旅人たちの南十字星 〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年七月二十五日刊  (C) Ryuzou Saki 2001  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。    目  次    1 国際高速バス    2 イグアスの滝    3 リベルダーデ    4 アスンシオン    5 ICPO手配    6 中南米特派員    7 ドップス刑事    8 ボアッチの女    9 保険金支払い    10 アミーゴたち    11 刑事局長補佐    12 マラプアーマ    13 台湾マフィア    14 アラグアイア    15 バンデランチ    16 火葬許可判決      遺  書      あ と が き      参 考 資 料      章、節名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ]    旅人たちの南十字星

   1 国際高速バス  一九七九年四月七日午後五時四十分ごろ、パラグアイ東部の大草原を走っていたバスが、坂の途中で停った。アスンシオン発が午後二時四十五分で、途中のオヴィエドで三十分ほど休憩し、ふたたび走り出した直後のことだった。ブラジル国境まで、あと二百キロ弱の地点である。  客室との仕切りのドアが開いて、赤いシャツの運転手が出て来た。アルゼンチン側から到着したとき、黒いシャツの小男が運転していたが、アスンシオンでパラグアイ側に引継いだ。国境まで交替なしで走るらしい、パラグアイ人の運転手は、三十歳ぐらいだろう。血色のよい大男で、|艶《つや》のある|頬《ほお》を、ぷうっとふくらませている。道路わきにバスを停めたあと、何度も始動スイッチを入れるのだが、|徒《いたず》らに空転する。すっかり腹を立てているらしく、アスファルト舗装の路面に降りると、まずタイヤを蹴った。それから車体側部の収納庫を開けると、ドライバーやスパナを取出し、あいかわらず怒った表情で運転室へ引返して、点検をはじめた。  その間に、何ら説明はなされない。ほぼ満席の乗客たちは、べつだん騒ぐでもなく、中ほどに居る学生グループのコーラスは、車が停ってからも続いている。七人の男女学生は、ブエノスアイレス〜サンパウロ間のキップを示していた。ブエノスアイレスからラプラタ河沿いに北上して、パラグアイの首都アスンシオンまで千三百五十キロ。ここから真東へ走ると、サンパウロまで千四百キロ。学生たちは二千七百五十キロの、国際バスの旅なのである。途中で宿を取らなければ、二昼夜というもの乗りづめになる。  バスに飽きていたのか、最初に外へ出たのは、この学生グループだった。白い車体に赤色の流線で、屋根に近いあたりに、〈PLUMA〉と青い文字がある。後尾には、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルの、四つの国旗が描かれている。もし起点のサンチアゴから乗れば、南米大陸を横断する、四千キロ余の旅になる。学生たちはバスの後部に回って、夕焼けに気づいた。大草原が拡がる地平線のあたり、赤い炎のようだった。玄武岩と輝緑岩の風化土壌の、|肥沃《ひよく》なテーラ・ロシア地帯の赤い土ぼこりが、いっそう空を燃やしているのかもしれない。インディオの血が混っているとみられる、褐色の肌の面長な娘が、両手を拡げて走り出した。一直線の下り|勾配《こうばい》を駆けて行き、夕焼け空を抱き取ろうというのだろうか。つられて仲間たちが、ズック靴をぺたぺた鳴らしながら、叫び声をあげて走った。  やがて他の乗客たちも、バスの外へ出はじめた。ドアに近い座席の、三十歳くらいの白いドレスの女に、いくぶん若い茶色っぽい服装の男は、降りるなりバスの前方へ回り、抱き合って長いキッスをした。そばかすの多い、|顎《あご》のしゃくれた女は、抱擁のあいだ目をしばたたいて、涙を流していた。後から降りた、揃って肥満体の老夫婦が、すぐ側でキッスの二人を眺め、ゆっくり道路を横断して行った。このバスが走っているあいだ、対向車は少なかった。今こうして停っていても、はるか向うに車の影が見えるだけで、近づいてくるまでだいぶ時間がかかる。国土の広さは日本の一・二倍で、人口が二百八十万のパラグアイは、農耕地が全面積の四パーセントにすぎず、林業と牧畜が産業の中心だが、一九七六年の統計によれば、国民一人当りの所得は六百二十五ドル。これはブラジルの二分の一、アルゼンチンの三分の一でしかなく、アスンシオンから大|瀑布《ばくふ》のあるイグアスまで、延長三百三十キロのルート2〜7国際道路も、米州機構などの援助で開通した。  赤いシャツの運転手が、工具の袋を持って飛び降りた。こんどはタイヤを蹴ったりせず、タバコをくわえて思案顔だった。ひょろりと背の高い、スーツにネクタイのセールスマン風が話しかけたら、言葉が通じないと手を振った。パラグアイ人は、九十パーセント以上が、スペインからの入植者と、インディオのグァラニー族の混血であり、スペイン語とグァラニー語を国語とする。国際バスの運転手が、グァラニー語しか使えぬということはなく、言葉があまり通じないのなら、話しかけたほうがポルトガル語だったのだろう。あれこれ混乱させないでくれと言わんばかりに、不機嫌にタバコをふかしている運転手の側から、ブラジル国籍らしいセールスマン風は離れて行き、夕焼けにかざすように時計を見た。  すでに六時を回っている。日が暮れるまで、しばらく間はあるだろうが、このまま動かなかったら、どうなるのか……。すこしずつ、心配する者がふえてきた。後方の便所に近い、左側の座席に並んだ、黄色い肌の二人の中年男は、窓の外を眺めて、ときどき低い声で言い交してはいるものの、なかなか動こうとしなかった。しかし運転手が、タバコの吸殻を捨てたあと、ただ腕組みをして頬をふくらませているのを見て、通路側の男が席を立った。  アスンシオンから乗ったこの二人連れは、ドライブインで休憩のとき、皆とはすこし離れた席で、静かにビールを飲んでいた。背丈はほぼ同じで、一メートル七十五センチくらいである。席を立ってドアのほうへ歩き出した男は、目立つほど|痩《や》せて顔色もよくない。長めの髪を七・三に分けて、|縞《しま》の入ったカラーシャツに、エンジ色のネクタイを締めている。席に残った男は、ちぢれ毛にパーマネントウェーブをかけ、濃い|眉《まゆ》に大きな鼻で、体重は八十キロを超すだろう。こちらもきちっとネクタイを締めているが、スーツの胸ポケットには、モンブランのボールペンがさしてある。痩せた男は、窓際の席の|恰幅《かつぷく》のいい男の同意を得て、バスの外へ出ることにしたのだった。 「ガソリン・タンク」  降りた男は、神経質そうな細い眉を寄せ、運転手に話しかけた。どこか女性的な、|甲高《かんだか》い声は、しかし赤シャツの大男の耳には、とどかなかったらしい。首をかしげたついでに、前に垂れた髪をかきあげると、こんどは近づいて正面から、 「ガソリン・タンク?」  と問いかけた。  その態度は控え目で、運転手の体面を傷つけまいとの、配慮が見られた。だから運転手は、肩をすくめて苦笑し、バスの計器類へ向けて顎をしゃくった。ガソリンの量ぐらい、とっくに確めている。何ならお前もメーターを|覗《のぞ》いてみるかい、とでも言おうとしたようだった。 「エックスキューズ・ミー」  軽く会釈して、|痩身《そうしん》の東洋人は、バスへ戻った。客席のほうではなく、運転室に入ったのだが、この時点ではまだ、彼の動きに注目する者はいなかった。仮に見ていたとしても、余計な口出しをしてぶん殴られねばいいがと、舌打ちする程度のものだったろう。どこか影の薄い東洋人は、遠慮がちに運転室のメーターを見ると、すぐに引返して|頷《うなず》いた。なるほど問題はない、国境へ行くまで燃料は保つ計算だが、しかし念のためにと、くぼんだ目が訴えている。 「ガソリン・タンク」 「フーン」  さきほどのように、運転手は肩をすくめたが、|精悍《せいかん》な顔に不安が|過《よぎ》った。そこで腕組みを解くと、|大股《おおまた》に歩いてバスの後部へ回った。ガソリン・タンクは、左側にあるらしい。坂の下を見やり、車が来ていないのを確めると、運転手はボディの扉を開け、注入口の栓をはずした。そして体をすり寄せ、タンクの中を覗こうと試みているのだった。  ぶらぶらと、あたりを歩き回っていた乗客たちが、次第にバスのほうへ戻って来た。坂道を下りきって、小川にかかる橋の欄干に腰かけていた学生グループも、動きに気づいて向うから手を振っている。いつまでもキッスを繰返しているカップルの、男のほうがそれに応えた。事態が好転する|兆《きざし》を読みとったのだろうが、そばかすだらけの女のほうは、すっかり目を泣き|腫《は》らしていた。 「エックスキューズ・ミー」  痩身の東洋人が、ガソリン・タンクを調べている運転手の、肩をたたいた。いつの間にか道端の、一メートルほどの草を抜いて、手で葉を|削《そ》ぎ棄てているのだった。 「プリーズ」  はにかみながら、その茎を差出す。運転手は、頬をふくらませたまま受取ると、さっそく注入口から突っ込んだ。しばらく|掻《か》き回すようにし、抜出して確めたところ、まったく濡れていない。 「………」  やはり、|空《から》だったのだ。|膝《ひざ》をついた運転手が、|溜息《ためいき》をついて見上げた。このとき怒気も|洩《も》れてしまったらしく、ぷうっとふくらんでいた頬は、もとどおりになった。目が合った東洋人は、いっそうはにかんだように、白い指で鼻を|撫《な》でた。そういえば彼の鼻は|尖《とが》った感じで、薄い唇がめくれたとき見える歯は、いかにも清潔な印象だった。  原因が分ってからの、運転手の動きは、|敏捷《びんしよう》であった。坂を上って来る車に、立ちふさがるようにして停めると、早口にまくしたてる。一台目の乗用車は、黒人の家族連れで、話を途中までしか聞かず走り去った。二台目はコーラ瓶を満載した赤いトラックで、いちおう聞くだけ聞いて、坂を上って行った。バス会社に電話連絡でも頼んでいるのか、給油車を呼ぶ|手筈《てはず》なのか。痩せた東洋人は、やりとりに耳を傾けていたが、まったく意味が分らなかったらしく、じきにその場を離れた。次に坂を上って来たのは、家畜運搬用のトレーラーで、空車ながらノロノロした動きだった。訴えを聞くとただちに了解して、バス運転手を乗せて走り出した。  取残された恰好の乗客は、ふたたび道の面側に散ったものの、すでに日は沈んだことだし、離れて行く者は居ない。ついさっき、ガソリン切れを指摘した男は、バスの中に引返し、指定の26番に坐っていた。とりたてて手柄顔をするでもなく、無表情に顎を動かしているのは、チューインガムを|噛《か》みはじめたからのようだ。隣りの25番では、リクライニング・シートを倒して、やはりガムを噛みながら寝そべっている。その真上の網棚に、紙袋が一つ載っており、これが二人連れの荷物のすべてだった。アスンシオンから乗込むとき、預ける荷物について問われて、他には何もないと答えていた。パスポートのチェックもなされ、出国カードも添付されていたから、これからブラジル入りするにちがいない。国際バスの乗客として、あまりにも身軽だが、バスターミナルには同じ東洋人が見送りに来て、なにかと世話を焼いていた。あるいは荷物は、別送したのだろうか。  日が落ちて、だいぶ暗くなってきた頃に、トレーラーが引返して来た。上下つなぎの作業服を着た初老の運転手は、人の善さそうな笑顔で、停めるか停めないかのうちに、バス運転手が飛び降りた。左手にバケツ、右手には一メートル余りのゴムホースを持っている。いったい何が始まるのか、乗客たちは一瞬あっけにとられたが、たちまち納得がいった。赤いシャツの大男は、トレーラーのタンクの栓を開け、ガソリンを吸い出しにかかったのだ。ゴムホースの端を口にくわえ、比重〇・七の液体が昇ってきて唇に触れた途端に、パッと放して指でおさえる。それをバケツに向け、ゆっくり流し込む。こうしてバケツが一杯になると、こんどはバスのほうへ行き、同じ要領でタンクに移す。トレーラーとバスの間を、三往復した頃には、あたりはすっかり|闇《やみ》だった。  運転手は、バケツとゴムホースを、トレーラーの荷台へ放り投げると、シャツの|袖《そで》で口の端をぬぐいながら、小走りに運転室へ入り、すぐに始動させた。初めのうち空転して、車体が小刻みに揺れるだけだったが、そのうち連動して、力強い響きのエンジン音になった。 「ビバ!」  闇の中から喚声があがり、続いて拍手が起った。暗くなってからというもの、さすがに不安になっていたのだ。 「………」  言葉にならない声を発して、運転手は初めて笑顔を見せた。エンジンをかけたまま、乗客が揃うのを待ち、それから人数を確認するために、客席の通路をゆっくり歩いた。  そして26番シートで立ち止まると、 「サンキュー!」  大声で手を差出した。  ガムを噛んでいた痩身の男の、|蒼白《あおじろ》い顔が紅潮した。握手を求められるなど、まったく予想していなかったらしく、こわばった腕が動かない。すると25番シートの男が、横から小突いて促して、ようやく握手になった。その様子を、前方の乗客は立上って見ていたが、握手の意味がしばらく分らなかったようだ。  エンジンが停止して、一時間半ぐらい経っていた。ようやく走り出したバスは、遅れを取戻すために、たちまち速度を上げた。しかし客席には、さざ波のように情報が拡がって、エンジン・トラブルの原因がガス欠と指摘したのが、後ろの東洋人であることが知れ渡った。そのため改めて振り向く者も居て、26番シートの客は、ますます緊張してしまい、紅潮した頬がひきつっている。  中ほどの男子学生が、つと立上って近づいて来た。 「アー・ユー・チャイニーズ?」 「………」  問われた男は答えられず、わなわなと唇を震わせるだけだったが、隣席の恰幅のいい男がリクライニング・シートを起し、客席全体に響くような太い声で言い放った。 「ノー。ジャパニーズ!」  その返答に対する、乗客たちの反応は、日本人にとって心地よいものだった。 「ハポネス」 「ジャポネース」  スペイン語とポルトガル語それぞれに、好意と|畏敬《いけい》の念がこめられている。25番シートの客が、大きな鼻をぴくつかせながら満面に笑みをたたえたので、26番シートの客の緊張も、ようやく緩んだようだった。 [#改ページ]

   
2 イグアスの滝  四月八日午後二時ごろ、フォス・ド・イグアス市の七十歳になるスーパーマーケット経営者は、ボートを漕いでいる二人連れから、声をかけられた。 「よかったら、乗りませんか」  ダミ声の日本語は、さほど優しい印象ではなく、窮状を見かねての、誘いだったのかもしれない。さきほどから小学一年生の孫娘が、しきりにボートに乗りたがっている。日曜日とあって、以前からの約束をはたすため、嫁の運転する軽トラックで来て、イグアス川の岸辺で遊んでいたのだ。アルゼンチン、ブラジル国境のイグアス川の大瀑布は、落差が八十メートルあって、全幅は五キロにおよぶ。ここから二十数キロ下れば、パラナ河と合流して、パラグアイとの三国国境地点である。 「いや、結構ですよ」  川べりのベンチに掛けたまま、手を振って答えた。秋たけなわで人出が多く、弁当をひろげる家族連れが目に入った。たいてい若い男女か、親子というのに、この日本人は中年男同士だったから、気になってはいたのだ。それに二人は、わざわざボートを漕ぎ出しているのに、さほど楽しげな表情でもないのだった。 「遠慮は要らないのに、おじいちゃん」  誘っているのは、紙袋を持って舟尾に|坐《すわ》っている、恰幅のよい男だった。オールを握っているのは、痩せて色白な男で、いかにも神経質そうに見える。この漕ぎ手も、乗せることには賛成らしく、ボートはどんどん近づいて来る。 「ジイチャン!」  誘われていると分って、孫娘の表情が輝いた。多忙な母親は、新規採用の店員にトラブルが生じているとかで、三時すぎに迎えに来るといい、街へ引返した。自動車の運転免許さえ持たぬ「ジイチャン」としては、ボートなどもってのほかだった。なにしろ、この子の父親である次男は、二年前に交通事故で死んだ。 「おいで、お嬢ちゃん」  ボートを岸につけて、手招きしている。太い鼻、濃い眉の大男が、愛想笑いなのだ。 「じいちゃんと一緒なら、恐くないね」 「………」 「年はいくつ? お名前は?」  型通りの質問を浴びせられても、孫娘としては、答えようがない。市立小学校に通っているから、友だちはもとより親との会話もポルトガル語であり、祖父母と一緒に居るとき、日本語を強要される|恰好《かつこう》なのだ。 「いやあ、これはブラジル三世でしてね」  じいちゃん、じいちゃんと呼ぶ声が耳についたらしい二人連れに、説明しないわけにはいかなかった。その間に孫娘は、ボートに近づいて、一人でも乗込みかねないはしゃぎようである。 「それじゃ、お言葉に甘えて、ちょっとだけ」  膝に抱いて乗り、色白の漕ぎ手と向い合って坐ったら、|煉瓦《れんが》色の流れを、岸に沿って|遡《さかのぼ》りだした。このあたり流れは穏やかだが、三百メートルも下れば、|滝壺《たきつぼ》へまっさかさまである。振返ると、立ちのぼる水煙に、|虹《にじ》がかかっていた。 「滝見物ですか?」 「………」  分りきったことを尋ねるのは、日本人の癖みたいだと、ブラジル生まれの子どもたちに、からかわれたりする。つい半年前、帰化申請が認められて、とうとうブラジル人になったが、この癖だけは直らないのかもしれない。苦笑して漕ぎ手の顔を見たら、なんだか当惑したような表情だった。 「どちらから来られた?」 「日本ですよ」  後ろから返事があったものの、これこそ分りきった答えなので、 「だから、どの国を通って?」  念を押した。  すると相手は、一呼吸おいてから、弾みをつけて言った。 「あちこち、視察しておるんです」 「ははあ、観光じゃなかとね」 「そういうこと」 「そりゃ、大変でっしょや」  体を横向きに、アルゼンチン領の対岸を見ながら、男のダミ声を聞いた。その押出しのよさから、事業家かもしれないとは思ったが、視察とはまた、何が目的なのだろう。  すると前の男が、 「おじいちゃん、九州の人だね」  目をしばたたいて問うた。 「分るですな?」 「そりゃ、分るですよ」  オレンジ色のセーターに、グレーのズボンの色白の男は、ちょっと顔を|赧《あか》らめるようにして、甲高い声を出した。後ろに居る男より、六つか七つ若いはずである。当然ながら、こちらが配下と思われる。 「九州はどこ?」 「福岡県」 「何年になりますか?」 「ちょうど五十年になるですよ」 「………」 「兵隊検査を受けたら、丙種ちゅうですもんね。働こうにも、勤め口のない時代ですタイ。そげんときに、いっそブラジルへ行くか……となったです」 「一人で?」 「いいえ、家族と一緒です。両親に兄と弟、それに祖父母が居ったけん、わしを入れて七人じゃった。郷里を出るときは、ブラジルで死ぬ覚悟……と言うたけど、実際は五、六年で帰れると思うとったですなあ」 「夢があった?」 「はい。長うても十年もすりゃ、故郷に錦が飾れると、都合のよか夢ば見とったが、なかなか|儲《もう》からずに苦労したですよ」  いつのまにかボートは、岸から流れの中央へと向っている。対岸からは、浅瀬に簡単な橋がかかっていて、滝に向って伸びている。ブラジル側からは、滝を下から見上げるが、アルゼンチン側からは、見下ろす恰好になる。もしボートが、このまま対岸を目ざすと、国境を越えることになるけれども、観光客と分れば、|咎《とが》められることもない。 「おい、常務」  後ろの男が注意したのは、ところどころ頭を出している岩に、ボートがぶつかりそうになったからだ。しかし漕ぎ手は、黙って尖った顎をしゃくった。見ると、青い葉をつけたままの流木が、ゆっくり近づいて来る。 「ピーネ」  孫娘が、指さして叫んだ。屋敷内にも植えてあるパラナ松だが、乱伐がたたって、絶滅の危機さえいわれている。伐採するだけで、植林をしないのだ。とりわけパラグアイの林業が、粗放である。この水が赤く濁っているのは、原生林を開拓したせいなのだ。 「なかなか、漕ぐのが上手のごたる」 「いやあ」  照れている男のことを、確か常務と呼んでいた。すると後ろは、専務か社長か……。フォス・ド・イグアスにおける企業として、今や大手に数えられるようになったスーパーマーケット経営者は、そのへんに興味がわいてきたので、後ろへ向ってさりげなく言った。 「イグアスという名は、グァラニー語で、大きい水ちゅう意味でしてね」 「ほほう、大きい水」  さっそく感心したような声だが、どこか手応えがない。川幅そのものはさほどのことがないのに、何段にも重なり全幅が五キロにもおよんで、玄武岩の台地を刻む瀑布の景観を、|称《たた》える言葉ぐらい持合せてもよさそうなものだ。 「まったく、たいしたもんです」 「しかし今は、減水期じゃけん。夏場ならとても、こげなもんじゃなかですよ」 「ほほう?」 「下のほうに、砂浜が見えとったでしょうが。あれが隠れる頃は、水の色もだいぶキレイになるけん」 「いやあ、音がすごかった。……なあ、常務よ」  もういちど常務と呼ばれた、漕いでいる男は、細い眉を寄せて首をかしげていたが、ふと思い出したように言った。 「下から滝を見上げていると、大音楽堂で交響曲を聞いとるような、ふしぎな感動があったね」 「………」  それで改めて、常務と呼ばれた男を見ると、目をしばたたきながら、 「そろそろ着けようか」  孫娘の白いバスケットがある、切株のほうを見た。  岸へ戻り、礼を言ってボートを降りた。思いがけない水上の散歩に、孫娘はすっかり機嫌を直している。もしかすると、降りないと|駄駄《だだ》をこねるかと心配したけれども、素直に従ったのは、|咽喉《のど》が乾いていたからか。学校へ行くときも欠かせない、水筒の湯ざましを、うまそうに飲んでいる。  二人の男も、ボートを返して、岸辺をぶらぶらしはじめた。この頃は宣伝がゆきとどいたのか、世界各国から観光客が来るけれども、まだまだ日本人は少ない。なにしろ十五年前に、フォス・ド・イグアスに来たとき、日系の居住者は十世帯足らずだった。今はだいぶ増加したはずだが、いずれにしても観光客は、珍しいのである。 「どちらへお泊り?」  近づいて行き、ボートを漕いでいたほうに聞いてみたら、黙って上のほうを指さした。この国立公園内の、いちばん大きなホテルである。 「ダス・カタラタスね」 「………」 「だいぶ取られたでしょう。ここは高くて有名ですけん」 「自分では、払わんから」 「はははは、社長さんが?」 「まあ……」  どこか|曖昧《あいまい》に答えて、こんどは男のほうが尋ねた。 「ご隠居さん?」 「なんの隠居出来ましょうかい。スーパーマーケットを、やりよるですよ。こっちの言葉じゃ、スーペルメルカード」 「ブラジルにも、あるんだね」 「そりゃ、そうですよ。フォス・ド・イグアスは、人口十万を超えて、スーパーは十六軒でしたかな」  だが十五年前に来たときは、人口三万にも満たない、赤土ばかり目立つ国境の町だった。それがこの数年、イタイプー発電所の建設が進むにつれ、急速に膨張した。完成すれば毎時千二百万キロワットの、世界一の発電所になるといわれている。そのための労働力の流入で、治安が悪化したことが懸念されるが、店のほうは土、日曜は入りきれないほどの盛況である。 「そりゃ儲かるですなあ」  途中から話に加わった社長が、ダミ声で|相槌《あいづち》を打った。こちらはノーネクタイの、ワイシャツ姿である。 「年間の売上げは、どれくらいですか」 「さあ、わしにゃ年間の数字は分らんけど、この前の前の土曜日だったか、支店の売上げが百万を超したですよ」 「支店がある?」 「おかげさまで、二年前に出したら、あっという間に本店を抜いたですけ」 「百万というと……」  ずいぶん興味があるらしく、常務のほうを見たら、 「一クルゼイロが八円として、八百万円」  すぐ答えた。 「たいしたもんですなあ」 「いやいや、いつまで続きますかのう」 「何人ぐらい、使っておられる?」 「百八十人ぐらいのものでしょう。なかなか人手が要るですけ」 「ふーん」  鼻の穴をふくらませて、しきりに頷いている。常務にくらべると、言葉づかいはていねいだし、聞き上手ということになるのだろうが、どうも手応えを感じさせない。 「ずっと商売ですか?」 「いやいや、長いこと百姓でした。日本に居るときから百姓でしたが、あちこちで苦労して、十五年前にこの町へ来てから、商売を始めたですよ」 「スーパーをねえ」 「いいえ、小さな八百屋。こっちじゃ、キタンダというですが」  この話になると、まさに感慨無量である。  間口が四メートル、奥行きが七メートルの|八百屋《キタンダ》を始めたのは、イグアスから七十キロほど東南の農場での、|薄荷《ハツカ》栽培に見切りをつけたからだった。幸い七トン積みトラックが、一台あった。これがあれば、野菜を商うのに分がいいだろうと、国境の町へ来たけれども、キタンダは何軒かあって、日系人の店が繁盛していた。そこへ割込んだわけで、長男が運転する七トン車で仕入れに行き、一週間に一台の割合で運びこむのだが、これがなかなかさばけない。タマネギを何トンも腐らせるなど、失敗が重なって、百姓が商売するのがまちがっていたのだと、一時は店をたたむことを考えた。  しかしイグアスへは、背水の陣を敷くつもりで、出て来たのである。ここで失敗すれば、国境のパラナ河を越えて、パラグアイへ逃げ込むほかない。そもそも五十年前の、サントス港上陸いらい、サンパウロ州を奥へ奥へと入った。いくつもの移住地を転々として、南のパラナ州へ来たのが一九五八年のことである。アルゼンチン国境に近い、山に囲まれた村で、霜害がありそうだし、雪も降りかねない。しかしバナナが採れる、コーヒーもある。サントス港からは、アルゼンチン向けのバナナを積出していることだし、じかに取引き出来ればと、バナナ栽培にしぼった。  だが暮してみると、山地だから寒い。それに例年の霜で、コーヒーは被害を受けるし、バナナだって危ない。苦労して作っても、じかにアルゼンチンへ輸出することは、不可能だと分った。河を渡ればアルゼンチンなのに、いったん大西洋岸へ運んで、ラプラタ河口へ持って行くことになるらしい。とてもダメだと思って、ただちに薄荷に切換えた。日本ならば主産地は北海道であり、ブラジル南部で山中の寒冷地に向いている。この判断は正しく、薬品原料としての薄荷は、大当りだった。  ところがシソ科の多年草である薄荷は、連作すれば品質が落ちる。したがって毎年のように、新しい土地を見つけて、移動しなければならない。いつのまにか五十歳を過ぎ、体力が衰えている。晩婚なので四人の子は、長男が二十歳になったばかりである。薄荷に未練をおぼえながらも、一九六四年にフォス・ド・イグアスへ来て、八百屋を始めたわけなのだ。 「そうすると、八百屋からスーパーになったのは?」 「十二年前じゃったか……。それが良かったですよ」 「ふんふん。セルフサービス方式に切換えたわけですな」 「いやあ、名前だけのことですが、この町の人に喜ばれた。なにしろブラジルに、スーパーなんち無かった。同じパラナ州で日系人が始めたのが第一号で、それが評判がいいと聞いて、わしもさっそく、真似したわけです」 「その決断がよかった?」 「そげんこつでしょうなあ。おかげさまで、少しずつ町の人口がふえるわ、発電所工事がはじまるわで、|麩《ふ》のようにして太らしてもらいました」 「なるほど、なるほど」 「ヒロミ!?」  ふと気づいたら、孫娘が居ない。一瞬たりとも目を離さずに居るつもりが、話し込んだために、とんでもないことになった——。  |驚愕《きようがく》して立上ったら、 「ジイチャン!」  背後で声がして、オレンジ色セーターの腕の中で、オカッパ頭が揺れている。  その手に|掴《つか》んでいるのは、青い|蝶《ちよう》だった。どうやら、|獲《と》ってもらったらしいが、聞き上手の社長のほうを向いていて、常務が居なくなったのに、気づかなかった。もし孫娘が蝶を追い、岸辺で足を踏みはずしていたら、どうなっていたことか。急いでそっちへ行きながら、腕時計を見たら、三時を過ぎていた。 「ママイは、遅いね」  しかし孫娘は、久しぶりに大人たちに構ってもらい、満足気だった。どうせ帰っても、子守りに預けられるだけである。商いの急成長のさなか、次男は車の運転を誤って即死したが、それを埋めるに充分な、嫁の働きぶりなのだ。 「そろそろ、迎えに来てくれんと……」  つぶやきながら道路を見やっていると、原生林の中を抜けられるようにした、ホテルに通じる遊歩道から、|開衿《かいきん》シャツの男が降りて来た。四十五、六歳だろうか、ずいぶんな小柄で、とっさの印象では、いかにも人相が悪い。小路の途中で、その男はこちらに向って、軽く手を挙げた。そのくせ道路に降りると、そのへんをぶらぶらしはじめたのだ。  どうやら台湾人か韓国人らしい。なんとはなしに、歩きかたで分るのだ。ひとことでいえば、大手を振って歩けない……。ちょうど数十年前の、日本人移民がそうだったのである。 「これから始めるとすれば、スーパー経営なんかが、有利ですかな」  大股に歩いて来た社長が、また商売の話なのだが、常務のほうは黙りこんで、河の流れを見つめている。 「日本人に向いておる気もするが、いちがいには言えまっせん」  こんどは遠くへ行かせないように、孫娘を見張っておかねばと、オカッパ頭を目で追いながら答えた。視察ということだが、何が目的の来伯なのだろう。 「それにわしなんか、田舎のことしか分りまっせん」 「そんなことはないでしょう」 「おたくの会社は、ブラジル進出を考えておられる?」 「うーん」  言葉を濁すと、紙袋を抱え直しながら、常務のほうを見た。後姿がいっそう細い男は、日射しがまぶしいのか、小手をかざして対岸を眺めている。 「あっちは、アルゼンチン?」 「そげんですよ」 「パラグアイは?」 「もうちょっと下流の、友情の橋を渡ると、そこがパラグアイですよ」 「友情の橋か」  ダミ声が、どこか弾んでいる。三国の国境に居る実感で、やや気分が|昂《たか》ぶってきたのかもしれない。紙袋の社長は、笑顔になって尋ねた。 「どうです、国境の町の具合は?」 「………」 「いろいろ、面倒が多いんじゃないかな」 「なんの、なんの」  聞き上手に乗せられるのを承知で、フォス・ド・イグアスの生活について、話したくなった。二年前に、四十八年ぶりで日本へ行ったとき、いくら住んでいる場所の説明をしても、分ってもらえなかった。 「わしの店はブラジル側だけんど、パラグアイから毎日お客さんがある。それこそ、インスタントラーメンを、三袋だけ買いに来る人も居るですもんね」 「パスポートは?」 「そげなもん、あっても役に立ちゃせんですよ。ロクに荷物も調べずに、すーっと通してくれる。たまにゃ、うるさく言うのも居るけんど」 「そのときは、どうなりますか」 「どうって、いったん退き下って、係官が交替するのを、待っておればよかです。次の係官は、たいてい通してくれる。わしら一世は|異 邦 人《エストランジエロ》だから、橋を渡ってちょいとパラグアイへ行くにも、もし正規の手続きをとれば、二万二千クルゼイロ要るですよ」  すでに帰化したから、エストランジェロではないけれども、話をおもしろくするために、そのへんは省略した。  ブラジル政府は、外貨保有のために、国民の海外旅行を、実質的に制限している。外国旅行を希望する者は、まず正式に申請手続きを取り、警察から渡航許可をもらう。そのうえでブラジル銀行に、二万二千クルゼイロを積立てさせられる。この積立金は、一年間据置きで、無利子である。これはブラジル国民も、永住権をもつ外国人も、同様なのだ。政府としては、この手続きのわずらわしさが、旅行を思いとどまるのを、期待しているのである。  ただし近隣の、ウルグアイ、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ペルーの五カ国に関しては、積立金がなくとも、許可を与える。ところがエストランジェロは、これら近隣の国へ行くのにも、ヨーロッパやアジアへの旅行と同様に、二万二千クルゼイロ積立てねばならないのだ。 「日本円なら、十七、八万円だな」  いつのまにか耳を傾けていた、常務がつぶやく。孫娘は彼のほうへ行って、回りを跳びはねているのだった。 「そうです、大金ですよ。ちょっと橋を渡るにしては、高すぎるけん」 「ブラジル人は?」 「ドキュメントがあればよか。こげん紙が一枚で、まあ、身分証明書というかパスポートとは、ちがいます」 「ははあ、ドキュメントね」  色白の常務が、社長の顔を見た。すると社長も、大きく頷いて、ダミ声にいっそう、弾みがついた。 「自分らは、旅行者だから分らんが、永住権のようなものがあれば、便利でしょうな」 「便利ちゅうたら?」 「たとえば、パラグアイから、ブラジルに入るのに……」 「そうですなあ」  どういう状態を想定して、質問しているのか分りにくかったが、あれこれ話しているうちに、のみこめてきた。日本政府発行のパスポートを所持している者が、日本以外のどこかの国で、ブラジル入国の査証を取ろうとしても、これは出来ない相談である。あくまでも日本で、ブラジル大使館に申請し、入国許可を取らねばならない。 「パラグアイの永住権を持っておれば、そりゃ簡単ですよ。アスンシオンのブラジル大使館で、ビザがもらえる」 「なるほど、なるほど」 「観光ビザならば、有効期間は三カ月じゃけんど、永住権さえあれば、いったんパラグアイに戻って、またブラジルへ入ればよか」 「そうらしいですな」 「まあ、パラグアイに限らず、南米のどこかの国に永住権があれば、便利にはきまっておるですよ」  パラグアイの日本人移住地は、国境のパラナ河沿いに点在している。はるばるサンパウロへ出かけるよりも、あちらへ知合いが多いのだ。だから昨年の皇太子訪問のときは、ブラジルに住んでいながら、サンパウロの移民七十周年式典には出席せず、アスンシオンのほうへ行ったのである。 「やっぱり永住権だなあ」  ダミ声の社長が、ことさら感心したように頷いて、色白の常務も得心のいった表情だった。二人だけでボートに乗っていたときの、どこかよそよそしい雰囲気が、今はもう感じられない。 「しかし簡単には、取得出来んですよ。なんちゅうても、永住権ですけん」 「パラグアイのばあいは?」 「ええっと……」  他国のことではあるが、たちまち答えることが出来た。  パラグアイの永住権を取得するには、二つの条件を満たさなければならない。一つは、四年以上パラグアイに在住すること。もう一つは、警察当局による無犯罪証明書である。  したがって日本人が、日本に居てパラグアイの永住権を取得することは、不可能なのである。パラグアイへは、ビザがなくても、観光目的ならば、二十四時間以上で九十日間以内の、ツーリスト・カードで入国出来るが、永住の希望があれば必ず、日本でパラグアイ大使館の査証を取っておく。この査証は、観光(四カ月間有効)、業務(二年間有効)いずれでもよく、現地で延長してもらい、四年間たったら永住権申請をする。  この申請を審査し、許可するかどうかを決定するのは、パラグアイの出入国管理事務所の権限である。 「ははあ、やっぱり」  改めて社長が、感心する。どうもこの大男は、なにごとか思い込みたいらしく、重ねて念を押しかねないので、先回りして言っておいた。 「ただし社長さん、それはタテマエでね。パラグアイちゅう国は、なかなか融通がきくですもんねえ」 「ということは?」 「永住権が、カネで買えるんですよ」 「………」 「はははは、|嘘《うそ》じゃなかあ、ほんなごつ。あそこは何でも、カネで片付くところ」 「ほほう?」  目を丸くして、驚いた表情だが、これもわざとらしい。すでにどこかで、永住権が買える話を、聞いているのではないか。 「なんぼぐらいするものでしょう」 「相場ですか?」 「はいはい」 「高うなっとるらしいですよ」 「………」 「五百ドルでしたかな」 「ということは?」  急いで常務のほうを向いたら、 「十二、三万円」  突き放すような返事だった。  それを聞いたあとの、大男の|狼狽《ろうばい》ぶりは、見ていて気の毒なくらいだった。五百ドルではなく、五千ドルの間違いではないのか、いや五十万クルゼイロだろうと、|執拗《しつよう》に聞いてくるが、こちらはパラグアイ通である。五十ドル、百ドルで買えた永住権が、だんだん高くなっていると、台湾人、韓国人が困っている。なにしろ合法的にブラジルへ入国するには、今やパラグアイ経由しかないというのが、常識になっている。その点で日本人は、恵まれており、ブラジル政府がビザを出し渋ることはない。まさに大手を振ってブラジル中を歩けるのだが、それというのも一九〇八年六月十八日サントス入港『笠戸丸』の七百九十一人の第一回移民いらいの、日本人の営々たる努力で築いた信用があればこそなのだ……。  しかし、目の前の二人に、そんなことを話してみても、はじまらない。 「はははは、永住権なんちゅうもの、わしとこのスーペルメルカードで売っておるわけじゃなし、値段の点じゃ責任は持てまっせん」  笑って歩きだしたのは、今や本支店を合せて売場面積が千五百平方メートルの、フォス・ド・イグアス随一のスーパーマーケットのシンボルマークである、ヒマワリの花を車体に描いた軽トラックが、坂道を上って来たからだ。 「ママイ!」  大人たちの外国語に、いい加減飽きていたらしい孫娘が走り出すと、大事に持っていた青い蝶が道路に落ちた。  すっと近づいて、常務と呼ばれた男が拾い上げたが、すでに死んでいる。彼は|掌《て》に載せると、岸辺に歩いて行き、どうやら河へ流すつもりらしい。その|撫肩《なでがた》の後姿に、なにやら語りかけたい様子だったが、大男の社長は、ボート置場の下流の岸辺に密生する小|灌木《かんぼく》のわきにしゃがんでいる、さきほどの小男のほうへ、大股に歩きだした。 [#改ページ]

   
3 リベルダーデ  四月十一日午後五時すぎ、サンパウロ市のリベルダーデ通りで|軽喫茶《バール》をひらいている、四十六歳の台湾人のところへ、日本の新聞記者が顔を出した。近くを通りかかったので、ちょっと立寄ったというのである。 「カフェ?」 「そうだね」  ポロシャツの新聞記者は、ちらっと横に視線を走らせ、隣りの黒人がピンガを飲むのを見た。サトウキビが原料の酒だが、レモンを絞りこんで、ウィスキーグラスに注いでやる。一杯五クルゼイロだから、コーヒーなら二杯飲めるけれども、日系企業で|梱包《こんぽう》作業をしている青年は、きまってピンガであり、二口に分けて飲むのが癖なのだ。 「オッティモ!」  残り半分を、ぐいと|呷《あお》って、黒人の青年は店を出た。そして交差点を、信号など無視して渡って行く。 「彼はいま、なんて言ったんだろう」 「うーん」  日本語に直訳すれば、「最高!」なのだろうが、そんなことは心得たうえでの、質問なのである。ふつうブラジル人は、立てた親指を上に向けて言うが、今の青年はそう言っただけだ。 「たぶん、うめえ! じゃないの」 「なるほど、うめえ、か」 「出てすぐ、大急ぎに行ったでしょ。これから、大学なんでね。すこしでも早く着いて、いい席を取るんだって」 「ほう?」  振向いて交差点のほうを見やったが、すでに夜学生の姿はない。しかし退けどきとあって、車も人も混んできた。乗用車はあいかわらず、フォルクスワーゲン。そして人間は、白人黒人黄色人混血……と、まさに人種の|坩堝《るつぼ》である。ただし、リベルダーデ地区は、東洋人街といわれているから、黄色人種が多めではあろう。 「ぼくはまた、トロンバジーニョかもしれぬと思ってた」 「そういえば、ズックをはいてたね」 「だから、つい……」  こっちを向いた、ぽってりと肉付のいい顔が、苦笑している。童顔ながら、四十は過ぎている。こないだは戦前の、国民学校の教科書を話題にしたら、お互いの記憶が一致した。 「きょうも二、三件発生して、どこか奥地から買物に来た日系の老人が、骨折したとか言っていたなあ」 「困ったものだよ」 「この頃は特にふえたと聞いたけど」 「うーん」  つい溜息が出る。トロンバジーニョとは、要するにひったくりのことだが、突き飛ばしてバッグを奪うだけでなく、それを追いかける被害者を、刃物で刺すケースがふえてきた。犯行はきまって、若者たちであり、徒党を組んで襲う。彼らはきまって、逃げやすいようにズック靴をはいているとか。八百五十万とも、九百万人ともいわれる、南米最大の都市サンパウロへ、周辺の農村から貧民が流れこんで、この種の犯罪が増加するいっぽうなのである。  ただし、ブラジル国内からの流入とは、かぎらない。中南米の諸国から、|遙《はる》か太平洋を渡ってアジアから……。この日本人記者は、東南アジアと南米を結ぶ麻薬の密輸ルートに、台湾人が介在すると見て、独自の取材を進めている。ブラジル政府が、中華民国と断交して、中華人民共和国を承認していらい、台湾人のブラジル入国が難しくなり、パラグアイ経由で来るところから、〈台湾マフィア〉のルートがあると、記事を送ったりしているのだ。 「やっぱり、ピンガを一杯もらうかな」 「だいじょうぶ?」 「ぼくも、うめえ! と言ってみたい」 「はいはい」  いつかこの特派員は、原稿のしめきりが、一時と一時だと言っていた。ブラジルと日本との時差は、ちょうど十二時間である。したがって、午後一時が朝刊のしめきり、午前一時が夕刊のしめきりになる。部数七百万の大新聞ながら、南米大陸を一人で受持っていることになり、気の休まる暇がない。今は朝刊のしめきりが終って、ホッと一息ついたところなのだろう。 「どうぞ」 「しかし、うめえ! とはなあ、マスターもうめえこと言うよ」 「横浜で働いていたとき、労働者が酒屋でさ、|焼酎《しようちゆう》をコップに|量売《はかりう》りしてもらって、キュッとひっかけて、うめえ! と言ってたから」 「そうか、横浜にも居たの?」 「東京でも働いたよ。山谷というのかな、あそこで、立ちんぼしてた」 「いつ頃なの?」 「一九六二年……」  台湾では、独立運動をしていたから、いつ逮捕されるかしれなかった。そこで台北の海外移住センターで、五十ドル出して|招聘状《しようへいじよう》を買った。むろん偽物だが、ともかく日本へ行き、ここでも六百ドル使って、永住査証を入手した。港湾荷役や埋立工事、あるいは新幹線工事など、オリンピックを控えて日本は好景気で、どんな仕事でもいい賃金になった。そのころブラジルへ、学校の同窓生が来ており、暮し良い国だと教えてくれた。日本に居たのでは、政治的にも台湾に近すぎる。そこでブラジルへ行くことにして、横浜港を出たのが六三年七月だった。ホンコン——シンガポール——ケープタウン経由の、二カ月がかりの航海で、リオデジャネイロに入港したのである。 「日本も変っただろうね」 「そうだなあ、十七年も経っているんだから」  新聞記者は、ゆっくり|舐《な》めるように、ピンガを飲んでいる。彼の社の新聞は、読みたくても読めないが、サンパウロでは三種類の日本字新聞が毎日発行されており、日本の情報に不足はない。このリベルダーデは、サンパウロ州に集中した日本移民が拓いた街であり、|鮨屋《すしや》もあれば、ウメボシやカマボコを売る店もある。台湾人は、その日系社会に、徐々に入りこんで、いわば共存共栄でやっている。 「行ってみたい?」 「うーん」  なにしろ植民地台湾で、日本人として、生まれたのである。父親が役場に勤めていた関係で、小学校へ行った。ふつうの台湾人子弟は、公学校に入る。小学校で学び、中学校へ進んだ年に、日本の敗戦である。「なぜ降伏したのか」と口惜しがっていたら、実は戦勝国民なのだと教えられた。中国軍が台湾へ来て、日本軍を武装解除したが、その軍隊が至るところで行なった暴行|掠奪《りやくだつ》を、忘れることが出来ない。日本に屈伏し、同化していた者たちへの、怒りだったかもしれないが、やがて大陸を追われた国民党の軍隊が同じことをしたのを、どう解釈すればいいのか。台湾独立を思いはじめたのは、その時期からであり、同時に日本の帝国主義政策が、いかに台湾人に|苛酷《かこく》なものであったかを、|識《し》りはじめた。 「わざわざ日本へ行かなくても、サンパウロに居れば、だいたいのことが分るよ」 「あっはっは、そういうことか」  笑っている顔を見て、つい余計なことを、言いたくなった。サンパウロの日本字新聞には、まだ載っていないニュースである。 「日本では、保険金殺人というのが、流行しているらしいね。いつかは、ほら、大分県で妻子に三億円の保険をかけ、車ごと海へ飛びこんで、自分だけ助かったのが居るでしょ」 「居たねえ、そういうのが。裁判はどうなったかなあ」 「本人はがんばっていると『サンパウロ新聞』に載っていた。自分は助手席で居眠りしていたと言ってるが、実際は本人が運転してたに決まっている」 「まず間違いないとしても、立証が難しいだろうなあ」  いつの間にか外信部に回され、東南アジアから中東、そして南米へ来たけれども、以前は社会部に所属して、事件記者だったという。手がけた事件について聞かせてくれたが、どんな内容かは忘れた。なにしろ事件が起ると、ぞくぞくっとするとか。あとは他社に負けないために、ひたすら歩き回る。そういえば日本に居るとき、『事件記者』というテレビの連続ものを観ていたが、ピンガを舐めている特派員は、どの人物に相当するだろう。キャリアからいえば、現場の記者を怒鳴りつける役のはずだが、ここに居てはそうもいかない。奥さんを電話番に置いて、南米を走り回っているけれども、事件には出遇えないとか。いや強盗殺人、|強姦《ごうかん》殺人は日常茶飯事であり、サンパウロ市内だけで一日に七、八人が殺されているというが、わざわざ日本へ送る記事にはならない。ブラジルの日系人は、犯罪の被害者にはなっても、まず加害者になることはないのである。 「しかし今度の事件は大きいようだね」 「どれが?」 「愛知県の、保険金殺人事件。六億とか七億とかいうじゃないの」 「ああ、あれねえ。運送会社の社長が、暴力団を雇って殺した」 「三人殺して、一人は未遂でしょ。やることが、荒っぽいねえ。あまり日本では、見かけない犯罪じゃないかな」 「ちょっと待って……」  すでに空になったグラスを、まだ手に持っていた新聞記者が、それが特徴の大きな目をクルクル動かした。 「その話を、どうして知っているの?」 「新聞で読んださ」 「いつ?」 「つい、さっきだけどね」 「おかしいなあ。ブラジルじゃ、まだ、一行も報道されていないはずだけどな。……日本から来た新聞なの?」 「いや、あれは『|ABC《アベセー》』だったよ」 「………」 「パラグアイの新聞さ」  ほんの一時間ほど前だった。アスンシオンに商用で行ったという人物が、コーヒーを飲みながら、その話をしていた。そして実際に、パラグアイ最大で、発行部数四十五万という、多色刷の朝刊紙『ABC』を見せてくれた。あちらはスペイン語だが、なんとか読めて、ほぼ事件の概要を知った。 「ということは、十一日付朝刊か」 「そうだね」 「見せてくれる?」 「いやいや、その人が持って行った」 「ふーん。その人は、だあれ?」 「はてな……」  パラグアイから帰った人物とあって、〈台湾マフィア〉を書いた記者は、興味を抱いたにちがいない。 「ふつうのお客さんだからね、名前も知らないよ」 「商売人といったね?」 「ははあ、商売人だからかな。保険金のことばかり言ってた」 「なるほど」  あっさり頷くと、新聞記者は、事件の内容を説明した。  一九七八年八月、東京で六十六歳の詐欺師が逮捕された。株券を質屋に持込み、五百万円貸してほしいと言ったのだが、偽造であることを見破られたのである。ところがこの詐欺師は、「オレより悪いのが居る」と言いだした。七七年七月に、愛知県豊川市の運送会社社長にすすめられ、六千万円の生命保険に二口も加入した。掛金だけで、月額七十万円弱だが、これは運送会社の社長が支払っている。その翌月、知合いの豊橋市の暴力団組長に誘われ、酒を飲んだ。ずいぶん酔っぱらったら、車で送ってやるとのことなので、眠りこんでいると、水の中だった。車が浜名湖に、沈みかけていたのである。もがいて|這《は》い出して助かったが、組長は「若い者の運転ミス」と弁解した。そして九月、こんどは長野県へ土地を買いに行こうと誘われ、組長の弟が運転する車で国道を走っていたら、|崖《がけ》に追突した。ドアを開けて出たところを、後ろの席に居た組員が、鉄パイプで殴った。大ケガをしたものの、通りかかった車のおかげで助かったという。  一九七九年三月二十日、このとき車を運転していた二人が、殺人未遂で逮捕された。やがて二人は、殺人を依頼したのが運送会社の社長であると自白した。  四月五日、暴力団の組長と、車を浜名湖に突っこんだ組員が、殺人未遂により逮捕された。同時に、依頼主とみられる社長の自宅と会社の、捜索がおこなわれた。しかし社長は、行方をくらましている。  四月六日、四十歳になる運送会社社長は、全国指名手配された。六十六歳の詐欺師に対する、殺人計画と指示による、殺人未遂罪であった。  だが警察は、一月いらいの内偵により、すてに三件の殺人が完了しているとの、疑いを持っていた。一連の怪死事件に、社長がからんでおり、しかも多額の保険がかけられているのである。  一九七二年十月四日朝、愛知県|額田《ぬかた》郡幸田町の小川で、四十三歳の食品製造業者が死んでいた。酒好きとあって、酔っぱらい運転による、事故死として処理された。トコロテン、コンニャクを製造する人物は、事故死の前月に三種類の保険に加入しており、翌年六月には一億三千万円が支払われた。受取人はいずれも、運送会社および社長であった。  一九七三年七月三十一日朝、愛知県渥美郡渥美町の新江比間海岸で、十八歳の自動車運転助手が、水死体で発見された。前日の日曜日に、従業員慰安の海水浴に出かけ、午後三時すぎから姿が見えなくなっていた。社長はずいぶん心配していたというが、彼の会社は助手に対して六月から七月にかけて、四種類の保険をかけており、やがて計一億円を受取った。  一九七八年十二月二十六日未明、愛知県豊橋市上伝馬町のバーが焼け、五十五歳の女主人が死んだ。地元では「おとこ女」として知られる彼女には、共同経営者が居る。それが運送会社社長の妹である。三十七歳になる妹は、焼死者の生命保険の受取人に指定されている。五種類で計一億八千万円が支払われるはずだが、これは保険会社が調査中で未払いなのだ。 「というわけで、受取った保険金が、二億三千万円になる」 「詳しいね」 「事件記者だもの」  カウンターに置いたグラスを、指で|弄《もてあそ》んでいる。L字型のカウンターは、ほかに七、八人の客だが、止まり木とてない立飲み形式なので、回転が早い。こちらも内側に突っ立って、生ジュースを絞ったりで、けっこう忙しい。 「もう一杯いく?」 「そうだね」 「レモンは少ないほうがいいかな」 「どちらかといえば」  微笑しながら、さりげなく外を見たりするのは、話を切り出すタイミングをはかっているにちがいない。しかし『ABC』を見せてくれた男のことを、話すわけにはいかぬ。せいぜい、新聞の内容に、ふれる程度で済ませよう……。 「パラグアイの新聞には、だいたいのことが書いてあるだけさ」 「すると、あれは?」 「………」 「主犯の男が、台湾へ逃げたというの」 「書いてあったよ」  そもそも、さっきの男が『ABC』を見せたのも、保険金殺人の主犯が台湾に潜伏中とあったからだ。 「たしか、〈日本マフィア〉が、台湾へ逃げたとね」  なにも〈台湾マフィア〉ばかりが、問題じゃないはずである。言ってやったら、童顔の新聞記者は、注いだばかりのピンガを、まずそうにすすった。 「四月二十日に暴力団員を逮捕したとき、彼はすでに台湾へ逃亡していたらしいね。最初の殺人未遂事件に手をつけたのが警視庁で、あとの三件は愛知県警の管轄でしょ。縄張りがちがうから、双方モタモタしているうちに、逃げられちゃった」 「ははあ、〈日本マフィア〉を、縄張り争いで逃がした?」 「うーん」  目を伏せて、ピンガの|匂《にお》いを|嗅《か》いでいる。こないだから、この特派員は、パラグアイへ行きたがって、適当な道案内が欲しいらしい。むろん〈台湾マフィア〉を取材するためだが、こちらも協力するにやぶさかではない。ひとくちに〈台湾マフィア〉というが、破壊すべきものと、むしろ強化せねばならぬものとあるのだ。 「それでさっきの、『ABC』を見せてくれた男だけどね」 「うん」 「おもしろいこと言ってたよ」 「どんな?」 「保険金詐取の殺人会社の社長が、次はどこへ逃げるかって……。台湾に居たんじゃ、すぐ捕まっちゃう、たぶん南米めざすんじゃないかとね」 「なるほど」  ピンガの残りを、舐めるようにしながら、童顔の特派員は黙りこんだ。 [#改ページ]

   
4 アスンシオン  四月十三日午前六時すぎ、アスンシオン市パラグアイ通りに住む、二十二歳の青年は、東京から電話がかかっていると、母親に起された。 「ぼくにかかるわけないだろ?」 「だけど、指名通話だよ」 「おかしいな……」  手広い商いの父親は、日本との電話連絡も、ひんぱんにおこなっている。だから母親が念を押したら、日本側のオペレーターが出て、はっきり当家の長男の名前を告げた。女の子ばかり四人続いて、ようやく出来た男の子は、高校を卒業すると、日本へ留学した。その四年間が終って、パラグアイへは、十日ほど前に帰って来たのだ。 「東京で変な約束したんじゃないだろうね」  階段の途中で待っていた母親が、声をひそめて問うた。結婚の相手は、あくまで南米育ちの日系人であるべきだと、早くから言い続けている。四十歳で産んだ長男は、いずれ家業を継いで、この国の日本人会で重きをなさねばならない。その点、四人の姉はいずれも、パラグアイ人と結婚して、同化に努めている。 「そんなことないって」  長男は、玄関ホールの、電話機を掴んだ。 「ブエノス・ディアス」  おはようと呼びかけたら、すぐにかけた当人が出て、放送局の報道部記者だという。なぜ電話なのか、あっけにとられたが、「ウチの番組に出てもらったとき矢部というのが担当だったでしょう」と言われて、いちおう得心がいった。若者向けの番組に、パラグアイ人留学生として、出演したことがある。 「こちらは金曜の午後五時ですが、そちらの時間は?」 「午前六時ですけどね」  サマータイムは、三月までだから、今は日本より、十三時間遅れである。 「やっぱり、パラグアイも、金曜日?」 「そうですよ。カトリック教国だから、十二日と十三日は|復活祭《イースター》で大|賑《にぎわ》い。学校も官庁も、十一日から五日間ずっと休みで、国民総休暇ということです」 「ははあ、イースターね」 「こっちへ、来られるんですか?」  あのときのテレビディレクターが、いつか南米へ行きたいと言ったので、住所と電話番号を、教えておいたのだ。 「いいえ、行くのは私どもじゃなく、保険金殺人の、凶悪犯なんです」 「パラグアイへ?」 「こいつは愛知県で事件を起し、台湾へ逃亡していた。それが四月一日に、台北空港を出て、成田経由で南米へ向ったんですよ」 「四月一日?」 「そうなんです、あなたが発った日と、同じだものだから、ひょっとすると乗合せたんじゃないかと……」  確かに四月一日、ヴァリグ・ブラジル航空831便に乗った。定刻どおり午後六時発で、途中なんのトラブルもなく航行して、四月二日に帰国した。その飛行機に、日本の凶悪犯が乗っていたというのか? 「こうして電話するのも、あの日あなたを見送りに行った宮良君が、ウチの矢部に|報《しら》せてくれたからです」  そういえば、日本を|発《た》つ日に、宮良寛成が見送りに来ていた。成田空港は遠いし、見送人もチェックされると聞いている。それで東京駅に近い、シティ・ターミナルに集まってもらった。宮良が搭乗の便名まで憶えていたのは、南米への強い関心のあらわれだろう。沖縄の石垣島出身で、同じ大学の〈ラテン・アメリカ研究会〉のメンバーだった。南米へは、沖縄からの移民が、昔から盛んである。いつの日か自分も行くかも知れぬと、テレビでも発言していた。 「それであなたは、まっすぐ帰った?」 「はあ」  こういうのを、まっすぐと言うのかどうか、成田始発のヴァリグ・ブラジル航空機は、ノンストップでロサンゼルスへ飛び、次に寄港したのがペルーのリマで、リオデジャネイロに着いたのが、四月二日午前七時五十分だった。使用機はここで格納庫入りし、乗継いだ便が午前九時発で、アスンシオン着が午後一時○五分だったのである。  時差の関係でこうなるが、実際は三十二時間も、飛行機に乗りづめだった。一人旅ですっかり退屈したけれども、この便は今のところ、日本とパラグアイを結ぶ最も速い定期路線なのだ。 「事件のことは、こっちの新聞にも、ちょっと出ていましたが、ほんとに犯人が、アスンシオン行きの飛行機に乗ったんですか」  問い返していると、パイプをくわえて、父親が起きて来た。ずっと|蘭《らん》に凝っており、水やりの時間でもあるが、早朝の国際電話が気になるらしい。 「台湾の警察が確認しているのは、四月一日に犯人が、まちがいなく台北を発っていることです。午前十時五十分発の、キャセイ・パシフィック450便。これが成田に着くのが、午後二時四十分」 「じゃあ、日本へ帰ったんじゃないですか」 「いやいや、入国の形跡はない。帰国のときは、パスポートにはさんでいたカードを、必ず提出させられるでしょ」 「偽名かなにか使って……」 「だって台湾における出国手続きは、本名だもの。それに言い遅れましたが、台湾で購入した航空券は、アスンシオンまでの通しキップなんです。二時四十五分に成田に着いて、トランジットルームで時間待ちし、六時発のヴァリグ・ブラジル航空と考えるのが、妥当だと思います」 「東京からアスンシオンまでのキップは?」 「むろんヴァリグ・ブラジル航空で、乗客名簿にも、載っているそうですが、どこか途中で降りたとなると、確めるのに時間がかかる。ロサンゼルスか、リマか、リオデジャネイロか」  なるほど途中で降りる可能性はあるが、アメリカとブラジルはビザが必要で、事前の準備があったかどうか。その点ペルーは、観光客ならビザがなくても、三カ月は滞在することが出来る。 「どうでしょう、思い出せませんか。東京からの乗客の様子ですが、途中どんなだったか。申し遅れましたが、この電話は、録音させてもらっています」 「弱ったなあ。ぼくはずっと、寝転がっていたんですよ」  新東京国際空港を発ったとき、乗客は三、四十人ぐらいのもので、ほとんど日本人だったような気がする。ガラガラに空いている印象なのは、家族連れやグループが、かたまっていたからだろう。そこで座席の|肱掛《ひじか》けを取払い、三つ分を占領してベッドにした。しかし、ロサンゼルスからは、どっと乗込んで来て、スペイン語やポルトガル語の会話が、賑やかになった。帰国する喜びが、じわじわ|湧《わ》いてきたのは、リマあたりからだろう。 「その凶悪犯人が、パラグアイに入国したかどうかを、確めたいわけなんですねえ?」 「そういうことです。もし乗合せていたのなら、彼らの様子など、聞かせていただきたいし……」 「そんなこと言われても、名前も顔も知らないのに」 「ですから、メモをお願いします。台北からキャセイ・パシフィックで出発して、ヴァリグ・ブラジルに乗継いだ五人です」 「五人も?」 「そうなんです。今から言う五人は、キャセイ航空に乗るときから、行動を共にしているらしい。最初に言う数字が、座席番号です」  それで言われたとおり、次のようにメモした。  25A CHEN・Q  25B LIANG・Y  25D SAWAMURA・H  25E KAWABATA・M  25F THAI・SAE・L 「この五人は、アスンシオンまで、荷物をひとまとめに、預けています。計四個で、重量が九十キロ」 「ははあ、五人で四個ですか」  ふとリオデジャネイロで、乗換えたときのことを、思い浮べた。飛行機から出たところで黄色い札を渡され、通過客のための広いロビイへ、案内された。このときサンパウロ行きの客は、青い札を持っていた。  リオデジャネイロの国際空港は、一九七四年四月に開港したが、まさに超近代的な構造で、ブラジリアの建物に共通するものがある。高い天井に広い窓ガラスなど、坐り心地のよいソファで眺めていたら、黄色の札を持った中年の大男が、「ここはどこですか?」と尋ねたのだ。酒の匂いがして、顔も赤みがかっている。酔っぱらいがふざけているのかと思いながらも、「リオですよ」と答えたら、「ブラジルだね」と念を押した。こちらは、つい笑ってしまい、相手も照れたように首をかしげながら、連れの居るほうへ戻った。だいぶ離れたところに、何人か男が居て、やはり黄色の札を持っていた。どんな連中だったか、記憶ははっきりしない。そのうちアナウンスがあって、アスンシオン行きの、ヴァリグ・ブラジル航空902便に乗った。国際線ながら小型機で、先に機内に入った者が、座席を選ぶのである。あちこちの定期路線から、乗継ぎの客が集まり、ほぼ満席になった。「ここはどこですか?」と、とぼけた質問を発した中年男の、紙袋を掲げて仲間を呼んでいた姿が、ちらっと視野に入った気もする。しかしアスンシオンに着いてからは、こちらには大勢の出迎人で、感激して涙など流してしまい、ほかの客のことなどまるで忘れた。 「このうちのカワバタが主犯でして、運送会社の社長。これは四月十一日付で、殺人と殺人未遂により、国際手配されています。もう一人のサワムラというのは、同じ会社の経理担当の常務取締役ですが、これがどういう罪を犯したのかはまだ明らかでないようです」 「ほかの三人は?」 「おそらく台湾人じゃないかと……。とにかく、また電話を入れます。ぜひとも、そちらで逮捕してもらいたい」  最後は警察官の口ぶりで、電話を切った。いったい、人を何だと思っているのか。釈然とせぬ思いで、電話機の前から離れた。 「カフェしようね」  ホッとした表情の母親が、太った体を揺って台所へ行き、パイプをくゆらせた父親も、報告を待つ表情だから、寝室へ引返すわけにはいかなかった。 「どうしたというんだ?」 「殺人会社の社長が、パラグアイへ向ったというんですよ」 「………」 「こないだ新聞に載っていた事件ですけど」  コーヒーを飲んでいるうちに、朝食になった。女中はイースターで、休暇である。ふだんでも、金曜日の夜から、郊外の自宅へ帰る。だから週末の家事は、六十二歳の母親の仕事になるが、孫を連れた娘たちが交替で訪れるから、長男の不在はそれほど淋しくはなかったらしい。 「保険金目当ての殺人なあ」 「日本で流行しているんです」 「しかし赤軍派がパラグアイへ向ったと聞いたときは、肝をつぶしたぞ」  六十八歳の父親が、パイプをふかしながら、細い目をしばたたいている。ふしぎに日焼けしない肌が、この数年なぜか赤みがかって、白い粉をまぶしたみたいである。 「ああ、皇太子がパラグアイへ来たときのことですか」 「私は赤軍派より、|燕尾服《えんびふく》でハラハラさせられたわ」  母親が、微笑している。  皇太子夫妻のパラグアイ訪問は、一九七八年六月のことで、ブラジルにおける日本移民七十周年祭に出席する前に、立ち寄ったのだった。三日間の滞在期間中に、いろいろな歓迎行事がひらかれ、このうち日本大使が主催するレセプションの招待客百五十人には、〈服装は男子は燕尾服、婦人は和服またはロングドレスでないと会場にお入り願えません〉との注意書きがあった。レセプションの招待者の中には、第一回パラグアイ移民をはじめ、農民が多くふくまれているが、燕尾服を持っている者はほとんど居らず、不参加者が続出した。なんとか参加出来たのは、アスンシオン市内の貸|衣裳《いしよう》屋に、二日間の使用料一万二千グァラニー(約百ドル)を払ったからで、商社の駐在員などは、|急遽《きゆうきよ》アルゼンチンから取寄せていた。日本大使館としては、パラグアイ大統領主催のレセプションが〈燕尾服着用〉なので、条件を整えるのが外交上の礼儀と判断したのだった。  この燕尾服騒ぎのさなか、日本人移住地の農民三人が、予防検束された。ブラジル国境に近いイグアスあたり、警戒を厳重にしていた|国際警察《インターポール》に連行されたのである。逮捕の名目は、〈不穏な行動を起す恐れあり〉で、皇太子夫妻が十六日の朝、ブラジルへ発ったあと、釈放された。この逮捕には、国際協力事業団の日本人職員が、介在している。三人の逮捕者は所用で日本へ行き、コロンビア経由で六月九日に移住地へ帰ったばかりだった。そのうちの一人が、国際手配の日本赤軍メンバーに、顔が似ているとの|噂《うわさ》が流れたため、国際警察に通報したのである。 「邦人歓迎会は、映画館でやったが、わしは会場責任者だから、赤軍派にまぎれこまれては一大事と、夜も眠れんかった」 「おやじは、皇室に批判的じゃなかった?」 「この国へ来て、四十三年じゃ。わし自身がパラグアイ人だもの、皇太子を想うて眠れんかったわけじゃないさ」 「………」 「もし万一のことがあっては、大統領の名誉を汚す。そればかりが、心配でのう。わしゃ赤軍派が来たら、土下座して頼むつもりだったぞ」 「なんと言うて」 「どうかパラグアイに、迷惑かけんでください。やるなら、どこか他の国で、あんたらの気の済むように、と」 「はあ」  頷きながら、なんとはなしに、父親の気持が分るような気がした。  パラグアイへは、一九三六年一月に来ており、最初の日本人移住者だったが、ブラジルから試験移民として派遣されたのである。一九三三年六月は、サンパウロ州への移民二十五年祭で、毎年二万人もが入る最盛期だった。しかしブラジルでは、日本人締出しの声が高まり、新憲法制定議会において、年間三千人余りしか受入れないことを決めた。昭和初期いらいの経済不況と、東北地方の冷害に悩んでいた拓務省は、南米に新しい受入国を求めて、パラグアイ政府が百家族にかぎっての、試験移民を許可したのだ。  そして一九四一年まで、百二十三家族が入植したが、太平洋戦争が|勃発《ぼつぱつ》して|杜絶《とぜつ》し、再開されたのは一九五四年だった。 「それにしても、なんでパラグアイなのかなあ」 「えっ?」 「さっきの、殺人会社だ」 「ほんとうは運送会社の社長だそうです」 「地球の裏側は、犯罪者天国と、思いこんでおるのかもしれない」 「ぼくも日本で、あれこれ聞かれましたよ。テレビを観ていても、悪党がカネを握ると、“南米へでもずらかるか”だもの」 「ホンコンじゃなかったのか?」 「この頃は、南米のようですね」 「しかし、パラグアイとはなあ」  苦笑する目が、いつかこの家にも立ち寄った、日本の外務大臣の|揮毫《きごう》へ移った。  日本の大学へ行ったのは、父親の強い要望に応えてのことで、経営学部を卒業はしたものの、それがパラグアイで役立つかどうか、皆目わからない。とりあえずは、父親の走り使いで、大豆の買付けをやらされそうだ。木材、綿花、牛肉と並んで、この国の代表的な輸出品の大豆は、十年ほど前に日本人が栽培を始めた。最初は焼畑方式で、すべて人力だったが、そのうちトラクターが入り、コンバインで収穫するようになった。大豆農家の所有耕地は、平均三百ヘクタールで、五百ヘクタールの地主になった日系人も居る。 「だけどお爺ちゃん、パラグアイじゃ、すぐ捕まるでしょうに……」  デザートのパパイヤを、ナイフで刻みながら、母親が笑った。 「日本人の観光客なんて、まだまだ、珍しい。アスンシオンのホテルに居るのは、商社の人ばかりだもの、その気になって探せば、すぐに分るでしょ」 「曲がりなりにも会社社長たる者、パラグアイには日系人が八千五百足らずということぐらい、知っていそうなもんだが」 「そうですよ、私たちの苦労も知らないで。なぜもっと、真面目な人が来ないのかしら」 「経済大国かなにかしらんが、買ってでも苦労するような人間を育成しておらんのだ。だから楽して儲けることばかり考える人間が出来る。こんどの事件が、何よりの証拠じゃないか。バカ者め、パラグアイを甘くみるな」  タバコを詰め替える、父親の手が、ふるえている。そのパイプを見つめながら、不意に母親が笑いはじめた。 「お前、なにが|可笑《おか》しい?」 「だって……」 「笑いごとじゃないぞ」 「でもね、お爺ちゃん、その人だって、期待しているんじゃないですか」 「………」 「パラグアイに行けば、木から女が降ってくる」 「バカなことを言うな」  父親が、いっそう苦々しい表情になったのは、なにかにつけて母親から、「木から女が降ってくる」を、持ち出されるからだ。  一九三六年に、試験移民としてブラジルから来たとき、二十五歳で独身だった。当時パラグアイは、隣国ボリビアとの、四年がかりのチャコ戦争が終ったばかりで、疲弊しきっていた。グァラニー語で、パラグアイとは、〈海のようにひろがる河の国〉の意である。北をボリビア、東をブラジル、西と南をアルゼンチンに囲まれた内陸国で、ほぼ中央を南北に貫流する全長二千四百キロのパラグアイ河によって、東西に二分されている。人口は東部に集中しており、西部のチャコ地方は、荒れた疎林地帯で、国土の半分以上の面積でありながら、インディオを中心に約八万人しか住んでいない。ボリビアとの戦争は、〈狩猟場〉の意のチャコ地方に、石油が産出するとみての、国境紛争が拡大したのである。後進地域たる南米大陸のなかで、最も開発の遅れた二つの内陸国の戦争は、けっきょくパラグアイの勝利に終ったが、期待の油田は発見されなかった。 「木から女が降ってくる」とは、チャコ戦争で十万人の男子を失い、老幼婦女子のみが残っていた状態をさす。一五二六年のラプラタ河遡行探検により、スペイン人の植民が始まったパラグアイでは、最初からインディオのグァラニー族と白人の混血が盛んであり、男は尚武の気風、女は情熱的なのが、パラグアイ人の国民性といわれている。スペインから独立したのは、一八一一年のことで、一八六四年にはアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイの三国を相手どって戦争を起した。このパラグアイ戦争は、内陸国からの脱皮をはかり、大西洋へ向けて領土拡大の野望に燃えて、ウルグアイへ軍を進めたのだが、一八七〇年に決定的な敗北を喫した。国の総人口五十万だったのが、男二万八千、女二十万と半減し、交戦の三国からは領土を割譲させられ、国家経済が|破綻《はたん》したこの時期から、「木から女が降ってくる」と言われはじめた。 「バカなことって、お|爺《じい》ちゃんがこの国へ来たのは、女のなる木がお目当てだったじゃないの」 「まだ言うておるのか」 「だって……」  六十二歳の母親が、肩で大きく呼吸している。 「あのとき、私を二年間も待たせて、自分は楽しい思いをしていた。こっちは約束を信じて、じいっと待っていたんだから、どう考えても口惜しい」 「何度言えば分るのかなあ。そんな状態じゃなかった」 「いくら弁解したって、信じませんよ」 「花嫁に辛い思いをさせちゃならんと、パラグアイの政情が落着くのを待って、ちゃーんと迎えに行ったろうがい」 「だけど来てみれば、何人もの|混血女《メステイーソ》が、このセニョールは自分の|亭主《エスポーゾ》だと、言いふらしましたよ」 「それが誤解なんじゃ」 「いいえ、弁護士をつけようがどうしようが、お爺ちゃんは有罪です」 「やれやれ、女子と小人は養い難し」  父親が溜息をつき、息子はとうとう、吹きだしてしまった。  このまま聞いていれば、一九三六年二月二十八日の、フランコ大佐を立てての在郷軍人のクーデターで、百家族の試験移民が取消され、ふたたび許可を得るまでの苦労が語られ、その待機期間に「木から降ってくる女」と遊んだのではないかとの反論になる。  しかし息子は、テーブルの上のメモが、次第に気になってきた。日本の警察が国際手配をしたといっても、パラグアイはイースターのさなかであり、十四日(土曜)、十五日(日曜)と役所は機能しない。いずれ休み明けの仕事になるはずだから、その間に国際手配の逃亡者は、深く潜行してしまうのではないか。ここはひとまず、せっかくの放送局の依頼でもあり、パラグアイ入国の形跡があるかどうかを、確めてみるべきだろう。 「やっぱり、ヴァリグに聞いたが、いいんじゃないか」 「そうですね、飛行機は動いている」  二十二歳の長男は、さっそく電話機のほうへ行った。帰国の日に空港で会った、ヴァリグ・ブラジル航空の制服を着た同級生を、思い出したのである。ひどく懐しそうにしていたが、互いにあわただしく、話す暇がなかった。あるいは彼女ならば、つき合ってくれるかもしれない。 「フェ・メンドサといったな」  名前を正確に憶えているのも、幸先がいい気がして、六|桁《けた》の番号をダイヤルした。パラグアイのオフィスは、午前中が七時から十一時半までで、二時間の昼休みをはさみ、午後は一時半から五時までが勤務時間なのである。 「アロー」  モシモシと呼びかけたら、思いがけず、当人が電話を取った。とっさに、どう言っていいか、分らない。それで東京からの電話のメモを読み上げ、四月二日到着の便の乗客名簿に、名前があるかどうかを尋ねたら、ちょっと待ってくれと、受話器を置いた。 「………」  なにも今すぐ、回答が欲しいのではないのに、あっさり承知したのは、手近なところに書類があったからか。やがて、スペイン人の血が四分の三以上の同級生は、電話に戻って言った。 「シー。カワバタ・M」 「エス・ヴェルダー?」 「シー」  ほんとうかと、念を押したものだから、彼女は乗客名簿を、ていねいに読み上げはじめた。なるほど、四月二日リオデジャネイロ発のヴァリグ・ブラジル航空902便には、四月一日台北発のキャセイ・パシフィック航空450便の五人が搭乗し、アスンシオン入りしている。  到着すると、滑走路から空港事務所へ向い、日除けの天幕の下に二列に並んで入国審査を受けるが、このとき一人一ドルの手数料を払い、ツーリスト・カードに必要事項を記入する。そのあと税関の検査を受けるが、パラグアイは自由港なので、きわめて簡単である。旅行者から見れば、税関吏か貨物係か区別のつかない連中が、いちおう中を覗いて、カバンにチョークで印をつけて終りである。 「クアーレ・オテル……」 「ケ?」 「オテル・ミラグロス|1《ウノ》」  なんのことはない、彼らが泊っているところまで、あっさり教えてくれた。ツーリスト・カードには、滞在中の宿泊先として、市内アスンシオン通りのホテル、ミラグロス1と記入してあるという。 「ポル・ケ?」  どうして? と尋ねたのは、あまりにもの手回しの良い回答に、驚いたからだった。かつてヴァリグ・ブラジル航空の東京支店で、アルバイトをしたことがあるから、過去にさかのぼっての調査が、けっこう面倒なことは分っている。 「エンバハーダ」  日本大使館から、朝早く領事がやって来て、今の五人について調べていた。ついさっき、入国を確認して帰ったところだという。 「グラシアス」  それならば、安心である。こちらが下手に動いては、邪魔になりかねない。  ほっとして電話を切ろうとしたら、 「アロー?」  四年ぶりの女友達は、こんな味気ない用件だけなのかと、じれったそうである。  ひとまず電話を切って、両親に報告すると、 「あのペンション?」  母親がふしぎそうな顔をした。  アスンシオンには、高層のグァラニー・ホテルをはじめ、近代的な宿泊施設が整ってきて、外国からの旅行者が不自由を感じることはない。しかし、アスンシオン通りを上った、坂の途中のミラグロス1は、ホテルの看板は出しているものの、|旅籠屋《ペンシヨン》というべきであろう。外国からの観光客が、いきなり探し当てるのは、むつかしい。はるばる台北から来た五人連れが、空港でツーリスト・カードに記入するからには、一行のなかに事情通が居るか、出迎える者が居たとみるのが自然である。 「わしゃ、そんな宿屋は、知らんぞ」 「ね、お爺ちゃんでさえ、気づかないようなペンション。大金を持った逃亡者が、そんなところに泊るかしら?」 「ホテルなら、目立つじゃないか」 「その隠れなきゃならない人が、どうしてツーリスト・カードに、わざわざ書くのかしら」 「それもそうだな……」  両親のやりとりを聞いているうちに、そのペンションへ、行ってみる気になった。  四千トン級の外洋船も遡行してくるパラグアイ河は、アスンシオン市の北側を流れている。内陸国ながら、国際貿易港のパラグアイ港の東に、大統領官邸、国会議事堂、ナポリタン教会、アスンシオン駅などが並ぶ。そのペンションのある、アスンシオン通りは、ナポリタン教会を起点に、南へ向って伸びる。正式な名は、ヌエストラ・セニョーラ・デ・アスンシオンとなっている。アスンシオンの母なる通りの意で、独立公園と英雄公園の間を走り、商店街と交差して、住宅街に至る。この家からは、車で五分とかからない。 「危ないから、やめなさい。悪党たちは、ピストルを持っているにきまってるよ」  母親は反対したが、ただ宿泊カードを見せてもらうだけだ。それに実際に泊ったとしても、着いてから十日以上経っている。すでに移動しているのではないか。 「行くだけ、行ってみるよ」 「それがいいだろう、確める必要がある」  父親が賛成したので、すぐに仕度をした。大使館が動いているとはいえ、こちらは放送局からの問合せに、いちおう返事をしなければならない。  イースターの飾りつけはあっても、まだ眠っている街を、白いカローラで走った。アスンシオンは公園の中にある、といわれるが、綺麗なのは中心部だけで、五百メートルも行かないうちに、壊れかかった煉瓦造りの家が、目についてくる。そして人通りのない道路を、群れて走る野良犬たち。こんなに犬が多いとは、気づかなかった。  通りの左側に、ミラグロス1の看板があった。二階建てに見えるが、傾斜地なので下は車庫と物置きになっているだけだ。いったん通り過ぎて、雑貨屋の先にカローラを停め、歩いて行った。  坂の下から、新聞売りの少年の、叫び声が聞える。|裸足《はだし》で歩いているのは、頭上に野菜を載せた物売りの女と同じだが、その声が妙に哀れっぽい。仲間にでも、いじめられたのだろうか。声がしたほうを見たら、立ちどまって、脇からずり落ちそうな新聞を、揃えているところだった。 「ペリオデコ!」  こちらに向って叫んだが、構わずにペンションの階段を、昇って行った。ドアを押すと、薄暗いロビイで、ソファが一つだけ置いてある。部屋は十五、六あるだろうか。中庭に面してコの字型に、並んでいる。思ったより清潔な感じで、中庭が食堂なのだった。 「ブエノス・ディアス」  食堂へ入っていくと、客の朝食が終ったところらしく、宿の女が食器を片付けていた。四十歳くらいだろうか、痩せて背が高い。愛想よく迎えてくれたので、「知合いの日本人のことで尋ねたい」と切出した。  ペンションをふくめて、ホテルでは旅券または身分証明書の提示を求め、宿泊カードに記入することを、義務づけられている。五枚|綴《つづ》りの宿泊カードは、週に二回、火曜と金曜に警察が取りに来る。ほんとうはこちらが持参せねばならないのだが、チップにありつけるので向うが集めたがる。しかし控えは取っているから、その日本人が泊ったかどうかを確めるのは、簡単である……。  そんな説明をしながら、ノートを探してくれて、 「シー」  指で示したところに、五人の名前があった。  CHEN・QUAN 47  LIANG・YUAN 31  THAI・SAE・LIN 45  HIDETO・SAWAMURA 35  MASARU・KAWABATA 40  いずれもフルネームで記入されており、数字は年齢である。チェックインは四月二日で、七日のチェックアウトになっている。 「ファミリア?」  問いながら宿の女は、気の毒そうな顔をした。  二人の|日本人旅行者《トウリスタ・ハポネス》は、ほとんど部屋に閉じこもって、淋しそうだった。中華民国政府の旅券を持った三人も、同じ部屋に入ったけれども、連中はしょっちゅう外出して、忙しそうである。だから日本人は、食事に出るぐらいのものだったが、かならず二人いっしょで、〈台湾大飯店〉と〈台北大飯店〉かわるがわるのようだった。予約は二週間だったのに、五日間でチェックアウトしたのは、アスンシオンに居てもつまらなかったからではないか……。 「アキイ・エスタ」  百グァラニー紙幣をチップとして渡したら、女はニッコリ笑って、エプロンのポケットに入れた。日本のカネにして二百円弱だが、この程度の手間なら悪くはないだろう。まだ日本大使館からは、だれも来ていないようだし、|鉢合《はちあわ》せしてもつまらない。帰ろうとしたら、経営者とみられる老婆が、マテ茶を持って現われた。 「ケ・ケル?」  宿帳を拡げているのを見て、不審気だったが、ざっと説明を聞くと、ひどく愛想よくなって、誘ってくれた。 「アンテ・トード」  まず一服、というところだろう。七十過ぎの経営者は、ペンキ絵のある中庭のテーブルへ、歩いていく。女中も一息入れたいところだったらしく、手を取らんばかりに案内する。  マテ茶は、ヒイラギ科の常緑樹の、エルバ・マテの葉を|炒《い》ったものである。ブラジル南部からパラグアイにかけて分布し、古くからインディオが、神秘な万能の茶として、愛飲してきた。ペンションの経営者は、|瓢箪《ひようたん》型の茶器に、金属製のパイプをさしこむと、まず自分からジューッと音をたてて吸った。パイプの先はフィルターになっているから、日本の抹茶に似た色の汁だけが、上ってくる。一息で吸い尽すと、あらためて茶器の中に水を入れ、次の者に回す。 「ポール・ファヴォール」  すすめられて、パイプを受取るが、吸い口が|唾液《だえき》で濡れていても、拭いたりしてはいけない。この回し飲みこそが、|友情《アミーゴ》を|育《はぐく》むのである。  二人のハポネスにも、マテ茶をすすめたことだろう。老婆は上機嫌に、「いい客だった」と話しだした。なにしろ、言葉が通じないので、手真似のやりとりになる。太った男のほうは、それが非常に上手だった。いつもニコニコして、屈託がない。もう一人の痩せた男は、無口でめったに笑わないが、あれは遠慮というものを心得ているからだ。その点、つき合いにくいのは、台湾人のほうだった。五十年配の男はパラグアイの永住権を持ち、グァラニー語も話せる。いきなり部屋代を値切りにかかって、いちばん大きな九号室を三千グァラニーに負けさせた。九号室は、ダブルベッドが二つだから、定員四人なのに、どこかから折りたたみ式のベッドを持込み、勝手に五人部屋にした。そして彼ら自身が、しょっちゅう出入りするだけでなく、仲間を連れて来る。九号室は、階段を昇ってすぐ左だから、ホテル側の目がゆきとどかないのをいいことに、勝手に出入りさせる。フォルクスワーゲンの家族連れのように、女が混じっていることもあったが、部屋で性的な営みがおこなわれた形跡はない。二人のハポネスは、ウィスケリアへ女を買いに行った翌朝、ちゃんと報告するなどあけっぴろげであった。 「アブランド・デ」  ところで、と経営者は、三回りめのパイプを渡しながら、声をひそめた。あの二人は、宿泊カードに|実業家《コメルシアンテ》と記入しているが、実際は何者であるのか? 「アオーラ……」  どう答えていいか分らず、「ええっと……」でしのいでいると、向うは単刀直入に、切込んできたのである。  これは自分の勘だが、かなりの大金を所持していると思われる。あの|狡猾《こうかつ》な台湾人たちの、日本人に接する態度で、見当がつこうというものだ。こんなところに宿を取るのも、目立たない作戦であり、ひょっとすると、アスンシオンで事業を始めるのではないか。それならホテル経営こそ、将来性がある。自分はいずれ、アルゼンチンへ帰らねばならない。このミラグロス1を買取る意思があれば、相談に応じるつもりだったが、突然の出発なので話す暇もなく残念だった。もし会ったら、アスンシオンの母なる通りに目を向けよと、ぜひ伝えてほしい。 「クラーロ」  分りましたと、席を立った。マテ茶の回し飲みは、断らないかぎり、いつまでも続くのである。 [#改ページ]

   
5 ICPO手配  四月十八日午前十一時すぎ、サンパウロ市リベルダーデ地区の、ガルボンブエノ通りに面した|旅籠屋《オスペダリア》で、六十一歳の経営者は、落着かぬ思いだった。目の前に拡げているのは、日本字紙の『サンパウロ新聞』で、十七日と十八日の社会面はいずれも次のような、大見出しなのだった。  ——“殺人会社”社長が逃げ込んだ!/保険金めあての偽装連続殺人事件の主犯/ブラジルに潜伏か/パラグアイ侵入寸前、リオで姿暗ます/いったんは台北に逃亡/アスンシオン侵入説も(十七日付)  ——手引きの台湾人がいた/パラグアイへ高飛び/台北から愛人も同行/アスンシオンのホテルに悠々一週間/情報集めに躍起、にわかに活況総領事館(十八日付)  四十歳の運送会社社長は、六千二百万クルゼイロもの生命保険を狙って、次々に殺人を重ねた。そして台湾へ逃げるときには、二千万円以上の現金を持っていたという。〈とんでもない野郎が逃げ込んできたものだ。こんな破廉恥漢に安直にやってこられたんじゃ、たまったものではない。まだハッキリしたわけじゃないが、南米をウロウロしていることに変りはなく、われわれも監視しなくちゃ。なにせ何人殺したか分らぬ鬼畜野郎、四十回も東南アジアに破廉恥旅行した国辱奴だ〉と『サンパウロ新聞』コラムの匿名子は、ずいぶんな怒りようなのだ。  しかし、熊本県生まれのオスペダリア経営者の目は、主犯の社長に比べて扱いも小さい、共犯の常務の写真に吸い寄せられている。七・三に分けた長髪が垂れて、細面の左眼にかぶさるほどで、ちょっと目には女性に見えるほどの優男である。この共犯者が佐和村秀人であり、困ったことに同じ名前が、宿帳に記載されている。  これが同姓同名の別人だったら、どんなに助かるだろう。だが残念なことに、四月九日にチェックインし、二泊して行った二人連れとは、ロビイで長い時間しゃべっている。新聞に写真が出ている佐和村秀人は、どう見ても宿帳の〈HIDETO・SAWAMURA JAPONES 35〉なのである。  むろん“殺人会社”の社長として紹介されている、河畑当とも顔を合せた。彼のほうは名乗ろうとしなかったから、当と書きマサルと読ませることさえ知らない。しかしロビイで、もっぱら質問してきたのは、河畑のほうだった。ブラジルで事業を始めたいと思っている、どんな分野なら進出可能だろうかと、きわめて熱心だった。こちらも親切に、助言したつもりである。ブラジルといっても、裸族の居るアマゾンから、超近代都市のブラジリアまで、生活の幅が広い。面積からして日本の二十三倍なのだから、既成の物差しで測ってはダメだと言ったが、まあ、そんなことはどうでもよい。宿帳に〈MASARU・KAWABATA〉の名前は、ぜったいに記入されておらず、風のごとく通過したと思えばいいが、相棒のほうは警察のチェックにひっかかる仕組みなのだ。  四月九日午後五時ごろ、人相の悪い小男の案内で来た二人は、ツインの部屋を希望した。一人当り二百二十クルゼイロだから、シングルを二つ取ったほうがよさそうなものを、|敢《あ》えてそうした。すぐに話が決ったので、チェックイン手続きになり、旅券の提示を求めて本人の署名である。  ——どちらか一人でいいですよ。  ツインの部屋のばあい、これが常識なのである。このカトリック教国において、組合せが穏当でないとみなされる男女の客に、氏名を併記させてなんの益があろう。男同士だけ、わざわざ二人書かせることもない。慣例に基づいて、そう声をかけたところ、悠然とソファに掛けているほうが、なんでもなさそうに命じたのだ。  ——佐和村、お前が書いとけよ。  それで常務のみが旅券を出し、チェックインした。本人が署名したオレンジ色のカードは、そのまま警察に提出するから、宿帳には控えとして記入する。こうして佐和村の名前が、記録された。署名のあるカードは、すでに警察へ行っている。 「|政治《ドツ》|犯罪《プ》|局《ス》か……」  きのうから迷い続けているのだが、どうしても電話に手が伸びず、テーブルの下の新聞を取出した。日本字新聞が三紙、それにポルトガル字紙が混じっている。  十六日(月曜)の午後、サンパウロ在の日本総領事が、州政府警察庁を訪れた。ICPOを通じて手配中の二人の凶悪犯の、〈所在確認〉を依頼するためで、日本字新聞の三紙は、十七日付から一斉に報道を開始したのである。  ところが今朝になって気づいたのだが、ポルトガル字紙は、十六日付で東京電を記事にし、十七、八日の紙面は続報なのだった。 【4月16日=フォリヤ・デ・サンパウロ紙】   日本の警察が二人の逃亡者を迎えに来る    ——オズワルド・ペラルバ東京特派員  日本の警察は、二人の捜査官を派遣することを決定した。凶悪なるギャング、マサル・カワバタとヒデト・サワムラを連れ戻すためである。二人には、生命保険をかけた何人かを殺した疑いがかけられている。  ヴァリグ航空で得た情報によると、二人はアスンシオンへ向ったとのことだった。はたして二人は、アスンシオンまで行ったのか、それともリオで降りたのか、二つの疑問があったため、警察はサンパウロの事務所まで行った。犯罪者たちは、台湾で切符を買い、東京の成田空港で飛行機会社を換え、ロス——リマ経由のリオ行きヴァリグ機に乗った。しかし、リオからパラグアイへ乗り継いだという、確認はない。  日本の警察は、ブラジル又は中南米のどこかへ、二人のギャングが逃げたのだと判明したので、現地へ行くことを決定したが、まずはっきりとした居所を確認したいといっている。だが日本と、二人の逃亡先である中南米諸国とは、事前の協定が必要である。日本の警察は自分たちと同じ日本人を、日本国以外では逮捕することが出来ない。日本とアメリカ大陸の国とは、アメリカ合衆国を除き、逃亡犯罪人の引渡し協定がない。  すでに日本の警察は、中南米の国々の日本大使館に、二人の犯罪者の写真を送った。アスンシオンの大使館は、現在のところ何もつかめないと言っている。そして来ているにせよ、これから来るにせよ、長期滞在しないだろうと見ている。何故なら、パラグアイへの日本人観光客は少なく、二人は簡単に発見されるはずだからだ。したがって、アスンシオンの日本大使館は、二人がすでにパラグアイを出た可能性があるとの見方もとっている。 【4月17日=フォリヤ・デ・サンパウロ紙】   ドップスが日本人犯罪者の追跡を開始  サンパウロ市の警察は、昨日から二人の日本人犯罪者の所在確認と逮捕のため、捜査を開始した。  昨日の午後、サンパウロの日本総領事は、通訳と共にドップスのロメウ・ツーマ警部を訪ね、市警察が二人のギャングを逮捕するよう要請した。日本の警察の調べによると、二人のギャングの最終目的地はパラグアイのアスンシオン市であったが、アスンシオン市からの情報によるとまだ来ていないとのことであった。  二人は東京に近い愛知県における、ギャング・グループの重要人物である。愛知県には日本の大手自動車会社の工場があり、マサル・カワバタは運送会社社長だった。日本総領事は、カワバタとサワムラのパスポート番号をドップスに教えると共に、カワバタの写真が載った4月4日付の日本の新聞を、ドップスに提出した。  日本のギャング組織は、徳川時代の武士組織と関連して、この国の封建制度の中でのし上って来た。十七世紀の中ごろ日本の武士たちは、地方の実力者のリーダーから戦闘の仕事を請負っていた。百姓の中の貧乏人階級は、これら武士たちと行動を共にして、生き延びることにつとめた。現在のマフィアと同様に、ヤクザとして知られるギャング組織は、日本の近代化と共に徐々にバクチ稼業をするようになり、ナイトクラブ、売春、麻薬等に手を出してきた。そして最近では、そのような不法な活動と併行して、正規の会社の設立をはかり、運送や港湾、ホテルやレストランの仕事をはじめた。愛知県の或る組織の代表者であるカワバタは、多くの人たちを強制的に生命保険に加入させ、自分や自分の兄弟を受取人にしていたのであり、同行のサワムラもグループの一員であることが判明した。  ドップスでは、逃亡者たちがヴァリグでリオまで来たのか、ペルーのリマで降りたのか調査している。もし二人がリオまで来ていたのなら、アスンシオンまで行ったのか、ブラジルに残ったのかが問題である。リマの警察からは、入国時の審査はきわめて難しいとの通知があった。ペルーと日本のあいだには協定があり、日本のパスポートを持っている者は、入国に際し査証が必要ないからである。  そこでドップスとしては、サンパウロおよびリオのホテル、またバスのキップを発行している旅行社を重点的に調べねばならない。一週間以内には、日本から〈犯罪証明〉が到着するはずなので、サンパウロ市内の各ナイトクラブ等へ配布する二人の名前、写真、資料入りの手配書を作成する。現段階では、日本の新聞に掲載された写真しかない。 【4月18日=フォリヤ・デ・サンパウロ紙】   日本のマフィアはサンパウロに居たかもしれない    ——オズワルド・ペラルバ東京特派員  警察から追われている二人のマフィアはブラジルに居ると、東京の外務省から通知があった。東京からブラジルまでヴァリグ機に乗った二人は、四月二日にパラグアイ入りした。アスンシオンでは四月八日までミラグロス・ウノホテルに投宿し、その後サンパウロへ発った。  マサル・カワバタは、一九三八年十一月二十九日に大阪で生まれた。パスポート番号はME1743279で、一九七四年十月二十六日に外務省から発給され、有効期限は一九七九年十月二十六日である。共犯者のヒデト・サワムラは一九四三年十二月二十二日に愛知県で生まれた。パスポート番号はME2541176で、一九七五年八月十六日に外務省から発給され、有効期限は一九八〇年八月十六日である。  昨夜のテレビ報道によると、中南米へ発った二人の日本人犯罪者には、三人の中国系台湾人が同行している。三人の台湾人のうち、一人はブラジルの事情に明るい。ブラジルとパラグアイを結んで、国際道路があり、その国道沿いに台湾人の集団地がある。二人のマフィアは、そこからブラジルへ潜入したと考えられるところから、背後には強力な支援組織があるとみるのが、自然であろう。  一刻も早く届け出ねばと思いながら、ためらっているのは、ドップスになんと説明するかを、考えているからだ。州警察庁政治犯罪局の略称DOPSは、〈国家の存在とかかわる不利益をもたらす団体、人間に対する情報収集、操作、捜査、摘発を任にするものである〉が、宿泊施設なども監督下にあるから、部屋数が五十室以下なのに看板がホテルなのは法令に違反しているとの、指摘を受けたりする。  ガルボンブエノ通りの大阪橋わきの、三十二室あるオスペダリアへは、八年前まで客として来ていた。サンパウロ州の奥で、小間物を主とする|雑貨屋《バザール》をひらいていたのだが、けっきょく買取ってホテル経営者になった。ブラジルの日系人が半分、仕事や観光で来た日本人が半分といった客筋で、それほど苦労はないけれども、どうも警察とのつき合いばかりは、なかなかコツがつかめない。 「あれ、だれも来ないの?」  別館から、黒い|狆《チン》を従えて戻った、五十歳のメイドが、目を丸くした。六歳で日本を離れた彼女は、代替りする前から、この宿で働いている。新聞記事に気づいたのは彼女のほうが先で、きょう届け出る旨を告げたところ、いずれ警察や報道陣が押寄せることになるだろうと、二人が泊った12—Bの部屋を、清掃に行っていたのだ。 「そうだな。そろそろ、電話するか」 「じゃあ、新聞社の人にも、まだ?」  ちょっと不満気なのは、彼女が日本の新聞記者に、「分ったらすぐ知らせる」と約束しているからだ。  日曜の夜だった。サンパウロ市に中南米支局を置く、日本の大新聞の特派員が、雨の中をずぶ濡れになって、やって来た。あいにく外出していたので、このメイドが応対したところ、日本で何人も殺した凶悪犯が、ブラジルに潜入した可能性があると、宿帳を確める目的だった。すでに特派員は、ガルボンブエノ周辺の日系ホテルを、何軒も回っていた。  この種の依頼を拒む理由はないが、だれにでも見せていいものでもない。もし他社の記者ならば、オーナーが居ないからと、宿帳を改めさせるのを、断わっただろう。しかし彼女は、二つ返事で承知して、黒表紙に綴った宿泊カード控えを差出した。今は東京の本社勤務の、この特派員の前任者と、懇意にしていたからである。それだけではない、彼女の娘が東京へ出て行ったのは、帰任した新聞記者の世話であり、住込みのお手伝いをしながら、あれこれ勉強している。そろそろビザが切れるので、ブラジルへ帰るとのことだが、母親としてはこういうときこそ、新聞社の役に立ちたかった。  だが日曜日、あいにく特派員のいう、〈MASARU・KAWABATA〉の名は、宿帳から発見出来なかった。そこで四十歳前後の、童顔の特派員は、大きな目をクルクル動かしながら、念を押して行ったのである。  ——じつはまだ、ブラジルに来ているかどうか分らないんだけど、必ず現われると思う。もしこの名前の男が来たら、すぐ知らせてください。だれよりも先に、私のところへお願いしますよ。  したがって彼女は、届け出ると決めたからには、すぐにも電話したい様子だったが、はやる心をおさえて、清掃に出かけていたのだった。 「そうだな、ひとまず新聞記者に、教えてやるか」  電話機のほうへ行ったら、狆が|吠《ほ》えた。どういうわけか、電話すると機嫌がわるくなるが、こうなっては犬の事情になど、構っていられない。 「モシモシ……」  日本語の応答があって、特派員夫人らしい。あいにく外出中だが、すぐに連絡がつくのでそちらへ行かせると、のみこみが早い。 「なにぶん、約束なものですから、お宅へだけ、お知らせしました」  最後につけ加えて、電話を切った。  フロントのカウンターを背に、肘掛け椅子に坐りながら、新聞は片付けることにした。どう考えても、こないだの二人が、凶悪犯とは信じ難い。河畑は朗らかで、佐和村は穏やか、どこにも不審な点はないが、今にして思えば、荷物が紙袋一つなのは、解せない気もする。案内の小男は、宿泊料を確めると、そそくさと帰った。ひょっとしたら後で、大きな荷物でも持込むのかと思ったけれども、次に現われたのは十一日昼すぎ、チェックアウトのためで、その男がカネを払った。  二人が泊った別館は、いったん表通りへ出て、二十メートルほど行ったところの、食料品店の二階である。アパートメントと呼んで、長期滞在の人にすすめる。炊事が出来るわけではないが、カギを受取ると、出入りが自由である。いちおう外出のときは、本館のフロントに、カギを預けることになっている。12─Bの客が、夜をどう過ごしたかは分らないまでも、昼間じっとしていたのは、はっきりしている。十日などは日中、ずっとロビイに居たようなものだ。宿泊料の二百二十クルゼイロは、朝食付きであり、順番にここへ来て済ませてもらうが、12─Bの客はそれが終った頃に、やって来た。テーブルをはさんで、河畑が奥のほう、佐和村が入口に近いほうに坐って、世間話になった。しゃべったのは、もっぱら河畑のほうで、方言の|訛《なま》りのないダミ声が、今でも耳の奥に残っている。  ——マスター、どんなものでしょう、ブラジルで事業を始めるとすれば?  その問いかけは、単なるハッタリや思いつきから、出たものではないはずだ。客商売はこれが初めてではないし、雑貨屋を始める前の、パラナ州における百十アルケールのコーヒー園時代にも、人間を見抜く目がいかに必要かを思い知らされた。したがって、ちょっと見た瞬間に、おぼろげながら、その人間のことは掴める。九日のチェックインのときから、サンパウロで一仕事するために来たように思えた。それも焦るのではなく、悠然と構えており、とうてい追われている凶悪犯には見えない。だからこちらも、いい加減な応対はしなかった。  ——なんかこの頃は、日本の企業が、あまり入りませんね。七二年から七五年にかけては、どっと入った印象ですが、よく見ると社長さんと従業員が二、三人ぐらい、そういう小企業が、バーッと見えてバーッと居なくなった、そんなことだったんじゃないですか。その後もブラジルで仕事する、会社を興すという人が視察に来られてはおるんですが、必ず進出しますと言うて帰って、それきり音沙汰がない。結局は大手企業だけが残っておるんですなあ。……率直にいうと、認識が浅いというか甘いというか。こないだなんか、サンパウロで会社組織を作って、大きなビルを相手に仕事している人が来たから、建築屋さんかと思ったら、これがビルの清掃ですよ。その社長さんも、パッと消えましてね、やっぱり煙突掃除とかビルの清掃ぐらい、ブラジル人でも出来るんじゃないですか。商売人で、プラスチック|玩具《がんぐ》をたくさん持って来て、こっちで売りまくると張切っている人も居ましたが、すでにブラジルにゃ|氾濫《はんらん》していることが分って、シッポを巻いて帰ったですねえ。そうかと思えば、どさっとドレスを持込んで、税関で大金を払ったぶん取返さねばならんと、目の色を変えた人も居るが、なにせ日本で三、四年前に流行したものだから、ブラジルでも流行おくれですね。安売りしてもさばけずに、私のところに長いあいだ預りましたよ。……だから同じ製品でも、やっぱりブラジルの市場調査をして持ってくるとか、しませんとねえ。友だちの話を聞いて、ブラジルじゃ何でも売れると錯覚して来るようじゃ、よくないでしょう。ごらんのとおりサンパウロは、中南米でいちばんの都会ですから、ある面では日本より進んでいる。それで驚かれる方が、多いんですねえ。なにせブラジルは、地球の裏側ですから、知っているようで知らない。こないだ見えた人は、炭坑離職者でしたが、どんどん石炭を掘り進んだら、ブラジルに抜けると思いこんでおったと、笑うておられました。しかし私が田舎でバザールをやりよるとき、ブラジル人に聞かれることといえば、「日本までバスで何日かかるか?」ですからねえ。これにゃ私も、何と答えていいか分らんかったですね。  最後は笑い話になったが、ざっとこんな程度の雑談に終始した。そのあいだ、河畑は考えこんだり大声で笑ったり、なかなかの聞き上手ながら、佐和村はほとんど無言で、たまに頷くぐらいだった。したがって、社長と常務といっても、その上下関係は一方的な印象だったが、控え目に振舞っている佐和村がいちどだけ大笑いし、河畑がキョトンとした場面がある。この日の話題に、まんざら関連がないでもないので、とっておきの|笑話《ピアーダ》を、披露したときのことだ。  ——ご存知のようにブラジルのかつての宗主国は、ポルトガルですが、今じゃポルトガル系は衰退しておるですねえ。ドイツ系とかイタリア系にくらべて、お人善しで間抜けということになっているんですよ。それでブラジルじゃ、ポルトガル人の|渾名《あだな》が|驢馬《ろば》ですな。そのポルトガル人一家が、移民として、ブラジルへやって来た。親爺と息子、それにお袋ですな。なんとか大儲けをと、大きな夢を持って来たのに、とてもじゃないが、うまい話はころがっておらん。がっかりして、草原の中の掘立小屋で過ごしているとき、ふと親爺がすばらしいことを思いついた。ロバを飼育して、ソーセージを製造すると言うんですな。……まあ、まあ、最後まで聞いてください、ポルトガル人の渾名がロバであることを忘れずにね。親爺のアイデアは、牧場にオートメーション工場を建てて、生きたままのロバをベルトコンベアに乗せる。すると終点では、ソーセージになって出て来る。「どうだすごい発明だろう」と威張ると、じいっと考えておった息子が、「ボクの発明がもっとすごい」と言った。ロバを育てるのは、手間がかかりすぎるから、その機械を逆に回転させる。すなわち、ソーセージを突っこむと、ロバが出て来るようにするというわけですな。親爺が感心して、「お前は天才だ」。「いいえお父さんの発明が基本です」と息子が|謙遜《けんそん》して、明日にでも大金持になるようなはしゃぎようでしたが、その会話を聞いていたお袋は、アクビをしながらベッドへ行って、「ばかばかしい、そんなことは私が、とっくにやったじゃないか」  温和しい常務が笑い転げて、しばらく経って社長のほうも、「ソーセージってあれのことかあ」と大急ぎで笑った場面は、忘れることが出来ない。なんだかそのとき、大造りな社長の顔が、ロバに見えたものだった。 「どっちにしても、悪党にゃ見えなかったなあ」  溜息をついたら、犬を抱いて人待ち顔のメイドが、 「私は部屋へ案内しただけだから」  弁解するように答えた。 [#改ページ]

   
6 中南米特派員  四月十八日午後十一時すぎ、サンパウロ市アクリマソン区のビル九階にある支局に帰ったとき、四十二歳の特派員はくたくたになっていた。日頃から南米大陸を駆け回っている実感があり、近いうちに南極へも足を伸ばすつもりだが、きょうは広くもないリベルダーデ地区の、ガルボンブエノ通りを行ったり来たりしただけなのだ。  ホテルから電話があったと、妻から連絡を受けたのは、午前十一時四十五分くらいだったか。日本字紙で最大の、部数四万三千の新聞社の編集局で、社会部長と雑談しているときだったが、五分も経たないうちに、駆けつけることが出来た。  ——ここに共犯者の名前があります。  |憮然《ぶぜん》たる面持の経営者から、宿帳を示されたときは、|愕然《がくぜん》とした。四月九日から二泊している、〈HIDETO・SAWAMURA〉については、日本人・既婚・商業・三十五歳……などと、各項目にわたって記入されている。たしかにこの欄も、日曜日に来たとき念入りに見たが、なにぶん〈MASARU・KAWABATA〉としか、頭の中になかったのである。  日本における事件の捜査は、警視庁と愛知県警が、共同して進めている。  すなわち警視庁は、東京で逮捕した詐欺罪の男が、多額の保険をかけられ、殺されかかった被害者と分り、殺人未遂事件の捜査に着手した。ところが、この事件の関係者は、愛知県に集中している。警視庁捜査一課が、内偵を続けているうちに、三件の怪死事件が浮び上ってきた。老詐欺師にかかる、殺人未遂事件の被疑者が、こちらにも関係していたことが分ったのである。  いっぽう愛知県警も、七八年十二月の豊橋市におけるバー火災に不審を抱き、焼死した女主人が殺された疑いがあるとして、捜査を始めていた。巨額の保険金が、疑惑を招いたのであり、やがて七八年七月の海水浴場における|溺死《できし》、七七年十月の乗用車墜落死事件へと、さかのぼっていった。しかし、溺死と墜落死は、いずれも事故死と認定され、警察が事故証明書を発行したことにより、保険金が支払われていた。  警視庁と愛知県警が連絡をとりながらの捜査は、どこかぎくしゃくしながら進んでいるが、逮捕状況を整理すると、次のようになる。  三月二十日=老詐欺師を乗せた車を衝突させ、鉄パイプで殴った殺人未遂事件の、暴力団組員二人を逮捕。  四月五日=老詐欺師を乗せた車を浜名湖に突っこんだ殺人未遂事件の、暴力団組員を逮捕。そして、右の二件を命じた暴力団組長を逮捕。  四月六日=殺人を依頼した運送会社社長を、殺人未遂で全国指名手配。  四月九日=額田郡幸田町の墜落死を、殺人事件と断定し、右の四人を再逮捕。逃走中の社長を、殺人で全国指名手配。  四月十日=墜落死を装った殺人事件に参加した、運送会社専務(社長の実兄)と運転手の二人を逮捕。  四月十一日=溺死を装った殺人事件に参加した、運送会社常務を全国指名手配。同時にICPOを通じて、社長と常務を国際指名手配。  四月十二日=墜落死を装った殺人事件に参加した、運転手を逮捕。  四月十五日=溺死を装った殺人事件に参加した、運転手を逮捕。  二件の殺人と、一件の殺人未遂による、逮捕者は計八人である。残る一件のバー火災の焼死は、捜査が進められているものの、逮捕者を出すに至っていない。いずれ海外逃走中の社長が逮捕されれば、全容が解明されるとの見方なのだ。  ——なにぶん常務の佐和村は、影が薄い。わが社はしばらく、Sとして報道していたくらいなんですよ。  ちょっと弁解がましいが、これは事実である。捜査の進みぐあいを見ると、老詐欺師の殺人未遂事件から、墜落死を装った食品製造業者殺人事件へ、さらに溺死を装った運転助手殺人事件に、つながっていった。しかし捜査というものは、関連する事件のすべてを一網打尽にするのではなく、一つずつ積み上げていって、犯罪の全容に迫るのが常道であろう。そのように考えると、常務の佐和村秀人に対する逮捕状請求は、やや急ぎすぎの観がある。彼の名は、海水浴場における殺人事件で、初めて浮んできた。この事件の逮捕者は、四月十五日の運転手が、初めてである。部下の運転手は、運転助手を海水浴場へ誘い出す役目だったといい、佐和村が足を引っ張って海へ沈めたと、供述したとか。ふつうなら、この供述を得て、逮捕状を請求する。  しかし捜査本部は、四月十一日付で、殺人罪の逮捕状を取った。これはICPOを通じての国際手配にあたり、河畑の逃亡に同行している佐和村の逮捕状がないのはおかしいとの、配慮からきたものらしい。  ——わが社が、指名手配された佐和村のことを紙面に出したのは、十四日付の朝刊でしてね。私がお訪ねして、宿帳を見せてもらったのは、十五日の夜です。まだ東京から新聞は届いていないし、頭の中は河畑のことばかり……。いやあ、参ったな。なぜ佐和村を、見落してしまったんだろ。  ——そんなこと、いいじゃないですか。私とこは、まっ先にあんたとこへ知らせたんだもの。これは特ダネじゃないんですか?  ——はい、ありがたいです。  われにかえって、二人がやって来たときの様子など聞いていると、午後零時半になってしまった。これはいけない、朝刊のしめきりは、午後一時なのである。あわてて飛び出そうとしたら、経営者に念を押された。  ——いいですね。ドップスと総領事館には知らせますが、報道関係はお宅だけです。押しかけられちゃ、かなわんもの。  ——はい、分りました。  あいさつもそこそこに、飛び出したものの、住居兼オフィスの支局へ帰っていたのでは、とうてい午後一時のしめきりに間に合わない。街は昼食時で人出が多く、車はたいへんな混みようだから、アクリマソン区まで、確実に三十分以上かかる。そこでやむなく、さきほどまで居た新聞社へ、飛びこんだのである。  ——拝借します。  電話が通じて、送稿のあいだ、社会部長は聞かないふりをして、弁当を食べていた。  ふつうは、支局にかかってくる定時通話で、記事を送る。午前一時の夕刊のしめきりに送った記事は、「河畑らまた高飛び計画?/百万円を現地通貨に」と四段見出しになった。これは十七日の午後二時過ぎ、手配の二人とみられる日本人が、ガルボンブエノ通りの旅行社に現われ、百万円の換金を依頼し、十三万クルゼイロ受取って姿を消したとの情報である。ガルボンブエノには、日系の大手旅行社があり、初めそこへ行ったのだが、両替はやっていないと断わられた。そこで近くの、台湾人と日本人が共同経営する旅行社で、両替したらしい。この情報は、きのうの夕方から夜にかけて、東洋人街を飛び交った。なにしろ十七日には、日本字新聞三紙が、いっせいに報道を開始した。それだけに、異様な昂奮に包まれ、目撃者が相ついで現われたのだった。  しかし、目撃者の証言はマチマチで、身長が一メートル六十センチぐらいともいうし、ずいぶんな長身だったともいう。とまれ落着かぬ様子の二人連れは、「これからリオへ向うので急いでくれ」とせきたてた。通常の旅行者が、百万円もの大金を、両替するはずはない。新聞に載った顔写真にも似ているし、河畑と佐和村の可能性が強いとみて、ドップスは東洋人街に目を向けたのだった。そこで報道陣も、後追い取材に走り回ったわけだが、パラグアイからどのようにサンパウロ入りしたか、具体的に足取りが分らないだけに、半信半疑でいた矢先に、宿帳記載に気づいたのである。  |受信人払い《コレクトコール》の電話で、まぎれもないスクープ記事を送り、礼を言って新聞社を出た。あとは日系ホテルを、もういちど洗い直す仕事だったが、さりげなく動く必要がある。小さな宿を回ったあとで、東洋人広場に近い、七階建てのホテルに行ってみたら、各社の特派員がたむろしていた。社によっては、リオデジャネイロに支局を設けているので、サンパウロへ移動してきたのだ。一九〇八年の第一回移民いらい、日本人はサンパウロ州へ、集中的に送りこまれている。ほとんどが契約移民で、鉄道で運ばれ、奥地へ散った。契約の二農年が過ぎると、さらに新しい雇い主をさがして移動するなど、たいていの日本人が、サンパウロ州内を転々とし、やがて他の州へも出た。それでも大多数の日系人が、サンパウロに居る。日本からの逃亡者がまぎれこむとすれば、東洋人街だろうと見当をつけての、特派員の移動だった。  ホテルの雑談では、総領事館の動きの悪さが、もっぱらの話題だった。  凶悪犯の南米逃亡を、最初にキャッチしたのは、テレックス専用回線をもつ、通信社だった。東京本社発のニュースは、十三日の午前中に、サンパウロに届いた。通信社の南米支局では、テレックスのタイプ文字を複写して、日系進出企業など定期購読者に配布しており、この印刷物が日本から届く、いちばん速いニュースなのである。受信した支局長は、さっそく在サンパウロ総領事館に問合せた。|聖金曜日《セマナーサンタ》で祭日だから、知合いの領事の自宅に電話したのだが、本国から連絡は入っていないとの返事である。キリストがゴルゴダの丘で、十字架にかけられた日の不吉なニュースについては、ただちに首席領事に報告されたものの、公電待ちということだった。その公電は、十四日に届いたから、総領事館としてただちに、ドップスに口頭で連絡したものの、二人の名前を伝えたにすぎない。  そして十六日(月曜)の、書面による〈所在確認申請〉になるのだが、提出した捜査資料は、東京から届いた新聞の切抜きが一枚だけであった。たまたま、この切抜きが自社の紙面とあって、悪い気はしないけれども、受取ったドップスは、拍子抜けの|体《てい》だった。もともとブラジルの警察は、日本のように細かな捜査はしない。航空会社へ駆けつけて、乗客名簿を詳細に調べるよりも、立回りそうな場所へ、拳銃や自動小銃を持って駆けつける式の、捜査なのである。しかし、新聞の粗い粒子の写真だけでは、どうしようもない。  きょう十八日、警察庁が送った捜査資料を、総領事館が入手したらしい……と、昼さがりのホテルで聞いた。写真は電送、手配事項は電文とのことだが、どの程度のしろものか分ったものではない。そんなことを言っていたら、電話がかかってきはじめた。これは本社からで、ガルボンブエノ通りの、大阪橋わきの旅籠屋へ急行せよ、との指令なのである。  さっき送った記事が、東京ではすでに輪転機にかけられた。十九日付の朝刊は、午前三時には早版が印刷され、各社が交換する。わが社の紙面を見て、「抜かれた!」となったのだろう。したがって、しめきり時間ギリギリに送った記事の秘密が保たれるのは、せいぜい二時間にすぎず、こうしてブラジルへ打ち返される。  しかし、二時間の差は、結果的に半日のひらきとなる。他社が大急ぎで取材し、ただちにニュース原稿にしても、夕刊に載せるほかないのである。  ホテルを出て、リベルダーデの坂を下り、もういちどさっきの新聞社へ行った。編集局を覗いたら、社会部長がすでに原稿を書き終え、照れくさそうに笑っていた。電話を借りての送稿を終え、こちらが出て行った直後に、取材に走ったのだろう。  ——ドップスに問い詰められて、おやじは憮然たる表情だったなあ。なぜ早く届け出なかったかと、しぼられているんだ。  ——そりゃないだろう、手配書が配られていたわけでもないのに。  そんな話をしていたら、文化部長が、メガネをはずして、指でぶらぶらさせながら近づいてきた。  ——憮然とするのは、ホテルのおやじにかぎらんでしょう。わがコロニア全体が、こんどの騒ぎに、憮然とせざるを得ないんじゃないですか。  戦後再開された、第一回目移民である文化部長は、一九五三年一月に、オランダ船で到着した。このときサントスへ上陸した五十一名は、呼び寄せであり、ほとんどが独身者だった。戦前からの移住者に、縁故のある青年たちは、しかし入耕地に落着くことが出来ず、都会へ出た。旧移民がふたこと目には、「自分たちが苦労に苦労を重ねたおかげで……」と口にし、古いしきたりを強制するのが、我慢ならなかったらしい。〈南の花嫁〉と呼ばれ、写真で見合いして訪れた女性のなかには、わずか数日で帰国を決めた者も居た。  ——移民というのは、戦前から戦中にかけて、やっぱり、被害者としてブラジルで生きてきたわけでしょう。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、この大地に根を生やした。一九五八年の移民五十周年祭のとき、わがコロニアたちは、「ブラジルで何をしたのかいなあ」と、初めて統計なんか出したわけですな。そうしたら意外にも、野菜は百パーセント、卵は八十パーセント、日本人が作っていることが分った。こりゃ驚いた、ジャポネスは農業の神様だと、ブラジル社会に認められ、誇りを持ったけれども、そこまで来てもまだ、われわれ移民は被害者なんです。ご存知の一家皆殺し事件、これはブラジル人が加害者だった。どう転んでも、日本人が加害者となり、ブラジル人一家を皆殺しなんて事件は、起きっこない。ずっとずっと、被害者なんです。……それはまあ、時には被害者の中で事件が起きる。被害者集団の中から、加害者が出て来るけれども、これはブラジル社会を素通りする。わがコロニアとしては、困ったことだとブラジルの官憲に訴え、逮捕してもらい、収まってしまう。ところが、こんどのこれ、名古屋章に似た顔の極悪人。ふらっと来たわけだが、ぜんぜんわれわれに関係ない。そうするともう、憮然としちゃいますね。私なんか、ブラジルの官憲に協力して、こいつらをとっつかまえようという気概もないな。なんかわれわれ、いつも被害者なんだから、日本でさんざん悪事をはたらいた加害者がこっちへ逃込んでも、ただ憮然とするだけですよね。……そうでしょう、わがコロニアは被害者なんだから、加害者に出て来てもらっちゃ困るんだ。こんなのがブラジル社会で暴れちゃ困るという、とまどいはある。なんとか早いところ出て来て、手を挙げてくれんかいなあ、と思ってはいる。しかし、被害者集団の中から出た加害者じゃないんだから、積極的にあいつらつかまえようって気運も出てこない。それは、日本のやることじゃないのか。日本のお巡りさんが来て、犯罪人引渡し条約はないにしても、なんとかうまいかたちで連れて行ってくれないかなあ、と憮然として眺めているのが、わがコロニアなんですよ。  編集局といっても、記者が全員揃って十三人の、狭い部屋である。日頃から一言居士で知られる文化部長が、珍しく|饒舌《じようぜつ》なのも、日本から来ている特派員たちが色めきたっていることへの、皮肉なのだろうか。それとも、激励だったのか……。まさに憮然たる表情の文化部長に、問い返そうとしたところへ電話で、これから総領事館へ行かないかという、通信社支局長の誘いだった。警察庁から捜査資料が入ったが、積極的に公表する様子がない。どういうつもりなのか、問いただしに行くところなのだ。  この意見には、社会部長も賛成だったから、すぐに総領事館へ向った。サンパウロ市には、周辺の市町村をふくめると、約三十万の日本人が住んでいる。「通商を保護・奨励し、在留自国民の保護・取締りを行う」総領事館には、文化、移住、官房、領事事務の四班がある。こんどの事件は、領事事務班第一課が窓口とのことなので、日本から届いたはずの捜査資料について質問したところ、「捜査中の事件なので」と答えたがらない。しかし手配書は、すでに作成されているはずだから、身長・体重・特徴ぐらいは示すべきではないかと聞いたら、担当の領事がはねつけた。  ——これは国家機密ですから。  犯罪者の手配書の内容が、なぜ国家機密なのか。追及して、やっと入手出来た資料が、次のようなものだった。 【河畑当】  一九三八年十一月二十九日生、四十歳。身長一メートル七十四センチ、体重八十二キロ。丸顔やや|下脹《しもぶく》れ、パーマをかけてややチリチリといった感じの長髪。 【佐和村秀人】  一九四三年十二月二十二日生、三十五歳。身長一メートル七十四センチ、体重五十五〜六十キロ。目立つほどの痩せ形、長髪直毛、色が白いのが特徴。  わずかこれだけのことが、なぜ国家機密なのか。後で笑い話になったけれども、これは〈所在確認〉を申請したブラジル側に対する、気兼ねがあったからのようだ。  サンパウロ州政府警察庁社会政治犯罪局では、捜査は非公開でおこなっている。新聞、ラジオ、テレビなどが捜査経過を報道しては、潜行を援助するとの判断らしい。  連邦制国家であるブラジルの警察組織は、大別すると軍警と市警に分けられる。軍警は捜査活動には従事せず、制服姿でパトロールし、交通整理などにあたる。市警のほうは、社会政治警察、社会警察、科学警察などに分れ、そのほかに地区を管轄する警察署がある。  コソ泥やかっぱらいのような、単純な犯罪については、各警察署が捜査にあたる。  殺人、誘拐などの犯罪は、社会警察(略称DEIC)が扱う。しかし、それが政治にかかわる、テロや誘拐事件、政府転覆の運動になると、社会政治警察(略称DOPS)が受持つ。  これら警察組織が、各州に存在する。それぞれの州警察組織の長は、州政府保安長官であるが、ほとんど軍人である。大統領は軍人出身であるし、政治、警察ともに軍が掌握している。  こんどの事件は、当初から社会政治警察が、捜査にあたっている。逃込んで来たのは、保険金目当ての殺人犯で、それじたい政治性をもつものではないが、外交上の問題がからんでくる。したがって、外国人の犯罪取締りには、ドップスが動いているのである。  夜になってドップスへ回ってみると、刑事を総動員して、東洋人街の捜索がおこなわれていることが分った。サンパウロ州のドップスは、約一千人といわれるが、正確な数は分らない。とまれ総動員された刑事は、軍警の協力を得て、東洋人街のなかの台湾人が居住する一帯を、重点的に捜査しているのだった。  パラグアイ側から、どの程度の情報が得られたのかは、はっきりしない。しかし台北から同行した三人が、台湾人であることは、まちがいないようだ。かねてよりドップスも、パラグアイとブラジルを結ぶ、台湾人組織に関心を寄せている。逃亡の日本人を追及すれば、おのずから道案内した台湾人の組織が解明出来ると、一石二鳥を狙っているのかもしれない。  ドップスにおける記者会見では、もっぱら局長補佐が応答した。公式の席だから、ポルトガル語を使うが、日本人記者の質問には、つい日本語で答えたりもする。三十七歳の局長補佐は、日系三世なのである。祖父が福岡県出身で、一九一五年に入植している。父親の代まで農業だったが、彼は進学して、国立南ミナス法科大学を卒業した。このとき弁護士の資格を取り、さらにサンパウロ大学の大学院に入った。大学院を卒業して、ただちに警察署長になったが、日系人の署長は初めてである。ブラジルの警察の特徴は、署長の条件が、弁護士の有資格者であることだろう。エルドラード市警など、五つの警察で署長をつとめ、州警察庁入りした。  日系三世の局長補佐は、こんどの事件の、捜査主任を命じられている。ドップス局長は、アラブ系の二世であり、「これは東洋人の事件だからお前が解決しろ」と、権限を一任した。日頃から東洋人を取締りの対象としており、昨年六月に皇太子夫妻が来伯したときは、警備総指揮官だった。  ——日本からの手配がもうすこし早ければ、ぜったいにブラジルへは入国させなかった。  太い腕をなでながら、銀縁メガネの局長補佐は目をむいて、ドップスのマークがタツノオトシゴであることを、説明したものだった。世界中の海の、深いところにも浅いところにも居るタツノオトシゴは、ぜったいに横にならない。眠らないでいつも立ったまま目を光らせている……と笑わせて、記者会見は終った。  そのあとリベルダーデ地区を回って、最後に特派員が集まっている日系ホテルに寄ったら、盗難に遇ったと放送局の二人が、蒼い顔をしていた。  盗まれたのは、日本製の16ミリ撮影機で、部屋に置いていたのだった。犯人は三十歳くらいのブラジル人で、同じホテルに宿泊している。チェックインのときは、放送局の特派員の名刺を見せ、|友人《アミーゴ》だと名乗った。リオデジャネイロから来る飛行機の中で、撮影機が珍しいのか近づいて、あれこれ話しかけて名刺をもらい、宿泊先まで聞き出している。どうやら最初から、撮影機が目当ての、犯行だったらしい。  ——まずいことになりましたなあ。  ロビイに集まって同情しきりだが、各社それぞれ、相手方の動きを探っている。放送局は撮影があるので二人だが、新聞社や通信社の中南米支局は、特派員一人だけである。オフィスでは資料整理の、アルバイトを使っている。しかし頼りになるのは配偶者で、昼夜を問わず電話番をしてくれるから外を歩き回れるのだ。  だが動き回れるといっても、さしあたってサンパウロを、離れることは出来ない。逃亡の二人が、台湾人に助けられながら、サンパウロ周辺に潜伏している。いつ逮捕されないともかぎらず、そのとき立遅れたら、大失態となる。だからといって、リベルダーデ地区にはりついているだけなのも、芸がない。いったいパラグアイで、何があったのか。それを探るためにも、ぜひ隣国へ行ってみたい。  ——おたくあたり、応援が来るんじゃないの?  ——どうかなあ。  そんな探りあいをして、ホテルを出た。さすがにくたびれはてており、オフィスのソファに坐ると、ウイスキーをストレートで飲んだ。 「食事は?」  寝室から出て来た妻が問うが、食欲はない。これから記事を書き、夕刊しめきりの定時通話で送稿する。そのあと茶づけでも食って、寝るつもりである。 「顔色が悪いね」 「だって……」  ネグリジェの妻が、苦笑した。二、三日前から騒ぎが拡がるにつれ、東京や名古屋からの、電話がふえている。ベッドに横たわっていても、おちおち眠れない。ブラジルが地球の反対側で、時差が十二時間と分っているはずなのだが、あちらとしてはそんな事情になど、構っていられないらしい。中部本社からは、愛知県警の捜査の動きを、こちらに知らせてくる。捜査本部の記者会見は、夕方にきまっているから、その様子が伝えられる。せめて朝寝をと思っても、六時か七時には、電話に起こされる。 「これから大変なことになりそうね」 「いやあ、申し訳ない」  ひとまず妻には、詫びておくにかぎる。六歳と五歳の娘が居るが、上のほうは学齢で、日本人学校に入ったばかりである。ブラジルの朝は早く、七時には登校する。だから家族たちは、六時起きの生活を始めた矢先なのだ。 「寝酒はどうだい?」 「そうね」 「氷を取って来ようか」 「私がやるわよ」  父親は、編集者だった。その娘だから、夜が遅いのには、慣れている。帰りが遅いのはともかく、酔っぱらった小説家がついて来て、そのまま居候をきめこんだりしたとか。「安吾はよかったねえ、あれが死んで、小説家らしい小説家は居なくなった」と、坂口安吾を懐しむのを、結婚後に何度も聞いたが、編集者として高名だったから、高校生の頃から名前を知っていた、その岳父は、中東特派員時代に死んだ。 「カマボコ切る?」 「いいねえ。タラコをはさんでよ」 「タラコは、終りました」 「残念だなあ」 「かわりに梅干をはさむわ」 「梅干は終ったんじゃなかったかい」 「だから買ったのよ」 「ふーん」  この頃は、たいていの日本食品が、買えるようになった。梅干は輸入品でも、カマボコや味噌は、こちらで製造している。それどころか、日本そばや日本茶は、ブラジルから日本へ、輸出しているほどだ。 「タラコはないかねえ」 「売ってないみたい。仮にあっても、乾物みたいなんじゃない?」 「そりゃ、ダメだよ」  氷の浮いたグラスに、手を伸ばしたら、受信専用の電話が鳴った。交換手は、東京からだと告げたが、出たのは中部本社の記者だった。 「私これから、そっちへ向います」 「ほう?」 「たったいま、ビザが取れましてね……」  電話の声が、はずんでいる。  さっきのホテルでも、取沙汰されていたのは、応援に駆けつける記者が、名古屋から選ばれるだろうという点だった。こんどの保険金殺人事件は、愛知県が舞台である。しかしブラジルに居ると、そもそもいかなる事件だったのか、根っこのところがつかめない。ただ保険金の額の大きさが注目され、凶悪犯のイメージのみばら|撒《ま》かれている。したがって、事件の発端から追っている記者が来れば、また新しい展開も見られるだろう。なによりも、名古屋では激烈な新聞販売合戦が、くりひろげられている。全国紙の特派記者は、中部本社から来るのは予想されているところだし、通信社の記事に頼っている『中日新聞』のばあい、急遽ブラジル派遣を決めたらしい。ただ問題は、ビザである。入国にきびしいブラジルは、ビザの発給に慎重だから、ふつう申請して、四日か五日はかかる。 「よく取れましたね?」 「スクープのおかげですよ。大使館の人が、きょうの朝刊を読んでいましてね、捜査の網がせばまっている、もうすぐ逮捕だから、急いで行けと言ってくれました」 「なるほど」  時計を見たら、暦がかわろうとしている。四月十九日になるのだが、日本は十九日の正午なのである。ホテル立回りの記事が載ったのは、十九日付朝刊……。あらためて、スクープの喜びがこみあげてきた。 「それじゃ、着いたら電話しますが、何か買って行くものがあったら、おっしゃってください」 「あります。あります」 「なんでしょう?」 「タラコ、タラコ!」 [#改ページ]

   
7 ドップス刑事  四月二十日午前零時ごろ、二十八歳になるドップスの刑事は、リベルダーデ地区ガルボンブエノ通りの鮨屋に居た。カウンターには、酔客が四、五人ぐらい、その後ろに壁に沿って並んでいるテーブルの、いちばん奥に同僚と一緒だった。 「いやあ、参ったよ。おれなんか何回も、指をさされてさ。いつドップスへ引っ張られるかと、はらはらしてるよ」 「そういえば人相が似ているぞ」 「よせよ、人聞きの悪い」  カウンターの客が、そんなやりとりを楽しんでいる。|衝立《ついた》てがあるので、向うからは、見えない。 「ドップスへ連れて行かれたら、生きちゃ帰れないっていうだろ」 「なあに、焼ゴテで足の裏を、ジュージュー焼かれるぐらいさ」 「冗談じゃないよ。そんなことされたら、すぐ自白しちゃう」 「なんて?」 「私が殺人会社の社長です、ってさ」 「あはははは、社長は余計だけど、考えてみればこの人使いの荒さ。わが社のやりくちは殺人的だよ」 「それは言える……」  どっと笑い声が上る。さきほどから聞いているかぎり、電話工事の技術者らしい。長期出張で、宿へ帰ってもつまらないから、ねばっているのだろうが、目の前の同僚は、うるさくてしようがないとみえる。 「なんで騒いでいる?」 「酔っぱらいだからさ」  こちらは、ポルトガル語の、会話である。イタリア系の三世で、日本食は気にいっているらしいが、日本語はまったく通じない。もっとも、日系二世の彼も、聞くことは出来るが、自分が話すのは苦手なのだ。 「いっちょ、黙らせるか」 「まあ、いいじゃないの」  なだめている途中で、ぴたりと静かになった。ドップスが話題になったものだから、鮨屋のおやじが、注意したにちがいない。 「じゃあ、彼女のほうも、待てるのか?」 「待てなくても、待たせる」 「自信があるんだな」  いかつい赤ら顔をほころばせて、同僚はマグロを頬ばった。東洋人街の捜索は、二人で組んで続けている。その合間に、身の上相談に応じてくれているのは、三つ歳下ながら妻帯者だからだ。 「でも待てないと言ったら?」 「だから、待たせる」 「参ったな。これだから、日本人にゃ、かなわない」 「待てないと思う?」 「本人に聞けばいいじゃないの」 「………」  だんだん、不安になってきた。話題にしているのは、恋人のことである。ドップスの上司の娘で、婦人警官をしている。そろそろ結婚をしなければおかしいと、周囲が気をもんでいるのだった。 「あと一年だもんな。待ってくれるさ」  こんどは相手が、慰めた。待つ待たないは大学卒業のことで、現在すでに、ガリューロス法科大四年生なのだ。夜間部だから、午後八時に始まって、十一時四十分に終る。しかしブラジルでは、昼間部と夜間部とで、差をつけられることはない。卒業すれば、弁護士の資格がもらえる。なにしろ学歴社会である。大学を卒業しないかぎり、ずっと刑事でいなければならない。卒業して弁護士の資格を持てば、いずれ署長になる。それを励みに、がんばっているのだ。  ドップスの同僚に、刑事兼大学生は、何人も居る。勤務時間は、午後一時から七時までだから、大学へ通える。だが何といっても、秘密警察員だから、勤務は不規則になる。事件が突発したり、重要な情報が入ったばあいは、二十四時間勤務になってしまう。それに各国の要人警護のときも、ほんの仮眠程度になる。メキシコ大統領、田中角栄首相、皇太子夫妻の来伯のときが、そうであった。 「へい、らっしゃい」  おやじが奇妙な日本語なのは、新しい客だからである。こういうとき、思わずカバンを引寄せる。何か起ったら、ただちに45口径コルト回転弾倉式を、取出すためだ。 「………」  衝立ての陰から覗いてみると、中年の日本人が二人、じろっと店内を見回して、無言で出て行った。なんのことはない、新聞社の特派員が、パトロールしているのである。 「連中は、いつ眠るんだろう?」 「ほんとになあ」  同僚に相槌を打ちながら、局長補佐がこぼしていた、夜討ち朝駆けなる言葉を、思い出した。事件に開する情報を求めて、警察幹部の家を、深夜でも早朝でも訪ねる。日本では常識らしいが、ブラジルでは前代未聞なのだ。 「おふくろさんも、やるのかい」 「………」 「日本字新聞の記者だろ?」 「しかし、文化部だもの」  いくぶんムキになって、否定した。日本字新聞社に勤める母親は、少年少女のページを担当して、ブラジルの童話や伝説を、日本語に翻訳する。それだけではなく、小説も書いて、オールデン・ナショナル・ドス・バンディランテス(大学教授が集まって歴史を研究する会)の会員でもあるのだ。 「まさか日本から逃げて来た悪党を、追いかけたりはしない」 「それもそうだ。追いかけるのは、息子の仕事だもんな」 「ああ」  きょうの朝食のとき、末っ子が刑事になるとは思わなかったと、母親が苦笑していた。ブラジルへ来たのは、一九三四年のことで、小学校を卒業した年に、一家を挙げての移民だったのだ。その一九三四年五月に成立した〈移民二分制限法〉は、過去五十年間に送りこんだ移民総数の二パーセントを、年間の受入れ数とするというものだった。移民二十五周年祭を迎えた時点で、日本人は十七万人に達していたが、イタリア人は八十万人を超えている。これは明らかに、日本人の締出しであり、一九三八年の新移民法では、十四歳以下の児童に対する外国語教授の禁止令が出た。十六歳になっていた母親は、かろうじて日本語の勉強を続けたというが、やがて太平洋戦争に入った息苦しい生活のなかで、日本人と結婚した。そして地球の裏側の日本と、まったく隔絶された期間に、四男一女をもうけたのである。  一九五一年生まれの末っ子は、医者になるのが夢だったが、高校を卒業すると、銀行に就職した。自動車修理工場をやっていた父親が、失明の危機にさらされる大病を患い、進学を断念したのである。銀行では会計をしていたが、二年目に急に警察へ入りたくなった。  このときは、警察の書記になりたかった。小さい時分から、「男の子にしては優しい」と両親からいわれていた。自分も刑事になる気はなかったが、書記になるにしても、専門の学校に入らなければならない。折しもサンパウロに、ブラジル最初のアカデミア・デ・ポリッシア(警察学校)が設立され、トップで合格した。ここでの一年間は、刑法、法医学、射撃、捜査、麻薬、空手、柔道などを、刑法学者や医学博士、あるいはベテラン刑事から学ぶ。  どういうわけか、射撃が得意だった。中学生の頃から、バイオリンが好きだったのに、射撃の天才といわれて、書記ではなく、刑事のコースを取ることになった。するといきなり、ドップスへ配属された。秘密警察なので、警察学校の成績、適性だけではなく、身元調査も厳重になされたらしい。三人の兄は、上から自動車修理工場経営、GMの販売代理店支配人、ビラ・マリア区警察分署の刑事で、姉はコンピューター関係の会社勤務である。  初任給九千クルゼイロでドップスに勤めはじめたが、ただちに秘密警察員として、任務が命じられるのではなく、外人管理などにあたった。  しかし射撃の腕は、抜群である。ドップスでは、拳銃のみならず自動小銃、機関銃、|手榴弾《しゆりゆうだん》など、ミサイル以外の火器すべての訓練を受けるが、やがて射撃の教官になった。要人警護を命じられたのは、この時期からである。  二年間にわたる身元調査の結果、コミュニストやテロリストでないことが分り、秘密警察の任務についた。これは|怨恨《えんこん》を買う職種だから、私生活の面で一瞬も油断がならない。したがって、住所や電話番号は、一切公表しないことになっている。いつか逮捕した、外国人テロリストは、ドップス刑事の暗殺リストを持っていたから、私生活を公表しない方針はいっそう徹底されている。 「それにしても、日本マフィアは、どこへ逃込んだのかな」 「日本マフィアか……」  このところ、しきりに〈日本マフィア〉が、話題になっている。マフィアとは、どこからきた言葉かを母親に尋ねたら、さっそく辞典を引いてくれた。  シチリア島の大衆の、過激な反政府感情、反政府秘密結社。  アメリカその他のシチリア人による、犯罪秘密組織(結社)。  なんのことはない、目の前に居るイタリア系三世に、縁のある言葉ではないか。ふと可笑しくなったが、相手は声をひそめた。 「どうだろう。日本から逃げて来た二人は、えらい大金を持っているそうだが、|匿《かく》まってくれたら礼をすると言ったら、ブラジルの日本人は助けるのではないか?」 「そりゃないだろう」  一呼吸入れるために、ビールのコップに口をつけた。頼みもしないのにサービスと称して、おやじが持って来たのだ。 「日系人は、殺人犯人と分っている男を、いくらカネを積まれても、かばったりしないんじゃないかな」 「なぜ言い切れる?」 「個人の利害よりも、日系人の体面を考えるからさ」 「ふーん」  同僚は、首をかしげている。じつは今の答えは、彼自身が母親に質問して、引き出したのである。かならずしも、納得出来たわけではないが、母親は確信をもって、言ったものだ。  ——初めから関係のある台湾人が、唯一の手がかりなんだから、捜査は台湾人だけに絞ったほうが、確実なんじゃないの?  バスと地下鉄を乗継いで、新聞社へ出かけると、さまざまな憶測が乱れ飛んでいるらしく、そのことをも話してくれた。リオデジャネイロ方面へ逃げて船で脱出している、サントス方面へ逃げて台湾人の多いグァルジヤ市に潜んでいる、やはり東洋人の多いサンパウロ市内にいる、いや所持金のすべてを奪われて殺害されている、パラグアイへ舞い戻っている……などなどであった。  しかし息子は、ドップスの東洋人担当の局長補佐に命じられ、サンパウロ市内のリベルダーデ区を捜索していた。東洋人たち、とりわけ日本人は、食事や宿泊、あるいは換金の関係で、かならずガルボンブエノ通りの半径五百メートル以内に姿を現わすと、見通しを立てたのである。  四月十七日午後から夕方にかけて、日本からの逃亡者とみられる二人が、ガルボンブエノ通りの日系旅行社で百万円を両替した件も、聞込みで得た情報だった。おそらく手配の二人に、間違いないだろうが、なにしろ|闇《やみ》の両替である。外国為替は正規の金融機関で、交換しなければならない。旅行社としては、その摘発を恐れたのか、騒ぎが大きくなるにつれ、供述が曖昧になってきた。  四月九日夕方から、十一日昼ごろまで、二人を宿泊させたオスペダリアのばあい、捜査に非協力的だったわけではないが、宿泊カードを一人ぶんしか作成しなかったのは、遺憾である。届け出を受けてドップスが駆けつけたとき、すでに新聞記者の取材を許していたのも、局長補佐の印象を悪くした。大阪橋わきのオスペダリア経営者は、即決で罰金四百六十五クルゼイロを申し渡され、「踏んだり蹴ったりだ」と歎いていた。一人二百二十クルゼイロだから、八百八十の売上げだったのを、半分以上持って行かれたからだが、その後の取材攻勢がすごかった。ブラジルのマスコミ、日本からの特派員はもとより、日本からの電話取材に縛りつけられねばならず、野次馬もまた押しかける。とうとう日系一世のブラジル経営者は、怒って看板をとりはずしたらしい。  四月十一日午前十一時ごろ、大阪橋わきのオスペダリアを出るとき、四十五、六歳の台湾人らしい男が、迎えに来ている。宿泊カードによれば、〈目的地=市内〉であり、確かにガルボンブエノ通りを下って、エスツダンテス街の日系オスペダリアに投宿した。  エスツダンテス街のオスペダリアは、愛知県人会会長が、経営する。こちらは食堂が主で、宿泊施設はそれに付随するようなものである。百人は優に収容する食堂の壁には、各種の催しもののポスターが貼られており、なんといっても話題の中心は、四月七、八両日にコリンチャンス・クラブでひらかれた、〈三橋美智也ブラジル特別公演〉だった。歌謡曲から民謡、ポピュラーまで歌いまくり、会場に詰めかけた老一世たちを感激させている。あるいはロングランの映画『君の名は』もみられるが、それらポスターが目に入ったかどうか。  四月十一日正午ちょっと前に、まず佐和村秀人が、すっと入って来た。旅券を出して、宿泊カードに署名し、カギをもらって二階の部屋へ行く。食堂のレジを兼ねたフロントには、経営者の義弟が坐っていたが、風体はいいし態度も堂々としている客を、ぜんぜん疑う気が起らなかったという。宿泊料は一人百六十クルゼイロだが、それを確めるでもない。すっと階段を昇って行き、三十分くらい経って、こんどは恰幅のいい男が来た。佐和村の名前を告げ、二〇四号室と聞いて、「そうですか」と二階へ行った。さらに三十分後に、大きなトランクを持った、台湾人風の男が現われた。下に滑車のついたのを、ガラガラいわせて入ってくると、二〇四号室の客の連れだという。そのまま階段を昇って行こうとするので、名前を確めたら、「ハヤシです」と答えた。  経営者の義弟である、七十四歳の日系一世にいわせると、人相も悪いが態度も悪い男だった。安ホテルなので、日系人のほかに、台湾系や韓国系の客もある。しかし同胞でない客は、あまり歓迎出来ない。渾名は、潜水艦なのだ。あれは港への出入りに際して、汽笛を鳴らしたりはせぬ。黙って入り、黙って出て行く。いったん部屋を借りると、いろんな人間が訪れて、泊るのも居るらしいが、宿側に断わることをしない。自称ハヤシがすっと二階へ行くのを、あえて呼びとめなかったのは、この日は水曜で、食堂が混んでいたからだ。  水曜と土曜は、フェジョワーダの日なのである。この食堂の名物で、フェジョワーダと聞けば、どっと客が来る。ブラジル特有の料理なのだが、ひとことでいえば、奴隷の食物だった。小さな|鍋《なべ》に、牛の干肉と舌、豚の尾、足、耳、脂身、それにソーセージや薄切りのベーコンが入っている。これを煮込むときは、別々の鍋で時間をかけている。客に出すに際し、小さな鍋に取り合せ、その上にごはんとフェジョン豆をかける。日本風にいえば、おじやか雑炊だが、もっと荒々しい。残りものをぜんぶ|叩《たた》きこむ、肉のごった煮であり、一人前九十クルゼイロだが、男女の客ならば鍋一つで間に合うくらい、量が多いのである。  フェジョワーダの日とあって、賑やかな食堂に、やがて二〇四号室の客も加わった。奥の右手の、バーの前あたりにかたまっていた。それが四人だったか、五人だったか、フェジョワーダ料理の総指揮者たる経営者夫人や、コック、ウェイトレスの記憶はマチマチであるが、女が混じっていたことだけは、確かなのである。  その女は台湾人風で、四十前後で痩せている。べつだん美人でもなく、服装も地味だった。ただ黙々と、フェジョワーダを食べていた。珍しい食べ物と聞いてやって来た印象ではなく、ごく自然にかきこんでいるのだった。かんじんの、日本人二人は、どんな様子だったか、はっきり憶えている者はいない。翌十二日の午前十時ごろ、チェックアウトしたが、このとき台湾人らしい男女が一緒だった。エスツダンテス街の坂を、トランクを押してごろごろ音をたてて行く連中とは、経営者の義弟がすれちがっている。毎朝九時半に、銀行に売上げを預金しに行く、その帰り途だった。  ——すれちがったのは、私んとこの隣りの、自動車販売店の前です。べつにあいさつも交しませんでしたが、なんかこう、しごく朗らかな様子でしたなあ。  このオスペダリアも、宿泊カードには一人、佐和村しか記載していない。しかしドップスとしては、罰金を申し渡さなかった。新聞記者に対しては言を左右に、ドップスの聞込みには正直だった点が、局長補佐の心証を良くしたのであろう。 「日本人が協力しなければ、逃げて来た日本マフィアは困るじゃないか」  同僚はまだ、納得しない表情である。マフィアの本家たるイタリア人ならば、カネのために凶悪犯を匿まうというのか……。皮肉の一つも言ってやりたかったが、ぐっと我慢するほかない。 「だからわれわれとしては、奴らを困らせてやらねばならんのだ」 「困っているかな?」 「やっぱり困っているから、台湾人の助けを借りているんじゃないか。もしブラジルに、日本マフィアが存在したら、さっさと手引きしているだろう」 「すると台湾人か」 「そうだ、悪いのは台湾人だ」  ブラジルが中華人民共和国と、国交を樹立してから、サンパウロあたりのチャイニーズは、台湾人と呼ばれることになった。正式に国交がないから、入国ビザは出さないが、さまざまな|術《て》を使って、国境を越えてくるのである。こんどの、日本人犯罪者が利用したパラグアイルートも、そのひとつにきまっている。 「台湾女は、そんなにいいのかな」 「えっ?」 「だって日本マフィアは、わざわざ連れて来てるじゃないか」 「愛人のことか……」 「しかも、四十五歳だぜ。マフィアの社長は、四十歳だろ?」 「あれは、ふしぎだよなあ」  四月一日台北発の、キャセイ・パシフィック航空の乗客名簿には、二人の日本人の連れとして、三人の名前が載っている。それはアスンシオンの宿帳に、そっくりそのまま、記載されていたのである。日本字新聞では、ローマ字風の表記を、カタカナにして漢字を当てている。  チェン・クアン(陳灌) 47歳  リアン・ユン(林雲) 31歳  タイ・サイ・リン(台珊林) 45歳  パラグアイの|国際警察《インターポール》からの連絡では、四十七歳のチェン・クアンは、パラグアイの永住権を持ち、アスンシオン郊外に居住している。この永住権取得は、今年一月三十一日付だが、パラグアイへは二年くらい前から、出たり入ったりしている。郊外の住居は、その出入りのあいだにかまえたらしいが、ほとんど定住せずに、ブラジル、ボリビア、アフリカ、台湾へ出かけている様子である。  とまれパラグアイからの連絡によれば、三人はいずれも、すでに国内に居ないという。ブラジル側では、出入国カードから、その名前を発見していないが、どうやらサンパウロ入りして、二人の日本人と行動を共にしているらしいのだ。  タイ・サン・リンが、河畑の愛人と判断されたのは、まず女名前だからである。そしてキャセイ・パシフィックの座席番号を見れば分るように、25Fでいちばん端に坐り、25Eが河畑なのである。この“殺人会社”社長は、すでに四十回も台湾との間を往復し、愛人が何人も居るという。台北でディスコを始める計画を持っていたというのも、愛人にやらせる腹づもりだった。やはり店一軒を任せるとなると、若い女では心もとない。四十五歳の愛人で、ちっともふしぎはない……との解釈なのである。  フェジョワーダを食べるとき、女が一人居たというのは、きわめて重要な証言だった。四十前後に見えたというのも、実際の年齢に近い。美人とはいえず、服装も地味だったというが、これが愛人の条件に反すると、だれが責任をもっていえるのか? さらに二〇四号室へ入ろうとして、名前を問われた客は、「ハヤシです」と答えている。これまた林雲が、その姓を日本風に発音してしまったのだろう。 「すると、台湾人の悪党を、マークすればいいのか?」  腰の後ろに差している、コルト45口径をはずしながら、同僚が真剣な表情になった。この頃だいぶ腕は上ったが、まだまだ射撃のほうは、得意でない。どうすればお前のように、正確に的を射抜けるのかと、さきほども聞かれたばかりだった。こればかりは、答えようがない。45口径なら、人間の顔を狙ってまともに命中すれば、首から上がふっ飛ぶほどの威力をもつのである。 「その通りだが、やたらぶっ放すんじゃないぞ」 「なぜ? バンバン撃てと教えたのは、お前じゃないか」 「そんなこと、言ったかな」 「日本の|諺《ことわざ》に、下手な鉄砲も数撃ちゃ当る……」 「うーん」  あれは皮肉を言ったのだが、くそまじめな同僚は、まともに受取ったらしい。しかし下手くそが、|威嚇《いかく》のつもりで発砲して、それが命中するから困るのだ。 「それもそうだが、試験ばかりは、別だもんな。いつも受けられるわけじゃないので、今回を逃すと、落第だ……」 「いけない、もう二十日だぜ。お前なにを、こんなところで、ぐずぐずしてる!」  遠回しに試験のことを言ったら、同僚があわてた。二十日から二十七日までは、法科大学の定期考査であり、ドップス局長には早くから休暇願いを出している。したがって二十日午前零時になると、現場を離れることにしていたのだ。 「いいか、落第なんかしてみろ、ぜったいに彼女は待ってくれないぜ」 「じゃ悪いけど、頼んだぞ」 「任しとけって。日本マフィアは、かならずおれが仕止める」  拳銃を差しこんで、スーツの上着に|袖《そで》を通しながら、同僚はひどく張切っている。こんな時期に、八日間の休暇は心残りだが、さりとて弁護士→署長→結婚を、回り道させられてはかなわない。 「じゃあ、帰って勉強するよ」  きょうカバンを持って行動したのは、ときどき教科書が気になるからだった。鮨屋を出て、タクシーを拾うことにしたら、同僚は、機嫌のいい足取りで、ネオン街のほうへ向っている。 「どこへ行く?」 「聞込みにきまってるだろ」 「………」 「日本人マフィアは、ボアッチへ出入りしているらしいぜ。いっちょ、そのへんを探ってやるさ」 「ムダ|弾丸《だま》は撃つなよな」 「あははは、分らんぞ」  大男の同僚は、ゆらゆら揺れながら、まだ人通りの絶えない通りを、ボアッチのネオンが並んでいるほうへ歩いて行った。 [#改ページ]

   
8 ボアッチの女  四月二十日午前二時すぎ、サントス市の港に近い|特殊《ボ》|飲食店《アツチ》で、十九歳のホステスは、中年の日本人を拾った。  その客は三人連れで、店に来たとき、まだ酒が入っていなかった。これから飲みはじめるのなら、腰を落着けるはずはない。何軒も回って女を選ぶのだろうと、離れたところから様子を見ていたら、ボーイが呼びに来た。日本娘を欲しがっているとのことなので、どうせ通訳を命じられるのだろうと、期待せずにテーブルについたら、真ん中に坐っていた肥満体の男が、「千五百でどうだ?」ともちかけたのである。とっさに、どう答えればいいか、分らなかった。千五百なら言い値であり、百ずつ負けていって千二百、ギリギリ千クルゼイロまでだが、ふつう日本の男はそこまでは粘らない。ひとまず、「いつブラジルへ来たか」と尋ねたら、もう十日以上の滞在といい、ボアッチ遊びも慣れているようだ。 「おれはまた着いたばかりと思うた」と、正直な感想を洩らしたところ、三人が笑いだした。こちらの日本語が、おかしいらしい。  ——悪かったな。もう何も言わんわい。  むくれたら、三人して機嫌をとりだした。懐しくて笑ったのであり、バカにしているのではない、との説明だった。なんでもサンパウロでは、〈世界の美女百人!〉が謳い文句の、リベルティ・プラザに通い、白人、黒人、|混血《ムラート》と片っ端から買ったけれども、けっきょくは言葉が通じないからつまらないという。  ——日本語はめったに使わんのじゃ。  ——それなら、久しぶりに、私と語り明かそうじゃないか。  ——千五百じゃ、一回やるだけだぞ。  ——分っているよ、チップをはずむ。  ——よっしゃ、行こうか。  しかし、後の二人が決めるまで、時間がかかった。すらっと背が高く、整った顔だちの男は、ほとんど酒を飲まず、じっと店内の女を見つめている。入れかわり立ちかわり、ホステスたちが席について、あれこれ話しかけても乗ってこない。どうやら女について、好みが厳しいようだった。その点もう一人の、船のコックみたいな小柄な男は、酒はどんどん飲むし、女たちの体には片っ端から触る。それで値段の交渉になると、「五百」だなんて言い、平気な顔をしている。この男は初めのうち、日本語しか使わなかったが、そのうちポルトガル語が達者なことが分った。  ボアッチに居るホステスは、固定給らしいものを、店からもらっていない。厳密にいえば、客なのである。出入りの許可を得て、壁際の席に居る。男に誘われれば、飲物を取って、ちょっと|喋《しやべ》って脈がないとなると、さっさと移る。シャンペンでも抜けば、店からバックは来るが、そんなもので時間ばかり長びき、挙句にほかの女にさらわれたのでは、目も当てられないからだ。  ——決めたのなら、早く行こうや。  促したのだが、肥満体の男は、なかなか席を立たない。三人いっしょに、ホテルへ行くつもりなのだ。こちらとしては、途中で気が変ったりされると、ムダ骨を折ることになる。そのことを訴えたら、あっさり前金で千五百|呉《く》れた。もう時間が時間だし、ホテルで済ませて、ふたたび店へ引返すのは、むつかしい。父親の口癖だったが、人間欲を出しすぎると、ロクなことにゃならん。そう思って、すすめられるままに、ウィスキーの水割を飲んだら、久しぶりに酔っぱらった。おっさん今ここで尺八をしてやろうか。  ——おおい、こっちは待ちきれんぞ、早う決めんかい。  ひょいと抱きかかえて、背中のあたり撫でてくれながら、連れの二人を、|叱《しか》りつけている。よかった、この労務がいちばん偉い。甘えてキッスをせがんだら、労務は照れて頬に唇を当てただけで、「ローム?」と問うた。両親がブラジルへ来て、二年目に生まれたのだから、日本のことは、何も知らない。しかし、父親が九州で石炭を掘っていたこと、そのとき恐かったのが労務であったことは、折にふれて聞かされている。「わっはっは、労務係とは格下げよのう」と男は機嫌よく笑い、さらに連れをせきたてた。それでやむなく、痩せた男はドイツ女を、小男は混血女を選んだが、二人とも見映えはしても、有名な大穴のじょんだれ。ざまをみろ、残り物に福なんぞありゃせんわい。  店の勘定は、労務が払った。釣銭はみんなボーイに呉れてやる、気前のよさである。六人いっしょに表へ出たら、白っぽいカラバンが停めてある。これでサンパウロから、やって来たらしい。深夜ぶっ飛ばせば、一時間余りで|辿《たど》り着くが、わざわざサントスへ来るとは、よほどサンパウロで遊び飽きたのか。いずれにしても、こっちは儲かった。後はホテルで、|厭《いや》らしいことをされないよう祈るだけだが、まあいい、日本人はペロペロ犬みたいに舐めたりしないので助かる。  カラバンは、そのままに、タクシー三台に分乗して、ホテルへ行った。|2《ツー》ドアのフォルクスワーゲンの、前の座席を半分取りはずしてのタクシーだから、乗客定員は二人。こんどもキッスをせがんだら、頬ずりしただけだが、手はすかさずスカートの奥へ突込んでくる。運転手の目を気にしているのだろうが、このどすけべ、ブラジルの繊維は品質が落ちる、引っ張ったら縮まなくなるじゃないか。 「わっはっは、ようやく、二人きりになれたのう」  円形ベッドの部屋に入ると、ぐわっと大口をあける感じで、初めてのキッスだった。下手くそ、どんぶり鉢で茶をすするのとちがうぞ。あきれながら、途中でどんどん脱いでいると、ようやく顔を離した。 「ああ、疲れた、疲れた」  どさっとベッドへ倒れこんだので、まず靴下から脱がせて、ズボン、パンツとはいでいったら、上のほうは自分で脱ぎ、裸になったら胸毛が生えている。 「シャワー浴びんといかんぞ」 「一緒に?」 「おれが洗っちゃるけん」 「わっはっは、オチンチンのない|おれ《ヽヽ》かあ」  後ろからついて来て、乳房を掌で包み、もう一方は股間をさぐりにくる。ベッドへ戻れば、何でも出来るのに、この焦りようは、ボアッチで我慢していたからか。ぷくっとふくらんだ腹部の下に、ちょんと突き出たのを指ではじいてやったら、大仰に痛がってみせる。 「桜ちゃんと言うたな」 「うん、サクラの花の、桜」 「これは源氏名か?」 「………」 「なんというか、芸名みたいな」 「おれの|親爺《おやじ》がつけた」 「それなら、戸籍名じゃないか」 「うんにゃ、戸籍にも載っとらん」 「分らんなあ。すると本名は、なんというのか?」 「桜……」  両親と祖父母と兄と姉の八人が、熊本県を出て、『ぶらじる丸』で神戸を発ったのは、一九六一年十一月だった。サントス港に着いたのは、十二月半ばで、真夏である。列車で四百キロも入って、日本人が経営する農園で働いたが、ここで一年の契約労働が終ると、ブラジル人に雇われた。なまじ日本人同士、あれこれ細かな指図が、耐えがたいものだったらしい。その後も、いくつかの農園を転々とし、家族がどんどんふえたのは、母親が次々に赤ん坊を産んだからだ。桜、梅、松、桃、菊……女四人男三人、ブラジルに生まれて、一文字ずつ名前をつけられたが、出生届はどこにも出されていない。 「なんで……そんな。きちんと、お父さんとお母さんの間に、生まれた子どもだろ?」 「そうにきまっとるわい」 「なんぼなんでも、戸籍がなければ、困るんじゃないか」 「困らん」  シャワーの湯を、男の顔にかけてやった。  奥地に住んでいても、なにかのときは、在サンパウロの日本総領事館へ、出頭せねばならない。父親が初めて領事館へ行ったのは、祖父の死を届け出るためだった。六十四歳でブラジルの土を踏み、炎天下に大張切りで働いて、過労で倒れた。医者にもかかれず、息を引取って、土葬にした。はるばるサンパウロにまで、届けに行ったところ、領事事務の窓口で「証拠になるものを提出せよ」と言われた。証拠といえば、現に死に立会った息子が、口頭で申請している。しかし窓口では、死亡診断書が必要だという。医者にもかかれなかった奥地なのに、そんな書類が出来るはずはない。すると領事館では、「骨でもいいから持って来い」と言った。墓を掘り返して、土葬の遺骨を窓口に提出したとして、どうして父親のものと、確認出来るのだろう。カッとなって、領事館を飛び出し、その後は近づく気もせず、次々に生まれる五人の子の出生届も、放ったらかしにしたままなのだ。 「困らんというても、困るだろう。学校なんか、どうなる?」 「そげんとこへ、行きゃせんわい」 「………」 「学校へ行かんでも、人間は生きていけるわい。おれはちゃーんと、稼いでおる。大学出より、儲けとるぞ」  言い募っていたら、涙が出て来たので、急いでシャワーの湯口を、自分の顔に向けた。  一九六〇年に、九州の炭坑では、総資本対総労働といわれる、大ストライキが起こった。石炭から石油への、国のエネルギー政策の大転換のさなか、炭坑労働者は敗北し、南米移住の奨励は、離職者対策なのだった。炭坑離職者にかぎって、十数万円の移住援助金が支給されるなど、それなりの便宜をはかってもらい、二千家族以上がブラジルへ渡っている。そのブラジルで生まれ、ものごころついたときから、畑仕事を手伝ってきた。トマト、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ……年が変るたびに、土地を移動して、手がける作物も変った。地主から借りた土地に、今年こそは豊作をと、苗を植え種子を|播《ま》くのだが、どこへ移ってもうまくいかず、農薬中毒で全身火ぶくれになった父親は、とうとう死んでしまった。 「それで桜ちゃんが、身を売ったか」  シャワー室の大男は、肩で大きく息をした。ガリガリに痩せた父親は、いつ骨が皮を突き破るのかと、心配させられるほどだった。それにくらべると、千五百クルゼイロ呉れた客は、たっぷり|贅肉《ぜいにく》がついている。この労務が、なぜブラジルへ来たのかは、まだ聞いていない。しかし一家が、子どもを総動員して、〇・五アルケール(一・二一ヘクタール)の畑を作り、年間の総収入が二万クルゼイロだったと聞けば、どんな顔をするだろう。その二万クルゼイロから、借地料、肥料、農薬代金などを引けば、いくらも残りはしない。だがボアッチは、店内で取引きが成立しても、差引かれるのはせいぜい三分の一である。「身を売った……」と、急に同情されても、こちらがとまどうだけだ。 「あのなあ、わしも小さい時分に、苦労したよ。桜ちゃん、四国を知ってる?」 「九州なら、知っとるぞ」 「九州よりは、ちょっと小さいが、ほら、アマゾン河口のマラジョ島と同じ大きさの島」  シャワー室を出て、バスタオルを腰に巻いた客は、円形ベッドにあぐらをかき、ともかくしゃべらずにはいられないらしい。  ——わしは昭和十三年十一月に、大阪で生まれた。おやじは帽子の職人でのう、あれの形をとるために、木で台をこしらえる。昔の日本人は、よく帽子をかぶっておったから、商売は繁盛しよったなあ。ところが、戦争が始まった。だいぶ前から、中国と戦争しよったのが、こんどはアメリカやイギリスを相手に、太平洋戦争。とうとう終いには、ブラジルも戦争の相手国になったそうだが、わしら子どもは腹は減るし、空襲は恐ろしい。小学校に入学した年に、まあ、戦争に負けて残念だったが、サイレンが鳴るたびにビクビクせんでもええようになった。小学校二年のとき、おやじが死んだ。いつもコンコン|咳払《せきばら》いしよったから、肺病やったんかなあ。すーっと、ローソクの火が消えるみたいに死んで、家族はバラバラになった。……おやじは愛知県の出身で、おふくろは四国の徳島県出身だった。わしには、四つ上の兄と、三つ下の妹が居る。三人きょうだいだが、おふくろは兄と妹を連れて、おやじの実家のほうへ行った。どういうわけか、わしだけ徳島の、おふくろの実家にあずけられてしもた。田舎で、七、八反の田んぼを持ってたから、コメのごはんは食べられた。じいちゃんばあちゃんは、可愛がってくれたから、家に居るときはよかったが、学校へ行くと、|他所《よそ》者というて、いじめられたなあ。わし、体が大きかったから、一対一のケンカなら負けんけど、向うは束になってかかってくる。それでも、逃げるの口惜しいから、くそっくそっと、なんぼ鼻血が出ても、こっちが殴り返さんと気が済まん。ドバーッと返り血を浴びて、向うがびっくりすることもあったよ。……おふくろは、田舎へ帰っても仕事がないから、おやじの実家がある、愛知県の豊川市へ行ったわけよ。一間だけの部屋を借りて、おふくろは織物工場へ勤めに行き、夜になると、屋台を曳いてヤキイモとかスルメを売ってたらしい。たまに田舎へ帰ると、米とか野菜とか、仰山かついで行ったなあ。よっぽど生活が苦しかったと思う。まあ、わしは淋しいの我慢すれば、腹いっぱいめしは食える。外では|一匹狼《いつぴきおおかみ》の悪たれだったが、家へ帰ると牛の餌を自分で面倒みるとか、よう働いたもんよ。じいちゃんばあちゃんは、そのぶん外での|悪戯《いたずら》は大目にみてくれるから、めったにケンカで負けることはなくなった。だけど淋しいよなあ、隣の叔父の家ではイトコたちが、親に甘えよる。やっぱり、おふくろというものは、恋しいものよ。うん、こうしてブラジルへ来ておっても、なんか気になるなあ。……家出して、愛知県へ行ったのが、中学一年の夏かのう。兄は中学を出て、食堂の店員になっていた。板前になるのが夢だったいうが、やっぱり、腹減らしとったからかもしれん。妹はオシャレに気をとられ、貧乏を苦にせん様子だったが、わしが居ればそれだけ、おふくろが苦労する。そう思うて四国へ帰るとき、わし泣いたよ。いつになったら、晴れて親きょうだいが、同じ屋根の下で暮せるのかと思うてねえ。……学校へは、あんまり行かんようになってたな。校門を入るとき、きょうはだれを殴ってやるかと、獲物を|漁《あさ》りに行くみたいな毎日だったから、勉強なんかぜんぜん興味ない。たまにヒョッコリ数学に興味が向いても、こんどは先生が相手にしてくれんわな。バカらしい、こんなんやめとけと、働きに出たよ。徳島市内へ行くと、なんぼでも仕事がある。わし体が大きいから、十六、七歳いうても通るし、重いもんも持てる。土方仕事して日当の二、三百円は取りよった。そりゃ、一所懸命働くよ。人間いうもんは、体を動かさんと、ゼニ儲けは出来ん。頭使うのは、楽して儲けるためや。そんな若いうちから、楽してどうするかね。……けっきょく中学は、卒業せんかった。学校なんか出てなくても、雇うてくれるところはあるからね。おふくろの居る、豊川へ行って、働きはじめたけど、いろんなことしたなあ。氷の配達、空瓶の回収、トラックの運転助手ね。わし、運転手になりたいと思いはじめたのは、あそこに坐ってハンドル握ると、偉うなった気がするからやね。タクシーとかハイヤーに乗って、仮に総理大臣を乗せたとしても、偉うなった気はせんよね。だって実際に、後ろの席に乗せてる人のほうが偉い。そこへくるとトラックのばあい、荷物は荷物や、威張るはずがないでしょ。自分がいちばん偉い。ぶつかっても、こっちが勝つにきまっている。……十八歳になって、三回目の試験で免許を取った。わし運送会社に入って、ずっと運送屋してた。愛知県いいうたら、トヨタだからね。陸送の仕事は、なんぼでもある。新しい自動車を運転して行って、フェリーか汽車で帰ってくる。これが北海道だったら、途中でどうしても一泊せんといかんけどね、わし眠らんで走った。途中どうしても寝んといかんかったら、道端に停めて一時間ぐらい休む。こうしてぶっとおしに走って、帰りは乗物の中で寝てればいい。これで一日浮くよね。ほかの者は、行きがけ一泊してるもん。この一日の差が、月になんぼ生じるか。それだけこっちは、沢山こなせるから、収入もふえるわな。男は腕一本ということが分って、どんどん働く。とうとう、二十歳のとき、家一軒を借りてね。おふくろ、兄、妹といっしょに暮すことになった。このときは、嬉しかったなあ。……それから、自分で言うのもアレだけど、トントン拍子でね。友だちと梱包会社を作って、専務になったのが、二十八歳のときだった。梱包会社というても、運送会社を兼ねてるからね。荷物が傷まないようにするには、どうすればいいか。縄を一本余計にかけるとか、板を一枚ふやすとか考えかたはあるが、わしは、速く届けること一本に|賭《か》けた。そうでしょう、アイスクリーム買って帰るとき、パックをどうするか、ドライアイスどうするか考えるより、さっと走って帰るにかぎる。この方針が成功して、仕事はふえるばかり。昭和四十七年には、とうとう市内の運送屋を三つばかり吸収して、業務拡大で新会社を作って、わしが社長に就任したんだ。  その社長というの、労務より偉いのか、と聞いたところ、わっはっはと笑って、ようやく体を引寄せた。ずいぶんな演説だったが、父親がピンガで酔っぱらって|喚《わめ》き散らすより、マシだった。 「だれが日本を復興させたか忘れやがって恩知らずめ、輝ける産業戦士を地球の裏側まで追いやったバチは必ずあたるぞ、こっちへ来い……」いったい父親は、だれを|懲《こら》しめるつもりだったのだろう。痩せこけた体で、手近なところに居る娘にのしかかり、信じられないくらい強い力で押しひらいた。 「バカ、痛い!」 「どうした、慣れていないのか」 「………」 「どれ、脚の力を抜いて」 「………」  処女を扱う手つきなので、照れくさくて笑いかけたら、どういうわけか涙があふれてきて、えいくそ、泣くだけ泣いちゃるぞ。 「よしよし、ムリはせん。その気になるまで、ほれ、|揉《も》んでやる」 「それよかニッポンの歌を歌え」 「日本の歌?」 「なんでもよかけん」 「困ったなあ、音痴なんじゃ。……佐和村ならよかったのに」 「サワムラ?」 「わしの部下だが、あいつ歌がすごく上手でなあ」 「あいつは好かん。下手でもよかけん、お前が歌わんか」  泣きながら、ことのついでに甘えたら、男は決心したように、歌いだした。なるほど、ためらっただけあって、歌はひどい調子はずれである。しかし、円形ベッドでT字になり、天井を見上げてダミ声を聞いていたら、ますます涙がとまらなくなった。  イチノタニノ イクサヤブレ  ウタレシ ヘイケノ  キンダチ アワレ…… [#改ページ]

   
9 保険金支払い  四月二十日午後二時すぎ、急遽ブラジル派遣の新聞記者は、サンパウロ市リベルダーデ地区の、日系ホテルにチェックインした。名古屋あたりにもふえた、ビジネスホテル風で、商社マンがよく利用するらしい。予約してくれた、中南米支局長によれば、今やマスコミ各社の臨時支局になっているとのことだが、ロビイに居るのは、チェックアウトを済ませた、十数人の団体である。  いずれも褐色の肌の、二十代の男女だった。一見して農民と分る体つきで、服装も田舎くさい。顔だちは、明らかに日本人だから、奥地の農場から来たのだろう。カウンターで、宿泊カードに記入しつつ、なんとはなしに後ろの会話を聞くと、これがポルトガル語なのだった。二世、三世のはずだが、日本語がまったく混っていない。ほんとうに日系人だろうかと、ロビイにひとまとめに置いてある荷物の名札を見たら、TANAKA、SAITO、YOSHIDA……などだった。  六階の部屋へは、六十年配の支配人が、案内してくれた。「遠路ご苦労さまです」と、きれいな日本語で迎えたのは、事件の取材に駆けつけたことをさしているのだろうが、内容に関することは何も言わなかった。着換えとノートを詰めただけのショルダーバッグ、それに免税ウイスキー二本の袋を持ち、エレベーターの中でも、ニコニコしていた。 「ボクシングはお好き?」  ふと問うたのは、エレベーターを出て、廊下を歩いているときだった。金縁メガネの柔和な笑顔に、ふさわしい話題とも思えない。 「ええ、人並みには……」  曖昧に答えていると、掃除の女性とすれちがった。東ヨーロッパ系の顔で、|碧《あお》い目をしばたたきながら、シーツやタオルの|籠《かご》を引きずっている。 「何年か前に、日本の選手とブラジルの選手が、タイトルマッチをやりましてね。そのばあい、テレビで観ておって自分の気持が、まあ、七・三でございましたよ」 「はあ」 「と申しますのも、三十パーセントぐらい、日本に勝ってもらいたい。しかし七十パーセント以上は、ブラジルに力を入れますね。日本で生まれて、十二まで育った。それからブラジルで、ずっとあれして、帰化したのは、一九五〇年でありますが、ブラジル人になっても三十パーセント、いや、四十パーセントは日本に勝ってもらいたい。あれは、妙な気持でした、複雑なものです」  カギを開けて、部屋へ入ってからも、話し終らない。ベッドはツインで、バス・トイレつき、冷蔵庫と並んだ、床の間ふうの棚には、博多人形が置いてある。 「それで私は、同じ年代の者に聞いてみたんです。すると、みんな、そうであると。七・三、八・二、六・四のちがいはあるが、何分の一かは、まだ日本を応援しております。しかし、こっち生まれの、二世になりますと、それはもう、ぜんぜん、日本のなにを持っておりません。百パーセント、ブラジルを応援する。なんぼ自分らが、日本人の血を受けているといっても、これっぽっちも日本の肩は持ちません」 「その試合というのは?」 「エラール・ジョフェルとファイティング原田でございます。七・三、八・二……いやあ、ほんとにあの気持は、言葉で表現しきれません」 「どっちが勝ちましたか」 「完全に日本が勝ちました。終ったあと、やっぱりブラジルに勝たせたかったなあ、と。そんな気持でございます」  窓の下の通りは、車の往来が多い。歩道からはみ出た人びとを追い散らす、クラクションが鳴りっ放しである。その通りと交差する、日本文字の看板のある商店街には、すずらん灯が並んで、大鳥居が|跨《また》いでいる。  見下していたら、 「生水は召しあがらないように」  支配人が冷蔵庫の水筒を示し、お辞儀して部屋を出た。  外を眺めていると、まだ空中に在るかのような、錯覚をおぼえる。パン・アメリカン航空の直行便でニューヨークへ飛び、ケネディ空港で時間待ちして、ヴァリグ・ブラジル航空に乗継いだ。太平洋上で隣合ったアメリカ人は、ハワイかロサンゼルスに一泊してニューヨークへ帰るのが常識なのに、こんなノンストップ便が飛ぶようになったのはクレージイだと、しきりに嘆いていた。しかしこちらは、ニューヨーク乗換えの、ブラジル行きである。「長生きしたくないのか?」と、損害保険会社の情報員は|呆《あき》れ顔だったが、一路サンパウロをめざし、コンゴニアス空港に着くとすぐ、支局へ電話して尋ねた。  ——捕まりましたか?  ——いやあ、まだですがね。ホテルのほうは、手配しときましたよ。一風呂浴びて、昼寝でもしててください。八時になったら、迎えに行きます。晩めしでも食いながら、打合せしましょう。  電話の向うでは、のどかな声なので、拍子抜けしてしまった。こんなことなら、ニューヨークに一泊して、早い便に乗れば、夜には到着出来たのだ。とまれ、サンパウロ入りを知らせるために、名古屋への通話を申込むことにした。 「アロー」 「テレフォーネ・ジャパォン」 「番号をおっしゃってください」  なるほど、このホテルなら、日本語で用が足りるのである。三十分ぐらいでつながるといわれ、デスクあての指名通話にしてもらい、バスルームへ行った。  浴槽と洗面台と便器があり、まずまずの設備だが、トイレットペーパーの脇には、〈御使用の紙は流さずに籠に投ぜられよ〉と、日本語の掲示がある。ポルトガル語がないところを見ると、この国の常識なのだろうか。浴槽に湯を出しながら、用を足すことにして、もう一つ並んでいるのが、|洗《ビ》滌|器《デ》だと気づいた。  そのうち電話が通じて、地球を半周する声は、エコーマイクをかけたように聞える。  ——どうだね、そっちの様子は?  ——なにしろ、着いたばかりでして。  ——サンパウロ潜伏は、まちがいないというじゃないの。わが社は、ちゃんと、一面に入れてるよ。  二十日付夕刊の一面トップは、タイのアラソヤプラテート発の特派員電で、「ポル・ポト軍なお戦意/カンボジア・タイ国境で直接聞く/戦況の苦しさ隠さず」とあり、次がサンパウロ発の「なおサンパウロに/保険金殺人で手配の河畑ら/地元警察が確認」とある四段見出しの記事なのだ。  ——サンパウロ州政府警察庁は十九日、サンパウロ市内で二人の所在を確認した模様で、日本政府からの逮捕要請を待って強制捜査に乗出すものと見られる。同警察庁は「遅くとも週明けの二十三日には決着がつけられるだろう」といっており、日本、パラグアイ、ブラジルを舞台にした事件の捜査は大詰めに近づいたと、関係者は見ている。  当直デスクは、記事をぜんぶ読上げかねない勢いだが、これから送稿した当人と、ドッキングするのである。  ——分りました。がんばります。  ——あ、待った、待った。  そろそろ、二十一日付朝刊の、早版が組上がる。社会面トップで、「保険金殺人犯に包囲網/現地法規で拘束可能/ブラジル当局から回答」の、大見出しだという。  ——じゃあ、体のほう、無理しないで。  ——はい、ありがとうございます。  電話を終えて、素直にベッドに入ったものの、なかなか寝つけそうにない。今の無理するなは、無理しろのような気もする。  そこで起き上り、支局へ電話をかけてみた。寝なくてもだいじょうぶだから、こちらから訪ねて行くと言うつもりだったが、夫人が応答して、さきほど外出したとのこと。  ——夕食をご一緒すると、申しておりましたから、ホテルへ伺うと思います。  ——じゃあ待ってます。  あらためて、タラコを買い損なったことが、悔まれた。新東京国際空港の、南北ウィングを走り回ったのに、見つからなかった。あれほど念を押されたのに、代替品が免税ウィスキーでは、さぞがっかりされるだろう。  それならば、せめて仕事上のみやげを、整理しておかねばならない。中南米支局へ、日本の新聞は二〜四日おくれて到着するが、事件そのものの情報が少ない。いったい、どういう経緯なのか、系統だてた資料がほしいとのことだった。  社会部の遊軍だが、県警担当が長かった。こんどの事件では、最初から専従しているので、ひととおりのことは分っている。  こんどの事件は、愛知県警と警視庁が協力して、捜査を進めている。東京で捕えた詐欺師が、保険金がらみの殺人未遂事件被害者と分り、警視庁が内偵を続けた。そして二月中旬に、名古屋市千種区の料亭で、愛知県警幹部との打合せ会議をひらいた。  県警記者クラブでは、大事件の匂いを嗅いだが、「バラバラ事件解決の打上げ」との説明である。昨年十二月一日に、小牧市大草の中央高速道路下で、女性のバラバラ死体が発見された。段ボール詰めの|腐爛《ふらん》死体は、箱の中にあった名刺から、東京都品川区の四十六歳のホステスと分った。彼女は半年前から、行方不明になっていたのである。愛知県警と警視庁は、合同捜査本部を設けて、二月四日に東京で、二十六歳のクラブマネージャーを逮捕した。男はゆきずりのホステスを自分のアパートに誘い、体の関係をもったあと二万円を請求されたので、カッとなって絞殺した。そしてバラバラにした死体を箱詰めにし、父親の助けを借りて愛知県まで運び、高速道路の上から捨てたのだった。  そのバラバラ事件は、父親が共犯ということもあって、大きく報道されたが、警視庁の幹部がわざわざ名古屋へ来て、打上げをするほどのものかどうか。疑問を抱くむきは、一昨年九月の〈愛知三億円事件〉と結びつけて考えた。愛知医科大学の不正入試、昭英高校昭英振興会の乱脈経理にはじまった強盗事件は、一年半経ってまだ解決していない。初めから狂言の疑いがもたれているものの、犯行グループは東京に潜伏中ともいわれている。料亭の打上げは、その会議のカムフラージュと見たのだが、どうも連動しない。  三月十三日、〈愛知三億円事件〉の主犯が、東京・赤坂で逮捕された。その報道合戦のさなか、〈バラバラ殺人事件〉の打上げは、じつは大がかりな〈保険金連続殺人事件〉の、捜査会議だったことが分った。捜査は警視庁主導で、進められている。愛知県警としては、老詐欺師を手中にしている警視庁が、まず殺人未遂で実行グループを逮捕し、黒幕の会社社長に辿り着くのを待つ。そのうえで社長の身柄を譲り受け、本件たる殺人で追及する段取りだった。  この情報は、警視庁筋から流れ、東京本社では三月十七日付夕刊で、「保険金めあて“殺し屋一味”/静岡・長野で事故偽装?/警視庁が捜査、愛知などでも数件か」と社会面トップ記事にした。〈長野県と静岡県で一昨年夏に起きた交通重傷事故が、実は保険金目当ての偽装殺人事件だった疑いが強まり、警視庁捜査一課が捜査を始めた。被害者の証言などによると、事件の背後には大がかりな殺し屋グループが介在している疑いがあり、捜査一課は警察庁・東海、関東地方各県警の協力を求めて慎重に捜査している。今後の捜査の進展によっては、五十二年の夏以降、愛知県内で続いている多額の保険金をかけた不審な事故死数件も、同グループによる犯行とされる可能性が出て来た〉  昨年八月二十六日に、江東区の旅館で渋谷署員に逮捕された六十六歳の詐欺師は、大手建設会社の株券を偽造し、質屋に持込んで見破られたのである。この老詐欺師が、「オレより悪いのが居る」と言いだしたとき、取調べの刑事は相手にしなかった。しかし七七年八月二十六日、酔って寝ていたら車ごと浜名湖へ沈められかけたときは、足腰の打撲で|磐田《いわた》市内の病院に入院している。退院して間もなく九月九日に、長野県へ土地を買いに行く途中で|崖《がけ》に追突した。ドアを開けて転げ出たら、鉄パイプで殴られ、殺されかけたところへ、車が通りかかって、救急車で病院へ運ばれた。しかし飯田市の救急病院からは、すぐに逃出した。静岡県に帰って、磐田市の病院で治療を受け、殺されかけたことを磐田署へ訴え出たのだが、「芝居だろう」と相手にしてもらえなかった。  その頃、老詐欺師は、磐田市に事務所を構えていた。いちおう商事会社だが、問屋から手形で商品を受取り、現金を条件に安い値で売る。いわゆるバッタ屋とあって、警察も目をつけていた。「殺されかけた」との訴えを受けた磐田署が、初めのうちとりあわなかったのは、理由がある。老詐欺師は、その年七月一日に生命保険に加入しており、災害特約が一千万円ついている。訴え出たのは、傷害を理由に保険金を受取るためと、みなされたのだった。  確かに老詐欺師は、生命保険に加入している。  *明治生命(普通養老保険) 六千万円  *日本生命(養老保険)   六千万円  明治生命のほうは、主契約五千万円、災害特約一千万円であり、毎月の掛金が三十三万一千円。もうひとつの日本生命は、六千万円の主契約のみで、毎月の掛金が三十五万三千四百円である。  いずれも、七七年七月一日付で、本人が契約し、保険金の受取人は、豊橋市のバー経営者となっている。むろん契約者は、承知していた。受取人は、彼の愛人なのだった。  老詐欺師が殺されていれば、一億二千万円受取ったかもしれない女性は、しかし七八年十二月二十六日未明に、焼死体となって発見された。豊橋市の繁華街である上伝馬町|界隈《かいわい》で、「おとこ女」として知られる五十五歳のバー経営者とは、生命保険に加入する少し前から深い仲になっていた。  彼女と知合ったのは、豊川市の運送会社社長が、そのバーへ連れて行ってくれたからだ。なんでも社長の妹と彼女の、共同経営だとか。「おとこ女」と社長の妹は、ずっと同性愛だったが、そのうち妹に男が出来て、体の関係はなくなった。そんな矢先に、老詐欺師が現われたのである。  六十六歳と五十五歳の男女は、互いに身よりとてない。天涯孤独の二人が寄りそい、愛の証しとしての生命保険……と、老詐欺師は解釈している。ただし、二口で月額六十八万四千四百円の保険料は、社長が払ってくれた。  仲をとりもってくれたうえ、愛の証しの保険料まで払った社長とは、古いつき合いではない。豊橋市で金融業の看板を出している、四十歳の暴力団組長が、紹介してくれたのである。暴力行為等前科六犯の組長は、「なかなか羽振りの良い男だ」と、社長をベタ誉めだった。なんでも金融業がゆきづまったとき、助けてくれたらしい。バッタ屋の老詐欺師が、資金繰りに苦しんでいる旨を洩らしたら、社長は即座に、「そりゃ保険に加入するにかぎる」と言った。契約すれば、保険金の額面の一割は、必ず借りてやる、と約束したのである。しかも融資があるまで、月々の保険料は立替えてくれるという。  二口で一億二千万円だから、千二百万円の融資が期待出来る。愛の証しの生命保険に、甘い夢を託しているさなかに、二回もの〈殺人未遂〉だったのだ。  三月二十日に、長野県の国道における殺人未遂の二人が逮捕されたのを皮切りに、次々に関係者が逮捕されていった。合せて八人の逮捕者は、いずれも素直に供述して、事件の全容が、次第に明らかになりつつある。  四十歳の暴力団組長が金融業を始めたのは、一九七六年十一月のことで、主として手形割引だった。最初のうち順調だったが、七七年二月に知合った、磐田市の商事会社の代表取締役が持込む手形が次々に不渡りになり、五月には四千万円にものぼった。そもそも金融業のスポンサーは、運送会社社長であり、「老いぼれペテン師にやられたのか?」と、組長を叱責する。  そこで思いついたのが、老詐欺師に保険を掛けて、殺すことだった。しかし計画は失敗して、老詐欺師は、東京へ逃げた。保険料は二カ月分を払込んでいるが、逃げられた以上は、掛けてもしかたがない。この保険は放棄して、次に選んだのが、愛知県西尾市の食品製造業者だった。  四十三歳の食品製造業者は、コンニャクやトコロテンを作って、年商四億円ぐらいで、順調な商いだったが、一九七五年に韓国から輸入した朝鮮漬がさばけず、大損害を被った。それで|焦《あせ》ったものだから、経営がますます悪化して、七七年夏には、豊川市の運送会社社長に融資を申入れた。  とりあえず五百万円だったが、すぐに承知して、担保は取らないかわりに、生命保険加入が条件だった。  *大同生命(養老保険)        四千万円  *大同生命(災害特約つき定期保険)  一億一千万円  *住友生命(祝い金つき特別終身保険) 六千万円  大同生命の二口は、いずれも九月十二日付で、住友生命のほうは、九月十六日付の契約である。契約者は本人で、受取人は三口とも、運送会社社長だった。保険料は、年払いにして、三口の合計が百八十二万六千円。これは契約のとき、契約者自身が、現金で支払った。契約が成立すれば、額面二億一千万円の、一割以上の融資が受けられると、信じきっている。  七七年十月一日、豊橋市上伝馬町で、バーがオープンした。西尾市の食品製造業者は、開店祝いに招待され、ライトバンを運転して駆けつけた。二十七歳のママが、「社長の女」と聞いては、出かけないわけにはいかない。それに日頃から、酒と聞けば、なにをさておいても駆けつける性分である。行ってみると、社長の実兄である専務も顔を出しており、大いに痛飲してオープニングを盛上げ、午後十一時すぎに店を出た。  自分で運転して帰るとハンドルを握ったら、社長が「専務に送らせる」段取りをつけた。これは実兄の乗用車が先導するから、ついて行けということだった。国道二十三号線を西へ走りはじめると、後ろからは、暴力団の組員たちが運転する、二トントラックと乗用車が続いて、やがて蒲郡市内を抜け、県道四十号線に入ると、額田郡幸田町で四トントラックが待ちかまえていた。先導の専務の車がライトを点滅させると、対向車線のトラックがセンターラインを越え、後続の乗用車へ突込む……はずだったが、食品製造業者のライトバンは、ぴたりとくっついている。四トントラックには組長が乗っていたが、ハンドルを握っていた三十四歳の組員は、ライトバンめがけて突込むことが出来なかった。  十月三日、練りなおした計画のもとに、食品製造業者を誘い出した。運送会社社長が、親戚の者を引合わせるので、面倒をみてやってほしいと、オープンして三日目のバーへ呼んだのである。親戚の者として紹介されたのは、浜松市で実験用動物飼育業を営む、三十歳の元トラック運転手で、今夜は運転して送らせるという。招かれた客は、大いに飲んで、徒歩で数分の「おとこ女」の店へもハシゴして、一昨日とおなじ十一時過ぎに、帰路についた。なにしろ運転手つきだから、安心して泥酔している。午後十一時半頃、ライトバンは額田郡幸田町の橋にさしかかり、実験動物飼育業者は手前で停めた。そして、酔いつぶれている食品製造業者を引きずり出すと、幅五メートルの川へライトバンを墜落させたのである。橋の下には、組長ら三人が、待機していた。彼らの仕事は、道ばたの泥酔者を下へ運んで、川の流れに顔を突込むことだった。これは酔いをさますためではなく、息の根を止めるためであり、翌朝の岡崎署交通課による処理は溺死であった。外傷がないので、交通事故死とはいえず、泥酔が原因の溺死との判断なのだ。  保険金はなかなか支払われず、遂に運送会社社長は、大同生命と住友生命を相手どって、大阪地裁に保険金支払い請求の、民事訴訟を起した。この争いは、原告側に有利に展開して、七八年六月十七日に、保険金が支払われる。  大同生命の養老保険は、四千万円全額。同じく災害特約つき定期保険は、定期の六千万円全額支払い、災害の五千万円は飲酒運転が原因のため保留。  住友生命の祝い金つき特別終身保険は、主契約の三千万円のみ支払い、災害の三千万円は保留。  こうして運送会社社長は、計一億三千万円を取得したが、手取り額だったわけではない。実行グループへの、報酬がある。  暴力団組長=千二百六十五万円。  実験動物飼育業者=八百五十万円。  組長の実弟=六百十万円。  組員その一=五百二十五万円。  組員その二=二百三十万円。  組員その三=二百二十五万円。  実兄の専務=百八十万円。  報酬の合計が、三千六百八十五万円。暴力団組長は、以前から出資してもらいコゲついた、約四千万円が帳消しになったので、五千万円余の報酬ということになる。ほかの者は、それぞれの働きに応じて、報酬を受けている。実兄の専務が、最下位なのは、十月一日バー開店の夜に、先導しながら車間距離を空けることが出来なかったからである。  しかし次の計画では、積極的に働いている。  一億三千万円の保険金が支払われた六月、豊川市の運送会社では、日曜日を利用して、身体検査が実施された。〈健康診断〉とも〈運転者適性検査〉とも説明はマチマチだが、医師や看護婦が出張して、尿を検査し、血圧を測定し、聴診器を当てての診察と、問診がおこなわれたのである。  この検査を受けたのは、運転手と助手の、計二十五人だった。豊川市内には、会社の寮がある。会社では信州の高原野菜の輸送に力を入れ、野辺山にも寮があるので、六月中の日曜日には、全員が受けるようにとの、達しだった。  四十四歳の専務は、総務担当ということになるだろうか。いつも会社事務所に居て、配車表や荷受伝票にまで目を通す。弟の社長は、ほとんど会社に居たことがない。三十五歳の常務は、経理担当のはずだが、自らトラックを運転して、長距離輸送に出る。高原野菜の輸送は、常務の発案であり、陣頭指揮といったところなのだ。  とまれ六月いっぱいで身体検査が終り、会社は七八年七月一日付で、三つの生命保険会社と、団体契約を結んだ。従業員一人ずつを、被保険者として、契約者および受取人は法人としての会社である。  *第一生命(集団定期保険2型) 三千万円  *明治生命(団体定期保険)   一千万円  *日本生命(団体定期保険)   一千万円  *日本生命(集団扱い定期保険) 五千万円  この年五月に、新聞折込みの求人広告を見て入社した、十八歳の運転助手も、四口で一億円の保険の、加入者であった。彼のばあい、保険料の月額は、第一生命九千円、明治生命二千三百七十五円、日本生命二千五百円、一万九百十円で計二万四千七百八十五円である。  ただし運転助手は、自分が生命保険の加入者であることを、よく知らなかった。会社に入ったのだから、身体検査ぐらいはあたりまえだろうと、気にとめる様子もない。それは他の運転手、助手も同様だが、なかには気にする者も居た。  一九七八年三月二十四日午前三時五十分ごろ、会社のトラックが神奈川県川崎市高津区の、東名高速道路の上り料金所手前で、事故を起した。四十四歳の運転手の、前方不注意による、四重追突事故だった。運転手は内臓破裂と、脳内出血で死亡し、やがて会社には二千五百万円の保険金が支払われた。受取人が会社で、遺族にはわずかな見舞金が届けられただけである。これはおかしいという声が上ったが、運転手は会社から一千万円余り借りている。この会社のシステムでは、運転手自身が、トラックの持主になれる。したがって会社は、有能な運転手に、どんどんカネを貸す。その条件が、生命保険加入なのだった。  額田郡幸田町出身の、十八歳の運転助手は、豊川市内の会社の寮に居る。高原野菜の輸送は、積み下ろしの作業がきついけれども、満勤すれば十五万円になる。中学を卒業して、岡崎市の家具店に就職したものの、そのうち家出して大阪あたりを、転々としていたらしい。それが落着いて、近いところで働いているので、実家の両親も喜んでいる。一男二女の、長男なのである。  七月十二日夕刻、専務が会社事務所に居ると、現われた社長が家族届の台帳をめくり、「こいつは一人者だで」と、幸田町出身の助手を選び出した。「わしは顔を知らんし気が楽だなあ」とも言った。  七月十七日夜、三十六歳の運転手が、社長にレストランへ連れて行かれ、「五百万円あったらどうする?」と尋ねられた。大阪で三百万円の借金を親兄弟に肩がわりしてもらい、今また会社から二百七十万円借りている運転手が、即座に「借金を返します」と答えたところ、「あの助手を海へ連れ出したら五百万やる」とのことだった。  七月二十二日午後七時すぎ、会社の応接室で会議がひらかれた。出席者は、社長、専務、運転手、それに常務の四人である。議題は従業員慰安会で、七月三十日(日曜)に渥美町へ行く、助手は運転手が連れ出す、海へ行ったら社長と常務が沈める……などの点を、確認した。  七月二十四日から、配車変更がなされ、連れ出し役の運転手は、幸田町出身の助手と組んで、信州の野辺山に行った。助手は海水浴を、|厭《いや》がっている。彼が五つのとき、姉が池で溺れ死んだ。それを目のあたりにしているから、「とても泳げない」というのだった。しかし職場は、人の和である。年配者としては時間をかけて説得し、日曜の海水浴を承知させた。  七月三十日朝、渥美半島の伊良湖岬へ通じる国道二五九号線を、専務の運転する車で、新江比間海水浴場へ向った。信州から帰った運転手と助手、それに若い従業員二人が、同乗している。途中で専務は、慰安さるべき四人に海水パンツを買い与え、いたく感謝された。  到着した一行は、桟敷を借りて着換えると、それぞれの過ごしかたで、昼になるのを待ち、ビールの宴会をはじめた。〈常春の渥美半島の最先端、伊良湖岬に程近く、赤石山系のなだらかな山並と相対する新江比間海岸は、黒潮おどる太平洋とは対照的に、優美な絵画性に富む三河湾に面した内海で、小さくゆれては返す白い|渚《なぎさ》に緑の松並が映え、はるかエメラルドの海上には篠島、日間賀島、佐久島など大小の島が点在し、湖水を思わせる海面の淡い島影をぬってゆきかう真帆片帆……詩情豊かな美しさは東海の松島といわれ、風光に恵まれた素朴な自然のままの海浜公園です〉と江比間観光開発組合の、パンフレットにある。物足りないくらい穏やかな、遠浅の海であり、過去において水死者は一人も出ていない。  その新江比間海岸の、左端の突堤に、二人の男が現われた。別行動をとった、社長と常務である。報酬五百万円の運転手が、さりげなく近づいて行ったら、「午後二時頃、ボートに乗せて連れて来い」との命令であった。専務と二人に、飲めないビールを注がれて真っ赤になった助手を乗せ、ボートを漕ぎ出して間もなく、宝探しが始まった。休憩所前の、見張台の上から、〈ビール一打〉〈ティッシュペーパー〉などと記入した、紙の札を撒く。当日の人出は、一万五千人。わっと群がって、喚声が上るさなか、遊泳区域の赤旗の外で、もうひとつの儀式が終了した。  午後三時五十分、田原警察署江比間駐在所に、捜索願いが出された。届け出たのは、豊川市の三十六歳の運転手で、遊泳中の同僚が行方不明になったという。さっそく人を集め、ボートを漕ぎ出すなど捜索したが、十八歳の助手は見当らない。翌三十一日早朝から、消防団が出動して捜索を開始、午前七時すぎ沖合を漂っている溺死体が、発見されたのであった。  八月十五日、明治生命の団体定期保険の一千万円(主契約五百万円、災害特約五百万円)支払い。  十月七日、第一生命の集団定期保険2型の三千万円支払い。  十一月九日、日本生命の団体定期保険の一千万円支払い。  十一月七日、日本生命の集団扱い定期保険の五千万円(主契約二千五百万円、災害割増・障害特約二千五百万円)支払い。  運送会社の預金口座へ、こうして四回にわたり、一億円が振込まれた。今回の特徴は、すべて社内で|賄《まかな》ったことであろうか。  十二月二十六日午前三時過ぎ、豊橋市上伝馬町のバーが火災に遇い、五十五歳の経営者が焼死した件では、不審火とみて豊橋署が捜査を続けている。彼女もまた、多額の生命保険に加入していた。  *日本生命(暮しの保険=災害割増・災害特約付) 三千万円 七六年三月五日契約  *日本生命(暮しの保険=災害割増特約付) 三千万円 七六年十月二十七日契約  *日本生命(暮しの保険=災害割増特約付) 六千万円 七七年十二月一日契約  *日本生命(暮しの保険=災害割増特約付) 六千万円 七八年七月一日契約  四口とも災害割増付なので、火災による死亡ならば、一億八千万円に達するが、保険会社は警察が捜査中とあって、保険金を支払っていない。なにしろ受取人が、運送会社社長の親族である。  七六年に契約した、三千万円の二口は、いずれも社長の妹が受取人になっている。七七年契約の六千万円は、妹の長女が受取人、七八年契約の六千万円は、妹の長男が受取人に指定されている。最初の二口は、すでに二年以上も保険料が納められており、発覚した三件が加入直後の|事故《ヽヽ》になっているのとは、だいぶ事情が異なる。保険料の合計は、十二万三千六百八十円で、契約者たる本人が払い続けていた。  火災の前夜は、従業員のクリスマスパーティ兼忘年会とかで、早仕舞いして出かけた。保険の契約者と受取人、それに店のホステス二人の計四人で、ホストクラブへ行き賑やかに飲んだのである。そして一億八千万円の保険契約者は、泥酔してバーへ帰り、奥の六畳自室で焼死体になった。  その昔彼女は、遊廓の|娼妓《しようぎ》だった。老いた母親の面倒を見ながら、体を売っていたが、女に入れあげる癖がある。社長の妹と親しくなったのもそれで、しばらく同棲したものの、一年前から別居して、バーで寝起きしていたのであった。出火の原因は、石油ストーブとみられ、その横で焼死者特有の、腕と足を上げるボクサースタイルで倒れていた。泥酔して失火の原因を作ったともみられるが、状況証拠からして〈保険金殺人〉の疑いをもたれたのだ。  疑いをかけられたのは、当然ながら、保険金受取人の共同経営者だった。彼女は火事のさなか、表で泣き喚いたが、表戸のカギは、二カ所もかかっている。救出に行けなかったことを嘆いたが、彼女自身が合カギを持っていたはずで、密室を外から作った可能性もある。焼死体を見たときは、半狂乱になって病院へ運ばれ、焼跡には花を供える毎日だったが、逮捕された長兄は、「妹から犯行計画を打明けられたことがある」などと言いだし、状況証拠は彼女にとって不利になりつつある。  この妹は、中学を卒業すると、豊橋市内の敷物工場に就職した。しかし長続きせず、喫茶店のウェイトレス、バーホステスになり、二十歳のとき結婚して、西宮市で女児を出産した。四年後に子どもを引取って離婚し、母親に預けて名古屋へ行き、キャバレーのホステスになった。このとき資産家に囲われ、男児を出産したが、やがて別れて、豊橋市のバーホステスになった。その店の経営者が、「おとこ女」であり、深い仲になる。運送会社社長である次兄は、そのうち店の改造費を出してくれ、共同経営者になった。この店には、長兄の妻がホステスとして出て、次兄の娘もアルバイトに現われるなど、親族でかためていた。  バー火災の焼死も、また〈保険金殺人〉だとすれば、こんどは親族で賄ったことになる。 「かなわんなあ」  リベルダーデ区のホテル六階の部屋で、新聞記者は溜息をついた。この事件を調べていると、いつしか|陰鬱《いんうつ》な気分になってくる。しょせん犯罪とは、そのようなものかもしれないが、こうして地球の裏側まで駈けつけた自分は、いかなる存在であるのか。いったい、何をしようとしているのだろう? ふとそんなことを思ったら、ビールが飲みたくなった。冷蔵庫を開けると、幾種類もの瓶が並んでおり、どれがミネラルウォーターかソーダ水かビールか判然としない。手近なのを取って栓を抜いたら、これがビールで、ラベルにCERVEJAとある。小瓶なのでたて続けに三本飲んだら、ようやく眠くなった。 [#改ページ]

   
10 アミーゴたち  四月二十一日午前十一時すぎ、リベロンプレット市のブティック経営者は、二人の同胞の訪問を受けた。市内の|中華飯店《レストランチ・シネス》の主人が、サンパウロ市の花屋を連れて来たのである。 「やあやあ、商売の邪魔をして、済みませんなあ」  五十過ぎだが、がっしりとした体格で、いかにもエネルギッシュな中華飯店主人は、例によって大声の、北京語である。 「また来られたので、こんどは私が、お連れしましたよ」 「お忙しいところを、どうも……」  青いオープンシャツを、だらりと着た四十男は、|客家《ハツカ》語であいさつはしたが、あいかわらず陰険な顔である。こないだも人に道案内させながら、終始ぶすっと不機嫌だった。よくあれで、花屋のような稼業がつとまるものだ。 「まあまあ、お掛けください。ご覧のとおり閑古鳥が鳴いて、忙しいなんてもんじゃありませんよ」  レジのわきに、椅子を並べて招じたら、首を突き出すようなお辞儀をして、サンパウロの花屋はじろじろ店内を見回す。化粧品、リボン、スカーフ、ハンカチ、ブラウスなどの陳列棚を目で追って、坐るとき唇を尖らせながら尋ねた。 「おたく、何年ですか」 「この店?」 「儲かるでしょうな」 「いやいや、素人のやることですから。だいたい私は、こんな商売にむいていない。本職は、これで獣医でしてね」  説明しかけたが、こちらの福建語がよく通じないせいか、相手はくぼんだ目を、せわしなく動かしている。 「しかし先生、ここに坐って女性相手に商売するほうが、牛にでかい注射打つより、楽しいでしょうに」中華飯店のおやじが、ニヤニヤする。「女の子なら、べつな注射を喜ぶしねえ」 「おやおや、昼間から、何の話ですか」  このおやじから、中国人協会の会長を、うまいこと押しつけられたばかりに、虫の好かない客家人の、相手をしなきゃならない。  あれは三日前だった。午前八時ぐらいに、中華飯店から電話があって、サンパウロ市から来た同胞が、朱文仙なる男を探しているという。朱といえば、サンパウロ市の住人だが、井戸掘りを業として、リベロンプレットに事務所を持っている。ほんの顔見知り程度で、つきあいはない。それでも、訪ねて来た人間が居るとなると、案内してやらないわけにはいかぬ。電話では説明しにくいので、ちょっと待つように言って、中華飯店に着いたのが、今頃の時刻だったか。  しかし店内に、それらしい客は居ない。待たせすぎたので、しびれを切らして帰ったのかと思ったら、駐車場に居るという。  ——夜明け前から、停めていたらしい。中へ入って茶を飲むように言っても、ここでいいと動かないんです。どうやら連れは、日本人のようですよ。  おやじに言われて、横の駐車場へ行ってみると、クリーム色のシボレー・カラバンが停めてあり、運転席に花屋が居た。八気筒百二十馬力のカラバンは、六人乗り5ドアで、荷物が五百キロから八百キロ載せられる。GMと提携して、九十パーセント以上が国産であり、値段は十七万クルゼイロ。フォルクスワーゲンの、九万クルゼイロにくらべれば高いが、商売には欠かせないだろう。  ——朱さんを探してるそうですね?  ——そうなんです、井戸掘りの朱文仙に用があるのでね。怪しい者じゃありません。  カラバンから出て来て、花屋を営んでいるとだけ、自己紹介するのだった。  リベロンプレット市は人口三十五万で、サンパウロ、サントス、カンピーナスに次ぎ、サンパウロ州では四番目の都市であるが、中国人は十五家族にすぎない。サンパウロから三百キロの道を、このカラバンで飛ばして来て、中華飯店の看板を見て朝になるのを待っていたとか。なるほど確実な方法ではあるが、店が開いてせっかく茶をすすめられたのに、じっと車に閉じこもっているとは、遠慮ぶかい。だいたい客家人は、厚かましさが身上なのである。  ——後ろの人は、日本人?  ——アミーゴですよ。  仲間、友情、同志、兄弟……いろいろあてはめられる。便利なポルトゲイスだが、まあ、|朋友《ポンユウ》というところであろう。こだわらずに会釈したら、太いのと細いのが同時に頭を下げた。  さっそくカラバンに乗って、運転の花屋に道を教え、街の中心から離れた朱文仙の事務所へ向った。なにしろ花屋はぶすっとしているし、後部座席の日本人たちも、終始無言である。しかたなしに、こっちから話しかけ、リベロンプレットは、人口の五分の一が学生と教師の学園都市であり、こうして風景も美しいし、高層ビルも周囲に気をつかって建てられている。ゴミゴミしたサンパウロへなど、とても出て行く気がしない……というようなことをしゃべった。  ——はあ、なるほど、はあ。  そんな相槌だけなので、つまらなくなって、話すのをやめた。同じ民族でも言葉がちがい、福建語、北京語、客家語、広東語グループに分けられる。十数年前までは、ブラジルの台湾人というと、八十パーセント広東語グループだったが、今はほかのグループがふえた。生活のうえでも仕事のうえでも、共通する言葉の者同士が、深く結びつく。それは自然な傾向だとしても、客家グループは排他的であり、どうもつきあいにくい。  八キロほど走って、郊外の事務所に着いたが、かんじんの朱文仙は居ない。留守番の者は、サンパウロへ出ているという。花屋は「そんなはずはない」と、いつまでも首をかしげていたが、やがてあきらめて、帰って行ったのであった。 「どうでしたか、こんどは、朱さんに会えましたか?」 「いや、それが、朱さんは、ダメ」  何がダメなのか、やや攻撃的な口ぶりで、首を振ってみせる。そういえば、こないだ事務所へ案内させられたとき、いったい何の用件で訪ねたのか、この花屋はいっさい洩らしていない。 「それで先生、じつはね」  おやじが、|禿《は》げあがった額を撫でながら、身を乗りだすようにした。こんどは、わざわざ連れて来たのだから、なにかうまい話にでも、ありつこうというのか。 「こちら|鍾《ツオンギ》さんが、折入って相談があるそうなんですよ」 「ははあ、鍾さんね」  名前を聞くのは、これが初めてである。すると花屋は、亀が首を突き出すような|仕種《しぐさ》で、こちらの顔色をうかがう目つきなのだ。 「相談とおっしゃると?」 「買物なんです」 「ほうほう、買物ねえ」 「先生は、お顔が広いと聞きましたのでね」 「いやいや……」  とにかく、油断ならぬ印象である。中華飯店のおやじが、なにを吹きこんだのか知らないけれども、危ない橋は渡らないことにしている。 「私なんぞ、ただの使い走りです」 「これはまた、先生ともあろう方が、ご謙遜を。あっしらは、先生のおかげで、どれだけ助かっていることか」  おやじが、上っ張りをパタパタさせると、ニンニクの匂いが拡がる。困った癖だが、本人はサービスのつもりらしく、匂いがあればお茶請けが要らんでがしょう、とケロリとしているのだ。 「だから先生、ここで一肌脱いでやってくださいな」 「おやじさんにゃ、かなわないなあ。……それで、なんの話ですか?」  尋ねたら、 「秘密を守っていただきたいんですよ」  花屋が声をひそめた。 「………」  思わずこちらも息をのんで、表の通りを見た。昼休み直前とあって、ほとんど客は現われないが、なにぶんこの国では、台湾人が三人額を集めてひそひそやっていると、儲け話をしているとの偏見がある。 「しかし難しい話は困りますよ」  タバコの火をさがすふりをして、奥を覗いたら、幸い妻は居ない。もう危ない橋を渡らないでくれ……は、彼女の口癖なのだ。  リベロンプレットへ来たのは、一九六三年四月だった。もともとは、台北に本社のある啓台股有限公司に在籍して、市場調査のために、アルゼンチン、ペルー、ブラジルと回っているうちに、このリベロンプレットが気に入って、けっきょく住みついたのである。ここへ住むようになってからは、機械や化学製品、あるいは洋服などの輸出入にあたり、ブティックは妻の発案で始めた。 「先生は、ファゼンダを、持っておられるそうですね」 「いやいや、シャーカラですよ」  ははあ、土地の売買かと、察しがついた。ファゼンダは大農園、シャーカラは小農園と区別して呼ぶが、このばあい牧場も同様である。 「さっきも言いましたが、私は獣医の資格を持っていますのでね」 「はあ?」 「南アメリカは、牛の国です。せっかくだから、ブラジルで牧場を持とうと、大きな夢を抱いて、働いてきたわけです」 「はあ、なるほど、はあ」 「そこでコツコツ貯めて、何カ所かに、シャーカラを持っていますけどね」 「牛を飼っていらっしゃる?」 「はい」  牧場は、マット・グロッソ州に一つ、パラ州に三つある。週末には、軽飛行機をチャーターして、ファゼンダの見回りに行く。これは長いあいだの、夢だった。そもそも、ブラジルの市民階層にとって、都会のオフィスで働きながら、週末はファゼンダというのは、最高のステータス・シンボルなのである。 「ということは、鍾さんが土地を探していらっしゃる?」 「ええ、まあ」  どこか曖昧な返事だが、サンパウロ市の花屋ともなれば、けっこう貯めているのだろう。ふつう花屋といえば、日本人であり、アルゼンチンあたりでは、ほぼ市場を独占している。この陰険な小男も、いよいよファゼンダを持つのか。  ちょっとおもしろくないが、商売となれば、話は別である。 「で、どれくらいのものを?」 「そうですねえ」  ちらっと、中華飯店のおやじを見やりながら、言いよどんでいる。おやじは、上っ張りをパタパタやるのをやめて、耳を傾けている。そろそろ昼食で客がたてこむはずなのに、なかなか腰を上げないのは、口きき料でもあてにしているのだろう。 「こないだ新聞を読んでいたら、興味深い記事がありましてね」  やむなく、世間話で場をつなぐことにした。 「ブラジルの農地開発のネックになっているのは、なんといっても、大土地所有制度だそうですね。ラティフンディオと呼ばれる大地主が、全国に九千二百人。これがブラジルの全農地面積の、三十パーセントを占有している」 「どういうことかいね、先生?」 「一九七六年の農耕地統計によると、ブラジル全国に、農耕地所有者は、四百万人。この面積の合計が、四億九千万ヘクタールです」 「ははあ」 「農耕地所有者が、四百万人居るわけで、そのうちの一・七パーセントにあたる六万八千人が、二億五千五百万ヘクタールを占有しており、これは全耕地面積の五十二パーセントにあたります」 「ひでえもんだなあ、先生」 「しかし、この傾向は、ますます強まっている。これは企業が経営して、個人経営が減っているわけです。とくに外国企業が進出して、今のところ四百八十万ヘクタール。これはスイス一国に相当する面積だとか」  したがって、零細農家がますます圧迫されて、離農していく。農家としては、人手不足に悩まされているのであり、大統領の公約である〈農業優先で農産物を増加する〉とは、うらはらな現象なのである。  だがサンパウロの花屋は、そんな統計には、まるで関心がないらしい。 「どうでしょうか、このへんで、三万ドルくらいのファゼンダは、買えませんか」 「三万ドル……」  ちょっと、がっかりした。もう少し、大きな金額を予想していたのである。 「それは、ちょっと、サンパウロ州では、ムリですな」 「ムリですか?」 「はい」 「弱ったなあ」  つぶやく表情を見ていると、どうも本人が買うのではないらしい。さきほどの、「秘密を守っていただきたいんですよ」が、とっさに二人の日本人に結びついた。 「ひょっとすると、買いたがっているのは、こないだの日本人じゃないんですか?」 「ええ」  サンパウロ市の花屋は、初めて笑みを浮べた。バレたのなら仕様がない、とでも言いたげな表情である。 「それなら、私のところへ、来なくても、リベロンプレットには、立派な日本人会があるじゃありませんか」 「………」 「なぜでしょう?」  ことさら念を押したら、照れ笑いのまま、しきりに首をかしげて、「なぜでしょうねえ」と言った。 「日本人は、おそらく、六百家族くらい居るはずですよ」 「二百三十家族だったかな」中華飯店のおやじが、口をはさんだ。「たしかカメラ屋が、そんなふうに言っていましたよ」 「だからそれは、カメラ屋が日本人会長として、掌握している数字なんだよ」 「あ、そうか」 「半分以上は、加入していないと、聞きました」 「連中は、まとまりが悪いね。なんで日本人は、ああなのかな。あっしなんか見てて、ふしぎでしょうがない。店で顔を合せても、ぷいっと横を向くんです」 「そうそう、ふしぎだねえ」  リベロンプレット周辺は、太平洋戦争のあと、コーヒー園がふえて、さらにサトウキビが盛んになった。日系人は、初めのうち三十家族くらいだったというが、モジアナ線の列車に乗って、どんどん入って来たのである。日系人たちは、農業従事者とはかぎらず、肥料工場や製材所で働いたり、流通機構に影響力をもっている。パウリスタ高原の第一の都市であり、サンパウロ州におけるコーヒー生産の中心地だったが、ミナス・ジェライス州やゴヤス州への交通の分岐点でもあるので、農産物の集荷地として活況を呈してきた。これだけの古い町に、新しいファゼンダがころがっているはずはない。 「いやあ、それは、ちょっと……」 「なるほど、なにか事情がある?」 「そういうことです」 「ふーん」  頷いていると、花屋がそわそわして、今にも買主である日本人を呼びに行きかねない様子だったが、やがて思いきったように、切出した。 「このへんの土地が、高くて手が出ないのならば、どこか奥地でもいいですよ」 「私の牧場だって、遠いです」 「どこです?」 「パラ州ですよ」 「ほう、アマゾン……」  憂い顔が、一瞬パッと輝いたかに見えた。むしろ遠隔地が望ましいような表情なので、こちらも話がしやすくなった。 「どこのへんですか」 「ここから車で、三日かかるかな」 「三万ドルで買えますかね?」 「それはだいじょうぶ。あのへんなら、かなり広いのが手に入るでしょう」 「いいですね、案内していただけますか」 「いやあ」  さしあたって、自分の土地を売るつもりはない。だれか紹介するほかないのだが、車で片道三日の旅はきつい。軽飛行機なら、一泊の予定で往復出来るけれども、この花屋にそれだけのカネはないだろう。 「私は行けないけれども、世話してくれる人を紹介しましょう」 「どういう人ですか?」 「大地主ですよ。ファゼンダ・ザガリロといえば、だれでも知っている。……こっちへおいでなさい」  くぐり戸を開けて、住居のほうへ行き、食堂の壁に貼ってある、ブラジル全図を見せた。ソビエト、カナダ、中国に次いで、世界第四位の国土だそうだが、南アメリカ大陸の四十五パーセントを占めて、チリとエクアドルを除いた、すべての国と国境を接していることが分る。 「私が紹介しようとするのは、ここから北へまっすぐ、二千五百キロ。パラ州の、コンセイソン・ド・アラグアイアです」 「ほほう?」おやじは、ブラジル全図を見るのが初めてというような顔をする。「そんな町が、あったんですかい」 「私の友人ダビ・ザガリロ氏は、向うへしょっちゅう行くから、彼の自家用飛行機に便乗するけど、今はどこに居るか分らない。だから彼の現地支配人あての、紹介状を書きましょう」 「コンセイソン・ド・アラグアイア」  サンパウロの花屋は、ゆっくり読上げて、広大なアマゾンあたり、くぼんだ目で見渡している。 「やっぱり牛ですか?」 「そりゃ、牛にかぎる。私のファゼンダは、いま整地中ですが、ザガリロ氏のファゼンダはすでに何千頭と飼育しているから、きっと参考になるでしょう」 「だけど、遠いですねえ」 「ブラジルから北は、道が悪い。定期便がないわけじゃないから、あそこからは飛行機で行ったほうがいいでしょう」 「はあ、なるほど、はあ」  いつまでも、地図を眺めて、頷いている。その真剣な表情から察するに、まちがいなく男は、パラ州へ行くと思われた。 「ボアタルデ!」  若い女の声がして、そういえば昼休み時間である。それで急いで店に戻ったら、中華飯店主人も、あわてて表へ出た。しかしサンパウロの花屋は、なかなか出て来なかった。 [#改ページ]

   
11 刑事局長補佐  四月二十二日午前五時すぎ、ドップスの局長補佐が帰宅すると、マンション前に停っていた水色のフォードから、日本の新聞記者が降りてきた。 「お帰りなさい」  童顔をほころばせて、近づいてくるが、しきりに目をパチパチさせている。これは酔ったときの癖らしく、足もとがすこし、ふらついているようだ。 「ずっと待っていたんですよ」 「待ってくれと頼んだ憶えはないね」 「………」 「いい加減にしてほしい。ここは日本じゃない、ブラジルなんだ。いま何時だと思っている?」 「五時○七分かな」  腕時計を確めると、あいかわらず目をしばたたきながら、なんでもなさそうに言った。いつもならこちらも、冗談で応じるところだが、きょうばかりは、腹が立った。 「こんな時刻に、おれの住居の前に車なんか停めてると、予告なしにぶっ放されても、文句は言えないはずだぞ」 「そうされたら困るから、わざわざ正面へ停めている。テロリストは、こんなことはせんでしょう?」 「とにかく、おれは|睡《ねむ》いんだ」 「だいぶ飲んだようですな」 「知ったことか!」  怒鳴ったつもりだが、すこし舌がもつれた。ボアッチを、何軒も回って、飲み疲れたのである。くそいまいましい日本の悪党二人を追って、これで何日目だろう。いつも帰りは、こんな時刻なのだ。 「祝杯ですか?」 「………」 「二人が捕まったんじゃないかと、もっぱらの噂ですよ」  そうか、それで待っていたのか。昨夜あたりから、しきりに聞かれる。すでにドップスが、二人の身柄を拘束して、日本側へどう引渡すかを、検討中という噂なのである。 「リオに現われたっていうでしょう」 「さあ。リオのドップスに、聞いてみればいい」 「するとあれは、ガセ情報と思っていいんですな」 「そんなこと確めるために、待っていたの?」 「そうですよ」  あいかわらず、ていねいな言葉づかいだが、立ちふさがるようにして、タバコをくわえた。背恰好は、同じくらいだろう。互いに、あまり大きなほうではない。がさごそポケットをさぐっている相手のために、さっとライターで火を|点《つ》けてやった。  十七日だったか、ガルボンブエノ通りの日系旅行社へ現われて、百万円を両替したとき、「急いでリオへ行かねばならない」と洩らしていたという。ひとまずリオデジャネイロ州ドップスへも、連絡は入れておいたが、伝ってくるのは民間情報ばかりで、とうとう日本字新聞には、〈これが河畑?〉と写真まで載った。二十日午後六時すぎ、リオのポン・デ・アスーカル山の展望台に、手配の二人に似た日本人と、台湾人らしい男が居た。砂糖パンの形をした奇岩が、よほど気にいったのかニコニコしていた三人連れは、観光写真屋がカメラを構えて近づくと、さっと顔色を変えて立ち去った。たまたま居合せた日本字新聞の広告部員が、急いで追いかけて「どちらへ?」と尋ねたところ、「今夜日本へ帰る」という返事だった。そこへ写真屋が来て、ポラロイドカメラのスナップを売りつけようとしたが、逃げるようにケーブルカー乗場へ向う。広告部員はその写真を買うと、さりげなく同じケーブルカーで下り、三人が乗って行った車のナンバーを控えて、コスメ・ベーリョ街の総領事公邸に電話で知らせた。そして写真はサンパウロへ届けられ、大きく掲載されたところから、「二人の身柄を拘束」の噂になったのである。 「あれは、人ちがいですね」 「………」 「だいたい連中が、観光地でのんびりするはずがない」 「だけど写真は、似ていたね」 「ということは?」 「似ていたけど、人ちがいね」  つい笑ってしまった。通報のあった車のナンバーから、リオデジャネイロ州警察庁が割出したのは、日本の証券会社駐在員だった。さっそく事情を聞いたところ、確かにポン・デ・アスーカル山へ行ったが、本国からの出張者を案内したとのことである。その出張者が河畑に似ていたのであり、知人が佐和村にまちがえられ、駐在員は人相の悪い台湾人とあって、ずいぶん気を悪くしていた。 「これ、まちがいないよ」 「そうですか」  新聞記者は、タバコをふかしながら、頷いただけだった。民間情報は、サンパウロの東洋人街で飛び交って、十八日には佐和村に似た男が散髪に現われた。「肌荒れ疲れ果て/時間ばかり気にした/台湾製のワイシャツ/ボソボソ小さな声出す」といった記事になり、十九日には二人が鮨を食いに現われ、二十日には弁護士を紹介してくれと病院で尋ねたとか、そのたびに警察よりも報道陣のほうが、勇みたっている。 「ほんとうに連中は、サンパウロに居るんですかね?」 「………」 「ぼくはシバタさんにも会って来た」 「ふーん」  関心ないふりをしながらも、さすが鋭いものだと思う。科学警察の検屍官は、日系人であり、腐爛死体を扱わせると、ブラジル一の権威とされている。その検屍官を訪ねたのは、変死者が出たかどうかを、探るためなのだ。つまり二人は、〈台湾マフィア〉によって、すでに消された可能性がある……。 「なんだか、寝つきが悪そうだな。部屋でイッパイやるけど、つき合う?」 「いいですね」  ニッと笑って、新聞記者がタバコを放り投げると、闇に舞う火が総領事公邸の方角へ消えた。  在サンパウロ日本総領事が、反政府ゲリラ組織に誘拐されたのは、一九七〇年三月だった。帰宅途中に、機関銃を持った五人組に襲われ、|拉致《らち》されたのである。ゲリラ側の要求は、五人の政治犯の釈放で、その文書は有力紙『オ・エスタード・デ・サンパウロ紙』に届けられた。六九年九月には、リオデジャネイロでアメリカ大使が誘拐され、ゲリラ側の要求は政治犯の釈放だった。このときブラジル政府は、ただちに要求に応じたので、アメリカ大使は七十八時間後に、帰宅している。総領事が拉致された直後、日本政府は愛知外務大臣が駐日大使を呼んで、「生命の安全を第一に救出をはかってほしい」と申入れた。  ブラジル陸軍司令部は、サンパウロ第二軍団を動員して非常線を張り、ドップスは市内の捜索に集中した。誘拐したのは、学生を中心とする、VPR(人民革命前衛)である。この組織は、百人近い逮捕者を出しており、要求の五人を無事メキシコへ亡命させるのが条件だった。ブラジル政府は二日目、ゲリラ側の要求を容れて、五人の釈放とメキシコ亡命の保証、さらに残された政治犯に報復しないことを約束した。これはガラスタス・メジシ大統領が、司法・外交関係閣僚と緊急会議をひらいて、決定したのであった。  釈放する五人のなかには、二十五歳の日系人がふくまれていた。仲間がつけた渾名が、|日《ジ》|本《ヤ》|人野《ツ》|郎《ポ》であり、六九年にはアルジェリアに密航し、亡命中のブラジル共産党国会議員に会い、組織再建の命令を受けて帰国したといわれる。このジャッポは、日系人有力者の息子だが、大学で自治会活動をしているうちに、政治組織入りした。六八、九年代は学生運動がピークであり、警察・軍隊とバリケードをはさんで|対峙《たいじ》し、激しい銃撃戦が展開された。そのような情勢のなかで、ゲリラとして生き抜いている日系人は、二十人前後だった。  総領事誘拐から三日後に、二十五歳の日系二世をふくむ五人の政治犯は、政治犯刑務所からコンゴニアス空港へ向い、ブラジル政府のチャーター機でメキシコへ発った。このときジャッポは、逮捕いらい十六日間の取調べにより、自分で歩くことが出来なかったが、「必ず帰って来て復讐する」と叫んだ。こちらはドップス入りして間がない時期で、尋問に手心を加えたのが悔まれた。「帰って来てみろ生かしちゃおかんぞ」とやり返して、北へ飛んで行くカラベル機を見送ったのが、きのうのことのように思い出される。  やがて総領事は、九十八時間ぶりに帰還した。サンパウロ市西南の住宅街から、タクシーで帰ったのだが、警察と軍は工場地帯のバラフンダ区を包囲していたので、誘拐犯逮捕はならなかった。公邸に帰った総領事が、「今回の事件は非常に不幸なことであるが、このことによって日本とブラジルの友好関係にヒビが生じるとは思わない、今後より深い結びつきに努力したい」との声明を発表している頃、日本の大阪では〈進歩と調和〉がテーマの万国博覧会の一般公開第一日目の入場者が、予想をはるか下回る二十七万人にすぎないと発表されていた。 「静かにね」  七階でエレベーターを降りて、部屋の合カギでドアを開けたら、妻が自動小銃をかかえて立っていた。 「どうした?」 「だって表で……」 「だいじょうぶ、テロリストじゃない、新聞記者ね」  振り向いたら、廊下の新聞記者は、バツの悪そうな表情で、目をパチパチさせていた。ネグリジェ姿の二十八歳の妻は、二人目の赤ん坊が生まれる直前なのだ。 「君は寝てなさい、彼はすぐ帰る。こうしなければ、一日が終らんらしい」 「ご苦労さま」  関西弁の妻が、銃をかかえたまま、あいさつした。一九七五年に、日本へ研修に行ったとき、大阪で見合いして、こちらに迎えた。万国博のときは、コンパニオンをつとめたとかで、地球の反対側まで嫁ぐことに、こだわりを持った様子ではない。 「いやあ、どうも……」  新聞記者が部屋に上ると、妻は銃をテーブルに置いて、 「それじゃ、休ませてもらいます」  精一杯の笑顔で引込んだ。 「はははは、日本人の奥さんは、仕事に理解があるから、助かるね」 「そうかもしれないなあ」 「ん? あんたとこは、理解ないのか」 「あるある、大あり……」  目をパチパチさせると、さすがにすぐ帰るつもりらしく、ソファに浅く掛けて、切口上風になった。 「ほんとに、まだ逮捕してない?」 「ノー。逮捕ないね」 「所在確認は?」 「………」  ウイスキーを注ぎながら、無言で首を振った。この際は、逮捕も所在確認も、同じことだった。厳密にいえば、外国人がブラジルの国内法に抵触しないかぎり、それが逃亡犯であっても、逮捕することは出来ない。今回の二人は、日本政府発行の正式旅券を所持し、パラグアイ政府発行の永住権を明記した身分証明書で、ブラジルへ入国したのである。この証明書があれば、陸路ならどの国へでも、行くことが出来る。在アスンシオンのブラジル大使館は、観光ビザを発行しているし、さしあたって何ら問題はない。ICPOを通じての手配は、あくまでも所在確認の依頼であり、引渡し条約がない国から、仮に逮捕をいわれても、応じるわけにはいかないのだ。  ブラジルへ逃込んだ、日本人犯罪者といえば、一九六五年に強制送還した、業務上横領の青年の例があるくらいだろう。これは一九六四年十月に、東京の化成会社の二十二歳の経理事務員が、会社のカネを二千二百万円も横領して、サンパウロへやって来た。サンパウロでは豪遊して、日本へ連絡をとったりするものだから、所在が分って外務省ルートで、送還の依頼が来た。警察が調べたところ、青年はカネを使い果していた。いま二千万円で騒いでいるのだから、当時はよほど巨額だったろう。  どのように消費したのか分らないが、とにかく無一文である。本人は「帰国してもいい」と言うし、日本領事館としては、会社が船賃を負担する条件で、正月に発つ船に乗せたから、横浜港に着いて逮捕されたとか。このばあい国家間に、なんの問題も生じていない。  一九六七年二月に、ペルーへ逃込んだのは、沖縄の琉球銀行小切手偽造事件の主犯二人で、移住地の知合いのところに潜伏していた。このときは、琉球警察の意を受けた日本の警察庁が、ICPOを通じて国際手配した。連絡を受けたペルーの警察は、二人の所在を確認して、リマの日本大使館に出頭させ、大使館員が帰国を説得して飛行機に乗せている。  しかし今回の手配は、殺人事件の被疑者であり、日本の刑法で〈死刑もしくは三年以上の懲役〉と定められていることだし、説得は容易でないと思われる。  そこでブラジルの警察としては、所在の確認をした段階で、日本政府が旅券を失効させるのを待つことを提案した。すると適法でない旅券を持つ好ましくない外人として、逮捕・国外追放出来る。ところが、日本では旅券法の立法過程で、警察目的ではこの方法を用いないとの、条件がつけられているという。したがって可能なのは、「日本の体面を著しく汚した」として、外務省が返納命令を出すことだが、この命令に強制力があるのかないのか……。  どうも日本側のやりかたは、曖昧ではっきりしない。犯人引渡し条約がなくとも、相互主義にもとづきなんとかしてくれるだろうと、たかをくくっているフシがある。こういうのが日本の|諺《ことわざ》で、他人のフンドシでスモウをとる、であると妻に教わった。 「サンパウロからは、出ていない?」 「そう願いたいね」 「確認出来ないわけですか」 「それが分れば、捕えてるよ」 「参ったなあ」  いっそう、目をパチパチさせ、新聞記者は唇を噛んだ。ドップスがすでに所在を確認して、逮捕は時間の問題と見ていたらしい。 「どこかほかの国へ逃げたのかな?」 「その可能性もある」 「おやおや……」  これまでの記者会見で、強気の発言をしたのはだれかと、言いたいのかもしれない。確かに、本名のパスポートを使って宿泊するなど、あまりにも間の抜けたやりかたを見て、甘く考えたような気もする。ドップスの刑事を四十人も専従させ、軍警のパトロールを強化したことで、一気に解決出来ると思ったのだが、なかなかそうはいかないことが分った。 「で、捕えたら、日本側へすぐ渡しますか」 「いや渡さない」 「えっ?」 「国外追放にするだろうね。そこが空港ならば、居合せた日本の官憲が捕まえるのは、勝手だよ」 「追放の理由は?」 「捜査上の秘密だから、言えないね」 「………」  新聞記者は、ムッとした表情になった。これでは共同記者会見と、変りはない。いかにして捕えた二人を日本側に引渡すか、そのへんの手順を確めるように、東京からの電話で催促されているのだろう。 「国家安全保障令?」 「ふーん」 「あれは“社会の秩序を乱した罪”だから、幅広く適用出来る。ドップスは、令状なしでも引っ張っているでしょう」 「そんなところかもしれないね」  そろそろ、|睡《ねむ》らねばならない。ほんの二、三時間寝たら、出勤する。おそらく二人を捕えるまで、この繰返しなのだろう。 「ただし国外追放のとき、条件をつけるね」 「日本に対して?」 「そう」 「………」 「ブラジルの刑法に、死刑はないからね。死刑廃止の国が、死刑のある国へ、わざわざ行かせるのはおかしい」 「なるほど」 「だから死刑にしない条件つける」 「そういえば、国際的慣習になっているらしいですな」  ようやく新聞記者が、腰を上げた。彼もまた、これから帰って二、三時間の睡眠で、働きはじめるのだろう。 「じゃあ、帰りましょう。奥さんには、悪いことをしました」 「それはいいけど、日本の新聞記者は、働きすぎとちがう?」 「どうかなあ」 「はははは、また、ボアッチで会いましょう」  握手をして送り出したら、新聞記者がポケットから新聞を取り出して渡した。 「どうぞ」  さっき待っているあいだ、読んでいたらしい。さすがに手に入れるのが早い、きょうの朝刊なのである。 【4月22日=オ・エスタード・デ・サンパウロ紙】   黄色地区のミステリー  サンパウロ市の中心に位置し、黄色地区とも呼ばれるリベルダーデ地区には、数々のミステリーがある。マージャン(竜の戦い)を打つテーブルでは、黄色の肌とクルミの実に似た目の男たちが、ほとんどいつものように、密輸やヘロインの取引き、売春やギャンブルについて討論している。  リベルダーデ大通りには、一日に日本人が一万人強、台湾人が二千人、韓国人が五千人、そしてベトナム人が通る。そのほとんどが住人ではなく、買物や食事のため、あるいは映画見物や病院行きであり、むろんこの地区での仕事のための人も居る。  警察は数年前まで、ショバ代を取り立てていた日本人や台湾人たちに、頭を痛めていた。タツキ・ワタナベ、サトシ・マツビ、そしてノリタケ兄弟たちは、日本の大阪から密入国していた。彼らは、ナイトクラブ、商店、ギャンブル・クラブでショバ代を徴収するようになった。商人が払いを拒否すると、店をすぐに荒らす。それでも拒否し続けると、家族の者たちを殺すと脅していたが、日系コロニアが一体となって警察へ訴え出たことにより、逮捕された。  黄色地区と呼ばれる所では、日本人たちがバクチをする秘密クラブが、約三十カ所ある。そこで動くカネは、韓国人、日本人、台湾人がコントロールしており、すべてのレストラン、ナイトクラブ、スナック、ホテル等を動くカネの総額より上回る。  日本人、韓国人、台湾人たちは分裂し、行動を共にすることはない。しかし秘密組織の者は、例外であり、どこにでも出入りが可能である。特に台湾人が多いギャンブル・クラブは、奇異な印象を与える。翻訳にはない、HAI BENというグループは、互いに信頼しあっている。彼らは夜通しバクチを打ち、多額のカネを動かす。  ギャンブルや密輸は、台湾人たちにとっては、罪ではないと思われている。逃げることの出来ない運命を歩く一つの方法が、ギャンブルなのである。人によっては、どうすることもならぬ宿命という意味になり、バクチを打っていると何も起らないと信じている。また密輸について、一部の台湾人は、自然の商売だという。  リベルダーデ地区の、夜の世界は、強烈である。日本人は外部との交流がないと思われ、仲間内だけでたくさん飲み、一般的に陽気になる。たいていの日本人は、ダンスはしないで、ひたすら飲んでしゃべり、店に集まる女性を誘い出したりする。  ここ数年のあいだ、韓国人の数が、非常に多くなった。リベルダーデ地区とグリセリオに、一万五千人ぐらい住んでいて、商店や衣類の工場で働いている。開業医を中心に、在ブラジル韓国人協会を設立しているが、悪党たちは、ヘロインの取引きやアクセサリーの密輸を商売にしている。リベルダーデの八百屋を支配していた日本人は、韓国人やベトナム人に、おびやかされねばならない。ガルボンブエノ街は、いちばん多く商取引きのあるところだが、菓子屋も韓国人がとりしきるようになった。警察によると、ここに来た韓国人たちは、祖国でもまともな状態ではなかったらしい。  悪党と呼ばれてはいるが、台湾人たちは、一見したところ、おとなしい。とてもスマートで優しく、気がきいており、ほとんど犯罪人には見えない。その点、日本人の悪党ならば、目につくような派手な服装をして、流行語をしゃべり権力を見せ、警察の手を焼かせる。警察によると、麻薬利権の争いでは、日本人ははずされており、ただの買い手にすぎない。アヘンとヘロインは、秘密ギャンブル・クラブか、アパートで手に入れることが出来る。麻薬中毒の患者は、台湾人に多くみられ、覚醒剤はシンガポールのオランダ系の船で、台湾人が運んでくる。  ヘロインは、三種類に分類される。白いのは、効きめが遅い。茶色は、強烈である。そして最近よく市場に出る紫色のものは、韓国から流れて来る。ヘロインは、一オンス(二八・三五グラム)千五百ドルで売られている。二分の一オンスは、六十分の一に分けられ、小箱に入れられる。その小箱が、八百クルゼイロで売られている。一オンスは、取引きする人に二千ドルの利益を与え、アメリカの乳糖を混ぜたときには、十倍の値段をつけてもいい。台湾人と韓国人は、自分たちのネットワークを持っている。 [#改ページ]

   
12 マラプアーマ  四月二十四日午後三時すぎ、シボレー・カラバンは、突然のスコールに、道を見失った。地平線の彼方の黒い雲が、|閃光《せんこう》と共にたちまち上空を覆い、激しい雨になった。構わずにライトを点けて、高原の道を走っていたら、一面の濁流で、川へ突っこんだかのようなのだ。  リベロンプレットを発ったのが、前日の午前六時だった。首都ブラジリアを通り過ぎ、日暮れ前に着いた小さな町のオスペダリアに泊り、二日目もまた早く出た。起伏はあるが、ほとんど一直線の道は、ブラジリアとアマゾン河口のベレンを結ぶ、幹線国道のはずだった。それがいつの間にか、舗装が途切れて、赤土の道を|砂塵《さじん》を|捲《ま》き上げながら、走っていたのである。 「たまげたね」  河畑は後部シートに、あぐらをかいた。そろそろ乾期で、ブラジル中央高原北部は、半ば砂漠だと聞かされていた。それが突然の、濁流である。雑木の原生林そのものが、湿原に変ったかに見える。 「これがアマゾンだいね、佐和村よ」 「まだ、アマゾンとは、ちがうんでないの。ゴイアス州だもんね」  左側の窓ガラスに額を押し当てたまま、長旅の道連れは、ぼそっと答えた。リベロンプレットの獣医が呉れた地図は、小さくて物足りない。おまけにブラジルの文字だから、ざっと眺めただけだが、彼はしげしげ観察しているのだった。 「弟さん、すこしバックするか」  運転席に声をかけたら、ハンドルを胸に当てて、じいっと前方を見ている。濁流は枯枝を集めて、渦巻いているが、ゆるやかな坂を下っていたところなので、車そのものが浸る心配はないのかもしれない。 「それとも、このまま様子を見るかな」 「………」 「うん、長くは降らんだろう」  口をききたくない者に、話しかけてみてもはじまらない。ふたたび窓の外へ目を向けたら、雨足はますます強くなっており、泥水が音をたてて流れるのが分る。いったいどうなるのか、不安が|過《よぎ》ったけれども、あとの二人は無言なのだ。こっちばかりが、べらべら喋ったのでは、迎合しているように、受取られかねない。ひょいと後ろに手を伸ばし、酒瓶を取った。ウイスキー瓶に、薬効のある木の根を詰めて、ピンガで漬けている。  これはガルボンブエノ通りの、みやげ物屋で買ったのだ。昼間からの酒は、以前から慎んでいる。人間がだらしなく見えるだけでなく、実際に仕事に支障が生じるからだが、これは薬酒なのだ。日に三度ならば、どうということはない。それに量をたくさん飲めるものではない、せいぜい瓶のキャップ三杯といったところだろう。コーヒー同様たっぷり砂糖が入っていて、甘ったるいのだ。  三杯目を舌に転がしていたら、バックミラー越しに、奥目が光っている。 「弟さん、やる?」 「ちょっとだけね」 「いいとも、どんどん、元気つけるだいね」  渡したら、前へ向き直って、震える手でキャップに注いでいる。瓶に口をつけたって構わないのにと思ったが、わざわざ言うこともないので、黙って効能書を読んだ。 《霊薬マラプアーマ》  アマゾン河中流に住む、女だけのアマゾナス部族は、子供の欲しい時には他の部族と戦って男を捕虜とし、この男と交って生まれたのが男なら殺し、女だけを育てて戦士にしていた。ところがこうして、国中に女が次第にふえるに従い、困ったことが起きてきた。捕えた男の体がもたないのである。なにしろ|僅《わず》か五、六人の捕虜に、数百数千の|餓狼《がろう》のような女が襲いかかるのだから、たまったものではない。いかに強壮な男でも三日ともたず、鶏のガラのようになって死んでしまう。アマゾナスの女王は、すっかり考えこんでしまった。そこへあらわれたのが、部族の女|呪術師《じゆじゆつし》である。呪術師は女王に、霊薬マラプアーマを使うことを教えた。よろこんだ女王は部下に命じ、マラプアーマの根を探させ、呪術師の教えに従って霊薬を調合、これを捕虜の男に飲ませてみた。するとヘトヘトに疲れていた男はたちまち元気|旺盛《おうせい》にして、隆々と|萎《な》えることを知らず、あまたの女群を相手に無事おつとめを果すことができた。  マラプアーマは、アマゾンのインディオが何千年に|亙《わた》って使用してきた、無害の|催淫薬《さいいんやく》で、原木はボロボロノキ科に属する灌木である。効能は四十歳以上の性欲減退、肩凝り、神経痛、虚弱、病後の回復に効く。特に高年齢になるほど、効果はハッキリする。治験例によると、男性にもよく効くが、女性は男性以上に効果を示す場合が多い。産出はアマゾン中・下流のジャングル。栽培皆無のため、産出量はごく少なく、取引きは偽物の混入をふせぐため、根のままでおこなわれるのが普通である。用法は、アルコール度数の高い酒でエキスを抽出するが、長く漬けるほど良い。一日の用量は酒のままで五、六十ミリリットルで連用も可。  何度読んでも、楽しいのである。これまで迷信は受付けず、宗教などもってのほか。しかし自然食や漢方薬となると、信じたくなるのだ。 「弟さん、どう?」 「すぐ終るね」  マラプアーマが舌に馴染むかどうかを聞いたのだが、鍾金全は北の空が明るくなったと、ホッとした表情である。なるほど雨足がみるみる衰えて、ほんの五、六分間のスコールであった。 「たまげたね」  雨が上がると、みるみる雲が、薄くなっていった。振向くと南の空には、黒い怪鳥が翼をひろげたような、低い雲だった。二十年来ずっと運転手として、日本国内を走り回って来たけれども、こんな雨は、経験したことがない。 「一時は、どうなることかと思うたぞな」  窓を開けたら、一瞬の冷気だったが、すぐに生あたたかい風に変った。濁流はやんで、水浸しの道路に浮いているのは、枯木のほかに草や枯葉、それに小動物の|死骸《しがい》などである。いったい、どういう具合なのか、ドアを開けて、サンダルをはかずに外へ出てみたら、つるっと足が滑って転倒した。 「わあっ」  叫びながらのかばい手が、また滑って、仰向けに倒れた。その昔の田植えどき、苗を|天秤《てんびん》で運んでいて、|畦道《あぜみち》で足を踏みはずした記憶が、ふと|甦《よみがえ》った。泥田にいったん転んでしまえば、あとは緊張も解けて、どうということはない。路面の水は、|踵《かかと》の高さほどのものであるし、河畑は上を向いたまま、大声で笑った。 「わしゃ、アマゾンの、ひき蛙だいね」 「頭は打たんかった?」  佐和村が降りかけたら、ずずっと車が五、六十センチ滑った。頭を打っても、ぬかるみである。髪が粘っこいものに漬っただけのことだから、笑いながら佐和村の手につかまって、体を起した。 「いやあ、参った、参った」  ふたたび足を取られそうになったので、その場に坐りこんだ。どうせ車は、しばらく動けないだろう。水が引いても、道路に残る枯木の類いを、いかに片付けるかだ。強引に進んで、故障でもおこしたら、一大事である。この悪路を、まだ千五百キロ余り、走らねばならない。 「行けるかな?」  最後に降りた鍾が、腕組みをしながら、前方を見やった。奥目にたたえている、あの異様な光は、なにかを見つめるとき、どのように作用するのだろう。何日か前、つい口に出したら、当人はしごく真面目に答えた。  ——暗い道を歩くとき光がなければ困るね。しかし我々いわく、皆んないわく、暗い道を歩くと、いつかは鬼に出遇う、と。  あとから、出遇った鬼というのは、自分たちのことかもしれぬと思ったが、あらためて問うことはしなかった。ただ彼のいう、暗い道を照らす光がどこから発するのか、そのうち聞いてみたい気がする。 「のんびり行くさ、旅は長い。わっはっは、釣竿でも出すかね、国道で何か釣れるんでないの、うん」  だが二人は、いっこうに話に乗ってこない。もともと口数の少ない佐和村はともかく、この花屋は、鍾三兄弟のうち、いちばんの話好きなのだ。いつも不機嫌な顔で、ニコリともしないところが、かえっておもしろい。目ざすアマゾンの町についても、獣医から仕入れた情報を、さっそく噛みくだいて解説してくれたものだった。  ——ブラジルの地図をひろげて、真ん中に鉛筆を立てると、そこがパラ州のコンセイソン・ド・アラグアイアね。大きな森の意味のマット・グロッソ州の北で、ゴイアス州との境を流れているのが、アラグアイア河。このアラグアイア河は、ブラジルで九番目だから、たいしたことないけど、長さが二千六百キロ。流れを下ると、アマゾン支流のトカチンス河につながって、河口のベレンに出るよ。コンセイソン・ド・アラグアイアは、昔はダイヤモンドの町だった。漁師が石ころ拾って、河へ投げようとしたら、それ三カラットのダイヤで、大牧場主になった。ブラジルのダイヤモンドは、山から雨に流されて、土砂といっしょに転がってくるから、河に沈んでるね。だけど今は、ダイヤは少なくなって、牧場がたくさんある。町には牧童が集まって、アメリカの西部劇みたい。その荒くれ男相手に、売春婦がたくさんね。いつもピストル騒ぎで、人が殺されるの珍しくない。……コンセイソン・ド・アラグアイアは、ブラジルの秘境。なぜならば、アマゾンの交通は河口から船で上るけど、ベレンからトカチンス河行って、アラグアイア河に入ると、途中に滝があるから、そこまでしか船が行けない。道路なんか、あってもないのと同じで、雨期になると通れない。乾期になると、そこは木がたくさん生えてるから、また伐り倒して道にしなければダメね。苦労して車で行きたくなかったら、飛行機だけど、定期便はブラジリアからベレン行きの、各駅停車のプロペラ機が、週に一回か二回だけよ。この飛行機も、雨期には飛べないから、ほんと陸の孤島で、昔から犯罪者の逃亡先なの。まだ捕まった者は、居ないというから安心ね。  犯罪者が逃込んで、まだ捕まった者が居ないと、獣医がことさら言ったのならば、こちらの事情を承知のうえなのだろう。なにしろサンパウロがいけなかった、日本の警察からの連絡が、あんなに早かったのも、日系人が集中しているからだ。そこへくると、アマゾンはちがう。ペルーの海抜四千メートルあたり、アンデス山脈の雪どけ水を源に、大西洋に注ぐ全長五千六百キロの大河で、流域面積は世界一である。河幅はペルーとブラジル国境で二・八キロ、中流のマナウスで六キロ、河口はなんと三百三十五キロ。この広大なアマゾンならば、いくらでも身を潜める場所はある。 「道なき道を踏み越えるのが男。うん、のんびりしても居られんか」  両側から流れこむ泥水も、やがて細い流れになり、路面の水もたちまち引いて、おびただしい量の木や草が残っただけである。シボレー・カラバンの前方に、二十メートルほどの樹木が、遮断機のように横たわっている。まだ青い葉をつけているのに、なぜ根こそぎ倒れて流れて来たのか。 「よっしゃ、見とれよ」  立上ると、泥水がしたたるが、もう足を滑らすような、みっともない姿はさらさないぞ……。後部荷台から、山刀を取出すやいなや、頭上にふりかざすと、思いつくかぎり吠えた。 「うおーっ。があーっ。くえーっ」  あっけにとられている二人には、目もくれずに、努めて大股に滑りやすい道を行くと、真ん中あたりめがけて、ふりおろした。高原の原生林は小灌木だが、ところどころ、ひょろりと伸びている高い樹だった。刃渡り三十センチ余りの山刀は、厚い表皮にわずかにくいこんだだけなので、こんどは角度を変えて小刻みにコツコツ打ちこんだ。V字型に切って行き、重量をかければ、真二つに折れるはずである。 「よしなさいよ、そんな……」  跨いで向うに立った佐和村が、苦笑して見おろしている。 「かかえて道ばたにおけば、それで済むだに」 「なんだと、この野郎!」  ふりかざして刃を向けたら、反射的に半歩退いたが、ちょっと小鼻をふくらませただけで、たじろぐでもない。それで余計に、腹が立った。 「かかあを寝取られた男が、偉そうな口きくもんだ。いつから、わしに命令する立場になっただい、ん?」 「………」 「ぐずぐずしとらんで、おまえも片付けるんだよ、あっち」 「分ったよ」  ぷいっと横を向くとき、形の良い小鼻がまたふくらんで、人の気持を測るときの、あいつの癖なのである。  あのときも佐和村は、「よしなさいよ、そんな……」と言ったように思う。コンニャク屋を殺したものの、保険金がなかなかおりない、組長は手数料を払えとせきたてる、会社は不渡りを出しかけていた。だれに保険をかけるかの相談をふくめて、もういちど組の連中をあてにしようとしていたら、どう察したのか、暴力団には|与《くみ》しないほうがいいと、注意したのである。おまえ何を言いたいんだ。何をって保険金取るのはいいが余計な手数をかけちゃだめだ。急に驚かせるもんだね。あんたでも驚くのか。おまえが変なこと言うからよ。いやあ合理的にやるべきだと思ってね。どんなふうにしろというの。人なんか使わずに|機械《メカ》をいじるとかね。それだけじゃ分らんなあ。おれが整備士であること忘れたかな。そういえば資格を持っていたね。だからブレーキに細工するとかさ。悪い奴だな身内を殺すつもりか。そうなるかなあ。しかし着眼点は良いぞ。団体保険なら怪しまれないからね。それもそうだやな。用があるときは言うてちょうだい。なんぼ要るだいね。そんなのいいよ。おまえ変な男だやなあ。これで会社のためを思っているからさ。わし見直したよ。  その常務が細い体を、弓のようにしならせながら、道路上の障害物を片付けている。おかしな男でたったいま、ネズミの死骸まで拾って、ポーンと放ったが、あんなもの、気味がわるいったらありゃしない。どういうわけか佐和村ときたら、ボクちゃんを海に沈めたときも、顔色ひとつ変えず、照れ笑いを浮べていただけだ。メカに強いはずが、彼の細工は事前に運転手に発見されたりして、ほとんど実効がなかった。深夜の上り便が営業所を出てまもなく、スタンドで給油するためブレーキをかけたが効かずに、事務所へ突っこんで補償させられたのは、ブレーキパイプのジョイントがゆるんで、オイルが流出していたからである。会社の車が他人に損害を与えたのでは、逆効果だからやめさせて、いちばん確実な方法をとったときは、「社長にはかなわない」とシャッポを脱ぎ、積極的に働いた。いくぶん発育おくれで、渾名がボクちゃんの運転助手は、断末魔のあがきで常務を引きずりこんだ。そのためかなり水をのんで、ゴボゴボやっていたけれども、「爪を切らしといてよかったじゃ」と、帰りの車で鏡を見ながらつぶやいていた。確かに計画のとき、ボクちゃんの爪を、両手両足ともに切らせておくよう言ったのは、常務だった。あれは発覚を恐れたというより、自慢の顔を裂かれるのを警戒したにちがいない。 「よっしゃ、出来たじゃ」  山刀を置いて、気合いをかけて幹を踏んだら、うまく折れた。いつのまにか熱い日射しで、汗が噴き出して、肌の泥を洗い流している。二つに折れた樹を、腰を入れて目より高く持上げて|抛《ほう》ったら、花屋が手を叩きながらやって来た。 「マラプアーマすごいね」 「ふん」  こんなものは軽い、四十になった今でも、足腰はしっかりしているつもりだ。中学生の頃は、山林伐採の日雇いにも行った。あれは運搬がきつい、肩にかついで急斜面を下るときは、山全体の重量がかかるかのようだ。いかに老練な仕事師でも、技でかつぐことは出来ない、若い力そのものが必要である。その力は衰えたにしても、十三歳から労働で鍛えた体は、まだまだこれから、動かし続けるつもりである。 「これファッコンね」  山刀を拾い上げた花屋が、刃を指に当てながら言った。 「だけどアマゾンへ行くと、テルサーダ」 「呼びかたが変る?」 「アラグアイア河を渡ると、ファッコンがテルサーダになるね」 「ふーん」 「行くか、社長さん。夜になったら、山賊が出るよ」 「わっはっは、矢でも鉄砲でも、持って来やがれ」  受取った山刀を振ったら、ビュンと空気を切り裂く音がした。その音が聞えたのか、あらかた片付け終えた佐和村が、こっちを向いて白い歯を見せた。 「おーい、船が出るぞォ」  まさに小舟で、大海原へ漕ぎ出す思いで、ファッコンをふりたてて呼んだ。  シボレー・カラバンは、ブラジル中央高原を、ひた走りに走った。原生林を拓いた一直線の道は、軍隊を動員しての、国家的事業なのだが、未だに交通の難所なのである。標高一千メートルの高原は、海に向っては急斜面をもって下り、内陸に向ってはゆるい傾斜となり、アマゾン低地へと下ってゆく。砂岩、石灰岩、火山岩などの|堆積層《たいせきそう》であり、これが地表よりも急角度で傾いているため、地層の切口が露出する|崖《がけ》がところどころ見られる。粘板岩など侵食に弱い部分は、どんどん流されてゆき、堅い玄武岩や白亜系の砂岩は、侵食にさからって突き出し、長い急崖を作る。ケスタと呼ばれる急崖は、高原の背骨のように長い|稜線《りようせん》となって連なり、一直線の道路に立ちふさがるのである。  アマゾンに近づくにつれ、これら起伏は少なくなる。ゴイヤス州の北部平原は、水はけがよい地帯なので、河川の影響を受けず、雨期が去ると半乾燥地帯の、砂漠となるのである。この広大な砂漠にさしかかると、熱帯の暑さがいかに苛酷なものであるかを、思い知らされる。シボレー・カラバンには、リベロンプレットの獣医の忠告で、ガソリンと水は可能なかぎり積みこんでいるが、その水が不足しはじめたころトカチンス川に出遇い、ここから密林地帯がはじまるのだった。 「そろそろ、パラ州に入るはずだね」  リベロンプレットを出て、四日目にさしかかった。途中ときどき交替したけれども、砂漠地帯を走るときは、花屋でなければ、つとまらないのだった。それは単に運転技術の問題でなく、ハンドルを右へ切るか左へ切るかのとっさの選択が、日本からの旅人には出来ない。さほど強い体力とも見受けられないが、小男の花屋は、どこか動物的な勘の|冴《さ》えで、難所を乗切ったのである。 「もう野宿は、懲り懲りだいね」  ぐったりした体を、車の震動にまかせながら、しかしこの旅に、どこかウキウキしていた。目的地が遠く、その旅が困難であればあるほど、追及から逃れている実感がある。宿屋に泊ったのは、最初の夜だけで、あとは車の中で寝て、夜明けを待った。むし暑さにたまりかねて外へ出れば、たちまちブヨやアリの攻撃に身をさらさねばならないからだ。 「久しぶりに今夜は、まともなフトンに寝れるだに。なあ、佐和村よ」 「………」  隣りに居る道連れは、この旅の後半になって、妙な癖がついた。荒海のさなかに漕ぎ出した小舟のように、大揺れに揺れる車内で、熱心に本を読んでいるのである。カバンの中から取出した本は、女たらしに似つかわしくないむつかしげな題名で、『歎異抄』なのだった。〈現実は末法の世、人間は罪と悪をはなれがたく、ひとを傷つけずには生きられない。この現実をありのままに直視し、いかにしてこの末法の世から自分を解き放つか……〉と表紙にあり、|親鸞《しんらん》について書いた本なのだ。女をひっかけるために、むつかしげな本を車内に置くのは、佐和村のよく使う術と聞いていたが、実際に読むとは思わなかった。 「やっぱり、大学中退は、ちがうじゃあ、うん」  笑ったら、相手は切れ長な目で、ちらっとこっちを見たが、小鼻をふくらませることをせずに、すぐまた本に戻った。考えてみれば、おかしな男ではある。豊川市の高校を卒業して、中京大学経済学部へ進んで二年目に中退し、トラック運転手になった。その経歴は、ずっと後になって知ったのであり、梱包会社で出合ったとき、コツコツ地味な仕事ぶりの、愚直な男に見えただけなのだ。 「ん?」  ふと床に落ちている、紙片に気づいた。拾い上げてみると、常務の字で、『歎異抄』にはさんでいたのが落ちたのだろう。|便箋《びんせん》一枚に書かれた、こんどの旅の日程メモなのだった。  三月十九日 大阪空港発——台北着  四月一日 台北発  四月二日 パラグアイ着  四月八日 パラグアイ発——イグアスの滝着  四月九日 イグアスの滝発——サンパウロ着  四月十八日 サンパウロ発——リベロンプレット——サンパウロ着  四月二十一日 サンパウロ発——リベロンプレット着  四月二十三日 リベロンプレット発——コンセイソン・ド・アラグアイア?  こう書かれてしまうと、なんでもない旅になるが、これでけっこう、大変だったのだ。三月十九日の台湾行きは、ほんとうに、あわただしかった。警察の動きは、薄々わかってはいたが、せいぜい老いぼれペテン師どまりで、たいしたことはない。たかをくくっていたら、三月十七日の新聞に、でかでかと書かれた。「愛知の会社社長、保険金殺人の疑惑/株券偽造主犯もらす/五千万円加人のあと“飯田で殺されかかる”/三人の交通死、焼死にも」「交通事故偽装殺人未遂事件/組員二人に逮捕状/長野の犯行は豊橋の暴力団/保険金が目当て/一億二千万円は“社長”がかける」と大見出しだから、わが身に逮捕が近づいているのを、教えてくれたようなものだ。大急ぎで常務と共にかき集めた現金が、二千二百万円余り……。旅券は数次渡航用で、台湾のビザは一日で取れる。いざというときは、いつでも南米へ連れて行ってやると、以前から約束していた台湾のみやげ物屋を、頼るほかなかったのだ。それが長兄の鍾金先で、パラグアイの次兄鍾金に引継ぎ、そしてブラジルの鍾金全が、最後にこうして面倒をみてくれている。 「四月二十七日、コンセイソン・ド・アラグアイア着か……」  着いてしまえば、メモなど無用になる。荒くれ男どもを相手に、新天地を築かねばならぬ。ぐいと握りつぶして、窓の外を見たら、異様な光景だった。  うっそうと繁っている密林が、突如として死んだ。道路の右側はずっと、見渡すかぎり、焼野原なのである。その荒涼たる風景は、空襲で焼けた大阪の街並みと、二重映しになった。 「戦争!?」 「へへへへ、ベトナムとちがう。ここブラジルだから、野焼きね」  こともなげに、花屋が言うには、牧場にしろ農園にしろ、まず密林を焼き払うことから始める。三日も四日も燃え拡がっていき、ようやく火が消えて一雨きたら、早くも新しい芽が出て、それが牧草である。牧場ならば囲いをつけて牛を放ち、農園ならば草を根絶やしにしなければならないという。 「そりゃ牧場だやな、牧場にかぎる」 「けど日本人は、畑仕事が上手よ」 「いやあ、わしは百姓は似合わん。ダーッと牛を入れて、どんどんふやすわい。なあ、常務よ」  しかし佐和村には、荒涼たる野焼きの光景も、さほど興味の対象とならないらしく、あいかわらず本を読みふけっている。その端正な横顔は、男の目から見ても、息をのむほど魅力的だった。初め銀行勤めの女房も、評判の美人であり、それこそ一対の|雛《ひな》のようだった夫婦が、なぜ冷えきったのか、ただ女の浮気が原因としか聞かされていない。  いつのまにか密林の中の道は、簡易舗装されている。ときどき、馬車がやって来るし、小型|耕耘機《こううんき》がリヤカーを|曳《ひ》いているのにも出合った。そして夕方、目の前に大きな河がひらけた。 「アラグアイア河!」  花屋が叫んで、車から飛び出した。はっきり土手があるわけでもない、密林が切れたあたりから湿原がひろがり、その中央を夕陽を映しながら流れている、幅二キロほどの河だった。 「たまげたね」  |黄土《おうど》色の水面には、さほど風もないのに、さざ波が立っている。これで流れが、速いのであろう。ずっと上流に、橋がかかっているが、よく見たらつながっていない。工事中なのか、それとも流されたのか……。 「弟さん、どうやって渡る?」 「フェリーがあるよ」 「あれかな」  対岸は小さな町で、砂浜には人影が見られる。木造船が一隻、イカダのようなものを曳いてゆっくり動いている。イカダには、トラックが一台乗っており、フェリーなのだった。 「とうとう、来たかあ」 「まちがいないよ、コンセイソン・ド・アラグアイア」  さすがに花屋も、昂奮している。一度はあきらめて、リベロンプレットへ引返そうとしたほどなのだ。 「どうだ常務?」 「意外にちゃんとした町だに」  夕陽がまぶしいのか、顔をしかめながらも、ホッとした様子だった。佐和村は途中から引返すことに、強硬に反対した。行かないのではない、ブラジリアから飛行機との花屋の提案だったが、「行けるところまで車で行ってみよう」とねばったのである。 「うーん、ボアッチもあるかな」  笑っていると、スタスタ歩いて車に近づいた佐和村が、ウィスキーの瓶をぶら下げて来た。 「どうぞ、乾杯するじゃ」 「こりゃ済まんな」  ほとんど残っていない瓶を受取り、マラプアーマを一口飲み、 「おまえは?」  念のためにすすめたら頷いた。 「一杯もらうだに」 「あっはっは、魔羅おっ立てるだいね」 「うん」  瓶からじかに飲むために、夕陽にかざすように持ち上げたら、脇にはさんでいた『歎異抄』が落ちたが、佐和村が足で蹴ったため、斜面を滑って水際の繁みに消えた。 [#改ページ]

   
13 台湾マフィア  四月三十日午後一時すぎ、サンパウロ市ビラマリアーナ区の台湾人経営の花屋に、ドップスの捜査員が踏込んだ。市の中心であるセー広場から南へ六キロ余り、サントス港へ通じる街道に面して、百平方メートルほどの温室があり、裏には植木棚が並んでいる。切花は扱っておらず、観葉植物が多いから、正確には|花卉《かき》店というべきだろう。  自動小銃と拳銃で武装した四人で、指揮をとっていた若い日系人刑事が、 「|鍾《ツオンギ》はどこに居る?」  低いが重い声で問うた。  応対したのは、四十歳になる経営者の妻で、ポルトガル語に慣れていない。痩身で浅黒い肌、いかにも勝気そうな顔だちだが、どこかオドオドした目の動きである。 「主人は留守ですけど」 「どこへ行った?」 「旅行です」 「いつ出かけた?」 「さあ」  言葉を濁しながら、ほかの刑事たちの動きが、気になるらしい。庭の植木棚に並んで、仮小屋がある。納屋にして使っているが、寝泊り出来ないこともない、二十平方メートルほどの建物を、捜索しているところなのだ。 「家のほうへ、案内してもらおうか」 「しかしお店が……」 「そんなこと、言っているばあいじゃない。われわれに協力しないのなら、身柄を拘束せざるを得ないが、それでもいいのか?」  すでにドップスに聞いて、温室に三人、庭に二人ほど居た客が、品定めを中断して出て行った。ことさら拒んでも、何の益もないと分って、鍾夫人はただちに自宅への案内を、承諾した。 「子どもが居るだけですよ」 「いいから急いでくれ」  美男の刑事は、紳士的に振舞おうと努めているが、ひどく|苛立《いらだ》って時間が気になる様子だ。自宅は一キロと離れていない、ビガリオ・アルベルナス街である。鍾夫人が、店じまいのためせわしく立働いているあいだに、日系人刑事は、数日前の新聞を手に取った。 【4月24日=フォリヤ・デ・サンパウロ紙】   ドップスは今なお日本人マフィアを捜している  ドップスの捜査官たちは、日本人マフィアはいまだサンパウロ州内の地方都市に潜伏中と見ている。二人が四月九日から十六日のあいだサンパウロ市に居たことは、すでに確認済みである。  捜査官は、二人をサンパウロ州の地方都市で逮捕するといっている。各飛行場や航空会社にはすでに手配済みであり、飛行機による出国は不可能だとみている。  わざわざ、その記事が載ったページを、切取っている。刑事は無言で折りたたむと、ポケットに入れた。 「そろそろ行こうか」  表には、黒塗りのブラジリアと、白いワーゲンが停っている。 「あんた車は?」 「ないです」 「じゃあ、これに乗りなさい」  |髭《ひげ》だらけの刑事が運転する、黒塗りの中型車で先を走り、市の中心街へ向って右折すると、ゆるやかな坂道の住宅街である。 「台湾人街じゃないのか」 「ちがいますよ!」 「ふーん」  ドップス刑事は、意外そうな表情で、窓の外を見ている。やや高級に近い、中級住宅街といったところか、その中ほどのモルタル壁の二階屋が、花屋の自宅だった。門構えがあり、手入れは充分とはいえないが、通りに面して庭なのだ。 「中を改めさせてもらっていいかね」 「子どもが居るだけですよ」 「驚かせたくはないが、任務なんだ」 「何があったんです?」 「これを読むといい。思い当ることがあるはずだ」  車を降りるとき、新聞記事を押しつけられ、白いブラウスに黄色っぽいパンタロンスーツの鍾夫人は、当惑しながら玄関へ向った。そのあいだに、もう一台のワーゲンは、裏道へ回ったから潜伏者の逃走を予想しているにちがいない。  しかし、総二階で床面積八十平方メートルの家には、二人の男の子のほかに、だれも居なかった。小学校の四年と五年だが、過密都市サンパウロにあって、授業は午前と午後の二部制である。この家の二人は、午前の部から帰って、自分たちで作った豆腐|炒《いた》めを、食べている最中だった。 「言ったとおりでしょ?」  夫人は一刻も早く引揚げてもらいたい様子で、ドップス刑事たちはひととおり家捜しすると、すぐに出たけれども、彼らだけが車に乗るのではなかった。 「さあ、行くとするか」 「どこへ?」 「ドップスだよ」 「………」  サンパウロ中央駅の横にある、赤煉瓦の建物がドップスであることは、むろん承知している。政治思想犯の捜査が、本来の仕事だから、取調べがいかに厳しいかは広く知られて、まさに〈泣く子も黙るドップス〉なのだ。 「いったい私が、なにをしたというんですか」 「それを聞かせてもらわねばならんのでね。参考人として、来てもらいたい」 「しかし主人は留守よ」 「留守の理由も、聞かせてもらわねばならんなあ」  けっきょくまた、ブラジリアに乗せられて、ドップスへ向った。車中にこやかに日系人の刑事は、運転席の髭の刑事の質問に答えて、大学の定期考査が思ったほど難しくなかったなどと、話していた。  しかし同行の参考人は、気が気ではなかった。一九七六年七月には、サンパウロ州の台湾人が、ずいぶん警察に連行されて、取調べを受けた。ブラジル政府が、連邦警察を動員し、台湾人組織を捜索したのである。このとき〈台湾マフィア〉なる用語も、ひんぱんに使われたが、これは不法入国者の取締りであった。  ブラジルは、一九七四年八月に、中華民国と断交し、中華人民共和国と、国交を結んでいる。したがって七四年八月以降は、台湾人の入国が許可されていない。ところがパラグアイは、反共が国是であり、中華民国との友好関係が保たれている。台湾人たちは、パラグアイへ入国し、ここで永住許可証明を取り、陸路ブラジルへ入ってくる。あるいは永住証明のないまま、密入国する。  七六年七月の大量逮捕は、不法入国者の取締りだったが、同時にこれは、政治結社としての〈台湾マフィア〉取締りだった。ブラジル政府としては、中華人民共和国と国交を樹立したが、国内の共産党組織を非合法化している。しかし、断交した中華民国から、ブラジルへ入って来る台湾人は、共産主義者らしい……。その想定のもとに、一斉に逮捕したのだった。  だが取締りは、不完全な|身分証《ドキユメント》を所持した台湾人を、摘発したにすぎない。〈台湾マフィア〉は、密入国のルートを持っては居るが、共産主義とはつながりがなかった。政治性をもっているとすれば、台湾を不当に占領した国民党を批難し、その独立をめざす集団のことである。この台湾独立運動は、中華人民共和国とも、相容れない。したがって、共産党組織とは無縁なのだが、台湾の国民党政府としては、断交後もなおブラジルへ潜入する者は共産党との、宣伝をおこなったわけなのだ。  ブラジルの台湾同郷会は、それを機会に、身分証の登録を徹底させ、不完全とみなされるものは、法廷へ持込んだ。したがって存在する〈台湾マフィア〉が、ブラジル政府転覆の陰謀など持合せないことは、ひとまず確認出来たはずだが、こんどは日本の凶悪犯罪者の逃亡を助けた疑いをもたれているのである。 「はい、ご苦労さん」  車はドップスの建物に到着して、連れて行かれたのは、最上階の五階であった。 「夕方には、帰れるんでしょうね?」 「さあ、どうかな」 「子どもを放ってはおけません。晩ごはんを作ってやらなければ……」 「さっきは、自分たちで作っていたよ」 「夜二人にしておけません」 「だから取調べに、きちんと応じてくれれば、早く帰れる。そこのところを、まちがえないでほしいね」 「………」  五階まで昇って、エレベーターを出ると、大男の黒人警官が椅子にかけて、拳銃を構えている。大部屋への入口が、鋼鉄製のシャッターになっており、ガラガラ音をたてて開けた|隙間《すきま》をくぐると、連行された台湾人が彼女一人でないことが分った。 「ここが捜査本部だよ」  日系人刑事が、冷たい笑顔で、覚悟のほどを確めるように言った。  見渡したところ、大部屋に刑事の机が三十余り、タイプライターや電話、あるいは拳銃が置かれて、その前に何人かが坐らされ、尋問を受けている。そして部屋の片隅は、待合室とでもいうのか、囲いが作られており、十数人の台湾人が椅子もないまま立っているのが、ガラス戸越しに見えた。 「どう、お友だち、たくさん?」  べつな刑事が、ニヤニヤ笑って問うた。確かに、知った顔は混じっているけれど、互いに素知らぬふりだった。  壁際に立って、しばらく待たされ、鍾夫人が呼ばれた。尋問が終った者のなかには、手錠をかけられるのも居る。地下の留置場で、頭を冷やせということなのか。おびえきった表情で、引きたてられて行く。 「この人を、知っているね?」  机の上には、例の二人の顔写真であった。しかし彼女は、首を振った。 「私は知らない」 「亭主なら知っている?」 「………」 「旅行へ出かけたというが、どこへ行ったか、思い出したかな」 「カンポ・グランデです。ルースの|長距離発着所《ロードビアリア》から、昨夜の十一時四十五分発に乗りました」  すらすら供述して、同行者は、伯父とタイ国籍の医師という。伯父の名は温彩幹で、医師は台珊林……。 「タイ・サイ・リン?」  尋問者の、顔色が変った。このTHAI・SAE・LINこそ、台湾——日本——パラグアイコースをとった、二人の日本人の同行者なのだ。 「女か、男か?」 「男ですよ。四十五歳とかいってました」 「やっぱり……」  若い日系人刑事は席を立ち、別室の上司のところへ行った。  ドップスが、一斉に台湾人を検挙したのは、局長補佐あてに、台珊林に関する通報が入ったからだった。この通報者は弁護士で、台湾人と交際がある。報道によれば、台北から同行した河畑の愛人となっているが、実際はタイ国籍を持つ医師で、れっきとした男性なのだ。本人はサンパウロに居るが、台北からの機中たまたま知合いになっただけで、逃走の手引きをしたのではない。どうか誤解なきように……との内容だった。  その台珊林が、名乗り出ればいいけれども、旅を急いでいるので、事情聴取には応じられないとか。そこでドップスは、通報者がそれとなく匂わせた線で、集中的に捜査を進めたのだった。 「たぶん、ボリビアへ行くじゃないんですか」  鍾夫人の供述は、にわかに積極的になってきた。  カンポ・グランデは、サンパウロ市から北西へ千二百キロ、マット・グロッソ州の交通の要所である。ルース区の長距離発着所からは、ブラジリアやカンポ・グランデ行きのバスが出る。四十二歳の花屋が、四十五歳の医師と、六十歳の伯父を伴って、午後十一時四十五分のバスに乗ったのは、まちがいないかどうか。あとの二人が、手配の日本人ということも、充分に考えられるので、マット・グロッソ州へ緊急手配をしたのだった。  しかし参考人は、ボリビアの、サンタ・クルース・デ・ラ・シエーラに、伯母が居るから、迎えに行ったのだと言い張る。その旅行に、なぜ台珊林が同行したのかは、分らないという。「ところで奥さん、あんたとこは花屋をしてるが、車は何を使っているの?」 「カラバンですよ」 「今その車は?」 「………」 「亭主はバス旅行なら、車は要らないはずだが、どうしたんだね」 「さあ、だれかに貸したんじゃないですか。なにしろ頼まれると、厭とはいえない性格ですから、いつも私が迷惑する」  夫は台湾生まれで、小学校まで日本国民として教育を受けたから、ある程度は日本語が使える。台湾では中原理工学院で、化学を学んだ技術者だが、台北で結婚して、一九七〇年六月に、家族と共にブラジルへ来た。|客家《ハツカ》系の知人の協力で、花屋をはじめて順調だが、お人善しなのでいつも他人のために駆け回っている……。 「だから日本の悪党の、面倒を見たというわけか?」  日系人刑事の目が光ったが、これには反応しない。日本から送られてきた、二枚の手配写真にも、そっぽを向いている。 「そうか、分った。……連れて来てくれ」  ほかの刑事に命じているので、いったい誰が現われるのか、鍾夫人はおびえきっている。そこへ手錠をかけられた、中年男が引っ立てられて来た。 「|義兄《にい》さん……」  思わず、つぶやいた。パラグアイに住んでいる、夫の次兄が、目を血走らせて、荒い呼吸なのだ。あるいは別室で、痛い目に遇わされたのかもしれない。ドップスでは、二人の日本人にパラグアイの永住許可証を取らせたのが、この次兄と見て、追及している。 「余計なことを話すんじゃないぞ。後で大変なことになる!」  さらに中国語でまくしたてようとしたものだから、髭だらけの刑事から、バシッと平手打ちをくった。次兄が完全黙秘なのは、永住許可証をカネで入手する方法を明かせば、これからパラグアイ経由で、ブラジルへ同胞を入国させることが出来なくなる。これは決して、日本の犯罪者をかばうためではないということらしい。 「分った、連れて行って、吊るしとけ」  ふたたび引っ立てられ、大部屋から出て行く後姿は、昂然たるものだった。最近の〈台湾マフィア〉は、共産主義を運ぶのではなく、麻薬密輸に精出しているらしいと、もっぱらの噂なのである。ドップスの取調べは、いつまで続くか分らない。生きて帰れない者も居るとまで、|喧伝《けんでん》されている。 「私は、もう、帰ります」  すでに日が暮れている。参考人として呼ばれたのだから、行動の自由があると訴えたけれども、とても聞きとどけてはもらえない。 「まあ奥さん、せっかくだから、ゆっくりして行きなさい。何か思い出すかもしれんでしょう」 「………」  ぴしっと三つ揃いを着こなした刑事は、冷たい笑顔を向けると、部屋を出て行った。残された彼女は、小さな丸椅子に腰かけて、じっとしているほかないのである。  一時間経ち、二時間経ち、午後十一時を過ぎても、まだ日系人刑事は、席に戻って来ない。その間にも、ほかの刑事たちの動きはあわただしく、待たせている検挙者を尋問したり、部屋の外へ出たりだから、声をかけるどころではなかった。さりとて勝手に部屋の外へ出ようにも、廊下にがんばっている大男が、シャッターを開けてくれるとも思えない。  昨夜おそく、夫がカンポ・グランデへ出発したのは、事実である。同行したのが、伯父とタイ国籍の医師であることも、確かなのだ。カンポ・グランデに着いたら、汽車で国境の町コルンバまで行き、あとはタクシーでボリビアへ入国するはずなのだ。一カ月、二カ月、あるいは半年ぐらいは、帰れないかもしれないと、夫は言い残した。  ほれごらん、私が止めるのも聞かずに、あんな日本人を、相手にするからよ。  アスンシオンの次兄に頼まれ、二人の日本人を店に迎えたのは、四月十二日午後だった。台北の長兄の親友であり、ブラジルで事業を始めるために、視察に来た。ホテルに泊っていたのでは、生活感覚がつかめない、ひとつ民宿させてやってくれ、ホテル代並みのカネは出させる……。じつは前日に、ガルボンブエノのホテルで、二人の日本人に会っている。夫といっしょに、名物のフェジョワーダを食べに行ったのだ。ずいぶんな金持ちと聞いていたので、興味はあったが、こちらは日本語が分らないので何も話さず、家へ帰った。  どちらかといえば、物静かな美男子と話したかったので、十二日にホテルへ迎えに行き、店へ来るまでの車中あれこれカタコトで問うたが、太っちょばかりが答える。とまれ初日は、店の裏の仮小屋に泊め、十三日からビガリオ・アルベルナス街の自宅一室を提供した。玄関を入ってすぐ左の、ダブルベッドの部屋である。男同士でどんなものかと思ったが、二人はそれでいいと言い、家に居るあいだ、ずっと同じ部屋を使っていた。そして途中から、台珊林も泊めたが、彼は二階の部屋だった。  四月十七日の朝だった。何気なく日本字新聞をひらいたら、泊めている二人の写真が載っている。夫が購読している新聞は、めったに読まないけれども、家に日本人が居るというので、眺めるようになっていた。もしかしたら、物静かな美男子に、語り合うきっかけになるかもしれないとも思った。しかし新聞にある、殺人会社の常務は、二人の子どもと仲良しになり、南十字星を一緒に眺めたり日本の童謡を教えたりで、年増女には興味がないらしかった。しかしこちらは、いっそう興味をもたざるをえない。人ちがいかもしれないので、そっと夫に教えたら、「うーん」とうなるだけだった。  夫が事前に知っていたかどうか、いまだに分らない。ああいうのが、ポーカーフェイスというのだろう。絶えず苦虫をかみつぶしたような表情で、妻に対しても率直に打明けることをしないのである。写真だけでは分らない、記事に何と書いてあるかを問うたら、KAWABATAとSAWAMURAだったのだ。  とうてい家に居られないので、子ども二人と店へ避難し、十七日夜からは、ずっと仮小屋に泊った。夫に「早く追い出しなさい」と迫っても、これが煮えきらない。それでも説明によれば、新聞を示していったん退去を迫ったら、二人は自殺すると言い、遺書を書いた。それが四月十八日だった。家族あての遺書を託して、どこへ行くのかと思ったら、家で切腹するという。町へ出たついでに、|山刀《フアツコン》を買っている。二人は刺しちがえて死ぬというが、そんなことをされたのでは、後始末がたいへんである。どこか遠くに隠れ家を捜してあげるからと、なだめすかしてリベロンプレットへ向った。  しかし消息通の朱文仙に会えず、いったんサンパウロへ引返し、本格的な旅仕度をして、二十一日にリベロンプレットへ向った。あそこでは、中華飯店主人と獣医の紹介で、パラ州の牧場を買うことになったという。夫がリベロンプレットから電話してきたとき、一緒に行くと聞いて猛反対したのだが、振り切って出発した。  四月二十七日に、コンセイソン・ド・アラグアイアから、電話してきた。牧場を買う交渉がまとまったら、帰るという。そんな|呑気《のんき》なこと言って、相手は殺人者ではないか。そこで「子どもが激しい下痢で赤痢の疑いがある」と、方便を用いた。  四月二十八日、夫はブラジリア経由の飛行機で、帰って来た。シボレー・カラバンは、アマゾンへ置いてきたという。それは惜しい気がしたが、警察の目が向いてきたと、台珊林がおびえている。そこで二十九日夜の、ボリビア行きが決まったのだった……。  実質的に身柄拘束の参考人が、あれこれ思いわずらっているところへ、三つ揃いの美男刑事が戻って来た。 「なにか思い出した?」 「はい、詳しく思い出しました……」  こうして鍾夫人が供述をはじめたのは、暦が変って五月一日午前零時すぎであった。 [#改ページ]

   
14 アラグアイア  五月二日午前三時すぎ、佐和村は女がベッドから降りた気配で、目を醒ました。 「ユー・スリーピング」  裸のまま、女は入口わきの小さなテーブルの、ローソク立てを持った。ちょっと便所へとの、|仕種《しぐさ》である。 「オーケー」  頷いたら、ドアを半開きにしたまま、女は廊下を歩いて行った。黄色の灯が揺れて、やがて消えると、まったくの闇である。粗末な木製ベッドが二つだけの、なにもない部屋に来たのは、午後十一時くらいだった。町はディーゼルエンジンによる発電だが、深夜になると保守運転で、半分しか配電しない。これは東西に分けての一日交替であり、西はずれのこの売春宿は、今夜が停電日なのである。  闇の中で毛布をかぶり、じっとしていると、物音ひとつ聞えない。昼間でもあまり自動車は走らず、馬車のほうが多い。まさに|山 師《ガリンペーロ》と|牧童《バツケーロ》の町なのである。その荒くれ男を目当てに、|売春婦《プータ》が集まっていると聞かされていたが、ちょっと目には、どの女がそうなのか、町を歩いていても分らない。今夜の女にしたところで、食堂のウェイターが教えてくれなければ、客を取る商売には見えなかった。YAMAHAの名入り帽子をかぶって、ゴム|草履《ぞうり》をペタペタ鳴らして歩く女には、何度か会っている。昼間は水玉模様のワンピースで、船着場に近い雑貨屋の軒先にぶら下った宝くじを買っていた。面長で色白、いつも男たちの視線を浴びるせいか、とりすました表情であり、「おい常務、たまげたね」と河畑が言ったのは、妻の若い頃に似ているからだった。名前はヒューマ、十六歳だが女児の母親だと、食堂でワインを飲みながら自己紹介し、「値段は任せる」と最後につけ加えた。  トタン屋根の天井に、ほのかに明りがさして、女が部屋へ戻って来る気配だった。赤ん坊に授乳しなければならないので、夜明け前には帰ると、最初から断わっている。その乳首を、試しに吸ってみたら、確かに生あたたかいものが滲んだが、意外に水っぽい。すぐにやめたけれども、急に欲しくなったので、手真似で伝えた。 「ワーラー?」 「ノー」  水さしに手を伸ばそうとする女を引寄せ、乳房に顔を近づけた。薄い胸に小さな隆起なのも、好ましい。音をたてて吸ったら、体をくねらせて、ベッドへ倒れこんだ。そして股間をまさぐりにくるが、こちらは萎えているのである。 「ヒューッ」  女が唇を鳴らした。自分の名前をヒューマと言うとき、やはり口笛のようだった。混血が繰返されているが、もとをただせばインディオであると、微笑していた。すこし英語を勉強したとかで、互いにカタコトながら、なんとか通じている。混血の程度によって、小麦色がモレーナ、やや黒がムラッタといい、白はブランカ、黒はブレータとか。腕の中のヒューマは、モレーナというところだろうか。黒人が多い町で、色白に見えたけれども、こうして肌を合せていると、彼女の色素のほうが濃いのが分る。日本人とも接触の経験があるといい、憶えた単語は、おはよう、どうもどうも、ありがと、きんたま。 「ワン・モア?」 「アイ・ウォント」  乳房に埋めていた顔を上げ、ローソクの明りで、仰向けに横たわっている裸体を見つめた。昼間は帽子をかぶっている髪は、ちぢれっ毛である。脚の合せ目は、濃くはないが剛毛といえる。そして内股のあたり、|鱗《うろこ》のようなざらざらした肌で、これは何なのだろう。 「ノー」  女は拒んだが、構わずに下肢を拡げて、唇を|這《は》わせた。鱗のあたりから上って、やがて体臭の源と思われる部分へ|辿《たど》り着く。半年前にベビイ・ギョールが通過したという|洞窟《どうくつ》へ、|叶《かな》うものなら吸い込まれたい……。丹念に舌を動かしていると、なぜかコンセイソン・ド・アラグアイアの町の光景が、スクリーンに映るスライドのように、浮び上がる。  人を飢餓から救うためのマンゴの街路樹。  船着場から直角にまっすぐ伸びるメインストリートの敷石。  痩せ犬の往来。  柱にくくりつけた干肉。  揚パン。  教会の隣りにある空手道場の黒人師範の|稽古着《けいこぎ》のランニング。  軒先の馬具。  縄。  ハゲタカ。  アラグアイア河を上る平底船。  黒人少年たちの競泳。  路上のコマ。  ケン玉。  石を入れた空缶をがらがら鳴らしながらなにごとかを喚いて歩く五十男。  畑のバラ線。  舞うトンビ。  国旗を立てた警察署。  魚を下げた竿をかついで歩く少年たち。  アラグアイア河の赤ん坊の|沐浴《もくよく》。  食堂の壁の絵。 「ああ……」  なぜか壁にかけた額縁の絵は、レオナルド・ダ・ビンチの最後の|晩餐《ばんさん》だった。見つめていたら河畑が、「偽物じゃろ」と言う。複製にはきまっているけれども、長屋にひそんでいてもしかたないと、思いきって外食にした夜いきなり、最後の晩餐に出遇うとは、ふしぎな気がした。そこへYAMAHAの女なので、日本製ボートを持っているのかとウェイターに聞いたら、指を丸めてみせた。そうか売春婦なのかと、目が輝いたらしい。河畑が笑って、「行ってこいや」と千クルゼイロ呉れた。 「カム!」 「………」  うながされても、萎えたままなのだ。すでに一度女の中に放っているから、執着することもない。あきらめかけたが、女は自らの指を駆使して、昂まりを持続させようとしている。 「ヒューマ」  ローソク立てをつかんで、佐和村は、女の下肢を照らした。もはや男など眼中にないかのように、指を使い続けるのを見て、鱗のあたりに一滴、二滴と垂らす。 「ノー!」  驚愕する女に、ズボンのポケットから抜き出した百クルゼイロ紙幣を二枚、そしてもう一枚。たちまちの勃起なので、急いで繋いだら、すぐに果てた。 「………」  紙幣を握りつぶして、放心した表情の女に毛布をかぶせ、身仕度をはじめた。カーサ・アリゾナとある雑貨屋が大家の長屋まで、ここから歩いて二十分ぐらいのものだろう。  シャツのボタンを止めていたら、女が起き上って、無言で衣服を着けた。ちらっとこちらを見る目は、怒気をふくんでいるけれども、約束どおり船着場まで送って行くという。来がけのタクシーの中で、この暗闇をどう帰ればいいのかを問うたら、自分が送って行くから安心しろと約束したのだ。 「ノー・サンキュー」 「プリーズ」  毛布をたたんで持つと、女が先に歩いて、廊下の突き当りの部屋を覗いた。そういえばこの宿へ来たとき、五十クルゼイロと引換えに、毛布を受取ったのである。そのときと同じ、|乾《ひ》からびたような老人が顔を出したが、腰には拳銃を吊っている。おそらく男一人が出ようとしたら、何らかの事故とみなして、制止するのだろう。 「オブリガード」  受取った毛布を、ガタンと音をたてて木箱に放った老人が、|鍵《かぎ》を差しこんで出入口の扉を開けた。  星のない夜だったが、雲が切れてきたのか、いくぶん星明りがさしている。土を固めた壁の家が並んでいる路地を抜け、河のほうへ歩くと、簡易舗装の道路へ出る。そこを東へ行けば、船着場である。だいじょうぶ、一人で帰れると言おうとしたとき、道端のふしぎな光に気づいた。  小さな光が、地上五十センチくらいの高さで、静止している。とっさに、|豹《オンサ》だと思った。アラグアイアの牧場を荒し回り、人間をも襲う。暗闇に光る目と、視線が合ったら、|逸《そ》らさずにじっと|睨《にら》みながら行けと、教えられた。シボレー・カラバンの旅の途中で、鍾金全がわけ知り顔に言ったが、こんなところに現われるのか……。  じいっと睨み返しながら歩いていて、しかしその火が、長い間隔で瞬いているのに気づいた。しかも一つであり、これはオンサの目でも螢の光でもない、道端にしゃがんだ人間が、タバコを喫っているのだと分った。  そろそろ夜明けだというのに、いったい何のために道端にしゃがんでいるのか。いつか台湾の地方都市へ足を伸ばしたとき、何人かの男が売春宿の近くにしゃがんでいるのを見た。女房が客を取っているあいだ、そうして待つのだという。思い出したら、自然に足が速くなって、船着場まで来た。 「ドウモドウモ……」  別れ際に女は、背伸びした頬にキスを呉れて、スタスタ引返して行った。あの火に出遇ったら、どうするのだろう。見送っていると、いつの間にか女は闇に溶けてしまっていた。  日中はタクシーが二、三台いる船着場から、敷石の坂道を上った。こちらには街灯が二つ三つ点いており、明りの洩れてくる家もないではない。百五十メートルほど行くと、左側の角がカーサ・アリゾナで、月二千クルゼイロの貸室は、棟続きの二軒目なのだが、ドアが開きっぱなしである。  ぎくりと立ちどまったら、 「常務か……」  のっそり河畑が出て来た。 「たまげたなあ」  口癖を真似たら、太い鼻を指でこねるようにして、五つ上の社長は、ダミ声で思いがけないことを言った。 「星を見とったんじゃ」 「………」 「あれが南十字星よのう」  ドアの内側に、|籐椅子《とういす》を置いて、アラグアイア河の上あたり、じっと見つめていたらしい。サンパウロでは、星などにはまったく興味を示さなかったのに、急にどうしたのだろう。並んで空を見たら、確かに南十字座だった。 「日本に居ったら、死ぬまで見れん星じゃろう?」 「沖縄のずっと南の島からは、すこし見えると聞いたことがある。なにしろ、ケンタウロス座の南、天の南極の上だに」 「ふーん」  昼間はドアを細目に開けて、アラグアイア河を見つめることもあるが、今は幅二キロの流れが海のような広がりに思える。そして遠い|漁火《いさりび》に似ているのが星座の連りで、南の空に瞬いている。白い輝きの|α《アルフア》星は、すぐに分る。その上の赤い|γ《ガンマ》星と結ぶ線が、南極をさすのである。十字を形づくる、あと二つの白い輝きは、慣れればすぐに見つけることが出来る。遠洋航海の船乗りたちは、昔からこの十字星を頼りにしてきた。 「考えてみると、えらい遠くまで来たもんだよ」  つぶやいて奥へ行き、台所の|薬缶《やかん》に口をつけ、湯ざましを飲んだ。いちど生水を飲んだら、たちまち下痢で、|懲《こ》りている。それにしても、せめて冷蔵庫ぐらい欲しい気がする。  部屋は田の字のように四つだが、三十平方メートルぐらいの土間に、薄い壁の仕切りがあるだけのことだ。以前は測量事務所に使っていたといい、裏庭には壊れた脚立が一つ、放り出してあった。四月二十七日に到着して、さっそく買ったのがマットレスと籐椅子、それにプロパンガスのレンジくらいで、あと少しずつタオルやパジャマを買い足したのである。  木戸の掛金をはずして出ると、高い塀に囲まれた、裏庭になっている。二人とも経験はないけれども、「刑務所の運動場みたい」が、とっさの印象であった。その隅に便所だが、小用は塀に向って飛ばす。途中で天を仰いだところ、真上には雲がかかっている。 「どうだった、女は?」  ぬっと顔を出した河畑が、パジャマをずらしながら、便所のほうへ歩いた。 「こんな田舎にゃ、もったいないタマじゃないか」 「まあ……」 「それとも、見かけだおしかのう」 「いや」  事後にあれこれ詳細を語るのは、趣味ではない。その点で、河畑はあけっぴろげというか、いちいち語って聞かさねば、気が済まない性分なのだ。 「わしゃ、やっぱし、台湾だな、うん」 「それも麗蘭にかぎる、と」 「………」  せっかくだから調子を合せたが、扉を開けたまま小用の社長は、すこし水の音をさせただけで、無言だった。引返してくるとき、肩で息をして、台所の裸電球の下で目が合ったら、顔をしかめてみせた。 「どうしたね」 「やられた」 「いつ?」 「サントスが最後だいね」 「あの日系人か」 「わし、自信があったんだけどな。今までいっぺんも、病気もろうたことがない。免疫性があると思うていたんだが、やっぱし南米は恐ろしいところだな。ローソク病というのが、あるちゅうけんど、まさか、なあ?」 「ローソク病かあ」 「だんだん、溶けるというぞ、うん」 「まあ、溶けるにしても、時間がかかるだに」  寝室にしている、表通りに面した奥の部屋へ行ったら、地ひびきをたてるような歩きかたで、追って来た。 「おまえ他人事だと思うて、いい加減なこと言うなよ。わしがローソク病なら、おまえだって、同じことかもしれんぞ」 「そうかもしれんね」 「やっぱり痛むか?」 「朝になったら、薬局へ行ってみるじゃ。マイシンでなんとかなるさ」 「おまえも痛むかと聞いておる」 「いや……」  枕にしている風呂敷包みの下を探ったら、ちゃんと拳銃があった。花屋が見つけて来た|回転弾倉式《リボルバー》で、なんという種類かは分らないが、ゴイヤス州の砂漠で試し撃ちのときは、標的のサボテンに割合よく命中した。一梃三千クルゼイロ取られたのが不満なのか、河畑はぶすっとして、自分の拳銃は自動車の中に置いたまま、試し撃ちしなかった。そして今も、部屋の中に持込もうとしないのである。  なんとはなしに安全装置を確めていたら、 「よせ、気味が悪い」  銃口が向いたとかで顔をむけた。  ひょっとしたら、根は臆病なのかもしれない。拳銃を枕の下に戻し、パジャマに着換えていると、相手はマットレスの上にあぐらをかき、昼間書いた手紙を手にしている。 「これでいいのかな……。もっと強硬に言うべきかもしれんのう」 「また書き直す?」 「いや、そういうわけでもない」  壁にもたれて、封筒を開けて見たい様子だが、さすがにためらっている。自分で書くのなら、どうということもない。しかし河畑は、まったく文章が書けないのである。サンパウロの自殺さわぎのときの遺書にしたところで、先にこちらに書かせて、なぞっていた。台湾に残っている、鍾兄弟の長兄宛ての手紙は、さっそく|投函《とうかん》するつもりだったが、きのうはメーデーで郵便局が休みだったのだ。  鍾金先様  その後貴男様にお変りありませんか。私共は無事パラグアイに入り、アスンシオンを後にブラジル・サンパウロに着きました。二〜三日は何事もなく、貴男様の弟の鍾金全様と事業の話などしていたのですが、事件の方が思いもよらず日本では次々と逮捕が起り、ついに四日には兄が警察に行き、私共の事を言ったらしく、私は元より佐和村も国際手配となり、南米各国が大さわぎになりました。しかも悪い事にはブラジルには日本人向の新聞が有り、連日私共の手配写真と事件の内容が大げさに出ていることで、弟君の金様も自分自身の安全の為に身をかくすハメになり大変申し訳なく思っております。  そんな事から貴男様の一番下の弟の金全様のおせわになっています。事件の発覚と同時に私共もとりあえず金全様の自宅にかくれて過しましたが、連日の新聞ですから私共も自首する結論を出した為、一応電話で弁護士に相談したところ、今日本に帰って警察に捕まれば私は死刑、佐和村は無期は免れぬといわれ自殺を覚悟したのですが、金全様に止められ、サンパウロより2000kmのところに身をかくし、ほとぼりのさめるのを待っているのです。しかし、ここもいつまでいられるのか、万一を思い胸に遺書を秘め、将来を考えるのです。今後ですが、弟君の力でなんとか身分証及びパスポートの名前を変更したもので身分をかくして過し、ほとぼりのさめた頃合を見はからってボリビアで商売でもするしか方法がなく、今は弟君に頼るだけの日々です。  そういう訳で逃走資金も色々とかかり、貴方様にあずけた百八十万円に加えて、なんとか日本で百万円でも二百万円でも調達して送っていただけませんでしょうか。又貴男様にあずけた林幹男のパスポートも大至急送ってくださるようお願い申し上げます。勝手な事ばかりお願いして申し訳ありませんが、逃げるだけの毎日ですのでお許し下さいませ。  又半年もすれば、こちらの方もほとぼりがさめ商売の出来る日が来る事を信じて過し、貴男様との再会を期待する次第です。私共の心中を察し、何卒宜敷お願い申し上げます。一口いい商売を見つけておりますし、私共もなんとか貴男様と会い相談したいのです。一日も早くこの地に来て下さい。貴男様に向いた仕事もたくさんあります。    一九七九年五月一日 [#地付き]河畑 当   鍾兄弟の長兄の店は、台北市の裏通りにあり、細工物が並べられているだけだが、タイやホンコンとの往復がひんぱんで、暗闇の道がつながっているらしい。それはパラグアイ経由で、北米へも伸びているというが、扱っている麻薬がどの程度のものかは、分らないのである。 「百八十万円かあ」 「この際あれは大きい。約束を守ってくれれば、五倍にも十倍にもなる」 「仕入れのために預けた?」 「そうじゃ。パラグアイの税関を見たかい、あれなら、原子爆弾の密輸でも出来るぞ。黄金の三角地帯が、グーンと近くなりました、うん」  ラオス、タイ、ビルマ国境の|罌粟《けし》栽培地帯には、雲南省から中共軍に追われた、国府軍の残党が居る。そこから台湾への麻薬ルートは、しっかりした組織があり、あとは大量の需要家が居るアメリカ合衆国へ、いかに持込むか。いったん南米へ運べば、海上ルートその他いろいろな方法があると、台北市の土産物屋は、景気のいい話で|煽《あお》っていた。 「いつになったら、来るつもりかのう。あの親爺のためにゃ、わしも骨を折ってやった。言いとうはないが、百万や二百万ぐらい、豊橋・豊川で儲けたぶんを、回す義理があるはずじゃ」 「|覚醒剤《シヤブ》か」 「今にして思えば、わしがじかに扱うておれば良かったのかもしれんな、うん」 「なんでやめた?」 「ありゃいかん、人間の体をメチャメチャにする。体だけじゃない、心もズタズタになる。わし、ああいうことだけは、してはいけんと思うた」 「………」 「トラックに乗りたての頃、ヒロポンの全盛期でなあ。トラック運転手、タクシー運転手は、たいていの者が手を出したが、悪いけど勘弁してほしいと言うて、わしあれにだけは手を出さなんだ」 「あんたは、ふしぎな人だに」 「ん?」  水色パジャマの河畑は、首をかしげている。  小さな運送会社の助手になって運転を覚え、免許を取ってからは新車を目的地へ運ぶ陸送屋になり、フェリーが発達すると、大型トラックを買い数台を同時に運ぶようなった。二十歳で結婚し、二男一女の父親になった二十七歳のとき、肉親を役員に梱包会社を設立した。三十一歳で豊川市内に建てた家が、敷地二百十四平方メートル、建坪百三十平方メートルで、屋根瓦を三段積みにするなど、豪邸といえなくもない。その翌年には地元のライオンズクラブに加入し、有限会社として現在の運送会社を作り、社長に就任したのが、三十三歳である。  高度成長期とあって仕事量がふえ、一九六九年の東名高速道路豊川インター開通も、トラック保有台数を飛躍させた。豊川発の日立ステレオ、小牧発のサントリー、高浜発の|揖斐《いび》ベニヤ、刈谷発の自動車部品……迅速をモットーの配送だった。会社が大きくなっても、同業者の協同組合には加盟せず、周辺からは荒仕事ぶりが批難されたが、いっこうに気にしないで、手を拡げてきたのである。 「シャブに手を出してれば、こげんな具合にならんかったというか」 「そういうわけじゃないが」 「どういうわけだ?」 「おれは結構、シャブの世話になっただに。そんなに|大袈裟《おおげさ》に言うほど、悪いもんじゃない。いろいろ、良い事があったなあ」 「だからおまえは、ダメなんだよ」 「………」 「女房や子どもに家一軒も残してやれない。その気になれば、なんでもないことだったじゃ。ちがうか?」  なるほど今年三月には、渥美半島の国道沿いに、七百平方メートルの土地付の、総ガラス張りの派手なドライブインがオープンした。十九歳の長男の名義だが、開店直後の逃亡だから、まさに残してやったといえる。その社長にくらべて、月給三十万円の自分は、妻をセールスに働かせながら、長屋住まいだった。 「残してやらんといかんのかねえ」 「あたりまえだいね、男だもん」 「ふーん」  ふっと親鸞が、自分が死んだら加茂川に流して、せめて魚の餌にでもといったというのを、思い出した。たったそれだけのことを聞きかじって、『歎異抄』を読んでみたのだった。〈しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへに〉というくだりを、いかに解釈すべきなのか……。かんじんの念仏を唱えることも出来ない者としては、せめてアラグアイア河の、ピラニアかドラードの餌にでもなるほかないのだろう。 「ええわ、ええわ、今さら。なあ」 「そういうことです」 「深く考えんこっちゃ、果報は寝て待て……。朝寝して夕寝するまで昼寝して時々起きて居ねむりをする、か」  |欠伸《あくび》をして、社長は、どさっと寝床に倒れこんだ。今の狂歌は、パラグアイ人の|怠《なま》けぶりを評して、だれか日本人が作ったのだと、鍾兄弟の次兄に教えられた。そのとき、怠け者の移住局役人を買収する資金として、一万ドル支払った。あとになって、ずいぶん取られたことが分ったが、それは移住局役人にふっかけられたのだと思いこんでいる。  だから台北の長兄が、手紙を読んだら駆けつけるとの望みを、捨てていない。ボリビアには、コカの葉が自生しており、高地のインディオは昔からこれをかじって、寒さをしのいできた。コカインは空腹を忘れさせ、インディオを苛酷な労働に駆り立ててきたという。チェ・ゲバラは、重症の|喘息《ぜんそく》患者だったが、コカの葉をかじることによってゲリラ戦を進め、やがて死んだ。それを聞くとすぐ「コカで稼ごう」と、夢はボリビアに走るのだった。  コンセイソン・ド・アラグアイアにおける、牧場経営にしたところで、実現出来るのを信じ切っている。花屋にあずけたカネが、牧場主に渡るかどうかさえ疑わしいのに、売買契約を委任してしまい、サンパウロへ行かせた。シボレー・カラバンが置いてあるから、必ず引返して来るというのだ。確かに到着の翌日には、車で何時間もかかる奥地へ、売りに出ている牧場を見に行ったが、あれは悪徳不動産屋の手口ではないのか。ポルトガル語が分らない者には、ただの世間話でも取引きに聞えるのだ。 「なあ、常務よ」  眠っているのかと思ったら、低い声で話しかけてきた。 「今夜の娘だが、おまえいっそ、面倒を見たらどうだいね」 「なんで、また?」 「イギリスの大列車強盗のあれ、なんという男だったかな」 「一九六三年に七百万ドル奪って、捕まったけど脱獄してブラジルへ来たのが七〇年だに。名前は、ロナルド・ビッグス」 「うん、ビッグスだ。あいつをブラジルが、イギリスへ引渡さんのは、こっちで世帯を持って、子どもが生まれたからじゃ」 「ふふふふ、平和な家庭を破壊出来ん、と」 「おまえも、急いで子どもを生ませるだいね。ブラジルで、ヒューマとやり直さんか。カネが届いたら、わしが話をつけてやってもええ」 「残念ながら社長、おれパイプカットしてるだに」 「ほんとか?」 「ほんとさ。おれみたいなのが子ども作るのは、この世に罪を作ると同じと思ったから、八年前にカットしたよ」 「もったいない」  チッチッチッと鳴きながら、天井裏のヤモリが走り去った。窓の外が明るくなってきたし、これから眠るのだろうか。 「おまえも、ふしぎな男だいね」 「………」 「わしについて来ることなかったじゃ。自首してれば、兄貴より軽い罪で済んだはずだろ。なんで、ついて来た?」 「分らんけど、あんた見てると、ついて行きたくなるんだに」 「………」 「そういうことさ」 「たまげたね」  そこで互いに、欠伸を洩らして、そろそろ眠りにつけそうだった。 [#改ページ]

   
15 バンデランチ  五月二日午前八時ちょうど、バテッキ航空のチャーター便バンデランチ機が、コンゴニアス空港を飛び立った。ブラジル国産の、十八人乗り双発プロペラ機は、初期開拓者の群れの意で、〈バンデランチ〉と名付けられている。  バンデランチ機に乗込んだのは、ドップスの局長補佐はじめ七人の刑事と一人の参考人、それに四人の報道関係者であった。  この十二人は、夜明けの六時三十分に、バテッキ航空カウンターに集合し、大ざっぱな打合せの後に、朝日を浴びながら飛行機に乗った。自動小銃と拳銃で武装した刑事たちは、どこかピクニックへでも行くような表情だが、オープンシャツに茶色ブレザーの参考人は、ひどく落着かない様子である。 「しかし彼らがほんとうに、あの町に居るかどうか、私には分らない。くどいようですが、日本人の悪党共とは、口もきいていない。いや、悪党と分っていれば、そもそもファゼンダの紹介なんてしませんからね」  最前列で弁解これしきりなのは、リベロンプレット市の、四十歳になる獣医だった。四月二十一日にサンパウロ市の花屋に、パラ州の農園主あて紹介状を書いていらい、現地の交渉がどうなったか、何の連絡も受けていない。そこへ突如として五月一日の明けがた、井戸掘りの男が押しかけて、その後ろに三人のドップス刑事が居た。逃亡の日本人について聞きたいことがあると、有無を言わさず車に乗せられサンパウロへ向ったのだが、北京語の中華飯店主人は地元署での事情聴取で済んだらしい。 「まあいい、行けば分る、私は仲間なんかじゃない。ささやかながら地位のある、|医師《ドトール》の私が悪党共の手助けをするものですか。彼らを尋問すれば、そのへんがはっきりする。私はその意味でも、彼らがあの町に居ることを期待します」  メガネの台湾人獣医は、声を上ずらせながらも、笑顔を絶やさない。隣に坐った局長補佐だけではなく、後部座席の報道陣にも聞かせたいらしいが、プロペラ音にかき消されがちだった。 「それにしても、コンセイソン・ド・アラグアイアって、どこらへんかね」  その報道陣は、額を寄せ合って地図を眺め、日本語で言い交している。特別取材班として出張を命じられた昨夜は、行先がサンパウロ州外と聞かされただけで、今朝になって初めて目的地が、はるかアマゾンだと分ったのだ。 「ほんとうに、居るんだろうか?」  日本字新聞社の社会部長と記者、それに日本のテレビ局特派員とカメラマンも、不安な面持である。  バンデランチ機のチャーター料は、往復四千キロで、約二十七万クルゼイロ。日本円にして二百三、四十万円を、二つの社が折半して負担し、ドップス捜査班への提供を申出た。もし越境捜索が空振りに終れば、独占取材が流れるだけでなく、会社経費の無駄遣いとなる。それじたい、スリリングな旅であるが、新聞記者としては、社主の励ましを受けているだけに、いくぶん気が楽である。  ——なあに行って居らなければドラードでも釣って来いや。  通路側の空席には、社主が用意したニギリメシ弁当が置かれているが、〈河畑〉〈佐和村〉と書いたのもある。捕えたら帰りの機内で、ウメボシ入りを食べさせようとの、配慮なのだった。  日本字三紙のうち、最大の発行部数をもつ新聞の社主は、熊本県出身で六十三歳、戦後のブラジルにおける情報混乱の、勝ち組・負け組の抗争の中で、一九四六年に創刊した。まったく日本語の活字はないので、一本一本を日本から取寄せた。むろん輪転機もないし、通信網もないが、母国の情報を正しく伝える趣旨で不充分ながら続けた。ブラジルでは戦前から日本語教育にも、制限を加えていたから、戦後の日本字新聞には、ポルトガル語のページを設けることが義務づけられ、今日も同様である。  ブラジル政府としては、日本人の|狂信者《フアナチコ》集団が抗争を継続するのを警戒したのだが、新聞社としては事業面で、スポーツ選手を次々に招いた。最初に呼んだのが、柔道の木村政彦で、一九四八年にサンパウロでブラジル人の大男を相手に、ポンポン投げ飛ばしたところ、日系人が涙を流して喜んだ。入場料が三クルゼイロ余り、ブラジル中から集まって、大入りであった。次は水泳の古橋広之進と橋爪四郎で、世界記録ラッシュである。サンパウロ市などのプールで競泳大会なのだが、講和条約前で、日章旗の掲揚が認められない。そこを市長の粋なはからいで、一位になったら旗を上げてもよいといわれ、スタンドの日系人は|滂沱《ぼうだ》の涙である。その次が力道山で、世界チャンピオンとのふれこみだから、数万人を収容するイビラプエラ体育館が、超満員だった。この頃になると、一世の熱狂をどこか冷ややかに見ていた二世たちも詰めかけ、夢中になって声援したものだった。 「きのうの夜、クロサワの『七人の侍』を見た?」  ふと若い日系刑事が、後ろを振向いてポルトガル語で聞いた。外国映画のテレビ放映は、アメリカ映画が圧倒的に多いが、昨夜はたまたま、日本映画だったのである。二世たちも、黒沢明監督作品となると、映画館へも出向く。 「きょう行くのも、七人の侍だね」  珍しく上機嫌なのは、定期考査が終って月曜(三十日)に出勤してから、停滞していた捜査が、にわかに活発になったからであった。彼は十日ぶりの仕事に大張切りで、まず花屋の女房を連行して尋問し、リベロンプレットの線を引き出すと、すぐに車を飛ばして、獣医を任意同行して来た。その間に、長距離バスでカンポ・グランデに向った三人の手配を、マットグロッソ州警察あてに依頼したが、これは間に合わなかった。  しかしコンセイソン・ド・アラグアイア潜伏は確実だと見て、報道陣の裏をかいたことを、おもしろがっている。 【5月1日=フォリヤ・デ・サンパウロ紙】   日本人たちはまだサンパウロに居るとドップスは言う  多くの殺人を犯してブラジルへ逃げ込んだ二人は、おそらくサンパウロ市のリベルダーデ地区のどこかに居るだろうと、警察では見ている。コンゴニアスに着いて後、ずっと二人と行動を共にした台湾人は、たびたびリベルダーデ地区に現われ、二十二日にはバロン・デ・イグアッペの某レストランで食事をした。  ドップスの情報局によると、日本のギャングに同行した三人の中国人のうち、一人は初め女性とまちがえられていた。日本人と台湾人のグループは、台北でアスンシオンまでのキップを五枚買い、パラグアイ経由でブラジル入りした。その時点で日本の警察は、同グループに関して何の連絡もしてこなかったので、彼らは税関を通り抜けて行方をくらました。  ブラジルの警察が実際に動きだしたのは、ドップスのロメウ・ツーマ署長が、友人から日本のニュースを聞いたときからである。ドップスは独自の判断で、二人の居所を捜索しはじめたのである。捜査は主にリベルダーデ地区でおこなわれ、日本人ギャングと一人の台湾人が居たことが判明した。九日に到着した三人は、十一日までガルボンブエノのミヤモト・ホテルに居た。それから、エスツダンテス街のイケダ・ホテルに移って二日間を過ごし、どこかへ行った。ふたたび姿を現わしたのは十六日夜のことで、鶴ホテルで数時間を過ごしたが、ここではシャワーを浴びただけで部屋は取っていない。その理由について責任者は、パラグアイへ大至急の電話をする必要があったのではないかと言っている。  十七日には、ウニベルツールとシェルマール店で、百万円(約十三万クルゼイロ)を換金しようとしたが、成功しなかった。そしてタマンダレー街の床屋で調髪し、行方をくらませていた。どうやら満足に食事をしていなかったようで、二十二日夕方のレストランでは、日本人はガツガツ食べていた。その間ずっと、同行の台湾人は外の様子をうかがい、気が気でない表情だった。日本人は日本円で料金を払おうとしたが、台湾人が制してクルゼイロで支払った。  その後は、姿を現わさない。ドップスでは、アパートか一軒家に隠れているのではないかと見ている。サンパウロには非常に多くの台湾人が居るが、たいていの者が密輸や麻薬に関係している。日本人ギャングは、こうした台湾人を用心棒にして連れて歩いているようで、ドップスは怪しげな台湾人の調査を集中的におこなった。そして、昨日、多くの台湾人が逮捕され、尋問のためにゼネラル・オゾーリオ広場へ連行された。  しかしながら、現在のところ、具体的な逃走経路は、判明していない。日本からは大手新聞社が、事件を追うために特派記者を送りこんでいる。朝日新聞、読売新聞、毎日新聞などだが、ラジオとテレビのネットワークを持つNHKの責任者も警察の仕事に同行している。日本の記者たちは、熱心に個人的な調査を進めているが、これらの動きを見ても、重大な事件として評価出来る。 「葬式がなければ、きのう出発してもよかったんだ」  いつもの三つ揃いとちがって、さすがに軽装の美男刑事が言っているのは、|社《デ》|会警《イ》|察《ク》のフレオリー局長の、葬儀のことだった。ドップスから移った、フランス系の局長は、川遊びの最中に足を踏みはずして、水死した。その|柩《ひつぎ》をかついだ葬儀の列は、行進しながら拳銃を構えて、空に向って一斉に発砲するのだった。  バンデランチ機は、いったんブラジリアに着陸し、給油を終えると、ふたたび北へ向った。この頃になると、刑事たちは捜索の疲れが出たのか、窮屈な座席でそれぞれ工夫して居眠りをはじめた。  しかし後ろの報道陣は、居眠りどころではない。これから行く、陸の孤島に居るはずの二人の日本人については、愛知県からやって来た特派員たちによって、さまざまな情報がもたらされているから、ひとしきりそれを話題にした。  河畑は|子煩悩《こぼんのう》で、上の二人には、乗用車を買い与えており、夫婦それぞれのぶんを合せると、一家に四台である。長女はまだ高校生の頃から、叔母が経営するバーでアルバイトしており、教師が注意すると、学校へ父親が乗込んで、「大物代議士がバックに居るから教師をクビにするくらい簡単だ」と脅したとか。しかし実際は、そんな政治力などない、一匹狼的な生きかたであることが分った。  彼が陸送屋として、不眠不休で働いている頃に、母親は軽食の店をひらいており、手伝いの妹の|初初《ういうい》しさが、評判になったものだった。それがいつのまにか、初老の女と同性愛になっていた。共同経営の店で〈マスター〉の女は、銭湯へ行くときも、ポロシャツ、ステテコ、ランニングシャツ、サルマタのいでたちだった。清潔好きで、家の中もきちんと整頓していなければ、気が済まない。そんな彼女がいくら酔っていても、ストーブをつけっ放しで寝るはずがないと、火災の直後から噂になっていた。  常務の佐和村の女房は、県立商業高校を首席で卒業し、都市銀行の支店に就職した頃から、評判の美人だった。恋愛結婚して、銀行をやめてからは、化粧品のセールスをはじめたが、これが好成績で収入もいい。しかし亭主が浮気者で、苦しんだ。酒が一滴も飲めない亭主は、水商売の女性とは縁がなく、ふつうの娘や人妻と派手に交際していた。そこで興信所を使って調査し、外泊して家へ帰らず、会社へ出て来るのを待ち伏せるなどしていたが、そのうち諦めてしまい、彼女のほうにも噂が立ちはじめた。  或るとき噂の立った相手を、亭主が呼出した。穏やかに、「おれも経験があるから野暮なことはいわない、貞操代として五十万円呉れないか」ともちかけて、出させることに成功している。そして亭主が、あいかわらずの浮気なのは、豊橋は紡績工場が多く、〈織姫さま〉が町にあふれている。美男子の亭主は、牛丼一杯で女が釣れる、と自慢していた……。  午後二時になろうとしている。樹海の中を|蛇行《だこう》する黄色の流れは、アラグアイア河らしい。バンデランチ機は高度を下げ、やがて草原の飛行場に、土煙りをたてて着陸した。  小さな平屋建てから、軍警の制服警察官が飛び出し、いぶかしげな表情である。まず局長補佐が、参考人の獣医を伴って、タラップを降りて行った。 「下見に行くのかな?」 「地元の警察に、あいさつに行くんじゃないか」 「まだ連絡していない?」 「そりゃそうだよ」  そんな会話が、交されている。州ごとに警察庁で、かならずしも横の連絡が、充分にとれているとはいえない。サンパウロ州ドップスとしては、事前に連絡を入れるよりは、じかに乗込んだ。所在確認を依頼したばかりに、地元署の動きが逃亡の二人に察知されることを、恐れたということでもあるらしい。  軍警の車で隊長が行くのを、残り全員が滑走路で見送っていたら、突然のスコールだった。あわてて建物に駆込んだが、さっと通過して、一陣の風のようだった。それでも、あちこちに、水たまりが生じた。そのデコボコ道を、タクシーが走って来た。まず刑事たちが、二台をおさえた。報道陣は、次の車を待ったが、なかなか来ない。  焦っているところへ、隊長の局長補佐が引返して来た。地元署に応援を依頼して、周囲はかためたので、これから逮捕に向うとの、説明だった。刑事たちは、さすがに緊張した面持で、車に便乗した。 「どうしましょう?」  日本字新聞の若い記者が、カメラを構えて今にも走り出さんばかりの表情だった。しかし地理の分らない町で、車に振りきられたのでは、追いかけようがない。社会部長が、便乗する車を探しているうちに、タクシーは走り出した。 「あっち、あっち」 「つかまえろ」  日本語が飛び交って、通りすがりのライトバンに、立ちふさがった。事情を告げる間もなく、タクシーを追ってほしいと言ったら、運転していた白人は、何が起ったのか説明しろと、タバコをくわえて降りようとする。それを運転席に押しこめ、とにかく走ってほしいと叫んだら、ようやく動き出した。  木立ちの間に、泥で固めたような家がある。その家の間を、回転スキーみたいに走り抜け、マンゴの大木が街路樹の河べりの道へ出ると、すでに前方に人だかりであった。公務員だという運転者は、これから起ろうとする異変を察したらしく、いっそう速度を上げた。 「右だ、右だ」 「エスケルダ!」  船着場から一直線に伸びる、敷石の斜面を上りかけると、すでに交通止めだった。車を飛び降りると、制服警官が止めるのを振切って、シャッターを切りながら走った。ドップスの刑事たちは、配備を終えて、拳銃・自動小銃・催涙弾を構えながら、クリーム色のシボレー・カラバンに近づいている。潜伏者が武器を持っているのは、充分に予想されることで、記者はあまり近づいてはならないと注意された。  スコールが去って、濡れた路面からは、すでに水蒸気が、ゆらゆら立ちのぼっている。そのゆらめきのなかで、視野に入る風景は、どこか非現実的な動きに映る。物音がやみ、時間さえ静止したような町を、ひたひたと野良犬だけが走って、やがて叫び声と銃声が重なった。  若い新聞記者は、街路樹の陰にしゃがんで、シャッターを切った。はたして写っているかどうか、見当もつかない。しかし銃声がおさまり、刑事たちが一斉に、シボレー・カラバンにいちばん近いドアに殺到しているのを見て、自分もそちらへ走った。  刑事たちが踏込んで、五秒か十秒遅れだったろうか。早くも部屋の中から、顔中が血だらけの、上半身裸体の男が引きずり出されてきた。そしてもう一人、やはり顔面に|血糊《ちのり》の痩身の男が、折れた棒のように床に横たわっていた。 「生きているぞ」 「病院だ」  表に引きずり出された二人の腹部は、いずれも波打っている。やがて別々に車に乗せられ、西と東の病院へ運ばれたが、医師は四時まで午睡のきまりなので、処理が遅れた。  佐和村秀人。右|顳《こめかみ》に被弾、午後四時二十五分死亡。  河畑当。頭部に被弾、 午後五時五十分死亡。  致命傷となったのは、いずれも一個所の銃創と発表されたが、町に警察医は存在せず、死体はパラ州の州都ベレン市へ運ばれることになった。  遺留品は、屋内に衣類のほかにマットレス二、毛布二、ズック靴一、ゴム草履一、スプレー式殺虫剤一、小型ガスコンロ一、鍋二、アルミ容器一、インナー32口径拳銃一(実包三発)、一千万人の海外旅行だれにでも話せるブラジル・ポルトガル語会話一、屋外のシボレー・カラバン車内に釣竿二、山刀一、タウルス38口径拳銃一(実包五十発)、カリブレ22ライフル一(実包十三発)、麦わら帽子であった。 [#改ページ]

   
16 火葬許可判決 【5月4日=サンパウロ新聞】   社説——血で|贖《あがな》われた結末 「天網|恢恢《かいかい》疎にして漏らさず」という諺がある。『老子』の第七三章にある『天の道は争わずして而して善く勝ち、言わずして善く応じ、召かずして而して善く謀る。天網恢恢疎にして失わず」という文句から来たもの。  すなわち、天の道は気ながに争うことなくして勝るものだ。だから、悪人の勢いの盛んな時はしばらく見逃しておいて、やがて時期を見て亡ぼすようにするのである。天は口なくして言わないが、善人には福を悪人には悪を降すように、長い目で見ればなっているのだ。人の招きで来るようなものではなく、天は自らわれわれの上に来て御覧になっている。天の網は恢恢として広大であり、網の目は疎だけれども、善い行ないには善果を、悪い行ないには必ず悪果を与えて、網の目を漏れるということはないのである。つまり悪いことをすれば、おそかれ早かれ天罰があるということ。西洋の諺にも、「天罰はゆっくりくるが確実にあたる」といっている。  保険金殺人事件の主犯の二人がブラジルへ逃亡して、ここなら大丈夫と思っていたパラ州コンセイソン・ド・アラグアイアの隠れ家を、サンパウロ州DOPSの特捜隊に急襲され、銃撃戦により射殺されたのを思うと、まさに「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉がぴったりすることを感じる。  彼らが行なった一連の保険金殺人事件は、六億一千万円という保険金の額、未解明をふくめれば四人となる被害者(うち一人は未遂)の数、そして図上訓練から隠ぺい工作まで行なわれた入念な犯行の手口など、どれ一つとっても過去に例をみない陰惨な犯罪である。こんな凶悪犯がブラジルを逃亡先にしたことで、日系コロニアはどれだけ迷惑の思いと怒りを覚えているか。射殺という血で贖われた結果となったが、われわれはホッとしている。警視庁と愛知県警の合同捜査本部は、事件解明のカギを握る二人の死に大きなショックを受けているというが、捜査依頼をしておきながら手配のモタモタぶりや、係官を一人も派遣しないなど信義に欠けてはおるまいか。 【5月4日=フォリヤ・デ・サンパウロ紙】   日本人たちが自殺したかもしれないという説がある——ベレン特派員より  パラ州の南で、サンパウロのドップスの警官たちと撃ち合い、死亡した二人の日本人の遺体は、ベレンに運ばれている。  公式の発表によると、日本人は逮捕に抵抗し、警察官を撃ったため、射殺された。しかし水曜日の夜のテレビでは、日本人が自殺したとの説が流れた。まだ新聞では確かにされていないが、遺体の引取りに現場まで出向いた、ベレン警察のフェリッペ・メロ署長は、次のように確信した。 「日本人の一人は自殺したのだと聞いた。それは確かだと思われる。なぜなら遺体の一つには、カリバ32の弾丸が入っているのが見つかったからだ。警察ではカリバの拳銃は使用しない。すると、ギャングの一人は、逮捕よりも自殺を選んだことになる」  もう一つの説は、サンパウロのオウタビオ・ゴンザガ・ジュニオール治安警察補佐官が、パラ州のパウロ・カマラ治安警察補佐官に電話し、サンパウロ警察の活動状況を伝え、悪人たちを逮捕するためにパラ州警察の協力を要請したというものである。この説に対し、パラ州のパウロ・カマラ治安警察補佐官はベレン市に不在で、代って応対した秘書のジョアキン・セアブラ少佐は、パラ州の警察が協力した事実はないと否定した。  しかし地元の、コンセイソン・ド・アラグアイア警察のジョゼ・コリア・ペレイラ署長は、二人の日本人の死に署員三人が関与したことを確認した。ペレイラ署長によれば、二人が町に来て七千五百クルゼイロの家に住んでいたのは、入居のときから知っていた。この日本人たちは、百万クルゼイロの農場を買うために行動していた。だが国際手配の二人が死亡したのは、警察の弾丸を受けたからではなく、一人がもう一人を殺して自殺したと信じている、と語っている。その理由は、遺体にカリバ32の穴があり、警察官が所持していた機関銃や拳銃によるものと異なるからだ。また、包囲されたとき一人の日本人が家の外へ姿を見せ、警官に向って撃ってきたので、警察としては生かしたまま外へ連れ出すために催涙弾を使用したとのことである。だが催涙弾を投げて三十分過ぎても応答がないので、警察が踏み込んだところ、二人はすでに死んでいた。町の教会からはドン・パトリシオ・ジョゼ司教が現場へ行き、臨終に立会おうとしたが、警察はこれを禁じた。  昨日の朝には、日本のラジオとテレビのニュースで、二人の逃亡者が死亡したことが報道された。愛知県警の鑑識課は、二人の犯罪者の指紋を調べるための資料を、ブラジルへ送ったと発表した。また警視庁の捜査第一課長は、二人の死によって事件が終ったのではないと述べている。捜査は続行され、共犯者がだいぶ逮捕された。愛知県の警察は、事件の細かい情報を得るために、三人の警察官を派遣することを検討中である。こうした行動は、共犯者を追及する今後の捜査のためにも、必要らしい。 【5月7日=フォリヤ・デ・サンパウロ紙】   パラで死んだ日本人たちの最後の行動  日本で多くの殺人を犯して逃亡してきた二人のマフィアは、わずか四平方メートルの、天井裏のない汚れた一室に追い込まれて死亡した。部屋の壁には、銃撃戦の|弾痕《だんこん》が、生々しく残っている。  マサルとヒデトは、中国人のツオンギに案内されて、パラ州のコンセイソン・ド・アラグアイアに到着した。それが四月二十七日のことで、一カ月二千五百クルゼイロの家賃で、フレイ・アントニオ・サラ街二八二番の家を借りた。彼らは三カ月分の家賃を前払いすると、町の食料品店へ行き、油、卵、インスタントコーヒー、砂糖、調味料などを買ったが、その後はほとんど家を出なかった。  ドップスは、二人の後を追い、リベロンプレットの中国人とコンタクトをとったことをつきとめた。二人は地方の農場を探していると言い、パラ州へ向ったものである。借りた家は、数カ月のあいだ入居者がなく、家具や道具類も備わっていない。あるのは飲みものの瓶や衣類、それに持ち運びの出来ないガスレンジ、二つのマットレスだけだった。日本人たちの血がついた床には、ブラジル製とアメリカ製のタバコの空箱が転がり、歯ブラシ二本が置かれていた。その歯ブラシの一本は、使用されてなかった。  サンパウロのドップスとパラ州の警察に包囲された二人は、降伏を呼びかけられたが、応答しなかった。サワムラは三回、カリバ32銃を発射して負傷した。カワバタは銃を持っておらず、射撃を受けた。部屋の壁を見ると、警察側の発砲は五十回以上におよぶと思われる。警官が踏み込んだとき、二人はまだ生きていたため、急いで町の病院へ運ばれた。しかし一時間後にサワムラが死亡し、さらに一時間経ってカワバタが死亡した。  台湾人ツオンギ所有の車で、コンセイソン・ド・アラグアイアまで旅をした二人の日本人は、車のトランクの中に二梃の銃を置いていたが、使用するに至らなかった。二梃の銃は、カリバ12ROSSIと、カリバ38TAURUSであった。二人は死ぬときまで、借りた家からほとんど出ることをせず、ポルトガル語を習得しようとしていたのか、日本で出版されたわれわれの言葉の本を残していた。  コンセイソン・ド・アラグアイアまで二人を連れて行った台湾人は、今月二日に町を出てブラジリア経由でリベロンプレットへ戻り、姿を消した。サンパウロのドップスは、台湾から同行した三人の台湾人の居所を突きとめるため、国境の警備を続けている。 【5月18日=オ・エスタード・デ・サンパウロ紙】   マフィアたちは殺された  生命保険を掛けさせたあと、殺人を犯した二人の悪党は、サンパウロのドップスによって確実に殺された。最初はサンパウロ市の警察自身が、マフィアたちは自殺したと発表した。しかしベレン市のレナット・カウエス科学警察員の鑑識書が発表されたことにより、自殺説は遠ざけられたのである。  日本人マフィアを殺した射撃は、長距離からなされていた。死体に残っていた弾丸は、二人が所持していた拳銃によるものと同一ではないと鑑定された。ドップスの六人の警察官たちは、パラ州のあの町へ向かい、逃亡者が居た家を囲んで多く射撃をした。すぐ後に部屋から死体が発見され、最初は一人がもう一人を撃って次に自殺したと考えられていたが、ベレンで発表された鑑識書によって、この説は覆された。 【5月23日=サンパウロ新聞】   「火葬はできない」  二十一日サンパウロ市の補助第二法廷は、パラ州ベレンの第九民事法廷から送られた二人の遺体をサンパウロで火葬にしてほしいとの申請の嘱託書は、同法廷で取上げるに不適当であると発表した。この決定はタバレス検事の意見を入れたものであり、同法廷はこの発表と共に同嘱託書をベレン司法区に差し戻すことに決めた。  しかし遺体のサンパウロ法医学研究所での保管はそのまま続くであろうことは、国内で唯一の火葬場が市内ビラアルピーナ墓地だけということからも容易にうなずける。同日法廷で明らかにされたところでは、パラ司法当局の合法的な決定がサンパウロに届き次第すぐ火葬に付されるとみられる。  なお検事、判事が嘱託書審議を|相応《ふさわ》しくないと決定したのは、伯国法が「火葬はそれを望む者が文書で書き残した場合に限る」としていることに従ったためである。 【6月4日=ノチシアス・ポプラレス紙】   日本人たちの悪霊を取り除くための祈り  サンパウロの東洋地区サンジョアキン街にある寺院の仏教の僧は、モダンな市の火葬場の神棚の前で、悲愁的で長い日本語による神の許しを乞う祈願をおこない、別れの儀式を終った。  松材で作られた二つの棺は、火葬室へ導くエレベーター近くに並べられていた。礼拝堂の静寂は、第一の棺を火葬室へ導くエレベーターの音によって破られた。七・五キロのメタンガスを使用して、約五十分のあいだ火葬室は一千度の高温となり、二人の遺体は四キロ足らずの灰に縮小した。この火葬場で悪党の身体を粉末にするのは、今度が二回目である。一回目はだいぶ前で、ジノ・アンレット・メネジェッテという、有名な犯罪者であった。  火葬費は七千クルゼイロであり、遺体を焼くだけでは一人に対して一千五百クルゼイロとなった。この費用は、サンパウロの日本領事館から支払われた。左の腕に黒い布を巻いた総領事は、「われわれにとっては生きているよりも人間の霊魂が大切である」と説明した。日本人のあいだでは、「死は人生の欠点を消す」と信じられているらしい。したがって二人の悪党による犯罪についても、「調査は警察の専門家たちに任せる」と語った。  なお今回の葬儀については、日系コロニアの限られたメンバーが通知を受けただけである。この点を総領事は、「サンパウロに住んでいる日本人たちは悪党どもの知人でもなんでもないから、発表しても意味があるとは思えなかった」と語っている。 【8月3日=サンパウロ新聞】   捜査陣執念の鍾金全逮捕    まぼろしの十万ドル、知らぬ存ぜぬの一点張り  自宅へ帰った鍾金全は警察の動きを早々と察知していたのか、逮捕に向った時にはすでに弁護士を呼んでいた。DOPSで取調べを受けた鍾は、次のように供述している。 「二人は現金二千万円を持って台湾を出た。その金の一部は、今パラグアイへ行っている鍾金が持っている。サンパウロでは昼は二人で外出、夜は私がボアッチへ連れて行った。二人は女遊びがひどくて金遣いが荒かった。新聞が一斉にブラジル潜入を報じたのを見たときには、心理的に動揺、良心の|呵責《かしやく》を感じたのか、それとも、もう逃げられないと観念したのか、自殺を考えている。二人は家族あての遺書を書き、自分らが死んだあと身内の者に渡してくれとパスポートと共にあずけた」  ナゾとなっている二人の所持金だが、その点について弁護士同行の鍾は口を閉ざしており、依然として不明である。しかし二人のパスポートを取り上げたことや、鍾がパラ州からすぐサンパウロへ戻り、二人と縁を切っていることなどから判断すると、台湾人にうまく利用された可能性が強いようだ。  なお鍾は、ボリビアへは観光旅行中だったといい張っているが、DOPSでは再度取調べることにしている。しかし法的手続きもあるため、次の取調べがいつになるか、いまのところ決まっていない。 [#改ページ]

〔遺  書〕  芳子様。  大変めいわくをかけました。  今はただ遠い他国の地で、はてるしかありません。優の事くれぐれも、お願い致します。  貴女との10年間、本当に楽しかったです。  貴女を裏切る様な結果に終り、又日夜貴女を苦しめ、本当に馬鹿なことをしました。  もう一度、一目でも会いたい。  どうか残された余世をまっとうして、優と二人、少しでも幸せに生きて下さい、ありがとう。  さようなら。  御両親様、兄弟や親戚の方々、世間様に恥じるような、むすこや兄弟を持った事を許して下さい。どうか私の事は、一日も早く忘れて下さい。  ありがとうございました。  昭和54年4月18日 [#地付き]佐和村秀人   一目でも良い、もう一度、芳子や優に会いたい。生まれ変れたら、もう一度お前とやりなおし、今度こそ幸せになりたい。 〔遺  書〕  節子様  僕は大変めいわくをかけました。  今は節子、勝一、博美、勝二さんたちに、申しわけなくおもいます。  節子様。よくない当でした。もし天国で会えたら、こんな僕でも会ってください。僕のいはいは皆のそばへおいてください。  勝一君。よくないパパでした。君はりっぱな人になってくださいね。博美、勝二、ママをたのみます。  博美さん。パパゆるしてね、ひろちゃん。いい人見つけてください。  勝二君。パパはいいパパでなくて、ごめんね。よい人になって、ください。  おじいちゃん。たいへんよくない当でした。ゆるしてください。  陽子様、佳代様、大変めいわくをかけました。僕をゆるしてください。  四国のおじさん、当はばかでした。ゆるしてください。  皆さん、おせわになりました。さようなら。  昭和五十四年四月十八日夜七時十分 [#地付き]河畑 当  ◎現金で百八十万円、台北市内の鍾金先宅にあずけて有ります。もらってください。カバンのかぎは一二九ですよ。節子さんがかってくれたカバンです。 ◎節子さん、まことにもうしわけありませんが、台北市内の麗蘭さん宅に、服があります。もし、よかったら、とりにいってください。僕のいひんです。勝一、勝二にでもあげてください。 [#改ページ]

   
あ と が き  昨年十月から十一月にかけて、保険金殺人の二人の足跡を辿り、台湾・パラグアイ・ブラジルを歩いた。南米大陸は、初めての土地である。日本から見て、地球の裏側まで、いかに遠い旅であるかを、体ごと実感した。  こないだの書きおろし『復讐するは我にあり』から、四年半経っている。あの作品のモデルは九州から北海道まで、日本列島を縦断して、ふたたび九州へ舞い戻ったところを、捕えられたのだった。そして裁判にかけられ、死刑確定後も多くの手記や手紙を残して、死んでいった。  しかしこんどの二人は、事件が発覚すると同時に台湾へ逃込み、そこから南米へ向っている。もはや引返すことのない、はるかな旅路において、いったい何を考えたのだろう? わずかな手がかりしか残さず、逃亡四十五日目に、アマゾンに散ったのである。  事件について、人びとの記憶の新しいうちに、取材したいと思った。なにしろ舞台は、外国なのである。わたしとしては、急いで追いかける必要があった。それが幸いして、取材先で多くの関係者に会うことが出来た。  その取材旅行の最後の土地は、ブラジルのパラ州コンセイソン・ド・アラグアイアであった。予想とはちがい、陸の孤島の荒くれ男たちは、優しく迎えてくれた。アラグアイア河の流れは穏やかで、夜空には南十字星が輝いていた。わたしは二人が被弾した部屋に、しばらくしゃがんで、ぼんやり屋根裏の弾痕など眺めて過ごした。  入口には、町の人びとが顔を寄せ合い、珍しそうに覗きこんでいる。口ぐちに「ファミリアか?」と問うので、「ちがう」と答えたら、納得のいかぬ表情だった。そこで二人が持っていたのと同じ、〈一千万人の海外旅行だれでも話せるブラジル・ポルトガル語会話〉で、小説家の取材と言おうとしたら、ますます混乱した。  そこへひょっこり、日系人が顔を出した。この町で野菜を商っている、ミナス州生まれの二世だった。両親は熊本出身で、ナニワ節を聞かされて育ったとか。だいぶ前に、日伯合弁のウジミナス製鉄所で働いたこともあるが、いつのまにかここへ流れついたと苦笑している。二人の日本人が、サンパウロ州DOPSに包囲され死んだとき、町を留守にしていたので、直接には何も知らないと言う。  カタコトの日本語で、野菜行商の日系人は、町の様子など聞かせてくれた。そこで、事件のあと迷惑したのではないかと質問してみたら、「べつに……」と首を振った。それよりも、こんなところまで来て殺されたのが哀れだと、じっとアラグアイア河を見つめた。  わたしは帰国して、さっそく取材ノートの整理にとりかかった。パラ州へ向うDOPSのチャーター機には、二人に食べさせるつもりの、ニギリメシ弁当が積まれていたとのメモもある。あるいは台湾人の、痛切な叫びも聞いてきた。するとどうしても、逃亡の二人だけが主人公の小説には、なりそうにない。久しぶりの書きおろし長篇を、こうして差出すにあたって、自分なりにまた一つ試みたことを、どのように受取っていただけるかの期待が生じる。  こんどの取材旅行には、同行者が二人あった。『殺人百科』いらいのパートナーである日名子暁氏と、文藝春秋出版部の岡崎正隆氏である。両氏の協力がなければ、こうして一冊の本にまとめることは出来なかった。記して感謝すると共に、取材に応じてくださった方がたに、心からお礼を申しあげる次第です。   一九八〇年三月 [#地付き]佐 木 隆 三 

(参考資料) 「ラテンアメリカ現代史I」(山川出版社)斎藤広志、中川文雄 「移民生活の歴史」(サンパウロ人文科学研究所)半田知雄 「出ニッポン記」(潮出版社)上野英信 「ラテンアメリカ」(日本放送出版協会)高野悠 「アルゼンチン・パラグアイ・ボリビア」(日本工業新聞社)今井圭子、末永昌介、渡辺英樹 「ブラジル社会と日本人」(三修社)鈴木一郎 「アマゾン河」(中公新書)神田錬蔵 「オーパ」(集英社)開高健 「ブラジルジョーク集」(実業之日本社)醍醐麻沙夫編 「サンパウロ新聞」/「日伯毎日新聞」/「パウリスタ新聞」/「月刊セクロ」/「フォリヤ・デ・サンパウロ紙」/「オ・エスタード・デ・サンパウロ紙」/「ABC新聞」 「朝日新聞」/「毎日新聞」/「読売新聞」/「中日新聞」/「名古屋タイムス」 [#改ページ]   単行本   昭和五十五年五月 文藝春秋刊 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     旅人たちの南十字星     二〇〇一年二月二十日 第一版     二〇〇一年七月二十日 第三版     著 者 佐木隆三     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Ryuzou Saki 2001     bb010206