[#表紙(表紙.jpg)] ショカツ 佐竹一彦 [#改ページ]   はじめに  昭和の頃、僕は警官だった。まだ若く、純朴で、理想に燃えていた。口にこそ出さなかったが、胸の奥に、一つの大きな夢を秘めていた。  それは、一生懸命、仕事をして、数えきれぬほど手柄を上げ、常に努力精進を怠らず、いつの日にか、誰からも尊敬される名刑事になる、という夢だった。  結局、その夢は挫折《ざせつ》してしまうのだけれど、当時のことは、今でも鮮明に記憶している。  僕が刑事としての第一歩を踏み出したのは、警官になって六年目の秋。二十八歳の誕生日を迎えて間もなくのことだった。念願|叶《かな》い、刑事の登竜門である�捜査専科講習�という専門教育を受けることを許されたのだ。  講習の定員は四十名。その頃の警視庁は八十数署だったから、選抜されたのは二署に一名弱、という難関だった。最終審査を通過したという知らせを受けた時、僕は天にも昇る心地だった。  中野区にある警察学校で行われる講習は、座学が約二カ月。その後、実務研修のために約一カ月、第一線に派遣されたように記憶している。  僕の派遣先は城西署で、そこで一人のベテラン刑事に出会った。捜査主任、赤松作造、当時五十二歳。東北|訛《なま》りの抜け切らない、一見、どこにでもいそうな中年男だった。この人物が僕の指導担当になった。  その頃の刑事部屋のしきたりは、建具職人や畳職人の世界と全く同じだった。師匠には絶対服従で、理論よりも実践を優先し、中身よりも形から、というのが当たり前だった。失敗すれば拳骨が飛んだし、人前でも怒鳴りつけられたものだ。  六年間も、そんな光景ばかりを見てきたから、僕もある程度、覚悟を決めていた。  ところが、赤松作造という人物はデカ長《ちよう》としては一風、変わっていた。いつも穏やかな眼差《まなざ》しをしていて、怒鳴り声を張り上げるようなことはなかった。自分の考えを押しつけることはせず、こちらが質問しない限り、何も教えようとはしなかった。  それが赤松主任の業《わざ》の仕込み方というものだった。 [#改ページ]      1  二月最後の日曜日の午後。多摩川を渡ってくる南の風が春一番を予感させた。柔らかな日差しは肌に心地よく、路地裏の黒ずんだ残雪からは透明な雫《しずく》が滴り続けていた。  その日、赤松主任と僕は日勤勤務で、連れ立って質屋の暖簾《のれん》をくぐった。  赤松主任は三十年の刑事経歴を持つベテランだったが、拝命以来、所轄勤務だった。強行犯捜査や、知能犯捜査なども多少は経験しているが、ほとんど盗犯捜査ばかりを担当してきていた。  盗犯担当の刑事はあまり目立たない。刑事課の中では、記録係に次いで地味な存在と言っても過言ではないだろう。テレビドラマに登場するのは、いつも拳銃を撃ったり、手錠をかけたりするカッコイイ刑事だ。そして、現実のニュースに映し出されるのは、コバルトブルーのユニフォームを着て、指紋採取や写真撮影をする鑑識係ということになる。  しかし、目立たない存在であっても、当の盗犯捜査担当者たちは極めて誇り高い。彼らの間には、�捜査とは盗犯に始まり盗犯に終わる�という成句が語り継がれているほどなのだ。 �鮒《ふな》に始まり鮒に終わる�とは、魚釣りの極致を言い表したものだそうだが、それと同様に、捜査の神髄、そして、刑事としての真の醍醐味《だいごみ》は盗犯捜査にこそある……。  それが赤松主任の口癖だった。  確かに、盗犯捜査のやり方は職人の世界に共通するものがある。中でも、�グニヤ(質屋)まわり�は、質草から盗品の可能性を探り、そこから犯人に到達しようとするもので、盗犯捜査の中で、最も古典的な手法の一つと言うことができる。  教本によれば、おそらくは一世紀以上前から続くこの手法も、一時期、すたれかけたことがある。高度成長時代、日本には物があふれ、泥棒たちは現金以外に目を向けなくなった。使い捨て、という時代の風潮が質草の価値を著しく下落させたからだ。その当時、質屋営業は斜陽業種とまで言われている。  ところが、カード時代が到来すると、状況は一変する。キャッシュレス社会は、財布の中だけでなく、金庫やタンスの中からも札束を一掃したからだ。盗んだカードで現金を引き出そうとすれば、高性能の防犯カメラが睨《にら》んでいる。やむなく泥棒たちは昔のように金目のものを物色し、換金せざるを得なくなったというわけだ。今では従来通り、グニヤまわりは有効な捜査手法となっている。  暖簾をくぐった赤松主任が、おっす、と片手を上げると、カウンターにいた三十半ばの男が顔を上げて、愛想笑いをした。ワイシャツに、きちっとネクタイを締め、その上にブルゾンをはおっている。  店の五代目という若旦那は、いますから、と言って、親指を後ろの方に向けた。赤松主任は、邪魔するよ、とコートを着たまま、カウンターの隅から上がりこんだ。勝手知ったる質屋の間取り、という雰囲気だった。  帳場を横切り、突き当たりの引き戸を開けて、応接間兼事務室を覗《のぞ》く。 「こりゃ、お珍しい」  今年、古稀《こき》を迎える店主が、老眼鏡ごしに僕たちの方を見上げた。テーブルには、質屋台帳が数冊、そして、手垢《てあか》のついた算盤《そろばん》が置いてあった。 「巴川《ともえがわ》の桜の枝に、青いもんが出はじめているよ。ちらほらとね」  赤松主任は部屋の隅の電気ポットのある所に向かった。 「そうかね……。じゃ、今年もそろそろ、花見の心配だな」  慣れた手つきで算盤を弾《はじ》きながらつぶやく。僕のことなど、眼中にない様子だった。 「心配はいいけどね……」  赤松主任はダイニングボードの棚にある急須《きゆうす》の蓋《ふた》を取り、中を覗いて、茶殻を捨てた。それを見て、 「自分がやりますから」  僕はすぐに手を伸ばした。赤松主任は無言のまま、急須を僕に渡して、店主の寿司茶碗と接客用の湯飲み茶碗を二つ、僕の目の前に並べた。そして、 「今年こそは公園の方でやってもらいたいな。この年になって、川に飛び込む酔っ払いの心配はしたくはない」  赤松主任は店主の正面に、どっかと座った。  僕はそれぞれの茶碗に茶を注《つ》ぎ、テーブルへ運んだ。  その時になって、初めて、 「見習いさんだ」  と、赤松主任が僕を紹介した。 「そう。頑張んなさいよ」  店主が上目遣いに僕を見たので、ペコリと頭を下げた。 「毎年、花見の時期になると、そんな話になるんだがね」  店主は算盤の数字を台帳に書き写しながら言った。 「いつも時間切れで、従来通り、ということになっちまう」 「結局、面倒くさいんだろうな」  赤松主任は背もたれに寄り掛かり、茶をすすった。 「案外、川に飛び込みたいんじゃないの」  店主はニタッと笑って、台帳を閉じ、その上に、算盤をのせた。そして、 「さてと、敵《かたき》討ちと行くか……」  体をよじって、それを後ろにある大型金庫の上に置いてから席を立った。  飾り棚の陰に将棋盤があった。店主はそれを抱えて席に戻った。赤松主任との間に将棋盤を据え、小箱の蓋を開け、盤の上に駒《こま》をばらまく。  パチン、パチン、と乾いた音を立てて、二人は駒を並べ始めた。 「ところで、その後、奥さんの具合は、どう?」  と、店主が尋ねた。 「うん。半月ばかり寝たり起きたりだったが、お蔭《かげ》さんで、ここんところ顔色もよくなった」 「そりゃ、よかった。最近のカゼはバカにならない。気をつけた方がいい。うちのバアさんは膝に水が溜《た》まっちまってね。嫁の付き添いで病院通いだ」 「そりゃ、いかんな。大事にしなきゃ」 「うん。あんなバアさんでも、痛そうな顔を見るのは辛《つら》い。一区切り、ついたら、湯治にでも連れて行ってやろうかと思うんだ」 「そりゃいい。そうしてやんなよ」  並べ終えると、ジャンケン。チョキで勝った店主はいきなり角道を開けた。どうやら、あらかじめ第一手は考えていたらしい。赤松主任もすかさず角道を開けた。目まぐるしく七、八手まで進み、店主が眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて腕組みをした。  コートを着たままの赤松主任は、ポケットからピーナッツの入った袋を取り出した。そして、コートを脱ぎ、四つに畳んで左横に置いた。その間、視線は盤上に向けたままだった。  袋からピーナッツを三、四個摘んで、灰皿の上で渋皮を落とし、口に放りこむ。腕組みをしていた店主の方は、桂馬を打ってから、その手を前へ差し出した。赤松主任は袋を振るようにして、その掌《てのひら》の上にピーナッツを落とす。 「こいつぁ……後を引くんだよなぁ……」  とつぶやきながら、やはり、灰皿の上で渋皮を落とし、口の中に放り込んだ。  赤松主任は無言のまま、僕の方にも袋を差し出した。結構です、と断ると、赤松主任は袋を引っ込めて、 「目には目、馬には馬……」  と、空いた方の手で、勢いよく桂馬を打った。店主の方の桂馬が飛んで、将棋盤から落ちた。  グニヤまわりと言っても、蔵や倉庫に入り込んで、質草の品定めをするようなことはしない。何しろ、老舗《しにせ》の四代目は五十年のキャリアの持ち主で、うさん臭い質草なら一目で見抜く。もし、そのような質草があれば、黙って差し出してくる。つまり、何も言わないのは、それらしいものがないから、なのだそうだ。  にもかかわらず、赤松主任が将棋盤の前に腰を据えるには理由がある。この日は競艇のアジアカップ大会の開催日で、管内には場外舟券売場がある。つまり、券を買う金欲しさに、良からぬことを仕出かす不心得者がときたま質屋に現れることがあるのだ。盗品を持参した客が訪れた場合、質屋は警察に連絡しなければならない。ヘボ将棋の背景には、店からの通報、そして、警察署から駆けつける手間と暇を省くという合理的な事情があるのだ。  そのことを、あらかじめ聞かされていたから、僕は二人の間に座って、じっと駒の動きを見ていられたのだ。その場の雰囲気を白けさせないことも刑事修業、と、教官に言い含められている。  でも、あまり居心地はよくはなかった。勤務中に将棋を打つことには、正直なところ、少し反発を感じた。  僕が警官になった動機、そして、刑事を志した理由は、サラリーマンになって、一私企業の利潤を追求するより、天下国家のために一生を捧《ささ》げようと思ったからだ。世の中の不正を暴き、社会正義を実現したいと思ったからだ。そのためには、まず警官自身が後ろ指をさされるような行動を慎まなければならない。模範となる生き方をしなければならない……、などと、この頃は、若者らしい一途《いちず》な考え方に凝り固まっていた。  だが、見習いの立場で、それを主張することなど、できるはずがない。  およそ一時間。局面は赤松主任有利の終盤を迎えようとしていた。王将を飛車の前へ追い込もうと、成り歩を打った時、僕の丸めたコートの中で、小型無線機がこもった音を上げた。一斉指令の信号音だった。  その頃は携帯電話もポケベルも普及していない時代だったから、私服警官は、受令機という受信専用の携帯無線機をポケットに入れて、署外活動に従事したものだった。  コートの中からイヤホーンを引っ張り出して、耳の穴に押し込むと、上擦った声が飛び込んできた。  早口で、通り魔事件の発生と、それに伴って城西署と隣接署に緊急配備が発令されたことを繰り返している。  事件の発生地は五キロほど離れた文化会館前の路上。被害者は五歳の女の子で、ボウガンの標的にされ、矢が頭に刺さったまま病院に運ばれたという。 「でかいヤマ?」  赤松主任が将棋盤を見たまま尋ねた。 「通り魔です。緊配がかかりました」  と答えると、 「電話は、そっち」  店主が部屋の隅を指さした。  お借りします、と目礼して、僕は電話に向かった。  通り魔は暴行傷害事件だから強行犯捜査係の担当、というのは警察庁や警視庁本部での話で、所轄には実質的に、そんな枠組みはない。重大事件が発生したら全署員で対処しなければならないからだ。実際、轢《ひ》き逃げ交通事故の発生で、非番の看守係が駆り出されることもある。その反対に、もし留置人が脱走すれば、交通係も招集されることになる。  刑事課に電話して、自分の名を告げると、いきなり、 「いいえ。病院の方です」  という声がした。何のことかわからない。 「矢がどこから飛んできたのか、はっきりしません。はい……、はい、そうです……。自転車に乗った中学生が撃って逃げた、という情報もあれば、ビルの窓から飛んできた、という情報もあります。現場は混乱しています」  という会話で、相手が両方の手に受話器を持っていることに気づいた。  僕は取り敢《あ》えず、メモを取ることにした。 「女の子は意識不明の重体です。何でも、矢は頭部を貫通して、脳みそが飛び出ているそうで、無線通話を聞く限り、助からない、というニュアンスですね。間違いなく、殺しに発展すると思います」 「…………」 「いいえ。今のところ、指定されたのは在署員だけです。これから指定されると思いますけど。はい……。連絡しておきます」  と言うと、 「見習いさん、わかったかな?」  相手の口調が変わった。 「おおよその状況はわかりました。赤松主任の緊配の配置場所を教えて下さい」  僕は必要最小限度の質問をした。  混乱している状況では、右手で電話をダイヤルし、左手で住宅地図をめくり、首の下には、もう一つ別の受話器をはさんでいることもある。細かな質問をしたところで、答えてはくれない。 「えーと、盗犯一係の赤松主任と見習いさんは、巴橋交差点だ」 「了解しました」 「ご苦労さん」  と言って、電話は切れた。僕は受話器を下ろしながら、 「配置場所は巴橋交差点という所です」 「あいよ」  赤松主任は両手を膝に当て、中腰になっていた。それでも、将棋盤から目を離さずに、 「そんなわけで、この勝負はお預けだ」 「子供絡みの事件かね?」  店主が尋ねた。 「そうらしい……」  赤松主任は湯飲みに残った茶を飲み干してから、コートをはおった。 「せがれに車で送らせようか? 歩きだろ?」  店主も腰を上げた。 「うん。そうしてもらうと助かる」  と言って、帳場との仕切りを開けると、若旦那はカウンター越しに接客中だった。水商売風の女を前に、宝石の値踏みをしている。それを見て、 「いや。ブラブラ行くよ。どうせ、制服の連中が構えているだろうし、その辺の空き地でホシが空模様を窺《うかが》っているということもある。じゃ……」  赤松主任は片手を上げて挨拶《あいさつ》してから、出口に向かった。 [#改ページ]      2  緊急配備が発令されると、管内の交通の要衝には警官が配置される。  駅、インターチェンジ入口、幹線道路の交差点など、配置場所はあらかじめ決められていて、その上、年に何度かの訓練も実施され、齟齬《そご》をきたさないようにしてある。  巴橋《ともえばし》もそうした指定場所の一つだった。管内からバイパス道路に出るためには、どうしても渡らなければならない橋だった。  赤松主任が巴橋交差点に到着した時、すでにパトカーと、白バイが一台ずつ、配置されていた。その他にも、制服警官が五名、車道に立っていた。  赤松主任はパトカーに近づき、コンコンと窓をノックした。 「乗って下さいよ」  運転担当の巡査が後部座席のドアのロックを外した。赤松主任はドアを開けて、 「子供の容体は、どうなの?」  と尋ねながら乗り込んだ。僕は車の外に立ち、通過車両に目を向けながら、耳を澄ませた。 「重体ということ以外、わかりません」  巡査が答えた。 「そうか。可哀相に……。で、ホシの方は?」 「はっきりしません。第一報のままですよ。中学生だというのもいれば、茶髪の暴走族だというのもいるんです。その他にも、黒い車の窓から矢が飛んできたという通報もあったようです」 「黒い車?」  車のことは初耳だった。 「ただし、運転手の人相着衣も、車種もナンバーもわかりません。まぁ、あと二、三時間もすれば、はっきりするんでしょうけど、その頃になって、わかってもね」  と、ため息まじりに言った。 「母親たちは自分の子供を抱えて、さっさといなくなってしまったので、情報が取れないそうです」  無線担当の巡査が言った。 「母親たちって、文化会館で子供が喜ぶイベントでもあったのか?」 「いえいえ。それがどうやら、被害者は文化会館じゃなく、その並びにあるバレエスクールに向かっていたらしいです」 「バレエスクール?」 「はい。もっとも、最終確認は、まだのようですけどね。何しろ、現場はパニック状態で、事情聴取が捗《はかど》らないみたいです」 「だろうな。五歳と言えば、可愛い盛りだ。それが飛び道具の的にされるとはなぁ。世も末だ。せめて、何とか、命だけは助かってもらいたいもんだ……」  と、赤松主任が言い、しばらく会話は途切れた。  静寂を破ったのは、警笛だった。前方を見ると、車道に立っていた警官が停止旗を大きく上下させている。黒色の乗用車が近づいてきていた。やがて、停車を見届け、三名の警官が取り囲んだ。 「いくら黒い車だと言っても、ベンツを転がすようなのが、ボウガンは撃たないだろう。もし撃つとしたら、拳銃だ……」  無線担当がつぶやく。  案の定、ベンツから顔を出した運転手が何やら、わめき散らしている。耳を傾けると、 「これで四度目だっ。いい加減にしろっ」  という怒鳴り声が聞こえた。警官は運転免許証の提示を求めている。だが、ベンツの運転手は首を強く左右に振ってから、窓を閉め、徐々に車を発進させた。 「おっとっと、危ねぇな……」  パトカーがサイレンを鳴らした。もし、そのまま走行すれば、強制的に停止させる、という運転手に対する威嚇《いかく》行動である。  すぐにベンツは止まり、運転手が路上に降りる。華奢《きやしや》な体つきの小柄な男だった。腕時計を見ながら、興奮した口調で、飛行機がどうの、見送りがどうのと、わめき散らしている。  やがて、後部座席の窓が開き、身なりのよい白髪の老人が顔を出した。 「あーあ、俺、知らないよ」  無線担当が両手を首の後ろで組んだ。 「どう見ても貫禄負《かんろくま》けしている。若いお巡りさんたちがガキに見えるな……」  運転担当が他人事のようにつぶやく。 「じゃ、古びたお巡りさんが、お相手をするか……」  赤松主任はパトカーから降り、ベンツの方へ向かって歩き出した。 「いいから、無線機で本署に問い合わせなさい。そうすればわかる。その方が手間が省ける」  老人は苛立《いらだ》った様子で甲高い声を張り上げていた。  明らかに上流社会の人物だが、事件との関連性がないとは断じられない。制服の警官も、どうしたものか、と考えあぐねている様子だった。  赤松主任はゆっくりと近づいた。警官が困惑した目で、僕たちの方を振り返る。 「そんなに手間はかかりませんよ、社長さん」  赤松主任は穏やかな口調で話しかけた。 「トランクを開ければ、十秒で済みます。たったの十秒です。無線で問い合わせるよりもずっと早いですよ。無線というのは便利なようで、意外と不便でしてね。同じ周波数の無線機が何十台もあると、電波同士が邪魔し合ってしまいまして、相手を呼び出すのも一苦労なんです。地震の時に、なかなか電話がつながらないのと同じ理屈ですよ」 「一体、何だ? 君は」  老人がジロリと横目で見た。 「警官です」  赤松主任はニッコリ微笑《ほほえ》んだ。 「警官だと?」  と、視線を何回か上下させて、 「警察手帳を見せたまえ」 「はい……」  赤松主任はポケットから警察手帳を取り出した。 「中も見せなさい。孫のおもちゃに、よく似ている」  皮肉な口調だった。 「おもちゃ、ですか……」  赤松主任は顔写真と階級氏名の記されている頁を開いて見せた。老人が目を凝らす。やがて、その視線が外れるのを待って、 「ご覧のように、パトカーと白バイが一台ずつ、赤色灯をつけて止まっています」  赤松主任は手帳をポケットに戻した。 「その近くには五人もの制服警官が立っている。にもかかわらず、あなたは私服の警官に対して、身分証明書を見せろ、と、おっしゃった。状況から判断して、私が警官であることは間違いないのに、物事は確かめなければわからない、というわけでしょう? ここにいる警官たちも、それと同じですよ。あなたが社会的地位のある立派な人物らしい……、と、おおよその見当はついているけれど、念のために、確かめたい、と、お願いしているわけなんです」 「…………」 「さぁ、私は手帳の中身までお見せしたんだ。あなたも運転手に、トランクの中をお巡りさんに見せるよう、命じなさい」 「…………」  一瞬の沈黙。そして、その老人は思い出したように、突然、笑い出した。そして、 「こりゃ驚いた……」  と首を振り、 「確かに、君の言う通りだ。……トランクを開けなさい」  老人は運転手に向かって言った。  運転手は不服そうだったが、ともかくトランクを開いた。中には交通事故に備えての三角標識とパイロンが二本。そして、なぜか、ワインが一ケース。もちろん、ボウガンは見当たらない。それを一瞥《いちべつ》しただけで、 「結構です。お手間を取らせました」  制服の警官が早々に言った。  仏頂面の運転手は無言のまま、運転席に戻る。  赤松主任は、どうも、と会釈して、ベンツから離れようとした。その時、 「赤松作造君か……」  老人が言った。赤松主任が振り返ると、 「近頃、珍しい名だ。ひょっとして、宮城の出身かな?」 「そうです……」 「吉野作造[#「作造」に傍点]は歴史的人物。宮城が生んだ偉人だ。名付け親は大正デモクラシーの旗手にあやかりたかったんだろうな」  皮肉な口調だった。老人は見下げるような眼差《まなざ》しで赤松主任を見てから、正面を向いた。スモークグレーの窓が静かに閉まる。やがて、ベンツは静かに動き出した。 「まずかったですかね」  制服警官がベンツを見送りながらつぶやいた。 「まずいって、何が?」 「何がって、あれはどう見たって、どっかの金持ちでっせ。下手すりゃ、お偉方とはツーカーの間柄なんてなことになると、面倒なことになります」 「ツーカーだろうが、スリーカーだろうが、別にやましいことをしたわけじゃない。どうってことはないだろう?」 「そうおっしゃいますがね、長《ちよう》さん。この間なんか、検問で国会議員の車を止めて、えらい騒ぎになったんですよ」 「へぇー、国会議員を? 酒でも飲んでいたのかい?」 「いいえ。シラフでしたけどね。誰も、相手が国会議員だとは知らなかったんですよ。運転手に免許提示を求めたら、俺のことを知った上での狼藉《ろうぜき》か、なんて啖呵《たんか》をきるんです。参りましたよ」 「国会議員の運転手は免許証を見せなくてもいい、なんて法律はないぞ」 「法律の問題じゃありませんよ。国民の公僕たるものが、国会議員の顔を知らないとは何事か、と言うんです。職務怠慢だってんですよ」 「妙な理屈だ。で、どうなった?」 「何と、その場で警察庁に抗議ですよ。自動車電話を使ってね。後はどうなったか、わかるでしょう?」 「さぁ、わからんな」 「警察庁から本庁、本庁から方面本部、方面本部から署長、署長から課長、という風に、問い合わせ、というのが、上の方から降ってきたんです」 「まるで、パチンコ玉みたいだな」 「パチンコ玉でも途中で引っ掛かってくれればいいんですけどね。へたくそが打ったパチンコ玉みたいに一番下まで落っこちてきたというわけです。国会議員の言い分は変だと思っても、立場上、そうせざるを得ないわけですよ。でないと、江戸の仇《かたき》を長崎で取られることになる」 「地方行政・警察委員会というところで、ネチネチと重箱の隅をつつかれる、というわけか? 宮仕えは辛《つら》いねぇ」  と笑うと、 「笑いごっちゃありませんよ」  警官はニコリともしない。 「大丈夫だよ。心配するな。もしベンツのジイさんが告げ口するとしたら、俺についてだろうよ。苗字《みようじ》は忘れても、たぶん名前の方は忘れないからね」 「吉なんとか……作造って、誰でしたっけ?」 「吉野作造だよ。二高、帝大を首席で卒業した男。宮城の生んだ天才だ。勉強嫌いな馬車屋の次男坊には、不似合いな名前さ」 「そう言えば、高校でそんなことを習ったような気もするなぁ。……何をした人でしたっけ?」 「言ったろう? 俺は勉強嫌いなんだ。だから、警察でも出世できない。そんなことより、ほれっ」  赤松主任は前方を顎《あご》で示した。  黒い乗用車が近づいてきていた。警官たちは素早く車道上に散開して、検問態勢を取る。 「妙な転がし方ですね……」  警官の一人が首をひねった。その言葉の通り、黒い乗用車は前方の信号が青のはずなのに、道路の中央線付近でハザードランプを点滅させ、減速している。後方の車が軽くクラクションを鳴らした。  やがて、交差点の手前四、五メートルまで近づくと、黒い乗用車は突然、反対側の車線に出て反転、猛スピードで走り去った。  けたたましく警笛が鳴る。すぐに白バイがサイレンを鳴らして追跡を開始。警官が無線機のマイクを掴《つか》んだ。  緊張が周囲に走る。赤松主任は歩道上に上がりながら、 「本ボシだったら、絵に描いたようなスピード解決だ……」  とつぶやき、そして、首をひねった。  警察無線の記録によれば、逃走した乗用車は六分十秒後に、三台のパトカーと、十五人の警官に行く手を遮られている。その中の二人の警官は検問隊の指揮官の命令によって、実弾入りの三十八口径の拳銃を取り出し、いつでも撃てる構えをとっていたという。  おそらく警官隊のただならぬ気配を感じ取ったのだろう。運転手は両手を上げて、車から降りてきたとのことだった。だが、身体捜検が終了するまで、射撃態勢が解除されることはなかった。運転手は道路交通法違反の容疑で現行犯逮捕。車内を検索した結果、トランクから大量の変造テレホンカードが発見された。取り調べの結果、運転手は指定暴力団の構成員と判明したが、ボウガンは発見されなかった。  そして、三時間後、事件の手がかりは何も得られず、緊急配備は解除された。引き続いて更に三時間、緊急配備に準ずる態勢で、聞き込みや検問が実施されたが、結局、事件に関する情報は得られなかった。  緊急配備が解除されたのは、夜間になったからだった。六時間にも及ぶ連続勤務による警官個々の健康面での問題もさることながら、緊急配備を継続するにしても仕切り直しが必要だった。昼間帯と夜間帯では、装備だけでも大きな違いがある。  勤務解除後、署に戻ると、すでにテレビ局の中継車が横付けにされていた。マイクを持った女性レポーターがカメラの前でリハーサルをしている。  署の一階フロアには、記者章をつけたマスコミ関係者がたむろしていた。僕たちは足早にそこを通り抜けて刑事課に向かった。  時間的に、いつもなら閑散としているはずの刑事部屋も、この日は、まるで月例会議の朝のような混雑ぶりだった。空席になっているのは、幹部たちの席と、暴力団捜査担当だけで、取調室からは、その刑事が時折、怒鳴り声を張り上げている。当然のことながら、変造テレホンカードは二の次で、ボウガン発射事件との関連性を追及しているのだ。  赤松主任は取調室の隣にある小部屋に向かった。そこは通称�覗《のぞ》き部屋�と言って、マジックミラー越しに、取調室の様子を見ることができる。そっとドアを開けると、すでに五、六人の刑事が立っていた。 「お疲れさまでした。大変でしたね」  盗犯二係の栗原主任が振り返った。栗原は半年前に着任した新任で、まだ三十代半ばの若手である。 「大変て、何が?」  赤松主任が聞き返す。 「あのマルB、巴橋の検問を突破したんでしょう?」 「検問突破というより、正確には、検問回避だな。まぁ、似たようなもんかも知れないけど……」  僕は爪先立《つまさきだ》ちして取調室の中を覗いてみた。二十五、六歳のスキンヘッドの男が腕組みして、さかんに首を横に振っている。 「ところで、お偉方の姿が見当たらないようだけど、署長室?」  と、赤松主任。 「そうです。打合せというところでしょう。この後、おそらく、全署員に講堂集合がかかるでしょうね」 「講堂集合? 何で?」 「ボウガンの発射事件は十日前にも発生しているんだそうです」 「十日前にだって? そんなことは聞いていないぞ」 「当然ですよ。十日前にはバレエスクールの掲示板が撃たれていただけで、実害はありません。対応した警官は、あまり深刻には考えなかったようです」 「ひょっとして、そのことが問題になっているのかい?」 「ええ。今、当日の担当者は小会議室に缶詰にされて、顛末《てんまつ》書を書かされているそうですよ。番犬[#「番犬」に傍点]付きでね」 「そうか。火事で丸焼けになってから、火災訓練のことを聞かれるようなもんだなぁ。顛末書を書かされる方も気の毒だが、書かせる方も辛いところだ」 「ホシが挙がれば、徳俵に足がかかるところなんでしょうけど、マルBの」  と言いかけて、栗原は口をつぐんだ。署内放送のチャイムが鳴ったからだ。  署員は全員、別命あるまで待機のこと……。  荒い鼻息と共に、警務係長の声が廊下に響いた。  それから二時間以上、全署員は待機したが、集合はかからなかった。結局、二度目のチャイムが鳴って、翌朝八時の講堂集合が指示され、待機命令は解除になった。 [#改ページ]      3  人気タレントの講演か、女優の一日署長のイベントでもない限り、警察署の講堂の席が最前列から埋まって行くことはない。  だが、赤松主任は常に最前列の中央の席に座った。最近、めっきり視力が落ち、黒板に書かれた文字が見えにくくなったからだそうで、見習いの僕も、その横に座ることになった。  定刻になると、後部座席から押し出されるようにして、さすがに最前列も満席になる。やがて、気を付け、の号令がかかった。  ガラガラ、キーキー、と椅子を引く音がして、署員たちは全員、立ち上がる。  私語がやみ、静寂が訪れると、それまで聞こえなかった表通りを通過する車の音まで聞こえた。  廊下の方から、複数の靴音が近づいてくる。署長を先頭に幹部たちが続々と現れ、上席へ向かう。幹部全員が署員たちに向かい合って並び立ったところで、警務課長代理が大声で、礼の号令。そして、休め、の号令で全員が腰を下ろす。 「只今《ただいま》より、緊急の全体会議を実施いたします。まず、署長さんの方から一言」  警務課長代理は司会役になる。  署長は立ち上がり、全員を見渡しながら、 「昨日の午後、忌《い》まわしい事件が発生した。その概要については、刑事課長が説明するが、諸君に集まってもらったのは、この卑劣極まる事件の犯人を検挙するためである。本日以降、犯人検挙を最重要課題とし、手持ちの仕事は全《すべ》て二次的なもの、と考えてもらいたい。交通係も警備係も、それから、会計係であってもだ。ボウガンを発射した犯人のことを念頭に職務にあたること」  と言うと、ジロリと一睨《ひとにら》みして、 「いいかね、諸君。今後、たとえ指名手配の凶悪犯人を逮捕しても、私は評価しないぞ。その代わり、些細《ささい》な未確認情報であっても、ボウガン事件に関するものであれば、最大の評価をし、署長表彰の対象とする。諸君の奮起を期待する。以上」  ふだんは温厚な署長だったが、この時の表情は険しく、別人のようだった。  続いて、刑事課長が立ち上がった。 「では、事件の概要について、簡単に説明します。えー、発生日時……、昨日の午後一時十二分ころ。発生場所……、中央町二丁目五番三十七号のタジマ・バレエスクール付近歩道上。被害者は杉並区浜田山五丁目十五番三号、ときわレジデンス503号室、大和商事新橋支店勤務、藤本慎也三十四歳の長女、美咲、五歳。ちなみに、四歳の時から、ここのバレエスクールのクラシックバレエ初等科に在籍している。えー、次に、犯行の、おおまかな状況……。被害者が文化会館前の歩道上を、バレエスクール方向に徒歩で移動中、何者かが、いずれかの場所からボウガンを発射、被害者の側頭部に命中させたもの。負傷の状況および程度……、矢は被害者の頭部に、深さ、およそ八センチメートルの傷を負わせ、現在、意識不明の重体」  ひどいな……、と、誰かが言い、講堂がざわめいた。静粛に、と、幹部席から声がかかる。 「えー、先程、事件概要の説明、と言ったが、今のところ、ホシに関しては確実な目撃情報はない。これは現場に居合わせたのが、子供ばかりだったということに原因している。事情を聞いても、要領を得ないし、途中で泣き出したり、母親が拒否したりで、事情聴取にならなかった。もっとも、容疑者に関する情報は寄せられている。これは主に、事件発生時の前後に現場を通りかかった主婦たちからの証言で、三つに分けられる。第一は自転車に乗った中学生風の赤ら顔の少年。第二は黒色の乗用車。ただし、運転手や同乗者の人着までは取れていない。第三はタレコミ情報で、文化会館の向かいにあるマンションの三階に住む男が怪しい、というもの。すぐにドアをノックしたが、留守だった」  講堂が再び、ざわめいた。 「それから、誠に残念なことを発表しなければならない」  刑事課長は署員たちの私語を押さえ込むように、一段と声を張り上げた。 「実は、ボウガンの事件は今日が初めてではなかったんだ。先々週の金曜日、バレエスクールの掲示板にボウガンの矢が二本も撃ち込まれている。これを出勤してきた事務員が発見、交番に届けた。ところがだ……、矢の任意提出を受けたにもかかわらず、いたずら、ということで処理している。その上、上司にも報告せず、交番の事務引継簿にさえ記載していなかった」  講堂は静まり返った。 「すでに、このことはバレエスクールの校長がコメントし、マスコミの知るところとなっている。今夜のニュースで、警察の失態として報道されることは明らかだ。マスコミはなぜ、そんなことをするか? えーと、君、わかるかな?」  刑事課長は最前列にいる若い警官を指さした。警官は立ち上がり、わかりません、と首を横に振った。 「わからない、じゃないよ。少しは考えてから答えなさい。この場では新人警官ということで許されるかも知れんが、街へ出たら、法を司《つかさど》る一人前の巡査なんだ。警視庁の一員としての責任があるんだぞ」 「…………」  若い警官は必死になって考えを巡らせている様子だったが、発言できないでいた。 「そんなこっちゃダメだ。勉強が足らん」  と言って、刑事課長は、座るように、と手で合図した。すると、 「いいから、答えさせろよ」  副署長が口を挟んできた。腰を下ろしかけた警官は中腰のまま、刑事課長の方を見た。 「さぁ、何でもいいから、答えてみろ」  副署長がその警官に言った。警官は再び、立たなければならなかった。 「どうした? 答えがわからんか? そんなことでパトロール勤務ができるのか?」  なじるような口調だった。  僕には質問の意図がわからなかった。なぜ、そんなにしつこく質問をするのか、不思議だった。しかし、 「さぁ、早く答えろ。君もあそこの交番の一人なんだろう?」  という言葉で、副署長の真意を理解した。  若い警官はバレエスクールを管轄する交番の勤務員だったのだ。  質問は八つ当たりのようなもので、苛《いじ》めも同然だった。若い警官にも、それがわかるのだろう。うつむいて、唇を噛《か》んでいる。  僕には、その警官が気の毒に思えた。どうにかならないものか、と思っていると、隣の赤松主任が、 「はいっ……」  と、右手を高く上げた。副署長は訝《いぶか》しそうに細目をつくっただけだったが、赤松主任は立ち上がると、 「犯人に関するネタがなければ、ニュースが成り立たないからだと思います。今回の場合、ネタになるのは被害者の家族と、バレエスクールの関係者くらいなものですからな。テレビ局も何十分かのニュースショーの持ち時間をつなぐには、警察の捜査についても取り上げざるを得ないわけでありまして、別に意地悪で警察の悪口を言おうというわけではなく、言うなれば……」 「ちょっと、待てっ」  副署長が赤松主任の発言を遮り、 「誰が君の見解を聞きたいと言った?」  と、目を剥《む》いた。 「……は?」  赤松主任が片方の耳を向けるようにして、聞き返す。 「誰も、君の意見なんか聞いてはいない」 「そうですか……。それじゃ……、どうも失礼しました」  赤松主任はペコリと頭を下げ、後ろを振り返って、頭をかいた。署員がドッと笑った。 「笑いごとではないっ」  副署長が真っ赤になって怒鳴った。  その剣幕に、署員たちは一様にうつむいた。静寂の中で、誰かが、クスッと笑い、何人かが必死で笑いを噛み殺している。  副署長はしばらく講堂内を睨んでいたが、やがて、 「もういいっ。刑事課長、続けたまえ」  と、顎《あご》をしゃくった。それを受けて、 「いいかね、諸君……」  刑事課長が続けた。 「もし、集中治療室の女の子が最悪の事態に陥《おちい》った場合、間違いなく捜査本部が設置されることになる。そうなったら、笑ってはいられないぞ。ここの署じゃ、十年近く、捜査本部が設置されていないということだから、状況のわからない署員もいるだろうけど、人員のやりくりで苦労するのは、何も刑事課に限ったことじゃない。おそらく交通課の諸君には私服車両の運転担当をお願いすることになるし、その他の課にいる捜査係経験者には刑事課の補充勤務にあたってもらうことになると思う。各課は欠員を生ずることになるが、仕事の量は変わらないんだ。つまり、捜査本部員以外の署員たちも、仕事がきつくなるというわけだ。それだけじゃない」 「…………」 「当然、週休は取りづらくなるだろう。レクリエーションなんか、もっての外。年に一度の署員旅行も自粛ということになる。柔道、剣道、逮捕術は警察の表芸だから、署対抗の武道大会には参加しなければならないだろうが、去年みたいに準優勝したとしても、いや……、めでたく優勝できたとしてもだ。おおっぴらに祝賀会なんかできなくなる。仮にできたとしても、酒やビールやオードブルなんかは準備できない。なぜだか、わかるかな? ん?」 「…………」 「捜査本部ができたら、そんな予算は吹っ飛んでしまうからだよ。酒やビールやオードブルなんかを買うゼニはなくなっちまうからだ。……そうだよな? 会計係長」  刑事課長は窓際の席に向かって問いかけた。すると、会計係長が黒縁の眼鏡を押さえながら立ち上がって、 「おっしゃる通りです。前任署にいた時、捜査本部が同時に、二つもできたことがありましたが、予算がなくなってしまい、非常に苦労しました。捜査本部ができると、会議にかかる費用や、捜査本部員への差し入れ、さらに、マスコミ関係者への茶菓子代など、これらが積もり積もって、結構、大きな金額になるんです。まぁ、その分、他を節約したわけですが、コピー機の使用を制限したり、エアコンの使用を禁止したりで、大変でした」  と言うと、一礼して腰を下ろした。まるで、あらかじめ打合せしていたような感じだった。 「つまり、ここにいる全員にとって、今回の事件は、川向こうの火事なんかではないということだよ」  刑事課長は声高に言った。講堂に重苦しい静寂が戻った。 「だが、捜査本部が設置されようが、されまいが、堂々と胸を張っていられる方法があるんだが、えーと……、じゃ、並木主任、わかるかな?」  今度は婦警を指さした。駐車違反検挙件数の記録保持者は、すぐに立ち上がり、 「はい。犯人を逮捕することです」  と、よく通る声で答えた。これも、あらかじめ打合せしていたような感じだった。 「その通り。ホシさえ挙げれば、つべこべ言われずに済むんだ」  刑事課長は全員を見渡して、 「いいかね、諸君。何の罪もない少女が、今も生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている。この我々の街でだぞ。警官としてのプライドがあるなら、ホシを挙げてみろ。悪口を言うマスコミを見返してやれ。刑事課任せにするんではなく、今、ここにいる君自身が、ホシにワッパをかけるんだ」  いつしか演説調になっている。赤松主任も隣で、うんうん、とうなずいていた。 「署長のお許しを得て、本日から、特別勤務態勢を取ることにした。どうすれば、ホシを挙げられるか、この後、各課に分かれて検討してもらいたい。以上だ」  と言って、刑事課長は着席した。  署員たちはヒソヒソと話しはじめ、その声は次第に大きくなって行った。警務課長代理が上座で副署長と何やら打合せている。やがて、メモを片手に立ち上がると、自然に私語が止《や》んだ。 「では、検討会場を指定します。講堂は地域課。第一会議室は交通課。第二会議室は警務と会計。その他の係は、それぞれの部屋で実施して下さい。なお、終了後、各課長および代理は署長室に集合願います。署員は全員、退庁許可があるまでは署内待機とするので、誤りのないように。以上」  と言って座ると、再び、気をつけー、の号令がかかった。  刑事課に戻る途中、赤松主任は、雉《きじ》を撃ってくる、と言ってトイレに向かった。小用だと思ったので、僕も同道した。だが、 「昨日のピーナッツが悪かったのかなぁ。やはり、期限切れのせいかなぁ……」  赤松主任は顔をしかめて奥のドアに入った。  指導刑事にピッタリと張りついていろ、という指示だったが、さすがにトイレの個室まではついて行けない。僕は廊下に出た。  ところが、なかなか出てこない。そのうち、通りがかった刑事から、捜査会議が始まるぞ、と促《うなが》され、僕は後ろを振り返りながら刑事部屋に向かった。  ひと気のない一階の廊下は静まり返り、いつもは開いているドアが閉まっている。すでに会議が始まっていたのだ。  ノブを掴《つか》み、細めにドアを開けると、刑事課長が何やら説明していた。いつもは別室にいる鑑識係員や、記録係員も全員、パイプ椅子に座っている。  どうすべきか、と、廊下をうろうろしていると、 「どうした?」  赤松主任の声がした。僕は振り返って、会議中です、と答えると、 「遠慮するな。さっさと入れ」  赤松主任はハンカチをズボンのポケットに押し込みながら、ドアを開けて、堂々と入って行った。僕はその後に続いた。 「確証はないが、ボウガンの矢には毒薬が仕込まれているかも知れん、なんて言い出すのまで出てきてね」  課長の話は続いていた。 「その上、矢は引き抜いたものの、先っぽの鏃《やじり》の部分が残って、これが脳の危険な部分で止まっているらしい。脳みそが飛び出ている、という第一報は誤報だったが、担当医は、生きているのは奇跡に近い、とまで言いきった。これは暗に、あの美咲という女の子が、いつ死んでも不思議ではない、と言ってるようなものだ。つまり、我々は殺人事件の発生を覚悟した方がいいというわけだ。表にいるレポーターの騒ぎ方を考えると、百五十人以上の態勢の大がかりな特別捜査本部ということになるだろう。何せ、今の刑事部長はマスメディアを重視するお方だからな」 「…………」 「それならば、今のうちに手持ちの仕事を捌《さば》いちまおう、と考えるデカさんが、この中にはいるかも知れない。だが、そりゃとんだ心得違いというものだぞ。講堂では説明しなかったが、殺しに至っていない今の時点でこそ可能な捜査というものがある。えーと、小柳君、わかるかな?」  誰それ君、わかるかな? と質問するのは、聞き手側の人間の注意力を高めさせるためなのだそうだ。 「それはもちろん、聞き込み、です」  若い刑事が座ったまま答えた。 「さすがは岡山県のエースだ。出来が違うなぁ」  刑事課長が眉を上下させると、あちこちで軽い笑いが起きた。息苦しかった講堂の会議とは、雰囲気がまるで違う。 「つまり、被害者が生きているうちなら話せる、という類《たぐ》いの情報があるはずだ。殺人事件になったら、とばっちりを恐れて口をつぐむ住民たちも、今なら口を滑らす、という情報だな。それを狙《ねら》い目にする。まずは当面、各係は今の仕事を一時中断して、全力を尽くして聞き込みに当たってくれ。以上だ」  と言って、刑事課長代理に目配せした。 「えーと、それでは……」  課長代理は色鉛筆を片手に立ち上がった。 「今から地取《じどり》を決めたいと思うが、その前に、仕事の関係やら何やらで、直当《じかあ》たりしたくないという対象があるという者は申し出てもらいたい」  と言って、部屋を見渡した。しかし、誰も手を上げない。 「じゃ、指定するよ。まず強行犯係。中央町と栄町を担当してくれ」 「了解」  強行犯担当の係長が返事した。 「知能犯係は弥生町と青葉台」  と、課長代理は担当区域を指定して行った。  赤松主任たちの盗犯係は一係と二係があるため、四つの町を担当することになった。  暴力団係、鑑識係、記録係と、全ての割り当てを終えると、 「いいかな? それぞれの指定に従って、速やかに聞き込みを済ませてもらいたい。無理は承知の上だ。女の子の容体から考えて、たぶん今日明日だけになると思う。だから、工夫して努力してもらいたい。九時から五時、なんて呑気《のんき》なことを言っていないで、夜明けから……、いや、必要があれば、夜中に実施しても構わんぞ。以上」  と言って、課長に目礼した。それを受けて、 「話したいことは、まだまだあるが、今、代理が言ったように、時間を有効に使ってもらうため、これ以上、何も言わない。各係長の指揮で、直ちに行動を開始してくれ。なお、本日は課長代理が署に泊まり込む。明日は私が泊まる予定だ。何かあったら、真夜中でも明け方でも構わん。遠慮なく叩《たた》き起こしてくれ。……何か、質問は?」  一瞬の静寂。ここでも手を上げる者はいなかった。 「では、指定に従って、直ちに行動してくれ」  と言うと、課長は代理を伴って、刑事部屋を後にした。おそらく、署長室に向かったのだと思う。 [#改ページ]      4  盗犯第一係は係長以下五名で構成されていた。  係長は秋山警部補で、年齢は三十三歳。半年前まで、本庁の捜査三課に勤務していた。城西署への着任は昇任配置であり、一年もすれば、古巣の捜査三課に呼び戻されることは確実だった。  主任は二人。一人は酒井巡査部長で、年齢は四十五歳。城西署着任が赤松主任より一年早いため、先任主任ということになる。従って、刑事経歴が十年以上長くても、赤松主任は次席格の主任ということになる。  係員も二名。三十八歳のベテラン、堀之内刑事と、三十二歳の八木沢刑事である。だが、八木沢刑事は結婚休暇中だった。  地取捜査で、盗犯第一係に指定されたのは、商店街である南町と、住宅街である富士見町だった。係長の秋山は、酒井主任と堀之内刑事に南町を、赤松主任と僕には富士見町の聞き込みを実施するように命じた。  酒井班、つまり、酒井主任と堀之内刑事は、すぐに聞き込みに出かけた。商店街の開店は午前十時。客が少ない時間帯を狙《ねら》って聞き込みを実施するためだった。  一方、赤松主任は逆に、自席に腰を据えた。午前中の住宅街は慌ただしい。掃除洗濯に忙しい主婦たちが快く協力してくれそうもない、というのが、その理由だった。  赤松主任は僕に富士見町一帯の住宅地図をコピーさせた。次に、防犯連絡所をマーキングさせた。警察協力者の世帯を拠点にして聞き込みするつもりだったのだろう。  さらに、富士見町付近から入電した過去一年以内の一一〇番通報について、調査するよう僕に指示した。住民の関心事を把握しておくことは、聞き込みの定石だからだ。  その間、赤松主任自身は、富士見町一帯で発生した犯罪記録に目を通していた。痴漢、ひったくり、車上ねらい……。どれも通り魔に発展する可能性がないとは言い切れない。  赤松主任が古い事件記録簿に目を凝らしていると、 「赤松先輩、いつもお世話になってます」  後ろから肩を揉《も》んでくる男がいた。知能犯係の芹沢主任だった。 「折入って、頼みがあるんだけど、聞いてくれる?」  いつもは仏頂面なのだが、この時は愛想笑いしている。 「どんなこと?」  赤松主任は事件記録簿に目を向けたまま、聞き返した。 「実は、地取の件なんだけどね……」  芹沢は周囲を窺《うかが》ってから、 「俺んとこと、取っ替えっこしてもらいてぇんだ」 「取っ替えっこ?」 「実は、ここだけの話だが、指定された地区に重要参考人のヤサがある。できれば、メンを取られたくない」 「そっちのところは、確か……」 「青葉台なんだ。世帯数は富士見町地区よりも少ないぜ」 「世帯数なんて、どうでもいいよ。それより、知能犯担当らしからぬ手際の悪さだな。そうならそうと、さっき、なぜ代理に言わなかったんだ? そうすりゃ俺の肩なんか揉むことはなかったんだぞ」 「もちろん、そうできれば、そうしたさ。青葉台、と言われた時には、ドキリとしたが、手を上げるわけには行かなかった」 「なぜ?」 「最近、背中がムズムズするんだ。出入りのブン屋が勘づいた気配がある。デカ部屋には酒が入ると、口が軽くなるのが、結構いるからな。そんなのが安酒くらって、知能犯係は青葉台一帯を嗅《か》ぎ回っているらしいぞ、なんてバラされてみろ。ここ半年の苦労が水の泡だ」 「そうか。じゃ……、止《や》むを得んな」  赤松主任は事件記録簿を閉じた。そして、僕に対して、青葉台の地図をコピーするように指示した。  はい、と答えると、 「悪いね、若い衆《し》」  芹沢が僕に声をかけ、 「それと、迷惑ついでに、もう一つ」  と、また肩を揉み始めた。 「担当区の入替えは、そっちから申し出た、ということにしてもらいてぇんだ」 「何で?」 「何でって……、知能犯係から入替えを申し入れた、となれば、青葉台をマークしていることを間接的に教えているようなもんだろう? 煙幕にならないよ」 「全く、おんぶに抱っことは、このことだ……」  赤松主任が渋い顔で舌打ちした。 「頼むよ。赤松先輩を男と見込んでのことなんだ。恩に着るから」 「わかったよ。そこまで言われちゃ、ダメとは言えめぇ。一つ、貸しだぞ」  赤松主任は指一本、立てた。 「すまん……」  と言って、戻ろうとすると、 「ちょい待ち。ただし、当方が、なぜ入替えを申し出るのか、その理由くらいは、そっちで考えてくれよ」 「理由を? こっちがか?」 「当たり前だ。そのくらいの努力をするのは礼儀というもんだろう?」  と、目を剥《む》いた。すると、 「わかったわかった。何とか、知恵を絞ります」  芹沢は逃げるように自席に向かった。  結局、窃盗容疑者を内偵中につき、という口実にすることにした。これは知能犯係の実際の理由と全く同じだった。しかし、そのことを記者が嗅ぎつけたとしても、盗犯一係の場合なら、作り話なのだから、すっぱ抜かれる心配もない、というわけだ。  いかにも知能犯係らしい発想だった。  何も知らない盗犯一係長は、赤松主任の担当区替えの申し出を受け、知能犯係長に対して、ご迷惑をかけます、と丁重に頭を下げた。  お互いさまですよ、と知能犯係長。その態度に悪びれた様子はない。  ひょっとしたら、芹沢は直属の上司にも秘密にしているのかも知れない……。  僕はそう疑ったが、真相はわからずじまいだった。  課長代理は知能犯係が担当区替えを快諾していることを知り、了承した。それを受けて、僕たちは仕事にかかった。  芹沢の言う通り、青葉台は富士見町に比べれば世帯数が少なく、犯罪の発生も少なかった。ノルマの消化という点からすれば、負担は軽く、苦労も少なくて済むわけだ。しかし、収穫の見込めない仕事を楽にこなすことより、難しく苦しくても、実りある仕事を望むのが刑事という人種である。 「まぁ、いいさ。金持ちのドラ息子が、退屈しのぎにボウガンを撃った、というような可能性がなくもない」  赤松主任は少し不満気だった。  大部分の刑事は聞き込みに出かけた。赤松主任と僕も出かける準備にかかった。机の上を片付け、コートを脇に抱えると、赤松主任を呼ぶ声がした。課長が手招きしている。赤松主任は課長席に向かった。 「何でしょう?」  たぶん地取捜査のことだろう、と思って、僕も課長席に向かった。だが、君はいい、と言う風に指先を前後に振って、 「大したことじゃないんだけどね。実は、商工会議所の君島理事から副署長の方に電話があったそうなんだ。君、ロータリークラブの顧問と面識があるのか?」 「ロータリークラブの顧問? はて……」  と首をひねって、 「何という人です?」  と尋ねると、課長はメモ帳に目を落として、 「梶原光照という人で、エンゼル電気という会社の相談役だそうだ。君島理事とは同郷で、ゴルフ仲間らしい」 「そんな偉い方は、存じあげませんね」 「向こうさんは知っているということだが?」 「そう言われても……」  今度は、反対側に首をひねった。 「昨日の午後、巴橋《ともえばし》でお世話になった、と言ってたそうだ」 「巴橋で?」  僕にはすぐ、ベンツに乗った老人の顔が浮かんだ。赤松主任も同じだったようで、 「課長。それは、ひょっとして、白髪頭の、七十くらいの年寄りですかね?」  と尋ねた。 「白髪頭かどうかは聞かなかったが……、知っているのか?」 「知っているも知らないも、検問で一悶着《ひともんちやく》あった相手ですよ」 「一悶着? どういうことだ?」  課長は顔が一瞬、険しくなった。 「手配の車と同じ色をしていたんで、検問したんですよ。そしたら、犯人扱いするのかとか、ゴネましてね。往生しました」 「なるほど。それで読めた……」  課長は舌打ちして、 「君島理事が警察友の会の会長であることを知っていて、言いつけたわけだ。たぶん、君島理事も心配になって、電話してこられたんだろう」 「なるほど。では、副署長のところへ行って、事情を説明して来ますよ」  と、ドアの方に体を向けると、 「その必要はない。確認のために、聞いただけだ。もういいよ」  課長がそれを止めた。  昭和の頃、いわゆる地域の有力者の中には、第一線で苦労する警官たちを公僕という名の下に、下僕扱いする人物が明らかに存在していた。  町の名士ということで、警察幹部と親交がある立場を利用し、気に入らぬ警官に対しては、理不尽な苦言や告げ口をしたものだ。謂《いわ》れなき中傷や、身に覚えのない訴えで、不遇な立場に追いやられた警官を、僕は何人も知っている。大抵が、金持ちよりは貧乏人、強者よりも弱者を思いやる心優しい、清廉潔白な警官だった。  たぶん、赤松主任もそういう警官の中の一人だったのではないか、と思う。 [#改ページ]      5  自動車の運転免許があっても、パトカーを走らすことはできない。警察車両を運転するには、警察内部で定めた運転資格が必要だからだ。  幸い、僕はその資格を持っていた。だから、研修生の立場だったが、捜査車の運転を許されたのだと思う。赤松班に配車されたのは、一六〇〇ccの旧式車で、バンパーが凹《へこ》み、ワイパーも曲がったポンコツだった。  当時は予算不足で、警察の私服用車両と言えば、一目でそれとわかる古い車ばかりだった。尾行張り込みなど隠密行動が必要な場合、捜査幹部は署員に頭を下げ、個人所有の自家用車を借り上げたものだ。  この時は、ただの足代わりだったから、僕はエンストと駐車場所の心配をするだけでよかったので、気は楽だった。  車両点検を済ませて、本署を出た時は午後一時前で、僕はコンビニか、スーパーマーケットで、弁当でも買うのだろうと決めこんでいた。  ところが、赤松主任が指示した食事場所は何と、にぎやかな商店街通りにある行列のできる日本ソバ屋だった。  近くの交番に車を止め、歩いて向かったのだが、僕が心配した通り、店内は満員だった。  駅前まで足をのばせば、立ち食いソバ屋があって、どんなに混んでいても、四、五分で丼にありつけるのに……。  僕はそう思った。だが、赤松主任は店備えつけの写真週刊誌を手に取ると、五つ並んだ待ち席の隅の席に、どっこいしょ、と腰を下ろした。僕がその横に立ったのは、店の奥のテレビが事件の被害者の容体を伝えていたからである。  鏃《やじり》の部分が危険な箇所に残っているため、美咲ちゃんの容体は依然として予断を許さない状態……。  レポーターが深刻な表情で報告していた。店の客たちも、箸《はし》を止めてテレビ画面に見入っている。録画や現場からの中継画像に、知人の姿を見つけて歓声を上げる客もいた。  犯人の目星は? と、スタジオのキャスター。依然として不明、と、レポーター。その時、座敷席の方で、 「まさか犯人が大門町のタの字[#「タの字」に傍点]ってことはねぇだろうなぁ……」  という男の声がした。それほど高い声ではなかったのだが、僕の耳は敏感に反応していた。声のした方に目をやると、運送会社の作業衣を着た三人連れがざるソバを食べている。 「あの一家は静岡の方へ引っ越したよ。もう東京にはいない」  向かい側の男が言った。 「引っ越した? そんなことはねぇだろうよ。半月くらい前に、都営グラウンドの自然遊歩道で、あのガキを見かけたぞ」 「本当?」 「うん。例によって、チャリンコでフラフラしていた。おそらく、あのチャリンコも、どこかでかっぱらったもんだろうな」 「へぇー、そりゃ知らなかったな。親父の話じゃ、問題を起こす前に、田舎の兄貴に預かってもらう、てなことを言ってたんだがなぁ」 「兄貴? また、どうして?」 「兄貴というのが静岡で野菜作りをしているんだそうだ。農作業を手伝わせながら、地元の高校に通わせるとか何とか、言ってたんだが……」  と、首をひねる。 「売り物のキャベツか何かを、例によって、手裏剣《しゆりけん》の的にしたんじゃないの? まぁ、猫を的にするよか、マシだけどね。野菜農家にとっちゃ、たまらん」 「近頃は、ああいうのが増えた。自分が面白けりゃ、他人の痛みなんて、へっちゃらなんだからな。全く、末恐ろしい」  一人が鼻で笑い、もう一人は、困ったもんだ、と言いたげに首を振り、後の一人は白い歯を見せたが、僕の方を見て、シッ、と言った。顔を伏せ、何事かつぶやいている。僕は耳を澄ました。すると、赤松主任が僕を見上げて、 「すまんが、鈴木君、今のうちに社の方に電話してだな」  突然、甲高い声で話しかけてきた。 「売りに出ている物件について、もう一度、確認しておいてくれ。営業二課の伊藤君なら詳しいはずだ」  と、一方的に言って、再び、写真誌に目を落とした。  一瞬、耳を疑ったが、何のことです? と、聞き返すほど鈍感ではない。 「わ、わかりました」  僕はポケットを探りながら店の外に出た。だが、うまく誤魔化せたかどうか、自信はない。店の外に出て、二つ先の路地まで歩いた僕は不安になり、しばらく戻ることができなかった。  後で、赤松主任から聞いたところによると、 「お前ら、噂話《うわさばなし》もいいけどな」  と、三人連れの一人が押し殺した声で言ったそうだ。 「ちょっと喋《しやべ》りすぎだぞ。お巡りなんかに聞かれたら、どうするつもりだ。テレビでも言ってたろう? 警察は今、血眼になってるんだ」 「別に、いいじゃん。逮捕に協力すれば、警視総監賞がもらえるかも知れんのよ」 「アホッ、それはヤツが犯人だった場合だろう? もし、犯人じゃなかったら、どうする? うちの店の信用問題になるんだぞ。タレこんだ人間は間違いなくクビになる」 「そんな……大袈裟《おおげさ》な」 「大袈裟? そうかい。じゃ、勝手にしな。ただし、俺を巻き込まないでくれよ。この年になって、またぞろ職探しなんて、真っ平だ」  と言うと、手早くソバを平らげて、財布から小銭を出し、伝票の上に置いて、逃げるように席から下りたということだった。すると、 「俺も聞かなかったことにさせてもらう」  最初に話を切り出した男が言った。 「おいおい、そりゃないだろ?」  と、残りの一人。 「ともかく、何も知らない。お前と違って、俺には女房子供がいるんだ。今、クビになるわけには行かないよ」 「何でぇ、俺一人が悪者か? 冗談じゃねぇよ」  以後、二人は無口になり、箸だけを動かしていたが、やがて、先を争うように席から離れたとのことだった。  実は、この時、僕は店から出て来る二人とすれ違っている。だが、目を合わせられなかった。  赤松主任の話は、あくまで、赤松主任の話であって、三人連れが実際に、どんな会話を交わしたのか、僕にはわからない。  僕が店内に戻ると、十七、八歳の女の店員が、テーブルの上の丼を片づけてから、布巾《ふきん》で拭《ふ》いて、 「お待たせしました。こちらへどうぞ」  と、待ち席の四人連れに声をかけた。  それからすぐに、僕たちもテーブル席に案内された。だが、注文したてんぷらソバは、なかなか運ばれてこなかった。 「さっきの三人は、どこの連中でした?」  僕は小声で尋ねた。単なる質問でなく、照れ隠しもあったのだが、 「後で話す」  赤松主任は素っ気ない口調で言った。  テレビでは被害者のホームビデオでの映像が映し出されている。今度は、隣のテーブル席に座った女の二人連れが、そのテレビを見ながら、ひそひそ話を始めた。 「おそらく交通事故のトラブルが原因だと思うわよ」  眼鏡をかけた中年女が言った。 「そうかしら。あんな仕返しをしたって、一文の得にもならないと思うけど……」  同年輩の女が首を横に振る。 「お金の問題じゃないわよ。慰謝料の請求と言っても、別にお金が欲しいわけじゃない。慰謝料を請求するという理由以外に訴える手段がないからよ。裁判を起こし、相手に金銭上の痛手を与えることくらいしか、報復手段がないからだわ」 「だったら、最後まで莫大《ばくだい》な慰謝料を請求し続ければいいじゃない。自分の子供が轢《ひ》き殺されたからと言って、知り合いの子供を、なぜ狙うのよ。狙うなら、轢いた本人を狙うのが筋でしょう? あんなちっちゃな女の子を狙うなんて許せないわ」 「確かに、あの子には何の責任もないわ。でも、親……、特に奥さんの方が、被害者の神経を逆撫《さかな》でするような言動をしていたらしいわよ。いくら仲間うちの話だからと言って、そういう話は回り回って、相手の耳に入るものなのよ。それも話に輪をかけてね」 「仲間うちの話って?」 「慰謝料の額は裁判所に決めてもらった方が後腐れがなくていい、とか何とか、言ったらしいわ」 「まぁ、ひどいことを言うのね」 「口は災いの元よ」  ソバが運ばれてきて、二人の女は口を閉ざした。  僕の脇の下を汗が流れ落ちて行った。同じ状況下で、二度も失敗を繰り返すところだった。  赤松主任にとっては、食事の時間も、勤務の時間もなく、担当区内も、担当区外もない。全《すべ》ての時間と場所が聞き込みの対象だったわけだ。  無理がなく、無駄のない自然な動き。僕は年季の入ったベテラン刑事の仕事ぶりというものを垣間見《かいまみ》た思いだった。 [#改ページ]      6  午後二時過ぎになって、赤松主任と僕は青葉台の一丁目一番地に立った。  まず最初に目に止まったのが、側溝のゴミをさらっている老人の姿だった。 「ご精が出ますな」  赤松主任が声をかけた。  老人は顔を上げ、用心深そうな目を僕たちに向けた。だが、警察手帳を見ると、安心したのか、それとも、前々から訴えたかったのか、突然、ブロック塀の上に横一列に並べられるという空き缶の話を始めた。多い時では、一晩に五つも並べられることがある、とぼやいた。  赤松主任は穏やかな表情で、老人の話に耳を傾けていた。話題は次第に、ゴミのことに変化し、さらに、生ゴミを荒らすカラスの問題へ、そして、焚《た》き火の苦情へとエスカレートしていった。  赤松主任は相づちを打つだけで、一向に聞き込みを始める様子がない。  一体、どういうつもりなのか……。  僕は苛立《いらだ》ちを感じ始めていた。青葉台は戸数が少ないとは言え、三百世帯以上もある。赤松主任のペースでは、丸一日、聞き込んでも、三分の一も消化できない。  僕は腕時計を見た。その仕草に反応したのは老人の方だった。 「こりゃ、とんだ長話をしてしまいましたな。まぁ、ひとつよろしく」  老人はペコリと頭を下げ、そそくさと家の敷地内へ入った。 「顔見知りの住民なんですか?」  と尋ねると、 「いや、初対面だ」  赤松主任は路地を進み始めた。ゆっくりとした足取りだった。五、六歩、行ったところで、 「顔見知りだったら、家の中に上がりこんで、茶の一杯もごちそうになっているよ」  と、独り言のようにつぶやいた。  僕たちは左右を見ながら足を進めた。十メートルほど行ったところで、カラカラカラと二階のサッシ戸を開ける音がした。見上げると、腕まくりした四十前後の女が、布団を叩《たた》き始めた。 「こんちは、奥さん。今日は晴れて、よかったですな」  赤松主任が声をかけた。 「新聞なら、間に合っているわよ」  素っ気ない返事が返ってきた。 「新聞の勧誘じゃありませんよ、奥さん。警察です」 「……警察?」 「そうです。警察の方から来た、というインチキセールスマンじゃありませんよ」  赤松主任は警察手帳を相手に向けた。 「本物の刑事さん? ちょっと待って。今、下りて行くわ」  女は急ぎ足でサッシ戸から屋内に入り、すぐに玄関のドアから現れた。両手で髪を整えながら、 「ちょうどよかったわ。警察に行こうかと思っていたところなのよ」  女は息を弾ませている。僕は期待をこめてメモの準備をした。 「いたずら電話がかかってきて困っているのよ。ひどい時は朝早くから夜中まで、二十回くらいはかかってくるわ。主人は受話器を外してしまえ、と言うけど、実家の母が入院しているから電話に出ないわけにはいかないのよ」 「ほう。そりゃ、お困りですな」  赤松主任がうなずく。 「番号を変えても、どういうわけか、すぐに突き止められてしまうのよね。電話帳に載せないようにしているのに、なぜ、わかってしまうのかしら?」 「…………」  どうして旦那の不倫を疑わない? 状況から見て、女性関係が最も可能性が高いではないか……。  僕にはすぐに察しがついたが、 「そりぁ、不思議ですなぁ」  と、赤松主任は首をひねる。 「ねぇねぇ……」  主婦は甘えるような鼻声で、 「テレビなんかで、よくやっているけど、逆探知というのは、どうすればやってもらえるのかしら?」 「逆探知ですか……」  赤松主任は頭をかいて、 「いろいろと難しい決まりごとがありましてね。それに、手続きもややこしいし、なかなか面倒なんです。そうそう簡単には行かないんですよ。お宅のような事情の場合は、たぶん無理だと思いますね」 「そうなの……」  女は不満気に口元を歪《ゆが》ませた。そして、思い出したように、 「それから、もう一つ。この間、主人|宛《あて》に小包が送られて来たのよ。それが料金を支払わないと渡せない、というんで、三万円払ったのよ。そしたら、主人は、知らない、というの。小包の中身は、管理職とかの自己啓発講座のテキストで、十年も前に発行されたものだったのよ。あれは詐欺でしょう?」 「さぁ、それだけでは、詐欺と言えるかどうか、ちょっとわかりません。最近は、法律すれすれの悪質な手口が多いですからね」 「そんな……。主人は申し込んでいないのよ。なのに、『ご本人が電話で申し込まれています』ですって。みえみえの嘘よ。ああいうのは取り締まれないわけ?」 「もちろん、取り締まっていますけれど、次から次へと、新手の悪徳商法が現れましてね。ですから、消費者の皆さんには十分、注意してもらわないと」 「大体、郵便局もおかしいわよ。業者とグルになっているみたいだわ」  主婦の話は続いた。僕はここでも、思わず腕時計に目を向けたのだが、今度の相手には通じなかった。  すると、赤松主任が僕の方に顔だけ向けて、 「その辺を当たってきていいよ」  と、小声で言った。 「ねぇねぇ、ちょっと聞いてってば……」  主婦は赤松主任の腕をつついて、 「民間会社ならともかく、郵便局は国の機関よ。ハンコをくれ、と言われれば、大概の人は出してしまうわよ」 「まぁ、そうでしょうね」  赤松主任が相づちを打つ。僕は二人の側から、そっと離れた。  数十メートル先で、防犯連絡所の看板を見つけた。  防犯連絡所とは、子供たちが不審な大人、あるいは、若い女性が変質者につけ回された時などに、逃げ込むことのできる場所でもある。  ひょっとしたら、過去に、ボウガンに狙《ねら》われた、という通行人が駆け込んでいるかも知れない。  そう思って、僕はインターホンを押した。すぐに六十すぎの男が現れた。僕は自己紹介し、警察手帳を呈示した。 「ほほう。城西署で研修中ですか……」  男は笑みを浮かべて、 「まぁ、立ち話も何ですから、お入んなさいよ」  と、玄関の中に誘った。 「いいえ。折角ですけど、主任と二人で、手分けして聞き込み中ですので、ここで結構です」 「そう? 粗茶などを、と思ったんだが……」 「恐れ入ります。ところで、早速ですが、昨日発生したボウガンの事件については、ご存知ですか?」 「もちろん。昨日からテレビをつけっぱなしですわ。全く、ひどいことをする人間がいるもんですな」 「この辺りで、ボウガンの趣味を持つ人物とか、小さな子供に危害を加えそうな人物とか、そういった噂《うわさ》をお聞きになったことはありますか?」  僕の場合、核心の質問に入るまで、インターホンを押してから、まだ一分も過ぎていなかった。 「さっきテレビで見たけど……」  男は答えた。 「ボウガンなんて見たことないし、誰かが持っているというような噂も、聞いたことがありませんな。でも、しばらく前のことだが、小学生に画鋲《がびよう》をぶつける男が出没したことはありますよ」 「本当ですか?」  僕は緊張した。思いがけない重要情報だと思った。メモ帳のページを繰って、 「その男の特徴を教えて下さい」  僕はボールペンを構えた。興奮でペン先が微《かす》かに震えていた。 「年は二十七、八というところ。背は百六十五センチくらい。かなり痩《や》せていて、顔色は悪く、髪はボサボサ。私が見た時は、黄色のシャツに黒いズボンで、白いスニーカーを履いていましたな」  男は淀《よど》みなく答えた。 「えーと、黒いズボンに、白のスニーカー……と」  僕は夢中でペンを走らせた。 「自転車に乗っていたからね。ここら辺りの人間じゃないことは確かだ。たぶん、緑町団地あたりの、まぁ……、シンナー男じゃないかなぁ」  後で知ったことだが、緑町団地とは隣の区にある公団住宅で、城西署の管轄ではなかった。 「どうして、その団地の住人だと思われるんです?」 「ここだけの話だけどね。あそこの団地には変わり者が多いんですわ。働き盛りのいい大人が昼間っからブラブラしていたりしてね。公園のベンチには酒ビンが転がっているし、道端では平気で立ち小便。これが日本か、と目を疑いたくなる」 「だからと言って、それがボウガンの犯人だとは、ちょっと……」  僕は首を傾《かし》げて見せた。相手を刺激して、ここだけの話、というのを長引かせるためだ。だが、僕の捜査技能は未熟で、なきに等しかった。案の定、相手はムッとした顔をして、 「別に、ボウガンの犯人の話なんかしていない。画鋲を投げた男の話をしているんだ。勘違いしないでよ、あんた……」  僕は、あんた呼ばわりされてしまった。 「す、すみません」  と、すぐに頭を下げて、 「えーと、その画鋲男のことですが、しばらく前、ということですけど、具体的に、いつ頃です?」 「そうさなぁ。三カ月くらい前になると思う」 「そのことを警察には?」 「交番には電話したよ。今度、見かけたら、すぐに一一〇番するように、ということだったんで、みんなで目を光らせていたんだが、そういう空気というのは、向こうにも伝わるものなのかねぇ。その後は、パタリと姿を見せなくなったから不思議だ」 「なるほど。ところで、画鋲をぶつけられた子供のことですが、どこの子供か、わかりますか?」 「第一小学校の五年生だと言っていたな。内藤とかいう女の先生が、わざわざ挨拶《あいさつ》に見えた」 「第一小学校……。内藤という女の先生……」  と、繰り返しながらメモをすると、 「たぶん、今頃は加藤車長が事情を聞いていると思うよ」 「加藤……車長?」  僕はペンを止めた。 「二係のパトカーの加藤車長だよ」 「どうして、パトカーの警官が?」 「昨日の夜、うちに来て、この辺りの変質者を調べに来たんで、今の話をしたわけさ。そしたら、明日の朝……、まぁ、今日の朝ってことになるけど、小学校の方へ直接出向いて、事情を聞くって言ってたから、もう、先生には会ったんじゃないかな」 「すると……、加藤車長には画鋲男のことを話してあるわけですね?」  と念を押すと、 「うん。昨夜は泊まりだったんで、係長の指示で管内の防犯連絡所まわりをしたらしいよ。そんな口ぶりだったな」 「そうですか……」  僕は書きかけのメモ帳を閉じた。  夜勤の警官が昨日のうちに、防犯連絡所を訪れて情報収集することは当然のことだった。おそらく交通課の夜勤組も、交通安全協会まわりをしているに違いない。つまり、情報を入手しやすい対象については、昨夜のうちに終えていて当然だった。  僕は糠喜《ぬかよろこ》びした自分に舌打ちした。  僕は再び、赤松主任と行動を共にした。  インターホンを押して、自分の素性を明かし、用件を告げる。返ってくる反応は様々だった。人の気配はするのだが、返答のない世帯。インターホン越しに、知らない、と答えるだけの世帯。玄関のドアを開ける世帯……。  それらの反応について、住宅地図にマーキングして行った。事態の進展次第によっては、再び訪れなければならない可能性もあるからだ。  地図の一角が、留守、そして、心当たりはなしの回答、というマークで占められた。聞き込みの成果は、正に、聞き込みを実施した、ということだけということになる。それはそれで、一つの捜査の基礎資料になるのだが、時として、思いがけない情報に当たることもある。  番地が変わった最初の家のインターホンを押すと、四十前後の男が現れた。長い髪の毛を女性のように後ろで結んでいる。庭仕事をしていたらしく、タオルを首にかけ、腕まくりした手には軍手をしていた。  男はなよなよとした物腰で、刑事さんですか? と念を押してから、 「ちょうどよかった。実は、電話しようかどうか迷っていたんですよ」  と話し始めた。 「私が見たのは、ボウガンじゃなくて、洋弓なんですよ。それでカラスを射《う》っていたんです」 「ヨウキュウ?」 「ヨーロッパの弓ですよ」 「ああ、その洋弓ですか。はいはい……。で、いつ頃のことです?」  赤松主任が尋ねたので、僕はその後ろでメモ帳を開いた。そうするように、と、指示されたからだ。 「一カ月ほど前です。高速道路のガード下で、偶然、見かけたんですよ」 「場所はどこです?」 「菊ヶ丘二丁目辺りです。高速道路沿いに運送会社の集配センターがあるでしょう? あそこの五十メートルくらい西側です」 「どんな風な男でした?」 「どんなって……、そうですね……。刑事さん、影山丈二というタレントを知ってます?」 「……影山?」  赤松主任が僕を見た。すかさず、 「知っています」  僕は答えた。イタリア人との混血のアイドルだ。 「そのタレントに似ているわけですか?」  赤松主任が改めて尋ねた。 「瓜二《うりふた》つと言うほどじゃありませんけどね。目元が、ちょっと似ています。それにお尻《しり》から脚の線。体格は一回り小さいかなぁ」 「なぜ、カラスを射っているとわかったんです?」 「高速道路の下で、矢を真上に向けていたんです。コンクリートの橋桁《はしげた》を狙うわけはないし、矢を向けた方を見てみると、カラスが二、三羽、いました」  男は両手を広げ、飛ぶ仕草をした。 「なるほど。一カ月前とおっしゃいましたね?」 「はい」 「その後は、いかがです? その男を見かけました?」 「いいえ。あの場所を通りかかる時は、自然に目が行くんですが、その後は一度も見たことはありません」 「わかりました。調べてみましょう。えーと、念のため、こちらの電話番号を教えてくれませんか?」  と言うと、 「それは構いませんけど、私のことは表沙汰《おもてざた》にならないでしょうね?」 「ほう。何か、不都合なことでも?」 「いやぁ、不都合というわけじゃないんですけど、変なのに逆恨みされたくはないんです」 「もちろん、お宅さんのことは明らかにしませんよ。その点は安心して下さい」  と約束すると、男はようやく電話番号を教えた。  地名に�台�が付いているだけに、青葉台はなだらかな起伏のある閑静な住宅街だった。  下町のように、二十四時間営業のコンビニもなければ、店先にランチの見本を出しているレストランもない。あるのは浅葱色《あさぎいろ》の暖簾《のれん》をさげた和菓子店と、間口一間半ほどの控えめな構えのクリーニング店だけだった。  平日の午後、在宅しているのは専業主婦か、留守番の老人で、青葉台の町名変更の問題や、シルバーゾーンの交通規制については、よく話したが、五キロ以上も離れている文化地区のことについては関心が薄かった。  その日の夕方までに五十世帯の聞き込みを終えて、事件に関して全く心当たりがない、というのが四十三世帯。公園や路上で不審者を見かけたというのが七世帯だった。  僕の脳裏では、本署に引き上げることが気になり始めた。そんな僕の心の動きを読み取ったのか、それまで、一向に時刻を気にかける様子がなかった赤松主任が、 「そろそろ、時間かな?」  と、時計も見ずに尋ねた。はい、と返事すると、 「じゃ、ぼちぼち上がろう。車を回してくれ」  と言いながらも、次の家のインターホンを押している。それを横目に見て、僕は車を止めた空き地に向かった。  その三十分後——。署に到着すると、昨日以上の混雑ぶりだった。  表通りの一車線は、取材車、テレビ中継車、投光車などで塞《ふさ》がれた。玄関前にはテレビレポーター、歩道には野次馬がたむろしている。  僕は裏門から車を入れたのだが、それでも、取材クルーに強烈なライトを浴びせかけられ、サンバイザーを下ろさなければならなかった。  署の中庭も、車と人で、ごった返していた。外階段を上る途中、僕は赤松主任の姿を一瞬、見失った。下りてくる署員たちに道を譲り、急いで、その後を追ったのだが、講堂にも、更衣室にも、屋上にも、記者クラブにもいなかった。情けないことに、僕は赤松主任とはぐれてしまったのだ。  やむなく、刑事部屋に戻り、出入口のドアの陰に立った。そこは�お茶酌み場�と言って、流しがあり、小型の湯沸器があり、茶殻入れと、吸殻入れのペール缶が置いてある。  研修生に限らず、新米刑事はそこに立って、先輩たちの仕事振りを見学させてもらうのがしきたりだった。僕も吸殻と茶殻の異臭に鼻をひくひくさせながら、ひたすら赤松主任の現れるのを待った。  およそ一時間後、赤松主任がフラリと現れた。僕は駆け寄って、 「すみません。はぐれてしまいました」  と、頭をかくと、 「この人込みじゃ仕様がないよ。それより、熱いのを一杯、頼む」  赤松主任は自席に向かった。僕はすぐに茶碗を運んだ。そして、 「どちらに行っておられたんです?」  と尋ねると、 「少年係とか、交通執行係とか、あっちこっちだ」 「少年係とか、交通執行係?」 「今日、聞き込んだことを申し送ってきた。こういうことは早めに済ませた方がいいからな」 「…………」  なぜ、そのことに気づかなかったのか? なぜ、来賓室や記者クラブなんかを探し回ったのだろう?  僕は自分自身の想像力の貧しさを思い知らされた。 「今日の結果を、まとめておいてくれ。早めにな」  赤松主任が言った。 「結果、ですか?」  と聞き返すと、 「聞き込みの結果だよ。こんな風に署内がバタバタしている場合は、大体、書面報告ということになる」  と言って、茶をすすった。  僕はすぐに取りかかった。ノートのメモを指で追い、要点を列記した。それを赤松主任に提出すると、報告してよいものにはマルを、そうでないものにはバツをつけた。  そして、一時間あまり。この夜も、待機がかかっていたが、幹部たちは会議室に詰めたままだった。結局、赤松主任の言った通り、各班は報告書を提出して、解散となった。 [#改ページ]      7  三日目の午前。被害者の入院している病院では、六時間に及ぶボウガンの鏃《やじり》の摘出手術が実施された。  執刀医は学会出席のため、たまたま来日中だった脳外科の世界的権威で、病院長の強い要請に応えたものだった。  テレビ各局のワイドショーは専門医をゲストとして招き、手術がいかに困難か、脳のイラストなどを使って解説させた。当然、病院の正面にはテレビカメラを据え、レポーターは一般の通院患者にまでマイクを向けていた。  全国の母親たちの目を釘付けにしたテレビの生中継を、ほとんどの城西署員は見ることがなかった。なぜなら、すでに早朝から街に出て、聞き込みや検問に従事していたからだ。  僕たちも前日に引き続き、朝の青葉台を歩いていた。空は晴れ、日差しが家々の白壁を眩《まばゆ》いばかりに照らし出していた。  だが、さわやかだったのは朝の光と空気だけだった。  それは外川という表札のかかった家を訪れた時のことだった。インターホンを押すと、いきなり、 『だから、何なんだ?』  という喧嘩腰《けんかごし》の答えが返ってきた。 『そんなことのために、なぜ、俺が警察に協力しなければならないんだ?』 「別に、何をしなければならない、ということじゃありません。事件のことについて、もし何か、ご存知のことでもあれば、聞かせてもらえればありがたいと思いまして」  相手の剣幕に気色ばむこともなく、また卑屈になることもなく、赤松主任の受け答えは、淡々としたものだった。ひょっとしたら、相手には、それが癇《かん》に触ったのかも知れない。 『大体、ふだんからパトロールをしていないから、物騒な事件が起きるんだよ。もっと真面目に仕事をしろっ』 「こりゃ、どうも恐れ入ります。すると、ご主人は、事件が起きるような下地のようなものを感じておられたわけですかな?」 『……下地?』  一瞬の沈黙があり、 『そんなことは知らん。知ってるわけがないだろうっ』  と怒鳴って、インターホンは切れた。  赤松主任は無言のまま門から一、二歩、下がって、家の造りを確かめるように見回した。そして、次の家に向かった。  隣の家の表札を見て、インターホンに手を伸ばしかけた時、 「おいっ、ちょっと待てよ」  先程の外川という家の門のところに、五十前後の男が両手を腰に当てて立っていた。  赤松主任は男のところへ戻った。 「今頃になって来ても、もう遅いと言うんだ。そういうのをドロナワと言うんじゃないのか?」  男は興奮した口調で一方的に言った。 「何か、まずいことでもありましたか?」  赤松主任が聞き返した。 「警察はな、何で被害が出ないと動かないんだ? そんなことで一体、誰を守っているというんだ?」 「突然、そう言われてもねぇ。当方はお答えしかねますな。ともかく、説明してもらえませんか? 状況がわからないと、答えようがありませんので……」 「よーし。じゃ、説明してやろう」  と言うと、鼻を一すすりして、 「あれゲームなんだ。スコーピオンの連中はエアーガンで通行人を狙《ねら》い撃ちして面白がっている。だから、早めに取り締まらないと、ケガ人が出る、と言ったんだ」 「スコーピオンというのは、暴走族の?」 「そうだよ。俺は具体的に連中の個人名も教えたはずだぞ。それなのに取り締まらない。証拠がないとか、現行犯でないと無理だとか、逃げ口上ばかりだ。一度、足を運んでみろと言うんだ。アパートのドアを開ければ、シンナーの臭《にお》いがプンプンしている。証拠がなくても、シンナー遊びの罪で捕まえることはできるんだ。結局は、やる気がないのさ」 「そうですか。そりゃ怪《け》しからんですな。でも、私は行きますよ。えーと、そのスコーピオンのネグラを教えて下さい」 「少年係の警官が知っているよ。そいつに聞いてくれ」 「少年係の警官?」 「ああ、名前は知らないんだ。俺が、匿名にしてくれ、と言ったら、私も匿名にさせてもらう、と言って、教えてくれなかった。こっちはスコーピオンの連中が怖いから匿名にしたんだ。あの連中は何を仕出かすかわからないからな。それなのに、全く、とんでもない警官だ」 「それは、重ね重ね失礼しました。署に帰ったら、少年係に聞いてみましょう」 「たぶん、惚《とぼ》けると思うけどね。聞いてみるがいいや」  男は鼻で笑った。 「どうして惚けると思うんです」 「だって、職務怠慢だろう。市民からの情報提供を受けながら、なすべきことをせず、その結果、事件が発生して、被害にあった女の子は明日をも知れぬ命だ」 「まだ、スコーピオンの連中が犯人とは決まってはいませんよ」 「ともかく、もし、あの子が命を落とすようなことになったら、このことはマスコミにバラすからな。そのつもりでいろよ。抜き打ちばっさりはフェアーじゃないから、今のうちに断っておく」  と言うと、クルリと背を向け、玄関の方に戻って行った。 「やれやれ、またぞろ、少年係に行く羽目になったわい」  赤松主任はそうつぶやきながら、隣の家へ足を進めた。  ペースは遅かったが、少しずつ、着実に聞き込みは消化されて行った。  正に、それは消化という表現がふさわしかった。インターホンを押し、身分を告げ、ボウガンについて心当たりがあるか、尋ねる。結果は、ほとんどの住民が、知らない、と答える。たまに、玄関のドアを開けることがあるが、大概は、ドラマの刑事でなく、本物の刑事を見たいという好奇心によることがわかる。  慣れない僕には靴擦れができていた。それで時々、靴紐《くつひも》を締めたり緩めたりしていたのだが、屈《かが》み込んだ時、五十メートルほど後方に不審な人影を見た。それで気になり、何度か振り返ってみたのだが、 「あまりキョロキョロするな。知らんぷりしていろ」  赤松主任が言った。 「どういうことです?」  僕には何のことかわからなかった。 「たぶん、ブン屋だろう」 「ブン屋?」  僕は振り返りそうになったが、辛うじて思いとどまった。 「二つ前の四つ角から、ずっとつけてきている。どうやら、知能犯の連中の追っているホシのヤサは、この辺りらしいな」 「知能犯? すると、例の汚職容疑の?」 「うん。ボウガン事件担当のブン屋が、俺たちなんかを追っかけるはずがない。山の手の青葉台なんて、どう見たってB級対象、いや、C級対象だよ」 「…………」 「そうか……。芹さんたちのホシは、この辺りに住んでいるのか。へぇー……」  赤松主任は周囲の家屋を見回した。どこからか、ピアノの練習曲が聞こえた。  突然、僕の内ポケットの受令機が鳴った。すぐにイヤホーンを耳に当てる。  内容は城西署員に対する一斉指令で、任務を中断し、直ちに本署に引き上げるように、という指示だった。時計を見ると、まだ正午前だった。  僕がそのことを告げると、 「何か進展があったな……。悪いことでなければ、いいんだが……」  赤松主任が顔を曇らせた。  署に到着すると、意外なことに、マスコミ関係者の姿が激減していた。それだけではない。事務室の警官の表情からは緊張感が失《う》せている。その中に、顔見知りの刑事がいたので、 「集合場所は講堂ですか? それとも、刑事部屋ですか?」  と尋ねた。すると、 「昼食を済ませてから、午後一時に講堂集合、ということだ」 「ひょっとして、ホシでも挙がったの?」  と、赤松主任。 「いいえ、女の子の容体が回復したんですよ。生命の危険はなくなったそうです」 「すると、助かったんですか?」  僕は聞き返した。信じられなかった。 「まだ意識は回復していないがね。峠は越えたそうだ。今の医学は大したもんだな」 「そうだったんですか」 「意識が回復するのを待って、事情聴取すれば、ホシが割れる可能性も出てくる。まぁ、仮に割れなくても、単純な傷害事件だからな。特別捜査本部設置の可能性はなくなったというわけだ。これで手持ちの仕事を中断せずに済む。天の助けだよ」 「天の助け……」  僕は後ろを振り返った。 「そりゃ、よかった。何よりだ」  赤松主任は満面に笑みを浮かべていた。  だが、僕は全身から力が抜けて行くような気分だった。事件直後から続いていた緊張感が突然、途切れたためだと思う。 「よかった。本当によかった……」  そう繰り返しながら、赤松主任はフロアの隅にある電動回転ブラシの前に立った。そして、スイッチを入れ、まず右の靴を、次に、左の靴を回転ブラシに当て、聞き込みで被《かぶ》った埃《ほこり》を払った。  刑事部屋の雰囲気も朝とは一変していた。  刑事たちは、係別に打合せをしたり、書類を作成している最中だった。部屋の隅にあるテレビは音声を消して、動物番組の画像が映し出されている。それは被害者に関する情報をテレビの臨時ニュースから得ようとするもので、すでに事件情報は警察の通信対象から除外されているということを示している。  盗犯一係のデスクでは、係長の秋山が報告書を書いていた。酒井と堀之内も、それぞれ書類の作成中だった。 「只今《ただいま》、戻りました」  赤松主任と二人並んで挨拶《あいさつ》すると、 「ご苦労さんでした」  秋山はチラッと二人を見ただけで、手を休めることはなかった。赤松主任は自席に腰を下ろし、机の上に配られた報告用紙を手に取り、内ポケットの眼鏡を探った。  僕はいつものようにお茶酌み場に向かった。そこの壁際には、退職刑事たちが記念に残して行った食器棚がある。壁との隙間《すきま》に立てかけられた盆を引き抜いて、係長以下全員の茶碗を取りに戻った。  それぞれの茶碗を水道の流水で軽くすすぎ、急須《きゆうす》に新しい茶を入れ、六分目の分量を注《つ》ぐ。五分目では飲み足りないし、七分目では零《こぼ》れやすい。それが城西署の刑事部屋でのお茶酌みの要領だった。  注いだ湯の熱で濡《ぬ》れた茶碗の外側が乾くのを見計らい、上席の係長から順に茶碗を配って行く。最後に自分の机に縁の欠けた茶碗を置き、盆を食器棚と壁の隙間に戻して、自席に戻った。  すると、まるで、それを待っていたかのように、 「えーと、そのままでいいから、聞いてくれー」  秋山が言った。 「先程、打合せ会議で決定したことだが、通り魔事件がありがたいことに、殺しに発展せずに済んだ。それで、態勢を変更することになった。傷害事件だから、強行犯のヤマということだけど、知っての通り、マスコミの関心が高い。それなりの人員を導入して、解決を期すというのが、上層部の意向だ。それで、各係から何人か、引き続き通り魔事件に専従するということになったので……」  と言うと、赤松主任の方を見て、 「主任さんたちには、引き続き、お願いすることになりましたので、よろしく」  と、目礼した。 「はいはい……」  赤松主任が茶碗片手にうなずいた。  酒井と堀之内は書き上げた書類を赤松主任に差し出した。  各係の通り魔捜査に専従する者が、各係の聞き込みの結果を把握した上で、後刻、会議に出席することになっていたからだ。  酒井班は担当区の道路に面する世帯に対する聞き込みを、ほぼ終えていた。その中で、注目すべき情報は十五件ほどで、いずれも、不審な人物を見かけた、という内容だった。目撃した時間と場所、不審者の人相特徴、そして、目撃者の氏名と連絡先が、要領よく一覧表にしてある。 「聞き込んだのは表通りに面した世帯だけですけど……」  酒井が言った。 「一応、裏通りの家の住人から、何か事件に関する情報を耳にしていないか、確かめてあります。オレンジ色のマーカーで塗られているのが、該当する家で、明日、聞き込むつもりでした」 「なるほど」 「どんな風な情報なのかは、はっきりしているものは書き出しましたけど、直当《じかあ》たりした方がよいと思えるものは、敢《あ》えて何も書きませんでしたので、そのつもりで対処していただければ、と思います」 「直当たりした方がいいと言うのは、例えば、どんなケース?」 「そうですね」  酒井はオレンジ色のマーカーに目を注いだ。 「例えば、又聞きのため、人相風体を指摘できない、というようなケースです」 「又聞き?」  赤松主任が首をひねる。酒井は困惑した顔で、 「例えば、Aという人が、Bという人から、こんな不審者を見かけた、という話を聞かされたとしますよね」 「うん……」 「その不審者の具体的な人相や着衣について、Aが覚えていない、というケースですよ」 「…………?」 「つまり……」  酒井は煙草とライターを二つ並べて、 「Bは目撃したんですけど、Bから、そのことを聞かされたAは、その内容を正確に記憶していない、というような場合です」 「うん。だったら、なぜ、Bに聞かないんだい? その方が手っとり早いだろ?」 「手っとり早いって……、Bが留守だったら、聞こうにも聞けないでしょう?」 「なるほど。そういうことか……」  ようやく赤松主任がうなずいた。酒井はホッとした面持ちで、 「では、後はよろしくお願いします」  酒井は秋山と目を合わせた。秋山は微《かす》かに笑った。酒井も口元だけで笑い、机の上を片づけ始めた。  おそらく、一刻も早く、自分たちの仕事に戻りたかったからだろう。  午後一時。�通り魔事件捜査専従班�に集合がかかった。  場所は前回と同じ講堂。だが、ずらりと並べられていた上席は、この日はなく、三人用の長机と椅子が二つ置いてあるだけだった。三々五々、集まる署員の表情も、前回と異なり、緊張感は見られない。  そんな中、強行犯担当の刑事課員たちだけが深刻な表情をしていた。  強行犯担当の捜査係は五名。係長は荒木警部補、四十五歳。先任主任は高津巡査部長、三十五歳。次席主任は婦警の上条巡査部長、二十九歳。そして、小田島刑事、三十一歳と、山下刑事、二十七歳である。  この五名は上席と下席を左右に見渡せる中間の席に陣取っていた。その席で、荒木係長と高津主任は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて、報告用紙の束に目を通していた。達筆で知られている上条主任が黒板にチョークで�バレエスクール前 通り魔事件捜査会議�と書いた。他の捜査員たちは、管内地図や住宅地図を見て、何やら話し込んでいる。  最終的に、講堂には四十数名の署員が集合した。その内訳は、刑事課から十名。少年係と公安係から、それぞれ一名。交通課から婦警が二名。警備係は見当たらず、ほとんどが、当時は警ら課と称した地域課の制服警官だった。  やがて、副署長と刑事課長が現れた。荒木が号令をかけて、上席に礼。全員が着席すると、まず刑事課長が立ち上がった。副署長が、君が話しなさい、という風に、刑事課長に向けて掌《てのひら》を差し出したからだ。 「えー、昨日に引き続き、ご苦労さん。えー……、すでに承知していると思うが、通り魔の被害に遭った女の子の手術は成功し、快方に向かっているとのことだ。しかし、事件が解決したというわけではない。今、この瞬間も、犯人は野放しになっているわけだ」  と、強い口調で言ったものの、昨日ほどの緊迫感はない。むしろ、殺人事件に発展しなかったことに対する安堵《あんど》の色が隠しきれなかった。  刑事課のトップの立場を考えれば、それも無理からぬことだった。殺人事件と傷害事件とでは、オリンピックと国民体育大会ほどの、いわゆる温度差がある。  僕を含め末端の警官というものは、そういった幹部の微妙な心の変化を敏感に感じ取ることができるものなのだ。  ほとんどの署員はうつむき、長机の表面の疵《きず》を見つめていた。おそらく、刑事課長の檄《げき》を言葉通り受け取っていたのは、一握りの署員だけだったに違いない。 「ヤングママの会の代表からも、このままでは安心して子供を外に出せない、という申し入れがあった」  刑事課長は声に力をこめる。 「テレビカメラとレポーターは引き上げたようだが、それはニュース・クルーであって、おそらく明日にも、今度はワイドショー・クルーが押しかけるだろう。現に、インタビューの申し入れがあった」  と言うと、署員たちを見渡して、 「今回、署独自に�通り魔事件捜査専従班�を編成したのは、もちろん犯人逮捕を目指したものなんだが、その一方で、幼児を持つ家庭の親御さんたちを安心させ、警察への信頼を得るという重要な意味も兼ねているんだ。諸君は専従班に選抜された署の代表でもあるわけだから、そういうことを念頭に、どうか誇りを持って、この任務にあたってもらいたい。以上だ」  と述べ、刑事課長は腰を下ろした。続いて、 「では、本日までに聞き込みによって得られた情報の概要を説明します」  荒木係長が立ち上がった。その説明の内容は次のようなものだった。      *  バレエスクールの看板にボウガンの矢が突き刺さっていたという件については、その後の調査によると、任意提出を受けた矢は、交番勤務員の怠慢により、不燃ゴミとして投棄されてしまったことが判明した。清掃事務所に問い合わせたところ、その時期、その場所から回収された不燃ゴミについては、すでに埋め立て処分済み、との回答だった。  今後の方針は、まず、スクール関係者に対し、病院で摘出されたボウガンの矢との相違について、意見を聴取する予定である。  次に、動機面からの参考情報。  バレエ教室に対する脅迫、トラブルについては、送迎のための駐車車両に対する苦情が寄せられたことがある。これについては、一年前から、敷地の西側にあったテニス場を駐車場として使用するようにしている。しかし、一部の父兄については、いまだに路上に駐車している。  次に、重要容疑者に関する情報。 一 和泉町在住の大木宏明、無職、十七歳。  補導歴十五回。ナイフを所持。公園を徘徊《はいかい》し、小学生、中学生を恐喝。ボウガンらしきものを所持し、これで恐喝していたとの情報あり。現在、所在確認中。 二 桜が丘団地の溝口昭二、無職(元板前)、三十五歳。  前科なし。逮捕歴二回。いずれも脅迫。手製の槍《やり》で、団地内の猫を殺して回っている、という匿名の訴えあり。本人と接触、事情聴取するも、全面否定。手製の槍も発見に至らなかった。ベランダから、ボウガンらしきものでカラスを狙っていたとの匿名情報もあったが、この点についても、本人は否定。現在、張り込み監視中。 三 山手台公園のホームレス。自称、渡辺一郎。推定年齢、五十歳前後。前科なし(昨年十月、指紋で確認)。  昨年秋、下校途中の小学生に、はやし立てられたことに腹を立て、手製のパチンコ(ゴムの弾力を利用して、パチンコ玉大の弾を発射するオモチャ)で、小学生を狙撃《そげき》。二名に軽傷を負わせる。ボウガンらしきものでも狙った、という未確認情報あり。現在、所在確認中。 四 二十歳前後の学生風の男(練馬ナンバーの乗用車の使用者)。  今年の冬、極楽寺境内の裏で、ボウガンの発射訓練をしていた。現在、似顔絵作成中。 五 四十歳前後のヤクザ風の男。  去年の秋、市営弓道場にボウガン持参で現れ、「料金を払うから、撃たせてくれ」と申し入れてきた。和弓の施設であるという理由で拒否すると、「てめぇの目ん玉、撃ち抜いてやろうか」とすごまれた。連れのヤクザ風の男に制止され、事なきを得る。現在、似顔絵作成中。 六 作曲家の知人。  管内、元町に居住していた作曲家、牧野恒人(三十八歳)が五年ほど前、知人から借金の保証人を依頼されたが、拒否したところ、間もなく、知人の音楽事務所は倒産し、家庭も崩壊した。知人は不幸の原因を作曲家のせいだと逆恨みし、「復讐《ふくしゆう》してやる」と脅迫。子供に危害を及ぼすという言質《げんち》もあった模様。ちなみに、作曲家の長女は一年前まで、タジマ・バレエスクールに通っていた。 七 私立敬愛学園高校の制服を着た十六、七歳の男子二名。  松島デパートの七階と八階の間の階段で、煙草を吸っていた。ボウガンの矢らしきものを手に、「これを使えば、音もしないし、繁《しげ》みの中からなら、誰にも見られずにやっつけることができる」との言動あり。現在、在校生を内偵中。 八 三鷹市|下連雀《しもれんじやく》在住、横森敏子、自称UFO研究家、三十一歳。  一昨年の三月十五日、川崎市内の幼稚園の児童に向けて、ボウガンを発射。実害はなし。理由は�宇宙人のお告げ�。昨年六月、治療施設を退院。現在、アリバイ確認中。 九 管内、寿町在住、田辺 勝、楽器店店員、三十五歳。  以前からバレエスクールの女性講師に一方的な好意を抱き、拒否されるや、「生徒にケガさせて、スクールを潰《つぶ》してやる」との言動あり。三カ月前には、千枚通しを突き刺した白鳥のぬいぐるみが送りつけられたとのこと。ただし、女性講師の言動にも、やや不自然な点があり、慎重に捜査中。 十 和歌山県|新宮《しんぐう》市在住、保坂富雄、失業中、四十三歳。  一年前まで、バレエスクールのバスの運転手だったが、生徒の体を�必要以上に触る�という父兄の抗議により、事実上、解雇される。本人は頑強に否定。スクール側は円満退職の形を取ることにより、穏便に処置しようとしたが、本人は退職金の受領をも拒否、帰郷した。      *  説明が終わった時、 「やれやれ、まるで雲を掴《つか》むような話だ。もう少し、絞れねぇのかなぁ」  と言う声がした。すると、 「何だと?」  と、荒木係長が目を剥《む》いた。たちまち私語が止《や》む。 「いいかっ。ナマの事件というのは、どれも雲を掴むような事件なんだよ。地道に一つ一つ、潰して行って、やっと筋道らしきものに到達できるんだっ」  と、顎《あご》をしゃくると、 「荒木君。落ちつけよ……」  刑事課長が静かな口調で言った。は、はい、と頭を下げて、 「早急に手をつけたい対象のうち、主だったものだけでも、これだけあるわけです」  荒木は書類を机の上に置き、署員たちの方を向いた。 「この他にも、断片的ながら、気になる情報が相当数あるわけで、ここにいる諸君の戦力を有効に生かすためには、すでに得られたこれらの情報の追跡捜査に、私服組を投入すべきと考えます。従って、これまで地取捜査した未消化の全域を地域課に担当していただきます。全員、私服で聞き込みを実施して下さい。それでは……只今から」  と言って、再び、書類に手を伸ばした時、隣の席にいた高津主任が耳打ちした。荒木係長は思い出したように、 「それから、これは後日、地域課長さんの了解を得た上で、いささか大袈裟《おおげさ》で恐縮なんですけど、署長通達という形で、お願いすることになろうかと思いますが、地取捜査の区域以外については、本日ここにいる以外の地域課員の皆さんに、聞き込み的な巡回連絡を実施してもらいたいんです。よろしくお願いします」  と頭を下げたが、 「質問……」  最後列にいたベテランの地域係長が手を上げて、 「その巡回連絡も、私服でやれってーの?」 「それは……」  荒木と高津は二言、三言、言葉を交わしてから、 「ここいる私服員以外は、原則として、制服でお願いします」 「そう。ならいいや。私服になったり、制服になったりじゃ、着替えの時間ばかり食って仕様がねぇからな。俺たちゃ、着せ替え人形じゃねぇんだ」  その地域係長は皮肉な笑いを、隣の同僚に向けた。 「地域課も、いろいろと大変だとは思うけど……」  刑事課長が言った。 「ひとつ、よろしく頼むよ。世のため、人のためなんだ。警察の威信のためでもある」 「課長さん、そんなことぁ先刻承知の、こってすよ。ただ、地域係としては、不可抗力の些細《ささい》なミスにまで、何だかんだと、散々に文句を言われて、そのくせ、こんな時ばかり当てにされてもねぇ。係員の中には、やってられねぇよ、なんてブーたれる者も出てくる始末でして、手を焼いているわけですよ」 「係長っ」  今度は副署長が言った。 「それを説得するのが、係長の役目じゃないのかっ」  叱責《しつせき》するような口調だった。  だが、その係長に動じる気配はない。  後で知ったことだが、翌年に定年退職の予定ということだった。だから、怖いものはなかったのかも知れない。  実際、その係長は、フン、と笑うと、 「副署長さんよ、勘違いされちゃ困るんだなぁ。もちろん、やれと言われれば、やらせますよ。その点は心配しないでいい。事によったら、文句言う奴は、張り倒してでもやらせてみせる。でもね。私ゃ、どうせ、やらせるからには、気持ちよくやらせたいんですよ。それなのに、テレビカメラの前で、『うちの交番員は無能だ』みたいなことを、のたまわれちゃ、昨日今日、お巡りになった若造でも臍《へそ》を曲げちまうって、そう言ってんだっ」  と顎をしゃくって、副署長を睨《にら》みつけた。  副署長の顔面が蒼白《そうはく》になって行く。マスコミにコメントしたのは副署長だった。講堂は水を打ったような静けさだった。 「まぁまぁ、係長さんよ」  赤松主任が後ろを振り返って、にっこり笑った。 「そのテレビを見ちゃいないけど、視聴率のために、いろいろと編集するんじゃないかな。連中だって、競争だから大変なんだよ」 「そんなことはわかっているさ。だから、マイクを向けられた時は、言葉を選んでもらいたいと言っているんだ」 「その通りだ。でも、悪意がないことは確かだよ。それだけは認めてやんないとね。気の毒だ」 「ああ、赤松つぁんに悪意がないことは、俺は認める」 「ありがとよ」 「いえいえ、どういたしまして」  やっと地域係長の表情が綻《ほころ》んだ。だが、副署長の表情は強張《こわば》ったままだった。 「まぁ、いろいろ不満はあると思うが」  刑事課長が言った。 「ここはひとつ、抑えてくれ。すわ、殺しのヤマか、というんで、浮足立ったことは確かだ。腹に立つことがあったら、謝るからさ。勘弁してくれや。な……」 「…………」  係長は反応しない。刑事課長は視線を他に移して、 「私服組は一人残らず、地域課には感謝しているよ。交番員に対しては、一目も二目も置いているんだ。時に苦言を呈するのも、期待するあまりなんだ」  へぇー、そうかい? とか、だったら仕事を代わればいい、という野次のような私語。 「じゃ、こうしよう。署長にお願いしてだな。今回、顕著な働きのあった職員には、署長表彰の対象とする。金一封に、そうだなぁ……、三日の慰労休暇だ。しかも、緊急呼び出しなし、の付録つき」  と言って、副署長を見た。その副署長が握り拳を作って、人さし指と中指を伸ばした。おそらく、二日にしろ、と言う意味だったのだろう。だが、課長は、 「オーケーだそうだ。じゃ、荒木係長……」  と目配せした。 「はい。では、新しい地取の指定をします」  荒木がメモを片手に立ち上がった。 [#改ページ]      8  正直、僕の頭の中は混乱してしまっていた。いまだかつて、この時ほど、自分がバカに思えたことはない。  僕たちが地取捜査で入手した情報は、画鋲《がびよう》男はじめ六件。更に、盗犯係から引き継いだ資料が手元にあった。そして、新たに指定された捜査対象が十件。  捜査会議や聞き込みの際、僕はB6判大の分厚いビジネスノートに必要事項をメモしていたのだが、その内容は膨大な量になり、書いた本人でも、どれがどれだか、区別がつかなくなっていた。  それに加えて、城西署員の名前と顔が一致しない。覚えきる前に顔触れが変わるという状況だったからだ。従って、事件そのものを、じっくり分析したり、整理して考えるという余裕がなかった。僕はいつも何かに追い詰められたような不安定な心理状態だった。  実は、それは当たり前のことで、単独では全《すべ》てを処理できないからこそ、事件捜査は分業化されている、ということを理解したのは、かなり後になってからのことだった。  だが、その時の僕は、全ての情報を吸収し、理解しなければ、一人前にはなれないのだから、と思って必死になっていた。  城西署の二階にある小会議室のドアには、�関係者以外立入禁止�の貼り紙が掲げられていた。更に、小会議室に至る十メートル手前の廊下の真ん中に、部外者の通行を禁止する立て札が立てられた。  講堂での会議が終了すると、通り魔の捜査専従員のうち、刑事課、公安係、それに、当時、防犯課と呼称していた生活安全課など、いわゆる私服組は、改めて小会議室に集合するよう指示が下った。  和室なら十畳二間という程度の広さの部屋に、折り畳み式の長机が組み寄せられ、卓球台ほどの大きさのデスクが作られていた。  その上には、警察電話、内線電話、その他、様々な種類の無線機などの備品と、書類や文房具の入ったダンボール箱が蓋《ふた》の開いたまま無造作に置かれている。  最初に部屋に入った高津主任が、そのダンボール箱を脇の方に寄せながら、 「椅子が足りないと思いますが、そっちに折り畳みの椅子が積んでありますんで」  と、部屋の隅を目で示した。  確かに、机に沿って並べられている椅子は六脚しかない。そのうちの五脚は強行犯捜査係員用で、上席の肘掛け椅子は、ときたま顔を出す上層幹部用なのだろう。  高津の指示に従って、僕たちは、部屋の隅の折り畳み式のパイプ椅子を開いては腰を下ろして行った。  そんな風にして、机を取り囲んで行ったのは、知能犯担当の若手である岡部刑事。暴力団担当のベテラン、工藤主任。公安係からは、中堅どころの高畑主任。少年係からは着任して間もない長谷川係長。交通執行係からは三宅主任。地域総務係からは福本係長。そして、赤松主任と僕だった。  全員が腰を下ろして、一、二分後。荒木が足早に入ってきて、全員が揃《そろ》った。 「バタバタしてすみませんな」  荒木は自席に腰を下ろしながら言った。 「今、コーヒーを買いにやらせていますから、まぁ、それを飲みながら、ざっくばらんに話しましょうや」  と、ポケットの煙草を探った。  小会議室に集合した警官たちは、言わば、各課各係からの寄せ集めだったが、これを統括指揮するのは当然、通り魔事件、つまり、強行犯罪の担当係長である荒木ということになる。 「ざっくばらんは、いいけどさ……」  暴力団担当の工藤が身を乗り出す。 「今度のヤマのホシのことだが、ぶっちゃけたところは、どうなんだい? 目星は付いているの?」  と、べらんめぇ口調で尋ねた。  一般的に暴力団担当の警官は態度は横柄で、言葉遣いも荒っぽい。ヤクザ者に関《かか》わっているうちに、自然にそうなってしまう一種の職業病だ。 「目星が付いていりゃ、わざわざ工藤主任にお出ましは願わないよ。実際のところ、まるでわからないんだ」  荒木は煙草に火をつけ、フーと、その煙を吐きだした。 「講堂じゃ、被害者の方の説明がなかったけど、何か特別の意味があるのけ?」  と、工藤。 「特別も、一般もない。パニクっちまって、事情聴取にならないんだ。ようやく親戚《しんせき》を見つけたのはいいが、今度はマスコミに周りを取り囲まれてね。いつの間にか、脇の下からマイクが伸びてくる始末だ。まるでお祭り騒ぎだよ。仕事にならない」 「親戚はともかく、親の方は、子供が助かったんだから、話くらいは聞けただろう?」 「うん。事情聴取はしたんだが、まるで心当たりがない、と言うんだな。隣近所、取引先、客、いずれも恨みを買うような覚えはない、と言い切っている。念のため、住まいを管轄する高井戸署。それに、勤務先を管轄する愛宕《あたご》署の方にも問い合わせてみたが、確かに、その種のトラブルはない、という回答だった」 「じゃ、それ以外の理由だ。何かを隠しているよ。理由もなく子供がボウガンの的にされるはずがない」  思わせ振りな口調だった。 「長《ちよう》さん、もったいぶらずに話せよ。何か心当たりがあるんだろ?」  少年係の長谷川が横から口を挟んできた。 「心当たりというほどじゃないけどね」  と、したり顔で、 「テレビで、ちょっと見たが、あの亭主の面《つら》つきは気になるな。あれは、何かある、っていう面つきだ」 「つまり、叩《たた》けば埃《ほこり》の出そうな感じ?」 「いや、そういうんじゃない。ま、言うなれば、仕事をさぼってゴルフへ行ったら、ホールインワンを出してしまった、というような面つきだ」 「よくわかんねぇ……」  と首を振ると、 「話したくても話せない、ということさ。早い話が、その証券マンの亭主に愛人がいたとしてだよ。寝物語に、カミさんと別れて結婚する、なんて約束をしていたとしたら、どうなる? とかく女というものは、信じたいことを信じこんでしまう傾向がある」 「おまけに、妊娠までしたが堕《お》ろしたりなんか、していたりして?」 「そう。お互い、いい時はいい。楽しい時は、幸せいっぱいなんだろうが、それに水を差すのが、歳月というものだ。女も三十の下り坂にかかると、笑うたびに小じわが伸び縮みするようになる。追い詰められた気分になるんじゃないかな」 「やけに前置きが長ったらしいけど、要するに、その愛人が前後の見境もなく、トチ狂った上での犯行と言うわけ?」 「まぁな。実を言うと、何年か前に、似たようなのを扱ったことがある。心当たりがない、なんてのは、大概、人に言えない事情が隠されていることがほとんどだ。実際のところは、言いたくても、女房や家族や親戚の手前、言えないんだよ。今度のケースも、そんなんじゃねぇのかな」 「なるほどね。いい話を聞いた」  荒木がうなずいて、廊下の方を見た。  ドアが開いて、強行犯係の山下刑事が入ってきていた。片手にコンビニのビニール袋をさげている。 「配ってくれ」  荒木が言った。  袋の中身は缶コーヒーだった。それを一本一本、各人の前に置いて行く。 「工藤長さんの意見も参考にして、被害者関係は強行犯係が担当するよ。長さんには他を当たってもらいたいんだ」  と、荒木が言うと、 「ひょっとして、さっき言った弓道場のマルBらしき二人連れ?」  工藤が先回りして尋ねると、 「その通り。めでたいことに、脅迫罪が成立しているんで、やっても損はない。もし、本件と無関係だった場合、マル暴の方で煮るなり焼くなり、好きにしてくれ」 「煮るなり焼くなり、か……。最近のBは食えないのばっかりなんだけど、折角だからな。ごっつぁんになろうかね」 「いいとも。この情報は警務の石渡係長経由だから、詳細は石渡係長に確かめてくれ」 「警務の石渡係長? 何でケツの穴[#「ケツの穴」に傍点]なんかが絡んでんの?」 「武道の関係で、石渡係長と面識があるんだそうだ。それで連絡してきたらしい」 「さいですか。じゃ、石渡係長にも一言、入れておきましょう。後がうるせえからな」  工藤は書類の一部分をマルで囲んだ。 「次に、知能犯のところだけど……」  荒木が視線を変えた。 「畑違いなんだが、桜が丘の猫殺しを洗ってもらいたい」 「槍《やり》男ですね?」  岡部が念を押した。 「そう。これは、自治会長からの内密の連絡だ。従って、自治会長には表立って、接触しないでもらいたい。電話をかける時は、ロックサービスという社名を名乗ってくれ、ということだった」 「何ですか? それ」 「カミさんの口が軽いんだそうだ。近所じゃ、ニュースキャスターというあだ名で呼ばれているらしい。敵を欺くには、まず味方から、というわけだよ」 「やれやれ。たかが猫殺しで、えらい気の遣いようだ」 「苦労が足りないね、岡ちゃん。一般庶民とは、そういうもんだよ、腕っぷしには自信がなく、気も弱い。チクるとなると、かなりの勇気がいる」 「へぇへぇ。ご指導、感謝します」  と、うなずいて、これも納得。そして、 「赤松主任さんたちには、作曲家の線と、言いづらいんだが、ホームレスを頼んます」  荒木が申し訳なさそうにペコリと頭を下げた。 「ホームレスも?」  赤松主任が繰り返した。 「人手の関係で、仕方がないんだ。一応、方面各署には連絡して、それらしいのがいたら、通報してもらうように手配はしたけど……」 「承知した。ただし、時間的な余裕をくれよ。あっちは? こっちは? と、思いつきで、せっつかれるのは困る」 「了解。次は……」  荒木は次々に割り当てを発表して行った。十七歳のナイフ男と、高校の制服を着ていた十六、七歳の男子二名については、もちろん少年係。さらに、ボウガンの発射訓練をしていた学生風の男と、自称UFO研究家の女は、公安係が担当することとなった。 「それから……、交通執行と地域総務ですが、すでに課長さんの方にお願いしましたので、ご承知と思いますが、交通執行係には、駐車違反を含めた交通違反車両の中からの不審車両の洗い出しをしていただきたいと思います」  と言って、奥の席に目をやると、 「了……解っ」  交通執行係の三宅が左手で頬杖《ほおづえ》をついたまま、右手で挙手の敬礼をした。 「地域総務係には……、地域課の各取り扱いのうち、本事件と関連するような情報についてチェックをお願いしたいと思います」  と言って、全員を見渡す。すると、しゃがみこんで足元の鉛筆を拾っていた福本が、 「こっちも了解。だけどさ……、何と言ったかなぁ。ほれ、マンションの三階の、不審な男……」  と言いながら、顔を上げた。 「不審な男?」  荒木が眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せる。 「そう。お宅の課長が言ってたじゃない。初動の時にタレコミがあったという……、文化会館の向かいにあるマンションの三階の男が、どうとかこうとか……。あれは一体、どうなったのさ?」 「えーっ? 発表していなかったっけ?」  荒木がノートをめくる。 「していない、していない。あれっきりだ。うちの課長も、どうなったのか、知りたがっていたよ」  と、少年係の長谷川。 「こりゃ参ったな……。じゃ……、遅ればせながら報告します。結論から言えば、あれはガセでした。内緒話が伝わって行くうちに、目撃談になってしまったんです」 「何じゃ? そりゃ……」 「いわゆる風評被害、ですよ。もっとも、自業自得と言えなくもありませんがね。その三階の住人というのは設計技師なんですが、愛想のない男で、近所の評判がすこぶる悪いんです。それで、怪しい、ということになってしまった、というより、されてしまったのかなぁ……。もちろん、男のアリバイは確認済みで、真っシロです」 「そりゃ残念……」 「ま、近所付き合いには、お互い、気をつけましょうや。この件は……すぐに各課連絡、と……」  荒木は赤鉛筆でメモしてから、 「えーと、では、本題に戻ります。十対象の残り二対象、それに、被害者関係は、私たち強行が担当いたします。それから……、えーと、何だったかな……」  と、目の前の書類を確かめるようにしていたが、 「そうそう、一つ言い忘れたことがある。ここの小会議室のことだが、今日から、刑事課別室、と呼称することになったから、そのつもりで」 「刑事課別室? 長げぇなぁ。すぐ忘れそうだ」  と、工藤。 「略称は、別室、でいいよ。電話の内線も、それでつながるから」 「別室か。それなら、軽くていいや」 「事件の方も軽く終わって欲しいよ」  荒木は冗談のつもりで言ったのだったのだろうが、誰も笑わなかった。  別室での細かい打合せが終わる頃、退庁時刻が迫っていた。或《ある》いは、元々、そういう予定だったのかも知れない。  やがて、私服に着替えた署長が顔を見せ、ドアのノブを握ったまま、頼むぞ、と声をかけ、そのまま、署を後にした。荒木は早速、設置されたばかりの内線電話で警務係長に電話し、署長からの�差し入れ�の有無を確認した。そして、 「何もないそうだ。従って、握り寿司、いや、あんパンを宿直の連中に食われちまう心配はなくなった。じゃ、これで解散する。明日は午前八時三十分、この場所に集合してくれ。都合の悪い人は?」  と尋ねると、 「明日は、地裁に召喚されています」  公安係の高畑主任が手を上げて言った。 「了解。じゃ、そっちが済んだら、電話連絡してくれ。他には?」  と、見渡したが、反応はない。 「では、明日から頑張ろう。本日は、これにて解散」  荒木が勤務解除を告げた。強行犯担当以外は口々に、お疲れさん、と言ってはドアに向かった。 [#改ページ]      9  作曲家の牧野恒人は交響楽団とともに、福岡市に滞在中で、一週間は帰京できない、ということだった。  それで取り敢《あ》えず、別居中の妻から事情を聞くことにした。電話を入れると、友人のブティックでなら、ということだったが、赤松主任は、できればご自宅の方で、と申し入れた。どうしても五歳の子供を見たかったからだ。妻は渋ったが、結局、折れた。  約束の時間の午前十一時。マンションのドアの前で、 「いいか、他人の家に入った時は、お巡り根性を丸出しにして、あちこちジロジロ見ないこと。相手に嫌がられたら、聞き出せることも、聞き出せなくなる。いいな?」  赤松主任が小声で言った。僕が、はい、と答えると、インターホンに手を伸ばした。  どちらさま? という女の声。赤松主任は姓だけを名乗った。すぐに、ドアが開き、ほのかにコーヒーの香りが漂う中、細面で色白の美人が現れた。  牧野通子、三十四歳、元スチュワーデス。上品で落ちついた物腰は前職を思わせた。その後ろで、隠れるようにして、顔だけのぞかせているのが娘ということになる。 「ご無理を言って、申し訳ありませんな」  挨拶代《あいさつが》わりに、詫《わ》びを述べると、 「いつかは、こんな風なことになると思っていましたわ。ともかく、お入り下さい」  通子はスリッパを並べ、僕たちを応接間へ案内した。  床は手のこんだ凝った模様の絨毯《じゆうたん》だった。壁にはエキゾチックな木彫りの仮面が掛けられている。アフリカの民族工芸品のようだった。ヨーロッパ調の調度棚の上には、やはり、洋風デザインの絵皿が並べられている。日本的なものと言えば、金蒔絵《きんまきえ》を施した扇だけなのだが、わびさびの世界とは縁遠く、むしろ、欧米的日本趣味と言えるものだった。  センスのよいインテリアに思わず目を奪われていると、赤松主任に肘で突かれた。ジロジロ見るな、と言われたことを思い出し、僕は足元に目を落とした。  キッチンの方では、カップにコーヒーを注《つ》ぐ音がしていた。やがて、 「警察の人をお迎えするのは、初めてで……」  通子がコーヒーカップをのせたトレイを持って現れた。 「一体、どんな風にしてよいのか、わかりません。コーヒーくらいなら、差し支えないんでしょう?」  と言って、テーブルの手前で立ち止まった。 「どうか、構わんで下さい。お喋《しやべ》りできるだけで十分なんですから」  赤松主任が答えた。通子はその前で膝付きになり、僕たちの前にコーヒーを並べた。そして、ソファーに腰を下ろした。娘はソファーの後ろに立ち、やはり隠れるようにして、僕たちに奇異の目を向けている。  いただきます、と言って、赤松主任がコーヒーカップに手を伸ばした。僕もそれに倣《なら》った。 「こりゃ、うまい。まるで喫茶店のコーヒーみたいだ」  赤松主任の言葉は嘘ではなかった。香りだけでなく、深い味わいだった。僕も無言でうなずいた。  固かった通子の表情が緩んだ。それで娘も安心したのかも知れない。ソファーの後ろから飛び出して、母親の隣に座った。  赤松主任はアフリカの工芸品やペルシャ絨毯の話をしてから、 「お嬢ちゃんは、バレエのお稽古《けいこ》は、おやめになったんですか?」  と尋ねた。 「いいえ。今は、別の所へ通わせています」 「ほう、どちらの?」 「中野区にある大林バレエ教室です。送り迎えの関係で、そちらにしました。夫と別居後、私は友人のブティックを手伝っていますので、時間的余裕がないんです」 「いつ頃から、中野の方のバレエ教室に?」 「かれこれ半年になりますけど……。刑事さんたちは、被害にあった女の子は、うちの子に間違えられて、あんな目にあったとお考えなんですか?」  通子は不安気な眼差《まなざ》しで尋ねた。 「そうでなければいい、と考えているんですがね……」  と、言葉を濁して、 「まず、先に、事実確認だけをさせて下さい。城西署に連絡してこられたのは、奥さんですね?」 「はい。そうです」 「その内容は、と……」  赤松主任は手帳を見て、 「えー、ご主人が、知人の借金の保証人になることを断ったことに対して、その知人が逆恨みして、『お前の娘に何が起こっても、お前のせいだ』と脅迫してきた……。そういうことですね?」 「はい」 「奥さんが連絡してこられた時点では、その知人という人物の氏名が不明、ということだったらしいですけど、その後、わかりましたか?」 「いいえ。主人とは思うように連絡が取れなくて……。その、バスで移動をしているものですから。かなり忙しい様子なんです。それに、通信状態の悪い区域らしく、電話がつながっても切れてしまうことがあるんです」 「ほう……。作曲家の先生も、バスに乗って交響楽団に随行されるんですか?」 「ええ。作曲家でも、バイオリンを弾いて報酬を得る場合には、そうしますわ」 「バイオリン?」 「そうです。つまり、夫にしてみれば、自分の天職は作曲家。でも、曲が売れないので、バイオリン奏者をして収入を得ている、というわけです。結局のところ、プライドが高いんですよ。仮に作曲家としてスタートを切っていたら、おそらく、バイオリン奏者という肩書を名乗っていたでしょうね。あの人は、そういう人なんです」 「よくわかりませんな。作曲家も、バイオリン奏者も、どちらも立派なお仕事だと思いますがねぇ」 「もちろんです。でも、立派な職業が立派な人格に結びつくとは限りませんわ」  通子は突き放すように言った。 「なかなか手厳しいですな。ところで、ご主人の知人という方についてですが、苗字《みようじ》くらいは教えてくれたんでしょう?」 「私も聞いたんですが、お前の知らない人間だ、と言うだけで、はっきり言わないんです」 「では、人相については?」 「それも言いません」 「妙ですね。せめて、人相風体くらいは教えて、気をつけなさい、という風に言ってきても、よさそうなもんですけどね」 「そうなんです。それで困っています」  娘がソファーの上に乗り、背もたれに掴《つか》まって、飛び跳ねた。通子がそれをたしなめる。 「逆恨みの対象が、なぜ、娘さんなのか? それについては?」  赤松主任が娘を見つめた。 「倒産後に、その知人の娘さんが事故死したそうです。何でも、池に落ちて溺《おぼ》れたとか。そんなことを申しておりました」 「溺死《できし》……。そうですか……」  と言って、しばらく、うつむいていたが、 「ひょっとしたら、その人物は、精神的に不安定な状態なのかも知れませんね。それで、ご主人も、躊躇《ちゆうちよ》されているのかも知れない」 「躊躇? 何をです?」  通子が険しい表情で聞き返した。 「つまり、精神的に安定している時と、不安定な時では、その、何と言ったかな……」  と言うと、僕の方を見て、 「ほら、イギリスだか、フランスの映画で出てくる……一人なのに、善人と悪人になってしまう……、あれは何と言ったかなぁ」 「ジーキル博士とハイド氏、ですか?」  僕は答えた。 「そうそう、それだ」  と、うなずいた。すると、 「冗談じゃありませんわ。正常な時もあるから躊躇しているなんて……。それじゃ、ハイド氏の時に出くわしたら、私たちはどうなるんです?」  通子が口を尖《とが》らした。 「ごもっとも。ごもっともです」  と、うなずいてから、 「では……、これまでに、見知らぬ人物とか、不審な車につけられた、というようなことは?」  赤松主任は質問を変えた。 「それが……」  通子は不安気に唇を噛《か》んでから、 「主人に言われて、あれこれ思い出してみたんです。はっきりと断定はできませんが、半月くらい前に、変な車に待ち伏せをされていたような……」 「変な車?」  僕は思わず、身を乗り出した。すると、赤松主任が僕の膝を押さえてから、 「車の車種はわかります?」 「はい。白系統のシャルマンか、ボナンザだと思います」 「ナンバーについては?」 「夕方だったので、とてもナンバーまでは……」  と、首を横に振った。 「具体的に、どのような状況だったんでしょうか?」 「土曜日に、娘と二人で、世田谷のフリーマーケットに出かけたんです。その帰り道に、後をつけ回されたんです。環八通りから井の頭通りの交番まで、ずっと」 「交番?」 「はい。自宅に直接帰ると、相手にこちらの住所がわかってしまうでしょう? だから、以前、立ち寄ったことのある交番まで行って、事情を話して助けてもらおうと思ったんです」 「なかなか、いいご判断です。で、どうなりました?」 「私が交番に入ると、その車はすぐに逃げてしまいました」 「逃げた? で……、その後は、いかがです? また、待ち伏せをされたようなことは?」 「白い車については、それ以降、見かけていません。もっとも、私の方が気がつかないのかも知れませんけど」 「他の車、それから、人物については、いかがです?」 「それが、はっきりとはわからないんです。今、振り返ってみると、そんなことがあったような気もしますし……、なかったような気もしますし……」  通子は自信なさそうに首を傾《かし》げた。 「つまり、その白い車以外には、具体的に待ち伏せされたとか、尾行されたということはないんですね?」 「はい。まぁ、具体的には」 「その後、世田谷のフリーマーケットへは?」 「一度も行ってません」 「一度も行っておられない……」  と繰り返して、赤松主任は目を伏せ、数回、うなずいた。  通子は赤松主任を見つめ、そして、僕を見た。僕に質問があるはずもなく、すぐ目を伏せた。  その後も、赤松主任は何も言わず、じっとテーブルを見つめていた。そんな風にして、一、二分ほどすると、 「あの……」  通子が言った。赤松主任は無言のまま顔を上げる。 「あの……、私の方からご相談しておいて、こんなことを言うのは矛盾するようですけど……。実は、少し不思議に思うところもあるんです」 「と、おっしゃいますと?」 「結婚して八年。別居して一年になりますけど、あの人がそんなトラブルを抱えていたなんて、初めて聞いたんです」 「ほう……、初めて、ですか?」 「ええ。あの人の話の様子では、二、三年前から逆恨みされるようになった、ということですけど、もし、そうであれば、その知人という人は、ここにも姿を見せていると思うんです。もっとも、ここのマンションは近所付き合いがなく、だれがどこの住人なのだか、わかりませんけど……」 「つまり、ご主人は何か、奥さんにお話になっていないことがあるのではないか、と?」 「はい。何分《なにぶん》にも別居中で、お互いに、その……、すでに別々の道を歩き始めていますし、生活環境も違ってしまっています。つまり、色々な人と関《かか》わり合っているわけで、そういう意味で、それぞれプライベートな部分も、別々なわけですから」  奥歯にものの挟まったような言い方だった。 「ご夫婦は、それぞれ、別な道を歩み始めていて、それぞれ、別個な問題を抱えているということですか?」  という赤松主任の質問の意味も僕にはわからない。 「はい。私にも、別居中の主人には知られたくないことはあります。でも、それは、お互いさまだと思うんです。離婚調停中なわけですから、自分に不利になることを、敢えて、相手には知らせることはできないと思うんです」  そして、通子はうつむいた。  一体、何が言いたいんだ?  まだ若く、別居状態の夫婦の心理というものが、全く理解できない僕は、事情がのみこめずに、苛立《いらだ》ちを覚えるだけだった。 「まぁ、そういう事情があるとすれば、ご主人が口を濁される態度も理解できます。となると、とにかく、ご主人に直接お会いして、確かめるしかありませんな」  と言うと、手帳をパッタンと閉じて、 「危険人物の人相風体がわからない、ということが、必ずしも、悪条件とは限りません。むしろ、その方が幸いすることもあります。人相書きがある場合には、盲点がありましてね。死角を生じることがあるんです。早い話が、人相書きと異なる場合……、例えば、犯人が変装して接近した場合、無警戒になってしまうんですよ。それよりも、人を見たら危険人物と思え、という風に身構えた方が間違いはありません。……おわかりですか?」 「はい……」  通子は固い表情でうなずいた。 「午前と午後と夜の三回、このマンションの内外は、制服警官が、わざと目立つようにパトロールすることになっています。これは不審人物を近づけないためです。管理人にも出入り者のチェックを厳しくするよう依頼していますので、安全だとは思いますが、奥さんも用心を怠らないようにして下さい。また、胸騒ぎがするような場合、実家に帰られた方がよろしいでしょう。女性の勘というのは、結構、当たるものです」 「わかりました。いろいろお気遣いいただき、ありがとうございます」  通子は深々と頭を下げた。 「いえいえ、これくらいのことは、警察として当たり前のことです」  と言って、再び、コーヒーカップに手を伸ばした。通子も手を伸ばしたが、カップに口を付ける前に、チャイムが鳴った。  失礼します、と言って、通子は席を立った。娘が走って、その後を追う。 「なぁ……」  赤松主任は僕の方に体を傾けて、 「あの女の子の顔つきを頭に叩《たた》きこんでおいてくれないか」 「女の子?」 「五歳の娘の方だぞ」  冗談なのか本気なのか、わからない。 「顔つきを覚えるって、具体的にどこを?」 「後で似顔絵が描けるくらい覚えてくれ」 「…………?」 「実を言うと、車の中に眼鏡を忘れてきた。娘の顔がはっきり見えない」 「そういうことですか。わかりました」 「ボウガンの矢は横の方向から飛んできている。だから、特に横顔を……」  と言いかけて、口をつぐんだ。通子が宅配便の包みを手に戻ってきたからである。  その後、赤松主任は肩の凝らない雑談をして、通子を何度か笑わせた。最後に、長女から目を離さないように、と念を押して、僕たちは部屋を出た。  廊下でも、エレベーターでも、住人が近くにいたので、僕は沈黙を守った。そして、マンションの玄関を出たところで、 「あの、さっぱりわからないんですが……」  と尋ねた。 「何が?」  赤松主任は曇り空を見上げながら聞き返した。 「いろいろありますが、その……、夫婦が別な道を歩み始めていて、それぞれ、別個な問題を抱えている、という辺りのことが、さっぱり……」  と、首をひねると、赤松主任はニッコリ笑って、 「いいかね? あんな美人の奥さんが一年間、離婚前提で別居していたら、どうなると思う?」 「どうなるって……」  ヒントを与えられても、僕にはわからなかった。 「後釜《あとがま》を狙《ねら》った男どもが放っておくもんかよ。あの奥さんにしたって、男っ気なしじゃ寂しいはずだ。いや……、実際のところは、順序が逆かも知れないな。胸がときめく男が現れたからこそ、亭主には嫌気がさして、別居ということになったのかも知れん」 「…………」 「それは、亭主にしても同じだ。別居の原因が何にせよ、もう一年にもなる。どこかの女と仲良しになっても不思議ではない。本人は遊びのつもりでも、向こうは本気ということもある。あの奥さんが言った、プライベートな部分というのは、そういうことだよ」 「すると、知人というのは……」 「うん。火遊びの相手が恨みの矛先を別居中の女房子供に向けた、なんて言えないからな。借金だ、保証人だ、倒産だ、なんて作り話をでっち上げたんじゃないか、と、あの奥さんは疑っているわけだ」 「なるほど……」  ようやく疑問が氷解した、と納得したのだが、 「早呑み込みするなよ。そうと決まったわけじゃない。あの奥さんが、そう考えているというだけのことだ。それも、自分の身を振り返ってね。尾行されたという白い車にしたって、ひょっとしたら、あの奥さんの遊び相手の車ということも、ないとは言えないぞ。何しろ、自分にも主人に知られたくないことはある、などと言っているくらいだ」 「…………」  僕には絶対に思いつかない発想だった。独身生活者という立場そのものが、洞察力を鈍らせ、判断を誤らせることがある。一人者は半人前、という言葉を、この時ばかりは認めざるを得なかった。 「そんなことより……」  赤松主任が言った。 「子供の顔は覚えたか?」 「はい。覚えました」  脳裏に娘の顔、特に、横顔がはっきりと浮かんだ。 「そうか。それは重畳《ちようじよう》……」  と言って、車に乗り込んだのだが、ダッシュボードの上に置き忘れてきたという赤松主任の眼鏡が見当たらない。  その後の様子からすると、どうやら眼鏡は最初から内ポケットにあって、赤松主任がそのことを度忘れしていたようには思えなかった。ひょっとしたら、眼鏡の言い訳は、漫然と仕事をしている僕の注意を喚起するためだったのかも知れない。  僕たちは大学病院へ向かった。  打合せの時の予定にはなかったことだったが、病院に立ち寄ってはならないという決まりはない。赤松主任はテレビや新聞で報じられた顔写真ではなく、実際の被害者を見たかったのだ。  病院の入口から一階ホールの案内カウンター前を通り過ぎ、病室への専用通路まで来ると、受付窓口があった。�見舞い客の方は、記名の上、バッジを付けて下さい�という貼り紙の下に、守衛が二人、座っている。  赤松主任がペンを手に取ると、 「まだ事情聴取は無理だと思うよ、赤松っつぁん」  後ろから声をかけられた。警備係の長田という主任だった。 「いや、ガラス越しにお見舞いできれば、と思ったんだが、無理かな」  赤松主任がペンを動かしながら尋ねた。 �城西商事[#「商事」に傍点] 赤松作造ほか一人�と記すと、守衛も承知なのだろう。ご苦労さまです、と、敬礼した。  その守衛が長田と、一言ふた言、言葉を交わした。僕は周囲を見渡した。被害者が入院している病院は警戒すべき対象なのに、制服や出動服を着た警官の姿が一人も見当たらない。  なぜ警備係だけが専従班から除外されているのか不思議に思っていたのだが、ようやく、そのわけを理解した。署の上層部は、第二の犯行を予想し、密《ひそ》かに病院に警官を配置し、いわゆる要撃態勢を整えていたのだ。  その証拠に、通常の勤務なら、出動服のはずの警備係の主任がスーツ姿でいる。左の脇腹のところが不自然に膨らんでいるのは、おそらく小型拳銃か無線機を携帯しているためだろう。 「女の子は何号室?」  赤松主任が尋ねた。長田は周囲を窺《うかが》ってから、小声で、 「511号室の……トイ面」 「トイ面? 何だ? それ」 「行けばわかるよ。今、母親が付き添っている」 「面会は嫌がるかな?」 「いや、病院関係者とか警察関係者であれば、嫌な顔はしない。刑事だと名乗れば、安心するかも知れん。今朝も、早く犯人を捕まえてもらいたい、と言ってたからな」 「そう。じゃ、これから顔を出すことにするよ。張り込みの連中に、刑事が二人向かっている、と連絡しておいてくれ。ボウガン野郎と間違われて、いきなりタックルされるのはごめんだ」 「了解。連絡しておく」  と言って、長田はさりげなく赤松主任の側を離れた。作業服を着た工員風の男と、サラリーマン風の二人連れが、エレベーターに近づいてきていた。  五階で下りたのは、僕たちの他には、工員風の男だけだった。エレベーター待ちをしていたはずの白衣の男が、僕たちを見て、自分の襟の裏に向かって、何事かつぶやいている。白衣はカムフラージュで、実は見張り役の警官だった。  案内板に従って廊下を進む。途中に、�関係者以外立入禁止�の立て札があった。工員風の男は、その手前の個室をノックした。ドアが中から開いて、わざわざ来てくれたの? という付添いらしき中年女の声。近くまで来たもんだから……、と言う声と共に、男の姿は病室の中へ消えた。  それを横目に、僕たちは先に進んだ。やがて、511号室。そのドアの左右にはテーブルが置かれ、見舞いの品なのだろう。花束や人形が、うずたかく並べられていた。  えーと、と言って、赤松主任は、そのトイ面、つまり、反対側のドアに目を向けた。そこには�薬剤室�という真新しいプレートが掲げられてある。  これは一体、どういうことか?  僕たちは顔を見合わせた。すると、カチッという音がして、511号室のドアが僅《わず》かに開いた。制服警官が顔を半分だけ見せて、 「患者は、そっちです」  と、目で薬剤室を示した。 「すると……」  赤松主任は後ろを振り返った。 「そういうわけです」  警官が答えた。 「なるほど。さすがは古ダヌキの警備課長。俺たちとは発想が違うわい」  赤松主任は廊下を見渡し、人の目がないことを確かめてから�薬剤室�のドアをノックした。  511室は囮《おとり》の部屋で、犯人がもう一度、少女を狙うつもりなら、この部屋に侵入するはずである。中には、屈強な警官が手ぐすね引いて待機していて、無断に入ってくる相手は組み伏せる。どうやら、そういう手筈《てはず》のようだった。  頭部の包帯は、まるで白いヘルメットのようだった。薬品の臭《にお》いがツンと鼻をつく。集中治療室を出たものの、そこは一般病室ではない。注意を要する患者のための特別病室だった。  無機的な光を放つ様々な医療機器。それらに周りを取り囲まれて、ベッドの少女はピクリとも動かずに横たわっていた。その小さな体からは何本もの細い管が計器に向かって延びている。  赤松主任は少女の様子を覗《のぞ》き込んだ。 「目を覚ましたり、起きたり……。本人は今日がいつなのか、今が、昼なのか夜なのか……、自分がなぜ、入院しているのかも、わからないでしょうね」  母親がやつれた顔を少女に向け、わずかな毛布の乱れを直した。 「もう少しの辛抱ですよ、奥さん。頑張って下さい」  励ましの言葉をかけたが、おそらく何十回も耳にしているのだろう。母親は、小さくうなずいただけだった。  赤松主任は僕を見て目配せした。見比べてみろ、という合図だ。僕は身を乗り出し、少女の顔を覗き込んだ。  小さな顔は青白く、まるで人形のように無表情だった。大きな黒い瞳は天井に向けられているが、生気が感じられない。僕は少女の視線の先を見上げた。そこには何の模様もない。ただ白いだけの天井だった。 「先生は見えているはずなのだが、とおっしゃるんですが……」  そうつぶやいて、母親は目を潤《うる》ませた。 「そうですか……」  と答えて、僕は改めて少女の顔を覗き込み、ほんの少し前に記憶した少女の顔と見比べた。  瓜二《うりふた》つ、と言えるほど似てはいない。しかし、似ているようにも見える……。この少女が元気に走り回っているか、或《ある》いは、マンションで会った少女が病床に横たわっていれば、比較ができるのだろうけれども……。  そんなことを考えていると、赤松主任が僕の背中をつついた。そして、 「どうか、お大事に……」  赤松主任が母親に頭を下げた。母親は、ありがとうございます、と、頭を下げた。僕も一礼して、その前を通りすぎた。そして、靴音を忍ばせるように廊下に出た。  病室から出たが、赤松主任は無言だった。僕たちは長い廊下を無言で進み、エレベーターの中でも無言だった。ブラウン管を通してでなく、病床に横たわる現実の姿は、それほど衝撃的なものだった。そして、それは僕が事件の重大性というものを、初めて認識した時でもあった。それまでは、単に一つの不幸な傷害事件としか捉《とら》えられず、被害者や家族の心情などを思いやることができなかった。  病院の外に出た時、 「どう? 似てたかい?」  赤松主任が尋ねてきた。 「すみませんが、子供の顔はどれも同じように見えて……。よくわかりませんでした」  僕は正直な印象を述べた。役に立たない自分が情けなかった。赤松主任は、そうか、とうなずいただけだった。 [#改ページ]      10  午後七時。専従班の捜査員たちは遅出の二名を除き、全員が別室に集合していた。  奥の肘掛け付きの椅子には刑事課長。その隣の席には荒木が座っていた。揃《そろ》いました、という部下の報告をうけて、荒木が、 「では、早速ですが、長谷川係長さんから口火を切ってくれませんか?」  と言うと、はい、と答えて、長谷川が立ち上がりかけた。すると、 「座ったままでいいよ」  刑事課長がそれを制した。長谷川は座り直して、 「では、下命の件につき、報告します。まず、和泉町在住の十七歳の少年。これは大木宏明という子なんですが、うちの係の者が電話で、遊び仲間に尋ねたところ、船橋市内のガールフレンドのアパートに居候しているらしいことがわかりました。ガールフレンドは、佐々木淳子、十九歳、フリーター。ちなみに、少年の母親は『息子と自分は別の人格。彼の行動には干渉するつもりはない』とのコメントだそうです。ガールフレンドのアパートの所在地は、すでに確認しておりますので、明日にでも本人に直当《じかあ》たりしたいと考えています」  と言って、咳払《せきばら》いすると、 「さすが、餅《もち》は餅屋だな……」  刑事課長が満足気にうなずいた。 「次に、敬愛学園の制服を着た少年の件ですが、刑事課の鑑識主任さんにお頼みして似顔絵を作っていただきました。学園の不良グループの中には、少年係の方で貸しのある生徒が何人かいます。近いうちに似顔絵を見せて、人物を特定したいと考えています。以上です」  と言って、会釈した。荒木は課長を見た。課長がメモしながら小さくうなずくと、荒木は次に知能犯係の岡部刑事を指名した。 「私の担当は桜が丘団地の猫殺し男なんですけど、捜査したところ、氏名は溝口昭二、三十五歳、名古屋生まれ。職業は、元は板前でしたが、今は、いわゆるパチプロです。脅迫で逮捕歴二回ですが、これもパチンコ絡みで、店員に対するものです。三年前に大腸ガンを患って、手術しましたが、体調はよくないようです。団地のうるさ型に、いろいろと聞いてみたんですが、今のところ、ボウガン事件との接点は見いだせません。引き続き、捜査したいと思います」  以上です、という風に、目礼した。 「本人と接触してみた?」  と、課長。 「まだです。監視中ということですので、遠慮しました」 「そのことだけどさ……」  荒木が頭をかいて、 「実は、人員のやりくりがつかなくてね。午前中いっぱいで、監視は打ち切ったんだ。だから、今後、監視のことは配慮しなくていい」 「何だ、打ち切っていたんですか。じゃ……、何も、セールスマンの振りなんかすることはなかったんだ……」  と、不満気に口元を歪《ゆが》めさせた。 「連絡が遅れて申しわけない」 「わかりました。じゃ、早速、明日にでも……」  岡部は手元のメモにバツ印をつけた。 「次は……赤松主任。頼んます」  と、指名されて、赤松主任は捜査したことを、ありのまま発表した。そして、 「結論から言うと、牧野通子の説明は、と言うより、夫の恒人の説明は要領を得ません。借金の保証人に、と申し入れてきた知人の名前も教えない状態でして、脅迫の具体的内容もわかりません。通子は夫からの電話を受けて、不安になって警察に相談した、という経緯ですからね。無理からぬ側面もありますが、いずれにせよ、夫の恒人が帰ってきてからでないと、はっきりした結論は下せないと思います」 「で、その亭主は、いつ頃戻ってくるの?」  と、課長。 「来週の月曜日の夜には、吉祥寺のマンションに戻るということです」 「吉祥寺? 何で、吉祥寺なんだ? 確か、ヤサは元町じゃ……」  と言いかけると、すかさず、 「牧野と言っても、この夫婦は現在、別居中です」  荒木が説明した。 「あ、そうかそうか……。例の選挙違反の都議の件と勘違いした。すまんすまん……」  と頭をかき、続けてくれ、という風な仕草をした。荒木は赤松主任を見て、 「すると、これも、少し時間がかかりそうだなぁ。先に、プー助の方を片づけた方がいいかも知れん。えーと、四谷署員からだが、渡辺に関する情報が寄せられたよ」 「四谷署員?」  初耳だった。 「うん。武田という看守係の主任だそうだ。ところが、四谷に武田という看守係はいないんだ。ひょっとしたら、臨時の応援勤務員なのかも知れん。ともかく、山手台公園の近くにあるマンションに住んでいるから、当たってみてくれ。事件の前日、散歩の途中に渡辺を見かけたそうだ」  と言うと、ノートを繰って、 「えーと、その時の服装は、黒っぽい野球帽、紺系のチェック柄のコート、茶色のズボンに、たぶん元は白かったスポーツシューズ、相変わらず、ヒゲは伸ばしていて、灰色の手提げ袋を持ち歩いているそうだ。これは交番の連中の言っている服装と同じだから、本人に間違いないと思う」 「わかりました。じゃ、早速、事情を聞きに行ってみます」 「よろしく」  と言うと、元の頁を開いて、 「じゃ……、次は、公安の高畑主任さんだったかな」  荒木が視線を移した。 「極楽寺境内でボウガンの発射訓練をしていた若い男に関しては、長谷川係長さん同様、鑑識に依頼して似顔絵を作ってもらい、これを本庁はじめ、各署に電送いたしました。極左、右翼の関係者であれば、一両日中に反応があると思います。なお、練馬ナンバーの車両ということでしたが、念を押したところ、品川ナンバーだったかも知れない、などと証言が変化し、車両の特定は難しいと考えております」 「練馬か品川かはともかく、具体的にナンバーの数字は取れているの?」  課長が尋ねた。 「いいえ。数字については全く思い出せないそうです」  高畑は首を左右に振った。 「じゃ、仕方がないな」 「従って、もう少し、極楽寺周辺の聞き込みを続けたいと思います」 「そうしてくれ。えーと、それから、三鷹の神がかり女の方だけど、これから手をつけるのかな?」 「はい。三鷹署に本人のファイルがあるかどうか、確認してから、捜査しようと考えています」 「結構。方法は任せるよ。次は……、工藤主任、よろしく」  荒木が指名した。 「えー、私の担当はボウガンで弓道場の職員を脅したマルB風の男についてであります」  工藤は普段の話し言葉とは異なる演説調で話し始めた。 「結論から申し上げます。ホシは稲葉会関島一家の者に、ほぼ間違いないと思います。個人の特定についても、四、五名まで絞りこみました。明日の今頃までにはしょっ引けると思います」 「ほう。早いね。どうして、わかった?」 「脅された弓道場の職員に事情を聞いたところ、ボウガンを持っていなかった方の男はスーツの襟にバッジをつけていたそうで、黒地に黄色の稲穂のマーク。実際は濃紺に金色のはずなんですけどね。ご存知だと思いますが、これは指定暴力団、稲葉会のものです。更に、真ん中には赤い菱形があったということですので、関島一家に間違いありません。それがトレードマークですから」 「さすがだね。思い切って、おフダを取っちゃうかい?」 「そんな贅沢《ぜいたく》なものは必要ありません。組長に直談判《じかだんぱん》して、協力してもらいます」 「まぁ、任せるよ。でも、長《ちよう》さん。まずは、ボウガン事件との関係を洗ってくれ」  と釘をさすように言うと、 「わかっています」  と、うなずいた。 「次は、と……」  荒木は資料を見て、 「うちだな。えーと、寿町の付きまとい男。これは上条主任の担当だったね」  と言うと、紅一点の上条が、はい、と答えて、かけていた眼鏡を外した。 「私は、まず女性講師から事情を聞きました。この田辺 勝という楽器店の店員の情報についてはバレエスクールの校長から署長公舎に直接、電話連絡されてきたものです。夜間のことで、刑事課員は出払っていたため、当直責任者だった交通課長が女性講師に接触し、事情を聞いた、という経緯です」 「いゃあ……」  刑事課長が頭をかいて、 「俺はまだ帰宅していなかったんだが、外に出ていてね。連絡してくれれば、こっちで対処したんだが、交通課長さん、堅い人だから……」  と言い、苦笑して、口を閉ざした。 「次に、女性講師の人定ですが……」  上条が続けた。 「植竹ひとみ、二十七歳、東京生まれ。世田谷の自宅に両親と共に住んでいます。ちなみに、父親の職業は美術大学の教授です。交通課長の、女性講師の言動に不自然な点あり、という私見ですが、それは内容が性的なものだったためで、また、交通課長が男性であったためと考えられます」 「……どういうこと?」  課長が眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。 「つまり、電話での卑猥《ひわい》な言葉。郵便による猥褻物《わいせつぶつ》の送付などについて、具体的に説明するのが恥ずかしかった、ということでした。私が見る限り、植竹ひとみの態度に不自然な点は感じられません」 「その具体的説明というのを、つぶさに聞きたいところだが、俺の個人的関心事と思われたくないからな。ここは聞かずにおこう。で、展望は?」 「はい。自宅の方にかかってきた電話を録音したテープがあることがわかりました。脅迫罪で十分、立件可能です」 「これも脅迫か……。ま、とっかかりだからな。じゃ、逮捕状請求のための証拠資料の準備にかかってくれ。ガサ入れの時に、ボウガンでも出てくれば儲《もう》けもんだ」 「はい。では、直ちに取りかかります」  固かった上条の表情が緩んだ。たぶん、自分の希望した通りの結果になったからだろう。荒木は手元のノートに目を落として、 「最後は、バレエスクールでバスの運転手をしていた保坂富雄の件。これは私の方から説明する。今日の午後、うちの高津主任と小田島君が和歌山に向かった。この時期、出張捜査で二人もいなくなるのは痛いんだが、十名の容疑者がリストアップされている以上、まず、これのシロクロをつけないと、その筋がうるさい。そんなわけで、ともかく、アリバイだけでもはっきりさせておきたい」 「…………」  刑事課長が無言でうなずく。 「実際、この十件以外にも、注目すべき情報がいくつかあるんだ。だが、それはまだ公表しないでおくよ。聞いたことで、みんなに責任が及ぶかも知れないからな。だから、みんなは今、自分が担当している事案だけに集中してもらいたいんだ」 「誤解しては困るぞ」  刑事課長が口を挟んできた。 「この十件が事件とは関係ない、ということではないんだ。客観的に見れば、やはり、事件との関連性は濃厚、と見るべきだろう。荒木係長が言っているのは、この十件は、ただの捜査情報というだけでなく、上層部や一部マスコミが強い関心を示し、捜査結果を、今か今かと心待ちにしている、という点なんだ。まず、そういった雑音を排除してしまう必要がある。だから、諸君に無理をお願いしているわけだ」 「…………」 「本音の話、俺個人としては、現段階では、ある程度、捜査の精度を欠いても止《や》むを得ないと思うんだ。警察は千里眼でもなければ地獄耳でもない。犯罪捜査のプロであっても、超能力の持ち主じゃないんだ。藁《わら》の山から針一本、明日の朝までに見つけろ、と言われても、できっこない。できるのは、上層部が納得するような報告の仕方を工夫するということだけだ」 「…………」 「つまり、ただ『発見できませんでした』じゃ、怒鳴りつけられるのが関の山だ。なぜ発見できなかったか、納得できる説明ができるようにして欲しいということだ」 「何か質問は?」  荒木が時計を見ながら言った。少年係の長谷川が手を上げて、 「明日は直接、船橋へ向かいたいと思います。それから、状況によっては、そのまま現地に止まりたいと思うんですが」 「しかし……」  荒木は刑事課長を一瞥《いちべつ》して、 「人手不足で、これ以上、兵隊[#「兵隊」に傍点]は補充できませんよ」 「いえいえ、そのご心配には及びません。只今《ただいま》、うちの課には見習生が二名、研修中ですので、彼らを手伝わせます」 「見習生?」  と言って、刑事課長が僕の方を見た。  しかし、その見習生は僕とは関係ない。彼らは、まだ警察学校の生徒で、会社で言えば、入社したばかりの新人教育を受けている身であり、職場見学のための研修だ。専門教育を受け、実務を身につけるために派遣されている僕とは基本的に立場が異なる。 「警察学校の方からは、できるだけ、生の現場を見させてもらいたい、という依頼ですので、そのようにしたいと存じます」 「わかりました。そういうことなら、お任せします。ただし、その見習生たちにケガだけはさせないように、くれぐれも配慮して下さい。……他に質問は?」  手を上げる者はいなかったが、上条主任が身を乗り出して、何事かつぶやいた。すると、荒木は自分の額を叩《たた》いて、 「そうかそうか……。すっかり忘れていたよ」  と言って、テレビの横にあるラックの中から、紙袋を取り出した。 「つい先程、凶器となったボウガンの矢が届いた」  荒木は金属性の矢を取り出した。証拠品のために、透明のビニール袋の中に入っている。 「見た通り、これは普通のボウガンの矢ではない。長さは十五センチ、重さは十グラム、太さは六ミリだ」  と言って、右手を上げて矢をかざして見せた。全員が伸びをして、覗《のぞ》き込む。 「これは、ボウガンの一種である�ハンドボウガン�の矢で、しかも、この矢は市販のものでなく、手製だ。本体の材質はアルミだが、先端には鉄製の鏃《やじり》が装着されていた。この鏃が威力を発揮し、凶器となるわけだ」  今度は、左手で鏃の入ったビニール袋をかざし、それを側の席にいた交通執行係の三宅に渡した。  どれどれ、と言って、手に取り、重さを確かめ、鏃に目を凝らす。 「ハンドボウガンてのは、何です? 普通のボウガンとは、どう違うんです?」  地域総務係の福本が尋ねた。 「文字通りの意味ですよ。福本係長さん」  と、荒木。 「ハンドボウガンは片手で撃てる拳銃のようなタイプ。ボウガンは両手で銃身を支えるライフル銃のようなタイプです。今、みんなが見ている手製の矢であれば、発射するハンドボウガンの構造にもよりますが、射程距離は二十から二十五メートル。カボチャは無理だが、スイカなら貫通するだろう、ということです」 「ほう……。で、ちなみに、ライフル型のボウガンの場合は、どのくらいの威力なんです?」 「ボウガンの場合は矢の長さも違いますし、威力は桁違《けたちが》いだそうです。えー、射程距離は五十メートルで、畳一枚を軽く貫通できるそうです」 「ひぇー、おっそろしい……」  福本が甲高い声を上げた。すると、 「その矢は、看板に刺さっていた矢と同じタイプなの?」  工藤が尋ねた。 「看板て、バレエスクールの掲示板のことかな?」 「何だか知らないけどさ。事件の十日くらい前に、突き刺さっていたと言うじゃない。それを交番員が面倒臭いってんで、不燃物のゴミ箱に捨てちまったとか、どうとか……。そんなことを小耳に挟んだよ」 「長さん、そのことは、もう誰でも知っているよ。会議で発表されたんだ」  と笑って、 「取り扱った森巡査の他、バレエスクールの事務員にも見てもらったんだが、非常に似ているそうだ。少なくとも、掲示板に打ち込まれていたのは、ハンドボウガンの矢、ということだ。つまり、同一犯人の仕業と考えていいと思う」  その時、証拠品が僕の前に回ってきた。  たった十五センチで十グラムの矢はおもちゃのようで、扇風機の風にも飛ばされそうな感じだった。だが、もう一つの証拠品の鏃の部分は、二センチにも満たなかったが、ずっしりと重く、先端は鋭く尖《とが》っていて、見るからに恐ろしい凶器だった。  脳裏に、病院のベッドに横たわる少女の姿が浮かんだ。 [#改ページ]      11  翌日、僕たちは山手台公園の近くにあるマンションに向かった。  四谷署の看守係という触れ込みの世帯主は、事前に連絡を取っていたにもかかわらず、チャイムを鳴らしても、応答がない。 「仕様がないな。出直そう……」  僕たちはエレベーターの方へ向かいかけた。すると、ドアが開いて、 「城西署の人かい?」  白髪の老人が顔だけ覗《のぞ》かせた。 「そうです。武田主任はご在宅ですか?」  と尋ねると、 「ああ。見た通りだ。今日は図書館が休館日でね」 「…………?」  赤松主任は怪訝《けげん》そうな顔で僕を一瞥《いちべつ》して、 「いや、四谷署にお勤めの武田主任です。今日はお休みで、ご自宅、と聞いたんですが?」 「少し違うな。正確には、四谷署に勤めていた元主任だよ」 「元主任? すると……」 「その通り、わしが元、四谷署警務課看守係の武田悦太郎だ」 「なるほど……」  赤松主任が、やれやれ、という顔をして、ネクタイをゆるめた。 「まぁ、立ち話も何だから、入んなさい」  武田は顎《あご》を部屋の中に向けた。  狭い玄関だった。マンションというより、鉄筋コンクリートのアパートと言った方がふさわしい。  靴を脱いだが、スリッパは出されなかった。竹の簾《すだれ》を潜ると、キッチンに四人がけのテーブルがあって、 「座んなさいよ」  武田が椅子の背もたれを叩《たた》いた。どうやら、応接間も兼ねているらしい。  奥に消えた武田がブランデーのビンを持って現れ、食器棚から、コップを三つ取り出した。それを見て、 「本音としては、飲みたいんですがね、武田さん。勤務中だから、そういうものは、引っ込めて下さいな」  と、赤松主任が断ったのだが、 「女房がいないんで、お茶が出せない。ひっかけるかどうかは別として、お茶代わりに出すんだから……」  と言って、コップを三つ並べると、ゴボゴボゴボと、ブランデーを注《つ》いで、僕たちの前に置いた。 「ところで、名刺はないの?」  武田はコップを口に運びながら言った。 「名刺?」  赤松主任が言った。その言葉に、僕は反射的にポケットを探った。 「あいにく、切らしていましてね。申し訳ないんですが……」  赤松主任がペコリと頭を下げた。名刺は常時、所持しているはずだ。その言葉を聞いて、僕もとっさに、名刺の代わりにボールペンを取り出した。 「こっちの若い人は?」  武田が顎をしゃくる。 「彼は助っ人なんですよ。うちの署員ではないんで……」 「そうかい。俺が現職の頃は、名刺を切らすようなことはなかったけどな」  武田は不満気に言った。 「この次、持って来ますから」  と、かわして、 「早速ですが、武田さん。渡辺一郎に関して、何かご存知だそうで?」  赤松主任は本題に入った。 「うん。まぁね。事件当日、何か手伝えないかと思って、山手台交番に顔を出したんだが、この時の警官が新米で、俺のことを知らないんだよな。今は管内居住のOBの把握はしていないわけ?」 「さぁ、どうでしょう? 警友会名簿は行き渡っていると思いますが」 「名簿だけじゃ、不十分だよ。交番ごとに把握して、日頃から連絡を密にする必要があると思うけどな。町ですれ違っても知らん顔なんだぜ。ああいう態度じゃ、情報を寄せる気になんかなれないよ」 「その件は関係方面に伝えましょう。で、渡辺一郎に関してですが……」 「そう、焦るなよ」  武田はコップのブランデーに一口つけて、 「事件の前日。散歩に出た時、ヤツを見かけたわけよ。灰色のズダ袋をさげていた。膨らみ方からして、あれはボウガンだったかも知れないな」  と言って、横目で僕たちを見た。 「すると、ボウガンの形が浮き出ていたんですか?」 「そういうわけじゃないよ。ボウガンが十分、入る大きさだったということだ」 「なるほど」  ハンドボウガンのことは、捜査の都合上、まだ公表していない。 「現職の連中に代わって、俺がしょっ引いてもよかったんだが、この年になって今更、感謝状をもらっても仕方がないからね。交番へ知らせてやったんだ。ところが、その対応の遅いこと遅いこと……」  武田は大袈裟《おおげさ》に顔をしかめて、 「あれじゃ捕まるものも捕まらないよ。第一、言葉遣いがなっていない。バレエスクールの掲示板がボウガンの標的にされても知らん振りだった、というのも、さもありなん、と思ったね。全く、最近の警官は資質に問題あり、だよ。全く……」  まるで、警官の苦情を聞かされるために訪問したようなものだった。 「ご指摘は謙虚に受け止め、今後の検討課題とさせていただきますよ。それで、渡辺の行方《ゆくえ》についてですが、心当たりはおありですか?」 「うん。だから、事件の前日に見かけた、と言っているんだ。ただ、情報源は言えないけどさ。隣町のコンビニのゴミを漁《あさ》っていた、という話も聞いているよ」 「そうですか……」 「大体、普段からの情勢把握が問題なんだよ。浮浪者の苦情の一一〇番なんか入った時、きちんと処理しておけば」  と、再び苦情めいた話になった時、突如として、電話が鳴った。 「……誰からかな?」  武田は首をひねって、食器棚の陰から、受話器を取り上げた。はい、と答えると、僕たちの方を振り向き、 「うん、いるよ。……電話だ」  と、受話器を差し出した。  赤松主任が席を立ち、電話口に出た。通話は一分ほど続き、はい、と、ほう、を何回か繰り返し、最後に、 「間違いないんですね?」  と念を押した。そして、受話器を戻して、テーブルに戻ると、立ったまま、 「お蔭《かげ》さまで、渡辺一郎の所在が確認されました。先週の月曜日から東京都の多摩自立支援センターに入所しているそうですよ」  と言って、ブランデーを一口飲んだ。 「先週の……月曜日?」  僕は思わず、繰り返していた。先週の月曜日であれば、事件の六日も前だ。ということは、渡辺一郎は公園にはいなかったということになり、隣町のコンビニにもいなかったことになり、そして、何よりも、アリバイが成立する。さらに、事件の前日に当人を目撃した、という武田の証言とも矛盾する。  僕は目の前の武田を見た。武田の視線が宙を泳いだ。 「武田さん……」  赤松主任は静かな口調で言った。 「当人の所在が確認されたので、取り敢《あ》えず、向かってみますよ。本日はありがとうございました」  と一礼して、コートを持った。すると、 「そうかね。へぇー……。自立支援センターにいたとなると、俺の見間違いなのかなぁ。でも、あの連中は、どいつもこいつも、似たような格好をしてるからね。見間違えられても、仕方がないよ」  武田が独り言のように言った。僕たちは何も言わずに、玄関に向かった。 「でもさ、最近の交番の連中の態度が悪いことは間違いはない。これは確かなことだ」  僕の方を見て武田が言った。 「OBが通りかかったら、敬礼するのが礼儀というものだよ。交番で、お茶を出せ、とまでは言わないが、せめて、休んで行きませんか、くらい言っても、バチは当たらないんじゃないか? そういう日頃の態度というものが、いざという場合に、ものを言うんだ」  靴を履く僕たちに対して、武田は話し続けた。 「まぁ、いろいろと、ご不満はあるでしょうけど、温かい目で見てやって下さいな」  と言うと、武田の方を振り返り、 「お邪魔いたしました」  赤松主任は丁重に頭を下げた。だが、僕はそうしなかった。靴下が汚れたような気がして、不快だった。  エレベーターで一階に下り、駐車場に出た時、 「一体、何ですか、あれは」  僕はマンションを振り返った。 「まぁ、そう怒るな。たぶん、あの人の目には実際に、渡辺の姿が見えたんだろうよ。年のせいで、目が霞《かす》んでいた、ということにしておこう」  赤松主任が苦笑した。 「だったら、すみません、の一言があってもいいでしょう?」 「そうだね。ま、ちょっと行儀はよくないかも知れんな」 「行儀? 冗談じゃありませんよ」  僕の腹の虫は治まらなかった。 「まぁ、ざっと見たところ、これといった趣味もなさそうだし、友達もなさそうだ。となれば、現職の頃の人間関係を手繰り寄せるしかない」 「何が、最近の警官は資質に問題あり、だ。自分の方が、よっぽど、問題あり、じゃないか……」  と、吐き捨てるように言うと、 「そう怒るなよ。あの先輩は決して悪い人じゃないと思うよ。打ち解ければ、案外、世話好きだったりしてね。ただ、頑固で不器用なんだ。ほんの少し、譲るところを譲りさえすれば、結構、好かれると思うよ。ところが、ああいうタイプの人間は、その、ほんの少し、が譲れないんだよなぁ。俺も気をつけなきゃ……」  赤松主任は首を振りながら車に乗り込んだ。  その足で、僕たちは自立支援センターを目指すことにした。  表面上のアリバイは成立していても、もし事件当日、渡辺がセンターを抜け出した可能性があれば、容疑者のリストから削除することはできない。  自立支援センターの正面出入口は鉄格子で閉ざされていた。その周辺には、�自立支援センター絶対反対��住民無視のファッショ行政打倒�などの看板が立てかけられている。  格子ごしに、警察手帳を呈示すると、ようやく制服のガードマンが門を開けた。  その態勢だけで、アリバイの裏付けは取れたようなものだが、今更引き返すわけにも行かない。僕たちは駐車場に車を止め、事務所に向かった。  建物は全《すべ》てプレハブ造りだった。真新しいサッシ戸を開けて、事務所に入る。板の床が微《かす》かに上下するような気がした。いかにも間に合わせに準備した床マットは色違いで、大きさも異なっている。  ただ、中年の女性事務員が入れてくれた緑茶だけは、どういうわけか上質の本物だった。埃《ほこり》っぽい感じのする部屋で、待つこと数分。サッシ戸がカラカラと軽い音を上げて、五十前後の男が現れた。  どうもどうも、と言いながら、足早に壁際の自席に向かい、引き出しから名刺を取って、僕たちの前に立った。 「遠いところを、ご苦労さまです」  名刺には、路上生活者自立支援センター準備室、米村昌之、とある。 「昨日の夜に入所した新入りが、かれこれ三カ月も風呂に入っていないってんで、今、入れてきたところですわ。いゃあ、すごいの何のって、あんなのは初めてです……」  米村はズボンの濡《ぬ》れている部分を指で摘んで、引っ張り上げた。 「それは大変でしたね。センターには今、何人くらい入っているんですか?」  赤松主任が尋ねた。 「五十八名です。できるだけ規則を前面に出さないようにしましたら、出てゆく人間が減りましてね。まぁ、腹が減らなかったら、一日一食でも差し支えないわけですよね。風呂だって、三カ月に一度は少なすぎますが、毎日入る必要はないわけです。そんな単純なことを彼らに教えられましたよ」 「なるほど。ところで、渡辺一郎ですけど、今、どこに?」 「いますよ。お会いになりますか」 「はい。その前に確かめたいんですが、二月二十八日の午後一時頃、彼はここにいたわけですね?」  と念を押すと、 「はい。まず間違いありません。電話でも、ご説明しましたが、二十八日は理容学校の学生さんがボランティアで来所されましてね。午後一時頃から、希望者は散髪とヒゲを剃《そ》ってもらっていました。直接、本人を見たわけじゃありませんけどね。岡田という入所者。それに、その時の理容学校の学生さんも、名簿の名前を覚えていましたよ。えーと、何と言ったかな……」  米村は立ち上がって、再び、自席に向かい、机のメモ帳を見て、 「理容科の二年生で瀬沼章太郎という人です」 「わかりました。ところで、渡辺一郎の持ち物はご覧になりましたか?」 「はい。こういう特殊な施設ですからね。一応、点検をすることになっています。危険物、アルコール類については、一時預かりすることになっていますので」 「で、彼の場合は?」 「万能ナイフだけは預かりました。それだけですね」 「万能ナイフ?」 「キャンプなんかに持って行くでしょう? 一本のナイフに、缶切りとかドライバーとか爪切りなんかが付いているやつです。彼らの必需品ですよ」 「なるほど。ところで、これは……念のためにお伺いするわけですが、ボウガンはなかったんですね?」 「はい。もちろんです」 「わかりました。では、本人に会わせて下さい」  と言って、椅子から立った。  米村の説明によれば、簡易プレハブの施設も、自立を促す環境ということだった。冷暖房完備のマンションスタイルでは、居心地が良すぎて逆効果なのだそうだ。少なくとも、行政側は、そう考えているらしい。その言葉通り、施設は雨露が凌《しの》げる、という程度のものだった。  狭い部屋は息苦しいのだろうか。入所者たちは、建物の外に出て、日光浴をしたり、煙草を吸いながら談笑していた。ふだん目にしているホームレスとは感じが異なるのは、散髪し、ヒゲを剃り、誰もが小ざっぱりとした身なりをしていたからだ。そのことを尋ねると、 「倉庫へ行けば、ボランティア団体から送られてきた古着が山積みにされています。中には、私の通勤着より上等なのがありますよ。もちろん、くすねるわけには行きません。横領罪になりますから」  と苦笑した。  やがて、米村は第三棟という貼り紙のしてある建物の前で立ち止まり、中を覗き込み、渡辺の名を呼んだ。すると中から、洗濯室の前で日向《ひなた》ぼっこ、という答えが返ってきた。  第三棟の脇を通り抜け、建物の裏に出ると、テニスコートほどの広さのスペースがあって、洗濯物を乾かせるようになっていた。旧式の洗濯機が五台ほど置いてあって、少し離れたところにベンチが並べられ、そこに二人の男が座っていた。  二人とも、いわゆるサラリーマンカットの髪型で、ヒゲもきれいに剃っている。一人はライトブルーのハイネックに茶色のズボン。もう一人は有名スポーツメーカーのロゴマークの入ったトレーナーを着ている。  赤松主任の視線は、しばらくの間、左右に動いていた。やがて、ニッコリ微笑《ほほえ》むと、 「よぉ、ナベさん。久しぶり」  なれなれしい口調で呼びかけた。すると、ハイネックを着た方の男が先に顔を上げ、まぶしそうに目を細めて、片手を額の前にかざした。 「俺だよ、俺。この間、公園でサンドウィッチを奢《おご》ったろう?」 「…………」  男は少しずつ腰を上げて行き、 「あの……、どちらさんで?」 「警察の赤松だよ。忘れたのかい? 冷たいなぁ」 「いや、そういうわけじゃ。どうも最近、物忘れするようになって」  相手は困惑した顔で、 「そうですか。お世話になりましたか。それは、どうも……」  と言って、ペコリと頭を下げた。 「それにしても、見違えたぜ、ナベさん。なかなか、カッコイイよ。不精髭《ぶしようひげ》がなくなると、いい男だったんだね」 「そんな……。からかわないで下さいよ」 「いやいや、なかなかのもんだよ。ところで、山手台の方は、いつ引き払ったのさ? 急にいなくなったんで、みんな、心配しているぜ」 「先月の中頃。腰んとこがチクチクし出したんで、尿管結石かも知れないと思ってね。何年かに一度、必ず結石ができる。ひどくなったら、動けなくなるから、早めにセンターに入ろうと思ったんだ」 「へぇー、先月の中頃に?」 「うん。電車に乗る金なんか持っていないしね。線路沿いに歩くにしても、飯の算段もしなきゃならないし、ここへ来るのに、四、五日もかかった」 「へぇー、四、五日もね。で……、尿管結石の方の具合は?」 「それが不思議なことに、ここへ入ったら、痛みがピタリと治まってね。ひょっとしたら、歩いているうちに、落ちてしまったのかも知れないな。尿管結石というのは、動いているうちに、落ちてしまうことがあるんだ」 「そりゃ変な病気だねぇ」  と言うと、しゃがみこんで、 「ところで、今日、ここへ来たのは、ちょっと聞きたいことがあってね。うちのシマで子供がケガしたのは知っているだろう?」 「うん。知っている」 「ボウガンで撃たれたんだけど、ナベさんはボウガンには詳しいというんで、何か知ってんじゃないかと思ってさ」  と言い終える前に、 「俺がやったと言うわけかよ」  渡辺が急に不機嫌になった。これには、赤松主任も慌てたらしく、 「違う違う。ナベさんは事件のあった日は、ここにいたんだろ? もうとっくにわかっている。ただボウガンについて何か知っているんじゃないかと思って」  と、なだめたが、 「そんなことは知らねぇよ。ボウガンなんて見たことも、まぁ……、ここのテレビで見たけど、実物は見たこともない」 「見たことも?」 「ああ、見たこともない。一体、誰が、そんなデタラメ言ってんだよ。俺が宿なしだと思って、バカにしてんのか?」  と、また、目を剥《む》いた。 「そう怒るなよ。何でもかんでも、型通り聞いて回るのが、俺たちの仕事なんだ。まぁ、後で、もし何か思い出すようなことがあったら、教えてくれ」 「知らないものは、思い出しようがねぇな」  渡辺は不貞腐《ふてくさ》れたように言った。 「そりゃそうだ……」  赤松主任は僕を一瞥してから、 「邪魔したね。体、お大事にね」  と言って、赤松主任は腰を上げた。すると、 「あんたら、本当に俺に食い物を奢《おご》ってくれたのか?」  渡辺が僕たちを見上げた。 「ん? ひょっとしたら、人違いかも知れないな。何しろ、近頃、めっきり視力が落ちて……」  赤松主任は掌《てのひら》で片方の目を塞《ふさ》ぎ、まるで視力を確かめるように、遠くを見た。次に、今度は反対側の目を塞ぎ、同じようにして、しばらく遠くの何かを眺めていた。  仕事を急ぐ様子はなく、また、仕事が遅いわけでもない。結果に対して、僕のように一喜一憂することもなく、淡々と一つずつ片づけて行く。それが赤松主任のリズムであり、ペースだった。  この日、帰署するのが大幅に遅れた。それは赤松主任のせいではない。交通事故による道路閉鎖のためだった。あいにく、僕にとっては不案内な土地で、抜け道や近道に疎《うと》く、会議の時刻に間に合わなかった。 [#改ページ]      12  ホームレスの渡辺に対する捜査は終了したものとばかり思っていた。  だが、翌日、赤松主任は再度、自立支援センターに向かった。  それは一つには、私鉄沿線の道路を辿《たど》るためだった。途中、交番に立ち寄り、道路工事や事故などで、交通規制がなされたかどうか確かめる。ホームレスの渡辺の供述に矛盾がないかどうかの裏取りだった。  この作業について、赤松主任は初め、念のためだ、と答えたが、すぐに、気休めだな、と言い直した。  その理由について、 「報告する際には、必ず、細々とした裏取りを要求される。でも、自由|気儘《きまま》なホームレスの行動の裏を取ることは、深海の鰻《うなぎ》の軌跡を追うようなものに等しい」  と言って笑った。  自立支援センターの前まで来て、渡辺の供述に一応、矛盾がないことを確認した。すると、赤松主任は僕に対して、更に五キロ先にある美容理容学校に向かうよう指示した。  服部美容理容専門学校はボランティア活動でもよく知られていた。年末や老人の日に、高齢者の施設や病院などに出かけ、生徒たちが無料で散髪している光景が、時々、テレビで紹介される。  創業者の写真の掲げられている受付で、生徒の瀬沼章太郎を呼び出すと、すぐに、半袖の白衣のユニフォーム姿で階段を駆け下りてきた。  まだ面影に幼さの残る青年だった。 「授業中なのに、申し訳ないね」  と、赤松主任が告げると、 「いえ。いいんです」  瀬沼は白い歯を見せた。石鹸《せつけん》の香りが微《かす》かに匂《にお》った。 「すぐに終わるよ。すまんが、これを見てくれんか? 電話でも話したが、自立支援センターで散髪した人物が、この中にいるかどうか、なんだが……」  赤松主任が差し出したのは四枚の顔写真で、その中の一枚が渡辺一郎の顔写真だ。  瀬沼が写真を受け取り、一枚一枚、トランプのカードを切るように、繰り返し見ていたのだが、 「ちょっと、わかりません。この人のような気もするんだけど……」  と言って、渡辺の写真を示したものの、 「自信がありません。あの日は、十人の散髪をしたんだけど、みんな、似たような髪型で、顔も、同じように日焼けしていたし……。それに、急いで散髪しなければならなかったんで、その……、わかるでしょ?」 「そうか……。写真は去年のものだし、わからんかも知れんなぁ」  赤松主任は頭の後ろに手をやったが、すぐに、 「じゃ、頭の傷とか、顔に傷があった場合は、どう? 理容師さんは覚えているもんかな?」 「そりゃ、頭の傷とか、顔に傷なんかがあれば、覚えていますよ。そこにカミソリを当てるわけには行きませんからね。でも、そんな傷のある人はいなかったような……」  と言って、首を傾《かし》げた。 「ほくろは、どう?」 「ほくろ……」 「眉毛の古傷は? そこだけ眉毛が切れている」  と言い終わらないうちに、 「いました、いました」  瀬沼が目を大きく開いた。そして、もう一度、写真を確かめ始めると、渡辺の顔写真を選んで、鼻を擦《こす》りつけるほど顔に近づけて見ていたが、 「この人です。あれは何かにぶつけて切ったんでしょうね。縫った痕《あと》がありました。それに、二、三本、白髪の眉毛がありました」  と言って、自分の眉のその部分を指先でなぞった。  僕は昨日会った渡辺の顔を思い浮かべた。確かに、右の眉毛が真ん中で切れかかっていたし、白い毛も生えていた。 「ありがとう。助かったよ」  赤松主任はにっこり微笑《ほほえ》んだ。  自立支援センターまで足を運んで、本人確認するまでもなかった。瀬沼の一言で、渡辺は散髪した十人の中の一人ということになり、アリバイが成立する。  拍子抜けするほど、あっさりと仕事は片づいた。だが、それは僕の仕事でなく、赤松主任の仕事だった。  もし、僕であれば、授業中の瀬沼を自立支援センターまで呼び出し、渡辺と対面させること以外に、本人確認の方法は思いつかない。  手際のよい仕事の裏に、鋭い洞察力と優れた記憶力があった。そして、洗練された鮮やかな技ほど、傍目《はため》には、そうは見えず、むしろ、平凡に見えてしまう、ということも、この時、知った。  裏取りの作業に、結局、半日を要した。  そして、帰途についたのだが、この時も渋滞に巻き込まれてしまい、城西署管内に戻ったのは、午後遅くになってからだった。  ずっと腕組みしていた赤松主任が、城西署管内に入ると、腕時計を見て、突然、あるパチンコ店の駐車場に車を入れるように指示した。  できるだけ目立たない奥のスペースに車を置き、駐車場側の出入口から店内に入った。赤松主任はフロアのマネージャーに対して、おっす、と片手を上げたが、台には座らず、そのまま反対側の出入口に抜けた。  そこから、一方通行の道路をしばらく歩き、�麻雀天狗《マージヤンてんぐ》�という看板のところで足を止めたが、そこも通り過ぎて、�どすこいラーメン�の手前を左に曲がった。  人が一人、やっと通れる細い路地。古いアパートの一階から、水を流す音が聞こえ、建物の間を抜けてくる風からは微かに線香の臭《にお》いがした。  やがて、赤松主任がブロック塀の途切れた場所で足を止めた。そこは�麻雀天狗�という店の勝手口だった。  出入口は二枚引き戸で、片側が三十センチほど開けたままになっている。履物の脱ぎ散らかしたたたき[#「たたき」に傍点]に、大きな三毛猫が一匹、うずくまっていた。  赤松主任は戸の隙間《すきま》から中を覗《のぞ》き込んで、 「こんちは。誰か、いるかい?」  と声をかけた。すると、パタパタパタと、スリッパの音がして、五十前後の女が現れた。 「あら、赤松さん。お久しぶり」  そばかすだらけの顔が笑った。 「繁さん、店の方?」 「そうなの。今、絨毯《じゆうたん》の見積もりに立ち会ってる」 「絨毯?」 「古くなったんで、洗濯屋へ出すより、この際、買い替えるかどうか、その相談」 「へぇ。商売繁盛で何よりだ」 「冗談じゃないわよ。客が入らないから、雰囲気を変えて、何とかしようかということ。とにかく、お上がんなさい」  女が茶箪笥《ちやだんす》の陰に消え、間もなく、茶碗の触れ合う音がした。赤松主任は引き戸を開け、中に入り、サンダルを脇に寄せてから、靴を脱いだ。  そこは台所兼食堂だった。六人がけのテーブルの上に、卵の殻と焼き海苔《のり》の空袋が片づけられずに置いてある。  路地の方から、子供を叱《しか》りつける母親の声がした。 「見積もりは長くかかりそうかね?」  赤松主任が尋ねた。 「そろそろ終わる頃だから、呼んでくるわ」 「いやいや、こっちはいいんだ。急ぎじゃない。向こうが済んでからでいいよ」 「いいのよ。話が長引けば、どうせ買わされることになるんだから。赤松さんに来てもらって、ちょうどよかったわ。セールスマンに出直してもらう口実ができた」  女は手早く茶を入れると、 「ちょっと待ってね」  と、家の奥に消えた。 「店とつながっているんですか?」  僕が尋ねると、 「うん。二階の中廊下の突き当たりが、秘密の通路になっていてね。麻雀店の事務所とつながっている。警察の手入れがあった時、こっちに逃げ出せるようになっているんだ」 「警察の……手入れ?」 「そう。時々、賭麻雀《かけマージヤン》なんかを取り締まるお巡りさんが踏み込むそうだ。もちろん、よその署の連中だけどね。大概が余罪で、まぁ、検挙率稼ぎの帳尻合《ちようじりあ》わせだな」 「…………」 「繁さんも、それがわかっているから、常連客は逃がしちまう。パクられるのは、すぐに釈放される一見《いちげん》の客だけだ。それでも、一件は一件。数字は数字だ。霞《かすみ》が関《せき》のお偉方が、やれ検挙率だ、やれ検挙件数だ、と、鼻の穴を膨らますたびに、しがない麻雀屋のオヤジが冷や汗をかく……」  赤松主任は茶碗に手を伸ばしたが、 「何だ、お茶菓子が出てねぇな……」  とつぶやくと、勝手に茶箪笥の扉を開けて、中から輪島塗りの器を取り出した。  そして、煎餅《せんべい》を齧《かじ》っていると、二階から下りてくる足音がした。 「邪魔しているよ」  赤松主任が振り向きもせずに言った。 「よぉ、久しぶり」  六十前後の口髭《くちひげ》を生やした男が現れて、 「いゃー、参った参った」  と、首の後ろを叩《たた》いた。  男は笠井繁雄という麻雀店のオーナーだった。 「どうしたの? 思ったほど値引きしてくれないの?」 「いやいや、値引きするから高級品を買え、の一点張りだ。うちは会員制の高級麻雀クラブじゃなく、庶民的な雀荘なんだから、と言うのに、しつこいの何のって。驚いたよ。あれじゃ、まるで押し売りだ」  笠井は腰を下ろし、煙草を取り出したが、すぐに、 「そうそう、ちょっと三階に上がってくれないかな。燻製《くんせい》を作ろうと思って、ベランダに板っ切れを組み立てたんだ。ちょっと見てくれよ」 「燻製? 一体、何の燻製を作るんだ?」 「この間、お客さんに、生サケの土産《みやげ》をもらってね。イタズラしてみようかと思って、材料買ってきた」 「そうか。よしよし、見てやろう」  赤松主任が立ち上がったので、僕も腰を浮かすと、君はここにいろ、という風に、掌を向けられた。 「生サケって、どこで捕れたサケ?」 「本人はカナダだと言ってたけど、わかんない。見栄っぱりだからな。魚金[#「魚金」に傍点]あたりで買ってきたのかも知れない」 「いくら何でも、魚金ということはないだろう。すぐバレちまう。魚河岸あたりじゃないの?」  そんな会話を交わしながら、二人は階段を上って行った。残された僕は一人になった。特にすることもなく、テーブルの上の落ちている茶の葉が目についたので、指で摘んで、灰皿の上に捨てた。  パタパタパタというスリッパの音がしたので、僕は手を引っ込めた。 「あら……、うちの人は?」  先程の女が現れた。 「燻製の仕掛けを見に、赤松主任と一緒に上に」  と答えると、 「そう……。あんた……、八木沢さんの代わり?」  女は休暇中の八木沢刑事のことも知っていた。 「いいえ。見習いです」  と言って、僕は椅子から立って、所属階級氏名を名乗って、一礼した。 「これはこれは、ご丁寧に、どうも……」  女は深々と頭を下げてから、 「リンゴは好き?」  と言いながら、居間の方に行くと、両手にリンゴを持って、戻ってきた。 「はい、まぁ……」  という僕の返事なんか、一向に気にする様子はなく、流しの横から包丁を抜き出して、早速、リンゴの皮むきを始めた。 「赤松さんはね。あんなだけど、見かけによらず、なかなかの情熱家なのよ。奥さんは成城の旧家のお嬢さん。どういう事情で知り合ったのか教えてくれないんだけど、大恋愛の末に結ばれたの。……知ってた?」 「いいえ。初めて聞きました」 「慣れない安アパート暮らしで、奥さんは相当苦労したらしいわ。暖房がきかないから、カゼをひいて、肺炎を起こして病院に担ぎこまれたこともあるんですって。喘息持《ぜんそくも》ちになったのは俺のせいだ、なんて、今でも酔っぱらうと涙ぐむことがあるのよ」  女は手を動かしながら言った。 「それ以来、仕事が終わったら、すぐに家に戻るようになったらしいわ。お酒の付き合いも控えるようにしたりして。あまり出世できなかったのは、そのせいかもね」 「…………」 「心が優しいのよ。泥棒だって、ただ捕まえるだけじゃない。家族の行く末まで心配したりして。なかなか、できないことよ。泥棒の家族なんか世話をしても、手柄にはならないもの。そういうことも、出世できなかった理由かも知れないわね」  包丁とリンゴの周りで、太く短い指がせわしなく動いている。みるみるうちに皮は剥《は》がれ、やがて、一つのリンゴは八つに切られ、皿にのせられた。そして、どうぞ、と差し出した時、階段の上の方から、 「仕掛けは悪くないけど、あんなとこで、木屑《きくず》をくすぶらせれば、煙が上がる。火事と間違えられやしないかえ?」  赤松主任の声がした。 「貼り紙しても、ダメかなぁ」  と、笠井。 「煙を見て火事だと思った人間に、それだけの余裕があるかどうか……」 「しかし、ベランダ以外に場所がないんだよな」  二人はテーブルの椅子に座った。それと入れ代わるように、 「リンゴ、足りないわね」  女が居間の方に向かった。  笠井は首をひねりながら煙草をくわえ、一服した。そして、初めて気づいたように、 「ところで……、今日は何なの?」  と、不思議そうな目で僕たちを見た。 「そうそう。燻製に夢中になって、話すのを忘れた。実は今、ボウガン事件を追っているんだが、これが箸《はし》にも棒にもかからない。ひょっとしたら、繁さんの耳に何か入っているんじゃないかと思ってさ。当てにして来た、というわけだ」 「ボウガン事件? 赤松さん、いつから強行になったのさ?」 「今は、臨時雇いの身だ。専従班に入れられてしまったというわけよ」 「さすがだな。今度の署長は人を見る目がある」 「人聞きの悪いことを言うなよ。それじゃ、まるで盗犯は強行犯より、格下みたいに聞こえるぞ」 「いやいや、そういう意味じゃないよ。上だろうが下だろうが、選ばれるというのは、腕を認められたということだ。俺はそこのところを言っている」 「ま、褒《ほ》め言葉と受け取っておこう。ところで、どうなの? ボウガン事件に関して、何か小耳に挟んでいない」 「何か?」  笠井は僕の方をチラリと見た。すると、赤松主任も僕を一瞥《いちべつ》して、 「ああ。紹介が遅れたが、こっちは見習いさんだ。安心していい」  と言うと、すぐに、 「そうだなぁ……。紺のレンタカーなんかを当たってみたら、案外、面白いかも知れない」  笠井は煙草の煙に目をしょぼつかせながら答えた。 「ほう、車種は?」 「ワゴン車だ」 「紺色ワゴンのレンタカーか……。ひょっとして、事件に使われた車ということ?」 「…………」  突然、笠井が口をつぐんだ。顔を上げると、メモしている僕の手元を見ている。  次の瞬間、赤松主任の手が伸びてきて、僕はノートを取り上げられた。そして、メモした頁をビリビリと破られ、丸められ、くず箱の中に落とされた。  なぜ、メモを取り上げられ、破って捨てられるのか、僕にはわからなかった。 「えーと、どこまで聞いたっけ?」  赤松主任が言った。  後で、教わったことだが、情報提供者というのは、録音されたり、メモされたりすることを嫌がるのだそうだ。情報は口外することはしない、という暗黙の約束事があるからこそ、耳寄りな情報を漏らしてくれるものらしい。 「普通、バレエスクールの前に車が止まれば、子供が降りるのが当たり前だろ?」  笠井が言った。 「あの前に止まるのは、全部が全部、送迎のための車だからね。なのに、一台だけ、誰も乗り降りしなかった車があったらしい」 「それが紺色のワゴン車かい?」 「うん。そうらしい」 「なるほど。そりゃ妙な車だが、しかし……、それにしてもだ。乗り降りしない、なんて、何でわかるのさ?」 「そりゃ、見ていた男がいたからだよ」 「見ていた男?」 「うん。バレエスクールの向かいに、洋菓子屋があるだろ? あそこの二階に�山小屋�っていう喫茶店がある。日曜日の昼過ぎ、そこから道路を見下ろしていたのがいるんだと」 「何者だい?」 「さぁ、雀卓を囲んだ時、世間話を小耳に挟んだだけでね。その男の素性までは知らない……ということにしてくれ」 「…………」 「その男というのは、女好きでね。これが何というかなぁ。上品な中年女が好きなんだ。楚々《そそ》とした淑女というやつに目がない。それで、時々、喫茶店に出かけちゃ、目の保養をしているんだと」  話しぶりから、その男が麻雀店の常連客であることがわかる。だが、赤松主任はそのことには全く触れず、 「乗っていた人間の人相なんかは、わかんないかなぁ」 「窓にフィルムが張ってあって、中は見えなかったそうだ」 「ナンバーは?」 「そんなのわかるはずがない」 「レンタカーの�わ�というのは、確認しているんだろう?」 「そりゃ、その時、『レンタカーか』と思ったから、ナンバーの�わ�が思い出せるんだ。数字なんか、覚えていられるわけがないだろ?」 「そうか……」 「そうさ。そもそも、ヤツは女の品定めをしていたんだぜ。車の見物に出かけたわけじゃない」 「もっともだ」  と、うなずいて、 「他に、気になる噂《うわさ》は?」 「今のところは、そんなところだなぁ」 「わかった。また、何か耳寄りな話を仕込んだら、電話をくれ。家の方でいいから」 「いいよ。また、留守電にでも吹き込んでおく」 「頼む。ところで、新島近くまで行ったんだって?」  赤松主任は釣り竿《ざお》を引く仕草をした。すると、とたんに渋い顔をして、 「それが、散々さ。前の日に、クサヤのいいのが入ったってんで、焼酎《しようちゆう》パーティになっちまってさぁ、夜中の二時までドンチャン騒ぎだ」 「おやおや。それで、どうなったい?」 「起こされたのが五時だから、みんなは半分、酔っぱらっているんだ。酒の勢いで元気がよかったのは、小一時間だけ。外海へ出たら、波が高くて、一気に船酔いだ」 「みんな仲良く船縁で、こませ撒《ま》き?」 「その通り、胃の中のもんを全部、吐き出したけど、昼近くまで半病人だった」 「ということは、昼過ぎには回復したわけだな?」 「ヤマちゃんだけが午後も、ウンウンうなっていたけど、二時頃には竿を握ったな。結構、大漁でね。凄《すご》かったんだ。帰り船じゃ、例によって那須《なす》さんの包丁|捌《さば》きで、刺し身料理。その頃は全員元気で、今度は純米酒パーティだ。釣った魚は文字通り、肴《さかな》にしちまったよ。お蔭《かげ》で、お土産なし」 「相変わらず、やることがすさまじいね。お土産なしじゃ、カミさんに気合を入れられたな?」 「おっしゃる通り。えらい目に遭った」  と言って、二人が声を上げて笑うと、 「私がどうしたって?」  居間の方から、女がリンゴを抱えて現れた。 [#改ページ]      13  午後六時、僕たちは本署に戻った。刑事部屋に立ち寄って一服し、それから別室に向かった。  和歌山への出張組を除いた全員が、すでにメモ帳やノートを開き、上席の主《ぬし》が現れるのを待っていた。  やがて、ドアが開き、左脇に書類を抱えた荒木が現れ、後ろ手にドアを閉めた。 「揃《そろ》っているな……」  とつぶやきながら、せかせかと足を進め、自席の机の上に、書類の束を置いた。そして、どっかと腰を下ろして、 「えー、課長は本日、警察医制度のシンポジウムの打合せで、方面本部の方に出かけてる。前回と同様に、ということなので、えーと、公安の高畑主任から、よろしく」  と目配せした。高畑は、はい、と答えてから、手元のノートに目を落とし、 「白のライトバンの持ち主は、元日本共和党杉並支部の志賀義信に間違いありません。東亜銀行の騒動以来、志賀は日本共和党の政治路線に疑問を感じ、以後、クリーンアースという市民団体で活動していましたが、そこでも、運動方針をめぐって指導部と対立し、脱会しています。それ以降、個人単位で、あちこちの市民運動に参加していたようですが、最近では、パチンコ店へ行く方が多いようですね」  と言って、肩をすくめると、聞いていた捜査員たちから笑い声が起きた。  笑わなかったのは、僕たちだけだった。昨日の会議に出ていないので、まるでわからない。  高畑の担当は、極楽寺境内でボウガンの射的訓練をしていた若い男に関してだった。使用していたと思われる車両のナンバーは確認されておらず、極楽寺周辺の聞き込みを継続するということだったはずだ。  今日の高畑の様子からすると、どうやら、聞き込みの結果、志賀義信なる人物が浮上したので、今日、その身辺捜査を実施した、ということらしい。 「それで、せがれの方は、どうなの?」  荒木が尋ねた。この質問の意味も、僕にはわからない。 「ずっと京都です。博士論文で忙しくて、ここ半年、帰宅していないそうです」 「じゃ、やはり、ナンバーの見間違いだろうなぁ。そもそも、白の乗用車と、赤のストライプ入りのライトバンじゃ違いすぎる」  と首を振り、奥の席に視線を移し、 「やはり、工藤主任のお見立て通りかも知れんなぁ」  と声をかけたが、工藤は眉を上下させただけで、返事をしなかった。荒木は書類の上に目を戻して、 「となると、振り出しに戻った、というわけか。じゃ、高畑主任、もう一度、白色の普通乗用車に絞って、極楽寺周辺の聞き込みを頼むよ」 「了解。すると、三鷹の女は打ち切り、ということで、よろしいわけですね?」 「その通り。今日、病院の事務局から電話があって、仮退院、外出などは一切していない旨の確認が取れた。よって、三鷹の女はリストから削除する」 「了解」 「えーと、次は、工藤主任」  と、改めて指名すると、 「ほいきた」  と返事して、 「稲葉会関島一家の若《わか》い者頭《もんがしら》、笹川伊佐雄については、明日の午後一時、署の方に出頭することになりました。組長の顔も立てて、そうすることに決めました。こっちも、一両日中に、ケリがつくと思います」 「よろしう、おたの申します」  荒木が珍しく、おどけて見せた。工藤の説明に関しては、昨日の説明を聞かなくても理解できた。 「続いて、寿町の付きまとい男の担当は上条主任だけど、課長の決裁が済み次第、逮捕状請求ということになる。他の班との兼ね合いを考慮しなければならないが、一週間以内に執行できると思う。続いて……、次は、昨日、報告のなかった、えー」  荒木は長谷川と赤松主任を見比べて、 「まず、長谷川係長さん。お願いいたします」  と、目礼した。 「かしこまりました」  長谷川は咳払《せきばら》いして、 「大木宏明を追って船橋まで行って参りました。すでに、ご存知の方もおられるでしょうけど、見事に飛ばれてしまいました。状況から見て、ガールフレンドも一緒と思われます。連中は相当、慌てていたらしく、ベランダの洗濯物はそのまま。台所のテーブルのカップ麺《めん》には……、あれは、おそらくお湯を注いだ直後だったんでしょうね。蓋抑《ふたおさ》えの漫画本がのせたままになっていました。同行した見習生の須藤君によると、麺のふやけた状態から見て、お湯を注いでから一昼夜は経過しているとのことです。須藤君は大学時代に、カップ麺�聞き味�コンテストにおいて、準優勝をするほどの通《つう》ということですからね。この鑑定結果は信頼できると思います」  と言って、間を取った。追従笑いをせざるを得なかった。 「部屋の蛍光灯が付けっ放しでしたので、おそらく、私たちが船橋に向けて出発する前夜に夜逃げしたんでしょう。取り逃がしたのは残念ですが、当方は二段、三段構えで対処しておりますので、明日にも逃走先が判明すると思われます。次回は間違いなく捕捉いたしますので、ご安心下さい」  長谷川はサラリと言ってのけて、ノートの頁を繰った。 「次に、敬愛学園の件ですが、うちの係の田淵主任に捜査してもらったところ、松島デパートの七階と八階の間の階段で煙草を吸っていたのは、三年C組の阿部尚之、十七歳、ヤサは緑町三の三十二の五。それに、三年F組の宇佐美章、同じく十七歳、万人町六の八の二十一。以上の二人であることが判明しました。両者とも札付きで、いわゆるシンナーボケでもあります。目下、二月二十八日の行動把握について、方法を検討中です」 「シンナーで引っくくれないですか?」  荒木が尋ねた。 「できないことはないですけどね。摘発する以上は、少年事案の場合、その後の措置も伴うわけでして、まぁ、あの二人の場合は、何と言うか……、保護も、善導も不可能です。現時点では、ボウガン事件との関《かか》わり合いを確認するのを優先すべき、というのが、うちの課長の考えでもあるわけです」 「そうですか。もちろん、我々としては、ボウガン事件の本ボシを追っているわけですから……。じゃ、お任せいたします」  荒木は目礼して、 「えーと、次は、赤松主任」  ようやく、赤松主任の番になった。  赤松主任はホームレスの渡辺一郎について多くの時間を費やして説明した。リストから削除される以上、そうする必要があったのだろう。しかし、喫茶店�山小屋�のことに関しては一切、説明しなかった。  僕には、それが不思議だった。不審な紺色のワゴン車の件は、ホームレスのアリバイ以上に、重大な手がかりではないのか? 「すると、ホームレスの件はほとんど、ガセネタだったわけだ」  荒木は渋い顔を左右に振って、 「よりによって警察OBが、ガセネタかますとはなぁ。全く、恐れ入谷の……」  と言いかけて、荒木は口をつぐんだ。ドアがノックされ、勢いよく開いたからだ。 「おおっ、帰ったのかっ」  荒木が言った。和歌山に派遣された高津主任と小田島刑事だった。自然に拍手がわき起こる。 「どうも、皆さん。どうも……」  二人はペコペコと頭を下げながら自席に向かった。手には紙袋をさげている。 「ずいぶん、早かったな。今夜の十一時すぎになると思っていた」  と、荒木。 「思いのほか、仕事がはかどりまして。それに、交通機関の乗り継ぎも、うまい具合に行きまして、こんな時間になりました」 「結構ケだらけ。じゃ……、どうする? 今、ちょうど、各班の発表が終わったところなんだが……」 「簡単ですから、報告します」  と言うと、バッグを開け、中を探って、ノートを取り出した。 「えー、タジマ・バレエスクールの元送迎バス運転手、保坂富雄、四十三歳の件ですが、実家は和歌山市の五キロほど南にある新宮市という、まぁ、リゾート地にあります。彼は現在、失業状態のため、実家の離れ、と言っても、納屋の一部を長男の勉強部屋に改造したという六畳一間ですが、そこに寝起きしているとのことです。問題の二月二十八日の行動についてですが、本人から直接、事情聴取いたしました」 「…………」 「結論から申し上げると、事件当日、保坂富雄は新宮市内のバス会社でアルバイトをしています。これについては、バス会社の担当者に確認いたしました。まぁ、アリバイは一応、成立したわけですけど、動機は十分、あるわけですからね。バレエスクールへの思いを聞いてみました。すると、よほど悔しかったんでしょう。『恨みは一生、忘れない。何かの時に、必ず仕返ししてやる』なんて言って、握り拳なんかを、こう」  高津は両手を握って見せた。 「何かの時に、だって?」  荒木が眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。 「そうなんですよ。これは言葉通りに解釈すると、まだ仕返しはしていない、ということになるわけです。つまり、二月二十八日の件は関係ない、と言っているようなものですけどね。それでも一応、聞いてみたんです。ボウガン事件があったんだから、もう恨みを晴らしたようなもんじゃない? ってね。すると、怒り出しましてね。『自分はバレエスクールの役員に仕返しをしたいんだ。子供さんがケガをしたことを喜んでいると思っているのか』と言って、私たちを睨《にら》むんです」 「確かに、筋は通っている……」  荒木が腕組みをした。  他の捜査員たちも一様に伏目がちになっている。口にこそ出さなかったが、誰もが、十件の容疑者たちのうち、保坂富雄が最もクロに近いと考えていたからだと思う。 「まぁ、まだ結論を急ぐ段階ではないけどね。ともかく、リストにあがっている全員を一通りペロンと舐《な》めてみて……」  と言いかけた時、電話が鳴った。  帰ったばかりの小田島が受話器を取る。それを横目に見ながら、 「次の段階に進むのは、それからの話だ。これまでの例からして……」  と言いかけた時、 「ええっ!」  小田島が大声を上げた。 「どうしたんだ?」  荒木がいぶかしそうな目を向けたが、小田島は答えない。 「どうしたんだっ」  荒木が声を荒らげた。すると、ようやく、受話器を手で押さえ、 「豊島署管内で、外国人同士の抗争があって、何人かの女性がボウガンで撃たれて殺されたそうです」  と早口で言って、再び、受話器を耳に当てた。  一気に緊張が走った。無線機の側に駆け寄った山下刑事以外は、ピクリとも動かない。僕は小田島の言葉に耳を澄ました。  しかし、小田島は、はいはい、と返事を繰り返すだけだった。このような場合、気のきいた刑事であれば、周囲に知らせるために、その都度、要点を声に出して繰り返す。しかし、小田島には、それだけの余裕がなかった。高津が、俺が代わるから、と言わんばかりに手を差し出したのだが、小田島は受話器を渡すタイミングさえ見失っていた。  高津は差し出した手の甲で、早くよこせ、と言わんばかりに机を叩《たた》いた。それでも、小田島は受話器を耳に当て、メモを続けている。そうするうち、他の二台の電話がほぼ同時に鳴った。荒木と高津が、それぞれの受話器を取った。 「無線、流しましょうか?」  それまで、イヤホーンを耳に当て、警察無線の周波数を探っていた山下が言った。しかし、荒木は通話中だった。  いいから流せよ、と誰かが言った。山下はイヤホーンのジャックを抜いた。  無線交信も輻輳《ふくそう》していた。その交信を制するように、一斉指令の発信音が数秒間、流れた。間もなく、通信指令本部は緊急配備区域の拡大を指令した。  それは犯人の手がかりがない、ということ。そして、犯行後、かなりの時間が経過していることを物語っている。  しばらくすると、上条主任が立ち上がった。ホワイトボードの前に立ち、前日の朝から書かれたままになっている専従捜査員の名前をイレーザーで丁寧に消して行った。  そして、新しいペンを手に取ると、ボードの右端に、豊島署管内外国人抗争事件、と書き、その左側に広く間隔を開けて、頭書き、つまり、発生の日時、場所、被害者、状況、と書き並べた。  事件概要は無線で刻々と明らかにされて行く。初動捜査時の現実問題は、初期段階の誤報、虚報をいかに見抜くか、ということになる。この時も、全《すべ》ての空白が埋められたのは、結局、一時間以上が経過してからのことで、しかも、第一報とは、かけ離れた内容だった。      * 豊島署管内 ボウガン狙撃《そげき》事件  発生日時   五日午後六時五十分頃。  発生場所   南池袋二丁目一番先 豊島通り歩道上。  被害者   大田区田園調布六丁目五番七号   主婦 鳩山寛子 五十三歳。   (夫は洋菓子店経営)   意識不明の重体。  状 況 [#2字下げ] 豊島ビル内にある画廊�四季�において行われたオープニングパーティに出席するため、知人らと同ビル入口に向かって徒歩で進行中、車道方向から飛来してきたボウガンの矢が被害者の頸部《けいぶ》を貫通し、負傷せしめたもの。  犯 人 [#2字下げ] 不明。外国人とは断定できず。 [#2字下げ] ただし、豊島通りを走行中のトラックから矢が発射されたという未確認情報あり。    ※ パーティは五反田のカルチャーセンターの青天会(陶芸、木彫り、ちぎり絵、アートフラワー、刺繍《ししゆう》の各講座)の発表会で毎年、実施されている模様。被害者は陶芸教室の生徒。      *  無線は、途中から、同じ情報を何度も繰り返すだけだった。  それは確かに、現場の警官たちを叱咤《しつた》激励する口調なのだが、明らかに声の張りを失っていた。統計的に見て、犯人検挙率は時間の経過に反比例する。  よほどのことがない限り、すぐには捕まえられない……。  おそらく、誰もが心の中では、そう考えていたに違いない。 「もういい。ボリュームを下げてくれ」  荒木が言った。 「たぶん、これから、課長代理と一緒に、豊島署に向かうことになると思う。その呼び出しがかかる前に、みんなの意見を聞いておきたい。第一に、豊島署の事件と、うちの署の事件との関連性。第二に、事件の背景。第三に、犯人像。まぁ、それ以外のことでも構わん。これまで捜査してきて、漠然としたことでもいいよ。気がついたことを話してもらえると、ありがたいんだが……」  と言って、専従員を見渡したが、手を上げる者はいなかった。 「長谷川係長さん、どう思います?」  と、指名すると、 「まぁ、ボウガンが使われているわけですからね。関連性がある、と考えざるを得ないと思いますよ。事件の背景については、正直なところ、想像もつきませんけど、同一犯人と考えるしか……。いや、むしろ別人と考えるのは無理があるような気がします」 「では、五歳の子供と、五十三歳の主婦。被害者の年齢に違いがあるんですけど、どう思います?」 「今の時点では何とも言えませんね。ただ、犯罪少年というのは大胆のようで、結構、臆病でしてね。人通りの多い場所での犯行は、クスリでラリっていない限り、まず避けるはずです。ラリっていたとすれば、ボウガンの狙《ねら》いが定まらないでしょうし……」 「つまり、ホシは少年ではないと?」 「断定はできませんけどね。少年事件を扱ってきた者には、そう思えるんです」 「なるほど……」  荒木の視線が動いて、 「工藤主任、どうだい? マルB担当としての見方でなくてもいいんだが?」  と尋ねると、工藤はボードを睨《にら》んで、 「まぁ……、女の子と、主婦との関連がわかれば、事件の背景もホシも見えてくるような気がするんだが、これだけの情報じゃ、ヒントにもならない。今の段階じゃ何とも言えないよ」 「わかっている。それを承知の上で聞いているんだ。後になって、あの時、こう言っただろう? なんて蒸し返さないからさ。安心して話してくれよ」 「そう言われてもな。今、筋読みするのは、ダービーの予想をするようなもんだ」 「当たらなくても、予想屋の責任じゃないよ。客が馬券を買うのは、自分が判断してのことだ」 「ま、そりゃそうだが……」 「凶器については、どう? ボウガンは必然性のある凶器なんだろうか?」 「もし、必然性があるとしたら、消音だろうね。でも、閑静な住宅街ならともかく、人目の多い大通りでの犯行なんだからね。音がしようがしまいが、関係ないような気がするな」  工藤は首をひねって、 「それ以外には、矢だろうね。矢を残すことは、重要証拠を残すことになるから、不利になると思うんだ。とてもプロのやり口には思えない。でも、何となく、どことなく、プロ的なんだよな。言うなれば、プロの臭《にお》いがするんだ。根拠はないが……」 「…………」  荒木は何も言わずに、視線を横に移して、 「赤松主任、どう思う?」 「どうって、凶器について?」  それまで、うつむいていた赤松主任が顔を上げた。 「いや、凶器に限らない。事件に関することなら、何でも構わん」 「何でも、と言われてもね……」  赤松主任は深いため息をついた。その時、電話が鳴った。受話器を取った高津が、わかりました、と答え、 「代理がお呼びです」  と、荒木に言った。 「すまんが、みんなで話し合って、今夜は誰か一人、ここに泊まってくれ。関係各方面から問い合わせがあるはずだ。誰もいないんじゃ、格好がつかんからな。俺も今日は署に泊まる」  荒木はカバンに書類を入れ、小走りに部屋を後にした。 「全く、ホシは一体、何者なのかねぇ」  工藤が腕を組んだ。 「私には、少なくとも日本人じゃないような気がします」  公安係の高畑が言った。 「日本人じゃない?」  工藤が眉間に皺を寄せる。 「やり口がね。工藤主任のおっしゃるプロの臭い、というのは、それじゃないでしょうか? 農耕民族の場合、動機が怨恨《えんこん》であれ、痴情であれ、生活苦であれ、忍耐を重ねた末に、やむにやまれず犯行に及ぶ、といった浪花節《なにわぶし》的な側面がありますよ。ところが、今度の事件は、そういう雰囲気が微塵《みじん》も感じられません。微塵もね」 「なるほど。加えて、得物《えもの》もボウガンだしね。さすがは公安のダンナだ。これは案外、図星かも知れねぇぞ」  と、さも関心したように顎《あご》を引いた。すると、 「そりゃ長《ちよう》さん、差別というものだよ。ここだからいいけど、ブン屋の前なんかで口を滑らせたら、えらいことになるぜ」  長谷川が首を横に振った。 「確かに、高畑君の言うこともわからんではない。でも、今の日本に農耕民族といえる日本人がどれだけいる? まぁ、せいぜい団塊《だんかい》の世代までだよ。今の少年を取り調べていて感じることは、何を考えているかわからないということだ。彼らがもし日本語を話さなかったら、それこそ異民族、いや……、異星人としか思えないだろう。それに比べれば、日本にいる外国人は日本を知っているよ。我々以上に日本文化を理解している。そういう意味では、彼らの方が農耕民族的と言えなくもない」 「…………」  少年係長である長谷川の意見に、誰もが口をつぐんだ。 「早瀬君はどう思う?」  突然、高津が尋ねた。いつの間にか、二十二、三歳の男が部屋の隅に座っている。  早瀬?  僕が初めて耳にする名だった。ノートをめくって、人名を記した頁を開いたが、やはり、その名は見当たらない。どうやら、欠員の一時的補充員のようだった。僕はノートの余白に、その名を書き、その横に簡単な似顔絵を描いた。切羽詰まって思いついた方法だが、このやり方は今でも続いている。人が多くて、しかも、たまにしか会わない場合、名前と顔が覚えきれない。 「言えよ。遠慮は無用だ」  高津が急《せ》かす。 「早瀬君は、この中で一番、若い。少年に最も近い世代でもある。事件を離れてでも構わんから、意見を聞かせてくれないか?」 「そういうことなら、一言言わせてもらいますけど……」  早瀬は言った。 「若いと言っても、私は二十三ですよ。十九の少年から見れば、もうかなりの年寄りなんです」  と言うと、何人かが笑った。冗談だと思ったのだろう。  早瀬はムッとした顔をして、 「みなさん、お忘れになったんですか?」  と、続けた。 「少年期における一歳の年齢差というものは、われわれの感覚で、三、四歳くらいの差があるんですよ。たぶん、成長期だからでしょうね。年々、身長が伸びて行くように、心も大きく変化して行くからだと思います。成長が止まってしまえば、二十五歳も三十五歳も、大して代わり映えがしませんけどね」 「…………」 「そんなわけですから、私の言うことが正しいとは限りませんけど、後輩たちの話を聞く限り、どうやら、こういうことらしいです。先程、長谷川係長は、近頃の少年は何を考えているかわからない、とおっしゃいましたが、わかるはずがありませんよ。なぜなら、近頃の少年は何も考えていないからです。覆面もせずに強盗に入れば、いずれは捕まってしまうのに、と、皆さんは不思議に思うでしょうけど、彼らの頭にあるのは、ゲームセンターで遊ぶ金のことだけでしてね。強盗している時は、捕まることなんて、眼中にないんです」 「眼中にない、だと?」  高津が繰り返した。 「そうです。眼中にないんですよ。取り敢《あ》えず、目先の楽しみしか、眼中にないんです。彼らを理解する上で、大人の常識や分別を求めるなんて、おしめを使っている赤ん坊に、トイレを使え、と言うようなものです」 「なるほど……。それなら、わかりやすい。でも、すると、どうなんだろう? そんな風に刹那《せつな》主義的な生き方をしている少年たちがホシであれば、犯行は当然、杜撰《ずさん》になるし、ボロが出るような気がする。だが、結果論かも知れんが、ボロを出していない。この点、どう思う?」 「それは……」  早瀬が言葉に詰まった。  犯人が少年だろうが成人だろうが、ボロは出しているかも知れない。われわれ警察が、それに気づかないだけのことではないのか……。  僕はそう言いたかったが、よそ者で、かつ、研修生の立場では、発言することは憚《はばか》られた。決して、そんなことはないのだが、この時は、自分で勝手にそう決めつけていた。 「赤松主任、どう思う?」  高津が尋ねた。 「どうして、ボロを出してない、なんて決めつけるんだ? ホシは大きなボロを出しているかも知れんぞ。警察がそれに気がつかないだけのことかも知れんじゃないか」  赤松主任は、僕の考えていることと全く同じことを言った。 「ボロというのは、ホシが挙がってから、気づくことが多い。さっき、予想屋のことが話題になったが、ちょうど、競馬の結果が出てから、勝因敗因を並べ立てるようなものでね。元々、勝った馬にも負ける要素はあったし、負けた馬にも勝つ要素はあるんだ。結果に合わせて、都合のいい要素を拾い上げて、勝因敗因を並べ立て、わかったつもりになっているだけのことだ」 「なるほど……」  高津はうなずき、時計を見た。 「ここら辺で、取り敢えず、一旦《いつたん》、解散しますが、帰宅せずに、しばらく待機して下さい。豊島署の状況をみて、追って連絡します。……何か、ご質問は?」  誰も手を上げない。それを確かめて、 「では、一旦、解散します」  高津が目礼し、専従員たちは一斉に立ち上がった。  赤松主任と共に刑事部屋に戻ると、係長が僕を呼んだ。  デスクの前に立つと、 「明日、君は週休日だから、出勤しないように」  と言うと、赤松主任に対しても、 「そういうことだから、よろしく」  と告げた。僕は首を横に振って、 「いいえ。出勤します。記録上の扱いは、週休ということで結構ですので」 「とんでもない。だめだめ……」  係長も首を振った。 「君はうちの署の刑事じゃない。警察学校の第三教養部から預かっている実務研修生だ。休みだけは、きちんと取らせるように、学校の方から釘をさされている。出勤されては、こっちが困るんだ。いいね?」 「はぁ……」  僕は引き下がざるを得なかった。少し離れたデスクで、 「仕事中毒になっちまうと、彼女に逃げられちまうぞー。たまには、ちゃんと餌撒《えさま》きしとかないと、どこかの誰かさんみたいに、振られちまうぞー」  当直の刑事がペンを動かしながら、野次を飛ばした。 [#改ページ]      14  その頃、僕は四谷三丁目にある警察の独身寮に住んでいた。  そこは総合寮という規模の大きな寮で、寮員の所属は様々だった。一般の警察署員もいれば、機動捜査隊員もいたし、本庁に勤務している一般職員もいた。だから、比較的、規則は緩やかで、僕は五階にある六畳の個室に一人で住んでいた。  城西署からは徒歩と電車で五十分。この日は書店と酒屋に立ち寄ったので、その二倍の時間がかかった。僕は一階の食堂に直行し、遅い夕食をとった。  大型テレビでは野球中継を放送していた。公安部勤務の三十五歳になる警部補が、一人で観戦していたが、やがて、舌打ちし、首を振りながら、席を立った。そして、空になった食器をカウンターに戻して、スリッパを引きずりながら食堂を後にした。  誰もいなくなったので、僕はテレビのチャンネルを変えた。民放局のニュース番組が豊島区の事件を報じていた。三十分ほど前、被害者は死亡し、特別捜査本部が設置されたという。そして、凶器についても解説されていた。  ボウガンの矢は、長さが四十五センチ前後ということだった。それが事実とすれば、城西署管内で使用されたものと比べ、単純比較で三倍ということになる。それはつまり、ライフル型のボウガンであることを示していた。射程距離は五十メートルで、畳一枚を貫く威力を持っている……。  僕は荒木の説明を思い出しながら、食事をするのも忘れて、キャスターの説明を聞いていた。すると、 「これ、残すの?」  後ろで寮母の声がした。 「いいえ。いただきます」  僕は急いでテーブルに戻り、飯の上に味噌汁《みそしる》をかけ、一気に胃の中に流しこんだ。  食事を残せば、寮母の機嫌を損ねるし、食事時間を守らなければ、署の方に苦情が寄せられる。 「ご馳走《ちそう》さまでした。おいしかったです」  僕はたくあんを噛《か》み砕きながら、お世辞を言って、電話のある玄関先に向かった。  赤松主任の自宅へ電話すると、奥さんが電話口に出た。�麻雀天狗《マージヤンてんぐ》�で聞いた新婚時代のエピソードが脳裏をよぎる。  僕が自己紹介すると、 『ご丁寧に恐れ入ります。こちらにお出かけの折には、ぜひ、お立ち寄り下さい』  慎《つつ》ましやかで上品な話し方が、いかにも育ちのよさ、というものを窺《うかが》わせた。お待ち下さい、と言って、あなた、と赤松主任を呼んだ。遠くで、返事する声、引き戸の音、スリッパの足音、犬の吠《ほ》える声……。僕の知らない赤松主任の素顔が、そこにあった。  やがて、電話口に、どうした? という声がしたので、 「テレビ、見ています?」  と尋ねると、たった今、帰宅したところだ、と言う。 「被害者が亡くなったそうです。それから、キャスターは、ワゴン車のことを言ってますよ」 『ワゴン車?』 「そうです。�麻雀天狗�のマスターから聞き込んだでしょう? 側面ガラスがスモークになっている紺色のレンタカーですよ。それとそっくりな車から、矢が飛び出すのを、塾帰りの小学生が目撃していたそうです」 『小学生が? すると、トラックからじゃなかったのか……』 「違います。どうやらトラックの前をワゴン車が走っていたようです」 『わかった。わざわざ、知らせてくれて、ありがとう。明日は、ゆっくり休みなさい』 「やはり、出勤しては、まずいでしょうか?」  僕は実際、仕事がしたかった。だが、 『まずいね。大いに、まずい』 「わかりました……」  と言って、受話器を戻した。  そのまま、じっとしていると、 「すみません。急いでいるんですが……」  後ろで、寮員が言った。 「す、すまん……」  僕は電話から離れ、自室に向かった。  電話で待ち合わせ場所の相談をする声がフロアに響く。鼻にかかった寮員の声を聞きながら、僕は階段を上った。やがて五階。誰もいない部屋のドアを開け、明かりをつけた。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、一口飲んで、テレビをつける。  チャンネルを動かしたが、ニュースを放送している局はなかった。  そして、翌朝。僕は出勤しなかった。  午前中、たまった洗濯物を洗い、洗濯機が回っている間に、簡単に部屋の掃除をした。そこまでは、いつもと同じだった。  だが、午後、僕はいつものように街には出なかった。遅出の出勤日と同様、電車に乗って、城西署管内に向かった。  バレエスクール前の�山小屋�でコーヒーを飲んでみたかったからだ。もちろん、それだけなら、問題はない。ただ、この時の僕には、あわよくば、という野心があった。  事件発生時刻の三十分ほど前に、僕は店の前に到着した。一階の洋菓子店は人気があるらしく、四、五人の女性客がたむろしている。店の端には階段があって、赤紫色のマットが敷いてあった。  上がり口に、�山小屋�の看板が出ている。僕は階段を上った。  店内はボックス席が二十席ほどあって、窓側の席は六席だった。そのうち、四席は塞《ふさ》がっていた。  この日、窓側の席に座っていたのは、セールスマン風の男の二人連れ、ベレー帽をかぶった初老の男、和服を着た中年女性、それに、厚化粧をした二十歳前後の女だった。  僕はコーヒー一杯で、一時間も粘った。店備え付けの雑誌に目を通すでもなく、音の消されたテレビ画面を見るでもなく、腕を組んだり、足を組みかえたりして、窓辺の席に座る客を観察していた。ひょっとしたら、不審車を目撃した男が現れるかも知れない、と思ったのだ。  しかし、一時間の間、窓辺の席には五組、八人の客が入れ替わったが、それらしい人物は発見できなかった。  心のどこかに、功名心が潜んでいたのかも知れない。実のところ、ここで手柄を上げておけば、という気持ちが確かにあった。  僕は席を立ち、カウンターに向かった。そして、コーヒー豆をひいている店員に、日曜日の客について尋ねた。  店員は何も答えず、店長を呼んだ。 「警察の方ですか?」  店長は探るような目で尋ねた。単独で聞き込みをする私服警官が珍しいことを、僕はまだ知らなかった。でも、不審に思われていることは本能的に察知した。僕はポケットの警察手帳を呈示した。  さほどのことは聞き込んでいない。元々、そんな技量はなく、能力もあるはずがない。僕はただ、日曜日に窓辺の席に座る常連客のことを聞いただけだった。しかも、事件当日のことを聞いたわけではないし、事件現場の近くには他の店もある。僕は単に、日曜日に顔を見せる麻雀好きの常連客のことを聞いただけのことだった。  ただ、それだけのことだった。だから、誰にも迷惑はかからないだろう、と思ったのだ。 [#改ページ]      15  刑事課長席の隣には、膝くらいまでの高さのテーブルがあって、それを挟んで、二人掛けのソファーが向かい合って置いてある。  そこは課長が主に警視、警部クラスの外来者と対する場合、座る場所だ。ちなみに、警視正以上の上級幹部の場合は、署長室内の応接コーナー。ただの刑事の場合は、取調室なんかに案内されたりする。  従って、課長席の横に見知らぬ人物が座っていた場合、刑事たちは相手の素性を知らなくても、通り過ぎる時には目礼する。  朝、僕が刑事部屋に行くと、そこに二人の男が座っていた。まだ課長の姿はなく、向かい側の席で応対していたのは荒木だった。  二人のうち、一人は五十歳半ばで、縦縞《たてじま》入りの茶色のスーツを着ている。もう一人は四十歳前後で、灰色の無地のスーツを着ていた。二人とも髪をきちんと整え、ヒゲはきれいに剃《そ》ってある。決して高級な服ではないが、生地には皺《しわ》がなく、ズボンにはアイロンの線が一直線に伸びている。糊《のり》のきいたワイシャツ。型崩れしていないネクタイ。靴は磨き上げられ。靴下に毛玉はついていない。  所轄には場違いな身だしなみの良さだった。となれば、本庁か方面本部の関係者ということになる。  やがて、刑事課長が現れた。灰色のスーツを着た男だけが立ち上がって、礼をした。もう一人は、よぉ、と片手を上げただけだった。かなり親しい仲らしい。  一体、何者なのか? と、様子を窺《うかが》っていると、後ろで、 「何をしている。行くぞ」  赤松主任が言った。集合時間が迫っていた。  別室に入ると、机の配置が変化していた。中央部分にまとまっていた長机は前後左右に引き離され、口の字になっている。いわゆる会議室型だ。ホワイトボードには赤い文字で、�待機�と、大きく書かれている。  珍しく警備係の長田が窓辺に寄り掛かり、煙草を吸いながら、公安係の高畑と談笑していた。  赤松主任がいつもの席に腰を下ろすと、 「桜田門から、お偉いさんがお出ましだって?」  少年係の長谷川係長が声をかけてきた。 「どうやら、そうらしいね」  赤松主任が答えた。 「豊島署の方じゃ、殺しに発展したんだし、合同捜査本部ということで、いいんじゃないかねぇ。そんな話は出ていないの?」 「さぁ、俺のような下っ端にはわからないよ」 「そろそろ、ご勘弁願いたいよ。少年係だって、未解決のヤマをうんざりするほど抱えているんだ。おまけに、中学校の先生方と非行対策で相談しなきゃならんこともある」  と、ぼやいてから、 「あぁ、そうそう。青葉台の外川義雄の件だけど、耳打ちしてくれてありがとう。助かったよ。あの外川という男の正体は、訴訟魔だそうだ」 「訴訟魔?」 「道路の穴ぼこにつまずいてケガをした、とか、都営バスが間引き運転している、とか、何だかんだと、いちゃもんつけるのが趣味なんだそうだ。都や区の窓口じゃ、かなりの有名人らしい。向こうに相手にされなくなったんで、今度は警察を相手にするつもりのようだ」 「すると、スコーピオンのエアーガンというのは、ガセネタ?」 「たぶんな。近頃の暴走族は、そんな面倒臭い武器は持たないよ。そんなまどろっこしいおもちゃがなくても、十分、遊べる」 「第一、目立たない、か?」 「そういうことだ。撃った時にピカピカ光れば、別だろうけどね。エアーガンじゃ地味すぎる」  二人は笑い、話は終わった。長谷川が腕時計を見る。  定刻を過ぎても、荒木たち強行犯係の刑事たちは姿を現さなかった。  別室のあちこちでは、二人、或《ある》いは、三人ずつ固まって、話をしている。中には、メモ帳を開いている者もいた。ボードに、待機、と書かれている以上、それぞれの課に戻るわけにも行かないし、聞き込みに出かけるわけにも行かない。専従員たちにとって、思いがけないフリートークの場となっているようだった。  九時近くになって、ようやく、荒木が現れた。ご苦労さんです、と言いながら、上席に向かう。その後に上条と小田島が続いた。 「えー、ちょっと聞いて下さい」  荒木は立ったまま、両手を机に置いて、 「突然ですが、会議を実施することになりました。会議と言っても、内容は、昨日まで行ってきた検討会と同じです。ただ、今日は、捜査一課の二名が同席します。質問があるかも知れませんので、その場合は、ご面倒でしょうけど、答えてやって下さい。よろしくお願いします」  と言うと、ホワイトボードの方を振り返り、イレーザーで�待機�の文字を消した。 「捜査一課って、豊島署関連なの?」  長谷川が尋ねた。 「そうです。知っての通り、豊島署では捜査本部が設置されました。ボウガン使用の事件捜査については、当署の方が先行しているわけですからね。その辺のことについても、教えてもらいたい、なんてことを言っていました」 「教えてもらいたい、は、いいけどさ」  工藤が言った。 「合同捜査本部については、どうなのさ? その見込みはあるの?」 「現時点では、その線はないと思うな。豊島署の事件で使用されたボウガンの矢は、アメリカのバートン社製のアルミ矢で、一本二千五百円もする。この矢を発射するには、かなり強力なボウガンが必要なんだそうだ。今のところ、一挺二十万円もする高性能のボウガンで、商品名が�アパッチ�というのが使われたんじゃないか、ということだ」 「つまり、使われた凶器が違いすぎるということ?」 「まぁね。向こうに比べると、こっちで使われたハンドボウガンは、おもちゃに近いよ。矢も手製だったわけだし、違いすぎるというわけだ。どうやら、それが合同捜査本部に至らなかった理由の一つだったようだ」 「なるほど、それなら、わかる」 「じゃ、よろしく頼んます」  荒木は手元の書類に目を落とした。その右隣に座った他の強行犯担当の刑事たちも、それぞれノートやファイルを読んだり、何やらメモを書き入れている。それぞれの表情には、微《かす》かな緊張感が漂っていた。その雰囲気に影響されて、いつしか他の捜査員たちもノートを開いていた。  しばらくすると、廊下の方から話し声が聞こえ、それが次第に近づいてきた。やがて、カチャリとドアが開き、課長が現れた。その後に、二人が続く。刑事部屋で見た二人だった。  課長が部外者の二人に、座る椅子を片手で示す。そこに、刑事課長代理が走りこんできて、やがて、四人が横一列に座った。荒木が、全員、揃《そろ》ってます、と課長に告げると、 「えー、すでに、荒木係長の方から説明があったと思うが……」  課長が言った。 「ご覧のように、本日は、捜査一課からお二人、来署された。私の隣におられるのが谷口管理官、もうお一人が相川警部補だ。来署された目的は言うまでもない。豊島署で発生した殺しと、当署の事件の共通性について、お調べになるためだ。どうか諸君、忌憚《きたん》のない意見を述べてもらいたい」  と言って、隣に目を向けると、その男は立ち上がって、まず、おはようございます、と言って頭を下げた。そして、 「えー、捜査一課の谷口でございます。本日は突然お邪魔し、また、急きょ、捜査会議への参加をお許しいただき、大変、ありがとうございます。ご承知の通り、豊島署管内におきまして、殺人事件が発生しました。懸命なる捜査活動を展開いたしたのでありますが、残念ながら、犯人検挙には至りませんでした」 「…………」 「えー、これで八カ所目です。二十三区内で特別捜査本部は八つになりました。このうち四件は、ここ三カ月以内のものでありまして、実に憂慮すべき事態であります。この上は、一刻も早く犯人を検挙し、東京の、いや、日本の安全神話を復活させることが、私どもに課せられた使命と考えます。本日は、そのためのお知恵を拝借できれば、と思い、参上いたした次第です。よろしくお願いいたします」  と言って、頭を下げ、着席した。続いて、その隣の男が立ち上がって、 「第五強行の相川と申します。ボウガンに関する捜査については、皆様方の方が一日の長があるわけでして、本日は、その辺のことをお聞かせいただければ、と思います。よろしくお願い申し上げます」  と言って、頭を下げて着席した。 「ご丁寧に、どうも……」  課長は二人に目礼してから、 「では、早速、検討会に入ります」  と言うと、始めたまえ、という風に荒木に目配せした。それを受けて、 「それでは、各自、これまでの捜査結果と、今後の展望について発表して下さい。まず、バレエスクールと、被害者関係については、当係で担当したわけで、高津主任に代表して発表してもらいます」  荒木が指名すると、高津は書類の中から、一通の捜査報告書を取り出した。それを机の上に置いてから、 「バレエスクールに対する脅迫等についてですが」  と、話し始めた。 「隠し事をしている、という前提で、かなり厳しく事務長を問い詰めてみたんですが、最後まで、全く心当たりがない、の一点張りでした。事務職員三名についても、全員、個別に当たってみたんですけど、結果は同じでした。また、出入りの業者からも事情聴取したんですが、人間関係は良好で、恨みをかうような悪評はありませんでした。更に、ライバルのバレエスクール関係者にも、当たってみましたが、生徒の獲得をめぐってのトラブル等はなかったということです」  高津は目の前の報告書を右の方に寄せて、次の書類を取った。 「次に、被害者関係ですが、重傷を負った女の子の父親は大和商事のナチュラルメディック課という、まぁ、平たく言えば、自然食品部門ですね。そのセクションで、中国南部の健康茶の輸入を担当しています。商品をめぐってのトラブル等についてですが、広報室長の説明によると、ないことはない、ということでした。ただし、苦情や抗議については、全《すべ》てフリーダイヤルの�お客様相談室�という窓口で受け付けているわけで、ナチュラルメディック課が消費者と直接、折衝することはない、ということです。従って、消費者絡みのトラブルが原因ではない、と考えてよかろうと思います」 「…………」 「次に、プライベートに関してですが、結論から言えば、一家の評判はよく、トラブルは一切ありません。浜田山の分譲マンションの五階に住んでいるんですが、近隣との付き合いは、深からず浅からず、というところです。具体的に言えば、管理人……、これは雇われ管理人なんですけど、被害者の父親の生まれ故郷については知っていますけど、母親の生まれ故郷については知りません。逆に、隣の住人は、母親の出身大学は知っていますけど、父親の出身大学は知りません。その程度の付き合いです」 「…………」 「ないない尽くしで、恐縮ですが、実際、何も浮上してこないんです。もちろん、父親、母親本人にも、心当たりを尋ねてみましたが、他人の恨みをかうようなことについては身に覚えがない、とのことでした。これについては父親、母親別々に、秘密を保持するから、と確約した上で、しつこく念を押したんですが、二人の返事に変わりはありませんでした。普通なら、心当たりの一つや二つは、あるもんですよ。人間ですからね。ところが、この二人にはないんです。不思議と言えば、この点が不思議と言えます。以上です」  と言って、上席に対して小さく会釈した。 「ここまでで、何か、ご質問はありますか?」  荒木が尋ねた。すると、 「恐れ入りますが」  相川がボールペンを持った右手を上げると、 「バレエスクールは以前、掲示板を標的にされていますよね。それに関して、関係者は何と言っているんですか?」  と言って、高津を見た。 「それについては……」  高津は荒木を見る。すぐに、 「心当たりがない、ということです」  荒木が答えた。 「ほう。心当たりがない……」  相川はわずかに首を傾《かし》げた。そうすることによって、それ以上の説明を求めたつもりなのかも知れない。だが、 「はい。特に心当たりはない、ということでした」  荒木は繰り返しただけだった。 「そうですか……。それから……」  相川は手元のメモを一瞥《いちべつ》して、 「父親の勤務先は大和商事ですね。仕事は中国茶の輸入ということですが、取り引き相手である中国本土の方とのトラブルについては、いかがです?」 「中国本土の方?」  今度は、荒木が高津を見た。 「中国本土の方、ですか……」  高津は小田島と山下を見た。最後に、小田島と山下がお互いの顔を見合わせた。 「取り引き相手の中国側と、言葉の行き違いがあって……そう、文字通り、言葉の行き違いですよ」  相川は続けた。 「ご承知のように中国は社会主義体制で、自由主義国家と貿易をしていますが、誰でも自由に取り引きできるわけではありません。これは、ここだけの話にしてもらいたいんですが……」  と言うと、声をひそめて、 「信頼できる筋の情報によりますと、収賄、ピンハネが横行し、日本企業の担当者は頭を痛めているそうです」 「…………」 「つまり、そんなことも背景にあって、もし、代金の支払いなんかに何らかの問題が発生すれば、担当者に苦情や抗議がぶつけられることになるわけでしょう? 対応の仕方によっては、恨みをかうことになる」 「いやいや、そういう問題はありません」  小田島が手を横に振って、 「その可能性はない、と考えて、差し支えはないと思います。なぜなら、大和商事の上海支店が現地と折衝しているそうで、東京の社員が中国の関係者と交渉するようなことはないそうです」 「中国の関係者と直接交渉するようなことはない……。よくわかりました。それから……、何カ月か前に、バレエスクールの生徒さんの発表会があったそうですね?」 「はい。去年の暮れに、港区のチャイコフスキー・ホールで実施しています」  荒木が答えた。 「子供さんたちの晴れの発表会となれば、父親なんかがビデオで撮影をしていると思うんです。その映像の中に、不審人物が映っているようなことがあり得ると思うんですが、それに関しては?」 「えー、それについては……」  と、ノートを繰って、 「えー、発表会のビデオ撮影については……、�麻布ケーブルテレビ�という会社へ、バレエスクールからビデオの撮影、並びに、編集が依頼されました。そのビデオを見せてもらったんですが、ほとんどが子供が踊っているシーンでしてね。残りは両親が見ているシーンで、部外者の映っている部分は編集でカットされていました」 「でも、未編集のビデオには映っている可能性があるわけでしょう?」 「その件については、申し入れをいたしましたが、誠に残念ながら、報道の自由を理由に、提出を拒否されました」 「報道の自由ですって? バレエ発表会の撮影に、ですか?」 「はい。もし、未編集のテープを警察に提出したことが明らかになれば、以後、各種イベントで自由な撮影ができなくなる、ということです」 「それはそれは……。やれやれ、ですな」  と、首を横に振った。 「ゴリ押しすれば、他のマスメディアを刺激することになりますからね。提出要請は撤回して、今は、個人的にビデオを撮影したという人に接触して、協力を依頼しているところです」 「わかりました……」  相川は小さくうなずいて、書類にメモをしながら、 「私の方からは以上です」  と、隣の谷口に対して小声でつぶやいた。すると、 「ここだけの話ですけど……」  谷口が身を乗り出し、ざっくばらんな口調で、 「被害者の両親は、人に恨みをかう覚えはない、と言っているということですけど、実際のところはどうなんです? 不倫相手がいる、或いは、いた、という可能性はありませんかね?」 「不倫……」  課長がつぶやいた。 「どうです? 印象でも結構です。聞かせてもらえませんか?」  谷口は並んで座っている強行犯担当の五名に目を泳がせた。 「亭主の方は、それほど捌《さば》けた感じではないんですよね」  荒木が言った。 「もっとも、捌けていれば、不倫するとは限らないでしょうけど。こればっかりは、相手次第でしょうからね。女房の方については、子供にかかりきりという感じで、身持ちはよさそうです」 「しかし、何らかの理由があったから、五歳の女の子はボウガンで撃たれたわけです。それとも、ビルの屋上で試し撃ちをしていた流れ矢なんでしょうか?」  谷口は再び、強行犯担当の刑事たちを見渡した。 「恐れ入りますが……」  課長代理が言った。 「近頃では、犯行の動機が痴情、怨恨《えんこん》、物|盗《と》りという従来の動機の範囲を越えて、単に、そうしたかったから、という動機のない動機が目立つようになっています」 「…………」  谷口の口元が微かに歪《ゆが》んだ。そんなことは先刻、承知だ、とでも言いたげな態度だった。代理は構わず、続ける。 「ですから、事件直後に寄せられた情報に基づいて、不審者に対する捜査を展開いたしました。取り敢《あ》えず、その結果を聞いていただきたいと思います」  と言って、荒木に目配せした。  谷口は何の反応も示さず、机の上の書類に目を落とした。 「では、次に、少年係長の長谷川から、ご説明いたします」  荒木がいつもとは違う口調で言った。  専従員たちの報告の内容は当然のことながら、昨夜と変わりはない。  少年係の長谷川は一両日中に、捜査対象者と接触できるという見通しを明らかにした。知能犯係の岡部は、パチプロのアリバイの裏付け捜査中。公安係の高畑は、まず、神がかり女の容疑はないことを説明してから、極楽寺境内の不審者について、依然、継続捜査中であること。暴力団係の工藤は、弓道場の職員を脅した暴力団構成員を任意で事情聴取する予定になっていることを報告した。  赤松主任も、ホームレスのアリバイが立証されたことを報告、次に作曲家の知人の捜査に当たることを説明した。交通執行係の三宅は、交通違反車両のナンバーチェックの現状について説明。地域総務係の福本も、地域課員から不審情報を記録した簿冊を見せ、いずれも不審な対象の発見には至らない旨の発表をした。  続いて、強行犯係の上条が、付きまとい男を取り調べたところ、事件当日のアリバイが成立したと報告。最後に、同じく強行犯係の高津が和歌山での出張捜査について説明して、全員の発表が終わった。 「何か、ご質問は?」  荒木が捜査一課の二人に言った。 「暴力団ですけどね……」  相川が工藤を見て、 「なぜボウガンなんかを弓道場に持ち込んだのか、理由はわかっていますか?」  と尋ねた。工藤は手にしたライターをクルクルと回しながら、 「理由ですか? そりぁ、何と言うか……、まぁ、そこに弓道場があったから、ということになるでしょうね。ボウガン専用のシューテングレンジまで行くのが億劫《おつくう》になって、たまたま、弓道場の看板を見て、ちょうどいいや、ということになったようです。連中は元々、考え方が単純なんですよ」 「それはわかります。私が知りたいのは、彼らは何のために、ボウガンなんかの練習をしたか、なんです。まさか、どこかの競技大会に参加するつもりだったというわけではないでしょう?」 「奴らの口上《こうじよう》を聞く限り、組の事務所に猫ほどもある鼠がいるんで、退治しようと思った、なんて、長閑《のどか》なことを言ってます。もちろん、そんなのはデタラメです。まぁ、いくら叩《たた》いても、口は割らないでしょうけどね。明らかに拳銃代わりでしょう」 「稲葉会に、何か不穏な動きでも?」 「いやいや、そんなのはありません。うちの管内だけじゃないでしょうけどね。近頃のマルB連中は、外国勢力に追い詰められているんですよ。背中の彫り物をチラつかせて凄《すご》んで見せても、ビビるのは日本人くらいなものでしてね。ご存知だと思いますが、不良外人から見れば、タトゥーと言いまして、般若《はんにや》の彫り物なんか、おしゃれなファッションにしか見えません」 「そうらしいですね。そんな話を聞いたことがあります」 「世の中に、マルBなんか、いないに越したことはありませんけどね。あまりに弱いんで、しっかりしろ、と言いたくなる時がありますよ。喧嘩《けんか》になっても、黒人や白人には勝てません。連中は体がでかいですからね。まぁ、アジア系なら、体格は互角ですが、その代わり、アジアの連中は武器の使い方が、実にうまい。特に、刃物については、文字通り、ピカ一。言うなれば、実戦的なんですな。まるで鳥や獣を仕留めるように切ったり刺したりする。とてもじゃないが、日本のマルBは歯がたちませんよ」 「…………」 「唯一、上回っているのは、生きのいい啖呵《たんか》と、脅し文句くらいですが、これは日本語のわからない相手には通じるわけがない。ボウガンは大男の腕力や、やさ男のナイフに対抗するためでしょう」 「すると、つまり、バレエスクールの件とは無関係と、見ておられるわけですか?」 「それはわかりません。まぁ、数日以内には、はっきりするでしょうけど……」  と言って、刑事課長の方を一瞥した。 「なるほど。それから……」  相川は再び、書類に目を落とし、 「極楽寺境内の不審者についてですが、お話を伺う限り、明らかに、人目をはばかっての試し撃ちです。似顔絵はできていると言うことですが、えーと、この件の担当は公安の高畑さんでしたか?」  と言って、顔を上げた。 「そうです」  高畑が答えた。 「情報が得られない、ということですけど、この不審者の素性は、感触として、どのように見ておられます?」 「感触として、ですか……」  高畑も課長を一瞥してから、 「そうですね。極楽寺は浄土宗の末寺ですが、有名な寺ではありません。寺の造りは安普請ですし、訪れる人もいないため案内板もありません。つまり、地元の人間以外、大通りから極楽寺へ至る道順も知らないでしょうし、ましてや、平日の境内には、ひと気がないことも知らないと思います」 「土地鑑のある男らしいですね。だとしたら、似顔絵に対して、もっと反応があってもよさそうなもんですけどね」  相川は首をひねった。すると、 「私もそう思います。でも、反応がない、というのが実状なんです」  高畑は同じことを繰り返しただけだった。相川は何かを言いかけたが、結局、 「私の方からは、以上です」  と言って、目を机の上に落とした。  次は谷口の番だな……。  誰もが、そう思ったに違いない。谷口は手元の書類の頁を、せわしなく繰っている。やがて、その手を止め、書類を閉じて、机の脇へ押し出した。そして、顔を上げ、柔らかな表情で、 「大変、貴重なお話をありがとうございました。只今《ただいま》の件は、捜査本部に持ち帰りまして、参考にさせていただきます。ところで、ここからは、雑談、ということにしてもらいたいんです」  と言うと、 「よろしいでしょう?」  と、隣の課長に尋ねた。課長は当然、うなずかざるを得ない。 「というわけで、ここからは裃《かみしも》を脱いで、軽い調子で、お願いしますわ。実を言いますと、ここんとこ、重たい会議ばかりでしてね。肩がコチンコチンなんです。失礼して、ちょいと楽な格好をさせてもらいますよ」  谷口はポケットの煙草とライターを机の上に置くと、上着を脱いで、椅子の背もたれにかけた。そして、ネクタイを緩めて、煙草を口にくわえた。  上席に煙草の煙が立ち込めると、堅苦しかった雰囲気が和らいだ。 「まぁ、のんびりとやりましょうや」  谷口は両肘を机についたまま、 「ありのままのところを聞かせてもらいたいんですが、実際のところ、街の反応は、どんなですかねぇ。市民パニック、なんて報道は、ちょっと大袈裟《おおげさ》なような気がしたんですが……」 「…………」  谷口の質問に手を上げて答える者はいなかったが、数カ所で私語が交わされた。その話し声のした方に向かって、 「えーと、警備課の主任さんでしたか? その辺のところは、いかがです? 特に、ワイドショーは煽《あお》りすぎちゃいませんか?」  谷口がくだけた口調で尋ねた。 「私はずっと、病院内で被害者の身辺警護のようなことをしていましたけど」  長田が言った。 「病院内の反応しか知りませんが、見舞客の中には、この機会にテレビに映ろうというのもいましてね。そういう意味では、おっしゃるように、市民パニックとは、かけ離れていました。まるで、お祭り騒ぎでした」 「全く、あの連中は一体、何を考えているんですかね。テレビ中継があると、必ず、レポーターの後ろでVサインを出すのがいる」  谷口が首をひねった。そして、 「この頃、軽薄な人間が目立つようになりましたなぁ。もし、増えているとするなら、日本の先行きが不安です……」  と、ため息まじりにつぶやいてから、 「参考のために、若い人たちの感想と言うか、印象を聞きたいね。えーと、山下君なんか、どんな風に感じている?」 「私ですか?」  山下は急な指名に、戸惑ったように瞬《まばた》きを繰り返した。 「難しく考えることはないよ。感じたことを、そのまま聞かせてくれないか?」 「感じたことと言うより、私の場合、ちょっと甘かったかな、と反省しています」  山下が頭をかいた。 「と言うと?」 「正直、自分の署で、こんな事件が発生するとは思っていなかったんです。もちろん、可能性としては漠然と認識していましたけどね。現実的な問題として捉《とら》えていたか、と言われれば、そうも言えない部分がありまして。その……、日頃から重大事件の発生を想定していれば、もっと、違う対応ができたのではないかと思いました」  百点満点の模範的解答だった。だが、 「ほう、違う対応とは?」  という質問。 「その、言葉で言うのは、ちょっと難しいんですけど、たとえば、上司や先輩の指示に従うにしても、何と言うか、もっと冷静に、自分が何をやっているか、客観的に考えながら行動できたのではないかと……。恥ずかしい話ですが、あの日は舞い上がってしまい、あっと言う間に一日が過ぎてしまいました。自分を見失うということは、ああいうのを言うんでしょうね」 「なるほど。でも、そう反省するだけ立派だ。普通、そんな風に自己分析をすることはできない。えーと、知能犯の岡部君も若手のようだが、何か気づいたことはある?」  谷口が尋ねた。 「私の場合、今回のように捜査専従員に指定されたのは初めてですので、いろいろと勉強になりました。それより、質問があるんですが、よろしいですか?」  岡部が言った。 「質問?」  一瞬の間を置いてから、 「どんなこと?」  谷口が聞き返した。 「豊島署管内で発生した事件ですけど、動物愛護団体は何らかの形で関係していませんか?」 「動物愛護団体?」 「はい。当署の事件とは直接、関係のない情報なんですけど、事件関係者が動物愛護団体に関与しているようなことはありませんか?」 「…………」  谷口は相川を見た。相川がノートを開いて、何かを調べ始めた。頁を繰りながら、小声で谷口と言葉を交わしている。一方、岡部も隣の高畑や長谷川たちの質問に答えていた。やがて、 「特に、そのような情報はないけど、何か?」  相川が尋ねた。 「いや、なければないで、いいんですけど、ボウガンを扱っている業者と動物愛護団体は犬猿の仲、というようなことを聞いたものですからね。ちょっと気になっただけです」 「犬猿の仲だとしても、今回の事件の、どの部分に動物愛護団体が絡んでいると言うわけ? 被害者? 加害者?」 「もちろん、加害者ですよ。ボウガンで人が死んだり傷ついたりすれば、ボウガン反対、ボウガンの販売禁止、という気運が高まるでしょう?」 「動物を愛護する団体が、人を殺したり傷つけるわけ?」  相川が不思議そうな目で尋ねた。 「ええ。世の中には、人の命なんかより、犬や猫の命の方が上だ、と考える人間は現実にいます。それに、毒をばらまいて、薬を売ろうと企《たくら》む人間もいます。今度の事件の場合も、そういうことはあり得ない、とは言えないでしょう?」 「なるほど。しかし、現段階では、動物愛護団体に関する情報はありません。他に、ご質問があれば、お受けしますが……」  と言って、専従員を見渡すと、 「そういうことなら、自分も確かめておきたいんですが……」  交通執行係の三宅が手を上げた。 「実行犯が外国のヒットマンという可能性は、どうなんです?」 「外国のヒットマン? つまり、雇われた殺し屋、ですか?」  相川が笑いをかみ殺すのがわかった。三宅は真顔で、 「この前、親日家のカナダ人が、『日本人にはできない。たぶん、中東あたりのヒットマンだろう』と言っていたもんですからね。豊島署の方では、そんな話は出ていませんか?」 「いやぁ、今のところ、具体的にそういう話は出ていませんな」  相川が答えた。三宅は、そうですか……、と言って、口をつぐんだ。 「えーと……」  谷口が僕の方を見た。そして、 「君は、どうだい? 感想でも、印象でも、質問でも、何でもいいんだが」  と尋ねてきた。 「特に、ありません」  と答え、一礼した。発言する立場ではない、と思った。課長代理が、彼は見習いです、と説明したが、 「いやいや、見習いの方が、案外、新鮮な視点で事件を見られるかも知れんよ」  谷口が言った。それを受けて、 「何か、質問はある?」  課長代理が僕に尋ねた。取り立てて、質問はなかったのだが、 「さ、遠慮するな。今の君の立場なら、どんなことを聞いても、恥にはならんぞ」  とまで言われて、何か質問しなければならなくなった。 「あの……」  僕は言った。 「Nシステムは役に立たなかったんでしょうか?」 「Nシステム?」 「ナンバー自動読取装置です。犯行現場付近には設置してある、という風なことを聞きましたが……」 「ああ、そのNシステムか。もちろん、今、チェックしていると思うけど、車について何か気になることでも?」  質問を受けながらも、逆に、質問者の方を追及するような響きがあった。まるで、僕が紺色のワゴン車についてこだわっていることを見抜いているかのようだった。考えすぎかも知れないが、言葉の端々に、そのような響きを感じたのだ。 「いいえ」  僕は首を振って、 「ニュースで、車の中からボウガンの矢が発射された、と報道しておりましたので」  と答えると、 「なるほどね。そういうことか……。まぁ、近々、結果が出ると思う」  結局、当たり障りのない返事で、質疑は終わった。と言うより、僕には二人が情報を出し惜しみしているように思えた。  事実、そう感じたのは僕だけではない。 「質問……」  工藤が手を上げて、 「えーと、犯人が女性という可能性については、いかがですか? 豊島署に、そのような通報はありませんでしたか?」  と尋ねると、 「女性? 具体的には?」  相川が聞き返してきた。 「いや、把握しておられないなら、結構です」  工藤は視線を手元に落とした。すると、相川は身を乗り出すようにして、 「一応、聞かせてくれませんか? 不明な点は調べてみます」 「いやいや、調べるには及びませんよ。お耳に達していなければ、その可能性はないでしょうから」 「そんなことはわかりません。あらゆる可能性を考えて捜査することが大事なんです。女性が犯人という根拠は何です?」  相川はしつこかった。 「根拠? そんなのはありませんよ。ただの思いつきです。地球上の半数は女性ですし、最近じゃ、大型貨物車の運転や、鳶職《とびしよく》の世界にも、若い女性が進出しているそうですからね。残酷な人殺しイコール男、とは限らないと思いましてね。そう申し上げただけのことですよ」 「…………」  相川はキョトンとした顔で工藤を見ていた。 「雑談、ということですから、もう一言、言わせてもらいますよ」  工藤は冷ややかな笑みを浮かべて、 「この前、某県警の方が見えましてね。その時も話したんですけど、これは溺《おぼ》れかけているけちん坊[#「けちん坊」に傍点]の話なんです」 「…………」 「ある男が川べりを散歩していたら、けちん坊が川の中で溺れていたんです。助けてやろうとして、男は手を伸ばして、『さぁ、早く手を出せ。手をよこせ』と呼びかけた。ところが、相手は根っからのけちん坊なもんですから、出すもんか、やるもんか、と手を引っ込めてしまったんです」 「工藤主任。それくらいにしておけ」  課長が口をはさんだ。すると、 「いや、おもしろそうな話だ。どうぞ、先を続けて下さい」  谷口も相川も、工藤を見つめて、耳を傾けている。だが、課長と課長代理はうつむいていた。 「じゃ、お言葉に甘えて」  と、慇懃無礼《いんぎんぶれい》に目礼して、 「そのままでは、けちん坊は溺れ死んでしまいますからね。そこで、男は言い方をちょっと変えてみたんです。もう一度、手を伸ばして、『さぁ、この手を取れ。この手を掴《つか》め』と呼びかけた。すると、けちん坊は、その通り、男の手を取って、一命を取り留めた、というお話です」  何人かが笑い、すぐに口をつぐんだ。 「なかなか興味深い話だ。で、その話の教訓は?」  谷口が尋ねた。 「ただ、よこせよこせ、じゃ、埒《らち》はあかないということです。むしろ、くれてやるくれてやる、と出した方が案外、活路が開けてくる、ということです」 「なるほど……」  とつぶやいて、谷口は笑顔を作った。だが、目は笑っていない。  気まずい沈黙が訪れた。  所轄のデカ長《ちよう》風情が、しゃらくせえ……。  おそらく、捜査一課の二人は、そう思っていたに違いない。一方、工藤と、その仲間たちは、何が捜査一課だ。貴様ら、一体、何様のつもりだ……。  そう思っていたはずだ。 「えー、他に……ないかな?」  荒木が呼びかけたが、手を上げるものはいなかった。捜査一課の二人も、手元の資料に目を注いでいる。課長と課長代理も、プリントの余白に、何やらメモしていた。  荒木は腕時計を見た。その時、電話が鳴った。高津が素早く電話に手を伸ばし、二言三言、言葉を交わしてから、 「署長が戻られた、ということです」  と、上席に向かって言った。 「署長が?」  課長は谷口を見た。 「じゃ、ご挨拶《あいさつ》させていただきましょう」  谷口はネクタイを結び直し、上着に手を伸ばした。  入って来た時と同じように、課長が先に立って、上席の四人は別室から出て行った。ドアが閉まると、 「長さん、なかなか言うねぇ」  長谷川が工藤に言った。 「言いたくはなかったが、あんな風に、見え見えに惚《とぼ》けられちゃ、ちょいと噛みつきたくなるよ。所轄をなめるのも、いい加減にしろってんだ」  工藤がべらんめぇ口調で言った。 「なめたわけじゃないよ、長さん。お二人にも、立場というものがある。現時点では、言いたくても、言えない事情があるんだと思うよ」  高津が弁解した。だが、 「言いたいことが言えないなら、聞きたいことも聞くべきではないと思うな」  工藤は語気を強めた。 「どうしても聞きたいと言うなら、せめて前もって、豊島署の件は話せないんだ、と一言、入れるべきだと思うよ。そうすりゃ、こっちだって、わかりやした、ということになるんだ。そういう仁義もきらずに、ただ情報を、それも裏情報を根こそぎ持って行こうってんだからな。その根性が気に食わん」 「…………」 「ま、高津長さんたち強行犯係は、捜査一課の系列子会社みたいなもんだからな。あの二人には従わざるを得ないんだろうけどね。ここにいるメンバーは捜査の人間ばかりじゃない。公安もいれば少年もいれば警備もいれば交通もいる。それに捜査にしたってだよ。二課、三課、四課と、別系列なんだ。一課のお偉いさんだからと言って、知っちゃいないよ」  と、まくし立てると、 「こちとら江戸っ子でぇ」  と、おどけて見せた。すると横から、 「でも、あの谷口というのは管理官だからなぁ。お偉いさん同士は横でつながっている。四課のベタ金ともツーカーだとすると、工藤長さん、しっぺ返しがなくはないか?」  長谷川が言った。 「そうそう。あの管理官、顔じゃ笑っていたけど、腹の中じゃ、かなり怒っていたぞ、あれは、そういう面《つら》だ」  と、警備の長田。すると、工藤が首を横に振って、 「今更、ビクビクしたって、仕様がねぇよ。こっちは年寄りだ。出かかった小便は途中じゃ止まらねぇ……」  と言うと、立ち上がって、 「本当に、したくなっちまった」  工藤はドアに向かった。ほとんどの専従員が、ドッと笑った。工藤はズボンの前を押さえるような仕草をすると、漏《も》っちゃう漏っちゃう、とおどけながら部屋の外に出た。 「全く……。工藤長も、あの癖さえなければな……」  ただ一人、仏頂面をしていた高津が聞こえよがしに言った。すると、専従員たちの顔から笑みが消えた。  その時、ドアが開いて、荒木が戻ってきた。 「やれやれ……」  と言いながら、自席に向かう。 「なぁ、荒木係長よ。桜田門のダンナ方は機嫌を損ねていなかったかい?」  と、早速、長谷川が尋ねた。 「機嫌を損ねているって、何を?」  荒木が聞き返す。 「と、言うところを見ると、そういう気配はなかった、ということだな。つまり、我々の心配ごとは取り越し苦労だったということだ」  長谷川がニヤリと笑った。 「わかるもんか。にっこり笑って人を斬る、ということもある」  と、長田。すると、 「桜田門のご機嫌はともかく」  高畑が言った。 「専従員として、通り魔の捜査に関《かか》わっている以上、豊島署の事件について、もっと詳しい情報がほしいですね。共通点を発見できれば、捜査経済を節約できるんじゃないですか?」 「だから、今日、捜査一課から二人、調査に来たわけだよ……」  荒木は空席になった工藤の席を見て、 「いろいろな考え方はあると思うけど、城西署とか、豊島署とか、そういう枠を離れてもらいたいんだよな。大所高所に立って、ここは考えてもらいたい。我々の目的は事件解決であり、犯人検挙だよ。縄張り意識を捨て、出し惜しみをしないでもらいたいんだ」 「…………」  ドアが開いて、工藤が姿を見せた。高畑は口をつぐんだ。 「ともかく、不平不満はあるだろうけれど、与えられた仕事に全力を尽くしてもらいたい。できる範囲でいいんだ。粛々として捜査にあたってもらいたい」  と、荒木が言うと、 「粛々として捜査は、いいんだけどさ」  工藤が皺だらけのハンカチをズボンのポケットに押し込みながら言った。すると、 「ほう……、一体、何?」  荒木はつっけんどんに聞き返した。 「この先、何か予定はあるの? ヤクザ者を一人、待たせているんだ」 「なるほど。今後の予定ねぇ。実は、それをこれから話そうと思っていたんだ」  荒木は皮肉な笑みを浮かべて、 「えー、予定としては、実は、一課のお二人と共に、幸楽の�月御膳�でもつつきながら、親しく午餐《ごさん》会を、と思ったんですけどね。お二人は一旦《いつたん》、方面本部の方に向かわれるそうです。お食事も、そちらで済ませるということですので、以後、皆さん方は通常勤務、ということにいたします。従って、昼飯も自腹でお願いします」 「やれやれ……。早々と、もう、しっぺ返しかい……」  長谷川がため息まじりにつぶやいた。 [#改ページ]      16  午後、赤松主任は半年前に検挙した連続窃盗事件について、被害者関係の説明のために、課長に呼ばれた。今にして思うと、それは僕と赤松主任を切り離すための口実だったような気がする。  僕は、座を外してくれ、と言われたので、刑事部屋にいるのも、何となく居心地が悪かった。それで、中庭に下りて、捜査車の清掃をすることにした。  用務員室から、強力掃除機を借りてきて、車内の隅々の埃《ほこり》を取り除いた。マットを洗剤で洗い、中庭の隅に積み上げられた放置自転車の上に並べて、乾かしていると、 「捜査講習の実務研修中なんだって?」  と、後ろから声をかけられた。  振り返ると、捜査一課の相川だった。方面本部から戻ってきたばかりなのだろう。Yシャツ姿で、ネクタイも緩め、楊枝で前歯をほじっていた。  僕が、そうです、と答えると、 「今は何期くらいになるのかな?」  というような会話になり、しばらくの間、警察学校や、教官のことなど、講習関係についての立ち話になった。  七、八分ほどして、今度は、谷口が現れ、二人は自分たちが乗ってきた車の中で、ひそひそと何やら話し始めた。  僕はホースの水を使って、洗車にかかっていた。ボディを洗い流してから、しゃがみこんで、タイヤをブラシでこすっていると、 「彼に聞いてみましょうよ。捜査講習の実務研修中ということですから、問題はないと思います」  相川の声がした。  その声で、僕は立ち上がり、振り返った。相川は笑みを浮かべて近づいて来て、 「忙しいところ、申し訳ないんだが、ちょっと助けてもらえないかなぁ」  と、首の後ろをかきながら言った。 「一体、何でしょう?」  と尋ねると、 「それがね。ちょっと、ややこしいんで、車の中で話したいんだが、いいかな?」  と、自分たちの車の方を振り返った。 「はい。お役に立てるかどうか、わかりませんけど……」  僕は水の出続けているホースを水道の方に引きずって行き、蛇口の栓を閉めた。  そして、谷口たちの車の側に立つと、相川は後部座席のドアを開け、自らも乗り込んだ。 「仕事中、申し訳ない」  助手席の谷口が振り返った。 「いいえ。どうせ、今は暇ですから」  と答えると、 「城西署の環境は緑が多くて、最高だね」  谷口が窓の外を見上げた。 「ここは、二十年前の駒沢署に似ています。若い頃を思い出しますよ」  相川が煙草を取り出しながら言った。一本くわえ、箱を振って、どう? と、中の一本を僕に向けた。僕は、結構です、と首を横に振った。 「まぁ、いいから。遠慮せずに。さぁ」  相川が強引にすすめるものだから、僕は押し切られるようにして、煙草を取った。 「ここに来て、どれくらいになるの?」  ライターの火を差し出しながら尋ねてきた。 「一週間と、ちょっとです」 「そう。じゃ、もう慣れたよね。これまで、どんな事件を扱ったの?」 「今のところ、ボウガン事件だけです。派遣されてすぐ、事件が発生してしまい、指導刑事について自分も別室入りしたものですから……」 「君はついているよ。研修中に、マスコミが騒ぐほどの大事件にめぐり会うことなんて、滅多にないからな」 「…………」  僕には二人の意図がわからなかった。 「ところで、午前中の検討会での君の発言なんだけどね。思わず、ドキリとしたよ。実は、今、Nシステムの画像から七、八台まで、絞って、捜査中なんだ。これは、まだ一部の関係者しか知らないけどね」 「そうですか。それは失礼しました」  と、頭を下げると、 「いやいや、詫《わ》びることはない。ところで、教えてもらいたいんだが、その……、城西署の事件では、不審車両が浮上したことがあるの?」 「不審車両、ですか?」  脳裏に紺色のワゴン車のことが浮かんだ。しかし、赤松主任の顔も浮かんだ。 「匿名情報とか、流言|蜚語《ひご》の類でも構わんのだが……」 「…………」  僕は正直、迷っていた。  個人的情報とは言え、事件解決のためには、明らかにすべきではないだろうか……。 「匿名情報とか、流言……蜚語」  僕は思い出そうとしているふりをして、どんな風な答え方をすべきか、考えていた。  その時、ふと、額の前方に何らかの気配を感じた。それは錐《きり》の先のような鋭く尖《とが》ったものを向けられているような感覚だった。反射的に顔を上げると、そこに、自分をじっと見つめる眼があった。谷口がルームミラーで僕を見つめていたのだ。それはゾッとするほどの光を放っていた。 「なぁ、どう?」  と、膝を揺すられて、僕は相川の方を向き、 「特に、そのようなことは耳にしていませんが……」  と答えて、再び、前を見上げた。ルームミラーに谷口の眼は映っていなかった。 「そう……。ま、耳にしていないのなら、仕方ないな」  相川が言った。 「ところで、これは、城西署員には聞けないことなんで、君に聞くんだけどね」 「…………」 「実は城西署員が住民とトラブルを起こしている、と聞いたんだが、そんな噂《うわさ》は聞いていない?」 「トラブル?」 「うん。金絡みのスキャンダルで、署は内々に収めようとしているらしいんだ。捜査本部の捜査員も、これから城西署管内を聞き込む予定になっている。できれば、そんな対象の家のドアをノックさせたくない。話がややこしくなるからな。かと言って、ここの署員に聞きづらいし……」 「そう言われても……」  僕は首を傾《かし》げた。実際、そんな噂は聞いていない。 「何でも、近くに、戦争記念の大きな石碑があるというんだが、地図を見ても載っていないし、役所に聞いても、文化財じゃないから、と素っ気ないんだ」 「申し訳ありませんが、聞いたことがありません」 「そうか……。じゃ仕方ないな……」  相川は落胆した表情で言った。すると、谷口が両手を首の後ろに組んで、 「まぁ、いいさ。それより、君、うまいラーメン屋を知らないかな」  と、くだけた口調で尋ねた。 「ラーメン屋、ですか?」  思いがけない質問だった。 「そう。実は、俺たちは何を隠そう、大のラーメン党でね。城西署の管内には、うまいラーメン屋があると聞いている。相ちゃん、屋号は何と言ったっけ?」 「えーと、確か、�めんこいラーメン�……」 「違う違う。もっと男っぽい屋号だったよ。�がんこラーメン�じゃなくて、何と言ったかなぁ……」  その時、僕の脳裏に、赤いのれんが浮かび上がった。 「それなら、�どすこいラーメン�でしょう?」  気がついた時は、口に出していた。すると、二人は声を揃《そろ》えて、そうそう、と相づちを打って、 「入ったこと、あるの?」  相川が尋ねた。 「いいえ。前を通りすぎただけです?」 「車で?」 「いいえ。歩いてです」 「ほう。すると、仕事の途中だったのかな?」  質問はしつこかった。まるで念を押すような聞き方だった。それが不自然で、少し気になったが、別に問題はないと思ったので、 「はい。仕事中に」  と答えた。相川は満足気にうなずき、谷口もそれ以上、何も言わなかった。  あのラーメン屋の近くには、雀荘�麻雀天狗《マージヤンてんぐ》�があるが、問題はない……。  僕はそう信じて疑わなかった。  今にして思うと、社会経験の乏しい、世間知らずの、お人好しで、おめでたい男の発想だったと思う。 [#改ページ]      17  豊島署の殺人事件の捜査は難航し、城西署の傷害事件の捜査も一向に進展しなかった。  犯人が捕まりそうもない、という空気が流れると、必ず、副次的に発生するものがある。まず、同一犯の場合は大胆になり、連続犯行が発生する。次に、これとは別に、面白半分の模倣犯と、�渡りに船�の便乗犯の発生がある。そして、厄介なことに、これらを区別することは、極めて困難な作業となる。なぜなら、同一犯人が、模倣犯、便乗犯を装うということもあり得るからだ。  豊島署の事件が発生した翌週、板橋のカラオケスナックにボウガンの矢が撃ち込まれ、客が重傷を負うという事件が発生した。続いて、錦糸町の銀行に、走行中のバイクからボウガンの矢が撃ち込まれた。その他、小金井でもボウガンを使ったコンビニ強盗が発生、いずれも、犯人検挙に至っていない。  本庁からも、そして、署の上層部からも、捜査担当者への風当たりが強くなる。その結果、本署から刑事たちの姿が消えた。  僕たちも街に出ていた。まだノルマの捜査を引きずっていたからだ。  牧野恒人という作曲家が帰京した、との連絡を受けたのだが、何度電話しても留守番電話のメッセージが聞こえてくるだけだった。それで、やむなく、一人暮らしをしているというマンションを訪れることにしたのだ。  表札は出ていなかった。メモで部屋の号数を確かめてから、ドアをノックした。しばらくすると、小さな覗《のぞ》き穴の光が揺らぎ、ドアがほんの少し開いて、 「誰?」  神経質そうな男の顔が半分だけ見えた。 「警察の者ですが、こちらは牧野恒人さんのお住まいでしょうか?」 「警察……」  男の顔が一瞬、強張《こわば》ったが、 「そ、そうです……」  と答えて、一旦《いつたん》、ドアが閉まり、チェーンを外す音が聞こえ、再び、ドアが開いた。  赤松主任は廊下に立ったまま、 「昨夜、奥さんから、お電話をいただき、こちらにも、何度か電話をしたんですが……」  と告げると、牧野は周囲を気にするような素振りをして、 「と、とにかく、中へどうぞ……」  すぐに後ろに下がった。  入口にビニールの紐《ひも》でくくられた男性雑誌が置いてあった。板張りのフロアには細かいゴミが落ちている。男がそのゴミの上にスリッパを並べた。  固いスリッパを履いて居間へ。花もアクセサリーもない。灰色の壁紙、紺色のソファー、薄茶色のカーテン。そして、煙草のヤニの臭《にお》い。予想した通りの殺風景な男所帯だった。 「お茶はいりませんから」  椅子に座る前に、赤松主任が言った。汚れた部屋では汚れた茶碗が使われることは、わかりきっている。 「ファンなんかから電話があったり、セールスの電話がかかってきたりしますので、留守電にしたままにしているんですよ」  牧野はばつが悪そうに、寝癖のついた髪を撫《な》でた。  だったら、相手を選んで受話器を取ることができるんじゃないのか?  僕は横目で牧野を睨《にら》んだのだが、赤松主任は、 「わかりますよ。しばらく前、ある女優さんから盗難被害の訴えを受理したことがあります。人気商売というのは、いろいろと気苦労が多いんだそうですな。いや、ご同情申し上げます」  と、相変わらず、淡々とした口調で言った。そして、 「早速ですが、保証人になることを断ったため、あなたを逆恨みしている人物のことですが……」  赤松主任は手帳を開いて、 「まず、その人物の住所、職業、氏名、年齢。それに、電話番号を教えて下さい」  と、ペンを構えると、 「あの、私としては、できれば、申し上げたくないんですが……」 「何ですって?」  と、問い返したものの、赤松主任に、さほど驚いた様子はなかった。やはり、背後に女性問題あり、と考えているのだろうか。 「彼が危害を及ぼす、という、はっきりとした証拠はないんです。ですから」  牧野は言った。 「一方的に訴えるのは、まずいでしょう? 冤罪《えんざい》になる。これはゆゆしきことです。少なくとも、僕は、その張本人にはなりたくはありません」  言動は明らかに不自然だった。 「牧野さん。あなたが冤罪の心配をされる必要はないんです。告訴したところで、直ちに刑務所行きになるわけじゃない。その前に、内偵捜査というものがあって、真犯人かどうか、確かめる作業があるんです。更に言うならば、それで真犯人ということが判明しても、証拠がなければ逮捕はできません。今は、そういう法律制度になっているんです。真犯人かどうかで、逮捕状が発布されるのではなく、証拠があるかないかで、逮捕状が発布されるんですよ。おわかりですか?」  と、噛《か》んで含めるように説明したが、 「でも、やっぱり、まずいですよ。犯人扱いするのは、まずい。それに、借金の保証人を断ったことに対して、私は今でも、少々、引け目を感じるところがあるんです。私がハンコを押していれば、倒産せずに済んだかも知れない」 「…………」 「倒産したことに対して、多少は責任があるのかな、とも思っています。ですから、できれば、これ以上、彼を追い詰めるような真似《まね》はしたくないわけなんです」  言語は明瞭《めいりよう》だったが、内容が曖昧《あいまい》で、話の筋道がずれている。 「しかし、今回の問題は、あなたと彼のことではなく、あなたの娘さんの安全に関《かか》わることなんですよ。私だったら、彼の冤罪を心配するより、自分の子供の命を優先して考えますけどね」 「そんな大袈裟《おおげさ》な……」  牧野は笑おうとしたのだろう。だが、顔は引きつっていた。 「……大袈裟?」  赤松主任が険しい表情で言った。 「ええ。大袈裟ですよ。こんな大騒ぎになって、私も驚いているんです。まさか、警察に訴え出るとはね。全く恥ずかしいですよ。穴があったら、入りたいくらいです」  と言って、頭をかいた。 「そんなことはありません。か弱い母親が子供の身を案じて警察に救いを求めることは、当たり前のことです。増して、母子の二人暮らしとなれば、なおさらのことですよ」 「考えすぎですよ……。別に、それほど差し迫ったことじゃ……。まぁ、言葉通りに受け取れば、仕方がないかも知れないけど……、それにしても、刑事さんたちが乗り出すほどのことでは……」  牧野の発言には一貫性がない。赤松主任は手帳を閉じた。そして、 「よくわかりました。その言葉を、そっくりそのまま、奥さんに伝えることにしますよ。そして、しばらく身を隠すように、お勧めします。所在がわからなければ、あなたの知人とやらも手の出しようがありませんからね」  と言って、腰を浮かしかけた。すると、 「ち、ちょっと……。それは困りますよ」  牧野が口を尖らせた。 「ほう……。なぜ?」  と、聞き返すと、 「なぜって……。それじゃ、私が娘の身よりも、知人のことを心配しているように思われてしまうじゃありませんか」 「でも、事実、そうなんでしょう?」  と、念を押されても、牧野は不思議そうに赤松主任を見ているだけだった。そして、 「すみませんっ」  と言うと、突然、ソファーから下りて、床に両手をついた。 「どういうことですか?」  と尋ねると、 「実は、隠していましたが、私には、その……、交際している女性がいまして。早く妻と別れろ、と迫ってきているんです。それで、ひょっとしたら、娘に危害を及ぼすのではないか、と思い、急に心配になって、妻に電話したんです」  と言って、うなだれた。 「ほう。女性、ですか……」  赤松主任が予想した通りだ、と、この時は思った。 「で……、その女性は、やはり同じ楽団の?」 「いいえ。ある料亭の娘さんです。箱入り娘なものですから、わがままで、手を焼いています」 「すると、その女性が、あなたの娘さんに危害を及ぼす、というような言動をしたわけですか?」 「いいえ。具体的にはしていませんが、私にはピンとくるものがあったものですから……」 「なるほど。ピンと来るものがね。立ち入ったことを聞きますが、その女性とは結婚のお約束でも?」 「いいえ。でも、向こうは、その気になっているかも知れません」 「……知れません?」 「はい。私の方は妻と別れたわけではなく、ただ、冷却期間を置くために別居しているにすぎませんから……」 「冷却期間……」  赤松主任は首をひねって、 「とにかく、一応、その女性の住所、氏名を教えてもらいましょうか」  と、再び、手帳を開いた。 「どうか、それだけは……。この通りです」  牧野は土下座した。 「念のためですよ、牧野さん。私どもは直接、接触しません。一応、参考のため、知っておきたいだけです」 「どうか、ご勘弁下さい。料亭の信用にも関わることですから」 「私どもは、営業妨害になるような行動は取りませんよ。それに、どうせ結婚するつもりのない相手なんでしょう?」 「いえいえ。両親が私の恩人でもありますので、どうか、それだけは……」 「牧野さん、私どもは子供の使いではないんですよ。事件とは無関係だとしても、上司への報告の都合上、どこのどなた、くらいは、説明しなければならないんです。秘密は厳守しますから、その女性の住所と名前くらいは教えて下さい」  と、穏やかな口調で説得したのだが、牧野は突然、立ち上がった。そして、 「勝手に何とでも報告しろっ」  と、怒鳴った。 「お前たちは一体、何だっ。前触れもなく、勝手に他人の部屋に押しかけて。警察にそんな権利があるのかっ」  声も体も震えていた。顔は青ざめ、唇が震えている。だが、僕がショックだったのは、その目だった。間近な物に目を凝らしているようでもあり、同時に、はるか彼方《かなた》の風景を眺めているような不思議な目の色だった。 「どうも、大変、失礼しました」  赤松主任が言った。その穏やかな表情に変化はない。 「ご協力いただけると思って、ご迷惑も顧《かえり》みず、押しかけてしまいました。深く、お詫《わ》び申し上げます」  と一礼すると、僕の方を見て、 「じゃ、帰るぞ」  と声をかけ、玄関に向かった。僕は後に続いた。牧野は一歩も動かなかった。少なくとも、僕たちを見送ることはしなかった。  マンションの廊下をエレベーターに向かいながら、 「驚きましたね」  僕が後ろを振り返ると、 「最近、ああいうのが増えている。昔は、木の芽時[#「木の芽時」に傍点]とか、陽気の変わり目とか、時節が決まっていたんだがね。今は、そういう面でも、季節感がなくなったな」  赤松主任はため息まじりにつぶやいた。 「しかし、女絡み、という線はズバリ的中したじゃないですか。さすがです」  と、敬意を表したつもりだったが、 「ズバリ的中だと? 冗談じゃない。大外れだよ」  赤松主任は吐き捨てるように言った。 「大外れ?」 「部屋の様子を見なかったのか? 女出入りの痕跡《こんせき》はない。保証人のことも、逆恨みの知人のことも、俺たちに説明した料亭の娘のことも、全部、作り話だよ」 「全部?」 「そう、全部、作り話だ。別居中の女房子供と縒《よ》りを戻したいための自作自演だよ。未練たっぷりの作り話が一人歩きして、にっちもさっちも行かなくなってしまったんだ。嘘がバレそうになると、もっと大きな嘘をつく。それがあの男の生まれながらの性癖。典型的な虚言癖だ。あの美人の奥さんも、それに騙《だま》されて結婚し、化けの皮が剥《は》がれたところで、愛想が尽きたんだろうよ。フリーマーケットから後をつけたという車というのも、おそらく、あの男が運転していたんだろう」 「…………」 「全く、首を傾《かし》げたくなる生き方だが、世の中には、実際に、ああいう人間が堂々と大手を振って生きているんだ。おまけに、自分の尺度が一番正しい、と信じて疑わない。あの男は今頃、自分がなぜ怒鳴ったのか、わからなくて考え込んでいるはずだ。でも、それも、ほんの二分か三分のことで、考えてもわからないから、まぁいいか、と、自分に言いきかせて、テレビのスイッチを入れることになる」 「…………」 「だが、考えてみれば、自分の尺度が一番正しい、と信じて疑わないのは俺たちにも言えるわけで、他山の石とすべきだ。つまり、仕事をする時は、だな……。まず、自分の物差しを引っ込めて、相手の物差しを見抜く。その目盛りが計れるようになれば、まぁまぁ一人前だ」  と言うと、わかったか、という風な目付きをして僕を見た。 [#改ページ]      18  牧野恒人との面談を終えた後、公衆電話で別室へ連絡した。その際、赤松主任への伝言を受けた。  それは笠井という人物からで、赤松主任に連絡を乞《こ》う、というものだった。笠井の名で僕に思い当たるのは、�麻雀天狗《マージヤンてんぐ》�のオーナーしかない。  伝言を伝えると、赤松主任はすぐに公衆電話ボックスに入った。  長電話だった。丸まった背中が只事《ただごと》でないことを物語っている。やがて、一旦《いつたん》、受話器を戻し、どこかへ電話した。二度目の電話は短いものだった。受話器を戻したまま、かなりの時間、じっとしていた。  やがて、電話ボックスから出てきた赤松主任は僕に対して、 「つかぬことを聞くけど、�山小屋�の例の目撃者のことは、誰かに話した?」  と尋ねた。 「いいえ。誰にも話していませんけど」  僕は首を振った。事実、誰にも話していない。赤松主任の顔が少し紅潮して、 「なら、いいんだ……」  と、うなずいた。 「何か、あったんですか?」 「うん。�山小屋�の目撃者が引っくくられたそうだ」 「�山小屋�の目撃者?」 「オヤジさんから聞いたろう? 二階の窓からコーヒーを飲みながら、ご婦人方を眺めていた男のことだ」 「はい、覚えています」 「不思議なのは、どういうわけか、隣の経堂署へ持って行かれている」 「経堂署へ、ですか?」 「まぁ、別件だとは思うんだが……」  赤松主任は迷っている様子だったが、意を決したように、 「ちょっと気がかりだ。経堂署へ行ってみよう」  と、車に乗り込んだ。  経堂署の駐車場に車を入れ、赤松主任は僕を残して庁舎の中へ入って行った。そして、すぐに戻ってきた。  その十二、三分後に、五十歳前後の太った男が、フラリと現れた。赤松主任が窓から手を上げて、 「牛島ー、こっち」  と声をかけた。すると、向こうも手を上げた。  牛島というのは赤松主任の元同僚で、今は経堂署で暴力団担当の捜査係長をしているとのことだった。  牛島が後ろの座席に乗り込むと、 「こっちは、今の相棒だ」  赤松主任が僕を紹介した。たぶん、見習いとか、指導刑事とか、説明するのが面倒臭かったのだと思う。 「そうかい。ま、よろしく」  牛島は右手を伸ばして、僕に握手を求めてきた。大きな固い手だった。 「それで、その手塚という男の容疑は何なんだ?」  赤松主任が尋ねた。 「容疑ではなく、参考人ということだったな」 「何の?」 「最初は賭博《とばく》容疑。あれは見え見えの芝居だった。手塚というのが賭麻雀《かけマージヤン》をしていることを承知の上で、情報さえくれれば、見逃してやってもいい、というガキでもわかる取り引きだ」 「情報って、賭博情報か?」 「俺も、そう思ったが、賭博は関係ないらしい。断定はできないが、どうやら、赤松つぁんの扱っている事件の情報らしいな。何でも、ワゴン車がどうの、駐車がどうの、と言っているのが聞こえた」 「参考人調べで?」 「うん。別に、聞くつもりはなかったんだが、途中から、机をぶっ叩《たた》くわ、椅子を蹴《け》っ飛ばすわ、怒鳴り声を張り上げるわで、ありゃ、ホシの調べと変わりはなかったな。ひょっとしたら、おフダを取っていたのかも知れん」 「立会いは、捜査一課の谷口と相川。この名に間違いないね?」 「それは間違いない。うちに顔見知りの刑事がいる」 「そうか……」 「どうかしたのか?」 「いや、実は、俺のネタ元が関係しているんだ」 「何だって? あの手塚というのはネタ元だったのか? だったら、もっと早めに連絡してもらえりゃ……」 「違う違う。手塚という男のことを教えてくれたのが、ネタ元なんだ」 「よくわからんな。どういうことだ?」 「俺は今の今まで、手塚なんて男は知らなかった。名前までは教えてくれなかったからな。手塚という男の握っている情報を教えてくれたんだ」 「ひょっとして、それが、ワゴン車とか、駐車とかいう情報か?」 「その通り」  と答えると、牛島は舌打ちして、 「そりゃ、ちょいとヤバイなぁ。ネタ元がチクったことが、あの手塚という男にバレちまうぞ」 「それが心配なんだ。手塚がもし、特定の情報を俺のネタ元にしか話していないということになると、そういうことになる」 「すると、その情報というのは、上には報告したのか?」 「いや、まだだ」 「じゃ、心配ないよ。そっちが報告していないのなら、あの捜査一課の二人にバレるはずがない。漏れたのは別口だ」 「だと、思うんだが、どうも胸騒ぎがしてならない。ネタ元のカミさんと電話で話したんだが、怯《おび》えきっているんだ。どうやら、手塚という男から、何か言われたらしい」 「はったりだよ。あの連中のやり口だ。もし、手塚という男が知っているなら、予告なんかするもんか。ネタ元には気の毒だが、いきなり、グサリか、ズドンだよ」 「…………」 「ともかく、今更、どうにもならないよ。ここは、あれこれ気を回して、動かないことだ。ひょっとしたら、手塚があちこちにカマをかけているのかも知れん。だとしたら、その罠《わな》にまんまとはまることになるからな」 「わかっている。しばらく様子を見るつもりだが、もし、手塚の情報が入ったら、すぐに知らせてくれ」 「よしきた。じゃ、調べの途中なんで、これで……」  牛島は車から出て、小走りに戻って行った。  用件は済ませたはずなのに、赤松主任はいつまでも前方を見つめていた。  情報が漏れたのは、僕のせいではないか、と思い始めたのは、経堂署から戻る途中のことだった。  僕は週休日に�山小屋�を訪れ、聞き込みをしている。あの時、僕は、店の近くに駐車していたワゴン車のこと、そして、窓辺の席に座る客のことを店主に尋ねている。その客が麻雀好きらしいことまで話してしまっていた。  もし、僕の後に、谷口たちが同じように、あの店へ聞き込みに行ったとしたら、どういうことになるだろうか? 店のマスターは、『少し前にも刑事さんが来ましたよ』と、話さないだろうか? 谷口たちは、『どんなことを聞いて行きましたか?』と、尋ねるに違いない。すると……。  しかし、僕は�麻雀天狗�という店のことは、一言も話していない。だから、大丈夫とは思うのだが……。  僕は記憶をたどってみた。  そう言えば、あの二人は城西署の中庭で、僕に奇妙な質問をしている……。 「どうした? 信号は青だぞ」  赤松主任が顎《あご》を前方に突き出した。 「は、はい……」  僕は急いでハンドブレーキを戻し、車を発進させた。  あの時、何を聞かれたんだろう? まず、城西署のスキャンダル。それに、有名なラーメン店。�麻雀天狗�近くだった。あれは単なる偶然だと思うのだが……。  不吉な胸騒ぎがした。僕は少し、迷った後、車を道の左端に寄せ、停止させた。 「気分でも悪いのか?」  赤松主任が心配そうな顔で尋ねた。 「あの……、�どすこいラーメン�という店は有名な店なんですか?」  僕は尋ねた。 「�どすこいラーメン�? 藪《やぶ》から棒に、何の話だ」 「大事なことなんです。答えて下さい。�麻雀天狗�の近くにある�どすこいラーメン�という店は、人気のある店なんですか?」 「そうだなぁ……」  赤松主任はニヤリと笑って、 「俺は一度も入ったことがない。誰かに、あの店のラーメンを食うくらいなら、一食抜いた方がマシだ、と言われたんでね」  という答えを聞いて、僕は愕然《がくぜん》とした。全《すべ》てがわかったからだ。思わず両手で頭を抱えていた。情報は僕が漏らしたも同然だったのだ……。 「どうした? さっきから、少し変だぞ」  赤松主任が言った。しかし、僕はハンドルに顔を押しつけたままだった。全てがわかったからだ。 「しっかりしろっ。一体、どうしたんだ?」  と、叱《しか》りつけるような口調で言った。赤松主任が僕に声を荒らげたのは、それが初めてだった。  僕は我に返って、 「情報は、たぶん、僕から漏れたと思います」  と、正直に言った。今更、隠しようがなかった。 「……何だと?」  赤松主任の表情が険しくなった。 「直接、漏らしたわけじゃありません。しかし……、僕がバカだったんです」  と言って、再び、頭を抱えると、 「いいから、順序立てて、わかるように説明してみろ」  赤松主任は僕の手を掴《つか》んで、頭から外した。言われた通りにするしかなかった。  僕は週休日に�山小屋�を訪れたこと。そこで、聞き込みをしたこと。警察署の中庭で谷口たちから、いろいろ聞かれたことを、包み隠さず、説明した。  最初のうち、僕をじっと見つめて耳を傾けていた赤松主任は、途中から、前方に眼を向け、不機嫌な表情になった。 「僕は�麻雀天狗�の名は一言も口にしていませんが、たぶん、よそ者の僕が、あのラーメン屋を知っているということから、�麻雀天狗�を突き止めたんだと思います」 「たぶん、そうだろう。もし、�どすこいラーメン�を知らない、と答えたら、おそらく、仏具屋を知らないか、と尋ねただろうよ。その近くにも、麻雀屋がある。それも知らない、と答えたら、次はたぶん、クリーニング屋かな。その近くにも、一軒ある。そうやって、あの二人は、麻雀店を特定しようとしたに違いない」 「…………」  僕の足は小刻みに震え出していた。取り返しのつかないミスを犯してしまったような気がした。 「心配するな。大丈夫だよ」  赤松主任が殊更《ことさら》、明るい口調で言った。 「繁さんがゲロって、手塚がしょっぴかれたとは思えない。たぶん�麻雀天狗�に出入りしている常連客の中から、叩けば埃《ほこり》の出そうなのを吊《つ》るし上げて、手塚を割り出したんだろう。きっと、そうさ」 「すみません。迂闊《うかつ》でした」  僕は頭を下げた。自分自身が情けなかった。 「まぁ、仕様がない。相手は海千山千の捜査一課だからな。どっちみち、やられていただろう」 「すみません……」  もう一度、頭を下げた。その時、急に目頭が熱くなって、涙がこぼれた。情けなく、悔しかった。 「おいおい、どうした? いい大人が泣くほどのことじゃないだろう?」  赤松主任は驚いた様子だった。 「気にするな。そっちの責任じゃない。恥じるには及ばないよ。それどころか、よくも見抜いたもんだ。一人前の刑事でも、情報を盗まれたことには気づかなかっただろう。そこが、あの連中の凄《すご》いところだ。だてに一課の飯を食ってはいない」 「…………」  僕は文字通り、歯ぎしりし、拳を握り締めていた。脳裏に、リンゴを剥《む》いてくれた笠井の妻の太い指と、笑顔がよぎった。涙が止まらず、握り拳が濡《ぬ》れた。 「それに、一課の連中も、�麻雀天狗�の名は出していないようだ。だから、手塚という男は繁さんを臭いと疑ったとしても、証拠はない。大丈夫だよ。繁さんとは何度か雀卓を囲んだことがあるが、なかなかのタヌキでね。手の内は読ませない」 「…………」 「いずれにせよ、いい勉強になったろう? 所轄の刑事と、本庁の刑事の違いがわかっただけでも、大変な収穫だ。本庁の刑事は遠慮ということをしない。狙《ねら》った相手は徹底的に叩いて、目的を達成する。所轄の刑事がそんなことをしたら、管内では仕事ができなくなってしまうけどね」 「…………」 「俺は別に、本庁の刑事の悪口を言っているんじゃないぞ。俺が言いたいのは、彼らと俺たちとでは、仕事のやり方が違う、ということだ。一課や機捜の刑事は、言うなれば、救命救急センターの外科医みたいなもんだ。一刻一秒を争う緊急手術が専門なんだ。患者が痛いの、痒《かゆ》いのと訴えても、聞く耳は持たない。ひたすら、メスを振るうだけだ」 「…………」 「彼らは、それでいい。緊急だから、もたもたしてたら、患者は死んじまう。それに比べると、所轄の刑事は全く違う立場でね。小児科から泌尿器科まで受け持つ町医者みたいなもんだ。めったにメスなんか握らない。血圧を測り、聴診器を当て、ぐちを聞くだけの診療もある。実際、それで治る病気もあるからだ。俺の言っていることがわかるか?」 「はい。まぁ……」  僕は濡れた拳で鼻先を擦《こす》り上げた。 「あの二人は優秀な外科医で、年寄りの町医者が長年かかって、こつこつ書きためた往診日記を、ちょいと覗《のぞ》いてみたくなっただけのことだ。でも、いろいろ事情があって、町医者は見せてくれそうにもない。だから、人のいい見習い医者と世間話をしながら、それを探り出した。ただ、それだけのことだ」  いつもの淡々とした口調が戻っていた。 [#改ページ]      19  定刻、別室に引き上げると、すでに何人かの捜査員の姿があった。交通執行係の三宅と地域総務係の福本が話していた。赤松主任を見て、何事か話しかけてきたが、自己嫌悪に陥っていた僕は、耳を傾ける気力さえ失っていた。  部屋の隅に座り、ノートを読み返している振りをして、ただ時の過ぎるのを待っていた。  どれくらい時間が過ぎてからか、 「捜査研究会は、まだ続くのかな?」  いつの間にか、上席についた荒木が冗談口調で言った。その言葉で、専従員たちは口をつぐみ、居ずまいを正した。 「じゃ、いつもの順序に従って、各班、発表をしてくれ」  と言って、荒木は腰を下ろした。すると、岡部がうなずいて、 「えー、桜が丘団地の溝口昭二の件ですが、アリバイを確認いたしました。事件当日、溝口は太陽真教という新興宗教の本山、これは長野県の吉野にあるんですけど、そこで、一泊二日の祈祷《きとう》を受けています。これは宗教団体の東京事務所で確認しました」 「祈祷だって?」  荒木が聞き返した。 「ガン封じの祈祷ですよ。前にも申し上げましたけど、溝口は三年前に大腸ガンの手術を受けています。このまま再発しないように、ということなんでしょう」 「なるほどね。自分の命だけは惜しいというわけか」  と鼻で笑って、 「一泊二日って、缶詰状態なの?」 「そうです。もっとも、外へ出ることはあるようですけど、山歩きをしたり、滝に打たれたりの祈祷だそうで、用便以外は定められた場所を一歩も離れられないんだそうです」  溝口はシロだ、と言わんばかりの報告だった。だが、 「念のために聞くけど、豊島署の事件の当日、三月五日のアリバイは確認してある?」  荒木が念を押す。 「えーと、三月五日は……」  岡部はノートの頁を繰って、 「その日の午後六時には、チェリーという喫茶店で店員に目撃されています。伝票も確認しました」  と、簡潔に報告した。 「そうか。じゃ、これも削除だな。ご苦労さんでした。えーと……、次は、工藤主任」  荒木が指名した。  工藤は稲葉会とバレエスクールとの関《かか》わり合いは認められず、弓道場の職員を脅した組員にアリバイがあることを報告した上で、 「質問される前にお答えしておきますけど、豊島署の事件との関与の可能性はないと思います。池袋は國吉連合会のシマになります。どんな理由があるにせよ、そこで仕事をすれば、これは縄張り荒らしになります。仲間うちからも稲葉会は袋叩《ふくろだた》きにされます。その前に警察にチクられるでしょうね」 「なるほど。これも見込み薄、か……。じゃ、次、赤松主任」  荒木がノートに×印をつけた。 「作曲家にして、バイオリン奏者の牧野恒人に対する脅迫者については」  赤松主任はノートを見ずに、 「本人の早とちりと思われます。それとは知らずに、別居中の妻が心配して、警察に電話してきたものです」 「何だって?」 「早とちりです。知人が訴え出人の娘を付け狙《ねら》っている、という根拠は全くありません。ほとんど作り話に近い早とちりです」  早とちり、を強調したのは、たぶん牧野に対する心遣いだったのだろう。 「何てこったい……」  荒木が呆《あき》れた顔をして、 「変だと思ったんだ。そんなに心配なら、本人が直接、警察に電話してくるはずなんだよな……」 「それに、旅行から戻ったら、すぐに妻子のところへ駆けつけるはずです。そうしないのは、早とちりだったからですよ」  と、赤松主任。その一言で今後の方針が決定したようなものだった。 「全く、あきれたもんだ。一度、芸術家の頭をかち割って、中を覗《のぞ》いてみたいよ。えーと……、この件は豊島署とは関係ないな」  荒木は首を振りながらバツをつけた。  続いて、公安係の高畑を指名し、次いで、少年係の長谷川、交通執行係の三宅、地域総務係の福本が報告していったが、どの報告も、捜査対象者の容疑は希薄という内容だった。  引き続いて、強行犯の紅一点、上条がストーカー男について報告した。  送られてきた白鳥のぬいぐるみの入手先を突き止めた、という内容だった。上条は拳を握り締め、ソプラノの声には不釣り合いな捜査用語を並べ立てて、容疑者を逮捕して徹底的に追及すべき、と主張した。 「どうやら、これだけは立件できそうだな。本ボシかどうかわからんが、試しに一丁、パクってみよう」  荒木が言った。  どうやら、検挙の方針が決定したようだった。  すでに赤松班のノルマは終了しており、僕が望みさえすれば、美人のデカ長《ちよう》にピッタリ寄り添い、付きまとい男の逮捕、そして、取り調べにも立ち会うことが許されたはずだ。  しかし、この時の僕は、そんな気にはなれなかった。�麻雀天狗《マージヤンてんぐ》�の件で気持ちが萎《な》え、全《すべ》てのことが、なぜか空しく、一刻も早く、会議が終わればいい、と思っていた。  僕は落ち込んでいた。だから、仕事が終わってからは、久しぶりに馴染《なじ》みの店に行き、飲んで騒いで、嫌なことを忘れようと思っていた。だが、あっさり、その目論見《もくろみ》は外れてしまう。  この日、牧野恒人の事情聴取を終えたため、赤松班は当面のノルマを終了していた。つまり、翌日からの活動は未定ということになる。この種の情報というものは電光石火のごとく伝わるものらしい。荒木の元へ、刑事課長から欠員補充の電話が入った。  こうして、赤松主任と僕は、訃報《ふほう》を受けて帰郷した刑事の代役として、その日の夜、急きょ夜勤勤務につくことになった。  専従員だから、何かあっても、署外活動は原則としてしなくてよい、ということだった。さらに、翌日は早めに帰宅してよいということだった。  だが、結局、この約束は反故《ほご》になる。夜間態勢に入って間もなく、僕が仮眠室のドアに手をかけようとした時、署内に警報のベルが鳴り響いた。火災発生、しかも、放火の疑いが濃厚、という第一報だった。  全員に招集がかかり、僕も赤松主任と一緒に現場に向かうつもりだった。だが、当直責任者の交通課長の意向で、刑事が一名、本署に残ることになった。どうせ電話番だから、ということで、僕が残ることになった。  刑事部屋の電話番であれば、応援勤務の時、経験したことがある。電話がかかってきたら、相手の伝言と時刻をメモすればよい。ややこしい内容だったら、担当者が出払っている、と答えればよいのだ。  この時は、もっと簡単だった。一人になってから三十分ほどして、新聞記者から、火災について問い合わせがあった。僕は、捜査中、とだけ答え、電話を切った。  退屈だった。と言うより、何かをしようとする意欲が失《う》せていた。僕は例の失敗を思い出しては、ため息ばかりついていた。  さまざまな考えが去来する。  僕は�麻雀天狗�と赤松主任の関係を潜在意識の中で、忌まわしい癒着《ゆちやく》、と考えていたに違いない。違法行為者と警官との親交を嫌悪していたのだ。そのことが、無意識のうちに、口を軽くさせたのだと思う。  だが、合法と違法とは何か? パチンコ店の隣に景品交換所を作ることによって、明らかな脱法行為が白日の下に罷《まか》り通っているではないか。国や県や市が胴元になり、寺銭を予算に使えば、賭博《とばく》行為も合法とされる。立場と視点の違いによって、合法と違法とは入れ替わってしまうのだ。  上辺だけの正義感にとらわれて、安っぽい男だよ、お前は……。  僕は掌《てのひら》で机を叩《たた》いた。  耳障りな無線通話の声も、ボリュームを絞れば、子守歌のようになる。僕は両手を机の上に重ね、その上に額をのせた。そのまま寝込んでしまうほど、図太い神経の持ち主ではない。気だるい時が過ぎて行った……。  廊下の方で、言い争う声がしたので、僕は顔を上げた。その声が次第に近づいて来る。僕は目を擦《こす》り、居ずまいを正した。  地域課の警官が二人、作業員風の男を連れて現れた。顔面にケガをしている。六十歳くらいの小柄な男だったが、 「この顔の傷を、どうしてくれるっ」  と、すごんでいる。  何事か、と思っていると、地域係長が近づいてきて、 「火つけのホシに違いないんだ。何とか落としてもらいたい」  と、僕に耳打ちした。その係長は着任して間もないらしく、僕の素性を知らない様子だった。しかし、ただの電話番ですから、と言って、断るわけにはいかない。僕は取調室に、その男を入れた。  経験未熟な実務研修生に、放火の容疑者を自白させることなど、できるはずがない。僕は無線で、署外活動中の刑事に連絡した。そして、本署に引き上げてくるまでの間、男の傷の治療をしようとした。 「余計なことをするな。若造っ」  救急箱を持って行くと、男が罵《ののし》った。 「自分でやる?」  と、消毒液を差し出すと、男はそれを振り払って、 「大きなお世話だ、と言ってるんだっ」  と怒鳴った。  僕は黙って、床に落ちた消毒液を拾い、救急箱に戻した。  男の言うように、それ以上、余計なことをするつもりはなかった。僕は男の前に座り、誰かが現れるのを待ち続けた。  その間、男は言いたい放題のことを言った。でも、僕は黙っていた。 「この若造めっ」  その通り、僕は若造だ。経験不足の出来損ないだ。 「税金泥棒っ」  そうかも知れない。給料分の仕事ができていないのだから、そう言われても仕方がない。 「早く、帰せっ」  警官がいなければ、裏口から出て行ってもらっても、一向に構わないんだが……。  僕は本気で、そう思った。  そんな風にして、十分か二十分が過ぎ、不意に取調室のドアが開いた。現れたのは、赤松主任だった。本署に引き上げようとする刑事に対して、指導担当だから、と言って代わったのだと言う。  僕は席を立ち、壁を背にした。それ以降の赤松主任と容疑者のやりとりは、僕にとって忘れがたいものとなった。  赤松主任は僕がしようとしたように、まず救急箱の蓋《ふた》を開けた。すると、 「全く、ここの警察は、お医者さんごっこが好きなのばかりだなぁ」  と嘲《あざけ》り笑った。 「別に、そういうわけじゃない。見ているこっちが痛くなるんでね。絆創膏《ばんそうこう》でも貼ろうかと思ったんだ」  赤松主任は開けたばかりの蓋を閉めた。 「そのケガをさせたのは、どこのどいつだっ。城西署のお巡りじゃないかっ。このままじゃ済まさせないぞっ」  容疑者は声を荒らげ、警官を罵倒《ばとう》した。そして、自分はやましいことはしていないこと。何の証拠もないのに、暴力警官は自分をパトカーに乗せようとしたこと。抵抗したら、ひどく殴られたことを、とうとうと並べ立てた。  赤松主任は黙って聞いていた。容疑者の声は、ますます高くなって行き、 「いいかっ。ケガさせたお巡りが詫《わ》びを入れない限り、俺はここから一歩も動かないからなっ」  と言って、そっぽを向いた。  数秒間の静寂。すると……、 「終戦の時、俺は友達と一緒に、近所の竹林へ行った。手頃な竹を切って、竹槍《たけやり》を作るためだった」  赤松主任は突然、思い出話を始めた。僕は呆気《あつけ》にとられた。それは容疑者も同じだったようで、ポカンと口を開けている。 「戦争中に周りの大人たちから、もし、アメリカに負けたら、男は殺され、女は奴隷にされる、と吹き込まれていたからだ。だから、年寄りたちの命を助け、母と姉と妹を守らなければならない、と、本気で考えていた」 「…………」 「まだ、十やそこらの、ほんの子供だったが、死ぬ覚悟だったな」 「…………」  一瞬、容疑者の表情が緩んだが、すぐに、元の険しい顔に戻った。そんな話をしても誤魔化されやしないぞ、とでも言いたげだった。 「兄貴格の村の若者たちは、次から次へと出征し、バタバタと死んで行った」  赤松主任は一方的に続けた。 「だが、俺は泣いた記憶はない。当時は、そういうものだと思っていた。俺も将来、兵隊に取られて、国のために死ぬんだ、と思っていたよ」 「…………」 「ざっと見たところ、あんたも、俺と同年代のようだが、終戦は、どこで?」  と尋ねると、容疑者はしばらく黙っていたが、 「九十九里浜の近く……。遠い親戚《しんせき》に預けられていた」  ポツリと答えた。 「九十九里浜か……。そりゃ本場だ。アメリカ軍が上陸してくると言われてた場所じゃないか……」 「ああ……。確かに、そんな噂《うわさ》が流れた」 「じゃ、大騒ぎだ」 「まぁな。でも、俺は平気だった。空襲でおふくろも兄弟も、全部、死んじまったし、アメリカの兵隊に殺されりゃ、あの世で会えると思っていたからな」 「そうか……。空襲でやられたのか。そりゃ、気の毒だった」 「親父もインパールで戦死したし、身寄りがなくなったんで、九十九里浜の親戚に預けられたんだが、その家の嫁さんというのが意地の悪い女でね。腐った芋なんかを食わされたりして、ひどい目に遭った」 「可哀相に……」 「あんたは、同じ身の上だ、とでも言いたいんだろうけど、竹槍で守る身寄りがいた人間と、たった一人、生き残った人間とじゃ、まるで違うよ。全然、違う……」  容疑者は自虐的な笑みを浮かべた。 「そうかも知れん。だが、食うや食わずの戦後を生きてきたことは同じだろう? 俺たちは、その日その日を生きて行くだけで精一杯だった。今みたいに、若者らしく、遊んだり歌ったりすることはなかった。俺たちには青春なんかなかった……」 「そうだな……。確かに、俺たちに、青春なんか、なかったな……」  容疑者は伏目がちになった。  それからは身の上話になった。  それによると、親戚の家を飛び出し、上野で戦災孤児と生活を共にする。成人してからは、建築現場を転々とするようになり、飯場暮らしが続く。結婚する機会もあったが、酒癖と博打癖《ばくちへき》が災いして、妻帯することはなかった、とのことだった。 「あんたも、とことん不運な身の上なんだなぁ」  赤松主任が言うと、 「まぁな。空襲で死んじまった方がよかった、と、何度も思った」  容疑者は寂しげに笑った。 「もし、家族の誰かが生き残っていたら、あんたの人生は変わっていたろうな」 「さぁ、それは、どうかな? こんな出来の悪い人間だからな。家族に苦労をかけたかも知れない」 「そんなことはない。家族が生き残らなくても、結婚していたら、人生は変わっていたはずだよ。一つ所に腰を据えて、一家を成していたはずだ」  と言うと、容疑者はうんざりした顔をして、 「女には騙《だま》されるだけだった。金を持ち逃げされるか、借金を払わされるかの、どっちかだった。俺に寄ってくるのは、そんな女ばかりだった。もう、こりごりだよ……」 「いや、そんなはずはない。中には、心底、あんたに惚《ほ》れていた女もいたはずだ。その年になって独り身というのは、あんたに女を見る目がなかっただけのことさ」 「へぇ、そうかい。そりゃ、惜しいことをしたもんだ……」  容疑者は不貞腐《ふてくさ》れた顔をして、そっぽを向いた。だが、以前の表情とは微妙に異なっている。 「女房子供を養う一家の主であるならば、だ……」  赤松主任は言った。 「こんな殺風景な調べ室で、顔を血だらけにして、おいぼれ刑事の話なんか聞いているもんか。今頃は、古女房の隣で、スヤスヤ寝息を立てているよ」 「いねぇんだから、仕様がねぇだろうっ」  容疑者が口を尖《とが》らせる。すると、 「俺はな、そういうことを言っているんじゃないんだよ。戦争中、九十九里の浜で竹槍を構えて、おふくろさんや兄弟の仇《かたき》を討とうとしたあんたの心のことを言っているんだ」 「…………」 「あんたも俺も、他の子供同様、軍国少年だった。ほんの子供だったが、大人になったら、国のために命を捨てる覚悟だったはずだ。なのに、今のあんたは何だ。こんな所へ押し込められて、何て様だ。情けないとは思わないのか?」 「…………」 「あんたが倉庫に火をつけたことはわかっているんだよ。警察が、だてや酔狂で捕まえたとでも思っているのか? あんたの袖口には、焦げた跡が残っているじゃないか」  と指さすと、容疑者は袖口を隠す仕草をした。 「こそこそと逃げ隠れて、捕まったら、居直って、息子のような若い刑事相手に、勝手なことを並べ立てて……。恥ずかしいとは思わないのか?」  赤松主任の声は上擦り、まるで訴えかけるような口調になっていた。 「九十九里浜にいた頃の、昔の男らしかったあんたは、一体、どこへ行ってしまったんだ? 命を捨てようと覚悟したあんたは、どこへ行っちまったんだ? その頃のことを思い出して、今の自分の姿を恥ずかしいとは思わないのか?」  赤松主任の言葉に、僕は何十年もの歴史を感じた。戦中戦後を生き抜いてきた人物の魂の叫びのように聞こえた。それは、僕が口出しできない神聖な領域の問題で、同じ場所にいることさえ憚《はばか》られるような気がした。  僕は身を固くし、固唾《かたず》をのんで成り行きを見つめていた。しばらくして、 「わかったよ……」  容疑者がポツリと言った。 「悔しいけど、あんたの言う通りだ。わかったよ……」  と言うと、深いため息をついて、 「火をつけたのは、俺だよ。むしゃくしゃしていたんで、火をつけた……」  これが城西署管内を中心にして、連続して発生していた放火事件が解決した瞬間だった。  取り調べにテクニックなどはない。あるのは、取調官の人柄、生き方、心……。  それは僕にないものばかりで、自分の未熟さというものを、改めて思い知らされた瞬間でもあった。 [#改ページ]      20  連続放火事件の解決に立ち会うことができたのは幸運だったと思う。だが、それで僕の気持ちが晴れることはなかった。  その後、�麻雀天狗《マージヤンてんぐ》�のオーナーから赤松主任への連絡はない様子だった。一見、のどかで平和な街にも、ドロドロとした裏の社会があることは、警官になってから知った。法律の力の及ばない世界で、何が起きているのか、僕たち警察の人間には知る術がない。廃墟《はいきよ》のような倉庫か、空き家の中で、イヌと罵《ののし》られ、リンチを受けていやしないか……。  そんなことを心配し、思い悩んでいると、誰かが僕の名を呼んだ。顔を上げると、 「何してるっ。早く来いっ」  荒木が不機嫌な顔で言った。  その隣には赤松主任が座っていて、二人は何やら打合せをしている様子だった。  僕は慌てて、その側に行き、すみません、と頭を下げると、 「日の高いうちから、ボケーとしやがって、一体、どういうつもりだ? 少し慣れて、緊張感がなくなったか? それとも、やる気がなくなったか?」  荒木が険しい目を僕に向けた。指導刑事の側を一時も離れるな、と厳命されている。僕は一言もなく、頭を下げるしかなかった。 「おめぇ、半人前のくせに、ぶったるんでいるぞっ」  城西署で初めて受けた罵声《ばせい》だった。別室が静まり返り、重苦しい空気に包まれたことを今でも覚えている。 「いいか? もう一度、気を抜いたら、警察学校に帰ってもらうからな」  僕は直立不動の姿勢で、はいっ、と答えた。すると、 「よしっ。さっさと、その辺に座れ」  そう言うと、荒木は赤松主任の方を向いて、 「すると……、この名簿が流れ出したことは、捜査本部の関係者は知らないわけ?」  と尋ねた。机の上には、招待者名簿、と表書きされた書類が置いてある。 「まぁね。正面切って請求すれば、必ず、結果について、あれこれ聞かれることになる。そんなのは煩《わずら》わしいからな。ちょいと、裏から手を回して、流してもらった」 「そうか。でも、画廊のパーティ招待者の名簿を調べて、共通点を探るなんてことは、捜査本部でもやっているんじゃないかなぁ」  荒木が腕を組んで、首を傾《かし》げた。 「そんなことは承知の上さ。ただ、比較の仕方、というものが、俺とは違うかも知れんと思ってな」 「比較の仕方か……」  荒木は鉛筆の頭で机を叩《たた》いた。どうしたものか、と、迷っている様子だった。 「この前、捜査本部から来た二人だけど」  赤松主任が言った。 「聞くところによると、バレエスクールの生徒名簿をコピーして行ったんだろう? ということは、うちの事件と何らかの共通性あり、と睨《にら》んだんじゃないのかな。何も、向こうにだけやらせることはないんじゃないの?」 「あっちは特別捜査本部。大所帯だ。うちとは全然、違うよ」  荒木が首を振る。 「でも、こっちだってボウガン使用の凶悪事件だ。連続発生をくい止めるには犯人検挙しかない。できることは、やるべきだと思うけどな」 「長《ちよう》さんよ。なぜ、そんなにこだわるんだ?」  荒木は覗《のぞ》き込むようにして尋ねた。赤松主任は僕の方をチラリと見てから、 「連中には、ちょいと借りがあるんでね。どうしても恩返しがしたい」 「恩返し、ね……」  荒木も僕を見てから、何度かうなずき、 「わかったよ。そこまで言うなら、やってくれ。こちとら、捜査本部と違って、何かと融通がきくのが身上だ」  と言うと、目の前の書類を束ねて、赤松主任の前に差し出した。  荒木の席から遠ざかったところで、 「すみませんでした」  僕は改めて赤松主任に詫《わ》びた。すると、 「気持ちはわかるけどね。落ち込んでいる時ほど、元気を出せ。カラ元気ってやつをな。その反対に、嬉《うれ》しい時ほど、辛《つら》そうな顔をしてみせろ。そういう芸当ができなけりゃ、とてもじゃないが、この世知辛い憂き世は渡り切れねぇぞ」 「はい……」 「じゃ、出かけようか」  赤松主任は名簿を手にして別室を後にした。  だが、途中、赤松主任は刑事部屋に立ち寄って、なぜか、その名簿を机の引き出しの奥に仕まい込んでしまう。以後、僕は赤松主任がその名簿を目にしていたところを見たことがない。 「さてと……。ちょいと、よその管内まで遠乗りだ」  と言って、赤松主任が目指したのは、練馬区の豊玉だった。  そこを右、そこを左、と指示していった赤松主任が、目白通り沿いの小さな不動産屋の前まで来た時、ここだ、と言った。僕は車を歩道に寄せて、ハザードランプをつけ、 「自分は車で待っていますから」  と言った。  もし、その不動産屋が�麻雀天狗�のような対象だった場合、再び、迷惑をかけるような気がしたからだ。  赤松主任はうんざりした顔をして、 「いいから、さっさと、その辺の駐車場に車を止めて来いっ」  と、顎《あご》をしゃくって、車から下りた。  正直なところ、気は進まなかったのだが、勤務放棄するわけにも行かなかった。僕は近くの立体駐車場に車を置いて、不動産屋に向かった。  そこはガラス窓にアパートや貸マンションの案内が張りめぐらされたありふれた店だった。  ドアを開けると、チャイムが鳴ったが、すでに、赤松主任は六十歳くらいの男と向かい合って座っていた。赤松主任は僕を見て、 「さっき話した男だよ」  と、相手の男に言った。 「そう。若いってのは、うらやましいねぇ……」  その男は目を細めて僕を見ていたが、 「まぁ、お座んなさいよ」  と、目の前の椅子を目で示した。  男は湯浅宣伸と言って、赤松主任とは二十年来の付き合いということだった。長男が高校生の頃に犯罪被害にあい、その事件を担当したのが赤松主任ということだった。  僕が赤松主任の横に座ると、湯浅は奥のロッカーから紙袋を取り出して来て、テーブルの上に置いた。そして、 「わかっていると思うが……」  と言うと、人さし指を唇に当てて、 「これで頼むよ。赤松さんの頼みだから、無理をして手に入れたんだ。このビデオが外部に流れたことがバレると、俺だけじゃない。何人もが信用を失うことになる」 「安心してくれ。そっちの顔を潰《つぶ》すようなことはしない。……なぁ」  赤松主任は僕に対して、相づちを求めてきたので、 「はい。もちろんです」  と、答えた。すると、 「こりゃ、野暮だったかな」  湯浅が頭をかいて見せたが、僕に対して警戒していることが、何となくわかった。  ひょっとしたら、赤松主任は、敢《あ》えて湯浅に対して、釘をさすような言動を求めたのかも知れない。そんな気がした。 「ところで……、商売の方はどうなの?」  赤松主任が話題を変えた。 「よくもなし、悪くもなし、というところかなぁ。同業の中には、あちこちに手を伸ばしているのもいるけれど、俺には真似《まね》できない。人間、分を知らなきゃねぇ」 「全くだ。人間、分を知ることが大事だよ。その点、俺は知りすぎているくらいだ」  と言って、二人は笑った。  それからしばらく雑談になった。  東京オリンピックの頃の話、僕の知らない事件の話。そして、公団住宅に話が及んだ時、チャイムが鳴った。  入口のところに、五十歳前後の女と、十七、八歳の娘が立っている。  湯浅が立ち上がって、 「いらっしゃいませ」  と、満面に笑みを浮かべた。  ほぼ同時に、赤松主任も席を立った。そして、湯浅に対して、 「ありがとうございました。あんな結構なマンションをお世話してもらって、助かりました」  と言って、笑顔でドアに向かった。慌てて、僕もその後を追った。 「また、何かありましたら、いつでも、どうぞ」  湯浅は僕たちに声をかけてから、二人連れに、 「どうぞ、お座り下さい。お嬢さんの下宿先ですかな? それなら、信用があって、安心できる女子学生専用のアパート、というのがありますよ」  明るく軽妙な口調で商売を始めた。  湯浅と赤松主任のやり取りは、古馴染《ふるなじ》みならではの自然な演技だった。駆け出しには決して真似のできない年季の入った業だった。  僕は外に出ると、車を回しますから、と言って、急ぎ足で駐車場に向かった。 「次は、どちらへ?」  と、僕が尋ねると、 「この辺りで焼き芋を売っているところはないかなぁ」  赤松主任が周りを見渡しながら言った。 「焼き芋、ですか?」  芋なんか買って、どうするんだ? という思いが浮かんだが、僕は従順な弟子に徹した。電話ボックスを探して、電話帳を繰ってみた。しかし、目次に、焼き芋、の項目はない。  赤松主任は助手席で、メモ帳に目を通している。  芋も買えない役立たず、と思われたくなかった。  僕は少し考え、通りがかりの主婦に聞くことにした。歩道に立って、呼び止めたのだが、首を横に振ったり、無視されたりだった。ようやく、買い物袋をさげた二人連れが、 「四つ先の信号機のところにあるスーパーマーケットに、時々、出店が出ているわよ」  と教えてくれた。  僕は車に戻り、そのスーパーマーケットを目指した。 「どれくらい買えば、いいんですか?」  と尋ねると、 「そうさなぁ。五、六人分……、いや、多めに考えて、七、八人分でいいだろう?」 「七、八人分。わかりました」  スーパーマーケットの出入口の横、自転車売り場の隣に、赤い暖簾《のれん》の下がった出店が出ていた。テープレコーダーから売り声が流れている。店の前には三人の行列。僕はその後ろに並んだ。焼き芋を買うのは、生まれて初めてだった。  不精髭《ぶしようひげ》を生やした赤ら顔の中年男が芋の入った袋と、釣り銭を手際よく渡していた。  やがて、僕の番になった。焼き芋屋は、ギョッとした顔で僕を見た。たぶん、焼き芋を買うような顔つきではなかったのだろう。 「焼き芋、八人前」  と注文すると、 「八人前?」  男が聞き返した。 「そう。八人前」 「八人前、か……。長いこと、この商売やっているけど、何人前、という注文を受けたのは初めてだな」 「何でもいいから、とにかく、八人で食う分の焼き芋を売ってくれ」 「へいへい。毎度、ありぃ……」  男は茶色の紙袋の中に焼き芋を詰め込み、それを、スーパーマーケットのビニール袋に入れた。僕が代金を支払うと、最後に、そのビニール袋の中に、太い芋を一本、放り込んで、 「おまけだよ……」  と言って、差し出した。  ずしりと重いビニール袋をさげて、僕は車に戻った。 「次は、どちらへ」  と尋ねると、 「五反田のカルチャーセンター。取り敢えず、駅に向かってくれ」  赤松主任が言った。  了解、と言って、僕は車を発進させた。しばらく進むと、ビニール袋を置いた後部座席から、焼き芋の匂《にお》いが漂ってきた。 「あ、そうそう。領収書をくれ」  赤松主任が手を差し出した。 「いいえ。結構です」  と、僕は答えた。 「結構じゃない。後で払うよ。会計に持って行くから、出せよ」 「領収書はありません。いいんです」 「領収書がない?」  と言ってから、 「そうか……。そうだな。焼き芋屋から領収書、はないな」  と、頭をかいて、 「じゃ、後で金額を紙に書いてくれ。会計には事情を説明して、芋代を出させる」  結構です、と言うのも、変に逆らっているみたいだったので、素直に、はい、と答えた。  僕はしばらく黙って運転していたのだが、不動産屋とビデオテープと焼き芋、そして、これから向かうカルチャーセンターが、どう結びつくのか、さっぱりわからない。それで、 「あの……、これから、何をするんでしょうか? もし、差し支えなかったら、教えていただきたいんですが?」  僕は遠慮がちに尋ねた。すると、赤松主任は顔を上げて、 「実は、これは麻布ケーブルテレビの未編集のビデオテープだ。覚えているか?」  と言って、不動産屋で受け取った紙袋を示した。 「ビデオテープ? 確か、報道の自由の関係で提出を拒否されたというバレエの発表会の?」 「そう。そのビデオテープだ。さっきの不動産屋の知り合いにAというのがいる。そのまた知り合いにBというのがいて、そのまた知り合いにCというのがいる。あっちこっちに尋ね回って、ようやくつながった」 「…………」 「このビデオテープを手に入れるには、何人かの信頼関係を経由してきている。麻布ケーブルテレビの社員も石頭ばかりではない。中には、未編集のビデオテープの提出で、犯人が捕まるものなら、そうしたいと思っている人間もいるんだ。だが、報道の自由という建前がある以上、協力したくても協力できない。その一方で、五歳の女の子を狙撃《そげき》した犯人への憤りがある」 「…………」 「いいか? この未編集ビデオテープは、刑事としての赤松ではなく、私人としての赤松に託されたものだ。だから、このテープの素性、出所は、たとえ警視総監の命令があっても、漏らすわけにはいかない。いいか? 今日、練馬の豊玉に来たことも、あの不動産屋に入ったことも、決して人に話してはならんぞ。たとえ、親にもな。わかったか?」 「はい。わかりました」  と、うなずくと、 「よし。じゃ、これから何をするか、当ててみろ」  赤松主任がメモ帳を開きながら尋ねた。 「誰かにビデオを見てもらうんですか?」  それ以外にあり得ない。 「誰って、誰だ?」 「五反田のカルチャーセンター、と言うことは……、ひょっとして、陶芸教室の人たちに?」 「その通り。できれば、バレエスクール関係者に見てもらいたいんだが、このビデオの正体がバレてしまうおそれがある。それに、もし、発表会当日に不審人物が徘徊《はいかい》していたとしたら、いまさらビデオなんか見なくても、その時点で不審人物に気づいているはずだ。その場合は、事件発生直後に、捜査員に話しているさ」 「…………」 「バレエ発表会のビデオを、陶芸教室の生徒に見てもらう狙《ねら》いは、双方の事件が同一犯人による犯行の可能性を考えてのことだ。もし、このビデオに見覚えのある顔が映っていた場合、それが犯人という可能性が出てくる」 「すると、主任は、双方の事件は同一犯人の仕業だと?」 「そんなことはわからんよ。運良く手に入ったビデオを最大限に役立たせようと思えば、陶芸教室のオバちゃんたちにも見てもらった方がいい、と考えてみただけのことだ」 「オバちゃんたち……」  赤松主任の説明は難しく、僕にはすぐには理解できなかった。でも、焼き芋を買った理由は理解できた。  陶芸教室の生徒といっても、ほとんどが四十代、五十代の女性ばかりだ。 「ビデオのことは、大体、わかりました。でも、例の名簿の方は調べないんですか?」  と尋ねると、赤松主任はニヤリと笑って、 「ああ、あれか……。まぁ、名簿にしろ、聞き込みにしろ、荒木係長の言ったように、捜査本部にはかなわないよ。向こうは、でっかいコンピューターも使っているだろうしな。とてもじゃないが、太刀打ちできない」 「じゃ……、なぜ?」 「捜査本部は専従班の動きに、目を光らせている様子だからな。ちょっと煙幕を張っただけだ。所轄の刑事にも意地がある。何から何まで、連中の下請けみたいな仕事はしたくない」 「…………」 「それにな、こういったセコいやり方は、できれば他人には知られたくない。何しろ、焼き芋を手《て》土産《みやげ》に、オバちゃんたちのご機嫌を伺うわけだからな。あまりカッコよくはない。どう贔屓目《ひいきめ》に見たって、鶴田浩二や田宮二郎の役どころじゃないよ。だけど……、所轄の刑事には、こんな風な泥臭いやり方しか似合わないし、やれないんだよなぁ」  赤松主任は頭をかきながら苦笑した。 「つまり、町医者のやり方、というわけですね?」  と、念を押すと、 「そうそう。町医者のやり方だよ。手土産の泥付き大根なんかを足元に置いたまま、聴診器を当てる町医者のやり方だな……」  赤松主任は気持ちよさそうに笑った。 [#改ページ]      21  JRの五反田の駅から徒歩で二十分。区民ホールの二階がカルチャーセンターになっていた。  受付の女性に声をかけようとすると、横合いから、やや太めの中年女性が割り込んできて、僕たちの視界を遮った。 「あの、シェイプアップ講座について、聞きたいんだけど……」  女がカウンターに寄り掛かった。 「どうぞ、こちらへ……」  受付係はカウンターに沿って二メートルほど横移動した。  当センターは初めてですか? と尋ねながら、本棚の方を振り返り、背表紙に�シェイプアップ講座�と書かれたアルバム帳を引き出した。それをカウンターの上で開き、クルリと回して相手に向けた。  雰囲気は大体、こんな風な感じなんです、と、受付係。年配の方もいらっしゃるのね、と、その女性が頁をめくる。  赤松主任はカウンターから離れた。廊下の壁に様々な講座のスナップ写真が貼り巡らされている。  生け花、油絵、茶道、書道、ジャズダンス、ヨーガ、カラオケ、そして、陶芸……。  どれも楽しげな笑顔だった。  赤松主任はカウンターの脇にあるケースから、詩吟と盆栽のパンフレットを抜いて、ソファーに座った。  僕は立ったまま壁のスナップ写真を眺めていた。 「月四回で六千五百円か……」  そうつぶやいて、赤松主任はパンフレットを棚に戻した。 「お待たせしました」  という声に振り返ると、受付係が僕たちの方を見ている。  先程の女は眼鏡をかけ、パンフレットに目を注いでいた。  赤松主任は受付係に名刺を差し出し、 「昨日、電話した者です。事務長さんに、お取り次ぎ下さい」  と告げた。すると、 「少々、お待ちを」  受付係は一旦《いつたん》、奥に行き、五十歳くらいの男を連れてきた。男は何がそんなに嬉《うれ》しいのか、と思うほど、満面の笑みを浮かべている。 「初めまして……」  男は初対面の僕たちに対して、自分が事務長であることを自己紹介してから、 「103の教室が空いていますので、そちらにビデオデッキと、テレビを準備させましたから」  と言って、廊下の奥を指さした。 「ありがとうございます。それから、図々しいようですが、皆さんに飲み物などを差し上げたいのですが、近くに自動販売機か何か……」  と、赤松主任が尋ねると、 「どうぞ、ご心配なく。それも準備してあります。時間までには届けさせますから」 「何から何まで、ご親切に」 「いえいえ。富田さんには、いろいろとお世話になっていますからね。これくらいは当たり前ですよ」 「恐縮です」  富田というのは、五反田署の交通課長のことであることを後で知った。これも赤松主任が培《つちか》った人脈ということになるのだろう。 「ただ、お断りしておきますが、103の教室は午後五時から英会話講座ですので、十五分前に、つまり、四時四十五分までに退室していただかないと困ります。その点だけは、よろしくお願いします」 「承知しました」 「では……」  事務長は言うべきことを言って、奥に姿を消した。時計を見ると、二時五十分。僕たちは教室に向かった。  103教室は十名分の机しかない小部屋だった。  事務長が言ったように、教壇の横には二十インチのテレビ。その隣にはビデオデッキが準備してあった。  赤松主任の指示で、僕はテレビのスイッチを入れ、ビデオテープが再生できるかどうか点検した。その間、赤松主任は机をテレビの方向に向けたり、椅子を並べ替えたりしていた。  その後、少し時間があったので、ビデオテープを再生してみた。幼い女の子たちが舞台でバレエを踊り、親たちが観客席で見守るシーンの連続だった。時々、画面が揺れ、撮影スタッフの腕や頭が映し出されるのは、未編集のビデオテープだからだ。  やがて、三時を過ぎると、あちこちの教室のドアが開く音がしたので、僕はビデオテープを巻き戻した。  廊下が急に騒がしくなった。中年女性独特の甲高い笑い声が響き、小刻みに歩く足音が行き交う。  カラカラカラと、キャスターを転がす音が近づいてきて、 「失礼します」  受付係と同じ服を着た女性が現れた。キャスターの上には、ポットが二つ。湯飲み茶碗が七、八個。それに、器に入った煎餅《せんべい》や菓子がのせてある。 「お湯がなくなりましたら、インターホンでお申しつけ下さい。すぐにお届けしますから」  と言って、女性は一礼した。 「お世話さまです」  僕たちは揃《そろ》って頭を下げ、 「事務所の方にも、焼き芋を買ってくればよかったかな」  赤松主任がつぶやいた。  僕はキャスターをドアの横に寄せ、その焼き芋の袋を、菓子盆の横に並べた。すると、廊下の方で、 「赤松さんですか?」  という声がした。五十歳くらいの女性が立っていた。 「そうです。青天会の方ですか?」  赤松主任が聞き返す。 「世話役の重松と申します。皆さんを、こちらに連れてくればよろしいんですね?」 「はい。お疲れでしょうけど、お茶の準備もしましたので」  と、キャスターの方に手を伸ばすと、 「まぁまぁ……。じゃ、皆さんを呼んできます」  重松は急ぎ足で戻って行った。 「そろそろ、お茶の準備をしてくれ。それから、ちょっと目がきつすぎるぞ。相手は少々、古びてはいるが、元お嬢様方なんだ。そんな難しい顔をしたら、怖がって逃げ出すぞ。さっきの事務長みたいに、笑え、笑え……」  と言って、自らも作り笑いを浮かべて見せた。  カルチャーセンターの陶芸講座は事件以後、休講中で、この日は一部有志だけが集合し、講師の特別指導を受けた、とのことだった。  103教室へ来たのは、そのうちの九名だった。全員が席につくと、赤松主任が前に立って、自分たちのことを自己紹介し、 「まぁ、肩の力を抜いて、見て下さい。映っているのは、主に、四歳から六歳の女の子と、そのご家族です。でも、見ていただきたいのは、それ以外の一般見学者でして、五列目から後ろの席に座っている人たちです。もし、見覚えのある人物がおりましたら、教えて下さい。では、よろしくお願いします」  と頭を下げたので、僕はビデオの再生スイッチを押した。  画面にバレエシューズを履いた子供たちが映ると、まぁ、可愛い、と、全員が歓声を上げた。  僕はキャスターのところに戻り、湯飲み茶碗を、それぞれの前へ運んだ。  場面が変わるたびに、女たちは笑ったり、感心したりした。確かに、あどけない女の子が踊る姿は、僕が見ても微笑《ほほえ》ましかった。  しかし、延々と、それを見続けられるのは、おそらく肉親だけだろう。やがて、女たちは自らポットの湯を急須《きゆうす》に注《つ》ぐようになり、煎餅をボリボリと齧《かじ》り、焼き芋をほおばるようになった。そして、隣同士、ひそひそ話を始めた。  三十分が過ぎる頃、ほとんどがテレビ画面を見なくなった。同じ子供が繰り返し登場するため、初めの頃ほど、目を引きつけなくなったのだ。  そんな光景を見ても、赤松主任は笑顔を絶やさなかった。そして、時々、僕の方を向いては、お前も笑え、と言わんばかりに、大袈裟《おおげさ》な作り笑いを浮かべるのだった。  僕は内心、この試みは失敗に終わる、と思った。九人の主婦たちには、画面を注視しよう、という意欲が見られない。たまに画面に目をやるのは、僕たちの手前、そうせざるを得なかったのだと思う。  僕も無理な作り笑いに疲れ始めていた。普段は使わない筋肉部分なので、頬の辺りが痙攣《けいれん》し始めてきていた。  早くビデオが終わればいい……。  正直なところ、僕自身が、そう感じ始めていた。その時、 「あらっ……」  と、一人の主婦が言った。その声で、何人かが、テレビ画面を見上げた。 「どうしたの?」 「さっきの人、三田さんじゃないかしら?」  と言って、僕の方を振り返った。ほぼ同時に、 「巻き戻しだ」  赤松主任が真顔で言った。僕はリモコンを掴《つか》み、言われた通り、ボタンを操作した。だが、どの程度、巻き戻せばよいのか、わからない。 「戻しすぎっ。戻しすぎよ」  と言う声で、再び、再生に戻し、僕はカウンターのリセットボタンの上に指を乗せた。数字の表示をゼロにすれば、次回から巻き戻しが楽になる。 「まだまだ先。ずっと先……」  同じ主婦が言った。 「三田さんて、加代子さんのこと?」  と、隣の主婦が尋ねた。 「そう……」 「本当? 懐かしいわね。もう、あれから、かれこれ」 「ここよ、ここっ」  という声で、僕はボタンを押した。そして、画面でなく、カウンターを見つめる。  主婦たちの反応は様々で、三田さんだ、と言う声もあれば、そうかなぁ、と言う声もあり、どの人? と言う声もあった。 「もう一度、巻き戻して」  という声がするまで、七、八秒かかった。僕はカウンターの数字に合わせて、再び、テープを巻き戻し、今度は静止ボタンの上に指をのせた。すると、すぐに、 「ほら、右端に立っている半袖の」  という声がしたところでボタンを押し、初めて、僕は画面を見た。  一人の主婦が席を立って、画面に近づき、静止画像の中の一人を指さした。 「三田さんだわ」 「一年くらい前ね。まだ髪が長めだもの」 「相変わらず素敵ね」  様々な言葉が発せられ、最後まで、首を傾《かし》げていた主婦も、コマ送りにして間もなく、三田加代子なる人物であることを認めた。 「三田さんという方は、どういう女性なんです?」  赤松主任は穏やかな表情に戻っていた。 「ミス津田塾よ。ご主人はミスター東都。お似合いのカップルよ」  と、一人の主婦。すると、 「ミスター東都じゃないわよ。自分で、そう言ってるだけ。加代子さんに合わせているだけだわ」 「そんなことはないわよ」  ああだこうだと、主婦たちのお喋《しやべ》りが続いた。そんな中、部屋を抜け出した重松が戻ってきて、会員一覧表を差し出した。  確かに、そこには、三田加代子、の名があった。住所は目黒区内だったが、二本の縦線で抹消されていて、その横に赤く小さな文字で、転出、と書かれていた。  それをコピーして、挨拶《あいさつ》もそこそこに、僕たちはカルチャーセンターを後にした。  瓢箪《ひようたん》から駒《こま》、というのは、こういうことを言うのだろう。正直、ビデオテープには、それほどの期待を抱いていなかった。それは赤松主任も同じだったはずで、せいぜい、怪しげな男でも発見できれば拾い物、という程度のものだったと思う。ところが、結果的に、第一級の情報を入手することができた。  僕は嬉しさを抑えきれず、思わず笑みがこぼれた。だが、赤松主任は相変わらず無表情だった。そして、運転に気をつけるように、と、注意を促すほど、冷静だった。      *  クラシックバレエ・初等科  三田絵里香    神奈川県津久井郡相模町一〇九七番地の二二  保護者 父 三田啓一郎(相模町長)      母 〃 加代子      *  これが、城西署に戻ってから、タジマ・バレエスクールの資料を調べた結果、判明した三田加代子の家族構成である。  遂に、僕たちは双方に共通する人物を突き止めたのだった。 [#改ページ]      22  相模町、そして、三田町長、という言葉には懐かしい響きがあった。かつて、ニュースで取り上げられ、その地名、その名前、その顔は一時期、頻繁に登場したからだ。  国立大学の助教授の職を捨て、環境保護を叫んで町長選挙に立候補した時、あらゆるマスコミが三田啓一郎なる人物の主張と行動に注目した。  神奈川県の北の端にある相模町は、東京の八王子市と隣接している山間《やまあい》の町である。総面積は六十六キロ平米だが、ほとんどが山林で、人口は二万人。かつては宿場町として栄えたが、現在は柱となる産業がない。  春先になると、野生のシカが出没するというこの町は、日照り続きの年に白煙に包まれたことがある。町有林で山火事が発生し、瞬《またた》く間に、十キロ平米を焼失したのだ。  新聞によると、山火事の原因はカラス。盂蘭盆会《うらぼんえ》の墓参りの時、墓前には供物が並べられる。カラスが果物などを食い荒らした後、火のついた線香をくわえて、森に向かって飛び去るのを何人かが目撃している。鳥類研究家によれば、イタズラかどうかは不明だが、カラスには、そのような行動をする習性があるとのことだった。  燃え上がった場所が道路から離れた山奥だったため、消防車が入れず、消火活動が思うように捗《はかど》らず、焼失面積が広がる原因となった。  その焼け跡に植林する計画は予算の関係で行き詰まる。当時の町長はやむなく、焼失地にクレー射撃場とゴルフ場を誘致するプロジェクトを発表した。それによって植林資金を確保し、雇用も促進しよう、という一石二鳥のアイデアになるはずだった。  ところが、自然保護グループが反対を表明。町は賛成派と反対派に二分される。  折から統一地方選挙の時期で、東都大学の助教授で神奈川県出身の三田啓一郎、当時四十歳は、プロジェクト反対を掲げて町長に立候補、僅差《きんさ》で勝利した。  その結果、前町長のプロジェクトは廃止。焼失した山林は、ボランティアによって、細々と植林作業がなされているものの、大部分については、現在も手つかずのまま放置されている。  以上が、僕たちが忘れかけていたニュースのあらましである。僅《わず》か二年前の出来事だったが、遠い昔の出来事のように思えた。 「開発会社と地元の業者。それに対抗するのが、学者上がりの町長と自然保護団体か……。いかにも、という構図だな。射撃場とゴルフ場造成の業者の動きについて、所轄署は何と?」  荒木が尋ねた。 「特に目立った動きはない、という回答だったけど、実際のところは、把握できていない、ということじゃないかな。そんな口ぶりだった」  赤松主任が答えた。 「現町長および家族に対する脅迫、嫌がらせについては?」 「その点については、一切ない、と言い切っていた。毎週、警備係長が町長秘書に直接、連絡して確認しているそうだ。その他、夫人に対しても、半月に一度は電話で確認している、ということだった」 「一切ない、か……。普通は口を濁すもんだが、そこまで言い切るということは、相模町長の線はないんじゃないの? そもそも、前回の町長選挙の結果は僅差だったんだろう? 下手にちょっかいを出して、寝た子を起こすより、急がば回れ。次の選挙に向けて、じっくり票固めをした方が手っとり早いよ。今、学者上がりの町長なんかを苛《いじ》めたら、逆効果だ」  荒木は首を傾《かし》げた。 「道理からすれば、そうなんだ。だが、夫人は青天会への参加を今年になって急に、取り止《や》めている。娘も、バレエのレッスンを急に取り止めているんだ。両方|揃《そろ》って、というのが、どうも気に食わない。何か、裏があるような気がしてね」 「この三田町長というのは、元大学の助教授で、相模町長に当選するまでは、都内に住んでいたんだろう?」 「うん。目黒のマンションに住んでいた」 「じゃ、地理的問題で来れなくなったんじゃないのかな。何しろ、相模町と言えば、神奈川県の津久井湖の近くだ。引っ越し間際であれば、いざ知らず、半年一年と過ぎれば、都心の知人とは自然に疎遠になる。その分、相模町の方の住人に馴染《なじ》むだろうしね」 「そうだとしても、徐々に、そうなると思うんだ。月に二度だったのが、月に一度になり、三カ月に一度になって行く。普通、そういうもんじゃないの? なのに、急に来なくなったんだ。都内の主婦たちに塩を撒《ま》かれたわけでもないのにだ」  うーん……、とうなって、荒木は黙りこんだ。  結局、かつて住民を二分したという相模町の特殊な背景は、荒木にも無視できなかったようだ。また、単に、他に優先すべき捜査対象もなかったという事情もあったのかも知れない。だが、何よりも、双方の事件に共通する対象を発見したという初めての成果が、方向を決したと言える。  ともあれ、僕たちの捜査範囲は都県境を越えることになった。  中央自動車道の八王子インターチェンジで高速道路を下り、国道二十号から町田街道に入り、五キロも走ると、左右の町並みは一変する。  商店や住宅の代わりに、郊外型のディスカウントショップや中古車販売店が目立つようになり、やがて、それも、杉の木立や霊園の風景へと変わる。  都県境を過ぎると、辺りはさらに田舎の風景になった。僕は一旦《いつたん》、砂利の空き地に車を入れた。赤松主任が助手席で地図を開き、現在位置と町長公舎の所在地を確認する。  もうちょい先のようだな、という声で、僕は再び、車を発進させた。  幹線道路から、脇道に入る。左右にはさらに山が迫り、草深い風景になる。雑木林は、いつしか美しい竹林となって、やがて、前方に入り母屋風の瀟洒《しようしや》な家屋が見えてきた。  公舎の建坪については、樹木に遮られ、はっきりとはわからない。だが、前庭は少なくとも二百坪以上の広さだった。 「贅沢《ぜいたく》な造りの公舎だ……」  赤松主任がつぶやいた。僕は車を道路脇に止めた。  蛇腹式の門は閉まっている。表札はなかったが、公舎の場合、掲げない場合がある。警察署長公舎、税務署長公舎、裁判官公舎などの場合、通りすがりの一般市民にまで、わざわざ知らせる必要はない。  門柱の陰にインターホンがあった。赤松主任がボタンを押したが、返答がない。 「留守なのかな……」  二度、三度と、押したが、やはり、応答はなかった。背伸びして、玄関の方を覗《のぞ》いたが、物音一つせず、人の気配はない。  風が吹いて、竹林が大きく揺れ、笹の葉が潮騒《しおさい》のような音を立てた。赤松主任は殊更、事を急ぐ様子もなく、竹林を眺め、青い空を見上げていた。  遠くで、タンタンタン、という軽いエンジン音がして、それが次第に近づいてきた。その方向に注目すると、泥に汚れた小型のトラクターが見えた。運転しているのは五十歳くらいの、よく日に焼けた髭面《ひげづら》の男で、野球帽を被《かぶ》り、スポーツウェアに長靴を履いている。  男は僕たちの側まで来ると、 「いない、いない。空き家、空き家」  と、手を左右に振った。 「……空き家?」  僕たちは門の方を振り返った。町長公舎の所在地は地元署で確認済みだった。  不思議に思っていると、トラクターがエンジンをかけたまま止まって、 「誰もいないよ。引っ越したんだ」  と、甲高い声を張り上げた。 「引っ越した? どこへ?」  と尋ねると、男は耳に手を当てがって、んあぁ? と聞き返してきた。 「どこへ、引っ越したんですか?」  僕は大声で尋ねた。 「グリーンタウン。……にある住宅だよ」 「何という所にある住宅ですか?」  と、さらに声を張り上げると、男はエンジンを切って、トラクターから降りた。  シューシュー、と音がしていたが、元の静寂が戻った。 「すみません」  僕が足止めしたことを詫《わ》びると、 「あんたら、お役人?」  男は胸のポケットから、ぺしゃんこになった煙草の箱を取り出し、いびつに曲がった煙草をくわえて、火をつけた。 「東京都の者ですよ」  赤松主任が答えた。確かに、警官も東京都の職員には違いない。 「そうかね。何の用か知らないが、町長さんなら一カ月くらい前に、中学校の近くにあるグリーンタウンという住宅にある貸家の方に引っ越したよ」 「貸家に? こんな立派な町長公舎があるのに?」  赤松主任が再び、建物の方を振り向く。 「ああ、これ? まぁ、名目は町長公舎だがね。ゲストハウス、と言うのかい? 前の町長が来客接待用の宿舎のつもりで造ったんだ」 「来客……接待用の宿舎?」 「うん。町長は代々、地元の人間だ。町長公舎なんか必要ないよ。ちゃんと自分の家があらぁな」 「だったら、なぜ、こんな立派な公舎を建てたんです? 相模町は深刻な財政問題を抱えている、と聞きましたけど?」 「その通り。赤字財政で四苦八苦だ。だけど、地元の経済を活性化するには、こういったものでも造らせて、金の巡りをよくしなきゃならないんだとさ。まぁ、国の公共事業と同じだな。俺たちから見れば、税金の無駄遣いとしか思えないけど、土建屋にとっては、当座はしのげる。それに、土建組合は、前の町長の後援組織だしな。まぁ、そういうことだよ」  男はニヤリと笑って、 「今度の町長さんは、そんないきさつは知らないからね。官舎があると聞いて、直ぐに入った。けど、いざ住んでみると、役所から離れているわ、商店街からも遠いわで、いろいろと不便だったようだ。それに加えて、家そのものも、思いの外、生活するには使い勝手が悪かったらしい。台所なんて、プロの料理人が使うような設備なんだそうだ。おまけに……、ちょっと来なよ」  と言うと、男はさっさと歩き出した。仕方なく、ついて行くと、隣家の敷地の手前で立ち止まり、 「見なせい。火事になっても、消防自動車は、なかなか来ない。風向きがよかったから焼けずに済んだけど、下手すりゃ、貰《もら》い火で丸焼けになるところだった」  男は煙草を持った手を前方に指した。  母屋《おもや》の離れなのだろうか。丸ごと一軒、燃えた残骸《ざんがい》があった。黒こげになった材木や、熱で曲がった鉄骨が、乱雑に積み上げてある。 「これも、カラスのイタズラですか?」 「当たり前だよ。あそこは資材倉庫で、元々、火の気なんかないところだ。中には、トラクターの燃料とエンジンオイル。それに暖房用の灯油なんかが置いてあったもんだから、燃えるの何のって、火の手が二十メートル近く上がったな。何と、役場の屋上からも見えたそうだ」 「ほう……。役場から?」 「ああ、そうだ。地元の人間としてはカラスの駆除をして欲しいんだが、今度の町長さんは環境保護が売りだからね。切ったり、掘ったり、殺したりするのは、気が進まないんだろうって話だ。ま、昭和の生類憐《しようるいあわ》れみの令、というところかな」  男は長い煙を吐き出した。 「生類憐れみの令……」  僕たちが無言のまま焼け跡を眺めていると、車の近づいてくる音がした。男が振り返り、おっとっと、と言って、小走りにトラクターの方へ戻って行った。  パトカーが近づいてきていた。男はトラクターに乗ると、エンジンをかけ、じゃあな、と片手を上げて、逃げるように去って行った。僕たちも門の前へ戻った。  パトカーは僕たちの車の後ろに停車したが、中の警官は、なかなか降りてこない。たぶん、僕たちの車のナンバーから、手配車かどうか、無線で確認しているはずだ。  赤松主任も僕も、それがわかっていたから、敢《あ》えてパトカーには近づかず、確認作業が終わるのを待った。  門の格子から屋敷の中を眺めたり、周囲の山々を見上げていると、やがて、パトカーの運転席側のドアが開いて、警官が一人、降りた。赤松主任がポケットから警察手帳を取り出して、近づいてきた警官に向けた。  警官は手帳に目を凝らしてから、 「警視庁の方ですか?」  と尋ねた。物腰は柔らかだったが、隙《すき》は見せない。警察手帳が本物かどうか、疑っているような目つきだった。赤松主任もそう感じたらしく、手帳を開いて見せて、 「城西署の捜査係主任で、赤松と申します。こっちは相棒です」  と、頭を僕の方に向けた。 「それは、ご苦労さまです」  警官は敬礼してから、パトカーの方を振り返って、合図を送った。すると、助手席の警官が無線機のマイクに向かって、何やら通話を始めた。 「一一〇番でも入りました?」  赤松主任が手帳をポケットに戻しながら尋ねた。 「いいえ。ここには監視カメラが設置してありましてね。画像は本署でモニターできるようになっているんです」 「ほう、監視カメラが……」  と、公舎の方を振り向いてから、 「そんな仕掛けがしてあるとは、夢にも思いませんでした。先だって、警備課の方にお電話した時、そのようなお話は一切ありませんでしたので」 「署長の方針なんです。町長宅へ電話はされました?」 「いいえ。ここへは、ついでに立ち寄ったものですから」  と言うのは、もちろん嘘で、赤松主任はアポイントというものを取らない。前触れもなしに訪れることは、相手の実態を知る上で不可欠、というのが持論だった。 「電話された方がよかったと思いますよ。警備課でお教えした電話番号なら、町長宅につながるようになっています。警視庁の方となれば、町長の奥さんも、自宅をお教えしたと思います」 「そうですか。じゃ、遅ればせながら、これから電話をすることにしましょう」 「ところで……」  警官は再び、探るような目で、 「本署へ報告する都合上、お聞きするわけなんですけど、もし差し支えなかったら、ご用向きをお教えいただきたいんですが……」 「用向き……」  赤松主任は僕の方を一瞥《いちべつ》してから、 「実は、余罪捜査なんです。都内を荒し回った大泥棒を捕まえたんですが、これをぶっ叩《たた》いてみたら埃《ほこり》がでましてね。何年か前に、三田町長さんの住まわれていた目黒のマンションにも忍び込んだ形跡があるんです。金額は大したことはないんですが、一応、その確認のために足を運びました」  ここでも、赤松主任は警官相手に嘘をついた。たぶん、情報漏れを防ぐためだったのだと思う。 [#改ページ]      23  グリーンタウンという住宅街は、言わば、相模町に住む神奈川都民[#「都民」に傍点]のための新興住宅地だった。  そこから私鉄の駅へは車で約十五分。都心へも十分、通勤が可能な場所である。それを考えてのことなのだろう。駅へ一直線に延びる道路は片側二車線という広さだった。  明るい緑色の�グリーンタウン入口�という案内板を見て、大通りから住宅道路へ入る。左右に駐車場があって、横一列に植樹された木立を挟んで、住宅街があった。  木々の間から、数多くの家々が見える。都内の住宅街と異なり、家と家の間に芝生のスペースがあって、四、五メートルほどの高さの樹木が塀代わりの目隠しになっていた。明らかに、アメリカの高級住宅地を意識した設計になっていた。  車を共同駐車場に置いて、町長宅を目指す。パトカーの警官によれば、三の二十三、つまり、第三区画の二十三番目の家ということだった。  道路脇の掲示板の前で立ち止まる。  火災予防のキャンペーンポスター。少年野球大会のポスター。健康診断の予定表などが貼ってあった。  その横には住宅案内図。三の二十三を指で確かめてから、僕たちは並んで歩き出した。  家々は、どれもほぼ同じ造りだった。コンクリートの二階建てで、よくよく見ると安普請という感がしないでもないが、敷地の半分ほどを占める広々とした前庭の芝生が、何とも贅沢《ぜいたく》な感じを与える。  どこの家屋も北側が玄関になっていた。しゃれた感じの石畳の上を、十五、十六、十七と、数を追いながら、足を進める。やがて、二十三。  玄関の表札には、三田啓一郎・加代子・絵里香、とあった。  辺りを見回してから、インターホンを押す。  すぐに、応答があった。インターホンに口を近づけ、小声で、警察の者です、と告げてから、赤松主任は警察手帳を玄関の方に向けた。町長公舎同様、どこかに監視カメラがあると考えたからだろう。  はい、という返事があって、数秒後、玄関のドアが開いた。そして、化粧気のない知的な美人が白い歯を見せた。  町長夫人、三田加代子は、僕たちを屋内ではなく前庭へ案内した。中は手狭だから、という理由だった。  飛び石伝いに家の脇を抜け、前庭に出ると、木製の白いテーブルがあって、やはり、木製の白い椅子が二脚、向かい合って置いてあった。たぶん、休みの日には、夫婦そろって、そこに座り、目黒に住んでいた頃の思い出話でもするのだろう。  夫人は、物置の中から、布貼りのアルミ製の椅子を二脚、運んできて、テーブルの横に並べた。 「お掛けになって、くつろいで下さい」  そう言い残して、屋内に消えた。僕たちは言われた通り、その椅子に腰を下ろした。  隣家との距離は約十メートル。しかも、その先は、樹木に遮られて、まるで、林に囲まれて家と庭がある、という雰囲気だった。  柔らかい日差しが降り注いでいた。心地よいそよ風に吹かれて、およそ四、五分。夫人がトレイの上に、紅茶セットをのせて現れた。 「こんな天気のいい日に、家の中にこもっているなんて、もったいないですわ……」  夫人はトレイをテーブルの上に置き、三つの空のカップに紅茶を注《つ》いだ。そして、 「ダージリンです。お口に合えば、よろしいんですけど……」  と言って、それを僕たちの前に差し出した。 「恐れ入ります」  僕たちが会釈すると、夫人は皿ごと膝の上にのせ、小指を立てて、ティーカップを持った。  赤松主任に続いて、僕も紅茶を口に含んだ。上品な香りと味がした。 「ところで……、目黒のマンションに泥棒が入ったって、本当ですの?」  夫人が尋ねた。赤松主任はカップを皿に戻しながら、 「すると、相模署の方から連絡が?」 「ええ。先程、副署長さんの方から」 「道理で。実を言うと、三田さんのところかどうか不明なんです。泥棒の記憶が曖昧《あいまい》でしてね。犯行も行き当たりばったりで、はっきりしないんです。三年前の暮れに、ベランダ沿いに入り込み、空き巣を働いたということなんですけどね。部屋が特定できないので、困っています。それで、こうして、お尋ねしているわけです」 「三年前の暮れ……」  夫人は首を傾《かし》げ、 「で、その泥棒さんは、何を盗んだんです?」 「現金です」 「現金? 骨董品《こつとうひん》なんかは?」 「いいえ。現金専門の泥棒です」  赤松主任はきっぱり答えた。  一万円札には名前が書いてない。もし、心当たりがある、と申し出ても、あなたの家の一万円札ではなかった、と言い逃れすることができる。  夫人は、なぜか僕を見たまま首を振って、 「うちではありません。うちは現金は置かない主義ですから。私のヘソクリを含めてね。ただし、このことは、主人には内緒にして下さいよ」  と言って、にっこり微笑《ほほえ》んだ。 「もちろん、私どもには守秘義務がありますから、どうぞ、ご安心を」  と答えてから、 「そうですか……。じゃ、たぶん、泥棒はよそへ入ったんでしょう」  赤松主任は再び、ティーカップを手に取った。そして、ゆっくり時間をかけ、味わうように紅茶を飲み干した。 「もう一杯、いかが?」  夫人がポットに手を伸ばした。 「いただきます」  赤松主任は空になったティーカップを皿の上に戻し、前へ差し出した。それを見て、僕は急いで紅茶を飲み干し、同じようにティーカップを差し出した。  夫人が満足気な表情で、ポットの紅茶を注ぐ。そして、また、僕の顔を見た。 「実は、今日、お伺いした目的は、もう一つありまして……」  赤松主任が世間話でもするような口調で言った。 「奥さんは、今年、陶芸の展覧会のパーティを欠席されていますよね? 何か特別な理由でも?」 「展覧会のパーティ? 青天会のことかしら?」 「そうです。初日のオープニングパーティです」 「ええ。今年は欠礼させていただきました。主人の仕事の関係で、相模町を離れられなかったものですから。それが何か?」 「それがその……、お嬢さんも、バレエのレッスンを休まれていますよね。その両方で、特異な事件が起きているんです。ご存知ですか?」  と探りを入れると、 「そうそう。そうなんです」  夫人が身を乗り出してきた。 「びっくりしました。私と娘の関係するところで、事件が発生したんです。偶然の一致にしては、出来すぎだと思い、主人とも話していたんですよ」 「…………」 「でも、その後に起こった事件は、私どもとは全く関係なかったので、それで、ひとまず、ホッとはしたんですけど」  と言うと、慌てて首を振って、 「いえいえ。ホッとした、なんて、いけませんわね。何しろ、お一人は亡くなり、もうお一人は植物状態なんですものね。失言でした」  夫人は神妙な顔で目礼した。 「亡くなられた方とは、ご面識は?」 「鳩山寛子さんですか? まぁ、顔見知り、というところですね。個人的なお付き合いはありません」 「藤本美咲ちゃんのご一家とは?」 「あちらとも、顔見知り程度です。同じクラスでしたが、やはり、個人的なお付き合いはありません」 「実は、美咲ちゃんの事件は、わが城西署管内で起きているんです。それで、ついでと言っては失礼ですが、せっかくの機会ですから、何か、お心当たりはないか、とお聞きして来いと、上司に言われて参りましてね。その辺のところは、どうなんでしょう」  赤松主任は言葉を選び、慎重な言い回しで尋ねた。 「全く、心当たりがありません。こちらが、お聞きしたいくらいです。なぜ五歳の女の子が、矢で撃たれなければならないのか。イタズラにしても、なぜ子供を狙《ねら》ったのか。見当もつきませんわ」  夫人の発言は第三者的立場からのものだった。 「奥さん……」  赤松主任は椅子に深く座り直して、 「先程、『その後に起こった事件は全く関係なかったので』とおっしゃいましたけど、二つの事件に共通しているだけで、十分、特異なことでしてね。私どもにとって注目に値することなんです。しかも、その両方の現場に居合わせるはずだったのに、奥さんもお嬢さんも、欠席されている。これを奇妙だと思うのは、考えすぎでしょうか?」 「まるで、お取り調べをうけているみたいだわね」  夫人は笑った。そして、 「私が青天会のパーティを欠席したのは、先ほども申し上げましたが、主人の用向きのためなんです。具体的には、大学のゼミの学生さんたちが、地方自治の実際を見学したい、という申し入れがありましたので、相模町内での宿泊先とか、車の手配。それから、議員さんたちとの懇談会の準備など、雑用のお手伝いをさせていただいたわけなんです。このことについては、青天会の方たちにも、ご了解をいただいておりますわ。えーと……、それから、娘がバレエスクールを欠席した理由ですか?」 「はい、まぁ……」 「それについては、あまり申し上げたくないんですけど、実は、選挙を応援してくれた市民グループの中には、様々な意見をお持ちの方がおられましてね。私たちが相模町に来てからも、娘を都内のバレエスクールに通わせていることについて、主人に対して批判的な意見を表明されたそうです。おそらく、その方のリークでしょうね。ある議員の方が、学習塾の問題と絡ませて代表質問する動きがありまして、主人と相談して、当分の間、欠席させることにしたんです」 「すると、お辞めになったわけではないんですね?」 「はい。主人の公務と、娘の稽古事《けいこごと》とは別ですわ。私は娘にバレエを辞めさせるつもりはありません。今は、教育委員の問題が紛糾していますし、微妙な時期ですので、余計な波風を立てないために休ませていますが、いずれ、また通わせるつもりです」 「そうですか……」  夫人の言葉に嘘はないように思えた。表情にも、やましさは感じられない。 「恐れ入りますが、その……、これは確認のために、お聞きするわけですが、事件前後に不審な電話がかかってきたとか、不審な車両や人物につけられたというようなことはありませんでしたか?」  と言い終わる前に、夫人は首を振っていた。 「そういうことは一切、ありません。もし、あった場合、いや、不審というほどのレベルでない場合でも、不安を感じた時は、相模警察署の警備課の方に必ず連絡するように約束させられているんです。署長さんにね」 「…………」 「お話のご様子では、私たちが危険を感じて、パーティやレッスンを欠席したように考えていらっしゃるようですけど、そのようなことはありません。私は不束者《ふつつかもの》ですが、これでも一応、相模町長の妻です。もし、危険を感じて欠席するような場合は、他の方々にも危険が及ぶことを防ぐため、それ相応の然《しか》るべき措置はいたします」  夫人はきっぱりと言った。発言内容は理路整然としており、一分の隙《すき》もない。さすがの赤松主任も、 「よくわかりました。失礼の段、深くお詫《わ》び申し上げます」  と頭を下げた。僕もそれに倣《なら》った。 「詫びるには及びませんわ。お仕事ですもの……」  夫人は優しい眼差《まなざ》しで言った。  話が一瞬、途切れると、僕を見て、 「あなた、どこかで見たことがあると思ったら、テレビのコマーシャルに出てくる人と、そっくりなのね」  と、出し抜けに言った。 「テレビの、コマーシャル? ですか?」  思いがけない指摘に僕は慌てた。もちろん、そんなことを言われたのは、初めてのことだった。 「そう。何とかという、栄養ドリンクのコマーシャルよ。七人くらい並んで、エイエイオー、とやっているでしょう? その中の一人」 「…………?」  このころ、あまりテレビは見ていなかったので、どんな男に似ていると言われているのか、さっぱりわからなかった。  夫人は僕を、まじまじと見つめて、 「そうねぇ。余計なお節介かも知れないけど、その色よりも、紺のスーツの方が似合うかも知れないわねぇ。ただし、明るい紺よ。それから……、髪は七三じゃなく、真ん中で分けた方がいいわ」 「はぁ……」  と答えて、赤松主任を見たが、白樺《しらかば》の木の方を眺めている。  夫人は首を傾けるようにして、 「揉《も》み上げも、それじゃ長すぎるわよ。耳の穴くらいまでにしておかないと。あなたの場合、元々が毛深いんだから、女の子に怖がられるわよ。もっとも、私は、その方が男らしくて、素敵だと思うけど……」  と言って、ニッコリ微笑んだ。  僕は何も答えられなかった。顔が熱くなって行くのがわかった。たぶん、真っ赤な色をしていたと思う。小鳥の囀《さえず》りに混じって、赤松主任が、ヘッヘッヘッ、と笑う声が聞こえた。  その後、僕たちは五歳の一人娘に会った。母親似の愛らしい子で、児童館で催される紙芝居の会に出かける時刻まで、一緒に過ごした。  帰りがけに、夫人は、今度は主人のいる時にでも、と笑顔を見せた。もちろん、それは社交辞令だったに違いない。赤松主任も、寄らせていただきます、と答えた。しかし、僕には、それが社交辞令のようには聞こえなかった。 [#改ページ]      24  相模町から城西署に戻る途中、僕たちは多摩署に立ち寄った。  赤松主任は何度か訪れたことがあるらしく、受付でチラリと手帳を呈示し、そのまま足を進めた。  一階の刑事課のドアは開け放たれている。その開いたドアをコンコンとノックした。何人かの刑事が振り返ったが、反応がない。だが、窓側の席に座っていた男が立ち上がって、満面に笑みを浮かべた。 「さ、どうぞ、こちらへ」  男も窓側にあるソファーに向かった。それを見て、僕と同年代の刑事が茶碗のある場所へ向かった。  男の机のプレートには�刑事課長代理 土井警部�とある。だが、まだ黒々とした髪をした四十歳前後の人物だった。 「どうも、しばらくです。奥さんはお元気ですか?」  土井が言った。 「うん。おかげさんで、病気一つしない」  赤松主任は土井より先にソファーに座った。僕が立ったままでいると、 「こっちは、今、うちで研修中の相棒だ」  と紹介した。 「ほう。じゃ、私の弟弟子というわけですな」  土井は赤松主任の真向かいに座り、僕に対して、かけなさい、と、手を差し出した。 「そうですか。実務研修ですか。懐かしいですね。すると、彼を含めて、弟子は何人になりました?」  土井が言った。 「そうだなぁ。数えたことはないが、十七、八人になるかなぁ」 「十七、八人? 私は確か、六人目だったですよね?」 「それくらいだな。教え子の中で、珍しく出世したのは、土井君だけだ」 「不肖の弟子ということになりますか?」 「いやいや、持ち味というのは刑事にもある。土井君は偉くなって、大所高所から捜査指揮するのが向いている」 「褒《ほ》められているのかなぁ」  土井が首をひねると、 「もちろん、褒めているのさ。俺なんか、泥棒のホシは捕まえたが、階級章のホシは、とうとう捕まえられなかった」 「やっぱり、褒められているとは思えないや」  二人が笑った時、茶碗が届いた。僕は素早く立って、若手の刑事から、茶碗ののった盆を受け取った。 「そのうち、赤松会というのをやりましょうよ。長《ちよう》さんの教え子を一堂に集めて、半蔵門会館辺りで、パァーとね」  と、土井が言うと、 「赤松会なんて、おこがましいが、みんなには会ってみたいな。そんなことより、ナニの件は調べてくれた?」 「もちろん。第一優先順位で調べましたよ」  と言うと、立ち上がって、自分の机の引き出しからノートを取り出し、席に戻った。そして、頁を繰った。表情が引き締まり、警部らしい顔になっている。 「えーと、相模町に関する情報、ということですが、何分にも神奈川県内ですので、相模町がどうの、役場がどうの、町長がどうの、という類の情報はありません。犯罪情報についても、しかりです。さらに、多摩地区の警察署で、相模町に居住する人物や、所在する団体について、関心を抱いている捜査関係者は、ほとんどいませんでした」 「そうか。ま、あそこは県警の縄張りだし、仕方がないな……」  赤松主任が伏目がちにつぶやいた。 「ただ、私が相模町という名を口にすると、反応した刑事が一人だけいました」 「…………」  赤松主任が顔を上げた。 「彼は以前、相模町と隣接する八王子署に勤務していたんですが、当時、独自に飯岡産業という会社を内偵したそうです。この会社は元々は建設土木業なんですが、いろいろと、よくない噂《うわさ》があったそうなんです。それで尾行を続けていたところ、例の山林火災があった頃から、相模町へ頻繁と出入りするようになったそうです」 「相模町のどこへ?」 「主にゴルフ練習場。たまに料理屋、ということです」 「ゴルフ練習場と……料理屋?」 「ええ。ゴルフ練習場にはビデオが見られる個室がありましてね。そこなら、スウィングのフォームを確認する振りをしながら、密談もできるということらしいです」 「…………」 「料理屋の方は川魚を食わせる店で、こっちにも個室の座敷があるそうです。彼に言わせれば、ゴルフ練習場と料理屋では、会う相手が違ったんじゃないか、ということでした」 「会った相手の目星は?」 「はっきりと特定できなかった、ということですが、車のナンバーから、ゴルフ練習場では、都議会議員と町議会の議員。料理屋では、定年退職した銀行の元支店長なんかが客として来ていたということです」 「密談の目的は?」 「そこまではわかりませんよ。それを探る前に、彼は転勤してしまいましたし、後任者に申し送ってきたものの、おっしゃるように相模町は神奈川県警の管轄ですからね。具体的に事件性があるわけではないし、打ち切られたようです」 「まぁ、そうだろうな。ところで……、飯岡産業という会社の、よくない噂とは?」 「三、四年ほど前のことですが、埼玉県の山間部に産業廃棄物の分別センターというのが建設されたそうです。分別するのは、いわゆる安定五品目。つまり、ゴムくず、金属くず、陶器くず、プラスチック、建築廃材。こういう物は変質しないから、埋立処分しても安全というわけです」 「…………」 「この安定五品目は関東各県の埋立地に運搬され、残りの有害廃棄物は茨城県内の施設で焼却処分する、という触れ込みだったんです。ところが、運び出されたのは、実は山の土だけだったんですよ。持ち込まれた産業廃棄物は分別されることもなく、その山の土を掘った穴の中に埋められたんです」 「そんな……。すぐにバレるだろう?」 「いやいや、やり口が巧妙でしてね。産業廃棄物を下ろして、空になった荷台には山の土が積まれ、その上を分別したゴミで覆ったんです。一説によると、その比率は、当初は二対一。慣れるに従って、山の土の割合を増やして行ったそうです。監視小屋から見る限り、持ち込まれた産業廃棄物の分だけ、分別されたゴミが持ち出されて行くわけですからね。差し引きゼロ。住民たちは疑いを挟む余地がありません」 「なるほど、考えたな」 「山から出たトラックは、まず、ある施設でカモフラージュ用の分別ゴミを取り除いた後、埋立地に持って行きます。積み荷は正真正銘の山の土ですから、クレームはつきません。そして、再び、空になった荷台に産業廃棄物をのせて、分別センターに向かうわけです。こうして、埼玉県の山間部十ヘクタールに、推定百五十万立方メートルの産業廃棄物が埋められたというわけです」 「しかし、どうして、それがわかった?」 「山の土を積んだトラックが事故に遭いましてね。荷崩れを起こしたんです。それでバレてしまったわけですが、産廃処理会社にとっては、そういうことも計算済みのことで、ここらが潮時とばかり、一夜にして姿を消したそうですよ。後に残ったのは、高給で会社重役に祭り上げられた地元のお人好しだけだったそうです」 「恐ろしい話だ。そのイカサマ事業に飯岡産業が関《かか》わっていると?」 「証拠はありませんが まず間違いはない、ということです」 「そうか。すると、今度は、相模町が危ないというわけか。議員や銀行関係者と接触しているとなると、狙《ねら》いは何だ?」 「わかりません。こっちが聞きたいくらいです。ちなみに、ボウガン事件とは、どうして結びつくんです?」  土井が聞き返してきた。赤松主任は頭に手をやって、 「実を言うとな。俺たちも皆目、見当がつかんのだよ」  と、ため息をついて、 「ただ、単純に捜査を重ねて来たら、相模町に……、いや、相模町長の奥方と子供に辿《たど》りついただけのことなんだ」 「町長夫人と……子供?」  土井が僕の方を見て、それから再び、赤松主任の方を見た。 「そうなんだよ。ことのきっかけは、だな……」  赤松主任は一連の経緯を説明した。  土井という警部は叔父と兄が警官で、しかも、要職にあるということだった。  おそらく、そういう人的背景があってのことなのだろう。赤松主任の説明を聞いた後、しばらく考えこんでいたが、突然、 「ヘリコプターを使って、山火事の焼け跡を見てみませんか? 私も見てみたい」  と提案してきた。 「ヘリコプター?」  赤松主任が眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。 「ええ。地上からじゃわかりませんよ。道のあるところしか、行けないし、歩いて山に入るにしても、全体は見通せない」 「そりゃ、そうだが、ヘリコプターなんかに乗れるのか?」 「この間、ある会合で、方面本部の警備担当、それに交通担当とも同席したんですが、その時、山林火災の話が出ましてね。一度、実査する必要があるな、なんてことになったんです。航空隊に掛け合って、一機、飛ばしてもらいましょうよ」 「まぁ、見られるに越したことはないが……」  赤松主任が口ごもったが、土井は受話器を取って、航空隊の関係者と折衝し始めた。 [#改ページ]      25  僕にとってヘリコプターに乗るのは、生まれて初めての経験だった。  機種は�ひよどり�。警視庁の航空隊が所有する十人乗りの中型機である。乗るのは、方面本部の五名と、土井と赤松主任と僕だった。たった八名なのに、搭乗員名簿に名前を書かされた。なぜ書くのか不思議だったが、後で、墜落した時に備えてのことだ、と聞かされ、ゾッとした。  方面本部の新庁舎の屋上に立っていると、都心の方向からヘリコプターの音が聞こえた。遠くに見えた小さな黒い点は、次第に大きくなり、やがて、銀色の巨大な機体は風を巻き起こしながら、覆いかぶさるように迫ってきて、ふわりと着地した。  プロペラの回転が遅くなり、羽が見えるくらいになる。すると、パイロットが降りてきて、土井と笑顔で握手した。そして、僕たちに対して、どうぞ、と声をかけ、操縦席の方へ戻って行った。  方面本部の五名が先に乗り込み、続いて、赤松主任と僕。最後に土井が乗り込んだ。  土井が副操縦席のパイロットに合図を送ると、再び、プロペラの回転が早くなって行った。  機体がぐらっと揺れ、ヘリコプターは離陸した。まず、上へ上へと舞い上がり、次の瞬間、猛スピードで前進し始めた。僕は息をのみ、身を固くした。見たこともない操縦席の計器類、経験したことのない揺れ、嗅《か》いだことのないヘリコプター内の臭《にお》い、そして、周囲の空の青さに目を奪われるばかりだった。  土井が赤松主任に何事か話しかけ、僕の肩を指先でつついて、下を見てみろ、と目配せした。僕は言われた通り、下を見た。そして、目を見張った。すでにヘリコプターは緑の森の上を飛んでいた。  考えてみれば、それは当たり前のことで、空には信号機も、踏切も、交通渋滞もない。目的地までは最短距離を飛び、しかも、猛スピードとなれは、十キロ、二十キロは瞬《またた》く間に飛び越える。  僕は当たり前の事実に驚いていた。土井を除く他の警官にとっても、それは同じだったらしく、慌ただしくカバンの中を探ったり、ビデオ撮影の準備に取りかかったりしていた。  そんな中、赤松主任は双眼鏡を使って、下の風景を見ていた。緑の山々の中に、黒々とした山火事の痕跡《こんせき》が見える。焼け焦げた木々。剥《む》き出しになった山肌。所々に生い茂る貧弱な下草……。  ヘリコプターは焼け跡を通過すると、機体を傾けた。思わず、椅子の把手《とつて》を握り締めると、ゆっくりとUターンし、再び、焼け跡の上空を飛んだ。  そんな風にして、何度かUターンを繰り返した後、焼け跡上空でホバリングをした。そして、二、三分すると、操縦士が振り返った。方面本部の責任者がオーケーサインを出し、土井も赤松主任に確認してからオーケーサインを出した。  すると、静止していた機体は猛スピードで相模町から離れた。  その後、ヘリコプターは東京都内の幹線道路と周囲の森の間を飛んだ。方面本部の関係者は忙しく地図を見たり、無線通話の状態を確認したり、ビデオ撮影を続けていたが、僕たちにとっては、遊覧飛行も同様だった。  ヘリコプターから降りた後、僕はしばらく興奮から冷めた後の、一種の虚脱感の中にいた。  赤松主任も考え事をしているらしく、終始、無言だった。  方面本部の玄関先で、土井と別れたのは午後三時。何をするにも中途半端な時刻だったので、僕たちは帰署することにした。  別室のドアを開けると、一人で事務処理をしていた荒木が顔を上げた。 「どう? 何か収穫はあった?」  荒木は手を休め、煙草に手を伸ばした。 「うん。東京都にも神奈川県にも、広くて深い山がある、ということが、よくわかったよ」  赤松主任は双眼鏡とバッグを机に置いてから、椅子に腰を下ろした。僕は部屋の隅に行き、茶の準備にかかった。 「たったそれだけ?」  荒木が笑った。 「ヘリコプター酔い、というのもあるということがわかった」 「やれやれ。ところで……」  僕が二人の前に茶碗を置くと、 「見習いさんは、どうだった?」  と、荒木が尋ねた。 「自分ですか?」  僕は聞き返した。意見を求められることはないと思っていたからだ。しかし、 「少なくとも、視力は赤松教官よりもよいはずだ。ヘリコプターから焼け跡を眺めて、何か、ピンとくるものはなかったかい?」  半ば冗談口調だったが、答えなければならないような雰囲気だった。それで、仕方なく、 「空から見て思ったんですが、山火事の起きた場所が思っていたよりも近場なんですよね。それが意外でした」  と答えると、 「近場? どこから?」 「人家とか、道路とか……。何と言うか、人工の施設から、そんなに遠くない場所なんですよ」 「そりゃ、君、カラスのくわえた線香には火がついているんだぜ。遠くへは運べないよ。途中で、あっちち、と落としちゃったんじゃないの?」  荒木は声を上げて笑った。 「いいえ。それが、焼けた山林は一か所だけじゃないんですよ。五、六か所くらい焼けているんですが、よくニュースに出てくる焼け跡は、その中でも丸焼けになった所で、しかも、山梨県寄りの奥地の方なんですよ」 「ほう……。そうなの?」  と、赤松主任の方を見た。 「まぁ、ニュースというのは、短い時間内に効率的に伝えなきゃならないからな。最もインパクトのある映像を使うんだろうよ。どうせ、見ている方には、どの辺りが燃えたのかわからない。言うなれば、象徴的に使っているんだろうな」 「へぇー、そうかね……」  と返事したが、実際に空から見ていない荒木は事情がのみこめない様子だった。 「結構、道路に近い山林が燃えているんですよ。ほとんど目と鼻の先という感じでした。そういうところが三か所はありましたね」  僕は上空からの眺めを思い出しながら、説明した。 「そんな近くなら、なぜ消せなかったんだ?」  と、荒木。僕は首を横に振って、 「無理ですよ。道路が山林の方に続いていれば、消せたかも知れませんけど、梅林に行く手を阻まれる地形になっているんです。後、百メートルくらいですかねぇ……。梅林の中に消防車の通れる農道でもあったら、近場の山火事は防げたかも知れません」  と言い終えると同時に、 「そうか!」  赤松主任が両手で机を叩《たた》いた。 「おいおい。一体、どうしちまったんだ?」  荒木が目を丸くした。 「それだ、それそれ……。やっとわかったぞ」  赤松主任が珍しく興奮した口調で言った。 「それって、どれだよ?」  と、荒木。 「カラスだよ。カラスのイタズラのこと」 「カラスの……イタズラ」 「新聞によれば、線香をくわえたカラスを目撃したのは、たった数人だろう? ひょっとしたら、誰かがカラスを捕まえて、瞬間接着剤かなんかを使って、くちばしに線香をくっつけて、人の目につくように飛ばしたのかも知れん。もし、そうだとすると、全《すべ》ての前提が崩れてしまう」 「…………」 「飯岡産業の相模町への仕掛けが、ようやくわかった。連中は山火事があったから、相模町に接近したんじゃない。その反対だ。相模町へ目をつけて、山火事を起こしたんだ。しかも、容易に消せない場所で、なおかつ、後々、開発しやすい場所を選んで火をつけたんだ。山火事の原因がカラスのイタズラじゃ、誰も文句は言えない。火の気のない所から火の手が上がっても、誰も放火とは思わない。山のカラスに聞いてくれ、てなもんだ。違うか?」 「…………」  荒木は真顔に戻っていた。僕も赤松主任の奇抜な発想には驚いていた。 「開発のために森林を伐採すれば、自然保護団体が騒ぐ。貴重な自然を破壊するな、とね。だが、すでに破壊された自然は、それ以上、破壊しようがないよ。荒れ果てたハゲ山に、例えば、ゴミ処分施設を建設しようとした場合、反対運動は盛り上がらないと思う。飯岡産業の狙《ねら》いはそれだ」 「しかし、前の町長ならともかく、今の町長はゴルフ場建設も、クレー射撃場建設にも反対しているんだぜ? 計画は全て白紙撤回されているんだ。赤松つぁんの言う通り、仮に飯岡産業が山火事を起こしたとしても、現実に、目的は遂げられていないわけだ。この辺りの辻褄《つじつま》と言うか、整合性がなぁ……」  荒木が腕組みして首をひねった。 「いやいや、おそらく、飯岡産業は水面下で動いているはずだ。今の町長は間違いなく脅迫されているよ。ただ、それが表面化していないだけだ。いや……、ボウガン事件が、その脅迫の痕跡《こんせき》だ。証拠だよ」 「なるほどね。まぁ、確かに、そういう見方ができなくもないけれど……。すると……」  荒木はしばらく間を置いてから、 「今度は、いよいよ本丸、ということかな?」 「そういうことになる」  赤松主任がうなずいた。 [#改ページ]      26  その朝、赤松主任は珍しく面会予約の申し入れをしていた。  町役場を前触れもなく訪れても、町長に会えるとは限らない。それどころか、居留守を使われ、門前払いされる可能性があったからだろう。  カレンダーを眺めながら通話していた様子から見て、赤松主任の腹積もりでは、おそらく数日先の訪問を考えていたのだと思う。しかし、通話の途中で、赤松主任は身を乗り出し、ペンを取った。視線はカレンダーから、時計に向けられていた。やがて、 「わかりました。それでは、午後一時に役場の方へ、お邪魔します」  と言うと、受話器を下ろし、フーッと、息を吐いた。 「アポイント、取れたの?」  荒木が尋ねた。 「うん。今日、来いってさ。一日二日は待たされると思ったんだが……」  赤松主任は腕組みし、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。 「どうしたの? 何か、不都合でも?」 「いや、そういうわけじゃない。少し下調べをしたかったんだ。何せ町長の生年月日も知らない」 「生年月日だって? 世間話でも、するつもりかい。相手は忙しい町長さんだよ。無駄話をしている暇はないと思うけどな。それに、もたもたしていたら、捜査本部に抜かれちまうぞ」  荒木が冷やかすように言った。 「それもそうだな。じゃ、いつもの通り、出たとこ勝負で行くか」  赤松主任はメモを四つ折りにして、手帳に挟んだ。  相模町役場は国道と県道との交差点にあった。  病院、銀行、郵便局、消防署など、主だった施設が、その一角にある。もちろん、警察署の建物も百メートルほど先に見えた。  町役場の建物は三階建てで、福祉施設を兼ねていた。自動ドアの出入口を抜け、受付カウンターに向かう。  女性職員がにこやかな表情で僕たちを迎えた。赤松主任は手帳を取り出し、 「町長さんと、午後一時にお会いする約束になっています」  と告げて、名刺を一枚、差し出した。 「しばらく、お待ち下さい」  女性職員は受話器を掴《つか》んだ。赤松主任はカウンターから離れ、掲示板のポスターを眺めた。  植林キャンペーンのポスターが目立つ。その他、納税のポスターに混じって、神奈川県警の覚醒剤《かくせいざい》追放のポスターも掲示されていた。しばらくして、 「お待たせしました」  という声がした。振り返ると、車椅子に乗った青年がフロアにいた。案内係、という腕章をつけている。 「ご案内します。どうぞ……」  と言って、青年は僕たちの前を先行した。  その後について、来賓用のエレベーターに乗る。三階で扉が開くと、車椅子の青年は素早く廊下に出て、�開�にボタンを押したまま、僕たちが出るのを待った。そして、再び、僕たちを先導し、町長室のドアをノックした。  中で、どうぞ、という声がした。青年はノブを引いて、お連れしました、と告げ、ドアを開いて僕たちに、どうぞ、と微笑《ほほえ》んだ。お世話さま、と、赤松主任が笑顔で答えた。 「お入り下さい……」  という声が奥から聞こえた。失礼します、と言って、僕たちは町長室へ入った。  テレビで見慣れた顔が立ち上がった。町を一望できる広い窓を背にしている。 「遠路、ご苦労さまです。さ、どうぞ、おかけ下さい」  三田町長はデスクの横を回りこむように、ソファーに向かった。長身で長髪。スモークブラウンのスーツにバーガンディのネクタイがよく似合う。  テレビで見た人物を間近に見ると、不思議な感じがした。 「先日はご自宅の方にお邪魔しまして、奥様に紅茶をいただきました。大変、おいしかったです」  と、赤松主任が礼を述べると、 「聞きました。前もって、ご連絡をいただければ、お菓子を焼いて、お持てなしできたのに、と、残念がっていましたよ」  町長は手をソファーの方に差し伸ばした。だが、赤松主任は窓際に寄ると、 「なかなか、いい見晴らしですなぁ。気持ちが晴々しますよ」  と言って、外の風景を眺めた。 「でしょう? やはり、人間は自然の中にいるべきですよ」  町長もその横に並んだ。 「あれが高尾山になりますかな?」  赤松主任が指をさす。 「いえいえ、あれは岩老山ですよ」 「岩老山?」 「はい。高尾山は……、今日は曇って見えませんが、この方角になります」  と、指で示してから、 「写真でどうぞ」  と、壁の方に誘った。  大きな航空写真のパネルが掲げられていた。相模町上空から撮影した写真である。その手前にはアクリル板の透明ケースが置いてあり、その中に、相模町のミニチュア模型が納められていた。ケースの右下には、相模中学校第五十回卒業生一同、とある。  赤松主任はパネル写真を見上げ、次に、ケースの中を覗《のぞ》き込んだ。  道路があり、商店街があり、もちろん、中学校の校舎があり、小学校、町役場、警察署と消防署もあって、農協のライスセンターが最も大きな建物だった。  周囲の森林にも起伏がつけてあった。山は緑色、山頂の鉄塔は銀色、谷川は水色に塗ってある。中学生たちが夢中になって、模型を作っている様子が目に浮かぶ。  赤松主任と町長は向かい合うようにして、しばらく、ケースの中の相模町を眺めていたが、 「この模型には墓地がありませんね」  赤松主任が言った。 「墓地?」  町長が繰り返す。 「はい。大体、どの辺りにあるんです?」  とケースの中を見渡したが、町長は顔を上げたままだった。そして、 「ご購入の予定でも?」 「いいえ、火のついた線香をカラスがくわえて、それを枯れ草の上に落として山火事が発生したということですからね。ちょっと、位置関係を確かめたいと思いましてね」 「なるほど、そういうことですか……」  と、うなずいて、 「でも、あいにくですが、この町では、山火事が発生して以来、墓地には花以外、残さないようにしています。線香は燃え尽きるのを見届けるか、消すかして、墓地を離れるよう指導していますので、近頃では、無人の墓地に線香の煙が漂う風景は見られなくなりました」 「ほう……。動物や鳥に荒らされるから、供え物は片づける、という話は聞きますが、線香までとはねぇ。ちょっと寂しい感じがしますな」 「仕方がありませんよ。安全のためですから」  町長はケースを見下ろした。コンコン、とドアがノックされて、飲み物が運ばれて来た。 「どうぞ、そちらへ……」  町長がソファーの方を示し、僕たちは町長に向かい合って腰を下ろした。  ソファーでも、やはり、墓地や埋葬の話題になった。そして、結局は火事のことに及んで、 「ところで、町長さん。公舎の隣も燃え上がったそうですね?」  赤松主任が尋ねた。 「そうなんですよ。貰《もら》い火で、危うく焼け出されるところでした」 「隣の家の資材倉庫には火の気がなく、これも、カラスのイタズラだとか?」 「はい。公舎の郵便受けの上にも、燃えかけの線香が一本、落ちていたそうで、まず間違いないということです」 「妙ですな……」  赤松主任は首をひねって、 「墓地の線香は燃え尽きるのを待つか、消してから立ち去る、というキャンペーンが行われているというのに、カラスが火のついた線香を運んだという。一体、どこの墓地から運んだんでしょう?」 「それについては、担当の者が調べたんですが、わかりませんでしたね。ここら辺は東京の多摩地区のように、大きな霊園が一所にあるわけじゃないんですよ。自宅の裏に、その家だけの墓所があったり、地区ごとに集合墓地があったりで、まちまちなんです。その全《すべ》てに、指導を徹底するわけには行きませんしね。巡回するわけにも行きません。それに、神仏のことについて、あれこれ制限しますと別の問題が生じましてね。難しいんです」 「信教の自由、との兼ね合いですか?」 「おっしゃる通りです」 「しかし、供え物を食い荒らされ、墓地が汚れるという問題と、カラスが火のついた線香をくわえて空を飛ぶ、という問題は、自ずから異なると思うんですよ。供え物が犬や猫やカラスに食われるというのは、それを供養と見做《みな》せないこともありません。でも、家が一軒、丸ごと燃えて、これも供養だ、なんて達観できる人間なんかいませんよ。住む家がなくなるわけですからね。おそらく、線香の火が消えてから墓地を去れ、という役場の指導は、住民には浸透していると思いますよ。これは一般的なルールやモラルの問題ではなく、自分たちの生命、財産に直接|関《かか》わる切実な問題のはずですからね」 「まぁ、それはそうだと思いますが……」  町長は怪訝《けげん》そうな目で赤松主任と僕を見た。一体、何を言いたいんだ、とでも言いたげな眼差《まなざ》しだった。そして、赤松主任も、私が何を言いたいのか、わかりますか? という風な顔つきで、町長を見つめていた。  結局、 「失礼ですが、一体、何をおっしゃりたいんですか?」  先に町長が口を開いた。赤松主任は少し間を置いてから、 「まず……、町長公舎の隣の家が燃えましたよね?」  と、念を押すかのように言った。 「次に、バレエスクールの掲示板にハンドボウガンの矢が撃ち込まれました。その後、お嬢さんの通っていたバレエスクールのクラスメイトがハンドボウガンで撃たれて、大怪我《おおけが》をしました。さらに、今度は奥さんの趣味のお仲間がボウガンに撃たれ、亡くなられた。全て、近くの対象ばかりが被害に遭っているんです。これは単なる偶然の一致でしょうか?」 「すると……、偶然の一致ではない、とでも?」  町長は不安気な眼差しで聞き返した。赤松主任は、それには答えず、 「町長さん。失礼ながら、そのことは、薄々、気づいておられたのではないですか? それに、一連のボウガン事件についても、その対象が、お嬢さんと奥さんであることに、気づいておられたのではないですか?」 「なぜ、そうお考えに?」  町長もまた、赤松主任の質問には答えない。  赤松主任は、やれやれ、という風に苦笑して、 「町長さん。あなたは元大学助教授で、大変、聡明《そうめい》なお方だ。私の考えていることなど、お見通しでしょう。でも、私には長年の経験と、経験によって培《つちか》われた知恵というものがあります。単純にシロはシロ、クロはクロと、はっきりさせることが、必ずしも、人の幸福につながるとは限らない、ということも、身に沁《し》みて知っています。場合によっては、シロはクロ、クロはシロ、という風に装った方が、社会のためになることもある、ということを知っています。ですから、この私を信用していただきたいんです」 「…………」 「例えば、町長さんがグリーンタウンの借家の方へ引っ越したのは、通勤や生活が便利になるからではなく、実は、テロ行為を恐れてのことらしい、と……、おいぼれ刑事の勘が疑り始めているんですよ。山荘のような町長公舎では一キロ先からでも、スコープさえ使えば、恰好《かつこう》の標的になってしまう。だから、いっそのこと、木を隠すなら、森の中。つまり、グリーンタウンの中の、しかも、第三区の二十三番目。テロリストたちが近づこうにも、そこに至るまで、何十という住民の目をかい潜《くぐ》らなければならない。これはまず不可能ですよ。なぜなら、町長さん宅への訪問者となれば、付近住民は興味|津々《しんしん》、鵜《う》の目|鷹《たか》の目でカーテンの隙間《すきま》から覗くでしょうし、中には、スクープ映像をもくろんで、ビデオカメラなんかを向ける人間もいるでしょうからね。みすみす、目撃されるために近づくようなもんです。おまけに、借家住まいの庶民的な町長、なんて評判も上がるわけです。一石二鳥というわけですな」 「…………」  町長の喉仏《のどぼとけ》が大きく動いた。明らかに動揺している。それは僕にとっても同じだった。テロ行為を恐れて町長公舎を引き払った、などということは、初めて耳にすることだった。 「それから……、飯岡産業の関係者が町長さんに、非公式に接触しているらしいということもわかっています。おそらく、飯岡産業という表看板ではなく、レインボー開発とか、カンパニー・21とか、耳障りのよい会社名でね」 「…………」  町長は否定も肯定もせず、じっと赤松主任を見つめている。 「それ以外にも、一連の放火、傷害、殺人という犯罪の真相について、ある程度、予測はついています。でも、ここで申し上げるつもりはありません。証拠はなく、今の段階では、裏付けることが極めて難しいからです。私が本日、ここに来た理由は、たった一つ。これ以上、被害者を出したくないからです」 「…………」 「町長さん。私を信用してくれませんか? その上で、どうか、これ以上の犠牲者を出さないために、町長さんが、まだ側近の方にも漏らされていない開発計画案、おそらく、山火事の跡地の利用計画案だと思うんですが、その具体的内容を教えていただけないでしょうか?」  と言って、赤松主任は口を閉ざした。  町長は両肘を両膝の上に置き、両手を組んで、しばらくうつむいていた。やがて、無言のまま、何度かうなずき、 「飯岡産業という会社名は、今、初めて耳にしました。私に接近してきたのは、財団法人日本総合科学研究所の亀岡睦男という人物です。町所有の焼失した山林の跡地に、貴重資源備蓄センター、という研究施設を建設したいという申し入れでした」  町長は長い息継ぎをしてから、 「建設費は関連企業の方で捻出《ねんしゆつ》するということでしたので、私は検討チームを作って研究させたんです。ところが、プロジェクトの内容にわかりにくい部分があって、その点を確認しようとすると、当方を信用して任せてくれ、の一点張り。肝心の貴重資源の保存技術に至っては、企業秘密なので公開できない、という回答でした」 「…………」 「そういうあやふやなことでは、プロジェクトは受け入れられない、と拒否すると、しばらくしてから……」  と言うと、急に顔をしかめて、 「元代議士の稲村孝行氏が乗り込んできましてね。『いくら革新町政だからと言って、何でもかんでも反対、では困る。もっと地元の利益を考えてくれ』と、ねじ込んできたんですよ。全く、語るに落ちるとは、このことです。あの人は東和化成との癒着が問題となって落選したわけですからね。こりゃ危ない、と思い、全て白紙撤回することにしたんです」  と言うと、首の後ろをかいて、 「すると、今度は�インスペクター�とかいう雑誌の代表者という人物が現れましてね。『役場の幹部職員の何人かが、某企業に招待されて高級料亭で飲み食いし、家族との温泉旅行も楽しんでいる。その時の伝票も、証拠の写真もある。これが世間に知れたら、町長の立場がまずくなるんじゃないのか?』と、まぁ……」 「脅迫してきたんですね?」 「ええ、言葉の調子はソフトでしたが、あれは脅迫でしょうねぇ。少なくとも、私はそう受け取りました。後で、その代表者の素性を調べさせると、これが何と、右翼団体の関係者。顧問でした」 「連中のお決まりのパターンですよ。法の網にかからないようにマスメディアの手法を用い、政治団体のお面をかぶる。それで……、何とお答えに?」 「もし、汚職するような職員がいたら、内部規程に則《のつと》って厳正に処分する。もちろん、その際は警察の方とも協議することになるだろう、と、当たり前の回答をしました」 「連中、青くなったでしょう?」 「まぁ、青くなったり、赤くなったり、でしたね。大変な剣幕でした」 「当然でしょうな。罰せられるのは、収賄側だけじゃない。利口な人間なら、そんな虻蜂取《あぶはちと》らずの手は使わない。すると……、町長公舎の隣の火災は、その直後ですか?」 「いいえ。半月後です。亀岡氏や日本総合科学研究所、それに、�インスペクター�の関係者からの電話はつながないように、と指示してからのことですから」 「ご自宅の電話も、伝言サービス会社につながるようにしたわけですね?」 「そうです。今にして思えば、刑事さんのご指摘の通り、気づくべきでした。でも、言い訳がましく聞こえるかも知れませんが、実際のところ、具体的な脅迫があったわけではないんです。犯行を予告されていたわけでもありません。仮に、その可能性が予測できたとしても、どうなんでしょうか? 私人の立場ならともかく、町の長たる公人が、単なる推測で、一個人一団体を証拠もなしに告発することは、いかがなものか、と考えます」  町長は疑問を投げかけて、発言を締めくくった。 「いや、ごもっとも、ごもっとも……。おっしゃる通りだと思います」  赤松主任は何度も大きくうなずいた。  僕は興奮していた。事件の全容が解明され、解決の道筋が開けたように思えたからだ。  まず、町長から、脅迫を示す録音テープか、脅迫状の任意提出を受ける。もし、そういう物証がない場合、町長本人から供述書を取る。そうすれば、少なくとも、強要罪で亀岡の逮捕状を請求できる。その他にも、最後の切り札として、贈賄容疑で逮捕状を得ることは十分、可能のはずだ。  しかし、赤松主任はなぜか、その種の行動を起こさなかった。それどころか、町長に対して、今後の協力要請をすることもなく、固い握手をしただけで、町役場を後にしたのだった。  そして、帰りの車の中では、助手席の窓から外を見て、この辺りの建売は安いんだね、などとつぶやいた。  車が都県境を越えた時、 「あの……、ちょっと、質問してよろしいでしょうか?」  僕は言った。町役場を出た時から、いや、それ以前から、一つの疑問が、ずっと付きまとっていたからだ。  赤松主任は、ん? と言って、わずかに首を動かしただけだった。 「ちょっと、お聞きしたいんですけど」  と繰り返すと、いいよ、と言って、再び、窓の外に目を向けた。 「先程、主任は町長室で『場合によっては、シロはクロ、クロはシロ、という風に装った方が、社会のためになる』とおっしゃいましたよね。あれは一体、どういう意味なんです?」  と、尋ねると、 「ああ、あれか……。あれは、ハッタリみたいなもんだな。こっちは全て知っているよ、と、町長に釘をさしたんだ。だから、町長も、それを察して、あれだけのことを話す気になったんだと思う。誤魔化しきれないことがわかったんだ」 「こっちは何でも知っている、とは一体……」 「世の中には、本音と建前というのがある。君は若いから、わからんだろうけど、人間は弱い生き物でね。両方を使い分けなければ、生きては行けないんだ。たとえ、人望のある元大学助教授で、理想家の三田町長でもね。本人は、汚れるもんか、と頑張っているが、どぶ掃除をしようとして、どぶの中に入れば、誰でも汚れてしまうよ」 「…………」 「どぶ掃除をする時、どんなにシャツをまくり上げても、どこかに泥の染みがついてしまう。問題は、彼が、それを見られたくない、知られたくない、と考えている点なんだ。だから、助け船を出してやったのさ」 「……助け船?」 「と言うより、逃げ道かなぁ」 「…………?」 「町長は、公舎の隣が燃えたことも、娘のバレエ仲間が襲われ、夫人の陶芸仲間が殺されたことも、予測がつかなかった、と言ったが、あれは本心じゃない」 「すると……、嘘なんですか?」 「まぁね。飯岡産業のやり口は、君も多摩署の土井代理から聞いて知っているはずだ。連中はおつむの弱いチンピラじゃない。自分の言うことをきかせるために、相手を襲撃するなんて、知恵のない人間のすることだ。その点、飯岡産業の連中のやり方は計算ずくだ。狡猾《こうかつ》な上に、残忍だ。恐ろしいほどにね」 「…………」 「もしも、三田町長を直接、脅したり、家族に危害を及ぼしたら、すぐに、動機面から容疑者として浮上してしまう。そうなれば、言うことをきかせるどころか、逆効果だ。別の問題が発生するよ。暴力に屈するな、なんて市民運動が盛り上がったりしてね。そうなれば、飯岡産業にとっては、元も子もなくなってしまう」 「…………」 「だから、町長一家に手を出さずに、町長を脅す手を考えたわけだ。敢《あ》えて、隣の家に放火し、娘と同じレッスンを受けている子供を狙《ねら》い撃ちし、夫人の陶芸仲間を撃ち殺した。あれは人違いじゃない。『俺たちがその気になりさえすれば、女房子供は、いつでもこうなるんだぞ』という見せしめだ」 「見せしめ……」  僕は息をのんだ。 「犯人たちが、もし、それをはっきり伝えれば、脅迫罪になってしまう。でも、全く知らせなければ、意味がない。だから、三田町長が薄々、気づくように臭《にお》わしているはずなんだ」 「…………」 「これには、もう一つの罠《わな》が仕掛けてある。三田町長は薄々、感じたものの、確証がないから、何の手も打たなかった。つまり、警察に通報することをしなかった。町長室で三田町長が最後に言ったのは、そのことなんだ。公人たるものが、何の根拠もなく、ただ推測だけで告発することはできない、と言ったろう?」 「はい。確かに」 「三田町長は、自分の妻子の代わりに、何の関係もない二人が犠牲になった、ということを、結果的には気づいたはずなんだ。そして、犯人たちは、そのことも脅迫材料にしたわけだ。つまり、三田町長が警察への通報を躊躇《ちゆうちよ》したために、みすみす二人の人間が死傷してしまった、というわけだ。町長たる者が、それでいいのか? というわけだな。二重の罠だよ」 「…………」 「俺は、そのことを指摘したんだ。シロをクロ、クロをシロ。つまり、隣の火災はカラスのイタズラ。ボウガン事件は人違いによって二人が犠牲になった、ということで構いませんよ、とね。実際、それでも十分、傷害罪や殺人罪は成立するんだから、と、暗に提案したのさ。町長は利口な人だ。すぐにそれを理解して、あれだけの話をしたんだと思う」 「でも……、犯人側は捕まれば、全てをバラしてしまうんじゃないですか? 元々、それを計算していたわけですから」 「だが、それを証明することはできない。三田町長が、そんなことは夢にも思わなかった、と否定すれば、それまでのことだ」 「嘘をつくわけですね?」 「そうだ。それこそが真っ白なシャツについた泥のシミなんだよ。飯岡産業とか、亀岡睦男というドブとすれ違えば、どんな人間でも、そうなる。もし、シャツを汚したくなかったら、ドブがつまって異臭がしても、放っておくことだ。何だかんだと口実を使って、逃げ回ることだよ」 「…………」 「あの三田町長はドブと格闘している。なかなかの人物だよ。敵の罠にはまって、ほんの少し、判断を誤ったとしても、それは許容範囲内のことだ。シャツが汚れたからと言って、人間までが汚れたわけじゃない。そうは思わんか?」 「はい。そう思います」  僕が納得して、うなずくと、赤松主任は再び、窓の外に目を向けた。  帰署するには早すぎる時間だったので、僕はてっきり多摩署に立ち寄るものだと思っていた。だが、赤松主任の指示は、真っ直ぐ本署に戻ることだった。  午後五時。僕たちは誰もいない別室に入った。  署長差し入れの栄養ドリンクを二人で四本ほど空にして、ゴミ箱に落とした時、荒木が戻ってきた。 「早いね。すると、空振りだったかな?」  と言いながら、自席に向かった。僕は茶の準備をした。飲もうが飲むまいが、茶碗を運ぶのが、新米の務めだ。 「その反対だ。こんな風に仕事が捗《はかど》るのは、そうだなぁ……。十年前に起きたイタチ小僧事件以来かな」  赤松主任が答えると、 「そう。そりゃ、おめでとう」  と言いながら、椅子を引き、腰を下ろした。僕はその前に湯飲み茶碗を置き、もう一つの茶碗を持ったまま、赤松主任の方を見た。  赤松主任はポケットを探りながら近づいて来て、荒木から少し離れた椅子に腰を下ろした。僕は赤松主任の前に茶碗を置き、その隣に腰を下ろした。 「噂通《うわさどお》りの町長だったよ。一度でいいから、ああいうボスの下で働いてみたいもんだ。苦労のせいか、テレビに出た頃に比べて、少し白髪が増えたな……」  と前置きしてから、赤松主任は三田町長との面談の様子を荒木に報告した。荒木はメモを取りながら、終始無言のまま、聞いていた。  赤松主任の説明が終わると、 「東和化成……」  荒木は立ち上がって、書棚の資料を調べ始めた。だが、探し物は見つからなかった様子で、電話に手を伸ばした。そして、情報関係者という相手と、しばらくペンを動かしながら通話をしていたが、やがて、受話器を置くと、 「硫酸ピッチ……、廃PCB……、トリクロ、ロ、エチレン……、トリクロロエチレンか。全く、舌|噛《か》みそうな名だ」  と、自分のメモを読み上げてから、 「この中のどれか。あるいは、全部だろう、だとさ」 「何だい? そりゃ」  赤松主任がそのメモを覗く。 「産業廃棄物。だが、ただの産廃じゃないぞ。原料から製品を作る過程でできる有害廃棄物だ。東和化成は大量に抱え込んで、その処理に困っている。何年か前に、これを外国に持ち出そうとして失敗した、という噂が流れたことがある。もちろん、会社側は全面否定しているけどね」 「そうか、ただの産廃ではなく、有害廃棄物か……」 「もう保管場所は満杯で、入れきれないドラム缶が、千葉県内の工場敷地内に野積みになっているそうだ」 「なるほど……。それで全部がつながった。産廃処理のプロ、飯岡産業の出番というわけだ。日本総合科学研究所はダミー組織。亀岡とかいう人物は使いっ走り。黒幕は東和化成。その提灯持《ちようちんも》ちが稲村元代議士か……」 「そういうことになるな……」  二人はしばらくうつむいていた。少なくても二分間くらいは沈黙していたと思う。やがて、 「これまでだな……」  荒木がポツリとつぶやいた。 「うん。釣り上げるには、獲物がでかすぎる……」  赤松主任がうなずいた。 「でも、十分だ。よくやったよ」 「うん……」  と答えて、二人は再び、沈黙した。  僕は訳がわからず、二人の顔を交互に見ていた。すると、荒木と目が合った。 「君も、よく頑張った。この仕事は以後、豊島署の捜査本部に任せる」 「捜査本部に?」  僕は驚いて、 「どうしてです? これからじゃないですか?」  と、思わず口走っていた。 「気持ちはわかる。だが、とてもじゃないが、俺たちの手には余る」  荒木は首を横に振った。 「そんな……。やってみなきゃわかりませんよ。せっかく」  ここまで突き止めたのに、と言おうとしたのだが、 「まぁ、聞けよ」  荒木が言った。 「東和化成どころか、下っぱの飯岡産業や、ダミーの日本総合科学研究所に関しても、俺たちはまだ何も掴んでいないんだぞ。亀岡についても、しかり。これから専従捜査班の全員を投入し、徹夜で仕事しても、連中の尻尾《しつぽ》を掴むまでには、かなりの日数を要するだろう。まぁ、それはそれでいいとしても、尻尾を掴む前に、第三の犠牲者、第四の犠牲者が出る可能性が高い」 「…………」 「今、正に、この瞬間、俺たちは何日か前の、三田町長と同じ立場に立たされている。三田町長は、ボウガン事件は自分とは関係ないかも知れない、と考え、何の手も打たなかった。実際のところは、無関係であって欲しい、と思いたかったんだ。俺たちも、第三の事件は起きない、と思いたいよ。そして、一年かかろうが、二年かかろうが、確かな証拠を掴んだ上で、東和化成の社長や、稲村元代議士に縄をかけてみたいもんだ」 「…………」 「だが、間違いなく、第三の事件は起きる。それも、近いうちにだ。ボウガンで人を殺してまで、目的を達成しようとするのは、単に犯人たちが残虐だからだけではない。連中も追い詰められている、ということなんだ。一連の事件がエスカレートしているのが、その証拠だよ。おそらく、次は、三田町長の助教授仲間が狙われるだろう。しかも、これまでのやり口から考えて、標的は一人とは限らないし、凶器もボウガンとは限らない。三田町長も、それを危惧《きぐ》しているからこそ、苦しい胸の内を明かしたんだ」 「…………」 「最初はハンドボウガンで、次はボウガン。これには深い意味はないと思う。おそらくは、単に、射程距離と標的に合わせて、凶器を選んだんだろう。皮肉なことに、この凶器の違いが合同捜査本部の設置を見送った理由の一つになったわけだが、次の標的の射程距離によっては、どんな凶器が、いや……、どんな兵器が使われるのか、想像もつかない」 「兵器……」  僕は思わず生唾《なまつば》を飲んだ。 「何の罪もない人間が犠牲になるのを見過ごしてまでも、君は捜査を続けるべきだと思うのか?」 「いえ、思いません……」  そう答えざるを得なかった。  確かに、荒木の言うことは正論だった。わずか十数人の専従捜査班で連続通り魔事件を捜査すること自体、無理なことだった。  僕は組織捜査の限界と範囲を、この時、身に沁みて思い知らされた。 「本音を言わせてもらうとね」  赤松主任が言った。 「こんな風になるとは、正直、予想していなかった。ある事が腹に据えかねて、年甲斐《としがい》もなく突っ走ったんだが、まさか、こんな結果になろうとはなぁ……」  と、苦笑してから、 「どうだろう? 明日、捜査本部の谷口管理官と相川警部補を呼んでもらえないだろうか。この前みたいに会議の席で、これまでの捜査結果をご報告したい。二人でね」  と言って、僕の方を一瞥《いちべつ》した。  赤松主任が言う、腹に据えかねたこと、とは�麻雀天狗《マージヤンてんぐ》�の件であり、恩返しとは、所轄の刑事の意地を見せること、ということを、僕はこの時、はっきりと知った。 [#改ページ]      27  翌日の午前、別室の机は会議型に並べかえられていた。  上座の四つの席を除き、城西署の捜査専従員は全員が顔を揃《そろ》えていた。  僕は末席に座っていたが、谷口と相川が出席するということだったので、少し緊張していた。やがて、廊下に人の気配がした。僕は思わず、生唾を飲みこんだ。  荒木がドアを開け、刑事課長と共に、二人の男が入ってきた。しかし、谷口と相川ではなかった。  上座に四人がつくと、荒木が、 「只今《ただいま》より、臨時の捜査会議を実施します」  と述べてから、初顔の二人、豊島署の捜査本部の沢村警部と日比野警部補を紹介した。  捜査本部の二人は何も言わず、小さく会釈しただけだった。  なぜ、谷口と相川が顔を出さなかったのか、この時はわからなかった。でも、今では、よくわかる。彼らは僕にしたことについて、後ろめたさを感じていたのだと思う。 「じゃ、赤松主任、よろしく」  荒木が目配せした。  はい、と答えて、赤松主任は立ち上がった。  説明の内容は昨日の繰り返しだった。最後に、 「さる筋の情報によると、かなり以前から、東和化成の業績は思わしくなく、コスト削減の観点から、有害廃棄物の発生抑制、リサイクルなどの減量化は無視されてきたそうです。結果、大量の有害産廃を抱え込むことになり、現在、その管理は限界点に達しているそうです。以上の点から、私どもは、東和化成の狙《ねら》いは有害産廃の処分、という結論に達しました。貴重資源備蓄センターは、その名目であり、おそらく、相模町の山林のどこかに保管管理施設を建設し、工場にあふれたドラム缶を運びこむ計画ではないかと思います。しかも、この計画は極めて急がれている、という節《ふし》があります。従って、速やかな対応が必要と考えます」  と付け加えて、報告を終えた。  静寂……。赤松主任が腰を下ろし、椅子を引く音だけが聞こえた。 「何か質問は?」  荒木が言った。  事前の打合せでは、ここで、地域総務係長の福本が手を上げ、三田町長に注目したきっかけは? と質問することになっていた。すると、赤松主任が僕の方を向いて、それについては彼に発表させます、と答え、僕が五反田のカルチャーセンターでの経緯を報告する手筈《てはず》になっていた。ところが、 「いや、全く驚いたよ……」  課長が言った。  課長は部屋に入ってきた時から上機嫌で、赤松主任が報告している間も終始、笑顔を絶やさなかった。何しろ、自分の指揮する捜査専従班が結果的に、捜査本部をしのぐ成果を上げたのだから、得意満面なのも当然だった。 「被害者の周辺をいくら洗っても、何も出てこないはずだよな。ホシにすれば、町長一家の周辺にいる対象であれば、的は誰でもよかったわけだ。これじゃ、たとえ、千人の捜査員を投入しても、埒《らち》はあかない」  と言うと、気持ちよさそうに笑って、隣の二人を見た。  二人はムッとした顔をして、 「そのことはともかく、欲を言えば、これほどの情報は、できれば、もっと早くいただきたかったですなぁ」  沢村という警部が言った。その一言で、課長の顔から笑みが消えた。 「第三の事件は、今、この瞬間にも発生するかも知れないわけですからねぇ。犠牲者が出てからでは、取り返しがつかない」  と言って、隣の日比野の方を見た。その日比野が無言でうなずく。 「ちょっと、あんたら……」  工藤が言った。険しい表情をしている。続けて何かを言いかけた時、 「いまだ推測の段階ですよ。赤松主任の報告は、何の根拠もありません」  荒木が先回りして言った。 「三田町長の愛娘《まなむすめ》を狙わずに、敢《あ》えて、そのクラスメイトを狙う。夫人を狙わずに、その趣味仲間を狙う。こんなことは証明のしようがない。犯人の認識の問題、頭の中の問題ですからね。自白させても、法廷で取り消されたら、それまでのことです」  荒木は少し興奮ぎみだった。沢村の発言が気に入らなかったのだと思う。 「犯人もそのことを承知していますよ。何の罪もない相手を、ただ三田町長の家族と共通性があるからという理由だけで、殺したり傷つけたとなると、どんな判決が下るかをね。それよりも、人違いだった、と涙を流した方が、軽い刑罰で済む」 「…………」 「しかし、五歳の女の子に向けて、ボウガンを撃つ人格|破綻《はたん》者に、そんな知恵があるはずがない。つまり、裏で、糸を引く人物、知恵をつけた人物がいるんですよ。それは一体、何者なのか?」  荒木は二人の客に言った。二人はそっぽを向いたままだった。 「東和化成の汚い金に魂を売った人でなし[#「人でなし」に傍点]ですよ。黒幕は東和化成。あの天下の東和化成ですよ? 稲村元代議士以外にも、いろんなアドバイザーを抱えているはずです。もし、私が雇われているとしたら、警察の動きから絶対に目を離すな、と、アドバイスしますね。特に、豊島署の捜査本部関係者とは、週に一度は会食しろ、と、アドバイスします」 「んっ……」  沢村が目を剥《む》いた。日比野も荒木を睨《にら》んでいる。 「そのくらいにしておけ」  課長が言った。そして、二人に対して、 「只今の、捜査本部関係者、とは、捜査本部出入りのマスコミ関係者、という意味ですから、誤解なさらないように」  と、告げた。二人は返事をしなかった。  荒木もそっぽを向いたままだった。気まずい空気が漂う中で、 「質問……」  福本係長が手を上げた。 「……どうぞ」  荒木が思い出したように言った。 「三田町長に注目したきっかけは?」  打合せ通りの質問だった。すぐに、赤松主任が、 「それについては、彼が発表します」  と言って、僕の方を向いた。  僕は立ち上がって、赤松主任から指示された通りのことを説明した。  バレエスクールの某父兄から発表会のビデオを入手し、それを陶芸教室の生徒たちに見せたところ、三田夫人が映っていたことがわかった、という簡単な内容だった。  捜査会議で正式に発言するのは初めての経験だった。だから、事前に署の屋上でリハーサルした時のようには、うまく話すことができなかった。でも、専従員たちは誰もが、好意的な眼差《まなざ》しを向けてくれていたように思う。そして、終わった時、赤松主任は僕を見て満足気にうなずいた。  大方の予想では、二日以内に合同捜査本部が設立され、城西署からは若くて有能な刑事が五人か六人、派遣されるだろう、ということだった。  実際、その通りになった。ただ、派遣されたのは七人で、その中には、赤松主任も含まれていた。  残念なことに、僕は捜査本部での赤松主任の行動を見届けることはできなかった。僕には研修の終了日が近づいていたからだ。仮に、そうでなくても、研修生の立場で捜査本部入りすることは許されなかったと思う。  そんなわけで、僕は別の捜査主任の下で、女性被疑者の取り調べ上の注意事項とか、弁護士の対応の仕方とか、基本的な捜査実務の習得に、忙しい日々を送っていた。  もちろん、捜査本部の方の動きは気になっていた。いつ飯岡産業に強制捜査が入り、亀岡とボウガンを撃った犯人たちが逮捕されるのか。そして、何かにつけて黒い噂が取り沙汰《ざた》される東和化成と、悪名高い稲村元代議士まで捜査の手は及ぶのか。  捜査本部へ派遣された刑事からの電話があるたびに、僕は耳をそばだてたものだ。  予想に反して、合同捜査本部が発足した週に、早くも飯岡産業に強制捜査が入った。容疑は、いわゆる出資法違反で、預り金の禁止、という条項に抵触するとのことだった。思いがけない罪名だったが、これには裏がある。  漠然とした疑惑が浮上した段階で、警察は内偵捜査を実施し、いつでも強制捜査に着手できるように、あらゆる角度から、逮捕状を請求できるだけの証拠を固めておくのだそうだ。飯岡産業については、管轄する八王子署が、出資法違反についての裏付け捜査を終えていたということになる。  同時に、日本総合科学研究所の方へも、法人税法違反その他の容疑で強制捜査が入った。つまり、この研究所も、日頃から胡散臭《うさんくさ》い対象として、地元警察からマークされていたということだった。  亀岡は逮捕され、その供述から、ボウガンを使用した実行犯三名が判明し、間もなく、犯人たちは関西のホテルに潜伏しているところを逮捕された。犯行に使用した車両と、凶器のボウガンと矢は、三名の自供通り、山梨県の草深い崖下《がけした》から発見された。  この四人の顔写真は城西署にも電送され、僕は感慨深い思いで、その一人一人の顔を見つめた。亀岡は色黒で、眉の太い、鼻が大きく、顎《あご》の張ったプロレスラーのような顔をしていた。他の三人も、大体、想像した通りだった。粗野で無神経で短慮、知性のかけらも感じられない。爬虫類《はちゆうるい》と同じ目をした男たちだった。  次は、ヘビ使いの番だ、と期待したが、捜査が順調だったのは、そこまでだった。  惜しまれるのは、亀岡の自供で浮上した最重要容疑者、東和エンジニアリングの常務取締役の失踪《しつそう》だ。捜査本部は、自宅と勤務先に監視員を配置することができなかったのだろうか……。  数日後に、常務取締役、岩城靖夫五十七歳は沼津近くの海岸で溺死体《できしたい》となって発見された。死亡推定日時は亀岡が逮捕された当日。岩城の死は不自然だったものの、遺体に不審な点はなく、他殺の痕跡は認められなかった。だからと言って、もちろん、それは自殺の証明にはならない。  それ以降、捜査が進展したというような情報は届かなかった。  実は、こんな結末になることを、僕は何となく予感していた。もし、一連の事件の背景に、東和化成や稲村元代議士が絡んでいるとしたら、捜査の手が身近に及ぶことを、漫然と座視しているはずがないと思ったからだ。  僕が�ガラスの壁�というものを実感した最初の経験だった。  そんな中、唯一の救いは、病院に入院中の第一被害者の意識が戻った、というニュースだった。それは当時、奇跡の回復、と言われた。  人形を抱いて微笑《ほほえ》む女の子は、僕が見た天井を見つめる女の子とは、まるで別人のようだった。その輝くような笑顔が全国に放送される頃、僕は二回目の夜勤勤務についていた。  城西署での最後の夜勤勤務となるので、仮眠の時間だったが、僕は記録倉庫から古い捜査書類を持ち出して、刑事部屋で一人、目を通していた。  新聞でも大きく報道された強盗事件について、メモをしていると、 「何だ、起きていたの?」  ドアのところで、赤松主任の声がした。僕は驚いて、立ち上がった。 「どうしたんです?」  と尋ねると、 「いや、ちょいと寄ってみただけさ……」  赤松主任は千鳥足で、自席の方に足を進めた。僕がお茶酌み場へ向かうと、 「お茶はいらない。水をくれ」 「水?」 「管理官に酒を飲まされちまってね。参ったよ。まだ俺が、何か隠している、と思ってやがるんだ。鹿児島の生まれにしちゃ、疑い深すぎる」  と言うと、椅子に座り、机に両腕を重ねて、その上に顎をのせた。酔った姿を見るのは初めてだった。  僕は食器棚からタンブラーを取り出し、冷凍庫の氷を入れ、水道の水を注《つ》いだ。そして、どうぞ、と、赤松主任の前へ差し出すと、 「おう、すまん……」  と、体を起こし、ゴクゴクと音を立てて飲んだ。そして、半分ほど、飲むと、 「酔い覚めの、水千両と、値《ね》は決まり……」  と言って、中の氷を一つ口に含んで、ガリガリと齧《かじ》った。そして、 「ところで、何やってんの?」  赤松主任は僕の使っていた机の上を覗《のぞ》いた。 「古い記録を読ませてもらっています」  僕は表紙を持ち上げて見せた。 「古い記録ね……。勉強熱心は結構だが、勘違いをしないようにな」 「勘違い?」 「ああ、その通り。犯罪者は、強盗事件を起こそうとして、強盗事件を起こすわけじゃない。ただ金が欲しいだけのことだ」 「…………?」 「盗みに入って、神棚のヘソクリを見つけ、懐へ入れれば窃盗罪。そこへ、住人が戻ってきたので、ぶん殴って逃げれば、強盗罪。打ち所が悪くて死んじまえば、強盗致死罪。そこに殺意があれば、強盗殺人罪。……わかるか?」 「犯罪構成要件のことは、わかるんですが、おっしゃる意味の方が、ちょっと……」  と、首をひねると、 「けっ、血の巡りの悪い見習いだなぁ。今までで、一番、出来が悪いぞ」 「すみません……」  僕はペコリと頭を下げた。 「ええか? よく聞けよ。犯罪者は、ただ金が欲しいだけなんだ。セックスしたいだけなんだ。クスリでラリってみたいだけなんだよ。それを具体的に、どう実行するかで、何とか罪とか、かんとか罪というのを、警官や検察官や裁判官が、法律という嵌《は》め絵に、当てはめているだけのことだ」 「…………」 「つまり、捜査書類に書かれている内容は、法律の罪名に当てはめて、並べかえられた記録にすぎない。そこに書かれている内容は、紛れもない事実には違いないが、決して真実ではない。ここのところをきちんと押さえておかないと、全体を見誤るぞ。手術は成功したが、患者は死にました……、てなことを、平気で口走る医者みたいになっちまう。わかったか?」 「はい……」  理解できなかったが、そう答えた。酔っていると思ったからだ。赤松主任はにっこり笑って、 「よしよし、悪くない。少しは見込みがありそうだな」  と言って、タンブラーの水を飲み干した。 「お代わりは?」  僕が手を伸ばすと、 「悪りぃね。お勉強中のところ……」  と、タンブラーを押し出した。僕は二杯目を作りながら、 「ところで、東和化成の件はどうなっているんです? 差し支えなければ、聞かせて下さいよ」  と尋ねた。すると、 「本丸[#「本丸」に傍点]まで落とせるかどうか、ちょっとわからんな。例の悪徳政治家が裏でガサゴソ動いているようだし、ここだけの話、難しいかも知れん」 「そんな……。何とか、やっつけて下さいよ。東和エンジニアリングをガサれば、どうにかなるでしょう?」 「ガサってみたが、重要書類の入ったロッカーの中は、きれいさっぱり処分されていた。自宅の書斎の方も、残っているのは画集とか文学全集の類だけだった」 「…………」 「常務取締役の岩城靖夫か……。哀れな男だ。自殺か他殺かわからんが、死ぬ間際に、どんなことを思ったのかねぇ。ヤツには五歳の孫がいるし、女房の歳は死んだ被害者と大して変わらないんだ」 「岩城靖夫が死んでも、その上がいるわけでしょう?」  僕はタンブラーを赤松主任の前に置いた。赤松主任はそれを両手で掴《つか》んで、 「もちろん、いるさ。だが、従業員が五、六人のちっぽけな会社の社長ならともかく、大企業の社長が『ボウガンを使って、五歳の女の子を撃て』なんてことを命令するはずがない。せいぜい『千葉工場の有害廃棄物を、早急に処分しなさい』と命令するくらいのものだ。命令された重役たちは、『相模町の山林で処分する方法を研究しなさい』と、部下に命令する。そんな風にして、下へ下へと下りてくるうちに、少しずつ、計画は具体性を帯びてくるんだ。東和グループの東和エンジニアリングの岩城靖夫のところで、違法行為もやむなし、ということになったのさ」 「結局は、トカゲの尻尾《しつぽ》切り、ですか?」 「まぁな。だが、トカゲの尻尾切りは許さないぞ、と力んでみても、『有害廃棄物を処分しろ』と命令しただけの本社の社長を、殺人罪で逮捕できるか? 『山林での処分を研究せよ』と命令した本社の重役たちを、一体、何の罪で逮捕するんだ? できやしないよ。こういうジレンマが本当の意味での、法律の限界、と言うんだ」 「でも、本社の社長は、まともな方法では、有害廃棄物を処分できないことを承知していたはずです。ある程度、犯罪行為を承知の上で、命令を下したはずです」  僕が吐き捨てるように言うと、 「気持ちはわかるが、そう怒るな。若き研修生の夢を砕くようで、ちょいと言いにくいけどね。法律、法律と有り難がっているが、実際のところは、殴り合いの喧嘩《けんか》と変わりはない。違うところは、拳骨の代わりに、法律条文を使っているところだけだ。拳骨にしろ、法律条文にしろ、結局はテクニックとパワーのある方が勝つ。正義が勝つとは限らない」 「…………」 「でも、安心してくれ。合法という名の下に悪業を重ねれば、結局、その報いを受けることになる。自分の毒が体に回って自滅するんだ」 「そんな……」  僕は納得できなかった。赤松主任の言葉は、ただの気休めとしか思えなかった。だが、 「昔、アメリカにアル・カポネというギャングがいて、数えきれないほど人を殺したが、とうとう殺人罪では捕まらなかったな」  赤松主任は、ヒックと、しゃっくりをして、 「おっそろしく悪賢い男で、捕まるような証拠を一切、残さなかったからだ。警察は窮余の一策、何と浮浪罪でパクって、しかも、公判へと持ちこんだ。カポネにとっては、夢にも考えない罪名だったはずだ。それで、油断したのか、調子が狂っちまったのか、法廷で、うっかり納税申告書と矛盾する答弁をしてしまった。これを財務省が見逃すはずがない。カポネは脱税で摘発されて、十一年の実刑判決が下り、結局、それで破滅することになった。めでたし、めでたし」 「でも……」  それは昔の話で、アメリカの出来事ではないのか、と言いたかったが、赤松主任は続けて言った。 「毒が回る、とは、そういうことだよ。悪党というものは警察を警戒している分、警察以外に対しては脇が甘いんだ。そういうところから、ボロが出て、破綻《はたん》する。まぁ、見ていろ。東和化成の場合も、きっと、そうなる。もし、毒が回らなかったら、無理にでも回されることになるだろうなぁ。必ず、回されることになるはずだ」  まるで、自分に言い聞かせるようにつぶやいてから、 「さてと……」  と言うと、残りの水を飲み干し、空になったタンブラーを置くと、 「えーと、いつまでいるんだっけ?」  と言って、ゲップした。 「火曜日の昼までです」  その日が研修の最終日だった。 「そうか。せめて会食には顔を出したいと思ったんだが、仕事の方が忙しくて、たぶん無理だと思うんだ。そんな訳で、悪りぃけど、見送れそうもない」  赤松主任は申し訳なさそうに言った。 「見送りなんて、とんでもない。結構ですから」  僕は首を横に振った。 「すまんな。まぁ、講習を終えたら、また顔を出してくれ」  と言うと、両腕を上に上げて、伸びをしてから、 「じゃ、そろそろ帰ろうかな」  両手で、トンと机を叩《たた》いて、立ち上がった。 「これから、ご自宅の方へ?」  僕は時計を見た。すでに電車は動いていない。 「いや、豊島署だ。今、道場の方に寝泊まりしている。捜査本部詰めなんて、俺には不向きなんだけどなぁ。断るほどの覇気もなくなったよ」  赤松主任は渋い顔を作って見せてから、出口へ向かった。僕はその後に続いた。すると、 「いいよ。そんなに気を遣うな。一人で帰れる」  と、止められたが、 「どうせ、休憩時間ですから」  僕は後をついて行った。赤松主任は研修の終了日に来られない代わりに、この夜、わざわざ僕に会いに来てくれたからだ。 「何てこった。俺の方が見送られる羽目になるとはな……」  赤松主任は笑いながら廊下に出た。  玄関までは三十メートル。僕たちの靴音が無人の廊下に響いていた。 「あの、聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」  僕は歩きながら言った。 「……ん? まだ何か、あんのか?」 「はい、一つだけ」 「何だ? 言ってみろ」 「奥さんは旧家のお嬢様だったそうですけど、一体、どんなご縁で、お知り合いになったんです?」  僕は研修中に抱いた最大の、とも言える疑問について質問してみた。赤松主任は横目でジロッと僕を見て、 「この野郎め……。ひよっ子のくせに、年寄りをからかうんじゃねぇっ」  と怒って、結局、最後の質問には答えてくれなかった。 [#改ページ]   おわりに  実務研修を終えて、城西署を去る前日、刑事課の何人かが、僕のために宴席を設けてくれた。もちろん、それは赤松主任の依頼によるものだった。  場所は駅から少し離れた小料理屋の二階だった。しかし、何という屋号の店だったか、覚えていない。八畳くらいの座敷で、僕は刑事たちに酌をして回り、そのたびに刑事の心得のようなものを聞かされたはずなのだが、その内容も思い出せない。不思議なことに、そこだけ記憶から抜け落ちてしまっているのだ。  実を言うと、僕は翌月、昇任試験の最終面接を受けることになっていた。或《ある》いは、それが原因していたのかも知れない。そして、今にして思うと、その時に芽生えた昇進願望が、刑事としての初心を忘れさせてしまったのだろうと思う。僕の前半生における最大の過ちで、苦い思い出の一つだ。  ともあれ、捜査専科講習を修了し、僕は元の職場に戻った。結局、東和化成や稲村元代議士への捜査の手は及ばす、そのことだけが長らく、しこりとなって残った。  しかし、事件を忘れかけた三、四年後、東和化成は経済誌に乱脈経営をスクープされる。その後、数々の不正が明るみに出て、最後には倒産してしまう。それに連座する形で、稲村元代議士も政治生命を完全に絶たれ、最晩年は老醜をさらした。  なるほど、自分の毒が回る、とは、こういうことなのか……。  僕はその時になって、赤松主任の言葉を思い出し、その意味を理解した。東和化成の本社ビルは、今は跡形もなく、その敷地は駐車場になっている。 角川単行本『ショカツ』平成12年4月10日初版発行