室生犀星 中野重治 著 -------------------------------------------------------------------------------- 筑摩eブックス 〈お断り〉 本作品を電子化するにあたり一部の漢字および記号類が簡略化されて表現されている場合があります。 今日の人権意識に照らして不当、不適切と思われる語句や表現については、作品の時代背景と価値とにかんがみ、そのままにしました。 〈ご注意〉 本作品の利用、閲覧は購入者個人、あるいは家庭内その他これに準ずる範囲内に限って認められています。 また本作品の全部または一部を無断で複製(コピー)、転載、配信、送信(ホームページなどへの掲載を含む)を行うこと、ならびに改竄、改変を加えることは著作権法その他の関連法規、および国際条約で禁止されています。 これらに違反すると犯罪行為として処罰の対象になります。 まえがき  私は室生犀星を一九二三年末、大正十二年に知つた。関東の大震災で、犀星一家が郷里金沢へ移つてきたときのことである。一九一八年、大正七年に、犀星の第一詩集『愛の詩集』が出たときから、つづいて『抒情小曲集』が出たときから、私はこの人の詩を知つてしたたかに牽かれてきていたが、直接その人を知るようになつたのはこの時からであつた。当時、金沢第四高等学校の同級生に高柳真三がいて、彼の家は室生家としたしい関係にあつた。このことも、犀星を、私が一人の学校生徒として訪ねて行つた因縁のうちになにがしあつたろうと思う。  一九六二年、昭和三十七年、彼が年七十三で亡くなつたとき、遺族からの話もあつて私は葬儀の仕事の責任者役をつとめた。一九六四年、昭和三十九年三月、新潮社から十二巻本、別巻二冊の『室生犀星全集』が出ることになつたが、三好達治、窪川鶴次郎、伊藤信吉、福永武彦、奥野健男、それに私とで編纂委員会がつくられ、このときも、人のいうままに私が編纂の仕事の代表者役をつとめた。そうして、全十四巻にわたつて解説文を書いた。全集は一九六八年、昭和四十三年一月完成した。そこで、今までに書いた犀星関係の私の文章を一つに集めて、一般の犀星読者を目あてに一冊にしたのがこれである。  犀星との知合い関係時間が長かつたからといつて、それだけよく私が犀星を知つているとなる筈はない。葬儀のこと、全集編纂のこと、同断である。また私は、犀星に牽かれ、犀星の作と人とにながく親しんできたが、つまるところそれは主観のことであつて、私自身なんの犀星研究者でもない。父と親しんできた息子が、父の研究者、父の客観的観察者でない場合は非常に多い。これらの文章に、そういう弱点のあることは私も心得ている。  一冊の中身については私はたくさんの人の世話になつた。全集編纂の諸君についてはいうまでもない。年譜その他については金沢の新保千代子の助けをえた。室生犀星詩人賞のことについては滝口雅子の注意を受けた。写真その他のことについては室生朝子の注意、援助を受けた。死の前後のことについては堀口大学のひとかたならぬ世話を受けた。また全集の仕事全部を通して新潮社の谷田昌平、同じく加藤和代の世話を受けた。また特に、犀星の死後解剖にあたつた虎ノ門病院の本間日臣さんから、その解剖所見を入れることの許しをえることができた。すベてお礼を申したい。  解剖のことについては考えさせられるところがあつた。あらためてそれを読み返しながら、人はどれほどの人でも自分の解剖所見を読むことはできない、このことの、不思議なような絶望的なような思いをそそられることについてだつたが、考えてみれば作そのものについても同じことがいえるのであろう。作そのものについてよりは、むしろ解剖所見の方が確かだといえるのかも知れない。  三好達治が、全集完結をまたずににわかに死んでしまつたことはやはり残念である。 一九六八年八月一日 中野重治 目次 まえがき ㈵ 室生犀星 人と作品 出生と出発 第一詩集と三十歳 結婚のよろこびと人間の悲哀 運命とその交錯 都会の底 峠を越す 豊熟と途上の障碍 戦争の五年間 二つの廃墟から 晩年と最後 七十歳 仕事のなかでの七十三年 日記の犀星 死、葬送とその後 ㈼ 教師としての室生犀星 一九三五年のころ 金沢の家 南江二郎氏と諏訪三郎氏 しやつ、ももひきの類 犀星 室生さんの死 「驢馬」の時分 犀星観を問われて 茶と菓子 ㈽ 母乳のごときもの 室生犀星ベスト・スリー 忘れえぬ書物 『愛の詩集』初版のこと 『室生犀星詩集』について 犀星 室生さん 『室生犀星全集』第一巻 心のこりの記 うろ覚えの記 室生犀星(照道) 『抒情小曲集』 室生犀星 詩人としての室生犀星 室生犀星年譜 掲載書名一覧 うしろがき 室生犀星 ㈵ 室生犀星 人と作品 出生と出発  ある人が生れる。ここからその人の人生が始まる。この人はここから彼の人生へと出発する。彼がどこで生れたか、どうして生れたかは、いやおうなしにその人の人生へひびいて行く。その人生が異常に短い場合、つまり生れたということに死がつづいてくる場合にさえこれはあてはまる。いつ、どんな時代に生れたか、どこに生れたか、どんな職業の親たちの子に生れたか、どんなその他の条件のもとにこの世に生をうけたか、どんな幼少年期を送つたかは、その人が何を職業とするかにかかわりなくその人の人生にひびいて行き、わけても藝術、文学を仕事とするものの人生にひびいて行く。富の問題もこれに関係してくる。性の問題もこれに関係してくる。樋口夏子という人間が女でなかつたとすれば、そこから文学者一葉というものは生れてくることができなかつた。「山形」という短篇小説は、作者志賀直哉がある階級の家庭に生れたことから全く切りはなしては考えることができない。室生犀星の場合にもこのことはあり、このことは、この場合ある意味でいつそう大きいとさえ言つていいかと思う。  むろん出生の条件は、その人の人生にとつてすベてを決するものではない。宿命説は成りたたない。しかし室生犀星は、全く特殊な条件のもとにこの世に生れてきた。一八八九年、明治二十二年、つまり日清戦争の五年ほど前に、かつて旧加賀藩で足軽組頭というものをつとめていた小畠吉種という人が、金沢で、妻の死後、女中のハルという人に生ませた男の子が室生犀星だつたのである。当時の言葉でいつて私生子である。あるいはここまでは、ありきたりのことと言つて言えなくはあるまい。しかしこの子供は、生れるとすぐ、多分名さえまだつけられぬうちに全くの赤の他人の手に渡された。赤井ハツという他人である。こうして、この赤井ハツに私生子照道という子供ができることになつた。ところが、ハツという人は、犀川べりの雨宝院という寺の住職室生真乗というものの内縁の妻であつた。そういうことから、赤井照道は、年七つで真乗の養嗣子室生照道ということになつた。苗字からいえば、この子供は、それを名乗らされなかつた小畠から赤井に移り、赤井から室生に移つたわけである。昔の侍の子が、二転三転して、出家得度というのとは全くちがつた道行きで寺の子、僧侶の子となつたのである。ここまで来れば、もはや「ありきたり」の話ではない。  しかもこのハツが一とおりの人間ではなかつた。静かで大人しい真乗に対して、ハツの方は極端に乱暴な莫《ばく》蓮《れん》女《おんな》であり、そのうえ奇妙なことに、照道をもらい受ける前にすでに真道という男の子とオテイという女の子とをもらい受けてわが子として育てていた。また照道以後にも、さらにオキンという女の子をもらい受けてわが子として育てている。つまり照道は、いわば四人きようだいの一人として幼少年期を送つたわけである。何でこういうことになつたものか正確なことはわかつていない。事実がそうなのである。照道は女中の子として生みおとされ、藁の上からよその女の手に渡り、この義母のもとにあつた三人のきようだいと一しよに育てられたものの、この三人のきようだいがそもそもこの女の義理の子供たちだつたのである。養母ハツが非道な女であり、人間として乱暴至極なものだつたことはまちがいないが、何でそういう乱暴な女が、四人までも他人の子を——そのうちオテイだけは姪だつたにしろ——養つて育てたのか。この女は、乱暴で粗雑な人間ではあつたが、銭金めあての養い子商売、ひどい場合の貰い子殺しといつた性格のものでは確かに決してなかつた。しかも養い子の件は、女親が養い子四人を連れ具して室生真乗のもとで生活したのではあつても、真乗の意志によつたよりはハツの意志によつたものであり、むしろハツひとりの意志によつたものであり、むしろあるいは真乗の意志に反してもハツの意志によつたものであつた。不思議な因縁である。しかも姉にあたるオテイなどは、照道に彼の生涯にわたつたやさしい影響をあたえている。一方生母ハルは、照道九つの年、実父吉種の死んだその日の夜から行方不明となり、犀星は生涯その実の母を見なかつたのである。「寺の庭」という詩は犀星のこういう事情に結びついている。 つち澄みうるほひ 石《つ》蕗《は》の花咲き あはれ知るわが育ちに 鐘の鳴る寺の庭  雨宝院の生計はかなりに貧しかつたもののように見える。ハツの内妻ということにそれが見られるだけでなく、ハツの四人の養い子ということにもそれは見られるといえる。ハツにいわゆる博愛を見ることはあまり出来そうにない。また裕福な雨宝院だつたとすれば、一人二人はともかく四人の養い子ということは却つて実現しなかつたにちがいない。ここにあるのは貧しさであり、貧しさとともにあつた一種の野蛮である。ハツの乱暴さえ、愛の一種動物的な表現でなかつたとは言いきれまい。私生子だつたこと、貰い子だつたこと、貰い手が僧侶の内縁の妻だつたことなどにも関係してだつたろう、照道は小学校の入学さえ普通の四月一日でなく、おくれて九月三日ということになつた。手続き問題があつたにはちがいないが、寺の貧乏ということが厳としてそこにあつた。金沢にはたくさんの寺があるが、十歳で四年制尋常小学校卒業、十三歳で四年制高等小学校を三年で中途退学、そのまま義兄のつとめ先き、金沢地方裁判所に給仕として就職した嗣子を持つた寺が雨宝院以外にあつたとは考えにくい。仮りにあつたにしても、二つも三つもはありえなかつた。こうしてこの少年は彼の人生へ出発して行つたのである。初給月二円五十銭であつた。  そしてこれは文字どおり彼の人生への出発になつた。月二円五十銭の勤務のなかで彼ははじめて文学に近づいて行く。彼は俳句という形で文学に取りつく。土地の俳句の世界で、すべて彼より年上のいろいろな人を彼は知ることになる。彼は東京の雑誌への投書ということもしてみることになる。新詩社風の短歌もこころみてみることになる。年十八になつて彼は児玉花外に見出されることになつた。詩が見出されたのである。彼の「さくらうぐひにそへて」が、選ばれて『新声』にかかげられた。それは、俳句世界のとはちがつた同年配の少年たちとの彼の結びつきを強いものにして行つた。そこに表《おもて》棹《とう》影《えい》がいた。尾山篤二郎、田辺孝次たちがいた。かれらそれぞれの思春期がそこで競りあつてつきまぜられ、かれらそれぞれの詩、文学が競りあつてつきまぜられ、青年期肉体の成長と詩の成長とがそこで競りあつた。すでに彼は犀星の名を持つていた。北原白秋の『邪宗門』が出たとき犀星は年二十だつたが、金石登記所に転勤していた彼はこの詩集を手に入れて肩を怒らして金沢の町を歩かねばならなかつた。  変化の時でもあつた。十三から七年間つとめた裁判所仕事を止めて彼は『三国新聞』の記者になつた。そしてこの仕事を二カ月して止めてしまつた。彼は能登に行き、京都に行き、福井に寄り、金沢に帰つて学校と刑務所とを受けもつ『石川新聞』の記者になつた。そしてこの仕事を三カ月で止めて東京へ出かけて行つた。トルストイの死んだ年でもある。  ここに彼の東京生活がはじまる。ここに彼の東京と金沢とをへとへとになつて往つたり来たりする生活がはじまる。彼は白秋を知つた。萩原朔太郎から突然の手紙を受けた。斎藤茂吉が『アララギ』に「滞郷異信」について書いたのを読んだ。彼と朔太郎とは兄弟のようになつて行き、むしろシャム兄弟のようになつて行く。東京と金沢とを往復していたものが金沢から前橋へ脱走するということにもなつて行く。  東京そのものが変化しつつあつた。文学の世界そのものが変化しつつあつた。彼は彼中心の同人雑誌発行のことにも没頭した。とうとう『感情』が出た。犀星の詩は朔太郎の詩とともにこれまでになかつたものとして知られてきた。谷崎潤一郎、佐藤春夫、芥川龍之介たちがさかんに書いて犀星自身この人たちと知りあつた。  とうとう、大正六年(一九一七年)のはじめに朔太郎の『月に吠える』が出た。そして養父真乗が死んだ。犀星は家督をつぎ、寺は人にゆずり、後に妻となる浅川とみ子に逢い、そして翌る年一月、彼の第一の詩集『愛の詩集』がとうとう出た。そして彼は結婚した。ほとんど同時に散文の世界が彼のなかに開けてきそうにあつた。彼はおずおずとしてそれを試みた。彼は年三十にもなつていた。彼の散文の試みは、年齢にくらべて、特に芥川、佐藤などの人びとがすでにしていた仕事に比べてかなりにおさなかつた。しばしばプリミチフでさえあつた。しかしそこにこの人びとにないものがあつた。この人びとになく、この人びとが、これからどれだけ努力したところで手に入れることの出来そうにない一つの性質のものがあつた。窮乏と学校風教育の低さとからくる野蛮であつた。野蛮は研鑽によつて手に入れることができない。娼婦たちのあいだでの泥のような彷徨のあとで、この男はほとんど考えられぬくらいの女性への謙遜を持つていた。それはただちに人生に対するものでもあつた。野蛮な、しかし知恵に充ちているのかも知れぬエネルギッシュな謙虚、それはさかんにはたらいている武者小路実篤のものともちがつていた。生母ハルのことから、養母ハツのことから、義理の姉オテイのことから、また特別な関係の真乗のことからそれは来ていたかも知れない。七年間の裁判所給仕ないし書記勤めから、刑務所まわりの新聞記者、東京地方裁判所の地下室筆稿生活とその苦痛とから来ていたかも知れない。(このとき幸徳伝次郎たちの事件があつた。)襲つてきた飢えの恐怖と疲労とから来ていたかも知れない。第一世界戦争も関係していたかも知れない。ロシヤ革命も、我流で読んだドストエフスキーも関係していたかも知れない。いずれにしても、野蛮で猪突猛進する極めてナイーフな謙虚と純粋とがそこにあつた。 みやこのはてはかぎりなけれど わがゆくみちはいんいんたり やつれてひたひあをかれど われはかの室生犀星なり  こういう詩の行は、これまでに書かれたこともなければ多分書くことを考えられたことさえなかつたものに見える。ふたごの兄弟のような朔太郎の、『月に吠える』のなかの「掌上の種」などと、『愛の詩集』『抒情小曲集』のものとを比べて読んでそれがわかる。こういう精神は剣《けん》呑《のん》なものでもある。ある種の犯罪者などに、こういう無垢な無邪気、一本気な向うみず、つりあいの線を一瞬に踏みこえてしまう傾向が見られることがある。詩と文学とは、『聖書』なども含めてこの人に文字どおり救いであつたかも知れない。それは本人も言つている。  「小説を書かないで外の職業をもつたとしたら、全く碌な人間にはならなかつたであらう。」  こういう犀星が、その全過去を引きずつて、ほとんど職業的にも文学散文の世界へ出発したわけである。 第一詩集と三十歳  犀星の第一詩集はいくらか特殊なやり方で世に出ることになつた。すでに犀星には『抒情小曲集』の仕事があつた。それは書かれていた。『青き魚を釣る人』の仕事があつた。それは書かれていた。『鳥雀集』『十九春詩集』の仕事がすでにあり、それらもまとめて書かれていた。にもかかわらず、一九一八年(大正七年)、犀星二十九歳の一月に、彼の第一詩集は『愛の詩集』として世に出ることになつた。年十八くらいから二十六くらいまでにかけて書かれたまことに初々しい作品、向うみずで、純真無垢で、しかし前人未踏の道を一人で手さぐりで歩いて行つた野蛮と極度なやさしさとの混合体としての抒情小曲の類、「抒情詩」「小曲」といつたそれまでの概念を突きやぶつていたそれらの作品を集として第一に出さないで、世に問う形ででは犀星は『愛の詩集』をまず出したのであつた。  『抒情小曲集』その他については三好達治が書いている。  「藤村以来の新体詩、泣菫、有明らの象徴詩、それらが暫く、或は永らく置き忘れにした歌の直截性、口語自由詩はその呼び戻しを試みたが、室生は彼なりその詩法のいちばん大事なやり方で以て、孤独に一途にこの時期それを試みたといつてよろしかろう。」  続いてこう書いている。  「この詩人が、やがて時を措かず『愛の詩集』の、それこそは口語自由詩体に、作風を移したのは、ことの本質から見てほんの僅な距離への引越しにすぎなかつたことでもあろう。『かう云つては悪いかも知れぬが、』と前置きして、しかしながら北原白秋が、『私は《愛の詩集》よりも此の《抒情小曲集》に、より深い純正を感じ、追憶の快味を感ずる。』(《抒情小曲集》序)というのは、確かにいう人の側に理由のないことではなかつた。近代詩にとつての室生さんの功績は、『抒情小曲集』を代表とする初期作品の、あの独自の詩法の屡々辻褄の合いかねた、その上でのあの微妙な浸透性——柔らかく素早く鋭い、軽やかに手強い、何とも名状のしようのないものの上にかかつていたと思えるから。萩原朔太郎のような大きな才能を喚び起したのも、またそれであつたから。」  一九二九年(昭和四年)、友の『室生犀星詩集』を編むためにその詩稿を読みつつあつたときのことをこの萩原は書いている。  「読んで行く中に、友の長い過去の生活、とりわけ自分との親しい交情が思ひ出され、不覚の涙をさそはれるまで、追懐の情緒に耐へがたかつた。思へば小景異情の昔から、自分と室生とは水魚の交りをつくして来た。我々は詩壇に出世を同じくし、生活を共にして来た。」  しかも萩原はそこで書いている。  「自分の見るところでは、室生の詩の最傑作と認むべきは、主として初期の『抒情小曲集』と、最近の『忘春詩集』の二冊にある。他にも散漫には佳い作があるけれども、概して代表的な名作は、この前後二期の詩集に尽されてる。『愛の詩集』及びその以後に続刊された多くの詩集は、どういふものか散文的平面にながれてゐる。真に詩的情熱の濃厚で、詩語に美しい音律を有するものは、主として前に言つた二詩集及びその前後の作にあるやうだ。」  こういう『愛の詩集』を、室生犀星は実地にその第一詩集として世に問うたわけである。つまりそこに、犀星の現世哲学があつたと見ることができそうである。人は今の瞬間を生きなければならない。人は今日を生きなければならない。その意味でこそ明日を生きなければならない。今日を生きることなしに、この足下の現実を飛びこしてどんな明日もあるのではない。これを逆方向に飛びこして、今日を生きることなしに昨日を生きるということもありえることではない。 本をよむならいまだ 新しい頁をきりはなつとき 紙の花粉は匂ひよく立つ そとの賑やかな新緑まで ペエジにとぢこめられてゐるやうだ 本は美しい信愛をもつて私を囲んでゐる  これが、『抒情小曲集』の類よりも後に書かれたもの、最近に書かれたものの方をまず世に出させたそもそものものだつたのであろう。詩風、詩の技法の上で、「この詩人が、やがて時を措かず『愛の詩集』の、それこそは口語自由詩体に、作風を移したのは、ことの本質から見てほんの僅な距離への引越しにすぎなかつたことでもあろう。」と三好のいつたそのこと、その「僅な距離への引越し」、その引越した今の、現在の地点からすべてをなそうというのが室生犀星の哲学なのであつた。  しかしそこには、室生犀星の生き方、詩作、思想の動態とともに、それをそんな具合に動かした時代ということも確かにあつた。誰にしろ、『愛の詩集』の「愛」をキリスト教風の「愛」、いわゆる「人道主義」の方の人間愛、人類愛の「愛」と誤つて受けとることはない。北原白秋が、「私は曽て萩原君の天稟を指して、地面に直角に立つ華奢な一本の竹であると云つた。而も君は喩へば一本の野生の栗の木である。」と書いたとき彼はそれを理解していた。犀星における「愛」は、人がこの世に生きて幸福を手に入れることにかかわつていた。『愛の詩集』再版のときに犀星自身も書いている。  「これらの命題であるべき『愛の詩集』の名目をもつて恰も私が愛の詩人であり、人道主義者のやうに見られるのは、いつも私の不愉快とするところである。私は、それらの孰れのものでもなく、また、それらについて曽つて進んで説明したこともない。私は私のもつ生活を直接に詩の上で物語ることによつて、私の藝術境をなすだけである。」  「私は決して浅薄な愛を説き、人道をひさぐやうなことは、ゆめさら考へたことがない。」  犀星の言おうとしたことははつきりしている。それだけに、それと取りちがえられたくないあるものが当時存在していたという事実もはつきりしている。「愛の詩人」といつたことが言葉として当時あつたこと、ありえたこと、また「浅薄な愛」ということが言葉としてあつたこと、ありえたこと、また「ひさがれるもの」としての「人道」「人道主義」があつたこと、ありえたことをそれは語つている。そこに時の背景ということが浮かんでくる。『愛の詩集』の一九一八年一月出版ということは、収められた作がロシヤ十月革命の時期に、あるいはその直前の時期に書かれたということであつた。一九一九年五月という『第二愛の詩集』出版についても似た関係が見られる。詩集はほとんど全くロシヤ革命に直接無関係であり、そもそもロシヤ革命に示した日本側反応が一般に弱かつたのでもあつたが、むしろ一九一〇年ころ以後、日本そのものの中に生じてきた動きが時の背景として考えられるのであろう。  『白樺』のグループは最後の期の仕事をしているところであつた。倉田百三の『出家とその弟子』が一九一七年六月に出、和辻哲郎の『古寺巡礼』が一九一九年五月に出、それとまじりあつてヨーロッパ美術の印象派ないし後期印象派が日本人のものとなりつつあつた。ヴァン・ゴオホなども日本人のものとなりつつあつた。クロポトキンなども同様であつた。河上肇の『社会問題研究』、長谷川如是閑、大山郁夫らの『我等』の創刊、一九二〇年には森戸辰男事件があり、八幡製鉄所の二万三千人ストライキで「熔鉱炉の火が消える」ということがあつた。賀川豊彦が表面的にも大きな力となつて現われてもくる時代、ひさがれるにしろひさがれぬにしろ、人間の問題、人道、人道主義の問題が表立つてきた時代、政治的にいつてデモクラシーの問題が表立つてきたこの時代の性格は後退りしがたいものだつたといわなければならない。この背景が、無意識のうちに、世に出たばかりの、むしろ世に出ようとしてその閾際に立つたばかりの無名詩人に影をおとしていたことは、それが直接にでなくてひどく風変りに特殊だつたとしても明らかにここで認められなければならない。  「朝の歌」に並んだ「夕の歌」には「人人の胸に温良な祈り」といつている。「犀川の岸辺」には「温良な内容を開いてくれる景色」という言葉がある。この「温良」なものを求める心がどこから来たかといえば、それはこの時期のこの青年の貧しさ、そこから這いあがつてでも正当に幸福につかみつこうとする努力、それにもかかわらず近代的な大都市が彼の前に開いて見せた悲惨と冷酷とだつたことは容易に見て取られる。「永遠にやつて来ない女性」、「雨の詩」などのやさしさと深さとは、「この喜びを告ぐ」、「この苦痛の前に額づく」などから来たともいえる。一方それは、作者がはじめて、それだけに春の出水のような勢いで散文の世界へ開眼して行つたこととも結びついているであろう。「なまじろく、うどんのやうな綟《よ》れたかほをしながら」(「愛猫抄」)といつた表現を含む世界、特にほとんど典型的に描かれた「蒼白き巣窟」の世界の体験などから来ているのであろう。この作は、いま残された大きな検閲削除が復元できぬという残念な事実——それは文字で数えて一万字を越している。——から来るあるもどかしさを別としていえば、詩人犀星の後々までの性格を端的に語るものともいうことができる。  これらの作の世界は、詩人犀星が、初期散文の「幼年時代」「性に眼覚める頃」の段階から次ぎの段階へのぼつたことの証左でもあつた。「或る少女の死まで」は、ある幼女を上澄みとしてたたえたその底の濁りを必ずしも描いていない。描かれようとしたときでさえ、それはやや澄んだものとして、いわば『抒情小曲集』の世界として描かれている、次のこの段階へ来て、作者ははじめて自己の散文の世界に辿りついたといつていいのであろう。  「どういふ都会にも底があるものである。人力以上にそれらが必然に固められるのだ。たうてい普通の取締をするよりも、もつと健康的に理想的なものにしたらいいと思ふ。……東京にはひどい孤独に悩まされてゐる実に非常な群衆がゐるのだから。」  「公園小品」にこう書いた犀星は、浅草の活動写真小屋で「ふいと便所へ行」き、そこでそこの「窓から浅草の街裏の店々や、二階や道路がみえ」て、人が「理由のない一種の変な物悲しげな心にな」り、「ふいと非常な極端な事を考へたり」することに触れている。「こもらへば裏町どほり遠近に畳をたたく音のさびしさ」という『あらたま』期茂吉の世界とはやや別のものである。もつと非観念的で、行きなり上へ上へと昇つて行こうというのでなくて、卑俗で卑賤なものそのものを通して行こうとするものである。「私が小説をかくやうになつてから、その文章がこれまでになく、殆ど私自身にさへ気附かなかつたスタイルを発見することができた。」(「草の上にて」)という言葉はこの段階に照応するものである。 結婚のよろこびと人間の悲哀  人が生れて育ち、成長して結婚する——男の側からも女の側からも結婚するということ、これは言葉どおり全く自然な道行きである。生れることがよろこばしく、育つことがよろこばしく、成長することがよろこばしいのと同じく結婚することは人間にとつてよろこばしい。自然の道行きはいつも必ずこの種のよろこばしさに伴われている。室生犀星は、落ちつきどころのない故郷金沢での生活ののち、落ちつきどころのない東京生活ののち、また何度かの東京と金沢とのあいだでの往つたり来たり、大都市生活底辺のある層でのながい彷徨ののち、一九一八年、年二十九で浅川とみ子と結婚した。つぎつぎと結婚したことを世俗的に非難されたときに佐藤春夫が答えたことがある。それほどそれはむずかしいのである。生涯の伴侶を求めるために、いく度か結婚し直さなければならなかつたある人間の不仕合せを人は理解しようとしないのか。——これは一理あることである。それは独立の問題としてていねいに扱われるべきものである。ただ犀星に関していえば、犀星は生涯にただ一度このとき結婚した。この結婚が彼にとつてただ一つの結婚であつた。是非をいうのではない。事実をいうまでである。  犀星は貧しく生れ、貧しく育ち、食に飢えてがつがつして生きてきた。同時に彼はたえず愛に飢えて生きてきた。犀星において、パンにたいする飢えと愛にたいする飢えとは重なつていた。こういう場合、パンにたいする飢えが飢えとして純粋であるように、愛にたいする飢えもどうしても純粋なものとなる。魂が健康であるかぎり、どうごまかしようもなく、悲しいばかりそれは貪欲に純粋なものとなる。『抒情小曲集』の『序曲』にすでにそれは語られていた。 芽がつつ立つ ナイフのやうな芽が たつた一本 すつきりと蒼空につつ立つ  『抒情小曲集』のすべてがそれだつたともいつていい。しかし多分、『愛の詩集』の「永遠にやつて来ない女性」一篇が、愛にたいする彼の飢えがどれほど純粋で生一本だつたかを殆んど音楽として聞かせている。 秋らしい風の吹く日 柿の木のかげのする庭にむかひ 水のやうに澄んだそらを眺め わたしは机にむかふ そして時時たのしく庭を眺め しをれたあさがほを眺め 立派な芙蓉の花を讃めたたヘ しづかに君を待つ気がする うつくしい微笑をたたへて 鳩のやうな君を待つのだ 柿の木のかげは移つて しつとりした日ぐれになる 自分は灯をつけて また机に向ふ 夜はいく晩となく まことにかうかうたる月夜である おれはこの庭を玉のやうに掃ききよめ 玉のやうな花を愛し ちひさな笛のやうなむしをたたヘ 歩いては考ヘ 考へてはそらを眺め そしてまた一つの塵をも残さず おお 掃ききよめ きよい孤独の中に住んで 永遠にやつて来ない君を待つ うれしさうに 姿は寂しく 身と心とにしみこんで けふも君をまちまうけてゐるのだ ああ それをくりかへす終生に いつかはしらず祝福あれ いつかはしらずまことの恵あれ まことの人のおとづれのあれ  ほとんどそれは音楽である。そしてその「永遠にやつて来ない女性」がついに貧しい犀星のところにあらわれたのであつた。そこに生れた結婚生活は「結婚者の手記」に藝術的表現を与えられている。  私は人の実際生活、このごろの言葉でいうその「わたくし生活」に立ち入るつもりはない。できぬことであり、してはならぬことでもある。けれども、「結婚者の手記」における男主人公のおどおどした態度、何かをひよつとして損ねはしまいかとして絶えず気をつかつている態度に読者の注意を引きたいと思う。武者小路実篤のある作には別の世界が描かれている。ある家の母親が、わが子に嫁をと考えてある娘を見る。母親は娘をさそつて風呂に入れる。それはその娘のからだをしらべるためにである。片輪ではないかを検分するためである。娘は露ばかりも疑わずに風呂にはいる。それを妹から聞いた兄が髪を逆立てて怒る。日本社会のある層にながくあつたことであり、あることである。これは、結婚しようとするものが互いに健康診断書を取りかわす話とは次元のちがつたものである。「結婚者の手記」に語られる男女の近寄りはこれと全くちがつている。  島崎藤村のある作にはやはり別の世界が描かれている。山奥の地方の貧しい教師が結婚する。結婚しなければならぬ年齢でもあり、結婚することは生活するためのあらゆる便宜をえようとすることでもある。生きるために結婚すること、恋愛の何のというのとはややちがつた側面で結婚することも人生の面目である。男主人公は、裕福な家に育つた花嫁をこれからの貧しい生活にたえさせようとして金銭についてこれを教育しようとする。それは、花のような若い妻にとつて突然のことであり、若い夫の態度は文字どおり家父長的である。「結婚者の手記」にもある意味で似た場面が出てくる。「ここへお坐り。」と改まつた調子で夫が妻にいう、「これは来年の二月まで、一年間の生活費だ。できるだけ倹約にしておくれ。かねはもう僕にはこれだけしかない。……」  ここに微塵も家父長的なものがないとはあるいはいえぬかも知れない。しかし双方は基本的に貧しいものとして寄りあつている。寄りそおうとしている。それがここでの結婚のよろこびであり、それ故そのままにそれが人間の悲哀である。  ここに一組のつつましい結婚者の生活がはじまる。ある曲折を経てそこに子供が生れる。それは何某第二世といつたものではない。むかしむかしからの普通の人間が、永い未来へと全く普通に人生をついで行く途上の一結節としてである。しかしそこに双親のすべてが注がれる。そして病気がその子供を奪う。この奪われもまた通常のものである。もろ人のものである。ただその親たちにとつては全く特殊のものである。それは、かわりというもののありえぬある一つのものである。犀星は、経験したことのなかつた、想像することもできなかつた衝撃をここで受けなければならなかつた。 われとわが子を愛づるとき 老いたる母をおもひいでて その心に手をふれしここちするなり、 誰か人の世の父たることを否むものぞ げに かれら われらのごとく そだちがたきものを育てしごとく われもこの弱き子をそだてん。  しかしそれはそう行かなかつた。 みな花をもて飾りしひつぎをばとりまき あめふる夜《よ》半《は》をすごしぬ。 人の世のちひさき魂をなぐさめんと けぶる長き青い草のやうなるせん香を たえまなくささげたりけり。 その座にわれもありまづしき父おやとして そだちがたきものをそだてんと 日夜のつかれさびしき我もつらなりぬ。 よその児をながめむとて 何しにこころ慰め得べきものぞ。 よその子はよその子にして わがおもかげをつたふべきにあらず されば何しに羨《うらや》むものぞ かく思へどもよその児のよく肥り 可愛げなるを見れば 畳を掻くごとくくやしきここちす みまかりあとかたもなきわが子の いまはいづこにあらむかと思へば とり返しのつかぬことをせし、 泣きもえぬことをせしものかな。  『忘春詩集』のこの時期を経て、その子につながる直接の記憶をば、新しく生れた子供の成長をも通してなにものかに転化して行つたすえに出てきたものが『芭蕉襍記』への方向であつた。道行きを単純化することはできない。しかし単純化していえばそうである。  犀星の『芭蕉襍記』はこれを芥川の『芭蕉雑記』に比較して眺めることもできる。芥川はそれを一九二三—四年、年三十一から二のときに書いた。また自殺の直前、一九二七年夏、「続 芭蕉雑記」ほんの少々を書いた。犀星は、少しおくれて、一九二七年から八年にかけて、年三十九でそれを書いた。二人について、かれらがどれほど芭蕉について語りあつたことがあつたか想像することができる。しかし二人の芭蕉への近づき方は、全く、あるいは非常にちがつていた。優劣の問題ではない。それぞれの特性の問題である。犀星は、自分には学問がないという思いから学者の教えをも乞うて力をこめてこれを書いた。  「芭蕉襍記の中で予の触れようと志したことは、彼の全貌的研究や伝記や考証の類ではなく、寧ろ彼の気魄がどういふふうに自分に打込んで来たかといふことを瞭かにしたい為である。同時に一売文の徒が彼の中に曽て見落され失はれてゐたものを、どの程度までに拾ひ上げたかといふことに些か後世をたのみたいからである。天下に芭蕉的学徒の先覚は殆ど数へるに暇が無い位である。後進黄嘴の予の如きが呶々云々するまでも無い、唯、自分も亦芭蕉城をとりかこむ気鋭の一人として、筆剣の炎を浴びながら参与してゐることだけは事実である。」  我とわが腹に拍車を入れているようなところはある。しかし犀星は全く特殊に芭蕉に立ちむかつていた。「新人芭蕉」と書き出して彼はこう書いていた。  「今にして念《おも》ふことは元禄時代に住んで居て、芭蕉が絶世の新しさを有《も》つてゐたことである。その新しさは今まで二百年の彼岸に行き到《つ》き乍ら、なほ泉のやうな新しさを感じさせることである。大名物や大作家の何人も此の新しさの外のものではない、併し乍ら芭蕉の新しさはそのまま古く膠着しない柔らかい新しさである。大雅や鳥羽僧正の新しさは年を経るごとに、ひと皮あて剥がれてゆく壮大な無尽蔵の余韻ある底力を有つてゐる、彼もまた星霜と板下の加はるごとに、水からあがる鴨のやうに幽寂でしかも新鮮である。  新羅焼や高麗が掘り出されても、いま窯から上つたものとしか思はれない新しさを持つてゐる。それにも拘はらず五百年の歳月はその古陶の精髄に丁々と滾れてゐる。此の二つの面、古くて新しい故になほ何百年かを予約する光輝は、絶代の作家でなければ、稀代の大名物たる所以であらう。芭蕉が読み捨てられて最早顧られない時代があつたら、その時は人類が此の土地の上に棲息しない時であるかも知れぬ。人々が此の土地にゐなくなつても或ひは芭蕉だけが、彼の俳句だけが、禿山の上に残つてゐるかも知れぬ。」  それは、作者としての、しかしまた研究者としてもの、全く新しい一つの芭蕉への近づき方であつた。 運命とその交錯  運命ということを頭から排斥してしまえば話は別になる。しかしともかくも、仮りにも運命ということを考えるとすれば、ごく普通にいつてそこに二つの面が出てくるにちがいない。一つは個人の運命、その変転である。第二は社会の運命、いわば歴史の運命の面である。大正の終りから昭和のはじめにかけて、室生犀星をかこむいくつかの運命、かこむというよりはむしろ彼のなかを通過して行つた何本かのその糸はそれぞれに変化を見せ、変化しながら絡みあつた。そしてそれがのちのちまで犀星とその文学とに影響をあたえることになつた。運命の運命らしい点は、詩集『鶴』に書かれた福士幸次郎の序文にすでに象徴的にあらわれている。それは昭和三年(一九二八年)七月二日付で書かれていた。  「室生君のこの頃の詩は深さを加へて行つてゐる。或る点けはしいと言つてもよいほど、人間世界の暗さに入ってゐる。これは少なくともこの詩集の初め幾篇かに特徴が充分にうかがはれるであらう。或るものは険悪と言つてもよい。或るものは森厳と言つてもよい。要するにそれぞれの解釈は各人の見様である。だが此処に如何としても打消すべからざる事は、兎に角そのどれにせよ一流の行き方をしてゐる点である。」  福士は巻頭の「切なき忌ひぞ知る」一篇を引いた。 我は張り詰めたる氷を愛す。 斯る切なき思ひを愛す。 我はその虹のごとく輝けるを見たり。 斯る花にあらざる花を愛す。 我は氷の奥にあるものに同感す、 その剣のごときものの中にある熱情を感ず、 我はつねに狭小なる人生に住めり、 その人生の荒涼の中に呻吟せり、 さればこそ張り詰めたる氷を愛す。 斯る切なき思ひを愛す。  それから三十三年して、ながく住んだ軽井沢に墓碑をかねた「犀星文学碑」を建てたとき、犀星はみずからこの一篇をえらんで書いてそれを彫りつけた。犀星がこの一篇を愛していたからにちがいない。その出来ばえに誇つていたかいなかつたかの域をこえて、またこの時作者自身詩の言葉に手を加えた事実をこえて、こういう一篇をただに彼は彫りつけたかつたのであろう。福士のいつた「或るけはしい」もの、「或るものは険悪」、「或るものは森厳」、それらの言葉があたるにしろあたらぬにしろ、多分かつて誰によつても歌われたことのなかつたこういう氷への愛、虹のごとく輝く張りつめた氷、その凍ることにおける切なさ、「斯る花にあらざる花」、それへの愛のためらわぬ表白衝動がこの時期にはじまつていたのであろう。これは『抒情小曲集』以来のものであつた。早くあのときにこの種の切ない愛、大胆でためらわぬその表白があつたが、「我はつねに狭小なる人生に住めり/その人生の荒涼の中に呻吟せり」の長い時間がその間にあつて両者をわけている。一方が若々しく、他方が分別くさいのではない。むかしの若々しかつたものが、分別くささを回避してでなく、それを突きぬけて猛々しく奔出してきたものが『鶴』から『鉄集』なのであつた。そこに「彼と我」、「人家の岸辺」があり、「友情的なる」の絶唱があつたのであろう。 此の日雪降れり 此の日我心鬱せり 此の日我出で行かんとはせり 何者かに逢はん望を持てり 何者かに、—— 何者かに留めがたき友情を感ず、 友情的なる縹渺を感ず、 此の日雪降れり、 友情的なるものを痛感せり、 雪の中に我出で行かんとはせり。  個人的にも社会的にも運命は変転して進んだ。第一に犀星は、大正十年(一九二一年)に生れた長男豹太郎を満一歳そこそこでうしなつた。この児の生れたとき、祝いにきた佐藤惣之助が気安さから「豹太郎とは妙な名をつけたもんだな……」というようなことを言つた。怒つた犀星が煮えている鉄瓶を惣之助に投げた。そんな話のあつた最初の子供をうしなつたことが父親にあたえたものは想像することができる。その悲しみ、悲しみから逃れようとするどの親もの心、それは一方で『忘春詩集』一巻ともなり、その後ながく犀星のなかに影をひくことになつた。しかしまた大正十二年(一九二三年)には長女朝子をえることができた。長女朝子は八月二十七日神田の病院で生れた。母子は病院のべッドにいた。生れて五日目にあの関東の大地震がきた。これが何を父親にあたえたかもおよそ想像することができよう。  この地震と続いて生じた火事とは自然の災害というだけのものではなかつた。九月一日の東京、神奈川を中心に関東一円に生じたこの災変は三十八万余戸を焼き、十七万五千戸を破壊し、十万余人を殺し、三百四十万人を罹災者とした。政府と軍とは戒厳令を布《し》き、その下で朝鮮人たちの毒物撒布の噂を流して朝鮮人殺しを煽動し、戦闘的な労働者運動の人びとを殺し、同時に勅令による手形割引損失補償金支払いの手段で銀行資本を救済した。これらの別の表現が現職憲兵大尉による無政府主義者(同時に一種の文学者でもあつた)大杉栄、伊藤野枝などの虐殺でもあつた。大震災とそれに続いてきたものとは文学、文学者にも問題を投げかけた。自然の突発的な変化、それによる社会生活のにわかの変化、これにぶつかつて、文藝というものを文学者自身どこまで信じるかという問題であつた。  この大地震は犀星の金沢移住のきつかけともなつた。移住という言葉はかならずしも適当ではない。しかしこれは、作者が故郷へ帰つたというのではない。また後に、戦争の時期にしきりにつかわれるようになつた「疎開」というのにあたるものでもなかつた。一時しのぎとしてでなくて、室生犀星は生活そのものを金沢に移したのであつた。おそらく金沢は犀星のなかでもう一度生きられた。谷崎潤一郎の関西移住とのあいだにその点での差異がある。  この時期は日本の労働者運動の大きな昂揚期でもあつた。ロシヤ革命の成功のあとを受けて、日本は日本の歴史の上からも大きな労農運動をもたげてきた。それはひろく一般に社会思想、文藝思想に強い反映を見せた。人はめいめいの中で、いずれにしろおのれの去就を決めなければならなかつた。社会主義の問題、階級闘争の問題について犀星は直接に表現することはなかつたが、あるいはきわめて少なかつたが、彼が接触しはじめた一まわり若い青年たちの空気とともに、犀星はそこを犀星なりに通つて行つた。犀星に限らぬことであり、しかし『驢馬』のグループができて犀星がこれに密接していたこと、むしろ『驢馬』グループの成立を犀星自身うながしていたこと、『驢馬』同人の多くが何かの意味で共産主義的方向へ進んだことは犀星にそれなりに影響をあたえた。『驢馬』同人のあるものらが検挙された時期に、犀星が手拭、剃《かみ》刀《そり》、石鹸類を枕下に用意して寝についたと書いていることなどもその辺の消息を語る。  しかしこの時期に犀星の遭遇した一つの大事は芥川龍之介との親近、同時に芥川の自殺による芥川との別れであつた。  この時期に犀星は「文壇」に位置をえてきている。佐藤春夫、谷崎潤一郎その他の人々と共通する世界にはいつてきている。犀星は「大谷崎」について、芥川、志賀直哉の方向と、「国宝的作家」であるかも知れぬ谷崎とのちがいについて書き、鴎外、漱石の道は谷崎の方向にないという彼の意見を書いている。  芥川が犀星にあたえたもの、残したものは非常に大きかつた。  「自分の熟《つく》熟《づく》この頃おもふことは楽な仕事をしてはならぬといふことである。楽な仕事それ自身三枚書けば三枚分だけだらけ、五枚書けば五枚分だけだらける習慣が永い間に恐ろしい痼疾になるからだ。楽な友人交《づき》際《あひ》には何の緊張もなくダラけ切つてしまふのだ。」  「芥川君の死は自分の何物かを蹶《け》散らした。彼は彼の風流の仮面を肉のついた儘、引つぺがしたのだつた。彼は僕のごとき者を其末期に於ては軽蔑したであらう。自分は漸く友の温容の中に一すぢ烈しい軽蔑を感じることに依つて、一層この友に親しみを感じた。自分は自分自身に役立たせるために此の友の死をも摂取せねばならぬ。」  「自分は此の友の死後、窃《ひそ》かに文章を丹念する誓を感じ、それを自ら生活の上に実行した。同君の死の影響を取入れ自分の中に漂はすことに、後世を托す気持に自分はゐるのである。同君に見てもらひたいのは今日の自分であり、交友濃かだつたあの頃の自分の如き比例ではない。」  「佐藤春夫君に芥川君の死は役に立つたかと尋ねたら、彼は暫く黙つた後に役に立つたと低い声で答へたが、自分はその時にも一種のセンチメンタリズムを感じた。自分は彼といふ一文人の死でなくとも、死は多くを教へるものを持つてゐることを感じてゐる。」  芥川の自殺は芥川個人の運命と日本歴史の運命との重ねあわせから来ている。その芥川との死別ということをも入れて、犀星は、映画批評、文学時評などの世界へまで彼の文学生活をかなりに強い力で押しひろげて行つた。おそらくこの時期に、藝術上の彼の腕力ともいうべきものが鍛えられたということができよう。 都会の底  一九三〇年(昭和五年)に室生犀星は年四十一になつた。今から十年まえ、一九二〇年(大正九年)、年三十一で散文「蒼白き巣窟」を書いてからの彼の足どりは決して短いものではなかつた。十年という「時」が単純に「時」の上で短くなかつただけではない。彼のたどつてきた文学の世界の内部そのものが短いものでは決してなかつた。そこには変化があり、多様化があり、さまざまな試みを通しての成功と失敗とがあつた。  個人生活についてみても、彼はもはや大都市底辺の放浪青年ではなかつた。彼は妻をもち子供を持つて、謙遜で一途な家庭生活を営んでいた。その最初の子供を病気で亡くしてさえいた。彼は、関東大震災を、産《さん》褥《じよく》にある妻とわかれわかれになつた状態で通過するという経験も持つた。さらにその上に、一九二七年(昭和二年)夏には、芥川龍之介と死にわかれるという経験をも通過しなければならなかつた。芥川龍之介の自殺による芥川との別れは、おそらくかつてなかつた大きな衝撃を犀星にあたえずにはおかなかつた。犀星より一あし早く独自な散文の世界をひらいていた佐藤春夫や芥川にくらべて、おくれて出発した犀星の散文世界にはおさなさのようなものがあつた。それは「しばしばプリミチフでさえあつた。しかしそこにこの人びとにないものがあつた。この人びとになく、この人びとが、これからどれだけ努力したところで手に入れることの出来そうにない一つの性質のものがあつた。窮乏と学校風教育の低さとからくる野蛮であつた。野蛮は研鑽によつて手に入れることができない。」この、「野蛮な、しかし知恵に充ちているのかも知れぬエネルギッシュな謙虚」が、芥川の自殺によつてより高い次元へ犀星のなかで引きあげられたこと、引きあげられずにすまなかつたことは普通に見て取られる。これは、見て取らなければならぬことでもあろう。  それは、芥川のたどつたコースへ犀星もまた向うという方向の反対方向ということであつた。愛児を失つた悲しみから犀星は『忘春詩集』一巻をつくつていた。犀星の詩の仕事のなかで一つの峰をなすものでもある。けれども、犀星は、芥川を死の方へ引きこんだものと正面からたたかう方向へ進まねばならなかつた。育ちからもきたかも知れぬ諦念への絶えぬ誘惑に肘鉄をくらわして、幾重にも重なつてかぶさつてくる芥のなかをかきわけて生きすすむ以外の道を彼は見なかつた。都市の鉛色をした濠わりをすすむある種の舟を、その船頭が、その芥の汚なさ、そのたえられぬ悪臭から逃れるために岸へのぼらせることはできなかつた。その船を、船頭その人が捨てて逃げることはいつそうできなかつた。この、逃げるのでなくて生きてはたらいて芥をかきわけて進む道を、犀星はほとんど腕力に物をいわせる勢いでわめいて進んで行つた。四十一歳、これから五十歳へかけての時期は男のはたらき盛りの時期でもあつた。俗にいつてその分別ざかりの時期でもある。  日本の社会生活と政治生活とは、世界のものに結びついて日本で現象としても恰好の相手をこの犀星に呈した。社会生活の大きな腐敗と、その奥にうごめく民衆の生活方向とが日本にあつた。特に大都市生活にそれはいちじるしく、時にはどぎつくあらわれていた。国の政治生活はファシズムと戦争とへ向きをかえつついた。一つには、経済における世界の変動、実質的にも心理的にも見えてきた恐慌状態がそこにあつた。これにへこたれて参つてしまうか、これをつき抜けて生きるか、そこに人間の別れ道を見つけて犀星はつき抜けて生きる方角へ道をとつた。  かつての「『或る少女の死まで』は、ある幼女を上澄みとしてたたえたその底の濁りを必ずしも描いて」いなかつた。  「どういふ都会にも底があるものである。人力以上にそれらが必然に固められるのだ。たうてい普通の取締をするよりも、もつと健康的に理想的なものにしたらいいと思ふ。……東京にはひどい孤独に悩まされてゐる実に非常な群衆がゐるのだから。」  こう書いたとき、犀星は対象を見て取つてはいたがむしろ受け身の姿でそれをしていた。それにつつかかつて行き、それを動かそうとこちらからはたらきかけて試み、それを相手に挑みさえする態度には彼は出ていなかつた。今や時がたつて、この散文の世界で犀星は挑む姿勢、おどりかかつて行く姿勢、犬が何かをくわえて首を右左にはげしく振るときの姿勢、とびかかつて銜《くわ》えたものを噛んで噛みきろうとする姿勢へ移つて行つたように見える。「白い鴨」の最後のところで、作者はある女の文《いれ》身《ずみ》した腕について書いていた。  「……ほほと微笑つて、さらりと、二の腕の袖をめくつて生白くふるへるやうな円いふくれたところを出してみせた。青いいれずみが寂として彫られてあつた。ふれてみると、肘のところの肉が固まつて、柿の蔕《へた》のやうにかさかさしてゐた。」  この時の作者は、この「かさかさしたもの」を認めはしてもそこへそれ以上突きこんでは行かなかつた。またこの文身は、過去にいつか彫りこまれたものとしてそれの結果が主人公の眼前にあるのであつた。これが彫りこまれて行く現在形、それを過去にでなくて、一九三〇年代以後の足許の生活のなかに突きとめて行こうというのがこの時期のこの作者に出てきた基本的な特徴だつたといつてよかろう。  この時期は、その後の日本がのめりこんで行つた、そして最後には全面的敗北に終るあの戦争への猛烈な傾斜の時期であつた。ほとんど一切合財がそこへつながつて行く。  一九二九年にがらがらと来た恐慌の後は完全に尾を引いている。排外愛国主義の運動がにわかに強まつてくる。共産主義運動に対する大規模な攻撃、検索がひきつづき、中国に一時的ソヴェト政権が生れ、日本では一九一九年以来の米価暴落、一八九六年以来の生糸の安値、農業恐慌の深刻化が出てくる。いわゆる柳条溝事件が突発する。イギリスが金本位制を停止する。巷に古賀の「酒は涙か溜息か」という歌がとめどなく流れる。政府発表ででさえ失業者が四十二万五千人を数える。そして「爆弾三勇士」がこさえられる。とど、陸海軍人による総理大臣などの暗殺が出来する。ファシズムと軍国主義侵略への国家体制の再編と、失業の膨脹と農業恐慌とが、都会生活をとめどなくその日暮らしのものとして荒らして行く。それにもかかわらず人間は生きなければならない。特に社会の下層の人間は生きなければならない。そこに生れてくる修羅像へと犀星はほとんど武者ぶるいして立ちむかつて行つた。  「はつえは麹町の屋敷通りの人道をちよこちよこ歩きながら、夕暮に入つた若葉の垂れた美しい通りで久濶《ひさし》振《ぶ》りで往来の人を眺め入つてゐた。『誰だつてあたいがこんなに立派にこんなに澄し返つてお上品になつてゐるなんて、夢にも考へないことだわ。顔だつて手だつてなりだつて皆変つて了つたんだもの、ひよつとしたら心だつてあの時分のやうに鬱々してゐないし、余程のびのびして来てゐるわ。第一、あんな厭らしいお乞《こ》食《も》様《さん》みたいな口調で、(をぢさん十銭唄はして頂戴な、ほんの少々でもいいから奢つて頂戴な。)などと言つて歩かないだけでも、どれだけ女振りがお上品になつたかも知れないくらゐよ。……』」  上品下品を構つていられない世界、結果としてそこに居直りさえする世界、「貴族」のなかの「老夫人」の世界、「哀猿記」のなかのほとんど神のように生真面目な女教師が、同時にいかさまな男の妾にも売笑窟の娼婦にも同時にならずにいられぬような大都市のほんとうのどん底、こういうところがこの時期からしてこの作者に突きこまれることになつた。この最後の問題なぞは、「東京市」の事実として、東京の教師たちがどれほどの内職をしなければならなかつたか、現実にやつていたかの調査結果にも照応するものであろう。  一九三三年の東京で、小学校の校長と首席教師との総数何千人といううちで三百五十人が内職をしていた。その内訳は、雑貨・文房具屋が五十人、派出婦会経営が二十人、産婆・看護婦会経営が二十人、バー・カフェー・おでん屋・待合・マージャンクラブ経営が五十人そのほかいろいろという具合であつた。この調査は話を内輪に内輪にと縮めている。それは役所の調査だつたからであり、それさえも、「酒に酔つたある小学校長が、むかし自分の生徒だつた酒場につとめている女を待合へつれこんだ」ことが暴露されたことから止むなく調査となつたものであつて、仮りに「哀猿記」一篇をとるとして、作者の筆と眼とは役所仕事よりもずつと早く、また質の上で全く別の面をあらわにしかし人間的に取り出していたというべきである。同時に「洞庭記」が読まれなければならぬであろう。この作者は、大都会の濁つた底辺、スモッグそれ自身さえそこらにどろりとしてたまつてくる層へほとんどサディスティックに見えかねぬ勢いで突きこんで行つたけれども、それは、その後しばらくして日本文学に出てきた——読者を低く低く泣きおとしにかけて行くあの好色もの、悪党ものの世界とは全く無縁のものであつた。むしろ質的に対立するものであつた。「洞庭記」の世界、そこに登場する主人公——それは作者によつて全的に肯定されている。——これあつての「女の図」、「復讐」、また「あにいもうと」、「チンドン世界」だつたことがわかり、またそれだからこそ『文藝林泉』の類が同時に書かれていたことがわかるのである。  「洞庭記」の「二、算術」の章はほとんど算術的にあきらかに模様を照らしている。  「僕は係りの人に保険証書と印鑑とを示して、いままでかけた金をそつくり支払へるだけ支払つてもらふこと、そして再び保険をかける意志のないことを告げた。……」  この男は、銀行や保険会社からみれば馬鹿か気狂いかのような人間である。ほんの簡単な算術勘定さえできぬ、みすみす損をしかけている男である。  「——すつかり解約にしてください。  ——しかしそれはどういふご事情でさうなさるのです。切《せつ》角《かく》あなたは永い間つまり八年間も続けて一回も停滞なくお払ひ込みになつてゐて、そのお金の三分の二弱しか受取れないぢやないですか。  ——そんなことを言はないで損でも何でもいいから解約してください。  ——後二年間お払込みになれば五千円そつくりお手元にはいることになるのです。二年間なんぞ訳なく経つてしまひますよ、だからこの際貸出シの方法で最大限度にお金をご融通することにしたらどうでせう。あなたの将来も……」  「——いや、僕は全部の金がいるんです。」  問題はさらに輪をかけてつづく。人間が金銭を動かす世界と金銭が人間を動かす世界との人間的対立といえば話は大袈裟になる。しかしそのことが、青年期とはちがつた分厚さと濁りとをともなつて、しかしそれをつらぬいて出て行くのがこの時期の室生犀星である。 峠を越す  一九三六年(昭和十一年)、犀星の年四十八のときに『室生犀星全集』(非凡閣版)が出ることになつた。それはこの年九月に最初の配本があつて、あくる年十月に全十四巻完結の運びとなるが、こういう形で『全集』がまとめられるということは、それまでの犀星の仕事がここで一つ大きく締めくくられたということである。それは、ここで一つ大きく締めくくられるところまでその業績が蓄積されていたということである。そしてそこにいわば問題の一つがある。それは、その締めくくりが一つの締めくくりであるのか、それとも最後の締めくくりであるのかの問題である。  犀星は詩と散文とを含めて二十年間の仕事をしてきた。それは一つの独自の姿を日本現代文学にしるしてきた。作者の年齢は四十九に達していた。これは、日本のその頃の一般標準からいつて「老年」のとつかかりにはいるものである。それだから、ここでその仕事が最終的に締めくくられても必ずしも不当ではない。そういう人はあつたわけであり、それはそれで結構である。四十歳台で締めくくられた、また締めくくられる人もある。三十歳台で、またその以前で締めくくられた、また締めくくられる人もある。室生犀星の場合、実際のところそれはどうだつたのか。犀星において、それは大きな、しかし一つの締めくくりであつたと私は思う。一つの締めくくりであるのに過ぎなかつたと思う。そこにその後が残されていたと私は思う。  「女の図」、「復讐」、「哀猿記」、「医王山」、「あにいもうと」、「神かをんなか」、それから『文藝林泉』の仕事、これらは、それ以前の詩の全部をも含めて、ある完結を持つと同時に大きな過渡的性質を持つていた。寿命がそこで尽きたのならば仕方ない。生きているとすれば、この仕事の系列はもう少し進むほかはない。作者がそれに堪えられるかどうかは別として、コースそのものとしてそれは予定される状態にあつた。本人に馬力があろうとなかろうと、コースそのものがそれを予定していたものであつた。ということは、本人に馬力があろうとなかろうと、読者と社会とから見ればそれが当然にも必然にも見える姿でそこにあつたということである。実際の経過を見れば、やはり犀星は、これを、最終的のでなくて一つの締めくくりとして進んでいる。これで何ごとかが終つたのでなくて、ここで峠を一つ越してつぎの山《さん》巓《てん》を目がけて彼はすすまなければならなかつた。それならば、本人自身にその覚悟があつたか。私はあつたものと思う。それを証拠だてるものの一つは、この『全集』の「ために」犀星が長篇「戦へる女」を書きおろしたことである。ほかの人のことを私はしらべていない。しかし私は、一つの締めくくりとしての選集ないし全集をつくる場合、それのために一つの新しい長篇を書きおろしで書いたこの頃の日本作家の例をほかに知らない。そして私は、これをこれから仕事しようとしている一人の作家の姿勢として眺めずにはいられない。そうして、出発線にかがんだ、十本の指を特殊な形で地面に触れさせている瞬間の競走選手の姿で眺めずにはいられない。  室生犀星は、意識してか意識しないでか、この時期に新しい冒険につきこんでいる。冒険が言いすぎならば新しい試みといい直してもいい。書きおろし『戦へる女』の序文にも一端は示されている。  「本篇を起稿しはじめたのは未だ永い冬の最後の余寒が襲うてゐる、二・二六事件直後のことであつた。そしてこれらの厖大な原稿の終りに達したいまは、若葉も老いた夏のはじめに季節はすでに移つてゐた。私が作家として十九年もの永い間、……」  「本篇に於ける矛盾混乱、執拗なる性格鬼らの群《むらが》りはそれだけに既に懊悩的ではあるが、それらの性格心理の凡てが瞬刻の間に変つてゆく美しさに私もまた人生全体もこれを均しく認めるであらうと思ふのだ。……」  これは作者が、「医王山」、「あにいもうと」の世界よりももつと定かならぬものの世界へはいりこもうとしていたことであろう。もつと厄介なもの、そこへ、どの程度明瞭に意識していたか判定することはできぬにしろ犀星はすすんではいつて行こうとしていた。そしてそこから、萩原朔太郎とのあいだに論争を呼び出した詩との別れの問題もごく自然に出てきていた。  「詩よきみとお別れする」は秩序整然としたものではない。そもそもそれはそんなものでありえなかつた。  「僕はときどき歯のうづくやうな気になつて小説のなかでのた打ち廻つてゐるが、昔、詩を書いてゐたころにもこの気持があつた。しかしこのごろでは詩を書いて見たいと考へることが滅多になくなり、詩なんかめんだうくさくなつて了つた。……」  それは、「復讐の文学に就いて——広津和郎君に与ふる書」に別の形でよく出ている。  「詩人といふものは好みが激しい、その人生の方向、素材、細かくいへば何々の人物は面白いが、会社員は書きにくいから廃す、文学青年のやうなものは書き宜いから書くといふ方向は、極めて文学表現の上で危険なのだ。町の破落戸《ならずもの》も会社ゴロもまたほとんど名状すべからざる人物の生活も、一切を書き分けられるやうな拡がりを必要とするのだ。さういふ雑然たる社会機構のごつた返した現象はたうてい詩人好みの人生ではなく、寧ろ詩人は眉を顰めるほどの面白からぬ人生であるのだ。それに立ち対ふ時はもはや詩のかけらをも奉仕してはならぬのだ。ひとりでに詩が泌み出てゐて後で気がつくなら兎も角、意識的にはむしろ排斥してかからねばならぬのだ。詩といふ文学的体質はひ弱くそれらの人生の複雑さには、むしろ詩の方でたじろぐ位である。」  犀星自身、「詩というもの」をそんなふうに考えていたことのこれは証拠ではないかという言い方もここで成り立つと思う。問題はしかし論理ではない。論理の道行きでのすべての立ち場は飛びこしても、犀星はつぎのことが切実にいいたかつたのであろう。  「昭和八九年の年代にきふに殖え出した喫茶店といふものの正体は、昼間は茶とコーヒーと菓子とをもつてあしらひ、日が品川の沖に沈むころは急激に怪しげなカフエに早変りするところの、昼間は経済的な遊び場所で、晩はいはば稍々荒い銭づかひを意味する最近東京といふ都会に流行する足だまりであつた。凡てのそれらの雑作は一枚七八銭くらゐの壁紙とボール紙とをもつて張りつめ、そして気候によつてそれぞれの梅の花の季節には梅の花を、藤の花の垂れた季節には紫色の花房を天井一面にぶら下げ、初夏は若葉青葉をつけた枚を吊つてその季節の爽やかさを意味するのであつた。それらの色紙の花や葉や包んだ枝はことごとくこの都の北方に押つめられた、屑屋やタドン屋やゴミ屋やブリキ屋からなるひとすぢの町から、毎日荷車に山のやうに積み込んで問屋におくられるのであるが、驚くべきことは畳一畳分に積みあげた桜や梅の造花の仕上げが、ただの八銭くらゐでそれは時間でいへば、よく働く人でたつぷり三時間はかかるのであつた。そして昼夜打通して指紋がすれ切れてしまふまで、鋏や糊や截ち板に向うてゐても三十二銭くらゐであつて、そのあとで眼の中に鏡でも入れられたやうに眩しくなり、いかに白い光をもつ紙類を見詰めて仕事することの有害であるかを証拠立てるのであつた。この仕事につく人々はいつも薄睡たげな、よく開くことのできない、しよぼしよぼ眼をして急に仕事から離れて日光の当るところに出られぬのであつた。或る者はそれがために失明し、又或る男は眼科医に通ふために働いた賃銀の何十倍かを毎日眼科医院の会計に支払はねばならなかつた。」——そしてここへと、犀星は一人の作家として、『全集』で一締めくくりつけたものとして進んではいつて行きたいのだ、うんぬん。  事情はしかし面倒なことになつていた。会社ゴロの世界も喫茶店=カフエの世界をも一つにして掴みたいと考えていた犀星にたいして、喫茶店=カフエの造花つくり手仕事、「畳一畳分に積みあげた桜や梅の造花の仕上げが、ただの八銭くらゐでそれは時間でいへば、よく働く人でたつぷり三時間はかかる」のであつたその事情そのものが、これを包括的につかんで表現する自由を犀星から奪つて行く方向で進んでいた。それはそのまま、あらゆる下請工場とさらにその下の下請仕事場とが軍事生産にピラミッドをなして組み直されて行くコースにほかならなかつた。あらゆる会社ゴロ、街のならず者が軍事的恫組織に組み直されて行くコースにほかならなかつた。そこに、国民全体を上からおおつてしまう憲兵組織が進んでいた。一つのきつかけは、「昭和八九年の年代にきふに殖え出した喫茶店といふものの正体」にふれて犀星が書きつけた一九三六年その年の「二・二六事件」にほかならなかつた。皮肉というようなものではない。そんなきわではない。  たしかにこの時室生犀星は一つの峠を越した。彼は、ここを越して平安な下り坂へかかり、それから谷あいの村と町とを過ぎて里へ降りるつもりでいたのではなかつた。この一つの峠を越して、さらに向うの、青色の靄のかかつたいつそうけわしい山襞の方へ彼は向おうとしていた。それをこういう日本状況が迎えたというわけであつた。  彼が、「切子」といつた名の女を取りあつかい、しきりに、「悪い魂」、「悪い仲間」といつたものをそれに立ちまじるところまで近づいてしらべようとしていた時に、「二・二六事件」は臆面もなく発していたのであり、しかしまた釈迢空が、しかるべき空気、因縁のなかで犀星に接触しはじめていたのでもあつた。 豊熟と途上の障碍  少年期、青年期があつて成長期がくる。すみやかな、おどろくような成長期といつてもいい。それから壮年期を経て、老年期、老境というべきものがくる。これは文学者についても変らない。天才型の人については一概にいえぬとしても、おおよそはやはりこれがあてはまる。まして普通の型の人については、こう行くのが自然でもある。  そこで、人が健康で年四十五になつたとすれば、その人について何かの豊熟ということが考えられる。才能の多寡にかかわらず、人が営々として年四十五まで力めてきたとすれば、それは大きなことである。何ものかがそこに累積しているはずである。この累積は、藝術家の場合、一つのあたらしい醗酵であるかも知れない。ただこういうことはある。確かにあたらしい醗酵があるとして、そこからあたらしい酒がしたたつてくるかどうかは人それぞれの運命によつて決まつてくる。累積はあるが醗酵はないという場合があり、累積も醗酵もあるが新しい酒は結局たまつてこないという場合がある。複雑な条件からしてそうなつてくる。いずれにしろ、頭から決めてかかつてある人を讃えることも他の人をけなすこともできまい。しかし昭和十年(一九三五年)、四十六歳になつた室生犀星には大きな累積があつた。それは来年九月から十四巻本の『室生犀星全集』(非凡閣版)となつて出て行くことになる。  累積があつただけでなくてそこには醗酵があつた。醗酵はさかんな勢いのものであつた。去年夏発表した「詩よ君とお別れする」などもその一つだつたと見られていい。この場合、詩との別れということはきわめて主観的に表明されていた。問題の中心は、むしろ散文の世界でのあたらしい一歩前進、この一歩前進への犀星の意欲にあつたと見るべきであろう。詩との再会、詩への立ちもどりが考えられるとすれば、ここまで来ては、この一歩前進を三歩も五歩も歩いたさきに期待されるものである。昭和十年から十五年ころへかけての時期は、「あにいもうと」、「チンドン世界」、「神々のへど」の世界をそのまま押して行く時期でもあり、しかし同時に、昭和十年からかぞえて十五年まえ、『大阪毎日』(『東京日日』)に「蝙蝠」を書いたときともちがい、四年まえ、『都』に「青い猿」を書いたときともちがつた形で『東京朝日』に「聖処女」を書き、つづいて「大陸の琴」を書く時期でもある。ちがつた形というのは、主観的抒情詩的なものから客観的叙事詩的なものへのある程度の座移りといいかえてもいい。最初の座移りが「結婚者の手記」などからあつたとして、今度はそこからのさらに新しい座移りである。いわゆる「市井鬼もの」の世界を通過してきた経験がここで影を投げてくる。「復讐の文学」説はどこまでも主観的なものだつたけれども、「散文」という言葉にふさわしいより広い世界へ出て行こうとしたこと、出て行けるという強い自信のようなものが犀星に生れていたことは確かな事実であろう。この時期には、小説作品のほかに精力的に随筆、評論類を書き、日常生活の幅もこれをいわば散文的にひろげ、生得大きらいな講演などといつたものをも引き受けてやつている。随筆、評論の類そのもののなかでも世界をいつそう拡げている。はじめて釈迢空の訪問を受けたのなどもこの時期のことである。そうして、形にも見える変動としていちばん大きかつたのが東北満洲の旅、あとにもさきにもこれきりのこの外国旅行であつた。  一九三七年、室生犀星は実に久しぶりに洋服を着て大連に行き、奉天に行き、ハルビンに行き、朝鮮にもはいつて日本へ帰つてきた。それは紀行「駱駝行」となり、後に詩集『哈爾浜詩集』ともなつた。「旅行ぎらひな私の生涯でもつとも長期長途に渉る旅行で」、「この旅に出向かなかつたら吟爾浜詩集の文業もなく、私は日本のほかの土を踏まずに終つたのである。」と犀星の書いた旅である。『哈爾浜詩集』が一冊の形になつたのは昭和三十二年五月になつてではあつたが、ドストエフスキーその他から青年期犀星の受けていた何かはこの旅のなかで験された、あるいは改めて再認されたともいつていい。つまるところ、「満洲事変勃発」の昭和六年から六年たつていたけれども、またこの旅行のすぐ後には「日華事変」の勃発がつづくのではあるが、社会政治生活のこの激変も、犀星が二十年前に受けたドストエフスキーとロシアとからの影響をどれだけも動かしていないのである。 きみははるびんなりしか 古き宝石のごとき艶を持てる はるびんの都なりしか。 とつくにの姿をたもちて 荒野の果にさまよへる きみこそは古き都はるびんなりしか。 数々の館《やかた》ならぶる きみは我が忘れもはてぬはるびんなりしか。 はるびんよ 我はけふ御身に逢はんとす。 古き露《ロ》西《シ》亜《ア》の空気もかかりしか、 古き露西亜の時計の針折れ とある店に乏しくひさがれたり 古き露西亜の思ひもかかりしか、 銅のメタルにザアの顔ゑがかれ とある店にひさがれたり。 古きペテルブルグをみむために われは伸びあがり 遠き露西亜の空気を愛せんとす。  しかしどれだけも動かしていないということは少しも動かしていないということではない。それは眼に見えぬ力で犀星文学にかかつてきていた。一九三六年二月には「二・二六事件」がおこつて東京には戒厳令が布告され、三七年には「国民精神総動員」運動がはじめられて文学者たちの「大陸派遣」もはじまつた。そしてそういう空気のなかで、昭和十三年(一九三八年)十一月に妻とみ子が脳溢血でたおれたのであつた。室生犀星は四十九歳であつた。  この打撃がどれだけ大きかつたかは、これ以後、夫人の死、つづいて犀星自身の死に至るまでの全作品に亙つてしらべるのでなければわからない。打撃そのものについて、犀星はほとんどかたくななばかりに喋り立てなかつた。沈黙をまもるというのともちがう。彼は妻のためにあらゆる工夫をした。地震の場合を考えて雨戸をひと打ちで開けられるようにもする。肥え太つて、しかし半ば身体の自由を失つた妻を運ぶためのリヤカーの用意などもする。何もかもを、彼は黙つて、妻のためにするというよりはある何ものかのためにするというようにしてしたようである。五十歳を迎えようとして、満二十年の結婚生活はあらゆる襞《ひだ》を引きしぼつてあらためて思い返されたにちがいなく、同時にそれがあの蓄積と醗酵とに重なつた。昭和十四年の「つくしこひしの歌」はその結果の一つであろう。犀星におけるいわゆる「王朝もの」はあと一、二年してはじまることになるが、明治・大正の一人の若い女を描いた「つくしこひしの歌」は、いわば犀星「王朝もの」の走りとして見ることもできよう。「王朝もの」という場合、話はおもに題材に関係してくるにちがいない。昔の人間の話である。しかし「つくしこひしの歌」は、犀星の「王朝もの」の根本調をひらいたものであつた。この調子が、満目荒涼とした、たとえば「生きている兵隊」によつて石川達三に禁錮四カ月執行猶予三年が与えられたような時以後の全戦争期間を通して犀星文学を支えたようである。  戦争の時期の作家の生活は複雑であり、現在その全図はよく出来あがつていない。犀星の図は割りに出来あがつている方である。それにしても無論それは不完全である。ただ犀星自身による犀星を語つた言葉はある。  「かういふ事変下にある文学者としての私の心境はどういふふうに変つたであらうか、実際生活の上に何が私を変らせつつあるだらうか、そして私自身の文学がどういふ発展や変化を見せてゐるだらうかを考へる。そして戦線近くに行つて具《つぶ》さに現地報告の文学を目ざすのが文学者として壮烈な仕事であり、何人もさうせねばならぬのであらうか、今事変以来戦場近くに行つた文学者は十数氏をかぞへることが出来るが、帰来、これらの文学者は情痴の文学を排し、軟弱なる恋愛小説の出現をいまいましく警戒し、悉く生れ変つたごとく文学精神の女々しさをいましめてゐた。私はいちいちこれらの言葉を耳をすまして聞きいまさらに私自身の文学をいかに新しく起用すべきかを深くものものしく又悲しく考へ出した。  私は先年満洲に赴いた時、何等かの意味に於て日本を新しく考へ、そして国のためになるやうな小説を書きたい願ひを持つて行つたのであるが、結果に於てそんな大それた小説などは書けずに相渝らず私らしい小説を書いて了つた。作家のたましひといふものはどういふ処にゐても、猫の目のいろのやうに変るものではないのである。  私は嘗て裁判所の公判始末書とか、そのほかの調書とかいふものにも、文学者が記録を取つて見たらどうであらう、そしてさういふ仕事に文学才能を献じたい心をも持つてゐた。戦場を永遠に記録するために文学者が団結してその何人かをおくるのもいいし、自ら起つて調べるのもいいであらう。だが、私はさういふがらにないことに出しやばりたくない、私は私の文学だけを益々深くそだてることを忘れないやうにしたい、私が生きて役に立つことはこの文学をいつくしむことだけである。」  「戦争文学はそれぞれ現地の作家にまかして置き、私は日本の作家が永い間かかつてみがいたものを、私は私流に一そうみがくことを怠らなければいいのである。私は中途で自分の掘りかかつたものを中絶するような愚かさを取り除かねばならぬ。一人づつの作家の立場がかういふ際にはつきり区別されなければならないし、その天稟の在るところをも極めて行かなければならぬ。その孰方《いづれ》にしても厳しい自戒自重の心には変りはなく……」  年五十に近づいて新しい醗酵にさしかかつた矢さきに戦争に投げこまれ、それと同時に妻にたおれられ、つづいてシャム兄弟のようだつた萩原朔太郎に死なれ、戦争から脱け出るには五十六まで待たなければならなかつたこの時期は、一つの豊熟の時期であるとともにそこに障碍のあらわれた時期であり、この、ある意味で「時」をまつほかに手だてのなかつた障碍にどう対して行くかのなかに晩年のための新しい蓄積がなされた時期でもあつた。この時期は研究され味読されるべき時期であるにちがいない。 戦争の五年間  戦前から仕事してきた作家たちが否応なしに戦争の時期をくぐらなければならなかつたことはいうまでもない。一九一六年(大正五年)に感情詩社をつくつて以来仕事してきた犀星が、第一世界大戦とは全くちがつた関係で第二大戦をくぐらなければならなかつたこと、特に日本側から大がかりに仕かけて行つた戦争にきわめて不自然な関係で組みこまれて行かずにはすまなかつたこともいうまでもない。しかしそこに日本型ファシズムの特殊な姿が見られ、この日本型ファシズムにどう対応して行つたかという点での犀星文学の特殊な姿は、今までのところ必ずしも明らかにされて来ていないと私は思う。犀星には詩集『美以久佐』があり、またたとえば文集『神国』がある。それらはつまるところ日本帝国の仕かけて行つた侵略主義戦争にかかわつている。しかし実際そこで、そのかかわりあい方はどんな具合のものとして現われていただろうか。  もともと犀星は最も観念的な場合にも根源的に具象派であつた。自己を通して、自己の感覚を通して、自己の生活、経験、自己の思考を通してある一般者にたどりつこうというのが彼の哲学、彼の藝術であつた。何かの社会思想、何かの政治主張、何かの美学的主張からさえ演繹的に作品を引き出してこようとは彼は決してしなかつた。そういう行き方が、彼にはそもそも出来なかつたのでもある。その点犀星はどこまでも生活派であり、いわば生活派として職人的でさえあつた。その点彼は全く普通人であり、国民主義の教説とは全く別のところで文字どおり一人の国民であつた。こういう人間が、五十歳から五十五、六歳までの時期にかけてどんな具合に戦争に引きよせられて行つたかは、真面目で勤勉、その点でほとんど職人的でさえあつたほとんどすべての普通の日本人が、人を政治的にたぶらかそうという面からでなくて我から戦争に引きよせられて行つた日本の事情をいわば素直に反映しているといえると私は思う。  「私は先年満洲に赴いた時、何等かの意味に於て日本を新しく考へ、そして国のためになるやうな小説を書きたい願ひを持つて行つたのであるが、結果に於てそんな大それた小説などは書けずに相渝らず私らしい小説を書いて了つた。作家のたましひといふものはどういふ処にゐても、猫の目のいろのやうに変るものではないのである。」  前に犀星がこう書いたとき、そこに、政府のある種の動き、それに応じてのある種の文学者たちの動きにたいする犀星の反撥がなかつたとはいえまい。同時に、「そして国のためになるやうな小説を書きたい願ひを持つて行つたのであるが」うんぬんを、ただの見せかけ、何ものかを顧慮しての自家弁護、予防線というふうに見ることも正しくあるまい。正直のところ、犀星は心からそう考えて、そのためには彼らしい工夫、目論見の一つ二つさえ目論んでもみ、立ててもみたと想像するのがここでは穏当であろう。そうして、けれども、正直のところそうは行かなかつたというのが犀星における実情だつたのであろう。ある国士風建前の文学者たちが、時こそ来たれというふうにして勇み立つたのに似た形跡は犀星に全くない。また他のある種の人びとが、排外民族主義に乗せられたような形にして、軍・政府と手をつないだようにして一種の民族自治体のようなものをつくろうと考えたり妄想したりしたのに似た形跡も犀星には全くない。むしろ彼は、やや愚直に「国のためになるやうな小説を書きたい願ひを持つて行つた」と見られ、しかしそれができなかつたのである。彼がこう書いたのは彼のハルビン行きの時、一九三七年のことだつたが、それ以後様子は急傾斜を滑つて行つた。妻とみ子が脳溢血に仆れたあと、親しかつた若い詩人の立原道造の死んだあと、彼のなかの蓄積が形を求めて発動しようとした時に戦争は決定的に破局のコースへ突きこんで行つた。すくなくとも一九三三年に新しい段階にのぼつた帝国主義日本の侵略戦争は、ここで最後の太平洋戦争の形へ我からのめり込んで行つた。それは国内のあらゆる動き、活力を、この戦争一点に暴力的にしぼり上げるものでもあつた。ハルビン行きの時とは格段のちがいで犀星はもう一度「国策文学」のことを考えずにはいられなかつた。全くけれんなしに彼は自分に変化を求めようとさえした。それは、世間に「変り身」、「変り身の速さ」といわれるものとは品物として性質を異にするものでもあつた。  「今日に於ては小説作家の尤も肝腎なことはその良心をみがき上げることであり、嘘をかかないことではないかと彼は再び反問しながらも、やはり、普通の人びとのいふやうな変り方が一等よく変つてゐるやうに思はれ、そんなふうではいかんと思つても、当面の問題はただひとつ小説の変ることにあつた。どんな風に変るべきかは書いてゆけば、作品のすぢみちに従つて自然に変つてゆくに決つてゐると、彼は町を行きながら何度も変るといふことを考へなほして、疲れてぐたぐたになることがあつた。ちやんとして落着いて居ればそこで解ることは悉く解るのだと先刻に考へたことを頭に据ゑて置かうとしても、やはり、何時の間にか我等何を書くべきかが最後の問題になり、しつこく彼のほとりを去らうとしなかつた。」  「神国」の中のこの言葉を愚とすることはできる。しかしこれをどれだけ痴愚とする人も、当時の日本の中で、公債を割当てられ、転廃業を強いられて行つた無数の人びとと共通のものが、文学を職業とする一人の犀星によつてまつ正直にここで追究されているのを事実として否定することはできない。文学の世界におけるあらゆる種類の突出、転身、逃亡の全図のなかで、室生犀星の愚直なとつおいつは真面目そのものだつたということができる。  そしてそれは犀星詩そのものに対する悲しい裏切りの姿をとつても現われねばならなかつた。「マニラ陥落」のなかの数行に—— 思うても見よ 我々の祖母が秋の夜の賃取仕事に ほそい悲しいマニラ麻の紵《お》をつなぎ それら凡てを搾取したあのマニラ、 死んだ多くの祖母よ 母たちよ あなた方を賃仕事でくるしめた マニラに日本の旗が翻つた……  ある生々しさで、ここで「搾取」の恨みがマニラ占領に外《そ》らされ、国内階級関係の問題が対外侵略に外らされてしまつている。「すぐれた詩によつて呼びさまされ、慰められることは幸福である。」——「詩はあたかも愛あるもの同士がお互ひに交はす美しくつつましい微笑のやうに、深い意味をさぐりあひ読み合ふことによつて、正しい理解が生れてくるのだ。詩人の生れた天稟の齢《よはひ》にしたがつて、おのおの本道を極めてにごりなく歩むことによつて総ての真実が存在する。」——『第二愛の詩集』「自序」冒頭の言葉はここで忘れられている。そしてそれらは、「私はシンガポールが陥落したら、その陥落の詩をかくべく前からたのまれてゐて、その日のうちに書きあげなければならなかつた」ような大きな強制力と結びついていた。この犀星において事実がこうだつたことは、戦争それ自体の非人間性をあけすけに告白するものであろう。  『美以久佐』前半を占める戦争詩はもう一つのことをも語つている。作品そのものが、それらが内から発しないで外から作られたことの証拠になつているという事実である。『愛の詩集』『第二愛の詩集』の時期が、ここで形骸としてつらくなぞられている。同時に、その後半が「さけがたきもろもろの哀歌」として集められ、姿も未完のまま全く犀星本来のものを追うていることが争われず注目を引く。それが「虫寺抄」などの方へ犀星をみちびいたのであろう。「山吹」のなかの世界などの方へみちびいたのであろう。戦争にややうわついて引つかかつた種類のものが、太平洋戦争緒戦期のはなばなしさ、泡特有のかがやかしさに結びついていたことを作者自身気づいたにちがいない。愚直はここで洞察力となり、それは梃子でも動かぬものとなる。  犀星における洞察力は必ずしも聰明に結びつくものではない。頭から来るよりもやはりそれは生活から来るといつていい。「文士廃業」についての志賀直哉の言葉の批評なども一例とすることができよう。  「志賀氏が全集の仕事も一先づ済んだから文士を廃業したいとずばりと云つてのけたのは、何か小気味好く誰の胸にあることで誰も云へなかつたことを云ひ得たものであつた。志賀氏が物質的自信があるから堂々と云ひ退《の》けたのであらうが、一種の気概のある言葉であつて面白いと思ふ。金のありなしに拘らず、志賀君くらゐ立派な仕事をした人であつて始めてこの言葉も生きるやうに思はれる。」  こう書いて、しかし彼はなおこう書いている。  「……人びとは生活しながら呻吟してゐるのである。廃業などは夢にすら見られないのが現状なのだ。その点、志賀氏がかういふ文士の裏街を隙見したことがないから、あれほどずばりと云ひ抜けたもののやうに思はれる。若しそれらの文士街の裏通りが手にとるやうに見えてゐたら、黙つて廃業して了ふであらう。そこに遠慮と思ひ遣りとがある訳だ。併しさういふ零細なことにこだはらずに左顧右眄することなく云ひ切つたのもこの人らしくて好い。」  戦争の夢魔と文学・生活とのたたかいの犀星における全像は手軽には描けない。しかしこの時期に、短い夢魔期を通過することによつて犀星が一歩ないし数歩すすんだこと、その可能性を胎んできたことは争えない。親しい人びとの死別ということがそれに拍車をかけたろうことも考えられる。  妻に仆れられ、立原に死別したのち、戦争が最後のコースに踏みこんだあとで犀星はつづけざまに親しい人びとに死別しなければならなかつた。一九四二年(昭和十七年)五月には萩原朔太郎があつという間に死んだ。萩原は五月十一日に死に、葬式万端の世話は佐藤惣之助が取りしきつた。その佐藤がその十五日に急死した。十月にはもつとも親しかつた肉親の一人というべき甥の小畠貞一が死んだ。十一月二日には『抒情小曲集』以来の北原白秋に死なれた。「ああ、白秋もとられた。」と犀星は書いた。あくる四三年(昭和十八年)九月には最初の師ともいうべき児玉花外——十三年まえ、犀星はこの人のために慰労の会を奔走して開いていた。そのとき花外に机がおくられた。——に死別した。十一月には同郷の先輩、特別の親しみと尊敬とを持つていた徳田秋声に死別した。あくる四四年(昭和十九年)三月には親しかつた若い津村信夫に死別した。八月には「感情」以来の友人竹村俊郎に死別した。それは犀星にとつて、おそらく営々として苦しんで歩いてきた五十六歳までの生活の一片が肉のまま殺《そ》がれた思いのものであつただろう。青年期生活の肉の一片が殺がれ、中年期生活の肉の一片が殺がれ、今や犀星自身老年期にさしかかつて、その老年期生活の肉の一片が冷酷に殺がれたに近い思いが彼に来たのだつたにちがいない。そしてそこで、四五年(昭和二十年)七月十五日に息子が金沢第九師団へ召集されて行つた。帝国無条件降伏のひと月前である。 二つの廃墟から  「戦前から仕事してきた作家たちが否応なしに戦争の時期をくぐらなければならなかつたことはいうまでもない。」と私は書いた。この戦争は無論こんどの第二世界戦争である。  つづけて私は、「一九一六年(大正三年)に感情詩社をつくつて以来仕事してきた犀星が、第一世界大戦とは全くちがつた関係で第二大戦をくぐらなければならなかつたこと、特に日本側から大がかりに仕かけて行つた戦争にきわめて不自然な関係で組みこまれて行かずにはすまなかつたこともいうまでもない。」と書いた。この戦争は仕かけて行つた側の日本帝国主義の完全な敗北、惨敗、それによる国、政府の無条件降服に終つた。いまさらいう必要もないことである。  けれども、これがこの詩人にあたえたもの、この詩人に亀《ひ》裂《び》を入らせて行つた経過にはそれほど単純でないものがあつた。あるいはそれは単純無類のものだつたといつていいのかも知れない。それが、他のある人びとのものとはいくらか異質のものであつた、しかもそのへんの事情が、今までのところ明らかにされていないように私が考えるといえばそれでいいのかも知れない。  室生犀星は、あの戦争を、それと戦うべき腐敗した帝国主義戦争として認めていたわけではなかつた。政府、軍が先手先手と打つてきて大きく国民を上からつかんで来たのだつたから、観念的にしろ、首から上は完全に水面からつき出して保つたというふうには犀星において事はすすまなかつた。そこに動揺が生じ、「何等かの意味に於て〔こういう〕日本を新しく考へ、そして国のためになるやうな小説を書きたい」という「願ひ」をすら犀星自身持つたことがあり、そしてそれを試みてみさえしたのだつたが事実としてそれがうまく行かなかつたのである。その結果、自分は自分として行くほかはないというところへ来たのが犀星の結論であつた。この結論のなかでやはり「神国」などは書かれている。  ただそこに、犀星においては変り身ということがなかつた。まして変り身の速さということがなかつた。日米開戦というのでいきなりおつ取り刀で東へ駆け出した人びとのあるものが、日本無条件降服というので今度は同じおつ取り刀で西へ駆け出すというようなことは犀星に生じなかつた。それは犀星において考えられぬことでもあつた。高村光太郎におけるように自らを流人とする事態も生じなかつた。理由がなかつたからである。斎藤茂吉などの場合とも犀星はちがつていた。日本軍とともに外国を戦場として荒らしまわつた人びとの一部分が、今度は行きなり、それを理由にある勢力にむかつて仇討ちの姿勢に出るという奇異な逆転も犀星には生じなかつた。警察権力、検察権力、帝国主義権力にかなりに弱かつた「旧左翼」勢力のある部分が、にわかに元気づいて国の民主化の先導部隊に加わろうとするおもむきのあつたのに対して、それらにそれほどには弱くなかつた同じ勢力のある部分が、かえつて新しい出発に際して内的にあれこれ踏み出しかねていたしばらくの状況、それに少なくとも表面似かよつた何かがこの時の室生犀星には認められた。永井荷風などとのちがいは説明するまでもない。敗戦直後の文学ジャーナリズムの動きがそれに重なる。占領軍による軍事検閲制度がそれに重なる。  犀星において、事は、単純率直であつたために内的にも外的にも渋くることとなつた。きわめて卑俗に例をとれば、警察では強盗や人殺しが尊重されてしくじつたこそ泥なぞは軽蔑される。ある種の卑俗なものに人だかりがするように、その反対の事情が犀星にあつたことがここで考えられる。彼自身、家族もろともまだ信州軽井沢でかじかんで幾冬も重ねたのでもある。その犀星が、早い芥川龍之介を別としても、萩原朔太郎に死にわかれ、佐藤惣之助に死にわかれ、小畠貞一に死にわかれ、北原白秋に死にわかれ、徳田秋声に死にわかれ、竹村俊郎に死にわかれていたことは前に書いた。  このへんのことに触れて、犀星自身「私の履歴書」のなかで何行か書いているのが見られる。そこには「大戦前後」という項も立てられている。  「帰京後〔ハルビン旅行から〕、再び思ふまま書き続けたが、間もなく大戦が始まり、昭和十七年四月十八日の初空襲の日に、本所同愛病院に胃潰瘍治療のため入院してゐたが、翌年一家をあげて軽井沢に疎開した。この極寒の地にはじめて冬季を過し、『信濃山中』の長篇を得たが、戦争とともに作品もまた間《ま》遠《どほ》になり、書くことが稀になつた。」  「……それは新進の若い作家達のむらがりも前方にあつたが、私自身は何を書いても、ひつそりした物蔭にあるやうな作品の渋滞がその晴れ間を見せずに続いた。三四年の間に作品集の発表もなく心をこめた書物は一冊も出てゐない、例のやけくそで私は取り立てて勉強することもないまま映画を見て歩き、町を見て廻り、庭に手入れを施してこれを美しくすることに依つて、そこに生きの養ひをとり入れた。たかの知れた文学渡世といふやうな荒い言葉を頭に持ち、自分の憂欝を払ひ退《の》けようとしてみたが、何よりも一冊の作品集をもとめる出版書店もなく、それに向くやうな物も書けない私はただ茫然と、自分のまはりを見まもるだけであつた。」  明暗両面で波立ちあらくれていたこの数年間は犀星にとつて決して明るいものでありえなかつた。戦争の終末期よりもいつそう荒れすさんだ食料、住宅事情と被占領状況と、そのただなかヘ今のべたような内的風景をかかえこんだ犀星はなかなか帰つてくることができなかつた。一九四四年(昭和十九年)夏の終りに軽井沢に移つたまま、小説、随筆、殊に日記のなかで書かれたような夏冬をここに丸五年以上送つてからやつと犀星一家は東京へ帰つてきた。一九四九年(昭和二十四年)十月である。別の面からいえば、アメリカ国務省が、対日講和条約案の起草準備をはじめるところであるうんぬんということを発表した年のことである。  しかし犀星はぼつぼつ書きはじめた。ぼつぼつ新しい著書もまとめられるようになつた。そしてぼつぼつ、それまでの彼に見られなかつた新しくあざやかな面がおこし出されることになつた。還暦をむかえて彼はいつそう元気になつてくるように見えた。彼はあらゆる種類の仕事に手をつけ、今まであまり近づかなかつた種類の人びとに近よることも避けぬようになつた。老年ということもあつただろう。ある気さくなものと、あるおしとどめようのない追求心とが交錯して進行した。そこには、生涯のうちに触れてきた人の心の柔《やさ》しさへの、回顧というよりはもう一度新しくそれを味覚する、生きるという意味での出水のような追憶があつた。特にそれが異性、女、この不思議なものに対して、またそれに触れて、あふれてきた。それは特別な「随筆 女ひと」を生んだ。それは殆んど新しいものの探究というべき性質のものであつた。それが本の形になつたとき、犀星自身その売行きの速さにおどろいた。ある種の物語作家の場合に比べては比べものにならぬほどのものでもあつたろうが、それをこれほど喜んだ犀星のわき目もふらぬ単純率直が、異性のなかに、他の誰一人見つけなかつたものを見つけて行つたのでもある。  犀星の作品に、色どり、色彩について新しい変化の生れるのもこの時期のことである。今までにも全くこれがなかつたのではない。けれども、室生犀星は色どりにおいて決してけばけばしいものを読者にあたえなかつた。灰色、鼠色、緑色、青色、黒色——赤の場合にもそれは黒に重なつた赤の種のものだつた。この時期に犀星の作にはけんらんとして赤が現われる。金があらわれる。青、黄、緑そのほかが現われる。何かが赤いというのではない。作そのものが、そういう言葉がつかわれるか使われぬかを越えて作としてそう現われるのである。それは、金その他の場合もけんらんとしていて決してけばけばしくなかつた。しかしそれはそういう詩と人生との発見、それの藝術的捕捉でもあつた。戦争による社会生活の荒廃、敗戦による戦後文学世界の荒廃、この二つの廃墟から、犀星がややおくれ気味に、それだけ正直に、それだけあたらしく充電されて歩き出した姿がそこに見られる。 晩年と最後  ある人の晩年と最後とはかならずしも一つものではない。静かな晩年があり静かな最後があつたという場合でも、その二つが円満に重なりつながる場合もあれば、どうしてもそうは見られぬ場合もある。文学者の場合、問題はいつそう複雑になつてくるともいえ、特に静かでない晩年、静かでない最後というときにこの複雑はいつそう複雑になる。室生犀星の場合、この複雑は同時に激烈でもあつた。  小説『杏つ子』の時期、評論『我が愛する詩人の伝記』の時期は、作者の年六十七、六十八、六十九とくる時期である。この作家として珍しく女流作家論というべき『黄金の針』の仕事をした時期でもある。また何よりも、一九三八年に脳溢血でたおれてから丸二十年、ある程度の恢復後も、半ば身体の自由を失つてきわめて不幸な状態にあつた妻に年七十で死なれた時期でもある。妻とのこの死別にしても、彼女の発病は作者四十九歳の時であり、それからの二十年を経てのものだつたことを思えば、やはり異常なこと、普通でないことといわなければならない。「きわめて不幸な状態」ということはむろん外形的なことについて言つている。犀星文学の随所に見られるように、この二十年間の犀星の妻、室生とみ子、『室生とみ子遺稿句集』の作者の生涯は、外形的不幸をこえて内面的幸福に充たされたものということもできる。少なくとも、この内面的幸福に触れることなしに室生とみ子の生涯を語ることはできない。それにもかかわらず、その幸福は必ずしも自然成長的なものではなかつた。外形的不幸はどうしても人の内面に喰い入る。それを越えて、あるいはそれを通してある幸福に至るには、人は奮闘を支払い、犠牲を支払わなければならない。室生犀星は妻とともにこの二つを支払い、そして年七十になつてその妻を失つたのである。  『杏つ子』、『我が愛する詩人の伝記』の時期のこの作者は、歳は今いつたとおりであり、妻を持ち——その不幸と幸福とについては書いた。——成長した二人の子を持ち、またすでに孫を持ち、十年来日本藝術院会員であり、日本文藝家協会の名誉会員であり、『杏つ子』その他によつて「読売文学賞」を受け、妻の死の後にはなるが『我が愛する詩人の伝記』によつて「毎日出版文化賞」を受け、さらに『かげろふの日記遺文』によつて「野間文藝賞」を受けようとする時期である。もとよりこれらはやや世俗的なことである。そしてそこに、これらのいわば世俗的な条件を目安としてさえの平静な晩年があつたかといえばそれはなかつた。平静な、「晩年」という言葉に伴いやすい沈静したもの、安らかなもの、生活の流れて行く日々といつたものは、衝突を避けて行く老年の知恵といつたもののないのとともにそこにはなかつた。むしろ犀星において、それらと反対のところに彼の老年の知恵はあつたといつていい。それはもう一度、『抒情小曲集』、『愛の詩集』、『性に眼覚める頃』、『結婚者の手記』を通して五十年生きてきた命の中心のものを、七十になんなんとして、もう一度最後に生き返すことであつた。世俗の場合、しばしば文学者について見てさえ、老年の知恵とか老熟とかいうことは繰返しにつながつてくる。あるもの、ある然るべきものの繰返し、人生上また藝術上の金利生活者ということがそこに出てきがちであるのに対して、この作家は、無一文の一人もの青年さながらの姿で、創造的一回的なものとしてこの生き返しにすすんで行つた。上《うわ》辺《べ》の形では、それは老年の知恵の逆だつたとさえいつていい。『杏つ子』その他、また『我が愛する詩人の伝記』その他がそれであつた。  そこにはもう一つのこともあつた。作者の健康ということである。堀辰雄について書いたとき、作者は堀が「連載物」を「二つきり」書き、その二つともを途中で堀の方から打ち切つたことに触れて、「連載といふものは作者の健康が横溢してゐないと書けないものだ。堀辰雄のやうな作家は作品の出来る時を俟つより外はない作家である。」と書いている。すくなくとも七十歳を迎えようとして、作家犀星の健康は「横溢して」いたと見なしていい。その健康は生理的なものとして「横溢して」いただけではない。それだけならば、それは作家としての健康と呼ばれないで健康な痴呆状態と呼ばれる。そこではあの生き返しがそもそも不可能になる。不幸な癌はまだ見舞つてきていない。そこに、いわば最後の藝術家的健康の横溢があつたわけである。  再び言う、生き返しは繰りかえしではない。むろん蓄積はある。それは大きい。しかし創造は、現在にいたる蓄積を一擲してでなくて、全蓄積をそのまま踏み台にしての一歩前進である。『杏つ子』において犀星はほとんどデスペレートにそれを試みた。  『結婚者の手記』を書いたときの作者が年三十一だつたのに対して、今は年六十七であり六十八である。前者の作者が結婚して二年そこそこであつたのに対して、今は結婚後ほとんど四十年に近い。前者での家庭はいわば原始的なものであつて、二人は二人連れでありながら単細胞というのに近い。後者ではそれは家族、家庭であり、夫と妻と以外、親と子、子供たちの結婚、それを取りまく世俗的で複雑なものを含んでいる。前者の経営が第一世界大戦すれすれであるとしても、大戦は影を落しているのに過ぎぬけれども、後者のそれは第二大戦の経験に直接日常的に重なつている。前者を「家庭小説」ということができにくいのに対して後者は家庭そのものを扱つたものと見ることができる。むしろこれを一篇の「家庭小説」と見ることによつて、そこらの家庭小説がいかに非家庭小説であるかが照らし出されるといつたものでもあろう。  家庭といえば犀星は「家庭」という詩を書いている。 家庭をまもれ 悲しいが楽しんでゆけ、 それなりで凝固《かたま》つてゆがんだら ゆがんだなりの美しい実にならう 家庭をまもれ 百年の後もみんな同じく諦め切れないことだらけだ。 悲しんでゐながらまもれ 家庭を脱けるな ひからびた家庭にも返り花の時があらう どうぞこれだけはまもれ この苦しみを守つてしまつたら 笑ひごとだらけにならう。  「杏つ子」で問題はここからずつと進んでいる。家庭をまもるなとも破壊しろともいうのではない。ただ作者は、わが家庭と家族とをしらべ、新しい条件のもとで人間の問題をとらえようとした。「復讐の文学」、「巷の文学」、「あにいもうと」、「神々のヘド」の時期を経たものとしてそれをしたのである。作者はもはや小説、虚構ということにかまつていない。ほとんど自伝の体を取り、芥川龍之介、菊池寛などを本名で出し、物語の展開から道草を食つて、あるいは食いすぎて、さまざまに感慨と意見とを存分に書きこんでいる。子を育てようとする人の親の、特に父親であるものの誠意と愚かさとを極限まで描き切ろうと作者はしている。何がこの間に経過して、それが何を残したかを、学者のようにしてしらべようと作者はしている。粗雑にいえば、作品よりも人生がさきというのがこれを書いている作者の姿である。それだから、大部分の家庭小説のいわゆる大団円はついに現われない。愚かな父親は千々に心を砕いてそれなりである。砕けつ放しである。あたつて砕けろという言い方は必ずしも誠実、計画を予想していない。この場合の小説家平山平四郎は、あらゆる彼の誠実と計画とにおいてあたつて砕けている。そこが創造的一回的である。  こういう晩年は生活力に充ちた晩年といわなければならない。激烈な晩年、奮闘と斬り死との晩年といわなければならない。そこから無限の教えを汲み取ることができるとしても、一般的な規範、教条は、ひとかけらも引き出せぬというのが彼の晩年でありこれらの作品である。  『我が愛する詩人の伝記』も全く基礎は変らない。『杏つ子』で作者は書いている。  「小説家平山平四郎がいくらじたばた《もが》いても、その母をもう見ることが出来ないのである。ただ、このやうな物語を書いてゐるあひだだけ、お会ひすることが出来てゐた。」  『伝記』の「後書」ではこう書いている。  「作家といふ者はその人の事を書いてゐなければ会へないものだ。書きさヘすればその詩人がすぐ物を言ひ、笑ひかけてくれ、十年も考へなかつたことが書いてゐる間にうかんで来るものである。」  この『伝記』でやはり犀星は具体的に生涯をふり返つて見ている。ここでもやはりそれは何の回想でもない。むしろ新しい勉強である。  岩波文庫『千家元麿詩集』の、「千家のよい理解者である」宮崎丈二の文章を引いて犀星は書いている、「私はこの宮崎丈二の文章を読んで、千家の詩を読みすすんでゐるうち、二、三の作品を見ることが出来て、感激はあたらしく私を打つた。(中略)美人を美人と極めをつけることに何の顧慮がいるものか、美人に難くせをつけるなら、初めから美人だといはない方がよい、千家の詩に口をきはめて褒めるのは、千家の詩の急所がさうさせるのである。読者よ、かういふよい詩をいまから二十年ももつと以前に、あまり沢山の人の眼にもふれずに印刷のままで、紙の間にぴかぴか光つてゐることを想ふと、誰かがそれを後年に眼を瞠《みは》つて読み、人に、沢山の金を貰つたやうに讃めるのも、美しい千家の贈物ではないか。」  「堀辰雄」の最後のところではこう書いている、「それにしてもたえ子夫人の看《み》とりがなかつたら、堀はあんなに永く生きてゐられなかつたであらうといふのは、あとに残つた私どもが彼女におくる褒め言葉だつたのである。彼女はそんな褒め言葉なぞいらないと言ふだらうが、横を向かないで受けとつてほしいのである。」  一例というのに過ぎない。形の上の詩人回想において、この作家の現在へのはたらきかけがいかに出ているかという事実を指すのである。北原白秋から島崎藤村までのこの人々のほかに、野口米次郎、横瀬夜雨、薄田泣菫、中原中也、宮沢賢治、中川一政についても書きたかつたと作者は書いている。「藝術家の生涯」には福田正夫と福士幸次郎とを書いている。それらは、この詩人が、これらの詩人を新しく読みなおして、むかし感心したのとはちがつた感動をも引き出しながら新しく踏み出そうとしている彼自身の表現となつている。『伝記』に犀星が佐藤惣之助を書いていたことも記憶しておかなければならない。親しかつたこの友人について、犀星は気安く、また率直に書いた。そしてそれが佐藤の後継者という人たちの怒りを買い、『伝記』を一冊にするとき犀星は「佐藤惣之助」の章を削らなければならなかつた。時が問題を解決するであろう。しかし事実は、『伝記』が怠惰な回想でなくて勉強精進に近いあるものだつたことを語つている。 七十歳  室生犀星はいわば不思議な運命をたどつてきた。この人の出生についてはすでに書いた。「この子供は、生れるとすぐ、多分名さえまだつけられぬうちに全くの赤の他人の手に渡された。」そして「苗字からいえば、この子供は、それを名乗らされなかつた小畠から赤井に移り、赤井から室生に移つたわけである。昔の侍の子が、二転三転して、出家得度というのとは全くちがつた道行きで寺の子、僧侶の子となつたのである。ここまで来れば、もはや『ありきたり』の話ではない。」  しかし「ありきたり」の話でないのはそれだけではなかつた。「二転三転」しつつ、生みの母親が全くわからなくなつたのである。それをつきとめようにも、その術さえ、そこへ辿るための細い糸のようなものさえ手のなかで消えてしまつたのである。  生みの母の行くえ知れずということは、ある人びとには一つの解放感に似たものをあたえるようである。それは人間を個として放り出す。人間のあいだのやり切れぬ厄介で複雑な関係、その蜘蛛の巣城の最初の発端ともいうべき原始的な母と子とのつながり、このつながりが見失われることによつて、手に負えぬあの蜘蛛の巣城そのものの成立から人がまぬかれることができる。それは在ることのようである。しかし同じものが、別の人びとには全く逆のものをあたえてくる。それは彼を解放しない。逆に極度に拘束する。死にいたるまで、男であれ女であれ、子であるその人間が生みの母をもとめて彷徨することになる。それは、あるところから他のあるところ、確定されたどの地点かへの彷徨ではない。あてどなしの、行くえさだめぬ彷徨である。人間の内面的彷徨と名づけることができるかも知れない。これが、全身的に室生犀星をつかんでいたようである。つまりいえば、これに全身的につかまれて室生犀星は七十歳になろうとしていた。つかまれた人間が、もはや十代、二十代の人間でなくて、四十代、五十代、六十代ときて、今や年七十になつたという事実がここにあるわけである。  生みの母を求める心はあるいは動物的なものであろう。生物的、原始的なものでもあろう。理不尽なものでもある。さぐりあてることがいかに不可能かということを、道理に叶つて説ききかされたところで、どうにかなることのできぬものである。孤児院、感化院、その他その手のところから、ある少年たちが、いくらつかまえられ、引き戻されても、そのたびにいわば罰が重なるとしても、それでもまたまた脱け出て行かずにはいられぬようなもの、それがここで、一つの創造衝迫のようなものになつている事実を見ぬわけには行かぬように思う。犀星の場合、『抒情小曲集』のそもそもからのものでもあつた。しかしそれが持続して七十までも来たとき、それは、「かげろふの日記遺文」に作者自ら「あとがき」を書かずにはいられぬようなものとなつていた。通俗にいつて、下賤な女への手のつけられぬ愛情のようなものである。  「『結構づくめに扱はれてゐた町の小路の女は、子を産んでから厭気がさされてゐたが、その子が死んでから急に捨てられて了つた。この女は孫《そん》王《わう》の下賤な女に生ませた御《み》子《こ》の落《おとし》胤《だね》で、悪い素性の女なのだ。(生き永らへ、そして私が悩んでゐるやうに、反対に苦しませてやりたい。)と心の憤りが通じたものか、女は行衛不明になり何処かでまた男と同棲してゐるとか、また、病気で死に果てたものか、消息をつたへる者さへなかつた、』と、蜻蛉の日記には簡単に結ばれてゐる。私は私の生母がその夫の死後に、その邸から遂はれて再婚したとか、病死したとかで消息不明になつてゐたことを、この町の小路の女のくだりを読んで、何物かに行き当つたやうな気がし、そこに彼女の若い日を思ひあてることに、書き物をする人間の踴躍と哀れを感じた。  道綱母の苦痛も、私にはあまりに判り過ぎてゐたが、平安朝の丈高い草叢を掻き分けて見るには、墓《はか》所《どころ》さへ失つてゐた町の小路の女の、みじかい生涯を見つめる私の眼は決して離れようとしなかつた。私はすべて淪落の人を人生から贔《ひい》屓《き》にし、そして私はたくさんの名もない女から、若い頃のすくひを貰つた。」  「われわれは何時も面白半分に物語を書いてゐるのではない。殊に私自身は何時も生母にあくがれを持ち、機会を捉へては生母を知らうとし、その人を物語ることをわすれないでゐるからだ。われわれは誰をどのやうに書いても、その誰かに何時も会ひ、その人と話をしてゐる必要があつたからだ。誰の誰でもない場合もあるが、つねにわれわれの生きてゐる謝意は勿論、名もない人に名といのちを与へて今一度生きることを、仕事の上で何時もつながつて誓つてゐる者である。でたらめの骨髄に本物が些《ほ》んの少しばかり生き、それを捜ることに昼夜のわかちなく続けて書いてゐると、言つていいのであらう。」  「蜜のあはれ」に、映画「赤い風船」にふれて「後記」を書いたこともここに結びついているにちがいない。  ほとんどこの点を、戦時戦後の世相のなかに極限まで押しつめて行つて向うへ突きぬけさせた「考へる鬼」について、いつそうそのことがいえると私は思う。これは、つきとめられぬ生母にからまる怨念を、いわばより高次の哲学的抒情詩に結晶させたものということもできる。結晶の過程、結晶した結果が、仮りに不完全なものだつたとしてもそれはそうである。「遠めがねの春」、「黄ろい船」、その他「性」にふれて書かれた小説、随筆類をもこめてこれが明らかに読みとられる。それは、現代日本文学のうちでも貴重でめずらしい部分である。  この時期には、「犀星の生母を知る唯一の、従兄、奥田一郎、仙台で歿。」(新保編年譜)ということも、「義兄赤井真道、金沢市桜畠九番丁四十三番地に於て死去。」(同じく)ということもあつた。ほとんど決定的に大きなこととして、「妻とみ子永眠。享年六十四歳。」(同じく)ということもあつた。またこの時期にからんで、「金沢から出て来た新保千代子」の仕事も実をむすびかけてきた。「この人は私の伝記をしらべてゐる方で、私の生母、父、姉、兄、妹、義父、義母、その祖母、それらの墓碑まで草も分けて尋ねて居られ、これを『赤門文学』に文献として毎号記述してゐた。私のもつとも驚いたことは私の義母の母親、つまり祖母が前田の御殿女医であつた事まで判明したのである。」と犀星自身書いたことである。  生みの母について七十歳まで持続した怨念そのものではなくて、それによつて文学の世界へ詩としてもたげられたものが、ここでもう一度世俗の世界へもたらされてくる。「かげろふの日記遺文」が第十二回野間文藝賞を受けたとき、犀星は賞金の使いみちについて彼の目論見を発表した。その第一は「犀星詩人賞」をつくることである。第二は「犀星文学碑」を自分でつくることである。第三は『とみ子発句集』を出すことである。  「犀星詩人賞」のために彼は精力を傾けた。彼は独力で幾十冊という詩集を読んだ。誰かに手伝つてもらうということなしに犀星自身選をしたのである。  「犀星文学碑」は軽井沢につくられた。場所も姿も詩の文句もすべて犀星自身えらんだものである。  『とみ子発句集』も出された。集の意匠、装幀、すべて犀星本人である。  ことがらはすべて世俗のことであつた。しかしそれは、妻への追慕にさえふくめられた母を求める心であつた。世俗の形をあたえられることによつて、「文学の世界へ詩としてもたげられたもの」がもう一度観念として定着させられたと見ることもできる。  最後の時期をあたかも迎えるかのようにして犀星は七十一歳、七十二歳にむかつて行く。この道には「老嬢におくる書」の世界が、堀辰雄や釈迢空への思いの世界とともにこめられていた。 仕事のなかでの七十三年  室生犀星は今や七十歳の閾《しきい》をまたいでいた。現に書きつづけている作家として、それからあとの時期にはいつたわけである。彼はすでに「杏つ子」を書いていた。「遠めがねの春」、「かげろふの日記遺文」を書いていた。「わが愛する詩人の伝記」も書きあげていた。  「かげろふの日記遺文」で彼は野間文藝賞をおくられたが、その披露の席で賞金を何につかうつもりかということを彼は発表した。第一に彼は「犀星詩人賞」をつくることを約束した。第二に「犀星文学碑」を自分の手でつくることを約束した。第三に室生とみ子の発句集を出すことを約束した。  三つの約束を犀星は言葉どおりに果たした。文学碑を自分でつくるについては、「生前自分の碑を建てることは売名の輩の行ひのやうでいやなものだが、それよりもつといやなのは沢山の人から刷り物を配つて寄附を乞ふといふことは何と言つても、心に恥を感じる」、「だから私は自分だけでも、他人に迷惑をかけない心がけを決めてゐた」旨を書いている。「亡妻の発句集」は、「非売品で友人知己に頒布、故人の二十年間の俳句から百句に充たぬ選出」であつた。「犀星詩人賞」の第一回は滝口雅子におくられたが、その特色は選を犀星一人ですることであつた。「これは毎年に行ふ私の行事で殆ど選衡等は私一人ですることにしたが」と書いていて、しかし「殆ど」でなくて彼は独力でこの面倒で厄介な仕事をしおおせたのであつた。こうして彼は最後の仕事の時期にはいつて行つた。  あるいはそれは、ここで取りたてていう必要のないことなのかも知れない。けれども、人が何十年か仕事を続けてきて、それが詩の上でも散文の上でもひろく世に認められ、大きな文学賞をおくられ、藝術院会員にえらばれて年七十になり、そこを越してなお新しく書きついで行こうとする——このことを、文学者である限りごく当り前のこととして見るべきだということが成りたつのかも知れない。しかし同様に、こうして、ある静かで平安な老年期がきても不自然でないきわになつて、新しく、文学というものに初めてはいつて行くような気組みでさらに書きつづけてゆこうとすることを、必ずしも普通でないこととして見ることも許されるのではないか。許される許されぬはともあれ、室生犀星はこの方向へ七十、七十一、七十二という年ではいつて行つている。  「老成された詩といふものは、詩であるものよりも遥かに沈みこんでゐる詩のいしずゑのやうなものであつて、ただちに詩の美しさをかたちづくるかどうかは疑はしい」、こういいながら犀星はおびただしい量の詩を書いた。「旅びと」、「盂蘭盆の歌」、「孤峰」、「つけもの」、「信濃」、「野のもの」、「まもれ」などがそこにある。格別の意味をふくんだようにも見える序をつけた「女ごのための最後の詩集」がそこにある。しかしやはり、そもそものところは散文の世界で新しい道はさがされ、手さぐられていたといつていい。そしてここで、犀星がほとんど初めて散文の世界にはいつて行つた時の気組みが新しく見られることこそ目ざましい。  たしかに、「売文を渡世とする」ものとしてどこまでも書きつづけなければならぬということが日本の事実としてあつた。七十歳を越した作家、長年の伴侶だつた病気の妻を失つた男の作家、子供たちとの関係も必ずしも無事円満には行かなくなつたこの老作家は、ちようどそれらのことのためにも気楽な空想世界に遊ぶことができなかつた。五十年にわたつて溺没するように愛してきた自然と陶磁器とも彼のすべてを領することはできなかつた。やはり彼は、いやが上にも人くさい世界へ、今までよりもさらにもう一歩つきこんではいつて行く。その道を彼はすすんで行く。  男と女との、今までにほとんど描かれもさぐられもしなかつた世界が展《ひら》かれて行く。それは、目の前のごみつぽい現実、現象を通して、しかしむしろ観念的にさぐられて行く。作家の頭蓋の下での対話とその進行、それはほとんど面妖なところまですすむ。「はるあはれ」その他の試みが見られる。  やはりどん底の人間が描かれる。どん底は貧富にだけかかるのではない。貧に結びつくと同時に、むしろあるいびつなものに結びつく。乞食の類が登場してくる。乞食そのものがいびつなのでなくて、人が乞食の境涯におとされ、そこから脱けて出ることのできぬところに現世のいびつが見つけられる。吃りが登場する。吃りそのものは何の不健康でもない。しかしそれが現世的に受けねばならぬもの、それがまわりの人間にあたえて行くものにいびつが見つけられる。虱《しらみ》むしが登場する。虱むしを媒介として人間の臭さがさぐられる。掏《す》摸《り》の世界、非行少年少女の世界、そこにいびつなものを見つけて作者がそれをよしとするのではない。  「事実を歪《ま》げることが出来ないからです。在つたことをないとすることの不可能の為なんです。」  「帆の世界」の主人公の言葉はそのまま作者の言葉であり、それを通してその向うに何かを見つけたいというのが作者の念願である。ここに、この老作家にいわゆる老化現象の見られぬという目ざましさがあらわれてくる。七十、七十一という年齢はまちがいなく老年期である。しかしそこに全く老化現象が見られない。肉体的生理的な側面はさておき、作家としてのそれが見られない。「われはうたへど やぶれかぶれ」がそれを証拠だてている。尿閉塞、老人にみられるこの変異がどれだけ即物的にも心理的にも貪《どん》婪《らん》に追究されているか。「私の履歴書」のなかの「憑かれたひと」のところに、彼本人この貪婪について書いている。青年とも中年とも全くちがつだ性質の油ののりがそこに見られる。珍しいことであり、稀有なことであろう。  それにもかかわらず死は作者に近づきつつあつた。  「夕刊が来てその学藝欄を開くと、ああ、宇野浩二君といふ大きな見出しが、私の眼に一杯にはいつて来た。その、ああ、といふ同じ仮名文字の重なつたぐあひは、みんな、これを聴いてくれといふ筆者保高徳蔵さんの嘆いた叫びのやうな声がひそんでゐて、……」  「キミハユキ、ワレハヤム」という電報を打つて、「急速に宇野浩二に近づいていつたのは宇野がもう生きてゐないことが、もとになつてゐた。生きてゐた人が死ぬことの魅力のつよさは、さすがに死といふものの人一人に就いては、えがたい最後に生きたしめくくりのやうなものであつたからだ。」  「われはうたへど やぶれかぶれ」にこう書いたとき、犀星は、一度はいつた病院から確かに退院していたのであつた。こう書いた前の年、昭和三十六年秋に、「軽微の肺炎」から彼は虎の門病院にはいり、十一月はしめになつてようやく退院した。彼は非常な元気で「われはうたへど」を書いた。しかしその中で彼はコバルト療法のことを書いていた。  「地下室にあるコバルト放射室に下りてゆくのが、私には一等つらかつた。放射室では八分三十秒の間背中をむき出しにし、……」  肺癌がきていることを彼は多分知らなかつた。それは知らされていなかつた。それは通常のことでもある。しかしそれは、「一応退院」という中休みを置きはしたが彼から離れなかつた。事態は、ある日にわかな進展を見せ、昭和三十七年(一九六二年)三月一日、犀星はもう一度急いで虎の門病院へ入院した。痛は全身にまわつていた。三月二十六日午後七時すぎ犀星は永眠した。こうして、七十歳を越したからだと頭とで、人間のまことに人間くさい境地にやにつこくつき込んで行こうという犀星の仕事は終らされた。未完の「好色」が残されたことは、彼がほとんど筆を執つたままで死んだことを意味している。二十九日に告別式が行われた。彼自身僧家の出であつたけれども、それはどの宗派にもよらずに行なわれた。それは彼の遺志にしたがつたものであつた。 日記の犀星  作家、文学者はしばしば日記を残す。もともと日記は人に見せるために書かれたのではあるまい。もともとはわがための心覚えなのであろう。しかしそれが、時には何かの証拠になることがある。犯罪の証拠、無罪の証拠になることがあり、何かの意味で記録として社会的な意義を持つてくることがある。日本文学が、そのなかに「日記文学」の項を持つことももともとはそこに由来するともいえる。しかし近代と現代とは、日記にさらにいつそう大きな意義をあたえてきたように見える。鴎外の日記、一葉の日記などの格別な意味に並んで、ヨーロッパの文学者たちの厖大な日記が発表され、第二世界大戦が『アンネの日記』その他を生んだという事実もある。事は、現代のジャーナリズムの発達ということにも結びついてくる。『原敬日記』から『木佐木日記』に至る線も大きくはここにはいる。室生犀星は死後にかなりの量の日記を残した。それは個人の記録として、また時代の個人への反映として、またこの人の全文学の注解として特別の意味を特つ。それは、その独得の観察、独得の表現を通して、ちよつと類例のないある個人の文学的描出ともなつている。犀星文学の味読ということは、残されたこれらの日記の味読ということともつながらずにいられぬものである。  この巻には、大正十三年(一九二四年)から昭和六年(一九三一年)までの日記、それから、昭和二十三年(一九四八年)から同じく二十七年(一九五二年)までの日記がおさめられている。前の部分は、作者の年三十五から四十二までの間にあたり、後の部分は、作者の年五十九から六十三までの間にあたるが、両方とも、作者として精気充満していた時期である。精気充満していた時期の作が、作の出来ばえにおいても優れているとは常にかならずしもいえまい。けれども、結果いかんにかかわらず、ある時期の作者が精気充満していたということは、少くともその次ぎの時期へかけて大きく実を結んでくる。  しかしこの場合、前者についてみればこれが関東大震災にひき続く時期だということが注目される。この前の年、大正十二年(一九二三年)、稀れな大地震が関東一円をおそつて東京市は崩れて焼けた。大きな犠牲が出た。この作家の場合は、長女朝子が駿河台の病院で生れた途端を地震が襲つたのでもあつた。多くの作家が東京を離れた。室生犀星は家族を引きつれて郷里金沢へ移つて行つた。すなわち日記は金沢生活にかかわつている。ここで犀星は、かつて「ふるさとは遠きにありて思ふもの」、「うらぶれて異土の乞食《かたゐ》となるとても/帰るところにあるまじや」と歌つた郷里金沢へ帰つて暮らすことになつたわけである。金沢の作者にたいする関係も今や変化していた。太田南圃、桂井未翁の人びととの静かな往来があり、まだまだ若い世代との交流がはじまり、生れた長女にたいするまことに親らしい詩を日記帳に書きつけるということなども続けられている。島田清次郎の最後の運命などもここに顔を出してくる。金沢の風物は、ここで犀星のなかで、災厄を機縁としてではあつたがもう一度たしかに生きられたと見ることができる。これに比べれば、以前の金沢生活は、観察のいとまもないものだつたと見ることもできよう。  庭の扱い、草木虫魚にたいする関係、これは犀星独得のものであり、『愛の詩集』に早くそれは現われていたけれども、この金沢生活はあらためてそれを深めたにちがいない。その後ふたたび始まつた東京生活、戦争の期間のひどい軽井沢疎開生活、それら全期間を通じての犀星の自然観察の深さと強さとは、このときの金沢生活をぬきにしては十分には考えられぬものでもあろう。  東京へ帰つた犀星は、若い人びとの、たとえば『驢馬』の連中などとの交友にもはいり、しかし同時に、芥川龍之介に芥川の自殺によつて死にわかれるという大事にもぶつからなければならなかつた。犀星に取つて、これは大きな、またしたたかなショックだつた。続いて犀星は萩原朔太郎の不幸な家庭崩解の経過にも立ちあわなければならなかつた。こういうことがらは、犀星のからだと精神とのなかへ食い入つて行つたものである。昭和六年中の日記に、犀星はほとんどぶちつけにいくつかの短歌を書きこんでいる。 睡られぬ夜半の深きに ふたたびは 起きて酒つぐ 寒きくりやに。 こどもらみな死ね、 或夜のわれ 暗き巷を往《ゆき》反《もど》り 何か抛打つ。  最初の部分はしかしこの昭和六年でいつたん断れている。次ぎに始まるのは昭和二十三年である。これ以後、日記の記述と描写とは詳細をきわめている。ある日の犀星には、犀星死後の遺族が、彼の書きつつあるこの日記の類を金に代えねばならぬかも知れぬことさえ念頭に浮かんだようである。  すでに妻とみ子は昭和十三年(一九三八年)秋脳溢血でたおれている。からくも死をまぬかれたものの、その後は全くからだの自由を失つていた。時は戦争へ向かつて一散に下り坂を走つていた。そして昭和十七年には萩原朔太郎のにわかな死にぶつからねばならなかつた。つづいて佐藤惣之助の死にぶつからねばならなかつた。さらにつづいて北原白秋の死にぶつからねばならなかつた。アメリカ軍による東京空襲は激烈を加えてきた。からだの動かぬ妻をかかえて犀星は昭和十九年軽井沢生活に踏み切つて行つた。敗戦直前の七月十五日には、長男朝巳がこのなかを金沢第九師団へ召集されて行つている。そして八月十五日が来た。しかし犀星は軽井沢にとどまつてなおそこの生活を続けた。委細は日記に書かれたとおりである。  戦争について犀星は必ずしも多く語つていない。日記と限らずにそうである。戦争と文学、戦争と作家との関係についてしるした彼の覚悟の一端はすでに紹介した。ただここで、長い軽井沢生活、その寒さと乏しさとの中で観察された土地の人びとの姿は注目されずにすませぬものである。「あにいもうと」などに書かれたものとはまたちがつた生活がそこに捕えられている。想像を絶してそれはリアルである。同時に、すでにこの人びとの姿が戦争と敗戦および敗戦直後とに結びついていたけれども、「戦犯」についての記述などには犀星そのものが露出されているということができよう。  「戦犯七氏絞死刑、終身刑十六名、禁錮二名、なかに八十二歳の人もあり、たいてい六十から七十の高齢者ばかりである。みな知らない人ばかりであるが、弔意を表したい、……」  「天皇はどういふ気持か、天皇こそもつとも苦しみをもつて彼らの処刑と、受刑にたいして襟を正して何らかの自決的な表現をなすべきであらう、天皇の思ひ切つた表現が国民を動かし受刑者に最後の微笑をうかばしめるであらうが、何のあらはれもなくて済ますとすれば人間としての、生きた天皇として見上げることが出来ない。」  室生犀星は反天皇主義者というものではなかつた。ここでの犀星はそういうものとして書いたわけである。『抒情小曲集』以来のかわらぬ姿であろう。永井荷風は大きな日記を残している。犀星と荷風とを比べてそこから一般的なものを引き出すことはできないが、しかも八月十五日の条と戦犯云々の条とを引合いに出すことはできる。  八月十五日に荷風は岡山県にいた。  「……午後二時過岡山の駅に安着す、焼跡の町の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門の寓舎にかへる、S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ、」  昭和二十三年十一月に荷風は小岩にいた。  「十一月十二日。晴。東京堂編輯員鴎外先生選集の事につき来話。午後浅草大都座楽屋。夜俄に寒し。旧軍閥の主魁荒木東条等二十五名判決処刑の新聞記事路傍の壁電柱に貼出さる。」  是非ではない。犀星日記の記述は犀星的である。女中にたいする態度その他にも同じことは一貫して通じている。  藝術院会員としての天皇陪食のくだりなども興味ふかく読まれるものである。  「藝術院長から再び天皇の陪食について案内状が来た。『貴下には御支障のため前回の御陪食を辞退されましたので、今回は特別の御沙汰により欠席された会員のため御催になる旨宮内府より申越がありましたから御差支へがございませんでしたら御出席下さいますやうお願ひします。』二度のお招きを辞退するのも気が引けるが、きうくつな思ひをしたり服装を気にかけるのも困るので、どうしようかと考へてゐる。天皇とすぐ近くにお話することは、幼少の折から抱いてゐた妙な空虚なものを心で試めす機会でもあるが、気が重い、この気が重いといぶことは、さういふ重さをなくしたい自分の生活からいつても、ご辞退すべきであらうかとも考へてゐる。速達の返事を明日に延ばしておくことにした。明日は明日の考へに打つかるからである。」  「天皇の陪食はやはりご辞退することにした。ご辞退しても、心にのこる事もないからである。昔なら一代の栄光であつたらうが、昔でも、さういふ場所には出向かぬ自分であらうと思はれる。」  犀星日記の面白さが主としてこういうところにあるのではない。それらはむしろ、「死ぬ三日前に」うまそうに煙草を吸う早川調髪師などのところにある。  「たばこは毒だといふと、これだけはね、といつて、やめなかつた……」  「駅前の鬼頭眼科に行き、手術してもらつたが、眼帯で左眼がまるで見えず、……  夜も眼帯のままねたが、明朝早くに行つて洗眼して貰ふことにする、片眼では字もかけないし、もの怖ぢがして、歯がゆいあせりを感じるのだ、このあせりは眼の悪い時だけにあるもので、神経に汗をかくやうな気持だ。」  「あんまを呼び治療、あんま、煙草をのみ、舌の上の煙草屑をぺぺと吐く、これは僕もやることなので叱言もいはないでゐたが、汚ない。滅多に僕はやらないが、しミじミ不潔な気がした。」  「山王マアケツト」というところに行き、「唐物屋の店の物を何となく見入つてゐると、額のせまい娘が出て来て」、「おぢいさん、何がいるんですか。」という。「あまりはつきりとおぢいさんといはれたので、何もいはずに店をはなれ」てしまう。そういうところにあるだろう。老年期にはいつての、それにもかかわらぬ生活力である。そのエネルギーである。「額のせまい娘」、「ぺぺと吐く」、「神経に汗をかくやうな」、こういう感覚とその表現とである。その日その日の記録とその描写、やはり日記は犀星文学の藝術としてのあるものである。 死、葬送とその後  室生犀星はつよい肉体を特つていた。日本人としても小柄の方であり、少年のとき以来それは一度としてふくぶくしく肥えた時を持たなかつたが、飢え、彷徨、貧窮をとおしてこの肉体は強かつた。貧窮と苦痛、悲哀と勉強とをとおして、彼の肉体の強健はいわば我慢づよく一貫して保たれてきた。また犀星自身、ほかに何ひとつ持たぬ人間、男として、生理的健康を保つためにいろいろと注意もし、必要と思われることを実行しもしてきていた。ある時期、彼は、あれほど愛してそれに溺没するほどだつた酒を廃したことがある。煙草をやめた時期がある。仕事する精神、その容れものとしての肉体を彼はよくよく気をつけて扱つたようである。それは、長男豹太郎を早く失つたことからも来ていた。あとの二人の児どもに対するほとんど過敏な気づかいからも来ていた。また夫人とみ子の脳溢血、その二十年間の看病と特殊な取扱いとの経験からも来ていた。萩原朔太郎の死のときなど、犀星は、萩原が医者の息子でありながら、常平生したしい医師を持つていなかつたことを無念がつて非難したほどでさえあつた。  しかし犀星の医学知識、養生法を、科学的なもの、常識的なものとすることも必ずしもできない。芥川龍之介の医者だつた下島勲に犀星は親しんでいたが、自然科学のことなどを犀星は面倒がり、要するに気に入つた医者に頭から信頼してかかるといつた風だつたと見られる。犀星の胃の病気については、夫人とみ子は犀星の茶と菓子とのことを言つていた。値の高い濃い茶、ねつとりとした金沢の菓子、これの長年の連用が胃をいため、胃潰瘍の原因ともなつたと彼女はいつている。しかも彼は執念く頑健だつた。昭和三十一年(一九五六)以後、三十二年、三十三年、三十四年(この年夫人とみ子をうしなつた。)と彼は猛烈に仕事した。摂生にもつとめていた。三十五年(一八六〇)十二月、室生犀星詩人賞の第一回が滝口雅子におくられた晩彼はビールをひと口飲んだ。三十六年七月、軽井沢二手橋のところの詩碑が出来たときはいくらか変つたことがあつた。これは健康に結びつく問題ではない。けれども、健康、生理問題をも含めた老年の問題として考えることはできるかもしれない。碑面にきざむ自作「切なき思ひぞ知る」——その十行の詩を九行に改めたのである。 我は張り詰めたる氷を愛す。 斯る切なき思ひを愛す。 我はその虹のごとく輝けるを見たり。 斯る花にあらざる花を愛す。 我は氷の奥にあるものに同感す、 その剣のごときものの中にある熱情を感ず、 我はつねに狭小なる人生に住めり、 その人生の荒涼の中に呻吟せり、 さればこそ張り詰めたる氷を愛す。 斯る切なき思ひを愛す。  彼は、「我はその虹のごとく輝けるを見たり」を「我はそれらの輝けるを見たり」とした。また「その剣のごときものの中にある熱情を感ず」の一行を削つた。この種の削除、改作は、当時進行しつつあつた筑摩版『室生犀星全詩集』全体にわたるものでもある。そしてその秋肺炎で床についた。十月、港区虎の門病院に入院して精密検査を受けた。そして十一月ひとまず病状おちついて退院した。元気を取り戻した犀星はふたたび猛然と仕事にかかつた。多く書き、またいくつも出版した。年末には第二回「室生犀星詩人賞」の集りに出て、賞を送られた富岡多恵子、辻井喬、また第一回の滝口雅子たちといつしよにやはり「ビール一ぱいくらい」を飲んだ。犀星はよそ目にもある程度健康を恢復したように見え、また本人もある程度そうと信じているように見えた。  しかし事実は少しちがつていた。二人の子供は医者から肺癌のことを秘密に知らされていた。ある長くない期間が、条件つきでではあつたが二人は知らされてもいた。「われはうたへど やぶれかぶれ」に描かれたコバルト療法の描写から、犀星もさすがに癌を知つているとも思われ、しかし同時に、描写の態度と本人の家庭での態度とから知らずにいるとも取られ、家族はそのへんの扱いにいろいろに苦心して、新聞社、雑誌社などへ適宜な扱いを頼むため歩きまわるなどのこともした。そうして、中休みの期間は思つたよりも速やかに経過した。三十七年(一九六二)三月一日、犀星はもう一度虎の門病院に入院し、しかし癌はほとんど全身にまわつていて手の施しようもなかつた。三月二十六日十九時二十六分彼は永眠した。  通夜には諸方から花がおくられた。通夜は馬込の家で行われたが、その夜はひどく寒かつた。正宗白鳥、堀口大学が、そのなかで尽きぬ語り口でいつまでも語つた。そこへ宮内庁から連絡の人が来て、従四位に叙せられ勲三等瑞宝章をおくられるがこれを受けるかという話があり、遺族は受ける旨を答えた。それから二十九日、青山葬儀場で告別式がおこなわれた。式は故人の遺志によつてどの宗派にもよられずに行われた。  文壇の長老として——それを資格としてでなく——正宗白鳥が告別の言葉をのべ、同じジェネレーションの作家および詩人として佐藤春夫が告別の言葉をのべ、同じく堀口大学が、心のあふれかかろうあたりまでこもつた長い告別の詩を読み、詩人の組織として村野四郎が哀悼の言葉をのべた。虎の門病院本間日臣医師が解剖所見を報告した。式のはじまる際には、宮城まり子のひきいる合唱隊によつて磯部俶作曲の「犀川」が清潔に唱われた。会葬者の列中には金沢雨宝院住職の僧衣姿も見られた。  何日かあと、朝子、朝巳の二人は中野重治を連れて藝術院、宮内庁へ挨拶に行つた。宮内庁では、従四位、勲三等瑞宝章のことにかかつて遺族が記帳することになつている。しかし天皇は宗派的に神道を奉じている。神道では死者は穢れたものとされ、遺族が直接に記帳することを許さない。旧習がそのままになつているのであろう。人道上、また憲法との関係からも疑義が生じたが、疑義はそのままにして中野が代理人として署名した。  死後かなりの大量の「日記」が発見され、また未完の作品が残された。それらは一部雑誌などに発表され、また単行本として出版され、日記は全集に収められることになつた。三十八年(一九六三)五月には金沢市中川除町、犀川川岸の場所に「あんずよ 花着け」の碑が建てられ、三十九年三月から全十二巻別巻二冊の『室生犀星全集』(新潮社)が出ることになり、出はじめた。そしてその最後の、別巻第二の編集の頃になつて佐藤惣之助評伝の問題が解決した。  昭和三十三年(一九五八)一月号の「婦人公論」から十二回連載され、翌三十四年の第十三回毎日出版文化賞をおくられた『我が愛する詩人の伝記』は佐藤惣之助の項を削除しなければならなかつた。それは、それを収めることに対する遺族の反対にもとづいていた。しかしここまで来て、それを全集に収めることが遺族から承認されたからである。「生きたきものを」のなかで犀星は妻とみ子のことを書いている。特にその「十二 落ちてゆくところ」その他はかつて書かれなかつた類の問題にふれている。そういう妻とも、良友でも悪友でもあり、佐藤の世話なしには手のつけようもなかつたかも知れぬ萩原朔太郎の葬式を取りしきつて四日後には死ななければならなかつた詩人惣之助とも、犀星はおくれて着いたものとして談笑するわけであろう。  犀星がすべて一人で読んで選んできていた室生犀星詩人賞のことは佐藤春夫、堀口大学の二人があとを引きうけることになつた。しかし間もなく佐藤春夫が故人となつた。そこでそれは堀口大学、西脇順三郎の二人にゆだねられることになつた。 ㈼ 教師としての室生犀星  室生犀星ほど教師らしくない人はなかろうから、教師としてのというのは私にとつてのことである。室生犀星は、明治大学かどこかで俳諧か芭蕉かについて講義をしたことがあり、そのことを彼自身書いてもいるが、それを見ても、彼のおよそ教師らしくないことは全くあからさまであつて、とにかく、教師らしくない人だということについては異論があるまいと思うけれども、私自身にとつては、彼は文学上および人生観上の教師であつたし、今でもそうである。わたし一人にとつてだけでなく、「驢馬」の同人みなにとつてそうであつたろうと思う。文学の世界には、教師らしいところのある人を馬鹿にするような気風があり、私自身それを尤もにも思うが、目たたき一つして見なおしてみると、教師らしいところのある人、教師らしい人、教師以外ではないような人が決して少なくはない。そのなかで、室生犀星は、教師らしくないだけでなく、そもそも教師らしくあることのできぬ人として、そのこととしてすでにわれわれに教師であつた。  「驢馬」の人間は、今の言葉でいうと基本的に人間主義的であつた(といえると思う)。また平和主義的、非好戦的であつた(といえると思う)。  これは室生犀星によつてそうなつたというよりも、自然にそうであつたといつたわけであろう。そこに室生犀星と萩原朔太郎との一つのちがいがあつて、萩原朔太郎も室生犀星もひとしく議論をしたが——世間にたいしての議論のことでなく私たちの間だけでの議論——萩原朔太郎の方は話が論理的であり、室生犀星の方は非論理的であつた。その結果どうなつたかというと、その論理癖のためにかえつて萩原さんの方が誤りにおち、室生さんの方がしばしば正しいというようなことになつた。常にとはいえぬまでも、最初から、何か学問的な、つまり言葉の上、観念の上での論理ということを無視してかかるため、かえつてそこに学問上の、また生活上の真の論理が出てくるということがあつた。これはわれわれにとつてかなりきびしい意味でも教訓的であつたと思う。  このことは、芭蕉についての芥川龍之介と室生犀星とのそれぞれの批評にもあらわれている。室生犀星が、少年のときから発句に身を入れていたというようなことを除いても、芥川の芭蕉評と室生犀星の芭蕉評とのあいだにはいわば解釈学派と実行派とのちがいのような点があつた。このことだけについていえば、私の気づいたのは近年のことで、第二戦争になつてからのある時期に、芭蕉の散文のあらつぽさ、横紙やぶりの性格に気づいたとき偶然に気づいたので、そのとき私はノートをつくつてみたが、こういうことは誰かが正確にしらべてしまつているかも知れない。二人の芭蕉論のあいだには——その面だけで一切を割りきることはできぬけれども——芭蕉の散文のむくつけき姿と、也有の文章などのなめらかな姿とのちがいに似たものがある。そこに室生さんは触れていた。  室生犀星は発句を書き、詩を書き、批評を書き、小説を書き、焼物を見、庭をつくりなどしたが、それは、一人の人が多面的な才能を持つていて、それを縦横に発揮する、したというふうではなかつた。発句のときは発句を——あまりいい言葉ではないが——生活している。庭をつくるときは、そのことを生活している。なりふりかまわず頭からつつこんで行くというふうに見え、それが私たちに、私たちの方が若かつたから、「論理的」にも「理論的」にも私たちに批評はあつたが、結局のところ人生上教訓的であつた。  「驢馬」の同人たちはわりに傲慢であつたから——それは、『驢馬』をつくるとき、与謝野晶子のところへ『スバル』か何かを見せてもらいに行つて、与謝野晶子が挨拶に出なかつたというので、腹にすえかねて感じたというほどの世間知らずにも結びついていた。——「文壇に出る」などいうことは言葉としても使わなかつたが、そういう連中を、次第に「文壇に出す」ことについてした室生犀星の心づかいは、今になつて気づくといえば気づくようなものであつた。私たちとしては、室生さんの親切を、いい気になつて無視したこともあつたのではなかろうかと今おもう。それぞれの人間を、向かうべきところへ自然に向けるというやり方は、シーボルトが鳴滝でやつたような近代式ともちがい、師匠が弟子を導いた古風な式ともちがい、路傍の人の親切のようなあわあわとした仕方でなされていた。これは、私としては、私たちと同年配の作家たちが、彼らのいわば先生について今している言動と、彼ら(私たちと同年配の作家たち)を教師としている私たちよりも若いジェネレーションが、その師匠たちについてしている言動とに見くらべて、今ごろになつて気づくのである。われわれは寄つてたかつて室生犀星に迷惑をかけ、食いものの食い方についてまで小言を言わせ、しかもいい気になつていた点が相当にあつたと思う。彼の短歌に「途上」というのがあり、わたしのことも歌われているが、そのことをわたしは本をもらつてから初めて知り、しかしその後十六年、そのことが話にも出ず、それはそれとして、われわれの受けたすベてについて、お礼をいうというわけにも行かぬというようなのが彼のわれわれに対する対し方であつた。 (一九五〇年十一月二十日) 一九三五年のころ  二十四、五年も前のことだから正確にはおぼえていない。とにかく私は室生さんに手紙を書いて出そうと思いたつた。いきなり手紙をとなつたのではない。その前にとつおいつして考え、窪川鶴次郎にも一言相談したのだつたかとも思う。窪川は反対しなかつた。しかし積極的に賛成もしなかつた。そう思うが、窪川に相談したというのからして事実でなかつたかも知れない。そう思つたことは思つて、実地に相談はしなかつたのを、ながいうちに事実として相談したかのように思いこんできたのだつたかも知れない。とにかく、最後になつてやはり私は手紙を書いた。手紙を書く理由が、われながらあいまいな点のあるのをぼんやり承知したままで書いてそれを出した。  問題は文藝懇話会賞のことだつた。  その前の年の一九三四年に文藝懇話会ができた。その年横光利一の「紋章」ができ、室生さんの「あにいもうと」ができた。あくる三五年になつて、第一回文藝懇話会賞のときにこの「紋章」と「あにいもうと」とがえらばれた。えらばれたということが新聞などに出た。しかし室生さんがそれを受けたかどうかは新聞はまだ書いていなかつた。そこで私が、文藝懇話会賞をお受けなさらぬようにと——文句や前後はおぼえていない。——室生さんに手紙に書いたのだつた。私はふるえるような気持ちでそれを出したのだつたと覚えている。  一九三五年ごろにはいろんなことがあつた。国全体として大きな動きがどしどし進んでいた。内務省警保局が、「全国六万五千の警察の士気を鼓舞」するために、「合唱大日本警察の歌」とか「警察行進曲」とかいうものを北原白秋につくらせていた。三年前の小林多喜二の警察での死なんかはほとんど消されていた。その内務省警保局は文藝統制ということに乗りだしていた。元の警保局長の松本学が文藝懇話会というものをこさえて、小林なぞを取りのけて物故作家の慰霊祭というようなことをやつた。それから文藝懇話会賞というのをつくるということを発表した。  私自身は、そういう動きにたいして反対の意見を書いて発表していた。「紋章」は「紋章」として、「あにいもうと」については私は強い印象を受けてよんでいた。(戦後になつて映画になつたのも見たが、京マチ子の実力もよくわかつてめずらしく気持ちのいい作品だつた。)今になつてみても、「あにいもうと」は一九五〇年代の作品として十分に生きている。しかし私は、そのときそれに文藝懇話会賞がおくられるというのは何とか防ぎたかつたのだつた。  私はいろいろにして考えてみた。しかしとにかく、私は室生さんの弟子であつてまた旧「驢馬」の同人だつた。この師匠=弟子関係と「驢馬」関係とは事実であり、また事実であつたところのもの、歴史だつた。その私が、あれやこれやと七くどく反対したり皮肉をいつてきたりした当の懇話会賞が「あにいもうと」にあたえられようとする。そして賞金があたえられようとする。それを黙つているのは、何かほんとに筋の立つように話を運べる確信がないにしてもほんとうによくないだろう。それは室生さんにたいして悪い。「驢馬」の人間としての自分に対してわるい。それはほんとのところで室生さんを侮蔑することになるだろう。室生さんを不愉快にならせないで、事がらだけを筋みちたてて上手に書く自信はやはり私になかつたが私は書いた。  そして室生さんから返事がきた。  君の手紙をうけ取つた。ただ懇話会賞は受けてしまつた。賞金では何か楽器(何だつたか今私はおぼえていない。)を買つてしまつた。——そういう短い手紙がきて、私は、私の方が息苦しいような状態から救われることができたのだつた。 金沢の家  私がはじめて室生さんに会つたのは金沢でだつた。川《かわ》御《お》亭《ちん》(というのだつたか今たしかでないが)の家へ二度、川岸町の家ヘ一度おたずねしたと思う。  川御亭の家は角屋敷になつていた。四つ辻ではない。道がカギの手になつていて、それに狭い川が添うていた。金沢の川だから水は走つている。すくなくとも流れている。そこを歩いて行くとむこうから室生さんの奥さんがやつてきた。  「おりますですよ。」  そんなようなことを奥さんがいつた。つまりそのときは、だから二度目だつたにちがいない。そうでなければ、奥さんがそんなことをいうはずもなく、奥さんを奥さんとこちらで知るはずもない。室生さんの奥さんはやはり仏さまのような顔つきで、青いろの大きなショールをしていた。それは大きくて、長くて、ある厚さのある地のものだつた。  最初におたずねした時だつたと思う、室生さんが二階から下へ「中野君にチョコレートをあげてください……」というように呼んだ。するとそれが出てきたが、それは染付の背の高い茶碗に一ぱいになつてはいつてきた。それは非常にうまかつた。もとより容れもののことを気にしていたわけではなかつたが、何にしてもそれは意外だつた。  壁に佐藤春夫のすみれの詩が原稿紙のまま軸になつてかかつていた。『忘春詩集』の出たころで、見返しの絵の象の話が出ると、室生さんはひよいと立つて行つて元の本を持つてきて中をあけて見せた。象の絵のことは私が持ちだしたのだつたから、私は恐縮した。その前に私は伊藤さん(ドイツ文学の伊藤武雄さん)を訪ねたことがあつて、教室では教わらなかつたものの、伊藤さんは教授だつた、私は生徒だつた。私は生徒として訪ねたわけではなかつたが、やはり先生と生徒との関係は、すくなくとも私の方の気持ちにはあつた。伊藤さんはそのころ清新な短篇などを発表しはじめていた。そしてそのときチェーホフの話が出た。つまりいえば、私がチェーホフというものをはじめて読んで、感心して、そのことを伊藤さんに話したのだつた。すると伊藤さんは、ひよいと立つて行つて、日本訳本とドイツ訳本(そんなものを私ははじめて見たが)とを持つてきて、必ずしもチェーホフに満足できない伊藤さん自身の最近の心境を私に語つた。大戦(第一)後のヨーロッパの、とくにドイツの、表現派や何かが猛烈に動いている模様が伊藤さんには直接ひびいているのらしかつた。チェーホフのようにでなくてもつと能動的に、もつと主観そのものを押し出して……というのが伊藤さんのその時の関心事らしかつた。それはある程度私にもわかつた。わかりはしたが、私としてははじめてチェーホフにぶつかつた時だつたから、伊藤さんの立場へは私としては行けなかつた。私としては、そんなことよりも、伊藤さんが私にそんな態度で対したことに度肝をぬかれていた。一人の、まつたく文学的小僧つ子ともいえぬ小僧つ子にむかつて、全く対等に語りかけてくる、むしろ訴えてさえくる、そのことに私はおどろいたのだつた。そんなことがあつてしばらくしてからだつたから、室生さんがひよいと立つてその象の絵のある本を持つてきた時には、私は恐縮もし、何となく広いところへ出たような塩梅の気がした。つまり私は、それまでに人を訪ねるというような経験がなかつたから、先生、年上の人、先輩というものにたいして、まつたく田舎者ふうの考えを持つていたのだつたろう。伊藤さんの場合は文学論に関係していたが、室生さんの場合はそんなものに無関係にそんなふうに私にひびいたのだつた。  一九三四年の春の終りか夏はじめのころ、私は豊多摩からかえつてきてしばらくぶりに室生さんを訪ねた。奥さんにも久しぶりにお目にかかつた。御飯を御馳走になつたと思う。ところがその時に、私は酒ものまず煙草も吸わなかつた。煙草なぞは、吸いたいと思わなくなつていた。  「それや……」と奥さんがいつて、いいことかも知れぬけれども淋しいようなものだというようなことをいつた。それからまたいろいろ話がはずんで、それから奥さんが、「あんな恐ろしいことはもうお止しなさいましよ……」というようなことをいつた。これは、言葉どおりではないけれども意味はそんなことだつた。  すると室生さんがいきなりにいつた。  「要らぬこと、いうな……」  奥さんの言葉も室生さんの言葉も、両方とも私はありがたく受けとつた。あの奥さんは、恐ろしいことがきらいだというよりも恐ろしいことが恐ろしいのだつた。そういう人だつた。室生さんは理屈をいわぬ人だつた。室生さんの一言は、理屈をいえば私の責任、人がわきからかれこれいうべきでないことということにもなるのだつたが、私としては論理以前のところで、ありがたくというよりもかたじけなく耳に聞いたのだつた。 南江二郎氏と諏訪三郎氏  わたしたちは、室生さんを、室生犀星とか、犀星とか、室生さんとか、魚眠洞とかいうふうに呼んでいた。室生さんのいる席でも、いない席でも、これは同じだつた。  ある日わたしたちが室生さんのところで喋つていると、南江二郎氏がやつてきた。むろん南江氏は室生さんを訪ねてきたのだつた。南江二郎の名はわたしも知つていた。  「これが、あの南江二郎か……」と思つてわたしは南江氏を見た。  南江氏は、上等の着物をきちんと着て袴をはいていた。痩せぎすで、色白で、いかにもきれい好きらしい風だつた。この南江氏が、室生さんのことを「先生……」というのでわたしはひそかに驚いた。  別のある日、やはりわたしたちが室生さんのところで喋つていると諏訪三郎氏がやつてきた。やはり室生さんを訪ねてきたので。諏訪氏は「改造」か何かにつとめてもいたから、原稿のことできたのかも知れなかつた。むろんわたしは新進作家としての諏訪氏の名を知つていた。  「これが、あの諏訪三郎か……」と思つてわたしは諏訪氏を見た。諏訪氏は、南江氏にくらべていえばもっさりしたなりだった。そしてやはり諏訪氏が室生さんを「先生……」という言葉で呼ぶのだった。それは、雑誌の編集ということからきたとはわかったもののやはりわたしには驚きだった。  「これは、おれたちは、乱暴なのかな。ひどく無作法なのかな……」ともわたしは思ったが、わたしたちの呼び方はその後もかわらなかった。今かんがえると、わたしたちはかなり無作法だったかと思う。ただ、あの時代は、「驢馬」の連中ほどではなくとも一般にそんな風だったかとも思う。 しやつ、ももひきの類  下着といえば重ねて着るものだろう。そんならば肌着か。それもよくわからない。要するに、しやつ、ももひきの類といえばまちがいない。つまり、日本人で、和服の下にしやつを着たりももひきをはいたりする人がある——あれを私はいうのだが、どうも、室生さんは、しやつ、ももひきの類は、いつさい身につけなかつたのではないかと思う。今に至るまでそうなのかも知れない。  私は、ながいあいだ、しやつ、ももひきの類をつけないできた。むろん和服の場合のことで、洋服のときはしやつもずぼん下も着た。そうやつてきたが、五十近くなり、五十もすぎてからは、何となし時々はそんなものも身につけるようになつた。もう、素肌に袷一枚ぺろつと着て寒中いるというようなことは出来なくなつてしまつた。しかし室生さんは、どうかしたら、七十になつても素肌でいるのかも知れない。そんなことは、気をつけて見たこともないからあやふやだが、何となくそんな気がする。肉体的に強いのかも知れない。皮膚が強いのだろう。しかしあるいは、北国の育ちということも関係してるかも知れない。しやつを着てももひきをはいたんでは、外界というものがじかに来ない気がする。理窟にしていえば、外界がじかに来ないんでは、室生藝術というものは成り立たなかつたものかも知れぬとも思う。『抒情小曲集』から『愛の詩集』あたりの作品は、外界、外気が、じかに肌にぴりぴり来るのでなければ考えられぬものであるだろう。防寒ということはあるにちがいないが、防寒は防寒でも、しやつ、ももひきと下から重ねて行くのでない方式、藁布団の中へでも何でも裸でもぐるような方式というものがあると思うが、室生さんの藝術というのはそんな性質のもののように思うことがある。  いつか私は、尾崎一雄の『風報』に短い文章を書いた。「ひとり残る」という題だつたと思うが、もともと私は五人きようだいで、それがまず兄が死に、妹三人のうちの二番目が死に、それから上の妹が死に、それから下の妹が死んで、そこできようだい中で私一人が残ることになつた。残つてみればさびしいようなものだが、一人子という場合もあるのだから苦情もいえない。最後の妹の死んで間もなくで、四人の死に方なんかをずつと書いたものだつたが、原稿紙で五枚かそこらのものだつたと思う。五枚くらいのものとしては、私としては割りによく書けたと思つていた。  それからしばらくして室生さんに会つた。何かの会だつたかも知れない。室生犀星詩人賞の席でだつたかも知れない。室生さんが私をとらえて、例の調子で行きなりにこんなふうにいつた。  「君やア、なんであれ五十枚に書かんのかい、『ひとり残る』……」  はじめ何のことかわからなかつた私も、そこまで聞いてそれはわかつた。よくよくわかつたといつていい。私は、そうだつたなア……と思つた。しまつたなア……とも思つた。五十枚くらいに書いたらちようどよかつたろうし、それくらいに書くべきものでもあつたのだつた。  われわれ「驢馬」の連中が、どんな因縁で室生犀星のまわりにいるようになつたかは結局は偶然であるだろう。ただ、今になつて思つてみると、私なら私が、文学をやろうとして誰かのそばへ寄つて行つたとする。あの頃は芥川龍之介とか佐藤春夫とかいう人がいた。まだまだいた。しかし自分の性質、たちということを考えて見ると、私が室生さんのそばへ寄つて行つたということは偶然だけでもなかつたらしく見えてくる。何かそこに必然(といつては大袈裟になるが)のようなものがあつた気もして来ぬではない。そんな必然が必然らしくなつて行つたことさえ偶然ではあつたが。偶然でも必然でもかまわない。私にとつてそれは仕合せなことだつた。結婚などと同じように、そういうことは結局あることだと思う。 (十月五日) 犀星 室生さんの死  今さら返らない。かねて積つていたことでもある。病気としていえば、この癌というのは全く愉快でない。  家族もまわりも、癌ということは室生さんにかくしてきた。かくしおおせたかとも思う。室生さんには度はずれたところがあつて、本人はほんとうに、癌とは考えずにしまつたかも知れない。しかしそこはわからない。私として自信はない。徳永直も外村繁も癌を知つていた。内田巌はあきらかに知つていた。村雲大樸子はだまされた顔をして知つていた。青野季吉はどうだつたか。これはわからない。それに似た感じが室生さんの場合だつたとも思う。  ただ室生さんは、癌のことを小説に書いていた。かくしている細君を、亭主が問いつめて白状させる。そして癌ということを知つて、知つたあとの段階、夫婦がそれまでに知らなかつた愛情の新規な段階で男は死ぬる。それを書いているのだから、本人が意識したかしなかつたかいつそうあいまいであり、また第一、そういう作者にわれわれとしてかくしておいていいかということがあつたが、夫婦ならば格別、それ以外にいえるものではない。今のところ、医者本人も一般にかくしておくのを私は人間的に思つている。  これは奥さんが存命だつたらこう行かなかつたかも知れない。奥さんは脳卒中をやつて、不自由なからだで二十年生きていた。そして室生さんに先立つた。野間賞を受けたとき室生さんは『とみ子発句集』をつくつた。 にんじんの葉さきけむれる月夜かな  こんな句がその中にあるが、それだからというのでなくて、あの仏様のようなとみ子夫人ならば、あるいは、そう行かなかつたかとも思う。むろんわからぬことである。  これで「感情」の人は多田不二さんを残すだけになつだ。四国の多田さんはさびしいだろうと思う。一方に北原白秋、それから六、七人の人びと、何よりも萩原朔太郎との結びつき、あの人びとの仕事は壮烈だつた。現にも壮烈である。  それにしても、犀星室生さんと朔太郎萩原さんとの出会いは世にいみじいものだつた。理屈にも何にも合つたものでなくいみじい。よくもあんなことが生じたものと思う。そしてつまるところ、室生犀星は男らしい男だつた。七十二になつて肺癌になり、死の直前まで書き、病床最後の一、二時間のたたかいも壮烈をきわめた。お医者さんは解剖したいといい、子供たちはそれを承知した。その結果からもわれわれとして何かを知りたい。 「驢馬」の時分  「驢馬」時分の室生犀星を問われても答える術がない。覚えていることがいろいろにありはするが、さて書こうとなると一向に取りとめもない。旧「驢馬」の連中が集まつて話しあいでもすればたくさん出てくるにちがいないが、私一人で今考えると何もかもがぼんやりする。三十五、六年も前のことだからでもある。大体あのころは、私一個としていえば、何となくぼんやりして日を送つていたのだろうと思う。ぼんやりとはいつても、一方そのままで昂奮していたのでもあつたが、全体としてはやはりぼんやりしていたらしいというほかいいようもない。したがつて、あの時分の室生犀星となれば一そうぼんやりしてしまう。  とにかく、私たちに「驢馬」が何かだつたことは確かだつた。年齢の上の時期、文学とか学問とかいうものに近づいて行くコースの上での時期ということからいつて、何かだつた以上に貴重な何かだつたといつても誇張にはなるまいと思う。しかしそれが室生さんにとつても何かだつたか、何かだつたとは思うがどんなものだつたかはいいにくい。私たちはこれからというところだつた。このこれからには実体がない。可能性といつてもまるで主観的なものだつた。しかし室生犀星は出来あがつていた。最後的な出来あがりではむろんなかつたが、それまでにある仕事をしている人として私たちの前にいた。またそうでなければ、私たちがそこへ出かけて行つたはずもない。年でいつても、私たちは二十四から二十一くらいのところ、室生犀星は三十六から七というところだつた。  しかし「驢馬」が、また「驢馬」の時期が、室生犀星にとつても何かではあつたこと、貴重な何かだつたかはわからぬにしろ、いくらか貴重でなくもない何かだつたことは私たちは信じている。この信じているのも主観的なものに過ぎない。しかしそれを裏づける何かはどこかにはあると思う。「『驢馬』の人達」という文章などもその一つと見られぬことはない。その結びはこうなつている。  「滑稽な事には私は朝剃る顔剃りを夕方に剃り、朝の寝込みに引張つてゆかれても顔だけはよごれてゐないようにしてゐたかつたし、何となく手拭歯ブラシの包みも、湯殿ですぐ手につかめるやうな位置に置いてゐた。夜明けがたの外の物音に気をつかひ、庭箒の吊りはりがねの鳴る音が、サアベルの軋む音のやうに聴えた。冷笑を含む少しばかりの濃い不安は続いたが、その二十年間にただの一度も私は踏みこまれなかつた。私はそれを不思議にさへ考え出したが、私の友達は私の名前を警察では誰も口にしなかつたのだ、ちよつとでも口にしたら者共は私を調べたであらうが、私の口の固い友達は誰も文学の仲間であつたことは、黙つて話さなかつたのであらう。西沢は八年、宮木は六年といふ恐ろしい歳月を獄中でむだにした。西沢は獄中で詩を書き『編がさ』一巻を抱いて出て来たが、昔からの藪から棒の紳士は依然たる藪から棒の紳士であつた。追分村に病んでゐる堀辰雄を訪ねて行き、半鐘櫓の下に雲のやうに立つて彼は呶《ど》鳴《な》つて呼び続けた。『堀辰雄の家は何処だ、堀辰雄の家の者は出て来い。』その声は百軒くらゐしかない村の家々にいんいんとしてひびいた。」  これのどこがそれかといわれると私は今は困る。しかしとにかく、「驢馬」の時期が室生犀星にとつて何ものでもなかつたとすれば、こうは書かれなかつたろうと思うとだけは言つていいだろうと思う。  堀辰雄の葬式のとき、旧「驢馬」同人は窪川鶴次郎に世話を割りあてて花を持つて行つた。窪川はどこかの薔薇園へ交渉してなかなか悪くない薔薇の花束を調達してきた。それを私たちは、花屋から届けさせないで自分で車で増上寺へ運んだ。  花はほかの立派な花にまじつて供えられた。すると室生さんがやつてきた。  「僕も、入れておいてくれんかね……」  それは「旧驢馬同人」のなかへ入れておいてくれろということだつた。むろん私たちは承知した。不謹慎な言葉をつかつてはならないが、私たちはある感動をもつてそれを承知したのだつたといつていい。もとより室生犀星は「驢馬」同人の一人だつた。それはそういう形になつていた。しかし室生犀星は文学青年ではなかつたから、私たちはこの同人をある程度別あつかいにしていた。私たちはいわば純粋の同人であり、室生犀星はいわば客員としての同人というのがあの時分の私たちの間での通念だつた。しかし今室生犀星は、薔薇の花に関してと限定するにしろそういつて要求してきたのだつた。  これも、これのどこが、「驢馬」の時期が室生犀星に何かだつたことの証拠なのかと開きなおられては私は困る。説明できることのようには思うが今は面倒くさい。  あるいは、「驢馬」の時分に私たちが室生犀星から学んだものは、このこと、あの点といつたことではなくて、漠然とした態度ということだつたといつてしまつてもいいと思う。「驢馬」の人間はそれぞれに持ち前を異にしていた。かりに「指導」という、室生犀星におよそ似つかわしくない言葉をつかうとすれば、室生犀星の指導はそれぞれの人間に対してなされていた。それぞれ、個別に具体的にといつてもいい。そしてそれは、多分誰の場合にも説明を伴わぬものだつたといつていいと思う。  こういえば面倒に聞えるかも知れぬけれど、つまり私たちは、しよつちゆう勝手に室生犀星のところへ行きながら、大抵はとりとめのないことを喋るだけで文学そのものの話などはあまりしなかつたものだつた。評判の誰かの小説の話などが出たにしろ、面白かつたか面白くなかつたか一と口ですんでしまう。これこれだからこれこれだというようなことは誰もいわない。室生犀星はむろんいわない。私たち同人だけの時はずいぶん勝手な理窟をこねたが、室生さんとの間では殆ど絶対にそれがなかつたろうと思う。あるとき私が真似をして発句を二つ三つ作つてみた。生れてはじめてのことだつたからおかしなものだつたにはちがいない。しかし私はふざけていたのではないので、それを紙に書いて室生さんに送つておいた。それからしばらくして室生さんのところへ行くと、窪川その他もいつしよだつたと思うが、「何じやい、あれやァ……」と私にいつただけだつた。それから別のあるとき、私は詩が出来たので五つか六つ書いてやはり室生さんに送つておいた。これは手紙で返事が来た。しるしをつけたところを再考したらと思うというようなことが二、三行書いてあつて、原稿の方に墨でぼちぼち点が打つてあつた。うろ覚えでいえば、私の詩百行について五、六カ所も傍点があつたろうか。  ただある時、室生犀星がこういう言葉をつかつた。  「新しい人はシソウも新しくなけれやァね……」  私が呑みこめぬ顔をしたのだつたかも知れない。追いかけて、「詩の想だ……」と室生さんがいつて私にもよくわかつた。これくらいが、私の知つているもつとも理窟ばつた室生犀星のいい方だつたと思う。  しかしこう書きながら、これではあまりに取りとめがないという気もする。ほんとに取りとめがない。いつたいあんなに何をお喋りしたのだつたろうか。  文壇の話というようなものが出なかつたわけではない。しかし室生犀星はあまりしなかつたように思う。話すとすれば何か事がらを話す。説明はない。評価ということがあるとすれば、「えらいもんじやなァ……」とか、その反対とかいつた一言で尽きた。自分のこともあまり話さない。「感情」のときはこうだつたとかいつた話は出たことがなかつた。野口米次郎かの会で、誰かが、萩原朔太郎に食つてかかつたところ、はなれた席にいていきさつの呑みこめなかつた室生犀星が、「萩原に文句があるのならおれが相手になろう……」といつて椅子を振りあげたという話が新聞か雑誌に出たことがあつたが、後日萩原さんからは聞いたものの、当の室生さんからは一言もそんなことについて聞かなかつた。与謝野晶子の五十の誕生祝いがあつて、萩原さんがその日の晶子がいかに立派だつたか私たちに話したことがあつたか、萩原さんは、その日の彼女にはタテガミがあるかのようだつたというふうにいつたものだつた。萩原朔太郎はそういうふうにいい、室生犀星は一般にしやべらなかつたが、しやべるにしてもそういうふうにはいわなかつた。ここもやはり説明はむずかしい。室生犀星の場合は、論理的でなく、抽象的象徴的でなく、また文学的でなかつたといつてもいい。それ以前のところで即物的だつた。芥川龍之介の文章に、汽車でいつしよに走つていて妙義山を見るところがあるが、そのとき犀星さんが、妙義山をショウガみたようだというところがある。このショウガは、論理でも象徴でもなくてショウガそのものというわけだつただろう。芥川龍之介と二人で湯にはいつた話が出たことがある。二人がからだを比べた。わざわざ比べたのではなかつたと思う。そのとき犀星が、からだのある部分について芥川の方が長大だつたといつて、「しかし、僕の方が敏捷らしかつたよ……」といつて一座大笑いをした。大人しい堀もいて大笑いをしたが、これも、比喩でもおかしくするいい方でもなくてそのままの話だつた。エロチックな話なども出たがすべて男性的だつた。あけすけな言葉をつかうが、いわゆる猥談というものにならない。そういうすべてが私たちに影響しただろうと思う。  癇癪もちという噂をきいたこともあつたが、その時期を通過していたせいもあつてか、「驢馬」ではついぞそんな場面に出くわさなかつた。むしろ我慢強かつたかも知れないと思う。これは、「驢馬」の連中がずいぶん乱暴な勝手をはたらいたことから、今かえりみてそう思う。最初の子供が男の子で室生さんは豹太郎と名をつけた。そこへ佐藤惣之助がやつてきて、「子供の名は何とつけた」と訊いた。「豹太郎とつけた。」「豹太郎……おかしな名だな。」「何がおかしい……」いうなり犀星が煮えている鉄瓶を惣之助に投げつけた——そんな話を私は北村喜八から聞いたことがあつたが、話に誇張があつたかなかつたかは知らず、『忘春詩集』を経たあとの「驢馬」の時期はずいぶん変つてきていた。前の時期を私などは直接に知らぬのだから、変つてきていたといつては言いすぎになるが今ここでそう思う。  萩原朔太郎の方は理窟好きで、論理癖、理論癖といつたものがあつたから二人の取合わせは面白かつた。あるとき何人かで、そのへんを歩いて酒などを飲んでお喋りをした。それからもう帰ろうということになつて帰つてきたが、どこか横丁のようなところへかかると、萩原さんが室生さんを「室生君……」といつて呼びとめた。そして何だか一と口か二た口ほどぼそぼそといつた。「何じやい……」といつて室生さんがふところから財布を出して、札を一枚萩原さんに渡した。萩原さんは、私たちの方へもちよつと間の悪そうな笑いを見せてひよろひよろつと横丁へ折れて行つた。(萩原さんという人は、人が馬鹿笑いになるところでもいつでも恥しそうに笑う人だつたと思う。)これが根拠にはならないが、室生さんという人は世話を親切にする人だつた。何がどうという記憶はない。何かちよつとしたことで、これはこうしろというようなことを私たちにいつてくれた。私にも、あるとき詩集を出さないか、「椎の木社」がそんなことをいつていたから、出してもいいと思つたら白山の「椎の木社」へ行つて見ろ、条件はそつちで話しあえというようにいつてくれた。私は行つて話したが、ろくな仕事もしていないままへんに子供つぽく傲慢だつたため話は不調に終つた。結果は報告したが、別に室生さんは何ともいわなかつた。「驢馬」の時期より大分おくれるが、宮木喜久雄が刑務所から出てきた時などは、室生さんは就職口のことまで心配してくれたようだつた。ちやんと調べて、自分で交渉して給料の額もたしかめ、これこれの額でよかつたら勤めてみないかというふうに宮木に出してくれていた。すベてこの調子だつたから、世話をやかれても、ある点からさきはこつちの責任で決めるようになり、うまく行つても何から何まで恩に着なくてもよく、うまく行かなくてもそれまでの話という運びになつている。  ただあの頃のことを考えると、田端へんの町の空気が今よりは澄んでいたなと思う。物質的に澄んでいた。物の音といつたものも少なく、また低かつた。萩原朔太郎はある日バスに轢かれかけたが、これは特別のことで、私たちがぶらついていて自動車にひつかけられる恐れはまずなかつた。何で「驢馬」の連中が室生さんのところへ行くようになつたか、何でそもそも室生犀星というものに親近感を感じるようになつたか、これはいろいろと偶然が重なつた末のことでもあつたろうが、今考えても、私たちとしていえばよかつたと思う。私たちの年齢ということもあつたが、三十六、七歳ころの室生さんを知ることができたということがよかつた。室生犀星を知つた若い文学世代はいくつもあつたが、少なくともある一面では、あの時期の室生犀星を知つたということで「驢馬」の連中はトクをしたように思えて感謝する。 (四月九日) 犀星観を問われて  犀星観はあるがままの、あつたがままの犀星に即しなければならない。私はいろいろの人の書いたものを読んだ。室生犀星生前のもの、死後のもの。その大概は、そのまま私のものでもあつた。といつても、ただし書きは要る。森茉莉のものなどは、私はことごとく、あるいは十のうち八つ九つも賛成したけれども、それは通俗にいつてその中身に関していた。彼女の手ではじめて表現された藝術としての意見、それは私のものではなかつた。そこまで私のものだといえばそれは盗みになるだろう。私のレンズにも、いわれて見ればそんな影の射したことはあつた。ただ私は迂《う》闊《かつ》に見すごしてきた。見すごさなかつたまでも、それについて思うことが浅かつた。そしていわれてみて気づき、そして元からのような気になつて賛成する。話になつたものではない。  一方私は、室生犀星の全貌を知つているような気がしてきていた。これは、長いあいだに知らずしらずそうなつていた。しかしそれは誤つていた。通夜のときにラジオが鳴つてきて、三—四人の人の追憶談をきき、「女ひと」の一節の朗読をきき、それから犀星作詞という長唄(?)の演奏をきいて感心したが、文句はよくわからなかつたのだから、これは三味線作曲者の方の力からだつたかも知れぬとしても、とにかく算術的にいつて、室生犀星にこういう仕事のあつたことを私はてんで知らずにいたのだつた。そういうことがほかにもたくさんあり、作品にも読んでいないものがある。わが犀星観となれば、いつかは書けるにちがいないが今は早すぎる。  こういうこともある。最近の『室生犀星全詩集』、あのなかで作者が作品に手を入れた。あの入れ方が私によく呑みこめぬといつたことがある。これなどは、山本健吉が理解を見せてよく説明していた。庭をつくつてはこわし、苔を植えてはむしつていた生きる上での態度に結びつけて書いていたが、それはわかるものの、もとの詩と、手を入れたあとの詩と、二つを詩として比べてどうなるか。手を入れるということは、よくする、修正するということだから、作者自身には、手を入れたあとの方のがよくなつて見えたにちがいない。私には、しばしば逆に見える。そこの、あとの方のがよく見えたという心理、そこへの移りゆきをどう心得たらいいか。これは、与謝野晶子にもあつた。蒲原有明にもあつた。斎藤茂吉にもあり、外国人、たとえばゴーリキーなどにもあつた。これは、動揺か、衰弱か、それともある高いところ、あるはるかな地点を目ざしての階段の中途、そういう特殊な精進の姿なのか。それを見る視点がまだ決まらぬのだから、このままで「観」をうんぬんしては話がおこがましくなつてしまう。  たとえば「室生犀星氏」のなかで、「脳はくさりてときならぬ牡丹をつづり」が、「脳はつかれてときならぬ牡丹をつづり」となつた。私は賛成しない。「うつとりとうつくしく」が、「うつとりとけなげに」となつた。私は賛成しない。「つねにつねにただひとり/謹慎無二の坂の上/くだらむとするわれなり」が、「つねにつねにただひとり/坂をくだらむとするわれなり」となつた。私は、「謹慎無二……」がいやになつた気持ちがわからぬではないが、賛成か反対かとなれば賛成しない。それから、「ときにあしたより/とほくみやこのはてをさまよひ/ただひとりうつとりと/いき絶えむことを専念す」は削つてしまつた。私は必ずしも反対しない。ただ結びの、「哀しみ深甚にして坐られず/たちまちにしてかんげきす」が、「哀しみ深甚にして坐られず/たちまちにして街をさまよふ」になつたのにはついて行くことができない。「たちまちにしてかんげきす」は、馬鹿げているといえば馬鹿げている。しかしそこを詩にしたのだつたから、また私たちはそこを愛誦してきたのだつたから、「たちまちにして街をさまよふ」では、何ともすかされた気になつてしまう。むろん作者に、愛誦者のところで足踏みしていろということはできない。ただこのへんが、私にまだよく呑みこめぬというのに過ぎない。「人家の岸辺」でも、はじめ行つて帰る運動があつたのに、こつちから向う岸へ行くだけになつてしまつた。私は、反対というのではないが、今のところ賛成しかねる。これは小説の方にもあつて、全体として何をいうということも出来ないが、ずつと前に、日夏耿之介のいつたことは変つてくるだろうと思う。三十年以上もむかしのことになるが、そのとき日夏はこういつていた。  「文字が少し読めて議論仆れをした省吾よりも、勇敢で粗雑であつた福田よりも、無学で俗才もあり、己が特色『その官能主義とその抒情主義と』を後生大事に守つてともかくもやがて一種の小心境に到達した室生は民主詩壇凡愚列伝中での立志伝的小人物といふべきである。」  むろん『忘春詩集』あたりでの話だつたが、この「無学で俗才もあり」を、さつきの「室生犀星氏」のなかの、「たとへばひとなみの生活をおくらむと/なみかぜ荒きかなたを歩むなり」に結びつけて考えることもできる。生きることの哲学、生活者ということの問題は、「たとへばひとなみの生活をおくらむと」という、まつたくの世俗的な問題をはじめて近代詩の高みにもちあげた原動力でもあつた。四十年ほど前、文学少年相手の雑誌に佐藤春夫の話が出ていて私は読んだ。この佐藤は、毎日のように谷崎潤一郎に会つている。会えば初めからしまいまで藝術の話ばかりしている。しかし時たまには室生犀星を訪ねて行つて、そういう時は「しみじみ生活のことを」話したりなどする、うんぬん。それは少年の私に半分がたしかわからなかつた。つまりあと半分はわかりもするといつた話だつた。俗にいつて室生犀星は無学だつただろう。しかし彼は、ありもしない百円のために手のなかの一円を無駄にすることがなかつた。まして一円は握つたまま、ふらふらとよそへ行つてルンペン風に人にたかるということがなかつた。藝術の問題としてである。「哀猿記」といつた作はそのへんの事情と結びついている。芭蕉を論じて芥川龍之介の先きへ出て行つたことなぞもそこに関係がある。立志伝中の一人物ということは、世俗的にでなくて藝術的なものとして私たちの前にあるように思う。 茶と菓子  室生犀星は胃潰瘍をやつたことがある。いつだつたかはしらべてわかるはずだ。そのころのある目、病気がよくなつてからだつたが、茶を飲むとき茶だけ飲まぬようにしろと彼が私にいつた。  奥さんもそばから言う。  「お茶は極上のでしよう。お菓子は金沢のでしよう。ほんとに……」  つまり、室生犀星のような茶ののみ方をしていれば胃潰瘍になるのにきまつている……  私も、それはそうだろう、そうかも知れぬと思つて自分の茶ののみ方のことをふり返つた。私はただ飲む。犀星のような上等の茶は飲まない。菓子も口にしない。ただ朝の起きぬけにのむ。酒盃のような小さい茶碗でなくて大振りので飲む。二はいも飲むと吐気のようなものが上つてくる。それでも飲む。いつか、これも茶好きの橋本英吉のところでこの話が出て、彼もやはり、吐気がくるのだが飲まずにいられぬのだといつて苦笑いした。  「君……」と犀星がいう、「がぶのみは駄目だよ。そのとき、煎餅を一枚噛むんだ。ビスケット二枚でもいいな。何か軽いものを、ちよつとつまむんだ……」  私は、今でもがぶ飲みしているが、ときどき思い出して犀星教訓にしたがつている。これはいいようだ。  ある時期室生犀星は酒を飲んだ。ある時期から以後それをやめた。そこで、室生家で飯を御馳走になる段になると、私の膳に酒が二本ほどつく。そうしてあるとき、やはり酒の話が出た。私が、このごろはどうかすると、冬のさなかのことだつたが、朝はやく起きて、台所へ行つて、冷やでコップ一つきゆうと飲むんだと話した。それがうまい。  「ふうむ。君もいよいよ……」といつたが犀星は別に訓戒はしなかつた。今は私はそんなことはしない。  室生犀星は上等の炭をつかつていた。見るからに上等の品だつた。ある冬の日のこと——  「君、火をおこすには、こうやつて火種を上へのせるんだ。」  犀星はそれをしてみせて、自分で火をおこしてくれたが、これは私も知つていたものの、何となく室生犀星に教わつたという気が今でもしている。  あるとき、田端時代だつたかも知れない、大森も今の馬込東へ来ない前の、石段の下の、庭にトクサを植えていた家の時分だつたかも知れない、酒場で酒をのむときの話が出て、近松秋江の話が出た。  「近松秋江のやつは、こうやつて、君、女の着物の膝を、手の平で撫でるんだ。あのやつ……」  犀星は、その秋江の仕草を、冒涜的な、許すべからざることのようにして言つた。彼は秋江を非難しなかつた。しかし、そんなことがなされるのに堪えられぬかのごとくだつた。  室生犀星はかならずしもどぎつい表現を避けなかつた。萩原朔太郎となると、そこがとうてい駄目だつたように思う。だいいちそんな言葉を知らない。頭に思いうかんだにしても、とても口に出すことはできない。——ばかりか、そんなものが自分の頭に思いうかんだことにすでに堪えられぬかのようだつた。  室生犀星はあるときドイツへ行くことを思い立つた。多田不二といつしよにというのだつたかも知れない。これも、しらべればわかるはずだ。それにしても、何で、セント・ペテルスブルグでなくてドイツを思い立つたのか、聞いてみたいと思つていて忘れきりでしまつた。ドイツ——といつてどこを考えていたのだつたろう。ベルリン、そんなはずはない。ワイマール——そんなはずもない。はずもないという証拠はないが、室生犀星は、ただドイツ——と、そう考えて思い立つたんではなかつたろうか。  室生犀星は人にたいして親切だつた。いつまでも親切だつたと思う。いろいろと人の世話をした。ほとんど自分にかくれるようにして彼はそれをしたと思う。自分にさえかくれるようにしてだつたから、他人の私に確かにはわからない。けれども、それはそうだつたにちがいないと今も思う。あるとき私に、『新潮』に原稿を書いて持つて行けといつた。  「中村ブラフは、あんな男だけれど、彼は正義派だからね……」  それを犀星は、若造の私に、ほとんど遠慮がちな言い方でいつた。馬鹿な私はしたがわなかつた。恥かしくなる。 ㈽ 母乳のごときもの  やはりそれはどうしても求められる。  人工栄養ということがどれほど大事だつたにしろ、人工栄養ということなしには、どれだけの子供が、いい子供、ちやんとした人間になるはずのところをみすみす水《みず》児のうちに失われねばならなかつたにしろ、それでもそれは母乳をはなれることができない。それはその発達の道でたえず母乳をふりかえる。文学においてもことはかわらない。  あまりにひどい文学の普及、目まいするほどたくさんの人が読み、書いている中で、そうであるほど、われわれはもう一度母乳へたちかえる必要がある。人工以前を味としてなめ返す必要がある。若い人だけのことではない。皺ばんだ中年の人間が、女も、もう一度あれを飲んで、彼らの舌がどれだけ荒れたかを舌ざわりで知る必要がある。室生犀星の文学は、そういう教育上の意味をさえ今日もつだろう。 室生犀星ベスト・スリー  前説を入れておきたい。室生犀星という人は「ベスト・スリー」という名の似あわぬ人だということだ。「室生犀星のベスト・スリー」……犀星読者のなかには、「室生犀星ベスト・スリー」というこの言葉だけで鼻に皺をよせる人がいるだろうと思う。それがつまり、室生犀星の文学にかぎらずすべて文学を読むということの本体でもあるのだが。  そこで第一は詩だ。たくさんの詩集の中でどれをえらぶか。詩一編一編でえらぶことはできないから詩集でえらぶ。私は『抒情小曲集』、それに二つの『愛の詩集』、つまり『愛の詩集』と『第二愛の詩集』とをえらぶ。これだけで三つだ。『忘春詩集』その他をはぶくのはとんでもない片手おちになるが、仕方がない。『抒情小曲集』、『愛の詩集』、『第二愛の詩集』、この三つを人という人が読むのがいい。人がものごころつきそめるということの意味がこの『抒情小曲集』にある。それは本当にわかわかしい。それは幼いということではない。汚れを知らぬもの、そのため全く無骨にもつとも繊細なものにまで直接とどいてしまうもの、そういう境地がそこに結晶している。その結晶が音楽になつている。そこから青年期がはじまる。この青年期は人の生涯を決定する。このときうじやじやけてしまえば人間がそれきりになる。そこを、乱暴をしようが、上べの見えはどうあろうが、しよげこむ場合にもまつすぐに思い屈して行く姿、それが二つの『愛の詩集』の中身だ。青葉のように素直に、青葉のように憂鬱に——ここを通ることは人間の生涯の問題として一番大切だと思う。つぎは小説だ。  小説では何をえらぶか。これは作品集でえらぶわけにはいかない。  まず初期のものからは「性に眼覚める頃」だ。それに「或る少女の死まで」をえらぶ。これは、詩の方でいえば『抒情小曲集』から『愛の詩集』へかけてのものだ。小説作家として出発したばかりという作家としての初々しさが、人生そのものを、生活ずれ、文学ずれ全くなしにとらえているところがどこまでも心に残る。これを読めば、日本の青少年と文学とから何が失なわれたかが読者にわかる。とともに、それが失なわれきつてはいない、まだある、自分らの中に確かにあるということがありありとわかるといつた性質のものだ。  第二期のものとしては「あにいもうと」、「続あにいもうと」、それから「私の『白い牙』」がある。人が青年から壮年へはいつていつて、そこで壮年にふさわしい戦闘態度ができて行くのにまじつて、どうにも仕様のないような人生的混迷を感じてくるところ、そこをどうしてでも突きぬけて生きものとして生きて行かねばならぬところがそこにある。最近『新潮』だつたかにのつた短篇、わかい青年がろくでもない女で童貞から別れ、しかしその女が母性的なものに受け取られてくる(そこのところが感覚的であつて同時にいわば抽象的なのだが)物語なども、これは第二期ではないがそこへつないでみていいと思う。  つぎは評論、随筆の類だ。これはどうしても取りのぞくわけにいかない。しかしえらぶのは小説など以上に困難だ。そこで、いくらか乱暴に私は「芭蕉論」と「川魚の記」とをえらぶ。室生犀星は学者ではない。研究者というものでもないだろう。どつちかといえばしかし研究者だ。それが「芭蕉論」を私などにも親しいものにしている。「川魚の記」、これは故郷金沢の川の魚の話だ。泳いでいる魚を見るのが好きな人、魚を煮たり焼いたりして食うのの好きな人は読むべし。 忘れえぬ書物 ——室生犀星『愛の詩集』——  はじめて『愛の詩集』を手にとつて読んだのがいつのことだつたか私はもうおぼえていない。著者の序文は一九一七年すえに書かれているから、私が手に入れて読んだのは一九一九年ごろだつたかもしれない。一九一八年には『抒情小曲集』が出ている。たぶん私は両方を並行して読んだだろうと思う。  しかしとにかく、『愛の詩集』の方を私はさきに読んだ。そうして、行きなりにはわからぬ作品がおおく、くり返して読んでもわかりかねる作品がすくなくなかつたが、わかる作品は行きなりにわかつてそれが私にはたのしかつた。そしてそのたのしさが、私にとつて初めて経験するたのしさだつただけにその珍しさをよく覚えている。それはこういう珍しさだつた。  たとえばそこに「朝の歌」というのがあつてこう書いてあつた。 こどものやうな美しい気がして けさは朝はやくおきて出た 日はうらうらと若い木木のあたまに すがらしい光をみなぎらしてゐた こどもらは喜ばしい朝のうたをうたつてゐた その澄んだこゑは おれの静かな心にしみ込んで来た おお 何といふ美しい朝であらう 何といふ幸《しや》福《はせ》を予感せられる朝であらう  これがほんとによく私にわかつた。わかつたというよりも、わかつたように自分で思えた。それは、大したことというのでは決してなかつた。非常に熱烈な、もえるような何かというのではない。日常生活のなかの、普通の、何でもないことだつたが、その何でもないことが、はじめて経験することのようにこういう言葉で自分にわかつてくる。それまでに私は、こういう詩はよんだことがなかつた。文学の上で、私は、ひどくオクテだつたのだろう。朝の清潔な空気、子供らのうた声ということが、こういう詩の行でほんとうにはじめてのようによくわかつた。すぐそのつぎには「夕の歌」というのがあつたが、「朝の歌」からここへくると一そうよくこの詩がわかつた。わかるように思つた。 人人はまた寂しい夕を迎へた 人人の胸に温良な祈りが湧いた なぜこのやうに夕のおとづれとともに 自分の寂しい心を連れて その道づれとともに永い間 休みなく歩まなければならないだらうか けふはきのふのやうに 変ることなく うつりもせず 悲《かな》哀《しみ》は悲《かな》哀《しみ》のままの姿で またあすへめぐりゆくのであらうか かの高い屋根や立木の上に けふも太陽は昇つて又沈みかけてゐた それがそのままに人人の胸にのこつた 人人はよるの茶卓の上で 深い思索に沈んでゐた  最後の二行などはいくらかわかりにくかつたが、「なぜこのやうに夕のおとづれとともに」という行、「かの高い屋根や立木の上に」という行などは実によくわかつた。わかつたように思つた。それは、わかることで気もちがいいという一種のわかり方だつた。そこに「故郷にて冬を送る」という詩もあつた。 ある日とうどう冬が来た たしかに来た 鳴りひびいて 海鳴りはひる間も空をあるいてゐた 自分はからだに力を感じた 息をこらして あらしや あらしの力や 自分の生命にみち亙つてゆく あらい動乱を感じてゐた 木は根をくみ合せた おちばは空に舞うた 冬の意識はしんとした一時《とき》にも現はれた 自分は目をあげて 悲しさうな街区を眺めてゐた 磧には一面に水が鋭く走つてゐた  作者は加賀金沢の人だつたが、私はとなりの越前育ちだつたからこれは実によくわかつた。息をこらして——あらしや——あらしの力や——自分の生命にみち亙つてゆく——あらい動乱を感じてゐた——と来て、そこへ、「木は根をくみ合せた」とくるところが実によくわかるように思つた。「木は根をくみ合せた」——こういう言葉が、詩の言葉として、これほど、目に見えるように、皮膚で感じられるように、読んでいる自分の両手が指のところでくみあわさつてくる感じでわかつたということはそれまでの私に経験としてなかつたことだつた。それは、友情とか、恋愛とか、熱烈な愛国心とかいつたものとは別のものだつた。それは「自然」を歌つていたが、山はむらさき色で水は透明だとか、富士山頂の雪が美しいとか、桜の花、梅の花がどうだとかいう自然観とも全くの別ものだつた。冬の到来を前にして、葉のすつかりなくなつた樹木が、地面の下で根をくみあわせる——それがほんとにあたらしく私にわかつてくるようだつた。  しかし私は青年期にかかつていたから、異性ということはオクテの少年にも大きな関心になりつつあつた。私は田舎ものだつたから、一人の女性の友人も私は持つていなかつた。まわりを見まわしてみても、そういう友人はあまりいないようだつた。私たちのあこがれ心は、それだけ強く、また汚れずに清潔だつた。そしてそこに、「永遠にやつて来ない女性」という作品があつたのだつた。 秋らしい風の吹く日 柿の木のかげのする庭にむかひ 水のやうに澄んだそらを眺め わたしは机にむかふ そして時時たのしく庭を眺め しをれたあさがほを眺め 立派な芙蓉の花を讃めたたヘ しづかに君を待つ気がする うつくしい微笑をたたへて 鳩のやうな君を待つのだ 柿の木のかげは移つて しつとりした日ぐれになる 自分は灯をつけて また机に向ふ 夜はいく晩となく まことにかうかうたる月夜である おれはこの庭を玉のやうに掃ききよめ 玉のやうな花を愛し ちひさな笛のやうなむしをたたへ 歩いては考へ 考へてはそらを眺め そしてまた一つの塵をも残さず おお 掃ききよめ きよい孤独の中に住んで 永遠にやつて来ない君を待つ うれしさうに 姿は寂しく 身と心とにしみこんで けふも君をまちまうけてゐるのだ ああ それをくりかへす終生に いつかはしらず祝福あれ いつかはしらずまことの恵あれ まことの人のおとづれのあれ  ほんとに私は、こういう詩を、どれだけ声に出して朗読したか知れない。それはそのときの私として、目でよむだけではすませなかつた。どうしても声に出して読まなければならなかつた。声に出して読んで行くと、心があるプロセスのなかで洗われるがようで、ほんとになぐさめられる気がした。それは、自分は自分でよくなり、しかし他人を決して傷つけぬ種類のものだつた。  『抒情小曲集』の方には、 街かどにかかりしとき 坂の上にらんらんと日は落ちつつあり 円形のリズムはさかんなる廻転にうちつれ 樹は炎となる とか、 坂は谷中より根津に通じ 本郷より神田に及ぶ さんとして 眼くらやむなかに坂はあり とかいう作晶があつたが、それとあわせて読んでも、やはり『愛の詩集』は、私には最初の、あたらしい、やさしい、いい方に心を激励するものだつた。 (七月六日) 『愛の詩集』初版のこと  私はかなり長いあいだ『愛の詩集』をもつていた。むろん初版本だつた。今は、いつ、どうしてそれを失つたか思い出せない。古本屋へ売つたのだつたかも知れないが、買つたのも私は古本で買つたのだつた。それは金沢でだつた。その時分金沢には相当の数の古本屋があり、なかなか相当の品物を並べていた。  私が買つたのは一九一九年頃だつたろうと思う。私は何となくそれを手に取つてみたのに過ぎなかつた。室生犀星の『愛の詩集』を手に入れようと念がけていて、たまたまそれを見つけて行きなりさつと棚から引きぬいたというのではなかつた。しかし私はその赤黒い表紙の色に、いくらか大袈裟になるが引きつけられた。そこに薄ぼんやりと浮き出た恩地孝四郎の少女ネルリの顔にもへんに引かれた。表紙の赤黒色は血がすこしかたまりかけた時の色に似ていた。  中をあけて私は拾いよみしかけたが、それは私に全く異様な、異常なものだつた。だいたい詩というものに親しむ機会のなかつた少年に、それは真向から霰《あられ》を——それも熱い霰を吹きつけてきたような具合だつた。それは、藤村の詩とか露風の作とかいうものしか知らなかつた私に、そのまますらりとはいつて来ないあるものを持ちながらそのまますらりとはいつて来た。すらりとはいるはいり方が確かに両者ではちがつていた。『愛の詩集』は、ある抵抗を——それは私の方にあつた。——力で排除してはいつて来た。藤村のや伊良古清白のやは、それも偶然眼にはいつたものについてしかいえなかつたが、それらがすらりとしているために私にすらりとはいつて来た。いま、室生犀星は、それがごつごつしているために、ごきごきして、同時に錐でつき刺すようなところがあるために、だからすらりとというのでなくて、刺されて気持ちがいい——という姿ではいつて来た。また第一、この詩人が、この一巻をつくるのに、賢の骨頂か愚の骨頂かけじめのつかぬような懸命さでつくつているのに私は捕えられてしまつた。本の表紙の色も、扉の絵も——そこにダンテのようなもの、ブレークのようなものがごちや混ぜになつて感じられた。——詩の第一ページ、「故郷にて作れる詩」の「はる」が第五十ページから始まるまでのあいだにつまつた「愛の詩集例言」、「自序」、北原白秋の「愛の詩集のはじめに」、「序詩」、「哥林多前書」からの抜書き、「千九百十七年九月二十三日のまだ夜の明けぬうちに私はその最愛の父を失うた。……」というページ、萩原朔太郎の「孝子実伝」のページ、ドストエフスキーの言葉のページ、「をさなき思ひ出」の1と2とのページ、「詩篇」からの引用のページ、「私の室に一冊のよごれたバイブルがある。……」というページ、ロダン関係のフランス語のページ、「みまかりたまひし父上におくる」恩地の版画入りのページなどが、そのそれぞれも、またそんなものがそんなにたくさん並べられていることも私には初めての経験だつた。それは、自分の書きもののうち詩だけを集めて一冊をつくつたという本でなくて、自分の持ちもの全部をぶちこんでつくつた一冊の本といつたものだつた。古本屋の店さきでそんなことを私が考えたわけではない。しかしつまりはそれが私をつかんで私は買つたのだつたろうと思う。私は自分の部屋へ帰つて声をあげてそれらを読んだ。  『愛の詩集』は大正六年十二月二十日に「印刷」されて大正七年一月一日に「発行」された。いつ印刷、いつ発行というのは当時の出版法律に関係している。法律の手続きの上で、その頃は印刷日と発行日とをそれぞれ書き出さなければならなかつた。去年出た萩原の『月に吠える』は大正六年二月十日印刷、大正六年二月十五日発行だつた。『愛の詩集』の発行所は感情詩社だつたが、それは犀星自身の住居でもあつた。(『月に吠える』の発行所も白日社出版部と感情詩社との二つだつた。)発売所は本郷大学前の文武堂書店だつた。それは、『月に吠える』の場合同様これが自費出版だつたことを語つている。犀星自身、筑摩版『室生犀星全詩集』の解説に、「処女詩集『愛の詩集』大正四年—大正七年作」として「自費出版した処女詩集である。」と書いている。詩集は、伊藤信吉によれば五百五十部つくられた。「自費出版」の自費は父の死によつたものでもあつた。  「自分はこの詩集を出版することが出来たのを深く幸福に思ふ。自分は永い間これらの詩をまとめて世に送り出すことを絶えず考へてゐたけれど、まだ充分な力が無かつたり、これらに値する資力を缺いでゐたために、心ならずも、四五年の月日をむだにして、自分の韻律の整頓を遅延させて了つた。」と「自序」にあるのは、「千九百十七年九月二十三日のまだ夜の明けぬうちに私はその最愛の父を失うた」ことから得た遺産によつて出版に漕ぎつけられたことを語るものでもある。「これらに値する資力」は出版のための費用を少なくとも一部意味していると思う。してみれば、この処女詩集一巻は、犀星の詩作品の全部——ただし『抒情小曲集』、『青き魚を釣る人』、『鳥雀集』、『十九春詩集』の分を除く、——犀星の精神的持ちもの、白秋の「愛の詩集のはじめに」、「自序」、朔太郎の「愛の詩集の終りに」、恩地孝四郎、清水太郎の絵と木版、聖書の言葉と歌、小さいながら全力的な評論と見られる「エレナと曰へる少女ネルリのこと」などの全部、犀星の物質的持ちもの、父の死から得られた遺産の全部、三つの全部を全部一つにして世に出されたものでもあつた。  「自分はその感情の熾烈なことや、自らを語ることに於て饒舌だつたことは、自分が沢山の作品(書き過ぎるほど)に於て明白にわかることであるが、その情操的な多感な抒情詩の全てをこんどは此集に収めなかつた。おそらく相次いでそれらの小曲集をも出版して、自分の今まで来た道に、かなりな華やかな色白い少年の悩みを物語りたいことを期しておく。自分はこの詩集を土台にして益益幸福になりたい。今よりもつと幸福になりたい。又、この詩集を読む人人とともに幸福になりたい。人はどうしても苦しまなければならないといふことも、およそ私が十四年間かかつて書いた此の微力な詩集によつて分明するであらう。」という「自序」の言葉は、だから、挑戦の言葉、決定的な賭けの言葉であり、同時に、この勝負に自分は勝つだろう、勝たずにはおかぬといつた意味合いの言葉でもあつたろうと思う。事がらの進みはその後そういうふうに経過した。白秋の「愛の詩集のはじめに」と朔太郎の「愛の詩集の終りに」とはそれをかねて期した性質のものでもあり、二つの文章は、この詩集の中身、室生というこの詩人の中身をあますところなく伝えてもいる。白秋と朔太郎という二人の詩人、かれら二人としてもそれぞれに全くたちがちがい、またそれぞれに犀星ともたちのちがうこの二人の詩人の、しかしそれぞれにやはり全力をふるつて書いた文章は五十年ちかく後の今もそのままに通用する。ほとんどそのままに今の人びとに理解される。そしてそれが、ほとんど五十年まえ、この詩集に偶然に出会わしてたとえば 一少年の私の受けたものでもあつた。  最後に、「エレナと曰へる少女ネルリのこと」について一言したい。これを読み、この詩集に引用された聖書の言葉などを読んで、私は、当時の犀星がひどく貧しくて、それはわかり切つているが、蔵書などもごく乏しく、しかし彼は、わずかに手許に残つた少数の書物を言葉どおり耽読したのだつたにちがいないと感じる。彼は聖書をくり返して読んだ。しかしそれは決して研究ではなかつた。その時の彼にぴしりと来たもの、それをひろつて彼は飽かずくり返して読んだ。「エレナと曰へる少女ネルリのこと」——ここに、彼がどれほど深く、しかしどれほど自己流にドストエフスキーを読んだかが見えて来る。多分それは、読書というよりももつと物質的なものだつたのではないか、心の餓えを充たすためでなくて胃袋の餓えを充たすためのものだつたのではないかとさえ思えてきかねない。そういう読み方によつて彼は彼の獲るべきものをドストエフスキーその他からえた。  「じめじめした灰色な騒騒しいペテルブルグの夕方をあちこち逍ふ『どこか品のある美しい嶮しい顔』の乞食のやう……」といつた言葉ひとつからもそれがわかるように思う。  いくらか論理的になるが、このネルリと「レ・ミゼラブル」に書かれたユゴーのコゼットとの比較などは私は今さらに興味ふかく読む。犀星にとつて、コゼットはそれ自身汚れに染むことのない「可憐」な存在だつた。ネルリは、あらゆる混濁したものを通して出てくる美しさだつた。コゼットは犀星から、遠かつたといえば語弊があるがいわば遠かつた。ネルリは彼のいわば中にいた。  「そして今まで冷淡なネルリの目は輝いた。自分を救ひ自分を同情してゐる人も貧乏なのに昂奮して、留守の間に室を掃いたり拭いたりするところがあつた。私はこの頁へくると自分のからだに非常に良い血液を注射されるやうな気がした。」  この「非常に良い血液を注射され」の言葉に私は目を引かれる。これは、今だれでも口にするあの「輸血」のことではない。輸血でありはするが、クエン酸処理のことも何もまだわかつていなかつた時代の直接の感覚で捕えたことであり、「注射」といふこともずつと原始的な観念で犀星はとらえていたろうと思う。そういう近さで犀星はネルリのことを考えていた。書物、書かれたもののそういう読み方、これが『愛の詩集』を一貫する一人の人間の生き方でもあつた。それがおぼろげながら一九一九年ころに私を捕えたのだつたろうと思う。 (一九六五年十二月十五日) 『室生犀星詩集』について  今から二十年あまり前、一九二九年に『室生犀星詩集』(第一書房版)をつくつたとき、その「編選について」編者の萩原朔太郎が書いている。  「ずつと昔から、自分は室生犀星の詩が好きであつた。それでいつか機会をみて、特別愛誦する彼の詩篇を、自分の編纂で集めたいと思つてゐた。ところが今度、第一書房から犀星詩集が出るについて、書房と著者の両方から、自分にその選詩をたのまれたので、好機を逸せず、進んでこの編纂をひき受けることになつた。  しかしこの選集は、始めから自分がしたのでなく、室生自身が、彼の数多い詩篇の中で、特に自信あるものを厳選され、自分に渡された詩稿の中から、さらに二重の選抜をしたのであるから、本来の意味に於ては、自分の選詩集と言ふべきでなく、単に著者の選詩について、取捨を加減したにすぎないのだ。若し始めから、自分の思ひ立つた編纂だつたら、或はもつとちがつた選詩をしたかも知れない。  著者の室生が自選した詩は、全体で二百七十余篇あつた。その編纂の様式は、初期の小曲から最近の詩に至るまでを年代順に配列したものであつた。読んで行く中に、友の長い過去の生活、とりわけ自分との親しい交情が思ひ出され、不覚の涙をさそはれるまで、追憶の情緒に耐へがたかつた。思へば小景異情の昔から、自分と室生とは水魚の交りをつくして来た。我々は詩壇に出世を同じくし、生活を共にして来た。  明白に言へば、自分と室生との間には一の避けがたい気質の相違がある。それからして我々は、時に人生観のイデヤを異にし、友誼の親しさからくる衝突を繰返してゐるにもかかはらず、室生の詩をよんで感ずることは、本質に於ての彼と僕とがぴつたり同じ種目の人間であり、同じ生活を生活し同じ人生を悩んで来たところの、真の兄弟同士であつたといふことである。今、室生の過去の詩作を読んで一貫した彼の生涯《ライフ》を考へる時、結局して友の求め悩んだ人生は自分の長く生活して来た道と同じであり、二人が共に求めたものは、共に同じ一つの宿命であつたことが、真にはつきりとわかつてきた。自分と室生とが、いろいろな点に於て詩の特色をひとしくすることも、またむしろ当然と言はねばならない。」  このときの萩原は四十一歳、室生は四十歳だつたが、いま四十九歳でこの集を編むわたしは、この仕事を「始めから」自分でした。そして結果についてみると、第一書房版の集、詩人自身一応選んだものについて萩原がさらに選をしたものといくらもちがわない。これは、那須辰造編の『室生犀星詩集」(一九四七年、鎌倉書房版)にくらべてもほぼ同じようにいえる。つまりは、厖大な量の室生犀星作詩から一冊選集をあむとすれば、どういう作がはいるか大体のところ自然に定まつているということになるのだろう。全く同じ意味でではないが、明治・大正から現在までの日本の詩のなかで、この詩人のしめる歴史的位置というものもほぼ定まつているといつていい。  室生犀星の詩のした仕事の意義は、詩と人生・生活とを本質的に結びつけたところにある。詩人の詩にたいする態度が、その詩人の人生にたいする態度にほかならぬということを詩作そのもので実地に示したところにある。詩と文学とを人生として愛し、また一人の人間として地上のこの生活を具体的に愛して行くかぎり、枠で排他的に囲われたものとしての詩についての格別の知識なしにも——またそこで初めて、この知識さえが、生活の展開として生きて獲られて行く。——そこに具体的に、人生そのものとしての詩がその高い藝術性で生れることを証拠だてたところにある。  このことは、そのころのすベての詩人の仕事に比べてみていつそうよく納得されると思う。この詩人の出てきたころは詩のさかんだつた一つの時期で、北原白秋、木下杢太郎、高村光太郎、日夏耿之介、佐藤春夫などの名まえ、それから西条八十、それと性質のちがう千家元麿、それに富田砕花などをふくむいわゆる「民衆詩」派、その他をひろげてみて——むろんここに萩原朔太郎が欠けてはならぬが——詩人室生犀星を特徴づけるものは何かの詩理論の高さなどではない。詩についての知識のひろさ、特にヨーロッパの詩についての知識などでもない。この詩人には、派手で豪華なものを独占的にわがものとしようとするような傾向は全く見られない。世のなかに白い眼をむけて、その保護された孤独に——保護されているという事実に自身気づかずにいい気になつているような傾向はまつたく見られない。自分の持つている何かの説、教義を、詩の形で人に押しつけようとする傾向などはむろん見られない。彼はただ、自分にあたえられた人生をひたむきに生きようとした。あたえられた仕合わせをも不仕合わせをも、何か世俗的な物さしや反世俗的な尺度やで測りすてないで、それらをそれらなりにはつきりと受けとめて生きることこそ人生にほかならぬと考えた。そこに、ほかの人のとは全くちがつたこの詩人独自の人生と詩との結びつき、結びつけがあつた。「民衆詩」派をとなえなかつたこの詩人が一つの本質的な意味で民衆的であり、人道主義派を必ずしも称えなかつたこの詩人がかえつて一つの本質的な意味で人道主義的であつた結果がそこから生れている。人間と生活とを生きものとして具体的に愛すること、詩作ということをもそのように実践的に理解すること、このことを実地に教えたところにこの詩人の仕事の意義、後に来るものたちにも与えた本質的に大きな意義がある。  今となつては、室生犀星の詩は一つの完結した高さとして見られるが、それは、たとえば北原白秋の詩が一つの完結した高さとして見られるのとは意味をたがえている。白秋の美と高さとは、多くの他のものを排除して獲られたものという性質を持つているが、犀星の美と高さとは、すべてのものを排除しないところに獲られたものという性質をもち、すべてのものを排除しないということの、自分を愛し、自分の妻を愛し、自分の子を愛し、自分の隣人を愛するということそのことの美しさと高さとの詩的反映にほかならぬということになる。  室生犀星の人生の愛し方は全く具体的・実行的・本能的でさえあつて、観念的・観照的・理性的(あるいは説教的)でない。全体としてこの詩人は全く観念的でない。あれほど兄弟的な萩原とのあいだにあるちがい、それを、萩原が、「明白に言へば、自分と室生との間には一の避けがたい気質の相違がある。それからして我々は、時に人生観のイデヤを異にし……今、室生の過去の詩作を読んで一貫した彼の生涯《ライフ》を考へる時、結局して友の求め悩んだ人生は……」といつた言葉に関係させていえば、萩原にはいわば生活をぬきにして「人生観のイデヤ」があり、室生には「人生観のイデヤ」というようなイデヤがそもそもなしに生活そのものがあり、萩原には一歩一歩の具体的生活なしに「求め悩む人生」があり、室生にはこの一歩一歩以外に「求め悩む人生」はないしなかつたということになる。おそらく室生には、その生涯をライフなどいう外国語で概括せずにいられぬようなものとの実質的格闘以外にはその生活および文学生活がなかつたといつていいのだろう。  この詩人が全く観念的でなかつたという特徴は、帝国主義的侵略戦争への積極的協力という犯罪からこの詩人をある程度救つたという事実を持つている。このことは、別にくわしく論証しなければならぬことでここはその場所でないが、体系としてややととのえられた思想を持ち、体系としてややととのえられた詩論を持ち、外国とくにヨーロッパの文学と詩とにも明るく、それらを日本語に翻訳しさえした詩人たちのあるものが、また詩の世界を世俗的生活から全く切りはなして高みに供えていた詩人たちのあるものが、全く脆く侵略戦争への積極的協力におちたのにたいして、体系としてととのえられた思想を持たず、体系としてととのえられた詩論を持たず、ヨーロッパ文学にたいする明るい知識を持たず、またその詩生活を窮極のところ人間生活そのものに従わせていたこの詩人がそこへ大きくかけこまなかつたということは、生活と詩作とに肉体化されたこの詩人の「思想」をみるためにも、やや体系的にととのえられた思想とみえたものが、あれらの詩人のなかで実地には何だつたかを見るためにもわれわれに役立つといえるだろう。たとえばドストエフスキー主義というようなものはこの詩人に関係がない。ただ、はじめてドストエフスキーを読んだ夜のことを書いたこの詩人の詩は、文学と人生との関係について、人にしずかに、何かを肉感的に会得させるものを持つている。それこそ文学と生活との関係の土台での結びつき方だということを感動とためいきとでのみ込ませる。ここからして、この詩人とめぐりあわせから結びついた芥川龍之介が、その払いきれぬ観念論の世界から、詩人室生犀星の実行的人生態度を無限の羨しさで眺めたという結果も生れている。ここからしてまた、芭蕉の文学にたいする解釈で、才学ともにすぐれていた芥川よりも、相対的に同じくは見られなかつた詩人室生が芭蕉その人にいつそう近く迫りえたという結果も生れている。  こういう人生態度は、この詩人の場合、わけても微小なものへの同情となつて強くあらわれている。今までの習わしとしての観念で高貴とされているものへよりも、低いとされているものヘの同情と、この同情のなかではじめて可能な観察とが、美と高貴とへの新しい辿り方としてそこに取り出されてくる。『抒情小曲集』のなかの多くのもの、「苗」や「室生犀星氏」や「坂」やは、「雨の詩」や「みな休息して」やに伴う銅鑼のように大きな伴奏背景を持つ『愛の詩集』『第二愛の詩集』を経て、「友情的なる」「人家の岸辺」などの『鶴』と『鉄』との方へすすんで行く。そこに、人生を高みから見おろして概括的に裁断するものが少ないかわりには、いぶせい微小な人生を、しかしその中心へ中心へと辿つて行き、時には錐をもみこむような勢いでするどく突き入つて行くところから来る人生の手ごたえ、うろの中の魚を手づかみにしたときのようななまなまとした手ごたえは比類のない鋭さで取り出されている。しかも、人生を高みから見おろして概括的に裁断するというふうなものは、明治からの日本の詩に実はまだほとんどないのだということを言い忘れるわけには行かぬ。  「そのから井戸から離れたところにわたくしの好みから言へば、何かの雑木のかなりな大樹を四五本植ゑ、その中に梅をまじへ、下草にはいろいろのものを生やしたい。その下かげへ飛石を打ちその小さい森を明るい方へぬけられるやうにして、肩に木の枝がすれすれに触れるやうにしたいものである。木の枝のからだに触れるのは恋のやうに優しいものである。此の茂りの中は、夏は涼しく秋は枯葉の音のするやう落葉樹をも雑《まじ》へて植ゑるやうにする。庭のあるじは此処をぬけくぐつては行く。此処をぬけることは庭ぬしには何かやさしい心をもつた時であるとしたらなほいいのである。」  この詩人の、こういう庭と庭つくりとを愛する心持ちも彼の人生態度を示すものといえるだろう。  「自分はこの詩集を出版することが出来たのを深く幸福に思ふ。自分は永い間これらの詩をまとめて世に送り出すことを絶えず考へてゐたけれど、まだ充分な力が無かつたり、これらに値する資力を缺いでゐたために、心ならずも、四五年の月日をむだにして、自分の韻律の整頓を遅延させて了つた。しかし今は我慢の出来ない自愛と内外に向つて自分の生存を快適に物語る時を得たので、私の親しい書斎からこれを世に送り出すことにした。」  『愛の詩集』の序文のこの書出しはこの詩人の人生態度を実にういういしく述べている。  「自分は詩を熱愛した。同時にありとあらゆる自然や人類の上に、自分の微力を充ち亙らして讃歎すベきものを表現した。自分は正しく朗らかな此の宇宙のあらはれに就て、自分に働きかける総ての意志を掘じくり出すことに最大の生活を見いだした。自然も自分もその生活することに於て何等の間隙も不自由をも感じないほど、自分はよく自然をとり入れ理解することが出来た。詩の中に自分が存在することは、ただちに自分の救済であつたし幸福でもあつた。さうしなければならないほど、自分と詩との関係が深く根を張つてゐたのだ。」  青年期に持ちまえの昂奮した口調を別とすれば、これらの言葉はこの詩人の根本態度を言いあらわしている。それは、『抒情小曲巣』の序の言葉、「私は本集に輯めた詩を自分ながら初々しい作品であること、少年の日の交り気ないあどけない真《ま》心《ごころ》をもつて書かれたこととを合せて、いくたびか感心をして朗読したりした。ほんとに此詩集にある小品な詩は、恰も『小学読本』を朗読するやうに、率直な心で読み味つてもらへれば、たいへん心うれしく感じる。」にも続いている。さらにいえば、この詩人によつて書かれた『新しい詩の作り方』という、通俗を旨とした入門手引草のすベての言葉にもあらわれている。よほど乱暴に見える場合にも真実には人生にたいして謙遜であり、それゆえいく度もくり返して人生へ第一歩から歩きこみ始められること、そこに錆びない新しさと真実とが生れていること、それが新しく後から来る人々を教えてやまぬ点がこの人の詩の個性の一面である。  このことでこの詩人は多くの詩人を育ててきた。「驢馬」グループもその一つであり、わたしは『驢馬』グループの一人である。 (一九五一年七月) 犀星 室生さん ——美しい『女ひと』——  ペらぺらと上手に演説するものが世の中にはいる。話の中身が何から何までまちがつている場合は始末がいい。半分方はほんとうで、しかしあと半分はほんとうでないその方の力、その方も同じ雄弁でまくしたてられるその力のため、別のある真実がみすみす笑いものにされて行く。抹殺されて行く。抗弁しようにも、まわりが嘘の雄弁のためそれを許さぬ空気をつくつてしまつていて泣き寝入りするしかない。泣き寝入りしまいとするとかえつて人が不思議な顔をするという場合、事はまことに始末しにくくなる。とめどなくいまいましくなる。むかし私は、まだ十七ぐらいの少年だつたとき、縁もゆかりもない女から「いけすかない……」と罵られたことがあつた。「いけすかない……」——この、小説などで読んだことはあつても肉声として聞いたことのなかつた言葉が面とむかつて私に発せられた時、恐しいその力にうち仆されて、私は何一つ抗弁することができず、その汚い唾のようにしてかかつた言葉を手で顔から拭くことさえできなかつた。こういうことは、われわれの偉大でない人生に決して少なくない。こういう経験と感情とは、どこかでは、それにふさわしい程度ででは救われねばならぬだろう。  加害者が道徳説の方に立つ場合も、知識と論理との学問の方に立つ場合も、事がらは変らない。しかしそこに落し穴も生じる。計算以上に釣銭を取ろうというさもしいあやまちも生じてくる。劣等感、インフェリオリティー・コンプレックス、ノイローゼ、そういつたものが稼ぎの材料になつて、そこから逆に別の加害者が頭をもたげてくることもちよいちよいある。そこのかねあいはそう単純でない。そこに品格の問題が生れてくる。室生犀星の藝術、学問はここのところに関係している。この「入りみだれた思惟の草叢」、これを、「余りにばかばかしいことがらの意味を人間の最後まで趁つめること」として、「徳のために控へる」ものも世間にはある。ただ犀星室生さんは、ちようどそのところで、「併し私は私どもの生がいをかけて見て来たものを、いまさら見なくともよいとか、年とつたとか言つて打棄つてしまふ訳にはゆかない。」と言いきつて、しかし同時に、それ以上には半歩も出しやばらない。室生さん自身には気づかれていないことらしいが、私自身には、印刷する滑稽を我慢すればこの辺がこたえてくる。  「童貞」一篇については、私はこれを室生犀星作品中の佳篇として新聞の上で書いた。知恵というよりは哲学という方がいいが、そこに、山の草のような、墓場のすすきのような庶民の知恵がそよいでいる。それは論証されたものではない。抽象されたものでもない。明治、大正、昭和ときた生活の長い年月のなかで、静かに正直に溜まつたものとでもいえばよかろうか。しかしこの辺でさえすでに「作文」におちこむ危険がある。  私の言いたいのは、「だが、どうやら、わかい娘だちの顔かたちがしだいに夢二の絵をまねて、明治末葉の余炎が俄然方向を変へて、むすめだちの眼は大きくみひらかれ、くま取られてゆめを見はじめた。むすめだちは蛍のやうな瞳を上げて日本娘史に、革命のうたをうたひはじめたのである。クララ・ボウや新居格の近代娘(モダンガール)に一つの橋をわたしたのも、この竹久夢二の絵が肌となり顔の粧ひとなり……」という歴史叙述などが、夢二の絵の美しさ、それの好きなことなどは「気《おくび》にも出さずに何だい絵葉書画家といふふう」に片づけようとした、そしてとん子という人に、「西出朝風には和歌を見てもらひなさるな、竹久夢二などといふ画家は碌な者でないから、それの展覧会の切符をあちこち配つて歩いてはいけないといつて忠告した」ような人の、そのいわば被害の状況が長い年月の後にかえり見られ、そこで全く自然に落ちてきた言葉であつて、何か方程式の応用といつたものではなかつたことを私は知るべきだというほどのことになる。ああいう娘たちのぺちやぺちやした相手でありえたものからは、「むすめだちは蛍のやうな瞳を上げて」といつた言葉は決して出ることができなかつただろう。娘たちよ、また青年よ。また五十すぎた私自身よ。事がうまく運ばぬからといつて決して腰をひくな。どこまでも、自尊心を謙遜に保つて、筧《かけい》の水のようにしたたりを溜めて行けということである。 『室生犀星全集』第一巻  新潮社版十四巻本『室生犀星全集』第一巻が出た。追つつけ第二回配本の第十巻が出る。これはもうすぐ出る。編集の仕事をしたものの一人として私が提灯もちを書くことはできない。といつて下手に謙遜することはない。第一巻の出来あがりを見てなかなかよくできたと思う。この形で出たことはほんとにありがたい。われわれ六人の編纂者は、ある日集まつて、いつか別の人びとの手でいつそう完全な全集が出るとして、しかしその編集者たちはわれわれの労を多としてくれるだろうと認め合つた。まちがいあるまい。  『室生犀星全集』は前に一度出ている。一九三六年、七年にやはり十四巻本で非凡閣から出た。二十八年前である。「復讐の文学」頃までのもの、ひと口にいつて戦争前のものだから、同じく十四巻ものといつても今度のは倍以上の量を含むだろう。量よりも質ということはある。しかし一九三七年では、戦争のすむまでに八年あり、戦後の特に犀星晩年のみなぎるような仕事はそこに含まれていない。六年前、一九五八年末から六〇年にかけて『室生犀星作品集』十二巻が新潮社から出た。これは小説作品を主として収めている。この『全集』と『作品集』とはむろん参照されている。しかしすべてを初版本により、また本になつているものもいないものも、最初の発表雑誌、新聞などをしらべて今度の編集はなされた。それを検討して十二巻に収め、これに初めて活字になる日記、書簡を二巻にして加える。これが全容である。  編纂の方式は編年体で行つている。小説は小説で何冊かに入れ、詩は詩で別の何冊かに収めるという行き方をしない。詩を書き、小説を書き、評論を書きということが並行してすすんでいる場合、その総体を眺め、ある時の作者の全体、つまり作家の変化と成長とが進行形で見られる形をとつている。これは福永武彦の意見にもとづく。角川版『堀辰雄』全集はそれを厳密にやつているが、いくらか通俗にいえば、結果としては『犀星全集』の方が成功しているかも知れない。むろんこれは、二人の作家の仕事仕方のちがいから来ている。それだけ、角川版『堀』の編年体はいつそう専門家的ということになるだろうか。とにかく、『漱石全集』『鴎外全集』その他とちがつて、『犀星全集』などからこの方式がそろそろ定着して行くようにも見える。愛読ということと研究ということとが、今までよりも一般にいつそう近づけられるにちがいない。  誇つていいものがあるとすれば——これは仮定ではない。——それはここでの校訂の仕事だろう。第一巻は、詩で『抒情小曲集』、『抒情小曲集(補遺)』、『青き魚を釣る人』、『鳥雀集』、『十九春詩集』を収め、小説は「幼年時代」から「結婚者の手記」へかけてを収め、それから今まで知られなかつた随筆、評論を『地上順礼』、『詩歌』、『侏儒』、『感情』などから選んできて採つている。その文字づかい、仮名づかい、誤字と誤植、版本によつてちがう削除その他、非凡閣版と新潮社版との異同、これをどうするかは厄介至極のことだつた。この仕事を伊藤信吉がやつている。むろんその規準は委員会が決定した。しかし規準決定のことと、それを厖大な量の作品、版本にいちいちあたつて調べ、それを一般的な形で記述することとがどれだけ別のことかということは説明しにくい。つまりそれは説明するまでもない。伊藤の「解題・校訂」と、たとえば岩波版『鴎外全集』の「後記」とを比べてみれば誰にもそれがわかる。鴎外は仮名づかいをまちがえなかつたからナといつた駄洒落では片つかない、透谷校訂のことで勝本清一郎が口やかましく言つたのももつともと合点が行く。  校訂にはもう一つのことがある。最も重いことといつていい。三好達治がこう書いていることである。  「本巻に所収の『抒情小曲集』以下は、……その全部を、初版本原形のまま序跋の類をも省かずそつくりの姿に収録した。」  「作者の室生さんが後年加筆添《てん》刪《さく》をされた部分は……しばらくお預りとしてここには顧みなかつた。」  「旧版もとのままの姿の惜まれるのは、我々の側にも理由があつた。軽重を比べて後者に従つたのをお断りしておく。当第一巻以後も、この点再考を加えつつ進行するであろう。」  これは乱暴だつただろうか。乱暴だつたとしてもわれわれにそうするほかはなかつた。「なたまめの苗、きうりの苗/いんげん、さやまめの苗/わが友よ/あのあはれ深い呼びやうをして/ことし又た苗売りがやつて来た/あのこゑをきき/あの季節のかはり目を感じることは/なんといふ微妙な気になることだらう」——この「苗」の最後の行を、『室生犀星全詩集』にしたがつて、「君のこころを尋ねるやうなものだ」とはどうしても私たちはすることができなかつた。  「室生犀星氏」の、「脳はくさりてときならぬ牡丹をつづり」のところを、「脳はつかれて」にはどうしてもすることができない。「すてつきをもて」の「すてつき」を「杖」にはできない。「うつとりとうつくしく」を「うつとりとけなげに」にはできない。まして、「ああ四月となれど/桜を痛めまれなれどげにうすゆき降る/哀しみ深甚にして坐られず/たちまちにしてかんげきす」を「たちまちにして街をさまよふ」にはどうしてもすることができない。犀星自身、『全詩集』の「解説」の『抒情小曲集』のところで、「全篇に亘り加筆添削の目標を以つて閲読してみたが、殆んど朱を入れる余裕もない境にあるものは、勿論、そのままの集編に委せた。」と書いたののさらに上を行つたわけである。三好の考えを基に、これは全員一議に及ばず決定したところで、ひとに押しつけようとは思わぬけれども、後代もわれわれの志を諒としてくれるものと信じる。  それにしても、詩の解説者三好をここで失なつたことは残念でならぬ。詩の選出は和歌、俳句を含めてすベて完了しているが、また「犀星詩 一」は三好の解説の本質を基本的に示しているが、配本につれてそれがどう書かれて行くかは、編集にあたる私たちめいめいにとつて勉強でもあり楽しみでもあつたのだつた。しかし仕方はない。  このごろ荷風の「東綺譚」を読み返して、私は荷風という作家と犀星という作家とのちがいに今さらにいろいろと考えた。作の評価の問題でもあるが、その手前に作家の態度ということがあつた。荷風における本質的演繹と犀星とのちがいである。犀星文学を「母乳のごときもの」として私は書いたことがある、「やはりそれはどうしても求められる。人工栄養ということがどれほど大事だつたにしろ、人工栄養ということなしには、どれだけの子供が、いい子供、ちやんとした人間になるはずのところをみすみす水児のうちに失われねばならなかつたにしろ、それでもそれは母乳をはなれることができない。それはその発達の道でたえず母乳をふりかえる。文学においてもことはかわらない。」私のこの考えは変つていない。  「解題・校訂」のことにはさつき触れた。誤字、脱字、送りがななど、よほど、犀星の特殊なやり方をある程度認めつつも正してある。ただ絶対ということは手軽にいえない。殊にニゴリ点などが面倒になる。「兇賊TICRIS氏」などは「チグリス」の方を正しいとしたが、「兇賊TICRIS氏」のところはそのままCにしてある。そもそもの最初に、CとGとの取りちがえがそのままになつたのだつたかも知れない。ハイネの「メモワール」を見ると、四巻本のレクラム版に meinen とあるところが、七巻本のエルスター版では meimen になつている。とにかくそういうことはある。われわれは指摘を待つ。室生犀星の手紙類を貸して下さることとも併せてお願いする。 (六四年四月二十四日) 心のこりの記  心のこりのことを書く前に感謝の記を書かなければならない。この仕事ではたくさんの人のお世話になつたが、わけてもいわば外側からいろいろに援助して下さつた人たちにお礼を申したい。殊に手紙類をあつめることでは多くの人たちのお世話になつた。手紙類を貸して下さつた人々、写しを取つて送つて下さつた人々、所在を教えて下さつた人々があり、古本展覧会場で見つけたもの、目録のなかに出ていたものなどを教えて下さつた人々がある。しかもそのすべてを収めるというわけには行かなかつた。これは仕方がない。人生には重大事があり瑣末事がある。そうして、手紙、ハガキの類は、重大事に関係することもあるがそうでないこともある。室生犀星は電話をかけなかつた人だつたから、殊に後半生には電話がわりのハガキ類が多かつた。それだからそれが重要でなくなるのではない。しかし採否については大体手落ちなく検討することができたと思う。何にしても、方々から貸してもらえたり教えてもらえたりしたことで編纂の仕事は助けられた。またこのことから、室生犀星という人が愛せられていたこと、いることを改めて知ることができた。作者と読者とのこの関係にも感謝の思いが湧く。  心のこりの一つは三好の死だがこれも仕方はない。しかし仮りに編纂打上げの会をして酒の一杯も飲むとすれば、そこで三好のあのたのしくて怪奇な高笑いを聞くことのできぬのはさびしいにちがいない。私としていえば、ああいう笑い方をする人間には外に出くわしたことがなく、これからもないだろうと思う。  心のこりの最大のものは、これも私としていえば、詳しい葬式前後の記録が入れられなかつたことである。詳しい記録ということはよほど縮めてもいい。告別式での正宗白鳥、佐藤春夫、堀口大学、村野四郎の人々の言葉、医師の解剖所見というくらいに限つてもいい。それを「後記」その他に入れられなかつたのを心のこりに思う。ところで、葬儀については私が葬儀委員長のような役をした。いろんな方面からの援助を受けて事はほぼ完全にはこばれたが、私もぼんやりしていてそれらを録音することができなかつた。録音することを忘れていたのである。そうして、正宗白鳥の弔文、佐藤春夫の弔文を最後の巻の編集までに見つけ出すことができなかつた。これはそれぞれ正宗家、佐藤家にあるはずである。しかし二人の作家は、時間の上で犀星のあとを追うようにして亡くなつた。そのせいもあつて、今のところまだ見つけることができないでいる。  これは葬式記録のこととしてだけ残念なのではない。堀口大学の長い詩とともにして、二人の作家の弔文が、文学的にも文学史的にも、あえていえば人間的にも、めずらしく、興味ふかく、重大だつたからである。正宗全集、佐藤全集は現に並行してすすんでいる。その進行につれてこの日の弔文も出てくることと私は思つている。  私は長いあいだ室生犀星に親しんできた。これは事実であり、またそう思つてやつてきたというのも事実である。しかし『全集』編纂の仕事に取りかかつてみると、長いあいだ親しんできたということと、その作品をよくよく読んでいるということとの間にいくらか開きのあることにも気づかねばならなかつた。ずつと昔、ある作品が雑誌で発表された時にいち早く読んで記憶にとどめたもの、そういうものも、改めて読んでみて記憶の誤りに気づくことがあり、評価の偏頗に気づくことがちよいちよいあつた。こういう点では、私はほかの編纂委員の言葉からいくつも教えられるところがあつた。また世間にいろいろとある作家論、作品論、ああいうものを私はいくらかこちたく思い思いしてきていたが、いざとなるとああいうものがなかなか貴重なものなことにも気づいてきた。やはり私はいろいろに教わるところがあつた。私はまだ金沢に出来た犀星墓を見ていない。今年あたりは見たいものと思つている。 (佐藤弔辞は口頭でのべられ、原稿のないことがわかつた。——後記) うろ覚えの記 ——犀星死の前後——  ついこのあいだ私は金沢へ行つてきた。野田山の犀星墓地へ行つてきたのである。  このときは難儀な目にあつた。新保千代子の案内で一行は山の下まで来たが、雪はまだ膝までつもつている。山裾の、墓地の世話をしてくれている家でゴム長を貸してもらい、雪掻きのゴイスキ、スキーの杖などを借り、私はスキー杖一本を借りて歩きだしたが、昨日までの雪、吹雪、風、雨がきれいにあがつたせいで、雪の質が逆に均等でなくなつている。樹の蔭ではまだこちこちに凍つていて、陽のあたるところではそろそろ溶けかけている。表の面がくえやすくなつている。そのため、気をつけていてもごぼつと脚がはいる。用心して、わざわざ膝までの大ゴム長を借りたのが私の失敗だつた。ごぼつとはまると雪が靴の胴にはいる。だいたいが大き目の靴で、なかで足が遊んでいるのだから始末に悪い。雪のなかから脚を抜くのに、一本杖と他方の脚とに力を入れて、長くて重いのを——東京で勤めにゆく人が、雨の日に履くああいう手軽なのではない。両脚に大砲を履いたようなのを、一足ごと、足指を反らすようにして足の甲に引つかけて持ちあげなければならない。途中で私は御免こうむることにしようとした。私はここで腰かけて待つている。ほかの諸君は行つてきてくれ。——しかし鞭撻されて私は我慢して努力した。女二人までが行くというのだから仕方がない。  スキー杖の子供用のを借りたのもまずかつた。大人用のを借りればよかつた。子供用のにしろ二本借りればよかつた。いつそ、むしろ、スキーを借りた方がよかつたろうという思いが頭をかする。追いかけて、しかしおれは、足の裏が板にくつつくこの頃のは履いたことがないのだから、そうなつたら却つて危いだろうと思う眼の前で太つた新保千代子が顛倒する。どうすることもできない。モンペに履きかえた彼女を下手に支えようとでもすれば、軽い私は、彼女が支えられぬだけでなく自分でふつ飛ぶだろう。そうしてなかなか犀星墓地が見えて来ない……  「昔はこんなところまでは墓地がなかつたな……」  つまり墓地が、その後大々的に拡張されたのだつたろう。犀星墓地は、野田山墓地全域の低い方、つまり山の麓の鼻の方にある。今探しているコースの反対側から行くのがよくはないかと言い出すものがいたが、新保の意見をきくとそれは不可能なことだつた。そこは湿地になつてしまう……  やがてとうとう私たちは墓地を見つけた。  「そら、あすこだ……」  雪をかきわけるようにして私たちは急ぐ。石も塔も、植えた樹も半分方雪に埋まつている。私は、折れそうになつた椿の枝を一本雪から抜き出してそこで一休みした。すると又しても、『犀星全集』別巻第二の「後記」のこと、同じ巻の『月報』の「心のこりの記」のことが思い出されてくる。それを書いたのは私だつた。そしてそこに誤りのようなものがあつた。誤りとはいわぬまでも、はじめ書く積りでいて書けなくなつたことがあつた。曲りなりにもそれを書いておかなければ……  そうはいつても、私の記憶そのものが至極あいまいだつた。覚えているといつてもうろ覚えを出ない。いつたい、うろ覚えといつたことは一般に書かぬ方がいい。人は正確なことだけを書くべきものだ。さもないと、つぎからつぎへ尾鰭がついて行く。反対に尾鰭がげて行く。むかし宇野浩二が、芥川龍之介の葬式のとき私が受付に坐つていた一人だつたと書いたことがあつた。宇野は出たら目を書かない。そこでしらべて見ると、それは小穴隆一の文章から来たものらしいことがわかつてきた。小穴は、芥川葬式のときのことを図入りで詳しく書いていたが、その図の受付のところに私がほかの人たちといつしよに並んでいる。しかしそれは事実でなかつた。私は、受付どころか、芥川葬式にはそもそも出かけることができなかつたのだつたから。そんなことがあるのだから、正確に覚えている人の生きているうちに、うろ覚えならうろ覚えとしてでも出来るだけ書いておく必要があるだろう。またうろ覚えといつても、私の記憶が一から十までうろ覚えなわけでもない。宇野の名で私は宇野に訂正された藤村の詩の記憶のことも思い出した。あるとき私が「悔おおかりしわが身かな」という題の短文を書いて、「藤村の詩にこういう行があつたかと思つて標題に借りる。まちがいならば詫びる。」と書いたところ宇野がハガキをくれた。あれは「夢おほかりし」だつたろう。彼は五行分ほどもそこに藤村詩の部分を書いてくれていた。  いくらかちがつて、うろ覚えでありながら正確な記憶といつたこともある。誤つた記憶、思いちがい、しかしその方が真実にかなつている場合といつてもいい。現に室生朝子がこの手の勘ちがいをしている。その勘ちがいにある正しさがある。  去年夏、彼女の『追想の犀星詩抄』が出た。それは、父の作品、その詩のいくつかについて、娘としての彼女がさまざまな思い出をからませて書いたものである。父の姿のほかに、自然母の俤もしのばれて出てくる。専門家のものとはおもむきのかわつた、一種の犀星詩抄、犀星詩解説といえなくもない。ほかの本にない写真などもはいつている。そしてそのなかで彼女が勘ちがいしていたのである。軽井沢に犀星が自分で建てた「犀星文学碑」、それを東京から軽井沢へ彼女が運んで行つたときの文章にそれが書かれている。  「切なき思ひぞ知る」という『鶴』のなかの詩の題が短章の題になつている。むろんこれは、当の文学碑に犀星が自らえらんで刻んだ作品である。  「私と弟は友人の車で雨の中山道を、軽井沢に向つて走つていた。ワイパーも無駄なほどの大粒の雨は、わずかな休みもなく降りつづけ、国道はしぶきでけぶつていた。  父の文学碑に使う碑文が、菰でつつまれ更に木綿の一反風呂敷で丁寧にくるみ、車の揺れに逆らわぬよう後部のシートに置かれてあつた。父は同郷の人吉田三郎氏に『切なき思ひぞ知る』の詩を、黒御影石に刻つてもらつだ。父が軽井沢に行く七月初旬までに、文学碑を完成させるべく、私は車で運ぶことを父に頼まれていた。」  詩そのもの、私のいつた彼女の勘ちがいには関係ないが、ここを読んだとき私はちよつとした途惑いを感じた。そういうのも大袈裟なほどのかすかなものだつたが、彼女の運んだのは「碑文」だつたのか「碑」そのもの、その黒御影だつたのか……  「碑文は傷ひとつつかず、大工の頭梁の家に運びこまれた。」  やはりそれは石そのものだつただろう。文字の書かれた紙、それを運ぶのに、それを菰で包んだうえ木綿の一反風呂敷にくるむ筈はない。原稿一綴り、短尺一枚でも、室生犀星はちがつた気遣いをしていた。碑文といえば文そのものだと思つていた私がまちがつていたとも思えないが、室生朝子は「切なき思ひぞ知る」のことを書こうとしていたので、そのためにも自然こうなつたのだつたろう。大工の「頭梁」なぞも気になるが、このごろ自分で本をつくつてみると、「堅実」が「健実」になり、「モンテヴェルディ」が「モンテ・ヴェルディ」になつている。そのうえ、「頭梁」と書いてもひととおり通じそうなところが面白くさえある……しかし彼女の勘ちがいと私のいうのはそれではなかつた。  「三十六年七月、軽井沢二手橋のところの詩碑が出来たときはいくらか変つたことがあつた。これは健康に結びつく問題ではない。けれども、健康、生理問題をも含めた老年の問題として考えることはできるかも知れない。碑面にきざむ自作『切なき思ひぞ知る』——その十行の詩を九行に改めたのである。」  「彼は、『我はその虹のごとく輝けるを見たり』を『我はそれらの輝けるを見たり』とした。また『その剣のごときものの中にある熱情を感ず』の一行を削つた。この種の削除、改作は、当時進行しつつあつた筑摩版『室生犀星全詩集』全体にわたるものでもある。そしてその秋肺炎で床についた。十月、港区虎の門病院に入院して精密検査を受けた。そして十一月ひとまず病状おちついて退院した。」  全集最後の「後記」(「死、葬送とその後」)に私はそう書いたが、彼女はそこをすつ飛ばしてしまつていた。これだけ詩碑のことを書き、「軽井沢の文学碑」としてそこに碑の写真ものせ、写真の詩は九行になつているのを彼女が読まなかつた筈はない。多分彼女こそ、今日の日までにこの板面をいちばん何べんも眺めてきた人間であるだろう。しかも彼女は九行と十行とをさえ混線させてしまつた。そしてそこが面白い。そこに、勘ちがい、思いちがいにかかわらぬ真実がある。文章冒頭に彼女はもとの作品をのせている。九行のでなくて十行の最初のをのせている。つまり私たちが、三好の裁断をまつまでもなく、『全集』第四巻に最初の形でのせたことの意味が娘の彼女によつて諾われたものといつていい。作者がわが手で削つたものをどうしよう術はない。しかし犀星詩「切なき思ひぞ知る」はこれである。『鶴』の序で、福士幸次郎があれだけ書いたのもこれである。もとより碑と碑面とは互いに独立のものだつた。作者の娘として、あすこに出来た碑と碑面とに彼女は指一本さわらなかつた。そうして、独立のこのものからさらに独立に、昔からの記憶、それをうろ覚えといつていいとすればその方によつて父の詩を冒頭に出していた。『全集』編纂の仕事をしたものとしてこれはありがたい。碑面そのままが掲げられたのだつたとすれば、私たちとしてそこばく面目を失つただろう。面目はともかく、情ない思いをしなければならなかつたにちがいない。いつまで「うろ覚え」にこだわるのはよくないが、とにかく、「うろ覚え」をそれなりに尊重することは無駄でないと思うということがいえれば私は満足する。  雪の上——その下に何か石がある。——に腰をおろして、煙草を一服つけて、私は自分のうろ覚えで犀星詩のことを思つていた。「ふくらみて青める山/ひかり寂しき明眸の/山にもひそみ……」、まだ何行かあつたが正確に覚えていない。「寂しきいのちまもれば/あはれうたごゑきこゆ/ここの山べの」、これはこれだけだつた筈だ。これは、東京の方の丘陵でもなければ前橋の方の山でもない。医王山でさえもないだろう。金沢近郊の、このへんの低目の山、そこの草の上に作者がしやがんでいる、寝ころんでいるのでなければならない。顔を横にして、頬を地につけて、眼だけで稜線をなぞつているのかも知れない。この不良少年は一人で横たわつている。そばに異性なぞはつれ立つていない。そうして、このへんの山地にはちがいないが季節は今ではない。雪の季節はとつくに去つていなければならない……  それから私は東京へ帰つてきた。東京へ帰る日の朝、一行は兼六公園を見るというので私もくつついて行つた。公園をめぐる道路、そこへは車がはいる。それから中《なか》、公園そのもののなかヘは車ははいれない。一行は車を出て公園へはいつて行つた。私は車のなかで彼らの戻つてくるのを待つた。私は金沢を好く。しかし兼六公園を好かない。この公園がいい公園だということが私にはいまだによくのみ込めない。いまだにというのは、私がここの高等学校にいた四十八年ほど前からそうだつたということである。四十八年前にくらべて、今がよくなつたとも改良されたとも私にはさらさら思えない。念のためにいえば、私は兼六公園がそれほどよくなくて、どこかよその公園がいいというのではない。兼六公園が、その名からしてでもあるが、天下の名園だということが論理的にも感覚的にも全くわからぬのである。もう一ついえば、これが天下の——天下のとまではいわなくてもいい。——名園だということを説明的にしろ説明したものを一つも読んだことがないのである。私は、運転手もどこかへ出て行つてしまつた車のなかで、車が独りでに動き出したらどうしようかといつた冗談のような不安も感じながら、苦労のかたまりのような伊藤信吉の「解題・校訂」のことをぼんやり考えていた。仕事の面倒、それを伊藤に寄つてたかつて押しつけたのは外に仕方がなかつたからのことだつた。伊藤にしても、覚悟の上で引受けたのにちがいなかつた。それにしても、室生犀星の不思議な言葉づかいにはほとほと困ることがあつた。『遠野集』なぞに自分で振つたルビなんかは誰にしろどう訓むのか見当もつけられない。わざわざルビが振つてあるのだから無視するわけにも行かず……しかしそのほかに金沢言葉というものがあつた。そうして、金沢に住んだことのある私がいろはほどにしろ金沢言葉を知つていた。そこで伊藤の出した疑問に一部分答えていたと思つたのがやはりうろ覚えだつたのらしい。そもそもの第一巻の「解題・校訂」に「高」という言葉での伊藤の疑問が出て印刷されている。  「……『高ばかり亘る風』、意味が明らかでないが初版本のままにした。」  それは、「古き毒草園」のこうあるところである。  「私はそつと庭へ出た。庭にも一杯の新緑と日光とが盛りこぼれて、旺んな夏のはじまりかけたことを感じさせた。青梅がもう葉と葉とのあひまにぽつちりと重げにお尻をおろしてゐたり、柿のわか葉がきらきらと輝いたり、一番せいの高い杏が潔く高ばかり亙る風に青い葉を砥がせてゐたりした。と見ると、日かげの板塀に添つて、…」  それにしても、「解題・校訂」の印刷されたあとでまで私がそれを言わなかつたとすればうろ覚え以上、全くの手落になる。あれはただ「上」ということだつた。ただし「上」と同じなのではない。机の上の灰皿といつた場合、それを机の「高」とは言わない。「高」は空間にかかわる。何か固体に直接しては、「上」であつても「高」とならない。とはいつても、ほんとうには私は金沢言葉を知らないのだから、金沢の人の説明がきければ仕合せである。とにかく、「高ばかり亘る風」は上の方ばかり吹いている風といつた意味の金沢言葉である。ただそれは、「高行くや速総別の……」といつた昔言葉のなごりというのとはちがうだろうと私は取つている。説明はできない。またどうやら、遥かな高空といつた場合には「高」をつかわぬようにも思う。これも説明することはできない。人工衛星の宇宙行、あんなのには使わぬのではないか。むかし長与善郎が「項羽と劉邦」という戯曲を書いた。それが河野通勢の独得な挿絵入りで本になつた。そしてそこに、はるかな空を鶴だか雁だかが啼きながら飛んで行くところがあつて、二人の人物の一方が相手にこんな意味のことを言うところがあつた。  「あれらの鳥は、あまりに高い空を行くのでああも啼き声が悲しげなのです……」  これもうろ覚えで、白どおり写すのではない。そうして、この辺まで来れば「高」はつかわぬように思う。つまるところ、私の記憶も解釈もいつこう正確でないが、あの「高」がざつといつて「上」なことにはまちがいないと思う。  こうして私は東京へ帰つてきた。気になつていた『月報』の私の文章の部分はこんなところである。  「心のこりの最大のものは、これも私としていえば、詳しい葬式前後の記録が入れられなかつたことである。詳しい記録ということはよほど縮めてもいい。告別式での正宗白鳥、佐藤春夫、堀口大学、村野四郎の人々の言葉、医師の解剖所見というくらいに限つてもいい。それを『後記』その他に入れられなかつたのを心のこりに思う。ところで、葬儀については私が葬儀委員長のような役をした。いろんな方面からの援助を受けて事はほぼ完全にはこばれたが、私もぼんやりしていてそれらを録音することができなかつた。録音することを忘れていたのである。そうして、正宗白鳥の弔文、佐藤春夫の弔文を最後の巻の編集までに見つけ出すことができなかつた。これはそれぞれ正宗家、佐藤家にあるはずである。しかし二人の作家は、時間の上で犀星のあとを追うようにして亡くなつた。そのせいもあつて、今のところまだ見つけることができないでいる。  これは葬式記録のこととしてだけ残念なのではない。堀口大学の長い詩とともにして、二人の作家の弔文が、文学的にも文学史的にも、あえていえば人間的にも、めずらしく、興味ふかく、重大だつたからである。正宗全集、佐藤全集は現に並行してすすんでいる。その進行につれてこの日の弔文も出てくることと私は思つている。」  それから気がついて、もう少し書いたあと最後に括弧に入れて書いている。  「佐藤弔辞は口頭でのべられ、原稿のないことがわかつた。——後記」  この後記を入れたとき、私は佐藤が、原稿なしでぶちつけに語りかけるようにしていた姿をはつきり思い出していた。  しかし問題は「後記」にもあつた。括弧に入れて附記した方のでない本来の後記、別巻第二の「死、葬送とその後」そのものにそれはあつた。その一つは、「心のこりの記」にも「死、葬送とその後」にも、円地文子の名があがつていなかつたことである。円地の名を私があげていなかつた。「死、葬送とその後」で、私は、「文壇の長老として——それを資格としてでなく——正宗白鳥が」、「同じジェネレーションの作家および詩人として佐藤春夫が」、「同じく堀口大学が」、「詩人の組織として村野四郎が」、「虎の門病院本間日臣医師が」、「宮城まり子のひきいる合唱隊によつて磯部俶作曲の『犀川』が」、「金沢雨宝院住職の僧衣姿も」と書いている。日本女流文学者会代表の円地の名が脱けてしまつている。この手落は組織に関らない。むろん日本女流文学者会という組織に関係はあるが、団体代表であるなしにかかわらぬ、個人円地についてのこれは私の手落だつた。ある日の円地が、犀星と歩きながらの途上で、犀星にむかつてある種の問いを発したことなども私は知つていた筈である。問いはずかずか踏みこんでくる性質のものでもあつた。そしてそれが、円地の犀星にたいする敬愛、信頼の念に立つていた。そのことも私は知つていた筈である。しかし二度とも私は円地の名をあげるのを忘れていた。葬式以来、何やかや私がつづけてうろうろしてやつてきていたことの証拠だつただろう。印刷面の限り、事実としてこれは円地にたいして礼を欠く結果にもなつていた。  すると間もなく、つまり別巻第二が出て間もなくのこと、ある日金沢の小畠昇から電話がかかつてきた。言葉どおりには文句を覚えていない。話の内容はこういうことだつた。  後記も読み、「心のこりの記」も読んだが、ことにも「心のこりの記」のところはおかしくはないか。弔文が見つからぬなどといつているが、『心』昭和三十七年五月号にちやんと載つているのを知らないのか。それは犀星追悼号というのではない。しかし「室生犀星追悼」の欄があつて、白鳥の弔辞も佐藤の言葉もちやんと印刷されて載つている。滝井孝作の文章も載つている。雑誌は平凡社から出ている。平凡社に訊け。どうしても手にはいらなければ自分の持つているのを貸してやる。平凡社には田辺徹がいる筈だから訊いてみろ……  小畠の言葉は穏かで丁寧だつたが、意味はこういうことだつた。私は小畠昇をよく知らない。小畠敏種、義種との関係、小畠貞一との関係もよく知らない。しかし要するにその一族だとくらいに考えてきた。金沢の人は一般にていねいな口をきく。しかしそのなかでも小畠貞一はていねいな口をきいた。小畠昇にもそれが伝わつているのかも知れない。小畠貞一を私は大学生時分に知つた。それから間もなく小畠は結婚した。割りに晩婚の方だつたかと思う。ある日室生犀星のところで小畠の話が出た。すると犀星が、小畠の性生活が新婚早々にしては淡泊にすぎるといつて非難するような調子で語つて私はまごついた。犀星の「結婚者の手記」を読んでいたが、ひとり者の大学生として淡泊濃厚のことは何とも判断がつかない。しかしこのさい淡泊が非難されるとしても——非難に値するとまでは私は思わなかつたが——淡泊にしろ淡泊に過ぎるにしろそれがいかにも小畠貞一らしいのに改めて私は気づいていた。小畠貞一ならばそうかも知れぬと思えてくる。これだけ書いたのでは、小畠を知らぬ人が勘ちがいをするかも知れぬが今は仕方がない。小畠は、いつも清潔な襟をして洗いたてのような足袋をはいていた。夏なぞは扇子をたずさえていた。彼は四月を「ヨンガツ」と発音した。彼は、私など若いものにも犀星に対するのと同じていねいな口調で話した。ほんの少し、弱い金沢言葉がそれにまじつていた。同じように、ほんの少し、弱い金沢言葉が丁寧な小畠昇の言葉にまじつて電話できこえていた。  私はあわてて平凡社の田辺徹に電話をかけた。彼は『心』の係りではない。しかしそれは出ているから、品物があるかしらべてすぐ速達で送るようにしようといつてくれた。  いつたい犀星の葬式では——病院で重態になつた時からしてそうだつたが——いろんな出版社関係、雑誌編集関係の青年たちが親切に奔走してくれて私は助かつていた。そういう仕来りがあるのかどうか見当はつきかねたが、そういうものかという思いも私はした。大体かれらはすばしこい。仕事が速い。何か困つている事情を、私なり誰なりが皆までいわぬうちに向うで正確に受取つてしまう。受取つた時には解決の段取りができてしまう。そうなのらしい。青年というなかには女もはいつている。そしてその速さ、身軽さが、事務的というのとは幾らかちがつている。思いやりの深い人、そういう人はもつさりしてのろいものと思つていた私などは古くさくなつていたのだろう。思いやり深く、しんみになつて世話することがここでは速さと一体になつている。そしてかれらは、ほとんど徹夜した朝でもさつぱりと身づくろいしてきれいに鬚を剃つてきている。はれぼつたい眼などはしていない。今考えると、あれこれ采配を振つていた筈の私などは何も振らなかつたのだつたかも知れない。かれらの方で、あれにも弱つたものだと思つた瞬間があつたのだつたかも知れぬが、田辺徹もかれらの中にいた。  しかしこの田辺は、あるいはほかの人々ほどにはすばしこくなかつたかも知れない。ただ彼は、犀星の友田辺孝次の息子だつた。田辺孝次に私は一ぺんだけ会つたことがある。田端の家で、フランスへ行く田辺がしばらくの別れの挨拶に来たのだつた。そんな記憶が私にあつたため、逆に田辺徹をほかの人々ほどにはすばしこくないように誤認したのだつたかも知れない。現に田辺はその場で『心』を速達で送つてくれた。  私は雑誌を開いて白鳥文を読み佐藤春夫文を読んだ。それから滝井孝作の文章を読んだ。私があれこれ滝井と話したこともそこに出てきて私も思い出した。私は忘れていたのだつたが、いつもの滝井の文章で事がらが正確に思い出されてくる。あのときの私は、独断的にだけ緊張して、ほんとのところはうつけたようになつていたのだつたろう。  正宗白鳥はこう書いていた。(『心』にのつたのとは、仮名づかいその他些細なちがいがある。)  「先夜室生犀星君の逝去を電話で最初に知せて来た或新聞記者は、同君についての私の感想を求めた。が、私は咄嗟に返答することが出来なかつたので固く断つた。私は現代作家論を幾つも書いてゐるが、犀星論はまだ一度も書いたことがなかつたやうに思つてゐる。それについていろいろ考へながら眠りに就いた。翌日弔問のために、氏の住所を記した紙片を持つて出掛けたが、一二度新聞社の自動車で、氏の家の前に立寄つただけなので、単独では方角が分らなかつた。タクシーの運転手にも分らないので乗車を断わられた。あちらこちらまごまごした果て、通りがかりの巡査に訪ねて、その巡査に案内されて、やうやく目的地にたどりついたのであつた。  はじめて氏の庭園を観た。小《ささ》やかな庭園であつても、私などとちがつた藝術心境をそこに観たやうな感じで、座に就いてからも、氏の作品についていろいろに空想を恣まにして、私自身の作品との相違を考へたのであつた。  犀星君は無論詩人である。生れながら詩を欠いでゐるやうな私の伺ひ知らない純粋な詩人であるらしい。氏は自分の好みの庭を造るとか、さまざまな陶器を玩賞することに心根を労していたらしい。さういふ藝術境地が氏の小説その他の作品に漂つてゐるのである。私の作品にはどこを捜しても、さういふ藝術心境が出現してゐないやうである。私の住宅に庭と称せられる物があつても、それは荒れ地に、樹木雑草が出鱈目に植わつてゐるだけである。私の文学もその通りであらう。こんなものが藝術かと室生君には感ぜられさうである。庭や陶器など別として、君の小説を観ると、女性に関する関心が丹念に深さを進めてゐることが、私にも感ぜられるのである。ねばり強い事一通りでなささうである。私はそれ等の点から新たに犀星君の作品検討を試みようかと、普通一般の宗教形式に由らない追悼の席に坐りながら思ひを凝らした。  室生君とは軽井沢に於て親しくしてゐたのであつた。心に隔てを置かず、世間話文壇話をしてゐたのであつたが、陶器や庭園に関する立入つた話、或は文学そのものについての立入つた話は一度もしたことがなかつた。淡々とした話で終始してゐたのだが、それだからお互ひに気まずい思ひをしなかつたのであらう。  私は君よりも老いてゐる。今後いつまで君の面影を私の心に留める事であらう?」  佐藤春夫はこう書いていた。書いていたというのは文字通りにいつてである。彼は行きなり口で語つたのだつたから、家へ帰るなり書きとめて置いたものであつただろう。「今は亡しわが犀星——告別式で述べたことのあらまし」としてあるが、私の記憶ではそつくりそのままといいたくなる。近年私は、さすがの佐藤春夫も老いてきたと思つた瞬間があつたが、しかしこれを見てその点思い直さなければならなかつた。  「中野重治君が友人代表としてわたくしに弔辞を述べさせてくれるのは適当な人選かどうかは知らないが、思へば故人の東京での最もふるい友人には相違ないし、せつかくの指名は固辞すべき筋合ひのものでもなし、お引受けした。  ところが指名を受けた日から一昼夜、それから実は今日も午前十一時ごろまで弔辞の文案をねつてゐたのに、どうしても文はまとまらない。  わたくしは医者のせがれのせゐか、死といふものはほんの生理的現象とあつさりドライにかたづける側で、今までそれですぎてゐたのに、今度ばかりはほかに理由があるのかどうかは知らないが、何か体ぢゆうを不消化な物があちらこちらと移動してゐるやうな気がして落ちつけず、弔辞一つ満足に書けない。仕方がないから訥弁をかへりみず言葉で述べさせていただくことにします。  回顧すれば明治四十二年上京したわたくしは本郷界隈でぐずぐずしてゐる間に友人広川松五郎のところではじめて、さうして度々故人のうはさを聞いた。彼がほとんど毎晩のやうに根津権現裏の酒場に出没して、撲つたとか撲られたとかいふやうな話ばかりであつた。お互に名を知り合つたのはそのころ、お互の二十歳前後からであつた。もう五十年あまり前のことになる。  その後彼は盟友萩原朔太郎とめぐり合つてパンフレットのやうな詩誌『感情』を出すに至つて毎号寄贈を受けて彼の詩を愛誦した。  彼の詩は情熱的で純粋なさうして色情の匂ひのおびただしい、すべての実感を世俗を憚らない思ひ切つた強い表現を持つたもので、その独自の表現は原始人のやうな生気といふよりも蛮気に満ちたものであつた。この詩精神と蛮気のある表現とは、後年詩から散文に移つて後も生涯一貫したものであつた。  その詩に感心しながらも社交性のないわたくしは彼のところへたずねて行つたり手紙を書いたりすることもなく数年過ぎた。  偶々彼が散文の第一作を発表した時、それに共鳴するところのあつたらしい谷崎潤一郎に誘はれて、当時たしか田端だか滝の川だかそのあたりにあつた植木屋のうら木戸からすぐ出入りする離れへ彼を訪問したのが彼とはじめて話した機会であつた。それまで名は知り顔も途上で見かけて互に黙礼したことぐらゐはあつたが口を利いたことはなかつたのである。  彼は大に喜んだ様子で我々を迎へてくれた。机上には新潮社の近代文学全集版らしいドストエフスキーのカラマゾフの兄弟だか何かが置かれてゐて、彼はそれを読んでゐたところらしかつた。  その時、どんな話をしたのかおぼえてゐないが、ただ一つ印象に深いのは、部屋の片隅にみかん箱を横倒しにして並べ積み重ねたなかに、遠眼には九谷か伊万里かとも思へる陶器が大切げに飾られてゐることであつた。  およそ三十分ばかり話して外に出ると、谷崎は室生の無邪気に熱のあるところが気に入つたげな様子であつたが、それにしてもあのみかん箱はをかしいと悪意なく笑つたものであつた。  我々は手にとつて見たわけでもなく、見てもわかりもしなかつたが当時の彼の生活から考へてみて、わざわざ飾り立るほどの品々とは思はなかつたからである。  思へばそれから、かれこれ四十年あまり、その間にあのみかん箱が、黒檀や紫檀のわくのケースに変つてなかみも唐三彩か何かまで進歩して行つたのであつた。進歩したのはただその愛玩品だけではなく、彼の文学も同じやうな歩調でぐんぐん進んで行つた。彼は出自、その無教育、さうしてその風貌など、すべて何らの恥ぢるところのないものを自ら好んで自らの劣等感に仕立て上げて、その幻に対してドン・キホーテのやうに闘ひつづけた結果でもあつたらう。  中国の昔の話に『天から来た男』といふのがあつてこの男は村の労働者にまじつて貧乏暮しをしてゐたが、船が顛覆すると片手に抱きかかへて船をおこし、落ちた荷物は微細なものまで一つ残らず水底から捜し出す。光が必要なら手を差しのべては天上の星を任意に摘み取るといふやうな超人的な力を持つた巨人の話であるが、室生はいつの間にかさういふ巨人となつて我々の前に突つ立つてゐた。  それが今我々の視界からかすかに一点のやうな後姿を遠く見せて消えて行かうとしてゐるのは、何とも心ぼそく切ないことである。しかし、或は雲となり風となり、また野山の花々や街を行く女人の胸や腰の線となつて彼はいつまでもわれわれの身辺の世界にいつまでも生きてゐるやうな気もする。  わたくしは彼とは性情の相似たやうなそれでゐて非常にくひ違つたところがあつて、そのため心と心とふれ合ふやうな真の友情を結ぶには到らなかつた。それもお互の老いとともに、追々と相互の理解が深まつて真の友情に到着する喜ばしいきざしが年々はつきりしてゐた折から今不意に君を失ふことはまことに恨事である。或はあまりに率直に君に対して、時にそのつもりもなく君の自尊心を傷つけたやうなこともあつたのではないかと、わが身のふつつかを省み、君に対してもの言ふ、この最後の機会にこれらもおわびして置かう。しかし、わたくしこそ真に君を理解するよき友のつもりである。では安らかに永き眠りを眠り給へ。」  遺骸のかえつた翌る日の三月二十七日は朝から寒かつた。それが日の暮れになつていつそう寒くなり、むしろ冷えてきた。次から次へ人が来る。次から次へ花が来る。そのため座敷も奥の間も外側をいつぱいに開けてある。火鉢などが出ているが追いつかない。そこにいつまでも正宗白鳥が坐つている。白鳥はいつそう小さくなつて、シャツの襟と頸とのあわいに隙間ができ、両の袖口が手の甲のところにまでかぶさつて来ている。小さい手あぶりを前にして、その白鳥が、そんな洋服姿できちんと坐つたままいつまでも動かない。話すのでもあり独り言をいうのでもあるような調子で、隣りの、いくらか内輪のものの部屋へ案内しようとしてもなかなか腰を上げない。それでもしまいには隣り部屋へ移つてくれた。そこに川端康成がいた。堀口大学がいた。三好達治、平木二六、森茉莉がいた。伊藤信吉もいた。もつといろんな人がいたが覚えていない。この人たちにしても初めからそこにいたのではない。むろん出たりはいつたりで、揃つていたのでもない。そうして話がはずむ。はずむといつてはちがうかも知れぬが、いくら話しても種子が尽きぬという調子で堀口大学が話す。堀口を私ははじめて見た。堀口大学というのはこういう人だつたのかと思う。昔からそうだつたのでなくてこういう人になつていたのだつたろうとも思う。むかし金沢にはいい古本屋が何軒もあつて、そういう古本屋で私は『失はれた宝玉』や『昨日の花』を買つて耽読した。山内義雄の『仏蘭西詩選』以前のことだつた。『明星』の裏表紙でポール・フォールと向きあつて撮つた写真を見たこともある。ハイカラでエロチックな彼の作品を読んできてもいた。『月下の一群』は出るなり買つて読んだ。しかし堀口大学をこういう男として思い描いたことはそれまでの私になかつたことだつた。ハイカラでないことはない。伊達こきでないことはない。しかし杯を口へ持つて行きながら語る堀口には山男のようなところがあつた。むくつけき老書生といつたところがあつた。もともとそこが彼の本領だつたのかも知れない。そうかも知れぬにしても、時が何かを洗い去つたのでもあつただろう。川端康成は京都から帰つてしばらくというところだつた。彼は新聞に京都にからんだ続きものを書いていたが、京都滞在中ずつと眠剤をつかつていて、北山杉の記憶以外は何をしていたのやらまるで覚えがないという気味のわるいような話をした。脣外側の線などにそれが現れているようでいつそう気味わるい。そうしてすべてが面白かつた。通夜の夜の話で悪いがほんとに私には楽しく面白かつた。何時間も話しただろう。入りかわりもあり、途中で帰つたものもあり——たしか白鳥は、あまり晩くなつてはと思つて私たちの方で帰つてもらつたのだつたかと思う。——私自身酒を飲みながら聞いていたのだから、話の内容はいちいちに覚えていない。覚えていないよりもぼんやりしてしまつている。また私は何度も中座しなければならなかつたのでもあつた。多分その時のことだつたろう。まだそれほどには暗くなつていなかつたが、何かで出かけねばならなくなつて門を出ようとするところで佐藤春夫がはいつて来た。脚の悪い佐藤には誰かついていたと思うが、これがこの日のことだつたか怪しい点はある。この夜は放送局で犀星をめぐる座談会のようなものもあり、たしか伊藤信吉、福永武彦たちが出たのではなかつたかと思うがこれも怪しい……  しかし『心』へかえつて、ここには正宗文と佐藤文としか印刷されていなかつた。私としては特にも堀口の詩がほしい。堀口が読んで行つて、それを席で聴いていた時のことが気持ちだけはつきり来る。そこで私は堀口あて手紙を書いた。そしてそれをまだ出さぬでいるところへ『新潮』編集部の人が来た。もしかしたら室生朝子のところにあるかも知れない。そこで電話で訊いてもらうとそれはある筈だということだつた。ここのところ彼女は病気をした。肝臓、腎臓、そういう病気で百日近くも入院していただろう。堀口詩稿が行きなり出て来なくても仕方はない。とにかくある筈だというので、堀口あて手紙は取りやめにして『新潮』の人に大森へ行つてもらうことにした。そうして、万一なかつた節はすまぬが葉山まで行つてもらいたい、何かに発表されたのならそれを貸してもらつてきてほしい。私自身出かけなければならぬところだつたが、その時私は動けなかつた。失礼の段はくれぐれもよく説明して聞いてもらつてほしい……  身動きできぬまま三日ばかりいらいらしていた挙句に堀口詩稿は大森にないことがわかつた。しかし村野四郎原稿があつた。円地文子原稿があつた。思いもかけず正宗白鳥原稿までがあつた。白鳥原稿のことは、あの人のことで初めからあきらめていたのだつたが。一方『新潮』編集者は葉山へ行つてくれていた。堀口は親切そのもので事を受けとつてくれていた。『新潮』は原稿を写してきて私に渡してくれた。書いた人たちへのお礼も引用許可願いも後まわしにして私は写さなければならない。  村野四郎は「日本現代詩人会会長」としてこう書いていた。  「私たち後輩詩人の願いもむなしく、室生先生は、ついに永遠の旅路につかれました。この悲しみは、たとえようもありません。  いつも温く、しかもきびしい詩人としての生涯をつらぬかれた室生先生。私たちは、たえず先生の気魄と愛情とを、肉親のように身近に感じながら、新しい詩の道をあゆんできたのであります。  先生がのこされた大正、昭和の二代にわたる詩の業績は、今さら言うまでもありませんが、しかもその最後の日まで、御自身でもうけられた室生犀星賞によつて、若い詩人たちを激励されてこられました。そして或るとき、こうも言われました。  『詩は、奥へ奥へとすすみ、後ろを振りかえることがない。詩は文学の中で、最も新しいやつで、新しいために滅びることを覚悟しているやつである』と。  このすさまじい詩精神と、新しい詩に対する御理解とは、どんなにか若い詩人たちを勇気づけたことでしよう。  室生先生は、私たちにとつて、真にかけがえのない大きな支えでありました。そして新しい現代詩の将来を見守る、あたたかい父親でもありました。  今日、この先生を、永遠に見送るとき、愛惜の泪の滂沱たるを禁じえません。  しかし、先生のこの厳しいお言葉と、あの温い面影とは、後から進む私たち詩人の胸から、終生消えさることがないでしよう。  室生先生、どうか安らかにお眠り下さい。」  円地文子は「日本女流文学者会」として美しい筆文字でこう書いていた。  「室生犀星先生  先生のお柩の前でこんなしのびことばを捧げる日があらうとは夢にも思つて居りませんでした。先生の御病気が篤くなつてゐるのを知つてゐながらも 衰へた御健康を眼にまざまざと見ながらも それが現実の死とつながらなかつたのでございます。  先生が新しい美しい言葉でいみじくも呼びかけて下さつた女ひとの一人として 又 黄金の針といふきらきらしい名を冠せて下さつた婦人作家の一人として 私は先生のお生命が亡はれた今 文字通り肉身の父をうしなつた悲しみに溺れて居ります  先生のやうに 女をやさしくきびしく見守り育てて下さつたお方は ほんたうに稀でございました  昨夜お通夜の時 先生のお写真のまはりが軟かい白い花の群れに囲まれ 濃やかな匂ひの中にお顔が沈んでいらつしやるのを見て 私はそれが先生の父性的な愛情で 清め暖められて花咲いた無数の女の生命によつて この上なく美しく花やいでゐるのを感じました  先生の遺された傑れた作品の数々は 憎々しいまでに逞しくなまなましい生命を持ちつづけてこの後永く私達の内に生きつづけて行くに違ひありませんが これからは大森のお宅に行つても軽井沢をお訪ねしても 現し身の先生がそこに坐つてゐられていつも変らぬ御様子で手づからおいしい煎茶をふるまつて下さつたり、少し息切れする語尾でやさしくきびしく ほんたうのことだけを話して下さることが もう永遠にないのかと思ふと 私の心身はやる瀬ない悲しみに閉ぢふさがります  先生 今はやすらかにお眠り下さいと言へない肉親じみた取乱し方をおゆるし下さいまし」  堀口大学は「犀星詩人の霊前に捧ぐ」としてこう書いていた。そこに小文字で「三月二十九日 未明 床中作」とあり、欄外に「大学注。」として、「当日朗読した原稿と少々ちがうところがある。これが、本稿が、決定稿だ。」とある。これには署名はない。 一だん 一千九百六十二年、三月二十七日の夜《よる》、 君が死去のかなしい翌晩、 真白な花にうずまつた 君の遺骸に合掌し 君のお通夜に連つて 遺族の方々にお願いして つい先日出来たばかりの 『室生犀星全詩集』を頂いて僕は帰つた。 万福寺前の暗い坂道を降りながら 僕は思つた 〈さすがは一代の詩宗の全集 地球を提げて歩くほど どつしりと、こいつは重い〉と。 二だん 君を最初に見たのは (ふしぎなほどはつきり覚えているが) 一千九百十七年、五月も末の 大森の『くら闇坂』下の あのガード下の道だ。 晩春のその日の空は うららかに晴れていた。 君はひとりで海岸の方角から歩いて来た、 僕は、これも詩人のH《エツチ》と、あの坂下を 駅の方へと歩いていた。 君とHは、 知り合いの仲らしく 〈やあ!〉 〈おう!〉と、 外見《みかけ》はいかにも気易げだが、 何か芯《しん》の残るあいさつを交《かわ》しただけで 立ち止りもせずに行き過ぎた。 そのあとで、Hが僕をかえりみて 〈あれが室生犀星だよ〉と、教えてくれた。 その時の君の姿は、(忘れもしない) まだ一度も水をくぐつたことのない、 ぱりつとした久留米がすりの 素《す》袷《あわせ》の腰に 荒縄を 帯の代りに巻きつけていた。 その荒縄が、うららかな春の光に 黄金《こがね》さながらに照り輝いた。 この時が、鬼気に似たものを 君に感じた最初であつた。 三だん あの時代、詩は滅亡への道だつた、 『くら闇坂』の登り降《お》り。 君も歌つていたように、 〈詩を書いていると 餓死しなければならない日本 この日本に 新らしい仕事をするため 父母をにへにし 兄姉にうとまれ 世の中よりはのらくらものに思はれ いつも不敵な孤独に住み 毎日毎日仕事をしている私ども 善くなろうとする私ども〉…… 君は二十九歳、僕は三つ下の二十六歳、 僕らの出会いはそこだつた、 大森の『くら闇坂』の登り降り。 列車や電車もその頃は、 今ほど繁げくは通らない 郊外の名にふさわしく 低い燕の飛ぶ場所だつた。 四だん 君は案外早くから 僕の浮薄を愛してくれていたようだ、 それなのに、 君とは語る機を得ずに、 あの出会いのすぐあとで 僕はブラジルへ去つてしもう。 そして五年も帰らない。 南半球のはてにいる僕のところへ 三つも年下の浮薄な才子、僕の所へ、 君は、朔太郎とふたりで出していた 詩の雑誌、『感情』を 毎号欠かさずに送つてくれた。 それなのに、 『感情』に出る君の詩に 僕は感動しなかつた、 今にして気がつくのだが、そのわけは、 僕らの言葉がちがつた、ためのようでもあり、 あの頃の君の詩の誠実が、善良が、 邪悪にあこがれていた僕に、 汲み取り切れなかつた、ためのようでもある。 君の詩に対する僕の開《かい》眼《げん》は、 その後の『抒情小曲集』だつた。 あの集の、 『小景異情』その二には悉く圧倒された、 『寂しき春』には、心の底から驚倒した。 また、集中、かもめを歌つた一篇の 天衣無縫の美しさ! あれを読んだ時僕は、 君の資質を羨望した。 五だん あの集が出てから四十年たつ、 〈ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたうもの〉 警抜な君のこの詩句は 広く人たちに愛されて 今では日本人の心の中で 〈ふるさと〉というこの言葉は 〈かつて住んでいた土地〉という元の意味と 同じほど普遍性のある 別な一つの新しい意味、 〈遠くにあつて思うもの〉を、 持つに至つた。 君の詩にこんな力があつたのだ。 六だん 君の気性の強さを思う時 僕はいつも、 〈これ石 巌々〉という言葉でする。 僕は知らない、君ほど気丈な人間を、 君は病気なんかで死ぬ男ではなかつた。 そこにつけ込んでガンの奴が君の命を奪つた。 僕はガンを憎むよ。 だが、犀星君、安心してくれ給え、 憎むべきガンの奴にも、 君の詩には絶対に歯が立たないから! ざまを見ろ、ガンの弱むし! どれほどきさまが暴れても 犀星の一千篇の詩は殺しきれまいが  これだけでも私の原稿は長くなつた。しかしもう少しだけ書いておきたい。一つは、やはり『追想の犀星詩抄』に出てくる次のところのことである。  「九月末東京に戻つた父は、精密検査のため入院したが、十月のなかば私は主治医から肺癌の宣告を受けた。生命は約一年という主治医の保証であつたが、退院後特に元気な二カ月間は平和であつた。しかし、間もなく癌転移は父の運動神経を徐々に侵し……」  子供姉弟に医者の宣告のあつた直後私はかれらから訪問を受けた。そしてことの次第を告げられて予想される死とその後の始末とのことで相談をかけられた。私のうろ覚えでは、医者は、どしどし進行すれば三月ほど、よほどよく行つて一年という風にいつたのらしかつたが、死はちようど間を取つてきたのだつたろう。私として、姉弟の心労はほんとうにはリアライズすることができなかつた。誰にしろそうにちがいない。人にも本人にも秘密にすることなどは、かれらの方はともかく私の方として格別困難ではなかつた。しかし後始末となると話が面倒になる。  原因の一つには犀星の経済観念ということがあつた。それがそつくり不経済観念というべきものなために私たちは困ることになつたのだつた。若い時から犀星はさんざん貧乏した。そこで金銭のことで学んできたかというと彼は逆に学ばなかつた。金を持つたことのないものが借金するとき彼はできるだけ少く借りようとする。たくさん借りては返せなくなるだろう、返すときに苦しいだろうと考えて吝な額を求める。人がもつと貸してくれようとしてさえできるだけ少く借りようとする。逆なことがわからない。借りられる限り莫大な額を借りるのが得なことが頭でわかつてさえ手が出ない。犀星に借金はなかつたが、金銭の運用ということでは彼は野蛮人のようなものだつた。少くとも資本主義以前だつたといつていい。  大森の家は、建物だけがわが物で土地は借りたままのものだつた。軽井沢の別荘も、あれだけ長く住みながら土地は借りたままのものだつた。万事その調子だつたから、犀星死後家をどうするか、土地建物に限らず遺族がどう身の振り方をつけるかで姉弟と私とのあいだで意見のちがいが生じてきた。これは、私が正しくてかれらが誤つていたというのではない。無論その反対でもない。むしろ自然なことでさえあつただろう。心配した川端が、沓掛の私のところへわざわざ出かけて話しにきてくれたこともある。そして事は落着した。つまるところは残されたもの自身である。誰の場合にしろ同じである。私自身がそこに含まれる。ここは、こういうことがあつたことを記録するまでである。  第二は室生犀星詩人賞のことである。朝子も書いているように、野間文藝賞を受けた犀星は副賞の金の使い道を授賞式のとき自分で発表した。その一つに「室生犀星詩人賞を設定」ということがあつた。それは実行されてきた。しかし犀星はそのために確か三十万円をあてていた。年々の賞金を利子として生み出す元金を支度したのではなかつた。それだから、第一回は賞金五万円一人だつたろうか、第二回は六万円(受賞者二人)になるという具合だつたから金は眼に見えて減つて行く。減つてきている。つまりここいらが前々資本主義的である。そこでどうするか。子供たちとしては多少無理をしても続けたいという。そんならそれだけの元金を新しく支度するか。死の直後で若干そこに困難がある。一方、もともとあれは犀星が自分一人で選も何もやつてきたのだつたから、犀星本人が亡くなつてみれば選者その人がなくなつたのである。犀星の死で賞がうち切られても話の筋道はつく。そういう考えもあり、私はいくらかその考えだつたが我ながら無理も感じられた。そうして、ことの経過を正確には覚えないが、あれこれした後で賞はつづけられることになり、別巻第二の後記に私がこう書いたのでもあつた。  「……佐藤春夫、堀口大学の二人があとを引きうけることになつた。しかし間もなく佐藤春夫が故人となつた。そこでそれは堀口大学、西脇順三郎の二人にゆだねられることになつた。」  そうしてそれは無事つづいている。ただこの経過のなかで、佐藤が私に選者の一人になれといい出して、私がことを説明して断つたということがあつた。それは、佐藤が賞の選者のことで誤解をしていて、この賞に選者団のようなものがあり、もともと私がその一人であるように彼が思いこんでいたという事実から来たことだつた。それはそうでないことを私が説明して彼は了解した。しかし今度は、それならば新しく選者団をつくらなければならないが、新しくつくるそれにはいれという話になつてしかし私は断つた。断つたというと言葉がきつ過ぎるが、詩の選といつたことでは私は自分の無力、無資格をしたたかに感じていた。第一その気力がない。また第一このごろの詩というのがわからなくなつている。どうかするとべた一面に下手に見えてくる。そんなら自分で書けるかというと、一行さえ、半行さえ書けない。それに私には、犀星一代で打切りにしてもいいという思いの名残りのようなものがまだ残つている。そこをいろいろに説明して了解してもらおうとしたが相手にも誤解の名残りのようなものがあつた。室生姉弟と私との間に、あれこれのことで意見の相違があるといつたことが彼の耳にもはいつていたのらしく、これを根にもつてというのではないが、つまりはそこに引つかかつて私が断つたものという推測が彼にあつたらしかつた。そこでなおよく説明して私は彼に納得してもらつたが、ちようど部屋に昔『殉情詩集』に入れていた自画像が取出されていて、昔一度見たときよりもだいぶ脂色に黒ずんでいたのを今思い出す。このことでは、『群像』編集の大久保房男が脚を運んでくれ、その結果佐藤春夫の手紙一通が私の手許に残ることになつたが、それは死のひと月前のものであり、さつき引いた私の後記の部分を訂正するものになるようである。  「拝呈、用箋にて失礼いたします。過日は大久保を代理に差上げて御清閑を煩はし恐縮に存じます。いただいたお手紙によりお心持は十分に拝察いたしました。なほわざわざおはがきにてお申越しの切手不足なきかとの件はなんのこともなく確かに到着これ亦御放念あり度存じます。貴下が犀星賞に御参加なきことは小生としては心残りですが是非もない事とあきらめ、そこで小生方へ話を持ち込ませた堀口大学と相談致しまた、現代詩人会の西脇氏にも加はつてもらひ西脇順三郎堀口大学及び小生の三人にて犀星を記念する目的で犀星賞をつづけることに決定いたしましたことを報告申し上げます。御諒承下さい。なほ今後とも御気づきの点は何かと御教示下さい。また御序の節は伊藤信吉君へも可然御伝へ置きの程を願ひ上げます。右乍延引不文乱筆にて御報まで 四月四日朝 佐藤 春夫」  ていねいな手紙で私こそ恐縮したが、これでみると、はじめ佐藤、堀口の二人でやり、佐藤の死後、堀口、西脇の二人になつたと書いた私のまちがいが訂正されてくる。  これでこの長すぎた記はしまいになるが、告別式の日に式場へおくれてきた娘のあつたことをつけ加えさせてもらおう。あらかた会場のすべての人が帰つてしまつて、私たちはせき立てられて自動車に乗り、乗つてから忘れものを思い出してもう一度飛び出して行くものがあつたりしてなおせき立てられていた。そしてやつと車は動き出し、走り出す恰好になつて行つた。その時一人の若い女が急ぎ足に門をはいつてくるのが見えた。はいつて来る道と出て行く道とはあすこはちがう。はいつて来るものと出て行くものとはすれちがわない。はいつて来るもののコースと出て行くもののコースとで円周を形づくる恰好になる。娘といつてももはや子供ではなかつたが、あたりの模様に気がついて彼女は道路の上に立ちどまつた。それから一二歩すすんでまた立ちどまつた。会場の扉はこれから閉まろうとするところだつたがまだはいれぬことはない。私が窓をあけてそれを言おうとしたとき車は走り出してしまつていた。車の奥に押しこまれていてとつさに隣りの男にそれを言うこともできない。若い女は諦めたらしく、向きをかえて歩き出した。私たちの車は門を出てしまつていた。あれは大学生か何かだつたかも知れない。むしろ勤めを持つている人だつたかも知れない。ちよつとのことで遅れてきたのをくち惜しがつただろうと思う。帰つてからも悲しがつたかも知れない。しかしあれが作者と読者との関係だつたろうとも思う。あの若い女が幸福であるように私は祈る。 室生犀星(照道)  金沢市小畠家にうまれ、少年のとき犀川べりの寺(室生真乗)に養子となり、高等小学校までの学校教育を受けただけで地方裁判所の給仕をつとめるうち、初めて文学に近づいて俳句をつくり、つぎに詩にはいつた。詩の上で彼を最初に大きく見出したのは児玉花外だが、花外が詩人として沈黙した時に犀星はあたらしい詩の道をひらく一人となつて行つた。仕事は主として萩原朔太郎との珍しい友情の上に築かれ、そのいわば頂点に北原白秋が位置し、しかし二人は白秋とはちがつた詩境を、山村暮鳥、千家元麿らとならんで築いて行つた。それは大正期の日本の詩が第一世界大戦中、大戦後の世界および国内変化のなかに、新しい面を獲得して行つたうちのもつともすぐれた部分である。その心理と生活態度とのうちには、トルストイ、ドストエフスキーなど第十九世紀ロシヤ文学における一般的人間愛が相当ふかく取り入れられ、下層日本人生活の小ブルジョア的個人を通してのするどい反映が見られる。『抒情小曲集』と二つの『愛の詩集』とはこれをもつともよく示し、この種のものとしてかけがえのない新しいものを日本の詩に与えた。日夏耿之介が犀星を無学・無教養の群小詩人の一人とした(『明治大正詩史』)ことは、詩人犀星が教養からでなく生活から詩を生んで行つた事実を証拠だてるものとして、教養派が何ものの詩をも生み得なかつた事実とあきらかに対比される。犀星は後に散文に入り、さらに『忘春詩集』『高麗の花』を経て『鉄《くろがね》集』に続く多くの詩を生み、また「驢馬」その他の詩人を育てている。その業績の一部は『室生犀星全集』(非凡閣刊)全十四巻についてうかがえる。 『抒情小曲集』  室生犀星のごく初期の作品集であつて、二つの『愛の詩集』とともにこの詩人の存在を確立したもの。いくたびか版を重ね、ひろく人々の胸にうつつて詩に対する土台を養つている。初版の序も一九三三年刊行の『室生犀星全集』版の序も、ともにそれが「二十歳頃から二十三四歳の時代に、いつも歌ふがごとくまた嘆くがごとく書きつづられた」ものであることをいつている。作品はその熱情、その純粋、その透明において類がすくなく、「あんず」から「坂」などに至る一巻自身一つの真実にみちた人生図を織りなし、ある種の行は作者を知らぬものの口にも上つている。 室生犀星 室生犀星 むろうさいせい 明治二二・八・一—昭和三七・三・二六(一八八九—一九六二)詩人、小説家。本名照道、別号魚《ぎよ》眠《みん》洞《どう》。金沢市裏千日町に生まれた。父は加賀藩で足軽組頭をつとめた小畠弥左衛門吉種、母はハル、実の名は佐部ステ。ハルは女中としての呼び名である。つまりこの男児は、妻をうしなつた古種とその家の女中とのあいだに生まれた、当時の言葉でいつて私生児である。そして、まだ名もつけられるかつけられぬかに他家にやられた。生母からひき離されて、赤井ハツという女の許《もと》にやられ、ハツの私生児として届けられたのである。赤井ハツは、当時、犀川べりの雨宝院という寺の住職室生真乗の内縁の妻であつた。こうして、子供は、年七つで、真乗の養嗣子室生照道となつた。犀星は、むかしの侍の子として生まれ、二転三転して、出家得度というのとはまつたくちがつた経路で、寺の子、僧侶の子となつたのである。僧真乗は、しかし詩人犀星の成長に内面的に大きく影響した。この影響の詩への転化は『抒情小曲集』(大七刊)の随所にみられる。生母への情念が、少年の犀星にどれだけ食い入つていたかはわからない。しかしそれは生母へのあてどのない、またつきとめようのない特殊の愛着として、真乗から汲み入れたものと重ね焼きになつて少年犀星を育てた。それは青年犀星をも育て、影響は後年に及び、おそらく生涯に及んだといつていい。きわめて感覚的な面を伴いながら、女、婦人にたいするこの作家の特殊な卑下、愛、尊敬がそこから生まれる。  雨宝院は寺として貧しかつた。そのことと、右の家庭事情とが重なつて少年犀星は四年制高等小学校を三年で退学、ただちに金沢地方裁判所に給仕として就職しなければならなかつた。初給月二円五〇銭である。こういう生活のなかで犀星は文学に近づき、またこういう生活が彼を文学に近づかせた。それはまず俳句の世界であつた。金沢という城下町の空気がそれに関係していた。当時四高教授として金沢にいた俳人藤井紫影(乙男)も少年犀星に影響した。短歌もまた彼を引きよせた。しかし特に新しい詩が少年犀星を内部からしたたかにとらえた。彼は文学投書を始め、これは彼を児玉花外に結びつけた。しかし花外は、時代の新しい詩の動きからすでにいくらかはずれつつあり、代わりに北原白秋のような新しい星が犀星の前にあらわれていた。白秋の『邪宗門』は犀星を魅した。犀星にとつて、白秋を知つたことはやがて萩原朔太郎を知ることでもあつた。  『邪宗門』に魅いられたとき犀星は年二〇になつていたが、それは犀星にとつて生活の動揺期、流浪の季節でもあつた。福井県、石川県などの地方新聞記者生活を転々としたあげく、彼の最初の文学生活が始まつた。しかしこの生活には少しの安定もなかつた。貧困大都市底辺の放浪青年生活は、犀星に悪酒を強い、不安と懊悩とは彼をいつそう文学、特に詩においやつた。シャム兄弟のような犀星、朔太郎の関係がここに始まる。それはほとんど運命的なものであつた。かれらは詩誌『卓上噴水』をつくり、ついで『感情』をつくつた。『愛の詩集』(大七刊)の序に白秋はこう書いた。「君は健康であり、彼は繊弱である。君は土、彼は硝子《ガラス》、君は裸の蝋《ろう》燭《そく》、彼は電球。君は曠原の自然木、彼は幾何学式庭園の竹、君は逞ましい蛮人、而して彼は比歇的利《ヒステリイ》性の文明人。君は又男性の剛気を保ち、彼は女性の柔軟を持つ」。彼とは朔太郎である。その間に犀星は芥川龍之介、佐藤春夫その他を知つた。また斎藤茂吉とのあいだにも知りあうところがあつた。多田不二、竹村俊《とし》郎《お》との関係、美術家田辺孝次、恩地孝四郎などとの生涯にわたる関係もこの間に育つた。また東京の生活、いわばそこを食いつめて生まれ故郷の金沢に舞いもどり、そこにも滞在することができなくて、ふたたび東京に逃げもどるという生活は、救いを求める者のような形で犀星をドストエフスキーその他のロシア文学に親しませていつた。第一次大戦後の日本社会との関係からでもある。それらすべてが犀星の成長を助け、また犀星における基本的なものがこの時期を通してつくられたといつていい。犀星の詩における第一期の仕事がいわば完成し、同時に散文の仕事の土台がこの時期に築かれた。  仕事はまず詩として発表された。『愛の詩集』『抒情小曲集』『第二愛の詩集』(大八刊)がそれである。ある無類のものをそれは表出した。萩原朔太郎とともに、それは新しい世代のために新しい歌口をひらいたものであつた。『愛の詩集』『抒情小曲集』の出版は、詩壇に、また詩と散文との交流の保たれていた当時の文壇に彼の位置をあたえた。貧しい、しかし内面的に安定した生活がはじめて犀星を訪れようとしていた。それは結婚の時でもあつた。金沢の人浅川とみ子と結婚し、青年期の泥のような生活から脱《ぬ》けて次の生活段階へ昇つて行く。  詩の仕事をつづけつつあつた犀星に、詩の仕事をつづけさせながら、それに並行して、ここに新しく散文の世界、小説創作の世界がひらけてきた。「幼年時代」「性に眼覚める頃」「或る少女の死まで」(以上大八)などで、犀星はいわばおずおずとした態度で出発した。珍しい少年の清純と、その性的感覚の成長との微妙に入りまじつた姿が描かれた。一昔まえ、少年期の清純は性的感覚の敏感と対立させられていた。この非現実的な対置が藝術的に取りはずされた。これらの作品は『中央公論』に発表されたが、彼につづけさまに書かせた『中央公論』編集者滝田樗蔭の執心は記憶されるのに値する。これらの仕事で散文の自由を知つた犀星は、そこに思うさま手足をのばそうとすると同時にほとんどその自由に溺《おぼ》れていつた。この自由の発見は、滝田が忠告に出たほどまで、彼に乱作の非難があたえられるほどにまで彼に多作の時期を迎えさせ、朔太郎は、犀星を詩を裏切るものとして非難しさえした。しかし転機はいわば外部からもきた。彼は最初の子供(男)を失つた。つづいて関東大震災がきた。これは、自然の災害であるとともに人間の災害でもあつた。多くの朝鮮人が殺され、大杉栄、東京・南葛《かつ》地区の労働者その他が殺された(亀戸事件)。そして犀星の妻はそのとき産褥にあるのであつた。この、自然と人間との重なつてきた大災害はひろく文学者たちの生活哲学にショックをあたえたが、犀星は家族を引きつれて郷里金沢に移り新しくそこでの生活を始めた。しかも追いかけて彼は畏友芥川龍之介の死を迎えねばならなかつた。芥川の死は自殺であり、これは犀星に非常に強い刺激となつた。彼は、芥川を死ヘと引きこんだものと正面からたたかつていくほかなかつた。このころ彼は若い文学青年たちとも親しみ、それは『驢馬』の創刊その他とも結びついていつた。  彼はふたたび東京生活にもどり、昭和四年以後の世相のなかで、その中をがむしやらに生き通していく、ある意味で無知な、しかし生活力に満ちた社会下層の人間とともに彼自身の文学生活を生きようとした。「あにいもうと」(昭九)「女の図」(昭一〇)「復讐」(昭一〇)などが生まれ、すすんで彼は初めて国外旅行にも出た。しかしまたしてもそこに変動がきた。日本は帝国主義戦争へと急激に傾斜、突入してゆき、それは犀星のここまできた方向をしばり、あまつさえ妻とみ子の脳溢血発作がおおいかぶさつてきた。政府の「国民精神総動員」運動と妻のたおれたことと、この二つは犀星を「王朝もの」の方へ向かわせる一つの素地をもつくつた。犀星自身、折口信夫との新しい関係のもとに新しく日本古典の勉強をも始め、これは彼にとつて、戦争の悪気流に押し流されてしまわぬための、自己の文学を戦争期を通して保つための道ともなつた。彼は童話の世界でもそこばくの試みをした。  やがて戦争が過ぎた。犀星は年五六になつていた。戦後最初の何年間か、彼はやや沈黙し、形の上でさかんな活動を回復することができなかつたが、まもなく犀星最後の活動期がはじまるとともにその最高の活動期がはじまつた。それは、日本の散文作家すべてのうちについてみても類の少ない熱烈な活動期となつた。この期の特徴の一つは、小説、詩その他の従来の形式にもはやかかわらぬといつた形での猛烈な著作である。彼は研究を書き、評伝を書き、詩を書き、小説を書いた。昭和二八年、彼は堀辰雄に死にわかれ、昭和一三年以来半身不随の状態できた妻とみ子をいたわりつつ大作「杏《あんず》つ子」(昭三一—三二)に取りかかつた。彼はそこに彼自身の生涯、その家庭の閲歴、すべてをたたきこんで彼一流の生活哲学を文学として具象化しようとした。外からのものと生得のものとの混合、統一を通して、体系化されぬ人生の知恵、その良さと破綻ともそこに示された。この作は読売文学賞を受けた。つづけて彼は「遠めがねの春」(昭三二)、「黄色い船」(昭三三)、「かげろふの日記遺文」(昭三三—三四)「蜜のあはれ」(昭三四)と迅雷のごとく進み、しかし三四年生涯の伴侶とみ子を失つた。「かげろふの日記遺文」は野間文藝賞を受け、犀星はその賞金を彼自身の「犀星文学碑」、『とみ子発句集』(昭三五刊)、「犀星詩人賞」にあて、さらに「われはうたへど やぶれかぶれ」(昭三七)の制作に進んでいつた。しかし癌が彼を捕えていた。彼自身でつくつた『室生犀星全詩集』がほとんど死の床にとどけられ、三七年彼は死に、新聞七社連合のために七四枚まで書かれた題未決の小説および大量の日記が残された。年七三であつた。  『室生犀星全集』全一四巻。昭和三九・三、新潮社刊。  【愛の詩集】あいのししゆう 詩集。大正七・一、感情詩社刊。ほぼ大正元年—八年の作を収めた室生犀星の第一詩集、ここでの愛は、貧しいもの、孤独なものが、幸福を地上のものとして、痛烈に、しかし謙遜に求めるところに発している。日常の国語が、鋭さと柔《やさ》しさとで詩語とされた。  【抒情小曲集】じよじようしようきよくしゆう 詩集。大正七・九、感情詩社刊。明治四一年ころから大正元年ころまでの詩九四篇は、少青年期の情感を、たとえば霜焼けの痛さ、疼きさながらに奏でてまつたく新しい日本抒情詩のページを開いたものである。  【性に眼覚める頃】せいにめざめるころ 中篇小説。大正八・一〇『中央公論』。九・一、新潮社刊の同名の小説集に収録。少年の肉体的精神的成長、性への眼覚め、それがその少年の文学的開眼へつながり導く経路を描く。  【あにいもうと】 短篇小説。昭和九・七『文藝春秋』。一〇・一、山本書店刊『神々のへど』(のち『あにいもうと』)収録。多摩川の川師という下層庶民、その伊之ともんとの兄妹をとらえ、乱暴で野性的な生活、いさかいを通しての生《なま》の肉親愛を描く。  【杏つ子】あんずつこ 長篇小説。昭和三一・一一・一九—三二・八・一八『東京新聞』。三二・一〇、新潮社刊。作者の実生活、文学生活、家庭生活すべてを取り出して無理にも一カ所に詰めこみ、登場人物に実在の人をそのまま登場させるなどの冒険をも通して、人間の単純な生き方と卑俗な生き方、愛と利己主義、男性と女性との正統な、またやむをえぬ二重三重の関係、それらがある理想にとどきそうでもありまた絶望的でもあるような人生図を描く。ほとんど作者自身主人公として登場する。 詩人としての室生犀星  人間の型、藝術家の型といつたことを手軽に考えることはできない。やや手軽にそれを考える場合、そこにそこばく便宜な点が出てくるにはしても、危険もそれにしたがつて生じかねない。しかしここで仮りに詩人の型といつたことを考えるとすると、室生犀星は、ながい生涯にわたつて詩を書いた詩人であつた。そういう型の彼は詩人であつた。  便宜的にいつて、詩人には二つの型が考えられる。十歳台、二十歳台で眼のさめるような仕事をして、それなり流星のように消えてしまう型の詩人がある。消えてしまうというのには死ということも含まれる。しかしここでは、死はむしろ取りのけて考えていい。死は型以前に絶対だからである。藤村なぞを例とすることもできよう。島崎藤村は年二十五、六で詩人としての姿を正面から押しだして行つた。彼の四つの詩集を彼は二十六歳から三十歳までのあいだに出した。あるいは出してしまつた。ここで詩人藤村はいわば完成した。そしてそれが彼を詩の世界から去らせたのであつた。藤村はここで詩から別れて、その後の彼は散文作家としての藤村であつた。詩人としての出発ということは生涯藤村についてまわつたけれども、詩から別れ去つたとき、彼は同じ平面の上で詩から散文へ移つたのではなかつたから、つまり詩を通しての藤村の成長が彼をやみがたく散文の世界へ押し出したのであつたから、現実の詩作に立ち戻るということは、二度とふたたび藤村の生涯にはなかつた。この方の例が日本文学にはすくなくない。犀星はその点で藤村などとちがつていた。  これは優劣の問題でなくて事実の問題である。金沢の田舎にあつておさない俳句、短歌、短文などを書き、児玉花外などとの縁にもよつて出水のように詩に目ざめて行き、北原白秋、萩原朔太郎との出会いから類まれな『愛の詩集』『抒情小曲集』を出して行つたのは犀星の年十八、九から三十にかけてのことであつた。つづいて彼は散文の世界に出て行つた。やはり詩の表現を通しての犀星の成長が彼をそこへと押し出したのであり、これは形の上で藤村などの場合と変らなかつたということができる。ただ犀星は、その後も絶えず詩を書いた。散文作家、主として小説家となつた犀星は今やすべてを詩一本に託するということはなかつたが、散文生活の余暇、息抜きというのとは全くちがつたものとして連綿として彼は詩作に対して行つた。詩作を通しての成長が散文の世界へ藝術家を押し出し、しかしそこからもう一度詩の世界へ後戻りするというのとは全くちがつて、ここでは、比喩的になるが、散文を通しての犀星の成長が、絶えず彼を詩の方へ押しやり押しやりしたのであつた。それは、最初の、詩表現を通しての成長が、詩人を詩の世界から散文の世界へ押し出したというときのその押し出し方の性質によつていたというべきものでもあろう。寺田透が、犀星における詩と散文との関係について、次の意味のことをいつているのもそこを指すものと私は受けとる。  「——小説は詩とはちがう。それは客観的に描写するべきものを材料として持たなければならない。それは筋立てを持たなければならない。はじめ犀星はそういう考えに立つて小説にはいつて来たのではなかつたか。しかしそういう小説概念の中にいるあいだは、犀星散文における最後の独自性は十分出てくることができなかつた。それが後に、詩と散文とはちがうものだという考えにこだわらなくなつて、むしろ小説家として詩人になりかわつたときに、小説、散文として全く独自の力強いものが出てくるようになつたのではないか。」  つまりこれがあつて、十八、九から取りついた詩作が七十二歳まで、それも手すさびとしてでなくて生の表現としてつづいたのであつたろう。むろんこれは、詩人として詩作一すじに通した人の場合のことではない。藤村また犀星のように、小説その他の散文の世界へ量的にも大きく出て行つた人の場合のことである。犀星のように、小説「杏つ子」で読売文学賞を受け、評伝「我が愛する詩人の伝記」で毎日出版文化賞を受け、小説「かげろふの日記遺文」で野間賞を受け、藝術院会員となつたのも主として小説散文の仕事が土台となつたと思われる詩人であるだけにこのことは注目されてよかろうと思う。詩は、散文作家としての犀星をも含めて、時間的にも六十年ちかく犀星の全生命をつらぬいていた。  それは詩に対するそもそもの犀星の態度にあらわれている。それは『愛の詩集』『抒情小曲集』の序の文の端々に示されている。 芽がつつ立つ ナイフのやうな芽が たつた一本 すつきりと蒼空につつ立つ  こう「序曲」を置いて犀星は『抒情小曲集』に書いている。  「抒情詩の精神には音楽が有つ微妙な恍惚と情熱とがこもつてゐて人心に囁く。よい音楽をきいたあとの何物にも経験されない優和と嘆賞との瞬間。ただちに自己を善良なる人間の特質に導くところの愛。誰もみな善い美しいものを見たときに自分もまた善くならなければならないと考ヘる貴重な反省。最も秀れた精神に根ざしたものは人心の内奥から涙を誘ひ洗ひ清めるのである。」『愛の詩集』の「自序」にはこう書いてゐる。  「自分はこの詩集を出版することが出来たのを深く幸福に思ふ。自分は永い間これらの詩をまとめて世に送り出すことを絶えず考へてゐたけれど、まだ充分な力が無かつたり、これらに値する資力を欠いでゐたために、心ならずも、四五年の月日をむだにして、自分の韻律の整頓を遅延させて了つた。しかし今は我慢の出来ない自愛と内外に向つて自分の生存を快適に物語る時を得たので、私の親しい書斎からこれを世に送り出すことにした。  詩は単なる遊戯でも慰藉でも無く、又、感覚上の快楽でも無い。詩は詩を求める熱情あるよき魂を有つ人にのみ理解される囁きをもつて、恰も神を求め信じる者のみが理解する神の意識と同じい高さで、その人に迫つたり胸や心をかきむしつたり、新しい初初しい力を与へたりするのである。」  「自分は詩を熱愛した。同時にありとあらゆる自然や人類の上に、自分の微力を充ち亙らして讃歎すべきものを表現した。自分は正しく朗らかな此の宇宙のあらはれに就て、自分に働きかける総ての意志を掘じくり出すことに最大の生活を見いだした。……」  世故に長《た》けたある種の人びと、またイデオロギー生活においていわばすれつからし状態を生きている人びとの眼に幼稚とも映りかねぬある姿、全身をすつぽりと、しかし熱烈に、ほとんど帰《き》依《え》という形で詩に託した姿がそこにある。それはそのとおりであり、かたくななほどにもそれは謙遜であつた。この態度は、五十年の作詩生活のなかでむろん変化を見せている。「小景異情」の、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」、「しら雲」の、「かのしら雲を呼ばむとするもの/まことにかぞふるべからず/飛べるものは石となりしか/さびしさに啼き立つる/ゆうぐれの鳥となりしか」、「愛あるところに」、「永遠にやつて来ない女性」、ここから、一人児の死を前後する『忘春詩集』の沈静を経て、『鶴』の「切なき思ひぞ知る」、「友情的なる」の類の中年以後の激しさへ行き、さらに老年期に行つては、「窓といふものがある、/どの家にも/どのやうな人のこころにも/窓の展かれてゐないところはない、/窓には扉があり/扉は開かれ/閉ぢられたりしてゐるばかりか、/ときには凝《ぢ》乎《つ》と耳を立ててゐる……」の「耳」、「僕はきみを呼びいれ/いままで何処にゐたかを聴いたが/きみは微笑み足を出してみせた/足はくろずんだ杭同様/なまめかしい様子もなかつた……」の「晩年」へと変化する。「くろずんだ杭」のようなこの「足」は、それが女または女性的なものの足であるだけに、もはや、「ああ四月となれど/桜を痛めまれなれどげにうすゆき降る/哀しみ深甚にして坐られず/たちまちにしてかんげきす」(「室生犀星氏」)の『抒情小曲集』の時期のものではない。ただこの認識、かつてなまめかしさの限りであつたものが今は黒つぽい古杭同然となつていることの認識は謙遜で熱烈なものである。「晩年」が、そこでごまかしようのない姿で熱烈にとらえられようとしている。これが詩人犀星の詩人としての生涯をつらぬいた態度であつた。  散文の世界にはいつてきたある時期、彼は「詩よきみとお別れする」を書き、「詩への告別に就て萩原君に答ふ」を書いた。それがそのまま詩に対する彼の態度であつた。逆に、「復讐の文学」、「衢《ちまた》の文学」、「復讐の文学に就いて」などを散文について書いた。それがそのまま彼の詩に対する態度であつた。「我が愛する詩人の伝記」には直接にそれが出ている。死の直前、みずから、『室生犀星全詩集』を編んでみずから「解説」を書いたとき、戦争中の詩集『美以久佐』について彼はこう書いている。  「本集に収録の戦争雰囲気のある詩はこれを悉く除外した。後年の史実に拠るためという再考もあつたが、詩全集の清潔を慮つたのである。この戦争中は詩も制圧のもとに作られ、今日、これらの詩を削除することは心のにごりを見たくないからである。」  「後年の史実に拠るための再考」という言葉はかならずしも明晰でない。にもかかわらず、「清潔を慮つた」次第は明らかである。「心のにごりを見たくない」というのは戦争が歌われたからではない。戦争と愛国とへ、作者が理不尽に濁つて引き入れられたからである。出発の日、『抒情小曲集』の序の「抒情詩信条」第二項の第一に、犀星は「詩より詩作の瞬間《モメント》を愛す。」と書いていた。ここで削られた作品は、つまり「詩作のモメント」においてにごつていたのであり、この種のにごりと戦うこと、それを自分からはじき出すこと、それから絶えず全身的に逃れ出ることが犀星の基本文学態度、基本生活態度だつたからである。『愛の詩集』の序の「愛の詩集のはじめに」で、白秋は犀星を萩原朔太郎に並べて書いていた。  「室生君。  私は曽て萩原君の天稟を指して、地面に直角に立つ華奢な一本の竹であると云つた。而も君は喩へば一本の野生の栗の木である。」  『寂しき都会』の「馬」で、犀星は「毛並みまで青ざめ」て坂をのぼろうとする馬車曳き馬を歌つている。馬と馬をはげます「馬子」とは成功しなかつた。「馬は悲しさうに道路のすみのはうに/くらい闇を背負つたまま/ぢつと身動き一つしないで繋がれてゐた/そのそばで馬子もまた同じい悲しげな/いまはこの坂を下りて遠い廻り道をすることを考へ/闇のなかで煙草の火を点けた/馬はときどき尾をばたりとやりながら/闇のなかにくらい音を立てた」——白秋のいつた「野生の栗の木」は、何かのにごりをも通してこの馬車曳きの馬のようにしてすすんで行つた。それは一つの男らしい生涯であつた。  犀星室生照道は一八八九年(明治二十二年「帝国憲法」発布の年)加賀の金沢(石川県)に生れた。この金沢は特殊な町である。覚如から蓮如にいたる本願寺勢力が守護の富樫を滅ぼした町であり、佐久間を経て前田百万石の城下となつてつづいてきた町である。町は城下町としてあくまでも作られた。町割区画は軍事防衛を目安にしていちじるしく不規則である。東西南北の標準方向を示す道路が一本もなかつたという町である。城の防衛のためにはサイフォンの理による水利のことも古く講じられた。かつてこの町は三都に次いで日本第四位の人口を持つていた。またそこは学術、藝能、工藝、美術から菓子にいたる文化の豊富を持つてきた。しかしまた、表日本と裏日本との交替、日本の近代化、工業化につれて自然にうしろへ退《ひ》きさがつた町でもある。第二世界大戦を経たのちまでも、日本のあらゆる都市のなかでやや大規模な旧城下町の俤《おもかげ》を保つている唯一の町である。この歴史は積極的にも消極的にも金沢人を拘束するであろう。  この町に生れた犀星はその生れ方、育ち方においてさらに特殊であつた。彼は旧加賀藩小畠吉種というものの子であつた。つまり彼は侍の子であつた。しかし彼は女中の子でもあつた。小畠家に働いていた女中ハルが母親だつたのである。しかしこの児はほとんど藁の上から別の赤井という女の手に渡された。赤児は生みの母から引きはなされた。赤井ハツというこの女に私生子照道が出来たわけである。ところで、赤井ハツは犀川べり雨宝院の住職室生真乗の内縁の妻であつた。そこで赤井照道は真乗の養嗣子室生照道ということになつた。犀星の年七つの時である。こうして彼は小学校へのぼることになつた。  雨宝院は貧しかつた。少年の犀星は四年制高等小学校を三年で中途退学してその後はたらかねばならなかつた。彼は金沢地方裁判所に給仕としてはたらいた。これが室生犀星の人生への出発であつた。日清戦争の五年前に生れた犀星はこうして十五、十六歳で日露戦争を経過した。この日露戦争で金沢第九師団の兵隊は非常にたくさん戦死した。またこの日露戦争はこの古い町にロシヤ人捕虜を迎えることにもなつた。犀星はすでにおさないままに俳句その他の文学に近づいていた。  金沢伝来の古い文学、藝能がどれだけ少年の犀星に影響していたか正確にこれをはかることはできない。また泉鏡花、徳田秋声などの仕事がどれだけこの少年にひびいていたかも正確にはかることはできない。しかし彼は苦しい生活のなかで詩に近づき、『新声』の選者児玉花外との縁にもよつていつそう詩に全身的に打ちこむようになり、こうして彼はとどめようのない有様で詩の世界の北原白秋を知るようになつた。それは同時に朋輩として萩原朔太郎を知るようになつたことでもあつた。いわば白秋を頂点にした犀星、朔太郎の三角形、これがつまるところ犀星を決定した。犀星と朔太郎とは全く異質であり、多くの点で反対であることによつてほとんど双生児に似た関係がそこに生れた。もし犀星の詩的成長を問題とするとすれば、そこに当然佐藤春夫がはいつてくる。同様に、そこに当然山村暮鳥その他がはいつてくる。犀星全体を見るためにはそれが必要条件ともなつてくるが、押しつめていえば、窮極のところ朔太郎との出会いが犀星にとつて決定的である。  貧しい生活、日々の飢えに近い大都市東京の底辺のくらし、生みの母を記憶もなく見失つてしまつた事実、その、手がかりの全くないためにいつそう足ずりするようにかき立てられてくるあるもの、これらが、日露戦争後の日本生活の変化発展のなかで犀星を育てた。そこに幸徳事件があり民本主義運動がある。そこに帝国日本の膨張があり「内地」のうるおいがある。そこに自然主義以後の文学、文壇の確立があり、またジャーナリズムの発展がある。そこに第一世界戦争があり、関東大震災があり、政治の専制的内政と外への積極的侵略に引きつづく第二世界戦争への突入がある。それが犀星の個人生活の幸不幸に重なつて行く。その中での犀星文学の成長である。  しかし多分、詩人犀星のもつとも大きな仕事は『抒情小曲集』『愛の詩集』に始められた日本の詩の言葉の問題であろう。萩原朔太郎はこう書いている。  「室生の詩に就いて、特に私の敬服に耐えないものは、その独創あるすばらしい表現である。  およそ日本の詩壇に自由詩形が紹介されて以来、真に日本言葉のなつかしいリズムを捉へて、之を我々の情緒の中に生かしたものは、室生以前には一人も無かつた。」  「彼の詩が、かくも民衆に親しみをもつて居ると言ふことは、勿論、一つはその内容の上から、彼が勉めて曖昧な哲学めいた思想や、異常な神経的冥想を排斥して、現実の強健な感情生活を高歌するにもよるのであるが、また一つには、その表現の極めて率直で民衆と親しみの深い平易な家庭的の日常語を、自由に大胆にぐんぐんとしやべることに原因するものでなくてはならぬ。」  萩原は、「勿論、彼の初期の作には、尚文章語脈を脱して居なかつたとはいへ、尚且つ当時に於ける他の流行の詩(気取つたり、固くなつたり、肩を怒らしたりする)とは、あまりに甚だしく風変りのものであつた。」ともいつている。あたかもこの点について、三好達治のしている説明はもつとも重要なものであろう。  「室生さんの初期作品は、当時にいわゆる口語自由詩の、その種の形式のものではなかつた。その種の饒舌には就かず、その種の説明的散文的傾向には就かず、用語は雅言というのでもないが話し言葉というのでもなく、用法は簡潔と省略とを重じた点で最も話し言葉的ではなかつた。そうしてまた屡々それらが辻褄の合いかねた点で、省略法とばかりもいいきれない彼に独特の一足跳びを伴つた。いわば非論理性を伴つた。  この詩人の詩法にいちばん大事な直《ちよく》截《せつ》性《せい》がまたそこのところにあつた。  藤村以来の新体詩、泣菫、有明らの象徴詩、それらが暫く、或は永らく置き忘れにした詩歌の直截性、口語自由詩はその呼び戻しを試みたが、室生は彼なりその詩法のいちばん大事なやり方で以て、孤独に一途にこの時期それを試みたといつてよろしかろう。  この詩人が、やがて時を措かず『愛の詩集』の、それこそは口語自由詩体に、作風を移したのは、ことの本質から見てほんの僅な距離への引越しにすぎなかつたでもあろう。」  三好はここで主として犀星初期の仕事について言つている。しかしこの「饒舌に就かず」、「説明的散文的傾向に就かず」、「いわば非論理性を伴つた」ちようどそのところに犀星をまつて初めて現実にもたらされた新しい詩の問題があつた。 つち澄みうるほひ 石《つ》蕗《は》の花咲き あはれ知るわが育ちに 鐘の鳴る寺の庭(「寺の庭」)  こういうとき、それは「口語」ではなかつたが「雅言」ではなかつた。 したたり止まぬ日のひかり うつうつまはる水ぐるま あをぞらに 越後の山も見ゆるぞ さびしいぞ 一《いち》日《にち》もの言はず 野にいでてあゆめば 菜種のはなは波をつくりて いまははや しんにさびしいぞ(「寂しき春」)  これはいつそう「雅言」でなく、説明的、概念的なものを「口語」としていた限りでの口語自由詩の「口語」を越えて口語であつた。かかり結びの類のことを超えて、その「直截性」においてそれは口語的なのであり詩的なのであつた。三好の説明もそこを言つているものと私は受けとる。  そしてこの「直截性」が、どういう紆余曲折を経てでにしろ、室生犀星その人の生涯と文学とであつた。それは学才に主としてよるものではなかつた。勤勉だけによるものでもなかつた。学才と勤勉とでは、女性に対する生涯つづいた犀星の愛、追究を説明することはできない。西脇順三郎のいう「貧乏な人々の世界に愛を示している点」も説明することはできない。ただ物心両面にわたつて、人が現世に直截的に面するときそこがあらわになつてくる。それを犀星はそのままに捕えた。また捕えようとした。散文をも含めてそれはそうである。 (一九六七年四月十五日) 室生犀星年譜 明治二十二年(一八八九) 八月一日、金沢市裏千日町三十一番地に生れる。父、小畠弥左衛門吉種。加賀藩足軽組頭。母、はる。小畠家女中。生後まもなく千日町一番地雨宝院住職室生真乗の内妻赤井ハツに貰われて照道と名づけられる。 明治二十八年(一八九五) 六歳 市立野町尋常小学校に入学。 明治二十九年(一八九六) 七歳 室生真乗の養嗣子となる。 明治三十一年(一八九八) 九歳 弥左衛門死去。はるは小畠家より姿を消して行方知れずとなる。 明治三十二年(一八九九) 十歳 野町尋常小学校卒業。 明治三十五年(一九〇二) 十三歳 高等小学校を三年で中退。義兄の勤めていた金沢地方裁判所の給仕となる。 明治三十六年(一九〇三) 十四歳 文学書に親しみはじめる。 明治三十七年(一九〇四) 十五歳 俳句の会「北声会」に出席。第四高等学校教授藤井紫影を識る。紫影は「北国新聞」の俳句欄の選者でもあった。 明治四十年(一九〇七) 十八歳 雑誌「新声」に児玉花外選で詩「さくら石斑魚に添へて」が載る。 明治四十一年(一九〇八) 十九歳 藤井紫影八高に転じ、後任として来た大谷繞石と識る。表棹影、尾山篤二郎、田辺孝次らと「北辰詩社」をつくる。 明治四十二年(一九〇九) 二十歳 一月、海岸町金《かな》石《いわ》の登記所に転任。白秋の『邪宗門』(明治四十二年三月刊)を読み、『抒情小曲集』中の詩を書く。足掛八年間の裁判所勤めを退く。十月、福井県三国町の「みくに新聞」に入社。社長と意見あわず、十二月退社。 明治四十三年(一九一〇) 二十一歳 一月、京都に旅。藤井紫影の紹介で上田敏を訪う。二月、金沢の「石川新聞」に入社。退社して五月、東京に出る。郷里の先輩赤倉錦風のすすめで東京地方裁判所の筆耕の仕事に通う。児玉花外、北原白秋を訪問する。 明治四十四年(一九一一) 二十二歳 夏、帰郷。十月、ふたたび上京。この後幾度となく金沢・東京の間を往復、放浪する。 明治四十五年・大正元年(一九一二) 二十三歳 「青き魚を釣る人」、「かもめ」などが「スバル」に発表される。 大正二年(一九一三) 二十四歳 さかんに、ほとんど爆発的に詩作。佐藤春夫、山村暮鳥、斎藤茂吉らを識り、前橋の萩原朔太郎から最初の手紙を受けとる。 大正三年(一九一四) 二十五歳 二月、前橋に萩原朔太郎を訪ねる。三月、朔太郎上京。このころ恩地孝四郎を知る。六月、萩原朔太郎、山村暮鳥と結んで「人魚詩社」を創立する。 大正四年(一九一五) 二十六歳 三月、詩誌「卓上噴水」を金沢市千人町二番地「人魚詩社」から創刊。五月、第三号で廃刊。多田不二、竹村俊郎を知る。五月、金沢に朔太郎を迎え、十月、前橋に朔太郎を訪う。 大正三年(一九一六) 二十七歳 六月、朔太郎と詩誌「感情」を創刊。後に山村暮鳥、多田不二、竹村俊郎、恩地孝四郎らも参加。七月、市外田端一六三に移る。 大正六年(一九一七) 二十八歳 二月、朔太郎の処女詩集『月に吠える』出版。北原白秋を訪問。谷崎潤一郎に会う。九月二十三日、室生真乗死去。浅川とみ子と婚約。 大正七年(一九一八) 二十九歳 一月、第一詩集『愛の詩集』を自費出版。二月十六日、金沢で結婚。九月、『抒情小曲集』を自費出版。 大正八年(一九一九) 三十歳 五月、『第二愛の詩集』を出版。六月、本郷燕楽軒で「愛の詩集の会」が開かれる。参会者三十二名。滝田樗蔭に小説「幼年時代」の原稿を送る。八月号「中央公論」に「幼年時代」発表され、十月号に「性に眼覚める頃」、十一月号に「或る少女の死まで」が発表される。「感情」三十二号で廃刊。 大正九年(一九二〇) 三十一歳 一月、第一小説集『性に眼覚める頃』を新潮社から刊行。三月、中篇『結婚者の手記』を新潮社から刊行。八月、詩集『寂しき都会』を聚英閣から、十一月、短篇集『蒼白き巣窟』を新潮社から刊行。猛烈な勢いで小説を書く。 大正十年(一九二一) 三十二歳 二月、短篇集『古き毒草園』、三月、短篇集『香炉を盗む』を隆文館から刊行。中篇「蝙蝠」を「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」に連載。五月、長男豹太郎生れる。六月、短篇集『鯉』(新興文学叢書第十六巻)を春陽堂から、短篇集『美しき氷河』を新潮社から、九月、『蝙蝠』を隆文館から刊行。 大正十一年(一九二二) 三十三歳 二月、詩集『星より来れる者』を大鐙閣から、三月、『室生犀星詩選』をアルスから刊行。六月、長男豹太郎早逝。詩集『田舎の花』(現代詩人叢書第四巻)を新潮社から、七月、中篇『走馬燈』(中篇小説叢書第五巻)を同じ社から刊行。十二月、詩、小説集『忘春詩集』を京文社から刊行。 大正十二年(一九二三) 三十四歳 一月、短篇集『万花鏡』を京文社、四月、詩集『青き魚を釣る人』をアルスから刊行。五月、堀辰雄を識る。八月、軽井沢つるや旅館に滞在。長女朝子出生。九月一日、関東大震災に遭う。十月一日、一家をあげて金沢に移る。池田町、本多町川御亭、川岸町と居を変える。四高生中野重治などを識る。 大正十二年(一九二四) 三十五歳 四高生窪川鶴次郎を識る。五月、芥川龍之介金沢に来て三芳庵に滞在。六月、短篇・小品集『彼等に』を万有社から刊行。七月、堀辰雄来る。九月、詩集『高麗の花』を新潮社から刊行。 大正十四年(一九二五) 三十六歳 一月、田端に帰る。三月、童話集『翡翠』を宝文館から、六月、随筆集『漁眠洞随筆』を新樹社から刊行。八月、軽井沢つるや旅館に滞在、芥川龍之介、堀辰雄らと交遊。十二月、田端大竜寺に「暮鳥忌」をもよおす。また徳田秋声を本郷森川町に訪ねる。 大正十五年・昭和元年(一九二六) 三十七歳 四月、「驢馬」創刊され、積極的に後援する。同人は中野重治、堀辰雄、平木二六、窪川鶴次郎、西沢隆二、宮木喜久雄ら。九月、次男朝巳生れる。 昭和二年(一九二七) 三十八歳 一月、徳田秋声の「二日会」発足して出席する。六月、詩集『故郷図絵集』を椎の木社から、随筆集『庭を造る人』を改造社から刊行。七月二十四日、芥川龍之介自殺の報を軽井沢で受ける。 昭和三年(一九二八) 三十九歳 一月、『愛の詩集』三版を聚英閣から刊行。三月、渡辺賞を受ける。三好達治を識る。四月、養母赤井ハツ金沢市で死去。五月、評論集『芭蕉襍記』を武蔵野書院から、九月、詩集『鶴』を素人社から刊行。この夏、田端の家を引払つて一家軽井沢で過し、九月、金沢に移る。十一月、上京、大森馬込町谷中一〇七七に移る。 昭和四年(一九二九) 四十歳 二月、随筆集『天馬の脚』を改造社から、四月、『漁眠洞発句集』を武蔵野書院から、七月、『新選室生犀星集』を改造社から、九月、『芥川龍之介・室生犀星集』(明治大正文学全集)を春陽堂から、十一月、萩原朔太郎編による『室生犀星詩集』を第一書房から刊行。伊藤信吉を識る。「私の白い牙」などから新しい手法の試みが見られてくる。 昭和五年(一九三〇) 四十一歳 五月、自殺した生田春月追悼詩文集『海図』に寄稿。短篇集『生ひ立ちの記』を新潮社から、六月、詩集『鳥雀集』を第一書房から、九月、随筆集『庭と木』を武蔵野書院から、十月、『久保田万太郎・長与善郎・室生犀星集』(現代日本文学全集)を改造社から刊行。夏、児玉花外の慰労会をひらく。 昭和六年(一九三一) 四十二歳 六月十一日から「都新聞」に「青い猿」(七十三回)を連載。軽井沢一一三三に別荘をつくる。 昭和七年(一九三二) 四十三歳 三月、長篇『青い猿』を春陽堂から、九月、随筆集『犀星随筆』を春陽堂から、詩集『鉄(くろがね)集』を椎の木社から刊行。四月。大森区馬込東三の七六三に家を建てる。 昭和八年(一九三三) 四十四歳 二月、詩集『十九春詩集』を椎の木社から、十一月、随筆集『茱萸の酒』を岡倉書房から刊行。十二月、京都に遊ぶ。 昭和九年(一九三四) 四十五歳 一月、文藝懇話会設立されて会員となる。五月、随筆集『文藝林泉』を中央公論社から刊行。この年、「あにいもうと」その他にいわゆる市井鬼ものの連続発表にはいる。新しい段階。評論「詩よ君とお別れする」はその反映でもある。 昭和十年(一九三五) 四十六歳 引きつづき猛烈に仕事する。一月、短篇集『神々のへど』を山本書店から、二月、随筆集『慈眼山随筆』を竹村書房から、『犀星発句集』を野田書房から刊行。「福岡日日新聞」に連載を書く。夏、立原道造を識る。「あにいもうと」文藝懇話会賞を受ける。九月、随筆集『文学』を三笠書房から、十二月、長篇『復讐』を竹村書房から刊行。この年芥川文学賞ができてその選考委員になる。 昭和十一年(一九三六) 四十七歳 二月、長篇『聖処女』を新潮社から、詩集『十返花』を新陽社から、四月、随筆集『薔薇の羹』を改造社から、六月、小説集『弄獅子《らぬさい》』を有光社から、随筆集『印刷庭園』を竹村書房から刊行。九月、『室生犀星全集』全十四巻を非凡閣から刊行。第一巻の長篇「戦へる女」は書下し。この春釈迢空を識る。「あにいもうと」映画になる。 昭和十二年(一九三七) 四十八歳 四月中旬から五月初句にかけて満洲に旅行する。五月、『室生犀星篇』(現代長篇小説全集)を三笠書房から、九月、随筆集『駱駝行』を竹村書房から刊行。「大陸の琴」を「東京朝日新聞」に連載。非凡閣全集完結。 昭和十三年(一九三八) 四十九歳 一月、『あにいもうと』を新潮社から、二月、『大陸の琴』を新潮社から、九月、長篇『女の一生』をむらさき出版部、自伝小説『作家の手記』(書下し)を河出書房から刊行。十一月、妻とみ子脳溢血に倒れる。 昭和十四年(一九三九) 五十歳 三月、詩人寛の選をめぐつて白秋と論争。短篇集『波《な》折《おり》』を竹村書房から、四月、随筆集『あやめ文章』を作品社から、十月、短篇集『つくしこひしの歌』を実業之日本社から刊行。十一月、妻とみ子の句集『しぐれ抄』を百部限定出版。 昭和十五年(一九四〇) 五十一歳 三月、短篇集『乳房哀記』を鱒書房から、長篇『よきひと』を竹村書房から、六月、短篇集『美しからざれば哀しからんに』を実業之日本社から、九月、随筆集『此君』を人文書院から、十二月、短篇集『戦死』を小山書店から刊行。 昭和十六年(一九四一) 五十二歳 三月、短篇集『信濃の歌』を竹村書房から刊行。十年ぶりに金沢に行く。四月、『戦死』により菊池寛賞受賞。七月、短篇集『蝶・故山』を桜井書房から、八月、随筆集『花霙』を豊国社から、九月、短篇集『王朝』を実業之日本社から、十二月、短篇集『甚吉記』を愛宕書房から、詩集『定本室生犀星詩集』を竹村書房から刊行。十二月八日、太平洋戦争。 昭和十七年(一九四二) 五十三歳 四月、胃潰瘍のため同愛病院に入院。五月十一日、萩原朔太郎逝く。つづいて佐藤惣之助逝く。五月、自伝小説『泥雀の歌』を実業之日本社から、六月、短篇集『筑紫日記』を小学館から、短篇集『虫寺抄』を博文館から刊行。十一月二日、北原白秋逝く。十二月、随筆集『残雪』を竹村書房から刊行。萩原全集の編集にあたる。 昭和十八年(一九四三) 五十四歳 一月、短篇集『木洩日』を六藝社から、三月、短篇集『萩の帖』を全国書房から、六月、随筆集『日本の庭』を朝日新聞社から、七月、詩集『美以久佐』を千歳書房から、長篇『我友』を博文館から、八月、詩集『いにしへ』を一条書房から、句集『犀星発句集』を桜井書店から、十二月、詩集『日本美論』を昭森社から、短篇集『神国』を全国書房から刊行。なお四月及び七月に編著『芥川龍之介の人と作』上下巻を三笠書房から刊行。 昭和十九年(一九四四) 五十五歳 三月、詩・小説集『余花』を昭南書房から刊行。「山吹」を「中部日日新聞」に連載。八月、軽井沢に疎開、昭和二十四年二月に至る。 昭和二十年(一九四五) 五十六歳 七月、次男朝巳第九師団に入隊。八月十五日終戦。九月、朝巳かえる。十月、長篇『山吹』を全国書房から刊行。 昭和二十一年(一九四六) 五十七歳 「人間」その他に多くの詩を発表。またぞくぞくと小説を発表。一月、短篇集『玉章』を共立書房から、二月、詩集『旅びと』を臼井書房から、三月、短篇集『山鳥集』を桜井書店から、十月、短篇集『世界』を東京出版から刊行。 昭和二十三年(一九四八) 五十九歳 四月、長篇『みえ』を実業之日本社から、五月、自伝小説『童笛を吹けども』を弘文堂から、十月、短篇集『氷つた女』をクラルテ社から刊行。六月から「唇もさびしく」「北海道新聞」「西日本新聞」に連載。十一月、長女朝子結婚。日本藝術院会員となる。 昭和二十四年(一九四九) 六十歳 六月、自伝『室生犀星』を文潮社から、八月、随筆集『泥孔雀』を沙羅書房から刊行。十月、ほぼ四年半の軽井沢疎開生活から帰京。 昭和二十五年(一九五〇) 六十一歳 十一月、河出書房から『佐藤春夫・室生犀星・滝井孝作集』刊行。 昭和二十六年(一九五一) 六十二歳 八月、『萩原朔太郎全集』(創元社)の刊行はじまる。九月、新潮文庫『室生犀星詩集』刊行。 昭和二十八年(一九五三) 六十四歳 五月二十八日、堀辰雄信濃追分に逝く。九月、釈迢空逝く。 昭和二十九年(一九五四) 六十五歳 一月下旬、川島胃腸病院に約一カ月入院。六月、角川書店から『佐藤春夫・室生犀星集』(昭和文学全集)を刊行。この年多くの小説を書く。 昭和三十年(一九五五) 六十六歳 一月から「新潮」に随筆「女ひと」を六回連載。二月、短篇集『黒髪の書』を新潮社から刊行。八月、筑摩書房『菊池寛・室生犀星集』(現代日本文学全集)を、十月、随筆集『女ひと』を新潮社から刊行。『女ひと』は好評を得、作者晩年の豊熟期にはいる。この年恩地孝四郎、百田宗治逝く。 昭和三十一年(一九五六) 六十七歳 一月、短篇集『少女の野面』を鱒書房、二月、短篇集『舌を噛み切つた女』を河出書房から、三月、長篇『妙齢失はず』、随筆集『続女ひと』、九月、長篇『三人の女』を新潮社から、十月、随筆集『誰が屋根の下に』を村山書店から、十二月、短篇集『陶古の女人』を三笠書房から刊行。十一月十九日から「杏つ子」を「東京新聞」に連載。 昭和三十二年(一九五七) 六十八歳 四月、随筆集『李朝夫人』を村山書店から、六月、短篇集『夕映えの男』を講談社から、七月、詩集『哈爾濱詩集』を冬至書房から、十月、長篇『杏つ子』を新潮社から刊行。仕事の量質ともに高まる。 昭和三十三年(一九五八) 六十九歳 一月、「婦人公論」に「我が愛する詩人の伝記」の連載(十二回)を始める。二月、「杏つ子」その他の業績により読売文学賞受賞。随筆集『刈藻』を清和書院から、三月、短篇集『つゆくさ』を筑摩書房から刊行。七月、「婦人の友」に「かげろふの日記遺文」の連載(十二回)を始める。十一月から『室生犀星作品集』(新潮社)全十二巻刊行。十二月、『我が愛する詩人の伝記』を中央公論社から刊行。 昭和三十四年(一九五九) 七十歳 定本自筆本句集『遠野集』を五月書房から刊行、五月、短篇集『生きるための橋』を実業之日本社から、随筆集『硝子の女』を新潮社から刊行。日本文藝家協会の古稀の祝を受ける。八月、詩集『昨日いらしつて下さい』を五月書房から、十月、長篇『蜜のあはれ』を新潮社から刊行。十月十八日、妻とみ子逝く。十一月、『我が愛する詩人の伝記』によつて毎日出版文化賞を受ける。長篇『かげろふの日記遺文』を講談社から刊行。十二月、『かげろふの日記遺文』によつて野間文芸賞を受ける。 昭和三十五年(一九六〇) 七十一歳 一月、「群像」に「告ぐる歌」を、「婦人公論」に「黄金の針」の連載はじまる。日本書房から『室生犀星集』(現代知性全集)を刊行。三月、『とみ子発句集』を私家版として刊行。三月、短篇集『火の魚』を中央公論社から、七月、長篇『告ぐる歌』を講談社から、九月、随筆集『生きたきものを』を中央公論社から、十月、『室生犀星集』(日本文学全集)を新潮社から、十二月、短篇集『二面の人』を雪華社から刊行。「室生犀星詩人賞」をつくり、第一回を滝口雅子におくる。 昭和三十六年(一九六一) 七十二歳 四月、女流評伝『黄金の針』を中央公論社から、七月、短篇集『草・簪・沼』を新潮社から刊行。七月八日、軽井沢矢ケ崎川の岸に自らの手で詩碑を建る。この夏健康すぐれず、十月、港区虎の門病院に入院、十一月退院。十一月、講談社から『室生犀星集』(日本現代文学全集)を刊行。十二月、第二回室生犀星詩人賞を富岡多恵子、辻井喬におくる。 昭和三十七年(一九六二) 七十三歳 二月、短篇集『はるあはれ』を中央公論社から、三月、『室生犀星全詩集』を筑摩書房から刊行。三月一日、再び虎の門病院に入院。二十六日永眠。病名肺癌。二十九日葬儀(青山葬儀場)。 没後、三月、随筆集『四角い卵』を新潮社、五月、短篇集『われはうたへどもやぶれかぶれ』を講談社、短・中篇集『宿なしまり子』を角川書店。八月、小説・随筆集『好色』を筑摩書房より刊行。昭和三十九年三月より『室生犀星全集』(全十二巻別巻二巻)を新潮社より刊行。 掲載書名一覧 ㈵ 室生犀星 人と作品 出生と出発 室生犀星全集第一巻(新潮社) 一九六四年三月 第一詩集と三十歳 室生犀星全集第二巻(新潮社) 一九六五年四月 結婚のよろこびと人間の悲哀 室生犀星全集第三巻(新潮社) 一九六六年二月 運命とその交錯 室生犀星全集第四巻(新潮社) 一九六五年十一月 都会の底 室生犀星全集第五巻(新潮社) 一九六五年八月 峠を越す 室生犀星全集第六巻(新潮社) 一九六六年十二月 豊熟と途上の障碍 室生犀星全集第七巻(新潮社) 一九六四年九月 戦争の五年間 室生犀星全集第八巻(新潮社) 一九六七年五月 二つの廃墟から 室生犀星全集第九巻(新潮社) 一九六七年八月 晩年と最後 室生犀星全集第十巻(新潮社) 一九六四年五月 七十歳 室生犀星全集第十一巻(新潮社) 一九六五年一月 仕事のなかでの七十三年 室生犀星全集第十二巻(新潮社) 一九六六年八月 日記の犀星 室生犀星全集別巻一(新潮社) 一九六六年五月 死、葬送とその後 室生犀星全集別巻二(新潮社) 一九六八年一月 ㈼ 教師としての室生犀星 現代日本小説大系月報第二十九分(河出書房) 一九五〇年十一月 一九三五年のころ 室生犀星作品集第十巻月報第九号(新潮社) 一九五九年十一月 金沢の家 日本文学全集二十四付録(新潮社) 一九六〇年十月 南江二郎氏と諏訪三郎氏 「驢馬」復刻版別刷(日本近代文学研究所) 一九六〇年十二月 しやつ、ももひきの類 日本現代文学全集第六十一巻月報十四号(講談社) 一九六一年十月 犀星 室生さんの死 朝日新聞'62年三月二十七日号 一九六二年三月 「驢馬」の時分 小説中央公論第三巻第二号(中央公論社) 一九六二年五月 犀星観を問われて 文藝第一巻第四号(河出書房新社) 一九六二年六月 茶と菓子 現代文学大系第三十巻月報第二十八号(筑摩書房) 一九六五年八月 ㈽ 母乳のごときもの 室生犀星作品集内容見本(新潮社) 一九五八年十一月 室生犀星ベスト・スリー 毎日新聞'55年六月四日号 一九五五年六月 忘れえぬ書物 忘れえぬ書物(明治図書) 一九五九年九月 『愛の詩集』初版のこと 『愛の詩集』初版復原版(大和書房)付録 一九六六年二月 『室生犀星詩集』について 新潮文庫室生犀星詩集 一九五一年九月 犀星 室生さん 日本読書新聞第八二一号十月三十一日号 一九五五年十月 『室生犀星全集』第一巻 図書新聞第七五五号五月二日号 一九六四年五月 心のこりの記 室生犀星全集別巻二月報(新潮社) 一九六八年一月 うろ覚えの記 新潮第六十五巻第六号(新潮社) 一九六八年六月 室生犀星(照道) 世界現代詩辞典(創元社) 一九五一年十一月 『抒情小曲集』 世界現代詩辞典(創元社) 一九五一年十一月 室生犀星 新潮日本文学小辞典(新潮社) 一九六八年一月 詩人としての室生犀星 日本詩人全集15 室生犀星(新潮社) 一九六七年六月 うしろがき  この一冊は、長年にわたつて書いたものを集めたものである。それだけに、一つことを何べんも書いているところがある。自分として何べんでも何十ぺんでも書きたいところだから仕方はないが、校正を見てみると、二度書き、三度書きするごとに、いくらかの変化は見せているようにも思う。新潮社の十四巻本全集の後記をつくるとき、ごく普通の読者を目あてに書けということになってそれにつとめたが、書いているうち、普通のということに見当のつかぬようなところが出てくるのを感じて途惑つた。できるだけ間違いなく、できるだけ平俗にというところに力を入れたつもりで来たが、出来た結果を見ると必ずしもそう行つていないようにも思う。私という個人の見た室生犀星で、本の標題に私のというようなことを入れようかとも思つたがそれは止めにした。断りを入れるまでもなく、私という個人の見たところということはわかり切つたことだからである。  まえがきにも書いたが、資料その他ではたくさんの人のお世話になつた。金沢の秋声碑の犀星文字写真では新保千代子さんに重ねて世話になつた。正宗白鳥文については、正宗全集の中島河太郎さんから親切な注意を受けた。それから、犀星肖像写真は口ひげのあるのを入れた。これは室生朝子さんの世話になつた。われわれはこういう室生犀星に親しんで行つたのであつた。六十歳、七十歳になつてからの犀星に口ひげをつけて思い描くのは不可能のようでもあるが、ある日これがさつぱりと剃りおとされたときの、まことに奇妙な、しかしはれやかにおかしくて、顔を見合わせて笑い出した記憶などがよみがえつてくる。 一九六八年九月 中野重治(なかの しげはる) 一九○二—七九年。福井県生まれ。東京帝大独文科卒。詩人・小説家・評論家。一九二六年、堀辰雄らと「驢馬」を創刊し、文筆生活に入る。同時に社会主義運動、プロレタリア文学運動にも深く関わり、以後の生涯を通して、「政治」と「文学」の矛盾・葛藤を生き抜くことになった。おもな著書に『鴎外 その側面』『中野重治詩集』『むらぎも』『梨の花』『村の家』『甲乙丙丁』などがある。また没後、書簡集『愛しき者へ』(全二冊)が刊行された。 本作品は一九六八年一〇月、筑摩叢書として刊行された。 なお電子化にあたり口絵、病状経過報告は割愛した。 室生犀星 -------------------------------------------------------------------------------- 2002年4月26日 初版発行 著者 中野重治(なかの・しげはる) 発行者 菊池明郎 発行所 株式会社 筑摩書房 〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3 (C) UME ENOME