中村 真一郎 文章読本 [#表紙(表紙.jpg)] 目 次  口語文の成立  口語文の完成  口語文の進展  口語文の改革   あとがき [#改ページ] [#見出し]    口語文の成立 [#小見出し]      書くということ  |文章を書く《ヽヽヽヽヽ》ということは、誰でも日常にしていることです。  電話が発達したからといって、手紙を書くことは全然、しなくなったわけではありません。後日の証拠として残すための書類とか、自分の秘《ひそ》かな想いを相手に伝えるための恋文とか、また自分だけのための日記とか、それから旅行中などで急に詩的な気分になって書く感想文とか。——今日でも人は文章を書くという営みを昔ながらに続けています。  ところで書くということは、一体、どういうことなのか。——といういちばん根本的なところから、この文章講座をはじめてみたいと思います。  文章は言葉《ヽヽ》を列べて作られています。そして、それらの言葉は普通、論理的にも、文法的にも、合理的《ヽヽヽ》に、——というのは、つまり意味が判るように繋《つなが》っています。 「今日は天気がいい」と人は書きますが、「今日はいいが天気」とか、「天気今日がはいい」というような、でたらめな書き方はしません。  それは人は文章を書くのに先立って、頭のなかで文章を作りあげるからです。ということは、人は書くまえに|考える《ヽヽヽ》ということです。そして考えるというのは、言葉を使ってする働きです。数字も言葉のなかに入れましょう。  ところで考えながら、それを口に出して云えば、|話す《ヽヽ》ということになります。そしてその話している言葉を、そのまま書きとめれば(たとえば速記で)、とにかくそこに一応、文章というものができ上ります。  そうしたわけで、考えること、話すこと、書くこと、という三つの仕事は、一直線に繋っていて、書くということはどういうことか、と考えると、それは話すということ、考えるということ、というふうに、根本のところへ戻って行きます。  以上は、あまりにも当り前のことで、読者は馬鹿ばかしくなったかも知れませんが、この「書く、話す、考える」というのを、もう少し実際に則して考え直してみると、そこに様々の問題がでて来ます。そこで、その様々の問題のいくつかについて、読者と共に考え直してみたいと思います。  まず「考える」ということですが、これは言葉を論理的に並べるということです。そして論理《ヽヽ》というのは、普遍的なものです。つまり、日本語で考えるにしても、フランス語で考えるにしても、その論理的筋道はひとつであり、日本人の考えたことが、フランス人には通じない、というなら、その日本人の考えたことの内容のどこかに、論理的な誤りがあるということになります。  論理というものが普遍的であるから、二つの異った言葉を用いる国のあいだに条約というものを結ぶこともできます。普通、条約はそれぞれの国の言葉で書かれた二通の条文の外に、第三の国語で書かれた、もう一通の文書が作られ、その三通の内容は同じであると了解されています。  つまり、ひとつの内容が、三つの国語で細かい部分に至るまで、同一であると信じられていて、それで現実に通用しています。  つまり、考えるということは、普通、日本人なら日本語の言葉を並べて行くことですが、そのようにして作られた文章は、フランス語にも英語にも、かなりたやすく置き換えられます。それはもとの日本語の考え、またその表現である文章が、論理的に構成されているからです。そして論理は国語を超越して、普遍的だからです。その最も端的な実例は、数学《ヽヽ》であって、世界中、どこの国の人間も、同じ手順で同じ計算をやり、同じ答えを出しています。  しかし、文章は必ずしも論文《ヽヽ》(書類や条約や法律文書なども含めて)ばかりではありません。論理的には理解しがたいことも、人は考え、そして表現するのです。  その極端な例が、恋文です。人は恋文を読んでも、大概、なぜ筆者が相手を好きになったかの理由は発見できません。それはその筈で、書いた当人さえ、その理由が判っていないのですから。たとえ、あなた方が他人を恋した場合に、その理由《ヽヽ》が判っていると思いこんでいても、それは大概、あとからつけた合理的な理由であって、もともと、人を恋するということは、非論理的非合理的なことなのですから、それを論理的合理的に説明しようとしても、不可能なことです。  つまり、|考える《ヽヽヽ》というのは理性《ヽヽ》の仕事であり、|恋する《ヽヽヽ》というのは感情《ヽヽ》の仕事で、これは別のことなのです。  しかし人は、条約を作るだけでなく、恋文も書きます。そこで、書くことの根本には考えることがある、とはじめに規定しましたが、それは厳密に云うと、|考える《ヽヽヽ》ことと|感じる《ヽヽヽ》ことが、根本にあり、文章はその両方を表現する役割がある、ということになります。  そうして実は、この両方は必ずしも、はっきりと別れた別の仕事ではなく、あなた方が普通に書く個人的な文章——手紙とか日記とか——は、大概、この両方の働きの混り合ったものなのです。  現に恋文《ヽヽ》を書こうという決心は、自分が相手を恋していることを、相手に伝えたいと思うことですが、「相手に伝える」というのは、恋という全然、個人的主観的感情的なことを、相手に|判らせる《ヽヽヽヽ》という仕事です。そして、他人に判らせるためには、他人に|通じる《ヽヽヽ》表現でなければならず、そのためには多少とも、普遍的な論理を用いる必要があります。  私はごく若い頃、ある娘から手紙を貰って、胸をおどらせながら封を切ったのですが、その内容は彼女の家の庭の光景だけが書いてあって、私は失望しました。つまり、「梅は咲いたが、桜はまだ開かない」というふうの内容だったのです。しかし、これは後年になって、もう私の心から彼女の面影が消えうせてしまってから、実は恋文だったのだと、告白されて驚きました。  内気な彼女は、自分の思いを日本の伝統にのっとって、自然の風景に托《たく》したつもりだったのですが、それは出来上りとしては単純な「叙景文」になり、また受けとった方の私は、多分、世界で最も合理性を尊ぶフランス文学を勉強している最中の学生だったので、「風景描写、即、恋」というような、論理的飛躍、つまり不合理は、理解できなかったのです。  私は論理に執するのあまりに、大事なものを拾いそこねてしまったのですが、これはこの恋文の筆者が、自分の主観のなかだけに閉じこもって、自分の思いに客観性を与えるのを怠ったのにも責任があるのです。  また、他人にまったく見せる意図がなく、自分だけに判ればいいとして書く「日記」さえ、その場の主観だけを、思いつくままに、つまり感情を整理することなく表現してしまうと、当人でさえ後になって読み返してみた場合に、何のことやら判らなくて、考えこんでしまう、と云うことも稀《まれ》ではありません。  これも私自身の経験ですが、私がまだ合理的なフランス文学を勉強する以前の高校生の頃に書いた日記を、いつだか読み返してみると、そのなかに恋愛感情らしいものが数カ月にわたって表現されているのですが、全く主観的な心象風景だけしかそこに記されていないので、後年の私は、いくら考えてみても、その恋愛らしいものの実体、つまりは相手の女性の顔も名前も、記憶から浮んでこなくて、大いに失望したのでした。お蔭《かげ》で、私は人生のごく早い時期に、誰だか判らない女性を恋し、そしてその結果がどうなったのか、その経験は永遠に失われてしまった、という悲劇的な目にあってしまったのです。  日記というものが、後日の回想の愉しみのために書かれるのだとしたら、私の日記は表現法をあやまったために、失敗してしまったという結果になったのです。  そうして、こういう重大な失敗を、読者の皆さんが免れるのに、幾分の援けとなるために、私はこの文章を書いているのです——。  私たちが普通、|考える《ヽヽヽ》と云う時、実は大概の時は、主観的に感情を交えて、半ばは論理、半ばは連想を使いながら、また言葉だけでなく、目や耳の記憶の援けを借り——というのはある人の顔や物の云い方を想いだしながら、そしてまたある架空の情景を空想しながら、考えを進めて行きます。  つまり、あまりおだやかでない、極端な例を、専ら判りやすいという見地から採用して説明しますと、あなたがある人を憎らしいと思い、その思いが殺してやりたい、というところまで発展するとします。  その場合、論理的な筋道としては、「あの人が憎い」という動機から、一直線に「あの人を抹殺《まつさつ》しよう」という決心にまで発展するわけですが、実際、あなたの頭脳で行われるのは、「憎悪」から「殺人」への、ひとつの観念の純粋に論理的な進展ではなく、まず最初にあなたの心の鏡に、その人の憎々しげな顔が浮んで来て、そこで「憎らしい」という表現《ヽヽ》が発生し、それからその人の厭《いや》な声が耳許《みみもと》に聞えて来て、あなたは耳をふさぎ、それからその像をあなたの心の鏡から消したくなり、それはあなたがその人の首を絞める光景となり、その光景から「殺してやろう」という表現として、ひとつの決意が生まれます。  どうも大変に殺伐な実例で恐縮ですが、勿論《もちろん》これは、恋愛の場合でも全く同様で、その場合、異るのは首を絞める意味が違うだけです。「殺す」という言葉に甘美なニュアンスがまといつくだけです。  さて、この例でも見られるように、こうした単純な思考においても、記憶や空想が参加し、そこに情緒が伴います。  従って、あなた方の書く大部分の文章は、観念を論理的に配列するだけでなく、記憶や空想の情景の描写、またそこに喚起されるある雰囲気《ふんいき》、気分の、言葉の調子を利用しての表現、などの混り合ったものと云うことになります。  そうした心のなかの、様々の観念や情景のまじり合った混沌《こんとん》とした状態を、普通はある程度、論理的に再整理して文章にするわけですが、その「再整理」によって、文章の内容は判りやすくはなるとしても、そのように判りやすくするために、心のなかの混沌のかなりの部分が、自然に切り捨てられています。つまり、あなた方は自分の感じ考えている内容全部を文章にしようとはしないのです。その混沌のなかから、ひとつの主題を引きだして、それに表現を与えることで、満足しているのです。  これは文章の専門家、小説家がある人物の感情の状態を表現する場合でも、全く同様で、そして専門家であるので、その表現を|印象強い《ヽヽヽヽ》ものにしようという意志が、そこに自覚的に働くことになります。  しかし、そうした専門家の意志、あるいはそれに伴う技術というものは、時代と共に、人の感じ方考え方が変ってくるにつれ——もっと正確に云いますと、人々の心の働かせ方の変化に|伴って《ヽヽヽ》、というより、天才的な作家は、民衆のそうした心の働かせ方の変化を、予感《ヽヽ》し、先取りした表現を発明します。だから、新しい感じ方や考え方に慣れない民衆は、新しい小説の出現に際して、大概、それを難解《ヽヽ》だと感じます。しかし、それから半世紀もすると、読者の感受性がその作家の表現になじんで来て、それは面白い小説だということになります。  そのいい例が英国のジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』で、第一次大戦中に、その原稿が郵送された時、検閲であまりの難解さのために、軍事機密を報告する暗号文であると判定されて、差し押えられたという珍談があるくらいです。  しかしそんな『ユリシーズ』も、今ではかなり判りいい、そして現代人の心をよく表現している、従って面白い小説だと云うことになりました。  この小説の最後の章が、有名なブルーム夫人の、「意識の流れ」(stream of consciousness)の描写です。女主人公が夜、ベッドに入って眠りにつくまでの、心のなかに群がり起る、様々の幻想、空想、願望、妄想《もうそう》を、その群がり起ってくる|ままに《ヽヽヽ》、丁度、その夫人の意識を、そのひとりごとの独白を、そのまま録音したように、書き記してあります。つまり人物の|意識の流れ《ヽヽヽヽ》を、そのまま、先ほど私が指摘したように、通常の「再整理」という手続きを通さないで、直接に、|何も切り捨てないで《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、表現したのです。  と云うことになりますと、人間の意識には、特に眠りに入る前の状態では、段落《ヽヽ》はないのですから、この長い一章ははじめから終りまで、ひとつの改行もなく、句読点もなく、いや、語間の空白もなく続いて行くという、恐ろしいことになります。始めて本を開いてみた読者は、唖然《あぜん》とし、この無限に続く電報のような文章を、一体、読むことができるのだろうかと、怪しみます。  勿論、この新しい描写法は、多くの国の作家たちに衝撃を与えました。そして、しかし、この「意識の流れ」の描写法が、従来の文章では表現できなかった、人間の心の奥の秘密を、鮮かに照しだしていると云うことが、次第に理解されて行きますと、それは多くの若い作家たちに、絶大な影響を与えました。アメリカのウィリアム・フォークナーなどは、この最適例ですが、我が若き日の川端康成も、この手法によって、小説を書いたことがあります。  御参考までに、ここにその章の日本訳の、冒頭を幾らか書き写してみます。なお、この気鋭の作家、英文学者たち、つまり丸谷《まるや》才一、永川玲二、高松雄一の共訳による日本訳は、英語で作者ジョイスの試みた実験《ヽヽ》を、日本語に移してそのまま試みるという、驚くべき言語的冒険を実践したものとして、専門家のあいだで高い評価を受けています。 [#ここから2字下げ]  そうよだってあさのしょくじをたまごをふたつつけてベッドのなかでたべたいなんてかれがいったことはシティアームズホテルにいたころからずっといっぺんだってなかったことなんだものあのころかれはいつもびょうにんみたいなこえをだしてびょうきでひきこもってるみたいなふりをしてていしゅかんぱくであのしわくちゃのミセスリオーダンのおきにいりになろうとしてじぶんではずいぶんとりいってるつもりだったのにあのばばあときたらみんなじぶんとじぶんのたましいのめいふくをいのるミサのためにきふしてあたしたちにはびたいちもんのこさないなんてあんなひどいけちんぼあるかしらメチルをまぜたアルコールに4シリングつかうのにだってびくびくしていつもじぶんのたいしたことないびょうきのはなしばかりあれやこれやそれからせいじのはなしやじしんのことやこのよのおわりやらうんざりするふるめかしいおしゃべりもうすこしおもしろいはなしをしたらどうかしらよのなかのおんながみんなああいうふうになったらどうしますみずぎやデコルテのわるくちをいってたけれどもちろんだれだってあのばあさんにそんなものきてくれなんてたのみやしないあのおんながしんじんぶかかったのはおとこがだれひとりはなもひっかけなかったからさあんなふうにはなりたくないものねかおまでかくせといわないのがふしぎなくらい [#ここで字下げ終わり]  どうも写していても気の変になりそうな謎《なぞ》のような混沌とした文章で、校正係りにはお気の毒としか云いようのないものですが、実はこの章は全く切れ目なしに、四百字詰め原稿用紙にして、百枚ほども続くのです。  しかし、こうした書き方は、従来の普通の書き方では表現できなかった、人が眠りに入る前の、心のなかの混沌を、じつにうまく表現していることは否めないでしょう。そうして、私たちが普段の心のなかの混沌を、再整理しないで、そのまま表現しようとすると、大体、こんなことになるのは間違いないでしょう。  だから、このジョイスの|書き方《ヽヽヽ》は、実は私たちが|考える《ヽヽヽ》ということの、最も根本的な状態そのものを、全部、言葉に置き換えたという仕事なのです。  つまり、|考える《ヽヽヽ》という精神の働きに最も忠実な書き方だ、ということになります。そうして、この「意識の流れ」から、普通、私たちは不要のものを省いて、もっと判りやすい文章を書くわけです。  ここで思いだしましたが、谷崎潤一郎も『ユリシーズ』の愛読者だったので、この方法を谷崎風にやわらげて、あの精巧で繊細な『蘆刈《あしかり》』の文体を発明したのでした。  さて、私たちは普通は、このように心のなかを全部、書き写すというやり方で、文章を書くわけではありません。  先程、述べたように「再整理」をして、判りやすくするわけです。もしそうしないで、ジョイス式の「意識の流れ」描写を行いますと、二十四時間に考えたことの内容を読むのには、丁度、テープの録音を聴き直すように、同じ時間、つまり二十四時間、かかってしまいます。これでは仕事になりません。毎日の日記を書くのに、起きている時間全部を使うのでは、生活できません。  そこで、いかにして、どのように、どの程度まで再整理するかと云う問題になります。  その再整理の最初の段階が、考えていることを口に出して云ってみる、つまり|話す《ヽヽ》ということです。  私たちは、時々、考えながらひとりごとを云いますが、あのひとりごとも、『ユリシーズ』の独白よりは、すでに大分、簡略化されています。  が、それではこの段階を、そのまま文章化することが適当かどうか、と云うと、それは普通は無理でしょう。  ためしに、それを試みてみましょう。 「ねえ、私、きのう、大変だったのよ。ねえ、だって、そうでしょう。あそこのあの人|混《ご》みのなかでよ、うん? あそこ? そう、あそこよ、銀座よ、あの四丁目の角よ。ね、この前、一緒に交叉点《こうさてん》を渡っているあいだに、はぐれて大変だったじゃない。あそこの角で、昨日、大変なことになっちゃったのよ……」  この調子で書いていては、いつになったらその大変《ヽヽ》の内容が相手に伝わるか、予想もつきません。これを文章に直すには、普通、「昨日、銀座四丁目の角で、私は大変な目に遭いました」というふうに、再整理するでしょう。  私たちは、|考える《ヽヽヽ》から|話す《ヽヽ》へ進むのに、一度、再整理したあとで、|話す《ヽヽ》から|書く《ヽヽ》へ移るのに、もう一度、再整理をすると云うことになります。  この|話す《ヽヽ》から|書く《ヽヽ》への移行の際の「再整理」については、やはり色々の問題がでて来ます。  まず、「話し言葉」と「書き言葉」との距離の問題です。  これは昔は「文語」と「口語」というふうに区別されていました。  ひとつの文明の初期の段階では、多分、人は「話す言葉」と「書く言葉」とのあいだに、あまり大きな区別はしなかったでしょう。ところが、その社会が発達するにつれて、「書く言葉」の方は、次第に精練され、巧緻《こうち》になり、合理的にも美的にもなって行って固定し、一方、「話す言葉」の方は、絶えず社会の変動に伴って変化して行きます。  明治維新の頃は、文章語、文語は、一般に漢文——これは極東諸国の文明的共通語でした——の影響を受けた、格調高いものに完成し、一方、市民の話し言葉は、かなり柔軟な、ニュアンスに富んだ、感覚的なものに進化していました。  そうして、この文語と口語との差は、いちじるしく開いてしまっていました。  文語《ヽヽ》の例。これは梅林に月の光りの射している情景描写です。 [#ここから2字下げ]  枝々月ヲ帯ビテ玲瓏《レイロウ》透徹、影|尽《コトゴト》ク横斜ス。宝鈿玉釵《ホウデンギヨクサ》、錯落トシテ地ニ満ツ。水ソノ下ヲ流レテ鏘然《ソウゼン》トシテ声アリ。(中略)水ノ清キコト寒玉ノ如シ。漾月《ヨウゲツ》ノ影、蹙《チヂマ》リテ銀鱗《ギンリン》ヲ作《ナ》ス。而《シカ》シテ両山ノ花、倒《サカサ》マニソノ上ニ|※[#「くさかんむり/(酉+ふるとり)/れっか」、unicode8638」]《ヒタ》ス。隠約トシテ見ルベシ。一トタビ中流ニ棹《サヲ》サセバ、山水|倶《トモ》ニ動ク……(斎藤拙堂) [#ここで字下げ終わり]  ここにおいては、文語と口語とでは、その構成要素である、単語《ヽヽ》さえ、別のものとなってしまっています。現に、当時の江戸市民は次のような話し方をしていたのです。 [#ここから2字下げ]  聞《きき》なせへ。斯《かう》いふことがあるはな。私等が親方の出入場の旦那どのさ。三ツ子の魂《たませへ》百まてと譬《たとへ》の通り、小さな時分から気儘《きまま》八百に育《そだて》た物だから、大きくなつても盲蛇物に畏《おぢ》ずだ。何がおめへ身上《しんしよう》も構《かまは》ずに遣ツたほどにの。地獄の沙汰も金次第で、人に持長《もちちよう》じられるが面白さに、とう/\大《おほ》身代を潰《つぶ》して、百|貫《かん》のかたに笠|一蓋《いつの》となつただ。サア、そうした上句《あげく》が悪い病ひを病出《やみだ》して、二進《につち》も三沈《さつち》も行《いか》ねへはサ。兄弟他人のはじまりとは能《よく》云ツたもんで、大勢兄弟|衆《し》もあるけれど、馬の耳に風でさつぱり音信不通。サア、どうもしかたがねへから、宝は身の指合《さしあは》せたと、残《のこつ》た道具|諸式《ひようしき》を売ては薬、売ては薬とした所《とこ》が、三年|越《ごし》の長煩《ながわつらひ》だから仕覚《しがく》がねへとおもひなせへ。子|捨《すて》る藪《やぶ》はあるが、身を捨る藪はねへとやらで、たツた一人の女の子を他所《よそ》へ呉《くれ》て、夫婦|両口《かけむかひ》となつた。さすが御新造《ごしんぞ》も惜《をしかつ》たらうが、負《おぶつ》た子より抱《だい》た亭主《ていし》だはさ……(式亭三馬) [#ここで字下げ終わり]  江戸の後期では、文語と口語では、このように開きが大きくなり、同じ時代のものでありながら、拙堂文を口語に直したり、三馬のものを文語にするということは、もう不可能になっています。  これほど極端な開きがでてくると、人々はもう一度、文語を口語に近付けようと考えるようになります。  そうして、明治のはじめから、口語を文章語にまで高めようという、「口語文」の試みが始まります。今日、私たちが日常に書いている文章、また新聞記事など、皆、この明治以来の口語文《ヽヽヽ》なのです。  しかし、私たちは何気なく口語文を使っていますが、ここまでくるのに百年かかり、はじめは、色々な困難もあり、大変なことでした。  たとえば、今は定着した「何々|である《ヽヽヽ》」「何々|であった《ヽヽヽヽ》」という文尾も、はじめのうちは様々の異った試みがなされ、そして使いにくいので消えて行きました。  新しい口語文を作るのに参考となったのは、西洋の国語でした。それは普遍的論理的な言葉でしたから、それを現代の口語的表現に翻訳することで、新しい口語文を作ろうとしたのです。なかでも面白いのは、若松|賤子《しずこ》の実験で、彼女は『小公子』の翻訳で、文尾を「ありま|せんかった《ヽヽヽヽヽ》」と云うふうにやってみました。「ありません」という口語の過去形を作るために、そこに「かった」を付けてみたのです。  しかし読者は、その表現を採用|しませんでした《ヽヽヽヽヽヽヽ》。「しません|かった《ヽヽヽ》」でなく、「しません|でした《ヽヽヽ》」が、通用語となって行ったのです。  こういう実験は無数に繰り返され、特に、森鴎外は多くの翻訳によって、口語を文章語に高めるのに尽力しました。私たちが何気なく読んでいる鴎外の翻訳文は、当時の口語を自然に写したと云うのでなく、外国語を利用しながら、新しい口語文として創作《ヽヽ》されたのです。  そうした口語文の、文学史上の最初の実験者は二葉亭四迷で、彼はロシアの小説をはじめて口語体に訳し、それが若い作家たちを大いに勇気付けて、作者たちが小説を口語体で書くようになって行ったのです。  しかし、最初の半世紀のあいだは、「詩」はあくまで文語で作られていました。たとえば島崎藤村の詩の効果は、口語では表現できなかったのです。  口語文の運動は、旧来の文語文で表現できたと同じ程度のものに、口語文を引きあげることにあったのです。そうして一世紀後の今日では、|ほとんど《ヽヽヽヽ》口語文が文語文の代りをすることができるまでに、口語文は文章語となることに成功しました。 [#小見出し]     文語文と口語文  文章は通常、論理と感情との両面を表現するものである、つまり|書く《ヽヽ》ということは、人の|考える《ヽヽヽ》ことと|感じる《ヽヽヽ》こととを同時に言葉にすることである、と私は先に述べました。  そして、明治維新以後、|話し言葉《ヽヽヽヽ》のなかから文章を作ろう、つまり口語文《ヽヽヽ》を作ろうと云う運動が起って来た時、それに最も熱心だったのは作家でした。  と云うのは、ほとんど純粋に論理だけを操縦して作る論文、布告文、と云うようなものは、従来の漢文を読み下したような文語体《ヽヽヽ》でも不自由がなかったのです。  漢文というものは、二十世紀以上もの間、極東文化圏での共通語《ヽヽヽ》として用いられ、つまり多くの固有の言語を持つ民族のあいだでの意志の疏通《そつう》に使われていました。  江戸時代に朝鮮から定期的に日本に訪れる国家使節も、日本の代表と話し合うのは、朝鮮語でも日本語でもなく、漢文の筆談だったのです。  その意味では、長い間、日本も朝鮮も、母国語の他《ほか》に漢文(中国古典語)を持つ、二重国語の国であったと云えましょう。  同様にして、当の中国もまた、江戸時代の文語と口語との二つの並存に似た、古典語と現代語とのやはり二重国語国家と云えるかも知れません。  そこで、普遍的な、国際的な論理を根底におくべき論文では、漢文をそのまま書きくだした、いわば漢文を日本文に直訳した文体が、かえって特殊な生活の臭いのまつわりついた民衆の日常語よりも適当だったと云えます。  それに漢文は長い時間のあいだに、充分、きたえ上げられて、ある種の|普遍的な感情《ヽヽヽヽヽヽ》の表現にも適していました。そして、それは洗煉された美的文体でもあったのです。  その上、長い間、極東文化圏の共通語であった漢文の単語《ヽヽ》は、それ自体、地域的地方的なニュアンスのない、普遍的な概念を表現するものになっていました。  そこへ明治前後から、日本はより普遍的な西洋文化圏へ加入するために、西洋文化圏の言語のもっている、様々の普遍的概念を、日本語に翻訳する必要に迫られることになってきました。  その時、学者は従来の普遍的言語であった漢文の単語を、その翻訳に用いました。  つまりそれまで使っていた普遍的概念を、新しい普遍的概念と繋《つな》ぎ合せて、文化の連続を計ったわけです。  たとえば、英語の reason、フランス語の raison、この二つはいずれも西洋文化圏のかつての普遍的共通語であったラテン語の ratio のなまったもので、その内容は同じ意味を持っています。  それを専門家は、いきなり、リーズンとかレーゾンとかいう英語やフランス語を導入する代りに、従来から漢文のなかにあった理性《ヽヽ》と云う言葉に置き換え、内容はラテン語のラチオと同じものであるようにしました。  また、たとえば法律《ヽヽ》ですが、これも英語の law、フランス語の loi のもとであるラテン語の lex の概念を表現するものとして、漢文のなかから採用したものです。  そのようにして、現在、学問のなかで用いられている抽象概念を現わす、ほとんどすべての漢語は、西洋文化圏の言葉の直訳語なのです。  従って学術論文のようなもの、法律文書のようなものは、極端に云えば、純粋に日本語の部分は、テニヲハだけと云うことになります。  そうして日常会話においても、専門家は屡々《しばしば》その学問の専門用語は原語のまま発音し、文章にする時、改めてその直訳語である漢文の単語を書くということが、習慣となっています。  たとえば第二次大戦までの医者の会話を聞いた人は、彼等がすべての医学用語をラテン語とドイツ語で発音していたことを知っています。  そして同時に、その医者が専門雑誌に論文を書くときは、その原語を漢文の単語に直していたことも知っています。  つまりルンゲとかクランケとか話していても、書く時は肺《ヽ》とか患者《ヽヽ》とかに直すわけです。  しかし、西洋文化圏で通用しているすべての抽象的な普遍的概念を、一時に漢語に直すという操作は、大変な努力を必要とします。  明治初頭の知識人たちは、西洋の単語と、それに等しい内容を|新しく《ヽヽヽ》持たされた漢文の単語とを、表と裏とに書いた尨大《ぼうだい》な単語カードを、頭のなかに蔵《しま》っていたわけです。  明治憲法というものも、そうした漢文の単語に充満しています。そして、そのすべての単語の背後には、西洋の原語がひそんでいます。  そこで青年時代に英国に学んだ伊藤博文などは、原語には通暁していましたが、学者たちの新しく作った漢語の訳語は、いちいち覚えきれないために、議会でする演説の草稿は英語で走り書きし、それを秘書が英語の法律用語のいちいちを、漢語に直し、そして、その翻訳文を、彼は議会で読みあげたと云われています。  こういう翻訳事業が、近代の普遍的な国語としての日本語を作りあげて行ったわけです。  ですから、その出発点の時期であった、江戸後期の蘭学者《らんがくしや》たちの会話が、テニヲハ以外は全部オランダ語だと云って、同時代の平田|篤胤《あつたね》が憤慨して書いています。  その平田篤胤にしても、自分の神道に普遍的《ヽヽヽ》な神学を与えるためには、カトリックの公教要理《カテキズム》の漢文訳をもとにして、日本風に直すという仕事をせざるを得ませんでした。  だから、蘭学者たちの後継者である明治の学者たちは、頭のなかで西洋語をいちいち漢語に直しながら、文章を書いて行き、そして、その訳語はそれぞれの学問の分野で次第に固定して行きました。  だから、屡々同じ原語が、学問の分野によって別の訳語を持つと云うことにもなります。  同じ circulation が、血液学では循環《ヽヽ》となり、経済学では流通《ヽヽ》となる、と云った具合です。  また仲々日本人に馴染《なじ》まない概念も少くありませんでした。  森鴎外は明治の中期になっても、学問の結果しか日本人は導入しようとせず、学問の方法自体を物にしなければ、真の学問は日本に根差さない、と嘆いていますが、その時、その方法の探究を意味する Vorschung というドイツ語の訳語すら未だないのだから、と苦々しく述べています。  又、若き坪内|逍遙《しようよう》は、大学時代に外人教師から、ある小説のなかの character を論ぜよという試験問題を出されて、その単語が、今日でいう作中人物《ヽヽヽヽ》という意味であることが判らず、人格《ヽヽ》という意味にとったために、大いに困惑したと回想しています。  そうした努力と混乱を通して、論理的な近代日本語は、まず旧来の漢文の|書き下し《ヽヽヽヽ》の形で落ちついて行ったわけです。つまり、|漢文の書き下し《ヽヽヽヽヽヽヽ》(読み下し)という、長い伝統を持つ直訳の方法、 「子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎」(孔子) という中国古典文を、 「子《シ》ノタマハク、学ビテ時ニ之《コ》レヲ習フ、亦《マ》タ説《ヨロコ》バシカラズ乎《ヤ》。朋《トモ》有リ遠方ヨリ来《キタ》ル、亦タ楽シカラズ乎」 と、原文の単語の語順を、できるかぎり変更しないで、テニヲハを入れて日本文(文語文)に直す方法。この方法で西洋の文章を日本語に置き換えるという仕事を通して、新しい論文の文体を作りあげて行ったのです。従って、それが文語《ヽヽ》となったのも当然と云えます。それを一気に口語《ヽヽ》にまで置き換える仕事には、手が廻らなかったのです。  ですから、学者たち、評論家たちは、 [#ここから2字下げ]  既にして世界の大勢は旧日本の重関を打破して此《ここ》に所謂《いはゆる》維新の革命を生じたり。維新の革命を以《もつ》て単に政治機関を改造し、政治の当局者たる人物を変換したるものに過ぎずと思はばそは皮相の見解なり。維新の革命は総体の革命なり。精神的と物質的とを通じての根本的革命なり。(山路《やまじ》愛山) [#ここで字下げ終わり] と云うような文章を書くのが普通でした。  こうした文章は、そのまま漢文に直すことができます。そして、筆者の頭のなかには、「世界の大勢」、「旧日本の重関」、「革命」、「政治機関」、「改造」、「当局者」、「皮相の見解」、「総体」、「精神的」、「物質的」、「根本的」というような単語が、すべて西洋の原語で浮びでて来て、それを頭のなかでもう一度、漢語に置き換えているのに相違ありません。  抽象名詞を形容詞化するのに「××的《ヽ》」という、中国の俗語の表現を採用したのは、特に天才的な思い付きであったと云えましょう。  今日、この「的」という字を使わずに、私たちは日常|的《ヽ》会話さえ、不可能になっています。  こうした近代の文語は、知識人たちの日常的文章語となりました。やがて口語で小説を書きはじめた作家たちも、日記やメモを書く時は、実に口語でなく文語で書いているのです。  大正時代最大の名文家といわれた芥川龍之介さえ、口語を書くより、文語を書く方が遥《はる》かに楽だ、と告白しています。芥川は文語文なら、心のなかから自然に流れ出て来たので、ほとんど語の配列を|考える《ヽヽヽ》という手数を必要とせず、却《かえ》って口語で小説を書く場合は、まず下書きを作り、それに苦心して仕上げをしていたのです。  それは現存している芥川の小説の下書きを見れば、ひと目で明らかです。  このようにして、明治の初めは、日本語のなかに尨大な新しい単語を、それもかなり人工的に翻訳作業によって作りあげ、それが今日の私たちの文章のなかの構成要素の主部をなしているわけです。  ところが、第二次大戦後の世界的変動期のなかで、若い人々はこの過去百年間に作られた漢語(実は西洋語の直訳)の概念に満足せず、またもや原語そのものを使用しはじめています。 「ゴージャスなデラックスなムードのショッピング」といった云い方です。  もはや旧時代人である私などは、「ショッピング」は「買物」でいいじゃないかと云いたくなりますが、青年に同情する人たちは、「いや買物とは、単に必要な物を買うために店に行くことだが、ショッピングというのは、何となくショーウィンドーを眺め歩いて、それから好きなものがあれば買うので、そういう若者の買い方は、旧来の買物《ヽヽ》という言葉では表現できないのだ」と反論します。  それでは、こうした西洋の原語の尨大な流入は、やがて百年前と同じように、新しい漢語の訳語にとって換られるのか。それとも漢文がはじめて日本に入って来た古代末期のように原語そのものが流通して定着するのか、という問題がでてきます。  ある言語学者はコンピューターによって、一世紀後の日本語の単語を予測し、こうした原語が全体の単語の大部分を占めるであろうという結論を出しています。私たちのように現代の日本語を使って仕事をしている文学者にとって、それは恐るべき予測です。いま書かれている文章の大部分は、一世紀後には古文《ヽヽ》となり、ほとんど外国語と同じになってしまうのでしょう。  私はここで、幕末ころの日本の政治家や官僚、外交官や革命家たちの往復書簡のなかに、しつこくでてくる片仮名の原語を想いださないではいられません。  彼等は忙がしい政情のなかで、新しい様々の西洋伝来の政治的概念を、いちいち翻訳する余裕がなかったので、当時の書簡文であった候文《ヽヽ》のなかに、突然に、「デスポチスム」(仏語、専制主義)とか、「コンスチチューション」(英語、憲法)とか、「カルボナリ」(伊語、炭焼党員つまり尊攘《そんじよう》運動の志士)とか、「レプブリカン」(仏語、共和主義者)とか、「フレイヘイト」(蘭語、自由)とかの原語を抛《ほう》りこんで、お互いの意見を交換しています。  それは今日の若者の原語尊重の傾向と、実によく似ています。  そして西洋の原語は、日本文のなかに片仮名で表記するという便利な習慣が、すでに幕末に生れていたというのも、面白い現象です。  さて、以上が明治の初めにできた文語文《ヽヽヽ》というものの説明でした。  もう一度、要約しておきますと、そうした近代の文語文《ヽヽヽ》は、漢文読み下し体の骨格に、西洋の原語の直訳である漢語をはめこんで作られたのです。  しかし、こうした文語文は、論理的普遍的であって、私たちの|考える《ヽヽヽ》ことを表現するのには適していましたが、屡々非論理的主観的な|感じる《ヽヽヽ》ことを表現するのには不自由です。  そうして、|考える《ヽヽヽ》専門家である学者と異って、|感じる《ヽヽヽ》専門家である文学者が、自分たちの表現に適した文章を、感じたままを口にしている庶民の話し言葉のなかに求めるようになって行ったのは当然です。  これは既に、江戸の後期の小説家たちが試みていたもので、前に挙げた式亭三馬の文章などは、その好例です。  そこで明治の作家たちは、「言文一致」というスローガンをかかげて、様々の実験に取り掛ることになります。  前にも触れたように、その最初の文学的成功は、二葉亭四迷の翻訳文であると、一般に云われています。  それは明治二十一年に発表された、ツルゲーネフの短篇《たんぺん》小説です。(訳者はそれを「端物」と呼んでいます。短篇小説《ヽヽヽヽ》という訳語もまだ出来ていませんでした。そして、それから暫《しばら》くして、今度は森鴎外が「単牌《たんはい》」という言葉を使ってみましたが、今日では「短篇小説」が定着しました)  その訳文の冒頭を写してみましょう。 [#ここから2字下げ]  秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺《かば》の林の中に座してゐたことが有ツた。今朝から小雨が降りそゝぎ、その晴れ間にはおり/\生ま煖《あたた》かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合ひ。あわ/\しい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思ふと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、無理に押し分けたやうな雲間から澄みて怜悧《さか》し気に見える人の眼の如くに朗らかに晴れた蒼空《あをぞら》がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けてゐた。 [#ここで字下げ終わり]  それは当時としては、全く革命的な実験であったわけです。ここでは一人称の代名詞として、「自分」が使われています。「私」や「ぼく」が文章のなかへ現れるのは、もう少しあとになってからです。大正時代になっても、文章が俗に流れることを警戒していた芥川龍之介は、時々、この「自分」を使っています。  また、ここには「座して、四顧して、そして」というような漢文調が残っていて、それを、「而《シカ》シテ」で受けるところを、「そして」で受けているのが、新しい発明であったわけです。  二葉亭はこの短篇の翻訳のはじめの小序のなかで「私の訳文は我ながら不思議とソノ何んだが、是《こ》れでも原文は極めて面白いです」と断っています。  この断り書きの方には「私」がでて来ますが、本文の方が「自分」となっているのは、この断り書きは、全くの話し言葉で書いていて、本文にはひとつの文体《ヽヽ》というものを作ろうという文学的意図が現れているので、一人称の代名詞に、|話し言葉《ヽヽヽヽ》と|書き言葉《ヽヽヽヽ》との相違が現れてきているわけです。「不思議とソノ何んだが」などという表現は、口語文のなかでも会話にしか使えないでしょう。またこの微妙で滑稽で、斜に構えている筆者の表情を、より伝達可能な言葉に置き換えることは、生れたばかりの口語文では、到底、不可能だったでしょう。  しかし二葉亭は、この訳文のなかで、今日からみても可能なかぎり、話し言葉の柔軟なニュアンスを生かして、人間の感情の繊細な揺れ動きを表現しています。  当時の若い文学者たちは、文語が自分たちの個人的な気持の微妙な部分の表現には、不適当である、それはあまりに一般的な紋切り型の表現になる、と感じていたところに、この清新な口語文の出現で、目の覚めた思いがしました。  二葉亭はこの反響に勇気づけられて、翌年には、この文体で自分の創作を発表することになります。  それが『浮雲』ですが、その書き出しは、 [#ここから2字下げ]  千早振る神無月も最早《もはや》跡二日の余波《なごり》となツた廿八《にじゆうはち》日の午後三時頃に、神田見附の内より、塗渡《とわた》る蟻《あり》、散る蜘蛛《くも》の子とうよ/\ぞよ/\沸出でゝ来るのは、孰《いづ》れも顋《おとがひ》を気にし給ふ方々。しかし熟々《つらつら》見て篤《とく》と|点※[#「てへん+僉」、unicode64bf]《てんけん》すると、是れにも種々《さまざま》種類のあるもので、まづ髭《ひげ》から書立てれば、口髭、頬髯、顋《あご》の鬚《ひげ》、暴《やけ》に興起《おや》した拿破崙《なぽれおん》髭に、狆《ちん》の口めいた比斯馬克《びすまるく》髭、そのほか矮鶏《ちやぼ》髭、貉《むじな》髭、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡《うす》くもいろ/\に生分《はえわか》る。 [#ここで字下げ終わり]  ここで直ちに気の付くことは、前年のツルゲーネフの翻訳に比べて、この文章が、|より古い《ヽヽヽヽ》、つまり江戸伝来の戯作《げさく》調を伝えていると云うことです。  この調子のいい、七五調に近い文章は、純粋に散文というよりは、語り物などの文体といえましょう。  そうして作者は、西洋の小説を翻訳した場合と異って、|日本の小説《ヽヽヽヽヽ》を書くという段になって、日本の小説の唯一の伝統である江戸の戯作の見本に、どうしても引きずられることになって行ったのです。また一般の読者の方も、こうした文体でないと、小説《ヽヽ》だと云う気がしなかったのでしょう。  しかし、こうした半ば戯作調の文体の奥には、西洋の近代小説に養われた、写実主義者の眼が光っているのです。  たとえばある人物の描写。ここには見事にリアルな観察が生かされています。 [#ここから2字下げ]  年齢《ねんぱい》二十二三の男。顔色は蒼味七分に土気《つちけ》三分。どうも宜敷《よろしく》ないが、秀《ひいで》た眉に儼然《きつ》とした眼付で、ズーと押徹《おしとほ》つた鼻筋、唯|惜哉《をしいかな》口元が些《ち》と尋常でないばかり。しかし締《しまり》はよささうゆゑ、絵草紙屋の前に立つても、パツクリ開くなどといふ気遣ひは有るまいか。兎に角|顋《あご》が尖《とが》つて頬骨が露《あらは》れ、非道《ひど》く|※[#「やまいだれ/(目+目)/ふるとり」、unicode766f]《やつ》れてゐる故《せゐ》か顔の造作《ぞうさく》がとげ/\してゐて、愛嬌気《あいきようげ》といつたら微塵《みじん》もなし、醜くはないが何処《どこ》ともなくケンがある。背《せい》はスラリとしてゐるばかりで左而已《さのみ》高いといふ程でもないが、痩肉《やせじゝ》ゆゑ、半鐘なんとやらといふ人聞《ひとぎゝ》の悪い渾名《あだな》に縁が有りさうで…… [#ここで字下げ終わり]  このあとにその服装の描写が続きます。  従来の江戸の小説では二枚目は美男子と決っていて、こんな細かい否定的特徴を書き加えるのは、読者のイメージを破壊することになるだけですから、さぞ人々は驚いたろうと思います。  芥川龍之介は、やはり自分たちの書く近代小説の主人公は、昔と違って、「彼女は美人だ」、とだけ書いておけばいいものを、「しかし、鼻は曲っている」と書き加える。が、この書き加えによって、読者はその美人が作者の空想ではなく、自分のまわりに現実に生きている人間であると思いこむようになる。と冗談を云っています。  芥川のこの冗談は近代小説の写実主義という方法の真髄を、実に正確に語っています。そして、二葉亭のこの人物描写も、正にその適例と云えましょう。  そうして、このような細密な描写をするためには、「セザルベケンヤ」というような文語の調子では、到底、無理だということは明らかです。  さて、そのような、生きている庶民の話し方から、新しい文体を作りあげる努力をする、ということになった時、同じことなら、できるだけ洗煉され、完成された話し言葉に学ぼうとするのが当然です。  そこで注目されたのが三遊亭円朝の人情|噺《ばなし》です。御承知のように、円朝は高度な完成度をもっていた江戸末期の市民の言葉でもって、複雑な人間心理を人情噺に仕立てあげて、東京の高座で人気を博していました。  そして都合のいいことには、彼の人気がその噺を、速記という形で、活字にして流布させはじめました。これは高座を聴きに行けない人の便宜のためだったのですが、その速記が偶然にも、話し言葉を文章にした口語文の見本になりました。若い作家たちは、大いにこの円朝の速記を研究し、その秘密を盗むことで、自分たちの口語体の完成をはかったのです。  ここに円朝の『塩原多助一代記』から、その語り口の見本をお目にかけましょう。 [#ここから2字下げ]  彼《か》の岸田右内は忠義のためとは云ひながら、心得違ひに見ず知らずの百姓が五十両懐中致して居りますを知つて、無心を云ひかけますと、彼《か》の百姓は驚きまして争ひとなり、右内は百姓の転びし上へ乗つかゝり、お主《しゆう》のためには換へられぬと、嚇《おど》して五十金を奪はうとする。下では百姓が人殺し/\と云つて居りますが、往来は稀《まれ》な山村《やまむら》で、名におふ上野国《かうづけのくに》東口の追貝《おつかひ》村。頃は寛延元年八月の二日、山曇《やまぐも》りと云ふので、今まで晴天でゐたのが暗くなつて、霧が顔へかかりました。暗さは暗し、向う山では塩原角右衛門が山賊を打とめ、旅人を助けんと家来(角右衛門は右内の旧主)と知らず鉄砲の狙ひを定めて、ガチリツと引金を引く拍子に、どうんと谺《こだま》へ響いて、無惨や右内は乳の上を打抜かれて一度《ひとたび》は倒れましたが、一方《かたかた》へ刀|一方《かたかた》へ草を掴《つか》んで立上り、足を爪立《つまだ》て身を慄《ふる》はせ、ウーンと云ひながら、がら/\と血を吐き出しますと、其《その》血が百姓の顔へ掛りますから、百姓は自分が打たれた心持がして、人殺し/\/\と慄へながら云つてゐる所へ、塩原角右衛門が独木橋《まるきばし》を渡つてトツ/\/\と駈けて来ました。 [#ここで字下げ終わり]  実にその情景が目に見えるような名人芸です。そして、その|語り口《ヽヽヽ》は見事に流麗です。  ただ純粋な話し言葉で、どうしても調子がついていますから、文章《ヽヽ》にするためには、そうした調子は押える必要があります。 「韻文は舞踏、散文は歩行」という有名な西洋の諺《ことわざ》がありますが、詩は調子が必要で、散文は調子が邪魔になると云う意味です。  日本人はどうも|調子好き《ヽヽヽヽ》なところがあり、それは長い間、民衆は読書《ヽヽ》ではなく|語り物《ヽヽヽ》を聴くという習慣に慣らされていたせいかも知れません。  ですから小説も、近代のはじめはどうしても文章が躍りがちでした。そして、そうした調子ということになると、新しい口語文はたどたどしくなることを免れなかったのです。  何故《なぜ》なら、それは人工的に作る新しい文体であったからです。  そこで、読者の好みに敏感な作家は、より調子のいい文語文を混ぜながら、文章を書くという試みをしました。  有名な尾崎紅葉の『金色夜叉《こんじきやしや》』が当時、ベスト・セラーになった秘密のひとつは、その地の文が調子のいい文語体であったからだと云われています。  つまり新しい口語文は、まず読者に慣れさせるという努力をしながら、形成されて行ったわけです。  そうして二葉亭が口語で小説を書いた時、その新しい口語のなかには、まだ前代の調子のよさの感覚が残存していたのは、そうした読者への受入れを容易にしようとの配慮が働いていたのだと思います。  だから、口語文の成立の歴史は、その文章のなかから、躍るような調子を排除して行った歴史だと云ってもいいと思います。  そうして、調子を排除すると云うのは、単に文体の問題にとどまるだけでなく、それ以上の根本的な問題を含んでいます。  人が|考える《ヽヽヽ》ことでなく、|感じる《ヽヽヽ》ことを表現するために、口語文が始められた、と私は云いましたが、それならば|調子のいい文章《ヽヽヽヽヽヽヽ》というのは、その調子のよさに乗った感情を表現している、と云うことになります。  だから、文章から躍る調子を排除するのは、その表現すべき感情自体から、躍るような部分を切り捨てるということになります。  文章から躍るような調子が姿を消して行くにつれて、その表現されている内容、感情自体のニュアンスが異ってくる、と云うことです。  つまり新しい口語文は、落ちついた冷静な感情を表現する道具となります。  だから、口語文は、冷静な観察にもとづく客観描写を主張する、自然主義の作家たちの手によって、おのずから完成へ近付いて行くと云うことになります。  そして彼等は前代の、尾崎紅葉を中心とした、躍る文体の硯友社《けんゆうしや》文学を否定するところから出発したのです。 [#小見出し]      口語文の成立  文章《ヽヽ》というものは、私たちの|考える《ヽヽヽ》ことと|感じる《ヽヽヽ》こととを表現するものだ、という出発点に戻って、それでは私たちの現在持っている唯一の文章の形式である口語文《ヽヽヽ》が、どの程度、その目的にかなう機能を果しているか。どの程度の可能性のあるところまで、この百年間のあいだに進歩しているか。  それをこれから検討したいと思います。  私たちは現在では文章というものは、口語文しか持っていないので、普通は口語文でものを考えるわけで、だから、現在の口語文が、私たちの考えたいこと、感じたいことのすべてを表現する能力があれば、そうした検討は必要はないわけですが、実際には日本近代の発明にかかる口語文は、まだ私たちの精神生活のすべてを覆うところまで、充分には発展しきっていないのではないでしょうか。  また絶えず変化して行く現実に、歩調を合せて変って行くだけの、柔軟性を持っているのでしょうか。  一時、学生運動の指導者たちの書く檄文《げきぶん》のようなものが、判りにくい、という批判がありました。現に国鉄の駅前などで、マイクロフォンを片手に、学生がどなっている演説は、かなり難解であって、演説をしている当人の、ある政治的|昂奮《こうふん》は伝ってきても、その主張の内容は一向に理解できない、という場合が少くありません。  これは文章の方から云いますと、つまり学生たちの経験している新しい政治的現実に対して、表現の方が追いつかないでいる、ということになるのでしょう。  また従来の口語文で表現しようとすると、新しい政治的現実の大事な部分が切りすてられてしまうおそれがある、とああした難解な文章を書く若者たちは、信じているのではないでしょうか。  そういう意味で、近代に作られた口語文が、どの方向へ発展し、私たちの精神生活のどの部分の表現を行ってきたか、を歴史的に見て行くという仕事は、私たちが日常、文章を書く上でも、大いに参考になると思います。  さて、口語文は二葉亭四迷の実験から出発し、それが客観的で冷静な自然主義的描写の方向に発展して行った、と先に述べましたが、その実例から見て行きましょう。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ]  あくる日は日曜日の雨、裏の森にざん/\降つて、時雄の為《た》めには一倍に侘《わび》しい。欅《けやき》の古樹に降りかゝる雨の脚、それが実に長く、限りない空から限りなく降つて居るとしか思はれない。時雄は読書する勇気も無い、筆を執る勇気もない。もう秋で冷々と背中の冷たい籐《とう》椅子に身を横へつゝ、雨の長い脚を見ながら、今回の事件から其《そ》の身の半生のことを考へた。かれの経験にはかういふ経験が幾度もあつた。一歩の相違で運命の唯中に入ることが出来ずに、いつも圏外に立たせられた淋しい苦悶《くもん》、その苦しい味をかれは常に味つた。文学の側でもさうだ、社会の側でもさうだ。恋、恋、恋、今になつてもこんな消極的な運命に漂はされて居るかと思ふと、其の身の意気地なしと運命のつたないことがひし/\と胸に迫つた。 [#ここで字下げ終わり]  これは日本自然主義の最初の小説といわれる、田山花袋の有名な『蒲団』の一節です。  まことに平易で、落ちついた客観的な書き振りで、主人公の中年の小説家が、雨の音を聞きながら、半生を振りかえり、又、現在の恋に悩んでいる心境を、|描きだして《ヽヽヽヽヽ》おります。  花袋はそうした情景を描くのに、非常に数の少い単語をもって、文章を構成しています。またなるべく日常的な云い廻しを取り入れています。「かれの経験にはかういふ経験が」というような、今日の私たちから見ると、不注意であるか稚拙であるかと疑わせる句もでてきますが、これも花袋が日常語に可能な限り、文章を近づけてみようという意欲の現れだったのでしょう。  彼はこういう文章によって、ひとりの中年の作家、それは実は彼自身であったのですが、その自分をできる限り、客観的に|突き離して《ヽヽヽヽヽ》、描き出そうとしたのです。  自分自身の心の秘密を、まるで他人のことのように、冷静に描き出すことで、本来、他人である読者に、正確に伝えようとしたのです。  これは中年の作家の若い女弟子に対する恋心を描いた小説ですが、その冷静で客観的な文章は、当人にとっては普通、きわめてロマンチックな夢のような恋愛感情から、その夢のような気分を剥《は》ぎとり、「性欲と悲哀と絶望」との白じらとした現実へ、恋愛を突き戻してしまいました。  恋愛というものは『源氏物語』のなかでも、近松のなかでも、いかにも華やかな非日常的なものとして表現されていたのが、花袋の近代的精神が、いわば恋をしていない人が他人の恋愛を見ている時のような見方で、恋愛の裸の姿を描き出したのです。  この日常的で平易な散文が、どのような激情的な心の混乱をも、冷静に表現することを可能としたのです。  また、同じ自然主義の作家の島崎藤村の『春』の最終頁の文章は、次のようなものです。 [#ここから2字下げ]  汽車が白河を通り越した頃には、岸本は最早《もう》遠く都を離れたやうな気がした。寂しい降雨の音を聞きながら、何時《いつ》来るとも知れないやうな空想の世界を夢みつゝ、彼は頭を窓のところに押付けて考へた。「あゝ、自分のやうなものでも、どうかして生きたい。」  斯《か》う思つて、深い/\溜息《ためいき》を吐《つ》いた。玻璃《ガラス》窓の外には、灰色の空、濡れて光る草木、水煙、それからシヨンボリと農家の軒下に立つ※[#「奚+ふるとり」、unicode96de]の群なぞが映つたり消えたりした。人々は雨中の旅に倦《う》んで、多く汽車の中で寐《ね》た。  復《ま》たザアと降つて来た。 [#ここで字下げ終わり]  ここでも極めて平易な表現がとられていて、そして花袋の文と同様、このまま朗読するのを聞いても、意味が全部、判ります。  現代の日本語は、耳で聞くだけでは意味の判らない文章が多くなっていて、たとえば放送のための日本語は、単語の云い換えによって、意味を伝えるという、苦しいことをやっています。 「油槽船《ゆそうせん》」は「輸送船《ゆそうせん》」ととられるのを心配して、「アブラユソーセン」などと発音して、正しい意味を伝えようとしています。  これは主として、幕末から明治にかけての、尨大《ぼうだい》な西洋語の単語の漢語による日本訳の試みの結果、同音語が無闇と増えてしまったからで、これほど同音語の多い言葉は、外国語にもなく、又、日本語の歴史のなかでも見られないことです。  文章というものは、古今東西、耳で聴いて快いものであるというのが、通則です。本来、文章というのは言葉《ヽヽ》を文字に写したものですから、当然のことです。  ところが現代の日本語は、同音語の氾濫《はんらん》によって、混乱しきっています。  だから、これらの明治の自然主義小説家たちが、近代的な精神状態を、|耳で聴いて《ヽヽヽヽヽ》判るような口語文で表現することに成功したということは、大変な努力だったと云うべきです。  また、藤村の例は、それらの口語文が、単に平易明快《ヽヽヽヽ》であるだけでなく、清新《ヽヽ》であると私たちに感じられます。この文章のなかで、「空」や「草木」や「水煙」や「※[#「奚+ふるとり」、unicode96de]」などの田園の風景は、昔の大和絵や、文人画や、浮世絵とは異った、いわば同時代に新しく興った水彩画のように、私たちに幻想される効果をあげています。ということは、空《ヽ》とか草《ヽ》とかいう言葉から、伝統的な和歌や物語や俳句の連想が剥ぎとられている、と云うことで、ここでは感覚《ヽヽ》も写実的、現実主義的に捉《とら》えられている、ということなのです。  由来、日本人は言葉に伝統的な連想を荷《にな》わせることで、文章を美しくすることを好んできました。たとえば「露」という単語は、王朝時代以来、何度も繰り返して、物語や歌や俳句のなかで、「はかないもの」の象徴として使われて来ました。だから、文章のなかで露《ヽ》という単語が出てくると、読者は直ちに「露のいのち」というような言葉を、反射的に思い出して、そこにはかない心象を、感じることになります。  そうした連想の遊戯による文章の極端な例は、江戸時代に発達した「俳文」というジャンルで、今日ではそうした文章は、原文に数倍の分量の註釈《ちゆうしやく》を参考しないと、意味が読みとれません。  横井|也有《やゆう》の『鶉衣《うずらごろも》』という文集が、その代表的なもので、それはその一部を、学校の教室で皆さんも習ったと思いますが、ああした文章は、ごく短い表現のなかに、無数の古典的連想を含んでいて、その面白さは無類なのですが、その連想的知識が記憶のなかに詰まっている人でなくては、面白く感じることはできません。  そういう面白さは、一読直ちに頭にひらめく性質のもので、それをゆっくり註釈で解き明かされて、はじめて納得行くというのでは、白けてしまいます。丁度、昨日よそで聞いた、意味不明の洒落《しやれ》を、今日、説明されても、少しもおかしくないのと、同じことです。  しかし、近代の散文《ヽヽ》というものは、そうした傾向とは、正反対の方向に理想を求めています。  自然主義の人たちの作った散文のなかでは、露《ヽ》というのは、目に見えるとおりの水滴を現わしているに過ぎないのです。それがはかない連想を喚《よ》び起すようには、文章全体が仕組まれてはいません。つまり、自然主義的な感じ方は、露という言葉ははかなさを現わすという、伝統的な感覚を否定したのです。  あらゆる単語、あらゆる云い廻しから、古典への連想を断ち切り、本来その言葉が持っている意味だけを使うというのが、自然主義の文章革命のなしとげたことです。  そうして、現代の私たちも、彼等の成しとげた成果にもとづいて、文章を書いているわけです。そういう写実的な文章は、日本の文章の歴史のなかで、口語文だけが実現したものです。  明治維新は、すべての伝統を否定することを実行したのですが、旧文明を破壊した廃墟《はいきよ》のうえに、西洋の近代的な新文明を導入するという目的は、新しい文学者たちにとっては、古い連想的な文体を否定し、西洋の近代文学の散文に学んで、新しい文体を作るということでした。  だから、自然主義の作家たちは、毎日、西洋の小説を原文か、英訳で読み、その原書の頁を開いたまま、原稿用紙のかたわらに置いて、口語文を作って行ったのでした。  彼等は|自分の気持《ヽヽヽヽヽ》を感じるのにも、目の前の景色《ヽヽ》を見るのにも、つい伝統的な感じ方、見方になるのを警戒して、西洋人の書いた文章を読み返しながら、それを参考にして、近代的な感覚を自分のなかに人工的《ヽヽヽ》に作りあげ、そしてそれを新しい言葉に置き換えたのです。  私たちは今、花袋や藤村やの文章を読んで、まことに平易に自然に、そして時には平凡すぎるようにさえ感じるのですが、当時の若き自然主義者たちは、自分の心のなかに湧《わ》き出てくる混沌《こんとん》とした気分をさえ、そのなかから日本人としての伝統的な要素を故意に切り捨てるために、西洋の小説を読んで、そのなかの主人公の気持に、自分の気分を当てはめ、その主人公に自分が変身したつもりになって、その気分を表現している原文を|なぞりながら《ヽヽヽヽヽヽ》、それを自分の気分だとして表現しています。  御承知のように、自然主義の小説の多くは、主人公が作者とそっくりです。そういう作者自身を主人公にした小説を、文学史上では「私小説」と名付けています。  最近では、私小説《ヽヽヽ》というのは、一人称で書かれたものという誤解を抱いている人が多いのですが、実際は三人称で書かれているものが多いのです。それは作者が自分の気持を、客観的《ヽヽヽ》に描こうとしたところから、当然、そうなっているのです。自分の感じ考えていることを、他人《ヽヽ》の目で見るためには、「私」と書くより「彼」と書いた方が成功するにきまっています。  今、私たちは自然主義の小説を読むと、人間の気持が自然に描かれているように感じます。そしてその頃に書かれた通俗小説の方を、探しだしてきて読んでみると、そこでは人間の感情が、歌舞伎《かぶき》劇の人物たちのように、あくどく誇張して描かれているので、不愉快な気分になります。  しかし、それが書かれた時期、明治の終りごろには、通俗小説の方が自然主義小説よりも、比較にならないほど多くの読者に読まれていたので、つまり多くの日本人は、通俗小説の方が自分たちの気持を表現しているように感じられたのです。  そうして面白いことには、通俗小説の方が古くさい、つまり伝統的表現と通じる文章になっています。  そして現に、自然主義の小説が発表されはじめた頃は、彼等の作品は、その文章も人物の気持も、「西洋の真似」だと非難されたと、後に花袋が「回想記」のなかで語っています。  今日、私たちが自然に書いている文章も、発明されたばかりには、他のあらゆる当時の文明的施設同様、「西洋の真似」だったのであり、私たちが今日、自然に自分の心のなかで感じる恋愛感情というようなものも、実は今世紀のはじめの頃は「西洋の真似」であったわけです。  勿論《もちろん》、今日の私たちの|考え《ヽヽ》たり|感じ《ヽヽ》たりする、考え方や感じ方、またその内容が、西洋人に近くなって、それだけ伝統的なものから遠ざかっているのは、その実例として、私たちは西洋の映画を観ながら、現在では誰ひとり、これは西洋人《ヽヽヽ》の恋愛が演ぜられているので、日本人はこのような感じ方はしないなどと思う人はいない、ということからも判ります。私たちはその映画のなかに、|自分たち《ヽヽヽヽ》の恋愛感情が表現されていると感じて、泣いたり笑ったりしているのです。一方で、歌舞伎を観ると、その人物の心の動きに、|昔の人《ヽヽヽ》を感じ、私たちとは違った人種のドラマとして、観ていることが多いのです。特に若い人たちが歌舞伎を観るのは、自然な愉しみとしてより、日本の伝統的な心を知りたいという、努力の気持が含まれています。そして、知りたい、という気持は、現在の私たちからは、それが失われていると感じている前提があるのです。  数十年まえには、まだ西洋の真似であった考え方、感じ方が、今ではごく自然のものとなったのは、勿論、実際の生活が西洋の近代生活に近付いたからであって、今日の青年たちはモスクワに行っても、パリに行っても、東京にいるのと少しも変らない態度で生活し、そこで知り合う青年たちを、外国人《ヽヽヽ》などと意識しないで、平気でつき合うようになっています。  しかしそういう国際的な気持の表現を可能とする口語文を、明治時代に|西洋の真似《ヽヽヽヽヽ》だと罵《ののし》られながら、自然主義の作家たちは、人工的に作りあげて行ったのでした。  だから、私たちの考え方や感じ方そのものも、明治以来の口語文を読むことを通して、自分たちのなかに育て上げて来た以上、彼等によってその道が作られたのだ、と云うこともできます。  口語文《ヽヽヽ》というものの発明は、だから単なる文章の問題ではなく、私たち日本人の現在の生活のあらゆる方面に、深い関係を持っているということになります。  またそれだけに、明治の自然主義作家たちの発明した口語文から、はみ出てくる新しい生活や感情が、新たに次第に増えて来ている、ということも、一方にあるので、そこでこの今世紀初頭に一応でき上った口語文が、その後、どのような道筋で、その表現の可能性を拡げてきているか、を私は見て行きたいと思っているわけです。  ところで、先程見た花袋の文章は、主人公が「恋愛」に悩んでいる場面でした。また藤村の文章は、主人公が「空想」にふけっている場面でした。  恋愛《ヽヽ》や空想《ヽヽ》が、外から他人の目で見て、冷静に描き出されていたわけです。  これは当時としては驚くべき発明であったわけですが、しかし、ここでもう一度、考え直してみますと、一体、恋愛《ヽヽ》とか空想《ヽヽ》とかいう精神現象は、果して外部から他人の目で見ただけで、充分に判るのか、という問題が出て来ます。  あなた方が恋愛をしたり、空想をしたりしている時の、心のときめきは、普段の冷静な時とは全く異るものでしょう。  そこには何ともいえない、甘美な匂いのようなものがあり、そうした捉えにくい匂いのようなものが、自然主義の小説家の文章からは切り捨てられているのが、物足りない、という人たちもいるわけです。  そうした人たちのなかの、当時の代表者は泉鏡花でした。鏡花は尾崎紅葉の愛弟子《まなでし》で、従って硯友社《けんゆうしや》文学の後継者として、一生を過したのですが、当時の自然主義作家たちは、伝統的な古典的な硯友社文学の否定を旗印しにかかげたので、現実に鏡花は作品の発表舞台さえ奪われるという迫害を受けました。  しかし彼は強情に彼自身の領域を拡大して行きました。彼の独自の領域というのは、|恋愛と空想《ヽヽヽヽヽ》との表現という領域でした。  だから、自然主義の冷静で客観的な文学にあき足りない読者は、鏡花の熱烈なファンになりました。  鏡花は、その口語文を自然主義者たちとは正反対の方向に、発展させて行きました。  実例を見ながら、その成果について説明を加えましょう。  当時の鏡花の代表作である『歌行燈《うたあんどん》』の冒頭、 [#ここから2字下げ]  宮重《みやしげ》大根のふとしく立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなはす、七里のわたし浪ゆたかにして、来往の渡船《とせん》難なく桑名につきたる悦びのあまり……  と口誦《くちずさ》むやうに独言《ひとりごと》の、膝栗毛《ひざくりげ》五編の上の読初め、霜月十日あまりの初夜。中空は冴切《さえき》つて、星が水垢離《みずごり》取りさうな月明に、踏切の桟橋を渡る影高く、灯ちら/\と目の下に、遠近《をちこち》の樹立の骨ばかりなのを視《なが》めながら、桑名の停車場《ステイシヨン》へ下りた旅客がある。 [#ここで字下げ終わり]  この文章の書き出しの「……」までの部分は、鏡花の創作でなく、江戸時代の十返舎一九の『膝栗毛』という旅行小説の引用なのです。  作者はこの小説に桑名《ヽヽ》という町を選んだのに際して、いきなり一九の小説の主人公が桑名に到着する部分を写したわけです。  しかも、鏡花のこの小説の主人公も、一九の小説の主人公のように、二人連れなので、一九の方の主人公の弥次郎兵衛、喜多八の二人に、鏡花は自分の主人公の面影を重ね合せて愉しんでいるわけです。  ということは、この小説は一九の小説の|パロディー《ヽヽヽヽヽ》仕立てになっていると云うことになるわけで、作者は積極的に古典への連想を読者に要求しているのです。  これは自然主義の散文が、あらゆる古典的連想を断ち切ろうとしたのと、正反対の行き方です。  由来、日本の伝統的文章というものは、古典への連想によって成立しているということは、先程も述べたわけですが、和歌の場合は自分の歌を古典的な歌に重ね合せて作る|本歌取り《ヽヽヽヽ》という手法が、平安末期にはやりましたし、また小説の場合でも、江戸時代の柳亭種彦はあえて『源氏物語』を|下敷き《ヽヽヽ》にして『偐《にせ》紫田舎源氏』という長篇《ちようへん》を書きました。  こういう古典を下敷きにする、パロディー的方法というのは、全く自然主義作家の嫌ったやり方であって、彼等がむしろ|下敷き《ヽヽヽ》に選んだのは、西洋の近代小説でした。  ところで注意しなければならないことは、この鏡花の小説の冒頭の「……」の部分の前も後も、同じ文体であると、私たちに感じられるという点です。  鏡花は口語文で書きながら、江戸末期の文体と、自分の文体とを融《と》け合せているのです。  つまり鏡花の口語文は、自然主義の作家のもののように、西洋語の直訳体ではなく、江戸の文体から直接に発展しているということなのです。  そこで鏡花の口語文は、自然主義流の客観描写が排除した、あの伝統的な|歌うような《ヽヽヽヽヽ》、|躍るような《ヽヽヽヽヽ》調子を、前代の文章から受けつぎ、それを発展させました。彼は口語文においても、伝統的な文章の技術が適用できることを証明したわけです。  そしてそのことによって、自然主義の口語文が失ってしまった、歌うような躍るような、主観的感動、つまり恋愛や空想の表現を、伝統的手法によって取り戻した、と云うことになります。  たとえば、同じ『歌行燈』のなかで、二人の主人公が駅前で、人力車を二台やとって、夜の街へ入って行く情景。 [#ここから2字下げ]  で、二台、月に提灯《かんばん》の灯《あかり》黄色に、広場《ひろつぱ》の端へ駈込むと……石高路《いしたかみち》をがた/\しながら、板塀《いたべい》の小路《こうぢ》、土塀の辻《つじ》、径路《ちかみち》を縫ふと見えて、寂しい処《ところ》幾曲り。やがて二階屋が建続き、町幅が糸のやう、月の光を廂《ひさし》で覆うて、両側の暗い軒に、掛行燈が疎《まば》らに白く、枯柳に星が乱れて、壁の蒼《あを》いのが処々。長い通の突当りには、火の見の階子《はしご》が、遠山の霧を破つて、半鐘の形|活《い》けるが如し。……火の用心さつさりやせう、金棒《かなぼう》の音に夜更けの景色。霜枯時の事ながら、月は格子にあるものを、桑名の妓達《こたち》は宵寝と見える、寂しい新地《くるわ》へ差掛つた。 [#ここで字下げ終わり]  これだけの短い文章のなかに、作者は二度も「……」を挿入しています。そして、音読しますと、この部分で、息をととのえるのだ、ということが判ります。丁度、オペラの台本で「この所、|語る《ヽヽ》」「この所、|歌う《ヽヽ》」という指示のあるように、この「……」は作用しているのです。  そうして、この短い節は、終りに行くに従って、調子が高くなり、張った声で歌うことになります。終りの数行などは、ほとんど黙阿弥の芝居の名|台詞《せりふ》のような感じです。現に当時の読者は、「月は格子にあるものを、桑名の妓達は宵寝と見える」という部分などは、暗誦《あんしよう》して愉しんだのです。  それにもうひとつ、この短文のなかで、鏡花は、「提灯」と書いて、「かんばん」とルビを振り、同様にして「径路」と書いて「ちかみち」と読ませています。  これも、「露」と書いて、単なる「水滴」を表現しようとした、自然主義的な文章の理想からすれば、驚くべき邪道なので、彼等だったら、その部分は「看板に出してある提灯《ちようちん》」とか、「狭い横丁の近道」とか、正確に書いたでしょう。  それをしなかった鏡花は、そのようにすれば、彼の文章が間伸びして、調子が崩れると思ったからなのです。  彼は調子のために言葉を選んでいるので、正確な観察によって景色を、|そのままに《ヽヽヽヽヽ》写すというやり方とは、別の手法の方へ行っているのです。  この小説の終りに近く、 [#ここから2字下げ]  舞ひも舞うた、謡ひも謡ふ。はた雪叟《せつそう》(主人公のひとり)が自得の秘曲に、桑名の海も、トトと大鼓《おほかは》の拍子を添へ、川浪近くタタと鳴つて、太鼓の響に汀《みぎは》を打てば、多度山《たどさん》の霜の頂、月の御在所ケ岳の影、鎌ケ岳、冠《かむり》ケ岳も冠《かむり》着て、客座に並ぶ気勢《けはひ》あり。 [#ここで字下げ終わり]  これはもう近代の散文というより、謡曲の文章に近く、そして、山の名前の並列も、近松の道行文などの伝統に従っているので、主人公が窓から、それらの山を眺めている、というわけではありません。  同じ口語文であっても、自然主義流の客観描写を好むか、鏡花流の主観的歌いぶりを好むかは、読者の趣味に属する問題でしょう。  ただ私は、現代のごく若い世代のなかに、鏡花復興の兆しが見えていることに、深い興味を抱くものです。彼等は在来の口語文が、自分たちの心を表現するには不充分だと感じて、鏡花の方へ赴いているのですから。 [#改ページ] [#小見出し]    口語文の完成 [#小見出し]      一  さて、先に述べたように、自然主義作家たちを中心として、|感じた《ヽヽヽ》ままを表現する文学的口語文が成立したわけですが、しかしこのようにして成立した口語文は、あくまで作家たちによって作られたものなので、最初に説明した文章《ヽヽ》の二つの機能、|考えた《ヽヽヽ》ことを書く、と、|感じた《ヽヽヽ》ことを書くということのうち、どうしても|感じた《ヽヽヽ》ことを書くということの方へ、主力が行っていました。  もちろん、小説の主人公たちも、感じるだけでなく、考えることもするわけで、その考えることの内容も、作家によって描写されたわけですが、作家たちは小説の文章のなかに、耳で聴いただけでは判らない漢語の抽象語、しかもそれは西洋語の直訳であって、何の生活的な情緒も附着していない単語を、採用することを、できるだけ避けることで、文体の純粋さを作りあげようとしました。  それに自然主義傾向の作家が小説の主人公に選んだのは、当時の知的エリットではなく、一般の庶民でした。そして一般の庶民たちは、選ばれた知識階級の人々のようには、そうした直訳漢語を日常生活に持ちこんでいなかったので、そうした庶民の夫婦の会話などを書く場合に、抽象語を採り入れる必要もありませんでした。又、作者の精神生活がそのまま反映する|地の文《ヽヽヽ》においても、作者自身が庶民の目で現実を眺めるという立場でしたので、そうした抽象語のお世話にはならなかったわけです。  そればかりか、自然主義を中心として形成されて行った「文壇」の気風は、次第にその方法を純化し洗煉させて行く過程で、むしろ露骨に積極的に|抽象語嫌い《ヽヽヽヽヽ》になって行きました。それらの抽象語は、日本《ヽヽ》の現実に根差した日本語とは云えない、というのが彼等の意見でした。  ということになると、その口語文の文体は一般の庶民の日常的感慨は盛ることができても、一方で相変らず漢文書き下し調の文語文で書かれている、各種の論文のなかへ浸透して行くことは困難だということになります。  そうなれば、江戸末期の文語文と口語文との並存、二種の文章の書き分け、読み分けをしながら暮して行くという、不自然な事態が、そのまま近代生活のなかへ持ちこされるという、好ましくないことになります。  そこで、この文壇的口語文の成立以来、従来の文語文をいかに口語文のなかへ吸収するかという課題が、社会の各方面に生れ、その試みが相いついで起ってきます。  ここでは、その試みを見て行こうということになりますが、それはその試み、つまり|考える文体《ヽヽヽヽヽ》と|感じる文体《ヽヽヽヽヽ》との総合だけが、口語文を唯一の近代日本語の文章として完成させることになるからです。そうして私たちはそれによって、二重の文章のなかに生きるという迷惑から解消されることになるからです。  たとえば、戦前の社会では、ある裁判に私たちが捲《ま》きこまれた場合、文語体《ヽヽヽ》の法律の文章を研究しながら、法廷では口語体《ヽヽヽ》で相手方と議論をしなければならないという、厄介な事態になり、それは裁判だけでなく、社会の各方面で、ほとんど毎日のように起っていたのです。  そこで口語体のなかへ文語体を吸収させるという仕事を行う最適任者はどういう人たちであるかと考えてみますと、それは文学者であると同時に学者である人物が良いということは直ちに判ってきます。つまりそういう人物は、日常、論理的な文章(論文)と情緒的な文章(文学)とを書き分けて暮しているので、文語文と口語文との、それぞれの長所も短所も、またそれぞれの可能性も、それから両方の文体の接点や融合の勘所というものをも、よく心得ているからです。  当時におけるその適任者の代表は、森鴎外と夏目漱石です。このふたりは一生を文学者として過しましたが、前半生はいずれも学者としての仕事を本職としていたのです。  そうして二人の全集を見て行きますと、文語文と口語文との統一の過程がよく見えてきて興味深いものがあります。  私は鴎外漱石二家の晩年における、それぞれに完成した文体は、正に私のここでの課題の、ほぼ完全な実現であったと思っております。  しかし二人の新しく作りだした文体、またその文体の背後にある二人の精神的態度は、いずれも専門の文学者たちの承認を得ることはできませんでした。いわゆる文壇作家たちは、仲々、二人を文学者として認めようとせず、素人扱いをしつづけました。  二人の全集が完全な形で出たのは、昭和になってからであり、しかもその出版社は文学的出版社ではなく学問的出版社であると当時思われていた岩波書店からでした。  そうした現象も、文壇というものがこの二人の作品をどう見ていたかということが判って興味深いものがあります。そしてそうした文壇的評価というものが、世間一般の二家に対する評価と次第に大きく開きがでて行ったという現象が、一方にあるので、それは更に興味を増すことになります。  そして更に、「世間一般」が文壇に先立って、鴎外漱石二家を文学者として高く評価することになって行ったという現象は、彼等の作りだした文語体と口語体との統一による新しい文章を、一般読者が自分たちの文章だと承認するようになって行った、という事実を現わしているのです。  ——まず森鴎外から見て行きましょう。  面白いことには、鴎外はその文学者としての経歴をはじめるのに、まず西洋の小説を文語体《ヽヽヽ》に訳すことから始めました。鴎外は二葉亭とは正反対な方向から出発したのです。  彼は旧来の文語体が、西洋の小説の文体を写すのに、どの程度の可能性があるかを、験《ため》そうとしたのです。  有名な『即興詩人』(アンデルセン作)の翻訳の冒頭を写してみましょう。 [#ここから2字下げ]  羅馬《ロオマ》に往《ゆ》きしことある人はピアツツア、バルベリイニ[#「ピアツツア、バルベリイニ」に二重傍線]を知りたるべし。こは貝殻持てるトリイトン[#「トリイトン」に傍線]の神の像に造り做《な》したる、美しき噴井《ふんせい》ある、大なる広こうぢの名なり。貝殻よりは水|湧《わ》き出《い》でてその高さ数尺に及べり。羅馬に往きしことなき人もかの広こうぢのさまをば銅板画にて見つることあらむ。かゝる画にはヰア、フエリチエ[#「ヰア、フエリチエ」に二重傍線]の角なる家の見えぬこそ恨なれ。わがいふ家の石垣よりのぞきたる三条の樋《ひ》の口は水を吐きて石盤に入らしむ。この家はわがためには尋常《よのつね》ならぬおもしろ味あり。そをいかにといふにわれはこの家にて生れぬ。首を回してわが穉《をさな》かりける程の事をおもへば、目もくるめくばかりいろ/\なる記念の多きことよ。我はいづこより語り始めむかと心迷ひて為《せ》むすべを知らず。又我世の伝奇《ドラマ》の全局を見わたせば、われはいよ/\これを写す手段に苦めり。 [#ここで字下げ終わり]  実に名調子で、朗々|誦《しよう》すべき文章というのは、こういうものを云うのでしょう。現にこの冒頭を、多くの読者は喜んで暗誦したものです。その風潮は実に私たち昭和の文学青年にまで伝わり、私は立原道造が蜒々《えんえん》とこの文章を暗誦するのを聴いたことがあります。  ところで注意すべきは、この文脈は漢文体ではなく、国学者や歌人たちが江戸時代に開発した、和文体《ヽヽヽ》、いわゆる擬古文《ヽヽヽ》だということです。つまり文語体のなかで、漢語をできるかぎり排除した文体であって、その反漢文体という態度においては、新しい口語体と通じていたわけです。しかもこうした擬古文は、江戸時代にも主として、抽象語の必要の少い文学的作物に用いられたものです。  初期の鴎外は、この江戸の和文を発展させて、近代の文学的文体を作ろうと考えていたのでしょう。しかし、この文体の不便の最大なるものは、漢語の単語に代えようとすると、和語の単語を新しくいちいち作らねばならず、しかもそれが冗長なものになってしまうという点です。たとえば「航空機」の代りに「あまつとりふね」では、到底、日常に使うことはできません。  ところで鴎外は次にこの翻訳文を、創作にも適用しようとしました。これは実験の前進です。  やはり有名な『舞姫』という小説の一節を読んでみましょう。 [#ここから2字下げ]  朝の|※[#「口+加」、unicode5496]※[#「口+非」、unicode5561]《カツフエエ》果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余はキヨオニヒ街の間口せまく奥行のみいと長き休息所に赴き、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でゝ彼此《かれこれ》と材料を集む。この截《き》り開きたる|[#「」、unicode7abb]《ひきまど》より光を取れる室にて、定りたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引所の業の隙を偸《ぬす》みて足を休むる商人などと臂《ひぢ》を並べ、冷《ひやゝか》なる石卓《いしづくゑ》の上にて、忙《いそが》はしげに筆を走らせ、小をんなが持て来る一盞《ひとつき》の※[#「口+加」、unicode5496]※[#「口+非」、unicode5561]の冷むるをも顧みず、明きたる新聞の細長き板ぎれに插《はさ》みたるを、幾種《いくいろ》となく掛け聯《つら》ねたるかたへの壁に、いく度となく往来する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。又一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返り路《みち》によぎりて、余と倶《とも》に店を立出づるこの常ならず軽き、掌上の舞をもなしえつべき少女を、怪み見送る人もありしなるべし。 [#ここで字下げ終わり]  この一節でも判るように、鴎外は翻訳で試みた文体を、そっくりそのまま創作に適用して成功しています。これは二葉亭が創作を試みるに際して、翻訳の文体よりも、より保守的なところに後退したのとは、異っています。  ここで注目すべきことは、一人称には「余」が用いられ、三人称女性形に「彼」が使われていることです。今日では、普通は「私」あるいは「ぼく」、また「彼女」となっているわけですが、最初の頃には、従来の日本文ではほとんど使われなくて、西洋の文章の影響で急に頻用《ひんよう》されることになった人称代名詞に、様々の試みがなされたことが、この一例でも見てとれます。  鴎外はこうした和文で小説を書くという実験を、その後も二三続けてやってみたあとで、忘れたようにやめてしまいます。多分、この文体には狭い限界があると見極めをつけたのだろうし、又、はじめから遊戯としてやってみた、という感じもあったわけです。  大体、遊戯という態度は、鴎外の文学的仕事にはついて廻っているような傾向があり、その後も江戸|戯作《げさく》の文体模写のような『そめちがへ』というような、冗談めいた小説も書かれています。  それは、 [#ここから2字下げ]  時節は五月雨《さみだれ》のまだ思切《おもひきり》悪く、昨夕《ゆうべ》より小止《をやみ》なく降りて、|※[#「木+(雨/(口+口+口/巫))」、unicode6b1e]子《れんじ》の下《もと》に四脚《よつあし》踏み伸ばしたる猫|懶《ものう》くして起たんともせず、夜更けて酔はされたる酒に、明《あけ》近くからぐつすり眠り、朝餐《あさめし》と午餉《ひるめし》とを一つに片付けたる兼吉が、 [#ここで字下げ終わり] という書き出しで、句点※[#小さな○、unicode25e6]をひとつも使わずに、曲芸のような文章で終りまで繋《つなが》っています。つまり小説全体が、前に『ユリシーズ』で紹介したのと同じ、ただひとつの文なのです。  これなど明らかに、修辞的な遊びです。  文学には、多分、近代の日本人の考えている以上に、|遊び《ヽヽ》という要素は強いものですが、しかし、こうした遊戯のあいだから、ひとつの社会全体が使うことのできる、新しい普遍的な文体の創造は不可能です。  鴎外はやがて小説そのものを試みることをやめ、それから、もう一度、このジャンルに戻ってきた時、彼は驚くほど新鮮で自由な口語文を書くことになります。それは明治も終りに近く、自然主義の諸家の試みが、続々と世に現れはじめたのを見て、鴎外自身も口語文を書くことに興味を起したのだと思われます。  たとえば『追儺《ついな》』の冒頭、 [#ここから2字下げ]  悪魔に毛を一本渡すと、霊魂まで持つて往かずには置かないと云ふ、西洋の諺《ことわざ》がある。  あいつは何も書かない奴だといふ善意の折紙でも、何も書けない奴だといふ悪意の折紙でも好い。それを持つてゐる間は無事平穏である。そして此《この》二つの折紙の価値は大して違つてはゐないものである。  ところがどうかした拍子に何か書く。譬《たと》へば人生意気に感ずといふやうな、おめでたい、子供らしい頗《すこぶ》る sentimental なわけで書く。さあ、書くさうだなと云ふと、こゝからも、かしこからも書けと迫られる。 [#ここで字下げ終わり]  こういう全く片意地を張らない、随筆的な調子で書きはじめておいて、それからさりげない小説論を展開し、それだけの前置きのあとで、ある料亭での豆打ちの光景を、目に見えるように鮮かに描写して、それで不意にこの小説は終るのです。  それはまことに何気ない小品だと云ってしまえばそれだけの作品です。しかし、この短い小説のなかには、従来の自然主義作家の誰も試み及ばなかった、実験が行われているのです。  それはまず前半の随筆的な文章が、次第に論文的なものに発展し、その文体そのままで、今度は純粋に小説的情景が描写されているという点です。  ここで鴎外は、いわば学者的文体と作家的文体の統一を、やすやすとやり遂げているわけで、そしてその文章を構成する単語も、自然主義流の平面描写による文章のなかには見出せなかった抽象語が、うまく全体と調和しながら、使われています。鴎外はこの短い小説のなかで、社会に通用するどんな単語をも、口語文のなかに入れることができるということを証明したのです。  たとえば、この小説のなかには、次のような一節があります。 [#ここから2字下げ]  凡《すべ》て世の中の物は変ずるといふ側から見れば、刹那《せつな》々々に変じて已《や》まない。併《しか》し変じないといふ側から見れば、万古不易である。此頃|囚《とら》はれた、放たれたといふ語が流行するが、一体小説はかういふものをかういふ風に書くべきであるといふのは、ひどく囚はれた思想ではあるまいか。僕は僕の夜の思想を以《もつ》て、小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだといふ断案を下す。 [#ここで字下げ終わり]  これは小説論でありますが、それをそのまま文体論として受けとってもいいと思います。  すると、口語文というものは、どのように書くのも自由だ、ということになります。  鴎外は、この自由な散文で、平然と小説的描写もやって行きます。例えば、今の節の少しあとの方になりますと、 [#ここから2字下げ]  とう/\新喜楽(料亭の名)を見付けた。堀ばたの通に出る角の家であつた。格子戸の前で時計を見る。馬鹿に早い。まだ四時三十分だから、約束の時間までは、一時間半もある。  格子戸をはいる。中は叩きで、綺麗《きれい》に洗つてある。泥靴の痕《あと》が附《つ》く。嫌な心持がする。早過ぎることわりを言つて上ると、二階へ案内せられる。  東と南とを押し開いた、縁側なしの広間である。西が床の間で、北が勝手からの上り口に通ずる。  時刻になるまで気長に待つ積で、東南の隅に胡坐《あぐら》をかいた。  家が新しい。畳が新しい。畳に焼焦しが一つないのは、此家に来る客は特別に行儀が好いのか知らんなぞと思ふ。兎に角心持が好い。 [#ここで字下げ終わり]  これは従来の観念からすると、文学者の文章というより、科学者の文章であります。鴎外は科学者の頭脳で考え、科学者の観察眼で見たままを表現して、小説を書くのに成功したのです。ここには|考える文章《ヽヽヽヽヽ》と|感じる文章《ヽヽヽヽヽ》との統一が、楽々と実現しています。  鴎外ははじめて日本の小説に、知識階級の人物を主人公として登場させ、そしてその主人公に|考え《ヽヽ》させることをした作家だと云ってもいいでしょう。  しかし、彼も時には、自然主義流の庶民を主人公とした小説を、相変らずのこの文体で書いて成功しています。  たとえば『金貨』という小説です。 [#ここから2字下げ]  左官の八は、裏を返して縫ひ直して、継《つぎ》の上に継を当てた絆纏《はんてん》を着て、千駄ケ谷の停車場脇の坂の下に、改札口からさす明《あかり》を浴びてぼんやり立つてゐた。午後八時頃でもあつたらう。  八が頭の中は混沌《こんとん》としてゐる。飲みたい酒の飲まれない苦痛が、最も強い感情であつて、それが悟性と意志とを殆ど全く麻痺《まひ》させてゐる。 [#ここで字下げ終わり]  鴎外は彼の発明した新しい総合的な口語文のなかで、様々な実験を重ねながら、その可能性を拡大させて行きます。ということは社会のなるべく広い各種の層の人たちの使用に耐えるものにさせて行くということです。  たとえば、 [#ここから2字下げ]  併し運命は僕を業室から引きずり出して、所謂《いはゆる》事務といふものを扱ふ人間にしてしまつた。(『大発見』) [#ここで字下げ終わり] というような文章は、当時の人々を驚かせました。それまで日本人は、「運命」というような抽象名詞を主語《ヽヽ》にした文章は、書くものではない、それは間違いだと信じていたのです。  それを鴎外は西洋の文章から直輸入して、大胆に日本語で試みたわけです。それは今日から見ても極めて新鮮であり、また表現の可能性を大きく拡大したものと云えましょう。  私はこの鴎外の試みを、日本語の表現の可能性の拡大、日本語の自由さの伸長として、強く支持するものです。しかし、抽象語を主語とした文章は日本語ではない、という立場の人々は、特に文壇の作家のなかに、今日でも見られるので、今から数年前にも、明確な文章を書くことで知られている、ある中堅作家が、座談会でこうした文章を、日本語ではない、と云って否定する発言をしておりました。  だから、鴎外のこの試みには、半世紀以上たった現在もまだ勝負がついていないわけです。読者の皆さんも、この試みを自分でやって、験してみたら面白いだろうと思います。そういうふうに、文法や修辞法の問題を例題として、自分で文章を作ってみるということが、文章についての理解を深め、また自分の文体を作るということに、非常に役立つのです。また普段、思ってもいなかったような珍らしい考えや感じが、従来から習慣で使っていた文体でない、新しい試みで文章を書くと、自分のペンのしたから突然に現れ出るということがあって、それは思いがけない新しい自己の発見という、愉しいことにもなります。  なお、この鴎外の短い文章のなかにある「業室」という、今日では多分、字書にも載っていない言葉は「Laboratorium」というドイツ語の訳語として、彼がその時、思いついたものでしょう。そうして、それは後の人に受け継がれることなく、今日では「研究室」という訳語が定着しました。鴎外の文章には、このような彼の発明した新しい単語が、数多く見出されます。  さて、以上、二三の文例から見て、どうも鴎外の文章は明快で、情景が目に見えるようだし、又、考える論理的な手続きが、はっきりと頭に入ってはくるが、一方、情感というものが乏しくて、冷たく感じられる、という感想を持った読者がいることと思います。そうして、いつもこの調子では、却《かえ》って表現の範囲が限られてしまうのではないか、という危惧《きぐ》を持った人もいることでしょう。  そこで鴎外の文体の多様な可能性を、もう少し研究してみたいと思います。 [#ここから2字下げ]  小倉の冬は冬といふ程の事はない。西北の海から長門《ながと》の一角を掠《かす》めて、寒い風が吹いて来て、蜜柑《みかん》の木の枯葉を庭の砂の上に吹き落して、からからと音をさせて、庭のあちこちへ吹き遣《や》つて、暫《しばら》くおもちやにしてゐて、とうとう縁の下に吹き込んでしまふ。さういふ日が暮れると、どこの家でも宵のうちから戸を締めてしまふ。 [#ここで字下げ終わり]  これは『独身』の書き出しですが、ここで鴎外は殆んど|話し言葉《ヽヽヽヽ》そのままを、文章に写していて、従って非常に柔らかい感じを作りだしています。 「……て、……て、」と「て」を六回も繰り返しているのが、その話し言葉的な柔らかさの秘密であり、それが風の行方を自然と追って行く過程の表現となっています。が、作者はこの「て」の繰り返しを、幾分、遊戯的に面白がってやって見せている、という感じもします。  あるいは当時の日本の作家の誰かの文体を、誇張して真似してみせて、ふざけているのかも知れません。  この粘着性の文章とは正反対な、歯切れのよすぎる文章もあります。 [#ここから2字下げ]  箸《はし》のすばしこい男は、三十前後であらう。晴着らしい印半纏を着てゐる。傍《そば》に折鞄《をりかばん》が置いてある。  酒を飲んでは肉を反《かへ》す。肉を反しては酒を飲む。  酒を注いで遣る女がある。  男と同年位であらう。黒|繻子《じゆす》の半衿《はんえり》の掛かつた、縞の綿入に、余所行《よそゆき》の前掛をしてゐる。  女の目は断えず男の顔に注がれてゐる。永遠に渇してゐるやうな目である。  目の渇は口の渇を忘れさせる。女は酒を飲まないのである。 [#ここで字下げ終わり]  これは『牛鍋《ぎゆうなべ》』のなかの一節ですが、まるで早口の人が舌をそよがせて喋《しやべ》っているような文章です。 [#ここから2字下げ]  ちん/\。ちん/\。電車が又動き出した。どつどつ、ごう。  店に明りの附いたのが段々多くなる。街燈が附く。繁華な通りも人通りは少い。どこでも夕飯を食ふ時刻なのである。  電車にぱつと明りが附いた。  或る町の角を電車が鋭く曲つた。 [#ここで字下げ終わり]  この『電車の窓』の一節では、二つの試みが見られます。それは速く走っている電車の運動感を、文体そのもので表現しようとする工夫のわけですが、第一は擬音語《オノマトペ》の採用です。明りが「ぱつと」つく、という程度は、とりたてて問題にならないでしょうが、「ちん/\。ちん/\。……どつどつ、ごう」となると、子供の幼稚な作文のようです。一般に擬音語はなるべく使わないというのが、文章法の常識となっています。それは話し言葉と書き言葉の相違の、けじめのようなものとして、どこの国語にも通用している、共通の規則です。  ところが鴎外は、人のやらないこの規則違反をわざとここではやってみせています。第二は文末に、「なる」、「附く」、「少い」というふうに現在形を使ってみせています。これも、普通、叙述の文章では、「なった」「附いた」「少なかった」というふうに過去形を使うべきなのですが、それを作者は故意に現在形を並べています。そうした現在形で、畳みかけるように書いて行くのも、電車のスピード感の表現として効果があるわけです。  しかし、こうした彼の発明は、多分、同時代のドイツあたりの新しい作家の、新しい表現を面白がった鴎外が、それを日本語で真似してやってみたという形迹《けいせき》が濃厚です。  しかし、それはひそかに盗んだ、というのでなく、彼自身、同時代のヨーロッパの様々の短篇《たんぺん》小説を翻訳紹介することで、日本の読者にその形式の多様性に対して目を開かせようとしたのと同様に、西洋の新しい様々の文体実験を日本語に移植することで、自然主義作家の単調な描写体から、口語文を解放しようという意図があったのだと思います。  こうした様々の実験の末に、遂に鴎外は、端正であると同時に自由な、正確であると同時にいかような感慨をも托《たく》すことのできる文体を完成させるに至ります。それが晩年の史伝の文体であり、彼に私淑した永井荷風は、この史伝の文章が「ラテン文と漢文」との長を採って融合させたものだと賞讃《しようさん》しています。  そして「ラテン文」を西洋語《ヽヽヽ》、「漢文」を文語体《ヽヽヽ》と云い直せば、正に鴎外は西洋の文体に学んだ口語体と、漢文に学んだ文語体とを統一して、新しい気品に満ちた古典的《ヽヽヽ》口語体を発明した、ということになるわけです。  その史伝のひとつ『澀江《しぶえ》抽斎』の有名な一節をここに写しておきます。何度も繰り返して味ってみて下さい。 [#ここから2字下げ]  わたくしは又かう云ふ事を思つた。抽斎は医者であつた。そして官吏であつた。そして経書や諸子のやうな哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のやうな文芸方面の書をも読んだ。其迹《そのあと》が頗るわたくしと相似てゐる。只その相|殊《こと》なる所は、古今時を異にして、生の相及ばざるのみである。いや。さうではない。今一つ大きい差別がある。それは抽斎が哲学文芸に於《お》いて、考証家として樹立することを得るだけの地位に達してゐたのに、わたくしは雑駁《ざつぱく》なるヂレツタンチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に視て忸怩《じくじ》たらざることを得ない。  抽斎は曾《かつ》てわたくしと同じ道を歩いた人である。しかし其健脚はわたくしの比ではなかつた。|※[#「しんにゅう+向」、unicode9008]《はるか》にわたくしに優《まさ》つた済勝《せいしよう》の具《ぐ》を有してゐた。抽斎はわたくしのためには畏敬《いけい》すべき人である。  然《しか》るに奇とすべきは、其人が康衢通逵《こうくつうき》をばかり歩いてゐずに、往々|径《こみち》に由《よ》つて行くことをもしたと云ふ事である。抽斎は宋槧《そうざん》の経子を討《もと》めたばかりでなく、古い武鑑や江戸図をも翫《もてあそ》んだ。若《も》し抽斎がわたくしのコンタンポランであつたなら、二人の袖は横町の溝板《どぶいた》の上で摩《す》れ合つた筈である。こゝに此人とわたくしとの間に|※[#「日+匿」、unicode66b1]《なじ》みが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。 [#ここで字下げ終わり] [#小見出し]      二  前節では口語文の完成者としての森鴎外の文体の進展のあとを追ってみたのですが、鴎外に対比すべき人として、ここでは夏目漱石を見てみたいと思います。  皆さんは、記憶のなかで鴎外の文章と漱石の文章とについての|感じ《ヽヽ》を思い出してみる時、直ちにその二人の文章の|肌合い《ヽヽヽ》が非常に異っているということに気付かれるでしょう。  二人とも完成した口語文を書いたのですが、その完成の方向は正反対なものです。  単純化して云えば、鴎外の散文は|堅く《ヽヽ》、漱石の散文は|軟かい《ヽヽヽ》と云えましょう。そうして、|考える《ヽヽヽ》文章としては、こうした堅さ、軟かさというものは、ほとんど問題にはならないのですが、|感じる《ヽヽヽ》文章としては、そうした|肌合い《ヽヽヽ》というものが、最も大事な生命となります。  この二人の学者の文章に、どうしてこのような大きな相違が発生したのでしょう。二人とも論理《ヽヽ》と感情《ヽヽ》とを総合する文章の完成という点では、目的を共有していたのにもかかわらずです。  私はこの二人の文章の肌合いの相違は、二人の性格の相違というような個人的理由よりは、その文章の土台《ヽヽ》、苗床《ヽヽ》の相違から来たものと考えます。  彼等の子供の時代、明治のはじめの頃には、まだ全国各地方はそれぞれの土地の言葉、方言《ヽヽ》というものを持っており、それを使って生活していました。  たとえば鴎外の生れた山陰|石見《いわみ》地方では、人々は、 [#ここから2字下げ] 「こりい。それう持つてわやくをしちやあいけんちふのに。」 「しづさあ。あんたはこれを何と思ひんさるかの。」 「榛野《はたの》さあのやうに大事にして貰はれれば、こつちとらも奥山へ行《い》くけえど、銭う払うて楊弓《ようきゆう》を引いても、ろくに話もしてくれんけえ、ほん詰まらんいなう。」(いずれも、『ヰタ・セクスアリス』中の用例) [#ここで字下げ終わり] というような、標準語用の文字では、発音も正確に写しとることの困難な方言を使っていたのです。そして鴎外自身もその方言によって生活していたわけです。  そうした鴎外は、文章を作るに際して、この話し言葉を洗煉させ、文章語に高めるということはしないで、当時、維新後に|急造された《ヽヽヽヽヽ》人工的な標準語《ヽヽヽ》を取りあげて、それを洗煉させる方向を取ったのです。  だから、彼の文章は彼の生得の、息の通った、肌の暖かみのある話し言葉の生命《ヽヽ》からは切り離されたものになりました。  それが最も端的に現れたのが、彼の書いた戯曲の台詞《せりふ》です。  たとえば『仮面』のなかの医者の台詞。 [#ここから2字下げ] 「失礼をしました。わたくしの処《ところ》では、病名は言はない事にしてあるのですが、外の御婦人とは違ひますし、それに却《かへつ》て無益な御心配を掛けては済みませんから、申すのです。実は。実は一昨年胸膜炎に罹《かか》られた跡が、本当に直つてゐないのです。癒着《ゆちやく》が残つてゐるらしいのです。」 [#ここで字下げ終わり]  また夫人の台詞。 [#ここから2字下げ] 「さやうでございますか。好く分りました。実は宅で申しますのに、栞《しをり》(息子)は神経の鋭敏な方だから、若《も》し痰《たん》の御検査をなすつて、結核にでも極《き》まつたのを、当人にお話なすつた時、ひどく落胆《がつかり》いたすやうな事がありはすまいか。兎に角今日当人が診察を願ひに行く前に、様子を伺つて置くやうに、と申すのでございます。」 [#ここで字下げ終わり]  こうした台詞は、目で読む限りは、実に明快であり、そして一種の文体《ヽヽ》となっています。  私たちの世代は青年時代に、現代の日本の戯曲の台詞が、写実への執着から|話し言葉《ヽヽヽヽ》の模写の方向に陥落していて、文体を失っていることに不満を抱きました。鴎外もその『澀江抽斎』のなかで述べているように、「戯曲もまた詩の一変体」であるとすれば、独自の文体《ヽヽ》を持たなければなりません。  そこで私たちは近代の古典のなかに、そのモデルを求めて、様々の模索のあいだに、鴎外の戯曲に遭着しました。  そして、それを上演技術の方向から研究した結果、芥川比呂志の達した結論は、鴎外の台詞は俳優が|喋れない《ヽヽヽヽ》ということでした。  この結論は私に衝撃を与えましたが、それもこうした台詞を、鴎外が|話し言葉《ヽヽヽヽ》から作りあげたのでなく、|書き言葉《ヽヽヽヽ》から作りあげたのであってみれば、当然のことと云えましょう。  それで私たちの世代は、この鴎外の台詞の文体を、いかにして話し言葉に近付け、俳優が喋れるようにするか、と工夫するようになったのですが、その試みのなかから、最も成果をあげたのは、三島由紀夫でした。  その代表作『鹿鳴館《ろくめいかん》』のなかの女主人公の台詞。 [#ここから2字下げ] 「気休めはいや。あの方は和服がお好きだらうか、それとも洋装だらうか。内閣に大反対で、鹿鳴館さわぎに大反対でいらつしやるから、定めし洋装はおきらひだらうが、殿方の好みは主義や思想にはかかはりのないものだと思ひますよ。今あの方が和服がおきらひだつたら、こんな裾を引いた着物でどうやつてお目にかからう。……ああ小娘のやうに動悸《どうき》がする。もう一度手鏡をいそいで見せて。見ておくれ、草乃。大事を告げるのに意気張つて、老いがいつもよりもくつきりと私の顔を隈取つてはゐないだらうね。この年になるとまごころと若さとを一緒にお目にかけようとするのは大へんね。」 [#ここで字下げ終わり]  又、主人公の革新政治家の台詞。 [#ここから2字下げ] 「お志はありがたいが、私は危険に生きてきた人間だ。危険が私の日常で、今かうしてお話してゐるのさへ、私の危険な生活の一部なんだ。嵐の中で生きて来たから、微風《そよかぜ》の中では息づまる。」 [#ここで字下げ終わり] というような台詞は、鴎外の作りだした文体に、見事に|しぐさ《ヽヽヽ》を与え、読者はこうした台詞を目で追いながら、その人物の刻々の動きを鮮かに思い描くことができます。  そして、そのように|喋れる《ヽヽヽ》ようにするために、作者の三島氏が、語の配列や語尾に、どのように神経質な配慮を行っているか。そういう点に注意して、もう一度、読み直してみて下さい。  それに比べると鴎外の台詞は、人物が棒立ちになって話している印象を与え、人物の動きやしぐさは、一向に伝わってきません。  |話し言葉《ヽヽヽヽ》から切り離された台詞《ヽヽ》というものは、このような困難に出会ってしまうものです。  ただし、それは台詞《ヽヽ》という、俳優の肉体を通して表現される文章の場合の話であって、これが専ら目を通して伝えられる、小説のなかの会話《ヽヽ》では、鴎外の発明した文体は、充分に論理的にも美的にも効果を発生させるので、現代の作家たちも、それを学んでいる場合が少くありません。  たとえば手近かの実例を、最近の推理小説の一冊から拾ってみますと、ある芸能社の専務が、こういう調子で女秘書に話しています。 [#ここから2字下げ] 「よろしい。じつはね、いま新聞に報道されている鈴木重之というピアニストのことなのだが、あの人は犯人ではない。無実なのだ。あの人の生命《いのち》を救うのは、ぼくが偶然にも雨宮氏に電話をかけたという、そのことにかかっているんだ。だから、この刑事さんの質問にはていねいにはっきりと答えて上げなくてはいけないよ」(鮎川哲也『鍵孔のない扉』) [#ここで字下げ終わり]  現実にはタレント上りのこうした人物は、もっと軽薄で洒落《しやれ》た言葉遣いをする筈です。たとえば人名でも「雨宮氏」という代りに、「アメミヤちゃん」などと云うでしょう。  しかし何よりも論理の整合を必要とする推理小説においては、会話もこのように鴎外流に整理されている方が、目的にかなうのでしょう。だからこの作者も話し言葉から出発して、表現が曖昧《あいまい》になるという結果を避けたのでしょう。  以上が鴎外の文章の堅さの秘密ですが、一方、漱石の軟かさは、その文章が|話し言葉《ヽヽヽヽ》から直接、生命を汲《く》んでいるところから来ています。  と云うのは、当時、作られたばかりの標準語というものは、実はそれまで二百年間、政治や文化の中心であった江戸の、市民の日常語を基礎としたものだったのです。  そうして、当時の東京市民たちは、自分たちの話す江戸方言に絶えず立ち帰りながら、標準語を豊かにしていました。  鴎外にとって標準語が、既製服のようなもの、つまり服に自分の肉体を合せなければならなかったのに比べて、漱石は自分の使う文章を、仮縫いをするように、いつまでも自分の肉体(生れながらに使っている方言)に合せて、訂正することができたのです。  その代り、漱石は小説の書きはじめの頃は、会話《ヽヽ》を写そうとすると、あまりにもその日常語が生きているために、ついその方向に引きずられてしまいます。例えば『二百十日』の初めの頃の、二人の青年の会話。 [#ここから2字下げ] 「さう注文通りに行けば結構だ。ハヽヽヽ」 「だつて僕は今日|迄《まで》さうして来たんだもの」 「だから君は豆腐屋らしくないと云ふのだよ」 「是《これ》から先、又豆腐屋らしくなつて仕舞ふかも知れないかな。厄介だな。ハヽヽヽ」 「なつたら、どうする積りだい」 「なれば世の中がわるいのさ。不公平な世の中を公平にしてやらうと云ふのに、世の中が云ふ事をきかなければ、向うの方が悪いのだらう」 「然し世の中も何だね、君、豆腐屋がえらくなる様なら、自然えらい者が豆腐屋になる訳だね」 「えらい者た、どんな者だい」 「えらい者つて云ふのは、何さ。例へば華族とか金持とか云ふものさ」 「うん華族や金持か、ありや今でも豆腐屋ぢやないか、君」 「其《その》豆腐屋連が馬車へ乗つたり、別荘を建てたりして、自分|丈《だけ》の世の中の様な顔をしてゐるから駄目だよ」 「だから、そんなのは、本当の豆腐屋にして仕舞ふのさ」 「こつちがする気でも向うがならないやね」 [#ここで字下げ終わり]  こうした掛合漫才のような調子で、この会話は蜒々《えんえん》と続くので、仲々、主題が発展しなくて、真面目な読者はそのうちにいらいらしてくるでしょう。  しかしこれが江戸末期から明治にかけての東京市民の会話の実情だったので、漱石自身、日常にこんな会話を愉しみながら、口先で観念を逆立ちさせたり、キャッチボールのように、往来させたりして、面白がっていたわけです。  そしてそのようにして慣れきった日常語から文章を作って行ったのです。だから東京市民は、新しい文章語を作るに際して、例外的に有力な特権的地位にいたと云えるでしょう。  そうした日常語から文章語への|自然な《ヽヽヽ》移り行きを、如実に示しているのが、漱石の残した手紙類です。  たとえば、候文の手紙でも、 [#ここから2字下げ]  然し現下の如き愚なる間違つたる世の中には正しき人でありさへすれば必ず神経衰弱になる事と存候。是から人に逢ふ度に君は神経衰弱かときいて然りと答へたら普通の徳義心ある人間と定める事に致さうと思つてゐる。  今の世に神経衰弱に罹らぬ奴は金持ちの魯鈍《ろどん》ものか、無教育の無良心の徒か左らずば、二十世紀の軽薄に満足するひやうろく玉に候。 [#ここで字下げ終わり] というような、極めて口語的、日常の話術的で、冗談と本気とのあいだを、行ったり来たりするものを書いています。  純粋の口語の手紙も、同様に会話的です。 [#ここから2字下げ]  先達てから食後に腹が痛くつて仕方がない。学生が夫《それ》は胃ガンだと嚇《おど》したので驚ろいて服薬を始めた。是は慢性胃カタールださうだ。腹が重くて、鈍痛で、脊《せ》や胸がひきつつて苦しくて生きてるのが退儀千万になつた。近々人間を辞職して冥土《めいど》へ転居しやうと思ふ。 [#ここで字下げ終わり] とか、 [#ここから2字下げ]  卒業論文をよんで居ると頭脳が論文的になつて仕舞には自分も何か英語で論文でも書いて見たくなります。決して猫や狸の事は考へられません。僕は何でも人の真似がしたくなる男と見える。泥棒と三日居れば必ず泥棒になります。 [#ここで字下げ終わり] といった調子です。こうした手紙のなかでの饒舌《じようぜつ》は、鴎外においては考えられないものです。もし鴎外がやろうとすれば、石見方言で手紙を書かねばならなかったでしょう。  そうした漱石は、最初、「写生文」という口語文の試作をして愉しむグループに属していて、平淡な叙述の文章を書くための共同研究を行っていました。  それは俳人系統の人たちが中心でしたので、平淡ななかに一種の俳味をただよわすような傾向が強く、「余裕派」とか「低徊《ていかい》趣味」とか云われました。  その一例。坂本|四方太《しほうだ》の『稲毛の浜』の書き出し。 [#ここから2字下げ]  一月四日。初卯詣の帰りに一寸《ちよつと》田舎の春を見て来ようと思つて汽車で稲毛まで出掛けた。あちらに著《つ》いたのは午後二時過ぎでもあつたらう。此日《このひ》はちつとも風が無くて暖かで元日以来|稀《まれ》なる好天気であつた。停車場から村まで田圃《たんぼ》の一筋道をテク/\歩くのが非常に愉快であつた。殊に亀戸《かめいど》の雑沓《ざつとう》を抜けて来て押ツ開いた野中にたつた一人になつたのだから其処《そこ》らは総《す》べて自分丈けの世界のやうな気がした。こんな時は訳もなく大きな声を出して唄でもうたつて見たくなるものだ。取敢ず鞭声粛々《べんせいしゆくしゆく》を遣《や》つて見た。次にチヨンキナを遣つた。どうも調子外れで旨《うま》く行かないので止《や》めにした。 [#ここで字下げ終わり]  何だか小学生の作文のようで、蒸溜水《じようりゆうすい》を飲んでいるような気持になりますが、こうした、当時西洋から移入された水彩画のスケッチのような技法は、新しい口語文の創造には、基本的な出発点であったと思われます。  こうした写生文の特徴は、何よりも文章が自然《ヽヽ》だということです。つまり言葉が心から抵抗なく出て来ています。ということは日常の話し言葉がそのまま文章として、洗煉されているという感じなのです。こうした写生文に比べると、地方出身者の多かった自然主義者たちの書いた口語文は、非常にぎごちなく、わざとらしい、人工的なものであった、ということが判ります。  さて漱石はそうした口語文の実験に参加している一方で、学者として大学の講義を本にするに際しては、当時の大概の学者同様、まず文語文を用いました。  有名な『文学論』は次のような文体で書かれています。 [#ここから2字下げ]  凡《およ》そ文学的内容の形式は( F + f )なることを要す。Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。されば上述の公式は印象又は観念の二方面|即《すなは》ち認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合を示したるものと云ひ得べし。 [#ここで字下げ終わり]  しかしこの『文学論』の直前の講義である『英文学形式論』は、講義筆記のままで発表されたので、教壇で話したまま口語文になっています。 [#ここから2字下げ]  吾々の日常使用する言語の中には、其内容の| 曖 昧 朦 朧 《ヴエーグ、アンド、オブスキユーア》なものが多い。吾々は此《これ》を使用するに当り、その| 内 包、外 延 の 意 味 《インテンスイーヴ、アンド、ヱキステンスイーヴ、ミーニング》を知らずに唯曖昧の意味を朧《おぼろ》げに伝へる。此を伝へられた人も、亦《また》曖昧に聴いて曖昧に解するのみである。更に或場合には符号《シンボル》の表はす内容に付き、何等の概念《コンセプシヨン》なくして用ゐることさへある。 [#ここで字下げ終わり]  多分、ルビのついている単語は、講義中は英語のままで述べられ、それを活字にするに当って、漢語の訳語をあてはめたものと思われます。それが明治末期の大学の講義の日本語であって、そうした独特の日本語は私の大学時代、第二次大戦の直前まで続いていました。  私は美学の講義に出席して、教授の第一声に驚いてしまいました。教授はこういう言葉で講義を開始したのです。 「芭蕉の Kunst の Grund は……」  俳人芭蕉の芸術《ヽヽ》の基礎《ヽヽ》は、というのに、冒頭からドイツ語の単語が続出してきたわけです。私は芭蕉とドイツ語との突飛な組み合せにど肝を抜かれてしまいました。しかし、これも教授によれば、ドイツから学んだ自分の美学の術語を正確に使いたかったからなので、日本語の訳語を用いれば、概念が曖昧になって、論理が混乱すると信じていたのでしょう。  漱石は小説の処女作である『吾輩は猫である』の地の文を、猫の独白という仮定に立って、話し言葉で書きました。それは彼にとって自分の思想や感情を自然に表現するのに、最も適した方法だったのです。そこには東京方言と標準語との自然の融合が見られます。 [#ここから2字下げ]  吾輩は猫である。名前はまだ無い。  どこで生れたか頓《とん》と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめ/\した所でニヤー/\泣いて居た事丈は記憶して居る。吾輩はこゝで始めて人間といふものを見た。然もあとで聞くとそれは書生といふ人間中で一番|獰悪《どうあく》な種族であつたさうだ。此書生といふのは時々我々を捕へて煮て食ふといふ話である。 [#ここで字下げ終わり] といった、なだらかで、読者の心のなかへ柔軟に滑りこんでくる文体です。  しかしやがて、この自然すぎる日常的な文体が、文学的には退屈でもあり、下品でもあると漱石は思うようになったのでしょう。  そこで彼は『虞美人草《ぐびじんそう》』のあの華麗な文体に転じます。 [#ここから2字下げ]  春はものゝ句になり易き京の町を、七条から一条迄横に貫ぬいて、烟る柳の間から、温《ぬく》き水打つ白き布を、高野川《たかのがは》の磧《かはら》に数へ尽くして、長々と北にうねる路《みち》を、大方は二里余りも来たら、山は自から左右に逼《せま》つて、脚下に奔《はし》る潺湲《せんかん》の響も、折れる程に曲る程に、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は更けたるを、山を極めたらば春はまだ残る雪に寒からうと、見上げる峯《みね》の裾を縫ふて、暗き陰に走る一条《ひとすぢ》の路に、爪上りなる向ふから大原女《おはらめ》が来る。牛が来る。京の春は牛の尿《いばり》の尽きざる程に、長く且つ静かである。 [#ここで字下げ終わり]  実は気負った、気取った文章であり、そこには漱石が愛読していた泉鏡花の、あの踊るような文章の調子の影響も明らかですし、又、俳人仲間の俳句趣味も反映していますし、彼の生得の江戸的生活感覚も生きています。  だからこの文学的《ヽヽヽ》文体も、彼においては全く自然なものであったと言えましょう。  しかし今日の普通の生活人が、このような文章を作文の理想として学ぶわけにはいかないことも事実です。これは奇抜すぎるデザインの服を、普段着て街を歩けないようなものです。  ところでやがて漱石は、文学というものをもっと真面目に考えるようになり、自分の思想と感情とを、冷静に見詰めて、それを沈着に表現する方向へ進んで行きます。そして、彼の文体からは、飾りが消えて行きます。  その代表的なものが、当時の自然主義の文体の成果をも取り入れた『道草』の文章です。 [#ここから2字下げ]  往来は静《しづか》であつた。二人の間にはたゞ細い雨の糸が絶間なく落ちてゐる丈なので、御互が御互の顔を認めるには何の困難もなかつた。健三はすぐ眼をそらして又真正面を向いた儘《まま》歩き出した。けれども相手は道端に立ち留まつたなり、少しも足を運ぶ気色なく、ぢつと彼の通り過ぎるのを見送つてゐた。健三は其男の顔が彼の歩調につれて、少しづゝ動いて回るのに気が着いた位であつた。 [#ここで字下げ終わり]  こうした平静で客観的な文体から、当然のことながら、日常的な東京方言の面影は姿を消しています。なぜなら生活語というものは、どうしてもその言葉の喚起する情緒が強いために、客観的《ヽヽヽ》になることが困難だからです。  この文体は情景の描写に適しているだけでなく、内面的な分析の道具としても卓《すぐ》れています。 [#ここから2字下げ]  吉田と会見した後の健三の胸には、不図斯《ふとか》うした幼時の記憶が続々|湧《わ》いて来る事があつた。凡《すべ》てそれらの記憶は、断片的な割に鮮明《あざやか》に彼の心に映るもの許《ばか》りであつた。さうして断片的ではあるが、どれもこれも決して其人と引離す事は出来なかつた。零砕の事実を手繰《たぐ》り寄せれば寄せる程、種が無尽蔵にあるやうに見えた時、又其無尽蔵にある種の各自《おのおの》のうちには必ず帽子を被《かぶ》らない男の姿が織り込まれてゐるといふ事を発見した時、彼は苦しんだ。 [#ここで字下げ終わり]  同じ時期に漱石は、小説ではない感想文にも、同じような完成を与えることに成功します。それが『硝子《ガラス》戸の中』です。 [#ここから2字下げ]  私は黙然として女の顔を見守つてゐた。然し女は多く眼を伏せて火鉢の中ばかり眺めてゐた。さうして綺麗《きれい》な指で、真鍮《しんちゆう》の火箸《ひばし》を握つては、灰の中へ突き刺した。  時々|腑《ふ》に落ちない所が出てくると、私は女に向つて短かい質問を掛けた。女は単簡《〈ママ〉》に又私の納得出来るやうに答をした。然し大抵は自分一人で口を利いてゐたので、私は寧《むし》ろ木像のやうに凝《ぢつ》としてゐる丈であつた。 [#ここで字下げ終わり]  こうした文章は、小説の客観描写と殆んど変りがありません。しかし、同じ文体でより直接的に主観を叙述することも出来ます。 [#ここから2字下げ]  不愉快に充《み》ちた人生をとぼ/\辿《たど》りつゝある私は、自分の何時《いつ》か一度到着しなければならない死といふ境地に就いて常に考へてゐる。さうして其死といふものを生よりは楽なものだとばかり信じてゐる。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思ふ事もある。 「死は生よりも尊《たつ》とい」  斯ういふ言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するやうになつた。  然し現在の私は今まのあたりに生きてゐる。私の父母、私の祖父母、私の曾祖父母、それから順次に遡《さかの》ぼつて、百年、二百年、乃至《ないし》千年万年の間に馴致《じゆんち》された習慣を、私一代で解脱する事が出来ないので、私は依然として此生に執着してゐるのである。 [#ここで字下げ終わり]  こうした自由に客観と主観とを往来し得る、そして時には平凡に感じられるくらいに平易な、と同時に正確で癖のない、漱石の完成した口語文は、その後、大きな影響を日本の各界の人々に与えました。教養ある現代の日本人は、殆んど誰でもこの文体で、文章を綴っているのではないでしょうか。  これは鴎外の硬質の文体の影響が文学者の一部に限られているのと、極端な対照をなしている現象です。  漱石は、しかし、この地点にとどまらず、文学的精進を続けて行って、最後の『明暗』の気迫に満ちた、緊張した文体にまで到達します。 [#ここから2字下げ]  二人の間に何度も繰り返された過去の光景《シーン》が、あり/\と津田の前に浮き上つた。其時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じてゐた。だから凡《すべ》ての知識を彼から仰いだ。あらゆる疑問の解決を彼に求めた。自分に解《わか》らない未来を挙げて、彼の上に投げ掛けるやうに見えた。従つて彼女の眼は動いても静《しづか》であつた。何か訊《き》かうとするうちに、信と平和の輝きがあつた。彼は其輝きを一人で専有する特権を有《も》つて生れて来たやうな気がした。自分があればこそ此眼も存在するのだとさへ思つた。 [#ここで字下げ終わり]  こうした緊張は会話においても維持され、そこには初期の小説のなかの会話に見られたような言葉の遊戯と低徊趣味とは影をひそめるようになっています。 [#ここから2字下げ] 「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでせうか。よし権利がないにした所で、もし左右《さう》した疑を妹が少しでも有つてゐるなら、綺麗にそれを晴らして呉《く》れるのが兄の義務——義務は取り消します、私には不釣合な言葉かも知れませんから。——少なくとも兄の人情でせう。私は今其人情を有つてゐらつしやらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます」 [#ここで字下げ終わり]  現実の若い女性がこれほど理路整然と理屈っぽい話し方をするかどうか、不自然に感じる読者もいることでしょう。しかしこうした会話文のなかにも、鴎外と異って漱石の場合には、一種の感覚的な暖かみが感じられます。そうして、それは漱石の言語感覚が自分の持って生まれた、生きた日常語のうえに根差していることが、その原因です。 [#小見出し]      三  前述の二項で口語文の完成者としての鴎外漱石二家の文章を見て来ましたが、同じ時代に彼等とは異った教養から出発し、やはり独自な口語文を完成した文学者がおります。  それは幸田露伴です。  近代口語文の完成は、|考える《ヽヽヽ》文章と|感じる《ヽヽヽ》文章との統一であり、従ってその完成の有資格者は学者であると同時に作家でもある人が適当であった、と私は前に述べ、そしてその実例として、鴎外漱石の二人を挙げたわけですが、露伴もまた学者であると同時に作家でした。  しかし、今まで私の分析してきた学者も作家も、それは新しい西洋文化の移入者たちでした。漱石は心理学、鴎外は衛生学、また自然主義の作家たちはフランス近代小説、のそれぞれの導入者であり、そうした西洋の新しい学問なり文芸なりによって、精神形成を行い、その西洋的精神構造から新しい文章を作りあげたのでした。そして、それは時代の要求でもあり、日本人が世界に伍して生活して行くためには、不可避の方向でもあったわけです。  ところが鴎外や漱石の同時代者であった露伴は、前代の江戸時代の知識人たちと同じ教養から出発しました。それは仏教と儒教と日本古典とから成る教養の世界でした。  もちろん、明治維新以後にも、そうした前代の伝統的教養を受け継いだ知識人たちは少くなかったのですが、大部分の人たちは、新しい時代の要請に従って、西洋学の勉強に転向して行き、そうしないで前代の教養に執着していた人たちは、時代の波に呑まれて消えて行きました。  そして露伴ひとり生き残り、しかもそうした前代の教養のうえに、完成した口語文を作りあげることに成功しました。従って「口語文の完成」という課題について考えるには、是非、鴎外漱石とは別傾向の露伴の文体の変化を眺めてみる必要があります。  興味あることには、江戸後期から明治初期にかけての知識人が最初に身につけた教養は漢学《ヽヽ》です。鴎外も漱石も一生のあいだ偉《すぐ》れた漢文を書き続けました。そのようにして人生の出発点で漢学を学んだ者が、転向《ヽヽ》して西洋学を学ぶという場合に、それまでに身につけていた漢文、漢学はどのような意味があったでしょうか。  それは無関係に二つのものが、精神のなかに位置を占めたのか、それとも古いものが新しいものに邪魔になったのか、それとも古い漢学は新しい西洋学を学ぶのに役立ったのか。  読者の皆さんは、今あげた三つの場合のどれが正解であると思いますか。  第一の場合は人間の精神構造上、成り立ちにくい想像です。二つの無関係な人生観を、二本の木のように精神のなかへ並立させようとすれば、人間は精神的に破産してしまいます。つまり精神分裂症になってしまいます。  第二の場合は、人はなるべく早く、徹底的に古いものを、精神のなかから追い出し、忘れてしまう必要があります。しかし、漢学から出発して西洋学に至った人たちは、一生のあいだ漢学の方も捨てていません。鴎外は晩年に日記を漢文で書いていましたし、漱石は最後の作品『明暗』を毎日、書き続けているあいだ、同時に日課として漢詩を作りつづけていました。  こうした事実から考えると、どうしても第三の場合が正解となります。  となると、漢学と西洋学とが日本人にとって何か共通点があったのではないか、ということになって来ます。  そして現に、江戸後期の新しい西洋学者たち、当時の言葉で云いますと洋学者《ヽヽヽ》たちは、日本人が洋学を学ぶには、まず最初に漢学をやることが早道であると、説いていました。  つまり、青年は日本に生き、日本語を使っていて、いきなり西洋語を学ぶのは不利であり、能率もあがらないから、その前に漢文を勉強するのが、頭脳を西洋語に親しませるのに有効である、という意見なのです。  これは直接には語順《ヽヽ》の問題です。日本人が日本語を使っていて、いきなり西洋語を学ぶとき、最初に面食らうのは、語順がまるで異《ちが》うということです。「私は→花子を→愛します」というふうに日本人は考えるのに慣れているのに、西洋では、「I → love → Mary」というふうに云います。つまり、日本人は主語の次に目的語、その次に動詞という順序で、頭のなかに考えを進めるのに、西洋では主語の次にその主語の行動をあらわす動詞が来て、それからその動作を受ける相手が頭のなかへ出てくる、という順序で物を考える習慣になっているのです。  これは単なる偶然の語順の異いというだけの問題ではありません。この問題はつきつめて行くと、文明《ヽヽ》そのものの本質に関《かか》わりあって行きますし、又、近代日本語の成立の事情から将来の可能性の問題にも繋《つなが》って行きます。  ですから、ここでもう暫《しばら》く、この問題に、読者の皆さんにおつき合い願うということになります。私たちは今、思いがけなく、日本語というものの本質にぶつかったのですから。そしてこの本質的な問題を抜きにして、文章《ヽヽ》の問題を考えることはできないのですから。  さて、今の例の、「|私は《1》→花子《2》を→|愛し《3》ます」ですが、実際は日本人はこの文章を考える場合、ほとんど1の「私は」は意識しないので、多分、最初に頭に浮ぶのが2の「花子さん」であり、その花子さんの面影に向って3の感情が浮んでくるのです。これももっと細かく云いますと、普通は「愛する」という能動的な動詞の形ではなく、「愛らしい」「愛すべき存在だ」というふうな感情が、まず心に現れてくるわけです。  だから、日本人にとっては「私は花子を愛します」という表現よりも、主語なしの「花子が好きです」という云い方の方が自然なのです。そうして「私は花子を愛します」という表現は、西洋ふうの物の考え方が日本に入ってきてから生れた、新しい直訳体の日本語であって、江戸時代の市民には耳慣れなかったでしょう。  ところが同じ江戸市民に向って、「我レ杜《と》娘ヲ愛ス。杜娘モ亦《また》、我レヲ愛サン」と漢文調で云えば、そうか、漢文か、と納得したでしょう。  と云うことは、主語→述語→目的語という語順は、日本語にはなく、そして漢文と西洋語とに共通している、ということなのです。  そして日本人は、古い昔から日本語の骨組みに従って、(主語)→目的語→述語という順序で考え、話し、書きながら、一方で千年以上も前から、主語→述語→目的語という順序の漢文を読んだり書いたりしてきたのでした。  日本の知識人の頭のなかでは、二つの語順を異にする言葉が、いつも並存して生きてきたのです。  その最も極端だったのは平安時代であって、当時の男性は専ら漢文を書き、女性は専ら和文を書きました。菅原道真は『菅家文草《かんけぶんそう》』を残し、紫式部は『源氏物語』を残しましたが、その二人とも同時代の例外者《ヽヽヽ》ではなく、代表者《ヽヽヽ》だったのです。  だから、日本の青年がはじめて西洋語を学ぶ場合に、その語順に慣れ、考え方の順序に慣れるためには、千年以上前から日本人に親しまれて来た漢文の語順、その考え方の順序から入って行くのが、いきなり日本語から出発するのよりも早道だ、ということになるのです。 「花子が好きです」から、いきなり「I love Mary」に行かないで、「我愛杜娘」という表現を仲介にした方が、納得が行きやすい、というわけです。  ただ、西洋語は中国語のような表意文字ではなく、表音文字によって現わされるので、文字のあいだに、返り点や送り仮名をつけるわけには行かず、漢文を読むのと同じ操作を頭のなかでやりながら、慣れて行ったのです。  つまり「I love Mary」を、「| I《1》 |love Mary 《3←2》」というふうに、語順をひっくり返して理解することから始めたわけです。  しかし、これは単に語順だけの問題ではないと、先程も述べました。  もう一度、「花子が好きです」に戻って、その|考え方《ヽヽヽ》の構造について、分析してみましょう。  この表現を行うのは、もちろん私《ヽ》です。私《ヽ》がそう考えているということを、この文章は表現しているのです。しかし、その場合、日本語では、最初に他人《ヽヽ》でない私《ヽ》が考えるのだ、というふうに他人から自分を区別した私《ヽ》を意識することは少いのです。  だから私《ヽ》の意識のなかに、最初に現れるのは私《ヽ》の姿ではなく、花子《ヽヽ》の姿なのです。従って花子は私に対する他者《ヽヽ》、私が行動する相手として、つまり目的語として現れるのでなく、ほとんど主語として現れます。「花子|を《ヽ》」でなく、「花子|が《ヽ》」という現れ方をします。そしてそれが|愛らしい《ヽヽヽヽ》、いとしい存在だという思いが、「花子が」という観念から自然に導き出されて、「花子が好きです」という表現が完成します。  この場合、「好き」という観念は、「|私が《ヽヽ》愛する」という言葉よりも、いささか漠然としています。「好き」という観念は、「花子」という観念から直接、導き出されてくるので、それを考えている私《ヽ》は、その際、改めて、「私が彼女を好いているのだ」という具合に、私《ヽ》を意識にはのぼせてはいないのです。何となく花子というのは「好かれる存在」であると考えていて、好く方の主体に対しては、意識が向いていない感じなのです。だから「|私は《ヽヽ》花子を愛します」や「花子は|私に《ヽヽ》好かれる存在です」やに比べて、私《ヽ》という言葉が一度も出てこないのです。  皆さんはよく『源氏物語』を原文で読むのはむずかしい。それは文章に主語がないので、誰が何をしているか判りにくいからだ、という感想を抱いたり、友だちが云うのを耳にしたことがあるでしょう。実際は、たとえ主語がなくても、微妙な敬語法などによって、巧みに書き分けられているのですが、それにしても伝統的な日本語では主語が省かれることが多く、省かれることが多いというのは、主語が意識されることが少いという傾向を意味しているわけです。  特に|考える《ヽヽヽ》主体である私《ヽ》が、考えのなかから省かれているというのは、哲学的な用語で説明しますと、その主体である私《ヽ》は、即自的《アン・ジツヒ》の私であって、対自的《フユール・ジツヒ》な私になっていない、ということなのです。  つまり、自然な無意識な私というものが、ただここにあるだけで、一度、他人と区別して自分を自覚するという傾向が、日本人には従来、乏しかったということになります。  これは日本が単一民族国家であり、それらの人々は皆、同じ日本語で意志を通じ合っていた、という世界では特殊な国であったからかも知れません。自分に対立する他人というものを鋭く意識するのは、異る容貌や異る言語を持つ外国人と接する時ですから。  だから「|私は《ヽヽ》花子を愛する(しかし、|君は《ヽヽ》愛さない、あるいは梅子《ヽヽ》を愛してはいない)」という発想にはならないのです。  また「好き」という言葉も、実に日本的なので、「愛する」が愛の対象である花子を、攻撃し征服したいという欲望を底に秘めている感じがするのに対して、「好き」というのは、単にこちらの気分の状態《ヽヽ》を現わしていて、行動《ヽヽ》を現わしてはいません。人間生活の大きな部分を占めている愛の世界において、そのような行動《ヽヽ》を示さない言葉が、日本では最も一般的に使われてきたわけです。  しかし、近代になって、西洋文化を導入することになった時、私たち日本人はそのような内うちだけで通ずる以心伝心的表現をやめ、西洋文化を支配している|普遍的な論理《ヽヽヽヽヽヽ》というものに慣れざるを得なくなりました。なぜ西洋文化が普遍的な論理に支配されているかといえば、もちろん西洋文化というものが、それぞれの時代に、様々の異る民族の考え方の衝突を通して、普遍的なもの、敵にも通ずるものに進化して来ているからです。そして、数千年の中国文化も、事情は全く同じです。  ですから、漢文と西洋語との共通点は、単に語順だけでなく、普遍的な論理に貫かれているというところにあるわけです。そして、言葉が論理的になるということは、まず主体である私《ヽ》を対自的に自覚する、というところから出発します。  そして、|現代の《ヽヽヽ》私たちが『源氏物語』の原文に、主語が省かれているのをもどかしく感じるというのは、それだけ私たちの日本語の語感が、西洋的に変化してきていると云うことを示しているわけです。西洋的《ヽヽヽ》という云い方が気に入らなければ、西洋人と対話の可能な構造に、この百年で変化した、と云い直してもいいわけです。そして、そうした私たちの精神の近代的な構造を、口語文で明晰《めいせき》に表現することに成功したのが、鴎外や漱石であった、ということになります。  そうした一般的傾向に対して、露伴は伝統的な表現法から、西洋の方へ転向することなく、その伝統的な語り口から現代口語文を引きだすことに成功したという、珍らしい実例です。従って、露伴の口語文には他の同時代者の誰にも見られないような|自然さ《ヽヽヽ》がある、と同時に話し言葉の持つ流動性《ヽヽヽ》(どう変るか判らない)が備っていると云えましょう。  初期の露伴は、次のような伝統的な文語文を用いて小説を書きました。有名な作品『五重塔』の書き出しの部分です。 [#ここから2字下げ]  木理美《もくめうるは》しき槻胴《けやきどう》、縁《ふち》にはわざと赤樫《あかがし》を用ひたる岩畳作《がんじようづく》りの長火鉢に対《むか》ひて話《はな》し敵《がたき》もなく唯一人、少しは淋しさうに坐り居る三十前後の女、男のやうに立派な眉を何日掃《いつはら》ひしか剃《そ》つたる痕《あと》の青※[#二の字点、unicode303b ]と、見る眼も覚むべき雨後の山の色をとどめて翠《みどり》の匂ひ一ト[#小さいト]しほ床《ゆか》しく、鼻筋つんと通り眼尻キリヽと上り、洗ひ髪をぐる/\と酷《むご》く丸めて引裂紙《ひきさきがみ》をあしらひに一本簪《いつぽんざし》でぐいと留《とゞ》めを刺した色気無《いろけなし》の様《さま》はつくれど、憎いほど烏黒《まつくろ》にて艶《つや》ある髪の毛の一《ひ》ト[#小さいト]綜二綜後《ふさふたふさおく》れ乱れて、浅黒いながら渋気《しぶけ》の抜けたる顔にかゝれる趣きは、年増《としま》嫌ひでも褒《ほ》めずには置かれまじき風体《ふうてい》、我がものならば着せてやりたい好みのあるにと好色漢《しれもの》が随分頼まれもせぬ詮議《せんぎ》を蔭《かげ》では為《す》べきに、さりとは外見《みえ》を捨てゝ堅義《かたぎ》を自慢にした身の装《つく》り方《かた》、柄《がら》の選択《えらみ》こそ野暮《やぼ》ならね高《たか》が二子《ふたこ》の綿入《わたい》れに繻子襟《しゆすえり》かけたを着て何所《どこ》に紅《べに》くさいところもなく、引つ掛けた|ねんねこ《ヽヽヽヽ》ばかりは往時《むかし》何なりしやら疎《あら》い縞の糸織《いとおり》なれど、此《これ》とて幾度《いくたび》か水を潜《くゞ》つて来た奴《やつ》なるべし。 [#ここで字下げ終わり]  随分ひとくぎりの長い文章で、私はこれを何気なく「文語文」であると書きましたが、典型的な漢文読み下し体であったら、このように、とぎれるかと思うとまた続いて行く不思議な調子になることはあり得ないので、この文体は、「AはBである」というふうの論理的な発想とは非常に遠くにあるものです。  そしてこれは江戸末期の戯作家《げさくか》たちの完成した文体の延長であって、形式的には「文語文」の体裁をとってはいても、内容的にはもう|話し言葉《ヽヽヽヽ》に随分近くなっていて、だから口語文だといっても間違いではない、と思われます。いわば口語の発想を文語に写している、といった趣きなのです。ですから、こうした文章は、ちょっと語尾などを改めれば、直ぐそのまま口語文になりましょう。  ただし、そのようにして出来た口語文には、江戸末期的な言葉の洒落《しやれ》や、伝統的な美感への連想やが豊富すぎて、装飾過多の感じを与え、どことなく前代の文章の現代語への直訳といった異和感を免れないと思います。  しかしこの、文語文が口語文へ一歩ということは、やがて露伴が次のような純粋な口語文を、ごく自然な調子で書きはじめたことからも判ります。 [#ここから2字下げ]  音もせずに降る春の雨が、天地の塵埃《ほこり》を鎮めて、人の心をも自然《おのづ》としつとりと和《やは》らがしめるので、一坐の客はいづれも笑《ゑみ》を含んで悠然として、浮世に用事の有るやうな鄙《いや》しい顔つきを仕て居るものも無く、皆番茶に煎豆《いりまめ》といふあつさりとした主人《あるじ》の待遇《もてなし》に満足し切つて、|極※[#二の字点、unicode303b ]《ごくごく》静かに、互に閑話《はなし》を聞いたり聞かせたりして居る。(『ひとよ草』) [#ここで字下げ終わり]  これはまことによくできた口語文で、どこにも文語体の名残りは見掛けられません。しかし、普通の口語文からすると、やはり終ろうとして終らず、また続いて行く、旋回的な調子が残っていて、主語と述語とが途方もなく離れていたりして、そういうところに、前の『五重塔』の文体と呼応するところがあります。そして、そうした調子のどこかに、わざと自然ぶろうとしているのではないか、という疑いを、読者に起させます。作者は一種の演技をしているのではないか。自分の考えを、あらかじめひとつの人工的な枠のなかへ、はめて書いているのではないか。  これはしかし、時々、小説家のやる技法であって、小説における文体《ヽヽ》というものは、普通の文章とは異って、人工的にある情緒や雰囲気《ふんいき》を作るために、特別に変ったものを作りあげることが多いのです。機知に溢《あふ》れた作家なら、一作毎に別の文体を創作するということさえ、やりかねません。つまり小説が創作《ヽヽ》であるとしたら、小説のいれ物である文体そのものからして既に、創作であるわけです。  しかし創作はすなわち|作り物《ヽヽヽ》というのとは異るわけで、鴎外や漱石の場合、小説でも随筆でも大体、同じ文体を使っています。つまり作り物ではないわけで、そういう小説の文体の場合は、一般の人々も文章を書くのに手本にしたり参考にしたりできるわけです。  しかし、ある種の小説家、たとえば先に例をあげた泉鏡花のような文体は、小説家以外の普通の人が、普通の文章を書く時、見本にするわけにはいきません。鏡花の文体は、天才の手による作り物なのです。そして、この露伴の口語文にも、そうした作り物の気配があります。  露伴の場合、自由に筆を運んでいるという感じがするのは、むしろ本来の教養から出てくる漢文調の文章です。  その最も有名な実例は、次の書き出しを持つ長篇『運命』です。 [#ここから2字下げ]  世おのづから数《すう》といふもの有りや。有りといへば有るが如く、無しと為《な》せば無きにも似たり。洪水天に滔《はびこ》るも、禹《う》の功これを治め、大旱《たいかん》地を焦《こが》せども、湯《とう》の徳これを済《すく》へば、数有るが如くにして、而《しか》も数無きが如し。秦《しん》の始皇帝、天下を一《いつ》にして尊号を称す、|威※[#「餡のつくり+炎」、unicode71c4」]《いえん》まことに当る可《べ》からず。然《しか》れども水神ありて華陰の夜《よ》に現はれ、璧《たま》を使者に托《たく》して、今年祖龍《こんねんそりゆう》死せんと曰《い》へば、果して始皇やがて沙丘《しやきゆう》に崩ぜり。 [#ここで字下げ終わり]  こうした対句《ついく》的発想で、作者はぐいぐいと自分の思想を推し進めて行くことができます。  そうして現代の私たちには、もうこのような語彙《ごい》と発想法とで、このような文章を書く能力も教養もありません。こうした文体というものは、一時代に完成の頂点に達し、そして今や亡びてしまいました。そしてその美しさを理解し得る人も、年々、残念ながら減って行くのでしょう。  そうした自覚もあったからでしょうか。露伴は専ら自分の好尚に従った『運命』を書きあげた直後に、『望樹記』という作品では、思いきってくだけた口語文を採用します。それは鴎外にも漱石にも見られない、一種の気易さのある文章で、西洋的な論理に従おうというような使命感からは解放されたものです。 [#ここから2字下げ] 「年をとるとケチになる。」  此《この》言葉は誰から聞いたのか、また何時《いつ》おぼえたのか、其《その》由来が甚《はなは》だ不明であるが、何でも其由来が忘れられたほど遠い過去に、そして其由来が思ひ出されぬほど不注意に受取つた言葉に相違無い。それが何様《どう》したものか此一二年来、時として頭を擡《もた》げて来る。丁度|石塊《いしころ》や瓦片《かはらかけ》の下になつた雑草が、そこに物有りとしも見えずに長い日数《ひかず》を経《へ》た暁《あかつき》、何様《どう》かした雨露風日《うろふうじつ》の様子によつて至つてかすかな青みを見《あら》はすことがあるやうに、何処《どこ》かで至つてかすかに、 「年をとるとケチになる。」 と囁《さゝ》やくことがある。無論|旧《ふる》い記憶が新しい機会に際して、「此処《こゝ》にかういふものが控へて居りました」と名乗るに過ぎないので、「さうか」と答へればそれだけで済んでしまふことなのである。 [#ここで字下げ終わり]  これは実に明晰な口語文であり、それは西洋的な論理の目から見ても、少しも混乱がなく、しかも日本人の考え方の展開の順序と速度と、その方向と好みとに、忠実に従っています。そういう点で、恐らく鴎外にも漱石にも見られない|親しみ《ヽヽヽ》を、私たちは感じることができます。  そしてそれは、一方で私たちの感覚の奥にどれだけ深く伝統的なものが残っていて、こうした文章に感応するのか、という事実をも私たちに教えてくれるという点で、貴重ですし、しかしまた伝統的な感覚を貫いている中国古典の養ってくれた普遍的論理が、こうした文章の底をも支えていてくれるのだ、ということも改めて認識することになります。  露伴は漢文的教養から西洋的教養に転向《ヽヽ》したのではなかったのですが、丁度、彼の同時代者たちの多くが、漢文的教養を基礎にして西洋語を学び、そしてふたたび日本語に戻ってきて近代的日本語を作りあげたのと同じように、徹底した漢文の教養から、おのずからこうした普遍性のある近代的日本語を創成した、と云えましょう。彼の漢文的教養の徹底が、多くの西洋学者の成果に近い効果を生んだ、と云うことです。  これはもうひとつ云いかえると、日本人は十九世紀半ばころ、たとえ西洋に学ぶにせよしないにせよ、精神史的にもう近代の戸口にまで到達していた、という事実を示しているので、これは古代の大化の改新の時期の中国文化の導入ほど、日本の文化と外部の文化とのあいだに大きな落差はなかった、従って西洋文化の導入も、あまり大きな矛盾や抵抗なしに行い得たと云うことでもあるのです。  こうした|日本的な《ヽヽヽヽ》ニュアンスに富んだ口語文を作りあげたあとで、今度は露伴はより自分の趣味に忠実な、『運命』で試みたような自由な漢文調と、口語文との調和を計った文体を発明します。『運命』が自分のためのものであり、『望樹記』が読者のためのものであったとすれば、次の『蒲生氏郷《がもううじさと》』は、その両方を統一したものだ、ということになります。その冒頭は、 [#ここから2字下げ]  大きい者や強い者ばかりが必ずしも人の注意に値する訳では無い。小さい弱い平※[#二の字点、unicode303b ]凡※[#二の字点、unicode303b ]の者も中※[#二の字点、unicode303b ]の仕事をする。蚊の嘴《くちばし》といへば云ふにも足らぬものだが、淀川《よどがは》両岸に多いアノフェレスといふ蚊の嘴は、其昔其川の傍の山崎村に棲《す》んで居た一夜庵《いちやあん》の宗鑑《そうかん》の膚《はだへ》を螫《さ》して、そして宗鑑に瘧《おこり》をわづらはせ、それより近衛公《このゑこう》をして、宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた、の佳謔《かぎやく》を発せしめ、随《したが》つて宗鑑に、飲まんとすれど夏の沢水、の妙句を附《つ》けさせ、俳諧連歌《はいかいれんが》の歴史の巻首を飾らせるに及んだ。 [#ここで字下げ終わり]  これは純粋な口語文であります。しかし、どことなく漢文の匂いが背後に感じられるところが面白く、それが口語文における露伴の個性《ヽヽ》ということにもなるわけですが、鴎外の晩年の史伝の文体が、やはり偉れた日本文でありながら、すぐに西洋の国語に翻訳できそうな感じを与えるのと同様なニュアンスの問題です。同じように類推を更に進めるとすれば、漱石の文章は、あるいは高座で話し言葉として語ることができそうだ、とも云えましょう。  そうしたニュアンスの相違というものは、その作者の生れた環境や、学んだ教養や、個人の性格やから、自然と導かれてくるもので、これは読者が味得《ヽヽ》すべきものであって、必ずしも論理的な分析によって、その相違を納得させられるものではありません。  となると、そこのところを読者に注意するのは、この文章講座の筆者にも至難の業であるということになって来ます。  ただ云えることは、読者の皆さんが、いい文章を書き、いい文章を味うという時に、ただ新聞記事のような、個性の全くない報道のための文章とは異る、それぞれのニュアンスを嗅《か》ぎ分ける感覚を養うことが大切だ、ということです。  そしてその感覚は同時に、個性の名においてでたらめを書いた文章の怪しさに直ちに気付くということにも、繋って行くべきだと思います。この点については、いずれ「口語文の進展」という、次の課題のなかで、おのずと触れることになりましょう。 [#改ページ] [#見出し]    口語文の進展 [#小見出し]      一  鴎外、漱石、露伴などによって、それぞれの「ニュアンスの相違」を持った口語文が完成されたあとで、しかし現実の社会の変化に応じて、その一応完成された口語文は、また徐々に変化し、進展して行ったのは当然です。  これからその進展のあとを辿《たど》って、現在の口語文の実状にまで、叙述を進めて行ってみましょう。それは読者の皆さんが、今日、文章を書く上での、様々の困難とか、疑問とか、迷いとかに、おのずからの答えを、その進展の途上のいろいろの実例によって、受けとることができるだろうと思われるからです。  皆さんの作文上の迷いの最大の点は、まず既に出来上っている口語文の見本に従って、文章を書こうとすると、どうも自分の実感《ヽヽ》とのあいだに|ずれ《ヽヽ》を感じる、ということではなかろうかと思います。何となく自分の感想が型にはまってしまって、自分の大事な気持が、ニュアンスの異った、あるいはニュアンスの消えてしまった紋切型になってしまう。  うまくしっかりと正確に書けたと思うと、それは既にどこかで読んだもののような気がする。たとえばそれは志賀直哉の真似のようなものだったり、島崎藤村の声色のようなものになってしまっている。  そこで、もっと正直に自分の肉声を聴かせようとして、自由に感じるままに、筆を進めて行きますと、今度はとりとめのない、体をなさないものになって、果してこれで文章と云えようか、他人に読んでもらって、自分の気持がそのままに通じるのかどうか。そういう不安に今度は捉《とら》えられてしまう。  そういうジレンマに、今日の皆さんは、多かれ少なかれ陥っているのではないでしょうか。私は、現在の社会人の書く文章を読むたびにそう感じるのです。  そうして、そのような迷いに答えるために、私は一度完成した口語文が、その後、新しい文章家によって、様々の方向に実験を展開させられた、その実例をなるべく多く紹介してみようと思うのです。  その最初に、もう一度、最初に|感じる《ヽヽヽ》文章の口語文を発明した人たち、自分の感じたままを書くという場から出発した、自然主義の文壇文学者たち自身が、自分たちの発明した、「一元描写」という方法による文体、つまり主観的な意見の表出を排して純粋に客観的な描写だけから構成した文体を、それぞれの長い生涯のなかで、どのように成長させて行ったかを見直してみようと思います。  日本の近代文学史のうえでの最大の事件であった、自然主義運動の担い手たちは、その運動の終ったあと、それぞれの個性に従った成熟をとげて行きました。  その道筋を、やはりその運動の一員であった正宗白鳥が、第二次大戦後に、すべての同僚たちが世を去ったあとで、自分たちの文学的世代の進展の歴史として書きました。  それが同時代者だけに可能な、無数の証言に満ちた興味深い『自然主義盛衰史』ですが、その叙述にほぼ従って、彼等の文章の時代による変化のあとを辿ってみたいと思います。  まず、冒頭に、「自然主義初期の三尊」として、藤村、花袋と共に、国木田独歩の名が挙げられています。  ところが、明治時代の終りに、既にその仕事を終えて、運動の同志たちの誰よりも早く世を去って行ったこの独歩は、彼等の運動の中心思想であった写実主義というものが、「凡庸無力に安んずる」ことになるから不可だ、という考えを、無名時代から抱いていた異端者でした。  何しろ、この運動の指導者であった田山花袋は、「露骨なる描写」ということを唱え、「文章の上の技巧を排し、有りのまゝの描写を試み」ることを理想とし、その理想に従って、伝統的な比喩《ひゆ》や連想や修飾の多い文章を非難したのだったのですから。  ですから、そうした理想にあきたりなかった独歩は、自分がいつのまにかこの運動の「幹部に推されたのを、自分では腑《ふ》に落ちないやうな顔してゐた。」「実際彼は他の二人(花袋、藤村)とは作風が全く異つてゐた。」「独歩は一種の運命論者であり、神秘主義者であり、而してまた同時に物質的機械的世界観の圧迫を感じてゐた人であつた。」(白鳥)  そうした独歩の文章は、おのずと、自然主義主流の客観描写とは異った文体となりました。ということは花袋流の文体では表現できない「神秘」というような感覚の表現をも目指していた、と云うことになります。そしてその目標は、口語文の完成以後の文章の進展の一方向をも、既に予言しているわけですので、ここに時代を遡《さかのぼ》って、独歩の文章の独自性を眺めてみるのも、面白いと思われます。  独歩は明治の三十年代のはじめに、有名な『武蔵野《むさしの》』と題するエッセーを発表しますが、これは四十年代のはじめに起った自然主義運動に十年も先立つものでした。そしてその文章は幾分かの漢文調を混え、論理的であると同時にローマン的な感動を湛《たた》えた、朗誦《ろうしよう》するに足る名文の口語体でした。その一例。 [#ここから2字下げ]  昔の武蔵野は萱原《かやはら》のはてなき光景を以《もつ》て絶類の美を鳴らして居たやうに言ひ伝へてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といつても宜《よ》い。則《すなは》ち木は重《おも》に楢《なら》の類《たぐひ》で冬は悉《ことごと》く落葉し、春は滴る計《ばか》りの新緑|萌《も》え出《い》づる其《その》変化が秩父嶺《ちちぶれい》以東十数里の野一斉に行はれて、春夏秋冬を通じ霞《かすみ》に雨に月に風に霧に時雨《しぐれ》に雪に、緑蔭《りよくいん》に紅葉に、様々の光景を呈する其妙は一寸《ちよつと》西国地方又た東北の者には解し兼ねるのである。元来日本人はこれまで楢の類の落葉林の美を余り知らなかつた様である。林といへば重に松林のみが日本の文学美術の上に認められて居て、歌にも楢林の奥で時雨を聞くといふ様なことは見当らない。自分も西国に人となつて少年の時学生として初て東京に上つてから十年になるが、かゝる落葉林の美を解するに至たのは近来の事で、それも左の文章が大に自分を教えたのである。 [#ここで字下げ終わり]  そうして、この文章に続いて、二葉亭の訳文によるトゥルゲーニェフの『あひびき』の冒頭が引用されています。  ということは、西洋の近代文学の精神と文体とを、日本に導入しようとして行われた、最初の試みともいうべき二葉亭四迷の翻訳の成果が、この独歩のエッセーとなって、日本の散文のうえにはじめて実現したということです。  その引用に次のような武蔵野の林の描写が続きます。 [#ここから2字下げ]  楢の類だから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨が私語《さゝや》く。凩《こがらし》が叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲へば、幾千万の木の葉高く大空に舞ふて、小鳥の群かの如く遠く飛び去る。木の葉落ち尽せば、数十里の方域に亙《わた》る林が一時に裸体《はだか》になつて、蒼《あを》ずんだ冬の空が高く此《この》上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気が一段澄みわたる。遠い物音が鮮かに聞へる。 [#ここで字下げ終わり]  独歩はこうした自然の美は、日本の伝統的文学には見られなかったと記しているわけですが、それは同時に、従来の文学的文体ではこのように繊細で、同時に伝統的感覚から解放された、観察《ヽヽ》に根ざす文章も書けなかった、つまりそれは独歩による発明であった、ということになります。  こうした、|目に見える《ヽヽヽヽヽ》ように正確であると同時に、一種の神秘性をそなえた文体を発明した独歩は、その文体をひっさげて、自然主義運動のなかへ入って行きます。  たとえば、その小説の代表作である『少年の悲哀』という作品は、次のような、およそ自然主義の理想であった一元描写《ヽヽヽヽ》、平面描写《ヽヽヽヽ》とは異った、主観的な文章によってはじまります。彼はその小説の主題《ヽヽ》を、読みおえたあとの読者の想像にゆだねる代りに、自分で冒頭に、要約した形で提示しているのです。  つまり|感じる《ヽヽヽ》ための描写《ヽヽ》でなく、|考える《ヽヽヽ》ための説明《ヽヽ》という形をとっているのです。 [#ここから2字下げ]  少年《こども》の歓喜《よろこび》が詩であるならば、少年の悲哀《かなしみ》も亦《ま》た詩である。自然の心に宿る歓喜にして若《も》し歌ふべくんば、自然の心にさゝやく悲哀も亦た歌ふべきであらう。  兎も角、僕は僕の少年の時の悲哀の一ツを語つて見やうと思ふのである。(と一人の男が話しだした。) [#ここで字下げ終わり]  こうした独歩の行き方について、彼の独創に暗示を与えた当の二葉亭は、「クリスマスの出版もののようだ」と、その健全でキリスト教的な清潔さを揶揄《やゆ》しました。この批評はその文体にも、そのまま当てはまるでしょう。独歩の文章は、自然主義が次第に深みにはまって行った、情痴と耽溺《たんでき》との不健全な世界とは無縁だったのです。  さて、近代の口語文を最初に成立させたのが、|感じる《ヽヽヽ》文章を書く専門家である、自然主義の小説家たちであったことを、私は前に「口語文の成立」という項で、実例を挙げて説明したのでしたが、しかし、いかなる文学運動というものも、実作者《ヽヽヽ》と共に、その運動方針を解説し、理論的支柱を与える評論家《ヽヽヽ》を必要とします。  そうして、自然主義文学運動にも、有力な評論家が幾人もいたのですが、そうした評論家は、実作者が専ら感じる文体として、描写を主とした文章を発明したのに対して、その運動の理念を論理的に展開しようとしました。  従って彼等の文章は、おのずと|考える《ヽヽヽ》文体を作りあげて行ったわけです。  たとえば、島村抱月は『懐疑と告白』と題する論文を次のような文章で書いています。 [#ここから2字下げ]  何《ど》う考へても、今日の自分等が真に人生問題を取り扱ひ得る程度は、懐疑と告白の外に無いと思ふ。今|迄《まで》の人は余りに信じ過ぎた、他人の思想を信じ過ぎたり、自分の思想を信じ過ぎたりした。或《あるい》は信じて頼りすがるべき思想のあるのが一生の平和の為《ため》には仕合せかも知れないが、時勢はそれを出来なくして了《しま》つた。(中略)斯《こ》んな世の中に立つて、我々は誰をたよりに自分の全生活を支配する問題を打ち任せよう。何処《どこ》に一つ我々を全部服従させるに足る思想があるか。 [#ここで字下げ終わり]  これは正に|考える《ヽヽヽ》文章です。しかしさすがに新しい「露骨な」飾り気のない、事実そのままを表現することを目指した自然主義者にふさわしく、|考えた事実《ヽヽヽヽヽ》の筋道を、そのまま平易な語句を使って卒直に書いていて、当時の保守的な評論家たちのように、漢文調の美辞麗句や、対句的発想などは全く見られません。抱月は、ああ考え、またこう考え直すと、その通りに、矛盾を恐れず、正直にそのままに文章に写します。  従って、時にはその文章は、花袋の小説の文章同様、稚拙にもぎごちなくも見える場合があります。  つまり、自然主義者は、当然なことながら、|感じる《ヽヽヽ》文章でも|考える《ヽヽヽ》文章でも、同じ理想を実現しようとした、ということになります。  そうして抱月の弟子の片上天弦は、こういう飾りのない文章のなかに、ひとつの調子《ヽヽ》を出すことに成功しています。そうしたことで、旧来の漢文調の強さに対抗しようとしているわけです。たとえば、白鳥はその『盛衰史』のなかに、次のような天弦の句を引用しています。 [#ここから2字下げ]  否定の力のあらはれて来るのは、生命の動いてゐる証拠である。否定は真によく大切なものを生かす。否定は真によく大切なものを育てる。否定することによつて、心の泉が流れ動く。否定することによつて、真に自ら生きる道を見出す。 [#ここで字下げ終わり]  白鳥が「自然主義初期の三尊」と名付けたのは、独歩と、花袋と、藤村でした。  そして、花袋こそはこの運動の中心人物でもあり、指導者でもあると、自他共に認めておりました。  彼のこの運動における紀念碑的作品である『蒲団』の文章の実例は、やはり先の「口語文の成立」の項で、紹介しておきました。  それは「矢張り想像は駄目だ」と云って、ただひたすら事実《ヽヽ》だけを書こうとした花袋の描写万能主義の見本のような文章でした。  花袋の後からこの運動のなかに登場し、自らも独自な奔放な作家となった岩野|泡鳴《ほうめい》は、『小説表現の四階段』と題する論文を発表しました。  そして、その四階段として「説明的説明」「説明的描写」「描写的説明」「描写的描写」という分類を示し、下に行くほど小説の表現としては徹底しているとしたのでした。そして、第二段の「説明的描写」の実例としては藤村を、第三段の「描写的説明」には花袋を挙げました。第四段の「描写的描写」は泡鳴自身だというわけです。  この分類自体は文章論としては、仲々面白いわけですが、実例は必ずしも穏当とは云えないようです。  しかし、本来、個《ヽ》の表現であった自然主義小説も、社会的事件などの全体的《ヽヽヽ》な事実を表現する場合は、必ずしも描写万能ではやれませんでした。  たとえば、『妻』と題する長篇小説のなかで、花袋が次のように書く時、それは正に「描写的説明」の見事な実例であると云えましょう。 [#ここから2字下げ]  時代も国家も矢張自分の閲歴や運命と同じく、盲目の力に支配せられて、無限から無限に動かされつつあるやうな気がした。混乱に混乱、紛糾に紛糾、かうして時代も国家も個人もある大きな潮流の中に流されて行くのである。平凡なる自己の生活——寧《むし》ろ平凡なる人間の生活。(中略)空《むな》しき現象! その現象のまゝで、時は唯過ぎて行く。 [#ここで字下げ終わり]  この詠嘆的文章は、それなりで一種の|感じる《ヽヽヽ》文体のなかに、|考える《ヽヽヽ》文体が、つまり描写《ヽヽ》のなかに説明《ヽヽ》が滑り入っている、と云えるのではないでしょうか。  描写主義の花袋の辿りついた最後の境地は、晩年の『百夜』に表現されています。それは二十年の精進の末の昭和の初期の頃でした。そしてこの作品に序文を草した藤村は、これを「やさしい作品」「やはらかな作品」と呼びました。それは次のような、諦観《ていかん》と詠嘆とに満ちた、そしてしっとりと静かな散文として完成しています。 [#ここから2字下げ]  かう言つてかの女は長く続いて来た二人の恋心を振返つて見るやうな眼つきをした。かれ等はそこにいろ/\な光景を思ひ浮べた。互ひにぐれはまになつて、いかに合はせようとしても何うしても合はせられなかつた煩悶《もだえ》。二つが三つになり四つになつて、しまひにはひどくこんがらがつて何うしても解くにも解けなくなつたやうな時、ひよつくり本当の心が二人の心の底に触れ合つて、そこから微妙な糸が引出されて行つた時の喜悦《よろこび》。震災のその三日目に女の身の上が案じられて、火のまだ燃えてゐる中をやつとのことで大川の橋杭《はしくひ》の上をつたつて行つた時の危険。それでも女は十時間も川水に浸《つか》つてゐたにも拘《かゝは》らず、何うにか彼《か》うにか命だけは助かつて、あの奥の料理屋の板敷の中に浴衣《ゆかた》がけのまゝの安全な姿を見出した時の涙——さうしたことが今もはつきりと二人の眼に映つて見えてゐるけれども、かれ等はそれについては何一言も言はなかつた。生中《なまなか》何か言ふよりも、だまつてじつとその心に映つた絵を眺めてゐる方が、その方が、その時の深い感じにふさはしいやうな気がした。 [#ここで字下げ終わり]  このように和やかに、心の表面を軽く愛撫《あいぶ》して行くような、やわらかい文体の中に、白鳥は香川|景樹《かげき》系統の作歌態度と通じるものを発見しています。そして、花袋が青年時代から、西洋の新文学に熱中していると同時に、江戸時代の桂園《けいえん》派の伝統的で平凡な歌を愛好していたことを指摘しています。  私も以前にはじめてこの作品を読んだ時、この自然主義の巨匠が、人生の終結点において、王朝物語風の境地に戻って行っていることに驚き、そして伝統と反逆ということ、青年と老年ということ、について深い感慨に襲われたものでした。  花袋は幕末の桂園派の保守主義の中から自然と王朝文学の雰囲気《ふんいき》へ遡って行ったのでしょう。  そうして、この断片だけでも注意して読み返してみますと、一見無造作に書き流されたように見える文章が、実に細心に論文的な抽象名詞を排除することによって成立していることが判ります。  やむを得ず使う「煩悶」や「喜悦」も、それぞれ「もだえ」とか「よろこび」とかルビを振ってあり、その間に「ぐれはまに」とか「やつとのことで」とか、「何うにか彼うにか」とかの|話し言葉《ヽヽヽヽ》を混えて、自然な語り口で文章を統一しようと努力しています。  誰か奇特で模作の才能のある人が、この花袋の文章を、鴎外の文体に翻訳してみると面白いと思います。  そうすれば、この|感じる《ヽヽヽ》文体の花袋的到達点が、鴎外の完成《ヽヽ》させた口語文と、いかにへだたりがあるか、一目瞭然となるでしょう。  漱石は藤村が自然主義の第一作というべき『破戒』を発表した時、「真面目にすら/\、すた/\書いてある所が頗《すこぶ》るよろしい。」「人生と云ふものに触れてゐて、いたづらな脂粉の気がない。」と賞めました。  そして自ら推薦して、朝日新聞に第二作の『春』を書くようにさせましたが、その作に対しても、「藤村氏のかき方は丸で文字を苦にせぬ様な行き方に候あれも面白く候。何となく小説家じみて居らぬ所妙に候然しある人は其代り藤村じみて居ると申候。」と批評しています。  その『春』の文体の見本は、やはり「口語文の成立」の項で出しておきましたが、漱石の感想通り、初期の藤村は水彩画のような清新な、そして虚飾のない文章を作りだして、新しい口語による文学的文体の可能性を示してくれたのでした。  その藤村は昭和の初期に、盟友の花袋が世を去った後も、悠々と制作を続けて行き、遂に大作の歴史小説『夜明け前』を完成しました。  そして漱石が東京人らしい軽口で、「藤村じみて居る」と批評した、そうした信州人らしい、自らの個性に執する藤村的な語り口は、『夜明け前』に至って、いよいよ鮮かに表面に現れ、極めて独自な散文となって結晶しました。  かつて第一作の『破戒』で、 「蓮華寺では下宿を兼ねた。」 という無造作な書き出しをして、保守的な批評家に「日本文ではない」と眉をひそめさせた彼は、『夜明け前』では、 「木曾路はすべて山の中である。」 という書き出しによって、また読者を驚かせました。  こういう一種の唐突さと、しかもその底にある、落ちつきはらったような調子は、藤村独特のもので、それは熱狂的な崇拝者を生むと同時に、洒脱《しやだつ》さを好む都会人からは、それが「深刻ぶり」「老獪《ろうかい》さ」ともとられるということになりました。  初めに藤村を支持していた漱石も、『それから』のなかでは、「何が気障《きざ》だつて、思はせ振りの、涙や煩悶《はんもん》や、真面目や、熱烈ほど気障なものはないと自覚してゐる」と、あてこすりを云っていますが、漱石の弟子で、やはり東京人であった芥川龍之介も、藤村の中期の代表作である『新生』を読んだ時には、作者を「偽善者」だと云って罵《ののし》っています。  そういう「猫かぶり」とも取られるようなところが、藤村の生真面目な落ちついた文体にはあります。唐突な表現のうしろにも、また丁寧に説明してくれている叙述(泡鳴のいわゆる「説明的描写」調)にも、背後に何か本心が慎重に匿《かく》されている感じを与えるようなものがあり、それが特に卒直さを好むある種の都会人には、「奥歯に物のはさまった」ような感じを与えるのでしょう。  ここまでくると、全く個性《ヽヽ》によるニュアンスの相違という問題になってくるので、花袋と藤村とでは、同じ平明さといっても、まるで感じがちがいます。花袋の文章は、書かれた通りの気持を筆者が抱いているというふうに感じられ、裏に何もないし、時にはそれが軽率さとさえ見られて、重厚さを好む読者からは軽蔑《けいべつ》されそうな場合すらあります。  そうして『新生』を罵った芥川の文章に至っては、明快さそのもので、透明を極めています。芥川が藤村の文体にいらだったのは、全く当然だったという気がして、おかしくなります。  私自身《ヽヽヽ》の好みという問題になりますと、それは広い読者のための「文章講座」の本旨からは外れますので、それは一応、脇へのけておきましょう。しかし、皆さんは自分の文章を書くに際しては、やはり自分の趣味なり性質なりに、自然に従うことが無理がないのだ、ということは念を押しておきましょう。  鴎外も漱石も花袋も藤村も、それぞれに口語文を完成させ、それぞれの見本として、後世の私たちの前にある、というわけです。  そこで私の論述の進展の必然からして、ここで『夜明け前』の文体の見本を呈出する前に、『新生』の文体の見本を、先《ま》ずお目にかける必要が生じて来たようです。 [#ここから2字下げ]  岸本は自分の部屋を見廻した。声が来て独り仕事に親しまうとする彼を試みようとした。その声は大きな打消の声といふでもなく、寧ろ細々とした小さな耳の底にさゝやくやうな声ではあつたけれども、その小さな声に幻滅的な心持を誘はれるものがあつた。その声は彼に訊《き》いた。学問や芸術と女の愛とが両立するものだらうか。帰国以来再会した節子と彼との間に起つて来たことも結局互の誘惑ではなかつたか。二人の結びつきは要するに三年孤独の境涯に置かれた互の性の饑《うゑ》に過ぎなかつたのではないか。愛の舞台に登つて馬鹿らしい役割を演ずるのは何時《いつ》でも男だ、男は常に与へる、世には与へらるゝことばかりを知つて、全く与へることを知らないやうな女すらある、それほど女の冷静で居られるのに比べたら男の焦りに焦るのを腹立しくは考へないかと。 [#ここで字下げ終わり]  実に沈着冷静だと感服する読者もいれば、何だもったいぶって、と眉をしかめる人もあるだろうという、典型的な文章です。  ついで、『夜明け前』からということになりますが、この作品は純客観的な歴史的叙述という面と、その歴史の大波に流されて行く個人のドラマという面とがあり、その二つをひとつの文体に統一するために、作者は極度に抑制した文体を用いています。そしてそれは同時に、あまりにも特殊な文学的効果《ヽヽヽヽヽ》のための文体ともなっていますので、ここではそのなかの叙景的で日常的な情景を描いた部分だけを、実例としてお目にかけることにします。 [#ここから2字下げ]  街道は暮れて行つた。会所に集まつた金兵衛はじめ、その他の宿役人もそれ/″\家の方へ帰つて行つた。隣宿落合まで荷をつけて行つた馬方なぞも、長崎奉行の一行を見送つた後で、ぽつ/\馬を引いて戻つて来る頃だ。  子供等は街道に集まつてゐた。夕空に飛びかふ蝙蝠《かうもり》の群を追ひ廻しながら、遊び戯れてゐるのもその子供等だ。山の中のことで、夜鷹《よたか》も啼《な》き出す。往来一つ隔てゝ本陣とむかひ合つた梅屋の門口には、夜番の軒|行燈《あんどん》の燈火《あかり》もついた。 [#ここで字下げ終わり]  最後は徳田秋声です。  秋声は自ら「怠けもの」と称しながら、しかしその七十年にわたる生涯のあいだ、営々として、自然主義的作品を書きつづけました。  それは、やはり漱石が、「どうも徳田氏の作物を読むと、いつも現実味はこれかと思はせられるが、只|夫丈《それだけ》で、難有味《ありがたみ》が出ない。」「つまり『御尤《ごもつとも》です』で止つて居て、それ以上に踏み出さない。」「書きつぱなしのやうに思はれる。」と評しているように、無技巧の文体で無造作と思われるように書いているものです。従って、ここにこそ日本自然主義の真髄がある、と見る人もいるわけです。  しかし、長年の修練は、秋声の散文を独特な捉われない自由なものとして行ったので、それは晩年の『仮装人物』という長篇の書き出しにも、見事にその美点がうかがわれます。 [#ここから2字下げ]  庸三はその後、ふとした事から踊り場なぞへ入ることになつて、クリスマスの仮装舞踏会へも幾度か出たが、或る時のダンス・パアテイの幹事から否応なしにサンタクロオスの仮面を被《かぶ》せられて当惑しながら、煙草を吸はうとして面から顎《あご》を少し出して、不図《ふと》マツチを摺《す》ると、その火が髯《ひげ》の綿毛に移つて、めら/\と燃えあがつた事があつた。その時も彼は、これから茲《こゝ》に敲《たゝ》き出さうとする、心の皺《しわ》のなかの埃塗《ほこりまぶ》れの甘い夢や苦い汁の古滓《ふるかす》について、人知れず其の頃の真面目くさい道化姿を想ひ出させられて、苦笑せずにはゐられなかつたくらゐ、扮飾《ふんしよく》され歪曲《わいきよく》された——或はそれが自身の真実の姿だかも知れない、孰《ど》つちが孰つちだかわからない自身を照れくさく思ふのであつた。 [#ここで字下げ終わり]  これはいかにも心理的な錯迷のなかをさまよう、この長篇小説の書き出しにふさわしい、ほとんど象徴的な雰囲気さえ漂わせた、一種の名文といえましょう。それはほとんど、フランスの心理小説家プルーストの、あの入り組んだ美しい文章を連想させるものです。そうして素人が真似をしようとしても、到底、歯の立たないものです。 [#小見出し]      二  明治から大正のはじめにかけて、鴎外と漱石とによって完成した口語文に、飛躍的な進展を行わせたのは、大正期の白樺《しらかば》派の作家たちでした。  彼等は従来の文壇の作家たちとは異って、上流階級の出身者が多く、そして経済的困窮から解放された、育ちのいい青年たちであったので、人間性の善に対する信仰も篤《あつ》く、また人生の目的の追求についても、純粋でした。  そうした純粋で、周囲に対する気がねのない、清潔で自由な信念は、そのまま彼等の文体《ヽヽ》に影響を与えました。  特に武者小路実篤の、従来の文章《ヽヽ》という通念を全く無視した奔放で明快な、若者らしい文体は、文壇にも世間にも、大きな衝動を与え、また多くの若者に感化を及ぼしました。  およそ正反対な、人工的で緻密《ちみつ》な文章をやがて書くことになる芥川龍之介さえ、武者小路の登場は、文壇のうえに天窓が開いて、青空が見えたような感激を受けた、と後に記しています。  たとえば、『幸福者』の一節。 [#ここから2字下げ]  自分さへ本気になればどうしてもゆける道、他人の御機嫌も、運命の御機嫌も見ずに真の幸福に達せられる道、其処《そこ》では内を顧みて疚《やま》しくなく、権威を自から自分の内に感ぜられる道、さう云ふ道をのみ歩かないと師(この作品の主人公)にとつて不安でならなかつた。師には正しいと信ずる道を歩くより外に安心の出来る道はない。師はその道を選んだ。そして人間にさう云ふ道の与へられてることを感謝し、その道が人間のゆかねばならない道であることを信じてゐられた。 [#ここで字下げ終わり]  またたとえば、『お目出たき人』の一節。 [#ここから2字下げ]  自分は女に餓ゑてゐる。  誠に自分は女に餓ゑてゐる。残念ながら美しい女、若い女に餓ゑてゐる。七年前に自分の十九歳の時恋してゐた月子さんが故郷《くに》に帰つた以後、若い美しい女と話した事すらない自分は、女に餓ゑてゐる。(中略)  日比谷をぬける時、若い夫婦の楽しさうに話してゐるのにあつた。自分は心|私《ひそ》かに彼等の幸福を祝するよりも羨《うらや》ましく思つた。羨ましく思ふよりも呪《のろ》つた。その気持は貧者が富者に対する気持と同じではないかと思つた。淋しい自分の心の調べの華なる調子で乱される時、その乱すものを呪はないではゐられない。彼等は自分に自分の淋しさを面《ま》のあたりに知らせる。痛切に感じさせる。自分の失恋の旧傷《ふるきず》をいためる。  自分は彼等を祝しようと思ふ、しかし面前に見る時やゝもすると呪ひたくなる。  自分は女に餓ゑてゐるのだ。 [#ここで字下げ終わり]  更にまた、たとえば、『友情』の一節。 [#ここから2字下げ]  何とでも云へ。俺は運命の与へてくれたものをとる。恐らく、友は最後の若い杯《さかづき》をのむことを運命から強ひられて其処で彼は本当の彼として生きるだらう。自分は女を得て本当の自分として生きるだらう。(中略)自分は反《かへ》つて今後の「彼」がこはい。しかし自分も負けてはゐないつもりだ。天使よ、俺が為《ため》に進軍のラッパを吹け。今は人類が、立ちあがらなければならない時だ。自分達精神的に働くものは真剣にならなければならない時だ。自分達、フランス人も、イギリス人も、ドイツ人も、イタリー人も、支那人も、印度人も自分達の仲間にゐる。皆若くつて真剣だ。そして一つ目的、人類の為につくしたがつてゐる。 [#ここで字下げ終わり]  これらの二十代から三十代にかけて書かれた文章のどれにも、自己の本能に対する肯定と、人類の未来に対する信頼とが、強い気迫となって現れていて、読者を圧倒します。  こうした性急とさえ思える、主観の強烈な燃焼は、前代の自然主義の客観的文体に慣れていた読者にとっては、ひとつの革命として受けとられたのです。  そうして、現代の若い読者もまた、こうした文章のなかに、自分たちが日記のなかで秘《ひそ》かに熱中して書き綴っている文章と、思いがけなくも同質のものを発見し、そしてこれが文学《ヽヽ》として承認されたのか、こういう露骨な自己表現でも、他人に見せる文章として成り立つのか、と考えて、自信を強めるでしょう。  そうして、大正時代の青年たちの多くが、現に武者小路の信者となったのでした。  こうした武者小路の文章の特色は、|考える《ヽヽヽ》と|感じる《ヽヽヽ》との根底にある、ひとつに溶け合った本能的な情熱のるつぼから、一直線に噴きあげてきた、というところにあります。  そして、そのような噴き上げがこうした純一な表現となるには、複雑に入り組んだ、コンプレックスに満ちた、ひねくれひねこびた、屈折の多い心では無理だということになりましょう。  それは結局、趣味の問題となりますが、苦渋に満ちた人生のなかで、多くの挫折《ざせつ》を味った人たちは、この武者小路の文章が、楽天的で幸福すぎる、と感じることがあるでしょう。  しかしとにかく、この格にはまらない、書き言葉のなかに平然として話し言葉の混入してくる、力強い清新な嵐のような文体は、それ以前の作家たちの、いじけたような、伏目がちの、客観的文体を、吹き払うような効果を持っていました。  それは日本語の文章の領域を、一挙に拡大してみせた、と云えましょう。  そして武者小路において、日本の理想主義は、はじめて感傷主義から自由になった、口語文の表現を獲得したものとも云えましょう。  従来の口語文は、専ら写実的な客観主義か、それでなければ主情的な感傷を盛る器に過ぎなかった、ということが、白樺派の登場によって、はじめて読者に判ったのでした。  ところで、白樺派の作家たちにとって、兄のような存在であった有島武郎は、三十代になってから、雑誌『白樺』の創刊に参加して、文学者としての活動を、若い後輩たちに混ってはじめたのですが、彼は二十歳代に長くアメリカで留学生活を送ったことで、文章を書くのに、英語で考える方が日本語で考えるのよりも、自由であったらしいのです。  それに二十代の文学的教養を、やはり英語で身につけていた彼は、日本の当時の小説などには、むしろなじまない、とまどいを感じたのでしょう。  そこで彼は小説を書くということになった時、その頭のなかにあった見本は、専ら西洋のものであったし、またその文体《ヽヽ》も当時の日本の作家たちの使っていた口語文とは異質のものを考えていたのです。  そこで彼は長篇《ちようへん》『或る女』を書くに際して、まず下書きを英語で書き、それを日本語に翻訳する手続きをとった、と云われています。  従ってこの小説の文体は、当時の日本の文壇の常識とは、甚《はなは》だかけ離れたものになりました。そして、それは日本語の表現領域の拡大という方向に対して、非常に多くの参考になる点を持つものでした。  その一節。 [#ここから2字下げ]  それは恋によろしい若葉の六月の或る夕方だつた。(中略)十九でゐながら十七にも十六にも見れば見られるやうな華奢《きやしや》な可憐《かれん》な姿をした葉子が、慎しみの中にも才走つた面影を見せて、二人の妹と共に給仕に立つた。(中略)木部の全霊はたゞ一目でこの美しい才気の漲《みなぎ》り溢《あふ》れた葉子の容姿に吸ひ込まれてしまつた。葉子も不思議にこの小柄な青年に興味を感じた。而して運命は不思議な悪戯《いたづら》をするものだ。木部はその性格ばかりでなく、容貌——骨細な、顔の造作の整つた、天才風に蒼白《あをじろ》い滑らかな皮膚の、よく見ると他の部分の繊麗な割合に下顎骨《かがくこつ》の発達した——まで何処《どこ》か葉子のそれに似てゐたから、自意識の極度に強い葉子は、自分の姿を木部に見付け出したやうに思つて、一種の好奇心を挑発せられずにはゐなかつた。木部は燃え易い心に葉子を焼くやうにかき抱いて、葉子は又才走つた頭に木部の面影を軽く宿して、その一夜の饗宴《きようえん》はさりげなく終りを告げた。 [#ここで字下げ終わり]  この文章には、今日から見ても、プロテスタントの外人宣教師の使いそうな表現があって、それが一種のハイカラな感じを与えるのです。しかし作者は従来の日本の作家たちの、とかく一筆描きの絵のようになりがちな描写——そうしたものとは異質の、徹底したしつこい分析的な、|感じた《ヽヽヽ》ことを全《すべ》て表現させようという、西洋人のような知性を駆使して、このような文章を書いていることが判ります。  それは女主人公の年齢と見かけとの|ずれ《ヽヽ》に対する数字による指摘、また主人公の顔の、自然科学者のように正確な観察にも、明らかに見られる特徴です。  この有島の文章に接したあとでは、従来の自然主義の作家たちは、西洋近代の小説にその描写法を学んだけれども、その発想《ヽヽ》の根本までは学ぶことができなかったのだと云うことが感じられます。  それは|日本人として《ヽヽヽヽヽ》、西洋の文章を学んだのだから当然の話であって、西洋人が日本の文章を学んでも、やはり発想は西洋人のままであるのと同じです。  しかし有島は青春の大きな部分をアメリカの大学社会で過し、彼の知的感覚的自己形成を西洋人《ヽヽヽ》として行ったのでした。だから、彼がまず英語で書いて、それを日本語に翻訳した文章を作った時、西洋人が日本語で書いた文章かと見まがうようなものになったということになります。  これは東京の日本家屋のなかの、坐り机のうえで洋書を読んで、西洋の文章、小説の描写などを研究していた人たちとは、全く異った出発点です。  その上、鴎外や漱石の世代の知識人は、どれほど深く西洋に入ったとしても、既に根底には、中国と日本との古典的教養が、確乎《かつこ》として存在し、そこに西洋と東洋との融合、「ラテン文と漢文の粋を集めた」ような文章を、おのずと作るということになりました。  ところが有島の世代になりますと、そうした日本独特の古典的教養は、大分、稀薄《きはく》になってきていて、従って有島がアメリカにおいて、西洋人になるのを妨げるだけの力は失っていました。  そしてそれが有島の文章を、従来には見られなかった、新しい表現に満ちたものにしました。  恐らく当時の若い知識人たちは、日頃、読んでいる西洋の文章と同質のものが、日本語で表現せられるのを見て、奇跡に接するような思いをしたに違いありません。  彼等はそれまで、漠然と西洋語と日本語との根本的な相違というものに捉《とら》われていたのが、それは迷信に過ぎなかったのだ、と突然に、思い知らされたのですから。  ただ有島流の文章を書くには、|考える《ヽヽヽ》のにも|感じる《ヽヽヽ》のにも、|西洋人になる《ヽヽヽヽヽヽ》必要があり、これは当時の大部分の青年たちには与えられなかった特権です。  現に富裕な家庭の子弟であった白樺派の青年たちも、東京の大学を出るや出ずで、直ちに文筆生活に入ったので、数年を西洋で暮し、徹底した西洋社会の知的生活に同化するという時間は持ちませんでした。  そこで、この有島による文章革命は、白樺派の青年たちにも、充分、受け継がれることができませんでした。  私は時々、才能ある白樺派の青年、たとえば志賀直哉が、もし直ちに文筆生活に入らないで、二十歳代を西洋で暮し、|日本語を忘れた《ヽヽヽヽヽヽ》生活をしたら、どのような日本語の文章をその後、書くに至ったろうか、と空想することがあります。  もしそうなったら、大正時代の最も完成した、正確で美しい描写文の作者を、日本は失うことになったかも知れませんが、しかし有島の文体革命は、より一層早く、日本に定着することになったのではなかろうかと思います。  現実には、この文体革命が実現したのは、第二次大戦直後の戦後派の運動のなかであり、その時代、つまり一九五〇年代においては、日本人の意識も感覚も、西洋人と極めて近い状態に変化していたのです。  だからもう戦後派の作家たちは、一度、日本人であることを忘れて、西洋人になりきる、という力業の必要はなかったのです。  ここでもう一度、『或る女』の文例を読み返してみて下さい。  これはこの小説の主人公と女主人公の出会いの情景ですが、この短い分析的描写(ということは、知性《ヽヽ》と感性《ヽヽ》との協力した文章という意味ですが、つまり|考える《ヽヽヽ》と同時に|感じる《ヽヽヽ》ことをしている文章ということになりますが)のなかで、作者はこの恋の発生の原因として、女主人公が主人公のなかに、自分と同じ型の人間を発見した、というモチーフを提出しています。  こうした種類の恋愛は、それ以前の鴎外漱石も、自然主義の諸作家も、知らないものでした。  しかも作者は、その恋の発生のモチーフのなかに、既に恋の死滅を予告しているのです。  この小説のなかで、男性のなかに自分と同質の人間を発見した女主人公は、やがてその男性のなかに、自分と同じ缺点《けつてん》を見出して、自己嫌悪になり、それがそのまま、その男性への嫌悪に転じて行きます。  これは今日でも充分に新しい恋愛《ヽヽ》の型です。しかし問題は、有島がそうした恋愛の型の新しい表現《ヽヽ》に成功したということよりも、より根本的に、彼がそのような新しい恋愛を|感じ考える《ヽヽヽヽヽ》、知性と感性との所有者として、自分を作りあげていた、と云う点です。  ここでも、「文は人なり」という古い真理が実証されたことになります。あなた方も自分の書く文章は、自分の鏡であることを、忘れずにいて下さい。いい文章を書くためには、屡々《しばしば》、名文を読むよりは、自己改造が必要だということもあるはずです。  さて次は、有島の文体革命の後継者となる代りに、大正時代の最も完成した美しく正確な口語文の作者となった、志賀直哉の文章の見本を、幾つか抜き出してみましょう。  いずれも、その代表作『暗夜行路』からです。  最初はある芸妓と遊んだあとの主人公|時任《ときとう》謙作の気持の描写。 [#ここから2字下げ]  謙作は矢張り登喜子の事が忘れられなかつた。彼はあの不愉快だつた二三日前の夜《よ》を憶《おも》ひ、軍師拳で登喜子と並んで居た時の事などを想ふと、不思議な悩ましさが胸に上《のぼ》つて来た。彼は自分で自分の指を握つて見て、握る時の感覚と、其《その》握られた感覚とを計つて見たりした。それも両方が自分では明瞭《はつきり》しなかつた。然し、彼は登喜子に深入して行かずには居られない程の気持になつてゐるとは我れながら思へなかつた。只|此儘《このまま》で自分の此気持を凋《しぼ》まして了《しま》ふのは何となく惜しい気がした。それにしろ、そんな下心を自ら意識しつつ出掛けて行く事は、相手がさう云ふ職業の女にしろ、如何《いか》にも図々《づうづう》しく、気がひけた。 [#ここで字下げ終わり]  次は謙作の日記の文章。 [#ここから2字下げ]  ——人類の運命が地球の運命に屹度《きつと》殉死するものとはかぎらない。他《ほか》の動物は知らない。然し人類だけは其与へられた運命に反抗しようとしてゐる。男の仕事に対する、あく事なき本能的な慾望《よくぼう》の奥には必ず此盲目的な意志がある。人間の意識は人類の滅亡を認めてゐる。然し此盲目的な意志は実際少しもそれを認めようとしてゐない。 [#ここで字下げ終わり]  次は夢の描写。 [#ここから2字下げ]  それは七八歳の子供位の大きさで、頭だけが大きく、胴から下がつぼんだやうに小さくなつた、恐しいよりは寧《むし》ろ滑稽な感じのする魔物だつた。それが全く声もなし、音もなしに、一人安つぽく跳《をど》つてゐる。彼から影を見られてゐる事も知らずに、上を見、下を見、手を挙げ、足を挙げ、一人ではしやいでゐるが、動くものは其影だけで夜は前にも書いたやうにしつとりと月光の中に静まり返つてゐた。彼はこれが跳つてゐる間、其棟の下にゐる者は悪い淫蕩《いんとう》な精神に苦しめられるのだと思つた。淫蕩な精神の本体がこんなにも安つぽいものだと思ふ事は却《かへ》つて何となく彼を清々《すがすが》しい気持にした。そして今度は本統に眼を覚ました。 [#ここで字下げ終わり]  次は都心の夕方の雑踏の描写。 [#ここから2字下げ]  彼はぶら/\日本銀行の方へ歩き出した。小さい郵便局の前を通る時に丁度四時が鳴つてゐた。間もなく、広場を三方から囲んでゐる三井の建物から吐き出されるやうに大勢の人々が出て来た。杖《つゑ》を小脇へ挟《はさ》んで、巻《まき》烟草《たばこ》に火をつけてゐる者がゐる。先へ行く仲間を小走りに追ひかけて行く者がある。見る/\広場は此連中で賑《にぎ》はつた。日本銀行からも出て来た。正金銀行からも、其他からも出て来た。そして三々伍々ぞろ/\と通る。彼は直ぐ、其内に信行を見出した。信行は五十恰好の品のない太つた男と何か話しながら来る。信行は笑ひながら、片手に丸めて持つた雑誌で他の手《て》の掌《ひら》を叩きながら、しきりに何かいつてゐる。太つた男は時々それに応じて点頭《うなづ》いて居た。 [#ここで字下げ終わり]  次は極めて短い文章のなかに圧縮された、情景と幻影との描写。主人公は船の甲板にいます。 [#ここから2字下げ]  彼は今は一人船尾の手すりにもたれながら、推進機にかき廻され、押しやられる水をぼんやり眺めてゐた。それが冴《さ》えて非常に美しい色に見えた。そして彼は先刻《さつき》自分達の通つて来た、レールの縦横に敷かれた石畳の広場を帰つて行くお栄と宮本の姿を漠然と想ひ浮べてゐた。 [#ここで字下げ終わり]  同様にひとりで物思いに耽《ふけ》る主人公の描写。 [#ここから2字下げ]  彼はぶら/\と一人|海添《うみぞひ》の往来を帰つて来た。彼の胸には淋しい、謙遜《けんそん》な澄んだ気持が往来してゐた。お栄でも信行でも、咲子でも、妙子でも、其姿が丁度双眼鏡を逆に見た時のやうに急に自分から遠のき、小さくなつて了《しま》つたやうに感ぜられた。そして誰も彼もが。それは本統に孤独の味だつた。しかも彼にはそれらの人々に対し、実に懐かしい気持が湧《わ》き起つてゐた。そして彼は又亡き母を憶ひ、何といつても自分には母だけだつた、といふ事を今更に想つた。幼時の様々な記憶が甦《よみがへ》つて来た。彼は臆面もなく感傷的な気持に浸つてそれらへ振り返つた。それがせめてもの安全弁だつた。 [#ここで字下げ終わり]  また主人公の自己分析の描写。 [#ここから2字下げ]  そして彼は自分が栄花に会つた場合を想像して見て、栄花がどういふ調子で自分に対するか? さうなる前の栄花を知る自分に対し、栄花も多少其頃の気持を呼び起すであらうか? それとも、さう見せかけ、其頃をなつかしむやうな風を見せ、心は現在を少しも動かない、さう云ふ荒《すさ》んだ調子であるか? 何方《どつち》とも想像出来た。然し何《いづ》れにしろ、彼はさういふ絶望的な栄花に矢張り同情出来さうに思へた。絶望的な境地から栄花を救ふ、かういふ気持も彼には起つた。児《こ》殺し、それから数々の何か罪、さういふものを総て懺悔《ざんげ》し悔改めた栄花。が、それを考へて見て、彼は矢張り妙に空《うつ》ろな栄花しか考へられなかつた。若《も》し自分が栄花に会ふ場合、かういふ風に、所謂《いはゆる》基督《キリスト》信徒根性で簡単にこんな望みを起すとすれば、それは余り感心出来ない事だと考へた。 [#ここで字下げ終わり]  以上、私は『暗夜行路』のなかからだけ、それぞれに異った|心の状態《ヽヽヽヽ》の描写を、いくつか抜き出してみました。  それはあるいは夢の描写であり、あるいは都会の雑踏の観察であり、あるいは日記の文章であり、あるいは自己反省の分析であり、様々な状態なのですが、志賀はそれらのそれぞれに異った状態を、全く同一の質の冷静な文体に写しています。  それは目に見えるように鮮かな描写であって、その文章の喚起する透明なイメージは、ほとんど甘美と云ってもいいような効果を、後味として残します。  この客観的な落ちついた文章が、人間生活のあらゆる面を描きだすことができる、と志賀は証明してみせてくれたのでした。  私はこの文章を読んでいると、フランスの写実主義の巨匠であり、正確な文章家として知られていたフローベールの文体を、いつも連想します。  また、芥川はこうした目に見えるような描写が、その方面の天才とも云うべきトルストイよりも、更に|細かい《ヽヽヽ》と指摘したことがあります。  志賀の文章には、何ら特殊な、独創的な、奇抜な表現は見られません。色《ヽ》を表現するのに、何色《ヽヽ》とさえ書かずに、ただ「美しい」とだけ記している例が、今の引用のなかにもありました。  また特別に凝った漢字や、特に珍らしい言葉も出ては来ません。普通の日常的な言葉だけを使っています。そして、その日常的な言葉から、このような、目立たないけれども飽きることのない、芸術的な文章を作りあげたのは、志賀の天才です。  そして、この文章は、現代の多くの読者が、学ぶことのできるものなのです。  この武者小路の主観主義と志賀の客観主義とのあいだに、白樺派の文体がある、と云ってもいいような気がされます。  たとえば長与善郎《ながよよしお》は、理想主義的な主観の燃焼を、武者小路のような躍る文体ではなく、平静で論理的に語る文体によって表現する方法を発明しました。 [#ここから2字下げ]  殆んど土俵に上るより先きに棄権を命ぜられたにも拘《かか》はらず、自己の力と云ふものを根柢《こんてい》から打ち砕かれた気のしてゐた自分は、又そこから何物にも打ち砕かれる事なく、揺すぶられる憂ひのない真に確固不退転の或る拠《よ》り処《どころ》をどうかして早く自己の内に打ち建てたい焦慮に駆られて来てゐた。実に持ち度《た》いものは深い、強い主観である。そして自分は今ほど自己が無力無一物な子供にすぎない事を切実に識《し》つた事はなかつた。が、素《もと》よりその一物は他から教へ与へられるのでなく、純粋水入らずの自己対世界の触れ合ひから、己れ自ら獲得し打ち建てたものでなければ仕方がない。(『竹沢先生と云ふ人』) [#ここで字下げ終わり]  ここにあるのは、強い気迫に満ちた主観を、あくまで客観的な文章で伝えたいという努力です。  この長与の文体には、漱石の思索的な文章の調子から、江戸人風の芝居気を全くとり去って、更に剛直な、書生風なものにしたといった面影があります。  それは単なる風景描写においても、同じ調子を作りあげています。 [#ここから2字下げ]  彼は海岸へ出た。蕭条《しようじよう》たる十一月の浜辺には人影一つなく、黒い上げ汐《しほ》の上をペラ/\と撫《な》で来る冷風のみが灯《あか》りを点《つ》けた幾十の苫舟《とまぶね》を玩具のやうに飜弄《ほんろう》してゐた。岸に沿つて彎曲《わんきよく》してゐる防波堤の石に腰かけて杖を垂らせばその先きの一二寸は楽に海水にひたる。犇々《ひしひし》と上げくる秋の汐は廂《ひさし》のない屋根舟を木の葉のやうに軽くあふつて往来と同じ水準にまで擡《もた》げてゐる——彼はそこに腰をかけた。(『青銅の基督』) [#ここで字下げ終わり]  ここでは晩秋の淋しい景色も、伝統的な詩的情緒というようなものは排除されています。  こういう一種の男性的ないさぎよさに好意を感じる読者も少くないでしょう。  由来、日本の風景描写は、平安朝の美意識の影響が強く、自然と女性的になりがちなのですから、そうした影響から遁《のが》れるというのも、新しい口語文のひとつの目的となって来ます。  しかし一方で、芝居気や情緒というものとは一般に無縁であった白樺派のなかで、有島の弟の里見|※[#「弓+享」、unicode5f34 ]《とん》だけは、客観的な自然主義の対立者であった泉鏡花の影響を受けて、その散文を一種の芸《ヽ》にまで洗煉させて行きました。彼の散文は高座の話術のような|語り口《ヽヽヽ》の芸術となっています。 『椿《つばき》』というごく短い作品の末尾を、その一例として写してみましょう。 [#ここから2字下げ]  思はず呟《つぶや》いて、すぐまたくるりと向き返へる鼻のさきで、だしぬけに叔母が、もうとても耐《たま》らない、といふ風に、ぷツと噴飯《ふきだ》すと、いつもなか/\笑はない人に似げなく、華美《はで》な友禅の夜着を鼻の上まで急いで引きあげ、肩から腰へかけて大波を揺らせながら、目をつぶつて、大笑ひに笑ひぬく、——ちよいと初めの瞬間こそ面喰《めんくら》つたが、すぐにその可笑《をか》しい心持が、鏡にものの映るが如くに、姪《めひ》の胸へもぴたりと来た。で、これも、ひとたまりもなく笑ひだした。笑ふ、笑ふ、なんにも言はずに、たゞもうくツくと笑ひ転げる……。それがしんかんと寝静《ねしづま》つた真夜中だけに——、従つて大声がたてられないだけに、なほのこと可笑しかつた。可笑しくつて、可笑しくつて、思へば/\可笑しくつて、どうにもならなく可笑しかつた……。 [#ここで字下げ終わり] [#小見出し]      三  口語文の完成者としての漱石の文体の進展は白樺《しらかば》派の人々のなかに見られたのですが、それでは漱石と共に重要であった鴎外の文体の方はどうなって行ったか。——  鴎外の文体は、漱石の文体が一般の社会人のあいだに拡って行ったのに対して、文学者の内部にだけ影響を与えたように見える、と私は前に指摘しておきました。  そして、「文学者の内部」ということは、より正確に云いますと、|最も文学者的な文学者《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということになります。つまり一般人とはかけはなれて専門家となった文学者、あえて云えば極めて|芸術家的な《ヽヽヽヽヽ》一部の文学者、ということになります。  そうしたなかで、まず第一に頭に浮ぶのが永井荷風です。  荷風も鴎外同様、洋学と漢学とを両輪として、文学の車を推し進めた、そして一般の文壇からは孤立した作家でした。  面白いことには鴎外は日記を漢文で書く習慣がありましたが、荷風は文語体《ヽヽヽ》で記すことを、第二次大戦の後までも、ほとんど一日も休まずに続けました。  と云うことは、荷風あるいは彼の世代にとってはまだ、文語体の方が口語体よりも、文章として安定感があった、と云うことになりましょう。  青年時代のごく初期の処女作以来、口語文で小説を書いていた荷風は、鴎外同様、口語文をいつも|意識して《ヽヽヽヽ》構成していたように思われます。白樺派の人々のように、流れるように自然に口語文を書く、ということはできなかったらしいのです。  そうして、作家生活をつづけている間に、何度も、果して口語文が文学たりうるかという疑問に出会ったらしいのです。  現に、青年時代の後半にアメリカへ渡って生活している間に、彼は口語文に対する懐疑を、日本の友人にあてた手紙のなかで告白していますし、又、晩年にもある若い女性が彼に小説の書き方を学んだ時、荷風はその女性に、口語文を書くことを|禁じた《ヽヽヽ》のです。一世の名文家として知られていた荷風は、その文学的生涯を閉じる年齢になっても、まだ口語文というものに、疑いを抱いていたように思われます。  こうした口語文への疑いというものは、荷風がいかに深い文体感覚の所有者であったかを示しているわけです。英語やフランス語の文学的《ヽヽヽ》文体、また漢文に比べて、明治以来に発達した新しい口語文は、いかにも未熟なもの、古典的完成に遠いものと感じられたのでしょう。  文体というものは、その文体を使う人の、知性と感覚との全体的な反映です。そうして荷風は西洋から帰って来てからの半世紀近くのあいだ、ずっと近代日本の蕪雑《ぶざつ》な文明に我慢がならず、|完成された《ヽヽヽヽヽ》江戸末期の生活を真似てみたり、また|完成された《ヽヽヽヽヽ》西洋風の生活を試みたりして過しました。それは日常の必需品の端ばしに至るまでに、徹底したものでした。  そういう徹底した生活者である荷風が、徹底した文体に対する理想家であったことは当然です。  そして、現代の小説家として書かざるを得ない口語文において、荷風は一生を通じて、可能なかぎりの洗煉への努力をつづけたのです。  それは毎日、イギリスの石鹸《せつけん》を使い、フランスのチーズやブドー酒を口にし、中国の紙に漢詩を書いていたのと、平行する態度であったといえましょう。  さて、荷風の口語文と鴎外のそれとの親縁の様を、最もよく現わしているのは、勿論《もちろん》、史伝《ヽヽ》というジャンルです。  荷風は一生を通じて鴎外を、自分の唯一の文学上の師と仰ぎ、文学を志す青年たちに、鴎外全集をくりかえし読むことが、現代の文学者となる資格であることを、何度も説いていますが、彼自身、それを実行していて、文学上の、また些細《ささい》な語法や字句の末の疑問に至るまで、必ず鴎外の全集にその解決を求めておりました。  だから史伝『下谷叢話《したやそうわ》』においては、荷風はほとんど鴎外の史伝の文体模写《ヽヽヽヽ》を行っているように見えます。  と云うより、鴎外の史伝と同じ試みを、同じスタイルで真似してみることに、文学的喜びの大部分を感じながら書いた作品だ、といってもよさそうです。  その書き出しは、次のようなものです。 [#ここから2字下げ]  わたくしが五歳になつた年の暮にわたくしの弟貞二郎が生れた。母はそれが為《ため》わたくしの養育を暫《しばら》く下谷の祖母に托《たく》した。祖母の往々にして初孫《うひまご》の愛に溺《おぼ》れやすきは世に屡《しばしば》見るところである。祖母に育てられた児の俚諺《りげん》にも三文やすいと言はれてゐるのも無理ではない。わたくしは小石川なる父母の家を離れて下谷なる祖母の家に行くことをいかに嬉しく思つたであらう。当時の事は既に『下谷の家』と題した一小篇に記述した。雑誌三田文学の初て刊行せられた年の同誌に掲げんがため筆を秉《と》つたのであるから、これさへ早く既に十四五年を過ぎてゐる。 [#ここで字下げ終わり]  一方で、荷風はモーパッサンに小説を学んで、小説とは描写《ヽヽ》の芸術であると信じていました。従って、小説においては、鴎外の文章は屡々《しばしば》あまりにも抽象的思考の表現が多すぎると感じていたのでしょう。  荷風はもともと、フランスで身につけた古典主義《ヽヽヽヽ》的な厳格な美学の信奉者でしたから、|ジャンル《ヽヽヽヽ》というものに対する考え方が、極めて潔癖でした。だから鴎外のように、何をどう書いても小説になるというふうな自由な考え方にはなれず、そこで小説のためには、純粋に|小説風の文体《ヽヽヽヽヽヽ》を作り出すことになりました。  そして小説というジャンルは、市民的なものでありますから、その文体も一般の人が、肩が凝らずに自然に入って行けるように工夫してあります。  代表作の『つゆのあとさき』の一節。 [#ここから2字下げ]  清岡は振切つて去るわけにも行かず、勧められるがまゝ老婆の寐起《ねおき》してゐる下座敷に通り長火鉢の前に坐つた。座敷は二階と同じく六畳ばかり。壁も天井も煤《すす》けて、床板《ねだ》も抜けた処《ところ》さへあるらしいが、隅々まで綺麗《きれい》に片づいてゐて、障子や襖紙《ふすまがみ》の破れも残らず張つてあるなど、もし借手さへあればこゝも貸間にするのかとも思はれるくらゐである。床の間には一度も掛替へたことのないらしい摩利支天か何かの掛物がかけてあつて、澀紙色《しぶがみいろ》に古びた安|箪笥《だんす》の上には小さな仏壇が据ゑられ、長火鉢にはぴか/\に磨いた吉原五徳に鉄瓶《てつびん》がかゝつてゐる。かういふ道具から老婆の年齢も大方想像がつくであらう。 [#ここで字下げ終わり]  実に正確で明快な口語文であって、さすがは鴎外に学んだ散文であると敬服させられます。しかし、どこかに作者自身の生活感覚《ヽヽヽヽ》、あるいは趣味《ヽヽ》の幾分かを犠牲にして、わざと|下品ぶっている《ヽヽヽヽヽヽヽ》という感じは免れません。  荷風の文章感覚が、最も自然に現れているのは、その随筆《ヽヽ》です。代表作である『日和下駄』の冒頭。 [#ここから2字下げ]  人並はづれて丈《せい》が高い上にわたしはいつも日和下駄をはき蝙蝠傘《かうもりがさ》を持つて歩く。いかに好く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。此《これ》は年中湿気の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。変り易いは男心に秋の空、それにお上《かみ》の御政事《おせいじ》とばかり極《きま》つたものではない。春の花見頃|午前《ひるまへ》の晴天は午後《ひるすぎ》の二時三時頃からきまつて風にならねば夕方から雨になる。梅雨の中《うち》は申すに及ばず。土用に入《い》ればいついかなる時|驟雨沛然《しゆううはいぜん》として来らぬとも計りがたい。尤《もつと》もこの変り易い空模様思ひがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人が割《わり》なき契《ちぎり》を結ぶよすがとなり、又今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸ひそのまゝ人目をつつむ幌《ほろ》の中《うち》、しつぽり何処《どこ》ぞで濡れの場を演ずるもの亦《また》無きにしもあるまい。 [#ここで字下げ終わり]  こういう、いかにも東京人らしい、座談風の調子のある文体であります。  つまり、先に述べたように、鴎外の文章は日常の|話し言葉《ヽヽヽヽ》から独立して完成したものだとすれば、荷風はそれに東京方言の温かい血を導入することで、より柔軟性を与えた、と云えるでしょう。勿論、鴎外の|より《ヽヽ》貴族的な文体の方を尊いと思う人もあるでしょう。それはあくまで趣味《ヽヽ》の問題です。  鴎外ばりの『下谷叢話』においては、気張った感じの「わたくし」であった一人称の主語が、こうした随筆では「わたし」と、より自然でやわらかい感じになっていることに注意しましょう。  この一人称代名詞については、晩年の代表作である『来訪者』を、わざと史伝風の堅苦しい文体で書くことで、軽いユーモワを作品に漂わせようとした時、荷風はもう一度「わたくし」を採用しました。  永井荷風が激賞したことによって、一躍文壇に出て、やがて大正昭和を通じての、一世の巨匠として、世界的名声を博することになった谷崎潤一郎は、やはり小説家のなかの芸術派に属し、そして文体というものについて、深い見識を持っていたし、またそれについて度々論じもし、実験も重ねた作家です。  彼は『文章読本』という本を書き、そのなかで西洋の文章と日本の文章とを比較して、日本の文章の独特な美点について、読者の関心を要求しました。  又、一方「現代口語文の缺点《けつてん》について」という文章によって、今日一般に用いられている口語文についての、様々の不満を分析的に述べています。  谷崎は生粋の東京人であり、「キビキビした江戸弁」を愛し、それに比べて明治以後に発達した標準語にあきたりないものを感じていました。  そして、世間で最も普通に使われている——そして現に私がこの講座で問題としている——口語文を、その文尾の特徴から「のである口調」と名付け、それは「矢張他国から這入《はい》つて来たものに相違ないと思ふ」と述べ、薩長土肥《さつちようどひ》の田舎武士が、明治維新と共に東京へ持ちこんできたものだと、眉をひそめています。  しかし、それが「善いにも悪いにも、動かすことは出来なくなつてしまつて」いるわけだし、現に「紅葉漱石の如き江戸人ですら此《こ》の文体で立派な作品を遺してゐる以上」認めざるを得ない、としています。  それに現在の標準語は「地方的、乃至《ないし》は歴史的特色がないだけ万人向きのするものであるから、これを標準にすることに私は異存があるのではない」とも云っています。  しかし、彼は小説においては、その文体が「万人向き」のするもので満足することはできない、芸術的気質の作家でした。彼はそこで小説の文体のなかに、一方では西洋の新しい作家たちの文体実験、たとえばジョージ・ムーアとか、またジェイムズ・ジョイスとかの試みの、日本語への適用の可能性を探ってみたり、「伝統的な語法」「和文の云い廻し」の復活を研究してみたりします。  そうした成果の二三を、口語文の可能性の拡大の見本として、ここにお目にかけましょう。 『卍《まんじ》』の書き出し。 [#ここから2字下げ]  先生、わたし今日はすつかり聞いてもらふつもりで伺ひましたのんですけど、折角お仕事中のとこかまひませんですやろか? それは/\委《くは》しいに申し上げますと実に長いのんで、ほんまにわたし、せめてもう少し自由に筆動きましたら、自分でこの事何から何まで書き留めて、小説のやうな風にまとめて、先生に見てもらはうか思《おも》たりしましたのんですが、…… [#ここで字下げ終わり]  ここでは標準語に比べて、はるかに伝統的な云い廻しの残っている関西方言の|話し言葉《ヽヽヽヽ》をそのまま、文字に写してみることで、表現の領域の拡大を試みているわけです。そのルビのいちいちに至るまでの、作者の細かい心遣いを見て下さい。  こうした一地方の生活のなかの話し言葉、方言というものを文章にすることで、表現の領域を拡大し、また生活のいぶき、感情のニュアンスを、標準語以上に深めるという試みは、第二次大戦前後に文学者のあいだで盛んになり、たとえば太宰治《だざいおさむ》も津軽方言で書いてみたり、木下順二も各地方の方言を総合したような、人工的な言葉で民話劇を書いたりしました。又、より若い世代では、小田|実《まこと》が大阪方言の云い廻しを、大胆に散文のなかに取り入れることで、抽象的議論に肉感性をあたえようと努力しています。  そうした努力は、大いに評価すべきですが、一方でその方言にあまり深入りすると、他の地方の人の理解を拒絶するし、あまり中途半端だと、滑稽感や侮蔑《ぶべつ》感をひき起す、という矛盾があります。  いずれにせよ、『卍』における谷崎の試みは、土着的なものへの興味というより、東京を中心とした近代文明に対して、より伝統的な王朝以来の文明の言語感覚のある、大阪方言の文章化というところにありました。  この傾向を更に押しすすめて、彼は歴史的にその伝統の源泉へ、次第に遡《さかのぼ》って行きます。  その試みのひとつが『盲目物語』であって、そこで彼は室町時代の庶民の話し言葉の、その現代語訳のような文体を作りだします。 [#ここから2字下げ]  わたくし生国《しようごく》は近江《あふみ》のくに長浜在でござりまして、|たんじやう《誕生》は天文にじふ一ねん、みづのえねのとしでござりますから、当年は幾つになりまするやら。左様、左様、六十五さい、いえ、六さい、に相成りませうか。左様でござります、両眼をうしなひましたのは四つのときと申すことでござります。はじめは物のかたちなどほの/″\見えてをりまして、あふみの湖《うみ》の水の色が晴れた日などにひとみに明《あか》う映りましたのを今に覚えてをりますくらゐ。…… [#ここで字下げ終わり]  こうした嫋々《じようじよう》とした調子で、この室町期の聞書の写本のような文体は続いて行き、読者は忽《たちま》ちその文章の織りなす糸のなかへからみこまれたようになって、えも云えぬ芸術的感興に引き入れられ、そうして現在の雑駁《ざつぱく》な生活を忘れます。  とにかく現代の口語文を基礎として、このような文体の魔術を演じてみせてくれた谷崎は、正に途方もない奇術師と云えましょう。  こうした芸術的試みは、一般の人たちには直接に文章を書く上の手本とはなりませんが、文章を書く上での不可欠の文体感覚《ヽヽヽヽ》を養うには最良のものです。こういう「万人向き」でない特殊な芸術品を味読するのも、文章の修練となるものだ、ということを忘れないようにしましょう。  谷崎は更にこうした伝統的云い廻しのなかへ深く入りこんで行き、そうした我が国独特の古典的文体の根元ともいうべき『源氏物語』を、彼自身の言葉に置き直してみるという大業を完成します。  そうして、その現代訳の仕事を通して獲得した新しい文体によって、代表作となる『細雪《ささめゆき》』を書きはじめます。  この作品は、そこに描かれた現代の関西におけるブルジョワの家庭生活の情景が、戦意|昂揚《こうよう》に何の役にも立たないという理由で、戦争中の政府によって、野蕃《やばん》にも発表を禁じられたのですが、作者はそれにも屈することなく、遂に完成した偉容を、戦後に世に送り出すことになります。  その処女作以来、谷崎を支持してきた老荷風は、『細雪』に対して、早速、熱狂的な讃辞《さんじ》を呈しました。 「明治以来わが現代の小説中、その作風のかくの如く整然として客観的なるものは未《いま》だ曾《かつ》て見られなかつた」として、フローベールに「比するも遜色《そんしよく》なきもの」とまで激賞しました。  そして、私たちの研究課題である口語文の観点についても、荷風は次のような注目すべき意見を述べています。  それは『細雪』のある部分は「言文一致を以《もつ》てした描写の文の模範として、永遠に尊ばれべきものであ」り、「わたくしは鴎外先生の蘭軒伝《らんけんでん》の他に、其《その》趣を異にした言文一致体の妙文を得たことを喜ばなければならない」と云うのです。  つまり、荷風は谷崎の口語文のなかに、漢文体に近い鴎外とは「其趣を異にした」、「今日も猶《なほ》ゆるやかなる平安朝時代の気味合」を伝える和文的な文体の可能性を認めているのです。  その実例を挙げてみましょう。 [#ここから2字下げ]  ——雪子の左の眼の縁、——委しく云へば、上《うは》眼瞼《まぶた》の、眉毛の下のところに、とき/″\微《かす》かな翳《かげ》りのやうなものが現れたり引つ込んだりするやうになつたのは、つい最近のことなので、貞之助などもそれに気が付いたのは三月か半年ぐらゐ前のことでしかない。貞之助はその時幸子に、いつから雪子ちやんの顔にあんなものが出始めたのだと、そつと尋ねたのであるが、幸子が気が付いたのも此の頃で、前にはあんなものはありはしなかつた。此の頃でも、始終ある訳ではなくて、平素はさう思つて注意して見ても殆ど分らないくらゐ薄くなつてゐたり、完全に消えてしまつてゐたりして、ふつと、一週間ばかりの期間、濃く現れることがあるのであつた。幸子はやがて、その濃く現れる期間は月の病の前後であるらしいことに心づいた。そして、彼女は何よりも、雪子自身がそれをどう感じてゐるか、自分の顔のことであるから誰よりも先にその現象を発見してゐるに違ひないとして、それが何か知ら心理的影響を与へてゐなければよいが、と云ふことを恐れた。 [#ここで字下げ終わり]  このゆるやかな調子で、自ずと人物の心理と感情とのなかへ|忍びこんで《ヽヽヽヽヽ》行くやり方は、独特です。  又、 [#ここから2字下げ]  幸子はお彼岸の間ぢゆう臥《ね》たり起きたりして暮したが、或る日の朝、一遍に春らしくなつた空の色に惹《ひ》かれて、病室の縁側まで座布団を持ち出して日光浴をしてゐると、ふと、階下のテラスから芝生の方へ降りて行く雪子の姿を見つけた。彼女は直ぐ、雪子ちやん、——と、呼んでみようかと思つたけれども、悦子を学校へ送り出したあとの、静かな午前中の一時《ひとゝき》を庭で憩はうとしてゐるのだと察して、硝子《ガラス》戸越しに黙つて見てゐると、花壇の周りを一と廻りして、池の汀《みぎは》のライラックや小手毬《こでまり》の枝を検《しら》べてみたりしてから、そこへ駈けて来た鈴を抱き上げて、円く刈り込んである梔子《くちなし》の樹のところにしやがんだ。二階から見おろしてゐるので、猫に頬ずりをするたびに襟頸《えりくび》の俯向《うつむ》くのが見えるだけで、どんな顔つきをしてゐるものとも分らないのであるが、でも幸子には、今雪子のお腹《なか》の中にある思ひがどう云ふことであるのか、明かに読めるのであつた。 [#ここで字下げ終わり]  読者はこの短い引用のなかにも、芦屋の広い邸の庭の、春先の静かな午前の空気がありありと浮んでくるのを感じるでしょう。そしてそのなかにひとりの若い女が、池のほとりにしゃがみながら猫と戯れているのを、二階からじっと見下している、もうひとりの病人の女の視線が。……  ところで谷崎の近い後輩であった芥川龍之介は、夏目漱石に最も愛された弟子でしたが、文体のうえでは森鴎外の影響を徹底的に受けました。  そして、その詩人的素質とあい俟《ま》って、ほとんど散文詩のような、人工的な文章を、石に刻みつけるようにして、刻苦して作りあげたのです。  その一例、『或日の大石|内蔵助《くらのすけ》』の結尾。 [#ここから2字下げ]  それから何分かの後《のち》である。厠《かはや》へ行くのにかこつけて、座をはづして来た大石内蔵助は、独り縁側の柱によりかゝつて、寒梅の老木が、古庭《ふるには》の苔《こけ》と石との間に、|的※[#「白+樂」、unicode76aa]《てきれき》たる花をつけたのを眺めてゐた。日の色はもううすれ切つて、植込みの竹のかげからは、早くも黄昏《たそがれ》がひろがらうとするらしい。が、障子の中では、不相変《あひかはらず》面白さうな話声がつゞいてゐる。彼はそれを聞いてゐる中に、自《おのづか》らな一抹《いちまつ》の哀情が、徐《おもむろ》に彼をつゝんで来るのを意識した。このかすかな梅の匂につれて、冴《さえ》返る心の底へしみ透《とほ》つて来る寂しさは、この云ひやうのない寂しさは、一体どこから来るのであらう。——内蔵助は、青空に象嵌《ぞうがん》をしたやうな、堅く冷い花を仰ぎながら、何時《いつ》までもぢつと彳《たゝず》んでゐた。 [#ここで字下げ終わり]  こうした硬質の古典的な文体に対して、芥川と同様に芸術的な傾向の強かった佐藤春夫は、「芥川君は窮屈なチョッキを著《き》て居て」肩が凝りはしないかと揶揄《やゆ》し、そして、「ともかくも、芥川君があの楷書体《かいしよたい》の文体から脱却したところが見たいものだ」と提案して、「芥川君が単なる学者詩人として終始するとか、新時代の文人好みの境地で安住するならばいざしらず、さうでない限り、芥川君はもつと解放せられていい」(『秋風一夕話』)と切言しました。  それに対して、芥川は『文芸的な、余りに文芸的な』と題する随筆のなかで、「僕等の散文」という小見出しを立てて、そこでこう答えています。  佐藤春夫氏の説によれば、僕等の散文は口語文であるから、しやべるやうに書けと云ふことである。(中略)しかしこの言葉は或問題を、——「文章の口語化」と云ふ問題を含んでゐる。近代の散文は恐らくは「しやべるやうに」の道を踏んで来たのであらう。(中略)しかし僕等の「しやべりかた」が、紅毛人《こうもうじん》の「しやべりかた」は暫く問はず、鄰国《りんごく》たる支那人の「しやべりかた」よりも音楽的でないことも事実である。僕は「しやべるやうに書きたい」願ひも勿論持つてゐないものではない。が、同時に又一面には「書くやうにしやべりたい」とも思ふものである。  面白いことには、小説においては、あのように「窮屈なチョッキ」を着た文体を作りだした芥川は、こうした随筆では、自然と既に「しやべるやうに書く」ということを実践していることであります。  尤《もつと》も当の佐藤春夫は、また親友であった谷崎潤一郎とも異って、実に気軽な、屡々気まぐれな芸術的実験家であり、文体においても千変万化の試みを次つぎと行って、読者を驚かせました。そして、その成果のあるものは、今日でもなお、清新さを失わないものが少くありません。 「しやべるやうに書く」という方向でも、時には彼は極端な冗舌体を発明しました。  次に見るのは『妄談《もうだん》銀座』の書き出しであります。 [#ここから2字下げ]  東京市中のとだけで町の名前などは別に云ふ程の必要もないが、山の手のさる電車通からちよつと折れた至極閑静な坂道、日ごろから自動車の出入が禁ぜられてゐる町なのが、わけては松の内の、それも七日となつては、もう年賀の酔漢の影も絶えて山に沿うた片側は神社だの寺院だのといふひつそりかんとしたものつづきその向側はまたお邸とまでは行かないがささやかな冠木門《かぶきもん》に古風な竹垣やら生垣などのつづく落着いた構へばかり艶《つや》めいた女名前の表札などを見ては多分|妾宅《しようたく》ででもあらうかと合点されるやうな場所柄に家構へ、なかには多少は名の知られた学者の門札なども見えるといふ片側町を登りつめた左側に軒下には鳩舎《きゆうしや》などの見えるしやれた洋館、鳩舎や壁にからんだ薔薇《ばら》などは好もしいが、チト賛成しかねるのは些《いささ》かきどりを見せすぎてわざと燭光《しよつこう》を薄暗くしたばかりかそれが更に青い電球と来てゐるものだから折角月光のやうな閑寂な味は結構だが折にはちよつと物さびしい程な気のする光線の下に突立つてこの家の内部を見据ゑてゐるのは黒い二重ボタンの上衣に少し荒目な縞ズボンは紳士気取な様子だが、風呂敷を仮りに巻きつけたかと思へる襟巻といひ、写真で見るフランスの詩王ポオル・フオル好みの極くつばの広い低い山の角ばつた黒の帽子に外套《がいとう》を物臭げにズボンのポケットに突込んだままの手の胸に巻きつけて持つた形など、…… [#ここで字下げ終わり] という調子で、どこまで行ったら句点、※[#小さな○、unicode25e6]が来るのか見当もつかない有様です。これはもう冗舌体《ヽヽヽ》というより、一種の冗談《ヽヽ》とも云うべきですが、そこに充分以上に、作者の縦横の才気の感じられる文章です。  ところで芥川は先の「僕等の散文」という小文のなかで、明治以来の口語文のなかに詩人たちの与えた影響が少くないことを指摘しています。そして同時代の、そうした詩人として、北原白秋、木下|杢太郎《もくたろう》をはじめとして、佐藤春夫や室生犀星《むろうさいせい》の名もあげています。  ですから、次章は佐藤春夫を含めて、以上のような詩人たちの散文を見ていってみたいと思います。 [#改ページ] [#見出し]    口語文の改革 [#小見出し]      一  まず次に掲げる幾つかの断片を読んでみて下さい。 [#ここから2字下げ]  真夏の廃園は茂るがままであつた。  すべての樹は、土の中ふかく出来るだけ根を張つて、そこから土の力を汲《く》み上げ、葉を彼等の体中一面に着けて、太陽の光を思ふ存分に吸ひ込んで居るのであつた。——松は松として生き、桜は桜として、槙《まき》は槙として生きた。出来るだけ多く太陽の光を浴びて、己を大きくするために、彼等は枝を突き延した。互に各《おのおの》の意志を遂げて居る間に、各の枝は重り合ひ、ぶつつかり合ひ、絡み合ひ、犇《ひしめ》き合つた。自分達ばかりが、太陽の寵遇《ちようぐう》を得るためには、他の何物をも顧慮しては居られなかつた。さうして、日光を享《う》けることの出来なくなつた枝は日に日に細つて行つた。一本の小さな松は、杉の下で赤く枯れて居た。榊《さかき》の生垣は脊丈《せた》けが不揃《ふぞろ》ひになつて、その一列になつた頭の線が不恰好にうねつて居る。それは日のあたるところだけが生ひ茂り丈が延びて、諸《もろもろ》の大きな樹の下に覆はれて日蔭《ひかげ》になつた部分は、落凹《おちくぼ》んで了《しま》つたからであつた。又、それの或る部分は葉を生かすことが出来なくなつて、恰《あたか》も城壁の覗《のぞ》き窓《まど》ほどの穴が、ぽつかりと開いて居るところもあつた。或る部分は分厚に葉が重り合つてまるく団《かたま》つて繁つて居るところもあつた。或る箇所《かしよ》は全く中断されて居るのである。といふのは、丁度その生垣に沿うて植ゑられた大樹の松に覆ひ隠されて、そればかりか、垣根の真中から不意に生ひ出して来た野生の藤蔓《ふぢづる》が人間の拇指《おやゆび》よりももつと太い蔓になつて、生垣を突分け、その大樹の松の幹を、恰かも虜《とりこ》を捕へた綱のやうに、ぐるぐる巻きに巻きながら攀《よ》ぢ登つて、その見上げるばかりの梢《こずゑ》の梢まで登り尽して、それでまだ満足出来ないと見える——その巻蔓は、空の方へ、身を悶《もだ》えながらもの狂しい指のやうに、何もないものを捉《とら》へようとしてあせり立つて居るのであつた。(中略)これが彼等の生きようとする意志である。又、「夏」の万物に命ずる燃ゆるやうな姿である。かく繁りに茂つた枝と葉とを持つた雑多な草木は、庭全体として言へば、丁度、狂人の鉛色な額に垂れかかつた放埒《ほうらつ》な髪の毛を見るやうに陰鬱であつた。それ等の草木は或る不可見な重量をもつて、さほど広くない庭を上から圧し、その中央にある建物を周囲から遠巻きして押迫つて来るやうにも感じられた。  彼の机の上には、読みもしない、又、読めもしないやうな書物の頁が、時々彼の目の前に曝《さら》されてあつた。彼はその文字をただ無意味に拾つた。彼は、又、時々大きな辞書を持ち出した。それのなかから、成可《なるべ》く珍らしいやうな文字を捜し出すためであつた。言葉と言葉とが集団して一つの有機物になつて居る文章といふものを、彼の疲れた心身は読むことが出来なくなつて居たけれども、その代りには、一つ一つの言葉に就てはいろいろな空想を喚《よ》び起すことが出来た。それの霊を、所謂《いはゆる》言霊《ことだま》をありありと見るやうにさへ思ふこともあつた。その時、言葉といふものが彼には言ひ知れない不思議なものに思へた。それには深い神的な性質があることを感じた。それらの言葉の一つ一つはそれ自身で既に人間生活の一断片であつた。それらの言葉の集合はそれ自身で一つの世界ではないか。それらの言葉の一つ一つを、初めて発明し出したそれぞれの人たちのそれぞれの心持が、懐しくも不思議にそれのなかに残つて居るのではないか。永遠にさうして日常、すべての人たちに用ゐられるやうな新らしい言葉のただ一語をでも創造した時、その人はその言葉のなかで永遠に、普遍に生きてゐるのではないか。さうだ、さうだ、これをもつと明確に自覚しなけりやあ……。彼はそんなことを極くおぼろげに感じた。さうして或る一つの心持を、仲間の他の者にはつきりと伝へたいといふ人間の不可思議な、霊妙な慾望《よくぼう》と作用とに就ても、おぼろげに考へ及ぶのであつた。言葉に倦《あ》きた時には、彼はその辞書のなかにある細かな挿画《さしゑ》を見ることに依つて、未だ見たことも空想したこともない魚や、獣や、草や、木や、虫や、魚類や、或《あるい》は家庭的ないろいろの器具や、武器や、古代から罪人の処刑に用ゐられたさまざまな刑具や、船や、それの帆の張り方に就いての種々な工夫や、建築の部分などに就いて知ることを喜んだ。それらの器物などの些細《ささい》な形や、動物や植物などのなかにはさまざまな暗示があつた。就中《なかんづく》、人間自身が工夫したさまざまなもののなかには言葉の言霊のなかにあるものと全く同じやうに、人類の思想や、生活や、空想などが充ち満ちて居るのを感じた——それは極く断片的にではあつたけれども。さうして、彼の心の生活はその時ちやうどそれらの断片を考へるに相応しただけの力しか無いのであつた。  幻聴は、幻影をも連れて来た。或は幻聴の前触れが無しにひとりでも来た。  それの一つは極く微細な、併《しか》し極く明瞭な市街である。それの一部分である。ミニアチュアの大きさと細かさとで、仰臥《ぎようが》して居る彼の目の前へ、ちやうど鼻の上あたりへ、そのミニアチュアの街が築かれて、ありありと浮び出るのであつた。それは現実には無いやうな立派な街なので、けれども、彼はそれを未だ見たことはないけれども、東京の何処《どこ》かにこれと全く同じ場所がきつとありさうに想像され、信じられた。それは灯のある夜景であつた。五層楼位の洋館の高さが、僅に五分とは無いであらう。それで居て、その家にも、それよりももつと小さい——それの半分も三分の一の高さもない小さな家にも、皆それぞれに、入口も、灯のきらびやかに洩れて来る窓もあつた。家は大抵真白であつた。その窓掛けの青い色までが、人間の物尺《ものさし》にはもとより、普通の人の想像そのもののなかにも|ちよつと《ヽヽヽヽ》はありさうもないほどの細かさで、而《しか》も実に明確に、彼の目の前に建て列《つら》ねられた。いやいや、未だそればかりではない。それらの家屋の塔の上の避雷針の傍《そば》に星が一つ、唯一つ、きつぱりと黒|天鵞絨《ビロード》のなかの銀糸の点のやうに、鮮かに煌《かがや》いて居る……。不思議なことには、立派な街の夜でありながら、どんな種類にもせよ車は勿論《もちろん》、人通り一人もない…… [#ここで字下げ終わり]  こうやって写していると切りがないので、残念ながらこの辺で、無理にやめておきます。これだけでも、この「講座」の常識に外れるほどの長さの引用となったのですから。  しかし、「常識に外れるほど」の成果をあげているのは、実はこれらの断片そのものの方なのです。  ここには従来の近代の口語文には見られなかった、全く新しい発想法と語法とが現れており、それがこの「講座」をここまで忠実に読んでこられた読者を、目まいのような感覚的な驚きのなかに誘いこんだに相違ありません。  しかも、これらの断片は、ひとりの作者のひとつの小説《ヽヽ》の一部分なのです。この『田園の憂鬱』という作品は、それまでの日本人の知らなかった、新しい小説の|肌合い《ヽヽヽ》、描写の質《ヽ》というものを、近代の口語文によって実現させてみせてくれたのです。  この文体は、いわゆる詩的散文《ヽヽヽヽ》というべきものですが、従来のそうしたものの不可避的に持っていた、砂糖の洪水のような感傷性からは全く免れています。その散文を支配しているのは、鋭い近代的な知性であり、とかく情緒に流されがちの日本語が、ここでは理智の力によって、精密に組みたてられています。  ここにある作者の観察眼は、どの冷厳な写実主義者にも劣らず、対象に透徹した光りを投げかけており、その観察の結果の表現は、どのようなマンネリズム——型になった精神——をも免れて警抜であり、そして神秘の領域にまで接しているのです。  このような知的冒険による口語文の改革が、今世紀の一〇年代の末に、二十代の半ばの一青年によって実行された、というのは驚くべきことです。  しかし、この若き佐藤春夫の改革は、その後の半世紀のあいだの日本の散文のなかに、充分に浸透して行ったとは云えないのです。  従って、この改革は、今日でもなお、孤立した天才の仕事として、文体の歴史のなかに、半ば眠りつづけているのです。  ですから、敢て私は、皆さんに向って、法外な量の引用をお目に掛けたわけです。  当時の一般の夢みがちな青年たちは、寧《むし》ろ、もっと派手で甘口な、身振りも大きい北原白秋の散文に目を見張っていました。  この豊富なイメージの魔術家は、詩人として最も多くの若者の心を捉えていたのでしたが、その詩的手法をそのまま散文《ヽヽ》に適用して書いた文章が、また大成功を収めました。  ここにお見せするのは、その代表的なもののひとつ、「わが生ひたち」(抒情《じよじよう》小曲集『思ひ出』の序)の冒頭の一節です。 [#ここから2字下げ]  時は過ぎた。さうして温かい苅麦《かりむぎ》のほめきに、赤い首の螢《ほたる》に、或は青いとんぼの眼に、黒猫の美くしい毛色に、謂《いは》れなき不可思議の愛着を寄せた私の幼年時代も何時《いつ》の間にか慕はしい「思ひ出」の哀歓となつてゆく。  捉へがたい感覚の記憶は今日もなほ私の心を苛《いら》だたしめ、恐れしめ、歎《なげ》かしめ、苦しませる。この小さな抒情小曲集に歌はれた私の十五歳以前の| Life 《ライフ》はいかにも幼稚な柔順《おとな》しい、然し飾気のない、時としては淫婦の手を恐るゝ赤い石竹の花のやうに無智であつた。さうして驚き易い私の皮膚と霊《たましひ》とはつねに螽斯《きりぎりす》の薄い四肢のやうに新しい発見の前に喜び顫《ふる》へた。兎に角私は感じた。さうして生れたまゝの水々しい五官の感触が私にある「神秘」を伝へ、ある「懐疑」の萌芽《ほうが》を微《かす》かながらも泡立《あわだ》たせたことは事実である。さうしてまだ知らぬ人生の「秘密」を知らうとする幼年の本能は常に銀箔《ぎんぱく》の光を放つ水面にかのついついと跳ねてゆく水すましの番《つが》ひにも震慄《わなな》いたのである。 [#ここで字下げ終わり]  白秋はそれ自身、一篇の詩であるようなこうした内容ばかりでなく、たとえば評論のような文章にも、平然と同様な文体を採用してみせました。  次は詩的盟友木下杢太郎の肖像の一部です。 [#ここから2字下げ]  彼の服装はかくのごとく黒く、而も亦訥朴《またとつぼく》ではあつたが、彼の脳漿《のうしよう》は全く三角稜《さんかくりよう》の多彩、彼自ら謂《い》ふ所の万華鏡の複雑光で変幻極りなかつた。声色香味触、是等《これら》悦喜す可《べ》き官感の種種相に於《おい》て、彼は全く、初めて碧眼《へきがん》紅毛の邪宗僧を迎へた長崎青年のそれらの如く、時としてはまた初めて此《こ》の浮世絵の日本に面接した西域人のそれらの如く、事毎に驚異し、瞠目《どうもく》し、仰視し、鑑賞し、遂には彼自らをその恍惚無礙《こうこつむげ》の極楽世界に魔睡せむとさへ欲するに到つた。  然し乍《なが》ら、茲《こゝ》に考ふべきは彼は此《か》く魔睡し陶酔せむと欲したにかゝはらず、彼は彼自身を遂にはその沈湎《ちんめん》の底に見出《みいだ》さねばならなかつたほどの其《そ》の官感の幻法から、不思議にも自ら惑乱せられない聡明と理義との保持者であつた。彼はこれら鴆毒《ちんどく》の耽美者《たんびしや》発見者ではあつたが、彼自らを決してその鴆毒の為《た》めに殺す癡愚《ちぐ》と溺没《できぼつ》とを敢て為《し》なかつた。おお、此の七彩陸離たる不可思議国の風光の中に在つて、常に黙々として手に太き洋杖《ステツキ》を握りつつ徘徊《はいかい》する長身黒服の異相者、彼木下杢太郎の渋面を見よ。 [#ここで字下げ終わり]  その木下杢太郎自身、やはり極めて詩的な手法の散文を、当時は弄《ろう》していました。  今の白秋の文を序として載せた杢太郎の詩集『食後の唄』は、次のような散文の自序によって始まっています。 [#ここから2字下げ]  今予は此《この》小冊子を刊行しようとして、心に慚《は》ぢて躊躇《ちゆうちよ》する。予がわかき日の酔はもう全く醒《さ》めてしまつて、その時の歌には、唯空虚な騒擾《そうじよう》の迹《あと》と、放逸な饒舌《じようぜつ》の響とが残つてゐるのみであるのを知るからである。その歓喜もその悲愁も、殆どただ心の外膜に洶《わ》き現はれ、波紋を画き、響を立て、乱れ、またちりぢりに散り失せたる、気まぐれな情緒に過ぎないし、その格調にしても——さう云ふ内容を、その時の場あたりの調子と言葉とで写したものゆゑに——今から顧みて顔を顰《しか》めるほどの鄙《いやし》さがある。  ああ、ああ、過去と云ふものの、外看上豊饒であつた蓄積は一体どこに消えて行つてしまつたのか。幕が締まる。音楽が止《や》む。——そして今までの緊張とは裏はらに、頓《とん》と馬鹿らしいと云つたやうな、軽い腹立しさが心に残る。過去は畢竟《ひつきよう》幕の締まつた舞台だ。あんまり弄《いぢく》らないで、無くなるものなら無くならしてしまふが可《よ》い。  と云つたわけで、此原稿も、ちやんと整理してから、三四年も打つちやつて置いた。夫《それ》でもまだ整理に着手した当座には、九月末の雑草の花めく、それらの一つ一つに、愛執の心の繋《つな》がつて居ないのでもなかつた。別れて一年とはならぬ人の記憶ほどに。 [#ここで字下げ終わり]  こうした口語文による詩的散文というものは、その後も広く試みられつづけて行きます。たとえば現代の詩人、吉田|一穂《いつすい》も『詩人の肖像』と題する北原白秋論を、こうした調子で書き出しています。 [#ここから2字下げ]  浪曼主義の詩王・北原白秋という、この大なる対象を前にして、突如、私の思いをさえぎったのは、横山大観の「天心像」であった。東洋的理想の日本の目覚めを告げた見者のおもかげ、その典型的な性格を一枚の画像とする多年の構想と、美術院の総帥として近代日本画確立の先覚の使命を自負した、心理的|葛藤《かつとう》はおもうだにいたましい。大観と白秋の類比は唐突だが、日本精神の骨格を分母とする強意は共通である。ともに近代派の巨匠であり、鋭い鷹《たか》の目の大観、地蔵眉の白秋慈顔、絵と詩の違いはあっても、その宰相癖すら似通うものがある。天馬の自在を嘆ぜられ、富士の秀麗と讃《たた》えられ、黄金の楊子《ようじ》を啣《くわ》えて生れてきたという白秋こそ、まさに詩の円光を負うにふさわしい人である。私はまずその光背をレントゲン線に代えて、日本語族としての白秋の骨格の透影を解読することから始めよう。詩は深層|混沌《こんとん》の点火を原理とする内部発光であり、精神の浄火でさえあるのだから。 [#ここで字下げ終わり]  白秋の弟子で、日本の口語文によって、はじめて詩句《ヽヽ》を作ることに成功したと評されている萩原|朔太郎《さくたろう》は、その散文《ヽヽ》においても、佐藤春夫風の小説家的描写とも、北原白秋的なイメージの華麗な放蕩《ほうとう》とも異った、別種の美しい境地を開拓しました。  その例。—— 『定本青猫』の挿絵《さしえ》版画に附した文章。 [#ここから2字下げ]     停車場之図  無限に遠くまで続いてゐる、この長い長い柵《さく》の寂しさ。人気のない構内では、貨車が静かに眠つて居るし、屋根を越えて空の向うに、遠いパノラマの郷愁がひろがつて居る。これこそ詩人の出発する、最初の悲しい停車場である。     ホテル之図  ホテルの屋根の上に旗が立つてる。何といふ寂しげな、物思ひに沈んだ旗だらう。鋪道《ほどう》に歩いてる人も馬車も、静かな郷愁に耽《ふけ》りながら、無限の「時」の中を徘徊《はいかい》してゐる。そして家々の窓からは、閑雅なオルゴールの音が聞えてくる。この街の道の尽きるところに、港の海岸通があるのだらう。すべての出発した詩人たちは、重たい旅行|鞄《かばん》を手にさげながら、今も尚《なほ》このホテルの五階に旅泊して居る。     時計台之図  永遠の孤独の中に悲しみながら、冬の日の長い時をうつてる時計台——。避雷針は空に向つて泣いて居るし、街路樹は針のやうに霜枯れて寂しがつてる。見れば大時計の古ぼけた指盤の向うで、冬のさびしい海景が泣きわびて居るではないか。 [#ここで字下げ終わり]  これらの散文は押花の匂いのするような、古風で可憐《かれん》な味があり、そして、いつまでも時代思潮と関係なく新鮮です。  その次に朔太郎は更に不思議な散文集を発表しました。それが『新しき欲情』で、それは作者がその時々にメモした断片を、かき集めて一冊の本に仕立てたものです。  しかも、それらの断片は、あるものは|考える《ヽヽヽ》文章であり、あるものは|感じる《ヽヽヽ》文章であり、あるものは|怒る《ヽヽ》文章であり、あるものは|歌う《ヽヽ》文章だという、散文の見本帖《みほんちよう》のような有様を呈しています。  そして、それらのどの文章にも一貫しているのは、詩人の精神の構造の現れです。従ってこの書物は、純粋に文体《ヽヽ》という観点からみても、多大の興味を催します。  それらの断片の幾つか—— [#ここから2字下げ] 肉体の寂寥《せきりよう》[#「肉体の寂寥」はゴシック体]  遠く沖の方から押しよせて来たリズムの浪が、しだいに高く盛りあがつて、今正に砕けようとする。その瞬間に於ての音楽ほど、それほど不可思議な情緒の陶酔を感じさせるものはない。げにこの瞬間に於ての神秘な情感には、霊魂の溶けてゆくやうな深い悦びと、肉体のさびしくやるせない、何物かの実体に触れることのできないやうな嘆息とがある。ふしぎな霊魂の驕楽《きようらく》から置いてきぼりを喰はされた、肉体の孤独な寂寥が感じられる。 松並木の街道にて[#「松並木の街道にて」はゴシック体]  ああ昔の日本の武士たちが、いつもそんなに幸福であつたことよ。彼等が仇討《あだう》ちの旅上に於て、あの古い松並木の街道を通つた時、彼の「大謀ある身の上」にまで、それらの風にそよぐ稲田や、田圃道《たんぼみち》や、寂しい路傍の辻堂《つじどう》や、はては田に鳴く蛙の声までが、どんなに|身に沁みて《ヽヽヽヽヽ》情趣深く眺められたことであらうぞ。げに彼等にまで、復讐《ふくしゆう》は一つの望ましき「酔ひ」であり、自然や生活やに風趣をそへる、とりわけ優雅な趣味でさへもあつた。 宗教の病鬱的|妄想《もうそう》[#「宗教の病鬱的妄想」はゴシック体]  西洋中世紀の宗教画の、殆んどすべてに見るところのあの怪奇で陰鬱な気味の悪さは、それ自ら当時の耶蘇《やそ》教の病鬱的妄想——不自然な禁慾や、神経病的な良心や、神罰に対する暗い恐怖や、すべてに於て陰鬱な僧院生活に幽閉された精神の病鬱的妄想——を象徴してゐる。それは我らにまで、あの東洋流の奇異な怪物を聯想《れんそう》させる仏教の偶像と同じく、何ら悦ばしき、有りがたき、帰依の対象とはならないで、むしろ宗教の壁に映るあの薄暗い厭《い》やな影——無智の神経をおびやかす迷信的罪悪観——に対する根本の嫌厭《けんえん》を感じさせる。 極光地方から[#「極光地方から」はゴシック体]  海豹《あざらし》のやうに、極光の見える氷の上で、ぼんやりと「自分を忘れて」坐つてゐたい。そこに時劫《じごう》がすぎ去つて行く。昼夜のない極光地方の、いつも暮れ方のやうな光線が、鈍く悲しげに幽滅するところ。ああその遠い北極圏の氷の上でぼんやりと海豹のやうに坐つて居たい。永遠に、永遠に、自分を忘れて、思惟のほの暗い海に浮ぶ、一つの侘《わび》しい幻象を眺めて居たいのです。 怠惰への弁明[#「怠惰への弁明」はゴシック体]  蚯蚓《みみず》は絶えず土壌を食つてゐる。彼の生活は勤勉である。けれども鰐魚《わに》は稀《ま》れにしか餌食《ゑじき》を捕へない。多くの長い日の間、彼は怠惰に眠つてゐる。この二種の動物は、食滋上の栄養を別にするからである。 [#ここで字下げ終わり]  朔太郎はこうした特殊な詩的散文を以《も》って、日本の古典詩歌の註釈《ちゆうしやく》に当るようになって行きました。それは在来の国文学者の文章とは全く異っていて、その古典が今、目のまえに生れたばかりのように感じさせる新鮮な効果がありました。  そうした実例をひとつだけお目にかけましょう。 [#ここから2字下げ]   凧《いかのぼり》きのふの空の有りどころ  北風の吹く冬の空に、凧が一つ揚がつて居る。その同じ冬の空に、昨日もまた凧が揚がつて居た。蕭条《しようじよう》とした冬の季節。凍つた鈍い日ざしの中を、悲しく叫んで吹きまく風。硝子《ガラス》のやうに冷たい青空。その青空の上に浮んで昨日も今日も、さびしい一つの凧が揚がつて居る。飄々《ひようひよう》として唸《うな》りながら、無限に高く、穹窿《きゆうりゆう》の上で悲しみながら、いつも一つの遠い追憶が漂つて居る!  この句の持つ詩情の中には、蕪村の最も蕪村らしい郷愁とロマネスクが現はれて居る。「きのふの空の有りどころ」といふ言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれて居ることに注意せよ。「きのふの空」は既に「けふの空」ではない。しかもそのちがつた空に、いつも一つの同じ凧が揚がつて居る。即《すなは》ち言へば、常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在して居るのである。かうした見方からして、この句は蕪村俳句のモチーフを表出した哲学的標句として、芭蕉の有名な「古池や」と対立すべきものであらう。尚「きのふの空の有りどころ」といふ如き語法が、全く近代西洋の詩と共通するシンボリズムの技巧であつて、過去の日本文学に例のない異色のものであることに注意せよ。蕪村の不思議は、外国と交通のない江戸時代の日本に生れて、今日の詩人と同じやうな欧風抒情詩の手法を持つて居たといふことにある。(『郷愁の詩人与謝蕪村』) [#ここで字下げ終わり] [#小見出し]      二  今世紀のはじめ第一次世界大戦が終ると同時に、西洋を中心とした世界は、突然に革命的変動期に入りました。  これは政治経済の領域だけでなく、芸術の分野にも伝統的な古い形式を破壊し、新しい表現を確立しようという運動となって、各国に爆発的に現れました。そしてそうした新しい運動を推進したのは、それまで全く無名の青年たちでした。  ダダ、超現実主義、表現主義、未来派、キュービズム、その他、無数の運動が一時に起り、芸術の空に真赤な炎のように、一時期燃えさかったのを、幼少の頃、記憶している、中年の読者もあると思います。  そうしてこれらの芸術運動は、近代の文明の歴史のなかで、世界最初の社会主義国家であるソ聯邦《れんぽう》の成立と、同じくらい重要な意味を持っているのです。それはその運動以後の私たちの感覚《ヽヽ》と知性《ヽヽ》とを、それ以前の十九世紀のものから、すっかり作り変えてしまいました。  しかも、明治維新以後、いつも何十年か遅れて西洋に追いつこうとしていた日本の文化活動は、第一次大戦を境にして、突然に、西洋に|追いついた《ヽヽヽヽヽ》のです。  この伝統への反逆と破壊との運動において、日本は遂に先進国と同時性《ヽヽヽ》を獲得したのです。  ところで、この文化や芸術の伝統を転倒させるような反逆運動が、私たちの問題としている文章《ヽヽ》に対して、どのような影響を及ぼしたかと云いますと、西洋諸国でも全く旧来の古典的文体を無視した、破壊的な文体で物を書く作家たちが輩出して、文学界を一時、覆ってしまいました。  そして日本の新しい作家たちも、「新感覚派」と名付けられた一群の人たちを中心に、日本語の文体の大胆な改革に、一斉に取りかかったのです。  もちろん、日本は常に西洋の影響を強く受けるので、この新感覚派の作家たちの仕事も、ヨーロッパの新しい作家たちの表現に学んだのです。実際、当時は西洋の新しい傾向の文章は、無制限に無選択に次つぎと翻訳され、紹介されました。  そこで作家たちは、その日本訳のなかから、自分の文体の可能性を見付けて行ったわけです。  丁度、明治のはじめに二葉亭四迷の翻訳のなかに、新しい日本語の可能性を発見した先輩作家たちのように。  そうして、若い読者もまた、それらの日本訳《ヽヽヽ》と、はじめから日本語で書かれた新しい試みとを、一緒くたにして読み味って、日本語の表現に新しい時代が来たのだと、感じていたわけです。  そうした西洋の新作家で、当時の日本の若い文学者たちに強い影響を与えた人のなかで、特に持てはやされ、そして日本の「新感覚派」の文章の手本であるとまで云われたのが、フランスのポール・モランの『夜ひらく』という、短篇集です。  そして、この短篇集は一篇ずつ、異る国を舞台にしていて、そうした国際主義もまた、この新しい世界的運動の特徴だったのです。  多分、モランのこの短篇集が、日本の文学青年たちに衝撃を与えたのは、訳者の堀口大学が、原作者の突飛な表現を、巧妙に日本語に置きかえてみせたからでしょう。大部分の当時の翻訳は、未熟すぎて日本語の改革には、そのまま役立たないものが多かったのですから。  さて、そのモランの文体の、堀口訳による二三の実例。 [#ここから2字下げ]  一人の女客《をんなきやく》と一緒に僕は旅立つのだ。すでに彼女の半身が車室の中を飾つてゐた。車窓のそとへ乗り出した彼女の上の半身は、今ではまだ、ローザンヌ停車場のもので、そこのプラットフォームに共通の一つの黒い影によつて結びつけられて立つ、めいめいの上着の釦《ぼたん》穴に、目印にさした同じ形の野いばらの花をサンボールに、かたく結束した、いろいろの人種の人たちから成る、代表者の一群に属してゐる。電鈴《ベル》がわなないた。アスファルトの上を旅客たちが流れた。すかし彫りをした幹の頂上にシグナルが支へてゐた真紅《まつか》な果物を、時間表が一度にふり落した。けたたましい呼子の笛のひびきが、車室の中へ入つて来た。おろした硝子《ガラス》戸の上を越えて、僕の同室の婦人客はしきりに握手を交した。雀斑《そばかす》だらけのイギリス人の手、ドイツ人の分厚な肉つきの手、一人のロシア人の犢皮《こうしがは》のやうになめらかな手、一人の日本人の細長い指。最後に一人の若いスペイン人が——(中略)  すると群衆が二つに割れた、さうしてその割れ目から一つの紫いろの星がふくらみ出した、それに続いて底力のない爆音が聞え煙が立つた。分秒の猶予もなくこの煙の中で、フィルムがあわただしく自分の義務を回転させた。  汽車が、一つづつ、握手の結び目を切りはなした。これが、汽車を今まで、プラットフォームに繋《つな》いでゐた、纜《ともづな》なのである。汽車はやうやく身軽になつて、翔《と》ぶやうに走り出した。  汽車がトンネルを出てしまつてからも、僕の幸福には何の変りもなかつた。急に激しい睡気《ねむけ》に襲はれたやうな風をして、僕は眠つてゐると見せかけて、この同室の女客の姿かたちを読んだ、地図を読むやうにして、行く行く道を誤ることのないやうにと思つて。これは正に、靴と帽子の国境の間に在つて、実に変化の多い、人心を魅惑する一国だ。時々、こんな美人もあるのだと思ふと、明けても暮れても、冷淡な顔、熱情的な顔、指紋の花の形のやうに、てんでに、別々な人達の人相書を書きつづける、旅券係の仕事も、ちと羨《うらや》ましくなる程だ。  この顔にあつては、すべてが真面目で中庸を得てをり、円味を帯びてゐる。笑靨《ゑくぼ》の穴のあいた頬、それまでが二つの円だ。厚い脣《くちびる》と額、多少高めについた頬骨が、正面をいささかはづれた四分の三くらゐの横顔にして眺めると、見る人の視線が、彼女の眼瞼《まぶた》に届くのを中途にひきとめて、抵抗《さから》ふすべもなくこれを斜《はす》に断ち切つて、さては芝居がかりに、大ぎやうな彼女の盗み見を見せてくれるのだ。それは、ただもう、人を恍惚《こうこつ》たらしめるだけで、何も盗まぬ盗み見だ。胸は、ゆるやかな坂をなして、太い首の方へと登つてゐた。首にはおきまりの人造真珠の首環《くびわ》がかざつてあり、重さうなしかも若々しい頤《あご》が、蔭《かげ》を落してゐる。人差指の上には、小粒なダイヤに取りまかれた、青玉が輝いてゐる。短い両方の太腿《ふともも》の間に、薄絹のローブが一つの窪《くぼ》みを描いてゐる。 [#ここで字下げ終わり]  これは明らかに前代の、客観的観察による描写と云うものとは異った、特殊に主観的な表現です。  そうして、そのような特異に主観的な表現を、日本の新進作家たちも、その頃、一斉に競い合っていたのです。 [#ここから2字下げ] 十一谷義三郎《じゆういちやぎさぶろう》(『唐人お吉』)  さうして、そんな、美景と明るい空とに囲まれて、八百軒ばかりの家が長方形に蹲《うずく》まり、持前のピクチャレスクな生活を、呼吸してゐるが——それが、どの家もみんな、この戸外《そと》の朗かさに無関心で、むしろ白眼視すると云つた風な、或《あるい》は変に慄《ふる》えた相貌《そうぼう》を呈してゐる。まるで、かぶと虫みたいな、脊《せ》の低い土蔵造り、もしくは、苔《こけ》や魚鱗《ぎよりん》に萎《しな》びた草家ばかりで、あの破瓜師《はかし》も、涙売りも、後家の内職の達磨宿《だるまやど》も、料亭も、船宿も、そのほか、農工商いつさいの生活が、この二いろの、先祖累代の「墓」で営まれ、太陽《ひ》や風や月が、身軽に沁《し》み透《とほ》るやうな、すつきりとした家は、一世紀に一度も来ぬ海嘯《つなみ》のあとの、仮小屋にしか見ることが出来ない。それさへぢきにまた、執拗《しつよう》に、石と土に鎧《よろ》はれ、もしくは厚ぼつたい藁屑《わらくづ》に蔽《おほ》はれて、その子へ、またその子へ…… 稲垣|足穂《たるほ》(『一千一秒物語』)  昨夜メトロポリタンの前で電車からとび下りたはずみに 自分を落してしまつた  ムービィのビラのまへでタバコに火をつけたのも——かどを曲つてきた電車にとび乗つたのも——窓からキラ/\した灯と群衆とを見たのも——むかひ側に腰かけてゐたレディの香水の匂ひも みんなハッキリ頭に残つてゐるのだが  電車を飛び下りてから気がつくと 自分がゐなくなつてゐた 川端康成(『春景色』)  咲き満ちた花が六つ——指先きでくるくる廻した。廻すのを止《や》めると、梅の雄蘂《をしべ》が彼を驚かせた。梅の花の雄蘂を見るのは生れて初めてだつた。  彼等は一本一本が白金の弓のやうに身を反つてゐた。小さい花粉の頭を、雌蘂に向つて振り上げてゐた。  彼は花をかざして青空を見た。雄蘂の弓が新月のやうに、青空へ矢を放つた。 中河与一(『氷る舞踏場』)  輝くホールの板の上を踵《かかと》が辷《すべ》つた。爪先《つまさ》きと爪先きとがうなづきあつた。未熟な踊り手はスカートを男のズボンにからまして二人で倒れさうになつた。  腋《わき》の下から手が覗《のぞ》いて相手の筋肉の中へ割り込んでゐる。輝く白い肩と肩とが摩《す》れさうになつては巧みに離れて行く。足が出る、みんなが廻る、飴《あめ》色の腋毛だ。微笑に汗ばんだ花。渦巻きの連続だ。  白い男の襟飾《えりかざり》に頬があたつた。伴奏が彼等の心と身体を軽快にした。相手の顔を盗んで秋波が絶えず流れてゐる。  時々奏楽は変化を求めて、この享楽者達の心の準備に適当な変りかたを示した。彼等は入り交つて自分の愛する相手を、喜ばしい興奮で探しあつた。男と女との匂ひにみちた乱雑な潮流——囁《ささや》きが初まつた。或る者は列を離れ、列に加つた。バンドが一層盛んに狂燥《きようそう》した。 片岡鉄兵(『色情文化』)  峠の山は、渓《たに》まの峠路に平行した山の脊を青い空の下にゆるやかな曲線で波打たせて居た。忽《たちま》ち、私は瞠目《どうもく》した。柔かな草を敷くその山の脊を、一隊の小学生が蟻《あり》のやうに連つて、駈足で行つて居る! 彼らは、渓まを行く彼らの恋人を追つて、彼らの幽霊を追つて、山の脊の近路を急いで居るのだ。蜒々《えんえん》としてつゞく山の脊を、蜒々とつゞく小学生の列が、限りなき幻影を追うて、限りなく青い空の彼方《かなた》へ溌溂《はつらつ》と動いて行くのであつた。 池谷《いけたに》信三郎(『橋』)  人と別れた瞳《ひとみ》のやうに、水を含んだ灰色の空を、大きく環を描き乍《なが》ら、伝書鳩の群が新聞社の上空を散歩してゐた。煙が低く空を這《は》つて、生活の流れの上に溶けてゐた。  黄昏《たそがれ》が街の燈火に光りを添へ乍ら、露路の末迄浸《すゑまでし》みて行つた。  雪解けの日の夕暮。——都会は靄《もや》の底に沈み、高い建物の輪廓《りんかく》が空の中に消えた頃、上層の窓にともされた灯が、霧の夜の燈台のやうに瞬いてゐた。 [#ここで字下げ終わり]  こうした運動のなかで、旧来の文章に対して、最も意識的に、また持続的に反逆的な試みを続けたのが、横光利一です。彼はそうした自分の文体的冒険を「国語との血戦」と名付けています。  それは処女作から始まります。次に掲げるのは、『日輪』からの引用ですが、明治維新以来半世紀かかって作られた日本語の常識が、ここでは悉《ことごと》く無視されているのが判ります。  そして、この文体の手本となったのは、生田|長江《ちようこう》の『サランボー』(フローベール作)の翻訳だったのです。 [#ここから2字下げ]  太陽は入江の水平線へ朱の一点となつて没していつた。不弥《うみ》の宮《みや》の高殿《たかどの》では、垂木《たるき》の木舞《こまひ》に吊《つ》り下げられた鳥籠の中で、樫鳥《かけす》が習ひ覚えた卑弥呼《ひみこ》の名を一声呼んで眠りに落ちた。磯からは、満潮のさざめき寄せる波の音が刻々に高まりながら、浜藻《はまも》の匂ひを籠《こ》めた微風に送られて響いて来た。卑弥呼は薄桃色の染衣《しめごろも》に身を包んで軈《やが》て彼女の良人《をつと》となるべき卑狗《ひこ》の大兄《おほえ》と向ひ合ひながら、鹿の毛皮の上で管玉《くだたま》と勾玉《まがたま》とを選り分けてゐた。卑狗の大兄は、砂浜に輝き始めた漁夫の松明《たいまつ》の明りを振り向いて眺めてゐた。 [#ここで字下げ終わり]  この小説のなかでは、男女の会話も、次のように性別のないままに進展します。そうした男女の言葉のあいだに性別のないというのも、伝統的な日本語には全くなかったことであり、その上、ここでは|話し言葉《ヽヽヽヽ》が全く|書き言葉《ヽヽヽヽ》に変貌しています。 [#ここから2字下げ] 「見よ、大兄、爾《なんぢ》の勾玉は亥猪《ゐのこ》の爪のやうに穢《けが》れてゐる。」  と卑弥呼は云つて、大兄の勾玉を彼の方へ差し示した。 「やめよ、爾の管玉は病める蠶《かひこ》のやうに曇つてゐる。」  卑弥呼のめでたきまでに玲瓏《れいろう》とした顔は、暫《しばら》く大兄を睥《にら》んで黙つてゐた。 「大兄、以後我は玉の代りに真砂《まさご》を爾に見せるであらう。」 「爾の玉は爾の小指のやうに穢れてゐる。」と、大兄は云ふと、その皮肉な微笑を浮べた顔を、再び砂浜の松明の方へ振り向けた。「見よ、松明は輝き出した。」 「此処《ここ》を去れ、此処は爾のごとき男の入る可《べ》き処《ところ》ではない。」 「我は帰るであらう。我は爾の管玉を奪へば爾を置いて帰るであらう。」 [#ここで字下げ終わり]  当時、横光の最も典型的な「新感覚派」的な文章として、評判になったのは、『頭ならびに腹』という、表題からして従来の日本語の常識を無視した作品の書き出しでした。 [#ここから2字下げ]  真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳《か》けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。 [#ここで字下げ終わり]  明治以来、半世紀以上にもわたって、新しい口語文を洗煉させてきた専門家たち、つまり旧文壇の作家たちは、こうした横光の文章を、日本語ではない、として否定しようとしました。  しかし、こうした試みの積み重ねの数十年のあとでは、今日ではこのような感覚的で主観的な文章は、別にそれほど突飛ではなくなり、小学生でも作文に書くようになったと云われています。  それは、ある状景を客観的《ヽヽヽ》に描写しているというより、そういう描写をしようとしている作者の気分《ヽヽ》そのものをも、状景に溶け合せて表現しているので、それは文章というものの新しい機能の開拓であると云えるのです。  近代の日本語が専ら、自然主義を中心に客観的に冷静な方向に発展させられたあとで、もう一度、詩的|抒情的《じよじようてき》な表現の可能性を、新感覚派は一挙に口語文のなかに切り開いたのです。  横光の突飛な表現は、その場の思い付きと云うより、より持続的な主観的な風景の、独自の構成に進んで行きます。 [#ここから2字下げ]  その街角には靴屋があつた。家の中は壁から床まで黒靴で詰つてゐた。その重い扉のやうな黒靴の壁の中では娘がいつも萎《しを》れてゐた。その横は時計屋で、時計が模様のやうに繁つてゐた。またその横の卵屋では、無数の卵の泡《あわ》の中で兀《は》げた老爺《ろうや》が頭に手拭《てぬぐひ》を乗せて坐つてゐた。その横は瀬戸物屋だ。冷淡な医院のやうな白さの中でこれは又若々しい主婦が生き生きと皿の柱を蹴飛《けと》ばしさうだ。  その横は花屋である。花屋の娘は花よりも穢れてゐた。だが、その花の中から時々馬鹿げた小僧の顔がうつとりと現れる。その横の洋服屋では首のない人間がぶらりと下がり、主人は貧血の指先で耳を掘りながら向ひの料亭の匂ひを嗅《か》いでゐた。その横には鐙《よろひ》のやうな本屋が口を開けてゐた。本屋の横には呉服屋が並んでゐる。そこの暗い海底のやうなメリンスの山の隅では、痩《や》せた妊婦が青ざめた鰈《かれひ》のやうに眼を光らせて潜んでゐた。(『街の底』) [#ここで字下げ終わり]  また横光の文体は、従来、専ら個別的なものの表現の手段であった、口語文の描写の機能に、集団的なものの運動の表現の可能性も開拓しました。 [#ここから2字下げ]  SQ市の無産者達は団結した。彼らは彼らの労力がいかに有産者達にとつて尊重せらるべきかを警告するために反抗した。  資産家達はその財力の権力を用ひて圧迫した。  無産者達は擡頭《たいとう》した。  一大争闘がデルタの上で始つた。  集団が集団に肉迫した。  心臓の波濤《はとう》が物質の傲岸《ごうがん》に殺到した。  物質の閃光《せんこう》が肉体の波濤へ突撃した。  市街の客観が分裂した。  石と腕と弾丸と白刃と。  血液と爆発と喊声《かんせい》と悲鳴と咆哮《ほうこう》と。  疾走。衝突。殺戮《さつりく》。転倒。投擲《とうてき》。汎濫《はんらん》。  全市街の立体は崩壊へ。——————  平面へ、——————  水平へ、——————  没落へ、——————  色彩の明滅と音波と黒煙と。  さうして、SQの河口は、再び裸体のデルタの水平層を輝ける空間に現はした。(『静かなる羅列』) [#ここで字下げ終わり]  横光は更に、視覚的なイメージの組み合せの面白さから、より深い人間の心のメカニズムの表現に進んで行きます。 [#ここから2字下げ]  彼は自分に向つて次ぎ次ぎに来る苦痛の波を避けようと思つたことはまだなかつた。此の夫々《それぞれ》に質を違へて襲つて来る苦痛の波の原因は、自分の肉体の存在の最初に於《おい》て働いてゐたやうに思はれたからである。彼は苦痛を、譬《たと》へば砂糖を甜《な》める舌のやうに、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやらうと決心した。さうして最後に、どの味が美味《うま》かつたか。——俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、先《ま》づ透明でなければならぬ。と彼は考へた。(『春は馬車に乗つて』)  今は、彼の妻は、ただ生死の間を転つてゐる一|疋《ぴき》の怪物だつた。あの激しい熱情をもつて彼を愛した妻は、いつの間にか尽《ことごと》く彼の前から消え失せて了《しま》つてゐた。さうして、彼は? あの激しい情熱をもつて妻を愛した彼は、今は感情の擦り切れた一個の機械となつてゐるにすぎなかつた。実際、此の二人は、その互に受けた長い時間の苦痛のために、もう夫婦でもなければ人間でもなかつた。二人の眼と眼を隔ててゐる空間の距離には、ただ透明な空気だけが柔順に伸縮してゐるだけである。その二人の間の空間は死が現はれて妻の眼を奪ふまで、恐らく陽が輝けば明るくなり、陽が没すれば暗くなるに相違ない。二人にとつて、時間は最早《もはや》愛情では伸縮せず、ただ二人の眼と眼の空間に明暗を考へる太陽の光線の変化となつて、露骨に現はれてゐるだけにすぎなかつた。(『花園の思想』) [#ここで字下げ終わり]  そういう心理のメカニズムは、感覚的な表現を全く排した、純粋に論理的な、いわば心理の幾何学的表現というようなものにまで、極端になって行きます。ここまで到達した時、批評家は、横光を「新感覚派」から「心理主義」へ転換したと評しました。しかし、それは口語文の可能性の冒険という見地から見れば、ひとつの試みの進展とも云えるものです。 [#ここから2字下げ]  リカ子はときどき私の顔を盗見するやうに艶《つや》のある眼を上げた。私は彼女が何故《なぜ》そんな顔を今日に限つてするのか初めの間は見当がつかなかつたのだが、それが分つた頃にはもう私は彼女が私を愛してゐることを感じてゐた。便利なことには私はリカ子を彼女の良人から奪はうと云ふ気もなければ彼女を奪ふ必要もないことだ。何故なら私はリカ子を彼女の良人に奪はれたのだからである。此の不幸なことが幸ひにも今頃幸福な結果になつて来たと云ふことは、私にとつては依然として不幸なことになるのであらうかどうか、それは私には分らない。私はリカ子——私の妻だつたリカ子を、Qから奪《と》られたのはそれは事実だ。しかし、それは私が彼にリカ子を与へたのだと云へば云へる。それほども私とリカ子とQとの間には単純な迷ひを起させる条がある。それは世間にありふれたことだと思はれるとほりの平凡な行状だが、ここに私にとつては平凡だと思へない一点がひそんでゐるのだ。人は二人をればまア無事だが三人をれば無事ではなくなる心理のながれがそれが無事にいつてゐると云ふのは、どこか三人の中で一人が素晴しく賢いか誰かが馬鹿かのどちらかであらうやうに、三人の中で此の場合私が一番図抜けて馬鹿なことは確かなことだ。(『鳥』) [#ここで字下げ終わり]  こうした新感覚派を中心とした口語文の改革は、それに直結するより若い文学的世代に広い影響を与えました。  今、ここに当時の様々の傾向の新作家のなかでの、旧来の文章への反逆の実例を、並べてみましょう。 [#ここから2字下げ] 吉行エイスケ(『華やかな新宿について』)  朝刊がH百貨店主の自殺を報道する。そのデパートメントストアの鎧戸が、新聞売り子の銀鈴の背後で戞々《かつかつ》として音を立てて上昇しはじめた。巨大な寝台の鉄製の垂幕。そこには科学的な花園が、百貨店競技における敗残の店主の死とかかはりなく淡紅色の皮膚をあらはす。禿鷹《はげたか》の羽のついた三角帽の嫋《たを》やかな美少年がなかからあらはれて出入口に直立すると、すでに美貌な化粧煉瓦の床に緑の足が、黄色の足が、白色の足が、緋色《ひいろ》の盛装した裳《もすそ》を駆つて跳躍する。流行の衣裳《いしよう》を守護するもの、石膏《せつこう》のやうな生活に沮喪《そそう》した売り子の列。 堀辰雄(『不器用な天使』)  カフエ・シャノアルは客で一ぱいだ。硝子戸を押して中へ入つても僕は友人たちをすぐ見つけることが出来ない。僕はすこし立止つてゐる。ジャズが僕の感覚の上に生まの肉を投げつける。その時、僕の眼に笑つてゐる女の顔がうつる。僕はそれを見にくさうに見つめる。するとその女は白い手をあげる。その手の下に、僕はやつと僕の友人たちを発見する。僕はその方に近よつて行く。そしてその女とすれちがふ時、彼女と僕の二つの視線はぶつかり合はずに交錯する。 阿部|知二《ともじ》(『日独対抗競技』)  衣服をかへ、厳粛で高雅な貴夫人となつてT会館に入つてゆく。彼女の仲間である、古くあるひは若い夫人たちがもはや食卓についてゐた。貴族、政治家、商人、軍人の妻たち、彼女の隣のある子爵の夫人が酒をすすめる。新鮮な果実の匂ひのする、冷酒が彼女の感覚に点火した。前の薔薇《ばら》と百合《ゆり》の花が今までの数千倍の明るさになつて輝きはじめた。昨日からのさまざまの肉体の映像が、それに反射した。彼女は煙草を吸つた。 伊藤整(『生物祭』)  外へ出ると、病院の垣根には遅い八重桜が咲き乱れてゐた。これらの花の息詰まる生殖の猥雑《わいざつ》さを、人は怪んでゐないのだらうか。白い看護婦たちの忍び笑ふ声を内包した病院の建物の外で、桜は咽《む》せかへるやうに花粉を撒《ま》きながら無言のうちに生殖し生殖しそして生殖してゐる。そして看護婦等の肉体は粘液のやうなものを唇や腰部から分泌する、病院の光つた廊下をスカアトを曳《ひ》いて走り、扉の握りを開くときに。洗面所のタイルの中で水が流れてゐる。彼女等は看護服の中に棲息《せいそく》してゐる女性なのだ。処女であり、またない。処女である女と処女でない女とが白い看護服に身体を包んで笑つてゐる。その窓の外にある桜の花の生殖。それに彼女等は気づかないのだらうか。総《すべ》ての花や女等はなにかを分泌し、分泌して春の重い空気を一層重苦しくしてゐる。 [#ここで字下げ終わり]  こうした新作家たちの或る部分は、自分たちの文体実験の過激さに押しつぶされて、——と云うのは世間の常識的な口語文との距離があまりに開いて行くことに、途方に暮れて——文学の場から遠ざかって行きました。その代表的な例が、吉行エイスケですが、一方、堀辰雄や阿部知二や伊藤整は、御承知のように、その後、初期の果敢な文体実験を、口語文の自然な時代的変化を先取りするという形で、小説の文体のなかに生かしながら、多くの読者を獲得して行き、次の時代の支配的な作家となりました。  そして、そうした|社会のなかに入った《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》文体実験を長く指導しつづけたのが、横光の盟友であった川端康成であったことは知られています。  そうして私たちは、知らず知らずのうちに、明治大正の口語文の変化に、実生活のなかで立ち会わされて来たのです。  その変化は、勿論《もちろん》、第二次大戦を通過すると共に、更に大きなものになって、今日に至ります。 [#小見出し]      三  第二次大戦が終ると、日本の社会はもう一度、——そして第一次大戦とそれに続く関東大震災の直後よりも、もっと徹底した変化を経験しました。  なにしろ国土全体がアメリカ軍によって占領せられるという、日本の歴史上、空前の事態になったのです。  そして支配者であるアメリカ人は、勿論、英語(アメリカ語)を使って統治し、街々の表示も、英語で行われる、ということになりました。  この占領の数年ほど、日本人が日常に英語に親しんだ時期はありません。実際、生活の必要上、英語を毎日、話して暮す男女が、特に都市には氾濫した、といっていいくらいです。  そういう期間が、|話し言葉《ヽヽヽヽ》に影響を与えないはずはありません。現に尨大《ぼうだい》な量の英語の単語が日本語の日常語のなかに流れこみつづけました。この傾向は専門の国語学者に、このままつづけば一世紀後の日本語のほとんどの単語がカタ仮名になってしまうと、予想させるほどのものです。  現に現在の若者向けの流行衣服の、新聞広告の文面などは、私のような戦前の社会に育った人間には到底、感覚的に耐えられないものですが、しかし青年男女にとって、そうした奇怪な表現が最も自然らしいのです。 「ヤングのフィーリング」だの、「ビューティフルなショッピング」だのという云いまわしが、従来の日本語の|話し言葉《ヽヽヽヽ》を大きく変えて行きます。  一方で|書き言葉《ヽヽヽヽ》の方も、長い戦争中の言論弾圧の期間のあとで、爆発的な表現の自由を求める風潮のなかで、急変しはじめました。  日本の近代の精神史のなかで、一般の人々が文章による表現に、渇えた人が水を求めるようにして、あのように飛びついて行った時期は、他にありませんでした。  つまり、文学や思想の読者の数が、戦前に比べて、飛躍的に増大したのです。  と云うことは、従来、文壇のなかだけで通用しがちであった、作家の文学的表現が、いわゆる玄人でない数多い一般読者に、絶えず読み味わわれ、共感を求められることになって行ったということです。  戦後の新しい現実のなかで成人期を迎えた青年たちは、その新しい現実の表現として、新しい作家たちの新しい文章を、喜んで支持いたしました。  第一次大戦後の、新感覚派を中心として行われた、日本語の改革のための実験が、ここではじめて実験室を出て、一般社会に、その効果をためされる時期が、突然にやってきたのです。 [#ここから2字下げ]  帰ろうとして身体を廻した彼の眼を、くずれるように壁を滑り下りた彼女の身体が、不思議な力で把《とら》えた。それは彼の身体の慾望《よくぼう》の底|迄《まで》とどくような力であった。爪の先が窓の敷居に食い込む程にもきつく握って白くなった八本の爪が彼の眼の前にある。その震えているような爪の白い色が彼の眼を打ち据える。その小さな八本の爪先《つまさき》に震える生命をこめて彼女は何を表現しようとしているのか。白く輝いて彼の方を向いているその爪から彼女の内にあるものが流れ出て彼を招き寄せる。彼は窓辺に近寄り、自分の手をその蒼白《あおじろ》く反って震えている八本の指の上にのせた。すると彼女の全存在をおののかせている生命の震えが彼の指先を通って彼の情慾の端につたわった。彼は彼女の手と彼の手の触れているところに火が附《つ》くように思った。この二つの肉体の暗い結び目。何ものかの強い手がこの結び目を再び固く結びしめるのを彼は感じる。彼は彼女の手に手を当てたまま爪先立ち、頸《くび》をつき出して窓の内を覗《のぞ》き込んだ。そこには断髪の髪の中に顔をつつみかくした小さい肉体が、体をちぢめ一層小さくなって壁ぎわに身を寄せている。(中略)  俯向《うつむ》いて断髪のかぶさった顔が左右に烈しくふられた。そして二つに分かれた髪の間に白い頸が震えて見えた。彼は彼女の両手を握り取った。固く窓ぎわを握っている彼女の両手をもぎはなし彼の両手の中に収めた。そして深い海底の碇《いかり》を巻き上げる水夫のように彼女の手を引き、彼女の身体を引き上げた。  日焼した肩の肌が、くずれた襟《えり》からむき出て彼の眼の下にあらわれる。彼女の胸が窓をこえて彼の右肩にくずれる。彼は左手を彼女の顔にあて、顔の上の乱れた髪を静かにはらいのけた。そして閉されてふくらんでいる瞼《まぶた》が小さく小刻みに震えているのを彼は見ていた。すると先程、この柔かい彼女の顔を、緑色に輝く無数の松の葉の針が突き刺す光景が浮んで来た。と彼の背筋に以前二人の情慾が互の肉体の上に伝え合ったあの不可解な、心を締めつけるような烈しい恐怖の感情が甦《よみがえ》って来た。彼は互の魂と身体を汚し合った二人の不幸な恋を憎しみの感情に貫かれて思い起しながら、しかし、どうしようもないのだどうしようもないのだと思った。そして彼女の同じように憎しみを含んでいるに違いない唇に唇をもって行った。(野間宏『地獄篇《じごくへん》第二十八歌』) [#ここで字下げ終わり]  このありふれた若い男女の肉体的接触は、従来の普通の小説では、一二行で済まされ、それで容易に、読者に親しいその情景は伝わってくるわけです。  ところが、ここでは作者の野間宏は、そうした平凡な、毎日、無数に若者たちのあいだで繰り返されている行為を、単なる観察《ヽヽ》によって客観的《ヽヽヽ》に、というのでなく、人物の内面に入って、その人物の心理や感覚や過去の記憶や憤りや不安や悔恨やを、その単純な行為の瞬間に集中させて、表現させてくれます。  こうした文章を読むと、読者は自分自身が今、激しい性的|昂奮《こうふん》のなかで、心身を燃え立たせている状態を、思いがけず想起させられて衝撃を受けます。  |思いがけず《ヽヽヽヽヽ》というのは、普通、昂奮状態での気持は、あとで記憶に残らないものなのだからです。  同様にして、これは主人公が自殺者を眼前にした瞬間の、時間の停止した感覚のなかでの、意識の描写です。 [#ここから2字下げ]  彼は静かに自分の足の位置を変えた。前の死体を中心にして右の方に廻って行った。と彼の眼の前に、何者か巨大な腕力をもったものが無造作に鶏か家鴨《あひる》かそのような種類のもののくびを一ひねりしたという風に、面を左下にねじまげて、全くいまは視力のはたらかぬ眼を半眼に開いた荒井幸夫の顔があらわれてきた。左にねじれてつり上った口からつき出た太い白い舌の先。黒眼を眼の隅のところに寄せてしまって白膜をはったような両眼。太い二本の鼻汁が、膿《うみ》の塊のように口の上にたれている。この無残にも形を失った顔は、まるで死がこの上を兇暴《きようぼう》な力をふるいながら嵐のように通り去り、荒井幸夫のなかに動いていた生命を生胆《いきぎも》を抜くかのようにひっさらって行ってしまったという風に見える。及川隆一は思わず顔を後に引いた。そしてその死体の顔の凹部《おうぶ》——眼や頬や口の上に刻印のようについている苦悶《くもん》の跡が彼の眼の中に打ち込む烈しい衝撃に抗《さから》った。が彼はそのままじっとその顔の上に眼を据えつづけていた。  後の窓を越えて表通りから子供のわめき声がきこえて来た。それが彼の耳に達し、全く別な振動でゆれている彼の耳の中の空気をかき乱し、消え去る。彼はしずかに死人の体にそうて視線を下におろして行った。たれさがった爪の長い死体の足の下に端の赤い大型の本が一冊、白い頁をみせて重なり合った他の書物から離れてころがっている。彼は眼を上げて再びそれを死人の顔のところにもどした。彼の眼の奥で書物の赤い色がひらひらゆれている。そして頭の中のその赤い色の映るさらに奥の方で、何かほのおの先のようなものが動いている。何処《どこ》からかするすると下りてくるものがある。幕のようなものが頭の中に下りてくる。何ものかが頭の蓋を開けようとする。彼はズボンのポケットの中につっこんでいる左手をポケットの中で握りしめた。と彼は指の三本しかない不完全なその握り拳《こぶし》が、根元のところで指がねじ切られ、そこに肉をふいて硬化してしまった指の筋肉の動きを、彼の知覚につたえるのをはっきり感じた。とそのあとに残っているちぎれた指の筋肉の根が、以前はそこに存在していた二本の指の感覚をそこのところに現出した。そしてぴくぴくとかすかなけいれんが、傷跡の辺りで起り、彼は何か恐しいものを期待するような気持で、自分の握り拳のところに自分の手の神経を集中した。とその小さくふるえている指の傷跡のところから、丁度中国小説の挿絵《さしえ》の妖術《ようじゆつ》を使う女の天をゆびさす細い指先から、一条の光明がほとばしって出て、そこに架空の世界が現出されているのと同じように、彼の過去の内の一つの光景が、太い荒木でつくられた背の低い野戦の|厩[#底本では旧字体]《うまや》の後で手榴弾を手にして黙って坐りこんでいる自分自身の姿があらわれ、彼の頭の中につたい上ってきた。それは堪えがたい厭《いと》わしい彼の過去の一つの場景であった。彼のもっている意志力がその限界をみせて、何ものかのために、まげられぐにゃぐにゃにされ、二つに引きちぎられようとする瞬間の場景。そしてこの一場のシーンにつづいて甦って来るにちがいない次の場面を予感すると、及川隆一は何時《いつ》ものように熱を交えて暗い痛みが彼の身体を斜めにひらめき横切るのを感じた。彼は強く頭を振った。そして彼が天門の第一機関銃中隊の裏側で手榴弾を用いて自殺をはかった時の爆薬の爆裂する体の肉をふき上げるような音が、彼の耳の中に浮び上ってくるのを防ごうとした。彼はさらに強く頭をふった。しかし彼が編上靴《へんじようか》の底に手榴弾の信管をぶっつけ、十三迄数をかぞえたとき、膀胱《ぼうこう》と排泄《はいせつ》器官の辺りを沸騰した湯水が流れて行くような恐怖が彼の身内におとずれ、彼が思わず指を開いて弾をはなそうとした瞬間、彼の全身をゆすった爆裂の音と振動とが、いままた彼の全身にはっきりとよみがえってきた。そしてこの人生から自分自身をしめ出そうと自分に強制したあの瞬間のほの暗い頭の奥や胸や腹や腸やその辺りに拡がっている眩暈《めまい》のような感覚が再びあざやかに思い起されてきた。ぐにゃりとした、肉のくずれ去る感覚、そして背骨の中を走る神経の束がぐしゃりと引きちぎれて、自分の周囲に存在している外的世界や自分の内部に自分を形づくっている内的世界が形を失って行くようないやな崩解感。(野間宏『崩解感覚』) [#ここで字下げ終わり]  こうした描写も、近代の口語文の百年近い歴史のなかで、一度も見られなかったことです。  野間宏は青年時代の初期に学んだ、フランスの象徴主義の手法と、その後に研究を深めたマルクス主義の唯物論的な認識の方法とを綜合《そうごう》して、このような人間の全体的《ヽヽヽ》なあり方を表現したのです。  だから、ここで野間は丁度、近代のイギリス文学のなかでのジェイムズ・ジョイスに匹敵する位置を占めるに至った、と云うことができます。そうして、このように徹底的に微細な表現は、『ユリシーズ』の文体同様、現代語の表現の極限《ヽヽ》を示しているという点で貴重ですが、そうして私たちが自分の文章の表現力が紋切型になり、新鮮さ、鋭さ、を失ってきていると気付いた時は、ジョイスや野間の文章を、丁寧に読み味わうことで、活力を取り戻すことになりますが、このままの文章を真似して、実用的な文章を書くということは、問題になりません。  しかし、こうした野間の文学的実験は、第二次大戦後の青年たちにとって、自分たちの魂の切実な表現であると感じられたので、従って、他の多くの同時代の新しい作家たちも、同じ読者層に支持せられて、同じような心の底の混沌《こんとん》の表現を目指したわけです。  つまり野間の仕事は孤独な実験と云うのでなく、ひとつの時代の求めていた表現の実現だったと云うことになり、従ってその時代の青年読者たちの文体に、強い影響を与えているに相違ありません。第二次大戦後においては、文学的実験は常に文壇の枠を越えて、一般の社会へ伝って行くようになって来たわけです。  そこで文学的文体と一般の人々の文体とのあいだに、従来に見られない自由な接触が行われるようになったとも云えるわけです。  実際、普通の人々は、従来では妙に文学的《ヽヽヽ》で気恥かしいと感じるような文章を、こだわりなしに書くようになっています。  それはひとつには、明治の自然主義の作家たちが純粋に客観的《ヽヽヽ》な方向に発展させた口語文の表現の可能性が、普通の人々が|自分の《ヽヽヽ》感想を述べたりするには、そらぞらしすぎたり、他人行儀すぎたり、小説みたいでてれくさかったりして、そのままは真似できなかったのが、大正の佐藤春夫あたりからはじまった、散文の主観的《ヽヽヽ》方向の開発が、遂に二度の大戦のあとで野間の文学的世代に至って、全くの自由さに到達した結果、読者自身の表現にも役立つようになって来た、とも云えましょう。  同様にして、武田|泰淳《たいじゆん》の描写は、 [#ここから2字下げ]  彼女は、実にのろのろとしか動作ができなかった。空と地が、回転木馬のように高まったり低まったりして、めぐり動いているようで、男たちの真剣な争いまでが、まのぬけた、てんでんばらばらの動作の、よせ集めのように見えたのだ。彼女が這《は》うようにして近寄ったとき、長男はふたたび、見事な膝射《ひざう》ちの姿勢にかえっていた。銃口はしずかに、しかしかなりの速さで方向を変えていた。馬は、たくましい前脚と、肉づきのいい胸と、おびえ切った長い顔で、長男と彼女の上に襲いかかった。彼女は、馬蹄《ばてい》のひびきや馬の鼻いき、男たちの怒鳴り声を耳にしていたが、馬も一太郎も見ようとはしなかった。見るひまがなかったし、見たくもなかったのだ。彼女はただ、自分を棄てた愛人にすがりつく狂女さながらの、ぶざまなやり方で、射手の首すじにとびかかっただけであった。猟銃が発射されたのと、自分の手が男の首にからみついたのと、どっちが早かったかも、わからなかった。馬と騎手は、空気の壁を突き破るようにして、彼女の肩のあたりを駆けぬけた。中年男がもう一発、射った。彼女は、長男以外の誰かほかの男の手で、襟がみをひっつかまれた。そしてその男は、ものすごい力で彼女の顔面を殴りつけた。小柄な、蒼白い顔をした男なのに、彼は、すっとんだ彼女の身体が波のなかへころげこみそうになるほど、手ひどく殴りとばしたのだった。彼女が起き上がらない先に、小柄な男は彼女の下腹部を、巧妙にまちがいなく、蹴《け》りつけた。彼女の口からは、鼻血と胃液のまじった、なまあたたかい水が噴き出した。他の人間にひどいことをされているという、感じは全くなかった。とんでもない現象が、自分をとりかこんでしまって、それが永久に続いて行きそうな予感が、全身にしみわたってくるだけだった。悲鳴をあげたいほどの痛みをこらえているあいだ、目さきが何回も暗くなった。(『森と湖のまつり』) [#ここで字下げ終わり]   椎名麟三《しいなりんぞう》も、 [#ここから2字下げ]  そのとき、突然僕は時間の観念を喪失していた。僕は生れてからずっとこのように歩きつづけているような気分に襲われていた。そして僕の未来もやはりこのようであることがはっきりと予感されるのだった。僕はその気分に堪えるために、背の荷物を揺り上げながら立止った。そして何となくあたりを見回したのだった。すると瞬間、僕は、以前この道をこのような想いに蔽《おお》われながら、ここで立止って何となくあたりを見回したことがあるような気がした。僕は再び喘《あえ》ぐように歩き出しながら、その真実さを確認した。この瞬間の僕は、自分の人生の象徴的な姿なのだった。しかもその姿は、なんの変化もなんの新鮮さもなく、そっくりそのままの絶望的な自分が繰り返されているだけなのである。すべてが僕に決定的であり、すべてが僕に予定的なのだった。そこにみじんの偶然も進化もありはしないのだ。絶望と死、これが僕の運命なのだ。世の中がかわって、僕がタキシイドを着込み、美しい恋人と踊っていても、僕は自分の運命から免れることは出来ないであろう。たしかに僕は何かによって、すべて決定的に予定されているのである。何かにって何だ——と僕は自分に訊《たず》ねた。そのとき自分の心の隅から、それは神だという誘惑的な甘い囁《ささや》きを聞いたのだった。だが僕はその誘惑に堪えながら、それは自分の認識だと答えたのだった。(『深夜の酒宴』) [#ここで字下げ終わり]  こうした新しい日本語の傾向は、人間の心の深層の表現を次の作家たちの文章のなかで深めて行きます。 [#ここから2字下げ]  彼は何処《いずこ》ともしれない街の中にいた。夜なのか昼なのか、彼にはよく分らなかった。果物屋の前を過ぎた時、彼はつかつかとその店にはいって、少しばかりの蜜柑《みかん》を買った。果物屋の主人は、中学の英語の先生だった。彼はうしろめたいような気持でその店を出た。果物屋の主人は背中から彼の出て行くのを見ていた。彼は小脇に蜜柑のはいった紙袋を抱え、さっさと歩いた。「船が出るよう、」と誰かが言った。それに乗りおくれては大変だ。彼は足を早くしたが、どっちが桟橋なのかは分らなかった。「船が出るよう、」とそれは繰返した。その時、彼は耳許《みみもと》にささやく声を聞いた。「あたしが連れて行ってあげる。」彼は見た。黒い、じっと見詰める瞳《ひとみ》がすぐ側にあって、脣《くちびる》を少しばかり開いていた。「船のところに連れて行ってあげよう、」と言った。痩《や》せぎすの、眼ばかり大きな少女だった。女といった方がいいのかもしれなかった。幾つ位なのか年のころは彼には見当もつかなかった。ただ黒っぽいものを着ているというほか、顔以外のところはぼうっとしていた。女は彼の手を掴《つか》み風のように走り出した。空を飛んでいるように早かった。やがて海が見え、桟橋に人がたくさんいた。一万トン位の大きな船が桟橋に横づけになっていた。「さあ早くお乗り、」と女は言った。彼は切符を出して、船員に鋏《はさみ》を入れてもらった。彼はタラップをあがろうとして振返った。「君も一緒にお出《い》でよ、」と彼は言った。女はいやいやをした。「お出でよ、でないと僕心細いもの。」女は黒い大きな瞳で彼を見た。「私は行けないの。」と女は言った。船はモーターのかしましい音を立てていた。汽笛が鳴り、彼の側を人々が駈け上った。「それじゃこれ君にあげる。」彼は手にしていた蜜柑の袋を女に渡した。「私はいいの。お船の中で咽喉《のど》が渇くわ、」と女は言った。「でもあげる。」女はそれを受け取った。寂しい顔をして彼の方を見た。「さよなら、」と女は言った。その色白の顔が彼の視野の中で次第に小さくなった。その顔は小さく遠ざかって行った……。(福永武彦『夜の寂しい顔』) Sは沢山の事を考えそして目の前を横切り出現する事物はすべて見ていたと思えるが、又何一つ考えてもいなかったし、何一つ見ていなかったとも言える。始めて、何かを見る気になって、視線の落ちている所を意識すると、そこにひともとの草が生えている。ひょろりと細長い茎が立っていて、その先に一つの花をつけている。光というものがどんな正体か分らず、この穴の中は闇だと考えられたが、やはりそこには光があって、その中のものが一切はっきり見えることがへんといえばへん。それは丁度夢の中の事象のようでもある。色彩も、あると思えば有り無いと思えば、無い。その花にも色がついていたが、それを言い現わすことは出来ない。そこにひょろっと小さな花が咲いていたことはSの気持をやわらげる。金属的に堅く傾いている気持にほんのり生気を吹き込まれて、Sは思わず闇の中で微笑《ほほえ》んだ。Sは両の掌でその花を囲うようにし、しかしその花びらにも茎にも手をふれずに、頬を掌で囲んだ花の方にすりよせるようにした。血の気を失い透き徹《とお》った皮膚の感じのその花びらに淡い匂いがあり唇を開いて待つようにも見える。かび臭いとも思えたが、又体温にとかされた肌のにおいのようでもある。(島尾敏雄『月暈』)  ある夜、門を入ったとき、靴の底が小石を踏み当てて、躯《からだ》が傾いた。それは確かに、小石のせいだった。咄嗟《とつさ》に、片手を伸ばして傍《そば》の樹を掴み、躯を支えた。枝が揺れ、頭の上から細かい粒が撒《ま》き散らされたように降りかかってきた。その瞬間、躯はやわらかな匂いにつつまれた。掴んだ幹は、金木犀《きんもくせい》だった。  芳香にも、いろいろな種類がある。鼻腔《びこう》に突き刺さってくる匂い、その反対に、その粘膜をやさしく撫《な》でる匂い。浅い匂い、深い匂い。密着してくる匂い、弾《はじ》ける匂い。私にとって、金木犀の匂いはやさしく穏やかなものであるが、現在から遠い過去まで連れ戻してゆく匂いである。まわりの風景が背後につぎつぎと置き去りにされてゆくのだが、あわただしさや速力感はない。そのくせ、きわめて短い時間のうちに、長い距離と時間が過ぎ去っている。  部屋に入ってからも、匂いは躯から離れない。肩に載っていた四つの花弁でできている金色の粒を、掌で払い落した。(吉行淳之介『暗室』) [#ここで字下げ終わり]  しかし、こうした様々な傾向に対して、従来の戦前の作家や読者は極めて批判的だったのは、当然でしょう。  そういう空気のなかから、日本語を可能な限り明晰《めいせき》に使用しようという、逆の試みも生れてきました。そうして、この試みも戦前の口語文からは予想もつかないほどの徹底した論理的なものとなったことは、興味があります。  大岡昇平はそうした試みの、代表者です。 [#ここから2字下げ]  私は精神分析学者のいわゆる「原情景」を組みたてて見ようとする。この間私の網膜にうつった米兵の姿は、たしかに私の心理の痕跡《こんせき》をとどめているべきである。  私がはじめて米兵を認めたとき、彼はすでに前方の叢林《そうりん》から出て開いた草原に歩み入っていた。彼は正面を向き、私の横たわる位置よりは少し上に視線を固定さしていた。  その顔の上部は深い鉄かぶとの下に暗かった。私は、ただちに彼がひじょうに若いのを認めたが、今思いだす彼の相貌は、その目のあたりに一種の|きびしさ《ヽヽヽヽ》を持っている。  谷のむこうの兵士が叫び、彼が答えた。彼は顔を右ななめ、つまり声の方向に向けた。私が彼の頬の薔薇《ばら》色をはっきり見たのはこのときである。  それから彼はまた正面を向き、私のほうへ進んだはずである。しかしこのときの彼の映像はなぜか私の記憶から落ちている。  この空白の後で銃声がひびき、多分私はそのほうを見たであろう(これは全く仮定である)。ふたたび前方を見たとき(これも仮定だ)米兵はすでにそのほうへ向いていた。この横顔から頬の赤さは記憶にない、ただその目のあたりに現われた一種の憂愁の表情だけである。  この憂愁の外観は決して何らかの悲しみを表わすものではなく、また私自身の悲しみの投影と見る必要もない。これが一種の「狙う」心の状態と一致するものであることを私は知っている。対象を認知しようとする努力と、つぎに起す行為をはかる意識の結合が、しばしばこうした悲しみの外観を生みだす。運動家に認められる表情である。(『俘虜記《ふりよき》』) [#ここで字下げ終わり]  こうした論理的であると同時に、視覚的にも明晰である大岡の文章を、より装飾的にしたものが三島由紀夫のものです。  たとえば『宴《うたげ》のあと』から、 [#ここから2字下げ]  かづが庭を歩く。これは一人身であることの完全な愉楽で、自由な黙想の機会だつた。日もすがらほとんど喋《しやべ》つたり、唄つたりしてゐて、一人きりになることがなかつたし、客の応接はいくら馴れてゐても疲労を呼び起した。朝の散歩こそ、もう色恋に大して打ち込む気の起らない心の平静の証《あか》しだつた。  恋はもう私の生活を擾《みだ》さない、……かづは靄《もや》のかかつた木《こ》の間《ま》からさし入る荘厳な日ざしが、径《みち》のゆくての緑苔《りよくたい》を、あらたかにかがやかすのを見ながら、かういふ確信にうつとりした。彼女が色恋と離れてしまつてからもう久しかつた。すでに最後の恋もとほい記憶になり、自分があらゆる危険な情念に対して安全だといふ感じは動かしがたいものになつた。 [#ここで字下げ終わり]  こうした傾向は安部公房のなかで、より科学的な明快な文体となります。 [#ここから2字下げ]  ジャンプ・シューズというのは、裏底に特殊な気泡《きほう》バネを仕込んだ運動靴のことだ。一面に空気を密閉した合成ゴムのチューブを配列してあり、その復元力は上質のゴムボールにも劣らない。はずみに上手《うま》く乗れば、平均三十七パーセントものジャンプ力向上が測定されている。小、中学生中心に、学外ゲームとしてすでに流行の兆が認められるが、工夫次第では、さらに公認の新スポーツとして大きく発展の可能性もささやかれている画期的新製品なのである。(『密会』) [#ここで字下げ終わり]  こうした戦争直後の文学世代の、様々に入り組んだ試みのあとで、そうした|書き言葉《ヽヽヽヽ》の試みの影響と、一方ではじめに述べた|話し言葉《ヽヽヽヽ》の影響をも平然と取り入れた、より若い作家たちの時代がやってきます。  これはもう旧世代の予想を絶したもので、たとえば次の庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』という作品などは、表題そのものからして、旧世代に拒絶反応を起させました。そして最も若い世代に、熱狂的に受け入れられました。彼等にとっては、自分たちの|考える《ヽヽヽ》こと(思想)と、|感じる《ヽヽヽ》こと(感情)との、全体的な表現がそこに見られたからです。  その書きだしの一節—— [#ここから2字下げ]  ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。とくに女友達にかける時なんかがそうで、どういうわけか、かならず「ママ」が出てくるのだ。もちろんぼくには(どなるわけじゃないが)やましいところはないし、出てくる母親たちに悪気があるわけでもない。それどころか彼女たちは、(キャラメルはくれないまでも)まるで巨大なシャンパンのびんみたいに好意に溢《あふ》れていて、まごまごしているとぼくを頭から泡《あわ》だらけにしてしまうほどだ。とくに最近はいけない。例の東大入試が中止になって以来、ぼくのような高校三年生というか旧東大受験生(?)というやつは、「可哀そうだ」という点で一種のナショナル・コンセンサスを獲得したおもむきがある。なにしろ安田トリデで奮戦した反代々木系の闘士たちまで、「受験生諸君にはすまないと思うが」なんていうほどなんだからこれは大変だ。かくしてぼくたちは、まるで赤い羽根の募金箱か救世軍の社会鍋《しやかいなべ》みたいにまわり中から同情を注ぎこまれたうえ、これからどうするの? 京都へ行くの? といった一身上の問題に始まり、ゲバ学生をどう思うかとか、サンパとミンセーのどっちが好きかといったアンケートまでとられて、それこそ、あーあ、やんなっちゃったということになるわけだ。それに言い遅れたけれど、ぼくの学校が例の悪名高い日比谷高校だということは、同情するにしろからかうにしろ、すごく手頃な感じがするのではないかと思う。 [#ここで字下げ終わり]  あるいは又、井上ひさしの次の一節も同様です。 [#ここから2字下げ]  ともあれかくもあれ、自分の母親の一生を、わたしはここで残らず物語るつもりはないのである。さる高名な小説家の「人の家にいって、アルバム見せられるほどいやなことないでしょう?」という名言をまつまでもなく、己の肉親について、得々と喋ることの鼻持ちならぬいやらしさを、わたしは承知しているつもりだし、それよりもなによりも、彼女の感嘆符と疑問符にみちた行動を余さず書き立てたら、途方もなく長い、膨大な量の話になってしまうと思うからだ。  天草ますの人となりを、完全に、間然するところなく描き出すためには、少くとも、トルストイがあの超大作「戦争と平和」に費したと同じくらいの長い歳月とたくさんの枚数が必要である。ちなみに、トルストイは「戦争と平和」のために、その一生の九分の一に相当する九年の年月をかけており、この間に文豪には、長女、次男、三男の三子が誕生している。また、文豪は日記をつけるのを無上の楽しみにし、生涯に九十余冊の日記帳を書き残したというが、この九年間はその楽しみさえも返上して、すべてをこの超大作に投入し、後世のトルストイの伝記作者を口惜しがらせている。そしてこの九年間、文豪は書斎から出てくるたびに悲痛な声で「今日も貴重な生命の一滴をインキ壺の中へ落して来たよ」と妻のソフィアに語るのを常としたという。  世界の大文豪と比較するのは恐れ多いが、その点、わたしはどうか? この小説の締切はとうに過ぎ去ってしまっており、この上「もう九年待ってください」と編集者にお願いするわけには行かないし、日記つけを返上しようにも、そんな厄介なものは国民学校の夏休み絵日記で懲《こ》りて以来、つけたことがないから返上しようがないし、「今日も貴重な生命の一滴をインキ壺の中へ……うんぬん」と恰好のいいことを言ってみたいのは山々だが、鉛筆常用者だからそうはいかない。だからといって、「今日も鉛筆削り機で骨身を削って来たよ」では、|どじ《ヽヽ》踏んで指先を怪我し、赤チンつけてもらいに出て来たようで何ともしまらず、しかも定められた枚数は七十枚……となると、これはどう転んでも、そうたいした作品になろうとは夢にも思われぬ。(『烈婦! ます女自叙伝』) [#ここで字下げ終わり]  最後に、今日の口語文の幅の広さを示す二つの文章——それも一般の人々に語りかけているもの——を、対照的に並べてお目に掛けてみようと思います。  幸いに、この二つは最近のある綜合雑誌に、対の文章として連載されたものであります。  その両方の序文から。 [#ここから2字下げ]  それは、たちまち、つくり出された状況にしばりつけられている、いや、もっとおそろしいことを言えば、あきらかにその状況の一部と化し去っている自分にどのようにたちむかうかということになる。私がこの本のなかで書いたことは、一語にまとめて言ってしまえば、結局、そういうことだったにちがいない。そして、書いたことを自分ですることが、力とお金をもつ側がつくり出す状況とちがった状況を自分でつくり出すことだろう。そういう努力だけが、おしきせでない、いわば、自まえの状況をつくり上げる。きいたふうな言い方にひびくのをおそれるが、ことのありようはまさしくそうしたものなのだろう。  しかし、しんどい。  そのことも、ここで、言っておきたい。何しろ、こちらには力もお金もない。あるのは、志《こころざし》とチエと工夫、才覚、辛抱、思いやり、やさしさ、ナミダ、笑い、負けじ魂——というようなものか。ただ、ここで、こんなことを言って、悲壮がっているのではない。もうひとつ言えば、この作業、ほんとうにものをつくり出すということであって、それゆえに、面白い。  しんどくて、面白い。この本にも、しんどさとともにそういう面白さが出ているといい。(小田実『状況から』)  ひとりの人間が文章を書く、ということはどういう行為か? とくに構造主義の言語学者にみちびかれて、僕は自分の文章の|書き方《エクリチユール》を検証する。書こうとして、書きながら、書いたあとで。書斎のなかで自分の文章にむかいあっているよりも明瞭かつ全体的に自分の「書き方」をたちまち見とおしうる経験があった。 「アジア人会議」で僕はアジアからやってきた様ざまな人びとの言葉を聞いていた。またかれらを主体的にむかえている若い日本人たちの言葉を聞いていた。そして僕はそれらの言葉がみな、まことにさっぱりと、自分はなにをおこなうか、他人になにをおこなうべくもとめるか、ということだけを語るのに鮮明な印象を受けたのである。かれらの言葉はというより、かれらの語るところの全体をひとつの文章として受けとめることも可能だからそうすれば、すなわち会議でのかれらの「書き方」は、行動と同義語だった。そしてかれらの言葉を受けとめる人びとも、行動と同義語の「書き方」よりほかのものなぞ、いっさい期待してはいないと観察された。それは僕が以下につづく一章のなかでモノーの文章のなかから引いた談論《デイスクール》ということに近い、あるいはまさにそれそのものの言葉であった。(大江健三郎『状況へ』) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#見出し]    あ と が き  現在、私たちが普通に使っている文章語、つまり口語文《ヽヽヽ》というものは、非常に流動的であり、又、混乱を極めている、と一般に云われています。  そこで文章の専門家である文学者に、その混乱の解決の最も重い責任が課せられているので、文学者のひとりである私が、思いきって、この『文章読本』を書いてみたわけです。  ここで私は、一方でまずできるかぎり自分の趣味というようなものからは遠ざかりながら、また一方で、よい文章の水準というものに絶えず忠実になろうとしました。  そうして、現代における文章とはどのようなものか、どのようなものであった方が望ましいか、と考えるのに、なるべく実際の文例に従って行うという原則をたてて、やってみたところ、それはおのずから近代百年の口語文の歴史のあとを、洗い直すという仕事になりました。  従って、この『文章読本』は、一般の人たちが文章を書く時の道しるべであると同時に、近代日本の文章の変遷の歴史を叙《の》べた本にもなりました。  この『文章読本』は雑誌『ミセス』に、一九七四年新年号から一カ年間、連載することによって出来上りました。  だから、はじめからいわゆる文学志望者というような専門家たちのためでなく、一般の読者たちのために語るように、私自身、気を配りました。それが普通、文学者のあいだでは暗黙の了解事項として改めて問題にされない文章の基本的な要素そのものをも考え直すことになって、かえって幸いでした。 [#地付き](昭和五十年二月)          *  今回文庫に入れるに際して、現在の若い読者のために文例を増補しました。 [#地付き](昭和五十七年一月)  この作品は昭和五十七年三月新潮文庫版が刊行された。