TITLE : くれない    くれない   佐多 稲子 くれない    一  元日の夜の東京駅は、もう十時を過ぎていた。半分扉をおろしたようながらんとした静けさである。元日の夜の落ちついた憩いというよりはむしろ、今朝がたまで続いためまぐるしい忙しさに埃っぽく疲れている空気があった。高い円天井の下にかゝっている大時計にさえ今夜はわびしさがある。十時五十五分の明石ゆきの改札が始まっても、待ち受けたざわめきも起らず、人々はひとりひとりどこからか出て来ては、急ぎ足に入って行った。  婦人待合室を出て来た明子と岸子も自然足を急がせていた。明子の長男の行一は汽車に乗ることが嬉しくて眠気も忘れて、ホームへの階段を一人先に駆け登っていた。二人の女は、ラクダ色とこげ茶とのどちらも地味な毛織のショールに肩をくるんで、小さな風呂敷包みを抱えていた。  三等車の一隅に向い合った席を取って、二人は、とうとう来たという表情で、肩をおろして笑った。行一はまだ落ちつかず、窓ガラスへ顔を押しつけて外を見たり、母の顔を仰いだりして、腰かけから垂らした黒靴の足をぶらぶら動かしていた。 「いゝこと思いついたわね、とうとう来ちゃった。」 「ね、いゝでしょう。」  岸子は深々と言って、「わたしたちもこれからうんと生活を拡げようよ。たまには旅行もいゝと思うわ。ね、そう思うでしょう。」 「とても。」  明子の言葉といっしょに発車のベルが鳴り出す。明子は行一の肩を叩いて、 「汽車がもう出るわよ。」 「そう、もう出るの。」  窓へ顔をくっ付ける行一に岸子も、 「行ちゃん汽車好きだろ。」 「僕、大好きだ。僕、きょうびっくりしちゃった。もう寝ていたのに、母ちゃんが起すんだもの。」 「夏行った国府津、覚えてるかい。」 「僕、よく知ってらあ。海があるんだろ。」 「よしよし。」  岸子が笑ってる間に明子は長男の靴を脱がせてやった。汽車はもう動き始めていた。  家の中にどこか元日らしいざわめきを包みながらも、今夜は早寝です、と言ったような静かな町の上を汽車は走った。 「いろんな正月をするね。」  岸子が二人にだけ分る意味で言った。 「全く。」明子は、これだけは一昨年から同じである岸子の、彼女にしては粗末な、そしてもう色の褪せた紫のコートに目を移しながら、 「私たちの生活って、どんどん変化するのね。毎年違ってるもの。」 「おそろしい位、ねえ。こういう情勢の移り変りの激しい時には思いがけない、人の変り様なんかもあって。」 「あゝ、さっきの待合室で逢ったひとなんかもね。」 「そうよ。」  人のまばらな薄暗い待合室で、滝井さんと柿村さんではございません? そう言って挨拶した洋装の若い女を二人は思い出すのであった。もう五年位前に明子の家に訪ねて来たことのある女だったが、まだ若いのに、はきはきと活動的で、明子は自分が友人に貰った銘仙の羽織を、彼女の仕事を支持する意味できせてやったことがあった。何度目かの左翼運動の大検挙の時に、新聞に大きく写真が出たりした。そしてこの頃は又転向の記事がくわしく出て、彼女が今はある宗教雑誌の記者になっていることも報じられていた。  華美な洋装の肩つきまで変っている。挨拶する言葉づかいにも明子は変にちぐはぐになるのだった。社の用事を兼ねて関西の親の家へ帰ってくると言う彼女には、その活動的なものだけが相変らず感じられ、それだけに変な気がするのであった。明子は思い出して、 「やり手なのね。あゝいう人は、つまり。」 「そうなんだねえ。その人の思想がその精力的なものにまで結びついていないんだね。だから、どっちの仕事でも出来る。ねえ。」  この頃はこういう人が多かった。岸子は、明子のいつもの癖で半分しか言わない言葉の意味を自分ですっかり言って考え深そうな目でうなずくのであった。  汽車はときどき、幾つも電灯の点いた省線電車のホームを近々とすり抜けて走っている。明子は行一の頭を自分の膝につけさせて、ショールで身体を包んでやった。  明子はこの夏のことを思い出さずにいられない。国府津には岸子の実家の別宅がある。子供に海を見せたいという明子の母親らしい希みを聞いて岸子はるす番がいるだけのその海岸の別宅を思い出し、自分が先に行っていて、明子たちを呼んだのであった。その時は明子の夫の柿村広介も一緒であった。長女の徹子も連れていた。広介と明子にとっては、子供を連れて汽車に乗るということも始めてであり、広介がプロレタリアの文化活動をしたために起訴されて、二年近く妻子と別れて不自由な生活をし、帰って来てから始めての旅でもあった。窓から顔をさし出す子供たちの背をそれぞれ押えながら、ときどき目を見合せて、そっと、愛情深く微笑んだりした。  今日岸子と二人きりの話の末に、ふと思い立って、今またその国府津への汽車にのっている。思うと、明子はふと佗しい気持がしてくるのであった。その頃の自分たち夫婦の生活と、この頃のそれが格別どう変っているわけではない。そして、元の方がより楽しかったわけでもなかった。むしろ、その時は明子はいつにない子供連れに、広介と一緒の気持が妙にはずかしく、中ぶらりんであったのを思い出す。夫と子供と一緒にいると、明子は知らず知らず別な自分が誰からともなく要求されているようで照れるのであった。広介に子供を抱かせたりするのが厭なのである。そしてそのためにはいつか自分が女房らしく振まっている。すると今度は自分が妙にぎごちなくなる。こういう気持は、連れが広介だけであるか、子供だけか、どちらか片方の時には無いものであった。両方が一緒だと、そのことが妙に意識されるのは何故なのであろう。  広介は、今日明子が家を出てくる時、二階の彼の部屋に机に向っていた。その広介の姿が今もずうっと明子の頭の隅に坐っていた。岸子の家で国府津ゆきを決め、行一だけでも連れてゆこうと自分の家に帰ったとき、大抵どこかへ出掛けているだろうと思った広介が珍しく居たのだった。  明子はふと別のことを思い出して、岩波文庫を開いて読んでいた岸子に言った。「さっき東京駅でKさんを見たわね。知らなかった? 奥さんや子供さんを連れて。」 「Kさん? あゝ知らなかった。あの人たち歩いてた? あの人はね、元日はいつでも帝国ホテルでやるって人なの。どこかへ行ったのかな。」 「あ、そう。それで。大変のどかに歩いてらしった。」 「あ、そうだろう。」  二人はまた暫く黙った。明子は妙にその劇作家K氏が、男の子二人の手を両方に引いて歩いていたのを記憶にとゞめるのであった。丁度、奥さんがK氏より一足さがったあたりに、毛皮のえり巻を持って歩いていたが、無意味にあたりを眺めながら黙って足を運んでいるその家族づれの雰囲気は明子の印象に強く残った。明子は、のどかに歩いていたという言葉で言ったのだが、明子はそういう風に見たのではなかった。それはK氏の家庭についてときどき噂などを聞いている故であったかも知れない。何だか、毛皮の大きなえり巻を持って重く歩いていた奥さんの姿が、子供を武器にして、すくなくとものびのびとゆこうとするK氏を引き止める重石になっている、そういうものを感じさせたのであった。勿論奥さんだけを責める気ではなかった。一般的に、今日の家庭の持っている弱点を感じたのであった。  汽車は国府津へ着いた。 「とみさんが起きていなかったら、ことだね。」  岸子は留守番の名を言って、「あの門から呼んだって聞えやしないからね。あんた、あの門飛び越える?」 「え、いゝわ。」 「お尻を押して上げるからね。」  二人は笑い乍ら、起した行一の手を両方から引いて駅を出た。正月らしく松かざりのしてある駅前の通りをタクシーをやとって乗った。 「そら、行ちゃん、国府津へ来たよ。」 「まだ海見えないね。」 「ほら、もう波の音が聞える。」  自動車は海岸に沿った街道を走って行った。闇にすかして見ると、海は暗く広く開けて、浜辺に波のくだけるのが白く見えた。街道筋は戸がおりて、人の通るのもまれだった。  岸子の家は街道に沿って海岸に面した小高い丘の上にあった。 「どうも御苦労様。」  自動車の扉のぱんと閉じる音が波と風の音の中でした。波の音はすぐ崖の下に打ち寄せている。  難関だと思っていた門はいゝあんばいに開いた。門を入り坂になっている道を家へ向って歩いた。星が無数に高い空にきらめいている。丁度英国の写真で見る、蔦のからんだこじんまりした洋館が、芝生の庭を前にして彼女たちの前に現われた。 「ほら、国府津のお家。おぼえてるでしょう。」 「うん。あ、僕知ってる。」  行一の声が夜更けの空の下で細く少し慄えながら透った。  るす番のとみさんはすぐ起きた。家のなかに電灯がついて、まあまあという声が先にした。そして鍵がカチャカチャなって声と一緒に扉が開いた。 「まあまあ、遅いのによく。」 「急に思い立って来たのよ。寒いのに起して気の毒だったわね。」 「いゝえ、どういたしまして、ひとりでございますから、もう早く床に入ってしまいますんでございますよ。」  五十近いとみさんは胸をかき合せながら何かとしゃべりつゞけて、明子たちを招じ入れた。行一は自分の家とは大分違うその部屋がやはり珍しく、もう小走りに部屋を歩き廻って、夏、見知っている玩具のような人形の卓上鈴だの、鳩時計だの、昔風な帆船の置物だのにひととおりの旧交をあたゝめて廻った。  岸子は、 「もう今夜は遅いから、このまゝすぐ寝ますからね。お茶だけ一杯呑まして下さい。」 「はあはあ、よろしゅうございます。」  とみさんが台所へ出てゆくと、岸子は明子をかえりみて笑った。 「どう? 来てよかった。」  笑いながら明子は黙ってうなずいた。明子はやはりこの家のすっかり外国風なのに、他所へ行った珍しい気持とあわたゞしさのまゝ来てしまった落ちつきの無さで、ぽかんとしているのだった。 「冬の海っていゝものね。私ほんとに正月になると、どこか違った所に行きたくなって。」  明子はそうとんちんかんに、出掛けに言ったことをまた言った。だが、言葉とは少し違った、ある淋しさが彼女の胸に拡がっていた。広介の、ちょっと唇を曲げていた顔がその淋しさの中に浮んでいた。すると明子の淋しさは、妙に荒れてくるのであった。    二  行一の声が新鮮に、まっ暗い部屋の中で響いた。 「母ちゃん。」 「うん。もう起きたの。」  雨戸の隙間から白い光が見えている。トコトン、トコトン、太鼓の音が外で鳴りつゞけている。あ、あの太鼓の音をもう大分前から聞いているな、と明子は思い、起きた。寝室の岸子は、外へ向っている窓からあの太鼓に悩まされたのではないかしら、と明子はすぐ思った。それは岸子に対して明子の或る感情が働いていて、そう思わせるのであった。おやすみ、をお互に言って、別々になる時に、明子はこの家の中で岸子をひとりにするのが、明子自身涙っぽくなるように胸につかえるものがあった。岸子がいま行き合っている自分の境遇を、如何なる性質のものかはっきり知っていることを思えば、それは痛ましいとか、気の毒であるとかいう性質のものではなかった。だが然し人一倍感情の豊かな岸子が、この家に来て、日頃の思いを掻き立てられないわけはないのであった。そういう感情の残るこの家に夏の時明子夫妻を呼んで呉れたことや、今日また思い立って来たことやについても、明子はやはり岸子の気持を察しないわけにはゆかないのであった。  岸子はよく寝ただろうか?  窓の雨戸を開けると、みかん畑になっているうしろの山からきびしい空気が流れ込んで来て、晴れた空であった。そこだけは畳の敷いてある部屋で、大きな鏡台などがおいてある。明子はふとんをあげた。  行一はもう台所の方でとみさんと話している。明子が出てゆくと、とみさんは食事の支度をしていた。 「おはようございます。よくおやすみになれましたか。」 「おかげ様で、いゝお天気ですね。」 「えゝえ、いゝあんばいでございますよ。お雑煮をひとつ差し上げようと思いましてね。どんなに出来ますか。」  海は青々と陽に輝いている。明子はガラス越しの日光を楽しみながら椅子に腰かけて、白く動いている波を眺めた。トコトン、トコトン、太鼓はひっきりなしに鳴って、子供たちの声も下の街道からつたわってくる。太鼓の音は如何にも海べの正月らしい気分であった。行一は芝生へ出て、大人のように上着のポケットに両方の手を突き込んで海へ向って立っていた。  岸子が、まだ眠いという顔をわざと子供っぽく強調して、まぶしそうに目を細めて寝室から出て来た。 「もう起きたの、いゝお天気ね。」 「おはよう。太鼓がうるさかなかった。」 「うん。少々。」 「散歩して見ましょうね。あとで。」 「いゝわね。行きましょうよ。どう、こっちは少しは暖かい?」 「さあ、まだわからない。」  明子が笑うと、いやだ、この人、と岸子は声高く笑って、とみさん、と呼びながら台所へ入ってゆく。機嫌のいゝ時の岸子の声は円く透きとおって響いた。 「母ちゃん、海へ行って見よう。」  行一が呼んでいる。明子は下駄をはいて外へ出て行った。  街道の煙草屋の前で、やぐらの上で子供たちが太鼓を叩いているのがすぐ見えた。みんな漁師の家の子供たちであろう。正月らしく紺絣の筒袖をきて、股引をはいて、十人程で大太鼓、小太鼓を合せていた。波の音はひっきりなしに響いていた。まっ直な家並みに、国旗が出て、黒紋つきの男たちも歩いていた。  明子は漁師たちの家と家との間を抜けて砂を踏みながら浜へ出て行った。男たちの酔った唄声が聞えて来る。浜に引上げた漁舟の中で酒盛らしい。如何にも海の男たちの声を思わせて広い浜辺の中を聞えて来る。舟には注連縄がかけてある。一人の声が歌い上げると、句切り句切りで大勢が手を拍って、ヨイヨイと合せた。海の風はきびしく明子の頬を吹いた。 「父ちゃんと、この辺で泳いだのね。」  行一に呼びかけると、砂を両手で盛り上げて撫でていた行一は、嬉しい時の羞しげな笑いで母を見上げた。  その日は終日好い日和であった。岸子も一緒に、うしろの山へ、線路を越して登って行ったりした。岸子は蔓もどきの赤い実を、枯草の中に見つけて広介への土産にしようと折った。明子が言った。 「以前は、外から持って行く花なども差入れられたんだけど。」 「そうね、本当にくやしい。花を差入れたって、自分で気にいったのを入れるわけではないんだからね。」  二人が、「差入れ」のことを言っているのは、岸子の夫の中沢のことを思ってなのであった。岸子が夫と別れた生活をしなければならなくなってからもう三年になっていた。そして、去年の暮、正月も近づいた廿日過ぎに、中沢は街頭から検挙されて今は刑務所にいた。そして、岸子が中沢と別々になる直前に、二人で来たのが、こゝの家であったのだ。明子はそれをよく知っているのであった。こゝの家の帰りがけに東京駅で別々になったきり、中沢は岸子との自分たち二人の家に帰って来なくなったのであった。  暮れるまで続いていた太鼓の音もやんだ。行一を寝かせてしまうと、二人は居間で、暖炉に松の木の薪を焚きながら話し込んだ。卓の上には、とみさんがお隣りから貰って来たという早咲きの白い梅が、埃のつかない清浄さで匂っていた。話は自分たちの作家としての生活に、いつものように入ってゆくのだった。 「あなたは、この間随筆で、夫婦とも作家である場合のことを書いてプロレタリア作家の場合にはその困難さは解決がある、と言っていたけれど、具体的な問題ではあれで済まないものがあるわね。」  そう言って、口先に淋しげな笑いを漂わしながら、明子は、岸子を見るその目には、自分の言おうとする意味を籠めていた。岸子は腕組みをし、ふん、とうなずいて、 「あゝ、そうかねえ、あれでは解決をし過ぎる?」 「あなたの言う言葉では問題は無いのだけど。私たちは勿論お互にどちらも成長することを希っているし、そのように努めているわね。だけど具体的にはいろんなことがある。」 「たとえばどんなこと。」 「些細な例でおかしいけど、広介が誰かと討論している時には、私は黙ってお茶を汲んでいるわね。黙ってお茶を汲まざるを得ないのよ。何んだか亭主と一緒になって言うようでおかしいのよ。一緒の時にはどうしても、外から見れば女房は女だと言う気があるでしょうからね。」 「ふーん。そんなもんかね。」 「こだわっているのがいけないと言えばそれまでだけど、それは然し実際よ。全然仕事が違っていれば、勿論私に亭主があり、子供があっても、見る人だって当り前に見ると思うんだけど。」 「なる程ね。そりゃやっぱり私だって、亭主が討論してる時には、黙ってお茶をつぐだろうね。」 「おかしな例ね。」 「非常に具体的よ。」  岸子は、彼女の何でも充分汲みとろうとする積極さで力を入れて言うのであった。明子は自分の舌足らずな言葉を岸子がすっかり理解してくれるのを知っていた。安心して言えるのである。 「自分の成長が、女房的なものにどうしても掣肘されそうなの。これはきっと、広介がこの頃のように家で仕事を始めたからだと思うの。以前はつまり、文筆の仕事をするのは、私が主だったでしょう。広介は外の仕事が忙しくて家には余りいなかった位ですものね。」 「そうだと思うわ。」  岸子は解った、というように顔を上げて、 「今はそりゃ、昔のような生活じゃないからね。どうしても打つかるのだろうな。」 「そしてそれは、単にそういう時間的なことだけで無しに、私の気持に作用するでしょう。それがこわいの。何かに遠慮していて小説を書くというような仕事は充分出来るかしらと考えるの。これはそして広介に対しても考えるのよ。あの人だって私の仕事をする生活に対してやはり遠慮しているでしょう。」 「そうだわね。あの人やはりあなたの仕事のことを考えているわね。」 「なんだか、お互がお互に気兼ねして十分手足を伸ばせないんじゃないかと思えて来たの。私は私の生活を持ちたくなったの。」 「つまり、どうするの。」 「私は、この頃、別れる、ってことを時々考えるようになったの。」  岸子は聞いて、ふむ、と言い、明子の顔を見ながら、むずかしい顔で、一度解いた腕をまた組んだ。岸子は明子のことを考えるというよりは、明子によって提示された話を手がかりにして、そこに含まれている複雑な、種々な条件や、感情を探るのであった。  東海道線を走る夜おそい汽笛がうしろの山に響いた。焚火のはじけるのよりほかにはもの音ひとつないこの部屋の中に、疾走してゆく車輪の音響が、汽車の長さだけ伝わって遠くなってゆく。それが微かになって消えてゆくと、波の打ち寄せる音が、海岸へ真向いになっているこの家の窓へ、いっぱいに円みをもった激しさで聞えてくるのであった。  明子は暖炉に大きな丸木をくべた。薪はぱちぱちとはじけてすぐ燃えつき、めらめらと揺れながら二人の顔を赤く照らした。 「だけどね、明子さん。」  岸子は、又二人に戻るというように、表情を解いて、 「あなた、広介さんと別れて、あとはどうする? 独りでいられる?」  明子は、はっとしたように顔を上げた。そしてやり場なく目を反らした。 「さて、困った。」  と、明子ははにかんだ気持をふざけた言葉で蔽うた。はにかむ気持は、自分の力んだ考え方の中に取り残した問題、つまり虚を衝かれて慌てる、そんな気持であった。しかも、自分たちのように感情の生活を尊重しなければならぬ人間にとって、重大な問題ではないか。そのことがはずかしかった。 「そうね。やっぱりひとりではいられまいな。」 「ね、そうでしょう。わたしもそう思うわ。あなたは、独りでいられる性の人じゃないわ。ねえ。」  岸子は、自分の感情もそこに含めるように、ねえ、と力を入れた。明子は困惑した弱さで、 「独りでいて干からびるのは堪らないな。つまり感情的にもよ。」 「そうよ。そうよ。だけど、あなた方が一緒にいていろいろと打つかるものを感じるのはよく解るわ。例えば、私自身にしても、ずっと一緒にいたら、やっぱり辛い思いをしたろうと思うな。」  岸子は、ずばりと言った。明子は刺されたような衝撃で顔を上げた。明子は自分の人知れぬ残酷な希望を、小刀で刺して、どうじゃ、と指し示された気持であった。そして同時にそれは、岸子が、中沢との結婚生活における自分の、強いられた現在の不幸を深く胸の中にたゝみ込んで、彼への愛情を貪婪に追求しているのを語るものであった。  ピポウ、と鳴く鳩時計が、森閑とした周囲の静かさをこめて二時を打った。また汽車が通っている。ごとごとごとごとといつまでも。    三  明子は蔓もどきを広介の部屋の床の間に挿した。行一と二つ違いの四つになる徹子は、 「とこ、いってたの。」  と、濁りのない片言で言って母や兄を見上げたが、留守だったことを格別感じてもいないですぐ兄と遊び始めた。  明子は祖母のお豊に留守中の礼を簡単に言って二階へ上った。鼻の高いこじんまりとしたお豊の顔に、妙に憂わしげな、それでいて薄情な表情を見て、明子はこちん、と突き当るものを感じたのだが、わざと無視するようにして自分の仕事部屋へ入ってしまった。  二日離れていた兄妹は、それでも土産の玩具など出し合って、なかなか寝ようとしないらしい。お豊の疳性な声がそれをせき立てている。子供を寝かしてから行けばいゝのに、と明子は、風呂へ行った女中のことをいらいらと思った。  お豊は明子の実の祖母であった。それだけに遠慮はないのだった。もう七十五歳という年齢だったが丈夫なのを幸いにして、明子は子供を任せていた。然し任せているという責任はやはり明子にかえってくるわけで、さっきのようなこちんと突き当る表情も度々であった。無理も無いと思うこともしばしばありながら、中味の何も無いくせに気ばかり強いお豊の性格にやはり拘泥して反撥した。結局その気の強さを利用しているような気もするのだったが、お豊の感情を無視しようとする明子の気持には、そういう自分のお豊へ対する気兼ねなどをあまり認めようとしない広介への反撥すら加わっていた。 「さあさ、早く、寝んね寝んね。おばあちゃんも眠いよ。」  如何にも顔をしかめて、苛ら立っているらしい声であった。明子はとんとんとんと梯子段を降りた。子供へは優しく、 「さあ、どうしたの。もうおそいでしょう。」と座敷へ入って行った。 「母ちゃんとねんね。」  徹子は早速遠慮がちな、媚びた顔で首を曲げた。 「僕とだよ、母ちゃんは。」  行一はわざと妹をからかって声の調子を変える。すると女の子らしくすぐ鼻声を出して妹は手を振り上げる。 「よしよし、じゃ、まん中ね。」  小さい布団の二つ並べてあるまん中に横になり、こっち向いて、こっち向いて、というのに両方へ手をかけることでなだめて歌ってやった。 「わたしじゃ、言うことをきかんもん。」  お豊はくすん、と洟水をすゝって、「なかなかどうして、親でなけりゃ。」と仕様ことなしの独り言で床に入った。  明子は子守歌を歌いながら別のことを考えていた。国府津で岸子とも話合いながらやはり未解決のまゝに残っている問題に苦しんでいるために、現在の明子にはこういう家庭的な、些細なこともすぐそれと結びついて、強く考えられるのであった。未解決なものを持っているので、子供への愛情にまでも素直に入ってゆけないのではないかしら、と。  豆電灯の小暗い灯りの中で、とんとんとろり、と歌いながら考えていたが、いつか自分の気も鎮めるように、その歌を調子よく張り上げていた。   たぬきも、おいたはやめにして——  声を高く歌うと、そのリズムにさそわれるように、明子の声が慄えて、鼻の奥がしゅうん、として来るのであった。彼女はそのまゝ慄える声で、ねる子の、お守りの腹つゞみ、と低い調子へゆっくりとつゞけていった。  広介は夜更けて帰って来た。自動車の走ってゆく音だけがするようになった静かな表通りに、大股に忙しげに、カタ、カタ、カタ、と足音を響かせてくる。それは広介の足音に違いないのであった。明子は広介の足音をまだそれが表通りにある時から聞き分けた。彼女はそれを、殊更に意味を籠めて広介に言ったことがある。 「始終、始終、待っている証拠ね。」  と、言えば、 「そうかい?」  と、どうだか、という意味で笑うのであった。そして、いつも時間に構わない自分の癖を又言い出されない用心も含めて。 「おかえんなさい。」  がらっと戸の開いた玄関へ明子は梯子段の上から覗くようにして声をかけた。自分の留守をしたことをそれで補うようにはしゃいだ声であった。  返事が無かった。明子は敏感にそれを感じ目を据えた。広介は気負っているときの癖で息を荒くして二階へ上ってきたが、明子の顔を見ようとせずに、自分の机の前に行って袂の中のものなどを出した。蔓もどきを見つけて、 「どうしたんだ。これ。」  と調子は荒かった。 「お土産よ、国府津の山で折ってきたの。」  言葉づかいに柔かさを意識しながら、やっぱり明子のもの言いにはそれにそぐわない上ずったものがあった。  広介はそれに答えず、明子にうしろを向けて机の前に掛けてしまった。  あゝあ、と明子は思った。自分が二日家を空けたことがそんなにいけないのなら、どうでもしてくれ、そういう気だった。彼女はものうく隣りの自分の部屋へ入った。 「なんだ。」  と、それをなじる広介の声が尖っていた。 「だって、あなたが厭に黙っているんですもの。」 「俺が黙っていれば、お前もものを言わないのか。」 「そういうわけじゃないけど、おもしろくないじゃないの。人が折角お土産持って帰って来たのに。」 「おもしろくないさ。俺だっておもしろくないよ。」 「どうしたのよ。そんなに私の国府津へ行ったのが悪いの。」 「国府津へ行ったのが悪いって言ってるんじゃないんだ。」  そう言ってから、「そこで言っていないで、こっちへ出て来たらいゝじゃないか。」と、怒鳴った。  明子が広介の顔を正面から見つめるような態度で広介の部屋へ入ってゆくと、待ち兼ねていたという風に広介は椅子ごと身体を廻した。 「なんだ、あの出てゆく時の態度は。一言の断りもなしに、さも俺は俺だというように人のことなどすっかり無視しとるじゃないか。」  広介の顔が蒼くなっていた。明子は少し意外であった。明子は勿論自分の女房的なものにいつもこだわっているが、彼女の行動が広介にそれほど拘束されているわけではなかった。広介はむしろ彼女の独り歩きを時には好い気持でさえ眺めていた。彼女はそれを知っていた。  明子はその時の広介の感情を見透すように、 「そんなこと、今頃言うなんて、卑怯よ。」  と意地悪く言った。つゞけて、 「あなたは、あの晩永見さんとどこかへ遊びに行く筈だったんだ。それが、永見さんが来ないので、その当ての外れた気持で私の態度まで実際以上に悪く取ったのよ。」 「違う。」  と、広介ががんと首を振った。  明子は広介が、たとえその時はそうであっても、彼女への怒りのために、すっかり違うように思ってしまっているのを知っていた。彼が、がんとして首を振るのはその強さなのも知っていた。彼女は投げるように、よく考えてごらんなさい、と言い、若しも違うならば、何故彼女だけ岸子の家に残して先に帰ったのだ、と、元日の行動を引き合いに出すのであった。 「違う。」と又、広介は首を振った。  出掛けるという時、明子は二階へ上ってくると、いきなり広介の部屋の隅を斜かいに畳を擦って自分の部屋へはいって行った。ぽかんとあっけにとられている広介に、あとから上って来た岸子が、「国府津へ行くのよ。」と執りなすように言い、明子はそのことでは決して一言せず、たゞ行くについての支度のことだけを言った。そんな不自然な気負いが堪らないのだ。広介はそう言うのであった。明子は自分でも知っていた。鬱積している日頃の反発がそこに出ていたことを。突きつめてゆけば、それも結局は自分から女房的になっていることの裏返されたものであることを。彼女はそれがまた口惜しいのであった。そのことのために彼女は充血してゆくように腹が立ってきた。  広介が、黙っている明子に勝目な挑戦をするように、 「俺だって、感情があるんだから、お前がその時どんな気でいたか分らないことはないんだ。」 「勿論、そうだろうさ。その代り私だって分るさ。」  すると、広介がいきなり大声で喚いた。 「貴様が分ればどうだって言うんだ。」 「大きな声を出すのお止しなさいよ。いつでもそれで私を負かそうとするのね。」  明子は声調の変ってくるのを押えていた。 「そうさ。」  広介は思い切りの侮蔑をこめて、 「俺はお前のように利口じゃないんだ。人の思惑なんか一々考えていられるか。そういうお前がだな、よくも正月のような時に家を空けられたよ。」  正月は、儀礼の無い我々の生活にも、やはり思い立って訪ねてくれる人もあることを言って、そういういわば庶民的な雰囲気を無視して独りで旅に出たことを、広介は自分たちの理想的な立場からなじるのであった。  明子はそのことに一言も無かった。 「それは悪かったわ、気がつかなかった。」 「気がつかないんじゃないんだ。人のことをこの頃、生活態度云々でなじるが、お前の方がよっぽど作家主義だぞ。」  二人の争いは又、いつものようにこゝまで来た。  些細な感情のすれ合いが、終りにはお互の生活態度に突き入り、お互の辛辣な人間批判になって燃え立った。これは勿論、妥協の無いこれまでの二人の生活の積極的な善さでもあるのは間違いのないことであったが、この頃は特に甚だしかった。  明子は切り口上で、 「作家主義って、どういう点を言うの。」 「なに言ってるんだ。自分さえ好い作品を書けばいゝっていうこの頃の態度は見え透いているんじゃないか。だから、俺が少し人のために心配などすると、余計なことをすると思っているんだ。」 「違うわよ。勿論今日のような時期だって、みんなのことを考えなければならないのは当り前だわ。然し、私があなたに言うのは違うのよ。あなたが仕事をしなければいけないってことを私は言ってるのよ。」 「そうだよ。俺は仕事をしていないからね。」  決してそれを承認していない癖に言い放って、 「そういうことを、ずばずばと言えるようになったのは、お前がえらくなったのだ。」  明子は拳をじっと握りしめているような興奮で、 「いやなこと言うのね。」 「なに言ってるんだ。自分だってそれを感じているくせに。とにかく俺の留守だった二年足らずのうちにお前はすっかりえらくなったからな。」  皮肉に、自嘲的に言った。 「勿論よ。」  明子は、自信と捨鉢なものとをごっちゃにして叫んだ。煽られた怒りが身体中をかけ廻るようであった。それははけ口を求めて突き上げて来た。彼女はいきなり、自分のかけていた眼鏡を両手で取って、きゅっと逆に捩った。目の悪い彼女のためにようやくの思いで買った彼女たちにとっては上等の眼鏡であった。それはいびつに曲って宙にとんだ。 「馬鹿ッ。」  広介は取り上げて明子を見た。眼鏡をはずした明子の目は吊って広介を睨んでいた。 「馬鹿だなあ。すぐ困るじゃあないか。」  広介は完全に逆になってしまった無残な眼鏡を、原型へ復させようとこゝろみて見た。そうやっていると、広介の怒った気持はじいんとゆるんでいった。 「駄目だよ。仕様がないなあ。」  固く、蒼黒く鬱積してゆく明子のいつもの癖に負ける広介は、却って今日のような明子に愛情の動いてゆくのを感じていた。彼はやっとお互のなごみ合う緒に触れ合った気がするのであった。彼はおどけるように、 「いくら怒ったって、目に見えて廿円も飛んでゆくようなことは俺はしないからね。せいぜいかけ茶碗のひとつ位か、投げてもこわれないと見極めのついた机を引っくりかえす位だね。」  仲なおりの笑いを浮べて言うのだったが、明子は、ぐったりと疲れた身体を火鉢にもたせて、空ろな目を宙に浮かしていた。  二年間の留守中に、私はほんとうに、ひとりで暮らす自由さを味わった。  それは何という悲しいことだったろう。夫を愛していながら、独り暮しの自由さを希ませる矛盾は、女の生活の何処にひそんでいるのであろう。見開いている目に涙が一杯あふれて来た。それを見て、広介は「馬鹿だなア。」  と、言ってその肩を抱いた。    四  大地が春の気配に息吹きはじめると、明子はきまったように過去のある一刻の記憶に立ちかえされた。まだ寒いうちに、ひらめくようにまじってきて、そゝるように頬を吹く風、正確な季節の歩みを先ず見せて萌えてくる木々の新芽、どこかにたゞようている甘い匂い、それらの春の感触が、ある年そこに織り込まれた思いを再び運んできた。春になると明子はこの十年の間、毎年少しずつ変っている生活の中で、そしてそれは明子にとって明子の人生の意義をだんだん深めていると思われる生活の中で、揺すられる甘酸っぱい感情で過去を振りかえった。  それは広介との恋愛で彼女が初めて自己を主張した、苦しく楽しい思い出なのであった。広介と一緒にプロレタリア運動に参加して初めての春は三・一五事件で、生々しい新しい感情の興奮の中で、やはりこれを思い出した。その次の年は救援運動に加わっていて、労働者街に犠牲者の家族を訪ねる道々、またそのあとでは広介が病気で運動から身を退いている時の苦しい立場で井戸端に涙を流しながら、ふと、あゝ春だと、心が悲しく慄えたこともある。広介が検挙された時も丁度この季節で、明子は生まれた許りの徹子を負ぶって警察へ差入れにいった。外は新緑にむせるようで、彼女の感情がぎゅっと圧搾されたこともある。彼女自身困難な情勢の文化運動の中に身をおいていて、幼児二人を抱えている母の感情で経験する闘争の日々の激しさは、それだけ、ふと立ちかえされる遠い思いに、その時は離れて暮す広介への思慕も加わって微笑まれることもあった。  そして去年は、広介が帰って来ていた。明子が病気をして、広介に世話をして貰い、彼女は実感をもって夫に言ったのである。 「ふたありは、ずい分いろんな苦労を、一緒にするねえ。」  春はまためぐって来ていた。  上落合に独りで住んでいる岸子を訪ねて、一人で、暗い静かな横町を散歩した。沈丁花がとおり一杯に高く匂っていた。 「あゝ、この通りには落合では珍しいと言われる位の大きな沈丁花があるのよ。」  明子はそれだけを思い出して言った。 「濃い匂い、ねえ。」  二人はその甘い濃い匂いの中に身をひたしながら、二人の話題に頭を垂れて歩いた。明子が言いつゞけた。 「そのことで、作家の生活が大衆から切りはなされている、と考えるなら間違いだと思うの。立場をどこにおいているかということで大衆との結びつきは説明されるのだと思うの。」 「ふんふん。そうだわ。」 「然しね。そのためには、つまり大衆の生活を描きたいという欲求のためには、生活のことは直接作家にとって問題になるのよ。だって、作品は嘘はつけないでしょう。生活感情というものは、殊に作家のように反応し易い人間にはてき面だと思うのよ。」 「ふんふん。」と岸子はまた深くうなずく。 「ところが今日のように沈潜している時には、私たちを支えるものは、私たちの観念だけであって、あるものは職業作家としての或る程度規定された生活形式でしょう。そこには大衆の生活と違ったものがあるでしょう。そこんとこを如何に埋めてゆくかということが大きな問題だと思うの。」 「そういうこと皆と話し合って見ること必要ねえ、広介さんは何て言ってる。」 「あの人は今、勉強で夢中なの。私の考えているようなことは、あの人に当面した問題ではないらしいの。ところが私は、すぐ書くことと結びついているのでね。」 「小説と評論って、少し違うんだね。根本へ行けば同じなんだけど。」 「そうなの、昔もそれで喧嘩したことがあるの。あの人は荻窪の方へ越そうと言うし、私は絶対に王子を離れないって言ってね。荻窪と王子では生活空気がずい分違うでしょう。もっとも広介は、同盟の事務所があっちだったから、そう言ったんだけど、そして私なんかのおちいり易い経験主義からもお陰で逃れることが出来たけど。」 「とにかく、今日のような時は苦しい時だ、私たちのように書く仕事を持っているから、まだ自分の仕事について考えることが出来るけれど、実際運動をやった連中は、組織と同時に仕事もなくなった感じでずい分苦しいらしい。その点、作家は仕合せなのだけど。」  別れるときは、どちらからもはげましの微笑で肩を叩くようにして別れた。  帰ってゆくと、広介は二階で仕事をしていた。たゞ今、そう言って、唐紙を開けると、「あ。」と答えて顔を上げたが、明子の顔に目を止めて、 「どうしたんだ、難かしい顔をしているね。」  あ、そうか、とまだ岸子との話の中に目を据えている自分に気づいたが、咄嗟に気持を変えることは出来ず、 「うん、今少し岸子さんと話しながら歩いたものだから。」 「なにを?」  と言ったが、広介はもう書きかけの原稿に向き直って、自分の仕事の方に明子を引っぱった。 「ちょっと聞いててくれ、こういうことを書いたんだがね。」  明子もまた自分の感情から抜け出ることが出来ず、浮かぬ顔でそこに坐るのだった。  明子は今年の春は、こういう難かしい顔でいることが多かった。そのためか不思議に、毎年かき立てられる、彼女の春の感情を忘れていた。  そして三月の終りに明子は思い切って、城東区の労働者街へ間を借りた。紫色の油のうねうねと浮いた黒い川のほとりの、工場跡の空地と沼のへりにある長屋の二階であった。六軒続いた家並みのうねっている、かしいだ長屋であった。主人は染色工場へ朝早く通い、女房は駄菓子の箱を並べて、傍らで手袋の内職をしていた。主人によく似た老人が、白いいがくり頭で店先にいつもうずくまっていた。  工場のサイレンで明け、サイレンで暮れる街であった。まっ暗く、しんかんとしてしまう真夜中にもサイレンは高く永く尾を引いて吠えた。明子はその響きに妙な圧迫感をさえ覚えた。  昼の十二時になると、長屋の裏街にある小さな工場から、小さな徒弟工たちが日向ぼっこに出て、猫の子のようにからみ合って戯れていた。油でべとべとになったコール天のズボンや、丸っこい帽子の故か、それはまるで猫の子の感じなのであった。  沼の縁の低い道を歩いていると、黄色い煙が地に落ちて来て、明子は咳き込んだ。煙は決して空だけを蔽うているのではなかった。風の工合で街中が煙に立て籠められるときがあった。  この街で、春の感触は自然の中にはあまり見ることが出来なかった。  或る朝、明子は早く外へ出て見た。自転車で通う職工や、板裏草履の音を立てて急ぐのや、めしやの中で朝飯をかっ込んでいる男たちや、街は、これから始まる作業へ急ぐ支度でせわしかった。  横町から、少し汚れたエプロンをかけ、ショールで顔を蔽うた若い女工が二人急いで出て来た。その足が素足であった。ショールで顔を蔽いながら、足袋をもうはいていない。朝の寒い風をうけて、素足は桃色に新鮮に見えた。  あゝ、春が来た。  明子は初めて、女工の朝の素足にこの労働者街での春を感じた。  この街での生活は、複雑な感想をいっぱいよんだ。朝鮮婦人もいっぱいまじって、買物をしている夕方の通りに、明子は自分もセルの前かけをかけ、朴歯の下駄をはいて、溶け込んで歩いた。斜めになってしまった黒い畳の上で、一人、寝て起きて仕事をした。だが、仕事は彼女に満足した成績では出来上らず、彼女は尚お暗かった。  雨のびしょびしょと降る夜、明子は急に堪えられなくなって、ショールを頭から被り、長いこと円タクを待って、戸塚の家へ帰って来たこともあった。街はだんだん電気の灯で明るくなり、そして我が家に着くと、明子はこんな近くに家があったのかと不思議な気がし、そして改めて、自分の生活とそこの相違を考えるのであった。もっともっと大衆の生活を調べなければならぬ、という気持であった。そして、自分が彼女の過去の生活感情から低い大衆の生活に溺れてしまう要素のあるのも怖ろしいことだった。長屋の雰囲気に慣れてしまうのである。  今年の春を、明子はこのように、暗く苦しんで過ごした。そこをまだすっかり引き上げず、また別の家へ越すつもりで、戸塚の家に帰っている或る日であった。岸子の近所にいる川田正枝が上ずった声でせき込んで入って来た。 「あのね。岸子さんがやられたの。」 「えっ。いつ?」  火鉢の前で明子は腰を立てた。 「今朝なの。」 「何だろう。いやね。」  そして、その次の朝、今度は明子が連れてゆかれた。もう起きていた明子は、 「ちょっと、待ってね。」  と言って、二階へとんとんとん、と昇った。 「私を連れに来たのよ。」 「そうか。」  いつもなかなか起きない広介が、すぐ真剣な表情で頭を上げた。 「困ったね。なんだろう?」 「岸子さんと、一緒のことだろうと思うの。」 「しかし……」  言いさし、あとは黙って、事件への危惧に見合っていた目を、瞬間二人は愛情で燃やした。  階下で、二階の部屋を見たい、と呼ぶ声がする。広介も床を出た。  間もなく、明子は紙と手拭を用意して連れ立った。広介も下駄をつっかけて通りまで送ってくる。  遊んでいる行一がいつものように思い、 「どこへ行くの?」と、追っても来ず、声だけをかけるのだった。徹子が同じように真似てつゞける。明子は振り返って笑いながら手を上げてやった。 「ちょっと、お使い。」    五  四五日経ってから、明子は毎日二階へ出されて書きものをした。  陽はもうキラキラと輝きを増し、窓の向うにはよその邸の庭木が盛り上るような新芽を見せていた。外を歩いている、セルをきた若い女の姿が弾むように見えるのだった。明子は帯の無いだらしなさを厭がり、いつまでも羽織で蔽うていたが、薄い竹の皮草履に、足の裏がべたべたした。  書きものは、ひとつは調べのためのものであったが、もひとつ、特に許可されて、自分の仕事のものを書いていた。丁度その月に約束の書きものがあり、それは経済的にもその年の明子たちの大きな予算の分であったので、はずされると非常な支障になるのだった。  一日々々と深くなってゆく若葉の緑に目を休めては書いた。早く調べを済ますためにその方も書き、仕事のためには静かな時間をねらった。  調べのための書きものをしていると、別の所でやはりそうして書いている筈の岸子へ、心が通うようであった。それは、お互を励まし合う力になっているのを感じる。何かしんとした楽しさであった。そして、自分の仕事を進める気持は、留守の家に安心を得る励みであった。  廊下へ通じる扉が開いて、女中のやす代に負ぶわれて徹子の赤い頬っぺたが、きょろっと明子を見つけた。 「かあちゃん。」  遠慮もなく呼びかける。行一も一緒である。  明子は、そこの黒い姿の他人ばかりの中で、家の者がその扉に現われる度に何かはっと軽い緊張を覚えるのであった。明子は徹子の呼びかけにわざと答えず、室に不似合な子供の声を、袖で蔽う気持だった。  許可を受けたのち、明子は徹子を抱いた。徹子は、母の襟もとに赤くふくれている虫にさゝれたあとを「かいい?」と言って、小さな指で掻いた。やす代は持って来た明子への弁当を開いている。仕事をしている明子の身体を心配している広介の心くばりであった。行一はやゝ遠慮することを覚えて、表情だけで果物をねだった。  明子がそこの生活で、子供を見たい、という欲望は、ときに切実になるのであったが、一緒の姿を、そこに、人々の中に見られていることは複雑な気持で堪え兼ねる感情でもあった。  はじめて行一が面会に来た時のことであった。感情の細かい行一は明子の気持にぴったり反応を見せていて、人中での区切られた、密かな愛情を母親から強く感じ、ホクホクしていた。傍で帰り支度が始められたとき、行一はにやっと笑い、母の耳元へ口を持っていった。母ちゃんのお部屋という話のあとだったので、彼はついこの春、城東の母の間借りの部屋に泊ったことを思い出したのである。  泊ってゆく、と囁いた。  明子は黙って笑いながら行一から身を引いた。笑っているくせに、頭っから行一の提案を取り上げていない表情であった。行一は今までの母の愛情から、すっぽかされた気がしたのであろう。急に拗ねた身振りで欲望を主張し始めた。  明子は行一に構わず事務的に立ち上った。行一は、母のデリケートな気持の変化が分らず、却って逆に動くのであった。顔を赤くふくらし、やす代が取ろうとする腕をふり払って明子にしがみついた。  明子は声に出すことさえ厭で、行一の口を手で塞がん許りに、嶮しい目で見た。そこまでゆくと、行一は突っ放された淋しい白々しさでどこまでも横車を押した。とうとう、明子の恐れていた他所の小父さんの手が行一の肩にかゝった。行一は頭を撫でられて押されながら扉の外へ出て、下唇を突き出しながら、一段々々階段を降りた。見ていた明子は、途中から振り返った行一に、思いつき明るく笑って見せた。涙を一生懸命こらえている行一はその笑い顔に、またすっぽかされた気がしたのであろう。いきなり、目も鼻も口もなくクシャッとしかめて見せ、 「母ちゃんの、馬鹿野郎ッ」と怒鳴った。詰まっていた気が抜けたとみえ、そう言ってからトントントンと階段を駆け降りた。明子はまたわざと明るく笑ったのであった。  今日も明子は、弁当を食べ終ると、間もなく二人の子供たちを帰すのだったが、ちょっとしたことで、今日は明子に初めて厭な感情の余韻が残った。  子供たちがその室を出ると、見張りの都合で明子はすぐ次の訓辞室へ移されなければならなかった。窓はやはり往来へ向って、明子の今までいた室と並んでいる。明子は窓へ立って、いつものように、表へ出て来た子供たちにさよならの挨拶をしてやるのだった。  真下の入口の横の植込みの陰で、徹子はやす代の背中の上から母親の顔を見上げ、さよならを叫んだ。やす代もそこでは人目が無いので、若い娘の感じ易さで、少し悲壮な表情をして頭を下げた。行一も声を張り上げて母を呼んでいる。ところが、彼の視線はいつもの窓に母の姿を待っているのだった。それで尚お一層声を張り上げているのだった。三つ四つ次の窓に明子がいるのを気づかないのである。徹子は焦点を掴んでいる確かさでさよならを言いつゞける。それで行一も負けずに叫ぶのだが、母の姿は出て来ない。 「母ちゃん!」  と行一は身体を折り曲げて叫ぶのだった。明子はやす代に手でそれを示しこちらへ向けさせようとするのだけど、やす代は自分の感傷にいっぱいなのか、どうしてもそれをさとらない。行一が声を張り上げるので、徹子もいつまでもつゞけている。行一は母の出て来ない窓に向って執着し、立ち去れないでいる。やす代はどうしても、明子の手つきをさとらないのだった。明子にしても大きな声を出すわけにはゆかぬし、その窓を動くわけにもゆかぬ。  明子は辛くなり、もう帰れ、という意味に手を振った。やす代はそれは分った。行一はまた身体を振って、かあ、ちゃん、と区切って呼んだが、とうとう明子の顔を見出さず、何か言ってやす代に手を引かれた。歩きながら振り返るのにも、まだついに出て来なかった窓を見上げていた。  子供のことだから、バスにでも乗ってしまえば、もうまぎらされてしまうのであろう、と思いながらも、呼んで呼んで、とうとう母の顔を見なかった行一の気持が、終日明子の胸の上に被さっていた。その夜始めて、明子は肌をさす臭い毛布の下で、堪え難い哀憐の情に泣いた。  或る夕方、広介が面会に来た。明子は、今度始めて、世話をされる身の呑気さと楽しさを味わっていた。広介はまた彼のかつてのこういう時の欲望と経験を思い合せ、最大限に細かく心を配っているのであった。  その時は出盛って来た枇杷の包みをさげて来ていた。見張とも一緒の話の切れ目で、何気なく、だから自信もあるように、広介は言った。 「俺はアパートへ室を借りるよ。」 「どうして?」  咄嗟に出た、それはやはり疑問であった。 「いや、お前はやっぱり一人で、二階の部屋にガン張って仕事をしなければいけない。今度つくづくそう思った。」  明子が居ないため、自然明子の立場に立たせられて、この頃の彼女の希望と不安を理解したのだろうか。明子は、広介の話が明子の側に理由をつけられているので、心がひらけてゆくような嬉しさであったが、あんまり察しが立派すぎるようで理由はもっと他にあるのではないか、と、軽い嫉妬の不安の翳もさすのであった。その感情はおもしろかった。いわゆる邪推という言葉でいわれるそういう感情を経験したのは初めてなのであった。そして何も根拠のないこの不安に、明子はかなり強く掴まれているのに気づき、びっくりした。  然し、広介は独り、一家の中心になって初めて、そこに要求される気組みの逞しさと、自由さとを発見していたのであった。明子の鬱積しているこの頃の生活感情を、始めて理解もしたわけであった。そしてそれは、やはり自分の問題でもあることに気づいたのである。    六  明子は四十日ののちに家に帰った。  もうすっかり夏に入っていた。あらゆるものの色彩が強烈で、それは明子の目に沁みた。明子は、帰ったら先ず、子供二人を連れて何処かへ遊びにゆきたい、ということを思っていた。調べの、一先ず無事に済んだ安心は、ほんとうならば次の仕事への拍車となる性質のものであったが、まず憩えることの嬉しさが先であったのは時代の故であったろうか。  広介は忙しそうな生活をしていた。  広介が一昨年の暮、刑務所から帰って家の中に自分の坐る場所が無い、という意味のことをつくづく言ったことがあった。明子もまたそれに似たような気持を感じたのである。家の中はすっかり広介の生活によって占領されている感じであった。客と話している広介の、高く熱した声がする。自分の部屋が掃除してない、と言って女中を叱っている広介の声がする。客と連れ立って外へ出てゆく広介の足音がする。自分の仕事に勢い込んでいる広介の、まっ直ぐに伸びた身体つき、仕事部屋は新しい本が積まれてゆく。自分の仕事の計画を明子にも語って聞かせるのであったが、明子はそれを一緒に喜んで、彼の計画を元気づける余裕を持たなかった。  広介が、刑務所から帰って、明子の部屋を見て、へえ、なかなか立派な部屋だね、と言い、自分の坐る場所を見出し得なかったのは、実際に、坐る場所の無い感じであったが、勿論これはどちらも多かれ少なかれ通じているものではあったが、明子の場合には、単に坐る場所が無くなったということではなくて、家の中の重心が広介にすっかり移っている感じなのであった。それには作家としての明子の生活の根本が侵蝕されてゆくような不安が伴なっているのであった。広介の意志に関わりなく男と女の一軒の家の中で要求されているものの力でもあった。いつまで、女、女、ということにかゝずらわねばならないのであろう、明子は泣きたい思いで、暗く黙りこくる日が多くなった。  暗く黙りこくっている目は、だから意地悪く鋭くなり、その鋭さは広介の一挙一動に向けられた。以前は二人とも一緒に客と話していたのに、広介の生活に関わりたくないという程のはっきりしたものではなくても何か自分の方から、自分だけ閉じこもる傾向であった。男も女も、みんな彼女の客であったかつての生活を思い出したりした。それは何という、心持の持方の上に大きな相違のあるものであったろう。時に皆と一緒に明子もしゃべっている、そのあとでは決まったように広介だけが当然のように客と出掛けてしまい、明子は残された。何故自分だけが残るものとされているのであろう。これはおかしな疑問であったが、それかと言って、明子の生活が独自に別に拓かれてゆくのには、今の広介との生活では不可能なのであった。  生活の綾の微妙な織りなしで、明子の感情は急角度に一方に傾いていった。鬱積している暗さは、彼女の性格の強さで底光りのするほどの無気味さであった。広介は、それを感じながら、彼はまた現在の自分の仕事への熱意のために、彼は彼のやり方でそれに対抗していた。広介はどこまでも自分の生活を拡げ、そのことで自分の仕事を拡げようとしていた。彼は斟酌なしに先ず行動で身体ごと打つかってゆくという風であった。明子の意地悪な目は、時に広介が腐ってしまうほどの作用をなした。広介はおこった。広介がおこれば、明子も彼の憤りを尤もと思い、伸び伸びと広介の生活を辷らせたいと希うこともあった。明子は自分との矛盾に泣きながら、それを思うのであった。広介を伸び伸びと彼の思うまゝにゆかせるためには、明子は作家としてではなく、別の職業によって金を得なければならなかった。広介は自分の思いつきにはどんどん行動で打つかる性格の男だけに、仕事はしていた。彼の収入もあった。だが明子にしてみれば、広介の計画によって廻されている生活のために、自分の収入が、ちょっとも彼女の計画の方に割り当てられないという不満があった。広介の拡がろう拡がろうとする生活態度のために、明子はいつもつぐないをする方へ廻されている気がするのであった。拡がった生活によって明子が結局、便利な思いをしていることはしばしばなのだが、それが自分自身の計画によって廻されたのではないということが、大きな心理の翳をつくるのである。 「どうです。仕事は出来ていますか。」  友達が聞いていた。 「なんだか、さっぱり仕事をする気が無いのよ。家のやりくりのためにだけ書くような気がして。」  妙に捨てばちな、明子の返事であった。広介は聞きとがめていた。自分の力に不満を持ち、そこから一生懸命計画している仕事を次々に克服してゆこうとしている広介にとって、この明子の態度は不遜なものであった。思い上った太々しさであった。ことごとに当てつけられている明子の不遜な、強さに、広介は負けるのであった。明子の留守の時に、しみじみと、自分がどんなにか明子を生活の友として頼っているかを、見出していた広介であったが、明子のこの頃の暗さの力は堪らなかった。広介は広介で、始終女房に遠慮をしている不便さを感じていた。  どちらもが、負ける、勝っている、という言葉を使った。  なんという夫婦なのだろう。明子は自分でもそう思い、夫の仕事を我がものとして、夫のためになら些細な噂も聞きもらすまい、とするような他所の細君たちを考えた。夫の計画は細君にも同じ計画なのであろう。妻は夫の仕事のために、あらゆるものを用意し、力づけ、ときには甘えて夫をいゝ気にし、共に外へ向って憤慨し、夫を仕事へ駆り立てるのであろう。夫は責任を持ち、強くなり、がむしゃらに仕事をするのであろう。  そう思ってくると、明子は広介が可哀想に思えてくるのであった。生活の綾の陰翳と、人の組み合せのお互に作用する影響は大きいのである。負ける、勝つ、という言葉でお互の生活の根本を主張し合いながら、仕事に熱している男を元気づける程の拡がった余裕もないくせに、甘くない目で水を打っかけることは鋭く、そして性格の強さでじりじりに押しっこをしている。そしてこの闘いの日々の中でお互の、作家という仕事の個性の尊重がこわれてゆくのではないか、という不安にまでなるのであった。それはどちらかが負けるまで続くのではないか、両方から歩みより妥協したところには仕事も休止してしまうのではないか。これは恐ろしい不安であった。  こうした雰囲気の中で、二人の愛情も固くなってゆくのであった。  或る夜、広介は外から帰って来て、明子を散歩に誘った。  黄色いあんどんのついた車をガラガラ引いて、笛を吹いてゆく支那そば屋の通る時刻であった。大通りを、二人は近くの駅まで往復して来た。明子の蒼黒くよどんだ表情は外の風にも、赤味をさしていなかった。  広介が、もういやだというように、 「一緒に散歩しても、ちっともおもしろくないじゃないか。どうしたんだ。一体。」 「あたしだって、ちっともおもしろくないわ。」  広介のついてゆけない冷たさであった。ピーンと鍵のかゝったものがあった。喧嘩はいつものように発展せず、二人は別々に部屋に入ってしまった。  こういう感情にかゝわりなく、明子はすべっこく肥えてゆき、広介はそれに執着した。明子はそこに溌剌としたものを表現することにもまた、一種の闘争を感じていた。そこに心理の上に一人と一人の互に相打つものがひそんでいた。  月のいゝ、明るい晩であった。広介は出掛けていて、二階に明子はひとり窓を開けていた。七月というのに、月の光の故か、寒いような晩であった。階下では、子供たちの寝る支度をするらしく、布団の上をはねまわって叱られている声などが聞えてくる。  じっと自分の鬱積した感情にとぐろを巻いている明子だったが、そうしている明子は、何か自分の身体の内にひそむもののために弾けてゆきそうな焦燥を覚えるのであった。  明子は、すっと、気違染みた動作で立ち上り、階下へ降りて行った。 「行一、ちょっとおいで。」 「なに。母ちゃん。」  行一は蚊帳の中で、まだ眠くもないらしい元気な声を上げた。徹子に見えないようにして手招くと、もう顔中押えた笑いで一杯にしながら、タオル地の寝巻の行一は出て来た。 「なによう、どうするの。」  わざと大人っぽく言う。 「川の方へお月さまを見に行って見よう。」 「へえ、お月さま見に行くの。」  おどけた表情で、急いで、母のあとから下駄をつっかけて来た。  街灯の少ない裏手の方は月の光がまっ蒼に澄んでいて、黒い鮮かな木の影が道に落ちていた。 「お月さま、明るいだろう。」  小さな掌を、自分の掌の中へ握り込んでやり、明子は、小さい行一の感情の中に、自分と同じものを植えつけるようにして言うのであった。 「寒くないかい。」 「うゝん、寒くない。」  明子はそんなことも言いつゝ、行一の肩を抱くようにするのであったが、行一の顔を覗こうとはせず、あくまで大人同士の道連れのように並んで歩いた。  あゝ、この子はもう、母の或る夜の淋しさを打ち消すための道連れになる程になったのであるか。行一との話の傍らで明子の胸の内は、行一をいとおしむのか、我が身をいとおしむのか分らぬのであった。  明子がずんずん歩けば、行一も友達のようにずんずん歩いてくる。行一の言葉に合せ、明子は自分も男の子のような言葉で話を合せた。行一はそういう母を、自分の対手かと思い、昼の遊びのあれこれを、よく聞いてもいない母にして聞かせるのであった。  明子はそれに気づき、自分に薄情なものを感じた。  自分の感情で子供を引きずり出し、子供はそれを知らず喜んでいる。  子供まで、自分の生活にいつしかずるずるに従属させているのではないだろうか? 明子は瞬間戦慄するのであった。  かわいそうに。  明子は、しきりにしゃべる行一に合づちを打ちながら、心の中でおのゝいた。子供まで犠牲にしてはならない。  そして明子は、何故に子供などを引きずり出さねばならないのかと自分に問うて見るのであった。子供に淋しさをまぎらさねばならぬ程、自分の生活は貧弱なのであるか。もっと、もっと、豊富な人生へ突入してゆかねばならないのではないか。そしてそれを、私は欲している。飛躍する感情と、分厚な熱情を人生に、大衆の生活に、求めている。  川べりに月の光は冴えて、水の音さえちろちろと聞えていた。砂利などの積んである道を橋の際まで歩いて来た。橋の上に浴衣をきた男がひとり、ぽつねんと立っているのも如何にも月の夜らしい静けさであった。  月の光が、鉄のらんかんに冷たく鋭く光っている。川の水の上では、それはなめらかに揺れながら、ときどきキラキラッと光って流れていた。 「こゝに少し坐っていよう。」  明子は心の内に慄えるものを鎮めたくて、行一と並んで砂利の上に腰をおろした。 「お月さまは、明るいね。」  明子の指さす空を仰ぐ行一の目にも月が光っている。  あゝ、小ちゃな男の子よ! わたしの傍に喜んで坐っている小ちゃな男の子よ。  明子は、いとしい思いで、足のそばの小石を拾い両手を合せて振りながら、それをさっと両方へ分けて、にぎりこぶしのまゝ行一の前に差し出した。 「どっちに石が入ってる?」  えゝ、と行一は吃驚した笑いで明子を見上げ、意味が分ると、真剣ないたずらさで、ようし、と、両方の母のこぶしを見比べ始めた。 「こっち。」  と彼の指が強く明子の片方の拳を押す。 「あゝ、負けた。こん度は行一よ。」 「ようし。」  幼なく、母のやったとおりを真似て、こみ上げてくる笑いを月に照らさせながら、母の前につき出す。 「こっちかな。」 「ちがいますよ。こっちですよ。」  得意げに、握っていた方の掌をひろげて見せ、また勢いづいて耳の上にまで拳を持ち上げて振っている。  明子の腰の下で砂利の冷たさが浴衣をとおし、肩は白々と月の明りで寒かった。  耳を澄すと、ちろちろと川は絶えず音を立てている。この川は、ちろちろ、ちろちろとどこまでも音を立てながら流れてゆくのである。突き当り、曲り、ゆるく廻って、やがて川は東京市内へ入ってゆく。小さな家のたて込んだ汚い裏を通り、市電の響きに水音を消され、激しい生活の灯を映しながら市中を通り抜けてゆく。やがては両国あたりで大川に流れ込んで海へそゝぐ。そして川はあとからあとから、いつまでも流れをつゞけてゆくのであろう。  時折、警笛の聞えてくる郊外電車は、川のずっと北方を走っていて、これは東京から外へ、川越の方まで行っている。  行一を対手に小石遊びをする明子の、思いをひそめた姿は淋しいものであった。細いうなじから背へ、柔かく丸味をもった行一の姿は、高い月空の下で、小さく、子猿ほどに見えた。    七  水っぽく相貌を変えていた夏は、やがて激しく沈潜していった。空気は乾いてしまい、地上は森閑とするほどであった。強烈なものの上に張りつめているこの静かさは或る無気味さをはらんでいた。  明子のこの頃も丁度そのようであった。広介との日々の擦れ合いの内に、彼女の重く荒れていた気持は次第に白けていった。  いつもあとになって考えて見れば、因は何であったか分らぬようなきっかけで、争いが続いていた。きっかけは、そのような些細な日常の雰囲気の中にあった。従って争いは些細なことに発しながらいつも二人の、生活態度の根本に鋭く切り込み、仕事の本質をつっ突き合った。  明子は或る時、女ばかりの文学の座談会に出席したことがある。夫婦とも仕事をしてる場合に、その立場が違ったときはどうするかという問題が出たのであった。 「柿村さんは、いつも御夫婦で意見が一致していらっしゃいますね。」  司会者をしているその雑誌の編集者が、明子の方へ身体を向けて言った。 「えゝ。」  と、明子は答えたが、その時の一座の妙にしーんとした遠慮がちな、人々の態度やまなざしが、彼女の答えをぎごちなく止めてしまった。明子はこの時のことを思い出すことがあった。それは苦笑いで思い捨てる程度のものであったが、世の夫婦とはそれ位のものなのであろうか。とそこへ思いが至れば明子は瞬間、難かしい表情で考えることもあった。夫婦で意見が一致している、と言われたことが、何か明子に気の毒なことででもあったかのような一座の空気なのであった。それについて質問したり、触れたりすることも出来ず、顔さえ見ないでいてやる、という風なものであった。明子はその時、この雰囲気に押されてどぎまぎとした。それは、「夫唱婦随」の観念が、仕事をしている女たちの中にもこのようにも染込んでいることを、逆の形で証明するものであった。両方とも仕事をしている場合の夫婦ならば尚おのこと、根本的な立場に一致の無い筈はあり得ないであろうことが、こんなにも簡単に、卑俗にしか理解されていないのだろうか。妥協なしに生きるために、些細なこともごまかし得ず、ある時は励まし合いある時は争い、ある時は夫婦なればこそむき出しのやっつけで否定もしたりする生活の内部は、仕事をしている女の人にさえ理解されていないのだろうか。明子はそう思い、腹立たしくなることさえあった。  このように思う明子であったが、お互の理想は変らぬとはいえ、毎日の家の中で自己を押し出す欲望が強くなり、摩擦が激しくなるにつれて、彼女は疲れて来たのである。同時に、それは避けることの出来ぬ矛盾ではないかとも感じられて来た。摩擦に費す労力を無駄なものにも思い始めて来た。  徹夜の仕事で疲れた広介が階下へ降りて、女中のやす代や祖母のお豊に疳を立てている。これも二階で仕事をしている明子は、机の前にいてそれを聞き、何か自分が降りて行かねばならぬ気持で落ちつかなくなる。そわそわしているうちに、神経のたっている彼女は、何故いつも自分が広介にばかり気を費わねばならぬのかと腹が立って来たりした。そう判然としている場合だけでなく、疲れているために、何でもないお互の言葉が反射作用的に細かく尖っていったり、愛情を求める広介に対して、明子の感情が溶けこまなかったり、それは日常的であるだけに取立てて言えぬ空気のようなものであった。が、それだけに身を憩わせる場所の無い息苦しさにも感じられるのであった。  広介がいつか、プライベートな気安さでつくづく言うのであった。 「仕事をし上げて身体がくたびれ切っているときには、何にもかにも無く寝かして貰えたらと思うよ。」  大きな子供の甘えを見せながら、そして自分のそういう甘えが我儘と思われるのを気づかうように、 「実際、しんからの休息というものはこの家の中には無いようなものだからね。自分の仕事が済んだって、片方が仕事をしていりゃ、神経は解けやしないよ。」 「ほんとうね。」  今は明子はおとなしくうなずくのであった。素直なその同意の中に、投げやりな冷たさがふくまれるようになっていた。  友達がある時、明子に気軽に言った。 「この頃は夫婦喧嘩はどうです?」 「そうね、何だかもうこの頃じゃお互に喧嘩の因を認め合っているようで……」  そう言いはじめた明子の言葉は自嘲であったが、その調子に彼女自身引きずられるように、いっきにずばずばと言い続けるのであった。 「それだけ喧嘩は進展しているのかも知れない。そうだとすると結果はどういうことになりますかね。」 「え?」と対手は不可解な顔をした。明子は自分でもその時ふと気づいたように、淋しい顔で笑って首を振り、ごまかしてしまったのであった。  そうかと思うと或る朝はまた、ほの白く解きほぐれている明子の顔を見て広介が、その頬を指で突くようにして、 「こういう優しさでは、仕事が出来ないのかなあ。」  嘆息するように言うのであった。明子ははにかんだ微笑で目を反らしながら、 「この優しさが私の本質なのよ。ところがこの優しさにはいろんなおまけが要求されるのでねえ。」  広介は、それに何か言えば折角の彼女の優しさがこわれてしまいそうな気がし、明子の顔をじっと見たまゝ微笑していた。広介はそういう明子を得難いものに思う自分を感じるのであった。この優しさが普通の女房であったら、自分はこれほど美しく感じるであろうか、という風な気がしているのであった。  こういう落ちつかない気分の中で、明子の、仕事のために期待する自分への欲望は拡がってゆき、その情熱に対して力の伴なわぬもどかしさは相変らず続いていた。この気持の中にはいつか広介のことはなおざりにされていた。これは広介も同じであったかも知れぬ。自分の成長を希う気持は対手との繋りではなされていなかった。  強烈に輝いている空に遠く目をやりながら、二階の窓に立って明子は憧憬れるようにつぶやいていた。自分の小ささが堪らぬというように、それを振い落すような調子であった。傍らに広介がいた。 「外国へでも行ってみたいなア。岸子さんとでも行ったなら、安心だろうし面白いだろうねえ。」  広介が瞬間的な軽い反撥も交えて、 「駄目さア。作家同士で行ったって印象や観方の独自性や溌剌さが無くなるよ。自分が知らぬ間に遠慮しあってるからね。」  明子はこの頃自分たち夫婦の生活に対する疑問が言い当てられたように広介の言葉を鋭く感じ、返事はせずに、そうか、と自分にうなずくのであった。  ——それならば、二人の生活の矛盾は、やっぱり本質的なものなのであろう——と。    八  岸子はまだ帰って来なかった。岸子の差入れの世話をしている川田正枝がときどき岸子の消息を伝えて来た。岸子が、いろいろな努力で身体を大切にしている、ということで明子たちはせめて安心するより他しようがなかった。岸子は自分の不自由の生活の中で、夫の中沢への差入れなども細々と正枝に頼んでいるのであった。それはほんとうに細々と、ふとんのえりのことからタオルのことまで気づかっていた。  そういう岸子の愛情を見ると、明子は自分の、否定へ否定へと動く感情を淋しく眺めるのであった。あるときは女友達からきた手紙を読んで、激しく心が動かされるのであった。その友達はやはり夫婦で同じ仕事を持っている画家であった。明子はその女友達が、自分個人の仕事としてだけでなく、大衆のものとして、子供を負ぶいながら活動していたのを知っていた。手紙は小さな字で詰めて書いてあった。  明子が四十日間子供と離れていたことを、自分も子供のある思いやりでねぎらっていた。そして自然に自分のことに入ってゆき、熱情を伝えていた。 最近幾分落ちついた自分を見出すまではいつもセカセカした、或いはイライラした苦しい時を持っていたので、結局何も出来ない状態に止まっていました。 私が何かをやろうとする時に、余りに沢山の未征服のものを自分の中に見、それを征服するためにもがいていたからです。こゝに来てからもう半年近くになるのですが、そしてこゝでは比較的焦燥は少なかったのですが、今やっとある程度に風景画を描けるようになりました。以前は風景を愛し得るゆとりも気持の上に無かったのですが、もひとつ、人通りの少ない所はこわいという気持と闘わねばならないためにいつも回避していたのです。  明子は、何という可愛い人なのであろうと、比較的豊かな家に育ちながら、純真に、大衆の生活に入っているその女友達の告白を微笑で読んでいった。彼女は、自分をこわがらせるものを未だ完全に克服していないが、村のおばさんや娘さんに多くのものを学びながら描いている、と続けていた。それは風景の美しさが都会の貧しい者にどれだけ欲しられているかを気づいているためだ、と書いていた。 然し私はまだ人間を征服していません。今一人の鋳物工を描いていますが、彼の持っているものを感じながら、私はそれを自分の絵に現わし得ません。口惜しいことですが、今私はそのことで敗北の中にいます。  彼女はやはり芸術家としての自分の力の足りなさを言って、それがやはり夫との関係で自分を苦しめているのを書いているのであった。彼女は夫の名を書いて、 私を常に苛立たせ、いつも敗北的な感情を強く感じさせる一つのものは彼です。貴女方のお二人の生活を伺い度いといつも考えるのですが、そして私の考えは間ちがっていると思うのですが、いつもこの感情で苦しむのです。それは私どもは以前は、油絵に於ては余りへだたりが無かったのです。だからお互の低さは可成りはっきり個性的な(おかしな言い様ですが)ものを示していました。然し帰国以来、私は二度目のお産前後のぶらぶら期間を長く持っている間に、彼は今までのレベルを抜いて進んでゆきました。私がかつて自分に認めていた個性的な好さというものは、彼の作品との比較の前では全く無価値なものになってゆきました。それ以後私は何を描いても発表する価値も、売りにゆく価値も自分に見つけられなくなったのです。その悲しさは、相手に対する怒りになるのです。片方ではひねくれ、片方では当り散らしになるのです。私は今度こそ、今度こそ、といつも相手のレベルに達したか、それより上に出たであろうと描き、そして並べて見ていつもおくれをとっている自分を見出すのです。このことは、私の制作的な刺激になって夫の研究のあとを学ぼうとする気持より先に、嫉妬の感情になってしまうのです。  明子は読みゆきながら、いつか泣いているのであった。  可哀そうに、可哀そうに、というつぶやきが明子の慄える唇から洩れていた。いろいろな女の悲しみがある、と明子は思う。しかしまだしもこの友達の悲しみには開けている窓がある。夫の仕事に対して妻が嫉妬をするということは、それは開かれている窓に違いない。夫の仕事に嫉妬さえ持ち得ない女は多い。自分の仕事の無い女が大多数なのだから、と明子は思うのであった。夫に対して芸術上の嫉妬を持つということ、それは彼女が手紙にも書いているように、それは囚われることから抜ける努力をすること以外にみちは無いのであろう。夫が悪いのでもないし、そうかといって彼女を責めることがどうして出来よう。そしてやっぱりこの感情は現実的な強さを以て彼女を苦しめているのであろう。  女の世界にはこういう苦しみもあるのか、と明子は初めて知った一つの事実に慄然とするほどであった。明子の、女友達をいとおしむ感情は、女性全体の運命を思う強さで、明子の胸に残るのであった。  行一と徹子は、親たちのこのような関係を知る筈もなく、汗と泥で顔をまっ黒にしながら毎日街角で遊んでいた。 「行ってやァす。」「たァ今。」と、充分口の廻らぬ徹子は独特の挨拶を、外と家の出這入りに必ず玄関に響かせていた。赤い、つんつるてんのあっぱっぱをきて、女の子らしく尻を後に突き出した格好で、小きざみな下駄音を立てて露路を入って来る。明子の居る茶の間からすだれ越しにそれが見えている。徹子は敷居を越すのがまだちょっと困難で、入口の柱に掴まって跨ぐ。そして家の者の返事を要求するように、 「たァ今。」と大きな口を開く。  明子はそれを見ていて、ふっと突き上げてくるものを感じさせられるのであった。 「あんな小ちゃな者が……」と、徹子を見つめながら、 「我が家だと思って帰って来るんだねえ。」  独り言のように言った。傍らのお豊が明子の言葉をたゞそれだけの意味にとって軽く笑う。  横町を塞ぐように近所から寄り集まって来て遊んでいる子供たちは、みんなそれぞれに、お父つぁん、おっ母さんを、そして我が家を持っているのだ。そのように行一と徹子にとっても、広介と明子はまがうべくもない父と母であり、この家は他の何処にも無い唯一の我が家なのであろう。当り前のことなのだが、子供たちの無心な、絶対な信頼を見ていると、瞬間に明子は、自分と子供との関係がそこだけ抉り抜いて見せつけられたような、今更我が身を振り返る思いを抱かせられるのであった。子供たちが生まれた当時に明子は、絶対な繋りを以て或る日から忽然と我が家の一員になった赤ん坊を見て、理屈としては解り切ったことなのだが、感情としては何だか不思議な気がときどきするのであった。 「いったいお前は、何処から来たの。」  明子は愛撫の言葉で、その遠慮もなく泣き立てる赤ん坊によく呟いたものであった。  このような気持は今は、対手の子供にすでに意識と感情があるということで明子を一層デリケートに揺ぶるのであった。家庭に対し、広介との関係に対して複雑なものを抱いているこの頃の明子にとってはそれは二重のものを喚んだ。  八月になって、子供たちは省線電車のつゞいているC海岸へ行くことになった。広介の体質を受けて子供たちのそれも弱かった。今年は成るべく海へやるように、と、かゝりつけの医師にすすめられている位なのであった。然し初め明子はそれさえ乗り気になって都合つけるだけの気力もなかった。 「早く海へやってしまわなくちゃ仕様が無い。」  ときに広介が父らしい責任と、半ば男親の煩わしさでそう言うと、明子は一種の反撥で冷淡な顔をした。  広介はそのためと言って無理な金の工面をして来た。明子は自分の身がまた縛られるという風にそれを感じ、広介のことを、この頃の明子の考えは彼にどのように響いているのだろうか、と疑うのだった。  子供たちは初めて海へゆくのであった。明子は支度のために割り当てた若干の金を持って、小さな海水着などを買いにデパートへ出掛けて行った。むんとした人いきれの圧迫と、そわそわした落ちつきの無さをいつも感じるデパートなのであったが、明子はやはり子供たちのものはなるべく自分で見たてたい世の常の母親の感情を持っていたが、そのことも今は自身への反抗として意識せられ、明子はデパートの人ごみの間を、虚無的な表情で人に打つかって歩いた。それでいていつか、正札と色合いを選ってその山と積まれている子供海水着を引きずり出し、かき廻して、鼻に汗をかいている自分を発見する。すると明子は、はゝ男はこういう下劣な興奮はしないだろう、そう思い、  ——やっぱり自分の、くだらぬもの、古いもの、弱いものに対する反撥なのだ——  と、選る手をやめて二三歩あるき出すのであった。奥さんや、おかみさんや、化粧した娘たちが左右から明子に打つかり、擦れ違い、押しのけて行った。彼女たちもまた、出来る限りでの善き支度を、我が子のために探しているのであろう。明子は売り場の煽情的な陳列の下で、女たちを眺めていた。    九 「只今。」  明子は、一日海水につかった薄赤い顔で帰って来た。友達が来ているらしい三四足の男下駄をよけて隅から上った。 「あゝ。」  広介の声が座敷からして、「どうだった?」 「うん。」気楽な曖昧さで、「まあ危なげの無いだけが取り柄ね。海って感じはしないみたいだけど。」  友達は皆な懇意な連中だった。海は先日広介が下見をして部屋を借りて来たのである。  子供と年寄りが居ない家の中は、何だか空家のような感じに変っていた。やす代も子供たちに従いて行っているので、箪笥の上なども埃でまっ白で、若い男たちばかり煙草の吸い殻と茶のみ茶碗とを散らかしている部屋の空気は、子供たちの世話をして来た明子の気持を粗っぽく開放するようであった。明子も男たちの間に坐って煙草を吸った。みんな同じ仕事の仲間なので文学の話が弾んでいる。明子も一緒に、小鼻をふくらませるようなせき込んだ調子で話の中に入るのだった。  やがて広介は、友達と一緒に夜の街へ出て行った。それをおくり出して明子は、足音軽く二階へ上った。如何にも男ひとり居た部屋らしくベッドの布団はめくり上げたまゝで、机の上には茶道具がよごれたまゝ乾いていた。  明子はベッドに脱ぎすててある広介の寝巻の上にごろりと身を投げかけてのびのびと足を伸ばした。寝巻の体臭を軽く意識しながら、思い深く天井を見上げた。子供たちはもう寝たかな、心の半分ではそんなことを思いながら、書生のようなはずみ方で仕事のことを考えた。暫くすると、頭の下に組んでいた腕を解いて、ぴしゃりと片方の太腕の蚊を叩いて起き上った。それから広介の机の上の茶道具などをす早く片づけてとんとんとんと梯子段を駆け下りた。流行歌など唄いながら、流し下で勢いよく水道の栓をねじり、水をはねかして洗いものをした。家の中を脛を出して一人で駆け廻れるような気持であった。甘えた荒っぽさであった。  なかなかおもしろい、と明子は思った。  その夜、 「ふたアりきりねえ。」 「ずい分久しぶり……」 「うん。」  そういうときの広介にしては珍しく自分の考えの中から返事をした。それから明子の気持に甘えた気の好さで、 「ねえ明子、お前によく似た女がいるよ。」  その女の顔を見つめたような言い方をした。 「そうお。」 「いや、俺がそう思うだけじゃないんだ。一緒に行ったみんながそう言うんだ。明子さんに似てる、似てるって言うんだ。顔が似てるというだけでなく、性格までどうも似てるらしいよ。変にこうね、ものを呑みこんでいながら自分じゃ半分だけしか言わない、というようなところね。そういうところがあるだろう、明子に。そういうところがそっくりなんだ。」  広介は、ものを説明するときの彼の熱心さで、明子に自分の見た女を伝えようとした。 「そうお。」  明子はある傲った安心で広介の話を聞いてやるのだった。広介も釣り込まれ、 「どうも俺の目につく女って、そんな女ばかりらしいよ。なかなか生意気なところもありながら控え目でね……」  女の話を二人ですることはこれまでも始終あったことだった。二人はまだ若い頃から、通りすがりの銭湯から出て来た美人を、浮世絵風だ、と感嘆しながら暫く従いて歩いたりした。然し明子はその夜の広介の話を、この頃の彼の生活空気に嫌いなもののあるのと結びつけて、いつか妙に突っ放して聞いていた。  翌る朝も、階下に誰も居ない家は明子に新鮮なものを感じさせた。  明子は階下から大きな声で広介の名を呼び捨てにして、朝飯を知らせたりした。二人っきりの食膳で、 「子供の居ない家っておもしろいわね。」 「あとで掃除をしなけりゃしようがないね。埃で大変だよ。二階の廊下もどこもざらざらだよ。」  広介は明子の気持を全然理解しないようであった。明子はそれをふっと影がさすように感じた。 「掃除が困ったわね。この部屋だけはしたけど、全部ひとりでなんて厭よ。草臥れちゃってあとで何も出来なくなるもの。」 「まあ、いゝや、ほっとけ。」  と、広介は投げやりな不機嫌さで言った。 「開けっ放しだからねえ、どんどん埃がまい込むんだなあ。とてもひどいから。」  二人の食卓の空気はたがい違いになっていった。  明子のかわゆく揺れた気持はそのまゝ花も咲かせられず止まった。  二三日が経った。明子は、片仮名の読める行一に手紙を書いてやった。大きな仮名文字を書きながら、子供のことを思っているのは自分ひとりのような気がしてくるのであった。広介は自分だけの生活に夢中のように見えた。  カアチャンモ、オシゴトヲハヤクシテ、ソチラニマタ、ユキマス。  と書いた。 「父ちゃんからよろしくって書きましたよ。」 「あゝ。」  と次の部屋で広介が答えた。 「お茶を飲まないか。」 「そうね。」  広介は机に腰をかけて仕事をしていた。白い夏の昼の空が窓にひらけて風がおもてから裏へ吹き抜けていた。 「どう? 出来そう。」 「なんだかまとまらない。」  広介はペンをおいて椅子をずらせた。 「暑くなりそうだなあ。」  妙に心もと無さそうに言って空を仰いだ。明子の差し出した茶碗を受けとって、 「明子も早く次の大きな仕事にかゝらなくちゃしようが無いねえ。上半期あまり書かなかったろう。」 「引っぱられたりしたしねえ。」 「それもある。然しやっぱり女の人はどこか男ほどのねばりが無いからね。」 「生活が損だからねえ。」 「勿論そりゃそうだが。然し……」  広介は軽くおどすように、 「俺がどんどん仕事をやり出すようになったら困るよ明子は。いつのまにか俺の仕事に巻きこまれてしまう。がん張らなけりゃ。」 「だから困っているのよ。あなたにも精いっぱい仕事をさせたいし。」 「ふうん。」  広介はゆるやかに考えに沈むような表情をした。そして、 「実際、ものを書く人間が狭い家に二人居るなんて辛い話だからね。どっちからか遠慮してるからね。運動の盛んな時分には俺が始終外に出ていたからやってゆけたんだなあ。」 「どうすればいゝと思う?」 「まあ、別居するより他に方法は無いね。」  広介がこんな風に二人の家庭の困難を語ったことは珍しいのであった。明子は意地悪な笑いを目にふくませて、 「あなたからこんな話するなんて珍しいことね。」 「いや。」  と広介は、まぶしい目で明子を見て、 「この頃少し俺が明子の生活を邪魔しているように思ったからさ。俺は俺でたくさん仕事をしようとしてるしねえ。」 「ほんとうにそうね。別居しか方法はないと私も思っている。」 「然しね。他人じゃあ心から世話をしてくれないんでねえ。別居しても明子に余計世話をかけるようじゃ何にもならんし。」 「私もいゝ細君でいればよかったなア。あなたの助手になってねえ。きっと模範的な奥さんになっていてよ。」  そう言ってしまってから明子は、そゝるような強い視線で広介を捕えるようにして、いいわ、奥さんをお持ちなさい、と囁いた。それには返事をしようとはしなかったが広介は、何か靄の中にでもいるような、甘い焦燥と、哀調の希望とを見せていた。  明子の言葉を自分の膝からそっと転ばすように、広介は椅子を立って、裏の窓へ歩いて行った。帯の間に両手を挟み、遠くの空を眺めてうしろ向きに立った彼の姿は、明子の目を吸いつけた。明子は自分も広介の傍へ寄り添ってゆき、うしろから静かに彼の腰に腕を廻して抱いた。 「どうしたの。」  広介が弱気な微笑で明子を振り返った。 「うゝん。」  明子は鼻を鳴らすようにかぶりを振り、ゆっくり引っぱるように、 「そう言っても、未練があるの。」  と、言った。  広介は明子のそういう甘さを、油断がならぬ、というようににやっと笑って見て、 「どうだか?」  と、からかうような調子で尻上りに言う。明子は下から誘うように広介を見上げて、 「いゝえ。ほんとうなのよ。」  窓の正面に当る一町ほど先に、三四本並んで空に誇るように拡がっている巨きな欅がある。葉の色の次第に変ってゆくのを楽しみにしたこの家の自慢の欅であった。今はもう黒々と茂って、夏の激しさに競っている逞しさであった。  二人はあとは何も言わず暫くその欅を見て立っていた。    十  何かが起りそうな気配であった。広介は明子に恬淡として外へ出て行った。明子もまたそういう広介の態度を感じつゝ、正枝たちを誘って映画などを観に行った。激しく欲するものがありながら、盛り場に映画を見て歩く明子には虚無的な色彩があった。その中で海岸の子供たちの生活費を細かく稼いでは送った。  深い文学書に入るだけの余裕がなくて、外を歩いてくるのだが、家はいつもまっ暗であった。広介は夜がおそかった。  明子はもう、自分たち二人についてあれこれと考えることもあまりしなくなった。  岸子がいつか明子の気持を聞いて言ったことがあった。  二人の矛盾は、両方が作家だという本質的なものに根ざした避けることの出来ない矛盾だろうか? と。 「私もそれを考えるの。昔のように両方でいつもお互の安否をきづかったり、一軒の家で顔を合せることもないような忙しさだったりしたのに比べて、今の暮し方が悪いからだろうかと思ってね。」 「それだと、口惜しいと思うねえ。」  岸子の力の入れ方に対して、明子は投げたような弱さで笑った。 「おそらく両方ねえ。」  所謂「転向時代」の波はいろいろな、微妙な、それでいて空気のような執拗さで人々を浸し始めていた。広介と明子の場合にもそれは言えるのであった。灰色の現実に反抗しよう、自分の力を高めよう、とする彼らの意欲は、それとしては正しさを求めていながら、そのやり方は個人的に流れ、容易なものに妥協してゆきつゝあるのだったろう。明子はそれを自分で感ずることがありながら、ずるずるに押されてゆくのであった。生活の力は恐ろしい。時代の空気は眠っている間にも彼らに呼吸され、彼たちそのものが変色しつゝある。そしてそれを彼らは矯める気力さえ失いかけていた。自分ではそれを知らなかった。自分に反抗するということにだけ目がせばめられて、大きな現実の中でそれを見ることを忘れかけた。  実際運動をしていた頃の広介の生活を、自分の作家生活よりも一段高いものとして大切にしていた頃の明子は、出来る限りの自分の努力を広介のためにした。広介は自身の文学的な情熱を、自分がしない代りに、明子の仕事にかたむけていた。然し今はお互が自分を主張し始めていた。そこには正しいものと、曲げられたものとが外の空気の作用をよんで交り合っていた。  生活は恐ろしい、と言いつゞけ、言いつゞけるこの中で敗北してゆくのを明子は気づかなかった。  四五日後の一夜、明子は床の中でふと目が覚めた。しーんとして、広介はまだ帰っていなかった。おや、と思い、時を計るように通りに耳を澄ました。余程遅いらしく大通りにも自動車の音が絶えている。  帰らないのかしら。  瞬間、すっと沈んでゆくものがあった。外の灯りで白んでいる天井を睨むようにして、帰って来ない広介の行動を想像した。絶えず、大通りに微かに起って近づいてくる彼の足音を意識の底で待ちながら。然し広介は帰って来ない。  さあて、いよいよ何か始まったかな?  胸の苦しくなる程のそわそわとした気持と、変に力んだ、微笑さえ浮んでくる気持とが明子を捕えていた。  朝になってしまったが、広介は帰らなかった。がらんとした家の中はいよいよ空虚なものに感じられた。明子は夜半からの気持を持ちつゞけ、気を張ってさっさと掃除などをした。  だがどうしたのだろう。  明子には広介が女との決定的なことで外泊するとは考えられなかった。喧嘩があって留置されているのではないかしら、という考えが明子を不安にした。その明子に似ているという女の居る喫茶店には、色んな客が来ていて、なかにはその女を目当に何時間もがん張っているのがあることなどを明子は広介から聞いていた。  恋愛のために気の立っている男を明子は考えた。広介はそういう一本気を持っている。明子はそこのところだけは姉のような気で案じた。  明子はその喫茶店を知っている近所の友人を訪ねて、調べに行って貰うことにした。若しも喧嘩で留置されているようなことでもあったら、新聞に出されたりするのではないかしら、と咄嗟に心配になった。かつての左翼運動家のそのような行為は、ジャアナリスティックな題目としてもおもしろがって書くだろう。調べに行ってくれた友達の帰りを待つ間も、明子は個人的な面目だけでない、責任感でそれを心配した。 「行って参りました。」  友達の太い声を玄関に聞いて明子はとんで出て行った。 「どうも恐れ入りました。どうでした。」 「それがねえ、昨夜十時頃一遍来て、一度帰って、それからまた十二時近くに来て、店が閉まうときには帰った、って言うんですがねえ。」  友達はそう言って、最後に帰るときはやはり広介の友達であるAと一緒であったと知らせてくれた。 「ほんとうにどうも。じゃAさんの家に行っちゃったんでしょうか? おかしいのね。うちより遠いのに。」  とにかく電報を打って見ようということになった。もう夜の八時近くであった。 「今まで帰らないなんて、それにしてもおかしいわ。」  近くの郵便局はもう終っているだろうから、ついでもあるし、本局まで行ってやろう、という友達と連れ立って、明子も外へ出た。 「一軒、電話をかけて見るところもありますの。」  友達と並んで歩きながら、明子は一言も、勿論女のことなど言いだしはしないのであったが、そうやって、あれこれと気をつかうことが恥かしい気がしていた。 「何でもなく、話込んでいるんでしょうけど。」  電話をかけたところには広介は来ていなかった。 「やっぱり居りませんの。じゃ、どうぞ、電報をお願いします。」  明子は自働電話のボックスの傍で、友達に五十銭銀貨を頼んだ。 「めったに無いことだもんだから、何だか心配になって……」 「承知しました。じゃ。」    十一  電報の返事は来ず、その夜一時もすでに廻った頃、露地を這入って来たのはいつものとおりの、むしろいつもより静かな広介の足音であった。明子は床を出てゆかなかった。  珍しく忍ぶように梯子段を登って来た。そして、とっつきの自分の部屋の方へははいらずに明子の方へ、狭い廊下を歩いて来た。半間の入口から、部屋いっぱいに敷いてある明子の布団の上へ、そっと身体を伏せ、 「明子、起きてる。」  と顔を寄せた。その頬をすっと擦って、明子は捻るように顔をうしろへ引いた。 「昨日っからどうしたのよ。」 「ごめん。」  広介は擦り抜けた明子の顔を追おうとはせず、 「明子に話があるんだがな、聞いてくれる?」  と、布団に頭を付けたまゝで言った。  部屋の中はまっ暗だった。明子は、妙な一種の期待で、暗闇に目を光らした。広介のそういう、布団に頭を付けたような気持を意地悪く見つめているくせに、顔はその方へ向けようとしなかった。 「話ってなあに。」 「うん。」  広介は顔を上げて、 「広介には女が出来たんだよ。」  言い終ると同時に、明子の顔を両手で押えて彼女の返事を唇で蔽うてしまった。明子は一文字に口を結んで顔を左右に振った。広介がそれを、 「何故?」 「だって。」  明子は強く言って、 「そんな、話じゃあないじゃないの。」 「だっていゝじゃないか。」 「いやよ。それで、昨日はどこへ泊ったの。」 「昨日?」  広介は話の結びつきに気づいて冗談じゃあないというように、 「違うよ。昨日はA君の家に泊ったんだ。そんなことはしないよ。」  立って電灯のスイッチを入れた。二人は明りの中で顔を見合せなかった。自分の部屋へゆく広介を明子は声で追って、 「そして、どうしたの。私に似てるっていうおんな?」 「いま、着物きかえてからね。」  昨日からの緊張した神経の疲労で、広介は甘い悲哀に捉われ始めた。明子との生活の困難を話して、新しい暮し方の希望を、その女に結びつけて申出でたとき、女がそれを承諾したということは、広介に自信を与えると同時に、また、まるで夢のような現実の展開にも感じられていた。広介はほっと溜息を吐いた。  明子は口辺に微笑を浮べて、目を吊っていた。広介に対して妙にそゝられるような愛情が湧いていた。床の中から呼びかけて、 「だけど、その女の人、よく承知をしてね。珍しいようね。きっと広介を好きなのでしょうか。」 「どういうのか。ちっとも口数はきかないんだ。それでいて、アパートを借りる位なら、一軒借りた方がいゝ、なんてぽつんと言い出すんだ。」 「あら、もうそんな話をしたの。」  広介は自分が、彼の気の好さで新しい生活に対して少し先廻りしているものを感じ、顔に血ののぼってくるのを意識しながら、 「だって、俺たちには、もう抽象的な恋愛の進め方なんてないもの。いわば今度の恋愛にしたって、俺の新しい暮しに対する希望がそこに結びつくからこそ、具体的になったんだから。仕事に結びつかないような恋愛なんて、我々にとってはもう有り得ないもの。」  言っているうちに彼の心の中には猛然と希望が湧いてゆきはじめた。自分の仕事を押し進める唯一の力のように、女のことというよりは新しい生活の対手としての女のことが考えられていった。明子はそれを感じ取った。彼の新しい恋愛は彼の仕事に結びついている。そして明子は、彼の仕事の生活にすでに不要になった、という感情が、彼女のこの頃の、独りになりたいという考えにも拘らず、しーんと沈んでいった。気持はそうなのに、言葉にはわざと意地悪く、 「そうすると、広介の恋愛は、生活の安易な方向へ逃げた結果?」 「安易な方向? そうは言えないだろう。この恋愛が、俺の仕事の生活を新しく建て直す条件と一致しているから具体的に浮び上ったものではあるけれど、それがすぐ安易な方向に逃げた結果だということにはならないんじゃないか。結果から言えば、俺が今望んでいるような生活をもたらすものだけれど、出発点は飽くまでも、そういう一緒に暮すことの出来る女に逢った、ということだもの。生活だけが条件としてあったって恋愛にはならないもの。問題は飽くまでも新しい恋愛が、俺に生じた、ということだよ。」  広介は自身の恋愛を、生活の面からだけ便宜的に生じたものと見られたくはないのであった。自分の恋を大切に扱おうとしている広介を明子はねたましく感じた。 「いやに自信があるのね。」  と冷たく言った。 「そういうわけじゃないけど、明子が妙に言うからだよ。」  広介はそう言って明子の胸を抱いた。明子は近々と強い視線を広介に浴びせながら、 「もうもう、私のように、折角仕事を計画しているのに水をぶっかけたり、意地悪く突っついたりする女房ではなくて、広介の世話ばかりしている細君が傍にいるのね。いゝなあ。」 「そんな風に言うのはおよしよ。何だか辛くなってくるから。俺だけが好い気になっているようで。そりゃ明子から見ればそうなんだが、俺の気持にだって、決して好い気にはなり切れないものがあるのを察してくれてもいゝだろう。明子にもいゝ助手になってくれる人があるといゝねえ。」 「とても! 女にそんな助手だけしてくれる人なんて出来る筈はないわ。いゝことよ。私は私でやってゆくから。私は先ず独りになってのびのびと解放されるの。」  いどむように言う明子を、広介ははっと気づいたように絡み込んで、 「解放されるって、どう解放されるの。ね。」 「そんなこと、どうだっていゝじゃありませんか、もうあなたの知ったことじゃあないわ。」 「いや、そんなことないさ。明子の生活に対して俺はやはり責任があるもの。女の人の独り暮しというのはよっぽど気をつけないと妙になってゆくんだ。」  明子は突然一種の寂しさに陥らされた。仕事と一緒にめまぐるしく廻転しながら、廻転するままに次第に笑いを消してゆく自分の顔が見えるような気がしたのである。 「子供たちを明日呼び返して来よう。」  遠くを見るような表情でつぶやいた。聞きとがめて広介が、 「子供たちを呼び返す! そんなことはお止しよ。折角行ったんだから今月いっぱいは向うへおいておやり。あんなに無理をしてやったんだから。」 「だって、私は寂しくて一人ではいられないもの。」  明子は広介の胸に顔をうずめて細い声を出した。 「それは解るが、子供だけは今月は海岸へやっておこうよ。ね、俺だって何も今すぐ別になってしまうわけじゃないんだから。」 「いやよ。わたし、一緒になんか暮していられない。早く別になってしまった方がいゝの。どうせ、あなたは毎日女に逢いにゆくのだろうし、一緒にいられるものではないわ。」 「だってね。だってね。お聞き、明子。」  広介は事の大きさに改めて打《ぶ》つかった困憊《こんぱい》によろめく感じで、燃え立った視線で明子の目を追いながら、 「女が出来た、ということは、もう何と言っても明子には辛いことだろうけれど、だと言って、明子を嫌いになったわけではないでしょう。これまでだって仲よく暮していたんでしょう。それならもう少しこのまゝで暮そう。俺だって新しく家を持つとすれば、その支度のためお金も拵えなければならないしさ。子供たちとも、もいちど一緒に暮したいんだ。子供が月末に海から帰って来たら、九月の半頃まで、半月の間でも一緒に暮そうよ。」  大事になるのが恐ろしくて、そっと辷り出ようとする広介の考えや態度が明子には、子供たちに対する彼の愛情の薄さだと思われた。皮肉な調子で言った。 「ちゃんと考えがまとまっているのねえ。」 「そうじゃあないんだ。子供のこともどうしていゝか、ねえ。明子はどうしたらいゝと思う。明子がどうしても、というのなら一人は僕が連れてゆくが。」 「厭ッ。子供は私が連れています。」  明子は広介が決して子供を連れて行きはしないことを知っているのだったが、知らぬ女との間に、行一や徹子のことを結びつけて考えるだけでも侮辱を覚えて、強く頭を振った。 「女にも子供のことは話したんだ。連れて来ると言えば、承知はするらしいのだが、子供も明子と一緒の方がいゝし、若い女の初めての結婚生活に最初っから子供を預けるのも可哀想だと思ったんだ。」  明子はまた、広介の手を逃れようとして強く身をもがいた。広介の外へ向いている愛情に、嫉妬が初めて感情として彼女の胸を噛んだ。 「いやよ、離して、いやよ……」  明子は争いながら、 「結婚生活って言ったわね。それ、なに。」  広介はばつの悪さに思わず高く笑った。 「だって、やっぱりそうだろう。少なくとも女にとってはそうだよ。」 「あゝ、そうよそうよ。それに間ちがいなし。あゝ、もう私はすっかり籍も変えちゃおうかしら。幸い、あなたは戸主じゃないから子供もみんな私の籍へ入れてしまっていゝでしょう。」 「そんなこと、今すぐ荒立てないで。ねえ、自然に運ぼうよ。」  広介は感情を籠めてそう言っていた。 「ねえ、仕事をしようよ。それ以外に我々の生活は無いんだよ。明子は独りになるときっと仕事が出来るよ。」 「そうね。あゝ、わたしは仕事をしよう。」  ほとばしるように言って、 「別れてからも二人は始終顔を合せるでしょうね。いろんな会合なんかで。」 「その外のところでも逢いたいね。」  広介は意味を含ませてそう言い、明子を愛撫した。明子の気持も今は広介に対して妖しく動いていた。  楽な気持になったらしい広介は、女の写真があるが、見るかと落着いた調子で聞いた。 「見せて。」  明子は言って、疲労のあとの空ろな目で、広介が机の抽出しからそれを持ってくるのを待った。  二枚の写真を渡しながら、 「片方の船の中の方が明子に似てるだろう、大島へ伯母さんと一緒に行った時の写真だそうだ。」 「あら、いゝ娘さんねえ、私の好きな型《タイプ》だわ。」  一枚は馬に乗って、宿屋の浴衣で胸をいっぱいに合せて、初めての乗馬に前こゞみに笑っている写真であった。笑っている口元が自由に優しく開いて、やゝ扁平な顔を薄手の格好のいゝ鼻が引締めていた。華やかではあるが落着いた笑顔であった。自分が男ならやっぱり惚れたであろう。明子はそう思い、広介の肩を叩くような気持になるのであった。こんな女の人に温い世話をして貰ったなら、どんなに気が落ちつくことだろう、そしてそういう世話の出来る女のようであった。広介に対して明子は羨望に似たものをさえ感じた。 「でも私には似てはいないわ、私は反っ歯で、厚手な鼻ですもの。」  二人は腹這いに並んでそれを見ていた。広介が、 「いや、然し似てるんだ。気性が似てるのかも知れないね。」 「しかしこの写真は、決して伯母さんとじゃあないわね。男連れね。」 「いや、伯母さんとだと言っていた。」 「女連れなら写真なんか大抵一緒にとるんじゃないかしら。宿屋の浴衣がけで、この笑っている格好は、どうしてもうつしてくれている人が男ね。」 「そうかしら。」 「それだって、いゝさ。過去が問題じゃあないでしょう。」 「まあ、その連れが男か女かせんさくするのは止めよう。」  今は触れ度くないというように、 「もう、女の写真なんかよそうね。まだこゝは二人の家なんだろう。ねえ、少し眠ろう。」  電灯を消すと、もう朝の光がガラスを紫に染めて、近所が起き出した物音さえし始めていた。 「広介は、とうとう恋愛をしたのね、あゝ羨ましい。」  明子は広介の首に強く手を巻きつけた。    十二  もう朝になっていた故もあって、明子はとうとう眠らなかった。  その日、広介は約束のその日までの短い原稿があって起き出るとそれを書いた。階下にはそれを取りに来ている人が待っていた。 「明子、ちょっと読んでみない。」  気弱に言って明子をかえり見た。明子は淋しい顔をしている。黙ってそれを受け取って読んだ。 「どうだろう? 変かい。」  それに明子はかぶりを振った。広介は捉えどころのないような希望と、胸の折れてゆくような不安とに、若やいだ憂鬱な表情で吐息をついた。  原稿はいつか注文の内容から広介の現在の心境にはいり込んでいた。彼が新しい愛情の発生に矛盾を嘆けば嘆くほど、それは明子の心理を傷つけるものであった。文章の調子は詩のように流露していた。明子はそれを堪えがたい嫉妬で読んだ。自分をおいて、それが発表されることも厭であった。然し階下ではすでに出来上るのを待っている。明子はしゃがれた声で言うのであった。 「私たちの事件がはっきりしないうちに変にゴシップに出されるのは厭よ。気をつけてね。」 「勿論。今知っている範囲以外には話しはしない。」  広介が謙譲な気持でいれば、そのことがまた明子を寂しくさせてゆくのであった。然し明子にしても、自分のこの頃ずっと望んでいた生活がいよいよ実現される期待に心を躍らせないでいるわけではなかった。事態は彼女の夢想したとおりの姿でやって来た。彼女は責任なしに独りになって自分の生活を振り廻すことが出来る。自分の欲望で広介をちっとも傷つけることなく、広介は広介の希望を以て展けてゆくのである。  明子の空想は伸び伸びと歩いている自分の姿に映っていた。次に転宅した家を、すっかり自分の空気で埋めよう、私は気持が大きく逞ましくなり仕事を計画的に進めてゆくだろう、私は下らぬ反撥に自分を縛りつけなくてもよい。私の気持を矮小にするものは私の生活から無くなる。私はすでに誰かに愛されなければならぬ必要は無いのだ。  明子の太々《ふてぶて》しい希望は、広介が新しい生活形式に先ず希みを持っているようにやはり、直接的に家という概念の中に展開された。今度越した家を自分の空気でこしらえようということがまっ先であった。明子はそういう気持で、今日こそ髪を切ろう、と思った。  女の髪の形というものはそれがおしゃれであるなしに拘らず、その人の人柄を敏感に現わしている。女の髪の形には、どんな形にであろうと、当人の神経が通っていないことはない。明子はこの頃自分の髪をもて扱い兼ねていた。暫くは短く切っておさげ止めではさんでいたが、そんな子供っぽさももう陳腐で恥かしかった。それかといってこのごろ流行《はやり》のようにうなじの上に巻くのも厭だし、アイロンを当てたり、耳を片方隠したりする気にもなれないのであった。そういうものには何かそぐわない心持であった。結局うしろに適宜に丸めておくのだが、何のために無愛想な、小さな髷を残しておかねばならないのか、それも明子は、たゞそれを、工場に働く娘さんや、長屋のおかみさん達と一緒になるときのためにだけ保存しておく気であった。然しそういう髪を切っているかいないかという心づかいは、女工さんたちとの関係にとってもたいしたことではないようにこの頃思われてきた。おどおどと、古いものに未練げに気兼ねをしている気持が、曲もない、ちんちくりんの髪の形にみすぼらしく象徴されているようで、明子はますます厭になっていた。  今日こそ、髪を切ろう。と明子は思った。自分の過去をすっぽりと脱ぎ捨てるような気持であった。  広介は仕事あとの身体を、階下の部屋の縁先近くに持出して、仰向きに腕枕をしてうとうととしていた。明子はそういう広介の傍を少しでも離れているのが辛いように、空ろな視線を庭へ流しながら、黙って傍に坐っている。曇った空に夏の夕方の風がふいていた。 「あなたは、今夜も新宿へ行くのでしょう。」  それとなしに尋ねた明子の言葉であったが、広介はそっと寝返りを打って、暫くしてから他人事のように、あゝ、と答えた。 「その時わたしも一緒に出るわ。うちで一人で待っているのは辛いから。そしてわたしはその間に床屋へ行きます。どこかで待ち合せてそして一緒に帰って来ましょうよ。」 「あゝ、そうしよう。床屋へ行っておいで。」 「あたしは、髪を切ってしまうの。」  明子はそっと微笑して広介を見た。 「え、髪を切るの。」広介は吃驚したように顔を向けたが、 「その方がいゝよ。さっぱりして。きっと明子は若くなるよ。」  元気づけるように言った。  明子の黒い太い髪の毛は、その夜、銀色の大鋏でざりッ、ざりッと断ち切られていた。かたまって肩へ落ちてくる毛、変ってゆく姿を鏡の中で見ている明子は、始終心の隅に、今別れて来た広介のことを追っていた。すると、一度も来たことのない明るい床屋の椅子に髪を切っている自分が、想像の中の広介たちに対比されて、ひとりうらぶれて考えられた。明子は本能的に反撥して、髪の形で変ってゆく自分を、より美しく求めて、鏡の中の我が姿を睨むように見つめていた。髪を切ろうと思った初めの気組とは、いつか別のものに変っていった。  ぴっちりと切り揃え、耳のうしろにはさんで頬の方へ廻したような断髪の形は、明子の好みと違っていた。明子は、折柄降り出した小雨の中へ、構わず出て行ったが、ベーラムの匂う髪をいきなり、くしゃくしゃと、うしろにたくしてしまった。人目もなく、飾窓のガラスに自分の姿ばかりを見て歩き、次の床屋の店を探した。盛り場の床屋のことで、職人が明子を派手な種類の女と見ているらしい話しかけの言葉に、彼女も歯切れのいゝ調子でばつを合せた。  そこを出ると、明子は今までの調子のよさとがらりと変ってしまい、陰鬱な表情で歩いた。広介と逢う約束の喫茶店にむかっているのであったが、手入れのされた髪で、自分がすっかり変えられてしまったかのように、呪うように自分自身を感じ、長い着物の袖が厭で、両方のたもとを掴み、目を暗く光らして歩いた。ふと深い考えの繋りもなしに彼女の口に言葉がついて出た。  ——毒には毒をもって——  モダーンに変えてしまった自分の姿を明子は毒に感じた。胸をあふれるように、またしても、  ——毒には毒をもって——    十三  そういう明子の感情だったので、新宿で広介と行き逢って一緒に帰ってからも、二人の間にはそれからそれへと心理の上の折衝が続いていた。その時、永見の声が玄関でした。 「永見さんよ。」  明子は興奮した中で耳敏くそれを聞き止めた。 「ねえ、わたしたちのこと、永見さんには話しておいた方がいゝわね。」  今度の事件について広介の方は語る友を持っている。が、明子の方はいわばひとりっきりなのであった。明子は自分だけ持ち堪えていることが辛くなり、永見の声を聞いた瞬間に、味方を求めるようにそれを言ったのである。それは永見が広介の学生時代から今日までの文学仲間であると同時に、明子と一緒の関係では、彼女たちが恋愛に入る最初から永見がそれを知っている一人だったからでもあった。そして又、広介が階級的な仕事に加わっていってからは、永見も一つの環のつながりの人であった。  そして二人は階下へ降りていった。近所に住んでいる永見は本を借りに来ていた。  いつになく針金のような鋭い挙動で、明子が初めに口を切った。 「ねえ、わたしたちは今度別になるのよ。広介には一緒に暮す女が出来たの。」  永見の顔を見ずにずばずばと言った。 「え、どうしたって?」  永見は突然のことなので、すぐにどうという意見の出しようもなく、先ず聞こうというように、長い胡坐の膝に両手を垂れるようにおいた。広介は明子に代って茶道具などを運んで来たが、 「いや、僕に女が出来たんだ。」  と言った。  明子は二人に背を向けて、庭へ向って立てた膝の上で、そっと唇を噛んだ。  広介は先ず細かに女のことから話し始めていった。ずっとつゞけて、 「そういう風に、僕は今、その女と新しく家を持とうとしている。このことは僕にとってはもう絶対なのだ。だからつまり今度の契機は僕にあるんだ。然し、その根源はね、二人の生活にずっと根差しているんだ。子供や老人もいる狭い家の中で、二人が、一緒にどちらも原稿を書くというような仕事を、しかも相当どちらも激しい量の仕事をやってゆくということは到底出来得ないことなのだ。明子の方が女なので困難の度合が大きく、この頃ではずっと明子が別居を考えていた位なのだ。然し、僕に新しい女が出来て見れば、明子が平静でいないのも無理はないんでね。」  広介は明子に対しては、明子を傷つける結果になることを避ける気持でもあったし、彼女に対する錯雑な愛情などで弱気になっていたが、永見に対しては彼は毅然としていた。それは、永見にだけは話しておこうという彼らの特別の気持からもそうなっているのであったが、明子は聞いていて、ぶるぶると胸が慄えてゆくようであった。 「おい、お茶。」  広介はついでやった湯呑み茶碗を明子にも渡してやりながら、 「明子が今、精神的に打撃を受けていることは、当り前の事なので僕としても辛いんだ。僕としたところで、現在も明子が嫌いなわけでは絶対にないし、これは矛盾しているようだが、僕にとっては本当なのだ。」 「そりゃ、そうだろう。」  と永見が言った。  表も裏も開け放した家の中の話声は、もう更けてしーんとなったあたりへ、外の方まで聞えてゆくようであった。 「わたしたちはね。」  庭に向いたまゝ言い始めた明子の声は、ほとばしりそうになるのを努力して押えているようであった。 「わたしたちはこの十年間をお互に好く暮して来たとおもうのよ。二人ともこゝまで成長したということはそう言えるでしょう。勿論二人の努力であったとおもうわ。それはずい分ひどい努力だったとおもうの。それがね。こゝまで来たとき、二人が一緒に暮してゆけない矛盾を作っていたんだとおもうと、そのことでは、私の詰まっている気持は、どうにも抜け様がないの。」  その感情のまんま、息も詰まってしまいそうな圧迫された声になっていた。 「そんなひどい矛盾ってあるのでしょうか。二人が善くどちらをも伸ばすように暮して来たということが、一定の段階へ来た時、お互に桎梏になっているなんて、どうにも、そのことではわたしは救われない気持なの。こんなひどいことってないもの。この十年はずい分辛かったんですもの。ひととおりのことではなかったんですもの。」  明子は堪えていたが、とうとうぽろぽろっと涙をこぼしていた。話してゆくうちに、十年の自分の一生懸命な姿が、今は我が身ひとつなので、よけいにいとしく思い出された、広介の生活を、いつでも真っ先に立てていた。偶然のように自分が広介より先に作家になってしまっていたが、そのことは却って明子の妻としての心づかいを大きくさせるばかりであった。いつでも家庭的な些事から広介を守ろうとし、彼の俗世間には当てはまらぬような性質も、彼の詩なのだとおもい、純粋に保とうとして努力した。今になって見れば、彼は明子のこの心づかいにさえ反抗しているようなものだ。それは昨日からの彼のいろいろな話の節々に見えているのを明子は感じていた。彼は、例えば友人の細君の可憐なのを言い、ことによると自分が明子に甘えているから、却っていつまでも暢気な気持でいるのかもしれない、ということも言った。  永見は一応提案をして見るというように、 「君の方の恋愛はもう絶対なのかね。もいちど、明子さんと二人の生活を一緒にやるという条件で、計画を考え直して見ることは出来ないのかね。」 「それはもう絶対なんだ。今度の女との関係は、この前の明子のときと同んなじ心理的経過をたどっているんだ。そして僕は、いつも人生の大きな飛躍の契機を恋によってして来たんだ。」  あゝ、それならば、二人一緒の苦しかった十年間を彼はどう考えているのであろう。明子は耳を蔽いたい感情を指先で押しつぶすように堪えていたが、 「いゝえ、わたしももう厭なのです。わたしも、一か八《ばち》かという風に二人の生活を投げてしまっていたのは、いけなかったんだけど、もうわたしもこれ以上はやれなかったの。わたしも自分のことを考えるようになっていたの。」  そう言って指先で涙を落した。    十四  激動が明子を翻弄しはじめた。明子自身、急激に昂まってゆく自分の感情に眼を見張った。それはかつて予想もしないものであった。彼女はもう三日というもの殆ど眠らなかった。食事も通らなかった。彼女の身体はゴムのようになり、いつも大きく目を見開いていた。愛情が強《きつ》く、両方の交錯が急になり、もつれた。広介の出掛けたあとの家に一人でいることなどは到底出来なかった。明子は道々もすがるように広介に話しかけながら一緒に新宿まで出るのであった。そこで若い恋人同士のように両方から見返りながら別れた。広介に話しかけていた熱情は、その瞬間に灰をかぶったように暗澹となり、虚無的に草履を引きずって歩いた。  まっ暗い映画館の人いきれのうしろから、まだそれをでも見ようとする気持のあったことがおかしいというような自嘲した顔つきで画面に見入った。それは「クカラッチヤ」という天然色の映画であった。赤や青の原色が繻子のような光沢をもって動いた。吊った目と、白い歯の光るきつい口をもった黒人の女が、野蛮な強さで激しく首を振って唄った。それから、男の怒りの前で急にすんなりとなり、身体を反らせて、始めは慄えるように、次第に狂うように踊った。それは離れてゆく男を取りもどす力であった。それは明子の印象にも強く残った。  わたしの嫉妬は何なのであろう、と明子は自問した。広介の愛情が他へ移ったことへのたゞ単なる侮辱感に対する憤りなのではないだろうか。クカラッチヤの女黒人の可憐な強さが明子を揺すった。  こういう明子の傍で広介の恋愛は進んでいるようであった。一日、先方の女が外出をして広介と二人で新しい生活への細かな相談のために郊外へゆくという日があった。 「わたしも一緒に外へ出る。」  熱っぽくうるんだ視線で明子は広介を見上げた。  彼女は肌を脱ぎ、肩を露わに出して鏡台へ向った。そして広介を呼んだ。化粧水を広介に渡し、それをうなじのうしろへ塗ってくれるように頼んだ。鏡の中で彼女の視線がまるで反射するように広介を見ていた。  広介が悲しい愛撫の言葉で、明子の肩に接吻をした。明子は身をくねらせた。 「だって、あなたはこれを捨ててゆくのでしょう。どうなってもいゝのね。」  広介が狂うように明子の口を封じ込めてしまい、いや、いや、と頭《かぶり》を振って、誰にもやらぬと、叫んだ。明子もそれに応じてゆき、 「ね、ねえ。」  と、広介の顔の下で熱い息をはくようにして、今日、逢っても、決して何もしちゃあ、厭。と言い、厳密に広介の答えを要求した。 「ねえ、まだ二人いっしょに居る間は、いやよ。」  明子は、甘く、泣くような視線で首をかしげていた。  広介が女の方との時間も気になり、それじゃ出掛けようと、立ち上ると、 「あなたの時間におくれるのは有名じゃあないの。」  と、一本してやって、広介と一緒に声を上げて笑った。  道々も、 「ねえ、さっきのいゝ。」  と見上げ、広介が今日の期待に勢い立っているのを見ると、 「子供のことなんか決して話さないでね。」と、冷たく言った。 「あ、何故。」と広介が言えば、 「子供のことなんか心配して貰わなくてもいゝのよ。あんたなんかに。これまでだって、現在だって、何を心配しているもんですか。今更、仰々しくそんなこと取り上げてくれなくてもいゝのよ。」 「また、そんなことを言い出す。折角仲なおりしたんじゃあないか、明子がそんな気でいると、行きにくいから。」 「行きにくくたって、行くでしょう。」  今度は広介が黙って明子と別に足を早めると、明子はそれを追って行って、 「私は今から正枝さんのところへゆくわ。でも辛いから、早く帰って来てね。私はきれいにして待っているわ。」  明子は情痴に濡れた感情で、よろめくように歩いてゆくのであったが、川田正枝の家へゆくと、ちょっと方向が違えば泣き出してしまうような気持を突っ張らせて、 「私は書くわ。女の、いろいろな苦しみや、悲しみを書くわ。ねえ、それでなければ私は救われないもの。どんなにたくさんの女がいろいろなことで苦しんでいるのか知れないのね。私は書くわ。」  壁を向いて言っていた。明子たちの事件を知っている正枝は何とも言うことが出来ず、一緒に黙り込むのであった。  C海岸へ行っている祖母のお豊は、そんなことを少しも知らずに、お出でを待っているという手紙ばかりよこした。明子は新宿の夜店で、将棋の駒ほどの桐台のぽっくりに、金や赤の元結の鼻緒のたった玩具の下駄を買った。自分の幼児の記憶も織りまぜて、それを徹子へ送ってやるのだった。激しい苦痛の中で、そんなおもちゃを買う自分を明子は悲しい微笑で眺めていた。がそれはやがて今後の自分の生活を思う重さに変っていった。子供を連れた生活で、しかも広介が女を連れた暮しを片方にしているとき、果して自分がそれに堪えられるであろうか、この不安は、広介との十年間の自分の努力が、結局広介を自分から離れさせる結果をもたらした、という痛手の前には戦慄となってゆくばかりであった。またしても自分は子供のためにガン張ってガン張って暮し、それなのに、自分の仕事をも育てねばならず、両方を統一してゆくことが出来ないのではないだろうか。自分はまたどちらかを片方に従属させてしまい、悔を残すのではないだろうか。子供を育てるためにも一生懸命稼いで、そのことで子供自身はいつかなおざりにされて軌道をそれて育つのではないかしら。  丁度この時に、元アナウンサーだった一未亡人の、子供を育て上げた末に自ら死んでいった、という事件は明子を止めどもなく泣かせたのであった。明子はある新聞からそのことの感想を聞きに来られたのだが、記事の出ている新聞を持って二階へ上ってしまい、暫く階下へ降りてゆかれないのであった。自分の将来を突きつけられたようにさえ感じるのであった。男の寡《ひと》り暮しよりも、働いて養わねばならぬ寡婦の方にこの弱点が考えられるのは、女の力の弱さや、女に辛い社会制度の欠陥なのであろう。明子は階下《し た》に新聞記者の待っていることが気になりながらも、おいおい声を挙げて泣いた。    十五  感情ばかりのようになってしまっていた。それでいて明子のそれは、どこにどう形を求めるすべもないものなのであった。お互の別々の暮しを希む気持があまりに大きいので、激しい愛着にも拘らず、明子はそれを今一度自分の手にもどして見ようとは、思って見ることさえ無いのであった。そのために一層明子の執着は悲しく煽られる。いわば空まわりをする車輪であった。それに足をからまれたようになり、広介の心も慄えた。そして、二人はどちらも己れに目隠しをするように官能の中に身をすべり込ませるのであった。  そういう中で、ある時は明子は、ふっと窓の外へ視野を拡げるように自分たちの動乱している姿を世間とのつながりで考えることがあった。いずれは知れ渡るものであろうけれど、すっかり落ちついてしまう前に、妙な風に取り沙汰されたくないとおもった。それは自分たちの世間に負うている責任であると思われた。二人づれのところを新宿の通りで知人に見られたりすると、濡れているような自分たちの様子も気づかれまいとして、急に白々しい微笑もつくるのであった。  離別のこともなるべくそっと流してしまいたいと考え、明子は連名で穏かな移転通知を出すことを広介に話しかけた。 「あゝそれがいゝね。」  慌てたように広介はそう言った。自分の予期しているものと明子の考えとの隔たりに、瞬間戸惑いしたように見えた。すぐつゞけて、 「その端のところに俺の結婚の通知を書くか。」  と、言った。  明子は暫く黙って広介を見つめていた。敏感になっている明子の気持はぶるぶるっとした。それから、もう諦めた、というような、それでも尚お威すような調子で言った。 「二重結婚は、法律的にも出来ないのよ。あなたは法律的には私の夫なのよ。結婚の通知なんか出せないのよ。」 「あゝ、そうか。」 「あなたはね、今、新しい生活に対して夢中だけども、普通ならばそんなに簡単にゆかないことなのよ。あなたはずい分普通の人の考えと違っているのよ。私はそういうあなたを尊んで来たし、二人の生活を誇りにもして来たんだけど、あなたは当り前の細君がやはり欲しくなったのね。その意味では敗北なのよ。」 「そうは言えないと思う。普通の女房が欲しくなったと言う人間もあるに違いないがお前まで今それを言うのは卑俗だとおもう。二人の生活が一緒では、仕事の運びが順調にゆかないことはお前が一番よく知っている筈じゃないか。俺は仕事がしたいんだ。問題はそんなに簡単ではないんだ。」 「然しね、私が普通の細君でなかったことは、あなたにマイナスばかり与えて? 勿論経済のことなんか言ってるのじゃないのよ。例えばあなたの仕事にも、直接私がいてよかったときはなかった? 勿論私自身にもそのことは言える。今はあなたは便利な点だけしか考えていないけれど、私たちは普通の細君が否定的な役割りをしていた場合もずい分見て来たでしょう。あなたは今度お嫁さんを貰ったらね、決してそれに負けては駄目よ。あなたは今度のお嫁さんに子供を生ませては駄目よ。それから又何か書かせようなどと思ったりしちゃ駄目よ。あたしたちはお互の仕事のために今日の辛さに出くわしたんだから、あなたは今度のお嫁さんをそのように育てなくちゃ駄目よ。私は決してこれまで一度でも、あなたに子供を抱いてくれ、と頼んだことはない。だからあなたも今度も、一度でも子供のことで別れることをためらったことがないでしょう。そういう自由さは私がこの十年間に保っておいたものなのだ。だけど、今度のお嫁さんに若し子供でも生まれたら、抱かせられてよ。普通のお嫁さんですもの。」  明子は熱情にかられ、我が身のことは忘れて広介のことばかりひとりでしゃべった。彼女は話の半ばで意地悪にもなり、声の調子まで作って言いつゞけた。 「ねえ、きっと今度の人は、『お父さん、ちょっと抱いて下さい』そう言って子供をあなたの膝によこしてよ。あなたはきっと善良だから、そういう妻子のためには、一生懸命に稼ぐかも知れない。生活のために堕落をしないでね。」  はじめは不安な表情で聞いていた広介が堪り兼ねて叫んだ。 「止せよ、何だ。あまり馬鹿にするな。貴様が今どんな風になっているか考えたら、大体解りそうなものじゃないか。」 「だって、あなたは、もう現在の私を女房に持ち切れなくなって逃げ出すんでしょう。だから私は言っているの。」 「もういゝよ。それよりもお前も独りになったら、本ぐらい買うがいゝ。」  明子は侮辱のために顔をまっ赤にさせた。 「勿論よ。あなたは私が本を買うことを厭がっているとでも思っているのかも知れないけど、私は今日まで自分の力で、本を読んで成長したんですから。たゞあなたのように本を買う趣味が無いだけなんだ。」 「趣味だって? あゝ、お前に言わせれば、俺のやることはみんなのん気な趣味なんだ。お前ひとりが苦労をしてね。だから、もういゝじゃないか。」 「こんなことだって、私は今まで言ったことはない。」 「そうさ、胸のうちにしまっておいたんだ。」 「そんな風に言うんなら、ずい分あなたはひどい。」  二人はおたがいにどちらからも必要以上に傷つけ合い、身体をぶっつけ合って争った。そのあとには悲しい愛情が湧いて、明子は別人のようになって優しく泣いた。  その日正枝が、岸子へ差入れに行った帰りだと言って大きな風呂敷包みを持って寄った。風呂敷の中からは岸子の、見覚えのある細かい柄の縮の浴衣がのぞいていた。汚れているその浴衣はまざまざと不自由な岸子の毎日の暮しを明子に想わせた。 「話が出来て?」  明子は泣き笑いの表情で、正枝に尋ねた。 「えゝ、ちょっとだったけれど。」  正枝は彼女の優しさで自分も辛そうに傍を向きながら、明子が伝えて欲しい、と言った彼らの離別のことを岸子に話したと答えた。 「岸子さん、何て言って?」 「広介さんの女のひとのことを話したら、あの人、馬鹿な、馬鹿なって、言って涙をいっぱい溜めていたのよ。」  細かなむせび泣きの出て来そうなのを堪えて、明子は自分も涙を溜めて聞いていた。あとの経済的なことなどもどういう打ち合せになっているかと岸子は尋ねたと言うのであった。如何にもそれは岸子らしい現実的な思いやりの仕様であった。  正枝は、ガタガタと荒れた感じのする家の中をそっと見廻して、 「広介さんは?」と聞いた。 「二階に眠っているの、ゆうべ徹夜をして。」 「あゝ、そう。」  うなずいてから正枝は遠慮がちに、だがやはり言わずにはいられないというように、 「なんだかわたし、こん度のことがあってから、広介さんの顔をまともに見られないような気がするの。なんだか口惜しい気がするの。あんまり勝手なような気がして。」 「あなたがやっぱり女だからよ。男のひとは広介に同情をするかも知れないの。仕事をする女房なんか持ってちゃ堪るまい、ってね。ずっと以前にもそんなこと聞いたことがあるの。」 「だってそれはずい分……」 「そうなの……そんなこと考えると何だか、間違いだと思うけど感情としては男全体が癪にさわってくるの。」  明子は蒼い顔で自嘲するように笑った。 「でも、あなたは、身体を大事にしなければいけないわ。」  正枝はそう言い、やがて帰って行ったが、間もなく玄関にまた正枝の声がした。二階から明子が降りてゆくと、正枝はもういず、上り口の端に今八百屋から買って来たらしい紙袋に入れた玉子がおいてあった。    十六  広介は倒れてしまうのではないかと思われる刺激の中で、異常な力で持ち堪えて仕事をした。狂人のようになっている明子をベッドに寝かし、夜分仕事をした。仕事に向う彼の心もまたおののいていた。明子に指摘されるまでもなく自分に気づいている否定的なものを、仕事で拭うよりは仕方がないとおもうのであった。  朝になり、いつか眠っていた短い眠りから明子は覚めた。雨の降りつゞいていたこの頃、久しぶりに今朝は薄い陽の光が見えて、近所の子供たちの騒ぐ声も外に聞えている。暫くぶりに聞くような朝の外のざわめきは、明子の気持を忘れていたこれまでの毎日の生活へ引きもどした。  あゝ、いつものような朝になった。と思う瞬間に明子の胸が一時に血が引いてゆくように、すうっと陥ちこんでいった。明子はその胸を抱えるようにしてベッドの上に起き上った。裏の窓からは欅の巨木が見えている。欅の眺めの親しさは、明子たちのすっかり変ってしまった状態を、沁みるような強烈さで揺すった。 「あゝ、いつものような朝になった。」  明子は子供のように泣いて言い、きょろきょろと部屋の中を見廻した。 「なにも変っていない。なにも変っていない。」 「どうした。」  広介が吃驚してペンをおいて立って来た。 「疲れているんだから、さ、静かにして、もうすこし寝なさい。え。」 「いや、いや、いや。」  広介の手を振って、定まらない視線をうろうろさせた。 「あゝ、私は困った。どうしよう。堪えられない。どうにかなってしまいそう。あゝ、こども、こども、帰って来い。こゝへ来ておくれ、しっかり掴えておくれ。」  こども、こども、口から出まかせに言いつゞけ、狂うようにベッドの上を端から端へ動き始めた。 「あゝ、こんな淋しさ、こんな淋しさ、知らなかった。どうしたらいゝかしら。−生懸命になって暮して来たのは、一体なんだったのだろう。なんて馬鹿な、なんて馬鹿な。」  自分でも収拾のつかない悲哀に突き落されていた。身体をじっとさせることが出来なかった。おろおろおろおろと口走り、広介の手を払いのけて絶えずベッドの上ではね上った。 「どうしたんだ。困るじゃないか、俺は仕事をしているんだよ。」  広介がもて扱い兼ねて怒ると、そのことが又明子の胸にしみるのであった。あゝ、広介は仕事をしている。女への愛情をもって、新しい生活への責任感で仕事をしている。私はこんな愛され方をしたことはない、こんな風に仕事をする広介を私は希んでいた。広介はこんな風には仕事をしなかった。それが、女房としての私の存在に罪があるというのなら、お互の愛情そのものにもう矛盾が生じていたのだ。……  そういう気持をもっている自分の古さに気づこうともせず、明子は日頃にない支離滅裂な形で輾転ともがき始めた。——十年間の二人の努力でこゝまで来た広介は、そっくりそれを他所の女の方へ持って行ってしまうのだ。どこが悪くて、私は人生からこんな復讐を受けねばならないのか。 「いゝかげんで止めないか。知らんぞ俺は。俺の仕事の妨害をするのならどこかへ行ってくれ。」  明子の悲しみと混乱は、明子を明子で無くそうとしている。高飛車にやっつけてその打撃で、喪われようとする明子を引きとゞめるかのように広介は怒鳴った。広介の怒りに反抗させてその力で明子を引きとゞめようとするのであった。  明子は叩き伏せられたような痛ましい姿で、子供が親に叱られたときの哀れさで階段をひとつひとつ降りて行った。 「わたしは死んでしまう。わたしは死んでしまう。」  言いつゞけながら下へ降りた明子は、埃の積みっ放して荒れてしまっている六畳の片隅にうずくまった。泣きつゞける明子の声は陰々と二階へも聞えた。広介はふとある懸念の恐怖におそわれ、階段を駆け下りた。明子は我が身体をぼろ布のように丸めて、壁に食っ付いて泣いていた。その姿は、今更のように広介の吐胸を突いた。広介もおろおろとなり、明子の身体を抱いて二階へ連れてゆこうとした。その腕を抜けて、明子はまた向うの隅へ行ってうずくまる。広介自身も泣きたいような困憊でそれを追うと、明子はまた次の部屋の箪笥の陰にうしろ向きにぴったり食っ付いてしまうのであった。 「どうするんだ一体、仕事の邪魔になるから泣くの止めないか。」  疲れのためにはあはあ言い、遂いに広介はまた怒鳴ってしまうのであった。すると明子は突き上げてくる泣き声を着物の袖で抑え、唐紙を開けて押入れの中へ入ってしまった。押入れは子供たちの布団が持ち出されているので、ござがよれたまゝ空いていた。投げ出して二階へ昇ってゆく広介の足音を聞きながら、明子の泣き声はいつまでもとめどもなく出て、それが埃臭い押入れの中に籠った。  明子は、これまであんまり力んでばかりきた自分の横面をぴしゃりと張り倒されたような思いで、泣けて泣けてくるのであった。今はそれを制しようともしなかった。これまでの自分のあんまり馬鹿正直さが哀れで哀れでならなかった。ある時期にふと思い上ったということで、自分は人生からこんな復讐を受けねばならないのだろうか。何のために自分は成長をなど希むのだろう、明子は自分の過去の全生涯が全く無価値なものに感じられた。これ以上生きてゆく力は失われたように思われた。自分の生き方の信条が根こそぎ否定された感じなのであった。それを目前に突きつけているのは、広介の愛情が他へ移っていることなのである。ちょっと思い上ったということで、こんなひどいし返しを受けるのかと、明子は承認し兼ねる怨恨で泣いた。しかし今はそれを自分で招いた、ということが大きな悔いで彼女を叩きのめしていた。可哀そうな馬鹿、何のためにぼそぼそ生きてゆけるだろう。明子はそう思い、今の瞬間の狂うた間に、死んでしまえたならば、結局その方が幸せのように思われた。明子はみじめな姿で押入れを出てゆき、鉛筆で子供への遺書を書き始めた、瞬間にそなえる心算なのであった。その間にも、彼女の泣き声は、よくこんなに続くとおもわれるほど、おんおんおんおんと同じ調子で、まるで長泣きをする少女のそれのように、いつまでも出つゞけていた。子供へと書き始めた遺書は、誰にとも分らぬものになっていった。 私のこれまでの生活では、私は……精神的には、愛情は常に私をやさしく取り巻いていて、私は、このことではむしろ安易な人生をおくってきた。 私のこん度の思い上りは、こゝから来ているのであろう。私はてきめんにし返しを受けている。 今、それに気づいている。 それでも私の一生は、いつでも誰かのために生きてきたことを思えば今自分のために生きようとした我儘をそんなに悪くおもうことが出来ない。けれども私は負けてゆく。これは私のこれまでの生活の成果を全部抹殺することを意味している。私はわずかに残っている理性では自分を馬鹿だ、馬鹿だとおもう。それでいて、こうやって理性に負けてゆく自分を、いとしく思う。 私の死は、大衆をも裏切ることになるであろう。女のくだらなさから一歩も未だ出ていなかったことを笑って下さい。 子供よ、子供よ。 かんにんしておくれ、善き母であると自らも信じていたのは何であったのだろう。この母の行為で、お前たちの生涯をいさゝかでも損うことをかんにんしておくれ。 私の死は発作的な町の女房の死と少しも変らない。  行一や、徹子や、かんにんしておくれ。  明子は子供への愛情で尚おも新たに泣きながら、うわ言のような字をめちゃめちゃに書いた。そしてそのあとに岸子に当てて、あなたは馬鹿だ、馬鹿だと怒りながら泣いてくれるであろうか、と甘えるような気で書いた。  明子はそれを箪笥の上におき、それから座布団を台所の板の間に並べて遺書にも書いたように町の女房の発作のように、まるで馬鹿げた姿で、ガス台にくっついてじっと坐った。    十七  子どものも一緒にすっかり籍も抜いてしまうと云い、冷たい力み方で他人事のように、仕事の上の名も広介の姓をつかうかつかわぬかなどと相談するかと思うと、昨日のように己れを失ってしまう程の激しい絶望を明子は見せるのであった。広介もまた感情の上ではどう解決のつくことか自身でも分らぬ気持で、しきりに自分へも言い聞かせるように、自然に、自然に、と思うのであった。 「だから、明子が逢いたくなったら、電報を打ちなさい。子どものことでも書いて。ね。そうすればいゝだろう。」  二人が別れてしまってからのことを、広介はそのように言い出すのであった。 「そうすれば、すぐ来る?」  明子は広介の腕の中でまっ黒く目を光らせて広介の顔を仰いだ。 「あゝ、すぐ来る。」  気弱に笑って広介が言うと、明子はたゝみこむように、自分の方からだけ呼び出すのは厭だ、と言って、来る日を決めて、その日には必ず来るということを約束しようと激しい息づかいで言うのだった。明子の哀れげな熱情に捉えられ、広介はそれを承知するのであった。  明子は尚お念を押すというように、 「それでいゝ、こん度の女のひとに悪くない?」 「勿論、言えることではないさ。」  広介は空漠とした不安な視線を明子から反らして言う。  明子もまたふと言い出した言葉なのに、本当にそれを希む気持が自分にあるのを、探るようにふと気づくのであった。そういう形で広介との繋りを保とうとすることが広介に対してそれほどの愛情を抱いている、ということの説明にならないで、生活の辛さから逃げて、その外で愛情の欲望だけを求めようとする卑屈さを気づかせるのであった。  明子はその気持をわざと踏みにじるように、うるんだ目で広介を追いながら、 「私はその日一日を、あなたとだけの日にして、全部をそれにつかうわ。」  と言った。とおもうとまたすぐつゞけて、 「でも、あなたは、一度はすっかり私を忘れてよそへ行ってしまうつもりだったでしょう。今だってそうでしょう。来る日を約束していたってどうせそのうちにあなたは向うへ行きっきりになってしまうのでしょう。それ位なら先へ苦しさを残すより、思い切ってしまった方がいゝのかも知れない。苦しむのは私だもの。あなたじゃないもの。」 「どうして。明子は自分だけが辛い思いをさせられて、俺は新しい恋愛に好い気になっているという風に考えているらしいが、そしてそう明子が考えるのは無理はないのかも知れないが、今の瞬間だって、俺の気持が明子から離れてしまっているわけじゃないじゃないか。」 「そりゃ情痴のために取り乱している女は、男は興味があるだろうさ。」 「また、そういう風に言う。」  広介は、うしろを向く明子を抑えて、 「このことだって、明子は俺が向うへ行ってしまうだろうということだけ言うけれど、然し、若しかしたら明子の方へ帰って来てしまうかも知れない、とは何故考えないのかね。明子のそういうのが俺はきらいなのだ。」 「だって新しいあなたの生活には日常的に便利さがあるもの。そしてそのためにあなたは向うへゆくのだもの。」  二人の話はいつものところへまた落ちてゆく。 「そりゃ向うへ行きっきりになってしまうかも知れないさ。それならそれでしかたがないさ。だから成りゆきに任せようと言うのだよ。」 「そんな自分勝手な。」 「だって明子だって今、別れてしまうのは辛いのだろう。そして今も言ったように、その間に、明子のやりようによっては、本当に明子の方へ来てしまうかも知れないんだろう。」 「明子のやりようによっては?」  非難を笑いに交ぜて言うと、広介は軽いあわて方を見せたが、わざと強気に皮肉な色を唇にただよわせて、 「そう。明子のやりようによっては。」 「私の方にばかり負わせるのね。」 「そう、俺が悪いね。」  広介は明子とのくり返されるやりとりに疲れ、きり上げようと言うように、 「今日はもう喧嘩をしないでいよう。今日こそは書き上げてしまわなければいけないのだから。」  広介は目前の仕事に立ち戻り、焦慮を見せていた。 「そうねえ。早くしてしまわなければ、私も子どもたちの方へ行けないわ。今日はあなたの仕事を手伝って上げる。」  その代りにお願い、と言い、遠慮がちに、 「今日だけは新宿へ行かないでいない。」  広介は、さて困った、というように顔を仰向けて大声で笑った。明子は隙間から素早く懐へすべり込むように広介の高笑いを自分の方へ引いて今度は甘えた押しの強さでもいちどくり返した。  もう昼近く、相変らず曇った空であった。やがて明子は、彼女に負けて今日は出掛けないと約束した広介をひとりベッドに残して、豆腐屋のラッパの流れている町へ、蟇口を握って食事の買い出しに出て行った。実際的な考慮をしない気持で、自分ひとりの広介のためにというような心持で、明子は魚屋から八百屋へといろいろなものを買って歩いた。  階下の部屋を掃き、縁近くへお膳を出した。鰆のてり焼きには薄もゝ色に光った新生姜が新鮮な茎の切っ先を上にして添えてあった。分厚に角に切った刺身にはまっ白いやま芋をかけ、汁碗の種は鱚を結んだ。三つ葉のひたしにもみのりをかけ、それらを並べると、明子は何故か悲しくなった。それを振り払うように二階へ勢いよくあがってゆき、「明子が御馳走をつくったから起きなさい。」と広介の両手を引っぱった。広介は女の心づくしにもたれかゝる嬉しさで深く息を吸い込むようにした。 「あゝ、嬉しい。」  心からそう思う喜び方で広介は起き上り、子供のようにいそいそと着物をきた。あんまり率直なその喜びようは、男の無邪気さというようなものを感じさせ、明子の胸にこたえた。明子は涙ぐんだ顔をそ向け、可哀想に、可哀想に、と圧し出すようにつぶやいた。広介に対し、そして自分に対してであった。  その日は夜半まで、広介の机のかたわらで、明子は新聞の切り抜きをやったり、夜食の世話をしたり、一緒に広介の仕事の話をしたりした。広介はそれを喜びながら、ときどき気兼ねをするように、疲れるだろう、などと言葉をかけた。 「いゝのよ。私は何もしないんだから。」  広介を安心させるように言った。その微笑は淋しい陰影を含んでいた。明子はどうにもならぬ自分たちの運命を諦めようとおもうのであった。今更、自分は仕事を捨てることは出来ない。捨てたところで安らかな二人の関係が新しく作れようとは思えないことであった。広介の言った、明子のやりようひとつ、とは、彼の訣別の言葉にさえおもえるのであった。  広介の仕事の僅かな金が入ると、明子は早速子どもたちの所へ出掛けて行くことにした。一緒にいては少なくとも明子は仕事は出来そうになかった。子どもたちの部屋の方が出来るのかも知れない、とおもわれた。旧のお盆の前であったが、やす代が郷里へ贈り物をしたい、と言っていたことなども気にかゝっていた。給料がまだ渡して無かったし、やす代への中元の着物のことを、やす代の世話をしてくれた広介の郷里の妹から、催促してきていた。それらの雑事も済ませねばならずお豊や子供のことも気になっていた。このような明子の家庭内の心づかいには、広介はわざとのように無視する態度をとっていた。明子もまた今は反抗的に投げやりにするのだったが、結局それは明子がやらねばならない。  明子が子どものところへ出掛けるという朝は、またしてもしょうしょうと降りしきる雨であった。この雨の中にひとりぼそぼそと出掛けてゆく心細さなどもあって、明子は何からとなしにぐずり始めた。 「今年の夏は、またなんだって、こんなに雨まで毎日々々降るのだろう。」  どうにも出来ない鬱とうしさで身をしぼるようにそう思い、暗く垂れさがっている空を見上げて放心したようにつぶやいた。  風があって、さあっと、ときどき雨の音が聞えている。明子はひとり起きて出掛ける支度をしていたが、その雨の音は寒々と明子の肌に感じられた。身をすぼめ、溜息をつくように、然し言葉は刺すように広介を突っついていた。広介は布団の中に顔を隠すようにしてまだ眠気がとれぬ態をよそおっていたが、明子の、子供に逢って自分の淋しさがいよいよかき立てられ、持ち堪えられないのではないか、などというのを不安な思いで聞いていた。が、子供に逢ってしまえば、また生きる力も強くなるのであろうとおもい、明子の当てこする愚痴にかゝずらわるまいとしていた。明子はそれを薄情なものに感じた。じりじりとしてくるのだったが、彼女はやはり今日出掛けてゆこうとしていた。子どもたちが待っている。お豊が財布を空にして知らぬ土地で心細がっている。やす代は盆の贈りものを気にしているに違いない。それらのことが彼女を急き立てていた。今の瞬間にもそのことを忘れ得ないでいる。無視し得ないでいる、と思うと、明子にとってはそれがまた広介に対する怒りにもなり、自分を哀れにもおもう悲しみにもなるのであった。  明子はいよいよ出掛けると言い、階下へ降りて行ったが、玄関から台所へもどり、台所から座敷へ入ってゆき、用ありげに、何かうろうろとした。二階ではしーんとしている。明子はふつふつと胸をかき立てられ、また二階へあがって行った。暫くののちまた、階段を一段ずつ降りてくる。今度は玄関で坐ってじっとしていたが、再びとんとんとんと駆けあがってゆき、上ずった声で、恨むように何か言った。広介はさらさらと平静にそれをなだめている。  とうとう明子は玄関の戸を開けてそとへ出た。冷たい細い雨がひらいたこうもりへばらばらと音を立てた。  露路を機械的に歩いて、横町からすぐの大通りへと出て行った。雨に濡れたアスファルトの大通りは、人通りも少なく自動車がすべるように走っている。その音だけが雨の中にとけ込んで車と共に疾走してゆく。明子は大通りの角まで出て来たが、傘をさしたまゝ、じっとたゝずんでしまった。しんから淋しさが雨といっしょに沁みとおっていった。これまでかつて、心に陰影を残して外出するというようなことを、広介は決してしない人間であった。今はもうその必要がないのであろうか。そう思うと、この数日間の葛藤が彼の偽りであったかのように感じられ憤りが燃えていった。明子は自分の憤りに煽られるようにまたしてもさっさっさっと引返して来た。そして、持ち物を玄関へおいたまゝ息を切らして二階へ駆け上った。明子の前後を忘れた振まいの腕の下で、広介は布団を楯にして我が身をかばった。  その日の午後、訪ねて来た広介の友人二人と一緒に、広介も明子も新宿へ出ていた。明子はそこでやす代への買物をし、それから海岸へゆくのであったが、友人二人が広介の女をよく知っている故もあってか、彼女は声の調子を一段高くして、ことさらに強気にしゃべっていた。広介は次の仕事のためにどうしても手に入れねばならぬ本がある。それを探すのだと言っている。四人で一緒に食事をし、明子は別れた。じゃ、と、彼女は広介との二人だけの挨拶に軽く目だけ合せた。それから明子は買いもののために一軒のデパートへ入って行った。  暫くして明子は、それぞれへの土産を積み重ねた高い風呂敷包みを抱えてそこを出て来た。雨はやゝ小降りになっている。雨のためにいつもより早く夕方が感じられるというように、新宿の町はざわざわと人が押して歩いていた。明子は細かな買いもののために気をつかい、かさかさに乾いた表情をしていた。ふと気づくと、真向いの映画の屋根の下に広介ともひとりの友人とがこちらを見てにやにや笑っている。映画のスチールが貼り出してある窓の前の鉄棒に尻をのせて、両手で身体をさゝえ、足を浮かしていた。明子も反射的ににやっと笑ったが、妙に袖のぶらんぶらんする紫の綿麻の単衣に、ぽたぽたしたまっ黒い大形のこうもり傘をさして、顔へかゝるほどの高い風呂敷包みを抱え、足駄をがたつかせて歩いている自分の姿が、嫌悪と恥かしさとで思い出され、明子は足がすくんだ。広介は雑踏の中に自己を溶けこませてしまった無責任さで、遊び人のような貧相な気分を見せていた。明子はそういう風に感じ、心が冷たくなるのだった。あれだ、あの気分が厭なのだ、と明子は初めて本心を言うように、然し無意識につぶやくのだった。明子は対抗するように肩をそびやかして、前へ向いて歩きながら片手だけを別れの挨拶のために上げたが、それは変な西洋映画の真似のように見えた。広介もまた明子のそれを感じたらしく友達に向い何か言っている。明子は自分の態度に気づいた瞬間だったので同時的に広介の囁きをも見てとり、激しい羞恥のために顔がほてった。新宿のホームを重い包を抱えてかたかたと足駄で歩いてゆく明子はすっかり厭世的になっていた。    十八  電車の窓から見える城東の労働者街の空は小雨にけぶり、いよいよ暗たんとしていた。明子は、この春そこに暮した幾日間かを目を据えるように思い出したが、つい半歳前のことなのに遠いことのように思われた。そのことがまた明子を瞬間的に戦慄させた。岸子はまだ帰れるとも帰られぬとも定っていないで、四カ月の不自由な生活を続けている。明子もまた今後の彼女の法律的な処置は未だどう決まってもいないのであったが、彼女自身にはそのことさえ今は強く感じられないのであった。作家などというものは殊に現実の作用を敏感に受けるものである、と明子はその時の手記に書いたが、いつかそのとおりになっていることを彼女自身は気づかないのであった。  C海岸の砂地の停留所に着いたのは六時頃であったろうか。海の家とか製菓会社などの大げさな看板が、安直な園遊会のように赤や緑に立ち並んでいたが、それが雨に濡れて空家のようにがたがたしていた。この停留所に、自分たちとおばあさんがいつもいつも父と母を待って迎えに出ていた、というやす代に教わって書いた行一の片仮名の手紙を明子は思い出して、部屋を借りている家へ、小石のまじった砂地の道を急いで行った。  あ、細く高い徹子の声が何か言っている。やせた日まわりがうなだれている垣根をまわりながら隙間からのぞくと、丁度夕方の食事だった。木戸を開けてはいってゆくと、あ、と言ってやす代も入れて四人の者が一斉に顔を振り向け、それから四人がそれぞれに何か言いながらがたがたとお膳の前を立って走り寄ってきた。行一の声があたり構わず高く、徹子がそれに消されまいとして泣くような顔ですがって来た。お豊は細い身体で明子の周囲を泳ぐようにまわり始めた。広介のことなどを聞きながら、母の顔を小さい両手ではさみ込んで覗くようにし、 「てっちゃん、海ね、こわくない。蟹嫌い。」  と、早速毎日のことを母に語ろうとする徹子の顔に明子はじっと視線を吸われた。あゝ、徹子のその顔の、何と広介に似て来たことであろう。小さく丸い、いつも下から見上げているような徹子の目は、半月見ない間に広介にそっくりになっていた。  行一が男の子らしく対等なもの言いで、 「どうして、父ちゃんも母ちゃんもいつまでも来なかったの。お仕事が出来なかったの。」 「そうなの。」  暗く笑った明子は、いつか母親らしく子供たちにうなずいていた。 「ちょっと海へ行って見ましょうか。御飯のあとで。」  そう言った明子は、自分が子供たちと海で遊ぶことをいつか毎日思いつゞけていたことをその時気づいて、子供たちと共に自分の身もいとおしくなるのであった。  雨もいゝあんばいに止んだ、とお豊は手を拍って言い、もう暮れてしまった雨の合い間の海岸へ、女と子どもと年寄りと同勢五人はひとかたまりになって歩いてゆくのだった。雑貨屋や床屋などのある通りも雨の故で夏場らしくなくひっそりとしている。その通りを右へ、砂地の坂を降りてゆくのだったが、行一は、角の葭簀張りの貝殻屋の井戸端には、七面鳥がいて、昼間は人が通る度に妙な声で鳴くのだ、と道々話してきかせる。徹子も兄貴の話に割り込んで、同じことを自分の言葉で言い直し、母の返事をうながしたりする。  海と空は暗々とした同じ色にとけ込んで、低く、遠くの方まで拡がっていた。干潮の時にはすっかり砂地になってしまうほどのとお浅なので、今は街道のすぐ下まで満ちているのだが波の音さえ無くて、潮の匂いが生臭くたゞよっている。海の中に、潮に脚をひたすようにして建っている、大きな海の家というのが、竜宮まがいの屋根に貧弱なイルミネーションをつけて存在を示しているが、海に沿うた街道にある、板とよしず囲いのお休み所も、電灯がわずかに酒の値だんなどを照らしているだけで、暗澹とした海の景色に、またしても荒れたもの悲しさを添えている。  明子たちは細い、長い桟橋に下駄の音を立てながら、海の家へ渡っていった。わびしい電灯の下で見る海の家は、荒廃した空き家の無気味さで、板一枚の床の下にひたひたと水の音がしている。そこから見ると、沖に点々と浮いている豆つぶほどの漁船の灯りも見えて、海は底知れない鬱陶しさの中に、明子を引きずり込んでゆくのであった。  いつか音もなく、目にさえ見えぬ糠雨が、海の上いっぱいに降りはじめていた。もう濡れている狭い桟橋の上で辷るのがおそろしくて、明子はやす代の背中から徹子を自分の背中へ取った。行一が年寄りと明子の先に歩きながら、まつわるようにうしろばかり振りかえる。桟橋の上に吊るされているむき出しの電灯の球の周囲にだけ、細かな雨あしが見えている。肌寒い肩に徹子の温か味がほのぼのと感じられ、明子はものも言わずに面に雨を受けて歩いた。明子の眼鏡の球は霧に曇るように濡れていった。  その夜狭い蚊帳の中で、子どもたちは黙りがちな母の気持に気付く筈もなく陽気に眠った。お豊さえ呆うけた寝顔に任せきった安堵の色を見せている。すぐ次の部屋ではこの家の老人夫婦がさき程までぼそぼそと話していたが、それももう聞えなくなった。風呂敷をかけた電灯が部屋の隅からぼんやりした光を蚊帳の中へ投げていた。年寄りと、二人の子供が身体を投げ出して眠っている。片隅にはやす代もいぎたなく足を丸めて眠り、寝息は入れ交り、蚊帳の中がいっぱいになる。明子は息苦しさから逃れるように、外側の方へ寝返りを打ってほっと溜息を吐いた。そして、今度は子供だ、とつぶやいた。子供は子供への道に。そして子供を送り出したあとに自分は再度立ち直る途を握るであろうか……。  翌日は明子は、その部屋でとりあえず金のために急がれる原稿を書くのだ、と言って原稿用紙とペンを取り出した。ペンは先ず広介への手紙を書いた。徹子があなたにそっくりの目になっていました。と書き出したが、今は感情が続かず、ぽきりぽきりと投げやりに書いた。 私は茶のみ茶碗いっぱいの御飯が食べられない。昨夜は煙るような雨に濡れて海岸の桟橋を渡りました。夜の蚊帳の中で、小さい者の寝息と、老人の、私が来たために安心した寝顔とがあり、私は肌寒くなりました。  明子はそのあとに、やはり次の仕事のためにひとつの用件を頼むことを忘れなかった。そして余白に小さく、私は紅を忘れて来た。蒼い顔でもいられまいが、と書いた。  そのそばでお豊はやす代を対手に改めて眺めるというように、昨日明子が買ってきた土産物の包みをひろげている。井戸端で玩具の赤いバケツを間に何かしている行一と徹子のよく透る声が、明子の耳に入るともなしに入っている。  空は相変らず蔽いかぶさっている。灰色の雲が拡がったまゝ大きく動いてゆく。明子はいつか、手紙を封筒にも入れず、座布団を頭の下に敷いて淡い眠りに落ちていた。蒼みをおびた薄い瞼が疲れを見せている。ときどき、ぴく、ぴく、と弱々しく痙攣した。    十九  海岸でも雨は降りつゞいていた。明子が子供たちの間借りしている部屋へ来てから次の日も、その次の日も、空は大きく雲の位置を変えながら、ときに切れ目を見せて冬の陽のような白い光を投げるかと思うと、再び小さな雨を落していた。雨は海の風に吹かれて横になびき砂の多い土に吸われていた。ときどき迷うたような蜻蛉が、つい、と雨脚を切って流れてゆく。縁先に下げてある葭簀も赤く湿って、障子の取りはずされた部屋の中は、じめじめとして落ちつき場所がなかった。広介のそばを離れてきて明子は、張りを失って暗い疲労だけになり、座敷の隅の壁に隠れるように、湿った畳に顔をつけ、脚をまるめて眠っていた。とり急ぎ済まさねばならぬ短い仕事も、却って子供たちのそばの方が出来るかとおもったのであるが、借りものの小学生用の脚の高い机のまえで、どうしても明子は背を起していられなかった。手ぢかなものを枕にして、吐息をついて横になる。今は目の前に感情を狂わせることがないので、たゞ重い悲哀の中で孤独な目を据えている。諦めるという感情は、もともと事の起りに初めから定められているようなものなのだから、老人と子供たちを連れてこれから新しく始まる自分ひとりの生活を、丁度、この海岸の湿った部屋に寄り合っている今の状態で思い描こうとするのだが、お豊の、勝気な老人らしく畳を擦って歩く音を横目に睨んだりするだけで、いつかまた明子の思いは広介にかえってゆく。東京の家の方に残っている広介を想像したとしても、かっと目をひらくようなおもいはなく、そのうちにはきまって蒼い疲れを顔に浮かしてうとうとと睡入っていた。昨日も今日も、こうして明子は浅い夢の中に彷徨している。  子供たちの所へやって来て、女の子が広介にそっくりのまなざしをしていたことも明子の胸を刺すものであった。だがそのことを広介に手紙で書き送ってやったとしても、それで広介の父親としての感情に訴えようというのでもない。たゞこゝにも胸を刺すものがあり、それだけ今日の悲劇が激しいことを広介にも伝えたいばかりなのであった。ずい分食べないねえと、祖母のお豊は一度だけ明子の顔色をうかゞうように食卓の向うから声をかけたが、明子は、うんと鼻の先だけで答えて、わざと老人の口を封じるように顔を上げなかった。子供たちは行一も徹子も待ち兼ねていた母親が今日は部屋の中にいる、という単純な満足で、明子へまつわるでもなく兄妹で遊んでいた。 「お手紙ですよ。」  と、廊下にこの家の主人のしゃがれ声がした。はい、と女中のやす代が出て行って受けとっている。明子は目も開けぬうちにもうそれを聞いていた。果して手紙は広介からであった。寝たまま封を切る明子は、手先が慄えるようにもう感情を波立たせるのであったが、沈んだ表情はまるで、騒ぐ感情を自ら憤っているかのようであった。 御飯はどうしても食べられませんか。明子にとってはそれは仕方がないでしょうが、それでは僕の胸が痛くなる。何とかして食べられるように工夫と努力をして下さい。 僕は一生懸命仕事をした。  と、書き始められて広介の手紙は、今度の新しい自分の恋愛が巻き起した自分自身の感情の渦と、明子の動乱との、予想外といってはおかしいがいわばそこへ引きずり込まれて始めて目を見張るような苦痛に対して、如何にも仕事をすることの中にしか解決の道はない、というような彼自身のはげしさを示して、こまごまと自分の仕事のことが書き連ねてあった。複雑に渦巻いている感情のためにも、寝る時間もなく書きつゞける仕事のためにも、彼の身体は疲れ、胸が二重になる、と書いていた。ひとりきりの家の中では昼の間の仮寝の隙もないし、炊事もせねばならず、どこに身体を凭せかけるところもない。然し、それも明子のことをおもえば自分には今そんなことをかまってはいられないと。  そしてまた仕事の中にしか解決の道のないというのは、明子にとってもそれに違いがないという風に、六、七、と個条書にして、明子の仕事に対する事務的な伝言やら、自分の考えやらを述べ、八、には、こちらへ帰ってくるのか、帰ってくるとすれば何日頃になるか知らせてくれ、とも書き、また明子を元気づけるように、新聞に出た明子の随筆を、今日読んだがたいへんおもしろかった、などとも言い添え、もしそちらの方が落ちつけるならばつゞけてそちらにいた方がいい、だがこうして別れていると、一週間に一度以上はやはり逢いたいとも書いてある。  広介自身でも、自分の気持の方向は一応決まっていながら、感情では収拾のつかぬまゝなのを、手紙はそのまゝ現わしていた。終りにはまた彼女の仕事に触れ、明子の今書かねばならぬ新聞の感想はまだ書けぬか、もひとつ別の約束のものはどうするつもりか、と、特に印がつけてある。自分の山梨に講演にゆく日と、帰る日と、それに子供たちへの伝言がそのあとにあった。  本当にくたびれているらしい乱れた字に、ありのまゝの広介の姿をおもい描きながら、明子は仕事のことに重点をおく彼の気持にはわざとそっぽを向いて、その手紙の中から、広介の感情だけを探ろうとも、たぐり寄せようともするのであった。こちらへ帰ってくるのか、などと言わなくても帰ってゆくのは分り切っている、逢いたい、と書きながら、気分が落ちつくならばそちらにいた方がいゝと、まるでひとの感情が手品のように圧えられるものと思うのだろうか、などと、明子は、おし寄せようとはせず、むしろ彼女をなだめている広介の気持を苛々と受けとるのであった。この手紙が着き次第帰って来い、とは、彼はもう言わないのだ、と、広介の心の余裕が妬ましく、暗鬱に据ってゆく視線をどうしようもなくて、古ぼけた額の懸っている天井にすえていた。よしさらば、という風な対抗の気力さえなかった。お豊とやす代が傍で昼の食事のことで明子に相談したいのを言い出せず、それとなしに計っていたが、明子は二人の前に自分の難しい表情を隠そうにも出来ないのであった。  また取り上げて手紙を見た。山梨へ広介が講演にゆくことは明子も知っていた。もう今夜は広介は山梨へゆく日になっている。子供へは山梨から絵葉書を出す、と書いているのだが、彼もまた東京を二日離れることになるのであった。それに気づくと明子は何か心のひらき道を見つけたような気になった。子供たちの遊んでいる庭の方へ向いて、胸をかき合せて身体を起した。  こまかい雨が薄陽の中で降っている。そんな薄陽でも、さすがは八月なので、早速あたりにむしむしする暑気がたゞようた。行一と徹子は井戸端の屋根の下で砂いじりをやっている。うしろ向きになった徹子の小さなお尻が、赤い下駄の上でちょんと丸くこゞんでいる。  そういう子供たちを、明子はふとおどろかしたいような気になり、縁の柱に、行李をゆわえてきた細引の掛けてあるのを見ると、それをとって自分の両の手に巻きつけた。庭へ降りてゆき、 「ほら。」  と呼びかけ、縄とびをして見せた。 「数えて頂戴。」  ぱたっ、ぱたっと、土に細引を打ちつけて大きく廻しながらそれを追うように飛び越えて歩いた。  行一も徹子も目を輝かして見張った。 「ひとつう、ふたつう。ほら、数えなけりゃ駄目じゃないの。」  はアはア息を切らしながら明子は言い、縄につまずくとせくように胸を抑えて笑った。 「僕にやらしてみて。」  と、行一がかけ寄ってくるのを、明子はまだよまだよと言ってまた飛び始めた。ぬくい雨が降っていた。徹子も下駄の音をたてて母の後を追って歩き、お豊とやす代も共に興がるように縁からさし覗いて笑った。すると明子は馬鹿らしくなり、家陰へ廻ってゆき、そこで縄を手から解いて、子供たちにもうしろを向けて、雨と汗で濡れた顔をぶるんと袂で拭いた。    二十  それから三日目の、その夜広介が山梨から帰るという日、やはり明子は東京へ帰っていた。そしてその夜、新宿で、広介にも行き逢った。だが、自分の家へは帰らずに、明子は川田正枝の家で寝た。  急いでいた原稿もその日書き上げてきていた。自分の感情には目をつぶるようにして、それでも疑問符でばかり終る文章であった。海岸からまっ直ぐその新聞社へまわって、金も貰った。そして新聞社から出ると、最寄りの郵便局で為替を組んで子供たちの方へ送った。これで一先ず安心、という気になり、それに活動的な新聞社などで仕事の応対をした明子は、いつとなしに気持がしゃんとなり、誰もいない自分の家へは帰らずに、友達の川田正枝の家へ廻ったのである。それはこの次にまた急いでしなければならぬ大事な仕事があって、正枝の家の二階をそのために貸してくれる、という約束があったからなのだ。  だが、夜になると明子は正枝を誘って新宿へ出たのである。はっきり広介を迎えに出るという気ではなかったし、果して広介がその夜帰京するのかそれも分ってはいない。たゞ吸い寄せられるように、明子は山梨の汽車のつく新宿に、そして広介の新しい対手のいる新宿に、自分も出向いてゆかねばならぬ気持になっていた。  映画館を出ると明子は、この頃行きつけたおでん屋でおそい夕飯を食べた。汽車を降りた広介がこゝへ御飯を食べに寄らないだろうか。いつとなしに正枝との会話も上の空でしている。そのくせ、話をすれば何か気負っている調子があって、まるで毀れもののような心の内とはかけ違っている。自分で、自分の声が浅ましいような、悲しい気であったが、やっぱりおもい直しても、次に出る声はからからと空まわりをしている調子である。山梨から着く汽車は丁度この時間だ、と黙っていれば表情にも出ていそうで、明子は顔をあげ得ないのであった。  広介は友人と二人で汽車から降りたばかりの格好で其処へ入って来た。 「おう、なんだ。」  と、広介は、おもいがけなく落ち合った挨拶をしたが、明子は一瞥のうちに彼の表情を汲みとろうというはげしさで彼の顔を見た。広介は目を反らし、普通の顔をしたように明子におもわれた。すると明子は歪んだ笑いで、空々しい答えをした。自分でも頬の赤くなるようなわざとらしさだ。正枝も、広介の友人も何ということなしに広介と明子にこだわり、二言三言のうちに顔を伏せている。明子は、また二日間の旅行に、この友人は広介の恋愛の対手のことや広介の苦しい気持や、明子との生活の矛盾やを聞いたであろう。そして広介に同情をしたであろう。と、その友人に対してまで、妙にひがんだ敵意に近いものさえ湧いて、またしても明子は乾いた声で高くものを言うのであった。その夜明子は、正枝がいっしょにいる、ということで、広介があれからどこへ寄り道をしたか、という確かな想像にも堪えて寝た。珍しく距離のある憎悪さえ広介に感じた。もうほんとうにこれで、ひとりになれるのではないかとおもわれもした。  が、あくる朝になると明子は、またしても宙ぶらりんな自分の感情で身体をもみはじめた。いつの間にか両の腕も固くなっている。ほっと気づいて解くと、だるくなって呼吸が苦しかった。どうしても広介に面と向っていなければすまぬ気持であった。 「ちょっと出て来ます。」  と、弟子と二人ミシンを踏んでいる正枝に言い、するすると妙に敏捷な動作で外へ出た。  広介は二階でまだ寝ていた。 「おや、いつ来たの。」  部屋の入口にすうっと立った明子を見て寝覚めの甘えるような笑いをした。 「昨晩は帰って来なかったんだね。どうして。」 「えゝ。」  と、つよいまなざしで意味ありげに微笑して、 「もう、私。ほんとうに、これから別になる決心をしたんですもの。」 「ふーん。」  と、広介はそれに構わずベッドの上で差し招いた。明子は二三歩さがって、 「いや。」  と、頭を振った。おや、というように、広介は、 「何故だよ。」 「もう、決めたの。一週間に一度逢う約束も取りやめよ。」 「へえ、だっていゝじゃないか。」 「駄目よ。」  今度は明子は一層つよく広介の腕の下をすり抜けた。その彼女の目に真剣なものを見た広介は、 「ほんとうに、どうしたんだ。」  と、ベッドをおりた。明子は再び身をずらせ入口の壁にぴったりくっついて、そゝるように笑った。 「私はもう次の生活のために今から準備するのよ。私はもう純粋になるの。」 「それはどういう意味なんだ。」 「私にだってこれから新しい生活が見つかるかも知れないんですもの。そのためにも私はきれいにしていたいの。」  ずばずばと明子はしゃべった。  意味をさとった広介が押しつぶした声で叫んだ。 「そのためって、どう言う意味なんだ。」 「そんなこと分りゃしないわ。」  明子は髪を乱して広介を突きのけ、泣くような表情で彼を睨んだ。 「そんな、そんな勝手な。どうせ別れるつもりのくせに。」  広介はもう言葉では返さず、襲うように明子に迫った。明子はどゝゝゝと梯子段をかけ降りた。追ってきた広介の目は、眼鏡のない故か蒼い顔色の中で吊って見える。明子は抗うもののように部屋の中を逃げた。感情の昂ぶりがいよいよ広介を猛らせている。ついに彼は明子を捉えて、遮二無二、二階へ運び上げて行く。  藍ちゞみの明子の浴衣がじりじりじり、と裂けた。広介はますます狂うたようになり、喘ぎながらおどりあがって、まるで引き剥ぐようにどこからでも裂き始めた。明子の身体はその度に動転した。ぴりっ、ぴりぴり、と引き裂ける布の音は、明子の五官へ痺れるように響いた。    二十一  そのあとでは、二人は感情を底に鎮めて、静かな悲哀の表情で対い合っていた。 「兎に角仕事をやってゆくしか仕方がないんだから、もうあんまり感情を荒立てないようにしよう。明子の仕事も早く書き出さなければならないのじゃないか。」 「えゝ。」  と、明子は不安な視線をわきへ放って、 「だってまあ、これで書けるのでしょうか。全然違った世界を描くのに、どうしたら入ってゆけるでしょう。書けないのじゃあないかしら。」 「そりゃそうだけど、書かなければ仕様がないじゃないか。」  広介に、明子がそんなことを言ったって、書くだろうということは承知していても、やはり執りなさずにいられない。それは何も今自分が明子を苦痛に陥れているからというのではなく、これまでの、こういうときの習慣でもあった。だがいつもより優しく、 「ね、だから、すこし我慢をして机に向いなさい。そうすれば書けるよ。」 「でも、なんだか。」  明子は今度はせがむ子供のように早口になり、 「離れていると、余計なことばかり想像して辛いの。私がこゝへ来ない日には、正枝さんの家へあなたが来てよ。ねえ、どうせ、あなたは夜一度は新宿へゆくのでしょう。正枝さんの家は帰り道にちょっと廻ればすむのでしょう。そうすれば私はそれを目あてに自分を抑えていられるわ。」  新宿へ行くのでしょう、と言われれば、広介は仕様ことなしにはにかんでうなずくのであった。  約束をして、明子は正枝の二階の仕事へ帰ってゆくのであったが、貨物汽車の通る度にひどく揺れるその二階で、明子はひとりきりになると、我が思いだけの激しい顔になって空を見据えた、かとおもうとまた此処でも、身体を横にした彼女はすぐに眠っていた。  仕事は短いものだったが身を入れねばならぬ小説であった。書こうとしているものは、鉄工所の職工のスケッチである。四十過ぎた腕のきく職人と、素人工との感情のもつれであった。あわや、喧嘩にもなろうという。  明子は机の前で疲れるとベッドへ来て寝た。横になればすぐ眠れた。何度でも寝た。その度に眠った。妙な彼女の逞しさでもあった。  それで広介が来るという夜は、夜更けると殆どひっきりなしに通っている貨物汽車の音に揺られながら、外の足音ばかり掴えようとし、神経を澄していた。 「おい。」  と、広介が塀の外で忍ぶように呼んだ時、殆ど同時に、明子はすっと障子を明けて二階の縁に立っていた。部屋の中の灯りも受けて、すっかり化粧をしている彼女の顔が塀外の広介の目に、ぱっとおどろかせるような美しさで見えた。  次の日はまた、卑屈な気むずかしい鋳物職人の捨て科白を書いておりながら、燃えに燃えてくる感情に、明子は突き動かされるように我が家への道へ急いで出てしまうのであった。昼過ぎのしーんと白い舗道を日傘もさゝず、目に見えるものに追いすがるように明子は歩いて行くのだったが、広介の名が明子の口を自然に衝いて出そうになり、明子はあわてて手巾を歯で噛んで圧えて歩いた。広介の名が彼女の胸の中から口まで堪えている嗚咽といっしょにむせぶように詰まってゆく。  家では広介は外出していた。そこまで一気に来た明子は、誰もいない広介の部屋に立って見廻し、机の上のペンにも、椅子にも、脱ぎ捨てられた衣類にも激しい愛着を感じ、尚お広介の手に触れたものを探そうとするのであった。明子のこういう激情は、事件の初めの頃の、あの、埃臭い押入れの中にしゃがみ込んで、おんおん、おんおんと一時間でも二時間でも続けて泣いていた悲しみにおもい合せると、何か違ってきているものがあった。それは強気な諦めを根底に持って、迸しる感情に捨て身に身を横たえているような、それを自分でも自覚しているような、そんなものであった。少しでも仕事をした、ということも、彼女の気持にこの変化を見せた大きな力にちがいない。仕事は兎に角書き上げた。それで子供と老人を海岸から引き上げさせる用意も出来たわけであった。 「ねえ、あなたの着物を買いましょうか。もう九月になれば、そんな薄いのでもおかしいでしょう。」 「そうだね。そんなにおかしいかい。」 「ずい分よごれてきたわ。」  広介と明子はそんな話をしながら、二人とも、第三者を頭に入れていた。黒いのがよく似合う、と、その女が広介の着物のことを言ったというのを明子は広介から聞いていた。 「あんまりみっともなくっても。ねえ、厭でしょう。」  私だって厭でしょう、という調子で明子は言うのであった。  そして二人は広介の着物を買いに出掛けた。柄を選る二人は、まるで仲の好い夫婦のようであった。 「今度は私の口紅の色を選って下さい。」  と、明子は甘えた微妙さで囁いた。「上等のをね。」  日頃化粧に念を入れる明子ではなかったが、口紅だけは愛した。呉服屋の店を出て、化粧品屋へむかってゆきながら明子はおもうのであった。一年間は保っている一本の口紅だが、今、上等のを買って、そしてその口紅はどんな運命を辿るのだろう、などと。広介は何とおもうのか、化粧品屋の店では、かざり棚の上に身体を乗り出して明子の紅の色を選った。  店を出て、銀座の人ごみの中を歩きながら、明子はいつかむっつりしていた。 「どうしたの。」  広介に囁かれると、明子は、にやりと笑って、 「今度の人にも、口紅の色を選ってやる? いやよ私と同じものなんかつかわせちゃ。」  写真で見た、背の高い、どちらかというと知的な柔かさのある女の面影をおもい出していた。いゝ細君になるにちがいない、とおもう。 「なんだ、くだらない。」  広介は言い、「大丈夫だよ。」  と、並んでいる明子の顔を横に見た。 「ねえ。」  と、明子はすがるように広介の顔を見上げた。その女がいゝ細君になるにちがいないとおもうと、彼女は急に激しい孤独感に捉われたのである。 「ねえ、私、籍のこと、すっかり抜いてしまう、って言ったけど私、籍は抜かないわ。いゝでしょう。」  泣くような声の中に、少しおびやかす調子さえふくんでいる。 「なんだ、今度は抜かないのか。いゝよ。然し、始終変るんだね。」 「変って悪いけど、だって子供が私と一緒に暮して行くのに、姓が別では変だし、不便ですもの。」 「子供とのことはどうだってなるさ。勿論何も今すぐって言やしないよ。だけど、そりゃなんだろう、やっぱりだんだんになればあとの人間は不安を感じてくるんじゃないかな。それでなくたって、あとから来た者には、以前に子供もあれば余計に何か落ちつかない不安なものがあるにちがいないんだからね。」 「そりゃわかるわ。だけど、そんなに私、何もかもあなた方に都合がいゝようにしてあげなければいけない?」  二人は、まだ明るい数寄屋橋の橋の上を、歩いていたが、感情を立て、足を早めている広介に追いすがるように明子は小走りに人目もなく、たゞ広介だけを横から見上げてしゃべった。広介は眉を寄せて言った。 「何もかも、って?」 「だって。」  ぐっと息をのむように明子は黙った。 「子供のことかね。」  広介は突っ放すように言って、 「いや、子供はそのうちに一人は引取っていゝよ。その方が明子もいゝとおもうなら。」  まあ、と明子は肩を落すように、 「ずい分、あなたは、残酷ね。」 「なにを言ってるんだ。お前の強気はそれじゃないか。子供の問題はお前と俺との間ではすでに解決がついてる筈なんだ。何もおどかすように今頃持ち出す必要はないんだ。」 「私は子供のことを問題にしてはいないわ。私の籍のことを頼んでいるだけよ。この位の私の条件は容れてくれたっていゝとおもうのよ。その他には何も言やしないじゃありませんか。」 「もういゝよ。どうでもお前の気の向くようにしてくれ。結局、俺がいつも我儘ばっかりしていることになるんだ。もうそれもこゝ暫くだろう。」 「逆手にばっかり出るのね。」  ふうっ、と深く息を吸って嗚咽をこらえた。広介はたまらん、というように、 「どうしたんだ。折角買物に来て帰りはこれなんだ。俺はもう別に帰るよ。」  日比谷の手前へ来たとき、広介はくるりと向き直り、向い側へ車道を渡って行った。明子は取り残されて呆然と突っ立ったが、彼女も頑なになり、あとを追うてゆくことが出来ず、向うの道をうしろを見ずに有楽町の方へ逆もどりしてゆく広介の、高く足を上げるように歩く姿をいつまでも見ていた。行き交う人の姿を避けて、たゞひとつだけ明子の視線に追われていた広介の姿はとうとう一度も振りかえらなかった。そのことを明子は胸が痛くなるようにおもったが、反射的に、彼女も広介の行った方向には背をむけて新宿ゆきのバスに乗った。    二十二  それから二日三日経った。もう九月に入っていた。老人と子供から早く迎えに来て欲しい、という便りがきている。海はもう淋しくなった。納涼台も取り壊されてしまった。駅の提灯もなくなった。ワタクシタチハマイニチ、デンシャノツクトコロヘ、オトウサントオカアサンノオイデヲオムカエニイッテイマス、マズハ、サヨナラと行一がお豊におしえられて書いたあやしい片仮名の手紙もきている。  子供たちを引き上げさせる用意の金を、広介の仕事の出来るまで、広介に立て替えてしまったので、明子はそれまで海岸へ出向いてゆくことが出来なくなっていた。始終追われ通しの暮しには、すっかり慣れてしまっているようなものの、八月いっぱい、といって借りた家主に対しても気がせいたし、心細そうな老人の気のもみ方も想像され、それにつれて一緒に不安そうに首をかしげている、二人の子供の顔をおもうと、明子の胸ははらはらと落ちつかなかった。子供たちを海岸へやっている間も、二カ月に足らぬその間に幾度も区切って小遣銭をおくってやるような始末であった。普通では考えられぬようなその日ぐらしのやり方だったが、それだけ大胆なところもあって、明子は広介と別になってからの経済的なことには、心配はしないのであった。広介が、子供に対する責任から月々決めて幾らか送金せねばならぬ、というのも、明子はたゞ彼の愛情の表し方として受けとるだけであった。友達のひとりが、夫婦の子供に対する負担を、我々こそ新しい立場から明瞭にしておかなければならぬ、というのにも、 「いゝのよ、そんなこと。」  と、何か別のことを考えている顔つきで制するだけだった。友達はうなずけぬように尚お理論的に自説を主張する。明子は初めて自分も世のしきたりにふみとゞまってそれを語るというようにしゃべり出す。 「私にとっては今それはちっとも問題にならないの。暮しのためにたゞ稼ぐ、というように反抗したのも、結局は自分が我儘な気持を持ちたかったからなのですもの。広介さんは、それが私の傲慢さに見えて我慢が出来なかったのでしょう。広介が嘗ての環境にいたとき、私は広介の生活を援助して暮してきたのですから、今になってそんな経済的な問題を出すことは出来ないわ。はずかしいわ。それに私にはそれが大事なことじゃないんですもの。」  だから、私はいゝ細君ではなくなったし、広介は広介で遠慮のない生活をのぞんで別の方向を求めたのだ。と、心の中でぼそぼそとつぶやいた。だからこの不幸が、女も働いた方がいゝ、という明子たちの主張に矛盾として映るならば、世間に対してすまない、とおもう、自分たちの破綻は、自分たちだけが特殊に遭遇した不幸なのだからとおもうのであった。 「そんなものかなあ。」  と、不足そうに友達がいうのに、明子はとりなすように、 「広介は勿論、子供ひとり分の生活費はおくるって言っているのよ。今度私に入ったお金も、広介に渡した分は、もう立て替えた、ということになっているの、返してくれるのよ。」  明子は仕事がすむと、やはり正枝の二階から我家へ帰っていた。その二日か三日の間にも、広介と顔をつき合せ、広介が毎日、一度は新宿へ出掛けてゆき、ある時は昼の時間に何処かで女と落ち合うのだというのなどを見ていると、明子の感情はまたしてもぐるぐるぐるぐると変化し、今、愛情に泣いているかとおもうと、次の瞬間には憎悪で目を吊らした。  その朝も二人は激しい争いをしたのである。こんな場合にも、争えば、初めは愛情に出た怨恨も、二人の間では深刻な対等の摩擦になっていた。 「今頃になって、こんなこと言っておかしいけど、ひとりになってしまったら、私はがっかりして何も書けなくなるんじゃないかしら。」 「そんなことはないよ。きっといゝ仕事が出来るよ。俺さ、これから大変なのは。」 「あなたにはこれからいゝ奥さんがいて世話してくれるもの……でも、私だって、きっといゝ奥さんになっていたわね。もし仕事さえしていなければね。どうして仕事なんかしたのかしら。仕事なんてしなければよかったなア。」  内輪の詠嘆で明子は言ったつもりだが、それは広介へは、十年の蓄積をこめて、彼女の権高な皮肉とも感じさせるものが含まれていた。 「そんなこと言うもんじゃないよ。そんな自分を冒涜するようなことを言うのはよせよ。本心でそうおもうわけでもないだろう。厭がらせに過ぎないじゃないか。」 「今になれば瞬間的にでも本心からそうおもってよ。厭がらせではあるもんですか。私は自分がいゝ細君ではなかったなんておもわないわ、ただそれが、そのことが自分で厭になったんです。あなたに女が出来たからって、あなたにだけ罪は負わせはしないわ。これは私自身の悲劇なんです。だから、だから、なんだって、小説なんか書いたんだろう、とおもうわ。仕事を持っていた女房だからこそ、余計に、気をつかって、旦那様にもしていたとおもうんだ。なんて馬鹿々々しい。そんな微妙なことは誰も知りゃしない。あなただって知りゃしない。そうおもうと、私は自分が可哀想になるんですよ。」 「よさないか。黙っていればいゝ気になって。自分だけが悲劇の主人公だと思っている。いつでもそうなんだ。俺はいつもお前に迷惑だけかけて、ノホホンとして来たということになるんだ。そんなに口惜しけりゃ、世間へ向ってわめいて来いよ。柿村広介とはこんな勝手な人間だ、と。」  言ううちに次第に怒りが広介にこみあげて来た。 「なんだと、よくも言ったな。小説なんか書かせて悪かったね。やめろ、やめろ。傲慢な。よくもそんなこと俺にむかって言えたよ。そんな傲慢は、ちゃんと自分の本も持っている人間が自信をもっている上で初めて言えるんだ。俺なんかは、これからどうにかして成長したいと、明け暮れねがっているんだ。たいした相違さ。お前はやめたい、と言えるし、俺の方はこれからなんとかして自分を築きたいと、まるで馬鹿のようにおもっているんだから。二年間の獄中生活でこのことがどんなに胸に詰まっていったか、お前なんかにはわかるまい。もしもこのまんま死んだら、とそのことがどんなに恐ろしかったか。そういう焦燥というものがどんなに深刻なものか、獄中で自信を失くすのは、決まってこういうときなのだ。どんなことをしてでも、今度こそ仕事をしようとおもったのだ、今更、お前なんかに負けちゃいられないんだ。」  怒りというよりは激しい告白のように口を衝いて出る広介の言葉は、明子の胸にしみた。 「じゃあ、あなたは、自分のこれまでやってきたことを抹殺する? そんな馬鹿な。」  明子は、今日の時代というようなものが、はっきりと自分たちの上に映るのを感じた。  広介は明子の言う意味をとらえ、 「人生なんてものは、そんな単純なものじゃあないんだ。人の心というものは。今度こそ俺ははっきり解ったんだ。誰だって、底をわれば、なアに軽薄なものがあるさ。口に出して言わないだけなんだ。自分の仕事として何もない、ということから受ける侮蔑感。それは当人だけしか知りゃしない。お前にしろ、滝井岸子にしろ、そんな感情は経験したことはないんだ。」  それは複雑な、おそろしいような言葉であった。この言葉には明子に対して依怙地になった広介の誇張があるとしても、彼の心の奥を覗かせるようなものがあるのだとおもう。明子は、ぐったり力の抜けてゆくようになりながら言った。 「そうね、きっと。あなたの言うこともわかりますわ。私としてはこれまであなたの意志に少しでも抗ったことはないつもりだけど、もう駄目なのでしょう。どうぞ自由にして下さい。私はやっぱりこのまゝ行くより仕方がないもの。」  広介にとっても、今のような状態で顔つき合せて暮してゆくことは、もうこれ以上続けてゆくことが不可能に思われた。それはお互に、愛憎が交錯するばかりで、神経をも肉体をも無駄に傷つけ、すり減らすばかりだとおもわれた。子供は海から帰宅させて暫くでも家庭の空気をおくってからと願うのは広介の空想に終るらしい。明子の神経の状態ではそれはますます彼女を苦痛にし、最後を荒々しくするばかりであろう、とおそれられた。  広介は丁度その日仕事の金が入ると驀らに新しい生活へ飛び込む用意に掛ろうとした。広介はある新聞社に友人の宮崎を訪ね、その女に逢って貰うことを頼んだ。自分が新しい生活に入るというのは、その対手の女の生活をも変えることである。すぐにも家を借りさせよう、そういう話を現実的にするために、広介は友人の援けを頼むのであった。    二十三  おや、足音が二人だ、と明子は寝床の中で耳を傾けた。 「ちょっと待っててくれ給え。」  玄関からまっすぐに二階へ上ってくる広介だった。明子は起きて襟を合せた。  広介の弱気に笑った顔が明子をじっと見た。 「おい、俺は、女の方やめたよ。ね、よかっただろう。」  いわば、結局、よかった、と本当にそうおもうことにしか、広介には救いはなかったのであろう。彼は明子の耳元でそう囁いた。  明子は目を大きく見開き、ぶるぶるぶるぶると慄え出した。 「あゝ、どうしたのだろう。私、慄えて仕様がないわ。」 「よしよし。階下に宮崎君がきているから、ちょっと挨拶してくれ。くわしい話はあとでするよ。宮崎君に厄介になったんだから。」  広介について明子は階下へ降りた。夜更けの驚愕は、いつもこんなに身体が慄えるものなのだろうか。人気のない階下の座敷に電灯をつけるのさえ、いつかやっぱりこんなものものしい取りこみがあったような思いをさせた。明子は自分の方が家出先から連れ帰られた娘のように身のおき場のない気がし、広介は宮崎とまだ興奮の残っている高い声で話をした。磊落に話す宮崎は、明子にもかいつまんで説明する、というように、 「逢ってみたら、僕の知ってる男の女でね。その男というのが、店の持主なんですよ。今日はその男にも逢ってね。」 「四人で対決をしたんだ。」  と、広介が人ごとのようなにぎやかさで、柿村さんとの話はこれまでとお思い下さい、と、女が広介に宣言をしたのだ、という。 「あの男の前では、あゝいうよりほかに仕様がないやね。まるでこわい男だよ。然し何故あの女の立場をはっきりしておかないんだろう、店ではほかの使用人とちっとも変りはないんだよ。ひどい男だね。」  広介は、彼の無邪気ともいわれる性質で、対手の男がまるで女の領髪《えりがみ》でもとっていたようにおもうことで男に対して憎悪を示し、人道的に女に同情してはありのまゝの気の好さを現わした。  宮崎はそれにはとりあわず、 「早く分ってよかったよ。」  笑いもせず「深入りしてからだと面倒だからね。女もまたいゝ加減な奴だね。」  じゃ、今夜はおそいから、と宮崎は帰るのだったが、門口に宮崎の姿が消えて、二人っきりになった瞬間に、明子は突然大きな重い荷を肩にのっけられたように感じ、深い溜息をついた。明子は自分のその感じに自らおびえた。これは薄情さなのだろうか。 「おい、どうしたんだよ。どうしたんだ。」  広介は、明子の肩をゆすぶった。歓喜に燃ゆる愛情を、広介は期待したにちがいない。明子の愛情にこそ、彼の凭れ場所をたのんでいたにちがいない。明子もそれを察した。愛情の手に広介を抱きながら、それでも尚お心は暗く乾いてゆくのであった。  次の夜、広介は朝まで帰宅しなかった。まるで張っていた糸の一本が切れたように、心の重心の置き場をまだ見つけ得ない状態で、明子は、一夜帰らぬ広介を何と想像していゝかわからないのであった。  一夜の疲れで蒼いねばついた顔で広介は帰ってきたが、 「なに、つい飲み歩いてね。」  と、他意なさそうに笑った。明子は単純に受けとり、 「いやね。こんなあと、私だって落ちつかないのに、自分ひとりで歩いていて。」  すると広介は初めて抗うように顔をわきへ向けて、 「だってお前は俺のことを、自分の心で明子にもどったんじゃないって言ったんじゃないか。そう言われりゃそうかも知れない。だが、そんな風に言い切ることは出来ないとおもう。然し、明子にそういう風に言われてみれば、俺としては帰る家はないようなものだからね。」  明子は一層淋しい顔をし、辛い息をのんだ。そういう愚痴としてではなく、今後、二人の家を別々に持つ、ということでお互の生活の矛盾を救うてゆこう、と、言い合せたのも昨日であったが、家を別々に持ってゆく上の細かな不便や、心の上の不満は、お互の愛情に解決をたのむより仕方がない。それさえ、明子には見透しのつかぬ苦しみを予想させている。広介にこのように言われれば、明子はあとあとのことまでおもわれ、はたと息がふさがれるようになるのであった。 「今日、新聞から人が来るかも知れないよ。昨夜、酒を呑むところで一緒になってね。今度の俺たちのことを書く、と言うんだ。」 「あら、困ったこと。だってもうすんだんじゃありませんか。」 「あゝ、もう、来たよ。」  家の狭い入口を靴音が二三足続いてくる。 「あ、ほんとうに。だけどどうしよう。」  明子は、塀を倒してどうッと流れ入ってくる水に対して、不可能な抵抗の両腕をあげたまゝ、逃げまどうような気でぐるぐると部屋の中を見廻した。 「ごめん下さい。」  玄関ではもう声がしている。  あゝ、何と改まった他所の人の声だ。そして広介と明子は、裸身のまゝそこへ引き出されるのである。  二人は自信のない、しおれた姿で写真をとられた。  広介があとで、困った、と言い出した。 「宮崎君が新聞に出す、というのを頼んで断わっておいたんだ。別の方に出てしまっては宮崎君に悪いよ。俺はちょっと行って詫びて来る。」 「ひとりで行ってしまうの。私をおいて。」  急に引きずり出されて波浪を浴びた衝撃で、明子はあわたゞしい不安な顔をした。 「だって行かなけりゃ悪いよ。」 「じゃ、私もゆく。」  流されるのならば二人でいなければ瞬時もじっとしてはいられない、そんな気がしていた。  明子は女学生の通学帽にする白い布地の帽子をかぶって、何を顧る余裕もなく広介にくっついて出た。  天井の高い会議室の、広い卓の端に、二人は肩をおとした姿で掛けていた。  宮崎や、その他、この大新聞の偉力と、活動力をその身につけている人たちが、代る代る、二人の話を聞いた。広介は素直な態度で夫婦とも文筆にたずさわる生活の困難な支障について話し、自分の恋愛は解消したけれども、夫婦は今度別居するのだ、という話をした。  明子は自分の傷をむしるような諦めで、対手の顔を見ないでしゃべったが、神経は昂ぶり、言葉が一本調子になって慄えた。 「これまでも、両方が仕事をするという生活は、ずい分大変でしたけれど、今後、お互に別居をして暮してゆくということは、尚お一層、大変だとおもうのです。それはずい分大変だとおもうのです。」  ちょっとお二人は向き合って笑って下さい、と、写真を撮すというので、椅子をずらして衝立の前に二人だけ別になったとき、写真班が言った。しーんとしたような、またこの建物中が、轟々と鳴り渡っているような新聞社の会議室の一角で、広介と明子は写真班の言うまゝに膝を向け合って微笑した。宮崎たちの何か打ち合せる姿を前にして。 「はい、どうも。」  カメラをおろして言われると、明子は顔を隠すようにうしろをむき、椅子を直したが、木の衝立にむかって、だれも見ていない、とおもったとき、まるで自然に感情の痒みでも掻くように、自分でもそれほどの自覚なしに、突然思い切り歯を剥出して、いいッと顔をひん曲げた。    二十四 「兎に角、子供たちを連れて来よう。」  自ら掻きむしった家の荒れを、子供たちの薄いもゝ色の裸で踏み柔げられるのを欲するように広介は言い、二人は連れ立って子供たちの避暑先へ向った。  一夏中、からりと晴れた日のなかったような年だったし、それにもう九月にはいってしまったので、海岸は行一の手紙にあったように、まるで淋しい砂地の一村に返っていた。仰々しい張り出しの看板など取れたあとは、却って洗いあげて素地の出た落ちつきもあって、叢で真昼でも虫が鳴いていた。家々は一軒ずつ静まって、都会人を追いやったあとの自分たちだけの生活にひっそりと手足をのばしているように見えた。この中にうちの子供たちだけを取り残しておいたのか、と、明子は捨子でもしておいたようにおもった。  子供たちは泣き笑いの顔をした。この部屋だけに、時はずれの騒々しさが巻き起った。一晩だけ泊ることにして、広介は子供たちに詫びを言うように、 「さあ、父ちゃんが来たから、ボートに乗ろう。」  と、先へ立った。行一は急ぐときのくせで首を曲げ、走るように、父親の腰について行った。徹子は母の手に引かれている。子供とその母とが、父親に連れられてボートに乗るのであった。  海は曇って、低く、広く見えた。沖に貝の養殖場があり、その印に立ててある杙の上に、羽根をやすめた鴎が、丸い頭をくるくるっと動かしているのなど、広介は櫂を動かしながら子供たちに説明してやっていたが、目は明子に囁きかけてばかりいた。子供の小さな頭を二つ中に挟んで、その向うにこちらを向いている広介を見て、明子はまざまざと自分達の繋がりを指し示されたように感じた。いわば同志討ちの痛ましさを自ら感じ、反射的に迸る愛情に身体が慄えた。しっぽりと水をふくんだ海綿でも胸に抱いているように、見開いた目をきらきらさせていたが、周囲をさえぎるもののない沖で、広介の身体だけが大きくひろがってゆくようにおもわれ、たゞその一点のみのように彼の顔を心にとらえた。  夜は、この前明子がひとり来て、中に籠る子供たちと老人の寝息に、今後のひとり暮しの重たさをおもい、肌寒くなったあの蚊帳の中に、広介も共に入るのであった。明子は押し塞がれたように子供たちの前でも広介にはものが言えなくなっていたが、眠っているものを起さぬように、だが抑え兼ねた気配で明子は広介を外へ誘い出した。  もう秋の夜のように、外には一面に露がおりていた。遠浅なので海の音は聞えず、省線電車の遠い警笛が伝わってくるばかりだった。二人は海の方へゆかず、私設電車の通っている畑地の方へ、家並みを抜けて歩いてゆくのだったが、忍ぶような二人の足許で、コオロギが一斉に、夜の空間を押しひろげるように鳴いていた。その中で松虫や鈴虫のはっきりしたひとつずつの声も、あとからあとからと繋がるように聞えている。畑より一段高くしつらえた停留所の電灯は霧の中にぼやけていたが、その線路に沿った小道を草の露に足を濡らして歩いてゆく二人の姿は、次第に暗闇の中に消えるようにも、また、たちこめる霧の中に浮び上るようにも見えた。行く手には黒く小松の茂っている丘があった。 「どこへ行くんだ。」  広介は昂ぶっている明子に圧倒されていた。自分の腕を明子にとられたまゝ、横から明子の表情を見ようとしたが、明子は息を切らし、広介を引きずるように正面向いて草を踏みくだいて行きながら、来てよ、来てよ、と喘ぐ声で言った。ふくれてくる感情にまるで憑かれているように、丘へあがる坂道をまっすぐ身体を立てて大股に上った。  この丘の上から昼間は海がひらけて見えるのだが、今はたゞ狭い周囲に小松の幹が透けて見えるだけである。つめたい土と濡れた草の感触のなかで広介の掌だけ温かく明子に血を通わせた。町の方から、警笛を鳴らしつゞけてきた電車が響きながら次第に近づいてきて、丘の下の線路を丘とすれすれに通過して行ったが、小さな箱のような電車の車内の灯がその一瞬、丘の上の二人の姿を映し出した。電車は終発であったと見え、間もなく停留所の電灯は、一斉にぱっと消えて、闇と霧の中に没した。  東京の家は再び旧態に復したかに見えた。仕事をした徹夜の朝などいつか階下ではやす代が起きて朝飯の茶碗の音をかちゃかちゃと立てるとおもっていると、それまでは寝覚めの気配もなかったのに、いきなり行一と徹子の、大阪じゃんけん、負けるが勝ちよ、と大きな声でしゃべり始めるのが聞える。明子は、ほっと珍しいようにそれを耳にとめ、この家は子供たちの家でもあったのかと、そんなことにも思いを据えたが、それは明子の心が悲しいからであった。次の部屋の自分の机で何も変ったことはなかった、というように本を読みふけっている広介を見ると、何か、掻きむしりたい焦燥を明子は感じる。お前という人はまあ、と泣いて叱る母親のように言うこともあった。 「可哀想な人ねえ。」と。  俺かい、と広介は顔をあげてそれを払いのけるように、 「なアに。俺は案外平気なんだよ。対手の女にどうの、こうの、というよりは、自分の計算の方に夢中で、先っ走りさせていたようなところもあるんだからね。宮崎と俺と、女と、その亭主の四人で対決をして、じゃこれでお終いにしよう、と言ってその店の門口を出たとき、俺はおもわず、大きな声で笑ってしまったんだ。そんなようなもんさ。」  自嘲的に言うのだったが、その口調の底に、彼にはまだうなずけぬ数々の思いも澱《おり》のように沈んでいる。明子にもそれは分る。泣き笑いの表情で、 「ごめんなさいね。」  と、云ったが、その言葉は広介にも自分にも何の慰めにもならず空しく宙に迷うのであった。  川田正枝は、滝井岸子の消息を伝えに来てくれた。いよいよ送局と決まったのだ、という。一度その前に明子も逢いにゆけないだろうか、と正枝が言った。明子は岸子と同じ事件で、まだ処分も決定していないので面会にゆくのはどうかとおもわれたが、岸子との親しい間柄が、それを許してくれそうにもおもえた。  正枝はそのあとで、今は自分も考えを述べる、というように、 「私は初めっから、その広介さんの対手の女のひと、なんだか変だ、とおもっていたわ、だって、あなたという奥さんに対して、その人が苦しまないわけないでしょう。もし、本気ならばよ。」  あゝ、ほんとうだ、と嫉妬からではなく、真実を見極める、という点から、まるで迂濶でいたのを指摘されたように明子は気づくのであった。自分の軽薄さに顔のほてるおもいであった。 「私はたゞ、あの写真で見た女の人が、善さそうな人だったので、広介の好意を簡単にみとめてしまったようだったわ。対手の女のひとには、私は未だに悪感情は一度も浮ばないのは、どういうわけでしょう。」  それさえ、明子は、生活の変革を捨てばちにのぞんでいた自分の、広介に対する薄情さにも、気の強さにもおもわれ、厭な気がした。対手の女の領髪《えりがみ》を掴むような嫉妬こそ、一途な愛情なのかも知れない、と、自分に否定的になるのだ。  明子は岸子に逢いにゆくことを考えながら、自分の姿がどんな変化で岸子の目に映るだろう、と身のすくむようにおもった。さぞや自信のない、うろたえたものを現わしていることだろう、と。  そういうことも承知の上で、広介と明子はお互いに傷ついた犬の哀れさで寄り合っていた。広介は明子に気持ちの凭り場を求め、明子は心の隅に根の残った寂しさを塞ぐように広介のそばを離れなかった。それでもどこからか二人の間には風がしみとおってくるおもいだ。  そわそわと腰を立て、広介は悪相談でも計るように、 「おい、レヴュー見にゆかないか。」  と、言い出し、雑踏の夜の町へ浮かれるように出て行った。  映画館の暗黒の人ごみに交っていれば、自分たちも影絵のように現実感を失くすることが出来たし、レヴューの騒々しい楽隊や、漫才の馬鹿々々しさでは神経を麻痺させることが出来た。  二人はある夜、やはりそういう帰り路に肩を寄せ合って歩いていた。顔見知りの酔った男が、酒の上の冷やかし半分、また半分の本心を交えて広介たち二人の方に手を振った。 「駄目、駄目、新聞に出た当座くらい、少し遠慮しなさい。」  仕様ことなしの苦笑いも、明子は胸によどんだ。すると広介が敏感にそれを察し、明らかな気まずさで、明子のくさるのに打つかっていった。 「どうせ、僕が悪いんだからね。」 「あなたひとりのことじゃないじゃないの。」 「そうだよ。被害はお前の方に甚大さ。悪かったね。お前に迷惑かけて。俺はお前のように取り澄ました生活は出来ないんでね。」 「もうよしましょうよ。お互に辛いばっかりじゃないの。」 「だから、いゝよ。俺は早く家を出て、アパートへでもゆくさ。」 「それで、あなたは私をいじめるの。それじゃあんまり可哀想じゃありませんか。私が今どんなに寂しいか……」 「俺こそ、自業自得でね。」  だから、だからもう、と、明子は心で呟きながら、寂しい顔は外へ向けるのであった。  広介と明子は、彼等の気の好さで、自分たちの苦痛を周囲へ甘えかけさせている傾向もあったのであろう。私たちはとても苦しんだのです、と甘えかけるその横面を、ぴしゃり、と叩かれるおもいが度重なっていった。なんのことはない亭主の浮気を、女房が作家生活を楯にして理屈づけたのだ、というような恥かしいおもいも外側から強いられた。それは泣くような苦笑にでしか、うけとるすべのないものであった。ある時は明子は、自らをも、そして世間というものを嘲けるように、結局そんなものかも知れない、とつぶやく。広介は、はねかえった泥でも払い落すように、 「自分からくだらなくなる必要はないよ。」  と、言い放つ。  またある時は二人の事件の批判が、広介と明子の人物の比較でなされる。 「事柄が事柄だから仕方がないのよ。どうしても私の方が同情されて、あなたが非難されるのよ。」 「なんだか知らないが、俺は、これが堪らないんだ。」  広介は侮辱感に苛立ち、顔を蒼くした。すると明子は、あゝ、流されると、自分たち二人の間に、どうっと、流れ入る社会の波を感じた。その波に気づき乍ら二人は少しずつ流された。初めいたわり合っていた彼らは、お互の傷をむしり合う荒々しさにもかり立てられた。以前は口にしなかった太々しい憎悪の言葉も、今度の事件で対手を、自己を剥き出した不敵さで、解決後の今、いわば白昼に持ち出して争うのであった。争えば争うほど、二人の孤独は深まった。  明子の感情は始終、ヒステリックな高音を保ちつゞけていた。それに対し広介のこじれた覚悟が対峙して、日が経つにつれて却って救いのない、一色の灰色に塗りこめられた。二人は人生的な敗北感を、お互の間にもにじみ込ませた。諦めは強引な自己主張に、自嘲は虚無的に沈んだ。その中を二人の仕事が二本の綱となってよじれ合い、打っつかった。 「そうだよ。俺が早くこの家を出てゆきさえすりゃ文句はないんだ。そうだろう。俺だって厭だからね。そうそうお前に迷惑をかけるようじゃこっちの身も縮むよ。」  広介は憎悪をこめて言い放つ。それからわざと裏返すように、 「なアに。俺は決してこの家をお前に追い出されたなんておもいはしないからね。大丈夫だよ。」  明子は唇を曲げて白けた笑いをし、刺すような視線で広介の蒼い顔を見つめていた。 (完)   この作品は昭和二十七年五月新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    くれない 発行  2002年7月5日 著者  佐多 稲子 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861199-3 C0893 (C)Kenzo Kubokawa 1938, Coded in Japan