日の各地域の天気予報がテロップで流れていく。その番組は夜中の深い時間に、番組が終了する直前に流れる映像だ。相当長いこと眠ってしまっていたのだ、と思った。  慶子が最初にすべきことは、テレビを消すことだと思った。  テレビを消すと、暗くなった画面に部屋が映っている。  広角の画面が部屋の全貌《ぜんぼう》を捉えている。そこに慶子が映っていた。  何だって、こんなに物悲しい顔をしているのだろう。  もう一度ソファーに座ろうとしてやめた。また眠ってしまったら、深くて暗い場所に落ちてしまう気がした。  それは恐ろしかった。ひとりでこの人気のない場所からさらにどこかに落ちるのはいやだと思った。  窓の外を見た。暗黒で何も見えない。  目を凝らすと、ビルの群れが見えてくる。  ほとんどの明かりは消えている。  要所要所に灯《とも》った明かりは、おもちゃの建物の裏側から豆電球を灯しているようにしか見えない。  窓辺から戻ると、部屋は、空漠と広く感じられた。  胸にひりつく痛みがあるが、自分はそもそもなぜここにいて何をしているのだろうと思った。  気がつくと、手にカッターナイフを持っていた。  慶子は自分で自分に問いかけるように言ってみた。 「いつからなの?」  子供のときにやった人形遊びを思い出した。 「何が?」  と人形遊びの子供役の声で言ってみた。 「いつからそうなってしまったの?」  今度はやさしい母親の役割を演じて言ってみた。 「だから何が?」 「いつから死にたくなったの?」 「え、私、死にたい、なんて思ったことないよ」  慶子は、カッターを握ったまま、わざとゆっくりと首を振った。 「嘘おっしゃい。本当のことを言って。いつから死にたくなったの?」  やさしさの中にも厳しさを携えた、強い母親のイメージだ。 「私はね、死にたいなんて思ったことないのよ。私はね、一回も死にたいなんて思ったことないの。だって私は死にたいなんて思ったことないんですもん」  突然、驚くほどの大きな声がした。自分でも驚いたが、慶子はわっと声をあげて泣き出していたのだった。 「言って、本当のことを言って、本当のことを」 「分からないの。分からないの。いつの間にかなの。いつの間にかそうなっちゃったの」  泣きながら答える。 「ずっと死にたかったの?」 「ずっと、ずっと、もっと、もっと、強く生きたかったの。強く強くなりたかったの。誰にも惑わされないで、私の思った道を、ずっと強く歩いてゆきたかったの。でも、いつの間にかいろいろなことが分からなくなっちゃったの」  慶子は、あらためて大声で泣いた。本当の子供のように開けっ広げに泣いた。  やさしくて厳しい母親も、そう、そうなの、そうだったの、と泣きながら言った。  ひとしきり泣くと、急につまらない気持ちになって、馬鹿みたい、と、心の中の人形を放り投げて捨てた。  目のふちに涙がずくずく溜《た》まっているが、慶子はすっかりどうでもいいような気分になって、カッターの刃を出した。  何も考えず、それを自分の首に持っていった。  刃物は今どれくらい自分に接近しているのだろうか。考えていることといったらそれくらいだった。  そのとき、衝撃音が向こうから聞こえてきた。  慶子は刃物を首に押し当てた。  そのまま首を切ろうとすると、凄《すさ》まじい音がまた鳴った。  一発。二発。三発。  激突音がどんどんこちらに接近してくる。  獰猛《どうもう》な動物のようだ。いや、そんなものではすまされない激烈な勢いがあった。  それがすぐ近くを通過する気配を感じたとき、慶子はすべてを思い出した。  自分がついに眠ってしまい、切り刻まれて死ぬべき道をたどっていることを。  慶子は、恐ろしい気配から逃れるように、ドアを開けてとなりのリビングに移動した。  リビングかと思った部屋は、まったく異質の場所だった。  古い木の匂いがした。  昔から残されたままになっている実験室のような広い部屋だった。  だが、そこに間を取って置かれた大きな机は皆不自然に低い。六つほどある。それぞれの机は背もたれのない木製の椅子に囲まれているが、それも低い。  分かった。これは小学校の理科実験室なのだ。しかし自分の記憶の理科室とは違っている。もっとずっと古い作りだ。たっぷりとした広い教壇がある。木棚のガラス戸の中にアルコールランプや、フラスコ、ビーカー、試験管、天秤《てんびん》のようなものが静かに置かれている。  生徒が書いたと思われるカエルの解剖図や有精卵からひよこ誕生までの記録絵図が模造紙に描かれ壁に貼られてある。  動物の剥製《はくせい》が部屋の二辺を占める窓の前の棚に並べられて、外からの冷たい月明かりでシルエットになって浮かび上がっている。  その窓ガラスの向こうを、異形の黒い影が凄まじいスピードで通り過ぎていった。  外から理科室の木造の壁に触れたらしく、鋭い音を響かせ、窓枠全体がびりびりと震えた。  遠くでしばらくのたうつような音を轟《とどろ》かせると、また別の場所を激しく破壊する音とガラスが割れる音がし、さらに別の方へと移動した。と、いきなり予想外に近いところで激しい物音が通過していった。今までの土の上の移動でなく、木の廊下の上を走り抜けていく音だった。廊下側の壁も窓が並んでいたが、下半分が磨《す》りガラスになっていて、物音しか分からない。すぐにまた戻ってきて通過する。また通過。だんだんこの場所を通過する間隔が縮まってきている。理科室に入ってくるのも時間の問題だろう。  そう思った瞬間、爆発するような音とともに、廊下側の木戸が破壊されて何かが飛び込んできた。  慶子が反射的に机の下に潜ったのは爆発音と同時だ。  慶子が入った木の机は、ちょうど部屋の真ん中あたりに位置する。  机の周りを囲む直方体の椅子で、慶子の体はとりあえずきっちり隠されている。だが、その獰猛さで捜されては、すぐに見つかってしまうだろう。  逃げ場を探して周りをすばやく見る。  窓辺の棚に置かれた水槽が目に入った。  廊下側の喧噪《けんそう》と対照的に、濁った水を鯉が数匹ゆっくり動いている。  理科室に入ってきた何者かは、机の横の椅子をことごとく弾《はじ》き飛ばしながら床を這《は》うように凄まじい移動をしている。獰猛な息づかいが聞こえてくる。それは人間の声ではない。ただそこに息をする器官があり、その器官を空気が激しく通っているという音だ。  慶子は、椅子の隙間から廊下側を覗《のぞ》いてみた。  何かはあまりに速い移動で目に止めることができない。獰猛な息と周囲を破壊する激しい音はすぐ近くで鳴っているのだが。  何かは教壇横の薬品を入れた棚の前で、目標物が見つからないのをもどかしがるように無茶苦茶《むちやくちや》に暴れ始めた。  ガラスが破れ、薬品の瓶が周りじゅうに飛び散った。  そのとき、何かを一瞬見ることができた。見てしまった。  それは、人間のようなもの、だった。各部分は人間が持っているもので構成されていた。しかし、体中がずたずたに切られて、内臓が飛び出し、骨が覗き、顔も無茶苦茶に破壊され、脳が飛び出し、眼球がずれて、理科室の人体解剖模型が大暴れし始めたようだった。  体からの出血が著しく、暴れるごとに、床や、壁、窓に多量の血が降りかかり、擦《こす》りつけられる。  目玉にまったく生命の色彩がないので、肉でできたロボットのようにも見える。  右手には包丁を握っている。肉が周囲に激突する鈍い音の中に、刃物が当たる鋭い音が混ざる。  目の色の空虚さと、その刃物を振り回す激しい動きがまったく噛《か》み合っていない。  慶子は、怪物の暴れる廊下側から、反対側の窓の方をすばやく見た。大きな水槽を緩慢に動く鯉が目に入る。  逃げ道は、外に面した窓を破って外に出るしかない。最短距離は、水槽のすぐ横の窓だろう。しかし机の下から出る勇気はない。怪物は、やがて廊下側からひとつひとつの机を持ち上げてはひっくり返していった。重厚な木造の机が、音をたてて床に転がっていく。  あといくつで、自分の机にたどり着くのだろうと思い、様子をうかがったときだった。怪物の何も見ていない目と、慶子の目が合ってしまったように思えた。  あとは何も考えなかった。  慶子は、机から飛び出し、一気に窓まで走り、窓ガラスを破って、外に飛び出した。飛び出す直前、窓辺の水槽に自分が映った。間髪|容《い》れず、刃物を振りかざしてくる怪物も映った。窓を破ったのはその直後だ。  慶子は、湿った匂いのする地面に落下すると、目の前に開いている鉄製の扉を目にした。人が四つん這いで入れる程度の大きさだ。扉の周りはコンクリートの壁だ。慶子はとりあえず中に飛び込んだ。扉を閉めると、外から鍵《かぎ》がかかってしまったのが分かった。  金具が、もう片方の扉に下りた音だった。  刹那《せつな》、扉に激突してくるものがあった。  閉まった扉がこちら側に膨らんでくる勢いだ。  痛みが体を走った。  スカートが切られ、太ももに長い一直線の切り傷が見える。  肩と背中にも痛みがあった。  何カ所かを一瞬のうちに切られたのだろう。  怪物がもう数回体当たりしてきたら、鍵の金具は切断されるだろう。  すぐに周りを探した。扉が開かないようにあてがうもの。しかし、紙くずや、鉛筆の削りカスなどしか見当たらない。角材も見つかったが短いものばかりだ。ここはゴミ捨て場のようだ。  隅に建築資材の鉄棒があったので、それを掴《つか》んだ。  見ると、扉のそれぞれに、不揃いのフックのようなものがついている。  怪物がまたぶつかってきた。そのとき外で体当たりをやめた怪物が、鍵の金具を掴んで、自分で開ける音がした。  慶子は絶叫した。いや実際は声になってはいなかった。すぐに鉄棒をドアの両フックに叩《たた》きつけるように置いた。  今度は開くと思ったのだろう、体当たりしても開かないので、怪物は反動で向こうまで吹っ飛んでいったようだ。  巨大な駒が地面を回転してえぐっていくような音がすると、また勢いをつけてぶつかってきた。何度も、何度も。  すると、ふいに激突が止まった。  すごい体をしている怪物だった。いや人間だった。体中の切り口からひっきりなしに血が噴き出し、流れ出していた。慶子を追いかけ回すうち、血が流れきり、息絶えたのかも知れない。あの獰猛《どうもう》な怪物が冷静に何かを思案するとは考えにくかった。  突然鉄の扉がもう一度激しく鳴った。  慶子は戦慄《せんりつ》して飛び退いた。  怪物は、そのままどこかへ走り去っていった。  慶子は、怪物の去っていった方に意識を集中した。  ずっと走っていってやがて何の音も聞こえなくなった。  じっと耳を澄ませると、慶子はそっと鉄棒を扉から外した。  恐ろしかったが、扉を開けようと思った。ずっとここにいるわけにもいかない。  だが、扉は開かなかった。  どこかで何かが引っかっているのかと思い、何度も試したが開かない。  そうか。今怪物が走り去る際に激しい音がした。あれは外の鍵の金具をかける音だったのだ。あれほどまでに崩れ果てた体で荒れ狂っているのに、そういう智慧《ちえ》の働くところがいっそう不気味だった。  急に怪物が戻ってきて、鍵を開けられたら大変だ。鉄棒をまた扉に渡した。  慶子は、注意深くあたりをうかがった。  ここはどこだろう。  やけに窮屈な場所だ。周りはコンクリートで囲まれていて冷気がある。床はゴミがたくさん散らかっている。  さっきいた場所は小学校の理科実験室だった。とするとここも小学校のどこかなのだろうか。  ゴミの中に小学生の書き損じの絵や折り紙が見えた。  そうか。何て言ったか、そう、ダストシュートだ。  廊下の壁に開閉できる鉄製の投入口があり、そこからちりとりで取ったゴミを捨てる。集まったゴミは、校舎の裏側から校務員が鉄の扉を開けて回収していく。  そこまで考えて、慶子は、え? と思った。  ダストシュート? 廊下の壁に鉄の投入口?  慶子は、慌てて振り返った。  あった。小さな鉄の扉が。これがゴミの投入口だ。  しまった、と思った。何か考えるより先に手が動いた。近くに落ちていた運動会の旗などがついたままの折れた角材をふたつみっつ取って、最初の一本で鉄の扉につっかえ棒をした。その途端激しい衝撃音がして怪物が向こう側から投入口にぶちあたってきた。角材は割れて弾《はじ》け飛んだ。慶子は渾身《こんしん》の力を出して、二本目三本目を立て続けにつっかえ棒にした。さらに四本目五本目をゴミの中から見つけると、投入口の扉がびくともしなくなるまで補強した。怪物は開かないことが分かるとまた去っていった。  慶子は分かっていた。今の抵抗が一時的なものに過ぎないことを。  ゴミの投入口は各階の同じ場所にあって、落ちたゴミは一階に降り積もる。  慶子は上を見上げた。  天井に四角い狭い空洞があり、それがずっと上の方まで続いている。  目を凝らすと、二階の投入口の扉が見える。それより上は真っ暗で見えない。  慶子はいよいよだと思った。あそこにつっかえ棒はできない。  恐ろしかったが、二階の投入口から目を離すことができなかった。  建物の上の方でまた勢いよく走り回る音がして、それが二階の投入口に近づいてくると、鉄の小さな扉が耳が痛くなるほどの激突音を発し、ダストシュート全体に大きく反響した。  続いて小さな扉が鋭い金属音を発して開いた。閉じてはまた開いた。扉は構造上外さないと怪物は中には入ってこられないので、扉ごと外してしまおうと何度も開け閉めを繰り返している。  一階から最上階までを貫くコンクリートの空間に、金属音が狂ったように反響している。すくみながらも慶子は目を離せなかった。何も考えることができなかった。この先に起こることを想像することもできない。  扉が叩き壊され、一気に慶子の方に落ちてきた。集中して見ていたのでかわすのもぎりぎりだった。  すぐにもう一度|覗《のぞ》くと、扉が外された穴から、包丁を持った血だらけの手が入ってきた。  慶子は、血が逆流するのを感じた。  ダストシュートの投入口側から、入り口の扉まで後ずさりして逃げた。  扉から自分で置いた鉄の棒を外して、もう一度開けようとした。  が、やはり鍵がかかっている。  どうやっても開かない。  ダストシュートの空洞の中を、怪物が無理矢理体を押し込んでくる気配がする。  とても人間ひとりが楽に入れるスペースではなかった。あの怪物は切り刻まれた体中のタガを外して強引に自分の体を押し込み、渾身の思いで二階の投入口から降りてきているのだ。体が周りのコンクリートを滑る断続的な摩擦音が、建物を貫く空洞を震わせ、慶子のいる一階のコンクリートの天井にまで伝播《でんぱ》して反響している。  慶子は、天井の四角い空洞を凝視した。  怪物が体をぎっちり入れて這《は》ってくる音が下方に移動してくる。  目的を一点に絞り込んだ順調な移動音だ。コンクリートの湿った空間全体に響き渡る音がめいっぱい大きくなり、やがて、近くを移動している摩擦音がくっきり浮き上がって聞こえ始めた。怪物はすぐそこまで降りてきているのだ。  いよいよだ。いよいよ来るべきときが来た。  体に力を入れて身構えた。  怪物は、もう、すぐそこの空洞のへりまで来ている。ここにひとたび降りてくれば、あの獰猛さだ。切り刻まれるまで何秒と持たないだろう。  天井の空洞から荒い息が聞こえてきた。  血が糸をひいて、いく筋も降ってきた。  慶子が身震いしてのけぞると、空洞からどこの部分だか分からない肉の固まりが飛び出して、たこの足のようにくねった。  血塗《ちまみ》れの腕だった。包丁を持っている。ようやくたどり着いたというふうに天井をまさぐり、動き回っている。包丁の刃が、コンクリートの天井の壁を擦《こす》って、神経に突き刺さる音をたてた。  狭い空間を無理に通過させるように顔が飛び出した。もう片方の肩は完全に骨を外して、すぼんだ形でじりじりとはみ出してくる。  血の匂いが濃密に漂い始める。  昆虫の脱皮を見ているようだ。  肩が出てきて胸まで現れたときだ。  一番厚みのあるところを通過したのか、ずるんと一気に空洞を抜けて、怪物は床に落下した。狭いコンクリートの空間を、包丁を振り回してめちゃくちゃに暴れている。何の感情も表していない目が自分を捉《とら》えた気がした。  刹那《せつな》。包丁が振り上げられ、刃が天井のコンクリートを突き刺す勢いでえぐり、そのまま慶子の方に刃先を滑らせてやってきた。一瞬のことだった。  刃は天井から離れ、一気に慶子に振り下ろされた。  その直前、慶子の背中が軽くなった気がした。  扉に背中をへばりつけていた。後ろにはこれ以上下がれないはずだが、刃物が迫るにつれ、後ろが軽くなり、一瞬目の前が暗くなった。  刃物を差し止《とど》めている細い手があった。それは目の前を被《おお》った黒い影から伸びている。  黒い影は、雨合羽《あまガツパ》だった。  雨合羽を羽織った男が、怪物を食い止めているのだ。  しかし男は、飛びかかった瞬間の力で怪物を食い止めただけで、すぐに反撃されるのは目に見えていた。怪物が男の攻撃に踏み止まり、反撃に出ると思われたそのとき、男は怪物の振り上げる包丁に自らめがけて向かっていった。自殺行為だと思った直後、男は、包丁の中に吸い込まれていった。包丁の刃の輪郭の線にきれいに吸い込まれていくようだった。驚いて見ていると、雨合羽が三角形を作り出し、頂点から吸い込まれている。  怪物は一歩引くような動きを見せたあと、包丁を大振りに振った。その拍子に雨合羽の男はまたこちらの世界に飛び出してきた。雨合羽のボタンが全部外れている。か細い手足が合羽から飛び出し、体を支えた。何も着ていない裸の体が見えた。あばら骨がくっきりと浮いている。京一だ。夢に入ってくれと懇願したが断固応じてくれなかった男が目の前にいた。怪物は間髪|容《い》れず男の合羽と裸の作り出す線に頭からどすんと入っていった。ここではないどこかで重大事が進行するのがすぐに分かった。慶子は反射的に怪物の肉の一部を掴《つか》んだ。怪物は一気に京一の体の線に消えていったが、慶子も衝撃を受けたように引っ張られ、京一の体に飛び込んでいった。  気がつくと、慶子は、水の中にいた。  暗黒の水の中を沈んでいった。  生温《なまぬる》い感触を覚えながら、どんどん沈んでいった。  慶子はその直前の事情を忘れていた。  慶子の下を、雨合羽の男が沈んでいるのが見える。  雨合羽の男は慶子の存在に気づいていないのか、沈んでいく下の方ばかりを見ている。  この水のイメージは、この男の感ずる世界だと慶子は理解した。  そう思った瞬間、男の精神の波動のようなものが、慶子の精神にダイレクトにつながり、慶子の体を痺《しび》れさせた。今浮かび上がれば生きられるかも知れない。そう思いながらも一向に動かずどんどん沈むに任せている。そういう男の感情を自分のことのように感じた。  やがて水の底に黒い巨大なものが見えてきた。暗い水の底よりさらに黒い巨大なもの。幼いころ田舎で見た夜の山を思い出した。都会に比べて夜の空は暗かった。しかし夜空の手前にある山はもっと黒く、そちらの方が奥にあるように思えて吸い込まれてしまいそうだった。やはり小さいころ、海に浮かんでいたら、水の底に大きな岩陰があって、それが生き物だと思うと恐怖でいたたまれなくなったことがある。そんなことを断片的に思い出しながら慶子は沈んでいった。  どんどん落ちていくと、大きな影の輪郭が現れ始めた。  それは、沈没船だった。  大型の貨物船が座礁して沈み、船底を上に向けている。  山のように巨大なもの、しかしそれは人工物で、海底に沈んだ古代都市を見つけてしまったような戦慄《せんりつ》を覚えた。  慶子はまた記憶の断片を思い出した。テレビのニュースで、転覆している船を見たときの得体の知れない恐怖。船が大きければ大きいほど恐怖感も増した。あれは何だったのだろう。  今足元に沈んでいる船は、あまりに巨大で、舳先《へさき》がどこにあるのかさえ分からない。  ビルディングほどもあるスクリューが向こうに見えるから、船尾はそう遠くないのだろう。  男の心の震えがはっきり伝わってくる。男はいつもこのへんで別の次元へ送り込まれていたようだ。そういうことが手に取るように伝わってきた。  しかし今日はとことん落ちていくようだった。何か別の力で闇の底に引っ張られているのだろうか。落ちるにつれ、男が感じている恐怖の波動が慶子にまで伝わってきた。  慶子は、男と大体同じ高さで船底に近づいていた。  近くに来てもなお暗黒の船底はあまりに黒く、降り立つことができずに吸い込まれてしまうのではないかと思った。  が、慶子は船底に降りた。  足が鉄板を叩《たた》く鈍い音がし、果ての見えない船底全体に反響し、水中に伝播した。  鉄|錆《さび》か海の微生物か分からないものが足元から舞い上がった。  男も向こうで船底に降り立ったようだ。  全身で恐怖を感じているのが伝わってくる。  そのとき、慶子の目の前、少し見上げたところにはっきりとした映像が浮かび上がってきた。  水に揺れる若い女の顔だ。  こちらを見ている。  若い女は、無表情の顔の中に優しさをたたえている。  目の前を水の奔流が被った。  若い女はこちらに手を伸ばしている。  水の奔流が、若い女の顔をゆらめかして輪郭を大胆に湾曲させている。  慶子自身が女に首を握られている実感がある。女はやさしい表情のまま、こちらの首を握る手に力を込めた。  女の背後には裸電球がぶら下がり、苦しくなって暴れると周囲に手があたる。深い水の中と思っていた場所は浴槽の中だった。そうか、ここは風呂場《ふろば》なのだ。風呂場で若い女に沈められ、首を絞められているのだ。  水の温度は生温かく、沈んでいた水の中と変わらない。  哀しい男の心の声が聞こえてくる。  お母さん。お母さん。  まるで自分がしゃべっているように聞こえてくる。  なんとももの哀しい声だ。  船底に一緒に沈んだ男の心に的確に感応していた。この体験は、その男の体験だ、と分かった。  若い女が、この男の母親で、この女は自分の子供を風呂の水に沈めている。そういうことが矢継ぎ早に分かってきた。  そのときだ。慶子に、これまでの事情がふたたびひらめきのように甦ってきた。  今自分が体験しているのは、あの京一という男の封印していた過去の記憶だ。  水が目の前で揺れ、若い女が消え、また今しがたまでいた船底の上に戻った。  向こうで京一がじっとしている。  慶子と同時に見てしまった映像のせいで動けなくなっているのだ。  瞬間、慶子の周囲はまったくの空洞になった。  深い暗黒。しかし真空ではない。  ざらざらと無数の粒子が飛び交っている。  時間、空間を超越した限りなく無意識に近い意識の底に来たという気がした。  ボタンが外れて、雨合羽《あまガツパ》が肩から落ちそうになっている京一がいる。  うつむいて、精気が失われ、小さく感じられる。  過去を思い出してしまったからだ。  向こうの闇から、ひとりの男が歩いてきた。  特に特徴のない普通の男だ。背は高くも低くもない。若くも見えるし、中年にも見える。顔は一回別れたらすぐに思い出せなくなってしまいそうだ。下着のシャツとパンツだけを着けている。風呂上がりにビールを飲んでいて、ちょっとテレビでも点《つ》けるか、と立ち上がったような風情でそこにいる。  日常的でないのは、手に包丁を握っているところだ。  この男が「0」だ、と分かった。 「0」は何気なく立っているようだが、不思議に汗ばんでいる。  京一との間に強い磁力のようなものが働いている。 「0」が口を開いた。 「お前、何だか面白いやつだな。どうやって俺のゲームに参加したんだ? え? お前、俺が若い男を切り刻んだときも来たよな」  若い男。それは若宮のことだ、と慶子は唇を噛《か》んだ。 「0」は、わざとらしく痛いような表情を作って言った。 「あんなこと経験したら、そりゃ何もかもいやになるよな。どうやって生きて帰ってこられたんだ、あんな恐ろしい母親に殺されかけて」 「0」は、続けた。 「まあ、古い話はどうでもいいや。お前もすごい能力があるんだから、使わないともったいないよ。さあ、俺と一緒に遊ぼうぜ」  京一は、肩を落としたまま、慶子のもとに歩いてきた。顔は「0」の方を向いている。脱力しているようで、「0」が慶子に近づけないよう強い磁力を放っているのが分かる。  京一は慶子の腕を掴《つか》むと、「0」に向かい、 「いいなあ」  とぼそりと言った。 「0」は京一が何と言ったのか分からなかったようだ。  ふたりの間に居合い抜きでも始まりそうな緊張感が生まれている。 「いいなあ、あんた、能天気で」  と言って京一はうつむいた。 「0」は、何言ってるの? お前。という顔をした。  そのとき、「0」の緊張が少しゆるんだように見えた。  京一は、突然身を翻し、男の核心に近い、目の下側のラインに飛び込んだ。  慶子は京一にいきなり引っ張られ、腕が抜けるかと思ったが、「0」の目に共に入っていった。 「0」は体をひねろうとした。ひねって京一を入れないようにしようとした。  だが、京一は「0」を捉《とら》えたまま、弾《はじ》き返すゆとりも与えず強引に入っていった。  暗黒の中を京一に引っ張られて、慶子は激流を下るように進んだ。京一が軌道を鋭敏に探し分けながら突き進んでいる。  波を被《かぶ》ったような感じがして、あたりは水になった。  水に沈み、気がつくと、そこはさっきまで「0」の怪物に襲われていた場所だった。小学校のダストシュートだ。しかし怪物はいない。  いるのは、小さな女の子だけだ。体操着を着ている。  女の子がこちらを見て笑いながらしゃべっている。  そうか、これは、「0」の記憶だ、と思った。  京一が、やはりあの男の深層に入ったのだ。  今見ているのは、あの男の見ている世界なのだ。  女の子とふざけている「0」の幼い声が、自分の声のように響いている。  自分が穿《は》いている体操着の半ズボンが見える。  半ズボンから出ている脚で、「0」も目の前にいる女の子とそう違わない年齢であることが分かる。  ダストシュートで見つけたのであろう汚れたボールを、女の子と投げ合って遊んでいる。  入り口の扉は開いていて、外から明るい光が射し込んでいる。  女の子は、光を受けると、眩《まぶ》しい、と言ってますます陽気にはしゃいでいる。  光の扉の外から、やさしそうな顔の男が屈《かが》み込んでこちらを見ている。  白いシャツにスウェットパンツ。首には銀色の笛がぶら下がっている。  小学校の教諭のようだ。  明るい笑顔でこちらを見ている。  ほら、こんな所で遊んでいるんじゃないぞ。いい加減にして出てこないと閉めちゃうぞ、とでも言おうとしているのだろうか。  親しみを感じさせる教諭を目の端に、女の子とのボール投げ遊びはますますエスカレートしていく。  幼い「0」のおかしくてたまらないという声が響く。  急に光の当たっていた女の子の顔に影ができたので、入り口を見ると、教諭が扉を閉めているところだった。  さっきまで笑顔を見せていた教諭の顔は何をも物語っていない。  教諭は、そのまま扉を閉めた。  あたりは真っ暗になった。  初めは息をこらして、まだ女の子と忍び笑いをしたりしたが、女の子が、入り口の扉に行き、開かない、と言うと、コンクリートの空間の温度が低くなった気がした。  それでもふたりは、忍び笑いをしながら、それが悪い冗談で、早く先生が開けて自分たちを笑わせてくれないかと思っているようだった。女の子と一緒に自分も扉を開けようとしてみる。しかし扉は一向に開かない。  女の子が怖くなって、先生、先生、と何度か呼んだ。冗談にしては深刻な時間が流れた。女の子は、真剣に大声を出して、助けを求め始めた。鉄の扉を蹴《け》ったり叩《たた》いたりした。どうすることもできずに女の子をただ見ている自分がいる。床に積もったゴミの中に、釘《くぎ》の尖《とが》った方が突き出ている角材があるのを見つけた。危ない、と思ってそれを取り除こうとしたまさにそのとき、女の子が、扉を激しく開けようとするあまり体重を崩して転んできた。角材の上に女の子の頭が載った。女の子は、事情が分からないといった顔で天井を見ている。釘はどう考えても女の子の後頭部のどこかを捉《とら》えているはずだった。女の子が体を少し動かすと、首の横から、血が噴き出した。釘が女の子の頸《けい》動脈を切ったようだった。血は、女の子の鼓動と比例するかのように、一定のリズムで噴き上げた。反射的に手を伸ばし、女の子の首の傷口を塞《ふさ》いだ。  しかし手の隙間からどうしても血が溢《あふ》れてくる。 「0」の苦しいうめきが聞こえ、女の子を見る視界がわなないている。  女の子の顔から血の気が引いて、やがて急速におとなしくなっていった。  そして口を小さく動かすのだった。 「助けて……お兄ちゃん」 「0」は、叫んだ。悲痛な叫びだった。  今慶子が感じている「0」の体は、その痛みを抱えるにはあまりにも小さく、やわらかいものだった。  慶子は苦痛を感じた。 「0」の記憶に入り、まったく同じ視点ですべてを見ていた京一も苦痛を感じているのが分かった。  京一は、「0」を暴くために、その核心に入った。慶子も夢の別次元に置き去りにされないよう連れてこられた。  そして、そこにあったのは、苦痛だった。  その場所は、慶子が夢に落ちて最初に行きついた小学校と同じ場所だった。 「0」がいつもの数倍の箇所を切り裂いたとき、その痛みの激しさが、「0」自身をある痛みの中心の場所へ誘ったのだろう。「0」が慶子の夢に入ったとき、慶子の夢は、「0」の核心の場所に引っ張られたのに違いない。  幼い「0」の絶叫に押し出されるように戻ってきた場所は、闇の粒子が飛び交う意識の底の世界だった。現実の世界がどのへんにあって、今自分がどのへんにいるのか慶子にはもはや見当もつかなかった。  包丁をぶら下げた下着姿の「0」は呆然《ぼうぜん》と立っている。  倒れてそこにいる京一は、めくれ上がった雨合羽《あまガツパ》を直すゆとりもないようだ。細い脚を投げ出したまま「0」を見上げている。  京一は慶子の方をまったく見なかった。  ひたすらに「0」を見据えていた。 「0」がやがて、正気を取り戻したようになって、京一を見た。 「こんなことがあったのか。すっかり忘れてたよ」 「0」の体から出るエネルギーが低下している。 「ああ、だから子供のときの記憶がなかったのか」  慶子は京一と「0」を見つめ続けた。 「そりゃなくしもするわな、こんな記憶」  と言うと「0」は物悲しく笑うのだった。 「しかし、これは、恐怖だな」  そう恐怖だ。  慶子は、このふたりが同じ種類の人間だと思った。  同じように子供のころに、小さな魂が抱えるには大きすぎる恐怖を抱えてしまった。  自分は? 自分は違っている、と思った。  ふたりからは死の匂いが濃厚に漂っている。慶子自身も自分から出るその匂いにむせ返りそうになっている。しかし慶子はふたりのような恐ろしい体験はしていない。親は自分を温かい環境で育ててくれた。人の生き死にに関わるような重大事には関わり合わないで生きてこられた。なのにいつの間にか大事なものが剥《は》がれ落ちてしまっていた。慶子は、いつ、自分に恐ろしい死の影が近づいていたのだろうと思う。多分、「0」が話していた、最初に死んだ少女も、巨躯《きよく》の男も、そして若宮も、気づかないうちに死のイメージに取り憑《つ》かれていたのではないか。  では、何が、自分たちを知らないうちに死の世界に傾斜させたのか。  そう思ったとき、慶子は起きているときにいた世界を思い出した。  今いる夢の世界に対する現実、という関係では思い出せなかった。  現実、と言われる世界も、茫漠《ぼうばく》とした夢の連なりとしてしか慶子の心に甦《よみがえ》ってこない。  夢から覚めるために自分を切る、ということを無造作にしてしまう負の電磁波が今まで生きてきた世界にあふれていると思った。  青白い都市に、一見誰にも具体的には見えるものでもなく、しかし確実にあるもの。恐ろしいことなのに、何かそれほどのことでもないように感じさせてしまうもの。そういう願望を持つことで、やっと緩慢な状況から解放されて、どこかもう少しいいところに行けるのではないかという甘い願い。それらは眠らない、青白い電流が放電し続ける都市で、不可視なもののわりにはあまりに濃厚に宙をさまよい行き交いしあふれていた。 「0」は言った。 「すっかり分からなくなっちまってたみたいだ。ありがとうな、いいこと思い出させてくれてな。そうか、やっぱりだな。やっぱりそういうわけだ。俺とお前だな。平和ぼけした阿呆《あほう》どもに真実を教えてやれるのは」  というと、顔をゆがめて絶叫した。それは鳥の声のようであった。そしてダストシュートで死んだ妹の前で絶叫する男の子の声でもあった。 「0」は包丁を振り上げると、京一に振り下ろした。  京一はそれを肩で受けた。 「どいてくれ。まずはその女だ。その女に鉄槌《てつつい》を振り下ろしてやる。お前も手伝ってくれ」  と包丁を大振りに振ってきた。  包丁は京一のもう片方の肩を切り、そのまま滑るようにして慶子の肩も切った。激痛が走った。痛みを感じないとされている夢の中で、現実では味わうことのなかった痛みを感じる。皮肉なことだった。  轟音《ごうおん》がして、周りを取り巻く闇の粒子が弾《はじ》け飛び、ダストシュートの冷たいコンクリートの匂いが甦ってきた。  目の前で、京一が、著しく解体された怪物に揺さぶられている。京一の両肩から血が流れている。怪物の包丁の刃からも血が振りまかれている。  慶子の肩から血があふれ出した。  怪物は、恐ろしい勢いで京一を押して慶子に迫ってくる。刻まれた体中から流れ出た血を、一刻でも早く取り戻そうとしているかのように。  慶子の前に突然、制服を着た見知らぬ少女が浮かんだ。見たことがある。ああ、すっかり忘れていた。高校時代の級友だ。  高校のとき、文化祭で一緒にダンスを踊った親友だった。親友。そういう存在が自分にもあったのだ。彼女と、あと何人かで創作ダンスを踊った。慶子はリーダーで、振りつけをし、演出も担当した。そして中心のダンサーだった。クラスの皆が自分を温かい目で見てくれた。  親友が、星のきれいな夜に、 「慶子は、自分の持てる力を全部使って、もっと上に行こうとするところがいい」  と言った。 「もともと姿形が私たちなんか足元にも及ばないくらいなのに、慶子がそれをもっともっと魅力的に見せようとしてダンスを踊ると、私たちも慶子みたいにいい容姿を持っていなくても、今持っているものをめいっぱい使い切ろうという気持ちにさせてくれるの。で、あなたは何もかも特別でしょ。だからみんなあなたに憧《あこが》れるのよ」 「私は別に特別じゃないよ。コンプレックスも多いし」 「え、あなたが?」 「そうだよ、顔だって嫌いなとこいっぱいあるし」 「うそお」 「ほんとだよ。だけどあなたが言ってくれたみたいに、嫌いなとこを嫌いと思ってしけこんでいてもしょうがないからね。隠したりなだめすかしたり、それでもだめなときはそこを好きになったりしてるのよ」 「ははーん、なるほど、なるほど。それが慶子の強さってやつか」  今なぜ高校時代のそんな他愛《たわい》のない話を思い出したのか。気がつくと慶子の目に涙があふれていた。温かい涙だった。感情ときれいに噛《か》み合っている。そういう涙は久しぶりだった。あのときはダンスの練習中に好きだった男の子が他の子を好きになったことを知ったのだった。しばらく二股《ふたまた》をかけられていたのだ。そのことに気づかず、明るく振る舞っていた自分が馬鹿みたいで哀しかった。ダンスでその男の子の目をこちらに向けさせようと思った。釘《くぎ》づけにさせてやる。こちらにもう一度振り向いたってもう二度と絶対にかまってやるものか。後悔させてやる、と思った。ダンスは成功し、誰からも絶賛された。その日の夕方男の子と公園ですれ違ったが、何も話さなかった。後で聞いたが、男の子はそのダンスすら見にきていなかったのだった。あれほど応援してくれていたのに。それはそうか。新しい恋人が嫉妬《しつと》するものね。  未来に何があるか分からない不安と希望が常にあった。恋も夜の星のようにきれいで痛ましかった。その男の子との恋愛が終わった時、それは重大なことだったが、少し時間が経つとそれほど大きな事態が自分に起こったという実感はなかった。ただ男の子を好きになったときのような、やたらに空が青く感じたり、雲が明瞭《めいりよう》な輪郭を持っているように感じたり、夕焼けを見て胸が苦しくなったりすることがなくなった。起こったことを逐一報告したりする対象も失って、そういう期間が苦しかったりもしただけに、楽になった、くらいに思おうとしたのだった。  涙はまだ流れ続けた。  今、目の前に浮かび上がった級友に無性に会いたくなった。あれから何年たったのだろうか。今も元気にしているだろうか。  親にも会いたい。会って甘えたい。  父も母も、親友と同じことを言っていたのを思い出した。慶子が小さかったころだ。この子はいつも与えたおもちゃをずっと大事にして遊ぶ。ひとつほめると、もっともっと上手になろうとがんばる。  また高校の親友が目の前に浮かんできた。  校庭の陽の光、校舎の匂い、親友といる様々なできごとが……。  ダンスをしているときの躍動も体に甦る。  いい匂いがしてきた。  草木の匂いだ。  子供のころ、短い間住んでいた自宅のほんの小さな庭に、たくさんの草木が植えられていた。  わずかにあった土の匂いもする。  父、母とそういうものを見ていた時間の温もり。  窓から見えた、地面を濡らす雨のたたずまい。  いろいろな思い出が甦ってきた。  父と母とこの庭から外に行くとき、向こうの景色が夕焼けに染まっていた。胸がつぶれるような感情があった。あのときはふたりと手をつなぎ、慶子は真ん中でわざとわがままを言いながら幸せを味わっていた。  慶子は自分がどんどん小さくなっていくのを感じた。  父と母は、慶子がまだ産まれてまもないころ、やはり同じ庭で自分を笑顔で見つめていてくれた。自分は、この父と母から産まれたきたのだ。この場所に。  慶子は、母の胎内の記憶も感覚的に思い出しそうになった。そして、父や母が産まれる前の、暗黒へ。落下する恐怖を感じそうになったが、すぐに柔らかいものに受け止められた。そこは水の記憶だ。  京一と潜った暗黒の水に似ているが、少しすると、光をたずさえ、青い無限の広がりを持った。  含まれる、と思った。  大丈夫、大丈夫だ。と慶子はつぶやいた。何が大丈夫なのか。  いずれここには来る。無機質の闇に落ちる恐怖ばかりがある場所ではない、と感じた。  しかし。  しかし、それは今ではない、と思った。  ここに来るための準備があまりになされていない。  気がつくと、巨大な滝の裏側にいるような轟音《ごうおん》がし、目の前の雨合羽《あまガツパ》の男が、肩から血を流し、最後の力を出し切ろうとしていた。ダストシュートの中で、「0」の怪物も我慢の限界に達し、最後の力を出してきている。人間の原形をとどめない、手足や内臓の器官や骨ばかりで構成された怪物。精神が宿っているようには見えないのに、凄《すさ》まじい勢いで生を渇望している肉のオブジェ。  京一が包丁をまた受け止め、受け止めきれずにこちらに飛んできた刃先が慶子の腕を切った。すごく痛い。体が壊される恐怖をいやというほど感じた。  京一は、「0」の力に押しつぶされそうになりながら、叫んだ。 「ずっと死にたかった。俺なんかずっと消えてしまいたかった」  自分を助けに来てくれた男が、必死に自分を守りながら、まだそんなことを言っている。  そのとき慶子ははっきりと思った。切り刻まれたくない、死にたくない。  このか細い足腰で自分を助けに来てくれた京一にも死んで欲しくない。  慶子は、言った。 「あなたには、死んで欲しくない……」  届かせようと必死に声を出した。 「死んで欲しくない」  京一は「0」に押され、今しも倒れそうに慶子にのしかかってきた。  慶子は叫び続けた。叫んでいるつもりだが、かすれて小さな声にしかならない。 「私だって死にたくない……」  慶子の声が京一に届いているのかどうかは分からなかった。もう声にはならなかった。  死にたくない……。  花火の煙を嗅《か》いだときのような刺激臭がして、時空がばらばらに飛び交った。  短い時間、闇の粒子が飛ぶ、意識の底にいる「0」が見えた。  下着のシャツとパンツをつけた、普通の男の姿をした「0」だ。  鼻や口、目から血を流している。  目の血は涙と混ざって、目そのものが真っ赤になっている。 「0」は泣いていた。  泣きながら包丁を振り上げた。  思い切り、京一と慶子に振り下ろした。  包丁の刃は、京一の肩と慶子の肩を同時に捉えた。  痛みが、電撃のように、記憶の映像を閃《ひらめ》かせた。京一が沈められて見る水とその向こうの母親、そしてダストシュートで首から血を噴き上げる女の子の映像。それぞれの場所の匂いまでが甦った。 「0」の口、鼻、目から激しく血が流れ出した。顔をゆがめ、泣いている。  京一と慶子に包丁を振り下ろして傷をつけるたび、その痛みを「0」がそのまま直に感じているのが分かった。  その激しい一振りごとに、胸が締めつけられる記憶が浮かんだ。水の向こうから首を絞めてくる母親。首から血を噴き上げている小さな女の子。 「0」、京一が、慶子とまったく同じ映像を見、匂いを嗅いでいるのが分かる。  慶子の鼻に刺激臭があって、覚醒《かくせい》の感覚があった。  ついに目が覚めたのだろうか。  いや、まだだった。慶子の目を覚ましたと思った場所は、まだダストシュートの中だった。それも恐怖の頂点だ。一瞬で終わるはずの極限が気の遠くなるほど継続しているのだ。  依然、解体された肉のオブジェである「0」が、肩や首から血を流している京一に襲いかかっている。京一の力の事切れそうな時間が延長されている。  弱り切った京一が、少しだけ力を取り戻したように見えた。  しかしそれは京一が力を取り戻したのではなかった。 「0」の動きがついに緩慢になってきたのだ。  初めはさらに激しく京一にのしかかり突いてきているようだったが、力の方向性が単調になり、ただ動いているだけ、という状態になった。  やがてその動きも鈍くなり、内臓の色が暗くなっていった。 「0」は、見たとおりの肉の断片となって、京一にしなだれかかった。  京一も、それを受け止めたまま動こうとしなかった。  痛々しく出血しながら、しかしその雨合羽から見える肉体は、力に満ちている、と思った。  体の中を大波が揺れたような気がして、また別の場所に移動した。  慶子は、目が開けられなかった。  まぶたが重かった。  体もだ。  慶子は自分が横たわっていると感じていた。  灼熱《しやくねつ》の場所から、空気の通りのよい場所に来ていると感じた。  両肩に激しい痛みがあった。  閉じたまぶたの内側に、胸と直結している熱い水が溢《あふ》れていて、目を開けた世界がどこだか分かったが、そのまま目を閉じていた。次から次とわいてくる熱い水を流れ出すままにしていた。  やがて、胸と喉《のど》がひきつけを起こしたように痙攣《けいれん》して、素直に感情に従い声を出した。  慶子は目を閉じたまま横向きになった。  よく馴染《なじ》んだ枕の肌合いがあった。  熱い水は目から頬、枕と繋《つな》がっていった。  鼻の中が甘い痛みでいっぱいだった。  そして、目を開けてみた。  見慣れた場所だが、方向感覚が掴《つか》めなかった。  目の前の場所が、自分の知っている場所のどこの部分なのか把握するのに時間がかかった。  ああ、いつもベッドから見る壁の一方向だ、と気づいたとき、すべての方向感覚が甦《よみがえ》った。  枕元に人の手があった。自分の首に触れていたのが外れてそこに落ちた、というのが一目で分かった。手だけがベッドの上に残り、体はその向こう側にあって、慶子の位置からは見えなかった。  細い、節くれ立っているが、繊細な手だった。  ありがとう。ありがとう。来てくれて。ごめんね。ごめんね。ひどい目に遭わせて。本当にごめんね。  大丈夫。今から救急車を呼び、自分が持てる全部の力を使ってあなたを治すから。絶対治すから。それは絶対だから。  慶子は、痛みで動かない手を必死に動かし、枕元の手に触れた。  そのままその手を自分の両手で包み込んだ。 [#改ページ]   夢に入る男  京一が、なぜ女刑事のもとに行こうと思ったかは自分でももはや分からなかった。 「いやだ、いやだ」  そう言いながら、もらった名刺に書いてあった場所へ向かったのである。  慶子が自分に二度目に渡した名刺に、警察庁の場所以外、携帯番号、それからいくつかの連絡先の他、自宅の住所が書いてあった。  慶子が自分のマンションに帰っているとは限らなかったが、とにかく行ってみることにした。京一のところへ最後に来たとき、さんざん歩き回った様子だった。どこかでのたれ死にすることも考えられた。しかしさまよったあげく、もし死ぬのを決心したなら、それは自分の部屋なのではないか、という考えが浮かんだ。  京一は気がつくと走っていた。  走る、という行為がすごく久しぶりのことに感じられた。  京一の雨合羽《あまガツパ》がばさばさ音をたててはためいた。走るのに邪魔なので、いったん脱いで、丸めて小脇に抱え、走った。  途中、明らかに引き取り手のないと思われる自転車があったので、鍵《かぎ》を壊して拝借した。鍵を壊す力が自分にあるのが意外だった。自転車を漕《こ》ぐ速さは自分でも驚くばかりで、下りの坂道では疾風のように走った。荷カゴに投げ捨てられた空き缶やゴミががらがらと鳴った。  慶子のマンションに着いたとき、鍵が閉まっていたとしたら、もうすべては終《しま》いだ、ということに気づいた。  マンションのロビーに入るにも鍵が必要だったが、裏に回ったら、簡単に乗り越えられる塀があった。裏階段を上って、女刑事の部屋に行き、いちかばちかノブを回してみた。ドアは開いた。  他人の、ましてそれが女の部屋と分かっているところに許可もなく入るのは躊躇《ちゆうちよ》があったが、長くためらっている暇はなかった。  京一は、自分が一生かかっても住むことはまずない、と思われる慶子のうちの広い玄関に入った。  いい匂いがした。  廊下を行き、リビングに出た。  たっぷりとした間取りに物が配置されている。  観葉植物が大振りの葉をたらしている。  どこにいるのだ、あの女刑事は。  京一は、もはや他人の部屋に侵入しているためらいは感じなかった。  死ぬのを決心したなら、寝室で寝ていることも考えられる。  京一は部屋のドアを片っ端から開けていった。  あるドアを開けると、そこが寝室だった。  大きなベッドがゆったりと置かれてある。その上に、慶子は寝ていた。  今までずっと背の高い大きな女だと思っていたが、寝ている姿は、やけに小さく感じられた。  京一は、近づいた。  疲労|困憊《こんぱい》して眠っている慶子の顔に、乱れた髪の毛が汗でへばりついていた。  頭部がことさらに小さく感じられた。この限られた容器の中で、いろいろな感情が渦巻いているのだな、と思うと、胸が痛くなった。  まぶたは薄く繊細な毛細血管が見えた。唇はわずかに開いている。  そのまぶたの下で、眼球がすでに運動を始めていた。  京一は、すぐに女刑事の首に手をあてがい、しゃがみ込むと、頭をベッドの上に伏せ、意識を集中した。  そうして入った慶子の夢で、京一はいきなりこの上なく恐ろしい状況に出くわしていくのだった。  京一が、「0」、そして慶子と夢の中の極限で見たものは、京一自身の思い出したくなかった過去だった。薄々はそんなことだろうと思っていた。わだかまっていたことがはっきり思い出せてかえってすっきりした。  幼いころの記憶を思い出して、京一は、人の夢に入るという能力がどうして自分に宿ってしまったのか分かった気がした。まずは自己逃避に違いなかろう。自分の体から精神を外す。外して違う場所に持っていく。なぜならそのときにいた現実がつらすぎたからだ。  それだけでは足りない気がしたが、きっかけはそんなものだろう。  しかし夢の主導をまた握られ、「0」にずいぶん好きなように振り回されてしまった。  京一は「0」が自分とそう遠くない人間ではないか、と感じた。  今度は自分が夢の主導を握って「0」の深層に入ってやろう。きっと何かこの男にも弱点があるはずだ、と思い、「0」の目の下のラインに飛び込んでやった。若宮の夢に入ったとき、「0」が自分の頬の傷に飛び込んできたときのこちらの動揺を思い出したのだ。この男にも同じ思いをさせてやろう。  慶子をいろいろな次元に置いていくわけにはいかないので、一緒に飛び込んだ。  目の下はやはり効果的だった。「0」の核心に迷いなく入っていくことができた。  やっぱりだ。やっぱり「0」は自分と似た男だった。根底に大きな痛みを抱えて生きている。 「0」もそれを思い出したのがきっちりこちらに伝わってきた。  妹が目の前で死んだ。 「0」の心が押しつぶされそうになっているのが分かる。  京一は、それを一緒に飛び込んだ慶子と共に感じていた。  夢の別次元に戻ったとき、「0」は、子供のころの記憶を思い出していったん力を失ったかに見えたが、今度は自分と共謀して世界を血祭りに上げてやろう、まずはその女だ、と力を振り絞って刃を振るってきた。刃物は京一を捉《とら》え、慶子にまで伸びていった。なんとか遮ろうとしたが、「0」の力は圧倒的だった。  慶子も痛みを感じながら、さまざまなことを思い出しているのが分かった。  やはり、慶子は「0」や自分とは違う種類の女だった。慶子が思い出しているもの、感じているものがはっきり分かったが、それは眩《まぶ》しかった。「0」もまざまざとそれを感じているのが伝わってきた。三人がまったく同じものを見、同じことを感じていた。痛みが、そうさせていた。  慶子が記憶の中でどんどん縮小して、小さくなればなるほど地球の大きさに近づいていくように感じた。  その小さな生命と、「0」の記憶に登場した女の子は同じ波動を出して息づいていた。「0」は包丁を振り下ろして京一と慶子を傷つけるたび、京一の幼少の記憶の水に沈められる悲劇を体感し、記憶の裏にいた妹の命の絶えていく肌の震えを感じていた。そして慶子の縮小していく命の源流をも傷をつけていると感じていたのだ。 「0」が息絶える直前、京一は、この「0」という男の現実はどこにあるのだろうと思った。  危険かも知れないと思ったが、慶子が現実の世界に戻るまでの、また「0」が完全に息絶えるまでのわずかな時間に、京一はすばやく「0」の中に入り、夢のなるべく浅瀬の場所を探してみようと思った。どうでもいいことだと思おうとしたが、知っておきたいという願望を捨てることができなかった。  行き着いたのは、「0」の住んでいるアパートだった。 「0」は、体を原形がなくなるほど切り刻んで、風呂場《ふろば》の床に倒れていた。  おびただしい血が、排水溝に流れ込んでいる。 「0」はここで体を切り裂いて、他人の夢に入ったと思われるが、ここはあくまでも夢の中だ。現実に近い夢の浅瀬であるのは分かったが、現実ではない。  京一の入ったのは慶子の夢であって、「0」の現実に戻っていくことはできない。そこから「0」の現実は推し量れなかった。  風呂場の外のダイニングの壁が水で腐ったようになっており、リビングはもとの壁が完全に消え、そこが直方体の空間であるのも怪しいほどだった。  この部屋の形をした箱の外側はすべて水に包まれていると思った。  京一がいつも潜る水の底にこの部屋の形をした箱が置かれてあって、箱の中に水が滲《にじ》み出ている。そう思った。  天井のいたるところから水が落ち、床で跳ねている。  水は、京一の記憶のものだけでなく、すべての人の根幹にあふれているものなのだろう。  京一は、すばやく戻ろうとしてふと思った。  この夢とつき添っていこうか。  この男の過去とつき添い、女刑事の深層をさまよって一生を終える。自分にはふさわしいことなのではないか。  戻るか戻らないか短い時間考えていると、いよいよ「0」が息絶える瞬間を迎えたらしい。体が締めつけられると、まずは「0」の夢の浅瀬からおっ放《ぽ》り出された。  気がつくとダストシュートにいて、自分にもたれていた「0」の怪物がまったく動かなくなっていた。慶子も力を使い果たして虚《うつ》ろに倒れていたが、やがてそこでも体が締めつけられ、おっ放り出された。  慶子の寝室の透き通った空気を感じる。  京一はまだ目を開けられず、ベッドの横に倒れたまま、じっとしていた。手だけがベッドの上に置きっぱなしになっていた。慶子の首に手をあてがったまま眠りの世界に行き、床に倒れていたのだ。  夢の中で「0」に切られた肩の傷の痛みが尋常ではなかった。  体を動かすことができない。  するとベッドの上に残した手に触れてくる者があった。  心の声が聞こえそうになり、慌てて手を引こうと思った。  体が思うように動かなかった。  京一は、意外な気持ちになった。  なぜだろうと、自分の気持ちをたどった。  自分の手に触れてきている者の声が聞こえてくる。  いつものように聞こえてくる。  しかしそれは今まで聞いたことのない種類の声だった。  近い声を大家の老女やアパートに住む子供たちから聞いたことはある。  今聞いている声は、それよりもっと強い感情が動いていた。  羞恥心《しゆうちしん》のようなものがこみ上げて、手をゆっくり引こうとしたら、相手のもう片方の手も触れてきて両手で自分の手を握られている形になってしまった。  体が痛くて動くこともできない。  いやというほど自分の手を握っている者の声が聞こえてくる。  居心地が悪くてたまらない。  京一はまったく新鮮な感情がこみ上げてきて、動けなくなった。  逃げたいような気持ちを抱えたまま、いつまでも身を任せた。  京一は、もとの病院の同じ病室に逆戻りした。  治療は慎重を極めたが、早い段階で命に別状はないと判断された。小さな後遺症を残すかも知れないと言われたが、確実に治せば日常生活に影響を及ぼすものにはならないということだった。  慶子も傷を負ってしばらく別の治療室にいたが、先に退院した。  慶子は、毎朝出勤前と、仕事が終わったあとに必ず顔を見せた。  自分の部屋のカッターで京一を斬りつけた疑いが慶子にかかり、物議を醸しそうになったと聞き、京一は、それは自分でやった、と申し出た。が、論旨がまったく通っていないということで誰からも無視された。結局、前例から考えて、慶子も「0」の暗示にかかったのは間違いないと判断されたらしい。  警察は「0」を捕まえてはいない、ということだった。  しばらくして、若い刑事の夢に入ってできた傷も、慶子の夢に入ってできた傷もだいぶ回復してきた。慶子はそれを知って、ある日、少し散歩しないか、と京一に言ってきた。  よく晴れた日だった。  硬質な病院の建物から出て見える街の景色はやはり硬質で、人工物に囲まれている。しかしそこに溢《あふ》れ出す光や隙間から見える空の色は、体の隅々までを気持ちよくさせるのに充分だった。慶子の言う通り、散歩をするというのはよい案であるように思えた。  少し歩くと、これまでまったく気がつかなかったが、ビルとビルの間に川が流れていた。京一は慶子と、その川辺のコンクリートの段差に腰掛けた。  川には、船が行き来していて、白い鳥が飛んでいた。  慶子は、川の水の流れを眩しそうに見ながら言った。 「事件の報告書、いくらそれらしく書き直しても誰も信じてくれなくて、結局うそばっかりになっちゃった」  京一は、黙って川の水の流れを見ていた。 「でも私、退院してから、あの日のあの朝、あの時間に亡くなった人をくまなく調べてみたの。何人かの中で、ひとりはっきり気になる人がいた。それで、その人が亡くなった病院に行ってみたの。その人は、自宅の風呂場でお腹を刺して病院に運ばれて、集中治療室に入っていた。不思議なのは、携帯を離そうとしなかったらしいの。看護婦さんがいくらがんばっても手から携帯を離さない。亡くなってからやっと離したので、見てみると、病院に運ばれてから何人かと話した形跡がある。ほとんど危篤状態だったので、いつ話したのか分からない。ふと意識が戻るときがあって話したのか、夢遊病患者のように眠りながら話したのか、現場を見た人がいないので分からない。そう言うの。その人が『0』とは断定できないけれど、その人だとしたら、と考えてみたの。最初にお腹を刺したお風呂場《ふろば》は現実の世界で、でも、『0』はそのまま病院に運ばれたことに気づかないで、夢の中で体を刻み続け、夢遊病患者のように人に電話をし続けて、無意識のうちに暗示をかけていたのだとしたらって。お腹をたった一回刺すっていうことの凄《すご》さというか怖さを感じたわ。でも、事実をぜがひでも調べたいっていう気持ちはもうなくなっていた。警察もそれを必要としていなかったし、身寄りがないということで、携帯電話も火葬するときに棺《ひつぎ》に入れた、ということだったしね」  京一は、事件を起こしたのは「0」ではない、と考えていた。  いや、今慶子が言ったことは本当で、事実もその通りだろうと思った。  しかし本当に事件を起こしたのは、「0」さえも忘れていた子供のときの記憶だったのではないか。  暗い闇に閉じ込められた少女が、こんなところで死ぬのはいやだ、と上げた悲鳴が「0」の深層を通って現代に甦《よみがえ》ったのだ。一連の事件で、被害者は、「0」に暗示をかけられたあと、別の誰かに電話をしたと言う。その電話で「0」さえも忘れていた少女の声が放たれ録音されていた。それをさせたのは「0」ではない。少女の願望だ。少女は、誰かに自分の叫びを聞いてもらいたかったのだ。それは誰でもよかったのか。違う、と思った。被害者に一番近いところにいる人物であるはずだった。慶子によれば、少女は恋人に、巨躯《きよく》の男は妻に電話をしている。それは無意識に一番近い人に助けを求めていたのだ。では、若い刑事はどうだったか。そうか、若い刑事はこの女刑事慶子のことをそのとき一番近くに感じていたのか。胸が少し苦しくなるような感情が起こった。そこまで考えて、最後の会話をしたのが犯人の「0」だったという慶子のことを考えた。死の際に、一番恐ろしい敵にしか電話をするところはなかったのか。そのとき京一は思い出した。慶子は「0」に電話をしたあと、この自分に何度も電話をしてきたのだった。大家の老女が夜中に電話が何度も鳴っていた、と言って電話機を外してまるごと病院に持ってきた。見ると慶子からの着信履歴が何個も残っていた。しかし慶子は自分がその電話の近くにいないことを知っていたはずだ。京一は病院に入院していたのだから。京一は、それが無意識に行われたことだろうと想像した。だから、その代わりに、慶子はもう一度自分のところに現れたのではないか。京一は、驚きの感情とともにそれらを思い出したが、それ以上考えないようにした。  ある声を録音する。それはその言葉を残したい、という願望だ。そしてそのあと電源を落とす。それ以上の追及への拒否。少女の切実な魂の叫びが時間を経て甦った。それは、この広大で空漠とした自分たちの生きている環境においては必然だったのではないか、と京一は思った。  それにしても、と京一は思う。少女を閉じ込めたたったひとりの人間の悪意が、時間を経てここまで恐ろしい事態に広がっていくとは。悪夢も恐ろしいが、現実の人間の悪意というものも果てしなく恐ろしいものだ。 「あんな目には二度と遭いたくないでしょう」  京一は言った。川の水面が光を反射して眩《まぶ》しかった。  慶子は、川を見つめたまま答えなかった。  その代わりに、今度は慶子の方から聞いてきた。 「人の夢に入るのは、もうやめですか?」  京一は、川を見たまま答えた。 「できたら、そう願いたいです」  やはり川を見ていた慶子が顔を上げ、京一を見た。  京一は、慶子の視線を感じて、あいまいに言葉を足した。 「でも、どうかな。分かりません」  慶子は、しばらく京一の顔を見ていたが、また川に顔を戻した。  京一は言った。 「あなたは、刑事を続けるんですか?」  少し力を加えてしゃべったら、思いがけず大きな声になってしまったので恥ずかしかった。  慶子は、また京一を見た。 「私は、続けます。でも、正直自信はありません。周りの人とすぐにぶつかってしまうから。人の気持ちが分からないっていうか。あなたみたいに人の心の中に入っていければいいんだけど」 「入っていっても、見るものはいやなものばかりです」  慶子は、京一を見つめている。  そして、言った。 「そうかな」  京一も慶子を見た。 「え?」  慶子は言った。 「そうかな。私は、そうは思わないです。私はそうは思わないです、絶対に」 [#改ページ]  あとがき  小学生のとき、江戸川乱歩の少年探偵シリーズに熱狂して、背表紙に蜘蛛《くも》の絵が描いてある十五巻シリーズを血眼になって集めました。  当時、僕は、級友たちと少年探偵団を結成し、じゃんけんに勝って団長をつとめました。  近くの空き家やまだわずかに残っていた防空|壕《ごう》を探検したり、七つ道具を集めたりして探偵活動にいそしんでおりました。七つ道具は、秘密手帳や懐中電灯はすぐに集まりましたが、丸めるとこぶしに入ってしまう縄梯子《なわばしご》、というのは、そりゃ無理だーと地団駄踏んで胸を焦がしたものです。  そのころから探偵もの、というのには強いあこがれがあり、ものを作るようになって、僕も自分の探偵を発明したいと願うようになりました。 『悪夢探偵』は長い間温めていた僕の探偵シリーズです。  と言っても、主人公本人はまったく探偵の自覚はない男ですが。  最初は、真夜中の番組終了後に忽然《こつぜん》と始まるテレビドラマシリーズで考え始めました。  夜中にすべての番組が終わって、ホワイトノイズになり、テレビを消そうとすると、「助けてー」という子供の声が聞こえてくる。何だ、と思って見ていると、モノクロの夢のような不可思議な映像がどろりと流れ始めて『悪夢探偵』が始まる。あまりに奇天烈《きてれつ》なので、新聞のテレビの番組欄を見てみると、夜中の番組なのでタイトルが省略されて、「悪夢」とか「悪」としか書いてない。始まりは不気味だが、見終わると、一抹の切ない感じもある。翌日会社や学校で話題になる、そのうち噂は広がって……という夢想をしていました。テレビというのが諸条件整えるのが難しいと聞き、夜遅くに一回上映する、レイトショームービーで独特なやつを見せようと思い、ずっと温めていました。  最終的には僕の映画の中でもかなりエンターテインメント色の強い映画になりました。タイミングやその時々の気分、めぐりあわせとは不思議なものです。  映画とともに小説という形でも世の中に送り出せることになったのは大きな喜びです。  映画も本もシリーズとして何本も作られ、何冊も発行されると嬉《うれ》しいなあ、という夢があります。いつか子供用『悪夢探偵』なんてのもできたりして。夢は留《とど》まるところ知らずです。  この本を書くときは、少年探偵シリーズの一番初めに買った『夜光人間』と、角川文庫の『芋虫』などを机の上に置いて、それらを横目に執筆しました。  子供のころから大好きだった探偵ものを、今自分が書いていると思うと、心が震えます。  文庫、というのは、かわいらしくて手にいい具合におさまり、それを持ってどこへでも旅立てます。読んでくださる方のポケットや鞄《かばん》に手軽に携帯されている『悪夢探偵』を思うと胸がときめきます。  映画と同時に作った小説は、映画に関わった多くの人のおかげでできあがったものと言えます。脚本を手伝ってくれた黒木くんによるところも大きいでしょう。スタッフと一緒に作り出した空間、美術、大小さまざまなものがこの小説に力を貸してくれています。また関わってくださった俳優さんたちの印象や演技などからの影響もあります。  一方で映画とまったく違う設定や人物に自然となっていくこともあり、映画のリアリティーと小説のリアリティーの違いなどを発見して、面白いなあ、と思いました。  そうしてみなさまのおかげで書いた小説ですが、やはり大変で、よくこんなことを生業にしている人がおるわ、とため息を漏らしてしまいます。いくら書いても、慣れないせいも手伝ってだめなとこが見つかり、締め切りがなかったら永遠に書き直し続けるんじゃないか、と気が遠くなる思いがします。一方で、書きながら、自分が大事にしている神髄にぞろりと触れることも多く、恐ろしい世界です。  小説版の現実化を進めてくださった映画『悪夢探偵』の製作配給・宣伝会社ムービーアイの方々に感謝します。そしてすばらしい本の形にしてくださった角川書店の加藤裕子さんに感謝します。校正ごとに大幅に書き換えをしてしまい、ご迷惑をおかけしました。本の編集をする方というのは人のやる気をそがず、あっさりとした関わり方にして、人をうまくのせて導くのがうまいなあ、と感心します。  自分の大事な悪夢探偵シリーズ、次も、次も書けたらいいな、と願っています。  読んでくださってありがとうございます。   二〇〇六年十二月 [#地付き]塚 本 晋 也   [#改ページ]  『悪夢探偵』 〈キャスト〉 影沼京一 松田龍平 霧島慶子 hitomi 若宮刑事 安藤政信 関谷刑事 大杉漣 大石泰三 原田芳雄 ヤツ 塚本晋也 〈スタッフ〉 監督 塚本晋也 エグゼクティブ・プロデューサー 牛山拓二 プロデューサー 塚本晋也、川原伸一、武部由実子 脚本 塚本晋也、黒木久勝 撮影 塚本晋也、志田貴之 照明 吉田恵輔 美術・編集 塚本晋也 音楽 石川忠 助監督 川原伸一、黒木久勝 特殊造形 織田尚 音響効果 北田雅也 VFX GONZO REVOLUTION 製作:ムービーアイ・エンタテインメント、海獣シアター、I&S BBDO 企画・制作プロダクション:海獣シアター 配給:ムービーアイ (c) 2006 NIGHTMARE DETECTIVE FILM VENTURER 本書は映画『悪夢探偵』(二〇〇七年一月十三日[土]公開)の原作として書き下ろされた作品です。 角川文庫『悪夢探偵』平成18年12月25日初版発行           平成19年6月30日再版発行