犯罪の心理学 なぜ、こんな事件が起こるのか 中村希明 著  目 次   はじめに 第1章 何が彼らをそうさせたか? 第2章 サギ師の群 第3章 えん罪はなぜ起こる? 第4章 ノイローゼが高じて…… 第5章 現代の犯罪   まとめ   あとがき 犯罪の心理学 なぜ、こんな事件が起こるのか はじめに  このところ、お人形のように可愛い幼女を誘拐して殺したとか、�悪魔|祓《ばら》い�につかれた妻がハサミで夫の身体を切り刻んだというような事件が日本で続発しているが、こうした異常な事件がなぜ起きるのだろうか。  一分間に一人の割合で人が殺されている計算になるともいわれているアメリカでは、三八人の子供を殺したアトランタの殺人鬼や、動機のわからない連続殺人事件でニューヨーク中をふるえ上らせた「サムの息子」などの悪名高い殺人鬼が多いのだが、そもそも「切り裂きジャック」の元祖は一〇〇年前のロンドンの裏町に現れたのである。欧米に、このようなけた外れの殺人狂がでるのは、彼らに肉を常食とする狩猟民族の血が濃く流れているからなのだろうか。  しかし、『今昔物語』を読んでみると、一〇〇〇年前の京の内裏《だいり》裏の松原にも、若い官女をバラバラにした�和製切り裂きジャック�が現れて、「鬼」と呼ばれているのである。また、関東大震災のころには「人か魔か」と恐れられた連続少女殺人魔・吹上佐太郎が現れている。  こうなると、人は時代や国をこえて、同じような犯罪をくり返したがるともいえそうである。  人はなぜ犯罪を犯すのか? また、なに故に愚かしくも同じような犯罪をくり返すのか? これは、「裸のサル」であった人類が背負っていかねばならない永遠の命題なのかもしれない。  そもそも犯罪学は、進化論の影響を強く受けたロンブローゾの素因重視論に始まるものであった。しかし、その反省から最近は、犯罪は社会化が十分になされなかったために起こるとする環境万能論が優勢となっている。  しかし、あまりにも環境論に傾きすぎると、なぜ犯人がそんな事件を起こしたのかという原因が不明確になってしまうきらいがある。また犯罪というものは、加害者と同時に必ず被害者をもつくる心重い行為であるから、すべてを社会のせいにする論理は、被害者の家族を含めて、我々になにか割りきれない思いを残すのではあるまいか。  したがって、犯罪といういたましい行為をとり上げる場合は、社会や環境ばかりでなく、やはり行為の主体者である犯人の生物学的側面をも含めた多面的な考察を行うことによって、犯罪の起こる原因に迫ることも必要であろう。これが第1章に重大犯罪の事例解析をとり上げた理由である。  それにしても、一方において人はなぜ犯罪にかくも興味をもつのであろうか。  実はこれは、我々の心の深層にひそむ「悪人願望」を反映するものではなかろうか。昔の修身の教科書にもなった古代中国の堯《ぎよう》・舜《しゆん》の聖王の話は退屈の極みであるが、酒池肉林の宴をはった桀《けつ》・紂《ちゆう》など悪王の話はドラマにもなるのである。シェークスピアの歴史ドラマの中でも、悪虐な『リチャード三世』はピカレスク小説の面白さがあって、好んで上演される。  国民小説といわれた『大菩薩峠』のニヒルな剣鬼・机竜之介や、「円月殺法」で有名な眠狂四郎などは美男俳優が競って演じたがる役柄である。劇画の世界の殺し受請人である「子連れ狼」は、「ローン・ウルフ」と訳されてアメリカでも絶大な人気があるという。  人々がかくも殺し屋である悪役に興味をもつのは、彼らが人々の心の深層にひそんでいる赤裸々な人間の欲望をストレートに表現した一種の�ヒーロー�であるからかもしれない。  最近は死刑廃止論も盛んになったが、昔は洋の東西をとわず、死刑こそは一種のショーであった。近松門左衛門の戯曲をもとにした映画「近松物語」の冒頭も、浪速《なにわ》の町中をはだか馬で引き回される不義密通の男女を見る黒山の群衆シーンで始まっている。これらの罪人の多くは竹矢来《たけやらい》を組んだ刑場ではりつけにかけられ、おまけにその首までが獄門台の上に罪状とともにさらされたのである。また、これらの事件を大々的に報じた瓦版は現在のテレビ、新聞などのマスコミのはしりをなすものであった。 「サアサア皆さんお聞きなさい。深い意趣遺恨のあるでもないのに、只お金を貸さぬばかりのことで男を殺害したる前代未聞無類飛切りともいうべき女の大罪人が出来ました」。これは大江戸の瓦版ではなく、高橋お伝の犯罪を報じた「東京曙新聞」の書き出しなのである。この三面記事の報道ぶりの本質は、瓦版から明治、大正の新聞、現在のテレビまで少しも変ってはいない。 「何が彼女をさうさせたか」というのは大正時代の「傾向映画」のタイトルで流行語ともなったが、犯人が一体どうしてそのような犯行を行うに至ったかという解説は、マスコミの絶好の評論ゲームと化した感さえする。  このような行きすぎた報道が犯罪者に対する偏見をあおる結果になるのは論をまたないが、反対にノイローゼがからんだ事件になると、情報が必要以上に伏せられてしまうために、かえって精神障害者に対する偏見を深めているきらいもある。  この点を考慮して第4章で、ノイローゼに関連した事件を考察してみた。精神障害者の起こした数少ない事件が騒がれすぎる原因のひとつは、マスコミや一般の人々に精神障害に対する正確な認識が不足しているためである。  本書は以上に述べてきたような意図から書かれたものであるが、ここで筆者の犯罪に対する基本的立場や視点を明らかにしておく必要があるだろう。筆者は精神科医であるので、患者さんの異常体験を、限界状態におかれた人間の示す内攻性不適応反応としてとらえている。この症状理解の視点から、犯罪行動もまた、限界状況におかれた人間がとった外攻性不適応行動のひとつとしてとらえ直すのが、筆者の基本姿勢である。したがって犯罪を起こさない人というのは、限界状況におかれても、さまざまな適応的発散行動によって精神衛生を保ち、かろうじて異常な不適応行動をとらないでいるだけであるともいえよう。  また現代社会で頻発《ひんぱつ》している新しい型の犯罪については、社会病理学の観点からの解説も必要になってくる。  たとえば、アメリカが現在のような犯罪王国となった遠因は、いきすぎたベトナム戦争の放映が、お茶の間のテレビに殺人シーンを日常茶飯事のように持ちこんだ心理的影響によるとも指摘されている。また、殺戮の戦場と現実の社会との区別が混乱した復員兵士の起こす犯罪の増加は、「ベトナム後遺症」としてアメリカ映画にくり返し登場する。さらに、現在の深刻な麻薬汚染も、死の恐怖におびえる兵士たちが東南アジアの「ゴールデン・トライアングル」産の麻薬を本国に持ちこんだものに始まっている。  また、最近のわが国に起こった凶悪事件の中には、刺激の強い有害なビデオや劇画が野放しになっている現在の問題点と明らかに関連したものもあると思われる。カポネ時代のギャングにもドギツい劇画の影響を指摘した心理学者がいたのである。  児童心理学的に見ると、抽象的思考を訓練する文学は思索的行動抑制型の人格をつくるが、直接映像に訴える劇画や、かぎりなく現実の世界に近い有害ビデオは、仮象《かしよう》の世界との境界を不鮮明にし、また人間の心の中に眠っている野性の攻撃衝動を解放するのである。  これからの章で、筆者の印象に残っている事件に登場する犯人像について、以上のような観点から分析を試みてみようと思うのである。 第1章 何が彼らをそうさせたか? 1 犯罪をひき起こす要因は何か?  終戦直後の食糧難の時代に、買出しの女性たちを闇米を分けてくれる農家に世話するからと連れ出して、次々と強姦殺人した小平義雄の名は今でも記憶している方が多いであろう。  高度経済成長が始まって世間が少しリッチになると、今度は最新流行のスポーツカーをかって、「僕のアトリエでモデルになってくれませんか」と駅前で若い女に声をかけて誘い出し、強姦殺人を重ねたO・Kが現れて、「群馬の小平」と仇名された。  小平は終戦直前の昭和二〇年五月から昭和二一年八月までの一年四ヵ月の間に一〇人の女性を殺したが、Oは出獄直後のわずか四一日間のあいだに八人の女性を強姦殺害してスピード記録をつくった。  この二人に隠れていささか影がうすいが、小平よりやや遅れて六人の女性を強姦殺害し、幼児二人を巻きぞえにした栗原源蔵もその手口の残酷さでは二人以上である。  彼らがどうしてこのように残虐な犯罪人に成長していったのであろうか。一体、人間をしてジャングルの闇にかえらしめるものは何なのであろうか。  小平とOについては、くわしい精神鑑定が行われ、その結果も公刊されているので、これらの材料を手がかりにしながら、彼らの犯行時の心理を知り、あわせて我々の心の中にひそむ危険な獣性の深淵をのぞいてみようと思うのである。  ロンブローゾの「生来性犯人説」  一体、犯罪者がもって生まれた何らかの素因が犯罪をひき起こすのか、それとも不幸な成育環境の影響で犯罪を犯したのか、この「素因か環境か」という永遠の命題が奇しくも犯罪心理学のスタートとなったのである。  イタリアの精神科医であったC・ロンブローゾは、長い間刑務所の嘱託医をして受刑者たちを診察しているうちに、彼らが特有な身体的特徴をもっていることに気がついた。  ロンブローゾはこの身体的特徴——彼によれば小頭症だとか顔面の血管腫など——をもつ者を人類が大昔にもっていた素因が先祖がえりして現れた一種の�サイン�と考えて、これらの特徴をもつ犯罪者は、自分でも抗しがたい衝動に支配されて犯罪を行った「生来性犯人」であると名付けたのである。つまり、彼らは将来において犯罪を起こす�宿命�に生れついたという、一〇〇パーセントの素因重視説であった。当時から反論の多い説であったが、なぜこんな極端な説になったかというと、この一八七六年のロンブローゾの説は、彼のほぼ二〇年前に現れたダーウィンの自然淘汰理論を犯罪学にそのまま当てはめたことと、またヨーロッパ精神医学では伝統的に素因重視の立場をとっていたからでもある。  したがって、素因よりも環境を重視するアメリカや旧ソ連の心理学者や社会学者からは後に、偏見や差別を強調する学説として攻撃の対象となった。現在は、犯罪は劣った環境によって充分な社会化を受けられなかったために起こるとするアメリカの社会心理学者の環境重視論が優勢となった感がある。  しかし、これら三人の犯罪経過や生活史などをくわしくたどっていくと、素因の影響をまったく否定することは困難であって、素因と環境との複雑にからみ合った研究材料を我々の前に提供するのである。  犯罪の系譜的研究  世間をアッと驚かせるような大犯罪を起こした者や、または何回も犯罪をくり返す「累犯者《るいはんしや》」を調査してみると、やはりその関係者に累犯者や精神医学的にみて問題のある血縁者が散見されることがある。こうした調査を、犯罪学では「系譜的研究」といって、犯罪者個人を研究対象とする犯罪生物学の一部門になっている。  銃が正義を支配した無法時代のアメリカ西部では、保安官ワイアット・アープと対決したクラントン一家や、列車強盗団で有名なジェシー・ジェイムズ兄弟などの�犯罪一家�があった。ここでは、「コード・オブ・ロウ」というその集団だけに通用する特有の規範・価値観があって、その集団においては盗みが善とされるなど、世間の善悪の規範がはじめから逆転していたのである。わが国においては高度成長のはじめに、一村ぐるみの「空とぶ万引団」として有名になった福岡県の�泥棒村�の事例があるくらいである。  これらは明らかに環境の影響であろうが、小平たちに関する調査をみると、環境だけでは片づけられないものを感じさせる。  図は環境と資質との関連を示したものであるが、高潔な人格者はよほど困っても犯罪を起こすことはまれであるが、自分の欲望にブレーキのかかりにくい資質を持ったものは、環境が悪くなると犯行に走りやすくなるのである。  小平の場合  小平義雄に関しては、当時の東大精神科教授内村祐之によって、その血縁者が調査された。  それによると、小平の父方の血縁者には精神医学的に負因のある者が多かったが、義雄の母親は純情な男まさりのしっかり者で、子供をよく可愛がるまったく正常な人であった。また母親の兄(義雄の伯父)は裁判長まで務めた優秀な人物であった。  これに対して、義雄の父親はかなり問題があったようだが、しかし彼は、若い頃は物知りといわれ、所有する田畑も多く、商人宿を経営して景気のよい時期もあったので、その頃に見合結婚したものであろう。  義雄の父親は若い頃からの大酒家で、文字通り飲む、打つ、買うの放蕩を重ねた末、旅館と田畑のみならず、現代のトラックに当る馬まで売り払って、晩年は鉄索の油差しをして暮した。人に頼まれると、いやとは言えぬお人好しのところもあったが、飲酒すると立腹して家族に乱暴することも多く、アルコール中毒患者というより、一種の性格異常者だったとも考えられる。  その弟(叔父)は、若い頃村一番の乱暴者であった。酒乱で喧嘩は日常茶飯事、常に短刀を懐にし傷害で数回、賭博でも受刑している累犯者であった。その下の妹は、重い知的障害であった。  義雄の兄弟にも問題が多かった。  義雄の兄は高等小学校をかなりよい成績で卒業したが、勤労意欲のない人物で、放浪癖があり転々と職業をかえた。郷里にフラリと明治大学の学帽をかぶったり、巡査の服装をして現れたことがあったという。若い頃から手癖が悪く、窃盗を二度やったが、いずれも起訴猶予になる程度であった。  義雄の姉は、小学校は卒業したものの、当時としては就労困難な知的障害者であった。しかし、お喋りで頓智《とんち》もきくので、一見したところでは知的障害者とはわからなかった。虚言癖があり、いやなことがあるとヒステリー発作を起こすことがあったので、ボーダーライン程度の知的障害者と異常性格の合併したものであろう。  要するに、小平義雄の父方には知的障害者と異常性格が多く見られたが、前科のあるのは叔父の一人だけであって、対照的に、母方にはまったく異常者がいない。  O・Kの場合  このような小平に対して、スポーツカーによる連続強姦殺人を起こしたOの場合は、精神医学者の福島章氏の著書によれば母方に犯罪者や性格異常者が多く見られたという。  母方の祖母は、女ながらに賭博と傷害の前科があった。その弟(Oの大叔父)は若い頃から窃盗、強盗傷害、殺人などを重ね、ついに獄死した累犯者《るいはんしや》であった。  Oの母の父と思われる者(Oの母方祖父)も賭博の前科があり、母の異父弟の子供の一人は傷害事件を重ねた。Oの母親に犯罪歴はないが、自己中心的で虚栄心の強い性格であったといわれる。  父方には犯罪者はいない。父親は戦時中の闇米売りや交通違反で罰金を払ったことのある程度であるが、女癖の悪い人物であったとされている。  このようにOの母方に男の犯罪者が多く見られるが、これは精神医学的に見ると、性的衝動のたかまりによってその攻撃性が増加されたためであろう。  このような系譜的な研究が最近行われなくなったのは、アメリカ社会心理学による環境重視論の影響もあるが、いくら系譜を調べても実際の犯罪が素因による影響が大きくて起こされたものなのか、それとも成育環境の影響が大きいのかを、はっきり判定できなかったからである。  双生児で調べてみると  犯罪生物学のもう一つの重要な研究法として「双生児法」がある。  一卵性双生児というものは卵を二つに割ったように遺伝形質がまったく同一であるから、一方が精神病になったりすると、もう一方も同じ精神病になる率が高いと考えられていた。  これを「一致率」と呼ぶが、二卵性双生児は卵の違った兄弟と同じであるから、当然、一致率は低いことになる。  犯罪における一卵性双生児の一致率は、素因論の優勢であった戦前の研究では七割前後の成績で、しかも犯行の種類や手口まで奇妙なほど類似するとまでいう学者もいた。  この当時の研究は双生児の調査組数も少なく、しかも一卵性、二卵性を判定する信頼性も低かったので素因論は下火になったが、デンマークのK・クリスチャンセンが一九七三年に行った大がかりな研究によると、一卵性双生児の一致率は六七組中三五・八パーセントで、二卵性双生児でも一一四組中一二・三パーセントであり、素因の影響を完全には否定しがたい成績を示している。  養子研究では  しかし、いくら同一の遺伝形質を持つ一卵性双生児を調べてみても、双生児の多くは同一の家庭で育てられるのだから、環境の影響を除外することはできない。  そこで、生後すぐに養子に出されて違った環境で育てられたグループと、実の両親に育てられた対照グループとを比較すれば、この環境か素因かという命題に、もう少し迫ることができる。  一九七三年に、B・ハッチングは、登録の完備しているコペンハーゲン市で、出生直後に養子に出され、調査時に三〇歳から四〇歳に達している男子の一一四五人と、実の両親に育てられた同数の対照群との犯罪率を比較する大がかりな調査を行った。  意外なことに、実父に犯罪歴がなく養父に犯罪歴がある、つまり環境に問題がある群の犯罪率は一一・二パーセントにすぎないのに、実父に犯罪歴があり養父に犯罪歴のない、小説『氷点』のヒロインのような素因に問題のある養子組の方が、二一・〇パーセントという二倍も高い犯罪率を示したのである。  このような最新の信頼できる研究結果をみると、犯罪に関する素因の影響は、やはり完全には否定できないものがあり、社会心理学者による環境万能論に一石を投じていることがわかる。  犯罪を起こす要因は一つではない  犯罪行動は、このように素因と環境因子とが複雑にないまざって起こるものであるが、この関係をオーストリアの犯罪学者E・メッガーは次の公式で表わした。    V=f (aeP ・ ctU)  つまり犯罪行動Vは、犯因的人格環境Pと犯因的行為環境Uとの積で規定される函数で表わされる。  しかし、Pは素因などの先天的な生物学的因子eと成育家庭などの後天的因子aとで修飾されるし、またUも、その人の教育、職業・社会的地位や現在の家庭状況などの持続的な人格環境cと、強い経済的困窮、過労、季節、飲酒などの一時的行為環境tによって左右されるという多元的な考え方である。  先述のOの場合のように先天的な素因eの影響が強いと、行為環境Uのわずかな変化によっても、容易に犯罪が触発されるのであろう。  一方、教育も高く検事や校長、裁判官などの人の模範になるような職業で、高い社会地位についている持続的人格環境cのよい人は、万一の交通事故さえ用心して自分では運転しないように心がけているくらいだから、滅多なことでは犯罪を起こさないのである。  しかし、遺伝的負因もない普通の家庭に育ち、大学も出て中小企業の課長として評判もよかった二九歳の男が、産後の肥立ちの悪い妻を実家に帰して三ヵ月目になる七月の日曜日に、座敷まで上りこんできた二五歳になる化粧品セールスの女性に触発されて強姦殺人を起こしてしまった事件が、長年、警視庁監察官を勤めた須藤武雄氏の著書『法医学の現場から』にのっている。  性犯罪は五、六月の初夏にかけて多くなるというが、この不幸な犯人は、たまたま半年近くも妻の出産によって、二九歳の旺盛な性欲を抑圧させられていたときに、偶然の若い女性の来訪に刺激されていどみかかり、大声を出されて、あわてて口をふさごうと夢中で強姦殺人事件を起こしたものである。  彼がもう少し性欲の衰える中年の男性であったり、また相手が熱心のあまり座敷まではいりこんだりする若い女性でなければ、この不幸な事件は起こらなかったであろう。  雄の性行動は攻撃性をともなうものであるが、我々も条件によっては同じようなことを起こすかもしれないドッキリするような事件である。  以上、犯行をひき起こす多元的な因子を検討してきたが、小平やOに多分に見られる素因を、実際に開花せしめたのは何であったのだろうか。 2 小平事件とその時代  犯罪者のなかには、幼児期から動物や弱い者いじめがひどく、やや長じると、万引きなどの虞犯《ぐはん》行為を行い、未成年期から窃盗、傷害、強姦をくり返す早発性累犯者となる者が時々いるが、小平は、この典型的な経過をとっている。  小平義雄は小学生時代から人の話を聞き入れない短気な乱暴者で、弱い者いじめをし、足をばたばたさせねば言葉が滑らかに出ないほどのひどい言語障害があった。  小平の通った小学校に残っている訓練簿をみると、彼が問題児であった経過がわかる。卒業時の成績は男子生徒二三人中の二一番であるが、操行はいつも丙であった。小学校低学年のころは、いつも鼻汁をたらしたけんかのたえない落着きのない生徒であったが、小学校五、六年生の頃より、カッとなると学友の顔を切出しナイフでさしたり、級友の香典といつわって祖母から金をだましとったりしたこともある。  先述の内村裕之教授は、これらを犯罪性の萌芽としているが、精神分析の立場からは、暴力をふるう父親のために、自分の将来像に自信を失った少年が情緒不安となって起こした問題行動とみることもできる。  鑑定時に行われた知能テストでは、飽きっぽさと不注意から低い数値が出ているが、中の下程度の知能であり、計算能力は良好で知識も豊富であったという。  引き金となった戦場体験  小平は小学校を卒業すると一四歳で上京して見習工となったが数ヵ月でやめ、銀座の食料品店に二年間勤めた。郷里の古河製銅所の見習工として一九歳まで勤めて、海軍に志願した。  機関兵として戦艦山城などに乗り組み、遠洋航海などに出たが、上海事変で陸戦隊員に編入されたことが、後年の彼の犯罪に対して重大な影響をあたえた。  この戦闘で乱暴者の彼は中国兵六人を刺殺して勲八等旭日章をもらって除隊しているが、まだ中国の港町、大沽《タークー》に駐留していたときに、同僚とともに中国人の家庭に押入って強盗、強姦、殺人など、後年の彼の犯罪の予習をすでに行っていたのである。  殺人が武勲となる戦場心理を除隊後に持ちこんで不適応を起こすベトナム戦争帰りの兵士が、しばしばアメリカ映画に登場するが、名分定かでない中国への侵略戦争も小平の爆発性に拍車をかけたのであろう。  殺人という行為には強い心理的ブレーキがかかるので、普通の人にはとてもできるものではないが、いったん行ってしまうと度胸がついて平気になるとも言われている。  小平の爆発性は、もともと相当なものであったが、戦場での殺人の経験が加わらなかったら、除隊後の最初の犯行である妻一家の殺人傷害事件は起こしえなかったのではあるまいか。  小平は除隊後、古河精銅所にもどり、上司の世話で二八歳のとき神官の娘と結婚した。  彼はこの新妻を気に入っていたのだが、妻の方は半年後に実家に帰ってしまい、さらに妻の父と兄とが離婚を画策しているのを知ると、深く恨んで一家皆殺しをくわだてた。そして、昼の間に妻の実家を下見して寝所を確かめると、深夜しのび入って大きな鉄棒で寝込んでいる家族を次々になぐりつけ、妻の父親を死亡させ七人に重傷を負わせたのである。  爆発性異常性格者のなかにも、さ細なことで頭にくるチンピラタイプの「刺激型」と、その場はグッとこらえて、だんだん怒りが内攻して不機嫌になってくると、突然爆発して徹底的な暴力をふるう殺し屋タイプの「興奮型」とがある。  小平は恨みをあとにのこし復讐せずにはおられない典型的な興奮型であったから、このように計画的で徹底的な大量殺人事件を起こしたのであるが、求刑は懲役一五年という意外に軽いものであった。  これは小平が勲章までもらった名誉ある勇士であるのに、銃後を守るべきその妻が、さしたる理由もなく離婚を申し出たために起こったという情状と、裁判長まで務めた伯父に配慮した判決だったのかもしれない。ともかく二回の恩赦が重なって、わずか六年半の刑期で小平は仮釈放されたのである。  釈放一年後の昭和一七年には上京して、工場のボイラー係を転々とし、サイパン島の飛行場建設にも行っていたが、昭和一八年の三八歳のときに海軍第一衣糧廠のボイラー係に就職し、主任にもなった。  昭和一九年に再婚して子供も生れたが、昭和二〇年四月に空襲が激しくなったので妻子を富山に疎開させて、自分は女子寮に泊り込んでいた。  その年の五月に二回の大空襲があって東京は焼野原となったが、五月二五日の白昼に帰省のために挨拶にきた二一歳の女子工員に言いよって、彼女にはねつけられると、あきらめきれずに部屋までつけていき強姦絞殺して、死体を防空壕に隠したのが稀代の連続強姦殺人魔小平義雄の始まりであった。  連続強姦殺人への道  この二回目の犯行は焼跡に死体がゴロゴロしている戦争末期であったから、一ヵ月ほど死体が発見されず、憲兵隊が別の男を調べているすきに、怪しまれずに職場をやめることができた。  この犯行で味をしめた彼は、戦後の混乱期を利用して次々と強姦殺人を重ねていった。あるいは中国で強姦殺人を行った獣性が呼びさまされたのかもしれない。  六月二二日、新栃木駅で買出しにきている三〇歳の人妻を闇米を分けてくれる農家に案内するからと山林に誘って強姦絞殺、七月一二日、渋谷駅で会った二二歳の女性を、七月一五日、池袋駅で二二歳の女性を、八月の終戦をはさんで九月二八日、東京駅で二一歳の女性を、一二月三〇日に浅草駅で一八歳の女性を、いずれも同じような手口で栃木県や埼玉県の山林中に誘って強姦絞殺したのである。  やがて妻子を東京に呼びもどし、昭和二一年の三月から芝の米軍兵舎の雑役夫として何食わぬ顔で市民生活を送っていたが、くせになった強姦殺人の快楽が忘れられないのか、知り合いの一七歳になる少女を就職を世話すると呼出して強姦絞殺したために足がつき、ようやく逮捕された。  小平が女を知ったのは海軍入隊の二〇歳であるというから、むしろおく手に属するが、それからは商売女、素人女と収入のほとんどを女のために費消しているほどで、ために女性の歓心をかう術にはたけていたようである。また妻の供述などからも、彼が人並み以上に強盛な性欲と体力をもっていたことは疑いもない。  しかし、それまでの彼の性生活に加虐的な傾向などは、まったく認められないのである。  彼の最初の強姦殺人は妻の疎開によってたかまった性欲にドライブされたもので、女に騒がれて自分の前科がバレるという恐怖から絞殺した発作的な犯行であった。  しかし、この犯行は「強盗、強姦は日本の軍隊のならいですよ」とうそぶく彼の戦地体験を呼びさまさせた。  その後の彼の犯行をみると、強姦を能率的に遂行するためか、いきなり首をしめて被害者を仮死状態にするというのが手口の特徴であった。息を吹き返すのを煙草をふかしながら待ち、まだもうろうとして無抵抗状態にいる被害者と関係し自分の獣欲を満足させると、証拠隠滅のためすぐに絞め殺したという。まるでニワトリでも絞め殺すような冷酷な犯行であったが、小平のこのやり方は、明らかに中国大陸での戦争体験を反映したものであろう。  戦場において、いったん呼びさまされた人間の獣性が、いかに社会生活での適応をさまたげるかを広く世間に注目させたのは、ベトナム戦争帰りの米国兵士であった。 「殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす」という旧日本軍の「三光作戦」が帰還兵士にもたらした深い心の傷あとは、戦時中の非常時体制下で、さして注意されることもなく終ったが、敗戦後の混乱期に頻発《ひんぱつ》した血なまぐさい事件のいくつかは、この戦場後遺症による犯罪ではなかったのか。  要するに小平事件とは、戦地における強姦殺人体験が小平の中に眠っていた爆発性と残虐性とを開花させた結果なのである。 3 �ボクちゃん�の犯行  小平にくらべると、強姦殺人のスピード記録をつくったOの犯行には素因的影響をより感じさせるものがある。  前にふれたように彼は暴力犯が多かった母方の素因を多分に受けているように思われるが、虚栄心の強い彼の母親は、なぜか末っ子のOを盲愛した。  虐待された子が後年になって、犯罪をひき起こすことの多いアメリカにくらべて、過保護による甘え型の犯罪の多いのがわが国の特徴であるが、成人してまでも「ボクちゃん」などと呼ばれていた彼の犯罪はその代表的なものであろう。  子供の頃のOは、いたずら好きの元気な男の子であったが、学年が進むにつれて成績が下がり、英語と数学はとくに苦手で中学校は下の成績でやっと卒業した。  しかし、性的には早熟であって、小学校二年生のときから平気で卑猥《ひわい》な言葉を口にし、六年生のときは、女の子を麦畑につれこんで下着をぬがせるなどのいたずらをしたという。  中学校の評価を見ると、「口先がうまく、人をだます才能、短気、弱い者いじめ」などとあり、後年の彼の行動を予感させるものがある。  自己合理化  中学校を卒業したが家業の農業の手伝いに飽きたらず、その技術もないのに電気屋を開いてすぐつぶしたり、また牛乳販売店を開いたりしたのは、虚栄心が強く、行き当りばったりの彼の性格のあらわれであろう。  彼の公式の犯罪記録は一八歳のときの窃盗罪に始まっているが、これも客から注文されたが、あいにく店にない品物を近所の店から盗んでくるという安直な犯行で、甘い両親の尻ぬぐいで示談になっている。  本命の性犯罪の方は二〇歳で始まっているが、彼のような男でも初めは失敗することもあるとみえて、一七歳の少女の強姦未遂によって懲役一年六ヵ月の執行猶予がつけられた。しかし、そのわずか五ヵ月後に今度は強姦致傷をはたらいて、懲役二年を加算されたあたりは、正常な神経ではとうてい考えられぬ女好きの気質を感じさせる。  二五歳で出獄し、釈放直後に起こした強姦未遂で訴えられたが、必死になった両親が示談にして解決した。  二六歳のとき知り合った女性と結婚して二人の子をもうけて、やっと安定したかと思われたが、三〇歳のときに開いた牛乳販売店がうまくゆかぬのを、近所の同業者のせいと難くせをつけ、恐喝罪で収監された。  収監されるとかえって強姦願望がたかまるのか、今度も釈放直後に強姦事件を起こし、これは示談にしたものの、一年後には短大生を強姦致傷して三年六ヵ月服役した。  このように犯行を重ねても、自己中心的で反省のないOは、収監され自由が奪われたことに強い憤懣を抱いたらしい。後に一連のスピード犯行の動機を、初犯の強姦事件は本当は和姦であったのに、被害者の言い分だけをとり上げて、自分を刑務所に送って人生を狂わした権力に対する復讐だなどと合理化している。  彼の意識の中では、自分はえん罪でとじこめられた�岩窟王�であって、退屈な四年の獄窓の日々は、復讐劇としての彼の強姦妄想をいやが上にもふくらましていったのであろうか。  車社会が生んだスピード犯罪  小平をはるかにしのぐスピード連続強姦殺人事件は、Oの三度目の出所直後の昭和四六年三月三一日から五月一〇日までの、わずか四一日間に行われた。  出所するとすぐ、甘い両親にせびって最新流行の白いスポーツカーを手に入れると、ルバシカを着、ベレー帽をかぶった彼は前橋、高崎、安中、桐生、伊勢崎、渋川から群馬県境を越え、上越、金沢市までタクシー顔まけの走行距離を走りまくった。  彼が各地の駅前で声をかけた女性は一五〇人から二〇〇人、誘いにのって性的被害を受けた女性は三十数人ともいわれている。  第2章の結婚サギの項でふれる「アメリカ生れの青年医師ケニーさん」と同じ空想的虚言者でもあったOは、彼自身の空想の中では一流大学卒のロシア語、フランス語に堪能な文化人であり、山中にアトリエを持つ画家であり、山と自然を愛するロマンチストであった。スポーツカーやルバシカ、登山服、ベレー帽や詩集などは彼のフィクションの大事な小道具であった。  ただ、知能犯で女あしらいが上手だった「ケニーさん」が和姦に終始したのに、性急で短気なOの場合は、彼の空想劇に反逆した女たちに強姦と殺人という最悪の対応しかできなかったのである。  かくて、釈放当月の三月三一日に高校生(17歳)を、四月六日にウェイトレス(17歳)、一六日に県職員(19歳)、一八日に高校生(17歳)、二七日に高校生(16歳)、五月に入って三日に電話局員(18歳)、九日に会社員(21歳)、一〇日に家事手伝いの女性(21歳)をすべて殴り倒して絞殺し、車のトランクに用意したスコップで死体を山中に埋めたのである。  買出しを餌に一年半に七人の女性を誘い出して殺した小平にくらべて、わずか四一日間に八人の女性を殺したOのスピード犯罪は、車社会の到来なしには考えられない。  奇しくも犯行の昭和四六年は、大阪万博に浮かれた女性をハントした「ケニーさん」の活躍時期と一致するが、この頃から一層普及した自家用車は一対一の親密な空間を提供するばかりか、犯行半径を県全域に拡大する絶好の道具としてOの犯行を助けた。  年頃の娘をもつOの地元の家々では、彼が出獄したときから戦々恐々としていたが、モータリゼーションの普及はそんな農村型地域共同体に、一足とびに大都市型犯罪特有の「アノミー(個人の行動・欲求の無規制状態)」をも持ちこんだのである。  白いスポーツカーを駆ったOの犯罪は、闇米を餌にした小平の飢えの時代の犯罪から、現代の豊かな時代の犯罪への転換を象徴する犯罪であった。 4 極貧がうんだ�冷血�  一〇人殺しの小平、八人殺しのOの陰に隠れているが、五人の女性を強姦殺人し、一人の女性と二人の幼児をもまきぞえにした栗原源蔵を犯行に駆りたてたのは何であったのだろうか。  どのような理由か知るよしもないが、彼には精神鑑定が行われなかったので、小平やOのようなくわしいデータは残されていない。しかし幸いに、東京拘置所で彼を診察した加賀乙彦氏の『死刑囚の記録』によって栗原源蔵の片鱗を知ることができる。  「飢餓海峡」の時代  彼の連続強姦殺人事件は戦後の混乱のまだ残っていた昭和二二年から二七年までであるから、食糧難時代の小平と豊かな車社会のOとの中間の、まだ日本が貧しかった時代の犯罪に属している。  水上勉の小説『飢餓海峡』の発端は、奇しくも同じ昭和二二年の青函連絡船遭難事件で始まっているが、日本が敗戦の痛手から朝鮮事変の特需景気で立ち直る前の貧しい時代が背景になっている。  その小説の中で、犯人を追って若狭の山村まできた刑事が、薪小屋のような見すぼらしい犯人の生家をみて、こんな凶悪な犯罪を犯したのは、きっとこのような極貧環境から脱出する手段であったに違いないと確信するくだりがあるが、栗原源蔵の生家も、貧乏人の子沢山を地でいく一二人兄弟の極貧家庭であった。  なお栗原は、年長になっても寝小便がなかなか治らず、いつも尿臭があるために友人にも嫌われて、小学校三年生ぐらいからは学校をサボって、一人で近所の山を遊び歩くような子供であったという。  夜尿症  イギリスの精神医学者H・J・アイゼンクは、犯罪者に夜尿症が比較的多いことに注目して、次のような彼独自の説明をあたえている。  彼の説によると、夜尿症は子供にとって、やってはいけないことをやり続けたという反社会的な犯罪行動のいわば小さな模型であって、両親や周囲の大人たちは夜尿症の子をどうしようもない悪人として、いつも監視の目でみてしまう。こうした大人の叱責《しつせき》の目によって子供の緊張はますます高まり、夜尿の悪習は悪循環的に強化されていく。かくて、カインの刻印は彼の心に深く焼付けられて、ついに自尊心を失った子供は「|悪い自分《バツド・ミイ》」にふさわしい非行を身につけるようになるというのである。親がしからなければ、子供の夜尿症は年長になるにつれて治るのが普通であるから、これは少し極端な説であろう。  栗原は高等小学校を卒業して軍隊にとられる一八歳まで、近隣の農家の「ヤッコ」と、その地方で呼ばれる作男をして歩いた。  この「ヤッコ」というのは、高度成長以前における彼のような農家の余剰人員の行き場であったのだ。ちょっとした自作農の家にある粗末な作男小屋に寝起きし、食わせてもらうのがせいぜいで、ろくな手当ももらえない。帝政ロシア時代の農奴にも劣る抑圧された生活であった。小説『飢餓海峡』の主人公も、北海道の農場でのこうした貧しい作男の境涯から抜け出すために、質屋一家皆殺し事件に加わるのである。  筆者が診ているアルコール中毒の患者さんにも、ほぼ栗原と同郷の人がいるのだが、その患者さんは戦時中は小さな舟を借りて北海道の炭坑の石炭運びをし、自衛隊ができるとすぐ入隊し、除隊後はトビ職になって上京したという。  耕す田畑もなく、教育も特にない農家の次男がたどった、その頃のひとつのパターンだったのであろう。  最初の犯行  栗原は一八歳で旧日本軍に入隊したが、一年で終戦をむかえ炭坑夫になった。しかし根が労働の嫌いな彼は闇屋をしながら関東各地を転々とし、イモ泥棒の窃盗罪と物価統制令と食糧管理法違反で懲役一年半の刑に処せられている。  出所してからの栗原は、千葉県のある村で米や落花生を仕入れては東京に売りに行く闇屋をやっていて、金回りがよかったらしい。あぶく銭のおかげで結構女に不自由しない身の上になっていたとみえて、昭和二二年頃には、この村の農家の一七歳になる娘といい仲になったが、同時にその友人の二〇歳になる娘とも結婚を約束して肉体関係を結んでいた。  そのことを知った一七歳の娘が彼を松林に呼び出して、近頃友人の姿を見ないがどこかに囲ったのではないかと詰問すると、彼は誠意をみせるつもりで、うるさくつきまとう彼女の友人を殺してしまったことを白状した。  まだ一七歳の小娘は前後の判断もなく動転して逃げ出すのを、つかまえて関係しながら、この女は警察に密告するのではと不安になった栗原は、手拭いで首をしめ、生きかえっては大変と石で頭を叩きつぶしてから砂の中にうめたのである。  ここまでの栗原の殺人は、二人の女の板ばさみになった男が、やむなく女を始末するという推理小説にでも出てきそうな比較的ありふれた犯罪にみえる。  この殺人で妙な自信をつけたのか、その後の彼は血も凍るような冷酷な殺人をくり返していったのである。  人間なら誰でも持っているような憐れみや同情心、羞恥心、罪業感などの優しいデリケートな感情のまったくないのを「情性欠如型の異常性格」といって、ために冷酷無惨な犯罪を平気で犯すのだが、栗原が昭和二六年に起こした犯行はその典型である。  「おせんころがし」の惨劇  昭和二六年一〇月一〇日の午後一一時ごろに栗原が自転車にのって国鉄外房線の大原駅に来ると、待合室に子供を三人連れて休んでいる二九歳の主婦がいた。  この主婦のグラマーな肉体に目をつけた栗原はやさしい声で話しかけ、自分も同じ方向に帰るから送ってあげようと、親切ごかしに五歳になる男の子を自分の自転車の荷台にのせた。とんだ�狼�に送らせたものであるが、文豪ユーゴーの言うがごとく弱い女も子連れの母親になると、とたんに気が強くなるので、その隙に乗ぜられたのであろう。  栗原は一行が人里離れた海岸に出ると、早速にその本性をあらわしてきた。  栗原は、いきなり「あんた、いい体しているな。おれとやらないか」と言い出したのである。  相手は七歳になる長女を連れ、二歳になる幼女を抱いた子連れの女である。ふつうのデリカシーをもった男であれば、子供が聞き耳を立てている前でこんなにストレートな言葉をはけるわけがない。  この主婦も初めは冗談かと聞きながしていたが、相手は本気で何回も言い寄るのでだんだん不安になってきた。 「こんな所じゃ駄目だから、家についたら」などと逃げたが、そんな見えすいた逃げ口上でかわされるような栗原ではない。だんだん不機嫌になり、押しだまって自転車を押しながらどこまでもついてきた。主婦も子供をおいて逃げるわけにもいかず、さりとて子供の手前、栗原の欲望をかなえるわけにもいかず、それからは逃れようのない恐怖の道行きとなった。  不気味に押しだまった一行が「おせんころがし」と呼ばれる断崖上の道まで来たとき、ついに�狼�の我慢が切れた。  栗原は急坂を押上げてきた自転車をいきなり投げ倒すと、荷台にのっていた五歳の男の子の首をしめ、ぐったりとしたのをなぐりつけ崖下めがけて投げ落したのである。 �御馳走�にありつけると思ったからここまで労働を提供してきたのに、その気がないようだからヤメタッ! と自転車を投げ出したとたんに、おあずけをくった怒りが爆発したのである。いったん怒りが爆発すると止めどもなくなるのが、こうした凶悪犯の特徴である。  次に、驚いて夢中で母親にしがみつく七歳の女の子を引きはがすと、これも崖下に投げ落した。  あまりの恐ろしい出来事に主婦が命だけは助けてくれと哀願するのをかまわず強姦すると、絞め殺した上で、崖下につき落した。  そして最後に、悪夢のような惨劇をまったく知らずに無心で寝込んでいる二歳になる幼女の首をしめ、これも崖下に投げ落した。  用心深い栗原はこの凶行の後、ひょっとしてまだ生きていると大変だと心配になり、懐中電灯を手に夜の崖の中腹まで小枝をつたって下りて、念のためにと主婦と男の子と幼女の頭を石で何回も打ってとどめを刺した。この間、七歳になる長女だけは声一つたてず物陰にじっと隠れていたので幸いにも助かった。  悲しき人狼  この栗原の犯行をみると、腹がへれば食物を奪い、女が欲しくなればかっさらい、それを邪魔する者があれば容赦なく石おので打ち殺していた石器人でもみる思いがする。己れの欲望のおもむくままにどんな犯罪でも犯す者を、エルンストは「原始無型式者」と呼んでいる。  人なみ以上に動物的欲求が強く、それを押える社会的訓練をまったく受けていない原始人のような犯罪者が、戦前の極貧家庭出身者に稀にみられたのである。凶作になれば娘を売るくらい、戦前の小作農の中には生存ぎりぎりの極限状態におかれていた者もいた。  七歳の子供の前で、平気で不躾けな要求を口に出す栗原の行動を、情性欠如のあらわれとしたのだが、考えてみると、ふすま一つない薪小屋のような家に一二人もの子供が住んだ栗原の家庭であった。苛酷な労働に明け暮れ、他になんの楽しみもない両親の夜の営みを幼いうちから、いやが応でも耳にし目にしていたのであろう。人間らしい羞恥心や、優しい感情というものは、栗原や小説『飢餓海峡』の主人公の過した悲惨な家庭環境とは無縁のものかもしれない。  栗原の素因については、くわしいことがわからないが、その成育環境は、欲しい物は何でもあたえられたOや、かつては村一番の物持ちであった小平の家庭とは比較にならぬほど貧しいものであった。  戦前の非行少年は時代が下るほど極貧家庭の出身者が多かったものであるが、栗原の生家は、むしろ西陣の織工で貧窮のあまり一家でこじき遍路にも出たという大正時代の少女殺し犯・吹上佐太郎の生家に似ている。国の恵みもうすかった戦前の地方の寒村では、敗戦直後までは大正時代とさして変らぬ極貧家庭もかなり存在した。  生存すら脅かす貧窮が人を�狼�の本性に帰らすことは、食糧難時代を体験された方々にはよくおわかりのことであろう。盛られた茶碗のダイコン飯の多い少ないで兄弟が相争い、せっかく訪ねてきた親戚でさえ、食物のことで邪険に扱われたものである。  現代の豊かな社会は、貧困による犯罪の記憶を遠くに押しやってしまったが、『飢餓海峡』には戦後の食わんがために起きた多くの犯罪が記されている。  人を見れば寄ってきて尻尾をふる飼犬になるか、歯をむき出して吠え立てる野良犬に育つかは、子犬のときに大事にされたかどうかで決まるのである。  一二人の子だくさんの極貧家庭に育ち、しかも厄介者扱いされて親兄弟にも友人にも相手にされず、一人でさびしく山をさまよっていた栗原は、人間らしい感情や必要な社会的訓練もなく成長し、欲望がわけば人を襲うほかはなかったのかもしれない。 5 『八つ墓村』は、なぜ?  角川映画が戦前のオドロオドロしい密室殺人事件ものを復権させたが、小説家・横溝正史といえばまず思い浮べるのが『八つ墓村』であろう。 『八つ墓村』とは、戦時中に岡山県の寒村で実際に起こったショッキングな事件をモデルにした小説で、深夜、突然悪鬼の姿に変身した犯人が猟銃片手に暗黒の村落中を走り回って殺戮するという悪夢のようなシーンが、まるでライトモチーフのように、その後の横溝の作品にくり返し登場するのである。  戦時下の報道管制で控え目の新聞記事しかなかった当時であるが、同じ岡山県出身の作家である横溝にとって、それは生涯忘れられない事件であったに違いない。  それでは横溝正史の代表作『八つ墓村』のモデルになった津山事件とは、いったいどんな事件であったのだろうか。  津山事件  中国大陸に戦火が拡大して戦時色の深まりつつあった昭和一三年五月二一日の未明に、都井睦雄という二一歳の青年が、自分の住む岡山県苫田郡の一集落の住人三三人を猟銃で死傷させるという大事件が起こった。  この中国山脈の山あいの村落は全戸わずかに二三戸(人口一一一人)の寒村で、そのうちの一二戸が襲われて死亡者三〇人、重傷者三人を出したから、村落のおよそ三分の一の住民が悪夢のような二時間余りの間に殺戮されたことになる。  その世界の犯罪史上にもないスケールといい、都井の凶行時の異形な装束といい、すべてが異様ずくめの事件であった。  都井は、皆がすっかり寝静まった午前一時四〇分に突然ふとんから、はね起きた。  黒色の学生服にゲートルを巻き、地下足袋で身仕度すると、白鉢巻につけっぱなしにした懐中電灯を二本まるで鬼の角のようにさしこむと、胸に丑の刻まいりの鏡のように箱型の自転車用懐中電灯をぶら下げ、腰のベルトには日本刀一ふりと短刀二本をたばさみ、肩には弾薬実包一〇〇発を入れた雑嚢をぶら下げ、九連発に改造したイノシシ狩用猟銃を小わきにかかえるという異形な姿に変身した。  そしてまず、何も知らず隣室でぐっすり寝ている祖母を残しておいては可哀そうと、その首を一思いに打落すと、脱兎のように外へと飛出した。  周到な都井は警察に通報されぬように村の電話線と電線とを切って漆黒の暗闇となった中を、まず恨んでいた隣家に放火して、驚いて飛出してくる隣人を待ち受けて銃撃すると、次々と他の家にも火をつけ、燃え上る炎に照らされた獲物を暗闇を背に狙い撃ったのである。  時ならぬ銃声とあちこちから上る火の手に住民は騒然となったが、どこに潜んでこちらを狙っているかわからぬ銃口におびえて、村落中を走り回る殺人者の跳梁をただゆるす他はなかった。  恐怖の一夜がようやく明ける頃、騒ぎをききつけた隣村の消防団員もかけつけて、駐在の巡査の指揮のもとに付近の山狩りを行ったが、いち早く中国山脈に逃走した犯人はすでに午前一〇時三〇分には、峠で用意の遺書を残して覚悟の猟銃自殺をとげていたのである。  不治の病が背景に  それでは、なぜ都井睦雄という青年がこんな大惨劇をひき起こしたのであろうか。  彼はこの村落では中農の家に生れ、小学校時代は級長を通したぐらいの秀才で、担任の教師は進学を勧めたが、結核で早死した両親に代わって彼を育てていた祖母の反対で諦めるほかはなかった。  村一番の秀才と呼ばれたのが唯一の誇りであった彼は、今度は小学校教員検定試験を目ざしたが、胸膜炎を発病してからは家でブラブラするほかはなく、徴兵検査でも不合格になって肩身が狭い身分になった。この当時は、結核には有効な治療法がなかったために不治の病として恐れられ、患者は偏見にさらされた。この事件の背景には当時の結核に対する不幸な誤解があったのである。  とくに因習の強い当時の村落では結核患者は�結核すじ�の者として差別された。また近所の女性にあれこれ手を出したことと重なって�村八分�的存在となった彼は、村落中の人々を深く恨むようになっていった。 「いつかは思い知らせてやる」と口走ることもあり、凶行の三年前には田畑を売り払って猟銃を買いもとめ、毎日手入れしている彼の様子に、近所の人は不安になり駐在の巡査に訴えた。  しかし、頭のよい都井は訪ねてきた巡査に「私は結核のため徴兵検査を不合格になったので、イノシシでも撃って栄養をつけ、お国の役に立つようにと猟銃を買ったものです。近所の人を恨むなどは冗談で、この私がいったい頭がおかしいように見えますか」と理路整然と述べるので、駐在の巡査も手ぶらで引揚げるほかはなかった。  この集落の一帯は冬は長く雪にとざされているため、一家の主人が長期の出稼ぎに出る家が多く、また「夜ばい」という性的に放縦な風習が多分に残っている村でもあった。  ところで、栄養をつけて療養している結核患者には性欲の高まる者も少なくない。トーマス・マンの『魔の山』は、そうしたスイスの高級結核療養所を舞台にした小説であるが、二〇歳そこそこの都井が旺盛な性欲の吐け口を、みさかいなく近所の未亡人や娘に向けたので、しだいに女たちからうとまれていった。  特に、肉体関係がありながら嫁にいってしまった二人の女性をとくに恨んでいたようである。彼の遺書は、こうした近隣の住人に対するルサンチマン(弱者の強者に対する内攻した憎悪)で満ちている。  拡大するルサンチマン 「病気は悪くなるばかりで、とても治らぬような気分になり、世間の人の肺病者に対する嫌悪感白眼視、特にSという女がつらく当る」 「こうした事から自棄的気分も手伝い、ふとした事からSの奴に大きな恥辱を受けた。僕はそれがため世間の人の笑われ者になった。僕の信用はことごとく消滅した」  この事に端を発した都井の復讐心を、「世間一般の人が疑惑の目をもって見だした。僕はかくしにかくした。けれど、いったん疑った世間の目は冷たい。にわかに僕を憎しみだした。それにつれて僕の感情も変わってSの奴やHの奴ばかりでなく、殺意を感じだしたのは多数の人にであった」と、初め自分に冷たくした女性にだけ限定していた怨念が、しだいに集落中に拡がっていく心理過程がくわしく述べられている。  都井は自信家で自己顕示欲が強い反面、内攻的で傷つきやすく、他人の評価を気にするたちだった。このような過敏な性格を「敏感者」といい、向うでヒソヒソ話していることを自分に結びつける「敏感関係妄想」が生じやすいのである。  特に結核で戦時下に非生産的生活を送り、集落の女性たちに嫌悪されている身であれば、その関係妄想がしだいに発展して集落中に対する抜きがたい憎悪に凝縮していったことは容易に理解できる。  このような敏感者の関係妄想が発展して、都井と同じような村落大量射殺事件を起こしたのが有名な「教頭ワグナー事件」であった。  教頭ワグナー事件  一九一三年九月四日未明、ドイツのミュールハウゼンという村の住民を、付近の中学校教頭ワグナー(三九歳)が銃で襲って、九人を射殺し、一二人に重傷を負わせる事件が起こった。  逮捕されたワグナーは一二年前にその村落に近い小学校の教員をしていたが、ある夜、泥酔して獣姦を犯したことがあり、住民がその恥ずべき所業を噂して、転勤した先々にまで言いふらすので、たまりかねて犯行におよんだのだという。  しかし、村民は一二年前に彼が付近の小学校に勤務したことさえ記憶しておらず、この大量殺人事件は内攻的で過敏なワグナーの敏感関係妄想が積もりつもって爆発したものであることが判明した。  精神異常による犯行であるため刑事責任無能力となり、ワグナーは六四歳で病死するまで精神病院に収容されたが、院内で戯曲を一篇書いたと伝えられている。  この二つの事件は内攻的で人の思わくを気にしやすい敏感者が劣等感にとらわれたときに、その関係妄想がしだいに発展して、長年に蓄積された憎悪が大爆発したという共通点がある。  都井もその遺書のなかで自分の気持を、 「不治と思える病気を持っているものであるが、近隣の圧迫冷酷に対し、またこの様に女とのいきさつありして復讐のために死するのである。……長年の虐待されたこの僕の心は、とても持ちかえることはできない」 「僕は世の冷酷に自分の不幸な運命に毎日のように泣いた、泣き悲しんで絶望の果て僕は世を呪い病を呪いそして近隣の鬼の様な奴を呪った」とその心理を明瞭に述べている。  都井の二、三歳のときに両親は結核で相ついで死亡し、厳格な祖母に育てられた彼は、孤独で神経質な性格であった。特に唯一の話相手であり味方であった三歳上の姉が隣村に嫁いでいってからは、彼の半ば妄想による怨念は深く内面に凝集していったようである。  閉鎖社会への憎しみ  結核に対する化学療法が確定したのは戦後の昭和三〇年代であるから、当時の結核は現在の末期ガンやエイズにも劣らず恐れられていた。  この結核で多くの若者たちが夭折《ようせつ》し、徳冨蘆花の『不如帰』のヒロインの「人間はなぜ死ぬのでしょう。千年も万年も生きたいわ」の名文句が満天下の紅涙をしぼった時代である。  この難病にかかり自尊心の異常に強い都井が、死に対する不安と焦躁から自暴自棄となって、村八分を受けた近隣の住人に対して「世間をアッと驚かせるような」復讐計画に凝集していった心理は、戦時中、同じような山村に疎開した経験がある筆者には、やや理解できるような気もする。  三〇分間も女性の悲鳴を耳にしても、一一〇番ひとつしない砂漠のような現在の大都市の生活者とは反対に、戦前の農村はネコの子が生れても近隣の噂話になるようなベットリとした対人関係で結ばれていた。そうした共同体社会で村八分を受けた彼は、圧迫者たちを抹殺したいまでに怨念を蓄積、増幅していったのである。  言いかえれば、このような村落大量殺人事件は、村八分を可能にするような戦前の地域内共同体社会がまだ維持されている所でしか起こりえないのである。  津山事件は戦前の農村型閉鎖社会にこもったルサンチマンが、結核の恐怖におびえ、疎外感に悩む過敏な青年を、自らの妄想でつくり上げた復讐劇の悪鬼に変貌させたものである。  あのオドロオドロしい凶行時の異様な扮装は、異界より来たりて村民に膺懲《ようちよう》の刃をふるう「生はげ」の姿であり、異形の悪鬼に変身した都井は定型的な復讐の儀礼をくり返したともいえるのである。  6 異常と正常との間  作家杉森久英は、大正の文壇に天才とうたわれながら精神病院に入院した島田清次郎の伝記『天才と狂人の間』を書いて直木賞を受賞したが、いったいベートーベンやゴッホのように天才が生前あまりにも不遇だったのはなぜであろうか?  古くから「天才と狂人とは紙一重」といわれたように、彼らが特異な性格であったために適応が悪く、世間と衝突することが多かったからではなかろうか。つまり、天才とは精神医学的に見れば異常性格者の一種であって、後年に精神病を発病した人も少なくないのである。  美しい「トロイメライ」を作曲したシューマンは後に分裂病となって入院し、見舞ったクララ・シューマンに、近頃よい曲が浮んだよ、と「トロイメライ」の一節を聞かせて夫人の涙をさそうシーンがかつての映画にあった。  シューマンと同じような分裂病となった作家にヘルダーリン、ストリンドベリイ、ガルシン、ネルバルなどがいる。  こういう研究領域を「病跡学」と呼ぶのだが、この研究の草わけは、一八九八年、文豪ゲーテにほぼ七年間の間隔で創作活動や恋愛などの精神の高揚期のあることを証明したドイツの精神医学者メビュウスである。  ゲーテのような躁うつ病の天才は作家よりむしろ学者に多く、進化論で有名なダーウィン、アレクサンダー・フォン・フンボルトなどが入るとされている。  てんかん気質の天才としてはジュリアス・シーザー、ナポレオンなどの軍人や政治家、ドストエフスキー、ゴッホなどが有名である。  薬物依存であった天才はエドガー・アラン・ポー、ゴーチェ、クインシー、ボードレールがあり、後年に進行麻痺、いわゆる脳梅毒にかかった天才に、ニーチェ、スメタナ、モーパッサンなどがあげられている。  以上にあげたような天才たちは、自分の異常な性格のために「自ら深く苦悩して」、芸術的境地や思索を深め、結果として「社会を益した存在」になったのである。  このような「自らの異常な性格ゆえに自らも悩み、かつ社会をも悩ます存在」である「精神病質」の概念を提唱したのが、ドイツの精神医学者クルト・シュナイダーである。そして彼によれば、59頁の図に示したように、精神病質は異常性格の下位概念なのである。  シュナイダーの説をとるなら、その内には犯罪者も含められる。  この割合は研究者の統計によってまちまちの数値であるが、初犯者のような軽罪のなかには一割から二割、反対にしばしば犯罪をくり返す累犯《るいはん》者やまた死刑囚、無期囚などの重罪犯人になると、五割から八割がこの精神病質者であるという統計もある。  最近は偏見を助長するという考えから、このクルト・シュナイダーの精神病質者の概念は評判が悪くなったのだが、一応参考のために説明しておこう。  シュナイダーは精神病質者を次の一〇類型に分類しているが、一つの類型だけに当てはまらない、つまりいくつかのタイプを合併することが多いのがこの分類の欠点の一つである。しかし、なかにはピッタリと当てはまるタイプの人がいることも事実である。  シュナイダーの一〇類型  (1)意志薄弱者  飽きやすく、持続性がなく、学校を中退したり、転職をくり返す傾向がある。生活に困ると容易にコソ泥や、女性であれば売春などをくり返すタイプである。  (2)発揚者(軽躁者)  気分がいつも爽快で、明朗かつ活動的である反面、軽率で激しやすく、おせっかいな人物である。  人格のバランスがとれていれば、有能な政治家や実業界のリーダーともなるが、知性や自己抑制力に欠けるとすぐに興奮して暴力をふるうトラブルメーカーになりやすい。盛んにイキがってみせるチンピラに多いタイプである。  (3)爆発者  怒りやすく、口より先に手が出る、暴力に短絡しやすい性格である。これには、すぐ頭にきて小暴力をふるう(a)「刺激型」と、(b)「興奮型」といって、その場はいったん不快感をこらえるが、やがてうっ積してくると大爆発を起こして殺人、傷害致死などの大犯罪を犯すタイプとの二つがある。  犯行は計画的で徹底しており、こうしたタイプがヤクザ組織に入ると、東映仁侠映画に出てくるような殺し屋になることがある。このタイプとしては、先述の小平義雄が典型で、彼は、この爆発型と情性欠如型の合併と鑑定されている。  (4)自己顕示者(ヒステリー性格者)  自己顕示欲が異常に強いために見栄っぱり、目立ちたがり屋で、病的になってくると自分の虚栄心を満足させるために平気で見えすいた嘘をつく。したがってサギ犯などに多いタイプである。  このなかには、自分でついた嘘と現実との区別が自分でもわからなくなってしまう「空想的虚言者」が含まれている。  (5)情性欠如者  同情や憐れみ、羞恥心、後悔の念などの人間らしいデリケートな感情をまったく欠くために、残忍凶悪な犯罪を平気でやるタイプである。  エルンストはこのタイプを「原始無型式者」と呼んだが、吉益脩夫氏は「背徳症候群」と命名している。佐木隆三の小説『復讐するは我にあり』のモデルになった連続殺人犯もこの典型である。  (6)狂信者  一定の観念に自分の全生涯をかけて闘い続けるタイプの人で、さ細なことでも訴えをくり返す「好訴者」もこのタイプに含まれる。  (7)気分易変者  大したきっかけもないのに、周期的に不機嫌、抑うつ状態がくるタイプで、そのいらいらや、抑うつ感を解消するために大酒をあおる「渇酒症」や万引、放火、徘徊《はいかい》などの問題行動を起こすことがある。  (8)自信欠如者  小心で内気で、人の評価を気にしやすい過敏なところのあるタイプである。この傾向がひどくなると被害的な「敏感関係妄想」を起こすことがある。この(8)以降の類型は自分が悩むだけで社会を悩ますことは滅多にないタイプであるが、先述の津山事件を起こした犯人は敏感関係妄想がひどくなった事例だと考えられている。  (9)抑うつ者  いつも悲観的で抑うつ的で、不機嫌なタイプである。  (10)無力者  無気力でいつも頭痛などの身体的な訴えがたえず、先の抑うつ者と並んで神経症患者に多いタイプである。この苦痛をとるために鎮痛剤や精神安定剤を常用し、薬物依存の患者になる者もいる。  以上、ざっとクルト・シュナイダーの一〇類型を説明してきた。読者のまわりにも、この類型にあげた特徴のいくつかが当てはまる知人がいて、思わず苦笑された方もいるのではなかろうか。人間には誰しも欠点や癖があるものだが、シュナイダーの分類も多少偏りの強い人の性格類型のひとつにすぎない。ただ、それが便利なために、もっぱら犯罪精神医学で犯罪と結びつけて用いられたのが問題だったのである。 第2章 サギ師の群 1 �白馬の騎士�ケニーさん  現代は男にとって結婚難の時代だと言われている。  女性の社会的地位が高まって、さっそうとしたキャリア・ウーマンの部長に、頼りない男子職員の組合わせがテレビのCMにまで登場する昨今からみると、二十五、六歳にもなると職場にいづらい雰囲気ができて、郷里の結婚話でもにおわせて女性が退職しなければならなかった時代のことが夢のようである。  海外旅行で買ってきたブランドものに身を固めた独身貴族のOLは、夫選びにも高学歴、高収入、高身長の「三高」ブランドにこだわるので、この条件からひとつでも外れた多くの男たちは、いつまでも独身の身分に甘んじるほかはない。  おまけに最近の適齢期の男女比からみると女性の方が少ないので、当分は独身男性にとって「女ひでり」の時代が続くことになる。このため、肉体労働をきらって嫁の来ての少ない農村の結婚難は深刻で、まだそれほど肉体労働を苦にしない東南アジアの女性に目をつけたものの、ついには破鏡となった国際結婚の悲劇や、結婚紹介業者の問題点をテレビのドキュメンタリー番組がとり上げていた。  もっとも、来日する女性のなかにも、結婚を国外脱出の手段と割り切って、日本国籍が取れるとさっさと離婚してしまう女性もまじっているようである。こうなると、どちらが被害者なのかはあやしくなってしまう。  また、北海道の農協などでは「花嫁募集ツアー」で集団見合を企画する町もあるらしい。まったく農村で結婚する意志もないのに、この種のツアーを利用して、ちゃっかり低額な夏の北海道旅行を楽しんでくるOLも少なくないと聞くから、これなどは女性の結婚サギの原型といえるのかもしれない。  最近は、せっかく貯めこんだ結婚資金を女性にしぼりとられたという独身男性の被害者が増えているというから、超過密都市東京はいつの間にか、参勤交代の単身赴任で女ひでりとなった大江戸の棟割り長屋で、わびしくヒザを抱く熊さん八っさんの時代に逆もどりしてしまったらしい。  しかし、結婚相手の若い男性がほとんど戦死してしまった終戦直後からつい最近まで、結婚サギの被害者といえば常に、か弱い女性と相場が決まっていたものである。  ある「青年医師」の正体  大阪万博の余韻もさめやらぬ昭和四六年一月のある日、岡山空港のロビーでテレビをみていた一九歳のB子に、奇妙なアクセントの英語がまじる片言の日本語で話しかけてきた男がいた。  彼はハワイ生れの日系三世で、ワシントンの医大に勤める青年医師「ケニー」という者だが、祖母の郷里岡山を訪れたついでに、かねてあこがれの日本女性の結婚相手を探しているので「ぜひ、あなたとお話ししたい」と、図々しくもB子の手を握ってくるのである。  あまりにも唐突な申し出に動揺したB子がロビーでもたもた押し問答しているうちに、この「ドクター・ケニー」から呼びつけられた別の女性A子が用立ての二〇万円を持ってあわててその場に駆けつけて来たので、女二人をはさんで険悪な雰囲気となった。  まめなこの男は、かねて交際していたA子に寸借の電話をかけながら、新しい獲物になりそうなB子に目をつけてアプローチしたのである。折からハイジャック防止のため張り込んでいた刑事に「ドクター・ケニー」は不審尋問を受ける破目になった。  彼のアタッシェケースを調べると、中からは聴診器、英字の名刺、ハワイの地図に英字新聞、彼がママと称する中年のアメリカ婦人の写真などの小道具の他に、交際中の複数の女性からのラブレターの束が出、おまけに手帳には日本各地の女性の住所氏名から、集金した金額までが細かく記入してあったので、たちまち結婚サギ常習犯として岡山県警の留置場に直行となった。  化けの皮をはがされたハワイ生れの青年医師「ケニーさん」とは、まだよいカツラのない時代とて常用のカツラの下は、むれてあせもだらけになった珍妙な中年の日本人であった。余罪を追及すると、たちまち寸借サギと結婚サギの前科が数え切れぬほど出てきた。  彼は戦前の植民地時代の韓国で旧制の専門学校を卒業後応召し、ポツダム上等兵となって、亡くなった父母の郷里に引揚げてきた孤児であった。  敗戦後の混乱期を人は皆、思わぬ仕事について食いつないだものであるが、彼は田舎町の診療所に住みこんで代診をしている間に、知人にペニシリン注射をしてやって医師法違反で服役したのが花やかな犯罪歴の始まりであった。  この頃、旧制高校程度の語学力のある者のなかには、生活のため米軍のニワカ通訳になる者がいた時代であるが、出所後の彼は日系のアメリカ兵に化けて女性から着物をかたり取り、今度はサギ常習犯の道を歩むことになった。  医師の言動には�医者くささ�という独得のパターンがあるので、代診などしていれば本物以上に医者らしくみせる演技を習得するのは造作もない。また、通訳とはいいながら、その実、ポン引きのような世過ぎの日々のうちに、彼は日系アメリカ人の演技を実地で身につけたわけである。  この初犯のニセ医者と、二犯目のにせ日系アメリカ兵との合作「ハワイ生れの青年医師ケニーさん」が彼のサギ人生のバックボーンとなったわけである。  それからの「ハワイ生れのケニーさん」は寸借サギ、結婚サギ、私文書偽造および使用罪で刑務所とシャバとの間をいそがしく往復し、東京オリンピックの年に出所したときには、すでに三八歳になっていた。さすがに浮き世の風が身にこたえた彼は、一念発起して広島市で事務員となってカタギの道を歩き始め、知り合った近くの小食堂の女主人と正式に結婚したのである。  しかし、ここでも持ち前の虚言癖はおさまらず、一流大学出身で助教授までしたと称する彼の出まかせの経歴をすっかり真に受けた妻の胆煎《きもい》りで、食堂の二階で英語塾を開く頃から、また、彼の持病の寸借サギが始まった。  近所の人々に密輸の宝石の話をもちかけたり、受験生の親たちには裏口入学をタネに金を借りまくって、ついには借金の穴うめに万博の通訳でかせいでくると家を出たのである。  高度経済成長に日本中が手ばなしで浮かれた大阪万博会場には、日本全国から若い女性が集まっていた。「ケニーさん」が万博会場や行き帰りの新幹線の中で知りあった女性には、福岡の工場、東京の貿易会社、長崎の食料品会社のOLや、東京と川崎の女子大生などがいた。  彼はそれらの女性に、B子にアプローチしたときの要領で、まず、住所と電話番号を聞いておく。そして突然、その地の空港や一流ホテルのロビーから電話して、その情熱的な押しの一手で関係をつけると、さっそく、車の事故の示談金とか、アメリカの大学に結婚の報告に帰るための旅費などの口実で二〇万円程度の寸借サギを重ねたのである。  かくて「ケニーさん」は万博の年の一〇ヵ月の間に、東京から長崎まで一三の都市をあわただしく駆けめぐって二四人の女性と「婚約」し、合計四二〇万円の金をだましとった。  空想的虚言者  読者は、こんなたあいもない手口でコロコロと女性がだまされるのを不思議がられるであろうが、夢見がちな年頃の女性、いや女性はいくつになっても、いつかは自分の前に現れるであろう�白馬の騎士�を心待ちしているものである。  今でこそ円が強くなって、日本男性もいささか欧米人に対して自信を持つようになってきたが、占領軍のマッカーサー元帥に日本男性の精神年齢は一二歳と決めつけられた記憶がまだ残っており、有名女優まで怪しげな外人と結婚したがった時代である。「あこがれのハワイ」生れの三世で、しかもハーバード大卒という�青年医師�に求婚されるという幸運に、ボーッとなる女性がいたとしても不思議ではない。  しかも彼は、この演出に一流ホテルや高級レストラン、飛行機と惜しげもなく金を使い、必要経費が回収額を上まわることもしばしばで、逮捕時に所持金をほぼ使いはたしていた。  彼のような結婚サギ師は、にせの身分をそれらしく見せるためには、異常なほどの情熱と費用をかけるので、金をだましとるのが目的なのか、それとも空想の生活を維持するのが目的なのかがあいまいになってしまうものだ。  だます本人ですら目的と手段とをつい混同するくらいだからこそ、だまされる女性の方もつい信用してしまうのであろう。  大学病院というところには各科の医師がゴロゴロしているので、時々、白衣をきたロッカー荒しが現れるものだが、そういう犯罪行為にはまったく手をそめず、ぶらりと夕刻に病室に現れては退屈しきっている患者さんを�回診�して、恐縮する家族の挨拶に、おうようにうなずいてエツにいるだけの�にせ医者氏�がしばらく慶応病院に居ついていたことがある。この男の場合はただ、大学病院の医師の気分を味わいたかっただけなのであろう。 「ハワイ生れの医者ケニーさん」も、空想の青年医師にふさわしい生活を装うのが本当の目的で、その必要経費として結婚サギを重ねていたのかもしれない。  このように、次から次へと止めどもなく出まかせの嘘をつき、しまいには当の本人まで嘘と真の区別のつかなくなるタイプを精神医学では「空想的虚言者」と呼んでおり、この「ケニーさん」などはその典型である。  結婚サギ師には、夢のような結婚願望を持った女性を見つける天分があり、時に応じて、パイロットの制服や白衣をまとい、聴診器などの小道具をちらつかせて「三高ブランド」をたくみに演出するのである。  幻想への代価  結婚式を間近にひかえた女性が、バス停で話しかけられた東大医師と称するサギ師に、性病の疑いがあるから検査すると旅館に一週間あまり引き回されて、ついに破談となるという信じられないような事件があったが、これなど、もともとその結婚に気のりしないままに式の日取りが迫って、いっそ何かで破談になればとも思っていた女性の内心の迷いを見抜かれたものであろう。  結婚サギ師というものは、こうした女性の秘めた願望を見抜いて、シャボン玉のようにふくらませる天才なのである。しかも彼女らは半ば以上、自分が結婚サギにかかっていることを知っているのである。  その現実を認めるのが怖いので、あるいは自分の幸福な結婚を信じている親兄弟や友人の手前、引っ込みがつかないので、だまされていることを半ば知りながら、相手の嘘に消極的ながら協力するのである。結婚サギの被害者の多くは、つまりはサギ師の描き出して見せてくれる幻想にその代価を支払っているのだとも言える。  筆者も高校生のときに、チョコレート色の素敵なスーツケースを作ってやるという職人にだまされたことがある。何度、金を持っていっても、皮が値上りしたなどと、いつまでたっても出来あがらない。しまいには、せめてスーツケースらしく改造できないかと筆者が持ち込んだトランクごと、くだんの職人は風のように消え失せてしまった。きっと筆者のなけなしの小づかいとトランクは、その職人の酒代にでも消えていたのであろう。  しかし、筆者には奇妙にその職人を憎む気持がわかないのである。きっと彼が饒舌に描き出したチョコレート色の素敵なスーツケースの中には、筆者のその頃の上京に対する夢が一杯つまっていたのであろう。  こうした経験があるので、結婚サギ師の甘言にだまされて、大切な結婚資金をみつぐ女性の心理もよくわかるのである。  ああ、サギ師がその情念をこめて描き出す夢のなんと怪しい魅惑に満ちて感動的なことか。サギ師とは、相手の心に潜む夢を巧みに引き出して、それを心の中に極彩色に拡大してみせてくれる�職業�なのである。  サギ師にはこのように「仮象と現実とを混同する」あるいは「させる」才能があり、自己顕示的性格の持主が多く、虚栄心が強いために自分を実際よりよく見せようと見栄をはり、見えすいた嘘や、スタンドプレーをするのである。 2 虚構のワナ  精神科医である菅又淳氏の研究によると、サギ常習犯は、「ケニーさん」のような「空想的虚言者」と、豊田商事の一味のようにクールな計算にもとづいて計画的に人をだます職業的サギ犯である「欺瞞者」と、夢想家や自称詩人、自称教祖などの「空想者」の三つのタイプに分類できるという。  しかし、職業的サギ犯といえども、その持ちかけるうまい話や手口にはまるでドラマを見るような芸術性がある。たとえば、航空会社の社長まで引っかかったM資金にまつわる有名なサギの手口があるが、そもそもM資金とは占領軍時代に供出ダイヤなどをひそかに処分したマーカット少将の秘密資金といわれるもので、その実体は不明である。しかしそれを確かなものに見せかけて、反共のための事業になら低利で融資するなどと経営者などに持ちかける手形サギである。  もともと手形サギは、知能犯が数人で組む巧妙な手口が多く、「赤サギ」という関西系の集団サギの見事な手口はドラマにまでなっている。  連係プレー  集団サギの手口の一例をあげれば、たとえば次のようになる。繁華街の外れなどに、世事にうとい老夫婦の経営する雑貨屋などがあるとする。そこに目をつけたサギ師の一味が、まず有利な商品をおろして二人を信用させ、手形払いの味を覚えさせてから、振り出された手形をもってドロンする。  これを「パクリ屋」というのだが、しばらくして動揺している老夫婦の前に、「最近このかいわいに出没する悪質なサギ犯を捜査しているのだが、もしやここに立ち回らなかったか?」と目つきの鋭い老刑事が現れる。  地獄に仏ととびつくと、老刑事はしばらく考えた末、手形サギはなかなか立証が難しく解決には時間がかかるから、闇のルートに回っている手形を買いもどした方がいい。幸いその筋ににらみのきく大物刑事を知っているから、明後日五〇万円を持って△△警察署の前に来てくれと言う。  老夫婦が言われた警察署に行くと、入口で待っていた老刑事は金包みを受けとると、二階の防犯課長に渡して話をつけてくるから、ここで待てと言って金包みとともに姿を消してしまう。警察署を舞台に使った「籠抜けサギ」である。  この役を、パクられた手形を引揚げてやると言うことから「サルベージ屋」とも呼ぶ。原野商法に引っかかって買わされた土地を転売してやると被害者に持ちかけて、測量代や造成代を詐取する手口は、このサルベージ屋にほかならない。  さて、二度のサギに意気消沈している老夫婦の前に、やがて「お前のところで振り出した手形をつかまされて、えらい損害を受けたうちの組長がカンカンに怒っているが、どうしてくれる」と顔の向う傷や詰めた指をみせびらかす暴力団風の男が現れて脅し、保証のためにと土地権利証を出させて、結局は店を乗っ取るのが真の狙いなのである。もちろん、パクリ屋、サルベージ屋、脅し屋などが呼吸を合わせて持役を演じる集団サギの一味であることはいうまでもない。  人の弱味につけこんで、狙った獲物を追いつめるあくどいサギ師の手口ではあるが、その人情の機微をついた起承転結の筋立ての見事さには舌をまく思いがする。  コン・ゲーム  最近は、ハーバード大学などのアメリカのビジネス・スクールに留学してキャリア・アップをはかる「ニューヨークに賭ける女たち」が増えている。ところが、早速そうした知能の高い日本女性ばかりを狙う 「コン・ゲーム」 なる新手の集団サギの手口がアメリカに登場したそうである。  その芝居がかった巧妙な手口をちょっと紹介すると、ニューヨークで日本企業向けのコンサルタントをしている日本女性がマンハッタンの中心街で、通りがかりの車の中から拾い物をしたので警察まで案内して欲しいと声をかけられた。見ると三〇代の上品な身なりをした女性の二人連れなので、親切心を起こして車に乗り込むと、「電話ボックスの中にあった忘れものだが、大事なものと思わない?」と話しかけられ、三人で封筒をあけてみると中から二二万ドルという大金がでてきたので、車の中は驚きと興奮につつまれた。  ともかく、知り合いの弁護士に相談してみようと言う女性二人に連れられて、あるビルの弁護士に会うと、その弁護士は、正直に警察に届けた場合の報酬は一〇パーセントにすぎないから、私が運用をまかされている投資会社に、数年前から一万二〇〇〇ドルずつ投資していることにすれば、即座に五万四〇〇〇ドルずつ配当できる。ついては投資している証拠を残すために三〇分間だけ、一万二〇〇〇ドルずつ各自の口座からこの口座に移して欲しいと持ちかけた。  この女性コンサルタントがとりあえず都合できた八〇〇〇ドルを振りこんで配当金を受けとるべくロビーで待っていると、くだんの弁護士と女性二人とは、いつの間にか姿を消していたという、いかにも生き馬の目を抜くニューヨークらしいあざとい手口である。  なまじ語学ができて、米国人の生活感情も理解できたと思う頃のエリート女性の自負心と欲とを巧みについた心理劇もどきの犯罪である。  昔からスリとサギ師はその名人芸的な腕前と手口に一種のプライドを持っていて、刑罰的に割の合わない粗暴な殺しやタタキなどの暴力犯罪には絶対に手をそめないという不文律があった。  しかし、すったサイフの中身を少しだけ抜いてもどしておき、すられたことに気付かせなかったという仕立屋銀次のような技巧派スリの誇りは、狙った獲物を数人でとりかこむという暴力スリにとって代られ、また、最近のサギ犯も豊田商事のゴールド商法のように、老人から大切な生活財産を、強引なやり口で根こそぎハギ取ったり、あるいは身よりのない土地所有者と養子縁組の上、殺して土地を売り払うなどの血も涙もない暴力犯との結合が目立つようになった。これもただ、効率とスピードとを追求する世相を反映する手口の変化であろう。  これにくらべると、昔のサギ師の手口は、まるでつかの間の夢をみせる楽しいゲームに参加しているような、さして実害のないものも少なくなかったように思えるのである。 3 催眠商法を支えるもの  新学期になると決まって学生相談室には、まんまと英会話の教材セールスにひっかかって金が払えなくなった大学生が青い顔で相談にあらわれる。  初回払いがわずかなので、つい契約書をよく読まずにサインしてしまうことが多いためだが、なかには総額数十万円のセットで、しかもクーリング・オフの期間も過ぎてしまったため簡単には解決せず、さりとて親にも話せず、さんざん悩んだあげくに自殺した大学生の記事が新聞に出たことがある。  受験英語というおよそ実用的でない教育を中・高校と受けるのだから、帰国子女でもないかぎり英会話に自信のある新入生がいるはずはない。そこに、「これからの国際化時代に、あなたの英会話力は大丈夫ですか?」と声をかけられると、つい足を止めてしまうのである。  催眠商法というのは、こうした相手の劣等感や、反対にタレントになりたいなどといううぬぼれに巧みにつけこんでくるのである。  また、アンケートに答えて欲しいなどという社会調査型や、サンプルだから化粧品のモニターになって欲しい、あるいは抽選によってあなたに特典が当ったから、などと手口がどんどん巧妙になっているので気をつけねばならない。  しかし考えてみると、ぽっと出の学生さんを狙うサギ商法は昔から存在したのである。筆者が上京した昭和三〇年頃には、物陰にお上りさんを引き込んで、粗悪な洋服生地を売りつける手合がいたものだ。引き抜いた横糸をマッチの火で縮れさせてみせ純毛製であることを強調する、いかにも物不足の時代を反映する手口であった。  また、その頃の東京の八重洲通りには、狭い店にわんさと客が詰めかける不思議な商店があった。つられて中に入ってみると、香具師めいた中年男が口上よろしく、気前よく米軍放出の化粧石鹸などの小物をまくのだが、あっという間に前の方のサクラの手が伸びて回収してしまう。  次に、しゃれた洋傘などを取り出して「さあ、いくらだ? 早く値をつけた者がちだよ」などと、びっくりするような安値でドンドン売ってしまう。こうして客を充分にあおり立てておいてから、最後に今の物価になおせば三〇〇〇円程度の福袋を売りつけるのが眼目なのである。  福袋のハケがよいとみるや、すかさず「さあ、今度は六〇〇〇円の福袋だよ!」と追打ちをかけるのだが、中身はまったく同じのあまり利用価値のない品物である。このようにたあいもない手口であるが、ああも調子よく演出されると、バーゲン売場と同じ心理で、ついつられて買ってしまうのである。  それにサギ師たちの売りつける商品のなんと秘密めき、また蠱惑《こわく》に満ちて見えたことか。路地裏で秘かに取引される「密輸のローレックス」などには、なにか禁制の盗品買いの片棒をかついだようなゾクゾクする興奮があったし、三〇〇〇円の福袋の中には、この機会を逃したら生涯二度と手に入らぬ素晴らしい宝物が一杯詰っているような幸福な気持さえ味わわせてくれたものである。  今考えてみると、東京の八重洲あたりに店をはって、あれだけの人数のサクラを使い、わずか三〇〇〇円程度の福袋を売っても割が合わなかっただろうと思うのだが、あの手の店はコナン・ドイルの短篇にある、燃えるような赤毛の男たちがわんさと詰めかけた「赤毛クラブ」のように、いつしか幻のように消え失せてしまった。  その代りに現れたのが、小学校の体育館などに団地の主婦などを集めて、まず台所用品などを景気よくタダでまいておき、次に贋ブランドのセーターやポロシャツ類を安売りして一座をあおり立てておいてから、「西ドイツ製の高級羽根ブトン」なるものを八万円ぐらいで売りつける商法であった。世間に羽根ブトンが出回って高級品イメージがくずれる頃には、この催眠商法も消えてしまった。  ともかく、とても庶民には手のとどかぬあこがれの高級商品の存在が催眠商法を支えるネタであるから、ブランド品のあふれるリッチな世の中となると、今度は金では手に入らぬ若さとか健康とかを象徴するエステティッククラブのサービス券などにかわるのである。  有名ゴルフ場の会員権に億という値段がつく最近であるが、なんの保証もないもっともらしい証券を売りつけるペーパー商法の代表がゴールドを見せ金にした豊田商事の手口であった。そのネタがばれると今度は、会員が多過ぎて実際には利用できないリゾート・クラブの会員権、ゴルフ場、スポーツクラブ、テニスクラブなどの会員権と、げにペーパー商法の種はつきないのである。  しかし、わずか三〇〇〇円の福袋を売りつけるにも、あんなに手間ひまをかけて楽しい夢を見せてくれた昔の催眠商法にくらべて、老人ばかりを狙って怪しげな健康器具などを売りつける最近の手口のなんと強引でドライなことか。 「赤サギ」に代表される奇抜なストーリー性や、真に迫った演技などの名人芸が、すっかり「コン・ゲーム」などのニューヨークのサギ師たちに技術移転してしまったのは、あまりにも効率の追求に血道を上げる日本のサギ師気質の堕落によるものであろう。 第3章 えん罪はなぜ起こる? 1 自白の心理  この数年の間に、免田事件や島田事件などの死刑因に逆転無罪の判決が下されたが、このようなえん罪事件では、容疑者の自白が有罪の決め手とされたケースが多い。  しかし、自分の身に覚えもない、やってもいない事を認めれば死刑になるかもしれないのに、どうして容疑者は�自白�してしまうのであろうか?  精神科のカウンセリングを受けようという患者さんは、自ら進んで精神科医のところにやってきて、医師と面談しながら自分の心の内をさらけ出す。彼らは自分の問題点をさらけ出したいというプラスのモティベイションを持っている。この点は警察の取調べに応じる容疑者とは根本的に異なる。  そうは言っても、話が肝心の自分の恥ずかしい弱点にふれると、隠したり、事実を歪曲したり、見えすいた自己弁護をしたりする。人間には、それぞれ自尊心があるので、自分の自尊心が保てるように事実を加工歪曲するのである。  その過程を、精神分析学の方では「自我の防衛機制」というのだが、自分の自尊心を傷つけるような心の秘密などは、医師が面接を重ねて、患者さんとの間によほど信頼関係を築かないと告白してはくれない。  自分の内面を聞いてもらいたいというプラスの動機をもって来ている人のカウンセリングでさえ、このような抵抗があるのだから、手錠をかけて無理やり取調べ室に連れてこられて、しゃべれば死刑になるかもしれない不利なことを正直に話せという方が、そもそもおかしいのである。  容疑者にとって取調べ官は無実の自分を不当に拘留したあげく、言いがかりをつけて有罪に追いこもうとしている�敵�だともいえる。彼は無罪を主張し、取調べ官をにらんで声を荒らげ、あるいはガンとして黙秘する——。  そんな容疑者が数週間にわたる取調べによって、実際にやってもいない殺人の犯行をくわしく自供したり、有罪を認めて懺悔の和歌までつくり、取調べ官に「お世話になりました」などと感謝して別れるようになる。どうして、こんな魔法のような変化が起こるのであろうか?  タネを明かすと、警察の取調べは一種の「洗脳体験」の側面をもつからである。  洗脳体験 「洗脳体験」が精神医学で初めて注目されたのは、朝鮮戦争で中国軍の捕虜となった米軍兵士が、こちこちの共産主義者に�変身�して帰国したのが始まりである。  彼らが、なぜかくも短期間に徹底的にイデオロギーをたたきこまれたかに興味を持ったコーネル大学メディカル・センターのヒンケルらは、これら軍人に面接調査をしてみた。  その面接調査によると、捕虜たちはなるべく個室にして、完全な隔離状態で収容されていた。やむなく一緒にする場合には、所属部隊も出身地もバラバラで、白人と黒人など共通性の少ないものを選んで組にする。その上で、捕虜の中にはスパイをまぎれこましてあるという噂を流して、捕虜どうしを疑心暗鬼にさせて精神的に孤立感を高める。  こうした心理的条件に加えて、収容所は狭く、寒く、夜もあかあかと照明をつけ、わざと深夜に尋問を行ったりして、精神的苦痛や睡眠不足、疲労をあたえるようにする。さらに食事もまずく、量も減らして飢餓状態にしておく。  このようにありとあらゆる方法でストレスをあたえ、精神的孤立感を高めると、いかなる意志強固な軍人でも、相手がたとえ敵側であっても、なにか人間関係を持ちたいという欲求が無性に強くなって、尋問者に対してきわめて従順な態度を示すようになってくる。  こうなると、尋問者の誘導尋問による暗示にかかりやすくなり、自分自身の判断力や弁別力が低下してきて、尋問者の意のままに操られるロボットのようになってしまうのである。  おどし役の厳しい追及のあとに、なだめ役のさし出す一本のタバコにほろりとなって自白する密室の取調べと、なんと類似していることであろうか。  ヒンケルはこれら軍人の面接を通じて、「洗脳」の最大の原因は、仲間すら信じられぬという精神的な孤立感であるとしている。  密室がつくる精神的孤立感  社会的動物である人間は、対人関係をまったく奪われた孤立状況におかれると、たとえば、北極圏を一人で探検したクリスチーネ・リッター夫人のように、誰もいない所で自分に話しかける声が聞えるなどの特殊な精神状態におちいる。  また、殺風景な狭い独房は「感覚遮断性幻覚」を起こすための実験室のようなものである。我々は五官のいろいろな刺激によって意識を清明に保っているのだが、刺激の乏しい狭い独房に長時間入れられた容疑者は、しだいに意識水準が低下してきて、まず注意を集中することが困難になって、まとまった系統的思考ができなくなる。  容疑者の頭の中は次から次へと浮ぶ断片的な思考に流されて、何も考えられない状態におちいる。そして、無実であっても、自白さえすれば明日にも出してやるという見えすいた取調べ官の甘言を、つい信じて、言われるままに調書に捺印してしまうのである。  戦時中の特高警察によるフレームアップとして悪名高い横浜事件で留置された青地晨氏は、自分の体験から、容疑者の自白はこのような常識をこえた奇っ怪な心理状態でつくられたもので、普通の弱い人間がこのような状況下におかれた場合、十中八、九は自白させられてしまうと、だいたい次のように述べている。 「外部と完全に遮断された密室のなかで、何人もの刑事が入れ替り立ち替りに、お前が犯人だ、犯人だと一日に十数時間休みなく自白を強要する。そうした取調べが連日続けられる。何回、何十回自分は無実であると訴えても、相手はまったくとり上げてはくれない。  そうした場合、厚い壁で四方を囲まれ、その壁をコブシで叩いているような無力感におちいる。そうした無力感が係官に迎合する自白に導く。こうした極度の絶望感と無力感から、いったん最初の自白が始まると、いっきょに精神の緊張が崩れて、係官の誘導するがままに供述し、後でふり返ってみても、その時の自分の気持がどうしても自分でもわからぬほどのマカ不思議な、奇っ怪な精神の崩壊状態であった」。 2 証言は、どこまで正しいか?  虚偽の自白というものは、このような異常心理下における供述で信憑性に乏しいのだが、関係証人の証言もまた、時の経過とともに記憶が変容したり、取調べ官の誘導によって歪曲されたり変化するので、百パーセント信じるわけにはいかない。  こうした証言の信憑性を検証しようというのが「供述心理学」という分野であるが、えん罪というのは、つまりは供述心理学の立場から見て矛盾する内容の供述をもとにした誤審ということになる。  えん罪を生む権力の構造なども問題であるが、本書では供述心理学の立場から見て、矛盾があるいくつかのえん罪事件を検証してみたい。  静岡缶ビール詐取事件  最近、静岡県で缶ビール五〇ケースを詐取した容疑で逮捕され、アリバイを主張したが認められず実刑判決を受けた人が出所後、自分で真犯人を探し出して無罪を確定した事件があった。  彼が犯人とされたのは、缶ビールを詐取された酒屋など三人の証人が、犯人に間違いないと証言したためである。しかし、真犯人は当時、容疑者が働いていた職場の同僚の方であった。  この間違いは、警察に真犯人である同僚の写真がなかったため、容疑者の写真だけを含めた欠陥写真帳によって、証人たちに認定を求めたからである。三人の証人は後に、無実が証明された容疑者から偽証罪で告訴された。  だいたいが、ちらと会った程度の年かっこうの似た男の区別など、時間がたてばつけられるものではない。警察で「この男に間違いないか」と念を押されると、ついうなずいてしまうのが普通の人であろう。  人の記憶は当てにならない  この事を証明する次のような意地悪実験がある。  刑法学の植松正教授は、ある日、仲間の心理学者六人と精神医学者三人とを口実をもうけて中華料理屋の一室に招待した。  一週間たってから、そのときのメンバーに、来ていたメンバーの名前と席順とを問うアンケート調査を行ったところ、半数以上の人が間違った回答をした。とくに、来てもいない人を来たと言い、両隣りと正面に坐った人まで全部間違えた老大家は自信たっぷりで、「僕の記憶に絶対間違いないよ」と電話までかけてきたという。  お互いによく知った一〇人ばかりのメンバーの、わずか一週間後の記憶でも、半数以上が間違えるのである。一ヵ月以上もたって、チラと目撃しただけの犯人が、どんな顔でどんな服装をしていたかなどという細部の記憶は、時間とともに変容し、加工をうけるので、当てにならないのである。  これは記憶過程における変容であるが、そもそも目撃者の知覚段階から変容は起こるのである。  たとえば、裏通りのアパートの階段付近の暗がりで怪しい人を目撃した場合、それがアパートから出てきたところなのか、それとも、忍びこもうとしているところなのかは、目撃者の解釈しだいである。最近その付近で空巣が頻発していたとすれば、忍びこもうと物色していたところだったという目撃者の「思い込み」が生れるし、その人物がマスクでもしていれば、ますますその思い込みは補強される。  そうなると、自分の思い込みを理論的に補充する歪曲が加わってくる。「そういえば容疑者はそわそわしていた。あわてていたから犯人に違いない」という証言になる。  容疑者にされた男は実は風邪をひいており、たまたま、その付近で立小便しようとしているところに通行人が来たので、モジモジしていただけかもしれないのにである。  その付近で放火が頻発して自警団がパトロール中であったとしたら、もっとひどい事になりかねない。酔っぱらって見知らぬ路地に迷いこみ、気分が直ったので一服しようとマッチを取り出す、そんな誰にでもあるような場面でも、タイミングが悪ければ放火犯と間違われて警察に突き出される可能性がある。運悪く、休んだ場所が材木置場であったりすると、ますます「放火魔に間違いない」とされて、よそ者には弁明困難な状況に追い込まれることになる。  西部劇によく出てくるリンチの心理であるが、このようにその地域住民の間にひろがるスケープゴートを求める潜在意識が、知覚した事実を好む方向に歪曲し、その解釈に偏見を帯びさせるのである。  視覚はリアリティをもち、もっとも発達した知覚であるから、我々は感覚情報の九割以上を視知覚に依存して生活している。それほど信頼できる視知覚でも、このように歪曲や変容が起こるのだから、あのとき確かに犯人らしい男の声を聞いたなどという聴知覚による証言は、もっと当てにならない。  エドガー・アラン・ポーの『モルグ街殺人事件』のなかでイタリア人、スペイン人、オランダ人、中国人など一〇種多様に聞えた犯人の声は、実は逃げ出したオランウータンの叫び声であったというのは、その辺の心理をよくとらえている。  供述はまず知覚の段階からこうした歪曲を受け、ついで記憶の段階でさらに強い変容を受ける。  この記憶段階による変容は、時間の経過とともに変容し続け、知覚段階の変容より数倍も強いのである。したがって、古い事件について証人がいくらはっきりと証言しても、当てにならぬ場合も多いのである。  誤った仮説が偽証を生む  この知覚段階、記憶段階における歪曲に加えて、今度は第三の口頭伝達の段階、つまり尋問によっても証言は大きな歪曲を受ける。  警察の調書というものは、えてして筆者らの学術論文と似て、自分のたてた仮説(たとえば犯人複数説)に都合のよいデータだけを重視して捜査を行い、自分の仮説の方向に尋問を誘導する傾向がある。そして、自分の仮説を否定するような証言や事実は無視されがちである。  また、わが国のように、お上の権力に弱いお国柄では、証人の方も尋問者に威圧されて、警察の仮説に迎合する傾向がある。警察の尋問は証人の記憶像をあいまいにし、それを変化させることすらあるのである。  逮捕された犯人は「幻の共犯者」を仕立てて、罪の軽減を画策しがちなものだが、そこに、取調べ官が誤った複数犯人の仮説をたてていたら、どのような結果になるかという恰好の事例が、四人のえん罪者をつくった八海《やかい》事件である。  幻の共犯者——八海事件——  八海事件とは、昭和二六年一月二四日の深夜、山口県の八海で、ともに六四歳の老夫婦が惨殺され、金品を盗まれたという事件であった。  妻が刃物で夫を殺してから、首吊り自殺をしたように見せかけるために、犯人は、すべての戸を内からしめ、床下から抜け出すという偽装工作を行っていた。しかし、犯人は金品を物色したのち、棚にあった焼酎やサイダーを飲んだらしく指紋を方々に残していた。  この情況をみた捜査主任は、「数人が共同した犯行で、一人でこのような状態をなすことは不可能である」と複数犯人説を確信した。  二日後に、近くの特飲街に居続けていたYが逮捕されて、その日のうちに単独で強盗殺人を行ったことを自白したが、警察はこれをとり上げなかった。  観念していたYは、取調べ官が共犯者を疑っている意図を知ると、早速、取調べ官に迎合して、まず六人の名をあげ、うち一人のアリバイが証明されると今度は五人説に変り、結局、アリバイのなかった阿藤さんら四人が共犯にされ、阿藤さんはYの供述通りに主犯として死刑が宣告されてしまった。  実は、阿藤さんには事件当夜のアリバイがあったのだが、検察はそれを内妻の偽証であると執拗に呼出して取調べ、偽証罪で収監までして取消させたのである。  Yは自分の無期懲役が確定して安心すると、今度は無実の阿藤さんを死刑にした良心の苛責から供述を変え、阿藤さんら四人は無実で、犯行は別の男との共犯であると主張した。  Yがこのようにくるくる供述を変え、しかも最初にあげた六人中の二人にアリバイがあるのは、Yの供述が虚偽であるなによりの証拠である。またサイダーや焼酎ビンの指紋などの物証もYだけに限られているのも不思議であった。  つまり、捜査官が複数犯説に固執するからこそ、このような間違いが起こるのであって、Yの供述も単独犯という立場に立ってみると、すべての事実がなんの矛盾もなく符合するのである。  えん罪をつくるのは、いったんたてた仮説に呪縛されて、供述心理学の法則に矛盾する虚偽の供述を採用し、それと反する事実を正当に評価しようとしない警察・検察側の姿勢である。  この「幻の共犯者」に巻きぞえにされたえん罪事件は他にもあるが、考えてみれば、アリバイというものも当てにならないことが多い。 3 不確かなアリバイ  何月何日の何時に、あなたはどこで何をしていましたかと聞かれて、すぐ思い出せる人は少ないであろう。手帳に日程をつけている人でも、思い出せない時間帯もあるし、その時そこに確かにいたと証言してくれる人がいない場合の方が多いかもしれない。  思い出せないアリバイ——弘前大学教授夫人殺し事件——  えん罪であることがわかり無罪が確定した弘前大学教授夫人殺し事件の那須さんは、事件当夜のアリバイがすぐ思い出せなかったばかりに�犯人�にされてしまった。  弘前事件とは、昭和二四年八月六日の午後一一時過ぎに、何者かが離れ座敷に忍び込み、実母と枕を並べて眠っていた弘前大学教授夫人の頸部を刺したため、出血多量で死亡した事件である。警察は血痕を頼りに逃走経路をたどり、その途中にある那須さんを一六日後に逮捕した。  運の悪いことに那須さんは当夜のアリバイをすぐ思い出せず、供述が変転するので、よけいに疑いを深める結果になってしまった。  初めは当夜は友人宅に将棋をさしに行っていたと述べ、それが否定されると公園に月を見に行ったと答えた。しかし、どんな月であったかと聞かれて答えられなかった。次には、お盆興行の「四谷怪談」の映画を二晩続けて見に行ったと述べたが、これは八月四日と五日であることが確認された。最後になってやっと六日の晩はずっと家にいて、午後一〇時過ぎに、向いの家で氷をかく音がすると妹たちと話し合ったことを思い出したのである。  ところが、その家では、どぶろくを密造していたので、氷をかいていたことを否定した。また妹たちも薄れた記憶を警察の尋問で乱されて、兄のアリバイを否定する調書を作成されてしまった。  また、事件二日後の被害者の実母の調書では、犯行のあった座敷は小さな電灯をつけただけで暗かったので、犯人の顔はほとんど見ていなかったと供述している。ところが、警察の写真室の窓越しに面通しさせると、「横顔の輪郭も、頭髪が少しもつれて前にでている恰好も犯人と同一で、後姿も胴の細さもまったく真犯人と同じ。眉の下がったところもまったく同じで、あまりに今日みせてもらった男と犯人と酷似しているので胸が悪くなるくらいである」と変っているのである。  これは那須さんを容疑者として面通しさせたための暗示効果で、アメリカの警察でよくやるように、年恰好の似た数人と一緒の中から選ばせたら、こうはならなかったであろう。これは先述の缶ビール詐取事件で、警察が真犯人の写真を含まぬ「欠陥写真帳」によって弁別させたため、証人の誤認を起こしたのと同様のケースである。  ともかく容疑者として面通しさせると、その暗示が証人のあいまいな目撃印象を強化し、固定していくのである。  歪曲されたアリバイ証言  敗戦の混乱のまだ残っている昭和二三年に、熊本県の人吉市で起こった「免田事件」は水上勉の小説『飢餓海峡』の発端とよく似た一家殺し事件である。犯行後に、犯人が特飲店の娼婦のところに一泊するところなどそっくりであるが、しかし、この娼婦のアリバイ証言があいまいだったために、免田さんは真犯人とされ死刑を宣告されてしまった。  急流の球磨川下りで有名な人吉市は当時、人口五万の平和で美しい町であったが、昭和二三年もおしつまった一二月二九日に、前代未聞の大惨劇でその静寂を破られた。  よく繁盛するので小金をためていると噂のあった祈祷師は、商売柄、虫が知らせたのか「死ぬ前に甘いものでも食おうか」と冗談を言い、その夜は母屋の八畳に妻、長女、次女の親子四人が枕を並べて眠った。  午前三時すぎに自警団の夜回りから帰った祈祷師の三男は、ナタで頭を叩き割られた両親と重傷で虫の息になっている二人の妹とを発見した。警察は正月返上で聞き込み捜査に当ったが、その頃、伐採夫の口を探していて、人吉市の特飲店の娼婦の客となった免田さんが逮捕され、戦時中の特高の名残りをのこした取調べの末、犯行を�自白�したのである。  彼は事件のあった人吉市から汽車で二五分の免田駅から、さらにタクシーで二〇分も奥に入った農家の出身である。無口な性格で、高等小学校卒業後、大村海軍航空廠の徴用工となり、終戦によって帰郷して家業の農業の手伝いをしていた。  事件当日の二九日に、山林伐採夫の口を探しに人吉行きの汽車に乗った。免田さんは、汽車の中で偶然、馴染みの料理屋の女中に出会い、その店に行って夜九時ごろまでいた。そこを出てからは特飲店に一泊、三〇日は人吉駅から汽車に乗って友人の家へ行き、そこで一泊したとアリバイを主張した。一方、検察側は免田さんが特飲店に宿泊したのは三〇日であるとして両者は対立した。  犯行時間が、三男の第一回の夜回りが終った午前二時一五分から第二回の三時二〇分までの間に限定されているので、免田さんが二九日の夜に特飲店に一泊していることが確実であれば、アリバイが成立する。  この点、特飲店で彼の相手をした娼婦の証言がアリバイ成立の鍵を握るのだが、これがまたなんとも頼りないものだった。  この娼婦は七歳のときにブランコから落ちて頭をひどく打って以来、つきつめて物をたずねるとポーッとなって頭が痛くなるという人物で、免田さんの泊ったのが、いったい二九日なのか三〇日なのかはっきりせず、供述が二転、三転するのである。  彼女は第一審の公判で免田さんが泊ったのは三〇日だったと証言したが、これはまったくの思い違いであった。  しかも、免田さんの無罪を信じて再審請求に尽力した人が後に、この娼婦に話を確かめたところ、彼女がはじめ警察署で免田さんが泊ったのは二九日だったと言うと、「なにを言うか、本人は三〇日に泊ったと言っているぞ!」と刑事に一喝され、恐ろしさも手伝って本人がそう言うなら、それが本当だろうと思って公判でも三〇日だと証言したというのである。  娼婦のように片身の狭い思いをしている人は、警察官の威圧に迎合する歪曲を起こしやすい。まして、少し頭に障害を残しているような場合はなおさらであるから、その証言だけで大事なアリバイの有無を決定したことに無理があったのだ。  この他にも、免田さんが犯人でないことを証明する点がいくつも存在する。  物証は語る  殺害現場の惨状から犯人は相当な返り血を浴びたものと推定されるのに、当時の免田さんの衣類などからは、まったく血痕が認められていない。また、そもそも免田さんが犯人扱いされる原因となった伐採用のナタが、逆に彼の無実を証明しているから皮肉である。  実は免田さんのナタは、先端に「トビ」という突起物のついたナタであるが、合計三〇ヵ所にのぼる被害者の傷には、このトビによる傷痕はまったく見られないのである。  松本清張の『霧の旗』はよくテレビ化される小説であるが、その中に、老婆殺しの犯人として獄死した教師の公判調書を仔細に検討した有名弁護士が、老婆の頭の傷が実は右利きだった教師にはつくれない、左利きの犯人による傷であることに気付いて愕然とする場面がある。  免田さんは左利きであるが、死体の鑑定書によると、被害者の頭の傷は右利きの犯人が被害者の後方から力一杯打ちおろした傷としか考えられないという。あれだけの犯行の間に、利き腕でない方の腕を使い、しかも先端の「トビ」が当らないようにナタをふるうなどという器用なことはできないものだ。  さらに第一審を担当した弁護士は、土地カンのない免田さんが、路地の突き当りにあって夜間見つけ出すことの難しいような被害者の家に、狙ったように押し入ったとは考えにくいと述べている。  しかも犯行は、歳末夜回りのわずか六五分の間隙をピッタリ狙ったように行われている。これは、犯人が夜回りの時間を知りうる者であった可能性を示すもので、警察も最初の捜査方針通り、土地カンのある地元の容疑者のアリバイくずしに集中していれば、真犯人は案外その中にいたのかもしれないのである。免田事件では、西部劇にもあるように、とかく、よそ者がスケープゴートにされやすいという心理も働いたのであろう。  テレビの推理ドラマを見ていても、犯人のアリバイづくりに協力する証人がいたり、都合の悪いことがあってアリバイがあっても、それを否定する証人などが出てくる。  このようにいろいろな証人がいるので、現実の事件捜査に当っては利害の相反する証人からの聞き込みを行わねばならないし、また、利害関係のない人の目撃証言にしても、前述のような歪曲が加わるので、はたしてその証人が真実を述べているかどうかを、供述心理学がいう次の「現実基準」の有無によって検討しなければならない。  現実基準  現実基準の第一の法則は、偽証にくらべると、真実を描写している供述は細目が豊富で生き生きとした現実性を持っていることである。第二の法則は、その細目が「犯人しか知りえない細目」を持っていればさらに確実である。  第三は証人の能力基準の法則で、たとえば証拠を捏造《ねつぞう》する能力のない児童などが述べている細目は事実であろうし、そのとき証人自身が理解できぬ観察事実を述べていても、それが後の情報の追加によって説明できるとすれば真実であるなによりの証拠である。  たとえば先述の弘前大学教授夫人殺し事件を例にとると、覚せい剤の常習者だった真犯人は、夜になると無性に女体にさわりたいという衝動にかられて、事件の前に弘前大学の看護室で就寝中の看護婦を襲って切傷を負わせるという酷似した事件を起こし、さらに那須さん誤認逮捕の一〇日後にも看護詰所に侵入しようとして逮捕された。  獄中で彼の告白をきいた人が、刑期をすませた那須さんに知らせたので、時効の成立した一五年後に真犯人の実地検証が行われた。  犯行現場の離れ座敷の引戸を開けて、縁側をはうように進んだとき、真犯人は首をひねって、離れはもっと狭かったはずだと言った。離れは真犯人の服役中に改築されて、九〇センチメートルだけ拡げられていたのである。  また、真犯人が凶器を投げこもうとして思い直した井戸が、確かに左の奥にあったと言う。そんな井戸は、当時の裁判記録にも出ていなかったが、よく調べてみると、小屋の陰に誰にも気付かれない井戸が存在していた。これもまた、犯人しか知りえぬ真実である。  また、真犯人が離れ座敷に侵入した動機についても、意外な事実がわかった。彼は犯行の一〇日ほど前に家主の家にミシンの修理に行き、そこに若い娘が二人いたのを思い出したからだという。  検事が家主の娘を調べると、当時、同家にいた五女が、ミシンを修理する人が来たが、そのときちょうど、同級生が遊びに来ていたと証言した。  つまり真犯人は、離れで並んで寝ていた教授夫人とその母親とを、そのときの娘二人と間違えて忍び込んだのである。  これは証人の、そのときは理解できぬ観察事実が、後の情報の追加によって辻つまが合ってくる第三の法則に一致する。  島田事件のアリバイ検証  このように真実の証言は、細目が非常に豊富で、しかも当事者しか知りえぬ細目を含み、大筋でそれらがなんの矛盾もなく整合するのである。  これは最近、島田事件でやっと無罪が確定した赤堀さんのアリバイ証言にも、よく当てはまる。  その前に島田事件の概略を述べておこう。  島田市は大井川の川口に開けた人口四万の古い宿場町であるが、昭和二九年三月一〇日のポカポカと暖かい日曜日のこと、寺の境内にある幼稚園では「おゆうぎ会」が開かれ、着かざった児童とその親とで賑わっていた。  この最中に六歳になる少女が若い男に誘い出され、二日後に大井川沿いの地獄沢で無惨な絞殺死体となって発見された。  現場は橋番のいる木橋を渡らねばならぬところで、橋番や途中で二人に会った主婦などの目撃証言によると、犯人は髪をキチンと分けて小ざっぱりした身なりの若い男だったという。  ショッキングな幼女暴行殺人事件であるだけに、地元の新聞は連日のように捜査の状況を報道し、警察は地元の不良や猥褻《わいせつ》常習者を中心に二三〇人を取調べたが、犯人があがらなかった。焦った警察は七〇日後に当時、住所不定だった赤堀さんを逮捕し、一週間の取調べの末、赤堀さんは犯行を�自白�し、裁判で死刑を宣告されたのである。  この自白書には矛盾も多いのだが、赤堀さんのえん罪を確信した弁護士の苦心のアリバイ証明は、供述心理学上も真実な証言と認められるのである。  三歳のときに脳症にかかって後遺症が残っている赤堀さんは、昭和二九年頃から放浪癖が出て、事件前後は�裸の大将�よろしく東海道を放浪中であった。  赤堀さんが弁護士のアドバイスで必死に思い出した当時の日程によると、東田子ノ浦を三月五日に出て、沼津、三島、小田原と放浪し、もらい貯めた金で、七日に平塚から汽車に乗り、上野に着いた。鉄クズを拾って神田の金物屋に売り、二日間を食いつないでいたが、面白くないので西に下ることにして、犯行の行われた一〇日には横浜のある神社で寝たという。  ついで一一日に戸塚、一二日には平塚に着き、宿にした稲荷堂で暖をとるために提灯をもやして通報され、平塚署に留置された(この記録はチャンと残っている)。翌一三日の朝に釈放された赤堀さんは三島、清水と東海道を下り、島田にもどったのは実に一九日になっているのである。  検察側の始めの調書では赤堀さんは、ずっと静岡県周辺を放浪していたことになっていて、東京行きは否定されていた。  赤堀さんの供述によると、上野に着いた七日は、季節外れのミゾレの降る寒い日で、上野の地下道で会った廃品回収業の男から金物を売ることを教えられたという。また、時代劇の大好きな赤堀さんは上野の映画館で上映されていた「濡れ髪権八」を見たかったが、入場料がないので、もぐり込めるかと裏手に回ると、裏手の山を切崩して整地していて、ここに大きな映画館がたつぞと、作業員たちが話していたのを思い出した。  次の日に鉄クズを売りに行った神田の金物屋には主人と奥さんと黒い犬がいて、店の土間の左に黒板、奥にはかりが置いてあったと述べている。  東京管区気象台に確かめた当日の気象も、映画館の上映記録も、また裏の映画館の工事を請負った建設会社の工事の進行状況も赤堀さんの供述を裏付けているし、神田の金物屋の店の状況もそっくりで、それまで転地療養中だった店の奥さんは、ちょうど九日に店にもどっていたということまで確かめられた。  このように真実を描写する供述は細目が豊富で、具体的で、しかも大筋で符合するのである。この点からみて、赤堀さんの七日から九日までの東京滞在は動かしがたい事実であって、犯行当日の一〇日は、赤堀さんはまだ東海道下りの横浜までの行程にあって、犯行現場の島田着は、事件から一〇日もたった一九日であるという大筋は、動かしがたい真実であると供述心理学の法則は物語っている。  これに対して検察側は、東京行きは事実としても、汽車を使えば一〇日に島田に着くことができると主張した。しかし、旅の途中から、わざわざ列車でトンボ返りしてアリバイ工作をするなどという推理小説ばりの離れ技は、事件当時、住所不定であった赤堀さんにできることではない。検察の主張には苦しまぎれのこじつけがあったようである。  これまでに述べてきたような不幸なえん罪を防止するためには、捜査官や検察官が供述心理学の知識に精通して、自分の仮説がこの法則から大きく矛盾してきたときは、反対の立場から事件全体を眺め直す必要があるのではあるまいか。 4 被害者になりやすいのはどんな人?  えん罪に泣いた人は、見込み捜査などの権力犯罪の被害者であるともいえるが、ここで犯罪において、どんな人が被害者になりやすいかを考えてみよう。  最近は、気軽に海外に出かける若い女性たちがふえてきて、海外で殺人事件にまきこまれる日本人もふえてきた。  外務省が昭和六一年にまとめた「海外邦人援護統計」によると、海外でなんらかの事故にあったものは四二〇〇人にもおよんでいる。うち二三八一人は強盗、盗難の被害者であるが、死亡したものが二三九人もいる。  死亡者の内訳を見ると、病死九二人、交通事故四四人、自殺二七人であるが、殺害されたものが一二人ある。また、四四人の行方不明者のなかにも殺人事件にまきこまれたものが相当に含まれているものと見なければならない。  地域別の事故分析によると、ヨーロッパ(一八四三人)、北米(一〇三五人)、アジア(七七二人)となっている。ヨーロッパへの旅行者は、わが国の全海外渡航者の約二割に過ぎないことを考えると、ヨーロッパで事件にまきこまれる確率はかなり高いと思わなければならない。  この昭和六一年には、コペンハーゲンの運河にバラバラにされた邦人女性の死体が浮んだ事件が話題になったが、海外旅行の被害者に若い女性が多いのはなぜだろうか。  やはり弱者が——  ナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命したドイツの犯罪学者H・ヘンチングは、貧しくて無力な移民が被害者になりやすいという体験から、弱者の存在が、それを襲う犯罪者の狼をつくり出すという被害者学の先駆となる学説を一九四八年に発表している。 「社会的保護から孤立して無防備な状況におくことが、被害受容性を高める」という彼の学説に従えば、ボート・ピープルのように国家の保護を外れた移民や家族の保護を離れた家出人、社会経験が浅くて判断が不十分なために自分の身が守れない若者、精神状態が不安定な者などが被害者になりやすい特性を備えていることになる。  また二メートルに近い外国の大男に対して、子供のように小さな体格の日本女性という体力的な弱みも、被害を誘発する重要な要因となる。このほか加害者が欲しがる大金やカメラなどを持っている場合も当然、被害者になりやすい。  E・ロスナーが行った一八七人の被殺害者の分析によると、その六割弱が女性であり、加害者の九割以上が男性であった。  オーストラリアで三人連れの男の車にヒッチハイクしたきり行方不明となった日本人女性の記事が出ていたが、集団心理も手伝うので、異国の見ず知らずの男たちの車に乗り込んだりするのは、どう考えても無謀な行為である。しかも外国で殺されると、くわしい情報もつかめず、家族の捜索も遅れるので、行方不明事件になりやすいのである。  犯罪学者樋口幸吉氏が被害者になりやすい一般特性として、(1)知能が低いと見られる者や体力的に劣っている者、(2)不安や心配ごとがあって不安定な気分の者、(3)意気消沈して投げやりに見える者、(4)孤立しているか無所属状態にある者、(5)弱身を持っているか自信をなくしている者、もしくは虚勢をはっている者、(6)いばり屋、暴君タイプ、ほら吹き、(7)酔っぱらい、薬物中毒者、(8)追い詰められてワラをもつかみたい気分でいる者、(9)欲ばり、(10)浮気者、をあげているのは以上の学説を要約したものである。  被害者に罪がある?  しかし、実際の犯罪においては被害者と加害者の関係はもっと複雑で、被害者は常に弱者であるという図式はなりたたない。 「鮒じゃ 鮒じゃ 鮒ざむらい。ああ 怒ったか おお 刀の柄に手をかけやったな。抜けるものならその刀をば抜いてみよ。お家は断絶身は切腹の……」とさも憎々しげに上野介が内匠頭を挑発する。これは刃傷松之廊下の敵役の見せどころである。  このように、傷害・殺人事件において被害者が実は加害者を挑発している場合も少なくない。見方をかえると、被害者である上野介の方が、かねてより内匠頭に数々の精神的苦痛を与えつづけてきた加害者であるとも言えるのである。  また、ドン・ホセの切々たる復縁の口説をよそに、カルメンは指輪を抜きとると憎々しげに投げ返し、群集の歓呼にこたえる闘牛士エスカミリオのもとに行きかける——。あのとき、カルメンが俺のやった指輪まで投げ返しさえしなければ短刀を抜くことはなかったのに、と原作者メリメはホセに述懐させている。  カルメンのようなヒステリー性格の女性は興奮してくると、止めどもなく言いつのってくるので、たまりかねた相手の男に殺されることがあるのである。  このように被害者になりやすいパーソナリティというものがあるが、被害者と加害者との力動関係を一八〇度転換した視点から検討し直す新しい学問が、イスラエルの弁護士B・メンデルソーンが一九五六年に提唱した「被害者学」の分野である。 『殺した者にではなく、殺された者に罪がある』。これはF・ウェルフェルの父殺しの小説のタイトルであるが、ハーディの短篇にも、長男が苦心してまとめた妹の結婚式を、ぶちこわしに乗り込んできたアル中の父親を、とうとう息子たちが殺してしまう作品がある。  強欲、無理解、放縦で自己中心的な浪費家で乱暴者の父親が、従順な妻子を迫害しつづけたため、ついにたまりかねた妻子に殺されるというのが、父殺しに多いパターンである。いわば、自分の生活を守るための正当防衛に近い同情されるべき犯罪である。  最近は親の権威が下がってきたせいか、子供の「家庭内暴力」に耐えかねた親の「子殺し」がふえてきている。いずれも、�暴君の圧政�に耐えかねた被害者による犯罪である。  そこでメンデルソーンは、被害者の加害者に対する責任性の重さから次のように分類した。  第一は、通り魔事件の被害者のように、加害者に対して完全に無責任な被害者である。第二は、心中事件で生き残った者のように、加害者に対して同等の有責性のある被害者である。第三は、加害者よりも、もっと責任のある被害者で、第四は、もっとも有責性の強い被害者である。  この分類のうち、第三の加害者よりも有責性の強い被害者には、あまりにも挑発的すぎるグラマーのような誘発的被害者と、交通事故や工場災害をくり返す不注意による被害者、との二つのタイプがある。  第四の、もっとも有責性の強い被害者には、(a)正当防衛で殺された被害者、つまり一歩間違えば加害者となった可能性の大きい被害者、(b)欺瞞的被害者(無意識的な被害者)と、(c)妄想的な被害者、との三つのタイプがある。  さる有名大学の初老の教授が、教え子の女子学生に強姦罪で告訴される事件があった。教授は、その女子大生に誘惑されたとも主張しているので、当事者二人きりの密室で起こるこうした男女の事件の真相は�藪の中�で終ることが少なくない。このようなケースでは、被害者が(b)の無意識的な被害者であるとの仮説も成立するからである。  精神科の患者さんのなかには(b)の無意識的に男性を挑発する女性だけでなく、(c)のタイプのように、医師に対して恋愛妄想を抱きやすい患者さんが時々いるので大変である。  主治医に対する恋愛妄想がひどくなったので、主治医の依頼によって、その女性患者さんを引き受けた医師がいた。  しばらくすると、彼女の恋愛妄想の対象はその医師に移ったらしく、「あの、主人はまだ診察中ですか」とすっかり女房気取りのその女性からの電話が病院に、かかってくるようになった。  彼女の父親までがまきこまれて、「娘があれほどまでに言うからには、まったく何もなかったとは言い切れまい」と言い出すしまつで、その医師はホトホト迷惑したそうである。この場合は妄想的被害者は、実は加害者なのである。 第4章 ノイローゼが高じて……  犯罪者を分類すれば——  犯罪には、いろいろな角度からのアプローチができるので、犯罪者にもさまざまな分類がある。  たとえば、ドイツの犯罪学者アシャフェンブルグは、善良な社会人が偶然の過失によって起こした「偶発犯人」から、犯罪を常習とする「職業犯人」までを、(1)偶発犯人、(2)激情犯人、(3)機会犯人、(4)予謀犯人、(5)累犯者《るいはんしや》、(6)常習犯人、(7)職業犯人、の七つに分類している。  また、ゼーリッヒは犯行を起こしやすい性格傾向とその犯行様式との組合せから、(1)労働嫌悪からの職業犯人、(2)抵抗力薄弱からの財産犯人、(3)攻撃性の強い暴力犯人、(4)性的抑制力がないための性犯罪者、などの複合的類型を提唱した。  わが国の犯罪学者吉益脩夫氏は、次の三つの指標によって累犯者を分析する研究方法を考え出した。 〔1〕犯罪の初発年齢による指標  二五歳以前に犯罪を起こす(1)早発犯と、それ以降の初犯者である(2)遅発犯。 〔2〕犯罪の反復と間隔とによる指標  (1)持続型、(2)弛張《しちよう》型、(3)間歇《かんけつ》型、(4)停止型。 〔3〕犯罪の種類の方向による指標  犯罪を人間の欲望にしたがって、物欲にもとづく財産犯(P)、色欲による風俗犯(S)、攻撃衝動にもとづく暴力犯(V)、の三方向の座標軸で考えると、刑法犯の多くは図のように整理される。(注。吉益氏は、このほかに逃走犯、破壊犯を加えた五方向をもともとあげているが、この図ではもっともポピュラーな欲望にもとづく三方向に整理してみた)  犯罪を起こす人にも、その人の習癖のようなものがあって、たとえば、生活に困るとすぐ窃盗をはたらくというように単一方向に限られていることが多い。またときに横領や、単純なサギをはたらいたとしても、その犯罪方向は財産犯という同種方向内におさまっているのが普通である。  しかし、窃盗と傷害という異種方向や、さらにこれに強姦を加えた多種方向に向うものが稀にはある。  第1章でふれたスポーツカーを使った連続強姦殺人犯は、そのほかに窃盗、サギや恐喝まではたらく多種方向犯であった。このようなタイプには若年から犯罪をおかし、服役をくり返す早発犯で、しかも累犯者が多いとされている。  次の四つの精神医学的な分類は、責任能力を決定する上で重要な意味をもっている。  (1)正常者の犯罪、(2)性格異常者の犯罪、(3)知的障害者の犯罪、(4)精神病者の犯罪。  マスコミで「ノイローゼ」と呼ばれるものは本来の意味での神経症に、精神病を含むものであるが、神経症患者は責任能力の点で正常者や性格異常者と同様に、完全責任能力保有者として扱われる。  したがって、精神鑑定によって心神|耗弱《こうじやく》(限定責任能力)、心神喪失(責任無能力)として減刑の対象になりうるのは、知的障害者と精神病者だけである。  精神病には、分裂病や躁うつ病などの内因精神病と、アルコール中毒や麻薬中毒のような外因精神病などがあることを念頭において、本章を読んでいただければ、理解しやすい。 1 不可解な犯罪  金閣寺を炎上させたもの  金閣寺の妖しい美しさにとりつかれて、これに火を放った青年僧の心理は三島由紀夫と水上勉とに『金閣寺』と『五番町夕霧楼』を書かせるインパクトをあたえ、後に「炎上」として映画化までされた。  国宝金閣寺の放火犯人であるHの精神鑑定を行ったのは、当時の京都大学医学部精神科の三浦百重教授であったが、これは貴重な国宝に放火した動機についてのHの説明が不可解だったからである。  ここで事件の概要を説明しておこう。  Hは水上勉の生家と同様な若狭の寺、舞鶴市にある末寺の住職の長男として生れたが、彼が中学在学中に父が死亡したので、昭和一八年に金閣寺の徒弟となり、二年後には大谷大学の予科に入学させてもらった。  元来、無口で強情で暗い性格であったが、事件の一年前の昭和二四年頃になると、囲碁にふけって勉強しなくなり、かろうじて予科を卒業したものの登校もしなくなり、住職の訓戒にも反抗的な態度を示すようになった。はじめは住職に目をかけられていたので、行くゆくは金閣寺の住職にもなれるかと期待していたHは、自分の将来に絶望し、この上は自分の愛する国宝金閣寺に火をつけて、そのなかでもろともに焼け死のうと、昭和二五年七月二日の未明に火をつけたのである。  三浦教授は、犯人を著しい性格の偏りがある「分裂気質」ではあるが、精神病者ではないと診断したので、懲役七年の実刑がいい渡された。  ところが刑務所に入所した直後から行動がおかしくなり、被害妄想のために独房に収容されることが多くなった。また肺結核を併発したので医療刑務所に移送されたところ、被害妄想がますますひどくなって拒食し、衰弱が目立つようになった。  昭和三〇年に刑の執行が停止されて、彼の故郷にほど近い京都の洛南病院に移されると、安心したのかポツリポツリと主治医と話すようになったが、進行した肺結核のため翌年死亡してしまった。  この洛南病院の主治医であった小林淳鏡氏の見解では、Hの発病は、放火事件の一年前の性格変化の目立ってきた時期であったろうと推定している。  分裂病のなかには、はっきりした異常体験がでる前に、このHのような性格変化で始まってくる「単純型」が含まれているので、発病の時期や、はたして発病しているかどうかの診断の確定が難しいのである。  自分がもっとも愛した聖美な金閣寺に放火するというHの矛盾した心理状態は、分裂病の主な症状の一つである「両価性(アンビバレンツ=同一の対象に対して相反する感情、とくに愛情と憎悪が同時に存在している状態)」から説明されるべきものなのであろう。  ライシャワー大使を刺した少年  その犯行動機の不可解な点では、昭和三九年三月二四日、親日家で有名なライシャワー駐日米国大使を刺した当時一九歳の少年がもっとも典型的である。  少年は、その犯行の動機について、「動機は近眼を治すこと、学校で海水浴を強制すること、現在の小、中学校で男女が並んで座っていることは道徳上よくないから、男は前、女は後に席を分けねばならない。この自分の考えを世間に訴える方法としては大使を刺して有名になり、世界各国にまでアピールすることができる」と支離滅裂な考えを赤坂署で述べたので、早速、精神鑑定が行われた結果、重症の精神病者として不起訴になり、精神病院に収容された。  この少年は、一五歳のときに発病したと思われる分裂病の「破瓜《はか》型」の典型である。  分裂病には、このほかに興奮錯乱の強い「緊張型」と、年長になって発病し妄想のほかには一見精神病者とは見えない「妄想型」との三つのタイプがある。  この少年のような若年期、つまり「破瓜期」に発病する「破瓜型」は重い性格変化を残して治りにくい。このなかには、この少年のような派手な妄想を示さず、性格変化だけを起こしてくる「単純型」がある。  この少年は三年後には精神病院の開放病棟に移って作業療法に出るまでに回復したが、たまたま彼の外泊中に、アメリカ大使館内に放火事件が起こって一時、彼に嫌疑がかかったことを契機にまた病状が悪化して、事件から七年後の二六歳になったときに、突然、便所で縊死《いし》をとげた。自殺の動機は、まったく不明である。  老人の自殺には病苦という納得できる理由が多いのだが、動機不明の自殺のトップは分裂病なのである。それも一見、病状がよくなったと見える時期に多いのだから謎である。  このような分裂病の妄想や幻聴などの異常体験に支配されて起こした犯行は唐突、不可解で、しかも合目的性がないことが特徴である。  羽田沖で日航機墜落事件を起こした機長は、「GO GO」と命令する幻聴に左右されて不可解な「逆噴射」をかけたのだが、この機長のように年長になってから発病する「妄想型」は人格のくずれが少ないので、なにか事件を起こすまでは周囲がその発病に気付かぬ場合がある。  減刑されなかったメッカ殺人事件  これにくらべて犯行の動機が合目的であるものは、まず精神病をよそおった詐病の可能性を考えた方がいい。本人が現在、精神病にかかっているかどうかの診断の根拠になるのは、幻覚や妄想という異常体験が本当に本人に存在するかどうかである。  ライシャワー事件の少年のような重症になると間違いようもないのだが、異常行動の目立たぬ軽症患者の診断は、本人の症状の申告に頼るほかはない。したがって、精神症状の知識をもった犯人が虚偽の症状を訴えたり、異常行動を演じたりして刑の軽減をはかるケースも出るのである。  詐病をはかったわけではなかったが、多分に自己顕示的な性格であったメッカ殺人事件の犯人Sが精神病に罹患したことがあると申し立てて、否定された事例がある。 「メッカ殺人事件」というアガサ・クリスティーの推理小説にでも出てきそうな、しゃれた名前の事件は、次のようなものであった。  昭和二八年の夏の七月二七日の夜に、東京新橋にあるバー「メッカ」でビールを飲んでいた客のグラスの中に、ポタポタと天井から真赤な血がしたたり落ちてきて大騒ぎとなった。  物置にしていた天井裏の押入れからは、首と両足とを電気コードで縛られ、鈍器でメッタ打ちにされた証券ブローカーの死体がでてきた。共犯の二人はまもなく逮捕されたが、主犯のSは関西方面に潜伏し、二ヵ月後にやっと逮捕された。  ニヒルな破滅志望者  彼は慶応大学を出たインテリ青年で、逮捕時に押しかけた新聞記者の前で誇らしげに犯行を語ったり、その後もニヒリスティックな手記をマスコミに発表したりしたので、戦前の堅苦しいモラルに反抗する�アプレゲール(戦後派)青年の暴走�として世間の注目をあつめたのである。  Sは事件の数年前に愛人とのもつれから時々嫌人・閉居状態になり、とくに犯行時は、その愛人との破局から被害的となって、殺された証券ブローカーに対して妄想的な被害観念を抱いていたという鑑定をもとに、心神|耗弱《こうじやく》を申し立てた。  しかし、その犯行の合目的性から症状の真偽を疑った裁判長は、Sの再鑑定を行った上で、分裂病を否定して死刑を宣告した。  Sは獄中から雑誌「群像」の新人賞に投稿して掲載されるほどの文才があり、また獄中での「黙想ノート」や「獄中日記」は死刑囚手記出版のはしりをつくった。彼の上告趣意書には太宰治の『斜陽』でも読むような、女性的で演技的な彼の性格傾向がよく表われている。 「私は、進んで破滅を求めたのでございます。もはや破滅だけが長い間ひとびとの視線の向う側に絶望して 蹲《うずくま》っている本当の自分を取り戻す、たった一つの避け難い方法でございました。故に又、相手がHさん(被害者)でなければならぬいわれは、全くなかったのです。  ただ、私は度々申し上げて参りましたように、あの晩(彼の幼い頃に長兄の暴行が始まった晩をさす)以来『大人』といわれる人たちをこころから憎み、怖れておりました。あの人たち(長兄、母、姉たちをさす)は、幼い私が死ぬ程こころを痛めているときに、すこしも私を助けようとはして下さいませんでした。理解しようとさえしませんでした。 『大人』はずるくて、薄情で、残虐で、嘘つきで、エゴイストなんだ。私の、この拭い難い不信と憎悪の対象である『大人』の中に、たまたまHさんがおいでになっただけでございます」  Sのような自己顕示型の性格異常者は、また精神病そっくりの「拘禁反応」を起こしやすい。複雑な成育史から内攻的な分裂気質をもった彼が、失恋のショックなどで心因反応を時々起こしたことは事実としても、遊興費のための使いこみに困って、共犯の麻雀仲間二人と手はずまで打合せた上で殺害したという合目的な彼の犯罪を、分裂病のせいにすることは、どだい無理なことであった。  Sは五人兄弟の末子として、大阪で生れた。彼が生後五ヵ月のときに、カリフォルニア大学出で弁護士だった父親が死亡した。母は教師をしながら彼を育て、彼も小、中学校では級長をつとめて、母の期待にこたえた。  しかし彼の長兄は、「類分裂質」ともいうべき変人で、見さかいなく家人に暴力をふるうため、家庭が暗く、中学生のころから、だんだんSは内向的な性格になっていった。  彼は旧制高等学校の入試に二度失敗して、慶応予科に入学し、次兄が買った家に母と姉とで同居した。このころダンスホールで知り合った女性と恋愛関係になったが、この女性がまた、多くの男性と関係があり、彼を嫉妬と不信で苦しめた。  大学卒業直前に肺結核がわかり、一流会社への就職を断念したころから自暴自棄になっていったらしい。そのころは�株屋�などと呼ばれていたある証券会社に就職はしたものの、あちこちに借金するような生活の乱れから半年でクビになり、恋人の伯母から預かっていた証券を使いこみ、穴うめに困って犯行におよんだものである。 『死刑囚の記録』に彼のことを書いた加賀乙彦氏によると、ニヒルな破滅志望者のSも獄中でカソリックに入信してからは、「鉄窓の宗教者」に変ったという。非行歴も犯罪歴もないSは、恋人とのいさかい、一流会社の断念、肺結核罹患などが重なって自暴自棄になり、青年が一度は経験する�放蕩の針�が、大きく殺人罪へとふり切れたものであろう。  最近であればたぶん無期刑にでも処せられて、更生のチャンスは充分あったケースであるが、マスコミに対する挑戦的な態度と心神耗弱を申し立てた自己弁護的な反省のなさとが裁判官の心証を悪くして、自らの首を締める結果になった。また、�アプレゲールの暴走�として騒ぎすぎたマスコミにも、責任の一端がないとは言い切れない。  精神障害による犯罪は少ない  これまでにショッキングな事件ばかりをとり上げてきたので、読者は精神病はさぞ危険なものと思われるかもしれないが、精神病者が犯罪を起こす率は、実はそれほど高くはないのである。  昭和六一年度の犯罪白書をひらいてみると、全国の成人の刑法犯検挙総数は二一万四五一三人で、そのうち精神病者や知的障害者まで含めた広い概念である精神障害者、およびその疑いのある者の合計は二一三九人で、その比率は一パーセント弱にすぎない。  では、一般人口中にどのくらい精神障害者が含まれているかというと、昭和三八年の厚生省が最後に行った実態調査では一・二九パーセントであったから、犯罪者の集団中に含まれる精神障害者の比率の方が、一般人口中のそれより低いことになるのである。  一方、罪名別で検討してみると、放火犯の二一・九パーセントをトップに、殺人犯の八・六パーセントが次いでいて、放火、殺人という重大犯罪に含まれている率が高く、反対に平凡な窃盗、強盗、恐喝などを起こす率は、かなり低いことがわかる。  さらに精神病の疾患別でみてみると、殺人は比較的に分裂病に多く、放火は薬物依存、アルコール中毒に多く、強姦・強制わいせつは比較的、知的障害者に多いことがわかるが、この傾向は従来から犯罪学では常識となっている事実を裏がきするにすぎない。  昭和六一年度に、心神喪失と心神耗弱とで不起訴になった者は七二〇人、裁判にかけられて心神喪失として無罪になったものは三人、心神耗弱として刑の軽減を受けたものは七八人で、これらの数値は年度によってもそれほど変らないのである。  また精神障害者が不幸な犯罪を起こすのは、発病に周囲が気がつかなかったり、診療中断によって犯行時にはまったく治療を受けていなかったケースが多く、昭和六二年度の犯罪白書によると六八・一パーセントと大半を占めている。このため、早期発見や退院後のアフターケアを充実することが、不幸な犯罪を防止するうえで役立つことになる。  ライシャワー事件を契機にして精神衛生法が一部改正されて、保健所が精神障害の患者さんのアフターケアを担当することになり、その技術指導センターとして各県に精神衛生センターができた。近年、精神衛生法が精神保健福祉法に改正されたので「精神保健福祉センター」と改称されたが、現在、精神保健福祉センターや保健所ではアフターケアの一環としてデイ・ケアを行ったり、地域内に共同作業所や共同住居が設けられるようになった。  筆者の勤務していた川崎市立精神保健福祉センターでも週一回のデイ・ケアを行っているが、この程度のサービスでも再発防止に驚くほど有効である。  将来、アフターケア・システムがさらに整備されれば、分裂病を含む精神障害の患者さんが関係する不幸な犯罪は、もっと減少するであろう。 2 嘆きの天使  衛星放送の普及で、往年の名画をお茶の間のテレビで手軽に楽しめるのはオールド映画ファンの喜びであるが、そのなかにドイツ映画の名作「嘆きの天使」があった。  まじめ一方の独身を守ってきたドイツの小都市の大学教授が、ふとしたことから、いかがわしい酒場を巡業する一座の歌姫に迷い、一座に加わって零落し、発狂して深夜、昔の大学の教室に現れるというストーリーであるが、若い頃に見たときは歌姫を演じた女優マレーネ・ディートリッヒの映画だと思っていたが、停年もそう遠くない年齢になった今見てみると、初老の教授を演じた男優のヤニングスでみせる映画だったことが、身につまされてわかってくる。  映画の冒頭で、教壇についてチョーク箱を置き、おもむろにエンマ帳をとり出して、老眼鏡ごしにチラチラ生徒を眺めるという数分の演技といい、ラストで巡回に来た夜警に引きはがされまいと教壇にしがみつく手の演技といい、神経質で几帳面で気むずかしい初老の教授の性格を見事に描写しきっていた。  圧巻なのは、なれそめの酒場の舞台の上で、昔の同僚や生徒がつめかけるなかで、卵を額にぶつけられるたびにニワトリの鳴き声をあげる道化の役を強いられる場面である。  屈辱に声が出ず、ついには悲鳴のような鳴き声をあげて発狂していくクライマックスは、いくらリアリズム演技とはいえ、やり過ぎだと言いたくなるくらいの名演である。  これを見ていると、研究一本の人生で初老期を過ぎ、ふと感じた空しさに悪魔メフィストフェレスの誘惑におちたファウスト博士の心境がよくわかってくる。 「幻影の扉」とは?  まっしぐらに出世街道をのぼりつめてきたエリートも、その到達点がほぼ見えてくる中年に達すると、自分の生き方に、ふと迷いの生じる瞬間があるものである。  H・G・ウェルズの『幻影の扉』という小説は、もうすぐ大臣のポストも間近なエリート政治家が、なぜか幼い頃、寄り道した不思議な邸が懐かしくなり、霧の夜に、その邸の扉と錯覚して廃坑の坑道に転落死する話である。 「幻影の扉」とは、そのドアをあければ、われわれが人生のあわただしさにまぎれて、つい忘れてきた大事なものが一杯つまっている、心の�秘密の部屋�なのであろう。中年のエリート社員や、研究者などが、魔がさしたとしかいいようのない事件をひき起こすことがあるのも、この失われた�秘密の部屋�をやみくもに探すあまりに起こした事故なのかもしれない。  とかく体力もおちてくる中年期は、精神の緊張もゆるんできて、退行期うつ病が起こりやすいので、こうした「プッツン現象」を起こしやすいのである。  中年エリートにひそむジキルとハイド  アメリカのノンフィクション作家リンダ・ウルフ女史は『理解しがたい悲惨な事件集』のトップに、有望な大学教授がなじみのコールガールを殺した事件を詳細に書いている。  マサチューセッツ州の医科大学で嘱望されていた四〇歳の中堅教授が、酒場で知り合った若い美人コールガールに恋人気取りでのめりこんだあげく、金銭をめぐるいさかいから彼女を殺害した事件である。  女史は、有望な研究者とコールガールとの組合せが理解できないのでトップにとりあげたのであろうが、人生のたそがれ時にさしかかった精神科医の筆者にとっては、わかりすぎるくらいにわかる——つまり、二つの図式で明快に説明できる——紋切型の犯罪にすぎないのである。  その第一の図式とは、中年のエリートの逸脱と二重性格、つまり「ジキルとハイド現象」である。  なにごとにも競争社会のアメリカでは、研究者の社会も猛烈な業績主義で、年間に相当量の論文を書かねば研究費もとれないし、教授のポストも失うのである。野口英世もペンシルベニア大学時代に、電話帳のように部厚い論文集を残しているが、彼はアメリカの研究者もあきれるほどのエネルギーで、「ノーベル賞製造所」といわれたロックフェラー研究所の階段をかけ上っていったのであろう。  いったん教授のポストにつくと、後は安定している日本の大学教授と違って、アメリカの教授はたえずノルマに追っかけられているので、ストレスがたまることになる。それでもノーベル賞クラスの研究成果が上れば、研究そのもので精神的な満足が得られるが、そんな研究は一〇年に一度あるかないかだから、多くの研究者は、誰がやっても予測がつく程度の平凡な研究でお茶をにごすことになる。  移民の子に生れて、燃えるような向上心にかられてブルドーザーのように研究者の道を驀進してきたその教授に、ふとファウスト博士の迷いが訪れたとき、偶然知り合った若く美しいコールガールに理想化された恋人のイメージを抱き、それをふくらませていったのを責めるのは酷であろう。  学者は本来ロマンチストであるから、凡人にとっては退屈きわまりない研究にも熱中できるのである。また学者は、甘美でロマンチックな恋愛の幻想を秘めているものだが、その受け手である妻は子供と家事に忙殺されて、ガサガサした中年女に変貌していることが多い。  若い頃からまじめ一本で、エドガー・アラン・ポーが描くところのウィリアム・ウィルソンのような放蕩を一度も味わったことのない人にかぎって、�禁断の果実�にのめり込んでいくのである。  �マイ・フェア・レディ�の現実  自分の思い通りになる女の人形に恋するのを、「ピグマリオン・コンプレックス」という。人形はどんな要求もこばまないし、拒絶されてこちらが傷つくこともないので、内向的だった大哲学者デカルトも「フランシス」と名付けた人形を大事にし、持ち歩いていたと伝えられている。しかし、人形を生身の人間におきかえ、無教養な若い女性を自分好みのレディに仕立て上げることができたら、それは男の理想であろう。  この夢を実現したのがミュージカル「マイ・フェア・レディ」に登場するヒギンズ教授であるが、この作業は一九世紀のイギリス貴族のばく大な資産があってこそ可能なのである。ところが先述の「コールガール殺し事件」では、コールガールは�マイ・フェア・レディ�の役割を演じたものの、何をするにもすぐに金を請求したので、イギリス貴族ならぬサラリーマン教授は研究費の水増しや使い込みでも追いつかず、ついに悲劇の結末をむかえたのである。  つまり、中年エリートの逸脱の典型的事例、エリートにひそむ二重人格性=ジキル博士とハイド氏の図式である。  コカイン中毒  またこの事件のもう一つの図式は、最近アメリカをむしばんでいるドラッグ——コカイン——を抜きにしては考えられない。  ベトナム戦争はアメリカを麻薬天国にしたが、はじめの主役はヘロインであった。しかし、国際麻薬シンジケートが中南米のコカインを、いつでもやめられる�麻薬のキャデラック�として、シリコンバレーの富裕な白人家庭などに売りつけていった。  スーパーマンになったような高揚感をあたえるコカインはまた、あくなき性の快楽を可能とするので、コールガール殺しの教授もこのコカインに引きずりこまれるのだが、やがて恐ろしい副作用——コカイン精神障害——が起こってくるのである。  コカインの薬理作用は、わが国で流行している覚せい剤と酷似している。その強烈な高揚感から疲労回復剤、セックス剤として使用されるが、切れると、その反動で別人のような無気力状態が訪れる。  教授のジキル・ハイド現象は、コカイン常用で助長されたものに他ならないのだが、奇しくも小説『ジキル博士とハイド氏』を書いたスティーブンソンもコカインの愛用者で、コカインのもたらす高揚状態のなかで、『ジキルとハイド』の原稿を二日二晩で書き直したと伝えられている。つまり、小説に出てくるジキル博士の秘薬とは、コカインのことだったのである。  スティーブンソンも自分で使っていたコカインの作用に怖くなって、小説の中で二度と合成不可能になった秘薬にしてしまったのであろう。麻薬の恐ろしさが知られていなかった当時の文士でアヘンやコカインを愛用していた人は多く、コナン・ドイルもまたコカインの愛用者であった。しかし、その絶筆になった『シャーロック・ホームズの失踪』になると、コカイン精神障害の特徴である追跡妄想が現れている。  くだんのコールガールも、教授との最後の旅行中に黄色いフォルクス・ワーゲンにつけられていると再三訴えているし、また、しばしば攻撃的になって教授を責めたて、ついに殺されたのは、コカインによる性格変化がひどくなったものである。  このように、このコールガール殺し事件のもう一つの図式とは、現在のアメリカの社会病理現象を代表するコカインの薬理作用によるものである。 3 乱酔の果て  酒癖の悪い人は、都合の悪いことになると覚えていないと主張しがちであるが、もし、本当に記憶がないようになると危険なのである。この記憶のブランクを「ブラック・アウト」というのだが、泥酔して、どこかの店の看板を持ってきたりするうちは御愛嬌としても、この間に馬鹿力を発揮して思いがけない犯罪をひき起こす場合があるからである。  精神医学ではこれを「異常酩酊」と呼んでいるが、この間に殺人・傷害や、あるいは放火事件を起こして精神鑑定を受ける結果になる。  明治の元勲の一人である黒田清隆が泥酔して夫人を日本刀で斬殺した事件は、テレビドラマの「鹿鳴館」では、止めに入った書生に重傷を負わせたことに脚色されていた。  しかし、事件・犯罪研究会編の『事件犯罪大事典』によると、実際には次のような事件である。  黒田清隆�妻殺し�事件  明治一一年二月二八日の夜、当時、陸軍中将で参議、北海道開拓長官の要職にあった黒田清隆は、東京麻布の自宅でしたたかに泥酔し、芸者との仲を夫人になじられて激高し、いきなり刀を抜いて斬殺してしまった。夫人は一五歳で嫁いだが、生れた二人の子供が幼児のうちに死亡してしまったこともあって、夫婦仲はよくなかった。  酔がさめた黒田は、ぼう然自失していたが、同郷出身の警視局大警視、川路利良が夫人を病死したことに工作したが、いつしか世間の噂となったので、立会人の川路が発掘した棺を少しばかり開けて、「これは病死じゃ、変死じゃなか」と一同に宣して、すぐ棺を埋めもどしたという。(風来団三郎氏の解説より要約)  黒田は自分の功にかえてもと、榎本武揚ら五稜郭戦争の戦犯の赦免を求めたように一本気な性格であった。また、泥酔した翌朝には、何か失礼があったのではないかなどと、自分より、はるか下僚の山本権兵衛宅に早朝わびに出かけるという、病的酩酊を起こしやすい人に多いエピソードを残している。  酒が入ると人が変ったように乱暴になる人は、普段は小心で人の思わくに気を使い、馬鹿ていねいな人が多いのである。  こうして日頃から、しらふでは言うことも言えずに憤懣がうっ積しているから、悪酔いすると、それが一気に爆発することになる。いわば日頃は、理性の座である大脳新皮質の働きで押えつけている攻撃的なもう一人の自分——スティーブンソンの小説でいえば悪漢ハイド氏——が、アルコールの助けをかりて勢いこんで飛び出してくるのである。  酒は百薬の長、されど狂い水  しかし、そもそも飲酒というものは、とかく堅苦しい普段の「ケ」の日にたまったうっ屈を、祭りの「ハレ」の日に酔っぱらって、神と合体することによって解放する神事だったのである。しかし、この無礼講の宴席が昔から、しばしば事件と結びついていた。和歌森太郎氏によると、わが国の異常酩酊の第一号は、奈良の酒場で乱酔して殺人をおかし、七六一年に流刑となった茅原《はきはら》王で、これは『続日本紀』に出ているという。  また、気の荒い坂東武者たちは、しばしば鎌倉幕府に集まって酒量を競っていたが、乱酔のあげくの刃傷沙汰も多かったらしく、北条時頼の節酒令の一因ともなった。  いわゆる酒乱の人の特徴は、酔うとかえって顔面蒼白になって目がすわり、不機嫌になって、やたらと人にからんでくる。やがて、声が一オクターブほど高くなってきたら警戒した方がいい。普通の酒であれば、精神機能がまひするにつれて、手足もまひして、ついには寝こんでしまうから事件を起こさない。  ところが、異常酩酊は意識が混濁してくるのに、運動まひが起こらず、かえって敏捷になるから始末が悪い。  筆者の患者さんの中には、悪酔すると動きがよくなって、刃物をひねくり出し、家人が逃げ出さぬようにアパートのドアをロックしてから、電話線を切り、ステレオのボリュームを上げて、すわった目で家人をねめまわして、からんでくるという聞くだに恐ろしい病的酩酊の人がいた。その刃物を押えようとして、手を深々と切った奥さんが外来に現れたこともある。  彼はトラックの元運転手で、泥酔して頭部外傷を負ったことがある。アルコールは医学的にみると麻酔剤なので、呼吸中枢などのある脳幹に麻酔がおよばぬように、血中のアルコールが脳に移行するのを制限する「血液脳関門」があって生命を守っている。  頭部外傷を起こすと、この血液脳関門がこわれることがあるので、大量のアルコールがいきなり脳に移行して、彼のように病的酩酊を起こしやすくなるのである。頭部外傷を起こしたことのある人は、飲みすぎないように気をつけた方がよい。  いわゆる「酒乱」といわれる異常酩酊のなかには、とぎれとぎれに泥酔中の記憶のある「複雑酩酊」と、ある期間まったく記憶の欠損した「病的酩酊」との二種類あるが、実際には区別がむずかしい。いずれも、普段の人格では考えられないような、目的のわからぬ強盗や強姦、放火や殺人・傷害などを起こして精神鑑定に回されることがある。  病的酩酊の典型  ここで、筆者が大学院生時代に経験した病的酩酊の精神鑑定例をふり返ってみよう。  昭和三二年ごろのことであるが、一流の化学会社に勤めるエンジニアが泥酔して、日頃から不仲であった同僚を殺してしまい、死体を工場の硫酸槽でとかしてしまうという事件が起こった。  彼はその事件をまったく覚えていないと主張するが、死体の処理などは手際よくやっているので、その精神鑑定を教授と大学院の同僚の助手が担当することになったのである。  病院の一室で机をはさんで差し向いになり、「再現実験」のために助手から酒をついでもらう素面《しらふ》の彼は、一流大学卒の紳士らしく、しきりに恐縮しながら飲んでいた。事件当日の飲酒量にほぼ近づいたころから「教授のお酌で飲む酒なんて面白くもないや」などと言い出し、これは本性が出てきたかなと思った途端に、突然「ウォー!」と猛獣のように咆哮した彼は、いきなり椅子から立ち上ると机をまたいで教授につかみかかってきた。ハイド氏のお出ましである。  小柄な教授は一目散に逃げ出し、鑑定助手をつとめていた大学院の同僚は悲鳴をあげて助けを求め、駆けつけた四、五人の教室助手が、やっとの思いで荒れ狂う彼をとり押えた。  病的酩酊はこのように、まるで火事場の馬鹿力のような大変な力を出すのでひどく危険なのである。この期間、ある程度まとまった行動はとるのだが、ちょうど夢遊病の患者が危険な場所をよけて歩くように、意識が変容・狭窄《きようさく》した状態になる。したがって、この病的酩酊を、飲酒によって誘発された「てんかん性のもうろう状態」だと考えるドイツの精神医学者もいる。  この本物の病的酩酊は、それほど多いものではない。筆者は年間一〇〇人ぐらいの新しいアルコール患者をみているのだが、五年間で取り扱った異常酩酊は四六人で、そのなかで完全な病的酩酊は五人にすぎなかった。  しかし、この手の人は案外身近なところにいるものだ。筆者もまさかと思っていた人に怖い思いをさせられた経験があるので、読者の方も夢々油断は禁物であろう。  酒が引き起こした連続放火  完全な病的酩酊によるとはいかないまでも、飲酒によって抑制がゆるみ、放火によって日頃の憤懣がスッキリ解消するという「愉快犯」が起こることがある。  筆者の勤務する川崎の隣、蒲田周辺で昭和四五年に起きた連続放火事件がある。  昭和四五年四月一日のエイプリル・フールの深夜、午前四時半に大田区のさる材木店の作業場が放火されて、多くの消防車が出動して大騒ぎとなった。  四月五日の深夜には、わずか二時間半ばかりの間に、同じ町内で九件ほど駐車中の車などに次々と放火されるという事件が起き、それから昭和四六年の二月までの十一ヵ月の間に、一五件の同様な放火事件が相次いだ。住民は戦々恐々となり、ついに自警団まで組織されてパトロールした結果、付近に住む二六歳の溶接工が逮捕された。  彼は昭和一九年に山形県の炭坑夫の長男として生れ、地元の中学を出ると「金の卵」として川崎市のさる鉄工場に就職したが、腎臓を悪くして一時帰郷したこともある。  昭和三七年から再度上京して今度は、大田区にある工場の溶接工となって、蒲田に近いアパートに同僚と寄宿したが、四四年頃から酒量が増えて、蒲田あたりのバーやキャバレーに借金ができて、生活もしだいに荒れてきていた。この頃はすでに、アルコール依存症といえる状態に入っていたと思われる。  事件の当夜、彼は勤め先に近い焼き肉屋でビールを数本飲み、ついで蒲田駅近くのまだツケのきくバーに寄り、ついで電車で川崎に出て飲み屋でビールを飲んだ。終電もなくなっていたので、川崎駅前からタクシーに乗り、そのままアパートまで乗りつければよかったものを、なぜか蒲田駅で降りたのが間違いのもとであった。たぶん泥酔していたのでアパートがわからなくなり、ぐるぐる回りした末に、もよりの蒲田駅でほっぽり出されたものであろう。  むしゃくしゃして蒲田駅からアパートまでの道を千鳥足で歩く彼の酔眼にふと、材木店のカンナ屑が映ったのである。わっと燃え上った火勢にビックリして、その場をいったん逃走した彼は、やがて現場の野次馬にまじって三〇分間も騒ぎをながめていた。  彼はそのときの気持を「消防車がサイレンを鳴らしてやってきて、大勢でワイワイ騒ぐのをみると、日頃のモヤモヤが解消してスッキリした」と述べている。次の犯行日は、給料も出たので飲みに行き、パチンコに負けてむしゃくしゃしていたので、また火をつけた。そうするうちに、連続放火魔ができ上ったという次第である。 第5章 現代の犯罪 1 不条理の犯罪  不特定多数を狙った爆弾事件や通り魔事件、グリコ・森永事件などはなぜ起こるのだろうか。  従来型の犯罪は特定の個人に対する怨恨にもとづくので、犯人も限定できたが、何の関係もない通行人をまきこむ不条理な現代の犯罪には、用心のしようもなく、それだけに一層やりきれない思いがする。  これは現代の大都市がもつアノニミティ(匿名性)と、大衆化社会の社会不満というルサンチマンの拡散を抜きにしては考えられない。  大衆化社会からドロップ・アウトした者は、そのうっ積した憤懣を、より幸福な人々にむけて無差別にたたきつける。マスコミが彼の犯行を派手に報道すればするほど、彼の歪んだ自己実現の欲求は満足させられるのである。  これがいわゆる「劇場犯罪」とか「愉快犯罪」と呼ばれるものの心理であり、犯人は顔を持たぬ大衆化社会の匿名性の陰に隠れ、ニヤニヤ笑いながらこちらを観察しているので、なんとも始末が悪い。  現代のアノニミティを象徴する「いたずら電話」や「幸運の手紙」などのたぐいも、その代表である。  大衆化社会にうっ積するルサンチマンの拡散のプロセスは、高度成長のはしりの昭和三七年に始まった正体不明の「草加次郎」なる犯人による「連続爆破事件」の変遷にはっきりと現れている。  連続爆破魔「草加次郎」の登場  ここで「草加次郎」に始まる爆破事件の変遷を年代順に追ってみよう。 「草加次郎」が当時、人気の絶頂にあった歌手島倉千代子後援会事務所に爆発物入り封筒を送りつけ、事務員一人が負傷した事件が起こったのが、昭和三七年一一月のことであった。このとき「草加次郎」は、マスコミに登場する人気歌手にターゲットを絞っていたわけであり、そのルサンチマンの本質は「美空ひばり硫酸事件」と同じく、花々しくもてはやされる大衆のアイドルに対する羨望やねたみと、ほぼ同質なものにすぎなかったのである。  ところが、それは間もなく、そのころのアイドルたちがよく出演していた日劇周辺の不特定多数の見物客に拡散していった。すなわち、ニュー東宝前の喫茶店の長椅子の下に円筒型爆弾がしかけられ、ついで日比谷の映画館の二階の便所内においてあった段ボール箱が爆発して従業員の女性が負傷した。  間もなく爆発物は、瀬田の公衆電話ボックス、浅草寺境内の切株の上へと拡散し、翌年の七月になると、渋谷のデパートという人の集まる場所を狙って爆破予告の脅迫状を送って世間を騒がせただけでは満足せず、二ヵ月後の地下鉄銀座線京橋駅の車内での爆発によって、実際に一〇人の乗客が重軽傷を負うという不特定多数を狙う犯罪に拡散していった。 「草加次郎」による連続爆破事件は迷宮入りのまま時効となったので、どこまでが同一犯人の仕業であるか不明である。しかしそのターゲットが、後には「東京駅みどりの窓口爆発事件」から「新幹線ひかり号爆破未遂事件」へと昭和四〇年代の高度成長の象徴であった新幹線に集中していったのをみると、犯人はこの繁栄の利器を利用できる、より恵まれた人々に怨念を向けていたのかもしれない。  しかし昭和四三年に、恋人にふられた若い大工の八ツ当り的犯行であった「横須賀線爆破事件」は一般の通勤客を狙うものであったし、昭和四六年の新宿のクリスマスツリー爆弾事件からは、自己の政治主張のために通行人をまきこむ政治テロ事件に引きつがれていった。  過激派爆破事件がやっと終息した昭和五〇年代に入ると、今度は新しく登場してきた自動販売機や、スーパーマーケットなどの顔の見えない販売システムの買手を狙う「毒入り缶ジュース事件」や「グリコ・森永事件」にシフトしてきたのである。  以上の連続爆破事件で検証してきたように、拡散するルサンチマンは、その時代を象徴する交通システムや販売システムに向けられ、その被害者も比較的恵まれた利用者から、一般の大衆へと拡大していったのである。  これらの顔をもたない「愉快犯」は、ただ推測によって論評する他はないので、ここでは顔をもった犯人の起こした「通り魔事件」についての分析を進めてみよう。  昭和五八年の「犯罪白書」によると、その前年の通り魔事件の発生件数は一八二件(殺人一三、傷害七六、暴行二二、器物損壊七一)。被害者は二〇〇人で、その多くは若い女性や年少者である。犯人は三〇代前半の無職者が多い。  孤独の牙——新宿バス放火事件——  お盆休み気分のまだ抜けやらぬ昭和五五年の八月一九日の夜、新宿駅西口周辺はナイター帰りの親子連れや、一杯きげんのサラリーマン、ショッピングバッグを下げたOLや主婦などでごったがえしていた。  そのとき京王デパート前の停留所で発車待ちをしているバスの中に、突然現れた中年男が、いきなり火のついた新聞紙を投げ込み、ついでバケツからガソリンをまき散らした。たちまちバスは猛火につつまれて、乗客三〇人中の六人が死亡、一四人が重軽傷を負うという大惨事となった。  犯人の土木作業員Yは犯行の動機を、西口の駅前広場の階段でコップ酒を飲んでいたところ、通行人に「汚いからあっちへ行け」といわれ、腹の虫がおさまらないので、スタンドでガソリンを買って犯行におよんだと自供した。  侮辱した当人に火をつけるのならまだ納得できるのであるが、当の広場から相当に離れた場所に偶然居合わせただけの何の関係もない人々が生命を失うのだから、なんとも不条理な大都市の犯罪であった。  なぜYが、このような大事件を起こすにいたったのであろうか? みるからにさえない中年男のYは、また子供の頃からまったく不運続きの男であった。  大戦末期の昭和一七年に久留米市で四人兄弟の末子として生れたYは、空襲で工場が焼失したため失職した父親が母親と離婚し、その母親も昭和二〇年の枕崎台風で倒壊した家屋の下敷きとなって死亡した。  親類を転々としてやっと義務教育を終了すると、近郊の農家の作男となって糊口をしのぎ、特需景気から高度成長に移るころにはトビ職となって、やっと日銭を少し稼げるようになった。  四七年には結婚して、人なみの家庭の味が味わえると思った途端、彼の妻が精神病院に入院したため、生れたばかりの子供を施設にあずけて離婚、あれほど夢みた幸福な家庭はあっけなく崩壊してしまった。  心の張りも目標も失ったYは、土木作業員として各地の飯場を転々とし、事件当時は住所不定の日雇い労働者をしていた。しかし彼には律義なところがあって、子供をあずけた施設にギリギリの生活費から捻出した四、五万円もの金を送金することもあった。彼の唯一の楽しみといえば、安いコップ酒をあおることであった。  犯行当時の気持を彼は検事に、「別れた妻や長男の入院費、養育費も充分に送ってやれない不甲斐なさに腹立ちと焦燥を覚えるとともに、自分の惨めな境遇を思うにつけ、世間に対してねたみや恨みの感情を抱くようになっていた」と述べている。  犯行の日はまだ、お盆休みが続いていて仕事もないので、新宿でコップ酒を立ち飲みしていた。いまや夏の国民的バカンスとなったお盆休みには、大ぜいの人が帰省する。ディケンズの『クリスマス・キャロル』にもあるように、身寄りのない一人者にとって孤独がとりわけ身にしみるのは、街がにぎわうときで、わが国では盆と正月の季節である。  すでにYには帰るべき郷里もなく、ともにいるべき妻子もなかった。西口駅周辺を行き来する幸せそうな家族連れを見るにつけ、Yは�あいつらは家に帰れば幸せなんだろうな�とねたみがしだいにつのってきて、ついに「なめるな! 俺だってやる気になればなんだってやれる」と、日頃から世間に抱いていたルサンチマンが、まったく関係のない第三者に向って爆発したのである。  筆者もYと同じ久留米の近郊に疎開したことがあり、九州の医大を出てから上京したのだが、筆者の診察室には彼と似たような身の上の患者さんがやってくる。北九州出身のアルコール中毒患者さんの多くは、国のエネルギー転換政策によって地元の炭鉱を追われ、東京オリンピックを頂点とする建設ブームの土木作業員となって本州各地の飯場を転々とするうちに、いつしか体力も、帰るべき故郷の家もなくなって、仕事もない盆や正月になると居場所がなくなるために、しばしのねぐらを精神病院に求めてやってくるのである。  Yもまた、一〇年前にさる精神病院に精神分裂病と診断されて入院しているが、バス放火は、こうした限界状態が起こした妄想反応だったのではなかろうか。  庶民派の山田洋次監督の作品に、長崎の炭鉱に見切りをつけた一家が、万博に花やぐ大阪や、東京を経て遠く北海道の開拓村に流れつく「家族」という映画がある。衛星放送でこのリバイバルをみながら筆者は感慨を禁じえなかった。大規模酪農のモデルともてはやされたこれらの開拓村で、今どれほどの家が離農せずに残っているのであろうか。国の政策は、いつでも弱者を切り捨ててきたが、高度成長はその恩恵にあずかれずドロップ・アウトした人々を数多く生み出してきたのである。  Yのバス放火事件は、そうした�はぐれ者�の社会に対する拡散したルサンチマンが、偶然、大都会の雑踏に焦点を結んで暴発したものであった。  ドラッグの悪夢——深川通り魔事件——  これに対して「深川通り魔事件」は現代社会が抱える社会病理の一つであるドラッグが深くからんだ事件である。  新宿バス放火事件から一年たった昭和五六年六月一七日の白昼、東京深川の商店街で、柳葉包丁をもった男が、折から二人の子供の手をひいて通行中の二七歳の主婦に突然襲いかかり、メッタ突きにしたと思うと、すぐ隣にいた主婦を一突きで死亡させ、さらにその前方を歩いていた七一歳の老婦人、三八歳の主婦に重傷を負わせた。  続いて犯人は、あまりの惨事に呆然と立ちすくんでいた三三歳の主婦を人質にとって近くの中華料理店に籠城し、七時間後にやっと警察に逮捕された。犯人の元スシ職人Kの体中からは微量の覚せい剤反応が検出された。  Kは高度成長のはしりに「金の卵」ともてはやされた中学卒の集団就職組の一人であった。生家は茨城県の利根川べりにあり、シジミ漁で生計をたてていた。  この時代は高校全入を目ざす教育の大衆化時代に入っていたのだが、彼は地元の中学校を卒業すると集団就職で、東京築地のスシ屋の職人見習となった。  中学時代までは気が小さくておとなしかったKは、三年たってそのスシ屋をやめる頃には両肩から二の腕にかけて刺青を彫っていた。これは、いつも彼をいじめていた住み込みの同僚に対抗するためでもあったらしい。  夜が商売の人には、眠気ざましとすすめられて覚せい剤常用者となる者がまま出るが、彼もいつの間にかその悪習に染まっていたらしく、しだいに粗暴になり、同僚をビールびんでなぐってスシ屋をくびになった。その後は通行人に暴行、恐喝を働くなどで少年院も含めて計四回服役している。  二度目の服役をすまして二五歳になった彼は、いったん実家にもどって両親と一緒にシジミ漁に従事した。しかし、都会の花やかな空気をすい、覚せい剤のために一層飽きっぽくなった彼に、水深四メートルの川底を鉄製のカゴでさらう骨の折れる作業は耐えられるはずがなかった。常にいらいらして容赦なく暴力をふるう彼にたまりかねた両親が、思いあぐねて長兄宅に身を寄せると、彼は早速シジミ舟を売り払って東京に出た。  もとの同僚などの話によると、Kにはスシ職人と呼べるほどの腕もなく、愛想が悪くしかも粗暴なので、ちょっと見ただけで採用を断られることが多かったが、Kはなぜかスシ職人としての就職にこだわった。これは彼がスシの本場、東京の築地のスシ屋に就職して、一流の職人を目ざしたプライドによるものであったろう。  筆者の患者さんにも「金の卵」から�シンナー・ボーイ�になった少年がいたのだが、なぜか彼は魚屋にこだわるので再就職口がなかなかみつからないのであった。最初に魚屋で働いていたとき、彼に目をかけてくれた主人から一人前の魚屋になって店を持つ夢を吹き込まれたためであろうが、大型スーパーの進出は、一心太助から続いた江戸前の魚屋の夢をとっくに奪ってしまっていたのである。  彼は魚の肉を包丁で切って自分の工夫で盛りつけるのが好きだと話していたが、Kも柳葉包丁でスシネタを切るこの商売が大好きだったのかもしれない。  四度目の出所をした彼は二ヵ月の間に七ヵ所もスシ屋を渡り歩き、一〇軒目に訪ねたスシ屋に就職を断られた直後に通り魔事件を起こしたのである。  精神鑑定の結果によると、犯行直前に深川の商店街を通る人々がお互いにしめしあわせて、ひそひそとKの悪口を言っていると感じる「敏感関係妄想」があったことがわかった。  ここで覚せい剤中毒について簡単に説明しておこう。わが国で「覚せい剤」と呼ばれるのは「メタ・アンフェタミン」という交感神経興奮剤である。戦時中のドイツで増産のための疲労回復剤として開発され、わが国でも軍需産業や特攻隊で「ヒロポン」の愛称で使用されたが、終戦後の混乱期に大流行して、その恐るべき後遺症が明らかになった。  最盛期には、その使用者は全国で二〇万人といわれたが、取締りの強化などで一時下火になったものの、昭和四五年頃から再び増えはじめ、現在では約四万人の中毒者がいると推定されている。  覚せい剤を静脈内に注射すると、とたんに疲労感や眠気がとれ、スーパーマンにでもなったような万能感が得られるが、薬効が切れるとひどい無気力状態になって、すぐに薬がほしくなる。  覚醒剤の後遺症でもっとも多いパターンは、Kのように周囲の者が自分のうわさをしたり、しめしあわせて何かたくらんでいるような被害感を生じるという分裂病によく似た症状である。ひどくなると、周囲を敵にすっかり囲まれたような被害妄想にとらわれるために、架空の敵に反撃を加えようと、Kのように無差別殺人事件を起こしてしまうのである。  さらに恐ろしいのは、しばらく薬をやめていても、ひさしぶりの注射や飲酒、ストレスなどによって、かつての錯乱状態が、まるで焼けぼっくいにメラメラと火がつくように再燃してくることである。これを「燃え上り現象」とか「フラッシュバック」と呼んでいるが、Kの場合もスシ屋の採用を断られてむしゃくしゃしたので、ひさしぶりにうった一本の注射が�呼び水�となった、燃え上り現象の典型なのである。  また、覚せい剤を連用していると怒りっぽくなり、どの仕事についても長続きしないという性格変化が起こる。Kは中学生まではおとなしい内気な性格だったというから、覚せい剤による性格変化が強かったのであろう。  労働省が中卒労働者に「金の卵」なる美辞麗句をあたえたのは、東京オリンピックに全国がわきたった昭和三九年のことであった。しかし、住みなれた故郷を離れて大都会のコンクリートジャングルに集団就職した彼らの中には、すでに始まっていた高学歴社会の到来によって、報われることの少ない仕事に追いやられていった者も少なくなかった。終戦後の混乱期の覚せい剤中毒者も、焼け跡の大都会に流れ込んできた土木作業員、運送業者、それと彼らを相手にする風俗営業者などに多かったといわれる。  昭和四五年ごろからの覚せい剤乱用のターゲットにされたのは、深夜営業の運送業者や飲食業者、風俗営業従事者であって、Kもその例外ではない。かかわりなき人々を無意味に殺傷したKの通り魔事件を掘り下げていくと、社会の底辺をむしばむ覚せい剤という現代の社会病理に突き当るのである。 2 欲望は小天使を襲う  通り魔的事件の中でも、被害者が天使のような少女ばかりだという事件になると、わが国にも欧米型の「快楽殺人」が登場したのではないかと思わせる無気味さがある。しかし、わが国にも大正時代に、すでに連続少女殺人魔も現れているので、欧米の少女殺しの現況と、わが国のルーツとをふり返ってみよう。  ベイビイネス  世間の汚れを知らぬ少女は、かわいいものだ。お人形のようにあどけない少女に保護本能をかき立てられるのが成熟した男性の正常な心理である。  広いオデコの下にチマチマと目鼻がついて、まるで子ウサギみたいな童顔を、児童心理学では「ベイビイネス」といって、成人の攻撃本能を抑制し、保護本能を刺激する大事な信号なのである。ちょっとした年なのにチョコレートの広告に出ていたさる男優も、うつむきかげんに前髪をパラリとたらす心憎い演出で、この「ベイビイネス」を強調してみせていた。男性の性的衝動は攻撃性の変型であるから、ベイビイネスの信号そのものである少女に性欲を抑制できぬロリコン・タイプの男性は、性欲の心理面の発達におくれや歪みがある証拠である。  昔から劣等感が強いために、成人の女性には相手にしてもらえず、幼女に性的ないたずらをしかけて騒がれ、つい殺してしまうという少女殺しのパターンがあった。  ちなみに、こうした性犯罪の被害者を年齢的に分類してみると、六歳未満の幼女が二一・〇パーセント、小学生が四四・九パーセントで、小学生以下の幼女が六割弱となる。中・高校生が二六・二パーセント、一八歳以上の成人女性は一七・九パーセントにしかすぎなかった。  欧米の児童殺し  エイズの本場アメリカは、ホモセクシャルの多い国であるだけに、あどけない少年が犠牲者になる事件が少なくない。  たとえば、カリフォルニア州では一九七二年から一九八〇年までの間に、ホモの相手をさせた四二人の少年たちを殺して、まるで使い捨ての空カンのように高速道路わきに投げ捨てた「フリー・ウェイ殺人鬼」W・ボーニンが出ているし、南部のヒューストン市には一九七〇年からのわずか三年間に、自分が借りているボート小屋に三一人の少年を連れこんで、まずシンナーで酔わせてから拷問、凌辱のあげく殺したD・A・コレルがいる。  精神分析理論によると、肛門愛的性格者にはサディズムが合併しやすいものであるが、この二人は知的障害の男や、感化されやすいティーン・エイジャーを共犯に引きこんで、このような大量殺人を可能にした共通性がある。しかし、変質的な少女殺しとなると、イギリスが本場のようである。  バーミンガム市には一九六五年からの二年間に、近郊の五歳から一〇歳までの少女を車に誘いこんで、いたずらした上で殺したR・モリスがいる。彼の自宅を捜査してみると、全裸の少女にいたずらしている彼の手がうつった写真が発見された。現在ならビデオ・テープにでもとったかもしれない。  モリスはバーミンガム付近の機械工場で職長を大過なく務める既婚者で、美男子で知能も高く、趣味の写真の腕前はプロ級であった。詩もかき、俳優のハンフリー・ボガートなどの物まねが得意だったという。  彼の最初の妻は子供のように小柄で弱々しい女であったが、彼がふだんは優しいのに、時々屈辱的な体位を強いて、さからえば人が変ったように興奮するのを嫌がって離婚してしまった。二度目の妻も一四歳年下で、彼の思い通りになる柔順な女であったという。  彼の幼女に対する異常な執着は、サド侯爵のような、女性に対する男性の絶対支配の欲求のあらわれであったと解釈されている。  ただ歪んだ快楽のためにのみ——沼地の殺人者  モリスにくらべると、ただ自分たちのセックスを高めるために子供たちを殺していった「沼地の殺人者」I・ブレディとM・ヒンドレーの二人組は、もっと歪んだ快楽殺人の典型である。  二人は自分たちをモデルにしたSMポルノ写真をセルフタイマーでとることに飽きると、一〇歳前後の少女や、時には少年を誘拐して、性的虐待を加えてその叫び声を録音テープにとり、殺した子供を埋めた墓の上でポーズをとって、後でその写真とサウンドとを二人で楽しむという変態性欲者であった。  変態性欲には、ホモやレズのような性対象倒錯(インバージョン)、小児愛(ペドフィリー)、サディズム、マゾヒズム、窃視《せつし》症や露出症などの性行為倒錯(パーバージョン)などがあるが、二人はこのいくつもが混合した重症の性行為倒錯者であった。  主犯のブレディはウェイトレスの私生児で、生まれるとすぐ里子に出された典型的な「|望まれぬ子供《アン・ウイシユド・チヤイルド》」であった。おまけにグラスゴー市のなかでも最も貧しいスラムで育ったため、幼児のときから動物をいじめ、小学生になると住居侵入と窃盗で何度も保護観察処分を受けた典型的な非行児であった。  彼は一八歳のときに窃盗でつかまって二年間、少年院に収容されたが、そこの図書館で偶然読んだヒットラーの『わが闘争』が彼の加虐性を開花させることになったといわれる。そして少年院の図書館で読みふけった『拷問の歴史』、『ニュールンベルグ日誌』、『性的犯罪と犯罪者』、『変態性欲』、『鞭のキス』などの読書リストは、まさに後年の犯行を予告するものであった。  一方、共犯のヒンドレーは平均的な労働者階級の家庭で育って、事務員をしている目立たぬおとなしい娘であった。しかし、一九歳のときブレディにめぐり会うと、あっという間に意気投合して同棲した。まるで磁石のプラスとマイナスが引かれ合うような運命的な出会いだったといえよう。 「亭主の好きな赤えぼし」というが、彼女はすっかりブレディのサディズムに感化されて、「ベルゼンの雌けだもの」とあだ名されたナチス強制収容所のサディスティックな女看守をまねて、髪をブロンドに染め、皮ジャンパーにブーツをはき、射撃のレッスンを受け、殺人チームの運転手を務めていたが、やがて殺人ゲームでもブレディをリードするまでになっていった。  彼らの殺人ゲームが一体、いつから始まって何人殺したかは確定していない。彼らの行動半径内で過去四年間に行方不明となった八人の子供について調査され、五人が情況証拠濃厚であったが、有罪となったのは死体が発見された三件についてだけであった。  連続少女殺しのはしり  このように欧米の幼女殺しは、サディズムが主体となった変態性欲が中心であるが、わが国の少女殺しは、劣等感のために成人の女性には相手にされないので、抵抗力のない幼女を狙う「代償性小児愛」が多かったようである。  大正一五年、「七歳にして女を知り、九一人の少女を犯し、数十人の少女を殺した稀代の残虐性淫楽犯」といわれた吹上佐太郎は、わが国の大量少女殺人魔のはしりである。  しかし、彼が実際に殺したのは一一歳以上の少女六人で、ハイティーンもまじっており、他の二一人の少女は犯しただけだから、欧米の少女殺しのように殺すこと自体が目的だったわけではない。吹上は自分の犯行を世間に公表することに熱心で、三〇〇頁余りの上申書と三〇〇〇頁の自伝とを書き、少女殺し六件の全部についての公判を要求したが、起訴になったのは三件だけであった。  吹上佐太郎は京都西陣の貧しい家庭の長男に生れ、学校にも行けず空き腹をかかえ、次々と生れてくる弟妹たちを背負わされる子守の日々に明け暮れた。  まだ九歳のときから織屋や商店、料理屋などに奉公に出されたが、一二歳のときには使い込みを働いて感化院に入れられ、一三歳のときには盛り場で、たかりやスリを働くようになっていた。  この頃の奉公先は、狭い所に男女がザコ寝するのが普通であったから、この奉公時代に年上の女から性の手ほどきを受けたらしい。感化院を逃げ出す途中で声をかけられた四〇歳すぎの寡婦の家に住み込んで性のサービスを強制させられたりしたが、このころまでの彼のセックスは、母親のような年上の女からの受動的なもので、いわば「少年姦」の被害者であったともいえるのである。  後年の彼の「少女姦」は、自分の受けたいまわしい「少年姦」の裏返しとして、圧倒的に自分が支配できる少女を性の対象に選ぶようになったものであろう。  代償性少女愛  この頃から吹上は、年上の女と少女との間をピンポン球のように遍歴するようになったが、一七歳のときに、若い衆好きで有名な五〇歳過ぎの女侠客のツバメにおさまった。この色と欲すべてに圧倒的な女パトロンの一年におよぶ支配は、彼の代償的な少女姦を決定づけたようで、はじめはこの女侠客の一一歳になる娘と、一六歳の娘とにしきりにいたずらを仕かけていたが、段々その友達にまで見さかいなく手を出すようになった。  そして追出された吹上が、金が切れて女ひでりの状態で金閣寺あたりをぶらついているときに、バッタリ顔見知りの近所の一二歳の少女に会って、「イナゴとりに行こう」と山に連れこんでいたずらをした。  長い間、初老に近い女の貪欲な性の欲求にうっ屈しきっていた彼は、か弱い少女の赤い下着を見ると、「心臓がたかなり、舌の根がかわき、手足がふるえ出し、頭の中が嵐に吹きまくられている状態になって、なにもわからなくなる」という異常な興奮状態になった。やっと思いをとげてみると傷つき血が出ているので、後難を恐れるあまり夢中で少女をしめ殺してしまったのが彼の少女殺しの始まりである。  一八歳の未成年であったため罪一等を減ぜられて無期となり、三四歳のとき恩赦によって出獄したが、それからの吹上は土木作業員などをして、名古屋、東北、関東各地をわたり歩き、行く先々で少女ばかりを犯し、ののしられたり、抵抗されたりすると、カッとなってしめ殺したものである。こうしてみると、吹上の連続少女殺しの犯行は、やはり代償性少女愛の域を出るものではなかったようである。  彼の膨大な自白書をみてみると、「私の見る夢は姦淫している夢の他はありません。その他の夢はいつも空を飛んでいるか、屋根をつたわって行く夢にかぎられています」とある。フロイトの夢判断によると、飛翔夢も危険な夢も、典型的な性夢とされているから、「エロトメニア神州麿」と自ら名乗った彼の性の欲求は人一倍強かったことがわかる。  また、「夢の中の姦淫の状が現に移ったような気のしたことが沢山あります」と自分の少女姦の犯行を、自分が夢の中で体験したシーンをみるような現実感喪失のうちに行ったと述べているくだりは興味がある。というのは、彼の犯行の本質は、人間らしい感情が欠如しているためという従来の犯罪精神医学の常識で説明するよりも、犯行時の現実感が喪失しているために可能であったと考える方がより納得できるからである。  しかし最近になって、わが国でも殺すこと自体が目的のような欧米型の少年少女殺しが増えてきているのは不気味である。これも、殺しやレイプの劇画やビデオまで青少年が自由に入手できる現状に関係があるのではなかろうか。 3 少年非行は世相の鏡 「中年や 遠くみのれる 夜の桃」  筆者もいつの間にか、この西東三鬼の句のわかる年齢になったが、昔は血気さかんな青少年は、隣り村になにかうまそうな木の実がなっているらしいという不確かな噂だけで、二山でも三山でも越えて冒険におもむいたものである。  いわば、おとぎ話の�桃太郎の遠征�であって、そこには他人の所有にかかわる物を盗むという罪の意識などはさらさらなかった。青少年が成人になるために一度は通過しなければならない試練、つまり「イニシエイションの儀式」に相当するものであったろうか。  筆者は中学生のときに福岡県の山村に疎開して、二〇キロメートルの山道を自転車通学していたことがあるのだが、仲間の中に道ばたのスモモの実などを失敬するものがいたらしい。腹を立てた所有者が村の駐在の巡査にかけ合ったが、とりあってもらえなかったらしく、今度は校長のところにねじこんだ。  校長は皆を集めて、「そんな不心得者は、本校の生徒にはいないと信じる」と怖い顔で訓示すると、さっさと所有者を引きとらせてしまった。  戦時中から戦後にかけての農村地区の青少年の悪さといえば、こうしたスイカ泥棒のたぐいから、「毒流し」で魚をとる程度で、駐在の巡査も目星をつけた青年をこっそり呼んで、油を絞ってはにぎりつぶすのであった。悪さをする方もその程度のほどをよく心得ていたようで、よそ者のいない村には戸締りなどして寝る家は一軒もない平和な時代であった。  社会心理学者によると、戦前の非行少年は、大都市の底辺にある貧困家庭の出身者や知的障害などのため、充分な教育や職業訓練の受けられない者に限定されていて、彼らは町の不良グループから、やがて「バクト・テキヤ型非行集団」へと吸収されていく伝統的なパターンをとっていたという。  いわば戦前の伝統社会においては、社会の健全層における青少年の逸脱は、警察のお目こぼし程度の「悪さ」にとどまっていて、将来の犯罪予備軍の非行とはその質が、はっきり異なっていたといえるであろう。  社会が豊かになると  ところで、青少年を非行から防ぐものはなんであろうか?  一九一四年にゴダートがアメリカの若年犯罪者施設で知能テストを行ったところ、平均六〇パーセントもの知的障害の少年がいたという。彼はこの成績から、誤った犯罪者・知的障害者説を提唱したのだが、翌一九一五年のヒーリーの調査では、この数値は九・四パーセントに過ぎなかった。この大きな違いは、フランスで開発されたばかりの知能テストである「ビネー・シモン法」の標準化がまだ不備であり、また専門の知能テスト判定員も少なかったためであるが、ゴダートと同じやり方で、ある軍隊を測定したところ、軍人の何と四割が知的障害者と判定されたという話もある。  その後、サザーランドが一九一〇年から一九二八年までのこの種の調査を比較したところ、調査の年代が下がるにつれて、少年院収容者の中で知的障害者の少年を含む率が低下することを発見した。  この事実は、先進国アメリカにおいても、ようやくこの頃から知的障害者に対する教育や職業訓練、福祉対策が進んできたことを物語る数値であり、社会環境を整備すれば、知的障害者による犯罪は低下するという欧米の環境論者に大きな勇気をあたえるものであった。  ウッドワードは一九三一年から一九五〇年までのアメリカの調査を検討して、この知的障害者による犯罪率は一三・〇パーセントを超えないと結論しているので、大体このあたりが戦前の欧米先進国の平均的水準であったと考えてよいだろう。  ところがわが国の大正一二年から昭和一四年までの戦前期には、当時「感化院」と呼ばれていた若年収容者の施設のなかには三割から四割の知的障害者が含まれていたから、欧米先進国にくらべて、戦前の日本がいかに貧しく、かつ知的障害者への教育福祉対策が遅れていたかがわかるのである。  大戦による社会変動は先述の非行の伝統的パターンをもゆさぶったが、昭和二〇年から三〇年までの全国少年院の収容者中には、大略二割以上の知的障害者が含まれていたから、わが国とアメリカとではまだ格差が大きかったことになる。  高度経済成長の始まりとともに、第一次産業から第二次産業への急激なシフトによって、従来の農村型共同社会が崩壊して、都市化、工業社会化が始まっていく。少年院の知的障害者の収容率でみると、高度成長の始まった昭和三五年になって一二・二パーセントと、やっと戦前の欧米先進国のレベルに達したのである。  ところが、その五年後の昭和四〇年には、その比率は九・二パーセントに低下し、昭和五五年には、わずか一・四パーセントと、一般人口中に知的障害者の含まれる率の二〜四パーセントを下まわる数値となった。  これは高度経済成長の恩恵によって知的障害者への教育や職業訓練、福祉制度が整備されてきたことをストレートに反映する数値であって、島田事件の赤堀さんも、この恩恵に浴していたら非行歴もつかず、したがって、えん罪を受けることもなかったであろう。  最近は知的障害者による犯罪は少なく、昭和五六年から六〇年までの精神障害者が起こした犯罪累計のわずか四・一パーセントにすぎない。これらの数値は、少なくとも知的障害者に関しては、犯罪は社会化が充分に行われなかったために起こるとする環境論者の主張をよく証明するデータである。  「遊び型非行」の登場  しかし豊かな社会の到来は、一方では「遊び型非行」という新しいパターンの犯罪を青少年にもたらしたのである。  若かりしころのマーロン・ブランドがオートバイを連ねて見知らぬ町を荒らし回る戦後育ちのアメリカの若者を演じた映画があったが、暴走族も、清涼飲料水のボトルとともにわが国に上陸してきた。わが国では始め「カミナリ族」と呼ばれたが、彼らの中にはグループを組んで、いとも気軽に恐喝や万引、窃盗、乱交などの新しい「遊び型非行」を行う者も現れ、また若年者の薬物乱用も花ざかりとなった。  若年者の薬物乱用のはしりは、昭和三六年の新聞が奇しくも命名したように、まさに「睡眠剤遊び」であった。「睡眠剤遊び」というゲームは昭和三五年ごろから、東京新宿の盛り場などでハイミナールで泥酔状態になった女子中学生などが発見され、はじめは自殺未遂として扱われていた。彼女らは激しくなり始めた進学競争からの落ちこぼれであった。  しかしマスコミが、「睡眠剤遊び」としてこの遊び型非行を報道してからは、かえってこの新しいゲームを思春期の少女らに知らせる結果になり、たちまち全国の盛り場にハイミナールに酔った少女たちを出現させる結果になった。  薬局での睡眠剤の販売が規制されると、彼らは規制をのがれて「鎮痛剤遊び」から「筋肉ちかん剤」から、はては劇薬である目薬まで紅茶にたらして飲む「目薬遊び」までと猫の目のように乱用薬物を変えたのである。  そして昭和四五年に、彼らは幻覚剤である「シンナー遊び」という絶好のツールを発見した。このシンナー遊びはフーテン族のファッションにのって全国に拡大し、最盛期には全国の乱用者は二万人以上に達した。  わが国のシンナー遊びの流行は、アメリカの大学のキャンパスに一九七〇年代に流行したマリファナ(大麻)流行の基盤となった反体制のカウンター・カルチャーに対応するものであった。その流行に抗しかねたニクソン大統領のとった大麻解禁策は、麻薬許容的な社会風潮をつくり、深刻な麻薬汚染となって現在に続いている。  しかし、昭和元禄とうたわれた頃にシンナー用のポリ袋を手に全国の盛り場を占領したわが国のフーテン族たちは、太平の世に甘えた若者のファッションにすぎず、また繁栄に酔いしれた大人社会の反映にしかすぎなかった。 「歌は世につれ、世は歌につれ」というが、まさに青少年の非行こそは世相の鏡、大人社会の歪みの反映なのである。そして最近の「コンクリート詰め女子高生殺人事件」のような凶悪犯罪への変身ぶりは、経済大国の繁栄におごった物質中心の享楽主義、伝統的なモラルや権威の崩壊、コミュニティや家族の連帯の解体、偏差値に狂奔する教育の荒廃などの大人社会の複合汚染が、これからの社会をになう青少年の心の上に、もはや回復不能なまでに進行してきていることを、我々に警告するものではあるまいか。    まとめ  これまでの章で多くの事件の心理を分析したが、その人がなぜそんな犯罪を起こしたかという本当の理由は、他人はおろかその人自身にもよくわからないのではあるまいか。  たとえば、最終章でとり上げた「新宿西口バス放火事件」の犯人は、なぜ犯行の舞台を新宿西口広場に選んだのであろうか。なぜ新宿西口なのか? どうしても新宿西口でなくてはならなかったのか? それとも偶然に新宿西口だったのに過ぎないのか?  筆者が初めて上京した昭和三一年ごろの新宿西口は、まだ闇市の雰囲気を濃厚にのこしたうらぶれたところであった。筆者はその西口を毎日通って自宅と大学の研究室とを往復していたが、東京オリンピックの終った昭和四〇年に国立久里浜病院に出向してからは、自宅が変わったこともあって、新宿西口は年に数回通る程度の縁のないところになった。  しかし、その間の新宿西口の変貌は目ざましく、さながら高度成長にわく日本の縮図の感があった。  さらに、再開発計画による高層ビル街の出現は西口の雰囲気をすっかり変えた。西口のデパートは最上級品を扱うようになり、行き交う人々もブランド商品に身をかためてリッチになって、西口はかつてのフーテン族などは寄りつきにくい場所に変わっていった。  本書の執筆をほぼ終るころに、大学の研究室の新年会がこの高層ビル街のホテルで催されることになり、筆者も久しぶりで西口広場に降り立つ機会を持った。地下道が切れて見える夜空に、満天の星のような窓の灯を輝かせて伸びる超高層ビルの偉容は、まるで宝石をちりばめた豪華なブレスレットのように美しく、ニューヨークのマンハッタンにでもいるような錯覚をあたえた。いまや、世界一豊かになった日本の象徴がこの新宿西口にあるのである。  筆者はふと、同郷の出身者である犯人のYがこの花やかな西口で事件を起こしたのは、みじめな自分の境遇と、このあまりにも花やかな西口の情況との落差が原因だったのではないかと考えついた。かつての闇市的な西口、フーテン族のゴロゴロしていた頃の西口であったら、彼も決してあんな事件は起こさなかったであろう。  それに、彼はトビ職であったから、ひょっとしたら西口広場や高層ビル街の建設に参加した可能性さえあるのである。炎天下に目のくらむような高い足場にのぼって実際に高層ビルをつくった人と、そのビルの豪華な宴会場で食事をする人々とはまったくかけ離れた存在であって、リッチな人々には、Yのようなアウトサイダーの気持は、とうていわからないのかもしれない。  しかし、筆者のこのとり澄ました考えは、彼に「あっちに行け」と言った人の考えと、さして変わりないのではあるまいか。筆者の心の中のどこかに、自分はどうやら人生の�勝ち組�の方に属していて、犯罪を犯すような人間とはまったく違う人間であるというおごりがあるから、とうていわからないであろう、つまり、わからなくてもよいなどという表現になったのであろう。  筆者はふと、数年前まで郷里の高校の同窓会がこの高層ビル街にある、さる大企業の社員用クラブで開かれたのを思い出した。筆者の年になると同級生は数年前から皆、子会社に移っている。しかし、第二の人生に移らねばならぬ定年制度とは、まだ能力も体力も充分にあるのに不条理ではないか。いや、その第二の人生である職場でさえ、あけ渡さねばならぬ日は確実にやってくる。たとえ社長や専務に昇りつめて現役でおられたとしても、いったん健康を失えば、たちまちにその地位を失ってしまう。これもまた不条理ではないか。  筆者は一〇年前に肺ガンと誤診されて手術を受けたことがあるが、自分はまだ若く、健康にも人一倍気をつけてきたのに、どうして死なねばならぬのかとわり切れなかった。そのときの筆者の心理は、さながら一年後には刑を執行されることが決まっている死刑囚の心理であった。医局の同僚はいつまでも生きられる筆者とはまったく違った人間であり、彼らから憐れみの目で見られているような疎外感、被害者意識すら味わったのである。これはYが西口広場を行ききする幸福そうな人々に抱いたのとまったく同じ心理状態ではなかったのか。  また、まだ充分に若くて、健康なサラリーマンであってもどうであろうか。筆者は幸いにも上京が早かったので、郊外に小さな家が持てた。しかし地価狂乱後の現在では、サラリーマンでは都心から二時間以内の距離に一戸建ての家を持つことは絶望的ですらある。首都圏に家が持てた者と、持てない者との違いは、それが早く上京しただけ、あるいは早く生れただけの理由であるのは、若い人にとって不条理の極みであろう。  日本は豊かになったとはいうが、現実は持てる者と持たざる者との格差はますますひろがり、社会の矛盾は増すばかりである。  誰しもが西口の横断歩道の上から、下を行く通行人に向かって思わず大声で呪いの言葉を絶叫したり、あるいは何か異常なことでもしでかしたくなる「魔の一瞬」がまったく訪れないとはいい切れないであろう。欲望うずまく現代の大衆化社会では、犯罪を犯す人は、我々とまったく無縁の衆生ではありえないのである。    あとがき  この本は、筆者が大学の法学部で犯罪心理学の講義に使っているノートをもとにして、一般の読者の読みものに書き直してみたものである。  犯罪心理学というなじみにくい分野を、少しでもわかりやすく、また興味をもって読んでいただけるようにと、学問の体系にはこだわらず事例中心に書いてみた。  犯罪学の諸先生の学説の一部を、一般の読者にわかりやすいようにと、筆者の独断でアレンジしていることもお断りしておかねばならない。もっとくわしいオリジナルの学説をお知りになりたい方は、巻末の参考図書をお読みいただきたい。  また、筆者が精神科医になったころは素因重視のドイツ精神医学の影響が強かったので、生物学的な物の見方が本書でもやや勝ちすぎて、文科出身の方々には御不満な点もあるかもしれない。しかし、人間の心や行動も身体を基本にして働くものであるから、生物学的な側面は決してないがしろにはできないのである。  最近は、事件を起こした人のノンフィクションに見るべきものが出ているが、本来、犯罪を起こした人の心は、一冊をついやしても書ききれない背景をもつものであろう。この本では、そうした事件の系譜の裏に、なにか共通の心理が見出せないかという企図で、わり切って多くの事例の分析を試みてみた。もちろん、その考察が皮相にすぎるという御指摘は甘んじてお受けするつもりである。  いま、筆をおくときになって、改めてこの本にとり上げた犯人像を読みかえしてみると、彼らが皆恵まれない星の下に生まれ育った人たちばかりだったという感想がある。彼らの狂った軌跡をたどるとき、業ともいうべき人間の弱さが痛感される。かえりみて他山の石にできれば、彼らも、もって瞑することができるのではあるまいか。  最後に、いろいろアドバイスをいただいた編集の田辺瑞夫氏に感謝の意を表させていただく。   参考図書 『読本・犯罪の昭和史』 作品社 一九八四年 『事件・犯罪大事典』 東京法経学院出版 一九八六年 『現代の犯罪』間庭充幸著 新潮選書 一九八六年 『死刑囚の記録』加賀乙彦著 中公新書 一九八七年 『犯罪心理学入門』福島章著 中公新書 一九八五年 『犯罪の心理』樋口幸吉著 大日本図書 一九八五年 『人はなぜ犯罪を面白がるのか』小田晋著 はまの出版 一九八八年 『犯罪紳士録』小沢信男著 講談社文庫 一九八四年 『冤罪の恐怖』青地晨著 社会思想社 一九八六年 『冤罪』後藤昌次郎著 岩波新書 一九八七年 『現代殺人百科』コリン・ウイルソン著 青土社 一九八八年 『犯罪学』橋本鍵一他著 新曜社 一九八四年 『日本の精神鑑定』内村祐之・吉益脩夫監修 みすず書房 一九八六年 ●中村希明(なかむら・まれあき) 一九三二年、福岡県生まれ。慶應義塾大学大学院医学研究科修了。専攻は精神医学。医学博士。国立久里浜病院に勤務した後、川崎市立精神保健センター所長、川崎市立井田病院精神科部長、明治大学講師を歴任。著書に『怪談の科学』『犯罪の心理学』(本書)『酒飲みの心理学』『薬物依存』『現代の犯罪心理』(以上、講談社ブルーバックス)の他、『アルコール症治療読本』(星和書店)などがある。   * 本書は、一九九〇年三月、講談社ブルーバックスB‐816として刊行されました。 犯罪《はんざい》の心理学《しんりがく》 なぜ、こんな事件《じけん》が起《お》こるのか