[#表紙(表紙.jpg)] 明治忠臣蔵 中村彰彦 目 次  序の章 元治の変  第一章 金沢城二の丸  第二章 燠《おき》 火《び》  第三章 始 動  第四章 雌 伏  第五章 決 断  第六章 断 行  終章 消えて惜しまぬ   あとがき [#改ページ] 禁門の変[#「禁門の変」はゴシック体]  ●元治元年(一八六四)七月十八日  ●長州軍VS幕府軍  ●京都市上京区京都御所  元治《げんじ》元年(一八六四)六月二十五日、尊攘《そんじよう》激派の老志士|真木《まき》和泉《いずみ》と松下村塾の俊英|久坂玄瑞《くさかげんずい》の統《す》べる忠勇隊・集義隊ら長州藩六隊が、京都山崎の天王山に陣を張った。 「此《この》時に当りて、天王山上、毎夜|大篝《おおかがり》を焚《た》き、兵威を示しければ、京師は、いと物騒がし」  という『七年史』の記述がある。  前後して長州藩遊撃軍御用係|来島《きじま》又兵衛の率いる同軍四百は、同藩家老|国司《くにし》信濃《しなの》の手勢百と合して嵯峨《さが》天龍寺に布陣。おなじく長州藩家老益田|右衛門介《うえもんすけ》の兵六百は山崎の八幡に陣営を築き、一方江戸出府を名目として山口を発してきたもうひとりの長州藩家老福原越後の率いる七百人も、伏見に腰を落ちつけた。  これら長州諸隊の目的は、前年八月十八日の政変で堺町門警衛の任を解かれ、京を追われた冤《えん》を雪《すす》ぎ、公武合体派の雄たる京都守護職松平|容保《かたもり》(会津藩主)を誅滅《ちゆうめつ》することにある。  だが容保への信任厚い孝明《こうめい》天皇は、同月二十九日、 「長州人の入京は決して宜《よろ》しからざることと存じ候」  という一文を含む宸翰《しんかん》を下したので、ここに長州からの遠征軍は天下の賊軍とみなされるべきことに決した(『京都守護職始末』)。  戦機が熟したのは七月十七日。真木和泉の断行論が久坂玄瑞らの慎重論(追って上京してくる長州藩主毛利|慶親《よしちか》の世子定広の到着を待って動くべしとする)を押さえこんだ結果、長州諸隊は十八日|子《ね》の刻(午前零時)を期して洛中《らくちゆう》への進撃を開始したのである。  最初の一戦は、伏見街道を北上してきた福原越後隊と、藤森付近でこれを遮断しようとした大垣藩兵との間に勃発《ぼつぱつ》した(十九日|寅《とら》の刻=午前四時)。  すなわち福原隊が撞木《しゆもく》町の木戸あたりから発砲したので大垣藩兵も大砲二発を応射し、つづけて福原そのひとを狙って大砲四発を打ちかけた。すると福原は薄疵《うすきず》を受けて落馬。 「家来共越後を助け引退く、大将|如斯《かくのごとく》なれば従軍|四《ママ》百人|大《おおい》にお驚《どろき》、軽卒者右往左往に引退く、戸田家(大垣藩)之面々得たりと、西洋流五十|匁《もんめ》筒を打進む」(『官武通紀』)  といった展開となり、福原隊は死体十一を残して潰走《かいそう》してしまった。同隊は、禁門に達することなくおわったのである。  対して、国司信濃隊と遊撃軍計八百が嵯峨天龍寺を出たのは丑《うし》の刻(午前二時)のこと。一条戻橋で両隊は別れ、遊撃軍は会津藩兵の守る蛤《はまぐり》門をめざし、国司隊は黒田藩兵の中立売《なかだちうり》門に向かう。ともに、 「尊王赤心金剛隊」  と書かれた幟《のぼり》二本を押し立て、大砲五門を前後二段に備えての進軍であった。  遊撃軍からは、まず会津藩の袖印《そでじるし》をつけて同藩士に化けた者たちが出て蛤門を入ろうとしたが怪しまれ、逃走しようとした時に長州側が大砲を打ち始めた。この砲弾は、今出川御殿に落ちて破裂した。  その間に、国司隊は戦意のない黒田藩兵の守る中立売門を通って蛤門に殺到。遊撃軍も負けじと柵《さく》を破って蛤門内に突入していった。初め会津藩兵は、長州側の小銃による一斉射撃数百発を受けて受け身になったが、まもなく乾《いぬい》門警備の薩摩藩兵が来援したので形勢は逆転。 「苟《いやしく》モ尊王ノ挙ヲ妨クルモノ天下ノ奸賊《かんぞく》ナリ」  と馬上から獅子吼《ししく》していた来島又兵衛も、狙撃されて斃《たお》れた(『伝記 来島又兵衛』)。  一方、山崎にあった益田右衛門介隊および真木・久坂隊は、西街道から松原通に出、烏丸《からすま》通を上って進撃してきた。これも大幟を二本押し立て、大砲四門を引いている。この隊は鷹司《たかつかさ》邸裏門から半数の兵を同邸内に入れることに成功した。  だがかれらは、玄関前に大砲三門を並べて発射し始めようとした時、越前藩兵に気づかれてしまう。さらに蛤門から薩・会両藩の兵が来援するにおよんで、益田隊の運命は決した。  鷹司邸に火が放たれるや、周囲をかこまれた長州兵は出るに出られず、五、六十人ばかりも焼死。松の木に登って指揮していた久坂玄瑞も、鉄砲に撃たれてころげ落ち、玄関前で切腹しておわったのである。  世子定広の本隊の到着を待たずに開戦した長州軍は、こうしてのべ七、八万にものぼる公武合体派諸藩兵の前に一敗地に塗《まみ》れる。天王山に踏みとどまった真木和泉以下十八人の決死隊も、二十一日、薩・会および新選組の包囲攻撃にさらされ、全員火中に飛びこみ切腹して果てた。真木の辞世は左のごとし。  大山の三祢《みね》の岩祢に埋《うめ》にけりわがとし都《つ》きの大和魂  さらに長州藩にとって致命的だったのは、中立売門外に捨て去った国司の具足|櫃《びつ》から、藩主父子の黒印のある軍令状を奪われたことである。一時は砲撃と火災から逃れるべく板輿まで用意された孝明天皇は、これを聞くや怒り心頭に発し、禁裏御守衛総督一橋|慶喜《よしのぶ》に対して長州追討を命じた(二十三日)。  事態はここから、長州征討へと移ってゆくのである。 [#地付き](中村彰彦)[#「(中村彰彦)」はゴシック体] ——「歴史と旅」臨時増刊『日本合戦総覧』より [#改ページ]  序の章 元治の変     一  琵琶湖の湖北にある港町、近江国高島郡《おうみのくにたかしまごおり》の海津村《かいづむら》といえば、北陸道および琵琶湖の水上交通の中継地として知られる。それだけに北国《ほつこく》の大名たちは、出京する際にはこの村に宿をとることも珍しくはなかった。  諸大名の本陣は、真宗大谷派の梅霊山願慶寺。加賀前田家の定宿は、浄土宗鎮西派に属する宮子山 正行院《しようぎよういん》である。  元治元年(一八六四)七月十九日の午後七つ刻《どき》(四時)、あたかも禁門の変の戦火を逃れるかのごとく京をあとにした加賀前田家|世子《せいし》、筑前守慶寧《ちくぜんのかみよしやす》三十五歳は、大津に一泊したあと願慶寺に入った。慶寧と行をともにした加賀藩家老は、禄高《ろくだか》四千石の松平|大弐《だいに》四十二歳。かれとその家来たちは、正行院を宿舎とした。  しかしかれらは、月があらたまって八月になっても海津村を動かなかった。より正確にいえば、動けなくなっていた。  蒲柳《ほりゆう》の質の前田慶寧が在京中からまたからだをこわし、気息|奄々《えんえん》たる状態になっていたことも、その理由のひとつである。だがより多くは、これ以上軽挙妄動すれば、 「筑前守めは長州藩に同情を寄せるあまり、長州兵が京に侵攻してきたのと軌を一にして退京したのであろうよ」  と、朝幕双方から疑われかねないからであった。  それに慶寧の側には、このような嫌疑を受けても仕方のない事情があった。  この年初めて京に上り、五月十日に東山建仁寺の本陣に入る前から、かれは前年五月に下関でアメリカ商船に大砲を撃ちかけた長州藩の攘夷《じようい》断行を高く評価していた。  そのような信念に染まりきっている加賀藩世子の上京は、攘夷は実行不可能と悟っている幕府にとっては不都合きわまりないことである。そこで幕府は出京の要なし、と伝えてきたが、慶寧は、 「上京せよとの朝命を拝しましたる以上、西上しないわけにはまいりませぬ」  と家臣をもって答え、あえて京都にやってきたのだった。  世子がこのような態度だったから、かれに尊王攘夷思想を吹きこんだ側近たち——不破《ふわ》富太郎、青木新三郎、大野木仲三郎らは、供に指名されて京都入りするや長州の桂小五郎、吉田|稔麿《としまろ》、杉山松介らと深く交流。慶寧の片腕たるべき家老松平大弐、近臣の堀四郎左衛門、侍読の千秋《せんしゆう》順之助らもこれをよしとするに至っていた。  そのため慶寧は、六月下旬から長州諸隊が京に近づき、不穏な空気となった時にも、 「伏見を警衛せよ」  との幕命を拒否。 「御所を守る近道は、長州藩を守ることにあり」  と断言してはばからず、 「いったん長州勢が公武合体派諸藩を相手に兵端をひらいた時は、わが藩の手で帝の鳳輦《ほうれん》を洛外《らくがい》に移したてまつる。長州勢に戦い利あらず、わが藩に助けを求めたならばこれに応ずる」  との尊攘派側近たちの意見をも容認していた。  そのような反幕的態度をとっていたものが長州勢の敗走とともに海津へ退去したのだから、幕府がこの動きを疑惑の目で眺めたとしても無理からぬことだったのである。  そして、慶寧退京の飛報に接してもっとも愕然《がくぜん》としたのは、その実の父で加賀藩第十三世藩主の地位にある中納言前田|斉泰《なりやす》であった。当年五十四歳の前田斉泰は、国許《くにもと》で第一報を受けた七月二十二日の午後、家老のひとり長大隅守連恭《ちようおおすみのかみつらやす》に対し、その夜のうちに上京するよう書状をもって命じた。  その書状には、次のような怒りの文章が書きつらねられていた。 ≪当月十九日暁天、長州家来ども禁闕《きんけつ》(御所)にむかい乱妨《らんぼう》におよび候次第、容易ならざる形勢の由に候ところ、おりふし筑前守病気につき、同日京地出立いたし候(略)。切迫の節にのぞみ逃げ去り候かたちにて、武門の途《みち》を取り失い候よう相なり候いては海内《かいだい》の恥辱と相なり(略)、家の瑕瑾《かきん》とも相なるべき儀に候。(略)いずれ引返し、累代《るいだい》の武名を穢《けが》し申さぬよう覚悟あるべきことに候条、これらのおもむきよくよく会得いたし候のよう申し達せられるべきこと≫  ひらたくいえば、 「お前の軽率な動きから、加賀百三万石の屋台骨が揺るぎかねない事態をまねいてしまったではないか」  と慶寧を叱りつけてこい、と命じたのである。  長連恭が家臣団五百四十五人とともに海津村に入り、慶寧に斉泰の意のあるところを伝えたのは二十七日のことであった。  つづけて八月一日、斉泰は公武合体派として知られる関白二条|斉敬《なりゆき》にあてて詫び状を送った。そのなかに、 ≪(慶寧に)相|随《したが》い候家来どもも、きっと申しつけやり候≫  と書きつけて、斉泰は慶寧側近たちの罪を問うことを誓ったのである。     二  八月十日の暮れ六つ刻、——。  願慶寺の前田慶寧のもとから宿舎の正行院にもどってきた松平大弐の面長な顔だちには、憔悴《しようすい》の色が見えた。 「殿も明日御出発でございますか」  慶寧は十一日のうちに謹慎のため国許へ返されることになった、と聞いている近習《きんじゆう》たちがそう訊《たず》ねても、 「その儀については、あとでいおう」  としか大弐は答えない。麻かたびらの着流しになって自室でまずそうに夕食をおえたあと、気に入りの家来六人を請《しよう》じ入れて、 「このたび中納言さま(前田斉泰)より筑前守さま(慶寧)に仰《おお》せ出されたるところにつき、拙者には深く決するところがある」  と細い目を暗く翳《かげ》らせて切り出した。 「明日、筑前守さまをお見送りしたあと、拙者は切腹いたす。さよう心得よ」  一同、驚愕のあまり声も出せずにいると、大弐は淡々と妻子への遺言を伝えた。  長く松平家につかえる志賀喜兵衛と佐川良助は、実直そうな顔を見合わせ、意を決して異口同音に殉死の許しを求めた。  しかし大弐は、許そうとはしない。はらはらと落涙した良助は、叩頭《こうとう》してさらにいった。 「喜兵衛のお供お差し止めはもっともと存じますが、この良助にはなにとぞ格別のおはからいをもちまして、お供させて下さりませ」 「その方の申し出は、殊勝に思う」  と、大弐は応じた。 「だがその方は武芸に秀でておるのだから、せがれ潤之助をよく守り、時節がら有用の人物となるよう育ててくれ」  つづけて三人の家来が殉死を願ったが、 「それを許しては、拙者の取締りが不行届きだったということになる。一切、まかりならぬぞ」  としか大弐は答えなかった。  そしていったんその三人を退出させたため、大弐の前にいるのは志賀喜兵衛、佐川良助、石黒多仲のみとなった。かれはこの三人に手ずから茶を淹《い》れてやり、菓子を与えてからまた口をひらいた。 「とにかく家中の重役のかたがたにも、死後万端の配慮を願うよう頼みおくぞ」 「たしかに」  三人が涙声でうなずくと、大弐はこの日初めてほほえみを浮かべた。 「では一同とともに、別れの酒を酌もうか」  しかし、数百名規模の大集団がこの日まで十八日間も滞在しつづけていたために、海津村で調達できる惣菜《そうざい》はすべて底をついていた。やむなく家来たちは、ありあわせの|〆鯖《しめさば》と鮎鮨《あゆずし》を酒肴《しゆこう》として酒の用意をととのえた。  まず大弐が二度、三度と盃《さかずき》をかたむけ、その盃を志賀喜兵衛に与えた。喜兵衛は一献だけ飲んで、次にまわした。……  大弐がこの盃事をおえてゆらりと立ち上がると、喜兵衛と佐川良助、石黒多仲があとに従い、寝所に横たわった大弐の腰や脚を揉《も》んで伽《とぎ》をつづけた。  その間に三人は、あたりさわりのないことを話題にしては、さりげなく主人の覚悟のほどを見きわめようとした。だが大弐は病んだ慶寧の帰国の旅を案じるばかりで、思いのたけはおくびにも出さない。  ふと話し声が途絶えた時、 「良助よ」  と呼ばれたので、かれがどきりとしながらもはい、と答えると、大弐は身を横たえたまま訊ねた。 「最期の時には、白かたびらを着用すべきか」 「いえ、御紋服がよろしいかと」  といった良助に、大弐はかさねて問うた。 「用いるのは政常の短刀にしようと思うが、どうだろうな」 「たしかなお道具でございましょう」  と答えると、 「では、用意を頼んだぞ」  と大弐はいった。  良助は別間におもむいて大弐の具足櫃《ぐそくびつ》から短刀を取り出し、また寝所にもどった。そしてふたたびとりとめのない話をする間に一番鶏の啼《な》き声が伝わり、それを待っていたかのように大弐がつぶやいた。 「ややもすれば、心|臆《おく》してついに不覚をとるおそれがある。筑前守さまをお見送り申し上げる前に、腹を切るべきかも知れぬの」 「御意見ごもっともではござりますが、お見送りなさいましたあと、おもむろに召されましたが方が、首尾は抜群かと愚考つかまつります」  良助のことばに、大弐はすなおにうなずいた。  十一日明け六つ刻《どき》、——。  行水で五体を清め、月代《さかやき》と髭《ひげ》を剃《そ》った大弐は、平常どおり飯椀《めしわん》に二|膳《ぜん》の食事で腹を作り、そのあと着更《きが》えにとりかかった。その最後の衣裳《いしよう》は、上に水浅葱《みずあさぎ》、紋付のかたびらとぶっさき羽織、下に川越平《かわごえひら》の野袴《のばかま》という取り合わせであった。  そのあと大弐は、七人の供のみをつれて正行院の下の通りへ降りていった。むろん、慶寧を見送るためである。  居残った佐川良助は、これを絶好の機会と思って志賀喜兵衛に相談をもちかけた。 「殿さま御生害の件は秘しておくべきことではありますが、少しく筑前守さまの御近習にお洩《も》らしして、おっつけ御出立の際、殿さまがよそながら筑前守さまの御尊顔を拝せるようお願いいたそうではありませんか」  同意した喜兵衛は、ただちに願慶寺めざして正行院のひろい境内を走り出ていった。  やがて、慶寧一行を見送って正行院にもどってきた大弐は、喜兵衛と良助、石黒多仲のみを自室に召して、晴れ晴れとした表情で告げた。 「今しがた、御通行筋にてお見送りしておったところ、筑前守さまにおかせられては乗物の御簾《みす》を排して御尊顔をお見せ下さっての、白い手ぬぐいをもってお涙を押さえておられた。お姿の見ゆるかぎり目送いたして帰ってきたのだが、あとから御用部屋の遠田誠摩殿が拙者を追ってまいり、筑前守さまの御内意を伝えてくれた。内密にいたすべきことなれど、その方どもにはあえて見せてつかわそう」  大弐がふところから取り出した奉書紙には、こう書かれていた。 ≪松平大弐儀、当役入精(入魂)相勤め、御満足におぼし召さる。かつまた今度の儀は、御生涯お忘れあそばされず、……≫ 「まことにもって、ありがたき仕合わせではないか」  と大弐が白い歯を見せたので、三人はまた涙をこらえ切れなくなった。  次に大弐は、正室への形見の品である小物入れと遺書とを喜兵衛に托《たく》したあと、喜兵衛と石黒多仲とを退出させて良助に介錯《かいしやく》を依頼した。  良助は、あらたまって答えた。 「重き御用を仰せつけられ、ことに御最期の際まで召し使い下さいますのは冥加《みようが》の至り。ありがたくお受けつかまつります」  このような時には、さらに一層心を静めてお慰めするのがよろしかろう、と頭を働かせた良助は、大弐に煙草と水とをすすめた。おとなしく一服し、水で喉《のど》をうるおした大弐に、かれはつづけて介錯用の刀の拝借を乞《こ》うた。 「さよう、——」  しばらく沈黙に落ちた大弐は、かたわらに置いた佩刀《はいとう》をわたし、自分も短刀を取り出した。  ふた間つづきの居室のもう片方の部屋には、緋《ひ》の毛氈《もうせん》が敷かれている。そちらの部屋に移り、毛氈の上に正座した大弐は、なにごとか祈るそぶりを見せたあと、深々と東の方角を伏し拝んだ。  あとにしたがった良助が、その背後で片だすきを掛け、袴の股立《ももだち》を取っていると、 「苦痛なきよう、介錯せよ」  と大弐が声をかけた。  良助がたまらなくなって、またしても殉死を願うと、大弐は少しく声を荒らげた。 「この上、さらにさようなことを乞うのは不忠者だぞ」  良助は是非もなく大刀を抜き、その左側に位置を取る。大弐は羽織を後方に脱ぎ捨てて諸肌《もろはだ》脱ぎとなり、短刀をつかんで訊《たず》ねた。 「腹は、いずこより切るを可とするのか」 「この辺を、あそばされませ」  良助がおのれの左脇腹を差し示すのを見た大弐は、うなずいて短刀を深々と突っ立て、右へ引きまわした。とたんにその上体は、ぐらりと右側へかたむいた。  良助は背後からその肩に両手を添え、姿勢を正してから、一気に大刀を振り下ろした。にわかに紅色の驟雨《しゆうう》が毛氈にしぶき、大弐はその上に前のめりに倒れた。  良助がひざまずいてそのからだをあらためると、大弐の首は皮一枚を残してたいらかな切口を見せていた。  いささかのお苦しみもなかったろう、まことに御立派な御最期であった。そう思った良助は、大弐のからだにむかって合掌しながら、われ知らず念仏を唱えていた。     三  八月十八日に帰藩した前田慶寧は、ただちに金沢城の大手にある金谷御殿に幽閉された。慶寧に過激な尊王|攘夷《じようい》思想を吹きこんだ者たちも次々と縛され、獄に投じられた。  幕府による安政の大獄をも彷彿《ほうふつ》とさせるこの粛清劇は、おのずから加賀藩重臣たちの発言力にも大きな変化をおよぼすことになった。  もともと加賀前田家のうちには、 「加賀藩|八家《はつか》」  と総称される八つの家筋があった。家老職に昇りうる家柄とされる名族のことで、その家名と石高は左のごとし。  直之系前田家 一万一千石  本多家    五万石  長《ちよう》家     三万三千石  横山家    三万石  長種系前田家 一万八千石  奥村宗家   一万七千石  奥村支家   一万二千石  村井家    一万六千五百石  直之系前田家は、藩祖前田利家の次男利政に発する家系。長種系前田家は、加賀前田家とはまったくの別流である。  慶寧が禁門の変|勃発《ぼつぱつ》当日に不意に退京してしまったあと、その名代として京に残り、仙洞御所を守るなどして加賀前田家の面目を保とうとしたのは、奥村|伊予守栄通《いよのかみてるみち》。奥村支家に生まれ、奥村宗家をついだ人物であった。  そもそも慶寧の上京が決まった時、同行を望んだ八家の当主はふたりいた。本多|播磨守政均《はりまのかみまさちか》と村井又兵衛。  かれらふたりはひさしく藩政の中枢にたずさわっていなかったため、勢力|挽回《ばんかい》を策したのである。その希望が入れられず、奥村栄通が指名されたのは、以前からかれが慶寧づきの家老だったからであった。  しかし、この栄通も慶寧|輔弼《ほひつ》の道《みち》を誤ったとして閉居を命じられ、すべての事後処理は本多政均と村井又兵衛の手にゆだねられた。ふたりは今日の裁判官にあたる公事場《くじば》奉行多賀源助とその与力内藤誠左衛門に、慶寧の退京一件にかかわった者たちの罪を吟味させた。  裁断が下されたのは、十月十八日のことである。  定番|歩士組《かちぐみ》の小川幸三は、かねてより過激の説を唱えていたことを不届き至極とされ、斬首《ざんしゆ》。  慶寧づき大小将組《おおごしようぐみ》の不破富太郎、藩校明倫堂助教の千秋順之助、人持組《ひともちぐみ》大野木将人の弟大野木仲三郎、料理人青木新三郎の四人は、過激の説を唱え長州人と交わったことを不届き至極とされ、切腹刑に処された。  加賀藩の士分の者たちの身分は、上から順に人持組頭(八家)、人持組(上級藩士約七〇家)、平士《へいし》(以上、お目見《めみえ》以上)、与力、歩士《かち》(以上、お目見以下)となっている。  他に流刑三人、永世主人預け入獄ひとり、永牢四人、閉門ふたり、公事場内|禁錮《きんこ》ふたり、逼塞《ひつそく》ののち公事場内禁錮ひとり、逼塞ひとり、譴責《けんせき》二十一人ときわめて厳しい処断が下されたため、これを加賀藩内部では、 「元治の変」  と呼ぶようになる。  しかし右に挙げた者たちとは別に、より酷《むご》たらしい刑に処された藩士がいた。人持組に属し、禄《ろく》百七十石を得ていた福岡惣助三十四歳。  安政の大獄を遠く眺めるうちに勤王の心にめざめたかれは、以後藩論を尊王攘夷に定めようとして種々画策するところがあった。さる 文久《ぶんきゆう》三年(一八六三)九月、藩命によって飛へ出張した時には、勝手に京へ足をのばして天下の形勢を視察。その罪が露見して以降は、自宅禁錮となっていた。  ところが、この六月五日の池田屋事変当日、在京の会津兵が長州藩士上山六郎を捕えたところ、そのふところからは惣助の手紙が発見された。ここにおいて加賀藩は、かれを寺西要人邸にうつして禁錮としたが、このたびあらためて極刑に処すことにしたのである。 ≪右惣助儀、御国典(国法)を犯し京都等へまかり越し、長藩等浪士に立ちまじわり、(略)かつ他藩へ対し御国事を誹謗《ひぼう》いたし、この表(国表)においては正邪紛乱の説をもって同志を語らい、お咎《とが》め中をもはばからず毎度他藩浪士と会合いたし候|族《たぐい》、不届き至極、沙汰《さた》のかぎりにつき生胴《いきどう》仰せつけらる≫  十月二十六日、城下の公事場のうちにある刑場へ引き出された蓬髪《ほうはつ》の惣助は、襟も裾《すそ》もついていない見すぼらしい獄衣を着せられていた。帯がわりに腰に巻いているのは、紙を縒《よ》って紐《ひも》としたしろものであった。  士分として切腹刑に処される場合であれば、髷《まげ》も結いなおして髭を剃り、白無垢《しろむく》に浅葱《あさぎ》色の麻裃《あさがみしも》を与えられて、これに着更《きが》えることが許される。しかし惣助は、獄衣のまま無造作に土壇場へ連行された。  土と砂とを半々にまぜ、水で練りあげて作った土壇は、高さ六寸(一八センチ)、五尺(一・五メートル)四方の大きさであった。その四隅には、太い杭《くい》が打ちこまれていた。  土壇の上に仰むけに寝かされた惣助は、四肢を太縄でしっかりとその杭に固定された。 「目隠しをせよ」  袴の股立を取って白だすきを掛けた刑吏が、ふところから白い布を取り出しながらいった。しかし惣助の答えは、 「その必要はござらぬ」  というものであった。  刑吏はその獄衣の腰紐を解き、胸と腹とをあらわにすると、大刀を抜き放ってそのかたわらに仁王立ちした。やがて、 「えっ」  と野太い気合がほとばしった時、惣助のからだの下、土壇の上部に三寸の厚さで敷かれていた平砂《ひらずな》からは、刃の喰《く》いこむ鈍い音が響いた。  その辞世、——。  我が魂《たま》はやがて雲井にかけりつつ御階《みはし》のもとにはせまゐるべし     四  それから四年目の慶応《けいおう》四年(一八六八)正月三日、会津兵を主力とする旧幕府勢と薩長《さつちよう》勢との間に勃発《ぼつぱつ》した鳥羽伏見戦争は、徳川最後の将軍|慶喜《よしのぶ》が大坂城を捨てて江戸へ逃亡したことにより、錦旗を得て官軍の美名を確立していた薩長勢の勝利におわった。 『石川縣史』第二篇、第五章「加賀藩治終末期」の一節にいう。 ≪前将軍徳川慶喜は江戸に遁《のが》れたる後、正月十九日加賀藩の重臣を招きて、専《もつぱ》ら朝廷に対して恭順謹慎を表すべきを告げ、且つその罪を謝するが為に斡旋《あつせん》せんことを請へり≫ ≪二月十一日朝廷列侯を三等に分ち、四十万石以上を大藩とし、十万石以上を中藩とし、一万石以上を小藩とし、その大藩には貢士《こうし》(議政官)三人を出さしむ。是に於いて加賀藩は木村九左衛門|恕《ひろし》・陸原《くがはら》慎太郎|惟厚《これあつ》・永山平太政時を挙げて貢士とし、後井口嘉一郎|済《さとる》を以て木村九左衛門に代ふ≫ ≪超えて十四日斉泰、本多|播磨《はりま》守政均・横山|蔵人《くらんど》政和以下士卒二千九百五十人を率ゐて金沢を発せしが、二十二日を以て著京し、二十八日参内して天盃を拝戴《はいたい》す。この月朝廷諸侯の松平氏を冒すことを禁じたるを以て、加賀侯も亦《また》自今前田氏のみ称することゝせり≫  そして、三月。 ≪この月慶寧は金五千両を献じて大宮御所の造営を助け奉り、又天皇の元服し給ふに当り非常の大赦を行はれたるを以て、加賀藩にては元治の変国事に座して流謫《るたく》・永牢・禁錮等に処せられたるものを宥《ゆる》せり≫ [#改ページ]  第一章 金沢城二の丸     一  加賀前田家百三万石の本城は、いうまでもなく金沢城である。  人口十二万の金沢の、北と南をともに南西から北東方向へ流れるふたつの清流、浅野川と犀川《さいかわ》とに挟まれた小立野《こだつの》の台地を利用して縄張りされたこの城は、面積九万千六百三十一坪あまり。藩主の住まいと政事堂の置かれた二の丸を中心に、南から北へ時計まわりに三の丸、鶴の丸、東の丸、本丸、薪の丸、玉泉院丸、おなじく北から南へ藤右衛門丸、新丸など多くの曲輪《くるわ》が配されていた。  その最大の特徴は、まことに色彩ゆたかな外観にある。  犀川から引いた水を深々と湛《たた》えた堀のかなたには、赤、青二種類の戸室石《とむろいし》を組み合わせた高い石垣が屹立《きつりつ》。その石垣の上部を走る外壁や各曲輪のそれは、上は白しっくい塗り、下はなまこ壁に統一されて、瀟洒《しようしや》かつ堅牢《けんろう》なたたずまいを見せていた。なまこ壁とは外壁に方形の平瓦《ひらがわら》を貼りつけ、その目地《めじ》をしっくいでかまぼこ形に盛り上げた壁のことをいう。  また、そこかしこに遠望できる櫓《やぐら》の屋根は、錆《さ》びて白色がかった鉛瓦で葺《ふ》かれており、城内に繁茂した榎《えのき》、欅《けやき》、椨《たぶ》などの巨木の緑と絶妙の対照を見せていた。  ことに城の南に位置する百間堀と白鳥堀との間にひらき、 「石川門」  と名づけられている搦手《からめて》門のたたずまいはまことに壮麗であった。  堀越しに見て左手に石落としを兼ねた唐破風《からはふ》の出格子窓をもつ二層の菱櫓《ひしやぐら》、右手に多聞《たもん》櫓を有する石川門は、その左右に長く伸びた鉛瓦なまこ壁の外壁の風情と相まって、 「特にその雪景色は金沢一の絶景である」  との定評がある。  明治二年(一八六九)八月七日の朝四つ刻《どき》(一〇時)、城南の武家屋敷街からこの石川門をめざして粛々と進んできた登城の一団があった。  先駆の徒士《かち》ふたり、供侍四人、熊毛の槍鞘《やりざや》を高く掲げた槍持ちや草履取りなど二十人に前後左右を囲まれているのは、どこかの大名のものかと見まごうほど豪奢《ごうしや》な乗物であった。この乗物は長棒から引戸までふくめて黒うるし地に塗られ、高蒔絵《たかまきえ》の技法で全面に立葵《たちあおい》紋を散らしている上に、あちこちには梨地《なしじ》や螺鈿《らでん》さえ用いられていた。  やがて、——。  この一団は石川門の八の字にひらいた鉄貼りの門扉をくぐり、その内側の枡形《ますがた》を右折して多聞櫓を抜け、三の丸に進んだ。  そして、その北側にある二の丸南端の五十間長屋へ顔をむけて歩みつづけたかと思うと、その手前で左折。堀に架かる木の橋を東へわたって橋爪門の枡形をふたたび右折し、その右手の石段をしずかに上がって二の丸に入ったのである。  金沢城のなかでもっとも壮大な建築物である二の丸御殿は、その南側にむけて裏玄関を据えている。井然《せいぜん》たる甃石《しきいし》を伝って二間幅(三・六メートル)の玄関口へと乗物が運ばれ、陸尺《ろくしやく》たちが肩から長棒を下ろすと、草履取りがうやうやしく乗物に近づいて引戸の下に草履をそろえた。  つづけて引戸が引かれ、屋根があけられる。するとまだ若々しい武士が上体をのぞかせ、 「御苦労」  とだれにともなく声をかけた。  降り立って草履をはいたこの人物は、立葵の家紋を打った黒い紋羽織に仙台平の袴《はかま》、白足袋姿。月代《さかやき》を線のように細く剃《そ》った講武所|髷《まげ》の下には太い眉《まゆ》と切れ長な両眼、しっかりと引きむすばれた厚めの唇がやや面長な顔だちのなかに姿よくおさまり、男臭い雰囲気を漂わせていた。  左手に提げていた大刀を左腰に差しこんだかれは、供侍たちに背をむけ、単身式台に歩み寄った。  つい先ごろまで加賀藩士たちは、諸藩の者たちとおなじくつねの登城の際には肩衣半袴《かたぎぬはんこ》を着用する定めであった。それが慶応三年(一八六七)正月十一日、第十四代藩主前田|慶寧《よしやす》の下知により、藩政改革の一環として服飾の制も簡略化された。そのためこの人物も、羽織袴の平装であらわれたのである。  式台に上がったこの人物の視界中央にほの暗くひろがるのは、 「柳の間長廊下」  と呼ばれる幅二間、長さ二十間(三六メートル)の畳廊下であった。かれは帯刀のまま、その無人の廊下に歩み入った。  これもまた、作法に反するふるまいではなかった。この人物は、 「執政」  という前田家家中の最高職にあるため、旧幕時代の家老とおなじく、長廊下の三分の二をゆくまでは帯刀のまま、のこり三分の一は刀を手に提げて歩むことを許されている。  藩政改革以前には、廊下脇の坊主|溜《だま》りには茶坊主たちが詰めていて、登城してきた者たちを順次先導してくれるならいであった。徒《かち》目付たちもあちこちに控え、玄関から廊下途中にある槍留め番所までの間には足軽たちが守りを固めていて、不審な者の侵入に目を光らせていたものであった。  これらの慣習も廃されたため、この人物は昇殿するや政事堂に通じる長廊下をひとりで歩むことになったのである。  すでにそのなかばを過ぎた時、この人物は前方からふたりの藩士がやってくるのに気づいた。やはり羽織袴を着けてはいるが、知らない顔であることからしておもだった藩士ではないらしい。  と見る間にこのふたりは、執政が目の前に袴をざわざわいわせながら近づいてくるのに気づいたのだろう、畳廊下の左右に別れて正座し、両手をついて執政に対する礼を取ろうとした。  このような挨拶《あいさつ》を受けた場合、執政たる者は歩みを止めず軽く会釈を返すだけでよい。 「うむ」  とつぶやきながら、この人物がふたりの間を通りすぎようとした時であった。  左側に正座していた男が素早く脇差を抜刀しながら立ち上がり、執政にからだを寄せたかと思うと、その左脇腹に脇差を突っ立てていた。 「うっ」  と呻《うめ》いて歩みを止めた執政は、脇差を抜き取って、跳びすさった男を気丈に叱咤《しつた》した。 「な、なにをいたすか!」  しかしこの時にはすでに、廊下右側に座っていた男も脇差を引き抜いて執政にからだをぶつけてきていた。この男も、執政の右脇腹を深々と抉《えぐ》って跳びすさる。  左右の脇腹にほぼ同時に深手を受けた執政は、もはや神気|朦朧《もうろう》となって左手に提げた大刀を抜き合わせる余裕もなかった。かれは長く尾を曳《ひ》く唸《うな》り声を上げながら、身の左側の障子戸手前にある装飾用の長持にもたれかかった。  その時、低く押さえた、 「やっ」  という気合とともに、第三、第四打が浴びせられた。初め左側にいた男がふたたび肉薄したかと思うと、真向上段から額を一閃《いつせん》。つづけてもうひとりの男が、背後から首筋に水平斬りを見舞ったのである。  執政は顔面と首筋から血を噴き出しながらのけぞり、腰砕けになりながらも、長持ぞいに背後に足を送って障子に寄りかかろうとした。  だが、障子に大人の体重は支えきれない。かれの朱に染まったからだは、外れた障子とともに激しい音を立て、横ざまに倒れた。  障子紙には瞬時に紅葉を散らしたようなしみ[#「しみ」に傍点]が生じ、執政はまだ大刀をつかんだまま動かなくなってしまう。  金沢城二の丸御殿の殿中で襲撃されたこの執政は、本多播磨守|政均《まさちか》三十二歳。石高五万石と小大名以上、譜代藩なみの家禄を誇り、代々家老をつとめてきたもっとも大身《たいしん》の加賀藩家臣本多家の、第十一代当主であった。     二  本多政均襲撃の物音は、二の丸御殿の玄関式台にほど近い坊主溜りにも伝わってきていた。この坊主溜りに控えていて、竹刀《しない》で板を打ったような音とつづけて起こった唸り声とを聞きつけたのは、新番|小頭《こがしら》の山田佐助。 「だれか急病の者がおるようだ、見てまいれ」  と佐助は居合わせた茶坊主に命じた。  だが茶坊主は、走り出ていったままもどってこない。不審に思って佐助が柳の間長廊下に姿をあらわしたのは、本多政均に駆け寄ってとどめ[#「とどめ」に傍点]を刺そうとした刺客のひとりが、いち早く物音を聞きつけてやってきた徒目付から、 「控えよ」  と叱りつけられた時であった。  刺客ふたりはこの声により、血塗られた脇差を背に隠して神妙にその場にうずくまった。  奥からあらわれた徒目付は、三上孫市という古参の者であった。その背後には、同僚ふたりも紋羽織姿でつづいていた。  三上たち三人が刺客ふたりを取りかこむ間に、式台寄りの位置に顔を出した山田佐助は、茶坊主がかれらに背をむけておろおろしているのに気づいた。その顔の先の長廊下のかたえには、だれか倒れているのが見える。  小腰をかがめてすべるように近寄ってゆくと、ついいましがた登城したばかりの本多政均ではないか。  驚いてそのかたわらにしゃがみこんだ佐助は、いそぎ政均の流血|淋漓《りんり》たる顔の上に掌《たなごころ》をかざした。  まだ、息はある。それと気づいたかれは、 「気をたしかに召されませ」  と政均を励ますや、脱兎《だつと》のごとく駆け出してかなたの松の間をめざした。柳の間、檜垣《ひがき》の間の先にある松の間は、登城した重役たちの控え室にあてられている。 「た、ただいまお廊下にて、なにものかが本多播磨守さまに対して刃傷《にんじよう》におよびましてござる!」  激しい勢いで襖《ふすま》を引き、口迅《くちど》に伝えた佐助に対し、 「なんと」  と応じて最初に腰を浮かせたのは、まだ二十代の前田土佐守直信であった。かれは直之系前田家の当主で、やはり執政の職にある。  執政につぐ重職、参政に任じられている丹羽次郎兵衛、藤懸十郎兵衛、木村九左衛門も前田直信につづいて立ち上がり、松の間から畳廊下に走り出た。  本多政均の無残な姿に接したかれらは、眉をひそめてただちに典医黒川良安と当直医宮原純平とを呼び、応急の手当てをさせようとした。  しかしこのふたりが薬箱を抱え、儒者頭《じゆしやがしら》に結った髷を振り立ててやってきた時、すでに政均は急所からの出血おびただしく、手のほどこしようもない状態であった。  まだ三十二歳の若き執政は、自分がだれに、なんのために襲われたのかも理解できぬまま、まもなく事切れてしまった。とりあえずその遺体の長廊下側には屏風《びようぶ》が立てまわされ、警固の者がつけられた。  これに先んじ、三上孫市ほかふたりの徒《かち》目付たちに脇差を奪われていた刺客たちは、身分、姓名、年齢を申し立てるよう命じられた。 「三等上士山辺沖右衛門の嫡男、山辺沖太郎と申す。齢《よわい》は二十六でござる」  本多政均に初太刀をつけた男がすなおに答えると、沖太郎同様からだの前面を返り血に汚しているもうひとりも、落着いて口をひらいた。 「それがしは、一等中士井口義平。二十一歳に相なります」  この明治二年三月二十六日、加賀前田家は従来の職制を改定。藩主を藩知事と呼び変えた上に、旧加賀藩八家を上士上列、人持組を一等上士、頭《かしら》役および頭並《かしらなみ》を二等上士、平士《へいし》を三等上士、与力を一等中士、歩士《かち》を二等中士、歩士並を下士と改称していた。  藩知事前田慶寧によって上士上列から五人の執政のひとりに登用されていた本多政均は、はるか軽格のふたりによって命を奪われたわけである。  山辺沖太郎と井口義平は、ただちに坊主|溜《だま》りに連行されて別々の屏風囲いのなかへ入れられた。そして、徒目付とやや遅れて入室したそれぞれの支配頭とにより、存念を糺問《きゆうもん》されることになった。  山辺沖太郎の係は、三上孫市、支配頭奥村甚三郎とその相役の津田権五郎であった。  かれらと山辺沖太郎との一問一答は、本多政均を、 「本多従五位」  すなわちかれが従五位に叙されていたことからくる慣例的な呼称で呼び、左のようにすすめられた。 「まず、かような仕儀に立ち至ったる次第をありていに申し述べよ」 「二、三年前より存じよりがありましたが、時を得ずにおりました。今般同志の井口義平と同道の上、昨六日の朝五つ半(九時)ごろより本丸下の堂形《どうがた》にまかりこし、本多従五位殿の登城を待ちかまえましたが、登城しなかったのでしょうか、姿を見かけませんでした。そこで、かさねて本日おなじ刻限よりおなじ場所に出かけ、待ちうけましたるところ、四つ刻《どき》(一〇時)ごろだったか、従五位殿が登城してくるのを見受けましたので、それより先に二の丸表御殿に昇り、お廊下の杉戸辺に待ちかまえたのでござる」  つづけて山辺沖太郎は本多政均を襲った手順を語り、こう締めくくった。 「なお、本多従五位殿を殺害におよびましたる趣意は、支配頭に書面に記してお届けいたしましたるとおりにて、ほかにはなんの仔細《しさい》もござりませぬ。もとより、われら両名のほかに、同心の者もござりませぬ」 「初めに脇腹をひと刺しいたした時、ことばは懸けたのか」 「いえ、ことばは懸けておりませぬ」 「かような挙におよんだのは、本多従五位に対してその方どもの存じよりをたびたび建言いたしたものの、お採り上げがなかったために覚悟を決めたということか」 「いえ、これまで一度も建言いたしたことはござりませぬ」 「存じよりがあるならばとりあえず建言いたし、そのお採り上げがない場合にこそ、ひとはかような挙におよぶのではないか。一度たりとも建言いたさず、すぐさまかようなふるまいにおよぶとは、いったいいかなる心得か」 「その段は、申しひらきもござりませぬ。ただいま差し上げましたる趣意書とても、まずは採用されまいといちずに思いこみ、事を決行いたしたのでござります」 「この件につき、まことに井口義平のほかに同志の者はおらぬのか」 「覚悟のほどを伝えた者はひとりござりますが、これ以外に申し上げることはござりませぬ。まったく、趣意書に記しましたるとおりでござる」  もうひとつの屏風囲いのなかでおこなわれた井口義平の糺問も、結果は山辺沖太郎のそれと大同小異であった。  ふたりがそろって口にした「趣意書」とは、井口義平からその支配頭本橋一之進に提出されたもので、表書きには、 「上申書」  と記されていた。  だが本橋は、一見して不穏な言辞が書きつらねられているのに気づき、よく内容を改めず、ただちに松の間へそれを差し出してしまった。ために徒目付と支配頭たちは趣意書の文面に添った問いを発することもできぬまま、ふたりを糺問せざるを得なかったのである。  この糺問の結果を報じられた執政たちは、藩知事前田慶寧とも相談の上とりあえずふたりに揚がり屋(獄舎)入りを命じ、くわしい審問は公事場あらため刑獄寮の者たちにゆだねることにした。 ≪ [#地付き]井口 義平      [#地付き]山辺沖太郎       右義平等儀、今朝執政本多従五位に迫り候始末、(藩知事も)聞こし召さる。右様重職に対し、ことに殿中をもはばからず暗殺のふるまい、まずもって士道を取り失い、重々不届き至極の者につき、まず刑獄寮揚がり屋入り仰せつけられ候条、この段申しわたし、同寮へ引きわたさるべき事。 [#地付き]≫  この通達を受けた徒目付たちは、いそぎ刑獄寮へ連絡。刑獄寮はふたりの与力と足軽六十人に駕籠《かご》二|挺《ちよう》をそえて二の丸御殿へ急行させた。縄を打たれたふたりが押しこまれた駕籠には錠が下ろされ、網がかぶせられる。  こうしてふたりは城東の兼六園北側、明治維新後、 「尻垂坂《しりたれざか》通り」  と妙な名称のついた町にある刑獄寮へと送られていった。     三  前田慶寧は、三年前の慶応二年(一八六六)に父斉泰が五十六歳にして隠居したのにともなって加賀藩第十四代藩主となり、今は藩知事と呼ばれている。かれは顔もからだもでっぷりしている父とは対照的に、多病のゆえかひょろりとした華奢《きやしや》な体格をしていた。  顔はいわゆる殿さま顔で細長く、眉《まゆ》だけは男らしい太さだが、より大きな特徴は口もとにある。上の門歯が大きくて、出歯なのだ。  この日、二の丸奥御殿の居室にいて執政つきの者から井口義平の上申書を届けられた慶寧は、激しく本多政均の非を鳴らすその内容に不快の念を禁じ得ず、すぐさま火中に投じてしまった。ためにその内容は永遠の謎となってしまったが、かれはその直後に政均暗殺の急報を受けることになったのだった。  月代《さかやき》を大きく剃《そ》りひろげて刷毛先《はけさき》を固めた髷《まげ》を結い上げ、前田家家紋梅鉢を打った紋羽織をまとっていた慶寧は、小姓たちをしたがえて表御殿の長廊下へと急いだ。  すでにこの時、政均の亡骸《なきがら》には屏風《びようぶ》が立てまわされている。そのなかへ入って変わり果てた姿を凝然と見下ろしたかれは、唇を震わせて語りかけた。 「従五位よ、さぞ無念であろう。余は、片腕を失った思いがいたすぞ」  声は上ずって語尾が震え、声涙|倶《とも》に下るとはこのことかと思われた。居合わせた家臣たちは、その姿を見て声もなかった。  ややあって、すでに下手人ふたりは坊主|溜《だま》りで徒《かち》目付以下の吟味を受けている、と伝えられると、慶寧は気を取り直したようにいった。 「そのふたりには、かならず同盟者がいるはずだ。その者どもをも、探索いたせ」  元治の年に武門としてはあってはならない大失態をしでかし、家老の松平大弐に詰め腹を切らせる仕儀となったことはあるものの、かれは決して暗愚ではない。せわしく頭をはたらかせ、一刻も早く本多家に対する措置を講じねばならぬ、と思い至った。  黒書院にうつった慶寧は、とりあえず長《ちよう》九郎左衛門を呼びつけた。  加賀藩八家のひとつ、長家三万三千石の当主である九郎左衛門は、まだ年若ゆえに上士上列ではなく一等上士に甘んじていたが、かれは本多政均の女婿でもある。その九郎左衛門が下段の間に入室して叩頭《こうとう》すると、慶寧はひと払いをしてから口をひらいた。 「本多従五位の横死は、その一門の者たちにとっては痛惜に堪えぬところであろう。またその家来たちが聞けば、さぞ愕然《がくぜん》とするであろう」 「御意《ぎよい》にござります」  顔色の蒼白《あおじろ》い九郎左衛門は、ことば少なに答えた。うなずいた慶寧は、深刻な表情でつづけた。 「しかし本多家の家来たちが、万一憤激のあまり過激なる所業におよんだりいたしては、本多家のためにもよろしからず、天朝に対したてまつっても不都合千万なことになる。  つまり、この際もっとも肝要なのは、これ以上の騒擾《そうじよう》を出来《しゆつたい》させぬことだ。その方は従五位の親戚《しんせき》ゆえ、即刻本多邸におもむいて、従五位の家族、一門と本多家の重役たちにとくとこのことを申し聞かせてまいれ」  家禄五万石の本多家は、単に加賀藩のみならず旧徳川三百藩全体を見わたしても、最高の禄高を誇る家老であった。  城の南につづく小立野の台地上にあるその屋敷は、敷地面積優に一万坪以上。さらにその南側に打ちつづき、その名も、 「本多町」  と呼ばれる十万余坪の宏大《こうだい》な地域には、本多家の三つの分家と七百戸以上の家臣団が住まって、いわゆる、 「家中町《かちゆうまち》」  を形成していた。  このありさまを、 「金沢城下には、もうひとつの城下町がある」  と形容した者もあったほど。  もし合戦となった場合、本多家からは士卒千百三十人(うち騎馬武者一七〇騎)、人夫四百五十人、駄馬百五十頭が出陣する定めだから、この表現も決して誇張されたものではなかった。  加賀前田家家中において本多家の占める地位はかくのごとくであったから、まず慶寧は本多家家臣団が怒りのあまりに暴発し、城下に内訌《ないこう》同然の事態がおこることを恐れたのである。  つづけてかれは、ただちにすべての城門を鎖《とざ》して城へのあらゆる出入りを禁じ、要所要所には警備の士を配置するよう命令を下した。  しかしまもなく本多家にも、異変の気配は伝わっていった。  これは加賀藩だけに限ったことではないが、登城した藩士たちには、九つ(正午)近くなると当番の近習《きんじゆう》や足軽の手により、屋敷から弁当を届けさせる習慣がある。  赤松や樅《もみ》の巨木を茂らせている本多邸からも、当番の近習と供の足軽が通用門を出、本多政均の弁当を持って石川門をめざした。  だが石川門は固く鎖されていて通行できないし、 「本多播磨守のお弁当を持参いたした者でござる」  と事情を伝えても、門番たちは、 「とにかく入れられぬ」  の一点張りであった。そのため弁当係はやむなく屋敷へ引返し、 「御城内では、なにか変事がおこったらしゅうござります」  と本多家のおもだった者たちに報じたのである。  一体なにがおこったのか、と一同色めき立つうちに、本多邸にやってきたのは長九郎左衛門と山田佐助であった。  山田佐助は、身分はあまりに低いものの本多政均には従弟《いとこ》にあたり、日ごろ本多家にも出入りしていた。さらに政均が襲われた直後、長廊下に駆けつけてあたりの様子を実見していたため、みずから九郎左衛門に供を申し出てやってきたのである。  なにゆえの不意の訪問か、といぶかる本多家家来たちとはことばも交わさず、書院に進んだ九郎左衛門は、沈鬱《ちんうつ》そのものの顔つきであった。かれは本多家用人に対し、本多家の分家の当主——本多|図書《ずしよ》、政均の実弟本多|内記《ないき》、本多|求馬佐《もとめのすけ》と親戚の松平|治部《じぶ》、寺西|弾正《だんじよう》、そして本多家の家老五人を至急この場に参集させるよう申し入れた。  名差された者たちが下座に居流れると、九郎左衛門は硬張《こわば》った表情のまま切り出した。 「本日、従五位殿におかせられては、殿中のお廊下において不意のお怪我を召された。その後藩知事さまには拙者を御前へ召され、さよう本多家家中へ報じよと仰《おお》せ出されたるにより、この段申し伝える次第である。おのおの方は、又家来《またげらい》(陪臣)どもが動揺のあまり軽忽《きようこつ》のふるまいにおよぶことなどなきよう、洩《も》れなく通達いたせ」  慶寧は、直接政均の死を発表しては本多家家臣たちを逆上させることになると思案し、まず凶事の一端だけを長九郎左衛門の口から伝えさせることにしたのである。  それでも書院に集まった者たちは、色をなしてざわめいた。 「さては殿中の異変とは、御主人さまの身の上におこったことだったのか」 「それにしても、お家の一大事じゃ。こうしてはおられぬぞ」  なかには立ち上がって廊下へ駆け出そうとする者もあったので、九郎左衛門は上座から声を励ました。 「静まりませい。おのおの方が浮足立っては、いったいだれが家臣一統を取りしずめるのでござるか。藩知事さまには、かようなこともあろうかと思《おぼ》し召されて拙者を当家へ遣わされたのでござるぞ。  ただいま城中にては、凶変の後始末から当家に対する取りあつかいまで、藩の重役方による詮議《せんぎ》が進んでいるところなれば、心静めてなりゆきを御覧《ごろう》じられよ。ゆめゆめ、藩知事さまの御心にたがうふるまいにおよんではなりませぬぞ」  かねて考えてきた口上であったから、九郎左衛門のいうところはきわめて理路整然としていた。これを聞いた一同は、ようやく我に返って口をつぐんだ。  しかし本多家勤めの者たちのなかには、九郎左衛門の不意の来訪に胸騒ぎを感じ、書院外側の廊下に控えるふりをして、耳をそばだてている者たちも少なくなかった。この者たちの口を介し、政均遭難の飛報はたちまちのうちに本多町全域にひろまっていった。  軽挙妄動を押さえるべく、本多家からは目付役の者たちが四方に走った。だが興奮した男たちは、聞く耳をもたない。  袴《はかま》の股立《ももだち》を取って刀をひっつかみ、血相を変えて家から飛び出す者が相ついだので、この城下特有の黒瓦の土塀にそって走る本多町の道筋各所は、高田馬場に駆けつける堀部安兵衛のような形相をした男たちでにわかにごった返しはじめた。  それと気づいた本多家は、あわてて本多町をかこむ九つの門を鎖させた。そして各門には足軽を数名ずつ派遣し、固く通行を禁じたので、ようやくこの流れは封じこまれたのである。  ただしこうなっては、いつ何時またあらたに不穏な動きが生じないともかぎらない。そこで長九郎左衛門と山田佐助は、しばらく本多家に腰を落着けることにした。  金沢城から第二の使者がやってきのは、夏の日もようやく西に落ちて、暮れなずむ空に金沢名物の蝙蝠《こうもり》の群れがせわしげに飛び交いはじめたころであった。     四  今度、前田慶寧から使者に指名されたのは、執政前田土佐守直信と参政前田|内蔵太《くらた》の両名である。早くも中間《ちゆうげん》たちに提灯《ちようちん》で足もとを照らさせながらあらわれたふたりは、本多家家老のひとりが玄関式台上に出迎えると、 「本多従五位殿の嫡男|資松《よりまつ》殿をはじめ、親子、兄弟、従兄弟までを一室に請《しよう》じよ」  と感情を圧《お》し殺した口調で命じた。 「下屋敷」  と呼ばれる本多町の武家屋敷に対し、本多邸は、 「上屋敷」  で通っている。その本多家上屋敷は、東北をむいた番所つき四脚門造りの表門の左右につづく白茶けた土塀の一辺を取ってみても、百九十五間(約三五五メートル)の長さであった。  単郭式の平城《ひらじろ》とおなじような規模であり、敷地内には三百あまりの家屋が甍《いらか》を争っていたから、多人数を入れる部屋には事欠かない。前田直信と前田内蔵太は、ただちに長九郎左衛門たちが入ったのとは別の書院へ通された。  本多政均の遺児資松は、まだわずかに六歳。叔父本多内記に手を引かれてやってきた。  資松には、なぜ自分が恐い顔つきをしている大人たちの前に出なければならないのかわからない。まだあどけない目をまたたかせながら、つづけてやってきた親族たちの最前列中央に座らされた。  いそぎ着せられたとおぼしきその子供用の夏羽織には、五万石の大身の家の若君にふさわしく、はなやかな加賀紋があしらわれていた。  加賀紋とは加賀独得の飾り紋で、自家の家紋のまわりに松竹梅鶴亀を描き、友禅染めの手法で桃色、緑色、青色の三色に彩《いろど》ったものをいう。その紋服を着けた子が末永くすこやかであることを祈る吉祥紋の一種だが、幼い資松はこの吉祥紋をつけて父の凶報を聞くことになったのだった。 「藩知事さまにおかせられては、その方をはじめ当家家来衆の胸中をもおもんぱかり、いたく御心痛あそばされている。また藩知事さまには、後刻その方に家督相続を許されるとの御内意を拙者にお伝え下された。この段、しかと申し伝えおくぞ」 「本多播磨守の嫡子にかわり、ありがたくお受けいたします」  資松の右側に正座していた本多内記がくぐもった声で答え、資松をうながしてそろって叩頭《こうとう》した。  前田直信の口から、政均暗殺のあらましが伝えられたのはそのあとのこと。下手人が山辺沖太郎、井口義平の両名であったことも、この時初めてあきらかにされた。  政均遭難の第一報が入ってから、すでに半日経っていたため万一の時の覚悟ができていたのだろうか、親族たちのなかには目頭を押さえる者もいたが、だれも取り乱すことなく直信の声に耳をかたむけていた。  前田直信は、戦国時代からつづく北国の名族の出だけにおっとりとしたやさしい顔だちをしている。この様子を眺めてようやく安堵《あんど》し、本多図書に今晩中に政均の遺体を引き取るよう命じた。  本来、変死体は、目付の検屍《けんし》を受けてから遺族に引きわたされるものである。しかし、執政前田直信自身がすでに遺体の検分をすませていたため、検屍は省略されることになったのだった。  本多図書が、本多家家老|富田《とだ》長左衛門、近習頭以下二十数名をしたがえ、ひそかに石川門をくぐったのは深更四つ刻《どき》(一〇時)のことであった。外聞をはばかる事態だったため、本多家は城下がすっかり寝静まる時刻になってから動きはじめたのである。  本多図書が富田長左衛門と近習頭、衣類方、医師ほか数名をつれて柳の間長廊下をすすんでゆくと、洞穴のように暗い廊下のかなたに雪洞《ぼんぼり》の灯がいくつかぼんやりとあたりを照らし出しており、伽羅《きやら》の香がどこからか漂ってきた。雪洞のまわりには五人の番士が所在なげにうずくまって扇子を使い、そのかたえには屏風《びようぶ》が立てまわされている。 「お役目、まことに御苦労に存ずる」  図書が名のるとひとりが奥へ立ち、残りの者たちは屏風を片寄せて、白布でおおわれている政均の遺体を示した。  一礼して白布を剥《は》いだ衣類方は、付着した血がすでに黒く変色してしまっている紋羽織、袴《はかま》、麻かたびらその他を手早く脱がせ、白無垢《しろむく》の死装束に着せ更《か》えてゆく。それがおわると医師が進み出、政均の顔と襟首とにざっくりと走る疵口《きずぐち》を縫い合わせた。  図書がこの作業のおわるのを待っていると、奥の方からかすかな足音が伝わり、紙燭《しそく》の灯が揺らぎながら近づいてきた。 「本多図書か」  と呼びかけてきた声は、前田慶寧のものであった。 「はっ」  と答えてひざまずいた図書に、慶寧はしみじみとした声で弔意を伝えた。 「その方も、さぞ愁傷であろう。家来一統の心中も、深く察し入る。まもなく資松に相続を申しつくるにより、そのむね一同へ伝えておくがよい」 「こ、これはまた、まことにありがたき仕合わせに存じまする」  と、図書が嬉《うれ》しさに咳《せき》こみながら答えたのには理由があった。  加賀藩においては、ある家の主人が殺害された場合はその事情にかかわらず一度家名は断絶になる、という定めがある。その後、詮議《せんぎ》をすすめた上で従来の家禄《かろく》をいくらか減じ、家名再興と相続とが許されるのである。  しかし、今夕本多家への第二の使者となった前田直信が資松に対し、 「藩知事さまには、後刻その方に家督相続を許されるとの御内意を拙者にお伝え下された」  と告げたことと慶寧のいまのことばを勘案すれば、かれは事務的にいったん本多家を断絶させることも、何割か家禄を奪うことも考えてはいないらしい。  文字どおり不幸中の幸いというべき吉報を得た本多図書は、何度も慶寧に感謝のことばを述べてから、政均の遺体を収容した輿《こし》を守って本多家へ帰っていった。  かれらが本多邸に帰りつくと、間髪を入れず慶寧からの第三の使者が香典を届けにくるという一幕もあった。  さらに四つ半(一一時)、——。  今度は参政のひとり横山蔵人が本多邸を訪れ、 「藩知事さまには、資松殿に即刻登城せよと仰《おお》せ出された」  と伝声した。  だが資松はもう眠っているし、慶寧の話が理解できるとも思われない。かわって本多求馬佐が二の丸へ登城すると、かれは政事室へ案内され、そこに待っていた慶寧から、資松にあてた書状二通を手わたされた。  一通は弔問状とでもいうべきもので、このような文字がならんでいた。 ≪ [#地付き]本多 資松       父従五位儀、今朝横死いたし候段聞こし召され、深く御残念に思し召され、その方はじめ家来ども心中御推察、御心痛あらせられ候、この段家来どもへも申し聞かすべき御意。 [#地付き]≫  もう一通は、家督相続を許すとの御沙汰《ごさた》書であった。これによって資松は、上士上列に加えられることになったのである。  あけて八月八日、前田慶寧は執政たちに親書を下した。 ≪大政御一新については、朝命を遵奉《じゆんぽう》いたしおいおい改革に及び候ところ、なかには祖宗以来の旧法をいわれなく改め候よう存じ違い候者もこれあるや、すでに昨日本多従五位を暗殺に及び候始末、まったく前後の次第をもわきまえず、右従五位|一己《いつこ》の了簡をもって好んで新法をおこなうよう存じこみ候ゆえの儀に候。今般(自分は)藩知事仰せつけられ、列藩の標的(目標)とも相なるべきよう別段厚き叡旨《えいし》をこうむり候上は、不肖ながらこの末、右御趣意を奉じ、大変改も申し出ずるべきはずのところ、ひとりたりともさよう心得違いの者これあり候いてはまずもって天朝に対し相済まざる儀、かつはこの方の意を体さず政事向きの手障りに相なり、心外至極の事に候の条、この段厚く相心得、心得違いこれなきよう一統へ申し諭し置かるべく候也。    巳八月      執政中 [#地付き]≫  昨日、事件発生直後に徒《かち》目付と支配頭から糺問《きゆうもん》された時、山辺沖太郎と井口義平は他に同志はいない、と異口同音に申し立てた。  しかし慶寧の下したこの親書は、かれと本多政均とが進めてきたあまたの藩政改革につき、快からぬ思いを抱いている藩士たちも存在することを、はしなくも慶寧自身が認めた形になった。  執政たちを通じ、この親書の内容を知った藩士たちが一様に感じたのも、 (藩知事さまがあえてこのようなことを仰せ出されたのは、昨日犯行直後に井口義平が差し出したという上申書に、藩政改革批判の言辞が書きつけられていたに違いない)  という点であった。  これは決して、的はずれな感想ではなかった。慶寧が右の親書を執政たちに与えた当日のうちに、公事場《くじば》奉行は山辺沖太郎、井口義平の同志五人の捕縛に踏みきったのである。  この日、一気に城下にひろまったその五人の姓名と身分は、以下のごとし。  菅野|輔吉《すけきち》(一等中士)  多賀賢三郎(一等上士多賀左近の弟)  松原乙七郎(三等上士松原牛之助の弟)  岡野|悌五郎《ていごろう》(三等上士岡野判兵衛の四男)  岡山 茂(三等上士岡山久太夫の嫡男) [#ここで字下げ終わり]  菅野輔吉以外の四人は、まだ藩校明倫堂に学ぶ学生であった。山辺沖太郎は明倫堂で文学(儒学)を講じていたから、この四人は山辺の影響を受けて同志に加わったものと思われた。  また井口義平と菅野輔吉とは、ともに金沢城三の丸のうちにある河北門の衛士《えじ》に任じられていた。井口と山辺は親戚《しんせき》同士で意気が合い、会えばかならず時事を論ずる仲であったから、菅野は井口を介して山辺以下と知り合ったものと考えられた。  山辺、井口のふたりがこれら同志たちの名前を口にしたのは、井口が支配頭本橋一之進を介して前田慶寧に差し出した上申書の上書きが、あきらかに義平の筆跡とは違っていた点を突かれたのがきっかけであった。  両腕を後手に縛られて刑獄寮内の拷問蔵に引き入れられ、剥《む》き出された両肩を割れ竹で数百回もどやしつけられるという責め問いを受け、ふたりはこう白状したのだった。 「あ、あれは多賀賢三郎が浄書したのでござる」  事の一端を告白してしまった者は、緊張が失せて芋づる式にすべてを吐いてしまうことが多い。ふたりの口からつづけて四人の名前が出たので、公事場奉行はこの五人を一斉に捕縛したのである。  しかし、本多政均暗殺計画に加わっていたのは、まだこれだけではなかった。  あらたに捕えた五人を訊問《じんもん》した結果、岡野悌五郎の長兄|外亀四郎《ときしろう》や、藩儒石黒圭三郎の名前も出てきた。外亀四郎と圭三郎は東京の加賀藩邸にいるため、ただちに金沢に檻送するよう決まったが、さらに八月十日の午前中には、三等上士土屋九内から養子の茂助が切腹したとの届けが出されたのである。  寡黙の質の土屋茂助は、筋骨に満ちた雄大な体躯《たいく》と機《はた》流の槍術《そうじゆつ》をよくすることで知られていた。  君が為《た》めつくし尽しし真心を後に知るらん世の中の人  死出の山くらき夜すがら迷ふとも迷はじものはもののふの道  その遺書にはあまりうまくはない二首の辞世が記され、 ≪八月九日夜心静害  赤心報国     土屋茂助盛親 (判)≫  と書かれていた。  あらためて七人を糺問したところ、多賀賢三郎が浄書した義平の上申書の文案は、土屋茂助の手になるものだったことが判明した。  本多政均暗殺計画は単純な憎悪や怨恨《えんこん》に発したものではなく、どうやらかなり深い根をもっているようであった。 [#改ページ]  第二章 燠《おき》 火《び》     一  本多|政均《まさちか》暗殺犯たちの批判する加賀藩の藩政改革が始まったのは、慶応二年(一八六六)年末からのことであった。  しかしその概要を知る前に、前田|慶寧《よしやす》の大失態によって元治《げんじ》の変をおこして以降の、加賀藩の動きを頭に入れておく必要がある。  もともと加賀藩士たちは、 「他藩の士と交わってはならぬ」  という時代遅れの定めに縛られていた。  そのため前田家は、幕末の国事多端な状況を的確に把握することができず、百三万石と徳川三百藩中最大の石高を誇りながら、時代に対してなんら寄与するところなく元治元年(一八六四)を迎えたのだった。  時の藩主前田|斉泰《なりやす》の正室は、名を溶姫《ときひめ》。この溶姫が徳川十一代将軍|家斉《いえなり》の二十二女だったため、 (幕府をないがしろにするような動きを見せてはならぬ)  との思いが家中に濃かったことも、その理由のひとつであった。  ちなみに、斉泰が溶姫と祝言を挙げたのは文政《ぶんせい》六年(一八二三)四月のこと。溶姫が本郷五丁目の加賀藩江戸上屋敷に引き移ったのは同九年十一月のことであったが、このあと、斉泰、溶姫夫妻の住まう御守殿《ごしゆでん》の門として建てられたのが、今も東京大学にある赤門である。  前田家がいかに徳川家を尊崇していたかは、この一例によって知れよう。  この斉泰にかわり、まだ世子の地位にあった慶寧が元治元年から政治の表舞台に登場したのは、斉泰自身の意志にしたがってのことであった。斉泰はすでに知命(五〇歳)を過ぎていたため、後事を慶寧に托そうとしたのである。  ところが期待の慶寧が、長州勢が御所に大砲を撃ちこんだ当日に退京するという愚挙におよんだために、斉泰は隠退するどころの騒ぎではなくなってしまった。  尊攘《そんじよう》激派の藩士たちを次々に粛清し、返す刀で慶寧を金谷御殿に閉居謹慎させたかれは、まず芸州藩主浅野|安芸守茂勲《あきのかみもちこと》(のち長勲《ながこと》)に対し、幕府との関係修繕に努めてくれるよう申し入れた。  さらに慶応元年(一八六五)三月、参勤交代で自身が江戸に出府してからは、元老中の岡崎藩主本多|美濃守忠民《みののかみただもと》、大老職にある姫路藩主酒井|雅楽頭忠績《うたのかみただしげ》を訪れて幕府への口上書を提出。慶寧を許してくれるよう頼みこんだ。  だが慶寧の罪は御所を守護しなかったことにあるのだから、慎み御免の幕命を出せばよいというものではない。そこで幕府から書をもって朝廷の意向を訊《たず》ねたところ、朝議は四月十日にその罪を許したので、慶寧はまた政治の表舞台に復帰することができたのだった。  このころ幕府は、禁門の変をおこした長州藩の罪を問うべく、徳川十四代将軍|家茂《いえもち》の親征によって長州追討をおこなうと決意していた。そのため、この年の閏《うるう》五月に家茂が上洛《じようらく》すると、慶寧はその不在の間江戸城の留守をあずかるよう命じられた。  慶寧はまだ体調が思わしくなかったため、かれ自身が出府を果たしたのは慶応二年三月になってからのことであった。だが、その翌月幕府が斉泰の隠退を許したので、慶寧は晴れて加賀前田家第十四代当主となったのである。  時に慶寧、三十六歳。日本一の大藩の新進気鋭の藩主として江戸、京都、国許《くにもと》の政治向きを合わせ見る多忙な生活に入った。  かれがきわめて急進的な藩政改革を打ち出したのは、八月に急逝した家茂につづき、孝明天皇も崩御して公武合体の世がおわりを告げた、その十二月二十五日からのことであった。  京都から国許へ帰っていたこの日、まず慶寧は家老以下に対してその分に応じ、登城ないし他出する際に長柄傘《ながえがさ》の携行、乗物の使用、挟箱持ち・笠籠持ちなどの供をしたがえることを廃止するよう命令。二十九日には諸役人に対し、冗費を節約して繁文を止《や》め、かつ時局に関して思うところを上申するよう求めた。  これに先んじて慶寧は、従来の軍制を洋式に改める方法を組頭《くみがしら》たちに調べさせていたが、あけて慶応三年正月三日には家老たちを召して伝えた。 「その後、軍制につき熟慮をかさねたところ、余は銃陣を編成するのが最善との結論を得た。封土たる加越能(加賀、越前、能登)三国の全力を挙げ、費用を醵出《きよしゆつ》させて前例にこだわることなく兵力を整備せよ」  ついで十一日、かれは諸士に対し、武家の礼服である熨斗目長袴《のしめながばかま》での登城を禁じ、平日も肩衣半袴《かたぎぬはんこ》ではなく羽織袴を用いるよう布告。みずから紋羽織を着用してその範を垂れ、あわせて幼少の者に振袖を着せることを禁じた。  このあたりから慶寧は、めまぐるしいほどひんぱんに新法を発令して厭《う》むことを知らなかった。  同月二十四日、諸士が小銃の稽古《けいこ》をする射的場の距離を五十間(九一メートル)と決定。  二十八日、出船奉行と能州破損船奉行を廃し、その仕事は十ヵ村にまかせると布告。  二月、幣帛《へいはく》(神前の供えもの)を白山比《はくさんひめ》神社の六社にたてまつり、今月春分をもって新年祭をおこなうよう布令。  同月五日、人持組頭《ひともちぐみがしら》その他に属する陪臣の子女が他家に嫁ぐにあたり、その子女の乗った駕籠をかつぐ者たちが花紋を染め出した衣装をまとう習慣を禁止。  六日、藩校明倫堂に学ぶ者たちに筒袖小袴を着用して登校することを許し、藩校から直接登城する場合は着更《きが》えの必要なしと通達。  十四日、藩主の便殿《べんでん》(休息所)前庭に射的場をもうけ、近侍の者たちに操銃の稽古を奨励。また藩主が城下を通行する時、諸士は門と窓を鎖《とざ》し、商店は店を閉めて店の前に屏風《びようぶ》を飾る旧習を廃止。  二十五日、藩主その他が城南東寄りの兼六園にゆく時、百間堀通りの通行を禁じた旧習を廃止。  二十八日、昨年十二月二十九日をもって孝明天皇の崩御が発表された点を考慮し、今後毎月二十九日には禽獣《きんじゆう》魚介類の捕獲を禁ずると発表。  三月十七日、城内当直の者は大小将組《おおごしようぐみ》から歩士《かち》にいたるまで、公務の合間を見て大広間前庭にて大砲、小銃、刀槍《とうそう》の術を演じ、志ある諸役人もこれに加わるよう通達。  十九日、与力や歩士が家督相続する場合、その許しが下りるまでの日にちが一定していなかったのを改め、与力は七ヵ月、歩士は三ヵ月後に相続を認めると発表。  二十一日、家老村井又兵衛を召し、算用場奉行と協議の上、誠意をつくして窮民救済策を講ずるよう通達。  二十八日、書をもって、諸士に武芸の稽古をおこたることなきよう警告。  四月九日、諸奉行に遊民授産の法を講じるよう通達。  六月二日、あらたに騎兵隊をもうけることとし、馬奉行に厩《うまや》の馬をふやすよう命令。薄禄にて自馬《じば》を飼い置けない者には、この馬を貸与して馬術を学ばせることとする。  二十八日、堂形《どうがた》馬場に騎兵の練兵場を開設。  ……………  すべての政策は、藩のすみやかな近代化と富国強兵とを願って打ち出されたものであった。  しかし慶寧は、良くも悪くも殿さま育ちでしかなかった。かれは加賀百万石の第十三代藩主と将軍家の姫君との間に生まれた貴種だけに、世の中には矢つぎ早に機構や慣習が改変されると戸惑いを感じ、ついてゆけなくなる者たちもいることにまったく思いおよばなかったのである。  そして慶寧の改革は、やがて加賀藩の制度そのものの大幅な手直しへとつながっていった。     二  同年九月一日、慶寧は加賀藩の支城小松城の武具奉行職を廃止し、小松|馬廻番頭《うままわりばんがしら》にこれを兼ねさせることにした。  同月二十八日には、馬廻組を銃隊馬廻組へと改編。先手|物頭《ものがしら》を廃して銃隊物頭、砲隊物頭を置くことにし、また弓隊の射手《いて》を銃隊馬廻組に組み入れた。  さらに三十日には、定番馬廻組と組外組の士をことごとく銃隊馬廻組に編入してしまった。  しかし、馬廻組といえば藩主の側近くに仕え、いざ合戦となれば本陣を守る重要な役職である。また先手物頭といえば、先頭に立って戦場を馳駆《ちく》すべき武門名誉の役柄にほかならない。  ひるがえって戦国時代以来、射撃は鉄砲足軽の仕事とされてきたのであって、士分の者たちの間には、 「飛び道具とは卑怯《ひきよう》なり」 「武士の表芸は、弓馬刀槍《きゆうばとうそう》の四芸なり」  という感覚がまだ色濃く残っていた。  その分だけ、新式銃装備の洋式銃隊への編入には心理的抵抗が強かったことに、慶寧は少しも気づかなかった。  十一月八日、慶寧は足軽階級の子弟一千余人を募り、銃手あるいは鼓手に任用して禄《ろく》十五俵を与えることにした。  つづけて十日には、藩士たちの職俸《しよくほう》の制度を全面的に改めた。  従来、家禄百五十石未満の者がいずれかの職の頭役に登用された場合は、かならず加増して家禄百五十石とする習わしであった。しかもその家禄は、子孫へと代々受けつがれることになっていた。  だがこのようなことをつづけていると、次第に藩の支出は増大の一途をたどることになる。これを恐れるあまり、百五十石未満の家の当主を頭役に起用することをためらう風潮が顕著であったため、慶寧は人材登用を目的として、家禄を百五十石に引き上げるのは在職中に限ることにしたのである。  これもまた頭役在職中の者たちに不満を抱かせる改変だったことに、慶寧は考えおよばなかった。  同月十二日、かれは諸役人と老人、病人、少年たちによって寄合馬廻組を編成。十三日には、奏者番の者たちを交代で城中に宿直《とのい》させることにした。  また十九日には、銃隊幹部の職俸を決定した。番頭《ばんがしら》は百五十石、使い番は百石、旗奉行・軍役奉行・小荷駄奉行に任じられた者のうち、本高《もとだか》百石以下の者は銀三十枚、二百石以下の者は銀二十枚、三百石以下の者は銀十枚。伍長に任じられた者のうち、本高百石以下の者は銀二十枚、二百石以下の者は銀十枚、……。  二十三日には、従来、普請の際に諸士から経費を徴収していた制度を廃し、かわりに軍用金を出させることにした。同時に、普請奉行を廃止し、普請会所を閉鎖した。  二十七日には、藩主が国許に不在の時は人持組その他の者たちを二の丸柳の間に宿直させることにした。これは、これまで宿直にあたっていた定番馬廻組の者をことごとく銃隊馬廻組に編入してしまったことに伴う措置である。  十二月一日には、これまで普請会所の管理してきた城内の石垣と城下を流れる辰巳《たつみ》用水とを作業所に移管する、ほか二種類の改定をおこなった。  さらに同月四日には、武具所を細工所に統合した。  しかも慶寧のおこなったことは、以上のごとき藩政改革だけではなかった。  福沢諭吉の『西洋事情』が刊行されたのは、さる慶応二年初冬のことであった。これを読み、ヨーロッパ諸国が貧民救済と病院の設置に熱心なことを知ったかれは、自分もこれにならおうと決意したのである。  金沢城から東へ半里弱の地点には、 「卯辰山《うたつやま》」  あるいは、 「向山《むかいやま》」  と呼ばれる丘陵が盛り上がっている。頂上からは眼下に金沢城が見下ろせるため、町人たちの登山は禁じられていたが、慶寧はこの卯辰山を開拓して病院と医学校、製薬所を開設し、あわせて庶民教育のため集学所を置くことにした。  慶応三年六月に始まったこの開拓が、十月の病院落成によってひと区切りつくと、かれは犀川上流の笠舞《かさまい》にあった窮民小屋をも卯辰山に移し、撫育所《ぶいくしよ》と名づけて授産活動をおこなわせた。さらにその東の麓《ふもと》には陶器、漆器、綿布、紙、瓦、油、蝋《ろう》、釘《くぎ》、刀、鏡、錦絵、茶などを製産する工場をつくり、山上には芝居小屋、矢場、湯屋、茶店、料理屋まで置いたから、卯辰山は時ならぬにぎわいを見せることになった。  ただしこのような大工事が、士分の者たちの手だけで遂行できるわけもない。 「市民|冥加《みようが》」  と称してこの大工事に狩り出された者たちの数は、四、五万人にも上った。  前後して慶寧は、犀川の宝久寺河原の沿岸に土居を築き、一万五千余坪の土地を得てこれを町方の宅地に供すること、石方役所を設けて石材を貯蔵すること、その他の新事業に次々と手をつけていった。すべては富国強兵のため、民のためではあったが、そのたびごとに鼻面を引きまわされる側からいえば、 (またか)  ということになる。  このような気分を引きずりながら、加賀藩は最後の将軍徳川|慶喜《よしのぶ》の大政奉還から戊辰《ぼしん》戦争へと一気に突きすすむ幕末の奔流に棹《さお》さすことになったのだった。     三  前田慶寧は藩政改革には異様なほどの熱意を見せたが、京の情勢に関してはさしたる見識を持ち合わせてはいなかった。 「本年七月以降、列藩と交代で三ヵ月間京師警衛の任に当たれ」  と慶喜が慶寧に通達したのは、慶応三年六月四日のことであった。  しかし慶寧は腹を立て、その辞退を申し入れた。  これまで幕府は、加賀藩を尾張、紀州、水戸の徳川御三家と同格に扱ってきた。この御三家は京都警衛を免除されているのに、なぜ加賀藩のみがこれを務めねばならないのか、という理屈である。  しかし、幕府はその主張を認めなかった。そこでまた慶寧は病気を決めこみ、家老のひとり長連恭《ちようつらやす》とその家臣団二百五十をかわりに上京させた。これが七月四日のことで、それから約三ヵ月後の十月十四日、慶喜は朝廷に対し、ついに大政奉還の上表を提出する。  すると朝廷は、今後のことは加賀藩主以下の列侯の入京を待って決定するという態度だったので、慶喜はふたたび慶寧の上京をうながした。やむなく慶寧は、まず十月三十日銃隊馬廻組に、十一月一日には本多政均に対して自分にかわって京へ上るよう命じた。  だが本多政均が家臣団四百三十余とともに入京してみると、京都には金沢で漠然と考えていたのとは打って変わった緊迫感がみなぎっていた。藩論を討幕と定めた薩摩《さつま》、長州、芸州三藩の兵はすでに続々と入京しており、会津、桑名両藩を主力とする佐幕派諸藩や旗本御家人たちとは、すでに一触即発の形勢だったのである。  愕然《がくぜん》とした政均が国許《くにもと》に急報したため、ようやく慶寧も重い腰を上げた。かれが自慢の洋式銃隊をしたがえて京に入ったのは、十二月九日——皮肉なことに、朝廷が王政復古を宣言した当日であった。  同夜、御所内の小御所《こごしよ》でひらかれたいわゆる「小御所会議」の結果、慶喜には辞官納地——官位辞退と土地人民の還納が命じられたからたまらなかった。怒りに身を焼かれんばかりとなった佐幕派諸藩の藩士たちは、銃や刀槍を持って慶喜のいる二条城に続々とつめかけ、城中は鼎《かなえ》の湧くようなありさまとなった。  これを見た慶寧は、政均と相談。慶喜が二条城を動かないかぎり薩長勢と佐幕派勢力との間に開戦は必至と考え、政均を二条城に派遣することにした。  十二日、政均は慶寧の意を体して二条城へゆき、慶喜にすみやかに退京するよう勧めたので、慶喜はその夜のうちに大坂城をめざして京を去ることになる。この時同時に政均は、 「徳川家万一の際は、加賀前田家が兵力をもってこれをお助け申し上げる」  と慶喜に誓約して見せた。  元治元年に初めて上洛《じようらく》した時、慶寧はつねに長州藩を擁護する態度を貫いていた。しかしそれは、長州藩の攘夷《じようい》断行を高く評価したからであって、かれは長州藩がその後討幕に動きはじめようとは夢にも思ってはいなかった。要するに尊王攘夷思想が討幕の決意へと育っていったことを、まったく見抜けなかったのである。  土壇場で加賀前田家伝統の佐幕の思いを甦《よみがえ》らせたかれは、その日のうちに新政府に対して帰国願いを提出。翌十三日、前田|内蔵太《くらた》とその家臣団のみを京に残して、金沢へ帰った。  帰国してみると、国許でも政権を私《わたくし》しようとする薩長を憎み、旧幕府を慕う意見が圧倒的であったから、慶寧は薩長と雌雄を決すべく京へ出兵することを決意した。  その間に年があらたまって慶応四年となり、正月三日にはじまる鳥羽伏見の戦いに旧幕府勢は一敗地に塗《まみ》れた。  その飛報を聞いても慶寧が出兵を中止しようとしなかったのは、禁門の変当日、不意に退京して武門の面目を汚したことを後悔しつづけていたからである。旧幕府勢が盛り返して最終の勝利を収めた場合、佐幕派として出兵していなかったならば、加賀前田家は今度こそどう処分されるかわからない。  元治の変以降、慶寧の片腕として藩政に参与している政均も同意見であったから、ついに十一日、かれは家老のひとり村井又兵衛とその家臣団を京へむかって進発させた。十二日、その先鋒部隊は越前の長崎まですすみ、又兵衛自身は金沢の南西二里あまりの小松に泊した。  ところが、——。  この十二日のうちに在京の前田内蔵太から、薩長勢はすでに朝廷から錦旗を下賜され、官軍の名分を確立したとの急報がもたらされたのである。  薩長勢が官軍ならば、旧幕府勢は賊軍となる。肝《きも》をつぶした慶寧は、あわてて慶喜との誓約を破棄することを決意。いそぎ小松の村井又兵衛に出兵中止命令を伝え、あわせて先鋒部隊をも引返させるという醜態を見せた。  このころまだ朝廷側は、加賀藩内部でこのような茶番劇があったことに気づいてはいない。慶寧に兵をひきいて上京するよう命じるかたわら、在京加賀藩士に橋本の関門を守らせた。  しかしこの朝命を奉じ、おっとり刀で上洛しても、これまでの行動を糺問《きゆうもん》される恐れがある。悩んだ慶寧は、また病気を理由に召しに応じず、在京の横山|外記《げき》のもとへ銃隊を派遣することによって自分の代理とすることにした。  禁門の変当日につづき、またしても加賀藩は、鳥羽伏見の戦い終了後に官軍側につくという見苦しい動きを見せたのである。  朝廷が、加賀藩に疑惑の目をむけたのは当然のこと。二月十一日、朝廷は在京の前田直信、横山外記に一書を与えた。 「加賀宰相中将」  という宛名は、慶寧が藩主に就任して以降、前田家伝統の加賀守《かがのかみ》を名のり、左近衛《さこんえの》中将に補されていたことに由来する。 ≪ [#地付き]加賀宰相中将       先年(元治元年)輦下《れんか》御変動のみぎり、なおまた旧冬(慶応三年)同様の形勢に当たり、上京滞在ながら帰国の儀、臣子の分ことに武門の身いかがとすこぶる御不審につき、その旨趣御尋問候間、情実|巨細《こさい》に言上これあるべくお沙汰《さた》の事。 [#地付き]≫  ひらたくいえば、お前はなにかあると決まってどっちつかずの態度に終始するが、どういう存念なのだ、と慶寧を詰問したのである。  朝廷はこれに先立つこと八日、有栖川宮熾仁《ありすがわのみやたるひと》親王を東征大総督に任じ、四海平定のため山陰、東海道、東山道、北陸道、中国・四国、九州へ先鋒総督兼鎮撫使を派遣することを決定していた。  返答次第によっては、加賀藩は迫りくる北陸道鎮撫軍を敵にまわして存亡の危機を迎えることになる。あわてふためいた前田直信と横山外記は、平あやまりの請書《うけしよ》を差し出した。  禁門の変当日に退京したのは、長州藩の不穏な事情に気づいて周旋につとめようとしたが、齟齬《そご》をきたしたためであったこと、しかし不行届きの家来たちは厳重に処罰したこと、昨年末に、騒擾《そうじよう》をおこさぬよう慶喜に二条城から大坂城へ移るよう勧めたのは慶寧だったことなどをくどくどと弁明したこの書状は、こうむすばれていた。 ≪しかるところ、日ならず(鳥羽伏見にて)兵端相開き候場合に至り候ては(出軍の)時機を失い、藩屏《はんぺい》の任においても不本意の次第、何とも悔悟恐縮まかりあり候。これらの趣中納言(斉泰)にも恐れ入りたてまつり、上京の上お詫《わ》びもつかまつるべく候えども、私どもにおいてもはなはだもって心痛まかりあり候につき、実蹟をもって報国の赤心を顕《あらわ》し申したく候につき、御親征の御先鋒嘆願つかまつり候儀に御座候。もちろん北陸道の儀は、弊藩《へいはん》一手へ御委任下され候わば、一同感激つかまつり、粉骨砕身忠勤を尽くし申したく嘆願たてまつり候。かつ恐れ入りたてまつり候えども、御初政のみぎりすべて御寛大御朝議の趣拝承もつかまつり候儀、弊藩においてもひとえに御|憐愍《れんびん》の趣返す返す懇願つかまつり候。以上≫  文中で、徳川御三家と同格に交際していた前将軍慶喜を呼び捨てにしたり、突然官軍先鋒を志願したりするなど、変わり身の早さをあからさまに示した文書である。  朝廷側は一読失笑を禁じ得なかったのではないかと思われるが、親兵を持たない朝廷としては猫の手も借りたい事情がある。慶寧に対し、次のような沙汰書を下した。 ≪ [#地付き]加賀宰相中将       御不審の筋これあり御糺問のところ、巨細御返答紙面の趣、かれこれ齟齬の次第これあるべく候えば、すべて既往は問わせられず候間、御理《おことわり》の趣いずれも聞こし召され候。さりながら向後《きようこう》のところ右様の不都合の儀これなきよう、きっと心得べく御沙汰候事。 [#地付き]≫  今度不都合なことをしでかしたら容赦はしない、と言外に匂わせられたのだから、加賀前田家としては勤王派諸藩に立ち混じり、抜群の忠誠を示してみせる必要に迫られたわけである。  三月五日、慶寧は朝廷に対し、軍事費用として米七十万俵を七ヵ年分割で献納することを申し出て許された。  その後、加賀藩が北越総督府軍に参加させるべく出征させた兵数は、使丁、従僕、役夫四千六百余名をふくめ、総員七千六百余名に達した。戦意盛んではなかったため、戦死者は百人あまりと比較的少なかったものの、慶寧が洞《ほら》ヶ峠を決めこまなかったならば、かくも大規模な動員は必要なかったはずであった。  勤王か佐幕か。最後までその選択に迷ったつけ[#「つけ」に傍点]は、その後も莫大《ばくだい》な出費となって降りかかってきた。  慶寧は、沙汰書を受けてまもなく一万二百五十両を献納。  五月には、十三万両を朝廷に融通。  六月二十九日には、味噌《みそ》五十|樽《たる》、塩|茄子《なす》五十樽、梅干三十樽、わらじ二十万足、空き俵一万枚を奥羽の戦陣に発送。  七月二十六日、白米一万石を越後柏崎へ輸送。  同月二十七日、雷管六十万発と四ポンド山砲の砲弾数万発を発送せよとの命令を拝受。  八月、白米九百石を箱館へ運漕《うんそう》。  九月二十四日、わらじ二十万足を越後|新発田《しばた》へ、雷管三十万発を本営に納入。  十二月四日、米二千三百石、わらじ十七万五千足以上、空き俵七万枚近くを本営に納入。  ……………  加賀前田家は、かくも高い優柔不断のつけ[#「つけ」に傍点]を払わされつづけたのである。藩上層部はともかく、相つぐ藩政改革に振りまわされたのにひきつづき、各地の戦場へ狩り出された藩士たちこそいい面《つら》の皮であった。  ことば遊びのひとつに、 「物は付け」  というものがある。なになにの物は、という問いに頓知《とんち》のきいた答えを出して優劣を競う遊びだが、明治維新の前後に金沢城下で流行した「物は付け」のひとつに、次のようなものがあった。  骨折ってなんら効なきものは、平士《へいし》の出軍  元治の変、藩政改革、戊辰戦争とあわただしい年月を送る間に、あきらかに藩士たちの間には藩上層部に対する不快感が根づいたのである。  本来この不快感は、内政には必要以上にうるさいものの外交感覚に欠けすぎていた慶寧にむけられるべきであった。  しかし、藩という組織のなかにある以上、どんな藩主であれ藩主あっての藩士たちだから、かれらの不満が直接藩主にむけられることは滅多にない。その間の事情は、天皇親政の体制下にあって天皇の政治手腕に疑問を感じる者たちが、決まって、 「君側の奸《かん》を排除せよ」  と主張するのによく似ている。  一方、加賀藩においては、本多家を筆頭とする加賀藩|八家《はつか》の権勢が他にぬきんでており、 「加賀には藩主が九人いる」  と揶揄《やゆ》されることさえあった。  当然、藩士たちはこの時代に慶寧のふところ刀として藩政改革を指導し、戊辰戦争の軍事方を統括した加賀藩八家の当主を疎ましく感じるようになった。  こうして声なき非難を一身に浴びることになったのが、本多政均だったのである。     四  本多政均は天保《てんぽう》九年(一八三八)五月八日、加賀本多家第九代当主、播磨守《はりまのかみ》政和の次男として生まれた。幼名|洞菊《ただきく》、のち右近と称した。  父政和が弘化《こうか》四年(一八四七)九月に逝去したあと、本多家第十代当主となったのは兄の周防守政通《すおうのかみまさひら》であった。だが、この政通は安政《あんせい》三年(一八五六)十一月、嗣子なきまま死亡してしまった。  そこで当時十九歳の政均が、政通の末期養子となって本多家を相続。ちょうど一年後の安政四年十二月には従五位下に叙され、播磨守に任じられて加賀前田家家中に重きをなすことになったのである。  この本多家第十一代当主は、決して暗愚の質ではなかった。少年時代から国学や儒学を学んでいたし、筆を持てば武家好みのなかなか雄勁《ゆうけい》な文字を書いた。  五万石の家の若殿としてきびしく躾《しつ》けられたから、自室にいる時もかならず正座して膝《ひざ》をくずさず、暇があれば目を閉じてなにごとか物思いに耽《ふけ》るのがつねであった。  こうして政均は謹厳実直な青年家老へと育っていったが、その性格には固苦しすぎて融通のきかないきらいがあった。  実弟の内記が郡《こおり》奉行の職にあった時、本多邸の一室で政均とことばをかわすうちに、 「ところでいま、わが藩にはいったい何頭くらい軍馬が飼いおかれているのでしょうか」  と訊《たず》ねたことがある。  髷《まげ》を流行《はやり》の講武所髷に結っていた政均は、眉《まゆ》が切れ長の目に迫っている顔を内記にむけ、ぶっきら棒に答えた。 「軍馬のことは、軍政上秘匿するを要す。その方ごときに伝えてよいものではない」  本多家当主であるからには、縁故を頼って仕官運動のためやってくる者たちとの応接は避けられない。しかし政均は歴代の当主とはことなり、これらの依頼にも一切耳を傾けなかった。  これは良く言えば清廉潔白だが、けんもほろろにあしらわれた側からいえば、 「温情に欠ける男だ」  ということになる。一事が万事このような調子だったため、加賀藩八家のうち最高の家柄の当主であるにもかかわらず、政均はきわめて不人気な家老となっていった。  それに、政均は多くの家来たちにかしずかれて育っただけに、ひとと議論しても頑として自説を枉《ま》げない癖があった。世のなかには自分の所論を受け入れない者も存在するということが、かれには理解できないのである。  文久《ぶんきゆう》三年(一八六三)秋、家老たちの間で海防問題が論じられた時もそうであった。  日ごろ寡黙の質《たち》であるにもかかわらず、政均には一度しゃべり出すとひとりで滔々《とうとう》とまくし立てて止まらなくなる傾向がある。この年の六月、初めて入京し、異人嫌いの孝明天皇に拝閲を許されて意気揚々と帰国したばかりだった政均は、過激な攘夷《じようい》論を展開して厭《う》むことを知らなかった。  しかし当時の加賀藩は、幕府から右をむけといわれればいつまでも右をむいているような雰囲気にどっぷりと浸っていた。幕府が開国和親を唱えている以上、家老たちもこれを是としていたから、政均の意見に賛同する者は皆無であった。  生まれて初めて孤立の悲哀を味わった政均は、これを耐えがたく感じて思いきった挙におよんだ。家老職を辞して、屋敷に引きこもってしまったのである。  結果としては、この選択が幸運を招いた。元治の変に連座することなく無為の日々を過ごしていたがために、事変後政均は一躍家老職に返り咲いて慶寧の信頼を勝ち得ることになったのだ。  政均の鼻っ柱の強さ、矜持《きようじ》の高さは、個人的資質というよりも、本多家がきわめて特殊な家柄だったことに由来していたと見て大過ない。  加賀本多家はその遠祖をたずねれば、遠くは平安朝中期の右大臣藤原|師輔《もろすけ》、近くは家康・秀忠の二代につかえた徳川幕府創業期屈指の功臣本多|佐渡守《さどのかみ》正信にゆきつく。  正信の嫡男は、これも家康と秀忠とにつかえた本多|上野介正純《こうずけのすけまさずみ》だが、その次弟に諱《いみな》を政重《まさしげ》という者がいた。通称を長五郎といった政重は、初め徳川家家臣のひとり倉橋長右衛門のもとへ養子入りし、父や兄同様家康につかえていた。  ところが政重は、慶長《けいちよう》二年(一五九七)十七歳の時、喧嘩《けんか》のあげく岡部庄八という者を殺害してしまい、江戸を出奔《しゆつぽん》するという事件をおこした。  正木左兵衛と変名したかれは、西国へ流れて越前|敦賀《つるが》城主大谷|刑部少輔吉継《ぎようぶしようゆうよしつぐ》、備前中納言・岡山城主宇喜多秀家、芸州広島城主福島|左衛門大夫《さえもんだゆう》正則の家中に渡り奉公。慶長七年、初めて加賀へきて第二代藩主前田|肥前守《ひぜんのかみ》利長につかえたものの、二年後には出羽米沢藩家老|直江山城守兼続《なおえやましろのかみかねつぐ》の婿となって安房守《あわのかみ》勝吉と名のった。  米沢藩主上杉|越後守景勝《えちごのかみかげかつ》は、家康への敵対行為によって会津百二十万石から米沢三十万石へと減封されたといういわくがある。そのため景勝の謀臣直江兼続は、家康のふところ刀である本多正信の次男を養子とすることにより、主家安泰を策したのである。  ところがその後、政重は直江家を去って京に寓居《ぐうきよ》してしまった。  それが慶長十六年七月に至り、伊勢津藩主藤堂|和泉守《いずみのかみ》高虎の仲介によって加賀藩に帰参。第三代藩主前田|筑前守《ちくぜんのかみ》利常から破格の五万石を提示されたが、三万石を返上して前田家につかえることになったのだった。  これも前田家の、直江兼続とおなじ計算による採用だったと考えてよい。  前田家には、初代利家以来、利長、利常と三代にわたって徳川家への謀《む》叛ほんを疑われ、そのたびに陳弁これつとめてようやく大所帯を維持してきた過去がある。  利家の正室|芳春院《ほうしゆんいん》を江戸へ送り、大名証人(人質)制度の先鞭《せんべん》をつけたのも加賀前田家であった。前田家は政重を異例の高禄で召し抱えることにより、家康・秀忠父子、ひいてはその下で外様《とざま》大名取りつぶしを策している本多正信・正純父子に対し、幾重にも取り入っておく必要に迫られていた。  なおも安房守を名のっていた本多政重は、その後まもなく五万石へと加増された。加賀本多家はこの石高を保持しつづけて幕末に至ったわけだから、その十一代当主となった政均のうちに、 (ひと口に加賀藩八家などといわれるが、わが本多家だけは格別である)  との思いがあったとしても、決してゆえなしとしないのである。  しかし政均は、すでに見たようにどうにも不人気な家老であった。  かれは慶寧とともにあまたの藩政改革に邁進《まいしん》するにあたり、論客多数を自宅にまねいて時事を論じさせた。その議論を聞いてさらにおのれを高めようとしたのだが、口さがない藩士たちは、本多邸の出入りが急増したのを見て噂した。 「本多播磨守は、なにやら良からぬことを企んで党派を作ろうとしているのではないか」  官軍として出兵させられたことからさらに政均嫌いになった平士たちの間では、こんな歌がはやった。  花を見たけりゃお席へござれ いまは南瓜《かぼちや》の花盛り 「お席」  とは、執政たちの集まる政事堂のことである。  その執政たちのなかでもっとも人気のあるのは、人柄もおだやかで万事に保守的な前田土佐守直信であった。この直信ではなく政均が執政の上席にあることを嫌悪した者たちは、政均の失脚を願ってこうも歌った。  土佐さん早うらと出ておくれ 安房餅《あわもち》ゃ次第に手に合はぬ  本多家当主には、初代政重以来の伝統で安房守を名のる者が多かった。そこで政均を、粟餅になぞらえたのである。  こういう感覚は、幕末以来|燠火《おきび》のように前田家家中に燻《くすぶ》りつづけていた。  しかし政均は、側近たちから自分について流言|蜚語《ひご》がおこなわれていると耳打ちされても、一笑に付すばかりだった。 「一部の不平者の声におもねり、群盲の嘲《あざけ》りを恐れていて、藩政改革ができるか」  この強気が裏目に出、政均はかれが藩政をほしいままにして私利私欲を肥やしていると信じた若手藩士ふたりの手にかかって、金沢城二の丸長廊下に屍《しかばね》を晒《さら》すことになったのである。  それには、明治二年六月のうちに加賀藩が版籍奉還に踏みきり、慶寧が新政府からあらためて藩知事に任じられたことも大きな影響をおよぼしていた。  藩知事の下には、大参事というひとり限りの最高職が置かれることになる。この大参事には執政のなかからいずれかが抜擢《ばつてき》されるものと考えねばならないが、現状でゆけば政均が大参事に昇るのが順当である。  しかしそうなっては、ますます政均が発言力を持つことになり、その専横ぶりはより一層強まるに違いない。山辺沖太郎と井口義平は、そう思いこんで政均襲撃を急いだのであった。 [#改ページ]  第三章 始 動     一  刑獄寮の揚がり屋に投じられた山辺沖太郎と井口義平は、同志たちもすでに逮捕されたと伝えられると、かれらと談合して本多|政均《まさちか》暗殺を決意するに至った経緯を供述しはじめた。  その内容は、およそ左のようなものであった。  ……藩政の御一新につきましては、たびたび仰せ出だされたこともあり、わたくしどももその御趣意を奉じてまいりました。しかしその改革はとかく徹底を欠くところが多く、上下一致するところもなく、家中には不平を抱く者が次第にふえて農民どもも困窮するやに聞きおよびました。  これは奸吏《かんり》どもが私利私欲に走っているからに違いないと思い、去年から執政方に談判しようかと相談いたしまして、かねてから心やすくつき合っている岡野|外亀四郎《ときしろう》の意見を聞いたりもいたしたのでござります。  しかるに今春以来、ますます政治むきはおかしな方向にむかいつつあるやに感じられましたので、あれこれ聞きこみましたところ、すべては本多従五位の専横に発することと察せられました。けれど、このまま推移しては加賀国《かがのくに》の国威立ち難しと建言いたしたとて、本多従五位が執政上席に座っている以上は採用されまいと思い、打ち殺すほかはないと考えたのでござります。  菅野|輔吉《すけきち》、土屋茂助にもその心底を打ちあけ、同志としてたびたび会合いたしました。外亀四郎へも赤心を伝えたるところ、 「過激粗暴のふるまいにおよんでは、かえって困難を引き出すことになろう。いま一度よく考えなおし、他国へ留学してとくと見識を磨いた上で、いかようにも国事に尽くしてはどうか」  と説得されまして、わたくしどもも一度は留学を考えました。  しかしその後さらに見聞したところを合わせ見ると、このままでは君臣の分立たず、かつ窮民も増加の一途をたどるばかりにて、傍観してはいられぬ心境に相なりました。のみならず松原乙七郎などは、 「よもやあのふたりに、本多従五位を暗殺することなどはできまい」  と申したとか。  そこまでいわれては、もはや思いとどまるまいと決意いたし、わたくしどもふたりと菅野、土屋の都合四人にて討ち果たそうということになって、岡野悌五郎方にてくじ[#「くじ」に傍点]引きをおこないました。  すると、わたくしどもふたりが当たりくじ[#「くじ」に傍点]を引きましたので覚悟を決め、あらかじめ上申書を認《したた》めておいて、本意《ほい》を遂げた時には上申することにしたのでござります。  八月五日、わたくしどもふたりのほか、菅野、土屋、松原、岡野悌五郎、岡山茂が多賀賢三郎方へ集まって酒宴をひらきました際、 「そなたたちが首尾よく本懐を遂げた時は、われらが政治むきのことは幾重にも建言しよう」  と皆が口々にいってくれましたので、わたくしどもも快く宴《うたげ》につらなった次第でござります。  その後、夜になってから多賀方を辞去いたし、わたくしどもは殿中にて討ち果たすことを申し合わせました。  本懐を遂げた次第はすでに申し上げた通りでございますが、この件はわたくしども両人が初めから主張いたし、菅野、土屋が同意いたしたことでございます。岡野悌五郎と多賀賢三郎は、 「粗暴のふるまいにおよんではならぬ」  とわたくしどもを説得いたしましたが、わたくしどもが承諾しなかったため、もはや思いとどまらせることはできぬと考えたようでございました。すなわち岡野と多賀は、決してわたくしどもと同心の者ではござりませぬ。  岡野外亀四郎は、東京へ出立する以前よりわたくしどもに他国留学を勧めてくれた者にて、これも同志ではござりませぬ。  石黒圭三郎は外亀四郎の親友でござりまして、岡野悌五郎の口よりわたくしどもの赤心を伝えましたところ、石黒も賛意を表したと聞きました。そこで井口義平が、石黒の東京出立前に一度面会いたしましたが、初めての会見でしたので暗殺の決意までは打ち明けておりませぬ。…… 「本多従五位を奸悪|巨魁《きよかい》とみるに至った証拠を、くわしく申し立てよ」  という尋問に対しては、ふたりは以下のように答えた。  ……別に、これといって証拠となりうる書類などはござりません。ただ種々見聞いたしたるところによって、さよう信じたのでございます。  政治むきのことを批判つかまつるのは恐れ多いことではありますが、聞くところによれば近ごろ本多従五位は権勢をふるい、先代、当代の両殿さまを政治むきより遠ざけているとのこと。従三位さま(前田慶寧)をもむりやり隠居させんと画策する一方、自分は加賀藩より高岡藩とやらを分離独立させてその藩知事におさまる了見《りようけん》との噂も紛々《ふんぷん》と飛び交っておりました。  これは容易ならざることでござりますので、先般来あれこれ調べてみましたが、わたくしどもはなにぶん微臣のこととて調べがゆき届きません。考えてみれば本多従五位としてもかような了見を簡単に洩《も》らす道理もないため、まったく手掛りをつかめなんだのでござります。  しかし、なんのいわれもなく、かような噂がわたくしどもの耳にまで達するはずもござりません。なお調べをつづけましたるところ、本多従五位は政事《まつりごと》について勉励せざること少なからず、との風聞が聞こえてまいりました。  たとえば、先に元治の変にて切腹刑に処せられました、千秋《せんしゆう》順之助以下の取り扱いでござります。  かの者たちは、過激の所業ありし由なれば当然の御処置であったとは存じますが、それはもともと私心に発したことではなく、藩のおためを思ってなしたるところでござりますから、家名再興を許すとのお沙汰《さた》があってもよろしいかと存じます。従三位さまもさよう思《おぼ》し召しておいででありますのに、本多従五位はこれを嫌がり、思し召しを妨げて布令できぬようとりはからっていると聞きおよんでおります。  また、近来の洋学御採用は時勢に照らして至当とは存じますが、本多従五位は大義名分をわきまえずに洋風を主張いたし、玩物《がんぶつ》にひとしき兵器にのみ執着してわが国伝統の武器である弓、刀、槍《やり》などをいわれなく廃するかたむきがござります。  そのため家中には異風を好む士が急増いたし、柔弱に流れ、驕奢淫佚《きようしやいんいつ》ひいては弱国の汚名を受けるように相なって、国威立ち難いことになっておるやに相見えます。  さらに、近ごろ商法局を設置なされ、商いが盛んになりつつあることは富国|仁恤《じんじゆつ》の御趣意に発するものと存じておりますが、凶作や兵備に関するお手当てなど不足がちに相見え、このごろは越中筋および石川、河北の窮民が嘆願に押し寄せるとの噂も流れております。  要するに、富国強兵もままならずに良全不易の美法がみだりに廃されているのでござります。  これは従三位さまの藩政改革御布令の御主旨にそむくところでござりますから、諸士の間にも不平を唱える者が少なくはござりません。これらの事情は、本来ならば重職の方々が細かく指摘して、失政なきようにいたすべきでござりましょう。  しかるに藩の上下は意思の疎通を欠き、上位者にこびへつらう輩《やから》ばかりが登用されて政事をほしいままにし、国害をかもす所業のみがおこなわれているのでござります。これは加越能三州の士民がそれぞれに感じ、悪いことになったものだと申しているところゆえ、お取調べになればたちどころに明白となるところでござりましょう。  かような次第でござりますから、このまま打ちすぎてもし本多従五位が大参事となった場合には、いよいよ我意をほしいままにいたすはあきらかと存じ、お国のためにこれを屠《ほふ》り去ったのでござります。……  ふたりは幕末の藩政改革その他を証拠もなく本多政均の独断専行と思いこみ、根も葉もない噂を信じて暗殺を決行したのであった。  しかし、かれらがそのように盲信した背景に、酷薄に過ぎた元治の変の粛清劇の記憶が、暗渠《あんきよ》のように横たわっていることも同時にあきらかとなった。  藩儒|杏《きよう》敏次郎について学問を修めた井口義平は、 「杏先生より元治の志士たちの事蹟《じせき》を教えられまして、国事にめざめたのでござります」  とも告白していた。  この井口は、元治元年八月十一日に近江の海津村で切腹した松平|大弐《だいに》の与力だった経歴の持ち主でもある。  岡野|悌五郎《ていごろう》の父判兵衛は、やはり元治の変に連座して閉門となり、家禄《かろく》二百十石のうち百石を召し上げられた人物。またその三男外亀四郎にも、公事場《くじば》に禁錮《きんこ》された経験があった。  山辺と井口が名を挙げた石黒圭三郎は、藩校明倫堂で教えていたが、かれも勤王を唱えたがために元治元年十月から明治元年三月までの三年半の間、禁錮に処されていた。  明治政府への聞こえをはばかったのと同時に、ふたりの供述から元治の変と本多政均暗殺とのかかわりを気にせずにはいられなかったのだろう、事件発生からわずか二ヵ月後の明治二年十月、加賀藩は元治の変で処罰された者たちの罪を一斉に許した。  生胴《いきどう》に処された福岡惣助、斬首された小川幸三、切腹刑となった不破富太郎、千秋順之助、大野木仲三郎、青木新三郎の家には、嗣の有無によってもとの家禄の三分の二ないし二分の一が支給されることになったのである。  前田慶寧は、慶応元年四月に謹慎を解かれた時には松平大弐の遺族に香典を贈り、翌年四月に藩主に就任した時には、おなじく親書を贈ってその忠節を称《たた》えていた。いずれ大弐の霊は、前田家の墓所に合祀《ごうし》されることになる。  ただし永牢や閉居を命じられた者たちのなかには、赦免の吉報を聞くことなく獄死、あるいは病死の途《みち》をたどった男たちもいた。  御台所《おだいどころ》づき同心組柴田喜太夫の厄介叔父駒井|躋庵《せいあん》五十七歳、金沢町会所の横目|肝煎《きもいり》浅野屋佐平五十二歳、町医者谷村|直《すなお》三十八歳、大小将組の広瀬勘右衛門二十八歳。  これらの家々には、藩から祭粢料《さいしりよう》が贈られることになった。ちなみに刑死者とこれらの獄死者、病死者は、明治二十四年になってから靖国神社に祀《まつ》られることになる。     二  加賀本多家の墓所は、金沢市中から南へ半里、富樫村《とがしむら》の船底山に七堂|伽藍《がらん》を誇る曹洞禅の道場|大乗寺《だいじようじ》にある。  本多政均の遺体は、その死から十日を経た明治二年八月十七日、この墓所に葬られた。戒名は、大雄院殿義蘇道忠大居士という。  この葬儀もおわり、本多家の気持もやや静まってから、その家来たちの間では評定《ひようじよう》がひらかれた。議題はいうまでもなく、亡き主人の無念をいかにして晴らすか、である。  ある者は、憤懣《ふんまん》やる方ない表情でまくし立てた。 「下手人とその徒党どもがことごとく獄に投じられてしまった以上、ただちに成敗《せいばい》いたす手立てもない。さればとて、こやつらを生きながらえさせておくのも口惜しいし、もしこやつらが獄死でもいたしおったならば、遺憾やる方ないことになる。この上はすみやかにその筋に迫り、下手人どもの身柄を申し受けて思う存分にいたしてくれようではござらぬか」 「しかし、藩知事さまにおかせられてはいくたびも資松《よりまつ》さまに懇切なおことばを下さった上、異例にもすみやかに家督相続することをお許し下されたのだ。あえて強請《ごうせい》嘆願におよんだりいたしては、藩知事さまのお心に反するおこないとみなされ、せっかくの恩典も沙汰止みとなる恐れなきにしもあらず。されば下手人どもの措置は法の定めたるところに任せておき、われらは主家を護《まも》ってまだいとけなき資松さまのすこやかなる御成長を祈ることこそ本分でござろうて」  と、穏やかな立場をとる者もいた。  このような意見に対しては、強硬派が反論してやまなかった。その代表的な意見は、以下のようなものであった。 「さような腰の引けた申しようは、断々固として認められぬ。非命に斃《たお》れたもうたわれらがあるじの御無念をお察しいたせば、家来たる者、身の置きどころもないと申すもの。あやつら小身の者どもの理不尽きわまる暗殺をみすみす見過ごすようでは、 『本多家の家来どもに、ひとりたりとも忠節の士はおらぬ』  と嘲笑《ちようしよう》されて、末代までの恥辱をとるは必定《ひつじよう》となろう。たとえ身は法に触れようと、身命を抛《なげう》って義に殉ずることこそ武士《もののふ》の本懐ではござらぬか。  いわんや幕末以来の藩政改革は、藩知事さまが天子さまの叡慮《えいりよ》を奉じてなしたまい、われらがあるじがこれを輔翼《ほよく》あそばされたもの。これを妨げし下手人どもは、すなわち天朝に対する不忠の輩ともいうべきであろう。さらに、もしもいまわれらが拱手《きようしゆ》傍観のみをことといたし、若さま御成長のあかつきこれを無念と思《おぼ》し召されたならば、一体なんといたす所存か」  このような論理のもとに強く復仇《ふつきゆう》を主張する一派の代表は、本多|弥一《やいち》という人物であった。  当年二十五歳、政得《まさなり》という諱《いみな》をもつ本多弥一は、加賀本多家第八世、安房守|政礼《まさつぐ》の三男伊織|政醇《まさあつ》を父とし、殺された政均から見れば従兄弟《いとこ》にあたる。  政醇は、天保五年(一八三四)本多宗家より家禄五百石を与えられて分家していたが、弥一は嘉永《かえい》二年(一八四九)にその家督を相続。明治維新以降は分家から降《くだ》って本多家家臣の身分となり、宗家の家老を勤めていた。  髷《まげ》をいつも総髪の儒者頭《じゆしやがしら》にきっちりと結い上げている本多弥一は、おとがいの長く尖《とが》った異相であった。  中条流と一刀流の剣を学びながらも撫《な》で肩で、細い体躯《たいく》に威圧感はないものの、額はひろく眉《まゆ》は濃く、くぼんだ眼窩《がんか》に光る両眼は猛禽《もうきん》のそれのように鋭い。男臭い風貌《ふうぼう》そのままに、弥一は闊達《かつたつ》ながら激しい気性の持ち主として知られていた。  本多家に家老は五人いる。そのひとりである弥一が強硬な復仇論者であり、滔々《とうとう》と説き去り説き来たる弁舌の才をもあわせ持っていたから、穏健派の家臣たちは評定を重ねれば重ねるほど旗色が悪くなっていった。  これに気を良くした復仇論者の百四十人は、 「すみやかに下手人ふたりのお下げわたしを藩庁に申し入れるべし」  と主張。連署して弥一を除く四人の家老たちに迫ったので、家老たちもその熱意にほだされて嘆願書をしたためた。  明治二年九月二十七日、資松の後見人のひとりである本多図書を介して政事堂に提出されたこの文書は、事件発生後ただちに資松の家督相続が許されたことに感謝しながらも、弥一たちの主張するところをあまさず伝えていた。 ≪……家臣どもの至情、故従五位(本多政均)心外の大難|憤怨《ふんえん》の一念を推察つかまつり、|腸は《はらわた》裂け胆《きも》は砕け候については、怨敵井口義平、山辺沖太郎、御刑法御決定の上は(本多家へ)下し賜り、資松の手前(眼前)において命を絶ち、故従五位の冤魂《えんこん》を少しく慰するの義、相|叶《かな》い候よう嘆願しきりに申し立て候につき、……もはや私ども身の極まるところにて、右臣子の情実動かざるの義を引き受け、嘆願たてまつるのほか御座なしと決慮つかまつり、恐懼《きようく》御裁判のほどを顧みず、伏して泣血《きゆうけつ》嘆願たてまつり候。誠恐|誠惶《せいこう》謹言   巳九月 日 [#地付き]本多資松家老役      [#地付き]篠井《しののい》源五右衛門   [#地付き]堀 清左衛門   [#地付き]富田《とだ》長左衛門   [#地付き]土方《ひじかた》源右衛門 ≫  この九月中に、執政たちのうちから選ばれてただひとりきりの大参事職に昇っていたのは、前田直信である。この嘆願書を熟読吟味したかれは、本多図書を招いて告げた。 「臣子の情はまことにもっともなれど、刑典の規定もあり、刑部省《ぎようぶしよう》へおうかがいを立てた上でなければお答えいたしかねまするな」  刑部省とは、古代の律令制にもとづき、この年のうちに設置されていた中央の司法機関である。 「ならば、すみやかにおうかがいいたして下さりませ」  図書が答えると、前田直信はおっとりした顔だちに困惑の色を刷《は》いて黙りこんでしまった。  それでも本多弥一たちは藩庁から刑部省へ問い合わせがおこなわれたものと信じ、年の瀬の迫るころまで表立った活動を控えていた。  しかし、なんの沙汰《さた》もない。 「これはいかん。さらに嘆願をくりかえそうではないか」  弥一たちは明治三年の正月明けからふたたび嘆願を開始し、その回数は初夏までの間に都合十数回に達した。  それでも藩庁は、 「刑部省からなんの御指示もまいらぬ以上、返答のしようがない」  の一点張りであった。  業を煮やした弥一は、ある日、本多町のうちにある自宅の広間におもだった同志たちを集め、鷹のような目つきで一同を見まわしてから口をひらいた。 「下手人を当方へ下げわたしてもらいたい、というからうまくゆかんのだな。斬首の刑に値する罪を犯した者たちは、為政者の立場からいえば、首斬り役によって斬に処さねばならぬのだから」  なにを言い出すのか、と思って一同が上座に座った弥一の異相を見つめていると、かれはことばをついだ。 「しかし、ともかくわれらは下手人ふたりにせめてひと太刀浴びせたいのだ。下げわたしが認められないならば、われらのうちより首斬り役を選び出してくれるよう申し入れようではないか」 「これは愉快、拙者は意表を突かれましたぞ」  手を打って真先に賛意を表したのは、弥一とならんで上座についていたからだつきのがっしりした人物であった。  矢野策平、四十四歳。代々本多家につかえる本家から分家して家禄《かろく》五十石を得、本多政均の近習《きんじゆう》兼剣術師範をつとめていた中条流剣術の達人である。かれは弥一の剣の師でもあり、いわば弥一の軍師格として若手ぞろいの復仇論者たちに一目置かれていたから、そのひと言で話は簡単にまとまった。  このあと本多家の後見人の名義で差し出された嘆願書の文面は、以前とはかなり様変わりして尻《しり》を叩《たた》かれたような内容になっていた。 ≪……これまで数度にわたる必死の嘆願、是非是非お聴き届け相なるよう致されたく、もし願いのとおり仰せつけ難く候わば、せめてはかれら嘆願者の内へ、犯人|截手《きりて》(首斬り役)仰せつけられ候よう致されたく、さなくてはわたくしどもはこの上説得致し難し、……≫  これに連署していた後見人とは、本多図書と長《ちよう》九郎左衛門あらため九郎、横山|蔵人《くらんど》あらため多門の三人である。あきらかにかれらは、このころから弥一たちの強硬な姿勢とは一線を画しはじめていた。  大参事前田直信と弥一たちの間をむすぶ存在がこのような態度だから、弥一たちの真剣さが直信に感じ取れるわけもない。直信の回答は、けんもほろろな内容に終始していた。 「先ごろ嘆願書を差し出した時に、その処置については刑部省におうかがいするからお沙汰を待て、と申しわたしたはずだ。なのにそれを待たずにかような強願《ごうがん》におよぶとは不遜《ふそん》の至りなれど、臣子の情実に発するところゆえよんどころなしと思って見逃してつかわす。おっつけお指図もあろうほどに、穏やかに下知を待つよう申し伝えよ」  大参事のこのようなことばを伝えられては、弥一たちとしてはこれ以上動きにくい。やむなくその後は嘆願書を出すのを控えているうちに、加賀藩はまたしても藩制改革を打ち出した。  しかし今度ばかりは、 (またか)  と思う者はいなかった。その改革とは、直臣《じきしん》と陪臣《ばいしん》との区別を廃止し、今後は陪臣も一般の藩士同様にあつかう、という内容だったからである。  旧幕のころ以来の、どんな大身《たいしん》の者であれ陪臣は直臣よりも身分が低い、という感覚はまだ色濃く残存していた。  たとえば阿波徳島藩|蜂須賀《はちすか》家の場合、直臣たちには白|足袋《たび》の着用を許すが、陪臣たちは浅葱《あさぎ》色の足袋しかはいてはならないと定めており、この身分差別が明治三年に城代家老稲田家の分藩騒動の起こるひとつの誘因となった。  また会津戊辰戦争に際し、会津藩は四方を新政府軍に囲まれてしまった鶴ヶ城から出撃する陪臣たちを、以後は直臣として召し出す、という方策を採った。四千石取りの家老北原|女《め》につかえ、家禄百三十石を得ていた荒川類右衛門もそのひとりであったが、荒川の著作『明治日誌』は、 ≪誠ニ以テ身ニ余リ感涙、胆ニ銘ジ御前ヲ退キ、……≫  とこの時の感激を書き記している。  陪臣が直臣に身分を改められる時に感じる喜びは、現代に類例を求めるならば、支社採用のローカル社員が本社採用の正社員に登用される場合のそれに似ているといえようか。  しかしこの例をもっていうならば、本社採用の正社員には転勤や出向があるが、ローカル社員にはそれがないという利点もある。  この制度改革に接した時、本多弥一たちがまず感じたのも、 (直臣となると遠国《おんごく》詰めを命じられる恐れがある)  という不安であった。 「遠国詰めを命じられたりしたならば、御主人さまの敵討《あだうち》に加われなくなってしまう」  同志たちの間に焦りの色が兆すのを見た本多弥一は、矢野策平とも相談の上、藩庁にこう申し入れた。 「本多家家来どもについては、当分の間遠国行きの必要なお役目は御容赦願いたく存じます」     三  本多弥一たちがこのような運動をつづけているうちに、早くも政均の一周忌がまわってきた。本多家が、菩提寺の大乗寺で盛大な法事を営んだのはいうまでもない。  そしてこの明治三年八月のうちに、刑獄寮の獄舎につながれていた井口義平、山辺沖太郎の審理もようやく終了。藩庁はふたりの罪状は斬罪に値する、との結論に達したが、一応、刑部省あてに処刑案を差し出してうかがいを立てることにした。 ≪ 伺《うかがい》 状《じよう》 [#地付き]金沢藩士族山辺沖右衛門嫡子      [#地付き]己巳八月七日より入牢 山辺沖太郎   [#地付き]二十七才   [#地付き]同藩一等中士      [#地付き]同 断  井口義平   [#地付き]二十二才   右沖太郎等|巷説《こうせつ》を信じ、自己の了簡をもって、重職の者を暗殺に及び、不届き至極に付き、斬罪申しつくるべきや、別帳の口上書相添え、この段お伺い申し上げ候。     明治三庚午八月 [#地付き]金 沢 藩 ≫  この時代、裁判・警察・監獄のことをつかさどるのは刑部省だが、非違検察をうけもつのは弾正台である。この「伺状」が刑部省から弾正台にまわされると、弾正台は金沢に大巡察を派遣して事件の背景と藩情とを再調査させることにした。  大巡察一行は、八月中に金沢に到着。数日間滞在して東京へ帰っていったが、これを遠く眺めていた弥一は、またしても一計を案じた。 (弾正台へも、下手人の下げわたしを働きかけてみよう)  と考えたのである。  ちょうどこのころ、旧本多家家臣たちに遠国勤めは御容赦願いたいと申し入れていたにもかかわらず、兵部省騎兵|御馬掛《おうまがかり》に採用されて上京することになった者がいた。山島紋蔵。  ある日弥一は、紋蔵を自宅に招くと、 「なにもいわず、これを納めよ」  といって、金子三百両と大刀ひとふりを差し出した。弥一の家禄《かろく》は五百石だが、五万石と譜代大名並の家格を誇る加賀本多家の一門だけに、ふところは家禄以上に豊かなのである。  目をまるくしてこれを見つめた紋蔵は、 「その代わりに、ちと頼み事がある」  と弥一が要件を切り出すと、一も二もなく引き受けていた。  この時、紋蔵の前に金子と大刀とを運んできたのは、お琴という娘であった。いわゆる、 「加賀美人」  の典型で、小柄細面ながら目鼻立ちがくっきりしていて、色がぬけるように白い。  髪は高島田におしどり毛をわたし、緋縮緬《ひぢりめん》を根掛けにした、 「雄《おん》おしどり」  というみずみずしく気品ある形に結い上げていた。これは、すでに嫁ぎ先の決まった娘の結う髷《まげ》にほかならない。  お琴がこの髷を結っているのは、弥一の妻になるつもりだからであった。  お琴は死んだ政均が十七歳の時、本多家につかえる腰元に生ませた娘で、今年十六歳になる。これまでは本多家上屋敷のうちのひと棟をあてがわれて暮らしてきたが、資松の代になると、お琴は資松の異母姉にあたるから、本多家側ではその処置に困りはじめた。  そこで政均の一周忌がめぐってきたこと、および弥一がまだ独り身をつづけていることを奇貨とし、 「祝言を挙げるのはあとでよかろう」  と、お琴を弥一の屋敷に同居させることにしたのである。  むろんお琴にとって、弥一は見ず知らずの相手ではなかった。政均の葬儀にも、その一周忌の法事にもふたりは列席していたし、幾度もことばを交わしたこともある。  それどころかお琴は弥一を以前から憎からず思っていたから、喜んで弥一の屋敷にやってきたかと思うと足軽、中間《ちゆうげん》、家僕たちを集めて、 「今後、当家のことはわたくしが差配いたします。わたくしのことは奥方さまと呼ぶように」  と宣言していた。  そのお琴を、弥一が客の前に出すのには理由があった。  お琴はまだ十六歳とはいえ、女が十四、五歳で嫁ぐのは当たり前の時代だから、男女のからだの交わりについてもとうに承知している。弥一のもとにきて以来、至極当然のこととして、かれの寝所に共寝することを願った。  しかし弥一は、まだお琴を抱いてはいなかった。 「どうしてなのでございますか」  ある夜、また枕を抱いて弥一の寝所を訪れたお琴は、夜着のまま褥《しとね》のかたわらに座って怨《うら》み言をいった。 「弥一さまは、わたくしがお嫌いなのですか。あるいはどこかに、二世を契ったよいお方がいらっしゃるのですか」 「いや、そんなことはない」  起き上がって褥の上に正座した弥一は、旧本多家家臣団の評定の席で見せるのとはまったく別の、困ったような顔をして答えた。 「でしたら」  抱いて下さりませ、と身をぶつけてくるお琴の上体を抱き止めて、弥一は宥《なだ》めた。 「しかしな。相すまぬが、おれはまだそなたと夫婦《めおと》になる気にはなれぬのだ。そなたが当家におれと同居いたし、使用人に奥方さまと呼ばせるのは一向にかまわぬ。だが共寝いたすのは、もう少したってからのことにしようではないか」  これは本音を隠したせりふだけに、お琴にはどうにも理解しがたい言い分であった。  弥一は、本当はこういいたかったのである。 「おれは、ご主人さまの仇を討つまでは女色を絶つ、と心に誓ったのだ。しかも、もし首尾よく敵討《あだうち》に成功したあかつきには、おれは良くて切腹、悪くすれば斬に処されることになろう。それ以前にそなたと男女の交わりをいたしておったなら、そなたは長い生涯を疵物《きずもの》として送らねばならぬことになる。だからおれは、そなたを抱きたくとも抱いてはならぬのだ」  しかし、そう打ち明けてお琴の口から敵討の意志が外にひろまったりしては、元も子もなくなる恐れがある。だからこそ弥一は、来客があるとお琴を妻として同席させることにより、 「これこのように、おれはそなたを妻として扱い、決してないがしろにしてはいないではないか」  と伝える必要に迫られていたのだった。 「これは、そなたとおれだけの秘密だからな」  とお琴に念を押した上で、弥一の屋敷へ招かれたのは山島紋蔵だけではなかった。東京詰めを命じられた者たちではないが、つづけて村田|八十八《やそはち》、中野安平のふたりも弥一から資金を与えられ、東京行きを依頼された。  かれらに托されたのは、藩儒石黒圭三郎の行方を探ることであった。  初め東京の加賀藩邸にいると思われた石黒に対しては、井口・山辺の相談にあずかった疑いありとして金沢への檻送が決定された。ところがこの時かれは行方不明となっていて、身柄を拘束することは不可能であった。  この石黒は、明治三年三月十八日、どこからか飄然《ひようぜん》と帰国。藩庁のお尋ね者となっていると知って、自訴して出た。そして吟味を受け、政均暗殺には関与せず、と判定されたものの、脱藩の罪を問われて九十日間の閉門を命じられた。  その閉門を解かれたあとふたたびいずこかへ姿を消したため、 (やはりあやつには、疚《やま》しいところがあるに違いない)  と弥一は考え、その行方を追う必要を感じたのである。  東京へ出た山島紋蔵から時々送られてくる報告書によれば、かれは縁故をたどって弾正台の役人に接近するかたわら、長州出身の参議広沢|真臣《さねおみ》にもすがり、 「わかった、まかせておけ」  との確約を得たということであった。  しかし、年も改まった明治四年一月七日、広沢は妾《めかけ》と同衾《どうきん》していたところを正体不明の刺客に襲われ、滅多突きにされて即死してしまった。 (もう少しであったのに、惜しいことをした)  その死を残念に思った弥一は、気を取り直して今度は山本浅之丞、芝木喜内のふたりを東京へ旅立たせた。かれらは村田八十八、中野安平同様、弥一の復仇《ふつきゆう》論に賛成していた若手藩士である。  だがこのふたりが弾正台から得た答えは、 「犯人の下げわたしは不可能である。斬刑となる者の首斬り役を決めるのは、各藩の権限に属するところであって弾正台が口出しすべきことではない」  というものであった。  村田、中野のふたりも、ついに石黒の行方をつかむことができず、山本、芝木と前後して明治四年一月のうちにむなしく帰国してきた。 (こうなったら、同志を引きつれて刑獄寮に乗りこみ、獄を破って下手人ふたりを引き出して首を打つしかないかも知れぬ)  弥一が不敵なことを考えはじめていたころ、ひとつの風聞が金沢城下に流れ出した。  きたる二月十日すぎ、いよいよ井口・山沖に判決が下るはこびとなったという。     四  斬刑となる者の首斬り役を決めるのは、各藩の権限である——それとわかった以上、藩庁に対してさらに強硬に山辺沖太郎、井口義平の下げわたしを談じこまねばならない。  そう思い切った本多弥一は、またも自宅に同志たちを招き、下げわたしが実現した場合の山辺・井口の受け取り方から誰を首斬り役に抜擢《ばつてき》するかということまでを、逐一協議していった。  そのかたわら、判決の下るのは二月十日すぎという風聞の根拠を探ってゆくと、まんざら根も葉もない噂ではないことがわかった。  山本浅之丞、芝木喜内の帰国と擦れ違いに、藩庁はふたりの属《さかん》、有岡久米人と細野潤次郎を東京の刑部省へ出張させていた。 「属」  とは公文をつかさどる役職のことだから、ふたりの出張目的はいわずと知れたところ。このふたりの帰国するのが二月十日すぎの予定なのである。  弥一たちは、かれらの帰国を待ち受けつつ嘆願を再開するという両面作戦をとる必要に迫られた。  ところが、——。  弥一が同志たちに藩庁を見張らせていたにもかかわらず、有岡と細野は十一日になっても帰国した気配もなかった。  すでにふたりが帰国していると知れたのは、十二日の夜に入ってからのこと。 「山辺と井口は、十四日のうちに切腹を命じられる模様。ほかの者どもには、禁錮《きんこ》あるいは閉門が申しわたされるはずでござります!」  弥一宅に詰めていた同志たちは、この急報に接して騒然となった。 「下手人ども下げわたしの件は、一体いかが相なりますのか」  と叫んで駆けつけてくる者も間断なくつづき、いつしか弥一邸は三百人以上の元本多家家臣であふれ返った。  弥一がいかに名門本多家の身内であり、宗家から家禄《かろく》五百石を受けているとはいえ、その屋敷にこれだけの人数を容《い》れるに足る部屋数はない。樹木のめだつその庭では遅れてきた者たちが焚火《たきび》を焚いて暖をとり、お琴も使用人たちもかれらに茶を出すのにてんてこ[#「てんてこ」に傍点]舞のありさまとなった。 (ほほう、まるで百姓|一揆《いつき》の勃発《ぼつぱつ》前夜のような光景だな。しかし、これだけの人数が集まってくれるとは頼もしいかぎりだ)  縁側に痩躯《そうく》をあらわして影絵のように揺れ動く同志たちの姿を眺めた弥一は、振返って矢野策平らおもだった者たちに告げた。 「ともかく手分けして後見人の方々の門を叩《たた》き、下手人下げわたしの宿願を貫徹すべく最後まで奮励いたそうではないか」  後見人とは、むろん藩庁から幼主本多|資松《よりまつ》の補佐を命じられている本多図書、長《ちよう》九郎、横山多門のことである。 「もしそれでもわれらの望みが叶《かな》えられなかった時には、下手人どもが処刑される前に拉致《らち》してしまおうではござらぬか」  思いはだれも共通らしく、弥一がひそかに考えていたのと同じことを言い出す者もあったので、気勢はいやましにあがってゆく。  かれらはまもなく三手に別れ、本多図書、長九郎、横山多門の屋敷へと押し寄せていった。  翌十三日のまだ夜も明けやらぬころ、本多図書と長九郎はそろって藩庁を訪ね、山辺・井口を本多家側へ引きわたすよう申し入れた。  こうなっては藩庁側も、今度ばかりは容易ならぬ事態と認めざるを得ない。 「では今宵《こよい》、藩知事さまにお目通りしておじきじきにお願いしてはどうか」  と応じたので、弥一たちには急速に展望がひらけたかに見えた。  本多図書、長九郎、横山多門の三人は、その夜弥一と矢野策平とをしたがえて、指定の時刻に金沢城二の丸奥御殿に祗候《しこう》した。  しかし嘘かまことか、またもや前田|慶寧《よしやす》はからだの不調を愬《うつた》えて、寝所に横になっているという。紋羽織に袴《はかま》、白足袋姿の五人がその寝所の下段の間へ入室すると、そこには陸原《くがはら》慎太郎以下三人の ご権《んの》大参事——大参事前田直信の下役が待ち受けていて、黙って慶寧自筆の文書をその膝《ひざ》の前へすべらせた。  後見人三人にあてたこの文書には、以下のようなことが書かれていた。 ≪本多従五位|復讐《ふくしゆう》の儀につき、元家来ども嘆願のおもむきに候えども、すでに御大法をもってそれぞれ刑典|仰《おお》せ出だされ候間、願いの筋聞き届けがたく候条、この段申しわたすべく候。もしこの上粗暴の挙動等これあるにおいては、まったく朝命違背に相あたり、知事はもちろん、管轄まかりあり候資松およびその方どもにおいても、朝廷に対したてまつり申し訳なき次第につき、止むを得ず厳重の処置申しつけずんば相すまず、自然右様の場合に立ち至り候いては、知事の職掌も相立たず、国家の不為《ふため》に候。これによりて心得違いこれなきよう、末々に至るまで、きっと懇切に申し諭《さと》すべく候他。≫  五人がまわし読みするのを待っていたかのように、秋草を描かれた襖《ふすま》のかなたからは慶寧の咳《せき》ばらいが伝わってくる。権大参事ふたりが膝行《しつこう》して襖を引くと、上段の間の褥《しとね》に上体を起こしていた慶寧は、反《そ》った前歯を見せて力のない声で告げた。 「ともかく、本多家のもとの家来どもをこれ以上|激昂《げつこう》させてはならぬ。それを鎮めることこそ、その方どもの役目ではないか」  藩知事からじかにこういわれては、いかに強気の弥一といえどもことばは返せない。  しかし弥一は、 「おそれながら、せめてこれだけは教えて下さりませぬか」  と、紫色の病鉢巻を締めた慶寧の長い顔にむかって呼びかけていた。 「山辺と井口は、いつ、いかなる刑に処されるのでござりましょう。それを知りとうてなりませぬ」  これを聞くや、陸原慎太郎がかわって答えた。 「その儀においては、役人以外の者に洩《も》らすことはできぬ」  このひと言で、慶寧との会見は打ち切りとなった。     五  この夜も、本多弥一の屋敷に集まった者たちの数は二百人以上に上っていた。  昨夜同様、庭のあちこちに焚火を焚いて暖を取りながら吉報到来を待ち焦がれていたかれらは、弥一と矢野策平とが憮然《ぶぜん》たる面持ちで門をくぐるや、ふたりを半円形に取り巻いてふたたび騒然とした。  まだ年若のひとりは、痛憤のあまりまだ幼さの残る両目に涙を浮かべて主張した。 「藩知事さまのお諭しは、職掌柄やむなくそうおっしゃられただけのこと。わたくしどもが足掛け三年にわたって隠忍自重を久しくいたし、時の至るを待っていたのは凶徒ふたりにせめて一撃を加えるためではありませんか。しかるに今、凶徒ふたりが尋常の切腹刑を命じられるとあっては、怨みの報じようもござりません」 「さよう、さよう!」  二百余人の男たちが一斉に答えるありさまは、さながら地鳴りのようであった。それに励まされたように、まだ前髪立ての若侍はつづけた。 「かくなる上は刑の執行に先んじて刑獄寮を襲い、凶徒ふたりを曳《ひ》きずり出してこれを屠《ほふ》り去ろうではありませんか。獄吏がこれを妨げようとするならば、致し方なし、やむなく斬って捨てるのみ。ことは百人の力をもってすれば、いとたやすく成就することでしょう」  かれらの輪に取り囲まれていた弥一は、これを聞いて、 (よし)  と思った。かれはおとがいの長い異相の半ばを炎に焙《あぶ》り出されながら、太い声でいった。 「今の意見に賛同の者は、手を挙げられよ」 「おお!」  喜びの声が渦を巻き、無数の手が林立する。 「相わかった」  弥一は、濃い眉に迫った目に炎を映して締めくくった。 「では明日をもって、ことを決行いたそうではないか。今宵のうちにおのおのの持ち場を定めるが、まずは鏡を割ろう」  まもなくお琴と使用人たちが酒樽《さかだる》を庭へ運んできたので、あたりはまるで祭の夜のような雰囲気に満たされた。  集まった者たちのなかにはさる戊辰の戦いに出陣した者も混じっているから、ここまできてためらいはない。 「当たりくじ[#「くじ」に傍点]は九十八人分とする。拙者と矢野さまがこれに加わるから、明日刑獄寮をめざす者は、これでちょうど百人に相なる」  と弥一が宣言しても、反対の声は聞かれなかった。矢野策平は中条流剣術師範だから、 (矢野さまが加わって下さるなら、こんなに心強いことはない)  と誰しもが考えていた。  くじ[#「くじ」に傍点]引きがおわると、集まっていた者たちの態度はみごとにふたつに別れた。 「よし」  と腕を撫《ぶ》す者と、 「無念」  と首を振る者とに。  しかし、両者ともにまたあらたに運ばれた酒樽の鏡を割って痛飲し、夜も十二時近くなってから三々五々自宅に帰っていった。どの家も本多町の内にあるから、どんな遅い時刻になろうと心配はない。  当たりくじ[#「くじ」に傍点]を引いた者たちには、 「それぞれが得手とする得物を持って、明朝六時にこの家に集まれ。少しでも遅れた者は置いてゆく」  との指示が出された。  城下各所にある木戸がひらくのは、朝六時だからである。それ以前に木戸を押し通ろうとして、無用な騒ぎを起こしては刑獄寮にゆきつけないかも知れない。  その夜、——。  弥一邸からすべての人影が消え、使用人たちもようやく寝静まったころ、またお琴が弥一の寝所へ忍んできた。  まだ眠れずにいた弥一が褥《しとね》の上に上体を起こすと、解いた髪を背に流しているのを見せて持参の手燭《てしよく》を鴨居に掛けたお琴は、そのかたわらに正座して、 「お前さま」  といった。この屋敷にきた当初、弥一さま、と呼びかけていたお琴は、いつのころからか夫婦同然に弥一をこう呼ぶようになっている。 「お前さまが心底から亡き従五位さまの仇を討とうとしていらっしゃることは、昨日、今日の集まりにてわたくしにもようわかりました。首尾よく本懐をお遂げ下さいますことを、祈っております」 「かたじけない」  弥一は、膝《ひざ》に両手をついて軽く頭を下げた。 「ですが、ひとつだけお訊《たず》ねしてもようございますか」  白無垢《しろむく》の夜着の上になにも羽織っていないお琴は、切れ長の目をまっすぐ弥一に向けていう。 「どんなことだ。そなたも聞いていたように、明日おれは朝が早いのだ」  ぶっきら棒に弥一が応じると、 「その、明日のことでございます」  お琴はすがるような目つきになって、畳に左手をついた。 「明日、敵討《あだうち》本懐をお遂げになりましたあと、お前さまはどうなさるおつもりなのですか」 「——さあ」  そこまで考えていなかった弥一は、他人事《ひとごと》のように答えた。 「藩知事さまのみ心に違《たが》い、徒党を組んで科人《とがにん》を刑獄寮より奪ったならば、その罪は当然おれひとりがかぶることになろう」 「とおっしゃいますと、お前さまは死を覚悟しておいでなのですか」 「うむ」  と答えた時、弥一は思わず目を瞠《みは》っていた。聞きもあえず、お琴の両目からは光るものが零《こぼ》れ出して、頬に伝いはじめたからである。 「それでは、あんまりです」  お琴は、呻《うめ》くようにいった。 「それではわたくしたちは、本当の夫婦《めおと》になることができないではございませんか」 「そういうことだ」  などと答えたならば、とんだ愁嘆場になりそうだった。 「案ずるには及ぶまいて」  弥一はからだをぶつけてきたお琴を、今日はやさしく抱き止めながらいった。 「おれがおとなしく縛《ばく》に就《つ》いたならば、明日の襲撃には参加しなかった者たちがきっと助命嘆願に奔走してくれるだろう。藩知事さまにおかせられても、かつては片腕と頼んだ従五位さまを失った今日、その本多家五家老のひとりであるおれをそうたやすく死罪にはできまい」 「と、申しますと、——」  弥一の胸にすがりついたお琴は、白い喉《のど》をそらせて息を喘《あえ》がせる。 「まずは数年の禁錮《きんこ》を宣せられ、ほとぼりのさめたころ蟄居《ちつきよ》謹慎に減刑されてこの屋敷にもどってくる、というところかな」 「ああ、よかった」  その胸に顔を伏せたお琴の髪を撫《な》でながら、弥一は囁《ささや》いた。 「その時こそ、そなたが晴れておれの妻になる時だ。わかるな」  こくりとうなずいたお琴の華奢《きやしや》な両肩に手を添えた弥一は、 「わかったら、もう寝よう」  と、そのからだを静かに引きはがしながらいう。 「はい。わたくし、それをうかがってほっといたしました」  まだ頬を光らせながら間近にほほえむお琴の小さな唇を、弥一は軽く吸ってやった。弥一がそんなことをしたのは、これが初めてのことだった。 「まあ」  抱いて下さりませ、とこれまで幾度となく迫ったことも忘れたように、お琴は恥かしそうに目を伏せてしまう。 「そなたは、まだ子供だ」  弥一はいった。 「男女のことを早く知りたいなどと、考える必要はない。焦る必要はさらさらない。そなたが心映えのよい女子《おなご》でおれば、そういう機会は自然にやってくる。わかるな」 「はい」 「だったら、今日はもうやすもう」  弥一がいうと、 「はい、おやすみなさい」  と、お琴も答えた。     六  しかし、木戸のひらく朝六時を待って動き出す、という本多弥一たちの計画は、まったくの裏目に出た。  明治四年の二月十四日は、新暦ならば四月三日に当たる。そのまだ暁闇の時刻に、山辺沖太郎と井口義平は早くも切腹刑に処されていたのである。  弥一たちがそれと知ったのは、全員そろって弥一邸を出ようとしていた時のこと。広坂を駆け上がってきた笹川なにがしが、悲鳴のような声で告げた。 「も、申し上げます。や、山辺と井口は、本日夜の明けきらぬうちに処刑されたと申します!」 「なんだと、だれに聞いた」  手近にいた鉢金姿の男が顔色を変えて反問すると、 「いま広坂で顔を合わせた、知り合いの獄吏から聞いたところです」  と笹川は答えた。広坂とは、城内と本多町とをつなぐ坂道のことである。  いざ出発、と勇み立っていた百人は、このやりとりを聞くや愕然《がくぜん》とした。いよいよ大願成就の日がきたと思っていたのに、わずかの差で山辺・井口を逸したとあっては、悔んでも悔みきれない。 (ぬかったか。夜明け前に処刑してしまうとは、夢にも思わなんだ)  額に鉄の鉢金を巻いて小袖《こそで》たすき掛け、たっつけ袴《ばかま》の足もとを紺足袋わらじで固めていた弥一も、一瞬|門径《もんみち》の一画に立ちつくしてしまった。  しかし、一獄吏の言を鵜呑《うの》みにして百人が右往左往していても、事態はなにも進展しない。 「とりあえず、出発は見合わせる」  弥一は、同志たちに乾いた声で告げた。 「しかし山辺と井口がすでに冥土《めいど》に送りこまれたのであれば、こやつらに与《くみ》したとして捕われておった者どもにもなんらかのお沙汰《さた》が下ったはずだ。だれか、藩庁に走ってそれを聞き出してきてくれ」 「かしこまった」  とひとりが門を走り出てゆくと、 「さらに」  と弥一はつづけた。 「念には念を入れて、山辺・井口がまことに処刑されたのかどうかを確かめておこう。われらの計略を洩《も》れ聞いただれかが、流言|蜚語《ひご》を飛ばしてわれらの出鼻を挫《くじ》こうとしているのかも知れぬからな。だれか今日一日刑獄寮を見張って、駕籠《かご》が二|挺《ちよう》はこび出されるかどうか見定めてきてくれ。処刑がまことになされたのならば、ふたりの骸《むくろ》は遺族のもとへ下げわたされることになる」 「その役は、それがしにお任せ下され」  といって進み出たのは、芝木喜内であった。かれは指名されて石黒圭三郎の行方を追うべく東京へ出たものの、むなしく帰国せざるを得なかった。それだけに、もうひと働きする必要を感じているらしかった。 「頼んだぞ」  弥一がうなずくと、喜内もまた門を走り出ていった。  そして昼時、——。  まず藩庁へ走った者が帰ってきて、沙汰書の写しを弥一に差し出した。山辺沖太郎、井口義平に対する裁定は、左のように書かれていた。 ≪ [#ここから5字下げ] 士族山辺沖右衛門嫡子 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]山辺沖太郎      右沖太郎儀さる巳八月七日、元執政本多従五位を切害に及び、不届きの次第官辺へお達しに及び候ところ、自裁申しつくるべき旨|仰《おお》せ出だされ候条、この段申しわたし候也。 [#地付き]士族           [#地付き]井口義平      右義平儀さる巳八月七日、元執政本多従五位を切害に及び、不届きの次第官辺へお達しに及び候ところ、自裁申しつけ、世襲|俸禄《ほうろく》は子孫へ給うべき旨仰せ出だされ候条、この段申しわたし候也。 [#地付き]≫  本多|政均《まさちか》の遭難から一夜明けたばかりの明治二年八月八日のうちに、山辺・井口の同志と目されて捕縛されたのは、菅野輔吉、多賀賢三郎、松原乙七郎、岡野悌五郎、岡山茂の五人であった。  このうち松原乙七郎は、事件にまったく無関係だったことが取り調べの過程で判明。さる明治三年六月二十一日付で放免となっていた。  刑獄寮の獄舎になおも投じられているのは残る四人になっていたが、この四人に対する裁定はこうであった。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  菅野 輔吉……上司へ流罪の儀|伺《うかが》い出のところ、三年間自宅禁錮に裁定。  多賀賢三郎・岡野悌五郎・岡山 茂……永蟄居《えいちつきよ》伺い出のところ、七十日間閉門に裁定。 [#ここで字下げ終わり]  岡野悌五郎の長兄|外亀四郎《ときしろう》も、松原乙七郎と同時に無罪放免となっていた。藩儒石黒圭三郎にしても、すでに九十日間の閉門の刑期をおえていたから、一見大がかりな背後関係があるかに見えた本多政均暗殺事件は、さほど裾野《すその》にひろがりを見せずに一件落着となってしまったわけである。  それと知ったひとりが、憤懣《ふんまん》やるかたない面持ちで提議した。 「凶徒ども、すでにして切腹刑に処されし上は、これに与《くみ》したる四人を一網打尽に掃滅して鬱《うつ》を散ずるしかござるまい。いたずらに時を移しては、機を逸する恐れがある。今宵ただちに決行いたそうではござらぬか」 「そうだ、そうだ!」 「うむ。家族たちとも水盃を交わしてきた以上、おめおめとこのまま帰宅することはできぬ」  という声が、澎湃《ほうはい》として湧き起こる。  その時、 「ちと、それがしにも発言をお許し下され」  とまだ若々しい声でいって、弥一の前に進み出た者がいた。  浅井弘五郎、二十四歳。かれは本多家中小将組に属して本多政均の近習役をつとめ、剣術、砲術のみならず数字にも造詣《ぞうけい》の深い聡明《そうめい》さをもって知られている。  その浅井はいった。 「ただいまの御提案は壮といたしますが、どなたか菅野ら四人の家屋敷の構えに通じた方はおいででしょうか」  そこでひと呼吸置いたかれは、返事する者がないのを見定めてつづけた。 「もしひとりとしておいででないならば、本人たちが果たして自宅へ帰っているかどうかも見定めておらぬ以上、軽々しく事を挙げてはかえって討ち損ずる恐れがござりましょう。口惜しいことではござりますが、ここはさらに自重すべきかと愚考つかまつります」 「うむ、これはもっともな申しようだ」  弥一がうなずいたので、とりあえず芝木喜内の報告を待とう、ということになった。  その芝木喜内が帰ってきたのは、もう二時を過ぎようという頃合であった。  髷《まげ》をくずして蓬髪《ほうはつ》を装い、両刀を脱し、継ぎだらけの布子を着けて乞食に変装している喜内は、鍋墨《なべずみ》でも塗りたくったのか汚れきった顔のなかから目だけを光らせて報じた。 「やはり山辺と井口は、本日夜明け前に首を打たれたと見て間違いないようでござります。刑獄寮より駕籠二挺が運び出されるのをこの目で見届けてまいりましたが、獄吏たちはわれらが遺体を奪おうとするのではないかと恐れたのでしょう、まず空駕籠をかつぎ出す念の入れようでござりました」  喜内が乞食に扮《ふん》して刑獄寮裏門のあたりを徘徊《はいかい》していると、ようやく昼過ぎになってから門扉がひらき、二挺の駕籠がかつぎ出されてきた。 (山辺と井口の、いずれの家に行き着こうがかまわぬ)  咄嗟《とつさ》に頭をめぐらせた喜内は、最初の駕籠をあえてやりすごし、二挺目の駕籠のあとを尾《つ》けていった。その駕籠は本多町東側の与力町へと進んでゆき、その町内にある井口義平宅の門をたしかにくぐった。 (さてはやはり、井口の死骸《しがい》を運んできたに違いない)  と判断してひそかに立ち去ろうとした時、不思議にもその駕籠はまた門から出てきた。 (これでは、死骸を出す暇もあるまい。どういうことだ)  一瞬、頭が混乱してしまった喜内は、つられてふたたびその駕籠を追おうとした。しかしそこで、 (いや、待てよ。あの駕籠は囮《おとり》だ)  と気づいたかれは、また井口邸の門を見張ることにした。すると案の定、別の駕籠がやってきたので、自分の判断が正しかったことがわかったのだという。  この報告によって、もうひとつ別のこともはっきりした。刑獄寮の役人たちはあきらかに弥一とその同志たちの企みを事前に察知し、その襲撃を恐れるあまりにふたりの処刑を急いだのである。 「ともかく、これでは他日を期すしかあるまい」  弥一の判断によって、百人の男たちはこの日は解散することになった。  男たちは、すでに意気|沮喪《そそう》してしまっている。一昨日、昨日と大|焚火《たきび》を焚いて気勢を挙げていたのが嘘のように沈みきって、次々と弥一邸をあとにした。 [#改ページ]  第四章 雌 伏     一  山辺沖太郎、井口義平の両下手人を討つ機会が永遠に去ったと知れた以上、本多弥一とその同志たちが考えるべきは、 「これにて復讐《ふくしゆう》を断念すべきか否か」  という問題となった。  あくる日また弥一邸に集まった同志たちのうち、主人の仇を討つことをなお諦《あきら》めきれない者たちは歯噛《はが》みして言い募った。 「暗殺者一味に名をつらねておきながら今なお生きながらえている輩《やから》のうち、山辺・井口とだれが手を下すかというくじ[#「くじ」に傍点]引きまでいたしおった者に菅野輔吉がおる。また初めは暴挙を非といたしたにもかかわらず、のちにこの企てに加担しおった者に多賀賢三郎、岡野悌五郎、岡山茂、石黒圭三郎の四人がおる。  いや石黒は違う、という者もおるかも知れぬが、九十日の閉門を解かれてすぐ行方を絶ったのは、われらの復仇《ふつきゆう》を恐れてのことに相違ない。ということは、自分もあやつらの一味だったと白状いたしたも同然。これら五人を斬って捨てざるうちは、御主人さまのお怨《うら》みを晴らしたことにはとても相ならぬ」  対して、もはや敵討《あだうち》をおこなうべき秋《とき》ではないとして、こう穏やかな意見を述べる者もいた。 「刑部省と弾正台が当地に大巡察まで派遣して罪状を慎重に決定いたし、それぞれを刑律の規範にのっとって処断いたしたのですぞ。なおこれを飽き足らずとして五人の命を狙うのは、国法をあまりに軽んじたおこないということになりはすまいか」  このような穏健派には、強硬派が反論を加えてやまなかった。  だが会合を重ねるうちに、その反論の声すら聞かれなくなっていった。 (これ以上議論したとて、なんの益もない)  と見切った穏健派が、次第に顔を出さなくなったからである。  それと同時に、昨日まで菅野輔吉ら五人を屠《ほふ》らずんば止まずと熱弁をふるっていた者が、今日からはプッツリと姿を見せなくなる、という例も相ついだ。  かくして、最盛時には約三百人がつめかけて庭に大焚火まで焚かれたのが嘘のように、本多弥一の屋敷に通う者は急速に減少の一途をたどった。  ただし弥一邸に顔を出さなくなった者もすべて本多町の住人だから、なおも敵討を諦めない強硬派と通りでばったり顔を合わせてしまうことがある。そんな時すでに脱落した者たちは、面を伏せてそそくさと通り過ぎるのをつねとした。  そして、城下各地に桜の花が爛漫《らんまん》と咲き誇る季節を迎えたころには、会合にかならず顔を出すのは弥一をふくめてわずか十五人しかいなくなってしまっていた。  その姓名、年齢、身分その他は以下のごとし。 [#ここから改行天付き、折り返して7字下げ]  本多 弥一 二十六歳。本多家家老、禄《ろく》五百石。  矢野 策平 四十五歳。近習兼剣術師範、禄五十石。  西 村 熊 二十三歳。近習加用役、禄百石。  鏑木勝喜知《かぶらぎかつきち》 三十一歳。中小将組・家老席執筆役。  富《と》 田《だ》 聡《さとし》 二十一歳。給人《きゆうにん》組・近習加用役、衣服料十三俵。父は本多家家老富田長左衛門(禄三百石)  舟喜 鉄《おのと》外 三十一歳。中小将組・扈従《こじゆう》役、十俵。  浅井弘五郎 二十四歳。中小将組・近習役、十俵。  吉見亥三郎 二十二歳。徒《かち》組・小将列。  芝木 喜内 二十九歳。徒組・近習|手水《ちようず》役。  広田嘉三郎 二十三歳。徒組・手水役。  湯口藤九郎 三十歳。足軽。  藤江松三郎 二十七歳。足軽。  清水金三郎 二十四歳。徒組・近習手水役。  島田伴十郎 三十三歳。足軽。  上田|一二三《ひふみ》 三十九歳。足軽。 [#ここで字下げ終わり]  加賀前田家の直臣たちの序列が、上から順に人持組頭《ひともちぐみがしら》(八家《はつか》)、人持組(上級藩士約七〇家)、平士《へいし》(以上、お目見《めみえ》以上)、与力、歩士《かち》(以上、お目見以下)と別れるのと同様に、禄高ほぼ一千石以上の家につかえる陪臣たちの身分も、上から給人組、中小将組、小将組(以上、 維新以後は士族)、徒《かち》、足軽(おなじく卒族)に別れているのである。  弥一はもちろんのこと、知行取りの矢野策平、西村熊、そして富田聡は、本多家の給人組に属していた。  この十五人がなおもひそかに本多弥一邸に集まり、なにごとか協議しつづけていることは、富田聡の父長左衛門の口から洩《も》れ、のこる三人の本多家家老——篠井源五右衛門、堀清左衛門、土方《ひじかた》源右衛門の知るところとなった。 「富田長左衛門殿は、せがれ殿とのかねあいもあるから誘うまい」  と言い合ったこの三人の家老たちは、ある夜つれ立って本多弥一を訪問。復讐を断念するよう、ねんごろに申し入れた。 「下手人ふたりがすでに刑死いたした以上、なお復仇を企てるならば、それは藩知事さまのみ心に背くことになる。本多家にも累《るい》を及ぼす恐れがあるから、さような目論見《もくろみ》はもはや打ち切りとしてはいかがか」  本多政均が非業の死を遂げて間もない明治二年九月二十七日、 ≪家臣どもの至情、故従五位心外の大難|憤怨《ふんえん》の一念を推察つかまつり、腸《はらわた》は裂け胆《きも》は砕け候については≫  と前置きして山辺沖太郎、井口義平の身柄を本多家へ下げわたすことを求めた嘆願書に連署した家老たちまでが、今はもうこのような事なかれ主義に態度を変えていたのである。  それを情なくも口惜しくも感じた弥一は、初め黙然としているばかりで、かれら三人とことばを交わす気にもなれなかった。 「さ、さ、どうなのだ。お手前の返答を聞かぬうちは、われらも安堵《あんど》して家には帰れぬではないか」  と再三つめよられた時、突如弥一は両眼を大きく見ひらいて、 「おのおの方、ちとやかましゅうござるぞ」  と三人を睨《ね》めまわした。 「『君|辱《はずかし》めらるれば臣死す』  というのが武士《もののふ》の本分ではござらぬか。それを忘れたかのごとき御意見は、無用のものと心得られよ。  しかもわれら本多家の家来たちは、昨年のうちにことごとく前田家の直臣と相なった。さればわれらがいかなる動きを見せようと、もはや本多家の家来にあらざる以上、本多家に累を及ぼすことにはならぬかと存ずる」  弥一がまだ本多家家老のひとりである以上、これは理屈といえばただの理屈にすぎない。だが、弥一の口調には気迫がある。家老三人は、なにも言い返せなくなってしまった。  その後かれらは、二度と弥一の屋敷にはあらわれなかった。  しかし、家老三人がうちつれて説得にきたということは、弥一たちがなおも復仇に執念を燃やしていることがひろく知られてしまっていることを意味する。 (菅野ら五人にそれと察知されてはたまらぬから、もはや敵討決行についてはおくびにも出すまい。今後同志たちが会合いたす時にも、なにか別の名目をもうける必要がある)  と弥一は思った。 「読書会」  というのが、その後本多弥一邸で定期的におこなわれることになった会合の名目であった。  この読書会用に指定された書物は、藤田東湖の『回天詩史』、浅見|絅斎《けいさい》の『靖献遺言《せいけんいげん》』、室鳩巣《むろきゆうそう》の『赤穂義人録』など。  室鳩巣といえば新井白石の推挙によって幕府儒官となり、八代将軍吉宗の信任を得た朱子学者だが、この人物は加賀前田家につかえた経歴の持ち主でもあった。また一方において、かれは赤穂義士四十七士の吉良邸討ち入りを絶讃した代表的学者でもあり、その著『赤穂義人録』は、信頼のおける名著としてこの時代まで読みつがれていた。  そのような背景があったから、『赤穂義人録』はこの読書会においてもっとも尊ばれる書物とみなされるに至った。いつしか弥一たち十五人の胸には、 (われらこそ第二の義士たらねばならない)  との思いが、烈々と燃えさかるようになっていた。  だが、弥一たちが加賀本多家の義士たらんとするのなら、思いを遂げた暁には、赤穂義士のように従容《しようよう》として死に就《つ》かねばならない。  幕末水戸藩の過激な尊王|攘夷《じようい》思想を鼓舞した人物、藤田東湖の著作が輪読されたのは、自分たちの遠からぬ死をあらかじめ自分自身に納得させておくためにほかならなかった。  そして、東湖の尊王攘夷思想を支える情熱は、 「正気《せいき》」  の一語に集約される。  たとえば嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ東インド艦隊の司令長官ペリーが黒船四隻をひきいて浦賀に来航した時、旧幕府は久里浜においていやいやながらアメリカ大統領フィルモアの国書を受け取らざるを得なかった。 「先生がその国書を受領する役だったならば、どうなさいました」  と問われた時、この矯激《きようげき》無類の攘夷思想家は明快に答えた。 「対談の席上、ペルリ[#「ペルリ」に傍点]の首級はかならず余の白刃|一閃《いつせん》のもとに落ちたであろう。そうなったからには、余もまた当日まさに死んだことであろう。しかれどもかのペルリ[#「ペルリ」に傍点]を討ちて、しこうしてまたみずから死するもの、これが余の一片の『正気』である。ここにおいてか、余はすでに死して跡なしといえども、この一片の『正気』が横には全国に充満し、縦には百年ののちまで伝わること疑いを入れぬ。しこうして『正気』のひろまりゆくところにこそ、富国強兵の基《もとい》は成るのだ」  このように「正気」ということばは、死をも恐れずに信ずるところを断行する気迫を意味する。弥一たちはこの「正気」を体得することによって、断乎として敵討《あだうち》本懐を遂げよう、と誓い合ったのである。  弥一は中国南宋の愛国者|文天祥《ぶんてんしよう》、あるいは東湖の詩文の一節を記した酒盃を特に焼かせ、輪読の際に読み間違えた者には、この酒盃をもって罰杯を飲ませるなどして、十五人の結束を保つことに腐心した。  しかし、やがてこの読書会にも疑惑の目が集まり出した。 「あれは本多弥一たちが、まだ飽きもせず復讐《ふくしゆう》の秘計を議する場なのではないか」  この噂はひろまる一方だったから、ついに弥一たちは、やむなくこの読書会も中断せざるを得なくなってしまった。     二  金沢城北側の大手町には、長大な土塀と長屋門、優美な軒反《のきぞ》りの檜皮葺《ひわだぶ》きの屋根をもつ大身《たいしん》の前田家家臣たちの屋敷がならんでいた。  さらにその北側に位置する尾張町には、これとは対照的に商店《あきだな》が多い。その名は豊臣秀吉の時代に前田利家が金沢城を与えられたころ、自分の生まれ故郷である尾張国|荒子《あらこ》村からつれてきた足軽や商人《あきんど》たちをこの地に住まわせたことに発する。  なかでも尾張町の表通りに暖簾《のれん》を掲げる黒しっくい塗り、土蔵造りの大店《おおだな》は、ほとんどが加賀前田家の御用商人たちであった。  薬種商の福久屋、印形の細字印判店、筆墨の松田文華堂、菓子の森八、……。  この尾張町から東隣りの橋場町にいたる町筋には、飛脚問屋や町会所もあって、城下で一番の殷賑《いんしん》をきわめていた。  浅野川に架かる浅野川大橋の西の橋詰めに位置する橋場町が、 「懸《かけ》作り」  とも呼ばれるのは、浅野川に面した片側にだけ屋根を葺《ふ》いた、いわゆる懸作りの家並が多いためである。  その浅野川は、 「男川」  といわれる犀川《さいかわ》に対して、 「女川」  と呼ばれることがある。これは、岩をも砕かんばかりに激しく落ちる瀑布《ばくふ》を男滝《おだき》、優美に白糸を引くように流れ落ちる滝を女滝《めだき》というのとおなじ心である。  浅野川大橋とその少し上流にある天神橋の下では、すでに本多|政均《まさちか》の遭難などは忘れたかのように、染物職人たちがいつも流れに腰を屈《かが》めて友禅流しに余念がなかった。友禅に絵模様をつける時に用いる糊《のり》を、川の流れで洗い流す必要があるのだ。  加賀友禅の起源は、室町のころからある、 「梅染め」  という染物だったといわれている。加賀絹に梅の樹皮の煎汁《いりじる》を利用した無地の染物で、別名を、 「加賀染め」  ともいった。  そこへ江戸中期の画工宮崎友禅斎の工夫した友禅の技法が採り入れられ、蘇芳《すおう》、藍《あい》、黄土、草、古代紫の五色を基調とし、花鳥風月の絵模様をあざやかに染め出す加賀友禅が育っていったのである。  その友禅流しの作業を見下ろしながら、本多弥一は火点《ひとも》し頃に浅野川大橋を東へわたり、 「東の廓《くるわ》」  と呼ばれるあたりに足をむけることが多くなった。これは犀川西岸の石坂にあって、 「西の廓」  と称する地とともに、文政《ぶんせい》三年(一八二〇)現藩知事前田慶寧の祖父|斉広《なりひろ》の時代に公許された花街である。遊び女《め》の数は、約百五十人。  ただし弥一がゆくのは、遊び女たちをかかえる約三十軒の、いわゆる、 「下店《したみせ》」  ではなかった。これにほど近い東茶屋町のお茶屋の一軒、花乃屋であった。  紅殻格子《べんがらごうし》に二階建てのお茶屋に上がれば、下店の中心部にあって、 「上町《うわまち》」  と呼ばれる置屋から芸者を呼んで遊ぶことができる。  ともにゆく相手は矢野策平、あるいは西村熊、あるいは鏑木勝喜知と代わるものの、読書会には加わっていなかった元本多家家臣を誘うことも少なくはなかった。 「いや、中途でお仲間から脱落した形になって、申し訳なかった。なにせ老いた父母に泣きつかれてしまって」  と弁解する者があると、弥一は笑って答えた。 「もう、そのことは忘れようではないか。最後まで硬論をとなえたおれたちにしても、とうとう話はなしくずしになってしまったんだから。まあ茶屋通いを始めたのは、その憂さ晴らしでもあるがな」  花乃屋で弥一がいつも取り寄せるのは、旧幕時代から武家方でよく作られていた饗応《きようおう》料理であった。これを取れば座敷はおのずから宴会になるが、これも旧幕時代からの習わしで、宴会は以下のような手順ですすめられた。  まず控えの座敷に案内されると、花乃屋の仲居があらわれて弥一に挨拶《あいさつ》する。弥一は仲居に、扇子にのせた祝儀袋を差し出す。  次に仲居は弥一とそのつれを宴席に案内し、ばい貝[#「ばい貝」に傍点]、ごり[#「ごり」に傍点]の甘露煮などの前菜と、 「加賀の菊酒」  として知られる秘伝の冷酒を出す。これは白山の菊谷から流れ出る銘水「菊水」で醸《かも》される芳醇な酒で、秀吉が醍醐《だいご》の花見の時にふるまったといういわれがある。  第三に鉢盛りの料理が運ばれ、仲居が九谷焼の小皿に取り分けて弥一たちにすすめる。つづけて女将《おかみ》も挨拶にあらわれ、燗酒《かんざけ》と輪島塗の盃《さかずき》も運ばれてきて、女将が酌をしてまわる。  さらにごり[#「ごり」に傍点]の白味噌《しろみそ》仕立ての吸物と鮎の塩焼、うぐい[#「うぐい」に傍点]の田楽、つぐみ[#「つぐみ」に傍点]の照焼などのうちいずれかの焼き物がくる。あらかじめ呼んでおいた芸者がやってくるのはこのころで、ここで芸事の披露がおこなわれる。  その間に、洲浜台《すはまだい》にずわいがに[#「ずわいがに」に傍点]か香箱《こうばこ》がに[#「がに」に傍点]を中心に料理を盛りつけ、松竹梅鶴亀の飾りをあしらった、 「宝来」  という豪華な品がきて、盃は三組の大盃になる。  このころになると弥一はすっかり酔いがまわり、芸者をかたわらに引き寄せ、大鉢にいわな[#「いわな」に傍点]の骨酒《こつざけ》を作らせて呑《の》みはじめるのをつねとした。 「どれ、お前たちも飲め」  と芸者たちにも口をつけさせ、 「ちょんぬけ」 「梯子段《はしごだん》遊び」 「浅い川」  などを命じて馬鹿のように笑いこけることもあった。 「ちょんぬけ」とは芸者とじゃんけん[#「じゃんけん」に傍点]をし、一度負けると衣服を一枚脱ぐというきわどい遊びである。  東茶屋町の芸者たちはこの遊びを予期していて、ふところや袂《たもと》に手拭《てぬぐ》いや枕紙を隠していたり、細ひもを余計に巻いていたりする。だから芸者たちは、いくら負けつづけてもまず緋《ひ》の長襦袢《ながじゆばん》姿になるのがせいぜいだった。  対して弥一のような男客は、羽織の下には小袖《こそで》かかたびら、金巾《かなきん》の下着くらいしか着けていないし、町方の者と違って袴《はかま》の下にはなにも穿《は》かないから、すぐ下帯ひとつの姿になってしまう。  よく呼ぶ留袖《とめそで》芸者おしま[#「おしま」に傍点]と「ちょんぬけ」をして裸にされるたびに、弥一は降参の身ぶりをしてかならずいった。 「ううむ、今日こそはおしま[#「おしま」に傍点]のおっぱいをじっくりと見てやろうと思ってきたのだが、これではもう一度呼ばねばならぬことになってしまったではないか」 「梯子段遊び」は襖《ふすま》を二枚はずして横にして立てかけ、芸者が銚子を手にしてその襖を梯子段に見立て、上ったり下りたりする動作をくりかえす遊び。「浅い川」は浅野川に掛けたもので、 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ※[#歌記号、unicode303d]浅い川なら膝《ひざ》までまくる、深くなるほど帯を解く [#ここで字下げ終わり]  と手拍子で囃《はや》された芸者が、さっと裾をまくるとそのままからだをひとまわりさせる遊びであった。  東茶屋町の芸者たちは、十代前半にお披露目(初座敷)に出るまでの三、四年間を、 「たあぼ[#「たあぼ」に傍点]」  と呼ばれる芸妓《げいぎ》見習としてすごす。  お披露目がおわったあとは、赤い幅広の衿《えり》をつけて振袖を着ることから、 「赤衿さん」  あるいは、 「振袖芸者」  と呼ばれるようになる。  その後、十五、六歳になると衿を赤から黒や白など地味な色に変え、振袖も留袖にして、 「留袖芸者」  となる。こうして水揚げを経て、 「一本」  と呼ばれる一人前の芸者になるのだが、おしま[#「おしま」に傍点]はすでに一本の芸者であった。  髷《まげ》を色町独特の紫天神に結ってその下に小作りなたまご形の顔だちを見せているおしま[#「おしま」に傍点]は、弥一に幾度か呼ばれるうちにすっかりかれを気に入ったらしく、 「ねえ、『かんざし遊び』するまっし」  とその膝にしなだれかかって囁《ささや》くようになった。 「かんざし遊び」とは芸者衆の髷からかんざしを一本ずつ抜き取り、黒い盆に並べてから、芸者衆を姫君にたとえて金沢弁でこう歌う。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ※[#歌記号、unicode303d]お姫さんと寝るがに、かんざし引こう。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  お姫さんを抱くがに、かんざし引こう。  人の嬶《かか》抱きゃせわしない、ほれ、せっせっせ、せっせっせ。 [#ここで字下げ終わり]  歌いながら客同士がじゃんけんをして、勝った者から好きなかんざしを一本取る。そしてそのかんざしの持ち主と一夜をともにするという、露骨な敵娼《あいかた》選びである。 「きっと、うちが当たるから」  おしま[#「おしま」に傍点]は甘い息を吹きかけたが、この遊びは芸者から言い出していいものではない。 「いや、おしま[#「おしま」に傍点]がおれのつれのものになるのは、見ちゃおれぬ」  と、弥一はいつも体《てい》よく「かんざし遊び」をことわってしまった。  そのかわり、おしま[#「おしま」に傍点]をよく外につれ出した。  東茶屋町は、幕末に前田慶寧が開拓した卯辰《うたつ》山と浅野川の間にある。その卯辰山の山上近くには芝居小屋もひらかれていたから、弥一はおしま[#「おしま」に傍点]を誘って、しきりに芝居見物に出かけた。  この芝居小屋は尾張町の富裕な商人たちが発起人となり、四代目|嵐冠十郎《あらしかんじゆうろう》を座元として明治四年になってから こ柿《けら》落としをさせたものだった。  曽我狂言、忠臣蔵、召し使いが女主人の仇を討つという筋立ての『加賀見山旧錦絵《かがみやまこきようのにしきえ》』は、本来ならば順に新春、年末、御殿女中の宿下がりする三月の出し物である。  しかし、出資者たちは嵐冠十郎の人気を定着させるべく、これら確実な客の入りの見こめる出し物をつづけざまに興行させていた。  弥一はこれらの芝居に熱中するあまり、ついおしま[#「おしま」に傍点]が横にいることも忘れてしまい、 「もう、このひとは手を握ってもくれへんのやさけ」  と脇腹をつねられることもあった。     三  弥一がさらに好んだのは、おしま[#「おしま」に傍点]をつれて大手町の「|ト一亭《といちてい》」にゆくことだった。  これも明治四年になってから開業した「ト一亭」は、金沢初の牛鍋屋《ぎゆうなべや》であった。 「日本で三番目に開業した店」  というのが売りもので、屋号は上[#「上」に傍点]物の牛肉を食べさせる店、という意味をもつ。「上」という字を分解すれば、「ト」と「一」になるからだ。  牛肉を食べることが文明開化の大前提のごとくいわれているのを弥一が知ったのは、花乃屋の女将から仮名垣|魯文《ろぶん》作『牛店雑談 安愚楽鍋《あぐらなべ》』を見せられた時だった。 「東京では、今この本が大評判なんやて」  と手わたされた明治四年四月刊のこの本をめくるうちに、こんな文章が目に飛びこんできた。 ≪往来絶えざる浅草通り、御蔵前に定舗の名も高旗《たかき》の牛肉鍋、十人よれば十色の註文、昨晩もてたる味噌《みそ》を挙《あげ》、たれをきかせる朝帰り、生の代りのいきがり連中、西洋書生漢学者流劉訓に似た儒者あれば、肖柏めかす僧もあり、士農工商老若男女、賢愚貧福おしなべて、牛肉食はねば開化不進奴《ひらけぬやつ》と、鳥なき郷《さと》の蝙蝠《こうもり》傘、鳶《とんび》合羽《がつぱ》の翅《はね》をひろげて、遠からん者は人力車、近くは銭湯帰、薬喰・牛乳《ミルク》乾酪(洋名チーズ)乳油(洋名バタ)牛陽《たけり》はことに勇潔《いさぎよく》、彼《かの》肉陣の兵粮《ひようろう》と、土産に買ふも最《いと》多き、人の出入の賑《にぎ》はしく、込合《こみあい》の節前後御用捨、御懐中物御用心、銚子のお代りお会計、お帰ンなさい入ラツしやい、実に流行は昼夜を捨ず、繁昌|斯《かく》の如くになん、……≫  卑俗きわまる文章ではあるが、こんな流行に染まりさえすれば旧幕時代の意識がふっ切れたように思われるのであれば、こんな都合のよいことはない。  そう思って弥一は、大刀も佩《お》びず脇差のみの姿で「ト一亭」通いを始めたのだった。 「牛肉所」  と大書された大看板を掲げた二階建ての「ト一亭」に入った弥一は、小上がりにおしま[#「おしま」に傍点]と向かい合って座りこむと、いつもいった。 「ふたりでロース二人前、ねぎ[#「ねぎ」に傍点]はブツ切りとハス切り各二人前だ。酒も飲む」  すると銀杏《いちよう》返しに黒衿、たすき、赤い前掛姿の小女は、 「はあい、おふたりさま。ロースで御酒台《ごしゆだい》、ゴブが二、ザクが二、願いまあす」  と歌うようにいう。 「これを食うと、からだが熱くなって困るな」  弥一がつぶやいて羽織を背後に脱ぎ捨てた時、 「あら、まあ」  とおしま[#「おしま」に傍点]が甲高い声を挙げたため、店中の者がふたりのいる小上がりを振返ったこともあった。  本多家の一門であることを示す「三つ葵《あおい》」の家紋を打った紋羽織姿の苦み走った風貌《ふうぼう》の士族と、たった今お座敷を抜けてきましたといわんばかりの粋な留袖芸者との会食風景は、ただでさえ人目を惹《ひ》かずにはいない。  それも承知のはずのおしま[#「おしま」に傍点]があられもなく叫んだのは、弥一の羽織が紅絹裏《もみうら》になっているのに気づいたためだった。しかもその紅絹裏には、眼裂が深く切れ上がり、口をクワッとあけた般若《はんにや》の面が金糸で縫い取られていた。 「まあ、やあ[#「やあ」に傍点]さまったら、いつこんなんあつらえみ[#「み」に傍点]したの」  おしま[#「おしま」に傍点]の頓狂《とんきよう》な問いに、弥一は高笑いして答えた。 「いや、いかに牛肉ばやりの御時世とはいえ、牛の顔を背負って歩くわけにもゆくまいが」 「ト一亭」からの帰り際、これもすっかり酔って頬を桜色に染めたおしま[#「おしま」に傍点]が、色紋付に西陣帯をおたいこに結んだ柳腰をくねらせるようにして、 「ねえ、やあ[#「やあ」に傍点]さま。この羽織、裏を表にして着まっし。その方が、すてきやさけ」  というと、 「よしきた」  と応じた弥一は、背に般若の面を見せて尾張町の繁華な通りを千鳥足で歩き、時々くるりとからだをまわして見せた。  お茶屋遊びをしていて客が余興を見せる番になった時、羽織を裏返して着る習わしもある。弥一はおしま[#「おしま」に傍点]のすすめもあり、その後は花乃屋でもよく般若を見せるようになった。  弥一は西の廓《くるわ》にも出かけて流連《いつづけ》することもあったし、梅雨の晴れ間には納涼と称しておしま[#「おしま」に傍点]やその朋輩《ほうばい》たちと野遊びをしたり、舟を雇ってぼら[#「ぼら」に傍点]打ちに興ずることもあった。  これらの遊興には、富田聡も大豆田屋の芸妓おたけ[#「おたけ」に傍点]をつれて加わることがあった。富田も弥一同様、このころから遊蕩《ゆうとう》にふけりはじめていたのである。  弥一はそれにつれてめっきり本多家上屋敷にも顔を出さなくなったため、もはや名ばかりの本多家家老とみなされるに至った。  たしかに弥一の近頃のおこないは、旧幕時代であったなら主人から閉門を命じられてもおかしくはないものだった。本多町の住人たちも、いつしか弥一を白眼視するに至った。  それにつれて、お琴も弥一とはふっつりと口をきかなくなった。  お琴には、酒臭い息を吐き、濃厚な脂粉の匂いをまとわりつけて朝帰りする弥一が、この二月十三日の夜、 「おれがおとなしく縛に就いたならば、明日の襲撃には参加しなかった者たちがきっと助命嘆願に奔走してくれるだろう。まずは数年の禁錮《きんこ》を宣せられ、ほとぼりのさめたころ蟄居《ちつきよ》謹慎に減刑されてこの屋敷にもどってくる。その時こそ、そなたが晴れておれの妻になる時だ」  とやさしく唇を吸ってくれたのとおなじひととは思えなくなっていた。  五月下旬のある日、また弥一がぞろりとした夏羽織を着けて東茶屋町へくり出したころ、お琴は書き置きも残さず本多家上屋敷へ帰ってしまった。  お琴が本多宗家の使用人に命じて弥一邸から自分の荷物を運び出させた当日、昼まで寝所でいぎたなく眠りをむさぼっていた弥一は、 「もうし、だんなさま。お客さまがおいででござりみす」  という廊下からの声に夢を破られた。長年弥一につかえている老僕、弥兵衛の声であった。 「よし、客間へ通しておけ」  うーん、と唸《うな》り、褥《しとね》のなかで四肢をのばしながら答えた弥一は、夜着を着更《きが》えようともせず、不精髭《ぶしようひげ》を生やしたままの姿で客室へ出向いた。 「これはまだおやすみとは知らず、突然参上いたしまして失礼つかまつりました」  下女おゆき[#「おゆき」に傍点]が出したものなのだろう、客の前にはすでに茶と座布団があったが、客はその座布団も当てずに下座に控えていた。  そのまだ若い客は、旧本多家家臣竹下|卯三郎《うさぶろう》であった。 「よお、近ごろ見かけなんだが、息災にしておったか」  上座に胡坐《あぐら》をかいた弥一がはだけた胸を掻《か》きながら白い歯を見せると、 「本多さま」  といったきり、卯三郎は絶句してしまった。その整った顔が不意に歪《ゆが》んだかと思うと、卯三郎ははらはらと涙を流しはじめる。 「なんだ、なんだ、卯三郎」  弥一は、首筋をコキコキと鳴らしながらいった。 「どこかの女に、袖《そで》にでもされたようだな」 「そんなことではござりませぬ」  卯三郎は、激しくかぶりを振った。  この竹下卯三郎は、前田家の直臣矢木久右衛門の末弟として生まれ、旧本多家家臣竹下半次のもとに養子入りした青年であった。  中小将組のひとりとして本多家に出仕していたが、竹下姓となったのは近年のことだったから、本多政均が暗殺される以前は弥一とほとんど面識がなかった。  その卯三郎が弥一に見覚えられるようになったのは、山辺、井口に復讐《ふくしゆう》を加えるべく弥一が主宰するようになった会合にしばしば顔を見せたからにほかならない。  それどころか卯三郎は、近くに穏健派がいないのを見澄まして弥一に歩み寄り、 「どうか、一日も早く義挙を起こして下さりませ」  と蹶起《けつき》を懇願したことも再三ではなかった。  さらに卯三郎は、弥一があらたに読書会を始めた時にも、どこでどう聞きつけたのか夜遅く弥一邸にあらわれ、 「どうかわたくしも、お仲間の端に加えて下さりませ」  と必死の面持ちで願い出たこともある。  その時弥一は、 「いや、われらのひらいているのは、おのおのの好みの詩文をぐい[#「ぐい」に傍点]呑《の》みに焼きつけて持ち寄ったりするだけのただの道楽にひとしい集まりだ。その方が真に学問に励みたいのであれば、良き師につくにこしたことはない」  と答え、一方的に面談を打ち切ってしまったのだった。  かれがあえてこのような無情な態度に出た理由は、卯三郎がまだ旧本多家家臣の養子となって日が浅いため、どのような心情の持ち主なのかよくわからない、という一点に存した。 (敵討《あだうち》を断乎《だんこ》決行するなら死生をともにするわけだから、新参の者はあえて混じえるべきではない)  とかれは思い切っていた。  弥一がそんなことを思い出していると、また卯三郎は、 「本多さま」  と涙声でいった。 「本多さまが近頃、御城下のいかがわしき界隈《かいわい》に出没なさるため、この本多町のうちでも絶好の噂の種となっていることはご存じでしょうか」 「ほほう、そんなことになっておるのか」  弥一は、不精髭の生えた長い顎《あご》を撫《な》でながらほほえんだ。 「はい、さようでござります。それが、わたくしには口惜しくてならないのです」  卯三郎は弥一の目を正面から見据え、口迅《くちど》につづけた。 「と申しますのは、本多さまの最近のおふるまいは、世をあざむくための仮りのお姿だとわたくしは信じているからでござります。本多さまには、いずれ菅野輔吉ら五人を討って敵討本懐をお遂げになる前に藩知事さまその他から横槍《よこやり》が入って動きを妨げられるやも知れぬと思《おぼ》し召され、かの大石|内蔵助《くらのすけ》の故事にならって御本心をあえて韜晦《とうかい》しておいでと拝見つかまつりました」 「韜晦、ねえ。お前さん、まだ若いのによくそんな難しい漢語を知っておるな」  弥一がその目も見返さずにまた首の骨を鳴らすと、 「本多さま。どうかそう茶化さずに、わたくしに御本心をお教え下さりませ」  卯三郎は、総髪|銀杏《いちよう》に結い上げた髷《まげ》を振りながら言い募った。 「もし御必要ならば、ここにて金打《きんちよう》いたし、決して他言はいたさぬとお誓いいたします。この竹下卯三郎、男子一生のお願いでござります。本多さまがなおも敵討を考えておいでならば、どうか、どうかわたくしめもその同志に加えて下さりませ」  金打とは、武士と武士が両刀の刃や鍔《つば》、あるいは小柄《こづか》などを打ち合わせ、固い約束のしるしとすることをいう。  卯三郎は脇差に左手をかけ、弥一が同意してくれさえすればすぐにでも金打できるよう身構えた。 「おい、お前さん」  その卯三郎に、弥一は舌打ちして答えた。 「お前さんがなにをどう考えようと、それは勝手というもんだ。しかし、ちいとばかり思いこみが強すぎはしないかね。おれはもう敵討のことはすっぱり諦《あきら》めたし、菅野たちを狙う気もさらさらない。第一、あの五人を襲ったとて、実際に従五位さまを手に掛けたのは山辺沖太郎と井口義平なんだ。こやつらがすでに刑死した以上、菅野らを討ったところでそれは筋違いにしかならぬと思い切ったというわけだ。  それにほれ、見てのとおりおれはまだ寝巻姿で、脇差も佩《お》びてはおらぬから金打などできぬ。まあ脇差を佩びていたとて、お前さんと金打を交わすいわれはまったくないがな」  卯三郎は、顔を蒼白《あおじろ》くして押し黙ってしまった。 「時に、卯三郎」  弥一は、にやりと笑って声をひそめた。 「お前さん、西の廓の下店に出ているだれかいい女を知らぬか。おれはもう、東の廓では遊び飽きてしまってな。借金もしこたま抱え込んだことだし、ぼちぼち東の廓から鞍替《くらが》えしようと思っているんだ。……」  さらに弥一がつづけようとした時、 「おやめ下さい!」  と卯三郎は投げつけるようにいい、大刀をつかんで立ち上がっていた。かれは憤然たる面持ちとなって叫んだ。 「本多さま。どうやらわたくしは、あなたというお方をえらく見そこなっていたようです。失礼ながら、こんな腐ったひととは夢にも思いませんでした。いったい本多さまの北国《ほつこく》武士の魂は、どこへいってしまったのですか。これでは従五位さまの御魂《みたま》も、地下で泣いていることでしょう。  いいえ、なにもおっしゃらなくてけっこうです。わたくしはもう二度とこのお屋敷の門はくぐりますまい。道で擦れ違っても挨拶《あいさつ》はいたしませんから、さよう心得置き下され。失礼つかまつりました」  弥一を睨《にら》みつけた卯三郎は、足音立てて客間から飛び出していった。     四  このような出来事のあった明治四年三月中に、本多弥一の剣の師である矢野策平の屋敷に投げ文をした者があった。  筆跡は女のもので、あまりにも拙《つたな》い文章ではあったが、署名はないのに生々しい血判の捺《お》されているのが異様であった。誤字や当て字の多いその文章を解読すると、次のようになった。 ≪討つなら今じゃ。間囲《まがこ》いの外に居る夜ならば、久世《くぜ》の方の戸に触《さわ》れば見えるに違わず。そこを討つべし。多賀の使いと申して暮合《くれあい》にゆけば、御目に懸りたいと言えば座敷で逢《あ》う。そこ《を》討つべし。これを討たば、先代の御|疵《きず》、大略消ゆることを思えば捨て置くこと成らぬ。十五日過ぎ、討つべし。地理この通り、違わず。四(人)ほど土間に寝とる。これは詰めなき者。菅野|輔吉《すけきち》、四、五人ばかりもかいばゆなし[#「かいばゆなし」に傍点]。  真実、我頼むなれど、真実判じて下され、本多従五位さま仇の事。≫  調べてみると、久世というのは菅野輔吉邸の右隣りの家のことであった。  三年間の自宅|禁錮《きんこ》を宣せられた輔吉は、昼の間は禁錮の間に入っているが、夜になるとその間囲いを出て別室に移る。その部屋は久世家との境の戸から見える、と投げ文の主はいいたいのだろう。  多賀とはおそらく、七十日間の閉門を命じられている多賀賢三郎のこと。夜分、その使いだと称して訪問すれば、輔吉は姿をあらわす。そこを討て、というのである。 「四、五人ばかりもかいばゆし[#「かいばゆし」に傍点]」  とは「飼い放し」の誤記で、禁錮生活になってから輔吉が四、五人の家僕を召し放ちにしたことを差すのだろうか。いずれにしても、四人ほどいる家来たちに、輔吉の寝所あるいはその隣室に詰める習慣はない、とも投げ文の主はいいたいらしい。  矢野策平は中条流剣術の達人だけあって、よく筋骨の練れたぶ厚い体躯《たいく》の持ち主であった。白いものの混じる鬢髪《びんぱつ》と揉《も》み上げは、今も毎日の稽古《けいこ》を欠かさないため、面金《めんがね》にこすれて逆立っている。  やや老眼の気味があるため、背筋を伸ばすようにしてこの投げ文を何度か読み返したかれは、 (一体、何者のしわざか。あるいは、こちらの動きを試すための企みかも知れぬ)  と考え、黙って弥一の豪遊につき合っていることにした。  その間の三月二十日過ぎ、石黒圭三郎がどこからかふらりと帰国して、ふたたび九十日間の閉門を申しつけられた。  明治二年八月十五日以降、東京で行方を絶った石黒は、昨三年三月十八日に帰国。脱藩の罪を問われて九十日間の閉門を申しつけられたが、閉門満期になると再度行方を昏《く》らましていた。そこでふたたび脱藩のかどで、閉門処分となったのである。  いずれにしても、当初本多弥一たちがあるじの仇と名指した菅野輔吉、多賀賢三郎、岡野悌五郎、岡山茂、石黒圭三郎の五名は、こうしてすべて金沢城下に顔をそろえたことになる。うち多賀、岡野、岡山の三名は、四月二十五日をもって晴れて閉門満期となった。  すると五月に入ってから、矢野策平宅にふたたびおなじ筆跡の投げ文があった。 ≪先だって申し上げ、今もって捨て置かれては、数代の恩義を忘れたのかわからぬのか、これが洩《も》れると思うのか。本望遂げて下されたらば、我一命捨てて御礼申し上げ(候)。  矢野さま、ひとえに願いたてまつる。お判じ下され。 [#地付き]下人 血判≫  策平は竹下卯三郎という青年が弥一のもとを訪れ、敵討《あだうち》をするつもりなら仲間に加えてほしい、と申し入れたことを弥一から聞かされていた。だからこの卯三郎が、 (弥一殿を見限って、ひそかにわしに接触しようとしているのか)  とも考えてみたが、どうもそうではないようであった。  卯三郎は弥一に対し、 「かの大石内蔵助の故事にならって、御本心をあえて韜晦《とうかい》しておいでと拝見つかまつりました」  と述べたという。あきらかに漢学を修めているその口調に較べ、この投げ文の主は寺子屋にもほとんど通わなかったのではないか、と思われるほどの文章の拙さだったからである。  しかし、二通目にして「下人」と名のった投げ文の主は、以後かれなりに焦りを濃くしたらしく、月が改まる前に三通目を投げ入れた。 [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ] ≪   菅野輔吉極悪人 [#ここで字下げ終わり]  これを願い上げたてまつる。討って下され。我はその日に自害を致して御礼を致して成仏《じようぶつ》致す。幾重にも願い上げたてまつる。我、力及ばぬながら、力を添えて仇討の中に居りたい。矢野さま即心、ほんにほんに。 [#地付き]≫  策平を仏に見立てて伏し拝んでいるような口調を見ると、この者は心底、だれかが本多政均の仇を討ってくれることを念願としているのかも知れなかった。 (これは、天の声というものかも知れぬ)  と感じた策平は、この時不意に、山辺沖太郎、井口義平の両名が切腹刑に処されたと知った二月十四日の午後、浅井弘五郎が激昂《げつこう》した百人をたしなめたことばを思い出していた。  あの日弘五郎は、まだ若々しい声でこう述べたものであった。 「どなたか菅野ら四人の家屋敷の構えに通じた方はおいででしょうか。もしひとりとしておいででないならば、本人たちが果たして自宅へ帰っているかどうかも見定めておらぬ以上、軽々しく事を挙げてはかえって討ち損ずる恐れがござりましょう」  弥一が遊び呆《ほう》けて金沢城下の恰好《かつこう》の噂になっている間に、顔を知られていない若い者に動き出してもらう必要がありそうであった。     五  加賀前田家の、旧|平士《へいし》階級の屋敷の敷地面積はおよそ五百坪前後。長屋門と木羽板《こばいた》屋根の土塀にかこまれていて、前庭には松、柏などの庭木を繁らせ、その間から母屋《おもや》の切妻を覗《のぞ》かせているのがつねである。  対して、お目見以下である与力たちのそれは七十坪程度。杉や槐《えんじゆ》などの生垣で隣家との境を画し、屋根も茅葺《かやぶ》きのものが珍しくはなかった。小立野《こだつの》の台地上、与力町のうちにある菅野輔吉の家も、このような造りの代物《しろもの》であった。  明治四年の六月一日は、新暦ならば七月十八日に相当する。梅雨明けの異例に早い年だったから、菅野家の下女たちは六月も半ばを迎えると衣類や武具その他の虫干しにとりかかった。  その虫干しの日に古参の者から裏庭の一番土蔵へゆくよう命じられたのは、おかよ[#「おかよ」に傍点]という新参の娘であった。  手わたされた鍵《かぎ》の束には、一番蔵、二番蔵、味噌《みそ》小屋、薪《たきぎ》小屋の鍵その他がひとくくりにされている。 「はい」  と答えたおかよ[#「おかよ」に傍点]は、姉さんかむりにした手拭《てぬぐ》いに隠した髷《まげ》を揺らすようにして、下駄を鳴らしながら裏庭へまわりこんだ。  しかし、——。  おかよ[#「おかよ」に傍点]は一番蔵に近づくと、不意に母屋からの死角に入りこみ、おっとりとした顔だちに似ないきびしい目つきをしてあたりをうかがった。そして裏庭にはだれもいないことを見定めると、やにわに鍵の束から一番蔵のそれを抜き取り、つましい鼠地|紺縞《こんじま》の単衣《ひとえ》の胸許《むなもと》に差しこむ。  また左右を見てから死角を出たおかよ[#「おかよ」に傍点]は、立木の陰を伝うようにして軒下の用水|桶《おけ》に近づくと、胸許から取り出したものを静かにそのなかへすべり落とした。  そのまま母屋の台所口へもどったおかよ[#「おかよ」に傍点]は気忙《きぜわ》し気に立ち働いている古参の下女のうしろ姿に呼びかけた。 「もし、ちょっときて下さんせ。一番蔵の錠前は、どの鍵を差しこんでもいっかな開きませぬ。何としたのやら」 「なにをいうてるの、一番大きな鍵や」  やはり手拭いを姉さんかむりにし、たすき[#「たすき」に傍点]前掛姿で土間の下駄を突っかけた古株は、おかよ[#「おかよ」に傍点]の手から鍵束を奪うとせかせかと一番蔵へむかった。  だが、どの鍵を使っても埒《らち》が明かない。古株が苛立《いらだ》ちをあらわにしてガチャガチャやっているのを見たおかよ[#「おかよ」に傍点]は、ふと思いついたようにいった。 「そういえば先ほどお使いに出ました時、鋳掛《いかけ》屋さんが御町内をまわっているのを見かけました。ちょっと呼んでまいりましょうか」 「ああ、それがええわ」  という声を聞くやいなや、おかよ[#「おかよ」に傍点]は小走りに表門へむかった。  やがておかよ[#「おかよ」に傍点]がつれてきたのは、まだ若い鋳掛師であった。髷を小銀杏《こいちよう》に結い上げ、麻かたびらを諸肌《もろはだ》脱ぎにしてその袖《そで》を腹のまわりに巻きこんでいる。この若い男は、天秤棒《てんびんぼう》の一方にふいご[#「ふいご」に傍点]とるつぼ[#「るつぼ」に傍点]、他方に諸道具を収めた箱を揺らしながら一番蔵へむかった。  鋳掛屋ないし鋳掛師とは、年に数回の割りであらわれ、仏前の三具足《みつぐそく》(香炉、花瓶、燭台《しよくだい》)から鍋《なべ》、釜《かま》の類《たぐい》まで、るつぼ[#「るつぼ」に傍点]に溶かした溶金を欠けた部分に注入して凝固、接合させる職人をいう。文明開化の時世となって以来、造り酒屋や醤油《しようゆ》業者が樽《たる》に焼印を捺《お》させることも流行《はや》っているので、鋳掛師は旧幕時代とおなじように諸国を旅歩きしているのだった。  しかし、古参の下女も姿を消した一番蔵の前で火を熾《おこ》しはじめたこの鋳掛師は、隙のない身ごなしであたりに目を配るばかりで、くだんの錠前を調べようともしなかった。  その裸の肩を背後から愛しそうに撫《な》でさすったおかよ[#「おかよ」に傍点]は、 「嘉三郎《かさぶろう》さま」  と息をはずませて呼びかけた。 「あなたさまのお頼みどおり、ようやく手引きして差し上げることができました。鍵はすぐ取り出せるところにありますから、ふいご[#「ふいご」に傍点]を吹かすふりをなさりながら聞いていて下さりませ」 「うむ」  と顎《あご》を引いて応じた精悍《せいかん》な顔つきの鋳掛師に、おかよ[#「おかよ」に傍点]は小声でつづけた。 「ここから生垣越しに見て左のはしが、だんなさまの書斎、そこから廊下を伝って右側が禁錮《きんこ》のお部屋です。そして西にあるのが奥書院、東に当たるのがお客の間です」 「して輔吉は、いつもはどの部屋で過ごしているのだ。謹慎を取締る者はいないのか」 「はい、朝夕定まるところもなく、今日は書斎においでかと思えば明日は奥書院というようで、お咎《とが》め中のこととて禁錮の部屋をもうけてはござりますが、これはまったく名のみのこと。取締りの方々もついぞお見えになったことはござりませぬ」  また鋳掛師がうなずいた時、左手の書斎から首の鈴を鳴らしながらちょこちょこと廊下へ出てきた一匹の狆《ちん》が、日陰に腹ばいになって伸びをすると、そのまま前肢に顎《あご》を乗せて昼寝に入ろうとした。 「あれは」  とおかよ[#「おかよ」に傍点]は、さらに声を落としていった。 「だんなさま御秘蔵の狆でございます。つねにだんなさまのお側を離れぬ癖がござりますから、きっと今だんなさまは書斎においでなのだと思います」 「これはいい目安を教えてもらった」  鋳掛師が勢いこんでふいご[#「ふいご」に傍点]を吹かす手を速めると、おかよ[#「おかよ」に傍点]は不意に涙声になった。 「あのような犬ですら飼い主を思う心を持っているというのに、わたくしがこんな不忠をいたすのはどなたゆえでございましょう。不憫《ふびん》と思うて下さりませ」  袖を噛《か》むおかよ[#「おかよ」に傍点]を肩越しに見やり、鋳掛師はおだやかな口調で答えた。 「そなたの実意は、まことにありがたいことだと思っている。不忠というが、そなたがこの家に奉公してくれたのは、おれの頼みを聞き入れてのこと。おれとそなたは幼な馴染《なじ》みなのだし、すでに二世を契った仲なのだから、不忠などと気にするには及ばぬよ。やがてこの身の念願が叶《かな》い、望みを果たしたあかつきには、——」  そこまでいいかけた時にわかに鋳掛師が苦しそうに顔を歪《ゆが》めたことに、おかよ[#「おかよ」に傍点]は少しも気がつかない。 「嘉三郎さま、うれしい」  甘い声でおかよ[#「おかよ」に傍点]が囁《ささや》くと、鋳掛師は気を取りなおしたようにつづけた。 「そなたに似合う夏物を買ってあるから、今日の礼として手わたしたい。今宵七時ごろ、例のところまでこられるか」 「はい。母の病を口実に、なんとかゆけるようにいたします」  おかよ[#「おかよ」に傍点]が屈《かが》みこんで男の背中を抱きしめた時、狆がひょっこり頭をもたげ、耳をぴんと立ててふたりのいる方角を見つめた。     六  犀川西岸、石坂の地の周辺には、花街が近いこともあって出会茶屋が多い。  その一軒、軒の右手に、 「御休憩所」  左手に、 「もみぢ葉」  と書いた縦長の掛け行灯《あんどん》を飾った店に、少々変わった組み合わせの男女が時おり通ってくるようになったのは、やはり梅雨明けからのことであった。  男はまだ三十前とおぼしき年恰好ながら、いつも着流しに大小を落とし差しにして、手拭い頬かむりという遊冶郎《ゆうやろう》そのものの姿。女の方はどう見ても十六、七になったばかり、赭毛《あかげ》、色黒の平たい顔をした小娘で、どこかの家に奉公しているのにうまく言いつくろって出掛けてくるらしく、風呂敷《ふろしき》包みを胸に抱えて、いつも時間を気にしていた。  男は二階の部屋に案内されると、かならずその小娘に、 「今日はなんの出前を取ろう。いつもの開化どんぶりでいいか」  と訊《たず》ね、小娘は顔を上気させてこくりとうなずく。開化どんぶりとは牛肉あるいは豚肉と玉葱《たまねぎ》とを玉子とじにして飯の上に乗せたものだが、まだ食べ盛りの小娘は、食物に惹《ひ》かれて十歳以上も年上の男と密会しているのだった。 「時におふみ[#「おふみ」に傍点]、そなたの奉公先のあるじの名はなんといったかな」  男がもぞもぞと身づくろいを始めた小娘に、まだ蚊帳《かや》のなかに腹ばいになったまま問いかけたのは、六月中旬のことであった。 「三等上士の岡山久太夫さま。前にもお伝えしたがに」  おふみ[#「おふみ」に傍点]と呼ばれた小娘が、がっくりと崩れた髷に櫛《くし》を入れながらまだ気怠そうに答えると、 「そうだった。たしか後嗣ぎ息子がなにかたわけたことを仕出かして、この四月まで閉門になっていたんだったな」  男は、さりげなくいった。 「へえ。なんや、二年前の従五位さまの刃傷《にんじよう》にかかわったとかで」 「で、そのせがれはこのところどうしておる」 「どうしてって、別に」  枕紙を始末したおふみ[#「おふみ」に傍点]は、ああ、そういえばだんなさまは今のお屋敷を売ってどこか暖かい土地に隠居なさりたいお気持のようだ、でもそれについてゆくとなると、あたしは松三郎さまにお会いできなくなってしまうから厭《いや》だ、とつけ加えた。 「ふうむ、隠居ねえ。四、五百坪の家屋敷があるんだから、おなじ地面内に隠居所を建てることなど簡単だろうがな。一体そのあるじやせがれは、どんな屋敷に寝起きしているのかね」  また松三郎は訊ねたが、おふみ[#「おふみ」に傍点]の答えは、あたしは下働きの者だからそこまではわからない、というものでしかなかった。  その二日後、——。  どこでどう聞きつけたものか、 「このあたりに家の出物を探している者でござりますが、こなたさまには失礼ながらお屋敷を手放されるお気持はござりませんでしょうか」  といって、岡山久太夫邸を訪ねてきたふたりの商人風の男がいた。  たまたまこの時、久太夫とその嫡男茂とは他出しており、応対に出たのは次男の忠《ただし》であった。 「さあ、たしか父上はそんな意向を洩《も》らしていたこともあったが、どこまで本気なのかはよくわからんな」  忠が答えると、 「さようでございますか」  と、不意の客はどこまでも礼儀正しく応じた。 「それではいずれ改めてお邪魔させていただきとう存じますが、失礼のないようお庭先から拝見させていただくだけでけっこうでござります。見積もりだけさせていただくわけにはまいりますまいか。これはまことにつまらぬものですが、挨拶《あいさつ》代わりに持参いたした品でございます」  忠の目の前に差し出されたのは、熨斗紙《のしがみ》つきの大きな菓子折であった。 「や、これはすまぬな。まあ、庭から見るだけなら構わぬだろう」  甘いものに目のない忠が答えると、ふたりは腰を屈めて枝折戸《しおりど》から中庭に通り、矢立《やたて》を取り出してなにやらしきりに書きつけていた。  しかしこのふたりは、 「ではまたまいりますので、御主人さまによろしくお伝え下さりませ」  と言い置いたにもかかわらず、その後二度と岡山家に顔を出さなかった。  おふみ[#「おふみ」に傍点]という小娘から、 「松三郎さま」  と呼ばれていたまだ三十前の人物も、ぷっつりと「もみぢ葉」を使わなくなっていた。  六月も二十日を過ぎたある日の夕方、おふみ[#「おふみ」に傍点]が風呂敷包みを胸に抱えてひとりで「もみぢ葉」にやってきて、 「待ち合わせやさけ、先に上がらせてもらえんやろか」  と、おどおどした口調で女将《おかみ》に頼みこんだ。 「どうぞ、上がりまっし」  女将は愛想笑いを浮かべて二階に案内し、なにか出前を取りましょうかと訊ねた。しかし、おふみ[#「おふみ」に傍点]はかぶりを振って膝《ひざ》を崩そうともしなかった。 (いつもの相手が、先に行っていろといったのかしら。女ひとりでくるところじゃないのだけれど)  ちらりと女将は思ったが、夜が更けるにつけて客がふえ、忘れるともなくおふみ[#「おふみ」に傍点]のことは忘れてしまった。  おふみ[#「おふみ」に傍点]が蒼《あお》ざめた顔をしてひそかに階段を下りてきたのは、もう八時をまわった頃合であった。やってきたのは六時ごろだったから、おふみ[#「おふみ」に傍点]は二時間近く男を待ちつづけていたことになる。 「あの、——」  待ち合わせの相手がこないのだが、だれかことづてを持ってきた者はありませんか、とおふみ[#「おふみ」に傍点]は震えを帯びた声で女将に訊ねた。  訳ありの男女の利用する出会茶屋に、身元のわかってしまう伝言を頼む者などいるはずがない。そこまで知恵が働かないのか、と思いながら、 「さあ、そういうものは今日はひとつもないわいね」  と答えた時、長年この商売を営んでいる老獪《ろうかい》な女将は、たちどころに事情を見抜いていた。目の前に肩を落として立っている愚鈍そうな小娘は、男に飽きられて袖《そで》にされたのである。 (遊び人風の相手は、いつもこの娘《こ》に開化どんぶりを取ってやって自分はお酒しか飲まなかったようだけれど、一体どうしてこんな垢抜《あかぬ》けしない娘と逢引《あいびき》などする気になったのか)  と思いながら、女将は商売柄いうだけのことはいった。 「お帰りなら、お代をお願いしますよ。おひとりこんかったからって、値引きはできませんからね」 [#改ページ]  第五章 決 断     一  九十日間の閉門を命じられていた石黒圭三郎が、満期を迎えたのは明治四年六月二十二日のことであった。  すでにこのころになると本多弥一のもとには、生死をともにする、と誓って連盟簿に血判を捺《お》し合った同志十四人からさまざまな事柄が報じられてきていた。  広田嘉三郎は、菅野|輔吉《すけきち》の家の見取図を作製して提出した。藤江松三郎から岡山久太夫の家屋敷売却の希望を知らされた芝木喜内、吉見亥三郎のふたりは、古物商に変装して岡山邸のおよそのたたずまいを筆に写し取ってきた。  石黒圭三郎も閉門を解かれたことだから、手分けして五人を襲うのであれば、ようやく機は熟したわけである。  弥一がひそかに十四人と連絡を取り合い、同志全員がそう確信するに至ったことを確認していた七月十四日、政府は廃藩置県の詔書を発布した。太政官が金沢藩庁に与えた文面は、以下のようなものであった。 [#ここから改行天付き、折り返して7字下げ] ≪     御沙汰《ごさた》書 [#ここで字下げ終わり]  今般藩を廃し県を置かれ候については、おって御沙汰候まで大参事以下これまでの通り事務いたすべき事。    辛未七月 [#地付き]≫  これによって、無慮三百年の連綿たる歴史を誇る金沢藩は地上から消滅し、あらたに金沢県が成立したのである。  同時に旧藩時代の藩主が名称を変えただけだった藩知事は、すべて免官。これからは東京に居住するよう求められ、各県には官選の県知事が派遣されることになった。 「東京府華族」  という身分を与えられた加賀前田家第十四代当主|慶寧《よしやす》は、東京府の命令に従う義務を負わされたのである。  つづけて、東京府は前田慶寧に対し、九月中に上京せよとの官命を伝達。あわせて旧加賀藩前田家江戸上屋敷であった前田家本郷邸のうち、西南の隅の一万二千六百七歩以外の土地をことごとく官に上納するよう命じてきた。  これは、弥一たちにとっては悪くはない出来事と思われた。前田慶寧が藩知事として金沢に君臨しつづけ、かつ弥一たちの願いをなおも認めない意向であれば、旧幕のころには一貫して美挙とたたえられてきた敵討《あだうち》も君命に逆らう行為となってしまうから、どうにもやりにくい面が残る。  しかし、九月に赴任してくるという官選の県知事のもとであれば、その知事は自分たちとは縁もゆかりもない人物であろうから意向を気にする必要などはまったくない。 「御一同には長い間|臥薪嘗胆《がしんしようたん》の日々を送ってもらったが、もはや雌伏の時はおわったかと存じ申す。そろそろ、仇敵《きゆうてき》五人の討手をだれとだれにいたすか決めようではないか。ただし決行いたす場合には、五人を同時に襲うのでなければ邪魔の入る恐れがある。次の時までに、それぞれがどの屋敷をめざすべきかを考えておいてくれ」  弥一がいよいよ同志たちを五組に分けるべく久しぶりに十四人を集めた七月末、事態は不意に思わしからざる方向へ進展しはじめた。岡山茂が近頃どこにも姿を見せなくなった、と告げる者があったのである。 「すまぬが、また頼む」  と弥一から伝言されたのは、藤江松三郎であった。松三郎はしぶしぶとながら、また岡山家の下働きのおふみ[#「おふみ」に傍点]に呼び出しの付け文をした。  手拭《てぬぐ》い頬かむりをした松三郎の背に隠れるようにして、おふみ[#「おふみ」に傍点]が「もみぢ葉」にゆくと、女将《おかみ》は少々驚いたようであった。 (あら、このふたりはどうやってより[#「より」に傍点]をもどしたのかしら)  という表情が女将の顔をほんの束の間かすめたのを、松三郎は見逃さなかった。  しかしかれは何|喰《く》わぬ顔で、いつものように開化どんぶりと酒とを頼んだ。  おふみ[#「おふみ」に傍点]は怨《うら》みごとをいおうとしたところに、下働きの身では盆と正月にしか食べられない品をあてがわれ、小遣い銭ももらって蚊帳《かや》のなかへ誘われると、みずからからだをひらきながら松三郎の問いに答えた。  深夜、弥一に面会を求めた松三郎の報告によると、近頃岡山茂はからだをこわし、近在の温泉に湯治にゆくことを繰返していた。だが、 「どうも、この辺の湯はからだに合わぬようだ」  といって、京へむかって旅立ったのだという。 「色気づいた婢《はしため》とむりやりつき合わせてすまぬな。ただしこの件は大事ゆえ、吉見亥三郎にも確かめさせることを承知しておいてくれ」  弥一が念を押すと、 「わかっております」  と松三郎は答えた。  同志のひとり吉見亥三郎は、昼間は県庁に戸籍係として勤務するようになっていた。金沢県の住人たちは、他国へ旅する時は旧幕時代とおなじく旅行鑑札(旅手形)の交付を申請するよう定められていたから、こういう時亥三郎はまことに調法な存在なのである。  亥三郎の調査の結果、おふみ[#「おふみ」に傍点]のことばは確かに真実と裏づけられた。  さらに、——。  七月三十日には、多賀賢三郎、岡野悌五郎の両名が勉学を名目として東京へ出立した、という噂が弥一のもとに伝えられた。 「なんだと!」  愕然《がくぜん》とした弥一は、ただちに事情をしたためた手紙を老僕弥兵衛に与え、県庁にいるはずの吉見亥三郎のもとへ走らせた。  その夜、夜陰に乗ずるようにして弥一邸にやってきた亥三郎は、幕末のころに流行《はや》った講武所|髷《まげ》をまだ乗せている細面な顔だちを弥一にむけて無念そうに報じた。 「たしかにさる二十八日付で、ふたりに鑑札が交付されておりました」     二  こうして本多弥一とその十四人の同志たちは、一種|茫然《ぼうぜん》たる思いで明治四年の八月を迎えた。  ひそかに廻状《かいじよう》をやりとりし、何気ない風を装っては、場末の旅籠《はたご》などでなおも会合をつづけてはみた。しかし、めざす仇五人のうち三人までもが金沢から姿を消したとあっては、これまで一致団結していた同志たちの心も急速に萎《な》えはじめていた。  それに拍車を掛けたのは、石黒圭三郎がまたしても東京へ去ったことであった。石黒は本郷に住まってふたたび勉学の生活に入るとのことであったが、こうなってはもう、いつでも手の届くところにいるのは菅野輔吉のみである。 「敵がますます減じてゆくさまを、指を咥《くわ》えて眺めているのは無念至極と申すもの」  ある日の会合で、血気盛んな西村熊が下ぶくれの色白な顔から細い目を精一杯見ひらいて、怒ったようにいった。すると、富田聡も頬骨のよく張った逆三角形の浅黒い顔を振り立てて西村に賛同した。 「かくなる上は、まず同志のうちより選抜いたした数人の手によって、とにもかくにも菅野輔吉を討ち果たしてしまおうではござりませんか。そして討手と相なった者は、首尾よく菅野の首級を挙げたならばその場で自刃してしまう。  さすれば残った同志がまだ十人以上おることはだれにもわかりますまいから、さらに機をうかがって数人を選び、名を勉学に藉《か》りて東京へ旅立たせる。かくして多賀、岡野を見つけ次第討ち取る、というのが最善の策かと存ずる」  弥一より五歳年長の三十二歳、いつも落着きはらっているため矢野策平からもっとも信頼されている鏑木勝喜知《かぶらぎかつきち》は、これに対して理路整然と反対意見を述べた。 「いや、その方法はあまりに剣呑《けんのん》すぎる。そもそもわれらがかような場所に夜もとっぷりと更けてから三々五々集まらねばならぬのは、もしわれらがなおも従五位さまの仇を討とうと念じていることが世に知れたならば、機先を制せられて宿願を果たせなくなる恐れがあるからではないか。  すなわちまずやみくもに菅野を襲ったりいたしたならば、その段階からわれらのまわりに刑獄寮の役人たち、あるいはその手先の密偵どもの目が光りはじめることは目に見えておる。さようなことに相なったならば、残された同志たちは身動きできなくなってしまおうから、やるなら五人を一気に討ち果たすしかありますまい。ともかく決行期日をよく考えた上で、金沢と東京で同時に激発いたすべきかと存ずる」  しかしこれらのやりとりを聞いていた者たちの中には、 「いや、もはやさように悠長に構えていられる秋《とき》ではござるまい」  と西村、富田の肩を持つ者もあり、それにまた反駁《はんばく》を加える者もあって、議は容易に決定を見ない。  顎《あご》の尖《とが》った異相に苛立《いらだ》ちの色を浮かべてこれを打ち眺めていた弥一は、やおら大刀を引きつけると上座に立ち上がって叫んだ。 「ええい、この期に及んでもなお心がひとつにまとまらぬのであれば、もうよいわ。この本多弥一が単身東京へ出張り、多賀と岡野を叩《たた》っ斬ってくれる」  その濃い眉《まゆ》に迫った両眼には、なにか光るものがあった。いたずらに甲論乙駁を繰り返すうちに時期を逸することを恐れ、弥一は悔し涙を浮かべていたのである。 「今日はもう遅い。諸君はさらに自重して、事態の好転を待たれよ」  矢野策平が咄嗟《とつさ》に口をはさんだので、この夜の集まりもなんら得るところなく散会となった。  この日以降ますます鬱々《うつうつ》として楽しまなくなった本多弥一は、四日後、また昏《く》れなずむ浅野川大橋をわたって東の廓《くるわ》へ足を踏み入れた。  しかし、その日めざしたのは花乃屋ではなかった。花乃屋へゆけば留袖《とめそで》芸者のおしま[#「おしま」に傍点]を呼ぶことになるが、もう弥一は蕩児《とうじ》を装うことにも疲れ果てていた。  かれが選んだのは、本多|政均《まさちか》が生前によく使った、 「馬龍軒」  という茶屋であった。  弥一がひとりでぶらりとやってきて、酌取り女だけを相手に酒を呑《の》んでいると聞き、馬龍軒の亭主が挨拶《あいさつ》にきた。それでも弥一は、 「や、無沙汰《ぶさた》をしておった」  といったきり、黙々と盃《さかずき》を口に運ぶばかりで話の接《つ》ぎ穂もない。  弱った亭主は、 「そういえば、この九月中に県知事さまより一足速く、内田|政風《まさかぜ》という鹿児島出身のお方が、金沢県大参事として赴任してこられるそうでござりますな」  という話を始めた。 「なんでも内田大参事さまは、東京で知り合った多賀賢三郎さまと岡野悌五郎さまとを従えて金沢入りなさる御予定だとか」 「な、なんだと」  弥一は盃を運ぶ手をぴたりと止め、くぼんだ二重まぶたの両眼を精一杯見ひらいて亭主の顔をまじまじと見つめた。 「その内田なにがしは、なにゆえに多賀と岡野をつれてくるのだ」 「はい、なんでもおふたりは大参事さまに気に入られ、金沢県の少属に採り立てられてのお国入りだそうで」 「亭主、一体それをだれに聞いたのだ」  と問い返した弥一の双眸《そうぼう》は、今や炯々《けいけい》と光りはじめている。 「はい、お名前は御勘弁いただきとうございますが、昨晩お見えになった県庁の方がそう話しているのを小耳にはさみましてな」 「そうか、九月になってからか」  思わずつぶやいた弥一は、なおも亭主が自分を見返していることに気づくと、取ってつけたような笑みを浮かべた。 「いや、今年は秋が早いから、そのころにはもう霜が降りるだろう。鹿児島出身の大参事殿では、金沢の寒さを初めて知って震え上がってしまうかも知れぬのう」  八月十一日には、元治元年(一八六四)に元治の変を起こして以来、なにかと腰の定まらぬことばかりだった加賀藩最後の藩主前田慶寧が東京へ出発。九月四日には、父の斉泰も金沢に別れを告げた。  一目別れを惜しもうと沿道に群らがった加越能(加賀、越中、能登)三国の士民は、土下座し、鼻水をすすりながら、梨地高蒔絵《なしじたかまきえ》、長棒引戸の乗物を見送った。  しかし、本多弥一とその同志たちは、 (いよいよ、入れ違いに多賀賢三郎と岡野悌五郎が還《かえ》ってくるのだ)  とのみ思いつめ、自分たちが今生において目にする最後のものとなるであろう大名行列を、武者震いする気持で目送していたのだった。     三  金沢県庁が置かれているのは、長町《ながまち》の川岸通りにある旧加賀藩|八家《はつか》のひとつ、長《ちよう》家の屋敷内であった。金沢城から見れば、藩祖前田利家の霊を祀《まつ》る尾山神社をはさんで城西にあたり、犀川の流れから見れば東岸に位置する。  県庁の北西一帯は、この明治四年から、 「長土塀《ながどへ》」  という地名となった。  このあたりには旧幕のころから、長家とやはり加賀藩八家のひとつの村井家、それに人持《ひともち》組ながら、一万四千石の石高を誇った今枝家があり、それぞれの家臣団をその周辺に住まわせていた。そしてこれらの三家は、たがいの家臣の家屋敷を、 「家中町」  とすべく黄土色の長土塀《ながどべい》の内に取りこんだ。  この外囲いが今も道の左右にどこまでもつづいているため、長土塀ということばが訛《なま》って地名に転じたのである。  長町と長土塀《ながどへ》の道幅は、せまいところで一間(一・八メートル)、ひろいところで三間程度。辻《つじ》が多く、川岸通りには柳の老樹も点々と立っているから、身を隠すべき死角には事欠かなかった。  弥一とその同志たちの中には、多賀、岡野両人の顔を知らない者も少なくはない。かれらは県庁勤務の吉見亥三郎の手引きにより、このような地形を利用して次々にふたりの面体《めんてい》を確認していった。  すると、十月に入って緑の多い本多町も紅葉の季節を迎えたころ、今度は岡山茂に関して耳寄りな噂が伝わってきた。金沢から北陸道を下ること十一里半の地にある山代温泉郷で、かれらしい男を見かけた者がいるという。  弥一はこの噂がどこから流れ出たのか調べてみたが、よくはわからずじまいになってしまった。そこで弥一は、 (こうなったら、直接山代温泉を探索した方が手っ取り早かろう)  と考えて、まず藤江松三郎を派遣。つづけて富田聡、浅井弘五郎をも出張させ、ほど近い山中温泉と粟津温泉をも隈《くま》なく探らせてみた。  しかし十一月の降雪の季節がきてからも、岡山茂の行方は杳《よう》として知れなかった。  またおなじころ、岡山は山代温泉ではなく、その三里半ほど金沢寄りの小松に身を潜めているとの説も流れた。弥一は矢野策平、西村熊、舟喜|鉄外《おのと》の三人を小松に行かせてみた。  だが岡山の小松滞在は、すでに藤江松三郎がおふみ[#「おふみ」に傍点]を籠絡《ろうらく》して聞き出したところとつき合わせた結果、岡山の京都行き以前のことと判明。ついに弥一たちは、かれの行方を追うことだけは断念せざるを得なくなった。  しかし、すでに事態はあきらかに動き出していた。  岡野悌五郎の家は、城の北にある尾張町のさらに北側、彦三町の内にある。 (岡山茂のように、不意に行方を昏《く》らまされてたまるものか)  と考えて、舟喜鉄外はひそかに彦三町に通いつめていた。  十一月十五日、また素知らぬ風を装って岡野の家の前を通りすぎながらうかがうと、冠木《かぶき》門内に駕籠《かご》が一|挺《ちよう》据えられているのが目に飛びこんできた。  商人風の男数人がその駕籠から取り出し、大切そうに両手に支え持って順次玄関へ運んでゆく包みは、その形状からして新調の衣裳《いしよう》一式らしい。 (一体これは、なんのためのものなのか)  見過ごしがたい、と感じた舟喜鉄外は、すぐに弥一に報告。弥一はまたも吉見亥三郎に依頼して、岡野悌五郎に最近なにがあったのかを調べさせた。  その日のうちに亥三郎が伝えたところによれば、岡野はこの十七日か十八日のうちに、公務出張になる予定とのことであった。  旧金沢藩には、毎年十一月の新嘗祭《にいなめさい》に際し、領内から豊《とよ》の明りの節会《せちえ》の宴がおこなわれる三つの神社を選んで奉幣使《ほうへいし》を派遣する習慣があった。  その伝統を引き継いだ金沢県からは、今年は白山《はくさん》の比《ひめ》神社、越中の射水《いみず》神社、能登の気多《けた》神社へ奉幣使が派遣されることになっていた。岡野悌五郎は射水神社へのそれに指名されたため、使者の正装である冠、縫腋位袍《ほうえきのいほう》、指貫《さしぬき》その他をあつらえるのに懸命になっていたのである。  岡野が越中に出張するならば、討ち果たすには絶好の機会であった。途中いずれかの人目につかぬ場所に待ち受けて、邀撃《ようげき》しさえすれば事は済む。  弥一がその夜のうちに本多町の自宅に同志たちを集め、喜色を浮かべてそれと伝えると、全員歓声を挙げてこれに賛意を示した。  岡野悌五郎|誅伐《ちゆうばつ》の日にちは、きたる十八日。同日中に菅野輔吉、多賀賢三郎をも屠《ほふ》り去る、ということで評議は簡単に決定を見た。  ただしその夜はもうすっかり更けていたので、各自の分担を決めることだけは明晩の矢野邸での会合に持ち越されることになった。  しかし、——。  一夜明けた十六日水曜日、いつものように朝九時に長町川岸通りの県庁に登庁した吉見亥三郎は、あり得べからざる事実を初めて知って愕然《がくぜん》となった。急の腹痛と称して早退を許されたかれは、その長屋門を出ると手近な駕籠屋にむかって無我夢中で駆け出していた。  亥三郎が広坂を経て駆けこんだ先は、本多弥一の屋敷であった。朝から大小の手入れに余念のなかった弥一が袴《はかま》を着けて応対に出ると、亥三郎は端整な顔を歪《ゆが》めて叫ぶように告げた。 「た、多賀賢三郎めは関西・九州方面の視察を命じられ、昨日のうちに草薙《くさなぎ》尚志大属の供をして当地を出立いたしました!」  ようやく三名の同時討伐を決定して半日後に、早くも計画は画餅《がべい》に帰す気配濃厚となってしまったのである。 「ともかくその話が真実《まこと》かどうか、だれかに調べさせてみる。いずれにしても、今宵《こよい》矢野さまの家に集まる件は約定通りだ。遅れるなよ」  口迅《くちど》に応じた弥一は、老僕弥兵衛を使って浅井弘五郎を呼び寄せた。 「心得ましてござる」  俊敏に応じた弘五郎が、早駕籠でむかった先は松任《まつとう》であった。  金沢と小松よりはるか手前の北陸道の宿場町松任との距離は、わずか二里半たらず。昼前にはもう松任に入った弘五郎が駕籠問屋に走りこみ、 「昨日、県庁の草薙大属御一行が通過なさらなかったか」  と訊《たず》ねると、 「たしかに御通行なさいましたが」  という答えが返ってきた。  屋敷から一歩も出ずにいた弥一は、その復命を受けて、 「そうか、御苦労だった」  と乾いた声を出すと、思わず長い顎《あご》をそらせて天井を仰いだ。  その夜、——。  おなじ本多町のうちにある矢野策平の家でひらかれた会合は、初めから前夜のそれとは打って変わって沈鬱《ちんうつ》な空気につつまれた。 「吉見亥三郎の調べによれば、昨日、多賀とともに関西・九州へむかった役人は、草薙尚志大属だ。途中どこかで、梅原可也、沼田江のふたりも合流するらしい」  改めて多賀賢三郎の同行者の姓名を同志たちに伝えた弥一は、無念さを圧《お》し殺して提案に移った。 「同行者が三名になるというのでは、多賀を追いかけたとてどうにもなるまい。口惜しいことではあるが、昨晩申し合わせたところに従い、菅野輔吉と岡野悌五郎の両名に狙いを絞ろうと思うが、これでどうか。ほかに意見があれば、うけたまわろう」  しかし意外にも、矢野策平以下の十四人全員がこの意見には反対であった。  ——今日までわれら十五人は、それぞれが苦心に苦心を重ねてきた。なのに、わずかに菅野、岡野のふたりを討つだけというのではとても満足できない。  ——岡山茂は行方不明になってしまっているから、追求できないのはやむを得ない。だが多賀は越前路を下りつつあることがはっきりしているのだから、追跡を重ねてなんとしてもこれを討ち果たす。  ——石黒圭三郎も東京の本郷にいるらしいということは知れているのだから、これも対象から外すわけにはゆかない。  その思いは、弥一には痛いほどよくわかる。だからといってかれがふたつ返事で同意する気になれないのは、こう思っていたためであった。 (同志たちを四組に分け、そのうちの二組によって菅野と岡野を討つとすると、おれは首謀の者ゆえ、そのいずれかの組に属さねばならぬ。悲願を成就したあかつきには、県庁に自訴して出て事情を細大|洩《も》らさず陳弁する務めがあるからだ。  しかし、残る二組を東京と北陸道へ放つとなると、これらの同志たちは、敵討《あだうち》に成功したあと地元の役所に出頭して縛《ばく》に就《つ》くことになる。どの組に属したとて、かの赤穂浪士とおなじく死を賜ることになるのは必至だが、そうなるとこれら二組の者たちは東京および越前路のいずれかの宿場で切腹することになり、死生をともにするという誓いをまっとうさせてやれなくなってしまう。それは、あまりに不憫《ふびん》というものだ、……)  弥一は、自分に命を預けてくれた同志たちのある者——今、目の前に車座になっている者たちのいずれかが、見知らぬ土地でみずからの腹を孤独に切り裂くことになるのかと思うと、やりきれなくなってしまう。 「本多さま。本多さまさえ『わかった』とおっしゃって下されば、われらは今すぐにでも動き出すことができるのですぞ」  だれかが迫るようにいったが、この夜弥一はとうとう腹をくくることができなかった。     四  その夜遅く、本多弥一が白い息を吐きながら自宅門扉の脇戸をくぐると、まだ長屋のうちに起きていた弥兵衛が提灯《ちようちん》を持って出迎えてくれた。 「なんだ、まだ起きておったのか。おれは、勝手に外をほっつき歩いているだけの話だ。そのおれとつき合っていたのではからだがもたぬから、これからは先にやすめよ」  そういって弥一は、この忠僕に背をむけようとした。しかし弥兵衛は、 「だんなさま、実は折り入ってお願いがござりまして」  と低い声で背後から呼びかけてきた。 「ふむ、どういうことだ」  と訊《き》き返しても、 「へえ」  と答えた弥兵衛は、前庭の左右を見わたしてここでは都合が悪そうなそぶりを見せる。 「ならば母屋にきて、酒の相手でもしてゆけ」  弥一がいうと、弥兵衛は皺《しわ》んだ口もとをしっかりと引き結んでうなずいた。  だが弥兵衛は、弥一が玄関へ請《しよう》じ入れたとたんに、 「ここでけっこうでござります」  といって、提灯の柄をうしろ腰に差しこみ、式台下の三和土《たたき》に正座してしまった。 「そこではからだが冷えすぎる。上がれ」  弥一が羽織の下から大刀を抜き取って命じても、綿入れに股引姿の弥兵衛は、いつになくかたくなに白髪髷《しらがまげ》を振った。かと思うともう六十歳を過ぎている弥兵衛は、不意に思いがけないことを言い出した。 「だんなさま。近ごろだんなさまには、いよいよ大事な時節をお迎えの御様子。いいえ、なにもおっしゃいますな。あっしはまだだんなさまが、乳母に抱かれておいでのころからお仕えしております者、だんなさまがどんなお気持で東の廓《くるわ》に通っておられたか、どんな要件であっしを吉見さまや浅井さまのもとへ使いに出されたのかも、全部見通しておりました」 「———」  弥一が式台上に黙って突っ立っていると、ゆらりと面を上げた弥兵衛は、逆光になった提灯の火に痩《や》せたからだの輪郭だけを浮かび上がらせてずばりといった。 「あっしはもはや老先《おいさき》の短いからだ、だんなさまの最後のお役に立ちたいばかりに申し上げます。どうか今、ここで、あっしをばっさりとやっては下さいませぬか」 「なんだと、弥兵衛、気は確かか」  あまりに破天荒な注文に弥一が声を上ずらせると、弥兵衛は生真面目にその特徴ある顔だちを見返しながらつづけた。 「へい、気は確かでございますとも。この弥兵衛、だんなさまの御本心は従五位さまの敵討をなさることにあると読み取りました時から、だんなさまが本懐をお遂げになりますよう神仏に祈り暮らしておりました。けど近ごろ、ふとあることに思い至ったのでございます」  見抜かれていたのか、と思いながら、 「なにに思い至ったというのだね」  と弥一が問い返すと、 「だんなさまには、まだ人をお斬りになったことがない、ということにでございます」  と弥兵衛はいった。 「されば敵討に御出発なさる前に、あっしのからだを使って人を斬るのに慣れておいた方がしくじる恐れがあるまいと思いつきまして。さあ、遠慮などはいりませんや、おいぼれのあっしには、もうこんなことぐらいしか、だんなさまのお役に立てることは残されてはいないんでござんすから」 「弥兵衛、なにを申すか」  ことばの上では叱りながらも、弥一は弥兵衛の気持を初めて知って、胸が一杯になっていた。  同時に弥一は、 (あっ)  と心に叫んでいた。かれは同志たちの心情を、すっかり錯覚していたことに気づいたのである。 (ああ、そうであったか。士分にあらざる弥兵衛ですら、こうなのだ。十四人の同志たちは、初めから敵討本懐を遂げることさえできたならば、どこにどう朽ち果てることになろうと構わぬと覚悟を決めて、おれのもとに集まってくれたに違いない。だからこそ人数を四手に分け、四人を同時に討ち留めようと主張したのか。それを渋ったこのおれは、かの者たちから見るととんだわからず屋と映ったかも知れぬな) 「その方の、その気持だけで充分だ。おれは矢野さまから中条流剣術の手ほどきを受けて久しいし、心胆も練れているつもりだから、そこまで案じてくれずともよい」  と弥一は弥兵衛をなだめ、長屋へ引き取らせた。そして自室へ入ったかれは、着更《きが》えもせずに文机《ふづくえ》にむかうと二通の文書をしたためはじめた。  一通は本多宗家の家老たち宛のもので、その内容は、お琴を妻に迎えることを承諾しようと思うが、もう十日ほど静かに考えさせてほしい、というものであった。  いったんは押しかけ女房同然に弥一との同居生活を始めたお琴は、弥一が放蕩《ほうとう》をもっぱらとしてから数ヵ月を閲《けみ》した五月下旬に、とうとうたまりかねて本多宗家へ帰っていってしまった。  すると家老たちもにわかに弥一の遊蕩を責めはじめ、最近は三日に一度の割りで、だれかが説教にやってくるようになっていた。そのいうところは、毎回おなじようなものであった。 「お琴さまはの、どうもそこもとを今もって憎からず思っておいでのようなのじゃ。そこもとが身持ちを改めさえすれば、正式にこの家に嫁いでもよい、ともおっしゃっておられる。されば、そこもとの方から一度お琴さまをお訪ねいたし、詫《わ》びを入れさえすれば四方は丸く治まるのじゃ」  要するに弥一が一言済まなかったといいさえすれば、ふたりの仲をとりもってくれる、というのである。  弥一は別に、お琴を毛嫌いしているのではなかった。もしも自分が旧主の敵討《あだうち》をおこなう定めではなかったならば、喜んでお琴を妻にもらい受けていただろう。  しかし弥一は、 (従五位さまの無念をお晴らしすることは、おれの天命だ)  と思い切っていた。  そして敵討とは、敵討免状を受けずしてこれをおこなった時には、仕損じても死、成功しても死が待っている行為なのであって、 (いずれ自分が死ぬとわかっていて妻を迎えるのは、相手に対して酷《むご》すぎる)  とかれは考えていた。  だからこそ同居していた当時もお琴の肌に触れることをおのれに禁じていたのだが、蕩児を装うことにも疲れ切った最近、家老たちは弥一がやや反省の色を見せたと錯覚したものか、頻繁に弥一を訪ねてくるようになっている。そのため、 (明日以降またやってこられて、敵討の仕度に気づかれたりしては元も子もなくなってしまう)  と思った弥一は、お琴には気の毒ながら、家老たちをいいくるめてしばらく動きを封じておくことにしたのである。  二通目は、復讐《ふくしゆう》趣意書そのものであった。  同志のひとり鏑木勝喜知《かぶらぎかつきち》は、本多家になおもつかえて中小将組に属し、家老席執筆役をつとめている。能書家であり、名文家としても知られているから、文飾や清書はこの勝喜知に安心してまかせられる。  しかし、もう丸二年以上前のあの日、本多政均が金沢城二の丸の長廊下で非業の死を遂げたと知った時以来の本多家家老のひとりとしての思いには、弥一にしかわからないことも多分にある。 ≪さる巳年《みどし》(明治二年)八月七日、山辺沖太郎、井口義平、私ども元主人本多従五位を殿中において暗殺に及び候。右沖太郎等は重職へ相迫り、ことに殿中をもはばからず、暗殺の振舞、まずもって士道を取り失い、重々不届き至極、……右沖太郎等儀は、私どもにおいては主人の仇、一太刀申したき志願につき、沖太郎等御刑律御決定の上、お引き渡し成し下され候ようあまたたび嘆願に及び候ところ、御法典もこれあり、官辺へおうかがい中につき、穏便に御下知相待ちおり申すべき旨等|仰《おお》せわたされ、……もし願いの趣お聞き届け相成りがたく候わば、なにとぞ御|憐愍《れんびん》をもって、沖太郎等の首切り役にても仰せつけ下され候よう嘆願たてまつり候ところ、頃日《けいじつ》知事公御不快御出庁これなきにつき、御住居において何とか御詮議《ごせんぎ》これあるべきの旨にて、……≫  一心不乱に書きつづけるうち、弥一の脳裡《のうり》には山沖、井口両名を刑獄寮から奪い去って成敗することはできないか、と考えて以来のいわくいいがたい思いが一気に甦《よみがえ》ってきた。弥一は不覚にも筆を持つ手を震わせてしまい、ついに菅野輔吉以下四人を討つ決意を固めるまでのくだりには、なかなかたどりつけなかった。     五  十一月十七日の木曜日、矢野邸でひらかれた会合において、本多弥一はもう一度、菅野輔吉、岡野悌五郎を討ち果たすことでよしとする者はいないか、と一同に確かめてみた。  しかし十四人の同志たちの意志は、前日からまったく変わってはいなかった。 「よし、ことはすでに眼前に迫りつつある」  ついに弥一は、十四人の意向に同調する発言をおこなった。 「しかるに、なおも口舌をもって争うのは愚の骨頂であろう。拙者はあえて前言をひるがえし、同志諸君の仇敵《きゆうてき》四人同時討伐案に賛意を表する。では早速ただいまより、四人|鏖殺《おうさつ》の策を練ろうではないか」  車座になっていた十四人の顔には、これを聞いたとたん安堵《あんど》と喜びの色があふれ返った。  しかし、だれがだれの討手となるかというもっとも重要な問題の検討に入った時、一座は不意に重苦しい空気に支配された。弥一以外の十四人は、東京と越前路とに走るべき二組を決定するのが容易ではないことに初めて気づいたのである。  心情的な問題はひとまず措《お》くとしても、同志たちの抱える職務の問題があった。  吉見亥三郎は県庁に奉職しているし、西村熊、鏑木勝喜知、舟喜鉄外、矢野策平の四人は、なおも本多家に仕えているから、わけもなく数日間姿を隠すわけにはいかない。そこを押してこのうちのだれかを選んだとしても、勤めが半ドンとなる十九日土曜日の午後まで出立を遅らせていては、多賀賢三郎に追いつけないことになりかねない。  富田聡と浅井弘五郎は両親と同居しているから、これも勝手に家をあけることはかえって危険であった。  もしもこれらの者たちがだれにも断りなく数日間行方を絶ったならば、周囲に疑心暗鬼を生じさせて、積年の同志たちの苦労が一気に水泡に帰する恐れさえ出てくる。 (ならば東京と越前路とをめざす二組は、この七人以外から選ばねばならぬ)  と考えた時、ようやくかれらは、あえて同志たちのいずれかを異郷に死すべき任務に推薦することのむずかしさを悟ったのだった。  しかしこの沈黙は、まもなく車座の一角にゆらりと立ち上がった男によって破られた。藤江松三郎であった。  父孫右衛門の代から本多宗家に足軽として仕えてきた松三郎は、岡山家の下女おふみ[#「おふみ」に傍点]を惑わせた涼やかな目もとに決意のほどを漲《みなぎ》らせ、堂々たる口調で切り出した。 「不肖の身ではござりますが、もしもどなたかおひとりが同行して下さるならば、拙者めが身命を賭《と》して多賀追討に当たらせていただきたく存ずる」 「その意気や良し」  と大きな声を放ち、別の一角に立ち上がったのは芝木喜内であった。 「藤江君。拙者でよろしければ、ぜひとも同行させていただく」 「ありがとうござります」  と頭を下げる松三郎と、それに笑ってうなずき返した喜内の姿を見て、残る十三人の間からは拍手の音が湧き起こった。  旧足軽という同志中ではもっとも軽い身分であることを考慮に入れ、敵方の下女に言い寄るなどというだれもしたがらない役を進んで引き受けてきた松三郎は、ざわめきが静まると、なおも立ったまま弥一にいった。 「明日、早駕籠《はやかご》にて出立いたさば、二十三日には江州大津あたりで多賀に追いつくことができましょう。ことは同時に起こすのが肝要なれば、当地における菅野、岡野両名の襲撃も、二十三日まで繰りのべて下さるようお願いします」  だれにも異存のあるはずはない。それと見て、松三郎はつづけた。 「なお芝木さまと拙者との路銀は、二十円ほどにて足りるかと存じます。むろんこれが足りなくなった場合にも、乞食となってでも本懐を遂げて御覧に入れる」  政府が旧幕時代から通用していた金、銀、銅、真鍮《しんちゆう》、鉄の雑多な貨幣を廃し、これらを二十円金貨から五銭銀貨までの八種類の新貨幣に切り換えたのは、つい半年前の五月十日のことであった。 「その二十円は、拙者が出す」  弥一が即座に答えたので、費用の問題はたちどころに霧消した。  こうなれば、次はおのずから石黒圭三郎を追う東京組の選定である。  弥一と並んで座敷の上座に席を占めていた矢野策平が、ひとつ咳《せき》ばらいをすると、 「菅野は刀槍《とうそう》の道に長じておると聞くから、拙者は率先してこれに当たろうと思う」  とおもむろに切り出した。 「島田君。おぬしは確か、旧幕のころ江戸詰めをいたしたことがあったな」 「はい」  下座にいた本多家旧足軽、島田伴十郎は、その目を正面から見返して答える。 「おぬし、御苦労だが東京へ行ってはくれまいか」 「お任せいただき、これに過ぐる名誉はございませぬ」  島田は、ためらいなくうなずいていた。 「その同行は、拙者にお命じ下されたい」  この時、間髪を容れずにいったのは、島田の隣りに座っていた上田|一二三《ひふみ》であった。上田と島田は身分もおなじのため、仲が良いのである。島田が向き直って両手を差し出すと、いかつい顔だちの上田はうん、うんとうなずきながらその手を握り返した。  弥一はこのふたりに対し、東京行きの路銀もむろん拙者が出させていただく、といって、こうつけ加えた。 「むろん返せなどとはいわぬから、安心して使い果たしてくれ」  これを聞いた一同は、どっと笑った。すでに死を覚悟している者同士の間でなければ、とても笑えない冗談だったというのに。  かくして急転直下、越前路組と東京組の顔ぶれが決まったので、ほかの分担もとんとん拍子に決定した。 ◎岡野悌五郎 [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]  ○討手 本多弥一、鏑木勝喜知、富田聡、吉見亥三郎。ほかに清水金三郎は岡野|邀撃《ようげき》の開始を見るや、ただちに菅野の討手に報告すること。  ○場所 県庁退出途上。 [#ここで字下げ終わり] ◎菅野輔吉 [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]  ○討手 矢野策平、舟喜鉄外、西村熊、浅井弘五郎、広田嘉三郎、湯口藤九郎、清水金三郎。  ○場所 与力町の菅野宅。 [#ここで字下げ終わり] ◎多賀賢三郎 [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]  ○討手 藤江松三郎、芝木喜内。  ○場所 江州まで追跡し、適当の地点において決行。 [#ここで字下げ終わり] ◎石黒圭三郎 [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]  ○討手 島田伴十郎、上田一二三。  ○場所 東京において見つけ次第。ただし発見前に他の復讐《ふくしゆう》がおこなわれ、目的を果たす能《あた》わざれば適宜自訴の事。 [#ここで字下げ終わり]  石黒の討手にのみ付帯条件がつけられたのは、石黒がまたしても姿を消している可能性を考えあわせたからである。  つづけて鏑木勝喜知は別室に退き、弥一があらまし作成した復讐趣意書の決定稿作りに取りかかった。  昨夜、弥一がなかなか書けなかったその結論部分を、勝喜知はこう整えた。 ≪……さりながら故本多従五位の末期、遺憾の心底忍びがたく、主人を暗殺いたし候者どもとともに天を戴《いただ》きまかりあり候儀は幾重にもつかまつりがたく候につき、いかにもして復讐を遂げ、いささか亡主の冤魂《えんこん》を慰め申したき志願につき、を討ち果たし申し候。私ども死後御見分の御方よろしくお達し下さるべく候。以上。    明治四年十一月二十三日      本多故従五位元家来      方今士族 [#地付き]本多弥一等連名 ≫  復讐趣意書はとりあえずこの夜のうちに二通写しを作成し、明日出立する藤江・芝木組、島田・上田組に一通ずつ持たせることにした。空欄には討つべき仇の姓名を各自書きこみ、残る二組も敵討決行にかならずこれを持参することも誓い合った。  写しの作成がようやくおわり、勝喜知が同志たちの待つ座敷へもどってくると、そこにはずらりと膳《ぜん》が並んで酒宴の用意が整えられていた。  読書会を名目にひそかに集まり、酒を酌み交わしたことは多々あるが、晴れやかな思いで盃《さかずき》を口に運ぶのは、だれにとっても本多政均の横死以来初めてのことであった。 「ああ、今日は酒の味がするのう」  思わず弥一が溜息《ためいき》をつくと、同調の声がさざ波のようにひろがっていった。     六  また一夜明けて、十一月十八日がきた。  この日、本多弥一たちはきびしい寒気のなかを早朝から矢野策平宅に集合し、藤江松三郎・芝木喜内組、島田伴十郎・上田一二三組に対するささやかな別宴を張った。  本日出立するこれら四人は、いずれもぶっさき羽織にたっつけ袴《ばかま》、足袋わらじ掛けの旅装に身を固め、腰の大小には柄袋《つかぶくろ》をかぶせてあらわれた。各自大きな荷物を提げているのは、途中豪雪に見舞われた時の用心に雪沓《ゆきぐつ》、蓑《みの》その他を持参しているためであった。  これら四人を上座に据えて、紋羽織姿の弥一以下は、下座に横に居流れた。  そこに瓶子《へいじ》と三方《さんぽう》が運ばれてきて、出陣式を取りおこなう段になった。子のない策平の妻女は、夫の胸中をよく汲《く》み取っていつもこのように気配りしてくれるのである。  四人の前に置かれた四台の三方には、それぞれ打鮑《うちあわび》と勝栗《かちぐり》が載せられていた。そして全員に盃がわたされ、酒が注がれる。 「では、拙者より祝い申す」  膝《ひざ》をすすめた弥一が、戦国以来の習慣そのままに低く誦《ずん》じた。 「われ、この軍《いくさ》に勝栗。われ、この敵を打鮑」  全員がこれを復唱し、一気に盃を干した。これによって、出陣式はとどこおりなく完了した。  次は、同志全員が今日の感慨を寄せ書きしようということになった。  弥一は矢野策平と相談した結果、ふたりで連歌を詠《よ》むことにした。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  今暫《いましば》し別るるとてもやがてまた [#地付き]策平       君の御まへに逢ふぞ嬉しき [#地付き]弥一       鏑木勝喜知、浅井弘五郎、芝木喜内、広田嘉三郎の四人は和歌を詠んだ。  皇《すめろぎ》の神の恵みのましまさば我|ねぎごと《〈折事〉》のなどかかなはん [#地付き]勝喜知       消えてのち露となる身はいとはねど愛せし松に心残れる [#地付き]弘五郎       一筋に一念掛しは三年先《みとせさ》きいつまでかくてあるべきと思ふ [#地付き]喜内       一筋に思ひこめたる武士《もののふ》の道いそぎゆく君の御前に [#地付き]嘉三郎      [#ここで字下げ終わり] 「門出《かどで》の時」  と題した舟喜鉄外と、西村熊、吉見亥三郎、藤江松三郎は俳句を書いた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  讐討《あだうち》の門出勇し今日の顔 [#地付き]鉄外       散り残る葉を打砕く初あられ [#地付き]熊       身は枯れて香《かおり》ぞ高き|きゃら《〈伽羅〉》の香《こう》 [#地付き]亥三郎       掛《かか》る雪|吹《ふき》はらしたる冬の梅 [#地付き]松三郎      [#ここで字下げ終わり]  この日は新暦ならば十二月二十九日に当たり、北国《ほつこく》金沢はすでに何度かの降雪を見ていた。百間堀をへだてて金沢城の南東に位置する三万五千坪の兼六園では、すでに樹木の枝を雪折れから守るため、雪吊《ゆきつ》りがおこなわれていることだろう。  弥一自身も屋敷の庭に降りつんだ雪を眺め、 (赤穂浪士たちが本所の吉良邸に討ち入った、元禄《げんろく》十五年師走十四日も大雪だった。これは幸先がいい)  と感じて家を出てきたのだった。  本日出立の四人は、いずれも、家の者には、 「四、五日他行する」  とだけ言い置いてやってきていた。なかには初めから旅仕度で出ようとして家人に怪しまれることを恐れ、途中の物陰で着更《きが》えたり、下駄をわらじに履きかえたりして集まってきた者もいる。  やがて、旅立ちの時がきた。  それに先んじて浅井弘五郎、西村熊、鏑木勝喜知が姿を消したのは、この二年あまりの間にすっかり親しくなった藤江松三郎、芝木喜内を途中に待ち受け、改めて見送りをしたいと願ってのことであった。  藤江、芝木組は犀川を西へわたって越前路へ、島田・上田組は浅野川を東へ越えて越中路へむかわねばならないから、矢野邸を出ればたがいにもう二度と会えないに違いない。  残った一同がうちそろって門前まで見送りに出ると、四人は冷気に白い息を流しながら一揖《いちゆう》し、背を見せて広坂へ通じる下り坂をたどりはじめた。  冬枯れの景色のなかに溶けこんでゆくそのうしろ姿をいつまでも眺めながら、弥一はわれ知らず「易水《えきすい》の歌」を口ずさんでいた。  風|蕭々《せうせう》として易水寒し  壮士ひとたび去りて復《また》還らず [#改ページ]  第六章 断 行     一  畿内に発して日本海沿岸部を北上してゆく北陸道は、古くは越路《こしじ》、平安時代以降は北道《きたのみち》、陸道《くがのみち》などと呼ばれた。近世以降は、 「北国路《ほつこくじ》」  という名称がもっともよく使われたが、このことばには大別して二種の用法があった。  狭義の北国路は、京から中山道として流れ出て関ヶ原で北へ岐《わか》れ、藤川—春照《しゆんしよう》—小谷《おだに》—木之本《きのもと》—柳《やな》ヶ瀬《せ》—椿坂—中河内《なかのかわち》—板取—今庄《いまじよう》—湯尾《ゆのお》—鯖波《さばなみ》—脇本《わきのもと》—武生《たけふ》—鯖江—水落《みずおち》—浅水—福井—船橋—森田《もりだ》—長崎—金津《かなづ》—細呂木《ほそろぎ》—大聖寺《だいしようじ》—松任《まつとう》—野々市とつづき、金沢に至るまでをいう。  対して広義には、加賀国から越中、越後を経て陸奥《むつ》の三厩《みんまや》に至る北陸道全体を差すのである。  明治四年十一月十八日に金沢を出た藤江松三郎、芝木喜内がめざしたのは、むろん前者——金沢の感覚でいえば、越前路であった。  この時期、東京では前年三月に発明された人力車が爆発的な人気を博し、駕籠《かご》屋を次々に転業へ追いやっていたが、その影響はまだ金沢には及んでいない。  それぞれ駕籠を雇ったふたりは、一里半進んで最初の宿駅野々市へ入った時、浅井弘五郎の見送りを受けた。 「しっかりやって下され」  餞別《せんべつ》代わりに氷砂糖と野々市特産の蝋燭《ろうそく》入りの袋を差し出した弘五郎は、奇抜な約束をした。 「敵討《あだうち》に成功して切腹刑に処される時も、決して取り乱しますまいぞ。わたしは今知恵を絞って、首を打たれてもからだが倒れぬ工夫を積んでいるところです。多分うまく工夫できると思いますから、もしおふたりが帰国なさることが出来たなら、きっとその姿をお見せしましょう」 「これは楽しみができた」 「まあ、吉報を待たれよ」  口々に答えて松任の東一番町までゆくと、本陣の先の茶店の前で西村熊と鏑木勝喜知《かぶらぎかつきち》が待っていてくれた。  松任生まれのもっとも著名な人物といえば、  朝顔に釣瓶《つるべ》とられてもらひ水  などのわかりやすい秀句で知られた江戸中期の俳人|加賀千代《かがのちよ》である。  改めて別盃《べつぱい》を酌み交わすべく茶店に入ろうとした松三郎は、前庭の籬《まがき》に霧島|躑躅《つつじ》が返り咲きの紅い花をつけているのに気づくと、ひと枝を手折って一句詠んだ。  敵の首きりしまにして帰り花  見送り側からは、鏑木勝喜知が返した。  勇ましや早切りしまつして帰り咲き  ともに無理のめだつ句ではあったが、松三郎は、 (多賀賢三郎を討ったならば、どうにかして帰ってきたい)  との思いをこめ、勝喜知もそれを悟って、 (できることなら帰ってきて、ともに罪に服そう)  という願いを伝えていた。  松三郎が躑躅の枝を西村熊に手わたして静かに盃を干すと、喜内が腰を上げていった。 「名残《なごり》は尽きぬが、もはや別れねばなるまい。途中で一度、飛脚に文《ふみ》を托《たく》すと芝木が申していた、と矢野さまにお伝え下され」  ここで松三郎と喜内は、駕籠を八枚肩の早打ちに仕立て直すことにした。草薙《くさなぎ》尚志大属と多賀賢三郎とは、なにしろ三日前の十五日に松任を通過したことがわかっているのだから、これ以上ぐずぐずしてはいられない。  まもなくふたりの駕籠は、上体をあらわにした究竟《くつきよう》の駕籠かき八人ずつに囲まれて、 「えいほ、えいほ」  の掛声も威勢よく突っ走りはじめた。  前棒に縛りつけた綱を肩越しに曳《ひ》きながら走るふたり、前棒ひとり、後棒ふたり、交代要員三人からなる早打ちならば、前棒、後棒各ひとりの通常の駕籠より二倍以上の速さだし、次の問屋場までゆかなくとも駕籠かきを交代させられるから、速度の落ちる心配もない。  この早打ちに収まったふたりは日本海へ落ちてゆく夕日を見つめながら小松を過ぎ、すっかりあたりが暗くなったころ大聖寺《だいしようじ》に入った。ここは加賀藩の支藩だった大聖寺藩十万石の城下町だけに、木戸や番所が多く、中町には板屋平四郎家のとりしきる問屋場もあった。  その問屋場で駕籠かきの者を全員交代させ、 「最近、金沢県の草薙大属と供ひとりが通ったと思うが」  と役人に訊《たず》ねると、たしかに通ったという。 「それはいつか」  重ねて問うと、 「あれは一昨日《おととい》の何時ごろだったか、やはりここで駕籠かきを代えていった」  という返事であった。  おたがいに問屋場で駕籠を継ぎ立てながらの旅だから、問屋場ごとにこのような質問をぶつけてゆけば、そのたびごとにどれだけ近づいたかを知ることができる。 「よし」  とりあえず今日はほぼ徹夜で駕籠を走らせ、彼我の間隔を一日分縮めてしまうことにしたふたりは、また早打ちに乗りこんで関所のある細呂木を通過。福井県に入って、金津に達した。  大聖寺から一気に四里以上飛ばしてきたので、また問屋場の役人に訊ねると、 「さような者は、通らぬ」  との思いがけない答え。 「そんなはずはないのだが」 「あの役人、帳面につけ落としたのではないか」  と言い交わしてはみたものの、ここで追跡に失敗しては、見送ってくれた同志たちに合わせる顔もない。これから先は徒歩になり、すべての茶店、宿屋、問屋場をしらみつぶしに当たることにした。  そのようにして、茶店しかない五本《ごほん》から長崎へ戸を叩きながら進んでみたが、草薙大属一行を見たという者はひとりもいなかった。  つのる不安に苛《さいな》まれながら十九日の朝焼けを眺めたふたりが、寝不足と疲れで目を真赤にして福井の北一里半、九頭竜川《くずりゆうがわ》右岸の森田《もりだ》に達したのは午前十一時前後のことであった。 「ここでも行方がつかめなければ、いよいよ考えねばならぬ」  と言い合いつつ蹌踉《そうろう》たる足取りで問屋場へ出むくと、役人はあっさりと答えた。 「ああ、その一行ならふたりづれではない、四人づれだ。つい一時間ほど前、駕籠を四|挺《ちよう》つらねて丸岡県からやってきて、西へむかったがな」  喜びかつ怪しんで確かめてみると、北国路の金津—森田間には、本道から東へ一里離れたところに、 「福井道」  あるいは、 「金津道」  と呼ばれる脇往還が走り、旧丸岡藩五万石の城下町丸岡県と両宿場とを結んでいるのだという。 「そういえば、——」  ふたりは顔を見合わせて、同時に思い出していた。さる十六日夜の矢野策平邸での会合において、本多弥一が、 「吉見亥三郎の調べによれば」  と前置きし、草薙大属は途中どこかで梅原可也、沼田江のふたりと合流するらしい、と語っていたことを。 「そうか、草薙大属は、そのふたりを迎えるため丸岡城下に立ち寄ったのだな」  喜内は、寒風に乱れた髷《まげ》の下に安堵《あんど》の表情を浮かべて提案した。 「とんだ怪我の功名ながら、これで多賀からはわずか一時間遅れのところまで早くも迫ることが出来たわけだ。もう逃がさぬ。これでひと安心だから、ちとこの宿場でからだを休めてゆこう」 「けっこうですね」  松三郎は、切れ長の目に微笑を浮かべて答えた。宿の風呂《ふろ》で冷えきったからだを温め、酒で疲れを癒《いや》したあと、かれは喜内に、 「これが目下の心境です」  といって一句を示した。  よき便り聞《きき》て酒|呑《の》む冬籠《ふゆごも》り     二  明けて二十日の午後、藤江松三郎と芝木喜内は常夜灯や制札場のある照手《てるて》門から福井城下へ入っていった。  長さ九十九間(一八〇メートル)あるといわれることから、 「九十九橋《つくもばし》」  と名づけられた半木半石の奇橋をわたって左折すると、伝馬問屋のあるにぎやかな通りへ出た。  念のため、ここでまたおなじ質問を繰返すと、草薙大属以下四人は、昨日の昼過ぎにここを通ったと知れる。 「もはや、いつでも追いつける勘定だ。すでに多賀を間合のうちに取りこんだことを、この辺で報じておこうではないか」  喜内の提案に従って、ふたりは矢野策平宛に一書をしたためることにした。 ≪……敵には福井にて追いつきたり。もはや事を挙ぐるも近きにあり。大願成就間もあらじ、……≫  無骨者らしく肩肘《かたひじ》の張った文章を書きつらねた喜内は、ちょっと考えてから末尾に一句書きつけた。  追《おひ》かけて水もたまらず刺《さす》刀  差し出し人を、 「岸清三郎」  としてこの書状を急飛脚に托したふたりは、また早駕籠《はやかご》をつらねて一里十五町あまりの福井城下を通過。九頭竜川、足羽川《あすわがわ》とともに、 「越前三大河」  のひとつといわれる白鬼女川《しらきによがわ》(日野川)を越えて一路南下していった。  この日は浅水、水落と過ぎて、鯖江に投宿。 「ここまでまいれば、あとの難題は、湯尾峠と木ノ芽峠をいかに越すかということだけだな」  大刀の手入れをしながら喜内がいうと、松三郎は答えた。 「木ノ芽峠は名だたる難所。雪が深くなければよいのですが」  金沢県本多町の矢野策平の屋敷に、岸清三郎名義の書状を持った急飛脚が駆けこんできたのは、二十一日の夕刻五時をまわった頃合であった。  矢野方につめていた同志たちは、策平がその文面を朗読しおわるや歓声に湧き返った。特にその末尾に添えられた一句は、 (あのふたりに負けてはおられぬ)  という気分を昂《たか》めるのに充分な効果を発揮した。 「これは本多さまのもとへお届けせねばならぬ。だれか、ちと使いに立ってくれぬか。その間に拙者は、うまく届くかどうかはわからぬが岸清三郎殿に励ましの返書を書くことにしよう」  にっこり笑った策平は、ぶ厚いからだを書院の間の付書院《つけしよいん》の前に運ぶと、やおら正座して筆硯《ひつけん》を引き寄せた。かれは、剣の師範ながら筆まめな人物としても知られている。 (この書を托す飛脚がふたりを探し当てられず、だれかほかの者の手で開封されることになっても、事情を悟られることのない文面がよかろう)  と思案した策平は、多賀賢三郎を「子飼《こがい》の鶯《うぐいす》」、菅野輔吉と岡野悌五郎の同時襲撃を「切り狂言」、すなわちその日最後の芝居にたとえて筆をすべらせはじめた。 ≪花墨拝誦、前書御免。されば大事の子飼の鶯放れ申し候ところ、だん/″\の御周旋により、もはや手に入り、ひと囀《さえず》り聞き申すべしと、誠に大悦この上なく存じ候。なにとぞこの上は、首尾よく躾《しつ》け下され候よう願いたてまつり候。ついては一寸《ちよつと》御発足前にお話し申し候芝居《の》切り狂言、いよ/\当二十三日、舞台ひらきつかまつり候ばかりに御座候。……この使いはすなわち二十一日夕、矢印(矢野宅)へ着き、一夜泊らせ、二十二日朝発足いたし、お約束に任せ、金銭は遣わし申さず候間、なにぶんよろしく願いたてまつり候。前段の次第うけたまわり候いてより、いずれも心いそ/\として、舞台びらきには大当たり疑いなしと悦び入り申し候。くれ/″\もよろしく願いたてまつり候、あら/\めでたく嘉悦《かえつ》。 [#地付き]橋爪平策      岸清三郎様 [#地付き]≫  矢野策平がこの手紙を書いていたころ、芝木喜内と藤江松三郎は鯖江からさらに南下し、今庄の先の湯尾峠を越えようとしていた。  標高約二百メートルのこの峠の頂上付近には、四軒の大きな茶店がある。店先に、 「名物湯尾|餅《もち》」 「とろろ汁あります」  などと書かれた幟《のぼり》をはためかせているそのうちの一軒は、 「孫嫡子《まごぢやくし》」  という守り札を販売することで世に知られていた。  平安時代中頃の陰陽博士|安倍晴明《あべのせいめい》が疱瘡《ほうそう》の神と出会い、この峠上で厄除《やくよ》けの祈祷《きとう》をしたことに由来するというお札である。  しかし、すでに死を覚悟している者にとって、これほど無用なものはない。名物のとろろ汁で英気を養ってゆくことにしたふたりは、別の一軒の暖簾《のれん》をくぐった。  ところが湯尾峠は、茶店の女たちが唾《つば》を飛ばさんばかりの勢いで客引きをするというので、 「唾くら峠」  ともいわれるところ。 「昨日の夕方あたり、四人づれの士族が通らなかったか」  縁台に腰かけた喜内が、注文を取りにきた愛想のいい年増女に訊ねると、 「ええ、お通りでしたよ」  という答えが返ってきた。 「その四人のなかには、こう、髷尻《まげじり》を大きくうしろへ突き出して長髷《ながまげ》に結った、目鼻立ちのくっきりした男がひとり混じっていたのではないか」  喜内がつづけて訊ねたのは、この独特の結髪法と役者のような風貌《ふうぼう》こそ、多賀賢三郎の特徴だからである。  すると赤だすきに同色の前掛姿の丸顔の年増女は、 「ええ、いらっしゃいましたとも、忘れられるもんじゃございません」  と、左右の頬に笑窪《えくぼ》を見せてにこやかにいった。 「あたしはそのお方に気があったのに、おつれが多くて言い寄る隙のなかったのはほんに残念なことでした。もしもこの先でお出会いなされたら、おこん[#「おこん」に傍点]が待っているから早う帰ってきてほしい、とお伝え下さりませ」  これには苦笑せざるを得なかったが、多賀賢三郎がこのおこん[#「おこん」に傍点]という女と再会するようなことがあってはならない。  喜内と松三郎はなおも木ノ芽峠の雪を気に懸けながら、麦飯に水のように薄いとろろ汁をかけて胃の腑《ふ》に収めた。     三  明治四年十一月二十三日、——。  本多弥一を盟主とする金沢残留十一人の同志は、朝八時を期して矢野策平宅に集合する手筈《てはず》になっていた。  その前夜、本多弥一は本多宗家の家老たちにあてて、故本多|政均《まさちか》のまだわずかに八歳の忘れ形見|資松《よりまつ》をよろしくお頼みする、との遺言状を執筆。屋敷を出る時、家僕の弥兵衛に、 「事が成就するにせよ失敗におわるにせよ、それを見届けてのち、これを上屋敷に届けよ」  と最後の用事をいいつけた。 「相わかりました」  すでに今日という日の意味を知らされていた弥兵衛は、ことば少なに答えた。  七日前の深夜、弥一の帰りを寝ずに待っていた弥兵衛は、みずからの五体をもって佩刀《はいとう》の斬れ味を試し、人を斬るのに慣れておいてほしい、と願い出たものであった。この異例の申し出に胸を打たれた弥一は、さりげなく弥兵衛に敵討《あだうち》の場に立ち合うことを許したのである。  矢野策平も、前夜のうちに本多宗家の四人の家職たちあてに遺書を作成。南北朝時代の南朝最大の功臣楠木|正成《まさしげ》、正行《まさつら》父子をみずから描いた画像その他とともに、子のない妻に托《たく》していた。  その遺書にいう。 ≪先君(本多政均)讐敵《しゆうてき》両人(山辺沖太郎、井口義平)拝領つかまつりたき段、去々年よりあまたたび願いたてまつり候ところ、当二月、願い相|叶《かな》わず御|所《〈処〉》置方|落着《らくちやく》に相成り候。しかれども先君御末期御遺憾の御心底、なんとも黙止《もくし》しがたく、両人党与の者どもとともに天を戴《いだだ》きまかりあり候儀は幾重にもつかまつりがたく御座候につき、如何《いか》にもして復讐を遂げ、いささか先君の御|冤魂《えんこん》を慰《い》し申したき志願にて、このたび同志の者を打ち果たし候儀に発奮いたし候。  御前(資松)いまだ御幼少にあらせられ、御成立(成育)の儀拝見つかまつりたき儀は勿論《もちろん》に御座候えども、復讐の大儀も黙止しがたき儀に御座候。なにぶん(御前)御成立の儀は、御四人さま幾重にも御尽力なし下され、お稽古事《けいこごと》は申すに及ばず、智・仁・勇兼備のお方にお成りなされ候よう、私、瞑目《めいもく》の上にも祈りたてまつり候間、御苦労ながら御擁立、御忠勤の儀ひとえに願いたてまつり候。まことにもって、至極御大任の儀に御座候。私儀、頑愚申すまでも御座なく候えども、お襁褓《むつき》の内より付きたてまつり候につき、幾重にも信義を尽くし申したき心底に御座候ところ、すこぶる遺憾に存じたてまつり候。しかれども止むを得ざる儀に御座候間、右等の趣お酌み取り、寄り寄りおついでにしかるべくお申し上げ下さるべく候。なお御忠勤、所楽《しよぎよう》(願うところ)に御座候。以上。   十一月二十二日 [#地付き]矢野策平|察倫《あきとも》 花押     土方《ひじかた》二五七様    林 七 郎様    河 地 弥《わたる》様    小国佐一郎様 [#地付き]≫  その日の朝、富田《とだ》聡は父長左衛門、弟健次郎とともに朝餉《あさげ》の席につくと、なにげないふりをして口をひらいた。 「今朝は、なんとなく酒がほしい気分ですな」  配膳《はいぜん》していた母や妻も、これを聞いていい顔はしなかった。聡は復仇《ふつきゆう》の念を隠すべく、このところ大豆田屋の芸妓《げいぎ》おたけ[#「おたけ」に傍点]に馴染《なじ》んで放縦な生活をしていたからである。  それでなくとも聡は、二日前の深夜にも長左衛門から叱責《しつせき》されたばかりであった。  かねがね邸内に鼠が多いことを嫌っていた聡は、その夜自室に鼠取りを仕掛け、一挙に四匹の鼠を捕えた。四匹とは、かれにとっては討ち果たすべき敵の数にほかならない。 「上首尾だ! 一度に四匹とは」  喜びのあまり大声を放ったかれは、 「夜中に叫び出すとは何事だ」  と長左衛門からきつくたしなめられたのだった。 「たまには朝酒もいいじゃないですか」  妻に酒と盃《さかずき》を運ばせた聡は、うまく言いふくめて家族全員に一口ずつ盃に口をつけさせることに成功した。こうしてかれは、人知れず家族たちと別れの盃を交わしたのである。  朝餉をおえると、一度自室に退いた聡は、白無垢《しろむく》の下着を着こんでまた茶の間にあらわれた。 「まあ、下着まで更《か》えて」  と母や妻にいわれぬ前に、かれは先んじて答えた。 「今日は、ちと他出の約束がありまして」  矢野邸にあらわれた聡から鼠四匹の話をきいた同志たちは、 「これは幸先がいい」  と、ひとしく勇み立った。  父母と心ひそかに別盃《べつぱい》を交わしてやってきたのは、富田聡のほかにもふたりいた。  そのひとりは、金沢県庁に戸籍係として奉職する吉見亥三郎。  二十三日早朝、裏庭に降り立って井戸水を汲《く》んだ亥三郎は、 「ちと、妙な味がするように思うのですが」  といって、父と母にも味を見てもらった。父母がかわるがわる井戸水を口にふくむのを別れの水盃に見立て、かれは心中ひそかに永訣《えいけつ》を告げてやってきたのである。  浅井弘五郎は、旧本多家家臣小国左兵衛の五男として生まれた。文久三年(一八六三)、おなじく禄高《ろくだか》六十石の浅井善兵衛の養子となって、浅井姓を継いだのである。  弘五郎は決行がいよいよ明日に迫った二十二日、大乗寺の本多家墓所におもむいて旧主本多政均の巨大な墓碑に参拝。つづけて小国家と浅井家の墓にもぬかずき、銘酒ひと瓶を提げて帰宅すると、 「本多弥一さまからいただいたものです」  と称して善兵衛に勧めた。  だが、この日義母は外出していて帰りが遅かったため、かれは案に相違して義母とは別盃を交わすことができなかった。  そこで弘五郎は、二十三日の朝、小皿に梅干しを載せて銘酒の残りを少々注ぎ、 「母上、こうして飲むと寿命が延びるそうですよ」  と告げて義母に口をつけさせ、自分も飲んだ。  そして、いつもどおりの講武所|髷《まげ》に結髪し、衣服を改めると、富田聡とおなじく機先を制していった。 「今日は本多弥一さまのお屋敷で、写真を撮っていただくことになっています。だからちょっと、衣裳《いしよう》を改めたのですよ」  金沢残留の同志たちのうち、心|臆《おく》するなどして矢野策平邸へ来なかった者はひとりもなかった。  朝から北国《ほつこく》特有のきびしい寒気だったため、丸襟の被布《ひふ》をまとってきた者もいた。しかし、申し合わせたように全員紋羽織の正装をまとっていたことが、それぞれの決意のほどを端的に物語っていた。  矢野策平の屋敷に十一人がことごとく顔をそろえたのを確認すると、吉見亥三郎と清水金三郎とは姿を消した。  この日は水曜日だから、亥三郎は九時までに県庁に登庁しなければならない。駿足《しゆんそく》で知られる金三郎は、これに同行。亥三郎が、すでに越中|射水《いみず》神社への出張をおえた岡野悌五郎少属の登庁を確認したあと、駆けもどって一同にそれを告げる段取りになっていた。  岡野を討つのは退庁帰宅の途上、菅野輔吉宅討ち入りはその直後と決められていたから、時間的にはまだ半日のゆとりがある。  午前十時、残った九人は本多弥一邸に移動し、最後の打ち合わせをおこなうとともに門出の盃を交わすことにした。  岡野悌五郎を待ち伏せする本多弥一以下の四人と、菅野邸に乗りこむ矢野策平以下の七人には、それぞれ四尺の晒《さらし》、気付薬、血止め薬、即効紙、腰兵糧、呼子笛、わらじなどが配られた。腰兵糧やわらじは万一長期戦になった時の備えだが、四尺の晒はたすきにも包帯代わりにも使用できる。  各自がこれらを受け取っているうちに清水金三郎が駆けこんできて、岡野悌五郎が平常どおり登庁したことを報じた。 「あやつ、今日も大小を帯びているだろうな」  開口一番、弥一が訊《たず》ねたのは、無腰の者を斬って捨てるのでは後味が悪いからである。しかし金三郎の答えは、 「はい、和装に両刀をたばさんでいるのをこの目で見届けてまいりました」  というものであった。  今年八月九日に散髪廃刀の自由が認められて以来、無腰になってフロック・コートにマンテルを羽織る役人たちもあらわれつつあるから、こんなことを確認しておくことも必要なのである。弥一と血盟の同志たちが今もって和装、両刀|佩用《はいよう》にこだわり、髷を落とすことをいさぎよしとしないのも、 (北国武士の神髄を見せてやろうという時に、ザンギリ頭に洋装などで決行できるか)  という思いに固まっていたからにほかならない。  清水金三郎は、つづけていった。 「岡野が退庁する時は、吉見さんがそのあとを尾《つ》け、被布を振ってみなさまに合図を送って下さるそうです」  これを聞いては、もはや打ち合わせすべきことはほかにない。  十人の前に打鮑《うちあわび》と勝栗《かちぐり》とを載せた三方と盃が運ばれると、藤江松三郎・芝木喜内組、島田伴十郎・上田|一二三《ひふみ》を見送った十八日同様、十人は盃を手にして口々に唱えた。 「われ、この軍《いくさ》に勝栗。われ、この敵を打鮑」  この出陣の儀式もとどこおりなく終了すると、まず矢野策平、舟喜|鉄外《おのと》、西村熊、浅井弘五郎、広田嘉三郎、湯口藤九郎の六人が、順次少しずつ間を置いて本多弥一邸をあとにした。  菅野輔吉の家のある小立野《こだつの》与力町の西隣り、本多町からは東側につづく上石引町《かみいしびきちよう》の通りに面して、 「尾山屋」  という小料理屋が暖簾《のれん》を掲げている。尾山屋から通り右斜め前の小道を直進して左折、右折を各一度ずつ繰返せば、菅野邸の門前に達するのである。  正午近く、三々五々尾山屋の座敷に集結した六人は、思い思いの食事を摂《と》って腹をこしらえた。  この日は昼になっても頭上の空は鈍色《にびいろ》に翳《かげ》り、いつ雪が降り出しても不思議ではない空模様であった。雪になってもならなくても、六人は身ごしらえから異様さを人に察知されないよう、菅野邸に走る時は合羽を羽織ることを申し合わせてある。  しかし、矢野策平は念には念を入れ、その他の申し合わせ事項をもふくめてひとつひとつ改めて確認していった。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  一、当の敵は一人なれども、三人余もこれあるべしとかねて心得、必死の覚悟をもって働き、心許すべからざる事。  一、敵の囲い(敷地)内に入り候わば、早速雨具取りはらい、すぐさま刀を抜き、討ち入るべき事。  一、呼子吹き候わば集まるべき事。  一、敵討《あだうち》仕舞い《おわり》候上は、火の用心の事。  一、二番手、受け持ち場所において(もし敵の)逃げ去るを(見た時は)何処《いずこ》までも追いかけて討つべき事。  一、敵、討ち取り候上は、県庁へ出頭、官裁を受くべき事。  一、途中ならびに県庁その他においても作法良く致すべき事。   ………… [#ここで字下げ終わり]     四  矢野策平たち六人を先に送り出したあと、本多弥一、鏑木勝喜知、富田聡、清水金三郎の四人も、本多町から城西の旧武家屋敷街を抜けて長町へと北上していった。  長町にある金沢県庁は、その東側を南北に走る川岸通りに向かって正門を据えている。弥一たちは、その川岸通りからは一本東寄りの細道、高岡町にある、 「久保屋」  という料理屋の二階の座敷に上がって吉見亥三郎の合図を待つことにした。  維新後の長町や高岡町は空家や取りこわしになる武家屋敷もふえてさびしくなり、久保屋の二階からは、川岸通りを隔てても充分に県庁正門を見下ろすことができた。これはすでに、下見済みのことである。  弥一以下の四人は、交代で窓辺に立っては、木羽板《こばいた》屋根の土塀を左右に長く伸ばした県庁の四脚門を見張りつづけた。  そして、午後四時過ぎ、——。  和装の男がその門から飛び出したかと思うと、久保屋にむかって髷《まげ》を乱して駆け寄ってきた。  白い息を吐きながら弥一たちのいる二階の格子窓を見上げた男は、抜き取った脇差に抱えていた被布をかぶせ、奴《やつこ》が毛槍《けやり》を上げ下げするように幾度もそれを突き上げる。吉見亥三郎が、ついに岡野退庁の合図を送ってきたのである。 「よし」  すでにわらじ掛けになって羽織下の小袖《こそで》にたすきを掛け、袴《はかま》の股立《ももだち》を取っていた四人は、てんでに大刀をつかんで階段を駆け下りた。  一階にいた客や使用人がなにごとかと目を瞠《みは》ったが、説明などしている暇はない。弥一が口の前に人差指を立てて静かにしておれと伝える間に、富田聡は細くあけた格子戸から外へ忍び出ていった。  この時県庁の正門前には、羽織袴に両刀姿の岡野悌五郎が、下駄を鳴らして姿をあらわしたところであった。かれは、肩をならべた同僚となにか話して笑顔を見せていた。  しかしその同僚が、 (しまった)  という身ぶりをして急に立ち止まったかと思うと、忘れ物でもしたのだろう、手を振って門内へ引返してゆく。  軽く手を上げてこれに答えた岡野は、川岸通りを久保屋のある南へむかって歩きはじめた。  すでに川岸通りの辻《つじ》まで進み、物陰にひそんでそれを見た富田聡は、背後から弥一が追ってきたのを確かめると、ゆっくりと立ち上がって川岸通りに歩み出た。そして岡野より五、六歩前に立ち、やはり南へと歩き出す。 (ははあ、富田は、岡野めをおれと挟み撃ちにしようというのだな)  瞬時に悟った弥一は、岡野が目の前を右から左へ通り過ぎるのを待ってから、自分も何気ない風を装って川岸通りへ姿をあらわした。  しかし、岡野も士族である。急に路地からあらわれ、自分を前後から扼《やく》すようにして歩きはじめたふたりに対し、ただならぬ気配を嗅《か》ぎ取ったようであった。  ちらちらと肩越しに背後を振返りながら進んだ岡野は、県庁の土塀の南端にある小さな十字路まできた時、不意に左折。小走りにその先をまた左折して、久保屋に通じる高岡町の細道に駆け入った。  この動きに富田聡がうまく振り切られるのを見た弥一は、 「岡野さん、岡野さん」  と用あり気に呼ばわりながら、そのあとを追った。  だが、すでに弥一からの死角に身を置いていた岡野の方が、絶対有利であった。下駄を捨てて足袋はだしになった岡野は、弥一が二度左折を繰返して細道に飛びこんできた瞬間、 「やっ」  と気合を発して振返りざま抜き打ちを見舞った。  左手|拇指《おやゆび》で大刀の鯉口を切りつつ走ってきた弥一は、意外な逆襲に応じきれない。 「あっ」  と叫び、本能的に右手を上げて顔の右側面をかばったところに斬りつけられた。  が、刃筋を立てた打ちこみではなかったから、岡野の一撃は弥一の右上腕部に喰《く》い止められる。 「はっ」  とさらに踏みこんだ岡野は、返す刀で弥一の左の小鬢《こびん》を薙《な》ぎ払った。  これは弥一が腰を引いたため掠《かす》り疵《きず》におわったが、弥一の右手はすでに利かなくなっていて、抜き合わせることも出来ない。さらに背後に足を送って第三打を躱《かわ》そうとした時、弥一は仰むけに倒れこんだ。幅四尺の側溝に、足を取られてしまったのである。  得たりと岡野は目の下にもがく弥一に迫り、大上段に振りかぶった。  しかし、——。  次の瞬間、岡野のからだがびくりと震え、にわかに動きを止めていた。 「本多従五位の仇!」  という絶叫が、その背に浴びせられたからである。 (敵はまだおったのか!)  岡野が愕然《がくぜん》として振りむくのと、背後の久保屋から無我夢中で疾駆してきた鏑木勝喜知が、抜刀しながら最後の跳躍をおえるのはほぼ同時のことであった。右の肩先を羽織、小袖ぐるみ三寸ばかりも斬り下げられた岡野は、 「ぎゃっ」  と叫び、大刀を離して腰から側溝に落ちこんだ。 「喰らえ」  勝喜知の背後からあらわれた吉見亥三郎がその額を一閃《いつせん》すると、弥一のうしろからようやく走りもどってきた富田聡も、駆け寄りざまその右顎《みぎあご》に怨《うら》みの一太刀を送りこむ。  なおも厭《いや》な悲鳴を挙げながら、髷も崩れ、両手で顔を覆おうとする血まみれの岡野を見て、三人は狂乱した。血酔いして眼の座ってしまった三人が岡野に幾度も白刃を叩《たた》きつけるうち、大刀は互いに触れ合って火花を発した。  これに気づき、 「待て、もうよい」  と声をかけたのは、本多弥一であった。右腕をだらりとさせたまま側溝から起き直ったかれは、三人が路上に曳《ひ》きずり出した岡野の上体を支えさせておいて、その正面に片膝立《かたひざだ》ちになる。 「岡野、悌五郎よ」  弥一は右腕の重傷に荒い息を吐きながらも猛禽《もうきん》のような眼で瀕死《ひんし》の岡野を見据え、腹から声を絞り出した。 「故本多従五位のため、旧本多家家臣である本多弥一、鏑木勝喜知、富田聡、吉見亥三郎がここに敵《あだ》を報ずるのだ」  大きく息を吸った弥一は、脇差を抜こうとした。だが、右手が動かない。左小鬢から血の滴《したた》るのもかまわず、左手で鯉口を切ってから脇差を鞘《さや》ごと横銜《よこぐわ》えにしたかれは、その左手でゆっくりと脇差を抜き放った。  そして鞘を捨て、 「観念いたせ」  と告げてはみたが、岡野はすでに神気|朦朧《もうろう》として、がっくりと首を折っている。それを見て脇差を逆手に持ちかえた弥一は、その襟首から喉元へかけて止《とど》めの切先《きつさき》を埋めこんだ。  岡野悌五郎の絶息を確認したあと、四人はその場に立ち上がり、はるか南方の空にむかってしばらくの間|黙祷《もくとう》を捧《ささ》げた。この地からは南にあたる犀川のかなた、富樫村《とがしむら》船底山の大乗寺に眠る本多政均の霊に、ついに仇のひとりを討ち取ったことを報告するためであった。  その黙祷の姿勢を解くと、弥一は岡野の遺体のかたわらに座りこんで三人に伝えた。 「おれの疵はかなりの深手だ。ここで自刃しようと思うから、だれか介錯《かいしやく》を頼む」 「そんなことをおっしゃらないで下さい。本多さま」  いつも落着いている鏑木勝喜知が、返り血を浴びている丸い顔をむけてたしなめるようにいった。 「われらは、最後まで生死をともにすると誓い合ったではござりませんか」 「では、ちとお怪我を診《み》せて下さりませ」  吉見亥三郎が弥一の右袖をまくり上げてみると、たしかに大怪我ではあるが骨や筋まで切断されてはいないようであった。 「すぐに血止めをして、包帯を巻いて差し上げます」 「ですから、御一緒に県庁までまいりましょう」  富田聡がことばを添えると、弥一は目つきを和《なご》ませ、尖《とが》った顎を上げて答えた。 「そうか、県庁はすぐそこだったんだな。おれは、すっかり忘れておったよ」     五  金沢県庁から上石引町へは、絵図の上を直線で結べば約半里の道のりに過ぎない。  しかし実際に走るには、いったん長町を南下して百間堀を左折。金沢城三の丸石川門の壮麗なたたずまいを左に見て直進したあと、兼六園を迂回《うかい》せねばならないから、四半里は余計にかかる。 「も、申し上げます、県庁前は始まりました!」  髷《まげ》の刷毛先《はけさき》を散らし、両耳と頬とを寒風に赤くした清水金三郎が尾山屋に駆けこんで矢野策平以下に告げたのは、すでに四時半をまわった頃合であった。金三郎は、まず富田聡、つづけて本多弥一が久保屋から忍び出たのを見送ってすぐに走り出たので、まだその結果までは承知していない。 「うむ、待ちかねておったぞ。まずは息を整えい」  瞑目《めいもく》していた矢野策平が悠然と腕組みを解いて立ち上がると、舟喜鉄外、西村熊、浅井弘五郎、広田嘉三郎、湯口藤九郎の五人も唇を引き結んで大刀を引き寄せた。  尾山屋から菅野の家まではほんの三、四分の道のりである。  店を出て合羽を羽織り、すでに暗くなった路上をゆくと、下駄の歯が凍てついた地面を噛《か》んでカッカッと小さな音を響かせた。一同の飲み残しの酒を呷《あお》って気を落着かせた金三郎も、わらじを新しいものに取り替えてこれにつづいた。  やがて菅野の家の、北向きの丸柱の門の前にきた。その左右にも狭い通りの反対側にも、敷地七十坪程度の旧|平士《へいし》階級の家がならび、門の左右と隣家との境には杉や槐《えんじゆ》の生垣が伸びている。  矢野策平の無言の合図で下駄を捨て、合羽と羽織を脱いだ男たちは、小袖《こそで》白だすきの上体をあらわにすると、手早く袴《はかま》の股立《ももだち》を取って愛刀の柄《つか》の目釘《めくぎ》を唾《つば》で湿した。  一番手たるべき矢野策平、舟喜鉄外、浅井弘五郎の三人は、そのまま菅野家の門へ歩み寄る。同時に二番手の湯口藤九郎はむかって右の原家の内へ、おなじく西村熊と広田嘉三郎は左の久世《くぜ》家へ入りこんだ。ひとり清水金三郎のみが路上に居残ったのは、もしも菅野の助太刀があらわれた場合、これと対決するためである。  久世家はこの六月、嘉三郎が鋳掛屋に化けて菅野家に入りこんだあとどこかへ転居し、今は空家になっていた。その元久世家との境の生垣を破り、先頭に立って菅野家の裏庭へ侵入したのは西村熊。  するとまだ雨戸が閉《た》てられていない縁側の手近な一画に一匹の狆《ちん》が首の鈴を鳴らしながら走り出、両耳を背後に倒したかと思うと、  ——キャン、キャン、キャン、キャン  と甲高い声で吠《ほ》えはじめた。 (この狆がいるということは、菅野も近くにいるということだ)  咄嗟《とつさ》に思い、熊が腰を割って大刀に反《そ》りを打たせた時であった。 「だれだ、そこにいるのは」  明りの仄見《ほのみ》えていた左はしの書斎の障子が引かれ、丹前に袖なし胴服姿の男が上体を覗《のぞ》かせた。 (こやつが、菅野輔吉か)  平然と下ぶくれの顔を向けた熊は、細い目で菅野を睨《にら》みつけながら大音声《だいおんじよう》を張り上げた。 「本多従五位の仇、覚悟しろ!」  いうやいなや熊は大刀を引き抜いて縁側に飛び上がり、狆がなおも吠え立てるのもかまわず菅野の書斎へ躍りこんだ。いったん室内へ身を引いた菅野は、襖《ふすま》をあけて隣室に走り、長押《なげし》上の手槍《てやり》を取ろうとする。  それよりも、熊の動きの方が素速かった。間に合わぬと見た菅野は、不意に身を丸めると熊に体当たりしてきた。  これをまともに受けてしまった熊は、襖のあけ放たれた敷居上に転倒。菅野はその上体に身をのしかけながら、左手で大刀をつかんだ熊の右手を扼《やく》し、必死にその刀をもぎ取ろうとした。  しかしすでにこのとき、矢野策平、舟喜鉄外、浅井弘五郎、広田嘉三郎の四人も裏庭にまわりこんでこの物音を察知。てんでに抜刀して、書斎入口をふさいでいた。 「菅野輔吉、尋常に勝負いたせ」  策平は剣術師範らしく、菅野が決闘に応じるならば刀を持たせ、一対一で雌雄を決するつもりであった。  それでもなお菅野は、必死の形相で熊と揉《も》み合っていた。ついに熊の両手を大の字に押さえつけたかれは、大きく口をひらいて前歯を剥《む》き出すと、あろうことか熊の喉笛《のどぶえ》を喰《く》い破ろうとした。  熊も夢中で首を振り、菅野の歯を躱《かわ》そうと足を激しくばたつかせる。 「危い!」  この意外な攻めに驚いた鉄外、弘五郎、嘉三郎の三人は、策平の脇を擦りぬけ、上体を起こしている菅野を瞬時に包囲。右|八双《はつそう》の構えから、一斉にその上体を斬り下げた。 「あっ」  と呻《うめ》いた菅野は、熊から両手を放して上体をのけぞらせる。そのからだが背後に倒れかかるのを見、刀を左手に持ち替えた鉄外が右手で熊を助け起こそうとすると、やおら撥《は》ね起きた菅野は鉄外の左腕にむしゃぶりついた。  大刀を奪われまいと、鉄外は菅野の伸びきったからだを引きずりながら五、六尺ばかり後ずさる。そこでようやく菅野を蹴《け》り放すと、菅野は敷居の上に裾《すそ》を乱して仰むけに倒れた。  菅野は上体三ヵ所に深手を受けた上、熊との格闘に息が上がっていてすぐには起き直れない。 「過ぐる巳《み》の年八月、井口、山辺らと同心協力して本多従五位暗殺を企てた菅野輔吉」  これを見てその足もとへ歩み寄った策平は、太い声で呼びかけた。 「うぬは土屋茂助らと四人にてくじ[#「くじ」に傍点]引きの上、わが主人を狙った不倶戴天《ふぐたいてん》の敵。われらはこの三年間千辛万苦いたし、今ここに敵《あだ》に報ゆるのじゃ。よくよく思い知れ」  いいながらその上体をまたぎ、大刀を柄《つか》を上にして両手に持ち直した策平は、菅野の心臓を敷居に縫い止めんばかりの勢いでその切先を突き下ろしていた。  策平が大きく息を吐いて退くと、かわって進み出た西村熊と広田嘉三郎、そしてようやくやってきた湯口藤九郎と清水金三郎が、 「従五位さまの仇」 「思い知ったか」  と口々に叫びながら、もはや動かなくなっている菅野を一刀ずつ刺し貫いた。  つづけて舟喜鉄外が作法通り喉に止《とど》めを刺すと、浅井弘五郎は拝み打ちに菅野の首を切り放つ。  これを見定め、帯から抜き取った白扇をひらいた策平は、生首を拾ってその上に載せ、南の方角に当たる縁側へ顔を向けさせた。そして正座したかれは、その背後に六人がひざまずくのを待って、本多政均の霊魂に呼びかけた。 「ただいま賊魁《ぞくかい》のひとり、菅野輔吉を討ち取りましてござる。御英霊をお慰めたてまつる」  七人そろって合掌し、しばらくの間無言の祈りを捧《ささ》げて合掌を解いた時、薄墨色に沈んだ冬枯れの裏庭にはちらほらと粉雪が舞いはじめていた。     六  すでに退庁時刻も過ぎ、人影もほぼ消えた金沢県庁の玄関先に、頭部と右腕に血の滲《にじ》む晒《さらし》をぐるぐる巻きにした本多弥一以下四人が忽然《こつぜん》とあらわれた時、居合わせた当直の職員たちは茫然《ぼうぜん》としてしまってなすすべも知らなかった。  羽織袴のあちこちをも鮮血に染めている弥一は、落着いた声でその職員たちに告げた。 「ただいま旧主本多従五位の仇、岡野悌五郎少属を討ち取ってまいった。法によって、御処置を仰ぎたい」  それでも職員たちは、動顛《どうてん》のあまりどう対応していいかわからない。 「も、申し訳ないが少しお待ち願いたい」  と反対に弥一たちに申し入れておいて相談をまとめた職員たちは、とりあえずかれらを一室に請《しよう》じ入れて番人をつけておき、すでに帰宅している内田|政風《まさかぜ》大参事その他のもとへ急使を派遣することにした。  同時に呼び出された権《ごんの》少属と下級書記官である史生《ししよう》各ひとりは久保屋の前に通じる細道へ走り、岡野の検屍調書を作成した。このふたりに観察された疵《きず》の具合は、左のごとくであった。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  一、右の頬より鰓《えら》(顎)へ掛け、深疵。  一、うしろ首より喉に掛け、深さ三寸ばかり切りこむ。  一、右額五寸ばかり、十文字。  一、両腕とも、深疵。  一、右肩先、三寸ばかり。 [#ここで字下げ終わり]  斬殺されたのは岡野少属と聞きつけ、呼び出されたわけでもないのに詰めかけてくる役人、職員たちも少なからず、次第に県庁の玄関先はごった返しはじめた。  刻々と激しくなる雪の奥から、矢野策平たち七人がやってきたのはこの騒ぎが始まってしばらくしてからのこと。本多弥一とおなじように、かれが菅野輔吉を討ち取ってきたと口上を述べると、庁内の狼狽《ろうばい》は最高潮に達した。  策平たちは、かねてからの申し合わせに従って菅野邸の火の元を丹念に検分。そのあとも菅野の助太刀のあらわれる気配はないと見、ゆっくりと用意のわらじに履き替えたりしていたので、弥一たちよりも二時間近く遅れて出頭してきたのである。  県庁職員が右往左往するばかりなので、からだの冷えきっていた策平たちは、廊下の先に、 「出頭人控え室」  と札の掛っている部屋へ勝手に入ろうとした。すると弥一たちの部屋の番をしていた者たちが、 「しばらく、しばらく」  と慌てて引き止めにかかる。 「なにゆえ、われらを休息させぬのだ」  と言い合ううちに、執法係の役人が駆けつけてきて間に入った。 「本日われらがおこなったところは、殺人ではない、敵討《あだうち》でござる。われらは敵討の自訴をいたすべく、出頭してまいったのです」  策平の手から復讐《ふくしゆう》趣意書を受け取った執法係は、 「しかし、作法でありますから」  と、やや腰の引けた態度ながら大小をわたすよう求めた。  おとなしくこの要求に応じた策平たちは、とりあえず仮りの溜《たま》り所に入室。全員、腰兵糧を取り出して夕食代わりとし、そのあと弥一たちのいる部屋へ移されて、初めて互いの悲願成就を知った。  この間に、霏々《ひひ》として降りしきる雪の中を菅野邸へ走っていた権少属と史生各ひとりは、次のような報告書を提出した。 ≪今廿三日、本多従五位元家来士族矢野策平等七人、士族菅野輔吉居宅へ押しこみ、同人を切害に及び候旨訴え出候につき、検使役として見届けたる覚書。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  一、輔吉儀、禁錮《きんこ》所より次の間に仰向けになり相果てまかりあり、死骸《しがい》相改め候ところ、総身突っこみ候疵十四ヶ所、切りこみ候疵三ヶ所、首は打ち離し、扇子に据えてこれあり。…… [#地付き]≫ [#ここで字下げ終わり]  この検分に際して問題になりかけたのは、禁錮の間とされていた書斎に錠が下りていなかったことであった。  矢野策平たちの討ち入りの時、別室に隠れて息をひそめていた母およびその親戚《しんせき》たちに問いただしたところ、 「輔吉に入浴させるために錠を外し、その後母親が別のところで立ち働いている間に押しこまれたのでございます」  と全員が口裏を合わせた。  すでに死んだ者のこととて藩庁もこれ以上は追及しないことにし、岡野悌五郎と菅野輔吉の遺体はこの夜のうちに遺族たちに引きわたされた。     七  雪はこの日、蓑笠《みのかさ》姿の芝木喜内、藤江松三郎の頭上にも降りしきっていた。  二十三日朝、今庄を出ようとしたふたりは、湯尾峠の方角から走りこんできた三度笠の急飛脚が、 「岸清三郎さまは!」  と叫び立てるのを目撃。首尾よく橋爪平策名義の書状を受け取ることに成功し、 「金沢は、いよいよ今日決行だ」 「われらも急がねば」  と言い合って奮い立った。  しかし標高六百二十八メートル、上下約七里半の木ノ芽峠に差しかかるや、早駕籠《はやかご》も腰までくる豪雪にはまってしまって動けなくなり、ふたりは焦りと苦悶《くもん》の一日を送る羽目になったのである。  角閃石花崗岩《かくせんせきかこうがん》の岩盤からなる木ノ芽峠は、北の越前・若狭と南の近江の分水嶺となる屈指の難所。頭上には呼子のような音を立てて吹雪が渦巻き、痩《や》せた松に猿の群れが震えながら獅噛《しが》みついているのがかろうじて識別できるばかりであった。  南北朝動乱の世の延元《えんげん》元年(一三三六)十月十一日、京を逃れてこの峠を北へ越えた新田義貞勢七千騎の惨憺《さんたん》たる行軍の様子が、『太平記』巻第十七「北国下向勢|凍死事《コゴエジニノコト》」に描かれている。 ≪北国ノ習《ナライ》ニ、十月ノ初《ハジメ》ヨリ、高キ峯々ニ雪|降《フリ》テ、麓ノ時雨止《シグレヤ》ム時ナシ。……風紛《カゼマジリ》ニ降ル山路ノ雪、甲冑《カツチユウ》ニ洒《ソソ》ギ、鎧ノ袖ヲ翻《ヒルガエ》シテ、面《オモテ》ヲ撲《ウツ》コト烈《ハゲ》シカリケレバ、士卒|寒谷《カンコク》ニ道ヲ失ヒ、暮山《ボザン》ニ宿|無《ナク》シテ、木ノ下岩ノ陰ニシヾマリフス。適《タマタマ》火ヲ求《モトメ》得タル人ハ、弓矢ヲ折焼《オリタイ》テ薪《タキギ》トシ、未《イマダ》友ヲ離レザル者ハ、互ニ抱付《イダキツキ》テ身ヲ暖ム。元ヨリ薄衣《ハクエ》ナル人、飼事《カウコト》(餌《えさ》をやること)無《ナカ》リシ馬共、此《ココ》ヤ彼《カシコ》ニ凍死《コゴエシン》デ、行人道ヲ去敢《サリアエ》ズ。……≫  その後、道路は改修を重ねられ、一部には石畳も敷きつめられたが、冬期の積雪だけはどうしようもない。  やがて日もとっぷりと暮れて雪明りだけが頼りになると、 「もう、銭などいらん」  と、駕籠かきたちももどっていってしまう。ふたりは頼んで置いていってもらった提灯《ちようちん》に野々市で浅井弘五郎から贈られた蝋燭《ろうそく》を立て、少しでも滋養を摂るよう氷砂糖をしゃぶりながら、こけつまろびつ近江側へ下っていった。  そして、峠下の中河内でまた早駕籠を仕立て、椿坂を越えてこの夜は柳ヶ瀬に投宿。凍傷になりそうだった手足を風呂《ふろ》で暖めると、すなわち泥のような眠りに落ちた。  あけて二十四日、——。 「もう金沢は、事がおわったに違いない。あるいは東京も、だ」  とつぶやくようにいう喜内に、 「われらも、ぜひとも今日中には断行いたしましょう」  と松三郎は答え、まだ外が暗いうちから身仕度を整えた。  柳ヶ瀬を出ると次第に道は平らかになり、ふたりを乗せた早駕籠は右手かなたに賤《しず》ヶ岳《たけ》を見ながら軽快に飛ばして木之本宿に入った。なおも蓑笠姿のままその問屋場に立ち寄り、またしても草薙大属以下四人の通行の有無を訊《たず》ねると、役人はあっさりと教えてくれた。 「ああ、その四人なら少し前に出立したばかりやから、まだ一里ちょっとしか進んではおらんだろう」  ふたりは十九日の森田の宿以来、ふたたび多賀賢三郎を間合のうちに捉《とら》えたのである。  木之本からは、左へゆけば中山道の関ヶ原へ。右へゆけば琵琶湖の東岸ぞいに南下して、長浜・彦根・米原経由京都へむかう。改めて早駕籠二|挺《ちよう》を雇ったふたりは、駕籠かきたちに彦根路をゆくよう命じた。  木之本宿から次の宿場高月までは、ほぼ一里半。湖岸の一本道を勢いよく下ってゆく間、ふたりは寒さも忘れて駕籠のすだれ[#「すだれ」に傍点]を撥《は》ね上げ、首を突き出して前方を見据えていた。  やがて先をゆく喜内は、前方はるかに見えてきた高月の入口の茶店に何挺かの駕籠が止まっているのに気づき、松三郎にも伝えて互いに駕籠のすだれ[#「すだれ」に傍点]を下ろした。それらの駕籠を追い抜きながら、すだれ[#「すだれ」に傍点]の隙間から茶店に休憩している雇い主の面体《めんてい》を確認するつもりである。 「ゆっくりやれ」  と駕籠かきたちに伝え、その茶店に近づいてゆくと、僥倖《ぎようこう》にも休憩をおえた四人が店内から路上にあらわれるところであった。そのひとりは、長大な長髷《ながまげ》を結っている。 (多賀賢三郎、ついに追いついたぞ)  心中|快哉《かいさい》を叫んだ喜内と松三郎は、自分たちも別の茶店に憩《いこ》うふりをしてその少し先に駕籠を止めさせ、走り出した多賀たちのそれをうまくやりすごした。 「さて、どうしてくれようか」  駕籠を出た喜内が不敵な笑みを浮かべて訊《たず》ねると、やはり外に出て前後を見やった松三郎は、思慮深げに答えた。 「どこででもかまいませんが、この宿場はちと小さ過ぎますな」  これは、狭いところで騒ぎを起こすと手近なところから宿場役人があらわれて邪魔をしかねない、という意味であった。 「うむ、それもそうだ。では、彦根で本望を遂げることにいたそう」  と喜内はいった。 「だがそれには、あやつらよりも先に彦根へ入った方がいい。たしか速水宿の先に姉川の渡船場《とせんじよう》があるはずだから、一足早くそれをわたろう」 「はい」  と松三郎が即座に答えたので、議は一決した。  ふたりはすぐ先の速水で一行を追い越し、さらに馬渡、唐国《からくに》と早駕籠を飛ばしてゆきすぎた。この辺までくれば、はるか右手の湖上に謡曲で知られた竹生島《ちくぶじま》が見えるはずだが、そんなことはふたりの念頭にない。  途中、姉川はまだかと気が急《せ》くあまり、喜内がまたすだれ[#「すだれ」に傍点]を撥ねて上体をあらわすと、街道脇からこれを眺めた近江商人のふたりづれの嘲《あざけ》り声が耳朶《じだ》を打った。 「あの身なりは、きっと加賀人やろ。国風とはいえ、今時他郷に出るのにあの風体は野暮の骨頂やなあ」  先を急いでさえいなければ、 「たしかに拙者は加賀人だ。しかし貴様ら、士族に対してその申しようはなんだ」  と胸ぐらをつかんでやりたいところだったが、多賀たちに追いつかれては元も子もなくなるから黙殺するしかない。  そうしてようやく、姉川に到着。大急ぎで駕籠かきたちに金を支払った喜内と松三郎は、笠のへりを押さえながら行く手の小高い土手へ駆け上がっていった。 「ありゃりゃ。あのおふたり、今日は水が出て渡し場は下流に移っとるのに、わかっとんのかいな」  背後で駕籠かきのひとりがつぶやいたことに、ふたりはまったく気づかなかった。  姉川とは、はるか東の空に鋭い輪郭を浮かべている伊吹山地の新穂《しんぽ》山(標高一〇六七メートル)付近に発し、初め草野川を合わせて西流。この彦根路を越えてから高時《たかとき》川とも合流して、琵琶湖東岸へ注ぐ全長九里の大河である。  上流に織田信長が浅井・朝倉連合軍を撃破した姉川の古戦場のあることで知られるこの大河は、流域に降雨があると河口がほど近いだけに、倍以上の川幅に膨張してしまう。すると彼我の岸辺を結ぶ渡船場も水に没してしまうので、高時川の合流する落合寄りの、川幅がひろい分だけもともと流れのゆるやかな地点に渡船場が移されるのをつねとした。  そうとも知らず、しゃにむに土手を登った喜内と松三郎は、水辺の葦《あし》も葉先を覗《のぞ》かせているだけの濁流を眼下に見て息を呑《の》んだ。  すると背後からきた旅人が、親切に今日の事情を教えてくれた。胸を撫《な》で下ろしたふたりは、その旅人に従って土手道の上を下流へむかった。  だが、ようやく仮り桟橋が流れに突き出している地点に近づいた時、その桟橋に舷側《げんそく》を着けている渡し船を見やって、またしてもふたりは愕然《がくぜん》とした。船中には二十余名の先客たちがいたが、その舳先《へさき》寄りにはすでに多賀たち四人が乗りこみ、談笑しながら出発を待っていたのである。 「あやつらの雇った駕籠かきたちは、まっすぐこちらをめざしおったのか」  喜内は松三郎に、憮然《ぶぜん》とした目つきをして囁《ささや》いた。     八  しかし、ここまで来てためらっている暇はなかった。なによりもこの便船を見送ってしまったならば、次の船がいつくるのか見当もつかない。  やがて、桟橋にしゃがんで煙管《きせる》を喫っていた船頭が立ち上がった。 (一《いち》か八《ばち》かだ)  と思い定めた芝木喜内と藤江松三郎は、言い交わしたように笠《かさ》を目深《まぶか》にかむり直すと、艫《とも》の方を選んで乗りこんでいった。ふたりは思いがけず、呉越同舟という格言を地でゆくことになったのである。  なるべく人の背に身を隠すようにしながら上目遣いにうかがうと、三十人以上の頭のむこうに背を見せて座っている多賀たちは、相変わらず談笑しつづけていて背後を気にする気配もない。丸岡城下で合流した梅原可也、沼田江とおぼしきふたりはまだ若く、すでに頭髪もザンギリにしているところを見ると学生のようであった。  それでも、 (ここで気づかれては、万事休すだ)  と思うと、喜内と松三郎の胃はきりきりと痛んだ。舷側に当たって湿った音を立てる波さえ気にかかり、右手かなたにひらける琵琶湖の茫漠《ぼうばく》たる湖面を見やるだけの余裕もない。ふたりは背に冷たいものが流れ出すのを感じながら、船酔いした者のように黙りこんでいた。  だが、この緊迫した時の流れにも、ようやくおわりがきた。対岸に近づいた船頭は、水竿《みさお》を巧みに操って船体を流れのなかで半回転させ、艫を岸辺に向けながら桟橋に舷側を寄せ切っていた。  これは、ふたりにはありがたかった。真先に桟橋へ降り立ったふたりは、一気に冬枯れの土手を駆け上がると目の前の茶店へ突進していった。 「おやじ、酒だ、酒だ」 「おれもだ」  喜内と松三郎は喘《あえ》ぐようにいい、升酒が運ばれるのを待ってひと息に喉《のど》に流しこんだ。  そして大きく息を吐いている間に、暖簾《のれん》の外をゆっくりと通り過ぎてゆく四人のたっつけ袴《ばかま》の下半身が眺められた。  四人とも旧幕時代同様、大刀を佩用《はいよう》しているのがよくわかる。四人は向かい側の茶店へ入ったかと思うとすぐに駕籠《かご》を呼び、順次そのなかへ身を屈めた。  ひそかにその様子を観察していたふたりが、 (おや)  と思ったのは、草薙大属と留学生らしい梅原、沼田の三人が両側のすだれ[#「すだれ」に傍点]をまくり上げさせ、大刀をそのすだれ[#「すだれ」に傍点]に巻きこむようにして括《くく》りつけさせたのに対し、多賀のみは窮屈を承知で大刀を抱いたまま乗りこんだのに気づいたからである。多賀がすだれ[#「すだれ」に傍点]を上げさせなかったことも、まだ完全には本多政均暗殺にかかわった記憶を払拭《ふつしよく》できていないためかと思われた。 「で、どういたしますか」  四挺の駕籠が動き出すのを目送りながら松三郎が訊《き》いたのは、敵討《あだうち》の地と想定した彦根城下へゆくまでに今のような齟齬《そご》がまた重なると、今度こそ怪しまれかねないと不安になっていたからである。 「うむ。予定を繰り上げて、長浜で決行した方が良さそうだの」  思いをおなじくしていた喜内の返事に、 「はい、木之本から数えても、たしか長浜はちょうど四里の道のりです」  と松三郎は答えた。  話は、それで決まった。  長浜は、さらに南の米原、彦根とならぶ琵琶湖東岸の要港の地である。その北の入口に当たる郡上《ぐじよう》町に近づくと、左手の田畑のかなたに、伊吹山を背にして東本願寺の別院大乗寺の巨大な黒瓦《くろがわら》の屋根が冬の弱日《よろび》を撥《は》ね返していた。  渡り船を下りた客たちに駕籠を所望した者が多かったため、ふたりはこれまでのように八枚肩の早駕籠は仕立てられなかった。しかし、四枚肩を仕立てることが出来たため、途中で楽に多賀たちを追いぬいて、郡上町へ先着することが出来たのである。  ふたりは三間幅(五・五メートル)の道の両側に二階屋の建ちならぶ郡上町に入ると、その右手に、 「苗野」  と暖簾を掲げている茶店の前で駕籠を捨てた。時刻はまだ午前十一時前で、苗野に入っても客はいない。  店内で手早く蓑笠《みのかさ》を捨てたふたりは、刀の下緒《さげお》をたすき代わりとし、白鉢巻を締めて用意をおえた。茶を運んできた娘がぽかんと口をあけて立ち止まったが、そんな娘に構ってなどはいられない。  次にふたりがしたのは、じゃんけん[#「じゃんけん」に傍点]であった。  勝った松三郎は、店内に残留。負けた喜内はやにわに外へ走り出して通りを越え、 「今井」  と染め抜いた暖簾を出している向かい側の茶店に身をひそめた。  ここも街道は一本道。郡上町の北はずれだから、格子の内側に貼りついたふたりの目には、四挺の駕籠の次第に近づいてくるのがよく見透かせる。  駕籠かきたちの掛声が近づくのに、さほど時間はかからなかった。四挺は一列になって郡上町に入りこみ、苗野と今井の間を過ぎようとする。  一挺目、草薙大属  二挺目、梅原か沼田。  三挺目、多賀賢三郎。  すだれ[#「すだれ」に傍点]を下ろした三挺目がきた時、やにわに抜刀した喜内と松三郎は路上に躍り出た。  いち早く呼びかけたのは、松三郎であった。 「いかに多賀、本多従五位の仇だ、覚悟しろ」  いうやいなや松三郎は、すだれ[#「すだれ」に傍点]越しにその胸許《むなもと》に突きを見舞う。 「わっ」  激痛、驚愕のあまり、多賀は左側から路面に転げ落ちた。そして慌てて起き直ろうとした時、するすると近づいた喜内の大刀が深々とその脇腹を刺し貫いていた。  喜内は、存分に抉《えぐ》ってから跳びすさる。長髷を歪《ゆが》めて上体を折った多賀は、それでも口を魚のように動かしながら、今井の軒下へ数歩歩いた。  だがかれは、腹に当てた左掌の指の間から血潮を滴らせつつ腰からくずおれた。それと見た喜内と松三郎は、その面部にむかってさらに一刀ずつ浴びせかける。  すべては、一瞬の出来事であった。  駕籠かきたちはすべて逃げ出し、二挺目の駕籠は倒れていた。四挺目から駆け寄った青年は、そのなかでもがいている同僚を助け起こす。  なすすべも知らないこのふたりとは対照的に、怒りをあらわにしたのは大男の草薙大属であった。大刀をつかみ、まだ多賀の朱《あけ》に染まった死体を見下ろしていた喜内と松三郎に大股《おおまた》に近づいたかれは、怒髪天を衝《つ》く勢いでわめいた。 「同僚の仇、いざ拙者と立ち合え!」 「いえ、わたくしどもは、亡きあるじの敵《あだ》をただいま討ち果たしたのでござります」  血刀を背に隠した松三郎は、仁王立ちした草薙大属を正面から見つめ、慇懃《いんぎん》な口調で告げた。 「御一行を驚かせたのは不本意なことなれど、武士は相身互いでござる。どうか、諒《りよう》とされよ」 「なに、敵討だったと申すか」  これを聞いて表情を動かした草薙大属は、口調を改めてつづけた。 「しからば、趣意をうけたまわろう。趣意なきことをいたすはずもあるまいからの。あの民家でどうじゃ」  両刀を差し出した喜内と松三郎が請《しよう》じ入れられたのは、茶店今井の南隣り、脇坂伝四郎方であった。  その一室に松三郎と並んで正座してすぐ、喜内は懐中から復讐《ふくしゆう》趣意書を取り出して草薙大属の膝《ひざ》の前へすべらせながらいった。 「官辺への届け出は、御一行におまかせしたく存ずる」  明治二年八月七日に起こった本多政均暗殺一件は、むろん草薙大属もよく承知している。その復讐趣意書を読み進んだかれは、たしかにふたりの行動が、ここに記された趣意に添ってのものだったことを充分に理解した。  読みおわった草薙大属は、ただちに町役人と彦根県庁とに届け出るよう、梅原可也と沼田江に命令。喜内と松三郎には別室に休憩することを許し、みずからは金沢県庁へ急使を出すべく報告書の執筆にとりかかった。 ≪私儀、多賀少属、沼田江、梅原可也同道、当二十三日江州木の下宿に泊し、二十四日暁天五|字《〈時〉》頃出立し、いずれも宿駕籠に乗用つかまつり、第十一|字《〈時〉》頃同国長浜駅通行つかまつり候ところ、後《しり》えの方|騒々敷《そうぞうしき》につき、何事ならんと顧み申し候えば、あに計らん何者か両人にて多賀少属を刺殺に及び候|体《てい》につき、すぐさま駕籠より出て立ち向かい候ところ、本多資松元家来芝木喜内、藤江松三郎と相名乗り、別段趣意書を相達すべき旨、なにぶん慇懃の貌《かたち》をもって挨拶《あいさつ》いたし候につき、近隣脇坂伝四郎と申す町人方へ連れ越し候ところ、すなわち趣意書の旨にて差し出だし、……≫  しかし、この事件を扱うべき彦根県の石原大属は出張中で、帰りは明日になるとのことであった。  別室に退いた喜内と松三郎は、その間、肩の荷をようやく下ろした思いで喜びに浸っていた。 「『追かけて水もたまらず刺刀』。どうだ、この句がついに本当になったというわけだ」  喜内が笑うと、松三郎は即興の二句を詠んだ。  旭のさして我も踏《ふみ》消す堅き雪  雪晴れて冴え行く空や冬の月  また松三郎は、草薙大属と梅原、沼田がふたりの言い分に信を置いてくれるのをありがたく思い、一首を贈った。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  貴三方《きみがた》が武道を立てゝ賜ひしを後の世までも忘れざらまし [#ここで字下げ終わり]  日が暮れるに従って積日の疲れを噴き出したふたりは、褥《しとね》に入ったかと思うともう深い眠りに落ちていた。     九  芝木喜内、藤江松三郎が多賀賢三郎を討ち果たしてから一夜明けた明治四年十一月二十五日午後、ようやく脇坂伝四郎方にやってきた彦根県庁の石原大属は、まず検使として多賀の遺体を念入りに改めた。  遺体はその日のうちに火葬されることになり、葬儀は郡上《ぐじよう》町の南隣り、北呉服町にある願養寺の住職|長《ちよう》了閑が執行。 「昭曜院釈賢澄」  の戒名を与え、遺骨はほど近い梨木《なしのき》墓地に埋葬されることに決まった。  その遺体が郡上町の道幅三間の通りを戸板に乗せられて運び去られたあと、 「本望を成就なされ、さぞや御満足でしょう」  と喜内と松三郎に敬意を表した石原大属は、すでに冷静さを取りもどしていた草薙大属と相談の上、喜内たちふたりの身柄を彦根県預かりとすることにした。  その後、駕籠《かご》を捨てて最初に飛びこんだ茶店苗野の奥座敷へ移されたふたりには、金沢県との連絡が取れるまでの間、見張り番四人と町役人ひとりとが付けられることになった。見張り番は昼夜三回交代、町役人は二回交代であったが、いずれもこの敵討《あだうち》を快挙とみなし、起臥《きが》飲食の世話に万端遺漏なきよう努めてくれたことがふたりには何よりありがたかった。  その町役人のひとり土田藤平などは、お盆に盛った饅頭《まんじゆう》多数を差し入れてくれたほどで、松三郎はたわむれに狂歌一首を礼として土田に贈った。  |万《〈饅〉》頭を思ひ賜はる志両人共に食ふも嬉《うれ》しき  この贈答歌は、思いも寄らない反響を呼んだ。 「郡上町で敵討本懐を遂げたあの加賀人ふたりは、和歌の素養があるそうじゃ」  という噂が一気にひろまった結果、菓子や果物、琵琶湖名産の鮒鮨《ふなずし》などを持った近在の者たちが、次々に押し寄せてきたのである。  文明開化の世となったとはいえ、敵討を美挙とみなす感覚にはまだかくも根強いものがあったという証拠だが、そのひとりひとりから和歌や俳句をねだられた喜内と松三郎は、すっかり困《こう》じ果ててしまった。  ふたりの見張り番を命じられていた彦根県の役人たちは、もとをただせば彦根藩井伊家の家臣たちである。二枚目役者も顔負けのふたりの人気を曖昧《あいまい》な表情で眺めていたそのうちの年老いたひとりは、ある夜しんみりとした口調で述懐した。 「わが彦根藩士たちは、時の藩公にして幕府大老でもあらせられた掃部頭直弼《かもんのかみなおすけ》さまが桜田門外で非業の死をお遂げになった時も、ついに敵《あだ》を報ずることなくおわってしもうた。尊藩には貴殿たちのような忠節の士がおられ、亡き御主人の怨《うら》みを晴らしたもうたこと、まことに羨《うらや》ましゅうてなりませぬよ」  それまで喜内と松三郎は、見張り番や町役人の者たちは自分たちをなぜかくも親切に扱ってくれるのか、なぜ地元の者たちはこんなにも熱狂するのか、と不思議に感じていた。それだけにふたりは、この告白を聞いた時初めてそのわけを知ったように思い、粛然たる気分になった。  彦根県庁は、二十六日のうちにふたりの敵討を報ずべく金沢県庁あてに早飛脚を放っていた。それを受けて金沢県から細野潤次郎、三田村半助の両|属《さかん》が長浜へ到着したのは、十二月七日の夜になってからのことであった。  喜内と松三郎が、本多弥一たちと矢野策平たちの組もそろって敵討に成功していたと聞いたのは、このふたりの口からのこと。 「ああ、さようでしたか」 「よかった、よかった」  とあらたな喜びの表情を浮かべたふたりは、次の瞬間、 「その方たちも、七人の刺客に狙われておったのだぞ」  と三田村から告げられて、思わず小首をかしげていた。  三田村がふたりに伝えたところは、次のような事実であった。  十一月二十三日夕刻、岡野悌五郎、菅野輔吉のふたりが相ついで討たれた直後から、 「旧本多家家臣団からは、別のひと組が越前路に多賀賢三郎を追跡中」  との噂が金沢市中に一気にひろまっていった。  いち早くこれを耳にした多賀家では、かねてから賢三郎が襲われる可能性を考慮に入れ、元家来の加藤なにがしに依頼して剣客七人を養わせていた。  同夜のうちに賢三郎を救うべく金沢を出立したこの七人は、昼夜兼行で今庄《いまじよう》まできた時、賢三郎の死を知り、むなしく金沢へ引き返したのだという。 「——そうでしたか」  改めて自分たちの幸運を悟った喜内と松三郎は、異口同音に訊《たず》ねていた。 「それで、石黒圭三郎を追って東京へむかった島田伴十郎と上田一二三については、なにか伝わってきておりましょうや」  そう訊ねられても細野、三田村の両人が顔色を動かさなかったのは、むろんふたりが島田・上田組の動きを承知していたからである。  だが細野は、急に不機嫌な表情を作って答えた。 「石黒氏が討たれたという話は、まだ金沢には聞こえてきてはおらぬ」  十二月八日朝、喜内と松三郎はそれぞれ青網を打たれた駕籠に乗せられ、金沢へ護送されることになった。  喜内と松三郎を話題にする時、すでにして、 「義士」  ということばを用いていた長浜のひとびとは、寒さの厳しい朝であったにもかかわらず白い息を吐きながら郡上町の通りに集まり、北へ去れば二度と会う日はないであろうふたりの駕籠に思い思いに別れを告げてくれた。     十  島田伴十郎と上田一二三とが金沢をあとにしたのは、藤江松三郎・芝木喜内組の出立とおなじく十一月十八日のことであった。  島田伴十郎は、父忠蔵の代から本多家に足軽として仕えていた。  戊辰のいくさには、加賀藩伍長として出撃。その痩躯《そうく》に似ない粘り強い気性と判断力の的確さを認められて本隊司令に昇進し、明治元年九月二十日に京を発《た》った天皇の東京行幸、おなじく十二月におこなわれたその京都還幸に随従した経験の持ち主でもある。当年三十三歳。  対して三十九歳の上田一二三は、もとからの武士ではなかった。加賀国河北郡田上村の農民安兵衛の次男として生まれたが、若くして武家奉公を希望。安政五年(一八五八)九月、いわゆる安政の大獄が始まったころ本多家に小者として雇い入れられ、その後は寸暇を惜しんで剣術修業に熱中した。  筋骨のよく張ったぶ厚い体躯のおかげか、いつしかその技量は他にぬきんでるところとなり、戊辰戦争に際しては足軽に挙げられ、藩兵に編入された。  明治四年二月十四日、本多政均暗殺犯の山辺沖太郎、井口義平が切腹刑に処されてから数日後、一二三は不意に矢野策平邸を訪問。庭先にまわるよう命じておいて策平自身が縁側にあらわれると、いかつい顔つきに悲憤の色を刷《は》いて申し入れた。 「山辺、井口の両名は、本多弥一さまとこなたさまとが身柄引きわたしをお求めになっておられたにもかかわらず処刑されてしまい、痛憤やる方ないとはまことにこのことでござります。それがしは不学|微賤《びせん》の身ではござりますれど、幼き日より主君の御恩は死をもって酬《むく》ゆるものと承知しており申す。  かつ忠臣蔵などの芝居を観るにつけ、このまま安閑として日々を打ち過ごしてはおられぬ、という気がいたしてどうしようもござりませぬ。何としても山辺、井口に一味いたしたやつばらを討ち平らげ、従五位さまの大恩に報いたく存じますれば、さように思いつめている者もおりますことを、どうか頭のはしにおとどめ置き下さりませ」  地面に片膝《かたひざ》を突いて口上を述べていた一二三は、口をつぐむや感極まってしまい、次の瞬間号泣して大地に上体を投げ出す熱情を見せた。  そのひたむきな態度に胸を打たれた策平は、 「その方の気持は、しかと相わかった」  と静かに答えた。 「万一、復仇《ふくきゆう》のために謀り事を巡らす日があらば、かならずその方にも伝えようではないか。それまでこの会話を口外し、他に疑われるようなことがあってはならぬぞ」  策平がこの約束を守ってくれたため、一二三は、 (どうにかして矢野さまの御厚情に報いたいものだ)  と考えて、伴十郎の東京行きが決まるやいなやその同行を申し出たのである。  出立の日、富田聡に郊外まで見送られた伴十郎と一二三は、ともにぶっさき羽織にたっつけ袴《ばかま》の旅装に身を固め、腰の大小には湿気を防ぐために柄袋《つかぶくろ》をかぶせていた。  雪深い越中路を今町|湊《みなと》まで北上し、これも雪深い松本を経て中山道に入ると、次第次第に人力車の数が目立ちはじめた。 「島田さん、あれの方が楽そうだな」 「うむ、試してみようか」  と言い合ったふたりは、途中から早駕籠《はやかご》を人力車に切り換えて、十二月一日にようやく東京へ入った。  かれらがまず訪ねたのは、本郷の元加賀前田家江戸上屋敷のすぐ近くに住まう金沢県軍医原田恭平であった。  まだ陸軍省、海軍省は置かれていないため、各県はそれぞれ独自の軍隊を保有している。金沢県は県下に金沢軍事総局、東京に東京軍事総局を置いていたが、後者勤務の原田はかねてから本多弥一と親しく、ひそかにその依頼を受けて石黒圭三郎の行方を探索してくれる約束になっていた。  しかし、夜も更けてから伴十郎と一二三とが面会を求めると、丹前姿であらわれたどじょう[#「どじょう」に傍点]髭《ひげ》の原田は、その髭をひねりながらいった。 「うむ。その件は、拙者が表立って動くわけにもゆかんので、渡辺善四郎に頼んである」  渡辺善四郎とは旧幕時代から加賀藩前田家に出入りしていた口入れ業者の親分のひとりで、ほど近い本郷春木町二丁目に邸宅を構えているという。 「ところで金沢軍事総局からは、近ごろなにか異変を伝えてきてはおりますまいか」  伴十郎は先月二十三日に断行されたはずの岡野悌五郎、菅野輔吉襲撃の結果を知りたく思って訊ねたが、原田はあっさりと答えた。 「さあ、なにも伝わってきてはおらんな」  資金が底をつくのを恐れてその夜は場末の旅籠《はたご》に投宿し、一夜明けてから渡辺善四郎を訪ねてみると、屋号を打った半纏《はんてん》に着流し姿であらわれた初老の善四郎は、しきりにふたりに同情してくれた。  胡麻塩《ごましお》頭を角刈りにしている善四郎は、長火鉢を前にして長《なが》煙管《ぎせる》に一服喫いつけ、ふたりに茶をすすめながらいった。 「これはどうも、御苦労なことでござんす。ええ、その件ならば、たしかに原田さまから内密に仰《おお》せつかっていまさあ。目下、若い衆を使って探させてるところでござんすから、大船に乗ったつもりでいて下さって構いませんや。まあ首尾よくめっかる[#「めっかる」に傍点]まで、あっしの妾《めかけ》んところででも休んでいておくんなさいまし」  ことば遣いこそ伝法《でんぽう》そのものだったが、善四郎は、 「それにしても、今日び亡くなった御主人の敵討《あだうち》をなさろうたあ、まことに見上げたお心懸けでござんす」  と感心しきりであった。  かれはその場で、今日からさらに多勢の子分たちを動員し、八方手を尽くして石黒圭三郎を探し出す、と約束してくれた。  善四郎の子分のひとりが、 「その石黒とやらは、上州屋に長逗留《ながとうりゆう》していると聞きこみやんした」  と報じてきたのは、それから三日経った十二月五日のことであった。おなじ本郷のうちにある上州屋は、宿屋と下宿屋を兼ねているという。  本来ならば数日間上州屋を探り、石黒の出入りを確認してから踏みこむべきだが、もはや時間を濫費している暇はなかった。その間に岡野悌五郎と菅野輔吉が襲われたことの噂が金沢から流れてくれば、石黒は用心のため姿を隠してしまうに違いない。  伴十郎と一二三は、検討の結果、その夜のうちに上州屋へ乗りこむことにした。  しかし、——。  白鉢巻にたすき掛け、紺足袋わらじで足元を固め、袴の股立《ももだち》を取って上州屋に躍りこんだものの、石黒の姿はすでになかった。  ふたりを強盗と思いこんで帳場に腰を抜かしてしまった上州屋のあるじは、 「おい、石黒圭三郎の部屋へ案内しろ」  と白刃を突きつけられると、どもりながら答えた。 「そ、そ、そのお方は先月二十三日までは御滞在でしたが、そ、そ、その後長崎へゆくといって部屋を引き払われましてございます」  愕然《がくぜん》とした伴十郎と一二三は、善四郎のもとへ引き返して善後策の相談に乗ってもらった。 「もう一日だけ、時間をいただきやす」  と答えた善四郎は、ふたたび子分たちを四方に走らせたかと思うと、どこをどうたどったのか六日の午後には、石黒が長崎到着後に身を寄せる先まで割り出してふたりに教えてくれた。そして、 「さらに追跡なさるんでしたら、旅費のことはあっしに任せておくんなさい」  とまでいってくれたが、もうふたりが長崎まで行っている余裕はなかった。  金沢県東京軍事総局は、この夜のうちに金沢県庁から、岡野悌五郎と菅野輔吉とが斬殺された、旧本多家家臣団からは石黒圭三郎を追って東京へむかった者もいる、との連絡を受けていたのである。  早駕籠で出府してきた捕亡《ほぼう》ふたりから詳しい事情を伝えられた東京軍事総局は、捕亡からわたされた島田伴十郎、上田一二三の人相書をただちに各方面に配布。東京市中のみならず品川口、千住口、四谷口、板橋口にまで探索の網を張り、石黒を発見次第保護するよう命じて兵数人を大阪へ派遣したりもした。  翌七日付、東京軍事総局から金沢軍事総局あての報告書にいう。 ≪ [#地付き]卒四十歳|斗《ばかり》 上田一二三      [#地付き]卒三十歳斗 島田伴十郎       右両人本多従五位元家来に候ところ、今度従五位殺害の党をことごとく打ち果たすべき所存にて、この表(東京)へ脱走の石黒圭三郎を討ち果たすべき旨、同類の者より申し顕われ候につき、早追い(早駕籠)をもって捕亡の者さし向かわされ、すなわち昨夜到着いたし候。  ついてはこの表、兵隊をもって厳重探索致し、心当たりの者これあり候わば召し捕り申すべき旨申し越され候えども、上士官、下士官、兵隊の内には本多元家来の者多くこれあり候間、兵隊の内へはいっさい相|洩《も》らさず、島田一郎、和角|兎茂雄《ともお》ほか捕亡卒二人にてこの表の儀は探索致させ候。  かつ石黒圭三郎身上いかんにも注意いたし候旨、県庁より命ぜられ候おもむきそれぞれ承知致し候。右圭三郎、前月二十三日この表出立、東海道通り帰県の旨、生徒取締申し出候えども、先年この表広徳寺前に潜伏いたし居り候箇所もこれあり候につき、なお得《とく》と探索致させ候。かつ東海道通りへは兵隊の内人選をもって四、五人帰県申しわたし、かの道筋探索致させ候。  ………… ≫  蛇足ながらこの文中に出る島田一郎とは、金沢県の軍隊において中尉に任じられている男。加賀藩が維新回天の立役者になれなかったことをなおも無念に思いつづけ、この物語の時点から六年半後の明治十一年五月十四日、紀尾井坂で内務卿大久保|利通《としみち》を暗殺することになる。  ところで、——。  本多弥一が原田恭平に探索を依頼したのと並行して、矢野策平も東京在勤の剣術の弟子のひとりに石黒の所在を探させていた。  元本多家家臣の諏訪八郎准中尉。  本多家家臣河地弥左衛門の三男として生まれ、おなじ身分の諏訪弥平太の末期養子となって六十石を得ていた八郎は、旧幕時代には本多|政均《まさちか》の近習兼衣類方を務めていたが、戊辰のいくさに際して加賀前田家の藩兵に編入された。明治四年四月仮軍曹、七月准少尉、十月准中尉代務と昇進し、十一月から現職となって横浜の大田陣屋に赴任したきわめて責任感の強い青年である。  石黒の探索をふたつ返事で引き受けていた八郎は、横浜着任後も暇があれば東京を歩きまわり、あれこれ聞きこむことを怠らなかった。  そんな一日、八郎が某所の旅籠《はたご》に投じると、入れ違いにその宿から出立していった者がいた。あとで聞けば、それが石黒圭三郎であった。  これを無念やる方なく思っていた八郎は、金沢で敵討がおこなわれ、東京軍事総局も急な動きを見せはじめたと知ると、策平との男の約束が果たせなかった責任を痛感。十二月十日の午前五時、まだ兵たちの寝静まっている大田陣屋の暗い廊下で切腹して果てた。  期せずして諏訪八郎は、まだ本多弥一以下の十五人が生きているうちに、いち早くかれらに殉死するかたちになったのである。  むろんこのような出来事があったことまで、島田伴十郎と上田一二三は知らない。  しかし東京軍事総局のあわただしい動きは、原田恭平と渡辺善四郎の口からあまさずふたりに伝えられていた。 「これでは長崎をめざしたとて、途中でつかまってしまうのは目に見えていますな」 「まことに。ならばかねて本多弥一さま、矢野策平さまと打ち合わせたように、自訴して出ることにいたそうか」 「岡野悌五郎と菅野輔吉を成敗することには成功したのですから、無念ながらそうするのが最善でしょうな」  と相談したふたりは、協力を惜しまなかったばかりか妾宅《しようたく》まで提供してくれた渡辺善四郎に感謝の気持を示すため、善四郎に説得されて縛《ばく》に就《つ》く、というかたちを取ることにした。  かれらが善四郎とともに筋違《すじかい》御門の東側、柳原の田川屋へ会食に出かけたのは、十二月十六日の火点《ひとも》し頃のことであった。  三人が静かに献酬を重ねるうちに、すでに善四郎からそれと伝えられていた捕吏数十人が田川屋を包囲。そのうちの隊長格が緊張の面持ちで襖《ふすま》を引いた時、伴十郎は、  手折らるゝ手にも匂ふや梅の花  と一句を口ずさみながら両刀を差し出していた。  こうして捕われの身となった島田伴十郎と上田一二三が金沢へ護送されて行ったのは、明けて明治五年一月五日のことであった。 [#改ページ]  終章 消えて惜しまぬ     一  岡野悌五郎を討った本多弥一、鏑木勝喜知《かぶらぎかつきち》、富田聡、吉見亥三郎の四人と、菅野輔吉を討った矢野策平、舟喜|鉄外《おのと》、西村熊、浅井弘五郎、広田嘉三郎、湯口藤九郎、清水金三郎の七人が収容されたのは、金沢城城東、尻垂《しりたれ》坂通りにある刑獄寮の獄舎であった。  彦根県から送られてきた芝木喜内と藤江松三郎、東京から護送されてきた島田伴十郎と上田一二三も、金沢到着後ただちにこの獄舎に投じられた。  伴十郎と一二三は、弥一以下に迎えられた時、 「われらのみめざす仇を討ち洩《も》らしてしまい、まことに面目次第もござりませぬ」  といい、両手を突いて深々と頭を下げた。  対して弥一は、まだ額に包帯を巻き、右手を吊《つ》っている姿で答えた。 「まあよいではないか。東京組が身動きできなくなったのは、残りの組が敵討《あだうち》に成功したためでもあったのだから。従五位さまの御魂《みたま》も、四人中三人を討ち果たしたことをきっと満足に思《おぼ》し召されているはずだ」  ほかの十二人も口々にねぎらいのことばをかけたので、十五人はまた以前のように和気|藹々《あいあい》たる交流を復活させた。  かれらは、一般の囚人たちとは待遇の異なる特別扱いの未決囚であった。面会は許されないまでも、自宅との文通や差し入れ品の授受を黙許され、定期的に刑獄寮の庭を散策することも認められた。これは金沢県庁上層部にも、 「かれらこそ第二の赤穂浪士、いや『本多義士』と称《たた》えられてしかるべきだ」  という感想を抱く者が少なくなかったためである。  十五人の一族は、旧幕時代からの慣習に従って一斉に謹慎伺い書を県庁に提出したが、これらに対しても、 「いずれも事情を知らず、事にも関与しなかったのだから、その儀には及ばぬ」  という寛容そのものの回答がなされた。  十五人にとって死はもとより覚悟の上のことだから、寝床に身を横たえてからも、この期に及んで展転反側する者はひとりもなかった。時々取調室へ呼び出されて口供書を作成される時と散策の時間以外、かれらは獄中で静かに読書をしたり絵を描いたり、あるいは歌会や句会をひらいたり辞世を考えたりして判決の下る日を待った。  弥一たち、岡野悌五郎を討った四人の口供書は次のように作成された。 ≪ 口 供  私ども元主人元金沢藩士族本多従五位、明治二年八月七日、同藩士族山辺沖太郎ならびに井口義平両人にて殺害に及び候事件、岡野悌五郎、多賀賢三郎、菅野輔吉、石黒圭三郎、これらは党与の者どもにて、倶《とも》に天を戴《いただ》きがたき者と一途《いちず》に存じこみ、岡野悌五郎等打ち果たし、いささか旧主の霊魂を慰めたき志願にて、士族矢野策平、西村熊、舟喜鉄外、浅井弘五郎、卒清水金三郎、広田嘉三郎、湯口藤九郎、藤江松三郎、芝木喜内、上田一二三、島田伴十郎ならびに私ども四人、都合十五人申し談じ、弥一、策平|首立《かしらだ》ち、それぞれ手配つかまつり、私ども四人去る未《ひつじ》(明治四年)十一月二十三日夕七ツ時(四時)ごろ金沢高岡町途中において、岡野を待ち受け、弥一より名乗りかけ双方抜き合い候ところ、聡、勝喜知、亥三郎抜きつれ踏みこみ、ついに打ち果たし候。(略)  積年の宿志を遂げ候上はすみやかに御|所《〈処〉》置方願いたてまつるべき心得につき、復讐《ふくしゆう》の趣意書持参、(金沢県庁へ)出庁お届け申し上げ候次第に御座候。  かつ策平、熊、鉄外、弘五郎、金三郎、嘉三郎、藤九郎これら七人、菅野輔吉方へ押し入り相(打ち)果たすべく、松三郎、喜内これら両人多賀賢三郎京都筋へまかり越し候由につき同月十八日出立、見かけ次第打ち果たすべく、一二三、伴十郎これら両人石黒圭三郎東京にまかりあり候由につき同月十八日出京、見かけ次第打ち果たすべき手配に御座候。 (しかし|石《〈欠〉》黒圭三郎)儀は居所相知れ申さず、その上同志の者人少なにて不行届につき、遺憾ながら打ち果たすを得ず候。≫ 「右に名前の出た以外にも、同志の盟約を結んだ者がおったはずだ」  という口供書係官の問いに対し、弥一たちは異口同音に答えた。 ≪前段《にて》申し挙げ候人員のほか同志の者御座なく候。かつ親類といえども少しも相洩らし申さず。≫  つづけて係官は、 ≪元来岡野悌五郎、多賀賢三郎、菅野輔吉の山辺沖太郎等関係の儀につき、すでにそれぞれ御処置もこれあり、ことに輔吉儀禁錮中[#「禁錮中」に傍点]の儀承知まかりありながら擅《ほしいまま》の挙動、まずもって朝憲を軽蔑[#「朝憲を軽蔑」に傍点]候儀に相当たり、あまつさえ石黒圭三郎儀は右事件につきいささかも関係の次第これなく、はなはだ粗暴の至り[#「粗暴の至り」に傍点]、重々不届き至極と御|察当《さつとう》(非難)なされ候。≫  と県庁側公式見解を書きつけ、それに対する弥一たちの答えとしてこうつづけた。 ≪私ども、まことに私情|止《とど》めがたきところよりまったく粗忽《そこつ》の所業に及び候儀にて、それぞれ御察当の上は、図らずも朝憲に悖《もと》り、今さら何とも申し訳なく恐察たてまつり候。……≫  まず十五人からひとりずつ口供を取り、このようにして四組分の口供書を作成するには予想外の時間がかかった。  すべての口供書が作成され、十五人全員が一堂に会してそれを読み聞かせられたのはもう四月になってからのこと。しかし、ひとり矢野策平のみは若干の表現に異を唱え、四月十五日、担当諸官との論争を試みた。  その日策平の呼び出された部屋に待っていたのは、芝木喜内、藤江松三郎受け取りのため彦根へ出張した三田村半助、細野潤次郎の両|属《さかん》をふくむ五人の係官であった。  机のむこう側に、断髪した頭を並べて着席していたこの五人に対し、差し入れの小ざっぱりした羽織袴《はおりはかま》姿で入室した策平は、立ったまま堂々と異議を申し立てた。 「口供書のなかに『まずもって朝憲を軽蔑』うんぬんとの表現がござるが、朝憲を軽蔑とはまことに恐れ入る。拙者どもは、決してさような不逞《ふてい》の考えから事を起こしたわけではござらぬ。  また『粗暴の至り』という文字も見えるが、不倶戴天《ふぐたいてん》の敵を討つのは武士道において至極当然のこと、なにゆえにこれを『粗暴の至り』と決めつけられねばならぬのか、どうにも合点がゆきませぬな。  さらに、『輔吉儀|禁錮《きんこ》中の儀承知まかりありながら』とあるも、菅野は獄舎のうちに禁錮されておったのではござらぬ。獄舎内への禁錮と自宅禁錮とでは、雲泥の差があるとは思い召されぬか」  策平が口をつぐむと、代表して山本守輝という係官が答えた。 「それぞれ法に従って御処置のあった者たちに対し、その御処置があったにもかかわらずかくのごとき所業に及んだことを『朝憲を軽蔑』した、と申すのだ。  また菅野について申せば、もし討つのであれば三年間の禁錮がおわってから尋常に敵討《あだうち》いたすべきだったのではないか。それを禁錮中と知りながら押し入ったことが、粗暴でなくてなんだと申すのか」  策平は、屈せず反論した。 「君父《くんぷ》の仇は、婦女子の力を借りてでも討ち果たすべきものと聞き及んでおり申す。いわんや菅野は、禁錮中とはいえ内々に探索いたしたところによれば、去年の夏には庭先に友人どもを集めて相撲を取ったこともあったのでござるぞ。そのあとも庭を悠々と歩きまわったりいたしておって、謹慎して刑に服す色はまったく感じられぬところでござった。  さればこそ、いつ他国へおもむいて行方知れずになるかも計りがたく存じて、刑期満了前に討ち取ったのでござる。そもそも復讐と申すものは、ゆるゆると時期を打ち過ごしておっては成しとげがたきものと心得申す」  言い負けたかたちになった山本は、菅野から岡野悌五郎、多賀賢三郎の件へと話をずらした。 「菅野は土屋茂助、山辺沖太郎、井口義平とともに本多従五位を断乎《だんこ》討つべしと主張していたが、岡野や多賀は逆に土屋らを、 『粗暴のふるまいに及んではならぬ』  と戒めておった者たちで、殺人に与《くみ》してはいなかった。それゆえ菅野が三年間の自宅禁錮を申しわたされたにもかかわらず、岡山茂と同じく七十日間の閉門に処されるだけで済んだのだ。しかるにこのふたりをも、菅野と相前後して討ち果たしたのはいかなるわけか」 「係官殿。申しておくが、拙者が今日この部屋にまいったのは口供書中の字句若干につき訂正を求めるためであって、改めて訊問《じんもん》を受けるためではござらぬぞ」  山本が急に表情を固くしたのを見た策平は、微笑を浮かべながら問いに答えた。 「岡野と多賀は従五位さまを狙ったわけではないから七十日間の閉門で済んだ、ということでござるが、拙者どもは、狙った狙わないにかかわらずあやつら一党の志はひとつであったと存じており申す。従五位さまを暗殺してまもなく、井口が支配頭の橋本一之進に差し出した『上申書』は多賀が浄書したものであったし、一党がだれが従五位さまを襲うかを決めるため、くじ[#「くじ」に傍点]引きを行った場所は岡野の家でござった。  かつ、その後|仄聞《そくぶん》いたしたところによれば、多賀はお上の吟味を受けたおり、 『本多従五位が討たれて藩知事さまも御大悦に思《おぼ》し召されましょうし、われらにおいても大慶に存じたてまつる』  と申した由。これらをあわせ考えると、多賀と岡野が従五位さま暗殺に反対だったという見方にはなかなか賛成いたしかねる」     二  この発言の後段、多賀賢三郎が『藩知事さまも御大悦』と口にしたというのは、山本守輝にも初耳であった。しかし山本は、東京へ去ったとはいえ旧主前田|慶寧《よしやす》の言動について議論するのはまずいと感じ、急いで論点を『粗暴』という字句の問題にもどすことにした。 「その仄聞いたしたところというのは、伝聞の誤りとしか考えられぬ。すでに当時とは吟味役も代わっておるから確かめようもないが、いずれにせよ多賀が閉門を申しつけられたのは、従五位殺害にかかわりはしなかったものの山辺、井口の動きは承知しており、それでもなおかつかかる大事件が起ころうとしていることを藩庁に告げなかった罪を問われたためなのだ。  しかるに、この岡野の罪の軽重も糺《ただ》すことなく菅野ともども討ち果たしたのは、粗暴というしかないではないか」 「改めて申し上げる」  獄舎に投じられてすでに五ヵ月目、それまで毎日欠かさなかった剣術の稽古《けいこ》もできなくなり、面金でこすれて逆立っていた鬢髪《びんぱつ》と揉み上げも直毛にもどっている策平は、ぶ厚い上体を微動もさせずに駁《ばく》した。 「われら今回の挙に及ぶまでには、まことにいろいろなことがござった。ある者は商人《あきんど》、ある者は乞食、鋳掛屋などに身をやつして敵状を探索いたし、またある者は心ならずも仇の家の下女に馴染《なじ》み、金銭を与えて密偵に利用するなど千辛万苦して実情を突き止めたのでござる。  多賀について一例を挙ぐるならば、あやつが当初揚がり屋入りになる前、多賀家の者どもはことごとく人心|恟々《きようきよう》といたして用心怠りなく、屋外から怪しき物音が響いてまいれば、 『すわ、本多家の家来どもが押し寄せてきた!』  と叫んで顔色を変えたと聞き及び申した。  従五位さまを執政のお役目から引き下ろすだけでよいと唱えただけのことであれば、かくのごとき不安や懸念に悩まされる道理もござるまい。どうかこれらのことを、よく御賢察されよ。  さらに申すならば、あれは忘れもせぬ昨年二月十三日夜、本多弥一殿と拙者とは藩知事さまの御寝所に召し出された時、同席なされた権《ごんの》大参事|陸原《くがはら》慎太郎殿に山辺、井口両名の御処置をうかがい申した。なれど陸原殿には、 『その儀においては、役人以外の者に洩《も》らすことはできぬ』  とにべもなくおっしゃられたのみでござった。かくもわれらに対して何のお示しもなき上で、われらに『伝聞の誤り』とか『罪の軽重も糺さず』などと仰せあるは、まことに意外千万と存ずる」  決めつけられてしまった山本は、ふたたび論点をずらしてなおも「粗暴」の語への執着を見せた。 「石黒圭三郎はいささかも関係がないのに、討ち取る手段を講じたることは粗暴ではないのか」 「石黒がまったく無関係とは認めがたいところでござる」  策平は、背筋を伸ばして応じた。 「石黒は、東京留学中に岡野悌五郎の長兄|外亀四郎《ときしろう》が金沢へ檻送されたと知るや、ただちに出奔いたした。それが何よりの証拠でござろう」 「石黒は元治《げんじ》の変に連座いたし、外亀四郎とともに明治元年まで禁錮されておったのだ。されば、また元治の変について取り調べられるのかと思って出奔したのではないか」  山本は口をはさんだが、これは単なる当て推量でしかない。策平は、その点を突くことにした。 「われらがうけたまわりしところにおいては、石黒は一件首謀者のひとりでござる。一件の処置がおわりを告げたと知るとようやく帰国いたすなど、不審な点が少なくはござらぬ。それを旧幕のころを思い出しての出奔であろうなどとの仰せは、解するのに苦しみますな。石黒は、いやしくも藩校明倫堂で教えていた儒者でござるぞ。さような小児のごときふるまいをなす人物とは受け取りがたい」 「拙者も当初は石黒を一味の者と考えて、当時藩知事さまの命を受けてとくと吟味いたした。だが結局のところ、無関係だったことが明白になったのだ」 「われらは、決して路傍の噂によって石黒を首謀者のひとりと信じこんだのではござらぬ。しかし的確な証拠を挙げられぬのは、まことに遺憾に存ずる」  ようやくこの一点についてのみ山本に意見を擦り合わせた策平は、話題を岡野悌五郎にもどして主張した。 「されど岡野討ち取りについて一言いたせば、岡野は弥一殿が背後から、 『岡野さん、岡野さん』  と呼びかけただけで、返事もいたさず振返りざま抜き打ちを浴びせておるのでござりますぞ。返事もなく大刀を抜き打つなどは、身に覚えのある者ならではのこと。従五位さまを殺《あや》めるとは穏やかではないとして、山辺、井口を説得いたした者の取る態度とは思われませぬゆえ、この点、再三再四の御糺明《ごきゆうめい》こそあらまほしく存ずる」 「弥一の呼びかけ方にただならぬ気配が漲《みなぎ》っておったため、即座に斬りつけたのではないか」  またしても山本が勝手な想像を口にしたため、策平はさらに反論を加えた。 「たとえただならぬ声であったとしても、ただちに抜き打ちいたすとは何とも思い切った、不敵なふるまいでござろう。かようなふるまいは、平素から自分は敵を持つ身との疚《やま》しさがなくてはなし得ぬこと、いうまでもござらぬ。  その上、岡野は敷地内の畑を耕す時にもつねに大刀を帯びていたため、隣り近所の者の笑いものになっており申した。かれこれ思い合わせるならば、多賀、岡野と菅野とはいわゆるおなじ穴のムジナ。石黒の二度目の逃亡も、みずからの疚しさに発するものと考えられるのでござる」  そこで急にひと息ついて、策平は念を押すように述懐した。 「かく申せばとて、われらが言を弄《ろう》して死を惜しむ者と思われてはまことに不本意なことでござる」 「いや、いささかもさようには思っておりません」  山本は不意にことば遣いを改めて、まっすぐ策平の目を見直してきた。  策平はその態度から敏感に風向きの変化を読み取り、ふたたび「朝憲を軽蔑」、「粗暴」ということばの改変を求めた。  すると山本守輝に代わり、その右隣りに着席していた大塚|志良《しろう》という係官が穏やかに口をひらいた。 「おのおの方においては、情実|止《や》みがたきところからこの挙に及ばれたものでしょうな」 「さようでござる」  策平が応じると、大塚は手元にある口供書の写しを目でなぞりながら、噛《か》んでふくめるようにいった。 「『軽蔑』、『粗暴』の文字はおのおの方の口供部分ではなく、当方の見解の中に用いられているだけです。おのおの方の口供の方には『図らずも朝憲に悖《もと》り』と、『図らずも』の語が添えられていますから、これでよろしいではありませんか」  初めから策平を言い負かそうとしていた山本と異なり、大塚は策平たちの気持を充分に汲《く》んでくれていた。  このような係官を困らせるのも不本意なことなので、策平は「軽蔑」、「粗暴」に関する訂正要求は撤回。気になっていた別の一点へと話を切り換えることにした。 「『私ども、まことに私情|止《とど》めがたきところより』  というくだりがあったかと存ずるが、この『私情』の『私』の字には、何となく心服しがたいものがござる。『至情』と書き替えては下さらぬか」  この申し入れに対しても、大塚は誠実に答えた。 「この『私』の文字は、『公私』という場合の『公《おおやけ》』に対する『私』であります。おのおの方は公に朝命を受けて岡野少属以下を討ったわけではなく、今日、敵討は御|法度《はつと》に触れる所業とみなされています。そうとは知りつつもおのおの方は、君父の仇と倶に天を戴《いただ》くは私情止めがたしとの思いから敵討を決行したのではありませんか」 「たしかに仰せのとおりなれど、『私』の字は『私心』、『私欲』などということばにも用いられる。『私情』とあると、『私』の怨《うら》みで事に及んだかのごとく受け取られる嫌いがござる」 「いや、その嫌いはありますまい。おのおの方は多賀少属ほかと口論したこともないのですから、『私』の怨みがあるはずもない。ただ『公』の所業ではないから、その反対語の『私』の字を用いただけです」 「しからば、『臣子の情実止めがたきより』といたせば『公』と『私』の中間の表現になってよろしいのではござらぬか」 「よくお聞き下さい」  身を乗り出した大塚は、醇々《じゆんじゆん》と説いた。 「王政一統となりました御一新この方、わが国に王臣にあらざる者はひとりたりともおりません。法をもって論ずるとはなはだ厄介なことになりますが、『私情』ということばの中には、当然、臣子の情もふくまれておりますから、これはこれで穏やかな表現だと思います。  およそ人たる者は、父は子のために隠し、子は父のために隠す——これらはみな情実と申すもので、こういたすのが当然ではありますが、これを『公』ということばで括《くく》ることはできないのであります。おのおの方も、旧主の恩を思う気持からあの挙に及んだのですから、われらもこれを『私心』や『私欲』に発したこととは決して考えてはおりません」 「なれば、よろしゅうござる」  と策平が答えたため、問答はこれで打ち切りとなった。  口供書の表現を手直しすることは出来なかったが、この長いやりとりの間に発揮された矢野策平のひたむきな義気と熱情は、係官たちを感服させるに足るものであった。  本多弥一、矢野策平以下の十五人は、その後ふたたび獄中で静かに判決を待つ日々を送りはじめた。     三  本多弥一家に下女として奉公するおゆき[#「おゆき」に傍点]は、まだ二十歳《はたち》前ながらよく出来た娘であった。  弥一が捕われの身となって以来、別棟の隠居所に住まうその老母おとき[#「おとき」に傍点]の世話をしているおゆき[#「おゆき」に傍点]は、おとき[#「おとき」に傍点]に頼まれて毎日のように刑獄寮へ通いつめていた。着更《きが》えや弁当、嗜好品《しこうひん》その他の差し入れのためである。  やがて刑獄寮の獄吏たちともすっかり顔なじみになったころから、おゆき[#「おゆき」に傍点]は獄吏たちにも刻み煙草や干菓子などを持ってゆくようになった。そして、さり気なく弥一の獄中における暮らしぶりを聞き出すことに努めた。  おとき[#「おとき」に傍点]は弥一と文のやりとりをつづけていたが、 ≪右腕と小鬢《こびん》の疵《きず》も快癒いたし候えば、御懸念あそばさるまじく候≫  と書き送られても、自分を安心させる方便としか思えなかった。  事件当日、弥一の命令を忠実に守り、物陰にひそんですべてを見届けてきた老僕弥兵衛は、息を喘《あえ》がせて本多家へ駆けもどるやいなや、おとき[#「おとき」に傍点]にこう告げたものであった。 「た、ただいまだんなさまは従五位さまの仇のひとりをみごとに討ち留めなさいましたが、その際右腕と左の小鬢にかなりのお怪我をなさいました!」  おとき[#「おとき」に傍点]は子を思う親のつねとして、その時から弥一の血まみれの姿が脳裡《のうり》から離れなくなっていた。そのため弥一から全快したと報じられても、なかなか信じる気にはなれないのだった。  明治四年の四月十五日は、新暦であれば六月二日に相当する。春の遅い北国とはいえ金沢も光あふれる季節を迎えていたし、この日におこなわれた係官と矢野策平のやりとりによって口供書の最終稿も出来上がったため、これ以降弥一たち十五人にはさらに庭内散策の時間をふやすという特典が与えられることになった。  獄吏たちからそれと教えられたおゆき[#「おゆき」に傍点]は、散策の時間帯をも聞き出して一計を案じた。  弥一たちが散歩を許されるのは刑獄寮の前庭ではなく裏庭だが、道をはさんでその向かい側には二階建ての商家がある。 (散策の時間に合わせてその二階の物干し台から屋根へ上がっていれば、おとき[#「おとき」に傍点]さまにだんなさまの恢復《かいふく》具合を御自分の目で確かめていただけるに違いない)  おゆき[#「おゆき」に傍点]がそう思案して商家を訪れ、事情を告げて深々と頭を下げると、主人はいとも簡単にうなずいてくれた。 「いや、本多家の義士のみなさまのおためとあれば、当家としても名誉なことでござります。いつでもお使い下さいませ。もし手前が不在の時でも、家の者や使用人たちには手前からよく申し伝えておきますから、どうか御心配なく」  おゆき[#「おゆき」に傍点]からそうと報じられると、おとき[#「おとき」に傍点]は皺《しわ》んだ顔をくしゃくしゃにする喜びようであった。  しかもおとき[#「おとき」に傍点]は、この降って湧いたような僥倖《ぎようこう》を自分だけのものにしておこうとは思わなかった。おゆき[#「おゆき」に傍点]と弥兵衛に弥一の同志たちの家を回らせた結果、 「ぜひとも御一緒させていただきとうございます」  と答えた者もあらわれた。鏑木勝喜知の妻、乙葉である。  おとき[#「おとき」に傍点]と乙葉が、 「よそゆきの服を着ていたのでは、もしあちらがわたくしどもの姿に気づいたとしても、どこのだれかわからないかも知れませんね」  と相談した結果、ともに普段着のままおゆき[#「おゆき」に傍点]に導かれてその商家を訪れたのは、四月末日午後一時過ぎのことであった。  おりから主人は他出中であったが、番頭のひとりが応対に出て、 「ささ、こうおいで下さりませ」  と、嫌な顔ひとつせず階段へ案内してくれた。  のみならずその番頭は、二階の物干し台に用意されていた梯子《はしご》を屋根へ立てかけて、 「手前がしっかり支えておりますから、どうか御安心を」  とさえいってくれた。  まずおゆき[#「おゆき」に傍点]が屋根に上がっておとき[#「おとき」に傍点]を助け、おとき[#「おとき」に傍点]が何とか上がりおえるのを待って乙葉が裾《すそ》を気にしながら梯子を登っていった。  その時にはすでに、弥一たちが三々五々刑獄寮の裏庭に姿をあらわしていた。  おゆき[#「おゆき」に傍点]にからだを支えられたままおとき[#「おとき」に傍点]が夢中で手を振ると、弥一が目ざとくそれと気づいてこちらに顔を向ける。声は届くまいと見て、おとき[#「おとき」に傍点]は自分の右腕をさすってみせた。 「右腕はほんとうにもう良いのですか」  と訊《たず》ねたのである。  差し入れの真新しい麻かたびらをまとっていた弥一は、すぐに母の仕種《しぐさ》の意味するところを理解した。  やおら左右を見わたした弥一は、かたわらの銀杏《いちよう》の老樹の下枝《しずえ》に跳びつくと、両手でぶらさがって子供のように何度もからだを前後に振ってみせた。 「うん、うん」  とうなずきながら弥一の遠い笑顔を見つめていたおとき[#「おとき」に傍点]は、 「ああ、よかったこと。これで、——」  と、急に涙声になって呟《つぶや》いた。 「これであなたさまも、みなさまに負けず立派に切腹することができるのですね」  鏑木勝喜知が弥一にならって三人の女たちを見上げたのは、その直後のことであった。まだ乙葉は梯子を登りきってはいなかったが、 「乙葉さま、鏑木さまが」  とおゆき[#「おゆき」に傍点]にいわれ、急いで肩越しに背後を見やった。そして、なつかしい夫の姿をかなたの地上に認め、 (あ、だんなさまが)  わたくしに気づいて下さった、と思った時、乙葉は足をすべらせて危うく梯子から落ちそうになった。  これを義士の妻としてきわめてはしたないことだったと深く恥じ入った乙葉は、それから長い間神仏に掌を合わせるばかりで勝喜知に文を届けなかった。  しかし秋風の吹きはじめたころようやく思い直し、夫あてに詫《わ》び状を書いた。すると勝喜知は、その返事として左のような一首を書き送ってきた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  深草のもとに絶々《たえだえ》鳴く虫を露かきわけて尋ね給ふか [#ここで字下げ終わり]  このような逸話を残し、獄吏たちに色紙を求められたりしながら約一年間獄中にあった十五人に判決が下ったのは、金沢県が石川県と名を改め、県庁も石川県美川町に移されてから九ヵ月後の明治五年十一月一日のことであった。  その、判決文にいう。 ≪ [#地付き]本多 弥一      [#地付き]矢野 策平       その方ども儀、去る未《ひつじ》(明治四年)十一月故主の讐《あだ》を報ぜんと欲し、人殺しする科《とが》によりて自裁|仰《おお》せつけられ、世襲|俸禄《ほうろく》のものは子孫に給うべく候。 [#地付き]≫ ≪ [#地付き]富田  聡      [#地付き]西村  熊      [#地付き]鏑木勝喜知      [#地付き]舟喜 鉄外      [#地付き]浅井弘五郎      [#地付き]吉見亥三郎      [#地付き]広田嘉三郎      [#地付き]湯口藤九郎      [#地付き]芝木 喜内      [#地付き]藤江松三郎       その方ども儀、去る未十一月故主の讐を報ぜんと欲し、人殺しする従《じゆう》(従犯)にして加功(一部分担)する科によりて自裁仰せつけられ、世襲俸禄のものは子孫に給うべく候。 [#地付き]≫ ≪ [#地付き]清水金三郎       その方儀、去る未十一月故主の讐を報ぜんと欲し、人殺しする従にして加功せざる科によりて禁錮十年仰せつけられ候。 [#地付き]≫ ≪ [#地付き]島田伴十郎      [#地付き]上田一二三       その方ども儀、去る未十一月故主の讐を報ぜんと欲し、人殺しする従にして行なわざる科によりて禁錮三年仰せつけらる。 [#地付き]≫  清水金三郎は本多弥一組と矢野策平組の連絡役であり、菅野輔吉邸に駆けつけたあとも門外にあったため、輔吉に直接手を下してはいなかった。島田伴十郎・上田一二三組もついに石黒圭三郎を発見できずにおわったから、弥一組あるいは策平組に属した十二人とは異なって、死を免れたのも当然の結果であった。  この明治五年十一月一日は、金曜日であった。そのため弥一、策平以下十二人の切腹は、週明け十一月四日月曜日の午後二時から、と定められた。    四  しかしこの時、石川県には士族が自裁を仰せつけられた時どのように取り扱うべきなのか、という規定がまだ定められてはいなかった。そのため石川県庁は、十五人に判決を下すに先立って司法卿江藤新平に指示を仰ぐという醜態を見せていた。  江藤新平は、峻烈《しゆんれつ》な『葉隠』の精神で知られた旧佐賀藩の出身。みずからも博覧強記をもって知られていたから、この問い合わせを受けるや唖然《あぜん》として左右に語った。 「石川県といえば、加賀前田百万石の伝統を引き継いだ県であろう。その県庁に、切腹の作法を心得た者がひとりもおらぬとはな。加賀前田家は、元治の変に際して勤王論者のひとりを生胴《いきどう》に処すなどという酷《むご》いことすらやりおったくせに」  江藤はうんざりしながらも、福岡県庁に対し、石川県によく切腹の作法を教えてやるよう命じた。かれが福岡県を指名したのは、同県がまだ福岡藩だった明治二年のうちに、八人の士分の者を自刃させたことをまだよく覚えていたからである。  司法卿の依頼により、福岡県から石川県へ送られた文書「士族自|尽《〈刃〉》の節|取計《とりはからい》の事」の全文は、以下のようなものであった。 ≪右自尽の者これある節は、その四、五日以前、行刑、日限、人数等司法省よりお達しこれあり候わば、そのお達しにもとづき、本人衣服そのほか入用の品々左の通り手当てならびにそれぞれ手筈《てはず》等申しつけ置き、在獄の者は死刑囚人同様途中護送いたし、刑場のかたわらへ相廻《あいまわ》し、縛縄を解き、かねて設けの礼服に着替えさせ、小介錯付添い、刑場へ引き連れ、もっとも場所はおよそ九尺四方ほどに砂敷き、平《なら》し、その上へ琉球無縁畳二枚をしく。中央に本人着座いたさせ、小介錯の内ひとり短刀を乗せ候|三方《さんぽう》持ち出し、本人の前に据え、本人三方を戴きおわって肩衣《かたぎぬ》の前、衣|領《〈料〉》領の左右を後ろへ脱し、着衣押しくつろげ、短刀を手に取り、脇肚《わきばら》へ突立つるを見て本介錯斬首いたし、検使見届けおわって右|屍《しかばね》の上へ青縁|席《むしろ》を覆い、取り片付けおき、裁判掛より親|属《〈族〉》等へ引き渡し申すべき旨達しこれあり、引き取り人相廻り次第受け書これを取り、引き渡し遣わし候事。  ただし、場所は囚獄内刑場。小介錯はふたり、本介錯はひとりにして、皆囚獄掛等外吏(別の役人)にて取り扱い候事。≫  福岡県庁は、懇切にも切腹式場の略図のほかに「自刃の節入用品」の一覧表まで添えてくれていた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  一、水|浅葱《あさぎ》無紋麻上下 一具  一、同色木綿時服 一重《ひとかさね》   一、木綿白|襦袢《じゆばん》 同  一、短刀|一振《ひとふり》 切先四、五分(約一・二〜一・五センチ)ほど出し、板に挟み、その上を糸をもって交結し、紙にてまく。  一、白木三方  一、青縁席一枚 本人着替えの節、筵《むしろ》の上へこれをしき、それより自尽済み、屍の上へ掛ける。  一、砂 五荷 およそ九尺(二・七メートル)四方に敷き、平《なら》す。  一、手桶、柄杓《ひしやく》とも 一組  一、琉球無縁畳二枚 右砂の中央にしく [#ここで字下げ終わり] [#地付き]以上   これらの指示に従い、刑獄寮の獄吏たちは判決言いわたし直後から切腹式場作りに懸命になった。  まず裏庭の一角を選び、竹矢来で囲んだ上に、高さ三尺になるまで土を搬入。竹矢来の内側にはびっしりと葭簀《よしず》を張りめぐらして、外からは一切見透かせないようにした。  さらにその竹矢来内側、よく突き固めた盛り土上の幅七間(一二・七メートル)、奥行き十五間(二七メートル)ほどの広さを白い幔幕《まんまく》で覆い、この中に切腹式場を設営した。その一方のはじに階段四段つき、能舞台のような検使たちの座る役所を建築。それから七間先に九尺四方に砂を敷きつめ、縁なしの琉球畳を二枚ずつ二ヵ所に置いて、切腹人を交互に招き入れられるようにしたのである。  しかし石川県は、ひとつだけ福岡県の助言を無視することにした。切腹の座へ差し出される三方には、本物の短刀ではなく木刀を載せることにしたのである。  こうしておくと、切腹人は実際に腹を切り裂くのではなく、三方へ手をのばしたところで首を打たれることになる。だが旧幕のころには三方に扇子を載せておき、 「扇腹」  と称したこともあったほどだから、別にこれは切腹の作法には反しない。  二日の半ドンの土曜日午後、三日の日曜日も費やして突貫工事をつづけた結果、この切腹式場はようやく四日月曜日の午前中に至って完成を見た。  この四日の午前中、本多弥一、矢野策平たち十二人は、獄舎の中で辞世を詠《よ》むのに余念がなかった。狭い窓からわずかに覗《のぞ》く空には北国特有の鈍色《にびいろ》の雲が低く垂れこめ、今にも泣き出さんばかりの空模様であったが、その冬景色を詠みこむゆとりを見せる者さえあった。  かれらの辞世とは、——。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  旭のさして重任《じゆうにん》をおろす雪の竹 [#地付き]本多 弥一     梓弓おもひいりにし道なれば嶮《けわ》しげなれどひきはかへさじ [#地付き]矢野 策平     染《そめ》しより時雨まつ身のもみぢ葉はくれなゐ洗ふけふの冬ぞら [#地付き]西村  熊     ちりてこそ赤きこゝろもあらはるれしげき梢《こずえ》にまとふ蔦《つた》の葉 [#地付き]鏑木勝喜知     深山木《みやまぎ》の梢に薄き紅葉してくもらぬ空に惜《をし》まずに散る [#地付き]富田  聡     照り曇りかすみし空のいと晴れて清く詠《なが》めん霜月のつき [#地付き]舟喜 鉄外     時雨《しぐ》るれば散るらんものとかねて知るもみぢ葉なれどなどか惜まん [#地付き]浅井弘五郎     君が為《た》め露の命を捨てゝたゞ名をば雲井に残しおきてん [#地付き]吉見亥三郎     降る雪をいとはで咲《さき》し梅の花ちりて薫りを四方《よも》に残さん [#地付き]芝木 喜内     冬に似ぬゆたかな浪に舟出して心うれしく漕《こ》ぎて行くなり [#地付き]広田嘉三郎     深山木の露にそめたるもみぢ葉の赤きにそみてあらはれにけり [#地付き]湯口藤九郎     いとゞしく時雨《しぐ》れてつもる雪なればをしまで消《きゆ》るけふの旭に [#地付き]藤江松三郎    [#ここで字下げ終わり]  紅葉や梅の花を詠んだ作が多いのは、かれらが一様に、これらのもつ色彩によっておのれの赤心を表現しようと考えたからである。  これに先立って富田聡は、一度は同志となりながらものちに離脱していった者たちを憫笑《びんしよう》し、左のような和歌をも詠んでいた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  一つらを別れて残る雁金《かりがね》は余れる餌をば食はん為にや [#ここで字下げ終わり]  石黒圭三郎の行方を探るべく、最初に東京をめざした山島紋蔵、村田|八十八《やそはち》、中野安平、それにつづいて東京へ出た山本浅之丞らのことを、富田聡は敵討《あだうち》成功後も士道に悖《もと》るやからと思いつづけていたのだった。     五  午後二時、すでに月代《さかやき》と髭《ひげ》とを剃《そ》って無紋水浅葱の麻裃《あさがみしも》に着更《きが》え、竹矢来の中に建てられた板囲いの長屋に入っていた十二人からは、まず本多弥一が呼び出しを受けた。  怒れば猛禽《もうきん》のそれのように光る両眼と長い顎《あご》を動かして同志たちを見まわした弥一は、最後まで大石内蔵助を手本としたのだろうか、 「お先に」  とだけ言い置いて、長屋を後にした。  次に呼ばれたのは、矢野策平であった。  幔幕の内に入り、二枚縫い合わせた琉球畳の上に正座した策平は、七間先の役所に蒼白《あおじろ》い顔をならべた検使たちを落着いて見据え、静かに肩衣を払って三方に右手をのばした。  しかしその本介錯は、緊張のあまり肩口に斬りつけてしまった。 「急《せ》いてはなるまいぞ」  策平はいささかも動ずることなく本介錯に声をかけ、悠然と第二打を受けた。  つづけて西村熊、鏑木勝喜知、富田聡、舟喜鉄外とすすみ、浅井弘五郎の番になった。ゆっくりと畳にあがった弘五郎は、立ったまま本介錯と小介錯ふたりに注文をつけた。 「それがしは藤江松三郎、芝木喜内の両君と、首を打たれたあともからだは倒れぬという約束を交わしております。それゆえ立ったままお造作に相なろうと存じますが、うまくまいりましたなら、どなたか両君にそれと耳打ちしては下さりませぬか。よし、とお伝えしてからお願いいたす」  何をする気か、と三人の介錯人が見守るうちに、弘五郎は右足を前、左足を背後に出して膝《ひざ》にゆとりを持たせ、上体を直立させて充分に腰を落とすという、居合の時とおなじ構えを取った。 「よし」  との合図によって、本介錯はその首筋に水平斬りを送りこむ。  だが、弘五郎のからだは動かなかった。首は消えても、その胴体はなおも大木の根株のように畳の上に直立しつづけていた。  この前代未聞の気迫を見せつけられて、介錯人と検使たちは一斉にどよめいた。  そのあと吉見亥三郎、湯口藤九郎をはさんで芝木喜内の番となり、広田嘉三郎の次の藤江松三郎が最後であった。五人は弘五郎の最期の模様を伝えられていたこともあり、いずれも従容《しようよう》として切腹の座に着いた。  十二人の遺体は、福岡県の指示に従って四日のうちに遺族たちに引きわたされることになっていた。刑獄寮へ詰めかけてきた喪服姿の遺族たちに対し、獄吏たちは柩《ひつぎ》の蓋《ふた》をあけて血染めの遺体をひとつひとつ確認させてから受領させた。  ところが、——。  すでに日も落ちてから若い者に手を引かれ、みずからは杖《つえ》をついてあらわれ、 「芝木喜内の母でござります」  と名乗った老婦人は、完全に盲《めし》いていた。  やむなく獄吏のひとりが柩の蓋を外さずそのかたわらに案内すると、白髪髷《しらがまげ》の喜内の老母は筋張った両手で柩を愛しそうに撫《な》でさすりながら呼びかけた。 「ああ、喜内よ。よくも御主人さまの仇を討ってくれたのう。そなたこそまことの忠臣じゃ、いや義士じゃ。そなたが敵討に加わってくれたからこそ本多家に御恩返しすることもでき、御先祖さまにも面目が立ったというものじゃ。  それに、そなたがこの盲いた母にうしろ髪を引かれなかったことが、なによりもうれしゅうてならぬ。早う冥土《めいど》のお父上のもとへゆき、事の次第を告げなされ」  このことばを聞いた獄吏とほかの十一人の遺族たちは、寂《せき》として声もなく喜内の老母を見つめつづけた。  この日から本多弥一たち十二人は、誰からともなく、 「十二烈士」  と呼ばれるようになっていった。  しかしこのほかにもうひとり、隠れたる烈士ともいうべき男がいた。元本多家中小将組のひとり、竹下|卯三郎《うさぶろう》である。  昨明治四年二月十四日に山辺沖太郎、井口義平の両名が切腹刑に処されてしばらくしたころ、卯三郎は本多弥一邸を訪れて、 「本多さまがなおも敵討を考えておいでならば、どうか、どうかわたくしめもその同志に加えて下さりませ」  と決死の面持で頼みこんだことがあった。  その時弥一は、卯三郎が旧本多家家臣の養子となって日が浅いため、どのような心情の持ち主なのかよくわからないと考え、蕩児《とうじ》を装ってその願いを聞き入れなかった。  だが弥一たちの死から丸一日と経たないうちに、卯三郎の真率な思いは金沢中に知られることになる。  弥一たち十二人の遺体は、四日夜は本多町のうちにあるそれぞれの自宅へ帰って通夜を営まれ、そのあと船底山大乗寺の本多宗家の墓域の隣りに葬られることになっていた。  本多宗家は、政均の横死以来、一貫して敵討を不可とする立場を取りつづけてきた。だがその敵討が成功し、弥一たち十五人が義士と称《たた》えられるようになった時から、主家を思うあまりこの挙に及んだ十五人に対し、深く感謝するところがあったのである。  明けて五日の早朝から、本多宗家は大乗寺に人をやって墓掘りその他の作業を進めさせようとした。  しかし、その最初の一組が松や杉の巨木の繁る大乗寺の門前に近づいた時、その左手にある本多家墓所の方角からあらわれてこれに鉢合わせしたふたりの士族がいた。和装に大小を帯びているそのうちのひとりは、やってきたのが本多家の者たちと知ると沈鬱《ちんうつ》な表情で一揖《いちゆう》して告げた。 「それがしは進藤珍次郎、これなるは河合|八十之助《やそのすけ》と申す。われらが友人竹下卯三郎儀、ただいま十二烈士に殉ずべく従五位さまの墓前にてみごとに切腹いたしましたにより、河合に介添えを頼み、それがしが介錯をいたしてまいりました。この段、本多家によろしくお伝え下されたい」  これを聞いた者たちは急ぎ本多家墓所に通じる木戸をあけて、本多家歴代の墓標のうちでもひときわ大きい政均の墓石をめざした。  するとその墓前には麻裃を着用した卯三郎の遺体が、切断された頭部と首とを柄杓《ひしやく》の柄で継がれ、筵《むしろ》をかけられて仰向けに横たわっていた。義士の血盟に加われなかったことを終生の遺憾とした卯三郎は、十二烈士に負けじと追腹《おいばら》を切ることによって誠忠の証《あか》しを立てたのである。  以下は蛇足だが、——。  筆者は第四章において、明治四年の三月から五月にかけて矢野策平宅に投げ文をした者がいたことに言及した。この敵討一件を伝える最重要資料『加賀本多家義士録』に拠《よ》ったものだが、その投げ文の三通目には左のようなくだりがふくまれていたのだった。 [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ] ≪   菅野輔吉極悪人 [#ここで字下げ終わり]  これを願い上げたてまつる。討って下され。我はその日に自害を致して成仏致す。 [#地付き]≫  筆跡は女のもので、あまりに拙《つたな》い文章であったが、敵討をしてくれれば自分も自害して本多政均ないし矢野策平の後を追うと宣言していることから見て、これは竹下卯三郎があえて女の筆跡と見せかけて投げ入れたものだったように思われてならない。  いずれにしてもこうしてかれは、旧臘《きゆうろう》のうちに横浜大田陣屋で屠腹《とふく》した諏訪八郎につづく、第二の殉死者となったのだった。     六  明治六年二月七日、太政官政府が布達した「御布告書」にいう。 ≪人を殺すは、国家の大禁にして、人を殺す者を罰するは、政府の公権に候ところ、古来より父兄の為に讐《しゆう》を復するをもって、子弟の義務となすの風習あり、右は至情止むを得ざるに出るといえども畢竟《ひつきよう》私憤をもって大禁を破り、私義をもって公権を犯す者にして、もとより擅殺《せんさつ》(ほしいままに殺す)の罪を免れず、しかのみならず、甚《はなはだ》しきに至りては、その事の故誤(故意と錯誤)を問わず、その理の当否を顧みず、復讐の名義を挟み濫《みだ》りに搆害《こうがい》(おとしいれる)するの弊、往々これあり、甚だもって相済まざる事に候、これによりて復讐厳禁仰せ出され候条、今後不幸|至親《ししん》(肉親)を害せられる者これあるにおいては、事実を詳《つまびらか》にし、速《すみやか》にその筋へ訴え出るべく候、もしその儀なく、旧習に泥《なず》み、擅殺するにおいては、相当の罪科に処すべく候条、心得違いこれなきよう致すべき事≫  世に、 「敵討《あだうち》禁止令」  といわれるものがこれである。  明治五年という年は、それまでの太陰暦から太陽暦への切り換えのため、十二月三日をもって明治六年とされたことで知られる。これを計算に入れれば、右の敵討禁止令は、本多弥一たち十二人の切腹から実質わずか二ヵ月あまりののちに発布されたことになる。  これを逆から見れば、 「第二の忠臣蔵」 「加賀の忠臣蔵」  ともいわれたこの敵討こそが、政府に復讐厳禁の法律化を急がせた唯一最大の原因だった、ということである。  明治四年十一月に金沢市中の二ヵ所と近江長浜とでほぼ同時に決行された本多家義士たちの敵討は、こうして日本敵討史の掉尾《とうび》を飾る出来事となったのだった。   なお、かろうじて弥一とその同志たちの追求を躱《かわ》した石黒圭三郎は、長く関西方面に潜伏。事件のほとぼりもさめてから桂正道と名を変えて金沢に帰り、金沢学校の教員となった。だがほどなく退職して他国へ去り、ふたたび帰国して病死したという。  その生活ぶりや死亡年月日を記した史料が見当たらないのは、かれが金沢市民から白眼視されつつ後半生を送ったことを示すのであろうか。  対して、この挙に加わりながらも切腹を免れた三人については、若干の事実が伝えられている。  敵討当日、菅野輔吉邸の門前にあって助太刀到来に備えていた清水金三郎は、禁錮《きんこ》十年を宣告されたものの減刑されて明治十一年二月十四日に出獄。本多宗家に雇い入れられたが、二十九年三月十一日に至って病死した。享年四十九。  石黒を追って東京へ出た島田伴十郎は、三年間の刑期をつとめ上げて出獄したあと小学校教員となり、二十七年三月に没した。享年五十七。  かれと行を共にし、やはり三年の刑期をつとめ上げた上田一二三は、その後は十二烈士の墓所に詣で、黙祷《もくとう》とその清掃のみを心がけつづけて三十年七月に死亡した。享年六十六。  辞世が今に伝わっている。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  田上野に生《はえ》しすゝきのうへに置《おく》露の身ながら消《きえ》てをしまぬ [#ここで字下げ終わり]  田上村の農家の出身だったかれは、武士として同志たちの血盟に参加できたことを生涯の誇りとしていたのであろう。  今日、大乗寺門前の本多家墓所に通ずる参道の左脇には、杉木立に囲まれて弥一たち十二人の墓碑が一列に並び、その手前には、 「日本最後の仇討ち/十二義士の墓この奥にあり」  と刻まれた石柱が建てられている。  そして十二の墓列のはじには、やや小ぶりながら右三人の墓ともうひとつの墓とが並んで苔《こけ》むしている。このもうひとつとは、いうまでもなく竹下卯三郎の墓である。  忠臣蔵劇は今日もさかんに上演、上映され、赤穂浪士の物語に新解釈を加えたと称する通俗読物も途切れることなく書きつがれている。  それにくらべてこの「第二の忠臣蔵」「加賀の忠臣蔵」が、地元金沢においてさえもはや知る人ぞ知る出来事となってしまったのはなぜなのだろうか。  今年平成七年(一九九五)は、明治も四年目となってもなおかつ武士道の発現にこだわりつづけたかれらが本懐を遂げてから、百二十四年目にあたる。 [#改ページ]  あとがき  五冊目の短編集『眉山は哭く』(文藝春秋刊)を上梓《じようし》したところ、「オール讀物」編集部から著者インタビューを求められました。そこで私は、次のように答えました。 「幕末と明治を隔絶した時代のように考えている人がいますが、そうではありません。明治は幕末期に起きた出来事のある結果なのです」(「ブックトーク」「オール讀物」九五年四月号)  その後、本作執筆のため金沢へ取材旅行に出かけたところ、今度は地元紙から執筆意図を問われたので、こう答えました。 「『あだ討ちもの』は、日本(人)の民族性に合うんでしょうか。盛んに小説化や映画化がされている。その中で、この事件は、しっかり記録が残っているにもかかわらず、意外と知られていない。これなら書く意味がある」「文明開化の時代にも、まだ武家のモラルが残っていたことがよく分かる」 (「北國新聞」九五年四月六日付)  以上のコメントから私の歴史観、歴史小説観をお汲《く》み取りいただければ幸いですが、「しっかり記録が残っている」というのは、金沢市立図書館蔵の『加賀本多家義士録』を差しています。作中には虚構の人物やあえて実名を採らなかった人物、私の創作したプロットもふくまれているものの、本作は「歴史そのまま」の姿をめざし、おおむねこの最良の資料の記述に従った作柄になっています。そのことをお断りするとともに、同書の編纂《へんさん》者と発行元とに深甚なる敬意を表したいと思います。    主要参考資料 渋谷元良編纂『加賀本多家義士録』(葵園会) 『石川縣史』第二編・第四編 戸水信義「本多政均暗殺顛末」(『史談会速記録』第五十六輯、原書房復刻) 同「加州藩本多政均君国事に尽力せられし事実」(同、第七十二輯、同) 同「本多家殉難十七士略伝」(同、第二百六十四〜二百六十五輯、同) 『殉難余話 苔之碑』(石川県立歴史博物館蔵、未翻刻) 石川県「元福岡藩自裁問合書」(石川県立図書館蔵、未翻刻) 『近江長浜町志』第三巻、本編下(臨川書店)    取材協力者(五十音順・敬称略) 安宅夏夫(詩人、文芸評論家) 亀田康範(石川県立歴史博物館副館長)    平成七年(一九九五)初秋 [#地付き]中村 彰彦 角川文庫『明治忠臣蔵』平成14年3月25日初版発行