[#表紙(表紙.jpg)] 挙動不審者 佐竹一彦 [#改ページ]  その年は異常気象だった。  四月に大雪が降ったかと思えば、梅雨の時季は晴天続きで、水不足が心配されたが、八月になると一転して、長雨が続いた。そして、季節は秋になった。  平年より二週間も早く、東京で初霜が観測された日、警視庁江戸川警察署の合同捜査本部で、一人の青年が逮捕された。  青年の名は芝山|雅行《まさゆき》、二十八歳。大学時代の友人を刃物で殺害した上に、当人のキャッシュカードで現金十七万円を引き出した、とされている。  されている、とは、単に捜査本部が、そう発表したというだけのことで、その青年は一貫して、無実を主張し続けている、という意味だ。  逮捕のきっかけは、いわゆるタレ込み情報だった。夜の十一時すぎ、捜査本部のフリーダイヤル専用電話に、ヘリウムボイスの通報があった。内容は、手配されている男の人相が知り合いの若者によく似ている、というもので、どの辺りが似ているのか? と尋ねると、電話は一方的に切れた。銀行のATM機の前に立つ不審人物の映像を公開してから、ちょうど三日目のことだった。  事実を確認するために、捜査員が新聞勧誘員を装って、その若者に接触してみた。結果は電話の通りで、特に、耳から顎《あご》にかけての線と、口元がそっくりだった。  捜査本部は直ちに、本格的な内偵捜査に移行した。すると、その十日後、青年は散歩の途中、近所の池に何かを捨てた。それを回収してみると、金のネックレスと、Jリーグチームが限定生産した優勝記念の腕時計だった。二つとも、事件当日、被害者が身につけていたものだった。  慎重な捜査本部は、それでも、まず任意同行を求めた。芝山はネックレスと腕時計を提示されると、見たこともない、と答えた。更に、被害者とは、ここ三、四年、会っていないし、話もしていない、と首を横に振った。だが、捜査本部は、すでに被害者の勤務先の同僚から、事件の一週間前、芝山から電話がかかってきた、との供述を得ていた。この点を指摘しても、そんな電話はしていない、と否定した。  更に、被害者の死亡推定時刻における芝山のアリバイは成立しなかった。その時刻には自室で一人、テレビの野球中継を観ていた、と主張した。そこで、取調官がその翌日のスポーツ新聞を見ながら、試合経過を尋ねると、一転して、野球中継はつまらなかったので、途中からSF映画のビデオを観た、と供述を翻した。誰もが、その場|凌《しの》ぎの、見え透いた作り話だと思った。ある捜査幹部は記者たちに取り囲まれて、自白は時間の問題だ、と口を滑らせている。  厳しい取り調べは、昼食をはさんで十三時間にも及んだ。だが、結局、自白は得られなかった。長時間の身柄拘束は事実上の逮捕と見なされることがある。  捜査本部はやむなく、あらかじめ発布を受けていた逮捕状を執行した。  ——できれば自白を得てから執行したかったのだが……。  記者会見に臨んだ捜査一課の管理官は唇を噛《か》んだ。だが、それは贅沢《ぜいたく》な望みというものだったのかも知れない。  その後の家宅捜索によって、ベランダの段ボール箱の中から、血痕《けつこん》の付着したズボンとシャツが発見された。この血痕は人血であることが判明、DNA鑑定の結果、被害者の血液と合致する。  しかし、それでも芝山は自白をしなかった。  もちろん、自白を得られなくても、証拠さえ万全であれば、法廷で有罪の判決を得ることは、さほど困難なことではない。芝山の場合、証拠の証明力を考慮すれば、警察段階で全面自白し、反省の態度を取り繕った方が得策であることは明らかだった。  しかし、それでもなお、芝山が自白することはなかった。そして、決定的な証拠を入手したにもかかわらず、捜査本部関係者は相変わらず、意気消沈したままだった。  芝山についてはともかく、なぜ、捜査本部関係者は、その落胆ぶりを隠そうとしなかったのだろうか?  実は、芝山に対する殺人容疑は一件だけではなかった。合同捜査本部、という表看板の示す通り、芝山には本件の他、少なくとも二件の未解決事件に関して、疑惑が持たれていた。具体的には、江戸川署管内での殺人容疑の他に、城北署管内に居住する被害者の妻の失踪《しつそう》事件。さらに、葛飾《かつしか》署管内でも、OLとその同棲《どうせい》相手が忽然《こつぜん》と姿を消し、半年以上も消息不明のままだった。いずれの場合も、関係者の証言等から芝山の関与が取り沙汰《ざた》されていた。つまり、捜査本部の狙いは、まず殺人容疑で逮捕し、厳しい追及によって、完全自供に追い込み、しかる後に、余罪捜査で、それ以外の事件の全容解明を目指す、というものだった。  ところが、その目論見《もくろみ》は第一段階で、もろくもつまずいていた。しかも、一部の関係者には、見込み捜査、そして、誤認逮捕、という懸念材料を抱かせるまでに至った。 [#改ページ]     ㈵  合同捜査本部の腕利き刑事たちが容疑者の身辺捜査を実施している頃、城北署の捜査係主任、紺野|正則《まさのり》巡査部長は捜査本部事件とは全く関係のない任務に服していた。  いわゆる�留守番�役で、捜査本部に派遣された刑事たちに代わって、日常的に発生する管内の雑多な事件処理を一手に引き受けていたのである。  紺野が捜査本部要員に選抜されなかった理由は、五十代半ばという年齢のせいばかりではない。団塊世代よりも、さらに一世代前の紺野は、パソコンが大の苦手だった。加えて、ファクス送信の手順も自信がないし、携帯電話の使い方さえ、おぼつかない。ダイヤルすることはできるのだが、様々な機能と複雑な操作法が覚えきれないのだ。さらに、簡単な日常英会話もできないし、無線通話に至っては、地方|訛《なまり》が影響して支障を来たすことが多い。決定的なのは、普通車の運転免許を持っていないという点だろう。つまり、縦横無尽、且つ、臨機応変な活動が要求される捜査本部員としては、明らかに欠格者だった。  事実、容疑者の芝山が一時、城北署に護送されて来た際、紺野は何と、芝山に対して会釈をする、という大失態を演じている。薄暮時で見にくかった上に、合同捜査本部詰めの捜査員たちとは面識がなかったため、長身で色白の芝山を見て、司法関係者と勘違いしたのだ。  このトンマめっ……。  息子ほどの年頃の捜査一課員は、すれ違いざまにそう罵《ののし》った。  中肉中背、平凡な容姿、地味なスーツに踵《かかと》の潰《つぶ》れた靴……。  才気あふれる若者の目から見れば、紺野はうだつの上がらぬヘボ刑事のように映ったに違いない。  そんな非才で不器用な男を、城北署の署長が自室へ呼んだ。事件の報道が途絶えたある週末の午後のことだった。  署長室の扉は閉まっていた。  紺野は入室の前に、持参した捜査記録を、もう一度、点検した。呼び出しがあるからには、仕事に関して質問があると思ったからだ。 �留守�中に取り扱った事件のうち、決着のついていないのは二件。  一件は酔っぱらい同士の喧嘩《けんか》で、こうもり傘で殴られた方が、法外な慰謝料を要求している。  もう一件は、不倫の果ての刃傷《にんじよう》ざたなのだが、妻子ある男の愛人が、救急車を呼んだマンション管理人を訴えている。公衆の面前で、自分のことを二号と呼び、且つ、個人情報を男の妻に漏らした、と言うのだ。もちろん、管理人は否定している。  紺野としては今のところ、どちらの場合も、まともに取り上げるつもりはない。お互いの気が済むまで言いたいことを言わせるつもりでいる。これまでの経験から、理詰めの説得というものは逆効果で、むしろ問題をこじらせることの方が多い。二次的事件の発生を防ぐためにも、本人たちが冷静になるのを待った方が賢明なのだ。  そのためには、できるだけ争点をぼかし、決着を先送りすることが必要だと考えている。そうこうしているうちに、当人たちの周辺で様々なことが起きる。転勤、入院、結婚、離婚……。環境の変化は当事者たちの心境を変化させる。また、うやむやのうちに問題が立ち消えになってしまうこともある。それを待つのが双方を傷つけないための大人の知恵、というのが紺野の持論だった。  しかし、同僚たちから見れば、そんなやり方は無能ゆえの無策としか映らない。そして、それが紺野の現在の評価にもつながっていた。  署長室の前には、数年前の定年退職者たちが寄贈していった姿見[#「姿見」に傍点]がある。その前で、身だしなみを整えてから、紺野は遠慮がちにノックした。  耳を澄ましていると、返事の代わりにドアが開いた。開けた人物は、思いがけなくも、警務官の小磯《こいそ》警視だった。  警務官とは警察総務に携わる幹部警察官で、数年前、ある冤罪《えんざい》事件をきっかけにして、その防止のため新たに設けられた役職、と言ってもよい。現在の城北署の序列では、署長、副署長に次ぐ、ナンバー3だった。  なぜ警務官が、ここに?  紺野は怪訝《けげん》に思いながら足を進めた。  署長のデスクは向かって左側の窓側にある。入口の仕切りから真っ直ぐに五歩ほど進んで、左向け左、をすれば、署長の黒髪が視界に入るはずだ。署員にとっては、迅速な報告、連絡、説明。そして、署長にとっては、的確な指示、命令を下せるように、どこの署長室も似たような構造になっている。  だが、この日、署長はその席にはいなかった。  部屋の右手、つまり、署長の席の前方、約五メートルのところには、ビリヤード台ほどの大きさのマホガニー材のテーブルがあって、その回りを十脚の革張りの椅子が取り囲んでいる。署の幹部たちが会議をする時、顔を揃える場所だ。  署長はそこの中央にある色違いの椅子に腰を下ろし、眼鏡をかけて書類に目を通していた。  警視正、里見|百合子《ゆりこ》、五十三歳。都立博物館に勤務する学芸員の妻であり、二人の子の母でもある。 「その後、奥さんの膝《ひざ》の調子はどんな具合?」  署長は顔も上げずに尋ねた。  紺野の妻が自転車と衝突して、膝を骨折したのは半年前のことで、今ではほとんど快復している。 「ご心配をおかけしましたが、おかげさまで、近頃では杖《つえ》に頼らずに歩けるようになりました」 「そう、よかったわね。でも、治りかけが落とし穴だから、油断しないように」 「はい。ありがとうございます」 「私なんか、腱鞘炎《けんしようえん》が治りかけの時、おだてにのって、ドライバーなんか振り回したもんだから、いまだに尾を引いているわ。スコアの方もさっぱりよ……」  署長は渋い顔をして、手元の書類を束ね、それを傍らに置いた。「まぁ、その辺りにかけて、楽になさい」  署長は目の前の椅子を顎《あご》で示した。警務官の方を窺《うかが》うと、いつの間にか、端から二番目の椅子に座っている。  紺野は署長の正面を遠慮して、斜向《はすむ》かいの席に腰を下ろした。 「しかし、それにしても、次から次へと心配事ばかりが起きるわね……」  署長は指先で瞼《まぶた》をおさえ、マッサージをしながら、 「江戸川署の合同捜査本部で挙げた容疑者のことを聞いている?」 「芝山とかいうホシのことですか?」 「そう。何か聞いている?」 「はい、動かぬ証拠があるのに、黙秘しているとか、いないとか……」 「黙秘はしていないわ。否認よ。雑談には応じているらしい。聞いているのは、それだけかしら?」 「はい……」  捜査本部の事件と、酔っぱらいの喧嘩や不倫の果ての刃傷ざたと、一体、どんな関係があるのだろう?  署長は手をテーブルの上に戻して、 「実は、先だって、署長会議の帰り道に江戸川署に寄って、マジックミラー越しに、容疑者の顔を眺めてみたわ。確かに滝沢君の言う通り。全く悪びれた様子がない」  滝沢というのは、城北署の中堅の刑事で、現在、捜査本部へ派遣されている。 「言うなれば、澄んだ目なのよね。確かに、あれほど澄みきった目をした人間に人殺しができるものかどうか……。不安になる、という滝沢君の気持ちもわかる。もっとも……、矢田部君に言わせれば、目つき顔つきでシロクロが判断できるなら、現職刑事の半分は捜査の対象者だそうだけど……」  と言って、苦笑した。矢田部というのは城北署のベテラン刑事で、やはり、捜査本部へ派遣されている。 「ところで、紺野主任は容疑者の芝山に対して、ご挨拶《あいさつ》をしたそうね?」 「ご挨拶……」  そのことだったのか……。  紺野は唇を噛《か》んだ。自分のことが一部の捜査関係者の間で酒の肴《さかな》にされているということは聞いている。しかし、まさか署長の耳にまで達しているとは思わなかった。 「その……、近頃……、めっきり視力が落ちてきましたもので……。面目ありません」  紺野は頭を下げた。顔面が熱くなっていくのがわかった。 「視力のせいだけじゃないでしょう?」  署長が横目を遣った。 「はい……。そうかも知れません。全く、お恥ずかしい限りで……」  と、さらに低く頭を下げた。 「早とちりしないでよ、紺野主任。君に始末書を書かせるために、ここに呼んだわけじゃないわ。確かに、君は殺人容疑者を司法関係者と見間違えた。それを何だかんだと言う者もいるようだけど、私は、そうは思わない。君ほどのベテランが見間違えるからには、それなりの理由があってのことだと思う。それを聞かせてもらいたいと思って、来てもらったというわけよ。で……、実際のところ、どうなのかしら? 君の目には、あの芝山という容疑者が、どんな風に映ったわけ?」 「どんな風に……」  紺野は警務官の方を見た。警務官がわずかにうなずく。遠慮せずに申し上げろ、という意味なのだろう。その通りにするしかなかった。 「あ、あの日、自分は……」  声が喉《のど》にひっかかった。ンッ、と痰《たん》を切り、失礼しました、と頭を下げてから、 「あの日、自分は前の日に取り扱った盗難車のエンジン番号を確認するため、中庭でボンネットを上げて、中を覗《のぞ》いていたんです。すぐ側には、合同捜査本部のワゴン車もエンジンをかけたまま待機していました。そのうち、捜査本部入りしている連中が出てきまして、中に、これは後でわかったことですが、容疑者の芝山がいたわけなんです……」  恥ずかしさで、声が震えた。 「言い訳がましく聞こえるかも知れませんが、あの時は、手錠が見えなかったんです。捜査員の一人が段ボール箱を抱えていまして、その……、ちょうど陰になって、胸から下が見えなかったんです。芝山は堂々と胸を張っていましたし、てっきり警察庁か、警視庁本部の関係者かな、と思って、その……、目が合ったものですから、つい、反射的にペコリと頭を下げてしまったんです」  紺野は頭をかき、肩をすぼめた。 「堂々と胸を張っていた……」  署長が繰り返した。「だが、そんな容疑者は珍しくないでしょう? 古い諺《ことわざ》にも、ひかれ者の小唄《こうた》、なんてのがある。これは昔から、負け惜しみで強がってみせる罪人がいたという証拠よ。今だって、そういうのはいるでしょ?」 「はい、まぁ、いることはいますけど……」 「そういう罪人と比べ、その時の芝山は、具体的に、どこが違っていたのか。肝心なのは、そこよ」 「具体的に、ですか……」  言葉では説明できない。そもそも、最初から見比べるつもりで、見ていたわけではないのだから……。  紺野は言葉に詰まった。 「地検の横光《よこみつ》とかいう検事と見間違えたというのは?」  警務官が尋ねてきた。 「横光なんて検事さんは存じません」  紺野は警務官に向かって、強く首を横に振った。この種の噂話には、もっともらしい尾鰭《おひれ》が勝手に付け加えられていく。 「だけど、君、バーゲンセールの呼び込み店員じゃないんだよ。自分の方に近づいて来たから会釈しただけだ、と言われても、ちょっとねぇ……」  警務官は首をひねった。芝居がかった仕草だった。そんな申し開きは説得力がないよ、と言いたげだった。  しかし、紺野にしてみれば、バーゲンセールの呼び込み店員以上に、その日は目まぐるしく働き続け、心身ともに疲れきっていたのだ。  仕事は忙しく、まる二日、帰宅していなかった。まず、初日の夜勤では、恐喝、痴漢、ひったくり、金庫破り……。そして、夜勤明けの翌日は、置き引き、カード詐欺、不審火……。夕方になると、無言電話の相談、付きまとい、騒音の嫌がらせの苦情。夜になると、コンサートホールでの火炎瓶騒ぎ、さらに、暴走族による交番襲撃……。  四十八時間の間、睡眠時間は、もちろんゼロ。食事は二回だけ。若手や中堅の刑事たちはハンバーガーやカップ麺《めん》でしのいでいたようだが、五十代半ばの胃袋は寝不足だけで荒れてしまっている。口にできるのは、せいぜい、バナナ、ヨーグルト、ホットミルク、それに栄養ドリンクくらいのものだ。  ひょっとしたら、芝山を見間違えたのは、それが原因していたのかも知れない。寝不足と空腹で目が霞《かす》んでいたのかも知れなかった。だが、そんなことはプロとして、おくびにも出すことはできない。それを言い訳にする時は、引退する時だ。 「強いて、違いを申し上げるとすれば……」  紺野は少し居直った。 「容疑者のようには見えなかった、という点でしょう。シロであれ、クロであれ、パクられた容疑者は精神的に動揺しているものなんです。ところが、奴には、うろたえている様子もなければ、その反対に、しょぼくれている様子もありませんでした。まるで、何と言うか……、たとえて言えば……、これから立ち入り検査に出かけようとする保健所の職員のような、そんな雰囲気だったんです」 「なるほど……」  署長は警務官を見て、 「保健所の検査職員、だって」  と言うと、再び、紺野の方を向いて、 「わかるような気がするわ。それを聞いて、ある程度、得心がいった」 「…………?」 「君の言う通りよ。私がマジックミラー越しに見た芝山の姿も、取り調べを受けている殺人犯の態度じゃなかった。あの男には、犯罪者が持つ臭い……、何と言うか……、うまいこと表現できないけど、毒気と言うのかしら。胡散臭《うさんくさ》さというか、そういう一種独特の雰囲気が漂っていないのよね。犯罪者の影、というものが全く感じられなかった……」 「…………」 「もちろん、捜査幹部の見解は違うわ。まぁ、立場上、苦労してようやく逮捕した容疑者に対して、首を傾げるわけにはいかなかったんだろうけど。でも……、うちの刑事課長とも話し合ったんだけど、私は証拠がどうの、否認がどうの、と主張しているわけじゃない。そんなことはいずれ法廷で明らかになるわ。気がかりなのは、あの目よ。あの態度よ。犯罪者らしくない雰囲気よ」 「…………」 「あれは、まるで、釈放されることを信じきっている目だわ。そのことを髪一筋ほども疑ってはいないという態度。それが気になって、ここのところ……」  と言うと、首を回した。「正直、よく眠れない。もっとも、近所の飼い猫が夜中まで騒いでいることもあるけど……」  署長は目をテーブルの上に落とした。  数秒間の沈黙……。日の射しているガラス窓に、一瞬、黒い影が横切り、静寂を切り裂くような野鳥の鋭い鳴き声と羽音がした。  署長は顔を上げて、 「もし……、あの男に勝算があるとするなら、それは一体、何なのか? もし信じるものがあるのなら、何を信じているのか? 私はそれを知りたい。それを探ってみたい」 「探る……」  嫌な予感がした。紺野は不安になって、二人の顔を窺《うかが》った。署長は続けた。「そんなことは私たちのすることではない、と言いたいかも知れないけど、私が懸念しているのは、合同捜査本部が今、焦っている、という点なのよ。これは派遣されている滝沢君たちの話からして間違いない」 「…………」 「当初の捜査の段取りが狂ったため、大幅に路線変更がなされることは確かよ。捜査本部の持ち札から推測すると、おそらく、被害者の妻の失踪《しつそう》の線から仕切り直し、ということになるでしょうね。つまり、わが署の事件を突破口に、ということになる。それが心配なのよ」 「しかし、それは……」  紺野は警務官を一瞥《いちべつ》して、 「容疑がある以上、関連事件を洗うのは、捜査本部として、ごく当然のことだと思いますが……」  と、遠慮がちに言った。 「当然のことだとしても、問題なのは、捜査本部が、芝山を最初からクロと捉《とら》えている、という点なのよ。まず、容疑者ありき、なのよね。未解決事件なのに、まず芝山に結びつけて、そこから捜査を展開し、ケリをつけようとしている。これは極めて危険な兆候だわ。仮に、芝山が殺人事件とは無関係で、何らかの理由で、やむなく今のような態度を貫いていたとすれば、一体、どうなるのかしら? もし、芝山が無実だとしたら、他の未解決事件との接点は、たちどころに消えてなくなってしまう。そこが怖いところなのよ」 「…………」  確かに、そういう前提であれば、署長の懸念も理解できる。しかし、その一方で、女性特有の取り越し苦労のようにも思えた。  紺野は口をつぐんだ。 「言うなれば、江戸川署の殺人事件はシャツの第一ボタンのようなものなのよ」  署長は言った。「もし、第一ボタンをかけ間違えていたとすれば、第二ボタンから下、いかに適正で慎重な捜査を実施しても、それは全て、違法捜査となるわ。出発点が誤っていれば、全てが無効となってしまう。そうでしょ?」 「はい。おっしゃる通りです。それで、自分は一体……」  何をどうしろ、というのだろう?  ともかく、それを知りたかった。 「今の立場で、なし得ることをしておきたいのよ。今の段階で、後顧の憂いのない対応をしておきたいの」  と言って、署長は警務官に目を向けた。すると、警務官は僅《わず》かに身を乗り出して、 「君にやってもらいたいのは、言うなれば、芝山の目に対する捜査、いや、調査だな」 「目に対する……調査?」 「そうだ。誤解を避けるために、敢《あ》えて付け加えるが、芝山の殺人容疑に対する捜査ではない。つまり、捜査本部とは関係ない。それとは別次元の、芝山の澄んだ目についての一般的な調査だ。それを、紺野主任。君にやってもらいたいんだ」 「…………」  詭弁《きべん》の臭いを感じ取ったが、紺野はそれには触れず、 「いずれにせよ、おっしゃるような事案は、自分以外の者が担当すべきことだと思います。そもそも、合同捜査本部に格上げされるまでは、芝山に関する身辺捜査は手塚係長のチームが追っていたわけですし、捜査経済的に見ても、その方が効率がよいと思いますが……」  捜査経済、つまり、捜査に費やす手間暇だけではない。最初から捜査に関わっていた者の方が、一連の捜査情報を熟知しているし、また、目撃者や参考人とも顔見知りという利点もあって、何かと仕事を進めやすい。さらには、虚言癖の隣人とか、告訴魔の親戚《しんせき》の存在とか、捜査上、留意すべき裏情報にも通じている。従って、一から始めるより、はるかに効率がよいはずだった。 「いや、それは違うな」  警務官が首を横に振った。「彼らは先入観という厄介な荷物を背負いこんでいる。固定観念があると、それが障害になって、新事実が見えてこないものなんだ」 「…………」 「さらに言えば、これは、あらゆる分野に共通することでね。再調査する時は担当者も変える、というのは常識だよ」 「そうかも知れませんけど……」  だったら、自分なんかではなく、もっと、有能で若い刑事に下命すればよいではないか……。 「先入観なら、自分も持っていますよ」  紺野は言った。「これでも刑事課の一員ですからね。上司や同僚から、いろいろと捜査情報は聞いています。自分の印象も、芝山が本ボシです」  これは本音ではない。だが、厄介な任務から逃れたい一心が言わせた言葉だった。  署長や警務官のような人事畑出身者には、刑事部屋のしきたりというものがわかっていない。担当外の事件については、口を出さないという不文律があるのだ。どうしても見過ごしにできない場合は、時と場所を選んで、遠回しに指摘する程度に留《とど》める、というのが作法となっている。 「いやいや、君の言うのは、先入観というほどのものではないわ。又聞き、という程度のものよ」  と言うと、署長は警務官に対して、 「例の報告書だけど、紺野君だったら、見てもらっても問題はないんじゃない? 持って来てよ」  と指示した。すると、まるで、それを予想していたかのように、 「ここに持参しております」  警務官はノートの間から書類を取り出し、それを署長の前に差し出した。署長はそれを一瞥して、 「ほんの一部分なんだけど、とにかく読んでみて」  指先で書類を紺野に向けて押し出した。  それは報告書の一部分だけをコピーしたものだった。一枚目のノンブルは16。もちろん、表書きはなく、どういう素性のものかは全くわからない。 [#ここから1字下げ]  三歳児の六十五パーセントが自己防衛のために嘘をつく。七歳〜八歳になると、ほぼ全員が嘘をつくが、表情まではごまかせない。  詐欺師だけでなく、セールスマンのような職業の人間も、嘘を繰り返しているうちに、それを真実と思い込んでしまうことがある。 d 声の調子、表情の変化に注意。 ※具体的例。  ニヤッと笑う(作り話をでっち上げて、得意になっている)。  目を逸《そ》らす。耳を触ったり、ヒゲを触ったりする。意味もなく、何度も肩をすくめる。何かというと、すぐ首を横に振る。  頻繁な�まばたき�は、話し始める前に考えを巡らせている。唾《つば》を飲み込むのは、緊張の現れ。  話の内容に説得力があっても、感情が表情に現れていない[#「感情が表情に現れていない」に傍線]のは、嘘をついていると判断してよい。 [#地付き](回答の抜粋)  八 不明な点、及び、懸念される点  九月二十四日の午後一時ごろ、芝山雅行は、民間金融会社に勤務する顔見知り、土屋|直人《なおと》(二十八歳)に電話をかけ、大学の同窓会について相談をしたい、と持ちかけ、勤務終了後に会う、という約束を取り付けた、とされているが、この事実を裏付けるものは見当たらない。  なお、被害者の土屋直人は六年前、大麻取締法違反の容疑で神奈川県警(多摩署)の捜査対象になったことがある。(証拠不十分のため釈放。事件は「継続捜査」とされているが、事実上、捜査打ち切り)  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  同日、午後七時ごろ、二人が赤羽駅近くのファミリーレストランで接触したことは、同店のウェイターによって確認されている。二人は何らかの理由で、荒川河川敷に向かったと思料される。  ■■■■■■■■土屋直人は何者かによって、ナイフのようなもので刺殺された。死因は出血死。死亡推定時刻は午後九時から午後十一時の間。  銀行キャッシュカード利用状況については、九月二十四日の午後六時三十分に、赤羽駅近くの銀行で五万円が引き出されているが、これは防犯カメラの映像から被害者本人であることが確認されている。  その後、新橋駅近くの銀行のATM機から、翌二十五日の午前十時三十七分に、十七万二千円が引き出され、残高は三百十三円となった。ちなみに、カードの暗証番号は■■■■。  ATM機を利用した人物を撮影した映像を公開したところ、捜査本部宛に、芝山雅行に酷似している、との匿名情報が寄せられたという件については、事実関係が確認できず。電話を受理したのは、捜査一課の副島警部補だが、録音テープ等、それを裏付けるものはない。  その他の聞き込みの結果、塾帰りの娘を迎えに出た主婦(川口在住、四十三歳)が事件現場方向から歩いて来る不審な男を目撃していることが判明した。ところが、写真による面通しを実施したところ、その主婦は芝山雅行の顔写真には、全く反応を示さなかった。一応、似顔絵は作成し、参考資料扱い(この件については、記者発表をしていない)。  容疑者が被害者のネックレス、及び、腕時計を常磐《ときわ》池に捨てたという件については、視認されたわけではない。双眼鏡での監視担当の一人だった当署捜査係、滝沢刑事によれば、池に水しぶきが上がったのは視認できたものの、容疑者の位置は、ちょうど茂みの陰になったため、その時の動作等は視認できていないということである。  芝山雅行のマンションに対する捜索差押の合法性については問題はない。ただし、押収物である血痕《けつこん》の付着した衣服について懸念材料あり。  犯人が犯行の証拠となる血痕の付着したズボンをベランダに放置するようなことがあり得るか、疑問が残る。  すでに、冒頭で触れたように、そもそも、キャッシュカード、ネックレス、腕時計の所持が、直ちに、犯罪行為(殺人)を裏付けるものではなく、例えば、真犯人から管理を依頼されていた、という可能性も否定できないわけであって、この点、早急な解明が望まれる。  取り調べ状況については、逮捕状執行直後に、自白の強要と指弾されかねない勇み足的取り調べが散見されるが、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■被疑者は自白しておらず、むしろ、不幸中の幸いと言うべきである。  しかし、その後、被疑者は一貫して、被疑事実を否認しており、今後の見通しは不透明で、必要な対策を講ずべきと思料する。 九 備考  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  東京通信社の丸山記者は国際アムネスティ委員会の、いわゆるローザンヌ文書の調査担当 [#ここで字下げ終わり]  途中から始まった報告書は、やはり途中で唐突に終わっていた。  最後の頁を読み終えると、それを見計らっていたように、 「それ以外にも疑問点があるんだ」  警務官が言った。「犯行現場の荒川河川敷まで、車で行ったと思われるが、その車が、いまだに特定されていない。そもそも、男同士で、なぜ夜の夜中に河川敷なんかに行ったのか、不明のままだ。それから、凶器。血痕の付着したズボンやシャツがベランダに放置されていたのであれば、凶器も一緒に発見されていてもいいような気がする」 「それは……」  今、捜査中の事柄ではないのか?  紺野は反論しようとして、思い留まった。  自分は江戸川署の捜査本部員ではないし、城北署刑事課の代弁者でもない。 「紺野主任……」  署長が言った。「要は、芝山を無実、という観点で重箱の隅をつつけば、その報告書のようなことも言える、ということなのよ。君は刑事課長や課長代理から、芝山が真犯人という根拠を聞かされた、ということだから、これで、あいこね。どう? ギアはニュートラルの状態になったかしら?」  と言って、微《かす》かに笑った。「そんなわけだから、先程、警務官が言ったことを調査すること。これは署長命令よ。もちろん、刑事課長に話は通してあるわ。いいわね?」 「はい。しかし……」  紺野は大袈裟《おおげさ》に首をひねって見せた。避けられない仕事だとしても、二つ返事で引き受けたくはなかった。 「正直、一体、どこから手をつけてよいか、自分にはちょっと、見当がつきません」  と言って、唇を噛《か》むと、 「そのことなんだが、実は、捜査本部の方で手をつけていないところがある」  警務官が言った。「芝山には前科はないが、二件の逮捕歴がある」  と言ってノートを開いた。「一件目は十年前、高校生の時で、府中署管内で放火容疑で検挙された。この時は、理由は不明だが、署限りの措置で、すぐに釈放されている。二件目は五年前、二十三歳の時、蒲田《かまた》署管内で強盗傷害容疑で逮捕されたが、証拠に不備があったらしく、送検されたものの、不起訴になっている」 「不起訴?」  紺野は聞き直した。警察が立件送致した事件が不起訴になることは、極めて稀《まれ》なことである。なぜなら、起訴の決定を以《もつ》て、警察の責務は全うされる、というのが常識になっているからだ。このことは裏を返せば、不起訴になる可能性のある事案は送致しない、ということになる。従って、不起訴という決定は、警察にとって極めて不名誉なことであり、不祥事に近い失態として捉《とら》えられている。 「しかも、起訴猶予なんかじゃないぞ。何と、証拠不十分、という理由での不起訴だ。全く、恥っさらしも、いいとこだ……」  警務官は口元を歪《ゆが》めさせた。「この二件について、捜査本部はさらりと触れているだけで、深くは追及していない。今回の事件とは直接、関連していないし、二件とも有罪になったわけではないからな。今更、ほじくり返す理由もないし、意味もない、ということもあるんだろうが、実は、この二件の直接担当者はすでに退職していてね。ほじくり返さなかった背景には、そういう事情もあったようだ」 「人間なんて勝手なもので……」  署長が言った。「軽く流した、と聞くと、そこが気になってくる。そのうち、ひょっとしたら、なんて思うようになってしまう。特に、芝山の場合、そんな疑心が募ってくるのよね」 「…………」 「過去の事件そのものが気になるわけじゃないのよ。その当時、容疑者とされた芝山が一体、どんな態度だったのか、警察側はどう対応したのか、それを知りたいのよ。二件とも、否認だったようだけど、具体的な状況が、はっきりしない。蒲田署の事件については、捜査書類のコピーを一通り、読ませてもらったけど、例によって厚化粧[#「厚化粧」に傍点]で、素顔が全く見えてこないわ。そこで、当時、この事件を直接、担当した人物、えーと、名前は何と言ったっけ?」  と、尋ねると、警務官がノートに目を落として、 「元蒲田署の捜査係長で、吉永直樹《よしながなおき》氏。五年前、三十八歳で退職しています」 「知っている?」  署長が紺野に尋ねた。 「存じません。……三十八歳で退職、というのは、何か特別の理由でも?」 「さぁ、わからないわ。退職理由は、一身上の都合、としてあるだけ」  署長は再び、警務官の方に目を向けた。それを待っていたかのように、 「もう一件の担当者は、元府中署の少年係長で、上泉敬次郎氏」 「こっちは定年退職後に、テレビのワイドショーに二、三回、ゲスト出演したことがあるそうだけど、知っている?」 「いいえ。少年係の警官は、あまり……」  紺野は首を振った。自署はともかく、他署の少年係との接触はないし、ワイドショーを見る時間的ゆとりもない。 「この二人に接触してもらいたいわけ」  と、署長。「そして、その当時の話を聞いて欲しいのよ。捜査書類や事件記録の陰に隠された真相を聞き出してもらいたいわ」 「わかりました……」  紺野はうなずいた。厄介な仕事に思えたが、署長たちの態度から、逃れられないと悟った。 「で、報告はどのようにすればよろしいんでしょうか? その都度報告ですか? 一括報告ですか?」 「一括報告でいいわ。その方が君もやりやすいだろうし、決裁についても、警務官と刑事課長だけでいいでしょう。他の幹部には、私の方から事情を説明しておくわ」 「わかりました。ところで……、この資料はいただけるんですか?」  と手を伸ばすと、警務官が報告書の上に手を載せた。「すまんが、もし必要であれば、ここでメモして行ってくれないか。これは秘密文書ではないが、それに準ずるものとして扱っている。従って、コピーも作らせていない」 「そうですか。では、結構です」  紺野は手を膝《ひざ》の上に戻した。  昔から、ここだけの話、は聞かないようにしているし、極秘文書の類《たぐい》は持たないことにしている。聞かなければ、酔って口を滑らすこともないし、持たなければ、紛失の心配をしないで済むからだ。  刑事部屋に戻ると、朝から検察庁へ出かけていた田所課長が戻っていた。  ちょうど接客中で、自席の隣のソファーには二人の男女が座っている。  一人は、スーツ姿の中年の男だった。テーブルの上のパンフレットを指さし、何やら説明していた。そして、その隣では、薄いピンクの服を着たうら若き美女が微笑んでいる。テレビのコマーシャルで時折、見かける保険会社のユニホームと同じだった。  銃口や白刃の前に身をさらす警官たちは、様々な傷害保険や生命保険に加入している。保険会社が勧めれば、誰でも一応は耳を傾ける。  紺野は書棚から捜査本部事件の記者発表記録を取り出し、自席で目を通した。  警務官の報告書を念頭に、その一つ一つを目で追って行くと、確かに、疑問がわいてくる。あるいは、それが署長たちの狙いだったのかも知れない。  記録を一通り読み終える頃、課長席の方で、お邪魔しました、という声がした。客の二人が立ち上がり、深々と頭を下げている。  客が廊下に出ると、田所は元の無表情な顔に戻った。たぶん、決裁の途中だったのだろう。書類挟を開くと、手早く印鑑を押していった。  やがて、書類は一まとめにされて、既決のホールダーに収納される。それを目の高さに上げて、 「杉森君、すまんが、これを……」  と声をかけた。三メートルほど離れた席で、出勤記録の整理をしていた杉森刑事が課長席へ向かった。 「副署長席へ。急ぎだ」  田所は稟議《りんぎ》書類を手渡す。杉森刑事がそれを両手で受け取り、小走りに部屋を後にした。すると、 「紺野主任、ちょっと……」  右手で、おいでおいで、をした。そして、紺野が近づくのを待って、 「一週間で、どうだ?」  田所は出し抜けに尋ねた。目はデスクカレンダーに向けたままだった。紺野には何のことかわからない。それで、は? と、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せると、 「決まっているだろ? 目の検査だよ、目の検査」 「目の検査……」  それが二つの意味を含んでいることに気づいたのは、帰宅途中の電車の中だった。  一つは芝山の澄んだ目についての調査。もう一つは容疑者を司法関係者と見間違えた紺野の視力、と言うより、眼力に対する皮肉だったのだ。 「取り敢《あ》えず一週間。それで見通しがつかなかったら、その都度、延長する、ということで、どうだ?」  田所は鉛筆を構えたまま尋ねた。 「あの……、それは署長の?」  と確かめると、 「そうだよ。他にあるか?」  田所は面倒臭そうに言った。 「はい。では、そのように」  と答えると、田所は無言のまま、余白にメモを殴り書く。 「表向きは、いや……」  田所は鉛筆を置いて、 「内向けにも、名目は関連捜査ということになっているから、そのつもりでな」 「関連捜査?」 「そう。合同捜査本部の殺しとは、全く縁もゆかりもないヤマ。従って、ホシも芝山とは無関係。捜査の途中で浮上した別件だ」 「…………?」  田所の意図が理解できない。 「わからんのか? もし、今回の署長特命のことが、外部に漏れた場合、間違いなく、特ダネ記事だ。内部に発覚した場合は、合同捜査本部は怒り心頭、ということになる。派遣されているうちの署の連中は立場がなくなるよ」 「…………」 「かと言って、ありのままに、だよ……。芝山がつぶらな瞳《ひとみ》をしているので、その謎を探っています、なんてことは、恥ずかしくて、口が裂けても言えないしな」  田所は皮肉な笑いを浮かべた。 「了解しました……」  紺野にとっても、その方が好都合だった。関連捜査という名目であれば、周囲から白い目で見られずに済む。 「ところで、捜査本部が自分の立場だったら、どこから手をつけるでしょうかね?」  と尋ねて、暗に、田所の指示を仰ごうとしたのだが、 「君自身は、どこから手をつけるべきだと思うんだ?」  田所は背もたれに寄り掛かり、椅子を左右に揺らした。 「まぁ、取り敢えず、眼医者に行って、話を聞きますかね? 目を調べろって、言うんですから」  と言って、愛想笑いをして見せたのだが、 「芝山の目に異常はないよ」  田所はニコリともせずに答えた。決して冗談のわからない男ではない。  田所は紺野より三歳ほど年上で、階級は警視だが、管理職としての序列は五番目で、五十歳そこそこの警務官より下位になる。しかし、刑事警察一筋四十年の肩書は、検察庁関係者からも一目置かれているし、本人も、それを自負している節がある。従って、相手が署長であっても、事件に口をはさまれることを快く思っているはずがなかった。 「署長は、どうしろと?」  田所は抑揚のない声で尋ねた。 「昔の事件について、退職した警官から事情を聞け、ということなんですが……」 「じゃ、そうしたらいい」  素っ気ない言い方だった。 「はい……。では、そのように致します。ところで、お願いがあるんですが……」  出勤と退庁時刻の自由と、その報告の省略を願い出るつもりだった。九時から五時の勤務や、署を拠点にした活動では非効率だと思ったからだ。ところが、 「もし、芝山から話を聞きたい、というなら、それは遠慮してくれよ」  田所は一方的に言った。「理由は、今回の署長特命のことは捜査本部だけでなく、検察庁にも内密にしておきたいからだ」 「検察庁?」 「ああ。実は、担当の検事が、芝山の精神鑑定をしてみたい、なんて言い出したそうだ。すでに専門家の大学教授に打診しているらしい」 「精神鑑定?」 「公判対策と思いたいが、こういう世の中だ。ひょっとしたら、本気なのかも知れん。もし、そうだとすれば、まともな訴追については、迷いがあるということだ。そんな時にだ。実は、城北署が合同捜査本部とは別に、独自に再捜査しているらしい、なんて怪情報が、検察庁に流れてみろ。一体、どういうことになると思う?」 「再捜査ではないと思いますけど」 「あちらさんは、そう受け取るよ」 「…………」 「捜査本部の連中は誤魔化《ごまか》せても、芝山の口まで塞《ふさ》ぐことはできない。大学の先生の面接テストの最中に、ひょんなことから、事がバレてしまうおそれがある。向こうは警察の裏事情なんて知ったこっちゃないからな。そのまま、ありのままを話すことになる。それが流れ流れて、ブン屋の耳なんかに入ってだよ。ある朝、歯ブラシをくわえながら新聞を開いてみたら、城北署の全景写真と、五段抜きのスクープ記事だった、なんてのは真っ平ごめんだよ」  田所は渋い顔を左右に振って、 「署長のご心配もわからんでもない。でもなぁ……、緻密《ちみつ》な計算も結構だが、あまり細かいところにこだわり過ぎて、ねちねちとほじくり返すと、却《かえ》って、ヤブヘビということになりかねないんだよな。そもそも、緻密な計算が必ずしも、好結果につながるとは限らない。往々にして、その逆の場合がある」 「…………」 「うちの女房なんか、毎朝、新聞のチラシを眺めながら、赤鉛筆片手に、どこの野菜が安い、あそこの魚は安い、なんてやってるが、電車賃やガソリン代のことは忘れてしまっている。しかも、安いってんで、買い過ぎたり、いらないものまで買い込んで、結局、腐らせている始末だ」  と、苦笑いしてから、 「えーと、何の話だったっけ?」  初めて気づいたかのように、紺野を見上げた。 「今回、効率よく動きたいと思いますので、できれば、出勤時刻、退庁時刻は自己判断。その報告連絡は省略、ということでお願いしたいのですが……」  と、要点だけを述べると、何だ、そんなことか、というような顔をして、 「よかろう。好きにしたまえ」  田所がうなずいた。紺野は一礼して自席に戻った。胃に痛みを感じた。  この時点から、紺野の孤独な捜査が始まった。  早速、引き出しの奥から住所録を引っ張り出す。そして、人名欄でなく、警察署欄を繰った。江戸川署に知り合いの警官は五人。そのうち、口が固く、無理を聞いてくれそうな警官は一人だけだった。  紺野がもう一度、芝山を見てみたいと思ったのは、ひょっとしたら、その表情が変化しているかも知れない、と期待してのことだ。  否認している容疑者が自白後、表情を一変させることは珍しくない。まるで別人のように、晴々とした表情に変化することがあるのだ。たぶん、罪悪感から解放され、ホッとするからだろう。  芝山の場合は特殊であり、通常の場合とは正反対なのではないか……。つまり、逮捕時に澄んだ目をしていたものの、留置場に拘束されているうちに、罪の意識が芽生え、次第に罪悪感に苛《さいな》まれるようになる。ひょっとしたら、今頃は、芝山の目は濁っているかも知れない……。  もし、芝山の表情が変化していれば、そのことを理由に、署長特命の任が解除される可能性があった。芝山も結局、人の子で、基本的に他の犯罪者と変わるところはない。となれば、田所が遠回しに指摘したように、署長の心配事は杞憂《きゆう》にすぎない、ということになり、署長自身も、それを認めざるを得なくなる。  紺野は内心、それを期待した。  江戸川署に勤務する知り合いのうち、坪井という警部補とは前任署で夜勤を共にした仲だった。紺野とは同年齢で、家族構成も同じだったため、気心の通じた相手だった。  理由は会ってから話す、とだけ伝えたのは、捜査本部に出入りする署員の耳を警戒してのことだった。  江戸川署の受付で身分を告げ、熨斗紙《のしがみ》を巻いた清酒の一升瓶を片手にぶら下げて、地域課に向かった。キョロキョロと辺りを見回しながら、廊下を行くと、不審に思われたのだろう。中年の巡査部長に声をかけられた。事情を説明すると、地域幹部室の前まで同道してくれた。  巡査部長は部屋の入口のところで立ち止まり、坪井の名を呼んだ。腕まくりして書類整理していた制服警官が振り向く。そして、ニッコリ微笑んだ。その表情を見定めるようにしてから、巡査部長は紺野の側を離れた。 「この間、交通事故の関係者に入りこまれてしまってね。部外秘の処理記録を危うく持って行かれそうになったんだ」  坪井が巡査部長の後ろ姿を見ながら言った。「ところで、電話で言えない相談事とは、一体、何?」 「実は、一一〇番の受理簿を見せてもらいたいんだ」 「一一〇番受理簿? いつの?」 「いつのでも構わない。他署員が、いや……、俺が見ても差し支えない月の分を見せてもらうだけでいいんだが……」 「今月以外なら、別に、差し支えはないと思うけど……」  坪井は訝《いぶか》しげな顔をした。「何か、訳ありのようだが、もし、うちの署に関わりあいのあることなら、耳打ちしてもらうと、ありがたいんだが……」 「いやいや、そうじゃないんだ」  紺野は首を横に振って、 「江戸川署の地域課とは何の関わりあいもない。天地神明に誓って、それは確かだ。実は、うちの署の内部事情でね。こっちこそ、深くは追及しないでもらうとありがたいんだが……」  と言って、紺野は一升瓶を差し出した。 「よし、わかった……」  坪井は一升瓶を受け取り、それを机の上に置いてから、ロッカーの並ぶ部屋の一角に案内した。そして、観音開きの扉を両手で開いた。  一一〇番受理簿が月別に、きちんと横一列に整頓《せいとん》されている。 「さ、どれでも、気に入ったのを持って行ってくれ。今日中に返してくれればいい」  坪井は顎《あご》でロッカーの中を示した。 「すまん。恩に着る。ところで……」  紺野は窓の方を一瞥《いちべつ》して、 「できれば、江戸川署の中庭の見通せる部屋で、じっくりと眺めたいんだが……」  と言って、精一杯の愛想《あいそ》笑いを作って見せた。  坪井が案内したのは、庁舎の二階にある小部屋だった。入口には、�多目的ルーム�というプレートが掲げられている。  坪井は昨年度下半期の一一〇番受理簿を運ぶのを手伝ってくれた。月に二冊の受理簿は本来、厚さが五センチほどなのだが、詳細な処理結果書が添付されると、約十センチほどまでに膨らんでしまう。  じゃ、ごゆっくり……、と言い残して、坪井は部屋を後にした。  紺野はその部屋から、窓の外を見下ろしてみた。三カ月ほど前に、江戸川署から城北署に転勤してきた巡査によれば、最も見晴らしのよいのは和室の情操教養室。次が警備課の資料室、三番目が当直仮眠室か、多目的ルームだろう、ということだった。その説明の通り、窓からは中庭の隅々まで一望できた。  紺野は積み上げられた一一〇番受理簿の一冊を机の上で開いた。一応、パラパラとめくってみる。駐車の苦情、夫婦|喧嘩《げんか》、無賃乗車、カラオケ騒音、迷子の訴え……。その内容は城北署と、ほぼ同様だった。  紺野は開いた受理簿をそのままにして、椅子の背もたれに寄りかかった。焦点の定まらない目を、ホワイトボードに向け、ひたすら時の過ぎるのを待つ。階段を駆け降りる靴の音が単調に響いた。ドアを開け閉めする音。車のウィンカーの音。交通事故を起こした運転手と、交通係のやり取り。そして、荷物を積み下ろす音……。  やがて、一時間ほどすると、廊下の方で、断続的なベルの音がした。続いて、署内放送で、逆送、という看守の声が響く。検察庁を出発した護送車が間もなく到着する、という意味だ。  この日、被疑者の芝山は検事の調べのために、検察庁に行っていることは確認済みだった。  紺野は窓を開け、顔の片側だけを外に出すようにして、そっと中庭の様子を窺《うかが》った。  留置人たちを送り出したり、出迎えたりする場合、在署員で手の空いている者は原則として、全員、中庭に出て、護送車を囲まなければならない。  この日、中庭に出てきた江戸川署の制服私服員は二十名ほどだった。  裏門からバス型の護送車が入って来ると、それまで冗談を言い合い、笑い声を上げていた署員も真顔に戻り、護送車の停車する定位置に二列に並ぶ。  護送車は地面の上にペイントでマークされた四角の枠の中に停車した。乗降口が開くと、護送係の制服警官を先頭に被疑者たちが下りてくる。  署員たちの長い列は庁舎の臨時出入口まで続いている。その先はもちろん、留置場への通路だ。  被疑者たちは、まるで結婚式の花嫁がバージンロードを歩むように、警官たちの列の間をゆっくりと進む。両手錠をされた上に、全員、太い紐《ひも》でつながれているから、逃走することはできない。署員たちの長い列は、万が一のためであり、被疑者たちの脱走心理をそぐためのものなのだ。  紺野はその被疑者たちの列に目を凝らした。  ぞろぞろと男たちが歩いて行く。まだ少年の面影を残すニキビ顔の青年、職人風の小柄な男、スキンヘッドをしたヤクザ風の初老の男、会計士のような知的な感じのする中年男、女性のように髪を長くした色白の優男、そして……。  芝山は先頭から六人目だった。うつむき加減の被疑者が多い中で、悪びれた様子は微塵《みじん》もない。すさんだ目つきをした被疑者の中で、芝山一人だけが、やはり澄んだ眼差《まなざ》しをしていた。  どう見たって、あれは保健所の職員さんだ……。  紺野は自分の目が錯覚でなかったことを、この時、再確認した。同時に、それは、署長特命に服さざるを得ない、ということでもある。  留置人たちが一人残らず、ドアの中に消え、臨時出入口の鉄の扉が閉まると、制服の看守係長が甲高い声で、ありがとござんした、と言って、大きな身振りで挙手の敬礼をした。それが解散の合図で、署員たちは三三五五、それぞれの職場に戻る。  紺野も引き上げる準備にかかった。  一一〇番受理簿を地域課のロッカーに戻し、便宜を図ってくれた坪井に礼を述べ、そそくさと玄関に向かった。江戸川署に来たことは第三者、特に、捜査本部関係者には知られたくなかった。  不思議なことだが、そういう態度というものは、かえって周囲には目立って映るものらしい。目を伏せ、足早に進み、玄関のドアまで数メートルというところで、 「……おや? そこを行くのは、ひょっとして、城北の紺さんじゃねぇの?」  と、後ろから声をかけられた。聞こえない振りをするには、フロアは静かすぎた。それで仕方なく振り返った。石渡という警部補が立っていた。紺野とは刑事養成講習の同期という間柄である。 「これはこれは、誰かと思えば、石さんじゃないか。いつ葛飾から転勤したのさ?」  と尋ねると、 「転勤なんかしちゃいないよ。こちらさんへは助《すけ》っ人《と》だ。合同捜査本部があることは承知だろう?」  石渡は天井を指さした。捜査本部は四階の大会議室に設置されたと聞いている。紺野は上を見てから、 「相変わらず、もてるんだねぇ。引く手あまたで、結構なことだ」 「とんでもない。いいように、こき使われているだけさ。で、そっちは何?」 「こっち? 実は、地域課に一一〇番受理簿を見せてもらいに来た。うちの管内と類似した通報がある、と聞いたもんでね」 「そうか……」  もっともらしい大義名分に、石渡は納得した様子で、それ以上追及しては来なかった。  石渡英介は葛飾署の知能犯担当で、東京出身だった。紺野と違って、身なりが垢抜《あかぬ》けているだけではない。車の大型免許の他に、小型船舶の免許も持っていた。趣味は写真で、カメラ会社主催のコンクールで入賞した腕前の持ち主でもある。日常英会話も、そこそこ話すことができるし、豊島区にある自宅の六畳間には、自分専用のパソコンが置いてある。おそらく、捜査本部入りしていたのも、その多芸多才が見込まれてのことだろう。 「ところで、久しぶりで、どう?」  石渡が人さし指を曲げ、口元から耳の後ろの方へ引く仕草をした。 「久しぶりで、か……」  咄嗟《とつさ》に腕時計を見た。そして、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、気が進まない態度を取り繕った。捜査本部の内情を知りたい、という本音を見抜かれたくなかったからだ。 「何か、急ぎの用でもあるのか?」  石渡が訝《いぶか》しげに尋ねた。 「別にないけど……」 「じゃ、やろうよ。今日は早めに抜けるからさ。すぐに追いつく」 「そうか。じゃ、やろう」  紺野は承諾した。 [#改ページ]     ㈼  その居酒屋の取り柄と言えば、特別料金なしで、奥の四畳半を借りきれるというところだろう。  無愛想な板前。その妻である女将《おかみ》はカラスが鳴くような笑い声を上げる。�なごや�という屋号の由来は、二人とも名古屋出身だからだそうで、そのセンスの一端は、店内中に観光地みやげの提灯《ちようちん》を飾るというインテリアにも表れている。  皿や小鉢などの食器に対するこだわりはなく、徳利の形も様々で、熱すぎたり、ぬるすぎたりする燗《かん》は珍しくない。注文した肴《さかな》が届かない代わりに、注文しない肴が届いたりする。当然、料金もどんぶり勘定ということになる。確かに、大雑把で無粋な店なのだが、紺野には、なぜか安心できる店だった。  午後七時前に店に入り、カウンター席に座った。枡酒《ますざけ》を飲みながら、店のテレビを見て三十分あまり。巨人の先発投手に代打が出る頃、引き戸がカラカラと開いて、縄暖簾《なわのれん》の間から石渡が顔を見せた。  紺野は酒を飲み干してから、一合枡の縁を前歯でグッと噛《か》み締めた。すると、かなり使いこんだ枡だから、ジワジワッと酒の滴が細かい泡となって滲《にじ》み出してくる。最後に、それをすすってから、 「女将、取り敢《あ》えず、瓶ビールとコップを二つ、座敷の方に頼むよ」  そう告げて、奥に向かった。  電話で予約しておいたせいか、この日の四畳半には、段ボール箱に入れた野菜や、発泡スチロールの容器に入れた魚介類は置いてなかった。亭主の脱ぎ捨てた靴下や、女将の買い物袋も見当たらない。部屋の中央には家庭用の座卓が準備されていたが、座布団はいつものように、部屋の隅に五、六枚、重ねたままだった。 「悪りぃ……。ちょいと手こずって、長引いちまった」  石渡が片手で拝む仕草をした。 「なぁに。こっちも今し方、来たばかりだよ」  紺野は両手に座布団を持ち、一枚を石渡に手渡す。二人は座卓を挟んで、それぞれの席に座布団を敷き、向かい合って腰を下ろした。  やがて、女将がビールを運んできた。塩辛の入った小鉢を並べ終えるまでに、肴を注文する。今日のお勧め、であれば、間違いなく運んでくれる。  ごゆっくり、と女将が襖《ふすま》を閉めた。店内のさざめきが、こもった音に変わる。すると、反対側の窓の方から、数十メートル先にある踏切の警報音が聞こえた。 �なごや�が重宝なのは、こんなところにある。客の耳を気にせずに、また、カラオケに邪魔されずに、仕事の話のできる店は、近頃、めっきり少なくなった。 「奥さん、自転車にぶつかってケガをしたんだって?」  お絞りで首の回りを拭《ぬぐ》いながら、石渡が尋ねた。 「うん。しばらく前のことだが、右膝を亀裂《きれつ》骨折した。でも、もう大丈夫だ。……うちの連中から聞いたのか?」  紺野はビールの栓を抜く。 「矢田部さんから聞いた。紺さんが健気《けなげ》に、奥さんの身の回りの世話をしていた、なんて感心していたぞ」 「俺が女房の世話を? それは違うよ」  紺野がビール瓶を向けると、石渡は空のコップを差し出した。それに酌をしながら、 「俺の世話をせずに済むようにしただけだ。杖《つえ》を片手に煮炊きなんかさせて、火でも出されたらかなわんからな」 「そう照れるなよ」  今度は石渡がビール瓶を持つ。「いい話じゃないか。ケガをした連れ合いを気づかうのは当たり前のことだし……」  二人は、お疲れさん、と言って、コップを合わせた。  一杯目は一気に飲み干すのが、酒飲み同士の作法だ。そして、二杯目の酌の順序は、一杯目とは逆になる。 「ところで、両国署の坂崎の話、聞いているか?」  石渡が尋ねた。 「坂崎って、同期の坂崎か?」 「うん。父親が入院したんで、退職して山形へ帰るそうだ」 「退職? すると、家業を継ぐのか?」 「らしい。中途退職は慙愧《ざんき》の至り、なんて言ってたけど、三十五年も鼠取り[#「鼠取り」に傍点]をすれば、もう十分だよな」 「全くだ……」  二人は声を上げて笑った。 「そうそう。同期と言えば、野坂が離婚したのを知っているか?」  今度は紺野が尋ねた。 「何だと? あのオシドリ夫婦が、か?」  石渡が目を丸くした。 「ああ。俺も驚いたよ。末の娘が嫁に行ったとたんに、奥さんが三行半《みくだりはん》を突き付けてきたらしいぞ」 「奥さんが?」 「うん。どうやら、ずっとがまんしていたらしい」 「そうか……。ずっとがまん、をね。ご婦人というものはわからんもんだな……」  二人はうつむき、しばらく沈黙した。 「スッポンの及川《おいかわ》は、警察庁へ出向したよ。知っているか?」  突然、石渡が言った。 「知らん。初耳だ」  と、紺野が首を横に振る。  そんな風にして、会話は進んだ。共通の知人のことから、やがて、話題はお互いの仕事のことになり、企《たくら》まなくても、自然に、捜査本部のことに及ぶことになる。 「その合同捜査本部のことだけどね。変な噂が流れているんだが、ご存知かな?」  紺野は冗談口調で尋ねてみた。 「変な噂?」  石渡が箸《はし》を止める。 「逮捕された芝山は本ボシじゃないんじゃないか、というもっぱらの噂だ」  と、小声で言うと、 「やれやれ……。また、その話か……」  石渡はうんざりしたように、首を左右に振った。 「どうした? 何か、思い当たる節でもあるのか?」 「ああ、あるとも。噂話の張本人は、澄んだ目のことを問題にしているんだろう?」 「さぁ、どうかな? 元々、興味はないし……」  紺野は空になった皿を脇に寄せた。 「勘違いだよ、そりゃ」 「勘違い?」 「うん。確かに検挙祝いの席で、誰かが、芝山の目を見ていると不安になってくる、という風な発言をした。だが、あれは皮肉だよ。Aランクの証拠を突きつけられても、知らぬ存ぜぬ、を繰り返す厚顔無恥な人殺し野郎に対する大人の皮肉だ」 「……本当か?」 「ああ、その話が出た時、俺も同席していた。あれが皮肉だってことは、話し方でわかると思うけどなぁ。どうやら皮肉や冗談というものは、伝わって行くうち、言葉通りに受け取られてしまうようだ。気をつけなきゃいかんな」 「…………」  署長室で聞いた話とは、事情がかなり食い違っている。紺野は沈黙し、コップに口をつけた。  その時、スッと襖の開く音がした。だが、女将の高笑いは店先の方で響いている。襖の方に目を向けると、ほぼ同時に、ピシャリと閉まった。その襖の前には、注文した肴《さかな》と、これから注文しようと思っていた二合徳利が二本、盆の上に載せてあった。運んだのが、女将でないとすれば、亭主の板前ということになる。 「全く……、相も変わらずだな……」  紺野は苦笑しながら、肴と徳利を取りに席を立った。  石渡が空になった器とビール瓶を片付け、空いたスペースに、紺野が熱燗《あつかん》の徳利と肴を並べていった。セルフサービスが四畳半の席の、唯一、不便な点だ。 「参考のために、聞きたいんだが……」  紺野は三本指を使って、湯気の立つ徳利の首を摘《つま》んだ。そして、それを石渡に向けながら、 「芝山というのは関西の生まれだって?」  紺野としては、さりげなく尋ねたつもりだった。相手は酔っている様子だったし、怪しまれないと思ったからだ。だが、酔っていたのは、紺野の方だったのかも知れない。 「ははぁ、そうか……。わかったぞ」  石渡がニヤリと笑った。「紺さん、芝山のことで何か探っているな?」 「一体、何のことだ?」  紺野は目を逸《そ》らした。 「とぼけるなよ」  石渡は盃《さかずき》を置いた。「何か聞きたいことがあるなら、はっきり、そう言えよ。ちょっと水臭いぞ」 「深読みのしすぎだ。俺は何も探ってはいない」  立場上、そう答えざるを得なかった。「あくまでも、今後の仕事のために、聞いてみただけだ……」 「…………」  石渡はしばらく紺野を見ていたが、 「何か、訳ありのご様子だが、まぁ、いいか……」  と言うと、徳利を取って、紺野に向けた。紺野は黙って盃を差し出した。 「芝山の生地は琵琶《びわ》湖の畔《ほとり》、滋賀の大津だ。なかなか、いい所らしいよ」  石渡は一方的に話し始めた。「父親は当時、大学の講師。母親は病院の臨床検査技師。芝山は一人っ子だ。両親は夫婦同然の生活をしていたが、結婚はしていない」 「結婚していない?」 「うん。どっちも戸籍を動かしていない、という意味だ。もちろん、結婚式も挙げていない。まるで将来を見越していたようにね」 「将来を?」 「小学校三年生の時、両親は別れた。それで、芝山は母方の実家に引き取られることになる。静岡の片田舎の、秋野町というところだ」 「実家だと? どっちの親も、手元に置かなかったのか?」 「置かなかった。父親は洗濯機も回せない薬学バカだし、母親はアフリカ大陸で働きたがっていた。つまり、二人とも、まだ若かったというわけだ。翌年、父親は教え子の薬剤師と再婚、いや、法的には初婚になるな。さらに、その翌年、母親がタンザニア人と現地で結婚。今度は両方とも、ちゃんと手続きをして、式も挙げたそうだ」 「…………」 「芝山は祖父母を親代わりに育ったが、子供のころから都会志向が強かったようだ。それで、東京の高校に進学することになる。叔父夫婦が東京都下の府中に住んでいたからだ。もし、上京せずに、ずっと静岡にいたら、檻《おり》の中で臭い飯を食わずに済んだかも知れん。静岡というところは気候もそうだが、人間も穏やかなんだ。人の性格は環境に左右される。特に、育ち盛りはね」 「その穏やかな人間が、高校三年の時、放火容疑でパクられたらしいな」 「逮捕はされていない。まぁ、身柄を拘束されたわけだから、実質的には逮捕なんだが、記録上は、任意同行した上での事情聴取、ということで処理されたようだ」 「それにしても、静岡の片田舎から出てきた少年が、三年後には放火容疑で身柄拘束だ。三年の間に、一体、何があったんだ?」 「さぁ、わからん。本人は、街を歩いていたら、人違いで捕まっただけだ、と主張している。たぶん、今度の殺人容疑も同じだ、と言いたいんだろうよ」 「府中署に問い合わせは?」 「もちろん、したさ。もっとも、担当者は定年退職していたけどね。サブ担当が成城署の方へ転勤していた。当時のことを聞いてみたんだが、何しろ十年前の事件で、おまけに署限りの措置だからな。書類なんか残っちゃいない。それで、備忘録を頼りに、思い出してもらったんだが、結局、正確なところはわからなかったな。ただ、断じて誤認逮捕なんかじゃない、と強調はしていたが、一方的に、そう言われてもね」  石渡は首をひねった。 「サブでなく、退職した担当者には聞かなかったの?」 「聞こうとしたんだが、上の方からストップがかかった」 「ストップ?」 「うん。たぶん、テレビの関係だと思う。その元係長は時々、ワイドショーなんかに出演するらしいんだ。捜査本部の楽屋話をテレビなんかで、ペラペラ話されちゃまずい、という判断なんだろうよ」 「楽屋話なんかしなけりゃいい」 「そうも行かないさ。相手はOBなんだし、こっちは昔話を聞かせていただく立場だからな。ご機嫌を損じないためには、茶飲み話程度に、多少はしなきゃならない」 「ほんの僅《わず》かな情報でも、警察OBの人間なら全てを見通してしまう。結局は、全部話すことと変わりゃしない、か?」 「そういうことだ」 「なるほどね。つらいところだな。ところで……、その火つけの本ボシは、結局、挙がったのか? それとも……」 「挙がらなかったそうだ」 「お宮か……」  紺野は苦々しい思いで、燗酒を口に含んだ。  不思議なもので、誤認逮捕や違法捜査が明らかになった場合、事件が解決することは稀《まれ》となる。捜査現場の士気は落ち、捜査幹部の腰も引けるからだ。二度の失敗は許されない、というプレッシャーが、何事に対しても慎重策を取らせる……と言えば聞こえはよいが、実際のところは、消極策を取らせることになるからだ。それが原因で、みすみす真犯人を取り逃がしてしまうということもある。紺野も過去に何度か、そんな苦い思いを味わっていた。  芝山は高校を卒業すると、某私立大学に入学する。推薦入学というから、学業も生活態度もよかったのだろう。ところが、大学二年の冬、親代わりだった祖父が脳卒中で倒れ、半身不随の身になる。家業の雑貨店は廃業せざるを得なくなり、芝山への仕送りも止まった。実の父も母も、それぞれの家庭を優先し、成人した息子のことは見向きもしなかった。血を分けた子供のためならば、と考えるのは、衣食足りて、且つ、寛容な配偶者に恵まれた人間の発想ということなのだろう。  ただの居候の立場になった芝山は、叔母の露骨な厭味《いやみ》に耐えかねて、下宿を飛び出し、住み込みのアルバイトをするようになる。最初はパチンコ店の従業員、次は、もっと給料のよい、ホストクラブ。そこで、客の美容師と知り合い、やがて、相手のアパートで同棲《どうせい》生活を始めるようになる。文字通り、髪結いの亭主に収まった時点で、大学で建築学を学び、海外修業も積んで、いつの日にか、世界的な建築デザイナーになる……という青雲の志は忘れ去られた。 「女のヒモになってから二年後……、放火容疑でゴタついてから計算すると五年後に、今度は、タタキでパクられているそうだが、そっちは、どうなの?」  紺野は強盗事件に話題を転じた。 「どうなのって、あれは不起訴になったヤマだよ。参考にはならん。どうやら、捜査係長殿が功を焦って、罠《わな》を仕掛けたらしい」 「罠を?」 「うん。当時の同僚たちに聞いたところ、おとり捜査、という用語を使っていたがね。どうやら、実際は、もっと手が込んでいたらしい。何しろ、芝山は無職同然だったが、金回りがよかったそうだ。たぶん、それで、目をつけられたんだろう」 「定職がない割には、結構、いい身なりをして、用もないのに夜の街を出歩いたりして、地回りとも顔なじみ。何かよからぬことをして、泡銭《あぶくぜに》を稼いでいることは確かなんだが、尻尾を出さない、か?」 「まぁ、そんなところだろう」 「目障りな野郎だから、一丁、罠を仕掛けてパクってやろう。多少、イカサマでも、どうせ相手は悪賢い町のダニだ。善良な市民を引っかけるわけじゃない」 「…………」 「気持ちはわかる。やろうとは思わないが、気持ちは、よーくわかるよ。正義感に燃えた若い刑事や、何度も逃げられている中堅の刑事なら、なおさら、そういう思いが強いはずだ。だから、せめて、しょっ引く口実くらいは、工夫してもバチは当たらないんじゃないか、と考え始める。本件をでっち上げるわけじゃない。任意同行に応じない札付きを取調室に放り込むための方便だ。軽く叩《たた》いて、もし、埃《ほこり》が出なけりゃ」 「紺さんよ……」  石渡が紺野の言葉を遮った。箸《はし》は煮魚の腹に刺したままになっている。 「少々、回りくどい。言いたいことがあるなら、はっきり言えよ。ほろ酔い気分が醒《さ》めちまう」 「わかった。でも……、怒るなよ」 「怒らないよ。言いたいことは大体、わかっている」  石渡が箸を動かし始める。 「そうか。じゃ、言おう……。ひょっとしたら、捜査本部は、どこかで無理しているんじゃないか、と思ってね。それが、ちょっと気になっている」 「どこかで、とは、具体的に、どこだと言うんだ?」 「わからんよ。ただの、あてずっぽうだ。相手が石さんだから言ったんだ」 「でも、あてずっぽうでも、一つや二つ、思い当たる節があるんだろう? それを言ってみろよ。たぶん、答えられると思うぞ」 「わかった。じゃ、はてな? と思うところを並べてみる……」  紺野は酒で喉《のど》を湿した。 「まず、タレコミの電話だ。受けたのは、一課の警部補だったそうだが、これが録音されていない。本人の説明によれば、何でも、ボタンを押し間違えたとかどうとかで、テープは回らなかったらしい。つまり、実際に、タレコミ電話があったかどうか、少なくとも物証はない、ということになる」 「その通りだ……。続けろよ」 「尾行を始めて、すぐに、ネックレスと腕時計が出てきた、というのも、ちょっと腑《ふ》に落ちない。それから、えーと……、ガサ入れした時に押さえたベランダのシャツとズボン。これも、出来すぎているような気がしないでもないな」  紺野は自分が疑問に感じたことを率直に述べた。だが、 「なるほどね。それに加えて、常識的に考えてみても、たった十七万円のために、知り合いを殺すはずがない、か?」  石渡は鼻で笑った。「空の金庫を担いで逃げた泥棒は、傍《はた》から見ればバカに見えるかも知れん。でもな、金庫の中に札束が入っているかどうかは、扉を開けてみなけりゃわからない。肝心のその扉には頑丈な鍵《かぎ》がかかっているんだぜ? 金が欲しけりゃ、取り敢《あ》えず、担いで運ぶしかないだろう?」 「…………」 「まぁ、タレコミ電話があったか、なかったのか。不毛な水かけ論になるから、これは信用してもらうしかない。ただ、その気になれば、録音テープだって、でっち上げられないことはない。と言うより、かえって、録音テープがあった方が、でっち上げるには好都合だ。……だろう?」 「まぁ、そう言われれば、そうだけど……」  紺野は生返事した。確かに、その通りだった。 「疑えば目に鬼を見る、だよ。次に……、証拠のことだけど、まず、ベランダのシャツとズボンのことから話すよ。その延長線上に、ネックレスと腕時計を捨てた理由があるからだ」  と言うと、一息ついてから、 「アシのつくような証拠は、早めに埋めたり、焼いたりして湮滅《いんめつ》する、というのは昔の話でね。近頃じゃ、どこもかしこも、人、人、人で、そんな場所はないよ。今はアウトドアのレジャーブームでね。熊の出そうな山奥にも、キャンプなんかしている先客が必ずいる。休日は若者と家族連れ、平日は熟年ハイカーで、年がら年中、ごった返しているんだ。運良く、そういう連中に会わずに済んだとしても、そこに行くまでが大変だ。途中には、釣り人がいたり、野鳥の会のメンバーなんかが双眼鏡を覗《のぞ》いているからな。うっかり物なんか捨てたら、環境破壊だ、なんて言われて、写真に撮られてしまう。その上、車のナンバーまでメモされちまったりね」 「…………」 「つまり、昔のように、人里離れた場所で、埋めたり焼いたりすれば、かえって、目立ってしまうとも言えるんだ。純粋に、他人の目に触れないようにしたい、という目的を達成するには、むしろ、手元に置いた方が確実と言える。今は、そういう世の中なんだよ、紺さん。昔とは違うんだ」 「でも……、じゃ、なぜ」  と言いかけると、 「なぜ、ネックレスと腕時計を池に捨てたのか、という疑問が生じてくる、か?」  石渡がいたずらっぽく笑った。紺野は口をつぐんだ。 「答えは簡単。結論から言えば、手元に置いたら、アシがつくかも知れない、と思ったからだ。いや、正しくは、そう思わせた。具体的には、芝山は、警察の尾行に勘づいた。警察は敢えて、勘づくように仕かけたわけよ。それで、芝山は焦ったんだ」 「言っていることがわからん」  紺野は首をひねった。  尾行に気づいていながら、その目の前で、証拠品を捨てる犯人がいるはずがない。 「尾行のやり方も、昔とは違うんだよ、紺さん。今は、いろんなバリエーションがあるんだ」  石渡は得意気に言った。 「バリエーション?」 「枕を高くして眠っている容疑者を尾行したところで、何も得られないよ。昼近くなって外出して、喫茶店に入り、漫画を読みながらコーヒーを飲む。その後は、夕方までパチンコか、麻雀か、場外馬券場で遊ぶ。夜、女を迎えに行って、その帰り道すがら、二人で外食して、時々、カラオケボックスで歌う。馴染《なじ》みのスナックで男は水割り、女はカクテルを飲んで酔っぱらい、じゃれ合いながら帰宅する……。こんなことを何百回、確認しても、事件の手がかりなんか得られっこない。そういう相手には、後ろから、もしもし、と背中を叩く必要があるんだ」 「背中を叩く?」 「まず、尾行していることを勘づかせる。わざとね。すると、相手は目を覚ます。事件のことを思い出すんだ。このままじゃヤバイ、と心配するようになる。何とかしなきゃ、と焦り出す。そこを見計らって、今度は、ちょいと尾行を外す。とたんに相手は動き出す。俺たちに先行されていることにも気づかずにね」 「……先行?」 「うん。尾行でなく、先行して、相手の動向を探るんだ。今は、いろいろ便利なハイテク機器があるから、人手さえあれば、簡単にできる」 「本当か?」  そう尋ねたのは、信じられなかったわけではなく、具体的な方法を知りたかったからだ。  石渡はニヤリと笑った。明らかに優越感の笑いだった。「東京のある商店街では、全ての道路を監視カメラでカバーしている。その性能たるや、三十メートル先の新聞の見出しが読めるほどだ。おまけに、赤外線スコープ付きだから、夜でも支障はない」 「監視カメラ……」 「うん。電気工事を装って、それと同じものを主だった地点に設置した。それ以外に、空中カメラもスタンバイさせていた」 「空中カメラ?」 「小型の飛行船にカメラをつけて、リモコン誘導で飛ばすんだ。もっとも、実際には、それは使わずに済んだそうだがね」 「…………」 「尾行の段階で、芝山の行き先と行動範囲は把握ずみだったし、まかれる心配はなかった」  石渡は言った。「唯一の心配事は遠出されることだったな。ドライブなんかされたら、手の打ちようがない。一応、発信器と追跡チームの準備はしていたが、捜査幹部は、犯人の心理から考えて、まずないだろう、と判断していた。証拠品を身近に置いて行動することは、犯人にしてみれば、時限爆弾を抱えているようなものだ。車を運転していれば、いつどこで、検問中の警官に止められるかわからない。ダッシュボードにしろ、トランクの中にしろ、持っていることがわかったら、それで一巻の終わり。動かぬ証拠になってしまう。だから、一刻も早く手放そうとするに違いない。となれば、近場での処分ということになる」 「…………」 「最初、奴は後ろばかり警戒して、何度も振り向いちゃ、立ち止まったり、引き返したりしていたが、前の方に関しては、全くの無防備だったそうだ。ま、それがこっちの狙い目だったわけだが、まんまと、引っかかってくれた」 「そんな離れ技をやってのけたとは、夢にも思わなかったよ。確かに、昔とは大違いだ。ハイテク機器に、先行か……」  紺野は盃《さかずき》に手を伸ばした。冷えた燗酒《かんざけ》は、なぜ生臭い味がするのだろう。  石渡の話には、まだ納得できない点があった。証拠湮滅をするなら、芝山は、なぜシャツとズボンも処分しなかったのか……。  しかし、紺野は敢えて、その質問をしなかった。捜査本部が緻密《ちみつ》な計算に基づいて、行動していることは明らかだったからだ。  それよりも、腑《ふ》に落ちないことは他にあった。 「それにしても、うちの課長は、先行のことは一言も言ってなかった。そんな方法があるとはなぁ……」  と、首を傾げて見せると、 「そりゃそうだ。この作戦は一握りの関係者しか知らない」 「一握り? すると、箝口令《かんこうれい》でも出ているのか?」 「まぁね。レストランだって、従業員全員に、料理の隠し味のことまで教える必要はないだろう? チョコレートを一かけ入れるとか、中国の漢方薬を混ぜるとか、そんな味の秘密は厨房《ちゆうぼう》にいる何人かが知っていれば済むことだ。接客係やレジ係はメニューだけを覚えていればいいし、店長さんは商店街との付き合いと、銀行取引のことだけ考えてくれれば、十分だ。……だろ?」 「なるほど。だが、そんな大事なことを、俺には漏らしてしまったな」  と言って、石渡の顔色を窺《うかが》うと、ニヤリと笑って、 「そりゃ、相手が紺さんだから話したのさ。何か、訳ありのご様子だから、特別に打ち明けたんだ。長年の付き合いだし、友達が寒空の下、水《みず》っ洟《ぱな》をたらしながら、街をさまよう哀れな姿は想像しただけで心が痛む。そんな苦労をさせるのは忍びない」 「全く、お優しいこって……。ともかく、話してくれて、恩に着る。持つべきものは同期の桜だ。いつか、この借りは返す」  紺野は徳利を掴《つか》んで酌をした。石渡はニヤリと笑って、それを受けると、 「礼には及ばないよ。俺は何も喋《しやべ》っていないし、紺さんの方も、何も聞かなかったことにしてくれれば、それでいい」 「了解。明日になったら、忘れているよ」 「酒を飲んでも思い出さないでくれ。そもそも、尾行を勘づかせる、というのは、正攻法とは言えない。見方によっては、苦し紛れの博打《ばくち》、とも言えるわけだ。結果的には成功したが、マスコミや弁護士から、重箱の隅をつつかれる可能性はある。それに加えて、お偉方の中には、誰とは言わないが、捜査のソの字も知らないトウシロウがいるからな。犯罪というものは必ず解決するし、犯人は必ず捕まえられる、と錯覚している手合いだ。そういうのには、カヤの外にいてもらうのが一番だ」 「…………」 「また、そんなのに限って、喋っていいことと、悪いことの区別がつかない。育った畑が違うから、仕方がない面もあるけど、ブン屋なんかの、みえみえの誘導尋問に簡単に引っかかって、ポロリと漏らしてしまうんだからなぁ。こっちが死ぬほど知恵を絞って編み出した奥の手も、それでジ・エンド。新聞に書かれたら、二度と使えなくなる」 「しかし、それにしても……」  紺野は首をひねって、 「関係署のトップくらいには、マル秘事項と称して縛りをかけて、説明してもよかったんじゃないのかなぁ。レストランの店長なら、チョコレートや漢方薬のことはともかく、隠し味があることくらい知る権利はあるんじゃないの?」  紺野は不満だった。  捜査本部の説明不足や報告連絡の省略。言わば、秘密主義が城北署の女署長の疑念を募らせたのではないのか? その皺寄《しわよ》せが、今、自分の身に降りかかっている……。 「それは俺なんかじゃなく、ずーっと上の方の方針だよ。ただ……、俺にも言えることはある。店長は二年に一度、変わるけど、料理の味の方は変えられない、ということだ。百年たっても、現場の捜査係というものはホシを追う立場だ。……違うか?」  と、上目遣いに言った。石渡の酒は説教上戸。話が長くなり、何度も繰り返す。 「そうだな。ところで……、ついでに聞くけど、奥の手は、それ以外にもあるのか?」 「さぁ、わからん。先行作戦には、たまたま、人手の関係と土地鑑があるという理由で、この俺にお呼びがかかったが、他のことは、さっぱりだ」 「…………」 「ただ、先行作戦が成功して、ネックレスと腕時計を押さえてからは、また元のように、徹底尾行になった。その方針変更が、芝山のそれ以上の証拠|湮滅《いんめつ》を封じるためのものだったかどうか、わからない。一課の係長に聞いてみたけど、ニヤリと笑っただけで、教えてくれなかった。ベランダのシャツとズボンが処分されなかったのは、徹底尾行、徹底張り込みで、処分できなかったのか、それとも、芝山が油断したからなのか、それは今のところ、わからない」  石渡は紺野と同じ疑問を持っている様子だった。その説明は一応の筋道が立っている。しかし、それでもなお、紺野の中には釈然としないものが残った。  その後も、雑談風に話は続いた。  芝山は被害者の土屋直人を恐喝していた節があること。その理由は、最近まで同棲《どうせい》していたOLに逃げられ、金に困ったからではないか、と、捜査本部は睨《にら》んでいるということ。犯行に使用した車両は盗難車の可能性が高く、凶器はその車両内に残されている公算が大であること、等々……。  石渡は時に口ごもりながらも、いくつかの重要情報を教えてくれた。  駅の改札口で石渡と別れ、ホームで二十分も待ってから、下り電車に乗った。いつものように、乗客の行き来の少ない連結部近くに立つ。空席があっても座らないのは、居眠りして乗り過ごさないための工夫だ。  吊《つ》り革につかまり、電車の窓から外の風景を見つめた。今までに関わった犯罪者たちの顔が浮かんでは消える。  時の流れと共に、装備が進歩するだけでなく、捜査の方法も大きく変化していた。  これまで自分が身につけた昔ながらの捜査技術は、もう通用しない時代になっているのだろうか?  ふと、そんな不安が胸をよぎる。  だが、その一方で、石渡の話は事実だろうか? という疑問も浮かんだ。  公表できない手段で得た情報を、職務質問や交通検問などで偶然、入手したと装うことは、かつての警察が用いた常套《じようとう》手段だ。合同捜査本部が最新の捜査技術と併行して、この種の古典的手法を用いないとは断言できない。もし、芝山を犯人と決めつけた上での見込み捜査であれば、その違法捜査を糊塗《こと》するために、尾行の結果、証拠品を入手したと取り繕えば、事は収まる……。  電車は長い鉄橋を渡った。紺野は次の駅で別の私鉄に乗り換えなければならない。今度は、二車両だけの旧式電車に揺られて十五分あまり。野原の中の短いホームに下りる。客は七、八名。九時すぎには、人影もまばらになる静かな新興住宅街だ。  狭い夜道を五分ほど歩き、上り坂にかかって二、三分。昼間なら鉛色の屋根瓦《やねがわら》が見えてくる。そこが二十年前にローンで購入したマイホームだ。  出入口の蛇腹の仕切りを開閉すると、玄関脇が騒がしくなる。闇に紛れているが、飼い犬のジョンが尻尾を振っているはずだ。  犬小屋の前で腰を下ろし、よーし、よーしと首回りを撫《な》ぜてやる。やがて、玄関灯がつき、紺野は腰を上げて、植木用の水道の蛇口をひねる。手についた愛犬の体毛を洗い流していると、玄関の内鍵《うちかぎ》の外れる音がして、 「お帰りなさい」  妻の光恵がドアを開けた。 「盛岡から連絡は?」  玄関に入り、靴を脱ぎながら尋ねる。生まれ故郷では、今年八十三歳になる母親が入院中だった。 「なかったわ。でも、今日は昼過ぎに買い物に出かけたから、留守中にあったかも知れないわね。義姉《ねえ》さん、留守番電話だと、すぐに切ってしまうらしいの」 「昔の人間で、田舎者だからな。留守番電話だと、なぜか緊張してしまうらしい」  紺野は玄関から居間に向かい、服を脱いで、風呂《ふろ》に向かう。 「盛岡に電話してみます?」  台所で光恵が言った。 「いや、いい。何かあれば、向こうから電話をかけてくるよ」  紺野は脱衣所で下着と靴下を脱いで、洗濯|籠《かご》の中に入れた。  洗濯物を混ぜないでよ、と、娘に食ってかかられたことが、昨日のことのように、脳裏に浮かぶ。 「奈緒美《なおみ》からは、何か言ってきたか?」 「いいえ。あれっきりです」 「そうか……」  去年、嫁いだ娘は仕事を辞めるかどうかで、夫と揉《も》めている。若い夫婦の新しい問題で、紺野に口を挟む余地はない。  浴槽にはたっぷりと湯が張ってある。身を沈めると、湯が溢《あふ》れ出す。その一瞬が、実は紺野にとって至福の時なのだ。  そのまま目を瞑《つむ》り、温《ぬる》めの湯に首まで浸《つ》かって約十分。湯船から出て、洗髪し、気が向いた時には石鹸《せつけん》で体を洗う。そして、最後に湯から上がったら、今度は冷水を浴びる。これは真冬でも欠かさない。三十年前に整体師から教わった健康法で、お蔭《かげ》で、以来、風邪ひとつひかない。  脱衣所でバスローブをはおる。去年の父の日に、息子の婚約者からプレゼントされたものだ。その息子は一年間の就職浪人を経て、今年、ようやく外資系の保険会社に就職することができた。  濡《ぬ》れた髪を拭《ふ》きながら、居間に戻ると、テーブルの上に塩分控えめの肴《さかな》が並べられてある。 「やっぱり、電話しようかしら?」  光恵が熱燗《あつかん》の徳利を置きながら言った。 「どっちへ?」 「盛岡よ。一週間も連絡がないし、お義姉さん、こっちを心配させまいとしているんじゃないかしら?」 「気の回しすぎだよ」  紺野は盃に手酌して、チビリと一口飲み下した。そして、好物の酢の物に箸《はし》をつける。晩酌は居酒屋の酒とはまた一味異なる。  時計を見て、 「おっと……、巨人、巨人……」  テレビをつけ、スポーツニュースにチャンネルを合わせる。  やがて、光恵も隣に座り、二人でテレビを見る。食が進む時は、茶漬けをすすることもある。腹が膨れたところで、寝床へ向かえば、熟睡できる。もう二十五年も続いている生活パターンだった。  この夜も、いつもと同じようにして布団に入った。普段なら、そのまま朝まで眠り続けるところだった。しかし、この日はなぜか、夜半すぎに目が覚めた。  隣で妻が軽やかな寝息を立てていた。目を覚ました紺野は、暗闇の中で、しばらく天井を見つめていた。もし眠気が出てきたら目を瞑ろうと思っていた。だが、目は冴《さ》える一方だった。  今夜に限って、なぜ眠れない?  紺野は布団から抜けて、寝室を後にした。居間で蛍光灯の紐《ひも》を引き、眩《まぶ》しい光に細目を作って柱時計を見た。午前二時——。酔いが、まだわずかに残っている。尿意はなかったが、習慣でトイレに向かった。  用を済ませ、手を洗っている時、鏡の中の自分の顔に気づいた。夜中に起きたせいか、照明灯のせいなのか、顔色は病人のように青白く、目はくぼみ、頬はこけている。そんな自分の顔を見ていると、なぜか、芝山の顔が脳裏をよぎった。  そうか、久しぶりの特命で、興奮したのか……。  紺野は鏡を見つめたまま苦笑し、すぐに、真顔に戻った。  こんな風に、しみじみと自分の顔を見つめたのは、何年ぶりだろうか……。いつの間にか、目の下の弛《たる》みが一回り大きくなっていた。皺《しわ》の数も増え、驚くほど深くなっている……。  二十代の半ばに、勤めていた精密機械の会社が倒産して、知人の勧めで警察官になった。以来三十年、平々凡々たる警察人生を送ってきた。家庭や家族を犠牲にするほど、重要な仕事を任されたことはない。今回のような特別な場合を除き、定刻に出勤し、一時間か、二時間程度の、民間会社で言えば、いわゆるサービス残業をしてから退庁してきている。妻が病弱だったこともあり、酒の付き合いも二次会は遠慮してきた。  自分で望んだわけではないが、マイホーム型の人間にならざるを得なかった。当然、出世はできなかったし、大きな手柄に結びつく重要事件を担当させてもらうこともなかった。  結婚して以来、そんな生活を続けてきた。もっと違う生き方はできなかったのか……。定年退職まで五年。この頃、ふと、そんなことを思う。  鳶《とび》が鷹《たか》を生んだ、と言われた自慢の息子は、外資系の会社に就職できたものの、将来はヨーロッパに住むと言っている。娘の方は、親の反対を押し切って素性のわからない男と結婚し、子供は作らない、親とも同居しない、と宣言している。  自分はよき父親だと思っていたのだが……。  休日には遊園地に連れて行ったし、結婚記念日や誕生日には外食で祝った。夜勤明けの日にも、眠い目をこすって、キャッチボールや縄跳びに付き合った。近所に住む会社人間の妻たちからは、お宅がうらやましいです、と言われたものだ。  家庭を犠牲にしても、もっと出世すべきだったのだろうか? 自分の人生だけでなく、子育ても間違えたのだろうか?  紺野はじっと鏡の中の自分を見つめ続けた。  どれくらい、そうしていたのだろうか。後ろで人の気配がした。振り返ると、部屋着をはおった光恵が立っている。 「どうかしたの?」  光恵は不安そうな声で言った。 「いや、ちょっと……。飲み屋で出た油物が……悪かったのかも知れん」  紺野は蛇口をひねり、手を洗った。壁のタオルで両手を拭《ぬぐ》い、寝室に向かう。 「心配するな。大丈夫だ」  後ずさりした光恵に言った。  寝室に戻ると、枕元の照明灯がついていた。  紺野は布団に潜り込み、目を瞑《つむ》った。しばらくして、戻ってきた光恵が、照明灯を消す。紺野は目を開け、再び、闇を見つめた。  そのままじっとしていたが、いつになっても、光恵の寝息が聞こえてこない。紺野は一度、深呼吸をしてから、 「今日、署長から……特命を仰せつかった……」  と、つぶやいた。 「難しいお仕事なんですか?」  すぐに光恵の声がした。 「まぁな……。今の今まで気がつかなかったが、ひょっとしたら、肩たたき[#「肩たたき」に傍点]なのかも知れん。何しろ……」  俺は殺人容疑者を、検事と見間違えたヘボ刑事なのだから、という言葉をのみこんだ。長年、連れ添った妻にまで軽蔑《けいべつ》されたくはなかった。 「とにかく、全力を尽くしてみるよ。やれるだけのことはやってみる。それで、もし結果を出せなかったら、進退伺を出すよ。その後は、たぶん、退職準備ということになるだろう。だから、そのつもりでいてくれ」  と言って、耳を澄ますと、 「あなたの気の済むようになさって下さい」  光恵が闇の中で答えた。  それで気が楽になったのかも知れない。五分もしないうちに、紺野は眠りに落ちた。 [#改ページ]     ㈽  元府中署の少年係長、上泉敬次郎は現在、六十五歳。すでに定年退職し、悠々自適の生活を送っているはずだった。  自宅に電話すると、長女が、父は入院しています、と教えてくれた。病状を尋ねると、消化器系の疾患だが、それほど深刻な状態ではない、と言う。紺野は事情を説明し、面会したい旨の申し入れをした。即答は得られなかったが、翌日になって、長女から、父も会いたがっているようです、との電話連絡を受けた。  立川市の郊外。武蔵野《むさしの》の面影を残す木立の中に、その病院はあった。  面会時刻の一時間も前に病院を訪れたのは、その周辺を散策するためだった。まだ新米刑事の頃、ベテランのデカ長から伝授された捜査のノウハウの一つで、紺野は今でも続けている。  この日は病院の北側で、有名な歌人の記念碑を発見した。さらに、その数キロ先には、縄文時代の遺跡があるということも知った。これらの情報は、まず、少なくとも、その日の初対面の相手との共通の話題にすることができる。さらに、自分の目と耳で見聞した情報は、捜査対象者の土地鑑を確認する際に役立つことがある。容疑者を怒鳴りつけたり、拳骨《げんこつ》で机を叩《たた》いたりしなくても、さりげない世間話をするだけで、相手の嘘を見破ることができるのだ。  病院の受付で面会者カードに記入し、案内係に教わった通り、床のグリーンの線をたどった。それでも、迷路のような廊下に迷ってしまい、約束の時刻に五分遅れて、目指す病室にたどり着いた。  ドアの横にある名札に目を凝らす。六人部屋だった。筆跡と太さの異なる二列三行の文字の中に、上泉敬次郎の名を見つけ出すと、ほぼ同時に、 「紺野さんですか?」  後ろから声をかけられた。振り返ると、三十歳前後の女が立っている。 「娘の輝美《てるみ》です」  電話と同じ声だった。  看護士や職員がせわしなく行き交う廊下の隅で、挨拶《あいさつ》を交わす。紺野は遠慮がちに、 「あの、あらかじめ確認しておきたいんですが、どれくらいの時間、お話ししていただけるんでしょうか?」  以前、事情聴取に夢中になって、患者の家族から苦言を呈されたことがある。 「お気の済むまで、どうぞ」  輝美は笑顔を作った。「父は近々、胃の手術をするんですけど、今は、そのための体力をつける準備段階なんです。先生からは、たくさんお喋《しやべ》りすることを勧められているくらいなんですよ。肺活量を増やすには、その方がいいとかで」 「肺活量?」 「ええ。話し相手がいない時なんか、風船を膨らますトレーニングをしたりしているんです。ある程度の肺活量がないと、手術後、痰《たん》が切れなくて困るんだそうです。そんなわけですから、ご遠慮なく、どうぞ」 「そうですか。助かります」  紺野は頭を下げた。簡潔に要点だけを質問できるほど器用ではない。 「どうぞ、こちらへ」  輝美が先に立って病室に入り、紺野は後に続いた。果物と寝床と消毒液の混じり合った独特の臭いが鼻をつく……。  複数の視線を感じながら、足を進めた。奥の窓際のベッドに、痩《や》せた老人が目を閉じ、口を開けて横たわっていた。輝美が屈《かが》み込むようにして声をかけると、男は目を開け、口を閉じ、ゆっくりと上半身を起こした。  父です、と輝美が言った。紺野は一礼してから、周囲を憚《はばか》って、押し殺した声で所属と氏名を名乗った。  上泉は入院患者なのだが、どことなく違和感があった。糊《のり》のきいた純白のシーツと枕カバー。髪はきちんと整えられ、ヒゲもきれいに剃《そ》ってある。パジャマも新品だった。  紺野は病気見舞いの菓子箱を差し出した。ご丁寧に、と、上泉が目礼し、輝美がそれを受け取って、枕元の棚に置いた。  ベッドの周囲は整理|整頓《せいとん》が行き届いている。キャビネットの中には、缶ジュース、乳酸飲料が二本ずつ、まるで陳列しているように並んでいる。新聞は四つ折りにされていて、テレビの前に置かれ、その上にリモコンが載せてあった。ベッド脇の小さな屑籠《くずかご》の中に、何枚かの値札が捨てられてある。それを見て、違和感の正体に気づいた。  おそらく、この日の朝、輝美はベッド周辺を清掃し、シーツと枕カバーを換え、患者の上泉はパジャマを新調し、ヒゲを剃り、身だしなみを整えて、訪問者を待ち受けていたのだろう。  余計な負担をかけてしまった……。  紺野の心に罪悪感のようなものがこみ上げた。  どうぞ、と、輝美が椅子を差し出す。それに腰を下ろして、 「このたびは、ご無理なお願いをお聞き届けいただき、ありがとうございます」  と、礼だけを述べた。病気見舞いの挨拶は難しい。 「固い挨拶は抜きだ。それに、無理なお願いなんかじゃないよ。こんなところにいると、退屈でね。気持ちも体もなまってしまう。かえって、ありがたいくらいだ」  上泉は上機嫌だった。体をよじるようにして紺野の方に体を近づけると、 「ねぇ、あんた、城北署の捜査係だということだけど、ナベさんは元気?」 「……ナベさん?」 「鑑識の渡辺だよ。碁の得意な」 「ああ、渡辺主任ですか。渡辺主任なら、元気ですよ。どちらかで、ご一緒だったんですか?」 「ご一緒も何も、大変なご一緒だ。奴とは、築地《つきじ》、四谷、それから……、大崎でも一緒だった。在職中は、腐れ縁だ、なんて憎まれ口をきいてたが、今でも、きちんと転勤の挨拶状なんかをくれる」 「そうですか。渡辺主任が碁が得意とは知りませんでした」 「奴とは、ずっと碁仇《ごがたき》だった。戦績は、言うなれば、五十勝四十九敗一分け、というところかな。もちろん、勝っているのは、こっちだ。えーと……、それから、確か、ゲンゴも城北署のはずだが……」 「ゲンゴ?」 「堀江源五郎。記録にいると思うんだけど。ほれ、青瓢箪《あおびようたん》みたいな不景気な面した奴だよ」 「堀江……。ひょっとして、千葉県から通っている人ですか?」 「ああ、そう言えば、確か、カミさんの実家が千葉の農家だった。いつだったか、田圃《たんぼ》の真ん中にマイホームを建てたもんだから、春先は蛙、秋口は鈴虫がうるさくて眠れない、なんてことを書いてきたことがあったっけ……」 「その堀江さんなら、元気とまでは言えませんけどね。まぁ何とか、仕事はこなしているようです」 「そうかね。なかなか、しぶといな。ゲンゴの胃弱は独身の頃からでね。とても定年までは勤めきれない、なんて弱音を吐いていたもんだが、こっちの胃の方が先にパンクしちまった。ゲンゴみたいなのを、一病息災というんだろうな」  上泉は笑い声を上げた。カーテンを引いた隣のベッドで、わざとらしい咳払《せきばら》いがした。「ゲンゴには娘がいたはずだが、もう嫁に行った?」  上泉は続けた。 「さぁ、そこまでは知りません。あいにく自分とは個人的な付き合いはないもので……」 「そう。娘は母親似で、愛想《あいそ》のいい子でね。気立てもよかった。何人か見合いさせたんだが、うまく行かなくてね。警官の仕事は不規則だから、嫁さんの理解がないと、家庭生活はうまく行かない。その点、あの娘だったら、非の打ちどころがなかったんだが……。柔道の奥野という男、知ってる?」 「奥野?」 「板橋署の特練選手だよ。何度も優勝している。同じ五方面なら、名前くらいは聞いたことがあるだろう?」 「奥野……、奥野……」  と、首を左右に傾《かし》げたが、記憶にない。 「今は確か、防犯特捜にいるはずだ。背が高くて、眉毛《まゆげ》が濃い割には、頭の方が薄くてね。みんなに、足摺岬《あしずりみさき》の灯台、なんて言われてた。何で足摺岬かと言うと、生まれが土佐の高知だったからでね。中には、足摺ボタル、なんて言うのもいてね。見合いをしくじったのは、あの頭のせいかも知れんなぁ」  上泉が、また笑い声を上げた。手術前の病人とは思えぬ高笑いだった。隣のベッドで、また不自然な咳払いがした。見かねたように、 「お父さん、声が大きすぎるわよ」  輝美がたしなめた。上泉はムッとした顔つきで咳払いのしたカーテンの方を睨《にら》んだ。 「残念ながら、私は武道の方はさっぱりでしてね。自分の署の代表選手も知らないくらいですから」  と首を振って、 「ところで、お願いした件なんですけれど……」  と話題を変えた。上泉も思い出したように、 「そうそう、忘れていた。こっちは病気だが、そっちは仕事だったな。……おい」  と、輝美に目配せした。輝美はキャビネット下部の扉を開け、中から、カバンを取り出した。それは古い革のカバンで、表面は剥《は》げかかり、把手《とつて》付近は手垢《てあか》に塗《まみ》れていた。  上泉は体をよじって、枕元の眼鏡ケースに手を伸ばした。微《かす》かに揺れる手で、鼈甲《べつこう》のフレームの眼鏡をかけると、カバンの中から、一冊の大学ノートを取り出した。 「えーと、芝山の事件、芝山の事件……」  指を舐《な》め、頁を繰る。  その時、紺野は何らかの気配に、思わず顔を上げた。すると、数人の患者と付添い人と目が合った。明らかに、紺野たちの様子を窺《うかが》い、耳をそばだてている。 「あの、恐れ入りますが……」  紺野は小声で言った。 「ここの病院に、談話室のようなところは、ありませんか?」 「……談話室?」  上泉は手を止め、紺野を見て、次に、輝美を見上げた。 「最上階にラウンジがあります。そこなら、パジャマでも行けますから……」  輝美が折り畳んである車椅子に手を伸ばした。  ラウンジにはポップスのBGMが流れていたが、やっと聞こえるほどの音量だった。広いスペースに人影はまばらで、四、五十席ほどのテーブルに、客は三組で七名ほど。観葉植物の並べられた壁際では、兄妹らしい子供二人が、息を弾ませて走り回っている。その様子を、母親らしい患者が虚《うつ》ろな目で見つめていた。  厨房《ちゆうぼう》の中の従業員たちは椅子に座り、煙草を吸いながら小型テレビを見ている。客の方を振り返ろうともしなかった。  上泉の指示で、紺野は窓寄りの席に向けて車椅子を押した。  輝美は一足遅れて、グレープジュースを運んできた。それをテーブルの上に置き、私は病室の方にいますから、と言って引き下がった。礼を述べようとすると、 「いいから、早く座んなさいよ」  上泉はノートを繰り始めていた。 「あんたに言われて、押入れの中から、こんなものを引っ張り出したんだが、読んで行くうちに夢中になってしまってね。昔を思い出した。退院したら、整理し直そうと考えている。現職の連中にも役に立つような教訓が結構ある。最後のご奉公だ……」  と言うと、手を止めて、 「これこれ……。確かに、府中にいた時だった。本当に懐かしい。あの頃はよかったな……」  上泉は掌《てのひら》でポンと、ノートを叩《たた》いた。紺野はノートを覗《のぞ》きこんだ。達筆とは言えないが、几帳面《きちようめん》な文字が、びっしりと書き連ねてある。 「放火事件だったそうですね?」  漠然とした質問で、上泉の記憶の程度を確かめた。上泉は即座に首を振って、 「と言うよりは……、放火事件絡み、と言った方が適切だろうな」  どうやら、明瞭《めいりよう》に記憶しているらしい。 「具体的には、どんな事件だったんです?」  紺野は質問を掘り下げた。 「それが、ちょっと妙な経緯があってね。放火事件だから、当然、捜査係が担当していたんだ。ところが、署長公舎の応接間で、新米の記者が妙なことを口走ったもんだから、風向きが変わった」 「…………」 「府中署管内では放火と見られる火災が二件発生していたが、実は、調布と小金井でも一件ずつ、発生していたんだ。どれもボヤ程度で、実害はなかったんだけどね。その記者は、よほど暇だったんだろう。でなければ、動物ネタを記事にするのに飽きたんだ。何と、放火された家の家族構成を調べて、府中の一件と調布と小金井の二件。その三件全てに、同じ高校に通っている子供がいる、ということに気づいた。さらに、残る一件についても、実は、その隣の家に、やはり同じ高校に通っている子供がいることを発見した」 「ほう。なかなか、やりますね」 「いやいや、盲点だったのさ。記者の担当地区は多摩東部全域だったから、府中、調布、小金井の境界線なんか関係ない。ところが、まだ警察側は所轄単位で動いている段階だった。どれもボヤだったしね。不審火ということで、放火の確証はなかった。府中署にしたって、二件の放火が同一犯人の仕業なのかどうか、その見極めが、まだできていなかったんだ。はっきり言わせてもらうと、それほどの緊張感はなかったな」 「…………」 「新米記者は、まだニキビの痕《あと》も消えてない兄ちゃんだったからな。担当の刑事に、そっと耳打ちすれば、いずれ特ダネのお返しがあるというのに、いきなり署長に質問して、ご感想は? と、やっちまった。これには署長も、びっくり仰天したらしい」 「それで、少年係の方にも、お鉢が回ってきたんですか?」 「うん。その翌日、署長の出勤は、いつもより三十分も早かった。朝会の席で、鶴の一声。放火事件捜査には少年係も加わることになった。おまけに、ホシを挙げるまで、週休休暇は一切、まかりならん、と言うんだからな。驚いたよ。よほど、新聞にすっぱ抜かれるのが怖かったんだな」 「…………」 「その頃、ちょうど私らは暴走族の傷害致死事件を片づけたばかりでね。うちの係員は二カ月も出ずっぱりだった。さて、これから交代で代休消化だ、なんて調整しようとしていたところだからね。ガックリ来たよ。さすがに、新婚の婦警からは泣きが入った。せめて、札幌にいる仲人《なこうど》さんにだけでも、お礼方々、新婚旅行のお土産を手渡したいんですが、なんてね。あん時ゃ、参ったな」  上泉は頭をかいた。 「すると、捜査係と手分けして?」 「上の方からは、そうするようにと指示があったが、断ったよ。現職のデカ長さんの前で、こんなことを言っても、釈迦《しやか》に説法だろうけど、捜査係と少年係が分かれているのには理由がある。それは捜査係のやり方は少年事件には馴染《なじ》まない、ということだ」 「…………」 「捜査係は、犯人検挙と事件解決……、これが唯一最大目標だ。でも、少年係は、何よりも犯罪少年の更生が第一目標でね。事件を捜査し、犯人を捕まえ、身柄もしくは書類を送って一件落着、という世界じゃないんだ」 「…………」 「場合によっては、犯人の少年に成り代わって、被害者のところへ足を運び、出来心だから許してやって下さい、なんて、両手をついて頼みこんだりすることもある。署長や課長に掛け合うなんてのは、日常茶飯事。まるで国選刑事[#「国選刑事」に傍点]だなぁ、なんて、皮肉を言われたこともある。ま、それを誇りに思うことはあれ、恥と思ったことは一度もないけどね」 「少年事件の捜査が難しいということは、心得ているつもりです。一体、どのようにして、捜査し、芝山にたどり着いたんです?」  と、事件の具体的内容に触れようとすると、 「それそれ、それが、もう違うんだよ」  上泉は不機嫌な顔を露骨にした。「あんたはもう、同じ高校に通う生徒の中に放火犯がいるという前提で、物事を考えているだろう? のっけから、芝山君を犯人と決めつけているじゃないか」 「…………」 「確かに、彼が捜査の対象になったことは事実だ。しかし、捜査の対象になったからと言って、クロとは限らない。こう言うと、ごく当たり前に聞こえるが、大方の警官、いや、大方の人間は、手錠がかかっただけで、クロと決めつけてしまう傾向がある。困ったもんだ」 「すると、シロだったんですか?」 「そういう二者択一の考え方にも異論があるが、まぁ、疑わしきは罰せず、という観点からすれば、シロということになる」 「なるほど……」  紺野はうなずいた。上泉の発言内容でなく、そのニックネームに納得したからだ。  なるほど、国選刑事か……。 「上の方からはせっつかれたが、少年係としては慎重に捜査を進めることにした。成人事件も、そうだろうが、一般市民の立場に立てば、ある日、目つきの鋭い私服警官が玄関先に現れてだよ。『お向かいの家の、高校生の息子さんについて、お聞きしたい』というような聞き込みをしたら、どうなる? 半日後には、町中に噂が広まってしまうよ。厳しい見方をすれば、それだけで人権侵害だ。率直に言って、捜査係には、そういう配慮に欠ける面がある」 「…………」  反論したかったが、紺野は口をつぐんだ。もはや相手は現役を退いている。不毛な議論をするより、話の続きを聞きたかった。 「で、少年係としては、どのように?」  と尋ねると、 「私はまず、高校へ行って、教頭と生活指導の先生に会ったんだ。その席で、遠回しに放火の件に関して臭わしたんだが、さっぱり反応がない。自分の学校の生徒の家が三軒も燃えて、もう一軒は隣の家が燃えている。当然、気づいているはずなんだが、すっ惚《とぼ》けているんだな、これが」 「学校としては、表沙汰《おもてざた》になるのが嫌だったんでしょう?」 「その通り。まぁ、先生たちの立場を考えれば、そうせざるを得なかったんだろうけど、『秘密厳守するから生徒の資料を見せてもらいたい』と申し入れても、教職員組合がうるさい、と言って見せてくれない。『学校や生徒に迷惑がかからないように配慮するから』とまで譲歩したんだが、それでもダメだった。誠意を尽くせば尽くすほど、どういうわけか、ガードが固くなるんだな」 「口を閉ざしていれば、少なくとも、傷口は広がらない、という判断なんでしょう」 「と言うより、そう思いたかったんだろうな。教頭と生活指導の先生も、この先、何事も起こらなければ、これまでに起こったことには目を瞑《つむ》る、という態度だった。だから、こっちは、その正反対のシナリオを提示した。『もし、もう一度、同じような火事騒ぎが起きた場合には、付近住民の安全をはかる上でも、ありのままを包み隠さず、記者発表せざるを得ない。その時は、学校名もオフレコで公表することになるだろう』とね」 「それで、ようやく、ですか?」 「うん。どうやら、付近住民の安全、という一言がきいたようだ。応接室を出たり入ったり、廊下でヒソヒソやっていたが、いきなり、ポンと、生徒名簿が出てきた。名簿と言っても、ワープロで打った簡単なものだったがね。その名簿を出したことで、向こうも踏ん切りがついたんだろう。今度は、掌《てのひら》を返したように、積極的になった。呼びもしないのに、進学指導の女の先生まで出てきてね」 「進学指導の先生?」 「そう、何のことはない。それで、動機らしきものが見えてきた」 「ほう……」 「放火に遭った四人、いや……、自分の家が放火された三人と、隣の家が放火された一人の、合計四人。この生徒たちは進学先として、同じ大学を希望していた。その大学は、いわゆる指定校推薦で、人数枠は三人。これに対して、希望しているのは、その時点で十人。つまり、七名は漏れるということだ。高校側では学内試験の結果等を参考にして、フェアに決定するとのことだったが、火をつけられた四人は成績が優秀なトップ4だった」 「しかし……」  紺野は首をひねって、 「それが動機になりますか? まぁ、放火されたら、心理的に動揺するかも知れませんが、成績には、それほど影響しないでしょう?」 「私も最初は、そう思ったよ。ところが、推薦入学というのは厳しいんだねぇ。テストの成績がよくても、出席日数とか、遅刻回数によって、推薦不可能になることがあるらしいんだ」 「出席日数と……遅刻回数、ですか?」 「うん。重要なウェイトを占めるらしい。自分の家が燃えたのに学校に行く生徒は、まずいないよ。後片付けなんかで、休まざるを得ない。行こうとしても、消防や警察の事情聴取があるから、どっちみち、足止めがかかる。幸い、ボヤで済んだから、その四人は実際には、欠席や遅刻はしなかったそうだけど、たぶん、推薦入学の件が動機じゃないか、ということになった」 「…………」 「もし、その通りだとすると、十人の生徒の周辺に放火犯がいる、という理屈になる」 「生徒の周辺? 生徒本人じゃないんですか?」  そして、その生徒が芝山ではないのか? 「小学生みたいに、教室で上履きを隠すわけじゃないんだ。十八歳の子供が、夜の夜中に、人家に火をつけるなんてことをするとは思えないよ」 「…………」 「親バカちゃんりん、そば屋のふうりん、と言ってね。保護者の差し金だよ。親が直接、手を下すか、第三者にやらせるか、それはわからんけどね」 「保護者、ですか……」  その可能性もなくはない。 「ライバルの足を引っ張るため、という動機であれば、推薦枠争いをしている生徒の関係者に的を絞れば、放火犯を捕捉《ほそく》できる可能性があった。捜査検討会というのが開かれて、対策が話し合われたが、これという名案が浮かばない。何しろ、名門進学高の勉強一筋という高校生が絡んでいるからね。手違いでした、じゃ済まされない。慎重に事を運ぶ必要があった。ところが、まだ検討している段階の時に、芝山君が引っくくられて来た。それも、公務執行妨害罪でね」 「公妨? 芝山が、ですか?」  紺野は耳を疑った。 「その通り、公妨だ。夜中に無灯火の自転車に乗って徘徊《はいかい》しているところを、パトロールの警官に見咎《みとが》められて、職質された。すると、肘打《ひじう》ちを食らわして逃げようとしたんだ、そうだ」  上泉はなぜか、そうだ、という言葉にアクセントをつけた。 「肘打ち、ですか……」  と、繰り返して、紺野は次の言葉を待った。 「芝山君がパクられて、署に連れてこられたのは夜の十一時頃で、私は泊まりじゃなかった。それで、うちの係員が取り調べたんだが、完全黙秘で、どこの誰なのかわからない。何も言わないと逮捕することになる、と脅しをかけたが、それでも黙秘を続けたそうだ。ふてぶてしくも、という修飾語つきだったが、実際のところは、年端のいかない高校生が、どうしてよいか、わからず、ただ途方に暮れていた、というところじゃないのかなぁ」 「身元のわかるようなものは持っていなかったんですか?」 「なかった。財布さえ持っていなかった。乗っている自転車の防犯登録も剥《は》がされていたし、身元を確かめようがなかった」 「…………」 「当直責任者は面倒臭くなったんだろう。一時は、『まだ未成年のようだし、不良じゃなさそうだから、勘弁して、おっ放しちまおうか』ということになったらしい。ところが、これには、肘打ちを食った警官が承知しない。おっ放すんだったら、その前に肘打ちを倍返ししてからだ、なんて、えらい剣幕だったそうだ」 「ま、当然でしょうな」 「それで、やむなく、保護房に入れることにした。これが結果的に、少年にとって、また、警察にとっても、幸いしたと思う。もし、保護房が塞《ふさ》がっていたら、彼の持って行き場はなかった。年端もいかない未成年に両手錠かまして、一晩中、道場の柱にくくりつけておくわけにはいかないからな。正式な逮捕手続きをして、留置場の少年房の方に押し込めるところだった。そうしていたら、その後も引き続いて、正規な手続きを取らざるを得なくなったはずだ」 「で……、芝山が芝山だとわかったのは、いつです?」 「翌日、私が出勤して、本人に会ってからだ。私は学校で、例の十人の高校生の顔写真を見ていたからね。一目見て、すぐわかった。それで、一から仕切り直し、ということになったんだ。ところが、取り調べを始めると、地域課から電話があって、ベンジンの入ったボトルを発見した、という連絡が入った」 「ベンジン?」 「化学薬品だよ。ガソリンみたいに、火をつけると、パッと燃え上がる。地域課の説明によると、『芝山をパクった時は夜だったんで、発見できなかったけど、朝方、再捜索して、発見した』というんだ。全く……、語るに落ちるとは、よくも言ったもんだ」 「どういうことです?」 「地域課の連中は最初から、芝山君をマークしていたんだよ。でなければ、ベンジンの入ったボトルなんかを回収できるもんか。放火事件についての一連の背景を、各課の幹部たちは知っている。捜査検討会で意見交換しているからね。その内容が漏れたか、課長クラスの警官が故意に漏らしたかしたんだ。つまり、パトカーの連中は張り込みをかけていたか、尾行していたのさ」 「…………」 「黙秘していて、少年の素性はわからない、ということだったが、実は、正体は先刻承知だったんだ。もし、黙秘のホシの素性を知っていたら、張り込みや尾行がバレてしまう。だから、知らない振りをしていただけのことだ」 「…………」 「私は憤りを感じた。相手が高校生であることを承知の上で、罠《わな》を仕かけ、あまつさえ、両手錠までかましたのが許せなかった。だから、一通り取り調べて、すぐに釈放することにしたんだ」  しかし、もし放火犯であれば、身柄拘束はやむを得ないのではないか……。 「パトカーの連中は承知しましたか?」 「承知するはずがない。だから、正規の手続きを省いて、釈放。いや……、元々、身柄は拘束されていなかった、ということにして、さっさと帰ってもらった」 「何ですって?」 「事実上、逮捕したからと言って、バカの一つ覚えのように、定められた手続きを取るだけが能じゃないよ。それより、逮捕しなかったことにすれば、小難しい書類も作らずに済むし、少年だって逮捕歴が付かずに済む。そういう応用も、時には必要だ」 「でも……、それじゃ、なおさら、地域課の連中が納得しないでしょう?」 「だが、少年事件は少年係が主管だ。釣ってくるのは、向こうの勝手なら、どう料理するかは、こっちの勝手だ」 「…………」 「確かに、地域課の連中は徒党を組んで怒鳴りこんできたよ。いくら少年係の係長だからって、あんたのやり方は目茶苦茶《めちやくちや》だ、ってね。逮捕した被疑者を正規の手続きも経ずに、釈放するとは何事か、と、まぁ、口から唾《つば》を飛ばしてまくし立てた」 「正直、無理もないと思いますね」 「上司にも、そう言われたよ。だが、もし、私たちが地域課の連中にくみして、あの少年を逮捕し、留置し、送致してもだ。いずれ、腕のいい弁護士が少年の潔白を証明しただろうよ。そうなれば、地域課の見込み捜査が明らかにされ、大恥をかくことになったんだ。公妨の肘打ちにしたって、そうするように仕向けたに違いないんだ。ほんの一部の跳ねっ返りの愚行で、他のまともな警官たちが後ろ指をさされる。私は、それを未然に防いだわけだよ」 「…………」 「さっきも言ったが、検挙するだけが警察の仕事じゃない。刑罰よりも更生のための教育というのが、青少年に対する基本的なスタンスであるべきだ。私が駆け出しの頃、多少の悪さをした少年に対しては、板の間に正座させたり、階段の陰でゲンコツくらわしてから帰したもんだよ。それが、いつの頃からか、警察は少年事件までも、検挙は最大の防犯なり、という姿勢に変わってしまった。今の少年たちは確かに、出来は悪いかも知れんが、ある意味で、気の毒だよ。悪ふざけを繰り返しても、大人たちは怖がり、ただ遠巻きにして見ているだけで、注意をしない。本人たちは、悪ふざけが重罪と紙一重であることを知らないんだ。誰も教えようとしないからね。事の重大性に気づかないんだ。そして、何かの弾みで一線を越えたとたん、待ったなしに手錠がかかる。有無を言わさず留置場の中に放り込まれる」 「しかし……」  紺野は首をひねった。確かに、検挙するだけが警察の仕事ではない。紺野自身も、できれば事を穏便に済ましたいと思うし、実際、それを実行している。だが、それは関係者の利害が一致する場合だけだ。 「しかし、何だい?」  と、上泉が促したので、 「検挙するか否かは、最終判断であって、摘発することを前提に動くのが警察の立場だと思うんですけどね。確かに、その時の地域課のやり方は見込み捜査であって、褒められたことではないかも知れません。でも、ただ座視しているだけでは、被害者を増やすだけでしょう? 未然防止も警察の使命です」  と反論したが、 「それはどうかな? 被害者を増やす前に、冤罪《えんざい》が増えるよ」  上泉は鼻で笑った。さすがに、ムッとして、視線を逸《そ》らすと、 「実はね、その後も、更に放火が二件も続いたんだ。しかも、地域課がマークしていた芝山君が新潟へ行っている留守にだ」 「新潟?」 「外国籍のタンカーが日本海沖で座礁して原油漏れ事故を起こしてね。芝山君はボランティア団体の呼びかけに応じて、同級生五人と一緒に出かけて、海岸に流れ着いた原油の回収作業に参加している」 「…………」 「放火は、その間に発生した。しかも、手口は全く、同じ。つまり、芝山君が放火犯という可能性はなくなった」 「…………」  紺野は無言のまま首をひねった。  容疑者が新潟にいる時、東京で類似事件が発生したからと言って、それは本件のアリバイにはならない。  だが、それを指摘したところで、上泉が納得するとは思えなかった。上泉の事件の見方は、少年係長の立場というより、上泉個人の人間性によるところが大きいように思われた。 「上泉さん……」  紺野はそれを確かめたかった。「もし、地域課が芝山少年をマークしておらず、たまたま偶然、職質して、行き違いから、公妨が成立して、本署に連れてこられたとして、その時、上泉さんが在署しておられたら、どう対処されましたか?」  と、遠回しに尋ねたのだが、 「言っている意味が、よくわからんが、それは、つまり、私が縄張り意識で、芝山君の件を処理したのではないか? と、おっしゃりたいのかな?」  上泉はズバリと核心を突いてきた。 「いえ、別に、そういうわけでは……」  面と向かって言われ、思わず口ごもったが、 「いいの、いいの。遠慮は無用だ。当時、地域課長に、そんな風な厭味《いやみ》を言われたし、先輩格にあたる地域係長からは、面と向かって、はっきり言われたよ」  上泉は別段、気にする様子もない。 「そう思われても一向に構わんよ。私は今更、綺麗事《きれいごと》を言うつもりはない。公私混同と言われようが、意趣遺恨で成すべきことを成さなかった、と言われようが、それはそれで、一つの見識だと思っている」 「…………」 「誤解を恐れずに言うならばだ。まぁ、退職した今だから言えることだが……、縄張りを荒らされたから、このヤマは潰《つぶ》してやろう、というのも、一つの見識だと思うよ。どうも気乗りがしないから、今日はやめておこうかな、というのも、それはそれで、一つの勘働きであって、決して的外れのことじゃないと思う」 「……何ですって?」  紺野は耳を疑った。 「仕事というのは、そういうもんじゃないのか? 私らはロボットじゃない。個人的感情で物事を判断したとしても、それはそれで、背景に経験という裏付けがあるんじゃないのかなぁ。言葉では、うまく説明できないだけでね」 「…………」 「実際、あの芝山という少年がシロだったことは証明されただろう? 憚《はばか》りながら、あれは決して、結果オーライじゃない。不当な権力を行使したことに、私は嫌悪した。その苛立《いらだ》ちが、少年を釈放させた。それが結局、正義に結びついたんだ」 「よく、わかりました」  同意はできなかったが、うなずいた。  元々、少年係と捜査係では使命が異なっている。そのせいか、係員同士もウマが合わない。それに加えて、紺野と上泉とでは、世代も違うし、生まれ育ちも違うし、人生観も違うはずだ。加えて、今は、現職とOBという立場の違いもある。 「最後に、もう一つ、聞かせて下さい。義憤の他に、上泉さんを動かしたものはありましたか?」 「義憤の他に?」 「正規な手続きを取らずに釈放した、ということは、それなりの確信のようなものがあったと思うんです。あの少年に対して、心動かされたようなことがあったんじゃないですか?」 「心動かされたようなこと?」  上泉はノートを見た。紺野は内心、芝山の澄んだ目についての発言を期待した。ところが、 「強いて言うなら、年齢だろうね。何のかんの言っても、彼は当時、たった十八歳の子供だった。物心ついてから、十年そこそこの、ほんの子供だったんだよ」 「…………」 「みんな、忘れてしまっている。自分が子供の頃のことをね。大人の尺度で子供を計るんじゃなく、子供は子供の尺度で、日々、生活している、ということを認識すべきなんだ。いい年をした大人にも、酒の上のあやまち、というのがあるし、血気盛んな青年たちには、若気のあやまち、というのがある。それと同じように、子供たちにも、言わば、無邪気のあやまち、というものがあるんだ。これから将来を担う子供たちに対して、大人たちは、もっと寛容であってもいいんじゃないかと思うよ」 「なるほど」  紺野は納得した。上泉が澄んだ目について言及するはずがない、と確信した。  上泉は自分の信念に基づいて対応しただけのことだったのだ。つまり、相手が芝山であってもなくても、澄んだ目をしていても、また、していなくても、同じ対応をしたに違いない……。  それが、この日、紺野が到達した最終結論だった。  上泉に対して、もはや聞くべきことはなかった。おそらく、上泉にも、それがわかったのだろう。紺野が沈黙すると、 「なぁ、本当に奥野という男、思い出さない?」  と、また、最初の質問を蒸し返した。 「奥野……」 「さっき、下で話したろう? 板橋署の特練選手で、ほれ、背が高くて、眉《まゆ》が濃くて、髪の毛の薄い、防犯特捜の」 「ああ、足摺岬のホタル、ですか……。あいにくですが、やっぱり思い出せません」 「本当? 柔道の選手としても、結構、有名だったんだがなぁ……。どういうわけか、もう三年も連絡がない。得意技は大外刈り。方面大会で、五人抜きをしたこともある」 「そうですか。でも、あまり、そういうことに関しては、興味がないもので……。帰ったら、聞いてみますよ。マル暴の主任が柔道の特練選手ですから」 「ほう。マル暴の主任が? 何と言う名前なの?」 「富樫《とがし》という男です。機動隊の武道小隊出身で、確か四段。出身は鹿児島だったと思います」 「富樫四段? 知らんな……」  と言って、上泉は沈黙した。  ところで、明治の歌人の記念碑が……、と、話題を転じようとすると、輝美が現れた。五メートルほど手前で立ち止まり、 「あの、すみませんが、そろそろ検温の時間なんですが……」  と、遠慮がちに言った。 「わかりました」  紺野は立ち上がった。そして、上泉の後ろに回って、車椅子の把手《とつて》を掴《つか》んだ。  ラウンジに入ってくる時、走り回っていた女の子と男の子は、おとなしくテーブルに座り、アイスクリームを舐《な》めていた。母親らしい患者が男の子の口許《くちもと》をハンカチで拭《ぬぐ》い、そして、女の子の乱れた襟を直す。笑顔はなく、虚《うつ》ろな目のままだった。  車椅子を押して、その横を通り過ぎ、ラウンジからエレベーターホールへ向かう。そして、病棟階へと下りる途中で、 「ところで、放火された家の高校生たちは、希望する大学に入れたんですか?」  と尋ねると、 「さぁ、どうだったかな。覚えていない」 「芝山少年は入学できたそうですけど、彼から直接、連絡は?」 「いや。連絡は先生からあったんだが、新潟で事故死した女子高校生のことしか印象に残っていないな」 「事故死?」 「うん。ボランティアの六人の中の一人で、ダントツの秀才だったそうだが、早朝に一人で散歩に出て、岩場から足を滑らせて転落死してしまったんだそうだ。進学指導の先生が泣きに泣いてね。その生徒の話ばかりするんで、慰めるのに往生したよ」 「なるほど。同じボランティアでも、アリバイが成立する場合もあれば、命を落とす場合もある。正に、コインの表と裏ですな」  と、昔観た映画のセリフを真似たが、上泉からの応えはなかった。  上泉が気分を損ねたのかどうか、車椅子を押す位置からは、その表情を窺《うかが》い知ることはできなかった。そのまま、病室まで付添い、ベッドに入るまで見届けた。  最後に、紺野はもう一度、礼を述べ、深々と頭《こうべ》を垂れた。上泉は、ご苦労さん、と、うなずいたが、疲れのせいなのか、いくぶん顔色が青ざめて見えた。  紺野は廊下に出て、再び、床のグリーンの線をたどった。そして、面会者受付の前まで来た時、後ろで輝美の声がした。 「車で駅までお送りしますから……」  輝美は息を切らしていた。気持ちは有り難かったが、上泉の体調が気がかりだった。 「ありがとうございます。でも、同僚が迎えに来ることになっていますので」  と、嘘をついて断った。 「そうですか……」  輝美は納得したようだったが、病室に戻ろうとはしない。 「なかなかお元気そうじゃありませんか。声にも張りがありますし、ご病気だなんて、とても思えません」  と言って、病室の方を振り向くと、 「おしゃべりなんで、驚いたでしょう? 普段は、あんなじゃないんです。もっと無口なんですけど、紺野さんからの電話で、急に、はしゃぎ出して……。きっと昔を思い出したんだと思います」 「そうですか。じゃ、さぞ、お疲れになったことでしょうね。申し訳ないことをしました」 「いえ、いいんです。お蔭《かげ》で、何かやることを見つけたようですし、お礼を申し上げます」  輝美が頭を下げた。父親に付き添っている時と異なって、落ち込んでいる様子が見て取れた。何か、心配事でも抱えているのかも知れない。  だが、仮に、そうであっても、今の紺野は、それに関わる立場ではないし、また、そんな余裕もなかった。 「どうか、もう、お父さんのところへ戻ってあげて下さい。私の方のことは、結構ですから」  紺野は笑顔を作った。 「そうですか。じゃ、お言葉に甘えて、ここで失礼します」  娘は一礼し、足早に立ち去った。紺野は再び、出口に向かった。  途中、松葉杖《まつばづえ》をついた患者に道を譲り、点滴装置をつけた患者のために、立ち止まった。  いつか自分も、こんな病院に入院し、死ぬ数カ月前には、誰かに車椅子を押してもらうはめになるのだろうか……。  フロアを行き交う患者たちを眺めながら、紺野は、ふと、そんなことを思った。 [#改ページ]     ㈿  吉永直樹は蒲田署の元捜査係長だった。  同じ退職警官であっても、上泉と異なるのは、大学の法学部を卒業しているという点と、三十八歳で中途退職したという点である。在職年数は十四年足らず。退職の理由は、一身上の都合。つまり、定かではない。  吉永と連絡をとるには手間がかかった。中途退職者は定年退職者と比べ、立場がまるで異なるからである。それはちょうど、プロのスポーツ選手が所属しているチームを自発的に退団し、他のチームの入団テストを受けるようなものだ。組織に迷惑をかけず、自分を活《い》かすためとはいえ、牛を馬に乗り換えた、という事実には変わりはない。  従って、中途退職者は警察組織とはもちろん、警察友の会や、OBの会などとも無縁であり、交流はない。当然、その種の名簿にも登載されることはないのだ。  結局、吉永の在職中の住居から、転居先を辿《たど》って行く、という古典的な手法で現住所を突き止めた。番号案内サービスで電話番号を調べ、ダイヤルしてみると、留守番電話だった。事情を説明し、捜査協力を依頼するメッセージを吹き込み、待つこと三日。本人から直接、電話を受けた。  火曜日であれば……、と言うことだったので、午後に面会したい、と申し入れた。すると、吉永は自分が経営するマリン・ショップの所在地を教えてくれた。  マリン・ショップ、という言葉の意味を調べてみると、海洋スポーツやレジャーの用具等を取り扱う店、ということだった。吉永は退職後、全く畑違いの業界で生きていたのである。  その店は中野区の大久保通り沿いにあった。いつものように、紺野は早めに出発し、駅の構内の立ち食いソバで昼食を済ませてから、楊枝《ようじ》をくわえてぶらぶらと歩き出した。  中野は警察学校の所在地であり、全ての警官にとって、そして、元警官にとっても、思い出深い場所である。紺野は二十代半ばに、上京と同時に警察学校の門をくぐった。その数年後、刑事になるために再入校し、三十代には捜査技能の研修で短期入校している。さらに、四十代には捜査主任のための特別講習を受けた。それぞれの同期会や懇親会は、中野駅近辺で開催されることが多く、従って、馴染《なじ》みの店も多い。  思い出の場所で足を止めると、様々な顔が浮かんだ。殉職した同期生や、病死した恩師。懐かしい笑顔が脳裏によぎった時、急に目頭が熱くなり、胸にこみ上げるものがあった。  涙もろくなった。俺も年だ……。  握り拳《こぶし》で鼻先を擦《こす》り上げ、潤んだ目を瞬《しばたた》かせながら歩き出す。  駅前から数百メートルは懐かしい風景が続いた。しかし、突如として、見慣れない町並みに変わる。錆《さ》びついたシャッター、荒れた空き地、真新しいビル……。そこは初めて訪れる土地も同然だった。バブル経済の破綻《はたん》は、平凡な刑事のささやかな思い出までも消し去っていた。  交差点の赤信号で立ち止まり、見取り図を開く。赤い印を確認してから、改めて前方を見渡した。道路を挟んだ向かい側の五十メートルほど先に、三階建てのビルがあった。壁面には�ダイビング・スクール�という看板が掲げられている。その下にも、何やら記されているが、老眼の目には小さすぎた。細目を作り、看板を見ながら横断歩道を渡る。  二十メートルほどの距離に近づいた時、ようやく看板の�シー・ワールド�という店名と、電話番号を読み取ることができた。  ビルはいわゆる雑居ビルで、一階部分は、不動産屋、美容室、中華料理店が横並びに店を構えていて、マリン・ショップは、その最も端だった。隣接する駐車場の隅に、派手な色のウェットスーツが乾《ほ》されている。  マリン・ショップの入口は開け放たれていた。だが、中に人影はない。店の窓に、旅情をそそるエメラルドグリーンの海と、白い砂浜を歩くビキニ娘のポスターが貼られていた。その隣には、初心者割引、という手書きの文字が踊っている。  紺野は店内に入った。BGM代わりに、波の音とカモメの鳴き声が流れている。  店の中は意外に狭く、五、六坪の縦長のスペースだった。床が板張りになっているのは、おそらく、船のキャビンをイメージしてのことだろう。気のせいか、微《かす》かに潮の香りがした。  すぐに目についたのが、湯船ほどもある水槽で、中で熱帯魚が涼しげに泳いでいた。壁にはダイビングツアーのスケジュール表が貼られてあり、終了したものには赤線が引かれていた。  フロアの中央には、白色の丸いテーブルが置いてある。そのまわりに、布張りのアルミ製デッキチェアが三脚。窓際には、新品のウェットスーツがハンガーにかかっていて、その隣に、新品のエアーボンベと付属の潜水器具が並べられていた。  反対側には、カウンター型のガラスのショーケースがあって、水中眼鏡、足ひれ、ダイバーナイフなどが並べられていた。  奥には、マリンブルーのドアがある。そこに向かって、 「ごめん下さい」  と声をかけたが、返事がない。  紺野はスケジュール表に近づいた。ホワイトボードに、モルジブ、サイパン、フィージー、という文字が記されている。訪れたことのないところばかりだった。  三十一歳の時、ある知人から、ホビーショップの仕事を一緒にやらないか、と誘われたことがある。長女が生まれて間もなくのことで、迷った末に、結局、断った。男のロマンよりも、安定した地方公務員の人生を選択したのである。その後、知人の事業は大成功し、不況になった今も、着実に業績を伸ばしていると聞く。  もし、あの時、断らなかったら、自分だって今頃は、これくらいの店のオーナーになれたかも知れない……。  紺野は再び、店内を見回した。すると、壁にかかった時計の横に、額に入った証書のようなものが目に入った。近づいて、目を凝らす。苦手なアルファベットだった。 「INS……TRUC……TOR……?」  英語のようだが、何が書いてあるかわからない。漢字を探していると、 「その資格を取るのに、三年もかかりましたよ」  入口のところで、男の声がした。振り返ると、四十歳前後の男が立っていた。言葉の意味はわからなかったが、ほう……、と、うなずいてから、 「吉永さんですか?」  と尋ねた。 「そうです。紺野さんですね?」  相手も聞き返してきた。はい、と答えると、にっこり微笑んで、 「隣の家で水漏れがありましてね。同じ水商売でも、陸の方は専門外なんですが、何とかかんとか修理してきました」  身長は百七十五センチくらい、筋肉質の体型。襟まで伸ばした長髪にバンダナを巻いている。よく日に焼けた顔が歯の白さを際立たせていた。  紺野はポケットを探って、警察手帳の中から名刺を取り出し、差し出した。 「こりゃ懐かしい。デカさんの名刺を見るのは何年ぶりになりますかねぇ」  吉永はしばらくそれを手に取って、眺めていたが、 「どうぞ、そちらへ」  と、白いテーブルの方に手を差し出した。「火曜は定休日でしてね。いつもなら、シャッターを下ろしているんですが……」  と言いながら、ショーケースの裏に回って、電話に手を伸ばし、ダイヤルを押しながら、 「コーヒーにしますか? それとも、紅茶にしますか?」  と尋ねた。お構いなく、と断ったのだが、勝手にコーヒーを二人前、注文して、 「この先の�南十字星�という店なんですけどね。なかなか、いい味を出しているんですよ」  吉永は机の引き出しを開け、名刺を一枚、手にして、テーブルに戻った。  マリン・ショップ�シー・ワールド�のオーナーというのが、吉永の正式な肩書だった。  単にスクーバ・ダイビングのツアーを組むだけでなく、ライセンスを取るための訓練や教育、そして、受験の手続きや、免許の申請手続きも代行するとのことだった。 「表の�ダイビング・スクール�という看板は、そういう意味ですよ。別に、ここは学校じゃありません」  と、紺野の疑問に答えた。 「私は存じませんでしたけど、スクーバ・ダイビングというのは、若い人に、なかなか人気があるんだそうですね?」  前日、地域課の若い警官たちは、そんなことを話していた。浜辺で、のんびりと肌を焼く、というのは昔の話で、今はボンベを背負って珊瑚礁《さんごしよう》の海に潜るのがブームなのだそうだ。 「別世界なんですよ。海に潜ってしまうと、雑音は消えてしまいますし、浮力によって重力からも解放されます。ですから、身も心も、自由になれるんです」 「それはうらやましい。泳げる人はいいですね。私は恥ずかしながら、生まれながらのカナヅチなもんで」  と頭をかくと、 「いえいえ、泳げなくても、スクーバ・ダイビングはできますよ」 「何ですって?」 「泳げなくても、スクーバ・ダイビングはできるんです。ウェットスーツは浮袋のようなものでしてね。重りを体に巻かないと、かえって、沈まないくらいなんです。つまり、誰でも自然に浮くようにできているんです。うちのショップにも、カナヅチ会員が四、五人はいます」 「ほう、四、五人も?」 「スクーバ・ダイビングは傍《はた》で見るより、ずっと簡単なんです。お蔭《かげ》で、この業界も過当競争ぎみでしてね。付加価値をつけないと、生き残れません。うちも将来的には、シーカヤックなんかも取り入れて、それから、まぁ、クルーザーは無理でも、せめて五、六人乗りのプレジャーボートくらいは保有したい、と思ってはいるんですが……」 「…………」  紺野には何のことかわからない。その意味では、確かに別世界の話だった。  お待ちどうさま、と言う声と共に、真っ赤な色のエプロンをした中年の女が店に入ってきた。コーヒーカップを載せたトレイを持っている。女はテーブルの側まで来ると、こんにちは、と紺野に笑顔を見せ、コーヒーカップを二人の前に並べ、すぐに出ていった。 「区民会館の隣に、ランプをさげた店があったでしょう? スフレを食わせる店なんですけどね。このブルーマウンテンが絶品なんです。さ、どうぞ」  と言って、吉永はカップに手を伸ばし、顔を左右に振って、香りを嗅《か》いでから、砂糖も入れずに口をつけた。  いただきます、と、それを真似たが、紺野にとっては焦げ臭く、ただ苦いだけだった。元々、コーヒーよりも、煎茶《せんちや》を飲む機会の方が多い。 「ところで、吉永さんは、なぜ警察をお辞めになったんです?」  紺野は最初の質問を発した。世間話と本題との中間が、最も話題にしやすい。 「理由ですか?」  吉永はカップを皿に戻すと、長い足を組んだ。「それはもちろん、今の仕事の方が向いている、と思ったからです」 「向いている?」 「女房の実家が伊豆でしてね。そっちの親戚《しんせき》は土地柄のせいで、漁師とか、民宿とか、みやげ物屋なんです。それで、前々から、ダイビング・ショップをやらないか、という話を持ちかけられていたんです」 「すると、伊豆の方にも、お店を?」 「いいえ。向こうに店を構えても、観光客相手ということになりますからね。お客さんの数は知れています。それより、都内を本拠にして、初心者向けのツアーを組んだ方が、民宿も、みやげ物屋も潤いますし、それに、中級者以上の海外ツアーを組むのにも、いろいろと都合がいいんです」 「なるほど」 「結婚した当時は、女房の実家なんかに近づきもしなかったんですけどね。紺野さんの前ですが、刑事部屋で馬車馬みたいに働いて、たまの休みに、伊豆に出かけて、釣りをしたり、海に潜ったりしますと、東京に帰るのが億劫《おつくう》になってしまうんですよ。高い空と、広い海を眺めていると、ごみごみした東京の街を歩き回るのがバカバカしくなって」 「…………」 「そのうち、仕事上のことで、ちょっとしたことがありましてね。急に面倒臭くなって、辞めることにしたんです」 「面倒臭くなって?」 「はい。僕は刑事としては変わり者でしてね。警官になった動機も、正義のためとか、世のため人のためとか、公務員だからとか、ということじゃないんです。単に、普通のサラリーマンになるよりは面白そうだ、というだけのことでしてね。今にして思うと、公僕精神のかけらもなかったですね。だから、面白くなくなったら、職場に留まる意味がないというわけで、まぁ、それだけのことです」 「…………」  最近、この種の若者が増えてきている。遊びも、仕事も、刹那《せつな》主義的で、それは昔|気質《かたぎ》の紺野には理解できないことだった。 「面白くなくなったとは、具体的に、どういう?」  と尋ねると、 「それは、言わぬが花、というものです」 「ひょっとして、芝山の事件と関係があるんですか?」 「さぁ、どうでしょう。もう忘れました」  と、意味あり気に笑ってから、 「ところで、電話では聞きそびれましたけど、一体、芝山は何をやらかしたんです?」  と、話題をそらすかのように尋ねてきた。 「今のところ、殺人容疑です」 「殺人? で、捕まったんですか?」 「はい。現在、検事拘留中です」 「ほう……」  と、首を傾げて、 「新聞には載りました?」 「もちろん。写真入りで載りましたよ」 「そうですか……。気がつかなかったなぁ。一体、誰を殺したんです?」 「大学の時の学友です」 「男ですか? それとも」 「男です」 「男……」  吉永はしばらく宙を見つめていたが、 「そうですか……。まぁ、大きなお世話かも知れませんが、しっかりと証拠固めをすることですね。どうせ、否認でしょうから」  と、鼻で笑った。 「どうして、そう思われるんです?」 「不利になるのがわかっていながら、自白するバカはいませんよ。特に、人を殺した時なんか、黙っていた方が利口です。今の世の中、正直者が損をするかどうか、意見の分かれるところでしょうけどね。不正直者が得をしていることだけは確かなことです」 「…………」  吉永の言葉の意味が理解できなかった。  しかし、それは吉永が扱った事件を知らないせいかも知れない……。  紺野はそう思った。  電話が鳴って、やがて、ファクスのプリンターが動き始めた。吉永が時計を見る。その仕草は、早く用事を済ませてくれ、と急《せ》かしているようだった。 「吉永さんの扱った芝山の事件は、確か、強盗傷害でしたよね。一体、どんな事件だったんです?」  紺野は本題に入った。 「芝山の事件ですか?」  吉永は脚を組み直して、 「事件そのものは至極、単純なものです。蒲田の区営団地に、当時、七十五歳になる老人が住んでいましてね」  と、メモも見ずに話し始めた。 「一人暮らしでしたが、これが大変な、お金大好き人間でして、まぁ……、金が嫌いという人間はいないでしょうけど、この老人の場合、度を越していました。近所付き合いもせずに、雑誌を拾い集めちゃ、道端で売っていたんですよ」 「雑誌を?」 「週刊誌とか、マンガとか、ポルノ雑誌ですよ。団地のゴミ集積所を回って、拾い集めては、駅近くの道端なんかで、一冊、五十円、百円で売っていたようです」 「今でも、そんな光景を見かけますね」 「その走りかも知れませんね。稼いだ金でパチンコをするわけでもないし、ギャンブルをするわけでもない。酒は晩酌程度で、煙草も一日、半箱。大した出費もありませんから、そこそこ小金をため込み、それを胴巻に入れて持ち歩いていました。芝山は、その胴巻を狙ったんです」 「胴巻って、一体、どれくらい入っていたんです?」 「本人申告では、三百五十万、ということですが、実際は、どうでしょうかね。その三分の一、といったところでしょう」  吉永が鼻で笑った。 「だとしても、百数十万……。そりゃ、とても小金とは言えませんな。そんな大金を、なぜ持ち歩いていたんです?」 「被害者の話では、銀行を信用していないから、ということでしたけどね。僕は違うと思いますね。以前、スーパーマーケットの店員とトラブルを起こした時、被害者は胴巻の中の札束を見せびらかしているんです。そうすることが快感だったんでしょう」 「なるほど。で、芝山との接点は?」 「被害者は、雑誌で稼いだ小銭を、まず千円札に替え、十枚たまると、万札に替えていったんですが、その両替をコンビニでやっていました。店長に、『爺《じい》ちゃん、うんとたまったかい?』なんて、からかわれても、喜んでいたようですが、芝山はコンビニの店長と顔見知りだったんです。それで、胴巻の金のことを嗅ぎつけたようです」 「芝山を犯人と認定した根拠は?」 「……根拠?」  吉永はニヤリと笑って、 「まず、足。次に、手ですね」 「…………?」 「足跡と指紋ですよ。犯行現場は裏通りの狭い路地でしてね。犯人は茂みの陰で、待ち伏せしていた形跡があったんです。被害者は後方から、いきなり角材のようなもので後頭部を殴られて、失神してしまいました。そのため、犯人の人相着衣は一切、取れなかったんですが、先着した警官が真新しい足跡を発見しましてね。それで、すぐに警察犬の出動要請がかかったというわけです」 「…………」 「二十分ほどで到着した警察犬は、足跡を嗅ぐと、凄《すご》い勢いで歩きだしました。やがて、三百メートルほど離れた月極《つきぎめ》駐車場に入ったところで、鼻を上げたんです」  車の排ガスは警察犬の大敵とされる。 「犯人が三百メートルも、歩くか走るかしたというのは、その辺りにヤサがあるからだろう、ということになりましてね。手分けして、付近一帯を徹底的に聞き込んだんです。すると、駐車場から五十メートルほどのところにアパートがありましてね。二階建てで、六世帯入っていました。一階の一号室から、順にドアをノックして行くと、五世帯までは、すぐにドアを開けてくれて、履物も見せてくれました。ところが、一世帯だけ違っていたんです」 「…………」 「コンコンとノックしても、なかなか開けない。ドンドンとドアを叩《たた》いて、ようやく十センチほど開きました。若い女だったので、こっちも婦警さんを呼んだんですが、ドアチェーンを外しませんでした。履物も見せませんし、部屋の奥で人の気配がするんですが、私一人だけです、なんて惚《とぼ》けるんです」 「で……、どうしました?」  その程度のことでは、ドアを蹴破《けやぶ》って踏み込むことはできない。 「仕方がないから、大家を呼んできましてね。それで、ようやく、チェーンが外れたというわけです」 「ひょっとして、その時、中にいたのは……」 「はい。芝山だったんです」 「すると、女は美容師ですか?」 「その通りです。よくご存知ですね」 「人定関係の供述調書に書いてありました」 「人定調書? すると、その時の細かい経緯は?」 「存じません」  と首を横に振ると、ニヤリと笑って、 「芝山は、ずっとシャワーを浴びていたんです。腰にタオルなんか巻いて、奥から出てきましてね。たぶん、臭い消しのつもりだったんでしょうよ」 「でも、靴があるでしょう?」 「いやいや、それが、敵もさるもの引っかくもの、でしてね。靴を見せてもらいたい、と申し入れると、出てきたのは、サンダルでした」 「サンダル?」 「ええ、これが男物とも女物ともつかないゴムのサンダルでして、おそらく、ベランダ用のつっかけでしょう。下とか隣で、靴だ、臭いだ、警察犬だ、と騒いでいるのを聞いて、靴は隠したんだと思います」 「芝山を同行したんですか?」 「いいえ。そうしようとしたんですが、本人に拒否されましてね。まぁ、無理して引っ張ったところで、決め手がありませんし、まぁ、ヤサもわかっているわけですから、一旦《いつたん》、引くことにしたんです」 「…………」 「本署に引き上げてから、聞き込みの結果を検討したんですが、怪しいのは、芝山のところだけなんです。それで、みんなで、あれこれ知恵を絞りましてね。一つの作戦を考え出しました」 「作戦?」  石渡が居酒屋で話した、罠《わな》、つまり、おとり捜査のことだな、と、紺野は思った。 「まずは、ほとぼりを冷ますために、泳がせました。二週間ほど、芝山には一切、近づきませんでした。で、三週間目になってから、芝山の動向監視を開始しましてね。買い物する時に支払う札を、片っ端から回収して行ったんです」 「札?」 「そうです。ポイントは、被害者が胴巻の中に、いわゆるタンス預金をしていたという点でした。一万円札を十枚ずつ束にしていたようなんですが、話の様子から察すると、夜中に時々、カーテンを閉めきっては、トイレの薄暗い明かりの下で、一枚、二枚、三枚……、とやっていたらしいんです」 「まるで怪談|噺《ばなし》ですね」  紺野は思わず笑った。 「それが楽しみだったんでしょう。でも、そのお蔭《かげ》で証拠が残ったわけです。紙に付着した指紋が、どれくらいの期間、残るものか、ご存じでしょう?」 「ええ、まぁ」  通常の場合で、二、三カ月。書物のようにきっちり閉じられた上質の紙だと、十年くらい前のものまで採取できることがある、とされている。 「被害者は新札を好み、古い札の場合でも、アイロンで皺《しわ》を伸ばしたというんです。そして、真夜中に、一枚、二枚、三枚……、とやっていたわけです。となると、第三者の指紋はどんどん消えていって、被害者のばかりが残されていく、という道理になります」 「つまり、芝山の使った札に、被害者の指紋が残っていれば、動かぬ証拠、というわけですか?」 「そうです。芝山が買い物するたびに、札を回収して行きました。もちろん、店の方には、同額の現金を支払いましたから、スムーズに回収できました。その札の指紋を検出してみると、これが被害者の指紋とピタリと一致しましてね。それで、逮捕状を請求したわけです。後で聞いた話ですけど、日頃、口うるさい裁判所の判事も顎《あご》を引いて感心していたそうです。もちろん、すぐに逮捕状は出ました」  吉永は喜々とした表情で言った。だが、 「芝山は、どんな反応でした?」  と尋ねると、急に苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔をして、 「否認です。それも、顔色ひとつ変えずにね。呆《あき》れましたよ」 「ほう。でも、別に自供は必要ないでしょう? 教材になるような完璧《かんぺき》な証拠だ」 「お褒めに預かり、恐縮です。実は、僕もそう思っていましたけど、かえって、それがまずかったのかも知れません。芝山の弁護人が妙なことを言い出しましてね。それから、おかしくなったんです」 「弁護人?」 「そうなんです。三十歳前後の女の弁護士でしたが、これが元気な先生でしてね。あちこち嗅《か》ぎ回った上に、何と、被害者にまで接触していたんですよ。真犯人は他にいる、とか何とか言ってね。驚きました」 「…………」 「挙げ句の果てに、担当検事のところへ行って、『一万円札の指紋は、警察のでっち上げの可能性がある』と、因縁をつけてきたんです」 「でっち上げ?」 「実は、一万円札の回収をする前に、実際に指紋が残るかどうか、実験をしたんです。本物の札と本人の指を使ってね。指紋検出の方法はニンヒドリン法。ご承知のように、これは指頭から分泌される汗の中のアミノ酸を発色させる方法です。被害者の札の数え方で、果たして、判別可能な紫色が発現するかどうか、試してみたんです。それに加えて、指紋の付着場所を確かめるという別の目的もありました。これは回収する際に、潜在指紋を破壊しないためです。弁護士は、そのことを被害者から聞き出したらしいんです」 「別に差し支えないと思いますが……、ひょっとして、証拠の札は、その時の実験の札だ、とでも?」 「正に、その通り」 「バカな。それは言いがかりというもんでしょう? 現に逮捕状だって発布されているじゃありませんか」 「はい。でも、肝心の検事さんが、そうは思わなかったようです。実は、その女弁護士さんとは、同じ大学の先輩後輩という関係だそうでしてね。恩師のパーティなんかでは、親しくご歓談される間柄、ということを、後日、検察事務官から耳打ちされました」 「おやおや。それじゃ、ちょっと太刀打ちできませんな」 「ええ。その検事は僕を立たせたまま、鉛筆で、トントンと書類を叩きましてね。言ったもんです。『どうして、指紋の実験をした時に、その札の番号をチェックしておかなかったんだ?』とね。僕は答えました。『そんな必要はないと思ったからです』。すると、今度は、持っていた鉛筆を書類に叩きつけて、『現に、そんな必要が生じているじゃないかっ』と怒鳴るんですよ」  吉永は肩をすくめた。 「さすがに、僕もムッとしましてね、『仮に、札の番号をチェックしていたとしても、弁護士は、視力の悪い老人の目をごまかして、別に準備した札に指紋を付けさせた疑いがある、と主張してくるんじゃないんですか?』と反論しました。すかさず、『だったら、銀行員でも、立ち会わせればいいだろう!』。こっちも負けずに、『でも、回収時に不正が行われた、と主張されたら、それまでのことでしょう?』と反論すると、『じゃ、回収時にも、不正をしたのか?』なんて、意地の悪い目で聞いてくるんですよ。その時になって、ああ、これは僕たちのことを全く信じていないな、と思ったんです」  と言うと、頭をかいて、 「前々から、虫の好かない検事で、いつかは衝突するだろう、と覚悟はしていましたけど、あの時ほど、空しさを感じたことはありませんでしたね。夜も寝ないで張り込んで、食事もせずに尾行して、何日もかけて、苦労して集めた証拠は一体、何だったのか、と思いました」  吉永は長いため息をついた。 「ひょっとして……、お辞めになった本当の理由というのは、それですか?」  と念を押すと、 「いやいや、僕はそれほど純情じゃありませんよ。まぁ、遠因にはなったかも知れませんがね。芝山は結局、不起訴になりましたし、そのお仕置で、ひどい冷や飯を食わされました。それからです、仕事が急につまらなくなったのは……」 「…………」 「全く、一休さんのとんち話ですよ。屏風《びようぶ》の虎に縄をかけろ、と言うようなもんです。あの連中には、犯罪と犯罪者の実態、それに、捜査の現実的側面というのが、まるでわかっていないんです」  吉永は再び、肩をすくめてから、 「そもそも、直接証拠なんて、この世に存在しませんよ。客観的事実というものを証明する方法はありません。法律は単なる取り決め事であって、サイエンスではないんですからねぇ」 「…………」 「やれ血液型だ、やれ指紋だと、サイエンス的な手法を用いているから、法律にも、方程式や化学式のような証明方法が適用できるかのように錯覚しているんです。ナイフの刃に付着していた血痕《けつこん》が被害者のものと一致し、そのナイフの柄からは容疑者の指紋が検出されたとしても、犯行の証明、決め手にはなりませんよ。第三者が、そのナイフの刃に被害者の血液を塗り、柄の方には容疑者の指紋を付着させた、ということもあり得るわけですからね」 「…………」 「極論すれば、自白があっても、証拠にはなりませんよ。誰かに脅迫されて自白したのかも知れないし、金で雇われた身代わり犯人だから、自白したのかも知れません。目撃者についても、同じことが言えます。ビデオテープや写真についても、そうです。さらに極論すれば、科学捜査研究所の分析結果だって、試薬に不純物が混じっていたかも知れないし、コンピューターがエラーを起こしたかも知れません」 「…………」  確かに、数年前、某県警の科学捜査研究所による覚醒剤《かくせいざい》の鑑定ミスが明るみに出たことがある。 「その科捜研のミスだって、勘繰れば、過失ではなく、故意の可能性だって否定はできないでしょう? 科捜研の職員だって人の子ですからね。買収、もしくは、脅迫されて、事実と異なる結果を捏造《ねつぞう》した、ということだって、ないとは断言できません」 「それは、ちょっと極端すぎるんじゃないですか?」  と反論したが、 「わかりやすくするために、敢《あ》えて極端な話にしているんですよ」  吉永はなぜか向きになっていた。「犯人か、そうでないかの判定は、数学や化学のように、数字や記号によって表せる性質のものではありませんよ。電卓による計算や、リトマス試験紙のような手法によって、結果の出せるものではないんです。物的証拠も、全て例外なしに、情況証拠なんです。法曹関係者が�厳密な証拠調べ�などと勿体《もつたい》ぶったところで、結局のところ、人間の常識的判断に委《ゆだ》ねるしかない」 「…………」 「結局、とどのつまりは、人間の勘に頼るしかないんです。だからこそ、犯罪大国のアメリカでは、陪審制度を採用しているわけでしょう? もし、陪審制度であれば、芝山は間違いなく、起訴され、今頃は……」  と言いかけて、 「バカバカしい。やめましょう。僕にはもう関係ない遠い世界のことです」  吉永は首を横に振りながら、コーヒーカップに手を伸ばした。  どうやら、吉永に対しての、罠《わな》とか、おとり捜査という悪評は、意図的な中傷のようだった。だが、とかく中座した下戸は、酔っ払いの陰口の対象になりやすい。それは、現場から去った者の宿命のようなものなのだろう。 「おおよその経緯はわかりました」  紺野は上泉の時と同様、最後の質問にかかることにした。つまり、芝山の澄んだ目についての質問である。 「もう一度、お聞きしますが、吉永さんが芝山を逮捕した時、顔色ひとつ変えずに否認した、とおっしゃいましたね?」 「ええ、申しました」 「それは、逮捕状で逮捕した時のことでしょうか?」 「はい、通常逮捕した時のことです」 「その時の否認の状況について、お聞きしたいんですが、芝山に対して、どのような印象をもちました?」 「どのようなって……、なかなかの役者だな、という印象をもちました」 「それだけですか?」 「もちろん、根っからの悪党だ、と思いましたね。あの男は生まれながらの悪党です。釈放されたら、必ず、また何かをやらかすタイプですよ。それも、次第にエスカレートさせて行くんです」 「うちの署に、滝沢という刑事がいるんですが、ご存知ですか?」 「滝沢刑事さん?」 「はい。機捜に勤務していた頃、品川分駐にもいたそうですから、ひょっとしたら、蒲田署におられた吉永さんなら、ご存知かと思いまして……」 「機捜の滝沢刑事……。はて……、お会いしているかも知れませんが、記憶にありませんね。……その方が何か?」 「滝沢刑事は現在、芝山の取り調べを担当している一人なんですが、彼に言わせると、澄んだ目が印象的だ、と言うんです」 「……澄んだ目?」 「はい。悪党にしては、澄んだ目をしていると言うんです」 「ほう……」  吉永が目を瞬《しばたた》かせた。 「五年前に、吉永さんが扱った頃は、そんな目をしていませんでしたか?」 「とんでもない。ヤツの目は濁りきっていました。あれは根っからの悪党の目です」  吉永は口元を歪《ゆが》め、不快そうに首を左右に振った。  紺野はバッグから茶封筒を取り出した。中には三枚の写真が入っている。鑑識に依頼して取り寄せてもらった芝山の顔写真である。それをテーブルの上に並べた。  どれどれ……、と言って、吉永は一枚、一枚、手に取った。 「どうです?」  と尋ねると、 「なるほどね。これが澄んだ目ですか? ご冗談を……」  吉永はニヤリと笑って、 「少しも変わってはいませんね。相変わらず、ふてぶてしい面をしてやがる。こんな顔立ちが、今時の女性にはもてるんですよね。助べったらしい嫌らしい目つきだ。ヘドが出そうになる」  と言うと、放り出すように、写真を机の上に戻した。  紺野は驚いて、その写真を手に取り、確かめた。  そこには紛れもなく、澄んだ目をした芝山が映っている……。  これが濁った目に見えるのだろうか?  紺野は不思議に思って、顔を上げた。すると、 「ところで、当時、同棲《どうせい》していた美容師のことですけどね。夜逃げしたことは、ご存じですか?」  吉永が含み笑いしながら言った。 「夜逃げ?」  もちろん、初耳である。 「さすがに、愛想《あいそ》をつかしたようです。昼間っから、ブラブラして、働かない。女から金をせびるだけでなく、母親の形見のサファイアの指輪まで質に入れてしまったそうですよ。そんな仕打ちを受けるまで、奴の正体に気づかないんですからね。近頃の若い女性たちの男を見る目というのは、どうなっているんでしょうかね」 「男を……、見る目……」  と、つぶやいて、紺野は、まじまじと吉永を見つめた。  結局、吉永は狩りを楽しむハンターのような男だったのだ。かつて犯罪捜査のために知恵を絞ったのは、法や正義のためではなく、個人的なゲーム感覚だったに違いない。  吉永にとって、芝山は森の中に逃げ込んだ狐のようなものだったのだろう。狐が狡猾《こうかつ》であればあるほど、狩りの楽しみは大きくなる。ただ、それだけの存在だったのだ。おそらく、獲物の目の輝きは、吉永にとって、氷や鏡が放つ無機的な光と同様だったのだろう。つまり、太陽光線による単なる物理現象以外のなにものでもなかったのだ。 [#改ページ]     ㈸  昼食後、紺野は取調室にこもった。  刑事部屋の自席にいると、必ず雑用に振り回されることになるからだ。職務質問に応じない挙動不審者から、黙秘する万引き犯人まで、手に負えなくなると、必ず刑事部屋に引きずられて来る。そんな時、まず声をかけられるのは、のんびり茶をすすっていようが、せわしなくペンを動かしていようが、椅子に座っている刑事ということになる。  取調室のドアを固く閉ざすだけでなく、念のため、外に、立入禁止、の貼り紙をした。これで、誰にも邪魔されずに仕事に専念することができるはずだ。  メモ帳を左上に開いて、記憶をたどりながら報告書を書き始めた。元々、書類作成は得意な方ではないのだが、報告書の類《たぐい》なら日頃から書き慣れている。上泉と吉永に対する聞き込みの結果を、ひな型の形式に従って、そのまま記せばよかった。  やがて、最終項目——。幸か不幸か、これにはひな型がない。  署長宛の内部報告書に限って、最後に担当者が個人的見解や推測を述べることになっている。事実をありのまま記すことが、むしろ、事実から遠ざかることもあるからだ。例えば、一斉検問をした翌日は、交通違反は激減するし、風俗街の立ち入り調査をすれば、薄着の女たちは街から消え失《う》せてしまう。だからと言って、それが永久に続くことはない。ほとぼりがさめれば、また元のように、暴走族は我が物顔で違反を繰り返し、女たちは腰をくねらせて媚《こび》を売ることになる。  報告書には、たった一日だけ視察に訪れた上層幹部たちが�早のみこみ�をしないように、最後の項目に一言、単なる一時的効果と思料する、と付け加えるのだ。  そういった見解や推測は、様式上、あくまでも参考意見として記すものだから、何を書いても自由なのだが、それだけに、作成者の見識というものが問われることになる。文は人なり、とは、名文を記す能力ではなく、実は洞察力のことであるということを思い知らされる時だ。  紺野のペンは、その部分で止まった。  十年前の放火容疑については、実質的に未捜査であり、五年前の強盗傷害容疑については、立件送致したものの、不起訴処分となっている。さらに、それぞれの捜査担当者の芝山に対する印象も正反対。と言うより、希薄と言える。なぜなら、二人とも、芝山を一人の人間としてではなく、捜査対象者としか見ていなかったからだ。前者の場合、未成年という年齢のみを、後者の場合、否認事件の物証収集という面のみを重視し、かつ、優先して対処した結果である。そのこと自体は、決して誤りではなく、むしろ、適正な対処の仕方と言えなくもないのだが……。  一体、この調査結果から、どのような個人的推測や見解を述べられるというのか?  紺野はペンを置いて立ち上がった。腰に手を当て、ゆっくりと机の回りを歩き始める。容疑者を追い詰める時の、いつもの心理戦法だったが、今日の容疑者用の椅子には誰も座っていない。追い詰められているのは、紺野自身だった。  机の回りを何周かすると、ふと思いつくことがあった。すぐにペンを取って、立ったまま、下書き用紙に書き殴る。  ——被疑者は生来、そういう顔つき目つきであり、つまり、生まれながらの容貌《ようぼう》であり……、  そこまで書くと、ペン先が浮き、宙をさまよった。数秒後、大きなバツ印を描いて、ペンを投げ出した。そして、再び、机の回りをゆっくりと回る。 「被疑者の……」  と、うつむきながら、つぶやく。 「被疑者の個人的性格、性癖の表れであり、家族か親族、もしくは、担任の教師、同級生などの……」  その先の言葉が出てこない。  今の紺野の立場で、芝山の両親や親族、そして、学生時代の担任や同級生に接触することには問題があった。すでに、捜査本部、検察官、弁護人らが接触し、法廷対策を講じている可能性があったからである。  そのどこからもクレームがつかない対象は、せいぜい生まれ育った滋賀か静岡。しかも、利害関係のない人物に限定される、ということになる……。  今度は窓辺に立って外を見た。両手で鉄格子を掴《つか》み、額を窓に近づけた。正面には霊安室、斜め前方には警備倉庫が見える。積み上げられたジュラルミンの楯《たて》の上で、大きな猫が一匹、うずくまっていた。  誰かが、パンパンと手を叩《たた》き、シッシッと脅したが、猫は一向に動ずる気配がない。しばらくすると、コーラの空き缶が飛んできた。けたたましい音に、猫が飛びのく。  三階の警備係がうらやましい……。  思わず、ため息が漏れた。その時、ノックの音がして、返事をする前にドアは勝手に開いた。  紺野は思わず舌打ちして、振り向いた。  その苛立《いらだ》ちが相手にも伝わったのだろう。若手の刑事は遠慮がちに、警務官から電話です、と伝えると、すぐに立ち去った。  重い足取りで取調室を出た。自席の電話が外れている。受話器を取って、耳に当てた。 『調査が終了した、と聞いたが、いつごろ報告できる?』  気の早い催促に、微《かす》かな反発を抱いたが、 「今、報告書を書いているところです」  紺野は正直に答えた。 『書いているところ? えーと……、長さんは確か、手書きだったよね?』 「そうですけど、何か……」 『多少の書き損じは、二本線で消してくれればいいからさ。その方が報告用紙も無駄にはならないしね。ひとつ、早めに頼むよ』 「はい……」  ワープロなら、書き直しが簡単で、報告用紙が無駄にならない、ということを聞いたことがある。だが、機械音痴の紺野には、それがどういうことなのか、理解できない。  時代と共に変化しているのは、捜査手法だけではない。オフィス革命も刑事部屋へ及んでいるのだ。城北署においては、現在、七割から八割の刑事がノートパソコンを個人所有している。  近い将来、キーボードを操作できない刑事は仕事を失うことになるかも知れん……。  紺野は唇を噛《か》みながら取調室に向かった。  椅子に座り、改めてペンを構えたものの、急《せ》かされても、おいそれと文章が浮かぶはずもない。  腕組みして、じっと壁を睨《にら》んだ。そのまま数分。再び、ドアをノックする者がいた。顔だけを音のした方に向けると、 「だいぶ、苦労されているようですね」  刑事課長代理の堀部警部が入ってきた。  三十三歳、独身、ノンキャリアながら将来を嘱望されている有能な人材だった。  警官は昇進した場合、誰もが所轄に配属される。大部分は、そのままなのだが、エリートコースを進む堀部の場合、所轄勤務は形ばかりのもので、遠からず古巣の刑事総務課に呼び戻されることは確実だった。  堀部の専門は刑事総務課法令資料係。地味な係名だが、刑事部の頭脳、ということになる。事件が発生した場合、いかなる法令の網をかけられるか、学説や判例を参考にして検討、判断、研究し、また、第一線からの問い合わせにも答えるという部署だ。当然、係内は優秀な人材で構成されていて、それだけに、出世レースも激烈なものがある。 「何か、お手伝いできますか?」  堀部は謙虚な態度で尋ねた。刑事課での序列はナンバー2ながら、見習い刑事並みの腰の低さは、三十三歳という年齢のなせるわざなのだろう。 「ちょうど、よかった。実は、�私見�に手こずっていてね。一つ、知恵を貸してよ」  と、紺野が気安く応じるのも、息子ほどの年齢に対する親近感のなせるわざである。 「かしこまりました」  堀部はニッコリ笑って、紺野が差し出した報告書を受け取った。  理知的な目が文字を追う。堀部はたった一度、それを読んだだけで、 「この上泉さんという方の印象はシロ、一方、吉永さんという方の印象はクロ。そして、紺野さんは灰色状態で、お悩みですか?」  と言って、報告書を戻した。 「その通りなんだよ。二人の意見には、賛同できる面もあるし、首を傾げるところもある。決め手に欠けるんだよね……」  と、首を傾げて見せると、 「でしたら、私見の項目は、口頭報告、ということにしたら、どうです?」 「口頭報告?」 「ええ。芝山の本件の方の事件は、いまだ裏付け捜査中です。つまり、この先、決定的な証拠が発見される可能性があります。その結果によっては、この報告書に書かれている過去の事件についても、シロクロがはっきりする可能性も、なきにしもあらず、でしょう?」  堀部は明解に言ったが、紺野には、その内容が理解できない。キョトンとした目で、堀部の顔を見上げるだけだった。すると、 「つまり、この紺野さんの報告書に、なまじシロクロの痕跡《こんせき》を残した場合、後日、その通りの結果になれば、差し支えはありませんよ。でも、もし、正反対の結果になった場合、問題視されないとも限らないでしょう?」  と、念を押されて、 「なるほど。そりゃそうだ。お説、ごもっとも。さすが、一流大学出のインテリだ」  紺野は大きくうなずいて、ペンを掴んだ。そして、�私見�の欄に、言われた通り、口頭報告、と記した。 「ただし、この報告書を警務官に提出するのは明日以降にして下さい」  堀部が珍しく命令的な口調で言った。 「どうして?」 「どうしてって……。私がここに入って、その直後に、報告書が提出されたとなれば、私の指示で書かれた、と誤解されるかも知れませんからね。警務官殿の皮肉を聞かされるのは、うんざりですよ」  と言って、首の後ろを掻《か》いた。 「なるほどね。出る杭《くい》は打たれる、か? それじゃ……、明日の朝にでも出すことにするよ」  紺野は報告書の頁を確かめ、それを束ねて、ホチキスで止めた。すると、 「ところで、紺野さん。今夜、体は空いています?」 「今夜? 別に用はないけど……、何?」 「実は、ちょっと御相談したいことがありましてね」 「どんな?」 「内容については、ちょっと、ここでは」  堀部が口ごもった。紺野の直感が、女の悩みだよ、と、耳元で囁《ささや》いた。 「わかったわかった。で……、どこにする?」  と尋ねると、 「午後七時に、明月亭では?」 「明月亭……」  そこは管内随一の高級料亭で、紺野は一度も入ったことがない。 「明月亭は、ちょっとなぁ……。与作にしない?」  と、ガード下にある居酒屋を希望したのだが、 「一般市民に顔を見られたくありませんし、話を盗み聞きされるのも困るんです。その、与作という店には行ったことはありませんけど、大丈夫なんですか?」  堀部が念を押すように尋ねた。もちろん、無理な注文だった。やむなく、 「わかった。午後七時、明月亭ね」  紺野は承諾した。  管内の一画に、お屋敷町、と通称されている地区がある。西町、というのが正式な町名なのだが、戦災で全焼するまで、そこには旧財閥系の一族が豪邸を構えていた。  戦後、米軍に接収され、しばらく高級将校のゲストハウスとして使用されていたが、朝鮮戦争後に返還され、跡地は、どういうわけか、テニス場と野鳥公園、そして、料亭になった。お屋敷町とは戦前の名残で、最近では当然のことながら、古老以外、通称名の由来を知る者は少なくなっている。  幅四メートルほどの車道沿いに、石塀が続いているのだが、出入口の門の前には、奥行きが五メートルもある屋根付きのスペースが設けられている。これはタクシーを利用する客が、雨に濡《ぬ》れずに乗降できるための配慮だった。また、ハイヤーを利用する客のためには、敷地内に専用駐車場がある。高度成長時代の賑《にぎ》わいに比べれば、さすがに静かになったものの、一部の階層には今でも重宝がられている。  勤務終了後、紺野はタクシーで明月亭に向かった。  署から歩いて向かうには距離があったし、警察車両を利用すれば、明らかな公私混同になり、写真週刊誌の餌食《えじき》になる可能性がある。  タクシーが門の前に停まると、藍染《あいぞ》めの半纏《はんてん》を着た六十前後の男が出迎えた。  車から下りて、堀部に指示された通り、野桜会、と席名を告げる。 「かしこまりました。どうぞ……」  男は先に立って歩きだした。門を抜けると、十メートルほど先に、茶店風の建物がある。そこは待合所であり、帳場だった。 「桔梗庵《ききようあん》へ、ご一名様」  中に向かって男が声をかけると、今度は、着流し姿の若い女性が現れて、 「ご案内します」  と言って、奥へ向かった。  明月亭は料亭だが、大宴会場がない。千坪ほどの庭の所々に、茶室のような造りの小屋が十数戸ほど点在していて、そこが宴席となっている。広さは六畳から、広くても、せいぜい十畳ほどで、それぞれが外界から完全に遮断された空間になっている。密談や内輪の会合には絶好の場所なのだ。  先を行く女の襟足を見ながら、足元灯のついた石畳の道を進む。小川のせせらぎと、水車の回る音に混じって、遠くから三味線の音が聞こえてきた。  鮮やかな朱塗りの灯籠《とうろう》を過ぎると、案内係は石畳の道を外れた。地面は玉砂利に変わり、足を運ぶたびに独特の音がする。  やがて、四つ目垣の目隠しの横を抜けると、平屋建ての小屋が見えた。そこが桔梗庵だった。  上がり口の手前で、 「お連れさまが、お見えになりました」  案内係が言った。 「入ってもらって」  中から堀部が返事をしたが、他にも、人の気配がした。  失礼します、と言って、案内係が障子を開ける。思った通り、中には、堀部以外に二人の人物がいた。一人は六十過ぎの恰幅《かつぷく》のよい白髪の紳士。もう一人は、目つきの鋭い五十歳くらいの男で、雰囲気から警察関係者であることがわかる。  先客を見た瞬間、紺野は自分が勘違いしていたことを知った。初対面の二人はただ者ではないことは確かで、堀部の用件も、恋愛問題という類《たぐい》のものではないことは明らかだったからだ。 「さ、どうぞ。ご遠慮なく」  堀部が笑顔で言った。本音としては引き返したかったが、手遅れだった。 「失礼します」  外で一礼してから、紺野は靴を脱いだ。八畳ほどの部屋に大きな座卓が一つと、肘掛《ひじか》け付きの座椅子が四席。床の間を背にした上座には、もちろん、白髪の紳士で、その両脇の席は、五十歳くらいの男と堀部が座っている。従って、紺野の席は下座だった。  その席につく前に、紺野は改めて畳に両手をついて頭を下げた。そうしなければならないような雰囲気だった。 「うちの係の主任で、紺野と申します」  堀部が紹介したので、 「お見知りおきを」  と、三たび頭を下げた。そして、顔を上げると、堀部が、 「そちらの方は、うちの、……と言っても、刑事総務課だが、四年前まで理事官をされていた重松《しげまつ》元警視正だ。退職されてからは、富士証券の相談役に就かれている。こちらは現職の方で、警察学校で犯罪捜査学の講師をされている沢警部。お二人とも、僕の身内のようなものでね。時々、こうして、世間話をする間柄というわけです」  と、紹介したのだが、二人は紺野に対して目礼もしなかった。その代わり、 「ま、やりたまえ……」  重松が徳利を差し出した。いただきます、と、盃《さかずき》を持って前に出す。  両膝《りようひざ》を揃え、両手で酌を受けた。そして、作法通り、一息で飲み干した。生ぬるい酒だった。盃を置き、徳利に目を向け、手で掴《つか》む。すると、 「こっちは、いいよ。手酌でやっている」  重松が抑揚のない声で言った。この態度は酒席の作法に反する。しかし、俺の酌では不足なのか? などと、睨《にら》みつけるわけにはいかない。  紺野の目は自然に、その脇にいる人物に向いた。沢は箸《はし》を使っていて、紺野のことなど眼中にない様子だった。紺野は手を膝の上に戻した。 「そんなこんなで、これからは、第一線の、特に、所轄の士気は大いに上がるんじゃないかなぁ」  重松が出し抜けに言った。どうやら、紺野が来る前にしていた話の続きらしい。 「そうでしょうかねぇ。現場の連中にとっては、元々、雲の上の話ですから、ピンと来ないんじゃないですか?」  沢が首をひねる。 「ピンと来ない、だと? とんでもない。警察不祥事のおかげで、青二才のキャリア署長というのは、遠からず、消えてなくなる。つまり、これは、副署長で終わるはずのノンキャリアの警官のところに、署長のポストが転がりこむ、ということを意味している。となれば、トコロテン式に、署の課長で終わるはずの警官のところに、ワンランク上の副署長ポストが転がりこむということだ。元署長と元副署長では、世間の見る目が違うし、元副署長と元課長では、もっと違うぞ」 「まぁ、日本は肩書社会ですからね。そう言えるかも知れませんが、その代わり、今の警部の権限は、一昔前の警部補の権限しかありませんよ。そういう意味では、トントンじゃないですか?」 「バカな。何を言っている。仕事の権限なんて、軽い方がいいよ。それだけ、責任を取る必要がない、ということじゃないか」 「もちろん、責任が軽くなるのは喜ばしいことかも知れませんけどね。階級が安っぽくなるのは困ります。金線巻きの立派な帽子を被《かぶ》った警部殿が、ですよ。警杖《けいじよう》片手に猿を追いかけ回す図は見るに耐えません」 「猿? 何じゃい? そりゃ」 「テレビのニュースでやってたんですよ。飼っていたペットの猿が逃げ出して、幼稚園児を引っかいたんだそうです。それで一一〇番が入って」 「なるほど……。そういうことか。猿追い結構。世の中が平和な証拠じゃないか」  と言って、クスリと笑った。 「平和だからこそ、大事にしてもらいたいんです。昔は、警部ともなれば、もっと、どっしりと構えていたもんですよ。やむを得ず、現場に出る時は、わざわざ私服に着替えたもんです。それだけ、階級には重みというか、深みというか、権威というものがありました。だから、いざという時、あの帽子の金線が現場の雰囲気を緊張させ、士気を大いに高めたんです。徹夜明けの寝ぼけ眼をシャキッとさせ、弱気になりかけた警官の気持ちを振るい立たせたんです」 「それはもう、古き良き時代の神話だよ。全ては時代の流れなんだ。俺が子供の頃は、百万円もあれば、世田谷《せたがや》に一戸建ての家が買えた。適度のインフレは、資本主義経済にとっては健全な現象なんだよ。階級も同じさ」 「…………」 「キャリア組が第一線から退くという現象も、時代の流れなんだ。まぁ、率直に言って、少し、遅きに失したという感は拭《ぬぐ》えないけどね。とにもかくにも、やっと、キャリア組に邪魔されずに仕事ができる時代が到来したんだ。これからはノンキャリアの天下だ。全く、君たちがうらやましいよ」 「そのことですがね……」  堀部が言った。 「キャリア組を現場から一掃することが、警察組織にとって、果たして有益なことなんでしょうか?」 「……何だと?」  重松はキョトンとした顔で、沢と紺野の顔を見てから、 「何をバチ当たりのことを言っている? やっとのことで、西も東もわからない偏差値エリートが消えてなくなることになったんだぞ? あの頭でっかちの連中のために、どれだけ俺たちが悔しい思いをさせられてきたことか……。今、思い出しても、はらわたが煮えくりかえる」  と言うと、盃の酒を一気に煽《あお》った。堀部がすぐに酌をする。 「お気持ちはわかります。キャリア組の、いわゆる不作法については、いろいろと聞いています」  堀部は自分の盃にも酌をして、 「でも、私には疑問なんですよね。これまで、私自身、二人のキャリアに仕えた経験がありますけど、そのどちらも有能な人物でした。尊敬できる上司でしたよ」 「もちろん、中には、使えるキャリアもいるさ。使えないノンキャリアがいるのと同じだよ」  重松はゲラゲラと笑った。 「確かに、そうかも知れません。でも、ここだけの話、キャリアの上司の場合、能率が上がったことも事実なんです」 「能率だと?」 「はい。まず、何よりも、彼らには、説明が少なくて済みました。偏差値エリートにせよ何にせよ、とにもかくにも、頭のキレが抜群でしたよ。込み入った説明も、難なく理解してしまうんです」 「それは頭のキレのせいではない。トウシロウだからだ。背景に複雑な要素をはらんでいても、彼らは物事を単純化する傾向がある。何事も、記号や数値に置き換えてしまうんだ。答えが早く出るのは、そのせいさ。�イイクニツクロウ鎌倉幕府�の応用なんだ」 「まぁ、仮に、そうだとしても、彼らの理解力は桁《けた》違いです。加えて、発想が実に豊かなんです。企画書や報告書を、ざっと一読して、こちらが気づかなかった矛盾点を、いとも簡単に発見し、指摘してきます。その上で、ここはこうしたら? と、即座に解決法を示してくるんです。同じ年齢なのに、なぜ、私がノンキャリアの警部補の身で、彼らはキャリアの警視なのか……。あの時は正直、納得しましたよ」 「おやおや……。ずいぶんと買いかぶったもんだ」  重松が肩をすくめた。堀部はそれには反応せず、 「キャリア組の第一線派遣という制度の趣旨は、将来、血の通った警察行政を実施させるためでしょう? まだ彼らが下っ端のうちに、第一線の実態を見させておこう、という、言わば、帝王学教育なはずです。領民の苦しみを知らない冷徹な暴君にならないために考え出された先人の知恵ですよ。それが今や、全く別の視点で論じられています。キャリア制度を廃止さえすれば、不祥事がなくなり、理想の警察制度が確立できるかのように錯覚しています」 「だったら、錯覚させておけよ。世論こそ正義なんだ。それが幻想だとしてもね。ノンキャリアにとっては結構なことじゃないか」 「私が懸念しているのは、キャリアの第一線派遣がなくなることによって、現場の実態にそぐわない警察行政が実施されるようになる可能性がある、という点です。�パンが食べられないのなら、人民はお菓子を食べればいい�というようなことを言い出す警察官僚が、もし現れでもしたら、これは由々しき一大事です」 「その点は同感だな。マリー・アントワネットの浮世離れしたセリフを持ち出すまでもない」  沢が口を挟んだ。「話題になったから打ち明けるんだが、実は、その兆候は出てきている。警察学校の研究チームの分析で明らかになったことなんだがね。数年前に関西の方で、女子中学生が誘拐されて殺された事件があった時のことだ」 「島根かどこかの、老舗《しにせ》旅館の子供が誘拐された事件ですか?」 「そうだ。あの時、たまたま関西に出張中だった警察庁のキャリアが、県警の捜査指揮室に乗り込んで、自ら無線のマイクを掴んで、一方的に、こう命令した。�容疑者に気づかれないように尾行せよ。なお、いかなることがあっても、失尾してはならない�とね。捜査現場の実態を知らないから、こんなバカな命令を平気で出せるんだ」  沢は苦々しい顔をして、 「相手に気づかれないようにする、というのは、つまり、気づかれそうになったら、即座に尾行を打ち切る、というのが、捜査実務のイロハだ。後ろを気にし出した容疑者の尾行を続行することなんか、できっこない。それをやれ、という命令は、『日本ダービーの出走前に、当たり馬券だけを買ってこい』という命令に等しい。あの事件で、女子中学生が殺されてしまったのは、警察の尾行に気づいた犯人がパニクって、証拠|湮滅《いんめつ》を図ろうとしたからなんだ。頭でっかちのキャリアが捜査の指揮権を握ると、必ず、ああいう悲惨な結果を招く……」  と言って、口元を歪《ゆが》ませ、首を振った。すると、 「だから、どうなんだ?」  重松が顎《あご》をしゃくった。「霞《かすみ》が関《せき》の青白きキャリア殿の前へ行ってだな。『あんたら現場がわからないんだから、引っ込んでろ』とでも言うか? いや、言えるのか? 『偏差値エリート、いや、内申書エリートのトウシロウさんたちよ。ナマの捜査というものは、理科の実験でやるカエルの解剖とは訳が違うんですよ』なんてことを、ご意見申し上げられるのか? そんなこと、できっこない。後ろを気にし出した容疑者の尾行ができないのと同じことだ」 「…………」 「そもそも、血の通った警察行政、なんてことは、君たちノンキャリアごときの云々《うんぬん》することじゃないよ。第一、プライドの高いキャリアが、卑しきノンキャリアの……」  と言いかけた時、表で玉砂利を踏む足音がした。耳を澄ますと、それが次第に近づいてくる。 「ええか? そんなことは二度と口にするなよ。君たちにとって、百害あって一利なしだ。後に続くノンキャリアにとってもな……」  重松が押し殺した声で言った。両側の二人は無言でうなずき、押し黙った。  なるほど、外の小道が玉砂利になっているのは、そういうことなのか……。  紺野はその意味に気づき、他の三人と同じように、箸《はし》を持ち、皿の上にのばした。  やがて、外の足音は止まり、失礼します、という女の声がした。堀部が、はーい、と返事をすると、障子がスッと開いた。  中年の仲居がにっこり微笑み、皿と小鉢を載せた盆を持って、入って来た。  座卓の上の料理が入れ替わった。  それに合わせてのことなのか、重松の右横に、ウイスキーのボトルとミネラルウォーターと氷が運ばれてきた。堀部が慣れた手つきで水割りを作り、重松の前に差し出した。  仲居が空の器を盆の上に載せて外に出る。どうぞ、ごゆっくり、と、一礼し、障子を閉めた。そして、再び、玉砂利を踏む足音……。それが次第に遠ざかって行き、やがて、消えた。すると、 「堀部君は、ね……」  重松が口を開いた。「わが刑事総務のエースなんだよ、紺野君。今は城北署に預けている格好になっているが、ぜひとも無傷で返してもらいたい」 「……無傷?」  紺野には、その言葉の意味がわからなかった。 「知っていると思うが、堀部君は警察学校を首席で卒業して以来、昇任試験の順位は全て、五パーセント以内で合格してきている。つまり、未来の刑事警察を背負って立つ逸材の一人というわけだ。上層部の期待も大きいし、我々は手塩にかけて、これまで育て上げてきたんだ」 「…………」 「法務省派遣、検察庁出向、FBI研修、欧米各国の警察本部視察。猫の手も借りたい時期にだって、無理して送り出したんだ。先行投資のつもりでね。実際、この男には、かなりの経費がかかっている。元を取らなけりゃ、割が合わない」  と言って、チラリと横を見た。堀部が無言のまま頭を下げる。感謝しております、という意味なのだろう。 「さっきも話したが、これからはノンキャリアの時代だ。キャリア連中の能力はズバ抜けているにしても、気の毒なことに、それを純粋に仕事に生かすことができない。元々、そういう仕組みになっている。政治家が純粋な政治活動に専念できないのと同じだよ。たとえ大臣経験者であっても、票に結びつかないことをすれば、次の選挙では落ちてしまう。もし、ずっと政治家のままでいたかったら、まず、理想の政治家像というものを捨て去らなければならない。好むと好まざるとにかかわらず」 「…………」 「キャリア官僚にしても同じだよ。上司や先輩のキャリアの顔を潰《つぶ》すような新企画を提案しようものなら、その内容がいかに優れていても、バッシングされるだけだ。既得権益に影響を与える施策はタブーなんだよ。そんなことをしたら、役人生命を失いかねない。もし、将来、局長ポストを望むなら、人間関係を最優先に考え、つつがなく日々の職務を勤め上げなければならない。好むと好まざるとにかかわらず」 「彼らは恵まれているようだが、その実、がんじがらめに縛られている、というのが実態だ。学閥、門閥、閨閥《けいばつ》、郷土閥という腰縄にね」  沢が言う。「つまり、前例を打ち破るような画期的な新案を思いついても、提案することはできないということだ。その反対に、われわれノンキャリアは提案はできても、相手にはされない。好むと好まざるとにかかわらず」  と言って、ニヤリと笑った。だが、すぐ、真顔に戻って、 「その結果……、今や、日本の刑事警察の捜査力は地に落ちてしまった。それもこれも、これまで何の対策も講じてこなかったことの付けが、ここに来て、一気に回ってきたからだ。あげくの果てが、知っての通りの不祥事オンパレード。全く、泣きっ面に蜂とは、このことだ」 「…………」 「今、われわれ刑事警察に必要なもの、それは時代遅れの法律や警察制度を、早急に改定することなんだ。病原菌というものは、予防薬に出合うたびに、抵抗力を増して行く。どんどん強くなって行く。今の日本の現状は、正に、これとそっくりだ」 「…………」 「新種の強力な病原菌に対して、二十年前、三十年前の、とっくに使用期限の切れた家庭薬なんかで対応しているんだ。犯罪が激増し、検挙率が落ちるのは当たり前。それどころか、この程度の数字で収まっているのが不思議なくらいだ。よくも凌《しの》いでいるよ」 「…………」 「凋落《ちようらく》した日本経済の再生のカギが規制緩和だと言われているように、われわれにとっても、法律や制度の、言わば、規制緩和こそが警察再生のカギなんだ」 「すぐにでも改定しなければならないのは、刑事訴訟法の様々な制限、禁止事項だろうな」  再び、重松が言った。「中でも、待ったなしで改定すべきなのが、時間制限の問題だ。何としてもこれにメスを入れなければならない。具体的には、まず、告訴期限と時効期間。これは両方とも撤廃すべきだ。それから、逮捕から送検するまでの時間制限。四十八時間なんて短すぎる。これは大幅に延長して、五日間程度。もし、起訴前に弁護人との接見を認めるというのであれば、七日間は絶対に必要だ。当面、これだけでも実現できれば、犯罪と捜査に関する諸問題は解消し、日本の安全神話は復活する」 「…………」 「やっとのことで、少年法も改正された。絶対無理、と思われていた通信傍受法でさえ成立した。勢いにのって、連中は、スパイ防止法の成立に向けて動き始めている。生活安全部や公安部に負けてられるか。刑事部は一丸となって、刑事訴訟法を改定する方向で行動しなければならん」 「…………」 「くどいようだが、そのためには、マスコミを納得させ、政治家を動かせるだけの力量のある人材が必要なんだよ、紺野君。口うるさい評論家と堂々と渡り合えるだけの弁舌。観念論を振りかざす法律家や学者をへこませるだけの現場経験、そして、実績。そういう人材を育てる必要があるんだ。出世指向のキャリアには無理だが、日本を憂えるノンキャリアの野桜会になら、それは可能だ。堀部君は、その一人なんだよ。だから、大事に扱って欲しい。少なくとも、足を引っ張らないでもらいたい」  重松は強い口調で言った。 「私は……、その……、堀部代理の足を引っ張るような行為はしておりませんが……」  と、言い終える前に、 「そんなはずはないだろう?」  沢が苦々しい顔で言った。「君は刑事課の人間なのに、事もあろうに、警務官の特命を受けているそうじゃないか?」 「……警務官?」  紺野は堀部を見た。ちょうど、じゅんさいの器に口をつけ、箸を動かしているところだった。 「違います。あれは署長の特命です」  と否定したのだが、 「署長の、だと?」  重松は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せてから、なるほど、という風にうなずいて、 「まぁ……、形式的には一応、そうだろう。確かに、署長の特命には違いない。だが、あの女署長も確か、警務部の生え抜きのはずだ。つまり、警務畑の特命ということになりはしないか?」  と、念を押すように尋ねた。だが、紺野には、そうは思えない。だから、正直に、 「難しいことはわかりませんが、自分は、あくまで、署長特命だと思っております。そもそも、警務官が刑事課員に対して、直接、指示命令を下すことは筋違いだと思いますが……」  と、問い返すと、沢が大きなため息をつき、大袈裟《おおげさ》に首を横に振った。呆《あき》れたもんだ、と言いたげだったが、紺野には、その意味するところがわからない。 「もっともだ……」  重松は伏目がちに、何度かうなずいていたが、すぐに目を上げて、 「じゃ、言い方をかえよう、紺野君……。どんな名目であれ、捜査本部とは別に、事件の洗い直しをするというのは掟《おきて》破りだ。それこそ筋違いだと思うが、どうだい?」 「掟破り……」  紺野は他の二人を見てから、 「あの……、署長は単に、城北署の最高責任者として、気がかりな点を確かめようとしているだけだと思います。その……、もしも、何かあった場合、矢面に立たされるのは、まず署長ということになるわけですし、退職後でも、テレビ画面の前に引っ張り出されるわけですからね」 「ちょっと待てよ。何かあった場合とは、一体、何だい?」  重松がギョロリと目を剥《む》いた。沢も険しい目を向けている。堀部だけが、じっと座卓の上を見ていた。  何か、とは言うまでもなく、冤罪《えんざい》や、違法捜査や、誤認逮捕のことだ。それはもちろん、特定の事件を、例えば、江戸川署に設置された合同捜査本部事件のことを指摘したわけではない。単なる一般論として発言したまでのことだった。重松たちの意外な反応に、紺野は驚き、口をつぐんだ。  なぜ、自分の主張を理解してもらえないのだろうか……。  紺野は改めて、この日、料亭に来たことを悔やんだ。 「警務官ごときはね。一般署員の不行状を嗅《か》ぎ回っていればいいんだよ。不倫や万引きなんかをする警官のクビを切っていればいいんだ」  重松は顎《あご》をしゃくった。「事もあろうに、署長を煽《あお》って、捜査本部事件に首を突っ込もうなんて、とんでもない身の程知らずだ。俺が現職だったら、怒鳴りこんでやるところだぞ」  重松は水割りをグイと飲んだ。  重松が沈黙し、座敷には奇妙な静寂が訪れた。おそらく、それは紺野に考える時間を与えたつもりだったのだろう。しかし、紺野には、重松の発言の主旨はさっぱりわからず、ただ空しい時間が過ぎるだけだった。 「結論を言おう」  重松が言った。「我々としては、所轄の署長さんや、警務官や、刑事課長が何をされようが、口出しする立場にはない。ただ、ここにいる堀部君の将来に不利益になるようなことは困るんだ」  重松が言った。 「……不利益?」  紺野は聞き返した。 「そうだ。堀部君は一応、君の上司という立場だからな。先々、城北署時代に合同捜査本部の粗探しをさせた、なんて、後ろ指をさされたくはないんだ」 「堀部代理は関係ないと思いますが……」  と反論すると、沢が何かを言いかけた。それを、押し止めるようにして、 「関係なくても、関係がある、ということにされてしまうことがあるんだよ、紺野君」  重松は続けた。「例えば、そうだなぁ……。例えば、中学校の頃に、だ。まじめに教室掃除していても、仲間の一人が悪ふざけをして教室のガラスを割って黙っていたら、清掃係は全員が立たされなかったかい?」 「…………」 「小学校の頃、スカートめくりをされた女の子が泣き止まなかったら、男の子は贔屓《ひいき》されていようが、悪たれだろうが、一人残らず全員が……」  かんでふくめるような物言いが、まるで、低能扱いされているようで、不快だった。それで思わず、 「わかりますよ」  と、やや強い口調で言った。だが、 「そうか。じゃ、堀部君の立場もわかってもらえるね」  重松が動じるはずがない。「堀部君が所轄の刑事課のナンバー2の時期にだよ。同じ刑事課の人間が、密《ひそ》かに捜査本部事件の洗い直しをした、ということが明らかになれば、誰もが、それは刑事課幹部の意思によるもの、と考えるはずだ。つまり、堀部君の指示、もしくは、同意があってなされたもの、と判断する。そうは思わんかね?」 「ええ、まぁ、そうなるかも知れませんね」 「……知れませんね、だと?」  重松は一瞬、目を丸くして、 「そんなに生易しくはないんだ、紺野君。間違いなく、そう考える。その上で、堀部という野郎は仁義を知らない、とんでもない目立ちたがり屋だ、ということになる」 「…………」 「やがては、そんな野郎を野放しにしたら、先々、ろくなことは仕出かさんから、今のうちに潰《つぶ》してしまえ、ということにでもなったら、困るんだよ、紺野君。さっきも言ったが、堀部君は将来の刑事部を背負う、いや、警視庁をリードして行く人材として、我々が手塩にかけて育てて来た大切な男なんだ。その芽を摘んでしまうようなことは困る」 「私は何も、代理さんのご迷惑になるようなことをするつもりはありません。しかし……」 「しかし、何?」 「私は刑事課の一員ですけど、署の一員でもあるわけですし、署長命令……、仮に、それが実質的に警務官命令であっても、形式的には、署長命令であるわけですから、署員の立場で、これに逆らうわけには行きませんよ。もし、今の特命から離脱しろ、とおっしゃるなら、代理さんの方から署長の方へ、何らかの働きかけをしていただかないと」  私一人の手には余ります、と言おうとした時、 「それができるくらいなら、君をこんなところに呼びはしないよ」  沢が言った。 「その通り」  重松がうなずく。「この場合、事の性質上、刑事課長代理という立場であることが、却《かえ》って、意見具申を難しくしている」 「じゃ、一体……」  紺野は困惑した顔で三人を見た。重松はニッコリ微笑んで、 「何事も工夫次第だよ、紺野君。花を捨てて実を取ることはできるんだ」 「花を捨てて……実を取る?」 「つまり、特命に対しては粛々と、これを実行すればよろしい。そして、結果報告書の文面は格調高く、内容も綿密詳細につづるわけだ」 「…………」 「ただし、結論だけは漠然とした曖昧模糊《あいまいもこ》としたものにしてしまえばいい。つまり、文章|明瞭《めいりよう》、意味不明、という形だな」 「文章明瞭、意味不明……」 「そうだ。捜査本部のキレ者たちが何十人も束になって取り組んだヤマだぞ。紺野君一人が立ち向かって歯が立たなかったということになっても、恥にはならん。それどころか、事が明らかになった場合、捜査一課関係者には好感を持たれるだろう」 「好感……」 「それとも……、ここらで、一山、当てたいかね? 捜査一課の連中に一泡吹かして、男を上げたいかい?」 「いえ。とんでもない……」  紺野は首を横に振った。  重松の言う通りだった。たった一人で、難事件の解決なんかできるはずがない。  だが、最初から、いい加減な報告書を提出するという前提で、仕事をするということには抵抗があった。 「全ては、組織の将来のためなんだ。同じ釜《かま》の飯を食った仲間として、また、堀部君の大先輩として、どうか、大所高所から判断して、行動してもらいたい。もちろん、ドロをかぶってもらうからには、当方も、それなりの誠意を示させてもらう」 「…………」 「生臭い話になるかも知れんが、大事なことなんで、敢《あ》えて、言わせてもらう。僕は今、富士証券にお世話になっているが、それ以外にも、銀行、保険会社、商社にも知人が多いんだ。失礼ながら、紺野君の退職後の件は任せてもらうよ。第二の人生は、亜細亜《アジア》保険、もしくは、第一商事の課長ポストを保証しよう」 「亜細亜保険……、第一商事……」  紺野は生唾《なまつば》をのんだ。両方とも一流企業である。 「何なら、念書を入れてもいいよ。重要な部署は無理だが、危機管理、調査関係の部署であれば、無条件で確約する」 「…………」  うらやましい、と、沢がつぶやいた。すると、 「嘘じゃないぞ。断じて、酒の上の空手形ではない。何だったら、来週、引き合わせても構わん」  重松が向きになって言った。 「来週、引き合わせるとさ。どうする?」  沢が揶揄《やゆ》するように尋ねた。 「とんでもない。結構です」  紺野は首を左右に振った。すると、重松が豪快に笑った。沢も高笑いし、堀部は微《かす》かに笑っていた。  宴《うたげ》は三時間ほど続き、仲居二人に手を取られた重松を先頭に、駐車場に向かった。  すでに二台のハイヤーが待機していて、まず、重松が乗り込み、続いて、堀部が助手席に乗り込んだ。  紺野が戸惑っていると、 「君は、そっちの車に乗りたまえ」  沢がそう言ってから、重松の隣に乗り込んだ。 「今日はご苦労さまでした」  堀部が笑顔で言った。  後部座席の重松も、ご苦労さん、と声を張り上げた。沢が窓を開け、じゃ、と、片手を上げる。すると、ハイヤーは静かに動き出した。  紺野は両足を揃え、深々と頭を下げた。そして、頭を上げると、横の方から、どうぞ、という声がした。最初に紺野を案内した仲居だった。差し出した手の先で、運転手が、ドアを開けて待っていた。  勧められるまま、乗り込む。糊《のり》の香りがするような真っ白な布の座席カバーだった。仲居が、その座席に、お土産でございます、と言って、紙バッグを置いた。すぐにドアが閉められて、運転手は小走りに運転席の方に回りこむ。  仲居が、ありがとうございます、と頭を下げ、車は動き出した。  まるで、流れ作業のようだった。ハイヤーはゆっくりと進み、門の手前で停まった。前方に、料亭のハッピを来た初老の男が観音開きの木戸を開ける。  車は再び、動き出す。ハッピの男が、ありがとうございました、と頭を下げた。車が幹線道路に出る前に、不安になって、 「運転手さん、どこに向かっているの?」  と尋ねてみた。すると、 「もちろん、お客様のご自宅でございますけど、何か?」 「ご自宅って、わかっているの?」 「はい。承知しております」 「そう」 「あの、ご自宅に向かって、よろしいんでしょうか?」 「うん。頼むよ」 「かしこまりました。お近くまで参りましたら、お起こしいたしますので、どうぞ、おくつろぎになって下さい」  眠ってもよい、という意味なのだろうか? 運転手はまるで、一流ホテルのフロント係のような話し振りだった。  紺野は手をのばして、仲居が置いた土産を探ってみた。ずっしりと重かった。 「毛蟹《けがに》です。今朝ほど、漁港から直送されたもので、まだ生きていますので、ということです」  運転手が言った。紺野は手を引っ込めて、そう……、と応えた。  やがて、車は駅前通りに出た。一車線を独占しているタクシーの列、ハイヤーに気づいて、バイクがよける。  若者向けのファッションの店や、ゲームセンターは、耳をつんざくような音楽が鳴り響いているはずなのだが、そこを通り過ぎる時でさえ、車内は驚くほど静かだった。路上でギターを弾きながら、叫ぶように歌っている若者の声も、カチッカチッカチッというハイヤーのウィンカーの音にかき消される。  やがて、ハイヤーは横断歩道の手前で停止した。広々とした車内は、まるで片側車線のほとんどを占拠しているようだった。  前を行き交う通行人たちが車内を覗《のぞ》きながら通りすぎる。気恥ずかしいような、誇らしいような奇妙な気分だった。  狭い通りを抜け、バイパス通りに出ると、ハイヤーは一気にスピードを上げた。まるで、レーシングカーのような加速。ジャンボ機のような安定性。脇を走る大型貨物車でさえ、貧弱に見えた。  乗り心地、そして、気分は最高だった。  ハイヤーが自宅の前で停まると、たぶん高級車は馴染《なじ》みがなかったせいだろう、愛犬のジョンが興奮した声で吠《ほ》え立てた。その声に刺激されてか、周辺の家々からも、犬の吠える声がした。  運転手は紺野のために、素早く回り込んで、ドアを開け、帽子を脱いだ。そして、 「お疲れさまでございました」  と、深々と頭を下げた。  紺野は手土産をかかえて、ハイヤーから下りた。そして、あらかじめ車内で準備していた千円札を三枚、差し出した。  結構です、と運転手は辞退したが、 「気持ちだよ。受け取ってくれ」  と言って、それを無理やりポケットに押し込んだ。  恐れ入ります、と、運転手は頭を下げた。この時は、明らかに作り笑顔ではなかった。銀色の前歯を見せて、お休みなさいませ、と言って、再び、頭を下げた。  玄関の明かりがついて、妻がドアを開けた。カーディガンをはおり、心配そうな顔をして立っている。紺野は胸を張って、妻のところに向かった。  近所隣の暗闇にも、人の気配を感じた。おそらく、普段とは異なる雰囲気を感じ取って、目を凝らしているのだろう。  野次馬め……。  普通なら、そう思う。でも、この夜は、なぜか、覗かれていることが心地よかった。背後で、ハイヤーの低いエンジンの音が遠ざかって行く。  それを見送っている妻に、 「はい。お土産……」  紺野は包みを差し出した。 「お土産?」  妻は戸惑った顔つきで受け取った。 「毛蟹だ。生きのいいうちに、そうだな……、ビールがいいな。摘《つま》みにして、やりたい。風呂《ふろ》は沸いているか?」  ええ……、と言う返事を聞きながら、紺野は靴を脱ぎ、ネクタイを緩めながら、中廊下を進んだ。  まだ酔いが残っていた。風呂に入って、生酔いを完全にさましてから、ゆったりと胡座《あぐら》をかき、蟹を心ゆくまで味わってみたかった。  温《ぬる》めの湯加減は、妻の心遣いだ。早く、汗を出したかったので、追い焚《だ》きのガス栓をひねり、後頭部を湯船に当てて、顎《あご》まで湯につかった。すると、醒《さ》めかけていたはずなのに、再び、酔いが回ってきた。  自然に鼻歌が漏れる。昔の流行歌を三、四曲、口ずさんだ時、 「あなた、あんな高価なもの、いただいてしまって、いいの?」  妻の心配そうな声がした。 「いいんだよ」  紺野は答えた。 「包みの紐《ひも》を解いてしまったら、お返しできなくなってしまうけど……、いいの?」  という言葉で、まだ、準備にかかっていないことがわかった。それで、ムッとしてしまい、思わず、 「つべこべ言わずに……、さっさと晩酌の準備にかかってくれよ。そろそろ、風呂から出るぞっ」  思わず、声を荒らげていた。妻は消え入りそうな声で、はい……、と答え、台所の方へ戻って行った。  全く……、白けることを言うヤツだ。  紺野は舌打ちした。  再び、後頭部を湯船に当て、目を閉じた。酔いが急に醒めてきた。すると、妻を叱りつけたことに対して、後悔の念がわいてきた。  贈り物が届いても手をつけてはならない……。  結婚して、新居に引っ越しする時、まず教えた警官の妻の心得だった。  贈り物が、被害者からの純粋な感謝の気持ちの表明だとしても、第三者の目には、そうは映らない。まして、容疑者の関係者から見れば、裏取引の証拠、と決めつけるに違いない。だから、煎餅《せんべい》一枚、饅頭《まんじゆう》一個、受け取ってはならない。無理に置いて行った場合、触ってはならない……。  新婚時代から二十五年。妻は紺野の言いつけに忠実に従っただけのことだった。  酔いは醒めていた。それはアルコールによる酔いだけではなかった。身分不相応な料亭での接待、ハイヤーでのVIP扱いで陥ってしまった一種の酔い心地からも、完全に醒めていた。  安酒に悪酔いするよりも、始末に悪いな……。  紺野は苦笑いしながら、風呂から出た。バスローブをはおり、頭にタオルをかぶって居間に向かった。妻は台所で、包丁を動かしていた。 「摘みだけどさ……」  紺野はタオルで髪を擦《こす》りながら言った。 「蒲鉾《かまぼこ》でいいよ。二、三日前に、奈緒美が送ってきたのが、あるだろう?」 「蒲鉾? じゃ……、毛蟹は?」  妻が包丁を止めて振り返った。紺野は目を逸《そ》らして、 「毛蟹? そうだな……。毛蟹はジョンにでもやってくれ」 「そう……。本当に、蒲鉾でいいのね?」 「ああ、本当に蒲鉾でいい」 「わかったわ」  妻は冷蔵庫を開けた。 「さっきは、悪かったよ。俺……、どうかしていたんだ」  紺野は素直に詫《わ》びた。すると、妻も、 「はぁーい」  と、素直に返事した。  毛蟹《けがに》を食おうが食うまいが、手土産を受け取った事実に違いはない。だが、食ってしまえば、胸を張って堂々と、仕事を続けられなくなりそうな気がした。毛蟹を食わなければ、単に、上司の命令で料亭に行き、酒を飲まされ、無理やり手土産を渡されただけ、と、少なくとも、自分自身を納得させることができる。明日も、普段と変わらず、仕事に没頭できる。そんな気がした。 「それにしても……」  紺野は台所の方に目を向け、苦笑した。開きかけた手土産の包み紙が見える。この夜ばかりは飼い犬の立場がうらやましかった。 [#改ページ]     �  紺野は芝山が育った静岡の地を訪れる決心をした。  あれこれ考えを巡らせているうちに、一つの古い事件を思い出したからだった。  十数年前に、紺野は保険金詐欺事件の捜査に取り組んでいた。その際、重要参考人を追って北海道まで足を伸ばしたことがある。  かつて、炭鉱で繁栄していた街は、廃坑の影響で、人影も疎《まば》らだった。当然、参考人を知る住民は転出していて、なかなか接触することができなかった。ところが、最後に訪れた市役所で偶然、その参考人を知る職員にめぐり会えたのである。  働き口がなくても、役所勤めの公務員だけは地元に留まっている。しかも、多くの住民と接触する仕事柄、地元で発生した事件や事故に関しては、かなりの事情通である場合が多い……。  紺野が足で発見した法則の一つだった。芝山の場合も似たケースであり、確かめてみるだけの価値があると思った。ところが、 「出張捜査だと?」  刑事課長の田所は呆《あき》れた顔で言った。「一体、何を調べようってんだ?」 「東京に出てくる以前の芝山を知りたいんです。静岡にいた頃から、あんな風だったのかどうか、確かめてみたいんです」 「大都会が少年の心を変えた、とでも証明するつもりなのか? 昨日今日の駆け出しならともかく、そんなのは、連中の逃げ口上にすぎないことくらい、わかりそうなもんだがなぁ」 「そうかも知れませんけど、念のために、確かめてみたいんです」 「当てはあるのか? 静岡時代と言うと、かれこれ十三、四年以上も前になるぞ」 「先程、町役場に問い合わせたところ、一学年後輩だった青年が、職員として勤務しているそうです。元助役の息子だそうですし、彼に聞けば、いろんなことがわかるんじゃないかと思うんですが」 「いろんなこと、か……。電話じゃ済ませられないのかい?」  田所は気が進まないようだった。 「できれば、直接、会って話を聞いてみたいんです」  結果はともかく、それで納得できるような気がした。だが、田所は渋った。 「取り敢《あ》えず、中間報告、という形で、署長に状況を説明したら、どう? 案外、それで、オーケーが出るかも知れないよ」 「中間報告……」  もし、それで打ち切りになったら、意味がない。ただの子供の使い、で終わってしまう……。  今回の特命捜査が、在職中における最後の捜査になるかも知れない、と思うと、普段のように、上司の命令に素直に従うことができなかった。  紺野は腹をくくった。 「あの……、もし差し支えがあるのでしたら……」  年次有給休暇という形で、と申し出るつもりだったが、 「まぁ、いいじゃないですか、課長」  堀部が口を挟んできた。「紺野主任も署長命令の手前、お手軽な報告で、というわけにはいかないと思うんです。私の方からも、お願いしますよ」  穏やかな口調だったが、どことなく高圧的な響きがあった。田所は一瞬、戸惑いの表情を見せてから、 「別に俺は、許可しない、なんて言ってないよ。ただ、理由を聞いているだけだ」  と、口を尖《とが》らせた。「まぁ、いいだろう。署長特命じゃ、ダメと言える立場じゃないしね」 「すみません……」  紺野は頭を下げた。堀部がウィンクしてから自席に戻った。 「だがなぁ、紺野主任よ」  田所が言った。「今度の件は、誰かさんの、言わば、責任逃れ工作だと思うよ。先々、不都合なことでも起きた時にゃ、『だから、あの時、俺は』と言うための、とっかかりにしようっていう、実に姑息《こそく》な小刀細工だと思う。そのことだけは、頭の隅っこの方に入れておくことだな」 「はい……。しかと肝に銘じておきます。ありがとうございます」  紺野は、もう一度、頭を下げてから、自席に戻った。 「出張捜査、ね……」  課長が自席でペンを動かしながら、 「普段の仕事も……、それくらい熱心に取り組んでもらえると……、明るい未来が開けると思うんだが……」  と、聞こえよがしに言った。  翌日、紺野は東海道本線の下り電車に乗った。  掛川駅でローカル線に乗り換え、途中、ホームにツツジの花壇のある駅で下りた。そこからタクシーに乗って、山間《やまあい》の町を目指す。人口は一万三千人。秋野町というシイタケとイチゴの産地が、芝山の育った土地だ。  川沿いの道を走っていたタクシーが、平和宣言の町、という大きな看板のある交差点で右折した。道路はなだらかな上り坂になり、両側には畑と民家が交互に見えてくる。その長閑《のどか》な風景の中に、突然、派手な看板を掲げたパチンコ店や、原色の旗や幟《のぼり》を巡らせたディスカウントストアが、何とも異様な風景を見せていた。  やがて、坂道を上りきると、斜め前方に三階建ての真新しい建物が見えた。国民年金を払いましょう、という垂れ幕が風に揺れている。スローガンの横には一回り小さな文字で、秋野町役場、とあった。  タクシーを下りて、役場の正面玄関に向かった。入口は自動ドア。まるで銀行のような明るいフロアに、長椅子が六脚も並んでいるが、誰も座っていない。無人の座席の前で、大型テレビが大相撲を放送していた。  長いLの字のカウンターの上には、1から5までの番号が掲げられている。三名の町民らしき男女が、それぞれ職員と、何やら話をしていた。  紺野は�案内�という表示に向かって足を進めた。  カウンターに近づくと、電卓を弾《はじ》いていた女子職員が顔を上げた。 「防災課の塩崎さんという方に、お会いしたいのですが……」  と告げると、 「はい。えーと、失礼ですが、どちら様でしょうか?」  女子職員は値踏みするような目で尋ねた。「東京の紺野と申します。電話で、お邪魔することは、申し上げてあります」  警察の人間であることを告げなかったのは、余計な詮索《せんさく》をされたくなかったからだ。かつて、事前に素性を告げたために、子供たちに後を付け回されたことがある。  女子職員は、そちらでお待ち下さい、と、誰もいない長椅子の方を手で示した。よろしく、と目礼して、テレビの前に向かった。  序の口の取組を見物して五、六分。職員用出入口で物音がして、防災服を着た青年が現れた。案内カウンターで女子職員と言葉を交わし、紺野の方に向かって足を進める。紺野は立ち上がった。  三メートルほどのところで、 「初めまして。遠路はるばる、ご苦労さまです」  青年が会釈した。  塩崎真司、二十七歳。多くの若者が職を求めて都会をさまよう中、Uターン就職できた幸運な男である。  秋野町役場に採用された若手職員のうち、年齢が最も芝山に近いのが塩崎だった。たった一歳の違いであれば、芝山とも交流があったはずである。 「えーと……、電話では話せない、とは、どのようなご用向きでしょう?」  塩崎は立ったまま尋ねた。 「実は、芝山雅行、という人物について、お聞きしたいのですが」  と言って、反応を見ると、 「やっぱり、そうですか……」  塩崎はニッコリ笑って、 「たぶん、そうじゃないか、と思ったんです。でも、せっかくですが、あいにく、もう十年以上も、雅行さんとは会っていないんです。ニュースで顔が映った時も、全然、気がつかなかったくらいですから」  雅行さん、という呼称を聞いて、紺野は自分の予想が外れていないことを確信した。苗字《みようじ》でなく、名前で呼ぶのは、単なる顔見知り以上の仲のはずである。 「その十年以上も前のことを、お聞きしたいんですよ。彼が中学校を卒業するまで、ご一緒だったんでしょう?」 「はい。東京へ引っ越すまで、一緒でした。でも、雅行さんとは、ただの遊び友達……、と言うより、遊び仲間でしたから、お役に立てるかどうか」 「難しいことを、お聞きするわけではありません。彼の人柄を知りたいだけです。それだけで十分なんです」 「そうですか。じゃ、えーと、少々、お待ちを……」  塩崎はカウンターの方に戻って行った。奥の席に管理職らしき中年の男が座っている。塩崎が何やら話しかけると、顔を上げ、紺野の方に目を向けた。反射的に会釈したが、返礼はなかった。男は無言のまま、書類に目を通している。塩崎は壁にかかったキーを掴《つか》むと、それを右手の指で、クルクルと回しながら、紺野の前に戻った。  若手の職員なのに、物おじしない態度は、元助役である父親の後ろ楯《だて》があるからに違いない。  地方の場合、役所の職員は大地主や素封家の子弟が優先的に採用される。役所としても、その方が都合がよいからだ。  ある宿場町でのこと。�道路建設反対�の撤回を説得しに来たのは、若造の平職員だったが、門前払いにはできなかった。なぜなら、彼は地区の実力者の息子だったからだ。もう百年以上も前から、一族には、何かと世話になってきたし、この先も世話になるかも知れない。その義理があるから、また、将来のことを考えると、息子の顔を潰《つぶ》すわけにはいかなかったのだ。だから、不満があっても、渋々、建設同意書に判子を押すことになった。  かくして、腕利き弁護士が一年かけても説得できないような難題も、たった一日で、めでたく和解成立の運びとなった。 「外へ出ましょう」  元助役の息子は言った。「あいにく来賓室は塞《ふさ》がっているんです。昔のことをお知りになりたいのなら、雅行さんの住んでいた家とか、ご覧になりたいんでしょう?」 「はい。そうしていただけると助かります」 「もっとも、住んでいた家と言っても、今は何もありませんけどね。さ、どうぞ」  塩崎は先に立って歩き出した。  玄関を出る時、同じ防災服を着た職員と出くわした。 「どこへ行くんよ?」  と、呼び止められたのだが、 「ちょいと、そこまで」  塩崎は立ち止まらなかった。すると、相手は腕を掴んで、 「ちょいと、どこだい? この前みたいに、ちょいと長崎、じゃあるまいな? おっつけ、発電機の点検業者が顔を見せることになってるんだぞ。わかってんのか?」 「わかってますよ。その辺りをぐるりと一回りしてくるだけです。何かの時は、携帯を持っていますから」  相手の手を振り払うようにして、塩崎は庁舎の外に出た。  塩崎の乗り込んだ車のボディには、秋野町というネームが入っていた。  タクシーで上ってきたばかりの坂を、微《かす》かにセメントの臭いのする軽貨物車で下った。町の目抜き通りを抜け、川沿いの道を進む。短いトンネルを二つくぐって、倉庫の横の砂利を敷きつめた駐車場に到着した。 「ここですよ。まるで面影がありませんけどね」  塩崎がハンドブレーキを引いた。  二百坪ほどの広さの駐車場には、地面の上にロープが埋め込まれ、スペースが区分けされてある。そこに、ワゴン車が二台、普通車が四台ほど停めてあった。 「今は釣り客用の駐車場になっていますけどね。昔は村で、たった一軒の雑貨屋だったんです。ところが、ご存知でしょうけど、おじいさんが病気で倒れてから、時々、店が閉まるようになりましてね。半年くらいしてから、廃業ということになりました。今は、夫婦そろって、豊橋《とよはし》の方にある老人ホームに入っています」 「老人ホーム?」 「新興宗教系の施設ですよ。二人とも信者だったそうです。とても、そんな風には見えませんでしたけどね」 「ちょっと、見させて下さい」  紺野は車から下りた。  家は跡形もなく、井戸や庭木などもない。少年時代の芝山をイメージさせるものは何も残っていなかった。紺野は駐車場に立って、周囲を見渡した。青い空と緑の山……。駐車場の前には、幅四メートルほどの道路が左右に走っていて、その先には、小川が流れている。せせらぎの音が絶え間なく聞こえていた。 「彼は……どんな子供だったんです?」  と尋ねると、 「そうですねぇ……」  塩崎は煙草に火をつけて、 「我々とは、ちょっと毛並みが違っていました」 「毛並み?」 「はい。雅行さんは、小学生の時に転校してきたんですよ。色が白くて、ひょろっとしていて、一見、都会の子という感じがしましたけど、言葉が関西|訛《なまり》でしたので、都会の子というより、遠い所から来た子……、という感じでしたね。だから、物珍しさもあって、最初は、遠巻きにして様子を窺《うかが》っていましたけどね。そこは子供同士。気がついたら、いつの間にか、一緒に川遊びをしたり、山遊びをしたりしていました」 「喧嘩《けんか》とか、いじめとかは、なかったんですか?」 「そういうことはなかったと思いますね。と言うのは、よそから来た子、特に、都会から来た子は、言葉だけじゃなく、服装が僕たちとは違うんです。それで、浮いてしまい、仲間外れにされたりするんですが、雅行さんの場合は、最初から、地元の子と同じ身なりをしていました。割合、早く溶け込めたのは、それが理由だと思います」 「なるほど……。彼の言ったこととか、やったことで、印象に残っていることはありますか?」 「印象に残っていること、ですか?」 「エピソードのようなことでも結構です」 「エピソード……」  塩崎は、しばらく周囲を見渡していた。やがて、小川の方に目を止めて、 「あります、あります」  と言いながら、道路を横切った。そして、川辺に立って、 「何年生の時だったか、忘れましたけど、夏休みに、ここで魚釣りをしていると、車が停まりましてね。見たこともない大人が下りてきて、カエルを捕まえてくれ、と声をかけてきたんです。一匹、百円払うから、と言うんで、魚釣りを中止して、夢中で捕まえました。僕と、雅行さんと、他に二人。四人で四、五十匹は捕まえましたね。ところが、それをビニール袋に入れると、その大人は、お金を持ってくるから、と言って車に戻ると、そのまま行ってしまったんです」 「騙《だま》された?」 「ええ。そうです。僕たちは、嘘つき、とか、泥棒、とか叫びながら、後を追いかけたんですが、追いつけっこありません。諦《あきら》めて立ち止まると、雅行さんがいないんですよ」 「ほう……」 「どうしたんだろう? と思って、ここに戻ると、何事もなかったように、魚釣りをしているんです」 「彼は追いかけなかったんですか?」 「ええ。どうもそうらしいんです。戻ってからも、僕たちは悔しがって、騒いでいましたけど、雅行さんは、何も言いませんでしたね。瞬《まばた》きもせずに、ただじっと釣り糸の先を睨《にら》んでいました。それが、ちょっと気味が悪かったです」  と言うと、車が走り去ったという方向を眺めて、 「しかし、あの大人は一体、何のために、子供を騙してまで、五十匹ものカエルが必要だったんですかねぇ。それが、いまだにわかりませんわ」  塩崎が首を傾げていると、駐車場の方で砂利を踏む足音がした。振り向くと、七十歳くらいの男が、二人の方を見ている。  塩崎は煙草を足元に落として、それを踏んでから、 「すみませんが、車を移動させます」  と言いながら、小走りに車のところに戻った。  何の調査なんだ? と、その男が尋ねた。カエルの調査だよ、と、塩崎。不思議そうな顔をしている男に、エンジンをかけたままだから駐車じゃないよ、と告げ、紺野がシートベルトをするのを待って、アクセルを踏んだ。 「あの爺《じい》さん、偏屈者でしてね。その上、セコいんです。あそこに少しでも車を停めると、相手構わず、駐車料金をふんだくろうとしましてね。全く、町の恥さらしですよ」  と言うと、車のスピードを落として、 「さて、どこで話しますかねぇ。この辺りは車を停める場所があるようで、ないんです。空き地はあるんですけど、さっきみたいに、すぐに所有者が出てきたりしましてね。うっかり立ち小便もできません」 「小学校か中学校では、どうです?」 「えー、残念ながら、どっちも廃校になりました。子供の数が減って、隣町と併合になったんですよ。元の小学校は取り壊されて、野っ原になっています。中学校の方は建物だけは残っていますけど……」 「中学校に車を停める場所は?」 「もちろん、ありますけど」 「じゃ、取り敢《あ》えず、その中学校へお願いします」 「かしこまりました」  塩崎は車のスピードを上げたが、 「そうそう、あの爺さんで、思い出しましたよ」  と、すぐにスピードを落として、 「町外れに、富士見が原、という場所があるんですけどね。僕が小学生の頃、そこはコロニー・ガーデンとして、売り出し中だったんです。さっきの爺さん、当時も、そこの管理人をしていたんですが、地元の子供は目障りだというんで、よく棒なんかで追い払われましたよ。自分だって田舎者のくせに、同類をバカにするというか、軽く見るというか。ああいうのは、どこにでも、いますね」 「コロニー・ガーデンとは、何です?」  初めて耳にする言葉だった。 「日本風に言えば、別荘、ということになりましょうかね。もっとも、軽井沢みたいな高級別荘じゃなく、土地は賃貸し。建物もログハウスで、風呂《ふろ》もありません。共同のシャワー設備はありましたけどね。都会でマンション暮らしをしている人たち向けの、まぁ、貸別荘みたいなもんです」 「それなら、知っています」  知り合いの警官の中にも、何人か、似たような一軒家を所有している者がいる。賃貸の安アパートに住みながら、実は、�セカンド・ハウス�の持ち主なのだ。  無理してマイホームを購入しても、長時間通勤とローンで苦しむことは目に見えている。だが、妻子にしてみれば、庭のある一戸建てが夢。その双方が納得する折衷案、と言うより、苦肉の策が、地価の安い郊外に山小屋風の家を持つ、というものだ。そこで、妻は週末に家庭菜園、子供たちは山遊びや川遊びを楽しむ。そして、夜には一家でバーベキュー。平日は手狭なアパート住まいをしていても、休日になれば、いつでもアウトドア・ライフが満喫できると言うわけだ。 「連休や夏休みになると、東京や横浜辺りから、家族連れが押し寄せましてね。結構、賑《にぎ》わっていました。ところが……」  塩崎はクスリと笑って、 「誰が言い出したのかは、ちょっと忘れましたけど、カエルを騙し取ったのは、コロニーに出入りしている人間じゃないのか、ということになりましてね。じゃ、確かめよう、ということになったんです」 「…………」 「少年探偵団気取りで、出入りする車を交代で見張ることになったんですが、ある日、あの爺さんが血相を変えて出て来ましてね。ログハウスの中にヘビを入れたのは、お前たちだろう、なんて言うんです」 「ヘビって、本物のヘビですか?」 「はい。生きている本物のヘビです。種類は青大将とシマヘビで、毒はありませんが、そういう問題ではありません。ハウスの中にいたのは、申し上げたように都会の人たちで、半分以上が女性と子供でしたからね。大騒ぎになったそうです」 「そりゃ、大人の男でも大騒ぎしますよ」 「おっしゃる通りです。コロニー・ガーデン構想が失敗した原因は、料金やサービスじゃなく、実は、ヘビ騒動だったと言われています。確かに、夜中に枕元をヘビが通り過ぎて行った、なんて話が広まったら、客足は遠のきますよ」 「ヘビは、いたずらだったんですか?」 「十五戸のログハウスのうち、六戸で発見されたわけですからね。ヘビが偶然、迷い込んだとは、考えにくいでしょうね」  塩崎は肩をすくめ、舌を出した。意味ありげな仕草だったが、 「ひょっとして、コロニー・ガーデン構想に反対している地元住民とか、ライバル業者とか、そういった利害関係者とのトラブルでも?」 「いやいや、とんでもない。反対するどころか、地元は諸手《もろて》を挙げての大賛成でしたよ。ライバル業者なんてものは、元々、ありませんでしたし、その種の妨害行為なんかあり得ません。これは確かです」 「…………」  紺野は首をひねった。塩崎はチラリと紺野を見て、 「実を言うと、ヘビ騒動は……、ですね」  と、勿体《もつたい》をつけるように前置きしてから、「雅行さんの仕業だったんですよ。それも、いたずら、なんかじゃなく、言わば、報復だったんです。つまり、さっきの爺さんの言いがかりは図星だったわけです」 「誰か、ヘビを投げ込むところでも見たわけですか?」 「爺さんには見られていませんが……」  塩崎はフッと笑って、 「僕は見ましたよ。この目でしっかりとね」 「あなたが?」 「はい。それも、友達と二人で、です。以前から、雅行さんが麻袋を持って、ヘビ沢を出入りしているところは、何回か見かけていたんです」 「ヘビ沢?」 「正式名称は、一の沢、と言うんですけれど、ヘビが多いんで、土地の者は、そう呼んでいます」 「なるほど」 「ある日、友達が夜中に僕を呼びに来ましてね。その友達に誘われて、二人して雅行さんの後をつけることにしたんです。雅行さんは例の麻袋をさげていましてね。コロニー・ガーデンのログハウス十五戸全てに、手際よくヘビを投げ込んで行きました」 「十五戸全てに?」 「はい。ヘビは六戸だけに入っていたんじゃなく、十五戸全てに入っていたんです。ただ、九戸については、ヘビが発見されなかっただけのことなんです。たぶん、外に逃げ出したか、壁か床の隙間に入りこんだかしたんでしょう」 「…………」 「翌日、雅行さんに会うと、涼しい顔をしていましてね。爺さんに追いかけられた時も、スルスルスルと高い岩山の上に駆け登って、そこから下を見下ろして、こう言ったもんです。『爺様よ。ヘビはカエルを追って、ログハウスの中に迷い込んだのかも知れないぞ。俺たちよりも、カエルを持ち込んだ奴を探すこったな』。その言葉を聞いて、僕らには、カエルの件の報復だとわかったんです。あの時は、僕らも胸がスッとしました」  塩崎は声を上げて笑った。  元は文房具屋だったというクリーニング店の角を曲がって、五、六十メートルほど行くと、広い空き地があった。そこにコンテナが四つばかり並んでいる。 「ここが、小学校の跡地ですよ。雅行さんのとこみたいに、もう、何も残っていません。あのコンテナは倉庫代わりでしてね。中は、災害が起こった時のための食料です。缶詰とか、乾パンなどの保存食なんですけどね。それに、医療品や水なんかも、備蓄してあるんです。こんな田舎だから、避難場所なんか必要ないだろう、と思われるでしょうけど、これが大間違いでしてね。このグラウンドだって、今は草ぼうぼうですけど、年に何回か、除草剤を撒《ま》いたりしているんです。何しろ、ヘリコプターが安全に発着できて、輸送トラックが自由に出入りできるのは、ここぐらいしかないんですよ」 「…………」  紺野は空き地を見た。立入禁止の看板が網のフェンスにくくりつけてある。その中に、子供たちの姿はなく、所々、膝《ひざ》の高さまで伸びた雑草が風になびいているだけだった。 「中に入ってみますか?」  塩崎が言った。 「いえ、結構です。中学校の方へ行きましょう」  紺野が前方に視線を戻すと、塩崎がアクセルを踏んだ。  小学校の跡地から、およそ四百メートル行ったところに、二階建ての中学校があった。窓はベニア板で塞《ふさ》がれている。その所々に、赤や青のスプレーで、様々な落書きがしてあった。 「取り壊さなくてはならないんですけどね。予算の関係で、なかなか思い通りに行かなくて……」  塩崎は車を歩道へ乗り上げて、鉄格子の扉の前に車を停めた。  そこにも立入禁止の表示がしてあって、扉には南京錠が下がっていた。  正門の左右には金網のフェンスが張り巡らせてある。そのフェンス沿いに足を進め、十四、五メートルほど行ったところで、 「ここからなら、入れますから」  塩崎は金網の破れ目から、敷地内に入った。紺野もその後に続いた。 「いくら修理しても、悪ガキ共が入り込むんですよ。きりがないんですけどね。近頃は、何か事故があると、すぐに、管理責任がどうのこうのと騒ぐのがいるんです。おかげで、月に一度は修理の真似事をしているんですが、予算の無駄遣いも、いいとこです」  と、ぼやきながら、校舎沿いに足を進め、片手で窓のベニア板を触って行った。そして、動く板を発見するやいなや、両手でそれを引っ張った。板は簡単に外れ、窓が露《あらわ》になった。 「ここは……保健室の前の廊下ですね」  と言いながら、空中に舞う埃《ほこり》を両手で払いながら、後ずさりした。入れ代わるようにして、中を覗《のぞ》く。廃墟《はいきよ》特有の埃とカビの臭いがした。 「お入りになりますか?」  後ろで塩崎が言った。 「いや、結構です」  紺野が窓から離れると、 「その方がいいです。服が汚れるだけですから……」  塩崎はベニア板を元に戻して、 「この向こう側が校庭になります」  と、再び、先に立って歩き始めた。  岩塩が固まったような白く乾いた地面が続いた。場所によっては、パリパリと音を立てる。やがて、校舎の端に投げ出された簀《す》の子をまたぐと、広い校庭に出た。 「廃校した直後は、野球のグラウンドとして無料で開放したんですけどね。申し込みがあったのは半年くらいで、今じゃ、ご覧の通りです。グラウンドというのは、しょっちゅう使っていないと、ダメになってしまうんですけどね。近頃じゃ、練習するだけの頭数が揃わないというわけです」  塩崎は靴の踵《かかと》で地面を蹴《け》って見せた。雨でぬかるんだ土は、そのままの形を留め、容易に砕けないほど固まっていた。 「中学校では、彼はどんな生徒でした?」  紺野は校舎に目を向けた。塩崎も校舎の方を眺めて、 「勉強はできましたね。もっとも、成績は小学校の頃からトップでしたが……。それに、スポーツも得意で、ああいうのを万能と言うんでしょう」 「素行はどうです?」 「悪くなかったですよ」 「悪くなかった? それは、よかった、という意味ですか? それとも、何か、別の意味でも?」 「どう言ったらいいんでしょうかね。雅行さんは大人たちを軽く見ていましたね。特に、先生に対しては、まるで相手にしてませんでした。何とか会という通信教育で受験勉強していましたし、休みには、掛川市にある進学塾へ模擬テストを受けに行ってましたからね。中学校の授業なんて眼中にない、という感じでした」 「中学校をバカにしていたんですか?」 「そうかも知れません。これは、人から聞いた話ですけど、例えば、先生が勘違いして、テストの採点を間違えても、文句を言わないんだそうです。それから……、人違いして、先生が雅行さんを叱っても、すみません、と謝るんだそうです」 「ほう……。なぜでしょうか?」 「わかりません」 「悩みを内に抱え込む性格だった、と言うことは?」 「いやいや、そうは思えません。どんなことがあっても、雅行さんは穏やかな顔をしていました。顔は決して笑っていませんでしたけど、心の中では、笑っていたはずです」 「顔は笑ってはいないが、心の中で? それは、ひょっとして、そういう目をしていた、ということですか?」 「そうですね。顔というより、目ですね。目は心の窓、というくらいですから」 「つまり、いつも澄んだ目をしていた?」  と、念を押すと、 「……澄んだ目?」  少し間を置いてから、塩崎は大きくうなずいた。 「確かに、澄んだ目をしていましたね。全てを見通していながら、何も語らない目、というのは、ああいう目を言うのかも知れません」 「…………」  どうやら、芝山は少年の頃から、澄んだ目の持ち主のようだった。その澄んだ目で、学校や教師を見下し、今は、警察や捜査員を見下しているのだろうか? 「頭がよく、スポーツマンで、大人びた少年だった、ということは、わかりましたけど……」  仕事を通じて、過去に、そういう子供に出会ったことはある。少年棋士、少女バイオリニスト、中学生ゴルファー……。その立ち居振る舞いは、大人顔負けの堂々たるものだった。しかし、その反面、アニメや人形にこだわる幼い面も見せていたものだ。才能は神童であっても、心は子供のはずである。 「彼は七草明けに、神社の賽銭《さいせん》箱を荒らす、というような悪さはしなかったんでしょうか?」  と尋ねてみると、 「賽銭箱を? まさか……」  塩崎が一笑に付した。 「じゃ、十五夜の晩に、よその家の供え物をかっぱらうようなことは?」 「そういうことも、しませんでしたね。親代わりのおじいさんたちのしつけが厳しかったわけでもなかったんですけどね。落書きしたり、街灯の電球を割る、といったイタズラはしなかったです」 「でも、ログハウスにヘビを放り込むことはしたんでしょう?」 「はい、そうです」 「…………」  紺野は首をひねって沈黙した。芝山がますますわからなくなっていた。  じっと校舎を睨《にら》んでいると、 「あのー、今、思い出したんですけど……」  塩崎が言った。 「さっき、大人びた少年、とおっしゃいましたでしょう? でも、結構、幼稚な面もあったみたいですよ」 「幼稚な面?」 「ええ。何しろ、中学校を卒業する時、尊敬する人物はロビン・フッド、と文集に書いたくらいですからね」 「ロビン・フッド?」 「はい。他の生徒が、坂本|龍馬《りようま》とか、キュリー夫人とか書いているのに、雅行さんだけは、ロビン・フッドと書いたそうです。あまりに突拍子もないんで、そのことは覚えています」 「…………」 「今にして思うと、確かに不思議な人でしたね。でも、あの当時は、そういうものかなと思っていました。何しろ、雅行さんは、遠い所から来た転校生でしたからね。関西の方の子は、そういうものなんだろうと思っていました。僕たちだけでなく、大人たちも、そんな風に考えていたと思いますよ」 「…………」  紺野は膝《ひざ》を折って、その場にしゃがみこみ、目線を下げて、校舎を眺めてみた。足元の方から、微《かす》かに草の香りがした。はるか上空では、ジェット機のエンジン音がこだましている。  突然、塩崎のポケットで携帯電話が鳴った。広い校庭に響く呼び出し音は、まるで、小鳥の囀《さえず》りのように聞こえた。  塩崎は紺野に背を向けるようにして、電話機を耳に当てる。しばらくしてから、紺野の方を向いて、 「申し訳ありませんが、役場に戻らなければならなくなりました」  と、顔をしかめた。おそらく、発電機の点検業者の件だろう。 「どうぞ……。私の方は、もう十分ですから」  実際、その通りだった。聞くべきことも、見るべき場所もない。 「駅までお送りしたかったんですけどね。何しろ、上司が貧乏性なものですから……。すみません」  塩崎は頭をかいた。 「いえいえ、タクシーで帰りますよ。最初から、そのつもりですから」  紺野は道路に向かって歩き出した。 「多少は、お役に立ちましたか?」  歩きながら、塩崎が尋ねた。 「はい。大変、参考になりました。案内までしていただき、本当に助かりました」  密《ひそ》かに期待していたような、田所の鼻をあかす新事実を発見することはできなかった。だが、紺野はそれなりに満足していた。成果は上げられなかったものの、陽気な町役場の青年のおかげで、思い残すことなく、最後の報告書を書き上げることができそうな気がしていた。  駅に着いた時、すでに上り電車は出発していた。  タクシーの運転手は、間に合わせてみせる、とアクセルを踏み込んだのだが、紺野がそれを押し止めたのである。もはや、急ぐ必要はない。  時刻表を見ると、次の電車まで二十分。だが、それは各駅停車の鈍行で、途中の駅で追い抜く快速電車の到着までは、四十分以上もあった。  紺野は切符を買ってから、駅前広場に逆戻りして、案内板を探した。東京と静岡を、ただ一往復しただけ、という出張捜査にしたくはなかった。  昔なつかしい円筒形の郵便ポストの隣に、手描きの古い町内図が立っていた。ざっと見たが、名所旧跡らしきものは見当たらない。診療所、郵便局、幼稚園、農協……。そして、鳥居のマークと木立のスペース。  紺野はその神社の方向に歩き出した。駅前の商店街を抜け、民家を五軒ほど通り過ぎると、消防団の小屋。その隣の木立の中に、ひっそりと神社が鎮座していた。  小さな銅鳥居があって、幅二メートルほどの参道を十メートルも進むと、素朴な造りの社が現れた。  境内の隅にある水道で手と口を濯《すす》ぎ、階《きざはし》の前に立って、賽銭箱に小銭を投げ入れ、二礼二拍手一礼……。  家族の無事を感謝した。いつの頃か、願掛けはしないことにしている。願うことをしなければ、失望することもない。  目を開け、社のまわりを一周した。彫刻らしきものはなく、奉納額や絵馬もない。  神社の隣は広場になっているらしく、子供たちの騒ぐ声が聞こえた。  杉の木立を抜けて、なぜ、その声のする方に足を進めたのか、理由はわからない。誘《いざな》われるようにして紺野は公園に入りこみ、ベンチに腰を下ろした。  五、六人の男の子たちがボール遊びをしていた。その反対側では、三人の女の子がブランコを漕《こ》いでいる。  紺野のベンチの近くには滑り台と砂場があって、母親らしき女性に見守られながら、幼児が三人、砂遊びをしていた。  時計を見ると、快速の到着まで二十五分もあった。ポケットの切符を確かめてから、ベンチの背もたれに寄りかかった。そこでしばらく時間待ちをしてから、駅に向かうつもりだった。  男の子の打ったボールが足元まで飛んできた。それを投げ返すと、日焼けした顔が、ありがとう、と返事した。歩道の方から、パタパタと軽い靴音がして、女の子が二人、弾むように公園に走りこんできた。二人はジャングルジムに飛びつく。公園の中は無邪気な子供たちの世界だった。  紺野の視線は、いつしか、そんな世界を離れ、足元に向けられていた。  人は四六時中、思考し続けることはできない。起きていても、寝ているような精神状態になる時がある。この時の紺野がそうだった。旅の疲労も重なり、頭の中は真空状態だったと言える。足元に目を向けて、ただ目に映るものを見ていただけだった。千切れた木の葉、丸められたガムの包み紙、発泡スチロールの破片、青いビーズ玉が二つ……。  意味もなく、靴の踵《かかと》で地面を擦《こす》った。乾いた白い砂地が、湿り気のある粘土質の濃い色に変わる。紺野は焦点の定まらない目で、それが乾くのを見つめていた。そのような無心の時にこそ、真実が明らかになることがある。  それまで軽かった空気に、ふと、重さのようなものを感じた。顔を上げると、いつの間にか、砂場にいた幼児が紺野の側近くまで来ていた。二歳くらいの男の子で、まだ足取りがおぼつかない。  砂場の方を見ると、母親らしき女性は立ち話に熱中している。紺野は幼児に微笑んで見せた。  幼児は腕に菓子の袋を抱えていた。紺野のすぐ側まで来ると、その袋の中から、薄いビスケットを一枚取って、差し出した。幼児の意図はわからない。ただ、差し出したまま、じっと紺野を見つめている。 「おじちゃんに、くれるのかい?」  と尋ねたが、返事はせず、紺野を見ているだけだった。黒く、円《つぶら》な瞳《ひとみ》だった。まだ人見知りをする前の段階の、言わば、無辜《むこ》の眼差《まなざ》しだった。 「そう。ありがとう。いい子だね」  紺野はそれを受け取った。すると、幼児はもう一枚取り出し、それを口に含んだ。小さな口を動かしながら、ガラス玉のような瞳をキラキラと輝かせている……。  その眼差しを見ているうちに、突如として、紺野の体に戦慄《せんりつ》が走った。その幼児の目は、容疑者芝山のそれに酷似していたからである。  あらら、と言う声に、我に返って顔を上げると、砂場にいた女性が、幼児の方に駆け寄ってきた。  すみません、と、紺野に会釈して、幼児を抱きかかえる。いいえ、と応じるのが、精一杯だった。紺野は興奮していた。  なぜ、芝山の目が、あの男の子の目に似ているのだろうか?  砂場の方に目を向ける。幼児は、菓子袋を取り上げられ、オモチャのロボットで遊んでいた。子供たちの無心に遊ぶ姿を見ているうちに、紺野の脳裏に突如として閃《ひらめ》くものがあった。澄んだ目の正体に気づいたのだ。  芝山の目は、純粋性の証《あかし》だったのだ。疑うことを知らない無辜の眼差し……。しかし、それは無実の眼差しとは限らない。つまり……。  口下手な紺野には、まだ重要で厄介な仕事が残っていた。最も苦手な言葉選び、という仕事だった。 [#改ページ]     �  理解していることでも、言葉では表現できないことがある。言葉には限界というものがあるのだろうか?  もし、澄んだ目の正体を、単に、純粋性の証、と表現すれば、誰もが、無実の証、と解釈するに違いない。  純粋性の証は、必ずしも、無実の証とは限らない。しかし、その一方で、無実の証という可能性も否定できない。  紺野の�発見�は、紺野の言葉で表現する限り、はなはだわかりにくいものだった。  東京に戻る電車の中で、いかなる表現をもってすれば、そのことを正確に表現することができるか、紺野は考えを巡らせた。しかし、明快な答えを見いだす前に、電車は東京駅に到着してしまった。結局、  表現できなければ、なまじ中途半端な表現はしない方がいい……。  それが紺野の結論となった。  翌日——。いつもより早く出勤した紺野は、再び、取調室にこもった。外に貼り紙もして、すでに書き上がっていた報告書を改めて書き直した。単に、日付を変え、静岡での調査内容を書き加えるだけのことだったが、紺野の場合、手書きのため、初めから全部、清書しなければならない。  黙々と筆を進め、最後の項目、�担当者私見�の欄については、一瞬、迷ったものの、結局、変更することなく、堀部に言われた通りにした。  ——口頭報告とする。  もし、報告書中に、一言でも、純粋性の証、などと記せば、そこの部分だけが拡大解釈されることは明らかだった。  所轄の一介の捜査主任が、捜査本部事件の冤罪《えんざい》を主張しようとしている……。  そんな誤解をされたくはなかった。もちろん、申し開きをして、その誤解を解く自信はないこともない。紺野が恐れていたのは、田所も危惧《きぐ》していたスクープ記事だった。一旦《いつたん》、ニュースが流れてしまえば、個人的な申し開きをすることはできず、また、紺野の真意が報道されることはあり得ない。  そもそも、自分の使命は、芝山の過去の犯罪を暴くことではなく、あくまでも、澄んだ目に関する調査である。李下《りか》に冠《かんむり》を正さず、瓜田《かでん》に履《くつ》を納《い》れず。自ら進んで、火中の栗を拾うことはない……。  紺野はそう割り切った。  清書が終わる頃になると、刑事部屋は朝の挨拶《あいさつ》で騒がしくなっていた。紺野は取調室を出て、報告書のコピーを二部作成した。刑事課長用と警務官用で、書類挟に、至急、と朱書して、それぞれの机の上に置いた。  その直後に出勤した田所は、この日、椅子には座らなかった。珍しく制服に着替え、制帽もかぶると、見習刑事が磨き上げた靴を履き、慌ただしく刑事部屋を後にした。警察学校での式典に参列するためだった。  その直後、紺野は窓辺の鉢植えに水を遣《や》ったついでに、横目を遣って田所の机を覗《のぞ》いてみた。提出した書類挟は、他の未決書類とともになくなっていた。  やがて、朝の幹部会議が終わり、刑事課の打合わせも終わって、一人、事務処理をしていると、警務官から電話があった。午後三時以降は在署しているように、との指示だった。  午後四時すぎになって、警務官から呼び出しがあった。田所は不在のままだった。警察学校での式典終了後、所用で警視庁本部に向かったとのことだった。紺野は署長に提出する報告書の原本を、もう一度、読み直してから、席を立った。  署長室のドアは閉まり、不在の札が出ている。  その前に立ち続けて、およそ五分。玄関先の立番員が正面の扉を開き、敬礼した。間もなく、署長が姿を現した。小柄な署長はせかせかと足を運ぶ。警務係長が素早く署長室のドアを開け、女子職員が茶の準備にかかった。 「全く、話にならないわ。事故が起きたら、一体、誰が責任を取るのよ……」  憤懣《ふんまん》やる方ない、という表情で、署長は紺野の前を通りすぎた。女子職員が盆の上に茶碗《ちやわん》と羊羹《ようかん》を載せ、後を追いかけるようにして署長室に入る。  ありがとう、と署長。羊羹は茶道塾からのお土産です、と女子職員。京都は嵐山ね……、とつぶやき、しばらくすると、舌鼓する音が聞こえた。おいしいわ、と署長が言い、女子職員が満足気な笑みをたたえて出てくる。すると、入れ代わるように、警務係長が署長室に入った。  いつの間にか、紺野の後ろには決裁を受けるための列ができていた。警務係長は署長の留守中にかかってきた電話について、説明している。やがて、以上です、と手帳を閉じると、今度は警務官が大股《おおまた》で署長室に入って行った。その手には、紺野が提出した報告書を持参していた。  警務官が何やらつぶやいた。署長が茶をすすってから、いいわよ、と言うのが、口の動きでわかった。  紺野君……、と、警務官が目配せした。はい、と応《こた》えて、紺野は署長室に入る。すると、警務係長が外に出てドアを閉めた。並んでいた署員たちが渋面を作って、自室に戻るのが目に浮かんだ。  紺野は署長の前で直立不動の姿勢を作ってから、一礼して、 「ご下命の件につき、報告書を持参いたしました」  と、申告すると、 「ご苦労さま。わざわざ、静岡まで足を伸ばしたんだって?」 「はい。少々、気がかりなことがありましたので、わがままを通させていただきました」 「そんなことはないわ。近頃は何でもかんでも、電話やファクスで済ませようとするし、インターネットなんかに頼ってしまう。よくない傾向よ。二進法の文明の利器なんかじゃ、雅《みやび》な香りは決して伝わらない。……でしょ?」  何のことかわからない。 「恐れ入ります」  と、当たり障りのない返事でごまかして、左手に持っていた書類挟を開き、署長に向けて、差し出した。  どれどれ……、とつぶやいて、署長は早速、報告書に目を通した。警務官の方を窺《うかが》うと、テーブルのいつもの席で、報告書を読み返している。紺野は立ったまま、双方の紙のめくれる音を聞いていた。  やがて、うーん……、と、署長は首をひねってから、 「この……、不起訴になった蒲田の強盗傷害だけど、当時の担当検事に事情を聞くわけには行かなかったの?」  と質問してきた。 「その件につきましては、すでに当該検事は退官し、神奈川の方で法律事務所を開いていると聞いております。署長はご存知、ということでしたので、報告書には記載しませんでした」 「……知らないわね」  署長が首をひねると、 「恐れ入りますが」  と、警務官が口を挟んできた。 「たぶん、それは先月末の会議の時だと思います。草間係長の方から説明がありましたが、その時は、新区長が来署されたため、署長は急遽《きゆうきよ》、中座されました」 「ああ、あの時? 気まぐれな区長さんで、ちょっと慌てたわ。そう、あの時……」  署長は不満気な表情でうなずいた。 「実は……」  紺野は遠慮がちに言った。「その元検事に話を聞こうかどうか迷ったんですけど、現在は弁護士であるわけですし、捜査本部の方でも接触しなかったということですので、それに倣《なら》いました」 「まぁ、いいでしょう。相手がヤメ検さんじゃ、逆効果になるかも知れないし」  と言うと、報告書を閉じて、 「刑事課長は読んだの?」  署長は椅子の背もたれに寄りかかった。 「いいえ。課長は外出しております」 「何ですって? まだ帰っていないの?」  署長はインターホンに手を伸ばした。それは署内各課と直通している。通話の相手は警務係長だった。署長は、刑事課長の現在地を確認するように指示して、再び、報告書を手に取った。  回転椅子の角度を変え、今度は脚を組み、窓の方を向いて目を通した。そして、ちょうど三枚目にかかった時、インターホンが鳴った。署長は受話器を取り、わかったわ、と答えてから、先程の羊羹を四人分、持参するように、と指示した。 「刑事課長の車は間もなく帰庁するそうよ。待ちましょう」  と言うと、報告書を持って立ち上がり、テーブル席の方に向かった。紺野も移動し、前回と同じ椅子の前に立った。 「かけなさい……」  と、署長は紺野に言ってから、警務官の方に目を向けて、 「イベント期間中、中央通りを全面通行止めにして屋台村を作りたい、なんて言い出したのよ。驚いたわ」  全く別の話題を持ち出した。 「中央通りに? 中央公園、の間違いじゃないんですか?」  と、警務官。署長は首を振って、 「私も、聞き直したわ。中央通りに間違いない」 「ほう……」  警務官が首をひねる。 「言うに事欠いて、『中央公園では、子供たちの遊び場を取り上げるようなもので、好ましくない』ですって。全く、見え見えの口実だわ。狙いはわかっている。あの旦那《だんな》衆は、ただ買い物客を呼びたいだけなのよ」 「不景気ですからねぇ。商店街を、何とか活性化したいんでしょう」 「活性化は結構だけど、火の手が活性化したらどうするつもりなのかしら。もし寿町辺りでテンプラ油なんかに火が燃え移りでもしたら、どうにもならないわ。あそこは絵に描いたような袋小路。中央通り上の屋台が邪魔して、消防車が入れないとなると、燃えるに任せるしかない」 「おっしゃる通りです」 「火災だけじゃない。急病人が出たら、救急隊員は担架をかついで、何百メートルも走らなければならない。助かる病人も助からなくなるわ。そんな許可を出したら、消防署長から文句を言われる。住民の安全を犠牲にしたら、経済効果なんか、一日で吹っ飛んでしまうわよ。商店街の役員たちは、そういう視点が欠けているのよ。去年の山車《だし》の事故だって、ただ段取りが悪かったからじゃないわ」  机の上に置いた右手の指が、まるでピアノの鍵盤《けんばん》を叩《たた》くようにせわしなく動いている。不機嫌な時は、禁煙を破るか、ピアノ指かの、どっちかだ。 「念のために、消防署長の方にも知らせておいた方がいいかも知れないわね」 「わかりました。早速、庶務の方へでも耳打ちしておきます」  警務官がメモをする。その時、コンコンと、ドアをノックする音がした。  女子職員が羊羹を届けた十五分後に、田所が現れた。おそらく、警務係長から署長室の様子を聞いたのだろう。その手には、紺野が提出した報告書を持っていた。  田所は、お待たせ致しまして、と、署長に目礼してから、警務官とは反対側の席に腰を下ろした。紺野は左側の警務官と、右側の田所に挟まれる格好になった。  田所が席についてからも、署長は商店街のイベントの話を続けた。 「大体、ガードマン代わりに、警官を使おうっていう根性が気に入らないわ。今回は出さないでいいわ。今年は百パーセント、自主警備でやってもらいましょうよ」 「お怒りは、ごもっともですが……」  警務官が猫なで声で、 「あそこの商店街は交通安全運動期間中、交通整理員を積極的に配置しておりますし、防犯運動のキャンペーンも、殊《こと》の外、前向きに取り組んでいると聞き及んでおります。警察協力団体と良好な関係を維持するためには、今後も、従来通りに対応した方が賢明ではないか、と考えますが」 「そうなの……」  署長は口元を歪《ゆが》ませて、 「まぁ、そういうことなら、仕方ないわね。新しい企画書を見てから、もう一度、検討することにするわ」  と言うと、 「それより、紺野レポート。……刑事課長、目は通した?」 「はい。車の中で、一通りは」 「そう。で、感想は?」 「参考になりました」 「それだけ?」 「えー……。ご承知のように、合同捜査本部は今回、保秘の関係で、この二人の元警官に対する事情聴取を差し控えているようです。しかし、この度の署長のお取り計らいによって、二人に直接、面接し、芝山の過去の事件に関して再確認ができた、という点は、誠に有意義であったと考えます」  まるで国会答弁のようだった。さすがに、署長が渋い顔をして、 「お世辞はやめてよ。足の裏がムズムズするわ」 「…………」 「この際、捜査本部事件のことは忘れてもらって、何はともあれ、まず、この二人の元警官の見解について、感想を聞かせてくれない?」 「かしこまりました……。上泉氏につきましては、その主張している内容は、はっきり申し上げて、昭和時代の少年係の発想のような感じがしますね」 「ほう。平成の時代には通用しない?」 「通用しない、と言うと語弊がありますが、何と申しましょうか、理念は正しいんですけど、その……」  田所はパラパラと報告書を一めくりしてから、 「たとえて言えば、三億円事件の頃、大衆食堂のカレーライスは一皿七十円だった、と言うようなもんです。当時と今とでは、貨幣価値が違いますよ。それなのに、一皿七十円の感覚だけを引きずっているような、そんな感じがしますね」 「三億円事件……。そう言えば、あれは府中署管内の事件だったわね。確かに、あの頃のカレーライスと、今のとでは、中に入っている具も違う。そもそも、近頃じゃ、大衆食堂、という看板も見かけなくなったわ」 「おっしゃる通りです。芝山はカレー一皿五百円、の感覚で世の中を見ているわけです。ところが、上泉氏の対応は、いまだ、一皿七十円。きっと、芝山は心の中で、シメシメと思ったことでしょうね」 「でも、当時の上泉係長は、シメシメと思われてもいいんだ、というポリシーを持っていた。これについては、どう?」 「桜の枝を折れば、誰でも罪悪感を抱く、というポリシーなんでしょうが、桜の枝を折っても許されるなら、今度は、天然記念物の千年杉でも切り倒して、金にするか、と考えるのが、昨今の少年たちの発想ですよ」 「すると、芝山は実際、放火の真犯人で、それを見逃したことが、殺人犯を育てた、と?」 「もちろんです。少なくとも、公妨だけは立件すべきだったと思いますね。確かに、苦労して立件したところで、どうせ少年法の壁に跳ね返されてしまうわけですけど、だからと言って、ただ手を拱《こまね》いていては、被害者を増やすだけですよ。可能な範囲で、いろいろ工夫し、打てる手を打つのが、少年係の責務と考えます」 「なるほど。で、もう一人の元警官については、どうなの?」 「ああ、吉永とかいう元係長ですか? 警察を中途退職する人間の話なんて信用できませんね。彼らに共通しているのは、屈折したものの見方考え方をしている、という点です。連中は警察に適応できなかったのではなく、社会に適応できないんです。つまり、社会人として、未成熟なんですよ」  と首を振った。 「この、吉永という人物と面識は?」 「ありません。記録によると、警官としての経歴は、十三年か十四年でしょう? そんな駆け出し係長の捜査論なんて、全くもって笑止千万、片腹痛いですな」 「そうかも知れないけど、この、物的証拠に関する見解は面白いんじゃない? 物証と言うと、あたかも、動かぬ証拠、というイメージがあるけど、気をつけないと、とんだことになる。言うなれば、体操競技や、フィギュアスケート競技みたいなもので、点数が、九・五の方が、九・四よりも、数字の上では優《まさ》っているから、いかにも、勝ち負けがはっきりしているように思える。でも、それは錯覚なのよね。条件次第で、点数は簡単に引っくり返ってしまう。事実、この前のオリンピックでも、ほとんどの審判が自国の選手には、いい点をつけていた。まぁ、審判も人の子だから、仕方がないけど」 「仰せの通りです。しかし、判定の方式に多少の欠陥があったとしても、その方式で勝ち負けが決定するわけですからね。選手もコーチも、それに従わなければ、メダルは取れないわけです」 「すると、蒲田の強盗事件も芝山が真犯人だったが、この吉永捜査官が詰めを誤ったために、不起訴処分になった、と?」 「そう思いますね。弁護人が容疑者に有利になるように立ち回るのは当然のことです。検察官が公判を維持できるように、石橋を叩くことも当然のことです。だから、警察の捜査担当者は、そういうことを見越した上で、立件送致すればいいんです。そもそも、ベストの法制度なんてありませんよ。日本だけでなく、どこの先進国だって、何らかの欠陥部分を抱えています。この吉永氏の主張は、しょせん、負け犬の遠吠《とおぼ》えですよ」 「なるほど。よくわかったわ」  とうなずくと、署長は警務官の方に目を向けて、 「警務官は、どう思う?」  と尋ねた。警務官は、それまで組んでいた腕を外して、 「捜査のことは、何分にも専門外のことですので、発言は遠慮させていただきますけど……」  と前置きしてから、 「上泉氏のポリシーを正しいと見るか、間違っていると見るかは、性善説によるか、性悪説によるか、ということと直結していると思います。犯罪少年に対して、どう対処すればよいか、特効薬はありません。少年個々によって、対症療法を考え、粘り強く辛抱強く指導育成することが肝要かと思います。また、吉永氏の思想は、言うなれば……、明治生まれの刑法と、戦後、新憲法の下に育った刑事訴訟法をワンセットにして運用している、現在の法システムの歪《ゆが》みを指摘したものではないでしょうか。一面的に見れば、正鵠《せいこく》を射ている部分もなくはない、と思われますが、法に携わる者は柔軟かつ、多面的なものの見方をすることが肝要かと思います」  警務官らしいそつのない発言だった。田所が首の回りを掻《か》く。何をか言わんや、と言いたい時に見せる仕草であることは、刑事課員なら、誰もが知っている。そして、田所が警務官のことを快く思っていないことも、知らない者はない。 「刑事課長、何か意見があるの?」  署長が尋ねた。 「いいえ、別に……」  と、田所が答えると、署長は再び、警務官を見て、 「では、芝山の過去の事件への関与については、どう? また、二人の元警官は対応を誤ったと思う?」  と、尋ねたが、 「先程、申し上げましたように、私は捜査に関しては、何も申し上げられません。一応、それなりの印象というものはありますけど、専門分野外のことですので、それを申し上げることは、差し控えさせていただきます」  と言って、口をつぐんだ。刑事課長の手が再び、首に伸びたが、今度はネクタイの結び目を触っただけだった。 「そう……」  署長は紺野に目を向けた。 「では、紺野主任。私見の部分が、口頭報告、となっているけど、報告書に書けないようなことでもあるのかしら?」  確かに、そういうケースでの、口頭報告、もある。プライバシーに関する情報、未確認事項、そして、スキャンダルに発展しそうな要素を含んでいる場合などだ。 「いいえ、決して、そういう意味ではありません。実は……」  紺野は頭をかいて、 「いくら考えても、うまいこと、文章にできなかったものですから……、その、元々、書くことは苦手ですし、無理に文章にしても、かえって、わかりにくくなるのではないか、と思いまして……。もちろん、言葉で説明しても、生来の口下手なものですから、うまく、ご説明できるかどうか、自信がないのですが……」  と言って、署長の顔色を窺《うかが》うと、 「前置きはいいわ。とにかく、話しなさい。こう見えても、私は聞き上手なのよ」  署長は両方の耳を引っ張って見せた。 「恐れ入ります。では、一応、私なりに考えて参りましたので、申し上げます」  紺野は深呼吸をして、 「署長からは、芝山の澄んだ目について調べてみろ、と仰せつかりました」  と、まず念を押した。「それで、お手元の報告書に記載した通り、二人の元警官に会って、過去の事件について、いろいろ話を聞いたわけです。しかし、事件の経緯については、おおよそ把握できても、ご下命の、澄んだ目に関する手がかりを得ることはできませんでした。それで、警官の目を通してでなく、彼の家族や友人の目を通しての芝山像、それも、少年の頃のことを知りたくなったんです。芝山の原点を探れば、何か手がかりが得られるのではないか、と考え、できれば、芝山の身内の人間に話を聞きたかったんですが……」  紺野は田所を一瞥《いちべつ》して、 「何分にも、現在、捜査中のことでもありますので、芝山とは利害関係のない第三者的立場にある人物に会おうと考えたわけです。それで、まず、小学校三年から中学校三年まで、芝山が祖父母と共に暮らした静岡の地を訪れたわけです」 「静岡に出向いた、と聞いた時、私は、悪くない判断だと思ったわよ」  署長も田所を一瞥して、 「警官から見た人物像というのは、しょせん、警官から見た人物像にすぎないわ。同じ目線から見た風景は大同小異よ。それより、芝山の仲間とか、敵対関係にある人物、さらには、被害者等々……。様々な立場から見た人物像を知ることは、真実に近づく一つの方法だと思った。着眼点はいい、と思ったわよ」 「恐れ入ります……」  思いがけない褒め言葉だった。 「で……、どんなことが、うまく説明できないの?」  署長が急《せ》かす。 「うまく説明できない、と言うか、適切に表現できないと言うか……」  と、口ごもると、 「いいから、ともかく、言ってみなさい」  署長が面倒臭そうに言った。その言葉で、踏ん切りがついた。 「では、申し上げます。澄んだ目の正体は、後ろめたさを感じない心、だと思います」  純粋、という言葉を避けたのは、芝山の無実を主張しているわけではない、ということをはっきりさせたかったからだ。 「後ろめたさを、感じない心……」  署長がメモしながら、繰り返した。 「はい。ただし、この場合、後ろめたさを感じない、というのは、正義だからとは限りません。悪であっても、本人が、それを悪だと感じなければ、後ろめたさを感じない、という、そういう意味です」 「…………」  署長の口が動きかけたが、言葉は発せられなかった。 「そう考える根拠は?」  警務官が尋ねた。 「根拠と言うより、直感です」 「…………」 「中学時代の芝山の尊敬する人物は、ロビン・フッドだったそうです。いささか子供っぽいんですが、その子供っぽさと、ロビン・フッドという人物像こそが、芝山を知る鍵《かぎ》だと思うんです」 「ロビン・フッド?」 「はい。人名事典で調べたんですが……」  紺野はメモを見て、 「ロビン・フッドというのは、十二、三世紀のイギリスの伝説上の義賊で、征服者のノルマン人に対する反抗の象徴……なんだそうです」 「でも、君……。それは中学生の頃の話だろう? 今の芝山は三十前の、大の大人だ」 「はい。確かに。でも、その意識は、今も変化していないんじゃないでしょうか? 芝山にとって、現代も、中世も同じなんだと思います。えーと……」  と言うと、再び、メモを見て、 「専制王の支配体制、高い税金、残酷な代官、貪欲《どんよく》な僧侶《そうりよ》、苦しむ領民という構図……なんだと思います。つまり、芝山にとって、江戸川署は、中世のイギリスの代官所と同じなんです。捕まっても、恥じるところがないから、義賊気取りで、堂々と胸を張っていられるんでしょう。だから、澄んだ目をしていられるんだと思います」 「言わんとすることはわかる。だが……」  田所が言った。「芝山は代官屋敷を襲撃したわけじゃないぞ? 奪った金を貧しい領民に分け与えたわけでもない。第一……、義賊である正義の味方が、妻子持ちの知人を殺すはずがない」 「いいえ、課長。芝山にとっては、世の中の全て、つまり、自分以外の全てが、敵対する異民族なんだと思います。と言うより、ひょっとしたら、自分以外の者は、自分と同じような人間ではない、と思っているのかも知れません」 「人間ではない、だと?」 「はい。ここの説明が難しいところで、実は、ある公園で、幼い子供の澄んだ目を見て思いついたんです。その子は初対面の私に、お菓子をくれました。たぶん、まだ、事の善悪はもちろん、言わば、東と西、昼と夜、敵と味方の区別がつく以前の、純粋|無垢《むく》な状態にあるからだと思います。だから、警戒することもなく、疑うこともなく、私に近づいて来たんだと思うんです」 「…………」 「芝山も、ある意味で同じなんです。普通の犯罪者は、悪というものを認識した上で、悪事をなしています。その罪の意識が、いわゆる悪人面を作っていると思うんです。芝山の場合、それとは異なり、善悪の基準そのものが、我々とは異なっているんではないでしょうか? もし、我々の基準の悪でも、芝山の基準で正義、であれば、彼は何ら、後ろめたさを感じることもなく、堂々と胸を張り、澄んだ目をしていられると思います」  と言って、私の言いたいことがわかりますか? という思いで、三人の顔を窺った。すると、 「それは、後ろめたさを感じない心というより……」  田所が言った。「精神障害の世界の問題じゃないかな。——刑法第三九条、心神喪失者の行為は罰しない……」 「いいえ、違います」  紺野は即座に首を振った。「心神喪失者とは、精神障害などによって、判断力が無に近い者のことでしょう? 芝山の場合は、判断力が無どころか、怜悧《れいり》な分析力まで兼ね備えています」 「まぁ、それはそうだが……。しかし、それにしても、わかりにくい。その説明には、少し無理があるような気がする」  田所が腕組みした。すると、 「説明が中途半端だからよ。まだ続きがあるんじゃないの?」  署長が言った。紺野は、はい、とうなずいて、 「適切な例かどうかわかりませんが、料亭の板前は、包丁で魚をさばいても、罪悪感に苛《さいな》まれる、ということはありません。せいぜい、年に一度か二度、魚供養みたいなことをする程度だと思います。魚は命ある生き物であっても、板前にとっては、料理する対象物にすぎません。だから、何百匹何千匹の魚を殺しても、後ろめたさを感じることがありません。まな板の上で、血を流そうが、ピクピクもがこうが、平気で包丁を使うことができるんだと思います」 「活《い》け造りなら、客も喜ぶしね……」  田所が歯を見せたが、署長の顔を見て、すぐに口を閉じた。紺野は続けた。「もしも、ここに、人と魚の区別がつかない人物がいたとしたら……。もしも、自分以外の人の存在を、魚のようにしか考えないような人物がいたとしたら……。その人物は、人の首を切り落とし、腹わたをえぐり出し、その死体をバラバラにしても、料亭の板前同様、穏やかな顔をしていられると思うんです。つまり、澄んだ目をしていられると思うんです……」  と言って、紺野は再び、三人の顔を窺《うかが》った。 「なるほど、面白いわ。その説明なら、少し、わかる……」  署長がつぶやいた。  その後、署長室は奇妙な静寂に包まれた。それが何を意味するのか、紺野にはわからなかった。脇の下をゆっくりと汗が流れて行く。体中に汗をかいていることに、その時、初めて気づいた。 「感想は?」  署長は前方を見つめたまま尋ねた。今度は、どちらの方にも目を向けなかった。 「どんな悪党にも善悪の意識がある、というのが常識だが……」  先に、田所が言った。「肝心の善悪の基準が、我々とは異なるとなれば、これは、事実上、善悪の意識がないのも同然だ。そういう意味なのかな? 紺野主任」 「はい。ただし、向こうから見れば、我々の方こそ、善悪の基準がずれている、と映るでしょうけど……」 「もっともだ。だから、そういう人間には、後ろめたさ、というものがなく、堂々としていられる、という理屈だな?」 「はい。我々に、後ろめたさがなく、堂々としているのと同じ、という意味です」 「もし、その通りだとすると、あの男への疑惑は、無限に拡大して行くことになるぞ」 「…………?」  紺野には田所の発言の意味がわからなかった。それを見て取ったのか、 「わからんのか? 芝山に対する容疑は、今、合同捜査本部が把握している何件かと、過去の放火、強盗だけじゃなくなる、ということだよ。ボランティアに行って転落死したという女子高生は散歩の途中、奴に突き落とされたのかも知れんぞ。行方をくらましたという同棲《どうせい》相手も、ひょっとしたら、奴に絞め殺されて、アパートの床下に埋まっているかも知れん。それから最近、別れたOL、これも所在が確認できていないということだから、ひょっとしたら、ということになる。何しろ、周りの人間なんて、タイかヒラメくらいにしか考えない男なんだからな」  と言って、そうだろう? と、横目で紺野を見た。 「はい。もしかしたら、そうかも知れません……」  解釈は個人の自由である。紺野はそういう意味で、相槌《あいづち》を打った。  署長は警務官の方を向いた。すると、それを待っていたかのように、 「時代が時代ですからね。確かに、澄んだ目をした殺人鬼がいても、不思議ではないかも知れません。しかしながら……」  と、警務官が発言した。元々、田所と異なる意見の持ち主である。 「そのことばかりを強調して、全ての容疑者を犯罪者扱いするのは、いささか危険だと思います。澄んだ目の殺人者が稀《まれ》に存在する、ということは、すなわち、澄んだ目の殺人者などというものは、ほとんど存在しない、とも言えるわけです。そして、裏を返せば、濁った目をした無実の容疑者、という対象も、稀に存在するということでもあるわけです。従って、法を司《つかさど》る立場にある者は、慎重な上にも、慎重な対応を心がけるべきだ、と考えます。……以上です」  と言って、署長に目礼した。警務官としては、それで、この会合を締めくくろうとしたに違いない。ところが、 「濁った目をした……無実の容疑者、だと?」  田所が繰り返した。 「…………」  警務官の表情が一瞬、強張《こわば》った。おそらく、自分の失言に気づいたのだろう。先程、捜査に関しては発言を差し控える、と発言している。 「それは、どういうことだ?」  田所が目を剥《む》いた。 「いやいや、単なる私感です。どうか、お聞き流し下さい」  と、軽く頭を下げたが、 「いや、聞き捨てならんな。私感でも結構だ。今後の捜査のためにも、ぜひとも拝聴したい」  田所が食い下がる。警務官の顔が微《かす》かに紅潮した。そして、 「わかりました。そこまでおっしゃるのなら……」  警務官は居住まいを正した。  田所は年上であり、警官としての拝命は早くても、警視昇進は警務官の方が早い。署ナンバー3のプライドが腹をくくらせたのかも知れない。 「魚の活け造りどころか、波打ち際の岩|海苔《のり》を採ることにも罪悪感を感じる人物はいる、ということですよ、刑事課長。そういうナイーブな人物が捜査の対象になった場合、過大な罪悪感から、あたかも真犯人のごとき表情や言動をしてしまうかも知れない、ということです。つまり、善人面をした悪人のことだけでなく、悪人面をした善人もいるということを考えて、対処すべき、と申し上げたんです」 「おいおい、勘違いしないでくれよ。紺野主任はな、澄んだ目をした人物の例外事例を述べたんだ。濁った目の善人なんて、そんなことは一言も発言していない」  と、吐き捨てるように言った。しかし、 「そうは思いませんね」  警務官は引き下がらない。何しろ、冤罪《えんざい》防止は警務官に課せられた最重要任務だ。 「澄んだ目の殺人者が、稀に存在するというなら、当然、濁った目の善人も、稀に存在するはずです。この道理に矛盾はないと思いますが、いかがです?」 「空理空論だな。そんなことじゃ、捕まるホシも捕まらないよ」 「だったら、捕まえなくても、いいんじゃないでしょうか?」  売り言葉に買い言葉だった。なぜか署長は沈黙している。 「警察は、いや……、捜査係はね。犯人を捕まえて、ナンボのものなんだよ。多少の無理を覚悟で、勝負に出なきゃならないこともあるんだ」 「ほう、これは驚きましたな。耳を疑うお言葉だ……」 「そうだろうとも。高みの見物人の目には、遠すぎて見えない、という部分があるからなぁ。丘の高台に住む金持ち連中から眺める限り、海岸線の消波ブロックは目障りだろうけどね。海辺近くに住んでいる庶民にとっては、死活問題なんだよ。景観なんかの問題じゃないのさ、警務官。津波が押し寄せて来て、最初に犠牲になるのは、いつも庶民なんだ」  田所が強い口調で言った。しかし、 「確か、バートランド・ラッセルでしたかねぇ。『たった一人の無実の人が罰せられるくらいなら、罪を犯した九十九人の人が捕まらない方が、ましだ』と言ったのは」 「その通り。同時に、『有罪の証明にかかる金は納税者が払うべきで、無罪の証明にかかる金は個人が払うべきだ』とも言っている。俺には賛成できないけどね」 「もちろん、私も、その点に関しては反対ですよ。でもね、刑事課長……。警察は法の不備まで、責任を負う必要はないんですよ。法の抜け穴をくぐる相手まで、無理して検挙する必要はないんです。明らかに法に抵触している対象者だけを検挙すればいいんです」 「こりゃ驚いた。警務官らしからぬご発言だ。すると、捕まえやすい違法行為者だけを捕まえろ、と言うのか?」 「勘違いしないで下さいよ。法の抜け穴をくぐっている者は、違法行為者ではないでしょう? 法に抵触していないわけだから、その時点では、まだ犯罪者じゃありませんよ。いかに悪党であってもね」 「言葉の遊びだな。それこそ空論だ。いいかね? 捜査本部は今回、凶器が発見されなくても、また、自白が得られなくても、芝山を逮捕し、送検したんだよ。捜査というものはトランプゲームとは違う。五十三枚のカードが、きちんと揃っていなくても、勝負しなきゃならないんだ。いや、近頃じゃ、そういう時の方が多い」  二人の議論は続いた。  紺野はこれまで、何度か、幹部同士の言い争いを見たことがある。だが、間近で見るのは初めてのことだった。しかも、この時は、あたかも自分のせいで、二人が言い争いをしているような気がしていた。左右から声が発せられるたびに、紺野は身を固くし、息を殺し、固唾《かたず》をのんで、ことの成り行きを見守った。 「刑事課長は誤解しています。私が言いたいのは、自衛隊がシビリアン・コントロールの下に機能しているように、警察も議会が制定した法律や条例の範囲内で職務執行すべきだということです。昨今の、何でもかんでも警察に、という風潮は、長期的に見れば、極めて危険な傾向だと思います。我々は世論にあおられることなく、分をわきまえ、むしろ、できないことはできない、と、正論を発言すべきなんです。警察力の限界というものを、はっきり提示すべきなんです」  警務官は語気を強めた。 「いやいや、ダメだ。そんなこっちゃ、何もできない。二番|煎《せん》じ、三番煎じの小物しか、法の網にはかからないよ。大物は、ヒット・アンド・アウェーで、いつになっても捕まらない。それに……、そもそも、検挙第一主義が冤罪の温床、とでも言いたいんだろうが、そういう発想自体が、実態を把握していない証拠だよ。警官不祥事にしても、捜査の怠慢、モラルの低下、制度疲労なんかじゃない。そういうものの見方というものは、何度も言うが、高みの見物人の見方なんだ」 「ほう……。これは異なことをおっしゃる。警察不祥事は私の専門分野だ。一体、何が原因だと? ぜひとも、ご教示願いたいもんですな」  警務官は慇懃《いんぎん》無礼な態度で尋ねた。 「それはな、この際だから、はっきり言わせてもらうが、一にかかって、仕事の量にあるんだよ。次から次へと仕事に追いまくられて、丁寧な仕事をする余裕なんかない。誰も指摘しないが、ルーティン・ワークだけで精一杯、という現状が諸悪の根源なんだよ。唯一無二の原因なんだ。好き好んで、調書を捏造《ねつぞう》したり、容疑者をぶん殴って自白を強要する警官なんていない。手抜き、はしょりは、今日中に一区切りつけておかないと、明日の大仕事にかかれないからだ。病院の医療過誤の背景に、医師や看護士の過酷な労働問題があるように、警察不祥事の背景にも、慢性的な人手不足の問題がある。警務官殿には、そういったありのままの現実を、しかるべき筋に上申して、善処していただきたいものだ」 「そんなことは言われなくても、承知していますよ。そもそも、仕事の量が多いというのは、余計な仕事を抱え込んでいることに原因しているからでしょう? それもこれも、法の不備にまで、責任を負おうとしているからですよ。大風呂敷《おおぶろしき》を広げられるだけ広げて、あっちこっちの皺《しわ》を伸ばすのに、四苦八苦しているだけじゃないですか。私はその点を指摘しているんです」  議論は堂々巡りの様相を呈してきた。 「もういいわ。その辺でストップ」  署長がようやく、待ったをかけた。紺野はホッとする思いだった。 「お互いの主張は、よくわかった。双方、立場の違いがあるから、見解が異なるのは当然だわ。同じ傘屋でも、日傘を売る場合と、雨傘を売る場合とでは、天気に対する考え方が百八十度、異なる。そういうことよ」 「…………」 「結局のところ、警察は入手した証拠に基づいて逮捕し、送致しなければならない、というか……、それ以外のことをしてはならない、という、ごく当たり前の結論になるのかしら? 容疑者の見かけは、どうあれ……」  と言って、署長は、まず田所を見た。 「おっしゃる通りだと思います」  田所がうなずく。次に警務官の方に目を向けると、 「私もそのように考えます」  と、同じようにうなずいた。ようやく、二人の意見が一致したところで、署長は紺野に目を向けた。  紺野は慌てて、目を伏せた。もちろん、異論があったからではない。自分は発言する立場ではないと思ったからだ。 「紺野主任」  署長が言った。「申し訳ないけど、事のついでに、もう一働きしてちょうだい」 「もう一働き?」  紺野は顔を上げた。 「言うなれば、確認作業。最後の捜査よ。芝山に直接、面会して、確かめてもらいたいことがあるの」 「でも……」  紺野は田所に目を向けた。すると、 「それはまずいと思います」  田所が身を乗り出した。 「まぁ、聞いてよ」  署長は田所を制するように言った。「私はこの報告書を読みながら思ったのよ。確かに、芝山がシロかクロか、客観的に判断することは不可能に近い。でも、明らかに、彼が犯している犯罪が一つだけあるわ」 「…………?」 「十何年か前の……、威力業務妨害罪。ログハウスの中にヘビを投げ込んだこと。このことだけは間違いない。でしょう?」 「しかし、署長。もう時効ですよ。それに、少年時代の犯行です」  田所が渋面を作った。 「わかっているわ。だから、調べてみたいのよ。時効の犯罪なら、捜査本部の捜査と競合することもない。その意味で、問題はないでしょう?」 「ええ、まぁ、そりぁそうですけど……」 「刑事課長には、その段取りをつけてもらいたいわ。捜査本部では芝山を二十四時間、取り調べしているわけじゃないでしょう? 芝山の体があいている時なら、迷惑にはならないはずだわ」 「わかりました。そういうことでしたら、早速、派遣中の、うちの署員にでも」 「それはだめ」  署長が即座に首を振った。「この仕事は紺野主任でないと、意味をなさない。——ただの目に、なに石山の秋の月……、と言ってね」 「…………?」 「芝山の目を見て、澄んでいるか、濁っているか、その見極めができない刑事には無理だわ。もし、ヘビのことを尋ねてみて、芝山の澄んだ目が変化するかどうか……。私はぜひ、それを知りたい」 「なるほど……」  警務官がつぶやいた。 「刑事課長は知りたくはないの?」  署長が尋ねた。しかし、 「はぁ……」  田所は生返事しただけだった。 [#改ページ]     �  芝山は再逮捕を繰り返されていたため、江戸川署の留置場に、文字通り、留め置かれていた。  この措置は、ロジカルな法律家たちの批判の対象になっているところの、いわゆる代用監獄であり、冤罪《えんざい》の原因と非難されているものなのだが、しかし、日々、犯罪現場で活動している捜査員にとっては、良くも悪しくも、この制度に対する考え方は根本的に異なる。  したたかな容疑者、非協力的な参考人、無関心な市民、そして、もの言わぬ殺人被害者と、数少ない物的証拠を手がかりにして真相を明らかにしなければならないとしたら、代用監獄はやむを得ないシステム、と位置づけられている。  もっとも、やがては消えゆく制度、という認識では、反対者たちと一致していると言えるだろう。ただし、それは、時代の要請には何人もあらがうことはできない、という意味においてだ。  署長からの新しい命令が発せられて五日ほどしてから、紺野は田所に呼ばれた。 「例の件だが、今日の午後に実施する」  田所はつっけんどんに言った。前日、田所は署長室に呼ばれている。二十分ほどしてから、苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔で戻ってきたのだが、その時以来、不機嫌だった。  田所が署長の特命に対して消極的であることは確かだった。それもそのはずで、捜査本部では、取調担当官を交代することも、緻密《ちみつ》な計算に基づいている場合がある。城北署の署長の申し出は捜査本部の容疑者との駆け引きを台なしにするおそれさえあった。  全く、シロウトはこれだから困る……。  書き損じの書類を丸めて、クズ箱に叩《たた》きつける田所の姿は、そう言いたげだった。  早めの昼食をとり、正午前に、車で江戸川署に向かった。運転は地域課から応援勤務に来ている巡査部長だった。紺野は助手席に乗り、田所は後部座席に一人で乗った。田所は相変わらず不機嫌で、車内は重苦しい沈黙に包まれていた。  城北通りから環七通りに出たところで、渋滞に巻き込まれた。とたんに、巡査部長が道路地図を取り出す。すると、 「抜け道なんか探す必要はないぞ」  田所が言った。運転手は地図をダッシュボードに戻した。車はなかなか前には進まず、歩道を行く自転車にも追い抜かれた。  紺野は座席にもたれ、虚空を見つめながら、これから自分のすることについて、思いを巡らせた。  自分は江戸川署で、一体、どんな取り調べをすれば、効果的だろうか? どんな質問の仕方をすれば、相手の心の動きを読み取ることができるだろうか?  捜査本部員でない自分が取調官の席に座った場合、おそらく、芝山は警戒し、当方の意図を見抜こうとするはずだ。そんな状態で、あれこれ質問したところで、馬耳東風と受け流すことは目に見えている。まずは、雑談から入り、相手の警戒心を取り除き、打ち解けるまで、最低、三十分。それから、さりげなく、子供の頃の昔話をする。祖父母との暮らし、学校生活、そして、リゾート村でのこと。芝山が懐古に浸るまで、やはり、三十分くらいは要するだろう。そして、芝山の心が丸裸状態になったところを見計らって、不意をつく。  ログハウスにヘビを投げ込んだのは、お前だろう?  その時、あの澄んだ目に何らかの変化が起こるだろうか? もし、何の変化も示さなかった場合、芝山は生まれながらの虚言癖ということになる。つまり、現在、疑われている数々の事件について、澄んだ目が無実の根拠にはなり得ない、ということだ。  しかし、もし、その反対に、あの澄んだ目に少しでも動揺の色が浮かんだ場合、芝山には良心が存在するということになる。つまり、澄んだ目での否認は信用性がある、ということになる。それは、一連の容疑について無実の余地がある、ということになるのだ。  今、その判断ができるのは、自分だけということになる。先入観を持たず、正しい判断をしなければ……。  紺野は思わず、拳《こぶし》を握りしめた。  まるで細長い駐車場のようだった環七通りも、道路幅が広がるに連れ動き出し、区境を越える頃には、横を行くオートバイと併走できるようになった。そして、予定の午後一時をわずかに過ぎて、捜査車は江戸川署の通用門に入った。 「とうとう来ちゃったよ……」  田所がため息をつきながら車から下りた。運転手を残して、二人は直接、刑事課に向かう。  捜査本部は四階の大会議室にある。そのためか、一階の刑事課は閑散として、五十席ほどあるデスクに刑事の姿はわずかだった。  出入口近くには�相談受付�というコーナーがあって、衝立《ついたて》で仕切られている。そこで、中年の女性刑事が参考人らしき青年の相談に応じていた。  刑事部屋の中央付近で、若い刑事が机の上に並べられた携帯無線機の電池交換をしては、その都度、感度の点検をしている。その先では、鑑識係と初老の刑事が立ったまま、指紋原紙をかざして、何やら議論をしていた。そして、部屋の奥では、制服を着た記録係が二人、背中を丸めて捜査書類に目を通していた。  窓側にある捜査幹部席では、刑事課長らしき人物が回転椅子に深々と身を沈め、煙草を吹かしながら、書類に目を通している。  田所は躊躇《ちゆうちよ》することなく、その席に向かった。紺野も後に続いた。すると、相談コーナーにいた青年が二人の方を振り向いた。それはゾッとするほど、殺気だった眼差《まなざ》しだった。すかさず、女性刑事が、 「よそ見をせずに、説明を続けて」  と、たしなめた。 「すみません……」  青年がペコリと頭を下げた。「妹は……、アルバイト先でも口をきいたことはないんですよ。なのに、男から、しつこい電話が続いて……」  通り過ぎる時、相談内容が漏れ聞こえた。  ストーカーの相談か……。  紺野はそう思いながら、田所の後を追った。  机のプレートには、�刑事課長 警視 寺崎秀直�とあった。 「これはこれは、遠路はるばる……」  と言って、寺崎は眼鏡をずらして、壁の時計を見た。 「渋滞で遅れちまった。昼飯時なら、道がすいていると思ったんだが、どうやら、近頃のドライバーは、飯まで抜いて働いているらしい」  田所は来客用のソファーに、勝手に座った。 「いやいや、遅れて正解さ。昼飯前に着いていたら、あの野郎め、ピザを食いたい、なんて言い出したかも知れんからな」 「……ピザ?」 「うん。それも、一枚四千円もするシーフード・ピザというのが好物でね。それを一人でペロリと食っちまうんだ。全く、どういう胃袋をしているんだか」  と、首をひねる。 「すると、芝山は今、ブタ箱の方?」 「ああ、檻《おり》の中で、臭い飯だ。本日のメニューは、モヤシ炒《いた》めと里芋の田舎煮。それに、たくわんが二切れ。極めてヘルシーだが、奴にとっては物足りないだろうよ」 「そりゃ、気の毒なことをした」  二人は冷ややかな笑みを浮かべた。  その間、紺野は立ったままだった。寺崎も田所も、座れ、とは言わない。 「ところで、白石が入院したのを知っているか?」  寺崎が言った。 「白石って、池袋署の?」  田所が聞き返す。 「うん。どうやら、肝臓をやられたらしい。柏《かしわ》のガンセンターで手術待ちだそうだ」 「ガン……」 「先々月の課長会議の時、顔色が変だと思ったんだよ。それに、少し、痩《や》せていたしね。定期健診を、ちゃんと受けているか? と聞いたら、そんなものは必要ない。俺は不死身だ、と、笑い飛ばされた。その一カ月後だよ。ぶっ倒れたのは……」 「そうか……」 「晩婚だから、二人の子供は、まだ小学校だ。絶対に生還してみせる、なんて言っているようだが、どうなることやら……」  二人はうつむいた。しばらくしてから、 「えーと……」  寺崎が顔を上げて、紺野を見た。「調べは君一人でやるんだろう?」 「はい。一応は……」  と答えると、 「そうか……。じゃ、ぼちぼち、檻の中から引っ張り出すか……」  寺崎は壁の時計を見てから、無線機の点検をしている若い刑事に向かって、 「工藤《くどう》君、すまんが、芝山を出してきてくれないか?」  と告げた。  はい、と、事務的に応《こた》えて、工藤という若い刑事は無線機を机の上に戻し、部屋の突き当たりに向かって歩き出した。そこには、空室、と表示された取調室が五部屋ほど横に並んでいた。  工藤は第一取調室のドアを開けた。机の上に、壊れた手提げ金庫が置いてあった。ドアを閉め、第二取調室のドアに手をかける。だが、そこも半分ほど開けて、すぐに閉めた。紺野の目にも、机の上に、調書らしきものが山積みになっているのが見えた。そして、第三取調室……。そこは机と椅子以外に何もなかった。工藤は照明のスイッチを入れ、ドアをいっぱいに開き、中に入った。キョロキョロと辺りを見回す。さらに、引き出しを開けて、奥を覗《のぞ》きこんだ。  刑事たちは、時折、取調室の中で軽作業をすることがある。分厚い書類を閉じるには、千枚通しを使用するし、証拠写真をカットする時は当然、刃物を使う。  工藤は容疑者を取調室に迎え入れる前に、室内に凶器になりそうな道具が放置されていないかどうか、点検していたのだ。  やがて、右手に灰皿、左手にクズ箱を持って、出てきた工藤は、今度は雑巾《ぞうきん》を手に再び取調室に入った。そして、机の上をざっと拭《ふ》いた。最後にドアの横にある表示を�使用中�に替え、準備を完了した。 「ここを、お使い下さい」  工藤は二人の来訪者に言った。紺野は、お世話さまです、と会釈した。工藤も、いいえ、と、会釈して、そのまま、取調室の先の方に歩いて行き、灰色のドアの陰に消えた。留置場に向かったのだ。  いよいよだな……。  紺野は少し、緊張した。だが、 「この間のことだが、ヤマテツに会ったよ。それも、蒲田署でね」  寺崎が言った。 「ヤマテツって、山[#「山」に傍点]下鉄[#「鉄」に傍点]五郎のことか?」 「うん。検視官会議に出席した後、刑事課にブラリと立ち寄ったら、何と、取調室で若い刑事に説教されていた」 「説教って……、ヤマテツは生きていたのか?」  田所が目を丸くした。それは紺野も同様だった。  ヤマテツこと、山下鉄五郎はカバン師と言われるスリの名人で、カバンやバッグを刃物で切り、金目のものを抜き取るのが得意だった。被害者は他人に指摘されるまで、気づかないほど、その業は洗練されていた。ところが、ある日のこと、酔った勢いでヤクザの情婦のバッグを狙い、見破られて、用心棒に捕まってしまい、事務所に連れ込まれる。本来なら、指を詰めて詫《わ》びを入れなければならないところ、ヤマテツに限って、それは許された。その代わり、両手の指十本を根元から折られてしまう。以後、指先の自由がきかなくなって、スリのお勤めが果たせず、のたれ死にした、という噂がもっぱらだった。 「指を折られたのは、かれこれ二十年も前のことだからね。ヤマテツなんて言っても、今の若い刑事は知らない。それを知ってか知らずか、ヤマテツの方も、神妙に調書を取られていた。あのヤマテツが、だぞ。何とも哀れだったなぁ」  寺崎がしみじみとした口調で言った。 「そうかい……。ヤマテツがね……」  田所も感慨深そうにつぶやいた。 「頭なんて、すっかり禿《は》げてしまって、顔もシワシワだ。ほっぺたのホクロがなかったら、俺だって気づかなかったかも知れん。あのホクロは忘れられないからな」 「で……、ヤマテツは一体、何の罪で捕まったんだ? まさか、スリを働いたんじゃないだろうな?」  田所が尋ねた。紺野も興味があった。だから、ソファーの側から離れなかったのだ。結局、それが重大なミスにつながったのかも知れない……。  取調室の先にある灰色のドアが開いた。そして、まず、両手錠をした芝山が現れた。続いて、腰紐《こしひも》の先を持った工藤刑事。それを見て、紺野は取調室の方を向いた。 「ヤマテツは何と、女性トイレにいた。それも清掃作業を装って……」  と、寺崎が言った。ほぼ同時に、出入口近くの相談コーナーで、 「そっちじゃないわ。水道は逆の方向」  という女性刑事の声がした。  相談者の青年が大股《おおまた》で、取調室の方へ向かって来ている。 「違うわよ。こっちこっち……」  女性刑事が衝立《ついたて》から顔を出し、廊下の方を指さした。その様子に、工藤が怪訝《けげん》な顔をしたものの、芝山の後ろに立ち、第三取調室の方に誘導して行った。  芝山と相談者の青年の間には、何の障害物もない。その時の二人の距離は十メートルほどだった。 「そっちじゃないってば、鈴木さん……」  と、三たび、女性刑事が声をかけた時、お互いの距離は五メートルほどまでに接近していた。  相談者と思われた青年は足を進めながら右手を腰の後ろに回した。そして、ジャケットの中を探り、次の瞬間、その手にはサバイバルナイフが握られていた。刃渡りは二十五センチほどもあろうか。映画で見るのと同じタイプだった。  紺野の全身に戦慄《せんりつ》が走った。それは工藤も同じだったに違いない。怒号を発したが間に合わなかった。青年はナイフで芝山の左胸を突き刺した。両手錠をされた芝山に、それを避ける術《すべ》はない。白刃はシャツの中に吸い込まれ、根元まで見えなくなった。青年はすぐにナイフを引いた。すると、まず、霧のような血煙が空中に舞い、続いて、滝のような血《ち》飛沫《しぶき》が噴き出した。  青年は次に芝山の腹を刺した。やはり、ナイフは根元まで見えなくなった。芝山は崩れるように、その場に倒れた。そして、ナイフが三たび、振り上げられた時、ようやく、工藤が青年に覆いかぶさった。他の刑事たちも次々に駆け寄り、ナイフは取り上げられた。もちろん、紺野も、田所も駆けつけた。ただ、女性刑事だけが呆然《ぼうぜん》として、衝立の横に立ちつくしていた。 「くそーっ。やられちまったー」  寺崎が握り拳《こぶし》を作り、歯ぎしりした。  芝山は手錠のかかったままの両手を前に投げ出し、流れ出た夥《おびただ》しい血の中に横たわっていた。その顔からは血の気が引き、すでに、蒼白《そうはく》な色に変化していた。 「貴様っ、何者なんだっ」  工藤が青年の襟首を掴《つか》み、締め上げた。 「調べは後だっ。ともかく、取調室へ入れろっ」と、誰かが叫んだ。すると、 「ここじゃ、まずい。生活安全課の取調室を使え」別の誰かが冷静な声で言った。  青年は四、五人の刑事たちに前後左右を囲まれ、両腕と首を押さえつけられるように連れて行かれた。  入れ代わるように、数人の刑事が血相を変えて飛び込んで来た。 「一体、何があったんだっ」  その中の一人が怒鳴った。背の高い中年の男だった。ピクリとも動かない即死状態の芝山を見て、息をのみ、寺崎に対して、 「課長っ、これは一体、どういうことですっ。説明して下さいっ」  と、目を剥《む》いた。寺崎は芝山を見下ろしたまま、力なく言った。「相談者に化けていた男が、隠し持っていた刃物で襲ったんです。管理官」 「相談者に化けて?」 「はい。隙《すき》を突かれました。まさか、相談者が……、こんなことを……」 「何てこった……」  管理官と呼ばれた男は頭を抱えた。  バタバタと靴音がしては、異変に気づいた警官たちが次々に集まってきた。そして、鮮血の飛び散った第三取調室前の光景を目の当たりにして、誰もが言葉を失い、辺りは重苦しい空気に包まれた。 「手錠を外してやれ」  寺崎がポツリと言った。「もう必要はないだろう……」  そして、田所と紺野に対して、 「ともかく、そっちへ……」  と、小声で言った。  二人は言われるがままに課長席の前へ戻った。寺崎はソファー席に座るようには勧めなかった。 「すまんが、今すぐ、ここを引き取ってもらいたい。もうすぐ、江戸川署はマスコミ関係者に取り囲まれる。僕は記者たちを相手に釈明会見をしなければならないだろう。たぶん、その後は懲戒処分が下されるまで、謹慎だろうな。人が死んだ以上、隙を突かれました、じゃ、済まされない」  寺崎は淡々とした口調で言った。まるで他人事のようだった。「おたくら城北署の人間は、今日、芝山の取り調べには来なかった、ということにした方がいいだろう。複雑な背景説明は、ややこしくなるだけだ。ブン屋が望むのは、単純で誰もが理解できる説明だ。つまり……、困り事の相談者を装った男が、まんまと警察の警戒システムをすり抜け、刑事課長の目の前で凶行に及んだ……」  寺崎は悔しそうに唇を噛《か》んだ。 「じゃ、そうさせてもらう……」  田所の判断は速かった。脇目もふらずに一直線にドアに向かった。紺野も途中まで、その後に続いた。だが、途中で思い直し、再び、第三取調室の前に向かった。最後に、もう一度、芝山を見ておきたかった。  すでに芝山の手錠は外されていた。大量の鮮血が床を覆い、まるで真紅の毛布の上に横たわっているように見えた。唇は閉じていたが、目はまだ開いたままだった。  紺野はしゃがみこんで、その両目を眺めてみた。輝きこそ失っていたが、それはやはり、どこまでも澄みきった眼差《まなざ》しだった。  寺崎が予想した通り、およそ五時間後、まるで夕方のテレビニュースに合わせるように、江戸川署で記者会見が行われ、その模様は全国に生中継された。  紺野は城北署の刑事部屋で、その放送を見ていた。  キャスター、現場レポーターの映像に続いて、江戸川署の会見場が映し出された。  三人がけの長机の中央には、制服姿の江戸川署の署長。その右側に、捜査本部の実質的責任者である捜査一課の管理官。左側には、もちろん、江戸川署の刑事課長の寺崎が座っていた。  カメラのフラッシュの中、署長は沈鬱《ちんうつ》な表情で、また、管理官は憮然《ぶぜん》とした表情で口を真一文字に結んでいた。そんな中、寺崎だけが矢継ぎ早の記者の質問に答えていた。  ——芝山を殺害した男の素性は? 「鈴木と名乗っていましたが、本名は浜口|邦夫《くにお》、三十四歳、元飲食業、です」  ——芝山との関係は? 「面識はない、ということです。テレビニュースや新聞を見て、芝山のことを知った、と供述しています」  ——被害者や行方不明者の関係者と、何らかの接点は? 「一切ない、と言っております」  ——じゃ、動機は何です? 「天誅《てんちゆう》、だそうです」  ——何ですって? 「天誅です。天にかわって正義を行った、ということです」  ——政治結社の関係者ですか? 「それはなさそうです。我々も、思想的背景はないと判断しています」  ——薬物中毒、その他の理由による入院歴、通院歴は? 「確認中です。いずれにせよ、動機に関しましては、鋭意、真相の追及に努める所存でおります」  ——浜口邦夫の家族構成は? 「家族構成、ですか……。えー……、まず、三十三歳の妻、それに六歳の娘と二歳の息子。それに両親がいるんですが、七十五歳になる父親は循環器系の病気で入院中。重篤な状態だそうです。七十三歳の母親は三年前から老人養護施設に入居しています」  ——経済的に苦しかった、ということですか? 「かなり巨額の借金を抱えていることは確かなようですが、本人は、金で雇われたわけではない、と主張しています」  ——刑事部屋で殺人が行われた、というのは前代未聞の、これは事件というより、珍事ですよ。出入り者のチェック体制が甘かったのでは? 「そのように非難されても仕方がない、と反省しております。今後、警察へ出入りする方々のチェックをどうすべきか、早急に検討しなければならない、と考えています」  ——警察は今回の犯行に関し、事前に情報を入手しておきながら、しかるべき対応をしなかった、という噂があるんですが、これについては、いかがですか? 「ご質問の意味が……、よくわかりませんが?」  ——警察は事前に、犯行計画を把握していた、ということですよ。ところが、容疑者が証拠不十分で釈放される可能性が高かったので、一部捜査員が、これを嫌って、情報を握り潰《つぶ》したとか、無視したとか、つまり、そういうことですよ。 「そのようなことは絶対に、ありませんっ。失敬だろう、君っ」  ——たぶん、否定されるだろう、とは予想していました。えー……、それでは、広橋管理官にお伺いします。逮捕の決め手になった金のネックレスと腕時計。これは池の底から回収された物ではない、というようなインターネット情報があります。それから、芝山容疑者方への家宅捜索の際、ベランダで発見されたという血痕《けつこん》の付着したズボンとシャツに関してですが、前日の朝にはなかった、という窓拭《まどふ》き業者の証言を得ているんですが、いかがです? 「…………」  ——どうしました? もう一度、質問を繰り返しましょうか? 「いや、その必要はありません。あまりにも荒唐無稽《こうとうむけい》なご質問なので、いささか驚いただけです。えー、先程も、寺崎課長が申し上げたが、そのようなことは絶対にあり得ません。以上です……」  ——その言葉に間違いはありませんね? 例によって、後日になって、訂正するようなことはないでしょうね? 「すでに、その質問にはお答えしました。他の方、どうぞ……」  ——芝山容疑者をパトカーで病院へ運ばなかった理由は? えー、寺崎課長、お答え下さい。 「救急車と行き違いになるおそれがありました。また、病院までの道路事情等を考慮すると、医師の手当てもさることながら、まずは、救急隊員の応急手当てが必要と判断したわけです」  ——その一一九番通報は、いつ、どなたが指示されたんですか? 「指示ではなく、自発的なものです。刑事課の誰かが一一九番していると思います。時刻等、詳細について必要であれば、消防庁に確認した後、後日、発表いたします」  ——すでに、確認ずみですよ、課長。率直に言って、一一九番通報は遅い、という印象を拭《ぬぐ》えませんでしたね。瀕死《ひんし》の芝山容疑者を故意に放置した、という疑惑が浮上するのも当然だと思うのですが、この点、いかがですか? 「何分にも突発的な事件だったものですから、多少、行き届かなかった点はあったかも知れません。しかし、私どもとしては、できる範囲において、最善を尽くしたもの、と信じております。それに関して、何ら、やましいところはありません」  ——突発的な事件、と、おっしゃいますけどね。あなた方はズブの素人ではない。切った張ったの修羅場なんかは当たり前の、玄人でしょう? 「警察官とは言え、人の子です。血を見れば、驚きますよ。えー……、時間の関係で、次のご質問を最後にいたしたいと思います。どなたか……」  ——ちょっと待って下さいよ。まだ確認したいことが、相当数、残っています。一方的に打ち切らないで下さい。 「ご質問がないのであれば、これで終了させていただきます……」  ——おいおい、勝手に幕を引くなよ。ひどいじゃないか。まだ大事な質問があるんだ。署長っ。署長っ……。 「…………」  記者会見場の映像は突如として、江戸川署全景に切り替わった。そして、女性レポーターが江戸川署の正面玄関前で、事件の概要を繰り返した。続いて、スタジオのキャスターが、犯人のプロフィール、動機、芝山との関係などについて、説明した。  結局、今後の真相解明が注目される、というコメントを以《もつ》て、この日のトップニュースはしめくくられた。  テレビに次のニュース映像が流れた数秒後、紺野の前の電話が鳴った。署長からの呼び出しだった。紺野はメモ帳を持って、席を立った。田所は帰署すると、その足で署長室に入ったままだった。  すでに夜間態勢に入っていたが、ほとんどの署員は居残っていた。勤務解除になった制服員も通勤着に着替えてはいたが、一階フロアのテレビ付近にたむろし、マスコミ報道や、時折、警務課宛のファクスを覗《のぞ》き見していた。  その横をすり抜けるようにして、紺野は署長室に向かった。いつものように、姿見の前でネクタイを直し、髪の乱れを手で押さえてから、ドアをノックする。  この時も、内側からドアを開けたのは警務官だった。だが、入りたまえ、と言うと、自らは外に出た。続いて、田所も紺野の前を通り過ぎて行った。結局、署長一人が奥のテーブルから、デスクの方に移った。 「大変だったわね」  署長は自席に座りながら言った。 「お役に立てなくて、申し訳ありませんでした」  紺野は一応、詫《わ》びた。 「そっちの責任じゃないわ」  署長は首を横に振る。 「恐れ入ります……」  とにもかくにも、頭さえ下げていれば、人間関係は丸く収まる。 「ところで、刑事課長から聞いたんだけど、遺体の顔を覗き込んでいたらしいわね?」  署長は背もたれに寄りかかって、紺野を見上げた。はい、と、答えると、 「で……、どうだった? 何か、わかった?」 「いいえ。わかりません」  紺野は首を横に振った。 「そう……」  署長が失望したように視線を落とした。 「あの……」  紺野は遠慮がちに言った。「言い訳に聞こえるかも知れませんが、仮に、自分が今日、芝山と対面できていたとしても、たぶん、わからなかったんじゃないか、と、今は、そんな気がしています」 「どういうことかしら?」 「真犯人か無実かは、本人だけが知っているわけですが、芝山の場合、そうじゃなかったような気がするんです。うまいこと言えませんが、その……。芝山の場合、心の状態や環境に影響されて、混乱してしまい、本人でさえ、自分が真犯人か無実か、判断できなくなってしまっていたんじゃないのかと……、死んだ芝山の目を見ているうちに、ふと、そんな印象を受けました……」 「詐欺師は嘘を繰り返しているうち、詐欺師自身が、その嘘を本当のことのように錯覚してしまうらしいけど、そういうことかしら?」 「はい。まぁ、それに近い心理ではないか、と……」 「なるほどね。でも……、私にはそうは思えない。芝山は元々、そういう人間なのよ。そんな気がするわ」 「…………」 「私たち昭和世代は、アナログとかデジタルとか言って、世代間の違いを表現したり、理解したりしようとしているけれど、むしろ、そのこと自体が時代遅れの発想のような気がするわ。今の新しい世代は、そんな枠組みをはるかに越えているのよ。私たち旧世代には決して理解できない感覚を持った人間たちの出現。だからこそ、新世代と言えるんじゃないかしら……」 「……新世代?」 「ええ。言わば、犯罪新人類。これからは、そういう人間の比率が大きくなって行くでしょうね。自分の価値基準で、自分のためだけに行動する人間。面白ければ、他人を傷つけても意に介さない人間。我慢や忍耐といった自己抑制ができない人間。野放図な欲望や、その場の衝動だけで行動してしまう人間……。そして、そのことが当たり前、つまり、常識になっている人間。ひょっとしたら、芝山は、そういう時代の先触れだったのかも知れない」 「先触れ、ですか?」 「ええ。罪の意識どころか、善悪の判断さえつかない人間よ。そういうのが街にたむろして、まるで缶蹴《かんけ》り遊びでもするように、盗み、奪い、傷つけ、殺す……」 「…………」 「せめて、そういう時代の到来に備えて、何らかの対策を、と思ったんだけど、私には正直、その糸口さえ思いつかない。ひょっとしたら、二十世紀型の警官には無理なのかも知れないわね。それが可能なのは……」  署長はしばらく間を置いてから、 「芝山のような世代の新しいタイプの警官。今の私たちには決して理解できない、全く、新しい価値基準を持つ警官。そういう芝山タイプの警官が出現して、初めて、可能なことなのかも知れない。そんな気がするわ」  と、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。紺野には言うべき言葉がなかった。それを見て取ったのか、 「幸か不幸か、たぶん、その頃には、私たちは生きてはいない。二人とも墓の下ね」  署長は殊更、明るい口調で言うと、 「何はともあれ、ご苦労さま。一生懸命、やってくれてありがとう」 「いいえ……」  紺野はペコリと頭を下げた。 「通り一遍の、やっつけ仕事でも誤魔化《ごまか》せたのに、わざわざ静岡まで足をのばしてくれたりして、とても嬉《うれ》しかったわ」  と言うと、引き出しを開けて、中から羊羹《ようかん》を一本、取り出した。 「これ、貰《もら》い物なんだけど、あげるわ。羊羹一本なんて、ご褒美にしてはセコすぎるけど、実際のところ、署長という立場で個人的にできるお礼は、この程度なのよ。ごめんなさいね」  署長は少し、恥ずかしそうだった。 「とんでもない。ありがたく頂戴《ちようだい》いたします」  紺野は両手で、それを受け取った。そして、一礼して署長室から出た。  いつの間にか、事務室内にいる署員たちの数が減っていた。フロアのテレビを見ている者もいない。  ブラウン管に映し出された明日の気象図と、脚線美の天気予報士を横目で見ながら、その前を通り過ぎようとした時、 「お役目、ご苦労さまでした」  と、反対方向から声をかけられた。振り向くと、刑事課長代理の堀部だった。 「恐れ入ります」  紺野は両足を揃えて一礼した。  高級料亭で同席して以来、紺野は堀部に対して敬語で接するようになっていた。年下の後輩とはいえ、堀部は上司にあたる。しかもただの上司ではない。いつの日にか、警視庁の中枢を担うエリートで、紺野から見れば、言わば、雲の上の存在だった。 「ところで、急な話なんですけどね……」  堀部は周囲を見回してから、少し声を低めた。「紺野主任を慰労しよう、ということになったんですけど、今夜、いかがです?」 「今夜、ですか?」  脳裏に明月亭の華やかな夜景が浮かぶ。桔梗庵へ続く足元灯と、白い玉砂利の小道。着流し姿の案内嬢。せせらぎと、水車の回る音。客たちのさざめき、三味線の音。そして、白い座席の大型ハイヤー。高価な毛蟹《けがに》の手土産……。 「お心遣い、ありがとうございます」  紺野は右手に握っていた羊羹を、そっと後ろに回した。そして、思った。  自分には、高級料亭よりも、ガード下の居酒屋が似合うし、産地直送の毛蟹よりも、日持ちのする羊羹の方が食べ慣れている。そして、天下りのオフィスよりは、旧友の勤務している園芸センターの方が気が楽だ。いまさら背伸びしたところで、何になる……。 「折角ですが、代理さん。今夜は予定がありますので、これで失礼します」  紺野は丁重に断った。 「い、いや、重松理事官と、沢講師も来られますので、ぜひ」  堀部が驚いたように言った。 「それは残念です。お二方には、よろしくお伝え下さい」  と、会釈したが、 「そんなこと、言ったって……。もう四席、予約してしまっているんだからさ」  堀部の表情が険しくなった。「今日の予定は、明日に回したら、どうです? 重松理事官のご機嫌を損じたら、二度と声をかけてもらえませんよ。それでもいいんですか?」  押しつけがましい言い方だった。その態度に、少し反発を感じたのだが、息子ほどの年齢の若者に対して、向きになって声を荒らげるのも、大人げないと思った。 「残念ですが、代理さん」  紺野は穏やかな口調で言った。「今日の用事は外せないんです。ご勘弁下さい。じゃ、急ぎますので……」  紺野はもう一度、会釈してから、足早に歩き出した。後ろから声をかけられても、振り返るつもりはなかった。  実は、この日、紺野に特別の用事はなかった。堀部の誘いを断ったのは、単に、真っ直ぐ帰宅したかったからだ。昨夜も、妻の光恵は何も尋ねることなく、紺野のために、黙々と晩酌と茶漬けの準備をしていた。だから、一刻も早く帰って、無事、任務を果たし終えたことを知らせ、安心させてやりたかったのだ。そして、もちろん、署長からもらった羊羹を手渡して、その喜ぶ顔が見たかった。 角川文庫『挙動不審者』平成16年5月25日初版発行