[#表紙(表紙.jpg)] 恋形見 中村彰彦 目 次  恋形見《こいがたみ》  間諜《かんちよう》許すまじ  眉山《びざん》は哭《な》く  明治四年黒谷の私闘   参考資料 [#改ページ]    恋形見《こいがたみ》      一  上総《かずさ》飯野藩二万石の第九代藩主|保科弾正忠正丕《ほしなだんじようのちゆうまさもと》が、三十二歳になった天保《てんぽう》三年(一八三二)のことである。  十二月十三日、その側室お民の方二十一歳が、麻布新堀の江戸上屋敷の内で玉のような女の子を出産した。保科正丕には二男二女を誕生後まもなく喪《うしな》ってしまった苦い経験があったから、 「姫さまはよく乳を吸い、よく眠って、泣き声もことのほか大きゅうございます」  と報じられた時には安堵《あんど》の胸を撫《な》で下ろした。  お民の方はまた、翌年には男の子を産み落とした。幼名、咸六郎《かんろくろう》。のち飯野保科家第十代藩主となる正益《まさあり》である。  咸六郎が三、四歳までは多病の質でどこまで育つか危ぶまれたのに対し、照子と名づけられ、 「照姫さま」  と呼ばれることになった女の子の方は、いとけなくして聡明《そうめい》な頭脳の持主であることを明らかにした。  習字を教えられた照姫は、たちまち上達して守役《もりやく》の者たちを一驚させた。六歳の時に書いた文字はすでに習字の域にとどまらず、ひとかどの書というべき水準に達していたのである。  このころになるともう『百人一首』をことごとく諳《そら》んずることができたし、茶道、香道、花道、礼法など何を学んでも天稟《てんぴん》を感じさせた。ことに好んだのは敷島の道で、弾琴吹笛《だんきんすいてき》がこれにつづいたため、 「『源氏物語』の紫上《むらさきのうえ》が若紫と呼ばれていたころは、きっと照姫さまのようだったに違いありません」  という者さえあった。  しかし照姫が生母お民の方や父保科正丕、その正室お鋭《とし》の方のみならず周囲の誰からも好かれたのは、このような才質のためばかりではなかった。たおやかなうりざね顔に気品ある目鼻立ちをして黒髪豊かな照姫は、草花や生物を愛《め》でる類《たぐい》なくやさしい気性の持主でもあったのである。  上総|周准郡《すえごおり》飯野村にある飯野陣屋でのびやかな日々を過ごしていた、九歳の時のことであった。  お付きの中老滝尾、女小姓のおみつ[#「おみつ」に傍点]とおりせ[#「おりせ」に傍点]の三人を従えて馬丁葉椎《まてばしい》の垣根に囲まれた陣屋の外に散策に出た振袖《ふりそで》姿の照姫は、その一重堀に釣糸を垂らしている藩士の姿に気づいた。  よく肥えたこの男は、北辰一刀流千葉周作の四天王のひとりとして世に知られ、飯野藩剣術師範に採り立てられている森要蔵であった。 「要蔵や、このお堀では何が釣れるのかえ」  つややかな髪を吹輪《ふきわ》に結い、鼈甲《べつこう》の花笄《はなこうがい》と簪《かんざし》をつけた照姫がその簪を揺らすようにして訊《たず》ねると、 「はい、お姫《ひい》さま」  要蔵は小腰をかがめ、魚籠《びく》を示しながら答えた。 「ここには、このように大きなフナやハヤがたんと泳いでいるのでございます」 「それを釣って、どうするのかえ」 「はい、拙者めは酒が大好きでござりますから、七輪で焙《あぶ》って酒の肴《さかな》にするのでございます」 「まあ」  まだあどけない顔をした照姫は、可愛らしい二重瞼《ふたかわめ》を瞠《みは》って絶句してしまった。それから気を取り直し、きっぱりと命じた。 「要蔵や、それはなりませぬぞ。お堀の魚は誰もお膳《ぜん》に乗せぬでしょう。飯野藩の者なら、もっと衆生《しゆじよう》を哀れみなさい」 「はい、これはお姫さまの仰せのとおりでした」  と要蔵は答え、以後ぷっつりと釣りをやめたのだった。  このような照姫の人となりは、いつしか諸大名家のあまねく知るところとなっていった。  やがて、照姫を養女に迎えたいという大名があらわれた。会津《あいづ》藩二十三万石の第八代藩主松平|肥後守容敬《ひごのかみかたたか》。  会津松平家は徳川二代将軍秀忠の庶子保科肥後守正之に始まるのに対し、飯野保科家はその義弟保科弾正忠正貞によって立藩されている。すなわち会津松平家と飯野保科家は本家と末家の関係にある上に、松平容敬は、 ≪天朝を尊び幕府を重んじて、親戚《しんせき》に睦《むつま》じく毫《ごう》も一身の安逸を欲するなし≫  といわれる名君であった。  実子に恵まれないこの名君に養われるならば、二万石の家に生まれた照姫はやがて迎えられるであろう養子の君の正室となり、大藩会津二十三万石の奥向きを束ねることになる。照姫にとってはこれこそ玉の輿《こし》というものであろうと考えて、正丕は容敬の申し出を受け入れることにした。  照姫が中老滝尾、お次のおたせ[#「おたせ」に傍点]、女小姓のおみつ[#「おみつ」に傍点]とおりせ[#「おりせ」に傍点]、そして新たに召し抱えられたもうひとりの女小姓おこう[#「おこう」に傍点]らを従えて和田倉門内の会津藩江戸上屋敷に移っていったのは、天保十二年(一八四一)の春の盛りのこと。照姫は時に十歳、養父容敬は三十六歳であった。  照姫はその後まもなく数奇な人生を歩むことになるのだが、今筆者の手もとには、その最期の日まで側につかえたおこう[#「おこう」に傍点]の著した『思ひ出塚』という回想録の写本がある。  体裁は縦横二十四・二×十六・五センチの袋綴《ふくろと》じ装。表紙は厚手の楮《こうぞ》紙で中央に題書きし、その後に遊紙二丁、次の一丁の表に、表紙に漢字仮名混じりで書かれた表題を、 「おもひてつか」  と平仮名で再度記して内題としている。  その後に墨付き本文三十丁、遊紙一丁があり、裏表紙は表紙と同じ厚手の楮紙である。  以下この『思ひ出塚』の文章表現をなるべく生かしながら現代語訳することにより、照姫のはかない生涯をたどってゆくことにする。      二  花のようにお美しくお心ばえも優にやさしき照姫さまは申すまでもなく、お付きの皆さまよりも顔かたちから氏素姓まで数等品下がります飯野の野づら育ちのわたくしが、十八歳にして照姫さまの女小姓に召し出されましたのはいかなる次第でしたろうか。  あるいは父が郷士にお採り立ていただいておりました御縁で、時々|国許《くにもと》へ顔をお出しになる森要蔵先生に弟子入りを許され、薙刀《なぎなた》術と鎖鎌術とを併せ修めていたためかも知れません。  四両二人|扶持《ぶち》をいただく身となり、会津藩上屋敷の奥にお供いたしましてからも、わたくしは麻布永坂にある森先生の撃剣道場へ通うことをお許しいただき、照姫さまをお守りすべく研鑽《けんさん》おさおさ怠らぬ月日を過ごしたのでございました。  その後まもなくお中老の滝尾さまがわたくしどもをお局《つぼね》に招き入れ、 「これはまだ口外してはならぬことなれど、そなたたちには特に申し聞かせておくほどにそのつもりで聞きや」  と口迅《くちど》におっしゃり、白地半模様のおかいどりを羽織った上体をかがめ、下げ髪を揺らしながら教えて下さいましたのは、御養父肥後守さまが照姫さまを妻合《めあ》わせようとしているお相手のことでした。そのお方は美濃高須藩三万石のお殿さま、松平|摂津守義建《せつつのかみよしたつ》さまの御六男の|之允《けいのすけ》さまだというのです。  肥後守さまは高須藩の先代|中務大輔義和《なかつかさたいふよしのり》さまのお胤《たね》とうけたまわりましたから、之允さまにとっては叔父上《おじうえ》さまでござります。  之允さまは、おりおり四谷伊賀町のお屋敷から肥後守さまのもとへ御機嫌うかがいにお越しになり、御正室のお厚の方さまに御挨拶《ごあいさつ》あそばされるため奥へお運びになることもございましたから、照姫さまはもとよりわたくしどももよく存じ上げておりました。  允さまは、当時七歳。照姫さまより三歳年下でいらっしゃいましたが、まだ前髪立てのかんばせは色白で目許《めもと》涼しく鼻筋が通り、この世のものとも思えぬ気品を湛《たた》えておいでです。そのため腰替り振袖の熨斗目《のしめ》姿の之允さまがたまさか照姫さまのお部屋にお立ち寄りになり、貝合わせをしてお帰りになったあとなど奥の者たちの間では、 「いずれ元服なされれば、どんな美丈夫におなりやら」  といった話にひとしきり花が咲くことでした。  そのころわたくしは、照姫さまのおん前にて大変なしくじりを犯したことがございます。お付きの者たちがまたぞろ之允さまの凛々《りり》しさを口々にたたえ、 「ねえ、おこう[#「おこう」に傍点]さん」  と相槌《あいづち》を求められました時、わたくしはついうっかりとこう答えてしまったのでした。 「ほんにあの若さまが当家に御養子入りあそばされますならば、お姫さまとお雛《ひな》さまのような御夫婦になられましょう」 「これ」  とわたくしは同席しておいでだった滝尾さまに目で叱られ、あわてて口をつぐみましたがもう遅きに失しておりました。一の間からわたくしどものやりとりをほほえみながら聞いておいでだった照姫さまは、紅葉を散らしたように花のかんばせをお染めになり、急にうつむいてしまわれたのです。  まだ十一歳になられたばかりではございましたが、照姫さまはまことに聡《さと》いお方でいらっしゃいます。御自身が会津松平家の御養女となったのは、いずれ定められる御養子と夫婦《めおと》となって松平家を支えるためと、もうそのころからお分りになっておいでだったのでござりましょう。  そのお相手は之允さま——野づら育ちで思ったことを隠しておけないわたくしは、はしなくも照姫さまにさようお伝えする役を果たしてしまったのでした。  たしか『伊勢物語』のうちに、かような歌がございました。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  くらべこし振分髪《ふりわけがみ》も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき [#ここで字下げ終わり]  この時照姫さまは、この歌のように御身《おんみ》がどなたの妻となるべき定めなのかということにはっきりとお気づきになったようでした。と申しますのも、これ以降之允さまがまたお越しになり、 「貝合わせのお相手をいたしましょうか」  と無邪気な口調でおっしゃいますたびに、わたくしは照姫さまの吹輪の髷《まげ》になかば隠れたお耳が桜色に染まることに気づいたからでござります。  それにしても人の世の定めと申すものは、何と皮肉にできているのでございましょうか。照姫さまの初々しいこの恋は、ついに稔《みの》ることなくおわってしまうことになったのでした。  そのそもそものきっかけは、天保十四年(一八四三)も暮れませぬうちに肥後守さまの側室のおひとりお須賀の方さまが、敏姫さまを御出産あそばされたことでした。  肥後守さまはこれ以前もこれ以降も、おんみずから望んで御養女になされたお方ゆえ照姫さまを大切にもて扱っては下さいましたが、実のお胤《たね》のお姫さまがお生まれになれば、お心がそちらに向きますのは是非もなきこと。いつしか之允さまを夫《せ》の君としてお迎えするのは照姫さまではなく敏姫さまと定められたらしく、肥後守さまは、この年のうちに之允さまを仮養子となされたのでした。  この之允さま改め容保《かたもり》さまがいよいよ正式に御養子として会津藩上屋敷に迎えられましたのは、それから三年を閲《けみ》しました弘化《こうか》三年(一八四六)六月十一日のこと。時に照姫さま十五歳、容保さま十二歳、敏姫さまはまだ四歳でござりました。  肥後守さまはこのお三方を分け隔てなくお育てになりましたが、おなじお子同士とは申せ四歳の敏姫さまではお遊びのお相手にもなりにくうございます。自然、かねてより気心の知れている照姫さまと容保さまとがさらに仲良くなられ、時には三十一文字《みそひともじ》をやりとりするようにすらなられたのでした。  あれはいつのことでしたろうか、容保さまが明日お里帰りなさるおついでに紅葉狩りあそばされるという日に、照姫さまが、 「つと(土産)をかならず」  とおねだりされたことがございます。 「うむ、きっと忘れまいぞ」  とお答え下さった容保さまから翌日届けられましたのは、鮮やかに紅葉したひと枝でございました。  これを御覧じてにっこりなさった照姫さまは、早速|文机《ふづくえ》に向かわれますと、 「容保君のあすなん四谷の御還《おかえり》に紅葉見に行《ゆか》せ給ふ心まうけのいとゆかしく思ひて、かへるさには、つとをかならずなど契り参らせしに、たがはでいとこくそめしたる一枝を言《こと》のはからおこせ給へるがうれしく、とる手にも袖《そで》にも移るここちして」  とことのほか長い詞書《ことばがき》をして、こうお詠みになったことでした。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  みこころのあかきほどにや紅葉《もみじば》のいろもちしほにみゆる一枝 [#ここで字下げ終わり]  この前後に滝尾さまからお聞きしたところによれば、肥後守さまにはいったん容保さまの御正室には敏姫さまを、ととにもかくにも思《おぼ》し召されましたものの、その後またお考えが揺らぎつつあるらしいとのことでした。  まことにおいたわしいことながら、敏姫さまは生まれつき蒲柳《ほりゆう》の質にて、どこまでお育ちになるか少々心もとないところがございました。それゆえ肥後守さまにも、 (やはり照姫を妻合わせる方がよいのか)  とのお迷いが生じたのでござりましょう。  さような肥後守さまのお心の揺れを知ってか知らずか、容保さまにあててかような水茎の跡うるわしき歌をお贈りあそばされる照姫さまのお側近くにおつかえしておりますと、わたくしのような卑しき者の胸にも、 (何としても、照姫さまにお幸せになっていただきたい)  という思いが噴きこぼれてくるのでございました。  ですが敏姫さまにはその後はさして病の床に臥《ふ》せることもなくおすこやかにお育ちになり、嘉永《かえい》元年(一八四八)で六歳になられました。  この年照姫さまは十七歳、容保さまは十四歳。容保さまはともかくも、照姫さまが他家にお輿入《こしい》れなさるのであればもう急がねばならぬお年頃です。  肥後守さまも、下世話に申せばこれ以上照姫さまと敏姫さまとを秤《はかり》にかけてはおられぬと思し召したのでござりましょう。とうとう照姫さまを他家に嫁がせることを御決意あそばされました。照姫さまは、豊前《ぶぜん》中津藩十万石の藩主であらせられる奥平大膳大夫昌服《おくだいらだいぜんだゆうまさもと》さま十八歳のおんもとへお輿入れすることに定められたのです。  その御婚礼が木挽町《こびきちよう》潮留橋東の中津藩江戸上屋敷でとりおこなわれましたのは、あけて嘉永二年(一八四九)閏《うるう》四月二日のこと。むろん照姫さま付きのお中老滝尾さまをはじめ、お次のおたせ[#「おたせ」に傍点]さん、女小姓のおみつ[#「おみつ」に傍点]さん、おりせ[#「おりせ」に傍点]さん、そしてわたくしもこれに伴いまして八年間住み慣れました会津藩上屋敷にお別れいたし、中津藩上屋敷の奥御殿に住まう身となったのでした。      三  これに先立ちまして肥後守さまは、照姫さまに大名家の奥を統《す》べる心がまえを懇々と説いておられました。  書き忘れておりましたが、照姫さまはお輿入れの前の年に御実父保科正丕さまを喪わせられ、その後の飯野藩保科家の御家督は御実弟の正益さまが相続しておいででした。肥後守さまはまだ十六歳の正益さまの後見役でもいらっしゃいましたから、照姫さまにおかれましても、肥後守さまの御意《ぎよい》に違《たが》うことなどは夢にも考え及ばぬことであったかと存じます。  ただしそれから数十年を経た今日になって顧《かえり》みますと、わたくしどもお付きの者たちはこのころ少々浮かれ者のようにはしゃいでおりまして、照姫さまのみ胸のうちをお察し申し上げることがあまりに少なすぎたかも知れません。  御婚儀に先立ち、肥後守さまが照姫さまのおためにあつらえて下さいましたのは、御婚礼用の白無垢《しろむく》羽二重はいわずもがな、紅の地に金糸銀糸で百華絵図を縫い取りましたお振袖、四季の花図や波頭《なみがしら》に華紋あるいは染めわけ松に藤京友禅の小袖や黒留袖、色留袖、紅裏《もみうら》のおかいどりなど、衣桁《いこう》に掛けられておりますのを拝見しているだけで頭がくらくらしてくるほど豪奢《ごうしや》なお召し物ばかりでございました。  のみならず諸道具をおさめた黒うるし塗りの長持や両掛の数々には、松平家の御家紋会津|葵《あおい》と奥平家の御家紋丸に立ち沢瀉《おもだか》とがかならずどこかに散らされておりましたし、 「表道具七品」  といわれます長柄《ながえ》、薙刀、女駕籠《おんなかご》、挟箱《はさみばこ》、お茶弁当、お煙草盆、薬用|茶碗《ぢやわん》には、やはり会津葵が金|蒔絵《まきえ》でほどこされておりました。  これらのお道具類に囲まれて佳《よ》き日を指折りかぞえておりますうちに、いと恥ずかしきことながら、いつかわたくしどもまでおのが嫁ぐ日を迎えたような心地に染まり、照姫さまがどのようなお気持でお輿入れなさるかということにはとんと気がまわらなくなっていたのでした。  奥平家の奥に移りましてからも一同まだしばらくは浮き浮きしておりまして、話し合うことと申せば、 「やはりこれも、会津二十三万石の格式によればこそのこと。飯野二万石からのお輿入れでは、とてもこう豪奢にはまいりませなんだ」 「大膳大夫さまも、御家中に照姫さまを向後《きようこう》は『御前さま』、この奥のことは『お東御殿』とお呼びするようにと触れ出されました由。御側室を置いたこともないとうけたまわりましたから、きっとお姫《ひい》さまを大切にして下さることでしょう」  などということばかりなのでした。  大膳大夫さまは、のち明治の御世《みよ》になりましてから啓蒙《けいもう》思想家として驥足《きそく》を展《の》ばす福沢諭吉さまに邸内に蘭学塾をひらくことをお許しになるなど、英邁《えいまい》な御気質にあらせられました。奥にもさほど夜離《よが》れすることなくおわたりになり、おふたりして朝餉《あさげ》のお膳《ぜん》に向かわれることも珍しくはござりませんでしたから、わたくしどもはいつしか和子《わこ》さまの御誕生を心待ちするようにすらなったのでした。  ですが三年目に飛びこんでまいりましたのは、さような吉報ではなく凶報だったのでござります。嘉永五年(一八五二)二月十日、そのひと月前より御不例となっておいででした肥後守さまが、おん年四十七歳にして御他界あそばされたのでした。  その三日前に会津松平家の相続を許されておりました容保さまは、閏二月には肥後守さまとなられ、十二月には左近衛権《さこんえごんの》少将に任じられました。  とは申せ、容保さまは十八歳、敏姫さまはまだ十歳なのでござります。申すもはばかりあることながら、このころから照姫さまは、まだお年若の容保さまがどのように二十三万石の御家中を統べてゆかれるのかということを、しきりにお気遣いあそばされるようになりました。そのお心の奥には、 (十歳の敏姫さまでは、もしこれよりただちに容保さまとの御婚礼を済まされたにせよ、とてもお力にはなれますまい)  との思いがひそんでいたのではありますまいか。  このころから照姫さまは、わたくしを使いとして容保さまへよく和歌をお贈りあそばされるようになりました。それは多分、お慰めやお励ましの歌でしたろうが、その歌柄まで存じ上げてはおりません。  ただし一度だけ、そのお歌を見せていただいたことがございます。 「少将さまへ、これを」  とおっしゃって短冊をわたくしの膝前《ひざまえ》にすべらせましたあと、 「かような詠みぶりで失礼には当たらぬでしょうか」  とお訊ねになりますので一揖《いちゆう》して拝見いたしますと、 「十あまり九のとせにあたり給へるむ月を給ふをいはひ参らせて」  と詞書し、細文字でこう書かれていたのでした。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  けふよりは君がもとぞと庭の松みどりの枝葉さしかさぬらん [#ここで字下げ終わり]  歌心などとんと持ち合わせませぬわたくしにも、落着いて拝見いたしますならば、あらたまの年を迎えての寿《ことほ》ぎの歌として大変素直な詠みぶりであることが感じられたことでしょう。ところが、なぜかこの時わたくしは、 「けふよりは君がもとぞと」  と上の句を口中に誦《ずん》じただけで、はっとしてしまい、ほんの一瞬の間ながら、 (ああ、照姫さまは容保さまのおんもとへお帰りになるおつもりなのか)  と思いこんでいたのでした。 「どうしましたか」  と照姫さまのお声がしたのでようやく我に返り、へどもどいたしながらも何とかその場を取り繕うことができたのですが、あの時どうしてわたくしは、たとえ一瞬なりともそう思いこんでしまったのでしょうか。  それはともかくこの嘉永六年(一八五三)という年は、次第に物情騒然として末法の世もかくやと思われるほどの明け暮れとなっていったのでした。六月にアメリカ国のペルリとか申す将軍が黒船をひきいて浦賀に突然あらわれましたことから、いついくさとなるか分らぬ事態と相なったのでござります。  会津松平家におきましても幕府の求めに応じて江戸湾に軍船《いくさぶね》を出しましたほか、房総の地へ藩の士卒を派遣いたしましたり品川のお台場の管守を受け持たれたり、はたまた駒場野で士卒一千余による大調練をおこなったりと、まことに慌しい日々を迎えることになったのでした。  さような泡立つがごとき月日を送りますうちに、やがてわたくしは、 「けふよりは君がもとぞと」  ということのはを拝見した時にゆえなく感じたところが、まんざら勝手な思いこみではなかった、と改めて思う日を迎えたのでござります。嘉永七年(一八五四)五月、照姫さまはおんみずからのたっての願いにより、奥平家を去って会津松平家へもどることになったのでした。  その間、夫《せ》の君たる大膳大夫さまと照姫さまとがいかようなやりとりをなされたのかは、わたくしごときの知るところではございません。けれど滝尾さまがことば少なにおっしゃったところによれば、 「お姫さまはゆえあって奥平家を去ることになさいましたが、それはお殿さまがお嫌いなのでもお殿さまに嫌われたのでもありません。家風が合わなかったのでもありませんから、そなたたちも余計なことを考えてはなりませぬぞえ」  とのことでした。  思うに照姫さまは、この国難の時代に養家の会津松平家がどう立ちゆくのか、それが御心配でならず、ひいては初恋のお相手でもあり夫の君となられても不思議ではなかった容保さま、いえ肥後守さまの御身を案じられるあまりに、あえて大膳大夫さまとの婚姻を解消なされたのではありますまいか。  そして驚くべきことに、照姫さまのかような秘めたる想いをおなじ女子《おなご》の身としていち早く察知なされたのは、ようやく十三歳におなりになったばかりの敏姫さまであったのです。      四  すでに書きましたように、照姫さまは奥平家の奥にまします間にも、肥後守さまに贈歌をなさることが珍しくはございませんでした。時にお里帰りし、肥後守さま、敏姫さまとお物語や歌合わせをなさることもありましたが、嘉永六年(一八五三)の春にお里帰りなされました時、十一歳の敏姫さまは求められてこうお詠みになったことでした。  春懐旧 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  青柳の糸くりかへしこの春も去年《こぞ》のなげきにむすぼほれつつ [#ここで字下げ終わり]  会津二十三万石のお姫さまとして何不自由なく大切に育てられた敏姫さま、しかもまだ十一歳の敏姫さまが、一体何をかくも嘆き哀しまれていたのでしょうか。  わたくしは、今にして思うのでございます。肉薄くお気弱な質の敏姫さまにとって、緑の黒髪をみずみずしき島田髷に結い上げ、江戸紫の小袖に茄子紺本繻子《なすこんほんじゆす》の帯を胸高にお締めになって肥後守さまと貴《あて》なる風情で物語なされる十一歳年上の照姫さまは、そのお美しさと茶道、香道、花道、礼法その他に通じておいでのこととが相まって、 (自分などは、とても及びもつかぬお方)  と映っていた。身の置きどころなきその思いが、かような嘆きの歌となってあらわれたのではありますまいか。  他家の御正室と分っていてさえそうお感じだったのですから、照姫さまが上屋敷にお帰りあそばされましたあと、敏姫さまがますますおつらく感じられたとしても不思議ではございません。  それかあらぬか敏姫さまは、その後かような哀しき歌をも詠まれたのでした。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  しらでただあらましものをうきこととたがをしへてかなげき初《そめ》けん [#ここで字下げ終わり]  ですが聡明この上なき照姫さまが、御身のゆえにこそ日ごとに深くなりまさるかのごとき敏姫さまのお嘆きに、気づかぬはずとてござりませんでした。  あれは安政《あんせい》二年(一八五五)十月二日のこと、江戸は町家一万四千三百余戸が焼失し、死者四千有余人を出すという、いわゆる安政の大地震に見舞われました。会津松平家におきましても、和田倉御門内の上屋敷、芝三田の下屋敷のうちに甍《いらか》を並べるあまたの殿舎を倒壊させ、あたら百六十五人の御家中の方々を圧死させてしまったのでござります。  これを機に芝新銭座の中屋敷に移られた照姫さまは、まもなく肥後守さまのお許しを得てほど近い海の見ゆる場所に高殿を建てていただき、わたくしども古参のお付きの者のみを従えてこちらに暮らすことになされたのでした。  はしなくも敏姫さまのお心を傷つけまいらせたことがおつらかったのでしょうか、このころから照姫さまは歌題にも人事を採らず、高殿の欄《おばしま》にお凭《よ》りになっては飽かず海面《うなも》をうち眺め、叙景の歌のみを詠むようになられました。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  浜まつのみどりのかげにこがくれてみるめをそふるあまのつり舟  竹芝のうらふきわたる汐《しお》かぜにつばさなびきてたつかもめ哉《かな》 [#ここで字下げ終わり]  二十二歳になられた肥後守さまと十四歳の敏姫さまとがようやく御婚儀を挙げられましたのは、照姫さまがこの高殿に移ってしばらくいたしました安政三年(一八五六)九月十九日のこと。二十五歳におなりの照姫さまは、晴れて御正室となられた敏姫さまへの御遠慮からでありましたろうか、さすがにこのころより肥後守さまに歌を贈ることは控えるようにおなりでしたが、慶事に際してのみは、わたくしを使いとして歌を差し上げることを忘れませんでした。  安政六年(一八五九)正月、二十五歳のお年をお迎えになった肥後守さまへの寿ぎの歌——。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ことしより君がかさねん万代《よろずよ》をしるくもこたふともづるのこゑ [#ここで字下げ終わり]  おなじ年の九月、お台場の管守を免ぜられました肥後守さまは、赤蝦夷《あかえぞ》と申すあらけなき北の異人の南下をはばむべく、東蝦夷地のニシベツより西蝦夷地のサワキに至る海岸およそ九十里を御公儀より拝領なされました。  海を持ちませぬ岩代国《いわしろのくに》会津を封土といたします御当家だけに、藩祖|土津《はにつ》さま(保科正之)以来九代にわたる忠勤を嘉《よみ》せられまして海辺の土地を賜りましたことは格別のお喜びであったらしく、照姫さまも、 「少将の君こたびおほやけよりかしこきみことのりかうぶり給ひ、そのうへにあらたに所をさへ給りたる事のいとめでたう寿ぎ参らせて」  と詞書してこうお詠みあそばされたのでした。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  末久《とこしえ》に君やさかえんわか松にそへし恵のくにをまもりて [#ここで字下げ終わり]  いつしか照姫さまは、国難相ついで至る時代の嵐に雄々しく立ち向かってゆかれる肥後守さまを、姉君としてやさしく見守ってさしあげようというお気持になっておられたのでござりましょう。  その思いは、万延《まんえん》元年(一八六〇)の桃の御祝儀の日、御大老の井伊|掃部頭直弼《かもんのかみなおすけ》さまが雪の降りつむ桜田門外にお果てになり、御公儀が当時国許の鶴ヶ城におわしました肥後守さまに急ぎ出府をお命じになりましたころから、ますますお強いものとなったように存じます。  掃部頭さまを討ちたてまつりしは水戸さまの御家中の面々と判明いたしました時から、御公儀は尾張《おわり》、紀伊の両大納言家に台命を下して水戸さまを御成敗あそばされようとなされたのです。  これに断乎《だんこ》反対なされ、ついには大樹《たいじゆ》さま(一三代将軍徳川家定)のおん前にても、 「今|干戈《かんか》をもってこれに臨むは法のよろしきにあらず」  と主張なされ、ことを穏便に済まされたのはわが肥後守さまであった由。  それをお知りになった照姫さまが、夕映えの竹芝の海をまばゆげに御覧じられながら、 「さすがに、少将さま——」  とうれしそうに呟《つぶや》かれたお姿は、まだわたくしの目裏《まなうら》にはっきりと焼きついているのでござります。  この、徳川御三家中の内訌《ないこう》を未然に防がれた功《いさおし》によるのでしょうか、肥後守さまはこの年の師走をもって左近衛権《さこんえごんの》中将に昇られました。これによりまして肥後守さまは、藩祖土津さまや先代容敬さまとおなじく、 「会津中将」  と呼ばれる御身分となられたのです。  照姫さまは、 「少将の君、中将の御位に登らせ給ふを祝し参らせて」  と詞書なされ、早速こう寿がれたことでした。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  松がえにむれゐる鶴《たず》も此君《このきみ》のみをことほぎて千よよばふらん [#ここで字下げ終わり]  ところがその後まもなく会津松平家は、深い哀しみに鎖《とざ》されたのでした。文久《ぶんきゆう》元年(一八六一)十月、敏姫さまがわずか十九歳の若さで御逝去あそばされたのです。お子もない、わずか四年の結婚生活でござりました。  同時に喪に服された照姫さまは、次のような哀傷歌を捧《ささ》げられたことでした。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  千とせともいのれる人のはかなくもさらぬ別《わかれ》になるぞかなしき [#ここで字下げ終わり]  ですが、このころからわたくしども照姫さまお付きの者たちの間には、 「やはり肥後守さまは、照姫さまを御正室となさるべきだったのです」  との思いが、言わず語らずのうちに芽生えたのでした。その思いはやがて、 「照姫さまが御再嫁あそばされるのは、今からでも遅くはありますまい」  というところまで育ってゆきました。 「もともと照姫さまは、肥後守さまに妻合《めあ》わされるべく会津松平家の御養女となられたお方なのですから、敏姫さまのはかなくなられた今、おふたりが結ばれるのに何の障りもないではありませんか」  と滝尾さまはおっしゃるのです。 「とは申せ、お姫《ひい》さまももう三十路《みそじ》とおなりですし、和子さまにも恵まれませぬおからだでは……」  と口をはさんだわたくしは、滝尾さまにぴしゃりと叱られてしまいました。 「肥後さまとお姫さまとは、ともに先代さまに育てられたことゆえお年のことなど考えずともよい。和子さまに恵まれなんだのも、大膳大夫さまとは琴瑟《きんしつ》相和するところがなかったために違いありませぬ」  といわれましては、おことばを返すわけにもまいらぬのでござります。  しかし内輪では強気にそうおっしゃいますものの、さすがの滝尾さまも照姫さまや表の方々の御面前では何も切り出せなんだのでござりましょう。文久二年(一八六二)も押しつまりますと、肥後守さまは御公儀より京都御守護職の大役を御委任あそばされ、京へお発《た》ちになることになったのでした。      五  御家中の精兵《せいびよう》一千を従えて出発する肥後守さまに、照姫さまは心のこもった歌二首を捧げられました。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  京へ登らせ給へるうまのはなむけすとて祝の心を  さはりなくかへります日をたび衣たち給《たまう》につけていのるこころかな  きてかへる頃さへゆかしみ都ぢの錦を君が袖にかさねて [#ここで字下げ終わり]  これを拝見いたしました時わたくしは、 (ああ、やはり照姫さまは肥後守さまのお側近くにいらしたかったのだ)  と思い、自分のことは棚に上げて、滝尾さまが御再嫁のことにつき何も切り出さなかったことを口惜しくさえ感じたことでした。  ではござりますが、あるいはこれこそ俗にいう下種《げす》の勘繰りと申すもので、お姫《ひい》さまは本来であれば夫《せ》の君としてお迎えいたすべかりし肥後守さまをなおもひそかにお慕いしておられるというよりも、ひたぶるに肥後守さまのつつがなきお帰りをお待ちしていただけだったのかも知れません。  京には近頃討幕を唱える荒ぶる者どもが跳梁《ちようりよう》しつつあるとの噂がもっぱらでございましたから、照姫さまが姉君としてのお立場から肥後守さまを案じておられたのであっても、何も不思議なことではなかったのでございます。  しかも、東山黒谷の名刹金戒光明寺《めいさつこんかいこうみようじ》を本陣となされた肥後守さまの御威光には京の町雀たちも目を瞠るものがあったらしく、まもなくかような俗謡が聞こえてきたほどでした。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ※[#歌記号、unicode303d]会津肥後さま 京都守護職つとめます   内裏《だいり》繁盛で公家安堵 トコ世の中ようがんしょ [#ここで字下げ終わり]  あけて文久三年(一八六三)正月二日に初めて参内あそばされました肥後守さまは、天子さまから天杯と、異例にも純緋《じゆんぴ》の御衣《おんぞ》とを賜ったとのことでございました。さらに七月二十八日、肥後守さまは建春門外において天覧の馬揃え(操練)をみごとに指揮あそばされたそうですが、この時には天子さまから賜りました純緋の御衣で仕立てましたる陣羽織を召しておられた由。  まもなく照姫さまあてに送られてまいりましたお写真には、立烏帽子《たてえぼし》白鉢巻姿、この陣羽織を召されて尻鞘《しりざや》の太刀を佩《は》かれ、右手《めて》に金割り切りの采《さい》を持たれてきりりとお口を結ばれた肥後守さまのみやびやかな若武者振りが写しこまれていて、照姫さまにおねだりして拝見させていただいたわたくしどもは思わず嘆声を放ったことでした。  照姫さまの詠草には、胸はずみましたる時ほど長い詞書が添えられるかたむきがございます。おん年二十九歳の肥後守さまの凛乎《りんこ》たるお姿を、あの竹芝の海の夕映えをうち眺める時のような風情でうっとりと御覧じられた照姫さまは、やがてこう詠み出されたのでございました。  少将の君より写真焼といへるものを送り給へるに、久々にて気近うたいめい給はる心ちして、猶平らかに勇しうわたらせ給ふ御姿に、いとうれしくおはすればかたじけなくて  御心のくもらぬいろも明らかにうつすかがみのかげぞただしき  照姫さまからその感想を求められました時、またしてもわたくしはいわでものことを申し上げてしまったのでした。 「あの、この詞書の『少将の君』は、『中将の君』とした方がよろしくはございませんか」  その時でした、ちょんと紅を差しただけの照姫さまの小さなお口があえかにひらいて、 「あ」  とおっしゃる形になり、つづけてそのお耳が、昔、まだ之允さまと申し上げていた肥後守さまをお部屋にお迎えした時のように桜色に染まりましたのは。  この時わたくしは、ようやく気づいたのでござります。照姫さまは肥後守さまをひそかに想われる時、み胸のうちではいつも「少将さま」と呼びかけていらしたのだ、ということに。 「さすがに、少将さま——」  水戸さま御成敗の儀がとりやめになりましたころ、照姫さまが夕映えの竹芝の海をまばゆげに御覧じられながらお洩《も》らしになったことばが脳裡《のうり》に甦《よみがえ》り、わたくしは照姫さまの秘めて語らぬお心のうちを垣間見たように感じて、思わず胸を熱くしていたことでした。  ただしそのあと京の肥後守さまから嬉《うれ》しいお便りがくることはふっつりと途絶え、今は五万石を加増されて二十八万石になっておりました会津松平家は、盛りの時を超えた桜の老樹にも似て、おいおいと滅びの淵《ふち》へ近づいていったのでござります。  尊王討幕を叫ぶ長州勢が御所に押し寄せましたのを、肥後守さまの指揮のもとによく押しもどした元治《げんじ》元年(一八六四)七月の禁門の変のころまでは、まだよろしゅうございました。  なれどそれにうちつづきます長州御征討もはかばかしくはまいりませぬうちに、まだお若い十四代目の大樹さま(徳川|家茂《いえもち》)はあろうことか大坂城中に薨《こう》じられ、おなじ慶応《けいおう》二年(一八六六)のうちに天子さまも神《かん》上がりまして、肥後守さまがひとり力を尽くしてこられた公武一和の御世《みよ》は、大はまぐりの吐く気のうちに見ゆる蜃気楼《かいやぐら》のごとく一場のまぼろしとなってしまったのでござります。  さらに慶応三年(一八六七)十月、最後の大樹さま(徳川|慶喜《よしのぶ》)が大政を奉還なされますと、今は薩賊《さつぞく》長賊の牛耳をとるところとなりました朝廷にては、あらけなくも大樹さまや肥後守さまの官位を奪うという奪衣婆《だつえば》のごとき挙に及んだのでした。  国許詰め、江戸詰めの若き方々はさすがにこれを怒り、 「君側の奸《かん》を除くべし」  と口々に言い合って、てんでに京、大坂へ上ってゆかれました。しかし慶応四年(一八六八)正月三日に始まりました鳥羽伏見のいくさにお味方は武運|拙《つたな》く敗れ去り、あるいは陸行、あるいは紀州の浦々より水行してこの江戸に引いてこられたのです。  こうなりましてはもはや、照姫さまにおかせられても肥後守さまに御対面あそばされ、お慰め申し上げる暇とてござりませんでした。しかも大樹さまには二月十二日より上野|東叡山《とうえいざん》にお入りになり、肥後守さまにも江戸を去って閉居謹慎いたすよう通達なされたのです。  肥後守さまが失意のうちに江戸を引き払い、会津めざして旅立たれたのは同月十六日のこと。それをお見送り申し上げるべく女駕籠に乗って上屋敷に入られた照姫さまは、憂い顔を見せまいとのお心からでしょうか、常よりもたんと白粉《おしろい》をはたいておいででした。  本殿黒書院にて肥後守さまとの束の間の御対面を果たされた照姫さまは、両の胸前に会津葵の家紋を打った紋付のお腰を折るようにして、惜別の思いをこめた歌を捧げられたのでした。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ほどもなくあひみん事は忘られてなごりをしかるけふもあるかな [#ここで字下げ終わり]  思えば六年間、京と江戸とに離れておいでだった間に、肥後守さまは三十四歳、照姫さまはもう三十七歳におなりなのでした。  若き日に肥後守さまを奥のお部屋へお迎えいたし、お耳を桜色に染めていらした照姫さまならば、聞きようによっては相聞《そうもん》の歌とも後朝《きぬぎぬ》の歌とも取られかねないかようなお歌を肥後守さまに捧げることなど思いも寄らぬことでしたろう。ですが京におわします間、女性《によしよう》を一切近づけず御再婚の話にも耳を貸さなかったという肥後守さまと、贈られましたお写真を御覧じて「少将さま」とひとりごちておられた照姫さまとは、もはやわたくしどもの思い及ばぬほど強い何かでしっかりと結ばれているのでした。  その歌の書かれた短冊を肥後守さまにおわたしいたしましてわたくしが舞良戸《まいらど》を背に控えておりますと、紋羽織姿で上段の間に出座しておいでの肥後守さまが、照姫さまに何かお伝えする声がかそけく響いてまいりました。  それにお答えする照姫さまのあえかなお声が涙声になっているのに気づきました時、いつかわたくしも袖を濡《ぬ》らしていたことでござりました。      六  まもなくわたくしどもも、照姫さまのお供をして会津の若松城下へ下ることに相なりました。  あろうことか先の天子さまへの誠忠他にぬきん出た肥後守さまを賊徒|首魁《しゆかい》と決めつけた薩長勢は、江戸を奪ったあとは一気に鶴ヶ城を屠《ほふ》ろうとしているとのもっぱらの風聞でござりました。武門の誉れ高き会津松平家が、たとえ孤城となるともなじょう薩長に膝を屈しようかと奮い立ちましたのは当然のことなれど、照姫さまやお付きの者たちにとりまして奥州は未知の土地でございます。  奥州街道を北へ進んで白河宿に近づきました時、照姫さまは住みなれた江戸を離れたお気持をこう詠じられたことでした。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  おもひきやわが身の上としら河の関路をやがて越えぬべしとは [#ここで字下げ終わり]  もしこの時照姫さまに、江戸にうしろ髪を引かれる思いがおありだったとすれば、それは飯野藩を継いでおいでの弟君保科弾正忠正益さまのことでしたろう。  弾正さまは本家たる会津松平家の悲運を見るに見かね、二月のうちにその立場を言上すべく京に上ってゆかれたのでした。ところが弾正さまは、京へ六里の大津宿まで進まれました時、 「その方は松平容保の支族でありながら、なぜ宗家を救いにおもむかぬのか。ともかく入京を許すことはできぬ」  と無体に扱われ、その場で禁足を命じられてしまったのでござります。  それゆえ照姫さまは、御養家をお助けすべきか御実家にお力を尽くすべきかとしばし迷われたのではありますまいか。  その弾正さまへの思いを振り切って鶴ヶ城へお入りあそばされた照姫さまのおんもとへ、ひそかに飯野藩を脱藩した方々二十八名が御挨拶にまかり出ましたのは閏四月中旬のこと。会津援軍としてあらわれたこの飯野藩士隊の隊長は、何と森要蔵先生——わたくしの薙刀と鎖鎌のお師匠さまでござりました。  もはや還暦のことゆえ、髷を落として総髪になさったお髪《ぐし》から口髭《くちひげ》、顎髯《あごひげ》までことごとく真白になっておいでの森先生は、ぶっさき羽織にたっつけ袴《ばかま》の旅装のまま本丸御殿の出会いの間にお通りになりますと、出座なされた照姫さまを昔のように「お姫さま」とお呼びして、こうおっしゃったのでした。 「それがしは、本家が未曾有《みぞう》の苦難を迎えようとしている時に末家が拱手《きようしゆ》傍観していては後世の笑いものになると愚考つかまつり、わが殿の真の思いもここにこそあるはずと信じて及ばずながら来援つかまつったのでござる。大津におわすわが殿のお立場を勘案いたせば、堂々と飯野保科家よりの御加勢なりと触れまわることの叶《かな》わざるは無念の至りなれど、わが飯野藩は決してお姫さまをお見捨ていたしたわけではござりませぬ。この森要蔵、ただそれだけを申し上げたく存じ、無礼にも突然御挨拶に参上いたした次第でござる」  端近《はぢか》に控えてこの口上を聞いておりました時ほど、わたくしは自分が飯野村の生まれであることを誇らしく思ったことはございませんでした。  この森要蔵先生は弓馬|刀槍《とうそう》の道のみならず軍学にも長じていらっしゃいましたから、その後は野州大田原城攻めを指揮なさるなど常に出撃戦を展開なされ、その後お城には顔をお出しになりませんでした。  そして先生は、装備すぐれましたる西軍の重囲に陥り、七月一日白河方面にてお討死。 ≪身を挺《てい》して進み、刀を揮《ふる》って縦横奮撃、流血|淋漓《りんり》遂に敵兵三人を屠《ほふ》りて死す≫  とそのお最期の模様を報ずる文書が照姫さまのもとへ届けられました時、 (これではもはや、会津藩は滅びの道をたどるしかないのではあるまいか)  との不吉な思いが、初めてわたくしの胸をそろりと掠《かす》めたのでした。  その思いは、まもなく埒《らち》もない夢に育っていったのでござります。いとせめて照姫さまには、このお城を枕に肥後守さまともども黄泉路《よみじ》へ旅立たれる前にかりそめなりとも肥後守さまとの固めの杯を交わしていただき、姉君と弟君ではなく会津松平家最後の藩主御夫妻になっていただきたい、という夢に。  燃えさかる白亜五層の御天守の最上階で、白無垢の死装束をまとわれた照姫さまが白いお喉《のど》をお突きになり、つづけておなじお姿の肥後守さまがお腹を召される光景をひそかに思い浮かべますと、恋も知らず一生勤めのうちに四十の坂を越えましたわたくしは、 (これこそ恋の成就というものではあるまいか)  という妖《あや》しき思いに捉われている自分に気づいて慄然《りつぜん》とするのでござりました。  とは申せ、これはかならずしもわたくしのごとき痴《し》れ者の夢とばかりもいえぬようでした。  御城内には、肥後守さまが水戸さまから御養子としてもらい受けた十五歳の若狭守喜徳《わかさのかみのぶのり》さまもおいででした。にもかかわらず重臣の方々は肥後守さまの実のお胤《たね》の和子さまをお望みであったらしく、おそらくお渋りになったであろう肥後守さまをどう口説きまいらせたものか、ふたりの御側室をお迎えしていたのです。お喜代の方さまとお佐久の方さま。  それと初めて知りました時、滝尾さまなどはきりりと眉《まゆ》を吊《つ》り上げて叫んだことでございました。 「何と、このお国許の方々は、そこまで照姫さまをないがしろにしやるのか」  照姫さまをただ義理の姉君としてしか見ていない重臣方を、そう怒っても詮《せん》ないことなのは分っております。ではござりますれどわたくしも、滝尾さまに同調しないわけにはまいりませんでした。  と申しますのも肥後守さまがふたりの御側室を迎えられたのに対し、このころから照姫さまのお側を離れなくなったのは、どなたかからいただきました一匹の狆《ちん》だけだったからでござります。  やがて越後口と白河口、あるいは日光口から砲音《つつおと》が近づくであろう鶴ヶ城まではるけくもお越しになったと申しますのに、そのお心をお慰めするのが狆だけでありましたとは、——。  敏姫さまのお誕生により、もう二十五年も前からイスカのクチバシのごとく食い違いはじめてしまったおふたりの御人生が、この期に及んでもなお食い違いつづけてゆくことに、わたくしどもは哀しみを通り越していわくいいがたい憤《いきどお》ろしさすら感じていたのでござりました。      七  その後もお味方には頽勢《たいせい》日々に加わり、八月二十三日からは苦難の籠城《ろうじよう》戦が始まりました。この早朝に打ち鳴らされました割場《わりば》(時鐘台)の早鐘を合図に続々と入城してこられた御家中の御婦人方は、これを死出の花道と思い切っていたのでしょうか、紋付をまとっておいでの方がほとんどでした。  しかも思いがけませぬことに、この御婦人方が口々におっしゃるのは、 「照姫さまをお守りするのはわたくしどものつとめ」  ということばばかり。類《たぐい》なくお美しく類なくおやさしい照姫さまは、初めてのお国入りであったにもかかわらず、いつしか御家中の御婦人方の心の支えとなっていたのでございます。 (ああ、やはりこの鶴ヶ城の女主人は、お喜代の方さまでもお佐久の方さまでもない、照姫さまそのひとなのだ)  との思いに打たれたわたくしたちお付きの者は、籠城の御婦人方と手を携えて、お味方が存分に働けますよう炊き出しや銃弾作りにからだのつづくかぎり奔走することを誓い合ったのでした。  ことに九月十四日に始まりました,御城内へ一日二千五百発の砲弾を撃ちこむ西軍の「大砲攻め」はものすごく、その結果、二百三十畳敷きの本丸大書院、百六十五畳敷きの小書院には五百人近い重傷者が立錐《りつすい》の余地なく横たわるという惨状と相なりました。  これらのお味方を看病いたすのもわたくしどもの大切な役目でござりましたが、今はもう島田髷に笄や簪を飾ることもなく黒紋付に白だすきを掛けて、もっとも俊敏に立ち働いておいでなのは、たれあろう照姫さまなのでした。  やがて包帯や綿撒糸《めんざんし》(ガーゼ)が底をつきますと、照姫さまは御自身の大切な衣裳《いしよう》の数々をわたくしどもに運び出させ、ためらうことなく下知なされました。 「布地は断ち、帯の芯《しん》はほぐして包帯の代わりになさい」  金糸銀糸を縫いとった豪奢なうちかけや紅裏《もみうら》のそれは、負傷者の掛布団代わりに使われました。このため、手を失い足を砕かれて腐臭と膿《うみ》にまみれて喘《あえ》いでおられる方々は、一面の華やかな彩りの下に埋まるという奇怪にも美しい光景さえ現出したのでござります。  また鈴木新吾さまと申し上げるお若い御家来は、どうやら肥後守さまから、 「万一落城の節は、照姫の生害《しようがい》を介錯《かいしやく》せよ」  とひそかに命じられていたようでした。  十四日、百雷の一度に落つるがごとき大砲攻めが始まりますと、鈴木さまはすでに城門が破れたものと錯覚なさったのでしょう、惑乱して大刀を抜き放ち、 「御免!」  と叫んで御座所の照姫さまに迫ったのでした。  わたくしは今は亡き森先生直伝の武芸をお見せするのはこの時と、手早く懐剣を引き抜いて照姫さまのおん前に立ちはだかりました。鈴木さまはわたくしに刀を振るう前に取り押さえられてしまったのですが、驚いたのはこの時照姫さまが、寸毫《すんごう》も取り乱すことなく静かに端座しつづけておられたことでございます。  ——キャン、キャン、キャン  照姫さまはそのお膝に乗っている白黒まだらの狆が興奮して吠《ほ》えるのをあやしながら、鈴木さまが警固の方々に叱咤《しつた》されつついずこかへ連れ去られるのをお淋《さび》し気に見送っておられたのでした。  かような日々をつづけますうちに、お味方は援軍もなく矢玉も尽き果て、ついに開城いたすことに相なりました。その開城式は九月二十二日正午よりと定められましたが、それより一刻(二時間)前には、北出丸の北追手前に「降参」と書いた旗|三旒《さんりゆう》を掲げねばなりません。  それを作るのはわたくしどもの仕事となりましたものの、布という布はことごとく包帯に使ってしまいましたため、これに用うべき白絹の一丈とて残されてはおりませんでした。やむなく白布の小切れを持ち寄って何とか縫い合わせることにいたしましたが、焼け残った一室に膝を寄せ合って縫いはじめますと、あちらこちらからすすり泣きが起こり、ついには全員が暗涙にむせぶありさま。  それでも滝尾さまの、 「心の乱れが縫い目にあらわれていたならば、照姫さまお付きの者たちは縫物もろくにできぬのか、と薩長の下郎どもに笑われましょう。心して縫いや」  という気丈なおことばに励まされてようよう仕上げましたが、出来上がった旗はすべて会津藩の女たちの涙によってすっかり濡れほとびていたことでした。  その開城式もおわりましたあと、容保さまと喜徳さまとは滝沢村の妙国寺で謹慎あそばされることになり、照姫さまもわたくしどもをつれてこれに従ったのでした。  けれどこの時、お喜代の方さまとお佐久の方さまとは、行をともにはなさいませんでした。聞くところによれば、この時おふたりはともに御懐妊中でありましたため、会津松平家別邸御薬園での静養を許されたというのです。  国滅びてのちにこう申すのもはばかられることながら、照姫さまが秘めて幾久しい容保さまへの想いどころかその御人生をもお諦《あきら》めあそばされましたのは、これをお知りになった時ではありますまいか。  妙国寺入りしてまもなく髪を下ろし、照桂院さまとお名を改められた照姫さまは、あたかも御自身のはかなかりし境涯を哀傷するかのごときお歌をお詠みになったのでした。  古寺嵐 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  あれはてし野寺のかねもつくづくと身にしみ増《まさ》るよあらしのこゑ [#ここで字下げ終わり]  その後、容保さまと喜徳さまには東京への出頭命令が下され、十月十七日照姫さまに見送られて妙国寺をお発ちになりました。容保さまは八代洲河岸の因幡《いなば》藩邸に、喜徳さまは芝赤羽橋の久留米《くるめ》藩邸に永預けとされたのでござります。  つづけて十二月七日、詔《みことのり》によりまして容保さまは死一等を宥《ゆる》されましたものの、これによって旧会津藩は、代わって罪に服すべき叛逆《はんぎやく》首謀の臣三名を差し出さねばならぬことになってしまいました。やむなく旧会津藩は、田中土佐さま、神保|内蔵助《くらのすけ》さま、萱野権兵衛《かやのごんべえ》さまの三人の御家老さまのお名をもっていたしたのですが、田中さまと神保さまは籠城開始に先立ってお腹を召されておりましたから、実のところは萱野さまおひとりが一身に罪を背負って下さることになったのでした。  その萱野さまをお預りいたし、斬《ざん》に処すよう命じられましたのは、何と飯野藩主保科弾正忠正益さま。明治二年三月、わたくしどもとともに東京へ護送され、青山の紀州藩邸に預けられておりました照姫さまは、一死もって容保さまの罪を贖《あがな》って下さる萱野さまに、歌を寄せて切なくもお苦しいみ胸の内をお伝えしたのでした。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  夢うつつ思ひも分《わか》ず惜《おし》むぞよまことある名は世に残れども [#ここで字下げ終わり]  萱野さまが麻布広尾の保科家別邸にて死を賜りましたのは五月十八日のことでござりましたが、弾正さまにおかせられては表向きは斬首ながらひそかに切腹のかたちをとらせることにより、萱野さまに武士《もののふ》としての御体面をまっとうさせて差し上げたとのことでした。  この年の六月、お佐久の方さまが男子|容大《かたはる》さまを御出産あそばされたことにより、十一月その容大さまに旧会津松平家の家督相続が認められまして、旧会津藩二十八万石は下北|斗南《となみ》三万石として再興されました。照姫さまも十二月のうちに紀州藩から飯野藩へとお預け替えになりましたので、晴れて二十七年ぶりに御実家へもどることができたのでござります。  そして明治五年正月、ようよう容保さまもお預け御免と相なりました。時に容保さま三十八歳、照姫さま四十一歳。おふたりの間には、このお齢《とし》になってようやく清きまじわりが復活いたしたのでした。  照姫さまの、そのお喜びの歌、——。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  いくかへりむすべる霜のうちとけしうたげうれしきけふにも有《ある》哉 [#ここで字下げ終わり]  長い苦難の坂を越え、こうしてようやく心の平安を得ることのできた照姫さまは、わたくしどもを誘ってなつかしい芝浜の海辺を再訪することもございました。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  色かへぬ浜松枝《はままつがえ》にあかねさす夕日も長き波のかけはし [#ここで字下げ終わり]  この一年まえに廃藩置県があり、斗南藩もうたかたの夢と消えてしまいましたが、東京へ出て何らかの職におつきになった方々は、あの奥羽一の名城鶴ヶ城も五つございました江戸屋敷も接収され、財産のあらかたを失いましたる会津松平家に対し、各自の収入から幾ばくかを割いて月ごとに献納して下さるのでした。  照姫さまへは保科家よりの御援助もございましたので、わたくしのような者もかろうじて一生勤めをつづけることができたのですが、このあたりのことをくだくだしく書いていては愚痴になりましょうから止めておきます。  最後に照姫さまが明治十二年にお詠みになった歌一首を書き留めて、わが思い出の記の筆を擱《お》くことにいたしましょう。  この年、十年ぶりに会津へ旅した照姫さまは、東山温泉の向滝《むかいだき》旅館にお泊りになってこう詠じられたのでした。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  岩くだく滝のひびきに哀《あわれ》そのむかしの事もおもひ出つつ [#ここで字下げ終わり]  この時照姫さまのお心をよぎった「むかしの事」とは、一体いかなる事どもでしたろうか。 「こう[#「こう」に傍点]にだけは、教えて下さりませ」  とわたくしはお酒《ささ》を差し上げながらお願いしたのですが、照姫さまは小さくほほえまれるばかりで何も答えては下さいませんでした。こうして東山の滝つ瀬の音によって照姫さまの脳裡に甦った光景は、わたくしにとってとこしえの謎となってしまったのでござります。  この照姫さまがにわかにはかなくなられましたのは明治十七年二月十八日、おりから御滞在中でした元会津藩家老山川浩さまの牛込のお屋敷でのこと。五十三年の御生涯でござりましたが、その御遺骸《ごいがい》は保科家ではなく会津松平家の菩提寺《ぼだいじ》、南豊島郡内藤新宿の正受院に手厚く葬られたのでした。  まもなく尼となりまして近くにささやかな庵《いおり》を結びましたわたくしは、三日に一度は照姫さまの墓前にお詣《まい》りいたし、今もその後生を祈りつづけているのでござります。  なぜといって照姫さまへの一生勤めを誓いましたわたくしにとり、飯野の父母兄弟も死に絶えましたる今日、照姫さまのお墓こそはこの世にただひとつの思い出塚なのでござりますから。      八  薄幸の貴婦人松平照子の生涯とその和歌とを分析・紹介した論文には、稲林敬一「照姫さまとその周辺」(宮崎十三八編、平成三年三月新人物往来社刊『物語妻たちの会津戦争』所収)や、柴桂子「松平照子——鶴ヶ城籠城戦のシンボルとして、歌人として」(柴桂子著、平成六年七月恒文社刊『会津藩の女たち』所収)などがある。  筆者は『思ひ出塚』全段を現代語訳するに際し、柴桂子氏のお許しを得て、和歌およびその詞書の翻刻は後者の表記に従ったことを明記しておきたい。  おこう[#「おこう」に傍点]という松平照子の元侍女の手になるこの史料のきわめてユニークな点は、照子が十歳にして会津松平家の養女になったころから戊辰戦争直後に薙髪《ちはつ》するまでの無慮三十年近い間、一貫して松平容保をひそかに恋い慕っていたとして、歌物語の形式をとってさまざまなエピソードを紹介していることであろう。  初めて『思ひ出塚』を一読した時、 (これはあまりに主観的な見方にすぎないのではないか)  と感じ、筆者はとまどいを禁じ得なかった。  しかし、それから数年を経た今日、筆者もおこう[#「おこう」に傍点]の記述は大筋において正しいものと確信するに至っている。それまで筆者は、墨付き本文三十丁目の最終行、 「飯野の父母兄弟も死に絶えましたる今日、照姫さまのお墓こそはこの世にただひとつの思い出塚なのでござりますから」  と訳出した部分まで読みとおすと、溜息《ためいき》をつきながらそこで写本を閉じるのを常としていた。  だがある時、そのうしろの遊紙と思いこんでいた部分に、照子の恋歌二首が記されていることを発見したからである。  初恋 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ふみまよふ道ともしらできのふけふおもひいりたる恋の山ぐち  春夜恋  軒の梅もねやのふせごにかをりあへぬ君|待《まつ》よはの心しりきや [#ここで字下げ終わり]  和歌には「題詠」というものがある。だからこれらは、照子が歌会か何かで「恋」という題を出され、それに応じて観念的に詠んだものかも知れない。  しかしそれにしては、特に後者の「君待よはの心しりきや」と怨《えん》じる風情には読む者をどきりとさせるものがあって、『思ひ出塚』の本文からはもうひとつうかがい知れない照子の生身の声を伝えているような気がしてならない。  おこう[#「おこう」に傍点]があえてこの二首を巻末に記したのは、これらこそ秘められた照子の恋の証《あか》し、その恋の形見と考えていたからではあるまいか。  なお松平容保は照子に遅れること九年、明治二十六年十二月五日に至って苦難の生涯を閉じた。享年五十九。その亡骸《なきがら》は、照子のそれとおなじく正受院に埋葬された。  そして大正六年六月、容保の遺骨は若松市院内の会津松平家墓域——いわゆる院内|御廟《ごびよう》に移されることになる。全山|常磐木《ときわぎ》の緑につつまれて養父容敬も眠るこの宏大な墓域には、同時に照子の遺骨も移送された。 『思ひ出塚』がこれらのことを記述していないのは、おこう[#「おこう」に傍点]が容保より先に死亡したために違いない。  それにしてももしおこう[#「おこう」に傍点]が大正六年まで長寿を保っていたならば、彼女のもとに恋の形見を残した照子が想われびととともに会津へ還《かえ》ると知って、どのような感慨に耽《ふけ》ったであろうか。 [#改ページ]    間諜《かんちよう》許すまじ      一  一名を郡上八幡《ぐじようはちまん》ともいう。  譜代の郡上藩四万八千石の城下町、美濃国郡上郡《みののくにぐじようごおり》八幡のことである。岐阜を去ること北に十三里、乱山重畳たる峡谷ぞいにひらけたこの城下は、 「郡上みち」  と呼ばれる街道によって岐阜とむすばれていた。  豊かな水をたたえて蛇行する長良《ながら》川の左岸にそい、郡上みちを岐阜から下ってゆくのはきわめて難儀な旅であった。濃尾《のうび》平野をぬけて奥美濃から飛騨《ひだ》高地へとつづく山あいに入ると、切り立つ断崖《だんがい》上をうねる道の幅は広くても一間(一・八二メートル)たらずと、ボッカ(荷物)をせおう者や役牛《えきぎゆう》がようやく通れるだけの山道と化す。 ≪朝敵之首謀者|朝比奈茂吉《あさひなもきち》≫  と墨書した札を貼られた唐丸駕籠《とうまるかご》ひとつ、縄を打たれた町駕籠二十五がこの街道を下っていったのは、明治元年(一八六八)十一月十七日|黄昏《たそがれ》時のことであった。  その前後をつつみこむ護衛兵七十は、鉄笠《てつがさ》をかむってスナイドル銃を右肩にあずけ、黒ラシャの筒袖洋袴《つつそでようこ》の左腰には両刀を帯びている。それぞれの駕籠の左右にもおなじ身なりの兵ひとりずつが貼りつき、ものものしい気配をみなぎらせていた。  おりから霏々《ひひ》として雪が降りしきり、谷底を白蛇のようにくねる長良川、そのむこう岸に屹立《きつりつ》する冬枯れの山々はかなたに姿を隠そうとしている。その墨絵のような景色の中を八幡城下に近づいた一行は、白い息を流しながら右折すると、集まってきた野次馬たちを尻目《しりめ》に赤谷《あかたに》村へ直進して行った。  八幡の城下は、東の山あいから西へ流れて長良川にそそぐ清流|吉田《きつた》川の両岸に分立する。赤谷村は八幡城とそのまわりを囲む武家屋敷町とは吉田川をへだて、天守閣と対峙《たいじ》するかのように南岸にそびえる東殿山《とうどやま》の北麓《ほくろく》にあった。その名は、ほど近い不動滝の水が昔から赤茶けていることに由来する。  しかし城下の者たちが、 「赤谷」  と口にする時、そこには一種|凶々《まがまが》しい意味合いがこめられていた。この村は、郡上藩の揚《あが》り屋——未決囚を入れる牢獄《ろうごく》のあるところとして知られているのだ。  敷地は約五百坪。村はずれの高塀の外側に一間幅の堀を穿《うが》った揚り屋には、番所とは前庭をへだてて三棟の獄舎が長屋のようにならび、軒下に太い角材の格子を見せていた。塀の内側と獄舎のまわりには、山紅葉、白文字、白樫《しらかし》、小楢《こなら》などの古木が目隠しがわりに植えこまれ、根もとを苔《こけ》におおわれている。  青山菊の家紋を打った法被《はつぴ》に股引《ももひき》姿でその北側にひらく門の外に立っていた門番ふたりは、雪の中を駕籠の列が提灯《ちようちん》もつけずに進んできたことに気づくと、いそぎ門扉を排して両脇に小腰をかがめた。  玉砂利を軋《きし》ませて前庭に入った二十五|挺《ちよう》の町駕籠は、番所寄りに置かれた唐丸駕籠の背後に五列に据えられる。護衛兵たちが円陣となって取り囲み、カチリと撃鉄を起こした中で一斉に縄を解かれた。 「出ませい」  黒木綿のぶっさき羽織にたっつけ袴《ばかま》、頭に裏金の陣笠をのせた持筒頭《もちづつがしら》八田覚太夫がするどく命じた。それに応じて唐丸駕籠からも網を打たれた竹籠がはずされ、朝比奈茂吉がゆっくりと前庭に降り立つ。  まだ十七歳。この四月まで江戸屋敷に詰め、十人|扶持《ぶち》を受けていたかれは、中肉中背のからだを黒ラシャ、襟のふち白糸かがりの筒袖陣羽織と同色の洋袴につつみ、髷《まげ》は落として断髪にしていた。色白面長な顔だちは鼻筋が通り、目もともすずやかで科人《とがにん》特有の卑屈な翳《かげ》はどこにもない。両腕を左右にひろげて上体をそらし、やれやれ、というようにからだの筋を伸ばして背後をふりかえった。  鬱蒼《うつそう》たる木々を背景として置かれた二十五挺の町駕籠からは、茂吉とおなじ身なりの男たちが次々と姿をあらわしていた。かれらは、茂吉が自分たちを見返っているのに気づくときびきびとそのまわりに集まる。 「よし、駄賃は後日藩庁で受け取れ」  駕籠かきたちを返した八田覚太夫は、門扉が鎖《とざ》されるのを待って銃陣の中に身を入れ、茂吉にむかって宣告した。 「本日|昼食《ちゆうじき》の際に申しわたしたごとく、新政府軍務官殿におうかがいいたしてその方らをこの揚り屋につれ来たったのである。なにぶんの主命が下されるまで、ここに謹慎しておるがよい」  雪はますます強く降りしきり、その陣笠にもうっすらと積もりはじめている。火の気のある番屋へ踵《きびす》を返そうとした八田は、 「待たれい」  と茂吉に呼び止められて、陣笠をゆらめかせた。  茂吉は自分にむけられた銃口の列も目に入らぬかのように一歩進み出、腺病質《せんびようしつ》そうな八田の細い目を見すえて訊《たず》ねた。 「道中の噂によれば、われらにはことごとく斬首《ざんしゆ》か切腹が仰せつけられる手はずの由。この噂はまことでござるか」 「さ、さような噂には答えかねる」 「なに、答えかねるですと」  二百石どりと自分よりはるかに高禄《こうろく》を食《は》む年長者に対し、茂吉は不意に気色ばんだ。 「なればなにゆえそれがしの駕籠を唐丸駕籠としたあげく、≪朝敵之首謀者≫などという札を貼りつけたのです。これこそわれらを死罪に処すと、沿道の者たちに公言したも同然ではないですか」 「控えい」  さらに茂吉が八田に詰め寄ろうとしたとき左手から声が来、その横腹にはスナイドル銃の筒先が押しつけられた。 「ほう」  首をひねってその兵の視線を平然と受け止めた茂吉は、うっそりと笑ってつづけた。 「いっておくがな、ここにおるわれら二十六人はこの四月以来野州から会津《あいづ》へ転戦して官兵を屠《ほふ》ること数知れず、ついにはかの会津鶴ヶ城に籠城《ろうじよう》して一日数千発の銃砲弾を浴びてもかすり疵《きず》ひとつ負わなかった者ばかりだ。ひるがえっておぬしらは、口に尊王を唱えはしても官軍への参加をためらいつづけた弱兵どもではないか。撃てるものなら撃ってみろ」  かれがみずから銃口に横腹を押しつけるようにしたので、兵はためらって一歩後ずさった。 「やっ」  と茂吉の気合が迸《ほとばし》ったのは、この時であった。兵のからだはふわりと宙に舞い、一回転して玉砂利に叩《たた》きつけられる。  茂吉は左手で下から筒先をはらい上げ、その銃身をつかんで左にひねった。銃を奪われまいと両腕に力をこめた兵は、その動きが徒《あだ》となってからだを投げ出さざるを得なかったのである。  円形の銃陣に驚愕《きようがく》が走る。兵たちは茂吉にむかって間を詰めようとした。それと見た茂吉は、機先を制して決めつけるようにいった。 「いまのは起倒流柔術のほんの小手調べだ。われらを本日ここに殺戮《さつりく》して物議をかもすのを恐れるならば、おぬしらはなんとかわれらを引っ捕えて獄に投じねばならぬ。ところがわれらにはな、右手の拇指《おやゆび》と人差指さえあればおぬしらの両眼を潰《つぶ》し、喉仏《のどぼとけ》を砕くことなどいとたやすいことなのだ。いましばらく黙って聞いておれ」  兵たちの間には、ためらいが生じた。それを見越した茂吉は、八田覚太夫にむきなおって口調を改めた。 「さて先ほどの噂の件ですが、どうもこの噂は、われらが勝手に脱藩して王命に抗した、という前提に立って流されています。よろしいか、八田殿。念のため申しておきますが、われらはほかならぬ藩の内命により、江戸藩邸から武器弾薬軍用金を頂戴《ちようだい》した上で脱藩のかたちを装い、会津救援におもむいたのです。  そのわれらに死をたまわるのであれば、表むき勤王を謳《うた》いつつわれらを会津に送った本藩も罪に問われねばならぬ。万一藩庁がこの事実を隠蔽《いんぺい》し、われらを闇から闇に葬ろうなどと謀った時は、われらはありとあらゆる手だてを講じて冤《えん》を雪《そそ》ぎ、遺恨を晴らしてお目にかける——そう朝比奈茂吉が申していたと、国家老鈴木兵左衛門さま以下によろしく御伝声願おう」  茂吉の声は、次第次第に大きくなる。立ち撃ちの構えをとっている百余の護衛兵やその銃陣の外にたたずむ牢番たちも、いつか息を呑《の》んで聞き耳を立てていた。中には、 (無届け脱藩のあげく官軍に刃向かった不埒《ふらち》の者ども、と聞いていたが、裏にはさような事情があったのか)  と初めて知り、目をみはった者も少なくはない。 (よし、充分に効いたようだ)  まだ初々しい顔だちにほほえみを浮かべ、茂吉はふたたび同志たちをふりかえっていった。 「ではわが公より寛典の御処置をいただくまで、しばしこの揚り屋で不自由を忍ぶことにいたしましょう。長い間年少のそれがしのつたない指示にしたがって戦いつづけ、郡上藩士の心意気を示して下さった皆さまにあらためて感謝の意を表します。まことに御苦労でありました」  一揖《いちゆう》した茂吉は断髪の頭と筒袖陣羽織の両肩に降りつんだ雪をはらい、獄舎入口に歩み寄った。我に返った牢番があわててかれを先導すると、二十五人の男たちも粛然と動き出す。  その一糸乱れぬ動きを目送しながら、八田覚太夫は苦虫を噛《か》みつぶしたような顔をした。      二  時の郡上藩主は青山峯之助、諱《いみな》を幸宜《ゆきのぶ》という。  五年前の文久《ぶんきゆう》三年(一八六三)七月、父|隼人幸哉《はやとゆきしげ》の死によって郡上藩青山家第七世となった時、峯之助はまだわずか十歳であった。  ためにあくる元治《げんじ》元年四月、国許《くにもと》から禄高一千石の朝比奈藤兵衛が嫡男茂吉らの家族とともに出府。水道橋外の郡上藩江戸上屋敷に入って、 「主君御幼少のうちは七ヵ年|定府《じようふ》のこと」  と告げられ、まもなく江戸家老に昇ってその藩政を輔弼《ほひつ》した。  前後して国許にあっては八百石どりの鈴木兵左衛門が国家老に進み、幕末の複雑な政治状況に対処することになる。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ※[#歌記号、unicode303d]郡上の殿さま自慢なものは金の弩標《どひよう》(馬印)に七家老 [#ここで字下げ終わり]  名高い郡上踊りの歌い文句にあるように、青山家にあっては小出《こいで》、朝比奈、鈴木、佐治、下津、貴田、天方《あまかた》の七家が代々家老職に昇りうる家柄とされてきた。だから朝比奈藤兵衛、鈴木兵左衛門の家老昇進は、ともに頭脳|明晰《めいせき》、刻苦勉励の士であることもあり、なにも不思議には思われなかった。  しかし、——。  慶応《けいおう》三年(一八六七)十月十四日、徳川十五代将軍|慶喜《よしのぶ》が大政奉還の上表を提出。これを受けて朝廷が諸大名に上洛《じようらく》の朝命を下すにおよび、にわかに両家老の信念の相異があらわになった。鈴木兵左衛門が国許の藩論を勤王と決したのに対し、朝比奈藤兵衛と江戸詰め藩士たちは断固佐幕を主張したのである。  それと知って愕然とし、つづけて怒《ど》を発した鈴木は若手藩士小出|靱負《ゆきえ》をまねき、 ≪早々に御上京あそばされませぬと、朝敵の汚名をこうむるやも計りがたく……≫  との峯之助あての書状を与えて江戸に急行させた。だが、なんの反応もない。  その間に年があらたまり、旧幕府軍は鳥羽伏見の戦いに大敗を喫して江戸へ敗走してしまった。それを見た鈴木は、もうひとりの若手藩士|下津久馬《しもつきゆうま》に峯之助あての督促状をわたし、官軍の江戸入りに先んじて江戸上屋敷に走らせることにした。江戸の朝比奈藤兵衛には知る由もなかったが、このとき鈴木は下津久馬に、 「朝比奈がなおも佐幕にこだわるようであれば、応対の座を去らせずに討ち果たせ」  との密命すら与えていたのである。  むろん朝比奈藤兵衛は、せまい了簡《りようけん》から佐幕に固執したのではない。せがれ茂吉によく似た面長の顔に小さな白髪髷《しらがまげ》をのせているかれは、起倒流柔術の奥義を極めた人物らしくいつも堂々と弁じた。 「わが郡上藩青山家は、関ヶ原以前より徳川家におつかえする譜代の家筋ではないか。内府さま(慶喜)が大政を奉還あそばされたとは申せ、徳川家に対してなお忠節を保つべきは理の当然であろう。もしもいま藩論が勤王と定まるならば、一朝徳川家が天下を恢復《かいふく》したあかつきには、わが藩は家臣としての節を失いし罪をまぬかれがたいことになる。されば御先祖さまがたのおぼしめしにも違《たが》うこととなり、いかんとも申し訳が立たぬではないか」  十五歳となり、書に天稟《てんぴん》を見せはじめている峯之助も、つぶらな瞳《ひとみ》を輝かせてこの論理を受け入れたのだった。  しかし、かれらの期待もむなしく慶喜は二月十二日に江戸城を出、上野寛永寺の大慈院に謹慎してしまう。  やむなく朝比奈藤兵衛は峯之助に、帰国していったん上洛するよう勧めた。同月二十日に江戸を発《た》った峯之助が箱根で下津久馬と鉢合わせし、かれをしたがえてお国入りしたのは三月上旬のことであった。  この間、鈴木兵左衛門の新政府への働きかけには、まことにいじましい[#「いじましい」に傍点]ものがあった。  石高四万八千石とはいうものの、名産は紬《つむぎ》と鮎《あゆ》、肉桂《ニッキ》くらいしかない郡上藩は慢性的な財政赤字に悩んでいた。安政《あんせい》三年(一八五六)の段階で、江戸大坂の商人その他からの借入金はすでに元利合計五万二千両。八年後の元治元年にいたってようやく十ヵ年の年賦で返済をはじめることにしたが、これも空手形におわってしまい、借金は雪ダルマ式にふくらんで慶応四年(一八六八)を迎えたのである。  このような恒常的財政赤字の下で、新政府から官軍として出兵するよう求められたならば、藩の財政が完全に破綻《はたん》することは目にみえている。それを憂え、鈴木が懸命にひねり出したのは、 「尊王でゆくが、出兵はせず」  という奇策であった。  すなわち鈴木は、美濃も新政府側の勢力圏に入ったと判断した一月十八日の段階で、新政府に朝命を遵奉《じゆんぽう》するとの上表を提出。あわせて天領飛騨の警備を命じられるよう嘆願したのである。  新政府は、大筋においてこの嘆願を受け入れた。が、話はそう簡単にはゆかなかった。  安永《あんえい》二年(一七七三)、飛騨の高山で「大原騒動」と呼ばれる一揆《いつき》が起こったことがある。代官大原彦四郎の圧政に耐えかねた農民たちが高山へはこばれるべき米や薪炭を押さえてしまったため、大原代官は近隣諸藩の応援を得てこれを鎮撫《ちんぶ》しようとした。  ところが、この求めに応じた郡上兵二百はやりすぎた。かれらは無抵抗の農民たちの中に銃や刀槍《とうそう》を持って突入し、斬獲《ざんかく》をほしいままにしたのである。  この大原騒動以来郡上藩に恨みをふくんでいた飛騨の住民たちは、郡上藩飛騨入りと聞くや新政府に対してその忌避を強く申し立てた。これを認めた新政府は、あらたに郡上藩国許に対し、官軍として出兵するよう勅命を下した。  これが二月十八日のことで、鈴木兵左衛門はいわば策士策に溺《おぼ》れる結果をまねき寄せてしまったわけである。あわてたかれはさらに朝廷に嘆願陳情をくりかえし、ようやく四月に入ってから、 ≪飛騨国非常ノ節ハ取締リ致スベシ≫  すぐに派兵せずともよい、との朝命を拝することに成功した。同時に官軍への参加は免除されたから、ここに晴れて郡上藩は、鈴木の画策したとおり出兵はせずに勤王を標榜《ひようぼう》できることになったのである。  ひと安心したかれがその後もっとも気にかけたのは、江戸詰め藩士たちの動きよりも官軍に対して対決姿勢を強めつつある会津藩二十八万石の動向であった。  文久二年師走以来、京にあって京都守護職に任じられていた会津藩主松平肥後守|容保《かたもり》は、二月中に失意を抱いて会津へ帰っていった。その後慶喜は水戸へ退去、江戸城は無血開城と決まったことから、この佐幕派最強の雄藩は賊徒中の首魁《しゆかい》として官軍最大の憎悪の対象となっている。  しかし会津藩と力を合わせ、幕府を再興しようと夢見ている者も少なくはなかった。  三月初旬、甲州奪取を策して東山道総督軍にやぶれ、下総流山《しもうさながれやま》に転陣した新選組の五十余。旧幕歩兵差図役古屋佐久左衛門のひきいる衝鋒隊《しようほうたい》八百数十。四月十一日、旧幕歩兵奉行大鳥圭介とともに江戸を脱走することになる伝習歩兵第二大隊四百八十。かれらと市川で合流する伝習歩兵第一大隊七百および第七連隊三百五十、桑名兵二百、侠客《きようかく》新門辰五郎の子分たちからなる土工兵二百、水戸藩の佐幕派脱走集団諸生党の七百、……。  仙台藩六十二万石、南部藩二十万石、米沢藩十八万七千石、庄内藩十七万石など奥羽地方の大藩も会津支援にむけて動きはじめていたから、もしかれらが会津藩と同盟をむすぶならば戊辰《ぼしん》の戦いはまだどちらが勝つか分らない。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ※[#歌記号、unicode303d]みやこ見たくば会津にござれ、いまに会津が江戸になる [#ここで字下げ終わり]  という歌すら会津では歌われていた。  これら開戦前夜の様相を見つめ、鈴木兵左衛門は案じた。 (もし会津が勝ちを制し、徳川幕府が再興されることになった場合、一藩の面目を失わぬようにしておかねば……)  そこに三月中旬、朝比奈藤兵衛から峯之助あての書状が来た。わが藩からも会津へ援軍を送るべきだ、という内容である。若き藩主からそれを見せられ、意見を求められた鈴木兵左衛門は、これにはすんなりと賛意を表した。 (国許は朝命を奉じつつも官軍に兵を出さずにすまし、三百年来の恩顧ある徳川家と戈《ほこ》をまじえることだけはなんとか回避した。ここで江戸表の佐幕派が会津にひそかに援軍を送っておけば、どちらが勝ってもわが藩は新時代に生き残ることができる)  と、新政府側と会津側とに両|天秤《てんびん》をかけておくのを得策と踏んだのである。  しかしもし会津側が敗れた時に、初めから勤王を唱えていた自分や主君まで会津に通じていたと思われてはたまらない。そう考えた鈴木は、 「朝比奈あての返書には、一件は汝《なんじ》の裁量にゆだねるが、この書状は一読後ただちに火中に投ずべし、とお書き下され」  と、みずから筆を取ることを好む峯之助に助言するのを忘れなかった。むろん、会津援軍の派遣に国許が関与していないよう装うためである。  そうとは思いもよらず愚直にこの主命を守った朝比奈藤兵衛は、四月初旬に一隊を組織した。 [#ここから改行天付き、折り返して6字下げ]  隊 長 朝比奈茂吉  副隊長 坂田林左衛門  使 節 速水《はやみ》小三郎 [#ここで字下げ終わり]  これに刀槍操銃にすぐれた三十六人の藩士と小者六人、それに会津行きを希望する旗本ひとり、案内役の会津藩士ひとりが加わったから総計四十七人である。速水小三郎はかれらを会津藩に預けるための使節だから、隊士中にはふくまれない。しかし、 「四十七士とは幸先がよい。かの赤穂《あこう》浪士とおなじ数ではないか」  と隊士たちは意気上がった。名づけて、  ——凌霜隊《りようそうたい》。  郡上藩青山家の家紋は葉菊であり、家名を取って青山菊ともいわれるが、菊はよく霜に耐える特性をもつ。この隊名には、会津松平家に合力して艱難《かんなん》を克服しよう、という郡上藩佐幕派の思いがこめられていた。      三  朝比奈茂吉以下、凌霜隊生き残りの二十六人が入れられたのは、三棟ある獄舎のうちもっとも東殿山寄りの日の差さない一棟であった。板敷五坪の小牢には茂吉と坂田林左衛門、速水小三郎の幹部三人が、それとは板壁で仕切られた二十五坪の大牢にはほかの二十三人が収容された。 「外鞘《そとざや》」  と呼ばれる軒下の格子は、高さ二間、四寸角の杉材で造られている。その外鞘とは一間幅の三和土《たたき》の通路をはさみ、 「中鞘」  と称する高さ一間、三寸角の赤松材の格子の内側が揚り屋であった。格子と格子の間隔は、外鞘が四寸、中鞘が三寸。中鞘のはじには小さな窓が切られている。  この小窓から差し入れられる三食は白木の破子《わりご》入りの麦飯で、朝夕には汁、昼には一日おきに塩づけの魚がついた。初日にはひとり四十枚ずつのちり紙が配られたが、これは以後十日目ごとにわたされるという。  火鉢と布団も与えられたから、当座の寒さはしのげるかと思われた。だが湿った床板から這《は》い上がってくる冷気はことのほかきびしく、浅くしか眠れない。番所に詰める牢番は十人であったが、夜中も半刻(一時間)おきに外鞘をあけ、ガンドウを持ってふたりずつ通路に入ってくる気配がますます寝苦しさを深めた。  そのかれらにとってわずかの慰めとなったのは、尾島左太夫、山田熊之助、小泉勇次郎、武井安三の同志四人がすでに揚り屋に先着していたことだった。  九月二十二日に鶴ヶ城が官軍に明けわたされた後、会津援軍として籠城していた凌霜隊は猪苗代《いなわしろ》に謹慎。十月十二日長州、大垣の兵にかこまれて江戸改め東京へ護送され、二十四日朝五つ半|刻《どき》(九時)千住《せんじゆ》に着くやいいわたされた。 「その方らは旧藩預けとなる」  その場で郡上藩から出張《でば》ってきていた請け取り役人六人、護衛兵六十人、小者十人に引きわたされたかれらには、藩邸でからだを休めることも許されない。暮れ六つ刻(午後六時)に二|艘《そう》の伝馬船に乗せられ、勝利の美酒に酔う官兵たちであろう、両岸にならぶ川岸《かし》茶屋のにぎわいを唇を噛んで眺めつつ隅田川を下り、翌日八つ刻(午前二時)に品川沖に達して淡路《あわじ》行きの千石船に収容されたのである。  しかし二十六日早朝に出帆したこの淡路船は、二十九日遠州|灘《なだ》にさしかかったとき季節はずれの嵐にまきこまれてしまった。寒風は頭上に渦巻いて悲鳴のような音を響かせ、大きくふくらんでは沈下する鈍色《にびいろ》の海原からは切り立つ三角波が押し寄せて船酔いを誘う。その三角波を横腹に受けて横すべりしはじめた淡路船は、やがて暗礁にのりあげて船底を破られ、次第に水船《みずぶね》と化していった。  船頭や凌霜隊、その護衛兵たちは積みこんでいた伝馬船を海面《うなも》に下ろしてかろうじて乗りこみ、付近を航行中の別の淡路船、赤穂船、尾張船に救助された。淡路船と赤穂船が志摩国神明浦に入津《にゆうしん》するのに手間どったのに対し、尾張船は順調にすすんで助け上げた尾島左太夫以下四人を最寄りの浜に送りつけたので、かれらは十一月八日のうちに郡上入りをはたしたのである。  だが、この再会はつかの間の喜びをもたらしただけであった。  揚り屋入りに先だち、金気《かなけ》あるものは脇差どころか煙管《きせる》さえ取り上げられ、親族縁者との面会、文通も禁じられていたから、藩庁がその後かれらをどうしようと考えているのかさっぱり分らない。不安は日ましに募り、 「朝比奈隊長が八田覚太夫に放ったせりふは、鈴木兵左衛門さまに正しく伝わったのであろうか」  という問題がくりかえし論議された。が、八田のその後の動きが分らないのだから、この議論自体が五里霧中を出られない。 「『われらを闇から闇に葬ろうなどと謀った時は、われらはありとあらゆる手だてを講じて冤を雪ぎ、遺恨を晴らしてお目にかける』とまで朝比奈隊長が啖呵《たんか》を切ったのだから、なおざりにはできまい。いずれ、『本来ならば厳罰に処すべきところ、格別のはからいをもって寛典に処す』とか何とかいってくるだろうて」  と楽観する者がある一方、 「さような考えは甘すぎようぞ」  と暗い目つきをする者もいた。かれらはいった。 「こう申しては朝比奈隊長に失礼だが、この揚り屋に押しこめられて外部との交渉をいっさい断たれている以上、『ありとあらゆる手だてを講じて』といってもその手だての講じようもない。いまや藩庁を牛耳っているとおぼしき勤王派からすれば、われら凌霜隊は無届け脱藩した不逞《ふてい》のやから、という線で押した方が新政府との間に悶着《もんちやく》をおこさずにすもうから、真実はどうあれこの主張を曲げるとはとても思えぬ。であるならば、われらはやがてあの噂どおり全員斬に処されるものと覚悟せねばならぬ。もしも切腹を許されるならば、それは僥倖《ぎようこう》と思うべきではあるまいか」  このような堂々めぐりの議論がむしかえされる時、格子に顔をつけるようにして大牢の者たちをたしなめるのは速水小三郎であった。 「諸君、落着かれよ」  秀でた額の下に小作りな目、それとは不似合いの高い鼻をそなえたかれは、華奢《きやしや》なからだからしみじみとした声をしぼり出した。 「会津入りする途中にも幾度か申したが、道は一筋であると思い召されよ。武士《もののふ》として義を思い、一筋の道を迷わず邁進《まいしん》いたしたわれらには、さらに新しき一筋の道がひらけるとそれがしは信じており申す。出口なき論議をつづけて神経をすりへらすよりは、おのれの赤誠に照らして望みを棄てず、赦免以後のことを思って心身を病まぬよう心がけておくことこそ肝要ですぞ」  速水小三郎は、文政《ぶんせい》五年(一八二二)生まれの四十六歳。二百五十石どりの用人として活躍するかたわら国学と歌学を学んで抜群の学識を身につけ、『万葉集|類纂《るいさん》』、『源語類林』など『万葉集』、『源氏物語』の注釈書や『郡上名勝図画賛歌集』、『志能布草《しのぶぐさ》』などの歌集ほか数十冊の書物を著した郡上藩きっての学者である。  かねてからその学識と人物器量を高く評価していた朝比奈藤兵衛は、凌霜隊を会津へ派遣するに際してかれを使節に指名した。大藩会津におもむき、郡上藩が援軍として凌霜隊を差しむけるに至った事情を堂々と陳弁できる者はかれ以外にない、と考えたためで、このような事情から当初速水は隊外の使節として凌霜隊に同行することになったのだった。  しかし旅の途中で、速水は凌霜隊に加わってしまった。かれの人柄を慕った隊士たちがこぞって入隊を乞《こ》うたため、速水は心を動かされ、 「ではそれがしも諸君と生死をともにいたしましょう」  と答えて凌霜隊参謀に就任したのである。  赤誠のあるところ道はおのずからひらける、と速水に諭されて心安らぎ、隊士たちの中には格子ごしに歌の添削を乞う者もあらわれた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  よしや士は苦しけくとも天地《あめつち》の正しき道をゆき通らまし  真心に真なる道をたどらまし我身の幸《さち》を神にまかせて [#ここで字下げ終わり] 「みなさんとても素直な詠《よ》みぶりで、拙者の助言などまったく必要ありませぬ」  暗がりの中で鷹揚《おうよう》にほほえむ速水を見て、朝比奈茂吉は思った。 (動揺が収まっているうちに、何とか赦免の報に接したいものだが)  しかし、朗報は届かない。その間に月日はすすみ、明治二年となった。      四  二月四日、赤谷の揚り屋にはひさびさに喜びの声が満ちた。病あるいは負傷した同志の看護のため会津領内に残留し、生死の案じられていた三人の隊士——浅井晴次郎、山田惣太郎、野田弥助が送られてきたからである。  血色のよい三人がこもごも語ったところによれば、猪苗代で養生していた浅井と山田が野田と合流したのはまったくの偶然だったという。  浅井晴次郎と山田惣太郎は、病も癒《い》えたさる師走六日、旧幕脱走諸隊の降伏兵四百とともに猪苗代を出立。加賀、備前の兵に護衛されて白河街道を上り、十九日一橋門外の丹波亀山藩上屋敷に入って謹慎した。するとそこに、野田弥助がいたのである。  二十八歳の野田は、わずか五石どりながら慶応二年(一八六六)以来玉薬方を勤め、砲術に通じた有能な隊士であった。いまは合牢者《あいろうもの》となったかつての同志たちに問われるまま、かれは自分が亀山藩邸に送られるまでの経緯《いきさつ》を淡々と語った。 「昨年四月十六日に下野国小山《しもつけのくにおやま》で官賊と初交戦し、宇都宮をへて塩原に達したあと、われらは会津西街道を若松へと北上しながら横川、大内《おおち》、関山と戦いつづけたのでしたな。関山宿にあった九月二日、官賊が芸州兵を先鋒《せんぽう》として大内方面より攻め来たり、われらが若松より来援の会津兵三百余と合してこれを迎え討ったのは、みなさまよく御承知のことと存じます」 「そうであった」  と、隊の書役《かきやく》であった矢野原与七が応じた。 「そして三日、われらは裏山の赤松の林に散開して三町(三二七メートル)まで迫りし敵と銃撃をまじえましたが、この時小出|於莵次郎《おとじろう》殿は拙者の背後からスペンサー銃を撃ちまくっておられた。その撃発音が耳に響いてたまらぬので、拙者は手近の別の木陰に移りました。その木陰からふりかえると小出殿は右手の脈所《みやくどころ》の上を撃ちぬかれ、つづけて左腕にも一弾を浴びて倒れたのでした」  野田もうなずいてつづける。 「その後乱戦となる間にそれがしは小出さまに駆け寄って助けまいらせ、山中をさ迷ったはてに雀林の会津藩病院にお送りしました。そしてすぐ高田に走り、同地在陣の旧幕新遊撃隊に加わって戦いつづけたのですが、七日夕刻、小出さまは無念ながらはかなくなられたと伝えられたのです」  九月四日から六日にかけて、凌霜隊は八月二十三日以来|熾烈《しれつ》な籠城戦をくりひろげている鶴ヶ城に入城をはたした。しかし本軍と離ればなれになってしまった野田は、その後も郊外の高田、坂下《ばんげ》、田島方面を新遊撃隊とともに転戦。二十二日、ついに会津藩降伏決定と知るや、新遊撃隊の四百余に水戸藩脱走の諸生党を加えた八百数十とともに会津を去り、日光をへて箱根を占拠しようとした。  だが斥候を放つと塩原方面は早くも積雪を見ている上に、後詰《ごづ》めの官軍多数が浸透していてとても斬《き》り抜けられそうもない。 「どうせ死ぬのなら、故郷の水戸に還《かえ》って屍《しかばね》を曝《さら》そうではないか」  宿敵|天狗《てんぐ》党が藩政を掌握していると知った上でそう覚悟を決めた水戸諸生党の意気に感じ、野田は那須野ヶ原から大田原《おおたわら》藩領、黒羽《くろばね》藩領を強行突破して水戸へ進撃した。  九月二十九日から十月二日まで水戸城大手門外で大戦争となったが、黒羽、烏山、肥前の兵が天狗党側に来援するに至ってこの佐幕派集団は惨敗。ちりぢりになって下総の銚子方面へ潰走《かいそう》した。  諸生党がさらに一戦を願って佐倉へ落ちていったのに対し、野田は新遊撃隊の残兵三百とともに銚子に潜む途《みち》を選んだ。が、かれらの潜伏は、たちどころに銚子を支配する高崎藩陣屋の知るところとなる。 「どうか降伏いたして下さりませぬか。なお潜伏いたされたき御方は、潜伏なさりつづけても尋ね出しはいたしませぬが」  高崎藩役人のねんごろな申し入れに感服した野田たちは、十月四日銃砲と大小とを差し出して旅籠《はたご》に謹慎。十八日高崎兵と尾張兵に護送されて行徳《ぎようとく》まで陸路をゆき、それより船で日本橋へ送られて二十二日に亀山藩邸に収容された。ここで旧藩預けとなる旨申し聞かされ、この正月二十三日から三日間郡上藩上屋敷で謹慎させられた後、国許送りとなったのだという。 「よくぞそこまで戦いつづけて、無事に還ってこられましたな」  板壁をへだて、小牢の格子の間から鼻を出すようにして聞いていた朝比奈茂吉がいたわった。野田は心なしか潤《うる》んだ声で答えた。 「いえ、それがしなどのことはどうでもよいのです。ですがここにおられぬ顔もあるところを見ると、それがしが隊とはぐれてから討死なされた同志もおありの様子。その方々がどのように討死なされたのか、どなたか教えては下さりませんか。もし幸いにも赦免となったならば、それがしはせめて御遺族がたに討死の模様をお伝えしたいのです」 「ああ、それはよいお考えです。討死は武士《もののふ》の本懐とはいえ、御遺族はわれらの家人以上に悲嘆にくれているでしょう」  そこで少し間を置き、茂吉は提案した。 「ですが今日の段階では、われらのうち誰が晴れて宥免《ゆうめん》となるか分りません。ともかく誰か最初に出獄できたものが、その使者の役をうけもつことにいたしませんか」  全員がこれに賛同したので、茂吉は矢野原与七にすべての戦死者の死の模様を伝えてくれるよう依頼した。矢野原が筆記しつづけた戦争日記は藩庁に奪われていたが、討死の者が出るたびにその死を目撃した者は、矢野原にその模様を告げて記録させるようにしていた。そのため藩の右筆《ゆうひつ》でもあったかれが、もっともよくすべての事情に通じていると思われたのである。 「では、行方不明ふたりもふくめて、それがしの記憶にあるかぎりを申し上げましょう」  矢野原は大牢の中央に出て正座し、誰にともなく一揖《いちゆう》して語りはじめた。 「まっさき駆けて討死なされたのは、田中亀太郎殿。田中殿は昨四月十六日に小山宿の小山新田にて彦根、笠間、壬生《みぶ》、宇都宮の兵と初交戦した時、頭を撃たれて即死なされ、新田栄次郎と申す地元農民の地所に埋葬されました。またこの時ほぼ同時に膝《ひざ》の上を撃たれた菅沼銑十郎殿は、若松の病院に送られたものの七月十七日に死去なされました」  矢野原は両眼を閉じ、死者たちの霊に声低く話しかけるように語りつづけた。  ……旧幕草風隊、七連隊、貫義隊と合して八百余となり、小山戦争に勝利を得た凌霜隊は、四月十六日のうちに栃木宿郊外の太平山《おおひらさん》へと進出した。しかしその途中で最初の行方不明者が出た。白石弦之助三十七歳。帳付け役五石どりの白石は、途中の茶屋に休憩してふたたび行軍にうつった際、 「あ、茶屋に刀を忘れてきてしもうた。すぐ取ってまいる」  といいおいて駆けもどってゆき、そのまま帰ってこなかったのである。  御広間番五石どりの山片俊三《やまがたしゆんぞう》三十五歳も、その夜姿を消した。かれは太平山神社前の止宿先から敵情探索に出ていったんは帰ったものの、その後ふたたび探索のため山を下りて行方をくらましたのだった。  ふたりはともに自分より倍以上年かさで交際もなかったから、茂吉には白石は小太り、薄あばたの赤ら顔で大酒家、やせぎすの山片は生《なま》ものは決して口にしない神経質な男、ということしか印象になかった。  しかし隊士たちに聞いてみると、ことに白石は品行良からぬ人物のようであった。非番の日には長屋に寝ころがって『吉原細見』『品川細見』などの遊女屋案内や見世物小屋の配る猥雑《わいざつ》なちらし[#「ちらし」に傍点]類に読みふけり、夕刻からいそいそと他出するのを常としていたという。また酒亭で放歌高吟したあげく乱酔し、体格のよい酌取り女をむりやり抱き寄せては、 「おれは大女が好みでのう」  と淫《みだ》らな目つきをするのでたしなめるのに苦労した、という隊士もいた。 (さような者など、消えてもらって構わぬ)  と茂吉は、深く気にせずに旅をつづけたのだった。  その後五月十一日から八月二十二日まで、凌霜隊は会津藩日光口総督山川|大蔵《おおくら》の指揮下に入り、塩原に駐屯した。この間、敵はあらわれなかったから平穏無事の日々をすごすことができた。  だが八月二十三日に官軍が若松に侵入したと翌二十四日に知らされ、塩原から会津西街道経由横川まですすんだ時、官軍大部隊の猛追を受けた。凌霜隊はふた手に別れて胸壁陣地に貼りついたが、小銃のみのかれらに対して官軍は四ポンド山砲数門を有していた。刻々と戦況が不利となるうち、御広間番五十石三人扶持の中岡弾之丞二十五歳が胸壁内に立ちあがり、胸壁の上に銃身をのせて狙撃しようとした。  しかし、不発であった。いそぎ撃鉄を起こそうとした時、中岡は右耳の上から左耳の下へと撃ち抜かれ、一言も発することなく事切れた。  さらに大内まで進出した八月三十日には、周辺の山々に展開した優勢な官軍がせまい街道の両脇に点在する宿に未明から砲撃をしかけてきた。 「敵は背後にもまわったぞ!」  流言|蜚語《ひご》に惑わされて算を乱した凌霜隊の各隊士は、街道上から左右の山や谷に入りこんで身を隠そうとした。だがその多くは敵兵に遭遇して弾丸を撃ちつくし、進退きわまって抜刀攻撃にうつった。  視野の効かない山陰のこととて、この決死の斬りこみはよく効を奏した。  無役七人扶持、二十三歳の桑原鑑次郎は、宿場はずれで半首笠に詰襟服の官兵数人に道をふさがれるや、黒ラシャの筒袖陣羽織をまとった五体をまるめて一気に肉薄。初太刀でひとりを袈裟《けさ》掛けに屠《ほふ》り、恐怖に駆られて背をむけようとしたもうひとりに腹から背へ抜ける必殺の突きをくり出して死地を逃れた。  無役五石どり二十一歳の小泉勇次郎も力戦してふたりを斬り、元寺社方|書役《かきやく》五石どりの土井重造三十六歳もひとりを仕留めてその首を右腰の首袋に納めた。  隊長朝比奈茂吉は、まだ十代ながら起倒流柔術と北辰一刀流の剣に非凡な冴《さ》えを見せ、 「郡上の小天狗」  と異名をとった天性の兵法家《ひようほうか》である。刀の刃がノコギリのようになるまで斬りまくって重囲を逃れたが、敗走する間に山中で迷ってしまった隊士もいた。山脇金太郎、牧野平蔵、浅井晴次郎、野田弥助、そして小者の小三郎。  小三郎は敵兵に撃ち倒されるのを目撃されていたが、五十石三人扶持御広間番、二十歳の山脇の生死は不明であった。 「とはいえ、白石弦之助や山片俊三が姿を消したのとは事情が違う。多勢に無勢の戦いの最中に行方を絶ったのだから、山脇殿は斬死したに相異ない」  という意見が大勢を占め、矢野原与七もそう記録することにした。  そして九月一日の関山戦争では、小出於莵次郎が両腕に重傷を負ってまもなく林定三郎が即死した。三石二人扶持目付支配、江戸定詰めであった二十五歳の林は、小高い丘の木陰からスペンサー銃を乱射していた時、こめかみから耳の裏へと撃ち抜かれたのである。  この関山から腐臭を放つ累々《るいるい》たる両軍の死体を沿道に見ながら本郷、飯寺《にいでら》とすすみ、無残に焼け落ちた郭内《かくない》の武家屋敷の間を縫って鶴ヶ城に入った凌霜隊は、白虎隊隊長|日向《ひなた》内記に迎えられて西出丸《にしでまる》の防備についた。  西出丸とは五層の天守閣をもつ鶴ヶ城本丸の西に張り出した矩形《くけい》の一城郭で、周囲百八十四間(三三五メートル)。堀と大町通りとをへだてて藩校日新館に面していたが、この藩校もすでに焼かれ、角櫓《すみやぐら》から見下ろすとその広大な敷地には焼野ヶ原がひろがるばかりであった。  この方面からの銃砲火に応射すべく、凌霜隊はすでに穴だらけになっている土塀の内側に幅四、五十間の胸壁陣地を築いた。地面を三尺掘り下げてその土を土手とし、狭間《はざま》を切って万全のそなえをとったのである。  九月十四日に始まった一日二千五百発の大砲攻めに、西出丸でも会津の砲兵が手首を噴きとばされるなど酸鼻な光景が現出した。対して凌霜隊は、不思議なほど無疵《むきず》であった。  一度、土井重造と浅井晴次郎のならんだ胸壁近くで焼き玉が炸裂《さくれつ》して四方に鉄片をふりまいたが、ふたりは奇跡的にかすり疵すら負わなかった。また、番兵に立つ者以外急造の屯所に入り、思い思いに煮物を作ったり横になったりしている時、砲弾がはめ[#「はめ」に傍点]板を撃ち抜き、土間に大穴をあけたことがある。屯所は使用不能になってしまったものの、この時も死傷者は皆無であった。  もうひとつの屯所にいた石井音三郎がはめ[#「はめ」に傍点]板に寄りかかって休んでいた十八日の夜五つ刻(八時)には、小銃弾がその隣りのはめ[#「はめ」に傍点]板を貫通。 「おれはまったく運が強い、これも神仏の御加護だ」  石井は驚きかつ喜んだが、幸運はそうはつづかなかった。翌日の暮れ六つ半(七時)、小用に立った石井が番兵として胸壁内に入り、なにげなくたたずんでいた時、城外から一発の銃声が起こって石井はなすすべなくくずおれた。その左上腕部を貫いて脇腹へ侵入した銃弾は、内臓を切り裂いて右のあばらに喰《く》いこんでいた。  医師として凌霜隊に加わっている小野三秋が切開手術をして銃弾を抜いたが、血反吐《ちへど》は止まらない。二十日|払暁《ふつぎよう》、石井は苦しみながら息絶えた。五石どりのかれは、まだ二十歳になったばかりの青年であった。  一同が頭《こうべ》を垂れ、瞑目《めいもく》して死者たちの面影を追っていると、ふたたび矢野原与七の乾いた声が響いた。 「こうしてわが凌霜隊は、討死八、行方知れず二を出して帰参したわけです。敵に背をむけて士道に背く死に方をした同志は、ただのひとりもおりませんでした。以上で書役からの報告をおわります」      五  討死した同志たちの姿を思い出すうち、朝比奈茂吉は行方不明となった白石弦之助と山片俊三のことが急に気になりはじめた。 「あのふたりは、どうして戻ってこなかったのでしょう」  同房の速水小三郎に訊ねると、速水はあっさりと答えた。 「矢野原殿は『行方知れず』ということばを使ったが、あのふたりは前後の様子から見てあきらかに逃亡したのですよ」 「しかし、なにゆえに——」  茂吉がさらに問うと、速水は、それは分らぬが、と前置きしていった。 「小山で官軍と初交戦して実戦の凄《すさ》まじさを目《ま》のあたりにし、にわかに臆病風《おくびようかぜ》に吹かれたのかも知れぬし、江戸に未練があったのかも知れぬ」  この答えでは、どうも割り切れぬものがある。 (藩の内命を受けた凌霜隊からの脱走は、すなわち脱藩に等しい。たとえ江戸へ戻っても藩邸に顔出しすることもできぬし、逆に追手を受けることすら覚悟せねばならぬ。なのに分別盛りのふたりがどうして逃亡したのか)  茂吉はくりかえし自問した。が、結論は出ない。そのうちに、そんなことを考えているゆとりはなくなった。ひどい熱病に罹《かか》ってからだの関節が疼《うず》き、枕から頭が上がらなくなってしまったのである。揚り屋内の寒さ、湿気と通風の悪さ、そして食事の粗末さが祟《たた》って次第に病みつく者がふえていた。 「医者の診療をお願いいたしたい」  時々巡見にくる徒《かち》目付の来訪を待ち、速水は申し入れた。しかし徒目付は、にべ[#「にべ」に傍点]もなく答えた。 「仲間うちに小野三秋という医者がおるではないか」  小野がいても薬餌《やくじ》箱はないのだから、これはいかにも非情なせりふである。 「これは異なことを承る。旧幕府伝馬町の牢屋敷においては、罪の定まりたる場合も疾病《しつぺい》ある者は医薬を供され、重篤の時は家族ひとりを獄内に入れて看病することすら許されているのですぞ」  速水は格子を両手につかみ、理路整然と迫った。だが徒目付は、 「ここは伝馬町ではない。赤谷村だ」  とうそぶいて逃げるように身をひるがえした。 「あ、あやつらは、やはりわれらがここに朽ち果てることを願うておるような」  茂吉が咳《せき》こみながらいうと、 「弱音を吐いてはなりませんぞ」  速水は叱咤《しつた》するように応じ、気のいい牢番が見まわりにきた時に丁重に申し入れた。 「すまぬが、前庭の木の葉をたくさん取ってきてくれぬか。中には熱病や腫物《はれもの》、湿疹《しつしん》に効く葉があるかも知れぬ」  牢番は前庭の木々の葉をむしり、根元に落ちている枯葉も拾い集めて差し入れてくれた。明治二年三月一日は新暦四月十二日で、木々は若葉をひろげはじめている。  嬉《うれ》しそうに葉の束を受け取った速水は、奇妙な作業をはじめた。  さまざまな葉を辛抱強く揉《も》みつづけ、じわじわと樹液を搾《しぼ》って椀《わん》に移す。ようやく椀の底に褐色の液がたまると、今度は自分の髪の毛を引き抜いて楊子《ようじ》のような細筆をこしらえた。そしてひそかにためこんでいたちり紙に、小さな字でなにごとか書きはじめたのである。  数日後、速水はまた気のいい牢番に頼んだ。 「細字で、しかも漢字ばかりだから読みにくかろうが、目を通してくれても構わぬ。これは病魔退散を祈願いたすための願文でな、見てのとおり熱病、腫物に苦しむ者が少なくないから、慈恩寺に願《がん》を懸けたいのだ。すまぬが、これを慈恩寺の和尚に届けてはくれぬか」  自由の身になり次第、礼はたっぷりする、といいそえると、牢番は気安く使いを引き受けてくれた。  これまで揚り屋内にある隊士たちの中には、冤《えん》を雪《そそ》ぐ手だては残されていない、と諦《あきら》めている者が多かった。しかしこれこそは、雪冤のために速水が練った秘策であった。文盲に近い牢番には読み取れなかったが、微細な文字の白文がびっしりと書きつらねられたちり紙には、凌霜隊の置かれた理不尽な状況が克明に記されていたのである。  ……凌霜隊は無届け脱藩の佐幕派集団ではなく、藩の内命を受けて会津に味方した援軍であること。新政府が凌霜隊を旧藩預けとしたにもかかわらず、官軍と会津側との双方に尻尾《しつぽ》を振っていた藩庁はなおも新政府の威光に怯《おび》え、凌霜隊を揚り屋に押しこめたままであること。科人《とがにん》同然の酷《むご》い扱いに、獄中には病者が続出していること。……  人口は寡少ながら、郡上藩の領内にある寺院の数は百以上にのぼる。  願文はたしかに慈恩寺にわたした、と牢番から報告を受けて気を良くした速水は、ほかの隊士にも手伝わせ、三月中旬から五月中旬までの二ヵ月間、主だった寺にあててこの文書作戦をつづけた。その間に茂吉も健康を恢復したが、速水の秘策が効果をあらわしたのは五月下旬のことであった。  揚り屋から西へ数町、池泉|廻遊《かいゆう》式兼座観式の名園|※[#「くさかんむり/至」、unicode834e]草園《てつそうえん》をもつ臨済宗妙心寺派の慈恩寺は、正式には鐘山《しようざん》慈恩護国禅寺という。朝廷とのかかわりも深く、後水尾《ごみずのお》・仁孝《にんこう》両帝の綸旨《りんじ》、花園《はなぞの》・後西《ごさい》両帝の御|宸翰《しんかん》その他を宝物とするこの名刹《めいさつ》は、青山家の前の藩主遠藤家も帰依《きえ》した歴史を誇っていた。  その住職は、十三世|淅炊《せきすい》和尚。時に本山の意向も無視する肝の太い老僧である。速水の嘆願書を熟読して義憤を感じたかれは、ただちに凌霜隊を救済しようと決意した。  宗派をこえて他山の僧侶《そうりよ》たちに回状を出すと、ことごとく淅炊和尚に味方してくれるという。  徳川時代、仏教寺院はすべて幕府の統制下にあったから、諸藩は寺領に対して一目も二目も置いていた。僧侶たちの社会的地位は、今日よりもはるかに高かったのである。  それが慶応四年三月に神仏分離令が発布されるにおよび、全国の寺院はあまねく排仏|毀釈《きしやく》の嵐に翻弄《ほんろう》されることになった。郡上藩領においても事情はおなじで、御一新後諸山の僧侶たちは、暴徒たちの無法な破壊・略奪行為を咎《とが》めようとしない藩庁に対して不信の念を育てていた。ために凌霜隊救済の運動は、僧侶階級の実力をあらためて満天下に示す恰好《かつこう》の機会でもあったのである。  この反応に満足した淅炊和尚は、五月下旬のある日藩庁に乗りこんで筆頭国家老鈴木兵左衛門に会見を申し入れた。鈴木は戊辰の動乱を大過なく乗りきった功を賞され、八百石どりのところへ二百石を加増されて今なお藩政を壟断《ろうだん》している。  白地裏緋の表袴《おもてばかま》に精好紗水浅葱《せいごうしやみずあさぎ》の襲《おそい》、金糸入り襤褸《らんる》織りの衲袈裟《ころもげさ》をまとい、いかつい左手首に水晶の珠数《じゆず》を巻いて出合いの間に通った淅炊和尚は、勝手に上座に腰を据えて口をひらいた。 「当山が朝廷ともゆかり浅からぬ寺であることは、御辺《ごへん》もよう御承知のはずじゃ。しかるに近ごろ他国より拙僧に密訴した者がござっての、御辺が戊辰のいくさに際し、朝廷に恭順を誓う一方で会津方にも藩兵を送っておったことが分明となった。そうと知れた以上、拙僧としては京の本山を通じて、恩顧ある朝廷にさよう言上いたさねばならぬ。よいじゃろうな」 「いや、それは……」  ことの意外さに、鈴木は皺《しわ》んだ小作りな顔を蒼黔《あおぐろ》くして絶句した。夏扇をひらいて胸許《むなもと》に風を送った淅炊和尚は、読経できたえた朗々たる声で一気に畳みこんだ。 「ならば赤谷に呻吟《しんぎん》しておる凌霜隊の諸士を、ただちに安らげる場所へ移されよ。藩のためを思うてはるか奥州に戦い、少なからぬ死者まで出して生還いたした忠誠の士を不浄の地に投じて一顧だにせぬとは、天道に背くふるまいであろう」  和尚の気迫に呑まれた鈴木は、しぶしぶとながらその場で凌霜隊の移転を確約した。  この約定にしたがい、凌霜隊が城北の職人町にある真宗大谷派の古刹《こさつ》、光耀山長敬寺《こうようざんちようきようじ》の本堂に移されたのは五月末のことであった。      六  門前には、郡上名物の清冽《せいれつ》な湧水がせせらぎとなって流れていた。  総門の左右に白線五本入り黒瓦《くろがわら》の土塀をめぐらした長敬寺の本堂は、十五間(二七・三メートル)四方の規模を誇る。金色《こんじき》の阿弥陀如来《あみだによらい》を祀《まつ》る大仏壇と金塗り紙の襖《ふすま》をそなえた堂内には七十九枚の畳が敷きつめられていて、半年間の揚り屋暮らしと較べると極楽のようであった。  時の住職、十世|侯朝《こうちよう》和尚は郡上屈指の能筆家で、時々登城して藩主青山峯之助の書道師範もつとめている。そういう間柄であったから、淅炊和尚とも連絡をとりあった侯朝和尚は、峯之助に対して凌霜隊の待遇を改めるよう直接勧めていたのだった。  膳《ぜん》にも郡上ならではの味、鮎の刺身や雑魚《ちちこ》、ウルカ、山鳥の身叩《みたた》きなどがならぶようになり、竹の子の地味噌煮《じみそに》、山菜の酢味噌あえもふんだんに出されて、隊士たちは次第に生気を甦《よみがえ》らせた。  一応境内には番兵が置かれたが、ありがたかったのはこの番兵たちが、夜陰に乗じて差し入れられる家族たちからの便りをあえて見すごしてくれたことだった。東京に残っていた藩士やその家族も続々と郡上入りしていたから、隊士たちは帰郷後半年ぶりに家族たちの安否を知ることができた。  だが、——。  これによって初めて隊士たちが知ったのは、藩庁が隊士を出した各家にきわめて苛酷《かこく》な処分を加えていたという事実であった。  生還した隊士たちのうち、すでに家督を相続していた者は、わずか二人扶持か一人扶持と足軽以下の石高に落とされていた。一人扶持とは、一日につき玄米五合の割合でしか禄米《ろくまい》を支給されないという意味である。また家督相続前の者と次男以下から出仕していた者の扶持米は、すべて没収されていた。  特にひどいのは朝比奈家のあつかいで、茂吉の十人扶持はもちろんのこと、父藤兵衛は一千石の知行、役職、家屋敷のいっさいを奪われて永蟄居《えいちつきよ》を命じられ、藩の古長屋に強制的に転居させられていた。  これが昨年九月二十三日に断行された処分の実態で、その後朝比奈藤兵衛に対しては、 ≪格別の家筋の儀につき≫  と勿体《もつたい》をつけ、かろうじて十人扶持があてがわれることになったという。いずれにせよ一千石どりの家老が突然十人扶持に落とされるとは、前代未聞の沙汰《さた》である。  茂吉の母が差し入れた手紙によれば、去る九月、藩庁が藤兵衛を裁断した理由はこうであった。 ≪当春以来宇内|騒擾《そうじよう》のおりから別して順逆相わきまえ尽力いたすべきところ、かえって姦黠《かんかつ》の坂田林左衛門、速水小三郎はじめ四、五人の者ども申し立て候ことのみ信用いたし、大義を忘れおいおい不都合相かさみ、ついに譜代の者ども三十余人ならびにせがれ茂吉まで一己《いつこ》の了簡にて内々出張などの虚名をもって武器金子等まで相渡し、脱走せしめ、その始末注進をも申し越さず押し隠し置き、あまつさえ志意両端に相構え因循《いんじゆん》いたし候につき、……≫  茂吉は江戸を去る前、父と国許とのやりとりを一部始終告げられていたから、この文面が虚偽に満ちたものであることはすぐに分る。  かれは、すずやかな目許を翳《かげ》らせていった。 「これでは、各地の山河に屍《しかばね》を曝《さら》した同志たちの家がどのような目に遭っているか分りません。皆さま、伝手《つて》をたどって討死なされたかたがたの御遺族の様子を聞き出しては下さらぬか」  各隊士がさらに家族たちに問い合わせたところ、菅沼銑十郎家以外の遺族七家には、家禄没収宣告のあとなんの救済措置もとられていないことが判明した。菅沼は八十石三人扶持と死者のうちでは最も高禄であったため、その遺族には特別に二人扶持が与えられているという。  それと知り、茂吉は激した。 「生きて還った者の家族が二人扶持か一人扶持なら、命を棄てた同志の御遺族にはせめてその倍の禄米か見舞金が出されているだろうと思っていました。それが、われらの家より無情にあつかわれているとは——」  だがまもなく、それ以上に奇怪な事態の起こっていることがあきらかになった。 「これは面妖《めんよう》な。拙宅からの手紙を見て下さい」  矢野原与七が茂吉に示した文面は、凌霜隊からの逃亡者白石弦之助の家族にも二人扶持が与えられている、と告げていた。しかるにもうひとりの逃亡者、山片俊三の家族は他の遺族同様棄ておかれたままだという。  差し入れの帷子《かたびら》をまとい、金色の阿弥陀仏を拝んでいた速水小三郎も、これを聞きつけて小首をかしげた。 「これは」  その時ふと閃《ひらめ》いたことがあり、おなじ帷子姿の茂吉は速水の前に膝をすすめた。 「速水さまの御家族は、二人扶持の御処分でしたね」 「さよう」 「ですが速水さま。昨年四月十一日に江戸を出立いたしました時、速水さまは使節というお役目でわれらに同行して下されたのであって、まだ凌霜隊に加盟してはおられませんでした。これは国許の御家族に御迷惑がかからぬよう、父から藩庁にあてた書状にも明記されたはずです」 「ああ、御家老はそこまで配慮して下さったのですか」  頭を下げようとする速水を制し、茂吉はさらににじり寄って口迅《くちど》につづけた。 「ところがわれらの家族も速水さまの御家族も、さる九月二十三日に一斉に処分されたのです。これがどういう日にちかお分りでしょう」 「うむ。故意か偶然か、会津藩開城式のとりおこなわれた翌日ですな」 「そうです。ところがこの前日までわれらは鶴ヶ城西出丸におったのですから、速水さまが旅の途中から凌霜隊の参謀に就任して下さったことは、友軍以外には知らなかったはず。なのに藩庁は父あての問罪書でも≪坂田林左衛門、速水小三郎はじめ四、五人の者ども申し立て候ことのみ信用いたし≫と、まるで速水さまが凌霜隊結成の首謀者であったかのごとく決めつけ、御家族への処分も他の隊士と同様におこないました。凌霜隊への御加盟を知られぬかぎり、速水さまは使節としてのお役目を果たしてすぐに帰参しなかった罪のみを問われるべきなのに、です」 「うむ、そこまでは思い至りませんでした」 「なのに藩庁はなぜか昨年九月二十三日以前に、速水さまがわれらの参謀に就任して下さったことを探知していた。そして一方では、脱藩人の係累《けいるい》として謹慎か押しこめ処分になっても不思議ではない白石弦之助の家族に、必死に戦って生還を果たした隊士たち同様の二人扶持が下されていた、ということです。一人扶持しかもらえぬ御家族もあるというのに、ですよ。どうして卑劣な脱走者の家族が、死者たちの遺族よりも優遇されるのですか」  日ごろすずやかな茂吉の両眼は炯々《けいけい》と輝き、色白な頬には血の色が昇っている。  速水も、小さな目に力をこめてうなずいた。 「われら学者は、物事を断定するのを急いではならぬと教えられています。しかしこれはもう断定してよいでしょう、白石弦之助は藩内勤王派の意を体し、心情を偽って凌霜隊に参加した間諜《かんちよう》だったのですな。思えば白石が消えたのは小山でわれらが官軍と初めて戦い、勝ちを制した直後でした。凌霜隊が会津へ旅立ったとはいえ、あの時点までわれらがどこまで真剣に戦うか、勤王派はまだ疑心暗鬼だったでしょう、なにせわれらは四十七人の小部隊だったのですから。それが小山戦争で存分に働き、それがしも凌霜隊に加盟してしまったのです。白石はこれらの経過を勤王派に復命すべく、隊を離脱したに違いない。おそらく白石は、その後佐幕派の藩士に狙われるのを恐れ、褒美として得た小金をふところにしてどこぞに潜んでいるのでしょう」 「やはり、そうお思いですか」  短く答えた茂吉は、左手の小指を立てて畳に押しつける。そして大きく息を吸い、腹から声をしぼり出しながら左腕に力をこめた。 「間諜許すまじ、ということです」  枯れ枝を折るような乾いた音が響き、小指は異様な角度に反《そ》りかえる。  茂吉が噴き上がる憎しみのあまりわれから小指の骨を折ったと気づき、速水は息を呑んでその小指を見つめた。      七 ≪元郡上藩 朝比奈茂吉以下≫  と凌霜隊を一括し、太政官から宥典《ゆうてん》が示達されたのは明治三年正月五日のことであった。 ≪右、謹慎ヲ免ゼラレ候事≫  帰郷以来、実に一年二ヵ月の月日が流れていた。晴れて自由の身となった隊士たちは、嬉々《きき》として各家に散っていった。  さる明治二年六月の版籍奉還以来、青山峯之助は藩知事に就任。鈴木兵左衛門は一等士執政としてなお藩政を輔弼していたが重い病を患い、同年八月以降は役職を返上して自宅に引き籠《こも》っている。  そして明治三年八月三日、藩知事は周囲の進言を容れ、元凌霜隊隊士たちを藩庁に再出仕させることにした。副隊長だった坂田林左衛門はもう五十四歳なので隠居したが、朝比奈茂吉、速水小三郎ほか七名には十一石、他の者たちには九石が与えられるという。  しかしひとり茂吉のみは、この召し出しに留保をつけた。 「野州、会津に死せる同志たちの霊を慰めるべく旅に出たいと存じますので、しばらくの休暇をお許しいただきたし」  と願い出て許され、単身東京へむかったのである。  生き残りの隊士たちを再出仕させた裏には、これで許せ、という藩庁勤王派の姑息《こそく》な思惑が見え隠れしていた。 (そんな甘言に乗せられてたまるか。凌霜隊の隊長だったおれには、まだやらねばならぬことがある)  という切迫した思いが茂吉を突き動かしていた。  断髪の頭に藺笠《いがさ》をのせ、麻帷子たっつけ袴に父から借りた大小を差しこんだかれは、炎天下に十七泊の泊りを重ねて八月下旬に東京に入った。  まず訪ねたのは、青山足軽町の郡上藩上屋敷であった。御一新とともに、郡上藩上屋敷は水道橋外からこの地へ替地《かえち》を命じられたのである。だが茂吉は西側の百人町の往還をゆくうちに、意表を突かれる光景を目《ま》のあたりにして茫然《ぼうぜん》とした。  かつて青山辺は、大名屋敷や鉄砲組同心百人衆、御台所番、黒鍬《くろくわ》者、作事奉行方普請同心衆などの組屋敷が立ちならぶ純然たる武家屋敷町であった。  ところが道の左右に櫛比《しつぴ》していたはずのそれらの屋敷はあらかた破却され、跡地は例外なく桑畑か茶畑になっていた。しかも、道ゆくひとは少なく畑仕事をしている者もまばらで、桑や茶の木には立ち枯れているものが目につく。 (御一新後、東京はこんなに荒れ果てていたのか)  と、茂吉はわれ知らず胸痛む思いがした。長く禁足を余儀なくされていたためかれは知らなかったが、新政府は東京を首府と定めるや、旧大名・旗本の家屋敷は官軍に味方した者の持ち分以外ことごとく接収したのである。  そのあるものは新政府高官の私邸となり、またあるものは行政官庁に転用された。しかし、東京府総面積の六割におよぶ武家地千二百万坪弱の多くは無住の地と化し、たとえば番町や駿河台周辺は丈高い雑草に覆いつくされるありさまとなった。  これを憂えたのが、佐賀出身の大木|喬任《たかとう》。東京府知事に任じられて開墾掛りをも兼ねたかれは明治二年八月に桑茶政策を提言し、麻布十二万坪、青山十六万坪、小石川十四万坪、市谷十一万坪その他を桑茶開墾地とした。だが、まもなく桑茶の七、八割は枯れ死んだので、あとには夜ともなれば蝙蝠《こうもり》が飛び、梟《ふくろう》の鳴く広大無辺の荒地がひろがるばかりとなったのである。  藩邸表門に進んで門番に名を告げると、本殿出合いの間に通されて顔見知りの留守居役の応接を受けた。ひともめっきり減って大体の部屋は空いているから、東京にいる間はどこでも好きに使ってよい、と無造作にいう。 「それはありがたい」  茂吉は端整な顔にほほえみを浮かべ、真顔にもどって訊《たず》ねた。 「それがしは会津入りの途中で行方不明になった白石弦之助、山片俊三の御両者のことが気懸りでならぬのです。おふたりについてなにか聞いてはおられませんか」  すると留守居役は、意外なことを伝えた。山片俊三は、ついひと月ほど前ふらりと顔を出したという。 「かの者は町人風の身なりをし、命のやりとりをするのが恐くなって凌霜隊を脱走してしまったが、いまは横浜でどうやら暮らしている、隊士のどなたかに会ったらまことに顔向けできぬことをしましたと伝えて下さい、といって飄然《ひようぜん》と立ち去りました」 (やはり間諜は山片ではなく、白石弦之助の方だったのだ)  茂吉は確信し、ようやく普通に動かせるようになった左小指を屈伸させた。  翌日から茂吉は、着流しに紺色白|独鈷《どつこ》紋の博多帯を締めて大小を落とし差しにし、素足に雪駄《せつた》、手ぬぐい頬かむりという遊冶郎《ゆうやろう》のような姿で夕方から藩邸を出かけるようになった。 「ほほう」  こやつ、本当に死者を悼む気はあるのか、といいたそうに留守居役は目を丸くした。 「旅に出る前に、ちと人探しをしなければなりませんので」  茂吉は照れたように答え、表門の潜り戸を後にした。  その言い分に偽りはなかった。しかしその行く先は新吉原のほか、根津、内藤新宿、品川、板橋、千住などの岡場所であった。  別に女郎買いをするためではない。  会津入りの途中で知った、女郎買いを好む一方大女に目がない、という白石の性癖をこのところ何度も反芻《はんすう》した茂吉は、 (間諜として得た小金がまだ残っていれば、あやつはどこぞの大柄な遊女に入れ揚げているやも知れぬ)  と考えるに至っていた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ≪一、丈高からず低からず、肥え候方。  一、丸き赤ら顔にて鼻低く、唇厚くて醜男《ぶおとこ》の方。  一、頬に薄あばたありて歯並び乱れ、美濃|訛《なま》りこれあり。  一、酒は大酒いたす方、煙草も好む。≫ [#ここで字下げ終わり]  絵心もある速水に描いてもらった人相書にこれらの特徴を書いた紙を添え、大女の遊女を訊ねまわってなんとしても白石の居場所を突き止めてやる、とかれは決意していたのである。  しかし旧大名諸侯とその家臣たちがすべて国許に去り、人口激減したとはいえ東京で人探しするのは容易ではない。秋も深まるまでに名のある遊女屋はほぼまわったが、手がかりはまったくつかめなかった。  遊び客の人力車や馬車でにぎわう品川で小銭をつかませた歯欠けの妓夫太郎《ぎゆうたろう》は、せせら笑いながら答えた。 「兄さん、今時そんな大女の太夫は流行《はや》らねえから、大女めあてに登楼《あが》る物好きもいねえってことよ。文化《ぶんか》文政以前にゃあ、湯島大根畑にともよ[#「ともよ」に傍点]といって、五斗俵五俵を載せた大八車を目よりも高く差し上げたり、厚さ四寸の碁盤を片手で振って百目ロウソクの火を消す化物がいたって話だ。この品川の鶴屋の蔦野《つたの》という飯盛女も、身の丈五尺八寸五分(一・七七メートル)、手の平の長さ七寸二分(二二センチ)、幅は五寸(一五センチ)もあったらしいが、そんなのは今日びは女相撲にしか売られめえ。近頃の流行《はやり》は英語太夫に漢語太夫よ」  片言の英語を話す遊女がもてはやされるのは異人客に人気があるためだろうが、漢語太夫とはなんのことか、と登楼したことのない茂吉は首をひねった。  すると妓夫太郎は、したり顔で教えてくれた。 「近頃、官員|面《づら》してのさばってやがるやつらは西国の三一《さんぴん》あがりばっかりで、訛りがきつくてなにいってんのかさっぱり分らねえ。やつらもそれを気にして訛りのめだたねえ漢語ばかり使いくさるから、こちとらもそれの分る敵娼《あいかた》を用意しなくちゃいけねえってわけさね」  漢語の分る女性といえば、武家の出であろう。父や夫を賊徒として討たれ、御一新後このような苦界に身を沈めて夜ごとかつての敵に抱かれている女たちも多いのだろう、と思うと茂吉はやりきれなかった。  だが凌霜隊が断罪されていたなら、自分たちの母や妹も路頭に迷ったはずである。 (本来なら鈴木兵左衛門を膺懲《ようちよう》すべきなのかも知れぬが、寝ついた老いぼれ相手では後味が悪すぎる。もし白石が東京から他国へ去っていればそれまでだが、おれはまだ諦めぬぞ)  茂吉は気を取り直した。      八  その後、山片が暮しているのならもしや白石も、と思って横浜にも足をのばしてみた。だが異国同然の関内は、臑《すね》に疵もつ者の出入りする場所とは思えぬ華やかな世界であった。山片はどこかの商店にでも傭《やと》われているのだろうが、遊び人の白石がまっとうな職についているとは思えない。  以後二日間、茂吉は藩邸表長屋の一室を出ずにすごした。三流どころの岡場所をやみくもに当たってみようかとも考えたが、砂山から小針を探すようなやり方では埒《らち》が明かぬ、と思い直したのである。  幾度も白石の性癖を思い返してみた。しかし酒好きで好色、しかも大女好み、という三点しか分らないのだから、大女の遊女に入れ揚げていさえすれば尻尾をつかめるのだが、というところから先へは頭がゆかない。茂吉はがらんとした部屋の古畳に横たわって頭の下に両腕を入れ、煤《すす》けきった天井板を見上げつづけた。  その時不意に、品川の歯欠けの妓夫太郎のせりふが思い浮かんだ。 「そんなのは今日びは女相撲にしか売られめえ」  そういえば、白石は見世物小屋のちらし[#「ちらし」に傍点]をもっていたこともあると聞いた。もしどこかの見世物小屋に女相撲がかかっていれば、白石は日参しているかも知れない。念のため留守居役の老人に訊ねると、かれは、今度は悪所通いではなくいかがわしい見世物見物か、とうんざりした顔で答えた。 「従来、武士が見世物小屋に出入りすることなどは好ましからぬこととされておったから、拙者は浅草や両国|界隈《かいわい》に所用で出かけたおりに看板を眺めたことしかござらぬ。しかも、たしか御一新のころに男女の裸体を見せてはいかんというお布令《ふれ》が出、いまは女どころか男衆の相撲も禁じられて力士商売は上がったりになっとるはずですぞ」  茂吉ががっかりした目つきになると、留守居役はつけ加えた。 「じゃが、蛇《じや》の道は蛇《へび》ということばもござる。御禁制となればなるほどお手前のごとく見たがる者も出ようから、ひそかに興行されとるかも知れん。その目で確かめてきてはどうじゃ」  これで駄目なら会津へ旅立とう、と腹を決め、翌日から茂吉は見世物小屋をまわりはじめた。武士階級が出入りをはばかる地帯の方が、心|疚《やま》しい者がひそむには恰好の場所かとも思われたからである。  まず足をむけたのは、両国であった。大川に架かる長さ九十六間(一七五メートル)の両国橋の、米沢町側の西両国は、あたりは町屋ばかりだから武家地のように荒れ果ててはいなかった。  しかし、にぎわう者たちの身なりは貧しげで、物乞いの多いのがひどく目立つ。つぎの当たった古|小袖《こそで》に膝の抜けた袴、髷はなお大たぶさに結い上げながらやつれ果てた五体不全の者たちが、地べたに点々とならんでいるのも異様であった。 「戊辰の役に徳川さまにお味方いたし、負傷して手足を失いしわれらにお恵みあれ」  そのひとりが哀切な声で叫ぶのを聞いた時、茂吉はあやうく涙ぐみそうになった。  橋をわたって、常設の見世物小屋の多い東両国へ行った。へそ芸、女剣舞、犬芝居、蜘蛛《くも》男、蟹《かに》婆。毒々しい顔料で描いた怪しげな絵看板と幟《のぼり》のならぶ小屋の下で、木戸番が声を嗄《か》らして呼びこみをしている。留守居役がいったように、女相撲はどこにもかかっていなかった。  次の日、茂吉は浅草へ足をのばした。御一新前に変わらぬにぎわいの広小路から仁王門をくぐり、五重塔、輪蔵《りんぞう》、絵馬堂、三社権現を眺めながら朱塗りの外側に高欄をめぐらした本堂の脇をまわって奥山にすすむ。この境内一の盛り場には秋の青空の下に葦簾《よしず》張りの水茶屋や矢場が軒をならべ、それぞれの店の前には裾《すそ》から赤い蹴出《けだ》しをのぞかせた色気たっぷりの女たちが客を誘っていた。  その前を過ぎ、けばけばしい看板と幟の林立する方角に近づいてゆくと、 「メリケン帰り 松井源水の曲|独楽《ごま》」  という看板を手前に、軍書講釈、あやとり、居合抜き、化物屋敷、西洋曲馬、鯨の干物など、大小の小屋が棟割長屋のようにならんでいた。  しかし化物屋敷だけは青竹をぶっ違いに打ちつけられ、閉鎖されていた。おそらく幽霊という名目で卑猥《ひわい》なものを見せ、停止《ちようじ》を命じられたのだろう。茂吉は、その幟を左手で払うようにして行きすぎようとした。  そしてふたたび顔を上げようとした時、隣りの小屋の前に大きな梵鐘《ぼんしよう》が据えられているのに気づいて何事か、と思った。看板を見上げると、 「大女力持《おおおんなちからもち》太夫 大腰熊野 奥州の産 身の丈七尺五寸」  という朱文字が目に飛びこんでくる。  そういえば歯欠けの妓夫太郎も、ひと昔前の大女の遊女は力わざを見せたといっていた。大女の見世物は、女相撲だけではなかったのだ。  四十五文の札銭を払って中に入ると、梵鐘や碁盤、五斗俵をならべた舞台上では、幇間《ほうかん》のような身なりの小太りの男が白扇で額を叩《たた》きながら口上を述べているところであった。 「口はばったくはごじゃりまするが、これなる百二十貫目の大釣鐘を差し上げまする芸当は、神代の昔から聞きおよびませぬところ、されば大女力持太夫大腰熊野は天下一と申せやしょう」  下卑た口調ながら、その声はどこか聞き覚えがあるような気がした。左右に石油ランプを吊《つ》り下げられた舞台を暗い土間からまじまじと見つめるうち、思わず茂吉は顔を歪《ゆが》めて呻《うめ》いた。 (図星だったな、白石よ。うぬはわれらが赤谷に苦吟する間にも、かくも胡乱《うろん》な世界で太平楽に生きのびておったのか)  代わって島田髷に厚化粧の大女がのそりとあらわれ、緋《ひ》の長襦袢《ながじゆばん》の胸許からたわわな乳房をのぞかせて五斗俵を頭上に高々と差し上げる。それを一瞥《いちべつ》した茂吉は外へ出て呼びこみ兼木戸番の若い衆に心づけをはずみ、小屋がはねる時刻と一座の人数を聞き出していた。  翌日の夜五つ刻(八時)、——。  興行がおわったので舞台裏へまわった若い衆は、白石と熊野が戻ってきていないのを不審に思って袖から舞台へと出ていった。そこには熊野が大の字に倒れているだけで、白石の姿はない。 「太夫、しっかりしろ。おめえの情夫《いろ》はどこへ行っちまった」  畳のようにひろい背中を、ようやく起こして訊ねた。だが熊野は、芸がおわって客が引き、ふたりで米俵や碁盤、梵鐘の位置を直しはじめたとき急に首筋に鈍痛が走ってわけが分らなくなった、というだけで、さっぱり要領を得なかった。  その四日後に刊行されたある新聞は、 ≪化物屋敷の生首は本物/浅草奥山の怪≫  と題して事件を報じた。 ≪五日間御停止となりおりし浅草奥山の見世物小屋が昨日よりまた客を入れ、化物屋敷を再開したるに小塚ッ原の曝し首を真似たる首は正真正銘、本物の生首と変わりおれり。大騒動の結果、生首はその隣りに小屋掛けしたる大力女の情夫にて三日前に神隠しに遭いたる白川金松のものと判明、胴体も番町皿屋敷のお菊の出ずるべき古井戸の内に発見されたり。下手人は天狗とはいわねども、まことに奇々怪々の殺しというべし≫  常時、小屋にいるのは三人、香具師《やし》と用心棒は夕方木戸銭を集めにくるだけ、と聞き出していた茂吉は、その日町人に変装して日が暮れてから小屋に入った。  最後の興行がおわると、出るふりをして土間の暗闇に潜伏。舞台上のふたりが梵鐘や五斗俵の位置を直すうち、音もなく舞台のはじに飛び乗った。そして背後から大女の首筋に手刀を、驚愕のあまり立ちすくんだ白石の鳩尾《みぞおち》に当身をくれて、白石のみを裏手から隣りの化物屋敷へ拉致《らち》したのである。 「間諜たる貴様の密告により、速水さまはじめ凌霜隊隊士の家々は喰うや喰わずの境涯に落とされたのだ。どうしてくれる」  土下座して詫《わ》びるならば、殴りつけるだけですましてやろうか、とも思った。しかし白石は、もがきながらもふところに呑んでいた匕首《あいくち》を抜き、茂吉の腹を抉《えぐ》ろうとした。咄嗟《とつさ》に飛びすさった茂吉は、後ろ差しにしていた脇差をその首にむかって一閃《いつせん》したのである。 「郡上の小天狗」  といわれた者が戊辰の戦いに場数を踏んだだけに、躱《かわ》しようもない早わざであった。  怪談『番町皿屋敷』の悪役、旗本の青山某は郡上藩青山家の縁戚《えんせき》といわれていた。暗い小屋の中にお菊のあらわれる古井戸がしつらえられているのに気づいた茂吉は、白石の胴体をそこに投げ入れた。凌霜隊を罪に陥れようとした藩庁に対する、せめてもの鬱憤《うつぷん》晴らしである。  しかし素知らぬふりをして郡上に還った時、茂吉は意外な事実を知って愕然とした。病床に老残の身を横たえているものと思った鈴木兵左衛門は、強運にも病から立ち直り、藩庁に復帰して大参事に昇っていたのである。 (なんということか。かようなことなら密告者白石ではなく、われらを断罪しようとしたあやつをこそ狙うべきだった)  深い徒労感に襲われたかれは、全身の力が抜けてゆくような気分を味わった。  だが冷静に考えると、この狭い城下で人知れず鈴木を誅《ちゆう》することは不可能であった。襲撃に成功したあと、自分だけ罰せられるならそれはそれでよい。そうは思っても、いったん茂吉が行動を起こしたならば、元同志たちにも共謀の疑いがかけられることは火を見るよりもあきらかである。 (かといって、あやつの下などで生きてはゆけぬ)  そう考えた茂吉は、思い切って郡上を退去することにした。近江の彦根城下に移り住み、父藤兵衛の本家に養子入りして椋原《むくはら》姓を名のることにしたのである。  かれと思いをおなじくしたのであろう、まもなく速水小三郎も家族をつれて東京へ去っていった。他の同志たちもそれにつづいたので、やがて凌霜隊士を出した家はことごとく郡上からいなくなった。  彦根に移ってからの茂吉は椋原家の裏手に一戸を建て、父母弟妹を呼び寄せて郡上藩とは完全に縁を切った。その後は戸長、村長、町長、県会議員を歴任。水争いその他のもめごとをよく仲裁して彦根のひとびとに慕われつづけ、明治二十七年七月十四日、四十三歳を一期《いちご》として忽然《こつぜん》と逝った。死因は脳溢血《のういつけつ》。  中肉中背、一見|優男《やさおとこ》であったが、茂吉はいつか大酒家になっていた。酒量は年とともにふえ、ついに朝から呷《あお》るようになったのが原因と思われた。一説に茂吉は、明治三年に東京から還ったあと急に酒量がふえたという。 [#改ページ]    眉山《びざん》は哭《な》く      一  阿波《あわ》徳島藩二十五万七千石——水路と蘇鉄《そてつ》の木がめだち、光あふれるこの城下の西方には、大滝山《おおたきさん》(標高二八三メートル)というたおやかな山塊がうずくまっている。その名のとおり滝が多く、春には全山に花々が咲き乱れ、秋には錦織りなす紅葉の奥に鹿の鳴く裾野《すその》のひろい深山である。  だが徳島人たちは、この山を大滝山とはまず呼ばない。『万葉集』巻六、雑歌《ぞうか》の部にいう。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  眉《まよ》の如《ごと》雲居に見ゆる阿波の山かけて漕《こ》ぐ舟|泊《とまり》知らずも [#ここで字下げ終わり]  この山は南国の空に美女の眉毛《まゆげ》のような稜線《りようせん》をほっかりと浮かべていることから、いつしか、 「眉山《びざん》」  と呼ばれるようになったのである。  幕末維新のころ、その眉山の北麓《ほくろく》、佐古秋田丁という東西に細長い町に、「繭山《けんざん》」と号する儒学者が住んでいた。直接眉山と名のるのをはばかり、その訓読みに当て字して雅号としたのである。  しかし繭山先生は、決して眉山のたたずまいを偲《しの》ばせるような美男ではなかった。  顔だちもからだつきも、みんな丸い。腹はふくらみ背丈は低く、加えて手足が短いからまるで達磨《だるま》のような風体であった。  二重まぶたのどんぐり眼《まなこ》は極度の近眼《ちかめ》で、講義する時には団子鼻に丸い眼鏡をかけるため、こんなけしからぬ冗談をいう門人もあった。 「先生のお姿を筆に写す時は、大小の円を重ねてゆけば事足りる」  この先生の住居兼学塾は、秋田丁では「豆腐蔵」と呼ばれていた。別に先生の体形に対する皮肉ではない。汗牛充棟の書庫が、白しっくい塗り矩形《くけい》の建物だったためである。  その豆腐蔵につづく十畳間に、先生が丸いからだを運んでおもだった門人たちから賀詞を受けたのは、明治二年|元旦《がんたん》正午のことであった。 「先生、新年まことにおめでとうございます。さまざまな藩命相つぎ御多忙ではござりましょうが、本年もどうかよろしく御指導下さりませ」  代表して面長な顔だちに総髪|銀杏髷《いちようまげ》をのせた南堅夫《みなみたかお》がいうと、 「うむ」  城から帰ってきたばかりだった先生は、まだ両の胸前に「五瓜《いつつうり》に三《み》つ地紙《じがみ》」の家紋を打った麻裃《あさがみしも》姿のまま、ぽってりとした唇をひらいた。 「まだ箱館|五稜郭《ごりようかく》とやらには幕府再興を叫ぶ残賊がおるから事すべて平らぐとまではいえぬが、わが徳島藩は政道を誤ることなく王威に服し、勤王の実を挙げることができた。その点から見れば、まことにめでたい初春と思う。  昨年七月、余が王命によって新都東京府へ出府された殿に供奉《ぐぶ》いたしたのは周知のとおりだが、以来余は、殿に対したてまつって一と六の日には『唐鑑』を御進講してまいった。余は来月、ふたたび殿に従って東京へゆかねばならぬが、その殿の思《おぼ》し召しによって今月中にはお城西の丸に文武学校『長久館』がひらかれ、わが師|新居水竹《にいすいちく》先生が文学教授として御出講される。  水竹先生は余と異なってひととなり穏健誠実、まことに恭謙なお人柄だから、余の不在中どうかその方らは水竹先生についてますます勉学にこれ努め、国家有用の人物となるべく研鑽《けんさん》してくれ」 「はい」  紋羽織姿の若手藩士十人は、一斉に答える。目を細めてそれをうち眺めた先生は、急に砕けた口調になってつづけた。 「よし、年頭の挨拶《あいさつ》はこれまでだ。あとは酒だ。おれはちょいと着更えてくるから、一同用意を始めい」  先生が赤い舌を出して上唇をちろりと舐《な》めたので、門弟たちはどっと笑った。先生は、「酔客」という別号をもつほどの大酒家なのである。  最年少十六歳の門人ながら文武両道に異彩を放つ滝直太郎が率先して横長の机を片寄せ、全員が車座になれるように場所を作った。そこへ先生の妻女おつね[#「おつね」に傍点]が四歳の長女おやな[#「おやな」に傍点]をつれてあらわれ、年賀の挨拶もそこそこに手料理の大皿をならべてゆく。  おせち料理のほかに、徳島名物|漉《こ》し餡《あん》入りの焼き餅、卵黄づめの焼きちくわ、干しえび入りのわかめの刺身、……。  目鼻だちの整った妻女おつね[#「おつね」に傍点]は、免許町の呉服屋|漆原《うるしばら》甚兵衛の長女であった。歌道、俳句をたしなみ御家流の書もよくする聡明《そうめい》さからかえって嫁《ゆ》き遅れていたが、八年前の文久《ぶんきゆう》元年(一八六一)二十八歳の時、藩儒に任用されたばかりの三十二歳の先生のもとへ嫁いできた。  先生は、師のひとり広瀬|旭荘《きよくそう》から、 「山陽後の才子」  すなわち頼山陽を彷彿《ほうふつ》とさせる英才と呼ばれ、興趣至って紙に筆を落とせばたちまち章をなす詩人でもある。  文久二年元旦には、元・明朝時代の書風に唐様をこきまぜた流麗な書体で、妻を娶《めと》った喜びと初出仕の緊張とを詠じた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  暁を趁《お》ひて厳城に上る  今初めて官情を識《し》り  班に列して狗尾《くび》を慙《は》づ  新婦鶏鳴を報ず [#ここで字下げ終わり]  勝手口へ妻女の手伝いにむかったまだ前髪立て童顔の滝直太郎は、大徳利二本をくくりつけた細竹の両はじを持ってそろそろともどってきた。先生の家では、大釜《おおがま》にたっぷりと湯を沸かし、その口にわたした細竹に五合徳利の口縄をむすんで燗《かん》をつけるのである。  杯を嫌い、初めから大ぶりなぐい呑《の》みで呑み出した先生は、わかめの刺身にも焼きちくわにも好物のすだちの汁をふりかけて門人たちに勧めた。先生の斗酒なお辞さぬ酒癖をよく知っている門人たちは、入れかわり立ちかわり酌をしては、返杯を頂戴《ちようだい》して皿のものに遠慮なく箸《はし》をのばす。  阿波名産、藍染《あいぞ》めの袷《あわせ》に赤ケット地の胴服に着更えていた先生は、やがて耳と頬とを微醺《びくん》に染め、 「それにしても、おら、うれしいがだ」  と阿波ことばをまじえて語りはじめた。 「おんしら知ってのとおり、わが師新居水竹先生は公武合体派が世を席捲《せつけん》いたした文久年間、藩庁からかねてより勤王思想を説ききたるは不都合千万などと手の平を返され、三好郡《みよしごおり》の池田郷学校へ左遷されてしまわれたのだ。それが王政復古の御世となり、長久館文学教授として復職なさるとは、至誠天に通ずとはこのことではないか」  当時、水竹門下の先生も勤王家のひとりとしてまだ佐幕派だった藩庁から睨《にら》まれていたから、師が辺境へ遠ざけられたのは他人事《ひとごと》ではなかったのだ。 「それにしても」  といいだしたのは、南堅夫であった。 「かの稲田侍どもが、徳島藩が藩論を佐幕から勤王に変じて維新回天の創業に同調できたのはわれらのおかげ、といわんばかりに近ごろ大きな面をしているのはまことに鼻持ちならぬことです」  稲田侍とは、徳島藩領淡路島の洲本城《すもとじよう》城代を兼ね、石高一万四千五百石、実質三万石の実力をほこる城代家老稲田九郎兵衛|邦稙《くにたね》の家臣たちをいう。  徳島藩十四代当主蜂須賀|阿波守茂韶《あわのかみもちあき》につかえ、八石四人|扶持《ぶち》を受けている直臣南堅夫から見れば、稲田侍は「陪臣《またもの》」にすぎない。かれらが維新回天に功あったとはいえ、直臣たちが白足袋づとめをゆるされているのに対し、陪臣には浅葱《あさぎ》色の足袋しか着用を許されない。  そういう身分差別も厳然と存在していたから、二十歳の南の目には、稲田侍たちが最近肩で風を切って闊歩《かつぽ》しはじめたことが面白からず映じていたのである。 「大体あやつらは、——」  南が天豆《そらまめ》のような顔だちに酔いを滲《にじ》ませてさらにいいつのろうとした時、玄関に来客の声がした。応対に出た滝直太郎が、 「これは大村さま。新年おめでとうござります」  と挨拶する声が聞こえたので、誰がきたかはおのずと知れた。  大村純安。まだ十九歳ながら、早くも新居水竹の家塾小心塾の塾頭をつとめる俊英である。かれから見れば先生は兄弟子にあたるから、わざわざ洲本の家から鳴門海峡をわたって挨拶にきたのだろう。 「やあ、大村君。まあ座って一杯やりなさい」  先生が座に請《しよう》じ入れると、彫りの深い男臭い顔だちをした大村は、如才なく年始のことばを述べて杯を押しいただいた。 「水竹先生とは、午前中の吉例の総登城の際に御城内でお目にかかった。大村君も、もう先生には年始をすませてきたのだろうな」 「はい、出来島《できしま》のお屋敷にうかがいましてから、こちらへまわってまいりました」 「そうか、そうか。おれは今な、先生が復職なされてこんなめでたいことはない、という話をしておったのだ」 「おや、拙者が玄関に入りました時には、『大体あやつらは』という南さんの大声が聞こえましたが」  大村が、斜め前に座る南に涼やかなまなざしをむける。南は、にこりともせずに応じた。 「大村さん、ちょうどよいところにおいで下さった。拙者は、稲田侍どもの近頃の横柄さについてお知らせしようとしておったのです。洲本は稲田家の本拠地だけに、この城下よりも目に余るものがあるのではありませんか」 「うむ、たしかに」  大村も、顔をしかめて答えた。 「あやつらの中には陪臣の印たる浅葱色の足袋をやめ、われら直臣同様白足袋で出歩く者まであらわれている。身のほどを考えよとたしなめると、白足袋にちょんと泥をなすって、これは汚れとるから白足袋とはいわん、などと抗弁いたす」 「何と、おこがましいことを」  隣りから大村に酌をしていた滝が激した口調でいうと、 「いや、今日はめでたい宴《うたげ》だ。その話はまたにしようや」  大柄な阿部|興人《おきと》がぶ厚い唇をひらいたので、何かいいかけていた南も苦笑して口を閉ざした。先生はその間も、ほかの門人たちの酌を受けてぐいぐいと呑んでいる。 「先生、拙者はちと暑くなりました。風を入れてもかまいませぬか」  阿部興人が訊《たず》ねると、先生はぐい呑みを手にしたまま鷹揚《おうよう》にうなずいた。  阿部が席を立って、南側の障子をあける。するとかなたの高みに、眉山の美しくもたおやかな姿が眺められた。 「あ、そうだ、先生」  阿部はふりかえり、浅黒い顔に笑みを浮かべていった。 「いずれ拙者に、あの眉山を詠んだ名詩を下さるというお約束でした。それを、今いただくわけにはまいりませぬか」 「うむ、あの『秋詞』だったの」 「はい」 「元旦早々、そげない[#「そげない」に傍点](冷たい)こともできぬ。では書いて進ぜよう」  筆硯《ひつけん》と色紙をはこばせた先生は、またぐい呑みを干し、しきりに舌の先で唇を舐めながら流れるように書きつけた。    秋 詞 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  観前半夜月明寒し  酔ひて上る南山の古石壇  鉄笛一声人を見ず  桂花|霰《あられ》の如く欄干を撲《う》つ [#ここで字下げ終わり] 「先生、ならば拙者にも是非お願いいたします」 「いえ、拙者にも」  それを見た大村、滝を初め全員が言い出したので、にわかに先生はてんてこ舞いになってしまった。  しかし十枚まで書いた時色紙が尽き、最後になった南の分がなくなってしまう。 「ほい、これはしもうた。南よ、おんしには後日書いてやるから、今日のところはこらえてくれ」  先生は筆をまたぐい呑みに持ちかえ、小さな髷を乗せた丸い顔をてらてらと光らせながらつづけた。 「ほかの十人は、わが色紙を売って女郎買いなどするでないぞ」 「決してさようなことはいたしませぬ。拙者らは稲田侍ではござりませぬから」  阿部が大真面目に答えると、消沈していた南堅夫も弾けるように笑い出した。      二  酒好きの詩人でもあるこの徳島藩儒は、元の名を斯波《しば》六郎、今の名を柴|秋村《しゆうそん》という。  天保《てんぽう》元年(一八三〇)、徳島城下元町の太物《ふともの》商阿賀屋清左衛門と女中工藤みき[#「みき」に傍点]との間に生まれ、わずか四歳で父に死別して極貧の中に育った。御用菓子店「壺屋《つぼや》」の丁稚《でつち》から始めたが、その親戚《しんせき》の書籍商「紀伊国《きのくに》屋」に使いにゆくたび店頭の雑書を耽読《たんどく》。医師河野弘に弟子入りしても『絵本|太閤記《たいこうき》』にしがみつくばかりで、 「医は学ぶに足らず」  と宣言し、徳島藩儒新居水竹の小心塾に入門しなおして、ようやく儒学者たらんと決意した。  弘化《こうか》二年(一八四五)、十六歳にして江戸へ出府。水竹の師でもあった東都第一の詩人大沼|沈山《ちんざん》に入門するが、その端麗の詩風とは似ても似つかぬ狭い了見、下品な人柄に愛想をつかし、大坂へ出て広瀬旭荘の慎明書屋の塾長となった。  愛用の丸眼鏡はこの時代に旭荘からゆずられたものだが、旭荘はかれよりも激しい近眼であった。これを掛けると頭痛がし、目がチカチカするのに、それも意に介さず勉学に耽《ふけ》るうちに自身も強度の近眼になってしまったのである。  旭荘のかつての号「秋村」をゆずられ、柴秋村と名のるようになったのもこの時代からのこと。同時に緒方洪庵の適塾にも入って、蘭学も学習。安政《あんせい》四年(一八五七)豊後|日田《ひた》の咸宜園《かんぎえん》を訪れて広瀬淡窓の子青村とまじわり、その取締役もつとめた。  万延《まんえん》元年(一八六〇)四月帰国。このころから学名詩才の評判は日ごとに高く、揮毫《きごう》を乞《こ》う者も多くなって多忙をきわめるようになった。そして文久元年徳島藩から儒官に任用されると、佐古秋田丁に豆腐蔵つきの家屋を購入したのである。  しかし柴秋村は、物静かに思索に耽る一般の儒者の枠には収まりきれない、熱した鉄のような人物であった。奇智に富む一方きわめて短気で同門の者たちともしばしば争い、泥酔したり乱行に及んだりしたことも少なくはない。  自分が正しいと信じた時には師をも叱咤《しつた》する激情の徒で、大坂時代に広瀬旭荘が、 「また揮毫を頼まれたんやけど、潤筆料が安うてかなわん」  と洩《も》らした時には、何喰《なにく》わぬ顔で迫った。 「先生、つかぬことをうかがいますが」  秋村は剛毛の生えたむっちりとした手を膝《ひざ》に置き、旭荘ににじり寄って訊ねたのである。 「古来、金銭を『阿堵物《あとぶつ》』と称するのはいかなる義か、ちと教えて下さりませぬか」 「何や、さようなことをまだ知らんのかいな。阿堵物とは『晋書』王衍《おうえん》伝に見ゆることばでの、もともとは『このもの』という意味や」 「なにゆえに金銭を『このもの』と呼ぶのでございましょう」 「金銭とは穢《けが》らわしいものやさかい、王衍はそのことばを発することすら忌んでそう呼んだのじゃ」 「はい。それでこの秋村にも合点がゆきましたが、さように穢らわしいものはなければないほど結構なこと。なのになにゆえ先生は、潤筆料が安うてかなわんなどとおっしゃってその穢らわしいものを欲するのですか」  こうして師にもためらいなく逆ねじを喰わせるかと思うと、自分が『孝経』の講義をしているうちに国の老母のことを思い出し、感きわまって泣き出す直情ぶりでもあった。ために大坂時代の秋村は、山陽後の才子と高く評価される一方で、 「旭荘門下三奇人のひとり」  ともいわれていたのだった。  その秋村が元旦に南堅夫の語った稲田侍のことを思い出したのは、六月に版籍奉還が行なわれてしばらくしたころのことである。  版籍奉還の結果、大名二百七十三家の当主は藩知事となって華族に列し、その家禄《かろく》は一律に従来の十分の一に切り下げられた。  これに対応して旧家臣団は士族に編入されることになり、徳島藩の場合、五人の家老は一千石、中老は二百石、物頭《ものがしら》は百石、平士《ひらし》は三十六ないし四十石と軒並家禄を引き下げられた。  秋村は五等士族とされ、大小姓とおなじ十石五人扶持をもらうことになったが、この二月にも蜂須賀茂韶に従って東京へゆき、御前講義をつづけた功によって新居水竹とならんで長久館文学教授に登用され、五石上づみされたので不服はなかった。  ところが、——。  この新禄制によると、各藩士の家につかえる陪臣たちはことごとく士族の下の卒族に組みこまれ、藩の銃卒として用いられることになっていた。のみならずこれまでの禄は停止され、かわりに藩庁からいくばくかの扶助を受けるだけ、とされていた。そのため城代家老稲田九郎兵衛家中から、猛反対の声が噴き上がったのである。  時の稲田侍の数は約三千。うち稲田家の家老をつとめる井上九郎右衛門は五百石どり、ほかに二、三百石どりの者も数十人いたから、士族にもなれず扶助しかもらえなくなるとあってこれらの者たちを中心に不満が噴出した。九月二十四日には、これに同情した稲田九郎兵衛自身が藩庁に嘆願書を差し出す騒ぎとなった。  候文で書かれ、送り仮名の省略や返り読みしなければならないくだりの多いこの文書を、重臣たちの前で朗読させられたのが秋村であった。 ≪今般 朝命を以て天下郡県の御法制に成させられ候につき≫  と始まる嘆願書は、稲田家は蜂須賀家とはその阿波入国以前から格別の間柄にある家筋であること、最近稲田家は勤王に尽力して朝廷から賞典を受けたことから説きおこしていた。  これらを前提として、以後稲田家家来たちに区々《まちまち》にわたされるべき扶助は一括して稲田九郎兵衛が受け取り、稲田家が従来どおりその家来たちとの主従関係をつづけることを許してほしい、と求めていたのである。  両耳に紐《ひも》をまわして団子鼻に丸眼鏡をかけ、その文章を読みすすめながら秋村は、 (この前提は事実といえば事実だ)  と考えていた。  稲田家の祖九郎兵衛|稙元《たねもと》は、太閤《たいこう》秀吉の股肱《ここう》の臣であり徳島藩の藩祖ともなった蜂須賀小六正勝とはもともとは主従の関係ではなく、友人という間柄であった。 天正《てんしよう》八年(一五八〇)、蜂須賀正勝が歴年の武功によって秀吉から播州《ばんしゆう》龍野五万三千石に封じられた時、稲田稙元は同時に河内《かわち》のうちに二万石を与えられることになっていた。ところが稙元はこれを辞退し、その後正勝のせがれ家政が阿波に入国することになった時には、同行してその家老となる道を選んだのである。当時、正勝・家政が稙元の好意に感激したのはいうまでもない。  稲田家は代々、徳島よりも京坂に近い淡路洲本を本拠としてきただけに、特に近年は政情の変化に敏感であった。蜂須賀家十三代当主|斉裕《なりひろ》が、徳川十一代将軍|家斉《いえなり》の二十二子であることから佐幕にこだわりつづけたのに対し、稲田家の先代九郎兵衛|稙誠《たねのぶ》は文久年間から尊王|攘夷《じようい》を標榜《ひようぼう》、京へ上って時の孝明《こうめい》天皇から天盃《てんぱい》を賜ったこともある。  そのころから稲田家は、京都では「稲田藩」、「洲本藩」と呼ばれ、勤王諸藩から一目置かれるようになっていた。  稲田家の三重臣——三田|昂馬《こうま》、内藤弥兵衛、林|徹之允《てつのすけ》が天下の形勢を考え、斉裕に佐幕から勤王への変針を進言したにもかかわらず、激怒した斉裕がこの三人を禁錮《きんこ》してしまったことがある。  それと知った朝廷は、慶応四年(一八六八)正月の鳥羽伏見戦争に旧幕府軍を打ち破ると、徳島藩に宣旨《せんじ》を下してかれらを放免させ、あわせて藩主の出京を命じてきた。  同時に出兵の勅書を拝した稲田家は、さっそく西宮に百名を派遣。讃岐《さぬき》高松藩追討に功を挙げたばかりか、三田昂馬以下の一大隊を東征大総督|有栖川宮熾仁《ありすがわのみやたるひと》親王に付属せしめた結果、稲田家には賞典二千両と鞍《くら》とが、三田昂馬個人には金百五十両と佩刀《はいとう》とが下賜されるという光栄に浴したのである。  対して徳島藩士たちの出足は鈍く、いざ戦場に着いてもあまりに旧式な軍備で官軍諸藩から物笑いの種にされた。稲田家側はこれらの事実を挙げて家来たちへの特別の措置を願ったわけだが、徳島藩としては、この嘆願をすんなりと呑むことはできない相談であった。  ある家臣は秋村が朗読をおわって評定《ひようじよう》が始まると、こう発言した。 「稲田家の事情は分らぬではないが、やはり特別扱いはできますまいて。と申すのも、稲田家の陪臣どもの身分を従来どおりといたすなら、他の国家老および中老のかたがたが『ならば当家も』とおっしゃった場合、この希望も容れざるを得ないことになり、このたびの御改革はまったく骨抜き同然となりかねぬからでござる」 (これはかなり厄介なことになりそうだな)  役目をおえた秋村は、外した眼鏡を布で拭《ふ》きながら他人事のように聞いていた。やがて自分がこの騒ぎの渦に巻きこまれることになろうとは、この時の秋村には思いも寄らなかった。      三  以後、柴秋村は文書の作成や朗読にはたずさわらなかった。そのため、事態がどのように推移しているのかはよく知らずに十月を迎えた。  この年の十月一日は、新暦であれば十一月四日に当たる。秋村は、十月の声を聞くと綿入れを羽織って晩酌するようになった。  すると五日の夜八時すぎ、門を叩《たた》く音がした。みずから下駄をつっかけて門扉を排すると、提灯《ちようちん》の明かりにからだの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせて立っていたのは、南堅夫と阿部興人であった。 「どうしたのだ、こんな夜分に」  短躯を反《そ》らせて問う秋村に、大男の阿部興人は背を曲げるようにして告げた。 「かような時刻に突然参上いたして申し訳ござりませぬが、われらふたりは本日藩庁より東京出張を命ぜられました。しばらく先生の御講義も拝聴できなくなりますので、お別れの御挨拶にうかがった次第です」 「ほう、まあとにかく上がりなさい」  ふたりは、いつになく緊張している。それに気づいた秋村は、簡潔に応じた。  玄関脇の六畳の客室に通ったふたりは、江戸紫の小袖《こそで》に茄子紺《なすこん》の帯を胸高に締めて眉を落とし、鉄漿《かね》をつけた口もとにほほえみを浮かべて茶を運んできたおつね[#「おつね」に傍点]への挨拶もそこそこに、突然出府命令を受けた次第を語りはじめた。まず口火を切ったのは、南堅夫であった。 「実は例の稲田家の嘆願問題が、日に日にこじれてまいったのです。事と次第によっては稲田側が反乱に踏み切ることも充分に考えられますので、藩庁は中央政府との連絡役をもうけておく必要を感じ、われら両名を外交方に任じて東京行きを命じたのです」 「なに、稲田家が反乱を起こすかも知れぬだと」  意表をつかれ、思わず秋村は身を乗り出した。 「では拙者から、少々これまでの藩庁と稲田側とのやりとりの経過を申し上げましょう」  南とおなじく紋羽織に身をつつんでいる阿部は、懐中から小ぶりな大福帳のような帳面を取り出し、その走り書きの文字を追いながら話を始めた。 「稲田家当主九郎兵衛邦稙殿は先生もご存じのとおりまだ十六歳ですから、稲田家の家政は三田昂馬、七条|弥三《やざ》右衛門《えもん》、内藤弥兵衛の三人の重役が切り盛りいたし、その後見役には一族の稲田太郎左衛門と賀島百助とが任じられております。そこで藩知事さまにおかせられては、参事に命じてこの後見役ふたりを藩庁に召し出し、あらまし以下のごとく伝達いたしたのでした」  阿部はそういって、四つの条項を読み上げた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、九郎兵衛殿嘆願の書につき総政局にて評議いたしたるところ、一同「心得違いにて不都合」との結論に達し、知事さまも同様に思し召され候事。 一、知事さまも三百年来の御家臣もことごとく十分の一の家禄となり、朝命|否《いな》みがたきことなれば、九郎兵衛殿の申し入れは条理相立たざる事。 一、中古の戦功、昨年の出兵、三百年来の家格を申しのべられるとも、朝廷の御政典はそれ以前に復古いたしたるものにて、右の申し立てを貫かせるわけにはまいらざる事。 一、朝命に悖《もと》り知事さまに背き、ついには不忠不義に陥ることなきよう、断然|御了簡《ごりようけん》せられたき事。 [#ここで字下げ終わり] 「これを受けて後見役ふたりは稲田侍をあれこれ説諭いたしたそうですが、稲田侍どもは一向に聞き入れる気配がなかった由。それは九郎兵衛殿自身が家来どもに同調しておるために相違なく、その証拠に九郎兵衛殿は、さる三日に三田、七条、内藤の重役三名をしたがえて藩庁総政局にあらわれ、大仰にも『弁駁書《べんばくしよ》』と表書きした書面を差し出したのです。その写しがこれでございます」  阿部が折り畳んだ別紙のつづりを差し出したので、秋村は受け取るとすぐ眼鏡をかけた。何人かが手分けして書き写したものらしく、筆跡も途中で何度か変わっていたが、かれはそれを意にも介さず一気に読んだ。  四カ条に大別される藩庁の回答のうち、九郎兵衛がもっとも腹に据えかねたのは第三条だったらしく、こんなくだりが秋村の目に飛びこんできた。 ≪……以前の功労御廃却の由、すでに朝廷において昨年来勤王の諸侯賞典もあらせらるる御事にも、前功お取り棄てと申す義あらせられざる御事と存じたてまつり候。万一、前功お取り棄てとの御ことに御座候ては、おそれながら向後《きようこう》国家のために尽力をつかまつり候者これなきように相成り申すべく、……決して右様の義あらせられざる御|筈《はず》と存じたてまつり候。……≫ 「弁駁書」は、つづけて稲田家が家来をこれまでどおり管轄することは国力になることだ、と断言し、稲田家が代々の蜂須賀家当主を助けて活躍した事例を列挙。ほかの家老たちが稲田家同様の扱いを願ったとしても、かれらにはせいぜい二、三十人の家臣しかいないから一隊の銃隊もできず、稲田家と同一に論じることはできない。何よりも稲田家家臣を一隊にとりまとめ、九郎兵衛をその部隊の司令に任ずることは藩知事の一存でできることではないか、と大胆かつ強気に抗弁していた。 「で、藩知事さまはどのように再回答なされたのだ」  秋村が丸い顔を上げると、 「それは、ほぼかような文面でございました」  と南堅夫が後を引き取った。 「第一に、九郎兵衛殿はまだ年少だから一隊の司令にはできないし、家老職の家筋だからといって格別に扱うとは蜂須賀家の制度にないことだ。  第二に、依然として稲田侍を稲田家に付属させよとは、稲田侍を卒族としたくない、士族にせよ、といっていることと同断だが、そうすると主人の九郎兵衛殿は士族の上の華族という形になり、蜂須賀家と肩をならべることになってしまって不都合千万である。何よりもこれまでの申しようは朝命、藩命にともに違背することだから、きつく叱りおく、ということです」 「それに対する再抗弁はあったのか」  秋村の問いに、南は生真面目に首を振って答えた。 「いえ、まだござりませぬが、これまでのゆきがかりから考えますに、稲田側がこれで承服いたすとは思われませぬ。藩庁ないし藩知事さまに談じこむのをやめ、文久年間以来つちかった朝廷への伝手《つて》をたどって中央政府に自訴して出ることも大いに考えられる情勢なのです。藩庁の危惧《きぐ》もこの点にありますので、われらが先手を打って外交方として東京へまいることになった次第です」 「すると何か、九郎兵衛殿は本気で華族になりたがっているのか」 「よもやとは思いますが、稲田侍どもが卒族たることに不満を抱いていることだけは確かなことでござります」  南が口をつぐむと、かわって阿部興人がつづけた。 「稲田勢は、さる戊辰《ぼしん》の戦いにも『稲田藩』、『洲本藩』と呼ばれて自他ともに認めておった由。風聞によりますと稲田侍の中には、藩知事さまがどうしても稲田家の求めを聞き入れぬなら淡路島を藩領として徳島藩から独立してしまえ、と叫ぶ矯激《きようげき》の徒も少なからぬと申します。されば、あらかじめ封じこめを図っておかざるを得ぬのでございます」 「ほほう、わが藩より分藩して淡路藩を立藩すると申すか。それはまことにもって理に適《かな》わぬことだな」  秋村がむっちりとした手で顎《あご》を撫《な》でたのは、講義の際に自説を切り出す時特有の所作であった。 「ああ、先生もやはりそう思われますか」 「どうか、御高説をお聞かせ下さりませ」  異口同音にいうふたりの高弟に対し、秋村は、 「それは三綱(君臣・父子・夫婦の道)、五常(仁・義・礼・智・信)ということばを用いずとも、たやすくいえるところだ」  と前置きし、一度|咳払《せきばら》いしてから講義口調に変わって立て板に水と弁じた。  ……そもそも『古事記』によれば、伊邪那岐神《いざなきのかみ》と伊邪那美《いざなみ》神とは相契ってまず水蛭子《ひるこ》を産み、さらに契りなおして淡道之穂之狭分島《あわじのほのさわけのしま》と伊予之二名島《いよのふたなのしま》、すなわち今の淡路島と四国とを産んだという。一方、『日本書紀』には「阿波泥辞摩《あわじしま》」という表記が見えておって、いにしえにはこれをアハジシマと発声しておった。『釈日本紀』などはこれを「吾恥洲《あはじしま》」、つまり伊邪那美神は産時にいたって意に快からざるところがあったので、「ア・ハヅ」すなわち、この島はわが恥なり、とおおせられた。そこから来た地名だ、と解しておる。古語には「吾」を「アレ」といい「ア」ともいうところから生じた説だが、これなどはかの「千早振る」の落語とおなじで何ら信ずるに足りぬ。  余は国学者ではないから詳しくは知らぬが、『万葉集』にはこのような歌があるはずだ。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  難波がた塩干にたちて見渡せば淡路の島にたづわたる見ゆ [#ここで字下げ終わり] 「渡る」が反復使用されておってさほど秀歌とは思われぬが、今それは問うところにあらず。さらに『源氏物語』明石の巻には、 ≪たゞ目の前に見やらるゝは淡路島なりけり、阿波門はるかになど、のたまひて≫  とあって、いにしえより淡路島は大坂と阿波国との間に位置することがひろく知られておったのだ。  これらの事例に徴して淡路島の本義を尋ぬるならば、余は『古事記伝』の説くごとく、 ≪阿波国へ渡る海原にある島なるよし也≫  という説をもって良しとする。 「すなわち今の淡州、淡路国は阿波国あるがゆえにかく名づけられたのであるから、阿波国なくして淡路国という地名はあり得べくもない。されば、わが阿波徳島藩より淡路藩が分藩するなどということが理に適わぬことは、孔孟の教えを引かずとも容易にいえることなのだ」 「なるほど」  門人ふたりは、師の博覧強記に今さらながら舌を巻いた。 「さらに申さば」  と秋村は、鼻息荒くどんぐり眼を光らせる。 「いえ、先生。お説はもう充分に頭に叩きこみました」  一時間でもしゃべりつづけそうな師の勢いに辟易《へきえき》したふたりは、ではしばらく先生の講義を拝聴できなくなって残念ではありますが、どうか御家族ともども息災におすごし下さい、といって座の右側に置いた刀を手にした。 「おや、もう帰るか」  残念そうな顔をして門前まで見送った秋村は、ふたりの提灯に手燭《てしよく》の火を移してやりながらいった。 「このたびの騒ぎは、君臣のあり方を考える上でも大きな問題を孕《はら》んでおるようだ。余もさらに思案してみたいから、東京で何かあったら手紙で伝えてくれぬか」 「はい、きっとそういたします」 「どうかまた、御助言をお願いします」  ということばを残して、ふたりの門人は闇の中に消えていった。  この夜、眉山は星のない空のかなたに姿を隠しており、秋村がいくら近眼の目を凝らしてもその稜線を見つけることはできなかった。      四  その後、柴秋村もこの騒ぎの帰趨《きすう》が気にかかるようになり、長久館へゆくたびかならず学頭室に新居水竹を訪ねるようになった。小心塾には常時三十人ほどの門人たちが寄宿しているだけに、水竹門下には藩庁の幹部となっている者も多い。その分だけ水竹は、秋村よりも事情に通じていると思われたからである。  この八月から長久館学頭に昇っていた水竹こと新居与一郎は、文化十年(一八一三)生まれの五十七歳。藩の料理方ながら私塾をひらいていた父を持ち、天保十四年(一八四三)十二代藩主蜂須賀|斉昌《なりまさ》に従って江戸へ出ると安積艮斎《あさかごんさい》、大槻磐渓《おおつきばんけい》、大沼沈山などについて朱子学を学んだ。  斉昌は沈着|剛毅《ごうき》でありながら思いやりの深い水竹の人となりを愛し、かれを「唐人」と呼ぶのをつねとした。唐人とは学者という意味である。  安政六年には十三代斉裕の侍講となり、万延元年からは十四代茂韶の侍講もかねた。  水竹は労咳《ろうがい》(肺結核)を病んでいて酒は呑めなかったが、来客があるとかならず酒宴をひらいてくれる律義な性分でもあった。それをよいことに一時は水竹宅に入りびたり、結婚前にはその屋敷に付属する小心塾に寄宿していたこともある秋村は、この師にだけは素直に胸襟をひらくことができるのだった。  ただし秋村は、一度だけ水竹に生き方を疑われたことがある。水竹は大坂時代に蘭学に傾倒した秋村を危ぶみ、手紙で学者としての出処進退をどうするつもりか、と訊ねてきたのである。迷いから醒《さ》めた秋村は、きっぱりと答えた。 ≪小子の志は大きく、やがて藩儒に登用されるならば心血を披瀝《ひれき》して尽忠報国いたす覚悟、蘭学よりも儒学こそがわが本分にて候≫  一時とはいえ師に教えられた道を捨てて異学に走るならば、一方的に破門を宣告されてもやむを得ない。それをせずやんわりとたしなめてくれたばかりか、藩庁に対し、秋村を藩儒に採用するよう献言してくれた水竹は、秋村にとって頭の上がらない老師でもある。  南堅夫、阿部興人が東京へ去ってひと月以上たった十一月十三日、登城した秋村はまた学頭室へ顔を出した。するとひとりで茶を喫していた水竹は、 「今度は、このようなものがまいった」  といって、誰かが書写したらしい書類を見せてくれた。  二日前の十一日付で、「九郎兵衛家来一統」から差し出された嘆願書である。 「拝見いたします」  秋村は、師の正面に正座して一読しはじめる。それは、われら一同を一様に「賤卒《せんぺい》」に落とすとはわれらの面目上からも何とも耐えがたいことだから、相応の御処置をもって「士分」にしては下さらぬか、と「悲嘆泣血、罪死を顧みず」哀訴している文面であった。  何か会議でもあったのだろうか、麻裃を着けている水竹の頬のこけた温和な顔だちを見やり、秋村は感想を述べた。 「これはまた、九郎兵衛殿の強硬なる『弁駁書』とは打って変わり、まことに哀切な口調でございますな」 「うむ」  秋村の手わたした嘆願書を文箱に収め、水竹は長者眉の下の窪《くぼ》んだ目をまたたかせながらうなずいた。 「で、藩知事さまは、これにはどう御返答なさるおつもりなのですか」 「実は先ほどまでそれにつき評議がおこなわれておったのだが、稲田侍を一律に卒族とするのはたしかに気の毒だ、という意見も出されての。では稲田侍に限っては他の陪臣とは別に扱い、士族と卒族とに二分いたそう、ということに相なった」  徳島藩としては、さっそく権《ごんの》大参事井上兵馬を東京に派遣し、中央政府にその旨上申することに決まったという。 「おお、それで九郎兵衛殿と稲田侍どもの顔も立とうというもの。それにしても藩知事さまは、よくぞそこまでお譲りあそばされました」 「うむ、これでこの騒ぎもようやく一件落着となるだろうて」  師弟は、安堵《あんど》していいかわした。  しかし、その後の九郎兵衛の態度は、あまりに奇怪なものであった。  中央政府は井上兵馬の上申に対し、その件は徳島藩知事の判断にまかせる、と回答した。そこで徳島藩は、稲田家家臣のうちのある者は士族とすることを認めるから家臣名簿を提出せよ、と九郎兵衛に通達したにもかかわらず、かれは一切これに応じず沈黙を守りつづけたのである。  藩庁がその沈黙の意味するところを初めて知ったのは、あけて明治三年正月下旬、稲田侍一同から九郎兵衛へ提出された文書の写しを入手した時であった。正月十五日付のこの文書の主眼は、次の二点に存した。  その一。稲田家家臣は陪臣とはいえ武士以外の何者でもないから、全員を士族としていただきたい。  その二。士族となることを認められたとしても、稲田家以外の支配を受けるようでは報国の志をつくしがたいので、全員を従来どおり稲田家の支配下に置いていただきたい。  これを受けてふたたび評議した結果、藩庁は全面的に譲歩して稲田侍をすべて士族とすることに決定。九郎兵衛にもそのように通達した。  だがあまりにも面妖《めんよう》なことに、それでもなお九郎兵衛は態度を保留しつづけたのである。 (稲田家は、一体何を考えておるのか)  秋村が首をかしげていた二月下旬、東京の南堅夫、阿部興人からようやく連名の手紙がきた。 ≪謹啓。先生にはその後いかがお過ごし候哉。陳《の》ぶれば小子ら儀、出京以来思いのほか多事多難、お約束の御報告をおこたりましたる段、ひらに御容赦願いたてまつり候≫  と始まる手紙には、驚天動地の新事実が書かれていた。  九郎兵衛はなんと明治二年十二月の段階で、東京へ学問修業に出ていた稲田侍たち約三十名を使い、政府に対して稲田家の徳島藩からの分離独立、すなわち分藩を認めてくれるようひそかに運動しはじめていた、というのである。 (む。さる十月に出府の挨拶にまいった時、阿部はたしか、稲田侍の一部に分藩を主張する声がある、といっておった。それは、九郎兵衛自身の狙いでもあったのか)  これはどえらいことだ、と感じながら、秋村は長い手紙をむさぼり読んだ。  九郎兵衛の意を体した稲田侍たちは、つづけてこの正月二日には有栖川宮家へも戊辰の戦功を挙げて懇願書を提出。おなじく二十二日には大納言岩倉|具視《ともみ》へも同趣旨の書状を差し出した、として、 ≪両家に日参してこれらの文書をようやく写させていただき、別便にて藩庁宛送りましたればよろしく御覧下されたく……≫  と手紙はつづけ、状況は無念至極ながら稲田家に有利、と結論づけていた。  南堅夫と阿部興人、遅れて出府した水竹門下の益田武衛の外交方三人は、八方手をつくして岩倉具視や右大臣三条|実美《さねとみ》へ接触を試みた。しかし、阿部に至っては岩倉邸で豚の焼肉を出されただけで仰天してしまう田舎臭さで、とても外交方としての手腕を発揮できない。  一方、稲田側は有栖川宮熾仁親王とはともに奥羽地方への戦旅を重ねた間柄だけに信頼厚く、二月二日付の岩倉宛の嘆顔書には堂々と書きつけていた。 ≪去々年大事件(戊辰戦争)の節、御直命下賜の義もこれあり候ところ、奸吏《かんり》の輩《やから》これを猜《そね》み、ますます九郎兵衛家を挫折《ざせつ》いたさすべき心底をもって御新政の機に乗じ、不当の処置再三申しつけられ候、……≫  こうして稲田側の分藩の野望があきらかになるにつれ、徳島藩士族たちは若手を中心に次第に激昂《げつこう》の色をあらわにした。その怒りをさらに煽《あお》ったのは、三月十一日に発せられた洲本在番の大村純安からの急報であった。  同日、稲田家および洲本城下の稲田侍たちは、稲田家祖先を祀《まつ》る稲本神社に集結。全員の一致協力を誓う祭文をささげ、 「盟約に背く者は、その者自身もその子孫をも滅ぼしてしまう」  として、一斉に血判を捺《お》したという。 「稲田家も稲田家だが、若い連中が事情を知って騒ぎはじめていますから、これはひょっとすると血を見る事態になりかねませんな」 「大村をはじめ、わが小心塾の門人で今は洲本在番になっておる者も多いから気が揉《も》めてならぬよ」  秋村と水竹が不安を感じていた三月中旬、東京在府の岩鼻県権知事小室信太夫と福島県権知事立木|徹之丞《てつのじよう》の名儀で、徳島藩知事蜂須賀茂韶宛に達し書が届いた。岩倉公の依頼によりその内命を伝える、と前置きしたこの達し書は、以下のように伝えていた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、稲田九郎兵衛主従には、北海道|静内《しつない》郡および色丹《しこたん》島への移住・開拓を命ずる。 一、開拓が成功するまで、徳島藩庁は稲田家に対し、従来の禄高《ろくだか》から新家禄千石を差し引いた一万三千五百石を十ヵ年の見こみで給付すること。 [#ここで字下げ終わり]  三月二十二日に徳島入りした小室と立木は、口頭の伝達だけで行き違いを生じてはならないと考え、岩倉自筆の奥書きのある文書を改めて持参する念の入れようであった。  対して稲田側は、二十七日に至ってついに分藩願いを提出。北海道移住も分藩してからにしたい、ただし家臣たちの移住後も九郎兵衛のみは洲本にとどまらせてほしい、と申し入れた。  もし政府が分藩を認めたならば、徳島藩知事としては無能を天下に公表されたようなものである。しかも、十年間も藩費から一万三千五百石を捻出《ねんしゆつ》して北海道へ送りつづけることになれば、財政上からも輸送手段を講ずる上からも、ともに大問題が発生する。  苦悩を深めた蜂須賀茂韶は、参事たちと相談をかさねた結果、こう決定した。 「稲田家の勤王の功により、政府には特別に賞典を下さるよう請願して稲田家の顔を立て、分藩も北海道移住も取り消させよう」  しかし、意外にも稲田側はこれを探知。四月一日、先手を打って申し入れた。  ——重ねて賞典を賜るのはありがたいことだが、われらの素志は九郎兵衛さまの配下にとどまりたいという一点につきる。そう処置して下さることこそ、この上ない褒賞である、……。  当主九郎兵衛はまだ十六歳だから、稲田侍がかれの人徳を慕うあまりに別れがたく思っている、とは考えられない。稲田侍たちは徳島藩に対しては分藩を求めながら、稲田家に対してはこれまでどおり封建的な主従関係をつづけたい、と願っているのだった。  が、徳島藩庁から見ればああいえばこういうで、どこまで行っても話が折り合わない。その間にますます若手士族たちの間に不穏な気配が昂《たか》まったので、藩庁は全士族を集めてこれまでに稲田側とやりとりした文書を公開し、事態の経緯《いきさつ》を説明することにした。  場所は藩庁の置かれた徳島城表御殿鶴の間、日時は四月四日の朝八時から、と定められた。      五  上段の間に蜂須賀茂韶の出座を仰ぎ、六十畳、四十畳のふた間からなる鶴の間をぶちぬいてひらかれたこの大会議は、しかし火に油を注ぐ結果をもたらした。藩庁側は士族たちの暴発を恐れたからこそ事情説明に踏み切ったのに、経緯を詳しく知った出席者はますます激昂。ついには城内において、 「稲田、討つべし!」  と声高に主張する者まであらわれたのである。  翌日には、有志者連名で茂韶に「急速御英断の御処置」を求める建言書も提出された。のちに「稲田騒動」あるいはこの明治三年の干支《えと》が庚午《かのえうま》であることから「庚午《こうご》事変」と呼ばれることになる徳島藩の御家騒動の特徴は、これらの強硬論が一部のはねっ返りの間のものではなく、ほとんどすべての藩士の意見だったところに存する。  柴秋村とともに鶴の間の大会議に出席した新居水竹も、茂韶から意見を求められるや日ごろの穏健さも忘れたかのように強い口調で述べた。 「謀叛《むほん》のかたちはいまだ見えませねど、叛志はすでにあきらかなこと。この私謀を遂げさせては、今後何をもって一藩を統治できましょうや」  水竹すらも、話がこうもこじれてはもはや武力によって稲田を押さえこむしかない、と思い切っていたのである。  しかし、まだ二十三歳の茂韶は、良き相談相手たるべき水竹の意外な意見にかえって動揺。六日、強硬論者のおもだった者を呼び出し、説諭を試みた。 「暴挙など企ててはならぬ。それに岩鼻・福島の両権知事もきておられるのだから、何とか岩倉公のお心に添う返答をいたさねばならぬのだ」  そういって、政府に働きかけて稲田家に改めて賞典を下賜してもらう、そのかわりに、という例の案を提示した。だが、集まった者たちは、 「あまり寛大になされると、かえって稲田側は増長いたしますぞ」  の一点張り。  八方ふさがりとなった茂韶は、夕食を摂《と》ることもできずに押し問答をくりかえした。しかも翌朝鶏鳴の時刻に至ってもついに結論を見出せず、丸に五割|万字《まんじ》の家紋を白ぬきにした紋羽織の背を見せてふらふらと退出していった。  翌朝秋村は、藩知事の説諭がどういう結果になったかを知りたくて、また城内西の丸の長久館へ顔を出した。  すると長廊下のかなたから、先生、と呼びかけてきた者がある。近づきながら近眼の目を細めて見つめると、意外にもその天豆《そらまめ》のような中窪みの顔だちは南堅夫のものであった。 「おお、おんし、いつ帰ったのだ」 「はい。東京の事情を伝えるべく、阿部たちは残してつい先ほど単身帰国いたしたところで」  と前置きし、まだ旅装のままの南は口迅《くちど》に伝えた。 「東京では稲田侍たちがなおも政府顕官宅を歴訪し、稲田家分藩の正当性を説いておりますが、近頃持ち出した理屈は『旧徳川御三家の付《つけ》家老五家が華族に列した以上、蜂須賀家の付家老たる稲田家も華族となる資格をそなえている』というものなのです。  拙者どもは、稲田家はただの城代家老で付家老とは思いませぬが、もしそれが何か根拠ある言い分なら大変なことになると考え、ただいま藩知事さまにさよう申し上げて退出してきたところでした」  付家老とは幕府ないし大名の本家が分家を監督するためにつけた家老という意味で、旧徳川御三家にはあわせて五家の付家老家があった。紀州藩の安藤・水野家、尾張藩の竹腰《たけのこし》・成瀬家、水戸藩の中山家。この五家は一万石以上の禄高を有していたこともあって今ではことごとく華族となっていたから、稲田家も士族ではなく華族に列して分藩できる、という理屈である。 「それはおかしい。稲田家は豊太閤《ほうたいこう》の時代に瑞雲院《ずいうんいん》さま(蜂須賀家政)に従って入国してまいったのであって、権現さま(家康)の命によって遣わされた家老ではないぞ」 「はい。拙者どももそれは心得ておりますが、何せ政府の高官たちはさような三百年前の事情にうといので、反論するのも容易ではないのです。  先生、立ち話で恐縮の至りですが、拙者はまだまわる先がござりますのでこれにて失礼いたします。いつか例の揮毫をお願いしにまいりますので、どうかお忘れなく」  最後にようやく笑みを見せた南は、小走りに西の丸玄関へむかって姿を消した。  かれの告げたごとき東京の事情をよそに、藩知事の説諭も聞かない強硬論の噴出を知った小室、立木の両使者は、もうありのままを岩倉に復命するしかないと肚《はら》をくくった。すると有志全員がふたりとともに上京し、政府に直談判すべし、という意見が急浮上してきた。  藩庁としては、そんなことをされては政府からますます統治能力を疑われかねないから、必死で押さえこもうとする。その結果、有志総代として、南堅夫以外に九人の士族が選出された。  兼松又三郎、藤岡次郎太夫、滝直太郎、小川錦司、三木寿三郎、大村純安、平瀬伊右衛門、角村十右衛門、多田禎吾。  後四者は洲本在番で、稲田家の動きを間近に見てきた者たちである。 (これなら安心だ)  と秋村が思ったのは、おそらく大村の提案であろう、この十人の取締役として水竹も同行することになった、と聞いた時であった。水竹は、 「拙者は一介の儒官であって政事《まつりごと》については知識を持ち合わせぬから、武官もひとりついてきていただきたい」  と条件を出し、槍術《そうじゆつ》師範の小倉富三郎も出京することになったという。  四月八日から三組に別れて徳島を発《た》った十二人が、東京で無事合流したのは十八日、一橋の蜂須賀邸に旅装を解いたのは二十日のことであった。 「着いた翌日のうちには、この嘆願書を太政官に差し出すつもりじゃ。文意の通りにくいところがあれば、ありていにいってくれぬか」  そういって出発前に水竹が秋村に見せた文章は、稲田側の不条理と藩士たちの憤激の情を率直に記して、こうむすばれていた。 ≪……自然|干戈《かんか》を動かし候よう立ち至り候ては天朝に対したてまつりてはなはだもって恐懼《きようく》の至り、……臨機の処理つかまつり候よう知事へ御委任仰せつけられ、職掌相立ち候よう嘆願たてまつり候。……≫ 「まことに筋の通った御文章にて、拙者などの口をはさむべきところはござりませぬ」  と秋村は答えた。  だが二十一日に太政官に提出されたこの文書は、意外な反応を惹《ひ》きおこすことになる。二十七日、太政官は茂韶に対して命じたのである。 「稲田九郎兵衛を同道の上、出府せよ」  十二人があれこれ聞きまわった結果、この通達は藩知事の不利になるものではあるまいと思われた。そこで水竹は兼松又三郎と角村十右衛門を国許《くにもと》に帰し、すみやかに茂韶に上京してもらうよう藩庁に催促させることにした。  この両名が帰国してそうと伝えると、今度ばかりは九郎兵衛も同意した。そこで茂韶は、かれとふたりの出迎え人とともに東京をめざした。時に五月十二日のことであった。  その深夜、——。  秋村宅の門扉を激しく叩く音がするのでおつね[#「おつね」に傍点]が島田髷の崩れを気にしながら藍染めの夜着に伊達巻《だてまき》姿で出てみると、門外には三人の男たちが提灯も持たず、肩で息をしながら突っ立っていた。三人ともぶっさき羽織にたっつけ袴、腰の大刀には柄袋《つかぶくろ》を掛けたままの旅装であった。 「まあ、南さん。また東京からおもどりですか」  三人の中に南堅夫の姿を認めたおつね[#「おつね」に傍点]は、驚いて訊ねた。  その驚きは、かれらの不意の来訪を告げられて寝床から上体を起こした秋村もおなじであった。これも藍染めの夜着のまま玄関脇の六畳間に三人を請《しよう》じ入れると、 「われら三人は、夜に日をついで本日夕刻御城下に立ちもどったのです」  南の天豆のような顔だちはやつれきっていたが、かれは目だけは爛々《らんらん》と光らせて切り出した。 「われらは明日を期して、ついに稲田討伐のために蹶起《けつき》いたすことに相なりました。ついては先生に檄文《げきぶん》を書いていただきたいと思い、御無礼を顧みず参上いたした次第。まげて御承諾下さいませ」  他のふたりは、小川錦司と三木寿三郎であった。三人はそろって両手をついた。  だが、まだ頭が半分眠っている秋村には、何のことか分らない。第一、東京にいるはずのかれらが、どうして佐古秋田丁にあらわれたのか。  そう訊ねると、南は口迅に説明した。 「実はわれら総代十名は、知事さまのお迎えに兼松と角村を帰国させましたあとも、この騒ぎを東京の者たちがどう眺めているか、いろいろと調べてみたのです。……」  するとまったく心外なことに、どうにも徳島藩側の評判が悪い。太政官少史の職にある亀谷|省軒《せいけん》、在野の林|鶴梁《かくりよう》ら有名な学者も口をそろえた。 「徳島藩が慶応四年正月に斉裕公が亡くなったあとようやく勤王となったのに対し、稲田家はその何年も前から王命に従っておったのじゃ。稲田家が分藩いたすとしても、至当であろうよ」  他藩の者の意見も似たようなものだったから、次第に総代たちは不安を覚えた。すると五月五日になって、大村純安が意を決したように切り出した。 「知事さまが着京なさる前にすみやかに兵を挙げ、稲田側の奸物《かんぶつ》を誅伐《ちゆうばつ》してしまおうではありませんか。知事さま御着京後に事を起こすと、違勅の罪に問われる恐れがあります」  日に日に追いつめられた気分になっていた総代たちは、全員これに賛同。新居水竹と小倉富三郎がくりかえし自重を求めても、どうしても聞き入れなかった。  日ごろは思慮深い水竹の高弟大村純安に至っては、男臭い顔だちをくしゃくしゃに歪《ゆが》め、 「君|辱《はずか》しめらるれば臣死す、と教えて下さったのは先生ではありませんか!」  と男泣きするありさまであった。ふたりの取締役も、こうなったら若者たちの願いどおりにさせてやるしかあるまい、と覚悟を決めた。  泣き笑いして喜んだ総代たちは、早速帰藩準備にとりかかった。 「ちと、遠足に行ってまいる」  と門番を欺き、藩邸を抜け出したのが七日朝。早馬、早駕籠《はやかご》を乗りついで翌朝には三島に着いたが、ここで最年少の滝直太郎があまりの強行軍にめまいを起こし、昏倒《こんとう》してしまった。  その看護のため藤岡次郎太夫を残し、豊橋から四日市めざして帆船に乗ったところ、暴風に遭って九日朝伊勢に漂着。そこからまた陸路をたどって大坂へ出、船を雇ってようやく帰ってきたのだという。 「大村純安、平瀬伊右衛門、多田禎吾の三名は洲本へむかいましたから、今ごろはあちらでも稲田攻めの準備が始まっているはずです。拙者どももこちらにうかがう前に、有志たちに事情を伝えて銃隊の出動を依頼してまいりましたゆえ、もう後には引けませぬ。先生、どうか阿波蜂須賀家のおためと思い、檄文を草して下され」  三人はまた叩頭《こうとう》する。秋村は長嘆息して反問した。 「しかし水竹先生は、おんしらの勢いに押されてしぶしぶうなずかれただけではないのか。余としては、水竹先生の意に反して出すぎた真似をすることはいたしかねるよ」 「いえ、その点は御案じ下さいますな」  南は、初めて破顔した。 「水竹先生には小倉さまとも御相談の上、われらの無届け帰国を二日間は伏せて下さると確約して下さいましたし、すでに檄文もお書き下さったのです」  南は懐中から大切そうに油紙の包みを取り出し、中の巻紙を秋村の丸い膝の前へすべらせた。 「ほほう」  眼鏡を持ち合わせていない秋村は、その巻紙に団子鼻を擦りつけるようにして読み進む。その端正にして几帳面《きちようめん》な書体は、水竹の筆跡にまぎれもなかった。 「先生がすでに書いて下さったのなら、余の出番ではあるまい」 「いえ、ところがこの檄文は、御覧のように白文でございます。これでは藩兵の中には読み解けぬ者も少なくはありますまい。勝手ながら先生には、これを漢字仮名まじり文に直していただきたいのです」 「これは入念に考えたものだ。水竹先生も同心しておられるなら、余に否やはない」  秋村はいったん部屋を去り、眼鏡を掛け筆硯《ひつけん》とぐい呑み、五合徳利をかかえてもどってきた。そして冷酒をたてつづけに呷《あお》ったかれは、 「では今すぐ書いて進ぜるから、まあおんしらも気つけに一杯やっておれ」  というやいなや、左手に巻紙を持ってすらすらと筆を運びはじめた。 ≪昨秋以来、稲田九郎兵衛旧家来ども、御一新の御政体に相悖《あいもと》り、……その旧主家をも不忠不善の罪におとしいれ候段、天地許すべからざるの大悪そのままにさしおきがたく、両国(淡路、徳島)の兵隊一同決議の上、断然|誅罰《ちゆうばつ》を加え、その巨魁《きよかい》を斬戮《ざんりく》し、……≫  秋村が筆を置くと南たちは、 「先生の能筆にかかりますと、檄文もいっそう引き立ちます。われらはこれよりこの写しを多数作成いたし、操練所その他に貼り出してさらに兵を募ります。どうか吉報をお待ち下さいませ」  と小躍りして秋村邸を去っていった。  しかし秋村としては、はたしてこれでよかったのか、という思いも心のどこかに蠢《うごめ》くのを感ずる。寝そびれてしまったかれは、庭から雀のさえずりが聞こえてきても、なおちびちびと酒を呑みつづけていた。      六  面積約三十六方里(五九三平方キロメートル)の淡路島は、四国東側に注ぐ吉野川の大|三角洲《さんかくす》にひろがる徳島城下とは鳴門海峡によって隔てられている。その形状は、東むきに湾入する大坂湾の湾口をふさぐような「く」の字型である。  東西八十一間、南北九十間の規模しかない小体《こてい》な洲本城はその「く」の字型の内角部の、白浜と黒松林、そして桜の名所として知られる炬口浦《たけのくちうら》に横腹を見せて建っていた。  北の明石海峡をにらむ岩屋砲台、東の紀淡海峡を守る由良砲台その他から、司令たちにひきいられた藩兵たちがこの小さな城下に続々と集結してきたのは、やはり十二日の夜半のことであった。  大村純安、平瀬伊右衛門、多田禎吾の総代三人は、十一日のうちに洲本に入り、諸方に「除奸《じよかん》」の檄《げき》を飛ばしていた。これに応じ、おりからの雨を冒して藩兵八百、農兵八百が集まってきたのである。  黒ラシャの筒袖洋袴《つつそでようこ》にゲベール銃やミニエー銃で武装した者、陣笠か鉢金《はちがね》に和装たすき掛けの者、あるいは古式の甲冑《かつちゆう》姿と思い思いの軍装をしているかれらは、城に隣り合って建つ藩校洲本学問所を本営として気勢を上げはじめた。城内の支庁から説得に走った者もいたが、大村純安以下、誰も聞く耳をもたない。  対して稲田屋敷は、 「御門筋」  と呼ばれる通りをへだてて洲本城大手門のむかい側にあるから、洲本学問所とは目と鼻の先である。丸に矢羽根の家紋入りの丸瓦《まるがわら》を屋根と土塀に乗せ、二十七間、三十四間の規模を誇るこの屋敷は、早くも異変を察知してほとんど無人になっていた。  稲田家は吉野川上流の美馬郡《みまごおり》を中心に宏大な知行地を有し、大坂に蔵屋敷も持っている。そのため、本拠地とはいえ洲本城下住まいの稲田侍の数は三百四十名たらず。戦力的に藩兵たちには対抗しきれないし、初めから武力に訴える気はなかったから、九郎兵衛の留守家族たちは城下西方、下屋敷町筋の下屋敷へ避難していたのだった。  この稲田家下屋敷には、「益習館」と名づけられた稲田家独自の学問所が置かれている。  徳島藩が朱子学を藩学としているのに対し、益習館の教えるのは朱子学批判に発する古学であった。この古学から国学が派生し、陽明学などの革命思想とともに勤王運動に影響を与えたため、幕末には長州の桂小五郎(木戸|孝允《たかよし》)や山県《やまがた》狂介(有朋《ありとも》)、薩摩《さつま》の西郷吉之助(隆盛)が益習館を訪れたこともある。この点でも徳島藩と稲田家とは、いずれ相対立する宿命にあったのだ。  十三日の朝が明け、炬口浦に白い帆を上げた舟がめだちはじめたころ、筒袖洋袴に身を固めた三人の藩兵がこの屋敷にあらわれて一方的に告げた。 「これより当屋敷を焼き払うから、早々に立ちのけ」  事情をお聞かせ願いたい、と家司のひとりが小者を従えてその後を追うと、逆に三人はふたりを存分に殴りつけた。ふたりがほうほうの態で下屋敷へ帰ってきた時には、すでに無数の兵が塀ぞいに二重、三重に展開しおおせていた。 「射かけい」  砲隊司令が白い小旗を振りおろすと、門前に砲口をならべていた四門の四ポンド山砲が一斉に轟音《ごうおん》を発する。撃ち出された榴弾《りゆうだん》は、中庭の益習館や住居部に着弾するや爆裂して弾片と火炎とを四方に吹きつけたから、下屋敷はたちまち黒煙と炎につつまれた。  邸内に乱入した銃隊も小隊ごとに一斉射撃を開始したので、門内の長屋から破れかぶれに斬《き》って出た稲田侍たちは至近距離からの水平撃ちを浴びて次々と斃《たお》れた。どこからか女たちの悲鳴が湧きおこり、いつもは漢籍朗読の声の流れる邸内には、一気に硝煙と血の臭いが充満した。  この襲撃によって生じた稲田側の被害は、自殺二、即死十五、深手六、浅手十四。焼失家屋は下屋敷のほか手近の三田昂馬邸、七条弥三右衛門邸など十軒と武者長屋十三棟にのぼった。 「よし。われらは即刻徳島へゆき、洲本は除奸に成功いたしたと有志たちに伝えてまいる」  洲本学問所からかなたの空の高みに立ち昇る黒煙を見上げていた大村純安は、焼き打ち成功の報を受けると目を輝かせて鳴門海峡寄りの福良港へ走った。平瀬伊右衛門、多田禎吾の総代仲間もそれを追った。  急ぎ裏山に逃れた九郎兵衛の留守家族たちが、島内に潜伏したのち海路大坂へたどりついたのは十六日夜のことであった。  徳島城は|※[#「木+無」、unicode6a45]《ぶな》の老樹の生い茂る渭山《いざん》(標高六一メートル)に本丸を据え、東側に二段の二の丸、西側に三段の三の丸を張り出した連郭式の大城郭である。眉山から伐《き》り出される青石と紫雲石とを組み合わせた石垣が、夜の間に落ちた雨に濡《ぬ》れて玄妙な彩りを見せていた。  十三日|払暁《ふつぎよう》、その石垣にかこまれた大手門外側に集結したのは、南堅夫を指揮者とする藩兵百六十余であった。藩庁側は大いに驚き、何とか暴発を未然に防ごうと説得をかさねた。しかし、秋村の檄文を読んで勇み立っている兵たちは耳を傾けようともしない。  昼近く、小川錦司や三木寿三郎、遅れて東京から帰ってきた阿部興人らも鉢金、籠手《こて》、臑当《すねあ》て姿で駆けつけたので、ついに西進を開始した。西の佐古口から伊予へ通ずる吉野川ぞいの街道を十一里走破し、美馬郡|猪尻《いのしり》にある稲田家の会所を襲撃しようというのである。  この方面に土着する稲田侍は、その数千八百以上。侍百姓ながら強悍《きようかん》粗暴をもって知られ、特に「猪尻侍」と呼ばれているから油断はできない。全員決死の面持で佐古口にさしかかると、藩知事一族の蜂須賀久之丞が先まわりしていて叱咤《しつた》した。 「こんなことを仕出かしては、かえって藩のおためにならんではないか」  主家の一族を、斬って通るわけにはいかない。 「かしこまりました」  と百六十余人は解散していったん引き返したが、間道から佐古口を通り越してその南方、鮎喰《あくい》川の河原に再集合した。  さらに二里進軍し、眉山も左後方に霞《かす》む名西郡の下浦まできた時、背後に馬蹄《ばてい》の音を響かせて追いかけてきた者がいた。藩庁監察方の下条勘兵衛と弁事の牛田九郎。  すでに青い穂の出た一面の早稲《わせ》の水田を背にして馬を停めたふたりは、下馬して小袖馬乗り袴姿の両手両足を大の字にひらくと、不退転の決意を眉宇《びう》にみなぎらせて大音声《だいおんじよう》を張り上げた。 「みだりに兵を動かしては不忠になるぞ。引き揚げよと申したら引き揚げい!」  しかし、すでに興奮しきっている兵の中には銃口をふたりの胸に擬した者もあり、命令に従おうという気配もない。 「おんしら、それでも行くというなら拙者の屍《しかばね》を越えてゆけ」  血を吐くように叫んだ牛田九郎は、やおら両肌《もろはだ》を脱ぐや腰の脇差を抜き放ち、逆手に持ちなおして左脇腹に突っ立てた。その刃先をきりきりと引きまわすと、横一文字の疵口《きずぐち》からは血潮が泉のように噴き出してくる。 「牛田さん、ひとりでは死なさんぞ!」  下条勘兵衛も、遅れてはならじと立ち腹を切ってくずおれた。あまりに凄絶《せいぜつ》な光景を目のあたりにした兵たちは、息を呑んで立ちつくした。  気をとりなおした兵数人が駆け寄ってふたりを抱き起こし、手近の釈迦《しやか》堂へ運んで介抱したが、ふたりの疵口からは腸もはみ出して、もう虫の息であった。まもなくふたりは相ついで事切れ、この騒ぎに紛れて兵たちは下浦に一泊することを余儀なくされた。  すると十四日の明け方、東京詰めのふたりの権大参事星合|常恕《つねくみ》と尾関成章が、国許の権大参事井上兵馬とともに早駕籠で到着した。  細面の神経質そうな顔だちから血の気を失っている井上は、甲高い声で呼ばわった。 「岩倉大納言におかせられては、その方どもが暴挙に走った時は蜂須賀家を取りつぶすと仰せ出された。ただちに解兵せい!」  五月七日における徳島藩総代八人の無断脱帰は、十日になってようやく岩倉具視に報告された。容易ならぬ事態と悟った岩倉は、即刻星合、尾関のふたりを呼びつけて命令書を与えたのである。  その文書末尾にいう。 ≪……国許にて九郎兵衛へ対し、暴行相成り候ては蜂須賀家の絶家たるや不便《ふびん》ながら致し方これなく、したがいて迅速帰藩、動揺これなきよう取り押さえ申すべき事≫  愕然《がくぜん》としたふたりは、藩船|戊辰丸《ぼしんまる》に乗って十三日午後ようやく帰藩を果たしたのだった。  この文言を読み上げられて、南堅夫、小川錦司、三木寿三郎、阿部興人の四人も天を仰いだ。 「かくなる上は、一死もって罪を謝するほかなし」  その場でいいかわした四人は、一斉に脇差に手を掛けた。だがかれらは兵たちに飛びかかられ、死ぬのはたやすいことだがこれからの善後策も考えねば、と諌《いさ》められて泣く泣く思いとどまざるを得なくなった。  一方、襲撃部隊の進発をあらかじめ偵知していた猪尻侍たちは、間道伝いに西隣りの讃岐高松藩領へと逃れていた。 「もし防戦いたすとしても兵を用いてしまえば私闘となり、喧嘩《けんか》両成敗になる恐れがある」  と冷静に考え、賢明にも未然に兵火を避けたのである。  これと対照的に軽挙妄動したのは、大坂の兵学寮に入ってフランス式練兵術を学んでいた三十人の徳島藩士たちであった。あくる十四日になって騒動を知ったかれらは、本藩に遅れてはならじと稲田家の大坂蔵屋敷へ突入した。しかし、ここの稲田侍たちもすべて避難していたため、かれらの攻撃はまったくのから振りにおわった。  下浦から引き返した兵たちが、城下にたどりついて解散したのは十四日の正午のこと。阿部興人は自宅謹慎、南堅夫、小川錦司、三木寿三郎の総代三名は藩士宅へ別々に預けられることになった。  東京一橋の藩邸ではすでに新居水竹、小倉富三郎の取締役ふたりが禁錮処分とされていたが、洲本から意気揚々と徳島入りした大村純安、平瀬伊右衛門、多田禎吾もただちに捕えられて藩士宅預けとされていた。  十四日午後、藩庁に駆けこんで事件とその処分の大要を知った柴秋村は、茫然《ぼうぜん》としてなすところを知らなかった。      七  太政官は五月二十二日をもって弾正少弼《だんじようのしようひつ》黒田清綱その他に徳島藩出張を命じ、事件の全容を調査させた。薩摩出身の黒田清綱は、のち洋画家黒田清輝の養父となる人物である。  この報告を受け、八月十二日に至って太政官および刑部省から徳島藩知事蜂須賀茂韶に下された「御沙汰《おさた》書」は、きわめて峻厳《しゆんげん》な内容であった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈斬罪〉新居水竹、小倉富三郎、平瀬伊右衛門、大村純安、多田禎吾、南堅夫、小川錦司、三木寿三郎、滝直太郎、藤岡次郎太夫。 〈流罪終身〉二十六人。 〈流罪七年〉一人。 〈禁錮終身〉阿部興人ほか七人。 〈禁錮三年〉柴秋村ほか三十一人。 〈禁錮二年半〉五人。 〈謹慎〉四十四人。 [#ここで字下げ終わり]  新居水竹と小倉富三郎は、総代八名の無断脱帰を二日間秘匿したことから首謀者同然とみなされた。柴秋村は、檄文を書いた罪を問われたのである。  暴挙をとどめるべく諌死《かんし》して果てた牛田九郎と下条勘兵衛の遺族には、奇特である、として金二百両ずつが下賜された。  東京にいる新居水竹、小倉富三郎を除く八名の刑は、九月三日に執行された。  場所は城北|助任《すけとう》の万福寺と、城東住吉島の蓮華寺。ともに銃卒隊を出動させ、境内にしつらえられた青竹の矢来の中でおこなわれた。  山門内に八百屋お七を慰霊するお七地蔵のあることで知られる万福寺のそれは、夜八時から始まった。  大村純安二十一歳は小心塾の塾頭らしく、この日にそなえて麝香《じやこう》の香を銀杏髷《いちようまげ》に移していた。死後、血なまぐさい臭いを残さぬように、という心構えであった。  その辞世、——。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  鳴門の海岩打つ波のはげしさに夜な夜な袖を絞りぬるかな [#ここで字下げ終わり]  かれは、自分たちのために蜂須賀家が取り潰《つぶ》されるのではないか、と最期まで恐れつづけていたのである。  大村純安につづき南堅夫、多田禎吾が恬淡《てんたん》として首を差しのべたのは、斬首とはいいながらも茂韶の配慮により、切腹の体裁をとることが許されていたからだった。  ひと株から別れた蘇鉄の幹が逆立ちした蛸《たこ》の足のようにうねっている蓮華寺本堂前でおこなわれた切腹は、遅く始まって翌朝五時までかかった。  が、小川錦司、三木寿三郎、滝直太郎、藤岡次郎太夫はすべて従容《しようよう》として死んでいった。最年少十八歳の滝と藤岡は脱帰途中に三島にとどまり、蜂起《ほうき》には加わらなかったにもかかわらず、黙って同志の後を追った。 「ああ、南と滝が死んでしまった。それにわが弟弟子の大村も!」  名目は禁錮ながら自宅謹慎を許されていた秋村は、かれらの死を知るや子供のように地団駄を踏んで泣きわめいた。 (さる十月五日夜、南が阿部とつれだって訪ねてきた時におれが淡路の語源などについて講釈さえしなければ、総代たちはかくも強気な策には出なかったかも知れぬ。それにおれがあの檄文さえやさしく書き直さなければ、洲本で兵を動かした大村はともかく、南と滝は阿部同様死一等を免れることができたかも知れぬ)  と頭を巡らすと、水竹の白文を楽々と漢字仮名まじり文に直してしまったおのれの学力すら怨《うら》めしい。 「おつね[#「おつね」に傍点]、酒だ、酒だ!」  たしなめる妻女を秋村は、弟子ふたりを喪ったというのに雨戸を閉ざした部屋に正座などしていられるか、と丸い目を真赤にして怒鳴りつけた。かれは立ったまま五合徳利二本をラッパ呑みし、泣きながら酔い倒れた。  徳島城の東南、小松島の根井浦の港に二十二名の流刑者が曳《ひ》き出されたのは、九月十一日のことであった。二十七名の流刑者が二十二名に減っていたのは、五名が獄中で病死したためである。  切腹した八名同様、特令をもって家名存続を許されたかれらにはお手当金二百両が与えられ、伊豆七島への妻子の随従も認められていた。  夜十時、かれらは松林の梢《こずえ》の下から提灯を打ち振って別れを惜しむ親族に見送られ、長鯨《ちようげい》丸、紅葉賀《もみじのが》の二艦に収容されて徳島を去っていった。長鯨丸は明治二年五月、箱館五稜郭追討の際に政府軍が分捕った旧幕府所有の鉄製蒸気船、紅葉賀は土佐藩から献納された運送船である。  つづけて九月十五日、東京では新居水竹と小倉富三郎が切腹刑に処されたが、秋村がその概容を知ったのは二十一日夜のことであった。ふたりの切腹を見届けたという水竹の門人近藤|廉平《れんぺい》が遺髪を持って帰国し、水竹夫人にそれを届けたあと、水竹の伝言がある、といって秋村宅を訪れたのである。  秋村は謹慎中だから、直接かれに会うことは許されなかった。近藤を濡縁《ぬれえん》に座ってもらっておつね[#「おつね」に傍点]に相手をさせ、秋村は部屋の雨戸を細く開け端近《はぢか》に座ってその話を聞いた。 「御両者の切腹は、十五日夜に芝白金の蜂須賀家別邸でおこなわれました。十一時に小倉さま、十二時に先生という順番で、先生はまことに御立派な最期でした」  四角い顔をした近藤廉平は、二重瞼《ふたえまぶた》のくっきりした両眼をしばたたきながらおつね[#「おつね」に傍点]に告げた。      八  切腹に先立つ十三日、水竹の介錯《かいしやく》人は原謹吾、介添人は益田武衛、遺骸《いがい》始末人は曾我部|一《はじめ》、そして遺骸引取人は近藤廉平と定められた。この四人は、いずれも水竹の門弟である。  旧大名屋敷の庭先でおこなわれる切腹は近頃珍しいと見学の申しこみが多数あり、蜂須賀家側がこれを許したので、当夜の見学者の数は三、四百人にも上った。  まだ二十四歳。ひとを斬った経験のない原謹吾は、不覚をとっては先生に申し訳ないと考え、古畳三枚を買い求めて藩邸の長屋内で試し斬りに励んだ。初めは一、二寸斬りこむのがやっとであったが、十四日夜まで汗みずくになって試すうち、ようやくずばりと斬りこめるようになって一安心した。  十五日夕刻、一橋の藩邸の獄舎から網打ちの駕籠で運ばれてきたふたりは、月代《さかやき》も一寸以上伸びたやつれた姿で休息所に入った。そこで月代を剃《そ》り、紋服に着更えた水竹が、 「久しぶりに清々いたした」  というのを聞いて、門弟たちの胸はふさがった。  やがてふたりは広間に呼び出され、弾正台の役人から改めて死刑宣告を受けた。水竹は、ていねいに答えた。 「ひとをもって申し上ぐるべきなれど、かようの場合なればおじきじきに申し上げます。今般切腹申しつくる旨お申しわたしの儀、士分の身としてこの上なき幸せにつき、慎んで御礼申し上げます」  そのあとふたりは、白装束に着更えて鼠色無紋の麻裃《あさがみしも》をつけた。つづけて食事が出されたが、足高膳に乗せられていたのは黒椀《くろわん》に盛られた御飯と実なし汁、魚の頭だけの焼物と香の物であった。  水竹は悠然と御飯をおかわりし、白湯《さゆ》を喫した。最後に水竹が香の物を噛《か》んだ時には、そのカリカリという音が異様に大きく響いたほどの静けさであった。  ついで家族との別れが許され、水竹は国許から駆けつけていた十四歳のせがれ敦次郎に告げた。 「その方は、帰農することも商人になることもまかりならぬ。柴秋村に教えを乞うて教育者になれ。官吏にもなってはいかん」  僭越《せんえつ》ながら先生のこのおことばをお伝えいたしたくて参上した次第です、と近藤廉平がつづけると、 「はい、きっと主人に申し伝えます」  と秋村には白いうなじだけを見せて、おつね[#「おつね」に傍点]が濃い闇の中で答えた。  そのやりとりを聞いた時、雨戸の内側に身を寄せて耳をそばだてていた秋村は、 (ああ、先生はそこまでおれを信頼して下さっていたのか)  と思うと、ほとんど叫び出したい思いに駆られた。かれががっくりと頭を垂れると、藍染めの作務衣《さむえ》を着けて正座しているその姿はますます丸まって置物のような形になった。  打ちしおれた秋村の耳に、濡縁からふたたび近藤の声が響いてきた。訳もなくわめき出したくなるのを必死でこらえ、秋村は両のこぶしを指の関節が白く浮き出るほど強く握りしめながら耳を傾けた。 「先生、何か御遺言は」  敦次郎にかわって近藤が訊ねると、 「いや、もう何もない。知事さまの思し召しにて、ありがたく切腹を申しつけられたことは何よりのことじゃ」  水竹は淡々といい、近藤が重ねて問うと、しつこい、と答えて口を閉ざしてしまった。  やがて小倉富三郎と水竹は、順にまた駕籠に収まって中庭の切腹式場へ送られた。  四間に六間のひろさの竹矢来のまわりは、おびただしい見学者で埋まっていた。その式場中央には縁なしの質素な琉球《りゆうきゆう》畳が四枚敷かれ、白布でおおわれていた。  水竹とともにその式場に入った介錯人原謹吾と介添人益田武衛は、あらかじめ水竹とことばをまじえてはならぬ、と教えられていた。情が湧いて、介錯しそこなう恐れを生ずるからである。  しかし水竹が両足の爪先《つまさき》を立てて着座し、 「ほかならぬ両君のことだから、よろしいところで頼みます」  と一揖《いちゆう》した時、原は夢中で答えていた。 「せ、先生、御心配には及びませぬ」  水竹はほほえみ、ひと呼吸おいて三方の上の九寸五分に右手を伸ばした。 「やっ」  原は必死で刀を振り下ろした。だが、目が眩《くら》んでどうなったか分らない。 「介錯おみごと」  どこからか声がかかり、遺骸始末人曾我部一が刀に水を注ぎ奉書で拭いてくれたので、初めて我に返った。すると益田武衛が、動顛《どうてん》して口走った。 「先生の首が見えない」 「本当に首がない」  驚いて原が応じると、今御覧に入れます、と曾我部は落着いていい、俯《うつぶ》せに倒れていた水竹の亡骸《なきがら》を引き起こした。喉首《のどくび》の皮三寸を残して斬られた頭部は、遺体の下に隠れていたのである。  曾我部は作法通り柄杓《ひしやく》の柄《え》の両端を削り、その一方を水竹の首の切口に差しこむ。つづけてそこに水竹の頭部を継ぐと、それまで固唾《かたず》を飲んで見守っていた見学者の間からは盛んな拍手が沸き起こった。  刑罰史から見れば、小倉富三郎と新居水竹のそれは史上最後の切腹であった。  その、水竹の辞世、——。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  常ならぬことと思へばつねならず故郷《ふるさと》こそは恋しかりけり [#ここで字下げ終わり]  近藤廉平が闇の中でその辞世を声低く誦《ずん》じた時、すでにしゃくり上げていた秋村は、 (なして先生のみごとな切腹が、事情も知らぬやからの見世物に供されねばならんのだ)  と考え、ついに号泣しながら拳《こぶし》で畳を叩きはじめた。      九  徳島藩知事蜂須賀茂韶は、三代にわたって仕えてくれた水竹の旧功を追賞し、その遺族に金二百両を贈った。また茂韶は、稲田九郎兵衛にも焼きはらわれた下屋敷や家臣たちの住居の再建費用として金四千両を与えた。  さらに十月十七日、太政官は九郎兵衛とその家来たちに対し、北海道に移住して静内郡と色丹島の開拓に従事するよう命令。同時に徳島藩から淡路島を奪い、兵庫県の管轄とすると布告した。今日淡路島が兵庫県に属するのも、稲田騒動に端を発したこの決定によるものである。  稲田侍七百三十余名が北海道をめざしたのは明治四年二月からのことであったが、うち八十三名は紀州|灘《なだ》で遭難し、溺死《できし》する運命をたどった。  これらの動きをよそになおも謹慎をつづけていた秋村に対し、茂韶は時々使者をよこして、 「気をゆるめて静養いたせ」  と慰めつづけた。秋村が日夜、師と弟子たちの死を悲憤|慷慨《こうがい》していることは、藩庁にも聞こえていたのである。  しかし秋村の大酒癖は、師水竹の切腹当夜、水竹夫人の枕許にその霊があらわれて永訣《えいけつ》を告げたという噂を聞いてからますます昂じていた。 「先生よ、南堅夫よ、滝直太郎よ。なしておれには別れを告げてくれなんだのか」  秋村は虚空にむかって呼びかけ、昼夜の区別なく酒を浴びるように呑みつづけた。  連座して禁錮終身をいいわたされた阿部興人が、自宅謹慎の間にかつて秋村の与えた「秋詞」を掲げて相弟子たちの冥福《めいふく》を祈りつづけていると伝えられると、秋村はおのれの師としての至らなさを痛感し、またしても酒杯を呷《あお》らずにはいられなかった。  見かねたおつね[#「おつね」に傍点]が、ある時意を決してたしなめた。 「お前さま、敦次郎さまを頼むという水竹先生の御遺言は、どうなさるおつもりですの」 「おれは、教えぬぞ」  秋村は、月代《さかやき》も不精髭《ぶしようひげ》も伸ばし放題にしたまま片意地な子供のようにかぶりを振った。 「南や滝、それに大村も、あまりに学力抜群であったため総代に選ばれ、あげくの果てに死を賜ったではないか。相弟子や門人を死なせてしまう学問など、もう教えていられるか」  乱酔したかれの脳裡《のうり》に甦《よみがえ》るのは、水竹とともに互いの門弟たちをつれて眉山の花を愛《め》で、紅葉狩りを楽しんだ春秋の思い出であり、秋村が顔を出すたびに咳《せき》をこらえながら酒宴をひらいてくれた水竹の優しさであった。大釜の口にわたした細竹に大徳利の口紐をむすんで燗《かん》をつける方法も、考えてみれば多人数の弟子たちをもてなすために水竹が考案し、秋村に伝授したことなのである。  かれは、閉めきった雨戸の隙間から丸眼鏡をかけて眉山の優美な稜線を仰いでは丸い頬に光る筋を伝わらせ、自作の「秋詞」を詠じてはまた酒を呷った。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  観前半夜月明寒し  酔ひて上る南山の古石壇  ………… [#ここで字下げ終わり] (ああそういえば明治二年の元旦、おれはこの詩を南にだけは書いてやらなかったのだった。すまぬな、南よ。紙など何でもいいから、書いてやればよかった、……)  そう思うと、いつか嗚咽《おえつ》は号泣に変わる。  おんおんと声を放って師と門弟たちを哭《こく》し、哭しては酒を水のように胃に流しこむうちに、いつか秋村のどこもかしこも丸いからだは酒毒に蝕《むしば》まれていた。  明治四年三月十八日の小雨そぼふる日、秋村は謹慎の間に豆腐蔵から書物を運んできたおつね[#「おつね」に傍点]に、 「今日は眉山も哭《な》いとるわ」  ますます酒太りし、目の下に黒ずんだ隈《くま》のできた丸い顔で呟《つぶや》いた。  それが、かれの最後のことばとなった。  おつね[#「おつね」に傍点]が買物から帰ってきた時、秋村は細く開けた雨戸の隙間に小さな白髪まじりの髷を向け、袷の着流し姿で俯せに倒れて冷たくなっていた。過度の飲酒が、卒中を惹《ひ》き起こしたのである。享年四十二。  そのむっちりとした右手に握られていた丸眼鏡はレンズの片方が罅《ひび》割れていて、秋村の荒寥《こうりよう》たる胸中を象徴しているかのようであった。 [#改ページ]    明治四年黒谷の私闘      一 「奈良県少監察兼剣術師範、渡辺|鱗三郎《りんざぶろう》」  と名のった小柄な男は、白い刺子《さしこ》の稽古《けいこ》着に同色の袴《はかま》、使いこんだ籠手面金《こてめんがね》に黒革胴を着け、竹刀《しない》二本を持って左|一重身《ひとえみ》(左半身)になっていた。左手の竹刀を青眼につけ、右手のそれは脇構えに引いて五体の陰に刀身を隠している。  その面金の奥に光る両眼を見つめた時、水野八郎はとんでもない相手に試合を申し入れたことを知った。  眼球をまったく動かさず、まばたきもしないその両眼には、さきほど、 「では三本勝負とまいりましょうか」  といった時の穏やかさはどこにもない。その五体の放射する殺気は、白刃の下を何度もかいくぐった剣士に特有のものであった。 (こやつ、おれより十歳ほど年下と見たが、いったい何人|斬《き》っておるのか——)  御一新前の約五年間に、みずからも十指に余る人命を奪ったことも忘れ、水野八郎は呻《うめ》いた。しかし、内心の動揺を見透かされてはならない。 「カー!」  かれは青眼に構えた竹刀の先を鶺鴒《せきれい》の尾のように小刻みに上下させ、仕掛けの色をあらわにした。 「とう!」  短い気合で応じた渡辺鱗三郎は、構えを変えずにゆるやかに右に回りはじめた。間合を詰められぬよう、八郎もやむなく右へ右へと身を動かした。  八郎の豊富な実戦経験のなかでも、二刀流——しかも、かくも奇妙な構えの相手と刃《やいば》を交わしたことはなかった。  単純に考えれば、右足で床板を蹴《け》って相手が青眼につけている竹刀の峯《みね》を打ち、その剣先が下がった時にポンと小手を奪えばおわりである。だが、このような安易な考え方こそ渡辺の思う壺《つぼ》であることを、八郎は咄嗟《とつさ》のうちに看取していた。  渡辺は、わが身を「待《たい》」(受け)になして八郎を「懸《けん》」(攻め)に誘っている。八郎が左小手の餌に喰《く》らいつこうとすれば、右脇構えに引いたもう一本の竹刀を激発させ、「後《ご》の先《せん》」を奪うつもりであろう。  八郎としてはこの「後の先」の太刀がどこに飛来するかを予見し、「後の先の先」すなわち三手先の攻めを講じて初太刀を撃ちこむしか勝ちを制する途《みち》はない。 (あの右手の竹刀の狙いは面か、袈裟《けさ》か、胴か、高腿《たかもも》か) 「当稽古場においては、決まり手は突きと小手、面、胴のみといった掟《おきて》はござらぬ」  と初めに告げられていたから、八郎は必死に知恵をしぼった。そして得た結論は、 (こやつの狙いは、胴か高腿に違いない)  というものであった。  八郎の五尺五寸の背丈にくらべ、渡辺鱗三郎と名のったこの稽古場の師範は五尺二寸ほどしかなかった。自分より丈高い者から面を奪うのは難しいし、もしそれを承知で面撃ちを試みるならば、渡辺の右手の竹刀は頭上に大きな弧を描かねばならない。  対して胴か高腿を薙《な》ごうとするのなら、横手から小石を投げる気持で竹刀の柄《つか》を押し出し、手首を利《き》かせて剣先を横なぐりに一閃《いつせん》すればよい。身を伸びあがらせる必要もなく、面撃ちより素速い撃ちこみが期待できるから、渡辺の異様な構えはこのような返し技を秘めているに違いない、と思われた。  ならば八郎としては、餌に飛びつくふりをして渡辺の左小手に二段撃ちを仕掛けた後、いったん「待」に変じて竹刀を左脇に低く直立させ、その柄を握った両こぶしの間か鍔元《つばもと》で「後の先」の攻めを封殺、かれが驚いて跳びすさろうとするのに乗じて、面か逆胴を抜けばよい。 (二刀流、破ったり!)  勝ちを確信した八郎は、 「ええっ」  と叫びながら床板を蹴った。その第一打は思いがけない効果をあらわし、渡辺は左手の竹刀を叩《たた》かれるやにわかにその竹刀を取り落とした、かに見えた。  しかしその一瞬後、脳天にずしりとした衝撃を浴び、視界を暗黒に閉ざされたのは八郎の方であった。  八郎がはまった[#「はまった」に傍点]と見た渡辺は、その第一打が来る寸前に左手の竹刀を捨て、両足を踏み違えた。八郎が主なき竹刀を叩き落としたと錯覚してぬか喜びしたころ、その左手は右上段にせりあげられた右手の竹刀の柄に添えられ、八郎の頭上に必殺の円形線を描きおえていたのである。 心形刀《しんぎようとう》流にいう、 「柳雪刀」  の技であった。この名称には、弱しと見て柳(左刀)を撃つ者はそれに冠した雪(右刀)を浴びる、という心が秘められている。  剣聖宮本武蔵の工夫した円明流を若くして修めた渡辺にとり、同流の流れをくむ心形刀流の太刀遣いもまた自家|薬籠《やくろう》中のものなのだった。それとも知らず、 「もう一本!」  八郎が叫ぶと、渡辺はまたしても珍しい構えを見せた。ふたたび両手に竹刀を提げたかれは、わが胸を抱くようにその両手を胸前に交叉《こうさ》させ、両の肩口から斜めに剣先を突き出したのである。  左を上、右を下にしたその腕は、ともに八郎に籠手の甲を見せていた。竹刀がもし真剣であれば、刃を後方にむけていることになる。 (こやつ、目眩《めくら》ましの構えばかりいたしおって)  すでに平常心を失った八郎は、渡辺の喉笛《のどぶえ》を突き破って悶絶《もんぜつ》させてやらねば飽き足りぬ気分になっている。渡辺の稽古着の襟の間を狙い、三段突きを繰り出そうとした。  しかし、この苛烈《かれつ》な攻めもまったく効果なくおわった。 「やっ」  と八郎が両肘《りようひじ》を伸ばした時その剣先はあらぬ方角に受け流され、八郎の胴の左右からは二本のバチで樽《たる》を叩いたような音が湧き起こっていた。  渡辺は両腕の組みをゆるめて作った竹刀の交叉で八郎の突きを中空に撥《は》ねあげた。そしてがら空きになったその胴に、左刀左下がり、右刀右下がりの八文字斬りを浴びせていたのである。  ——心形刀流、鷹之羽。  家紋によくある「鷹の羽」は、二枚打ち違いの形をとることが多い。この刀法は、構えがその打ち違いの鷹の羽に似ることからそう呼ばれていた。 「まいった」  肩を喘《あえ》がせた八郎は、横柄な態度で竹刀をがらりと投げ棄て、三本目を挑む意志のないことを示した。 「この三年間、まったく稽古しておらぬので後《おく》れをとった」  くやしさを満面に滲《にじ》ませて面を外したが、正面に座した渡辺はなにも答えようとしない。苛立《いらだ》った八郎は、ザンギリ頭を手拭《てぬぐ》いで拭いながらつづけた。 「それにしても、癖のある剣をお遣いになる。いったい何藩の出か、後学のためお聞かせ願いたい」  背後から渡辺に駆け寄り、その面籠手を外すのを手伝っていた弟子たちは、八郎の厭味《いやみ》な口調に眉《まゆ》を寄せた。しかし、面金の下から面長な相貌《そうぼう》を見せた渡辺鱗三郎は、その非礼を咎《とが》めることもなく答えた。 「拙者は二条城詰め徳川御家人の嫡男《ちやくなん》として生まれ、幕末には京都|見廻《みまわり》組に出仕しており申した」  京都見廻組とは新選組とともに京都守護職の手に属し、京の市中見廻りを分担していた旧幕府正規の警察機構のこと。剣に抜群の技量を持つ旗本御家人四百人からなり、その与頭《よがしら》佐々木|只三郎《たださぶろう》は、清河八郎および坂本竜馬・中岡慎太郎を屠《ほふ》ったことで知られている。 「おお、見廻組におられたか。ならばお強いはずだ。実は拙者も一時、新選組に籍を置いたことがござってな」 「———」  京都見廻組も新選組も、長州藩|贔屓《びいき》の者の多い京都では蛇蝎《だかつ》のごとく嫌われていた。薩長《さつちよう》の天下となった今日、そのような来歴について語るのは慎むにこしたことはない。  渡辺が渋い表情を浮かべたのにも気づかず、御一新後は大変でしたろう、と再度八郎は訊《たず》ねた。弟子たちを退《さが》らせた渡辺は、やむなく訥々《とつとつ》と答えた。 「見廻組が鳥羽伏見の戦いでほぼ壊滅いたした後、拙者は海路江戸へ逃れ、旧幕旗本御家人の静岡藩移住に同行いたしたのでした。その間ずっと気がかりであったのは京に残してきたふた親のことで、二年前の明治二年正月、徳川|家達《いえさと》さまに御暇乞《おいとまご》いをして京に戻ってまいった」 「ほう、するとお手前は、みずから徳川家から与えられる禄《ろく》を棄てたわけか、なんと勿体《もつたい》ないことを」  鉢のひらいた頭に切ったように細い目をした八郎は、金銭に対する執着心を垣間《かいま》見せて反問した。渡辺は率直に答えた。 「拙者は百俵どりの御家人でござったが、静岡に移ってからは禄米もいついただけるか分らぬありさまでしたのでな」 「で、奈良県少監察兼剣術師範という今の職には、どういう経緯《いきさつ》でお就《つ》きになった」 「還《かえ》ってまいったころ、京に撃剣場は五つか六つしかなくなっておりましたが、そのひとつで一手遣っておったところを県知事|海江田《かえだ》信義殿に認められたのでござる」 「それは僥倖《ぎようこう》でしたな」  妬《ねた》ましげにいった八郎は、不意に思いついたことがあり、たくみに嘘をまじえて問うた。 「実は拙者も地方出張中に新選組本隊に江戸に去られてしまい、今も生死を気にかけている元同志が少なくない。生きて京に還ってきた者がいると聞いたことはござらぬか」 「さあ、新選組は見廻組よりも新政府に憎まれておりましたからな。御一新直後の探索もきびしゅうござったし、少なくとも京の撃剣場でそれらしき御仁を見かけたことはありませぬ」  しかし、拙者のように京に家族を残していた者なら、ひそかに戻ってきていても不思議はありますまい、と渡辺はつづけた。 「もしこの稽古場に顔をお出しになる方があれば、なにか伝言いたしてもようござる。お手前は、水野八郎という今の御尊名で新選組に加盟しておられたのでござるか」 「いや、それは——」  あつかましい質問ばかりつづけていた八郎が急にうろたえたので、渡辺は怪訝《けげん》な顔つきをした。      二  夕方、下つ道をたどって大和郡山《やまとこおりやま》城下|内町《うちまち》の兄の家に帰った水野八郎は、期するところがあって旅仕度にとりかかった。  古びたたっつけ袴とぶっさき羽織を茶箱から取り出していると、藩庁から帰宅した兄、橋本兵司が洋服姿で八郎の部屋に来た。 「今日の仕官の口はどうやった」  七三に分けた髪の下の自分とよく似た浅黒い顔だち、細い両眼を一瞥《いちべつ》して、八郎は答えた。 「奈良の県知事が、どこの馬の骨か分らぬ男を県の剣道師範に採り立てたと聞きましたのでな。そやつを試合で負かせばおれが後釜《あとがま》に居座れようと思って出かけたのですが、なんとも灰汁《あく》の強い剣を遣うやつで、うんざりして帰ってきたところですよ」 「まだ、そんなことをしとるのか。もはや剣の時代でもあるまい。いい加減に剣によって立つことは諦《あきら》め、正業に就くことを考えんか」 「———」  痛いところを突かれ、八郎は押し黙った。 「で、旅装など出してどこへ行くつもりだ」 「いつまでも無禄の身で、兄者の世話になっとるわけにもいかん。ちと見こみができたによって、京へ出て知辺《しるべ》をまわってくる」  おお、そうだ、とつぶやいた八郎は、とってつけた笑みを浮かべて頭を下げた。  京にゆけばまたぞろ市中見廻りのような仕事になろうから、少々|剣呑《けんのん》な目に遭うやも知れぬ。質入れしてある薙刀《なぎなた》を持ってゆきたいから、十両ほど工面して下さらぬか……。 「十両だと」  兵司は、一瞬厭な顔をした。だが翌朝、八郎が玄関式台でわらじ紐《ひも》を結んでいると、肩越しに太政官札をわたしてくれた。  元三十石どりの大和郡山藩士だった兵司は、明治元年六月以降大和郡山藩知事となった旧主柳沢|保申《やすのぶ》に今なお仕えている。そのため、これくらいのゆとりはあるのだった。  当年三十七歳の水野八郎は、元の名を橋本|皆助《かいすけ》といった。  一生飼い殺しの部屋住みの身に生まれただけに、かれは若いころから強い出世欲に捉《とら》われていた。それがかえって裏目に出、これまでの半生は蹉跌《さてつ》の連続であった。  御多分に洩《も》れず幕末の尊王|攘夷《じようい》熱にとりつかれたかれは、元治《げんじ》元年(一八六四)早春、今こそ剣名を挙げる時と読んで大和郡山を脱藩。常陸国《ひたちのくに》筑波山に武装|蜂起《ほうき》した水戸|天狗《てんぐ》党に、藩外浪士として加わった。同年秋、潮来《いたこ》方面で幕府追討軍と戦った時には、得意の薙刀をふるって異彩を放ったが、やがて本軍を見失ってしまった。  なんとか本軍を追及しようと焦りながらも幕府の探索を恐れて潮来付近に潜伏するうち、尊王攘夷派の一方の雄、長州藩は禁門の変(蛤《はまぐり》御門の変)に敗北して朝敵に転落。あくる慶応《けいおう》元年(一八六五)初めには、幕府に降伏した天狗党の首魁《しゆかい》たちもことごとく斬《ざん》に処された。 (かくも佐幕派有利の時代が来たからには、これに乗らぬ手はない)  考え直した八郎は慶応二年秋、京に流れて新選組の募に応じ、うまうまと仮隊士に採用された。おのれの出世のために、かれはためらいなく尊攘派志士たちを粛清する側にまわったのである。  だが、徳川十四代将軍|家茂《いえもち》の後を追うように十二月二十五日に孝明《こうめい》天皇が崩御《ほうぎよ》するや、長州追討をめざした幕府軍の連戦連敗もあり、世はふたたび尊攘派|擡頭《たいとう》の時を迎えた。西南の雄藩、薩摩と長州が手を結んで討幕に動きはじめたようだ、という噂は新選組にも流れてきたから、 (これはいつまでも新選組になどおられぬ)  と、八郎はふたたび尊攘派への復帰をめざしはじめた。  その矢先に起こったのが、新選組参謀伊東|甲子太郎《かしたろう》以下十四人の隊士の分離独立騒ぎであった。尊王の旗印を掲げた伊東の背後には薩摩藩がついている、と知ったかれは、 (この流れに乗ずれば、食いはぐれることはあるまい)  と踏んで、慶応三年三月に決行された伊東の高台寺党結成に参加。維新回天の日がくれば新政府の顕官に昇れよう、と胸を湧き立たせた。  しかし新選組は、かれらの分離独立を黙認するほど甘くはなかった。同年十一月十八日、伊東は「人斬り鍬次郎《くわじろう》」の異名をもつ新選組隊士大石鍬次郎に槍《やり》で突き殺され、藤堂平助、毛内《もうない》有之進、服部武雄の同志三人も斬殺された。  が、八郎は奇跡的にこの危機をすりぬけた。討幕挙兵について土佐の陸援隊と打ち合わせすべく、別行動をとっていたため事件にまきこまれずにすんだのである。小所帯の高台寺党にいるよりも、本格的軍隊である陸援隊に身を寄せていた方が世に出る機会も多かろうと思い、八郎はさほどこの事件を悲しまなかった。  そして十二月九日の王政復古の大号令に歩調をあわせ、陸援隊が紀州高野山に挙兵した時には、東一番隊伍長として勇躍これに参加。慶応四年|劈頭《へきとう》の鳥羽伏見の戦いに旧幕府軍が潰走《かいそう》するや、水野八郎と名を改めて御親兵軍曹を拝命し、二条城中人数取締の役についた。  その後東京に呼ばれ、兵部省軍防裁判所頭取|助役《たすけやく》兼|追捕手取《ついぶてどり》に任じられて一代八人|扶持《ぶち》をあてがわれることになったから、八郎は思惑どおり新政府軍人として立身出世の道をたどるかに見えた。  ところが、——。  まもなく八郎は、いっさいの役を解かれたばかりか軍曹の地位も剥奪《はくだつ》され、明治二年九月まで禁錮《きんこ》刑に処されてしまった。  小田原藩十一万三千石は江戸開城後も旧幕遊撃隊に箱根の関をあけわたし、箱根戦争をひきおこすなど、新政府に対して最後まで右顧左眄《うこさべん》をつづけた藩であった。この小田原藩を問責した新政府は、明治元年五月末以降その公金をも管理下においた。  その管理担当を命じられたのが、ほかならぬ八郎であった。だが、帳簿などつけたことのない者の悲しさ、金の扱い方は雑駁《ざつぱく》をきわめ、やがて帳尻《ちようじり》が合わなくなった。その責任を問われ、八郎は馘首《かくしゆ》された上、獄舎にほうりこまれたのである。  新政府は二年九月にかれを赦免すると、大和郡山藩への復籍を命じた。しかし大和郡山藩庁としては、かつての脱藩者であり、今また公金費消事件を起こした者などに用はない。禄《ろく》も出さず藩庁に職も与えなかったから、八郎はたちまち赤貧に喘《あえ》いだ。  見かねた実兄橋本兵司が同居させてくれたのでどうにか過ごしてきたものの、いつまでも兄の世話になってはいられない。なにかうまい仕事はないものか、と大和高取や奈良方面を徘徊《はいかい》しつづけたが、八郎はうまく時節の波に乗ればよいのだという思いを捨てられなかった。地道な苦労をする気はないのだから、職を見つけられるはずもない。 (これはやはり、御一新前のように武によって立つしかないようだ)  との思いこみを深めるうちに、奈良県稽古場という公《おおやけ》の撃剣場ができた、と小耳にはさんだ。その剣術師範を撃ちこみ、県知事に談じこんで自分が師範に収まってやろうと皮算用して出かけたのだが、渡辺鱗三郎に軽く一蹴《いつしゆう》されてこの目論見《もくろみ》は画餅《がべい》に帰したのだった。  しかし、渡辺が元京都見廻組の隊士だと知った時、脳裡《のうり》に閃《ひらめ》くものがあった。 (見廻組の者があのような職にありついているのであれば、新選組の誰かが京に戻っていても不思議はない。名のある隊士のひとりも見つけて討ち果たし、伊東甲子太郎先生の仇《あだ》を討ったと吹聴《ふいちよう》すれば、美談ともなり出世の糸口にもなるに違いない。なに、戻ってきた隊士などいないと分れば、今少し口を拭って兄者の厄介になればいいのだ)  そう考えて、八郎は出京を決意したのである。明治四年三月初めのことであった。      三  東山の高台寺は、臨済宗随一の巨刹《きよさつ》である。太閤《たいこう》秀吉の妻|北政所《きたのまんどころ》が落飾して、 「高台院」  と名のり、晩年の隠棲《いんせい》所としたところとして知られていた。小堀遠州の造った林泉庭の周辺は、夏から秋にかけて萩の名所としてにぎわう。  対してその塔頭《たつちゆう》のひとつ月真院には、 「有楽椿《うらくつばき》」  と呼ばれる古木があった。往時、茶人として声望のあった織田信長の弟、有楽斎の屋敷から移された名木である。  さいわい八郎は、この椿が大輪の花をつけた月真院に上京第一夜から腰を落着けることができた。  高台寺党の面々は、慶応三年六月から伊東甲子太郎以下四人が非命に斃《たお》れる十一月中旬まで、月真院で共同生活をいとなんだ。御一新直後に御親兵軍曹として二条城中人数取締をしていたころ、八郎はおれもこれからは少し功徳《くどく》を積まねば、といつも洞《ほら》ヶ峠を決めこんでいたわが身を顧《かえり》み、応分の喜捨をしたことがある。それを覚えていた山羊髯《やぎひげ》の住職が、金などいらんから、と迎えてくれたのである。  それは八郎の粗末な身なりを見、尾羽打ち枯らしたことを哀れんだというよりも、用心棒を必要としていたためらしかった。  慶応四年三月に新政府が発布した神仏分離令は、それから約三年を経た今日も、各地に排仏|毀釈《きしやく》の嵐をまきおこしつづけていた。隠岐島《おきのしま》では全島の仏寺仏像がことごとく破却されたほどで、 「仏都」  ともいうべき京都府でも、その被害には甚大なものがあった。  古刹に伝わる什宝《じゆうほう》類が暴徒に強奪されるかと思えば、古書珍籍類は綴糸《とじいと》を抜かれて反故《ほご》紙あつかいされ、京みやげの包み紙や茶箱、襖《ふすま》の下貼りに化けてしまった。金泥銀泥の古写経は金銀を取るため火にくべられ、千体仏や山門、床板は薪にされたところもある。この無法ぶりに、寺々は暴徒に狙われるのを恐れて息をひそめていた。 「昼は他出いたすが、夕刻にはもどって警固をしてつかわす。そのかわりに、朝餉《あさげ》、夕餉の面倒を見てくれぬか」  宿代も取らぬ住職に図々しく頼みこんだ八郎は、色褪《いろあ》せた黒木綿のぶさき羽織に膝《ひざ》の突き出たたっつけ袴、深編笠《ふかあみがさ》に両刀姿で荒れはてた寺々の間を野犬のようにうろつきはじめた。  初めに訪れたのは、洛外葛野郡朱雀野《らくがいかどのごおりすざくの》の壬生《みぶ》寺であった。初期の新選組屯所前川荘司邸に隣り合うこの寺の高麗門をくぐると、 「壬生塚」  と呼ばれる新選組隊士たちの墓石がいくつか建っていた。  白茶けた砂地の境内を庫裡《くり》にまわり、最近訪ねてきた元新選組隊士はいないか、と問うと、新選組がまだ壬生浪士と呼ばれていたころの蔑称《べつしよう》を使って寺男は答えた。 「そんな奇特な壬生浪《みぶろ》などおりまへんな」  次に足をむけたのは、ほど近い綾小路《あやこうじ》通り大宮西入ルの光縁寺であった。  小体《こてい》な本堂に沿って右にまわり、裏手の墓地に入った。ここには変死したり、士道不覚悟を理由に切腹させられたりした隊士十七名の姓名を刻んだ墓石が二基、日の当たらない西北の隅にひっそりと建っていた。  新選組に暗殺された高台寺党の四人も、初めはこの墓所に埋められた。慶応四年三月、生き残って新政府に仕えた同志篠原泰之進や、伊東甲子太郎の実弟鈴木|三樹三郎《みきさぶろう》らの手により、伏見に近い泉涌寺《せんにゆうじ》塔頭戒光寺へと改葬されたのである。 「まあ上がって、お茶でも召しあがっていきなはれ」  庭の手入れに出てきた住職は、八郎が墓地から出てくると誘ってくれた。だが、ここにも最近あらわれた隊士はいないと聞いて踵《きびす》を返した。  翌日も翌々日も、心当たりを歩きまわった。しかし、元隊士のうち誰かが京に還ってきているという確証はまったく得られなかった。 (高台寺党生き残りの誰かに訊ねればなにか分るかも知れぬが、みな東京で官員となっておるのだろうし)  自分だけ野良犬のような暮らしをしているのを知られるのも業腹《ごうはら》な気がし、八郎は元高台寺党の者たちとは連絡をとる気分になれなかった。  思案のあげく探索の筋道を変えることにした八郎は、新選組局長近藤勇の持っていた新旧ふたつの休息所跡を訪ねてみた。七条|醒ヶ井《さめがい》にあった妾《めかけ》お幸《こう》の家と、その妹でやはり近藤に囲われたお孝《たか》のいた仏光寺下屋敷辺である。  京都府は、明治元年十二月に出した府令第一号で門標制を制定。住人は通りから見やすいところに氏名、役職を貼り出すよう通達していた。人探しには至便であったが、探し当てた家にもうふたりは住んでいなかった。  お幸は、島原遊郭の木津屋に出ていた時代の源氏名を深雪《みゆき》太夫。近藤が同居していたお孝にも手をつけたと知るや潔《いさぎよ》く身を引き、鳥羽伏見の戦い勃発《ぼつぱつ》直前には、近藤から与えられた二百両を元手に島原にお茶屋をひらいていた。  御一新後、 「あれは壬生浪に落籍《ひか》されていた女子《おなご》や」  とにわかに風当たりが強くなり、店を畳んでお孝ともども行方を絶ったという。 (これは、女の方から追っても無駄足を踏むばかりだな)  思い直した八郎は記憶をたどり、高台寺党が分離独立する直前の新選組幹部一覧表を作ってみた。そのころ八郎は剣の腕を認められて伍長に抜擢《ばつてき》されていたから、局内の編成には通じていた。  〇印は高台寺党に参加した者たち、△印は高台寺党から新選組へと帰参した者。×印は八郎が大和郡山に返される以前に、死んだと知ったり聞いたりした者たちである。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈局長〉 ×近藤勇 〈副長〉 ×土方《ひじかた》歳三 〈参謀〉 〇×伊東甲子太郎 〈一|乃至《ないし》十番隊組長〉 ×沖田総司  永倉新八  △斎藤|一《はじめ》  ×松原|忠司《ただじ》  ×武田観柳斎  ×井上源三郎  ×谷三十郎  〇×藤堂平助  〇鈴木三樹三郎  ×原田左之助 〈伍長〉 島田|魁《さきがけ》  ×川島勝司  ×林信太郎  ×奥沢栄助  前野五郎  〇阿部十郎 葛山《かつらやま》武八郎  ×伊東鉄五郎  近藤芳助  ×久米部正親  〇加納|雄《わしお》  〇中西登  小原幸造  〇×富山弥兵衛  中村小三郎  ×池田小太郎  ×茨木|司《つかさ》  ほか二名失念 〈諸士取締役兼監察〉 〇篠原泰之進  ×山崎|烝《すすむ》  〇新井忠雄  芦谷昇  ×吉村貫一郎  尾形俊太郎 〈勘定掛〉 ×川合|耆三郎《きさぶろう》 [#ここで字下げ終わり]  こうして眺めると、生きてどこかに潜伏中と思われる男は組長二名、伍長六名、諸士取締役兼監察二名。あわせても十名にすぎない。あまりの死者の多さに、八郎はあらためて驚いた。  同時に、京に腰を据えてこの十名の行方を追おうとしても、きわめて難しいことがよく分った。  永倉新八や斎藤一は、休息所と称する妾宅《しようたく》に女を囲っていたはずであった。が、その線から探っても、お幸やお孝同様、浮草稼業の女たちの行方はどこかでぷっつりと途切れてしまうだろう。 (このまま探索をつづけるのなら、やはり一度東京に出て各役所をまわり、元高台寺党の者たちになにか聞いていないかと訊ねるのが一番だ。しかし金が……)  兄にもらった十両のうち八両は、質草となっていた薙刀を請け出すのに使ってしまったから、八郎の懐中は乏しかった。 (いっそおれも暴徒の群れにまじり、どこぞの寺から金品をまきあげてやるか)  月真院の庫裡の一室に寝転がって荒《すさ》んだことを考えていた三月中旬のある夜、山羊髯の住職が酒壺を提げてやってきた。 「これは、御苦労賃がわりやさかい」  その酒を湯呑《ゆのみ》に受けつつ高台寺党の思い出話にふけるうち、住職は、この京も天子さまがおらんようになってからえらく変わった、という話をはじめた。  各地に小学校、授産所などがもうけられたのはよいが、肉食が奨励されているのだから世も末だ。先月、河原町の旧長州藩邸にひらかれた舎密《せいみ》局では、里没那垤《リモナーデ》(レモネード)、依剥加良私酒《イホカラス》(ビール)などというわけの分らぬ飲物を作っているらしいが、とても飲む気にはなれぬ。唯一これはすごいと思うのは、今月一日に店びらきした駅逓司《えきていし》くらいだ、……。 「なんですか、その駅逓司とは」  八郎が問い返すと、住職は得意そうに教えてくれた。  この三月一日に、姉小路《あねがこうじ》車屋町西入ルに駅逓司郵便役所が置かれ、東京、横浜、名古屋、大阪への書状を引き受けて配達してくれることになった。この駅逓司以外にも、中立売|烏丸《からすま》今出川、大宮五条寺町、四条室町に郵便受取所がひらかれ、これらの近くには書状切手|売捌所《うりさばきじよ》もできた。そこで書状切手を買って書状の裏に貼り、窓口に差し出せばすぐ受けつけてくれるという。 「ほう。で、その書状切手と申すものの代価は、たとえば東京へ書状を送るとするといくらぐらいですかね」 「一貫五百文とか聞いたがの」 「わずか一千五百文とは、飛脚屋よりもずいぶん安いですな」  驚きかつ喜んだ八郎は、さっそくこの新制度を利用することを思いついた。      四  水野八郎が手紙を出した相手は、阿部十郎であった。新選組生き残りで今なにをしているか分る者がいれば、ちと問いただしたいことがあるので教えてほしい、という内容である。  慶応三年十一月十八日に高台寺党の四人が横死した時、同志のひとりであった阿部はたまたま外泊していて難を免れた。そこまでは八郎と似た状況であったが、その後|体《てい》よく陸援隊に居残った八郎とは逆に、阿部は新選組への復讐《ふくしゆう》を決意。ちょうど一ヵ月後の同年十二月十八日、篠原泰之進らとともに伏見街道墨染で近藤勇を狙撃し、その肩に重傷を負わせる気骨を見せた。  その後は、薩摩藩一番隊に加わって鳥羽伏見に奮戦。江州、奥州に転戦して明治元年末に京に凱旋《がいせん》したかと思うと、二年三月天皇の東京御幸に供奉《ぐぶ》し、その後は東京にとどまって弾正台少巡察に任じられた。  八郎は公金費消事件を起こす前に東京でかれと出会い、一別以来の旧交を温めたことがあった。さっぱりした気性の阿部は、伊東以下の不慮の死を知っても陸援隊から飛んでこなかった八郎を咎《とが》めようともしなかった。そんなことから、阿部が今も弾正台に出仕しているならなにか教えてくれるに違いない、と踏んだのである。  駅逓司郵便役所は、書状は三十六時間以内に先方に着く、と豪語していた。しかし実際は、四、五日かかるのが普通らしい。阿部がすぐ返事を書いてくれるとしても、それが届くまでには間があるはずだから、その間に西本願寺にも行っておこう、と八郎は思った。  この年の三月中旬は、新暦の五月初旬にあたる。西本願寺境内に相も変わらぬ古びたぶっさき羽織にたっつけ袴姿で歩み入ると、あちこちに植えられた桜の老樹が風もないのに花びらを散らしはじめていた。  八郎が会っておこうと思った相手は、寺侍の西村兼文であった。  慶応元年二月から同三年春までの間、新選組は西本願寺の北|集会所《しゆうえしよ》を屯所としていた。その間西村兼文は、寺側折衝掛りとしてつねに新選組と接触する立場にあった。かれはまた強い好奇心の持主で、新選組創設の由来から元治元年六月に起こった池田屋事件の顛末《てんまつ》まで、非番の隊士を見つけては根掘り葉掘り聞き出し、 「いつか拙者が、『新撰組始末記』という書物を書いて御覧に入れますさかい」  と大真面目に語っていた。 (あやつなら、なにか嗅《か》ぎつけておるかも知れぬな)  と久しぶりにこの男のことを思い出し、無駄骨を承知で訪ねてみたのである。 「やあ、お久しいことで。どなたはんかと思うたら橋本皆助はんやおへんか」  浅葱《あさぎ》色の麻|帷子《かたびら》に大口《おおぐち》の袴、頭にまだ侍|髷《まげ》を乗せてあらわれた西村兼文は、西本願寺名物太鼓楼にほど近い自分の詰所に八郎を請《しよう》じ入れた。  この古刹に屯所を置いた当初、新選組は宏大《こうだい》な境内で勝手に銃砲訓練をおこない、堂宇の瓦《かわら》を揺り動かすなどして時の門主広如上人を悩ませつづけた。自然、西村も新選組を批判的に眺めており、その分だけ高台寺党には好感を寄せていた。  かれは、伊東たち四人が斬られた翌朝、油小路七条の辻《つじ》の現場に走って乱闘の跡を実見した、という話からはじめた。 「とにかく、辻に面した家々の壁には鬢髪《びんぱつ》ごと削《そ》ぎ取られた肉片があっちゃこっちゃに貼りついとんのやから、度胆《どぎも》を抜かれましたな。道ばたにも切り飛ばされた手指が十本、二十本と散らばり、霜におおわれているありさまでしてのう」  伊東甲子太郎は、当夜七条醒ヶ井の近藤勇の休息所に招かれ、酩酊《めいてい》して帰途についたところを大石鍬次郎に突き殺された。その屍《しかばね》は油小路七条の辻に運ばれ、高台寺党の面々をおびき寄せる道具にされた。急を聞いて駆けつけたかれらを襲撃したのは、永倉新八の二番隊と原田左之助の十番隊だった、といって西村は逆に訊ねた。 「そういえば、橋本はんはこの斬り合いに居合わせなんだようやけど、どこにいやはりました」 「うむ」  八郎は一瞬かれを細い目で睨《にら》んだが、なに喰わぬ顔で答えた。 「あの時、土佐の陸援隊に出張《でば》っておったことが、拙者には今も悔まれてならんのだ。奈良の方にも元京都見廻組の者が流れてきて、県の剣術師範に収まっている。それらの現状を見ると、伊東先生を殺《あや》めた者のうちいずれかが、京にもどってきておっても不思議ではあるまい。もしさようなやつがおると知れれば、なんとしても先生の仇を報じたいと考えて出京してまいったのだ」  それをきっかけにして、何としてももう一度世に出てやる、という心底はおくびにも出さない。 「そのお志は御立派や。そやけど、誰ぞ生きて還ってきたという話は聞きまへんなあ」  西村は首をひねったが、それはひそかに還ってきた者が巧妙に新選組隊士だったことを隠しおおせているからかも知れまへんな、と八郎が喜ぶようなことをいった。  今、かつての京都守護職屋敷は京都府庁となっています。この府庁顧問として旧長州屋敷に舎密局をひらいたり、その隣りに勧業場を設置したりするのに辣腕《らつわん》をふるっているのは、山本覚馬という元会津藩士です。賊徒として追討された元会津藩士が府庁に採用されるのなら、その会津藩お預かりであった新選組のどなたかが、たとえば名を変えて府兵の長となっていても驚くにはおよばぬかも知れません……。 「名を変えてどこぞに潜んでおるにしても、もし誰ぞ還《かえ》ってきておるならかつての同志たちの墓を訪ねるだろうと思い、あちこちの墓所を回ってみたのだ。だが、最近誰かが元隊士たちの墓に詣《もう》でた気配はまったくなかった。近藤勇の妾《めかけ》ふたりの行方も追ってみたが、足どりはすっかり分らなくなっていてな」  八郎がこれまでの自分の動きを告げると、西村は茶をひとすすりして答えた。 「妾の線から追うのは無理やと思います、本妻なら別やろうけど」 「なに、本妻」  にわかに八郎は細い目を光らせた。 「新選組幹部のほとんどが、休息所に妾を囲っていたことはよう覚えている。けど、京に本妻のいた者もおったのか」  本妻がいた者なら、戊辰《ぼしん》の戦いを生き抜いたならかならず会いに来たはずだ、と咄嗟に思った。それはどいつだ、と口迅《くちど》に訊ねると、西村はあっさりと名を挙げた。 「十番隊長の原田はんですがな。たしか、お子もおったような」  原田左之助、——。  しかし八郎は、その名を聞いたとたんに失望を覚えた。原田左之助は、新選組が鳥羽伏見の戦いで百五十名中百名近くを失い、江戸へ逃れたあと永倉新八とともに近藤勇と訣別《けつべつ》。上野の彰義隊に加わり、慶応四年五月十五日の上野戦争に討死したと聞いている。  一応、左之助の正妻の名前と当時の住まいを問うと、西村は大福帳のような帳面を出してきて教えてくれた。  ——町人菅原まさ、本願寺筋釜屋町七条下ル。 「それが、いずれ出版する『新撰組始末記』の覚え書かね」  書き写してから訊ねると、西村は恥しそうに笑って答えた。 「よく覚えていて下さりましたな。けど、出してくれる書肆《しよし》も知らんよって、まだ版木にする当てもあらしまへんねん」 「売り出してもうかったら、おれにも少しまわしてくれよ」  さもしいせりふを吐いて、八郎は立ちあがった。左之助の本妻が住まっていたのはすぐ近くだが、わざわざ立ち寄る気にもなれない。八郎は見るからに食いつめ浪人という姿で、月真院に帰っていった。  饅頭笠《まんじゆうがさ》にラシャ服、袴の左右外側に赤線をつけて騎乗した郵便脚夫が、月真院に封書を届けにきたのは有楽椿も花を落としはじめた四月初めのことであった。待ちかねていた阿部十郎からの返書であった。 ≪御芳書なつかしく拝見つかまつり候≫  阿部は、持ち前の豪放な筆づかいで書いていた。 ≪さて照介の件なれど、松前脱藩永倉新八は戊辰後松前藩に帰参して今も東京に存命なり。こはすぐる明治二年春、永倉と東京でばったり会いたる鈴木三樹三郎の直話《じきわ》なれば疑いなし。なお鈴木は兄伊東甲子太郎の仇と同人をしばらくつけ狙いしも、同人は松前藩長屋に居住いたせばついに討ち果たさずして任地に去れり。  斎藤一は江戸無血開城ののち土方歳三とともに会津へ走り、負傷した土方にかわりて白河口の戦いを指揮せしも、鶴ヶ城開城に先だつ某日、若松|郭外《かくがい》如来堂にて官軍に囲まれ、その後行方を絶ちたる由。土方はのちに箱館|五稜郭《ごりようかく》にて討死せしが、斎藤は五稜郭投降組にも属さねば、如来堂にて討死したるものなるべしとのもっぱらの風聞なり。……≫  永倉新八が生きているのは知っていたが、松前藩に帰参していてはたしかに討つことはできない。もうひとり、生きていると信じていた斎藤一が会津で三年前から行方不明となっていては、これも戦死したが屍が見つからなかっただけ、と考えるべきだろう。  舌打ちしながら読みすすむうち、八郎は、はっとする一文にぶつかった。 ≪さほど役に立てず汗顔の至りなれど、原田左之助の生死については諸説あり≫  というくだりが目に飛びこんできたからである。鈴木三樹三郎が永倉と鉢合わせした時、かれから聞き出したところによれば、と前置きして阿部は書いていた。  ……江戸開城前夜、永倉は旧知の幕臣|芳賀宜道《はがぎどう》という者を隊長として靖共隊《せいきようたい》を結成。自分と左之助が副長となり、会津をめざした。  しかし途中で左之助は、会津へ行くのは厭になった、といいだした。気に入らぬことがあれば改めるからいってくれ、と芳賀もとりなしたが、どうしても聞かない。ひとり江戸へ引き返していったので、永倉は、妻子への愛着に後ろ髪を引かれたとしか考えられぬ、と思ったという。  その後の左之助の足どりは、杳《よう》として途切れる。かれがもどったころ、江戸には官軍多数が入りこんでいた。一説にかれは、動きが取れなくなってやむなく彰義隊に加盟し、五月十五日の上野戦争の際、腹に銃弾を浴びて斃《たお》れたという。  だがこれはあくまで噂であり、左之助が撃たれる光景やその死体を見たという証言はない。  上野の山に散乱し、腐りはじめた彰義隊隊士の遺骸《いがい》の山を見るに見かね、千住円通寺に埋葬してやったのは侠商《きようしよう》三河屋幸三郎という者だった。鈴木はその子分たちに訊ねた。 「耳が大きく目鼻だちのくっきりした色白面長の美男で、下腹に切腹|疵《きず》を縫った痕《あと》のある屍はなかったか」  しかし、 「入梅時の湿気で蒼黔《あおぐろ》くふくれあがった仏が、元は色白の美男だったかどうか分るはずはありませんや。第一、仏の数は六百以上に上りましたから、下腹の古疵などいちいち改めている暇はござんせんでした」  という答えしか得られなかったという。  なお自分が弾正台の官員として五稜郭投降組を審問した時、そこには新選組の残兵若干と彰義隊の者たちもまじっていた。左之助の行方について訊ねたところ、前者は江戸で別れたというばかり。後者のうちのある者は、 「さようなおかたが加盟して下さったのなら、頭並《かしらなみ》か、頭取、悪くても兵隊組頭に採り立てられたはずだが、その名前を名簿に見た記憶はない」  と答えたことを申し添える——。  最後に阿部は、 ≪もし旧高台寺党の同志にさらに相訊ねたき儀あらば、今も交際ある三名の出仕先を記しおくゆえ参考とされたし≫  といい、左のように書いていた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  加納雄 開拓使権少主典  秦《はた》 林親《しげちか》(篠原泰之進改メ)弾正台大阪出張所、造幣寮監察担当  鈴木三樹三郎 弾正台少巡察より転じ、伊那県に奉職中 [#ここで字下げ終わり]  これを一読した時、八郎は頭に血が昇った。自分が大和郡山に逼塞《ひつそく》している間に、ともに官途に就いた阿部たち四人は順調に出世していたのである。 (あの時すぐに陸援隊から高台寺党に復帰しておれば、おれも弾正台出仕となり、わけの分らぬ金勘定などで蹴つまずかなくてすんだかも知れぬ。なぜ自分だけが、負け犬の道をたどらねばならぬのか)  右顧|左眄《さべん》するあまり、最後に糞《ばば》をつかむ形になったことにはなおも気づかず、八郎はおのれの不運を呪った。 (いや、しかしこの原田左之助についての記述は意外だ。ここに、高台寺党生き残りの四人に追いつき追い越す大出世の糸口が隠されているかも知れぬぞ)  落着け、と自分にいいきかせ、八郎はもう一度阿部の書状を読み返した。  鈴木三樹三郎が下腹の疵痕を目安に左之助の死を確認しようとした理由は、八郎にはよく分る。  伊予松山藩の中間《ちゆうげん》あがりの左之助は、まだ国許《くにもと》にいたころ藩士たちから、 「切腹の作法も知らぬ下種《げす》下郎」  とののしられ、面《つら》当てに切腹を試みたことがあったという。それを見た藩士たちは蒼《あお》くなって逃げてしまい、左之助はすぐ縫合手術を受けたので一命をとりとめた。新選組幹部となってからもかれはその疵痕を自慢し、家紋もその疵の形に合わせて丸に一文字紋にしていたほどであった。  この左之助については、つい十数日前に西村兼文から京に本妻がいた、子供もいたらしいと聞いたばかりではないか。その左之助が戊辰の年に妻子への愛着に後ろ髪を引かれて江戸に引き返し、その後行方を絶ったとは。 (ならばあやつは、上野の山よりもこの京をめざしたと考える方が自然ではないのか。もう三年も前のことだから、いったん還《かえ》ってきた後またどこかに姿を昏《くら》ましたかも知れぬが、生きていればともかく一度は妻子に会いにきたに違いない。これは菅原まさという女を追ってみる必要がある)  鉢のひらいた頭をごしごしとこすり、雲脂《ふけ》を飛ばしながら八郎は思った。      五  本願寺筋釜屋町七条下ルの一帯に、菅原まさ、あるいは原田まさという女性はもう住んではいなかった。それは予想していたことである。  付近の家々をまわってかつての左之助の寓居《ぐうきよ》をつきとめた八郎は、 「たしかに御一新前は、新選組のえらいおかたやゆうお武家はんがお住まいやったけど」  と、隣家の老婆から聞き出すことに成功した。  この侍は黒木綿に丸に一文字の家紋を打った紋付に小倉の馬乗り袴を常用していた、御新造を「おまさ」と呼ぶのを聞いたことがある、というから左之助に間違いない。  鳥羽伏見の戦いが起こるひと月ほど前に侍は姿を消し、あとにはこの御新造と茂という幼児とが残された。御新造はこの時臨月で、まもなくふたり目の男児を出産した。  が、この子は年の瀬までには死んでしまった。そして母子は、仏光寺の方にあるという実家に引き取られていった。鳥羽伏見の戦いがおわると薩長の兵が次々にあらわれ、 「この家にいた女はどこへ行った」  と眉《まゆ》を吊《つ》りあげて問いただすので実に恐しい思いをした、と縁側で日向ぼっこをしていた老婆は歯の欠けた口でぺらぺらとしゃべった。 (いくさのひと月前に左之助が姿を消したのは、新選組が開戦にそなえて伏見奉行所に屯所を移したからだ。その後におまさが出産したのなら、左之助はこの産の結果を知らぬまま江戸へ逃れたことになる。やはりあやつには、妻子に後ろ髪を引かれる理由があったのだ)  八郎は確信した。 「よし、分った。おれは府庁の者だが、おれが来たことは口外するなよ」  八郎は深編笠をかむり、すぐに仏光寺辺にむかうことにした。 「なんや、ひとに仰山ものを聞いといて、一文も出さへんのかいな」  背後で老婆が聞こえよがしに呟《つぶや》いたが、八郎は振りむきもしなかった。  真宗仏光寺派の本山|阿弥陀《あみだ》仏光寺は、五条坊門高倉に約一万坪の境内を誇っている。本願寺筋からゆくには醒ヶ井通りを北上し、仏光寺通りの辻を右折すればよい。境内に繁る老松《おいまつ》の梢《こずえ》が見えてくるのに、三十分ほどしかかからなかった。  元治元年七月十九日の禁門の変の兵火に罹《かか》り、その大師堂や阿弥陀堂は焼け落ちてしまった。まだ修復されないままだが、門前には十一の子院、末社が並び、八郎が新選組隊士として市中見廻りをしていたころに変わらぬ閑雅な雰囲気を漂わせている。  北側の仏光寺通りから仏光寺西町、同東町と歩むうち、西町が下京十番組、東町が下京十一番組と改称されたことに気づいた。  この界隈《かいわい》には、材木、竹、茶、生糸、反物などをあつかう商店や卸商が多かった。しかも、屋号のほかに「菅原〇〇」という門標を貼り出している店は九戸もあった。  ほど近い西洞院には菅大臣《かんだいじん》社がある。そういう土地柄だから、菅原道真にあやかって同じ苗字をつけたのかも知れない。しかしすべて同族という可能性もあるから、そのうちの一軒の暖簾《のれん》をくぐり、 「おまさという女はおらぬか」  などと訊《き》いては、警戒されて元も子もなくなる恐れがある。 (はて、どうしてくれよう)  前から来た人力車を路傍の脇に身を寄せてやりすごした時、その後から喚声を挙げて走って来た子供たちの集団があった。肩上げをした飛白《かすり》の着物に三尺帯、手に小さな風呂敷《ふろしき》包みを提げ、下駄を鳴らして走ってくる。 「ただいま!」  子供たちが元気よく左右の店に駆けこんでいったので、小学校の生徒たちか、と初めて思い当たった。  新政府は、まだ学制を発布してはいない。にもかかわらず京都府は、山本覚馬ほかの献策によって明治二年に早くも六十四の小学校を開設。翌三年には、二条城北側の京都所司代千本木屋敷跡に日本最初の中学校、京都府中学をひらくなど教育に力を注いでいた。そのためこの仏光寺辺の子供たちにも、もよりの小学校へ通う者がめだちはじめているのである。 (待てよ、さっきの婆《ばば》ァは、左之助の女房には茂という幼な児がいたといったな)  次の子が慶応三年十二月中に生まれて夭折《ようせつ》したのだから、茂を慶応元年生まれと仮定すれば現在かぞえ七歳。小学校に通っている可能性がある。慶応二年生まれであったとしても、今年新入学するかも知れぬから、小学校にはすでに名簿があるのではないか。  勇んだ八郎は編笠を外して手近の竹細工屋に歩み寄り、下京十番組小学校、同十一番組小学校への道順を訊ねた。  このたどり方は、図に当たった。初めに訪ねた下京十番組小学校はカラ振りにおわった。しかし次にまわった同十一番組小学校には、菅原茂という一年生が在籍していたのである。 「大和郡山から出てきた菅原家の親戚《しんせき》の者だが、戊辰の騒動以来音信不通になっておりましてな。町名も変わって家が見つからんので、茂の住所がどうなっておるか見てほしいのだが」  ザンギリ頭をまんなかから分けて八の字|髭《ひげ》を生やし、詰襟服を着た若い教員は、その口上を信じて気軽に住まいを教えてくれた。のみならず、 「父 紙問屋業 菅原佐之治三十一歳、母 まさ二十四歳、とありますが、これでよろしいか」  と念まで押してくれたのである。佐之治、という父の名まで割れたのは、まさしく僥倖《ぎようこう》であった。 (左之助め、まんまと生き延びて妻子のもとへ還ってきておったか。ついに見つけたぞ)  その首を持って府庁におもむき、驚嘆と鑽仰《さんぎよう》の視線を一身に浴びるおのれの姿を思い描いて、八郎は両膝を震わせた。 (佐之治などと見えすいた変名を使っておっても、おれの目はごまかせぬ。貴様の屍《しかばね》を踏み台にして、おれはふたたび世に出てやるからな)      六  めざす紙問屋は、下京十一番組の東はじ、空也寺にほど近い寺町通りに店をひらいていた。二階建て土蔵造り、伊勢屋の看板を掲げ、軒先には、 「雁皮帋《がんびし》」  と書いた白い暖簾を掛けている。右隣りは生糸問屋、左隣りは人形問屋。ともにおなじ土蔵造りである。  表通りにはマンテル姿にステッキを持つ男、行き交う二頭立ての馬車や人力車などが時代の変化を如実に示していた。しかし寺町通りに身を入れると、新時代の風物はなにもない。  二日つづけてこの通りに姿を見せた八郎は、通行人を装い、深編笠のなかから伊勢屋の暖簾の奥をうかがった。が、垣間見える上がり框《かまち》のむこうには、両日とも白髪髷《しらがまげ》の老人が座って客と談笑しているばかりであった。  商家ばかりの建ちならぶ狭い通りのこととて、深編笠に二刀差しの男が意味あり気に何度も往来すれば、人目につくのは目に見えている。二日目の黄昏《たそがれ》時、八郎はやむなく左隣りの人形問屋に飛びこんだ。 「急のさしこみが起こってな。すまぬが暫時《ざんじ》、店先を貸してくれ」 「へえ」  と答えた桃割れに前掛姿の若い女中は、急いで番茶を出してくれた。 「や、すまぬな」  痛みに耐えるふりをしてそれを喫した八郎は、昔の剣術仲間を探しているのだが、この辺に原田佐之治という士族は住んでおらぬか、とかま[#「かま」に傍点]をかけた。 「あれ、佐之治はんいうたらお隣りの若|旦那《だんな》はんやけど」 「ええ? 隣りは紙屋ではないか」 「へえ、佐之治はんは養子に入らはったおかたやよって、元は原田ゆう苗字やったのやおへんか」 「こう耳が大きくて、背丈は五尺七寸ぐらい。目鼻だちのくっきりした、色白面長の苦み走った美男だぞ。たしか御新造は、おまささんという名前だった」 「なら、間違いなくお隣りの若旦那はんどす」 「そうか、あいつは士族から商人に鞍替《くらが》えしたのか——」  八郎が独白のようにいうと、額にニキビのある女中は物見高そうにつづけた。  前の御亭主に死に別れ、おまささんは御一新後まもなく一粒種の茂という子をつれて隣りの実家に帰ってきた。前の御亭主は徳川のお役人だったらしく、その後しばらくは御親兵が入れかわり立ちかわり押しかけ、御亭主の遺品と名のつくものは槍、刀から小柄《こづか》まで持っていってしまった。それから一年後に、おまささんは佐之治さんを入婿にして再婚した。だから私は、今の今まで佐之治さんを士族の出とは思っていなかった……。  そこでことばをつぎさした女中は、通りにニキビのある額をむけていった。 「あ、ゆうてたら出て来やはりましたえ」  上がり框《かまち》に腰かけていた八郎は、思わず身を硬張《こわば》らせた。だがこの店も軒下に大暖簾を掛けているので、外からたやすくは見透かせない。上目遣いに見やると、紺地|唐桟縞《とうざんじま》の一重に角帯を締め、素足に雪駄《せつた》をつっかけた大柄な男が、今しも人形問屋の前を大股《おおまた》に通りすぎるところであった。  髷を落として髪をうしろ撫《な》でつけにしていたが、その彫りの深い横顔、心もち肩を揺する歩き方は、まぎれもなく原田左之助のものであった。 (野郎、官軍として戦ったおれが零落の境遇に落ちたというのに、賊徒たる貴様は女房が表むき別人と再婚したように見せかけ、その実家に入りこんでのうのうと暮らしておったのか)  きっと討ち果たしてやる、とその後ろ姿を目送した八郎は、立ちあがっていった。 「おかげで楽になったが、急用を思い出した。佐之治も他出したようだし、隣家は改めて訪ねよう」  左之助の投獄を目的とするのなら、府兵局に密訴すればよかった。しかしそれでは、手柄は府兵たちのものとなってしまう。八郎自身は卑しむべき密告者と見られてしまうだろうから、それでは願望を叶《かな》えられない。  腕利き多数を雇って斬殺《ざんさつ》し、かつての同志の仇を討ったと届け出るのが理想だが、加勢を集めるだけの金はなかった。 (いっそ奈良の渡辺鱗三郎をけしかけて、左之助を斬らせるか)  ちらりと思ったが、八郎は慌ててこの妄想を打ち消した。元京都見廻組の渡辺は、新選組の幹部たちとも交友があったはずである。その渡辺に告げては、かれをも敵にまわすことになりかねない。 (やはり、ひとりでやるしかない。なに、あやつも三年間剣から遠ざかっていて勘も鈍っておろうし、こちらには薙刀があるではないか)  八郎は、ふたたび郵便制度を利用して呼び出し状を送りつけることにした。  場所は東山黒谷、金戒光明寺裏山の旧会津藩墓地。日時は五日後の四月十四日水曜日の午後十時と定め、書状の投函は十三日朝まで待った。おなじ府内なら書状は三十六時間以内に届くだろうし、左之助に対策を立てる余裕を与えたくはない。 (出てこねば府兵局に訴え、女房子供まで巻き添えにしてやるぞ、と威《おど》せば、血の気の多いあやつは絶対出てくる)  八郎は確信していた。  そして十三日の夜、——。  薙刀のひとり稽古で大汗をかき、もはや勘はとりもどした、と満足した八郎は早目に寝床に入った。だが、なかなか眠りは訪れなかった。かれは、ひとしきり原田左之助について見聞したところを反芻《はんすう》した。  伊予松山脱藩後、左之助は大坂に出て種田宝蔵院流|槍術《そうじゆつ》を修得。その後江戸に流れて近藤勇の試衛館道場の食客となった。文久三年(一八六三)春、幕府が佐幕派浪士隊を募っていると聞くや近藤たちとともにこれに応じ、新選組第一次編成に加わった、と聞いている。  腹に切腹|疵《きず》のあることから、 「死にぞこね左之助」  と渾名《あだな》されていたが、この死にぞこねはなかなかの乱暴者であった。隊士|楠《くすのき》小十郎が長州の間者と知れた時には、糾問もせず背後から一撃で首を刎《は》ねてしまって近藤に叱られたという。  筆頭局長|芹沢《せりざわ》鴨や大坂町奉行所与力内山彦次郎の闇討ちにも参加したし、元治元年六月四日には尊攘派の大物志士|古高《こたか》俊太郎を捕縛。長州系尊攘派の間に御所焼き打ち、京都守護職謀殺の陰謀ありと探知するのに貢献した。  そればかりか、翌日新選組が三条小橋の池田屋に尊攘派志士たちを急襲した時にも大活躍した。十文字槍をひっつかんで玄関口に立ちふさがったかれは、断固として志士たちの逃走を許さなかったのである。  しかしこれらは、いずれも八郎の入隊以前の出来事であった。慶応二年初秋から翌年三月までの半年間しか新選組にいなかった八郎は、佐幕派退潮の時流のなかで市中見廻りに忙殺されていたから、隊内の稽古でも左之助と立ち合ったことはない。ふたりが行動をともにしたのは、三条制札事件の際のみであった。  三条制札事件とは、禁門の変を起こした長州藩を糾弾すべく三条大橋西詰めに立てられた高札が、慶応二年八月末以降、何者かの手で幾度も引き抜かれたことに端を発する大捕物をいう。  下手人を長州に同情的な尊攘派と見た新選組は、九月十日以降、三条大橋東詰めの町屋に大石鍬次郎ら十名を派遣。その西側の酒屋に新井忠雄ら十二名、先斗《ぽんと》町の会所に原田左之助ら十二名を待機させた上、浅野薫と水野八郎——当時、橋本皆助——とを乞食に変装させ、橋の下に潜ませた。  すると十二日の九つ刻(午前零時)、長刀を帯びた土佐藩士八名が闇のなかからあらわれ、高札を引き抜いて河原に投げ棄てようとした。それを見た八郎は、加茂の流れを徒渉して新井隊に注進。抜刀してともに現場へ走った。  が、かれらが駆けつけた時には、すでに原田隊が白刃を青白い月光に燦《きら》めかせながら激闘を展開していた。 「馬鹿!」  大音声を張りあげた左之助は、剣を振るって領袖《りようしゆう》格とおぼしき男に迫っていた。かれは隊士ひとりと連携して男を左右から包みこみ、何度か刃風を立てた果てにその男を斬り伏せた。  水戸天狗党に加わって追討軍と戦って以来、八郎も実戦の度胸は据わっている。というよりむしろ人を斬る快味に酔う癖《へき》が生じていたから、ためらいなくこの乱陣に駆け入ってひとりを斃《たお》した。この功によって八郎は仮隊士から正規採用の隊士となり、おって伍長に大抜擢されたのである。  こうして伝聞や記憶をたどっても、左之助がさし[#「さし」に傍点]で相応の剣客と戦った事実はどこにもなかった。近藤や土方が、敵ひとりに対し常に二、三人で立ちむかって討ち取れ、と命じていたためだが、八郎はそれを単独で勝ちを制するだけの技量はないためだ、と考えた。  先月初め、渡辺鱗三郎に簡単にあしらわれたことも棚に上げ、八郎はひとりごちた。 (あやつはしかも、剣よりも槍を得手としていた。それに人形問屋の女中は、妻女が実家に帰ってきたころ御親兵たちが何度も押しかけ、槍、刀から小柄まで持ち去ったといっていた。あやつが差出人不明の呼び出し状を手に取るのは、明日の夕方。それから十文字槍を入手する暇はあるまいが、無腰で江戸から落ちてきたとは思えぬから、明日はおそらく薙刀対刀の勝負になる。おれの薙刀を止められるものか)  八郎の薙刀は、いわゆる「同田貫《どうだぬき》」。肥後の末延寿鍛冶《すええんじゆかじ》のきたえた重ね厚い蛤刃《はまぐりば》に、五尺の長柄《ながえ》をつけた代物である。天狗党時代、これを振るって追討軍の兵の首を大根を切るように斬りとばした記憶が、八郎に自信を甦《よみがえ》らせた。      七  月影に濡《ぬ》れた金戒光明寺の二層の山門をくぐり、右手のひょうたん[#「ひょうたん」に傍点]池にかかった石の反り橋をわたると急な石段にぶつかった。刀の下緒《さげお》をたすきにし、袴の股立《ももだ》ちをとった八郎は、革足袋の足でゆっくりとその石段を登っていった。  鉢のひらいたザンギリ頭に鉢金を巻き、左腰には大和の刀工、筒井越中守|紀充《きじよう》作の大小を差しこんで、右脇には同田貫の薙刀をかいこんだ古式の姿である。おりから中天に差しかかった満月に皓々《こうこう》と照らされ、八郎は足許《あしもと》に淡い影を落としていた。  面《おもて》を上げれば石段の先に、黒々とした三重塔が眺められる。二代将軍徳川秀忠の菩提《ぼだい》をとむらうために建立された文殊塔であった。八郎はその塔をめざさず石段の途中から左にのびる小道に入り、右手に林立する墓石を無感動に見やりながらすすんだ。  突き当たりに本堂を持つ塔頭《たつちゆう》西雲院は、これも本山同様徳川家の扶持《ふち》が絶えて寂《さび》れきっていた。  文久二年(一八六二)師走に京都守護職として上京した会津藩主松平|容保《かたもり》は、一年後に京都所司代北側に守護職屋敷が落成するまで、黒谷のこの金戒光明寺を本陣とした。当時、この本陣を訪れる幕吏、諸藩の公用人、口入れ業者たちは引きもきらなかったが、会津藩が賊徒として討伐されると同時にこの寺も衰亡の一途をたどった。八郎がその裏山を選んだのも、ここなら誰にも邪魔はされぬ、と考えたからにほかならない。  西雲院の門前を右に折れた。草地のなかを少しゆくと、 「会津藩墓地」  と書かれた古い木標の先に、ひっそりと冠木《かぶき》門が立っていた。そこを一歩入れば、宏大な墓域であった。  東山の黒い峰々を背景に、やや高低差のある二、三百坪の墓域が三つ、葉末に夜露を置いた雑草をはびこらせて森閑と鎮《しずも》っていた。そのなかに縦、横、あるいは背中合わせに列をなしている小体《こてい》な墓石の数は、二百以上に上るだろう。  この墓域には、あちこちに桜の若木が植えられていた。すでに花は散りきっていたが、青葉をひろげた枝々は月光を網の目のように透かして小暗く輝いている。  八郎は鉢金の下の細い目だけをせわしく動かしながら、まんなかの墓域の中央にすすんだ。その時、正面二十間(三六メートル)の地に枝をひろげた桜の樹の方角から声が来た。 「その方、橋本皆助であろう。待ちかねておったぞ」  あきらかに左之助の声であった。樹陰から影絵のように姿をあらわした左之助は、八郎同様麻|帷子《かたびら》にたすきをかけ、袴をつけてその股立ちを取っていた。 「おお、原田左之助か、臆病《おくびよう》風にも吹かれずよくぞまいった。三年近くもうまく隠れおおせていたようだが、とうとう年貢の納め時だな」 「なにをひとりで力んでいやがる。今ごろどうして、おれに挑みたくなったのだ」  左之助は刀の鯉口を切り、彫りの深い顔だちがよく見える位置まで近づきながら問いかけた。 「決まっておろう。伊東甲子太郎先生の仇を報じるのよ」 「笑わせるな」  左之助は、吐き棄てるようにいった。 「うぬはたしか水戸天狗党くずれ。新選組入隊を願ったかと思えば高台寺党に走り、伊東らとともに動いても立身は図れぬと知るや陸援隊に尻尾《しつぽ》を振った無節操漢じゃねえか。なにが伊東の敵討だ。その垢《あか》じみた身なりはいかにも食いつめた様子、さだめし官途にもつけなんだため、おれを討って名を挙げてえのだろうが、そうはいかねえ」 「やかましい」  図星を差されて、八郎は逆上した。 「貴様が菅原佐之治と変名していることを知っているのは、おれだけと思うか。おとなしく首をよこさぬと、女房や餓鬼が泣きを見るぞ」  しかし、左之助にこの威しは効かなかった。かれは悠然と答えた。 「仲間がおるのなら、隣近所の聞きこみまでなぜひとりでやっていた。いずれうぬのようなやつが来るかと思い、あたりの使用人には小銭をばらまいて、面妖《めんよう》なやつがあらわれたらすぐおれに注進するようにしてあったのだ」 「ふん、小心者の用心というやつだな」  八郎は薙刀の鞘《さや》を払い、左一重身になって足の位置を決めた。そして「笹隠れ」に構えると左之助も抜刀し、右脇構えに剣先を引きながら揶揄《やゆ》した。 「ばかに古臭え得物を持ち出しやがったな。剣の巧者であれば、薙刀の攻めはことごとく封じきれると知らねえか」 「貴様がその巧者とは思えぬわ」  左之助の意外なゆとりに、八郎は一瞬たじろぎかけた。しかし、もはやおのれの技に賭《か》けるしかない。蛤刃の薙刀を受けつづければ、それだけで刀はノコギリのように刃こぼれして使いものにならなくなる。 (今に吠《ほ》え面をかくなよ)  八郎は笹隠れの構えを解かず、左之助を「懸」に誘うべく丹田に力を集中させた。  笹隠れとは、薙刀術特有の構えである。左一重身になって左手を「待った」をするように突き出し、右手の得物は柄が背中につくほど深くかいこんで、刃を下段後方に隠してしまう。  この「待」に誘われて相手が面に撃ちこめば、足を踏み違えて右から胴を一閃《いつせん》。それを躱《かわ》されれば刃先を左上方に旋転させて逆胴を抜く。相手がこの攻めをすりぬけて再度面にくれば、石突《いしづき》で下から小手を殴りつける。これを鍔元《つばもと》で止められたら、そのまま石突を槍のようにくり出して相手の喉を突き破る、という恐るべき続け技が秘められていた。  しかし、さすがに左之助はこの誘いには乗らなかった。その間に、八郎は焦《じ》れた。大きく息を吸った八郎は、 「やっ」  と右足を踏み出して刃を下段に走らせ、左之助の右腿内側の血脈を切断しようとした。左之助はふわりと跳びすさって、この攻めを躱した。その背後には、横に墓石が並んでいる。 (もう引き足は使えぬぞ)  勝ちを信じた八郎は、左に流した刃先をすくいあげ、今度は左之助の右膝の皿を斬り裂こうとした。これも躱されれば右上段に刃先を回し、一気に左首筋をブチ斬ろう、という読みであった。  が、ふたたび跳びすさるかと思った左之助は、刀を青眼につけてするすると進んできた。薙刀が右膝を襲う寸前にひょいと両足を引いて避《よ》けると、合《がつ》し撃ちに刀を振りおろして薙刀の峯を打ち据える。  瞋恚《しんい》に燃えたその顔が、眼前にぬっと迫った時にはもう遅かった。左肩に激痛を覚えた八郎は、 「うわっ」  と叫んで薙刀をほうり出し、その場にくずおれていた。  薙刀の峯に刃をあてがってわが身の右から左へと押しまわし、途中で手首を返してさらに薙刀を左上方へと擦《す》りあげた左之助は、この一連の動きのうちに八郎の手もとにつけ入っていた。そして刀を薙刀から引っぱずすや、ひねり打ちに八郎の左肩を斬り下げたのである。  だがこの一打は、骨までは達しなかった。八郎は呻《うめ》きながらも手近の墓石に右手をかけ、ようやく立ちあがった。つかつかと歩み寄った左之助は、左腕でその上体を抱くようにして下腹に刃先を突っ立てる。  これをぐいと引きまわされれば、切腹したのと同じように失血死することは間違いない。苦痛と絶望に身を震わせた八郎は、左之助のぶ厚い胸に額をこすりつけるようにしていった。 「ま、負けたよ。ひと思いに殺せ」  しかし、左之助の反応は意外なものであった。かれは八郎の声を聞くや、すいと刀を抜き取って跳びすさったのである。血を飛ばすため、その刀にひと振りくれた左之助は、腹に両手を当てて上体を揺らしている八郎を見据えた。 「そんな腕で、よくもおれを呼び出す気になれたな。だがもう、お互い剣を振るって名を挙げる時代でもあるめえ。おれももう人斬りにはうんざりだ。とどめは刺さねえでやるから、運がよければ生き延びろ。とにかく二度とおれの前にあらわれるな」  ゆっくりと納刀した左之助は、肩をそびやかして冠木門の外へ歩み去った。  左之助がかくも卓抜な薙刀の封じ技を身につけているとは、八郎には思いも寄らぬことであった。  渡辺鱗三郎と立ち合った時にも、八郎の読み筋はことごとく外れた。思えば水戸天狗党、新選組、高台寺党、陸援隊と転々としたのも、なんとか時流に乗ろうと将来を勝手読みした結果であった。 (挙句《あげく》のはてに新選組生き残りの前にしゃしゃり出て、こんなザマになろうとは)  自嘲《じちよう》の思いが噴きあがった。肩と腹の疼痛《とうつう》に耐えて薙刀を拾いあげた八郎は、それを杖《つえ》がわりにしてよろよろと歩きはじめた。      八  水野八郎が大和郡山内町にたどりついたのは、十五日の暁闇《ぎようあん》四時過ぎのことであった。かれが神気|朦朧《もうろう》となりながら黒谷の金戒光明寺山門から歩み出た時、人力車が一台、闇のなかに提灯の黄ばんだ灯を投げかけて通りかかった。その人力車に這《は》いこんで、兄橋本兵司の家にたどりついたのである。 「どうした、血だらけではないか!」  俥夫《しやふ》が戸口を叩く音に眠りを破られ、寝巻姿で跳び出して兵司は叫んだ。  十里以上の道のりを人力車に揺られて来たのが裏目に出、八郎は多量に失血して死人のような顔色になっていた。 「しっかりせんか、いま医者を呼んでやる」  血の海になっている車内から俥夫とふたりで八郎を抱き取り、兵司は寝巻を血で汚しながら室内に運び入れた。 「あ、兄者よ」  その時、八郎は息を喘《あえ》がせていった。 「医者は、呼ばんでくれ。おれが死ぬのは自業自得だ。それに、阿呆《あほう》な弟が何者かに斬られたなどと噂になっては、兄者の体面にかかわろう」 「———」  兵司はそのことばに、弟の死が間近いことを悟った。拗者《すねもの》の弟が、兄の身を案じるせりふを吐くとはかつてないことであった。  それから約二十四時間、八郎は肩と腹からじわじわと出血をつづけながら昏睡《こんすい》状態をつづけた。翌十六日の朝、一番鶏が啼《な》いたころ、すでに死相を浮かべた八郎はうっすらと目をひらき、枕許に居並ぶ兵司とその妻の顔をこもごも見やって嗄《しわが》れ声で告げた。 「お、おれはもう駄目だ。正業にも就かず、迷惑ばかりかけてすまなかった……」 「一体、誰にやられたのだ」  せきこむように兵司は訊いた。だが八郎は、力なく首を振って答えなかった。  その首の動きが止まったと思った時、八郎はもう絶命していた。尊王、佐幕、尊王とめまぐるしく立場を変え、時代の潮目を見抜こうとあがきつづけたかれは、世に出ようと焦るあまりに早すぎる死を迎えたのである。  今日水野八郎の墓は、大和郡山城下西岡の日蓮宗妙高山常光寺にある。  一方、原田左之助は、この果たし合いを最後に忽然《こつぜん》と京から姿を消した。第二、第三の刺客の出現をあやぶんだかれは、妻おまさやせがれ茂にいずれ危害がおよぶことを恐れ、妻子とともに生きることを断念したのであろう。  おまさはのち神戸に移り住み、昭和の初めまで長寿を保った。茂はおまさの従兄《いとこ》、井上新兵衛の家をついで名も繁次郎と改めたが、四十歳で病没した。  最晩年のおまさは、新聞記者たちに夫左之助について取材されることがあったが、戊辰後に会ったことはない、という主張を最後まで曲げなかった。  一説に左之助は、京を去った後下関から釜山《プサン》へ渡航。さらに大陸奥地に分け入り、後半生を馬賊の頭目としてすごしたといわれている。  そして左之助は、明治四十年(一九〇七)ごろ七十歳近い好々爺《こうこうや》となって、故郷松山に姿をあらわした。まだ生きていた実弟の原田半次、甥《おい》の大原大次郎、白石鹿次郎らと四十数年ぶりの再会を喜びあったかれは、戊辰戦争当時の動きを問われるとこう答えた。 「おれは永倉新八と別れて江戸に戻ったあと、上野の宮さまが戦火を避けて山を下るのを陰ながらお助けした。その後は御一行と別れ、一年近く浅草の新門辰五郎の家に潜んでいたのさ」 侠客《きようかく》新門辰五郎は、自分の娘を最後の将軍|慶喜《よしのぶ》に側室として差し出したほどの佐幕派であった。  そう語り、おること数日にして大陸へ還《かえ》っていった左之助は、その後二度と弟たちの前に姿を見せなかったという。 [#改ページ]  参考資料  間諜許すまじ 矢野原与七『心苦雑記』(郡上史談会)/藤田清雄『鶴ヶ城を陥すな』(謙光社)ほか。  眉山は哭く 田中双鶴『柴秋邨精説』(鳥跡社)/庚午事変編集委員会『庚午事変』(徳島中央公民館)/『庚午事変研究の栞』(徳島県立図書館蔵)ほか。  明治四年黒谷の私闘 市居浩一『高台寺党の人びと』(人びと文庫)/豊田重雄「上野戦争の原田左之助」(『歴史と旅』昭和五五年十一月号)ほか。 本書は平成七年一月文藝春秋刊の単行本『眉山は哭く』を改題し文庫化したものです。 角川文庫『恋形見』平成14年10月25日初版発行