[#表紙(表紙.jpg)] 警視庁公安部 佐竹一彦 目 次  プロローグ  第一章 訃《ふ》 報《ほう》  第二章 プロジェクト  第三章 訪問客  第四章 砂の町  第五章 誤 算  第六章 追 及  第七章 黄金文書  エピローグ [#改ページ]   プロローグ  その朝、珍しく、部屋の電話が鳴った。  最近では、ほとんどが携帯電話の方にかかってくる。加納は二日酔いの頭痛に顔をしかめながら、ベッドから身を起こした。 「ひょっとして、隣に誰《だれ》かいないか?」  三カ月ぶりに耳にする声だった。 「そんなのは、いませんよ」  加納は時計を見た。午前十時。いつもの日曜日なら、まだ眠っている時刻だ。 「よくないニュースだ。君のところの環境事業部に、三島という男がいるだろう?」 「三島? 三島なら環境事業部の部長ですけど……」 「部長だかガチョウだか知らないが、とんだ食わせ者だ」 「食わせ者?」 「昨夜届いた情報なんだが、捜査二課はパクる腹を決めたようだ。時期は、おそらく十日から二十日以内。一応、出勤時に任意で引っ張るが、夕飯時には、ワッパをかける腹積もりのようだ」 「容疑は何です?」  横領か、それとも、特別背任か。いずれにせよ、思いがけないことだった。 「贈賄のようだな。某省の役人と、夜な夜な、赤坂|界隈《かいわい》で飲んでいたらしいぞ。狙《ねら》いは省内の機密資料。それと引き換えに、役人のマイホームローンを丸々、肩代わりしたということだ。そんな噂《うわさ》は、加納係長様のお耳には達しませんでしたか?」  皮肉な口調に、ムッとした。 「寝耳に水ですよ。そもそも、霞が関の役人に賄賂を贈るほど、環境事業部は切羽詰まってはいないはずですけどね。機密資料って、一体、何です?」 「さぁ、そこまでは教えてくれなかったな。ひょっとしたら、捜査二課は芋蔓《いもづる》狙いで、まだ全体を掴《つか》んでいないのかも知れん。だが、まぁ、それはいい。連中は連中だ。問題は、もう一つの方でね。これは俺たちの専門だ」 「……何です?」  悪い予感がした。 「去年の秋、三島はヨーロッパを視察した帰りに、中東に一週間、立ち寄っている」 「中東ではありません。アフリカですよ。ヨーロッパからの帰り道に、確か、モーリタニアからチャド方面を」  と説明しようとすると、 「アフリカなんかじゃないっ」  叱《しか》りつけるような口調だった。加納は思わず受話器を握り締めた。 「アフリカというのは、表向きでね……」  一転して、穏やかな口調になった。だが、不機嫌なことは言葉のイントネーションでわかる。 「観光というのも真っ赤な嘘《うそ》だ。状況から見て、ヨーロッパ視察もカムフラージュで、実は、中東訪問が本来の目的だったと考えられる。しかも、事もあろうに、いわゆるテロ支援国家だぞ」 「そんな、まさか」 「と、思わせるのが、三島の狙いでね。この事実は大使館出向組によって確認されている。君はまんまと、三島の芝居にひっかかったわけだ。おかげで、こっちは赤っ恥をかいたぞ」 「すみません……」  と謝ったが、まだ信じられない。 「君は一体、どういう気持ちで仕事をしているんだ? ソ連が崩壊し、ベルリンの壁も取っ払われたんで、もう大丈夫だと高をくくっているんじゃないのか?」 「別に、そういうわけでは……」  と否定したが、実際は、その通りだった。 「国際開発部とか、情報通信部とか、資材本部とか、ご大層なネームバリューに惑わされるな、と釘《くぎ》を差したはずだぞ? 環境とか、食品とか、繊維とか、おとなしそうな部門の方が危ない、とも言ったはずだ」 「はい。確かに……」 「まぁ、今更、文句言っても仕方がない。捜査二課は動いているし、手遅れかも知れんが、一応は洗ってみてくれ。追跡調査や特殊工作の技術は、まだ覚えているかな?」 「もちろん、覚えていますよ」 「そうかね。ぶっちゃけた話、上の方は、その点を心配している。単なるアンテナ要員の君に……、まぁ、アンテナの役目も果たせなかったわけだが、調査や工作を任せてよいものか、懸念されていた」 「大丈夫ですっ」  思わず、向きになっていた。 「そうか。じゃ、やって見せてくれ。ただし、捜査二課の邪魔だけはしないようにな」  と、念を押すように言ってから、警視庁公安部の柳沢警視は電話を切った。  加納は叩《たた》きつけるように受話器を戻し、枕元《まくらもと》の煙草に手を伸ばした。  カーテンの隙間《すきま》からの日差しが、昨夜脱ぎ捨てた靴下を照らし出している。寝癖のついた髪の毛を掻《か》きむしりながら、煙草をくわえ、火をつけた。斜めの光の帯の中で、紫煙が蛇のようにくねる。その動きを見つめながら、 「邪魔だけはしないように、か……。なめられたもんだ」  日本リンツ商事広報室の加納係長こと、警視庁公安部の特務員、加納警部補はつぶやいた。 [#改ページ]   第一章 訃《ふ》 報《ほう》      1  日本リンツ商事はスイスにあるリンツ商事本社の日本法人で、従業員数はおよそ一千五百名。東京の他、全国五カ所に営業所がある。  加納警部補が……、もっとも当時は、まだ紅顔の新米巡査だったのだが、警官の身分を隠して、この商社への就職を命じられたのは、まだ東西冷戦が続いていた八〇年代後半のことだった。  なぜ、警官が外資系商社に潜入してスパイのような……、実際、紛れもないスパイ活動なのだが、そのような任務を与えられたのか。それはリンツ商事に、いわゆる、死の商人ならぬ�死の商社�という疑惑が持たれていたからである。  その最たるものが、中国に対するレーダー部品の輸出疑惑だった。そして、インドへの軍事用化学製剤の輸出疑惑。更には、中南米のゲリラ組織に兵器の半製品を輸出しているらしいとの疑惑があった。もちろん、全て未確認情報である。  このようなことから、日本の治安当局は、リンツグループの動きを密《ひそ》かに監視していた。ところが、重役車の運転手が車両整備中に偶然、車内灯の中から盗聴器を発見したことから、リンツ商事側は、この種の工作に対して警戒の目を向けることになる。  結局、盗聴行為はライバル企業の仕業とされたものの、以後、リンツ商事はセキュリティシステムを強化する一方で、情報管理を徹底するようになる。  この影響で、情報収集活動は極めて困難になった。しかし、困難であればあるほど、なお情報収集活動は必要、と考えるのが公安当局の論理である。  外部からの監視が不可能であれば、内部からの監視を、ということになり、密かに監視要員が送り込まれることになった。もちろん、法的には違法である。しかし、敢《あ》えて違法行為を犯してでも、国家の利益をはかるというのも、また公安当局の論理だった。  何しろ、日本には、いわゆるスパイ防止法がなく、�スパイ天国�と言われている。各国の情報機関はやりたい放題。おまけに、盗聴行為も、おとり捜査も、日本では違法とされている。そんな状況の中で、国益を守るには、超法規的活動[#「超法規的活動」に傍点]によって対処する以外、方法はない。それが誇り高い公安当局の正義[#「正義」に傍点]でもある。  加納がこの非公然活動を命令されたのは、警視庁の警察学校に入校して、三カ月目のことで、まだ警察臭がしみ込まないうちに、ということだったらしい。やっと着慣れた制服を取り上げられ、翌日から、就職予備校と同じ授業を受けることになった。覚えたての敬礼や警察用語の使用は一切厳禁。警察学校は退校したことにされ、やがて、在籍記録までも抹消された。  そして、翌年。颯爽《さつそう》としたリクルートルックでリンツ商事を会社訪問。試験問題の分析と集中講義のかいあって、難関の入社試験を見事パスした。しかし、皮肉なことに、間もなく冷戦は終結しようとしていた。やがて、世界が対話の時代を迎えると、加納の存在意義は希薄になる。  それでも、加納は健気《けなげ》に情報収集にいそしんだ。その結果、ロシアのルーブル変動や、中東の湾岸戦争|勃発《ぼつぱつ》に関する断片的情報をいち早く入手し、外務省に先んじて速報している。それは、情報が利益に直結する商社ならではの伝達システムの勝利だった。この功績により、加納は警視総監賞を受賞している。  しかし、それ以降、目立った功績はない。国内は総与党体制、そして、国外は西側陣営の独り舞台。かつてのようなイデオロギーの対立は、もはや存在しない。戦争は小規模化し、�死の商人�も影を潜めた。実際、加納の下《もと》に入ってくる情報は、全てが市場経済のルールに基づくものばかりである。  ここ一、二年、加納は柳沢からの�リンツ社からの退職命令�、正式には、人事異動の辞令ということになるが、配置転換を心待ちにしていた。突然の命令に対応できるように身辺整理も済ませてある。押入れのゴルフのクラブセット、そして、物置のスキー板や釣り竿《ざお》は、すでに処分してしまっていた。  つまり、常識的に考えて、環境事業部のトップが時代に逆行するような軍事ビジネスを展開するとは思えなかった。しかしながら、加納の任務は机上の情勢分析ではない。社内の動きに目を光らせ、耳をそばだてることだった。    柳沢から連絡を受けて三日が過ぎた。しかし、加納の特務員としての仕事は捗《はかど》らない。公安幹部の言によれば、たった一日の対応の遅れが、対日工作船を公海上へ逃亡させてしまったこともあるとのこと……。  加納は連日、環境事業部に電話して、雑誌の取材がある、という触れ込みで面会を申し入れたのだが、三島は多忙を理由に会おうとはしなかった。  加納は焦った。捜査二課が任意同行をかけるまで最短で、あと一週間。何らかの情報を入手しなければ、面子《メンツ》が立たない。  美人記者のインタビューをでっち上げるか。それとも、一流料亭での師弟対談ということにでもするか……。  地下鉄の階段から丸の内の地上に出た時、苦し紛れに、ふと、そんなことを思った。  物思いで足取りが遅くなると、サラリーマンたちが加納の横を、せかせかと追い抜いて行った。日本を代表する一流企業に勤める男たちや女たちは颯爽としていて、後ろから見ても、その身だしなみには一分の隙もない。  一方、加納には外資系、つまり、世界という対抗意識がある。田舎育ちのため、元来、おしゃれは苦手なのだが、ファッションについては馴染《なじ》みのパブのマスターのアドバイスに従っている。つまり、日本の企業戦士たちよりは髪をやや長めにして、ジェルで整えている。シャツはオーダー。贅沢《ぜいたく》なような気がするのだが、これを軽視すると、全てが台無しになるとのこと。一体、どういうことなのか、いまだにわからない。スーツはもちろん、シックなヨーロピアンスタイル。そして、最も気をつけているのがネクタイと靴で、カラーコーディネイトを考え、この日は両方ともイタリア製を選んでみた。  結果、正に馬子にも衣装。おそらく産みの親がすれ違ったとしても、かつて信州の畦道《あぜみち》を裸足で走り回っていた息子であることに気づくことはないだろう。  加納は胸を張り、銀杏《いちよう》の葉のすべる歩道を急ぎ足で進んだ。  身長百七十五センチ、三十二歳、筋肉質の男の足で、丸の内駅から十三分三十秒。リンツ商事の広報室は社屋の一階にある。案内嬢のいる受付から十メートルほど奥だ。  広報室と言っても、大手商社と異なり、こぢんまりとしたスペースで、人員も室長以下十二名。企画、海外広報、報道の三部門に分かれ、加納は報道を担当している。肩書は係長だが、これは社外向けのポストであって、部下は一人もいない。  報道担当の仕事は、新聞、雑誌、放送関係からの取材申し入れを受けて、社内の担当部署に打診する。或《ある》いは、その反対に、社の意向を受けて、マスコミに対して取材を打診する。つまり、双方のアレンジメントをすることだった。  来客は業界の新聞社や雑誌社が主で、時には、一般週刊誌やテレビ局などが取材に来ることもある。応接コーナーと広報員のデスクの間にも間仕切りというものはない。開かれた広報室、というわけだ。  広報室勤務は、おおっぴらに情報収集しても決して怪しまれないという利点があった。もちろん、他の部署に配属されても、その部署の活動範囲内で情報収集することはできた。しかし、目立たず、急がず、欲張らず、という特務員心得を遵守する上では、おのずと限界がある。自由に各部署に出入りできる広報室勤務は、加納にとって、絶好のポストだった。  自席に座り、いつもの通り、ファクスをチェックした。元キャンパス・クイーンの社員への取材申し入れ。人工木材に関するインタビュー記事のゲラ刷り。市民団体からのアンケート依頼……。特に、急いで処理しなければならないものはない。  早速、環境事業部に電話した。三島の予定を確認するためだった。だが、十回コールしても、誰も出ない。一旦《いつたん》、切って、再度、ダイヤル……。二度目の電話も、相手が出るまで、かなりの時間がかかった。しかも、用件を告げようとすると、後でかけ直すように、と言って、一方的に電話は切れた。  妙だ、と思って、受話器を置いた。その直後、室長室の電話が鳴った。  インターネットのディスプレイを見ていた室長が後ろ手に電話に手を伸ばす。そして、受話器を耳に当てた。とたんに、ピンと背筋を伸ばした。  あきらかに重役からの電話だった。はい、はい、はい、と返事だけを繰り返し、受話器を戻した。そして、机の引き出しから会議用のノートを取り出し、そそくさとドアに向かった。  もし、この時、加納に環境事業部の異変を察知する能力があったなら、日曜の午前中に電話で起こされ、苦言を呈されるようなこともなかったはずだ。もっとも、敏感よりは鈍感、多芸よりは無芸、器用よりは不器用な方が、特務員としては成果を上げるというのが、特務員研修所の見解である。  加納はファクスの用件の処理に取りかかった。だが、何となく職場の雰囲気が落ちつかない。やがて、ドアが開いて、経理部の女子社員が小走りに向かいの席に近づいてきた。そこは帰国子女の席で、海外広報を担当している。  二人は頭を寄せ合うと、内緒話をはじめた。ささやき声だったが、今日の加納の耳にははっきり聞こえた。 「環境事業部の三島部長、亡くなったみたいよ」  経理部の女子社員が言った。 「本当? いつ?」  と、帰国子女。 「今朝早く、トラックに轢《ひ》かれたらしいわ」 「トラック?」 「そう。ジョギングの途中の事故だということにしているけど、何か違うみたいよ」 「違うって、どういうこと?」 「ここのところ、三島部長はノイローゼぎみだったんですって」 「ノイローゼ? と言うと、自殺?」 「何か、そうみたいよ」 「本当?」 「らしいわよ。ひょっとして、例の女の人のことが原因じゃないかと思うのよ」 「例のって、秋月という料亭の……」  と言ったところで、女子社員と加納の目が合った。 「向こうで話しましょう……」  二人は連れ立って、ドアに向かった。  加納も立ち上がり、そして、その必要のないことに気づき、腰を下ろした。  気が動転していた。三島が死んだこと。自殺の可能性があること。そして、愛人がいるらしいこと……。どれもが加納を慌てさせるものだった。加えて、加納は三島に対し、連日、記者から取材申し込みがある、と告げている。  もし自殺だとしたら、ひょっとして、記者からの取材申し込みという嘘がプレッシャーになったのではないのか?  そんな不安が胸をよぎった。    一時間後。室長は沈痛な面持ちで戻ってきた。うつむきかげんに部屋の中央までくると、 「みんな、ちょっと聞いてくれ」  と言って、全員を見渡した。 「残念な知らせがある。今朝方、環境事業部の三島部長が亡くなられた。原因は交通事故らしい」  らしい、という言葉に、何人かが顔を見合わせた。おそらく、自殺ではないのか? と言いたかったに違いない。 「通夜、告別式については、総務部の方で取り仕切るが、広報室へも問い合わせ等があるかも知れん。そんなわけで、一応、この件に関しては……」  と言うと、視線を左右に往復させて、 「奥野君、君が仕切ってくれ」 「はい……」  奥野は事務的に答えた。何人かが、自分は関係ない、とばかりにペンを離した。 「それから……。他の人間が対応するはめになった時は、当面、次のように回答してくれ」  室長はノートを開いて、 「本日、午前五時半ころ、武蔵野《むさしの》市寿町三—二先の五日市街道の路上で、当社環境事業部長の三島浩一郎 六十一歳が倒れているところを、新聞配達員の大学生が発見し、一一九番した。直ちに、救急車で西北大学病院に運ばれたが、すでに脈拍は停止していた模様。死因は内臓破裂。通夜、告別式の日取りについては、まだ未定。なお、環境事業部長の職務については、副部長の大内俊之 五十八歳を部長代行に任命した……」  担当の奥野がサラサラとペンを走らせる。やがて、その音が止むと、 「ま、当分はこの程度で間に合うだろう。問題は通夜についてだ。一応、近くの斎場で行う予定だが、時間がはっきりしない。と言うのは、ご遺体はまだ警察の方なんだ。状況から交通事故と思われるが、何せ、早朝のことで見ていた人がいない。そんなわけで、警察の方の手続きも手間取っているらしい」  と言うと、ノートを机の上に置いて、両腕を組んだ。 「三島部長のプロフィールは、まもなく人事課から届くはずだ。わかっていると思うが、詳しい個人情報を知っていても、人事課資料の範囲内で回答すること。……質問は?」  室長が全員を見渡した。誰もが無言で、やりかけの仕事に戻ろうとしていた。 「あの……」  加納は手を上げた。 「三島部長のご自宅にお邪魔したいんですが、よろしいでしょうか」 「ご自宅に? なぜ?」 「三島部長には、公私にわたっていろいろとお世話になりました。微力ですが、何かのお役に立ちたいと思います」 「ほう……。君と三島部長が、そんな間柄とは知らなかったな」  室長は意外そうな面持ちで加納を見た。  もちろん、加納は三島の世話になったことはない。だが、死人に口なし。たとえ命の恩人だと言ったとしても、誰もその真偽を確かめることはできない。 「しかし、君が行ってもなぁ……」  室長は渋った。もし断られたら、時間休を申し出るつもりだった。その思いが塩川に通じたのかも知れない。結局、 「ま、いいだろう。どうせ、総務の方から人出し[#「人出し」に傍点]の要請がくるはずだからな。遅かれ早かれ、誰かを出さなきゃならない」  と、首を縦に振った。 「ありがとうございます」  加納は机の上の整理にかかった。  捜査対象が死亡した場合、その周辺から、できるだけ多くの情報を収集しておく、というのが、特務捜査の基本である。だが、加納の場合、柳沢へ報告する手前、その活動をした、という痕跡《こんせき》が欲しいだけのことだった。      2  JRの三鷹《みたか》駅でタクシーに乗り、五分も走ると、武蔵野の面影を残す住宅地に出る。幅四メートルの道路の両側には、手入れの行き届いた見事な生け垣《がき》がどこまでも続く。まるで隣同士で、緑を競い合っているかのようだ。  三島の自宅も、やはり、ヒバの生け垣に囲まれた二階建ての一軒家だった。その生け垣に沿って、七、八台の車両が駐車している。  門の前には、制服のガードマンが立っていて、加納がタクシー料金を支払う間、通過する車両の交通整理をした。  タクシーを降り、髪とネクタイを整えながら、門の中へ。敷地の内外で、ひそひそ話をしながら佇《たたず》んでいる男たちがいる一方で、軍手をした喪服姿の男が額に汗して動き回っていた。  玄関から中を覗《のぞ》いた。十足ほどの靴が並べられている。  ごめん下さい、と声をかけると、間もなく、二十五歳前後の女が現れた。悔やみを述べ、自分の素性を告げた。女は神妙な面持ちで一礼し、加納の前にスリッパを揃《そろ》えた。  案内されたのは洋間の応接室で、ソファーには四人が座っていた。そのうち、三人はリンツ商事の総務部員で、残りの一人は四十歳くらいの見知らぬ男だった。テーブルの上には、縮尺千五百分の一の住宅地図が広げてあって、その所々に、赤や黄色の付箋《ふせん》が張りつけてある。  お疲れさまです、と声をかけると、四人とも顔を上げたが、総務部の一人が、ご苦労さん、とうなずいただけで、四人は再び、住宅地図に目を落とした。  ここの十字路はうちの方で立ちましょう、と、見知らぬ男。お願いします、と、総務部員。すると、別の一人が、その箇所に緑色の付箋を張りつけた。  どうやら、斎場への道案内に立つ場所を検討している様子だった。  突然、電話が鳴った。たった一回の呼び出し音で、先程の女性が受話器を取った。歯切れのよい言葉で、三島家の家族は応接室にはいないこと。夫人はショックのため二階寝室でふせっていて、長女と姪《めい》が付き添っていること。伯父《おじ》と長男は遺体を引き取るため警察に行っていること。そして、現在、リンツ商事と第一物産の社員とで、通夜と告別式の打合せをしていることなどを説明した。第一物産は長男の勤務先である。  五分ほど応接室に留まった後、加納は玄関に向かった。法事や宴会の類は、顔さえ見せておけば、後ろ指をさされることはない。  三島家の門から道路に出て、ブラブラと足を進める。無駄なスペースのない住宅街だった。三百メートルほど行ったところで、ようやく、小さな公園を発見したが、人影はない。当然、井戸端会議をしている主婦たちにめぐり合うことはできなかった。  公園を抜け、反対側の道路に出た。そこで立ち止まって、左右を見る。すると、四、五十メートル先に、近藤医院、という小さな看板が出ていた。情報入手する上では、病院の待合室は主婦たちのたむろする公園に、優るとも劣らない。  加納はその看板に向かって足を進めた。    近藤医院は小さな町病院だった。  看板の下に、内科、皮膚科、消化器科という文字が並んでいる。  一枚扉のドアを開けると、そこは四坪ほどの広さの待合室で、コの字に組まれたソファーに七名が座っていた。そのうち五名が老人で、加納と目が合った禿《は》げ頭の老人が会釈した。それに応《こた》えてから、スリッパに履きかえて受付窓口に向かった。診察申込書に必要事項を書き込みながら、待合室の会話に耳を澄ます。 「ゲームとか、パチンコとか、カラオケとか、生産をもたらさない業種ばかりが繁盛しているだろう? そういうのは、言わば、アヘン産業だよ。ただ消費するだけでね。何も生み出さない。このままじゃ、日本はダメになるんじゃないのかなぁ……」 「でも、カラオケは健康にいいよ。ストレスの解消にもなる。近藤先生も、そんなことを言っていた」 「何言っている。あんなコンテナみたいな狭いところに閉じこもって、どこが健康的なの? お天道《てんとう》様の下で、外の空気を吸わなくちゃダメさ。やっぱり、ゲートボールがいいと思う」 「そう言えば、鈴木さんは審判講習に行ったけど、講師と口ゲンカして、途中で帰ってきちゃったらしいよ」 「気位が高すぎるんだよ、あの人は。いつになっても、理事長気分が抜けないんだ。審判になろうってのも、ただ威張りたいからだと思うよ。元々の動機が不純なんだ」 「面倒見《めんどうみ》はいいんだけどね。好き嫌いが激しすぎるよな。そこだけが玉に瑕《きず》だ」  いずれも口達者な老人たちだった。  それを聞きながら、診察申込書に、�加納まゆみ、胃痛、初診�と書いて、所定の小箱に入れた。  ソファーに向かうと、禿げ頭の老人が横に移動して、加納のためのスペースをつくった。老人たちの会話が一時、途切れ、好奇の目が�見知らぬ人物�に向けられる。  加納はにこやかな表情を取り繕って、 「恐れ入ります。どうも……。皆さん、ご苦労さまです」  と、ペコペコと頭を下げながら、ソファーの隅に腰を下ろした。 「もっと、こっちへ、お寄んなさいよ」  早速、禿げ頭の老人が目を輝かせて、 「失礼ですけれど……、お近くの方で?」 「いえ。この先に知り合いが住んでいまして。はい、ちょっと、そこに荷物を届けに……。はい……」  と、愛想を振りまいて誤魔化《ごまか》した。そして、 「しかし、何ですねぇ。この辺りは静かな住宅地だとばかり聞いていたんですけど、驚きましたね」  加納は首をひねって見せた。すると、 「どういう……ことですかな?」  赤ら顔をした老人が眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、他の老人たちも身を乗り出した。 「どういうことって……。今朝方、轢《ひ》き逃げ事件[#「事件」に傍点]があったというじゃないですか。しかも、犯人はまだ捕まっていないとか……」 「ああ、そのこと……」  老人たちはうなずいて、 「相手はトラックらしいですな」  一人が言った。 「いやいや、はっきりしたことはわからないそうだ」  と、別の老人が口をはさんできた。白い口髭《くちひげ》を生やしている。 「何分《なにぶん》にも、朝の五時ころのことだからねぇ。目撃者と言うのかい? 見ていた人が誰もいないそうなんだ」 「朝の五時?」  加納は眉間に皺を寄せて、 「そんな朝早くに、散歩にでも出かけられたんですか?」  と、不思議がって見せると、 「いやいや、ジョギングって言いましたっけ? あそこのご主人は走るのが、ご趣味なようです。私も散歩の途中に、何度か見かけたことがあるけれど、普段は、もっと遅い時間なんです。今日は、ちょっと早めに家を出たらしいですな」 「ほう。ジョギングって、車道を?」 「まさか。ここから玉川上水に出て、川べりを走るんですよ。私も若い時分には、走ったもんです。歩行者専用道路になっているし、絶好のジョギングコースなんです。でも、そこまでの行き帰りが、ちょっと危ない。特に、深夜から朝方にかけて、貨物トラックが凄《すご》いスピードで走ってますからね。いくら道がすいているからと言って、飛ばしすぎですよ。ああいうのは、警察にもっと厳しく取り締まってもらわないと困る」 「………」 「新聞配達が見つけて、一一九番したそうだが、実際には、もう息をしていなかったらしいよ」  と、口髭の老人。 「そうらしいね。うちのバアさんの話によると、今朝は霧が出ていたらしい。それも原因じゃないのかな」  老人たちは勝手に話を進める。加納は耳を傾けた。 「霧も出ていたけど」  向かいの老人が鼻を一擦《ひとこす》りして、 「三島さんはね、いつもイヤホーンを耳につけて、音楽を聞きながら走っているんだ。ひょっとしたら、車の音が聞こえなかったのかも知れないぞ」 「車の音が聞こえなかったと言ったって、車道を走っていたわけじゃないだろう? 歩道を走っている限り、車なんかに轢かれるはずがないよ」 「でも、目撃者がいないんだから、歩道を走っていたかどうか、わからないよ」 「目撃者はいるよ。最低一人はね」 「誰?」  禿げ頭の老人が尋ねた。加納も耳を傾けた。すると、 「轢いた運転手だ。運転手が見ている」 「そんなことは当たり前だ」  禿げ頭の老人が渋い顔で言うと、それまで、黙っていた隅の老人が咳払《せきばら》いして、 「つまり、悪いことが重なったんだよ。いつもより早く家を出たこと、それに、霧とか、音楽とか、ぶっ飛ばしのトラック。このうち一つでもいいから、ほんのちょっとだけ、ずれていれば、死なずにすんだんだ。今更ながらに、運命の皮肉というものを感じるね。正に、人間、一寸先は闇《やみ》だ……」  と、つぶやいた。その言葉に、老人たちはうつむき、口を閉ざした。  老人たちの話で、大体の状況は把握できた。次は、自殺について、噂を聞きたかった。しかし、話題を持ち出そうとした時、 「高橋さん。お入り下さい」  と、受付窓口から声がかかった。ソファーの隅に座っていた中年の女性が子供の手を取って、診察室に向かう。そして、 「加納まゆみさん。こちらへ」  という声がした。加納は立ち上がって、受付窓口に向かった。 「……ご本人は?」  白衣を着た事務員が尋ねた。 「今、こっちに向かっているところです」  もちろん、嘘である。 「保険証は?」 「本人が持参するはずです」 「では、これはご本人がお見えになってから、お出し下さい」 「すみません」  加納は診察申込書を受け取って、引き下がった。 「入選した仏像だが、なかなか、いい出来だったと思うよ。さすが、審査員の目は節穴じゃない。見るところは見ている。今度はぜひ、阿弥陀様を彫ってもらいたいな」  老人たちの話題は変わっていた。 「うちの宗旨は禅宗なんで、文殊|菩薩《ぼさつ》様を彫ってもらえないかな。もちろん、お金は払うから」  と、禿げ頭の老人。ソファーに戻る加納には、もはや見向きもしない。 「全く、いい趣味だよ。それに、売りものになるんだからな。実益にもなる。うらやましい限りだ」 「いやいや、材料費や手間を考えれば、大赤字だ。儲《もう》けどころの話じゃないよ」  口髭の老人が気持ちよさそうに笑って、 「私に言わせれば、いまだに息子さんを手伝っている後藤さんの方がうらやましい。生涯、現役ですからなぁ」 「とんでもない。この年になって、算盤《そろばん》を弾《はじ》く身にもなってご覧なさいよ、あなた。目は疲れる、肩は凝るで往生しまっせ」  赤ら顔の老人が首を横に振った。加納は愛想笑いを取り繕って、ひたすら老人たちの話に割り込むチャンスを窺《うかが》った。    しかし、医院での情報には見るべきものはなかった。老人たちは次々に診察室に入り、その度に、事務員が胡散臭《うさんくさ》そうな視線を加納に向けた。それでも、一時間ほど粘ってから、加納は、様子を見てくる、という口実を使って、病院を後にした。  途中、再び、公園に立ち寄ったが、子供が縄跳びをしているだけで、主婦たちの姿はない。加納は三島家に向かった。  三島家の玄関の手前まで来た時、 「君も来ていたのか?」  後ろで男の声がした。振り返ると、総務部の高見という係長だった。 「室長に頼んで、一足先に来ました。係長、どちらかへ行かれてたんですか?」 「うん。部長の義理の弟さんと一緒に、菩提寺《ぼだいじ》の方へ行ってきた」 「そうですか。私にも何か、手伝わせて下さい。三島部長には個人的にご恩を受けていますので」 「ありがとう。うちの連中が手分けしてやる予定だから、その必要はないと思うけど、そうだな……、斎場の駐車場の交通整理が手こずるようだったら、手伝ってもらうかも知れない。その時は頼むよ」 「承知しました。ところで、係長。つかぬことをお聞きしますが、三島部長は本当に交通事故だったんですか?」  と、小声で尋ねた。すると、高見は周囲を見渡した。そして、こっちへ来い、と言う風に、親指を後方に向けた。  高見の行き先は車の中だった。ここでも高見は周囲を見渡してから運転席に乗り込んだ。加納が助手席に座ると、 「実を言うと、聞きたいのは、俺《おれ》の方なんだ。今度のことだが、君の耳には、どんな風に伝わっている? 参考までに教えてくれ」 「交通事故で亡くなられた、と、うちの室長から聞きましたけど」 「それ以外には?」 「後は、単なる噂ですよ」 「具体的に、どんな噂?」 「それは……」  加納も前後に目を配ってから、 「自殺です」  と答えると、高見が渋い顔をして舌打ちした。 「何か、まずいことでも?」 「いや、そうじゃない。残されたご家族のためにも、そんな噂が流れないように、と思ったんだが、人の口に戸は立てられないとは、こういうことを言うんだろうな。それで、原因は何だと?」 「何でも、池袋の料亭の、芸者でしょうかね? 相手ははっきりしませんけど、ともかく女性のことでしょう。それが、どうの、こうのと……。まぁ、そんなところです」  と答えると、 「まずい、まずいなぁ……。そりゃ、まずい……」 「すると、やはり、その線での訳ありですか?」 「そんなことはわからない。俺は千里眼じゃないんだ。……辰巳《たつみ》歩道橋には行ってみた?」 「辰巳歩道橋とは?」 「事故の、いや……、部長が倒れていた場所だよ」 「いいえ。すると、歩道橋に倒れていたんですか?」 「違う、歩道橋から二十メートルくらい離れた車道にうつ伏せに倒れていたそうだ」 「………」 「寺からの帰りに、義弟《おとうと》さんが、事故の現場で手を合わせたい、と言うんで立ち寄ったんだがね。歩道と車道の間には腰くらいの高さのガードレールがある。ずーっと、切れ目なくね。俺も休みの日には、時々、走るけどさ。ジョギングをする人間が、わざわざ遠回りして距離を稼ぐことはあっても、近道するためにガードレールを跨《また》ぐというコース取りをすることは、まず、あり得ないな。おまけに、近くには歩道橋がある。車道を横切るくらいなら、その歩道橋を渡るはずだ。階段というのは足腰のトレーニングには打ってつけだからね」 「………」 「変だ、と思っていると、義弟さん、手を合わせた後、『義兄《あに》は会社では、どんな様子だったんです?』なんて聞いてくるんだ。参ったよ。当たり障りのない答えで誤魔化そうとしたんだが、『どうか、本当のことを教えて下さい』なんて言うんだ。マジな顔でね。それで、ちょっと元気がなかったみたいです、と言っちまった。するとどうだ、『やっぱり、そうですか』なんて、うなずく始末だ。詳しい事情はわからんが、ナニについては、うすうす感じていたという雰囲気だったな」  高見はしたり顔で言った。ナニが自殺を意味していることは言うまでもない。 「しかし、それにしても、朝の五時のジョギングの途中ですよ。そんな時間に、人間、自殺をするもんでしょうかね?」  と、敢《あ》えて異論をはさんだのは、更に詳しい説明を期待してのことだ。 「俺も最初は、そう感じた。だから、自殺なんかじゃない、と思ったよ。でも、後で、こうも考えた。もちろん、これは仮の話だが、もし三島部長に、自殺と思わせたくないという事情があったとすれば、どうだろうか? その事情というのがプライドであれ、保険金であれ、自殺したと思われたくないという事情があったとしたらだよ。敢えて、朝のジョギングの途中を選ぶこともあり得るんじゃないのかな」 「なるほど……。しかし、理由は何です? やはり、女性問題ですか?」 「バカな。池袋の芸者がどうのこうのと、下衆《げす》の勘繰りもいいところだ。三島部長は確かに、その筋の女性にはもてたがね。きっちりと一線を画していたな。店の外で会うようなことはしなかった」 「………」 「ただ、ここのところ顔色がよくなかったからな。ひょっとしたら、何かの病気にかかっていたのかも知れない……」  高見は宙を見つめたままつぶやいた。    三時すぎになっても、三島の遺体が戻る様子はなかった。  事態が単純な轢《ひ》き逃げ事故ではないということは明らかだった。もっとも、交通事故の場合、体の表面には擦過傷など、多くの傷があり、それが車との衝突によるものか、衝突後の転倒によるものか、判別するのは難しい。また、実は心筋|梗塞《こうそく》で倒れ、そのまま死亡する場合もある。  高見の部下が準備したサンドウィッチを昼食代わりに摘《つま》んでから、加納は再び、応接室に向かった。できれば、公式には発表されることのない内輪の情報が欲しかった。  玄関で靴を脱いだ時、応接室の方から甲高い声がした。 「解剖だと? 何で解剖されなきゃならないんだ?」  初めて聞く声だった。足音を忍ばせ、細めに開いているドアの間から中を窺《うかが》った。喪服姿の初老の男が電話で話をしていて、周囲を十人前後が囲んでいる。そのうちの半数は初めて見る顔だった。 「そういう決まり? 警察が、そう言っているのか? 確かか?」  男は戸惑った面持ちで、周囲の人間を見回し、やがて、わかったよ、とうなずいて電話を切った。それを待ちかねていたように、 「解剖って、どういうことだい?」  一人が尋ねた。 「俺にも、わからないよ。警察に、そう言われたというんだ」 「冗談じゃない。解剖なんて断ればいい」  と言うと、 「おいっ、そこの秘書。こういう時の都会議員だ。先生から署長に電話させて、解剖を中止させろ」 「そんな無茶な……」  髪を七、三分けにした三十歳前後の男が目を丸くした。 「何が無茶だ。三島さんには、一方ならぬお世話になっているんだろう? こんな時くらいは恩を返せっ」 「まぁまぁ、横山さん。どうかお静かに、お静かに……」  別の一人がなだめた。だが、 「お静かに、ですと? すると、黙って警察の言いなりになれとでも、おっしゃるんですかっ」  横山なる人物は、益々、声を張り上げた。相手は何も答えず、唇に人指し指を当て、もう片方の人指し指で天井を示した。二階では夫人が寝込んでいる。 「こ、これは、迂闊《うかつ》でした……。失礼しました」  横山は頭をかき、肩をすぼめた。 「お気持ちはわかりますがね……」  議員の秘書が言った。 「確か、解剖というのは強制的なもので、遺族が同意したり、拒否したりできる種類のものではないと思いますよ」 「ほう、そうかね」  初老の男は目を瞬かせて、 「それにしてもだ。なぜ解剖されなきゃならないんだ? わからないのは、そこのところなんだよ。去年、いや……、もう一昨年《おととし》になるかな。知り合いの奥さんがトラックに轢かれて亡くなったことがあったけど、その時は、解剖なんかされなかったぞ」 「やっぱり、自……」  と、誰かが言いかけて、口をつぐんだ。 「やっぱり何だと言うんだ? はっきり言ってみなさい」  と尋ねたが、自殺、という言葉を発する者はいなかった。加納はそっと玄関に戻り、再び、表に出た。  仮に自殺の疑いがあったとしても、死因が轢死《れきし》だと判明している場合、解剖に付されることはない。解剖は死因に疑いがある場合に実施される措置である。  加納にとっても、遺体の解剖は予想外のことだった。      3  三島の遺体が解剖を終えて、自宅に戻ったのは、夕刻になってからだった。  加納は通りに立ち、合掌して迎えた。黒塗りの車は静かに門をくぐった。その時刻を確かめ、携帯電話で広報室へ連絡。すると、折り返し、時機を見計らって帰宅してよい、との室長指示を伝えられた。  電話を切ると、三島家の中から、号泣する女の声が聞こえた。それは悲鳴に近い声だった。そして、慰める男の声。しかし、慟哭《どうこく》は止まない。加納は足音を忍ばせるようにして声のする方に向かった。  家の片側半分は日本間で、縁側のサッシ戸は締められているが、襖《ふすま》や障子は取り払われていた。これから密葬のようなことでもするのだろうか。家具や調度品は片づけられ、座敷には祭壇が飾られていた。  その前で六、七人が一固まりになっている。遺体にすがって泣いているのは、二階で横になっているはずの三島の妻だった。髪を乱し、人目もはばからずに夫の死を悲しんでいる。その隣で、やはり嗚咽《おえつ》しているのは三島の娘。息子や親戚《しんせき》縁者たちも、手で、或《ある》いは、ハンカチで涙をぬぐっていた。  三島の妻は泣き続けた。誰も、それを止めようとはしない。やがて、その泣き声が途切れがちになったころ、小柄な老人が立ち上がり、女たちの肩に手を置いて、何やらつぶやいた。三島の妻は両脇《りようわき》を家族に支えられ、夫の側を離れた。  加納は辺りを見回した。自分と同じように庭に立っている人間が十四、五人。その顔ぶれを確かめて行くと、環境事業部の一人がいるのに気づいた。加納よりも五年ほど先輩にあたる中村という男である。  加納はゆっくりと近づいた。三島の職場での様子が知りたかった。 「ご苦労さまです」  と、斜め後ろから声をかけ、会釈した。 「確か、君は……」 「広報の加納と申します。このたびは、とんだことでした」 「うん。いまだに信じられないよ」 「全く同感です。惜しい人を亡くしました。あれだけの人は、なかなかいません」 「ほう。君はうちの部長と付き合いがあったのか?」 「ええ。ほんの少々ですが」 「そう……」 「実は、ここ数日、環境事業部の方に日参したんですがね。会っていただけなかったんです。どうしてでしょうかね?」 「さぁ、僕にはわからんな。部長はずっと自室にこもりきりだった」 「そのことは聞きました。顔色が悪かったそうですね。ご病気だったんですか?」 「誰が、そんなことを?」 「総務の高見係長から聞きましたけど」 「高見か。あの、おしゃべりめ」  中村は舌打ちした。 「私が広報だから、特別に教えてくれたんですよ。実際、ご病気だったんですか?」 「確かに、お疲れの様子だったけどね。あれが病気だと言うなら、うちの部員は全員、緊急入院しなければならないだろうな」 「なるほど。すると、秋月とかいう料亭の、ナニの件でしょうかね?」  と尋ねると、中村は横目でジロリと加納を見て、 「さっきから、根掘り葉掘りと……。君は一体、何の権利があって、そんなことを聞くんだ?」 「権利なんて、そんなご大層なものじゃありませんよ。仕事の都合と思って下さい」 「仕事だと?」 「はい。マスコミの取材申し入れに対して、皆さんのご都合を伺って、調整するのが私の役目なんですけど、ただ機械的に取り次いでいるわけじゃありません。場所や日時のセッティングをする前に、記事になっては社の不利益になるようなことを避け、イメージアップになるよう工夫しているわけですよ」 「だが、それと三島部長のプライベートとは関係ないんじゃないのか? 病気とか、交友関係は純然たる個人の問題だ」 「いいえ、個人的問題にも、いろいろありましてね。中には、週刊誌が興味を抱くような個人的問題もあります。それが私の心配の種なんですよ」 「奥歯にものの挟まった言い方をしないで、もっとはっきり言ってみたらどうだ?」 「はっきり申し上げたら、角が立ちます。だから、遠回しに、お聞きします。三島部長は治療法のない病気にでも、かかっていたんですか?」 「知らん……」  中村は前に向き直り、首を横に振った。 「では、女性雑誌が興味を持つような問題で悩んでおられた節はありましたか?」 「さぁ、どうかな? 質問の意味がわからない、ということにしておこう」 「そうですか。すると、霞が関の件で悩んでおられたわけですか?」 「霞が関? 一体、何のことだ?」  中村がきょとんとした顔で聞き返してきた。前の二つの質問とは、明らかに反応が異なっている。もし演技でないとすれば、贈賄工作は環境事業部ぐるみではない、と判断してもよさそうだった。 「まぁ、無理に答えをいただくつもりはありませんよ。広報は社のイメージを守るために、人知れず、尻ぬぐい[#「尻ぬぐい」に傍点]の役も引き受けているんです。そんな広報を上手に活用するのも、目の敵にするのも、社員の皆さんの自由ですからね」  加納は次の質問にかかった。 「でも、一つだけ答えてくれませんか? 環境事業部は新体制になるわけですが、今後も従来の三島路線を踏襲しそうですかね?」  もし、踏襲するなら、中東の件も引き継がれるということになる。 「踏襲?」  中村はしばらく沈黙していたが、 「そうだな……。踏襲するとも言えるし、踏襲しないとも言えるんじゃないの?」  と、素っ気ない口調で言った。 「おっしゃる意味が、よくわかりませんけど……」  加納は首をひねって見せた。中村の答えは矛盾している。だが、 「そもそも、三島路線とは一体、どんな路線なんだい? 僕は、初めて聞いたぞ」  中村が聞き返した。 「別に深い意味はありませんよ。言うなれば、三島カラーですかね。或いは、三島イズムとでも言うか。そんなところです」 「なるほど、三島カラーか。それなら、少しはわかる。もっとも、僕だったら、三島方式という単語を使うけれどね」 「三島方式?」 「そう。三島方式とは、つまり部下の自主性を尊重し、信頼することだ。だから、仕事の進め方に関して、口を挟まない。実際、僕たちは何でもやりたい放題だったよ。だが、無責任な放任主義じゃないんだな。三島部長の凄《すご》いところは、部下のミスを全て、自分でかぶったという点だ。じゃ、成功した場合はどうかと言うと、その正反対。全てを担当者の功績とした」 「ほう……。そりゃ初耳です」 「部長から口止めされていたからね。細々《こまごま》としたことは、副部長に報告することになっていたし、指示も副部長から仰いだ。もっとも、三島部長は三島部長で、我々と同じような立場で仕事をしていたからね。部下のことに構っている時間がなかったのかも知れん。ともかく、三島部長は第一線が好きな人だった。だから、意地悪な見方をすれば、部長としての本分を果たさなかった、と言えなくもない。だが、それを差し引いても、余りがあったんじゃないかな」 「………」 「もし、大内副部長が、次期部長に昇進したとしても、肩書が変わるだけで、何の変化もないんだよ。報告したり、指示を仰ぐのは、これまで通りだ。だが、新部長が前部長のように、部下の自主性を尊重したり、ミスをかぶってくれるかどうかは不明だ。むしろ、大内副部長の人柄から考えて、はなはだ疑わしいと思う。だから、三島路線を踏襲するとも言えるし、踏襲しないとも言える、と言ったのさ」  中村は鼻先で笑い、そして、すぐに真顔に戻った。      4  夜の駅前には、若者たちがたむろしていた。閉店したデパートのシャッターの前に座り込んで、たわいのない会話をしている。加納は足早に階段を上り、改札口からホームへ下りた。電車を待つ半数は酔っ払いで、こうもり傘とカバンを抱いて、ベンチに寝ている中年男もいる。  その横たわる姿が、ふと死体の三島を思い出させた。  なぜ三島は解剖に付されたのか? 死体の傷か? それとも、現場の状況か? つまり、死体に通常の事故では考えられない痕跡《こんせき》を発見したのか? 或いは、ブレーキ痕や遺留品とは矛盾するような死体の状態だったのか? 警察は何に不審を抱いたのだろう?  ベンチの男が目を閉じたまま悪態をついた。回りの人間は振り向きもしない。加納はホームの時計と時刻表を見比べた。終電までは、まだ時間があった。  そのまま電車に乗れば、三十分で荻窪《おぎくぼ》のアパートに戻れるというのに、加納は小走りに改札口に向かった。再び、若者たちのたむろする駅前広場を横切り、タクシー乗り場の行列の最後尾に並んだ。  次々にタクシーが到着し、目まぐるしく客が乗り込んで行く。やがて、加納の番になった。  辰巳《たつみ》歩道橋まで、と告げると、 「ひょっとして、今朝、事故のあった所かな?」  運転手が言った。 「知っているの?」 「知ってるも知らないも、亡くなったのは、三島という人だろう? 今日は何度も、お客さんを運んだからね。知っているよ」 「運んだって、事故の現場へ?」 「いや、そっちじゃなく、家の方。でも、辰巳歩道橋なら知っているよ。俺たちにとっちゃ、歩道橋とか交差点は目印みたいなもんだからな」 「なるほど。じゃ、その歩道橋に向かってくれ」  あいよ、と返事したが、すぐに赤信号で止まった。 「お客さん、親戚筋の人?」  ルームミラーの運転手と目が合った。 「いや。仕事の関係で、ちょっとね」  と、口を濁すと。 「そう。じゃ、聞くけどさ。早番の連中が、自殺じゃないかと言ってたんだけど、本当なの?」  運転手が探るような眼差《まなざ》しを向けてきた。 「自殺だって? 交通事故じゃなかったの?」  と、わざと身を乗り出すと、運転手の目が褪《さ》めた色に変わった。 「まぁ、轢《ひ》いたのはトラックらしいからね。交通事故は交通事故だろうけど……。早番の連中の中には、歩道橋の上から飛び下りたんじゃないか、と言うのもいてね」 「と言うと、見ていたのかな?」 「まさか。見ちゃいないよ。あんな朝早く、お客を乗せることなんか滅多にない」  と言うと、一呼吸して、 「もう五年にもなるかなぁ……。中学生が歩道橋の手すりで度胸試しをしたことがあってね。下に落っこちたことがあった。運良く、車が通りかからなかったんで、足を骨折しただけで済んだけど……。歩道橋の手すりの上を歩くなんて、想像しただけで、ゾッとする」 「………」 「もう十年近くも、この街でタクシー稼業をしているけどね。辰巳歩道橋辺りで人身事故ってのは、聞いたことがないんだよなぁ。もっとも」  と言うと、ルームミラーで加納をチラと見て、 「最初から事故を起こすつもりなら、事故が起きても当たり前だ。運転手にとっちゃ、堪《たま》ったものじゃないけどね」 「………」  加納は何も言わなかった。何かを言えば、それが運転手仲間や、他の客との話の種になることは明らかだった。情報は得ても、決して漏らさない。漏らす時は、その情報が流れて自分の役に立つ場合だけである。  やがて、タクシーは歩道橋の手前で止まった。 「ついたけど、帰りはいいの? 何だったら、待ってあげててもいいんだけど……」  運転手が尋ねてきた。 「いや、結構」  加納は札を出した。  この辺じゃ、なかなかタクシーは拾えないんだけどな、とつぶやきながら、運転手は小銭を数えた。その数メートル横を空車が二台、立て続けに通り過ぎて行く。加納は何も言わず釣り銭を待った。    深夜の歩道に人影はなかった。車道には長距離トラックが行き交っている。病院の待合室で老人が言っていたように、どの車も恐怖を覚えるほどの猛スピードだった。  歩道橋を見上げると、橋桁《はしげた》に表示された�辰巳歩道橋�という文字が水銀灯の明かりに照らし出されていた。加納は階段を上り、何らかの痕跡を求めて、歩道橋を往復した。だが、不自然な靴跡や、警察のチョークの跡は見当たらない。  歩道橋の上から歩道を見下ろした。ガードレールの側に、花束が置かれてあるのが目に入った。加納は階段を下りた。  まだみずみずしい花は甘い香りを漂わせていた。おそらく遺族や知人たちが供えたのだろう。花束の他にも、缶ビールや煙草、チョコレートなどが並べられている。  加納はその場に腰を下ろし、合掌した。目を瞑《つぶ》ると、大型トラックが目の前を通り過ぎ、風が髪を乱した。  加納は立ち上がり、ガードレールすれすれまで近づき、車道に目を凝らした。チョークのマーキングがまだ残っている。  しかし、そこはおそらく、三島の倒れていた地点であって、もし車に跳ね飛ばされたとすれば、別の地点ということになる。  車の大きさ、スピード、衝突の状況によって、人間の体はどれくらい弾き飛ばされるものなのだろうか?  加納はガードレールに沿って歩き出した。警察による実況見分の痕跡が、それを示しているはずだ。路上に目を凝らしたが、夜間のためか、それとも、通行する車のタイヤで消されてしまったのか、その他のチョークの跡は発見できなかった。  加納は諦《あきら》めて立ち止まった。すると、それまで頻繁に行き交っていた車が途絶えた。一瞬の静寂。犬の遠吠《とおぼ》えが聞こえる……。  その時、加納は人の気配を感じた。ゾッとするような視線の気配だった。左右、そして、後ろを振り返ったが、人影は見当たらない。しかし、空車のタクシーを待つ間、ずっと誰かに見つめられているような気がした。 [#改ページ] X月X日 臨時連絡(電話) [#ここから1字下げ] 「解剖した理由は、死体に不審な点があったというより、状況に不明な点があったから、ということらしい」 「運転手も目撃者もいない、という状況ですね?」 「そういうことだ。車道を横切ろうとして轢かれた交通事故なのか。歩道橋の上から車に身を投げた自殺なのか。或いは、その両方を装ったもの。つまり、殺人、もしくは死体遺棄の手段としての偽装なのか。いろいろ考えられるということだろう」 「実は、私もそのことを考えていました。もし、殺しとなると、これは口封じですよ。背後に、もっと大物がいるはずです」 「おいおい、早呑《はやの》み込みしなさんなよ。今の時点では、そういう可能性もなくはない、という程度のことだ」 「………」 「解剖に回されたのは、案外、捜査二課の方から内々に依頼があったのかも知れない。何せ、贈賄側の容疑者が突然、死んでしまったんだからな。勘繰って、当たり前だ」 「その捜査二課ですが、どんな様子なんです?」 「どんなもこんなもない。歯ぎしりをしているよ。どうやら収賄側は旧通産省の役人のようなんだが、三島が死んでしまったんで、お手上げの状態らしい。贈賄側を自白させてから収賄側を引っ張る、というのが、連中の定石だからな。その石が消えたら、次の石は置きようがない」 「代わりの石を探す可能性は?」 「もちろん、その確率は百パーセントだ。ただいま物色中、というところだろう。その石についてだが、君の方で見当がつくか?」 「今のところ、これという人物は発見できません。三島の心酔者は結構いるんですがね。側近とか、腹心というより、どちらかと言うと、部下、手下、という感じです」 「どれも小粒ということか……。今、部長の代行をしている大内ってのは?」 「大内副部長ですか? あまり、評判はよくありませんね。そこそこ仕事はこなせるが、番頭タイプで、部長の器ではない、というのが、重役秘書室の大方の評価です。私から見ても、霞が関の役人を手玉に取るという芸当は無理だと思いますね」 「そうか。となると、テロ国家相手のビジネスは、もっと無理だろうな」 「やはり、その件と贈賄工作とはワンセットなんでしょうか?」 「そう考えるのが自然だろう。もちろん、そうでないことを願うけどね。中東ビジネスについても、パチンコ台の輸出か、ラクダ肉の輸入であれば、ありがたい。だが、何せ三島はアフリカ視察を装って、こっそり商談に出かけているんだ。清く正しく美しいビジネスとは考えにくいな」 「中東に寄り道するなんて、夢にも考えませんでした。見事に裏をかかれましたよ」 「今更、悔やんでも仕方がないよ。ところで、調査依頼の件だが、池袋の秋月というのは料亭なんかではないぞ。ふぐを食わせる小料理屋だ」 「ふぐ料理屋ですか?」 「いやいや、ふぐも食わせる高級感のある小料理屋だよ。なかなか粋な店で、女将《おかみ》も美人だ。名前は篠崎亜紀子。歳は三十八の女盛り。住まいは板橋のマンションで、一人暮らしだが、毎週日曜の夜には、決まって若い燕《つばめ》がドアをノックし、火曜の朝まで泊まって行く」 「男がいるんですか?」 「当たり前だ。あんないい女が一人でいるわけがない。男の素性は小宮純一、二十九歳。�風�とかいう劇団の二枚目役者で、歌も歌うらしいよ。三島は店の常連だったようだし、女将とは何回かゴルフもしたらしいが、それ以上の関係じゃないようだ。まぁ、念のため、もう少し、洗ってみるけどね」 「お願いします」 「君の方は、新部長が決定したら、早めに接触してくれ。おそらく捜査二課も同時に動き出すはずだ。わかっていると思うが、君は贈収賄なんかに目もくれずに、中東の件だけに集中してくれよ」 「わかりました」 「いいか。ここで、もし、捜査二課なんかに先を越されて、新部長をパクられでもしたら、大事《おおごと》だぞ。あの連中は贈収賄容疑だけじゃない。三島のことは殺しの前提で徹底的に調べるだろうし、中東の件も、いずれは突き止めることになる」 「………」 「もし、そんなことになったら、我々の大失態ということになる。前にも言ったと思うが、我々の立場は刑事部や交通部とは根本的に違うんだぞ。吹けば飛ぶような町のダニや、クズ共を相手にするのが任務じゃない。一億二千万人の住む日本の国益を守ることが、わが公安部に課せられた使命なんだ。そのことを決して忘れるな」 「はい。わかっています」 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   第二章 プロジェクト      1  次の日、これという用事もないのに、加納は環境事業部の各デスクを前触れもなく訪れてみた。特務の隠語で言う�アタリ�を見るためである。  もし、何か重要な任務に従事中であれば、急に会話を止めたり、慌てて書類を裏返しにしたり、コンピューターのディスプレイの前に、大きな茶封筒なんかを立てかけたりする。  この日、�アタリ�らしきものがあったのは、燃料チームのデスクだった。新人の社員が加納を見て、反射的にプリンターの停止ボタンを押したのである。  ははぁ、何かあるな……。  加納は一旦《いつたん》、そこから離れ、窓際の席にいる顔見知りと数分間、雑談した。そして、頃合いを見計らって、再び、燃料チームの方に接近。まず、備えつけのシュレッダー周辺に目を配った。ごく稀《まれ》にではあるが、断裁すべき機密書類が残されていることがある。電話や急な呼び出しで、担当者がその場を離れるようなことがあるからだ。ちなみに、加納がシュレッダーから入手した情報のうち、代表的なものは、某企業のキューバ進出プランである。  しかし、期待に反して、それらしい書類はない。  次に、加納はコピー機に向かった。歩きながら、誰に告げるともなく、コピーさせてもらうよ、と抑揚のない声でつぶやく。案の定、誰も振り返らない。  実は、最も収穫があるのが、このコピー機だった。理由は言うまでもない。図書館からコンビニまで、どこのコピー機にも、忘れられた原本の二枚や三枚、必ず、蓋《ふた》のポケットに収納されている。加納が警視総監賞を得ることになったロシアのルーブル変動、そして、中東の湾岸戦争勃発に関する情報も、コピー機に忘れられた些細《ささい》な資料が報告の決め手になった。  しかし、コピー機には一枚の書類も残されておらず、加納は引き上げることにした。情報は欲しかったが、いつもと異なり、この日はシュレッダーとコピー機という複数箇所を点検している。もし、誰かに見咎《みとが》められるようなことにでもなったら、元も子もない。  ちなみに、それらしい書類を発見しても、決して入手することはしない。せいぜい、見出しの頭書きを記憶する程度に留め、直ちに元に戻すことが鉄則だ。功を焦って欲を出せば、命取りになる。特務活動は、大雑把な情報を入手するのが任務であって、秘書のクズ箱に、煙草やペンを落とし、それを拾い上げるついでに、書き損じのメモをくすねるような行為は禁じられている。  加納は早々に環境事業部を後にした。だが、諦《あきら》めたわけではない。情報が得られなかった場合、特務員には、最も地味で忍耐を要する活動が義務づけられている。  環境事業部に最も近いトイレに入り、三つ並んだドアの最も奥に入った。一応、ズボンを下げ、便器に座り、じっと耳を澄ます。トイレと風呂は人間がリラックスする場所で、ついつい、本音が漏れてしまう場所とされている。それが狙《ねら》い目なのだ。  加納はひたすら待ち続けた。  何回か、靴の音がして、小用を足す音、手を洗う音……。  やがて、一時間。ため息まじりに腰を浮かしかけた時、複数の靴音がした。加納は中腰のまま息を殺した。  靴音が止まると、ファスナーの音が連続して聞こえた。そして、お定まりの音。やがて、その音が途切れがちになる頃、 「全く……。何で環境調査室長なんですかねぇ」  と、ぼやく声がした。 「たぶん、粗チンでも握られたんだろうよ」  もう一人が吐き捨てるように言った。 「ほう、で、握られたのは、どの粗チンです?」 「さぁな。だが、何せ、あのお局《つぼね》様は独り身だ。その気になれば、ご老体なんてイチコロだろうよ」 「年に似合わず、なかなかのナイスバディですからね。できることなら、一度、お手合わせ願いたいもんです」  靴音がして、蛇口をひねる音。 「やめとけよ。お前のなんか、簡単に食いちぎられちまうぞ」  もう一人は手を洗わずに出て行った。      2  大方の予想に反して、環境事業部の新部長には、環境調査室の室長、小池友美が抜擢《ばつてき》された。日本リンツ商事としては、初めての女性部長の誕生ということになる。  環境調査室とは、社の新規事業案件に関して、自然環境保全の見地から問題がないかどうか、チェックする部門である。  加納にとって、この予想外の人事は、情報収集する上で好都合だった。早速、顔見知りの業界誌記者を寿司屋に招き、次のように耳打ちした。  新部長は魅力的な上に、四十六歳で独身。休日に乗馬を楽しむだけでなく、エコロジーに関する著書もある。もし気に入らなかったら、記事にしなくても結構。とにかく、騙《だま》されたと思って、取材だけしてみてくれ……。  そう依頼すると、記者は、オーケー、オーケー、と言って、コップを合わせてきた。  加納は記者にたらふく飲み食いさせ、手土産を持たせた上に、タクシーで自宅まで送らせた。  世は不況の真《ま》っ只中《ただなか》。それでなくても、広報室長の承認印のない領収書を経理課が受理するはずがない。だが、加納はいわゆるダブルポケットの持ち主だった。一つは、もちろん、会社の給料。そして、もう一つは特殊活動費である。さらに言えば、警官として支払われる給与が、特務員としての特別手当と見なすことができる。  翌日、広報室長に、知り合いの記者から環境事業部長に対して、熱心な取材申し入れがあった、と報告した。  早いね。一体、どこのマスコミ?  室長の質問はそれだけだった。    社屋の六階。北側の隅は元は社員のための娯楽室だった。今はシェイプアップ・ルームになっている。十平方メートルほどのスペースに、ダンベルやバーベル、そして、筋肉トレーニングのためのコンビネーションマシーンが置かれている。  前日、加納の面会申し入れに対して、小池はシェイプアップ・ルームで応じると返答してきた。  指定した昼休み。外国人社員を含む何人かが、Tシャツ姿で、黙々とトレーニングに励んでいた。加納はスーツにスリッパ履きで、ドア近くに立ち、それを見物していた。  加納にとっては、五年ぶりに目にする光景だった。フロアワックスと汗の入り交じった臭《にお》いを嗅《か》ぐのも五年ぶり。シェイプアップ・ルームは加納にとって苦い思い出のある場所だった。  高木万里子という女性は美しいだけでなく、まだ若く、純粋な心の持ち主だった。そして、何よりも、加納を慕ってくれた唯一の女性だった。当時、新入社員の万里子はアパレル部所属の二十三歳。加納との出会いは、このシェイプアップ・ルームの一角で、万里子は十分にスリムな体を更に引き締めようとしていた。一方、単に運動不足の解消のために汗を流していた加納は、トレッドミルというランニング用のマシーンで隣合った時、有酸素運動をアドバイス。その後、社屋の地下にある社員バーでも何度か出会い、交際するようになった。  その頃は、加納も若く、二人は次第に親密な関係になり、やがて、深い仲になった。もし、加納がただの商社マンであったなら、万里子の希望した通り、彼女の両親に会い、それなりの意思表示をすることもできたはずだ。  しかし、加納の態度は煮え切らないものだった。その理由は、特務員という素性を隠していることが後ろめたかったし、素性を隠し続ける自信もなかった……と言うのは、加納自身を納得させるための言い訳であって、真実ではない。  実は、潜入先の組織で知り合った女性と結婚することは、警察内部では公私混同と見なされる傾向があった。つまり、特務員としては、評価を下げ、信用を失うものだった。  万里子への愛に偽りはなかった。だが、その一方で、警官としての立身出世へのこだわり、階級への未練があったことも事実である。  そんな態度を万里子は誤解したのだろう。ささいなことをきっかけに、二人の関係に亀裂《きれつ》が生じ、やがて、破局へと向かう。  その後、万里子がデザイン修業のために渡仏する、という話を耳にした時も、加納は悩み、迷い、苦しむだけで、具体的な行動を起こすことはなかった。万里子はパリに半年ほど滞在していたが、所用でニューヨークに向かう途中、飛行機が大西洋に墜落、遺骨となって帰国した。  シェイプアップ・ルームやアパレル部という文字や言葉に接する時、今でも加納の胸はうずく。    約束の五分前、新部長の小池友美は現れた。スウェットスーツの上下に、髪にはヘアバンド。襟にスポーツタオルを巻いている。 「広報の加納です」  加納が会釈すると、 「君は、ここで見かけたことはないわね」  と、手首と足首を回しながら言った。万里子との経緯は社内の一部の人間、何人かの女子社員たちは知っている。 「スポーツは苦手なもので……」  加納は事務的な口調で答えた。 「なるほど。スポーツは苦手なの?」  小池は鼻で笑いながら、マシーンのある場所に向かった。加納は後に続いた。 「それで……、記者は私の何を知りたいというわけ?」  小池はエアロバイクという自転車の形をしたマシーンに跨《また》がり、早速、ペダルを漕《こ》ぎ始めた。 「部長の全てです。出身、経歴、趣味、特技、夢……」 「それに、恋愛? 一人暮らしの熟女の私生活が知りたいというのかしら?」 「興味本位のコーナーかどうか、部長ご自身の目で、お確かめ下さい」  加納は業界誌の最新号を差し出した。 「わかったわ……」  小池はうなずき、その辺に置け、と言う風に目配せした。 「取材のポイントですが、地球環境の問題に取り組んできた新部長が、これからどのようなビジネスを展開するのか、ぜひ、お伺いしたいと申しておりました」 「そう……」  小池はリズミカルにペダルを漕ぎ続けた。そのまま、しばらく、無言で両足を動かしていたが、 「そういうことなら、取材に応じても構わないわ。ただし、一つだけ、条件がある」 「はい……」 「三島前部長のご不幸と、今度の人事を関連づけられるのは困るのよ。お祝いを言われるのは、正直言って、悪い気はしないけど、でも、手放しでは喜べない。他人の不幸を喜んでいるみたいでね」 「わかっています。その辺のことは、あらかじめ当方で、釘《くぎ》をさしておきます」 「ならいいわ。用事はそれだけ?」 「いえ。私は言わば、旅行の下見役みたいなものでしてね。部長のプロフィールを記者に説明するわけです。彼はそれを参考にして、当日のインタビューのアウトラインと言いますか、ポイントと言いますか、そういったものをおさえてから、取材をする手筈《てはず》になっています」 「何だか面倒臭いわね」 「その代わり、本番は簡単です。今日は雑談のつもりで、気軽にお答え下さい」 「わかったわ。ともかく、さっさと終わらせて」  小池はペダルを踏むリズムを早めた。  加納は持参したメモ帳の項目に従って、質問を始めた。  生い立ち、青春の思い出、趣味、特技、部長としての抱負、外資系商社の展望……。  やがて、小池の口調が滑らかになったところで、 「ところで、部長……」  加納はメモ帳を閉じて、小池に近寄った。そして、声を潜めて、 「記者は、三島部長の中東の件に関して、うすうす気づいているようなんですけど、いかがしますか?」  と尋ねて、反応を見た。刑事が取調室で行う誘導尋問と同じ手法である。 「中東の件?」  小池の表情に変化はなく、ペダルを踏むリズムにも乱れはない。 「去年の秋の件ですよ。ヨーロッパからの帰途、中東に立ち寄られたでしょう?」 「ヨーロッパからの帰途に? 初めて聞いたわ。何か、問題があるの?」  小池は逆に聞き返してきた。或いは、それが狙いだったのかも知れない。 「ともかく……」  加納は慎重に言葉を選んだ。下手な質問をすると、足をすくわれることになる。 「差し障りがあるようでしたら、あらかじめインタビュー項目から外すよう申し入れておきますけど……」 「外す? そんな必要があるのかしら?」 「………」  会話がかみ合わない。加納は戸惑った。  広報担当という立場を名目に、中東の件にこだわることもできる。しかし、それには、虚偽を交えた誘導尋問が必要だった。過去の経験から、虚偽は新たな虚偽を必要とし、次第に膨らんで行って、やがて、手に負えなくなる。 「かしこまりました。では、インタビュー項目については、フリーハンドということにします。その方が記者も喜ぶでしょうし」  加納は安全策を取った。だが、諦めたわけではない。記者にリークして、徹底的にインタビューさせるつもりだった。ところが、 「もし、三島プロジェクトのことだったら、私が部長である限り、冷凍庫[#「冷凍庫」に傍点]から取り出すつもりはないわよ」 「……冷凍庫?」 「確かに、世界から緑は減り続けているし、日本の砂漠緑化研究は世界でもトップレベルだわ。それは認める。でも、まだ実験室の段階なのよ」 「………?」  依然として、小池が何を言っているのか、わからない。 「新薬に臨床試験が必要なように、画期的な技術であっても、実際の砂漠で試してみる必要があるのよ。その意味で、一時凍結、という副社長の判断は正しいと思う」  小池は続けた。 「緑を増やすとか、植林するとか、耳触りはいいけれど、人工的に緑を増やすことも、ある意味での環境破壊なのよ。辛うじて保たれている現在のバランスを崩す、という点ではね。人工的な、文字通り不自然な森や緑というものが、全く新しいウィルスを生まないとは断言できないでしょう? 自然とか生態系とかは、予測ができない。良きにつけ悪しきにつけ、環境に手を加える際は、慎重な上にも慎重を期す必要があるのよ。だから、私は環境調査室の責任者として、反対意見を表明したというわけ」 「………」  どうやら三島は砂漠緑化に取り組んでいたらしい。しかし、たかが砂漠緑化のために、隠密裡《おんみつり》に行動する必要性があるだろうか? 「砂漠緑化については、他の商社でも取り組んでいるわ。取り立てて隠し立てするほどのことはないと思うけど?」  小池の答えも、それを明らかにしている。ならば、三島は何のために隠密行動を取ったのか? 「三島部長は砂漠緑化の他にも、何らかの目的があったんじゃないかと思いまして」  そう考えざるを得ない。 「ずいぶん君は三島プロジェクトにこだわるわね。もしかして、記者の狙いは、そっちなの?」  小池が横目を使った。 「とんでもない。記者の興味は、環境事業部の新部長についてですよ。言うまでもないことです」  加納は声に力をこめた。 「そう? どうでもいいけど、三島プロジェクトについてのインタビューだったら、私は遠慮するわよ。もし、知りたいんだったら、何と言ったかしら、ええと……」  小池は四、五回、ペダルを踏んでから、 「そうそう……。確か真鍋とか言ったわ。彼にでも説明させることね」 「真鍋?」 「今度の人事異動で配置換えになったけど、三島部長の下では、結構、頑張っていたようだわよ」  と言うと、小池は猛然とペダルを漕ぎ始めた。ラストスパートという感じだった。やがて、次第にクールダウンして行き、エアロバイクから下りた。  加納は後ずさりし、見守るだけだった。小池は激しい息づかいのまま、両手を腰に当て、しばらくフロアを行ったり来たりしていたが、やがて、呼吸が整うと、床の上に腰を下ろし、ストレッチ運動を始めた。柔軟な体だった。 「ちょっと、足を押さえて……」  出し抜けに小池が言った。 「足?」 「そう。ここの腹筋マシーン、ガタついて、やりづらいのよ」 「は、はい……」  加納は上着を脱ぎ、小池の足首を両手で押さえた。  腹筋運動が始まった。単に体を起こすだけではなく、上半身を両足に密着させたり、左右に捻転《ねんてん》させるという本格的なものだ。  薄いグレーのトレーナーが汗に濡《ぬ》れ、体の線を露《あらわ》にしていた。四十代|半《なか》ばとは思えない引き締まったプロポーション。襟のタオルを外したため、胸元がはだけ、目のやり場に困った。  上気した顔が近づくたびに、ムッとする体臭と共に、小池の熱い息が加納の耳元にかかる。加納の下半身が心ならずも生理的な反応を示し、自然に腰が引けた。すると、 「もっと、しっかり掴《つか》んで!」  小池が叱責《しつせき》するような声で言った。 「は、はい……」  加納は両手に力を込めた。      3  早速、真鍋という人物について、調べてみた。  小池の言う通り、一週間前に食品部に配置換えされていた。担当はニュージーランドから直輸入し販売している缶ジュース部門。そこの�お客様相談室�が真鍋の新しい職場だった。  昼休みに電話すると、代わりに出た女子社員が、空中公園にいる、と答えた。空中公園とは隣のビルの最上階にある植物フロアのことである。  加納は早速、空中公園に向かった。  そこには様々な観葉植物が並べられ、人工の滝が水しぶきを上げていた。鳥の鳴き声も聞こえ、目を瞑《つぶ》ると、確かに、公園にいるような気分になる。  真鍋を見つけ出すまで、十五分以上もかかった。空中公園のスペースは広く、サラリーマンの数も予想以上に多かったからだ。  真鍋は水の流れに面した日当たりのよいベンチで、目を閉じ、日光浴の最中だった。  その前に立ち、二度ばかり名前を呼ぶと、まぶしそうに、手を目の上にかざして、 「えーと……、君は……」 「広報の加納です」 「道理で、見覚えのある顔だ。君もストレスからの逃亡者というわけか……」  真鍋は再び、目を瞑った。 「座ってもいいですか?」 「いいとも。ここは実に居心地がいい。オゾンを吸っていると、一瞬だが、俗世を忘れられる。仕事も、家庭も、自分のこともね」 「失礼します」  と、隣に座って驚いた。微《かす》かに、アルコールの臭いがしたからだ。だが、そのことには気づかないふりをして、 「お聞きしたいことがあるんですが、よろしいですか?」  早速、質問にかかった。 「あまり難しいことは勘弁してよ」  真鍋は目を閉じたままだった。 「三島プロジェクトについてなんです」 「三島プロジェクト? 何のこと?」 「砂漠緑化のプロジェクトですよ。三島部長とご一緒に進められていたそうですね?」 「砂漠緑化か。そう言えば……、そんなこともあったかな……」 「惚《とぼ》けないで下さいよ。事情は小池部長から伺っています」 「小池部長?」  微《かす》かに目が開く。 「今度、業界誌のインタビューがありましてね。アレンジのために、いろいろお話をうかがったんです。その時に、三島部長の話題になりました」 「なるほど。新部長殿は、俺たちのことを、あまりよくは言わなかったろう?」  真鍋は再び、目を閉じた。 「と言うより、見解の相違、と言う感じがしましたけどね。ただ、私には、三島部長のプロジェクトは単に砂漠緑化だけを目指していたんじゃないような気がしまして……」  と言って、表情を窺《うかが》うと、 「さすがは広報だ。その通り。単純な砂漠緑化じゃない。砂漠緑化という呼び方をしたのは、国内の他社に内容を知られたくなかったからだ」  真鍋は満足気に微笑《ほほえ》んだ。 「具体的には、どういう?」  加納は尋ねた。 「一言で言えば、よその商社が取り組んでいるような、単に砂漠を緑化して、食糧を生産しようというプロジェクトじゃない。ODAを利用できる国内大手の商社ならともかく、うちみたいな商社じゃ、そういうプロジェクトでは採算が取れない」  ODAとは政府開発援助のこと。それは確かに発展途上国を援助するのだが、同時に、プラント輸出する日本企業と商社を援助[#「援助」に傍点]していることも事実である。 「今、地球の陸地の四分の一で、砂漠化が進行しているということを知っているかい?」 「四分の一?」 「その通り。ちなみに、サハラ砂漠は毎年五キロメートルずつ、南に広がっている。三十年前、野生動物が溢《あふ》れていた草原は、今は見渡すかぎりの砂の海だ。待ったなしで、植林が必要なんだが、現地人は伝統的に、木は天の恵み、という考え方で、植林の発想がない。それでなくても、生活が貧しく、食うのが、やっとだ。一セントの金にもならない植林作業なんて、やる余裕がない」 「………」 「ところが、三島部長は、それを逆手に取った。もし金のなる木[#「金のなる木」に傍点]だったら、放っといても緑が増えるんじゃないか、とね。これが、オアシス・プロジェクトの出発点だった。オアシス・プロジェクト。なかなか夢のあるネーミングだろう?」 「はい。でも、金のなる木なんて……」  加納は首を傾《かし》げた。 「あるとも。そこが三島部長のすごいところだった。すごいと言っても、コロンブスの卵みたいな発想でね。言われてみれば、簡単なことだった。三島部長は植える木の種類を選んだだけだった。つまり、パパイア、バナナ、カシューナッツ、グァバ、マンゴ等々……」 「果物の木ですか?」 「そう。果物が実れば、現金収入になる。少なくとも、食糧にはなるわけだ」 「なるほど。それで、金のなる木、ですか……」 「植林の難しさは、苗木を作って植えることだけじゃないんだ。むしろ、アフターケアが問題でね。植えた苗木の三十パーセントも残れば、上出来だとされている。水をやったり、砂をどけたり、大変なんだ。ましてや、自分の飲む水にも事欠いている現地人に、そんなことをやらせることは不可能に近い」 「だが、メリットがあれば、木の世話をするというわけですね?」 「その通り。木に果物が実る、と思えば、緑の重要性を説明しなくても、懸命に育てるはずだ。枯れそうになれば、水をやるし、薪《まき》にするために切り倒すこともなくなる」 「でも、環境調査室は反対したんでしょう?」 「あの小池というお方は、何事も前例のないことについては賛成しない。だが、上の方はオアシス・プロジェクトには乗り気だった。フルーツ生産が盛んになれば、緑化事業のために、わざわざ現地人を金で雇う必要もないわけだ。それどころか、現地政府との交渉次第で収穫物の取り引きを独占することも可能だ。苗木と水を提供するだけでね」 「でも、その水の提供というのが難問なんでしょう?」 「まぁね。だが、誰もが前向きだったよ。ある役員なんて、砂漠緑化をビジネスと切り離し、ボランティア活動としたらどうか、とまで提案している。リンツグループのイメージアップになる、と力説した。そういう計算もあった。損して得取れ、という側面もあったわけだよ。ところが、ある日、突然、その風向きが変わった。週一の会議は開かれなくなるし、上層部からのお呼びもかからなくなった」 「どうして変わったんです?」 「さぁ、どうしてなのかな? いまだにわからない」 「わからないって……、聞かなかったんですか?」 「聞いたさ。だが、部長は時機が来たら話す、と言うだけでね。それ以上、何も話してくれなかった。そのうち、あんなことになってしまって……。残念だよ」 「ひょっとしたら、去年の秋の、ヨーロッパとアフリカ、それに……、中東だったでしょうか? 視察旅行の結果に、何か理由があるんじゃないですか?」  と、さり気なく、中東という言葉をまぶしてみた。しかし、 「視察先はドイツ、フランス、モーリタニア、それに、チャドだよ」  と、中東視察を否定してから、 「視察旅行の結果が影響したとは考えにくいな。視察は大成功だったと聞いている」 「真鍋さんも同行されたんですか?」 「いや。会社側は三島部長だけだった」 「会社側? すると、会社以外にも同行した人がいるんですか?」 「当たり前だ。三島部長は砂漠の専門家じゃない。プロジェクトの推進責任者だ」 「一体、どういう方たちが同行したんです?」  いつの間にか、詰問調になっていた。案の定、 「おいおい、まるで、刑事の取り調べだな。さっきから不思議に思っていたんだが、なぜ、そんなに知りたがるんだ?」  真鍋は胡散臭《うさんくさ》そうな目を向けてきた。一瞬、ドキリとしたが、とっさに、 「なぜって? それは小池部長から、三島プロジェクトについては、真鍋さんから直《じか》に聞くように、と指示されたからですよ」  と言い訳した。すると、たちまち、真鍋の目から警戒の色が消えて、 「また、あのオバさんか?」  と舌打ちした。 「もし、何でしたら、小池部長にお確かめ下さい。この時間は、たぶんシェイプアップ・ルームでしょう」  加納が携帯電話を取り出すと、 「わかったわかった。えーと、何の話だっけ?」 「視察に同行した方々について、です」 「ああ、そうか……。同行したのは大学の先生方三名だよ」 「大学?」 「うん。宮城大学、石川大学、山陰大学で植物学とか、海水の淡水化とか、太陽発電とか、砂漠緑化の必要な分野の専門家だ」 「その三人の先生がアフリカの砂漠を視察されたんですね?」 「まぁ、そういうことだ。で……、今度は、その先生方の名前か?」 「はい。できれば……」 「君の質問は切りがないな」  真鍋は苦笑し、腕時計を見て、 「ご要望に応《こた》えたいが、残念ながら、もう時間だよ」  と言って、立ち上がった。その場で、深呼吸をして、伸びをする。 「君のせいで、今日の昼休みは、さんざんだった。今の自分にとって、ここでの一時《ひととき》だけが、命を感じる時なんだけどね」 「すみません。つい夢中になってしまうたちなもんで……」  加納は頭をかいた。 「まぁ、いいさ。続きは社に戻りながら話そう。答えられるものは答える。だから、邪魔をするのは、これっきりにしてくれよ」  真鍋は上着の襟を人指し指に引っかけ、肩に担いで歩きだした。加納は真鍋に歩調を合わせながら、更に質問を続けた。  視察に参加した大学関係者の氏名。視察の日程とコース……。  アフリカの砂漠を視察したという関係者に確かめれば、中東の件は明らかになる。  加納はそう思った。      4  リンツ商事の正面玄関を見通すことのできる場所は限られている。加納は時々、その付近に不審な駐車車両がないかどうか、目を配った。捜査二課の動きが気になったからだ。容疑者の身柄確保の方針が決定した場合、必ず、数日前から尾行がつく。  そのことが東京を離れたくなかった理由の一つでもある。もし、万が一、捜査二課が小池に対する事情聴取に踏み切った場合、柳沢から緊急指令が下されることは確実だった。特務員として迅速な対応をするためには、三つの大学は東京からあまりにも遠すぎた。  つまり、加納は最も安易な方法に頼らざるを得なかったわけだ。  それぞれの大学事務室に電話すると、まず、宮城大学の井出教授は肝炎で入院中とのことだった。次に、石川大学の吉永助教授は講義中で、最後に、ようやく山陰大学の川村助教授と電話がつながった。  加納は自己紹介をしてから、 「ところで、先生。視察中、三島部長とは、ずっとご一緒でしたか?」  早速、質問にかかった。 「ああ、一緒だった」  ぶっきらぼうな答え方だった。 「視察のコースですけど、確か、ヨーロッパからアフリカ。そして……」 「日本だ」 「日本? 中東へは立ち寄られませんでしたか?」 「そんな所へは行ってない」 「先生でなく、三島部長はどうです? チャドに滞在されている間、別行動を取られたというようなことはありませんでしたか?」 「別行動? さぁな。三島氏を含めて、僕たちは専門分野が違う。それぞれが、それぞれの立場で行動していた。そういう意味じゃ別行動だよ」 「でも、朝と夜くらいは、ご一緒だったんでしょう?」 「もちろん、一緒だったよ。一緒じゃないと、まずいのか?」 「まずいとか、そういう問題じゃなく、その実際に」 「君、ちょっと、くどいぞっ」  川村が突然、強い口調に変わった。 「は?」 「何が、は? だ。出し抜けに電話をかけて来て、何事かと思えば、つまらんことを聞きよって、このバカモンが」 「す、すみません。ご無礼は重々、承知しております。でも……」  と言い終わる前に、電話は切れていた。  確かに、俺はバカモンだ……。  加納は受話器を戻した。そして、席を立って喫煙コーナーに向かったのは、一服して、気分を変えたかったからだ。  ところが、ほんの五、六歩、行ったところで、電話が鳴り出した。走って戻って、受話器を掴《つか》むと、石川大学からだった。何の工夫もない、そして、気持ちの整理がつかないままの折衝だった。 「吉永と申しますが、先程は電話をいただいたそうで」  同じ助教授だが、言葉遣いが、川村とはまるで違う。 「お忙しいところ、誠に恐れ入ります。電話でお聞きするのは、無礼千万とは存じますが、実は……」  加納もへりくだった。しかし、当然のことながら、質問内容は同じである。質問しながら不安が胸をよぎった。そして、その予感の通り、 「申し訳ありませんが、そういうご質問には、お答えできませんね」  吉永が答えた。 「どうしてでしょう?」 「プライベートに関しては、申し上げられませんよ」 「プライベート? そういう問題ではなく、これは砂漠緑化の」  と、業界誌の取材を名目にしようとしたのだが、 「いいえ。三島さん個人に関することですからね。些《いささ》かでもプライベートに関することは、私は話したくない、というだけのことです」 「しかし……」 「私は別に意地悪で、こんなことを申し上げているんじゃないんですよ。以前、似たようなことで、学生に訴えられたことがありましてね。それ以来、いかなる場合でも、他人のプライバシーは一切、口にしないことにしているんです。そういう事情ですから、どうかご容赦下さい」 「そうですか……。わかりました……」  と引き下がらざるを得なかった。加納は受話器を戻して、今度は、足早に席を離れた。後ろで電話が鳴っても、引き返すつもりはなかった。  喫煙コーナーで熟慮すること三十分。二度の失敗で、加納は電話での問い合わせを諦《あきら》めることにした。  幸い、まだ宮城大学の井出教授が残っていた。大学のある仙台までは上野から新幹線で、片道一時間四十二分。アクシデントさえなければ、十分に対応可能な距離である。  加納は受話器を取った。ダイヤルした先は井出教授の自宅。病気見舞いを口実に病院を訪れ、面談するつもりだった。ところが、 「東京からでは遠いですから、お気持ちだけで、十分です」  井出の妻は言った。 「いえ。ぜひ、お見舞いをさせて下さい」  加納は食い下がった。井出を逃したら、後がない。しかし、相手は遠慮する一方だった。 「主人は結構、見栄っ張りなところがありましてね。みじめな姿を見られたくないそうなんです」 「そうですか……。では、失礼ですが、ご退院はいつごろに?」  と尋ねると、相手が沈黙した。雄弁な沈黙だった。おそらく回復が困難な病状なのだろう。 「大変、失礼しました。では、ご遠慮申し上げることに致します。どうぞ、お大事に」  加納は静かに受話器を下ろした。    翌日の昼休み、加納は再び、空中公園へ足を運んだ。  真鍋は前日と同じ場所に座っていた。加納は無言のまま隣に座った。この日もアルコールの臭いがする。  声をかけなかったのは、聞くべきことが尽きていたからだった。加納は行き詰まっていた。  ベンチに腰を下ろして、一、二分後、 「一口、やってみる?」  真鍋がペットボトルを差し出してきた。ラベルはウーロン茶で、色も似ていたが、中身が違うことは明らかだった。 「いただきます」  加納はそれを受け取り、一口飲んだ。思った通り、ウィスキーだった。あらかじめ水で割っているらしく、口当たりが軽く、思いの外、飲みやすかった。 「断っておくけど、俺はアル中なんかじゃないぞ。人生のクラッチをトップからローに入れ換えただけのことだ」 「クラッチ?」 「そう。もう必死になってハンドル操作をする必要もなくなったしね。それに、今の仕事はほろ酔い気分の方が、かえってうまく捌《さば》ける……」  だが、噂によれば、�お客様相談室�での真鍋の評判はよくない。苦情に対して、茶化すような言動が目立つため、電話応対は禁じられているとのことだった。 「ところで、今日は、どんな質問?」  真鍋が言った。 「ありません。もう邪魔するな、とおっしゃったでしょう?」 「あれは冗談だよ。昨日の君は迫力があった。久しぶりで、熱っぽい語り口を聞いて、懐かしかった」 「単に、もがいているだけのことです」 「もがける場所があるだけ、幸せと思うべきだ。誠に、うらやましい……」 「実は、今日は謝りに来たんです。昨日、あの後、大学の先生方に電話しましてね。その中のお一人を怒らせてしまいました。いや、たぶん、後のお二人も、ご不快にさせたことでしょう」 「なぜ?」 「面識もないのに、軽々しく電話で質問したからです。考えてみれば、怒るのは当たり前かも知れません」 「一概にそうは言えない。どんなことを聞いたんだ?」 「オアシス・プロジェクトについてですよ。あれほど素晴らしいアイデアなのに、どうして中止させられたのか。興味をそそられましてね。理由が知りたくて、お三人に視察中のことを、お聞きしたんです」 「それが、怒らせることになったの?」 「ですから、質問の内容でなく、質問の仕方ですよ。いや……、結局は、質問の内容だったかも知れません。プライバシーに関することでしたからね。もちろん、私の方には、そんなつもりはなかったんですけど……。とにかく、謝りますよ。申し訳ありませんでした」  加納は頭を下げた。 「よせよ。俺みたいな落ちこぼれに、そんなことをする必要はない。それより、聞かせてくれ。先生方は、どんなご様子だった?」 「最初にお話したのは山陰大学の川村助教授でした。初めのうちはよかったんですけどね。話が三島部長のことに及ぶと、急に不機嫌になられて、このバカモンが、と叱《しか》られました」 「このバカモンが、か。やっぱり思った通りだ」  真鍋が笑った。だが、加納を見て、 「失礼、失礼。でも、バカモンは川村先生の口癖でね。大阪人の、アホやなぁ、という程度の意味だ。あまり気にしなくていい」 「いや、仮に、そうだとしても、私の場合は違います。たぶん、言葉通りでしょう」 「だったら、バカモンも言わないで、電話を切られているさ。その他の先生方は?」 「石川大学の吉永助教授は言葉遣いは恐縮するほど丁重でした。でも、今にして思うと、川村先生以上に、厳しく拒否されたような気がします」 「わかるよ。あの先生は初対面の人物には慇懃《いんぎん》無礼と思えるほど、バカ丁寧なんだ。でも、親しくなると、なかなか愛嬌《あいきよう》のある人だ。で……、宮城大学の井出先生は、どんなだった? 駄ジャレで面食らわなかったか?」  真鍋が目を輝かせた。何かを期待しているようだった。 「いえ。井出先生とは、お話できませんでした。肝炎で入院中だそうです」 「入院中?」  真鍋の顔が真顔になった。そして、 「肝炎って……、病状は?」 「わかりません。ただ、奥さんの口ぶりでは、すぐに退院できるような状態ではなさそうです」 「そうか……。元々、お体は丈夫な方じゃないんだ。長期入院となると、砂漠はもう無理かも知れんな」  真鍋は伏目がちにつぶやき、小さくため息をついてから、ペットボトルに手を伸ばした。      5  業界誌�カンパニー�の記者はカメラマン一人を伴って現れた。  加納は二人を打合せ室に案内し、コーヒーでもてなした。記者のタイプはいろいろだが、カメラマンというのは、押しなべて心配性なのだろうか。大抵がコーヒーを一すすりしただけで、すぐに機材点検を始める。この時もそうだった。  騒々しい音を立てるカメラマンを横目に、加納は記者に耳打ちした。インタビュー項目を一つ増やしてもらうためだった。  なぜ、オアシス・プロジェクトを中止したのか?  それは中止の理由を探り出すというよりは、中止の真偽を確かめるための質問だった。三島の中東における行動が、いかなる内容のものであれ、間違いなく中止されていれば、ひとまず安心できる。  予定時刻の十分前。加納は二人を環境事業部へ案内した。  部長室に入ると、 「時間通りね。気に入ったわ」  小池が椅子《いす》から立ち上がった。当然のことながら、いつもより化粧が濃い。  記者とカメラマンが名刺を差し出す。小池は接客用のソファーに二人を座らせ、�カンパニー�の記事に対する感想を述べた。こりゃ参りましたな、と、記者が頭をかく。相手をおだてるいつもの手だ。  上機嫌になった小池が、煙草いいわよ、と灰皿を顎《あご》で示した。その時、ドアノックの音がして、新人社員がティーポットを持って現れた。女性ではない。色の浅黒いスポーツマンタイプである。  記者が感心したように、顎を引く。それを待っていたかのように、小池は職場と男女差別に関する持論を展開。すでに、取材態勢に入っていた。  ここでも、カメラマンは神経質で、せわしない。出された紅茶には口もつけずに、席を立ち、ゴソゴソと撮影準備にかかった。やがて、露出計を取り出し、小池の肩付近に差し出して数字をチェック。加納は作業の邪魔にならないように席を立ち、部屋の隅に移動した。 「それでは、始めたいと思います」  記者の口調と表情が変わった。楽屋での雑談と、舞台上でのセリフほどの差がある。 「まず始めに、スポーツがお好きと承っておりますが、どのようなスポーツをなさるんです?」  記者は趣味の話から入った。  続いて、学生時代は乗馬競技でオリンピックの代表候補になったこと。生まれ故郷には著名な女流歌人の歌碑が立っていて、それに影響されたこと。三十代にはイタリア人と結婚し、妊娠流産の後、離婚して、人生観が変わったこと……。いずれも、あらかじめ加納がインタビュー項目として許可を得たものばかりだった。  更に、部長としての抱負、外資系商社の展望、と続き、ようやく、 「ところで、部長。しばらく前、リンツ社は砂漠緑化に取り組んでいる、ということを耳にしたことがあります。大変、ユニークなプロジェクトだと評価する方もいれば、問題あり、と言う方もいるようです。新部長としては、どうなさるおつもりですか?」  と質問した。相手は社外の人物、しかも、マスコミ関係者となれば、いい加減な返答はできないはずだ。  ほんの四、五秒だったが、小池が言葉に詰まった。やがて、 「砂漠緑化に関しては、すでに他の商社でも取り組んでいるところですし、当社としては、もうしばらく諸情勢を見極めたいと考えております」  まるで国会答弁のようだった。 「もうしばらく、とは一体、どれくらいの期間でしょうか? また、諸情勢とは、いかなる情勢なんでしょうか? 具体的にお答え下さい」  これは加納が依頼した質問ではない。記者の�アドリブ�だったが、正に加納の知りたい内容だった。 「それは……」  小池は何かを言いかけて、テーブルの上を一瞥《いちべつ》した。そこには小型のテープレコーダーが置いてある。 「しばらく、とは、何年とか、何カ月という風に示すことのできない期間、と、ご理解ください。それは……諸情勢に関わることだからです。そして……、その諸情勢とは、日本国内の主に経済情勢……、さらには……、相手国の政治および社会情勢も含む、と、ご理解ください……」  しどろもどろの苦しい答え方だった。記者は更に畳みかける。 「相手国の政府および社会情勢ということですが、具体的にはどこの国なんです?」 「それは……」  小池が再び言葉に詰まった。  ひょっとしたら、思惑通りに運ぶかも知れない……。  加納は思わず拳《こぶし》を握りしめた。ところが、次の瞬間、 「ここからはオフレコ」  小池はテープレコーダーを指で示した。記者が停止ボタンを押す。すると、 「悪いけど、他の質問にしてくれない?」  と言って、ティーカップに手を伸ばした。 「どうしてです?」 「砂漠緑化プロジェクトに関しては、具体的なコメントは差し控えたいのよ。前部長の推進していたプロジェクトだし、好意的な評価をしない限り、批判したと受け取られる可能性があるわ」 「ほう。で、実際のところ、そうなんですか?」  記者は更に食い下がったが、 「ノーコメント」  小池はそっぽを向いた。 「そうですか。では……」  記者は手元の取材メモに目を落とした。すると、 「もし、差し支えなかったら、今、力を入れているプロジェクトについて話したいんだけど……」  小池が提案し、記者が、どうぞ、とうなずいた。 「私たち先進国の人間にとって、今後の課題は何かを新たに創造したり、構築したりすることではなく、これまでに生み出したものを処理したり、リサイクルすることだと思うんです」  たちまち、饒舌《じようぜつ》な小池がよみがえった。 「その代表的なものは、何と言っても、ゴミ問題でしょう。ある学者の研究によれば、日本人は現在、一人当たり一日約一キロのゴミを出しているそうです。これは文明病とも言えるものかも知れません。発展途上国も、やがて、この文明病に悩ませられることは明白です。おそらく、この問題を解決しない限り、人類に未来はないと言っても過言ではありません。わが社は、この難問に立ち向かいました。オランダで開発された最新のゴミ処理技術を導入し、半年後には日本国内でモデルプラントを稼働させる予定です。この種のプラントは、すでに国内の大手商社でも手がけておりますが、わが社の場合、建設費で四分の三。稼働コストでは三分の二という画期的なものです」  小池のボルテージは上がり、顔面が微《かす》かに紅潮するほどだった。記者もその迫力に呑《の》み込まれたように、じっと聞き入っている。  もはや、オアシス・プロジェクトが話題になる余地はなかった。  業界誌記者という部外者を利用したのは、上下関係に影響されることなく、核心部分に言及できると思ったからである。しかし、単に対等という力関係だけでは、決して情報は得られないということを、加納は思い知らされていた。    玄関ホールまで記者を見送り、加納は広報室に戻った。自席で一服しようとした時、電話が鳴り出した。さすがに受話器を取る気分にはなれない。落胆が加納の疲れを増幅させていた。  呼び出し音が七、八回も鳴ると、何人かが顔を上げた。その視線に促されるようにして、受話器を掴《つか》んだ。 「宮城大学の、井出と申しますが」  穏やかで品のある声だった。加納は思わず、組んでいた足を外した。 「こ、これは、どうも……、初めまして。加納と申します。先だっては、ご自宅の方へ突然、お電話を差し上げまして、申し訳ありませんでした」 「いえいえ。こちらこそ留守しておりまして、失礼しました。それで……、私に何か、ご用件でも?」 「………」  このバカモンが、という山陰大学の川村の声が、まだ耳の奥に残っていた。相手はプライドの高い大学教授。機嫌を損ねないためには、言葉遣いに気を配ることだ……。 「実は、そうなんです、先生。ご都合のよろしい日時にお邪魔させていただこうかと思い、お電話を差し上げたのですが、奥様から、ご病気と伺い、びっくり致しました。それで、遅ればせながら、お見舞いを、と思ったのですが、その必要はない、ということでしたので、ご遠慮申し上げた次第です」 「そのことは妻から聞いております。勝手とは思いますが、病醜をさらしたくはありませんのでね。面会は一切、ご遠慮申し上げております。何しろ、末期ガンのため、顔色も悪く、骸骨《がいこつ》同様の醜い姿ですので、ご容赦下さい」 「何ですって?」  加納は耳を疑った。 「いえ、妻は私に隠していますけどね。実は、進行性の肝臓ガンということはわかっているんですよ。残された命は、おそらく半年、まぁ、長くても、十カ月。いや……、そんなには無理でしょうな」 「………」  加納は言葉を失った。 「今、病院の娯楽室から電話しているんです。今日は天気がいいし、朝から体調がいいんですよ。東京はどうです? 晴れていますか?」 「こ、こちらですか?」  加納は窓を見た。スモークガラスのため、外の様子はわからない。だが、 「はい。東京もよく晴れていますよ」  なぜか、そう答えるべきだと思った。 「そうですか。たぶん、そうじゃないかと思いました。ところで、ご用件とは、電話かファクスで済ませられるものですか?」 「まぁ、電話で済ませられると言えば、済ませられますけど……」  加納は躊躇《ちゆうちよ》した。 「そうですか。では、どうぞ」 「よろしいんですか?」 「はい。先程、申し上げましたように、面会はお断りしています。それに、こうやって電話でお話できるのも、体調のよい時だけなんですよ。ですから、今のうちに、どうぞ」 「そうですか。では、お言葉に甘えて、お尋ねいたします」  次の瞬間、加納は商社マンから特務員に戻っていた。 「お尋ねしたいのは、去年の秋の海外視察のことなんです。フランスからモーリタニアを経てチャドに向かわれたということですが、私どもの三島は終始、先生方と行動を共にしていたか、どうか。それを確認したいのですが……」 「………」  井出が沈黙した。その理由が質問の内容にあることは明白だった。そして、山陰大学の川村や、石川大学の吉永が回答を拒否した理由も、実は質問の内容にあったことを、この時、加納は直観した。 「弱りましたな……」  井出が低い声で言った。 「もし、何でしたら、先生からお聞きしなかったことにしてもよろしいですし、ここだけの話ということにしても、よろしいんですけど」  もちろん、空手形である。だが、 「私の心配は、そういうことではありません。三島さんの不利になるようなことは申し上げられないということなんです。それに、実を言うと、視察時のことは口止めされているんですよ」 「口止めって、誰にです?」 「三島さんご自身にです」 「なるほど……」  状況から考えて、井出ほどの立場の人物が、三島との約束を破るとは思えなかった。となれば、その約束が無意味であることをアピールするしかない。 「先生は、三島部長の不利になること、と、おっしゃいましたけど、現在の環境事業部のトップは小池という者なんです。彼女が取り組もうとしているのは、もっぱらゴミ固形燃料化のシステム開発でしてね。間もなく、約六十億円のプラント建設も始まるんです」 「………」 「つまり、砂漠緑化プロジェクトは過去のもの、いや、それどころか、環境事業部の新体制下では、批判の対象とされている状態なんですよ。失礼ながら、三島前部長の有利不利を云々する必要はないように思います」  加納は突き放すように言った。実際、その通りだと思ったからだ。 「なぜ加納さんは、三島さんの行動をお知りになりたいんです?」  井出が尋ねた。 「私は事実を事実として捉えたいだけです。一広報マンとして、意図的な中傷や、いわれなき批判を黙認したくないからです」  模範的な回答のはずだ。しばらくしてから、 「わかりました……」  声の調子で、井出がうなずいているのがわかった。 「そういう事情であれば、申し上げましょう。約束を破ることになりますけど、遠からず、私は三島さんのお側に参ることになりますのでね。その時に謝れば、たぶん許していただけるでしょう」 「………」  受話器を握る手に力がこもる。 「三島さんは、チャドには一日ほど滞在していましたが、翌日には、エジプトのカイロに向けて出発されました」 「……カイロへ?」 「そうです」 「何のためでしょう?」 「もちろん、砂漠緑化に関する調査のためです」 「すると、単独ではありませんね? どなたと一緒に?」 「いいえ。私たちはチャドに留まりました。三島さんはカイロで、栃木大学の宇津木研究室のスタッフとコンタクトする、とおっしゃっていました」 「栃木大学の宇津木研究室?」 「そうです。宇津木先生は衛星写真の画像解析の先駆者ですからね。画像解析の結果と実際の砂漠の状態を比較するのが目的のようでした」 「すると、皆さんとは別に、もうお一人、視察旅行に参加されていたわけですね?」 「はい。まぁ、そういうことになります」 「なぜ、別行動しなければならなかったんでしょうか? それに、なぜ口止めなんかをしなければならなかったんでしょうか?」 「実は、カイロへは宇津木先生の代理として、女性の講師がお出でになったそうです。別々に行動したのも、三島さんが口止めされたのも、それが理由だったんじゃないでしょうか」 「女性の講師……」 「はい。余計なことかも知れませんけど、三島さんの名誉のために申し上げますが、その女性と三島さんは、特別の関係ではないと思います。もし、そのような関係があれば、わざわざ私たちに女性のことを話しませんよ。黙って、カイロへ行くはずです。そうは思いませんか?」 「はい、そう思います。それに、口止めするくらいなら、話さない方が安全でしょう」 「おっしゃる通りなんです。あなたが頭のよい方なので、ホッとしました……」  突然、通話に雑音が混じった。もしもし、と数回、呼ぶと、 「すみません。ヘルパーさんが迎えにきました。病室に戻らなくてはなりません。オアシス・プロジェクトのことを、よろしくお願いしますよ」 「わかりました。どうか先生、お大事になさって下さい」 「ありがとう、ありがとう」  と繰り返して、井出の電話は切れた。 [#改ページ] X月X日 通常報告(電話) [#ここから1字下げ] 「やっぱり、ただの鼠《ねずみ》じゃなかったか。衛星写真の画像解析とは恐れ入った。何が砂漠緑化だ。糞《くそ》ったれめが」 「でも、砂漠化の進行状況を調べることにも、衛星写真は活用されるそうですよ」 「今は何にでも活用されるよ。渡り鳥の調査だと言っても、のんきな連中なら信じるかも知れん」 「………」 「場所を考えろよ。北アフリカから中東にかけては、アメリカ国務省が指定したテロ支援国家七カ国のうち、五カ国が集中しているんだぞ。その辺りで、人工衛星の画像解析の専門家がうろついたとすれば、それなりの推測をするべきじゃないのか?」 「はい。まぁ、そうだと思いますが……」 「カイロでコンタクトしたのは、栃木大学の宇津木教授の一番弟子で、えーと、青山という助教授だって?」 「いいえ、講師です。まだ、三十代の若手だそうです」 「わかった。素性を洗ってみよう。それから、喜んでくれ。我々にとっては嬉《うれ》しいニュースが飛び込んできた。捜査二課は贈収賄捜査を打ち切ったぞ」 「打ち切った? なぜです?」 「二課長の鶴の一声だよ」 「………?」 「実は、三島が死んだ日のことなんだが、二課の捜査員の尾行がついていたらしい」 「何ですって?」 「しかも、何と、三島に勘づかれたんだとさ。まぁ、勘づかれるのは仕方がない。どんなベテランだって、ミスることはある。勘づかれたら勘づかれたで、さっさと打ち切ればいい。ほとぼりがさめた頃、また始めればいいんだ。ところがだ……」 「………」 「その時の尾行担当、功を焦ったのか、それとも、無線の指示で動いていたのか、まかれては大変だってんで、しつこく追い続けた。三島の方は後ろの方をチラリチラリと窺《うかが》っていたが、おそらく振り切ろうとしたんだろうな。突然、ガードレールを乗り越えて車道に飛び出した。そこへトラックが、ということらしい」 「それじゃ……、三島は自殺じゃなかったわけですか?」 「そういうことになる。しかも、轢《ひ》いたトラックのナンバーも取れていない。霧がかかっていた上に、三島の救護に気を取られたから、というのが、尾行担当の言い訳らしい」 「バカな。それが事実なら過失致死。いや、身内の者なら、殺人だと言って大騒ぎしますよ」 「二課長も、そんなことを怒鳴って、椅子を蹴《け》っ飛《と》ばしたらしい。真っ赤になって、そんなヤマはやめちまえ! 尾行担当はクビにしろ! だとさ」 「………」 「管理官や係長の取りなしで、クビはつながったものの、捜査打ち切りの方は待ったなし。その日の午後には店じまい[#「店じまい」に傍点]したってんだから、普段おとなしい人がキレると、すさまじい」 「でも、ちょっと妙な話ですね。パトカーに追われた違反車両が事故を起こしたという話なら、時々、聞きますけど……。所轄署は何と言っているんです?」 「とんでもない。そんなこと、所轄署に連絡できるわけがないだろう? 三島を深追いして、結果的に死なせてしまい、轢いたトラックには逃げられて、おまけに、遺体は放置して引き上げました、なんてことは、口が裂けても言えない」 「言わぬが花、知らぬが仏、ですか?」 「そういうことだ。解剖なんかされたものだから、自殺だ他殺だと、一時は色めき立ったけどね。結局、轢き逃げ事故ということで一件落着だ」 「神は天にあり、世は正しきことのみ、というわけですね」 「まぁな。だが、我々にとっては好都合だ。トップが交代するまでは、捜査二課の連中は動けない。熊さん[#「熊さん」に傍点]が冬眠しているうちに、さっさと仕事を片づけちまおう」 「と言うと、もう一度、小池部長を?」 「いや、今のうちに、三島の家族に当たってくれ。さっき君は、ちょっと信じられない、と言ったろう? 確かに、そうなんだ。早朝ジョギングの途中、目つきの悪いのに後をつけられたとしてもだ。大の大人が泡を食って車道に飛び出すとは思えない」 「いえ、私が言いたいのは、そういうことではなく、二課の捜査員の報告のことなんですよ。車道に飛び出したとか、トラックに轢かれたとか、そういうのは、尾行担当からの単なる伝聞でしょう? 多少、引き算して考えるべきではないかと思うんです」 「引き算どころか、割り算しなきゃならんかも知れんぞ。二課の捜査員の報告にしても、実際、そんなものが存在するかどうか、わかりゃしない。単に、幹部連中がそう言っている、というだけの話だ」 「………」 「ここだけの話、刑事部筋からの情報は信用できない。ま、それはお互いさまだろうけどね。ともかく、今は、彼らの言うことよりも、三島の家族の話の方が、よっぽど信用できる。もっとも、これは、君が聞き出す限り、という条件付きだ。言ってる意味がわかるか?」 「はい。すでに、生前の三島とは懇意だった、ということで通しています」 「そうそう、その調子だ。家族の涙は、まだ乾いてはいない。この時期、三島について何を聞いても怪しまれることはないはずだ。それどころか、喜ばれるだろうよ」 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   第三章 訪問客      1  仏壇は茶の間にあった。和ダンスよりも一回り大きい見事な黒檀《こくたん》造りで、中で金色の釈迦《しやか》如来像が輝いていた。その手前に、真新しい白木の位牌《いはい》が置かれている。  泰林院義山道勇居士——。  線香を立て、合掌したまま、位牌をしばらく見つめた。  やがて、座布団から下りると、 「どうもありがとうございました……」  三島夫人が深々と頭を下げた。  告別式以来だったが、白髪の数が増え、心なしか体が小さくなったように見える。 「お亡くなりになったのは、つい先頃だと感じていましたけど、時のたつのは早いものですね」  まずは月並みな決まり文句。 「そうね。こんな風にしていると、今にも書斎のドアが開いて、主人が廊下を歩いてくるような気がするの。もうこの世にいないなんて、夢を見ているようだわ」 「私たちも同じですよ。エレベーターの前に立っていると、後ろから、よぉ、なんて、肩を叩《たた》かれるような気がしましてね。時々、振り返ることがあります」 「皆さんに、そう思っていただけるなんて、主人は幸せ者だわ。私も嬉《うれ》しい……」  夫人は涙ぐんだが、すぐに、作り笑いを浮かべて、 「どうぞ、あちらでお茶などを」  と、客間の方に手を差しのべた。  加納は腰を上げ、再び、廊下に出た。玄関を入って以来、感じていたことなのだが、家の中の空間は広く、何となく空気が重い。  客間からは閉め切ったサッシ戸越しに、前庭が見えた。手入れの行き届いた植木が、音もなく風に揺れ、小鳥が枝を渡っていた。そんなごく当たり前の風景までもが、なぜかもの寂しく映った。  庭木の中に松があったので、大学時代、学生寮にあった松の話をした。その木から落ちた話をすると、客間に初めて夫人の笑い声が響いた。ようやく和やかな雰囲気になったところで、 「奥さんは、どんな風にして部長とお知り合いになったんです?」  と尋ねた。 「どんな風にして?」  夫人は布巾《ふきん》でテーブルを拭《ふ》くような仕草をしてから、 「夜の夜中に、酔った父を背負って来たのが初対面だったの」 「背負って?」 「クリスマス・イブの夜。忘れもしないわ。主人はまだ二十四歳の新米社員で、父は課長だった。私たちにも、今のあなたみたいに、若い時代はあったのよ」 「そうでしょうとも……」  加納は苦笑した。 「父が、その日の予定を尋ねたら、主人は、別にない、と答えたそうなの。それで、無理やりお酒に付き合わせ、結局、父の方が先にダウンしてしまって……」 「なるほど」 「元来、父はアルコールには弱いたちだったのよ。酔って正体をなくした姿を見たのは、後にも先にも、あの時だけ。今にして思うと、主人を家へ連れてくるために、父は飲めないお酒を飲んだのかも知れないわね」  夫人は思い出話を始めた。加納は聞き役に回る。三十数年前の出会いから始まって、結婚、新婚生活、子供たちの誕生、そして、海外赴任と帰国、マイホーム建築、と続く。環境事業部長昇進のころから、加納は次の質問にかかるタイミングをはかった。やがて、話が途切れた時、 「ところで、奥様。その後、警察から何か連絡は?」  と、切り出した。 「ええ。何度か」  たちまち夫人の表情が曇る。 「そうですか……。轢《ひ》き逃げ犯人は捕まりやすいと聞いたんですけどね」  加納は首をひねった。そして、三島の交友関係へと話題を発展させるつもりだった。私的な人間関係は、公的なそれとはかけ離れている場合がある。ところが、 「轢き逃げ犯人を突き止めるというのは、簡単じゃないらしいのよ。交通のお巡りさんじゃ手に負えないらしくて、この前は、刑事さんが来たわ。それも、二人もよ」  夫人が言った。 「刑事が?」  それは私服の交通係ではないのか? 実態を調査する場合、目立つ制服を避けて、私服に着替えて活動することがある。 「しかも、その刑事さん、交通事故とは関係のないことばかり質問して行ったわ」 「ほう……。理由は言ってました?」 「いいえ。『捜査上の決まり事なので、一通り聞かせてもらいたい』なんて、おっしゃっていたけど、そんな決まり事なんて、あるのかしら?」 「確かに変ですね。具体的には、どんなことを質問して行ったんです?」 「最初は、事故現場のことだったわ。『現場の状況が腑《ふ》に落ちない』と言うの」 「現場の状況が?」 「この辺りの拡大地図を取り出して、それを広げて、『ご主人のジョギングのコースを教えてくれませんか』なんて言うのよ」 「それで?」 「主人のジョギングコースなんて、私は地図で説明するほど詳しくはないわ。それに、玉川上水でなく、森林公園へ行く時もあったし、本人でないとわからないと答えたわ」 「刑事の反応は、どんなでした?」 「首を傾《かし》げていたわ。すると、別の刑事さんが、『事故に遭う前後、間違い電話とか、いたずら電話がかかってきたり、見慣れない人物や駐車車両は見かけなかったか』なんて聞いてきたの」 「実際のところは、どうなんです?」 「そんな変な電話なんかなかったし、怪しげな人や車なんか見かけなかったわ」 「………」  一体、所轄署の狙《ねら》いは何か?  特に、加納と同様、交友関係に注目しているという点が気になる。 「交友関係とは、会社以外の友人知人ということですか?」 「ええ。それも、会社には内緒で共同事業をしているようなことはないか、とか。何か金銭上のトラブルはなかったか、とか。そんなことよ」 「どうお答えに?」 「どちらも、見当もつかない、と答えたわ。刑事さんたちは首を傾げていたけど、実際、見当がつかないのよ。結婚以来三十年間、主人は仕事については一言も話さなかったし、私も聞かなかった。それは、私たちの暗黙の了解事項だったのよ。だって、仕事の悩みを打ち明けたところで、私には助けられない。主人のグチになるだけよ」 「………」 「だから、私は家庭に戻った主人のために精一杯尽くした。どんなに遅くても、寝ないで帰りを待ったわ。この部屋で徹夜したこともあるのよ。嫌なことや、つらいことがあっても、笑顔を作って……。一生懸命、おいしいお料理を作って……」  夫人がまた涙ぐんだ。    結局、中東に関する情報は得られなかった。そのせいだろうか。現場の状況が腑に落ちない、という刑事の言葉が気になった。  タクシーが五分も走ってから、加納は運転手に声をかけた。今度は、昼間帯の事故現場を見たいと思ったからだ。  昼の五日市街道は、まるで高速道路のように車両が行き交っていた。歩道に人影がまばらなのは、商店や郵便局など、歩いて向かう対象が近くにないからだ、と、運転手が教えてくれた。  前回と同じように歩道橋の手前でタクシーを降りた。真っ黒な土埃《つちぼこり》をかぶったガードレールの手前に、今日も色鮮やかな花が置かれてある。そして、煙草や缶ビールなども、新しいものが供えられてあった。  加納は現場に佇《たたず》み、周囲を見渡した。ごくありふれた普通の風景だった。足が自然に動く。辺りに目を配りながら、歩道を行くと、現場から三十メートルほど離れた地点のガードレールの一部分だけ、土埃をかぶっていない箇所があった。三島が乗り越えたところなのだろうか……。  最後に、歩道橋を上った。中央に立って、まず上り車線を眺めて見た。三百メートルほど先まで続いている直線の道路。渋滞はなく、車が猛スピードで行き来していた。時折、通り過ぎる大型車が歩道橋を揺らす。  反対側は百メートルほど先までしか見えない。その先は南の方向へカーブしているためだ。  一体、どこが腑に落ちないのか……。  結局、矛盾するような状況は発見できなかった。      2  郵送されてきた茶封筒を開けると、今週発売予定の�カンパニー�だった。  付箋《ふせん》のしてあるページを開く。小池が品よく微笑《ほほえ》んでいた。いい女が世界を救う、という派手な見出しだった。次のページでは、ブランドものの服をまとった小池の全身が写っていた。腕組みして机に寄りかかった欧米風のカットである。長い脚の線が自慢なのだろう。確かに、日頃のシェイプアップの効果は発揮されているのだが……。  早速、室長|宛《あて》に報告書の作成に取りかかった。その最中に、電話が鳴った。 「昨日はお線香を上げていただいたそうで、ありがとうございました」  電話の相手は三島の息子、貴志だった。加納は手を止めた。 「いいえ。さんざんお世話になったのに、ご恩返しもできませんでした。そのお詫《わ》びを兼ねてのことですので」 「何か、ご用ではなかったんですか?」  貴志は探るような口調で尋ねた。 「まぁ、用と言えるほどのことでは……」  本音としては、貴志の口から、生前の父親の言動、更には、警察の対応についても聞きただしたかった。それは妻から見た夫の言動、そして、主婦の耳で聞いた刑事の質問とは次元が異なっているはずだからだ。  二つの異なる地点から、声のする方向に線を引けば一点に結ばれる。双方の話を注意深く聞き、それを比較分析すれば、真実を見いだすことが可能なのだ。  しかし、それを電話で、あからさまに尋ねるわけには行かない。尋ねたところで、面識のない第三者に答えるはずがないし、相手に不快感と不信感を抱かせるだけだ。 「また、近いうちにお邪魔しますよ。その時にでもお話ししましょう」  ほろ酔い気分の雑談の中でなら、怪しまれることもなく、真実の断片を聞き出せることができる。 「そうですか……」  なぜか貴志は口ごもった。そして、 「わかりました。では、私の方も、その折りに……」  と締め括《くく》ろうとした。加納の脳裏に第六感のような閃《ひらめ》きが走った。 「あの、もし何か、お急ぎのご用でしたら、おっしゃってみて下さい。私の方も、いつお邪魔できるか、わかりませんので……」  慌てて前言を翻すと、 「別に急いでいるわけではありません。もし父に関して何か不都合な点、または疑問点があるのでしたら、私たち家族よりも、沢口さんに、お尋ねになれば、おわかりになるのではないかと思いまして……」  貴志は思いがけない人物の名を口にした。 「沢口さんとは、どちらの?」 「環境事業部の沢口さんです」 「環境事業部の沢口……」  確かに、沢口という社員はいる。加納より後に入社した男だった。 「失礼ですが、なぜ沢口に尋ねると、わかるかも知れないんでしょうか?」 「ご存知かも知れませんが、沢口さんは、父の学友の息子さんでしてね。ご両親から依頼されたものですから、入社のお世話をしたわけなんです。その後も、公私にわたって個人指導のようなことをしていたようでした。ですから、案外、私たちより父に関して詳しいのではないかと思います」 「ほう……。それは初耳です」 「それに、通夜や告別式で取り込んでいる最中に、父の書斎を整理していただいたようですので……」 「何ですって?」 「もちろん、私は感謝しておりますよ。私たち家族の者に、余計な手間をかけさせまいとする沢口さんのお心遣いだと固く信じていますからね」  貴志の声には皮肉な響きがある。 「しかし、わが家には、心の狭い母親や、世間知らずの妹もいましてね。何かにつけて、ああだこうだと、邪推するものですから」 「それは、まぁ、当然だと思います」  と、相づちを打つと、一転して、 「これは余計なことを申し上げました。ひょっとしたら、加納さんがお見えになったのも、その辺のことと関係しているのかな、と思いましてね」 「よくわかりました。沢口には、私の方から一言入れておきましょう」 「いや、その必要は……」  と言いかけたが、 「まぁ、お任せします。環境事業部の方々にも、よろしくお伝え下さい」  と言って、電話は切れた。お礼の電話というより、抗議の電話を受けたような気分だった。  受話器を置き、加納は早速、社員名簿を開いた。  環境事業部 交通対策チーム 沢口祐二 二十八歳 独身。 「沢口祐二……。三島の秘蔵っ子にして、裏切り者か。こいつは面白くなってきた」  加納はそのページの端を折った。    加納が沢口祐二と最初に会ったのは、六年前の新人研修の時である。  沢口は最前列の席に座っていて、教材用のプリントを配る時や、スライドを準備する時などには、手伝ってくれたものだった。言葉らしい言葉を交わしたのは、その時だけである。  沢口に対する社内の評判は、語学が堪能で、仕事ができ、人当たりがよい、というものだった。その一方で、本音がわからない、という少数意見もある。  加納には新人研修の時の、初々しく爽《さわ》やかなイメージしかなかった。事実、広報の関係のことで、ちょっと聞きたいことがある、と電話した時も、六年前の時と同様に、快く応じてくれた。しかし……。  約束の時間に二十分が過ぎても、沢口は現れなかった。自分より先に来ているものとばかり思っていた加納にとっては、肩透かしを食わされた思いだった。  さらに五分が過ぎた。加納はワインを注文した。南欧料理店のテーブルで、コップの水を飲んでいる姿を見せたくはなかった。それは、一つには沢口に対する心遣い、そして、もう一つは先輩としてのプライドだった。  結局、三十分後に店のドアが開いた。振り向くと、沢口が立っていた。  加納は微笑み、手にしたグラスを差し上げた。沢口は黙礼することもなく、そして、急ぐ様子もなく足を進めた。 「残業?」  加納が尋ねると、沢口は腕時計を一瞥《いちべつ》して、 「いえ。お約束の時間になるまで、この先の本屋で立ち読みしていました」 「時間になるまで?」  加納も腕時計に目をやり、そして、壁の時計を見上げた。 「約束は七時だったよね?」 「いいえ。七時半のはずです」 「いや、七時だよ。そう言った」 「すると、何です? 僕は約束の時間に三十分も遅れたというわけですか?」  そんなはずはない、という響きがこもっていた。  その通り、お前は先輩を三十分も待たせたんだぞ、と言いたかったが、 「いや、ひょっとしたら、俺の勘違いかも知れん。まぁ、いいだろう。こうして、とにもかくにも、来てくれたわけだ」  と言って、ウェイターが持参したグラスに向けて、ワインを差し向けた。 「ちょっと待って下さい。その前に、今日の用件を話してくれませんか?」  沢口はグラスには見向きもしなかった。 「ま、そう言わずに……」  と、促したが、 「いえいえ、まず、お話の要点をお聞かせいただけませんか? 理由もなく、他人の酒は飲まないことにしています」 「他人の酒だと? おいおい、杓子《しやくし》定規も結構だけど、状況を考えろよ。俺はヤクザでも、ライバル会社の回し者でもないんだ。持ち場は違っても、同じ会社の人間だぜ」 「同じ会社の人間でも、けじめはつけろ、と言うのが、上司の指示ですから」 「へぇ、そうかい」  加納は自分のグラスにワインを注いだ。予想もしない態度に戸惑いを感じた。 「そんな風に切り口上で聞かれると、ちょっと言いにくいんだけどね。今日は、三島部長のエピソードでも聞かせてもらおうかな、と思って、それで来てもらったんだ」 「エピソードを?」 「そう。思い出話だ」 「そんな用事のために、呼び出したんですか?」 「そんな用事だと?」  思わずムッとして、睨《にら》みつけたが、 「そうじゃないですか。私は、広報の関係で、ということでしたから、来たんですよ」  沢口はひるまない。 「おいっ、いい加減にしろよっ」  加納は顎《あご》をしゃくった。不遜《ふそん》な態度が癇《かん》に触った。  何様のつもりだ、と、怒鳴りつけようとした時、 「お客さま、喧嘩《けんか》は困ります」  いつの間にか、店主が間近に立っていた。 「喧嘩じゃないよっ」  と、八つ当たりぎみに言い返すと、 「恐れ入りますが、店内では、お静かに願います。他のお客さまの、ご迷惑になりますので」 「わかった。出て行くよ」  と言って、バッグに手を伸ばすと、すかさず、店主がレジに向かって何やら合図をした。    店から少し離れた裏路地まで来た時、加納は後ろを振り返った。沢口は相変わらず、さほど急ぐ様子もなく、足を進めている。その態度が癇に触った。 「俺の酒が飲めないと言うのは、まぁ、いいさ。下戸《げこ》に酒を勧めるほど、俺は野暮じゃないんだ。だが」  加納は怒りを押さえて言った。 「部長のエピソードを話すのも嫌だ、と言うのは、一体、どういうわけなんだ? 環境事業部というところは、社内の人間に対して協力しては罷《まか》りならん、という憲法でもあるのか?」 「そんなもん、あるわけないでしょ」  沢口は鼻で笑った。 「じゃ、なぜ、ああだこうだ、と、けちをつけるんだっ」  加納は声を荒らげた。だが、 「今日のお話は、社の公用なんですか?」  沢口はクールだった。 「もちろん、そうだよ」 「ほう。先程、広報の方にお聞きしたら、ポカンとした顔をしていましたよ。社内ならともかく、社外に呼び出すような仕事はないはずだ、と言ってましたけど?」 「まだ根回し以前の段階なんだよ」  と嘘をついたが、 「そうですか。そうならそうと、あらかじめ言ってほしかったですね。そういうことなら、今夜は来ませんでしたよ。いかにも、テレビか雑誌の取材があるかのような口ぶりだったから、わざわざ時間をあけたんです」 「ほう。そうかい? いつから君は、そんなに偉くなったんだ?」 「偉くはありませんよ。でも、時間外に、あなたの私用に付き合わなきゃならないほど、下っぱでもないんです」 「何だとっ」  加納は思わず沢口の襟首を掴《つか》んだ。ところが、その手を振り払って、 「乱暴はよせよ。下手《したて》に出ていると思って、付け上がるなっ」  沢口の態度が豹変《ひようへん》した。 「何年入社か知らねぇけど、もういい加減に先輩面をするのは止めてもらえねぇかな? そういう日本的上下関係が煩わしくて、俺はわざわざ外資系の商社を選んだんだ」  沢口がネクタイを直しながら言った。加納は一言も反論できなかった。  こいつは、いつから、こんな風になっちまったんだ。いや、ひょっとしたら、元々が、そうだったのかも知れない……。  無言で沢口を見つめていると、 「どうやら、おわかりになっていただいたようですね。それでは、これで、引き取らせていただきます」  沢口はクルリと背を向けて、さっさと歩き出した。  その後ろ姿に、かつての初々しさも、爽《さわ》やかさもない。加納がイメージしていたのは六年も前の沢口だったのだ。職場が異なれば、先輩後輩の人間関係は成立しない。  たぶん、待ち合わせの時刻の食い違いも、わざと間違えたのだろう……。  加納は唇を噛《か》みながら、沢口の後ろ姿を見送った。      3  翌日の昼休み。加納は空中公園に向かった。真鍋に会うためである。  いつもと同じベンチに、いつもと同じようにして真鍋は座っていた。 「また来ました」  と声をかけると、真鍋が顔を上げた。その顔を見て、加納は息をのんだ。顔色は青白く、目は充血している。まるで十歳も老けたようにやつれていた。 「おお、君か……」  真鍋は力なく笑い、再び、うつむいた。 「お疲れのようですね」  加納は隣に腰を下ろした。ツンと汗の臭《にお》いがしたが、この日はアルコールの臭いはしなかった。 「昨夜《ゆうべ》、寝ていないもんだからね。ちょっと、参っている。もう年だし、無理がきかなくなった」 「きつい苦情でもあったんですか?」 「いや、仕事じゃない。井出先生が亡くなられてね。宮城まで行ってきた」 「何ですって!」 「しかも、三日も前に亡くなられていたんだ。どうやら、ご遺言で、納骨が済むまでは関係者には知らせるな、ということだったらしい」 「………」 「すぐにご自宅の方へお邪魔したんだが、向こうに着くと同時に、会社から電話があってね。明日の午前、つまり、今日の会議に出ろ、と言うんだ。普段、怠けていると、こういう時に仇《かたき》を取られる。無視してやろう、と思ったが、結局、ぎりぎりの電車に飛び乗ったよ。会社をクビになるのが怖かったからだ。そのくせ、今は、先生のお側にいればよかったと、後悔している。俺のやることは、いつも中途半端なんだ」  と言って、自虐的に笑った。 「それにしても……」  加納は首をひねって、 「私には信じられません。ご本人は、あと半年くらいは大丈夫だ、というようなことをおっしゃっていたんですよ?」 「いや、実際のところは、そうじゃなかったらしい。奥さんの話では、もうすでに、Xデイ[#「Xデイ」に傍点]の期間に入っていたというんだ」 「そうだったんですか……」  加納はうなずくだけだった。真鍋も口を閉じたまま足元を見つめていた。やがて、 「生きている以上、人間、いつかは死ぬわけだけど、それにしても、親しかった人を見送るのは辛い……」  真鍋はまぶしそうな目で回りを見渡して、 「もう三年にもなるかなぁ。ここに初めて、井出先生を連れてきたんだ。まだ、オアシス・チームが発足する前で、佐久間や内藤たちも一緒だった。そこら辺で、車座になってね。口から唾《つば》を飛ばして、ああだこうだと、議論したりした。あの頃、先生は寝る間も惜しんで実験に取り組んでいたし、俺たちも燃えていた」 「………」 「まるで夢のようだよ。あの頃、元気だった三島部長も井出先生も、今はいない。チームのメンバーだった佐久間や内藤も遠い外国へ行ってしまった。一人残された俺は、凹みが多いジュース缶の苦情処理なんかで、頭を悩ましている」 「………」  何と言って慰めるべきなのか、適当な言葉を見つけることができなかった。水の音と鳥のさえずりが、ことさら大きく耳に響いた。やがて、 「何か、俺に用かい?」  真鍋が思い出したように尋ねた。 「ええ、実は、そうなんです」 「砂漠の話?」 「いえ。環境事業部の沢口君のことについて、ちょっと」 「沢口? 彼がどうした?」 「実は、三島部長のご家族から沢口君について、お小言のようなものを頂戴《ちようだい》しましてね。本人に耳打ちするついでに、いろいろ話を聞こうとしたら、誤解されてしまって……」  加納は頭をかいてみせた。まず沢口と三島との関係に触れ、あわよくば、新たな事実にも踏み込みたかったのだが、 「そんなことは馬耳東風と、右から左へと聞き流せよ。どんな説教をしても、沢口には通じない。あの男は、自分の得にならないことはしないたちだからな。従って、今後、三島家に近づくことはないだろう。つまり、奥様をご不快にさせることもなくなる」 「………」 「三島部長は沢口にカバン持ち[#「カバン持ち」に傍点]をさせたり、宿題[#「宿題」に傍点]を出したりして、第一級の商社マンに仕上げようと試みられていたようだが、駄馬はしょせん駄馬だよ。いや……、それは違うな。今の時代、俺たちが駄馬で、沢口のような男が名馬なのかも知れん。その証拠に、彼は環境事業部に留まり、俺たちは追われた」 「実は、お小言は奥様からでなく、ご子息の貴志さんから」  と言いかけると、 「すまんが加納君」  真鍋が遮った。 「駄馬……、いや、名馬のことは、名馬の方々に相談してもらえないだろうか。俺は疲れているんだ。本当に疲れている……」 「………」  加納は口をつぐんだ。やつれた真鍋の表情を目の当たりにすると、それ以上、話を続けることができなかった。再び、滝の音と鳥のさえずりが二人を包んだ。  それから十分ほど、二人はベンチに座っていた。やがて、前を通り過ぎる人影が頻繁になる。それぞれのオフィスに向かう時刻だった。加納も腕時計を見て、立ち上がった。 「じゃ、そろそろ……」  と声をかけたが、 「先に行ってくれ。僕はもう少し、ここにいたい」  真鍋は作り笑いを浮かべた。  ではお先に、と会釈して、加納はベンチを離れた。途中、振り向いたが、真鍋は背中を丸め、ベンチに座ったままだった。それが生前の真鍋を見た最後だった。  一階に下りると、イベントホールで、大学のジャズバンドが生演奏をしていた。大勢の市民が立って、それを聞いている。ラッシュアワーのホームのような混雑ぶりだった。なかなか前へ進めず、やっとのことで、外に出た。  トロンボーンやクラリネットの音が後ろに遠ざかって行き、やがて道路を行き来する車の音にかき消されてしまう。大型バスのクラクション。交通巡査の警笛の音……。  信号が変わり、交差点に一瞬の静寂。その時、女性の悲鳴が響いた。  振り向くと、横断歩道の手前で、OL風の二人連れが、ビルを指さし、何やら、叫んでいる。交通整理をしていた巡査が血相を変えて、交差点を斜めに走り抜けた。  女性が指さしている先に目を向けた。加納が数分前に出てきたビルである。そのビルを見上げると同時に、黒い人影が飛び下りた。地上に落ちるまで一瞬のできごとだった。バタバタと野次馬が動き回る。  気づいたら、加納も走っていた。不吉な胸騒ぎがしていた。  ホールの出入口は人だかりがしていた。加納は野次馬をかき分けて、その前列に出た。警官が男を覗《のぞ》き込んでいる。 「誰かっ、救急車を呼んでくれっ」  警官が怒鳴った。しかし、動こうとする者はいない。  もう死んでるんじゃないか?  誰かがつぶやいた。すると、警官が再び、大声を張り上げた。その声で、ようやくガードマンがビルの中に走った。  加納は警官の背中越しに、男の顔を確かめた。顔の右半分が潰《つぶ》れている。だが、残った左半分は紛れもなく真鍋の顔だった。加納の両膝《りようひざ》が小刻みに震え始めた。  もし生きていたら、真鍋に駆け寄って助けようとしたことだろう。だが、真鍋は明らかに死んでいた。もし加納がただの商社マンだったら、遺体に上着をかけたり、開いたままの目を閉じさせたことだろう。だが、加納は商社マンである前に、公安部の特務員だった。警察が目撃者探しを始める前に、速やかに現場から遠ざからなければならない。警察との関わり合いはできるだけ避ける、というのが、特務員の基本的立場だからだ。  加納は静かにその場から遠ざかり、努めて平静を装って社に戻った。玄関からホールを抜けトイレに直行。白い便器を見た瞬間、嘔吐《おうと》感に襲われた。左手で口を押さえ、右手でドアを閉め、嘔吐と窒息を繰り返す。その合間に、水を流した……。  やがて胃が空になったところで、呼吸を整え、顔を洗って気分を落ちつかせた。乱れた髪をとかし、ネクタイを締め直し、何事もなかったかのように静かに広報室に向かう。  自席に戻ったものの、仕事が手につかない。目には、死んだ真鍋の残像が焼きついていた。いびつに変形した顔、虚空《こくう》を見つめる片方の目、肩からずれた腕、ねじれた脚、そして、真紅の鮮血……。  やがて、ドアの外で、ドタドタと走る靴音がした。急に鳴り出す電話。驚きの声。席を立つ社員……。  異常事態の中で、加納はひたすら目立たないことだけを心がけた。      4  加納は疲れ果てていた。  時刻は午後九時すぎ。アパートのドアの前で、ポケットからキーを取り出すと、 「こんばんは」  と、横から声をかけられた。  いつの間にか、中年の男が立っている。顔は日に焼け、首が太く、目つきが鋭い。嫌な予感がした。セールスマンなら、もっと愛想がよいはずだし、やくざ者なら、もっと派手な服装をしているはずだ。 「加納さんですね?」  その男は尋ねた。 「どちら様です?」  加納は聞き返した。男は内ポケットを探る。刑事ドラマとそっくりだった。  まさか……。  加納は生唾をのんだ。次の瞬間、紐《ひも》付きの黒っぽい手帳が目に入った。表紙には旭日章のロゴマーク。そして、その下には、警視庁、の金文字。  なぜ? という思いと、やっぱり、という思いが交錯した。  さり気なく真鍋の側から立ち去ったつもりだったが、かえって目立ってしまったのだろうか? もし、そうであれば、最悪の事態ということになる……。 「少々、お伺いしたいことがあるんですがね。なぁに、それほど時間はかかりません」  男は警察手帳をポケットに戻しながら言った。  単なる事情聴取か、それとも、任意同行に類するものなのか、探りの質問をしようとしたのだが、隣の部屋のドアが開いて、白髪《しらが》頭の老女が顔を見せた。何かというと、苦情を言ったり、加納の陰口を広めている一人暮らしの年金生活者である。 「お部屋で話せませんか?」  刑事が言った。 「いえ。散らかっていますので、どこかのお店にしましょう」  加納は道路に向かった。七、八歩、足を進めた時、外階段の陰から、もう一人、若い男が姿を現した。その男も刑事であることは、物腰態度でわかった。    角の喫茶店で……、と希望したのだが、客の目があるから、という理由で、結局、近くの交番まで、ということになった。  アパートから三百メートルほど行ったところに、ふだんは誰もいない小さな交番がある。この日も制服の警官はいなかったのだが、刑事たちは、奥のドアのキーを所持していた。  前後を二人に挟まれるようにして、部屋に入ると、微《かす》かにコーヒーの匂《にお》いがした。つまり、二人はここで待機していたということになる。 「まぁ、かけて下さい」  中年の刑事に言われて、加納は腰を下ろした。 「えーと、コーヒーにしますか? それとも、お茶?」 「では、お茶を」  と答えると、若い刑事がついたての陰に消えた。ヤカンに水を注ぐ音、ガスに火をつける音……。 「こんな時間ですから、アルコールをお勧めしたいところなんですけどね。ここは交番ですし、我々も勤務中なもんですから、ま、勘弁して下さい」 「はい……」 「ところで、加納さんは、酒は強い方なんですか?」 「酒ですか? 強くも、弱くもないと思いますけど……」 「なるほど。日本酒党で? それとも、バーボン派かな?」 「取り立てて、これが好きで、あれが嫌だということはありません」 「それは結局、アルコールには強い、ということですよ」 「………」  単なる世間話なのか? それとも、必要な質問なのか? 「で、摘《つま》む方はどうなんです?」 「摘む方?」 「肴《さかな》ですよ。酒の肴」 「酒の肴……」  いい加減にしろ、と言いたかったが、相手は刑事。穏やかに用事を済ませ、速やかに帰宅したかった。 「刑事さん。申し訳ありませんけど、ご用件をおっしゃって下さい。できる限り、協力しますから……」  と言って、腕時計を見る仕草をした。 「これは失礼しました」  刑事は頭をかいた。しかし、それは言葉の上のことだけで、態度は変わらない。 「それじゃ、お聞きします」  と言うと、手帳を開いて、 「今月の三日の午前五時半ころのことなんですが……、加納さん。どちらにおられましたか?」 「三日の午前五時半?」  三日と言えば、三島の死亡した日で、午前五時半とは、死亡推定時刻である。  すると、真鍋ではなく、三島に関する聞き込みなのか? しかし、なぜ? 「どうしました?」  刑事が尋ねた。加納は我に返って、 「三日は……」  と言いながら、記憶を探った。思い出そうとするのだが、刑事の視線が気になって、なかなか思い出せない。 「記憶にありませんか……。では、先月の十四日はどうです?」  刑事は次の質問にかかった。 「先月の十四日?」  一体、何の日だ? 「十四日の、やはり、午前六時ころなんですが……」 「………」 「それもダメですか? では、今月の十九日はどうです? これは午後八時ころになりますが……」 「………」  矢継ぎ早の質問で、頭の中が混乱するばかりだった。 「加納さん……」  刑事は身を乗り出すようにして、 「質問を早く済ませろ、と言ったのは、あなたですよ。お答えの方も、お早く願えませんかね?」  皮肉な口調だった。 「わかっています。でも、急に言われても……」  加納は唇を噛《か》んだ。すると、横の方から茶碗《ちやわん》をトンと置いて、 「急だろうが、なだらかだろうが、やましいことがなけりゃ、喋《しやべ》れるんじゃねぇのかなぁ」  と、若い刑事が巻き舌でまくし立てた。  まるで犯人扱いだった。ムッとして、その刑事を見上げると、 「クラさんよ。そんな口をきいちゃいかん。協力していただいているんだ」  と、たしなめてから、 「どうです? 思い出せませんか?」  中年の刑事が再度、尋ねた。  明らかに、連携プレーだった。しかし、二人が、いや、警察の狙《ねら》いが、さっぱりわからない。  脳裏に柳沢の顔が浮かんだ。  このような場合の対処の仕方は、確か、苦し紛れに嘘《うそ》をつかないこと……。  加納は刑事の質問に集中した。 「三日の……午前五時半は……」  確か、その日はアパートにいた。前の夜、一人で酒を飲み、午前一時ころに帰って、シャワーも浴びて、いや、シャワーは翌朝、髭《ひげ》を剃《そ》った後、浴びている……。  加納はその通り伝えた。 「失礼ですが、お一人でしたか?」 「はい」 「そうですか。では、先月の十四日については、いかがでしょう?」 「先月の十四日……」  加納はビジネス手帳を見た。何のメモもない。ということは平常通り。午前六時は寝ている時間だ。 「たぶん、アパートだと思いますけど」 「アパートって、どなたの?」 「もちろん、自分のです」 「なるほど」 「それから、十九日でしたか……」  加納は手帳をめくりながら、 「十九日の、夜でしたっけ?」 「そうです。午後八時」 「午後八時……」  やはり、手帳には何も書いてない。  曜日を確認して、思い出そうとしたが、記憶がなかった。 「どうしました?」 「思い出せません」 「思い出せない?」 「はい……」 「実は、その日時に、辰巳歩道橋辺りで、あなたらしい人を見かけたという人がいるんですが、どうです?」 「辰巳歩道橋?」  そんな時間に行ってはいない。すぐに、 「それは私ではありませんね」  と、首を横に振った。 「ほう。辰巳歩道橋がどこにあるか、ご存知で?」 「はい」 「なるほど。ご存知なことは、ご存知なわけだ。くどいようですが、もう一度、お聞きします」  刑事は念を押すように言った。 「当日、辰巳歩道橋の近くには行きませんでしたか?」 「辰巳歩道橋の近く[#「近く」に傍点]とは、具体的に、どの辺りのことを言うんでしょうか?」 「もちろん、三島部長さんの遺体が発見された場所付近ですよ」 「では、行ってはおりません」 「本当に? あなたらしい人を見かけたという人がいるんですよ」 「行ってはいませんっ」  思わず声に力が入ってしまった。 「まぁまぁ、そう興奮しないで下さい。型通りの質問なんですから……」 「興奮なんか……していませんよ」  加納は伏目がちに言った。 「わかってます。でも……、私の経験から言わせてもらうと、大抵の方は、警察とは関わりたくないという一心で、或《ある》いは、他の理由で、見ざる聞かざる言わざる、なんです。こちらの話もよく聞かずにねぇ」 「………」 「皆さん、判で押したように、何でもかんでも、知らぬ存ぜぬ、とおっしゃる。最初のうちはねぇ……」  刑事は苦笑して、 「ところが、こちらが、動かぬ証拠をお見せすると、とたんに態度を翻して、実は……、と話し始めるんです。でも、その種の証拠を警察が入手するまでには、かなりの手間暇《てまひま》がかかっているわけですよ。内部のあちこちに、電話かけたり、コンピューターを操作したりしましてね。外部の団体に対しては、菓子折りなんかを持って行ったりしましてね。結構、金もかかっているんですよ」 「だから何だと言うんです? はっきり、おっしゃって下さい」  加納は苛立《いらだ》ち始めていた。 「我々も人間だと言うことさ」  若い刑事が、また言葉をはさんできた。 「日照りの時は、霧雨でも嬉《うれ》しいけど、梅雨時じゃ、空が曇っているだけでも憂鬱《ゆううつ》だということだ。つまり、動かぬ証拠を突きつけられてから、あれこれ認めても、本人にとっては手遅れだということだよ。警察にとっては、こいつを助けてやろう、という気にはなれない。われわれだけじゃない。裁判官だって、そうだ。今は、自由心証主義、と言ってね。情状面でも」 「ちょっと、待って下さいよ」  加納は若い刑事の言葉を遮って、 「ひょっとして、私には何らかの容疑がかかっているわけですか?」  と言って、中年の刑事に視線を移した。 「いや、別に、そういうわけじゃありませんけどね」  中年の刑事が口を濁した。だが、若い刑事の態度から考えて、何らかの嫌疑がかかっていることは確かである。 「つまり……」  中年の刑事は若い刑事を見上げて、 「お互いのためにも、腹の探り合いなんかはやめて、本音で話した方がいい……。そう言いたいんだろう? クラさん」 「ええ、まぁ、そんなところです」  二人の見え透いた芝居が続く。 「私には逮捕状が出ているんですか?」  加納は腹をくくった。容疑の内容を知らされない事情聴取には応じられない。 「逮捕状なんて、そんなものはまだ」  刑事は首を横に振った。 「そうですか。では、これで帰らせていただきます」  加納は立ち上がった。 「まぁまぁ、そう言わずに。もう少し協力して下さいよ」 「断ります」  そのまま、外に出ようとすると、すかさず、若い刑事が加納の前に立ちはだかった。 「私がこの刑事さんを押し退《の》けると、取《と》り敢《あ》えず、公務執行妨害罪の現行犯ですか?」  加納は若い刑事の顔を見つめたまま尋ねた。だが、返事はなく、若い刑事も動く様子がない。加納は続けた。 「別件逮捕も結構ですけどね。私が大声で、助けてくれ、と怒鳴ったら、どうします? ここの交番の前は、結構、人通りが多いんです。あなた方が公務執行妨害罪をでっち上げても、私の方は監禁罪で訴えますよ。さて、どちらが勝つか……。おっしゃる通り、後は裁判官の心証次第です」 「………」 「どうします? 私はどっちでもいいんですよ?」  と言って、半歩、前へ出た。若い刑事とは体が接するばかりとなった。 「通して差し上げろ……」  後ろの刑事が低い声で言った。同時に、前の刑事が道を開いた。加納は足を進めた。そして、ドアのノブに手をかけた時、 「加納さん……」  と、中年の刑事が言った。加納は立ち止まり、耳だけを後ろに向けた。 「近いうちに、また、お目にかかりますよ。申し遅れましたが、私は多摩署の兵藤。彼は倉島と申します。お見知りおきを」 「………」  多摩署? 所轄署が、なぜ?  加納は戸惑いながら交番を後にした。 [#改ページ] X月X日 緊急連絡(電話) [#ここから1字下げ] 「二人が多摩署の刑事であることに間違いはない。兵藤というのは強行犯担当のデカ長でね。別名、マムシの兵藤、と言われているらしいぞ。よりによって、とんでもないのに目をつけられたもんだな……」 「笑いごとじゃありませんよ。この私に一体、何の容疑がかかっているんです?」 「まぁ、殺人だろうね」 「ええっ?」 「でなければ、殺人|幇助《ほうじよ》というところかな。どっちにしろ、三島殺しの容疑者には違いないと思う」 「三島殺しって……、あれは交通事故でしょう?」 「だが、この前も言ったように、所轄署の方には連絡されていないし、肝心の運転手が捕まっていない。どうやら、マムシの兵藤さんは、他殺の可能性あり、と睨《にら》んでいるようだな」 「そんなバカな……。それにしても、なぜ、この私が容疑者なんです?」 「身から出た錆《さび》だよ」 「身から出た……錆?」 「そうだ。三島の死んだ場所をうろうろしたろう? なぜ、あんな所へ行ったんだ? 兵藤みたいのにかかると、何でもかんでも、それこそ、猫がアクビしても怪しい、ということにされてしまうんだぞ?」 「おっしゃる意味が、よくわかりませんが……」 「兵藤は三島の死に、裏がある、と睨んだ。だが、兵藤の上司の判断は、単なる事故死。さすがは係長だ。ところが、事故死とは思わない兵藤は刑事課長に直訴した。もちろん課長も係長と同意見。それでも諦《あきら》めきれない兵藤は、現場に監視カメラを設置することを願い出た」 「監視カメラ?」 「そう。コンビニにあるのと同型のカメラだ。自動録画できるから、人手もいらないし、そこまで言うのなら、と、課長も係長もオーケーした。犯人は現場に戻る、という神話に乗ってみよう、ということになったわけだ。兵藤は毎朝、その監視カメラの画像を再生させては、怪しい人物に目を光らせていたというわけだ」 「そこに私が?」 「そういうことだ。故人の冥福《めいふく》を祈ったら、さっさと引き上げりゃよかったのさ。大して眺めのいい所でもないんだろう?」 「そうとわかっていれば、寄り付きませんでしたよ。何とかなりませんか?」 「もちろん、適当な口実を見つけて、多摩署へ圧力をかける。だが、安心しないでくれよ。圧力がかかると、却《かえ》って、燃えるというのが、兵藤みたいな刑事に共通する特徴だ」 「わかりました。十分、気をつけます。ところで……、うちの真鍋のことですが、警察の見解はどんなです?」 「所轄署の見解は自殺で、こっちは異論が出ていないようだ。何しろ、清掃係と、サラリーマン三名が目撃しているからな。そのうち二名は、向かいのビルから一部始終を見ている」 「………」 「空中公園には一カ所、設備点検のため外へ出る扉があるんだそうだ。あの日は定期点検の日で、たった五分程度の作業だから、と、マニュアルを無視したのが、死角になったらしい。真鍋は、そこから表に出て、飛び下りた。遺書はないが、自殺の原因は女房との不仲、それに、仕事上の行き詰まりとなっている。これは記者発表と同じだが、実際のところはどうなんだ?」 「落ち込んでいたことは確かです。配置転換は左遷されたのと同じ……、いや、左遷された方がマシだったかも知れません。気の毒なくらいでした」 「そうか。接近の仕方によっては、情報が取れたかも知れんな。惜しいことをした」 「ええ。残念です。なかなか味のある、いい人でした。私は好きでしたよ」 「だからと言って、またぞろ、自殺の現場をうろつかないでくれよ。えーと、それから……、例の照会の件だが、結果が来ている。まず、栃木大学の青山和江」 「はい」 「理学部の地学科講師で、専門は構造地質学。大学には情報技術センターという施設があって、そこで人工衛星が撮影した写真の画像解析なんかをするんだそうだ」 「私生活の方はどうですか?」 「高給取りではないんで、翻訳のアルバイトなんかで小銭を稼いでいる。なかなかの野心家のようだし、プライドさえ傷つけなければ、金でおちるだろう」 「男関係は?」 「調査不可能、となっている。たぶん、大学構内から、あまり外に出ないということじゃないかな。仮に、何かあったとしても、まだ独身だそうだ。不倫の証拠を掴んだとしても、開き直られたら、それまでだ。金で済ませられるものなら、済ませて欲しいな」 「承知しました。で、もう一つの方はどうです?」 「環境事業部の沢口祐二か? こんなのに札束は勿体《もつたい》ないぞ」 「何か背負って[#「背負って」に傍点]ますか?」 「背負ってる、背負ってる。聞いて驚くなよ。やつは学生時代、酔った勢いで、後輩の女子学生を乱暴している」 「本当ですか?」 「本当だとも、父親があちこちに手を回して、もみ消したから、犯歴には記録されていないけどね。何と、五百万円で示談にこぎ着けたそうだ」 「ほう……。乱暴とは婦女暴行ですね?」 「品よく言えば、そうだ。ズバリ言えば、君が今、頭の中で想像している以上のことだよ。悪友のアパートに連れ込んで、その悪友と二人で、ことに及んだということだ」 「なるほど。人は見かけによりませんね」 「どんな見かけか知らんが、よくこんなのが名の通った商社に就職できたもんだな」 「コネですよ。父親の人脈です」 「やっぱり、そうか。とにかく、男の風上にも置けない野郎だ。こんなのに金をくれたら、それこそ、盗人に追い銭だぞ」 「承知しました。沢口の方は酒代だけで済ませます」 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   第四章 砂の町      1  沢口のデスクに電話すると、女子社員が応対に出た。加納が自分の名を告げると、お待ち下さい、と答えたが、その言葉通り、長々と待たされる羽目になった。  接客の心得は新人研修の時、加納も先輩としてアドバイスしたことがある。各部門に配置されてからも、上司から口うるさく注意されているはずだ。  しかし……、受話器からは保留のメロディーさえも流れてこない。代わりに、職場のさざめきが聞こえた。どうやら、受話器は机の上に放り出されたままのようだった。加納は辛抱強く待った。それだけの価値があったからだ。  十分近くも待たされて、ようやく、 「はい……」  とだけ、沢口の声がした。 「広報室の加納です。先日はわざわざお運びいただいて、ありがとう」  まずは低姿勢に出て、反応を見る。 「今日は一体、何の用です?」  相変わらず、棘《とげ》のある言い方だった。 「お時間を頂戴《ちようだい》したいと存じましてね。まぁ、いわゆるアポイントメントのための電話です」 「アポイントメント? そりゃ、仕事上のことですか? それとも、プライベート上のことですか?」 「まぁ、一応、プライベートです」 「じゃ、お断りしますよ。アフターファイブに社内の男性社員を誘って、一体、どうしようと言うんです? おたくは妙な趣味でもお持ちなんですか?」  何人かのクスクスと笑う声が受話器を通して聞こえた。かつて、加納が万里子と別れた時、同性愛、そして、性的不能の噂《うわさ》が流れたことがある。当たり前の男なら、万里子ほどの美人から遠ざかるはずがない、というのだ。 「私に妙な趣味があるのかどうかはともかく……」  加納は努めて穏やかな口調で言った。 「いくら酔った勢いとは言え、悪友と二人で、一人の女性に襲いかかるという趣味はありませんね。特に、その女性が自分を信頼し切っている後輩となれば、なおさらのことです」 「………」  沢口が、ハッと息をのむのがわかった。 「プライベートとは、この場合、私のプライベートではなく、むしろ、君のプライベートに関することだと思いますよ。具体的に言えば、大学の二年後輩で確か……、高島」  澄江、と口に出す前に、 「わ、わかりました。時間と場所を、どうぞ」  沢口の声が震えていた。言うまでもなく、高島澄江とは、かつて沢口が乱暴した女子大生の名である。    二度目は南欧料理店ではなく、日本料理店の二階座敷を借り切った。  沢口は約束の時間の十五分も前に現れた。緊張のためか、頬《ほお》が強張《こわば》っている。 「お呼び立てして悪いね」  加納は向かいの席に手を差しのべた。 「いいえ……」  沢口は固い表情のまま、腰を下ろした。 「やはり、畳の席は落ちつくね。どうせのことなら、妙にカッコなんかつけずに、最初から、この店にすればよかったんだ」  加納は皮肉たっぷりに言ってから、 「酒? それとも、ビールかな? もちろん、無理にはすすめないよ。たかがアルコール商品でも、貴重な穀物と多くの手間がかかっている。無理やり飲ませたり、嫌々飲んだりするのは、バチ当たりもいいとこだ。そうは思わないか?」  と、尋ねると、 「で、では、ビールを頂戴します」  両膝を揃《そろ》えて答えた。当然のことながら、前回、南欧料理店で見せた態度とは、まるで違っている。  座敷のインターホンでビールと料理を運ぶように告げた。間もなく、仲居が現れ、座卓の上に皿や小鉢を並べて行った。 「では、乾杯しようか。わがリンツ商事に幸あれ、だ」  加納がコップを上げると、沢口がぎこちなく、それに応えた。  膝を崩して、という言葉にも、沢口は構えたままだった。  おそらく、頭にあることは、目の前にいる男の目的は何か? そして、自分の過去を知っている人間は他にもいるのか? その二点だけのはずだ。  もちろん、加納としては、目的を察知されてはならない。だが、口を割らせるためには、相手を安心させ納得させることも必要なことだった。  仲居が襖《ふすま》を閉めるのを見計らって、加納は上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた。 「広報なんて仕事しているとね。いろんな情報が入ってくる」  時として、特務員には作り話と演技の才能も必要になる。 「しばらく前、電話が鳴って、受話器を取ったのが、この俺だ。電話の相手は、いわゆるタカリ屋。『面白い噂があるんだが……』ということだった。どうせ小遣い稼ぎのガセネタだろうと思ったが、聞き流すわけにはいかない。広報に携わる者にとって大事な問題は、それが事実かどうか、ということじゃない。噂話が流れることによって損なわれる社のイメージだ」 「………」  沢口が生唾を飲み込んだ。 「安心しろよ、沢口君。俺はこういうのを処理するのには慣れている。知り合いには、その筋の人間もいるしな。いつも通りに、きれいさっぱり片づけたよ。後は、室長に報告書を提出するだけだ」 「あの……、はっきり言っていただけないでしょうか? お金ですか? それとも……」  沢口が上目遣いに加納を見た。 「まぁ、そんなに急ぐなよ。夜は長い。話はそれだけじゃないんだ」  加納はビールを飲み干し、空のコップを握ったままテーブルに置いた。沢口がすぐに酌をした。 「世の中、競馬と同じでね。外れる時は外れるけど、当たる時は当たる。つい先だっても電話があって、俺が受けた。すると、これも君に関する悪口だ。だが、こっちは金で片づく問題じゃない」 「……何です?」  沢口が不安気な眼差しで尋ねた。 「心当たりがあるのか?」  と念を押したが、沢口は答えない。ここからが本番だった。 「通夜だか、告別式だか知らんが、君は三島部長の自宅の書斎に入って、ゴソゴソやっていたらしいな。一体、何をやっていたんだ?」 「あなたは一体……、何を知りたいんです?」  探るような目が上下した。間髪をいれず、 「余計なことは言うなっ」  加納は拳《こぶし》で座卓を叩《たた》いた。沢口の体がピクリと反応した。 「聞いているのは、俺の方なんだ。君は答えるだけでいいっ」 「す、すみません」  沢口はペコリと頭を下げた。 「もう一度だけ聞く。断っておくが、二度とは聞かんぞ。書斎から一体、何をくすねたんだ?」 「く、くすねた? とんでもない」  沢口は首を横に振って、 「私は大内副部長に命令されて企画書を探していただけですよ。それに、書斎には見当たりませんでしたし、何も持ち出していません」 「企画書? 何の企画書だ?」 「詳しくは知りませんが、瀬戸内海の埋め立てに関するものだそうです。児玉チームが提出したんですが、部長室のどこを探しても見当たらないんで、ご自宅の方を探すことにしたんです」 「だったら、奥さんか、ご家族に事情を話せばいいだろう?」 「私も、そう言いましたよ。でも、副部長は、通夜や告別式の最中に、仕事の話をするのは不謹慎だ、と言って……。あの人は、そういう優柔不断なところがあるんです。それが結局、下へのしわ寄せになるんです。部長に昇進できないのも、当然ですよ」 「おいおい、そんなことを言って、いいのか?」 「構いませんよ。その後、企画書は既決のケースの底から出てきたんですからね。バカみたいです。このことは私なんかより、児玉さんに聞いて下さいよ」 「………」  嘘をついているようには見えなかった。だが、ここで納得した顔をしたら、後が続かない。 「まぁ、いいさ。本当かどうかは、次の答えでわかる」  加納はしたり顔で言った。 「三島部長はある役人に賄賂を贈っていただろう?」 「賄賂?」  沢口が眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。 「惚《とぼ》けるなよ。これは信頼できる筋からの情報なんだぞ」 「信頼できる筋?」  眉間の皺が、さらに深くなった。 「相手は旧通産省の役人だ。知らないとは言わせんぞ」  と、あくまで強気を通す。 「旧通産省? ちょっと待って下さいよ。通産省……、通産省……」  沢口は腕を組み、首を傾げ、唇を噛《か》んでいた。逃げ口上を考えているようには思えなかった。やがて、 「ひょっとして、それはP名簿のことじゃないですか?」 「……P名簿?」  何のことかわからない。P名簿という言葉自体が初耳だった。 「通産省の某局の職員名簿なんです。でも、普通の名簿じゃなく、プライベートに関することが掲載されているんです。趣味、特技から始まって、家族構成はもちろん、嗜好《しこう》品、宗教、持病、果ては、行きつけの飲み屋から、離婚歴まで、何でもかんでも、という感じです」 「ほう。で、そのP名簿が、どうした?」 「曾根とかいう職員から売り込みがあったんですよ。金が入り用なんで買ってくれ、と、向こうから売り込んできたそうです。気が進まなかったけど、逆恨みされても困るから、総務と相談して、買い取ったということでした」 「その名簿は、今、どこに?」 「たぶん、総務部の金庫の中でしょう。マル秘文書扱いになっているはずです」 「なるほど。よくわかった」  思いがけない情報だった。  しかし、まだ肝心な質問が残っている。 「質問は、これが最後だ。性根を据えて答えてくれよ」  加納は沢口を一睨《ひとにら》みして、 「去年、三島部長は海外視察に出かけている。目的は何だ?」 「海外視察?」 「そう。去年の秋、ヨーロッパ方面に出かけている」 「ああ、はいはい……」  沢口は何度もうなずいて、 「確か、砂漠緑化の下調べのため、と聞いています」 「具体的には?」 「海水の淡水化、それから、濃霧の液体化についても、調査すると言ってました」 「他には?」 「油田探査の専門家も同行したと聞いています」 「他には?」 「太陽発電と風力発電の専門家も同行していたとか」 「他には?」 「それだけだと記憶していますけど……」 「それだけじゃないだろう? 三島部長は大学の先生方と途中で別れて、ある場所へ向かっている」  と言って、沢口の顔色を窺《うかが》うと、 「そんなはずはありませんよ。アフリカの滞在先はチャド砂漠です。三島部長は種苗センターでフルーツ栽培の実態を調査しているはずです。絵はがきにも、そう書いてありました。ご不審の点があれば、真鍋さん……は死んじゃったか……。そう、佐久間さんか、内藤さんに問い合わせて下さいよ。お二人とも、絵はがきをもらっているはずです」 「そうかい。じゃ、早速、問い合わせることにしよう」  と言ったが、もちろん、そんな気はない。どうやら、三島はオアシス・プロジェクトの詳細に関しては、沢口に話していないようだった。たぶん、沢口を信頼していなかったからだろう。がっかりする一方で、ほっとする思いもした。  加納にとって、すでに沢口は用済みの相手だった。後は、南欧料理店での無礼を恫喝《どうかつ》し、コップのビールを浴びせかければ、腹の虫は納まる。だが、加納は一商社マンとして、そこにいるわけではなかった。私憤を抑え、ひたすら公務だけに専念しなければならない。 「話は元に戻るけど……」  加納はビール瓶を掴み、沢口のコップに向けて差し出した。 「曾根とかいう役人から買ったP名簿だけどね。現物は金庫の中だろうけど、コピーはあるんだろう?」  と尋ねると、 「あ、ありません」  と、首を横に振った。だが、目が泳いでいる。すかさず、 「嘘つけっ」  と、机を叩いた。注いだばかりのビールがこぼれた。 「コピーを作らずに、総務に渡したなんておとぎ話を、誰が信用するかっ」  と凄《すご》んだが、沢口は口を閉ざしたままだった。 「なるほど、石の地蔵さんか……。実に残念だ……」  加納はコップのビールを一気に飲み干して、インターホンに手を伸ばした。そして、 「すまんが、急用ができた。お愛想してくれ」  と言い終わる前に、 「ち、ちょっと、待って下さいよ」  沢口が言った。 「待つって、何を?」 「とにかく、待って下さい」 「とにかく、か……」  加納はインターホンに向かって、 「連れが、しばらく待ってくれ、と言ってるんで、今のは、取り消しだ」  と言って、受話器を戻した。すると、沢口は両膝をモゾモゾと動かしてから、 「お偉方から箝口令《かんこうれい》が出ていますからね。ちょっと考える時間が欲しかっただけですよ。お話ししないとは言いません」  沢口が微《かす》かに笑った。この夜、初めて見せた笑顔だった。 「なるほど。それで、考える時間というのは、どれくらいだ? あまり長くは待てないぞ」 「そんなにかかりませんよ」  と言うと、沢口は、ビールをあおり、失礼します、と言うと膝を崩し、あぐらをかいた。そして、空になったコップに、手酌のビールを注いだ。 「P名簿のコピーを渡した場合の……僕のメリットですけどね。嫌な過去が表沙汰《おもてざた》にならない、というだけですか?」 「何が言いたい? もっとはっきり言ってみろ」 「いいでしょう。先程から、贈賄だ、海外視察だ、砂漠緑化だと、金の匂いがプンプンしているような気がするんですけどね。もし儲《もう》け話だったら、僕にも一口のせてもらえないかと思って……」  と言って、ニヤリと笑った。卑しい笑いだった。加納は不愉快な気分になった。 「残念ながら、沢口君。今回の場合は、そういう取り引きは成立しない」  加納は冷たい口調で言った。 「そもそも、君にそんな資格はないんだ。なぜだか、わかるか?」 「わかりません……」 「君の過去を表沙汰にしないために、すでにかなりの経費をかけている」  もちろん、口から出任せだ。 「この経費を君に請求するかどうかは、今後の君の協力の度合いによると考えている。私の言っている意味がわかるか?」 「………」  沢口は膝を崩したままだったが、その視線は次第に座卓の上に落ちて行き、一点で止まった。やがて、 「なるほど。そういうことですかっ」  と、不貞腐《ふてくさ》れたように言うと、コップに残ったビールを一気に飲み干した。続いて、それまで箸《はし》をつけなかった皿や小鉢の料理をズルズルと音を立てて平らげた。 「ところで、何ですね……」  ムシャムシャと口を動かしていた沢口は、指先で口の中の小骨を探り出すと、それを座卓の上にこすりつけた。 「女を泣かせたという点では、先輩も同罪じゃないんですか? しかも、私と違って、慰謝料無しで、生ゴミみたいに捨てたわけでしょう? その点に限っては、私より数段、悪どい」 「……何だと?」 「いや、事情通に、いろいろと聞いたんですよ。某社の重役令嬢とお付き合いする上で、邪魔になったとか、どうとか」  沢口は冷やかに笑った。  どうやら、高木万里子のことらしい。それにしても、ホモ説やインポ説に加えて、今度は出世絡みの二股《ふたまた》説か……。当方、長らく一人暮らしを続けているわけだから、あらぬ噂を立てられても、止むを得ないと覚悟はしている。しかし、それにしても、余命わずかとか、出家間近とか、哲学的な噂は立たないものなのか……。 「同じ女絡みだと言うのにですよ」  沢口は言う。 「一応、それなりにけじめをつけた人間が、まるでけじめをつけなかった人間に、ああだこうだと言われるんですからね。変な世の中ですよ。全く、変な世の中だ」 「………」  加納は黙っていた。五百万円の示談金を、けじめをつけたと割り切ることのできる人間がうらやましかった。  加納にしてみれば、けじめをつけたくても、つけようがなかった。そのせいだろうか、今も、万里子の思い出が薄らぐことはない。過《あやま》ちがあってこそ、わかることがある、と言うが、わかったところで、どうにもならないこともあるのだ。 「いっそのこと、出るところへ出てみますか?」  沢口が出し抜けに言った。ひょっとしたら、伏目がちになった加納の態度を誤解したのかも知れない。 「それもいいね。当方に異存はないぞ」  加納が顔を上げると、沢口が元の真顔に戻った。それを見定めてから、 「いいか。P名簿の原本とは言わない」  加納は言った。 「コピーでいい。この次は、それを持って来い。ただし、イカサマは許さんぞ。コピーが無いというなら、総務部の金庫を破ってでも手に入れることだ。それと引き換えに、君の秘められた前科[#「前科」に傍点]は握り潰《つぶ》してやろう。わかったか?」  と顎《あご》をしゃくって、返事を待った。 「わかりましたよっ」  沢口はビール瓶に手を伸ばし、ガチガチと音を立てて、コップに注いだ。それを飲み干すと、まるで自棄《やけ》を起こしたように、また手酌。そのビールも、一気に飲み干した。  加納は冷やかな目で、それを見ていた。      2  栃木大学の青山和江に電話して、面会を申し入れた。面識がないせいもあったのだろう。予想通り、多忙を理由に拒否されてしまった。  沢口のように無理強いできる材料はない。研究者から貴重な時間を奪い取るには、それに見合うものが必要だった。二度目の電話の時、現金の臨時収入に結びつくことを臭《にお》わせた。その結果、ともかく面会の約束を取り付けることができた。  東京駅から�あおば�に乗って四十五分。人口十五万人の宿場町に栃木大学はある。歴史ある土地のはずなのだが、駅の周辺に、それを感じさせるものは見当たらなかった。  まるで駐車場のような駅前広場から、タクシーに乗って大学に向かう。面会場所として、指定されたファミリーレストランまでは十五分の距離だった。  そこは栃木大学の正門からたった五十メートルしか離れていなかった。平日の店内は七分の入りというところで、その大半は学生たちだった。  予約席に座って二十分。ドアが開いて、ショートカットの女性が現れた。知的な美人で、レジ係に何事か声をかけている。やがて、加納の方を振り向き、歩き出した。すれ違う学生たちが、会釈している。加納はゆっくりと立ち上がった。 「加納さん?」  五メートルほどの距離に近づいた時、女は尋ねた。 「そうです。お見知りおきを」  加納は名刺を差し出した。 「確かに電話の声だわ。教室から直接、来たので、名刺はないわよ」 「結構です。前々から、先生のことは三島部長からお聞きしておりますので……」  加納は椅子をすすめ、メニューを手に取った。  青山の希望で、コーヒーとサンドウィッチをオーダーした。その間、青山は両肘《りようひじ》をテーブルの上について、加納をじっと見つめていた。やがて、ウェイトレスが離れると、 「実を言うと、あなたの電話があった後、ある人物に電話して確かめたのよ」 「ほう。何をです?」 「まず、あなたのこと」 「私のことを?」 「そう。いきなり電話してきて、会ってくれ、と言うんでしょう? 正直なところ、気味が悪かったから」 「まぁ、当然でしょうね。で……、その人物は何と言ってました? 噛《か》みつかれるから近づくな、とでも?」 「いいえ。好意的だったわ。だから、こうして会っているわけよ」 「ありがとうございます」  加納は頭を下げた。 「礼なんていいわよ。それより、用事を済ませてしまいましょう。私に聞きたいことって、何なの?」 「ここで……お話するんですか?」  加納は周囲を見回した。右のテーブルに母子連れ。左のテーブルにはセールスマン風の三人連れが座っている。 「今の世の中、誰もかれも自分のことで精一杯よ。他人のことなんか、構っていられない」  青山は笑った。その考え方に異論はあるが、声を低めて話すことにした。 「そうですか。では、お聞きします。わが社の三島という前の部長が、先生にある仕事をお頼みしているはずです。その仕事の内容について教えていただきたいと思いまして」 「三島さんから依頼された仕事?」  青山はおうむ返しに尋ねた。まだ加納を信用していないのだろう。 「いわゆるオアシス・プロジェクトです」  加納は言った。 「あなたはリンツ社の一員なんでしょう? どうして、担当者に聞かないのかしら?」 「それができれば、こちらへはお邪魔していません。いろいろと込み入った社内事情がありましてね。こうして、内々にお尋ねしているわけです。もし助けていただけるのであれば、それなりのお礼をするつもりです」 「お礼? つまり、賄賂?」 「いいえ。教えていただくわけですから、授業料だと考えています」  加納はバッグの中から銀行の封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。そして、開いている封筒の部分を青山の方へ向けた。覗《のぞ》き込まなくても、札束の耳の部分が見えるはずである。  金額は五十万円。多すぎるような気もしたが、思い切った。価格が商品の価値を高める、ということもある。  青山の目が封筒に釘付けになっていた。だが、それも一時のことで、やがて、その目の輝きは、次第に別の光を放つようになる。人は二階に立てば、三階からの眺めを羨《うらや》むようになり、三階に上がれば、四階からの眺めを羨むようになるのだろうか? 「それだけ?」  青山が尋ねた。言うまでもなく、五十万円だけ? という意味だ。 「どれほどなら?」  と聞き返した。その時、ウェイターがコーヒーを運んできた。加納は札束の封筒をバッグへ戻した。  テーブルの上に、コーヒーのカップが差し出された。青山はシュガーポットに手を伸ばして、蓋《ふた》を取り、 「一つでは多すぎるかしら?」  と尋ねた。 「一つ?」  百万円か……。  加納は青山を見つめた。まるで、獲物を狙う獣のような眼差しだった。 「問題は……」  加納は言った。 「果たしてコーヒーの味と香りが、二倍の砂糖に持ち堪《こた》えられるかどうかでしょう?」 「もちろん。持ち堪えられると思うわよ。試しに、サンプルを確かめてみる?」 「はい。ぜひ」 「わかったわ。じゃ、何か、質問してみてよ」 「では……」  加納は周囲に目を配ってから、声を低めて、 「三島部長はいわゆるテロ支援国家を訪問したということですが、本当ですか?」  と尋ねると、 「本当よ」  青山はあっさり答えた。加納は唖然《あぜん》とした。それを尻目《しりめ》に、 「理由を知りたい?」  青山が加納の心を見透かしたように尋ねた。 「はい。教えて下さい」  加納は再び、周囲に目を配った。 「テロ国家とか、独裁国家と言われている国なら、産業スパイやマスコミ関係者を完璧《かんぺき》にシャットアウトできるからよ。民主国家と言われる国で、立入禁止の場所に近づいたルポライターなんかを撃ち殺してみなさいよ。大問題になるでしょう? でも、専制国家なら、死者の家族でさえ抗議できない」 「………」 「近頃はやりのクローン人間の研究をしても、学者や宗教家が倫理上の問題を提起するようなことはないわ。工場の煙突からダイオキシンをたなびかせても、住民から抗議を受けることはない。権力に逆らったら、すぐに収容所送りになるからよ。つまり、自由な研究や実験をするには、自由のない国の方が、いろいろと好都合なのよ」 「そんなにしてまで、一体、何の研究をしようとしたんです? 目的は単なる砂漠緑化でしょう?」 「ええ。でも、その前に解決すべき問題があるのよ。言うなれば、怠け病の研究」 「何ですか? そりゃ」 「砂漠の風土病よ。命に危険はないんだけど、微熱と倦怠《けんたい》感で、やる気がなくなる症状らしいわ。現地での作業効率を落とさないためには、今のうちに治療薬を開発しておく必要があるわけよ」 「治療薬?」 「或《ある》いは、ワクチンかしら。いずれにせよ、新薬開発のためには、かなりの数のチンパンジーを生体実験するだけでなく、解剖もする必要があるんですって。となると、動物愛護団体のある先進国では無理でしょう? 何しろ、芸をさせても虐待なんですものね」 「なるほど。すると、三島部長はその交渉に?」 「そうよ。でも、金銭面の問題で、うまく行かなかったみたいよ。……どう? このサンプルはお気に召した?」  と言って、意味あり気に眉《まゆ》を動かした。  事の真偽はともかく、中東に関する初めての具体的情報である。百万円の価値は十分にあると思った。 「コーヒーが冷めます。どうぞ、砂糖を入れて下さい」  と、目で促すと、 「ありがとう……」  青山は満足気な笑みを浮かべ、スプーンに、たっぷりの砂糖をのせて、カップに運んだ。  加納はその手を見つめた。細い指だが、コーヒーをかき回す所作は、まるでビーカーの底の薬剤を溶かすように荒々しい。やがて、青山がコーヒーカップを皿に戻すのを待って、 「では、先生。早速ですが、カイロでのことから、お伺いしたいのですが」  と、次の質問に入ろうとすると、青山は片方の掌を左右に振った。 「申し訳ないけど、二十分後にゼミがあるのよ。だから、もう一度、別の店で会いましょう」 「別の店で?」 「そう」  青山は胸のポケットのボールペンで、レストランのマッチの余白にメモをした。 「ご相談には、ここでお応えするわ。だから、あなたの方も、それまでに準備するものを準備していてちょうだい」 「………」  ゼミはおそらく口実に違いない。青山は現金を確実にしたかったのだ。  色白の顔、華奢《きやしや》な体つき、細い声……。外見に似合わぬしたたかさに加納は舌を巻いた。    銀行のCD機で、不足分の五十万円を引き出した。事後報告で加納が使用できる限度額は五十万円までとされているから、追加の分は取り敢えず自腹ということになる。  果して百万円の出費を柳沢が認めてくれるかどうかわからない。明細票の残高を見て、加納は思わず舌打ちをした。  青山が指定した店は町外れにあるステーキハウスだった。まだ開店前で、�準備中�の札が下がっている。そのドアの前で、煙草を吸っていると、タクシーが止まり、青山が降り立った。約束の時間通りだった。 「入りましょう」  青山はドアを開けて中に入った。薄暗い店内はテーブルの上に逆さまの椅子が載せられてある。 「ねぇ、マスター」  青山がカウンターに寄り掛かり、厨房《ちゆうぼう》に向かって呼びかけた。すると、顎鬚《あごひげ》を生やした中年男が顔だけ出して、 「こんな時間に、どうしたの?」 「ちょっと奥の席を使わせてくれない? 大事な話があるのよ」 「大事な話?」  男は首を伸ばして加納を見てから、 「ああ、いいよ。好きなところを使いな」  と、目で店内を示した。 「ありがとう」  青山はまるで最初から決めていたかのように、奥の席に向かった。 「なるほどね。開店前の料理屋とは恐れ入りました……」  加納はその後に続いた。 「ここのテーブルにしましょう」  煉瓦《れんが》造りの暖炉のある席の前で、青山は立ち止まった。加納はテーブルの上の椅子を下ろした。その椅子に座りながら、 「ここはバルーンクラブの溜《た》まり場なのよ。あのマスターもメンバーの一人。だから、いろいろと無理がきくの」 「バルーン……クラブ?」 「熱気球よ。この町は結構、有名なのよ。空に障害物がないし、風がいいから、バルーンフェスティバルなんかには、適しているらしいわ」 「ほう……。優雅なご趣味をお持ちなんですね?」 「私じゃなくて、うちのボスよ。宇津木先生がアメリカで病み付きになった道楽。貧乏人は下から空を見上げて、バカみたいに手を振るだけよ。何しろ、バルーンは一個、二百万から二百五十万円もするし、その上、維持費もかかる。大学の講師風情の給料じゃ、とても無理」  と言って、じっと加納を見つめた。 「これは失礼しました……」  加納はバッグの中から、百万円の札束の入った紙袋を差し出した。 「ありがとう」  青山はにっこり微笑《ほほえ》んで、それをハンドバッグに入れた。 「じゃ、始めましょうか。何から話せばいいのかしら?」 「青山先生がカイロで何を調査されたのか。それをお聞かせ下さい」 「何も調査していないわ。三島さんを待っていただけよ。つまり、カイロは待ち合わせ場所」 「待ち合わせ場所?」 「そう。砂漠を案内するためにね」 「どこの砂漠です?」 「エジプトとサウジアラビアの砂漠」 「エジプトとサウジアラビア? すると、先程おっしゃった独裁国家へは?」  と尋ねると、青山は目を丸くして、 「とんでもない。私は遠慮したわよ。元々、中東は先進国の女にとっては神経を使う土地なのよ。車を運転するのはもちろん、二の腕を剥《む》き出しても、白い目で見られる。用事が済んだら、さっさと日本に帰ったわ」 「なるほど。すると……、エジプトとサウジアラビアの、どこと、どこを案内されたんです?」 「どこと、どこって、全部で十二カ所よ」 「十二カ所も? その具体的な地名は?」 「地名ですって? 砂漠は海と同じなのよ。東京みたいに電柱が立っていて、所番地が表示してあるわけじゃないわ。見渡す限り、砂の海、海、海よ」  青山は冷やかな目で加納を見た。これだから素人は困る、とでも言いたげだった。 「これは失礼しました。ところで、先生に砂漠を案内していただいて、うちの三島は何をしたんです?」 「衛星写真と、実際の砂漠の地形を比較していたわ。写真だけを見て、実際の砂漠の状態を把握できるようにすることが目的だったみたい」 「一体、何のために?」 「オアシス・プロジェクトとは、単に砂漠緑化とか、海水の淡水化とかのプラントを単独で売るプロジェクトじゃないのよ。砂漠を人間の住める環境にする技術全部をひっくるめて売ろうというプロジェクトなの。砂漠緑化、海水の淡水化、濃霧の液化、太陽発電や風力発電、それに、リゾートを含めた一切合切をね。だから、砂漠によっては売り込み方が違うんだそうよ」 「よくわかりません」 「私にはわかるわ。一口に砂漠と言っても、いろいろあるのよ。砂だけの砂漠ばかりじゃない。岩だらけの砂漠もある。砂漠にも、それぞれ異なる環境があるのよ。何しろ、人類は八千年前から森林を破壊しているんですものね。でき上がる砂漠もいろいろだわ」 「八千年前……ですか」 「そう、地層の中に含まれている花粉の化石を分析すればわかるのよ。旧約聖書のノアの大洪水が事実であることは、メソポタミアの粘土板文書や、ウル遺跡の洪水層が証明しているけど、その原因は森林破壊とされているわ。当時の木材の価値は、言わば現在の石油みたいなものね。森林の奪い合いで戦争まで起きている。神殿建設も、交易船建造も、それから、青銅器を作るにも、土器を焼くにも、日々のパンを焼くためにも、木は必要だったわけよ」 「………」  青山の説明は加納の求めているものではない。ともかく、場所の特定が必要だった。 「先生は先程、砂漠に所番地の表示はない、とおっしゃいましたよね?」 「ええ。言ったわ」 「電柱は立っていなくても、緯度と経度で表示できるんじゃないですか? 今はGPSを利用した高性能のカー・ナビゲーションもあることですし……」 「もちろんよ。緯度と経度、それに衛星写真と地上で撮影した写真。それは三島さんにお渡ししたわ」 「控えは?」 「ないわ。手元に残さないというのが契約だった」 「………」  その資料は一体、どこに保管されているのだろう?  いずれにせよ、探せば発見できるという保証はない。加納は咄嗟《とつさ》に別の手段を考えた。 「バカみたいなことをお聞きしますが」  加納は頭をかいて見せてから、 「衛星写真というのは、地球が無くならない限り、何度でも撮影できますよね?」 「ええ、もちろん」 「どうでしょう、先生。別の衛星写真で結構ですから、もう一度、その十二カ所をマーキングしていただく、というわけには行かないでしょうか?」 「不可能じゃないけど、正確にマーキングできる自信がないわ。それより……」  青山は厨房の方を一瞥《いちべつ》して、 「実を言うと、三島さん以外に、もう一人、同じものを保管している人が、いることはいるわ。そっちと話をつけた方が早いんじゃない?」 「本当ですか?」 「ええ。でも、三島さんとの契約では口外しないことになっている。それがネックと言えば、ネックだわね」 「すでに三島は故人ですよ。それに、私はリンツ商事の社員です」 「わかっているわよ。だから、話したんじゃない。あなたは物分かりがよさそうだし……」  青山の目が妖《あや》しく光った。野心家の欲の深さは底無し沼に等しい。それは常習犯罪者と同じで、適当なところで切り上げるという分別を欠いている。 「それに……」  青山は続けた。 「三島さんが亡くなったということは、それだけ事情を知っている関係者は少なくなったということでしょう? つまり、情報が漏れれば、私に疑いがかかる確率も高くなったということよ」  だから、もっとお金を払いなさい……。  たぶん、そう言いたかったに違いない。確かに、そういう計算は成り立つ。ただし、それは電卓を使って行う単純計算の場合だ。 「全く同感です。先生」  加納は言った。情報は欲しかったが、すでに支払う現金の限度額は越えている。経費を節約することも、特務員の心がけるべき義務の一つなのだ。 「だからこそ、宇津木教授には内緒で、お弟子さんへ賄賂をお渡ししたわけです」  と言って、できるだけ下品に笑って見せた。頭の回転がよければ、その言葉と薄笑いの意味を理解することができるはずだ。  ハンドバッグの中の札束は紛れもない賄賂であり、地方大学の一講師が、その将来を棒に振るに十分な額だった。そして、今更、そのことに気づき、札束を突き返したとしても、受領の事実に変わりはない。それは、泥棒が盗んだ物を返却して、窃盗罪を免れようとするようなもので、法律上、潔白の証明にはならないのと同じことだ。  収賄側と贈賄側の力関係は微妙である。青山の場合、札束を得た時点で、脅迫される立場も得たと言える。そして、その札束が浪費に消えたとしても、脅迫される立場は永久に消えることがない。  おそらく、そのことを自覚したのだろう。青山の顔から余裕の笑みが消えていた。 「ご不満かも知れませんけど、先生……」  加納は低姿勢を保った。インテリを脅す刃物は、ほんの一瞬、ちらつかせるだけで十分である。 「私は領収書をいただいておりませんよ。つまり、先生にお渡しした授業料には税金がかからないわけです。図々しいかも知れませんけど、それを以《もつ》て、ご容赦下さい。もうお金がないんです。お願いします」  と言って、今度は、頭を下げて見せた。これなら、相手のプライドは傷つかないはずだ。 「そう。じゃ、仕方がないわね……」  青山は澄まし顔で、 「京阪大学の江崎教授が保管しているわ」 「京阪大学の……江崎教授?」  初めて聞く名前である。 「三島さんの先輩よ。私から聞いたなんて、絶対に言わないでよ」 「もちろん、口が裂けても申しません。ありがとうございました」  加納はテーブルの上に両手をつき、改めて深々と頭を下げた。 [#改ページ] X月X日 通常報告(電話) [#ここから1字下げ] 「自由のない国で、自由な実験か……。皮肉な話だな。それで、その交渉自体は不調に終わったんだな?」 「はい。金銭面で折り合いがつかなかったようです。でも、交渉を断念したかどうかは不明です」 「ビジネスは駆け引きだからな。ドルが欲しくなれば、ハードルも低くなるし、専制国家は中東以外にもある。そもそも、新薬開発のための動物実験、というのが怪しい。別に、君の報告にケチをつけるわけじゃないが、青山講師の証言だけじゃ、うちのお偉方は納得しないと思う」 「もちろん、これで、一丁あがり、なんて思っていません。オアシス・プロジェクトの調査は、もっと掘り下げる必要があると思います」 「大変だろうが、よろしく頼む。ところで……、例のP名簿の件だが、でかしたぞ。なかなかいいものだった。早速、警視総監賞の上申をしておいたからな」 「ありがとうございます」 「名簿を売りこんだ曾根という役人は可哀相《かわいそう》な男でね。入省以来、役得のないポストばかりについている。他の役人と違って、あんな名簿でも作らなけりゃ、臨時収入の道がなかったんだろう。だが、お蔭《かげ》で、願ってもない貴重な情報が手に入った。特に、官僚の皆さん方の、持病と宗教に関する情報は価値がある」 「お褒《ほ》めにあずかり、恐縮です」 「問題は捜査二課だ。課長が異動したら、三島の捜査を再開するのは目に見えているからな。あの名簿のことが表沙汰《おもてざた》になってしまうと、価値が半減してしまう。かと言って、あからさまに捜査妨害するわけにも行かないし、どうしたものかと、頭を悩ましているところだ。こういうのを、贅沢《ぜいたく》な悩みと言うんだろうけど……」 「それにしても、捜査二課は一体、どこから贈収賄情報を仕入れたんですかね。三島の場合、通常のケースとは全く違いますよ」 「赤坂の接待情報ということだから、案外、ライバル商社のリークかも知れん。料亭か高級クラブで、三島が役人と一緒にいるところを、見たか聞いたかしたんだろうよ」 「足を引っ張ってやれってんで、チクったと?」 「うん。でなければ、たまたま捜査二課の情報網に引っ掛かったかの、どちらかだ。向こうさんも結構、アンテナには金をかけているらしいからね」 「………」 「いずれにせよ、不思議なのは、尾行に気づいた三島が異常なほどの過剰な反応を示した、という点だ。警察の尾行くらいで、泡食って逃げ出すもんか。命の危険を感じたから、車道に飛び出すほど、慌てたんだ」 「もし、捜査二課の尾行担当の報告の通りだったら、の話でしょう?」 「もちろんだ。ともかく、多摩署の交通捜査に轢《ひ》き逃げ犯を挙げてもらわなきゃ、始まらないよ。それから、えーと……、話は元に戻るけど、栃木大学の青山には五十万円も余分に、ふんだくられたんだって?」 「はい。先程申し上げた動物実験のケバリに、ダボハゼみたいに食いついてしまいました。面目ありません」 「そうか。まぁ、いいよ。実を言うと、三百くらいまでは覚悟していたんだ。たった百なら、情報協力費扱いにしておこう」 「……そうですか」 「それより、その余分にふんだくられた分の情報、というのを聞きたいな」 「残念ながら、まだ虫食い情報です。もう少し、待って下さい」 「虫食い情報? 穴は埋められそうか?」 「はい。京阪大学の総合科学部の学部長で、江崎教授という人物がいます。洗ってくれませんか」 「京阪大学の、江崎教授?」 「三島の先輩格に当たる人物のようです。栃木大学の宇津木を紹介したのも、江崎のようです。青山講師の口ぶりによると、プロジェクトのコーディネーターのようなことをしていたようですから、江崎を叩けば、全体像がはっきりすると思うんです」 「よし、わかった。早速、洗わせるけど、大丈夫か? 相手が一流大学の学部長となると、単に頭が切れるだけでなく、人生経験も豊富だし、それなりに腹もすわっているはずだ。青山や沢口のような女子供を相手にするのとは、わけが違うぞ?」 「いやいや、男だろうが大人だろうが、つまるところは人間ですよ。生きている以上、何らかの弱点があるはずです。そこをちょいとつつけば、喋《しやべ》るでしょう」 「おいおい、あまり調子にのるな。今までがうまく行ったからといって、これからも同じ具合に、事が運ぶとは限らんのだぞ。これまでの例からすると、大成功した自惚《うぬぼ》れが、大失敗の原因になっている。うまく行ってる時ほど、用心をしろ」 「はいはい。せいぜい気をつけます」 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   第五章 誤 算      1  京阪大学総合科学部の学部長、江崎由紀夫は六十三歳。社会人類学の分野では著名な学者ということだった。  柳沢から送られてきたファイルには、江崎の経歴、資産、家族、交友関係などが細々と記載されていた。その内容は京阪大学の学部長という肩書にふさわしく、華やかなものだった。  唯一の弱点は健康面で、心臓病を患い、胸にはペースメーカーを埋め込んでいるとのことだった。  加納は江崎の行動予定を見た。それによると、近々、学会に出席するために、上京することになっている。  沢口のようなスキャンダルは見当たらず、青山のように札束の効果も期待できない。もっとも、心理面で追い詰められない場合、肉体的苦痛に訴えるという手っ取り早い方法もある。しかし、拷問的手法は緊急を要し、且《か》つ、止むを得ない場合以外は禁じられているし、仮に、その要件を満たしていたとしても、相手の年齢と持病を考慮すると、最悪の場合、死なれてしまう危険性があった。  しかし、人間には誰にでも汚点がある。そして、人生が長ければ長いほど、その数は多いはずだ。江崎にそれが見当たらないのは、巧妙に隠蔽《いんぺい》しているからにすぎない。時間さえあれば、過去を調べ上げ、秘められた汚点を突き止める自信はあった。だが、加納には、肝心なその時間がない。つまり、加納は最後の手段を取らざるを得なかった。汚点が見当たらなければ作り出す、という苦し紛れの奇策である。    学会が開かれる間、江崎は東京駅近くの一流ホテルに滞在していた。  加納は部屋に電話を入れ、面会を申し入れた。江崎が面識のない加納の申し入れを承諾したのは、三島という名、そして、架空のスキャンダルを微妙な言い回しで臭《にお》わせたからに違いない。名声と地位を得た人間にとっての心配事は、それを失うことだからだ。  面会に指定された場所は、滞在先のホテルの一階にあるバーだった。約束の時刻の五分前に店に入り、カウンターに座った。そうするように、指示されたからである。  灰皿を引き寄せ、ポケットの煙草を探ると、バーテンが近づいて来て、加納様で? と尋ねた。そうだ、と答えると、あちらへ、と手を伸ばした。振り向くと、サイドスリットも艶《なま》めかしいチャイナドレスの娘が立っていた。  案内された先はプライベート席で、三方は壁、出入口は肩までの高さの衝立《ついたて》で仕切られていた。テーブルを挟んで四人がけのソファーが一組。そのテーブルの上には�予約席�の三角札がある。チャイナドレスのウェイトレスが、そのプレートを取り、一礼して下がった。  ソファーに腰を下ろし、改めて煙草を取り出した。漂う煙を見つめながら、江崎との駆け引きについて思いを巡らせた。勝算は十分にあった。  煙草を半分ほど吸った時、衝立の向こうで人の気配がした。加納は灰皿に煙草を押しつけ、両手で煙を払ってから居住まいを正した。  間もなく、まずチャイナドレス。続いて、江崎が現れた。加納は立ち上がった。  オールバックの白髪に細いフレームの眼鏡。その奥には用心深そうな目が光っていて、口は真一文字に結んでいる。上品で端正な縦縞《たてじま》のスーツは、いかにも象牙《ぞうげ》の塔の権威らしく、カジュアルなネクタイは不似合いだが、東京出張の旅行気分を漂わせている。 「……加納君か?」  江崎が尋ねた。 「そうです。お見知りおきを」  と目礼したが、 「知っての通り、学会の準備で忙しい。手短に頼む」  江崎はニコリともせずに、ソファーに腰を下ろし、両腕を組んだ。 「お忙しいところ、お呼び立てして申し訳ありません。先生のお住まいは神戸で、また、来月からカナダに行かれるということをお聞きしたものですから、失礼とは存じましたけれど」  と、まず、突然の訪問の理由を説明しようとすると、 「君、前置きはいいんだ。さっさと、用件を話したまえ」  江崎が面倒臭《めんどうくさ》そうに言った。 「失礼いたしました」  と一礼して、 「では、早速、本題に入らせていただきます。本日、お邪魔したのは、オアシス・プロジェクトについて、お話を伺うためです」  加納は結論から述べた。 「オアシス……」  江崎は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、やがて、冷たい笑いを浮かべ、最後には、険しい表情で、 「そんな用事のために、私を呼び出したのか? 筋が違うだろう。バカバカしい」 「お腹立ちはもっともです。しかし、何分にも、プロジェクトの担当者が二人も亡くなってしまい、残りの二人も海外勤務なものですから、筋違いかも知れませんけど、先生にお話を伺うことにしたんです」 「勝手に決めるな。そもそも、君は上役に相談して、ここへ来ているのか?」 「いいえ。個人の立場で参りました」 「だろうと思った。もし、上役に知れたら、どうなると思っているんだ? 下手すりゃ、クビになるかも知れんぞ」 「はい。百も承知です」 「だったら、足元の明るいうちに引き上げたまえ。今回に限り、大目に見てやろう」  と言って、席を立ちかけた。 「そんなお心遣いは、ご無用に願います」  加納はやや高めの声で呼び止めた。江崎の足が止まった。 「実は、上司に相談しないのは、私なりの考えがあってのことでしてね。それに、先生にご相談するのは、あながち筋違いでもないんですよ。何しろ、下手すれば、先生に火の粉が降りかかるかも知れません」 「火の粉?」  江崎の目に、微《かす》かに不安の色が浮かんだ。だが、すぐに、元の色に戻り、 「それは聞き捨てならんな。よし、わかった。ともかく、話してみたまえ」  と、再び、腰を下ろした。 「ありがとうございます……」  加納は一礼して、 「事の始まりは、わが社の幹部に対する贈賄疑惑の風評でした。私は広報室の人間ですからね。早速、その真偽を確かめることにしたんです。最初のうちは、贈賄というんで、霞が関ばかりに注目していたんですけど、これは全くの見当違いでした。贈賄の対象は通産省とか、大蔵省とかの、いわゆる官庁の役人だけではないんです。公務員であれば誰でもいいわけですよ」  数日間、知恵を絞った末に、やっと思いついた罠《わな》である。そして、更に磨きをかけるため、昨夜は徹夜までしている。 「例えば、国公立大学の職員も公務員なんです。卑近な例として、父兄から現金を受け取って、その子供を裏口入学させるのは、紛れもない収賄行為です」 「何かと思えば、火の粉とは、そんなことか?」  江崎が眉を上下させた。そんな収賄行為は身に覚えがない、という態度だった。おそらく、その通りなのだろう。従って、証拠もない。ただ、加納が着目したのは、違法行為を証明する証拠ではない。言うなれば、潔白を証明する証拠だった。 「私が気づいたのは、プロジェクトの研究費という名目で贈賄することですよ、先生。架空の委託研究に大金を支払い、引き換えに、わけのわからないレポートを渡す。ちょうど、政治家が業者に対して、安物の油絵を大金で売りつけるようなもんです。名画と称してね」 「無、無礼者!」  江崎が立ち上がった。 「この私が賄賂を受け取ったと、言いたいのか!」 「可能性ですよ、先生。私は可能性を問題にしているんです。そういう見方もできなくはない、というだけの話ですよ」  加納は静かな口調で答えた。江崎の反発は予想していたことである。 「許せん。こんな侮辱を受けたのは、生まれて初めてだ。オアシス・プロジェクトの研究が、内容を伴っていることはリンツ社の重役は承知している」 「でも、部外者は承知していません」 「………?」 「ですから、最低、私には承知させて下さいよ。手始めに、そうですね……。亡くなった三島部長がお渡しした衛星写真を拝借させて下さい。そうすれば、先生のお話を信用しますよ」 「君は一体、何を考えている? 気は確かか?」  江崎が唖然《あぜん》とした表情で尋ねた。 「もちろん、正気です。まず衛星写真。それに、オアシス・プロジェクトのコンセプトについても、ご説明いただければ、いろいろ手間が省けるんですけど……」 「断るっ……」  江崎は席を離れようとした。加納は立ち上がって、 「いいんですか? 先生。先程申し上げたように、火の粉が降りかかることになりますよ?」  と告げると、江崎は出口の手前で振り返った。 「君の方こそ、気をつけたまえ。火の粉どころか、稲妻が落ちることになるぞ。今日の件はリンツ社の重役に連絡する。覚悟をしておきたまえ」 「そうですか。では、先生も覚悟することですね」  加納ははっきりした口調で言った。肝心な仕上げの段階だった。口ごもったり、言い間違えたら、効果は半減する。 「聞くところによると、先生は文化功労者、いや、その登竜門である学術会議員の候補に名前が上がっているとか……。ああいうのは過去の実績も重視しますが、それ以上に、スキャンダルを重視するらしいですね。なぜなら、賞の権威を傷つけるわけには行かないんだそうです。それで、みすみす受賞を逃した人もいるとか……」 「何だと?」  江崎が恐ろしい形相で言った。両手を握り締め、口元を震わせている。 「誤解しないで下さい、先生。私がスキャンダルを流すと言っているんじゃないんです。知り合いのジャーナリストが、そんな記事を書く可能性があるかも知れない、と申し上げているんですよ。彼を説得するには、私が明快な説明をしなければなりません。もし、オアシス・プロジェクトの内容がわかれば、それなりのシナリオが描けるんです。このままでは、先生は晩節を汚すことになりますよ。私だって、リンツ商事の株が下がれば、給料が減ることになるんです。ここのところは、お互いの幸せのために、スクラムを組もうじゃありませんか」 「………」  江崎は何も答えない。 「携帯電話の番号をフロントに預けておきますよ。ご連絡をお待ち申し上げております」  と告げたが、江崎は無言のまま立ち去った。その後ろ姿を見送っていると、加納の中に罪悪感のようなものがこみ上げてきた。  いや、ここで仏心は禁物だ。陰険で卑劣な手段であっても、それはひとえに真相を突き止めるためではないか。美しい花を咲かせるには、誰かが汚れ役になって、コヤシいじりをしなければならない……。  加納は弱気になりかけた自分に、そう言い聞かせた。      2  学会が開かれる三日間のうちに、携帯電話のベルは鳴る、と、加納は確信していた。  江崎由紀夫は学者として、教育者として成功し、三人の子供に恵まれ、退職後は年金で何不自由のない生活が約束されている。だが、江崎の立場からすれば、そんなことは当たり前のことで、大学を退職した後、名誉教授の肩書だけで満足するとは思えなかった。  成功者の証としての叙勲パーティは、すでに江崎の人生設計の中に組み込まれているに違いない。だから、必ず、連絡してくる……。  それが加納の計算だった。そして、その計算通り、最終日の夕方になって、携帯電話が鳴った。  八時にパーティが終わるから、八時半ころに部屋に来たまえ……。  江崎はそう言って、電話を切った。  加納の思惑通りだった。  言われた通り、八時半ちょうどに江崎の部屋のドアをノックした。ドアはすぐに開いた。江崎はタキシードを着たままだった。 「パーティが延びている。すぐに戻らなければならない」  江崎の額には、うっすらと汗がにじんでいる。 「さっさと用事を片づけよう」  と言うと、ベッドの上にあったデパートの紙バッグを手に持つと、 「これを渡す前に確認だけしておきたい。この前、君が言ったことなんだが……」 「この前、私が言ったこと?」 「架空のスキャンダルでも、学術会議員の候補から外されるという話だ。僕が潔白であっても、悪い噂《うわさ》が流れるだけで、顕彰対象から外されるという話だよ」 「ああ、はいはい。申し上げました。実際、その通りだと思いますよ。それが、どうかしましたか?」 「僕は断じて潔白だ。三島君から現金を贈られたり、便宜供与を受けたことはない」 「もちろん、そうでしょうとも。私も先生の潔白証明に協力できると思いますよ。何でしたら、一筆入れましょうか?」 「いや、そういう問題ではない。ここで、はっきり確認しておきたいんだ。そうでないと、何か後ろ暗いところがあって、君にこの資料を渡すような気がするんでね」 「そうですか。では、どうぞ」  ご勝手に、と言いたかった。  あんたも青山と一緒だよ。どっちにしたって、同じことだ……。 「僕に対する収賄疑惑についてだが」  江崎は真剣な表情で言った。 「それは事実なのか、事実でないのか、はっきり言ってもらいたい」 「事実ではありません」  と答えると、 「すると、収賄の事実がないのに、君の要求に応じないと、収賄の噂が流れることになる、ということだね?」 「いいえ。正確には、収賄の噂が流れないように、私が立ち回ります、ということですよ」 「だが、それは裏を返せば、君が立ち回らないと、収賄の噂が流れるということでもあるわけだろう?」  江崎はしつこかった。  この期《ご》に及んで、何をこだわっているんだ……。  加納は苛立《いらだ》ちを覚えた。 「ええ。そう解釈していただいても結構です」  目の前の紙バッグ欲しさに、そう答えた。すると、 「ありがとう。それだけ聞けば、十分だ。さぁ、このバッグの中に、君の要求したものが全て入っている。持って行きたまえ」  と言って、ようやく紙バッグを差し出した。それを受け取り、中身を検《あらた》める。  衛星写真と書類が入っていた。書類の方は英文で書かれた学術論文のようだった。 「確かに……」  加納は中身を紙バッグに戻した。  ちょろいもんだ……。  急に江崎の体が小さく見えた。 「お手間を取らせました。では、失礼します」  と目礼して、ドアに向かった。長居は無用である。  競馬で大穴を当てたような爽快《そうかい》な気分だった。全てが思惑通りに運んだからだ。一刻も早く自分のアパートに戻り、資料に目を通してオアシス・プロジェクトの全容を知りたかった。  廊下に出て、足早にエレベーターホールを目指した。その四、五メートル手前まで来た時、物陰から二人の男が、ぬっと現れた。射るような鋭い眼差しに、思わず足が止まった。二人は無言のまま、加納を押し戻すように近づいて来る。加納は後ずさりし、回れ右した。しかし、いつの間にか、後方にも、二人の男が立っていた。  まさか……。  全身に戦慄《せんりつ》が走った。再び、振り返ると、一人が警察手帳をかざしていた。そして、 「加納英史。恐喝罪の現行犯で、君を逮捕する」  と、太い声で言った。ほぼ同時に、 「手を前へ出せ」  もう一人が言った。突然のことで、加納は呆然《ぼうぜん》とするだけだった。すると、男は加納の手首をグイと掴《つか》んで、両手錠をかけた。金属の持つ独特の冷たさに、加納は思わず身震いした。    まるで悪夢を見ているような気分だった。罠《わな》を仕掛けたつもりが、逆に、罠に掛かっていたのだ。  刑事が無線機に向かって、現逮[#「現逮」に傍点]完了、移送する、と連絡した。そして、 「じゃ、行こうか。念のため言っておくが、逃げようなんて気を起こすなよ。痛い目に遭うだけだぞ」  と念を押してから、手首の上に、タオルをかぶせた。  大の大人が三人、横一列になり、腕を組むようにして歩く姿は異様に映って当然である。すれ違うホテルの客たちはジロジロと遠慮のない目を向けてきた。何人もの好奇の視線にさらされて、廊下からエレベーター、そして、地下フロアへと下りた。  その間、加納は警察に連行された場合の対処法を必死に思い出そうとした。だが、予想もしなかった成り行きにショックを受けたためか、思考力がマヒしていた。  やがて、地下駐車場。ワゴン型の警察車両がアイドリングしている。助手席から制服警官が降りて、後部ドアをいっぱいに開けた。車に乗り込む時、刑事が容疑者の頭に手を置くのは、車のルーフにぶつけてケガをしないためだ。加納も同じように、後部座席に押し込まれた。  二人の刑事も乗り込み、運転担当の警官もいるのに、護送車はなかなか動き出さない。警察無線が新宿署管内で発生した傷害事件の続報を流していた。  ほんの数分前まで、自分の知らないところで、こんな風に、無線通話が交わされていたのか。全く、間抜けな話だ……。  加納は唇を噛《か》んだ。  やがて、助手席の警官がマイクを掴《つか》んで、了解、と言った。捜査系の専用無線で、イヤホーンをしているので、相手の声は聞こえない。  出発、という掛け声。続いて、了解、という応答。同時に、赤色灯が点滅し始めた。その赤い光が、駐車場のコンクリートの壁や柱、そして他の車両や野次馬たちの顔を照らし出す。  護送車は駐車場をゆっくりと進んだ。やがて、出口のところで、停止して、なかなか進まない。業を煮やした助手席の警官が、緊急走行、を指示した。すぐに、電子サイレンの音がして、護送車は動き出した。前方の一般車両がいっせいに左側に退避する。護送車は徐々にスピードを上げていった。加納は目を閉じ、深呼吸した。  あまり調子にのるなよ。うまくいってる時ほど、用心しろ……。  耳の奥で、柳沢の忠告が空《むな》しく響いていた。      3  ワゴン車は渋滞のない道路を三十分以上も走り続けていた。  加納は不思議に思った。逮捕場所であるホテルを管轄するのは大手町警察署。そこまでなら七、八分の距離だったし、警視庁本部に連行するつもりなら、十五分もあれば到着するはずだった。  一体、どこへ向かっているんだ?  加納は首を伸ばすようにして、前方の道路表示に目を注いだ。そんな被疑者の心理を見抜いたのか、 「行き先は多摩署だよ」  隣の刑事がつぶやいた。  多摩署?  加納は耳を疑った。  多摩署と言えば、マムシの兵藤。そこに連行されるということは……。 「あの、会社とかに連絡したいんですけど」  加納はうろたえた。 「欠勤の連絡か?」  刑事が前を見たまま言った。 「はい。それから、仕事についても、いろいろ連絡したいことが」  ともかく、何とかして、柳沢に連絡したかった。 「そんなのはダメだ」  刑事は首を横に振って、 「お前、何か勘違いしているんじゃないのか? この車はキャンプ場に向かっているんじゃないぞ。警察署に向かっているんだ」 「………」 「まぁ、会社への連絡だけはしてやるよ。それ以外はダメだな」 「弁護士への連絡も、ですか?」 「知っている弁護士がいるのか?」 「ええ、まぁ……」  万が一の場合、連絡する法律事務所は決められてある。もちろん、柳沢が指定した弁護士で、電話番号も記憶させられた。しかし、その法律事務所と柳沢との関係、そして、どのようなシステムなのか、知らされてはいない。 「わかった。署についたら、すぐ電話してやるよ」 「お願いします」  加納はペコリと頭を下げた。  その後、一時間半もノロノロ運転して、ワゴン車は多摩署についた。  中庭に停車し、外側からドアが開かれ、まず刑事が降り、もう一人に押されるようにして車から降りた。  署庁舎の中央付近に出入口があるが、刑事たちは加納を連れて別の出入口へ向かった。どこかに監視カメラでもあるのだろうか? その前に立つと、ひとりでに扉が開いた。中は�一本道�の幅の狭い廊下で、突き当たりが�T字路�になっている。建物の構造から考えて、おそらく、そこを右に曲がれば留置場、左に曲がれば、刑事部屋なのだろう。  刑事たちは、その突き当たりを左へ曲がった。  刑事部屋は仕切りなしの大部屋で、机が三十ほど並んでいたが、ほとんどが空席だった。すでに夜勤の体制で、残っている刑事は四名。一人は書類作成、二人は電話、残る一人は、取調室で始末書を書かせているようだった。兵藤の姿は見当たらない。  加納は無人の取調室に入れられた。 「もう一度、検《あらた》めさせてもらうぞ」  刑事が加納の上着の襟からズボンの裾《すそ》までを手際よく探った。加納は両腕を左右に上げ、なすがままにさせた。逆らっても、何の益もないことがわかっていたからだ。 「よし、いい子だ」  刑事が椅子《いす》を引いて、座るように顎《あご》で示した。手錠はかけられたままだった。  刑事は一旦《いつたん》、取調室の外に出た。そして、入れ代わりに現れたのは、まだニキビの痕《あと》も消えていない二十三、四の若い制服警官だった。服装から、地域課の巡査であることがわかる。警官は制帽を机の上に置くと、頬杖《ほおづえ》をついて、 「お前、カツアゲしたんだって?」  と、なれなれしい口調で尋ねた。加納は目をそらした。 「名前は何と言うの?」 「………」 「外資系の商事会社に勤めているって、本当?」 「………」 「よぉ、何とか言えよ」  警官が肩を掴《つか》んできた。加納はその手を振り払ったのだが、 「気取るなよ、あんちゃん。お里は知れているんだ。なぁ、何とか言えよ」  警官は再び肩を掴み、前後に揺すった。  この若造めが……。出るところへ出たら、お前は直立して俺に敬礼しなければならないのだぞ……。  そう思って、睨《にら》みつけたが、加納の正体を知らない相手がたじろぐはずがない。あくまでも、加納は逮捕された被疑者。警官は被疑者の見張り役だった。 「なぁ、あんちゃんよぉ。完黙[#「完黙」に傍点]がおしゃれだったのは、二十年も前の話だ。そんなのは時代遅れだよ。カッコつけたって、ばかみるだけだ。なぁ、あんちゃんよぉ……」  警官は肩を掴み、前後に揺すり続けた。  手錠はかかったままでも、両手を左右に払えば、目の前の警官を黙らせることはできる。だが、そうしたところで、�罪�が重くなるだけだった。加納は両手の拳《こぶし》を握り締め、屈辱に耐えた。    その後、鑑識室で顔写真を撮られ、指紋も採取された。そして、再び、取調室に戻ると、先程の刑事が待ち受けていた。  加納は一旦、手錠を外されて、罪状を認めるか、それとも、認めないか、ということ。そして、弁護人についてはどうするか、ということについて、確認する調書を取られた。この段階では、刑事が大声を張り上げたり、拳で机を叩くことはしない。  もちろん、被疑事実は否認し、弁護人は選任する旨を伝えた。  すると、刑事はそれを代筆し、最後の行に署名と指印をするように求めた。それは弁解録取書という書類で、刑事課長などの捜査幹部が必ず目を通すはずの書類である。加納は楷書《かいしよ》体で丁寧に署名し、実印を押すような気持ちで指印した。捜査幹部の印象を少しでもよくしようという悲しい作戦だった。  刑事は書類を手にして、再び、取調室を出た。その時、刑事部屋で聞き覚えのある声がした。 「どうして大学の先生というのは、ああも話がくどいのかね。十五分で済むところが、一時間近くかかっちまった……」  それは紛れもない兵藤の声だった。加納は身を固くして、耳をそばだてた。 「それはそれは……。こっちは、ちょうど弁録[#「弁録」に傍点]が仕上がったところです」  と、先程の刑事。 「ダンマリでしょう?」  という声にも聞き覚えがあった。兵藤と一緒だった倉島という若い刑事の声だ。  しばらくして、 「ありゃりゃ……。なんてこった」  その倉島が舌打ちした。 「どれどれ、見せてみろ」  と、兵藤の声。どうやら、書き上がった弁解録取書を見ているようだった。だが、なぜ舌打ちするのか、加納にはわからない。 「どうだ。パーフェクトだろう?」  兵藤が得意気に言った。 「恐れ入りました。来々軒でいいですか?」 「冗談言うな。清流亭の和牛料理だ」 「清流亭? それは勘弁して下さいよ、長《チヨウ》さん。まだ給料日前なんですよ」 「武士に二言はございません、と言ったのは、どこの誰だっけ?」 「へいへい、わかりましたよ。清流亭のお好みステーキか……。年なんだから、脂っこいものは控えた方がいいと思うんだけどな」  という言葉を聞いて、加納の全身は熱くなった。二人は加納の逮捕後の態度について、食事を賭《か》けていたのだ。  コツコツと、足音が近づいてくる。やがて、 「よお、加納君。久しぶりだな」  書類を手に、兵藤が現れた。何と答えるべきか、わからない。続いて、兵藤の後から、倉島も姿を見せた。加納は唇を噛《か》み、うつむいた。 「何々……」  兵藤は加納の弁解録取書を目の高さに上げて、 「えー、私は恐喝したつもりはありません、だと? するってぇと、何かい。江崎教授に対して、赤い羽根募金への寄付でも募ったというわけか?」  と言うと、それを机の上に置き、片手でバンと叩いた。 「寝言抜かすのも、いい加減にしろっ。あの部屋には、隠しカメラが仕掛けてあって、俺たちは隣の部屋で、テレビモニターを見ていたんだ」 「ついでに、ビデオテープも取らせてもらった。一部始終をね」  倉島が付け加えた。 「つまり……」  兵藤は言った。 「とうとう、尻尾《しつぽ》を捕まえた、というわけだよ。ここまで来るのには、かなりの苦労をさせられたぜ。署長からは圧力がかかるし、課長からは余分な仕事を言いつかった。その仕事の合間の、尾行、張り込みだったからな」 「………」 「だが、苦労というのは、いつかは報われるもんだよ」  と言うと、兵藤は身を乗り出して、加納の襟首をグイと掴《つか》んだ。 「いいか、耳の穴かっぽじって、よく聞きな。こう見えても、俺は悪党と付き合って三十年、違いのわかるデカ長さんなんだ。一目見れば、そいつがどんな人間か、大体の見当はつく」 「………」  離してくれ、と言いたかったが、首筋が痛くて、言葉を発することができなかった。 「貴様を初めて見た時から、胡散臭《うさんくさ》い男だと思っていたんだ。その目つき、物腰、口のきき方。他の連中は誤魔化《ごまか》せても、この俺は騙《だま》せないぞ。貴様がただ者でないことは、臭いでわかるんだ」 「………」 「警察の上の方に、かなりのコネがあるようだが、今度ばかりは好き勝手にはさせない。その化けの皮をひん剥《む》いてやるから、覚悟しておけよ」  と、すごむと、加納を睨《ね》めつけたまま、顔をやや横に向け、 「クラさんよ。このホシをブタ箱に放り込んでやれや。乾杯は、その後だ」  と言ってから、放り出すように手を離した。      4  倉島に連れられて留置場に向かった。かけられた両手錠に紐《ひも》をつながれ、後ろに回った倉島が紐の先を持っている。まるで、犬の散歩のようだった。  刑事部屋を出て、さきほどの�T字路�を曲がらず、真《ま》っ直《す》ぐに進んだ。前方には観音開きの扉。やや大きめの扉だが鍵《かぎ》はかかっていない。だが、そこを開くと雰囲気は一変する。廊下の天井は高く、壁は、いかにも分厚い感じのするコンクリートで、灰色のペンキが塗ってある。  加納の足は思わず止まった。すると、倉島が、さっさと歩け、と言わんばかりに背中を押した。  トンネルのような廊下を進む。途中、弁護士と容疑者が面会する接見室、そして、看守たちの詰め所を通り過ぎると、再び、扉に突き当たった。全体が鉄製で、これにも灰色の塗装が施されている。  倉島が扉|脇《わき》にあるボタンを押した。すると、ドアの中央にあるハーモニカほどの大きさの覗《のぞ》き窓が開き、鋭い目が左右に動いた。やがて、ガチッという音がして、内側からドアが開いた。  屈強な制服警官が挙手の敬礼をした。腰に鍵の束をぶら下げている。中に入ると、すぐに扉が閉められ、鍵がかけられた。  倉島は加納の手錠を外した。完全な拘束状態の中で、両手だけが自由になった。 「こっちだ……」  と、看守が留置場の一角に案内した。  そこは風呂場の脱衣所のようなところで、事実、衣類を置く棚もある。看守の指示に従って、加納は靴を脱ぎ、一畳ほどの広さのマットの上に乗った。 「服を脱げ」  看守がぶっきら棒に言った。加納は上着とシャツ、そして、ズボンも脱いで、下着姿になった。  倉島が脱いだ上着を調べ始めた。襟、袖口《そでぐち》、裾を指先で念入りに探っている。針一本、見逃さないぞ、という感じだった。看守も同じようにズボンを調べている。やがて、調べ終えると、それぞれ交換し、同じ作業を繰り返した。 「全部、脱げ。靴下もだ」  看守が言った。靴下を脱ぎ、肌着を脱ぎ、そして、パンツに手をかけたが、さすがに躊躇《ちゆうちよ》した。すると、すかさず、 「何をモタついてる。さっさと脱げっ」  看守が厳しい口調で言った。加納はパンツを脱ぎ、丸裸になった。  靴下も下着も調べられ、棚に並べられた。身体捜検の締めくくりは、文字通り、身体だった。まずは口の中で、大口を開けた上に、舌を何度か上下左右させて、ようやく看守は納得した。  だが、まだパンツをはくことはできない。看守は、加納の髪の毛の中から耳の穴、脇の下から爪先《つまさき》まで観察した。 「これは何の痕だ?」  二の腕の傷を見て看守が尋ねた。 「去年の夏、館山の岩場で転んで……」  と説明すると、書類にメモした。  続いて下半身……。上半身と同様、隅々まで念入りに調べられた後、ようやく、 「よし。着ていいぞ」  メモしながら看守が言った。加納は下着をつけ、シャツ、ズボン、上着を身につけた。だが、腕時計、ネクタイ、ズボンのベルトは取り上げられ、靴の代わりに、ゴム草履を渡された。 「こっちだ……」  看守はさらに留置場の奥に連れて行った。戸棚を開けると、毛布が積んである。それを二枚小脇に抱えて、檻《おり》に向かった。  留置場の中に、小部屋が六つ。そこに、二、三人ずつ入っている。もの珍しそうに加納を見つめる者、横目でチラリと見る者、背中を向けている者……。留置人の反応は様々だった。  看守は奥から二番目の扉を開けた。扉の上に、第五留置室、とあり、入口のところに、ゴム草履が二足、きちんと並べられている。つまり、中には、二人の先客[#「先客」に傍点]がいるということだ。  看守の指示で、加納も脱いだゴム草履を同じように並べた。  加納の入室を見届けて、倉島は出入口に向かった。看守が扉を開け、倉島を外に出して、再び、扉を閉じた。それを待っていたかのように、 「あんた、罪名は?」  留置室にいた二十二、三の男が尋ねてきた。近頃はやりの茶髪男だった。もう一人は六十歳くらいの職人風の男で、じっと加納を見つめている。 「けちなカツアゲだよ」  加納は吐き捨てるように言った。 「ふーん……。俺は傷害。道のど真ん中で、バカでかい声で携帯[#「携帯」に傍点]を使ってやがるからよぉ。ちょいと、可愛《かわい》がってやったんだ。これが弱い野郎でよ。電柱に軽く叩きつけてやったら、鼻の骨を折ってやがんの。こちとら、えらい災難だ」 「………」 「あちらにいるお方はスリの名人で、メス辰さん。名前くらいは聞いたことがあるだろう?」 「いや、知らん」 「おいおい、いくら専門外でも、名人メス辰を知らなきゃ、モグリだぞ。医者が手術に使うメスで、上着を裂いてよ。財布を抜くんだとさ。後継者がいないってんで、弟子入りしようかと思うんだ」 「そうかい。とにかく相部屋だ。よろしく……」  と、二人に頭を下げたが、メス辰は視線を逸《そ》らした。  加納は留置室の隅に行き、腰を下ろした。 「おい、新入り。自己紹介くらいしろよ」  隣の房から声がかかった。加納は無視した。すると、また、 「どうした、新入り。くよくよすることはねぇぞ。ブタ箱の中だって、住めば都だ」  別の男が言った。  俺はこんな所で、一体、何をしているんだ……。  加納は頭を抱えた。 [#改ページ]   第六章 追 及  その夜はなかなか眠れなかった。  考えることが多すぎたのだ。取り調べに対する対応。柳沢への、そして、リンツ商事への連絡……。しかし、めまいを覚えるほど考えを巡らせた末に、もはや何も考える必要のないことに気づいた。  全ては終わっていたのだ。特殊任務を帯びた公安部特務員としても、また、商社マンとしても、加納は取り返しのつかない失策を犯していた。  隠密行動が鉄則であるはずの特務員が、警察に逮捕され、顔写真や指紋を採取されただけでなく、引き続いて取り調べを受ける。それだけでも、特務部門の存続を危うくしかねない事態だった。  一方、リンツ商事にとって、社員が恐喝で警察に逮捕されることは、企業イメージを損なう深刻なスキャンダルだった。  表と裏の二つの世界で生きていた加納だったが、その双方の立場で落伍《らくご》者となってしまったのだ。  では、どうするか?  特務員心得では、逮捕された場合、あくまでも一般市民の立場を貫くこと、となっている。つまり、新聞に犯罪者として顔写真が載っても、その立場を貫け、ということだ。何事も承知の上で、特務員になったのだから、覚悟をしていたことではあったが、いざ、その立場になると、暗澹《あんたん》たる思いがこみ上げてくる。  病弱な故郷の父親は、自慢の息子が逮捕された記事を読んで、どう思うだろうか?  加納は寝返りをうった。大口を開け、鼾《いびき》をかいている茶髪男の向こう側で、名人メス辰がじっと加納を見つめていた。    朝の七時。起床! の声に目を覚まし、何分かはまどろんだことに気づいた。  布団を上げ、洗面を済ませる。そして、初めての�臭い飯�は冷たい食パンとマーガリンと白湯《さゆ》。さすがに喉《のど》を通らない。睡眠不足のせいで頭は泥が詰まったように重かった。  壁に寄り掛かり、目を閉じていると、名前を呼ばれた。扉の外で、倉島が手錠を持って立っていた。  とうとう来たか……。  加納は立ち上がり、深呼吸した。すでに覚悟は決まっている。ともかく四十八時間、しらを切り通すことだ。そうすれば、検察庁送りの前に、柳沢が必ず、手を回してくれるはずだ。たぶん……。  留置室の外に出ると、 「眠れたかい?」  倉島が両手錠をかけながら言った。 「ほんの少し……」 「ほう。最初は大概、眠れないもんだけどな。そりゃ大したもんだ」  倉島は出入口の方を向いた。看守が鉄の扉を開ける。 「頑張れよ。負けるな」  期せずして、留置人から声がかかった。本気なのか、冷やかしなのか、わからない。  留置場を出て、灰色のコンクリートのトンネルを抜け、刑事部屋に入った。電話やファクスの音、そして、煙草やコーヒーの臭いまでが懐かしく感じる。  取調室に入ると、手錠を外され、椅子に座らされた。手錠の紐《ひも》は椅子の背もたれに結ばれる。 「おっす……」  と言って、兵藤が入って来た。風呂敷包みを脇に抱えている。加納は何も答えなかった。自分を逮捕した相手に朝の挨拶《あいさつ》をする気分ではなかった。 「相手が木《こ》っ端《ぱ》役人じゃ、おかしくって、挨拶なんかできないか?」 「………」 「まぁ、いい。パクられて、嬉《うれ》しいはずはないしな……」  兵藤は風呂敷包みを机の上に置くと、ポケットから煙草を取り出し、 「吸うか?」  と、尋ねた。加納は首を横に振った。 「体によくないことはわかっているんだが、こればっかりは止められない……」  兵藤がくわえた煙草に火をつけると、倉島がスチール製の灰皿を差し出した。  兵藤は無言で煙草を吹かした。加納も無言で机の上を見つめていた。おそらく兵藤は、加納の心理状態を探っているのだろう。 「さてと……」  兵藤は半分ほど吸いかけた煙草をもみ消して、 「ところで、一泊してみて、気は変わったか? ん? 容疑を認めるか?」 「それについては……」  加納は生唾《なまつば》を飲み込んでから、 「黙秘します」  一晩、考えた末での結論だった。とにかく、柳沢からの指示があるまでは、態度は明らかにすべきではないと思った。 「黙秘? それは無実を主張するという意味かな? それとも、近頃はやりの、認否を留保する、ということなのかしら? ことわっておくけど、ここは裁判所じゃございませんよ?」  茶化すような言い回しだった。  そんな挑発にのってたまるか……。  加納は一呼吸してから、 「先程も言ったように、罪状に関することは、黙秘します」 「なるほどね。それで次は、弁護士を呼べ、か?」 「はい。知り合いの弁護士に頼みたいと思います。電話番号は」 「もう連絡したよ。昨夜のうちにな。警務課が二度も念を押してきやがった」  と、舌打ちして、 「全く……。被害者よりも、加害者の権利が優先されるんだからなぁ。この国は妙な国だ。時々、悪党どもを皆殺しにして自首しようか、と思うことがあるよ。加害者になれば、いたれりつくせりの、いろんな特典があるし、無実を主張すれば、テレビにも出られる」 「………」 「おっと、とんだ楽屋話になっちまった……。ところで、罪状に関することは黙秘する、ということだが、それ以外についてはどうする?」 「それ以外のこと?」 「例えば、本籍地とか、生まれ育った場所とか、通った学校とか、そういうことだよ。君は法律に詳しいようだけど、そういった人定事項に関しては黙秘権はない、という判例があることは知っているだろう?」 「………」  言われてみれば、そんな判例があったような気もした。だが、兵藤の狙いは明らかに、それをきっかけに罪状認否にも触れようとするものだった。 「よくわかりませんが、それも黙秘します」  と答えると、兵藤は小さくため息をつき、両腕を組んで沈黙した。それを待っていたかのように、 「ふざけるな!」  横合いから倉島が怒鳴った。 「下手《したて》に出ていりゃ、つけ上がりやがって、この野郎めっ」  と言うと、加納の側に近づいてきて、襟首をグイと掴《つか》んだ。兵藤は無言で見ている。 「貴様の素性は、おおよそ洗い出してあるよ」  倉島は言った。 「本籍は長野県飯田市丹原一九三四番地。父親の名は加納淳一で、写真館を経営している。母親は滋子。二人の間には、子供が四人。三男一女だが、長男は小学校二年の時、川遊びをしていて溺死《できし》。長女は大学卒業後、呉服屋の若|旦那《だんな》に見初められて結婚。貴様は三番目だ。末っ子は地元の旅行会社に勤めている」 「………」  加納は愕然《がくぜん》とした。倉島はメモも見ずに、一気にまくし立てたのである。そして、その内容は正確だった。兵藤たちが加納の身辺について、かなり詳しい捜査を済ませていることは明らかだった。 「こんなもんで驚くなよ。おめぇのことなら、虫歯の数まで調べ上げてあるんだ。黙秘なんて、生意気なことを抜かすな! この唐変木っ」  襟首を掴んだ拳《こぶし》が九十度、ねじられて、喉《のど》が圧迫され、加納は咳《せ》き込《こ》んだ。 「まぁまぁまぁ、クラさんよ。気持ちはわかるが、暴力はいかん」  兵藤がたしなめ、倉島はようやく手を離した。 「加納君よ……」  兵藤は片手で風呂敷包みをポンポンと叩いて、 「これは君に関する資料だ。どうする? このでっかい包みを解いて、取り調べを始めるか? それとも、その手間を省くか? 粘ったところで、時間の無駄だと思うが、どうする?」 「……黙秘します」  加納は繰り返した。すると、 「そうか、それは実に残念だ。もちろん、君には被疑者としての権利がある。だが、俺たちは国民の公僕として、犯罪を捜査し、被疑者を取り調べる義務があるんだ。君が被疑者の権利を最大限に行使するというなら、我々は捜査員としての義務を最大限に果たさなければならない……」  と言うと、倉島を見て、 「じゃ、後は君に任す」  兵藤は席を立った。 「合点、承知」  入れ代わるように、倉島が席に座った。すると、 「だが、暴力はいかんぞ。暴力はいかん。断じて、暴力はいかん」  出入口のところで、兵藤が言った。やがて、静かにドアは閉まった。その直後、倉島は毛深い掌で机を叩いた。 「本籍はどこなんだ!」  すさまじい形相だった。目をそらして無視しようとすると、 「おいっ、俺が聞いてんだから、俺の顔を見ろよ」  と、指の先で加納の額を小突いた。そして、 「本籍を言ってみろっ」  倉島は再び怒鳴った。  本籍はすでに把握しているはずなのに、敢《あ》えて尋問する。それは確認のための尋問ではない。あくまでも、全面自白を得るための形式的な尋問なのだ。  加納はひたすらそれを無視した。だが、倉島は同じ質問を何度も繰り返した。机を叩き、時折、耳元でわめく。常識的に考えれば無意味なようだが、相手の狙いは、質問に答えさせることよりも、被疑者を苛立《いらだ》たせ、神経をマヒさせることなのだろう。  警官である加納にしてみれば、この種の手法があることは聞いたことがある。しかし、絞首台の上に立たされた者にとって、絞首台の構造や、そのシステムを知っていたところで、一体、何になろうか。何の助けにも、慰めにもならない。 「本籍はどこなんだ! このイカサマ野郎!」  倉島は口汚く罵《ののし》る。相手の狙いがわかっていたが、加納は苛立ち、不快感が募った。 「本籍はどこだと聞いているんだよ! このカツアゲ野郎!」  耳元で倉島が怒鳴った。唾《つば》が飛んで、加納の横顔にかかった。    倉島の取り調べは二時間近く続いていた。それに耐えることができたのは、加納に一つの信念があったからだ。  自分は目の前にいるような凡庸な刑事とは立場が異なる。誇り高い公安捜査員の中の、そのまた、えりすぐりの特務員ではないか。今こそ、その格の違いを見せるべき時だ。職務のために、ひたすら耐え忍べ……。  さすがに怒鳴り疲れたのだろうか。倉島が椅子から立ち上がった。その時、取調室のドアが開いて、看守が顔をのぞかせた。 「あの、ホシの昼飯ですけど、外に置いときますから……」 「昼飯? もう、そんな時間か……」  倉島は腕時計を見てから、 「そうか。じゃ、食わせてやれ」  と言って、取調室から出て行った。  看守は片手に弁当箱のようなものを二つ重ねて持って、加納の前に立った。もう一方の手には、ヤカンを下げている。そして、 「昼飯だ……」  と言って、机の上に置いた。  ここで昼飯を? と言うことは、午後も取り調べが続くということか……。  加納は滅入った。  看守は刑事部屋の茶碗《ちやわん》にヤカンの湯茶を注いだ。茶とは名ばかりで、色は文字通り、茶色だが、香りはなく、うがい薬のような味がした。  弁当箱は二つ。プラスチック製で、片方は麦入りの飯、片方はおかず用で、中は三つに仕切られている。最も広い仕切りには、モヤシと豚肉を炒《いた》めたもの。狭い二つの仕切りには、ポテトサラダが一摘みほど。そして、たくわんが二切れ。 「口に合わないかも知れないが、栄養は計算されているから、食った方がいい。好き嫌いを言ってたら、体が持たんぞ」  と、看守に促されて、箸《はし》を取った。モヤシを一口、飯を一口、茶をすすり、また、飯を一口、ポテトサラダとたくわんを口の中に押し込んだ。お世辞にも、うまいと言える飯ではない。 「もういいです。御馳走《ごちそう》さまでした……」  加納は箸を置いた。 「そんなに急がなくてもいいよ。安心して、ゆっくり食え。デカさんの代わりに、俺がしばらく立ち会ってやるから」 「………」  優しい言葉が嬉《うれ》しかった。それに感謝するつもりで、再び、箸を取った。    午後、取調室には兵藤が現れた。  片手に風呂敷包みを携えている。加納の前に腰を下ろすと、その風呂敷包みを丁寧に解いて、中から、書類を取り出した。 「それでは、今から取り調べを行う」  兵藤は背筋を伸ばし、顎《あご》を引き、両手両足を揃《そろ》え、おごそかな口調で言った。まるで神事でも執り行うような態度だった。  その芝居がかった口調と、珍妙な姿形に、思わず吹き出しそうになった。冗談だと思ったからだ。それはまだ、これから起こることを知らなかったからである。  兵藤は不動の姿勢を保ったまま、視線だけを書類に向けて、 「高校時代まで、君は真面目な少年だったようだ。学校の成績も上位だったし、ラグビーでも、活躍している」  と言って、目を上げた。  一体、それがどうしたというのだ。事件とは何の関係もないではないか……。  加納は苦笑いして、右手で首の後ろをかいた。その時、 「無礼者!」  兵藤が怒鳴った。 「取り調べの最中に、その態度は何だ! 本官は神聖なる日本国憲法の下に、取り調べを実施しているのだぞ! 君は日本国憲法を蔑《ないがし》ろにし、本官を侮辱するのか!」  いつの間にか、加納は兵藤と同じ姿勢を取っていた。つまり、背筋を真《ま》っ直《す》ぐに伸ばし、顎を引き、両足を揃え、両手は股《もも》の上に置いた姿勢だ。 「よし。では、調べを続ける」  兵藤は書類を見て、 「希望する大学の受験は失敗したが、一年間、浪人して、翌年、合格。杉並の久我山《くがやま》に下宿した……」  兵藤はチラリと加納を見て、 「無礼者!」  と、再び、すさまじい声で怒鳴った。その声で、丸くなりかけた背中が伸びた。  兵藤は敵意に満ちた目でしばらく睨《にら》みつけていたが、やがて、 「取り調べを続ける。大学当時の住まいは寿荘というアパートの二〇四号室で、家賃は……」  と、書類を読み上げて行った。その間、ほんの僅《わず》かでも、首が曲がったり、背中が丸まったりすると、そのたびに、怒鳴り声を張り上げるのだった。  抗議しようとしたが、兵藤は同じ姿勢を全く崩すことがなかった。厳粛な法の執行は、厳粛に執り行う、とでも主張するつもりなのだろう。  しばらくすると、加納の額から脂汗が浮いた。その後、足が小刻みに震え出し、鼻水が垂れてきた。だが、全く同じ姿勢をしている兵藤は顔色一つ変えずに、淡々と質問を続けるのだった。  教師が生徒に正座をさせれば、体罰になる。しかし、その際、教師も正座していれば体罰にはならない。つまり、それと同じ理由で、この種の取り調べは決して拷問にはあたらない……。  そう主張するつもりなのだろう。 「では、加納。質問をするぞ」  兵藤は言った。 「大学卒業後、一年間、一体、どこの国を旅行したと言うんだ?」 「………」 「実家はそれほど裕福ではなかったはずだ。銀行から融資を受けて、写真館を改築したばかりだったからな。大学へ通えたのは、ラグビーの体育特待生だったからだろう? 少なくとも、海外旅行をするような余分の金はなかったはずだ。一年間もの旅費は一体、どうした? ヒッチハイクでもしたと言うのか?」 「………」  海外旅行はしていない。それは警官の身分を隠すための作り話だ。その期間は東京郊外の某警察施設で、特務員としての教育と訓練を受けていた……。 「その後、帰国すると、あっさりリンツ商事に入社してしまう。あそこの入社試験は難しいのに、聞くところによると、筆記試験の成績はトップクラスだったそうじゃないか。大学ではラグビーばかりしていて、勉強なんかしている暇はなかったはずなのに、これも不思議な話だ」 「………」  ある人物から事前に想定問題集を渡されていた。大学のラグビー部後援会の理事で、加納に警官になることを勧めたのも、この人物だ。加納が辛い仕事に耐えられるのは、特務員経験者のみに支払われる功労年金のこともあるが、学生時代、物心両面にわたって援助してくれた彼らとの断ちがたい絆《きずな》のためだ……。 「五年前に、リンツ商事のビルが右翼の街宣車に取り囲まれたことがあった。所轄署の警備課長が直々《じきじき》、乗り出しても引き上げなかったのに、君の説得で、抗議が止んだということだが、こりゃ一体、どういうわけなんだ?」 「………」  人事異動で左遷されそうになったので、某団体に右翼の芝居をさせただけのこと。全ては、柳沢たち特務本部が仕組んだ�やらせ�だ。重役たちが右往左往する中、戦闘服の男たちの中へ真正面から入りこみ、指揮者と談判したのも、全て事前の打合せ通り。この功績によって、加納は左遷を免れ、現在のポストに留まっている……。 「一体、お前は何者なんだ? 裏で何をやっている? 手頃なところで、マネーロンダリングか? それとも、犯罪シンジケートの隠し口座か? 麻薬《まやく》や拳銃《けんじゆう》……ということはないな。すると、新手の賭博《とばく》か?」 「………」 「いいや。違うな。そんなもんじゃない。何しろ、大学教授から研究論文を脅し取ろうというんだからな。ひょっとしたら、もっと旨味《うまみ》のある副業なんだろうよ」 「………」  礼儀正しい[#「礼儀正しい」に傍点]取り調べは延々と続いた。中には、身に覚えのないことも含まれていた。思わず、それを否定しようとして、思い留まったのは、意志の強さではない。声を出す気力もなかったからだ。兵藤が用事で席を外した時、加納は机の上に倒れ込んだ。それほど疲労|困憊《こんぱい》していたのは、肉体的負担だけでなく、前夜の睡眠不足、そして、慣れない環境に適応しきれていなかったためだ。  そんな風にして、この日、どれだけ、机の上に体を倒したことだろうか。時間の感覚は鈍り、頭の中は朦朧《もうろう》としてきた。そして、 「おいおい、どうした。しっかりしろ」  と言う倉島の声で、加納は顔を上げ、体を起こした。兵藤の姿はない。 「お宿[#「お宿」に傍点]へ帰るぞ。立ちな」  加納は立ち上がり、両手錠をかけられ、腰紐をまかれた。 「さっさと歩けっ」  と怒鳴られて、前へ進もうとしたが、足がつって歩けない。 「どうした? 杖《つえ》をつくほどの歳《とし》じゃないだろう?」  倉島が背中を押した。転びそうになったが、ともかく足は前に動いた。  取調室から留置場まで、足を引きずりながら進んだ。朝に比べ、距離が十倍も遠くなったような気がした。    留置二日目。夜の八時がタイムリミットの四十八時間となる。それまでには、柳沢が手を回して、釈放されるはずだった。  だが、加納は初日と変わらない取り調べを覚悟した。なぜなら、いずれ釈放されるにしても、兵藤や倉島はぎりぎりまで立件に執念を燃やすと考えたからだ。立件できなくても、腹いせに拷問もどきの取り調べを続けるに違いない。  加納は気を緩めずに、開閉する扉の音と靴音に耳を澄ました。  ところが、午前九時がすぎても、二人は現れなかった。そして、十時になって、留置室の扉が開いたのだが、 「茶髪の兄ちゃんよ。石川から、ママが訪ねてきたよ」  看守が言った。 「お、おふくろが……」  茶髪男はうろたえ、やがて、肩を落として接見室へと向かった。  留置室には、加納とメス辰だけが残った。 「あんなでも、ヤツは質屋の伜《せがれ》なんだ。しかも一人息子でね。ところが、バクチでしこたま借金こさえて、その挙げ句に、倉庫にあるめぼしい質草と、金庫の金をかっぱらって家出した」  メス辰は週刊誌をパラパラとめくりながら言った。 「それを知って、親父は卒中で倒れた。それなのに、まだ目が覚めない。真面目《まじめ》に仕事するから、金を送ってくれ、だとさ。おふくろが送ったその金も、半日で競輪場に消えた。全く、あの茶髪の兄ちゃん、親不孝だ」 「………」 「余計なお世話かも知れないが、そっちも今のうちに足を洗った方がいい。まだまだやり直しがきく歳じゃないか」 「心配してくれて、ありがとう。だが、たぶん、今日の午後に、ここから出られると思うんだ」 「ほう……」  メス辰は加納をチラリと見た。 「皆さんと違って、こっちはケチなカツアゲだしね」  加納は軽い口調で言った。間もなく、釈放されるという嬉しさがあった。だが、 「それは違うんじゃないの?」  メス辰がニヤリと笑った。 「違う? どういう意味だ?」 「あのマムシが、たかがカツアゲくらいで向きになるはずがない」 「やけに、詳しいね。マムシとは長い付き合いなの?」 「俺はケチなスリだよ。マムシは殺しタタキが専門の強行犯担当だ。すだれ越しにお姿を拝見するだけさ」 「………」 「去年、マムシはカミさんに死なれている。さすがに、その時は落ち込んだそうだが、一週間後には、立ち直ったそうだ。あの年でマムシは銀のネックレスをかけている。その先っぽには、小さなケースがついているんだが、中に何が入っていると思う?」 「カミさんの写真かい?」  と笑うと、 「カミさんには違いないが、写真じゃない。骨が入っているそうだ」 「………」 「マムシは普通じゃないよ。カミさんの死に目にあえなかったのは、自分のせいなのに、俺たちのせいだと思いこんでいる。いや、そう思いたいのかも知れんな」 「えらい迷惑だ」 「だが、ご当人は本気だ。悪いことは言わない。黙秘しても無駄だし、苦しい目に遭うだけ損だ。初犯のようだし、早めにゲロった方が身のためだと思う」 「あんたは、マムシの親戚《しんせき》かい?」  実際、警察の回し者かと思った。 「人聞きの悪いことを言うな。俺は親切で言っているんだ」  と言うと、左右の留置室を一瞥《いちべつ》して、 「これでも俺は人を見る目だけはあるつもりだ。商売柄、面《つら》つきを見て、懐具合を見抜かなきゃならないからな。自然に身についちまった。ざっと見たところ、お前さんは根っからのワルとは思えない。今までは、たぶん、巡り合わせが悪かったんだ」 「………」 「足を洗うんだったら、早いに越したことはない。俺みたいになったら、もうやり直しはきかないんだぞ。こんな歳になっても帰る家もなけりゃ、心配してくれる身内もいない。若い時は、それでもよかったんだが、近頃じゃ、めっきり夜風が身に沁《し》みるようになったよ。我ながら、みじめなもんだ」  と、寂しく笑うと、 「騙《だま》されたと思って、一度、真っ当に生きてみなよ。お前さんだったら、たぶん、うまく行くと思う」 「まぁ、一応、ご忠告はご忠告として、受けておくよ。だが、今日の午後には、釈放されるはずなんだ」  加納は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。    十一時になった時、午前中の取り調べはない、と確信した。  やがて、昼食。昨日と同じく、弁当箱が二箱だった。この日の献立は、キャベツと魚肉ソーセージを煮たもの。おからが一摘み。漬物《つけもの》はキムチだった。  加納は箸を取った。取り調べはなく、夕方までには出られると思うと、自然に食欲がわいた。弁当箱の中身はあっと言う間に空になった。  午後は、看守からの呼び出しを待つだけだった。もっとも、釈放されても、当分の間、行き場はない。リンツ商事から懲戒免職の処分が下されることは確実だった。会社だけではない。特務員の任務を解除される可能性も極めて高い。  オアシス・プロジェクトの実態を解明できなかったことが、心残りと言えば、心残りだが、自分なりにベストは尽くしたつもりである。問題は、それを上層部が正当に評価するかどうかだ……。  加納は時刻を気にしながら、自問自答を繰り返していた。  二時を過ぎても、看守は加納の名を呼ぶ様子がなかった。そして、やがて三時。 「どうした? カツアゲ男。ゴソゴソと、やけに落ちつかないな」  隣の留置室から声がかかった。たまらず、加納は看守を呼んだ。 「どうした?」  看守が尋ねた。 「あの、自分に接見の申し入れとか、伝言とか、ないですか?」 「接見はないな。……伝言だって?」 「はい。必ず、連絡があるはずなんですが……」 「伝言か……。ちょっと待ってくれ」  看守は何やら探し始めた。すると、他の留置室から、また、 「担当さんよ、黙秘したら?」  と、声がかかった。  看守は無言のまま机の上の書類や、引き出しの中を確かめていたが、やがて、受話器を取って、 「お手数ですが、受付に留置人に対する伝言のようなものがあるかどうか、確認して下さい。………。いいえ、署の窓口の方の受付です。それと、念のため、本日の接見希望者の確認も、お願いします」  と告げて、受話器を置いた。 「ありがとうございます」  加納は一礼して、鉄格子から離れ、両膝を抱え込むようにして、座った。だが、しばらくして電話が鳴ると、弾《はじ》けるように立ち上がり、鉄格子に駆け寄った。  受話器を取った看守は、はい、はい、と二度ばかり返事して、すぐに電話を切った。そして、加納に目を向けてから、ゆっくりと腰を上げた。加納は固唾《かたず》を飲んで近づいて来る看守に目を凝らした。 「どうでしたか?」  と尋ねると、 「大概の人にとって、警察というところは近づきにくいところなんだ。それに……、逮捕されて留置された、なんてことを聞くと、びっくりしてしまってな」  看守がなだめるような口調で言った。 「そんなことを聞いてませんよ。どうだったんです?」 「今のところ、接見希望も、伝言もないそうだ」 「そんなバカな」  加納は鉄格子に手をかけた。バカはてめぇだよ、と、また野次が飛んだ。 「す、すみません。弁護士のところへ、もう一度電話してくれませんか」 「もう一度って……。昨日、連絡したそうだぞ?」 「わかってます。念のために、もう一度、お願いします」 「念のため、か……」  看守はメモ板を取りに戻り、再び、加納の前に引き返した。 「じゃ、こっちも念のためだ。もう一度、その弁護士の電話番号を言ってくれ」 「すみません。よろしくお願いします」  加納は看守の手元を見つめながら、電話番号を告げた。  そして、待つこと二時間。午後五時になったが、誰も現れなかった。  なぜ、助けがこない? それに、兵藤や倉島が顔を見せないのは、なぜなんだ? ひょっとしたら、文字通り、四十八時間という警察|勾留《こうりゆう》時間のぎりぎりいっぱい、留置するつもりなのだろうか? それとも、最初から看守とグルになって、弁護士には連絡していないのではないのか……。  加納の疑心は募った。  午後六時。夕食の時間となった。プラスチックの器に、やはり麦入りの飯。小振りの器に味噌汁《みそしる》。具は豆腐とモヤシだった。皿には、魚のフライが一匹。その横に刻んだキャベツが添えられていた。  加納は一箸もつけることができなかった。四十八時間まで二時間。もし、時間内に釈放されなければ、検察庁送りということだ。 「どうした? なぜ食わない」  見回りの看守が言った。加納は返事することができなかった。 「だから、言わないこっちゃない……」  メス辰が箸を動かしながら言った。    逮捕されてから三日目。正確には六十時間が過ぎていた。  思考力がマヒしたのか、いつ眠り、いつ起きたのか、はっきりしなかった。ずっと起きていたような気もするし、眠ったような気もした。  朝食のパンをちぎって、白湯と共に飲み込む。一口がやっとだった。熱いブラックコーヒーが無性に飲みたかった。  九時すぎ。運動の時間に、外に出た。外と言っても、狭い中庭のようなところで、鳥籠《とりかご》と呼ばれている。その名の通り、周囲はもちろん、五、六メートル頭上にも鉄格子がはめてある。それでも、自然の風に吹かれるのは気分がよかった。  留置人たちが灰皿がわりのペール缶を囲んでしゃがみこみ、夢中になって煙草を吸っている。加納はその煙を避けるように、檻の隅の方に立った。留置されてから、煙草の煙の臭いに、なぜか吐き気をもよおすようになっていた。  久しぶりの外気、青い空と白い雲、そして、温かい日差しだった。はるか上空に、飛行機が飛んでいる。ほんの少しだが、気が紛れた。加納は胸いっぱいに深呼吸をした。  救出されないのは、特務本部のコンピューターの故障か、通信システムの誤作動のためかも知れない……。それとも、自分は見捨てられてしまったのだろうか?  妄想が止めどなく浮かんでは消える。 「そろそろ時間だ……」  看守の声で、留置人たちは中腰になってせわしなく煙草を吸う。やがて、指の間に隠れるほど短くなった吸殻をペール缶に落とし、重い足取りで房に向かった。加納も、その後に続いた。  午前十時すぎに、留置場の出入口が開く音がした。手錠のガチャガチャという音が第五留置室の前で止まる。 「加納、来い……」  倉島が立っていた。  加納は一瞬、緊張したが、言われた通り、留置室の外に出た。 「丸一日振りだが、顔色よさそうじゃねぇか。ブタ箱の水が合うんじゃねぇのか」  倉島が茶化したが、加納は黙っていた。  両手錠をかけられ、出入口に向かうと、例によって、負けるな、頑張れ、の声がかかった。  大袈裟《おおげさ》な音のする出入口の扉も、灰色のトンネルの廊下も、刑事部屋のざわめきも、そして、倉庫のような雰囲気の取調室も、見慣れたせいか、今はそれほどの威圧感を感じなくなっている。  取調室に入ると、加納は倉島の方を向き、手錠のかかった両手を前に出した。倉島が鍵を外す。加納は椅子に座り、腰紐を背もたれに結びつけられるまで、じっと待つ。その作業が終わるころ、兵藤が姿を見せた。 「四十八時間で釈放されると思っていたらしいな。当てが外れて、気の毒だ」  兵藤はなぜか上機嫌だった。 「実は昨日、検事のところへ行って、君のことで相談ごとをしてきたんだよ。その結果、後二百四十時間、ここにいてもらうことになった。つまり、君にとって、十日分の食費と光熱費が浮くわけだ。おめでとう」  起訴前|勾留《こうりゆう》は原則として十日間。昨日、兵藤たちは検察庁へ行き、加納の悪口雑言を並べ立て、検事を説得したのだろう。 「そんなわけで、今日から、本格的に調べさせてもらう」  兵藤は倉島に目配せした。  十日間も……。  加納は心の中で繰り返した。やっぱり、という思いと、どうして、という思いが交錯した。  たぶん、焦点の定まらない空ろな目をしていたのだろう。 「おいっ、起きんかいっ」  倉島が机を叩き、二日ぶりの取り調べが始まった。    二人の刑事の取り調べを受けていると、時として、自分が一体、何者なのか、わからなくなる時があった。警官としての実感は、十年前の特務員養成所の一年間と、商社勤務の合間に、辺りをはばかりながら行う特務幹部との接触しかない。一般市民としての生活の方が圧倒的に長かったのである。  ひょっとしたら、自分は商社に勤めるただの広報マンなのではなかろうか? 公安特務員のつもりで活動してきたが、実は、そう思いたがっているだけのことで、錯覚しているのではなかろうか?  二人の刑事から怒鳴られたり、諭されたりしていると、時折、そんな思いが脳裏をかすめた。  取り調べは次第に、具体的な事実を追及するようになった。  倉島は尋問する。 「飲み屋で接待すれば、普通、領収書を請求するのが当たり前だ。それなのに、お前はレシートさえも欲しがらない。これは一体、どういうわけだ?」 「………」  レシートどころか、メモも残さないのが、特務員としての心得だ。メモを残せば、日誌や記録もつけるようになる。もし、それが他人の目に触れたら、公安特務の実態が明らかになってしまう。日誌や記録は全て頭の中だ。もし、記憶を頼りに行動できなくなった時は、特務員を引退する時だ……。 「それから金だ。いくら独身貴族だからと言って、とんでもない浪費だ。足代わりにタクシーを使い、飯は一流レストランで外食。お前の給料で、あんな贅沢《ぜいたく》ができるはずがない。金持ちのパトロンでもいるのか?」 「………」  当たり前だ。�金持ちのパトロン�がいなくて、特務捜査なんて成り立たない。だが、個人的に贅沢をしているわけじゃないぞ。安全と水はタダだと思っている呑気《のんき》な日本人にはわからないだろうけど、国家の治安を維持するためには、それ相応の必要経費がかかるんだ……。 「お前が堅気じゃないことはわかっている。たぶん、腹の中で、俺たちを見下しているんだろう? お前は、そんなに偉いのか? 汚れた銭で贅沢しやがって、一体、何様のつもりだ」 「………」  たかが一人や二人、多くても、せいぜい五人や六人の殺人事件を捜査している一般の刑事と、日本の国に住む一億二千万人の生命、身体、財産を守るために、体を張っている特務員とでは、しょせん身分が違う……。 「いい加減に、吐けっ」  倉島が大声を張り上げる。怒鳴られ、机を叩かれると、わかっていても、反射的に身がすくんだ。    午後になると、今度は、兵藤の�針のむしろ�が待っていた。 「ところで、池袋に秋月という小料理屋があるんだが、知っているか?」 「………」  もちろん、知っているが、うかつには答えられない……。 「そこの女将《おかみ》は篠崎亜紀子と言って、レコードも何枚か出したことのある元演歌歌手だ。なかなかの美人で、人気がある。あの店にはカラオケなんか置いてないんだけどね」 「………」  篠崎亜紀子が元演歌歌手とは初耳だ。しかし、それにしても、なぜ篠崎亜紀子のことなんかを?  そう思った時、 「ほう。どうやら、心当たりがあるらしいな」  兵藤がニヤリと笑った。 「三島の部長さんも、いい気なもんだ。あんな手生けの花を何週間も放っておくとはな。いくら店を持たせたからと言って、あれだけの女はそれだけでは満足しない。だから、旦那《だんな》の留守に、つまみ食いしても、仕方がないと言えば、仕方がないんだが……」 「………」  ちゃんと調べたのか? 柳沢の調査では、篠崎亜紀子には年下の愛人がいるんだ。劇団の俳優で、確か……。いや、待て待て、誘導尋問かも知れない。全てを承知の上で、尋問しているのかも知れない。……。 「こういう場合、いつも問題になるのは男の方だ。特に青二才の場合は始末に悪い。女の方は火遊びのつもりなんだが、男の方は本気になってしまうんだ。無理もない。相手が相手だ。なぁ、そうだろ?」  兵藤が珍しく姿勢を崩し、覗《のぞ》き込むようにして加納を見た。 「ゴールデンウィークに、篠崎亜紀子と一緒に草津温泉に同伴した幸せな男がいる。まだ正体は不明だけどね。ここまで突き止めるまで、かなり苦労したよ。加納君……」 「………」 「去年まで、グアムだ、ハワイだ、モルジブだ、と遊び回っていた篠崎亜紀子が、今年に限って国内旅行だ。しかも、一週間の間、ほとんど外出せずに、こもりきりだった、というんだから恐れ入る。一度、そんな関係になったら、忘れられなくなるよなぁ。加納君よ……」 「………」  このバカ、何を勘違いしているんだ。それは俺ではない。何とかいう劇団の俳優で、名前は確か……。 「東京へ戻ってから、彼女を恋しくなっても、三島の手前、近づけない。となると、いつものパターン。あのパトロンが永久に留守になればいい、と思うようになる」 「………」  それが殺人の動機とでも言うつもりか? 全く、ご苦労さんなこった……。  つい背中が丸くなった。すかさず、 「おいっ。シャンとしろっ」  兵藤が机の下で加納の脛《すね》を蹴《け》った。 「三島が何者かに後をつけられていることもわかっている。朝早い時もあれば、夜遅い時もあったそうだ。行動パターンがわかりきっているのに、後をつける目的は限られている。危害を与える隙《すき》を狙う以外、ないよ」  と言うと、数秒の間を置いて、 「加納!」  兵藤は大声を張り上げた。それは、まるで壁も揺らぐかと思えるほどのすさまじさだった。 「ゴールデンウィーク中、どこにいたっ。言えるもんなら、言ってみいっ」 「………」  言えるわけがない。ゴールデンウィーク中は、伊豆のペンションで個人講義を受けていた。毎年恒例のことで、講師は公安担当の専門官たちだ。科目は内外の治安情勢、テロリスト集団の動向、公安犯罪の最新情報などについての集中講義である。どれも退屈な講義だったが、耐えることができたのは、夜の部の女性講師[#「講師」に傍点]が魅力的だったからである。その意味では、篠崎亜紀子に同伴した男と五十歩百歩だと言えなくもない……。 「もしも言えたらだな、加納よ……。手土産つきで、おっ放してやってもいいんだぜ」  兵藤が加納の心の中を見透かしたように言った。  俺なんかを調べるより、篠崎亜紀子を調べれば、いいじゃないか……。  そういう言葉が喉《のど》まで出かかったが、加納は黙秘を貫いた。そんなことを言えば、なぜだ? という質問が浴びせかけられ、結局は洗いざらい話すことになる。それが兵藤の狙いなのだ。    依然として柳沢からの使者は一向に現れず、取り調べは続いた。  一見、無関係と思える事件でも、全体的なつながりがあるというのが、兵藤の考えのようだった。つまり、恐喝事件も、その他の軽犯罪も、加納の反社会的行動の一面であり、その中には、三島殺しも含まれている、と考えているようだった。  細々《こまごま》とした、どうでもよいような日常生活のことから、遠い昔の出来事までが、繰り返し質問された。  その影響で、次第に、加納の中に変化が現れた。それは沈黙に対する拒否反応だった。抗弁したい、反論したい、という思いが日々、募った。密閉された空間の中での自問自答の結果だった。それは拘禁状態に置かれた者に必ず表れる禁断症状のようなものだ。  感情の起伏が激しくなったのも、おそらく、その影響なのだろう。鳥籠[#「鳥籠」に傍点]に出で、青い空を見た時、なぜか、やり切れない侘《わび》しさがこみ上げた。その一方、下品な冗談を言いながら、ただプカプカと煙草を吸う留置人には腹が立った。初老の留置人が壁に寄り掛かり、一人、ナツメロを口ずさんでいる姿を見た時には、急に切なくなって目が潤んだし、夜中に高鼾《たかいびき》をかく若者に対しては、殺意に近い憎しみを覚えた。  兵藤には、そんな加納の心の変化を察知する嗅覚《きゆうかく》のようなものがあるのかも知れない。 「高木万里子という女は、生きていれば、何歳になる?」  と、加納の最大の弱点を突いてきた。 「普通の男と関わり合っていれば、今頃は、幸せなママになっていたことだろうな。聞くところによると、お嬢さん育ちの気立てのいい娘さんだったそうじゃないか。まぁ、その育ちのよさが災いしたわけだ。可哀相《かわいそう》に、男に散々、弄《もてあそ》ばれて捨てられた」 「………」  違う。俺は決して捨ててはいない。迷っていただけだ。実際、柳沢に相談しようと思ったこともある……。 「相当ショックだったんだろうな。リンツ社を退職しただけでなく、日本を離れた。あげくの果ては、異国で死ぬ羽目になった。みんな、お前のせいだ」 「………」  それも誤解だ。フランスでのデザインの勉強は、大学のころからの彼女の夢だったんだ。横浜の、港の見える丘公園で、そんな話を聞いた記憶がある……。 「良心に恥じるという気持ちが、お前にはないのか? これから、という女の一生を台無しにして、よく平気でいられるなぁ」  平気なものか。これまで何度、自分を責め苛《さいな》んだことか。どれだけ、特務員という仕事を呪《のろ》ったことか。貴様なんかに、俺の本当の気持ちがわかってたまるかっ……。 「妊娠したから捨てたのか? 中絶のことで言い争ったのか? それとも、他に女ができたのか? それで邪魔になったのかい?」  万里子は妊娠なんかしていなかった。俺は万里子が好きだった。貴様なんかに、何だかんだと言われる筋合いはないっ……。 「高木万里子の両親は泣いていたぞ。部屋は今でも、当時のままにしてあるそうだ。お前は墓参りして、線香の一本も上げちゃいねぇだろうっ。この人でなし野郎!」 「うるさいっ。黙れっ。俺がどんな思いで……」  加納は思わず怒鳴り声を上げ、そして、声を詰まらせた。我に返って、口をつぐんだわけではない。なぜか急激に、目から涙が溢《あふ》れ出てきたのだ。  万里子の死を知った時にも、泣きはしなかったのに、この時、取調室では無意識に涙が流れ、堪えようとしても止まらない。なぜ、涙が流れるのか、自分でも不思議だった。  脳裏には、万里子の表情が浮かぶ。まるで天使のような……、輝くような笑顔だ。  今更、俺にどうしろと言うんだ? どんなことをしたって、もう、どうにもならないだろう? 全ては終わってしまったんだから……。  加納は心の底から、そう思った。涙は止まらず、机の上に落ちて、パタパタと音を立てた。  そんな加納に対し、兵藤は何も言わなかった。無言のまま席を立ち、静かに取調室から出て行った。加納は一人きりになった。  そう。あの頃、俺は未熟だった。大事なものが見えなかったんだ。この世の中に、愛する女性よりも価値のあるものがあるだろうか? そんなものはありはしないさ。君を失ってみて、それがわかったよ。警察の仕事だと? 特務だと? 法と秩序だと? そんなことは、他の警官が勝手にやるさ。たった一人の女を幸せにできなくて、何が日本の治安だ、国益だ。笑わせるな……。  密室の中で、男のすすり泣く声がいつまでも響いていた。    加納が泣いてから、兵藤たちの態度は一変した。  兵藤は背中を丸め、両肘《りようひじ》を机について、自分や加納の故郷の話をした。声を荒らげることもせず、表情も穏やかだった。  甚《はなは》だしくは、まだ、十一時を過ぎたばかりなのに、兵藤は午前の取り調べを早々と切り上げた。そして、留置場に戻る加納に、次のように告げた。 「君の涙は良心の証《あかし》だと思う。その涙に免じて、時計の針を巻き戻してもいい。君がここに来た最初の時点まで遡《さかのぼ》って、もう一度、仕切り直しても構わん。つまり、否認も、黙秘も、何もかも無かったことにすることにやぶさかではない。よく考えてみてくれ」  さらに、その午後には、 「君には君の言い分があるのはわかっている。たぶん、それは正しいんだろう。だが、事情はともかく、現に君は被害者を作っている。その責任は取らなければならないことはわかるだろう? 少なくても、罪を犯したことだけは認めるべきだと思うんだが、どうだろうか? 俺の言っていることは間違っているだろうか? 今夜一晩、真剣に考えてみて、明日、その答えを聞かせてくれ」  と言って、午後三時には留置場へ戻した。  取り調べの詰めの段階で無理をすると、後々、自白を強要した、と指弾されることが多い。兵藤は明らかに、被疑者が自らの意思で自白を開始することを待っていた。一方、感情を失禁させた加納は放心状態で、それを洞察する心理的余裕がない。  倉島の対応も同様だった。両手錠をかける時、以前のように締めつけることもなく、手首が抜けるのではないかと思うほど緩くかけ、しかも、痛くはないか、と尋ねて来るほどだった。  結構、人間臭い連中じゃないか……。もっとも、相手が自分の正体を知らないというだけのことで、お互い警官同士だからな。元々、ウマは合うのかも知れん……。  加納は迷い始めていた。  特務員という身分と切り離して、恐喝の容疑くらいなら、認めてもよいのではないか……。何しろ、相手の手元には、犯行の一部始終を記録したビデオテープという第一級の証拠があるのだから、勝ち目はない……。  加納は、いわゆる落ちる[#「落ちる」に傍点]寸前だった。もし、その翌日、一人の小柄な弁護士が接見に訪れなかったら、終わりの始まり、ということになっていたかも知れない。  それは朝食を終え、午前の取り調べを待っている時のことだった。看守に呼び出され、接見室に向かうと、柳沢が派遣した弁護士ではなく、リンツ商事の顧問弁護士が待ち受けていた。  ともかくも、ようやく現れた頼りになる味方だった。堰《せき》を切ったように、事情を説明したが、その弁護士は兵藤たちの明らかな別件逮捕を知っても、さほど興味を示さない。  それも当然のことで、弁護士が加納の元を訪れた目的は、逮捕され留置されている社員を救うことではない。あくまで社のイメージを汚さないためだった。  それにしても、民法や商法が専門の顧問弁護士なんかを、なぜよこしたのか?  加納は不満だった。だが、それを声高に主張できる立場ではない。 「ともかく、今のまま、黙秘を続けなさい。余計なことは言わないこと。一両日中に、ここから出られるように、手を打つから」  そう言い残して、顧問弁護士は立ち上がった。 「あの……」  加納も立ち上がった。聞きたいことがあったからだ。  一両日中とは、どれくらいの日にちなのか? 手を打つということだが、どんな手を打つのか? そして、本当に釈放が可能なのか?  そう尋ねたかったのだが、 「何だ? 差し入れでもしてくれ、というのか?」  弁護士の冷たい眼差しの前に、言葉が詰まった。 「い、いえ……。どうか、よろしくお願いします」  加納は深々と頭を下げた。返事はなく、顔を上げた時、そこに顧問弁護士の姿はなかった。  一人になると、看守が現れ、加納に両手錠をかけた。腰紐につながれ、接見室の外に出た。てっきり、そのまま刑事部屋へ向かうものだと思って、足を進めると、 「そっちじゃない。留置場だ」  看守が腰紐を引いた。    弁護士と接見した翌日。逮捕されてから七日目。留置室の扉が開いて、 「出ろ。釈放だ」  看守が言った。一瞬、耳を疑った。 「何している。さっさとせんか」 「は、はい」  加納は慌てて外に出た。 「達者でな……」  後ろでメス辰の声がした。戻って、別れを言おうとすると、 「お別れのキスでもしようってのか? やめとけよ」  看守が鼻で笑った。 「メス辰さんも、お元気で」  鉄格子越しに挨拶《あいさつ》し、頭を下げた。  留置室から出ても、この日は手錠はかけられなかった。いつもと違って、奇妙な感じだった。看守の後について、出口に向かう。他の留置室からかかる声も、いつもと違った。  おめでとう、頑張れよ、よかったな……。  声をかけられる度に、ペコペコと頭を下げた。まるで卒業式のようだった。  留置場を出ると、看守室の隣にある小部屋で、逮捕された時に取り上げられた私物を受け取った。荷札のついた布袋から、腕時計や鍵、そして、財布、ベルトなどが取り出される。  看守の指示で、その品物を確認していると、壁一枚隔てた看守室から怒鳴り声が聞こえた。 「あんたたち、恥ずかしくないのかっ。あんな近眼野郎のハッタリを真に受けちまって……。俺たちの苦労を何だと思っているんだっ」  倉島刑事の声だった。加納は思わず身を固くした。 「いいかっ、弁護士ってのはな。正義の味方でも、真相を究明する理想家でもないんだぞ。奴《やつ》らは、憲法だ、人権だ、真実だと、きれい事ばかり並べているが、結局のところは、裁判に勝ちたいだけなんだ。連続殺人犯を弁護して、無罪をでっち上げて、派手な記者会見をして名前と顔を売る輩《やから》なんだぞ」 「………」 「連中は裁判に勝つためには何でもする。だから、代用監獄がどうの、冤罪《えんざい》がどうのと、警察段階の捜査までいちゃもんをつけてくるんだ。見ていろ。あと十年もしたら、あの連中は、尾行や張り込みまでも人権侵害だと騒ぎ立てるはずだ。下手すりゃ、聞き込み捜査だって、予断に満ちた見込み捜査だと、ケチをつけてくるかも知れん。正義漢面して六法全書を振り回し、悪党のために無罪を勝ち取って、巨利をむさぼる。それが連中の正体なんだっ」  声は益々、せり上がる。 「そんなことを言われても困るよ。こっちは上の命令に従っただけなんだから、どうにもならない……」  と言う声にも聞き覚えがあった。確か、新任の看守係だ。 「いくら命令だからと言って、ペコペコと頭なんか下げるなっ。そういう卑屈な態度が、あの連中を増長させるんだ」 「そんな……。ペコペコなんてしなかったぜ。……なぁ?」 「惚《とぼ》けるなっ。通りかかった署員が、まるでデパートの売り子並みだったと、呆《あき》れていたぞ」 「………」 「もっと警官という職業に誇りを持てよ。警察だけが不正を暴き、正義のために活動しているんだ。弁護人が法廷で、被告に不利になる真実を明らかにしたという話を聞いたことがあるか? 検察官が被告に有利になる証拠を提出したという話を聞いたことがあるか? そんな話は聞いたことがない」 「………」 「要するに、純粋に真実を突き止めようと、純粋な汗を流しているのは、警察だけなんだ。もし、警察段階で十分な捜査活動ができなければ、真相や事実の解明は永久に闇《やみ》の中ということになっちまうんだぞ」 「そんなことを言ったって……。何で、俺たちが、そんな文句を言われなければならないのかな……」  看守が口を尖《とが》らせるのがわかった。 「いいから、最後まで聞け。今後のために本当のことを教えてやる。あの連中は、期末テストの前日に学校に放火する中学生と同じだ。まともな弁護活動に自信がないから、裁判そのものをブチ壊してしまおうってわけだよ。そういう卑劣極まる人種なんだぞ。いいかっ、弁護士ってのはな、被害妄想の偽善者で、独りよがりのペテン師で、揚げ足取りのアナーキストだ。よく覚えとけっ」  と怒鳴った後、すさまじい物音がした。おそらく悔し紛れに、書類か何かを机か床に叩きつけたのだろう。その直後、ドアの開く音がした。そして、 「アナーキストとは懐かしい。いつ留置したの?」  と、別の声がした。その声にも聞き覚えがある。責任者の看守係長だ。  突然の上司の登場に、早くしろ、と、看守が急《せ》かした。  加納はハンカチとネクタイをポケットに押し込み、腕時計をしながら、廊下に出た。  七日前に連行された道順を逆にたどって、足早に出口に向かう。庁舎の外に出て、中庭を横切り裏門へ。看守が鉄扉を開いた。 「右に行けば、JRの駅前広場だ。電話も、タクシーも、ビールの自動販売機もある」 「ありがとうございました」  加納が頭を下げると、 「こんな所には、もう二度と来るなよ」  と言って、看守は扉を閉めた。  加納は歩き出した。裏門から署の建物に沿って、最初の信号機。そこの横断歩道を渡りきったところで、改めて、警察署の方を振り返った。  五階建ての立派な建物だった。素通しのガラス窓は一つもない。建物の中央部分、各階に開いているのは、トイレの小窓だ。外から見ると、縦一列に続いている小窓のうち、下から四番目、つまり、四階の小窓で人影が動いた。加納は目を凝らした。それが兵藤らしいことに気づいた時、全身に鳥肌が立った。加納は逃げるように駅に急いだ。 [#改ページ] X月X日 事後報告(電話) [#ここから1字下げ] 「おい、今、どこにいる? ずっと連絡を待っていたんだぞ」 「実は、昨日の午後まで、多摩署のブタ箱に入っていました。あいにく、檻《おり》の中には公衆電話がありませんでね。連絡が遅れて申し訳ありません」 「そう怒るなよ。こっちも努力していたんだ。だが、いろいろとあってね。手が打てなかったんだ」 「いいんですよ。私は調子に乗りすぎて、取り返しのつかないミスを犯しました。見捨てられて当然です」 「おいおい、本当に、どうかしちまったのか? いつもの加納君らしくないぞ」 「さぁ、どうでしょうか。ひょっとしたら、今の私が本当の私かも知れませんよ」 「どういう意味だ?」 「私はこれまで、警察にパクられて、腕利き刑事に取り調べられても、絶対に口を割らない、という自信がありましたよ。たとえ、拷問にかけられてもね。ところが、そうじゃないことに、今回、気づいたんです。研修所で穴蔵に閉じ込められたり、睡眠妨害されたり、ずいぶんと無茶な鍛えられ方をしましたけどね。当時と今とでは、体力の面でも、精神力の面でも違ってしまっています」 「………」 「どっぷりとぬるま湯につかり過ぎました。そんな柔《やわ》な体に、ふぬけた心ですからね。いきなり冷たい川に放りこまれたら、悲鳴を上げてしまいます。事実、私は悲鳴を上げる寸前でした」 「君は疲れている。悲鳴を上げなかったんだから、いいじゃないか」 「たまたまですよ」 「いや、そうじゃないさ。それに、仮に悲鳴を上げたとしても、恥じるには及ばない。もし、冷たい川に放りこまれても、平然としていたら、かえって怪しまれる。君は、首までぬるま湯につかっていると言ったが、生まれた時からぬるま湯につかっている人間とは訳が違う。特務員として抜群の適性があることは、すでに警察学校時代の心理テストや様々な調査で証明ずみだ」 「あまり私をかいかぶらないで下さいよ」 「まぁ、いい。終わったことだ。ところで、静観した理由の一つは、多摩署が君の逮捕に関して、記者発表しなかったからだ」 「……本当ですか?」 「嘘だと思うなら、新聞を見てみろよ。恐喝事件のことは一行たりとも報道されていない」 「………」 「二つ目の理由は、マムシ[#「マムシ」に傍点]の仲間が君のアパートの向かいで、張り込みをかけていたからだ。そして、三つ目の理由は、会社側が君に関して、いろいろと調査をしていたからだ。それも、素行調査や信用調査にしては、やけに念が入っている。一応、先回りして、打てる手は打っておいた。恐喝の動機がなくては不自然だからな。株価操作で一儲《ひともう》け企《たくら》んだ、ということで辻褄《つじつま》を合わせてある」 「お手数をかけました。……マムシが張り込みをかけていた、とは、どういうことです?」 「ヤツめ。君をパクれば、誰かが慌てて、アパートに駆けつけるとでも思ったんだろう。そいつもパクって、取り調べれば、何かが掴めるだろうってわけだ」 「全く、彼にはうんざりですよ」 「同感だ。多摩署へは圧力をかけたつもりだったんだが、不十分だったようだ。明らかに、彼は君をマークし続けていた。それで、江崎教授に辿《たど》りついたんだと思う」 「マムシどころか、スッポンの称号も進呈したいくらいですよ。ところで、記者発表がなかったのは、なぜです?」 「それは、江崎サイドの要望だったらしい。ああいう連中は、三面記事に自分の写真や名前が載るのを嫌がるからな。だが、その見栄のおかげで、こっちも助かった」 「ええ。親兄弟に知れなかっただけでも、ホッとしました」 「どうせのことなら、会社の方へも連絡を見合わせてもらいたかったんだが、残念ながら、そうは問屋が卸さなかった。会社はすでに懲戒解雇を決定したようだぞ」 「やはり、クビですか……。あと一歩のところだったんですけどね。表の連中に足を引っ張られて、御破算になるとは皮肉なもんです」 「我々も残念だ。しかし、これも成り行きだ。捜査二課も贈収賄の線での捜査を打ち切った。何でもかんでも、思い通りに行くほど、世間は甘くない。正体がバレなかっただけ、よしとしよう。ともかく、早めに出社して、けじめだけはつけてくれ。不祥事を起こした社員らしく、しょんぼりとな。最後の幕を引くことも、特務員の大事な仕事なんだ」 「わかりました」 「会社の方が一区切りついたら、こっちに顔を出してもらうことになると思う。リンツ社に対して、今後、どういう方針でのぞむか、検討しなければならない。それに関連して、君に対する質疑があるから、記憶を整理しておいてもらいたい」 「はい。で……、その後、私はどうなるんでしょう?」 「おそらく、質疑を終えてから、検討することになると思う。最終報告を兼ねた会議だからな」 「そうですか……」 「いずれにせよ、今更、慌てる旅じゃない。立つ鳥、後を濁さず、の精神で頼む」 「はい……」 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   第七章 黄金文書      1  加納は都内のシティホテルにいた。  アパートに戻れば、管理人がドアをノックするだろうし、あちこちから電話がかかってくることはわかりきっている。誰にも邪魔されず、ゆっくりと眠りたかった。  久しぶりの入浴で、浴槽がひどく汚れた。バスタオルをかぶったまま、サンドウィッチで空腹を満たすと、急に眠気が襲ってきた。一眠りするつもりでベッドに横になったのが、午後四時すぎ。夢うつつに二度か三度、カーテンと天井を目にしたような気がしたが、はっきりと目がさめたのは、翌朝の六時のことだった。  柳沢に連絡したのは、その三時間後のことだった。 「けじめをつけろ、か……」  加納は窓の外を見た。部屋は八階。遥《はる》か彼方の山並みまで、視界を遮る鉄格子や壁はない。それが嘘《うそ》のようだった。  午後。図書館に行って、新聞記事を確かめた。柳沢の言った通り、恐喝事件のことは一行も載っていない。一安心して、他の記事にも目を通した。  大型|彗星《すいせい》の発見、有名俳優の病死、ルーキー投手の完全試合……。たった七日の間に、様々なニュースが伝えられていた。  そして、夜。加納はアパートに向かった。辞令を受けるには、それらしい身なりで出社すべきだと思ったからだ。  アパートの五十メートルも手前でタクシーから降り、足音を忍ばせて自室に向かった。ドアには貼《は》り紙がしてあるのが、夜目にもわかる。何が書いてあるか、想像はついた。  至急、連絡を乞《こ》う、という貼り紙をそのままに、加納はドアに鍵《かぎ》を差し込み、静かにノブを回した。  一週間ぶりだったが、部屋の様子は、まるで十カ月も留守にしていたように、様変わりしていた。警察に捜索されたためである。  家具は動かされ、小物類はもちろん、テレビ、電話、パソコンの位置が違っている。物だけではない。空気の臭《にお》いまでもが違っているように思えた。窓を開けようとしたが、思いとどまった。物音をたてれば、管理人が押しかけることになる。  洋服ダンスから、スーツとシャツとネクタイを取り出し、紙袋に入れた。ベルトとハンカチも、と引き出しに手をかけた時、チャイムが鳴った。  息を殺し、無視しようとしたのだが、さっさと開けろ、と言わんばかりに、ドアはノックされ、連続して、チャイムが鳴った。  足音を忍ばせ、ドアの覗《のぞ》き穴から外を見た。隣の部屋の老女が仏頂面をして立っている。やむなく、ドアを開けた。とたんに、 「あんたっ、管理人さんに、すぐ電話してよっ」  老女は喧嘩腰《けんかごし》で言った。 「わかりました」 「今すぐっ、今すぐ電話してよっ」 「はい。すぐに連絡します」 「全く……。泥棒猫みたいに、こそこそと。あきれたもんだっ」  老女は捨てぜりふを残して、自室に戻った。  長居は無用だった。加納は手早く、荷物をまとめ、アパートを出た。もちろん、引っ越し先が決まるまで、管理人に連絡するつもりはない。      2  その朝、加納は社の前にたたずみ、ビルを見上げた。内実はともかく、十年あまり勤務した職場には愛着がある。それもこの日が最後だと思うと、複雑な思いがこみ上げてきた。  社の玄関にガードマンが立っていた。加納とは何度か立ち話をしたことがある。出身は岩手で柔道四段。奥さんは看護婦で、子供が三人。今年、長女が美容学校に入学した。  いつもなら、白い歯を見せて敬礼してくれるのだが、この日は唇を噛《か》み、意識的に加納から目をそらしていた。  それは受付嬢も同じで、部外者に対して、にこやかに応対していたが、加納を見ると、表情が硬直した。加納は無言のまま、その前を通り過ぎた。  広報室に入っても、反応は同じだった。いつもと変わらない雰囲気も、加納に気づくと、笑みが消え、会話が途絶え、誰もが一様に無表情になった。  加納は直接、室長室に向かった。  半開きのドアをノックすると、 「君か……」  室長の口元が歪《ゆが》む……。 「まぁ、入って、ドアを閉めたまえ」  と、仏頂面で言った。言われた通り、ドアを閉めて、 「このたびは申し訳ありませんでした」  加納は深々と頭を下げた。 「謝って済むことじゃない」 「はい。わかっております。覚悟はできています」 「ほう。一体、どんな覚悟だ?」 「いかなる処分にも従います」 「そんなことは当たり前だ。従わなくても、従わせる」  室長は電話に手を伸ばした。相手が誰かはわからない。ただ、言葉遣いから重役であることは確かだった。  加納が出社したこと。言動と健康状態。そして、マスコミ関係者の姿はないこと等を報告し、その後、数回、はい、を繰り返した。やがて、怪訝《けげん》そうに加納を見つめ、最後に、わかりました、と答え、首をひねりながら受話器を戻した。そして、 「一緒に来たまえ……」  室長は立ち上がった。 「一緒に?」  と聞き返したが、室長は無言のまま歩き出した。加納は慌てて、ドアを開けた。  室長室から出ると、全員の目がいっせいに二人に向いた。加納は肩をすぼめ、伏目がちに室長の後に続いた。  廊下からホールに出て、エレベーターに向かう。すれ違う社員たちは加納に気づき、目を逸《そ》らす者、いつも通り会釈する者、冷やかに笑う者、反応は様々だった。  室長は終始、無言だった。最上階でエレベーターを下り、絨毯《じゆうたん》の敷かれた廊下を進み、やがて、副社長室の前で止まった。そして、振り向きもせずに、ここで待ちなさい、と言って、ドアをノックした。  加納は外で待たされた。そして、およそ五分後、ドアが開いた。 「入んなさい……」  室長が言った。加納は中へ入った。すると、入れ替わるようにして、室長は外に出た。  副社長は自席で、何やら書類に目を通していた。卓球台ほどもあろうかというデスク。その隅にはケースに入った日本人形が飾ってある。  やがて、副社長は灰色の目で加納を一瞥《いちべつ》すると、 「そこでは遠い。こっちへ来たまえ」  と、流暢《りゆうちよう》な日本語で言った。オランダ生まれの五十八歳。国籍はスイスだが、日本滞在は十五年にも及ぶ。 「土下座はやめてくれよ。そんな時代がかったことは、今時、はやらない」 「恐れ入ります」 「その代わりに、教えてもらいたいことがあるんだが、いいかな?」 「はい。何なりと」  なぜ恐喝事件を引き起こしたのか? あるいは、なぜ金が必要だったのか? という質問を予想した。しかし、 「君は今日、懲戒解雇されるんだが、明日からどうするつもりだ?」  意外な質問だった。どう答えるべきなのか、加納は迷った。 「どうした? 何なりと答えてくれるんじゃなかったの?」  副社長が急《せ》かした。 「まぁ、新しいアパートが決まってから、職探しをすることになると思います」  相手の真意がわからない。差し障りのない答えをするしかなかった。 「当てはあるのか?」 「いいえ……」 「恐喝で逮捕された商社マンなんかを、好条件で雇ってくれる会社は少ないだろうな」 「はい。たぶん……」 「君は一体、どこの社の株価操作をしようとしたんだ? 日本理化学か? それとも、オリオン種苗か? 両方とも、砂漠緑化に関わっている」 「何のことかわかりません」  加納は首を振って見せた。柳沢の工作が功を奏しているようだったが、応急の措置であって、不完全なはずだ。図にのると、墓穴を掘る羽目になる。今はただ、静かに職場を去るべきだと思った。 「ポーカーフェイスか……。だが、君はカードに負けた。そして、商社マンとしての将来までも棒に振ってしまったわけだ」 「おっしゃる通りです。でも、自分で蒔《ま》いた種ですから、自業自得というものです」 「なかなか潔くて、清々《すがすが》しい。ところで……、私だって日本の諺《ことわざ》は知っているぞ」  と言うと、しばらく、加納を見つめて、 「捨てる神あれば、拾う神あり、だ。何だったら、私が仕事を世話してやろうか?」 「何ですって?」  加納は耳を疑った。 「私が仕事を世話してやろうか、と言ったんだよ」 「冗談をおっしゃっているんですか?」 「この忙しい最中に、冗談言ってどうする。実を言うと、君のことを、いろいろと調べさせた。生まれ、育ち、性格、趣味、特技……。素行調査だから、一通り調べさせたが、そんなことは二次的なことでね。肝心なことは、別なところにある」 「………」 「私が求めている人材は、理想家ではなく、野心家だ。事をなし遂げるには、エゴイズムが不可欠だと思うからだ。きれいごとだけの理想論は、命懸けのパワーを生み出さない。実際のところ、パワーを生み出すのは、金持ちになりたい、勲章が欲しい、いい女と寝たい、というギラギラした欲望だ」 「………」 「残念ながら、どれも、今の日本人が失ってしまったものだ。平和と繁栄に去勢されてしまって、そういうパワーに欠けている。加えて、精神的|脆《もろ》さもあるようだ。打たれ弱いんだな。だが、君はそういうタイプとは明らかに異なる。その証拠に、警察の取り調べにも、最後まで黙秘を貫いた」 「……どうして、ご存知なんです?」 「どうしてだと?」  副社長はニヤリと笑って、 「江崎教授のところへ、警察からの問い合わせがなかったからだよ」 「………?」 「実を言うと、教授が君に渡し、その直後に警察が押収した資料は、稀少《きしよう》金属の地下鉱脈に関するレポートでね。衛星写真は試掘予定場所。つまり、砂漠緑化事業とは、全く関係のない資料だった。もし君が全面自白すれば、それは砂漠緑化に関してだ。ところが、押収した証拠は稀少金属に関しての書類で、矛盾する。警察は当然、江崎教授に問い合わせてくることになる」 「なるほど。すると、私はまんまと騙《だま》されたわけですか」 「止むを得なかったのさ。我々としては、そんな小細工をせずに、内々に済ませるつもりだった。君を呼び出し、ちょっと痛めつけ、クビにするつもりだった。ところが、兵藤とか言う刑事が、どこで嗅《か》ぎつけたのか知らないが、割り込んできたんだ。何と、江崎教授に対して、君の逮捕に協力してくれ、と申し入れてきた。驚いたよ。君は相当、あの刑事に睨《にら》まれているようだな」 「はい。実は、おっしゃる通りなんです。もう、うんざりですよ」  加納は思わず、本音を漏らした。結果的に、その態度が副社長の気分をよくさせたようだった。椅子に寄り掛かり、気持ちよさそうに笑ってから、 「表沙汰《おもてざた》になるのは困るから、断ろうとしたんだが、その刑事ときたら、協力すれば、会社の名は出さない、なんて言ってきた。これは裏を返せば、協力しなければ、会社の名を出す、ということだ。だから、仕方なく協力することにしたのさ。ただし、オアシスの資料を差し出すわけにはいかない。出せば、回り回って、日本の商社に横流しにされる可能性があるからね。それで、横流しされても構わない資料を使うことにしたわけだ」 「すると、騙されたのは、私だけではなかったわけですね?」 「そういうことだ。少しは気が晴れたかね?」 「ええ、ほんの少しですけど」  と、うなずいて見せてから、 「ところで、私にお世話して下さるというのは、一体、どんな仕事なんです?」  と尋ねると、副社長は真顔に戻って、 「勤務地は海外。仕事の内容は、まぁ、連絡調整というところだな」 「海外? どこです?」 「今は、まだ言えない。まぁ、一万キロ彼方の国、とだけ言っておこう。一万キロも離れていれば、あの兵藤という刑事の手も及ばないとは思わないか?」 「………」 「もし引き受けてくれるなら、これまでのサラリーを保証しよう。いや、君が望むなら、出来高払いということにしても構わんぞ。ただ、いったん契約したら、クーリングオフは認めない。もし、その場合、日本に生きて戻れるかどうか、保証はできない」 「それは命が無くなる、ということですか?」 「さぁ、それは私ではなく、ベルンの本社が決めることだ。何しろ、多くの人手と資金、それに時間がかかっている」 「………」 「さぁ、どうする? 現段階では、無理強いはしない。この部屋から出て行くか、残るかは、君の勝手だ」 「今、返事しないとダメですか?」 「この際、即断も、契約条件の一つだと考えてもらいたい」  副社長の目がキラリと光った。  まともな仕事ではないことは確かだった。しかし、いずれにせよ、特務員は自ら職場放棄することは許されていない。加納に選択の余地はなかった。 「それでは、お言葉に甘えて、お世話になることにします」  加納は頭を下げた。 「そう言ってくれると思っていたよ」  副社長は満足気に微笑《ほほえ》んだ。      3  副社長はワインとグラスを二つ、接客用のテーブルの上に置いた。  慣れた手つきで、ワインを開け、グラスに注ぐと、ソファーに寄り掛かり、長い足を組んで、 「私の国籍はスイスだが、退職したら、南フランス辺りにささやかな葡萄《ぶどう》園でも買って、余生を送ろうと考えているんだ」  と言って、口に含んだ。そして、 「うん。これこれ……。とても幸せな気分になれる。言葉では言い表せないよ。君もやりたまえ」 「いただきます」  加納は同じように口に含んだ。その後、うなずいて見せたのは社交辞令。元々、加納の舌はワイン向きではない。  副社長はグラスを目の高さに上げて、グルグルと中身を回しながら、 「実はね。近々、オアシス・プロジェクトを再開することにした」  と、さらりと言った。 「そうですか……」  加納も平静を装って答えたが、危うく咳《せ》き込《こ》むところだった。 「このプロジェクトを中断させていたのは、専任者の三島君に尾行がついたためでね。それもかなり大がかりな組織的尾行だった」 「………」 「正体を突き止めるために、逆尾行したんだが、用心深い相手で、失敗続き。それどころか、逆尾行が察知されて、これにも尾行がつく始末だった。プロの尾行を見破るほどの相手となると、ただ者ではない。それで、オアシス・チームをカムフラージュ解散させたわけだ」 「カムフラージュ解散?」 「そう。万が一のためだ。その後しばらくして、三島君があんな風な死に方をしたために、ついでと言っては何だが、後任は、オアシス・プロジェクトには批判的な小池女史を抜擢《ばつてき》した。それで、ようやく尾行の方も鳴りを潜めたというわけだ」  勘違いとは恐ろしい。尾行は警察によるもので、容疑は贈収賄だ。そして、尾行打ち切りは捜査二課長の命令。もっとも、勘違いしていたという点では、加納たちも引けをとらないが……。 「だが、いつまでも死んだふりをしていられない。もたもたしていたら、葡萄園で過ごす時間がなくなってしまうからな」  副社長は二杯目のワインをグラスに注いだ。 「で、私は一万キロの彼方の外国で、一体、何をすればいいんです?」 「当面は、カイロとリヤドの現地事務所での連絡役、調整役だな。それをしてもらいたい。研究技術者は日本だけではなく、世界各国にいる。実験室での結果が、実際の中東砂漠地帯にも通用するかどうか、試してみなければならない」 「当面は、ということは、いずれは、それ以外にも成すべきことがあるということですね?」 「たぶん、そういうことになると思う」 「……たぶん?」 「先のことはわからないよ、加納君。それに、現地のことは日本にいてはわからないものだ。だから、君に現地に行ってもらうわけだよ」 「………」 「しばらく前のことだが、イエメンの砂漠を旅行していた時、堤防の工事現場に出くわしたことがある。信じられるか? 年間降雨量が三十ミリ以下のカンカン照りの砂漠で、洪水に備えての堤防工事だぞ?」 「本当ですか?」 「この話をすると、誰もが、そう聞き返す。私も車を止めて尋ねてみたよ。すると、その辺りでは、七、八年に一度、大洪水が発生するんだそうだ。家屋は日干し煉瓦《れんが》で出来ているから、水に浸《つ》かったら、一溜《ひとたま》りもない。それで堤防を築いているんだそうだ」 「驚きました……」 「自然というものは、結局のところ、そんな風にしてバランスをとっているのかも知れない。我々が知りたいことは、そういう現地の実態なんだ。砂漠での大洪水のことなんか、どんな資料を調べても載ってはいない。そういうことは、現地に長く住んでいて、初めてわかることなんだ。何をしてもらうか、先のことはわからない、というのは、そういう意味だ」 「なるほど。では、一万キロ彼方のことは、もうお聞きしないことにします。その代わり、日本で起きたことについて、質問してよろしいでしょうか?」  加納は副社長の飲み方を真似て、ワイングラスを空にした。   「先程、副社長は、『三島部長に尾行がついたからオアシス・チームをカムフラージュ解散させた』とおっしゃいましたね?」  加納は念を押した。すると、 「三島君は意外にデリケートな神経の持ち主でね。尾行が続いたために、ノイローゼ状態に陥ってしまった。どっちみち、三島君は外さざるを得なかった」 「ノイローゼ状態? たかが尾行されたくらいで、ですか?」 「その通り。たかが砂漠緑化のプロジェクトだと、涼しい顔をしていればいい、と言ったんだけどね。彼には、そういうポーカーフェイスが苦手なようだった」 「おっしゃる意味がわかりません」  加納は首をひねって見せた。 「たかが砂漠緑化プロジェクトで、この私がプロジェクトチームをカムフラージュ解散したり、刑事にダミーの資料を渡させたりすると思うか?」 「まだ、わかりません」  と言って、首を振ると、副社長は身を乗り出して、 「オアシス・プロジェクトとはね。ただの砂漠緑化プロジェクトではないからだよ。種明かしをすれば、聖都を作るためのプロジェクトだ」 「何ですって?」 「聖都だよ。具体的には、ユダヤ教の聖地。それを作る」 「ユダヤ教の……聖地?」  加納は繰り返した。聞き違い、或《ある》いは、冗談だと思ったからだ。だが、 「その通り。ユダヤ教の聖地だ」  副社長も繰り返した。 「作るって……、ユダヤ人たちには、もうすでに、エルサレムという聖地があるでしょう?」 「残念ながら、今のエルサレムは、真の聖地ではない。旧約聖書に出てくる�約束の地�とは、実は、全く別の場所なんだ」 「……何ですって?」  加納は副社長の顔をまじまじと見つめてから、 「私を……からかっているんですか?」  と尋ねた。すると、 「三島君も、同じことを言ったよ。ムッとしたような顔をしてね」  副社長は苦笑して、 「まぁ、無理もない。ここは日本だし、そう思うのが当たり前だ。だからこそ、このプロジェクトの拠点も東京に置いたわけだ。つまり、多少、情報が漏れても、大方の日本人は信じない。我々にとって、これほど都合のよい国はないんだ」 「………」 「だが、加納君。君たち日本人には馴染《なじ》みがないことだろうけど、今のイスラエルが、旧約聖書の�約束の地�であることを示す遺跡は何一つないんだ。さらに、�約束の地�は、現在のイスラエル、つまり、地中海東岸部ではなく、別の地域である、という学術論文まで正式に発表されている。これは地名学を論拠にした学説で、マスコミからも、信憑《しんぴよう》性が高いと評価されているんだ」 「そんな話、聞いたこともありませんよ」 「そうだろう。それも君が日本人だからだ。と言うより、この国にはユダヤ人が少ないから、と言った方が適切かも知れない。とにかく、ヨーロッパでは有名な話だ」 「………」 「近い将来、真の�約束の地�が発表される。ただし、今度は、単なる学説としてではなく、裏付けとなる古文書や遺跡、土器類と共にね」 「裏付けとなる古文書や遺跡?」 「その通り、その古文書は�黄金文書�と呼ばれている。�黄金文書�……。この名は遠からず、かの有名な�死海文書�以上に世界を震撼《しんかん》させるはずだ」 「黄金……文書?」 「今から四十年ほど前、シナイ半島で発見された。羊の皮に書かれた古文書で、正式には、�シナイ文書�と命名されている。�黄金文書�は通称で、その名の由来は、イギリス人の画商が発見者の墓掘り人に対して、金貨一枚を支払って手に入れたことから、そう呼ばれるようになった」 「そこに�約束の地�のことが書かれているんですか?」 「はっきりと書かれている」 「でも、発見されたのは四十年も前のことでしょう? なぜ、今頃になって発表されるんです?」 「その画商は考古学的興味から購入したわけじゃない。美術的観点から購入したわけで、木箱の中に入れてイギリスに運ばれたまではよかったが、そのまま、倉庫の片隅に置かれて忘れ去られていた」 「………」 「画商の遺族が遺品の整理をしていて、大学へ持ち込んだのが、ほんの五年前のことだ。その解読作業を担当した研究員が、リンツ社の重役の義弟だったというわけだ」 「なるほど。で、その�約束の地�とは、一体、どこなんです?」 「現時点では、アラビア半島の一角、と言っておこう。別に、勿体《もつたい》ぶっているわけではないぞ。現地は荒涼たる岩砂漠でね。地名がないような僻地《へきち》だ」 「でも、衛星写真には写っているわけですね?」 「現代は、何もかも空からは丸見えの時代だ。真夜中に墓穴を掘っても、人工衛星のカメラに写しだされてしまう。だから、砂漠緑化のための実験場も分散するしかなかった」 「分散?」 「もちろん�約束の地�で、集中的に実験ができれば、それに越したことはない。海水の淡水化、人工降雨、植物の品種改良、太陽発電、風力発電、風土病対策……。だが、もし、そんな一大研究地区を建設したら、世界中から、金の亡者どもが集まってくることになる。彼らの狙《ねら》いは、基礎研究の成果を盗んで、商品を開発することだ」 「………」 「だから、それぞれの実験場を分散することにした。さすがの金の亡者どもも、中東砂漠の十一カ所を視察するには、かなりの手間と暇と根気がいる。それでも諦《あきら》めない連中は、現地の警察に手を回して逮捕させたり、砂漠の盗賊に襲撃させた。そういう工夫があって、十二カ所目の秘密が守れたわけだ」 「つまり、その十二カ所目が�約束の地�というわけですか?」 「そうだ。今、発掘が着々と進んでいて、遺跡や出土品も次々と発見されている。いずれ、近い将来、このために特別に結成された学術団体から�約束の地�の発表がされることになる。今は、その準備作業中というところだ」 「世界は大騒ぎになるでしょうね」 「当然だ。だから、混乱しないように万全の準備をしているわけだ。まず、何と言っても学術的裏付け。次に、証拠となる遺跡や出土品の整備と整理。更に、ユダヤ人の聖都巡礼への対策。長期的視野に立てば、きちんとした都市計画が必要となる。だから、専門家に研究や技術開発を委嘱しているわけだよ」 「すると、イスラエル政府が関与しているわけですか?」 「とんでもない。現時点で、イスラエル政府がこの事実を知ったら、おそらく潰《つぶ》されてしまうだろうよ。彼らは、今の場所が�約束の地�だと信じている。それを否定するような主張は、反ユダヤ主義の活動だとして敵視するはずだからな」 「………」 「実は、三島部長は、それを恐れていた。イスラエルの海外情報機関、つまり、�モサド�に拉致《らち》されることを怖がっていたんだ。拷問を受けて、オアシス・プロジェクトの全容を白状してしまうことを恐れていた。気の毒に、それでノイローゼになってしまったんだ」 「イスラエル政府が関与していないとすると、結局のところ、オアシス・プロジェクトは誰のための、何のためのプロジェクトなんです?」  スポンサーのないプロジェクトなんて、成り立つはずがない。 「誰のための、だと?」  副社長は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。そして、 「何のための、だと?」  と言って、肩をすくめた。 「そうです。なぜ、他民族の聖地を、その民族に内緒で作らなければならないんです? 一体、どんなメリットがあるんです?」  加納は尋ねた。すると、 「いいかね、加納君。不毛の砂漠に、まず舗装道路、続いて、空港と港を作らなければならない。次に、発電設備、水対策、それから、ホテル、場合によっては、住宅や農園も作らなければならないだろう。灼熱《しやくねつ》の砂漠の上にだ。もし、今の時点で、砂漠環境にも耐えうる様々な新技術を開発しておけば、巨大な市場を独占でき、他社を大きくリードできるんだ。つまり、莫大な利益がわがリンツ社に転がりこんでくる」 「しかし……。お言葉ですが、それはスポンサーがいてのことでしょう?」 「スポンサーはいるさ。しかも、史上最大、最強のスポンサーだ。ユダヤの民は世界一の金持ちで、世界一の団結力を誇り、世界一の信仰心の持ち主だ。真の�約束の地�が、きちんとした裏付けと共に発表されたら、聖地ブームは一気に盛り上がるはずだ。そうは思わんか?」 「ええ、まぁ……」  加納が生返事すると、 「必ず、そうなるさ。ニュー・エルサレムに乾杯だ」  副社長はグラスを目の高さに上げた。      4  タクシーの運転手が、ご機嫌ですね、と声をかけてきた。どうやら、無意識に鼻唄《はなうた》を歌ったらしい。  午前中の重苦しい気分が嘘のようだった。わずか半日前まで、加納は身内の警察に逮捕されてしまった前代未聞の恥さらしという立場だった。しかし、それが今、百八十度、逆転していた。逮捕|勾留《こうりゆう》されたことが、オアシス・プロジェクトの解明に結びついたのである。しかも、副社長が説明した内容は、通常の特務捜査の手法では、解明することは不可能な高水準のものだった。  確かに、それは治安当局が期待する�死の商社�らしい情報……、例えば、ミサイル誘導装置や、化学兵器用薬物に関する情報とは異質なものである。しかし、十分に価値の高い情報だった。少なくとも、情報担当者を驚かすには十分だった。  数週間以内に、居並ぶ公安幹部の前で、これまでの経過を報告し、質問にも答えなければならない。加納の場合、所轄警察に逮捕されるという大失態を演じたわけだから、実質的には、査問委員会に引き出されるようなものだ。  冷やかな目で自分を見つめ、辛辣《しんらつ》な質問を用意している幹部たちを見返してやろう。副社長から聞いた話は彼らの度肝を抜くに十分なはずだ……。  そう思うと、また乾杯したい気分になった。ホテルの玄関でタクシーを降りる時、釣り銭は受け取らなかった。運転手だけではない。フロント係にも笑顔を見せて、キーを受け取った。  だが、いつまでも浮かれ気分でいる場合ではなかった。ひょっとしたら、今夜にでも電話が鳴って、柳沢から呼び出しがあるかも知れない。その場合、明日か明後日には、幹部たちの前で、最終報告をしなければならないからだ。  加納は上着を脱ぎ、ネクタイを緩めてベッドに腰を下ろすと、両手を組み、じっと床を見つめた。それが思考をこらす時の方法だった。いかなる場合でも、記録することは禁じられている。だから、無地の床や壁、そして、青い空。時には暗闇《くらやみ》を黒板代わりにして、そこに透明な文字でメモをしたり、黒板|拭《ふ》きで消したりする。そんな風にして記憶を整理し、文章を推敲《すいこう》した。  オアシス・プロジェクトとは�約束の地�に都市を建設することを目的とするものです。リンツ社は、その都市計画に不可欠な技術を他社に先行して開発し、利益を独占しようとしています。肝心な�約束の地�を証明するのは、四十年前にシナイ半島で発見された�黄金文書�と呼ばれる古文書で、現在、発掘中の遺跡や土器類と共に、間もなく、公表されるとのことであります……。  おそらく、�約束の地�と�黄金文書�に対して、補足質問が集中することになるだろう。しかし、副社長から聞いたこと以上のことは説明できないし、するつもりもない。特務員に必要なのは、判断力と記憶力だけであり、中途半端な洞察力や想像力は事実認定の障害になるだけだ、というのが上層部の口癖ではないか……。驚き、戸惑う上層幹部の表情を想像して、加納は一人ほくそ笑んだ。  腕時計を見た。前祝いのためにネオン街へ出かけるには早すぎる。そのままベッドに仰向けになって、目を瞑《つぶ》った。午前中からの緊張の反動で、多少の疲労感はあったが、眠るつもりはなかった。しかし、眠るつもりのない時ほど、つい眠ってしまうものだ。そして、考えなくてもよいことを、人は考えてしまう。加納は眠りながら考えてしまった。つまり、ある夢を見た。それは見てはならない夢だったのかも知れない。  突然のけたたましい音に弾《はじ》けたように身を起こした。一瞬、何の音かわからなかった。自分がホテルの一室にいることを思い出し、ようやく、電話の呼び出し音であることに気づいた。 「江崎様という方から、お電話ですけど、おつなぎしますか?」  交換手が言った。 「江崎?」  ホテルに滞在していることを知っているのは、公安部の柳沢と、リンツ商事の副社長だけである。両方とも、緊急の場合以外は連絡しないはずだった。 「どうなさいます?」  フロントが急《せ》かした。 「いや、つないでくれ」  加納は答えた。  江崎は、明日の午後に渡米するので、と前置きしてから、 「あの時以来、ずっと気が咎《とが》めていてね。事情はともかく、人を陥れるというのは嫌なものだ。だからと言って、君に謝るというのも、変な話だし、どうしたらよいものか、と悩んでいる」 「先生はいい方なんですね。私が先生の立場だったら、ざまぁ見ろ、と唾《つば》をかけてやりますよ」  加納は答えた。今となっては、江崎の行為に感謝したいくらいだった。 「女房にも、そう言われたよ。もちろん、唾をかけろ、じゃない。人がよすぎる、とバカにされた」 「失礼ながら、その通りだと思いますよ。私は冤罪《えんざい》で陥れられたわけではありません。実際に犯罪を犯したわけですから、その報いを受けて当然です。ただ、報いは受けたわけですからね。勝手かも知れませんけど、先生に謝罪はしませんよ」 「結構だ。僕も謝罪を求めるために、電話をしたわけじゃない」 「そうですか。ともかく、お気遣いは無用に願います。もう終わったことですから」  さっさと電話を切りたかった。 「確かに、終わった。いろんなことが終わってしまったよ。だが、これから始まるものもある。だろう?」  思わせぶりな口調だった。加納は口をつぐんだ。 「リンツ社の副社長から大方の事情は聞いているよ。君は海外に派遣されるようだが、私の方も、間もなく、トロントに二週間、いや、もっと延びるかも知れん。となると、帰国した時、君が日本にいるかどうかわからない。これまでのことを一区切りつける意味でも、一度、会いたいんだが、どうだろう?」 「一区切り、ですか?」  江崎の顔なんか、見たくもなかった。加納は先延ばしする口実を探した。だが、 「一緒に食事を、と思ったんだが、もし、無理なら、顔だけでも出してもらいたい。副社長に渡してもらいたいものがあるんだ」 「副社長に?」 「そう。大事なものだから、社の者をよこすことになっていたんだが、今日、副社長に連絡すると、君の話題になってね。今後のために会食でもしたら、と勧められたんだ」 「そうですか……」  副社長の意向というのであれば、誘いを断るわけにはいかない。      5  東京の臨海副都心。エレベーターが上るに連れ、レインボータウンの夜景が次第に広がって行った。 「このビルは初めてかね?」  江崎が尋ねた。 「ええ。ここに来たこと自体が初めてです。テレビや雑誌で、見たり読んだりしたことはありますけど、ずいぶん広いところなんですね」  加納はエレベーターの外を見たまま答えた。  江崎が面会場所として指定したのは、有明にそびえ立つ高層ビル内にあるレストランだった。加納の滞在しているホテルからは、タクシーで三十分もかかる。結局、この夜のネオン街は諦めるしかなかった。 「何かの機会がなければ、ここに来ることはない。だが、海外で勤務する人間は、話の種にでも、この街は見ておくべきだろう」  江崎は二十一階でエレベーターを下りた。そこは展望台を兼ねた広いレストランだった。江崎が入口のところでマネージャーに声をかけると、ウェイターが、こちらへ、と先に立って歩き出した。案内された先は、プライベートルームで、七、八人は座れる大きなテーブルに椅子が二つ。そして、広い窓からは、臨海副都心の夜景が一望できた。 「お互い、当分、異国の料理でがまんしなければならない。今夜は店の方に無理を言って、和食尽くし。飲み物も日本酒だ。……構わんだろう?」  江崎が尋ねた。はい、とうなずくと、ウェイターを見上げて、 「じゃ、お願いした通りに頼む」  と、目配せした。  加納は窓の外を見た。テレビで目にしたことのあるレインボーブリッジが、はるか彼方に見える。 「ところで、君は独身ということだが、結婚の予定はあるのかね?」  江崎が尋ねた。 「いいえ」  加納は首を横に振った。特務員は結婚してはならないという決まりはない。  そう。特務員は結婚してはならないという決まりはない。これまで、自分一人で、そんな風に決めつけていただけのことだ……。 「すると、中東へは単身赴任か。ちょっと危険だね」  江崎が首を振った。  中東なんかには行きません。あなたと会うのも、おそらく今夜が最後でしょう……。  そう言いたかったが、 「女性問題で危険な目に遭うのは、男の誉れと言うものですよ」  と、肩をすくめて見せた。副社長室での雰囲気が、まだ抜けきれない。  ドアノックの音がして、ウェイトレスが現れた。ワゴンをテーブルの側まで押してきて、テーブルの上に、懐石料理を並べて行った。そして、最後に、日本酒の入ったガラスのボトルを手に取ると、ソムリエのような口調で、産地と銘柄を説明してから、二人の間に置いた。 「では、乾杯しよう」  江崎がボトルを差し出した。加納はそれをガラスの杯で受けた。口当たりのよい高級酒だった。 「この店は新しいが、板前の腕はなかなかのものなんだ」  江崎は早速、箸《はし》を取った。そして、いびつな形の皿に盛られた料理について、いちいち、その素材、料理法などを解説し、小鉢や碗《わん》などの器についても、うんちくを傾けた。  そのたびに、加納はうなずいた。脳裏に、この日の午後、夢の中で抱いた疑問と疑惑が浮かんでは消える。    懐石料理の次は、てんぷら料理で、日本酒の銘柄も変わった。 「このレインボータウンは、日本の科学技術の粋を集めて作られた。しかも、これまでの都市計画のように、機能や便利さだけを追求した街づくりではない。子供や高齢者、それに、身体障害者の方々が生き生きと、豊かに暮らせる街、というのがコンセプトなんだ」  テーブルの料理が入れ替わる間、江崎は窓の外に広がる町並みの解説を始めた。 「昼間なら、よくわかるけど、バリアフリーと言ってね。街全体の高低差をなくしてある。それから、空が大きく見えるよう細かい工夫がしてあるし、共同溝の規模は世界一だ。関東大震災レベルの地震にも耐えられる設計になっているんだ」 「そうですか……」  ついでに、空き地に牛か羊でも放牧したらどうです?  加納は心の中で、そうつぶやいた。  江崎は新しい箸を手に取った。配膳《はいぜん》を終えたウェイトレスが会釈して後ずさりして、やがて、ドアを閉めると、 「このレインボータウンを作ることに比べれば……」  江崎は言う。 「オアシス・タウンなんて、バラック小屋を建てるようなものだ。我々の技術水準からすればね。問題は風土だよ。乾燥した空気と土壌、昼と夜の温度差、その他いろいろだ」 「………」 「亡くなった三島君から、�黄金文書�と、聖都再建のプロジェクトについて相談を受けた時、年甲斐《としがい》もなく興奮してしまったよ。同時に、学者としての人生を選んでよかったと、運命に感謝した。オアシス・プロジェクトは歴史的な大事業だったと、後世の人々に必ず、讃《たた》えられるはずだ」 「水を差すようで恐れ入りますが、私には気になることがあります」  と切り出した。まずは疑問点である。 「�黄金文書�の公表が、�約束の地�の証明となるんでしょうか? 三千年もの昔から、現在のエルサレムが�約束の地�とされてきたわけでしょう?」  と尋ねると、 「もちろん、証明になるさ。何せ、�黄金文書�の中には、旧約聖書の疑問を見事に解消している部分がある。�約束の地�のポイントとなる部分だ」 「旧約聖書の疑問?」 「その通り。旧約聖書によれば、『モーゼは六十三万人の民を率いてエジプトを出て、四十年間、荒野をさまよった。そして、モーゼの後継者の時代になって、�約束の地�に攻め入った』とされている。いかに神話とは言え、この記述は不合理だ。故郷である�約束の地�を目指したのに、なぜ四十年もの間、六十三万人ものユダヤ人が荒野をさまよわなければならない? 学者の中には、六十三万人は誇張で、実際は三千人程度だと主張するのもいるが、いかにも苦しい弁解だ。加えて、四十年間の放浪について、説得力のある説明がない」 「………」 「この点、黄金文書によれば、『エジプトを出たモーゼと数万人の民は�約束の地�に戻り、平穏に暮らした』と明記されている。だが、『モーゼの後継者の時代になると、その�約束の地�に日照りが続き、餓死者が出たので、緑豊かな土地に移動した』とある。その緑豊かな土地こそが、現在のイスラエルということになる」 「………」 「�黄金文書�の記述は現実的だし、神学的にみても理に叶《かな》っていると思うよ。これは前々から言われていることだが、もし旧約聖書の記述の通りだとすると、神はユダヤの民に対して、すでに他の部族が住んでいる土地を与える約束をしたことになる。下世話な言い方をすれば、これは不動産屋が同じ地所を二人の客に売って、ドロンしたようなものだ。神たるものが、そんなことをするはずがない」 「なるほど。�黄金文書�が神の意志に叶っていることは、よくわかりました。でも……」  江崎の主張には一貫性があり、門外漢の加納には口をはさむだけの教養も宗教的素養もない。説明されれば、そんなものかな、と納得するしかなかった。しかし、それでもなお、拭《ぬぐ》いがたい疑惑は残っていた。    てんぷら料理の次は、握り寿司だった。この時もやはり、日本酒が変わった。  ウェイトレスが空の皿や器を下げながら、次に出す蕎麦《そば》が最後になる、と説明して、引き下がった。晩餐《ばんさん》は終わりに近づきつつあった。 「先生。実は私、不吉な夢を見ましてね。今、胸騒ぎがしているんです」  加納は言った。 「ほう。どんな夢?」  江崎は箸を使いながら尋ねた。 「消防士が放火する、という変な夢なんですよ」 「それは物騒な夢だね。だが、昔から、火事の夢は吉兆とされている。燃え盛る[#「盛る」に傍点]、と言ってね。商売繁盛の兆しとされたらしい」 「なるほど。でも、夢が正夢だったら、喜んでばかりはいられないでしょう?」 「正夢? すると、知り合いに消防士でもいるのかね?」 「いいえ。でも、消防士の夢には何らかの意味があると思いましてね。夢占いじゃありませんけど、いろいろと考えてみたんですよ。すると、今の私には、オアシス・プロジェクトくらいしか、思い当たる節がないんです」 「ほう……。消防士の夢がオアシス・プロジェクトに結びつくかね?」  江崎の口元が微《かす》かに緩んだ。たぶん、冗談だと思ったに違いない。  確かに、消防士の夢を実際に見たわけではない。放水したいがために放火する、という譬《たと》えを用いて、オアシス・プロジェクトに対する疑惑を伝えたかったのだ。 「先程、先生は『三島部長から、�黄金文書�と、聖都再建のプロジェクトについて相談を受けた』とおっしゃいましたが、他の大学の先生方、少なくとも、宮城大学の井出教授は、単純な砂漠緑化のプロジェクトとしか認識していなかったようでしたよ。どうして、本当のことをお話にならなかったんですか?」 「それは副社長の考えでね。当分の間、そうしようということになった。もちろん、秘密保持のためだった。それに、先生方に依頼したのは、砂漠緑化に関しての研究だからね。�黄金文書�や�約束の地�とは、直接、関係ない」 「たぶん、そうではないかと思いました。では、聖都建設という真の目的を知っているのは、誰と誰なんです?」 「今のところ、リンツ社以外は、私だけ……、いや、今日からは、私と君の二人だけということになるな」  と言って、江崎はにっこり微笑《ほほえ》んだ。血盟の同志とでも言いた気だった。迷惑な話だ……。 「なるほど。ところで、その私たちも、やはり肝心な秘密を知らされていない、という可能性はありませんかね?」  加納は尋ねた。  何もない不毛の砂漠に聖地が誕生するというだけなら、問題はない。しかし、もしも、その土地に、すでに誰かが住んでいたとすれば、今のパレスチナ問題の二の舞になりはしないか?  それが加納が抱いている最大の疑惑であり、懸念だった。 「何だって?」  江崎が細目をつくった。 「つまり、衛星写真にマーキングされた十二カ所は、全て、砂漠緑化のための実験場であって、いわゆる真の�約束の地�は、別の場所ではないかと思いましてね」 「別の場所?」  江崎の箸が小皿の上で止まった。 「要するに、十三カ所目の土地ですよ」 「十三カ所目の……土地?」  江崎の視線が不安定に動く。  その十三カ所目はイスラムの聖都の近く、若しくは、アラブ民族にとって重要な聖域ではないのか?  そして、加納の疑惑は益々、深まる。  遺跡の発掘も出土品も、実は、その十三カ所目の土地を聖地とするための事前工作ではないのか?  墓掘り人が発見し、金貨一枚で売ったというのは、羊の皮に書かれた古文書ではなく、聖地に関連する盗掘品ではないのか? 特別に結成された学術団体は、その盗掘品を十三カ所目からの出土品と信じて、裏付け作業に苦心しているのではないのか? 「なぜ、そんなことを言う? 何か根拠でもあるのか?」  江崎が不思議そうな目で言った。 「根拠ですか?」  それはリンツ社を�死の商社�という前提で考えれば、自然に導き出されてくることではないか……。 「いまだに、�約束の地�の具体的な位置が明確でないからですよ。地名もない僻地《へきち》だとおっしゃるが、北緯何度、東経何度で示せるはずです。それもしないと言うことは、ひょっとしたら、その十二カ所目ではなく、取り返しのつかないアラブの聖地に、ある日、突然、ダビデの紋章が掲げられるのではないか、と、まぁ、余計な心配をしているわけですよ」  オアシス・プロジェクトの究極の目的は、新たな地域での中東紛争を企図するものではないのか? しかも、今度の相手は貧困にあえぐパレスチナ人ではなく、潤沢なオイルマネーに恵まれたアラブ人。何億ドルもする新兵器を売り込むことができれば、イスラエルも当然、これに対抗することになる。つまり、今、滞っている兵器や軍需品の大量在庫はオイルマネーとユダヤマネーで一掃され、更に、多くの兵器や軍需品の需要が見込めるではないか……。 「なるほどね。それで、不吉な夢か。消防士が放火する、という変な夢に結びつくわけだね?」  江崎が念を押すかのように尋ねた。  このおっさん、わかっているのか? と思ったが、 「まぁ、そうです」  と、一応、うなずいて見せた。 「確かに、君の言う通りだ。リンツ社は全てを明らかにしていないかも知れないな」  江崎は珍しく杯の酒を飲み干して、 「でも、加納君。君が不吉な夢の話をしてくれたから、私も夢の話をしよう。実を言うとね。私もリンツ社に明らかにしていないことがあるんだ」  と言って、にっこり笑った。 「明らかにしていないこと?」 「そうだ。ユダヤ教徒でもない私が、�約束の地�の建設に一苦労しようと思ったのは、子供のころに悲惨な戦争を体験しているからだよ。私はオアシス・プロジェクトにあるような、まるでリゾート地のような聖都の建設を目指してはいない。また、巡礼のためだけの聖都にもしたくはないんだ」 「………」 「まず数万人規模の都市から出発し、次第に周辺へ拡大発展させて行く。何十年、何百年という長期的視野に立てば、単なる一聖都から、イスラエルそのものを移動させることができるとは思わないか?」 「何ですって?」 「夢だよ、夢。必ずしも実現できることを確信しているわけじゃない」  江崎は首を横に振ってから、 「だが、今のままでは、パレスチナ問題の根本解決はない。神話の時代から繰り返されてきた殺し合いは、程度の差はあっても、この先も永遠に続くことだろう。今の政治家や学者たちは、口で平和や人道主義を主張するだけで、何のアクションも起こしていないではないか。そんなのは絵に描いた餅《もち》だ。私の夢が荒唐|無稽《むけい》で非現実的なプランであることは承知の上だ。しかし、少なくとも、次世代の子供たちのために、紛争回避の道筋を示すことはできる」 「………」 「事のついでに、もっと言おう。さっき君は、十三カ所目の土地、と言ったが、もし、そこが、またぞろ紛争が起きるような土地だったら、私は十四カ所目の土地を聖都とするために命がけの努力をするよ」 「十四カ所目?」 「そう。元々�約束の地�は海の中でもいいと思っていた」 「海の中?」 「埋め立て可能な大陸棚だよ。紅海か、或いは、地中海沿岸。言うなれば、不毛の海であれば、所有権を争うこともないだろう。海の上なら、先住民族もいないし、土地を巡っての争いもなくなる」  と言うと、窓の外を見て、 「そう言えば、このレインボータウンも埋め立て地だったな。いっそのこと、拡大解釈して、いや……、史実を曲げてでも、海の処女地に�約束の地�を求めるべきだと思うよ。モーゼが目指した�約束の地�は水没していた、という新解釈も、ロマンチックでいいじゃないか」 「そんな無茶な……」 「無茶? そうだろうか? こうしている間にも、世界では殺し合いが続いている。あらゆる宗教が、『汝《なんじ》、殺すなかれ』の戒律を有しているはずなのに、平然と殺し合っているんだ。神が、そんなことをお許しになるはずがない。殺し合いをやめさせる手だてを考え、実行することこそ、神の意志に叶うことだとは思わないか?」 「私は神を信じませんから」  加納は即座に首を振った。 「そうかね。だが、人は必ず死ぬ、ということは信じているだろう?」 「そんなことは当たり前です」  生あるものには死があることは、小学生でも知っている……。 「誰もが、口ではそう言う。だが、実際には何もわかっていない。知識として知っているだけのことなんだ。それだけにかえって始末に悪い」 「………」 「五十度のお湯に手を突っ込んで、百度の熱湯は、この二倍の熱さだ、なんて、頭で理解するようなものさ。熱湯は決して熱くはないぞ。疑うなら、試してみるといい。皮膚を引き裂かれるような感じだ。だが、それは痛みとは微妙に違う。つまり、百度の湯は百度の湯の感触、ということさ」 「………」 「生と死についても同じだ。実際に人間の死というものに直面して、初めて死というものの意味がわかる。もし、誰もが、そういう死の真実を感得することができれば、殺し合うことなんて考えなくなるはずなんだ。それこそが紛れもない真理、つまり……。神の意志なんだよ」 「………」 「近頃、それを感じることが多くなった。三島部長は事故死。井出先生は病死。真鍋君は自殺。いろいろな形で、命はいずれ尽きる。たぶん、私はペースメーカーの故障で死ぬことになるだろう……」  と言って、江崎は寂しく笑った。  公安部への報告には、この江崎のコメントも付け加えるべきだろうか?  加納は判断に迷った。    手打ち蕎麦の後、日本食フルコースの締めくくりは、和菓子で、飲み物も抹茶に変わった。  江崎は小皿の上の葛焼《くずや》きを、まるで彫刻を鑑賞するかのように眺めた。そして、 「これを作った職人は京都から呼び寄せたそうなんだ」  と言うと、それを黒文字[#「黒文字」に傍点]で切り分け、口に運んだ。 「ほう、京都ですか……」  加納も江崎に倣《なら》った。甘味は苦手だったが、デザート程度の量なら我慢できる。 「葛焼きも悪くはないんだが、どちらかというと、私は餅《もち》類が好きでね。特に、亥《い》の子《こ》餅には目がない」  話題は再び、テーブルの上に戻った。江崎は淡々とした口調で銘菓のエピソードを披露し、加納は聞き役に戻った。  やがて、皿の上が粉だけになり、茶碗の中が泡だけになっても、ウェイトレスは現れない。晩餐は終わったのだ。そして、江崎の話題も尽きていた。  じゃ、そろそろ……、と、帰り支度をした江崎が自らの額を軽く叩《たた》いて、 「いかんいかん。肝心なことを忘れるところだった。これを副社長に渡してくれ」  と言って、足元のアタッシュケースを差し出した。 「わかりました……」  その場でアタッシュケースの上下左右、そして、前後を検《あらた》めた。異常はない。 「見せられないのが残念だが、中身は例の発掘現場から出土した土器だ」 「土器……」 「壊れないとは思うが、大事に扱ってくれ。一応、クッションが入れてあるけどね」 「このまま、アタッシュケースごと副社長に渡せばいいんですね?」 「そうだ。もし、副社長が不在の場合は、秘書室長に、直接、手渡してもらいたい」 「かしこまりました」 「じゃ、この辺で、お開きということにしよう。今日は久しぶりに楽しかったよ」  江崎は膝《ひざ》の上のナプキンをテーブルの上に置いた。 [#改ページ]   エピローグ  ホテルに戻ると、加納は早速、知り合いのロックサービスへ電話した。もちろん、江崎から預かったアタッシュケースを開けるためである。  アタッシュケースのメインロックはダイヤル式で、三桁《みけた》の暗証番号が設定できるものだった。つまり、番号は千通りの組み合わせが可能な上に、両サイドはシリンダー付き引き込み錠で、二重安全機構が施されている。アマチュアの手に負えるものではない。  テーブル上にアタッシュケースを立てかけ、その横に中身の出土品を投影するためのカメラ。そして、カッターとチャック付きのプチポリ袋を並べた。最近の公安特務本部は、対象物を単に撮影するだけでなく、成分を分析するためのサンプル採取を要求するようになっている。  加納が危険を承知で、サンプル採取を思いたったのは、その分析の結果によっては、出土品の真贋《しんがん》を判定できるかも知れないと思ったからである。  準備を整え、後は業者を待つばかりとなった。加納はベッドの端に腰をかけ、煙草に火をつけた。そして、ゆらめく煙を眺めながら、時のすぎるのを待った。  そんな風にして一時間。業者は現れない。加納は次第に苛立《いらだ》ってきた。部屋の中を往復していると、さらに三十分が過ぎた。加納は電話に手を伸ばした。だが、ダイヤルする前に、ドアがノックされた。  一時間半も待たせやがって……。  加納はすぐにドアを開けた。廊下には、二人の男が立っていた。ロックサービスにしては、大柄で目つきが鋭い。  本能的に身の危険を察知した。急いで、ドアを閉めようとしたのだが、相手の反応は加納よりも数段、素早かった。  正面にいた男が、空手の正拳突きという技で加納のみぞおちを突いた。腰のひねりをきかしたプロの技だ。拳《こぶし》が背中に突き抜けたかと思うほどの、激しい一撃だった。耐えがたい激痛が走って、加納は崩れるように倒れた。  二人は部屋に入り込み、ドアを閉めて内鍵《うちかぎ》をかけた。加納は大きく口を開けてはいたが、空気を吸うことも吐くこともできずにいた。まるで、胃の中に大きな鉄の玉を無理やり押し込められたような感じだった。  やがて、思い出したように呼吸中枢が働きはじめ、加納は激しく咳《せ》き込んだ。すると、大男が膝で背中を押さえつけ、加納の靴を脱がせた。  靴なんかを、なぜ?  顔だけを上げ、上目遣いに様子を窺《うかが》った。一人がカーテンの陰から、黒い部品のようなものを外したところだった。  そうか……。留守の間に小型カメラか盗聴器が仕掛けられたのか……。  急げ、と、一人が言った。すると、もう一人が、開かないはずのサッシ窓をいっぱいに開け、窓の下を見下ろした。次に、二人は加納の左右に回りこみ、それぞれが加納の二の腕と太股《ふともも》を抱えて持ち上げた。  まさか、そんなっ……。  加納の全身に戦慄《せんりつ》が走った。もがこうとしたが、力が入らない。  左右の二人が動き出し、目の前に、開いた窓が迫ってくる。そして、あっと言う間に、加納の体は窓の外へと放り出された。  空中で、体が一瞬、静止したような気がした。それは、たぶん〇・一秒にも満たない短い時間だったに違いない。だが、その刹那《せつな》に、副社長の顔が脳裏に浮かんだ。  ああ、何てことだ……。結局、自分は信用されていなかったのだ。副社長は江崎とアタッシュケースという小道具を使って、古典的な最後の信用チェックをしたのだ。もし、自分が不審な行動をとった場合、直ちに謀殺する手筈《てはず》だったのだろう。脱がされた靴は自殺を偽装するために窓際に並べられる。真鍋が空中公園から飛び下りた時のように……。  考えがそこまで及んだ時、体が急に加速度を感じた。まるで吸い込まれていくような感じだった。  落下していく途中、右|脇腹《わきばら》に強い衝撃を感じた。その反動で、加納の体は回転しはじめ、次の瞬間、鈍い音を立てて、止まった。  体が全く動かない……。当たり前だ。何しろ、八階の窓から落ちた、いや、落とされたのだから……。即死しなかったのは、途中で何かに衝突したからで、奇跡に近い。しかし、死は確実に眼前に迫っていた。  痛みも、痺《しび》れも感じなかった。感覚器官はすでに死んでいるのかも知れない。そんな不思議な感覚の中で、加納は目の前を流れて行く夥《おびただ》しい血を見つめていた。  もう終わりだ。今度こそ、取り返しのつかないミスを犯した……。  誰かに、そう伝えたかった。だが、もちろん、声にはならない。幼かった頃、いくら泣いても誰も来てくれなかったことを、なぜか思い出した。天井の下で回る安物のメリーゴーランド。故郷の風景。信越本線から初めて目にした東京の灯。ラグビー場の土埃《つちぼこり》。そして、万里子……。天使のような、輝くような笑顔……。  突然、目の前の光景が動いて、車のタイヤと街路樹、そして、そそり立つビルが見え、続いて、人の顔が見えた。どこかで見覚えのある顔だった。何かを呼びかけているようだが、加納の耳には何も聞こえない。やがて、その人物が多摩署の兵藤であることに気づいた。  そうか……。釈放された後も、俺をマークし続けていたのか……。ご苦労なことだ……。だが、もう終わりだよ……。全てが、もうすぐ終わってしまうんだ……。  兵藤は相変わらず、必死な形相で何かを叫んでいる。だが、もはや動かすことさえできない加納の瞳《ひとみ》には、その後方に広がる漆黒《しつこく》の空だけが映っていた。  それにしても、この先、オアシス・プロジェクトはどうなるのだろうか? 俺が死ねば、柳沢たちが本格的に動き出すだろうから、たぶん副社長の企みは阻止できるだろう。しかし、それと同時に、江崎の夢も潰れてしまうことになりはしないか……。  死んでしまう俺にとっては、もう関係ないことだが、これから生まれてくる人間たちにとっては、オアシス・タウンは実現した方がいいのかも知れない……。  薄れ行く意識の中で、加納はそう思った。  この物語はフィクションです。登場する人物・団体等は架空のものであり、実在のものとは一切、関係ありません。 〈参考文献〉 ・カマール・サリービー 「聖書アラビア起源説」 草思社 ・鳥居 順 「中東軍事紛争史㈵」 第三書館 ・ダン・バハト 図説「イェルサレムの歴史」 東京書籍 ・「ユダヤのすべて」 日本文芸社 ・「ユダヤ教の本」 学習研究社 ・PLO研究センター 「パレスチナ問題」 亜紀書房 角川文庫『警視庁公安部』平成13年5月25日初版発行             平成14年4月15日4版発行