深川通り魔殺人事件 〈底 本〉文春文庫 昭和六十二年十月十日刊  (C) Ryuzo Saki 2000  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 [#改ページ]    深川通り魔殺人事件         1  昭和五十三年十月十七日午後六時ごろ、千葉県銚子市で傷害事件が発生した。これから出勤するホステスを脅した男が、包丁で加療二週間の傷を負わせたのである。  事件がおこったのは、利根川と総武本線にはさまれた松本町三丁目のキャベツ畑わきの路上だった。ここから東へ二キロ、繁華街の|新生《あらおい》二丁目にあるクラブ『誘惑』の送迎マイクロバスが停まっていた。二十二歳のホステスは、十数人の同僚といっしょに乗りこもうとするところを、引き止められたのだ。 「おめえ、約束がちがうじゃねぇか!」  男は|川俣軍司《かわまたぐんじ》といい、近くのアパート五月荘に住んでいる。クラブ『誘惑』は、五月荘の斜め前の民家を借りて従業員寮にしており、十数人が寝起きする。アパートの男は、寮に住むホステスと顔見知りになり、『誘惑』にも何度か行ったことがある。 「約束ってなによ?」  引き止められた女は、言い返した。前年暮れにオープンした『誘惑』のナンバーワン・ホステスで、ポッチャリ丸顔で愛想よいが、このときばかりは別であった。 「とぼけるのか」 「なんのことさ」 「亭主が居るじゃねぇか!」  たしかに夫があり、寮でいっしょに暮している。店ではドアボーイをして、たまにはステージで|蛇皮線《さんしん》を弾き、琉球民謡を歌う。夫婦は沖縄県の出身で、はるばる人集めに行ったマスターにスカウトされ、銚子市へ来たのだ。 「よくも|騙《だま》したな。人をバカにしやがって」 「騙してなんかいないわよ」  女はキッとなった。  そもそもホステスをしていて、亭主の有無を問われ、素直に答える女が居るだろうか。マスターもママも、言下に否定すべしと教育している。国会においても解散否定の総理大臣答弁は、その直後にウソと分っても、責任を追及されることはない。クラブ『誘惑』の二十人のホステスは、閉店後の食事ぐらいつきあうよう指導され、その次いかに対処するかは、本人の裁量次第とされている。 「あんたなんかに、とやかく言われることないわ」  マイクロバスは、しきりにエンジンをふかす。運転するのはママの弟で、さっきから|苛立《いらだ》ちながら待っている。この種の争いごとには、介入しないことにしているが、それにしても開店前のトラブルは珍しい。 「おれについて来う。話がある」 「話があるなら、お店に来なさいよ」 「………」  こんどは男が、言葉につまった。つい最近も『誘惑』に行き、彼女を指名しようとしたのだが、ママに追い返された。店でトイレに立ったついでに、ボックス席をニタニタ笑いながら覗いて歩き、心証を悪くしたらしい。ニタニタ笑うのは少年時代からの癖で、どうしようもない。ただあのとき、|刺青《いれずみ》をちらつかせたのがまずかったのだ。江波杏子に似たママは、「あいにく満席です」と言った。そんなことはない、二十坪ある店内のボックスは空席だらけなのに、「予約席なの」といなされた。お目当てのホステスも知らぬふりをしているので帰ったが、刺青を再び見せるのを忘れなかった。 「どいてちょうだい」  女はマイクロバスのドアに立ちはだかった男を、押しのけようとした。すでに夫は、先に乗っている。|毅然《きぜん》とした態度をとらないことには、アパートの男となにかあったと疑われてしまう。実際のところ、すこし思わせぶりを言ったかもしれないが、まともに相手にするものか。 「おれ、本気だぞ」  身長百六十センチの男は、停めておいた自分の車から取出した柳刃包丁を、女に突きつけたのである。 「なにすんのよ!」  とっさに払い|除《の》けようとしたが、結果的に左|掌《て》で、刃を|掴《つか》んでしまった。  そこへ運転席から、ママの弟が飛び降りて来て、背後から組みついたので、男は凶器を放した。たちまち首根っ子を押えられ、キャベツ畑わきの溝に顔を突っこまれて、たっぷり泥水を吸ったところを、一一〇番通報で来た銚子署員に引渡された。  川俣軍司は、昭和二十七年二月二十一日に、銚子市と利根川をへだてた、茨城県鹿島郡|波崎《はさき》町太田に生まれた。太田は母親の郷里で、東京の下町育ちの父親は、戦後ここで漁師になった。  五人きょうだいの四番目で、兄と姉二人、それに弟が居る。ただし長姉は、幼時死亡している。軍司が生まれたころ、一家は経済的に最悪であり、母乳が足りないため、重湯で育てられた。  利根川べりの|萱《かや》ぶきの借家から、町立太田小学校へ通った。松林のなかの一学年一学級四十人ぐらいの、小さな学校である。軍司の成績は、五段階評価でいうと「2」が多く、「3」が少しだった。授業中はほとんど発言せず、話しかけられても笑うだけの気の弱い児童だから、友だちは少ない。  昭和三十九年に波崎第三中学校へ進むが、ここでも目立たない生徒だった。クラブ活動は園芸部で、いたずらをするわけでもなく、とにかく|温和《おとな》しいのだ。|渾名《あだな》は“ニタリスト”だが、中二のとき先生にニタニタ笑いを注意されたら、教室でいつまでもポロポロ涙をこぼした。  昭和四十二年三月、中学校を卒業。  波崎は、東が太平洋で西は利根川の、細長い町である。茨城県で最も開発が遅れた地域で、イモしか採れないといわれたが、鹿島臨海工業地帯が形成されるにつれ、町も様変りしはじめた。しかし波崎工業地帯に、第一次企業進出が決まるのは、この年十二月以降である。軍司は集団就職で、県外へ出ることにした。 「ほんとうに高校へ行かないのか?」  父親は念を押した。  このころ進学率は、九〇パーセントを超えていた。波崎第三中学校の卒業生百四十人のうち、ほとんどが新設の波崎高校へ進み、就職するのは十人前後である。軍司の小・中学校を通じての総合評価は、「家族・本人の性格がかなり変っており、交友関係が狭い。本人は根気と落ち着きがなく、注意散漫で情緒不安、怒りやすい」と記録されているが、父親としては三人の息子のうち、素直に親の言うことを聞く次男に、いちばん期待をかけている。新設の波崎高校には、なんとか入れそうなので、進学させたいと思ったのだ。  しかし次男は、首を横に振った。 「父ちゃんがこんなに困ってるのに、自分だけ上の学校に行くわけにいがねぇ」  漁師の父親は、|蜆採《しじみと》り専門である。地元では“しじみ|掻《か》き”というが、小舟の上から長い柄のついた漁具で、川底をさらう。|真弁鰓目《しんべんさいもく》シジミ科の蜆は、長さ二、三センチの二枚貝で、淡水または半塩水産である。これは淡水と海水が、ほどよく混じり合ったところで良く育ち、利根川の河口は深くても四メートルぐらいだから、“しじみ掻き”に適している。茨城県側と千葉県側に、それぞれ漁業組合があり、問屋を通じて出荷するのだ。  蜆の全国一の産地は、|宍道《しんじ》|湖《こ》のある島根県で、三重県や青森県でも盛んだが、ここ利根川流域の特徴は、養殖をおこなうことである。みそ汁にして食べる蜆は、冬場に需要が多いから、夏場に採ったものを、養殖区域に移しておく。そして需要最盛期に、東京の築地魚市場に出荷すれば、高値で引取ってもらえる。この養殖は昭和三十六年から始まり、軍司の父親が所属する組合では、冬場の十二月〜三月に集中して“しじみ掻き”をする。半値以下になる夏場は、養殖区域周辺は禁漁になる。  これは農家にとって、閑期を利用する理想的な形態である。しかし農地を持たず、蜆採り専業の川俣家には痛い。父親は苦境に立たされていた。 「おれは学問するより、手に職をつけたい。やっぱり東京へ出て、板前になる」 「そうだな。長く勤めた板前には、|暖簾《のれん》を分けてくれっぺ」  軍司は公共職業安定所を通じて、東京都鮨商環境衛生同業組合の求人に応じることになっていた。すし店は全国に、五万軒ぐらいという。そのうち東京に一万軒近くが集中して、「江戸前」たる|所以《ゆえん》だが、同業組合に加盟しているのは、四千二百軒ぐらいである。組合本部は築地の魚市場内に置かれ、求人活動も盛んだから、軍司は就職指導の先生に聞かされて、すし職人見習いの道を選んだのだ。  昭和四十二年三月末に、全長千五百メートルの銚子大橋をバスで渡り、銚子駅から束京行きの集団就職列車に乗った。 「毎日すし食えて|良《い》がっぺ」  見送りの先生に言われて、“金の卵”たる軍司は、いつものニタリストぶりとはちがい、表情を引締めて応じた。 「おれは日本一の板前になる」  東京駅に着いたら、ブロックごとに分かれ、軍司が連れて行かれたのは、飯田橋職安だった。そこへ就職先から迎えが来る。 「よく来たな」  学生服の軍司を出迎えたのは、築地のすし店の若主人で、初対面ではない。就職が内定したとき、波崎町まで足を運んで、両親と就職指導の先生にあいさつしている。  若主人の第一印象は、“小柄で色白の可愛い子”であった。従来の経験から、中卒の板前見習いは、ホームシックにかかって、ふっと姿を消す。そういうとき迎えに行くためにも、内定の段階で家庭訪問しておかねばならない。それは同業組合の求人担当である、父親の方針だった。 「|店主《おやじ》は厳しい人だが、それは仕事に対してであり、人間に対しては思い|遣《や》りがあるんだから、誤解しないように」  築地へ向かうとき、昭和十六年生まれの若主人は、繰り返し念を押した。軍司を雇ったすし店は、築地が本店で、銀座に支店がある。明治四十二年生まれの店主は、もともと印刷業だったが、敗戦を境にすし店に転業した。当時すし一人前というのは、客が持参した米一合のことであり、魚代と加工賃を取るのが建前だった。経済警察の取締りをかいくぐりながら、この商売が大当りして、歌舞伎座の近くに銀座店を出した。こちらを息子が任されて、若主人と呼ばれている。 「川俣君は本店勤務だから、それだけ見込みがあり、一人前になるのが早いということだ。見たところ根性がありそうだし、へこたれずにがんばってほしい」  車は内堀通りから、晴海通りに入っている。有楽町から銀座四丁目の交差点を過ぎ、首都高速一号線の高架をくぐり、新大橋通りを突っ切ると、風景ががらりと変る。華やかな銀座通りとは対照的に、生活臭がただよってきて、まっすぐ行けば|勝鬨橋《かちどきばし》だが、右手一帯が東京中央卸売市場と問屋街なのだ。 「ホッとするなあ」  軍司は緊張が解けたのか、初めて笑顔を見せた。隅田川の河口に来て、利根川を思い出したのかもしれない。  これから住込む店は、築地六丁目にあって、築地川の分流に面している。川沿いに五十メートルも行けば波除神社で、海幸橋を渡ったところが、中央卸売市場の魚河岸なのだ。午前五時半からセリがはじまり、サラリーマンが出勤する時間には、後片付けがはじまっている。だから軍司が働く店には、仕入れを済ませた人々が、朝食にやってくる。|鮨《すし》をつまみながら、|熱燗《あつかん》の酒やビールを飲むのも、一仕事終えたればこそである。  間口一間半の店は奥行きがあり、二階が従業員寮、三階は店主の居室になっている。寮は一室きりで、八畳ほどのスペースに二段ベッドが向かい合い、四人が寝起きするのである。昭和四十二年には四人採用して、築地店と銀座店に二人ずつ分けた。軍司と一緒に築地店に入ったのは、福島県の出身者であり、常磐炭鉱から来ていた。長い者で三年目といい、回転率が良いというか、定着率が悪いというか……。 「おう軍平!」 「ちょっと軍ちゃん」  軍司という名が珍しいせいもあり、もっぱら「軍平」「軍ちゃん」と呼ばれたが、本人は「はい」「はい」と素直だった。  一日は午前七時の起床で始まり、八時に開店すると、午後九時まで仕事が続く。その筋のお達しによれば、途中で休憩時間を設けて、〈準備中〉の札をかけねばならない。しかし店主の考えかたは、客が居れば〈営業中〉、居なければ〈準備中〉なのである。平均してみると〈準備中〉のほうが長く、わざわざ札をかけることはないと言われて、軍司は納得した|体《てい》だった。店主の口癖は、「体で覚えろ」である。厳しくするのは、一人前になったとき恥をかかずとも済むように、すべて親心から発しているという。その点でも軍司は、素直に言うことを聞いて、たまに張り飛ばされても、黙って耐えていた。  ふだん無口なのは、漁師町に生まれ育って、ぞんざいな言葉づかいを、気にしているせいかもしれなかった。すし店の板前は、|喋《しやべ》りすぎてはいけない。客に機嫌よく喋らせて、「今日は何がうまいか?」と問われたとき、上手に応答する。|相対《あいたい》でやるのだから、口のききかた一つで、売り上げは伸びるのである。軍司の口数が少ないのは、適性とみなされた。 「ばか野郎、どこに目がついている!」  怒鳴られながらも|呑《の》みこみは普通で、目立って器用ではないが、手先はまあまあだった。すし職人が一人前になるには、次の修業期間が要ると申し渡されている。 【洗いもの】半年間。これは食器洗いから、店内の清掃まで、すべての洗いものを引受けねばならない。 【出前持ち、河岸上げ】半年後から一年間。この出前持ちは、地理を頭に入れ、店の環境を知るうえで大事であり、河岸上げは主人が注文した品物を三、四十分後に集めて歩き、どんな種類の魚介をいかに仕入れるか覚える。 【ごはん炊き】一年半後から。二升炊きの古典的な釜を、ガスコンロにかけるが、炊き上がるまでずっとついている。そして酢や調味料を混ぜ、すしごはんにする。 【のり巻き】四年目から。まだ握りは早いから、「花板さん」の助手として、魚の頭や尾をハネたりしながら、のり巻きをやらせてもらう。この「下板」時代に、花板の技術を盗むのであり、握りかたの練習は、フキンを輪ゴムで丸めてもよし、オカラをごはんの代用にしてもよし、まさに体で覚える。 【花板】早ければ五年目からだが、これは心がけ次第。  しかし軍司は、昭和四十五年十月に、やめたいと言った。ようやく「のり巻き」の段階に入り、下板として真面目に働き、銭湯へ行けば鏡の前にしばらく立っている。これは職人として、握るときの「型」を作るために、必要な修業なのだ。店の者に気づかれぬよう時間をずらして銭湯へ行っているのを見て、店主は感心したばかりなのに、突然の申し出だった。 「なにが不服だ?」 「べつに……」  視線を伏せて、ふてくされているようでもある。この年の夏に軍司は、酔って近所の『築地大映』の、スチール写真展示のガラスを割り、パトカーで築地署へ連行された。|報《しら》せで店主は、さっそく駆けつけると、刑事たちの前でビンタをくれた。「おれが|叩《たた》くんじゃねぇ、お前のお父さんだと思って、痛さを噛みしめろ」と言ったら、ポロポロ涙を流して反省した様子なので、ガラス代を弁償して|貰《もら》い下げた。店主としては感謝されても、恨まれる筋合いはない。 「おれが口やかましいからって、お前を憎く思ってるんじゃねぇ」 「分っています」  軍司は下唇を突き出して、そっぽを向いた。酒に酔ったとき、こういう表情になるが、|温和《おとな》しいものだ。十五、六の頃から酒をよく飲んで、顔に出ないし態度も崩れないから、ずいぶん強いのだろう。『築地大映』のガラスを割ったのは、珍しいことだった。理由を聞いたら、市川雷蔵が気にいらないと言ったりしたけれども、同僚の話では新入りの板前見習いと、折合いが悪いらしい。 「テツのことか?」 「………」  答えないところを見ると、図星のようだった。半年ほど前に店主は、知合いの保護司に頼まれて、少年院を仮退院中の少年を、住込ませることにした。軍司と同い年だが、板前見習いとして後輩だから、「軍平さん」と立てているし、表面は問題ない。だが仕事を離れると、少年ばかりの四人一室で、リーダーシップを握るのは、修羅場をくぐってきたほうである。軍司はそれが口惜しくて、張り合うつもりらしかった。 「テツのことなら、おれに責任がある。いけない点があれば、注意しよう」 「そんなんじゃないよ」  ぷいっと横を向いて、後は何を聞いても答えず、「やめさせてくれ」の一点張りである。 「やめてどうする?」 「………」 「波崎へ帰るのか?」 「………」  あいかわらず答えないが、キッとなったところを見ると、「そんなんじゃないよ」と言いたかったのだろう。ふしぎに軍司は、三年半のあいだ、ほとんど帰郷していない。わずかに一、二度ぐらいのもので、それも日帰りだった。  ——いざとなれば、おれがいちばん根性がある。  すし店の休みは、市場に合わせて、二、十二、二十二日と決めている。軍司はこの休日以外は、休んだことがない。たまに東京に居る、中学時代の同級生が電話をかけて来ても、定休日でなければ誘いを断わる。あれは四月だったか、大学受験に失敗した友人を慰めると言って、休暇を取って外泊してきたのは、|稀《まれ》なケースだった。 「そうまで言うなら、やめてもらおう。ただし後釜が見つかるまで、待ってくれるだろうね」 「いいですよ」  軍司は|頷《うなず》いて、約束どおりその日まで働いた。  次に就職したのは、江戸川区小岩のすし店だった。新聞広告を見て応募してきたのだが、経験三年半にしては、頼りなさすぎる。しかし一日も休まず、決められた時間に出て来る。言いつけられたことは真面目にやるし、店主は気長に教えるつもりでいたが、三カ月後に解雇せざるをえなかった。  それは軍司が、刺青を入れたからだ。店の板前に、背中に刺青を入れたのが居る。軍司はその板前を、「兄貴、兄貴」と慕っていた。|羨《うらやま》しくてしようがないらしい。どこで彫って、いくらかかったかを、しきりに知りたがる。 「兄貴の若い衆になりてぇから、おれも刺青を入れる」 「バカを言うな」  板前はやめさせようとしたが、どうしても彫りたいと言ってきかない。築地の店に居たとき、少年院帰りが刺青を入れており、ヤクザっぽく振舞って軍司をいじめた。それに対抗するために、自分も彫りたいと思いながら、どこへ行けばよいか分らなかったらしい。 「頼むから男にしてくれ」 「後悔しても知らんぞ」  けっきょく板前は彫り師のところへ連れて行き、二の腕かけて刺青を入れたから、念願かなって“男”になったけれども、解雇されねばならなかった。  解雇の理由は、刺青のせいばかりではない。仕事中に酒を飲み、客にからむことがある。すし職人をしていれば、酒をすすめられるのはふつうだが、酔っぱらうのはもってのほかで、おまけに刺青をちらつかすのでは、経営者はたまらない。その後も、束京周辺のすし店を転々として、短いときは数日でやめさせられた。  昭和四十六年正月、軍司はひょっこり波崎町の実家に帰る。 「どんなもんだい!?」  酔っぱらって刺青を見せたがるが、父親は自分も彫っているから、珍しくもない。そんな次男につきあっているより、冬場の“しじみ掻き”に大忙しだった。  二月に十九歳になった軍司は、銚子市内のすし店で働きながら、自動車教習所に通い、四十六年四月に普通乗用車免許証を取得した。同級生に会うと、全国を回って板前修業して日本一になってみせると吹聴するが、どうも店主とうまくいかない。 「おれは客商売に向いていねぇ」  自分でもわきまえていたらしく、銚子市内の運送会社のトラック運転手になるが、長続きしなかった。ふたたび東京へ出て、台東区の土建会社で働きはじめた。  この頃から、たて続けに事件を起こす。  四十六年六月六日、浅草で通行人を脅して現金を出させ、恐喝罪により東京地裁で懲役二年判決(執行猶予三年間)。  四十七年三月八日、千住で暴行傷害事件を起こし、東京簡裁で罰金三万円。  四十七年九月二十九日、富坂で暴行傷害事件を起こし、東京地裁で懲役十カ月判決。  いずれも酒に酔っての犯行だったが、三件目はビール瓶で警察官に殴りかかって、かすり傷を負わせた。累犯とあって実刑を言い渡され、未成年のときの執行猶予も取消されて、四十七年十二月から川越少年刑務所で服役する。  これが最初の刑務所生活で、十カ月プラス二年を刑期いっぱいつとめて、五十年九月に出所した。ふつう服役態度がよければ、仮釈放の恩典があるのに、満期出所である。この間の軍司は、よほど反抗的だったのだろう。  初の刑務所暮しを終えた軍司は、いったん郷里に帰る。刺青に加えて、“ムショ帰り”が誇らしげなので、社会復帰を果たしている兄が|諭《さと》した。 「おなじ過ちを繰り返していたのでは、立ち直れなくなるぞ」  その言葉には、重みがある。 「よく分った」  弟は頷いて、東京へ出た。秋葉原の運送会社に就職して、トラック運転手として働きはじめた。五十年十月から生まれかわったような勤務ぶりだったが、五十一年四月十四日に城東署管内で、道路交通法違反を起こして、罰金四万円だった。 「くそったれ、ムショ帰りがいけねぇのか!」  五月十日に|自棄《やけ》酒を飲んで、文京区の飲み屋ですごんだ。一一〇番通報されカッとなり、客やマダムを相手に暴れているところを、富坂署員に逮捕された。  これで暴力行為等処罰に関する法律違反、脅迫罪により起訴され、五十一年七月十九日に東京地裁で、懲役十カ月を言い渡された。 「ケガさせたわけでもないのに……」  いまさらボヤいても、はじまらない。水戸少年刑務所に送られ、名は少年だが実際は三十歳未満の初犯者が大多数であり、出所は五十二年四月十八日だった。  このとき父親は、水戸市へ出迎えに行った。郷里を離れたのが、よくなかったのかもしれない。二十五歳になった軍司を手元に置いて、“しじみ掻き”を教えることにしたのである。 「父ちゃんの跡を継がねぇが?」 「そうだな……」  軍司は素直に承知した。  その土地に居住して、漁業組合に加入すれば、だれでも蜆漁をすることが出来る。動力船の価格が三百万円で、組合加入金が五十万円である。軍司のばあい、父親の跡を継ぐのだから、新たな投資は要らない。問題はいかに、技術をマスターするかだ。 “しじみ掻き”は長い柄をつけた|鉄爬《てつぱ》で、川床の蜆を掻き集める。動力で|牽曳《けんえい》するが、こぼさないよう船に揚げるのは、腕力に頼ることになる。それを選別機にかけ、一斗樽に入れて、一杯が二十キロ前後である。問屋に納めるとき、冬場なら一杯あたり四千二、三百円から四千五百円になる。これが夏場は、二分の一か三分の一にしかならない。しかも夏場は腐りやすいから、冷蔵すれば四十日ぐらい保つ冬場にかぎる。  昔から“しじみ掻き”は、夫婦の仕事とされた。夫が掻き揚げ妻が選別するのだが、最近は選別機の性能も良くなったので、一人でやれなくはない。達者な漁師は一人二役で、不器用な二人組よりも多く水揚げする。 「一人前になるには、五年はかがっぺ」  軍司に継がせると決めたとき、父親は六十五歳だった。真冬に寒風にさらされての重労働だから、体力が衰えればつらい。ほかの漁師に差をつけられ、口惜しい思いをしていた。  蜆漁の組合は、利根川の両岸に西銚子・下利根・中利根・常陸川・波崎共栄の五つだが、川俣家が所属するのは、|常陸《ひたち》|川《がわ》漁業協同組合である。常陸川は霞ヶ浦から|外浪逆《そとなさか》浦を経て、利根川本流と合流する。したがって常陸利根川といい、合流点あたりが漁業区域なのだが、ここに架けた利根川大橋は、潮止めの|堰《せき》でもある。  銚子大橋から十八キロ上流の、利根川大橋の潮止めの堰は、水資源開発公団が昭和三十九年から工事をはじめて、四十六年五月に竣工式をおこなった。海水の逆流をふせげば、ここから、|灌漑《かんがい》用水、上水道、工業用水が引ける。開発の主眼は、むろん鹿島臨海工業地帯の用水確保だから、蜆漁には大打撃だった。蜆は淡水と海水がほどよく混じり合うところで、もっとも良く成育する。海に通じた島根の宍道湖が、最良の漁場たる|所以《ゆえん》だが、利根川のばあい潮止めの堰で、遮断されてしまったのだ。  公団は工事にあたり、漁業補償をおこなったものの、漁師も事態の深刻さに気づかず、微々たるものだった。しかし潮止めの堰が出来てから、補償要求が新たな問題になり、千葉県側はこじれにこじれて五十六年にもちこしたが、茨城県側は早期に解決して、一隻あたり千五百万円平均だった。蜆漁専業ならば最高三千万円、兼業農家で最低四百五十万円の補償で落着したのである。  それまで蜆養殖は、夏場に採ったものを、囲いのある養殖場へ移せばよかったが、こんどはそういうわけにいかない。そこで組合員十六人の常陸川漁協では、毎年春先に島根からタネ蜆を運んで来ることにした。これは一人あたり三百万円ぐらいの出資だから、祈るような思いで養殖場にばら|撒《ま》き、成育したものを冬場に揚げる。  十二月から三月にかけての、需要最盛期の“しじみ掻き”は、組合によってやりかたがマチマチで、一隻あたり一日五杯と制限を加えるところもある。しかし常陸川漁協は、午前八時半から十一時半までの操業と、時間の制限があるだけだから、量は採り放題なのだ。  軍司は興奮した。 「よーし、やるぞ!」  昭和五十二年十二月から、五十三年三月にかけて軍司の働きぶりは、獅子奮迅というにふさわしかった。腕の良い漁師は、三時間の操業で、五十杯も揚げる日がある。一杯あたり四千円として、二十万円になる。 「負けやせんぞ」  この道一筋の父親に、手とり足とり教えられて、だいたいの要領はのみこんでいるから、あとは体力の勝負である。軍司はがむしゃらに、掻き続けた。  雨が降ったり、風が強い日は、組合長の判断で操業しない。出漁とりやめの日は、六時半ぐらいに連絡が入るが、張り切っている軍司はおさまらない。 「これぐらいの雨、なんでもねぇ」  表へ出て歯ぎしりするのを、父親がなだめる。 「組合のとり決めに逆らっちゃならん」 「うるせえな、分ってるよ」  軍司とて波崎町で、しょせん|他所者《よそもの》の父親が、気兼ねしながら生きてきたのを知っている。出漁中止とあって、朝から酒を飲んでいるうちに、おさまらずに外に出る。 「雨やんでるじゃねぇか!」  利根川べりの船溜りで、ふらふらしながら|喚《わめ》く姿を見て、ほかの組合員は家の中に引っこむ。顔を合わせれば、ケンカをふっかけられるにきまっている。  ともあれ最初の月は、水揚げが約二百万円あった。 「三年もやれば、おれの家が建つ」  軍司は有頂天だった。タネ蜆のため三百万円を投資したことなど、すっかり忘れている。 「家が建てば、嫁が要るぞ」 「嫁をもらうためにも、家を建てねばならんなァ」  こういう父子の会話は、初めのうちだけであった。出漁中に船上で、父親がちょっと注意すると、それが気にくわないと暴れだす。 「くそじじい、川にぶちこまれたいか」  水揚げは自分の力で稼ぎ出すと思いこんで、|躁《そう》状態にあったのかもしれない。船上の重労働のあと、問屋に納入して家へ帰り、大威張りで食卓に向うのだが、こんどは母親に当り散らす。 「くそばばあ、こんなものが食えるか」  食卓を蹴とばして、母親に手を振りあげる始末だから、とうとう両親は家を出て、利根川をへだてた長男宅へ逃れた。漁業補償もあったことだし、銚子市に家を増築している。 「せいせいしたわい」  萱ぶきの生家で強がりを言ったが、軍司一人で“しじみ掻き”は出来ない。そこで弟が、手伝うことになった。  昭和五十三年三月ごろ、弟は異変に気づいて、父親に知らせた。 「どうも兄貴の様子がおかしい」 「親不孝者は、おかしいにきまってる」 「変なヤツらとつきあって、ヤクをやってるらしいんだ」  カネ回りがよくなって、派手に飲み歩いているうちに、波崎や銚子の暴力団と交際しはじめた。そのうち|覚醒《かくせい》剤を、使いはじめたらしい。  覚醒剤は、塩酸メタンフェタミンと塩酸アンフェタミンの二系統に分けられ、いずれも脳の中枢神経に強く作用して、精神機能を昂進させる。|睡気《ねむけ》を防止し、疲労感が除去されるので、タクシーや長距離運転手、漁船員などに浸透しているといわれる。漁港の暴力団には、|恰好《かつこう》の資金源だから、容易に軍司と結びついたのだろう。 「|後暗《うしろぐら》いことしてるんじゃないだろうな?」  父親が注意したら、「うるせえな!」と耳を貸さない。“しじみ掻き”技術の未熟さを補うには、がむしゃらに肉体を酷使するほかなく、覚醒剤が必要だったのだ。  昭和五十三年の四月に入ると、養殖ものが禁漁になって、蜆専門の軍司は暇になる。出漁はしても、がむしゃらに働く必要はない。水揚高が多いとき買った外車を乗り回し、もっぱら銚子で遊ぶうちに、松本町三丁目のナイトレストラン『絹』の|馴染《なじ》みになった。この店にはフィリピン娘が五人居て、コーレン、リタ、ワイラ、オルテガ、リンダ……。いずれも短期間の出稼中に、客が誘えば金額次第でどこへでも行くが、軍司は隣りに坐っても体に触れたりしない。 「飲め飲め、おれの|奢《おご》りだっぺ」  いつも一人で来て、ホステスを連れ出すわけでもないから、店としてはあまり歓迎出来ない。軍司はそれを心得ていて、ビールを四、五本まとめて注文し、ホステスや居合せた客に振舞う。しかし無造作ではなく、計算高いところがある。 「きょうはこれくらいだっぺ」  レジの女性が驚くくらい、ぴたりと勘定を当てる。レジ係はアパート五月荘の主婦で、だいぶ前から手伝っている。 「マキちゃんと、どうなの?」 「いやァ」  軍司は大いに照れて、高笑いする。『絹』の二階がクラブ『誘惑』の寮だから、マイクロバスで帰ったホステスたちは、ここで夜食になることが多い。軍司は沖縄から来ている、眉の濃いホステスを強く意識して、午前零時ごろ顔を出すのだ。 「べつにおれ、なんとも思っちゃいねぇ」 「そうかしら」 「おお!」  |吠《ほ》えるような声を出し、飲みはじめると入口が気になってならない様子で、いざ目当ての女性が入って来ると、可哀相なくらい|狼狽《ろうばい》する。 「さあ、どんどんやってくれ」  そのホステスを正面から見ようとしないが、皆は知っているから、「マキちゃん横に坐りなさい」と、けしかけて楽しむ。南国の特徴をもつホステスは、どのフィリピン娘より美形で、茶目っ気がある。 「私は男っぽい人に弱いの」 「たとえば?」 「自分の口からは言えない」  思わせぶりを真に受けて、軍司はますますのぼせあがり、支払いのときは輪ゴムでとめた一万円札の束を、見せびらかしたりする。 「波崎のボロ家じゃ、不便で仕様がない。この辺に適当なマンションはないかな」 「マンションは無理だけど、私とこのアパートなら、空室があるわよ」 「決めた!」  レジ係がまさかと思っていたら、軍司は五月に入ると、本当に引越して来た。冷蔵庫とテレビと洗濯機と掃除機と、大きな鏡台が目立った。 「おれんとこへ来い、おめえの|亭主《おやじ》よりいいから」 「なにが?」 「分ってるだろ、あれにきまってる、真珠入りだからな」  昼間からダミ声で、高笑いである。誰が聞いていようが、|臆《おく》する色はない。そのくせ廊下や階段ですれちがうと、パッと避けて顔を|赧《あか》らめる。 「部屋でお茶でも飲む?」 「ちょっと今、忙しいから」  どんな用があるのか、ひんぱんに外出するけれども、遠出をする様子はない。越して来て間もなく、外車からスカイラインに替えて、アパートの前庭に停めて部屋へ帰ると、まず靴を干す。先の|尖《とが》った白いエナメルの靴で、こうすれば臭いがしないという。ブリーフや靴下やハンカチも、外から帰るとすぐ洗濯機にかける。 「おめえとこの洗濯、してやっか?」  ステテコ一つで、それを言いに来る。しかしナイトレストランのレジ係は、当惑せざるをえない。威勢のよい転入者を、隣人たちが毛嫌いしているからだ。軍司のスカイラインは前の空地に停めるが、ここは子どもの遊び場でもある。ボンネットに腰かけたり、ボールを当てたりしようものなら、十号室の住人が上から怒鳴る。 「くそ餓鬼、ぶっ殺されたいか」  子どもを相手に、本気であろうはずはない。軍司の|語彙《ごい》に「触っちゃダメだよ」というのはなく、「ぶっ殺されたいか」が有効と信じている。子どもたちは首をすくめても、じき忘れて同じことを繰り返し、軍司に怒鳴られる。それが親たちの、|癇《かん》にさわるのである。 「もうこの辺を、自分のものだと思っているのだから……」  苦情がレジ係に来るので、それを知った軍司は、余計に怒鳴りまくる。配達の車が停めてあろうものなら、「どかせ、どかせ」とクラクションを鳴らす。 「文句があるなら、聞いてやろうじゃねぇか」  歩いて買物へ行くときなど、浮世絵のついたシャツに、黒の|雪駄《せつた》ばきである。それで肩をいからせ、大手を振って歩くのだが、なぜか下を向いている。 「うるせえな、この野郎!」  犬が吠えたといって、ひどく怒りだす。あるときは部屋から木刀を持ち出し、殴り殺すと息まくから、とうとうレジ係の夫が、野球のバットをふりかざして言った。 「さあ来い、おれと勝負しようじゃないか」  すると軍司は、十号室へ駆けこんだ。別な凶器を持ち出すのかと思ったら、玄関ドアのカギをかけたまま、丸二日じっとしていた。 「おめえの亭主、おっかねぇな」  本当に恐かったらしく、声が震えている。それで小心者と分って、少しぐらい怒鳴っても、「構わないほうがいい」と、大目に見ることにした。臆病な犬ほど、よく吠えるのに似ている。「あのバカが、迷惑かけて」  ときどき顔を出す兄は、その度に「あのバカが」と言う。実直そうな人物で、働きながら定時制高校を卒業した。軍司が小学六年生のときの事件も、新婚間もない時期に遊びに来た友人が、酔ってあくどく妻をからかった。たまりかねて注意したら、ビール瓶で殴りかかったので、カッとなって台所の包丁で刺したのだ。小柄で愛想のよい兄は、出所後も真面目な勤め人という。 「あのバカは、根は人なつっこいんです」 「だけど家族が、バカ呼ばわりしちゃダメ」  温和しそうな母親と、人あたりのよい姉も来たけれども、やはり「あのバカ」のニュアンスだった。隣人としてレジ係の女性は、家庭環境に問題があるような気がして、軍司に同情をおぼえた。 「弟には、いい人が居るのかしら」  あるとき姉が問うた。軍司の部屋の鏡台には、化粧品があふれるばかりで、口紅やマニキュアも混じっている。ドライヤーで髪型を整えたりするが、自分の唇や爪を塗ることはなく、女のために買っているのだ。 「居るような、居ないような」  姉に答えながら、隣人として気がもめるのは、クラブ『誘惑』のホステスのことだ。ナイトレストランへよく現われるし、近所だから昼間も顔を合わせるが、あいかわらず会話らしいものはない。軍司はもっぱらプレゼント作戦で、すれちがいざまパッと渡したりする。ナンバーワン・ホステスとしては、決して受取ることを拒否しない。「突き返したら可哀相でしょ」と弁解し、何を貰ったかは誰にも教えず、ドライブの誘いは「そのうちに……」とかわす。それでも軍司は脈があると判断して、部屋に迎える約束でもあるのか、化粧品まで準備しているのだった。 「弟を見ていると、近いうちに良い事がありそうな気がする」 「そうかもしれないねぇ」  姉に気をもたせて話を打ち切ったら、「バカな弟ですが、よろしくお願いします」と帰って行った。この姉は中卒ながら、見習い看護婦から準看護婦になり、高等看護学院で正看護婦の資格を取っている。まさに努力の人であり、軍司にも共通するものがあるけれども、どこかで歯車が狂ったのではないか。 「おめえにも、やっか」  十号室の軍司が、化粧品を持って来ることがあっても、ホステスのために買った物を、隣人としては受取る気になれない。 「主人に叱られるからね」 「いっそ、あれをやっか。おれのは真珠入りだから、絶対に具合いいぞ」 「そのうち試させてもらうよ」  いつものやりとりになって、しみじみ軍司が可哀相になる。クラブ『誘惑』のナンバーワン・ホステスに、れっきとした亭主が居ることを、さりげなく知らせようとしても、まるで伝わらない。ナイトレストラン『絹』を経営しているのは、『誘惑』のマスターの弟だから、いわば姉妹店で客も重なる。軍司も何度か『誘惑』へ行ったが、あちらは高級ムードだから、ママに毛嫌いされたのである。だからといって『絹』に張込んでいる軍司に、「マキちゃんには亭主が居る」と教えれば、客を失うことになり信義に反する。レジ係としては、つらいところなのだ。 「ああ、海坊主だ!」  夏のさかりに、レジ係の娘が外を見て叫んだ。どういう心境の変化か、軍司が頭をツルツルに剃って、海坊主そっくりである。 「どうしたというのよ」 「雑念を払って、一所懸命に働く」  たしかに解禁になると、軍司はやみくもに働いた。朝は三時か四時に出かけて、昼過ぎに帰ってくる。 「おれが採った蜆だから、食べてくれ」  何度か持参したことがあり、「いいとこあるな」と夫や娘と言い交し、レジ係は涙ぐんだものだ。『誘惑』のホステスを|諦《あきら》めたらしく、『絹』で深酒することもなくなった。 「よかった、よかった」  家族と喜んだけれども、束の間のことで、ふたたび十号室の住人は荒れだして、未明のエンジン音も聞かれない。どうやら蜆漁を、放棄したようなのだ。 「おめとこ、カネ要らねぇか」  ぬっと突き出しだのは、輪ゴムでとめた札束で、百万円近くあったろう。軍司はいつもの、大真面目な顔である。 「これ持って、ガキ連れてよ、どっか旅行するべぇ」 「景気いいんだね」 「要らねぇか?」 「気持だけ貰っとくよ」 「そうか」  真意はどこにあったのか、軍司はしょんぼり引返し、後でそのカネは、『川俣丸』を売ったぶんと分った。常陸川漁業協同組合では、組合員それぞれ持船に、自分の姓をつける。新造船なら三百万円するが、軍司は七十万円で売却したのであり、父親や兄弟には無断だった。  そして十月十七日に、軍司は『誘惑』のホステスに対して、遂に凶行におよんだ。どうやって確かめたのか、亭主の存在を知って大いに怒り、マイクロバスの出発時間に待ち伏せて、自分の車で連れ去ろうとした。ナンバーワンをふくめ、『誘惑』のホステスの多くは、沖縄出身者である。年間契約の期限切れが近づいているので、余計に焦ったのかもしれず、包丁で傷つけて逮捕されたのだ。  傷害罪で起訴された軍司は、昭和五十三年十二月十八日に、千葉地裁八日市場支部で、懲役一年の実刑判決を言い渡された。被告人が事実関係を争わず、逮捕から二カ月後のスピード判決で、二週間の期間内に控訴しなかったため、刑が確定したのは昭和五十四年元旦である。しかし刑務所は正月休みとあって、軍司が府中刑務所に収監されたのは一月五日だった。  昭和五十四年十一月十七日に、刑期を少し残して仮出所した。府中刑務所には、身元引受人の父親が迎えに来て、銚子へ帰ると保護観察所へ顔を出した。仮釈放中は司法保護司の観察下におかれ、月に二回以上は面接を受け、更生の意欲の有無を判定される。もし保護司が観察報告書に「不良」と記入すれば、仮釈放を取消されかねない。  しかし軍司はその月のうちに、観察所の紹介で、銚子市内の警備会社に就職した。ガードマンの制服はよく似合ったが、「おい、こら」と乱暴な口ぶりだから、派遣先でトラブルが絶えない。上司に注意されると、無断欠勤や無断早退するようになり、この職種に致命的とあって、一カ月後には解雇されてしまう。  再びぶらぶらしはじめるが、松本町の『絹』や新生町の『誘惑』へは、むろん近づかない。銚子市内の両親の家に、兄や弟と同居しながら、利根川を渡って波崎町へ遊びに行く。軍司が中学を卒業したころ、二万四千人だった人口は、三万四千人に増えている。工業用地には三菱化成・エーザイ・川口化学・ダイキン工業・三洋化成・久保田鉄工・日立化成・住友金属・日本化薬・高砂香料・鹿島動力・鹿島電子などが目白押しで、ピーマンと碁・将棋盤の生産高で日本一を誇ってきた波崎は、工業の町としての顔を見せてきた。  ——ここ数年のあいだに、茨城県のイメージがだいぶ変ったきたように感じています。いわゆる「後進県」から脱皮して、「先進県」の仲間入りをしつつある。鹿島開発や筑波学園都市、そして六十年の科学万博や射爆場跡地利用、霞ヶ浦等々……たんに茨城県だけのスケールでは計りきれないプロジェクトが目白押しで、全国的にも脚光を浴びています。低成長経済下にあっても茨城県は、むしろこれからというイメージです。波崎町は、好むと好まざるとにかかわらず、鹿島開発によって大きく転換しました。開発以前は、端的にいって漁業と農業の町でした。そこに工業が入って来て、町を支える柱は三本になりました。町政運営上からいえば、まず何といっても第一次産業だけに依っていた時代とちがって、バラエティに富んだ行政が必要になってきたわけです。波崎町はいま、いわば少年期から青年期に入ったのであり、夢もふくらむし、バイタリティも必要です(町政要覧の町長あいさつ)。  バイタリティの証しか、波崎町にはドライブインやモーテルやバー、スナックが多く、台湾や韓国やフィリピンからの出稼ぎホステスの売春も盛んで、覚醒剤が広く浸透している。 「以前は千葉市まで行ったのに、今じゃ悪い遊びをしたければ、たいてい波崎で間に合うものな。すっかり変っただろ?」  中学時代の同級生は、久しぶりに軍司に出合い、誘われるままドライブした。 「スナック一軒、なかったんだもの」 「環境の急激なる変化がもたらすものは何であるか……」  かつての「ニタリスト」は気難しい顔でつぶやいたものの、それから先はよく聞きとれない。覚醒剤の常用は|噂《うわさ》になったが、出所後はどうなのか外見からは分らず、軍司の運転ぶりを気にしながら同級生は話した。 「軍司の家の辺りは、一反歩一万二、三千円だった土地の値段が、コンビナートのおかげで、坪四万から七万になったからな」 「うん」  軽く|頷《うなず》いて、考えこむ表情である。軍司の生家は川べりだから、子どもの遊び場になっておリ、皆でよく泳いだ。どの家も竹囲いしてあって、誘うとき外から声をかけるが、きまって「軍司は居ねぇ」と父親の声がする。本当は居るのだが、どういうわけか外へ出さず、いつも息子を叱っているから、近所の子まで恐がった。しかし母親は静かな人で、「仲良くしてけれや」と頭を下げる。蜆を湯通しして、実だけ取って売ることを覚え、近所を手はじめに銚子方面へも行商したから、頭を下げるのが習慣になっていたのだ。 「軍司のおっかあは、体の具合がよぐねぇと聞いたが?」 「橋本登美三郎って野郎は、ロッキードの罪で、極刑にしなければならん」  またしても気難しい顔つきで言い、全く別なことを考えているのだ。たしかに収賄罪の橋本被告は茨城三区だが、“極刑”だなんて過激な意見を、地元で聞くことはない。十八、九歳のころは刺青をちらつかせて|威嚇《いかく》したが、今は難しい話題で驚かせようとしているのか……。 「トミさんといえばトミコが、とうとう結婚したな」 「ふん」  鼻で|嗤《わら》ってみせるが、軍司が憧れていた女性で、波崎高校から茨城大学へ進み、教員になっている。もとより彼女は、軍司のことなど眼中になかった。それでなくても就職組は、同窓会をひらいても顔を出さず、結果的に疎外される。 「おれ近いうち、店を出して世帯を持つ」 「本当かい?」  またしても同級生は、驚かされてしまった。こないだの事件はホステス傷害で、ちょっと滑稽だけれども、気の毒に思っていた。それが新規開店で新世帯とは、目出度いことだ。 「行かせてもらうよ、|皆《みんな》でさ。軍司の腕は評判だもの」 「いやァ」  今度は照れたが、いつか波崎のすし店を手伝ったとき、「さすが江戸前は手さばきが速い」と、主人が|褒《ほ》めていた。なにしろ軍司は、家で|おから《ヽヽヽ》を炊いて、握る練習に精出したのだ。 「こんな田舎では目立つかもしれないが、おれなんかまだまだ、修業が足りないから」  面白くない|謙遜《けんそん》のしかただったが、別れて心の暖まる思いがした。年が明けて昭和五十五年になると、軍司が銚子のすし店に居ると聞いた。 「それだ、それだ。あいつの家は、蜆の補償金を握ったからな」 「いや、雇われてるらしい」  なんのことはない、職業安定所の紹介で、すし店に入ったのだった。同級生としては、拍子抜けしながらも、軍司の見栄がいじらしい気がして、|騙《だま》されたふりをして覗いたら、もうその店に居なかった。  五十五年二月八日から、四月十五日までは、銚子市神明町二丁目の伝虎水産に勤務した。魚介類加工の伝虎水産は、「サンマ開き干」「サバ文化干」「イワシ丸干」を主製品とする。水産都市銚子の水揚高は、三十八万五千トンで釧路、八戸に次いで全国三位ながら、売上額は三百十一億五千万円で、十一位に甘んじている(昭和五十五年実績)。これは水揚高で九位の焼津が、マグロ主体に八百八十七億五千万円を売上げて一位になるのと好対照で、銚子はイワシ、サバ、サンマが水揚高の九一パーセントを占めるからだ。  ともあれ伝虎水産で、最初のうち真面目に働いて、女子従業員たちに歓迎された。この会社では「職安が紹介する男にロクなのはいない」と不人気だったのに、無口な独身男はコツコツ働いたからだ。三月に入ると、休憩時間中の雑談のとき、思いあぐねた体で相談した。 「兄貴の娘が女学校に入るから、プレゼントしたいんだが、やっぱり万年筆がいいかな?」 「優しい叔父さんだねぇ」  居合せた同僚は感心し、さまざまなアイデアが提供されたが、軍司が何をプレゼントしたかは、聞かずじまいだった。三月下旬に入ると、日曜出勤を拒否して、専務と衝突したのだ。 「やる気がない人間は要らない」 「しかし日曜日に休むのは、基本的人権である」  軍司は抗弁して、理はこちらにある。刑務所でも土曜日は半ドンで、日曜・祝祭日は完全に休む。だから使用者としては、それ以上は言えず、軍司は勝ち誇ったものの、同僚の視線は冷たい。一人が休めばそのぶんだけ、労働の密度が高くなるからで、軍司は居辛くなったのか、次第に姿を現わさなくなり、四月十五日付で解雇された。  しかし五月一日には、職業安定所の紹介で、銚子市内の運送会社に採用された。  面接した社長の印象では、陰気な|翳《かげ》りのある男だが、実直そうなので決めた。勤めはじめてからは、要領がのみこめないのか、他の社員と|馴染《なじ》もうとせず、ブツブツ独り言を繰り返していた。それが突如として、肩を怒らせてヤクザっぽい言葉を使い、顧客に反抗したりする。 「なめるんじゃねぇ。おれには黒幕がついているんだ」  すごんでおいて、同僚にはペコリと頭を下げる。社内ではまったく、もめごとを起こしたりしない。 「黒幕って?」 「いやァ」  急にそっぽを向き、黙りこんでしまう。言動で気になるのは、それぐらいのことで、やや常識に欠ける程度だった。それでも五月二十三日付で、自ら退職を申し出た。  このころ軍司の母親は、病気が悪化して入院していた。子宮ガンを患っており、回復の望みはない。軍司は日増しに|苛立《いらだ》って、家の中でも荒れることが多い。 「おっかあ、何が食いてぇか言ってみろ」  食欲のない母が首を振ると、それが気に入らないといって怒りだし、家にも寄りつかなくなる。  五月末から市内の水産会社に勤め、六月から七月にかけて丸幸水産、福島商店、丸栄水産……と移って、七月十三日夜には飲酒運転で、人身事故を起こしてしまった。 「免許証は?」 「おう」  警察官に示したものの、更新手続き切れだから、無免許運転である。その場で逮捕されたが、二月三日には市内で接触事故を起こし、相手を殴っていた。道交法違反と暴行を併合して起訴され、|勾留《こうりゆう》の身で公判を待っていると、思いがけず釈放された。 「だれが保釈金を出したんだ」  軍司はいぶかったが、出迎えた兄は「このバカ」としか言わなかった。じつは八月十七日に母親が死亡したため、勾留を停止されたのである。  ところが軍司は、自宅での葬儀のさなか、大声で喚いたりして|顰蹙《ひんしゆく》を買い、制止した弟と口論になった。 「こんなとき、みっともねぇ。静かにしろって」 「だって坊主が、おれにケンカを売った」 「お坊さんが?」 「おれのこと“海坊主!”って、振り返って言ったじゃねぇか」 「そんなこと言うわけねぇ」 「その前に皆で、おっかあの悪口を言った。それで大笑いして、厳粛な葬式を何だと思っていやがるんだ」 「バカこくでねぇ」 「弟のくせに、おれをバカと言うのか!」  とうとう兄弟で、つかみあいのケンカになり、さんざんな葬儀になってしまった。酒に酔っているわけでもないのに、この醜態は何だろうと話題になり、「ポン中かな?」と覚醒剤中毒を指摘するむきもあったが、判決を前に滅多なことは言わぬがよい……。 「あのバカは今度で、何回目かなあ」 「何でもいい、ああいうのは、ずっと入れとくがいがっぺ」  昭和五十五年九月二十日、千葉地裁八日市場支部は軍司に対して、懲役七カ月を言い渡したから、これで四度目の服役である。 【川越少年刑務所】昭和四十七年十二月二十六日から、五十年九月二日まで服役。 【水戸少年刑務所】昭和五十一年八月三日から、五十二年四月十八日まで服役。 【府中刑務所】昭和五十四年一月五日から、十一月十七日まで服役。 【府中刑務所】昭和五十五年十月四日から、二度目の服役。 [#改ページ]         2  昭和五十六年四月二十一日朝、川俣軍司は府中刑務所を、刑期満了で出所した。府中における二回目の服役は、同囚暴行・職員暴言・出役拒否など反則が多く、仮釈放を望むべくもない。むしろ七カ月の懲役期間から、半月余りはみ出したのである。  それでも出所時に、作業賞与金として八千四百十五円を受取り、午前八時半ごろ表門を出た。このあたり「釈放出迎え者へ」と、掲示がなされている。敷地内で出迎えられるのは、家族および身元引受人に限る。車両は一人一台に限り許可。出迎え受付時間は八時三十分だから、みだりに庁舎前や官舎に立入ってはならぬ。出迎え者は時間まで車内に待機し警音、エンジン音を出してはいけない。釈放後は速やかに立ち去ること。  暴力団関係者の派手な出迎えを牽制しているのだが、さほど効果があるとも思えない。府中には警察庁が「広域暴力組織」に指定した、山口組・住吉連合会・極東組・大日本国粋会・松葉会・飯島連合・稲川会の構成員が収容されており、幹部クラスの出所時には|欅《けやき》並木に、黒ずくめの列が出来る。  しかし軍司を出迎える者は居ない。仮釈放とちがって満期出所は、一歩踏み出した瞬間から、行動の規制を受けずに済む。“満期”といえば、刑務所帰りの勲章なのだ。  起床、点検、シャリ三本   点呼、点呼で日が暮れて   明けりゃ満期が、近くなる  府中市晴見四丁目の刑務所は、大正十二年の関東大震災で、豊島区の巣鴨刑務所が壊滅したため、移転工事がおこなわれた。武蔵野ヶ原と呼ばれた一面の雑木林をひらき、昭和十年三月に工費二百六十万円で完成した。敷地八万五千坪で、鉄筋コンクリート造りの建物は延べ一万六千四百坪、収容定員は二千四百八十八人。この施設は当時“東洋一”といわれ、今日なお日本最大である。  四月二十一日は火曜日で、春闘最大のヤマ場となる私鉄大手八社の交渉は、二十二日のストライキを前に、ギリギリの攻防を続けていた。東京地方は朝から晴天で、午前六時の気温は一〇・七度だった。バッグを提げた軍司は、東西を東京農工大農学部と東芝府中工場にはさまれた晴見町四丁目から、新芽が揃った欅並木を歩いて、南北に走る国分寺街道に出た。この晴見町バス停から南へ一中前、農業高校を経て、三つ目が終点の府中駅である。だが軍司は、京王バスに乗ったかどうか。距離にして一・三キロで、歩いたところで十数分である。  京王帝都電鉄は府中駅近くで、国鉄の武蔵野線、南武線と交差しており、東京競馬場の南側に中央自動車道が見え、その向うは多摩川が流れ、多摩川競艇場がある。しかし懲役を終えた軍司は、道草を食わず府中駅の自動販売機で、百八十円のキップを買った。京王帝都鉄道の京王線は、新宿—京王八王子の三七・九キロで、府中駅には特急が停車する。二十分|毎《ごと》の新宿行きは、特急料金が不要であり、乗れば途中の停車駅は調布と明大前の二つだから、二十五分で到着する。  特急に乗った軍司は、まっすぐ新宿へ向かわず、明大前で乗換えた。同じ京王帝都電鉄の、吉祥寺—渋谷間の井の頭線を利用して、渋谷へ出たのである。  井の頭線ホームから階段を降りて、忠犬ハチ公の銅像を過ぎて道玄坂を上がると、左の路地を入ったところに金物店がある。ビルの一、二階が店舗の「高田屋」は、三月に大改装して、高級ガラス食器や磁器類を、入口近くに陳列した。軍司はショーウィンドウを覗いたが、十時にならねば出入口のシャッターは上がらない。  そこで軍司は少し道玄坂を上り、三筋目の路地を折れたところの「丸留」に入った。昔ながらの金物店の印象で、かなり間口は狭い。軍司は入ってすぐ右手の、刃物類の陳列棚を見た。 〈御料理包丁 正鋼特製〉  ここに並んでいるのは、束京・吾妻橋に本社のある「正本」の製品で、本焼きなら四万円、かすみ焼きで二万円前後の高級品である。所持金が八千円前後では、とうてい手が出ない。軍司はしばらく眺めて、陳列棚の前を離れた。  テレビやラジオは、第八十五回ボストンマラソンで、瀬古利彦が優勝したニュースを、朝から流し続けている。瀬古は心臓破りの丘を上りきってトップに立ち、自己最高の二時間九分二十六秒でゴールインし、これは大会新記録であり、世界歴代五位にあたる。  このニュースが、耳に入ったかどうか。軍司は道玄坂を下ると、ふたたび「高田屋」へ向かった。シャッターは上がっており、刃物類は階段脇に展示してある。ここも陳列棚の中心は、高級品「正本」だが、いちばん下に手ごろな値段の包丁があった。 〈切れ味保証 高田屋特製〉  これは堺市で製造しており、高田屋の銘が入って、二千五百円である。軍司はためらわず手を伸ばし、五十七日後に凶器となる柳刃包丁を買い求めた。  このあと軍司は、銚子市の実家へ電話をかけたが、父親から相手にしてもらえず、兄の勤務先にかけてまくしたてる。 「今回の懲役ほど、苦労したことはなかった。親兄弟までグルになって、おれをいじめるとは思わなかったが、おかげで電波・テープにひっつかれた。おれは黒幕から、麻酔を打たれて殺される。その前にいっそ、舌を噛んで死んでやるが、それでも兄貴は平気か?」  十二歳ちがいの兄は、疫病神のような弟の出所に|愕然《がくぜん》としながらも、とりあえず援助を約束した。 「家には絶対に近づくな。駅で待っていろ」 「カネがないとは言わせない。約束を破ったらタダでは済まさないからな」  軍司はすごんで、夕方には銚子駅に現われた。総武本線は東京—銚子が一二〇・五キロで、特急ならちょうど二時間だが、電車をうまく乗継げば、四時間もかからず着ける。  この日の国内トピックスは、私鉄ストの時間切れ突入の可能性と、東京地裁判事補の逮捕だった。私鉄総連は一次回答の一万四千円に対して、一万五千円まで譲歩したが、経営側は一万四千二百円から一万四千八百円を、“妥協ゾーン”としている。国鉄も二十三、四両日は、国電・新幹線をふくめて、スト突入の予定である。この交通スト計画のあわただしさの中で、東京地検特捜部は四十一歳の判事補を収賄、五十五歳の弁護士と秘書兼運転手を贈賄で逮捕した。これは民事担当の判事補が、破産会社の管財人からゴルフセットと背広を受取ったもので、現職の裁判官逮捕は初めてだから、裁判所当局にとって事態は深刻だった。  しかし軍司にとって、最大の関心事は兄が持参するカネである。 「ようやくこれだけ、かき集めたんだ」 「どれ……」  数えたら三万八千円あり、まんざらでもなさそうな表情で受取ると、電話と同じことを喋りだした。だが兄としては、家に近づかせない約束が大切である。 「分ったな?」 「頼まれても家へなんか、帰ってやるものか。親兄弟までグルになって、おれを苦しめやがってよ。だがおれは、負けるもんじゃねぇ。世間のヤツがどんなに妨害しようと、おれは結婚して子どもを作る」  軍司が突きつけて見せたのは、新聞の求人広告欄であり、「すし職人」のところに、いくつも印がつけてあった。 「今にみてろ、自分の店を持ってやる」 「東京で働くのか?」 「あたりめぇよ、江戸前の板さんだ」  それが得意の|肩肘《かたひじ》張ったポーズで、出札口のほうへ歩いて行ったから、交通ストを避けて東京へ帰るらしい。どこからか弟が得意とする、カラオケの歌が聞えてきそうだった。  包丁一本 サラシに巻いて   旅へ出るのも 板場の修業  四月二十四日午後、新聞の求人広告を見たといって、軍司は港区芝のすし店に電話をかけた。「経験四年ぐらいだけど、使ってもらえるかなァ」  電話を受けた店主は、「すこし言葉が乱暴だな」と思った。それにノドから出す、うなるようなダミ声だが、気にするほどのことはない。面接することにして道順を教えたら、履歴書を持って夕方やって来た。履歴書は簡単な内容で、文字はきちんと書かれており、すし職人の経験は四年だが、この三年間はやっていないという。 「一からやり直すつもりなので、よろしくお願いします」  店主は「一所懸命だな」と思った。自分も職人あがりだから、こういう態度には好感がもてる。言葉づかいは乱暴だが、そんな職人は珍しくないから、特に気にならなかった。 「使ってみてダメだったら、いつでもクビにしてください」 「じゃあ、働いてごらん」  それから条件の話し合いになった。勤務時間は、朝十時から夜十一時まで。ただし昼すぎに仕事の区切りがつけば、五時まで休憩する。注文がある日は朝が早いし、定休日でも働いてもらうことがある。 「それで結構。おれ一所懸命やりますから」 「給料の希望は?」 「ここに来る前、ちょっと田舎のほうで一カ月ぐらい働いたけど、二十万ぐらいもらったかな」 「そんなには出せないよ。最低十五万円はアレするけど、まあ仕事を見てから決めさせてもらおう」 「はい、分りました」  店から徒歩五分のところに、従業員寮がある。店員は三人前後だから、アパートを一室用意している。さっそく軍司は、その日から住込んだ。採用を決めた直後に、店主は履歴書にある銚子市の実家に電話をかけ、年齢と名前を確かめた。すると父親が出て、「|伜《せがれ》にまちがいありません、二十九になります」という。それ以上のことを聞く必要はないので「じゃあ……」と電話を切った。  初日は少し仕込みをさせ、二日目に握らせてみた。経験を積んだすし職人は、だいたい自分の型を持っているが、軍司のばあい基本的というか、いかにも初歩的だから「こんなものだろう」と判断した。ほかのことをやらせても、人が十分でやるものを、二十分かける。出来る出来ないは別にして、一所懸命やることはいいことだ。 「ほんとに一所懸命だね」  ほかの店員も感心していた。十六歳と十九歳と二十一歳の三人の店員は、年長者の新入りがでかい態度なので、「おっかない」と言っていたが、少しずつ見直したらしい。 「あれで優しいところがあるんだよね」 「でも刺青には驚いたな」  二人が言い交すのを聞いて、店主は刺青のことを知ったが、客に気づかれなければ、べつに構わないと思った。  それでも店主は、採用後に何度か注意した。まず改めてもらいたいのは、言葉づかいだった。店内を肩を振って歩き、ポンとお茶を出したりするのもよくない。 「分りました、直します」  口先だけでなく、実際に直そうと努力するフシがみられたので、店主はそれ以上を言わなかった。  五月に入って軍司は、「仕事もだいぶ慣れたから、月二十万もらいたい」と言った。しかし店主は、「今の仕事なら、せいぜい十六万だ」と答えた。「どうしても二十万欲しいなら、もっと働いてもらわねばね」「じゃあ、クビにしてもらってもいい」「そんな言いかたはないだろう」「おれは他にも働き口はあるんだ」。そんなやりとりがあって、遅刻が続いた。午前十時に出勤しなければならないのに、昼ごろ顔を出す。聞いてみると「目覚ましが鳴らなかった」というような弁解なので、店主は厳しく注意した。 「私は二回までは許す。しかし同じ過ちを、三回重ねるようでは、見込みがないと判断するからね」  しかし五月十四日、軍司は午後一時半ごろ出勤した。 「もうダメだね。約束だからやめてもらうよ」  解雇を言い渡すのは、いい気分のものではない。だが軍司に、見込みはなさそうだ。すでに店主は、渡すカネを用意していた。四月分は月末に払っているから、五月に入ってからの分を、日割りで計算した。軍司の月給を、月十六万としているから、プラス一日の十五日分として八万円を渡した。 「ほかの店へ行って、これだけ貰えると思うなよ。この次は、こんなことのないように、一所懸命やれや」  すると軍司は、そっぽを向いて、低い声で言った。 「やめると決まった以上は、そんなことを言われる筋合いはない」  店に置いていた自分の包丁を片付けると、寮であるアパートへ引返し、その日のうちに姿を消した。  五月十六日午後、軍司は新宿区歌舞伎町のコマ劇場横のすし店で面接を受け、その日の遅番から働きはじめた。|界隈《かいわい》は夕方から活気づき、半円形のカウンターには、これから一仕事するホステスや、腹ごしらえする客、それに深夜の待合せなどで、大衆料金とあって遅くまで|賑《にぎ》わう。  だが十六、七日の二日間で、解雇されてしまった。  解雇を申し渡したのは、この店の専務である。十七日の遅番が終るころ、厳密には十八日午前三時に、近くの喫茶店に呼び出した。 「わるいけどあんたは、うちの店に合わないみたいだから、やめてもらうよ」  専務は採用にあたって、関与していない。社長である母親が決めてしまい、後になって「気持わるいからやめさせよう」と言いだしたのだ。たしかに専務も「ふつうの人とちょっとちがう感じ」を抱いた。初日の十六日に顔を合わせても、さっそく着換えて働いている軍司は、ロクにあいさつしない。仕事ぶりを見ていても、キビキビしたところがなく、目つきがわるいし、言葉づかいがヤクザっぽい。ひとことでいえば、「気持わるい」のである。 「急に言われても、カネもねぇし」  深夜の喫茶店で、軍司はボソボソ言った。言いたいことを、はっきり言わない態度も、「気持わるい」のだ。 「ここに二万円ある。二日分の日当と、交通費と思ってほしい」 「おめえ知らねぇわけじゃあるめぇ」 「なんのことだい?」 「殺されてぇのか」  はっきりそう言ったけれども、迫力はなかった。着換えるとき、これみよがしにした、刺青を意識していたのかもしれない。しかしとても、実行力があるとは思えなかった。 「とにかく寮も空けてくれよ」 「おう」  カネは受取ったし、解雇を了承したはずだが、店から一キロほど離れた大久保のアパートを、なかなか出ない。もう一人の店員に、わけのわからないことを、一方的にしゃべるのだ。  そこで解雇から三日目に、威勢のいい板前が専務の意を受けて、アパートに乗りこんで、「行かないのか!」と怒鳴ったら、すぐに出て行った。わずか二日間で解雇するのは、前例のないことだったが、ひとまず専務が安心していると、寮に居る店員が気になることを言った。軍司が予告したという。 「近いうちに、何かでかいことをやるから、よく新聞を見ていろ」  五月十九日午後、軍司は墨田区錦糸町のすし店に応募して、近くの喫茶店で面接を受けた。経験は五年で、これまで給料は二十万円もらっていたと切り出したら、店長はキッパリ言った。「私の店では十八万円ぐらいしか出せない。それに表回りからお茶くみ、ぜんぶやってもらうからね」  店長としては、面接のとき強い態度で臨むことにしている。新聞に求人広告を出せば、いろいろな人間が来て、甘いことを言えばつけこむからだ。 「分りました。それでも構わない」  素直に納得したから、特に異様な感じも受けなかった。強いていえば、ヤクザっぽい印象である。十九日夜から、寮にしている近くの木造アパートに入り、二十日から出勤した。仕事ぶりはとくに目立つことはなく、経験五年の板前としては、積極性がない。お茶を出して、ボーッと突っ立っていることもあり、「何を考えているんだろ?」と、同僚が首をかしげていた。  四日目に遅刻したので、店長がアパートまで起こしに行った。 「時間だよ」 「すみません」  十五分ぐらい経って、あたふたと店に出た。同僚ともまじわる様子もないので、いちど雑談でもして励まそうと、店が空いたとき喫茶店に誘った。店長は解雇のことなど、考えていなかったのだ。 「どうせやめさせるんだろ?」  席につくかつかないうちに、軍司が突っかかった。 「おれはいつだってやめてやるが、それならそれで、給料は日割りで精算してほしいね」 「そうかい」  店長は黙って店に帰り、四日分の二万二千円を用意した。しかし初日に、頼まれて二千円貸している。これを差引いて、二万円渡したら、切口上で言った。 「急にやめろといわれても行くところがないから、ちょっと寮に泊めてもらうよ」 「まァ、仕方ないだろう」  やむをえず承知したら、何日か泊まっていたようだが、そのうち姿を消していた。  五月二十七日午後、軍司は江東区野島のすし店の面接を受けた。経験七年だから、住込みで二十万円欲しいと言った。 「住込みはいいとして、二十万円は出せないね」  店主はピシッと押した。このごろの応募者は、どうもグレたようなのが多い。軍司をよく見ると、特別に態度がわるくはなく、眼で威嚇しておいて、ちょっと斜めに坐る感じである。 「出前でもなんでも、一所懸命やりますよ」 「じゃあ十八万にしよう。後は仕事を見せてもらって考える」 「分りました」 「明日から来てもらおう」  すぐにでも入寮したい様子だが、店主は|敢《あ》えてそう言った。応募者の半分は、面接で採用を決めたのに、やって来ない。渡り職人というのは、気まぐれなのか、気むずかしいのか。しかし軍司は最初から、出前でもなんでもやるという。これでは断れないが、面接を終えたとき店主は、来なければ来ないでいい、いや来てほしくない……と思った。なんとなく、「この男にスキを見せられない」と感じたが、来るだろうと予想したのだ。  やはり二十八日、軍司は現われた。 「道順を教えてくれれば、どこへでも出前します」  仕事をしたいという意欲が、強く感じられた。ふつう板前は、雑用を嫌う。出前などは、見習いがやるものだからだ。 「それより包丁さばきが見たいね」 「おう」  だがどう見ても、経験七年の包丁さばきではない。握りのほうは結構やるのだが、事前にネタを揃えておく仕込みが雑なのだ。  初日の昼、おかしなことがあった。すし店の食事は、昼のピークが過ぎたときと、夜に入って適当なときの二回である。午後二時ぐらいに皆で食事をしていたら、それまで普通に振舞っていた軍司が体を丸めて、「おう、おう……」と|呻《うめ》きはじめ、|蒼《あお》ざめた肌からタラタラ脂汗がしたたり落ちた。 「どうした、医者にかかるか?」 「昨夜ちょっと飲みすぎたから」  五、六分ぐらい苦しんで、なんとか治まった。しかし|宿酔《ふつかよい》とは思えない。前夜は酒を飲んだ様子はなかったのだ。  店主は後で、こっそり問いただした。 「おまえまさか、覚醒剤やってるんじゃないだろうな」  テレビを観ていれば、禁断症状がどういうものか話題になっている。このごろは覚醒剤が社会問題化して、昭和五十五年の取締法違反は三万三千三百五十四件、逮捕者は一万九千九百二十一人におよぶ。常用すれば躁状態、切れれば鬱状態で分裂症傾向をみせ、妄想・幻覚で攻撃的になり、『昭和五十五年犯罪白書』によれば、覚醒剤の薬理作用による殺人二十五人、強盗八人、強姦二十三人、放火十六人……。 「絶対にやってない」 「今のは何だ?」 「だから、酒の飲みすぎです」  なにごともなかった表情で、仕事に戻ったけれども、店主は細君から「早くクビにして」と強く言われた。最初から薄気味わるくて|厭《いや》だと、パートのおばさんがおびえている。それに腕の割に、十八万円は高すぎる。出前をやらせて頭の|禿《は》げたのが行けば印象がよくない、愛嬌のある禿げかたじゃないんだから。 「仕込めばモノになると思う」  一所懸命やっている者に、やめてくれとは言いにくい。店主としては、特に軍司がどうということはないのである。だが細君は強硬で、「薄気味わるい」の一点張りだから、やむをえず翌日出勤したとき告げた。 「済まないがやめてもらうよ」 「どこか悪いところがあったら言ってください。おれ一所懸命なおしますから」  一所懸命に訴えるが、こればかりはどうしようもない。細君は一荒れするのではないかと、若い者に命じて店中の包丁を、新閉紙に包ませている。そんな雰囲気の中で、店主は二日分として二万円、それに車代として二千円を渡した。 「弱ったな、泊まるところがない」 「知合いが森下町で簡易旅館をやってるから、紹介しようか?」 「いや今夜は、新宿のドヤに泊まるから」  軍司は肩を落して、二十九日の昼すぎ出て行った。  五月二十九日夕刻、軍司は千葉県浦安市のすし店で面接を受けた。店舗はショッピングセンターにあり、折詰のみやげがよく売れる。おみやげ専門でいいかと聞いた店長に、経験七年という板前は、機嫌よく応じた。 「これからは、そのほうが|儲《もう》かると思う」  そこで即決して、店長が従業員に紹介したら、笑顔であいさつした。 「明日から来る川俣です。よろしく」  店長夫婦と義弟のほかは、女子五人である。翌日きちんと出勤したが、どうも言葉づかいが乱暴だった。 「おう、それ持って来い。モタモタするんじゃねぇ」  たちまち女の子から総スカンを食ったので、店長は閉店後に自宅に招待した。ビールを飲みながら晩めしを食べ、それとなく言葉づかいを注意したら、「おう、おう」と頷いて、目はテレビに向いている。ちょうどナイター中継中だから、ひいきチームを問うたらニッコりした。「ジャイアンツにきまってる」  銚子商出身の篠塚の好調が嬉しいらしく、|和《なご》やかに二時間ほど過ごして帰った。しばらくは市内の簡易旅館から通勤するという。  五月三十一日は日曜で、ずっと忙しい。軍司はひどく苛立って、仕事ぶりも雑になってきた。女子従業員に対して、あいかわらず乱暴だが、店長が見逃せないと思ったのは、包丁の|柄《え》を振るとき、義弟の腹に当てたのだ。それでも閉店後に、月末とあって給料を渡した。面接日をふくめて、三日分の二万一千円である。しかし帰宅すると、細君が軍司の話を持ち出して、「ヤクザっぽいから女の子が恐がっている」という。義弟に包丁の柄を当てたのも、職人として配慮に欠ける。一晩考えた店長は、解雇を決意した。  六月一日の朝、さっそく伝えたら、軍司は驚いた表情だった。 「今までの態度を改めるから使ってほしい」 「いや職場の和が保てない」  一万円渡したら黙って受取ったが、自分の柳刃包丁を持って帰るとき、捨てゼリワを吐いた。 「憶えてろ。このままじゃ済まないからな」  しかし面と向かっては言わず、すれちがってからなので、気の弱い男という印象しか受けなかった。  六月三日か四日の夕方だった。中央区銀座四丁目のすし店に、板橋区赤羽の同業者から、問い合せの電話があった。 「失礼ですが川俣軍司さんは、お宅に関係ありますか」 「軍司ですか……」  店主は苦笑した。飯田橋職安に出迎えたのが、昭和四十二年三月末のことで、退職が四十五年十一月だった。三年半にわたって築地店で使用したから、関係があるといえばあるが、切れて十年経っている。 「ずっと昔に、使ったことはありますが、今は関係ありませんよ」 「最近はまったく?」 「うーん」  ふたたび店主は、電話の前で苦笑した。  ひょっこり軍司が姿を現わしたのは、五月中旬だった。夕方四時ごろ店主が外出先から帰ってみると、ネズミ色のバッグをカウンターの椅子に置いた男が、黙って坐っていた。〈準備中〉とあって、むろん客ではないが、額の禿げかたに特徴のある男に、見憶えはなかった。  ——おれだよ、川俣だよ。  その声を聞いて、ようやく思い出した。それにしても「可愛い子」から、なんという変りようだろう。昔からオシャレで、服装にはカネをかけていた。今もみすぼらしくはないが、生活が崩れていることは分り、用件も見当がつく。  ——すっかり変ったので、見違えてしまったよ。  ——若旦那、おれを使ってくれないか。  単刀直入に切りだしたが、もはや「若旦那」ではない。父親は昭和四十九年に死亡し、築地店はすでにたたんだ。したがって銀座店だけで、使用人も減っている。  ——見てのとおり、おやじがやっていたときとは、違うからね。  店主が言っても、軍司は反応を示さない。こちらへ来るからには、築地を回っているのだろうが、おくやみひとつ言えないのか。それとも死んだことを、知らないのかもしれない。いずれにせよ採用する気はないから、店主はすぐ外出した。  ——一回りして来る。  黙々と仕込み中の、「花板さん」に声をかけ、実際に得意先を回った。会社関係に請求書を配って、三十分ほど経って帰ったら、軍司の姿はない。あれからすぐ、ガチャーンと戸を閉めて帰ったという。 「いったい御用件は、なんでしょうか」  こちらも夕方で忙しいから、気色ばんで問い返したところ、赤羽のすし店主は泣きつくように言った。 「じつは川俣さんに勤めていただいたんですが、どうもあれですので、やめて欲しいと言ったら、松葉会が黙っちゃいない、と」 「松葉会?」 「川俣さんは、関係があるらしいので、どれぐらい包めばいいかと思いましてね」  それで突然の電話に、得心がいった。世間にはハッタリに弱い経営者も、けっこう居るものらしい。 「少なくとも川俣は、組織に関係ないでしょう。そんなヤツの言いなりになっていては、松葉会も迷惑じゃないですか」 「ほんとうに、だいじょうぶでしょうね?」 「だいじょうぶです」  強調して電話を切ったところ、その後は何も言ってこないから、赤羽のすし店主は常識的な線でおさめたのだろう。  六月五日から、軍司は渋谷区代々木のすし店に採用された。大手の建設会社による、分譲マンションが何棟か並んで、その一角に設けられた貸店舗のテナントだから、ちょっとした高級店のたたずまいである。寝泊まりする部屋もあり、軍司は「がんばります」としおらしい態度だったが、二日目は日曜で定休日とあって、ほど近い新宿へ遊びに出た。そして午後七時ごろ、歌舞伎町一丁目のオデオン通りで、酔ってアラビア人留学生にからみ、交番に突き出されたのである。  このとき雇い主は新宿署から連絡を受けて、身柄を受取りに行った。「産油国のやりかたは汚ない、人の弱みにつけこむような値上げをするな」とからんだ程度で、手出しはしていない。厳重説諭で午後十一時四十分には釈放されたが、店に帰るとくどくどと同僚に、自分の行為の正当性を訴え、八日になっても同じことを繰り返し、酔いは醒めているはずなのに、支離滅裂だった。  六月九日になって、軍司は代々木のすし店を解雇された。 「同僚とうまくやっていけない人間は要らない」  渡されたのは二万円だが、店主には警察から貰い下げてもらったことだし、頭が上がらないらしく、黙って出て行った。  六月十一日午後、軍司は中央区日本橋の大衆割烹で面接を受けた。従業員は六十五人ぐらいで、すし店とは環境がちがう。住込みを条件に、さっそく寮に入った。  十二日朝から働いたが、どうも勝手がちがう。午前十一時半からの「ランチタイム」には、食券売場に行列が出来て、店内はごったがえす。なにしろ「鮨一人前四百七十円」であり、夕方になると勤め帰りのサラリーマンで一杯になる。レバ刺し二百八十円、イワシのたたき二百八十円、イカ・マグロ二点盛り四百五十円、チーズ百五十円、野菜サラダ二百五十円、魚フライ二百五十円、串カツ三百五十円、キンピラゴボウ二百五十円、煮込み三百五十円、御新香百五十円、イワシ丸干焼二百円、かす汁三百円、つみれ汁三百円、じゃがいもバター焼二百五十円、どぜう唐揚三百五十円、ビール二百二十円、蔵元直送しぼりたて清酒二百円、辛口一級二百七十円……。店内の壁一面に、ずらりと貼紙なのだ。〈すしの部〉に職人は七人だが、もっぱら皿盛りであり、折詰めがよく出る。二日目になると軍司は疲れて、午後の休憩時間は二階の広間で、ずっと横になっていた。  総括支配人は従業員の休憩中は、一週間に一、二回しか顔を出さないが、軍司の様子を見て、「これはダメだ」と思った。しかし注意すれば、なんとかなるかもしれないので、夕方になって仕事中に声をかけた。 「川俣君、ちょっと」  しかし軍司は返事をせず、背を向けるとトントン階段を上って行き、着換えて下りて来た。 「もう厭だ。こんな店に居たくないから、やめてやるぜ」  総括支配人は皆の手前もあり、無言で二階へ連れて行った。「御家族連れ、御婦人に限り、お座敷へどうぞ!」と貼紙があり、〈準備中〉の札をかけているあいだ、ここが休憩室になる。「懐しの町の酒場にいざよいのノレンくぐりて汲みし美酒」の色紙の下あたりで、軍司に対して強い態度に出た。 「なんだ、おまえはヤクザか。それならそれで、筋道を立ててモノを言え」 「いや、べつに」  急におとなしくなり、七千五百円の日当を二日分もらい、日本橋の大衆割烹をやめた。  十三日夜は新宿へ出て、飲み歩いているうちに所持金を使い果たしたので、大衆割烹の寮にもぐりこんで寝た。そして十四日は、何も食べずに過ごし、十五日午後になって出て、九日に解雇された代々木のすし店に行った。  店主に借金を申込むつもりだったが、外出中で夜になっても帰って来ない。それでも粘っていると、顔を憶えてくれていた客が声をかけた。 「なんだ不景気なツラをして」 「旦那さん、カネ貸してくれる?」  こうして酔客から五千円せしめて、江東区森下三丁目の簡易宿泊所へ行き、一泊六百円の「タバコ屋ベッドハウス」に泊まった。  森下町は、明暦—万治(一六五五—六一年)のころ、酒井|左衛門尉《さえもんのじよう》の屋敷の木立が茂り、周りが森の下のようだから、おいおい町となるにつれ地名になったが、古くは深川村の一部だった。深川村は海辺に|萱《かや》ばかりで、人家も畑もなく、摂津国から来た深川八郎右衛門という者が開墾していた。たまたま狩猟に来た家康が地名を尋ねたところ、八郎右衛門が「ありません」と答えたので、|苗字《みようじ》を村の名にするよう命じたという。  江戸時代から埋立てが進められ、維新後に洲崎が出来て、明治十一年に深川区になった。水運に恵まれて商業地帯として発展し、工業も盛んになったが、大正十二年の大震災で全区が|灰燼《かいじん》に帰した。同十四年に工場地帯に指定され、昭和二十二年に城東区と合併し、江東区の一部になった。運河が縦横に通じるので、ゼロメートル地帯ともいわれ、中小工場が多い。森下三丁目には、ベッドハウス、ビジネスホテルの看板をかけた、簡易宿泊所がかたまっている。  六月十六日朝、スポーツ紙『報知新聞』を買った軍司は、すし店の求人広告から八店を選び出した。最初にかけた赤羽の店は、採用済みと断わられたので、次々に電話して、最初に面接に行ったのが中央区銀座にある、チェーン店本部だった。 「あした電話ください」  にこやかなマネージャーに言われ、「これは採用される」と思ったが、用心のため江戸川区|葛西《かさい》と、港区田町の二店へ行き、面接を受けた。しかしいずれも、「出前をしてもらうよ」「給料の前貸しはしない」と、追い返さんばかりの応対だった。求人側はダメだと判断しても、怨みを買ってはつまらないので、率直に言うことをせず、応募者があきらめるよう仕向ける。いっぽう軍司は、すべり止めのつもりだから、「おう、分ったよ」と肩をいからせて帰った。  六月十七日は午前十時の起床だった。軍司は|髭《ひげ》をそるなど身なりを整え、サラシを巻いた柳刃包丁を入れた、ネズミ色の手提げバッグを持ち、十一時半ごろベッドハウスを出た。宿代は二泊分千二百円で、きのう出歩いて交通費、食事代などかかったため、所持金は百八十五円だった。  ベッドハウスの北五十メートルが、築地の中央卸売市場に通じる新大橋通りで、角に森下交番がある。軍司は交番の手前の「国威宣揚」と彫った石碑のところで左に折れ、児童公園の裏を近道して大通りへ出た。東京は晴れで、気温二六・一度、湿度六三、午後三時から雨の降る確率は一〇パーセント。  大通りに出た軍司は、南側の歩道を西へ向かって歩き、一つ路地を渡った角の『長崎かすていら・オリオンパン』前にある、黄色の公衆電話の前で立ちどまった。ここから森下二丁目商店街は、毎日新聞・森下飯店・豊すし・平和薬品・焼肉静龍苑・鶏卵問屋・スナックあや乃・アズマ工材・喫茶ロアール・山口菓子店・三河屋酒店・森下診療所・祝額しぶさわ、花菱化粧品店・佐野洋服店・中華料理萬來……。 「モシモシ、きのう面接を受けた者だけど、電話するように言われたのでね」  送話口に向かって軍司は、張りのある声を出した。 「だれか責任者を、出してくれないか」  江戸前寿司全国チェーン店の本社第一営業部長が、中央区銀座七丁目のビルに着いて、タイムレコーダーを押したら、十一時三十四分だった。定期健康診断を受けるため病院に寄ったとはいえ、いちおう遅刻だから急いで四階の事務所に入ると、電話の応対をしていた受付係が、パッと受話器を差し出した。 「部長さん、お願いします」 「ん?」 「面接の結果を聞きたいそうです」  このチェーン店では、都内にまた一店オープンするので、六月十六日付『報知新聞』に、求人広告を出した。      きのうまで応募者は四、五人だったろう。電話での問合せは多いが、こちらから断わるばあいもあって、なかなか面接にこぎつけられない。 「だれだって?」 「カワマタさんて人ですけど」 「………」  名前を聞いて、伸ばしかけた手を引っこめた。その男なら前日この事務所に来て、面接にあたったのは、第一営業部付マネージャーだった。部長自身は別の応募者に面接していたが、後から来た男の姿を見かけただけで、とっさに判断した。  ——うちの店にマッチしない。  この商売はどうしても、第一印象を大事にする。何といえばいいか、全体からくる雰囲気、とりわけ|目差《まなざし》に重点をおく。この店には、ああいう目差を持ちこまないよう、日頃から努力しているのだ。 「ええっと……居ないか」  二十代のマネージャーは、あいにく席をはずしている。いつも部下に断わらせるのではないが、第一営業部長は電話に出たくなかった。 「経験十年です」と電話をかけてきたのは、前日の午前十時だった。電話を受けたマネージャーは、自信に満ちた声を聞いて、面接することにした。すると四十分後に現われ、「電話した川俣だが」と、受付で野太い声を出した。本来なら部長が、面接にあたる。しかし先着の応募者に会っているので、マネージャーが引受けた。部長にしたところでまだ三十代だから、思いきって部下に任せる。  ——履歴書は?  ——持って来なかった。  ——じゃあ書いてくれますか。  マネージャーは、所定の用紙を渡した。ちゃんと社員として採用するのだから、会社の様式に合わせて書いてもらったほうがよい。住所、氏名、生年月日、学歴……。それに大切なのは、これまで勤めた店の名前である。  ——四軒ぐらいでいいかな。  ——よろしいですよ。  考え考え書いた履歴書を受取り、会社の面接要項にしたがって質問した。  ——それでは川俣さん、趣味は?  ——趣味は、なし。  ——|嗜好品《しこうひん》はいかがでしょう。  ——というと?  ——お酒とかタバコですね。こういう商売ですから、うかがっておきませんと。  ——タバコは一箱ぐらい。お酒はあまり飲めない。  ——政治に関して興味がありますか。  ——あるね。  頷いたので、マネージャーは「変っているな」と思った。たいていの板前は、「興味なし」と答えて、実際そうなのだ。  ——そうしますと支持政党は?  ——支持政党は、なし。  ——信じている宗教はありますか。  ——ないね。  ——免許関係は?  ——普通自動車。  このときニッと笑ったのは、調理師免許を持っていないのを、照れたのかもしれない。しかし重要な問題ではないから、最後の店をやめた理由を問いたところ、経営不振で閉店したという。  ——お給料はいくらでしたか。  ——二十二、三万かな。  ——私どもは会社組織だから、税金や保険料など引かれて、手取りは下回ると思いますが、それは構いませんか。  ——少しぐらいなら。  ——それから私どもの店は、昼間と深夜がありますが、川俣さんの希望は?  ——昼間の店がいいね。  ——そうしますと、カウンター型とテーブル型の、どっちがいいですか。  ——うーん。  履歴書にいう二十九歳より老けて見える応募者は、ちょっと考えるふうだった。ふつうすし店は、カウンターが主だが、このチェーン店はデパートやショッピングセンターにも進出しており、大衆食堂のようにテーブル席がほとんどである。だから会社では、「カウンター型」「テーブル型」と呼ぶ。  ——テーブル型だね。  ——ほう?  面接のマネージャーは、ふたたび「変っている」と思った。たいていの板前は、対面販売にあたる「カウンター型」を希望する。「テーブル型」は皿盛りが仕事だから、裏方のイメージがあるのかもしれない。貴重なタイプといえるが、マネージャーは不採用に決めた。  ——はい、分りました。明日の午前中にでも、お電話くださいますか。  採否は面接者の判断に任せられているが、いちおう後で上司に報告して決定し、応募者には翌日通知するのだ。  ——本来ならば、ここでお知らせすべきですが、私の一存では決定出来ないものですから。  ——それでは……よろしくお願いします。  立ち上がった応募者は、背筋をピンと伸ばすと、深々とお辞儀した。駅のホームなどで見かける、大学の制服を着た連中の、先輩に対するあいさつに似ていた。  こうして帰った川俣軍司を、第一営業部長は、もう一人の応募者の肩ごしに見送っている。先に来た人物は、なかなか良い印象なので残して、採用することにしたのだ。 「弱ったな」  あまり待たせるわけにもいかないので、第一営業部長は電話に出た。こういうとき、テキパキ処理してこそ、有能な管理職である。 「モシモシ、お待たせいたしました」  受話器を耳に当てたら、すぐに公衆電話だと分った。街の騒音は、大型トラックが走る地響きが主のようである。 「川俣軍司さんですね」 「おう」  そんな返事に聞えたが、とりたてて珍しくはない。職人|気質《かたぎ》というか、言葉遣いは乱暴でも、仕事熱心な板前は多いのだ。 「申し訳ないんですけど……」  第一営業部長は、電話機に頭を下げた。こういう姿勢は見えなくても、ふしぎに相手に伝わるものらしい。 「当社の規定に、ちょっと合わない部分がありますので、今回は勘弁していただけませんか」 「おう、おう、おう」  たしか三回ぐらい、そう言ったと思う。ビックリした感じでも、ガッカりした感じでもない、ふつうの返事に感じられた。  ガチャリ、と向うが電話を切ったので、ホッとしていたら、マネージャーが部屋へ戻って来た。 「部長、だいじょうぶでしたか」 「………」 「胃の検査もあったんでしょう?」  マネージャーの色白で端正な顔には、まるで屈託がない。第一営業部長は自分のこだわりが、意味のないことだと思おうとした。実をいうと、前日の好ましくない目差の男が、最後のお辞儀のとき、助けを求めていたように感じられたのである。 「なんでもありゃしないさ」  答えながら壁の時計を見たら、十一時三十五分を指していた。 「おう、おう、おう」  電話を切った軍司は、手提げバッグを左手に持ち、商店街を西へ進んだ。歩きながら右手はバッグのチャックを開け、柳刃包丁を取り出していた。前方から幼稚園児を連れて、ベビーバギーを押しながら|母娘《おやこ》が歩いてくる。軍司はバッグを投げ捨てると、包丁を持ちなおして突進した。  このとき小松川のほうから来た都バスは、時速二十キロぐらいで走り、まもなく森下バス停だった。運転手は左前方の、喫茶店『ロアール』前あたりに、赤ん坊が乗ったベビーバギーが停まっているのを見た。その側に男が居て、腰をかがめるように、バギーにのめりこんでいた。横には黄色い帽子の女児が立っており、第一印象はなにかごたついているような、不自然な感じだった。その直後にバギーは、投げ飛ばされるように引っくりかえり、ギャーという悲鳴が聞えた。  バスが停留所に着き、ドアを開けたら乗客の中から、女の声がした。 「だれか刺された!」  すると叱りつけるような、男の乗客の声がした。 「包丁を持った男が来る。早くドアを閉めろ」  言われて運転手がドアを閉め、サイドミラーを見たら、診療所の前におばあさんが立っていて、男に体当りされた。酔っぱらいがぶつかる感じだったが、車をすこし進めて森下交差点でいったん停めた。すると三十歳ぐらいの女性が、歩道のまん中を歩いて行く。異変に気づかない様子だったが、立ちふさがった男が包丁を突きつけ、|襟首《えりくび》をつかんで中華料理店に押しこんだ。  連れこまれた三十三歳の主婦は、買物帰りだった。小さな子を家に寝かせているので、急いで帰らねばならない。前方の騒ぎに気づかず歩いて行くと、男とすれちがった。だがすれちがったはずの男は、いきなり首に腕を回してきて、背後からつかまえたのだ。とっさに酔っぱらいが悪ふざけをしているのだと思い、『萬來』に入って、腕を払いのけようとした。 「なにするのよ」  しかし自分の手に、刃物が当てられているのが分り、びっくりしてしまった。 「こっちへ来い。奥へ入れ」  腕を首に巻きつけたまま、刃物を突きつけた軍司が、テーブル席を突っきって、調理場の奥へ行くと、畳の部屋に若主人と赤ん坊が居た。 「出て行け」  店の人たちが裏口から逃げて行くと、六畳間のガラス障子を閑めさせ内カギをかけ、奥のほうにしゃがむと前に坐らせ、後ろから髪を引っぱり首筋に刃物を当てた。 「おれはいま人を殺してきた。おまえも殺すぞ」  脅しておいて、つけっぱなしのテレビをNHKに切換えるよう命じ、次に書くものを捜させた。  まもなく調理場に警官が詰めかけ、曇りガラスごしに呼びかける。夫も駆けつけたが、いかんともしがたい。人質の主婦は、タンスから見つけだしたピンク色の紙に、ボールペンで口述筆記させられた。 〈電波でひっついている役人の家族をすぐつれて来い。次に書くすし店の夫婦を、全員つれて来い。銚子の水産会社の夫婦もつれて来い。半日以内に来なければ人質を殺す。おれがこういうことをしたのも、みんなひっついている役人が悪いからだ。電波でひっついているからだ。人が死んだのも、役人とグルになっておれを苦しめた、すし店と水産会社が悪いからだ〉  そのころ深川署では、凶行の直後を目撃した主婦が、事情聴取に応じていた。 「倒れた奥さんは『ロアール』の前に仰向けになり、痛い痛いと苦しんでいたので、“すぐ助けが来るからね”と声をかけてあげました。幼稚園の子は仰向けに倒れて苦しがり、お腹から腸が飛び出して、それを両手でつかんで身をよじっていました。お母さんはその横に倒れて、何かを訴えているようなので“お子さんはだいじょうぶよ”と声をかけてあげたら、そのとたんに動かなくなりました。診療所の先生はバギーに乗ったまま倒れている赤ちゃんを介抱していましたが、“まもなく死ぬ”といわれ、赤ちゃんはボクシングをするような恰好で両手を前に突き出し、目を開いて口惜しそうな顔をしていました」  銚子市春日町の長男宅で、隠居の身の軍司の父親は、「十七日」が妻の命日とあって、利根川を渡って波崎町へ行き、墓前に花を供えた。  六月十六日にはフランスで、パリ大学サンシェ分校比較文学科に在籍し、「川端康成と二十世紀文学について」修士論文を書いた日本人留学生が、オランダ人の女子学生をバラバラ死体にした。三十二歳の留学生は佐川一政といい、父親は東京証券市場の一部上場会社の、社長をつとめている。報せを受けた父親は、ただちにフランスへ飛び、精神鑑定にかけられる息子に面会するとか。  そんなニュースに同情していたのだが、墓参から帰宅して間もなく、銚子署の刑事が訪れて言った。 「お宅の息子さんが東京で、通り魔になった」 「なんで軍司が、関係ない人を殺す?」  とっさに父親は、怒鳴り返した。過去に粗暴事件を起こしてはいるが、凶悪事件には至っていない。その昔は親想いだった次男が、幼児や主婦を狙うなど、とうてい信じられなかった。「人質をとって立てこもっているから、籠城が長びくようなら、説得に行ってもらわなければならない」 「………」 「あらぬことを口走っているようだね」  そういえば次男は、五月二十五日ごろ銚子市に現われ、長男が勤めている工場へ行くと、自分で書いた手紙を渡した。  ——おれは家に帰った時、銚子で働いた。毎日、電波とテープと映像にひっつかれた。泣きたくもないのに電波でメソメソさせられた。笑いたくもないのにニヤニヤさせられた。考えたくもないことをテープで考えさせられた。想像したくもないことを想像させられた。今でもそれは続いている。おれがひっつかれているのを知りながら、まさか親兄弟まで一緒になってコソコソ言うとは思わなかった。他人もコソコソ言ったりおかしな演技を何回かしている。おれがひっつかれていることが少しは分ったか。皆んな計画どおりクビになっとるよ。とにかくあと二軒すし屋を当ってみる。手元にカネもない。恐らくおれがケジメをつける時は、麻酔銃か、相当武道をやってる人間を通行人にまぎれこませて、おれが殺しに行くのを阻止すると思う。とにかく五軒目でまともに働けない状態であったならケジメをつける。それより方法がない。  意味不明の内容と思っていたが、「ケジメをつける」とは、このことだったのか。いや軍司に限って、そんな|酷《ひど》いことをするはずはない。小心者で根は優しいのだから……。父親は間違いであってほしいと、祈りながらテレビを観たが、東京・深川の通り魔はやがて逮捕され、画面に大写しになったのは、まぎれもなく次男だった。以下は『朝日新聞』の見出しである。  ——白昼の通り魔通行人襲う/深川の商店街で中年男/六人刺す、幼児ら二人死亡/女性人質、ろう城/恐怖の無差別襲撃/平和な下町、血と悲鳴/閉ざされたガラス窓/犯人たてこもる「萬來」(六月十七日夕刊)  ——深川の“通り魔”逮捕/主婦人質に抵抗七時間/元すし店員、就職断られ逆上?/死者、母子ら四人に/一家の幸せ一瞬に砕いた/「返せ妻を二児を」長野さん、悲痛な叫び/またも…おののく市民/被害給付制度に該当/犯人川俣、粗暴職を転々と/覚醒剤の影も色濃く/正常→一転もう想/衝動犯罪招く薬物常用(六月十八日朝刊)  ——覚せい剤後遺症か/使用状況なお追及/刺して気分すっとした/川俣、平然と自供/惨劇現場に下町っ子の列/母も子も祭壇に合掌(六月十八日夕刊)  ——通り魔川俣、覚せい剤検出/犯行直前まで使用/引き金の疑い濃厚/人生に終止符打ったと自供/予防に全力、警察庁が緊急通達/人質の石塚さん帰宅(六月十九日朝刊)  ——子ら思い耐えた七時間/腕で首巻き、胸に包丁/毒見させた後に飲食/人質の石塚真理さん事情聴取で語る/調べに川俣、虚勢張り反省なし/香典盗む悪いヤツ/現場の祭壇、近所の人が突き出す(六月二十日朝刊)  ——「父の日」ひとりぼっち/通り魔・現場で町内会法要(六月二十二日朝刊)  ——有り金一八五円で凶行/再就職へ“トラの子”/望み絶たれ包丁に手/通り魔・川俣の軌跡/献花絶えぬ現場/遺族に激励の手紙続く(六月二十四日夕刊)  六月十七日午後六時五十五分に逮捕された軍司は、飯田橋の警察病院で取り押えられた際のケガの手当を受け、捜査本部が設けられた深川署へ連行されると、犯行動機についてすらすら供述した。 「犯行の前に、すし店に就職を申しこんだが、断わられたため、かっとなって次々に襲った。おれには電波がひっついているので、黒幕をあばく目的で人質を取った」 「子どもを持つ人がうらやましく、手当り次第うっぷん晴らしをしてやった。死んだ人に気の毒とは思わない。子どもの父親が来たら、いつでも会って怨みを晴らさせてやる。おれの腹を刺せばいいんだ」 「死んだ人間は、これも運命だ。おれはサムライだから、殺された町人も幸せだろう。刺したときは気分がスッとして、うまく殺せたと思う」 「昨年七月に道交法違反で捕まるまでは、覚醒剤をやっていた。今は使っておらず、おれは正常である。今度のことは、真剣な気持でやったんだ」  取調官の目には、昂奮しているというより、意気がっているように映った。  初日は三十分で切り上げたら、夕食を残さず食べて、夜はよく眠ったようだ。ふつう七人も殺傷すれば、どんな凶悪犯でも食欲はなくなるというのに、「ふつうの人間じゃない」というのが、取調官の印象だった。  六月十八日は朝から取調べだったが、「メシが少なすぎる、カツドンを食わせろ」と言う。 「ふざけるな、自分のしたことを考えろ」とたしなめたら、いきなり湯呑みの番茶をかけた。 「おれはいつだって死ねるんだ! 舌を|噛《か》み切れば、今だって死ねるんだ!」 『萬來』で取り押えたとき、口に|割箸《わりばし》を噛ませたのは、自殺防止のためである。警視庁捜査一課の警部は、かけられた茶を拭きながら答えた。 「そうか。やってみろ」 「………」  すると軍司は、黙りこんで下を向いた。前日の屈辱を噛みしめているのか、次第に気弱な表情になるのである。  なぜ女と子どもばかりを襲ったのか。捜査員たちの怒りも、そこに向けられていた。しかし取調室で向き合うと、意気がってはいるが、チョロイところを持っている。警部が机を叩いて一喝すると、黙りこんで顔面蒼白になる。とうてい男に立ち向えない、弱い男なのだ。それが分ると、可哀相な男にも思える。 「じゃあ調書を取ろうか」 「おれ、殺す気はなかったんだ」  急に前日の供述をひるがえし、無我夢中でいたら人が死んでいたと言うのである。これには警部も、「許せない」という気がした。 「包丁の柄にサラシを巻いたのは、前の晩だと言ったな?」 「ああ」 「それで殺す気がなかったとは、どういうことだ」 「おれにも分らない」  二時間ぐらい否認したが、結局は殺意を認めた。  ひととおり調べてから、犯行の方法について確かめるために、深川署の道場で婦人警官を被害者に仕立てて、順番にやらせてみた。摸擬の包丁を持たせたところ、軍司は冷静に再現しはじめる。たいていの被疑者は、罪の意識にとらわれて、手がすくんでしまうが、平然と被害者に向かう。あまりにも真に迫っているから、襲われる婦人警官が逃げ腰になるほどだった。どこか陶酔したような表情を見ていると、「ふつうの人間じゃない」と改めて感じさせられた。  電波と録音テープが|ひっついて《ヽヽヽヽヽ》いる話は、繰り返し聞かされた。「電波が最初に鼻に来て、それから録音テープと一緒になって……」と真顔で言う。その話しぶりは、普通人と変らない。街で出合えば、態度のでかい礼儀知らずと感じる程度の、どこにでも居る職人風なのだ。その男が大真面目に、「お前はもう、すし屋で働けなくしてやる、三日も経たないうちにクビにしてやると言われ続けた」と訴えれば、「そういうのがあるのかなあ」と|相槌《あいづち》を打ってしまう。 「普通の人間なら、そういうひっつきに一週間も耐えられないだろうが、おれは何年間も耐えに耐えて、やむにやまれずやったんだ」 「だからといって川俣よ、なんにも関係ない人を、殺す必要はないじゃないか」 「それはしょうがないんだ」  軍司は平然と言う。やった瞬間にテープの声が、「遂にやりましたね」と褒めそやしたとか。しかし軍司は、そう指令している黒幕がだれかを、追及したかったという。そのために人質を取って、『萬來』にたてこもったのである。 「野郎はおれのこと、何と言ってた?」  ずっと気にしているのは、右翼の人物のことだった。暴力団幹部である人物を名指しに、「野郎を連れて来い」と『萬來』で要求した。だが警察の調べによれば、川俣軍司とは何の関係もない。大物として通っている人物の名を、刑務所でしばしば聞いていたので、何年か前に東京・駒込で飲んでいて、さも知り合いであるかのように吹聴した。そこに配下の者が居合せて、「なんで会長を知ってる」と問い詰められ、痛い目に|遇《あ》った。それいらいテープから、その人物の声がしばしば聞えたという。 「お前のことなんか、知らないと言ってたぞ」 「ちきしょう、親兄弟までグルになって、黒幕の味方になっている」  親兄弟から見放されて、絶望のあまりの犯行と主張している。その親や兄弟は、逮捕いらい全く面会に来ない。ただし兄が、差入金を郵送してきた。 「兄貴に申し訳ないことをした。子どもたちは、学校へ行けないかもしれないなあ」  こういうときはしんみりして、普通人の感覚である。  警視庁の科学捜査研究所は、軍司の尿と血液を検査して、「二、三日以内に覚醒剤を使用したとみられる」と鑑定した。したがって取調べの後半は、覚醒剤に集中したけれども、これについては徹底的に否認した。 「シャブなんて、買えるわけないだろ。府中を出てから、ずっとカネが無かったんだ」 「なんで隠す? あんな酷いことやっていながら、シャブについてシラを切るなんて、男らしくないぞ」 「おれ本当に、シャブをやめたんだ」  昭和五十五年の前半ごろ、銚子市の水産会社を転々とした時期に、粗悪な覚醒剤を買ったことがある。分量をふやすために、ブドウ糖やサトウやアジノモトを混ぜるのは、闇の組織の常識なのだ。しかし血管注射だから、不純物が混ざれば一大事である。軍司が注射した途端にショックが走り、二階から転げ落ちて、滝のように汗が流れたという。 「そんときおれは、これはもうダメだ、シャブはやめようと決心した」 「簡単にやめられるかい」 「こうと決心したら、おれは絶対に実行する」  しかし現実に、科捜研は検出している。取調官がさらに追及すると、軍司は気弱な表情で供述した。 「じつは新宿の売人から買った」  さっそく裏付け捜査をすると、そんな売人は居ない。軍司の記憶が、あやふやなのである。そこで追及すると、嘘なのだった。 「本当を言うと、銚子のパチンコ屋で、仲間に分けてもらった」  ところが軍司の言う日、そのパチンコ屋は休業している。仲間にしたところで、身におぼえがないという。 「なんでお前、そんな嘘をつく!」 「だっておれが、嘘でもつかなきゃ、困るんでしょう」 「本当にシャブやってないか」 「絶対やってない」  むしろ覚醒剤で錯乱していたと主張すれば、心神耗弱状態とみなされて、公判で有利なはずである。それを敢えて、「真面目に|殺《や》った」と言い張るのだ。捜査員の多くは、四月二十一日に府中刑務所を出て、覚醒剤をやっていないとの心証である。一パケが二、三万円するものを、そう簡単に買えないだろう。出所後の軍司の行動を追跡すればするほど、そういう状況になかったと思わざるをえない。 「だけどトルコには行った」  これは自慢顔であり、女が刺青に興味を示して、サービスこれつとめたという。足取り捜査のために、軍司の言う吉原のトルコ嬢を調べたら、全く手間のかからぬ簡単な客で、つまり早漏気味であった。 「トルコのほかは?」 「ソ連に行きたかった。黒幕の正体を暴いたら、特別機を要求して、あっちへ亡命したいと考えていたんだ」  発想は飛躍するが、犯行時には冷静だったと思われる。たてこもった『萬來』では、カレーライスやジュースを、人質に毒見させた。しかもカレーの肉類やジュースの粒は、毒を入れる可能性があると、除かせているのだ。カーテンを閉めさせたのは|狙撃《そげき》を警戒するためで、差入れのとき人質を楯にしているし、テレビを観ながら重傷の老人の容態を心配していた……。 「おれはいつ、起訴されるのかな?」  取調べが二十日間を過ぎると、軍司はそわそわしはじめた。せっかく馴染んだ深川署から、動きたくない様子である。 「それは少し、先になりそうだぞ」 「ふーん」  軍司はホッとした表情だった。  ふつう検察官は、逮捕から四十八時間以内に送致された被疑者を、二十日以内に起訴しなければならない。もし起訴出来なければ、釈放することになる。しかし軍司には、精神障害の疑いがある。東京地検は鑑定勾留を申請し、二カ月間の延長が認められた。 「やはり拘置所へは、行かねばならん」  取調官は東京拘置所への、身柄移送に立ち会った。護送車の中で軍司は、緊張しきった表情である。拘置所では規則が厳しく、違反すれば体罰も受ける。供述を得るために、硬軟とりまぜて処遇する留置場とは、様子が変る。前科の多い軍司には、それがよく分っているはずだった。 「お前はミカンが好きだから、差入れてやろうか」 「いいえ、結構です」 「遠慮するな」 「武士は喰わねど妻|楊枝《ようじ》です」  それも言うなら「高楊枝」だが、軍司は例によって大真面目である。取調室における雑談でも、わけ知り顔に難しい言葉を使いたがる。それがたいてい誤用だから、妙に憎めないのだ。  拘置所に着いたら、氏名・年齢・本籍地など聞かれ、身体検査を受ける。ピーンと背筋を伸ばし不動の姿勢をとり、「川俣軍司です!」と答えた被疑者に、二十日余り濃密に接した取調べの警部は、別れ際に声をかけた。 「おい、元気でな!」 「………」  肩を叩いたのに振向きもせず、その体は小刻みに震えている。虚勢ばかりの小心者は、これからの日常を思い、おびえきって声が耳に入らないのだろう。拘置所を出るとき警部は、「可哀相なヤツ」と思わずにはいられなかった。 [#改ページ]         3  昭和五十六年九月九日、精神鑑定にあたっていた上智大文学部心理学科教授・福島章は、「犯行当時に心神喪失の状態にあったとは認められない」と、東京地検に鑑定結果を報告した。  刑法第三九条には、「心神喪失者ノ行為ハ之ヲ罰セス」とあり、「心神耗弱者ノ行為ハ其刑ヲ減軽ス」と続く。鑑定結果を得て、東京地検はただちに公訴提起に着手したものの、鑑定の内容については「公訴維持のため」として、明らかにしなかった。       *     *  起 訴 状   左記被告事件につき公訴を提起する  昭和五十六年九月十一日          東京地方検察庁検察官              検事 堀江 信之  東京地方裁判所御中   一、被告人  本籍 茨城県鹿島郡波崎町太田五一二番地  住所不定 無職        殺人等(勾留中) 川俣 軍司        昭和二十七年二月二十一日生   二、公訴事実  被告人は、かねて東京都内の数カ所のすし店で板前として稼働していたが、いずれも短期間で解雇され、昭和五十六年六月十六日三カ所のすし店に応募したところ、いずれからも翌十七日までに不採用を通告されたため生活に行きづまり、こうなったのは右すし店の経営者らのせいだと逆うらみし、このうえは通行人を殺害して世間をさわがせたあと、人質をとってたてこもり、右すし店の経営者らを呼び集めて、同人らが殺人事件の関係者である旨を公表し、その信用を失墜させんことなどを目的として、  第一 六月十七日午前十一時三十五分ごろから同四十分までのあいだ、東京都江東区森下二丁目十四番三号の喫茶店『ロアール』前路上において、ベビーバギーに長男の博明(一歳)を乗せ、長女の統子(三歳)を連れた、長野るみ子(二十七歳)が通りかかるや、所携の柳刃包丁(刃渡り二十二センチ)で、やにわに博明の腹部、|鼠蹊《そけい》部などを突き刺し、るみ子のうしろから背部右|腋窩《えきか》下を突き刺し、統子の左胸部を突き刺し、  同所から約十メートル前方の三河屋酒店前を通行中の二本松美代子(三十三歳)の胸部、上腹部などを突き刺し、  同所から約十五メートル先の森下診療所前を通行中の加藤貞子(七十一歳)の腹部を突き刺し、  同所から約十メートル先の花菱化粧品店から出てきた吉野千鶴子(三十八歳)の腹部を目がけて突き刺し、  長野 博明(死亡) 肺、大動脈刺創の失血  長野るみ子(死亡) 肺内動静脈切断の失血  長野 統子(死亡) 胸腹部刺創の失血  二本松美代子(死亡)肝臓内静脈損傷の失血  に対してそれぞれ殺害の目的を遂げ、  加藤 貞子(加療四カ月)  吉野千鶴子(加療二週間)  に対してそれぞれ傷害を負わせたにとどまり殺害の目的を遂げなかった。  第二 同日午前十一時四十分ごろ、引続き中華料理店『萬來』前を通行中の石塚真理(三十三歳)に対し、やにわに左腕でその|頸部《けいぶ》をかかえ、右手で柳刃包丁をノドもとに突きつけ『萬來』の奥六畳間に引きずりこみ、もって故なく他人の住居に侵入し、  午後六時五十四分ごろまで包丁の刃を同女の頸部に押しあて、背部に切りつけるなど脅迫、暴行など加えて監禁し、  その際同女に対して加療一週間を要する背部切創などの傷害を負わせた。  第三 業務その他正当な理由によらないで同日午前十一時三十五分ごろから、午後六時五十四分ごろまでのあいだ、『ロアール』前から『萬來』に至る道路上および、『萬來』内において右柳刃包丁を携帯したものである。  初公判は十一月二十四日午前十時から、東京地裁七〇三号法廷で開かれた。事件から五カ月余り経っているが、「深川の通り魔」が逮捕いらい初めて人前に現われるとあって、傍聴希望者が列をつくった。  七〇三号法廷は、ロッキード事件の公判が続く七〇一号法廷と、廊下をへだてて向かい合っている。三十二枚の傍聴券が用意された一般席は満員だが、六つ用意された遺族席は空いたままである。  開廷する少し前に、殺人・殺人未遂・住居侵入・監禁致傷・銃刀法違反の五つの罪に問われた被告人が入ってきた。たてこもった『萬來』から、すし店員に変装した刑事たちに引きずり出されたとき、ズボンをはかずに白いブリーフ、白いソックス、自殺防止の白い布を|銜《くわ》えさせられた姿は、いかにも異様だった。しかし今は、薄い髪にも|櫛目《くしめ》が入り、白い襟のついた薄茶の半コートを着て、肌の色艶もよさそうだ。もっとも半コートは、人定尋問の前に脱がされた。 「ジャンパーのようなものを脱いでは?」  刑事七部の裁判長中野武男は、昭和四年十一月東京生まれ、日大卒で二十七年に司法試験合格、水戸家庭・地方裁判所の判事補をふりだしに、山口、横浜、福井、東京、長野を回って、五十三年四月から一年間は東京高裁判事だった。東京地裁の裁判長になってからは、連合赤軍事件統一組(永田洋子、坂口弘ら)に厳しい訴訟指揮で臨んでいる。 「………」  頷いて脱いだら、エンジ色のブレザーで、被告人は前に進み出た。 「名前はなんといいますか」 「川俣軍司」 「生年月日は?」 「昭和二十七年二月二十一日」 「職業はなんですか?」 「無職」 「住所は?」 「不定」 「本籍はどこですか」 「茨城県鹿島郡波崎町太田五一二」  ダミ声でぶっきらぼうに答えると、さっさと下がった。何回も経験して、法廷の儀式はのみこんでいる。  そこで起訴状の朗読である。検事堀江信之は昭和十六年七月岡山生まれ、四十二年に司法試験合格で、東京地検をふりだしに鳥取、京都、岡山、神戸、静岡を回ってきた。 「……以上の事実について、公訴を提起します」  検事が着席すると、こんどは罪状認否である。しかし主任弁護人落合長治が、「裁判長」と発言を求めた。 「被告人はあらかじめ起訴状の認否について書面を用意しておりますから、それを朗読させてください」  落合長治は昭和五年十一月東京生まれで、二十九年中大法学部卒、同年司法試験に合格して、三十二年に弁護士開業した。もう一人の木下良平は、昭和八年八月東京生まれで、三十二年東大法学部卒、在学中に司法試験に合格して、三十七年に弁護士開業した。共に第一東京弁護士会に所属し、こんどの事件は国選で担当した。 「それでは朗読してください」  裁判長に命ぜられ、被告人はポケットから書状を出すと、野太い声で読みあげた。  公訴事実に「こうなったのは右すし屋の経営者らのせいだと逆うらみし」と述べてありますが、私が事件を引き起したのは、とても世間一般の常識では考えることのできない非人間的な、人間に対して絶対におこなうべきでない、ふつうの人たちであったら一週間もたたないうちに神経衰弱になるだろう、心理的電波・テープによる男と女のキチガイのような声に、何年ものあいだ計画的に毎日毎晩、昼夜の区別なく、一瞬の休みもなく、この世のものとは思えない壮絶な大声でいじめられ続けたことが、原因なのであります。  すし屋の経営者らは、私を不当な方法により何年間もいじめ続けている張本人に指図され、その手下となって、私に対して数々の異常な陰口を言い続けたあげく、計画的に解雇したのであります。  このことは私の郷里である千葉県銚子市においても同様で、市内の五軒の水産会社、そして運送会社でも同様でした。私がどこに居ようと、それが電車の中であろうと、一面識もない人間によって、執拗な陰口が言い続けられ、何年ものあいだ一日とて言われないことはなかった。  それはすし屋のあらゆる客たちにおよんでおり、私の実の親兄弟たちまでもグルになって、死者でも生き返るであろう非人間的な電波・テープの張本人に指図され、強制的にいじめてきたのであります。  これが不可避であっても、私は働く職場があれば、がんばれると思った。この非人間的なものに対して辛抱していこう、他人の陰口に対しても辛抱しよう、どんなつらい思いを強いられようとも、職場でがんばり抜こうと、固く決意していたのです。  それにもかかわらず、私をいじめ続ける張本人によって、計画的に職場まで奪われてしまった。「逆うらみ」とは、相手の好意に対して反対にうらむことであるが、私は死者でも生き返るであろう筆舌に尽し難い、壮絶な電波やテープの声を、死ぬ思いでこらえながら、働こうと努力したのである。  私があのような悲惨な事件を引き起しましたのも、今まで述べたような、目に見えない電波やテープによる男と女の声が、私の耳から頭の中に流れ、ありとあらゆる方法で私をいじめ続け、私の同僚や一般の人間、そして実の親兄弟までが、その張本人とグルになって職場まで奪ったことに、心底から自分の将来に絶望したことが原因なのです。  すし屋の経営者らは、私をいじめ抜く張本人の手下になったのですから、今回の事件にまちがいなく関連があり、決して私は逆うらみしたのではありません。  十七日当日、私は前日面接してまだ採用がきまっていない、中央区銀座の『寿司田』に|一縷《いちる》の望みを託し、電話をかけました。金銭も残り二百円足らずということも重なり、嘘いつわりない真剣な気持だったのです。ところが張本人の圧力は、『寿司田』にまでおよび、私は採用を断わられた。  勇気をもって電話したのに断わられてしまい、私はもう社会では生きていけない、人を殺害してでも潔く自分の人生に終止符を打とうと固く決意したのであり、「世間を騒がせよう」というようないい加減な気持は、|微塵《みじん》も持ち合わせておらず、まして人質を取って立てこもろうなどという余裕は、まったくありませんでした。  路上で吉野千鶴子さんの腹部を刺したそのとき、私の包丁は一枚の板片に当ったように感じられ、包丁に視線を移すと先が五ミリほど欠けていたので、私は初めて我に返りました。ちょうどそこへ石塚真理さんが歩いて来たので、私は初めて人質にして立てこもり、電波・テープで苦しめる張本人や、銚子市の水産会社や、すし屋の経営者らを呼び集めようと決意したのです。  なお長野るみ子さんに対して、「背部右腋窩下を突き刺し」とありますが、私が突き刺したのは二度ではなく、一度なのであります。  そして二本松美代子さんに対して、「胸部、上腹部などを突き刺し」とありますが、私が突き刺したのは上腹部を一度なのです。  朗読する声は、終始しっかりしている。あたかも告発者であるかのような語調だから、傍聴席は動揺した。  続いて弁護側は「公訴事実」に対する意見として、次の点を明らかにした。  起訴状冒頭の部分は、犯行の動機を述べたものと思われるが、右動機の点を争う。ただし被告人が都内の数カ所のすし店で板前として働き、いずれも短期間で解雇され、昭和五十六年六月十六日ごろ三カ所のすし店に応募したが、翌十七日までにいずれからも不採用を通告されたことは認める。  殺人ならびに殺人未遂の点で、被告人の行為の外形的事実および、結果発生の事実は認める。しかし犯意は否認する。なお二本松美代子に対しては、一回刺しただけである。  第二(住居侵入・監禁致傷)および第三(銃刀法違反)の事実については、外形的事実は認めるが、犯意は否認する。  公訴とは、検察官が裁判所に、犯罪の処罰を求める申し立てである。しかし疑いをかけられた者が、真犯人とはかぎらないし、真犯人だとしても何らかの言いぶんがあるだろう。処罰を求める検察官は、強大な国家権力をバックにしているが、多くの被告人は法律を知らないし、強制的に自由を奪われている。これでは訴えた者と、訴えられた者が、平等の立場で争うことは出来ない。そこで裁判所は、被告人の補助者として、弁護人をつけることを認めるのである。  その弁護人を、被告人や肉親がつけるのを、「私選」という。だが日本の刑事裁判で、自ら弁護士を選ぶ経済力がある被告人は、わずか五分の一にすぎない。そこで裁判所が、国の費用で弁護人をつけるのを、「国選」という。  国選弁護人を任命するのは、公判を担当する裁判長だが、実質的にはその地方の弁護士会が順番を定め、会員が回りもちで引受けることになる。  東京の弁護士会は、「東京」「第一東京」「第二東京」に分れている。昔は東京弁護士会に一本化されていたが、大正十三年ごろ、長老の支配に反対する若い勢力が会長選挙で勝利した。このため長老グループは、会を割って第一東京弁護士会を作り、両者を調整する目的で第二東京弁護士会が作られた。三つの団体それぞれ会員が増え続け、途中で合併の気運は生じたものの、分立したまま今日に至った。「東京」は約二千八百人でバラエティに富み、「第一東京」は約千三百人で退官した裁判官が多く、「第二東京」は約千三百人で調和を旨とするという。  軍司の弁護人である落合長治、木下良平いずれも第一東京弁護士会に所属している。落合は昭和四十五年に日弁連の人権擁護委員会副委員長、四十七年に日弁連副会長、五十年からは最高裁司法研修所の教官をつとめた。木下は国選弁護運営委員、法律扶助協会東京支部理事で、五十一年から司法研修所の教官をつとめた。  ふつう国選弁護を引受けるのは、弁護士会が定めた順番による。国選のばあい報酬が低く、実費程度といわれるから、いわば奉仕活動である。しかし社会の耳目を集めた特異な事件は、「特別案件」と呼んでおり、公安事件など順番が来たからといって、引受けたがらない弁護士もいる。軍司の事件も特別案件であり、「裁判を受けさせるより、即刻死刑にすべし」と憎悪の声が高い。弁護士とて担当事件を離れれば、市民レベルの感覚であり、「あまりにも残虐な行為」と軍司を憎んでいた。  かつて落合は、東大闘争の被告人を弁護したことがある。しかし裁判所から、「深川通り魔殺人」の事件弁護を依頼されたとき、「二、三日考えさせてほしい」と答えた。特別案件たるゆえんで、断わろうと思えば、断われないことはない。だが国選制度がある限り、守るのが刑事弁護の本質だろう。かつて法務省は「弁護人抜き裁判法案」を用意し、日弁連は撤回させる条件として、国選制度への協力を約束している。けっきょく落合は、木下と共に弁護を引受け、辞令は十月十二日付だった。  二人の弁護人は、次のことを申し合わせた。刑法は正常者を相手に定められ、犯罪を起こせば責任を追及して刑罰を与える。しかし軍司は、刑法の枠外の精神異常者の疑いが濃厚である。弁護活動にあたり、どうすれば被告人の心を開かせることが出来るか。やはり回数多く会って、おだてたりすかしたり、仲良くならねばならない。被告人と言葉のやりとりがなくなれば、弁護活動は出来ないから、会いたいと言ってきたら他の仕事はさておいても、飛んで行くことにしよう……。  葛飾区小菅の東京拘置所へ、十月十五日に初めて面会に行った。これは申し合わせたわけではないが、期せずして二人の弁護士は、江東区森下二丁目の犯行現場に近い長慶寺の、慰霊地蔵に詣でていた。“通り魔”の弁護を引受けるにあたり、そうしておかなければ、気が済まなかったのである。  こうして訪れた弁護人に対して、面会室の軍司は横柄な態度で、口を|尖《とが》らせて挑むように言った。  ——どこが悪いっていうんだ。おれの苦しみにくらべたら、四人や五人が死んだからといって、どうということはない。五十人死んでも、まだ足りないぐらいだ。  二人はたじろいだが、辛抱強く言い分を聞いてやり、申し合わせどおり足繁く、東京拘置所へ通った。  初公判で弁護人は、「意見」のあと次のように「主張」した。 「被告人は、本件の各行為当時には、電波やテープによる執拗な迫害と、就職に妨害されたとする異常な精神状態にあったから、このような強度の幻覚、妄想などの影響で、各行為におよんだものである。かかるばあい、自己の行為を正当に律するのに必要な、理非善悪の弁識能力を欠き、あるいは弁識にしたがって行為することが出来ないものであって、心神喪失か、すくなくとも心神耗弱の状態にあったものである」  続いて検察官が冒頭陳述をおこなったが、「現行犯逮捕」の状況については、次のように述べた。 「被告人は中華料理店『萬來』に立てこもっていたが、説得にあたっていた警察官に対し、“つまらんことを言うな、うるさくすると刺すぞ、何人殺しても同じだ”などと怒鳴り散らし、いっこうに説得に応じる様子がなかったため、午後六時五十四分ごろ被告人がちょっと目を離した隙に、石塚真理がガラス戸を開けて調理場のほうへ逃げ出したので、警察官が調理場奥の六畳間に突入し、柳刃包丁を振りかざして抵抗する被告人を、住居侵入等の現行犯人として逮捕した」  このあと検察官は、「実況検分調書」など百五十五点を証拠申請した。これに対して弁護側は、「すし店の稼働状況」「身上経歴」「福島章作成の精神鑑定書」など十一点を、不同意要項として挙げた。したがって軍司を採用、または不採用にしたすし店関係者、軍司の肉親、精神鑑定人を、公判廷に召喚してほしいとの要項である。  そこで検察官は、弁護人も同意した「書証」の主なものを、|抜萃《ばつすい》して朗読した。  長野義明の供述調書。 「事件当日は胃の調子が悪くて会社を休んでいたが、午後からでも仕事に出るつもりで、統子を自転車で幼稚園へ送った。統子は“お父さんが休みだから早く帰る”と喜んだ。ふつう午後二時までだが、水曜と土曜は弁当がない日で、午前十一時半ごろ終る。妻は十時半ごろから、博明を連れて迎えに行った。妻とは昭和五十年に結婚したけれども、明かるい性格で愚痴も言わず、自分が失敗したときは励ましてくれた。統子については、親の口から言うのもナニですが、三歳児にしては聞き分けがよく、歌が好きな子で、家でもよく歌っていました。博明はまだオムツも取れず、言葉も“ハイ”“イタイ”“マンマ”“ナイナイ”ぐらいですが、自分たちの言うことを、だんだん理解するようになっていました。自分は両親に早く死なれ、兄弟姉妹もなく一人きりで育ち、家庭を持つのが夢だったから、今まで一所懸命やってきたのに、今度の事件に遭遇して、非常に無念である」  二本松正義の供述調書。 「家族は母親と妻、小四の長女と小三の次女の五人である。妻とは昭和四十三年に見合い結婚したが、地味な性格で責任感が強く、父親としては安心して子どもが任せられた。事件の日は妻が、調味料を買いに行く途中で巻きぞえになり、残念であると共に可哀相でならない」  深川青年会館における料理講習会会員の供述調書。 「二本松さんは副会長であって、とても責任感が強く、十一時十分ごろペパーミントが不足していたものだから、“自分が買いに行く”と言って出かけて、事件に遭遇した」  被害者加藤貞子の供述調書。 「六月十七日は、夫の入院手続きのため、国電小岩駅近くの病院へ行き、用を終えてバスで帰った。自宅に近い森下停留所で降りて、日傘をさそうとしたとき、いきなり前方からぶつかってきたものがあった。ぶつかって男に気づき、何だろうと思ってお腹のほうを見ると、男が何か握った手を押しつけている。何を握っているのか分らず、私が顔を上げると、男と視線が合った。すると男は、あわてて逃げて行き、その後でブラウスのお腹のあたりに、血がにじんでいるのに気づいた。それを見て私は、男が持っていたのは包丁で刺されたのだと分った」  被害者吉野千鶴子の供述調書。 「現住所で化粧品店を経営しているので、何気なくショーウィンドウ越しに外を見たところ、すぐ前の停留所に都バスが停まった。バスのドアは閉まっており、乗客はみんなバス後方の森下診療所あたりを見て、立ち上がって後ろへ移動する人も居た。それで私は、また交通事故でも起きたのかと思い、店から一歩か二歩出たところへ、いきなり四十歳ぐらいの男と、鉢合せになった。男との間隔は、六十センチぐらいで、正面から向かいあったとき、右手の包丁を刃先を上に持ち構えているのが分った。一瞬、男の目を見たとき、変った感じの男は、胸元付近の一点に向けられており、本当にびっくりした。無言のまま突き出した刃先が、私のお腹の真ん中に向けられているので、刺されると思った。とっさに大声で“イヤだ!”と叫びながら右手で、右から左にその包丁を払うと同時に、左回りで体を旋回させて右の奥へ逃げた。今から考えると手で払わなければ、お腹の真ん中を包丁で刺され、殺されていたかもしれず、背筋がゾッとする」  中華料理店『萬來』経営者・村田進の供述調書。 「奥の部屋で十時半ごろ朝食を終え、三十分ぐらいマンガを読んでいたら、店のガラス戸がガタガタ鳴って男女の声がした。痴話ゲンカしながら客が入ったのかと思っていると、物置にツケモノを取りに行き、調理場へ戻った妻が、“包丁を持った人が居る”と部屋に来て、子どもを抱いて出た。入って来た男は、“てめえら出て行け、出て行かないと殺すぞ”と怒鳴るので、私たちは裏口から逃げた」  被害者石塚真理の供述調書。 「萬來さんは開店前で客は誰もおらず、村田さん夫婦が逃げ出したあと、私の主人が来て“真理どうした?”と声をかけてくれた。しかしガラス戸を閉め、カギをかけさせられたので、どうしようもない。犯人は、“ニュースにしろ”“NHKにしろ”と命じて、その頃はもう警察官が調理場に来ているのが分った。それから犯人の要求をメモさせられ、私を|楯《たて》にした犯人に、警察官が説得しはじめた。すると犯人が私に刃先を当て、“黙らせろ”と言うので、“話さないでください”と叫ばされ、次々に刺された。そのうち犯人が|砥石《といし》を要求し、耳元で包丁を|研《と》ぐので、何と言い表わせばよいか分らない状態だった。切れ味を試したあと、“長期戦になる”とカレーライスやジュースを要求した。そのうち部屋が暗くなると、犯人が窓全部にカーテンをしろと言い、押入れからタオルケットを取り出したとき、コックリ頷いて自分から目を離したので、目つぶしのつもりでタオルケットを投げつけ、刺されてもたいした傷にならないだろうと外に飛び出したら、入れ替りに警察官が飛び込んで行って、私は保護された」  被告人の父親の供述調書。 「軍司が昨年のこと、無免許運転で捕まってからは、どこの刑務所へ行き、いつ出所したかも知らなかった。今度の事件の犯人が軍司と分ったときは、申し訳なくて、亡くなった方や、その遺族、とくにおじいちゃん、おばあちゃんが殺された孫を思い、どんなに悲しんでおられるかと思うと、お詫びの申しあげようもない」  被告人の弟の供述調書。 「八月に子どもが生まれるが、妻が赤ん坊の将来のためにも、名前を変えてくれというので、形式的に離婚した。改めて結婚届を出すとき、妻の姓を名乗るようにしたので、すでに川俣ではない」  被告人が最初に就職した築地のすし店主の供述調書。 「無口ですこし陰気だと思う。人の言うことをよく聞いた。ごく普通の少年だった。腕は普通で、仕事は出来るには出来るが、雑なやりかただった」  次に勤めた江戸川区のすし店員の供述調書。 「私自身が背中に、刺青を入れていた。川俣がそれを見て、“先輩の若い衆になりたいから、自分も入れたい”と言うので、最初はやめるよう説得したが、けっきょく彫り師のところへ連れて行った」  右すし店の店主の供述調書。 「腕はそれほど良くなくて、習いたてというぐらいのものだった。しかし一日も遅刻することなく、言いつけを守って真面目に働いた。その後で刺青を入れたことが分ったので、店をやめさせた」  常陸川漁協の組合員の供述調書。 「川俣がかなりヤクザっぽい態度で口をきくものだから、皆と打合せがうまくいかなかった。五十三年七月ごろ川俣から、“カネを貸せ”と包丁で脅されたことがある」  被告人の尿からフェニルメチルアミノプロパンが検出された捜査報告書。 「逮捕当日から四回にわたり尿を採取し、これを鑑定したが、いずれも覚醒剤の含有が推定され、あるいは検出された。七月十五日に採取した尿からは検出されなくて、これ以後はいずれも検出されなかった」  これら「書証」を読み上げた検察官は、次に「物証」である柳刃包丁を、茶封筒から取出して被告人に見せた。 検察官 これはあなたが持っていた包丁に、間違いないですね。 被告人 (黙して答えず) 検察官 これはあなたの包丁ですな! 被告人 ええ。 検察官 それから(サラシ布を示して)、これも見憶えがありますか。 被告人 はい。 検察官 これは包丁の柄に巻いていたものに違いないですか。 被告人 間違いありません。 検察官 じゃあ、この二つを証拠品として、裁判所に出しますからね。  十二月十一日午前十時から、第二回公判がひらかれた。法廷はロッキード事件と同じ七〇一号に移され、午後にかけて七人の証人が出廷し、いずれもすし店の関係者だった。  まず検事が尋問し、軍司を雇ったときの様子、あるいは面接しながら採用しなかった理由などをただす。次に弁護人が尋問するが、これは簡単な内容で、最後に被告人が自ら尋問するのである。 「証人は……」  まさにドスのきいた声で、軍司は証言台に顔を向ける。 「私が証人の事務所において、履歴書を記入する際に、女子事務員が一人居ましたね」 「はい、居りました」 「その人は私に対して不自然な言動がありました。証人は記憶ありませんか」 「とくにございません」  これは最後の望みをつないだ、中央区銀座のチェーン店マネージャーに対する尋問だった。  さらに港区芝の、二十日間勤めたすし店主への尋問。 「私は寮において毎晩、フスマごしに従業員から異常な悪口を言われていたんですが、その事実をまるで知らなかったんですか」 「はい」 「私が退職するときに非常にふるえておりましたが、あれは私に対して陰口を言った、その後めたさがそうさせていたのではないですか」 「分りませんけどねえ、いま言ったことは」  ここで裁判長が発言し、被告人とのやりとりになる。 「質問の主旨がよく分らないので、もう一回言ってごらん。分るように」 「私が退職するとき、証人は非常にふるえておりましたが、あれは私に対して指図……」 「何? 指図ってなんですか」 「外部から指図があって、それでやめさせられたからという……。指図されなくては、絶対に言えるわけのない陰口を、私に対して言っていた後めたさが、そういうふうにさせていたのではないですか」 「質問にならないね。事実はないと、さっき証人は答えていますからね」 「分りました」 「じゃあ終りました。ごくろうさまでした」  十二月二十五日午前十時から、第三回公判がひらかれた。  証人として召喚されたのは、軍司の精神鑑定をおこなった、上智大文学部心理学科教授の福島章である。昭和十一年東京に生まれ、三十八年東大医学部卒で、専攻は精神医学。東大精神科、府中刑務所、東京医科歯科大を経て、上智大教授。主な著書に、「宮沢賢治」「甘えと反抗の心理」「現代人の攻撃性」「正気と狂気の間」「愛の幻想」がある。 「それではどうぞ」  裁判長にうながされて、鑑定人は証言台に立った。 「良心に従って、真実を述べ、何事もかくさず、また、何事もつけ加えないことを誓います」  まず検察官が、鑑定書の書式について質問すると、鑑定人は次のように説明した。 「書式は一般的な慣例にしたがって、いわば『鑑定書の書きかたの教科書』というような体裁をとっています。最近ではそれぞれの好みで、いろいろな書きかたをする先生もございますが、これはその中でも伝統的な書きかたにしたがった鑑定書です」       *     *   鑑定主文 一、被疑者川俣軍司の犯行前、犯行時、ならびに現在の精神状態は、いずれも幻覚妄想状態である。  幻覚は幻聴を主とし、異常身体感覚をともなっている。  妄想は体系化した被害妄想、関係妄想を主とし、これは犯行の動機の形成に、重要な役割をもっている。  知能は普通域にある。 二、被疑者川俣軍司は、特異な異常性格にもとづく精神病質である。爆発性、情性欠如、意思欠如、自信欠如、自己顕示性などの多様な病質である。 三、被疑者川俣軍司の性格には、多くの因子が関与している。異常性格の形成には、遺伝的素質と早幼性脳障害が重要である。 四、被疑者川俣軍司の幻覚妄想状態には、二つの形式が考えられる。 五、被疑者川俣軍司は、精神分裂病ではない。 六、犯行の動機は幻覚妄想状態に求められるが、動機が遂行されるにあたっては、異常性格が決定的な役割を果している。  最も関心がもたれていたのは、「五」の部分である。検察官の主文朗読が終ると、裁判長が休廷(昼休み)を宣し、鑑定人が廊下に出ると、新聞記者にとり囲まれた。 「鑑定が採用されれば死刑はない?」  検察側が内容を公表しなかったのは、「公訴維持のため」という。しかし今、それが明らかになったのである。  ところで過去の著名事件の、精神鑑定主文は、どのようなものであったか。 【阿部定事件】昭和十一年五月。  現在における被告人の精神状態は、生来性変質性の性格異常が幼時よりの環境によりはなはだしく助長せられたるものにして、精神的身体的にヒステリー性特徴を呈し、かついちじるしき性的過敏症(淫乱症)を有するものなり。ただし性格異常の程度は高度ならず、したがって心神喪失または心神耗弱の程度にあらず(鑑定人 村松常雄)。 【帝銀事件】昭和二十三年一月。  本件発生当時の被告人の精神状態は、大正十四年に受けた狂犬病予防注射によって起った脳疾患の影響による異常性格の状態で、その特徴は顕揚性ならびに発揚性精神病質に相当するもので、その最も前景に立つ現象は|欺瞞《ぎまん》虚言癖と空想性虚言癖である。ただしその程度は、自己を統御する能力のいちじるしく減退した状態といえるほど、高度のものではなかった(鑑定人 内村祐之、吉益脩夫)。 【金閣寺放火事件】昭和二十五年七月。  本件犯行当時およびその前後における、被告人林養賢の精神状態は、本鑑定期間ないしその平生と大差なく、軽度ではあるが性格異常を呈し、「分裂病質」と診断すべき状態にあったと推定される。本犯行は同症の部分現象たる、病的優越観念に発するものである(鑑定人 三浦百重)。  午後になって鑑定証言が再開された。物静かな証人が、ハッキリした口調で尋問に答えるのを、軍司は終始うつむいて聞いている。 検察官 被告人の知能係数が八十七ということですが。 鑑定人 いろいろな人を無作為に百人選んだばあい、八十七というのは、だいたい六十番目ぐらい。すし店の板前とか職人さんたちを百人集めたグループの中では、五十番目ぐらいです。この係数について私どもは、七十未満を精神薄弱、七十〜八十を精神薄弱境界域、八十以上を普通域と呼びます。 弁護人(落合) 川俣被告の鑑定にどれぐらい時間をかけましたか。 鑑定人 およそ三カ月です。ふつうはもっと長いが、今回は物理的に無理があった。しかし十分に鑑定しえたと思っている。 弁護人 覚醒剤の経験は二十五回と書いてあるが、これはどのようにして分ったのか。 鑑定人 本人から聞いた限りでは二十四、五回。注射痕では判断できなかったが、犯行直前……すくなくとも一カ月以内に使用していると考えざるをえない。 弁護人(木下) 鑑定書にある「興奮激情のもとでの犯行ではなく」という根拠は、警察での供述調書にもとづくわけですか。 鑑定人 はい、そうです。 弁護人 ところが本人は、先生からの問診に対して、「ヤケクソになった」「絶望した」「絶望して無我夢中になってやった」と述べている。これと先ほどのとはどう関連づけて解釈されたのか。 鑑定人 無我夢中という言葉があるが、我を忘れたような強い感情に支配されたのではないというふうに理解した。 弁護人 ここで別のページをみると「迫害者に対する怒りや|怨恨《えんこん》の感情の激しさが、この大量殺人の動機として重要だろう」とある。この「感情の激しさ」とは、興奮激情にあたるのではないか。 鑑定人 ここにいう「感情の激しさ」は、持続的な感情の強さをいっているのであり、ふつうの興奮とか激情は、一時的な怒りの発作のようなものです。本件のばあい俗にいう「カッとして」という状態ではない。 弁護人 すると「怒りや怨恨の感情の激しさ」というのは、激情とはちがうのか。 鑑定人 はい。 弁護人 一般に激情犯といわれている犯罪は、怒りや怨恨の感情が最高度に激したとき行なわれるといわれている。 鑑定人 それは言葉の問題と思う。本件犯行のばあいは、瞬間的にカッとした状態ではない。犯罪学のほうでは、おっしゃる状態を「熱情犯罪」という。そのばあいは、強い感情というか、熱情が一定期間持続して犯行に至るが、不眠とか、自傷行為とか、さまざまな熱情を示す症候がある。しかし本件のばあい、それを示す症候がなかった。 弁護人 それから先生は、「人質を取る前に何人かを殺傷することが、事件をテレビなどで報道させるために必要と考えていた」と書いておられるが、その根拠は? 鑑定人 私自身に対する供述と、前に引用した検事調書を総合して判断した。 弁護人 調書にはあっても、先生に対してそういうふうに述べていないんじゃないか。 鑑定人 問診所見にあるのは、私と本人のやりとりのごく一部であり、ここに記載しなくても、そのような発言はあった。 弁護人 しかし無我夢中の状態だとしたら、鑑定書にある「清明な意識下においてなした」と言えるだろうか。 鑑定人 はい、言えます。つまりヤケクソになったとき、意識障害を伴えば、その後に大幅な記憶障害を残す。行動そのものもまとまりがなく、周囲の状況を十分把握していないことがうかがえる。しかし本ケースのばあい、かなり詳細に記憶している。 弁護人 それでは精神状態について。「幻覚妄想状態」は、犯行のかなり前から? 鑑定人 本人の供述を信ずるなら、昭和五十二年の夏ごろからで、家族など第三者の供述を総合すると、五十四年の秋。つまり府中刑務所の第一回の出所のころから、幻覚妄想状態にあったと考えられる。 弁護人 こういう幻覚妄想によって、本人が受ける精神的苦痛とか、苦悩はどういうものなのか。 鑑定人 それはもう非常に深刻なものだろう。本人が強調するように、体験してみなければ分らない、つらいわずらわしい……。 弁護人 犯行の動機を、「迫害者と対決するために実行した」と考察されているが、これは推論なのか。 鑑定人 問診に対する供述はそうだが、鑑定当時も“黒幕”への怒りとか怨恨は持続しているから、こういう話題になると感情的になる。そこで私なりに要約すると、こうなります。 弁護人 迫害者に対決するための犯行なら、迫害者や手下に報復すべきなのに、無関係な通行人に対する犯行というのは? 鑑定人 ひとつは無関係な人間は、迫害者に対決する手段になる。 弁護人 そうすると、単なる手段としての犯行が、殺人までいったということになる。 鑑定人 論理的にいえばそうなるが、感情的には、そういうもの(迫害者)に対する怒りが、社会一般……幸福な家庭をもっている人々に対する怒りにすりかえられている部分がある。だから必ずしも論理的なものだけで行動が考えられるわけではなく、強い怒りや怨みの感情が動機として働いているのも事実である。 弁護人 怒りの感情が、自分を迫害している人間に直接に向かわないで、無関係な人間に向けられるという点から考えると、動機が了解不能になる。動機が考えられず、いわば妄想に直接支配されたとはみられないか。 鑑定人 本人の妄想から直接無関係な人間を殺すという結論にはならない。被害者の方々が、本人をあざ笑ったとか、変な目で見たということであれば、妄想から殺人がおこなわれたということになる。しかし本ケースでは、そうではない。本人は少しも言ってない。だから論理的には、あくまでも手段というふうに考える。 弁護人 それは論理的にいった、一つの推論と理解してよいですね。 鑑定人 まあ……推論です。 弁護人 そこで「殺害などにあたっても感情の動きが全くないのがむしろ異様なほどである」と書かれている。こういう無感動、情性欠如は、むしろ精神病の症状それ自体を示すとは考えられないか。 鑑定人 精神病のばあいにも情性が欠けることがあります。異常性格のばあいにも、感情の動きがないことがある。 弁護人 続いて鑑定書に、「この種の被害妄想や幻覚を体験することは、分裂病者であれ覚醒剤中毒者であれ、決して珍しいことではない。しかるにこの種の事件が稀であるのは、一面において規範意識によって、一面においては情性の抑制によって、被疑者のごとき計画や実行が阻止されるからである」と書かれている。本件においては、規範意識なり、情性による抑制が、なされなかったのか? 鑑定人 両方においてなされなかった。 弁護人 そういう抑制がなされなかったのは、一種の精神障害といってよいのか。 鑑定人 まず規範意識は、こういうことをしてはいけない、罰を受けるというブレーキだが、その強さは人によってちがう。被告人のばあいいろいろ前科前歴があり、もともと社会のルールを守ることに重きを置かない性格傾向がある。それからもう一つは、ブレーキが弱いのにアクセルが強いというか、動機が妄想や幻覚によって、強まっていたといえる。その両方が規範意識についてはある。それから情性に関しては、やはり人間的な感情の弱さが、もともとこの人にはある。このばあいも抑制に対して、動機による推進力が強かったことが、犯行に結果したと思う。 「川俣軍司に死刑なし?」の声は、深川界隈にひろがった。師走の森下町は活気に満ちており、惨劇のあった商店街にも、半年前をしのばせるものはない。ただ新大橋通りをはさんだ長慶寺には、被害者四人の名を刻んだ慰霊碑が建立され、お地蔵さんが乗っている。周りに花が絶えることなく、リンゴ、ミカン、|罐《かん》ジュースが、ところ狭しと供えてある。ローラースケートをはいた子どもたちが、水すましのように路上を行き交い、長慶寺を訪れる大人たちに問う。 「母子草を知ってる?」  それはレコードのことで、現場近くに住む詩人が作詞し、知人が作曲して、歌手小笠原勝が吹込んだという。  作詞桝井秀夫、作曲吹越通のレコード売上金は、供養塔の基金に|充《あ》てられる。  ——この詩は江東区森下の路上で無情の凶刃に散った若き母と二人のお子様の御霊に捧げます。  |倖《しあわせ》抱き 母と子が   優しき君の 待つ|家庭《にわ》に   急ぎし|路上《みち》に 襲い来ぬ   人の|運命《いのち》と 云い乍ら    あ……哀れ涙の 母子草  供養塔が建てられる予定の森下児童公園は、あの日軍司がベッドハウスを出て、電話をかけるため近道したところだ。  道行く人の 涙呼ぶ   |永遠《とわ》に語らん この無情   戻り来らぬ この世なら   手向けの花と 供々に    あ……香りて咲くや 母子草 [#改ページ]         4  昭和五十七年が明け、一月十四日には「証拠調べ」として、銚子市へ裁判長以下が出張した。銚子簡易裁判所の法廷を借りて、軍司の兄はじめ九人の証人から、供述を得るためだった。  本来ならば軍司の実兄は、弁護側の情状証人として東京地裁に出廷し、弟のために弁じるものとみられたが、「死んでも行かない」と拒否した。肉親もまた軍司の犯罪の被害者であり、世間の指弾を恐れて、妻の姓名を名乗るよう、法的手続きを済ませたばかりである。公開の法廷に出て、マスコミの取材攻勢にさらされるのは、同情に値いする。  そこで検察側証人として、非公開が原則の証拠調べに応じたのであり、兄は「たいへんなことをしてくれた」と法廷で嘆息した。ほかの八人は、水産会社や運送会社など、過去に軍司を雇用した関係者であり、「時間がルーズ」「魚を運ぶような力仕事を厭がる」「皆が気持わるがった」と酷評に終始した。  一月二十八日午前十時から、第四回目公判がおこなわれた。  証人として出廷したのは、逮捕後に一貫して取調べにあたった、警視庁捜査一課係長の警部平田富彦である。捜査一課では事件発生の直後から、ほとんど全員が深川へ出動して、『萬來』の周辺で待機した。警視庁の捜査一課には、「殺しの部屋」と呼ばれる係があり、その隣りに強盗と強姦、そして放火、業務上過失致死の係がある。「殺しの部屋」は大部屋だが、昔は小部屋に仕切られていたので、部屋長制度が残っている。部屋長といわれるのは古参の巡査部長級で、係長と捜査員の調整をはかる。 「殺しの係長」が証人として召喚されたのは、弁護人が証拠として提出した調書に、不同意したからである。その理由書を、冒頭に主任弁護人が朗読した。 「乙号証については、いずれも取調捜査官の誘導によるもので、その任意性を争う。すなわち乙号証において、犯行の動機、状況、被告人の心理状態が詳細に記載されている。しかし被告人は、鑑定人福島章作成の鑑定書および鑑定証言の結果で明らかなとおり、犯行前後において幻覚妄想状態にあったもので、かかる精神状態の被告人より、犯行の動機、犯行の状況、犯行時における心理状態について、任意かつ自発的な供述を得ることは、甚しく困難と言わざるを得ない。  しかるに以上の点についての供述調書の記載は、あたかも被告人の精神状態が、まったく通常人と同様にあったかにうかがわれるものであり、この点より右調書が取調捜査官の誘導によるものである疑いが多分に生じるものである。  しかも本件は、まったく無関係の通行人に対する殺人行為として、その動機は通常人に理解不可能であるにもかかわらず、供述調書の中には、すし店の経営者等に対する報復である旨の、理解可能な動機として記載されている。さらに犯行状況、犯行時の心理状態を、あまりに詳細に記載していることは、被告人の供述を、犯行結果および目撃者の供述等に合わせたとの疑いが推認される。  以上のような理由により、右供述調書が取調捜査官の誘導によって作成されたものであって、被告人の任意によるものでないことは明らかである」  このあと証人が入廷し宣誓をおこない、検察官による主尋問から始まった。 検察官 証人は、被告人川俣軍司を取調べたことがありますか。 証人 はい、あります。 検察官 逮捕以後ずっと取調べは、証人が担当したわけですか。 証人 はい。 検察官 調書を作成したのは証人だけですか。 証人 捜査一課の巡査部長が調書を作成し、その前に私が調べました。 検察官 初めの頃の調書は、“おれは何々したんだ”と言い、その後は“何々です”とていねい語になっていますが、これは何か理由がありますか。 証人 被告人の言葉づかいが、徐々にていねいになってきたので、それに合わせました。 検察官 いつごろから変ったんですか。 証人 逮捕から一週間ぐらいして、徐々に変りました。 検察官 事実関係等の取調べにあたって、事前に参考にされた資料等ありますか。 証人 それは医師の解剖所見……写真もありますし、警察官の立会状況なども参考に致しました。 検察官 目撃者の供述調書、あるいは逮捕後の実況検分等についてはどうですか。 証人 それも参考にしました。 検察官 調書作成後は、もちろん読み聞かせておりますね。 証人 はい。 検察官 五十六年六月二十一日付の供述調書には、「それとともに自分の要求を通すことは出来ないと思ったのだ」の二行を消してくれといって、削除の申し立ての記載がありますね。これは被告人がこういう申し立てをしたのですか。 証人 はい。私は被疑者を前にして調書を記載しておりますが、いちいち被疑者に見せております。自分の意にそぐわない状況が記載されると、ニュアンスが違うと申し立てますので書き直し、用紙を替えたことが二、三あります。 検察官 それから取調べを受けているあいだ、特に変った言動はありませんでしたか。 証人 ひとつ殺意を否認したことがございました。逮捕後数日たってから、「殺す意志はなかった、ただ夢中になってやった、オレが刺したからたまたま相手が死んだ」というような言いかたでした。ベッドハウスで失敗してはいけないと、包丁にサラシを巻いたのは、そういうことではない……と。 検察官 それで殺意については認めましたか。 証人 二時間ぐらい否認していましたが、殺意について認めました。 検察官 供述は自分から積極的に話すタイプでしたか。それとも取調官から水を向けたり、質問したら答えるタイプでしたか。 証人 どちらの場合もありました。ただ質問して全くしゃべらないことはなく、どちらかといえば|饒舌《じようぜつ》なほうでした。 検察官 犯行状況等について、かなり詳細な調書が作成されていますが、このあたり調書はどういう形で作成されたわけですか。 証人 被疑者の供述にもとづいて、「それからどういうふうに?」と聞くと、スラスラと話しましたし、自分の感情など時折話すこともありました。 検察官 証人の頭に入っていた目撃者供述、解剖状況とかを基にして、「こうではないか」と決めつけたことはありませんでしたか。 証人 決めつけたりしませんが、「こうじゃないか」と聞いたりして、「いやそれはこうだ」と強く主張すると、それを記載しております。 検察官 証拠と被告人の供述がずれている点も見受けられますか。 証人 私の記憶では、母子を刺した回数と部位の問題、それから目撃者供述の順番ですね。その点が違っていたように記憶します。 検察官 被告人は長野母子を刺した順番として、まず男の子を刺し、お母さんを刺し、それから女の子を刺し、最後にもう一度男の子を刺した。……そう供述しているのですが、目撃者の供述とは順番が違うということですか。 証人 目撃状況といいますのは、目撃者が相当居ますので、一部始終を一人の者が一連の行動として見てはおらず、それぞれが部分的に目撃していますので、総合的に判断したということです。 検察官 そうすると調書は、被告人の言うとおりに作成されているわけですね。 証人 はい。 検察官 動機に関しまして、被告人の言う|ひっつき《ヽヽヽヽ》の状態がかなり前からあり、簡単にいうとそれが原因で本件が起こったと、調書にありますけれども、動機について供述する被告人の態度はどうでしたか。 証人 非常に熱心に、供述していました。「分った」と言っても、まだ言い足りない様子で、ストップをかけなければ、いくらでも供述する状況でした。 検察官 最後は覚醒剤ですが、使用の有無について取調べたことがありますか。 証人 覚醒剤については四月二十一日の出所いらい、全く射っていない。シャブを使ってやるような、そういう生半可な気持ではなく、もっと真剣な気持で本件を敢行したんだと言っていました。 検察官 逮捕されて後に、被告人の尿から覚醒剤が検出された事実は知っていましたか。 証人 はい。 検察官 覚醒剤については執拗に喰いさがったわけですか。 証人 本件の取調べよりも、むしろ覚醒剤に関する調べのほうが長く、しかも苦労したところです。 検察官 被告人は終始一貫して、四月二十一日の出所後は射っていないという供述だったわけですか。 証人 はい。  この主尋問が終ると、次は弁護人による反対尋問である。「誘導尋問」とみなす弁護人との対決だから、証人の表情はにわかに硬くなった。その間も被告人は、被告席から斜めに裁判長を見上げ、身じろぎもしない。長い取調べですっかり馴染んだ警部とは、視線を合わせようとしなかった。 弁護人(落合) 本件犯行が昭和五十六年六月十七日におこなわれて、午後六時すぎに逮捕されたわけですが、それで深川署へ行って、その晩に取調べがなされたのですか。 証人 それは連行されまして二十分ぐらいは、なぜやったのかという下調べですね。 弁護人 その二十分ぐらい調べたとき、どういう状態だったですか。 証人 逮捕されたとき舌を噛んではいけないということで、ハシをはさまれていましたから、彼もモゴモゴ言っていましたので、連れて来た刑事にはずさせて、下調べしました。 弁護人 非常に錯乱しているように見えませんでしたか。 証人 錯乱しているようには見えませんでした。 弁護人 それは調書にしなかったのですか。 証人 しません。 弁護人 なぜですか。 証人 調書にしますと時間も長くなりますし、被疑者も疲れていると思って、翌日に調べるということで、動機だとか心理状態については、下調べという形で聞きました。 弁護人 翌六月十八日に、身上経歴、家族関係ならびに本件犯行状況についての概略の調書を作成していますが、これはどのくらいの時間で? 裁判長 ちょっと待ってください。いまお聞きになっているのは、同意している材料でしょう。ですから弁護人は、不同意の調書で任意性を争うのでしょうから、その点に限定しておたずねください。 弁護人 はい、注意します。……最初の取調べは六月十八日ですが、時間にしてどのくらいでしたか。 証人 これは十時頃から五、六時間調べました。 弁護人 本人は非常に、犯行時も幻覚妄想状態でおかしかったという鑑定が出ており、私どももそう思っているんですが、先ほど証人は「自発的にスラスラ供述していった」と言いましたが、それは間違いございませんか。 証人 はい。 弁護人 調書を見ますと一、二人の立会人が居ますね。これはなぜですか。 証人 公正を確保するという意味と、被疑者が何人も命を奪っていますし、凶暴だということも考えました。 弁護人 調書に立会人として記載されている人達だけですか。それとも他に? 証人 居りません。 弁護人 被告人が「取調べ中にもみ合ったことがある」と言っていますが、それはありませんか。 証人 ありません。ただ翌日、私にお茶をかけたことがあります。 弁護人 それはどうしてですか。 証人 「カツ丼を食べさせろ」と言いましたので、「食べさせない」と言いましたら、「何たることだ、オレはもうすぐ死ぬんだ」と、お茶をかけられました。 弁護人 証人がテーブルを叩いて、「こうだろ」「ああだろ」と再三言ったと聞いていますが、これはどうですか。 証人 ある程度はそういうこともありました。覚醒剤について鑑定で出ているのに、なぜ言わないんだ、というようなことです。 弁護人 それ以外にないですか。 証人 さきほど話しましたけれども、殺意を否認したときも、ある程度は声を荒げて調べたことがあります。 弁護人 その結果、そのとおりだということで、調書になっているのですか。 証人 はい。 弁護人(木下) 補足で一、二点聞きます。さきほど取調べのあいだに、殺意を否認したことがあるということですが、その内容は「夢中になって刺したんだ」と否認したということですか。 証人 夢中というか、「やるんだ、やるんだと刺した」と。「たまたまそれが死んだだけである」というような供述です。 弁護人 それ以前の供述とは、違うんですね? 証人 以前とは違います。 弁護人 以前ははっきり認めていたわけですね。 証人 それははっきり、調書にもしております。 弁護人 そうすると、否認とも受取れる供述を調書化されなかったのは、何か理由があるんですか。 証人 前の供述調書もありますし、意図的にそういうことを言うのは、ちょっとおかしいのではないかと、そのことを飛ばして追及しました。 弁護人 殺人、同未遂について、六月十八日と六月三十日に、動機とか状況について詳しく調書を取られていますね。その犯行動機などから、精神障害の疑いを持たれませんでしたか。 証人 殺人行為、人を殺す行為は正常では出来ませんので、殺人をするというのが異常だと私は思います。 弁護人 被告人の述べる動機は、十分了解出来ると考えていたわけでしょうか。 証人 それは分りませんね。 弁護人 六月十八日の調書では、犯行の動機については後で詳しく述べると書いてありますが、これは本人が言ったんでしょうか。 証人 動機の点がいちばん重要でしたので、被疑者がいろいろ喋っていましたけれども、ちょっと待てと。これはまとめて後から取ると、ストップさせたことはあります。 弁護人 そうするとそれが、六月三十日にまとめて調書化されたということですか。 証人 はい。  こうして反対尋問が終ると、こんどは裁判長が質問した。やや早口に、たたみかける調子である。 裁判長 さっき弁護人が「机を叩いたりしたことがありますか」と聞いたときに、「それはあります」と語気を強めて答えましたが、机を叩いたという点はどうですか。 証人 それはですね、もちろん叩きました。 裁判長 もちろん? 証人 いえ、もちろんと言うか、叩いたことは事実です。 裁判長 それはどういう状況ですか。机の叩きかたにも、いろいろあるでしょうから。 証人 ちょっと困りますが、注意を喚起するというか……。 裁判長 覚醒剤を射ったことを否認したので追及した、と言いましたね。尿を検査したところ、こういう結果が出たんだということも、話したのですか。 証人 はい。 裁判長 それでも射っていないと言ったわけですね。 証人 はい。 裁判長 それでは終りました。  証人が退廷すると、検察官が発言を求めた。 「ただいまの証人の証言にあったとおり、弁護人のいう誘導、ほかの証拠とのことさらの結合もうかがえませんので、被告人の供述調書二通を証拠として申請します」  これについて裁判長は、「何か意見がありますか」と弁護人に問いかけた。二人の弁護人は顔を見合わせ、すぐに答えた。 「ありません」 「それではすべて採用しますから、一部大切なやつを、朗読してください」  そこで検察官が、軍司の供述調書から、抜き出して朗読した。看守にはさまれて坐っている軍司は、依然として身じろぎもせず聞き入っていた。       *     *  水戸少年刑務所の頃に|ひっつかれ《ヽヽヽヽヽ》はじめて、それから府中刑務所を五十四年十一月十七日に出所してから、警備会社、すし店、機械の梱包、水産会社、三輪運輸などに勤務したけれども、いずれもひっつかれてやめてしまった。  そしてまた事件を起こして、五十五年十月四日から五十六年四月二十一日まで、府中刑務所で服役した。この間もずっと、ひっつかれどおしだった。出所して真面目に働こうと思って、七軒ぐらいのすし屋に就職したけれども、ひっつかれてやめさせられてしまった。  本件の動機の最大のものは、|ひっつかれた《ヽヽヽヽヽヽ》ことである。ひっつかれたというのは、いじめられたということです。異常なまでにしつこい、ひっつきなのです。ひっつく相手は、自分の勘では法務省とか刑務所関係の、上層部の役人だと思います。この役人が心理学者などを使い、ひっついてくるとしか思われないのです。  というのは自分に対するひっつきが始まったのは、水戸少年刑務所に入っている頃からなので、そう思うのです。なぜ役人が自分にひっつかなければならないのかを考えると、自分自身にもよく分らないけれども、それが運命なのだと思います。このように言うと、あの野郎はおかしいんじゃないか、気違いじゃないかと思われるかもしれませんが、自分はあくまでも正常で人並み以上の根性を持っていると思う。  ひっつきの内容は、耳から電波を送ってイライラさせたり、メソメソさせたり、ニヤニヤさせたり、不安にさせたりするとともに、男と女の声が録音されているテープを送って、自分をいらつかせたり不安がらせたりし、さらには自分が働いている店の主人に裏工作などしてクビにさせたりして、自分の親兄弟にまで手を回して他人と同じようにコソコソ言わせ、自分を不安がらせる|仕種《しぐさ》をするのです。  このようなひっつきをされたら、ふつうの人間なら一週間ももたずにダウンしてしまうが、自分は人並み以上の根性を持っているため、約四年半のあいだ耐えてきた。この苦しみを、ぜひとも分っていただきたいのです。  ひっつきが始まったのは、五十一年の暮れだったと思います。その頃はあまり強くなくて、腹の付近にへばりつくようなビリビリする妙な電波を送って、いらつかせる程度のものでした。それがだんだん強くなって、五十六年四月二十一日に刑務所を出てからは、昼夜の別なく一日中電波が耳の中へ送りこまれ、イライラしたくないのにイライラさせたり、不安でもないのに無理に不安にさせたり、|可笑《おか》しくもないのにニヤニヤさせたり、悲しくもないのにメソメソさせられ、自分は暮しに疲れたと思いながらも、なんとかして安定した生活を送りたい、そしてゆくゆくは女房を持ち、子どもも作って幸せに生活をしたいと、がんばってきたのです。  男と女の声を録音したテープが送りこまれるようになったのは、自分が田舎に帰ってしじみ掻き作業を始めるようになって三、四カ月たった五十二年夏頃だと思います。テープの内容は男の声で、「しじみ掻きはそんなに長くさせてやらない」とか、「刑務所へ送ってやる、仕事中に大ケガさせてやる」というような、くだらないものだったのです。それが昼だけならいいけれども、夜も流れてくるため、眠ることも出来ず苦しかったのです。それでもなんとか一年ぐらい頑張ったのですが、夜眠れないために体力的に参ってしまい、バカらしくなって、しじみ採りをやめてしまったのです。  府中刑務所に服役中は、テープの内容もだんだん異常になって、「同囚にケツを掘らせてやる」とか、「女装しろ、オカマになれ、刑務所を出てもすし屋なんかやらせないぞ」とか、電波と一緒になってテープの内容を想像させられたりして、イライラさせられました。これが夜も昼も続くので、死ぬような苦しみだったのです。  そして四月に出所してからは、さらにひどくなって、働いている先々にまでテープと電波が流れて来てクビにしたり、働こうと思って面接に行っても雇わせない裏工作をするようになり、最後は頼りにしていた父親や兄弟にまで手が回って、他人のような冷たい言葉を浴びせられたりしたのです。  今度の事件を起こした当日も、“寿司田”に採用を断わられてしまい、これも役人から圧力がかかっていたのです。ですから自分にひっついた役人がだれなのか、それを明らかにすること、こんなにひどい仕打ちをされ続けるのなら社会生活は出来ない、その責任をオレにひっついた役人と、オレをクビにしたこれまでの店の主人等に取らせること、さらに親兄弟までもオレにひっつくのが納得出来ないから、今回の事件を起こしたのです。  もちろん今回の事件については、電波やテープに指令されたのではなく、あくまでも自分の意志でやったことなのです。電波やテープと戦っていたのだから、指令される理由はありません。自分がやったことに間違いはないのだから、自分自身で責任を取ります。自分に刺し殺された主婦とか子どもに対しては、本当に可哀相なことをした、悪かったと思っています。  犯行当日は、泊まっていたタバコ屋ベッドハウスを出たその際に、カバンに包丁を入れて出た。それからパン屋のところにあった黄色の公衆電話で、“寿司田”に電話した。採用を断わられ、そのとき自分の一生はもう終ったと感じた。断わられた途端、オレの一生は終ったんだ、これも役人とグルになってオレにひっついている一般の人間とすし屋、それに親兄弟が悪い、オレの人生はもう終りだ、オレの人生に終止符を打とうと決意した。  自分が刑務所を出て、これからやっていけると思っている矢先に、ひっつかれてクビにされたことから、七軒のすし屋のうち二回目はどこをクビになったか忘れたけれども、終止符を打つときは女子どもを刺し殺して、これまで自分にひっついた黒幕をはっきりさせ、その黒幕に腹でも切らせようと考えた。もちろんオレも、女子どもを刺し殺した責任は取るつもりで居た。  電話を切って、側に置いておいた手提げバッグを持った時に、森下交差点のほうから女の人と、その側に女の子と、二人が歩いて来るのが目にとまった。「よし、これをやってやれ」と決心して、バッグの刺身包丁を手に握った。そして速度を速めて歩いて、その母子連れに、一直線に突き進んで行った。  距離が五メートルぐらいになったとき、バッグから包丁を持ち出した。そして乳母車に乗った男の子の、みぞおちのところに右手を突き出して、一気に一突きした。なんの抵抗もなく入った感じで、男の子は声を出さなかった。そして包丁を握り直して、刺した下のほうを、さらにもう一度刺した。このときも抵抗なく入った。  自分が男の子を一回刺したときに、母親と思われる女の人が、「ギャーッ」とものすごく高い声で悲鳴を上げ、その声は今でも耳にこびりついている。それから「助けて」と逃げる女の人を、追いかけて後から背中を一回突き刺した。女の人はよろけるように倒れた。  その後、女の子のほうに進んで、背中を続けざまに二回突き刺した。二回とも楽に突き刺さり、女の子はウンともスンとも言わずに、前かがみに倒れた。そのとき瞬間的に、男の子をもう一回刺して、トドメを刺さなければと思って乳母車のほうへ行き、男の子の胸のところを突き刺した。そのとき男の子が大人っぽい顔のゆがめかたをしたので、オレは「あれっ?」と思った。これは後で考えたことだが、この男の子は生きていて大きくなったら、しっかりした人間になると思った。  まだ刺す相手は居ないかと顔を上げたところ、交差点のほうから三十歳ぐらいの女の人が歩いて来るのが目についたので、これも腹を刺してやれと思い、すぐそちらへ行って腹部を一回突き刺した。その瞬間、女の人は「助けて!」と叫んだが、自分は無感動だった。刺したときは何か当ったような感じがした。  もっと刺してやろうと思って見たら、やはり交差点のほうから、七十歳ぐらいのおばあさんが歩いてくるのが見えた。すれ違いざま、左脇腹を刺した。その時は浅く刺さった感じだった。  そして森下交差点のほうへ歩いて行ったところ、左側のほうから三十歳ぐらいの女の人が、何事かな……という感じで出て来て、ちょうど自分と鉢合わせしたような感じになり、その瞬間「よし、これもやってやれ」と思い、腹部を右手で刺した。すると女は提げていた袋で払うようにした。刺したときはドスッと木片に当ったような気がしたので、おかしいと思って女を見ると、何もなかったように店の奥へ走り去った。包丁を見ると先のほうが欠けていたので、この女を刺したとき欠けたのかと思いながら、交差点のほうへ向かった。  交差点のほうから三十歳ぐらいの大柄な女の人が歩いてくるのが見えた。「よし、人質に取ってやれ」と思い、包丁を見せて女の人を捕えた。自分は刑務所を出て、あちこちのすし屋をクビになったとき、女子どもを刺したあと人質を取って立てこもり、自分にひっついた黒幕をはっきりさせたいと考えていたが、それが今回の事件で現実となった。  なぜ女子どもを刺し殺したかというと、自分が刑務所を出たならば、一所懸命働いて結婚して、女房や子どもを立派に養ってやろうと思い、その自信も十分にあったのだが、あっちこっちでひっつかれて出来なかった口惜しさがあった。これまでオレにくっついた、世間一般の人とすし屋、それと親兄弟、さらに黒幕に対して、「悪かった」と言わせるためには、女子どもを刺し殺すのが効果があると思ったからである。なのになぜ今回、おばあさんを刺したかというと、たまたまそこにおばあさんが居たからである。  人質に取った女の人を、殺す気はなかった。自分の要求を通そうと思っていたからだ。要求というのは、高級役人やすし屋を呼びつけて、テレビの画面に映したうえ、なんで裏工作をしたり、異様なほどコソコソしたのかを、はっきりさせたいと思ったからだ。  最初に役人を呼びつけて、白状させようと思ったが、来なかったらすし屋を呼びつけて、自分に対して裏工作をしているのは誰か、はっきりさせたかった。それとオレが殺そうとして、六人の女子どもを刺した責任を取らせようと思った。もちろんオレも、責任を取るつもりでいた。  人質を取って立てこもろうというのは、女子どもを刺す前から考えていた。捕えた女の人は何の抵抗もしなかったが、「助けて」と言ったので、「騒ぐな、脅しなんだ」と中華料理店の中へ入った。  店の中には三十四、五歳の男の人と、赤ん坊を抱いた女の人が、何事かなあという感じで立っていたので、捕えていた人を脅しながら、「表へ出ろ」と言ったら、びっくりして居間の横にある通路を通って逃げた。  その後、店の奥にある居間に上がりこんだ。窓が開いていたので女の|衿首《えりくび》をつかんで脅しながら、窓を閉めさせカギをかけた。まもなく女に対して、ガラス越しに男の声で何か言っているので、「うるさい騒ぐな、黙っていろ」と言ったら、その後声は聞えなくなった。  女に紙を持たせて、オレの要求を書けと言った。その内容は、「電波でオレにひっついている家族を、ここに連れて来い」というような書き出しで、すし屋の名前を書いた。警察官が来て、「奥さんに乱暴なんかしないでくれ」「何が欲しいか」「目的は何だ」と繰り返し聞くので、「うるさい、いま要求を書かせているんだ」と言い返してやった。  書き終って警察官に出そうとすると、女が「何かにくるんだほうがいいでしょう」と言うので、コタツの側にあったベビーパウダーに、要求書をくるんだ。すると女が、「何かで止めたほうがいいでしょう」というので、やけに落ち着いた変な女だなと思いながら、輪ゴムを見つけてくるんで投げた。警察官はガラス戸を二十センチぐらい開けて、強く手を差し入れるので、自分が拳銃で狙撃されてはまずいと思い、女を中腰に立たせて楯のようにして、自分の体を隠した。  それからテレビを、1チャンネルに換えた。なぜ1チャンネルにしたかというと、NHKなら自分のやったこと、やっていることを着実にニュースで流すと思ったからだ。立てこもって二十分ぐらいしてからニュースが始まって、アナウンサーが「萬來に立てこもって銀座の右翼の大物を呼んで来いと要求している」と喋っていた。  自分はニュースを見て、ある程度は成功したから、これから少なくとも三日ぐらい立てこもろうと思った。その後のニュースで、男の子と母親が死んだことを知った。それを見て女は、だんだん恐くなってきたのか、「命だけは助けてください」と泣きだしたので、「オレの言うとおりにすれば殺さない」と言ってやった。その後のニュースで、こんどは四人死んだことを知った。これが三時半頃だった。最初の四人は確かな手応えがあったので、「やっぱり四人死んだか」と思った。  午後一時のニュースから、三十分ぐらいたった頃だと思うが、冷たいものを飲みたくなったので、外に居た警察官に、「冷たい牛乳をジョッキに入れ、ワリバシと一緒に持って来い」と要求した。女に毒見をさせる前に、牛乳をかき混ぜるのにワリバシが必要であり、さらに三十分後に砥石を持って来いと要求した。これは先の欠けた包丁を、尖らせる必要があったからだ。 警察が相当来ているから、それに対抗するには、斬るより刺すほうが効果的で、早くやれると思った。砥石を要求してしばらくしてから、牛乳とワリバシが差し入れられた。女にワリバシでかき回させ、ジョッキの縁をぐるっと舌でなめさせて、二口ぐらい飲ませてから、自分が三口ぐらい飲んだ。あまりうまくないので、三分の一ぐらい残した。  それから砥石で、一時間ぐらいかけて包丁を研いだ。研いでいる途中、先が尖っているかどうか見るために、座蒲団を試しに刺した。テレビのニュースで四人が死んだことを知った三時半頃から少し過ぎて、お腹も空いてきたし、持久戦に備えて栄養を|摂《と》り、体力をつけなければと思い、カレーライスと大ジョッキ一杯のジュースを要求した。  カレーライスを要求したのは、カツ丼などだと肉の中に毒を注射される恐れがあるから、かき混ぜることが出来る物がいいと思ったからである。十分ぐらいしてカレー、その後十分して粒入りのジュースが大ジョッキで差し入れられた。しかし粒入りジュースは、粒の中に毒が注入されている恐れがあるから、粒入りでないジュースを要求した。  カレーライスの肉、タマネギ、ニンジン、福神漬などを女にワリバシを突っこんで取り除かせ、それをコタツの上にあった、コーヒーカップに入れさせた。皿のカレーは、よくかき混ぜさせたあと、毒見のため女に五口ぐらい食べさせてから、同じスプーンで自分が食べたが、まずかったので三分の一ぐらい残した。  その後二十分ぐらいして、ふつうのジュースが差し入れられたので、女に毒見をさせたあと自分が飲み、その後また女に飲ませた。底のほうに毒が|溜《た》まっていることも考えたからである。  昭和五十七年二月十二日午後一時から、第五回公判がおこなわれて、本人尋問だった。  弁護人は「心神喪失」を主張しており、福島鑑定の「幻覚妄想状態」との診断は不服である。したがって再鑑定を申請中で、裁判所は必要があるかどうかの判断材料として、本人尋問を決定した。  尋問は最初に弁護人がおこない、次に検察官、最後が裁判長だった。被告人はこれまでのように椅子にかけるのではなく、証言台に進み出て自分の意見を述べる。この日を待ちこがれていたかのように、張りのある声で応答した。 弁護人(落合) 昭和四十二年三月に中学を卒業して、東京の『栄寿司』というところに勤めましたね。 被告人 はい、そうです。 弁護人 三年ぐらいでやめていますが、何でやめたんですか。 被告人 仕事もだいたい憶えたし、店の従業員と多少いざこざがあり、店主の奥さんが私にやめてくれと……。 弁護人 あなたの勤務状態を見ていると、常にわずかな期間しか勤めないで転々としていますが、続かない理由があるのですか。 被告人 『栄寿司』をやめたのは若かったし、なんとなくやめたんです。 弁護人 あなたは飽きっぼい性格なのですか。 被告人 (黙して答えず) 弁護人 府中刑務所を出て、銚子の伝虎水産に勤めてからも、あちこち、わずかな期間でやめていますが、体の調子でも悪くてやめたのですか。 被告人 私はこう考えますが……やめさせられたんです。 弁護人 あなたの頭の中には、自分は一所懸命やっているのに、外部からグルになってやめさせられたという考えがあるわけですか。 被告人 私はそれに間違いないと思っています。 弁護人 具体的にはどういうことですか。 被告人 間違いなく外部から、電波で妨害されています。 弁護人 当時も思っていたし、今も思っているのですか。 被告人 はい。 弁護人 電波やテープは、水戸の刑務所に入っていた時に、初めて聞えるようになったのですか。 被告人 はい、そうです。 弁護人 刑務所に入っていたあいだに、同じように電波やテープで苦しめられた人達を見て、それから自分もおかしくなったと供述していますね。 被告人 それは府中刑務所です。 弁護人 水戸ではそういう経験をしなかったですか。 被告人 私は独房に入っていたので、他の人間のことは分りません。 弁護人 お兄さんに言わせると、水戸少年刑務所を出てから、ずっと人柄が変ったそうだが、あなたはどう思いますか。 被告人 私自身はそう思っていません。 弁護人 水戸の刑務所を出るときに、迎えに来てくれた親や兄弟に、つらく当っていますね。 被告人 そんな記憶はありません。 弁護人 日夜テープや電波で苦しめられているというけれども、過去の事件で裁判を受けているときも、同じ経験をしたのですか。 被告人 一晩も止まらずにありました。 弁護人 そういうことを裁判所に訴えたことはなかったのですか。 被告人 話していません。 弁護人 どうして話さなかったのですか。 被告人 私は死ぬ思いをしていましたが、まだなんとか日常生活をやっていく自信がありました。……それに話しても信じてもらえないと思いましたから。 弁護人 本件とは別にも、いろいろな間違いを六回やっていますね。なぜ繰り返すのですか。 被告人 私は人格的に一人でやっていく自信がなかったのです。私の考えが足りませんでした。 弁護人 一時故郷へ帰って、しじみ採りを長くやっていますね。その頃は相当収入が良く、月に百七十万円ぐらい稼いでいたわけですが、船を売却したり、しじみ採りの権利まで、兄弟に相談なく売ったのは、どうしてですか。 被告人 重労働で夜間は睡眠がとれないし、厭気がさして……。 弁護人 電波の妨害と、しじみ採りの権利を売るのとは、何か関係があるのですか。 被告人 その頃はあまり妨害はなかったのですが、睡眠が取れなくて、真面目にやるのがバカらしくなって……。 弁護人 今度の件で聞きますが、六月十七日朝にベッドハウスで、十時半頃に髭をそって出たと、あなたが警察で供述していますね。それから『寿司田』に採用されるかどうかを、電話しに行ったのですね。「もし断わられたらケジメをつけようと思った」と言っていますが、ケジメをつけるとはどういうことですか。 被告人 電波が相当ひどいし……。 弁護人 調書によれば、「高級役人とグルになって、世間一般の人間やすし店主や従業員や親兄弟に」とあるのが、どうも分らないのです。あれはどういう意味ですか。 被告人 言葉としてはそうですが、とにかく毎日電波が……。 弁護人 「『寿司田』に断わられたら、自分の生活に終止符を打とうと思った」と言っていますが、終止符を打つとはどういう意味ですか。 被告人 自分の人生を終らせてやろうと思ったのです。私は働く場所さえあれば、やっていく自信はあるのです。 弁護人 働き場もないし、生きてゆく勇気がないから、死んでしまうという意味ですか。 被告人 黒幕をあばいて死んでもいいと思ったのです。 弁護人 結果的に黒幕をあばくため、人質を取ってたてこもるというのは分るとしても、電話を終えて長野さん母子三人を刺し殺していますね。それは今、なぜ殺したか分りますか。  被告人 (黙して答えず) 弁護人 電話で断わられて、精神が錯乱状態になったということですか。 被告人 無我夢中でやった。 弁護人 何のためにやったか分りませんか。 被告人 電波の迫害があって、働く場所もなくて……。 弁護人 じゃあ人質をとってたてこもろうというのは、いつの時点で思ったのですか。 被告人 途中で……。 弁護人 警察の調書を読むと、ある程度は動機がはっきり書いてありますが、無理矢理言わせられたことはないですか。 被告人 無理矢理言わされたのなら、署名捺印しない。 弁護人 最後に読み聞かせてもらった範囲では、自分が言ってないことがあり、逆なことが書いてあったりは? 被告人 いちおう認めたんです。 弁護人 こないだ私が接見した時に、もみ合ったこともあると言いましたね。 被告人 一、二度あった。覚醒剤のところです。私は覚醒剤していませんから。 弁護人 もみ合ったというのは、どういうことですか。 被告人 刑事さんが私につかみかかってきた。私が注射していないのに、射ったと言って……。 弁護人 だれが手を出したの? 被告人 私です。刑事さんが「お前、真実を言え」とつかみかかったから……。 弁護人 その程度で、べつに殴られたということはないですね。 被告人 はい。 弁護人 覚醒剤のことですけど、あなたは、「昭和五十六年四月二十一日に府中刑務所を出てからは使っていない」と言っていますね。府中を出てから六月十七日までのあいだ、覚醒剤を使ったことは一度もないですか。 被告人 ありません。 弁護人 それが警察の調べでは、あなたの尿を検査したところ、覚醒剤を使った証拠が上っているという。 被告人 それは私の言っていることが真実です。検査して出たとすれば、私の食事中に覚醒剤の粉末がかかったと思うんです。 弁護人 そういうふうに作為的に証拠を作ったということですね。 被告人 覚醒剤の反応が出るのは、長くて五十日です。私は一年以上も射っていないから、反応が出たということが信じられない。だからそういう方法もあるのじゃないかと思うのです。 弁護人 最後に聞きますが、大変なことをやって、現在はどう思っていますか。 被告人 私一人が死ぬべきでした。被害者の方には申し訳ないと思っています。 弁護人 今でも電波やテープに、日夜ひっつかれているのですか。 被告人 はい。引続き同じです。 弁護人(木下) 電波やテープでいじめられたと言っていますが、その黒幕の張本人というのは、どういう人ですか。 被告人 それが分らないのです。 弁護人 調書を見ると、「女子どもを狙って殺してやろう」とか、「張本人を引きずり出すために効果的に人を刺してやろう」とか供述していますが、本当にそんなことを考えていたのですか。 被告人 (黙して答えず) 弁護人 そうすると、そういうふうなことまで、考えていなかったということ? 被告人 いや、考えていなかった時点で、私が最初の……絶望して……。 弁護人 絶望したから、人を刺すことになったの? 被告人 はい。 弁護人 それから、長野さんを刺す前にね、「失敗は出来ない」という気持になったと書いてますね。そういう気持はあったんですか。 被告人 そういうことは考えませんでした。 弁護人 いくら絶望したといっても、どうして人を刺したのか。原因は何だと思いますか。 被告人 異常な迫害に対して……私自身も分らないのです。そういうふうな職場への圧力とか、社会生活が出来ない。同じような……。 検察官 覚醒剤を使いはじめたのはいつ頃ですか。 被告人 昭和五十三年の……何月かは忘れました。 検察官 調書では三月になっていますね。 被告人 そのくらいだと思います。 検察官 あなたの弟さんの話では、五十二年の暮れ頃にあなたの部屋へ行ったときに、覚醒剤をやっていた形跡があるという。 被告人 早くても一月か二月で、五十三年に入ってからです。 検察官 覚醒剤を使ったときには、どういう状態になるんですか。 被告人 体が……軽くなって……。 検察官 食欲はどうですか。 被告人 食欲は変りません。 検察官 睡眠には影響ないか。 被告人 多少は影響ありました。 検察官 昨年四月二十一日に府中刑務所を出てから使ってないというけれど、捜査段階で使ったことがあると述べたことはありませんか。 被告人 あります。 検察官 それはなぜ、使ったことがあると? 被告人 刑事さんが……私に殴りかかってきて……それで、あのう……。 裁判長 もうちょっと大きい声で、どういうことか、はっきり言いなさい。聞えませんよ。 検察官 それは結局は撤回したのですか。 被告人 警察の……。 検察官 すし屋さんが証人として何人か来て、どなたかちょっと忘れましたが、あなたが食事中に苦しんで脂汗を流したと言った人が居ましたね。憶えていますか。 被告人 はい。 検察官 このときはどうして、こういうことになったのですか。 被告人 そのときは二日間ほど、食事をしていなくて……。 検察官 あなたはすし職人として、腕はいいほうだと思いますか。 被告人 同じ年齢の人間の中で腕はいいんですけども、刑務所を出てからはブランクを取り戻そうと努力しました。 検察官 それでブランクは取り戻せたと思いますか。それとも取り戻せなかったでしょうか。 被告人 やっぱり一年のブランクですから。 検察官 自分の客あつかいが悪いと思ったことはありませんか。 被告人 そういう不自然な状況にあれば、私も考えたと思いますが。それほど失礼をしたということはないと思います。 検察官 客あつかいは他の職人さんと同じだと思っているわけですね。 被告人 長いブランクで、ああいう職人は、ある程度……お店に入って仕事しないと、暮らせないという……。 検察官 あなた自身の腕が、ブランクがあったために多少劣っていた。また客あつかいが悪いからやめさせられたと。そういう理由は考えられませんか。 被告人 私の考えでは電波、テープの圧力から、計画的に解雇させられたと思います。 検察官 五十三年十月にホステスを傷つけて府中刑務所に入所していますが、このときすでに電波とかテープとかは、あったのですか。 被告人 ある程度は関係しています。 検察官 どういうふうに関係しているのですか。 被告人 ヤケな状態が続いていましたから。 検察官 相手のホステスに旦那が居ると分って、まあ簡単にいえば腹を立てたと。 被告人 ホステスを信用していたのに、旦那が居て|騙《だま》された。 検察官 そのことに腹を立てたのですね。この事件については、はっきり動機がある。 被告人 はい。 検察官 それと電波やテープと、どんな関係があるのですか。 被告人 私自身……その精神状態が……分りにくい。 検察官 今回の事件があったとき、『寿司田』に電話をかけて断わられ、自分の人生を終らせようと思ったと言いましたね。昨年四月に府中刑務所を出てから、自分の人生を終らせようと思ったのは、この時より前にはありませんでしたか。 被告人 最近考えついたことですが、相当いじめられていたので、もしなかったのなら……。 検察官 電波やテープは休みなしに聞えてくると言っていますが、今日ここで裁判を受けているときはどうですか。 被告人 はい、聞えません。……さほどではありません。 検察官 あなたの日記によると、法廷に出ている時は電波やテープが弱くなると書いてあります。それはなぜですか。 被告人 それはですね、ある程度ですね、自分自身が考えて流してもですね、法廷では届かない。 検察官 弁護人の質問に対して、今回の事件では自分が死ねばよかったと言いましたが、個々の被害者に対してはどう思っていますか。まず長野さんの二人の子どもに対しては、どういうふうに思っていますか。 被告人 (黙して答えず) 検察官 申し訳ないという気持ですか、簡単に言えば。 被告人 分りません。 検察官 じゃあ、亡くなられた二人の奥さんに対しては? 被告人 私が言いたいのはですね……。(以下、黙して答えず) 検察官 人質に取った被害者に対してはどうですか。 被告人 (黙して答えず) 裁判長 裁判官として少し聞きますけど、簡潔に答えてくださいね。 被告人 はい。 裁判長 いつも聞えてくるテープや電波は、どんな内容なのか。 被告人 個人のですか? 裁判長 テープや電波は今も聞えてくるんでしょう。その内容を言いなさい。 被告人 女と男の声です。いろいろあるんです。 裁判長 今も聞えているんですか、いないんですか。 被告人 はい、聞えています。内容はふだんと違います。 裁判長 ふだんはどういうことが聞えるのか。 被告人 ちょっと異常なことです。 裁判長 異常って……どういう異常なことなのか。 被告人 (黙して答えず) 裁判長 君が異常といっていることは、どういうこと? 被告人 ちょっと言いきれないです。 裁判長 なんで言いきれないの? 被告人 ちょっと異常なことです。 裁判長 異常、異常といって何が異常なのか、分るように説明しないと……。君はこれ以上の異常はないことをしたんだから、ここで体面をはばかるようなことはないはずだがね。 被告人 私の性格とまるで反対のことが聞えてくるんです。 裁判長 どういうようなこと? 被告人 ケツを犯すとか……。 裁判長 えっ? 被告人 ケツを動かせとか、そういう……。 裁判長 日記にも書いていますね。 被告人 はい。 裁判長 同じようなことばかりなのですか。 被告人 同じというか、微妙に違うことが、ずっと聞えるんです。 裁判長 検察庁でテープの内容を詳しく聞かれたとき、そのときは、そういうことじゃなく指示されたと答えていますね。|それ《ヽヽ》以外のことはないのですか。 被告人 ありますが、はっきり思い出せません。 裁判長 思い出せないというのは、それ以外のことはないということですか。 被告人 あります。 裁判長 あなたは異常な迫害と言っているわけですが、どういうことをもって迫害というのですか。 被告人 それは異常な言葉が、ずっと両方あるのです。 裁判長 そうすると電波の迫害というのは、中味はともかく電波が入ってくる……。 被告人 それが迫害です。 裁判長 中味は、特に君に対する肉体的ないろいろな、その他にはないのですね? 被告人 指示してくるのです。私に対する、異常きわまる……。 裁判長 そういう抽象的なことを言わないで、具体的にどういうことを指示してくるのかを聞いているのです。 被告人 (黙して答えず) 裁判長 そういう迫害に長いあいだ苦しめられ、追いつめられてこういう犯行をしたと言うんでしょう。 被告人 はい。 裁判長 だったらね、追いつめられるような内容があったんじゃないですか。 被告人 だからそれは、いま申しました。私の性格に反したそういう……メソメソさせたり、客の話しを……だらしなくさせようという、そういう感じのことなんです。それを混同させたり、連鎖的にずっと続くのです。……そういうことを想像させ、心理的に私を苦しめる。 裁判長 君に対して、被害者の人達を殺せという、電波の指令があったのですか。 被告人 人を|殺《あや》めるという、そういう声は聞えないのです。 裁判長 女性や通行人を殺せという指令はなかったのですね。 被告人 人を殺めるという電波の声は、しょっちゅうなのです。 裁判長 何のために人を殺めろと言ってくるんですかね。 被告人 分りません。 裁判長 分らない? 何のために人を殺めろと言ってくるんですかね。 被告人 分りません。 裁判長 事件の日にどんなことを思ったのですか。 被告人 一番最初に、自分の人生に終止符を打とうという気持になりました。 裁判長 じゃあテープとか電波が、なんで子どもさんを選んで殺せと言っているのでしょうね。 被告人 選んだということはないのです。 裁判長 だって通行人はたくさん居るのに、特に子どもさんを選ぶ必要はないでしょう。 被告人 あのう、そのときにですね。(以下、黙して答えず) 裁判長 通行人はたくさん居るんですからね。男の人も居るのに、特に女の人や子どもさんを選んだのは、理由があるわけでしょう。 被告人 私はそのとき、絶望しちゃいまして……。 裁判長 絶望はいいがね、子どもさんや女の人を殺さなければならない必然性はあるんですか。 被告人 通行していた人が被害者です。 裁判長 君は意識的に、そういう人を選んだのではないですか。 被告人 (大声で)違います。 裁判長 『萬來』に立てこもったとき人質に取ったのも女の人だが……。  被告人 そういう考えはありませんでした。 裁判長 人質なら男の人でもいいからね。御主人を人質にしてもよかったわけだ。 被告人 そういう……そういう、何ていうか……。(以下、黙して答えず) 裁判長 それからもう一点だけ。あなたは覚醒剤を、五十三年三月から九月にかけて射っていますね。 被告人 はい。 裁判長 その間、どのくらい射ちましたか。 被告人 (黙して答えず) 裁判長 パケにして? 被告人 十パケぐらいです。 裁判長 捜査段階で述べたパケ数と違いますね。 被告人 捜査のときは少ないです。 裁判長 何回射ちましたか。 被告人 二十五、六回射ちました。 裁判長 十パケと違いますか。 被告人 それは一包み……一パケで、何回か射てるわけですから。 裁判長 回数としては二十五、六回でいいわけですね、五十五年の三月に射ったのが最後と言っていますが、そうすると五十三年九月からだいぶあるんですが、その間は射っていないのですか。 被告人 射っていません。 裁判長 電波が聞え出したのと覚醒剤は、どっちが先ですか。 被告人 電波が先です。 裁判長 それからどれくらいして覚醒剤を射ったのですか。 被告人 一年です。一年以上は経っております。 裁判長 終ります。|退《さ》がってよろしい。  尋問が終ると裁判長は休廷を宜し、陪席判事と長いあいだ合議した。これは弁護側が要求している、精神鑑定のやりなおしであり、ようやく結論が出た。 「精神鑑定については、再度実施することにしました。ただし……」  弁護側が申請しているのは、東京医科歯科大教授の中田修、山上皓である。しかし上智大教授の福島章が、同じ大学の犯罪精神医学研究室に所属していた。中田は主任教授であり、山上はその下に居る。いずれにしても福島とは、師弟関係もしくは同じ門下生であり、好ましい人選とはいえない。 「したがって人選は、裁判所が独自におこないます。次回公判を二月二十五日として、それまでに決めますが、いかがですか?」  弁護人としては再鑑定が認められたのだから、異議はなかった。検察官としても、特に反対する理由はない。それぞれ手帳をめくり、二月二十五日に支障がないことを確かめて閉廷になった。 [#改ページ]         5  昭和五十七年二月二十五日午後一時から、第六回公判がおこなわれた。  裁判所が精神鑑定を委嘱したのは、帝京大精神科教授・風祭元で、さっそく出廷して証人宣誓し、経歴など尋問を受けた。風祭は昭和九年生まれで、三十三年に東大医学部を卒業して、東大精神科、関東中央病院、東大保健センターを経て、四十七年から帝京大教授である。  かつて風祭は、東大医学部精神医学教室の主任教授・秋元波留夫の助手として、「杉並通り魔事件」の被告人を精神鑑定している。 「杉並通り魔事件」は、昭和三十八年三月から三十九年十月にかけて起こったもので、六歳から十四歳の男児十一人が、次々に襲われた。犯行の手口は、通りすがりの男の子を縛って、刃物で切り裂く。顔や腹部だけでなく、男根をも切断する猟奇的なもので、逮捕されたのは杉並区に住む都立高校二年生だった。事件が社会的反響を呼ぶにつれて、被害者の自宅や警察、新聞社に投書するなど、少年は自らの犯行を誇示し、学校ではふつうの生徒として過ごしていた。  逮捕された少年は、四十年二月に起訴され、東京地裁は五月に慶大医学部教授・三浦岱栄に、精神鑑定を依嘱した。この三浦鑑定は、「犯行当時における被告人の精神状態は、精神分裂病の周辺群である類破瓜病に罹患していた」というもので、心神耗弱状態との診断だった。  しかし裁判所は秋元波留夫に再鑑定を命じ、四十年十二月に被告人を東大付属病院に入院させ、四十一年三月に鑑定書が作成された。  被告人は無情性、自閉性、粘着性、自己顕示欲性、嗜虐性等の傾向を主徴とする精神病質者である。知能は正常で、精神病的症状や意識障害は認められない。  昭和三十八年三月より昭和三十九年十月にいたる被告人の犯行時においても、右の状態以外に、とくに付加すべき異常な状態にあったという確証はない。  この秋元・風祭鑑定を積極的に採用して、四十一年八月の東京地裁判決は「責任能力あり」と、懲役三年以上四年以下の不定期刑を言い渡している。 「鑑定には、三、四カ月を要する見込みですので、次回期日は追って決定するものとします」  わずか三十分足らずで閉廷したが、風祭鑑定はいかなる意味をもつのか。鑑定人は足早に立ち去ったが、両弁護人は閉廷後にインタビューに応じた。  ——新しい鑑定人はいかがですか。 「本来、裁判所の権限だからね。こっちは希望をいうだけです」  ——再鑑定の意味は? 「いやいや、これがふつうの鑑定です。福島教授のものは、起訴前鑑定だからね。こっちが申請するしないにかかわらず、これだけの事件だから、裁判所は精神鑑定をするでしょう」  ——弁護側の鑑定申請は、いつ出されたんですか。 「一月二十八日の第四回公判です。したがって弁護側の申し立てにより、裁判所が鑑定を採用したということになる」  ——福島鑑定は“心神耗弱”と断定しているんですか。 「それはしていないね。両方に読める。だから新聞には、“限定的な責任能力を認めた”と書くところもあれば、別な見かたをするところもある。福島鑑定には“本件犯行当時の被疑者の精神状態は、自分の行為の是非善悪を弁識する能力と、その弁識能力に従って行為を制御する能力が、幻覚妄想体験によって著しく低下していたと考えられるが……”とあって、“人格の解体、分別の喪失、知能の低下、意識の障害などはなく、右の二つの能力は完全に喪失したとは思わない”と続く。これをどう読むかです」  ——心神耗弱と読めますね。 「素直に読めば、限定的に喪失して心神耗弱という意味でしょう」  ——弁護側としては、それがはっきりすればいいわけでしょう。 「いやいや、心神喪失です。われわれは責任能力なしを主張して、被告人の精神鑑定を申請したんだから」  ——しかし風祭鑑定で、“心神耗弱とは認められず完全責任能力あり”と出る可能性はありませんか。 「むろん考えられる。それが恐ろしいところでしてね。民事だったら、福島鑑定でいい線をいってるから和解でしょう。ところが刑事事件は、そうはいかない。弁護人として望むところを主張して、逆の鑑定が出ればヤブヘビになる。恐ろしいのはそこですが、いずれにせよ裁判所は、弁護人が申請しなくても、職権で精神鑑定したでしょう」  ——覚醒剤については、どうなんでしょう。 「福島鑑定では、“使っていたとすれば、理論的には非常に説明しやすい”というけれど、本人が否定しているでしょう。だから二段構えの鑑定書になっている」  ——弁護側はどう主張されるのですか。 「科学的にいうと、科捜研の鑑定書が出ているからね。だからちょっと、一般的には争えない。本人が言うように、食事のとき取調官が入れたというのが、立証出来れば別だけれども、それは不可能でしょう」  ——覚醒剤を使用したか使用しなかったかが、判決にどう影響するか、川俣が読んでいるんですかね。 「“覚醒剤をやったうえでの殺人なら死刑になる”と読んで否定していると? 逆にあなた達に聞きたいんだけど、本人がしらばっくれてああいう態度をとっているように見えますか」  ——何とも言えません。ちょっと臭い演技にも見えるし……。 「だけど福島さんは、絶対に演技じゃないと言っている。川俣という男は、ああいう風に見える損な性分なんですね。ぼくらは十数回の接見で、動機ばかり聞いている。まさか“しらばっくれているんじゃないか”とは聞けないから」  ——接見のときの態度はどうですか。 「まあ普段なら、あんまり……話したいと思う人間じゃないですね」  ——被害者に対して、本当に申し訳ないと思っているんでしょうか。 「そのへんが微妙なところだけれども、これから公判も続くことだし、今日はこのへんで勘弁してください」  被告人は第五回公判のとき、弁護人の質問に対しては「被害者に申し訳ない」と答え、その直後に検察官が同じ質問をすると、「分らない」と答えた。裁判の争点は、責任能力にしぼられるだけに、弁護人としては正常人のような応答に、当惑した様子だった。  ともあれ軍司は、帝京大付属病院に鑑定入院して、「精神・身体を精査」される。この精神鑑定について、わが国の最高権威とされる内村祐之(東大精神医学教室主任教授、松沢病院長、国立精神衛生研究所長、財団法人神経研究所長等を歴任)は、かつて次のように書いた。  ——裁判の正確さを期するにあたり、精神医学の知識と経験とが、しばしば非常に重要であることは、文化国家において、古くから、裁判精神医学という特別な専門分科が確立していることから明らかである。のみならず、その重要性は時代と共に認識されつつある。   この分野の受持つ領域は多岐にわたるが、その要とするところは、精神医学の専門知識をもって、裁判をも含めた司法行政の科学性に寄与しようというところにある。そしてそれらの中で精神鑑定は、精神医学の専攻者が最もしばしば関与する義務である。   精神鑑定にもさまざまの場合があるが、日常圧倒的に多いのは、刑事事件の被告人が、事件を起こした当時と、現在すなわち裁判時とに示す精神状態の鑑定である。事件当時被告人が、自己の行為に対して責任をもち得る精神状態にあったか否か、また裁判に当って正常な答弁能力をもっているか否か、これらの判定に資するために、裁判所は専門の鑑定人の意見を徴するわけである。   われわれの永年の経験によると、特長のある精神異常のゆえに、専門家としてはきわめて鑑定の容易なものもあるが、そのような場合はむしろ稀で、多くの場合、鑑定は非常に困難である。時によると、二人以上の鑑定人の意見が食い違うようなこともある。つまり、裁判所が明瞭を期し得ないような精神状態は、専門家にとっても問題がある場合が多いわけである。   このような事情からも推測されるように、鑑定人は鑑定のために実に大きな努力と苦心とを払う。精神鑑定書はそれ故に、鑑定人の苦心の結晶であるばかりでなく、時には重要な学術論文たるにふさわしい内容さえ具えている。(みすず書房刊『日本の精神鑑定』から)  七月十六日午後一時から、第七回公判がおこなわれたが、裁判長が交替した。審理を引継いだのは、最高裁調査官をしていた佐藤文哉である。佐藤は昭和十一年二月生まれで、三十二年に司法試験合格、三十五年東京地家裁判事補になり、秋田地家裁、仙台高裁秋田支部、旭川地家裁を経て、四十九年東京地裁判事、五十二年四月から最高裁調査官をつとめていた。  刑事訴訟法第三一五条によれば、裁判官が交替すれば公判手続きを更新しなければならない。すなわち検察官に犯罪事実の要点を述べさせ、被告人と弁護人に意見を述べる機会を与えるなどの手続きだが、異議がなければ一部または全部を省略出来る。 「しかるべく……」  検察官、弁護人に異議がなく、交替はスムーズになされて、鑑定主文が朗読された。 (一)被告人川俣軍司は、爆発性、情性欠如性、意志欠如性、自己顕示性、自信欠如性(敏感性)などを主徴とする異常性格者である。 (二)本件犯行時、被告人は、右に示した異常性格を基盤とした心因性妄想に、覚醒剤連用の影響が加わって起った幻覚妄想状態にあった。     右の通り鑑定する。 [#地付き]鑑定人 帝京大学医学部教授 医師・医学博士 風祭 元  八月二十五日午前十時から、第八回公判がおこなわれた。  出廷したのは精神鑑定人の風祭元で、「鑑定書」をめぐって最初に弁護人が、福島鑑定人との相違点から尋問をはじめた。午後からは、逮捕後に覚醒剤を検出したとする、警視庁科捜研の係官が証言する予定である。 弁護人(落合) 福島鑑定では、脳障害を示す所見として、バヨネットフィンガーの異常を挙げていますが、証人の鑑定は逆ですね。 証人 バヨネットフィンガーの所見は確かに陽性ですが、これが本当に脳の障害を示すかどうか、私は確信がもてない。今の学会で誰もが認める所見とは言えませんので、一般的・医学的全体の結論として述べました。 弁護人 もうひとつ福島鑑定では、脳波の左右のバランスがとれていない点を、病的所見として挙げてあります。 証人 右と左が全く同じ形状をしているのは、いわば理想的な形状でありますが、人間の顔でも右と左が多少違っていても決して異常といえないように、脳波の所見で左右の振幅があるのは、正常人でも同様です。福島鑑定の脳波記録は私も借用しました。しかし拝見したところ、軽い左右差はあるけれども、私は正常と判断します。 弁護人 先生がやった脳波記録でも左右差は出ているが、福島鑑定時にくらべて、差が少なくなっているわけですか。 証人 はい、そうです。 弁護人 脳波の記録を読み取るのは、一般の精神医学者の誰もが出来るのでしょうか。 証人 ある程度は専門化していますから、精神科の医者が、誰でも正しく判読出来るものではありません。 弁護人 先生のばあいはいかがですか。 証人 私はいちおう臨床の専門家で、脳波の判読をいたしております。 弁護人 心理検査所見の結果は、ほとんど同じわけですが、検査方法が若干違いますね。その方法は鑑定人の自由なのでしょうか。 証人 要するに鑑定人が決めます。しかし全くの自由勝手という意味でないと、御理解いただきたい。 弁護人 その方法の取捨選択によって、結論が異なることはありませんか。 証人 心理検査というのは主に知能の判断、性格の判断、ばあいによっては精神分裂病の判断という目的をもって、検査の項目を選びます。もちろん理論的にいちばん良いテストを参考にしますが、実際の担当者によって個人差があります。今回のばあい私どもは短期間ですけれども、五日間の鑑定をいたしましたので、その間に出来るだけ検査するよう、実際的な条件を考慮して、私が項目を選びました。心理検査の担当者が被告人と相対して検査する方法は、この中にもいくつかございまして、その他は被告人が入院中に、夕方とか暇なときに自己記述する方法なども考えました。結論についてはあくまでも、鑑定人の意見が入っています。 弁護人 覚醒剤使用との関係についてお尋ねしますが、鑑定書三十五ページに、被告人の右手の肘窩部の静脈に沿って覚醒剤の注射痕があると記述されています。これは先生が見られて、はっきり分る跡なんですか。 証人 それは被告人が、そういう風に述べたことでありまして、鑑定時には犯行から半年以上経っており、言われてよく確かめてみると、あるかなあ……という程度です。 弁護人 被告人から指摘されなければ、見過ごしてしまう程度ですか。 証人 その程度です。 弁護人 覚醒剤一回の使用によって、中枢神経の刺戟症状が見られるという記述がありますね。具体的にどういう症状でしょうか。 証人 先ず睡気がさめてすっきりして、夜眠ろうと思っても眠れない。これは気持の良い症状ですね。それにばあいによっては、いらいらして周りのことに必要以上に敏感になる。それから怒りやすくなり、悲しくなり、泣いたり笑ったり、感情の反応が強くなる症状が見られます。 弁護人 次に長期間の使用により精神分裂病類似の症状が見られる、という記載がございますが。 証人 分裂病というのは、患者さんが自分で訴える主観的な症状、それから他人が見て分る客観的な症状があります。覚醒剤のばあいは、一般的に見られるのは主観的な症状で、具体的には幻覚妄想です。誰も言うはずがないのに他人の声が聞えたり、自分の考えていることが声になったり、他人が自分のことを変な目で見たり、自分をいじめたりすると思う。主に自分に対して迫害的なことがあるような妄想、あるいは周りの人の気分が今までとは違って見えるような妄想……。ひとことで言えば、幻覚妄想状態になるというようなことです。 弁護人 そうすると精神分裂病の基本障害については、思考障害があるとか意欲障害があるとか感情障害があるとか言われていますが、覚醒剤のばあいは出て来ない? 証人 それは学者によって、多少意見が違うんです。私の意見では覚醒剤中毒に見られる精神病様の症状というのは、精神分裂病に見られる主観的な思考障害が出て来ます。 弁護人 そうすると分裂病の基本障害も出るんですね。 証人 主観的な症状は区別出来ないと、鑑定書にも書いております。 弁護人 その他の点はどうですか。 証人 例えば感情的な接触経路が損われて自閉的になるとか意欲面の障害と、対人感情の障害があって区別出来ない。 弁護人 そうすると思考障害が認められるわけですか。 証人 分裂病に見られる思考障害には、二種類あります。先ず思考の内容の障害は、妄想が主です。もうひとつは思考の体験のしかたの障害で、これは正常人には分りにくい。考えるということは、自分が考えるのでありまして、他人に考えさせられるとか、他人に動かされないのが当り前です。しかしこの障害があれば、自分が考えるのではなく、他人に考えさせられる。自分が笑いたくなくても、泣きたくなくても、他人に動かされていると考えます。 弁護人 「思考の内容の障害」と「思考の体験のしかたの障害」と、両方について精神分裂病様の症状が出てくるわけですか。 証人 福島鑑定では、内容のありかたについてもある程度区別が出来ると記載されていると思いますが、私はふつうの臨床的なレベル……医者が患者さんを診察治療するレベルでは、ほとんど区別出来ないと思います。 弁護人 そうすると分裂病とどこが違うのですか。 証人 分裂病にはいろいろなタイプがありますが、幻覚妄想を主とする妄想型の分裂病にはある程度時間が経ちますと、人と会うのが厭になったり自閉的になったりする意欲面の障害と、対人関係の面で周囲の事柄に鈍感になってしまう。もう一つは思考の面で、妄想幻覚以外でも長く病気が続いてきますと、支離滅裂とまでいかなくても、話のつながりが悪くなる症状が出て来る。 弁護人 被告人のばあいは、意欲障害も感情障害も認められないということですか。 証人 全然とは言えませんが、まあ概して、分裂病と見られる程度には認められません。 弁護人 臨床例として、昭和二十二年から三十年までに、都立松沢病院に入院した覚醒剤中毒者百七十名のうち、二年以上にわたり精神病状態が続いている者が十九名と書いてあります。被告人は五十六年四月二十一日に、二回目の府中刑務所を出所した後の、覚醒剤の使用を強く否定しているわけです。しかし一方では、覚醒剤を使用したというデータが出ており、鑑定人は覚醒剤を使ったという前提で鑑定をしておられる。被告人が五十六年四月以降使っていなかったとしても、前に二回ほど使用した時期があると認めている。二回目は五十四年十一月から五十五年七月ぐらいというのですが、その点から症状が二年続いていたと見ることは出来ませんか。 証人 質問に誤解がありまして、府中刑務所を出所後に被告人が覚醒剤を使ったかどうか、分らないわけです。それを前提に鑑定をしたわけではありません。 弁護人 しかし六十四ページに、そのようなことが書いてあります。 証人 こういうふうに考えるのが、いろいろ矛盾するものを解釈するのに、いちばん妥当であろうという、鑑定人の意見なのです。むしろ私としては、覚醒剤の使用いかんにかかわらず、五十四年と五十五年に使用して以後、ずっと精神病的な状態が続いていたと考えています。 弁護人 そうすると昨年刑務所を出たあと、仮に使っていなくても、精神病類似の状態が続いており、本件犯行がおこなわれたということになりますか。 証人 はい。 弁護人 それから被告人には、様々な精神病様状態のあることが、AからFまで書いてありますね。 証人 Bの幻覚妄想状態回帰型というのは、いわゆる「フラッシュバック」です。以前に覚醒剤をある期間使用したあと、全く覚醒剤を使用していなくても、ほんの少量使用したり、アルコールを飲んだり、ストレスがたまったりという状態で、一過性に幻覚妄想が表われてくる。Cの挿間性の幻覚型というのは、覚醒剤を使用しなくても、繰り返し起こる一過性の幻聴が昂まる状態です。Fの一般的な反応というのは、いわゆる急性中毒で、注射したあと一時的に症状が強くなる幻覚症状です。問題はEの不安状況型反応ですが、これは本人が追いつめられたような精神状態にあったときに、覚醒剤による幻覚妄想状態が基盤にあって、一種の心因反応が起こるのをさします。 弁護人 本件のばあいは、Eの不安状況型反応が、あてはまるわけでございますね。そこで三十五ページには、本人が訴える異常体験はきわめて誇張的な面があると記載されていますが、どうして誇張的だと分るんですか。 証人 それは私の主観的な判断ですけれども、一つは被告人が在監中につけている手記の表現が、「強烈に」とか「筆舌に尽しがたい」とか、強い形容詞を使って一様に書いてあるわけです。まとめて“幻覚妄想”と言いますが、妄想というのは頭の中で考えることですから、ばあいによっては私どもでも考える内容のことです。幻覚というのは、実際の知覚が伴いますから、非常につらいことです。そういう状態がずっと続いていたと、被告人が強い幻覚を訴えても、精神科の医者の判断としては、その通りだとは思えないということです。 弁護人 先生の臨床的な経験によれば、被告人のような強い訴えがあったのなら、それに対抗する手段を講じようとして、他人に奇異な行動として気づかれる仕種をしているはずだと書いてあります。この点、被告人の言葉を借りれば、「寸刻の休みもなく迫害があるのに対抗手段を講じないのは、自分が我慢しているからで、迫害は誇張でも何でもない、本来の気性からじっとこらえている、こらえていなければ刑務所で暴れたり、第二の犯罪が起こる素地もあるけれども、自分が我慢してきた」となるのですが、それはどういうふうに考えますか。 証人 そうかもしれませんが、現在のことではなくて、むしろ病気の初めの時期、昭和五十一年から五十三年ごろの問題で、現在の拘置されている状況は、自分の意志で自由に動くことが許されておらず、具体的には日常の会話にしても、彼の言うような幻覚があるとは見えず総合的に判断しました。 弁護人(木下) 心理所見について、「これらのことから誘発的ストレス状況の下で精神病状態が発生する可能性もある」とお書きになっていますが、精神病状態とは、精神病と同じに考えてよいのでしょうか。 証人 そのとおりに御理解ください。 弁護人 ふつう広く言われている精神障害と思っていいのですね。 証人 ちょっと違います。精神障害というのは非常に広い概念で、精神病状態はどちらかといえば、精神分裂病に似た状態というふうに御理解いただきたい。 弁護人 それでは鑑定主文にいう「異常性格」は、五十九ページの「精神病質」と同じことなのでしょうか。 証人 これは学会でも問題になっていることですが、「異常性格」というのは、通常からかけはなれた性格で、価値判断をふくみません。極端にいえば、理想的に良い性格も、ふつうにくらべると、まあ異常性格。それから「精神病質」は、主にドイツの学者が使う言葉で、価値判断の入った異常性格の一群という考えかたです。ここに書いてあるように、異常性格があって自分が困るとか、周囲の人が困るという異常性格の類型を、精神病質と名付けて呼びます。ですから「精神病質」という言葉は、「精神病」とまぎらわしく、先天的にきまりきったものという誤解が生じやすい。そういう批判がありまして、精神病質という言葉を使わず、もうすこし広い概念で性格の異常をあらわす傾向があって、「異常性格」としました。 弁護人 五十九ページに「幼児期に軽度の全般的脳障害が存在した可能性もあることが被告人の異常性格の形成に関連していると考えられる」と書いてありますが、この異常性格の基礎には脳障害があるという前提に立たれるわけでしょうか。 証人 性格というのは、だいたい青春期になって出来上がった、その人の行動的な特徴のパターンでありますが、生まれつきの気質といいますか親から伝えられた性格の傾向、小さい時分の生物学的な障害、教育のしかた、社会一般の環境などが、性格の形成に影響すると考えます。その中のひとつとして被告人の場合は、小さなとき熱ケイレンを起こしていること、あまり異常とは思えないと申しましたが脳波の所見などを総合して考えると、ある程度は小さなとき脳障害があったことを表わしている可能性も否定出来ない。そういう生物学的なことも一つの要因でありますが、それが全部ではないという意味です。 弁護人 福島鑑定では「偏執型」という表現を何回も用いていますが、先生の鑑定書にはそういう言葉がない。これは理由があるのでしょうか。 証人 私の理解するところでは、「偏執型」というのはドイツのクレペリンが提唱した概念で、それまで性格の障害がバラバラにあったのを、ああいう形でまとめたならば、犯罪を犯す性格の特徴が説明しやすくなるという提唱かと思います。しかし現在の精神医学全般の知識の中では市民権を得ていないというか、精神医学者のだれもが知っている概念ではない。私もあちこちで勉強しましたが、不勉強もありまして、それにあてはまるかどうか自信がなく、鑑定書には書いておりません。 弁護人 被告人の責任能力という点ですが、典型的な精神分裂病のばあいは、責任無能力といわれています。それが異常性格のばあいは、刑事責任能力はどういうふうになると考えておられますか。 証人 責任能力の判定は、あくまでも刑事政策的な概念をふくめて、法律家の判断にゆだねるべきであり、精神医学者は判断すべきでないと考えます。精神鑑定は、責任能力を鑑定医が判断するのではなく、その基盤になっている病的な状態を、精神医学的な考察をもって鑑定するということを、申しあげておきます。……そのことを踏まえて申しますと、性格の異常だけというのは、いちおう完全責任能力を科していいと考えています。 弁護人 六十六ぺージに、「被告人の人格の変容は、それほど大きいものではなく、この状況をより合法的な方法によって、克服出来ることが期待出来た」とありますが、「より合理的な方法」で被害的状況を回避するという点は、具体的にはどういう? 証人 その時の被告人の状況というのは、自分の病的な判断によって、すべての就職先から黒幕の力により疎外されているから、今晩泊まるところもないという思いこみです。しかし稼動能力は、その時点ではあったと理解出来る。さらに住所不定ではありますが、厚生施設なりに窮状を訴えれば、現在の状況を回避出来る。 弁護人 一般の正常人が考えれば、そういう方向は可能だったかもしれませんが。まさに被告人のばあいは精神障害によって、そのような方向を選べなかったのではないですか。 証人 私は出来なかったとは考えない。というのはその前に、数日間なりとしても、あるばあいは成功している。だから期待出来たであろうと、鑑定人が考えた意見です。 弁護人 次に六十七ページに、「右に述べたことを総合的に考察すると、本件犯行時に自己の行為の理非善悪を弁識し、その弁識に従って自己の行為を制御する被告人の能力は、正常人に比して低下していたが、完全に喪失していた状態にあったとはいえない」と記載されています。その低下していた程度ですが。 証人 周囲の状態を正しく理解したうえで、自分たちの行動を決めるのが、正常人のふつうのパターンです。被告人のばあいは、周囲を認識する仕方が、正常人に比して衰えていた。つまり実際には、そんなに被害的でないことを、すべて被害的であると受けとめているわけで、行動の基盤になる周囲の環境の理解ということが、低下していた。もう一つは弁識自体が、少し病的に|歪《ゆが》められていた。したがって行動を抑制すること、つまり非道徳的なこと、犯罪的なことを抑制する能力自体は、むしろ覚醒剤中毒よりも、もともと被告人が持っている性格によっていると考えられ、その能力が低下していたとは言えない。  午後からは、警視庁科学捜査研究所の係官が、軍司の尿から覚醒剤を検出した経過について証言する。  マスコミは事件発生と同時に、覚醒剤中毒患者による犯行との疑いをもって報道した。それは二日目の警視庁発表で、裏付けられた形になっている。  ——東京・深川の商店街で十七日起きた通り魔事件を調べている警視庁・深川署の捜査本部は十八日、川俣軍司の血液と尿を調べた結果、犯行の二、三日以内に使用したとみられる、はっきりした覚醒剤反応が検出された。川俣は覚醒剤について「かつては常用したが、それ以後は使用していない」と主張していた。しかし、検査の結果、使用がはっきりしたことにより、覚醒剤が川俣の今回の異常な犯行の引き金になった疑いがさらに強まったとして、捜査本部は覚醒剤の入手経路や使用状況を追及している。  捜査本部は、川俣が「水戸少年刑務所出所後の四十九年十月から府中刑務所に服役した五十五年十月まで覚醒剤を注射していた。多い時は一日に三回も射った」と供述したことや、今回の犯行が極めて異常なため、今も覚醒剤を使用しているのではないかとみて、川俣の尿や血液を科学捜査研究所で分析していた。その結果、血液と尿からそれぞれはっきりした覚醒剤反応があった。また、右腕の内側に、覚醒剤を注射したとみられる痕が二カ所見つかった。  一般的に、覚醒剤が体内から検出されるのは、使用後十日以内とされているが、反応が鮮明に出ていることから、川俣は少くとも犯行のちょっと前まで注射していた疑いが強く、川俣が供述していた「昨年十月以後はやっていない」というのはウソとわかった。  川俣は、過去の覚醒剤使用頻度が高いため、犯行当時覚醒剤を使っていなくとも使ったと同じような精神錯覚症状が出る、「フラッシュバック」(再現現象)が起きて、犯行に走った可能性があると捜査本部ではみていた。今回の検査で犯行直前にも使用していたことが明らかとなったことにより、捜査本部は覚醒剤が犯行の引き金になった可能性が、さらに強まったとして重視している。  また、就職できずに金に困っていた川俣が、いつ、どんな方法で入手したのか、などについても究明する。(昭和五十六年六月十九日『朝日新聞』朝刊から)  尿中から覚醒剤を検出する研究は、「第一次ヒロポン禍」といわれた昭和二十八、九年ごろから、大阪府警を中心に進められてきた。そもそも覚醒剤は、明治二十一年に日本で発見された薬物で、突如として睡眠に陥るナルコレプシーや、抑鬱病の治療薬に用いた。アンフェタミンとメタンフェタミンの二種類があり、日本で製造されたのは主として「メタンフェタミン」で、現在の密造品もこれである。純度の高い覚醒剤を、○・○○五グラム静脈注射すると、ただちに中枢神経興奮作用が現われる。睡気や疲労が消えて、仕事に対する意欲も増すが、二〜五時間の興奮作用が消えると、逆に虚脱感や脱力感に襲われる。  しかし第二次世界大戦において、日本軍は興奮作用に着眼し、大量生産をした。敵前上陸や特攻隊は、出撃の際に「突撃錠」として、斬込隊や夜間の|歩哨《ほしよう》には「猫目錠」として支給され、軍需工場の能率増強にも、さかんに用いられた。  敗戦と共に膨大な覚醒剤が放出され、製薬会社は競ってアンプル製造し、大日本製薬の商品名が「ヒロポン」である。ヒロポンはメタンフェタミン=フェニル・メチルアミノプロパンで、アンフェタミンより薬理作用が強いぶんだけ、中毒作用も強くなる。戦後の混乱のさなか、“ポン中”と呼ばれる薬物汚染が拡がり、昭和二十六年には覚醒剤取締法が制定されたが、密造品が出回って、全国に常用者が五十五万人といわれ、二十九年がピークだった。この時代から大阪に多く、西成区あたりが最も密度が高い。「シャブ」なる隠語は、純度の高い覚醒剤に混ぜ物を入れるのを、この界隈で「シャブシャブする」というからである。大阪府警では取締りで、注射を射っている常用者を逮捕しても、「ビタミン注射だ」と否認されれば、どうすることも出来ない。覚醒剤そのものを押収すれば問題ないが、注射器や注射痕では証拠にならないからである。  そこで府警本部の鑑識課理化学班が、注射を射っただけの中毒患者や常用者を、いかに証明するかの研究に着手した。ドイツの文献「アルカロイドの研究で、尿中からの検出可能」というのを手がかりに、ウサギによる動物実験を重ねて、尿中から検出が可能になった。府警の防犯課は一斉検挙に乗り出し、鑑識課には逮捕者の尿が運びこまれ、次々に起訴されていった。  しかし公判では、尿から検出が可能かどうか問題にされ、ウサギの実験では疑わしいとみなされた。やむなく人体実験にとりかかり、大阪府警の鑑識課員が自らヒロポンを注射して、尿を検査測定してデータを作成した。  ヒロポン一本を注射したばあい、一時間後の尿からヒロポンの検出が可能。  さらに四十八時間以内には、実験者全員の尿から検出可能。  七十時間に延びると、実験者の半数からしか検出されない。  これにより検挙率が高くなり、公判でも有罪の決め手とされ、第一次覚醒剤汚染は昭和三十三年には根絶された。なんといっても尿中検出が、威力を発揮したのである。  昭和四十五年に大阪で起こった“第二次覚醒剤汚染”は、たちまち全国に拡がった。都道府県警察本部は、それぞれ科学捜査研究所をもっているが、いずれも大阪府警の実験結果を基本にしている。  警視庁の科学捜査研究所では、逮捕した六月十七日を第一回として、六月二十七日、七月三日、七月十四日の第四回までの鑑定で、尿中から覚醒剤を検出したが、七月十五日の第五回からは検出されなかった。この「捜査報告書」は、第一回公判において、証拠として提出されている。  警視庁はどのような方法で、鑑定をおこなっているのか。昭和五十五年五月号の『法律のひろば』は、〈法医学をめぐる諸問題〉を特集しており、科捜研管理官・宮野豊と主事・安藤皓章の共同執筆「尿に含まれる覚醒剤の鑑定について」という論文が掲載されているので、その要旨を引用する。       *      *  広く知られているのは、「ドーピング検査」である。各種スポーツ競技や競馬で、選手や競走馬が興奮剤を使用しているかどうか、血液や尿や|唾液《だえき》などから調べる。その方法は、エチルエーテルやクロロホルムを用いて、目的とする薬物を抽出する。  覚醒剤のばあい、人体内に入ると、血液に混じって臓器に運ばれる。それが脳において、神経伝達の薬理作用を起こす。そしてある部分は肝臓で解毒作用を受け、ほかの物質に変化して、腎臓などを経て尿中に混じって体外へ出る。  しかしビタミンやホルモンと異なり、覚醒剤は人体にとって異物だから、かなりの部分がそのままの状態で、速やかに|排泄《はいせつ》される。肝臓で変化するのは一部にすぎず、多くは未変化の状態で出る。  したがって裁判化学として、体液中に微量に存在する覚醒剤を分離し、その使用を裏付けるには、尿を試料とするのが、もっとも合理的とされる。  まず鑑定は、覚醒剤が存在するならば、必ず抽出される条件によって実施する。そして抽出物が得られたら、手順にしたがって分類し、検査・鑑定をおこなう。  抽出の方法は、尿中の他の成分が|夾雑《きようざつ》するのをふせぎながら、目的物を出来るだけ多く得るものでなければならない。 「直接溶媒法」は、試料尿をアンモニアなどでアルカリ性にして、エチルエーテルのような有機溶媒を加えて抽出する。 「透析膜法」は、アルカリ性にした試料尿を、セルロース製の|透析膜《チユーブ》に入れ、メタノール中に一晩ぐらい放置する。これにより尿中の病原菌や蛋白質を残して、低分子物質の覚醒剤は透析されるので、塩化メチレンなどで抽出する。 「カラムクロマト法」は、吸着性能の高い合成樹脂を、筒状の|塔《カラム》にして、試料尿を流下させる。覚醒剤は吸着するから、酸性にしたメタノール等で|洗滌《せんでき》して溶出させる。  抽出物が得られたら、三段階の検査をする。  (一)薄層クロマトグラフィ(TLC)  シリカゲルを薄く塗布したガラス板の下部に、抽出物を付着させる。同時に標準品の覚醒剤を付着したものを並べ、有機溶媒の中に立てると、ガラス板の上部へ浸み昇る。これを乾燥させて、沃素ガス、ドラーゲンドルフ試薬の順に噴霧すると、標準品は茶褐色に発色し、次に|橙《だいだい》色になる。抽出物をこれと比較すれば、目的物質かどうか確認出来るが、ほかの化合物の可能性も否定しきれない。  (二)呈色試験およびガスクロマトグラフィ(GLC)  呈色試験は、(一)のシリカゲル層に、「シモン試薬」と「ホルマリン硫酸試液」で反応させる。フェニルメチルアミノプロパンは、シモン試薬に対して青藍色に、ホルマリン硫酸試薬に対してレンガ赤色に反応する。  ガスクロマトグラフィ(GLC)は、(一)の有機溶媒に相当するものとして、ガスを使用する。一定の温度に保たれたオーブン内の管の中を、抽出物は気化された状態で流れ、いろいろな成分に分離される。もし覚醒剤があれば、検出器に成分が示されるから、「試料にはフェニルメチルアミノプロパンの含有が|推定される《ヽヽヽヽヽ》」と表現する。地球上の何百万とある有機化合物の中に、同じ挙動を示す物質が絶対にないとは、言い切れないからである。  (三)機器分析による検査赤外吸収スペクトルとGC‐MS法)  これまでの二つの方法は、「絶対的な確認」とはならないが、この段階の検査は「極めて高度の妥当性」をもって、フェニルメチルアミノプロパンを確認出来る。  尿からの抽出物が、比較的充分あるばあい(一〇〇マイクログラム以上)と、それ以下のばあいに分けて、次のいずれかを選択する。  多いばあいは、塩化白金酸を加えて、フェニルメチルアミノプロパン塩化白金酸塩の結晶を作成し、赤外吸収スペクトルを測定する。これを標準のものと比較検討し、両者が一致していれば、他の化合物である可能性は、まったく無くなる。  少量しか得られないばあいは、「ガスクロマトグラフィ質量分析法」でおこなう。これはGC‐MS法またはガスマス法と略称されるが、設備・機材の維持の点で困難がある。  (一)のシリカゲル層をかきとって得た濃縮|残渣《ざんさ》を試料とし、GCで気化させて質量分析機内のイオン源で熱電子線照射すると、化合物の構造にしたがって種々の、質量スペクトルを記録する。またイオン源で生じた、全イオン量を記録して、ガスクロマトグラムを得る。このようにして各ピークごとに、質量スペクトルを測定すれば、覚醒剤の有無が分る。  この段階で尿からの抽出物の成分が、フェニルメチルアミノプロパンと固定されれば、鑑定結果は極めて高度の妥当性をもって、「試料からフェニルメチルアミノプロパンが検出された」と表現される。 『法律のひろば』の「尿に含まれる覚せい剤の鑑定について」は、次のように結ばれている。 「人体内に摂取された覚せい剤が、どの程度の期間尿の中に排泄されて来るかについて、一回のみの使用については、ベケットやウイリアムスの実験にあるように、投与された覚せい剤の大部分が四〇〜四八時間以内に排泄され、さらに四日目の尿までに残りの数パーセントが排泄されることがほぼ明らかになっている。  しかし、医療行為等で正規に使用されるのではない、つまり乱用者のように一定量以上を連続して摂取した場合の排泄経過期については、この種の人体実験は日本はもとより世界的にも行われておらず、従ってほとんど明らかになっていない。  一般に覚せい剤乱用者は、食生活等の個体差、使用量及びその頻度、それからその使用方法等がまちまちであるなどの問題があって、一概に尿の中へ覚せい剤が何日位にわたって排泄されるかについて言及することは困難であるが、一応どのような可能性の傾向があるかを以下調査してみた。  昭和五二年六月から翌年九月にかけて、覚せい剤取締法違反で身柄を拘束した覚せい剤の注射使用者一九名について、逮捕直後から毎日その尿の提出を受けて、尿中の覚せい剤の鑑定を行ったところ、図に示した『覚せい剤の尿中への排泄経過日時について』の資料のような結果が得られた。  この図に示した『検出』とは、本文中の第三段階で赤外吸収スペクトルの測定を行って判断した結果で、また、『推定』の結果は、本文中の第二段階まで検査出来た場合で、先に述べたGC‐MSによる検査が可能な期間であると考えられる」  午後の法廷では、科学捜査研究所主事・安藤皓章が証言台に立った。安藤は先に引用した「尿に含まれる覚せい剤の鑑定について」を執筆し、共同執筆者の宮野豊が、現在は科捜研所長である。  すでに証拠として採用された「捜査報告書」には、第一回から第三回まではガスクロマトグラフィ(GLC)を用い、第四回と第五回はガスクロマトグラフィ質量分析法(GC‐MS)を用いたと記載されている。証人が担当したのは、第四回と第五回という。しかし引用の論文にあるとおり、GLCの方法では「含有が推定される」でしかない。「検出された」と表現するのは、赤外線吸収スペクトルか、GC‐MSで鑑定したときである。 裁判長 第一回から第三回まで、GC‐MSの検査方法をとらなかったのは、たまたま検査を担当した人が、取扱いに慣れていなかったためですね。 証人 そうです。そういう可能性があります。 裁判長 もし証人が担当していたなら、GC‐MSをおこなっていたでしょうか。 証人 同じ内容以上の試料を得ようと思いましたら、GC‐MSをおこなったでしょう。 裁判長 最初からGC‐MSをするつもりで、試料の抽出を心がけていれば、量的には足りたわけですね。 証人 はい。 裁判長 そうすると先ほどいった検査方法には、必要最小限度の試料の量というのがあるのですか。 証人 尿量が少なくても、試料中に入っている覚醒剤の量があれば、尿量にかかわらず覚醒剤を確認出来ます。 裁判長 計量はしないのですか。 証人 覚醒剤の含有量については、特に測っていません。 裁判長 一般論として覚醒剤の排泄期間の、現在の通説的な理解はどうなっていますか。 証人 一般的には約二週間といわれておりますが、最近おこなった私どもの調査によりますと、昭和五十二年六月から、五十三年九月にかけて、身柄を拘束して毎日検出したところ、十九日まで覚醒剤が出ていました。したがって二十日前後の可能性というのが、一般論として言えるのではないでしょうか。私どもの鑑定基準では、数マイクログラム(百万分の一グラム)あれば検出可能だが、さらに一億分の一グラムまで感度を上げると、さらに長い期間の検出が可能です。 裁判長 そうすると排泄経過期間というのは、検出可能期間と同義語になるのですか。 証人 はい。 裁判長 機械の精度が高くなればなるほど、長期間にわたって検出される可能性がある? 証人 一カ月とか二カ月とかいう、学会への報告はあります。 裁判長 証人がおこなった本件の検査によれば、本件被告人の逮捕後に二十四日間にわたって検出されたことになっていますが、これはいま言われた一般的な理解と矛盾しませんか。 証人 排泄とか食べ物によって変ると思われますが、十九日から二十日間というのは一度確認しているので、その前後というのはあながち不可能ではない。 裁判長 二十四日経過しても、数マイクロ検出されたということは、摂取の量とか回数とか方法によって、口で飲んだか注射したか、推定出来るものですか。 証人 出来ないと思います。それというのは体質によって、いったん腎臓に出た覚醒剤が、もういちど再吸収されて体の中に残る現象がある。だから尿の中に出て、そのまま全部排泄されてしまえば問題はないけれども、また|膀胱《ぼうこう》や腎臓から血中に戻ることを繰り返しておれば、かなりの期間出る可能性はある。初め使った量が関係あるかもしれないが、再吸収をおこなっているかどうかの判定は、方法がないので結局は分りません。 裁判長 記録の中にある研究資料によると、昭和五十三年九月までおこなった実験がありますね。この実験結果が深川署のほうへ報告されて、本件の記録として出ているわけですが、この実験でGC‐MSを使わなかったのは、どういう理由ですか。 証人 使わなかったのではなく、空白の前半についてGC‐MSをやっていますが、やっても書かなかったのだと思います。 裁判長 やった結果は、ぜんぜん記載されていないわけですか。 証人 いいえ。GLCとGC‐MSをやったばあい、同じ結果が出たというより、GC‐MSをやれば必然的にガスクロマトグラフィの結果も得られますので、GC‐MSと書かずに、GLCと書いたのだと思います。     弁護人(落合) 検出可能期間は十九日と言いましたね。本件のばあい二十四日目にも出ているわけですが、これは学問的にも非常に|稀《まれ》な例ですか。 証人 方法の問題はあるが、さらに高感度の方法を取りますと、一カ月あるいはそれ以上というのが、数例報告されています。 弁護人 ちょっと極端なばあい、十カ月とか一年というデータはないのですか。 証人 そういうものはありません。 弁護人 警察庁で指定された鑑定基準は、いつ決まったのですか。 証人 三、四年前です。 弁護人 あなたの勤めている第二科学課には何人ぐらい居るのですか。 証人 十二名。 弁護人 専門があって、覚醒剤の検出部、麻薬の検出部とか分れているんですか。 証人 分れていません。 弁護人 だれに鑑定を依頼するか、決定するのはだれですか。 証人 所長の宮野豊です。 弁護人 第一回から第三回までやっている柴崎さんは、相当経験があるんですか。 証人 はい。 弁護人 警察庁で指定された鑑定基準は、GC‐MSでやりなさいと三、四年前に決まっているわけでしょう。 証人 詳しく憶えていませんけれど……。 弁護人 去年より前ですよ。そういう指定が出ているのに、なんで科捜研ではやるかやらないかが問題になるんですか。 証人 方法自体を指定しているのではなく、最終判断のことです。 弁護人 科捜研のばあい、GC‐MSの装置を持っていたわけでしょう。だからあなたの言うことが、よく理解出来ない。GC‐MSでやりなさいと指定されているのだから、依頼があればその通りやればいいのであって、選択の余地はないでしょう。 証人 そうじゃなくて、GC‐MSを維持するのに相当経費がかかり、東京あたり日に二十件から六十件もあるという問題もありますし……。 弁護人 通達は流れていても、財政事情によって、やれる場合とやらない場合があったというわけですか。それからもう一点、こういう場合は所轄の警察署から、鑑定嘱託書が来るわけですね。 証人 はい。 弁護人 それであなたは鑑定書を書いていますが、四回目と五回目に担当官として出しておられる。 証人 五回目につきましては、鑑定書ではなくて、検査書を書きました。 弁護人 検査書もまあ、同じようなものですね。これを所轄署に先に出して、あなたのばあい七月十五日付ですが、書類で回答している。 証人 特別な理由のないかぎり、原則として書面をもって。 弁護人 これの一、二、三回を担当した柴崎さんも、ふつうのやりかたからすれば当然、鑑定書が所轄署へ行っているわけですな。 弁護人(木下) 一回から三回までは、ガスクロマトグラフィ(GLC)でやったということですね。ただ、今の話ですと、指定の方法でやらなかったのは、コストの問題というか、費用がかかるからだということですか? それと試料が足りないと聞いているんですが、その点はどうですか。 証人 初めからGC‐MSをおこなわないということで、鑑定したわけです。最終的に覚醒剤成分が残って量があれば、赤外線でも抽出します。しかし量が少ない場合は、現在ではGC‐MSをやっていますが、いわゆるGLCで代用したわけです。そのとき試料をぜんぶ使ってしまい、残っていなかった。 弁護人 四回目はあなたと違う人も担当していますが、人が違うと結果が違うことがありますか。 証人 そんなことはありません。 弁護人 分けた理由は? 証人 時間が長く経過しているということで、慎重を期すために、違う人同士が別途に検査してみたのです。 弁護人 含有を確定するとか検出するとか書いてありますが、量的には出てこないものなんですか。 証人 大雑把にはGC上のピークの高さによって、ある程度判定することが出来ます。 弁護人 こういう検査で、実際にはなかったが判定が出たということはありませんか。別の鑑定書の中に、「擬陽性」という言葉があるから聞くのですが。 証人 現在では擬陽性という言葉を、使っておりません。入っていたとか、入っていなかったという鑑定書しか書いていません。 弁護人 再吸収の現象というのは、最近分ったことですか。 証人 かなり前からで、これはイギリスのベケット氏だったと思います。 弁護人 尿中に排泄される期間について、公開されている文献はありますか。 証人 昭和五十五年五月の『法律のひろば』という雑誌に、「尿に含まれる覚せい剤の鑑定について」という論文が掲載されています。 [#改ページ]         6  昭和五十七年九月二十九日午前十時から、第九回公判がおこなわれた。  裁判長が交替したこともあって、再度の被告人質問がなされる。検察官に提出を命ぜられていた、「被告人の服役中の精神状態および行状」の、証拠採用手続きがあって、十分間の休廷が宣せられた。裁判官としては、採用したばかりの証拠に目を通し、質問を準備しなければならない。  この間、法廷の被告人はメモ用紙を片手に、そわそわ落ち着きがない。わら半紙にびっしり、細かな字で書きこんでおり、これを弁護人に見せて小声で相談する。刑事訴訟法第二八七条は、「公判廷においては、被告人の身体を拘束してけならない」と定めているから、入廷と同時に腰縄と手錠をはずされ、弁護人席へ行くのは自由である。「但し、被告人が暴力を振い又は逃亡を企てた場合は、この限りでない」。  しかし軍司は、法廷において常に緊張している。裁判長に対するときは、不動の姿勢である。  背筋をピンと伸ばし、脚の後部に揃えた手の指も張りつめている。それでいて検察官に対するときは、時折、|傲岸不遜《ごうがんふそん》ともとれる表情を見せる。また弁護人に対しても、似たような振舞いがある。法廷では絶対者の、訴訟指揮権をもつ裁判長のみを、|畏《おそ》れているのだろうか。  その裁判長が、|自《みずか》ら質問を始めた。 裁判長 君がこれまで述べてきたことの中で、一つだけはっきりしないことがあるから、こちらの言うことを聞いて、落ち着いて答えてください。石塚さんを人質にして、中華料理屋に立てこもっているときに、「おれがこういうことをしたのも、ひっついている役人が悪いんだ、人が死んだのも、役人とグルになってオレにひっついたすし屋と水産屋が悪いんだ、それの責任だ」と石塚さんに書かせましたね。憶えていますか。 被告人 はい。 裁判長 それはその通り君の気持を書いたわけですか。人が死んだのも役人とすし屋、水産屋が悪いという、その責任だとはどういう意味ですか。 被告人 ちょっと長くなりますけど、五分ほどかかりますけども……。 裁判長 だから簡単に答えてください。 被告人 (黙して答えず) 裁判長 いいです。五分ほどかかってもいいです。 被告人 いいですか。(メモを読む)私が何年ものあいだ、昼夜にかかわらず、毎日毎日寸刻の休みもなく耳より聞える、私をいじめ続ける同性愛の行為に終始する、その部分に関する外部からの異常きわまる気違いのような言葉、声に関連する妄想、電波。電波により強制的に妄想させられるその状態が、めんめんと日常生活に関連して、昼夜の区別なくあらゆる場合において、寸刻の休みもない男女の声、そして同じく……。 裁判長 そういうことは君の上申書に、何回も何回も書いてあって、ぼくらはよく読んでいますから、人が死んだのはそういう人たちの責任だというのは、どういう意味なのですか。 被告人 被害者の方の責任と、私は申しておりません。 裁判長 いや、「こういうことになったのも役人とグルになっておれにひっついた水産屋とすし屋が悪いんだ」とは、どういう意味なのですか。 被告人 私を迫害し続ける電波が、役人から来るものだと、私は解釈しています。通行中や電車に乗っても、外出時にはそこここから、私に対する陰口が言われ続けています。それに私の実の肉親ですね。父、母、兄、姉、弟が同じように陰口を私に言い続けるのです。それで計画的に解雇するのです。私は長く続けようとするのですが、そういう……。 裁判長 当時は君を苦しめ、君にひっついている張本人というのは、本当に居ると思ったのですか。それとも半信半疑だったのですか。 被告人 いや、はっきりと……。 裁判長 居ると思ったんですね。今はどうですか。 被告人 今も居ると思っています。 裁判長 だって多勢の人が、ここに証人として出て来たり、検察官が読みあげた調書の中では、そういうことで君をクビにした人は、だれも居ませんでしたよ。だれかに言われて君をクビにした人は、一人も居なかったでしょう? 被告人 証言ではそうなっています。 裁判長 お医者さんだって君の妄想で、ありもしないことを君が考えているんだと証言していましたね。そういうのを聞いても、なおかつ今も居ると信じているわけですか。 被告人 それは私の顔の表面とか、頭皮とか、耳からじゃない強烈な電波が、やはり流れているわけです。それもありますし、外部からの迫害も……。 裁判長 それじゃ別のことを聞きます。本件の犯行当時よりも前に、通行人を殺そうと考えたことがあるんですか。 被告人 私は、あのう、考えるというより、思ったことはあります。 裁判長 いちばん最初に思ったのは、いつ頃ですか。 被告人 服役中にも、社会に出ても、そう思ったことはあります。 裁判長 鑑定人には、二回目に府中刑務所に入ったときから、そう考えたことがあると言っていますね。警察でもそう言っていますが、考えたことがあったんですか。 被告人 考えるというか電波に、あの異様な非人間的な、それに考えさせられてしまったということです。 裁判長 こちらが聞きたいのは、張本人を殺すとか、君にひっついている人を殺すのなら分るけれども、通行人を殺そうと前に考えたことがあるのは、どういう考えですか。 被告人 はい。……例えば声ですね。すし屋には計画的に解雇するぞと、そういう声が流れてくるわけです。いくら頑張っても、計画的に解雇されますから、社会では生活出来ないと思って……。 裁判長 いや、それは分らないことはないけどね、通りすがりの何の関係もない人を殺そうというのは、どういう考えかたなのですか。今回の事件の構想は、だいぶ前から考えていたことになるのですか。 被告人 石塚真理さんですか。この人を人質に取ろうとは、あのとき考えていませんでした。 裁判長 君は「タバコ屋ベッドハウス」を出るとき、包丁の柄にサラシを巻いていますね。ということは電話で断わられたら、だれかを刺そうと心に決めていたわけですか。 被告人 ……そうです。 裁判長 だれを刺すつもりだったわけ? 被告人 だれをって……通行人ですね。 裁判長 通行人ですか。……それから君は、渋谷で本件犯行に使った包丁を買いましたね。買ったお店に行く前に、もうひとつ金物屋に寄っていますね。 被告人 はい。 裁判長 店員さんから「何に使う包丁ですか」と聞かれた記憶がありますか。 被告人 聞かれたような気もします。 裁判長 そのとき何と答えましたか。 被告人 記憶にありません。 裁判長 店員さんの記憶によるとね、「人を刺すに決まっている」と君が言ったというんだね。 被告人 そんなことは言っていないと思います。 裁判長 お店にある包丁を握って、自分のお腹を刺す仕種をしたり、前のほうに二、三度刺すような仕種をしたりして、薄気味悪かったということを述べているんだけど、記憶はありませんか。 被告人 していません。 裁判長 したかもしれないけど憶えていないというのか、していないというのか。 被告人 私の記憶では、していません。 裁判長 いまでも電波が飛んでくるということですけども、それについての薬を飲んだりしていますか。 被告人 鑑定人の先生には、飲むように言われたんですけれども、薬は飲んでいません。 裁判長 それは呉れるというのを飲んでいないのか、そういう話がないのですか。 被告人 自分から願い出ていませんし、拘置所のほうからも言ってきません。 裁判長 電波の内容は最近変ってきましたか。 被告人 今年に入ってから、ほとんど変っていません。 裁判長 主にどんなことですか。 被告人 たとえば私の体の部分部分にですね、目・鼻・口・耳に寸刻の休みもなく流れる電波、男女の異常きわまる声。具体的に申しますと、さきほど言ったホモ行為、同性愛に関することに終始しているわけです。そして言葉、行為に関連する、異常なしつこい心理的方法によって、私の体の部分部分に異常にしつこい電波、たとえばフラッシュですね、フラッシュ。それに類似したものによって意識を、その男女の行為に合わせ、鼻ですと電波によって意識をそこに集中させ、フラッシュに類似した方法によって閃光がですね、二十二回パッパッと意識させられる。その二十二回が突然ストップ状態になり、その言葉に関連して自分が息を吸うたびに、逃げられないつらい立場に追い込まれる。さらに電波が強制的にメソメソさせたり、苦しい状態を持続させたりする。これが目であれば瞬きするたび、口・歯・舌であれば食事をするたび話すたび、耳であれば人の声を聞くたび物音を聞くたび、そして頭の内部と脳に対して意識をフラッシュに類似する方法により、脳の状態を想像させられる。男女の声は物を考えるたび、執拗に刺戟的に考えさせられる。これは洗面中に歯ブラシを使っているとき頭・顔、そして食事中、そして私があらゆるものを使用しているとき、同種の心理方法により伝えられ、日常私が器物をつかんだり触れたり、足元にさわったとき歩いているとき、寸刻の休みもなく異常な男女の声、その声に関連する妄想状態が、昼夜の区別なく続くのです。 裁判長 はい。もういい、分りました。……ちょっと別なことを聞きます。被告人がいちばん最初に入った川越の刑務所で服役中に、周りの受刑者たちが被告人に対して陰口を言うとか、あてこすりのようなことを言うとか、そんなことがあったんですか。 被告人 いや私はそんなことを言われる性格ではありません。 裁判長 そのころ見た夢で、特に印象に残っている夢はありませんか。 被告人 独房に入っているとき、数日にわたって異常な夢を見るものですから、お願いして相談したことがあります。 裁判長 その次の水戸少年刑務所で服役していた頃ですが、顔や鼻のあたりに電波がまとわりつくのを感じたことがありますか。 被告人 はい。五十二年十二月のことです。独房において二カ月ぐらい経過したとき、二時ごろだったと思います。私の鼻のあたりに電波が来るような、ピリッとした痛みを感じました。 裁判長 その後に被告人の出身地、田舎のことなんかを考えることがあったのですか。 被告人 ありました。 裁判長 簡単にいうと、どういうことですか。 被告人 最初のうちは私の苗字、名前ですね。その字画を心理的に……考えさせられる、記憶させられることがありました。郷里の幼な友だちの家とか、今ほどじゃありませんが、かすかな電波で意識させられました。私を比較するような親兄弟のこととか、将来のこととか、精神的に意識させられました。 裁判長 はい。……検察官、何かありますか。 検察官 いま詳細なメモを読みながら答えていますけど、それはいつ書くんですか。 被告人 (黙して答えず) 検察官 なぜそういうのを書くのですか。 被告人 私に対する電波の……突然聞かれてもひとことで申せませんので、メモしておきませんと話しにくいのです。あまりにも異常で迫害が激しいものですから。 検察官 そうすると現在は、そうひどくはない、と。たった今は? 被告人 いま現在でいうと……振幅はありますけど、法廷で裁判している時の電波の状態は、拘置所に居るときにくらべて、格段下がるのです。 検察官 覚醒剤の影響というのは、現在は無いはずですけどね。だから電波とかそういうものは消えてしまったのではないですか。 被告人 いや私は、生ける|屍《しかばね》です。電波によって……。 検察官 犯行直前に覚醒剤を射ったことは、間違いないんじゃないですか。いまさら否定しても始まらんでしょう。 被告人 射っていません。何度も申したとおりです。 検察官 科学的にちゃんと裏付けられているんだからね。 被告人 私にも原因は分りません。私は真実、使用していませんから。 検察官 それから、すし屋すし屋というが、なぜすし屋じゃなければいけないの? 商売はいくらでもあるじゃない。 被告人 そういう状態が毎日続いていますから、一面識もない仕事はちょっと……。 検察官 日雇いだっていいじゃない、日雇い。 被告人 どんな仕事をやっていても、私に対する陰口は続いているわけですから。 検察官 だから日雇いだったら、やめろとは言われないわけでしょう。クビにはならない。 被告人 自分は手に職をもっていて、それを生かそうと思ってすし屋に働いたのです。 検察官 だったら一所懸命やったらいいじゃない。 被告人 やりました。 検察官 やってないよ、態度を見ていると。自分でも言っているでしょう、態度が少し横柄になると。 被告人 それは否定しません。お客さんとか店の従業員の陰口に対して、どうしても大声になってしまうのです。 検察官 陰口言われようと何しようとね、我慢してやったらいいじゃない。 被告人 私を強制的に解雇するような状態だったですから。……やりましたよ、私は。自分なりに真剣に。 検察官 三年頑張ったこともあるじゃない。 被告人 はい、若い時分です。 検察官 それと同じに、どうしてやらなかったの? 被告人 私は解雇されなければ、ずっとすし屋をやっていました。 検察官 通行人を殺そうとしたことは、間違いないね。殺すつもりでやったことは間違いない? 被告人 (黙して答えず) 検察官 「自分の人生を終らせようと思った」と言っているんだけど、なぜ死ななかったの? 被告人 私が石塚さんを人質に取っているときに、要求が|叶《かな》えられませんでした。そのうち逮捕され……死ぬ気はありました。 検察官 終ります。 弁護人(落合) ベッドハウスを十一時半頃出たのかな。刃物の柄にサラシを巻きつけて出ましたね。それは『寿司田』から採用を断わられたら人殺しをしようということが、そのとき決まっていたんですか。 被告人 あのときは夢遊病者のような状態だったですから。 弁護人 夢遊病者といったって、電話を入れたでしょう。 被告人 その意志はありました。 弁護人 その意志って、殺す意志? 被告人 『寿司田』に採用の当否を聞く意志です。 弁護人 表へ出て電話したわけだね。それで包丁に、なんでサラシを巻きつけたわけですか。 被告人 失敗しないようにと思って。手がすべらないように。 弁護人 そのときから犯行を考えていたわけだね。 被告人 ずっと絶望状態で、異常な状態が続いていましたから。いくら頑張っても解雇されまして、最後に『寿司田』に一縷の望みを抱いていたんですけども、断わられまして……。 弁護人 そこまでは分るんだよね。自分が勤めていたところも全部クビになった、どこに行っても採用してくれない、オレなんか生きていてもどうにもならん、と。そこまでは分るんだけれども、それからが分らない。なんで通りがかりの人を、殺さなきゃいけないの? 被告人 なんでって言われても私、はっきり答えられない。 弁護人 警察官や検事の調書を読むとね、「黒幕を引張り出してやって恥をかかせる」「信用をなくさせるために事件をやるんだ」と書いてあるんだけれども、それだったら石塚真理さんを人質にとって立てこもっただけで十分だと思う。それはどうなの? 被告人 そういう余裕はありませんでした。私自身、絶望状態に落ちこんでいましたし……。 弁護人 絶望したからといって、電話のところから三人歩いて来るのが見えたわけですね。他に人が居なかったんですか? その三人しか目に入らなかったんですか? 被告人 他に通行人は居なかったと思います。 弁護人 間違いは許されないと一途に突いたとなっているんだけれども、どういうことですか、「間違いは許されない」とは? 被告人 なんとも言えません。そういう気持で刺しました。 弁護人 だから自分の人生を終らせるのは分るんだよ。なんで縁もゆかりもない人を殺さなければならないんですか。「絶望だ」「絶望だ」と言うのは、どういうことですか。 被告人 電波の状態が、一面識もない人間からも陰口を……。 弁護人 自分はこんな暗い生活をしなきゃならんのに、表へ出てみたら母子が楽しげに歩いて来るので、|羨《うらやま》しいというか|妬《ねた》みがあるんで、そういう気持でやったんじゃないの? 被告人 そういう気持は、微塵もありません。ただ私の肉親とか電波に関連していますから、同じように一面識もない人間から陰口など聞えますから、私の実の肉親も居るんだということで、それで絶望しました。 弁護人 だから長野さん母子三人が、あなたと目と目が合ってせせら笑ったとか、馬鹿にしたとかいう状態だったら、なるほどと分るんだけれども、なんにも関係ない人を、突然突き刺しているでしょう。そこのところが、なんべん聞いても分らないんだ。 被告人 (黙して答えず) 弁護人 黒幕をあばくんだったら、三人を人質に取って、殺さなくてもいいわけでしょう。人質に取って「黒幕出て来い!」と言えば、あなたの目的は達するわけじゃないの。 被告人 被害者の方には申し訳ないと思います。理由は……。 弁護人 理由は何? 被告人 (黙して答えず) 弁護人 いくらぼくが聞いても、それ以上のことは出て来ませんか? 被告人 (黙して答えず) 弁護人 だから、もういっぺん言いますけどね、絶望して人生終りだというんだったらね、私どもの考えだと自分だけ死ねばいいんで、関係ない人を殺す必要はないでしょう。 被告人 ひとこともありません。 弁護人 そう言われれば、ひとこともない? 被告人 はい。 弁護人 終ります。  主任弁護人は、憤然たる表情で質問を終えた。このあたりは接見のとき、くどいくらい確かめてきたが、|未《いま》だ分らないところらしい。 弁護人(木下) 電波は弱いときとか、強いときとか、差があるんですか。 被告人 多少の強弱がありますが、寸刻も止まりません。 弁護人 こうやって法廷で聞かれたり、人と話すときはどうですか。 被告人 話し続けているときは、ときどき聞えてきますけど、ほとんどありません。黙っているときは継続しています。 弁護人 拘置所の中では新聞を読むことが出来ますね。そういうときはどうですか。 被告人 私が視線を集中して読み続ける個所……(以下不明)。 弁護人 さきほど電波が体に影響しているようなことを言いましたね。もういちど言ってくれますか? 被告人 頭、それから耳からくるやつ、顔の表面から流れてくるやつなどありますけれども、頭皮全体を引きはがすように流れてくることもあります。 弁護人 それは毎日続いているのですか。 被告人 はい。 弁護人 そこに持っているメモは、電波について内容が複雑なので書いて来たということですね。 被告人 うまくメモ出来ないんですけれども、私なりに、言い足りないんですけれども、メモして来ました。 弁護人 メモを証拠として差し出すことは、さしつかえありませんね。 被告人 はい。 弁護人 ぜひ読んでいただきたいわけですね。 被告人 はい。  このとき主任弁護人が、「裁判長!」と声をあげて立ち上がった。どうしても納得いかぬという表情で、もういちど質問せずにはいられないらしく、裁判長も共感するかのように、「どうぞ!」と言った。 弁護人(落合) もう一点だけ……。あなたは被害者に対して申し訳ないと、さっき言ったような気がするんだけども、そうですか? 被告人 思い続けています。 弁護人 自分のやったことは悪かったということなの? それとも自分のやったことは悪くはないんだけども、死んじゃったんで申し訳ない、と。どちらですか? 被告人 うまく申し上げられません。私が死ぬべきでした。 弁護人 人を殺すことは悪いことですか、どうですか。 被告人 あの時点では、何らそう思っていませんでした。 弁護人 今はいけないということは分りますか。 被告人 いけないという、それ自体は分りますけど、電波の状態が……。どうしても自暴自棄になって、あのときというか……ずっと良いとか悪いとかの意識はありませんでした。 弁護人 今はどうですか。 被告人 今は多少あります。 弁護人 犯行のときと今の時点では、電波の迫害の程度は同じですか。 被告人 ほとんど同程度の迫害です。 弁護人 今は拘置所に入っていますね。仮に表に出してくれたら、また同じことをやりますか。 被告人 それじゃ私は……自殺します。 弁護人 仮に出してくれても、そんなひどいことはしない。自分が死ぬということですか。 被告人 はい。 弁護人 終ります。  弁護人は、被告人のメモを証拠申請して採用され、その場で提出した。これで公判廷における、すべての証拠調べを終了し、いよいよ次回は検察官の論告求刑である。  十月二十二日午前十時から、第十回公判がおこなわれた。  東京地裁の脇玄関には、久しぶりに傍聴人の長い列が出来て、テレビカメラが並んだ。精神鑑定の結果は、二度とも「心神耗弱」のようであるが、裁判所は必ずしも、鑑定結果を尊重するとは限らない。同様に検察庁も、鑑定に拘束されることなく、死刑を求刑する可能性がある。  東京地検は論告求刑にあたって、東京高検と協議している。「死刑」とすべきか「無期」とすべきか、激論が闘わされたという。  事件が発生した直後から問題になっているのは、「保安処分」であった。昭和五十五年八月十九日には、東京・新宿の駅前広場で、発車待ちの京王バスにガソリンを撒いて放火する事件が起こり、精神異常の疑いがある浮浪者の犯行とあって、法務大臣は「保安処分を検討する」と国会で発言した。そして五十六年六月十七日に「深川通り魔殺人」だから、法務大臣奥野誠亮はふたたび、保安処分の検討を指示している。  ——政府は十九日の閣議で、東京都江東区で発生した通り魔殺人事件が覚せい剤常用者によって引き起こされたことを重視し、覚せい剤などが社会に及ぼす害毒をどう防止するかについて意見を交換した結果、総合的な対策の検討をはじめることになった。具体的には、四十五年六月、政府内に設置された薬物乱用対策推進本部(本部長は総理府総務長官、関係各省庁局長クラスで構成)をあらためて拡充強化することにし、今後、事務次官会議で具体的検討を進める。また、奥野法相はこの日の閣議で、「市民生活の安定確保の観点から真剣な防止策に取り組む必要がある」と指摘したうえで、法務省事務当局に対し、保安処分の導入を盛った刑法改正作業の検討を急ぐよう指示したことを明らかにし、「来春の通常国会に改正案を提出したい」と協力を求めた。(昭和五十六年六月十九日『朝日新聞』夕刊から)  この「保安処分」は、昭和四十九年に答申された法制審議会の改正刑法草案に入っており、精神障害や過度の飲酒・麻薬や覚醒剤の使用で|禁錮《きんこ》以上の刑にあたる行為をした者で、放っておけば同様の行為をするおそれがあると裁判所が判断したばあい、保安施設に収容して治療などする制度である。  川俣軍司の犯行をきっかけに、「保安処分」が論議されるさなか、『週刊文春』七月二日号は、「被害者の人権はどうしてくれる!」と題して、奥野法相インタビューを掲載した。       *     *  ——保安処分の検討を指示したそうですが。指示にあたって、特に注文をつけたことは?  法相 保安処分というと、共産圏諸国のものと同じだと誤解されるから「刑事治療処分」としてはどうかというのが一点。四十九年の答申では「禁錮以上の罪」となっていてあいまいだが、たとえば殺人、傷害、放火、強盗、強姦、恐喝ぐらいに絞ってはどうかというのが二点。社会に不安を与えないようにしようということです。  それから期限について、最大限七年までといったリミットを考えてもいいのではないか。いつまでも放りこんでおけるという誤解を招かないようにね。  アルコール等の常用犯罪者に対する禁絶処分というのも、酒飲みはみんな引っぱられると錯覚する人がいるかもしれない。そういう不安はできるだけなくすよう検討しろといいました。特定の考えをシャニムニ通す考えは毛頭ない。  ——(精神障害者を知事命令で強制入院させる)措置入院制度に疑問をもっているとか。  法相 再犯の恐れのある人間が必ずしも社会から隔離されていないということがあります。  先日医療刑務所(法務省管轄)の所長に聞いたんですが、刑期を終えて退所した人が精神障害者だというので地元に注意を与えておいたのに、ある日所長宛てに『お前を殺してやる』という手紙がきた。おかしいと思って調べたら、その人を開放治療にしていたとわかって驚いたというんです。  措置入院しても、一年以内に退院するのが七割もある。これでは治ったというより、困った患者は早く帰せということでしょう。こういう状況を考えると、措置入院だけでは十分とはいえませんよ。  ——人権侵害という反対意見もあるが。  法相 犯罪を犯さなければ処分できないんですよ。また再犯のおそれがなければやらない。しかも刑訴法に基づいた厳格な手続きを通してやるんです。  人権侵害というが、犯罪を犯した人間の人権も大事かもしらんが、被害に会う側の人権といったいどっちが大事なのか。加害者の方には明らかに問題があり、傷つけられた人にはまったく責任がないんですよ。  反対論も十分受け入れて、キチンとしたかっこうにします。ま、将来改正するかもしれんから反対とまでいわれると、これはもうナンセンスというしかないですけどね。  四十九年に答申をもらっているんです。未だに政府が国会にも出さないというのでは、無責任といわれてもしかたないんじゃないですか。  ——保安処分は再発防止が目的となると、初犯に対して効果なしですか。  法相 あの通り魔殺人が覚醒剤によるものだとすると、四十九年以来常用しておったといいますが、もし刑事治療処分の制度があれば、今までにどこかでひっかかっておったのではないかと思いますよ。監督も当然厳しくなっておったでしょうから、ある程度は対応できたんじゃないでしょうか。  これは人権問題だから詳しくはいえませんが、実はあの犯人川俣に関する刑務所の記録を取り寄せてみたところ、はっきり問題があるんです。 「はっきり問題がある」とは、精神の異常をさすのだろうか。もしそうならば、弁護人の主張を裏付けることになる。少なくとも軍司は、昭和五十六年四月二十一日の出所後、「覚醒剤をやっていない」と主張しており、電波・テープの妨害が原因という。その幻覚妄想が精神異常に起因するのなら、処罰よりも治療が必要である。  検察当局は求刑にあたり、この点を苦慮したと思われる。犯罪を防止するための「保安処分」と、凶悪事件の犯人に対する「厳罰処分」は、ここで自家|撞着《どうちやく》するが、そもそも責任能力ありとして、裁判所に処罰を求めて公訴提起したのだ。  開廷されて検察官が論告文を朗読しはじめると、満員の傍聴席を斜めに見た軍司が、ことさら肩をいからせているかに見える。論告文はプリントされ、裁判官や弁護人に配られているが、被告人は受取ることが出来ず、自らの悪業を読み聞かされるのである。  第一 本件事実関係  被告人は稼働していたすし屋などから、いずれも短期間に解雇されるなどしたことから生活にゆきづまり、このうえは通行人を殺害して世間を騒がせたあと、人質を取って立てこもり、右すし屋の経営者など呼び集め、殺人関係者である旨を報道し、その信用を失墜させようと決意した。  昭和五十六年六月十七日午前十一時三十二分ごろ、東京都江東区森下二丁目付近の道路上において、長野博明(当一年)、長野統子(当三年)、長野るみ子(当二十七年)、二本松みよ子(当三十三年)、加藤貞子(当七十一年)、吉野千鶴子(当三十九年)の胸部、腹部などを所携の柳刃包丁によって、長野博明を肺動脈刺創等にもとづく失血のため、長野統子を胸腹部刺創等にもとづく失血のため、長野るみ子を左肺内動静脈切断等にもとづく失血のため、二本松みよ子を肝臓内静脈損傷等にもとづく失血性ショックのため、それぞれ死亡させ、加藤および吉野に対し、加療約四カ月から二週間の傷害を、それぞれ負わせた。  同日午前十一時四十分ごろ、森下二丁目の中華料理店『萬來』前の路上において、石塚真理(当三十三年)に対して、所携の柳刃包丁を喉元に突きつけるなどして同店舗に侵入し、同日午後六時五十四分ごろまで同所に監禁し、その際同女に加療約一週間の傷害を負わせ、業務その他正当な理由でないのに、同日午前十一時五十三分ごろから午後六時五十四分ごろまでのあいだ、同所付近などにおいて右柳刃包丁を携帯したものである。  右の各事実は、これまで取調べられた関係証拠によって、いずれもその証明は十分である。弁護人は外形的事実は認めるものの、犯意を否認し、また犯行時に被告人は、心神喪失または心神耗弱の状態にあったとして、責任能力を争ってきた。  以下、右争点について検討をおこなう。  まず故意について、被告人は当公判ならびに捜査段階において、本件犯行時に犯意があったことを認めている。すなわち被告人は、公訴事実について認否の段階において、自分の将来に絶望し、人を殺害してでも、自分の人生に終止符を打とうと固く決意した旨を供述し、検察官に対する供述調書等においても、まず女子どもを狙って殺してやろうと考えた旨を供述して、長野るみ子他五名に対して殺意のあったことを認めており、また住居侵入・監禁の事実についても、人質をとって店内に立てこもろうと思った旨を供述し、その犯意を認めているものである。  さらに右の各自白のほか、本件犯行の動機、結果に照らしても、被告人に故意の存したことは明らかである。すなわち被告人は、手がすべらないようにするため、柄にサラシを巻いた柳刃包丁を右手に持って、長野るみ子他五名の肺部、胸部、上腹部などめがけて力一杯、突き刺したものである。  この犯行の態様、結果などから、被告人に殺意があったことは明らかである。また被告人が人質をもって前所に立てこもった状況、被害者や警察官に対する被告人の言動、かつ住居侵入・監禁等の事実についても、犯行時に犯意があったことは、明らかである。  次に責任能力について、弁護人は本件各犯行時に、被告人に責任能力がなかった旨を主張するが、当時自己の行為の是非善悪を弁識し、その弁識によって行為を制御する能力は、正常人に比し低下していたと認められるが、その程度は軽度であり、とうてい責任無能力の状態にはなかったことが明らかである。  鑑定人の上智大学教授・福島章、帝京大学教授・風祭元の各鑑定書によれば、被告人は爆発性、情性欠如性、意志欠如性、自己顕示性、自信欠如性などを基調とする異常性格者であり、本件犯行時に右異常性格を基盤として起こった心因性妄想状態の上に、慢性覚醒剤中毒による脳機能異常が加わった、幻覚妄想状態にあり、自己の行為の是非善悪を弁識し、その弁識にしたがって行為を制御する能力が、正常人に比し低下していたことが認められる。  ところで被告人の、検察官および司法警察員に対する各供述調書、昭和五十六年六月十八日作成の捜査報告書、公判廷における各証人の供述、検察官および司法警察員に対する証人の各供述調書によれば、本件犯行に至るまでの被告人の行動は、次のようなものであったことが認められる。  すなわち被告人は、昭和五十五年二月八日から同年七月十二日までのあいだ、千葉県銚子市本町の伝虎水産ほか三カ所の水産会社で、工員として稼働していたが、被告人の態度が横柄で威圧的であったうえ、不真面目であったことから、いずれも勤めはじめてから、一週間ないし二カ月以内に解雇され、その後服役し、五十六年四月二十五日ごろから同年六月十三日ごろまでのあいだ、東京都港区芝二丁目『寿司長』ほか六カ所のすし屋で板前として稼働したが、そのいずれも勤務状態が不良であったばかりでなく、言動が粗野で対人関係が悪く、客商売に向かなかったため、長くても勤務してから一カ月以内、短いときは三日以内あるいは即日という具合に解雇された。  さらに六月十六日の新聞広告を見て、東京都中央区銀座七丁目『寿司田』ほか二軒のすし店に、板前として雇ってくれるよう申し入れたところ、右『寿司田』を除いた二店ではその場で不採用となり、また翌日は一縷の望みをかけていた『寿司田』からも不採用の返事を受けるにおよんで、もはや堅気の板前では食えないし、そうかといってヤクザにもなれない、家庭を持つ望みなど全く消え失せてしまったと考え自暴自棄になり、幸せな家庭を持てない口惜しさから、いわば八ツ当り的に、これから歩いて行くときに出会う女子どもは、皆刺し殺してやろうと決意して、長野るみ子ほか五名に対する殺害行為を敢行した。  被告人をクビにしたり、不採用にした経営者や、その妻を呼びつけ、ブラウン管に写し出して責任を取らせてやる、彼らはそれで大恥をかき、信用をなくして倒産するだろう、店をつぶしてやると考え、付近を通行している石塚真理を人質にとって、中華料理店『萬來』奥六畳間に立てこもり、駆けつけた警視庁深川署員等に対し、被告人が稼働していた千葉県の水産会社や、前記『寿司田』ほかすし店の経営者等を呼ぶよう要求したのである。  要するに被告人は、自己が稼働していた水産会社や店の経営者等から、いずれも短期間に解雇され、あるいは採用を拒否されたことから、希望がすべてなくなって、生活する手段もカネもない、これでおれの人生は終ったと考え自暴自棄となり、幸せな家庭を持てなくなった口惜しさ、これに対する怒りや怨恨の感情の激しさから、八ツ当り的に本件各犯行におよんだのである。  自分で首をくくって死ぬか、あるいはこれから行き合う女子どもは、手当り次第に殺そうと決心し、すなわち死か殺人かを選択し、死刑台を賭けて本件犯行をおこなっている。しかもふつう以上の知能をもち、意識も清明であった被告人のばあい、基本的には正常人に近い、是非善悪を弁識する能力を、持っていたというべきである。  もっとも被告人には、異常性格にもとづく妄想があったうえ、慢性覚醒剤中毒が加わって、職場を奪った実在のすし屋の経営者等の背後に、これを操る張本人の存在を妄想し、張本人に対する死刑台を賭けた勝負を挑んでいる点において、常軌を逸している。  風祭鑑定人が指摘するように異常性格だけでは、是非善悪を弁識し自己の行動を制御する能力が低下していたとはいえず、通常人と同様の行為を期待することは出来るのである。また福島鑑定によって明らかなように、被告人の妄想は動機の形成に関与したにすぎず、妄想の帰結が殺傷殺人に至るという必然性があったわけでもないのだから、被告人が幻覚妄想により被害的危機状況におかれていたと誤信していたとしても、被告人の人格の変容は、それほど大きいものではない。  本件犯行時に被告人が、是非善悪を弁識し行動を制御する能力を、欠いていたものではない。正常人に比し低下していたとはいえ、その能力を保有していたのである。  第二 情状関係について  本件犯行の手段、方法は極めて残忍である。平和でのどかな白昼の市街地を、幼児を連れて帰宅中の親子連れなどに対して、白昼堂々と公衆の面前で凶刃をふるって襲いかかり、一瞬のうちに四人の尊い人命を奪ったうえ、二名に重傷を負わせたのである。さらに通行中の女性を人質として監禁し、同女を長時間にわたり死の恐怖にさらしたもので、犯罪史上まれに見る、最も凶悪な犯行というべきであり、その態様の残忍さは他に類例を見ない。  すなわち被告人は、犯行現場近くの公衆電話から、株式会社寿司田に電話をかけた際、たまたま約六十メートル前方の歩道に、乳母車に長男博明を乗せ、長女統子を連れて対向している長野るみ子の姿を見て、まず手はじめに同女らを殺害しようと決意し、自宅で長女らと昼食をすることを楽しみに待っている父のもとへ帰ろうとする子らに対して、所携の柳刃包丁で正面から、博明の腹部を連続して二回突き刺し、事の重大さに悲鳴をあげ、路上に向かって逃げようとしたるみ子の背後から、その背中などを二回突き刺し、さらに立っていた統子の胸部などを四カ所にわたって滅多突きにし、最後に博明の胸部を突き刺し、トドメを刺したのである。  路上に倒れた長野親子の死体周辺には、おびただしい血が飛び散り、乳母車や保育具が散乱する現場の状況は、まさに生きながら地獄を見る惨状であった。しかるに被告人は、なおも凶行を続け、たまたま料理の講習に出席し、調味料を購入するため歩道上に出て来た二本松美代子が、右の惨状を見て立ちすくんだのを認め、その上腹部を一回突き刺して惨殺し、近くのバス停留所でバスから下車し、日傘をさそうとした加藤貞子に対して、正面から体当りするようにして大腿部を一回突き刺し、さらに騒ぎを聞きつけて店舗内から表に出て来た、吉野千鶴子の腹部めがけて突きかかり、それぞれ重傷を負わせたものである。  そのうえ被告人は、なおも|殺戮《さつりく》を続けようとしたのであるが、たまたま柳刃包丁の刃先が一連の凶行のため欠けたことに気づき、これ以上は婦女子を殺害することは出来ないと考え、付近を通行中の石塚真理を認め、すれちがいざま同女の頭部に左腕を回して、右手で柳刃包丁を喉元に突きつけ脅すなどして、近くの中華料理店に引きずりこみ、「おれはいま人を殺したんだ、お前も逃げようとしたら殺すぞ」などと同女を脅迫し、所携の柳刃包丁で首、肩、背中などを三十七カ所にわたって傷つけ、前後七時間も同女を生きながらにして、生死の境をさまよわせたのである。  こうした被告人の犯行は、きわめて悪質であり、動機にまったく同情の余地はない。被告人が勤務した水産会社、すし店などいずれも勤めはじめて間もなく解雇されただけでなく、新聞の求人広告をみて就職しようとしたすし店から、いずれも採用を拒否されて将来に対する希望を失ない、自暴自棄となって通行中の婦女子を狙い、八ツ当り的に次々と本件殺害行為におよび、水産会社やすし店の経営者等にうらみを晴らすことを目的として、監禁行為をおこなったものであるが、被告人が短期間に解雇され、採用を拒否された理由は、たとえば初日から遅刻するなどの、怠惰かつ粗野な生活態度に起因しているのである。  もっとも被告人には爆発性、意志欠如性などの性格異常があるが、風祭鑑定人が指摘するように、異常性格であるだけでは、正常人と同様の行為が期待出来たのであり、職場を奪われたという極限状況は、被告人が自ら求めたものである。  被告人には稼働能力があり、過去に『栄寿司』や伝虎水産などで長期間働いていた実績など考えあわせると、心構えひとつで職場を奪われることなく、安定した生活を送ることが出来たのであり、また水産会社やすし屋以外にも、家庭をつくる道はいくらでもあったのである。  さらに被告人が、本件犯行をおこなうに至った動機決定に、覚醒剤中毒による幻覚症状の影響があげられているが、これは動機の一部にかかわりをもつにすぎない。そもそも被告人自らが、法を犯すことによって作りだした状況であって、もとより|斟酌《しんしやく》すべき情状には当らないと見るべきである。  要するに被告人が、将来に対して希望を失ない、自暴自棄になったことは、自身に帰すべき事由によるものであって、そうした状況にあるからといって全く関係のない通行中の婦女子を、次々に殺害することが是認される理由はない。また通行中の婦女子を何時間ものあいだ、死の恐怖に閉じこめておく理由もないのである。被告人の一連の身勝手な行動には、なんら斟酌すべき理由はなく、本件犯行の動機に、同情すべき余地はない。  被告人は少年時代から友だちとよくケンカをし、ささいなことで相手を殴りつけ、あるいは相手に攻撃の隙を与えず、先制攻撃的に暴力をふるうなど生来粗暴であり、成人してからも前記のとおり、稼働能力があったにもかかわらず、怠惰で勤務状態が不良であったことなどから、転々と職を変えてとどまるところを知らず、また暴行、傷害、脅迫、恐喝、暴力行為取締令違反などの粗暴犯を繰り返し、川越、水戸、府中など刑務所で服役したのであり、服役中も破壊、暴行などの規則違反を繰り返している。  昭和五十六年四月二十一日に府中刑務所を出所すると、犯行当日まで約二カ月間に、七軒のすし店を転々として自ら窮地におちいり、遂に本件凶行におよんだものであり、被告人には勤労意欲も遵法精神も全くなく、きわめて反社会性が強いことから、今後もなお同様の犯罪を重ねるおそれは大である。  本件被害者ならびに被害者の家族は、いずれも被告人に厳罰をもって臨むことを望んでいる。一瞬にして最愛の妻と二児を失なった長野義明は、「妻子のことを思い出すと涙がとまらなくなる、気がおかしくなりそうです、なんの罪もない人間を平然と殺す川俣は獣です、死刑にしてください、お願いです」と述べ、さらに最愛の妻を失なった二本松正義は、「残された子どもたちのことを考えると、これからどう生きていけばいいのか、やるせない気持でいっぱいです、殺してやりたい気持です」と述べ、それぞれ被告人に対する憎悪の念を、心底から吐露しているのである。  その他あやうく一命をとりとめた被害者だけでなく、近隣の住民でさえ、「犯人を憎んでも憎みきれません、絶対に死刑にしてください」と訴えている。被告人は被害者、遺族に対してなんらの慰謝の意を尽くしておらず、本件量刑にあたっては被害感情も十分考慮されなければならない。  次に本件が社会に与えた影響は甚大である。白昼堂々しかも公衆の面前で敢行されたものであり、また新聞、ラジオによって全国に報道され社会の耳目を集めたことは、今なお世間の記憶に新しいところである。本件のごとき凶悪きわまりない犯行によって、社会を|震撼《しんかん》させた被告人に対しては、厳正な刑罰をもって臨み、社会の健全な道義感情に応ずることが、是非とも必要である。  第三 求刑  以上、本件犯行の重大性、凶悪性、結果の重大性、犯行の手段方法の残虐性、被告人の性格、社会に与えた反響、遺族等の被害感情からすれば、被告人に対しては極刑をもって臨む事案ではあるが、前記のとおり被告人は本件犯行時に、是非善悪を弁識しその弁識にしたがって行為を制御する能力が減弱していたと認められるので、刑法第三二条二項にのっとり、被告人を無期懲役に処するを相当と思料する。なお押収にかかる柳刃包丁一丁は、被告人の所有するものであり、没収すべきである。  法曹界には「八掛け」なる陰語があり、求刑十年なら判決八年、五年なら四年の意味という。それが死刑なら事情が変るけれども、無期相当と思えば死刑を求刑しておく習慣が、なかったわけではない。しかし最近は検察内部の反省から、「八掛け」よりも「満額」の傾向が強まった。求刑した以上は、それだけの判決を引き出そうというのだ。  この事件に対する求刑は、世論を背景にすれば「死刑」以外にないが、起訴前の鑑定と裁判所が命じた鑑定から、裁判長が心神耗弱と認定することは確実である。検察当局としても鑑定結果を尊重して、「無期」で臨むことにしたと思われる。  ——「川俣」無期求刑/「浮かばれない」「割り切れぬ」/怒りをぶつける遺族、関係者/妻子奪われた長野さん、人知れず引っ越し/「耗弱なんてとんでもない……」(十月二十二日『読売新聞』夕刊の見出し)  各紙それぞれ、論調は似通っている。遺族や被害者を取材しており、次のような談話が掲載された。  人質になった主婦。 「いま思い出しても、腹立たしさでいっぱい。人質にされている間も、差し入れのカレーライスを『真ん中も端も食べてみろ』とか、ジュースを『かき回してから飲め』などと念入りに毒見させられ、『なんて冷静なんだろう』と思ったほど。心神耗弱などとんでもない」  殺された嫁に代って、孫娘の世話をしている老女。 「無期求刑? それでもいいですよ……。嫁の親なども、川俣が無期で一生、刑務所の中で苦しめば、それがつぐないになるのでは、などと言っています。近所の人の中には四人も殺したのだから、絶対に死刑だという人もいます。私も本音をいえば、それに近いのですが」  妻子三人を一瞬にして失なった会社員は、事件のあと酒の飲みすぎで体を壊した時期があり、「この家に居れば妻や子が居る気がして、部屋で子どもとふざけっこする夢を見る」と洩らし、九月中旬に行先を明かさず引っ越していた。 [#改ページ]         7  昭和五十七年十一月十二日午前十時から、第十一回公判がおこなわれた。  この日は弁護人による、最終弁論である。前回の論告求刑のあと、弁護人が東京拘置所へ行ったら、軍司の態度が一変していた。最初に会ったときは「放っといてくれよ」とうそぶき、「サムライのおれに殺されて、町人は本望だろう」などと言った。その後だいぶ態度は軟化したものの、言葉づかいはあいかわらず、ぞんざいであった。それが思いがけず、「ご苦労さまです」と迎えたのだ。死刑の可能性がないと分って、ようやく安心したのだろうか。  ——死刑のばあい、絞首台へなんか行くものか。武士のとるべき道として自決する。  口をひらけばそう言いながら、公判をマスコミがどう報道しているかを、しきりに知りたがる。やはり以前から、死刑を恐怖していたのかもしれない。それでいて第九回公判の被告人質問では、仮に自由の身になっても自ら死を選ぶ、という意味のことを言った。  主任弁護人は、犯行の動機について、「自殺願望」を想定していた。   生きていて何の楽しみもない。だからといって自殺までやりたくはない。死ぬ方法としては、残虐なことをすればよい。そうすれば死刑にしてくれるだろう。   自分は電波・テープに苦しめられている。かあちゃんを貰いたいのだが、その迫害で夢は叶えられぬし、楽しそうな家族連れを襲ったあと、死ぬことにしよう。   これだけ迫害している黒幕を、大事件を起こして引きずりだし、大恥をかかせてから死ねばよい。  自殺願望の犯罪としては、昭和四十九年八月二十八日に神奈川県平塚市で起こった、「ピアノ殺人事件」がある。犯人の大浜松三は法廷で、「私としては死刑台に行きたいだけです」と述べて、一審で望みどおり死刑判決を受けた。そして二審の東京高裁における精神鑑定で、「|偏執型《パラノイア》」の診断を下されるのである。この精神鑑定は、東京医科歯科大の犯罪精神医学研究室の主任教授・中田修がおこない、山上皓が鑑定助手をつとめた。  弁護人が第四回公判で、精神鑑定を申請するにあたり、中田修と山上皓の名前を挙げたのは、この事件と共通性があると見たからだった。 「裁判長!」  最終弁論に入る前に、弁護側は証拠申請した。 「山上皓教授の『偏執型と殺人——パラノイア問題への寄与』という論文です」 「検察官いかがですか」  裁判長に問われて検察官は、「しかるべく」と答えた。異議がなければ採用である。  こうして証拠採用された論文には、「ピアノ殺人事件」を中心に、妄想にもとづいて想像上の迫害者に対して、復讐の殺人をおこなった事例が挙げられている。  大浜松三は、昭和三年に東京の江東区亀戸に生まれた。父親は書店を経営しており、大浜は三男三女の三男だった。幼児の頃から活発で、餓鬼大将ぶりを発揮したが、性格は素直で明かるく、小学校に入ってからは、ずっと級長を続けた。しかし三年生のとき、近所の|吃《ども》りの子と遊んでいるうち、自分も吃るようになって悩んだ。中学へ進んで間もなく、国語の時間に指されたものの、朗読が出来ずに屈辱的な体験をして、劣等感を抱いて学習意欲を失ない、みるみる成績が落ちた。性格も暗くなり無口で、中学を卒業して、疎開先の山梨県で敗戦を迎え、親戚が経営する鉄工所で働いた。このころ吃音は、いっそうひどくなって、職場ではちょっとしたことで腹を立てた。また家庭では兄たちと毎日ケンカして、近所の人と顔を合わせても、目をそらして口をきかなかった。  昭和二十三年に大浜は、国鉄中央線の国立駅に勤務するようになった。IQは一〇九あって「頭の良い男」と見られていたが、競輪に熱中して公金に手をつけ、二十六年に逃走した。この公金拐帯逃走中に、街で引ったくりをして捕えられ、懲役一年(執行猶予三年)の判決を受け、国鉄を解雇された。そのあと旋盤工場に就職したものの、長続きせずぶらぶら家で過ごし、注意する兄とケンカばかりして、昭和三十年に家出した。およそ一年ぐらい、港区新橋で浮浪者として過ごしたのである。  昭和三十一年に亀戸の家へ帰り、ふたたび旋盤工として働きはじめるが、工場を次々に替った。吃音のため先輩に嫌われ、仕事を教えてもらえず、勤労意欲を失なったという。それでも三十四年に、結婚することが出来た。三十一歳の大浜は、結婚後も仕事を怠けて、気にいらないことがあると、すぐ妻を殴った。そのため一年後に別居し、妻は家庭裁判所に離婚調停を申し立て、やがて離婚が成立した。  離婚した大浜は、八王子市へ移った。アパート住まいをはじめて、日野市の自動車工場で働いたのである。アパートの住人は、ほとんどが夫婦者で、小さな子どもが多い。しかし大浜は、隣人たちとあいさつを交わさず、子どもに声をかけることもなく、「気難しい変り者」と見られていた。  昭和三十八年十月ごろ、大浜の身に異変が起こった。自動車工場は二交替勤務で、夜勤のとき昼間アパートで眠っていると、原因不明の「ドカーン」という音がする。これが数日間続いて、眠れなくなった。「ドカーン」という音は、なんであったのか。大浜が原因を考えたところ、思い当ることは一つしかない。一年ぐらい前に、同じアパートの夫婦者にステレオの音が大きいと注意したら、妻のほうが反発して口論になった。それを根にもって今ごろ、仕返しをしたにちがいなく、脳が破壊されてしまった……。 「急に、今まで気にもしていなかった周りの音が気になりだし、うるさくて夜も眠れなくなり、世の中が暗くなってしまったように感じられた」  アパートの子どもたちの遊び声がうるさいと叱りつけたり、夜中に吠える近所の犬を、刺し殺したりしはじめた。このためアパートの住人たちとは、ますます気まずい関係になった。  昭和三十九年七月に、大浜はアパートを出た。このとき転職をして、四十年には知人の紹介で結婚した。この女性は、明かるい性格で気だてがよい。しかし大浜は、気難しく無口で、打算的な|吝嗇《りんしよく》家であり、妻に対して暴力をふるう。結婚後まもなく、仕事をやめて家でぶらぶらしはじめた。そして雀の|啼《な》き声が気になりはじめると、外の大木によじ登って、ビニールテープを「雀よけ」と称して張りめぐらす。妻は何度も離婚を考えたが、大浜は昭和四十二年から、八王子市内の会社に就職し、夫婦は寮に移った。ここでしばらく、小康状態を保つものの、やがて隣人の話し声がうるさいと抗議しはじめ、口論が続いて退職した。  昭和四十五年四月に、夫婦は平塚市の県営団地に移った。大浜は失業保険を受給して、四階の一室でのんびり過ごしている。団地は静かな環境で、久しぶりの平穏が訪れたが、二カ月後に階下にクリーニング店員の一家が入居して、事態が一変した。  三階の部屋に入居した一家は、その日さっそく棚を取り付けるため、ハンマーでがんがんやりはじめた。大浜は愕然としたが、階下の亭主は腕っ節の強そうな男で、女房は初対面のときから|睨《にら》むような目を向けた。物音は明らかに当てつけだが、ヘタに抗議しようものなら、何をされるか分らない……。  大浜は階下の物音は、戸の開閉まで気にしながら、抗議に行ったことはない。むしろ自室の物音が、階下の一家を刺戟して、報復を招いていると考えた。だから妻に口やかましく注意し、部屋には厚いマットを敷いて、しのび足で歩いた。  にもかかわらず、翌年から階下では、日曜大工の音が激しくなった。いよいよ本気に、ケンカする気になったらしい。そう判断した大浜は、日曜はトラブルを避けるために、自分のほうが朝から外出した。  昭和四十八年十一月に、階下の一家はピアノを買った。娘が二人居て、毎日一、二時間は弾く。 「なぜ下の家がこんなにうるさくするのか?」  大浜は悩んで、ピアノの練習がはじまると外出し、このように騒音に敏感にさせる原因を作った、八王子市のアパートの主婦を|怨《うら》んだ。  昭和四十九年六月になると、階下の主婦の視線に、殺意ともいうべき不気味さを感じた。そういえば妻に対して、「自分には兄弟がたくさん居る」と告げたのは、「味方が多いから負けないぞ」と言うためだったのだ。また娘が、「おばさんところ、なんで子どもが出来ないの」と言ったのも、母親のさしがねによる厭がらせと思いこんだ。 「女一人でこんな強い態度に出られるはずがない。亭主がやる気になったにちがいない」  大浜は階段を昇り降りするとき、三階の部屋の玄関ドアが開いて、いまにも包丁を持った亭主が飛び出して来そうでおびえた。そこで自分も護身用ナイフを持ち歩き、部屋には防禦用の手製の槍を備えたが、あるとき階下から女房の弟が回覧板を持参したので、偵察行動と思い恐怖をおぼえた。  八月に入って、大浜はいよいよ追いつめられたと感じた。 「自分だけがなぜこんなに悩まなければならないのか? 自分はもう生きていけない。自殺するかもしれない。自分はもう死んでもよいけれど、自分をこれほどまでに苦しめた二人の女だけは生かしておけない」  大浜はこのとき、人を殺すことで死刑になれば、自殺を確実にするし、自分の命を狙う階下の亭主への逆襲という意味もあって、“一石四鳥”と考えた。  八月中旬には、働きに出ない夫に愛想を尽かして、妻が実家へ帰った。大浜は刺身包丁を買い、まず八王子市の主婦を殺しに行ったが、目的を遂げられなかった。そこで階下の主婦と娘二人を殺す機会をうかがっているうち、八月二十八日が訪れた。  その日は早朝から、ピアノの音が聞えた。こんなに早くから厭がらせをするのかと、大浜は憎悪しながら紙袋の中に、包丁を入れた。ほかに首を締めるためのサラシ、血を拭き取るタオル、電話線を切断するペンチ……。  やがて階下の部屋では、亭主が出勤して、まもなく女房と次女が外出した。残っているのは長女だけと分り、大浜は侵入して刺殺し、次に帰宅した次女を刺殺して二人の死体を隠し、最後に帰宅した主婦を刺殺し、電話線を切断して逃走したのである。  大浜は逃走中に、何度か自殺を思い立ちながら、果たせなかったという。新聞には他の殺人事件の、犯人のモンタージュ写真が載っており、それが自分に酷似しているので、このまま死ねば自分が罪をかぶることになると考え、八月三十一日に平塚署へ自首した。  逮捕されてからは、被害者の一家の悪意と殺意を訴え、自分の行為の正当性を主張し、同時に「死刑になりたい」と訴えた。逃走中に読んだ新聞によれば、団地の主婦たちが大浜のことを“変人”と呼んでおり、これは被害者の主婦の裏工作にちがいない……と言うのである。取調べの司法警察員は、「妄想的な動機」について多く聞かされながら、ほとんど調書にしなかった。大浜は妄想を妄想として、認識し得なかったのであり、それまで日常性格で妄想を押し隠したように、捜査官の前でも伏せようとする。したがって調書を作成する側も、恣意的に責任能力を認めようと構える。  検察官は、「ピアノ等による騒音に対する憤激」を犯行動機として、大浜を起訴した。公判で被告人は、自らの非を認めて、死刑を望む旨を訴えた。弁護人は精神異常を主張し、横浜地裁小田原支部は精神鑑定を命じたが、医師による鑑定結果は、「精神病症状は認められない」であった。  昭和五十年十月二十日に、死刑判決が言い渡された。 「犯行はピアノの音に端を発したもので、殺意の形成過程に特別の突発的な精神異常は認められない。犯行は用意周到に計画され、冷徹なまでに落着いて遂行しており、本件犯行当時に被告人の事理弁識能力が、いちじるしく減弱していたものとは認められない」  大浜にとっては望みどおりの判決で、控訴をしないと言う。しかし弁護人が十一月一日付で、控訴手続きをとった。大浜は不満の意を表わしたが、弁護人は説得して、控訴趣意書を書かせた。この大浜自筆の控訴趣意は、原稿用紙八十枚におよぶ、妄想の集大成であった。  昭和五十一年五月に、東京高裁は東京医科歯科大教授、中田修に精神鑑定を命じた。このとき鑑定助手をつとめた山上皓は『偏執型と殺人』で、「鑑定時所見」として次のように書いている。 「Mは、やせて小柄な身体をいつも前かがみにし、伏目がちでしばしば憂うつげに顔をしかめる、一見弱々しい外見の中で、表情の硬さと眼光の鋭さが目立つ初老の男性である。吃音は時に軽度に認められたが、会話に支障をきたすほどのことはなく、自らが関心を抱いている話題についてはむしろ饒舌であり、雄弁でさえあった。鑑定には概ね素直な態度で応じ、協力的であった。  身体的には、脳波所見が境界域にある(|α《アルフア》波が比較的広汎に出現する)ことを除いて、特記すべきものはない。  心理検査においては、全IQは一〇九と高いのに比して、客観的事実の認知や対人理解に著しい欠陥があり、社会適応性の低いことが指摘された。  面接に際しては、感情をおもてに表わすことは少なく、自ら犯した残忍な犯行についてもためらうことなく淡々とした調子で述べ、後悔や|憐憫《れんびん》の情などを表わすことはなかったが、鑑定人による批判的な質問などに対しては、しばしばいらだちや不快感を表わした。抑うつ気分に支えられた自殺念慮は、なお強く存在する。  自らの生活史については、詳細に|亘《わた》って比較的正確に述べることができるが、過去の体験、なかんずく対人関係の中で生じた争いに関する彼の陳述の中には、誤認や誤解ないしは記憶錯誤とみなしうるものも少なくない。一般的な騒音に対する過敏性は、特に認められないが、他者の自分に対する評価には著しく敏感であり、小心で猜疑心が強く、容易に独断的思考、判断に走る傾向がある。  Y(被害者の主婦)に関する妄想は確固としてゆるがず、むしろ時とともに妄想的な解釈によって細部を補われ体系化されて来ているが、人格の崩れはみられず、自我意識の障害や幻覚などの内的体験の異常も認められない。病識はないが、自らが“神経過敏症”であるという自覚はある。但しこれには、S(八王子市のアパートの主婦)による“爆発音”のために脳の一部が破壊されたためだという、妄想的な確信が伴っている。意識障害や脳器質疾患などを疑わせるような所見はない。  鑑定人はMが本件犯行当時パラノイアに|罹患《りかん》しており、責任無能力の状態にあったと判定した」  この鑑定期間中に、突如として大浜松三は、弁護人との相談なしに控訴を取下げた。十月五日付で自ら「控訴取下申立書」を作成し、拘置所長を通じて裁判所に提出したのである。 「死刑を免れて無期懲役になったところで、刑務所での生活がうまくいくとも思えない。騒音過敏と不眠症で、人生に疲れはてている。ここでの生活は、自殺もままならず、それならいっそ、処刑されたほうがいい。もし精神鑑定で異常と結論が出て免責されても、一生を病院で過ごさねばならぬ。したがって、処刑によって自殺の目的を遂げたい」  東京高裁はただちに、大浜の取下げを有効と認める決定を下した。これに対して弁護側は、「被告人は取下げのときも重いパラノイア状態で、訴訟能力を欠いていた」という理由で、決定無効の抗告をした。現実に精神鑑定で、「責任無能力」と判定されたばかりなのだ。  昭和五十一年十二月十六日に、東京高裁第四刑事部の裁判長寺尾正二は、控訴取下げを有効と認める決定を下した。 「この申し立ては、パラノイアとはいちおう切り離して考えることも可能である。被告人は、控訴取下げの申し立ての結果、原審の死刑判決が確定し、その後これを動かす手段が全くないことになる旨を、熟知したうえで申し立てにおよび、この申し立てはパラノイアとは直接関係がないものであると考えられる。申し立ては通常人の考えかたからすれば、不自然なものではあるけれど、申し立てそれ自体は訴訟能力の欠けるところのない精神状態、すなわち自己の防禦上の利害を理解し、これに従って行動する能力を備えている状態で、真意を表明したものであると認めざるをえない」  しかし弁護側は、裁判所が自殺願望に手を貸すものとして、強く反発して異議を申し立てた。このため東京高裁第五刑事部で、控訴の取下げが有効か無効かをめぐって、争われることになった。  昭和五十二年四月十一日、高裁第五刑事部の裁判長谷口正孝は、第四刑事部の決定を支持した。 「被告人の本件控訴取下げに至る動機、目的、目的達成のための手段の選択は、目的意思活動として欠落するところはなく、控訴取下げの法的意義、その法的効果の認識は十分備わっており、被告人の右控訴取下げの行為は、すべて了解可能であって、所論のように被告人が妄想に基づき、しかも控訴取下げの意味を認識理解することなく、本件控訴取下げの申し立てをしたものとは到底認められない」  こうして大浜松三の死刑が確定したが、『偏執型と殺人』の著者は、次のように批判している。 「さて、刑事訴訟法上の訴訟能力は、民法上の行為能力に比すべきもので、刑法上の責任能力とは異なるところがある。したがって、刑事責任能力の原則を、訴訟能力にすぐ適用することも許されないであろう。しかも、控訴取下げの能力といったものについて、従来あまり論議されていないようである。  ただし、パラノイア患者の行為能力について、部分行為能力を認めるべきであるという見解がある。そうすると、これにともない、もし妄想と法律行為とのあいだに、密接な関連がある場合には、行為無能力が認められる。  Mの場合、控訴取下げの動機となっている自殺念慮が、妄想と同様に病的であるかないかということが、重要な点である。著者は、本例の自殺念慮は、同時に本件犯行の動機の重要部分をなしており、妄想と密接に関連していると考える。すなわち控訴取下げは、病的な動機である自殺念慮にもとづいているので、訴訟無能力が認められるべきであると考える。  従来、わが国においても、またドイツにおいても、たとえ精神病が明らかであるような場合でも、なるべく訴訟能力を肯定して、公判手続きを進めて行こうとする傾向がある。中田によると、これは主として被告人の利益と裁判実務上の利点を配慮しての、便宜的な措置としての意味あいを持っているように思われる。  しかしながら、便宜的な運用が原則を歪めてしまうことのないよう、充分な配慮が要請されよう。H・W・GRUHLEは、〈鑑定人によって責任無能力、訴訟無能力、弁論無能力と記述された精神分裂病の犯人が、『精神病にかかっている』として審理中止になることが従来しばしばあったが、今日では異論のない精神分裂病患者に対して、遺憾ながら、しばしば審理が行われている〉と述べている。少なくとも症例1のような場合には、より積極的に訴訟無能力が認められてしかるべきであろう」 『偏執型と殺人』においては、著者が手がけた三つの症例が論じられており、症例1が「パラノイア」の、大浜松三である。  症例2は「妄想反応」で、三十歳の無職の男が昭和五十年四月に、父母と弟妹をマキ割りで襲い、殺人未遂で逮捕された事件である。男はトルコ風呂で働く妻のヒモとして暮らしながら、両親から差別されていると思い込み、やがて殺されると妄想し、自分のほうが殺そうとしたのだった。  症例3は「パラフレニー」で、二十四歳の京大生が不仲な実弟と決闘すると称し、昭和四十四年四月に刺殺した事件である。兄弟共に空手を習っており、決闘を挑んだのも兄としての|面子《メンツ》だという。  これら三例の「偏執型の殺人の犯罪学的特徴」として、自殺と殺人の関連性が考察されている。症例2においては犯行前に遺書まで用意し、症例3では弟と決闘の結果では、自殺してもよいと思いつめた。このように犯行前に自殺が決意されていると、犯人は一種の絶望状態にあるので、犯行に際してなんの仮借もなく、徹底的に犯行を実行するという。  しかし犯行前には、攻撃性の抑制がみられる。大浜のばあい階下の騒音に悩みながら、抗議をしたのは四年半のあいだに一回にすぎず、それも妻が出向いた。症例2では家族から差別された妄想を抱きながら、攻撃したことは一度もなかった。症例3では多くの人たちから挑発や侮辱を受けたと妄信しながら、暴力的に対応することは稀で、ひたすら鍛練につとめた。  それが「殺人の行動的特異性」になると、ずれが生じてくる。症例1では計画に従い、冷静沈着に遂行しているが、症例2ではマキ割りで切りかかるとき、自分の目を閉じたため取り押えられ、症例3では弟に決闘を挑んで拒否され、とっさにナイフで刺した。 「犯行後の態度」では、1と3はいずれも悔悟の情を示していない。1の大浜は、「自分がこれまで受けた迫害のひどさにくらべれば、自分の犯行など物の数ではない」と述べ、3の学生も同様である。2のヒモの男は、家族に対する不審の念を、捨てきれないでいる。 「以上より、偏執型とくにパラノイアの殺人の行動的特異性として、犯行前の生活態度には外見上目立ったところがあまりなく、犯行は綿密に計画し準備され、犯行はしばしば冷静、沈着に遂行され、犯行後たいてい悔悟を示さない、ということが認められる。パラノイアでない偏執型においては、犯行に対する準備が粗漏であったり、犯行の遂行に冷静さを欠く場合があり、やはりパラノイアの犯行はその他の偏執型のそれとは若干異なるところがある」  そこでパラノイアの大浜松三に絞って、試論が展開される。大浜のばあい、少年時代に患った言語障害が、妄想を生む役割をはたしたのではないかという。言語が通じない異国や、拘禁状態におかれた者は、しばしば妄想が発展する。  鑑定のとき大浜は、他の証言者と喰いちがう内容の事実を述べた。仕事を怠けて暴力を振うことに、妻が不満を示すと、それが自分のせいとは気づかず、仲人が彼女を騙したことへの不満だろうと推論する。隣人たちが“変人”と見なしていると聞かされると、それは事実無根であって、自分を陥れるために言うのだと邪推する。自分が理解出来ない部分を、邪推と独断で補い、重大な判断錯誤に陥るのである。  少年時代に患った言語障害が、他者との会話を避けるきっかけになり、距離を置いて臆測と推断をする習慣が身につき、強い劣等感と猜疑心により、日常的な体験に被害者的な着色を加えるようになった。この空白を現実を無視した独断で埋める……。  大浜は階下の主婦が、初対面のときから顔を合わせる度に、睨みつけたと言う。それに加えて騒音を立てるのは、非常識な人間だからと思った。しかし世の中に、非常識な人間はそんなに居ない。きっと常識がありながら、そうしているにちがいなく、それは悪意だと断定してしまったのである。 『偏執型と殺人』は、次のように結ばれている。 「想像上の迫害者に対する復讐を企図して殺人ないし殺人未遂を犯した、パラノイア、妄想反応、パラフレニー、各一例の精神鑑定例を報告した。そしてこれらの症例にもとづいて、偏執型の殺人の犯罪病理学的特徴と司法精神医学的問題点、パラノイアの発生機制について追究した。得られた知見の総括は次の通りである。 一 偏執型の殺人では、殺人と自殺との関連性が非常に密接である。どの症例も、“迫害”に対してひたすら耐え、限界状況に陥って自らの“死”を予感した時点で復讐が決意された。自らの死を覚悟しているために、犯行が一層激越なものとなる傾向がある。 二 偏執型とくにパラノイア殺人の行動的特異性として、犯行前の生活態度には外見上目立ったところがあまりなく、犯行は綿密に計画し準備され、犯行はしばしば冷静、沈着に遂行され、犯行後たいてい悔悟を示さない、ということが認められる。 三 偏執型の犯罪では、妄想内容の現実親近性と、分別と全人格の維持という、偏執型の特徴が、却って彼らの法的能力を肯定する根拠とされ、訴訟過程において誤った判断が下される傾向が認められる。 四 パラノイアの発生機制に関して、判断能力の発達障害、なかんずく対人理解力、自己反省の能力における未熟さが、とくに重要であることが明らかにされた。 五 妄想の体系化は、患者が体験する不快で了解困難な体験と、現実の状況との間隙を埋める、『充填物』としての役割を果している。 六 妄想の体系化の過程は、種々の段階において患者にみられる社会性、共同性の乏しさによって促進され、パラノイアおよびその近縁疾患は共同性疾患と呼ばれるにふさわしいものである」  公判の冒頭に『偏執型と殺人』が証拠提出されて、弁護人による最終弁論に入った。弁論書もプリントされ、裁判官と検察官に手渡されている。  朗読は、前段を木下弁護人、後段を落合弁護人がおこない、被告人はいくぶん前かがみの姿勢で聞き人った。  はじめに  先ずはじめに、本件がもたらした結果がきわめて重大なものであり、これによって尊い人命が失なわれたことに対しまして、弁護人としても誠に|傷《いたま》しい思いを禁じ得ないのであります。かつまた本件が社会一般に与えた影響が甚大であり、被害感情も激しいものであると、十分理解出来るところであります。もし本件が、正常人によって起こされたものであったなら、社会からの重大な非難に価いして、これに対して峻厳な処断がなされるだろうと考える次第であります。  しかしながら本件は、まさに正常ならざる異常者、すなわち精神障害者によってなされたのであります。いちおう犯罪行為の形態を有しておりますが、重度の精神障害者によってなされたものであり、法律上は犯罪行為とはならない。被告人の刑事責任を問うにあたり、何よりも被告人の精神状態、これこそ問題にされなければならないのであります。  本件の審理において明らかにされたとおり、動機の不存在、犯行態様の余りにも異常さからしましても、正常人ならざる精神障害者によっておこなわれたことを、うかがわしめるものがあります。本件について正しい処分というものを考えるにあたり、被告人の精神障害の有無および定義、これが本件処理におよぼした影響について、精神医学的見地および法律的見地から、慎重に判断されなければならない。結果の重大性、悲惨性のみに目を奪われて、刑事裁判としての判断の、|正鵠《せいこく》を逸することがあってはならないと考える次第であります。  そこで本弁論は、被告人の行為時における精神状態を論ずるにあたりまして、生活史的背景、現在の症状、さらに行為時の精神状態を詳細に検討いたしまして、刑事責任能力が不存在、ないしは著しく限定されたものであったことに及ぶのであります。  すでに公判廷において取調べ済みの証人・福島章作成の精神状態鑑定書および証言、鑑定人・風祭元作成の精神鑑定書および鑑定人調書ならびに証言、被告人の供述調書、当公判における供述、被告人作成の上申書および日記、こういった一切の証拠を総合すると、次のような事実が明らかになるのであります。  まず被告人の、生活史的背景から述べることに致します。  一、家族歴  被告人の精神状態に関連する要因として取りあげるべきは、生物学的な遺伝素因および家庭環境による倫理観念、規範意識等でありまして、これを明らかにするため、家族歴から見ることに致します。  前記の被告人の供述調書および各鑑定によって見ますと、家族歴として特に注目せられるべきものは、父親・兄弟ともに短気の性格傾向があり、兄は**前科を有する発揚型の異常性格者で、両親とも**性疾患にかかったため、母は被告人の出産前後に流産している。したがって母体環境が劣悪であったことがうかがわれ、父が私生児を産ませ、母が私生児であったりする。  これらの要因が、被告人の精神状態および性格に、著しい悪影響を与えていることを、重視しなければならないのであります。  二、生活歴  被告人の幼少年期には、家庭の状態がきわめて貧困でありまして、そのため中学卒業後は家庭の貧しさから進学を断念し、東京・築地のすし屋に就職し、三年住込みで働きました。このころから飲酒をするようになり、酒癖も悪かった。最初のすし屋をやめたあと、別のすし屋や運送店などを転々とし、昭和四十七年ごろから酔って傷害や恐喝事件を起こすようになりました。  川越少年刑務所に服役し、五十年九月に出所して、運送会社を転々とした後、五十一年八月から恐喝事件により、水戸少年刑務所で五十二年四月まで服役した。この服役中においては、反則がきわめて多かったことがうかがわれます。  水戸少年刑務所を出所したあと、父親とともにしじみ採りに従事しており、かなりの高収入がありましたが、これを車や飲酒や交遊等に費ってしまって、五十三年十月には傷害事件によって懲役一年の実刑を受け、五十四年十一月まで府中刑務所に服役し、出所後は東京や銚子で梱包会社、水産会社等を転々とし、この間に覚醒剤を使用しております。  五十五年に業務上過失傷害、無免許運転により懲役七カ月の判決を受け、五十六年四月まで府中刑務所で受刑しました。この服役中も反則が、はなはだ多かったのであります。  このように幼少時の不良な家庭環境、早期からの飲酒と若年からの累犯傾向、覚醒剤の使用、驚くべき数の転職などが、被告人の精神状態および性格に、きわめて著しい歪み、偏りを与えたことがうかがわれるのであります。  三、既往歴  被告人の出産は早産であり、乳幼児の栄養状態も劣悪で、発育は著しく遅れた。夜尿も小学三年まであり、|痙攣《けいれん》発作も数回あった。このような精神的、身体的な発達の遅延が、被告人の精神状態に重大な悪影響を与えたことは、推測に難くないところであります。  続いて飲酒および薬物乱用歴、これはただいま申し上げましたとおり、十六、七歳から飲酒を始め、次第に酒量が増すとともに、飲酒|酩酊《めいてい》中に傷害事件を起こすなど、異常酩酊の傾向がみとめられる。また五十三年、五十五年初めごろに覚醒剤を使用している。こういった飲酒、薬物乱用歴も、精神状態にかなりの影響をおよぼしたことがうかがえるのであります。  次いで非行、犯罪歴について言いますと、飲酒のうえでの粗暴犯が多く認められます。成年に達しても、懲役二年、十カ月、十カ月、一年および七カ月の判決を受け、川越少年刑務所、水戸少年刑務所、府中刑務所(二回)に受刑服役し、その間に反則が多かったことが、注目されるところでございます。  四、現病歴  被告人の本件犯行時における、病的な精神状態を知るためには、被告人の主観的な異常体験を踏む必要が、存するわけであります。この異常体験というのは、すでに十七歳ごろ『栄寿司』に勤務していたころから、はじまっている。当時被告人は、中学時代の同級生と友人宅へ遊びに行った帰り、電車の中で向かいあって坐った同級生が、すごい顔つきをしているので、「これは誰かにそうさせられている」と思ったのが最初です。  それ以後、五十年の川越少年刑務所を出所する前夜に、床の中で水の流れる音に混じって二人の声で、「どっちみちこうなるんだ」と言うのが聞えた。あるいは翌五十一年に上京して運送会社に勤務中、異様な雰囲気がしたので振り向くと、社長と運転手がすごい顔つきをしておりまして、これも誰かに言われてそうしていると思ったという体験があります。  昭和五十一年に水戸少年刑務所に服役中に、鼻にビリビりと電波がこびりついて、脳の内部に入ってくるという体験がありました。電波でいじめられていると思い、また刑務所を出所したときに、出迎えの父母の振舞いが不自然なので、異様に感じたという体験があります。  その後、昭和五十二、三年当時の電波のビリビリする感じとか、テープの声が続いておりまして、五十四年一月に府中刑務所に入所してからは、ますます激しくなってきております。その状況は以前にない強力なもので、脳の内部を支配され、強制的に考えさせられ想像させられた。悲しくないのに悲しい思いをさせる「メソメソ電波」、可笑しくもないのに顔がゆるんでしまう「ニタニタ電波」が間もなく来て、その後は男や女の声で異常なことを繰り返し脅し、看守や同囚者も陰口を言っている。これらはいずれも、迫害者が圧力をかけて言わせている、と考えているわけであります。  続きまして昭和五十四年十一月の出所時に、被告人が「ヤクザの大物から電波を飛ばされる」と言うのを、兄が聞いております。出所後も電波はひどく、勤務先の社長、従業員あるいは通行人の陰口や、不自然な演技というものを体験しました。さらに五十五年頃からは両親、兄弟等も陰口や不自然な演技をはじめるようになって、これは黒幕から圧力をかけられ、グルになっていると考えるのであります。被告人の母親の葬儀の時において、兄弟や親戚らが陰口や演技をしていると感じ、弟と殴り合いのケンカになった事実さえ浮かぶのであります。  五十五年七月の逮捕、拘留後に懲役七カ月を言い渡され、二回目の府中刑務所では、電波・テープがますますひどくなって、間断ない男女の声や電波で、心理的にいじめられたといいます。  そして五十六年四月二十一日に府中刑務所を出て、兄に電話をかけた被告人は、「親兄弟までグルになってひっつかれた、兄貴はオレが麻酔を射たれて殺されてもよいのか?」という、異様な質問をなした事実がある。その後五月二十日ごろ、兄の会社を突然訪ねて、手紙だけ渡して帰りましたが、「電波、テープ、陰口などが絶え間なく自分を苦しめており、親兄弟も皆グルになっている、勤め先をクビになるのもそのためである」というようなことが記されていました。  本件前夜の六月十六日夜に、宿泊所の近くの飲食店で突然「軍平!」と呼ばれた。この軍平というのは、『栄寿司』時代の愛称でありまして、知るはずがないのにこのようなことを聞き、迫害者の手が回っていると|慄然《りつぜん》として、宿泊所では一晩中ずっと同宿者の陰口を聞いた。  以上述べました異常体験は、精神医学上は体感幻聴、幻覚、妄想、関係妄想、作為思考、作為体験と称されるものに相当すると認められるのであります。  五、現在症  続いて精神的現在症について見ますと、絶え間なく電波やテープの声が送られてきて、この異常体験は先ほど述べたとおりでございますが、男と女の声が聞えて異常な内容の話をするという幻聴、強制的にメソメソ、ニヤニヤさせられる作為思考などは、依然として続いているのでありまして、これらを幻聴、作為思考、作為体験と考える批判力、すなわち良識というものは、一貫して被告人に欠如しているのであります。  身体的現在症についてみますと、このうち特に注目せらるべきものは、鑑定の最後の脳波所見におきまして、脳の機能に問題があると推測されると、これは福島鑑定でございます。もっともこの点は、風祭鑑定におきましては、「軽度」とされておりますけれども、被告人の幼少時における軽脳損傷の表現である可能性は、認めているわけであります。また福島鑑定では、第三脳室の拡大を、注目すべきものとして見ております。  さらに進んで心理検査の結果によりますと、まず風祭鑑定では被告人の性格を、内向性、爆発性、自己顕示性の傾向、潜在的同性愛、パラノイア的傾向、心気症傾向、以上のように見ております。次に福島鑑定においては、きわめて強く高い自我感情、主観性、自己顕示性、潜在的な同性愛傾向、異常性格、意思疎通の困難性、順応性の低さ、幻聴、幻覚をもとに発展した妄想体系をさらに発展体系化しているとの鑑定結果であります。  六、犯行時の精神状態  続きまして犯行時の精神状態等に、ふれてみたいと思います。  被告人は昭和五十六年四月二十一日に、府中刑務所を出所したあと、すし屋に就職しようと六軒を回りました。いずれも断わられて、同月二十四日『寿司長』に就職が決まったものの、十六日間ぐらいでクビになったわけです。六月十三日までのあいだに、合計七軒のすし屋において、最も長く続いたのが『寿司長』で、短いものはその日のうちにクビになったり、おおむね二、三日間でやめております。六月十三日以降は職もなく、十六日には三軒のすし屋を回りましたが、二軒がその場で断わられています。  六月十七日の朝においては、所持金わずか百八十五円のみで、朝食も摂れない追いつめられた状態でした。被告人としては、「自分は一所懸命働こうとしているのに、自分を迫害する黒幕が、店主や従業員や客に圧力をかけて陰口を言わせ、その挙句にクビにさせられた」と固く信じているわけです。  犯行当日は唯一の望みであった『寿司田』に電話して断わられ、被告人の精神状態は、「黒幕の圧力によって、周囲の者すべてが陰口を言っている、そのために自分が、これから一所懸命に働こうと仕事を探しているのに、すべて奪われてしまう、これではもはや社会で生きてゆけない、自分の一生はもうこれで終った」と絶望状態におちいった結果、無我夢中で本件犯行に向かったことがうかがわれるのであります。  動機につきましては、福島・風祭鑑定の双方とも、「誰かを殺傷することが、事件をテレビなどで報道させるために必要だったと考えられる」、あるいは、「自分を苦しめる黒幕をあばき出すには、何人か殺傷してテレビなどで報道させて、自分が捕まる前に人質をとって立てこもり、採用しなかったすし屋、水産業者等を呼びつけて本当のことを白状させたかったためである」と、見ているようであります。  しかしこのような鑑定は、人質を取った後は妥当といえましょうが、それ以前の殺傷行為については、被告人の行為を事後に分析して、これを合理的に理由づけしたものであり、真実かかる理由によって殺傷行為をおこなったと見ることは、はなはだ疑問が存すると言わざるを得ません。  そのように見るよりは、社会では生きていけないとの絶望状態から、衝動的・発作的に殺傷行為におよんだと見るべきと考えます。いずれに致しましても、無関係の通行人を次々に殺傷し、幼児までも無感動に刺すという行為は、とうてい正常人の予期し得るところではないと思います。妄想に支配され、これに苦しめられている精神障害者の異常心理、異常精神状態の下でこそ、初めて起こり得る事柄であることは、敢えて述べるまでもないでしょう。  このような精神状態は、いかなる原因により生じたものであるかを確定するために、次のような要因が上げられております。  被告人の性格についてみますと、双方の鑑定いずれも爆発性、情性欠如性、意思欠如性、自己顕示性、自信欠如性等の複合類型の精神病質、すなわち異常性格といっています。これらの要因としては、先ほども述べましたとおり、兄が前科をもつ発揚性の異常性格者であること、父や兄弟そろって短気であること、母が私生児であることの配偶関係の不安定性、幼少時の成育環境の劣悪という遺伝的な原因、幼少時に軽度な脳障害の存在した可能性など、外的要因が上げられていると思います。  次に被告人のばあい、幻聴を主とする幻覚妄想により、法務省の高級役人が黒幕となって、勤め先の経営者や客や通行人や親兄弟に圧力をかけてクビにするいっぽう、電波・テープを使って男女の声でいじめ抜き自分を迫害するという、確固たる妄想体系を持っております。これは度重なる|馘首《かくしゆ》、あるいは不採用となってますます強化され、いかなる反証や説得によっても訂正不可能な、確信となっておるのであります。かかる反応性妄想発展という、心因性要因が重視されるべきでして、|偏執型《パラノイア》とも呼ばれるものであります。  さらに被告人のばあい、過去に覚醒剤を乱用したことによる、慢性中毒状態が継続していた可能性もあるといいます。そのばあい精神分裂症類似の症状が起こり、継続使用した後に仮に中止したばあいにおいても、脳に後遺症が残り、いったん消失してもなんらかの外的刺戟、心理的刺戟によっても容易に再現されるフラッシュバック現象も考えられるとされています。五十六年四月二十一日に府中刑務所を出所後の、覚醒剤使用の有無にかかわらず、過去の覚醒剤乱用による精神分裂症類似の症状は、否定し難いものがあると考えます。  以上のごとく遺伝的要素、外因的要因、心因性要因、慢性覚醒剤中毒による脳機能障害を総合するならば、被告人の犯行前、犯行時、現在の精神状態はいずれも、幻覚妄想状態にあったと認められ、福島・風祭鑑定の精神医学的診断の結果も、明確にこれを認めているところであります。  七、責任能力について  本件犯行は被告人が幻覚妄想状態にあった時に、妄想が犯行の直接的な動機となったものであります。すなわち法務省の高級役人と思われる黒幕や、その手下になっている者に対して、怒りや怨恨の情に駆られて爆発し、無差別に通行人に対して、殺傷がなされたものであります。  しかしながら、何故に無関係な通行人に対して、かかる殺傷行為がなされたかという点につきましては、正常人には全く理解することが出来ません。この点について両鑑定は、事件を大きくして報道させるため殺傷したと推測しておりますが、福島鑑定にいうように、「合理的に理解すればの話」なのであり、正常心理による意味づけと考えます。  要するに本件犯行の動機は、正常人には全く了解不可能であり、幻覚妄想状態において、妄想が直接かつ全面的な支配的動機となって遂行されたもので、もはやそこには規範意識なり、情性による抑制のはたらく余地は、全くなかったと見るべきであります。  この点につきまして福島鑑定は、「被告人の妄想は動機の形成に関与したにすぎない」「右妄相の帰結が必ず殺傷・監禁に至る必然性があったわけではない」といっています。また風祭鑑定では、「幻覚妄想によって誤信していたとしても、人格の変容はそれほど大きいものではなく、その状況を合法的な方法により回避することが期待出来た」という意見を示しています。しかしこれは、あくまでも正常心理学から見た、一つの推論にすぎません。全人格が確固たる幻覚妄想体系による、圧倒的支配を受けている状態にありましては、妄想が動機の形成に関与したにとどまらず、被告人の行動をすべて支配していたと見るべきであり、合法的な方法により回避克服することなど、とうてい望むべくもなかったのであります。  被告人は幻覚妄想状態の全面的、圧倒的支配下にある以上は、いわば正常人とは別の世界に住んでいるものと、言わざるをえません。その世界は正常人の世界と重なり合い、交錯するところもありますが、妄想に関連する領域では、正常人の理解を超える、異様な世界が展開されています。そこでは是非善悪を弁識する能力なり、その弁識に沿って行動を制御する能力は、もはや保持されていないと、認めるべきものであります。  先ほど引用した福島鑑定は、山上論文を援用しています。その山上論文におきましては、「偏執型ないしパラノイアのばあい、犯行が妄想に一義的に動機づけられていると考えられるから、責任無能力が妥当である」と言っておりますが、本件のばあいまさに該当するものと思料します。  以上述べましたとおり、被告人は本件発生当時は、幻覚妄想の直接支配下にあったのであり、心身喪失による行為として、無罪となされるべきものと考えます。もし何らかの理由でこれに当らないとしても、右能力が著しく低下していたものとして、心神耗弱と認められるべきと思料します。  なおつけ加えるならば、被告人の情状について検察官は、「職場を奪われたという極限状況は、被告人が自ら求めた状況であり、自らの心構えひとつで安定した生活を送ることが出来、またすし屋以外にも糧を得る方法はいくらでもあった」と述べています。しかしながら被告人としては、どの職場へ行っても迫害者の圧力がかかり、店主をはじめ従業員、客から陰口をきかれ、結局クビになると確信している精神状態におきましては、次々と職を失なうことが自ら求めた極限状況と言い得るかについて、多大の疑問を抱かざるをえません。  また検察官の言われるように、被告人は怠け者で粗野な生活態度で、生活も反社会性があるのが、精神障害に起因するものならば、必ずしも被告人を強く責めることは、適当ではないと思うのであります。  八、むすび  冒頭に述べましたとおり、本件の悲惨さや重大性はいうまでもないことですが、被告人の刑事責任を問うにあたり、精神状態の判断こそ、唯一の基準とならねばなりません。この点につきましては、「悪い人間は処罰すべきであるが、病める人間を処罰してけならない」との言葉を、思い起こす必要があると思います。被告人はまさに、病める人間であります。これに対しては処罰よりも、むしろ治療が適切であるというべきであります。  福島・風祭両鑑定とも被告人に対して、速やかに精神医学的診察と治療の必要を述べていることは、正しい処遇の道を示唆しているというべきであります。幻覚妄想状態における人間には、正常人における悔悟の情が全くありません。仮に存したとしても、きわめて微弱なものであります。おそらく被告人においても同様に思えます。かかる人間に対しての処罰は、単なる報復にとどまるのではないでしょうか。  近時、精神病者による大量殺傷事件があい次ぎ、世間の耳目を|聳動《しようどう》していることは、周知の事実であります。これに対応するために、犯罪傾向の危険の存する精神障害者への、適切なる処遇と惨事の未然の防止が、焦眉の急とされています。しかしながら、これはあくまでも精神障害者への、診断治療を方策としたものでなければならず、単なる社会からの隔離や処罰によって、その成果をあげるものではありません。  本件被告人においても度重なる前記事案の審理や、過去の服役中における反則行為を契機として、専門家による精神医学的診断と、適切な治療が加えられていたならば、かかる惨事も未然に防止することが出来なかったかと、思料する次第であります。本件のごとき悲惨な事件を契機として、精神障害者に対する適切な処遇と対応策を講じることこそ、犠牲者に対する何よりの供養ともなり、償いとなると考えるものであります。  このことは刑事政策的な観点からも、刑法の基本理念である道義的倫理的責任という面からも、うなずけるところであると考えます。幻覚妄想状態に支配され、真の意味での規範意識や倫理観を失ない、罪悪感や情性の希薄な人間を処罰することで、果して刑法の目的意義を求めることが出来るでありましょうか。  幻覚妄想の支配下にある人間は、自己の行為を正当なものと信じこそすれ、処罰を正当なものとは考えておりません。被告人の精神状態については、近時、精神医学の飛躍的な進歩により、かなり改善の見込みがあることは、容易に推測し得るところであります。心の病める被告人の適切な治療によって、幻覚妄想状態が消失し、正常な人間としての倫理観、規範意識、情性が回復して初めて、自己の行為がいかに残酷かつ重大なものかを悟り、本当の意味での悔悟をなすに至るであろうと考えます。これこそ刑政の心髄でありましょう。  最後に臨み当弁護人と致しましては、本件に対する反響が大であり、被告人に対する社会一般の憎悪がわき上がるなか、裁判所におきましては適切かつ慎重な審理をなされたことにつき、心から感謝を申しあげて弁論を終ります。  弁論が終ると、裁判長が被告人を見て手招きした。 「被告人、前へ出なさい」  軍司は|弾《はじ》かれたように起立し、証言台へ進み出て、いつもの姿勢をとった。 「これで審理はぜんぶ終りですけど、最後に裁判所に対して、何か言うことはありませんか」 「はい」  大急ぎにポケットを探ると、軍司はわら半紙を取り出し、書きつけた文章を読みはじめた。あいかわらず難しそうな言葉が並ぶのは、拘置所の独房でもっぱら辞書をめくって過ごしているからだろう。 「あの日、私の激越、直情傾向に起因する……何の罪もない神のような幼児、そして女性四名の生命を失くさせ、三名に傷を負わせ、大切な人生を奪ってしまった。すでに今ここにおいて、何を語ろうとも、許されざる所業であると思う。詫びようのない|慚愧《ざんき》の涙に打ちひしがれています。良識ある社会の一員として、取り返しのつかない狂人にも似た行為は、何の感動もなく被害者を傷つけ、死に追いやった。申し訳ない。辛い苦しい、私に対するその事実が、せめて被害者に対する、罪の償いになればと思っています。そして御遺族の方の心中、測り知れない苦痛を思うと、己れの所業はいったい何だったのか、なぜあのような非道な、人命を軽視する行ないを抑制することが出来なかったのか、誠に申し訳ない。鬼畜のごとき己れの所業は、社会規則において、絶対に許されざる行為である。人心を不安におとしいれ、社会を攪乱した罪状は、非人道的で一片の酌量のないことだと思います。秋霜烈日である法の下に、一日も早く被害者に対する罪の償いをしたい。そして深い冥福を祈りたい」  一礼して後ろへ退がり、着席したところで結審である。あとは判決を待つばかりで、裁判長が次回期日を指定した。 「判決は十二月二十三日、午後一時十五分に言い渡します」 [#改ページ]         8  昭和五十七年十二月二十三日、東京は朝から快晴だった。「冬至 冬なか 冬はじめ」で、立冬と立春の中間だが、実際には寒さが本格化するといい、午前六時の気温は六・六度だった。この日午前中の参議院予算委員会で、社会党議員から「ロッキード事件の田中角栄被告について、公訴取消し又は一月の論告求刑に指揮権発動をするのではないか」と質問された法務大臣秦野章は、「私は気違いではないから常識として普通のことをやる。裁判に影響を与えることはしない。非常識なことはしない。不当な介入は絶対にやらない」と答弁している。  東京地裁七〇一号法廷では、前日の二十二日に田中角栄が、一時間にわたって被告人質問を受けている。傍聴希望者は前日ほど多くはなかったが、それでも行列が出来て満員の法廷に、殺人・同未遂・住居侵入・監禁致傷・銃砲刀剣類所持等取締法違反の被告人は、午後一時十分に入廷した。  さっそく開廷が宣され、「被告人は前に出なさい」と命じられた軍司は、茶色に縞のブレザーに作業ズボンで、直立不動の姿勢をとった。前回の最終弁論が終ると、拘置所から弁護人に、「ケツシンニアタリソノロウニカンシヤスル」と電報を打っている。「理論的には判決が求刑を上回ることはあるが統計上はない」と教えられ、すっかり安心したらしい。しかしこれから、死刑を言い渡される可能性が、絶対に無いわけではない。  法廷は一瞬緊張したが、 「主文」  と裁判長の声が響いた。  これが死刑判決ならば、たいてい主文は後回しになる。先に言い渡せば、被告人が動揺して、判決理由を最後まで聞けないからである。溜息のような声が流れ、緊張がゆるんだところで、裁判長は続けた。 「被告人を無期懲役に処する。押収してある柳刃包丁一丁(昭和五十六年甲第一六四四号)を没収する」  こうして主文が言い渡されると、後は着席して聞いてよろしい。軍司は下唇を突き出す表情で、弁護人の前の被告席へ戻ると、検察官に視線を走らせ、頬をゆるめたかのようだった。求刑通りの判決だから、検察側は控訴理由がない。しかし被告人は控訴することが出来て、上級審は原審より重い判決は出せないのである。  一、当事者の主張  弁護人は、被告人の本件犯行は、異常性格反応性妄想発展および覚醒剤使用による精神分裂病類似の症状に起因する幻覚妄想に、直接的かつ全面的に支配されて遂行されたものであるから、犯行時は心神喪失の状態にあり、もし何らかの理由によってこれに当らないとしても、心神耗弱の状態にあったと主張する。  検察官はこれに対し、被告人は犯行当時に異常性格にもとづく妄想に、覚醒剤中毒の影響が加わった状態にあったけれども、妄想は犯行動機の形成に関与したにすぎず、より合法的な方法を選択できたと考えられるから、是非善悪を弁識し行動を制御する能力が、正常人に比して低下していたとはいえ、これを欠いていたものでないことが明らかである旨を主張する。  二、当裁判所の判断  (一)石塚真理の検察官、司法警察員に対する調書、その他の関係証拠によれば、被告人は『萬來』に立てこもった際同女に、その場にあった紙片に要求書を書かせている。書面には、「電波でひっついている役人の家族をすぐ連れて来い。すし屋の夫婦を全員連れて来い。オレがこういうことをしたのも、みんなひっついている役人が悪いからだ。人が死んだのも役人とグルになってオレをひっついたすし屋と水産屋が悪いんだ。それの責任だ」という記載がある。  また関係証拠によれば、被告人は石塚真理および室外の警察官に対し、「親兄弟などみんなでグルになってオレを邪魔にしてきた、陰口もたたいてきた。我慢に我慢を重ねてきたがここでケジメをつけるんだ。人が死んだのもグルになった者の責任だ。こういうことが大ぴらになればあいつらは店をやっていられない、店をつぶしてやる。オレの言うことをニュースでやらせろ、テレビに流れるマイクを用意しろ」などと言ったことが認められる。  (二)押収してある封書一通その他の関係証拠によれば、被告人は犯行当日の二十日前の、昭和五十六年五月二十五日ごろ、銚子市の兄のもとへ赴き、自筆の手紙を手渡している。  また関係証拠によれば、被告人は府中刑務所を出た昭和五十六年四月二十一日に兄に電話をかけて、「今回の懲役ほど苦労したことはなかった。親兄弟までグルになって自分をいじめるとは思わなかった。自分は麻酔を射たれて殺される。舌を噛んで死んでやる。それでも平気か」などと言った事実が認められる。  (三)被告人は捜査段階において、高級役人が黒幕になって心理学者を使い、被告人の頭に電波を飛ばしたり、テープに録音された声を流してきたうえ、勤め先の従業員、雇い主、親兄弟にまで圧力をかけて悪口を言わせたり、計画的に解雇させてきたと供述している。また本件犯行におよんだ理由としては、府中刑務所を出所してから、板前として立派な仕事をして、立派な家庭を持とうと考えていたものの、黒幕が店の経営者等に圧力をかけて次々に解雇させ、遂にどこにも就職出来ない状態にさせられたため、女子どもを殺して人質を取って立てこもり、すし屋の経営者等を呼びつけて黒幕が誰なのか白状させたうえ、黒幕を呼び出して対決し、黒幕やすし屋の経営者等に責任を取らせようとしたと供述している。  被告人のこれらの供述は、前記(一)に列記した犯行当時の言動を示す客観証拠と、よく符合しているばかりでなく、前記(二)に列記した手紙や電話の内容とも連続性があり、犯行当時の心理状態を正確に表現しているものと考えられる。  (四)このように見てくると、精神病理学上の意味づけや、どの程度精神に影響したかは後に見るとして、前記の各証拠にみられるような幻覚妄想に悩まされ、供述に表われているような心理状態のもとに本件犯行におよんだことは、動かしがたい事実であるといわなければならない。  三、幻覚妄想の形成経過とその要因  (一)被告人の兄に対する裁判所の尋問調書その他の関係証拠によれば、被告人は昭和四十九年に川越少年刑務所に服役していた際、イライラして心情が不安定であったばかりでなく、係官に対して「陰でコソコソ言うヤツが居る。同僚の自分を見る目がちがう。職員が自分にあてこすりをする」等と訴えたことがある。  その後両親や弟と共に、しじみ採りに従事していたころ、同人らが自分の悪口を言っていると邪推して、何度か喰ってかかったことがあった。昭和五十三年にしじみ採りをやめた頃から、父親に「頭に電波が走る、仕事の先々でみんなが自分を妨害する」と言うようになり、五十五年春ごろには兄に対して、「暴力団の親分から電波を飛ばされている」と言ったことが認められる。  なお被告人自身も、捜査段階および公判廷において、自己の異常体験について述べており、それがいつ頃のことかについては必ずしも一貫性はなく、内容等についての追想錯誤や誇張もあると考えられるが、犯行時までの異常体験については、大筋において記憶の通り述べているものと認められる。  (二)風祭鑑定ならびに福島鑑定によれば、被告人の知能はほぼ正常域にあるが、その性格には、度重なる転職や暴力犯罪の反復にも表われている通り、顕著な偏りがあって、爆発性・情性欠如性・意志欠如性・自信欠如性・自己顕示性などを基調とする、異常性格者であると認められる。  他方被告人は精神分裂病等ではなく、感情障害や意欲障害等も見られず、鑑定中の心理検査の結果に照らしても、精神分裂病でないことは、両鑑定が指摘するとおりと認められる。  (三)被告人の当公判廷における供述、その他の関係証拠によれば、被告人はおそくとも昭和五十三年三月ごろには覚醒剤の使用を始め、同年十月傷害事件によって逮捕されるまでのあいだ、相当回数の使用を重ねたうえ、五十四年十一月に出所した後も、ふたたび数回にわたり使用したことが認められる。  被告人は五十六年四月二十一日に、最終刑を終えて出所してからは、覚醒剤をいっさい使用していない旨を供述するけれども、司法警察員作成の捜査報告書、鑑定人兼証人・安藤皓章の当公判廷における供述、その他の関係証拠によれば、本件犯行後に被告人の尿からフェニルメチルアミノプロパンが検出されているから、被告人が犯行直前に覚醒剤を使用したことは、間違いないものと認められる。  (四)ところで前記(一)および(二)で見た被告人の幻覚妄想を、風祭・福島両鑑定にしたがい精神病理学的に分析すれば次のとおりである。  テープが耳に入ってくるのは幻聴と呼ばれ、頭に電波が来る、電波が走るというのは体感幻覚、または異常身体幻覚と呼ばれるものであって、これらは幻覚と総称される。  周囲の人の通常の会話を自分の悪口と取るのは、関係妄想と呼ばれ、他人が何者かの指示により、おかしな演技をしていると取るのは、妄想知覚と呼ばれ、意に反してメソメソさせられたり、ニヤニヤさせられたと思うのは作為体験と呼ばれ、これらは妄想と総称される。  さらに役人が黒幕となって、電波やテープを流したり、被告人の周りの人々に圧力をかけて、悪口を言わせたり解雇させたりすると考えるようになるのは、妄想体験が構築されるものである。  被告人の就職、服役時の状況、犯行時の心理状態を、両鑑定を併せ考えると、次の経緯が見られる。   昭和四十九年ごろから関係妄想、被害妄想ともみられる体験が表われはじめた。   五十三年における覚醒剤の使用によって幻覚が加わる。   これに結びついた妄想が五十四年に服役したころから徐々に発展する。   五十五年十月からの服役によって妄想体験が構築される。  昭和五十六年四月の出所後は、家族からも見放されて失敗を繰り返し、所持金も乏しくなる追いつめられた状況の中で、覚醒剤を使用したため妄想的怨恨を、重大犯罪を起こすことによって晴らそうとする衝動性が、強められたと見るのが自然である。  そうすると犯行時の幻覚妄想状態は、精神分裂病にもとづくものではなく、異常性格の心因性妄想に、覚醒剤使用の影響により生じたと認めるのが相当である。  四、被告人の責任能力  (一)以上見てきたとおり、被告人がかなり以前から、幻聴および体感幻覚をともなう幻覚と関係妄想、妄想知覚、作為体験等をともなう妄想を有し、次第にこれらが増強されて妄想体系が構築され、被告人がこの妄想体系に沿う考え、すなわち黒幕と対決して責任を取らせようと本件犯行におよんだことは、間違いないところである。  これに加えて見ず知らずの通行人を、次々に殺傷したという犯行態様に照らすと、被告人の幻覚妄想が少なくとも本件犯行の動機の形成に、重要な役割を果したことは、否定出来ないところである。  (二)そこで進んで、被告人の言動をさらに子細に観察すると、関係証拠によれば以下のような事情が認められる。  すなわち被告人は、幻覚妄想が強まっていったと認められる五十六年四月以降においても、勤め先では幻覚症状があると疑われるような言動を示さなかったうえ、解雇されながらも繰り返し就職し、すし屋で働く可能性がある限りは、重大な反社会的行動に出ることを回避する態度を維持している。  本件犯行も、最後の頼みの綱とした『寿司田』から断わられて、初めて犯行すべく企図され、現にその通りに実行されたのであるから、被告人は本件犯行の直前まで、幻覚や妄想に悩まされながらも、いちおう社会生活を継続するだけの分別と、自己の行動を統御出来る力を、なお失なっていなかったということが出来る。  また被告人は犯行当日の朝、包丁の柄に滑り止めの目的で、サラシの布切れを巻きつけて犯行の準備をし、包丁の刃こぼれに気づくや、それ以上の殺傷行為を続けることは無理だと判断して、ただちに人質を監禁する行為に移った。石塚真理を監禁しているあいだも、警察官が近づくと同女に暴行を加えて、それ以上接近しないよう叫ばせ、飲食物を差し入れさせる際には、狙撃を避けるために同女を楯にしたうえ、飲食物をたんねんに毒見させ、警察官の突入に備えて包丁をていねいに研ぎ直すなどしている。  これらの事実を見ると、被告人は犯行の準備をしたうえ、犯行中に七時間ものあいだ、清明な意識のもとに注意深く、四囲の状況に対応して行動したということが出来る。  さらに被告人は、監禁行為中テレビ報道に注意を払い、犯行行為の結果を確認すると、石塚真理に対して、「四人も死んだ。お前が死んだら五人目だ。五人殺すと死刑になる」等と述べているのであるから、犯行の社会的反響の大きさ、刑事責任の重大さについても、被告人なりに認知していたというべきである。加えて被告人は、捜査官の取調べに対して、犯行に至る経緯および犯行について、かなり子細な供述をし、その内容は客観的証拠と、多くの点で符合しており、犯行前・犯行後の記憶もかなり正確である。  なお被告人が、電波やテープの声の指令によって、本件犯行におよんだかどうかについては、被告人の否定するところであり、そのようなこともあったと疑わせる資料も存しない。  (三)これらの事情に照らし合わせると、犯行当時幻覚妄想状態にあったものの、風祭・福島両鑑定人が述べるように、人格の中核が犯される精神分裂病などのばあいと異なり、人格の変容はそれほど大きいものではなく、分別の統合もほぼ保たれていたと考えられる。  したがって本件犯行が、弁護人の主張するような幻覚妄想状態に全面的、かつ直接的に支配されていたとは認め難く、被告人には自己の行動を制御出来る力、すなわち重大犯罪を合法的な方法により回避出来る力が、なお残されていたものと考えられる。  そうすると被告人の幻覚妄想は、本件犯行の動機の形成に重要な役割を果たした点において、是非善悪を弁識して行為する能力を著しく制約していたが、それ以上に右の能力を失なわしめるほどの影響力は、持たなかったと認めるのが相当である。  被告人が見ず知らずの通行人を殺傷した点についても、右の能力を制約されながらも、妄想的怨恨を晴らす手段として、いちおう主体性を保ちつつ選択したものと、理解することが出来る。  (四)以上要するに被告人は、犯行当時に異常性格を基盤とする心因性妄想に、覚醒剤使用によって生じた幻覚妄想による精神障害のため、心神耗弱の状態にあったものであるが、心神喪失の状態には立ち至っていなかったというべきである。  五、量刑の理由  本件は被告人が、白昼下町の商店街において、通りすがりの婦人や幼児を、手当り次第に殺傷しようとして、次々に柳刃包丁で襲いかかり、一瞬のうちに幼児二名をふくむ計四名の生命を奪ったうえ、二名に軽傷を負わせ、さらに通りかかった女性一名を人質として近くの飲食店に立てこもり、その女性にも傷害を負わせたというものであって、犯罪史上稀に見る凶悪な犯行である。  殺害行為の態様を見ても、刃体の長さが二十三センチメートルにもおよぶ柳刃包丁を用いて、いずれも身体枢要部を狙って力まかせに突き刺し、特に幼児二名に対しては滅多突きにし、成人の被害者に対しても胃を切断し、胴体のいたるところに傷害を負わせるという、残虐なものである。  監禁行為については七時間を超え、被害者の哀願や説得にも全く耳を傾けず、再度包丁を突きつけるなどして被害者を死の恐怖におののかせていたうえ、その頭部や胸部などに三十数カ所におよぶ傷を負わせているのであって、悪質きわまるものである。  その結果、家族らの愛情と期待を寄せられ育てられていた二人の幼児と、平和な家庭生活を営んでいた二人の主婦が、いわれのない苦しみのうちに非業の死を遂げたもので、その無念の情はもとより、遺族らの痛恨の念は察するに余りある。  また本件が、被告人とは無縁の市民を巻きこんだ大量殺傷事件として、付近の住民に与えた不安と恐怖は測り知れず、社会に与えた影響も深刻重大である。被告人は幻覚妄想と妄想怨恨にかられて、本件犯行におよんだものであるけれども、覚醒剤を乱用して自ら精神の異常を招いたという面も否定出来ず、その意味で動機の点においても、酌量の余地に乏しい。  以上のような本件犯行の態様や結果、動機に関する感情のほか、被告人の前科前歴、さらに覚醒剤の乱用にともなう凶悪事件が、跡を絶たない状況なども勘案すると、被告人の刑事責任は誠に重大であるといわなければならず、精神に異常をきたしていた事実がなければ、極刑をもって処断すべき事案である。  しかし本件犯行当時に被告人が、心神耗弱状態にあったことは前記の通りであり、法律の命ずるところに従って減刑しなければならないが、情状の諸事情に|鑑《かんが》みると、幻覚妄想の形成要因の一つである遺伝的負因や、成育的環境に規定された面もあること、現在ではいちおう謝罪の意志を表わしていることなど斟酌しても、被告人は心神耗弱による法律上の減刑をしたばあいに科せられる最高の刑、すなわち無期懲役を甘受しなければならないと考える。  六、法令の適用  各殺人=刑法第一九九条  各殺人未遂=刑法第二〇三条  住居侵入=刑法第一三〇条前段  逮捕監禁致死傷=刑法第二二一条、第二二〇条第一項  銃砲刀剣類所持等取締法=第三二条第三項、第二二条  以上は心神耗弱者の行為であるから、刑法第三九条第二項、第六八条第一項または第三項によりそれぞれの減刑をする。  判決理由を朗読中に、傍聴人が退廷させられる騒ぎがあった。被告人のいう電波・テープが、幻覚妄想であるとのくだりで、傍聴席中央に坐っていた男が立ち上がって叫んだのである。 「その通りだ! おれにも聞える、電波が!」  三十歳ぐらいの長身の男で、顎から|揉上《もみあ》げにかけて、濃い髭で覆われている。彫りの深い顔は、列を作るときから憂いをたたえ、前衛芸術家に見えなくもない。 「退廷。……退廷させてください!」  ただちに裁判長から命令が出て、廷吏が数人がかりで押し出すと、逆らうことはしないが、なお絶叫し続けた。 「おれはマツヨシだ、憶えておいてくれ!」  自分の名を連呼しながら、男が廊下へ出て行くのを、被告席の軍司は一瞥もしない。例によって下唇を突き出し、宙に視線を泳がせるだけなのだ。  これまで拘置所に、何人かの支援者が、軍司を訪ねている。同じように幻覚妄想に苦しめられており、他人事と思えないというのだ。  ——川俣がやったのではない、病気がやったんです。  支援者は弁護人のところへも、電話をかけてきた。拘置所へ激励に行けないが、自分に出来ることなら、何でもするという申し出もあった。同じ悩みを持つ者が、少なくないらしい。 「それでは閉廷します」  全員が起立するなか、三人の裁判官が観音開きの扉から奥へ消え、被告席の軍司は手錠をかけられ腰縄を打たれて、看守に引き立てられて行った。  ——航空機を墜落させた日航機長は刑事責任がなく、東京深川の通り魔、川俣軍司は死刑を免れた。両者とも犯行時、幻覚状態にあったという◆幻覚症状は一種の精神障害で、重い日航機長は心神喪失、軽い川俣は心神耗弱とされた。刑法では心神喪失者の行為はこれを罰せず、心神耗弱者は減刑することになっている(三九条)◆行為の是非善悪を弁別する能力がない者は罰せず、その能力が著しく低い者は刑を軽くするのは近代刑法の原則だ。が、昨年六月、行きずりの母子や主婦六人を殺傷し、主婦を人質にとった川俣の無期判決に割り切れぬ感情をもったのは、被害者や家族だけではない◆川俣は覚せい剤中毒者で、犯行時に是非善悪を判断する能力が低下していたと言うが、自ら招いた精神障害だから刑事責任はある。しらふではやれないので泥酔して他人を殴り死傷させた者が、責任を免れないのと同じだ◆犯罪白書によると、昨年の通り魔事件の犯人の三分の一が、犯罪時に何らかの精神障害をもっていた。また覚せい剤の薬理作用で犯罪を起こした者は四二四人を数える。殺人一一人、放火二六人など◆都市生活者にとって薬物中毒者ほど厄介な者はない。(六月十七日『読売新聞』夕刊「よみうり寸評」から) 「二八ヒマデメンカイオネガイイタシマス、カワマタ」  東京拘置所から電報があり、二人の弁護士はさっそく葛飾区小菅へ足を運んだ。年内に一度は、ぜひ会っておかねばならない。被告人が望めば、すぐ面会に行こうという申し合せは、これまでも守ってきた。  二人が面会室に入ると、軍司は起立して待っていた。たいてい向うが先に入っているが、いつも軍司は椅子にかけている。それがお辞儀して、ようやく坐った。 「おかげさまで」  じかに礼を言われたのは、これが初めてである。弁護人が微笑すると、軍司は身を乗り出して、用件を切り出した。 「私は控訴します。私の苦しみを判決は、まったく理解しておらず、非常に不満です。手続きのほう、よろしくお願いします」 「………」  両弁護人とも言葉を失なった。「おかげさまで」とは、世間が死刑にしろというのに無期判決を受けて、感謝したのではなかったのか。 「それは間違っている。被害の重大さを考えなさい」 「不服とはもってのほかだ。命が助かれば上々ではないか」  二人で交互に説得をはじめた。どんなことがあっても、控訴はさせない方針である。結審の日に、「被害者の冥福を祈る」と言ったから、お経の本でも読むのかと期待したのだ。 「そうですか?」  いつものように下唇を突き出して、軍司は黙りこんだ。そこで両弁護人が、ふたたび説得をはじめた。主任弁護人は信仰とは無縁ながらも、京都へ行ったとき、わざわざ比叡山に登ったことを話した。 「お前のことを、仏様にお願いしたのだよ」 「………」  軍司はしばらく無言でいたが、ようやく正面を向いて答えた。 「それじゃあ、正月休みに、ゆっくり考えます」  控訴の申し立ては、判決の翌日から二週間以内と定められている。弁護人としては、あくまでも思いとどまらせたい。 「それがいい」 「ゆっくり考えなさい」  そう言って別れたが、気が気ではない。心の休まらぬ正月を過ごして、最後の面会に出かけたのが一月五日だった。 「控訴はしません。模範囚になることにしました」  いきなり宣言して、軍司の饒舌がはじまった。刑務所へ行っても、工場に配属されたのでは、隣りのヤツがいつ襲われるかと、さぞ心配だろう。だから凶器になるような物がない、図書室で働かせてもらいたい……。 「自分のようなインテリには、知能労働が適していると思うんです」 「なるほど、いろいろな本が読める」  主任弁護人が相槌を打ったら、軍司の饒舌には勢いがついて、出所後の生活設計に話がおよんだ。 「今度こそ家庭をもって平和になりたいが、お勤めは無理でしょうね。だれも使ってくれないだろう。……いや、世の中には物好きが居るから、おれのことを手段にしようというかもしれない」 「先のことはともかく、今は罪の償いをしなさいよ」 「だから模範囚になれば、早く出所出来ます。十年も経てば出れるから」  このとき主任弁護人は、気がかりな点を確かめてみた。昭和五十六年四月二十一日に府中刑務所を出て、ほんとうに覚醒剤を使用していないのか。 「どうだろう、覚醒剤の件は? 今なら真実を話せるのではないかね。ぜひ教えてほしい」 「それでしたら、おれは絶対にやっていない」 「やっていたとしても、もうそのことで罰せられることはないんだよ」 「しかし先生、ほんとうにやっていないんだ。この期におよんでウソはつきません」 「そうか……」  こうして最後の面会を終えて拘置所を出たが、なんともいえぬ不可思議な気持だった。三十回以上も足を運んで、被告人の心がどこまで|覗《のぞ》けたのだろう? まったく最近は、刑事裁判の枠にはまらない事件が増えた。  昭和五十八年一月六日、無期懲役が確定。 [#改ページ]    あ と が き  事件が発生したのは、昭和五十六年六月十七日である。たまたま家でテレビをつけていて、川俣軍司が取りおさえられ、護送車で運ばれる場面を観た。なんともいえぬ強烈な印象だった。これまでも犯人逮捕の瞬間を、さまざまな媒体で目撃させられているが、これほどショッキングなのも珍しい。  この男は数時間前に、幼児二人をふくむ四人を殺害し、三人を負傷させたのである。人質にとった主婦を死の恐怖に陥れ、さらに十数人を名指しにして、連れて来るよう警察に要求していた。逮捕直後に自殺防止のサルグツワをかませられ、なお憤怒の形相なのは、何のためであるのか。わたしは嫌悪感のなかで、そのことにこだわっていた。  報道は最初から、覚醒剤による|狂気《ヽヽ》が、凶行の原因とみなした。事実彼の尿から薬物が検出されたと、警視庁は発表した。それが分れば、違法の薬物の常用者が|野放し《ヽヽヽ》にされていることが、問題になろうというものだ。はたして政府は、保安処分の法制化に、積極的な姿勢をみせた。  これらの動きの中で、わたしは事件のことを忘れかけた。いや正確には、忘れようと努めたのである。嫌なことは早く忘れるに限る。いくら犯罪小説を書いていても、近づくことの嫌な事件はある。多くの人が言うとおり、女・子どもを狙った点が我慢ならない。ことさら断わるまでもないが、わたしは健全な常識人のつもりだ。  しかし川俣軍司が鑑定留置され、「責任能力あり」で起訴されると、初公判に足が向いた。あの憤怒の形相は、いったい何に起因するのか、確かめずにはいられなかったのである。法廷に通えば、それが見えてくるはずだし、なお独自の取材をすればよい。  初公判には、三人で出かけた。新潮社の|校條《めんじよう》剛氏、取材協力者の日高恒氏が一緒で、それから事件現場や、利根川流域を歩いたりして、第三回公判まで進んだところで、『小説新潮』昭和五十七年三月号に、「深川通り魔殺人事件」を書いた。これは百枚余りの作品である。  さらに公判を重ねて五十七年十二月に、東京地裁は無期懲役を言い渡し、まもなく刑が確定した。わたしとしては、初公判から判決公判、そして刑の確定まで一部始終をまとめておきたい。そこで文藝春秋出版部の岡崎正隆氏、日高氏と一緒にまとめの取材をして、『深川通り魔殺人事件』を書きおろした。  以上の経過を通じて、改めて思うのは、裁判というもののおもしろさである。「おもしろい」といえば、語弊があるかもしれないが、この事件は劇的に展開する。それも外形的事実をめぐってではなく、まぎれもない心理劇なのだ。  ここに登場するのは、裁判官、検察官、弁護士のほかに、第一級の精神医学者、ベテラン捜査官、科学捜査官……これらの人々が全力を傾注して、なお主人公たる川俣軍司の|狂気《ヽヽ》を、十分に解明し得ないで終った。人間は何という、不気味な動物であることか。  そもそも川俣軍司が、五十六年四月二十一日の出所から、六月十七日の犯行に至るまで、覚醒剤を注射したかどうか。唯一の物証は、尿から検出されたという鑑定だが、確度の高いものかどうか疑問をもっている。この鑑定は、事件発生直後の「覚醒剤による狂気」という仮説を、補強するためではなかったか? こういう疑問は、素人による雑音として、一蹴されるかもしれない。しかしわたしたちは、尿から排泄される薬物より判定が容易な、血痕の鑑定が覆った例を知っている。  ここでわたしは、科学捜査研究所の鑑定を、批判しようというのではない。事件発生直後に、あの憤怒の形相に接し、ただちに覚醒剤による狂気と解説され、あっさり納得したことを、自己批判しているのである。  凶行に用いられた包丁は、出所当日に購入している。本人は「板前として真面目に生きるため」と供述するが、最初に訪れた店で目的を問われ、「人を刺すためにきまっている」とうそぶき、買わずに帰ったとの証言もある。大いに気になるので、その金物店に行ったら、なぜか取材拒否された。  犯罪が発生すると、その原因や動機をいちはやく知りたいのは、人情として当然である。しかし犯人の足跡から、犯行に結びつきそうな部分のみ抽出し、無造作に納得する習慣は、改めるべきだろう。まして|狂気《ヽヽ》と思われる場合は、なおさらである。小林秀雄は『金閣焼亡』で、「人間の狂気の広さに比べれば、人間の正気は方丈ぐらいのものだ」と書いている。  けっきょく川俣軍司は、死刑を免れて柔和な顔になったが、わたしは憤怒の形相にこだわり続けながら、この本を書いたのである。裁判という劇が終り、登場人物がすべて退場して、残されたのはひとり著者であろうか。  なお参考文献は、本文中に明記したもののほか、米田米吉著『科学捜査のはなし』(朱鷺書房)、NHK取材班『恐怖の覚せい剤』(日本放送出版協会)、斎藤充功著『鉄格子の中で』(国際商業出版)、井上正治監修『刑事訴訟法』(自由国民社)があり、記して感謝します。    昭和五十八年五月一日 [#地付き]佐木隆三    単行本   昭和五十八年六月文藝春秋刊 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     深川通り魔殺人事件     二〇〇〇年七月二十日 第一版     二〇〇一年七月二十日 第三版     著 者 佐木隆三     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Ryuzo Saki 2000     bb000729