明治文学史 中村光夫 -------------------------------------------------------------------------------- 筑摩eブックス 〈お断り〉 本作品を電子化するにあたり一部の漢字および記号類が簡略化されて表現されている場合があります。 今日の人権意識に照らして不当、不適切と思われる語句や表現については、作品の時代背景と価値とにかんがみ、そのままにしました。 〈ご注意〉 本作品の利用、閲覧は購入者個人、あるいは家庭内その他これに準ずる範囲内に限って認められています。 また本作品の全部または一部を無断で複製(コピー)、転載、配信、送信(ホームページなどへの掲載を含む)を行うこと、ならびに改竄、改変を加えることは著作権法その他の関連法、および国際条約で禁止されています。 これらに違反すると犯罪行為として処罰の対象になります。 目次 序 第一章 明治初期 第一節 戯作 第二節 啓蒙思想 第三節 漢学者の戯文 第四節 政治小説 第五節 翻訳小説 第二章 明治中期 第一節 逍遙、二葉亭 第二節 紅葉、露伴 第三節 『しがらみ草紙』 第四節 評論の時代 第五節 明治二十年代の意味 第六節 明治三十年代の特質 第七節 『文学界』 第八節 小説の新風 第九節 小説の拡大 第三章 明治末期 第一節 「自然」の観念の変遷 第二節 島崎藤村 第三節 田山花袋 第四節 岩野鳴 第五節 徳田秋声 第六節 夏目漱石 第七節 森鴎外 第八節 白鳥、青果、秋江 第九節 荷風、潤一郎 註 後記 明治文学史 序  明治文学をふりかえるとき、僕等はいつもある不思議な錯覚におち入ります。これは長い期間のあいだに自然とできあがったもので、今では大多数の人々にあたりまえのこととして、うけ入れられています。  明治十年、あるいは二十年が、同じ年を西暦で現わした一八七七年、あるいは八七年にくらべて、ひどく遠い過去に感じられることですが、この一見ささいな喰い違いに、明治時代の大きな特質がかくれているように思われます。  明治という時代は、一口に言えば、西洋の影響で、我国の社会全体が大きく変った時代であり、明治文学の歴史も、他の文化のあらゆる分野と同様に、西洋文学の影響を中心にして展開します。  ところが十九世紀後半の西洋文学を、これと同じころの明治文学に比較して見ると、前者のなかには、まだ僕等の日常の読書の範囲に這入るものが多いのに、後者には時代を隔てた遺物という感じが強いのです。  明治維新は一八六八年にあたりますが、この翌年の六九年にはフロオベエルが「感情教育」を発表しています。「ボヴァリイ夫人」の刊行はさらにそれから十余年前の一八五七年で、我国の安政四年にあたります。ちょうどペリーが浦賀にきてから五年後です。この年にボオドレエルが「悪の華」を出版したのですが、このころ僕等の先祖は髷《まげ》をゆって刀をさしていたのです。  二葉亭が「浮雲」を完成できずに終ったのは一八八九年であり、鴎外の「舞姫」は、一八九〇年の発表ですが、このころはもう世紀末の風潮のなかから、二十世紀が頭をもたげてきた時代で、アナトオル・フランスは「タイス」を、ポール・ブールジェは「弟子」を書き、ジイドやヴァレリーの仕事もはじまりかけていました。マラルメやヴェルレーヌもその重要な仕事を完成していました。  イギリスでも、ワイルド、ハーディ、メレディスなどの成熟期はこのころであり、ドイツではニーチェがすでに発狂し、ハウプトマンが処女作を発表していました。  トルストイが「戦争と平和」を書いたのは、明治維新前後であり、「アンナ・カレーニナ」の完成は、西南戦争のころにあたるというのは、ドストエフスキーの最後の小説「カラマーゾフ兄弟」が明治十三年(一八八〇年)に書きあげられたというのと同様、僕等の頭のなかの年代記に衝撃をあたえずにおきません。(ついでに云うと、ドストエフスキーが「貧しき人々」を発表したのは、弘化三年〔一八四六年〕のことであり、シベリヤに流されたのは、嘉永三年〔一八五〇年〕、「罪と罰」を書きあげたのは、慶応二年〔一八六六年〕です。)  外国の過去の方が、本来なら、ずっと親しい筈な自国のより近く感じられるのは相手の国の歴史にたいする無知によることもあります。しかしこの場合はそれよりも僕等の経た過去の文化の特異な性格によるものと思われます。  現代のフランス人に二つの大戦をへだてた十九世紀がどんなに異質の過去に見えようと、ひと通りの教育をおえた者なら、ピエル・ロチやモウパッサンの文章を読んで意味をとることは誰でも問題なくできます。  我国では「舞姫」は云うまでもなく、それと同時代の紅葉、露伴の作品、あるいは時代から云えばさらに新しい一葉の小説など、高校を卒えた人にでも、「勉強」の対象としてでなければ読めない古典になっています。  こういう激しい推移を見せたのは、たんに小説の表現形式や文体だけでなく、文学の概念そのもの、あるいは社会の風俗、人々の思想までが、おそらく他の国に例をみないはげしい変遷を経ているので、明治文化の性格を捕えるには、まずこの変化の姿をよく見究めねばならないのです。  世代という言葉が一時さかんに使われました。これはゼネレーションという英語の訳ですが、ゼネレーションというのは、元来が子供を生むという意味から転じて来た言葉で、世代という観念も親の代と子の代というのが基本になっています。  人が生れてから成人するまでを、ほぼ三十年、成人してからの活動の期間をやはり三十年とし、これを親子の交替に要する年数とみるのです。  一世代というのは、ヨーロッパでは三十年のことで、チボオデが十九世紀のフランス文学を世代別に論述したときも、これを一七八九年の世代から一九一四年の世代まで、つまり大革命の発端から第一次大戦の勃発まで百二十五年間を、ほぼ三十年ずつにわけています。  それが我国に這入ると、世代という考えはほぼ十年をひと区切りにするようになり、甚だしいのは、戦前派、戦中派、戦後派などという風に、五六年ごとに区切りを設けようという動きもあらわれました。  慌《あわた》だしいのは、こういう議論をする人の頭の働きより、むしろ現実の時代の推移なのです。五つも齢がちがえば、もう話は通じないという顔をすることの当否は別問題として、そこにはたしかに思想や感情の色調の違いがあることは事実なのです。  これがたんに戦争や敗戦というような特殊な環境にもとづく例外でないことは、明治以来の文学の流れも、ほぼ十年ごとに大きな屈曲にさしかかっているのでもわかります。  我国では十年が一世代の変化に匹敵する、ということは、比喩的に云えば、時間の流れが、外国の三倍の早さですぎ去ることです。  変化がこんな風に早すぎるというのは、一方から考えると、それが必ず表面的に止まるのを意味します。そういう風にうけとめない限り、人間がそんな変化に堪えられるものではないからです。我々の子供も、実際に親に代るまでに育つには、三十年かかるのです。  慌だしすぎる変化は、したがって、本当には変っていないということにもなるので、我国の近代文学の実質は、それに携《たずさわ》る人が意識するほどは新しいものではないのです。徳川時代からの伝統、古いとして捨てられたさまざまな外国作家の思想などが、おのおの新しさを自負した「世代」の作家たちのなかに生きています。  文学が——すべての文化と同じように——過去に支えられて生きる以上、伝統や外国の古い時代から養分をとり影響をうけるのは当然であり、必要でもあります。  しかし我国ではそれが多くの場合は意識されなかったため、知らぬ間に作家にとりついた過去の亡霊は、彼が意識的には「新しさ」を求めてもがいているだけに、彼の文学を底の浅いものにしています。  これは他の面から見ると、彼等の「新しさ」はたんなる粧《よそお》いであり外国から僕等がたえずうけてきた刺戟や影響は、日まぐるしいだけに表面的に止まったということにもなります。  バイロンやディケンスの影響がそうであったように、サルトルやカミュも通り一遍にうけとられて、やがて飽きられようとしているのは、僕等が眼前に見る通りです。  明治時代の文学が、僕等にとってすでに古典であるのは、それが僕等の生きている現実と切りはなされ、完成された文学作品であることを意味しません。それは一見したところ、僕等の生活から切りはなされ、そのために、生命の枯渇した作品にさえ見えます。  しかし現在の僕等の生活が、あらゆる面において明治時代をうけつぎ、その性格に影響されているように、明治文学は、そのあらゆる欠点を含めて、僕等の文学の骨格を形造っています。その特色をはっきり知っておくことは、今後の進路を考える上にも大切なのです。  「今の時代は物質的の革命によりて、その精神を奪はれつゝあるなり。その革命は内部に於て相容れざる分子の撞突より来りしにあらず。外部の刺戟に動かされて来りしものなり。革命にあらず、移動なり。人心自《おのづか》ら持重するところある能《あた》はず、知らず識らずこの移動の激浪に投じて、自《みづ》から殺ろさゞるもの稀なり。……その事業その社交、その会話その言語、悉《ことごと》く移動の時代を証せざるものなし、斯《かく》の如くにして国民の精神は能《よ》くその発露者なる詩人を通じて、文学の上にあらはれ出でんや。」(「漫罵」)と北村透谷は明治二十六年(一八九三年)に云い、独歩はそれから四年おくれ次のように云います。  「新日本を建《こん》立《りふ》するに当りて、全く欠乏せる者は詩歌なりとす。開国以来海外の新思想は潮《うしほ》の如く浸入し来り、我国文明の性質著しく変化を被《かうむ》りしと雖《いへど》も、遂に一詩歌の現はれて此際の情想を詠じ以て、吾人の記憶に存せしめたる者なし。……嗚《あ》呼《ゝ》詩歌なき国民は必ず窒塞す。其血は腐り、其涙は濁らん。」(「独歩吟」序)  彼が希望を托した「新体詩」が国民の「情想を詠ず」ることに失敗した現在、僕等の血が腐り、涙が濁っているかどうかは別としても透谷、独歩の意味したような「詩人」が、これまでの我国に出現しなかったことはたしかのようです。  明治文学史上、最初の芸術的意図をもって書かれた小説が「当世書生気質」であるのは、いろいろな意味で興味深いことです。  これが今日から見て、文学作品といえるかどうかはさておき、少なくも近代の文学者としての自覚にもとづいて書かれた小説であることはたしかであり、それゆえに明治の近代小説はこれから始まるとされるのですが、そこで材料にされているのが「書生」であるという事実は、文学の「改良」を志した逍遙の意図とは別に、大きな意味を持つと思われます。  我国の近代小説は、このころから現代まで知識階級の青年、つまり学生を主要な読者として発展してきました。  知識階級によって書かれ、知識階級によって読まれ、知識階級の思想や感情を主題とするという、近代文学の性格は、必ずしも我国だけのことではないかも知れません。しかし我国の知識階級が経た独特の形成の過程と、他に類のない内面生活が、僕等の文学を、まったく独自なものにしています。  明治維新が下級武士の手で行われた革命であることは、今日では通説ですが、後世が志士と呼んだ革命の主動者たちは、当時の権力者であった大名や門閥を誇る上士たちにくらべれば、新しい知識を身につけた青年たちであり、当時の言葉で云えば、「書生」であったのです。  大隈重信は、「昔日譚」で、  「維新改革、王政復古の偉業は、必ず我中等以下の国民たる士族の手を待たざるを得ざりしなり」といったあとで、その「士族」を説明して次のように云います。  「維新改革の原動力なりし士族とは果して如何なるものなりや……単に士族と言へば其数は至て多く、尽《ことごと》く維新改革の原動力を以て目す可からず。……自ら権力を振ひ藩政に当り、以て藩政を処理する重役なるか、将《は》た其下に属して其頤《い》使《し》に任じ下情に通達すると称する吏員なるか……否々、彼にもあらず、是にてもあらず、其天下に率先して改革の声を挙げ、始終其声を続けて以て雲《うん》霧《む》を一掃するに至りしものは、皆一介の書生なりし。」  そして彼は、この書生を支那学(所謂儒道)派、国学派、神道派の三つに分けていますが、ここに洋学派が這入っていないのは、面白いことで、維新の改革がまず復古運動の強い色彩をおびて行われた消息がそこに現われています。  福沢諭吉は、維新当時は、「今度の明治政府は古風一点張りの攘夷政府と思ひ込んで」いたといいます。  しかし尊王攘夷を標榜して政権を得た書生たちが、すぐ開国の方針をとったのは、必ずしも外国の圧力に屈したためだけではありません。  彼等の多くは攘夷の実行のためにも、西洋の砲術を学ぶ必要をみとめて、これを実行した人々であり、外国艦隊との間にいくどか行われた小規模な実戦は、「斥攘の実功を挙げ」るために「先づ彼の長所を取り、理化学を修め、大砲を鋳《ちう》造《ざう》し、堅艦を製作する」のが、始めに考えたほど容易な仕事ではないことを証明するに充分でした。  西洋と日本とでは社会の仕組みや、考えかたの根本にちがいがあり、武備や兵器の優秀性はその一面にすぎないことが明かになるにつれ、その「文明」にたいして、我国の現状が未開あるいは野蛮と映ったのは、当然の論理であり、攘夷の熱情が、彼の「文明」を学ぼうとする熱意から「開国」に転ずるのは、自然の成行でした。  「新しく外人に親《しん》炙《しや》し、地理、制度、歴史及び其他の事物に関する種々の書籍を輸入し、是を読むに及んで、始めて彼国にも君臣あり、政府あり、其制度、法律、秩然として備はり、其宗教文物まで亦取るに足るものあるを覚《さと》れり」と大隈重信は云います。  福沢諭吉はやはり幕末に外遊して、西洋諸国の政治制度と経済の組織に驚異の念を抱いて、彼我の文化を比較し、「東洋になきものは、有形において数理学と、無形において独立心と、この二点である」という結論を得ていますが、この二つの「文明の要素」を我国に移植するには、封建制度の打破が必然の前提でした。  維新の変革が下級武士の手で遂行されながら、結果において、資本主義の社会を生む近代革命の役割を果したのは、攘夷論者を開国に転じさせたと同じ力が働いていたためと思われます。  どんな社会的変革も国内の条件が熟さねば、行われる筈がない以上、明治維新をたんに外国の影響によって説明するのは危険でしょう。しかしその後の我国の進路を定める上に、西洋諸国が学ぶべき範例として強い感化を及ぼしたのは事実なのです。  「富国強兵、最大多数の最大幸福の一段に至れば、東洋国は西洋国の下にをらなければならぬ。」と福沢は云います。「富国強兵」と「最大多数の最大幸福」とが、ほとんど同じ意味の言葉に使われたのは、当時の時代相の反映です。  二百年間の孤立のあとで、我国が始めて世界に眼をひらいたときが、あたかも十九世紀の後半であり、帝国主義の時代に入った西欧諸国が「列強」として世界の中心をなしていたことは、明治の日本に大きな影響を及ぼさずにおかなかったのです。  当時の指導者の大部分は、おそらく諭吉の云うように、「文明」に改宗したのちも、心底においては攘夷論者でした。  彼の希《ねが》いは、結局真に西洋諸国を打ち破るに足る「大砲を鋳造し、堅艦を製作する」ことでしたが、そのためには、みずからヨーロッパ化することで、その「文明」の跡を追うほかはないのを知っていました。  この国家としての「出世」を希う感情は、それが「士族」の生活感情にうまく調和したためもあって、明治時代の指導階級を動かした支配的熱情といってもよいのです。  やや極端な云いかたをすれば、彼等は国民の個々の生活の幸福は犠牲にしても、我国の国際的地位の向上を図らねばならないと考えたので、それはちょうど、武士の家庭で主人の出世のために家族が犠牲を払うのは当然と考えるに似ていました。「富国強兵」と「最大多数の最大幸福」が矛盾したとき、後者は躊《ちゆう》躇《ちよ》なく捨てられ、富国どころではなく「貧国強兵」が強行されたので、漱石は日露戦争後に、我国が軍備に追われる有様を「夜番の為に正宗の名刀と南蛮鉄の具足を買ふべく余儀なくされたる家族は、沢庵の尻尾を噛つて日夜齷《あく》齪《せく》するにも拘らず、夜番の方では頻《しき》りに刃と具足の不足を訴へてゐる」と形容しています。  このような国際的な出世主義に、国内では知識階級の個人的出世主義が呼応したのですが、いずれにせよ、この明治時代の特質は、文学の性格を鮮かに彩っているので、半世紀にわたる明治文学の歴史は、知識階級の社会で果す役割の変遷とともに、時代の性格にたいする彼等の反省と意識の深まりの過程と見られます。  明治政府の首脳自身が「書生」であったのは前述の通りですが、彼等自身は西洋の学問を身につける機会も閑暇もなかったので、開国の方針を決して、近代国家の建設にのりだした彼等が、まず求めたものは西洋の「文物」にかんする知識を持ち、時代の要求に応《こた》え得る人材でした。  英語や蘭語を解し得る者は、それだけで、旧幕臣でも、初期の明治政府には重用されたので、洋学が一躍して、維新前の漢学や国学に代って、知識階級の資格を形造る学問になっただけでなく、新しい学制の整備とともに、外人教師などが多量に雇われ、高等程度の学校の授業はほとんどすべて外国語で行われるというような、現代でも考えられない、極端な欧化教育が行われました。  新教育の中心であった開成学校(後の東京大学)が幕府の蕃書取調所や医学所の後身であった事実が示すように、明治の書生の気風は、或る点で、旧幕時代の洋学生のそれの延長でした。  この時代の代表的洋学塾であった緒方洪庵の適塾に青年時代を送った福沢諭吉は、当時の「書生気質」を「自伝」のなかで活写しています。  漢学塾と洋学塾のちがいは、まず前者が形式を重んじ、学塾が同時に礼儀の修練所であったに対して、後者がそうした生活の外見にまったくこだわらなかったことで、  「塾風は不規則といはんか不整頓といはんか、乱暴狼藉まるで物事に無頓着。その無頓着の極は世間でいふやうな潔不潔、きたないといふことを気にとめない。」と福沢は云っていますが、こういう「不整頓」と「無頓着」を、学生の特権として喜ぶ気風は、時代とともに薄れながら現代までつづいています。  彼等の風態は、夏はじゅばんもふんどしもつけぬ赤裸で、食事と会読のとき「絽《ろ》の羽織をまつぱだかの上に着る」だけであり、冬は皆肌着に虱《しらみ》をわかし、「ちよいとはだかになれば五匹も十匹もとるに造作はない」という有様でした。  外出するときは、「往来の群集、なかんづく娘の子などは、アレ書生がきたといつてわきの方によける」ような風態で、盛り場などさかんに練り歩き、今日で云えば愚連隊に近い所行も、ときどきは演じたようです。  しかし、こういう不行儀な行動は、彼等の激しい勉学の意欲と少しも矛盾しなかったので、  「およそかういふ風で、外に出ても内にゐても、乱暴もすれば議論もする。それゆゑちよと一目見たところでは……いかにも学問どころのことでなく、ただワイワイしてゐたのかと人が思ふでありませうが、そこの一段にいたつては決してさうでない。学問勉強といふことになつては、当時、世の中に緒方塾生の右に出る者はなからうと思はれる。」と福沢は云い、その一例として、自分は大阪にいる間、ほとんど本式に寝たことはなく、いつも読書で徹夜して、仮睡する程度で枕というものを持たぬくらいであったが、これは自分が特に勉強家であったからでなく、塾生はみなそうであったといい、こんな風に貧しい生活に堪えて、ひたすら勉学したのは、当時の大阪では蘭学を修めたところで別に衣食の道がひらけるということはなかったから、いわば「目的なしの苦学」であったが、「一歩を進めて当時の書生の心の底をたたいて見れば、おのづから楽しみがある。これを一言すれば、——西洋日進の書を読むことは日本国中の人にできないことだ、自分たちの仲間に限つてこんなことができる。貧乏しても難渋しても、粗衣粗食一見みるかげもない貧書生でありながら、知力思想の活溌高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すといふ気位」であったと書いています。  ここに明治の「書生」あるいは知識階級の気質はすでにはっきり現われています。  その特色を要約して云えば、まず、漢学教育の道徳主義、形式主義にたいする反撥としての、放任主義、敝衣破帽主義であり、書生は社会一般の礼儀の埒外の存在であることが、一般にみとめられました。  第二は、これと表裏する徹底的な知育中心主義で、要するに教育の眼目は、西洋の書物の内容をよく理解して、これを我国に応用する才能を育てることであり、あらゆる分野にわたる一種の技術者養成を目的としていました。  第三はこの西洋文明の技術的摂取の任にあたった学生たちが、——たとえその学識が深いとは云えず、皮相の模倣しかできなかったにしろ——その使命の社会的意味にかんしては、何らの疑惑を持たず、強い自信に燃えていたことです。  むろん維新後には緒方塾などの場合とちがって、「学問」は衣食への道に直結し、学士の称号をうけるのは、出世の保証を得ることでした。しかし明治初期の学生たちは、一身の栄達はもとより願ったにしても、それ以上に、新文明の選手であり、国家の水先案内である誇りを生命としていたので、「知力思想の活溌高尚なこと、王侯貴人も眼下に見下す」という書生の「気位」は、少なくも日露戦争ごろまでは、続いたのであり、社会もそれを受入れ、これを裏づける地位を提供したのです。  明治末期の知識階級の苦悩は、一面においては、こういう人間的自負が次第に失われて、社会の運転に必要な道具、あるいは権力や金力に使役される技術者としての知識階級の地位をはっきり自覚することを強いられたにもとづきます。  明治時代の教育が西欧の学術の直輸入を目的とした極端な技術教育であったのは、青年の人間形成の素地が、在来の漢学風の教育によってなしとげられていたから可能であったので、明治時代の半ばごろまで、漢学塾は少年の教育に大きな役割を果していたし、書生たちの教養の基礎は漢学でつくられていました。  鴎外の外遊日記は漢文で誌され、漱石の最初の文学的な試みが漢文によってなされたのは、よく知られています。幸徳秋水が英語を漢文を読む要領で読んだと、堺利彦が書いていましたが、おそらくこれは彼ひとりのことではなかったのです。  我国の書生たちが西洋の書物を比較的容易に理解し得たのは、漢学の長い伝統が、外国語を読みくだくことについて、特殊な訓練をつみ重ねたかも知れないし、また明治初期においては西洋が、その伝統の延長の上でとらえられたことが、彼等の西洋観にある特色をあたえ、同時にその限界を形造っています。  いずれにせよ、明治十年代までの知識階級には漢文が最も読みやすく、また書き易い文章であったのは、西洋の論文はもとより小説の翻訳が、漢文あるいは漢文くずしの文体で行われたのでも察せられます。  明治の知識階級の形成の過程と、その特色を、以上ごく大づかみに見たわけですが、このような知識階級の自己表現の具としての文学の歴史は、大体三つの時期に大別することができます。  第一は、維新から、十八九年までのほぼ二十年間で、この間は、明治の新社会の生成から一応の安定に達するまでの期間であり、世相の変化がもっとも激烈であるとともに、新しい時代思潮の波が、まだ文学まで及ばず、文学が主として新社会にたいする傍観者あるいは落伍者の手にあって、時代の批判的な証言としては興味があっても、新しい時代精神と積極的なつながりはなかった時代です。  仮《か》名《な》垣《がき》魯《ろ》文《ぶん》、高畠藍泉等の戯作、成《なる》島《しま》柳《りゆう》北《ほく》、服部撫松らの戯文をはじめ、多くの狂詩の代表する、漢文による新時代の諷刺、丹羽純一郎の「花柳春話」、井上勤の「月世界旅行」などの翻訳文学、矢野竜渓の「経国美談」、東海散士の「佳人之奇遇」などを代表とする政治小説などがこの時代の所産です。  戯作、戯文がその内容においても、表現形式においても、旧時代の延長といってよいのにたいし、政治小説、翻訳小説が、その内容においては、新時代を形造るものを持っていたのは後述する通りですが、文学をそれ自身価値のあるものとみとめず、たんに功利的側面から存在の意味をみとめようとしている点では、逍遙以後の作品と異《ことな》った、いわば近代以前の性格をもっています。  しかしこれらの作品に、今日から見て多くの価値がみとめがたいということは、それらが同時代の社会に広く歓迎されたのと別問題なので、滑稽諧謔を主とした戯作戯文が、過渡期に鬱屈した人心を慰めるために果した大きな役割、また翻訳小説が、ヨーロッパの「文明」の様相や、その感情生活について、新しい啓示として受けとられ、政治小説が、人格の尊重、民族的自覚の昂揚の具として、多くの青少年に絶大の感化を与えたという事情は、忘れてはならないのです。  この時代の文学は、後世の自然主義の小説にくらべて、たんに読者の数が多かっただけでなく、読者に与えた感動の質も、決して低いとは云えません。ただこの時代を支配した文学の通念が、現代とはちがっているだけなのです。  現代を支配する文学の精神は、一言で云えば、近代的な文学の理念ですが、これを我国で確立したのは、坪内逍遙です。  彼の「小説神髄」と、「当世書生気質」が我国の近代的文学論と作品の始めであり、近代的自覚をもって書かれた明治文学の歴史はここから始まるというのは、今日では定説です。  逍遙が「小説神髄」で主張したところは、小説は芸術であり、芸術は、社会や人生に直接間接に利益をあたえるというような功利的目的を持つべきではなく、とくに小説は「人情」を写すことを主眼とすべきだから、倫理的な立場をはなれて、人性の真実を描きだすようにしなければならないというのです。  これは近代の写実主義の常識ともいうべき議論で、今日ではまったく平凡にしかひびきませんが、それは一面において逍遙の主張がそれだけ一般化しているからで、彼の主張は当時にあっては劃期的な性格を持ったのです。  それまで我国では、文学と云えば和歌、俳句、漢詩、漢文などが主であり、小説は、徳川時代の儒教の影響で、たんに無教育な人間の娯楽とされ、教訓として役立つという理由でようやく社会に存在をゆるされてきました。その有様は丁度演劇が大きな人気を博しながら、表面は社会から軽視されていたのと同じでしたが、西洋諸国の様子が追々知られてくるにつれて、演劇の内容を改めて、その社会的地位を向上させようとする運動がおこりました。いわゆる演劇改良の運動で、この運動は、明治十九年(一八八六年)に、外《と》山《やま》正一、末松謙澄らの提唱によって、大きな世論をまき起しました。  逍遙の「小説神髄」もそれとほぼ時を同じくして出た、一種の小説改良論であったと見られないことはありませんが、彼の議論は外山、末松などの所説より、はるかに対象の内面に深く徹していたので、演劇改良運動とは比較にならぬ大きな成果を収めました。  すなわち彼は「小説神髄」を中心として発表した幾多の論文で、文明の所産には、実用を目指す技術と、実用を目的としない美術とがあり、小説はその美術にぞくするから、一切の功利的見地から解放さるべきだと説いたのですが、この主張の根底には、近代の自然科学の影響が見られます。科学が真実の探究のために、あらゆる人間的顧慮を捨てなければならぬように、小説家も人間の真実を他を顧ることなく写すことにつとめねばならぬという考えは、「小説家は心理学者の如し、宜しく心理学の道理に基づき、其人物をば仮《つ》作《く》るべきなり」という言葉に現われています。  逍遙は科学と文学の違いについて、——少なくも、「小説神髄」を書いた当時は——あまり深く考えていなかったのですが、新時代の教育をうけただけに、自然科学が西洋文明の中心であり、小説を自然科学を中核とする時代精神と矛盾しない芸術に仕立てる必要は、はっきりと感じていたので、この意味では逍遙は自然主義の先駆と云えます。  「小説神髄」によって明治文学は第二期に入りますが、その主張と、それにつづく逍遙の活動は、結果において、政治小説の否定とある意味での戯《げ》作《さく》の復興(あるいは改良)でした。彼の文学観と戯作者のそれとは、文学の功利性を否定するところで共通の点を持っています。  しかし戯作者が、新時代の精神と何の交渉も持たず、社会における存在の理由にも自信ある思想的根拠を持たなかったに反して、逍遙の提唱した新しい文学の理念は、西洋文明のなかから生れてきたものであり、新しい社会のなかに、その非功利性にかかわらず、はっきり存在を主張できるものでした。  したがって、彼の提唱によって出現したのが、露伴紅葉を先頭とする硯《けん》友《ゆう》社《しや》の「洋装」された戯作文学であったのは当然でした。  露伴も紅葉も、前代の戯作の糟《そう》粕《はく》をなめる人でなかったのは云うまでもありません。しかし西鶴の発見から出発した彼等の小説が、着想の上でも文体の点でも、そのころすでにさまざまな形で紹介されていた西洋の近代小説より、江戸の文学に近かったことは事実です。  むろん当時の文学界は硯友社だけではなく、鴎外を先駆とし、『文学界』の詩人たちを中心とするロマン派の運動も、明治三十年代に這入ると、詩歌を中心とした大きな開花期をむかえます。  しかしロマン派文学の中心の課題である近代人の自覚と解放が、我国においては結局自然主義の小説家によって行われたという独自な事情は、ロマン派の行動にある限界をおいたので、あえて小説中心に考えなくとも、当時を代表した文学者は尾崎紅葉であり、彼のアングロ・サクソンの趣味を加えた江戸っ子風は、時代の紳士の理想であったのです。  このことは、明治二十年代の初期から、日露戦争までの十数年間が、我国の知識階級にとって、もっとも安定した住みよい時代であったこととも照応します。  明治二十二年の憲法発布、翌年の国会開設、日清戦争の勝利、その結果として得た償金と領土の拡張、不平等条約の改正など、我国の近代社会は、内部に腐敗と矛盾を醸成し、外国からの危機を予感しながら、順調な発展をとげたので、教育の制度や内容も前代とちがって一応落付いて体系化され、学校を出た者の社会的地位や実力を発揮する機会も保証されていました。知識階級の就職難、生活難はまだ問題にならなかったので、現存の社会制度にたいする否定的思想も、人生への疑惑も、一般の知識階級をとらえるにはいたらず、健全で楽天的な国家主義と、それに裏づけられた出世主義が彼等の頭脳を支配していました。  それが日露戦争後になると、その勝利は国外に大きな反響を呼んだわりに、国内に実質的な利益をもたらさず、その名目的な勝利は、かえってその後の国運に大きな悪影響を及ぼしました。  維新の開国の方針が「列強」に対抗できる大砲と「堅艦」を備えるためであったとすれば、ヨーロッパの強国であるロシアを降したのは、一応その目的をとげたことになります。  そこからくる一種の気のゆるみと思いあがり、「文明国」として「列強」に伍したという空疎な自負は、文化のあらゆる面を毒さずにいなかったので、これが、日本を真剣に競争相手として意識した諸外国の圧迫、国内でようやく矛盾を明かにしてきた資本主義、それを支える天皇制国家の圧力、などと複合して、行つまりの頽廃の、一種息苦しい末期的な雰囲気をつくりあげました。  日露戦後から、明治の末年にかけての知識階級の話題は、政商の腐敗を暴露した疑獄日糖事件であり、師団増設問題をめぐる軍閥の擡頭であり、幸徳秋水を中心とする無政府主義者の、いわゆる大逆事件であり、自然主義の小説であり、頽唐派の詩歌でした。  彼等は時代の行詰りと「閉塞」の状態を誰より敏感に感じて、時代が可能にした唯《ゆい》一《いつ》の情熱である「懺悔」と反省に身を任《まか》せたので、当然彼等は同時代の社会にたいして、批判的であり否定的でした。ここに新しい第三の時期が始まります。  「幻滅時代の芸術」を論じて、「幻像の勢力を有したる時代に生れたる芸術の遊戯的分子を排除して、真実其の物に基礎を定めたるもの、これ将来の芸術たらざるべからず」とした長谷川天渓は、「人は年長ずるに従つて青年時の幻像を失ひ、ますます現実に接して愈《いよい》よ悲哀を感じつつ、最後に死滅といふ現実に接す、人類の社会復《ま》た此《か》くの如し。現に今の世は、往昔に比して更に深大なる悲哀を感じつつあるに非ずや」(「現実暴露の悲哀」)といっています。  これは明治という時代が「青年時の幻像」を失った空虚感を、一般化して述べたものと見られます。  この時代の芸術が、虚無的になり反抗的になったのは、当時の知識階級に、自分の周囲を見廻す余裕がようやくでき、世界が彼等の視野のなかに這入ってきたためとも考えられます。「芸術は遂に国家と相容れざるに至つて初めて尊く、食物は衛生と背《はい》戻《れい》するに及んで真の味ひを生ずるのだ」と永井荷風は云いますが、こういう言葉は、日露戦争後の世代でなければ吐けぬものです。  自然主義も、白樺派もまた耽美派といわれる人々も、当時の文学はみな青年の既成の秩序道徳にたいする反抗を主題としています。  この点から云うと、明治という時代自体が若さを失ったとき、その社会のなかに住む青年たちは、はじめて自分の地位と使命を自覚し、芸術はそのための手段として、新しい意味を見出したのです。  この新しい可能性が充分の発展をとげたのは大正時代ですが、明治時代は結論としてはそれを無意識に準備したのです。  石川木は明治末年の「時代閉塞」の結果として、「我々の父兄の手に在る間は其国家を保護し、発達さする最重要の武器」であった「日本人特有の或る論理」が「一度我々青年の手に移されるに及んで、全く何人も予期しなかつた結論に到達してゐる」といって、その「結論」を次のように述べています。  「『国家は強大でなければならぬ。我々は夫を阻害すべき何等の理由も持つてゐない。但し我々だけはそれにお手伝ひするのは御免だ。』これ実に今日比較的教養ある殆ど総ての青年が国家と他人たる境遇に於て有《も》ち得る愛国心の全体ではないか。」  そして彼は更に進んで、このような青年たちと、国家あるいは強権のあいだに真の敵対関係がないことに、彼等が互に「怨敵」のように見えながら、実は同じ「論理」に従う「服従」の関係にあることを指摘しています。  この木の指摘は、当時の作家たちの反抗の性格の一面をよくとらえています。しかしたとえ感情的であり、ときには趣味的でさえあったにしろ、それは「我々明治の青年が、全く其父兄の手によって造りだされた明治新社会の完成の為に、有用な人物となるべく教育されて来た間に、別に青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めた」のが動かしがたい時代の勢いになったという点では、新文明の道具として教育された知識階級が、たんに「国民」としての使命感だけに満足せず、「人間」としてさまざまの問題と向いあいだしたという点では劃期的な意味を持っています。  以後の文学は、このような形で国家や社会から背離した青年たちが、彼等だけの狭い世界でその倫理と芸術を完成して行く方向にむかって行きました。このことは木の云うように、その離反が敵対よりむしろ服従に近いものであることで、はじめて可能とされたとも云えますが、その代り、大正の文壇はまったく青年の世界であり、「青年を囲《ゐ》繞《ねう》する空気は、今やもう少しも流動しなくなつた」当時の社会では、例外的な、新しい生きかたの実験場として、少数の熱心な青年たちを、ほとんど宗教に似た力で惹きつけました。  知識階級と一般社会とのあいだの溝がひろがるにつれて、我国の近代小説の知識階級文学たる性格はますます明瞭になりました。  明治という時代が暦の上で終ったのは、明治四十五年(一九一二年)七月三十日の明治天皇の逝去によってですが、その前後にこの時代の終りを象徴する二つの異常な死が見られます。ひとつは明治四十四年一月に天皇の暗殺を図ったという名目で死刑に処せられた幸徳秋水以下十二人の死であり、他は四十五年(大正元年)九月に天皇に殉じた乃木大将の死です。この両極端の二つの事件が一般社会にあたえた衝撃とは別に、知識階級の思想や感情に、それぞれ深い影警をあたえ、今日から文学作品の上にそれを辿《たど》ることができるところに、明治という時代の独自な性格が見られます。 第一章 明治初期 (明治元年——十八年) 第一節 戯作  明治維新の兵変が始まったとき、当時の駐日フランス公使は、本国によせた通信文のなかで、この内乱はながく続き、哀れな国民は塗炭の苦しみを嘗めるであろうといっていますが、この予想は、彼の多くの観測と同様、まったく外れました。  鳥羽伏見の戦から、北海道の五稜郭平定まで、わずか一年半たらずであり、徳川家が諸侯の一員として存続し得たのから見ても、明治維新はもっとも血を流すことの少ない革命でした。  これはいわゆる尊王論があまねく知識階級のあいだに行きわたっていて、朝廷が政権の座につくことに誰も理論的には反対できなかったためでもあり(註一)、また外国の圧力が、内乱の不利を多くの人々の眼に明かにしたためもありましょう。  しかしいかに穏和な革命であっても革命は革命であり、多年世禄に安んじてきた武士たちは、封建社会の崩壊とともに、生計の手段を得るに苦しみ、ことに新政府の方針として強行された西洋の文物の急激な採用は、これまで儒教や仏教の世界だけに安住していた人々に大きな精神的不安を与えました。  自分の生活がどうなって行くかわからず、自分の往んでいる世界がどう変って行くか見当がつかないのは、すべての過渡期に共通する現象でしょうが、明治初年の人々はとくに深刻にこの不安を味ったと思われます。  四民平等、積極的な開国方針、仏教の否定と神道の復興、廃藩置県、太陽暦の採用、徴兵制度と学制、廃刀断髪の布告など、当時の人心に破天荒の驚異でなかったものはなく、銀行、会社、人力車、鉄道、電信、郵便、新聞など、みな日常生活に直接にひびく新しい施設でした。  しかし当時の文字を解する公衆の主要な部分であった士族階級にぞくする人々は、——少数の例外を除いて——この変革の主動者であるより、むしろ犠牲者であったので、その消息はこのころの文学にはっきり現われています。まず戯作について云えば、野崎左《さ》文《ぶん》が「明治維新の当時はあらゆる事物の革新改造に忙はしく、文学上に取つても亦実に混沌たる時代であつた。……明治七八年頃までは戯作者に取つての飢饉年で、地本問屋からの註文もなく、偶《たま》々《たま》合《がふ》巻《くわん》物《もの》(註二)の類が出版された処でその読者の大部分を占める旧幕臣や御殿女中などは生活問題に迫られて身の振り方に惑うて居る混乱時代であるから中々慰安として小説でも読まうと云ふ心に余裕がなく、町家の婦女子も其通りで売れ行も頗る鈍つてゐたものと思はれる。」といっている通り、維新直後の数年は作者たちも困窮し、すぐれた新作も生れなかった、衰弱と「饑饉」の期間でした。  これは、読者たちが生活の不安に追われていたからだけでなく、戯作そのものが江戸末期以来、衰頽の一途をたどり、江戸そのものの滅亡のあと、生きのこる力を持たなかったのが根本の原因と思われます。  当時の戯作者と云われる人々が、新しい時代の動向、性格について理解や批判を持たなかったのは当然としても、旧時代の文学者としての教養もあまり深くなく、同じく左文の言葉をかりると、「其頃の戯作者を振返つて見ると、学問は一体に浅薄で迚《とて》も馬琴の四半分も古籍を渉猟した人は無かつたやうです。」という有様で、この時代の代表的戯作者であった仮名垣魯文なども「学問と云へば漢籍は四書が関の山、国文も『枕の草子』『徒然草』ぐらゐに止まつてゐた。」ということです。  むろん文学者の才能は必ずしも教養に比例するものではなく、魯文はことに「戯作者は愚を売つて口を糊するものだ」と信じて、馬琴風の衒学を軽蔑していました。しかしいかに見識があってのことでも、この程度の素養で深味のある文学が生れるわけはないので、結局前人の糟粕を嘗め、世相の表面を模写する以外ありません。  なかで、魯文は才筆にめぐまれた方で、明治初年の戯作の「饑饉」のなかで、彼はほとんど唯一人眼立った活動をしています。  彼は本名を野崎文蔵といい、文政十二年(一八二九年)に江戸に生れた人ですから、明治維新のときは、もう四十歳に近かったわけです。  安政のころから戯作者として一家をなし、滑稽物や時事の早書きに長じましたが、維新後は、「西洋道中膝栗毛」(明治三年刊)「安《あ》愚《ぐ》楽《ら》鍋《なべ》」(四年刊)等、新時代の世相や好尚をとり入れた滑稽文学で、世評をよびました。  「膝栗毛」は「万国航海」と角《つの》書《がき》(註三)されているのでもわかる通り、一九の「道中膝栗毛」の趣向を、海外旅行に適用したもので、主人公の名も弥次郎兵衛、北八であり、彼等が横浜の弁天通で店を開いて洋品を商《あきな》っているうちに、ある豪商の手代としてロンドンの博覧会見物に行く途中の滑稽を道中記風に描いています。作者はこの材料を、福沢諭吉の「西洋事情」「西洋旅案内」などの書物、知人の外遊の経験や失敗談からとったと云われていますが、ただ背景が目新しいだけで、内容は在来の道中記の焼き直しにすぎませんでした。  しかしここに描かれた外国の風物が、皮相な聞書き程度を出なくても、日本からヨーロッパヘの旅の様相を伝えている点だけでも、世界にむかってはじめて眼をひらいた当時の人の心をとらえるに充分であったので、明治三年(一八七〇年)から五年までのあいだに十一篇をだし、その後門人の代作で七年から九年まで書きつがれ、第十五篇で完結しました。  魯文は元来洒《しや》脱《だつ》な紀行文を得意とし、維新前に友人たちとの富士登山を戯文に綴った「滑《こつ》稽《けい》富《ふ》士《じ》詣《もうで》」は彼の出世作でした。  しかし「西洋膝栗毛」は作者の経験に裏づけられない旅を扱っていることが、最大の弱味ですが、この点、「安愚楽鍋」は、作者も熟知し、読者にも親しみ深い開化の世相の一端を、写実を主として、巧みに滑稽化したものなので、当時の世情をうかがうに足る資料であるだけでなく、滑稽文学としてははるかに三馬のあとをつぐものであり、魯文の代表作です。  これは「牛屋雑談」と角書されている通り、当時、牛肉を食べる新しい風習の普及とともに、東京市内いたるところにできた牛鍋屋に集る人々の、さまざまな姿や会話を、写生風にスケッチしたものです。  全体が三篇にわかれ、「西洋好の聴取」「鄙《いなか》武士の独盃」「生《なま》文《ぶん》人《じん》の会《かい》談《ばなし》」「娼妓《おいらん》の密《あく》肉《もの》食《ぐい》」「人力《じんしや》の引《ひ》力語」「新聞好の生鍋」など当時の世相を抜目なく網羅しています。  魯文の滑稽は三馬などにくらべて、浅く、今日から見ると文学というより風俗資料に近いものですが、そこには当時の庶民のあいだに西洋から伝来した新しい習俗が、どのように受取られたかが活写されています。  魯文はこのほか「胡瓜《きゆうり》遣《づかい》」「世《せ》界《かいの》都《みやこ》路《じ》」(明治五年刊)などを書きましたが、これらはいずれも福沢諭吉の「窮理図解」「世界国尽」のパロディあるいは模倣で、彼が当時の時代の動きに、表面的ではあっても鋭敏な関心を持っていたことがうかがえます。彼の西洋観の大部分は、福沢諭吉のそれの、——意識的あるいは無意識のパロディであったようです。  なお、当時の事件として、明治五年五月に、その年の三月に神祇省の代りに置かれた教部省が、有名な教条三則を発表したことがあげられます。 「一、敬神愛国ノ上旨ヲ体スベキコト、 一、天理人道ヲ明カニスベキコト、 一、皇上ヲ奉戴シ、朝旨ヲ遵守セシムベキコト」  という三則は、もとは新時代を指導すべき、神道の原則として、神官たちに布達されただけですが、それとほとんど同時に歌舞音曲なども教部省の管轄になり、一時的ながら、権力による芸術の指導、統制が試みられたのは注意してよいことです。  新聞記事によると、五月の末ごろ「芝居三座の大夫元、狂言作者、義太夫節、豊後、新内の家元、或は琴を調の盲人迄同省へ御呼出し相成、夫々業道の儀御糺問相成」とありますから、当時一流の芸人はみな教部省によびつけられ、教条に違反しないように申渡されたと思われます。(註四)  もっともこの教条は、いずれもはなはだ抽象的な漠然としたもので、このころの神道の思想は、新時代の指導精神になろうとしていただけに、後世から想像するように偏狭なものでなく、文明開化や富国強兵などということも「天理人道」のなかに含まれていたようです。したがって、新政府の方針は、旧暮時代の或る時期のように、歌舞音曲や文学を悔蔑し敵視して圧迫するのではなく、むしろこれを尊皇と文明開化の新政府の方針に順応させ、積極的に役立てようとしたので、それだけにこの統制はかなりの効果を収めたようです。  この取締は戯作者にも及んだらしく仮名垣魯文は条《じよう》野《の》有《ありん》人《ど》(伝平)と連名で、同年の七月に教部省に、「御諭示につき建言を奉る」という書面を差出してその立場を明かにしました。  これは当時の戯作者の社会的立場や、彼等が自分の職業や使命をどう考えていたかを示す貴重な資料ですが、とくに「爾後従来ノ作風ヲ一変シ、乍レ恐教則三条ノ御趣旨ニモトツキ著作可レ仕ト商議決定仕候。就テハ下劣賤業ノ私輩ニ御座候得共、歌舞伎作者トハ自然有レ別儀ニ御座候間、右可レ然御含被成下度」と、政府の方針にあくまで柔順を誓うと同時に、みずから「下劣賤業」といいながら、なお歌舞伎作者とは区別してほしいなどと妙な誇りを持った点が注意されます。  「方今之ヲ以テ業ト仕候者僅ニ私共両人其他両三名ノミ」と魯文等が云った明治五年ごろが、戯作のもっとも衰微した時代とすると、それから数年して、明治十年ごろから、思いがけない復興の機運がおこりました。  それは西南戦争後の世情が一応落付いたのが、根本原因ですが、直接には新聞紙の隆盛にともなう新聞小説の需要にあります。  当時の新聞はいわゆる大新聞と小新聞にわかれていました。この区別は経営の規模の大小によるのではなく、内容の性格の相違からきています。大新聞はそれぞれに名のある論説記者をむかえて、政治を論議した社説を呼びものとして、雑報も文語体で、政治経済上の事件を主として報じ、花柳界演芸界の消息などはのせず、知識階級を読者としたに対して、小新聞は社説を掲げず、政治上の記事などはごく簡単にして、市井の出来事や花柳界、演芸界の消息を多くのせ、今日の口語に近い文体で平易を旨として、一般の民衆を読者としたので、定価も大新聞より安く、販売方法もちがっていました。  小説をのせたのは小新聞でした。もともと小新聞の雑報欄には挿絵を入れることが行われ、本版の粗末な挿絵が今日の写真の代りをしていましたが、とくに興味のあるニュースは数回の続きものとして扱われ、一種の読みものになっていました。その見出しがよく「何某の話」となっていましたが、たんなる事実の記録より、読みものとしての面白味を求める傾向が強くなってきたので、明治十一年(一八七八年)八月から九月にかけて、『東京絵入新聞』が、「金之助の話」と題した続きものを、「三分の事実に七分の潤色を加へ」て連載したのが、最初の新聞小説とされています。  もっとも、後に述べる「鳥《とり》追《おい》阿《お》松《まつ》海《かい》上《じよう》新《しん》話《わ》」の一部が『仮名読新聞』に連載されたのは明治十年十二月から翌年一月にかけてのことであり、時期から云えば、その方が早いのですが、「金之助の話」の方がともかく首尾一貫した物語であり、金之助という次男坊の色男が芸者に迷ったために家を出て大阪に行き、ここでも女難に遭って苦労の結果改心するというむかしながらの人情本めいた筋が、読者から非常な歓迎をうけ、同じ筆者のものらしい別の長篇がつづいて同紙に連載されただけでなく、他の小新聞が大部分これに倣うようになり、一世の流行を形造ったために、新聞小説の嚆《こう》矢《し》として記憶されるようになったのだと思われます。(註五)  そしてはじめは「長い雑報を連載するやう」に、筆者の名を誌さず、記事の一部として組んだものが、一二年のうちには、「外《げ》題《だい》を一行の別見出しとして、何某作とか何某綴《つづる》とか其の筆者の作名を掲げ、外題も草双紙風に五字題七字題のものが用ひられるやうに」なったと、野崎左文が書いています。  それ以前から、小新聞は戯作者の活動の舞台で、仮名垣魯文が『仮名読新聞』『いろは新聞』などの主筆として才筆をふるったのを始め、高畠藍泉、染崎延房は相ついで『絵入新聞』の主筆になり、彼等の弟子たちも多数その編集に携っていたので、新聞小説の流行は、彼等を世にだす機会にもなりました。  これらの新聞小説は、いずれも時代の好尚の影響をうけて、空想的な物語より、最近実際に起った事件を興味本位に脚色したものが喜ばれ、とくに裁判事件などになった市井の出来事に取材したものが多かったのですが、なかでとくに歓迎をうけたのは、いわゆる毒婦ものです。  「鳥追阿松海上新話」(久保田彦作・明治十一年刊)「夜《よ》嵐《あらし》阿《お》衣《きぬ》花《はな》迺《の》仇《あだ》夢《ゆめ》」(岡本勘造・十一年刊)「高《たか》橋《はし》阿《お》伝《でん》夜《や》叉《しや》譚《ものがたり》」(仮名垣魯文編・十二年刊)などがその代表的のものです。  これらの毒婦ものの主人公はいずれも明治十年前後に数奇な生涯を終って居り、その伝記におのずから明治初期の世相が現われているところに、新しい草双紙の素材として適切な所以があったと思われますが、作者のこれらニュース・ストオリイを扱う態度は、ただ勧善懲悪的の立場から、事件の推移を表面的に叙述するだけでした。  しかしこれらの毒婦ものが、一般社会からうけた歓迎は異常なもので、草双紙はちょうど今日の映画のように、全国津々浦々まで、貴賤をとわず、あらゆる階層の子女に親しまれました。  ことに高橋阿伝は、同時に河竹黙阿弥によって劇化され「綴《とじ》合《あわせ》於《お》伝《でんの》仮《か》名《な》書《ぶみ》」と題して新富座で上演されたことなどと相俟って、後世までながく毒婦の代名詞にされ、明治以後最初の文学的ヒロインになりました。  草双紙の復興につれて、たんに毒婦ものだけでなく、本間久雄氏の分類によると、「王政復古物」「復讐物」「人情物」などにぞくする合巻の草双紙がさかんに刊行されだしました。その特色はやはり毒婦ものと同様、事実に潤色をほどこしたものが多いことで、芸術としての新味も根底もなく、作品としての価値より、時代の好尚を知る上で興味のあるものです。  そのうち年代的に一番早いのは「王政復古物」でした。これは徳川時代の実録ものに倣って、明治維新の経緯を物語風に書きつづったもので、松村春輔「復古夢物語」(明治六年—九年刊)村井静馬「明治太平記」(八年—十二年刊)などが代表的なものです。  「復讐物」は、そのころまだ時々行われた仇討ちを事実に則《のつと》って描いた合巻もので、雑賀柳香「冬《ふゆ》楓《もみじ》月《つきの》夕《ゆう》栄《ばえ》」(明治十四年刊)岡本起泉「川《かわ》上《かみ》行《ゆき》義《よし》復讐《あだうち》新話《ばなし》」(同年刊)などはいずれも前年に行われた父の仇討を扱っています。仇討は法律上では明治六年に禁止されましたが、まだ世間一般にはこれを讃美する気風が強くのこっていたので、これらの物語はいずれも表面では批難しながら実際はそうした世人の感情に迎合するように書かれています。  これは毒婦ものでも同じことで、これらの女主人公にたいして作者は表面は道徳的筆誅を加えるような態度をとりながら、実際は彼女たちの行動にたいする同情に近い興味で、読者をひきずるように工夫しています。  勧善懲悪などといっても、もともと道徳的修養のために草双紙を読む者などはいなかったので、それを作者も読者も、これを取締る政府も知った上で、教化を看板にしていたのは、当時の権力の、一般の民衆から隔絶した場所にいただけに、ある点では大まかであった性格を示しています。(註六)  大久保利通を暗殺した島田一郎の一代記ともいうべき、岡本起泉「島田一郎梅雨《さみだれ》日《につ》記《き》」(明治十二年刊)がひろく世に行われたのも、そういう時代の姿を示しています。作者は島田一郎を序文のなかで一通り批判しながら、実際には彼に同情するような書き方をしています。  当時大久保は西南戦争の勝利者、明治政府の独裁者として、国民の怨府の観があり、島田一郎の斬奸状は一代の名文として、多くの書生が競って写したのですが、この知識階級に人気のある暗殺者の小説化された伝記が、表面的な批判を加えただけで、ひろく世間に行われたのです。  次に「人情物」といわれるのは、いわゆる人情本の伝統に立って、男女の恋愛を主題としたもので、旧幕時代の人情本の趣向をそのまま明治の世相にあてはめた梅廼門鶯斎「雪の梅女《おんな》庭《てい》訓《きん》」(明治十四年刊)松亭鶴仙「浅尾岩切真実《まこと》競《くらべ》」(十六年刊)などと、もっと時事的の要素が濃く、実際に起った情死事件をもとにした岡本起泉「恨《うらみの》瀬《せ》戸《と》恋《こいの》神《か》奈《な》川《がわ》」(十五年刊)山田春塘「日本橋浮《うき》名《なの》歌《うた》妓《ひめ》」(十六年刊)などの二種類があります。  これらは或る意味では、他の草双紙にくらべてもっとも新味のないものですが、しかしこういう旧幕時代の趣味のそのままの復活と見られるものが、明治十四五年以後、政治や社会の動きがようやく或る落付きを見せ、国家の向う方向が大体定まった時期に擡頭したのは興味のあることで、維新以来、社会の表面から姿を消し、表面は「饑饉」の状態を呈してきた国民の文学趣味が、新しく蘇《よみがえ》ろうとして、それに適した形を見出せないままに、まず旧時代の復活という姿をとったものと見られます。  「盛んなるかな我国に物語類の行はるゝや」という言葉で「小説神髄」の筆を起した坪内逍遙が、「革新の変あるに際して戯作者しばらく跡を断て小説したがつて衰へしが、けふこのごろにいたるに及びてまたまた大に復興して、物語のいづべき時とやなりけむ、ここかしこにてさまざまなる稗史物語を出版して新奇を競ふこととはなりけり」といっているのは、この事態をさしたものです。  この時期を代表する戯作者は、高畠藍泉と染崎延房とです。延房は文政六年(一八二三年)対馬に生れ、魯文より六歳年上で、明治維新のとき四十五歳でしたが、為永春水の弟子で、為永春笑、後に二世春水を名乗り、明治十一年に『東京絵入新聞』の記者になってからは、いわゆる「続きもの」の筆をとって、「事実めかすが半ば以上空想によつて艶話」を多数紙上にのせて、人情本風の物語を復活しました。  本間久雄氏は前記の「浅尾岩切真実競」を延房の作としています。  高畠藍泉は、天保九年(一八三八年)江戸の生れで、延房、魯文などより若く、明治維新のときは三十歳でした。そのころは画家あるいは俳人として地方を漂泊していましたが、明治五年に条野有人らと『東京日日新聞』を創刊し、八年には『平仮名絵入新聞』(後に『東京絵入新聞』と改題)を起して主筆になり、記事に挿絵を入れるという新機軸をはじめました。明治十三年に読売新聞に入り、その後大阪に行きましたが、同十八年に四十八歳で歿しました。  藍泉の作品としてはまず明治八年に刊行された「怪化百物語」をあげるべきでしょう。これは魯文の「安愚楽鍋」などと性格を同じくする開化期の諷刺もので、開化の世になって、窮理の学問が進むにつれて、妖怪の類は影をひそめ、「小説《げさく》者《しや》流《りう》の手稿の種に都合も悪く」なったが、「真の変化は無いにもせよ、人間中の化物の穴を探索《さぐる》も稗《さく》官《しや》の得意」であると、作者が序文で云っているように、開化の世相の生んださまざまの人物を捕えて、その言行の矛盾を諷刺したものです。  「殿様の化物」「書生の化物」「絃《げい》妓《しや》の化物」「麦湯女の化物」「若《わか》商《だんな》の化物」などの諸章が、それぞれの人物の独白か簡単な会話の形で独立した短篇をなしています。  いわば着想の面白味だけで、内容は浅薄なものですが、作者の才気はうかがえます。  藍泉は明治十五年にかねて尊敬していた柳亭種彦のあとをついで、二代目種彦と号しましたが、その前後からさかんに戯作の筆をとり、「岡山紀聞筆の命毛」(明治十五年刊)などで世評を得ました。藍泉の草双紙は、内容から見れば初代種彦にくらべて、何等の創意はなく、逍遙が烈しく攻撃したように、旧時代の遺物にすぎないものでしたが、前述したような、旧文学復活の潮流に乗って、同時代の社会からは非常に歓迎されたので、明治初年から十年くらいまでを魯文の時代とすると、十二三年から十六七年ごろまでは藍泉の時代といえます。  逍遙が「小説神髄」の緒言で、「想ふに我国にて小説の行はるゝ此明治の聖代をもつて古今未曽有といふべきなり。……実に小説全盛の未曽有の時代といふべきなり。」といっているのは、主として藍泉と彼の一派の作品をさしたものと思われます。  藍泉の作品が、これほど広く行われた原因のひとつとして、彼が草双紙の体裁を改良して、明治の新時代に適する形にしたことがあげられます。  それまでの草双紙は毎頁に挿絵を入れ、というより挿絵の一部に木版刷りの本文が這入っている体裁であったのを、藍泉は本文を活版刷りにして、挿絵の数も大きさも思い切って減らし、「読む」ことを主とした新しい形の小説本をつくりだしました。(なお、このころの新聞、草双紙には、挿絵の役割が大きく、画家は小説家とならんで小新聞の重要な存在でしたが、このなかで猩々暁斎、月岡芳年などがもっとも有名でした。)  これも鋏の創意が外形的な思いつきの範囲にとどまった一例といえましょう。藍泉は新しい小説本の外形はつくりだしたが、内容を改新することはできなかったので、それは名古屋出身の大学生坪内逍遙の手をまたねばならなかったのです。  「当世書生気質」は、書物の体裁は藍泉の草双紙にならったものですが、その作者は当時の戯作者について次のように云います。  「されば戯作者といはるゝ輩も極めて少々ならざれども、おほかたは皆翻案家にして、作者をもつて見るべきものはいまだ一人だもあらざるなり。故に近《ちか》来《ごろ》刊行せる小説、稗史はこれもかれも、馬琴、種彦の糟粕ならずば一九、春水の贋《にせ》物《もの》多かり。」  この評価は今日から見ても正しいのですが、当時にあっては、極めて大胆な、むしろ苛酷なものであったと云えましょう。  藍泉は、ちょうど「書生気質」と「神髄」の発表された明治十八年(一八八五年)に歿し、延房も翌十九年になくなり、魯文は明治二十三年に文壇を引退し、二十七年に世を去りました。  戯作者の時代は、ある意味で逍遙の出現を準備し、彼の登場によって終ったのです。 第二節 啓蒙思想 ——明六社の人々——  「夫《それ》人は、万物の霊とて、天地間に稟生《うまるゝ》もの、人より尊きものはなし、殊に我国は神州と号て、世界の中あらゆる国々、我国に勝れたる風儀なし。尊き人と生れ、勝れたる神州に住ながら、其辺へは心もつかず、徒《いたづ》らに一生を過るは、云がひなきことならずや。」  これは明治元年(一八六八年)十月、京都府が、府下の人民にあたえた「告諭大意」の書きだしです。  この一節の文章に見られる、奇妙な思想の混合は、明治人の心理を象徴しています。  人は「万物の霊」であり、天地間にあるもので「人より尊きはなし」というのは西洋の近代思想の反映であり、明治新政の原則であった「四民平等」の精神と表裏をなしています。  この近代ヒューマニズムの主張が、一方において封建制度を打破する力として働きながら、他方「神州」の信仰と何の矛盾もなく結びつき、「尊き人と生れ、勝れたる神州に住む」という選民意識に転化して行ったので、この非論理が心理の現実として存在したところに、明治初期の特色があります。  「人」と生れて、平等の機会を与えられ、明治の新政によって、選良たる好運を把むことができると信じたのは、下士階級出身の書生で、政権の座についた強藩の陪臣は勿論、これまで封建の身分制度に縛られていた才幹ある小士たちに、維新は出世の好機と映りました。  多くの優秀な青年たちが、各藩の貢進生として、東京に集ってきましたが、彼等にとって学問とはそれによって門閥を打破して進む出世の具でした。  「人は生れながらにして貴賤貧富の別なし唯学問によりて物事をよく知る者は貴人となり富人となり無学なる者は貧人となり下人となるなり。」と福沢諭吉は「学問のすゝめ」の冒頭に云います。  「文明」という言葉も、「学問」とほとんど同じ意味でつかわれたので、文明の学問を修めて、出世の道を進み、新時代の選良として国民を導くことに、書生たちの理想がありました。  サミュエル・スマイルスの「自助論」が「西国立志編」という題名で訳されたのも、こういう時代の空気の反映です。  中村敬宇の訳したこの書物は、前記の福沢の「学問のすゝめ」と並んで、当時の青年知識階級の聖書として、ひろく読まれました。  前者は明治四年、後者が明治五年と、ほとんど時を同じくして刊行されているのも、その時代的意味を語っていますが、その青年にあたえた影響は、むしろ「西国立志編」の方が深かったようです。  むろん福沢諭吉は、当時の洋学を基礎とした啓蒙思想家のうちでは、第一人者としての存在であり、その権威はひろく朝野にみとめられていましたが、その文章は、あまり平俗で一般の耳に入り易いことを主眼としたため、ややもすれば漢学に養われた書生たちの顔をしかめさせ、彼の「拝金宗」を実質以上に卑俗なものに誤解させがちでした。  「福沢先生のものが当時の一部分の者に反感を以て迎へられ、或は嫌はるゝに至つたのは、其内容の故ばかりでなく、其頃の眼から見れば余りにも学問的修辞をおろそかにしたものに見えたからであらう」と幸田露伴がいい、これに反して、「当時において中村敬宇先生が尊敬せられたなどは、先生が漢学者としてだけでも既に立派な地歩を占めてゐられたためで……其の翻訳立志編を通じて、攘夷的感情の懐抱者までをして西洋文明を窮知するに至らしめたのも、実に立志編の文が漢学的に瑕《か》疵《し》無くて平明であつたゝめである。」とし、さらに当時は、「西洋学に通じ、若《もし》くは西洋事情に通じた人々……に対しても、世はそれらの人の洋学の造詣の深浅よりも漢学国学の素養ある点に就て文学上には尊敬と仰慕とを寄せたのであつた。」と附加えているのは、この時代の書生の気風を語る興味ある証言です。  これらの人々が集って、明治六年七月に明六社が組織され、翌年三月にはその機関誌『明六雑誌』が発刊され、啓蒙思想の中心として、同時代に大きな感化を及ぼしました。  社員には、主唱者である森有礼をはじめ、福沢諭吉、中村正直、加藤弘之、西《にし》周《あまね》、津田真道、西村茂樹らがあり、これら、「西洋学に通じた」知識人たちは、政治的主張や立場を越えた、「学術研究、知識交換」のために、毎月会合して、諸説討論し、その内容を雑誌に発表して世に問いました。  『明六雑誌』は、したがって、最も権威ある人々の、最も進歩的な思索の結果として、たんに青年知識層だけでなく、政府の大官にも熱心な読者を持ち、有力な輿論を形成しました。体裁は眇たる小冊子でしたが、そこで論じられる問題は、政治風俗社会教育などあらゆる分野にわたり、やや雑駁で上滑りを免れませんでしたが、時事問題を回避せず、真面目な思索でぶつかろうとする意気込みは、啓蒙期に特有な自負と情熱が執筆者のあいだにみなぎっていたことを感じさせます。  風俗文化の面では、当時西洋風の結婚をした森有礼が「妻妾論」を書き、国字問題は、西周の有名な「洋学ヲ以テ国語ヲ書スルノ法」が創刊号にのせられたのを始めいくどか論じられ、西村茂樹は、文明開化、自由自主、権理(権利)など、当時よく使われた新語を、それぞれ原語と対照し、その意味を明確にしようと試みています。  そのほか西周が、彼の哲学の一端を「知説」として連載し、文学についてふれたり、津田真道が「開化ヲ進《ススム》ル方法ヲ論ス」として外人牧師の力をかりて、キリスト教を布教する策を説いたりしていて、明治初年に知識階級の頭脳を占めていた問題が、現代のそれといくたの共通性を持つことを示しています。  『明六雑誌』の寿命は比較的短く、政府が明治八年六月、民間の言論を取締るため、讒《ざん》謗《ぼう》律《りつ》を制定したので、福沢諭吉がそのような圧迫のもとでは正論を吐くことはできないから、雑誌を廃刊すべしと主張し、それが同人多数の賛成を得たため、同年の十一月に四十三号で廃刊になりました。  しかし同人たちが、その後もながく啓蒙家として、それぞれに活動したことは変りなかったので、彼等の言説はいずれも時代の指導的言論と仰がれました。  彼等のなかの主な三四の人々の略歴を述べることは、おのずから時代の姿を示すと思われます。  中村敬宇は名を正直といい、天保三年(一八三二年)に江戸麻布に生れました。父は貧しい幕臣でしたが、正直は早くから秀才のほまれ高く昌《しよう》平《へい》黌《こう》で頭角を現わし、三十一歳で異数の抜擢をうけ、幕府の儒者に任じられました。しかし彼は一方で英学を修め、開国論を主張し、慶応二年に川路太郎とともに英国留学生の取締役としてロンドンにわたり翌々四年に幕府が倒れるまで、同地にいました。  ロンドン滞在はわずか一年余で、勉学の条件もあまりよくなかったようですが、彼は日本にいたときと同様、寝食を忘れて勉励し、英国人の生活についての理解も深めました。  「立志編」の原書Samuel Smilesの"Self-Help"は帰国のとき、友人に送られたものですが、当時英国でも相当な成功を収め、多くの外国語に訳された書物で、イギリスのヴィクトリア時代の精神がもっともはっきり現われています。  ここに述べられた自主と勉励とを基礎とする功利主義道徳は、敬宇にとって新時代の指標と映ったので、彼は徳川家にしたがって、静岡に移住し、同地における学問所の教授に任ぜられている間に、これを翻訳して明治四年七月に刊行しました。  その序文に、この書物を訳しているとき、なぜ兵書を訳さないかと或る人にきかれたが、「西国の強」は兵によるのではなく、人民が天道を信ずること篤く、自主の権利を持ち、政治が寛容で法律が公正であるためであるといい、「国の強弱は人民の品行による」という原著者の言葉をひいていますが、これは、この書物の中心思想と、彼がそれを訳した動機とを一言で示しています。  原著者の思想は、自主独立の精神をもって奮闘努力することを最高の善としたので(註一)、「天ハ自ラ助クルモノヲ助クト云ヘル諺ハ……僅ニ一句ノ中ニ、歴《コトゴト》ク人事成敗ノ実験ヲ包蔵セリ……自ラ助クル精神ハ、凡ソ人タルモノノ才智ノ由テ生ズルトコロノ根原ナリ……自ラ助クル人民多ケレバ、ソノ邦国、必ズ元気充実シ、精神強盛ナルコトナリ」とこの書物の冒頭に記されています。  これが明治初年の書生がまさに求めていた道徳でした。  忠孝を基本として、分に安ずることを教える旧時代の道徳が、新事態に適合しないことを感じていた青年たちは、この新しい教えに、それが在来の道徳の語《ご》彙《い》で説かれていただけに、尚更親しみ易い、心の拠り所を得たので、中村が一代の師表と仰がれた理由は、ここにあると思われます。  スマイルスの説いたところは、一応成敗をはなれた内面の道徳律であり、「善事ヲ企テヽ成ラザルモノハ善人タルコトヲ失ハズ、故ニ敗ルヽト雖ドモ貴ブベシ」としていますが、その教えの重点は「然リトイヘドモ善事ヲ志シテ成就シタランハ、失敗シタルニハ遙ニ勝ルベシ」ということにあり、「凡事ノ成就スルハ、人ノ定志アリ、勉力アリ、忍耐アリ、勇気アルコトノ結果効験ナリ」とし、「成就の賜」は「勉強シテ已マザル」人にあたえられた「天賞」とする点では楽天的な功利主義であり、成就した善だけを真の善とみとめているといえます。  しかし、当時の青年が求めたところも、彼等の出世欲のための奮闘を肯定し、成功を善とする道徳であったので、多くは家禄をはなれて貧困の淵にしずんでいた士族の子弟たちは、「貧苦艱難ノ二者ハ、決シテ人ノ進路ハ妨ゲルモノニアラズ……艱難ノ事ハ、毎《ツネ》ニ人ヲシテ労苦忍耐ノ力ヲ惹起シ、非常ノ才能ヲ発生セシムル事ナレバ、補助ノ最モ善キ者ト称シテ可ナリ」というような思想が西洋にもあることを知って大いに力づけられたのです。  同じように英国の流れを汲む啓蒙家であっても、福沢諭吉は徳性よりむしろ智力を重んずる傾きがあったにたいして、敬宇の説は、功利主義を在来の儒教道徳と調和し、後者によって前者を修飾する傾向が強かったので、諭吉がつねに在野のジャーナリストの一面を持ったにたいし、敬宇は早くから、官立学校の教授を歴任し、次第に官許の道徳家と見られるような立場にうつって行きました。  明治五年に上京すると、まもなく大蔵省の翻訳官になり、翌年から小石川の自宅に同人社をひらいて、英学教育の一中心とし、訓盲院(盲唖学校)をおこし、東京大学教授に任ぜられ、女子高等師範学校校長、貴族院議員として生涯を終りました。  彼のこうした経歴はその思想にふさわしかったので、時代の思潮と没交渉になったのちも、世の尊敬をあつめたことに変りありませんでした。  西周は、文政十二年(一八二九年)に、石《いわ》見《み》国(島根県)の津和野に生れました。鴎外とはよほど齢がちがいますが同郷の先輩であり、鴎外は少年時代、西の家に寄宿したことがあります。  津和野は学問の盛んな藩でしたが、藩学の学風が朱子学にこりかたまっていたために、仁斎徂徠などは異端として仇敵視していましたが、十八のときたまたま病気になったため、聖賢の書は寝床のなかで読むわけに行かないが、異端の書ならよかろうというので家にあった「論語徴」(註二)を読み、はじめて古学に興味を覚え、つづいて徂徠集をよんで、まだ半ばにも達しないうちに、「十七年の大夢」が一朝で醒めたような気持を味ったといっています。  この古学への開眼は、古学を儒教の枠のなかでおのずから生じた近代思想への眼覚めと考えれば、たんに西一個の経験以上の意味を持ち、後に彼の心が西洋思想にひらかれて行ったことにも関連を持つと思われます。  嘉永六年(一八五三年)に二十五歳で江戸にでて、はじめて蘭学を学び、安政三年(一八五六年)には英学にも着手して中浜万次郎に発音のことをただしたりしましたが、翌四年に幕府の蕃書取調所教授手伝並になり、津田真道、加藤弘之、神田孝平らと同僚の交際を結び、そのころからすでに西洋哲学に興味を持ちました。文久二年(一八六二年)に幕府からオランダ留学を命ぜられ、ライデン大学に入って法律、経済、哲学などを学び、コントに興味を持ちました。西の哲学思想の基礎を形造ったのはコントの影響と云われています。  西がこれらの学問を選んだのは、在来自然科学に偏していた我国の洋学には、これらの知識がまったく欠けて居り、しかもそれが「国際関係の増進」「内政並に諸般の改革」に「須要なる学問」であるためだ、と云っていますが、これは彼の先見というより、むしろ当時の洋学者一般の「時勢」にたいする思想であったと思われます。  しかし西は、個々の学問をできあがった専門知識あるいは技術として輸入することが忙しかった時代に、「諸学の学」である哲学にとくに興味をひかれ、西洋の学問一般の体系的、綜合的な紹介を目指した点では、時流を抜いた先覚者といえます。  慶応元年(一八六五年)に帰国して、翌年に開成所(蕃書取調所)の教授に任ぜられ、徳川慶喜によばれて京都に赴き、慶喜に重く用いられましたが、維新後は沼津の陸軍兵学校頭《とう》取《どり》に任ぜられ、明治三年に上京して兵部省に、翌年宮内省に出仕を命ぜられ、以後、陸軍省と宮内省につとめて、元老院議員、貴族院議員などに任ぜられ、勲一等、男爵として明治三十年に歿しました。  彼の著述としては、『明六雑誌』に連載された「知説」、京都時代の講義をもととしたといわれ、明治七年に発表された「百一新論」などが有名ですが、そのほか注意に値するのは、彼が明治三年、上京とともに福井藩の子弟のためにひらいた育英社でした講義をまとめた「百学連環」です。  これは一種のエンサイクロペディアの試みであり、今日伝っている不完全な形で見ても体系と綜合を重んじる西の面目がもっともよく現われています。  西自身が冒頭に云うところによれば、「百学連環」とはエンサイクロペディアの訳語であり、これを講義することは、普通、現代の西洋では行われていない、いま之によって「浅学の輩を導かむと」するのは「余の創見」であるといっています。  おそらく彼はこのとき、エンサイクロペディアのギリシャ語の原語が「童子を輪の中に入れて教育なすとの意」であることを頭において、若い日本の書生たちを、西洋の百学の「環」のなかにおこうとしたと思われます。  「環」の構成は、最初に総論をおいて、学と術の区別と連関を論じ、ついで第一篇、普通学のなかに歴史論、地理学論、文章学論、数学論、を含め、第二篇、殊別学のなかに、神理上学論、哲学論、政事学論、格物学をおき、一応学問の分類を完成しています。  そのひとつひとつの内容は粗雑を免れていませんが、ともかく微積分から神学(神理上学論)、哲学などを、それぞれの性格に応じた地位において紹介したこと、「哲学」の項では、美学がすでに「佳趣学」として紹介されていること、哲学史ではターレスからヘーゲルまでの流れが一応叙述され、西洋哲学が東洋のそれと異るのは、「西洲の学者の如きは、太古より連綿其学を受るといへども、各々の発明に依て前の学者の説を討ち滅《け》し、唯タ動かすべからさるのことのミを採るか故に、次第に開け次第に新たなるに及」んだ点にあるとしているのなど、特筆に値します。(註三)  西の教えは当時、多くの人に伝らず、今日では哲学、あるいは国語問題の先駆者として記憶されるだけです。これは西洋の学問自体が、次第に細かく専門化して発達する傾向をとったのと、それを慌しく輸入した我国では、さらに深く狭い知識が重んじられ、「百学」の「連環」を考えたりすることは事実上不可能になって行ったのが主要な原因です。しかし一方において、人間と科学との関係がいま一度考え直されねばならぬ時期に現代がさしかかっているとしたら、東西の思想がまともにぶつかり合う場所で、百学の連環と百教の一致を考えた西の思想は、今一度見直されてよいと云えます。  中村、西などがその学識を官吏としての栄達に蔽われてしまった観があるに対して、終生民間人として止まり、ジャーナリスト、教育家として、縦横に才腕を振い、一世を風靡する影響力を持ったのが、福沢諭吉です。  諭吉については、有名な「自伝」をはじめ、多くの伝記がひろく行われていますから、その事蹟をごく簡単に述べると、彼は大分県中津の下級藩士の息子として天保五年(一八三四年)大阪で生れ、始め長崎に、のちに大阪で洋学を学び、安政五年(一八五八年)に江戸にでて蘭学塾を開き、一方蘭学の時代はすでに去ったことを知って英学を学び、万延元年(一八六〇年)に幕府の遣米使節に従って、米国にわたり、ついで文久二年(一八六二年)にも遣欧使節の随員として渡欧し、英仏露国を巡歴し、さらに慶応三年(一八六七年)にも渡米し、英学の知識と、これらの外遊から得た経験から、日本に何より必要なのは、国民独立の気象であるとして、国内では政府にたいする人民の権利を主張し、外国にたいしては国権主義の立場をとり、国強く民ゆたかな英国を理想として、功利主義と富国強兵を説きました。  彼の著作で最もひろく行われ、時代の人心に大きな影響をあたえたのは、明治五年から九年にわたって書かれ、分冊として刊行された「学問のすゝめ」十七篇です。  「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」という有名な言葉で始まるこの書物は、そのように本来平等な人間も、その「働《はたらき》」の有無によって貴賤貧富の差別が生ずるのであり、その「働」は学問の深浅によって定まるとして、出世のため実用のための学問の必要を明快に説いています。  彼が学問の功利性を強調したのには、実用に役立つ学問を当時の社会が求めていたからだけでなく、前時代以来の学問にたいする偏見を打破するためでした。旧幕時代の武士気質が、個人の出世や栄達のために学問をすることを卑《いやし》んだのは云うまでもありませんが、維新によって解放された農工商の三民にとっても学問は一般に風流に似た無用の消閑の具であり、家業に精を出す妨げにはなっても、役に立たぬとするのが、社会の通念でした。  諭吉はこの弊をみとめて、新時代の学問は「唯むづかしき字を知り解し難き古文を読」むような「世上の実なき文学」ではなく、「人間普通日用に近き実学」であり、「是等の学問をするには何れも西洋の翻訳書を取調べ……才文ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押へ其事に就き其物に従ひ、近く物事の道理を求て今日の用を達する」のであると説いて、その必要性を士族平民の別なく納得させようとしています。  この書物が新時代の青年たちの指針として広く読まれたのは、明治十三年(一八八〇年)までに十七篇で七十万部を売り、そのほかに偽版が十数万部出たようだと諭吉自身が誌しているのでも明かです。  そしてこのような売行きは、当時の書物としては例外であり、彼自身の云うように「古来稀有の発見」であるに違いありませんが、諭吉の著書としては前例のないことではないので、彼が慶応二年に刊行した「西洋事情」もほぼこれに近い売行を示しています。  この書物の初篇は正版偽版合わせて、二十万乃至は二十五万部を売ったということで、この部数はほぼ「学問のすゝめ」の初篇のそれと匹敵します。  福沢は今日の言葉で云えば、ベスト・セラーの著者であったので、彼の著書の売行にくらべれば、当時の戯作などはものの数でなかったのです。  彼が出版から得た利益も莫大なもので、それによって生計を維持しただけでなく、慶応義塾の経営もまかなうことができました。  このように世に迎えられた理由としては、まず内容が時宜に適していたことをあげなければなりません。彼が啓蒙家として日本に対して抱いた愛情と、ジャーナリストとしての才能は、そのときどきの真面目に考え、真剣に事に当ろうとしている日本人が、何を求め、何を問題としているかをよく見抜いたので、「西洋事情」も「学問のすゝめ」も、「文明論之概略」もみなそれぞれの時勢に応じたタイムリーな著作であり、その説くところがたとえ奇矯であり、一般人の耳に逆うようなところがあっても、著者の真意が結局日本をよりよい国にしようとする熱情であることが、おのずから感じられたところに、彼の著作の成功の最大の原因があったと思われます。成功とはたんに売行の良さを云うだけでなく、その影響力の広さと深さを指します。彼の著書は、当時の改新を実際に推しすゝめる力として働いたので、晩年の彼が、全集発刊にさいして次のように云っているのは正当な自負と云えましょう。  「新日本は一朝の誕生に非ず、因果の理路を尋ね来れば近きは四十年遠きは四百年の其上にも越えて変遷沿革の端緒を見出すことある可し。左は云へ兎に角に日本が旧物破壊新物輸入の大活劇を演じたるは即ち開国四十年のことにして其間の筋書と為り台帳と為り全国民をして自由改進の舞台に新様の舞を舞はしめたるもの多き中に就て余が著訳書も亦自から其一部分を占たりと云ふも敢て疚《やま》しからず……左れば其筋書台帳を彼れ是れ寄集めて之を後世に保存するは近世文明の淵源由来を知るに於て自から利益なきに非ず、歴史上の必要と云ふも過言に非ざる可し。」  たしかに明治文明の性格をその「淵源由来」にさかのぼって知るには、福沢の著作は重要な地位をしめています。明治の社会は、彼の説いたような功利主義をその主義とし、彼の説いた「拝金宗」の方向に、彼の教えを越えて進んだのです。  彼の著書をひろく行渡らせたつぎの原因として、平易な文体の創始をあげられます。  さきにひいた露伴の文章にあるように、当時は洋学者といわれた人々も漢学の素養をかなり持ち、翻訳などをするときは漢語に頼ることが多かったなかで、諭吉は早くから、「漢学流行の世の中に洋書を訳し洋説を説くに文の俗なるは見苦しとて、云はゞ漢学者に向て容を装ふ」旧慣から脱却して、あくまで「俗間に通用する俗文」を主体として、これに必要があれば、自由に漢語も挟んで、「雅俗めちやめちやに混合せしめ恰も漢文社会の霊場を犯して其文法を紊乱し唯早分りに分り易き文章を利用して通俗一般に広く文明の新思想を得せしめんとの趣意」にもとづいて文章を書く決意をして、それを実行にうつしました。  多くの文章改革者がそうであるように、彼の新文体の工夫はたんに表現法の新しい主張にもとづくのではなく、「通俗一般に広く文明の新思想を得せしめん」という彼の思想の内容あるいは性格から来ていました。彼の文章観は、「教育なき百姓町人輩に分るのみならず山出しの下女をして障子越しに聞かしむるも其何の書たるを知る位にあらざれば余が本意に非ず」という考えからでていましたが、それと同時に、彼の持って生れた実証精神、「其事に就き其物に従ひ近く物事の道理を求」める要求が、漢学の空疎な修辞と概念の世界に組み込まれることを本能的に警戒したためでした。(註四)  明治文学の新しい文章が、やはり俗語をもとにして、二十年後に二葉亭によって工夫されたことを思うと、ここに彼の精神の時代を越えた独創があったと思われますが、それだけに彼の文章は、その思想の内容と同様、当時の知識階級の趣味に、或る不快な衝動をあたえるものであったので、これが一部の知識階級の彼にたいする反感を挑発すると同時に、彼の言説をいつも時代の注視の的にする作用をしたと思われます。  このような刺戟の強さは、たんに彼の文章の形式だけでなく、その内容にもありました。同じことを云うにも、云いまわしで、人の意表にでて、それを強く印象づけるのは、ジャーナリストに不可欠の才能ですが、諭吉はこれに十二分にめぐまれていました。  「学問のすゝめ」の第七篇の終りで、「今彼の忠臣義士が一万の敵を殺して討死するも、権助が一両の金を失ふて首を縊るも其死を以て文明を益することなきに至ては正しく同様の訳にて」云々という一節から、世上に楠公権助首くくり論をまきおこしたりしたのはその一例です。  前節に述べた「怪化百物語」で藍泉はこの言葉を抜目なく「書生の化物」に口にさせています。諭吉自身の否定にかかわらず、また彼にその意がなかったにかかわらず、この言葉は「忠義」の否定として一般から受取られたのです。  そのほか明六社の主唱者であり、その社主に推された森有礼は、薩摩の藩士ですが、幕末から英国に留学し、維新後は外交官として、また文部省の官吏として重きをなし、駐米代理公使、駐清公使、駐英公使、文部大臣、などをつとめ、一方において国権論者でありながら、思い切った改革論を唱えたので有名です。  我国の結婚制度の改革を説いて、明治八年(一八七五年)二月に静岡藩士族の女広瀬阿常と福沢諭吉を証人として、誓約書を書いてこれを式場で読みあげるという当時は類例のない結婚式をあげてそれを実行しました。  また、日本語を廃して英語をもって国語に代えようという議論を唱えたこと、信仰の自由を強調したことなども、彼の改革者としての一面を示しています。  しかし明治十八年に彼が文部大臣になってから強行した教育制度の改革は、国家主義の匂いのつよいもので、彼の思想の他の一面を語っています。  彼が明治二十二年の二月十一日、憲法発布の日に神官の子弟である刺客に暗殺されたのは、伊勢神宮に参詣の際、神前の垂幕をステッキでかかげたという風説のためで、彼の直情径行が次第に周囲に堆積して行った誤解が、この悲劇的結末を招いたものと云えます。  以下の社員については略しますが、彼等は大部分、維新以前に外遊の機会を持った洋学者たちで、その説くところは、西洋の「文明」をできるだけ速やかに我国に普及することであり、個々の問題について政府を批判しても、根本において敵視することはなく、国民を開化に導く仕事で政府を援け、これを鞭撻しようというのが趣旨でした。  彼等のなかから、後に官途に栄達した人が沢山でたのは偶然ではないので、文化的には急進派であっても、政治的には現実主義的な中立あるいは政府の味方というのが彼等にほぼ共通の立場でした。  こういう態度は、明治初年のように、政府自身が進歩の使命を自覚していたときだけ可能であり、明六社が活気を帯びたのも短い一期間でした。  しかしここで彼等によって代表された、社会的に恵まれた地位にいる知識人たちの特権意識と表裏する社会的使命感と彼等の専門家としての自負に裏づけられた政治的中立主義は、明治の知識階級の気質の一面に根強く生残ります。 第三節 漢学者の戯文  どんな思い切った変革も、社会全体の相貌をかえるにはかなり時間を要します。明治維新の指導者が目指した西洋文明の移入による近代国家の建設も、これまでの国民生活の伝統を根本から覆す大事業であるだけに、とくにはじめのうちは、当事者があせるほどには、はかどりませんでした。  「今日口を開けば則開化を談ずる形勢に至れり。然れども此口を開けば則開化を談ずる者僅かに官員書生新聞紙編集者の数十百人の外に出ず。之を我邦の三千万の多きに比較せば果して幾百千分の一に居るや、果して開国の人民は依然たる旧習の人にして、概して之を云へば地獄極楽因果応報五行方位等無根の説に迷へる愚民なり。」(「開化を進る方法を論ず」) と『明六雑誌』に津田真道が書いていますが、これが当時の我国の実状でした。  東京の市街が築地や銀座の一部に西洋風の建物や街路ができても、諸大名の屋敷や旗本の屋敷などが大部分そのままに残って海鼠《なまこ》壁《かべ》の長屋が、むかしのままの江戸の景観を保っていたように、小学校が普及しても依然として、漢学塾が初等教育の有力な機関であったように、大部分の知識人が楽しむ文学も、依然としてむかしのままの漢学と国学が中心でした。  「社会の文権はかゝる期間に何様いふ人の手にあつたかといふと、言はず語らずの間に徐々の推移を為してゐたとはいへ、前代からの積威は厳として抜く可からざるの勢を有してゐて、今の人々の文学などといふものは数まへらるゝにも足らぬ下層のものとして見做されて居り、やはり漢学者国学者が正面をきつてゐたのであり」と露伴は、さきに引用した文章でいい、「川田甕江、重野成斎、三島中洲、島田金重、岡千仭、坂谷朗廬、依田学海らの漢学者、本居豊《とよ》頴《えい》、黒川真《ま》頼《より》、井上頼《より》圀《くに》、小中村清矩、権田直助らの国学者」の名を「世の文学の権威」としてあげています。  これらの他にも歌人、漢詩人として名をなした人々は多かったのですが、彼等の作品はここでは扱いません。(註一)  僕にこの方面の知識がないだけでなく、露伴も云うように、彼等の考えていた文学は、今日僕等の云う文学とまったく異質のものであるからです。  しかし今日では滅びた、これらの伝統文学の教養が、明治人の精神の根底をなしていたことは、序説にも触れましたが、僕等の忘れてはならないことで、これが明治文学を或る意味で現代人にとって異質なものにしているし、また当時の——新しい意味の——文学者が、これらの伝統から逃れるために、演じた必死の身振りが、微温的な改良に見えたりするのです。  しかし、これらの伝統文学者自身も、すべてが旧慣の殻を頑固に守っていたのではなく、「言はず語らずの間に推移する」時勢は彼等の一部に働きかけて特異な文学を生んだので、明治初年における、そのもっとも著るしい現われは、成《なる》島《しま》柳北、服部撫松、田島象二らによる戯文、戯詩の盛行です。  これらの漢文学のゲテモノは、当時の書生たちの心情によく適合して、非常な歓迎をうけ、今日の雑誌文学が果すような役割を、当時の青年に対して果したので、右に引いたような人々が明治初期の新聞雑誌の発達と深い関係を持つのは偶然でありません。  鴎外は「雁」のなかで主人公岡田の文学趣味は「漢学者が新しい世間の出来事を詩文に書いたのを、面白がつて読む位」であったといっていますが、戯作者でなく、漢学者の書いた戯文が喜んで読まれたところに、当時の学生の好みの特色があります。  永井荷風は、こういう「漢文体の雑書」の文章の特色を次のように述べています。  「『東京新繁昌記』は……正確な漢文をば、故意に破壊して日本化した結果、其の文章は無論支那人にも分らず、又漢文の素養なき日本人にも読めない。所謂《いはゆる》鵺《ぬえ》のやうな一種変妙な形式を作り出してゐる。この変妙な文体は今日の吾々に対しては著作の内容よりも一層多大の興味を覚えさせる。何故なれば、其れは正確純粋な漢文の形式が漸次時代と共に日本化して来るに従ひ、若し漢文によつて浮世床や縁日や夕涼の如き市井の生活の実写を試みやうとすれば、どうしても支那の史実を記録するやうな完全固有の形式を保たしめる事が出来なかつた事を証明したものと見られる。又江戸以来勃興した戯作といふ日本の写実文学の感化が邪道に陥つた末世の漢文家を侵した一例と見ても差支へがないからである。  『東京新繁昌記』の奇妙な文体は厳格なる学者を憤慨させる間違つた処に、その時代を再現させる価値が含れてゐるのである。」(「虫干」)  荷風の母方の祖父は鷲津毅堂であり、父も禾《か》原《げん》と号して漢詩をよくしたのですから、荷風は「厳格なる学者」の気質をよく知っていた筈です。しかし、彼の家にもこういう「雑書」が入りこんでいたのは、正統派の漢詩人がこれらの「邪道に陥つた」同僚の戯文を軽蔑しながらも、眼を通していた証拠と云ってよいでしょう。  「柳橋新誌」や「東京新繁昌記」を漢学者を侵した戯作の感化という荷風の直感はおそらく正しいのですが、同じく時代の世相を扱っても、戯作の狙う滑稽と、戯文(或いは当時の習慣に従って言えば狂文)の醸しだすそれとの間には大きな差異があります。  たとえば魯文の「安愚楽鍋」や「西洋膝栗毛」は開化の世情や外国旅行を背景に、人々の演ずる滑稽を案出したり記録するだけで、この世相あるいは時代の動きにたいする批判は、まったく見られません。お上に追従するほか、自分の考えを持つまいとする町人根性、あるいは幇間にひとしい生活に捉われた戯作者の性根がおのずからそこに現われて、かりにも自主の精神を持つ者が本気に鑑賞するに堪えぬものでした。  ところが狂文の方は、この崩れた漢文がおのずから生みだす滑稽のため、外見は平板な叙述が二重三重の皮肉になって、読者を喜ばせました。  漱石の「吾輩は猫である」に「首くくりの力学」という話がでてきますが、狂文の第一の可笑味は、これと同じような読者の意表にでた組合せからきています。荷風に云わせれば「不真面目極る問題をば、全然其れとは調和しない形式の漢文を以て、仔細らしく論じ出」すところにあります。  さらにその漢文の崩れて変形した文体が、筆者がその叙述の対象になった現象を白眼視しているとともに、そういう文章を書く彼自身を是認してもいないことを、おのずから読者に感じさせるところに、それが過渡期の知識階級に喜ばれた、最大の理由があったと思われます。  戯作者も自己を卑下したに違いなくとも、それは彼の社会的地位の低さにたいする自覚、あるいは反撥であり、彼自身の仕事の性質にたいする反省あるいは不満を含んでいません。  しかし柳北等の戯文はそれを意識するところに成立っているので、彼等がみなその力倆や抱負に相当する地位を社会から与えられなかった(あるいはそれを拒絶した)失意の隠者たちであったのは偶然ではありません。  この、或る意味でもっとも時代性の濃い、過渡期の文学の代表者は成島柳北(天保八年—明治十七年)です。  彼は本名を温といい、代々幕府に仕えた奥儒者の家柄で、父の稼堂は国文にも造詣深かった人です。彼自身も幼時から神童と称せられ、八歳のとき和歌集を著したと云われています。十七歳のとき父の死に遭って家督をつぎ、やがて将軍家茂の侍講になって、学者として頭角を現わしましたが、追々急迫する時勢にたいする門閥にとらえられた幕府の腑甲斐なさを慨して、狂詩をつくり、権官を罵ったため免職になり、謹慎を命ぜられました。  彼はむしろこの処分を喜ぶように、以後三年間門を鎖してもっぱら英学を修め、洋学者と交るだけで世塵を遠ざかっていましたが、慶応元年(一八六五年)幕府が西洋風をとり入れて兵制を改革した際に、禄千石で歩兵頭並になり、さらに慶応三年には二千石の騎兵頭に任ぜられ、翌年には外国奉行会計副総裁に進みました。しかしこの年はもう明治元年ですから、この職はほとんど名目だけのもので、慶喜が将軍職を退くとともに隅田河畔に引退しました。  「われ歴世鴻《こう》恩《おん》をうけし主君に骸骨を乞ひ、病懶の極、真に天地間無用の人となれり、故に世間有用の事を為すを好まず」と当時の心境を彼自身語っています。  この「天地間無用の人」という自覚を、彼は後半生を通じて持ちつづけたので、彼の文筆活動がどれほど華々しく、ときには政治的意味を持とうと、彼の「世間有用の事を為すを好まず」という態度は一貫していました。  西洋文明がすなわち有用の文明であり、功利的に生きることが新時代の自由と思われていた時代に、彼は徹底的にこれに反撥する姿勢をとったわけですが、それが世間に迎えられたのは、「開化」の風潮が一応世を蔽っているようでも、旧時代の風習や気質がまだ強く人々の心底を支配し、新時代の教養に理窟の上で反駁できなくとも、心に疑問を感じていた人が多かったからと思われます。  有用を斥けて無用の存在をもって自任した点で、柳北は逍遙の先駆者であっただけでなく、社会を局外者の立場から批判的に見ることを旨とした明治文学の気風は、彼に発しているとも考えられます。その表現形式の古風にもかかわらず、彼は功利主義に反撥した点で、次の時代に通ずるものを持つのです。  しかし明治三年(一八七〇年)には東本願寺に塾を開いて子弟を教え、おそらくその縁故で、明治五年に、本願寺の法嗣にしたがって欧米に遊び、六年に帰国しました。  そして翌七年に、朝野新聞の社長に迎えられてから、数百篇の文章を紙上に発表して、文名をあげました。彼の文章は漫録といわれ、時事にかんする随想でしたが、その政府攻撃はかなり鋭く、明治八年には新聞紙条例に問われて、禁錮に処せられましたが、そのためにかえって名声を高め、翌々年には雑誌『花月新誌』を発行して、一流の奇文をさかんにのせ、紀行や花柳事情を扱って、縦横の才筆を振いました。  柳北の文章の魅力は結局彼の個性の面白さに帰着するので、旅行記のなかに自から時事にたいする諷刺があったり、花柳界の裏面を描くことがそのまま時の政治の批判になったりするところに、他の追従をゆるさぬ点がありました。  彼の主要な著書は「柳橋新誌」です。これは、第一篇が安政六年(一八五九年)、第二篇が明治七年(一八七四年)に刊行されたもので、第三篇は明治九年の著とされていますが、発行禁止になり、今日では伝りません。このうちもっとも有名なのは第二篇ですが、これは第一篇をつくってから十余年を経て、一身上にも、また時代の動きでも、大きな変化を経験した筆者の感情が、古風な文体と、韜晦的な表現を透して、読者に訴えたからと思われます。  「徳川が滅びてから、市内の大名屋敷は桑畑や茶畑になつたところが多い。しかし柳橋の芸者は依然として繁盛してゐる。これは幕臣たちが兎のやうに逃げ、鼠のやうに潜んでゐるのにくらべれば、ずつとましではないか」という意味のことを、序文で云っていますが、彼はこの花街の生態を通じて、時代を描きだそうとしたので、ここには時勢と盛り場の関係が、いつの世にもあてはまる図式としてとらえられています。これを読んで金力、権力の持主と快楽を売る女たちとの関係が、現代でもほとんど変らないと思われるのは、戦後の世相がある意味で明治初年に似ているからだけではないので、柳北の時勢にたいする憤りが、たんなる漫罵に終らず、その歯に衣を着せない描写が、或る客観的な真実に達しているからです。(註二)  この書物の終りで、筆者は、この書物が寺門静軒の「江戸繁昌記」の系統をひくものであることを明かにし、当時幕吏は静軒を獄につなぎ、その書を焚いたが、世人の嘲笑を買っただけで、静軒の著書は今日も行われているではないかといっていますが、注目してよいのは、そのあとで、柳北が自分の著書を、西洋の新聞紙に比していることです。  「泰西諸国の新聞紙は多く是れ誹《ひ》謗《ばう》罵《ば》詈《り》の言にして、而も君主罪せず官吏咎めず、君子怒ず、争つて之を読み、以つて聞見を博め以て警成る知る焉、吾書の如きは即ち亦新聞紙にして用無きもの耳。」  これは彼がその才学見識に自信を持っていたように、この著書にも、ある積極的な価値を自負していたことを示しています。  我国にこのような寛容の時代がくるには、おそらく彼が予想していたよりはるかに長い時間を要しましたが、ともかく彼が当時の人々が見ようとしなかった西洋文明の一側面をはっきりと見、それに自分の仕事をつなげて考えていたことは事実なので、この「無用の書」が外形の古さにかかわらず、内容はのちの近代小説に通ずるものがあるのはそのためと思われます。  その他柳北には漢詩、雑録など多くの著作があります。かれの文章は戯文や狂詩であっても、その生れと教養のせいで正しい格調を持ったので、同時代人の手になるこれらの文章が、その性格上ややもすれば放肆にながれるのを、彼は常に批判し、戒めていました。  柳北と並んで、その戯文が世に行われた人に、服部撫松(天保十三年—明治四十一年)、田島象二(任天)(嘉永五年—明治四十二年)などがいます。  撫松は、本名を誠一といい、福島県二本松の儒家に生れ、明治三年(一八七〇年)廃藩置県後に家禄を奉還して上京しましたが、同七年に、「東京新繁昌記」を発表して、非常な好評を博しました。  これも「柳橋新誌」と同様に、静軒の「江戸繁昌記」の体裁を模したもので、「柳橋新誌」より、さらにひろい範囲にわたって開化の世相を戯文化したことが、世にむかえられる原因になったようです。  「繁昌記」は明治九年までに六篇、三十六章が刊行されましたが撫松が、ここで扱っているのは、たんに花柳界や盛り場だけでなく、学校、新聞、牛肉店、銀座の新市街、築地の居留地など、新時代を代表する世相を、如才なく網羅しています。  撫松の文章には、柳北のそれのように鋭い諷刺や機智にとんだ批評などは見られず、むしろこれらの世相を表面は肯定するようでいて、知らぬ間に茶化してしまうところに面白味があります。東北人特有のとぼけたユーモアです。  この書物とほとんど同時に、「東京開化繁昌誌」という同名の著書がふたりの別の著者によって刊行されていますが、撫松の「新繁昌記」はそのなかで抜群の成功を収め、印税として当時の金で四五千円を得たと云われています。これは今日にして見るとほぼ二千万円ちかい金額になるので、この書物の売高がいかに大きかったかわかります。撫松はこれで新邸を新築しましたが、明治九年(一八七六年)には週刊雑誌『東京新誌』を刊行しました。これは角書に昇楽余聞とあるように、泰平の時代の珍事や異聞を漢文あるいは漢文くずしの戯文で紹介したもので、華族、官吏、富豪等の花柳界における情事を中心にしたゴシップ雑誌とも云うべき性質でした。西南戦争を間近にひかえた時期に創刊された雑誌に、「昇楽」という角書をつけたのは、多少皮肉な意味もあったようで、読者も書かれた内容より、これを扱う筆者の文章や機智、時勢にたいする諷戒などを楽しんだようですが、やがて雑誌の型が固定するにつれて、猥雑な曝露を主とするようになったのは、止むを得ぬ勢いで、たまたまある顕官の令嬢の私行にふれた記事が当局の弾圧を招き、明治十六年(一八八三年)一月に発行を禁止されました。  この雑誌は、さきにふれた柳北の『花月新誌』、のちにのべる田島任天の『団《まる》団《まる》珍《ちん》聞《ぶん》』などと並んで、明治十年前後の読書階級にひろく親しまれたので、今日の週刊誌のあるものは、その再生と云えましょう。  撫松の文名は明治十年代の中ごろ絶頂に達したようで、十四年には『江湖新報』と題する政治雑誌を発行し、十五年には「東京新繁昌記」の後篇を二冊、「第二世夢想兵衛胡蝶物語」二冊などを刊行し、また高田早苗、天野為之等東大出の青年たちと一緒に『立憲自由新聞』を発行したのもこのときです。坪内逍遙が高田早苗等と共訳したスコットの「湖上の美人」が撫松の名で刊行されたのもこのころです。  しかし明治二十年(一八八七年)ごろから、彼の文名は衰えはじめ、二十九年には宮城県尋常中学校に作文教授として聘せられたのを機会に東京を去り、明治四十一年に歿するまでその職にありました。  田島象二もまた嘉永五年(一八五二年)に江戸に生れ、とくに国学を修め尊王攘夷を主張する志士でしたが、明治の新政に非常な不平を抱き、廃刀断髪令を無視して束髪して長刀を横えて街を歩くという風でしたが、時代に勝てぬのを知って遊蕩に韜《とう》晦《かい》し、明治十年三月に創刊された『団団珍聞』に入って、編集にあたり、狂文と狂画(今日の漫画にあたるもの)を発表して、文名を高めました。  『団団珍聞』は、狂体漢詩文の週刊雑誌ですが、その体裁はむしろ新聞に近く、『花月新誌』よりむしろ、『朝野新聞』の競争相手でした。  「滑稽と諷刺を以て天下に鳴つた。内容は茶説(社説をかく言ふ)、雑報、雑録、狂詩、狂歌、狂俳、都《ど》々《ど》逸《いつ》、川柳、其他平民的文学記事を満載し、鉛版刷の挿画に戯書、隠画、判じ画あり、何れも当時の精英を集めたもので、殊に狂体漢詩文を以て書かれた其の茶説、雑録及び狂詩は奇警なる観察、軽妙なる筆致を以て、滑稽の間に政治を諷刺し、又文明開化を自任して既に十年を閲《けみ》した社会に、幾多の笑ふべき矛盾、欠陥あるを発見して之を揶揄し、冷評し、皮相文明に眩惑せる為政者並に社会人に深刻な皮肉を加へたのである。……屡々当路の忌《き》諱《き》に触れて発行停止を食つたことが有るが、一般人からは多大の喝采を博し、上下都鄙に非常な勢で行渡つたもので、当時老少男女の話題の種ともなつたのであつた。」と木下彪氏が「明治詩話」で云っています。  『団団珍聞』はこうして一世を風靡し、模倣の雑誌も続出する勢で、しかも明治四十年まで三十年余のながい寿命を保ちましたが、田島象二在職二年たらずでこの新聞を退きました。(註三)  彼の文章があまり破格で、世人が「団珍調」と称して軽蔑するようになったからと云われています。その後彼は『文明余香同楽相談』という滑稽雑誌を独力で刊行し、「花柳事情」「東京妓情」などの著書もだし、「西国烈女伝」(明治十四年)というヴェラ・ザスリッチ等の伝記をあつめた書物を出版していますが、十五年以後はほとんど目立った仕事をせず、明治四十二年に歿しました。  象二の号は任天というのがもっとも普通ですが、ほかに酔《すい》多《た》道《どう》士《し》、行《いき》成《なり》山《さん》房《ぼう》主人などという戯《ふざ》けたのがあります。当時の人々はこういう戯号を好んでつけたので、服部撫松の「撫松」なども「孤松を撫して盤桓す」という成語からとったことになっていますが、実は不精の意を寓していたでしょう。こういう駄洒落を喜ぶ気風は明治初年にはひろく行きわたっていたようで、西周《あまね》も周をもじって、甘寝先生と号し、福沢諭吉も漢詩をつくるとき、雪池という号をつかいました。  これらの戯文家のジャーナリストの作品のほかにも狂詩はさかんに行われ、原田道義著「東京開化繁昌詩選」松本万年著「東京日日新文」宮内貫一、平山果著「日本開化詩」などが、その代表的なものです。これらはいずれも明治八、九年の刊行で、『団珍』や『花月新誌』の先駆をなしています。 第四節 政治小説  以上で大体明治十年前後の文学の概説をのべましたが、こののちの発展は、ある意味で、ここにあげた諸要素の混合と展開の歴史とも見られます。  明治文学には、外国の文学、文化の影響がとくに強く、海外から新しい主張が伝わり、文学作品が紹介されると、忽ちそのまわりに時代の注意が集中されましたが、これらの影響が実際は皮相なものであったために、文学の実質の上では、前後の時代のつながりが意外なほどはっきりしています。  明治十年代の半ばごろ、目立ってさかんになった文学は政治小説と翻訳文学です。  まず政治小説について述べると、これは明治十四五年ごろを頂点とした民権遅動と切りはなすことのできない関係にあり、一見すると、その政治運動が文学に反映して生じた新現象です。  しかしこれは一方において、反政府的、社会批評的な点では、戯文につながり、進歩的啓蒙的な性格では明六社の後身であり、一部の作品の文体や内容は戯作にさえつながりを持ちます。  おそらく、当時の民権運動の性格からきている点もありますが、政治小説は、文学としてはこれまであった古いもののよせあつめであり、よせあつめにすぎなかったために、継続的な発展をするだけの生命力を持ち得ませんでした。  それでも古い要素の組合せからおのずから新しいものが生れた点もあるので、啓蒙思想が戯作や人情本の形で述べられるということは、それが一部の学者の頭のなかだけでなく、国民の感情に浸透しかけていることを意味しますし、戯文を喜んでいた学生たちが、西洋の政治家の伝記や、国家の興亡史に興味を持つようになれば、彼等の関心は新社会にたいしてより積極的になったわけであり、文学が彼等の生活の他の面とさらに密接に結ばれたことになります。  「自由」といい、「平等」「独立」というような封建的な社会関係打破に用いられた理念が、たんに政治的な観念でなく、人間生活の全般にかかわりを持つ以上、当時の自由民権の運動は、たんなる政治運動以上の、深い時代の動きの象徴であったので、政治運動と政治小説はこの同じ幹から出た二つの枝ということが云えます。  いわゆる「民選議院」の思想が我国の知識階級に知られたのは、明治維新以前からであり、新政の綱領として発表された「万機公論に決すべし」には漠然とした形ですがその反映が見られます。自由と平等についても、「一君万民」「四民平等」の形ですが、明六社の同人の説いたところは、官民の区別なく受入れられていました。  したがって議会開設の要求が、明治初年から民間の有志者によってくりかえされたとき、政府の当路者は、原則として反対できなかったので、「自由」がかつての尊王論と同じ「大義」として主張された点に、明治維新の近代革命としての特殊な性格があったと思います。いわゆる民権家たちは、維新の完成として自由を要求したので、このことが彼等の主張に国民の耳目に入りやすい、政府の反駁をゆるさぬ強い根拠をあたえると同時に、国会開設の要求に、尊王論による維新と或る意味で同様の性格をおびさせました。  自由党の壮士たちは維新の志士たちと違った理論を唱えていましたが、「天下国家」にたいしては同じ武士気質に支配されていたので、彼等自身がその主張した思想ほど新しくなく、その「敵」と異質の存在でもなかったことが、この運動の悲劇的結末をもたらした根本の原因でした。  板垣退助、大隈重信ら、野党の首領たちは、政府の高官たちと同じような志士の閲歴を持ち、維新後重要な官職についたことのある人々であり、彼等の運動に加った動機には、薩長の政府によって放逐された政権の座に、「自由」の大義を旗印として再びつきたいという要求が、当然大きな部分をしめていました。  したがって彼等が適当とみとめただけの闘いのあとで、政府と妥協したのは、自然な成行であり、残された下部の急進分子は、一揆という自滅的な手段に走りました。明治十七年(一八八四年)の自由党解散前後に、茨城県の加波山、埼玉県の秩父その他に相ついで暴動が起り、いずれも簡単に鎮圧されました。秩父の暴動のときは、小作党、借金党などが出現して、後世の社会主義運動の先駆をなしましたが、その時代を動かす力は持ちませんでした。  自由民権の運動が、こういう古さと弱点を持ち、そのために破滅の運命を辿り、そのあとに欽定憲法と制限選拳による帝国議会という不徹底な立憲政治が行われたことは、近代日本の進路に大きな影をのこす事件でした。  この運動は、ともかく維新という大きな改革の論理的な進展であり、そこにはこの社会革命によって呼びさまされた民衆の大きな希望が託されていたからです。この運動を通じてこれまで士族の専有であった維新の精神がようやく民衆のあいだに浸透しかけたので、その挫折は、すべての革命を起す要素としてそのなかに含まれ、その進行の途中で変えられる理想主義の破滅でした。士族の困窮が大きな社会問題になったのは明治初年ですが、これは彼等の間に得意の境遇にある少数者と失意に陥った多数者ができたということで、政治や文化の支配権は問題なく士族の手中にありました。それが西南戦争を経て、明治十七八年ごろになると、士族そのものが階級として解消して行く傾向がはっきりでてくるので、学生の間でも平民の子弟がようやく数を増し、明治の社会は武士の出身者がつくりあげた町人国家としての面目をようやく明かにしてきます。  ここにやがて出現する実利と出世主義の支配する軍国主義国にたいして、自由と民権の幻は、維新の気風をうけついで青年たちが生命をかけるに足ると信じた最後の理想であったので、それが失われたのち、消しがたい形でのこされた精神的空白は、やがて政治小説とはまったく違った形で、表現の道を見出しました。  二葉亭四迷、北村透谷、徳富蘆花などは、この意味で民権運動の後継者といってよいのですが、同時代の政治小説にも、この運動の特異で複雑な性格が、なまなましく、反映しています。  政治小説の最初は明治十三年(一八八〇年)に刊行された「民権演義情海波瀾」とされています。この年は板垣退助の率いる愛国社、国会開設願望有志会の運動が高潮に達し、政府部内でも前年末に山県有朋が立憲政体にかんする意見書を上《たてまつ》ったのを始め、黒田清隆、伊藤博文などの参議が、同じ趣旨の意思を奏上するなど、民権運動が高潮に達した時期であり、この書物などもこれに刺戟されて書かれたと思われます。  内容はほとんど小説とは云えない幼稚な比喩で、魁《さきがけ》屋《や》阿《お》権《けん》という芸者に民権思想を寓し、和《わ》国《こく》屋《や》民《みん》次《じ》という青年に日本の国民を寓し、この両人が恋仲なのを、政府の高官を寓した国府正文が阿権に横恋慕し、さまざまに妨害するが結局我を折って、正式に結婚する阿権と民次のために、祝の宴を開くという筋で、はじめは民権思想と国民の結びつくのを喜ばなかった政府がついにそれを承認して国会をひらくという意を表わしています。「情海」というのもむろん「政海」の意味です。  これは寓意をのぞけば幼稚な戯作にすぎないものですが、当時としては民権運動の目的を一般の耳に入リやすく解説しただけでも多少の意味はありました。  上田秀成の「自由之栞蝴蝶紀談」(明治十五年刊)も、、夢物語に託して当時の我国を諷刺した寓話的小説です。  これらの先駆的作品についで、ひろく読者をつかみ、彼等に深い感銘を与えた点で、劃期的な成功を収めたのは、矢野文雄(竜渓)の「斉武名士経国美談」です。これは前篇が明治十六年(一八八三年)三月、後篇が翌年二月に刊行されて多大の反響を青年読者の間によびおこしました。  これは西洋で刊行された数冊のギリシャ史を材料として、ギリシャの一都市国家であるテーベが、はじめスパルタの支配のもとにあったが、エパミノンダス、ペロピダスなどが力をあわせて、国内の奸党を除き、外にむかってはスパルタの羈絆を脱して独立の実をあげ、さらにギリシャ諸国の盟主になるまでの経緯を叙述したもので、小説というよりむしろ歴史に近いものです。作者は序文のなかで斉武(セーベス)の歴史はあまり詳しいことが伝らず、人々をして「模糊雲烟ヲ隔ツルノ想ヒ」をさせるので、その「欠漏ヲ補述シ、戯レニ小説体ヲ学バント欲シテ」この著を企てたといっています。つまり史上の人物の行動に作者の想像による「人情滑稽ヲ加テ」小説風のものをつくったが、しかし本来の目的は正史の実事をもっぱら記載することにあるので勝手なつくりごとは誌してない。これは「読者ヲシテ小説ヲ読ムノ愉快ヲ得ルト同時ニ正史ヲ読ムノ功能ヲ得セシメン」ためであるとしています。  「経国美談」は、したがって、小説でもなく歴史でもなく、歴史的事実にもとづいた小説、あるいは小説的潤色をほどこした歴史ということになりますが、この中間的性格の著述がそのゆえに大きな成功を収めたのは、興味あることです。これは竜渓があたえようとした「愉快」と「功能」とを当時の青年読者が求めていただけでなく、このような事実の裏づけがなければ、彼等に「愉快」をあたえることができないような空気が、青年たちのあいだにあったからでしょう。  小説の現実性を事実の上に求める気風はこのときすでに彼等のあいだにあったので、「経国美談」と「小説神髄」はわずか二年しか距《へだた》っていないのです。  いまひとつ竜渓の思想で面白いのは、彼が小説を「世道」に益あるものとした、当時の一般的見解を斥けて、小説の目的は読者の「唯身自カラ達セ易カラザルノ別天地ヲ作為シ、巻ヲ開クノ人ヲシテ苦楽ノ夢境ニ遊バシムル」だけであるとしたことで、この点でも彼は逍遙の先駆者といえます。  竜渓はまた文体の上でも、逍遙のいわゆる過渡期の「産苦」を体験した一人で、伝統的な文章の型を脱して「時文」をつくろうと試み、「経国美談」では当時行われていた漢文体、和文体、直訳体、俗語俚言体の四つをそれぞれの特色を生かすような場所につかって、一種の綜合を試みました。ただ彼の試みは、あくまで思いつきにとどまり、時間に余裕がなく、また小説などにあまり手間をかけることを恥じる気持もあって、前後篇とも、口述筆記となっていますが、後篇を意のままに口述してあとで調べたところが欧文直訳体、漢文体が三分の二を占め、和文体、俗語体が三分の一をしめていたといっています。ころいう方法は芸術家的というより新聞記者的であり、彼の「時文」は時の流れに抵抗できませんでしたが、当時の若い読者を魅了するには充分でした。しかし彼自身「余ガ是書ヲ戯著セシハ其意文藻ニアラズシテ寧ロ事態ニアリ」といっているように、読者が熱狂したのも、テーベの「経国」のためにエパミノンダスらが払った苦心とそれを支えた熱情が、国の独立と政治上の自由を熱望した当時の青年たちの心に響くものがあったからです。  著者の竜渓は本名を文雄といい、嘉永三年(一八五〇年)大分県佐伯に生れ、慶応義塾出身、福沢諭吉の推薦で大隈重信の下で官吏になり、大隈とともに明治十四年(一八八一年)に下野して改進党の組織に参与し、報知新聞社を主宰しました。十五年にたまたま病中に閑暇を得て「経国美談」を口述し、その印税で十八年に渡欧、新聞事業を視察して、十九年に帰国しました。  明治二十三年国権思想にもとづく空想的冒険小説「浮城物語」を『報知新聞』に掲載して、大いに世評を得ました。その後政界を退き、伊藤博文、大隈重信らの推薦で官吏に任ぜられたりしましたが、明治三十年代には社会問題に没頭して、社会主義思想を寓した小説「新社会」を明治三十五年に発表して、再び世の注目をひきました。  しかしその後は出版事業に失敗し、大阪毎日新聞の相談役として、昭和六年(一九三一年)に八十二歳で歿しました。  「経国美談」の影響をうけて書かれた書物のなかで特記に値するのは、藤田茂吉の「文明東漸史」です。茂吉は矢野と同郷の佐伯出身で、矢野の家に寄寓して慶応義塾に学び、同じく福沢の推薦で報知新聞に入った人で弱冠二十四歳で、福地桜痴に対抗する民権論者として名をなしました。「文明東漸史」はその主著というべきもので、渡辺崋山、高野長英ら洋学の先覚者の伝記を、一種の文明史観にもとづいて書いたもので、その思想には、福沢の感化が見られます。この出版は大成功を博し、彼はその印税によって外遊したといわれています。  しかし、「経国美談」と並んで政治小説の記念碑と見られる大作は、東海散士の「佳人之奇遇」です。  これも外国に題材をとった小説ですが、「前者」が古代に取材しているに反して、これは現代に材料をとり、アメリカのフィラデルフィアの独立閣に登り、仰いで自由の破鐘を見、俯して独立の遺文を読んでいた作者が偶然幽蘭、紅蓮の二佳人に会い、スペインのドン・カルロス党員の幽蘭と、アイルランドの独立を志す紅蓮とから、それぞれその祖国の悲境をきくというのが発端で、そのあとにも、明の遺臣の血筋をひく中国人鼎泰やアイルランドの独立党の領袖波寧流女史なども登場して、たえず慷慨の談話を交わします。  作者は、十九世紀の帝国主義時代における小国の運命に異常な同情を持ち、それらの国民の自由と独立への憧憬を、共感を以て唱いあげていますが、これは彼自身が会津藩士として、維新の際に「亡国」の悲哀を味ったためです。「散士幼ニシテ戊《ボ》辰《シン》ノ変乱ニ遭逢シ全家陸沈《チユン》《テン》流離其後或ハ東西ニ飄流シ」と初篇の自叙に誌した彼は、当時の惨状を第二巻に描いて悲憤を洩しています。この亡国の悲憤が全巻を貫き、自由と独立、民権と国権とを求める熱情が随所に感じられるところに、この書物が当時の知識青年にたいして持った魅力があるので、民権思想に熱狂し、条約改正の問題にそれに劣らぬ関心を抱いていたこの時代の青年は、専制政府や大国の横暴にたいして彼等の燃していた憎悪が世界中の有志者によって頒たれていることをこの書物によって感じたので、それが日本の青年紳士と紅毛碧眼の美女たちとの交歓というような、当時の青年たちの心を唆る情景と相まって、大ぎな成功をもたらしました。  「佳人之奇遇」は明治の日本という特殊な環境の生んだ特異なロマン派文学といえるので、同時代の青年の憧れをこれほど純一な熱情で多彩に表現した小説は、その後も我国の近代文学に現われなかったのです。  この小説が当時の読者に熱狂的に迎えられたことは、それが、明治三十年(一八九七年)まで続篇を書きつがれたことでも察せられます。「其頃佳人之奇遇と云ふ小説が出て、文字を読む程の者は皆読んだ」と徳富蘆花が「黒い眼と茶色の目」に書き、篇中の漢詩が書生たちのあいだでさかんに吟誦された有様を描いています。  しかしこの小説の小説としての弱点も、またここにあるといえます。そこにはただ憧れの歌だけがあって、現実はどこにも描かれていないので、この空想の世界を築きあげていた漢詩と漢文くずしの文体が、読者の嗜好に合わなくなると、その非現実性が致命傷になりました。  そのひとつの著るしい例として、第二巻の登場人物一同がマルセイエーズその他慷慨の歌を唱い、盃をあげて舞踏する宴会の場があげられます。そこで各人物の歌う歌は、マルセイエーズが漢訳されているのをはじめ、みな漢詩として誌されています。  実際にアイルランド人やスペイン人が漢詩を朗吟するわけはないのですが、大切なのは作者がそういう意味での写実を少しも心がけていないことで、その結果、その場面全体が、——ひいては小説全体が——実際にあったことでも、またあり得ることでもなく、作者の空想にすぎないことが明かになります。  それでも当時の読者は漢学によって養われた均質な文章感覚を持っていたので、この文章が築いた架空の世界を、それとして楽しむことができたのですが、この壮大な嘘は不幸にして細部の真実に支えられていなかったので、小説としては短命ならざるを得ませんでした。  政治小説に、その後の日本の小説の実現し得なかったさまざまな可能性を見ることは明治文学の性格に新しい光を投げる試みとして注目すべきですが、そのためにもっとも適切な材料は「経国美談」と「佳人之奇遇」であり、ことにその後者と思われます。  幼稚で一面的であっても、ともかく世界的規模で働く作者の想像力、伝統的な形式のなかでであっても、詩的な昂奮に読者を誘う文章の構成力など、後世の小説に欠けているだけでなく、日本人の資性にないものとされているので、それをこのように豊富に示した作品が一篇でもあることは意味ふかいことです。なおこの小説は梁啓超によって中国語に訳され、中国文芸革新運動の導火線になったと云われます。  東海散士は、本名を柴四朗といい、嘉永五年(一八五二年)に千葉県富《ふつ》津《つ》の会津陣屋で生れ、渡米して、サンフランシスコの商業学校、のちフィラデルフィアの大学に入学、経済学を修めて、明治十七年(一八八四年)に農林大臣秘書になりました。十八年に「佳人之奇遇」の初めの部分を発表し、大いに名声を得ましたが、明治二十四年には代議士に当選し、翌年大毎の社長に就任し、のち朝鮮の閔妃事件で下獄したりしましたが、ときどき官途にもつき、大正十一年(一九二二年)に七十一歳で歿しました。  「佳人之奇遇」の初篇が出た明治十八年(一八八五年)は、逍遙の「小説神髄」「当世書生気質」のでた年でもあるので、新文学の曙光はすでに人々の眼に明かになっていました。当時の「文字を読むほどの」書生たちの机上には、「佳人之奇遇」と「書生気質」が並んでおかれていましたが、新しい文学の流れは、もっぱら後者の方に向って進みました。  作者の東海散士がいずれの政党にも属さず孤立した存在であったように、「佳人之奇遇」も我国の文学史上後継を持たぬ孤独な作品に終りました。以後の明治文学の歴史でも、こういう孤立した作品に僕等はときどき出会います。  ここに展開された漢学趣味とロマンチスムの結合は、その後かなり形をかえて、透谷、樗牛のなかに再び現われます。  しかし時代の流れは、政治小説自体にも変質をもたらしたので、末広鉄腸の「雪中梅」「花間鶯」須藤南翠の「緑《りよく》簑《さ》談《だん》」などは、写実小説の体裁をとっています。これは政府の公約した憲法発布、国会開設の期限である明治二十二三年が近づくにつれて、立憲政治が現実の日程として国民に意識されるようになったこと、それに伴って青年たちの政治思想が一時のように破壊的革命的な様相をおびなくなったことなどがその理由としてあげられますが、いまひとつはこれらがすでに「浮雲」「色懺悔」「風流仏」などと同時代の小説であるためです。  「雪中梅」は明治十九年(一八八六年)、「花間鶯」は翌二十年の刊行であり、「緑簑談」は明治十九年の刊行で、同じ作者の「新粧之佳人」は明治二十年に刊行されました。  その代表的なものとして「雪中梅」の筋書を述べると、主人公の青年志士国野基は、正義社にぞくし、政談演説会で雄弁をふるって大きな成功をおさめましたが、貧しいため下宿料の支払いにも困り投獄されるが、そのために、彼の窮境を救い、あるいは励してくれた少女富永お春と恋仲になり、お春の財産に眼をつけた彼女の叔父夫婦が正義社の領袖である悪人の川岸萍水にお春をめあわそうとする陰謀を破って、結婚の約束をすると、偶然にふたりはお春の父親のきめた許婚であったことが判明するという筋です。  こういう人情本仕立の古い筋に、国野の政談演説が長々と這入っていたり、作者の体験らしい獄中の様子が描かれていたりするだけの小説で、「情話ニ託シテ政治上ノ有様ヲ描出スル」という作者の意図は、彼自ら認めているように、「政事論ノ上ニ小説ノ粉ヲ振リカケシモノ」に止まり、しかもその小説には何も新しいものはないのです。  末広鉄腸は伊予の宇和島の出身で、はじめ大蔵省の官吏になりましたが、早くから曙新聞、朝野新聞に入り、柳北とともに入獄したこともあって、民権派の論客として令名高く、自由党の有力な党員であり、のち代議士に当選して活動しました。  「雪中梅」「花間鶯」は、彼に大衆的な人気と外遊の費用をあたえましたが、作品そのものは、なまじ古風な小説的粉飾がほどこしてあるので、いかにも政治家の自己宣伝のための余技という感じが強く、ことに人物の描写が平板で、基やお春のような新思想の代表者がいかにも草双紙の孝子節婦に似た印象をしか与えません。  「花間鶯」はその続篇ですが、その欠点はさらに拡大されています。  鉄腸と反対に、南翠は小新聞に早くから筆をとった戯作系の続きものの作者で、政治にかんする識見は、丁度鉄腸の文学にたいするそれと同じと云えます。「緑簑談」は「雪中梅」と反対に、古風な人情小説の上に、「政治論の粉を振りかけたもの」といえましょう。  「緑簑談」は地方自治制強化の必要を説いたもので、そこに不忍池畔の競馬、隅田川のボオトレース、新聞社襲撃、伯爵令嬢と父の政敵との恋などを点《てん》綴《てい》した、政治をも含めたハイカラ風俗小説というべきものです。  「新粧之佳人」は政界の名士と教養ある女性の理想的恋愛を描いた小説で、女が美人で男が醜男であること、当時の尖端的風俗がさまざまでてくることなどが、これに新しさをあたえたと思われますが、今日では風俗資料としての興味をそそるだけです。  しかしこれらの小説も、当時の青年読者には、これまでになかった新しい文学として歓迎されたので、新時代の理想がたとえ空疎な類型でも、小説に登場することが、おのずから、戯作や戯文にない新しい真面目な意味を小説にあたえ、これを「文明の一要素」と主張した逍遙の改革を準備しました。 第五節 翻訳小説  政治小説と部分的に重り合いながら、新しい機運を導いた文学に、翻訳小説があります。明治文学に外国文学の翻訳が果した役割については、今更説くまでもありませんが、初期にもまた時代に応じた翻訳小説が、時代の人心に大きな影響をあたえ、新文学の先駆をなしました。  明治初年は、我国の制度文物のすべてが西洋の翻訳であった時代といえますが、文学書の翻訳がさかんに行われるようになったのは、明治十年(一八七七年)ごろからで、ジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」を川島忠之助の訳したのや、リットンの「アーネスト・マルトラヴァース」とその続篇「アリス」を織田純一郎が訳した「欧洲奇事花柳春話」などがそのころを代表する作品です。  それ以前にも、イソップを訳した「通俗伊蘇普物語」(渡辺温訳・明治五年刊)原著不明の十五世紀のフランス人の漂流物語「西洋孝子流別奇談」(小林謙吉訳・七年刊)アラビアンナイトの部分的紹介である「開巻驚奇暴夜物語」(永峰秀樹訳・八年刊)などありますが、文学作品として体裁をととのえるようになったのは、前記の二作あたりからです。  「新説八十日間世界一周」は原作がヴェルヌの傑作であり、最近も映画化されましたが、フォッグというイギリスの一紳士が、世界を八十日間でまわるという賭をしてこれに勝つという筋に、恋愛、冒険などさまざまの経緯を織りこんだもので、主人公が東廻りで一周したために、一日計算をまちがえ、賭に負けたと思い込んでいるのが、最後にこの過ちが発見されるまで、興味ふかく読者をひきずって行きます。しかしこの書物がひろく読者にむかえられたのは、主人公の巡る世界各国の風俗が、興味本位に描かれているためであり、「世界国尽」や「西洋膝栗毛」にたいする興味が、十年を経てここまで進化したものと思われます。  なおヴェルヌの小説は、その科学的空想がよろこばれたのか、「九十七時間二十分月世界旅行」(井上勤訳・明治十三年刊)「月世界一周」(同人訳・十六年刊)「六萬英里海底旅行」(同人訳・十七年刊)などという風にさかんに訳されました。  ヴェルヌは子供の読物の作家としては、今日でもまだ人気のあるフランスの小説家ですが、当時の我国の読者の西洋の文明、その象徴である科学にたいする関心は、ちょうど眼覚めてくる子供の好奇心に似ていたのです。「花柳春話」が迎えられたのも、やはり西洋の風俗にたいする好奇的な興味からといえます。  この小説は英国の政治家であり、また通俗作家として、有名なリットン卿が一八三七年(天保八年)に発表した「アーネスト・マルトラヴァース」とその翌年に発表しだ「アリス」との「要領を訳述」したもので、ドイツ留学の帰途悪人ダーヴィルの小舎に泊った書年マルツラヴァースを、ダーヴィルの娘アリスが、父の害意をつげて救ったのが事件の発端で、以後家出したアリスとアーネストとの恋が主題になり、それに社交界、政界など英国上流社会の生活情景を織りこんだもので、続篇の終りで二人は目出度く結婚します。  これが当時の読者に迎えられた原因は、それがまず我国の伝統にもある才子佳人の流寓を主題とした勧善懲悪的な物語であること、議会政治の表裏が描かれていることが当時の政治熱に適合したこと、当時の物語の文体としては清新な漢文崩しや文調が比較的整っていたこと、したがって「佳人之奇遇」と同様に、文章の世界に容易に読者が遊べたことなどがあげられます。漢文或いは漢文くずしの文体は、これを通じて長いあいだ、中国印度などの事物を想像することに馴れていた我国の読書人には、欧洲の「情話」を想像するにも適していたのです。(註一)  「この意味でこれは、戯文の系統をひくものであり、服部撫松(誠一)がこれを校閲し、成島柳北がこの初篇に序文を書いているのも偶然ではありません。  この序文で柳北は数年前の外遊の経験から、「全地球上一切情界ノミ」と喝破して、ヨーロッパ人の人情も我国のそれと少しも変ることがないことを強調し、西洋では「人々実益ヲ謀リ、実利ヲ説キ」、風流情痴のことに興味を持たないという「固陋学士」の説を嗤《わら》っています。訳者の織田純一郎にも、柳北と同様、時代の実利実益主義を嫌って、風流情痴に耽溺しようとする、消極的叛骨があったかも知れません。  彼はもと丹羽姓を名乗り、三条実美の用人でしたが、その息子、公美の附添として英国に留学し、彼に道楽を教えてしまったので、帰朝後、実美の怒にふれ、官途につくことを差止められたために、著述に従うようになったということです。  彼が「花柳春話」と同じ年にだした「竜《ロン》動《ドン》新繁昌記」(ここにも撫松の影響が見られます)は、ジョン・マレイという人の著書の翻訳といっていますが、中には訳者自身の体験あるいは見聞であるらしい挿話がでてきます。  おそらく彼は洋行が出世の機縁より、身を誤る災になった知識人のひとりであり、その心底には、柳北撫松に通ずる隠逸的反抗気分を持った人でした。  しかし彼の著書に新しい色彩をあたえ、大きな成功をもたらしたのは、やはりそれが西洋の人情風俗の適宜な解説書と見做されたからで、彼自身もこれを英国の風俗史と見做して、日本人に西洋人の生活の具体的な姿を教え、あわせて英国史を理解する補助としようとしたといっています。彼によれば風俗史はある国の歴史を理解するに必須な一要素であり、法律史、戦争史と並んで、これを理解するために小説を読む必要があるということです。  翻訳小説の隆盛は、当時の人々の西洋の事物にたいする好奇心にもとづきますが、この感情は、初期の二つの代表作が象徴するように、一方においては科学にもとづく「文明」にたいする驚異の念と、他方では法律や制度には現われぬ、西洋の生活の実状にたいする人間的関心とにわかれます。  そして後者のなかに、彼等の政治生活の実際がふくまれることは、さきにもふれましたが、この傾向が時代の政治的高揚につれて次第に発展し、風俗史の代りに政治史の一節を紹介して、我国の民権運動に刺戟をあたえるような翻訳が企劃され、歓迎されるようになりました。  政治小説の翻訳がさかんになったのは、明治十四五年ころで、当時外遊した自由党主の板垣退助が、フランスでユーゴオに会って、小説の重要性を説かれ、たくさんの本をもらって帰ったことが大きな刺戟になったということですが、実はそれ以前から機運は熟していたので、明治十二年(一八七九年)にフランスのフェヌロン作「テレマークの冒険」を宮島春松が「欧州小説哲烈禍福譚」として部分訳したのなど、その先駆と見られます。フェヌロンの原作は彼がルイ十四世から王孫ブールゴオニュ公の傅育官を命ぜられたとき、帝王の道を授ける教科書として書いたもので、ユリッシズの子テレマックが父をたずねて各地を放浪するうちに、附添いのミネルヴァの化神マントルから、王者たるものの心得を学ぶという筋で、フランス文学史上の一古典です。  これが訳されたのは、物語の興味とともに、政治についての教訓や諷刺が見られるためと思われまず。この書物が仮名垣魯文閲とあるのも面白いことです。  ついで明治十四年(一八八一年)には、さきにふれた田島象二の「西国烈女伝」が出版され、翌十五年には、トーマス・モーアの「ユートピア」の訳である「良政府談」(井上勤訳)、ヴェラ・ザスリッチの公判記録の抄訳である「魯国奇聞烈女之疑獄」(大久保勘三郎訳)フランスのポール・ヴェルニエ原著という「虚無党退治奇談」(川島忠之助訳)アレキサンドル・デューマ(父)の「バスチイユ奪取」の前半を自由訳した「仏蘭西革命記自由之凱歌」(宮崎夢柳訳)同じくデューマ作の「一医師の追憶」を自由に改作した「革命起原西《にしの》洋《うみ》血《ち》潮《しおの》小《さ》暴風《あらし》」などが相ついで訳され、当時昂揚の頂点にあった自由党の運動が、フランス革命あるいはロシアの虚無党に特殊な興味を抱いていたことが知られます。一つは君主制の転覆と共和制の樹立の体験として、他は非合法の組織とテロリズムの模範として彼等をひきつけたのです。もっともこういうことを公然と述べることは当時不可能であったので、訳者たちはいずれもそういう不祥な現象が我国に起らぬ戒めのためとしています。  「西洋血潮小暴風」の訳者桜田百衛(百華園主人)は、めずらしくフランス革命にたいする同情を公言し、読者も彼等に倣って「自《お》己《の》が権理を復」することを勧めています。  デューマの原作は別に自由民権を説いたわけではないのに、桜田の「意訳」は主人公を熱烈な民権論者に仕立て革命を予言させ、鼓吹させているので、この意味では彼の創作といえます。  桜田は早くから民権運動に参加し、自由党の機関紙『自由新聞』の編集にたずさわった人で、この小説は同紙の第一号から掲げられ、好評を博しました。しかし彼はまもなく歿し、その志をついだのが宮崎夢柳です。  夢柳もまた自由党の人で、百衛の死後同党系の政治小説家として名をあげ、前記の「自由之凱歌」のほかいくつかの作品がありますが、なかでもステプニアクの「地底のロシア」を材料として、これに彼自身の政論を託した「虚無党実伝記鬼啾啾」は明治十七—八年に『自由燈』に連載されて、世評を得、単行本を出版して訳者はそのために下獄しましたが、それがかえって評判になり、当時の青年にロシアという不思議な国を印象づけました。  このほか自由党系の政治小説家には坂崎紫瀾、小室案外堂などがいます。  改進党系、または中立の立場をとった政治小説家の翻訳は、関直彦「政党余談春鶯転」(明治十七年刊)、渡辺治「三英雙美政海之情波」(十九年刊)などあります。両者ともにビーコンスフィールド卿ジスレリイの作であり、後者は「雪中梅」の構想に影響をあたえたと云われています。  関直彦は当時の保守派である帝政党に属した人であり、したがって「春鶯転」も保守派を弁護した小説ですが、こういう政治小説が「花柳春話」と一味通ずる題名で行われたのは、当時の読者の好尚を語っています。  政治を語るに情話の形をもってする時代の流行は両者をかねそなえた西洋小説の歓迎された原因にもなったので、リットン、スコット、デューマ、ボッカチオの小説、シェークスピアの戯曲などが、あるいは政治的題名、あるいは人情的題名で翻訳され、これらの作品によせられた興味の性質を語っています。  シェークスピアの戯曲が一方では「ロメオとジュリエット」を「露妙樹梨戯曲春情浮世の夢」(河島敬蔵訳・明治十九年刊)「仇結奇乃赤縄西洋娘節用」(木下新三郎・明治二十年刊)などという題で人情本的に読まれるかと思うと、他方ではその政治生活を扱った面を注目され、「ジュリアス・シーザー」が「該撤奇談自《じ》由《ゆう》之《の》太《た》刀《ち》余《なごり》波《の》鋭鋒《きれあじ》」(坪内逍遙訳・十七年刊)と訳されたり、「ヴェニスの商人」が「人肉質入裁判」という題で西洋の裁判の様子を描いた芝居として、紹介されたりしたのは、その代表的な例ですが、そのほか、ウォルター・スコットの「ラマムーアの新婦」が「春風情話」(橘顕三名義実は逍遙訳)として訳され、同じ作者の「湖上の美人」が「春窓綺話」(服部撫松纂述、坪内逍遙、高田早苗、天野為之訳)として紹介されているのは、人情本的興味で読まれた例で、この題のつけかたは、「花柳春話」の成功が、一代の好尚を決定したことを示しています。  デカメロンが「欧洲情話群芳綺話」(大久保勘三郎訳・明治十五年刊)として抄訳され、あるいは、このなかの一挿話が「想夫恋」(佐野尚訳・十九年刊)として潤色されたり、あるいはプーシュキンの「大尉の娘」が「露国奇聞花心蝶思録」(高須治助訳・十六年刊)として訳されているのなど、西洋の「情話」がいかに当時の読者に迎えられたか知ることができます。  「情話」といっても、これらの小説には、おのずから政治生活社会生活の場面が描かれているわけで、そこから恋愛にたいする新しい態度や、儒教に縛られない倫理観などが、次第に若い読者の間に浸透して行きました。  「西洋文学の影響とは、要するに恋愛の解放である」と後に谷崎潤一郎が云いますが、その徴候が、すでに西洋文学との最初の接触に現われているのは興味あることです。  翻訳小説は、政治小説と並んで、同時代の青年に新しい夢、新しい倫理をあたえただけでなく、文学そのものの、これまで我国になかった新しい側面を示して、それが人間の生きかたにかかわりを持つ「文明の事業」であるという観念を、知らず知らずの間に一般化したことで、逍遙の行った劃期的改革を準備しました。  内田魯庵が当時の状況を、彼自身の青春と結びつけて「其頃一と度は政治家たらんと志し、転じて建築に志ざし、再転して今度は実業界に入らうとした一青年たる自分が、文学に興味を持つやうになつたのも亦、直接には竜渓鉄腸等の小説、間接には是等の新傾向を胚胎した英国の政治家文人の典型であつた」と回顧していますが、おそらくこういう経路で文学に近づいた者は魯庵だけではないのです。尾崎行雄のように、当時の青年たちに人気のあった政治家が、英国のジスレリイに倣って、「新日本」という小説を書いたりしただけでも、彼等に文学への新しい目をひらく端緒になったのです。  翻訳の技術も、最初は大体の筋を抄出するだけであったのが、次第に原文に近づくことに努めるようになり、明治十八年に出た「諷世嘲俗繋思談」(藤田茂吉、尾崎庸夫訳・リットン作「ケネルム・チリングリ」の訳、上中だけ)などになると、ほとんど直訳に近いものになって、これも新しい時代を予告しています。 第二章 明治中期 (明治十八年——三十九年) 第一節 逍遙、二葉亭  明治十八年は、我国の近代文学史上、特筆すべき年です。「佳人之奇遇」「繋思談」がでたこの年は、また坪内逍遙が文学改新の第一声を力強く放った年でもあります。  その前々年に東京大学を卒業したばかりの青年であった彼は、この年にまず翻訳小説「開巻悲憤慨世士伝」を発表し、ついで「一読三歎当世書生気質」と「小説神髄」を世に問うて、これまで卑しめられた小説に新しい価値を与え、それにふさわしい作品をつくりだそうとしました。  彼の主張の眼目は、小説における写実の必要と、それと表裏する功利性からの解放です。この主張を彼が始めて、公けにしたのは、「慨世士伝」の序文ですが、これをひとつの体系として展開したのは「小説神髄」です。  そこで彼はまず小説が「美術」(今日の言葉で云えば芸術)であることを前提として、「美術の何たるかを知らざるべからず」といい、「夫れ美術といふ者は、もとより実用の技にあらねば、只管《ひたすら》人の心目を娯ましめて其妙神に入らんことを其『目的』とはなすべき筈なり」とします。  ついで西洋の「ポエトリーは我国の詩歌に似たるよりも、むしろ小説に似たるものにて、専ら人世の状態をば写しいだすを主とするものなり。」といって、小説も「神韻に富む」ものであれば詩として扱ってよいと述べ、すぐれた小説は、「一大奇想の糸を繰りて巧みに人間の情を織《おり》做《な》し、限りなく窮りなき隠妙不可思議なる原因よりして更にまた限りなき種々様々なる結果をしもいと美しく編いだしつゝ、此人の世の因果の秘密を見るが如くに描き出し、見えがたきものを見えしむるを其本分とはなすものなりかし。」といっています。  これは小説について、一応近代性を持つ正しい定義といえますが、問題は、こういう小説を実現するための方法です。右にひいた言葉は、「人間の情」の「隠妙不可思議」を一方でみとめながら、「此人の世の因果の秘密」がなにか客観的な、科学的に検証できる真理として、作品以前にあるような印象をあたえますが、これは逍遙の文学観、人生観を巧まずに表わしています。  おそらくこの「因果」という言葉のなかで、在来の我国の物語の中心思想のひとつであった仏教的な概念と、新しい西欧の科学の理念とが、ひとつに融合したので、それが逍遙の文学的位置も決定しています。  序文にも引用しましたが、小説家は「宜しく心理学の道理に基づき、其人物をば仮《つ》作《く》るべきなり。」という彼の今日から見れば奇妙な主張もそこからでてきます。  彼の考えでは、こういう「心理学の理」にかなった描写によって、小説の人物は始めて「人間の世界の者」になるので、そうでない者は「作者の想像の人物」というのです。  つまり逍遙の意味した現実の「人間世界」は「心理学の理」で辿れる、理智で整理された世界であり、小説は自然科学と同じように客観世界の「因果」関係を、科学の成果の上に立って叙述すべし、ということになります。彼が芸術の功利からの独立を主張したのも、この見地に立ってです。  自然科学の実騒が、その対象の「因果」の理以外何物も顧慮しないように、小説の描写も、道徳的あるいは政治的な目的のために縛らるべきではないというのです。これは、ヨーロッパの自然主義にかなり近い主張で、自然主義が思想界や俗世間の迷信や、それにもとづく権威を打破したと同じ革命性を、我国の社会と文学にたいして持つものでした。  しかしフランスの自然主義があのような作品を生み得たのは、それが先行したロマン派文学を凝縮させ、整理したからです。このような条件をまったく欠いていた逍遙の場合、同じ自然科学に追従した主張がまったく違った結果を生んだのは当然です。  明治十八年は丁度一八八五年で、ヨーロッパでは自然主義の全盛期にあたります。自然科学の社会生活にあたえた影響、その魔術的な成果が時代の人心に及ぼした支配力も、おそらく当時の我国では、或る意味ではヨーロッパより強かったのですが、逍遙の場合、それは同時代の人々が科学の成果を「事実」として肯定したと同じ素朴さで、「人間世界」の認識における科学の「理」を信じ、作家にとっても「現実」は彼の想像力とは別に存在するとする、一種の客観主義的な写実主義に落付きました。  科学時代の人間は、事実にないようなことは小説のなかでも喜ばない。作者はいかなる「奇想」を弄する場合にも、この点に注意すべしというのが、「小説神髄」の主張の核心でした。  これは現実を、作者自身の感性と想像力を通じて再現するのでなく、一度科学の手を経て、客観化された現実を、ただ筆でなぞることになり、いわば芸術として二番煎じの表現に甘んずることになります。逍遙の小説に、同時代の二葉亭や鴎外にくらべて、どこか生気が欠けているのは、このためですが、この考えは、明治文明の基調をなした科学の魔術性への信仰とよく一致していたため、一般にたやすくうけ入れられ、硯友社の文学は勿論、のちの自然主義小説の理論的根拠をなしました。  「小説神髄」の主張の、芸術思想としての底の浅さは、(これは大学を卒業したての書年が、ほとんど独力で編みだしたものです)それが社会的に劃期的な影響力を持ったことと矛盾しません。  当時は文学士の価値が今の博士よりはるかに高かっただけでなく、東京大学の卒業生は、幸田露伴の云うように、「竜門に登り得た魚のように、出世の幸運が鼻の先きで招いて」いました。それを振り切って「社会的低位の文学」に、逍遙が身を躍らせただけでも、社会の耳目をそばだたせるに充分であったのです。  彼の芸術の自律性にかんする主張の当否より、文学士でありながら自から小説の筆をとり、将来もこれを職業にして行くと宣言した逍遙の行動の方が、人々を説得する効果を持ったので、この「事実」は前述の彼の言説の内容と皮肉な照応を示しています。  逍遙は本名を勇蔵(後雄蔵と改名)といい、安政六年(一八五九年)に愛知県で生れ、名古屋で中等教育をうけ、明治九年に十八歳で上京して、開成学校に入り、明治十六年に東京大学の政治経済学科を卒業して、文学士の称号をうけました。  在学中から、友人高田早苗らと回覧雑誌を編集したり翻訳小説を出版したり、諷刺小説を新聞に発表しましたが、彼の文学趣味の根本は名古屋で養われました。当時の名古屋は旧幕時代から文学遊芸のさかんな土地で、維新の変革の影響を直接うけなかったので、江戸文化の名残が、東京よりも濃くのこっていました。逍遙はこういう雰囲気のなかで育ち、早くから歌舞伎に親しみ、ことに大惣という貸本屋に出入して江戸文芸を耽読したことが、彼の生涯の針路を決定しました。  彼の大学時代の級友市島春城は、学生のとき逍遙から読破した江戸文学書の目録を見せられて、その素養の深さに驚き、このことが文学改革者としての逍遙にはむしろマイナスになったのではないかと疑っていますが、逍遙自身も上京当時仮名垣魯文の門下生になろうかと思ったこともあると云っています。  彼の教養の素地は、旧派の江戸文学と歌舞伎によって形造られましたが、それらの文学にたいする彼の愛着は真実なもので、彼の希いはこの愛着と彼が大学でうけた新しい教育とそれに伴う社会的地位を調和することにあったと思われます。  「書生気質」と「小説神髄」の二作は、この希いを、おそらく彼の予期以上に実現したものでした。  逍遙の功績は、くりかえして云いますが、何より明治の社会のなかで、文学に他の西洋輸入の新文明と並行する生存権をあたえたことで、ちょうど科学の研究がそれ自体として価値あることであるように、文学にそれ自体として価値を(他の何事に役立たなくとも)みとめねばならぬという主張を、教養ある社会に納得させた点にあります。  これは文学が新しい知識階級に、彼等の一生を托すに足る仕事として公認されたことを意味します。  むろん科学の領域でも、外国から既成の技術を輸入した方が、手取早く効果をあげられるために、「金にならぬ」基礎研究は虐待されたように、時代の功利的風潮のなかで、「実用」をはなれることをむしろ誇りとした文学と文学者は、格外の存在として、表面は敬意を払われながら、内心軽く扱われるのが普通でした。  漱石の言葉を借りれば、西洋文明との接触によって、「金が大切なることを知つた」明治の社会で、金の儲らぬ職業が一般の尊敬をあつめることはむずかしかったのです。  しかし大切なのは、たとえ貧乏でも、文学者の仕事が、知識階級として従うに恥かしからぬ堂々たる職業であることが一般にみとめられ、戯作者のように卑屈にならなくとも、戯文家のように「文明」に背をむけなくとも、新文明の一要素としての存在権が、文学者にあたえられたことです。  内田魯庵は、逍遙の力で小説が「戯作の低位から一足飛びに文明に寄与する重大要素、堂々たる学者の使命としても恥かしくない立派な事業に跳上つて了つた。夫れまで政治以外に青雲の道が無いやうに思つてゐた天下の青年は此の新しい世界を発見し、俄に目覚めたやうに翕《きふ》然《ぜん》として皆文学に奔《はし》つた。美妙や紅葉が文学を以て生命とする志を立てたのも、動機は春《はる》迺《の》舎《や》(逍遙)の成功に衝動されたのだ。」といっています。  たんにこの二人だけでなく、二葉亭も露伴また魯庵自身も、文学で身を立てる決心をしたのは、逍遙に衝動されたのです。  逍遙の成功の素地をつくったのは政治小説翻訳小説の隆盛であったのは、前に述べましたが、「小説神髄」の主張は、多くの文学改革がそうであるように、その出現の素地になった政治小説を否定して、戯作を復活する方向にむかっています。  これは文学の功利性を否定した当然の帰結ですが、一面において逍遙の教養の性格にもとづいています。彼の改革から——おそらく多少彼の意に反して——生れたものが、江戸文学の形をかえた延長である硯友社文学であったのは、この意味では当然なことでした。  しかしこのことは、逍遙の提唱したリアリズムが、理智的整理を経た現実と素朴な感覚の世界の再現に限られていることと相まって、我国の近代小説の進路を決定しているとも考えられます。作家の想像力はそこでかつて正当な席を与えられたことがないのです。  二葉亭四迷の存在理由と、檎の文学放棄の原因、森鴎外の仕事と、逍鴎論争の必然性などが、ここに胚胎するのですが、ここではまず逍遙の改革の背景になった当時の欧化主義の世相について少し述べておきます。  明治時代全体が、西洋文明の輸入と消化に費されたとしても、そこにはおのずから浪がありました。  明治維新が、一面において王政復古であり、神道を中心とした復古の思想が、維新当時にはかなり強力であったのはさきに述べました。  征韓論に反対した岩《いわ》倉《くら》具《とも》視《み》の文治主義は、結局欧化政策の推進を意味し、西南戦争の勝利はそれを自信で裏付けました。しかし当時の欧化主義は、森有礼について述べたように、たとえ混血による人種改良論とか、日本語を廃して英語を国語とすべしというような突飛な議論が現われたにしても、根本においては、日本をより強力な独立国家にすることを目的としているので、国粋主義者と欧化主義者はただ方法を異にしているにすぎないのです。  鹿鳴館時代の官民をあげて狂奔した欧化の施策も、根本においては、「文明国」の体裁を整えることによって、条約改正を有利に導き、欧米諸国と対等の位置に立とうとする国権思想を根底に持っていたので、立憲政治の体制も社交クラブも、同じ動機にもとづいていました。しかし、首相が仮装舞踏会に出席するくらいのことでは不平等条約の廃止に応ずる国はなく、改正の談判が不調に終るとともに、欧化政策そのものの意味が疑われ、行きすぎが反省される時期がすぐに来ました。  欧洲の風潮が絶頂に達したのは、明治十九年(一八八六年)であり、この年の五月に条約改正会議が開かれました。しかしこの年の十月に起ったノルマントン号事件は、領事裁判権がいかに屈辱的なものかを国民に教えて、国権恢復をねがう感情は一段と熾烈化し、政府の欧化政策には民権論者と国権論者の合流した非難が集中されました。翌二十年には有名な首相の主催した仮装舞踏会が四月に催されましたが、欧化主義はすでに人気を失い、谷干城が内閣の一員でありながら、外遊から帰って時弊を論じた建白書をだして職を辞したり、勝海舟が意見書を奉ったりしたことも政府攻撃の気勢を煽りました。  条約改正の失敗が明かになるとともに、政局はいよいよ危機を孕んだようになったので、明治二十年の歳末に、時の首相伊藤博文は保安条例を公布して、反対党の政客を東京から追放しました。しかし翌年五月には伊藤内閣は終に倒れて、黒田清隆がこれに代りました。翌年二月の憲法発布は黒田内閣の手で行われることになったのですが、この内閣の交替は時勢の大きな変化を象徴していたので、鹿鳴館の代表する欧化万能の時代はここに終って、一種の国民的自覚期がそれに代ります。  三宅雪嶺が井上円了、島地黙雷、杉浦重剛、志賀重昂等と政教社を設立し、ドイツ風の国権論を高唱したのも明治二十一年のことです。  逍遙の文学改新は、こういう時勢の動きから云えば、欧化と民権運動の空気のなかに育って、国家主義の擡頭した政治的安定期に結実したので、その複雑な、どこか中途半端な性質は、一面において、背景となった時代の慌だしい屈折の反映です。  明治十六年ごろから二十年まで五年間のいわゆる鹿嗚館時代には、あらゆる事物の「改良」が問題になったといってよいほど、さまざまな試みが行われ、現代につながりを持つ種々の問題がそこに提出されています。国語国文の改良を目指した「かなの会」「ローマ字会」などはそのころ結成されたものであり、そのほか、住宅改良会、衣服改良会、男女交際改良会、風俗改良会などというのもあったということですが、芸術の領域でこのような改良熱の影響をもっとも直接に露骨な形でうけたのは演劇で、演劇の改良は一時社会の話題の中心になりました。  これはたんに演劇がいつも一番世相と密接につながりを持つ芸術であるだけでなく、幕末から明治の初めにかけて、欧米の地を踏んだ人々をもっとも驚かした事象のひとつは、演劇が彼我の社会においてしめる地位の差でした。  西洋の俳優の位置は、少なくも表面的には高いもので主な劇場は国立であり、社交界の集る場所でした。  これに反して、我国の芝居小屋は士大夫が公然と行くことを恥とした場所であり、俳優は河原者として卑《いやし》められていました。舞台面もときには殺伐、ときには猥《わい》褻《せつ》を憚らず、筋の運びかたも不合理であり、歴史的考証なども出鱈目で、知識階級の鑑賞に堪えないものと思われました。  ことに外人の客を案内したような場合に、我国民の品性まで疑われるような感じを当時の「文明化」した知識人は抱いたので、芝居茶屋の制度や桟敷で飲食する習慣なども、不体裁なものと思えたのです。  一方劇場を外客の接待に使う必要はときどき生じたので、明治十二年のグラント将軍来朝に際しては、新富座の観劇が歓迎のプログラムに織りこまれ、俳優一同が洋服を着て舞台の上から挨拶したということですが、演劇改良の主張もここから芽生えました。  このころから歌舞伎の新風である「活歴」が擡頭し、それまでの草双紙風の構成や、時代錯誤を改め、時代的な考証を、衣裳や仕草筋立の上でも重んじ、歌舞伎を写実的に合理化するようになりました。  これは逍遙が晩年に指摘しているように、「知識階級の而も地方出の上中流の観劇者」の趣味に適合するように、歌舞伎を、「単純化、自然化、合理化」する運動であり、この意味で逍遙の「小説神髄」の主張と一脈通ずるものでした。  この活歴の全盛時代は、明治十三四年から二十三四年まででしたが、その間に明治十九年の欧化主義の絶頂期には、末松謙澄を主唱者として、演劇改良会が組織され、伊藤博文、井上馨を始め、朝野の名士が発起人或いは賛成員として名を連ねたので、社会的に大きな反響を巻き起しました。趣旨とするところは、従来の演劇の陋習を改良すること、脚本の著作を栄誉ある業とすること、構造完全な劇場をつくること、などの三つで、要するに欧米風の劇場と演劇をつくりだすのが目的でした。  しかし改良会の実際の事業はほとんど見るべきものはなく、間もなく消滅しましたが、この我国の社会でも芸術の位置を改良によって高めようとする機運は、たんに演劇だけでなく、明治芸術の諸部門の勃興に大きな力として働いたので、逍遙の小説革新はこの大きな時代の波に乗り、それに内容を与えたものと云えます。  井上外相が、明治二十年四月に、麻布の私邸に明治天皇の行幸を仰いで、団十郎菊五郎の演技を御覧に入れたのは、当時の劇界というより、むしろ日本の社会全体にとって劃期的な出来事で、芸術家のなかでも最低位にあった俳優の技芸すら、軽んずべからざることを人々に教えたのですが、こういう破天荒な企てが実現したのは、澎湃としてみなぎった改良の機運によるものです。  いずれにせよ演劇が当時の社会にたいして持った影響力は、小説とは比較にならぬくらい大きかったので、これは多年歌舞伎劇が、江戸の市民生活のなかで占めてきた伝統的比重、団十郎、菊五郎のような名優が出現したこと、河竹黙阿弥という大才が縦横に劇作の手腕を振ったことが理由として考えられます。  黙阿弥は、明治初年に生きた戯作者の誰よりもすぐれた才分にめぐまれた文学者であり、江戸芸術は彼によって最後の光を放ったのです。  逍遙は、演劇改良会の放った非難にたいして黙阿弥を弁護し、彼等の主張が外観上の西洋模倣の蔭に、旧時代の勧善懲悪思想と、偽善的な体裁論にとらえられているのを指摘して、改良会に反対の態度を明かにし、明治二十二年(一八八九年)に、「日本演劇協会」を高田半峯、森田思軒、岡倉天心らとともに組織して、「飽迄も国劇の特長を保存しつつ芸術の向上を図《はか》らんと」する漸進主義で、歌舞伎の改革をはかり、着々と成果をあげて行きます。  しかしこの主張は、演劇改良会のそれにたいして、ちょうど硯友社が逍遙の革新にたいして立つ位置にあるので、時代の動きの大きな皮肉がそこに感じられます。  むろん逍遙の思想は一貫して穏健な写実主義と、同じく穏健な芸術独立の主張でした。ただ時勢の激しい屈曲によって、彼の主張は、それを最初に実現しようとした小説においてでなく、「小説神髄」で彼が衰頽を予言した演劇の世界で、実際の成果をあげる廻り合せになったのです。  逍遙の影響は、文学史的には硯友社を生んだことになるのですが、その前に孤立した二三の作家が現われました。彼等の仕事は時代の文学に新しい流をつくるに至らず、彼等の方が時代の勢に阻まれて文学を放棄した形になりましたが、今日から考えるとそこに彼等の新しさがあったと見られます。  これらの傍流の作家のうち、最大の存在は二葉亭四迷です。  彼は逍遙と同じ尾州藩の出で、逍遙より四つ齢下でしたが、当時の外国語学校の特殊な教育をうけたため、ロシア文学に深く通じていました。そしてヘルツェン、ベリンスキーなどの影響で、文明批評を基調に持つ小説を書く意図をもち、逍遙の指導と推薦で、「浮雲」(明治二十年—二十二年)を発表しました。「浮雲」は第三篇が未完のまま中絶し、二葉亭は、その後二十年近く小説の筆を絶ちますが、この小説は種々の面で劃期的な斬しさを持つ作品でした。  まず文体について云うと、これは次に述べる山田美妙の「武蔵野」と並んで、口語文による小説の最初の試みでした。明治初年以来、文章が大きな迷いと試みの時期に入ったのはさきに述べました。そのなかで俗語を大胆にとり入れ、従来の文章の固型化した規格を破り、自由に思想を表現するとともに、古い教育を受けない人々にも解りよい文体をつくりだそうとする努力は、早くから福沢諭吉、西周などによって試みられましたが、文学の領域ではかえっておくれていたのを、二葉亭は逍遙の示唆によって、円朝の人情噺の速記や三馬の小説などを参考にして、生きた東京弁をそのまま小説の文体に精練することに成功しました。「浮雲」の文体は今日の口語文とはかなり異った感じのもので、ことに第一篇は戯作の調子が濃くのこっていますが、「言文一途」という根本の態度は確立していたので、これは我国の近代小説の展開にやがて大きな意味を持つ先見でした。  次にその描写の手法が、当時の小説の水準を抜いて、作者の思想や好悪をはなれた客観的なリアリズムであった点で、逍遙はもとより、後の硯友社作家まで、表面は公平を標榜しながら、ややもすれば作者の同情が偏《かた》より、その主観に読者をひきこむことが多かった時代に、これは異例であり、彼が自然主義の先駆者と見られるのも、このように「人生のありのまゝ」を描いた点においてでした。  第三は、自然主義よりむしろ現代につながる点ですが、作中の人物が作者から或る意味で独立して動いていることです。これは、彼等のあいだに劇があり、同時に彼等がそれぞれに矛盾する時代の思潮の体現者であるということです。この点で「浮雲」は本格的な文明批評小説といってよく、彼がここで提出した知識階級の生活と倫理の問題は、のちに鴎外、漱石によって、さまざまな形で発展させられますが、二葉亭自身はその先見にむしろ禍された形で、「浮雲」を完成し得ぬままに日露戦争後まで小説の筆を絶ち、明治三十九年(一九〇六年)に発表した「其面影」で同じ問題をくりかえして扱いますが、新しい展開は見せませんでした。  そのほか二葉亭の仕事として文学史上に大きな意味を持つのは、明治二十一年に「あひゞき」を『国民之友』に、「めぐりあひ」を『都の花』に発表して、外国文学紹介に新生面を拓いたことです。  この二つはともにツルゲエネフの作品の翻訳ですが、彼はここで翻訳を一躍して芸術家の仕事にまで高めて、後進の作家に大きな刺戟をあたえました。それまでの翻訳は、次第に原文に忠実になってきたといっても、原作の筋を紹介すれば足りるという態度でなされたものが多く、翻訳よりむしろ翻案に近かったのですが、二葉亭は始めて、原文の調子や味い、原作者の「詩想」まで、日本語で再現することを意図し、そのために、句読点の数まで原文に合わせるという、極端な逐字訳を採用しました。この方法は彼自身の眼から見ても必ずしも成功したとは云えず、当時一般の作家の間では不評でしたが、原作者の感受性の動きが、そのまま日本語に移し易えられたような一種独特な調子が、青年たちに、清新な印象をあたえ、在来の文章感覚に馴れた目からは、ぎごちなく整わぬものに見えた文体が、彼等の若い感受性に、新しい表現の道を示唆しました。島崎藤村、田山花袋、柳田国男、蒲原有明など、それによって彼等の内部から新しい詩をひきだされたので、外国の文学がはじめて芸術的影響を及ぼすに足る翻訳を、二葉亭によって持ったといえます。  このほか二葉亭の仕事としては、「小説神髄」よりはるかに本格的なリアリズム論を「小説総論」という、『中央学術雑誌』に発表した小論文で展開したことも逸することができません。  これらの作品がすべて明治二十年を中心とする二三年のあいだに発表されたことは、彼の見識の高さと、その青年期の文学的熱情の熾烈さをものがたります。  しかし前述のように、彼は文学者たることを放棄し、内閣官報局の属吏になり、その後もときどき翻訳をするくらいで、外国語学校の教授から、満洲北支の放浪時代を経て、日露戦争を機会に朝日新聞社に入り、ロシア新聞の記事の翻訳と、ロシア事情の調査にあたりましたが、戦後、「其面影」「平凡」(明治四十年)を同紙に発表して再び作家としての名声を恢復しました。  この二作の世間的の成功も、彼の文学への興味を復元しなかったので、まもなく彼は朝日の特派員としてロシアの首都ペテルスブルグに行き、そこで病を得て、帰朝の途中明治四十二年(一九〇九年)五月に印度洋上で歿します。  こういう略歴が語るように、彼は本来の文学志望者ではなく、その興味の中心はむしろ国際問題、あるいは日本民族の運命にありました。彼が外語に入学したのも、将来我国にとって「深憂大患」となるロシアの南下を防ごうという考えからでしたし、この思想は彼がロシア文学を通じて近代のヒューマニズムあるいは社会主義の感化をうけたのちも根本的には変りませんでした。  しかしたんなる国家主義者あるいは民族主義者ではなく、社会問題、思想問題についても時代を超えた深い考察をのこし、可能な限りの実行を試みた彼の生活と、それを反映した作品は、その時代の文学と、文学者の概念からはみでているだけに、現代の問題を、彼が未熟な形で、しかし真摯に悩んだことを示しています。  二葉亭と同じ時代の変り目に立ち、彼と同質の悲劇を、じっと底を浅くしてしかし華やかに演じた人に山田美妙がいます。  美妙ははじめ紅葉らと同じ東大予備門の学生で硯友社の一員となって、『我《が》楽《らく》多《た》文庫』を廻覧雑誌の形で発刊し、「竪琴草紙」の一部にこれを発表し、翌年学校を退き、明治二十年の十一月から十二月にかけて、独自の新文体で書かれた歴史小説「武蔵野」を『読売新聞』に連載し、翌年八月にこれを中心にした短篇集「夏木立」を出版して、一躍して名声を得ました。  「武蔵野」の特色は、「浮雲」と同じく言文一致体の小説であることです。二葉亭がロシア文学に養われたように、美妙のこの新文体も、シェークスピアその他イギリスの作家の修辞の模倣から来ていて、主語と述語の顛倒や擬人法が自由に用いられていて、句読点の用いかたや詠歎法などにも欧文脈を感じさせることが、清新な感じをあたえました。  しかしその新しさがあくまで修辞的な面に止まり、内容が伝統的の物語を一歩もでないことが、彼がやがて作家として行詰る原因になりました。  しかし彼の口語文の試みも決して単なる思いつきでなく、「俗語」にかんする歴史的な考察にもとづいた実験であったことは、「武蔵野」以前にも、「風琴調一節」など、この文体を試みた作品があるのでも知られます。  美妙は一方において詩人であり、後に「日本韻文論」を書くほどですから、その関心は一貫して文章の形態にあり、形の上から小説を改革しようとしたのは当然です。  しかし散文は形のないことを本質とするので、小説の文体を固定した作家は、必ずその形を破ることに苦慮します。紅葉も露伴もこの苦しみをやがて嘗めるのですが、美妙の場合、それは形が内容を固定させ、繰返さす結果になりました。彼に一度つくりあげた枠を破るだけの内面の詩がなかったのか、青年期に得た人気に溺れて、文学についての本質的な思想を深めなかったのか、彼の創造力は急に枯渇して行き、作家としての地位を次第に失いましたが、明治二十一二年ごろの彼は、新進のなかの第一人者として先輩の逍遙をしのぐほどでした。前年から雑誌『以《い》良《ら》都《つ》女《め》』を編集したほか二十一年には新文壇の代表的雑誌である『都の花』の主筆となり、硯友社に集った青年たちのなかでもっとも早く世間的に華々しい存在となりました。  この人気が長続きしなかった原因については、結局彼の行った革新が外面的な性質であったことが根本ですが、それと同時に、二葉亭逍遙にわざわいした時勢の大きな変化が作用しているのも見逃せません。  「美妙斎は恰も欧化熱の人工孵卵器で孵化された早産児であった。」という内田魯庵の言葉はこの間の消息を語っています。彼の文章は当時の読者には、「極端に西洋臭い言文一致の文体」に見えたので、欧化主義の潮がひいたとき、その反動として時代おくれの浅薄なものと見られるのを免れませんでした。  彼の文章は——そして彼の文学全体も——当時の欧化主義の底の浅さを象徴していたので、二葉亭と反対の意味で、彼は時代の犠牲者でした。 第二節 紅葉、露伴  大学予備門の学生であった美妙と紅葉が明治十八年(一八八五年)に硯友社を組織して『我楽多文庫』を創刊したとき、それに加ったのは石橋思案、丸岡九華らでしたが、翌年これが活版刷になったとき、川上眉山、巌谷小波などが新たに加りました。  このころの紅葉は、滑稽を旨とした随筆をよく書いて、もっぱら喜劇的才能を発揮していました。「爾《なんぢ》性《せい》諧《かい》謔《ぎやく》。 汝《なんぢ》 口《くち》 善《よく》 罵《ののしる》」というのが社の同人たちの彼にたいする批評でした。  これは紅葉だけでなく、硯友社全体にみなぎっていた気分で、都会人の子弟であった彼等は、化政期の江戸文学の影響で、諧謔、遊宴をこととしながら、感性の洗練を恃《たの》む反俗精神や選民意識にも事欠かなかったので、明治も二十年近くなると、大学の学生のなかから、こういう文学的青春が芽生えてくるようになりました。  高田早苗は逍遙とともに過した大学生活を回顧して、そのころの大学生には紺足袋党と白足袋党があり、自分等は白足袋党であったと云っていますが、これと同じような対立が紅葉等と、周囲の功利主義を謳歌する地方出の学生たちとのあいだにあったと思われます。  彼等の戯作者趣味は時代の風潮にたいする都会人らしい反抗であったので、少なくもその出発点においては、文学に重大な意味をみとめたのでもなく、これを職業にするつもりもなかったのでしょう。  「当世書生気質」や「小説神髄」の主張が彼等の上に及ぼした感化は、この点にあったので、これまで遊びであり、消極的反抗の具であった文学に積極的な「文明の要素」たる意義を教えたのです。  紅葉は明治二十一年(一八八八年)ごろから西鶴に親しみ、この新たに発掘された古典によって新生面を開くことを期し、翌二十二年に「二人比丘尼色懺悔」を発表して、その第一歩を踏みだしました。  以後、美妙の名声が傾くと反対に、紅葉の声価は一作ごとにあがり、十数年のあいだ硯友社の盟主として、時代の文学を——少なくも世間的には——代表する地位を占めました。  紅葉の文学の本質は、逍遙と同じように、化政期の江戸文学に養われたものですが、逍遙より十歳ちかく年下なため、外国文学にたいしても、また国文の古典にたいしても柔軟な適応性をもち、よく新時代に即した作風を育てあげることができました。  「小説神髄」の主張をもっともよく利用し、これを過不足なく実現したのは、紅葉たちの硯友社であったので、彼等はまず「神髄」の非功利性の主張を、みずからの戯作者気質の弁護に役立て、この新時代に存在権をみとめられた「美術」の内容を時代にふさわしいものにすることに努めました。新しい文明の根底をなす常識や風俗に牴触しないことがその第一の条件であったので、そのために、紅葉は外面は西鶴やときには源氏物語の文体を模して、艶麗な絵模様を描きながら、その内部の構成は、人物の性格にいたるまであくまで合理的で明治人が理解し、納得できるものとし、また描写なども上品でくどくないことを旨としました。  したがって紅葉を中心とする硯友社の小説は、後の自然主義以後の作品と比較にならない大衆性を持っていたので、ことに紅葉自身の作品は、時の政治家、実業家などから青年子女にいたるまで、広い階層に喜ぱれました。しかしその大衆性あるいは通俗性が、社会生活にのこる半封建的な雰囲気と、硯友社が「洋装」した江戸文学であることとの微妙な調和の上に成り立っていた点に、小説の世界では傍流として発達したロマン主義の運動が、やがて自然主義に変形して、これにとって代る必然性を生むことになります。  硯友社の文学は、それ自身ひとつの過渡的な文学であったといえますが、この過渡期の文学は、その後の新時代の失ったものを旧時代からうけついで持っていた点で現代から再評価されてよいので、そのひとつに文体があります。紅葉は美妙と異って言文一致の方向に進まず、「色懺悔」から「金色夜叉」まで、(口語文をも含めた)さまざまの文体の実験をくり返したのですが、彼にとって文体が大きな意味を持ったのは、小説の世界を想像力でつくりあげようとする意図と無関係でないので、これは口語文による写生リアリズムだけを近代と考える自然主義の思想で批判すべきことではありません。  紅葉は真の意味での独創性を持つ天才ではなかったにしろ、才能と良心と誇りを持つ作家であることはたしかです。  彼は時代の好尚のおもむくところを鋭く察し、それに適合した内容や表現形式の文学をつくりだすことに、非常な苦心を払ったので、おそらく彼の欠点は、天成の大作家が生れながらに持つ時代感覚を、意識的につくりだそうとしすぎたところにあったのです。  同時代人の子規がそうであったように、彼の短い一生も絶え間のない作風の変遷の歴史でした。慶応三年(一八六七年)に江戸に生れた彼は、二十三歳で「色懺悔」を発表してから、三十七歳で歿するまで、たえず時勢に押されるように、新しいものを求めて行きました。  「色懺悔」にすでに幾分か西鶴の影響が見られることは前述しましたが、その後これは、ほとんど模倣といってもよいほど露骨なものになり、「伽羅《きやら》枕《まくら》」(明治二十三年)「三人妻」(二十五年)などはその典型とされています。  しかし紅葉の西鶴模倣は主として文辞の上だけで、表面的なものに止まったので、彼は間もなくそれを脱皮して、モリエール、ボッカチオなど、外国作家の作品の翻案を試みたり、言文一致の文体を用いたりするようになりました。「隣の女」を言文一致で書き、「不言不語」を源氏物語から学んだ雅文体で書き、さらに「多情多恨」を言文一致体で、「八重《やえ》襷《だすき》」で会話体で書いた三十歳前後の時期の作品は、彼の模索が形式、内容ともに死ぬまで続いたことを示しています。  最後に未完の大作として終った「金色夜叉」は地の文は文語、会話は口語という不思議な文体ですが、これが当時の読者の感覚にちょうど適合したものであったことは、それが新聞小説として、異例な成功を収めたので知られます。  さらにこれは新派の芝居に脚色され、流行歌にもなり、何度か映画化されて、ここで筋書を述べる必要がないくらいです。明治以来の小説でもっとも大衆に親しまれた小説といえば、「不如帰《ほととぎす》」とともにこれをあげなければならないので、武男と浪子の悲劇が封建的な家族制度に起因するに反して、貫一とお宮の悲劇の原因はそれぞれ彼等自身の行動にある点で、「金色夜叉」はより多くの近代性を持つといえましょう。  紅葉が天分の人より、努力の人であり、彼の小説の主人公への詩的な共感より、むしろ意識的計算の結果であるということが、自然主義の作家によって小説が本来持つべき仮構性と混同され、両者とも否定されたのは、悲しむべきことでした。  紅葉の小説の外面性を指摘して、これを鍍金《めつき》文学と罵った花袋の言葉は、正しい面をもっていますが、それが地金の方が、塗られた金よりも尊いような錯覚を一般化したのは、我国の小説にとって不幸であったと云えます。  紅葉の小説が外面的であり、人物の内部に深く筆が入らぬのは、彼が最初から持っていた短所ですが、その外面性をここまで発展させて、浅いながら社会を蔽う人気をながく持ちつづける小説をつくりだしたことは、彼がその天分を充分につかいつくすだけの努力をしたことを示しています。これだけのことができる作家も稀なので、紅葉が日露戦争まで小説家として第一人者の位地を示したのは当然です。  小説のほか、彼の作品では紀行文がすぐれています。なお彼は俳句はかなり熱心につくり、晩年には子規の日本派に対抗して秋声会をおこしました。句風は蕪村に学んで、都会人らしい洒脱さがあり、たんなる余技と云えぬものがあります。  彼は明治三十六年(一九〇三年)十月の末に胃癌で歿しましたが、辞世に「死なば秋露のひぬ間ぞ面白き」という句をのこしました。  こういう死に方をした文学者は、彼あたりが最後になりました。  紅葉と並び称せられた作家に、幸田露伴がいます。露伴は硯友社にぞくさず、いわゆる根岸派にぞくする文学者たち、鴎外、緑雨などと交際するだけで、独行する気概を示していましたが、「新著百種」に「風流仏」(明治二十二年)を発表して以来、世間からは常に紅葉の好敵手と目されてきました。  彼は紅葉と同じ慶応三年(一八六七年)の生れでしたが、紅葉の倍以上長生して、昭和二十二年(一九四七年)に八十一歳で歿しました。彼と紅葉との一番大きな違いはこの長命と短命ということですが、その作風も面白い対照をなしています。  露伴も紅葉と同様に、西鶴の影響から出発しましたが、彼の本質は理想主義的なロマンチックで、紅葉が女性を主人公として華麗な描写をほしいままにしたに対して、男性を主人公として、その憧れ、理想、誇りなどと現実との衝突を好んで描きました。  ことに初期の「風流仏」「五重塔」などは芸術家を主人公として、彼等の希いが曲折を経た末に実現される筋に、作者の若さが象徴されています。  しかし時代の趨勢は、大きく写実にむかって傾いて居り、露伴も青年期の芸術的な理想主義をながく守ることはできませんでした。  未完の大作「風《ふう》流《りゆう》微《み》塵《じん》蔵《ぞう》」(明治二十六年—二十八年)「天《そら》うつ浪」(明治三十六年—三十八年)は、写実への転向と、小説家として大成しようとする努力を示す記念碑と見られます。「風流微塵蔵」は短篇の連作という形をとり、全体の四分の一と思われる辺りで中絶していますが、明治初年の上総《かずさ》の国、東京、横浜などを舞台として、一連の男女の群像を描きだし、彼等の離合、浮沈に、或る大きな意味を見出そうとしたようで、全体が仏教思想の影響をうけていることは、その序言からも察せられます。  「天うつ浪」も、野州生れの七人の青年が貧窮のなかから互に援け合うことを神社に誓い、それぞれ違った職業について、出世の道を辿るなかで、水野静十郎という詩人を志す小学校の教師が不幸な恋に悩んでいるという発端だけが書かれているだけですが、作者の観察力と筆力が強い幅を持ってきて、露伴の小説家としての才能の一頂点を感じさせます。  ただこの長篇は約三分の二のところで半年以上筆をおいて、書きつがれたためか、後の三分の一にあたる女の世界を描いた部分は、手法も少し前半の部分と違って、見劣りがします。しかしこれを中絶しなければならないような理由は別に見当らないので、作者がこれだけ力を籠めて書き始めた長篇に中途で興味を失った理由は推測するほかありません。  おそらくそこには紅葉の「金色夜叉」を中絶させたと同じ、微妙な時代の雰囲気が、働いていたので、ことに「天うつ浪」の終りの部分が書かれたのが、日露戦争の最中であったのは、注意すべきことです。間貫一や水野静十郎のような性格は、まだ一般読者には迎えられても、同時代の知識階級の意識と食いちがうようになってきたのです。  露伴も紅葉と同様に、性格に発展のない人物を作者が頭のなかでつくった筋にしたがって動かすことに疑問を持つようになったので、時代は自然主義にむかって熟して行き、作家の想像力は、その真の地位を与えられずに追放されることになります。  明治四十一年(一九〇八年)に露伴は京都帝国大学の講師を嘱託され、一年ほどで辞して東京にもどりましたが、このころから小説より随筆史伝考証などの筆をとることが多くなりましたが、そのなかに文学としてすぐれたものが多く、ことに「蒲生氏郷」「頼朝」などは傑出していますが、大正八年(一九一九年)に『改造』四月(創刊)号にのった「運命」は、明の太祖の歿後帝位を争った永楽帝と建文帝の生涯を対比して、人間の運命の不可測を実感させる歴史小説で、彼の大正期の歴史小説は、鴎外のそれと並ぶべき思想詩といえます。  戯曲「名和長年」も史実によった作品で、古風ながら武士の気質をよく描き、たびたび上演されました。  次に特筆すべきものは、彼の最後の仕事になった芭蕉の七部集註釈で、これは学問的な註解というより、芭蕉の詩をかりて、露伴の詩魂が最後の飛躍を示した創作であり、日本の詩への絶好の入門書として、ながい生命を保つと思われます。  「幻談」も昭和十六年(一九四一年)にだされた露伴の最後の小説集ですが、集中に同名の短篇をはじめ、「連環記」「雪たゝき」「鵞鳥」の四篇をおさめ、我国の近代小説に珍らしい、老熟した詩境を示しました。そのほか露伴の作品としては日露戦争当時発表した詩「出《しゆつ》廬《ろ》」があります。これは作者の文学思想を端的に歌って、「国詩」の創造を目指したものですが、成功しませんでした。  青年時代の露伴と親しかった根岸派の文人たちには、須藤南翠、幸堂得知、岡倉覚三などがいましたが、なかで、饗《あえ》庭《ば》篁《こう》村《そん》と森田思軒の二人は開拓期の文壇で逸することのできない存在です。  篁村は本名を与三郎といい、露伴はもとより、逍遙にたいしても先輩にあたる人で、安政二年(一八五五年)の生れで、明治七年(一八七四年)に読売新聞に入り、十六年ごろから戯作者として名をなしました。しかし聡明で歳が若かったために、外国文学の影響も逍遙たちを通じて受け、西鶴なども紅葉に先んじて読み、「好色一代女」にならった「蓮葉娘」を明治二十一年に刊行しています。小説家としての彼の地位は、ちょうど、旧派の戯作者と、硯友社の新派をつなぐところにあり、その代表作は明治二十二年から二十四年にかけて刊行された「むら竹」二十巻に収められています。  このころが彼の作家としての全盛期で、大家のひとりとして仰がれましたが、新文学の勃興とともに次第に小説の筆をとることが稀になり、劇評家としてながい生命を保ちました。  小説家としての彼の作風は江《え》島《じま》屋《や》其《き》磧《せき》に学んだほか、化政期の戯作の風を伝える点が多いのは、「俳優気質」「当世写真鏡」など彼の小説の題名からも察せられます。彼の小説は人物の性格も筋も類型的なのが多く、新味に乏しいとされましたが、真の江戸風の味いでは、書生上りの紅葉の及ばぬ点を持ち、この特質はとくに紀行文によく出ています。この江戸子の外柔内剛とへつらいを嫌う親切とは、彼の戯評によく生かされ、歌舞伎にたいする真の愛情を持っているのと、役者たちを偏頗なく公平に厳しく批評したことで、彼の劇評家としての権威は大正期まで持続しました。彼が歿したのは大正十一年(一九二二年)で、その劇評は「竹の屋劇評集」にまとめられています。  森田思軒は本名を文蔵といい、岡山県笠岡町に文久元年(一八六一年)に生れ、矢野竜渓に知られて報知新聞に入り、明治十八年(一八八五年)に通信員として清国に赴き、ついでヨーロッパに遊んで英国に滞在して米国を経て帰国しました。その後主として翻訳家・批評家として活動し、『国民之友』の客員になり、一方報知新聞では主筆の地位をしめ新知識として重きをなしました。  彼の翻訳には、「瞽《こ》使《し》者《しや》」(ジュール・ヴェルヌ作「ミケール・ストロゴフ」の訳)「十五少年」(ヴェルヌ作「二年間の学校休暇」の訳)などが有名です。前者はロシアを舞台にした冒険小説で思軒の出世作ですが、他人の訳を土台としたものです。後者は明治二十九年に『少年世界』に連載されたものですが、思軒の代表作であるだけでなく、少年文学の古典とされています。  そのほか明治二十二年に『国民之友』に発表されたユーゴオ原作の「探偵ユーベル」が二葉亭の絶讃をうけたことを特記すべきでしょう。  思軒の翻訳は周密文体といわれ、原作に忠実とされていますが、外国の文脈をそのまま伝えるよりむしろそれを格調ある漢文くずしに転移することに重きをおいたので、生前に重んじられたほど、後世からは価値されませんが、翻訳小説をひとつの文学作品に高めた功績は、今日からも没することはできません。  彼は明治三十年に三十七歳で歿してしまったので、文学者として幅広い存在であった彼の成熟が見られなかったのは惜しむべきです。 第三節 『しがらみ草紙』  硯友社の作家や露伴の小説が一般の読者によろこびむかえられている間に、文学界の一部には次第に新しい機運が芽生えて、次の時代の素地をつくって行きます。  当時の雑誌のなかでもっとも有力なのは、徳富蘇峰の主幹であった『国民之友』で、その文芸欄は、大正時代や昭和の初期に『改造』『中央公論』などと同じ役割を文壇に果していたようです。逍遙、二葉亭、美妙などをはじめ前節に述べた篁村、思軒の作品もここに掲載されて、世評を呼んだのですが、同じころ異色のある仕事をこの誌上に発表して具眼の読者の注目をひいた作家がいます。  明治二十二年(一八八九年)八月の『国民之友』に訳詩集「於《お》母《も》影《かげ》」をS・S・Sの署名で出し、翌年一月の同誌に小説「舞姫」を書いた森鴎外です。  鴎外の業績は、文学の領域だけに限って見ても、三十年を越す期間にわたって、多岐なすぐれた仕事をのこして居り、明治時代が生んだ巨人のひとりに数えるべき存在と思われます。  彼の職業は陸軍軍医であり、晩年には宮内省に移り、官吏としての生涯を終ったので、彼の文学活動は、同時代人からは一種の余技と見られがちでした。  石《いわ》見《み》国(島根県)の津和野で文久二年(一八六二年)に生れた彼は、明治五年に上京し、西周の邸に寄寓し、明治十四年に二十歳で東大医学部を卒業して、陸軍に入り、同十七年に陸軍の衛生制度と衛生学研究のためドイツに留学し、二十一年に帰国し、以後大正五年に陸軍軍医総監として現役を退くまで生涯の大部分を軍人として過し、翌六年は帝国博物館長兼図書頭に任ぜられ、大正十一年に歿するまでその職にありました。  しかし彼が死に際して親友に口授した遺言に、「宮内省陸軍省皆縁故アレトモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞」して、「余ハ石見人森林太郎トシテ死センコトヲ欲ス」といったのからも察せられるように、彼にとっては文学がもっとも生命に直接ふれた営みであり、官吏としての生活は肉親はじめ社会にたいする妥協の形にすぎなかったようです。  文学が社会から(ことに経済の面で)報いられることが極端に薄かった明治時代に、多くの知識階級をとらえた悩みに彼もまた苦しみました。  内田魯庵が鴎外が亡くなったとき、「純文芸は鴎外の本領ではない。劇作家又は小説家として縦令第二流を下らないでも第一流の巨匠で無かつたことを敢《あへ》て直言する。」といっています。この言葉は同時代人の鴎外にたいする評価を代表しているとともに、彼の性格の一面をとらえています。  鴎外が、小説家として一流か二流かはさておき、彼が詩人でなかったことは確かです。彼の頭脳は科学者のそれであり、彼の性格には、改革者あるいは反逆者の素質はなく、秀才、能吏の型でした。しかもずぬけた才能にめぐまれていた彼は、周囲に適応して出世の道を辿りながら、そういう生きかたに疑いを持ち、不満を感ずる余力を備えていたので、その疑いと不満とが彼の生活を破る力を持たなかったことが、彼の苦しみであり、彼の限界でもあり、人間的な陰影として、文学を生む動力になりました。  彼が真の詩人でなく、反逆者でもなかったことを鴎外の欠点とする議論がありますが、それよりも非人間的な出世の道を歩んだ明治の知識階級のなかに、人間としての意識を失わず、それを文学に書きのこしたひとりの鴎外がいたことの意味を僕等はまず考えるべきでしょう。  彼の小説の処女作である「舞姫」はこの点から見て、彼の作品全般にたいする鍵と云えます。  これは太田豊太郎という秀才の留学生がベルリンに滞在して、欧洲の自由な空気にふれて、父母の教えにしたがい、人から神童などと云われていい気になっていた自分が実はただ「所動的、器械的の人物になりて自ら悟ら」なかったことに気付いて、これまで疑わずに服従してきた官界の秩序に反抗しはじめていたとき、偶然出会った踊子のエリスと恋仲になり、官界から追われて、異国の大都会で不安定な生活に入り、その代償として恋と精神の自由を得ますが、やがて前途に希望のない生活に倦《う》み、恋だけに生きて故国を捨てることの不可能を自覚して、友人相沢にすがって新しい保護者を天方伯爵に見出し、彼の意にしたがってエリスを捨て、妊娠中の彼女はその打撃で狂気になるという筋です。  この小説はさまざまな面において問題を含み、多くの人々によって論じられていますが、まず第一にそれは「浮雲」とほぼ同じ時期に、我国の知識階級の内面の問題にふれ、その暗い深部を剔《てつ》抉《けつ》した作品といえます。  文三や豊太郎のような人物の出現は、維新後の我国の新社会が二十年ちかい歳月を経てほぼ安定期に入り、維新の功臣に成上った書生たちの次の世代にぞくし、彼等に有用の知識を供給する「所動的、器械的」な存在であることを出世の条件として要求される青年たちの人間的な悩みを具現しています。  彼等はいずれも、自己の内面の論理(新しい知識の吸収と併行するヨーロッパ的な「進んだ」考)と、周囲の封建的環境との矛盾に苦しむのですが、結末はいずれもその闘いにおける彼等の敗北に終っています。文三は自分の論理に固執する結果、外界と交渉する手がかりを失い、愛するお勢の不幸を目前にみながら、自己の無力に絶望して狂気に導かれる筈でしたし、豊太郎は逆に外界と妥協することによって、自分を信ずる資格を失います。彼自身にとってもっとも大切としてきたものを敢て踏みにじった彼に、もはや自分の心が頼りにならなくなるのは当然で、豊太郎の絶望は文三のそれのように外形が悲惨でないだけに、かえって深いといえます。  この知識階級の内面の論理と、外界への適応の問題は、その後もながく尾をひく問題で、漱石の小説もこれを主要なテーマにしていると思われますが、鴎外自身にとっても、これは生涯の精神生活を貫く軸になっています。  エリスと豊太郎の恋に似通った事件は、滞独中の鴎外に実際起ったので、豊太郎の心情は作者自身のものといってよいのですが、この経験は彼の心の一部を殺すとともに、彼は自から巧みに適応して行った周囲の社会にいつも疑問を抱きつづけたようです。(註一)  彼の文明批評もそこから生れたのです。しかし、この思想が本当に彼の作品に開花したのは、二十年後の自然主義時代です。  「舞姫」の清新なエキゾティズムと、抒情性は大きな世評を呼び、鴎外は一躍して新文壇の雄と仰がれました。これよりさき、彼は「於母影」の印税を基金として、雑誌『しがらみ草紙』を発刊して、新しい文学の理念の確立のための批評と啓蒙の機関としました。  その創刊号で彼は当時の我国の文学界が一種の混沌状態にあるといい、こういう事態は「決して久しきに堪ふべきものにあらず。余等はその澄清の期の近きにあるを知る。而してそのこれを致すものは、批評の一道あるのみ。」と断じています。  したがって『しがらみ草紙』は評論を中心とした雑誌であり、その目的は批評の力によって、文章の真《しん》贋《がん》を明かにし、文学界の自然の勢を促進して、その統一「澄清」の実現を期するにありました。この批評にさいして彼の基準としたものは、「西欧文学者が審美学の基址の上に築き起したる詩学」であり、その立場からの「逍遙子の小説神髄、半峯居士の美辞学の出づるや、我邦操《さう》觚《こ》家の為めに此文学上の標準を得たるを賀し」ています。  この見地に立って、彼は石橋忍月、山田美妙、外山正一等を論難し、さかんな筆陣を張って、近代芸術の理念の普及につとめましたが、そのなかで、もっとも世の注目をひいたのは、坪内逍遙との間にかわされた、いわゆる没理想論争です。  さきに述べたように、鴎外は「小説神髄」や「書生気質」の時代的意義をみとめるに吝《やぶさ》かでありませんでしたが、元来ハルトマンの美学を祖述する立場に立ち、その「詩学」に照らして、あらゆる文学的事象を裁断することを理想とした青年期の鴎外にとって、英国風の合理的常識の上にたった逍遙の所論があきたりなく思われたのは当然であり、たまたま逍遙が明治二十三年(一八九〇年)に「小説三派」という評論を書き、当時の小説界の傾向を、固有派、人情派、人間派の三つに分ち、三者のあいだに優劣なしとしたのが、鴎外の反論を招き、ここに論争の土台がつくられました。  逍遙がここで分った三派のうち、第一の固有派は、在来の我国の戯作の脈をもっとも濃厚にひく根岸派の作品であり、事件や境遇の浮沈を描くことが主となって人間が従となっているのを指し、第二の人情派は人間を主として事件を従としているが、この両者のあいだに必然のつながりがない点で、やはり事件によって人間を動かしている作品を云い、紅葉、美妙の作品がそれにあたり、第三の人間派は人間と事件のあいだに必然的関係のある作品を指すのですが、それに当る作品は当時の我国には見出せなかったようで、例としてはシェークスピアの作品があげられているだけです。  ところで逍遙によれば、この三者のあいだに優劣はないのであるから、たとえば固有派の作品を人間派の標準で非難するのは過であり、それを批評するには三派それぞれの主張にそい、その特色を理解した上ですべきだというのが、彼の主張です。  これは彼の温厚で常識的な人柄から見ても、またその懐抱する科学的な客観主義から云っても当然の主張ですが、文学の価値判断の上では、「小説神髄」の主張からの後退が見られます。「神髄」で彼が理想としたのは第三派の作品であり、第二派までは許容しても、第一派は原則として否定したはずです。  対象の理解に名をかりて、批評の基準を喪失する(複数の基準はないのと同じです)のは許されないとするのが、これを非難した鴎外の論旨でした。  論争は鴎外が明治二十四年(一八九一年)九月の『しがらみ草紙』に発表した「逍遙子の諸評語」に始り、これにたいして逍遙が十一月の『早稲田文学』で「シヱークスピヤ脚本評註緒言」という形で答えて、シェークスピアの作品の性格を例にとって「没理想論」を主張し、さらに鴎外の「早稲田文学の没理想」逍遙の「烏有先生に答ふ」という風に翌二十五年六月まで応酬をくりかえしました。  この論争はもともと「理想」とか「実」とか「美」というような、曖昧にしかとらえられない文学の根本概念をめぐって行われたので、言葉の行違いに終ったようなところがあり、同時代の文学界に、あまり実質的な影響をのこさずに終りましたが、ともかく文学の根底にふれる問題について、新文壇の代表的先達と目された二人が全力をあげて論争したことは読書階級の視聴をあつめ、青年たちに深い感銘をあたえました。  逍遙はシェークスピア、鴎外はハルトマンという風に、ともに西洋学術の知見をさしはさんで論じあったのも、時代を象徴する新鮮な風景でした。偶像の撰びかたは、逍遙の方がよかったと今日から言えますが、論争が一応鴎外の言い分が通った形で終ったのは、逍遙がシェークスピアを材料にしても、ともかく自分でものを考えようとし、そのために考えが日本の現状に妥協的になっているに反し、「標準」を高く保つことが自然を育成する所以と信じた鴎外は、その「標準」を「ハルトマン」の「靉《めが》靆《ね》」に求める態度で一貫したためと思われます。  彼は「吾国の詩人に……ギョオテ、シェクスピイヤが詩に見えたる如き個想なかりしか。……若し無くば、小天地想を美の極意とする立脚点より見て、吾邦古来大詩人なしと云はむのみ。」といい、さらにむかしからなかった大詩人を今の我国の文壇に求めるほどの「大和魂」を自分は持合せていないと付加えています。  鴎外が我国に確立しようとしたのは、この「小天地想を美の極意とする立脚点」であり、この思想がハルトマンにあっては、たんなる芸術思想ではなく、哲学体系の一環であっただけに、鴎外はそれを知識としてでなく、新時代の芸術家の生きる態度として、身につけることができたのです。  この借りものの信念を本当に自分のものにするために、払うべき代償について、三十歳の彼はまだ考え及ばなかったのです。  ともかく逍遙の常識的な合理精神にもとづく、個物尊重の思想と、鴎外の代表した美的な理想主義で現実を裁断する態度とは、その後我国の文学界にさまざまな形で繰り返し現われてきた対立でありこの我国の近代文学史上、最初の論争は、おのずからその土台にふれているといえます。 第四節 評論の時代 ——北村透谷を中心に——  鴎外、逍遙の間だけでなく、また文壇関係だけでなく、明治二十年代の中頃は、論壇が非常な活況を呈し、さまざまな意味深い論争が各界を通じて行われた時代で、評論時代といえます。  この時代の雑誌は、徳富蘇峰の『国民之友』、政教社の『日本人』などをはじめ、『しがらみ草紙』『文学界』など文学関係の雑誌の一部も評論が中心であり、新聞紙の論説も、『時事新報』の福沢諭吉、『日本』の陸《くが》羯《かつ》南《なん》、その他一流の評論家の文章を掲載して、これを各紙の特色とし、指導精神としていました。  明治二十二年の憲法発布、翌年の議会開設などによって、天皇制国家としての体制が整い、政府の基礎が固ってくると、民権の伸張より国勢の維持と拡張が国民の関心事となり、民間の論者も次第に民権論より国権論に重心を移すようになりました。  政教社の国粋論が大きな影響力を持つようになったのは、こういう時代の空気を背景にしたので、維新以来西洋の模倣に直進した時流は、ここにひとつの深淵をむかえるに至りました。欧化主義と国粋主義の対立、その時代による交替は、その後いくどかくり返された現象で、我国の近代文化の一特質をなしていますが、その最初の大きな波動がこのとき見られます。  この風潮は一方において無批判に行われてきた欧化の実相を反省する機会になりましたが、他方それが政府の権力として現われて、時代の教育を大きく動かし、師範学校の整備、教育勅語の発布などで、国民の精神を官製の国家主義の鋳型にはめようとすることになると、維新以来幾分かみとめられてきた思想の自由を、狭い枠に入れて圧殺しようとする傾きを帯びてきました。  国粋主義が、時の権力を笠にきた脅迫的論客を生む傾向が、真の国民意識の覚醒を妨げる例はすでにそのころから見られました。  その典型的なものは、明治二十四年(一八九一年)におこった内村鑑三のいわゆる不敬事件(註一)などを通じて表面化したキリスト教の教義と、天皇崇拝を中心として組織化された新時代の国家主義との矛盾を、国家主義の立場から衝き、キリスト教の抹殺を意図した井上哲次郎によって口火を切られた「教育と宗教の衝突」の論争です。  井上はここで教育勅語の説く道徳が忠孝悌信などまったく世間門の道徳であるのに、キリスト教は出世間の道徳を説き、国家意識がなく無差別の愛を説く、したがって、キリスト教は我国の国民性と相容れぬという趣旨の論陣を『教育時論』その他の雑誌に張り、仏教徒神道家たちからの賛成、キリスト教徒からの反対をはじめ、大きな世論の反響をよびおこしました。  彼の所論は、出世間の道徳と世間門の道徳との優劣や性格の差を比較して、そのいずれかをとれというのではなく、始めから日本人の拠るべき道徳は教育勅語以外にないとし、それと相容れぬキリスト教を追放すべしというので、理論的に見れば取るに足りぬものですが、それが国家権力の動きを背景にして、それを合理化しようとする点に、あなどれぬ根拠をもっていました。  これに対抗したキリスト教側も、その世界主義と愛国心が矛盾しないこと、神にたいする信仰が天皇にたいする尊敬と矛盾しないことなどを説いて、教義の保守的側面を強調することで、この非難をきりぬけようとしたので、教団によっては、「国風のキリスト教」を説くものも現われて、全体としては天皇制と妥協する方向を辿りました。  キリスト教に元来保守的な要素があるのは、キリスト教国といわれる国を見れば明かで、こういう方向をとること自体が必ずしもその教義を歪曲したことにはなりませんが、しかしあいまいな近代性しか持たなかった我国の国家組織とあいまいに妥協した禍根は、昭和になってからはっきり現われました。  明治初年のキリスト教は西欧文化の、これまでうかがうことを禁止されていた精神的側面として、多くの人々の好奇心の対象であり、時代の功利的風潮にあきたりぬ人々は同じ西洋の所産である「出世間」的な教義に心のよりどころを見つけたので、それには他の外人たちよりは優れていた宣教師、神父たちの人格も大きく働いていました。ゼーンス、クラークのような、僧籍にない人々も、その宗教的熱情で青年たちに強い感化をあたえました。  政府も明治六年(一八七三年)にキリシタンの禁令を撤回してから、これを外国との交際の都合上むしろ奨励し、一般の知識階級も、これを国民を開化に導く有力な手段と見たので、一般にはまた禁教時代の偏見と反感がのこっているなかで、主として知識階級の青年の間に急速に拡って行きました。  したがって明治二十年代におこったキリスト教と国家権力との妥協は、四囲の環境にたいする反感から、革新的な熱情の拠りどころを、この外来の宗教にもとめていた青年たちを失望させ、そこから離反させました。  明治の文学者の大きな部分は、このキリスト教からの離教者によって形づくられるので、文学界の運動も、自然主義も、白樺の一部も、離教者の手になった文学といってもよいのです。(註二)  『文学界』はその成立の事情から見ても、キリスト教の色彩の濃い雑誌でした。明治女学校というキリスト教の女学校を背景にして、その関係者たちが出した雑誌で、北村透谷、島崎藤村、馬場孤蝶、上田柳村(敏)、戸川秋骨などがこれに参加しました。創刊は明治二十六年(一八九三年)一月から三十一年一月まで、五年間に五八号まで続きましたが、その間を大体三期にわけ、初期を北村透谷の評論、中期を樋口一葉の小説、後期を島崎藤村の詩が代表するとされています。  北村透谷は、明治二十七年に二十六歳で歿しましたが、『文学界』のグループの指導的な存在であり、彼の評論は『文学界』の方向を決定し、その旗印と見られました。  彼は明治元年に小田原で生れ、十二歳のとき父母と一緒に上京して数寄屋橋の近くに住み、その号の透谷もスキヤからとったと云われています。小学校在学中から、自由民権運動に興味を持ち、三多摩地方を放浪して実際運動に加りましたが、明治十八年に大井憲太郎の大阪事件の直接行動に加るように誘われて、政治運動を断念し、ユーゴオのように文学者となって、人心の内面に働きかけて政治的理想を達成することに活路を見出そうとしました。この透谷の政治家(あるいは革命家)としての経歴は彼を理解する上で、大切な手掛りです。  ついで石坂ミナとの恋愛結婚、キリスト教への入信などの事件を経て、明治二十一年に「楚囚之詩」を自費出版し、同年日本平和会を創立するなど、次第に文筆活動を始めて、明治二十五年二月に『女学雑誌』に「厭世詩家と女性」という評論を発表して、読者に大きな感銘を与えました。「恋愛は人世の秘《ひ》鑰《やく》なり」という有名な一句に始まるこの論文は、結局詩人が女性を強く求めながら、それと調和した生活を営みがたいことを述べたものですが、それが当時の青年たちを驚かしたのは、「恋愛豈《あに》単純なる思慕ならんや、想世界と実世界との争戦より想世界の敗将をして立籠らしむる牙城となるは、即ち恋愛なり」という言葉が示すように、恋愛の人生的意義を真正面から強調して、男女の精神的交渉に大きな価値をみとめたことが、恋愛をたんに肉慾の現われとし、恥ずべき過失とする当時の世間の常識にたいする大胆な反逆であっただけでなく、粋とか通というような江戸文学の枠のなかで、恋愛の美化を図っている硯友社の作風にたいする強い不満の現われでした。  この年彼は『女学雑誌』のほか、『平和』『国民之友』などに数多くの評論を寄稿し、すでに一家をなしました。翌二十六年『文学界』の創刊とともに、彼は、山路愛山と論争して、「人生に相渉るとは何の謂ぞ」を書き、世の注目をひきましたが、彼の重要な評論は「処女の純潔を論ず」も「各人心宮内の秘宮」もすでにその前年に書かれていたのは注意すべき点です。  『文学界』の創刊当時すでに批評家としてできあがった存在でした。  透谷はキリスト教の洗礼をうけ、終生これを公然とはすてなかったので、葬儀もキリスト教によって行われました。しかし彼は自殺したことを見ても真の意味のキリスト教信者とは遠い存在であったようで、晩年の彼が「どうしても僕には信じるといふ心が起らない」と藤村に云ったのは正直な告白であったと思われます。  しかし、このことは彼の思想に、キリスト教の感化が深く印せられているのと矛盾しないので、彼がキリスト教の教義から脱化して身につけた理想主義は、時代の功利主義と根底から対立し、これを超えようとする強い意慾に燃えていた点で同時代に類を見ぬものです。かつて経国済民の理想に動かされて政治に奔《はし》った透谷の志士気質は、キリスト教に濾過されて、詩人の使命にたいする強い信念として生きています。  「生の一身は名誉と功業とを成さんと思ふの心にて固りたり、此心を外にせば生の魂は無一物なり」と十八歳のとき書いた彼にとって、詩人として生きることも、また世と闘うことでした。  「大丈夫の一世に立つや、必ず一の抱く所なくんばあらず、然れども抱く所のもの、必ずしも見るべきの功績を建《こん》立《りふ》するにはあらず……斯の如き戦は、文士の好んで戦ふところのものなり。……文士の前にある戦場は、一局部の原野にあらず、広大なる原野なり、彼は事業を齎《もた》らし帰らんとして戦場に赴かず、必死を期し、原頭の露となるを覚悟して家を出るなり。」と彼は「人生に相渉るとは何の謂ぞ」のなかで云います。  彼がこの「空の空なる」詩人の使命にかんして、どれほど具体的なイメイジを持っていたか、それを実現する手段をどこまで自分のものにしていたかは、別問題で、彼の作品はその主張のきわめて不完全な実現というほかはありません。この点彼は時代の冷静な批判者というより、同時代の強いエネルギーの逆の方向への噴出という感じをあたえます。  時代の勢いが、功利と出世主義の方向に、抗いがたい力で流れているときに、透谷はそれに真正面から反抗して、そのためにすべてのエネルギーを費してしまった感があります。明治二十年代の文学が逍遙の主張をさまざまの方向に分化し、深化して行く時期であったとすると、透谷はそれを非功利性の方向に、新教から得た近代的個人の自覚と理想主義を背景にして、徹底的に誘導したといえます。  これは孤独な、或る意味で、不毛な道であり、これに猪突することを「文士の闘ひ」と信じて、全力をつくした彼がやがて自から生命を絶たねばならないのは、痛ましい当然の帰結でした。  一面から云えば彼はその死によって、彼自身の評論が彼の肩に負わした筈の重い責任を回避し、青年の純潔を保ったので、自殺は彼の生活の悲劇であると同時に、青春の完成でした。  彼の先駆者としての誇りと苦しみがその生活を破滅させたあとには、藤村の言葉をかりれば、周囲の者が一生かかって拾いきれないほどの美しい破片がちらばりました。  透谷が負いきれなかった使命を彼なりにうけつぐことを決意した藤村は、これらの破片を拾いあつめ、彼の背丈に合わせて、再構成することに生涯を費しました。  透谷の仕事として、文学評論以外に注意すべきもののひとつは、彼が『評論』『平和』『聖書之友』などに発表した、宗教、時事を扱った論文です。彼の平和主義がどういう性格のものであったかは複雑な問題ですが、ともかく彼が、彼の死後日清戦争にたいする賛否で分裂した普連土教会にぞくしていたこと、彼が「海軍の拡張」を国家の虚栄心として反対したことなどは、「空の空を撃つ」彼の闘いの性格が、社会と人間に背をむけるものでなかったことを示しています。  そのほか彼の作品として詩(「楚囚之詩」「蓬莱曲」その他)小説(「我牢獄」「星夜」「宿魂鏡」)戯曲(「悪夢」)などありますが、いずれも彼の声価に何かを加えるものではありません。詩のなかで「楚囚之詩」「蓬莱曲」は叙事詩であり、明治時代に発達の機を得なかったこのジャンルに彼が力を注いだことは象徴的です。  『文学界』が透谷の評論によって振い、『しがらみ草紙』が鴎外、『早稲田文学』が逍遙、それぞれの評論によって重きを加えた当時が、たんに文壇だけでなく、社会全般が評論全盛の時期であったのは前述しましたが、この時代の特色は文学がそれほど専門化せず、いわゆる文士以外の人々の発言が文学にたいしてかなり活溌であった点です。  なかでも徳富蘇峰は、『国民之友』創刊当時に「近来流行の政治小説を評す」という論文を書いて以来、しばしば文学にたいしても発言し、明治二十六年の「観察論」は多くの世評を得ました。そのほか透谷の論敵になった山路愛山も専門は歴史であり、鴎外とたびたび論争した石橋忍月は大学の法科の学生であり、卒業後は司法官としての経歴を経て、弁護士になったように、狭義の文学者以外の人々の発言が文学の成長に役立ったのは、文学だけでなく、時代全体の若さを現わしていると云えます。  この文壇形成期に、忍月とならんで批評家として頭角を現わした人に、内田魯庵がいます。魯庵は本名を貢、明治元年(一八六八年)に東京で生れ、始め不知庵と号して、『女学雑誌』に寄稿し、やがて『国民之友』の寄稿家になりましたが、二葉亭と深い交友があり、ロシア文学に早くから親しみ、文学から遊戯的要素を排除して、人生社会の問題を真剣に扱うべきことを主張して、『文学界』派とは別の立場から、硯友社と対立しました。  明治二十五六年に、彼はドストエフスキーの「罪と罰」を英訳から訳して刊行し、翌二十七年に匿名で「文学者になる法」を発表しましたが、これは硯友社作家への痛烈な諷刺でした。  忍月が数年で文壇を遠ざかったと反対に、魯庵は日清戦争後は小説家として活動し、晩年には随筆家として、回想記の傑作「思ひ出す人々」などを書き、昭和四年(一九二九年)に歿するまで文筆活動をつづけました。  彼等と同じごろ文壇に名を知られた批評家に斎藤緑雨がいます。緑雨は本名賢、慶応三年(一八六七年)に伊勢で生れ、はじめ魯文に師事しましたが、明治二十二三年に「小説八宗」その他の辛辣な批評文を『読売新聞』に発表して、人々を驚かしました。ついで二十四年に「油地獄」「かくれんぼ」を書いて、小説家としても名声を得ましたが、日清戦争後に発表した「門《かど》三《じや》味《み》線《せん》」(明治二十八年)が時勢に合わなかったため、以後主として独自の短評をかき、三十一年には『万朝報』に「眼前口頭」を連載し、小説随筆集「あられ酒」を刊行し、その後も、さまざまな題のもとに短評を書きつづけましたが、肺患のため次第に貧血病に陥り、明治三十七年(一九〇四年)日露戦争中に、歿しました。  「僕、本月本日を以て目出度死去仕候」というのが、彼が自ら用意した死亡通知でした。 第五節 明治二十年代の意味  明治十年代が、一種の疾風怒濤時代とすれば、二十年代は統制と安定の時期といえます。  明治維新という「未曽有」の変革が孕んでいたさまざまの矛盾や可能性は、ほぼ十年代に出つくし、二十年代には欽《きん》定《てい》憲法の発布を境に、我国の近代国家としての歩みが、ともかくひとつの方向にきめられました。  西南戦争、自由民権の運動、欧化主義の政策などいずれも維新の改革に直接のつながりを持ち、その当事者たちは彼等も参劃した維新の変革を、彼等の理解し意欲した方向に推し進めようとしていたので、彼等にとって政治の組織はいわば彼等自身あるいは同輩の敵手がつくったものであり、条理と実力さえ備えれば、彼等は当然それを変更する資格を持っていると考えました。  しかし、明治維新とともに生れ、二十年代に成人した青年たちにとって、新しい社会はすでに安定した新しい秩序であり、それに反抗しようと適合しようと、ともかく彼等の上にそびえる堅固な構築でした。  「いまの知識階級は、知識を売りものにして功臣たちに仕へてゐる点では、技芸を売る芸人に異ならない」という意味のことを中江兆民が云っていますが、維新を経過した「書生」たちが新しい世界を自分の手でつくりだしたという自負を持っていたに反して、新しい世代の知的技術者たちは、その秩序の被造物であり、どういう態度をとろうと、そのなかに組みこまれて生きねばならぬように運命づけられていました。  明治の社会に、現代で云われる意味の文学が起ったのがこの時期にあたるのは、たんに偶然の暗合ではないので、それは当時の青年たちが秩序が彼等の上に君臨すると同時に、それを束縛と感じ、反抗の芽を胸中に育てはじめたことを、またその反抗が実社会においては無力であり、表現という別世界にはけ口を見出したのを意味します。  この点から見ると、紅葉、露伴のように、時代の復古的風潮に乗って、作家的才能をのばして行った作家より、二葉亭、鴎外、透谷のように、時代との摩擦に苦しみ、作家としては大なり小なりの廻り道を辿って成熟して行った青年たちの方が、今日から見て興味のある存在です。彼等はいずれも外国文学の影響を強くうけ、環境と彼等の思想との相剋に傷ついた人々です。この手傷の処理は、各人の個性によって異っていましたが、彼等が反抗の対象にした時代の性格は、共通のものでした。  それは一口に云えば、下級武士たちが復古の形で行った革命によって近代化の道を歩きだした我国の社会が、天皇による国家的統一を国民の意識の上で強行しようとした時期に、おびざるを得なかった封建性であり、後に永井荷風が封建社会の美風を滅ぼして、その悪弊だけを保存したと罵った時代の習俗です。  二葉亭が「浮雲」で批判の対象にした社会は、明治十七八年ごろのそれであり、二十年代とは多少世相のずれはありますが、彼がここで提出した問題は世相の表皮を透して、知識階級の生態の根底にふれています。文三はやがて明治二十年代を形づくる技術的(芸人的)知識人のひとりであり、生活の外面においてはそのもっとも平凡な、したがって多数を占める典型です。彼は始めは奇異に感じられた官庁の空気にもすぐ馴れてしまって、そこに勤めることに何等異存はないし、ただ既存の秩序のなかで、愛するお勢と結婚する幸福しか夢見ません。  この温良な青年がなぜ発狂するほどの不幸に陥るかというと、それはただ彼が役所を首になって生活能力を失い、そのために叔母のお政に、のちにはお勢にまでうとんじられるからですが、役所に勤まらなかった原因が、彼が自己の内面の論理にしたがって、役所で行われる「事務外の事務」に勉励することをいさぎよしとしなかったからであるところに、彼の悲劇である内界と外界との背離の種子が蒔かれます。  文三は理論家です。彼は理窟の上で正しいことが現実にそのまま行われることを、素朴に信じて疑いません。その意味では善良な青年であり、恋人のお勢との交際も、「習慣の奴隷」の境遇を脱して、「二千年来の習慣を破る」理想的な形で進行することを夢見ます。  言葉の世界を現実ととりちがえている彼は、お勢との対話でも、相手の言葉をいつもそのまま受取って、その裏に生動する彼女のコケットリーを見逃します。  同様に、彼は官吏としての生活のなかでも、規則の文面だけは律《りち》義《ぎ》に守っても、それを動かす生きたメカニズムの機微には通じなかったので、ここに彼の不幸の原因があるのですが、彼がこの現実感覚の欠如を、その倫理的意思で裏づけて、生活の不幸に堪えて行くようになると、彼の鈍感はその心情の純潔と表裏し、彼を四囲の卑俗さから守る条件に転化します。彼の悲劇の主人公としての資格を獲得するのはこのときです。  彼は自ら新思想の保持者をもって任じていますが、実は古い思想によって支えられている、というよりも伝統的思想によって陶《とう》冶《や》された古風な気質の持主なので、彼の行動を決するのは、多くの場合「まづ自ら悔る、而して後人之を悔る」という儒教の思想です。  彼の性格の特色は、古い思想の権威に服すると同じ素直さで、新しい思想の「条理」を信ずる点にありますが、これにもとづく彼の内面の論理と生活の現実とのずれは思想の新旧によらない性格的悲劇を彼に強いるものです。  これに反して昇は、内的な価値判断を放棄し、その行動の基準をいつも外界にたいする成功におく点で、文三とは比較にならぬ現実への適格者です。しかしこういう生きかたに平然と堪え、むしろそれを得意としている、彼の心情の卑賤は読者に強く印象されるので、彼をお勢への恋の勝利者とした「浮雲」の筋は、最高の美がもっとも卑賤な存在によって所有されるのを世の常態と信ずる、作者のペシミズムを象徴しています。  「新思想の中でも文三のやうなのは進んでゐるには相違ありません。が、矢張多数であつて、而も現時の日本に立つて成功もし、勢もあるのは昇一流の人物だらうと考へたのです。」  これは同時に、明治の社会にたいする、彼の批判でもあり、また一種の諦めと妥協でもありました。しかしこの妥協が、他の作家の反抗以上の苦痛を彼に強いたのです。  このことは彼が文三を自己の分身として愛しながら、その欠点にも盲目でなかったのを意味するので、彼が文学を放棄したのは、根本においては、文三の価値を信ずることができなかったからです。  自身が夢想家であるゆえに、現実の処理、実人生の幸福に重きをおいた彼は、現実をはなれた表現の世界にまったく価値をおかなかったので、ここに同時代の功利的な合理精神、明治人のすべてが免れなかった事実偏重の思想が、彼に個性的な現われをしたものと見られます。  その結果、明治時代を通じて、もっとも詩的な魂の持主が、詩の世界を否定しなければならなかったので、ここに錯雑した二葉亭の生涯の行路を理解する鍵があります。  文学表現の世界に価値をみとめなかった彼は、文学者の世俗の功用をこえた使命などはもとよりみとめなかったので、彼の理想とした文学者の生活態度は、社会改革のために捨身の熱情を燃し、剣をとる代りにペンによってその志望を貫こうとした、一時期のロシア文学者のそれであり、文学の非功利性を強調する時代の風潮には、たとえそれが実社会の功利主義にたいする反撥からきているにしても、同情を持たなかったのです。  文三が外界と自己の内的論理との矛盾から狂気するのに対して、「舞姫」の豊太郎は、同じ危機を、自己の内面の論理、感情の自然を捨て、外界に同調することできりぬけます。文三が自分の感情に殉じて、社会的な存在を失うに対して、豊太郎の悲劇は、自己の社会的存在にその感情を犠牲にすることです。その空虚にたえて、「操り人形」として生きる決意をすることです。  「舞姫」の事件が、かなりの程度まで、作者鴎外のものであったとすれば、彼の屈服した外界とは、母を中心とした彼の家族であり、陸軍軍医という彼の身分につながる軍人社会であったでしょう。  しかしそういうなかで、「舞台監督の鞭《むち》を背中に受けて役から役を勤め続ける」ためには、というよりそれを意識しながら、この無意味な労役に堪えるためには、彼は、「此役が即ち生だとは考へられない。背後にある或る物が真の生ではあるまいか」という思想を必要としたので、彼が生涯を通じて文学に愛着した主要な理由はここにあったと思われます。  文学は日常生活の「背後にある或る物」を探り、把え、表現するものであり、それゆえに彼が人生に堪える唯一の手段であったのです。ここに彼の理想主義が科学者の精神と共棲し得た秘密があり、彼が逍遙の現実尊重にたいして、観念的な美を対置した所以《ゆえん》があります。  彼は時代の俗人に伍し、自らも俗人として生きたゆえに、透谷のいう「想世界」を必要としたというより、実生活では社会の規範にしたがい、思想においてはこれを超脱するという矛盾を、自己の文学者としての成長に最大限に活用した人で、この三人のなかで鴎外だけが、業績の量と質から見て、とびぬけているのはそのためです。  彼の生涯は生活をこの二面に巧みにつかいわけるための超人的な努力に費されたので、彼が一方においてジレッタントと評され、詩人としては冷徹にすぎる心の持主であるように評されながら、たんに明治時代だけでなく、近代の日本を象徴する巨人になり得たのはこのためでしょう。  想世界の必要をその内面において感じながら、あえてそこに身をまかさなかったのは、当時の我国が文学においても、「新しい田地を開墾して行くには、また種々の要約のかけてゐる国」だという認識であったでしょう。  他に生活の手段を持ち、身銭を切ってその「要約」をつくりだすために『しがらみ草紙』や『めざまし草』を発刊する方がはるかに実際的であることを知っていたからでしょう。  自己の性格の限界を明瞭に意識した彼は、時代の性格もまたよく見究めてそのなかでもっとも有効に自己を生かして行きました。  これは若い鴎外の近代意識の覚醒が、たんなる観念でなく、生活を通じて行われたことに関係があり、また彼が使命感に燃えた詩人であるより、「高圧の下に働く潜水夫のやうに喘《あへ》ぎ苦しむ」ことを本懐とする科学者であったためでもありましょう。  この点で、鴎外と正反対の生き方をしたのは透谷です。彼の近代文学にかんする教養は鴎外にくらべては勿論、二葉亭と比較しても狭く限られたものであったようです。  しかしそこから彼の引きだした生き方は、鴎外にも二葉亭にも真似られなかった、近代詩人の本質にふれたもので、それは一口に云えば、時代の理想をもっと高い形で「想界」に直観し、その理想に自己の生活を捧げ、生活を通じてこれを表現することによって、いわば想界の使者として、人々を教化することです。  こういう詩人の出現はどこの国の文学にも、個人の覚醒期におこった現象で、この意味で透谷をロマン派と呼ぶのは正しいのですが、どんなロマン派の詩人もこういう大使命を真向から掲げて、それを表芸にした者はいないので、彼等はまず甘美な青春の歌に工夫をこらし、それによって国語をゆたかにし、広い読者をとらえることから始めるので、極端な云い方をすれば、このような詩人の存在の大義名分は、彼等がただその個性に応じて好都合なように利用しているだけです。  透谷の直観し得たところが、近代文学の骨髄であることはたしかなのですが、骨髄だけでは文学ができあがらぬこともまたたしかなのです。  ところが透谷は、時代の制約はあったにしろ、結局詩作の才には恵まれなかったので、彼は詩人の使命——と彼の信じたところ——を達成するために、評論という武器しかあたえられなかったのです。  透谷が生前に不当に蒙った薄遇と、また死後に、ある意味では不当にあたえられた栄誉とは、如上の彼の仕事の特質からきています。彼は文学者というより、優秀な文学教育者であったので、彼の声は狭い範囲にしか届きませんでしたが、そこから島崎藤村や木下尚江のような、次代の文学思想を担う選手が現われたのです。  彼の仕事の素地をつくった二つの要素として、僕等は民権運動とキリスト教への接触に注意する必要があります。  透谷の政治運動への眼覚めは、小学校時代に始り、彼の青春の激動時代と重って居り、大阪事件について、資金獲得のための強盗の計画に参加を勧誘されたのは十六歳のときでした。彼はこの勧誘に応ぜず、これをきっかけに政治運動を遠ざかりますが、彼が年少のときから、経国済民の志を持っていたことは、彼の文学者としての使命感の根底を形造るものとして注意すべきです。  この時代の心情を彼は恋人であり、後に妻になった石坂ミナにあてて次のように述べます。  「憐むべき東洋の衰運を恢復すべき一個の大政治家となりて、己れの一身を苦しめ、万民の為めに大に計る所あらんと熱心に企て起しけり、己れの身を宗教上のキリストの如くに政治上に尽力せんと望めり。」  これが政治の実際運動では強盗計画と結びつくような環境に彼はいたわけです。  しかしそのなかで彼は、  「此目的を成し遂げんには一個の大哲学家となりて、欧洲に流行する優勝劣敗の新哲派を破砕す可しと考へたり。其考へは実に殆んど一年の長き、一分時も生の脳中を離れざりし」という風に、孤独な考えを練っていたのです。  この思想というにはあまり幼稚な形で表わされた少年の直観を、嗤《わら》うことは容易です。「嗚《あ》呼《あ》何者の狂痴ぞ、斯かる妄想を……」と彼自身つづけて云います。  しかしこの誇大な言葉を空疎に響かせないのは、これをうらづける彼の熱情であり、この素朴な直観も巨視的には正しいことを、今日これを読み返す者の誰しも認めるところでしょう。  彼の民権論は、多くの人々の場合と同じく、東洋の衰運を恢復しようとする国権思想と結びつき、キリスト教の感化は彼の政治情熱を、宗教に接するほど浄化しただけでした。彼は彼の理想とする「東洋」が西洋に勝つためには、西洋がそれによって東洋を侵略したところの哲学を打破る必要があるのを感じていました。価値の秩序の転換なくして、現実の秩序を覆すことの不可能を彼は本能的に感じとっていたのです。  進化論にもとづく実証主義は、ヨーロッパ人の東洋占有を合理化するとともに、弱肉強食を説く功利主義として、当時の我国の人心をも支配していたので、この点に着眼した透谷の直観は、実現が可能か否かは別として、非凡な鋭さを持っていたといえます。  彼の文学への熱情の源がここから発していることは、この書簡の終りの部分で、この「妄想」に近い志望が、「仏のヒューゴ其人の如く、政治上の運動を繊々たる筆の力を以て支配せん」という望に変り、それが一転して「美術家たらん」とするようになり、「胸中にある小説家とならんと云ふ望みは、遂に奪ふ可からざる者なり」と結んでいるのでも察せられます。  彼の美術家(今日で云う芸術家)としての思想に、具体的な内容をあたえ、「優勝劣敗の新哲派」に対抗して論陣を張る根拠になったのは、キリスト教、とくに新教の思想でした。勝本清一郎氏によれば、透谷に最初に影響したキリスト教の宗派はカルヴィニズムであり、後に彼はその現世的な側面にあきたらず、クエイカー、クリスチアン教会などに近づき、晩年の著作のなかでは「欧洲のポジチーブの思想」にたいして「遥東の寂静なる自然思想」を対比しているということです。  透谷は、洗礼をうけたのちも、かなり彼一流の流儀で自由に考えたので、教義に従順な教徒のなかでは、やや異端者扱いされる傾きがあったようですが、彼はおそらく後年の芥川がそうであったように、キリスト教よりむしろキリスト自身にひかれたので、詩人キリストは、彼の理想像のなかで大きな部分を占めたと思われます。  「東洋に生れたる基督教は、西洋に入りて其の半面なる積極的教理に蔽れたり」という彼は、西洋の蔽いをキリスト教から剥ぎとって、別の「半面」に自己の進路を見出そうとするところまで行ったのです。  これは信仰や思想というより、むしろ漠然たる予感のようなものだったのですが、透谷の生き方はこの予感を星の光のように目指して、地上の障害物を無視して進んだことにありました。  彼がここであげた甲高い叫声は、遠くにはとどかず、同時代の大人たちの嘲笑を買う未熟な性格を持っていましたが、彼の短い生涯は、「想界」に殉ずることで、それを確立するだけの事業はなしとげたので、彼の自殺はこの意味では、必然であったと云えます。  逍遙によって種子を蒔かれた、文学の功利からの独立の思想は、透谷の手ではじめてその生みの親である科学と合理主義から独立して、人間的(宗教的)次元で確立されたので、このことが、次代の文学にたいして持った意味は極めて大きかったのです。  明治二十年代は近代文学の観念自体が、一部の青年たちによって未熟な形で紹介された外国思想であり、それまで技術文明と功利思想だけを伝えられた西洋文明の別の側面の発見でもあったのです。(註一)  したがってそれは、時代の人心を支配した「西洋」の権威を背負っていましたが、当時の日本がなしとげようとしていた「事業」とは没交渉であったために、この未熟な観念はそれを徹底させようとすれば、社会から異端として扱われることは覚悟する必要がありました。  二葉亭はこの未熟な想界を信じられずに文学を捨て、鴎外はこの想界の拡大と深化を実際的な手段ではかりながらその生活の現実との調和に、巧みに舵《かじ》をとって行ったに対して、透谷の独創は、この時代の未熟を、彼の心情の未熟と合体して、ひとつの使命を完成したことにあるのは今述べた通りです。  しかしそのために彼の仕事には、若々しい激情の反面である、弱さと観念性がつきまとったことは否定できないので、この弱点は彼の遺骸の上に築かれた、我国のロマン派文学、ひいてはその否定であると同時に発展であった自然主義文学にまで持ちこされています。 第六節 明治三十年代の特質 ——樋口一葉——  明治時代の社会の動きと変化は、日清日露の戦争を二つの大きな区節としています。これは明治時代の特色のひとつです。  むろん大正と昭和に我国の経た二つの世界大戦は、それぞれの時代の性格を決定するような大きな影響をのこしました。しかしそれは世界共通の現象に我国も加ったという要素が多く、戦争自体より、むしろ戦争による世界の変貌が我国にも及んだといえます。  日清、日露の戦争は、これに反して、我国と他の特定の一国との戦いであり、あとの世界は平和であった点で、それと非常に違っています。両者とも我国としてはそれぞれの意味で国運を賭けた冒険であったので、国民の精神生活にたいする反応も大きかったわけです。  世界史的に見ても、日清戦争はヨーロッパ以外の国家同士が、近代的武装で闘った最初の戦争であり、日露戦争は白人以外の国家が、白人と闘って、ともかく勝利を得た最初の例であり、アジアの諸国民に大きな刺戟を与えて、覚醒の機運をよびおこしました。  同時にそれは二国のあいだに限定されて終った最後の近代戦争であったわけで、ここで我国が近代の世界史のなかで辿った運命が象徴されているように思われます。  日清戦争は、当時の我国にとって、幾百年ぶりかで外国と真剣に事を構える経験であったわけですが、何人からも勝利を予想されない弱国であった我国が、相手の清国よりさらに強大な英仏独露などの利害の錯綜するなかで、始めて兵を動かすために、非常な苦心を払った消息は当時の外務大臣陸《む》奥《つ》の回想によってもうかがえます。  それだけに予想外の勝利を得た歓びは大きかったので、我国の国際的地位にかんしてまったく悲観的であった福沢諭吉も、ここまでくればもう安心という風に狂喜しています。  福沢にかぎらず、この勝利は、維新以来の指導者たちに、彼等の労苦が或る意味で酬いられた感じをあたえたので、戦前からすでにさかんであった国家主義はますます勢を得ました。  ことに戦後まもなく起ったいわゆる三国干渉が、それに拍車をかけたことは云うまでもありません。  高山樗牛の代表する三十年代初期の評壇の主流はここにありました。  しかし徴兵制度のもとに始めて国外で戦った戦争の経験は、多くの国民に闘いの辛苦、悲惨、不正などを教えるとともに、戦後のめざましい産業の成長は、資本主義の矛盾をようやく人々の注意のまとにしたので、社会問題が一部の思想家の関心をひきはじめたのも、この時代からです。  一方キリスト教も次第に知識階級の間に浸透し、その感化をうけた青年たちの間から、国木田独歩、徳富蘆花のような文学者や、社会主義の先駆者たちが現われてきました。  いまひとつこの時代の特色は、透谷の拠っていたころの『文学界』とはやや異質なロマンチック運動が、詩歌の形で開花したことで、島崎藤村、土井晩翠、蒲原有明、薄田泣菫らの詩人、与謝野鉄幹、晶子の新詩社、正岡子規を中心とする日本派などの歌人、俳人たちなど、この時期に相ついで、それぞれ決定的な仕事をしています。  その意味で明治三十年代をロマンチック時代、あるいは詩歌の時代と呼ぶのは、次の四十年代が自然主義と小説の時代であるのに対比して一応当っていますが、また一方から見ると、四十年代の自然主義そのものを、二十年代のロマンチック運動の発展と見て、三十年代は一種の中間的な摸索の時代とする考えかたもなりたちます。  いずれにせよ、明治三十年代は、ロシアの極東政策が次第に具体化するにつれて、前途に大きな不安はあったにしろ、明治時代を通じてもっとも順調な国運の発展期であり、文学も一方において俗化の線をたどりながら、さまざまに分化して豊富になって行った時期です。  しかし概観すれば何か新しいものが生れた時代というより、前代にできたものを継承し、発展させた時代であり、その複雑化と豊富になってゆく半面には、浅薄化を伴うことも多かった時代です。  この過渡期の入口にいて、異例な完成を示した作家に樋口一葉がいます。  一葉は本名を奈津といい、明治五年(一八七二年)に、東京で生れました。父は下級の官吏で、中流の生活をしていましたが、彼女は上流社会の子女の集る歌塾に通って、古典的教育をうけました。しかし十七歳のとき事業に失敗した父の死にあい、貧困にしずんだ一家を養うために売文によって生計の資を得ようとして、小説を書きはじめました。そのころ彼女が師事したのは半《なから》井《い》桃水という新聞小説家で、彼との間柄はやがて恋愛に発展し、彼女はそのために苦しみ、交渉を絶つにいたりました。そのころから、彼女は露伴西鶴等を摸倣した「うもれ木」を明治二十五年(一八九二年)に『都の花』に発表し、一部の人々に才をみとめられました。その後「雪の日」(二十六年)「ゆく雲」(二十八年)を経て、明治二十八年に「にごりえ」「十三夜」等を『文芸倶楽部』に発表し、前に『文学界』に連載した「たけくらべ」を翌年の『文芸倶楽部』に再掲載し、一躍世の注目を集め、批評家の賞讃の的になりましたが、父や兄の生命を奪った肺結核は彼女の身体も蝕み、同年の秋満二十四歳の若さで世を去りました。  一葉の代表作、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などは、今日では内容を解説する必要のないほどよく知られています。  彼女は明治の作家のうち、今日もなお生きた人気を持つ、少数のひとりです。この人気のなかには、貧しさのなかから文学に志した少女が、名声の戸口で斃れたことに対するロマンチックな同情もひとつの要素をなしているに違いありません。  しかし作品そのものがすぐれていなければ、それが永続する筈がないのもたしかです。  一葉の作品の特色は、まず人間観察の鋭さとたしかさです。ことに晩年の作品には、同時代の作家の誰にも見られぬ、人間の生地にたいする洞察が閃いていて、二十三四歳の女性の手になったのはやや異常と思われるくらいです。  和田芳恵氏は明治二十七年(一八九四年)の夏に亡くなった一葉の従兄《いとこ》が癩病であったらしいという推定から、「浅ましき終をちかき人にみる我身の宿世もそゞろに悲し」という日記を引いて当時の常識では遺伝とされていたこの病気を近い肉親に見出した衝動が、一葉の心情を急激に成熟させて、「大つごもり」(明治二十七年十二月)以下の傑作を書かせたのだとしています。  これはたしかに一葉の天才の、現実に張った痛ましい根を明かにした仮説でしょう。  次にあげるべきものは、文体の完成です。一葉の小説の文体は、時期によってかなりの変化が見られますが、それぞれの時期が、それなりの簡潔と達意をかね、作者の意図した世界に読者をひきこんで行く力を持っています。紅葉の文学がいわば美しい短冊の貼り合せのようであるのに反して、一葉のはひとつの有機物のような統一性を持っています。これは作家の文章が、結局は彼の人間観察の深浅の表現であることを示す一例です。  第三には、それと関連する抒情性です。彼女の作品には、作中の人物にたいする内面の共感が、控え目ながら、強く流れていて、彼等が自から読者の同情を誘います。作者が齢若のため、ときどきやや稚拙で類型的な人情談になることがありますが、感傷的でない詩がその底を流れているのは、他の明治の作家に類の少ない特色です。  最後に、あまり人々の注意しないことですが、一葉の小説は内容から云って文学臭が少いことです。作者の感情はゆたかに流れていても、作中の人物と作者がなれあっているようなところがなく、彼等は多くは文学とはまったく無縁な社会人であり、作者によってきびしく人生と向い合わされているだけで、作者の懐抱する思想を代弁したり、その生活の辛苦をじかに反映しているような人物は、ほとんど登場しません。これは作者が、特定の文学愛好家のために書くのではなく、一般の読者のために書くという態度で一貫しているためです。(註一)  一葉は、短い生涯を貧乏に苛《さいな》まれて終った人で、そのなかからあれだけの仕事をのこすためには、当時の世間の常識から云えばしたたか者と云われるような所行もあったということです。彼女には一種の志士気質があり、「わがこゝろざしは国家の大本にあり」などと日記に誌したこともあり、初期の社会思想家とも交友がありました。  彼女の「日記」は明治二十年(一八八七年)から、二十九年の死歿の数カ月前までにわたっていて、「中々におもふ事はすてがたく、我身はかよわし」という嘆きを中心に、その生活が私小説風につづられていて、彼女のもっとも重要な作品といえます。 第七節 『文学界』  一葉は晩年に、馬場孤蝶、戸川秋骨、島崎藤村らと親しく往来しました。なかで一番ちかしくしたのは、孤蝶であり、一番冷遇されたのは藤村であったようですが、彼女は透谷を尊敬し、透谷も死の直前に彼女を訪ねようとしたという伝説がのこっています。  このころの『文学界』は透谷の死をひとつの転機として、以前とはやや性格をかえていました。  島崎藤村はそれを自分たちが「基督教的苦悶からやや遠ざかつて、西欧文芸復興期の探究に向ふやうになつた」時代と回顧していますが、これば別の言葉で云えば、彼等のロマンチスムが人生や社会とじかにむかいあっていた宗教的、思想的な色彩を次第に脱して、より芸術至上主義的な「美」の探究に向い、唯美的な人生観に立籠ることによって、俗界の力に対抗しようとする傾向をおびるようになったことを意味します。  前期の透谷に代って、この時代には上田敏がこの傾向を代表する論客でした。  上田敏はのちにヨーロッパの高踏派象徴派を紹介した「海潮音」によって大きな影響を我国の近代詩に及ぼし、京都大学の教授として終リましたが、当時はヨーロッパ文化にたいする新しい知識にもとづいて、熱情的に人間感情の解放と美の崇拝を説く青年批評家でした。  明治二十八年(一八九五年)五月の『文学界』に発表された「美術の翫賞」は、当時の彼の代表作で、イタリア・ルネッサンスを文化の理想型として、「我文界の才子」に「其審美感を発達せしめて、内には平安元禄の二朝を凌駕し、外には英の処女王朝、伊のメジチイ代の文化にも敵せむものを大成せしむる事」を望んで、同人たちに強い感化を及ぼしました。  キリスト教からルネッサンスへの推移はヨーロッパの歴史でも、個人の自覚と、肉体の肯定を意味します。『文学界』にあつまった青年たちの頭脳にも同じことが起ったので、彼等にとって「文芸復興」とはキリスト教の信仰が彼等に説いた罪の意識の離脱と、その官能の肯定でした。これは彼等が「霊」や「魂」としてまず観念的に把握した個性の自覚が、次第に肉化して、生活に裏付けられたものになってくると同時に、当初の鋭さと批判性を失って、官能の解放に移る過程でもありました。  彼等のロマンチスムは、肉化することによって、現実の作品の母胎になり、同時に思想としてのひろがりを喪失して、個人の生活に解放の劇を限定するという変質を、大体日清戦争を境にとげました。  この時期の評論を代表するのが上田敏であったとすると、それと呼応する形で、詩に新生面をひらいたのが島崎藤村です。  藤村は明治五年(一八七二年)に木曽の馬籠で生れ、昭和十八年(一九四三年)に歿するまで、文学者としての道を一筋に歩んだ人であり、その生涯が鴎外とは別の形で、我国の近代文学の歴史といってもよい作家です。  明治二十年に明治学院に入って、キリスト教の洗礼をうけ、二十六年には『文学界』の創刊にあずかり、はじめは透谷の影響のもとに詩劇、随筆などを書いていましたが、透谷の死後、仙台に教師として赴任してから、新しい形と内容の詩をさかんに『文学界』に寄稿し、明治三十年に「若菜集」を刊行しました。  我国に和歌、俳諧の伝統を脱した、新しい形式の詩歌をつくろうとする試みは、西洋文学に接触した者の頭に当然うかぶ考えで、明治十五年には外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎等の東大教授によって、創作と訳詩を集めた「新体詩抄」が刊行されて、大きな反響をよびました。この前後から、讃美歌の翻訳もさかんに行われて、その新しい形式と内容は、青年たちに大きな刺戟をあたえ、山田美妙編の「新体詩選」等の詩集を生み、明治十八年には湯浅半月著「十二の石塚」が最初の個人詩集として出版されました。ついで、さきにふれた新声社の「於母影」が、芸術としてのヨーロッパの詩を紹介する上に、大きな役割を果しましたが、明治二十年代は新体詩の摸索時代で、詩歌にかんする論争がさかんであったわりには、詩作に乏しく、内容形式ともに伝統の匂いのつよい落合直文の「孝女白菊の歌」が佳作として世に行われました。  「若菜集」はこの意味で、はじめて明治の近代を呼吸して育った青年の感情が、新しい形式の韻文に盛られた作品といってよく、劃期的な意味を持っています。ついで彼は翌年に「一葉舟」と「夏草」を矢継早に刊行して、新体詩の存在を確立し、三十四年には「落梅集」を刊行して、彼の詩文集を完成しました。  その合本に、彼が「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。そはうつくしき曙の如くなりき」という章句に始まる有名な序文を書きましたが(註一)、これは彼の青春の自伝であるとともに新体詩の勝利の歌ともいうべき名文です。  この文章で「新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。われもこの新しきに入らんことを願ひて、」といっていますが、「若菜集」の成功の原因は、彼がこの「新しさ」を得るために無理をせず、「多くの寂しく暗き月日」に堪えて時期の熟するのを待った点にあります。彼の詩想はたしかに清新でしたが、その詩句の新しさは、先人の詩の換骨奪胎が多く、天才の詩よりむしろ能才の詩といえます。  言葉の選びかたも陳腐ではなく、といって奇矯でもなく、人々の耳に逆らわぬ雅《みやび》やかさと新しさを兼ね備えることに彼の苦心が存したので、健康であり、同時にやや通俗である点に、彼の詩の明治三十年代の文学としての特色があります。  「新しき詩歌の時」と彼は云いますが、「若菜集」と同じ明治三十年に国木田独歩、松岡国男、矢崎嵯《さ》峨《が》迺《の》舎《や》、田山花袋、太田玉茗らが詩集「抒情詩」を民友社から刊行しました。  この詩集はその内容よりも、むしろこれに参加した顔触れの方が、今日から見ると興味をそそります。国木田独歩、田山花袋については後に述べますが、矢崎嵯峨迺舎は二葉亭の同窓でやはりロシア語を修め、坪内逍遙の紹介で、はじめ小説を書き、「初恋」「くされたまご」「野末の菊」などの理想主義に貫かれた厭世的作風で、ロマン主義の先駆的役割を果しました。当初から宗教的傾向が強く、内村鑑三の影響をうけ、晩年には一種の神秘主義の傾向をおびました。彼の詩は小説より価値の乏しいものですが、透谷が彼を「田舎法師の情熱」を持つと評した通り、稚拙な技巧を通して、或るひたむきな想念が感じられます。  太田玉茗は、埼玉県の生れで、東京専門学校出身、ここに長短三十篇たらずの詩を発表したのち、羽生町の寺の住職として、しずかな生涯をおくり、昭和二年(一九二七年)に歿しました。彼の妹は花袋の妻で、その関係から花袋はしばしば彼の寺を訪れ、それを小説に書いています。  松岡国男は、のちの柳田国男で、今日民俗学者としての彼の業績を知る人は、彼が六十年前に詩人であった事実を意外に思うでしょう。  彼は、明治八年(一八七五年)に兵庫県で生れ、このときはまだ東大の学生でした。大学卒業後は官界に入って文学から遠ざかりましたが、そのあとでも、文学者たちとは長く交友があり、自然主義作家のクラブであった竜土会でも主な常連でした。  民俗学に没頭するようになったのは明治四十年ごろからで、それ以後の仕事については、ここでふれる必要はありません。  しかし彼の民俗学に志した動機には、「凡人の伝」に詩を感じ、「此川岸に立つ茅屋の一家族の歴史は如何。其老夫が伝記は如何。彼一個の石、これ人情の記念にあらざるか……こゝに自然と人情と神の書かれたる記録存す。」と叫んだ独歩に共通するものがあったと思われます。独歩のこの思想は彼の個性より、むしろ時代の所産であったからです。  宮崎湖処子は元治元年(一八六四年)に福岡県で生れ、東京専門学校を卒業して国民新聞社に入り、明治二十三年(一八九〇年)に小説「帰省」を発表して、文名をあげ、ついで「空屋」「自然児」等の小説、「ヲルズヲルス」(ワーズワース)の評論、数十篇の新体詩を発表して、藤村以前の新体詩人として第一人者の地位をしめました。  彼は学校卒業と同時にキリスト教の洗礼をうけ、その自然観には旧約聖書の影響が見られ、抒情には感情的ながら社会批判が織り込まれていて、当時の読者に清新な感銘をあたえました。  しかしその文学観には深味がなく、次第に宗教の方に傾き、キリスト教の伝道師になりましたが、日露戦後には「女教師の恋愛」「自白」「半生の懺悔」など、自然主義の影響をうけた作品を発表しました。  それらは文学的には彼の弱点を示しただけにすぎず、ふたたび伝道の仕事にもどり大正十一年(一九二二年)に歿したころは、一種の民族主義者になっていました。  「抒情詩」に集った詩人たちは矢崎と宮崎をのぞいてはみな二十台の青年であり、彼等の辿った様々な道は、詩が彼等の青春(あるいは生涯)にとって、いわば偶然の事件であったことを示しています。すでに既成の大家であった矢崎、宮崎の二人を除けば、柳田国男はもとより、花袋独歩の詩からも、彼等の後期の仕事は予測できません。  しかしこの底の浅さ、あるいは専門化しない、素人の野性のみずみずしさに明治三十年代の文学の特色があるとも云えるので、ロマンチスムがその主調をなしましたが、このロマン主義の前代の「荒野に叫ぶ予言者」のように孤独で純粋な声でなく、賑やかな合奏として大衆化して行ったので、与謝野鉄幹の「明星派」、正岡子規を中心とする「ホトトギス派」、新体詩の土井晩翠、蒲原有明、薄田泣菫らの新体詩人をはじめ、評論の高山樗牛、小説の泉鏡花、徳富蘆花などがその代表的存在でした。  その他これまでにあげた明治二十年代の作家や詩人が成熟期に入った活動をつづけたのは云うまでもありません。  まず詩について云うと、薄田泣菫の「暮笛集」が明治三十二年、土井晩翠の「天地有情」が同年という風に、作者と時代を代表する詩集が次々に刊行されているのは、藤村の云う「美しき曙」の密度を語っていますが、それからやや下って、与謝野晶子の「みだれ髪」(明治三十四年)蒲原有明の「独絃哀歌」(三十六年)など文学史の上に大きな意味を持つ作品でした。  なかでも晶子の「みだれ髪」の出現は、たんに新しい文学としてではなく、新しい生きかたの啓示としてひろく一般の青年たちを動かしました。  和歌の改良は、さきにのべた落合直文を中心として明治二十六年に結成された浅香社を中心として行われましたが、その同人のひとりであった与謝野鉄幹が明治三十二年におこした新詩社が三十年代のロマンチスム運動の中心になりました。  むろん三十年代の短歌を新詩社の「明星派」だけで代表させることはできないので、子規の「歌よみに与ふる書」が発表されたのは明治三十一年であり、彼を中心として根岸短歌会が結成されたのは三十二年です。「アララギ」の芽はこのころからすでに地面に根を張っていたのですが、しかしこれが本当の力を発揮したのは、明治四十年代で、三十年代に一般の人気を独占し、短歌を新しい詩として更生させる仕事に、まず成功したのは鉄幹晶子たちでした。  彼等はこの伝統的な詩形に、恋愛の自由と神聖を称えた若々しい近代感情を大胆に詠みこむことで、いつも世間の物議をかもし、それによって、若い読者の眼を新しい人生観にむかって開いて行きました。短歌も新時代の芸術として甦《よみがえ》ったかの感を与えられましたが、今日から見ると、これらの歌はあまり直接に自分等の気持を押しだそうとする態度が眼につきすぎ、当時官能的と云われた歌が実に観念的であることがはっきりして、多くは芸術的価値に乏しいというほかはありません。極言すれば、短歌は彼等にとって自己の思想宣伝の具であり、その限りで大きな成功を収めたのです。  この新詩社の運動と同じ風潮に棹《さおさ》した、というよりむしろ共通の時代風潮をつくりだした評論家が高山樗牛です。  樗牛は我国の近代の批評家のなかでは空前絶後の人気を持った人で、同時代にたいする影響が強すぎたために、後代から反撥を買って、文学史の上では損をしています。  彼は明治四年(一八七一年)山形県鶴岡市に生れて、仙台の二高を経て明治二十六年東大に入学、翌年には『読売新聞』の懸賞に入選した小説「滝口入道」を発表して、人々の注目をひき、雑誌『帝国文学』『太陽』などの編集に加わり、大学在学中からさかんに評論を執筆しました。  明治三十五年に、三十一歳で歿した彼の思想は、大体二十年代の青年のそれであり、時流につれていくどかの変遷を経ましたが、その根底にあるのは、一種の民族的ロマンチスムで、それを鋭敏に時代の要求に調和させ、やや空疎ですが大きく響く声で主張したところに、彼の批評家としての才能がありました。  彼は論争の名人で、学生時代に、新体詩について外山正一、武島羽衣、島村抱月らと争ったのを始め、いくたの論争を逍遙、鴎外はじめ手当り次第の相手と交わして倦みませんでした。  とくに当時の権威ある雑誌『太陽』を彼が編集し、執筆の舞台としたことは、彼の言説に華々しい脚光を浴せましたが、同時に多くの敵をつくる結果にもなりました。  樗牛の思想は、日清戦争後に井上哲次郎らと日本主義を提唱した時代と、三十四年ごろニーチェの影響をうけた時代と、晩年に彼がニーチェ的人格の現われと見た日蓮に傾倒した時代の三つにわけて考えられますが、そのうち同時代の文学に、もっとも直接影響を及ぼしたのは、第二の時期に書かれた「美的生活を論ず」です。  これは「生命は身体より優り、身体は衣よりも優る」という立場から、金銭や権勢を求めることに急で、「人の作りたるものを以て天の造りたるものを律する」時弊を嗤い、「爾《なんじ》の胸の王国」を重んじて、内面生活の幸福を追求せよと説いた、文学の常識を出ぬものですが、「価値の絶対なるもの、是を美的と為し、美的価値の最も醇粋なるもの、是を本能の満足と為す」「人生の至楽は畢《ひつ》竟《きやう》性欲の満足に存す」というような言葉が、当時の「道学先生」たちに衝撃をあたえるとともに、青年たちに新しい人生態度への啓示として受取られました。  樗牛のこのころの論文には「文明批評家としての文学者」など、当時の文学の時弊を衝《つ》いた好論文がありますが、そこで、彼が披瀝した同時代文学への要望が大部分容れられなかったに反して、この「美的生活論」は、当時の文壇に多くの反論を呼びおこしましたが、時代の人心を強くとらえ、後代にも強い影響をのこしました。この論文をめぐって、展開された論争は、没理想論につぐ華々しいもので、逍遙抱月が烈しく論難したのをはじめ、長谷川天渓、後藤宙外などもそれに参加しました。  谷崎潤一郎が中学時代に樗牛にかぶれて「美的生活」を説いたりしたといっていますが、本能を道徳と知識などで律すべからざる人間の本然と見、「道徳と知識とは、畢竟吾人が本能の満足にたいして必須の方便に過ぎざるなり」という考えは、田山花袋らの自由主義のひとつの基礎にもなりました。  これは、明治もすでに三十年をすぎ、やがて自然主義を生んだ時代の思潮が、ここまで熟していたことを、また樗牛が底の浅いところがあっても時代の心を代表する詩人であったことを意味します。  透谷の云う「空の空なる」事業の無償性は、樗牛によって、「目的と手段」の区別のない、「価値の絶対」を認める生活の「美」に変貌させられます。これは俗化であると同時に大衆あるいは肉化でもあったので当然多くの抵抗を惹起しました。  そう云っておいて彼は、本能以外の事物、たとえば道徳にたいしても、もしそれを守る当事者がそれに「絶対の価値」を見出すなら、これを美的と認めるに吝《やぶさ》かでないと宣言します。しかし世の道徳家を憤らせたのは、これら古の「忠臣義士、孝子烈婦」が樗牛によって「美的生活者」とされたことではなく、彼等が「本能満足」のほか何物も眼中にない、無頼漢たちと同列におかれたことです。  樗牛は一方において、時代の好尚にあった身振りの大きな感傷詩人であり、そういう側面は、彼自身が「小説と云はむよりむしろ抒情的叙事詩」と呼んだ青春の書「滝口入道」、感想文「わが袖の記」(明治三十年)などに現われています。  樗牛の思想、文体は、彼の年齢から考えても未熟な箇所が多いのは当然ですが、彼が青年読者に博した人気、その結果として文学界に対して持った権威は、今日から想像できないほど高かったので、彼もまた同時代の日本文学にたいする期待と表裏する絶望を常に噛みしめながら筆をとった点では、文学を愛して彼なりの美的生活を過した人といえましょう。  「作者に向ひて最も聡明なる読者を代表して、一代社会の精神を告白し、国民の性情に順《したが》ひて其文学の理想的円満に到達すの前程を啓示せむと努むるもの、是れ即ち文芸批評家なり」と彼は批評家の「本務」を規定して云いますが、この本務を全うした批評家は、彼以後今日まで現われません。 第八節 小説の新風  詩歌評論に開花したロマンチスムの風潮は、小説の領域にも影響を及ぼさずにいませんでした。  明治三十年代の小説は、二十年代の草創期と、四十年代の成熟期のあいだにはさまれた過渡期として、これまでややもすれば軽く見られてきました。しかしそれは、自然主義の作家たちが、彼等の作品を正当化するための文学理論で、それまでの文学作品を一様に律した影響を僕等もまだうけているためであり、小説を非小説化することで、その近代化をなしとげたと自負した彼等は、三十年代の小説のもっていたさまざまな可能性を、(それが事実の直写でなく、作者の想像力によってつくられているという理由で、)遊戯的空想的という名で斥けています。  たしかに三十年代の小説で、現代まで文学作品として生命を保っているものが稀なのは事実です。しかしそれはこれらの小説に筋があるからではなく、筋の構成が不充分だからであり、作者の想像によって書かれたからでなく、その想像力が貧しくて旧い型をでられなかったからです。この観点から三十年代の小説を見ると、詩や評論と同じ性格が現われています。それは可能性にとんだ興味ある探究の時代であり、その実現し得たところは、やや底が浅いかわりに、後代の文学が発展させ得なかったさまざまな傾向を芽の形で持って居り、その意味は現代から願みて、はじめて明かにされるのです。  この時代の作家としては、民友社出身の徳富蘆花、硯友社にぞくした川上眉山、泉鏡花、小栗風葉、斎藤緑雨の門から出た小杉天外、などが代表的存在ですが、その他前代から引つづいて紅葉、露伴をはじめ、鴎外、二葉亭(この二人はこの時期にすぐれた翻訳の仕事をしています)などもこの時期にはよく仕事をして居り、田山花袋、徳田秋声、国木田独歩、夏目漱石、永井荷風、岩野鳴など、次の時代に大きな存在になる作家も、この年代に個性的な面貌で登場しています。  それに後藤宙外、木下尚江、内田魯庵など、小説の仕事はこの時期にしかしなかった人々を加えると、この時代の多彩な様相が一応輪郭をあたえられたことになります。  徳富蘆花の作家としての仕事は、昭和二年(一九二七年)に「富士」をかきかけて死ぬまで続くのですが、時代の文学と生きた交渉を持ったのは、明治三十年代であり、彼の作風は適度のロマンティックな要素と、適度の通俗性、適度の問題性を持っていて、積極的な面でも消極的な面でも、この時代を代表しています。  蘆花は本名を徳富健次郎といい、明治元年(一八六八年)に熊本県で生れました。蘇峰、猪一郎は彼より五歳の兄であり、彼の生涯の行路に大きな影響を及ぼしました。明治十八年にキリスト教の洗礼をうけ、翌十九年に京都の同志社大学に入学して、校長新島襄の感化をうけましたが、恋愛事件のため退学し、二十二年に兄の経営する民友社に入りましたが、兄が社主であり華々しい文名をほしいままにしているに対して、自分は無名の余計者という意識に苦しめられました。(蘇峰はこのころたんに文明批評家であっただけでなく、文芸評論の筆もとり、『国民之友』の編集者として、文壇にも勢力を持っていました。)  その間に蘆花は終生の伴侶であり、晩年には共同制作者でもあったあい子夫人と結婚しました。  しかし彼が文名を得たのはやはり兄の力によって『国民之友』『国民新聞』などに執筆の機会を与えられたおかげであり、彼の出世作「不如帰《ほととぎす》」も明治三十一二年の『国民新聞』に連載されました。  この小説は明治の上流社会の実話に示《し》唆《さ》された家庭悲劇で、海軍士官に嫁した若い女性が肺を病んでいるために夫の意に反して姑から離縁され、夫を慕いながら死んで行くという筋ですが、人間の幸福より家の存続を重大視する封建的な家庭制度にたいして、反抗の身もだえをくりかえす若夫婦の純潔な愛情、ことに死の床にあって愛と生命への意欲を失わぬ、女主人公の悲痛な姿は、人々の同情をあつめ、三十三年に単行本にまとめられてからは明治の小説中最大の売行を示しました。その後家庭小説は菊池幽芳の「乳《ち》姉《きよう》妹《だい》」中村春雨の「無花果《いちじゆく》」のような作品を生み、風葉、天外もこれを踏襲し、明治三十年代の小説の一つの型をつくり、現代の新聞小説にまで及んでいます。  ついで彼は小品集「自然と人生」(明治三十三年)を刊行し、清新な散文詩人として、独自の詩境を持つことを示し、多くの読者を得ました。  「不如帰」の成功が、大衆的な性質のものであったに対し(この小説を有名にした原因には「金色夜叉」と同様、新派の脚本としてとりあげられたことが大きな要素になっています)「自然と人生」の成功はもっと純粋に文学的なもので、脂濃い蘆花の資性が、ここでは厭味にならず若々しく流露しています。自然観にキリスト教の影響が見えるのも注目すべきことで、これをキリスト教文学に数える人もいます。  これと時を同じくして、彼は「思出の記」を『国民新聞』に連載し、翌三十三年単行本として刊行して、大きな影響を青年たちに及ぼしました。これは彼の自伝に近い小説であり、ディケンスの、「デヴィッド・カッパーフィールド」に示唆されたものといわれています。  その主人公慎太郎は、九州の田舎に生れ、まず漢学塾で人格の基礎をつくられ、ついで自由民権思想、キリスト教の洗礼をうけ、純粋な気持で正義と幸福とが地上に存在することを信じ、真正直にそれを求めて行きます。この求《ぐ》道《どう》者《しや》の態度で個性の自由を求め、正義を貫こうとする青年がさまざまな環境で出会う矛盾と苦しみが小説のテーマをなして居て、外人宣教師が権力を持つキリスト教学校の内紛、「学問を商売道具と心得て立身出世の近道ばかり研究して」いる東大の学生たちの気風などが、彼の批判の対象になります。  彼はこういう「曲学阿世の本場、俗吏製造所」である官学の雰囲気に反撥して、私立学校の教師として、評論家思想家として自由な活動をする基礎をつくり、理想的な恋人を得て結婚して、地方の民間人のあいだに生き続ける自由の空気を呼吸しながら、雑誌の経営にも成功して、自己の社会的地歩を確立して行きます。  この小説の弱点は主人公の素朴な正義感が作者によってそのまま肯定されている傾きがあることで、彼と同類の人物が彼をとりまきすぎているという構成上の欠陥もそこから生じるし、この反抗児の半生が一種の成功譚に終っているのもそのためでしょう。しかしこのような功利主義と独立心とが倫理的に結びついた明治人のタイプを肯定的に描いたのは、注目すべき彼の特色とも見られます。  彼はキリスト教の感化をうけても透谷のように現世の利害と真向から対立する態度をとらなかったので、この点やはり蘇峰の弟であり、民友社の気風をうけています。働いて食うことは彼にとって人間の神聖な権利であり、また義務であったので、彼の一生は生の本能と彼の内心の絶対への希求との闘いの連結でしたが、彼の願ったところは一方の否定でなく、両者の健全な調和でした。この生活と結びついた常識的態度が、一方において彼を社会小説の方向に向わせ、他方自己の生活をその思想の実験の場とした報告として告白する独自な私小説への道をひらいたと思われますが、前者は中断した「黒潮」を生み、後者は彼が文壇をはなれた独特な宗教的色彩をおびたのちに書かれた「新春」(大正七年刊)「富士」(大正十四年—昭和二年刊)などの懺悔小説に結晶しました。  そのほか蘆花の事跡としては、日露戦争直後の、明治三十九年(一九〇六年)に、キリスト教の聖地パレスチナを遍歴して、ヤスナヤ・ポリヤーナにトルストイを訪ね、帰朝後、東京近郊の千歳村で田園生活を試みたこと、幸徳事件に際して、当時の文学者のなかでもっとも深い関心を抱いて、第一高等学校で「謀《む》叛《ほん》論」と題する講演をして、「謀叛を恐れてはならぬ、謀叛人を恐れてはならぬ、新しいものはつねに謀叛である。」と説いたことなどが注意されます。  彼は明治文学を通じて型破りの作家のひとりであり、芸術的完成において欠けるところがあり、思想も深いとは云えませんが、あるひたむきな情熱をもって、自己と時代の問題に苦しんだ彼の生涯と作品はもっと評価されてよいので、今日では不当に忘れられた作家のひとりです。  彼の試みた家庭小説、自伝小説、社会小説、宗教小説など、いずれもその後の我国の文学界がうけついで発展させ、あるいはたえず問題としてきた小説の部門です。「黒潮」(明治三十六年刊)は社会小説として注目すべき作品で、その中絶はある文学史的意味を持っています。この小説の題材は兄の蘇峰から提供されたもので、昭治の政府と相容れず甲州に引退している幕臣の東三郎老人を主人公として、伊藤博文をモデルにしたという藤沢伯爵、喜多川伯爵などの非行を東老人の口を通じて糾《きゆう》弾《だん》し明治の支配階級の腐敗を暴露しています。  最初蘇峰があたえたテーマは、東老人の子供が、最初に父の志をついで明治政府と戦うが、時代がうつり、彼の眼界が開けて反感が消え、そのために世間の誤解をうけるがやがて「融けるものは融け、光るものは光り」幸福な結末に終るというのでしたが、蘆花の批判力が、こういう楽天的な結末でしめくくれぬほど強くなってしまったために、作品の構想が混乱し、第一部を終っただけで、第二部は完成されず、蘆花自身も、第一部の出版にあたって蘇峰と訣別し、黒潮社を起して、そこから自費出版するという事態になりました。  その序文で彼は自ら社会主義者と称しています。この言葉で彼は、ユーゴオ、トルストイ、ゾラの流れを汲んだ「人道の大義」を意味したようですが、その立場から明治の社会にたいする全面的な批判を試みようとしたことはたしかです。むろんこの批判は否定ではなく、彼自身の肉と霊におけると同様、彼と社会との間に何かの調和点を見出そうとする意図は一貫していました。このような個性的な批判の立場から書かれた社会小説は我国に乏しいだけに、ここに我国の支配層の裏面を書こうとした意図は珍重すべきですが、その企図が彼の力倆を越えているだけに、蘆花の弱点である人間観察の一面性、描写の類型性などが露骨に現われて、登場人物が作者の傀《かい》儡《らい》であることが彼の他のどの小説よりはっきりしています。  この意味でこの小説は失敗であり、蘆花自身もおそらくそのことに気付いていました。  これはたんに蘆花ひとりの弱点であっただけでなく、当時の作家に共通するものであり、みずからの力倆をはからずに、困難な題材にぶつかった彼は、そのために露伴より三年早く、自己の作家的想像力の限界と、時代の自然主義への傾斜を感じたとも云えます。  社会小説への志向は、また蘆花ひとりのものではありませんでした。日清戦争後の我国の社会は、近代国家としての様相がようやく整い、産業交通の面で急速な進歩をとげると同時に、資本主義の発展にともなう社会の矛盾もようやく世人の注意をひくようになるので、社会問題、労働問題はこのころから一部の人々の関心の対象になります。  大西祝が「社会主義の必要」を『六合雑誌』で論じたのは、明治二十九年(一八九六年)、片山潜、幸徳秋水、安部磯雄らが社会主義研究会を結成したのは、明治三十一年であり、横山源之助が「日本の下層社会」を刊行したのはその翌年ですが、文学界にもこのころから新しい傾向が顕著になってきました。  樋口一葉の小説も、貧苦や因襲の生む悲惨の直視、その犠牲者にたいして作者が示す無言の共感などで、社会の不正にたいする憤りが、彼女自身の貧困の体験にうらづけられて、作者の胸に燃えている印象をあたえますが、「にごりえ」「たけくらべ」と同じ年に発表された川上眉山の「書記官」「うらおもて」泉鏡花の「夜行巡査」「外科室」なども、社会の矛盾を若々しい情熱で剔《てつ》抉《けつ》した小説として注目されました。  この二人の小説は、従来の客観的写実を旨とした硯友社の作風から一歩すすんで、作者がある思想を持ち、それを基調として小説を構成しているという意味で観念小説と呼ばれ、彼等とならんで社会の悲惨な現象を、より客観的な態度で描写した広津柳浪の「変《へ》目《め》伝《でん》」「黒《くろ》蜴《とかげ》」「今戸心中」、小栗風葉の「寝白粉」「亀《きつ》甲《こう》鶴《づる》」などは悲惨小説とよばれて、ともに文学界の新風を形づくりました。  これらの小説はいずれも明治二十八九年の作で、日清戦争の生んだ戦後文学的現象とも云えます。  しかしこれらの新作家の社会的正義感は、格別の思想的根拠があったわけでなく、社会の矛盾を追究する意欲より、むしろ物語の新しい題材としてそれらの現象に食指を動かすという態度であったので、やがて悲惨のための悲惨を求めて題材の異常を競う結果になり、その行詰りは、そこから出発した作家にさまざまの変貌を強いました。  泉鏡花は「外科室」の翌年に発表された「照葉狂言」で早くも、前作に見られた青年らしい素朴な正義感を表面にだすことを止め、母への思慕を基調にした、独自の女性像をきずく仕事を始め、その華麗な想像力と、異常な事物への嗜好で独自のロマン派文学をきずきあげました。  「湯島詣」(明治三十二年刊)で花柳界を扱った彼は、翌年の「高《こう》野《や》聖《ひじり》」では神秘的な伝説風の物語に、生々しい肉感をあたえることに成功しています。  「一の巻」から「誓の巻」にいたる連作(明治二十九—三十年)は「照葉狂言」の系統ですが、自然と超自然の融合の境地をめざす作風は彼の制作の主流になって、「白鷺」(四十二年)「歌《うた》行《あん》燈《どん》」(四十三年)などの名作を生み、さらに「眉かくしの霊」(大正十三年)を経て、晩年の諸作は、一種の象徴的神秘主義とも云うべき、独自の詩境に達しました。  しかし彼の作風の幅はかなりひろく、通俗的成功の点では彼の代表作である「婦《おんな》系《けい》図《ず》」(明治四十年)「日本橋」(大正三年)などは時代の風俗を織りこんだ恋愛小説としてひろく一般の読者にむかえられ、ことに前者は、新派劇の有名な当り狂言になりました。  また彼が後には内に潜ませた社会的正義感と、権力にたいする反抗心は、青年時代に前記の二作のほか、「貧民倶楽部」「海城発電」など若々しい反抗の熱情をもった作品を生み、弱者への同情、弱く美しい女性にたいする神秘的な崇拝として、終生彼の作品のなかに生きのこりました。  彼は明治の作家のうち、もっとも魅力ある女性の創造に成功したといえます。  明治三十六年に発表された「風流線」は彼の正義感がもっとも幅ひろく現われた例ですが、同時に彼の文体と構想が、それに社会小説としての現実感をあたえ得なかったことをはっきり示しています。  鏡花が小説家として、第一線の作家であったのはこのころまでで、自然主義以後の彼は、時代の文学の大きな傍流として少数の熱心な崇拝者にかこまれながら、独自の孤独な境地を深めて行きました。  自然主義の運動は、これに加われなかった作家にも、一様に芸術上の危機をもたらし、彼等に自分のなかを深く覗きこむ機会をあたえましたが、鏡花の場合は、この自分の上にかがみこむ姿勢がとくに顕著でした。  晩年の彼の作品が小説というより読者を白日夢に誘う散文詩に近くなったのはそのためで、自然主義の運動は、彼等の反対者のなかでも小説を殺して行ったのです。  鏡花の文学も蘆花の文学と反対の意味で、現代の文学的時流をはずれているために、今日正当な評価をうけていません。  しかし彼等が自然主義以後には出現しなくなった豊かな制作力にめぐまれた大型の作家であり、彼等の作品には、たしかに明治時代の日本人の理想と現実が盛られていることは確かです。  鏡花の経歴は大変簡単です。本名を鏡太郎といい、明治六年(一八七三年)に金沢市で生れ、十一歳のとき母を失い、土地のミッションスクールで教育をうけ、明治二十四年に尾崎紅葉の門下生になり、以後、紅葉の死まで忠実に彼に仕え、死後も生涯紅葉の門弟をもって自任し、昭和十四年(一九三九年)に歿するまで紅葉の肖像を部屋にかかげて毎日の挨拶を怠らなかったということです。彼が師の言葉にそむいたのは、愛する芸妓と結婚するときだけで、この反逆は彼の名作のモチイフになりました。  鏡花が紅葉の弟子であったに対して、彼と並んで観念小説で世評を得た川上眉山は、明治二年(一八六九年)の生れで、本名を亮といい、東京育ちで東大予備門以来の紅葉の友人であり、硯友社に加盟したのも明治十九年で、最初期からの同人のひとりです。明治二十三年に「新著百種」の一冊として「墨染桜」を発表して好評を得ましたが、このころから紅葉らの軽妙で遊戯的な要素はなく、沈鬱で真面目な作風で、硯友社の気風とはやや離れた存在でした。この傾向は明治二十五六年ごろから益々顕著になり、一方でロマンチックな傾向を強めるとともに社会批判的な立場もとり、硯友社をはなれて藤村一葉らの「文学界」のグループに近づくようになりました。  この傾向が実を結んだのは、前述のように明治二十八年で、「大盃」「書記官」「うらおもて」の諸作を相ついで発表して、日清戦後の文学界の新風として注目されました。なかでも「書記官」は、官吏と政商の結託を描いて、そこに恋愛と政略結婚の問題をからませた小説で、今日から見ると、幼稚な観念性が目立ちますが、当時はこの観念性が新しさとして歓迎されたので、時代の新しい文学にたいする要求がいかに強かったかが、うかがえます。  眉山は孤独な性格で、当時の文学者の風習に反して、弟子もほとんど持たず、父親の負債をひきうけたために莫大な借財に苦しんでいた関係もあって、厭世的な孤立癖が強かったので、その反面、時代の思潮に敏感に反応するところもあって、この観念小説の成功に乗じて、「闇潮」という野心的な社会小説を企図しましたが、これは中絶し、以後数年間は、空白のうちに過しました。その間に彼の後輩であり彼と並称された鏡花は数々の名作を発表して一流の作家になり、紅葉は「多情多恨」「金色夜叉」蘆花は「不如帰」、などによって賑やかな話題を投げ、眉山の孤独の影はますます濃くなりました。  この焦慮は、彼の名作のひとつである「ふところ日記」にもよく現われています。これは彼の三浦半島一周記ですが、也有に学んだという彼の洒脱な文章の陰に暗い無力感と厭世観がのぞき、明治の文学者の心に生きた詩が直接にうかがえます。この紀行文が書かれたのは明治三十年ですが、一旦中絶し、完成されたのは、三十四年でした。  その後彼は明治三十六年に「観音岩」の前篇(原題石巻庄右衛門)を書き、四十年に後篇を完成して出版しましたが、翌四十一年の六月に、自殺をとげました。  眉山の自殺の原因は明かでありませんが、当時の文壇、とくに全盛期にあった自然主義の作家側から、新しい思潮に惹かれながら、これに同化し得ない芸術家の悩みと評されました。  いまひとり、眉山よりゆたかな作家的資性にめぐまれながら、彼に似た薄倖の生涯を送った作家に広津柳浪がいます。  彼は本名を直人といい、文久元年(一八六一年)長崎生れですから、硯友社作家のうちではおそらく最年長です。しかし硯友社に加ったのは明治二十二年(一八八九年)ですから、すでに三十歳ちかいときで、始めに医学を志望し、大学医学部予備門に入ったのが、中途で廃学し、農商務省の官吏になり、さらにそれを辞して放浪生活をおくり、小説も『東京絵入新聞』に書いています。  しかし彼が作家として名を高めたのは、紅葉の勧めで「新著百種」として出版した「残菊」(明治二十二年)によってでした。彼の人生の暗黒面にたいする嗜《し》好《こう》と、綿密な写実的手法は、この肺を病む若妻の悩みを一人称で書いた小説から、すでにその特色をなしていると云われていますが、この傾向が彼の作風としてはっきり確立されたのは、明治二十八年に、「変目伝」「黒蜴」「亀さん」などの作品を相ついで発表し、その異常な題材と悲惨な結末で、読書界に強い印象をあたえ、観念小説と並んで、悲惨小説(あるいは深刻小説)の名を得たときからです。  これらの小説の出現がいずれも明治二十八年であるのは、おそらく偶然ではないので、さきにも述べたように日清戦争後の戦後文学であったのです。  「変目伝」は、火傷で化物のような顔をした伝吉という洋酒屋の主人が実直な性格であったのに、恋のために金に詰って殺人強盗の罪を犯すという筋で、「黒蜴」は、同じように黒あばたの醜女お都賀を主人公として、彼女が舅の誘惑と虐待に堪えかねて、彼を殺して自殺するまでの経路を描いたもので、「変目伝」よりすぐれていて、悲惨小説の代表作とされています。  翌二十九年も眉山が行詰ったと反対に、柳浪にとっては大きな収穫の年であって、「河《かわ》内《ち》屋」「今戸心中」などの名作を発表し、当時の新人中の第一人者として、世の注目をあびるにいたりました。  このなかで「河内屋」は前年の諸作にたいして一段と才能の成長を感じさせますが、彼の代表作であるだけでなく、一葉の「たけくらべ」などと並んで、明治小説の名作のひとつに数えられるのは、「今戸心中」です。  これは吉原の風俗に取材した小説で、吉里という遊女が情人と離別したあとで、自分のために家庭も財産も失った醜男善吉に、これまで彼をきらいぬいていたにかかわらず、同情からの恋を感じるようになり、彼と会うために金銭的にも無理を重ね、一方では情人にたいする変らぬ気持を抱きながら、善吉と心中するという筋ですが、遊里の風物、季節の推移、登場人物の微妙な心理の動きなどを間然するところなく描きだした佳作として多くの讃辞を得ました。  しかしこのとき四十歳ちかかった彼は、制作力の上で頂点にきたのか、その後は作風が固定し、同じような傾向の小説をつづけて書いたので彼自身としては、誇張を脱して手がたい写実への進展を見せたにかかわらず——あるいはかえってそのために——同じ色調が世人からあきられるようになりました。  一方彼自身の厭世的な気風もいよいよ濃くなって、とくに自然主義興隆期の文壇とはまったく交渉を絶ち、明治四十二年以後はほとんど小説の筆をとらず、孤独のなかで生活して昭和三年に歿しました。 第九節 小説の拡大  悲惨小説、観念小説は、それを代表した作家の運命が示すように、歴史的には一時の流行にとどまりましたが、これが生れた当時の新文学を求める気運はうつぼつたるものがあったので、文学者たちは、新たに世の注目をひきだした社会の不平等、貧富の懸隔からくる支配層の腐敗、貧民の疾苦と堕落などを進んで剔《てつ》抉《けつ》し、これをユーゴオ、トルストイ、ディケンスのような社会小説に表現しようとする意欲に燃えていました。  金子筑水の「所謂社会小説」、内田魯庵の「政治小説を作るべきの好時機」、後藤宙外の「政治小説を論ず」などが、明治三十一年(一八九八年)に相ついで発表されたのは、この機運を語るものです。これらの論者の説くところは区々ですが、要するに私生活の風俗や恋愛を示すことに没頭していた小説家に、もっと社会の公けの場面にふれ、その機構を解剖し「之れを読まば、社会の活動する機構を、暗々裡に感得し得るもの」を望む点では一致していました。  つまり、まず悲惨小説、観念小説の形で現われた、小説社会化の要求は、これらの作品がみたし得た部分よりよほど広かったので、彼等の運命とは別に、社会小説の簇《そう》生《せい》を促しました。この意味で明治三十年代は、魯庵も示《し》唆《さ》しているように、明治十年代の政治小説が形を変えて復活した時期と云えます。  前述した蘆花をはじめ、紅葉、露伴も、この風潮に動かされて仕事をしたと見られますが、とくにこの時期に擡頭した新人にこの傾向が顕著なのは当然です。  内田魯庵は批評家、翻訳家としては明治二十年代から知られていましたが、明治三十一年には「暮の二十八日」を発表して、小説家としても重んじられるようになりました。  これは政治小説というよりむしろ政治的(社会的)理想に憑かれた人間の家庭悲劇と言うべきものでしたが、明治三十五年刊の小説集「社会百面相」になると、現代の政治は喜劇として扱うほかはないという彼の「政治小説」の主張が具現しています。  これは学生、官吏、新聞記者、牧師、代議士、貴婦人、女学生など当時の世相を形成するあらゆる型の人間を捕え、それぞれ諷刺的短篇の主人公にしたもので、我国で稀れに見る幅のひろい社会諷刺の試みと云えますが、人物の描きかたが概念的で類型に止っている点は、「安愚楽鍋」「怪化百物語」などを連想させます。  この新しい意図と古い技法との混合は、魯庵の場合だけでなく、この時代の小説一般の特色ですが、魯庵が、自然主義以後小説の筆を絶ったのは、この意味で己れを知る明があったと云えます。  彼は東大予備門を中退したのち、自分でも云う通りさまざまに志望をかえましたが山田美妙の「夏木立」の批評文を書いたのが機縁になって文芸批評家になり、不知庵の筆名で多くの批評文を書き、一方翻訳にも力をそそぎ、同時代の作家の啓蒙につとめたのは、前述した通りで、明治三十年代には小説を書いていたのが、四十年以後は文明批評的な随筆を書き、一方では趣味家として知られ、その方面の随筆でも一家をなしました。彼の明治文壇回顧録「思ひ出す人々」(大正五年「きのふけふ」として初刊、十四年改題再刊)は、明治文学にかんする回顧録のうち、もっとも興味深いもので、とくに「二葉亭四迷の一生」がすぐれています。  しかしこの時期の小説家で、魯庵のように文学者として長い生命を保った人はむしろ例外で、小栗風葉、柳川春葉など一時は華々しい名声を得ながら、やがて通俗作家に転落して行きました。  風葉は本名を磯夫といい、明治八年に愛知県で生れ、明治二十九年に紅葉の門下生になり、すぐに特殊部落出身の兄妹間の不倫の恋を描いた「寝白粉」で深刻小説の新人として、世間の物議をかもし、つづいて発表した「亀甲鶴」によって新進作家として声名をあげました。  風葉は敏感で他の影響をうけやすく、その影響を、表面的ながらすぐに消化できる才能にめぐまれた人で、彼の作品にはいずれも同時代人からうけた感化のあとがはっきり指摘できるようですが、この場合には形式は紅葉になり、思想は露伴に学んだと云われています。内容は作者の郷里の酒造家を題材にとって、主人の娘に恋する酒造りの男が主人のために命がけで密醸酒をつくったのに、かえってその娘が税吏のもとに嫁がされるので、婚礼の晩に酒樽に身を投げて死ぬという筋ですが、社会小説的な色彩をもった深刻小説として世評を得ました。  ついで彼は「十七八」(明治三十年刊)で二葉亭の「浮雲」の作意を模倣し、文体も彼にならって言文一致を試みましたが、翌三十一年に「恋慕ながし」さらにその翌年に「鬘《かつら》下地」を発表するに及んで、彼は独自の芸術境を確立したものと見做されました。  両者とも、音楽家、俳優など、芸人の世界をやや興味本位に描いたもので、筋は今日から見れば、類型的な通俗小説を出ないものですが、文章の彫琢に非常な苦心を払い、女主人公に悲しい運命をたどらせながら、その艶姿を生動することに成功しているので、当時の読者に大きな感銘をあたえ、前者は新派の脚本に劇化され、しばしば上演されました。  しかし今日から見ると、その文章の技巧が過渡期の摸索の記念碑として、歴史的興味の対象にしかならないように、その内容も不自然な筋の運びが目立ち、部分的にはすぐれた写実も見られますが、時代の風俗資料にとどまります。  二十歳をいくつも越えぬうちに「鬱然たる大家」と評せられた風葉が、今日から過渡期に生きる才人の悲しみを象徴するように見えるのは、現代人にも他人事でない教訓ですが、「当時の花形作家」たる彼の地位は、なお十年近く保たれます。  風葉は少年時代から、中学の教師に外国文学への憧れを鼓吹され、民友社の思想などにも親しんでいましたが、明治三十四年に発表された「さめたる女」になると、文章の上では小杉天外の「はつ姿」、二葉亭の「うき草」(明治三十年刊・ツルゲエネフ「ルージン」の翻訳)などの影響をうけ、内容は当代の文壇を賑したニーチェの紹介などによる個我思想の眼覚めを扱った、新風を試みています。言文一致の文体で、時代の尖端を行く思想をとらえるという彼の作意はたしかに新時代に沿ったものに違いありませんが、そういう根底のない態度で、この近代の根底をなす問題がとらえられると考える点に、彼の旧時代の戯作者気質があることに、彼自身は気付きません。  ここに風葉の作家としての限界があったのですが、この矛盾はまた一方から云えば、明治三十年代の文学の特色でもあったので、彼の才能が「青春」(明治三十八、九年)でいま一度最後の大きな開花を示したのは偶然でありません。この小説はニーチェ風の個人主義を奉ずる青年男女の恋愛を中心として、彼等を動かす新思想が周囲の社会環境と衝突して生みだす悲劇を描こうとしたものですが、作者自身の態度が動揺していて、さまざまな流行思想を生のままとり入れたところが多く、主人公の性格や環境の設定にもツルゲエネフの「ルージン」を真似たようなところが目立つと同時に、作者とのあいだに内面のつながりが見られないので、結局個人主義思想を、めずらしい「病弊」として扱った思想的風俗小説にすぎません。  しかし彼の文体は、ここで彼なりに円熟の極致に達したので、新時代を代表した批評家島村抱月も、ある不満を留保しながら、この点には讃辞を惜しみませんでした。  いまひとつこの小説の意味は、大学生関欽哉という人物像に、新時代の思潮を不完全ながら体現することによって、それにたいする一般の関心を惹きつけ、一種の社会問題と化することに成功した点です。日露戦争後の青年たちの新傾向は、これによって時代の文学のテーマとなり、多くの作家に影響を及ぼしました。  一例をあげれば二葉亭四迷は「青春」を本気で讃めていたようで、ニーチェ的個人主義を奉ずる大学生は、「其面影」の原型になる小説にも登場する筈でした。  風葉がツルゲエネフのルージンにあれほどひかれたのは、たんに小説の新しい型の主人公というだけでなく、いつも自分の存在に自信を持てず、内面の矛盾から実行の勇気を欠く性格に共感を持ったためかも知れません。  しかし彼はその共感を充分に噛みしめるまえに、それを材料にして小説を組みたてる職業的習性を、硯友社とくに紅葉の影響で身につけてしまったので、若いころ彼に名声をあたえた鋭敏さと器用さがついに彼を大成させなかった点で、過渡期の典型的犠牲者といえます。  彼は自然主義時代になると、この傾向に追従するような作品、「恋ざめ」「世間師」(明治四十一年)「耽溺」(四十二年)などを発表し、相応の世評を得ましたが、自然主義の作家からは、いつも旧派からの投降者の扱いをうけ、衒気がうせるとともに才能も次第に枯渇して、大正十五年(一九二六年)に通俗作家としての生涯を終りました。全盛期より二十年ちかく生きのびて、五十一歳で歿したわけです。  旧い教養から出発して新しい時代の勢いに乗り移ろうとし、やがてこの勢い自体によって乗りこえられたのは、この時代の作家に共通の宿命でした。江見水蔭、後藤宙外、柳川春葉のほか小杉天外などもその運命を免れませんでした。  江見水蔭は古くから硯友社に加盟していましたが、本当に世に認められたのは、日清戦争後に発表した「女房殺し」(明治二十八年)「炭焼の煙」「泥水清水」(二十九年)等によってです。ことに二十九年には彼はこのほかにも多くの佳作を発表して、眉山、柳浪と並び称されましたが、その後はつづかず、通俗作家として終りました。彼が主宰した雑誌『小《こ》桜《ざくら》縅《おどし》』は、田山花袋、太田玉茗、高瀬文淵などを世に紹介しました。  柳川春葉はやはり日清戦争後に作品を発表しはじめ、「錦木」(三十四年)「秋袷」(三十五年)「泊り客」「忘れ水」(三十六年)等で、詩人肌の作家としての名声を得ましたが、次第に通俗小説にかたむき、長篇「生《な》さぬ仲」を新聞に連載して成功した後は、大衆作家に転身しました。  後藤宙外は慶応二年(一八六六年)に秋田で生れ、東京専門学校に学び、逍遙の指導のもとに小説を書きはじめました。明治二十八年(一八九五年)に書いた「ありのすさび」が彼の出世作で、翌年には「闇のうつつ」を書き、三十二年には、彼の政治小説の主張を具現するために、「腐肉団」を書きました。政治に志を持つ純真な地方青年が、有志として上京し政界の裏面にふれているうちに、自分もその気風に染り、堕落して家庭悲劇をおこすという筋で、当時の政治小説を要求する気運にこたえた作品というだけで、価値の高いものではありませんが、この時期の政治小説の一般の特色として、作者が特定の政治上の主張を持たず、政治を文学の素材として見、この私生活の醜い面を抉《えぐ》りだそうとしている点は注目されます。  宙外は一方では評論家としても聞え、とくに明治四十年の自然主義勃興の時期にあたって、反自然主義を唱え、同級生であった島村抱月に反対して、評論集「非自然主義」を著し、反自然主義の団体、文芸革新会をおこしました。しかし所期の効果があげられなかったので、晩年に故郷にかえり、静穏な生涯を昭和十三年(一九三八年)に終りました。  次にある意味で明治三十年代を代表する作家としてあげるべきは、小杉天外です。  彼も秋田の産で本名を為蔵といい、慶応元年の生れですが、東京にでて英語を研究するかたわら、斎藤緑雨の門に入って、諷刺小説を書きはじめ、明治二十九年の「改良若殿」によって、ややみとめられました。  明治三十年に後藤宙外、島村抱月らと雑誌『新著月刊』を刊行し、風葉、鏡花のほか泣菫、藤村、不知庵(魯庵)などの寄稿を得て、文学界に新風をおくりましたが、三十三年にゾラの自然主義の影響をうけた小説「はつ姿」を発表して、多くの反響を得ました。天外はここで「ナナ」に学んだといわれていますが、同じく女芸人の世界を扱ったことが、部分的描写に、類似点が指摘されるだけで、影響はなお皮相にとどまります。  しかし、三十五年の「はやり唄」になると、その影響はかなり本格化します。この小説は美貌の地主の家つき娘が、生れつきの遺伝と環境の力で堕落して行く経過を描いたものですが、作者はここでゾラの実験小説論によって、遺伝と環境の力で、人物を行動させようと努めています。その実現し得たところは、ゾラとはかなり隔りはありますが、天外がゾラの思想によって、その作家としての態度をきめたことは、時代の新現象として、人々の注意をひきました。  この小説に附した短い序文で、天外は自然は善悪美醜を超えた存在と定義し、小説もまた「想界の自然」であるから、倫理的美的な束縛を社会からうけるべき理由はないと説いています。理論としてややあいまいですが、我国における自然主義思想の最初の発現として有名です。(註一)  ついで明治三十六年に「魔風恋風」を発表したころが天外の作家活動の頂点でした。この小説は当時ようやく世の注意をひきだした女学生を主人公として、それに男の学生の愛人を配し、樗牛の唱えた本能満足主義の浸透した当時の青年たちの雰囲気のなかで起る悲劇を描いたもので、新聞小説としては空前の成功を収めました。  しかしこの成功はやはり天外の場合にも、彼の作家としての成長に禍いしたので、その後彼は次第に才にまかせて通俗小説だけを手がけるようになり、自然主義の勃興とともに、通俗作家に変貌して行きます。  天外と並んで、ゾラの影響をうけた作家として注目された新人に「地獄の花」(明治三十五年刊)を書いた永井荷風がいます。  彼は本名を壮吉といい、明治十二年(一八七九年)に東京で生れ、山手の良家に育ちながら、早くから市井の蕩児としての生活を送りましたが、二十歳前後から広津柳浪に師事して習作を発表し、他方生田葵山などとともに巌谷小波の木曜会にぞくして、トルストイ、ツルゲエネフ、ゾラなどを研究し、ことにゾラに傾倒して、「野心」「闇の叫び」(ともに明治三十五年)を「地獄の花」以前に発表して、人間の獣性と、社会の不正とを暴露することにつとめました。  その後まもなく彼は外遊し、帰朝後、新生面をひらくのですが、彼が徳田秋声、田山花袋などとともに、硯友社系にぞくしたのは興味ある事実です。  明治三十年代の小説はほぼ以上のようなものであり、その特色は、新しい近代的自我の眼醒めが次第に一般化し、やや俗化した形で多くの作家のモチイフになっていることと、作家が社会にたいする素朴な正義感に燃えていて、政治を含めた社会小説がさかんに書かれたこと。しかしその政治思想や社会意識も一般には未熟であり、悲惨な事実も、ただ物語の興味ある題材として扱われ、文体もさまざまな形式が試みられて、雑然たる過渡期をつくっています。  この時の思潮で、いままで触れなかった面に宗教的傾向と、社会主義があります。自我覚醒の時期が、一方において宗教復活の時であるのは、どこでも通例のようですが、この時代も樗牛が晩年に日蓮宗に帰依しただけでなく、清沢満之、綱島梁川など青年たちにもっとも人気のあった思想家は、宗教家でした。  なかでも綱島梁川は、東京専門学校で抱月と同級で、卒業後は倫理学の研究に専念しましたが、明治三十七年に見神の体験をして、「予が見神の実験」を発表して、大きな反響をよびおこしました。彼の宗教論は「病間録」(明治三十八年刊)にまとめられて、多くの熱心な読者を得、実利主義の世相にたいする抵抗の拠りどころになりました。  そのほか、内村鑑三、植村正久など、キリスト教も、明治二十年代の試練期を経て次第に知識階級に信者を獲得して行きました。このころの世情にあきたりず、何かを考え求めようとする知識分子の大部分はキリスト教に接触しています。当然、彼等のなかには、社会の不正にたいして積極的に闘う意欲をもつ人々がいて、明治の社会主義思想は主としてキリスト教のなかから発生しました。  安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、木下尚江らによって、社会民主党が結成され、即日解散されたのは明治三十四年のことであり、秋水によってエンゲルスの「空想から科学へ」が「社会主義神髄」と題して紹介されたのは、明治三十六年でした。  このころは社会主義といっても思想的には明瞭に秩序だてられたものでなく、資本主義に反対し、貧民に同情するといった人道的熱情で共通するだけであったようですが、それだけに一般人に訴える力も強かったので、三十年代の文学者は社会的関心の赴く帰結として、これに程度の多少にかかわらず共感を覚えた者が多かったのです。高瀬文淵、田岡嶺雲などの評論も、この機運を強めるに役立ったようです。  徳富蘆花や二葉亭四迷は、自から社会主義者をもって任じましたが、社会主義の陣営にぞくする者のなかからも小説を書く者が現われました。  「火の柱」「良人の自白」を書いた木下尚江がそれで、この二つの作品は、明治の社会小説の到達点と限界を示す記念碑をなしています。  木下尚江は明治二年(一八六九年)に長野県で生れ、東京専門学校を卒業後、弁護士、新聞記者などの職業を経て、たえず社会の不正と闘い、前記の社会民主党の設立にも参加しましたが、その後日露間の危機が迫るのを見て、非戦論を唱え、平民社の一員として活動しました。  「火の柱」は明治三十七年の一月から三月まで、『毎日新聞』に連載され、あたかも日露戦争のさなかである同年五月に刊行され、数千部を売りつくしました。このような反戦小説が戦争の最中に無事に出版されたのは、いろいろな意味で注目すべきことでしょう。  尚江はここで、日本民族を導くべき新しい指導者(旧約のモーゼにあたる人物)を描こうとして、キリスト教社会主義者である篠田長二を主人公として、彼の同志たちの反戦運動を描き、一方、彼と敵対する陸軍御用商人山本剛造を中心として、政府資本家軍人たちの腐敗を暴露しています。文体が二十年前の政治小説を思わせる文語体であること、人物の性格描写が、やはり政治小説的な型にはまっている等の欠陥はありますが、この小説のテーマの新しさ、時事的な切実性、それを貫く作者の熱情は、多くの読者に感銘をあたえ、三十年代の社会小説の代表作としているだけでなく、我国の社会主義文学の重要な先駆としています。  尚江はつづけて三十七年八月から三十九年六月まで、「良人の自白」四篇を書きました。これは前作と異り、文体も口語体で、作者が新しい態度で制作に臨んだことが知られます。内容は白井俊三という大学出の秀才が義理のために伯父の養子になって松本で弁護士を開業するが、元来正義心が強く学生時代にはクロムウェルを理想とした反抗児の彼は、事毎に伯父と衝突し、妻のお高にもそむかれ、真剣な恋を求めて花街に出入し放蕩の生活をおくります。やがて俊三は伯父から離縁され、アメリカ行を決心しますが、出発間際に旧友の与三郎に傷けられます。しかし俊三は彼を許し、彼の共産主義を実行にうつすために、自分の財産をあたえて外国に出発し、やがて客死するという筋です。ここには彼の自伝的要素もいくぶんとり入れられ、心理描写は「火の柱」より格段にすぐれていて、尚江の代表作と見られます。  この小説執筆中尚江は母の死によって大きな衝撃をうけ、社会運動から脱退し、自伝「懺悔」小説「霊か肉か」を書き、四十一年には小説「乞食」を発表して、社会運動から、宗教に移って行く独自の思索のあとを描きました。  その後彼は「日蓮論」「法然と親鸞」を書き、静座と沈黙のうちに昭和十二年(一九三七年)に生涯を終りましたが、晩年の著に、「田中正造伝」「神・人間・自由」などがあります。  そのほか明治三十年代の小説について、記録すべきは、翻訳のすぐれたものが、いくつか刊行されたことです。  二葉亭四迷は、明治二十九年(一八九六年)にツルゲエネフの「アーシヤ」を訳した「片恋」を発表し、ついで三十年には同じ作者の「ルージン」を「うき草」と題して訳出して、大きな影響をあたえました。  明治三十五年には、鴎外がほぼ十年間をついやして訳出したアンデルセンの「即興詩人」が完成しました。これは翻訳ながら、明治中期のロマンチック文学の代表作として、同時代の文学界同人から、泉鏡花をはじめ、永井荷風、正宗白鳥、木下杢太郎、北原白秋などのような後代の詩人作家にまでひろく深い影響を及ぼし、ある意味では三十年代の文学の代表作と見得るものです。  その他、ツルゲエネフ、トルストイ、チェホフなどのロシア作家、ユーゴオ、モウパッサン、デュマ、メーテルリンクなどのフランス系の作家、イプセン、ハウプトマンなどもつぎつぎに紹介され、外国文学の影響は次第に一般に浸透して、次の時代への転廻を準備しました。 第三章 明治末期 (明治三十九年——四十五年) 第一節 「自然」の観念の変遷 ——国木田独歩——  自然主義は、明治文学のひとつの帰結であり、大正以後の文学の土台となるもので、我国の近代小説の歴史の一番大切な軸といってよいものです。  その反面これが近代化と信じた小説の非小説化は、今日の文学の複雑な混乱を招いていますが、いずれにせよ、その影響は現在まで及んで、これにたいする評価は現代の文学にたいする態度を決定します。  英語のネイチュアを「自然」と訳したのは、誰がいつごろしたことか、明かでありません。  しかしネイチュアの語源である、ギリシャ語やラテン語には、「生れる」「育つ」などという意味があり、西洋人はこれを、生命的あるいは擬人的に見る傾向が強かったようです。「生れつきのもの(性質)」「放っておいても育つもの」という意味がギリシャ語のフューシスには含まれていました。  これを「自から然る」と副詞を名詞化して訳語にあてはめたのは、当時我国でよく行われた一種の意訳であり、そこにはフォトグラフィ(光の画)を「写真」と訳したのと同様、言葉より、むしろこれと照応する事物にたいする我々の観念を現わしていると思われます。  それについてはまたあとで述べますが、ネイチュアにたいしては、「自然」のほか、「天然」「造化」などの訳語もかなりながく用いられました。  いずれにせよ、この「自然」という概念は、明治二十年代には、文学者によって、たんに「人工」と対立するだけでなく、世俗や社会に対決する拠点の概念の役割を果すようになったので、それをもっとも明確に、意識的に駆使したのは、北村透谷です。  彼はさきに述べた山路愛山との論争文「人生に相渉るとは何の謂ぞ」で「自然」を「力《フオース》」としての自然と「美妙なる自然」とにわかち、「力」としての自然は「肉」としての人間を支配し、結局これに「死朽」なる運命をあたえている。世の功利論者は、自然を見る場合に、この——因果律に支配され、肉体の生理と死を通じて人間を支配する——側面しか見ようとしない。しかも彼等はどんな世俗を相手の「事業」に成功しようと、畢竟は人間の肉体の必然の運命である死を征服することはできない。詩人の使命は「吾人の霊魂をして、肉として吾人の失ひたる自由を、他の大自在の霊世界に向つて縦《ほしいまま》に握りしむる事」にあるとして、芭蕉の句を例として、彼がその句をつくるとき、「実を忘れ、肉を脱し、人間を離れ……絶対的の物、、即ちイデアにまで達した」のだと断じています。彼によれば、一般人の住む世界は「力」としての「実」としての自然界であり、詩人が表現することに努めるのは「美妙」であり、「虚」である自然界であり、人間の「肉」と「魂」とがそれぞれの世界に照応するというのです。  こういう考えは必然的に神を前提とします。透谷がキリスト教を信じたのは、この内心の要求、自然のなかの超自然を探ることで、人間の死生の運命を脱却したい欲望であったと思われます。  この点彼はロマン派思想の正統を伝えた人でしたが、彼自身も云うように思想だけでは文学はつくれないので、「再生せられたる生命の眼を以て」造化万物に「超自然のものを観る」希求は、彼の詩によって必ずしも実現されませんでした。  そして彼が「肉体」を以て、「想界」に生きようとする焦慮に疲れて自ら生命を絶った後は、このような非合理の世界を体系的に信じようとする詩人は後を絶ったので、詩と宗教は——透谷の後継者を自任した人々の間でも——まったく分離して別物になりました。  「自然」という言葉も、依然として作家の反世俗的態度の拠点としての意味を失いませんでしたが、次第に一般化する概念の内容は、明治三十年代になると、やや別物になってきました。  すなわち、我国のロマンチスムは、宗教をはなれるという意味でも俗化の道を、この時代になると辿ったので、「肉」を脱し、「実」を忘れた「虚」としての自然界に、詩人の「想」を求める代りに、「実」の自然界に止って、そのなかでの「肉」としての人間の解放を、目的とするようになりました。この現世化が一方において個人意識の覚醒を伴い、さまざまな色合いで表現されたところに、明治三十年代の文学の基調があるといえましょう。  「明星派」の短歌にあっては、それは封建的道徳にたいする個性の自覚と官能の解放という形をとり、小説の世界では、個人の意識・生活と社会との矛盾に着眼する風潮を生み、「ホトトギス派」では、個人の観点の確立と、事物の特殊性をとらえる観察の訓練を生みだしたものは、同じ時代の風潮であったといえます。  封建意識からの解放、「神」の観念からの脱却、「肉」としての自己の存在を中心とした合理的世界観、この三つは表裏一体となって、自然主義を目指していたので、後年の自然主義運動がロマンチックな性格を濃く持っていたのは、それに先行するロマンチスムが、合理的世界観という点では自然主義的な要素を持っていたためと思われます。  天外や風葉によって、ゾラの理論が皮相的な理解のまま、すぐに応用されたのは、このような時代思潮の性格にもとづきます。「小説は想界の自然である」と天外が云うとき、「想界」はすでに、「実」の世界に移されていたのです。  しかし、ゾライズムは結局日本では一時の流行に止って、実を結びませんでした。  これはゾラの場合には、すでに前代のロマン派の詩人たちによってなしとげられていた、近代的個人の自覚と表現という仕事が、我国では、自然主義を通じて確立されねばならなかったためで、ゾラの標榜した「科学」より、もっと端的に個性の表出に適した形式がここでは必要であったのです。  自然主義を開拓した作家が、ややおくれて人々のあとからついて行った観のある秋声をのぞくと、みな三十年代の詩人であったのは、この間の事情を語っていると思われますが、彼等のうちで、もっとも早く自己の散文的表現を完成し、先駆者の位置に立つのは国木田独歩です。  彼は本名を哲夫といい明治四年(一八七一年)に千葉県で生れ、四十一年に歿しました。亡くなったのはその年の六月ですが、持病の肺患がいよいよ悪化して茅ケ崎の南湖院に入院したのが二月ですから、彼の仕事をしたのは、四十年までで、ちょうど自然主義の勃興期には世を去ってしまったわけです。  しかし、主として三十年代になしとげられた彼の仕事は、たんに自然主義の先駆であるだけでなく、四十年以後、私小説を主流とするようになった我国の近代小説が実現し得なかったさまざまな可能性を暗示しています。  思想的に云うと、彼は透谷と自然主義をつなぐ線の上にいるので、その経歴や仕事の性質もそれと照応しています。  彼は明治二十年(一八八七年)に上京して東京専門学校に入り、『文学界』の前身である『女学雑誌』に投稿したりしましたが、二十四年には植村正久によって洗礼をうけ、キリスト教信者になりました。のち形式的には信者であることを止めましたが、キリスト教は彼の文学にも大きな痕跡をのこしています。  しかし彼の場合、「神」の影は透谷にくらべてよほど薄くなり、キリスト教は一種の道徳としてうけとられた傾きが強いので、したがって「自然」も、「虚」としての意味を強く持たなくなり、たんに社会の外にあって、社会より永遠な実体として把えられています。  「それ世間ありて天地あるに非ず、天地ありて世間あるなり。此吾は先づ天地の児ならざる可からず、世間に立つ前、先づ天地に立たざる可からず」と彼は「岡本の手帳」で云います。「天地」すなわち自然は、彼にとって社会にたいする反対概念であり、彼の希いはそこに立って、名利の概念を超越することでした。彼自身かなり名利欲の激しい方で、そのために、彼はしばしば身心を酷使して、健康を損いました。  彼の四十歳にみたなかった短い生涯は、この世間に混って優位を得ようとする野心と、そこから離脱して「天地に立たう」とする道心との間の闘いに費されたので、職業的な文学者であったときより、教師であったり、新聞記者、出版社員などの方が長かった彼の経歴は、それを象徴しています。彼は透谷と違って、俗人に交わり、そのなかで自分の力倆を発揮しようとする俗情の持主であったので、そこに気質の違いとともに、彼等の生きた時代の性格の差があります。「余は今、彼等と言へり、されど此彼等の内には勿論余も加はり居るなり。」と彼は、同時代の俗人たちを批判して云います。この自らの俗心を意識しながら、俗人の間に混って生きる孤独は、透谷の知らなかった苦しみであり、独歩はそれを作因として、明治文学を通じて、もっともすぐれた短篇作家の業績をのこしました。  彼の「自然」の思想は、さきにも云った通り、或る意味で透谷より後退したものでした。「この不思議なる、美妙なる、無窮無辺なる宇宙と、此宇宙に於ける此人生とを通観せんことなり。われを此不思議なる宇宙の中に裸体のまま見出さんことなり」と云うとき、彼の意味する「宇宙」からは、透谷の「宇宙の精神すなはち神」はでてこないので、彼の云う宇宙は、科学者の観察する「無窮無辺」であれば足りるのです。  ワーズワースから受けた影響も、彼にあっては、「人間と相呼応する此神秘にして美妙なる自然界に於ける人間なればこそ、平凡境に於ける平凡人の一生は極めて大なる事実として余に現はれたのである。」という風に、「自然」がたんに人間の世俗的評価にたいする価値転倒の具として受取られるだけです。  むろん独歩に神の観念がなかったとは云えませんが、その観念は透谷にくらべても(彼がすでにその傾きを示していますが)ずっと汎神論的なのです。  「信仰を得んことに非ず、信仰なくんば片時たりとも安んずる能はざる程に此宇宙人生の有のまゝの恐ろしき事実を痛感せんことなり」という彼の言葉は、彼の信仰(あるいは不信)の微妙な性格を語っています。この「恐ろしき事実を痛感した」とき透谷が自分の生命を絶ったとしたら、そこに「安んずる能はざる」ことを感じながら、あえて「信仰を得」ようとしない独歩の態度には、矛盾があると云うほかはありません。  しかし彼の描く自然や人間が美しく生きているのは、おそらくこの矛盾からくる不安が絶えず彼の心を緊張させ、人々への共感に開いていたからで、彼の作品は、すべてこうした不安と懐疑を通じて何かを求めずにいられない彼の心情の現われといえます。  そこに一貫しているのは、人間を社会の束縛と、それと表裏する「幻」から解き放って、彼等を「天地に立たせ」ようとする欲求です。  独歩の作風は二十七歳のとき、「独歩吟」によって「抒情詩」の詩人として出発したときから、自然主義的色彩の濃い「二老人」「竹の木戸」を死の年に発表したときまで、ほぼ十年間に三つの変遷を経ています。もっとも彼が文筆によって最初に名声を得たのはこれより早く、日清戦争中に『国民新聞』の記者として軍艦千代田に乗組み、同紙に発表した「愛弟通信」によってです。この新聞記者としての名声が、彼と日本橋の佐々城病院長の長女信子との結婚を可能にし、二人は信子の家族の反対をおしきって二十八年の秋キリスト教によって結ばれましたが、三四カ月で破綻し、独歩に終生の傷手をあたえました。この破婚の憂悶のなかで彼は、田山花袋、柳田国男らと知りあい、三十年四月に共著の「抒情詩」を発表し、五月には花袋とともに日光の寺に籠って、小説の処女作「源叔父」を脱稿しました。  以後花袋との友情は二人の生涯に大きな影響を及ぼしましたが、ともにロマンチックな感傷詩人として出発したこの時期は、独歩にあっても、ロマンチック時代と呼ばれています。独歩の詩はたんに時代の好尚と青年の心情を示しているだけで、多く価値することはできませんが、散文の才能にめぐまれていた彼は、「源叔父」「武蔵野」「忘れえぬ人々」などの短篇や感想によって、文飾を脱した詩的散文の新しい典型をつくりだしました。  しかしこれらの作品と同じころ書かれた「二少女」ではすでに自然への陶酔をはなれて貧しい都会生活者の苦悩を直視していますが、この傾向はツルゲエネフ、モウパッサンなどの感化でますます強められ、人生にたいする懐疑が、彼の作品の主要なテーマになるようになりました。時によっては「牛肉と馬鈴薯」(明治三十四年)のように、作者の分身と思われる人物が思索の結果を述べることがあり、また作者の観察し想像した人間たちの姿が直接描かれることもありますが、単純な観察と記述から成立しているように見える短篇にも、作者の人生観あるいは哲学が感じられるのが、この時期の作品の特色で、独歩のもっとも個性的な小説はこの時代のものといえます。  「空知川の岸辺」「春の鳥」のような、自然との交感を主題としたもの、「運命論者」「酒中日記」のように救いのない人生を主題としたもの、「非凡なる凡人」「日の出」のように、己れに克つことで、人生に打勝った人々の美談など、さまざまですが、その根底にはさきに述べた合理に安んじ得ない合理主義者の悲しみが流れていて、読者の胸にふれます。  独歩は後の花袋などとちがって、彼の実生活の直写と見られるような作品はほとんどなく、彼の日記である「欺かざるの記」は小説には数えられていません。しかしこの時期の作品には、彼の生活でなくとも、精神がよく現われていて、人間としての独歩がそこに躍如としています。この仮構による自己表現は、彼と同時代に仕事をした眉山、風葉、天外などの作家が持たなかった特色であり、彼が今少し長命であったら、我国の自然主義文学は、もっと想像力を自在に駆使した小説を数多くのこし得たのではないかと思われます。  彼が死の前年に『日本新聞』に書きはじめて病気のため中絶した「暴風」はその意味で注目すべき作品ですが、この時期に彼の発表した短篇は、力作「竹の木戸」「二老人」をも含めて、作者の心境の成熟とともに肉体の疲労が濃く現われていて、その純客観的描写が果して独歩本来の面目かどうか疑われます。「窮死」「号外」「疲労」などの掌篇の得た世評には、自然主義時代の流行が大きな要素として働いています。  しかし、絵というより素描に近いこれらの断章に、作者の絶えようとする生命の眼に映った人生の相が、なまなましくとらえられていることも事実なので、彼の作品が、正宗白鳥、志賀直哉などの短篇作家から、模範とされたのは、当然です。 第二節 島崎藤村  独歩の作品が世に認められるようになったのは、明治三十九年(一九〇六年)三月に刊行された第三の著作集「運命」によってですが、偶然これと同じ月に藤村の「破戒」が出版されました。  この二冊の書物は、日露戦争後に強い勢いで勃興しようとしつつあった文学の新機運を代表する名作として、世評の中心になったので、ことに「破戒」は、ながらく小諸に隠棲していた「若菜集」の詩人が、小説家として新たな出発をすべくこの一作にすべてを賭けて上京し、自費出版をあえてしたことが、一層の人気を呼びました。  詩人としての才能にめぐまれなかった独歩や花袋にとって、小説家への転身は、自然の必要であり、したがってわりに容易であったに対し、四つの詩集によって、詩人として第一人者の名声を得た藤村にとっては、小説家として再出発するのは、容易ならぬことでした。  しかし「落梅集」を最後にして、心のなかの詩が涸れたという自覚と、時勢の微妙な推移は、藤村に散文にうつる決意をさせたので、彼はこの準備にほぼ五年を費しています。  その間、地方住いを利用して、ラスキンに学んで自然の「スタディ」を行ったり、「旧主人」(明治三十五年)「藁草履」(同年)「水彩画家」(三十七年)などの短篇を試作したりしたのは、みな「破戒」のための慎重な準備と見られます。  独歩を動かし、天外を動かしていた「自然」の観念は、この透谷の友人をも支配していたのですが、藤村にとって、「自然」にふれることは、おそらく表現の形式をも合めて、「自分を新しくする」ことでした。  「来るべき時代のためにしたくするといふことも、わたしにとつては、自分《みづか》らを新しくすることにほかならない。」と彼は「千曲川のスケッチ」の奥書で云います。彼の自然には宗教的色彩はまったくなく、この「スケッチ」も「ダルヰンの『種の起原』や『人間と動物の表情』などのさかんな自然研究の精神に」刺戟されてつくられたものです。  透谷の悲惨な先例は、一方で彼を奮いたたせるとともに、「虚」に憑かれた詩人の観念的飛躍を警戒することを彼に教えたので、彼の希いが、正確に事物を見、それによって人間としての幸福を把むことに集中されているのは、そのためと思われます。  「自分の第四の詩集を出したころ、わたしはもつと事物を正しく見ることを学ばうと思ひ立つた。この心からの要求はかなり激しかつたので、そのためにわたしは三年近くも黙して暮すやうになり……」と彼は云います。  彼にとって、「事物を正しく見る」ことは、自分自身の事物の間での姿を正しく見究めることであり、そのことが生活の上でも表現の上でも彼を新たにして行くことを期待したのです。  歌からの脱却が、散文における表現の即物性をめざして、言文一致に到達したのもこのためです。このことは、彼が地方生活において自分を周囲とは異質な者と感じ、このひとり醒めた者の孤独の本態を見究めたい要求を持っていたことを意味します。  「破戒」はこうした準備と要求をもとにして書かれ、藤村自身にも、日本の小説にも新たな局面を開くことに成功したものでした。  この小説はよく知られているように、丑松という特殊部落出身の青年が小学校の教師をしながら、父親の云いつけを守って、出生の秘密をひたすら隠しているのが、次第にそうした処世法に疑いを覚え、部落出身者の思想家の影響もあって、ついに学校の教室で素姓を告白するという筋ですが、作者はその構成や人物の配置では、当時の愛読書であった「罪と罰」に多くを学んでいます。主人公の告白という思想も、またそこから得たようです。しかし作者がもしドストエフスキーを読んでいなかったら、思いつかなかったであろうと思われるこの小説がたんなる翻案に終らなかったのは、骨組みが借りものであっても、彼がそこにつけた肉が、日本の風土から得たものであり、彼自身の内面の劇であったからです。  彼が「千曲川」で試みたスタディが役立ったのもここにおいてです。この川の下流に臨む、古い城下町の雰囲気も、ゴンクール法の描写でよく現わされ、そこに暮す善良な人々の偏見に圧倒される丑松の苦しみもよく浮彫にされています。おそらく丑松の悩みに、藤村は文学を「秘事」のように胸の奥底に抱いて、同じく地方の都市に生活している彼自身の孤独を託していたので、見方によれば、彼がここで能うかぎりの正確さで描きだした地方の「事物」や、主人公の社会的条件など、彼自身の孤独な心情を散文によって客観化するための道具立てであったのです。  この作者が若い主人公を内面からの共感で描きだしたところに「破戒」の、他の同時代の青年を描いた小説(たとえば風葉の「青春」)にたいする決定的な新しさがあります。  島村抱月が「欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に伝つた生命は、此の作に依て始めて我が創作界に対等の発現を得たといつてよい。十九世紀末式ヴェルトシュメルツの香ひも出てゐる。」と評したのも、この点をさしています。  日露戦争が同時代の文学に及ぼした影響は、日清戦争のそれが社会化であったに対して、一言で云えば個人化であったといってよいでしょう。  むろんこの戦争がもたらした社会的変動、戦勝の結果、我国の国際社会における地位の変化が国民に及ぼした心理的影響は深刻なもので、それが文学に現われる形も、複雑な多くの面を持っています。一方において日清戦争とは比較にならぬ大敵を向うにまわしたという意識から国内の緊張度も高かった反面『平民新聞』に集った社会主義者、内村鑑三のようなキリスト教伝道者の一部は反戦論を主張したという事実もあり、一般の思想界は戦時の国民的昂奮から離れた立場にあったといってよいでしょう。戦争中に「破戒」を書きつづけた藤村が、上京して「当時の著作者がいかに戦争のために困難したかを目撃した」といっているのも、彼等がこの昂奮に捲《ま》きこまれまいとしたからでしょう。  抱月も「此の政治史上の大変事に対する我が精神界、思想界の感覚は、むしろ遅鈍に過ぐるほどではなかつたか。精神界物質界の交渉の疎濶なること、我が現時の如きは蓋《けだ》し多く例のない所であらう。」と書いています。  戦争の勝利と、我国の国際上の地位の安定と向上とは、知識階級の間では、国家意識の稀薄化と、戦前からの「個人主義、本能主義」の俗化と普及を結果したので、さらに、維新以来の「文明開化」「富国強兵」の目的が一応達成されたとする支配層の慢心が、知識階級の社会との乖《かい》離《り》を一層決定的なものにしました。  文学者はこれまでより一段と熱心に、外国の文学に没頭するようになり、世界のもっとも新しい思潮のなかに生きることを希うようになりました。この観念的な世界主義は、社会生活における文学者の孤立と照応し、それに理論的な根拠をあたえるものでした。  抱月が「破戒」にヴェルトシュメルツの香いを感じたのも、こうした時代の風潮を語っていますが、「破戒」の新しさは、まだ新時代の小説の定型をかたちづくるところまで行かなかったので、それは翌年の夏花袋の発表した「蒲団」をまたねばなりませんでした。  藤村自身も、「破戒」のように想像力によって「事物を正しく」描きだそうという試みは、この一作だけで中絶してしまったので、以後は「春」(明治四十一年)で自分と透谷を中心にした青年の群像を描き、「家」で自分の家族の歴史を述べるという風に、「蒲団」による私小説の道を辿ります。むろん「破戒」で孤独な青年像をつくりだした藤村が、「春」では自己中心の青春群像を描き、「家」では、さらに世路の艱難を経た自己を中心に、我国の社会生活の単位である家を描く、という風に彼なりの論理を通してきたのは事実ですが、この作家として辿った当然の道に大きな屈曲が感じられるのも事実です。  しかしこの想像の抛棄と、告白と事実の再現による真実と誠実の保証の方向に藤村が進んだのは、「蒲団」の感化というより、「蒲団」が空前の反響をよびおこした当時の文学読者のあいだに醸されていた雰囲気と見た方が当っているかも知れません。  いずれにせよ、「破戒」は文学界の新機運の現われであっても、新しい時代の流れをつくりだす力は持たなかったので、藤村自身も「蒲団」の流れに棹さしたのです。  しかし、「家」は藤村の傑作であるだけでなく、我国の自然主義を代表する名作で、作者自身と思われる、小泉三吉の一家と、彼の姉の嫁ぎ先である橋本家の十余年の歴史を描いて、地方の旧家の没落するなかで、新しい家をつくろうと報いられぬ苦闘をつづける三吉の姿は、比類のない重みで読者に印象されます。  以後藤村は、大正時代に入ってから、姪と恋愛事件をおこし、「母になつた」彼女をおいてフランスにわたり、パリで第一次世界大戦の勃発にあい、帰国後、その恋愛を告白した「新生」(大正七、八年)を発表して、世間を驚かせました。  この小説が新聞に掲載されたとき、田山花袋は、藤村が自殺するのではないかと心配したそうです。告白の大胆さでは「蒲団」の作者をはるかに抜いたわけです。  その後子供たちの生長を扱った「嵐」(大正十五年)「分配」(昭和二年)を書きましたが最後の大作「夜明け前」を昭和十年に完成し、長篇「東方の門」を執筆中、昭和十八年に歿しました。最後の二作は私小説でなく、前者は明治維新後の木曽街道を背景に、作者の父の一生を描いたものであり、後者は岡倉天心を描こうとしたものと云われています。 第三節 田山花袋  藤村が「破戒」を発表した明治三十九年(一九〇六年)は、文学史的に興味深い年で、すでにふれた「破戒」「運命」などのほか、夏目漱石の「吾輩は猫である」、二葉亭四迷の「其面影」をはじめ小栗風葉の「青春」、小杉天外の「コブシ」など、数多くの後世の記憶に値する作品が発表されました。  これらの小説は、いずれもこれまでにない新しさを持つ作品として世に迎えられたので、その多彩な開花は、日露戦後の第一年が、我国の小説の種々の可能性を示した年であったことを語っています。  しかしこれらの作品のうちで、真に将来にたいして多産な影響を及ぼしたものはなにひとつなかったので、ここに示された可能性はいずれもたんなる可能性にとどまりました。「運命」や「其面影」の作者は間もなく世を去ったので問題外としても、天外、風葉は通俗作家になり、藤村、漱石など、一流の名声を持続した作家も、この年に書いた作品とは、まったく別の作風で延びて行きました。  このような変化の原因の幾分の一かはたしかに花袋の「蒲団」の出現にあるので、劃期的な影響を周囲に及ぼした点では、この小説は明治文学を通じて第一にあげるべきものです。  「蒲団」は花袋の作品のなかでもそれほど傑作といえないかも知れません。しかし文学史の上から見れば、花袋の存在は大部分「蒲団」に負うていると云ってよいので、この矛盾のなかに彼の存在の特質があります。  さきには「抒情詩」の詩人としての彼について述べましたが、このころの彼は、一方において硯友社に近づき、江見水蔭の主宰する『小桜縅』に数多くの習作を発表しました。独歩、藤村など新人との交遊も深まって行き、明治三十二年(一八九九年)には「ふる郷」を出版して認められ、「野の花」(明治三十四年刊)「重右衛門の最後」(三十五年刊)「女教師」(三十六年)などを着々と発表しました。  このなかで「重右衛門の最後」はツルゲエネフの「猟人日記」からヒントを得て、肉体的畸形からくる劣等感のため次第に罪悪を重ねる野人の一生を描いて、迫力ある筆致で世評を得ました。  しかしこのころの花袋の作品は、概してロマンチックな感傷をテーマにしたものが多く、硯友社の勢力がなお強くのこっていて、一方ではどぎつい題材の社会小説が行われた明治三十年代には、あまり評価されませんでした。  しかし彼は一方では、さかんに西洋の小説を読み、ことに当時としては新しかった仏独露や、北欧の文学に親しんで、変則ながら西欧文学思想の動向は敏感に把んでいました。  彼は親友であった独歩とちがって、キリスト教の感化をあまり受けず、人生における自己の使命に迷ったこともなく、初めから作家志望で、小説家として一家をなすことを一生の希いとしていました。こうした花袋の文学への、というより、作家という職業への執心は、彼の文学の性質を、ひいては「蒲団」の性格も規定しています。  したがって、彼における「自然」の観念は、透谷よりは勿論、独歩よりも浅く、藤村と同様に文学的であり、或意味では、もっと文学技巧的に把握されているといえます。  たとえば、「重右衛門」について、彼は次のように云っています。  「それは本当に我々がツルゲーネフの作品に見る露西亜の農夫そのまゝで、自然の力と自然の姿とをあの位明かに見たことは、僕の貧しい経験には殆ど絶無と言つて好い。」  この言葉は彼がこの特異な人物に興味を感じたのは、「自然の力」の象徴としてであり、彼をこういう観察に導いたのは、ツルゲエネフであることを、正直に語っています。  自然はこの場合たんに犯罪者の行為を理解するための反社会的な概念として使われているだけでなく、「日本にアントニイ、コルソフや、ニチルトッフ、ハーノブのやうな人間」を見出すために必要な文学的手段としての意味を持っています。  またこの小説よりややおくれて発表した評論「露骨なる描写」でも、花袋は「自然を自然のまゝに描く事」を「理想化則ち鍍《めつき》」の反対概念として考え、新しい文学の傾向を「何事も露骨でなければならん、何事も真相でなければならん、何事も自然でなければならん」というとき、「自然」を描写の対象というより、むしろ描写の方法として考えているようです。  おそらく花袋にとって自然とは、社会の虚偽につつまれた人間の本性といったようなものであったので、それを主体と客体に分割することは、無意味でした。「自然」は彼には描写の規範であるとともに、生活の倫理であったので、ともに文学のために社会に反抗する努力に必要な支えであったのです。  言葉をかえて云えば、「自然」は彼にとって文学技法上の革命であったゆえに、職業作家としての彼の存在を新たにする手掛りでした。  このような内面の論理が、「戦勝の影響で、すべて生々として活気を帯びてゐた」社会を背景に、藤村の「破戒」や独歩の「運命」などに一歩先んじられた焦燥に刺戟されて、「世間に対して戦ふと共に自己に対しても勇敢に戦はうと思つた。かくして置いたもの、壅《よう》蔽《へい》して置いたもの、それを打明けて自己の精神も破壊されるかと思はれるやうなもの、さういふものを開いて出して見ようと思つた」という気負った熱情に昇華し、そこに「蒲団」が生れました。この中篇に盛られた作者の意図はたしかに破天荒のものでした。  しかし大切なのは、この曽て誰も試みなかった孤独な企図が、どうして作者もまったく予期しなかった永続性のある反響を生み、我国の近代小説の性格を決定したかです。  告白という破天荒の試みという言葉はすぐにジャン・ジャック・ルソーを聯想させます。我国の自然主義文学はロマンチックな性格を持ち、外国文学ではロマン派の果した役割が、自然主義者によって成就されたことは、前にもふれましたが、ここにひとつの著るしい例証があります。  島村抱月は、今日普通に考えられているより、自然主義をずっとひろく解釈して、ルソー、ワーズワースを自然主義者に数えていますが、これは彼の個人的見解というより、その時代の思潮を代表したものでしょう。  彼に云わせると、自然主義はロマン主義文学のなかではひとつの要素であったのが、時代の進展とともに他の要素を排除して表面にでてきたことになります。これは自然主義がロマン主義のあとをうけて、これを修正したと見る現代の文学史の常識と、同じ事実を反対の面から云ったものと思われますが、こういう見方をすれば、ロマン派文学の特色である、告白あるいは作者の個性の直接の表出を、自然主義の概念のもとに包括するのが、非常に容易になります。  抱月の「文芸上の自然主義」が発表されたのは、「蒲団」より後ですが、彼等の思想は、表裏一体をなして同じ時代の気分を代表しています。  「自然主義論のなかへ、此の作が挿画として刷り込まれたやうな形である。」という抱月の「蒲団」を評した言葉はこれを傍証するものでしょう。  人々は文学にたんに図式的な人間描写にもとづく博い社会小説より、狭くとも個人の心理を深く抉《えぐ》った「真実」の表現をもとめていました。告白がこのためにもっとも有力な武器であるのは云うまでもありません。抱月が「今は懺悔の時代である」といい「虚偽を去り、粉飾を忘れて痛切に自家の現状を見よ、見て而して之れを真摯に告白せよ。」といっていますが、これはほとんど自然主義をロマンチスム化する提言です。  花袋はその線に沿って、藤村より一歩をすすめた企図を「蒲団」で実現したのです。「破戒」にあっても、告白が中心の思想をなしているのですが、ここでは主人公の行為として間接に扱われていた告白という行為が、「蒲団」では作者自身の行為として直接に読者に訴えます。  主人公が作者と同一人物だという、私小説の約束は、のちには小説の幅と立体感を損う結果になりますが、このときはひとつの斬新な創意であったので、作者はこれによってこの「芸術品らしくない」小説に、「已《や》みがたい人間野性の声」を、露骨に響かせることに成功したのです。  しかしこの成功によって定型を与えられた私小説は、作者の以後の作風を決定すると同時に自然主義の枠をこえて我国の近代小説の骨組をつくったといえます。  自然主義と同時代で、これに反対の立場をとった作家たち、鴎外、漱石、二葉亭、蘆花などが、それぞれに告白の思想の影響をうけた作品(鴎外の「ヰタ・セクスアリス」漱右の「道草」二葉亭の「平凡」蘆花の大正期の諸作など)を書いているだけでなく、自然主義のあとから、これに反旗をかかげる形で擡頭した新人たち、ことに白樺派の作家は私小説を中心として仕事をしています。これに対して耽美派と云われた、永井荷風、谷崎潤一郎などはむしろ私小説を否定する傾きが強かったのですが、それでも谷崎には私小説の作品があります。  私小説の中心をなす考えは、小説を人間にかんする真実の、できるだけ直接の表現にしようとすることで、そのためにはまず小説としての仮構をできるだけ斥け、作者の生活をありのままに描写し、少なくもそういう印象を読者にあたえるのに努力することが大切とされました。  むろん小説である以上は、事実の適当な整理と、それに伴う仮構なしに、どんな私小説も成立つわけがないのですが、そのような「嘘」の侵入を最小限にし、またできるだけ眼につかぬ形にとどめるのが、作家にとって本質的な技巧とされました。最近「蒲団」の内容が、事実とちがうという考証がなされていますが、「蒲団」も小説である以上、事実そのままでないのは当然のことであり、こういう考証がなされること自体が、「蒲団」の制作と鑑賞をめぐる雰囲気の特殊な性格を示しています。  私小説にあっては、作者と作中の主人公とが同一の人物だという了解が作者と読者のあいだにあり、それを前提としてすべての小説が鑑賞されますが、その結果、作中人物の行動にかんする批評がそのまま作者にたいする批評に通ずることになり、作品批評がいつも芸術批評より、倫理的批評の性格をおびることになります。  これは私小説の全盛期であった大正文壇の特色でもあるので、ここではふれませんが、小説にまず作者の「生き方」の報告書を見、それを俗物にたいするとまったく違った見地から、厳しく倫理的に批判するという文壇の気風は、自然主義によって土台をつくられました。国木田独歩が竜土会の席上で、或る人の「蒲団」評に答えて、「だツて、甘いたつて仕方がないさ。花袋君の恋はあゝいふ恋なんだから、兎に角甘くつても何でも、徹底だけはしてゐるさ」といったと、花袋自身が書いていますが、作中人物の行為がそのまま作者の責任になる点では、私小説批評の典型がすでにここにあるといえます。  「蒲団」によって定型をあたえられた自然主義小説は、以後藤村の「家」、鳴の「放浪」以下の五部作、秋声の「黴《かび》」などによって、私小説を中心として展開して行きますが、花袋自身も、「生」(明治四十一年)「妻」(四十二年)「縁」(四十三年)の三部作で、彼の身辺の家庭の表裏をはばからずに描いて、告白小説の幅をひろげ、自己の作風を確立しました。ことに「生」では彼の老母をあえて解剖台にのせる意気込みで筆をとったので、その苦しみを彼は「皮剥ぎの苦痛」という独特な言葉で説明しています。  この三部作は彼の代表作であるには違いなくとも、作者が彼の文学理論への義務感から筆をとっている傾きが強く、元来抒情的な花袋の資性が殺されています。  その点彼がこの三部作と同時に書きあげた「田舎教師」は、いわゆる調べた小説であるにもかかわらず、平凡な田舎で貧しく短い生涯を終った主人公の生活にたいする自然な同情が滲んでいて、「重右衛門の最後」につづく、名作になっています。  私小説は、その根底にある「自然」の概念を、作者の行動の原理としてとると同時に描写の原則ともするわけですが、この二つの面のどっちに重心をおくかによって、行動的な型と観賞的な型とが行われます。前者の典型は鳴で、藤村、秋声などがこれにつぎ、花袋は後者の典型といえます。彼の純客観的写実を主張する「平面描写」の理論も、そこから生れます。  これは一方において、彼が観察によって他人の生活に同化し、これを描く能力にめぐまれていたことを意味します。「一兵卒」「一兵卒の銃殺」「礼拝」「旅の者」など、彼の晩年の中篇短篇にはすぐれたものがあります。  彼の実生活を扱う場合にも、抱月が「醜なる心を描いて、醜なる事を描かなかつた」と云っているように、彼は行為者よりむしろ観察者の立場に立つことが多かったので、この両者を兼ねる場合にも、彼の重点は観察にありました。  これは一面において、彼の私小説を動きの乏しいものにしていますが、他面、彼が小説を書くために、生活を演技化しない潔癖を守り通した結果にもなります。  晩年の名作「百夜」(昭和二年)は、この特色がもっとも円熟した形で現われています。これは多年彼の恋愛の対象であった花柳界の一女性との交渉を、おそらくほとんどありのままに綴ったものですが、幾多の波瀾を越えて結ばれた男女の平凡な幸福が、ほとんど浄福となづけたいほど静かな絶対の境地として表現されていて、秋声の「縮図」と並んで、自然主義文学の到達点を示しています。  浄福というような言葉を使ったのは、晩年の花袋が宗教にかなり深い関心をよせていたからで、この女性との交渉から生ずる苦しみが、解《げ》脱《だつ》を求める動機になったようです。  「残雪」(大正六年)はこの間の消息を描いて、彼の宗教的傾向を示す代表作とされています。しかし彼が「自然主義」から逸脱したのは、彼の懐抱した「自然」の思想の即物性と作家としての実践倫理の性格からくる矛盾の当然の結果といえます。彼を導いた「自然」は、生涯の終りに近づくにつれて、独歩から透谷にもどって行ったとも見られます。  「時は過ぎ行く」(大正五年刊)「ある僧の奇蹟」(六年)「再び草の野に」(八年刊)のほか、彼の晩年の仕事としてはいまひとつ歴史小説「源義朝」(十三年)をあげるべきでしょう。彼がこの小説を書いたのは、裸でもとの家臣に殺された義朝の生涯に自己を感じたためと云われています。「人情に古今なし」と透谷が云いましたが、花袋の人間観も最後にはここに達しました。彼が歿したのは昭和五年(一九三〇年)、小説以外の作品では、「東京の三十年」「近代の小説」などが有名です。 第四節 岩野鳴  花袋の自然主義理論がその「平面描写論」が象徴するように、観察的であったにたいして、「一元描写論」をとなえて、行動的な自然主義論を唱えたのが、岩野鳴です。  鳴は、花袋、藤村と同様に、詩人から転身した自然主義作家でした。その詩人としての経歴も彼等と同じくらい古かったのです。彼は本名を美衛といい、明治六年(一八七三年)に淡路島で生れ、十五歳で大阪に移ってキリスト教の学校に入り、さらに東京の明治学院に転じ、一年で退学しましたが、このとき養われた伝道的熱情は、キリスト教をすてたのちも、ながく彼の性格の基盤になりました。  その後、仙台の東北学院に一時籍をおき、東京の専修学校を卒業し、詩を発表しはじめましたが、結婚して、滋賀県の中学の教師になり、最初の詩集「露じも」を明治三十四年に発表し、ふたたび東京にかえって、大倉商業学校の英語教師になり、三十六年に前田林外、相馬御風らと純文社をおこして雑誌『白百合』を刊行し、「明星派」とは別のロマン主義運動をおこしましたが、三十八年に詩集「悲恋悲歌」を発表するころには『白百合』を脱退して、「神秘的半獣主義」(三十九年)「新自然主義」(四十年)などの評論によって、独自の自然主義を主張するようになりました。「悲痛の哲理」(四十三年)は彼の芸術と人生の関係を論じた哲学でした。  鳴は、自然主義のなかでも、一種独特の風格を持つ作家で、彼の本領は芸術家というより、むしろ実行的な思想家であり、その生活と信念との一致、自己の個性と絶対者との合一を必要とする、あるいはそれを前提としなければ生きられない宗教的資性の持主であったと思われます。  彼の青年期がキリスト教の感化のうちに過されたのも、晩年に一種の神道思想を唱え、世評のいかがわしい行者にあえて近づこうとしたのも、この性格の現われです。  彼のキリスト教からの離脱がいつ行われたかは不明です。彼自身の言によると、十九歳のとき、東北学院に行ったころというのですが、その後讃美歌の翻訳などもしているので、キリスト教的な環境と絶縁したのはかなりあとのことでしょう。そしてこれが彼自身のいう「自然主義的自覚」と関連をもつことは明かです。他人の言葉で授けられた教えをはなれて、自分の足で人生を踏みしめ、生活の実感にうらづけられた倫理を求めようとする要求にもとづいていたことは、他の自然主義作家と同じであったでしょう。  しかし鳴の場合は、キリスト教からはなれるという行為は、キリスト教を非難するところまで行かねば完結しないものであり、無理想無解決でありのままの現実に堪えるという同時代文学の雰囲気に同調することは、彼にとって、このなまの現実の生命を、抽象概念のたすけをかりず、そのまま体系化して思想に昇華することなしには不可能でした。  鳴の理論はこの特異の気質が、以上のような要求に応えるために案出した、粗雑だが独創的な思想で、彼が雑学から得た雑多な概念が、勝手なやりかたで駆使されているために、論理としての説得力には乏しいのですが、彼の独自な行動を説明する要素としては重要なものです。  「僕の今の思想では、哲学、宗教、道徳、文芸が皆一体になつて居て、極端なる自我主義、刹那主義、霊肉合致主義である」と彼は云いますが、彼によれば、作家の生活と芸術、技巧と内容その他はみな同一であるべきであり、芸術家の努力はこれらの矛盾しがちな要素が合致するような境地に身をおくことでした。そしてこの境地が芸術家だけのものでなく、人間すべての目指さねばならぬ真の生の姿であるとしたところに、鳴の理論の、実践的倫理的性格があり、彼はこれを「日本の神道」の思想に結びつけています。「古事記などに顕はれて居る我国太古の人間は、やはり此霊肉合致知情意合体の心熱的生活を送つて居つたものと思ふ。」と彼は云います。  彼はこの主張にしたがって、ことさらに社会の常識を無視した生活を送ります。しかしこの「破壊的主観」の客観性を信ずる、「心熱的生活者」は一方において繊細な対人感覚を持つ無類に正直な性格であったので、自から「太古の人間」として生きた彼が当時の社会で演じた悲喜劇は、我国で他に例を見ぬドン・キホーテ的文学を生みだしています。  彼の詩から小説への転換を記念する作品は明治四十二年(一九〇九年)の二月に発表された「耽溺」です。自然主義作家としての出発は、花袋藤村にくらべればもとより、秋声よりもおくれていたので、この年には正宗白鳥、真山青果などの後進もすでに作家として名をなし、永井荷風の活動もはじまって、自然主義の機運は絶頂から衰退にむかいかけたときでした。  「耽溺」は一種の私小説で、田村義雄という彼の連作の主人公がはじめて登場します。田村は大体において作者その人です。この小説では田舎町に仕事に行った作家である義雄が、土地の芸者になじみ、彼女を東京につれてきて女優にすべく、種々苦労するという筋で、鳴の小説がすべてそうであるように、写実的な描写と、主人公の空想的な行動とが不思議な対比をなしています。  しかし病毒をもった芸者の、みにくさに充分気づきながら、世間的常識をはなれた好意を示す主人公の心の動きに、ともかく彼の信ずる理論に徹しようとする熱情がみられることは事実なので、その「心熱」が自然主義時代の読者によろこばれたのか、この小説は、彼に自然主義作家たる地位を確保しました。  しかし彼の代表作は、この年の四月から、これまでの生活とまったく別の新生活を送るべく、樺太にわたって蟹の罐詰をつくる事業をはじめ、それに失敗して北海道の友人の家に寄寓し、ながらく交渉の断絶した恋人と心中未遂までやり、ついに彼女とわかれて、その年の十一月に帰京するまでの経緯を描いた「発展」「毒薬を飲む女」「放浪」「断橋」「憑き物」の五部作です。  これは明治四十三年(一九一〇年)から、大正七年(一九一八年)まで、九年にわたって書きつづけられたもので、彼はまず、田村義雄が樺太で失敗して、北海道の友人に世話になっている時期を扱った「放浪」をかき、ついで、「断橋」で、その生活の続きを書き、次の「発展」で一転して、樺太に出発する以前の家庭の有様と、この時期の彼の「愛婦」清水お鳥との恋愛を描いています。「耽溺」を書いたころの作者の生活が、ここでうかがえます。  それからしばらくこの五部作の制作は中絶し、「毒薬を飲む女」は大正三年、最後の「憑き物」は大正七年という風に完成しています。内容から云うと「毒薬を飲む女」は「発展」についで、彼の樺太に発つまでのお鳥とのいきさつを扱ったもので、「憑き物」は最後に帰途でお鳥と別れる話です。  以上のように、彼はわずか半年あまりの経験を、十年ちかくかかって書いたわけで、この三十七歳の年が彼にとってどんな意味を持ったかは、これだけでも明かです。  自己の文学理論の徹底のため、文学を捨てていた当時の彼は、思想と実行、芸術と生活との一致の境涯にいると信じながら、実際には、彼の理論と現実との矛盾の極点を彷徨していたので、この彼が無意識のうちに堪えた矛盾が、彼に課した緊張の姿勢が、これらの自伝小説に独自の美をあたえています。  鳴は彼みずから認めていた通り、「一種の自讃者」であり、自己とその思想を非常に高く評価していました。しかし彼の思想は、独創的な性格はあっても、未熟で粗大な寄せあつめの観を免れず、とくに評論、あるいは、小説のなかで論文的な表現をとったところでは、まったく説得力をかいています。  しかし、彼自身がこの思想によって行動する姿には、——それをかなり正確に再現した彼の小説には——不思議に人をひきつける力があります。それは彼の自信に現われた性格の素朴さからくるのか、彼の対人関係において、意識的に保とうとした正直からくるのか、あるいは鋭敏率直な感性にめぐまれた彼が、皮膚に感じざるを得ない人々の軽蔑嘲笑を、その理論への信仰で堪えて行く一種の殉教者的風格からくるのかわかりませんが、ともかく彼の小説が他の自然主義作家にない、思想と現実との葛藤の諸相を描き得ていることはたしかです。彼はその思想によって現実を征服すべく行為したのかも知れませんが、実際にその作品に描きだされたのは、彼の思想が生活の現実によって翻弄される姿であったとも云えます。「自然」という思想のなかには、その秩序のなかにおさまり得ぬ、人間の思惟(おそらくそこに人工の原型があります)を否定する要素が含まれて居り、鳴にはそれが人間の原始本能肯定の形ではっきりでています。彼の小説が一種の理想小説でありながら、いつも現実の荒々しい形を描き得ているのはこのためです。この矛盾する性格のため、彼の小説——ことに長篇——は決して大衆化することはないと同時に長い生命を保証されています。  五部作制作中も、鳴はこれに専念していたわけでなく、大正二、三年には、シモンズの「表象派の文学運動」を翻訳したり、短篇集、「ぼんち」を刊行したりするほか、最初の妻幸とまったく離別して、第二の結婚をするなど、実生活の上にも波瀾を重ね、大正四年には日本主義の主張を明かにして、「古神道大義」を発表し、第二の妻と別居して第三の妻と同棲するなど世の物議を醸《かも》しました。  その後雑誌『新日本主義』を発刊し、「一元描写」を主張した論文をいくどか発表し、その理論によって、五部作に改訂を加えたり、「征服被征服」(大正八年)「おせい」(九年)「実子の放逐」(同年)など創作活動もますますさかんに行いましたが、大正九年四月当時流行したスペイン風(流感の一種)におかされて死去しました。享年四十八歳で、自然主義の作家のうち、もっとも短命でした。 第五節 徳田秋声  鳴と反対に、自然主義の作家のうち、後輩の正宗白鳥をのぞけば、もっとも長寿を保ったのは、徳田秋声です。秋声は鏡花と同郷の金沢の出身であり、鳴と同様、花袋藤村よりややおくれて、自然主義作家としてみとめられましたが、その性格、経歴は鏡花とも鳴とも完全な対比をなしています。  明治四年(一八七一年)の生れで、鏡花より二歳の兄である彼が、紅葉の門に入ったのは日清戦争ごろであり、鏡花より数年おくれていました。処女作「藪《やぶ》柑《こう》子《じ》」(明治二十九年)は部落出身の医師父娘を扱った題材のため、観念小説流行の当時の文壇の空気に合致して、かなり好評でしたが、その後「雲のゆくへ」(三十三年)「少華族」(三十八年)などの新聞小説を発表して、鏡花、風葉、春葉などとともに紅葉門下の四天王と云われるようになってからも、同僚たちの華々しい才にいつも押されがちの、地味な存在でした。  風葉などが鋭敏に反応を示した明治三十年代後半の新文学の傾向にたいしても、秋声はむしろ無関心であったので、彼はみずからみとめている通り、人の先立ちになって、新しい道を進むより、人々のあとから、のこのこついて行くという性質であったようです。独歩が彼の資性の命ずるままに振舞って、なかば無意識に自然主義の先駆者となったように、秋声も彼の天性にしたがって成熟して行くうちに、自然主義という大きな文壇の機運に際会したので、硯友社から自然主義への推移は、彼にとっては転身ではなく、むしろ自己の発見、または確認といった方が適切でした。  明治四十一年八月に発表された「出産」、九月刊行の「秋声集」に収められた「犠牲」「二老婆」などですでにこの新しい自己確認は、はっきりでていますが、それを強く一般に印象づけたのは、同年の十月から十一月にかけて『国民新聞』に連載された「新世帯」でした。この小説を彼に依頼したのが高浜虚子であるのも、秋声が自然主義の作家のうち、もっとも写生に長じた作家であることと無関係でなかったと思われます。  この小説は、東京の場末に小さな酒屋をだした男が少し愚図で善良な細君をもらって落付くまでの経過を作意を加えずに描いたもので、小市民の生態を飾り気なく表現する秋声文学の一面をはっきり示しているとともに、いわゆる客観描写を旨とした当時の小説のなかでは、もっとも無駄なく整った佳作で、硯友社で十年間きたえた小説つくりの修練は、他の詩人出の作家の及びがたいものを彼にあたえています。  おそらく秋声には、こういう平凡な男女の生きる姿をそのままに描きだすことは、読者の興味をひくような人物をつくりだしたり、筋を工夫するよりずっと楽なことだったので、こういう天性をのばすことが新文学の理想にかなうことを悟ってから、彼の才能は激しい勢で成長して行きました。  翌明治四十二年の新年号の雑誌に、被は八篇の小説をかいたそうですが、やがて「足迹」(四十三年)「黴」(四十四年)の二つの決定的な作品を発表します。  この二つの小説は奇妙な連作をなしていて、その後の秋声の作品の二つの大きな系列のそれぞれに原形をなしています。  「足迹」はお庄という少女がさまざまな境遇の変化と不幸な結婚を経て、女としての自覚と生活力を把んで行く過程を描いたもので、写生的な客観小説という点では「新世帯」の系統にぞくしますが、前作ほど整然とした構成はなく、秋声の小説の特色である、日常生活そのもののような退屈なまとまりのなさと、その代償として読者にあたえられる作中人物の生きる現物にじかにふれるような感覚とは、ここにはっきりでています。  不幸な境遇のなかで、あるいは強気に、ときには投げやりに、生きぬいて行く女性は、秋声の生涯くりかえして描いた題材ですが、お庄はそのもっとも早い現われです。彼女のモデルは秋声が明治三十六年に結婚した浜子であったと思われます。  「黴」は秋声が彼女と結婚したいきさつを描いたもので、題材から云うと、「足迹」の続篇になりますが、小説としての体裁はまるで違って、作者自身を笹村という名で主人公にした私小説です。  秋声が私小説の大作を書いたのは、これが始めてですが、彼がここでも人のあとから着手した私小説は、自然主義小説の典型といってよいできばえを示しています。秋声は生れながらの自然派とよばれたことがありますが、その面目は「黴」にもっともよく現われています。  ここに描かれた主人公笹村の生活は、ちょうど尾崎紅葉の歿するころの秋声のそれにあたり、一種の芸術的な行詰りの時期にあたると思われますが、彼がそれを打開するために払った努力はほとんど描かれず、主人公は生活にたいする希望や意志を一切失った男として描きだされています。彼がお銀と関係し、妊娠の結果として結婚するまでの過程にも、情熱やロマンチックな情緒は一切描かれず、不決断な主人公が、成行に制せられて、ひとりの女性と結ばれる経過として表現されているだけです。  これを秋声の生活のそのままの描写と見るのはむろんあたりませんが、ここに時代の人間のひとつの理想像が描かれているのは事実です。生活に拠どころになる信念を何ひとつ持ち得ぬことが作家にとって誠実な「懺悔」のあかしとされた時代に、それによって生活の意思を喪失した笹村が、もっとも徹底した典型であることは明かです。花袋や藤村の描いた私小説の主人公は、何かを信じ、何かを期待していますが、「黴」の主人公は、信条や希望を一切抱かず、ただ素手で荒涼たる生に堪えています。これは、作者が文学に携りながら、文学をもある一面では信じていなかったことを意味します。  このことが、自然主義文学の否定的性格とおのずから合致したところに、彼の文飾を脱した不思議な散文が生れたとすると、彼を生れながらの自然主義者と呼ぶのは、案外深い意味を持っています。  散文の特質が文章を読者に感じさせず、ただちに対象にふれ、そのなかに這入って行く感じを読む者に与えることとしたら、秋声の文章はたくまずして散文の極致に達していると云えます。秋声の文学を高く買う作家たちのあいだで、小説の理想として「散文精神」が説かれたのは偶然でありません。  しかしこの無技巧の技巧といわれた精緻な散文が表現する内容が必ずしも文学臭を脱したものでなく、反対に秋声の感受性の動きは、ほとんど常住座臥、作家としての職業意識にうらづけられていることに、外見はほとんど無私に見える彼の小説の「私」性があります。  彼の作品は、題材の上から私小説とそうでないものにわかれ、前者の系列には「徽」を始めとして、「犠牲者」「感傷的の事」など彼の家庭生活、感情生活におこった事件を描いたものが多く、「籠の小鳥」「不安のなかに」「蒼白い月」「花が咲く」「風呂桶」「挿話」「折鞄」などで、読者は秋声の生活を大体辿ることができます。  この最後の短篇に描かれた妻の死が転機になり、秋声に新しい恋愛事件がおこり、それが、「元の枝へ」「暑さに喘《あえ》ぐ」「子を取りに」「逃げた小鳥」などの短篇を書かせ、彼を世の批判の中心におきました。  これらの作品の出来栄えは、のちの「仮装人物」を生む素材というほかにありませんが、やがて昭和八年(一九三三年)に「町の踊り場」「死に親しむ」を発表してから、晩年の円熟期に入りました。この二つの短篇はいずれも私小説で、老文学者の心境を描いて、日常生活のなかに蔽いを取った人生の姿を示しています。「仮装人物」は、この厳しい人生の相のなかで、道化役を演ずる自分を意識して描いたものと云えます。  このような私小説の系列に対立する客観小説は、「足迹」についで書かれた「爛《ただれ》」、多くの批評家によって秋声の代表作とみなされている「あらくれ」をまずあげるべきです。両者とも庶民の女性の生きる姿を描いたものですが、「爛」の主人公お増は情痴の世界に生きているのに対して、「あらくれ」のお島は旺盛な生活力で環境の圧迫をはね返して行く姿が、職業の面などからも描かれていて、読者に特異な感銘をあたえます。  その他「奔流」のような長篇でも、「或売笑婦の話」でも秋声は特殊な環境のなかで、生きるためにあがいている女性を冷い同情で描くことに長じています。  しかしそのほかの短篇にも、とくに晩年にはすぐれた作品が多く、なかでも「勲章」は「新世帯」の作者の数十年の修練を得た円熟を示すものです。  秋声の最後の傑作は、戦争のために中絶した「縮図」で、この小説はなかば作者の分身と思われる均平という主人公と芸者の置屋をしている女主人公の銀子の同棲生活を中心として、均平の二人の子を間にはさみ、彼等の過去にさかのぼって、その心の歴史を描きだしているので、銀子の半生の経歴を述べる途中で終っていますが、ちょうど「足迹」と「黴」を一丸にしたような読後感をあたえ、均平と銀子の生活、と彼等の心の起伏、ふたりの過去と現在が、平板でない均質な光に照らされたような不思議な効果をあたえる筆致は、作者が晩年の人間観で、ほとんど宗教的な深味に達したことを示しています。「縮図」が一部の作家や批評家によって、自然主義小説の最高傑作であるだけでなく、我国の近代小説の最高峰とされるのはこのためです。  このような説の当否はともかく、秋声が文学的出発の最初から一流の名声を得た晩年まで、どこか片隅の作家たる風格を持ちつづけ、自己を堅持して流行を追わず、しかもそのことによって萎縮せず、最後まで一徹な芸術的良心と旺盛な制作力を両立させ、そのことによって、他の同僚作家の及ばなかった人生の深味を見、日本の社会のありのままの姿を描きだして、独自の境地に達したことには、何人も脱帽すべきでしょう。  我国の自然主義が独歩に始って秋声に終るとしたら、この二人の性格と作風の対比は、数十年の歳月と、ある流派の擡頭、円熟、衰頽の過程を象徴します。  独歩にあってはあらゆるものが可能性であり、それ以外のものはないと云えるに反して、秋声の文学には、他のあらゆるものがあっても、文学にたいしても、人生にたいしても新しい可能性を夢見させる力は欠けています。 第六節 夏目漱石  自然主義の時代に、これと並行して批判的な立場を保ちながら、重要な仕事をした作家に、夏目漱石がいます。  彼は本名金之助、慶応三年(一八六七年)に江戸で生れたので、同時代の自然主義作家よりやや年長でした。英文学を専攻して明治二十六年(一八九三年)に帝大を卒業し、学友であった正岡子規の感化で俳句に親しむかたわら、英語の教師として松山、熊本などに赴任し、明治三十三年に英国に留学して、ロンドンに二年余滞在し、三十六年の初めに帰国して、一高の教授になり、東大の講師をかねましたが、日露戦争中から戦後にかけて「吾輩は猫である」「倫《ロン》敦《ドン》塔《とう》」「幻影の盾」「薤《かい》露《ろ》行《こう》」(以上三十八年)「坊つちやん」「草枕」「二百十日」(以上三十九年)など、多彩な名作をつづけざまに発表して、世の注目をあつめ、明治四十年にはすべての教職を辞して、小説に専念し、朝日新聞の社員になって、以後作品はすべて同紙に発表することにし、かたわら、同紙の文芸欄も主宰して、後進の養成につとめました。  「虞美人草」(四十年)「坑夫」「三四郎」(四十一年)「それから」(四十二年)「門」(四十三年)「彼岸過迄」(四十五年)「行人」(大正元、二年)「こゝろ」(三年)「道草」(四年)「明暗」(五年)というように、ほとんど毎年力作を発表し、死にいたるまで作家としての登り坂を歩み通しました。  その作風には、短い年月のわりにかなりはっきりした変遷が見られます。最初はまだ教師の余技として筆をとっていた時代、次は朝日の社員になって、職業作家として出発してから、明治四十三年秋に持病の胃潰瘍で重態に陥るころまで、それ以後死にいたるまでという風に三期にわけて考えるのが便宜です。  第一期は、明治三十八年から「坊つちやん」「草枕」あたりまでで、苦しい生活のなかから、内的必然に促されて筆をとり始め、自己の可能性を摸索していた時代で、一面においては遊び半分の呑気さが、さまざまな試みを許しています。四十歳前後で筆をとりはじめた漱石には、未熟な試作と見るべきものはほとんどなく、「吾輩は猫である」を始め、「倫敦塔」その他の小品もはじめから芸術的な完成をもって現われています。  当時の漱石が示した才能の可能性は、驚くほど豊《ほう》饒《じよう》で、「吾輩は猫である」に示された諷刺と滑稽、「坊つちやん」に現われた通俗の大衆性、「倫敦塔」その他におけるロマンチックな幻想、「野分」にもっとも明瞭に見られる社会の不正への憤りなど、彼がのちに職業作家になってからは延ばし得なかった面であり、それらは充分に発展させられなくとも、後の小説に部分的な要素として生かされています。  第二期は職業作家としての技術確立の時期といえます。その第一作である「虞美人草」で、彼はいわば「草枕」の小説化を試みて成功したので、おそらく彼は自分のもっている才能のなかで一番間違いなく、知的大衆の読者にうったえるものは、衒学趣味と美文であることを知っていて、それに頼ったのです。  「虞美人草」と「三四郎」のあいだに著るしい変化が見られるのは、作者が豊饒すぎる才能の濫費に飽いたためであり、また「蒲団」の出現によって、新時代の好尚のおもむく先がはっきりしたことが聡明な作者に影響をあたえたためと思われます。「三四郎」の文体は「虞美人草」にくらべれば、思い切って平明であり、題材も作者の身辺から比較的素直にとられています。それだけでなく、三四郎は作者がその後「明暗」まで発展させた、彼の血肉をわかたれた主人公の原型であり、この意味で第二の処女作といってよいものです。  彼は職業作家になったために、一面では多くのものを捨てました。美文もユーモアも、社会正義の要望も、ロマンチックな想像の飛躍も、「三四郎」以後の小説から姿を消したので、作者は自分の影が濃くさした環境に、自分の血をわけた主人公をおき、彼の生きかたをあくまで智的な理詰めの態度で追求します。しかし彼がこういう風に自己を限定したのは、小説を書く必要上よりも、むしろ彼の内生活における興味のおき場から来ているので、自分はすべての問題を心理に還元して眺める、と彼自身云っています。  したがって、彼の作品に登場する知識階級は、みな生活の内的基準を求めて得られない人々で、彼等が人生の種々の局面で出会う問題を扱う作者の筆は、おのずから同時代の社会の性格、当時の日本文明の批評に及んでいます。  そのテーマがもっともはっきりでているのが「それから」であり、主人公の代助は、日本対西洋の関係が駄目である以上、そこに何も希望がみとめられない以上、自分のなすべきことは何ひとつないと云いきります。  漱石の小説の主人公は、多くは遊民の生活を送っていますが、彼等は何もしないことで同時代の社会と、人々の生きかたを批判していると云えます。  しかし明治四十三年(一九一〇年)秋の大患以来、彼の関心の対象はさらに心理に集中され、「行人」「こゝろ」「明暗」の三作では、人間の「我」の意識が、必然に陥らざるを得ぬ孤独を分析して、伺時代の誠実に生きようとする人間がその理知と良心をいかなる重荷と感ずるかを示しました。彼の最後に理想とした境地は「則天去私」でしたが、同時に彼は人間にとって私をはなれることのむずかしさ、時代の動きがそれを増大させる方向にはたらいていることなども、充分洞察していました。  小説のほかに漱石の作品として重要なのは評論です。青年期の「英国詩人の天地山川に対する観念」は、英国のロマン派詩人を対象として、彼等の「自然主義」を研究したもので、或る意味では抱月等の思想に先駆すると云えますが、とくに注意すべきは、「現代日本の開化」「私の個人主義」など晩年の講演筆記で、そこには、小説ではよくつかめない、彼の半生の思想史や、同時代の日本文明にたいする批評がはっきり述べられて、現代人の生き方についても、示《し》唆《さ》するところが多いと思われます。  その他「文学論」と「文学評論」の二著は、小説家を生むために犠牲にされた学者漱石の面目を語っています。  漱石は半生を教師として過しただけでなく、その職を辞したあとでも、青年たちを愛して、彼等を身近におくことを喜びました。「三四郎」以後の小説では、彼等をモデルとすることもしばしばありました。  そのなかには熊本以来の弟子である寺田寅彦のような理学者もいましたが、大部分は文学哲学専攻の青年たちで、阿部次郎、安倍能成、野上豊一郎、森田草平、鈴木三重吉などが居り、和辻哲郎、岩波茂雄、芥川龍之介、久米正雄なども出入しました。  彼等を全部漱石の弟子と呼ぶのは妥当でないかも知れませんが、人間的形成期に彼の影響を直接うけた人々がこれだけいるのは、我国の作家のなかでは、他に類のないことです。  このように直接彼に接した人々だけでなく、漱石は当時の白樺派の作家たちからも敬愛され、朝日の学芸欄などを通じて、彼等の進出をたすけました。  漱石の文学の背景となり、ある意味ではその源流の役を果したのは、正岡子規の「ホトトギス」の運動があります。子規の仕事は俳句の領域でも、短歌の領域でも、それぞれ劃期的な意味を持つものですが、それが同時代の小説にはっきりした影響を及ぼしたのはこのころです。  写生文は子規の提唱で、彼自身と虚子がもっとも熱心に試みたもので、子規が俳句の上で唱えた写生の態度を、散文にも応用できるとしたところから発しています。彼等の試作が最初に発表されたのは、明治三十一二年ころですが、これも結局文章の類型を破る運動であり、個性的な体験の表現を重んじる点は、自然主義の主張におのずから合致するところがありました。対象をじかに読者に感じさせることを希うところから、必然に文飾を嫌い、文章を文章として感じさせない散文を理想とすることは、口語化の方向を必然にとりました。洋画の手法を意識的にとり入れようとしたことも、ヨーロッパのリアリズム発展の歴史とおのずから軌を一にしています。  つまり写生文の主張は、自然主義と同じ時代精神がややちがった形で現われたものと云えます。それが実を結んだ時期もほぼ同じ日露戦争後ですが、こういう場合によく見られるように、写生文の主張者と自然主義作家のあいだには、かなり激しい対立が見られました。自然派が切羽つまった生活態度をよしとすると、写生文脈は「余裕」や「低徊趣味」を主張し、告白や主観的描写を斥け、表現の対象とのあいだにいつも或る距離をおき、客観性とユーモアを尊ぶという風で、自然派からは遊びの多い、真剣味を欠いた態度とされました。しかしその差異は彼等が互に考えていたほど大きなものでなく、相互に影響しあい、浸透しあって同時代の小説を形造って行きました。  片岡良一氏は、徳田秋声の作家的形成に写生文の影響があると見ていますが、その反知性的な感覚への絶対の依拠には、たしかに虚子らの唱えた「写生」の精神に通うものがあります。  漱石の「吾輩は猫である」は写生文から発展した小説ですが、彼が小説家として成功し、文壇に地歩を占めたことは、彼の俳句仲間に小説執筆の刺戟と便宜をあたえ、殊に写生文では一日の長を自任した虚子は、「風流懺法」「斑鳩《いかるが》物語」「大内旅宿」等の短篇、「俳諧師」「続俳諧師」「柿二つ」などの自伝的長篇によって、一時まったく俳句をはなれ、小説家として立つ勢を見せました。  一方子規の門下でも、歌人であった長塚節、伊藤左千夫などは、同じく写生を主としながらも、俳諧的要素を持たず、その点では自然派に近い独自な散文による小説を書き、節の「土」(明治四十三年)は漱石の推《すい》輓《ばん》によって『朝日新聞』に連載されましたが、作者の郷里茨城の農村の自然を背景として、貧農の悲惨な生活を冷徹に描きだした長篇であり、たんに自然主義時代の名作であるだけでなく、農民文学の先駆であり、最大の傑作とされています。  伊藤左千夫の「野菊の墓」は、明治三十九年(一九〇六年)の作であるだけにややロマンチックな風趣をおび、作者の郷里である千葉県の田舎を舞台として少年の恋と感傷を描いていますが、詩と写実とがそれなりに合致した境地を築きあげて、写生文小説の一傑作とされています。  写生文と自然主義の相互影響の場で育ち、両派の主張を一身に体現しようとして苦しんだ作家に鈴木三重吉がいます。彼は東京帝大に在学中、『ホトトギス』に「千鳥」(明治三十九年)を発表して、彼が門下生であった漱石に逆に影響をあたえるほどの才華を示し、ついで同誌に「山彦」(四十年)を発表し、在学中短篇集「千代紙」(四十年四月)を籾山書店から刊行しました。  作家として出発した当初の彼は、写生文の持つ、余裕と趣味性を極度におしすすめて、追憶と憧憬の世界に遊ぶことを得意としました。「千鳥」が「草枕」に影響をあたえたというのも、この特異な資性によります。しかしやがて自然主義の影響をうけ、ことに森田草平の「煤煙」から大きな刺戟をうけ、自己のロマンチックな作風を脱皮しようとして、作者の生活の告白と見られる「小鳥の巣」(四十三年)を書き、「民子」(四十四年)等で、日常生活の些事を扱いましたが、当然この転換は表面の取材にとどまり、主観的、感覚的、情緒的な本性はかわりませんでした。  その結果、彼は自己の小説制作の理念と、資性とのあいだの矛盾に苦しむようになり、「桑の実」(大正二年)のように平凡な女性の生活を描いて独自な境地に達した長篇を書きながら、大正五年に、童話の世界に転身してしまいました。童話作家としての彼がすぐれた仕事をのこしたのはよく知られていますが、漱石の古い門下生のなかではもっとも才能にめぐまれていた彼も、小説家としては途中で自分を抛ってしまっています。 第七節 森鴎外  漱石と同じように、自然主義の時代に、これとはなれた立場でさかんに制作し、巨大な存在と仰がれた作家に森鴎外がいます。  鴎外についてはすでにいくどかふれましたが、明治二十年代に華々しい活動をしたのち、三十年代はいずれかというと文学的には雌伏の時期で、ことに三十二年に軍医監として小倉に赴任してから、翻訳「即興詩人」を完成したほか、目ぼしい仕事をせず、彼自身も、「鴎外漁史とは誰ぞ」(明治三十三年)という文章で、「鴎外は死んだ」とくりかえして述べています。三十年代の文壇は、当時の彼の眼には「末流文壇」としか映らなかったのですが、四十年代の自然主義は、これとは別の刺戟を与えずにおきませんでした。  彼は自然主義の作家を尊敬したわけでなく、その主張に全部同感したわけでもないのですが、彼等の主張し、実行しているところは、少くも鴎外自身がかつて我国の土壌に育てることに努めた近代思想の芽が、不充分ながらともかく花をつけたものと映りました。  「田山花袋君が蒲団を書いた。けしからん。永井荷風君が祝盃を書いた。けしからん。日本には文芸の批評にも義憤が沢山ある。只絵画彫刻の裸体に対する義憤だけが、咋今やつと無くなつたやうである。」と彼は嘲笑しています。花袋らの作品が、多く価値することができないにしろ、これを批難する周囲の社会より、彼の同感を誘うに足るもので、これがやがて制作への刺戟になったのは自然な道筋でした。  「一体、感じた事の書けるやうになるのは気運だ。時勢だ。……新しい自然主義だとか何とか云つて、大分騒がしいが、あれも文学のエロチックの方面に、これまで正直に書けなかつた処があつたのだが、いつか少し書けるやうになつたのだ。それに、これまで一定の意義のあるナチュラリズムにまぎらはしい自然主義といふ名を附けるのが、気まぐれなのだ、強ひて名が附けたけりあ、無遠慮主義とでも云ふが好からう」(「夜なかに思つた事」)と彼は明治四十一年(一九〇八年)の終りに書きますが、翌四十二年には『スバル』を創刊して、堰《せき》を切ったように新しい作風の長短篇を書きつづけます。「半日」「金貨」など、彼の身辺に取材した短篇もそうですが、ことに「ヰタ・セクスアリス」は作者自身が冒頭でみとめているように、自然主義にならって、その「無遠慮主義」を彼自身の半生の「エロチックな方面」に実行してみせたものです。  このほか彼は「プルムウラ」「仮面」等の戯曲を書き、イプセンの「ボルクマン」を翻訳して自由劇場で上演したりしています。  こうした華々しい活動は、彼が軍医総監に任ぜられ、陸軍における地位が安定したこと、また夏目漱石の華々しい活動を目前に見たことなどと無関係でないとされていますが、やはり一番の原因は、時代の新しい機運が彼に与えた刺戟であったと思われます。  ついで翌四十三年も「青年」を『スバル』に連載したのをはじめ、「普《ふ》請《しん》中《ちゆう》」「花子」「あそび」「沈黙の塔」「食堂」などを『三田文学』に発表しました。これはこの年の慶応義塾文学科の顧問に任ぜられた縁故からですが、これらの短篇のなかで、「あそび」は彼の生きる態度を、その日常生活の描写のなかで描いたもので、彼の作品を「遊びの文芸」などと云った当時の文学界にたいする一種の抗議あるいは弁明の意図をもっています。  「沈黙の塔」は文学書の発禁がさかんに行われ、世の物議を呼んでいた時代に、これを諷刺したので、当局の頑迷と愚劣にたいする彼の憤怒がよくうかがえます。  「食堂」はやはり彼の官吏生活の一スケッチですが、無政府主義のことが話題になっているのは、幸徳事件の影響で、この短篇全体が、事件の刺戟で書かれたものと見ていいでしょう。幸徳事件の影響は、鴎外にあっては、複雑に屈折しているので、翌四十四年の小説「カズイスチカ」「妄想」「蛇」「百物語」等にはほとんどその痕跡はなく、四十五年の「かのやうに」「吃逆」「藤棚」など五条秀麿を主人公とした連作にそれがあらわれています。これは秀麿という洋行帰りの青年学徒の眼を通じて我国の文明を批評した小説で、秀麿の思想は大体鴎外のそれと思われます。  秀麿は、ベルリンで歴史を研究してきて、当時の我国で公定されていた国史が歴史でなく、神話にすぎないことを科学的な真理として認めるとともに、それを公然と主張することが、父親をはじめ周囲と不愉快な摩擦をひきおこすことを知って、無為を強いられています。彼はこの矛盾を解決するために、「かのやうに」の哲学に共鳴したりしますが、同時に、この神話を支えとしなくてはならぬ天皇制の秩序の内面的脆《ぜい》弱《じやく》性《せい》を感じずにいられないし、またその秩序のなかに疑問なく生活し、その代弁者を自任する人々の、内生活の空虚、道徳的劣弱性も、彼を焦立たせます。  やはり秀麿もののひとつである「鎚《つち》一《いつ》下《か》」(大正二年)、おそらく作者の実見をそのまま綴った「天寵」(四年)などには当時の日本でわずかに見出すことのできた肯定的な人間の型が描かれていますが、これらの例外はもとより彼を満足させるものではありませんでした。  こういう気持でいたとき、乃木大将の殉死が機縁となって、歴史小説と史伝のなかに、晩年の真の活動舞台を得て、日本人の美しさを、彼なりに心ゆくまで描くにいたるのですが、これは大正時代にぞくします。  『スバル』時代は、鴎外にとっては、晩年の文学的復活の初期にあたり、一種の筆ならしの時代とも見られ、思想的には過渡期の観を呈していますが、それだけに彼の生活に直接ふれた興味ある作品が多いので、「澀江抽斎」以後の円熟に達するための、第二の青春の時代といえます。  『スバル』はたんに彼の青春の復活であったばかりでなく、元来が『明星』にあつまった青年詩人たちの機関誌で、ある意味で『明星」の後身であったので、その新ロマンチスムは、自然主義からの脱出口として、多くの新時代の青年をひきつけました。この雑誌に集った人々には、石川木、吉井勇、木下杢太郎、北原白秋、高村光太郎、などの青年詩人のほか、上田敏、蒲原有明、永井荷風、小山内薫、与謝野夫妻などがいて、いわゆる耽美派の拠点として世の注目をひきました。谷崎潤一郎、佐藤春夫なども、ここに寄稿しています。  『スバル』と並んで鴎外がさかんに寄稿した『三田文学』も、これとほぼ同じ傾向の雑誌です。  慶応義塾の文学部を改革する企ては、森鴎外、上田敏などを顧問にして行われ、永井荷風が彼等の推薦によって、教授として迎えられ、荷風を主宰者のひとりとして機関誌『三田文学』が発刊されました。鴎外は敏とともに雑誌にたいしても顧問であり、活溌に寄稿しましたが、ほかの執筆者も大体『スバル』と同じでした。ここから久保田万太郎、水上瀧太郎、佐藤春夫等が出ましたが、鴎外がここに盛に書いたのは、『スバル』が刊行されていた時期とほぼ同じで、大正二年まででした。  『三田文学』が創刊された明治四十三年の春には、『白樺』『芸文』なども創刊され、谷崎潤一郎、木村荘太、和辻哲郎などの第二次『新思潮』もこの年の秋から刊行され、文学界には、ようやく新しい機運がみなぎってきました。自然主義の文壇的な全盛期は終って、白樺派、耽美派などを、まず中心として展開する大正期が始ります。  しかし一方から云えば、自然主義を唱えた作家たちが、その主張に即して、真に円熟した作品を発表したのも大正期であり、明治四十年代は、新しい文学思潮——というよりもっとひろく、新しい時代の生活感情——が形成され、自覚され、過去と訣《けつ》別《べつ》して、自分の道を歩み始めた出発点であり、それゆえに過渡期の様相を濃く持っていたと云えます。  この時期の著るしい特色は、文学者の頭のなかに同時代の「世界」というはっきりした観念ができあがったことで、彼等はヨーロッパ文学と同じ思想を呼吸し、同じ地盤の上に作品を生むことに努め、その結果自己の作品をヨーロッパ思想の正当な嫡子と自信します。  それによって、彼等は維新当時の開国政治家や啓蒙思想家たちが、我国の伝統的事物にたいしたと同じ断絶の意識を、前代の文学にたいして持ったので、白樺派も耽美派も、自然派からこの態度をうけついだことでは同じであり、自然主義作家の成就した革命は、その根本の性格においては何の訂正もうけませんでした。  鴎外と漱石は、離れた場所から彼等について行き、結局彼等のひいた線の上を歩きながら、より大きな文明の性格に着眼して、そこに自己の疑惑を表明しました。  次の二つの言葉は彼等が過去をどう考えたかを端的に示します。  「過去の生活は食つてしまつた飯のやうなものである。飯が消化せられて生きた汁になつてそれから先の生活の土台になるとほりに、過去の生活は現在の生活の本になつてゐる。……併し生活してゐるものは、殊に体が丈夫で生活してゐるものは、誰も食つてしまつた飯の事を考へてゐる余裕はない。」(鴎外「私が十四五歳の時」)  「歴史は過去を振返つた時始めて生れるものである。悲しいかな今の吾等は刻々に押し流されて、瞬時も……吾等が歩んで来た道を願みる暇を有たない。吾等は歴史を有せざる成り上りものの如くに、ただ前へ前へと押されて行く、財力、胆力、体力、道徳力、の非常に懸け隔たつた国民が、鼻と鼻とを突き合せた時、低い方は急に自己の過去を失つてしまふ、過去などはどうでもいい。只此高いものと同程度にならなければ、わが現在の存在を失ふに至るべしとの恐ろしさが彼等を真向に圧迫するからである」(漱石「マードック先生と日本歴史」)  前者が個人の過去を対象とし、後者が民族の過去について云っているのであり、鴎外は科学者的に、漱石は詩人的態度で語っていますが、ともに彼等の生きた時代の過去との断絶を意識した人の言葉であり、場合によれば筆者を入れ替えることも可能なのです。 第八節 白鳥、青果、秋江  自然主義の機運は、多くの作家を新旧の別なくまきこんで、彼等にこれまでとちがった運命を強いましたが、その主唱者になった人々が、いわば中年期に達した詩人たちであり、彼等の遂行した自己革命が、時代の文学概念の革新を結果したことが、その運動の大きな特色になっています。  しかし一方においては、そのような迂路を経ずに、時代の新しい機運を、もっと直接に代表する青年たちも出現したので、そのような自然主義生えぬきの青年作家として頭角を現わしたのは、正宗白鳥、真山青果です。  正宗白鳥は、本名忠夫、明治十二年(一八七九年)に岡山県に生れ、東京専門学校に学び、内村鑑三、植村正久などの影響をうけて、明治三十年に洗礼をうけました。三十三年に花袋を知るようになってから、思想的に動揺し、翌年学校卒業とともにキリスト教を捨てました。その後新聞記者生活をつづけ、三十七年には小説「寂寞」を発表しましたが、四十年に短篇「塵埃」によって世評を得、ついで四十一年には「何処へ」「玉突屋」「五月幟」などを相ついで発表して自然主義作家としての名声を確立しました。  ことに「何処へ」は当時の青年の心情を偽り憚るところなく描いて、その内面の空虚と混迷を剔《てつ》抉《けつ》した作品として、大きな反響を呼び、白鳥の初期を代表する中篇になりました。  白鳥の特色は、当時の自然派小説の大部分が中年者の文学であったに対し、いわゆる明治四十年の青年の心情を、自已に即して直截に描きだした点にありました。  彼等は前代の明治人が第二の天性として持っていた国家意識、民族感情を持たず、日露戦争を自己に無関係な出来事と見、幸徳事件にも乃木大将の殉死にも昂奮せず、当時さかんに曝露された疑獄事件にも憤慨せず、むろん恋愛も信ぜず自分の遊蕩を苦々しい気持で見つめるだけです。この何事にも「驚く」気持を失ってしまった——つまり若さをなくした——青年たちは、日露戦後の特産物であり、白鳥は彼等のなかでの、文学的代表選手であったのです。こういう型の青年は、漱石や鴎外も、「それから」や「青年」のなかで描こうとしていますが、白鳥の強味は、それを実物にのっとって私小説の形で描けたことで、「何処へ」が白鳥の個性の表現であるとともに、時代の証言として、青年たちに大きな影響をあたえた理由も、ここにあります。  自然主義の特色は、告白あるいは懺悔が、そのまま同時代の偽善にたいする批判になったことですが、白鳥も嘘をつかないという消極的な美徳を頑固に守りぬくことで、これを人の云わないことを無遠慮に云う独自の批評精神に昇華させている点で、この自然主義の骨格を彼の個性に生かしているといえましょう。彼の文学の本質は批評であり、大正末期以後、彼は作家としてより、批評家としてすぐれた仕事をのこしていますが、明治末年から大正の初期にかけては、なお小説の名作が多く、「微光」(明治四十三年)「泥人形」(四十四年)など身辺に取材したもの、「入江のほとり」(大正四年)「牛部屋の臭ひ」(五年)など故郷の漁村に取材したものなどがことに世評を呼びました。白鳥の作家としての成熟期が、自然主義の先輩作家と同様に、大正の初期であったことは、作家の仕事に、彼の周囲の時代の環境がいかに大きな影響を及ぼすかの一例証と見られます。  白鳥が時代の波の変転をくぐって、絶えず活動をつづけ我国の作家のなかではほとんど例外的な現役の長寿を保ったに反して、真山青果は、不運な断絶を経験しました。  彼は本名を彬《あきら》といい、明治十一年(一八七八年)に仙台で生まれ、はじめ仙台で医学を修めましたが、明治三十八年に小栗風葉の門に入り、明治四十年に「南小泉村」を雑誌に発表して、一躍名声を得、正宗白鳥と並ぶ新進作家になりました。「南小泉村」は同じ題材を扱ったいくつかの短篇を併せて、明治四十二年同名の単行本にまとめられましたが、仙台の近くの寒村の農民たちの生態を、そこに生活する若い代診の医者の眼を通じて描きだしたもので、その冷静なリアリズムが時代の好尚にあい、農村を扱った自然主義小説の代表作とされました。  青果はこれによって、自然主義の新人として、将来を嘱望され、いくつかの小説を発表しましたが、作家としての徳義を疑われるような行為をくりかえしたため、明治四十四年ごろには文壇を退かざるを得なくなり、大正三年に新派の作者として松竹に入社し、およそ十年間その生活をつづけましたが、大正十三年(一九二四年)に戯曲「玄朴と長英」を書いて文学者として復活し、その後「平将門」「江戸城総攻」などをつづけて発表し、昭和になってから、大作「元禄忠臣蔵」を完成しました。青果はこのほか西鶴馬琴の研究でも一家をなし、「仙台方言考」によって国語学界にも貢献するなど、広い趣味と学識の持主でしたが、その生活が十年の作者生活で二分された観を呈しているのは、白鳥と好対照をなしています。  やはり自然主義の系統に数えるべき作家で、白鳥、青果よりややおくれて名をなした人に、近松秋江がいます。  彼は本名を徳田浩司といい、明治九年(一八七六年)に岡山県で生れ、白鳥とは同郷同学の関係で、もっとも深く交際しました。  すなわち彼も東京専門学校に学び、明治三十四年に卒業、三十九年に島村抱月によって『早稲田文学』が復刊されたとき、その編集にたずさわりました。小説の処女作は明治四十三年春に発表された「別れたる妻に送る手紙」で、これによって一気にみとめられました。  題名の通り、作者が別れた細君にあてた手紙の形式でその近況を報じ、妻への未練から放蕩に耽る経過をかざり気なく綴ったもので、自然主義風の告白文学でありながら、抒情性を失わず、作者の生活感情は耽美派にもつながり、それだけに、自然主義に新生面をひらいた佳作とされました。  ついでその続篇「疑惑」を書き、一転して「舞鶴心中」「住吉心中」などの客観小説を発表し、ふたたび「黒髪」「霜凍る宵」の告白小説で、独歩の地位をしめました。  大正時代に這入って、多くの新作家が、反自然主義の系統から生れましたが、そのなかで、広津和郎、葛西善蔵、宇野浩二など自然主義の伝統をついだ作家には、秋江につながる人が多いので、宇野浩二の出世作「蔵の中」は秋江をモデルとしたと云われ、善蔵のいわゆる破滅型の私小説は、秋江の世界を彼なりに深めて行ったものと云えます。 第九節 荷風、潤一郎  明治末年の文学界の特色は、これまで述べてきたように、いわゆる自然派と反自然派の併立、共存の状態にあります。「蒲団」の書かれたのが、明治四十年(一九〇七年)、『スバル』の創刊が四十二年、『白樺』のそれが四十三年とすると、自然主義が無条件で新文学の代表として評された時代はわずか二年ほどということになりますが、自然派と、これに反対したとされる耽美派あるいは白樺派の間に、明確な思想的対立があったかというと、それはなかったという方が正しいのです。  彼等の間にみられた対立は、都会人と田舎者、金持と貧乏人というような生活環境からくる感情的対立といった風のものであったので、文学思想の上では、彼等は自然派の主張を一応うけ入れた上で、それを自分の好みに合わせて修正しようとしたのです。自然主義の説くところが、世界の文学思潮と一致していると見えた点では、彼等は何等それに反対すべき理由を持たなかったのです。  また自然主義の側でも耽美派にすぐれた作品があれば、これを賞讃するに吝《やぶさか》でない場合が多かったので、永井荷風なども外遊から帰って文学界に登場した当時、自然主義にたいして理論的には反対の立場をとらなかったし、自然主義の側でもこの新しい反抗児の登場をむしろ歓迎した観がありました。  明治四十二年に、前年にフランスから帰った彼が、三月に「ふらんす物語」を刊行したほか、「狐」「監獄の裏」「祝盃」「歓楽」「新帰朝者日記」「すみだ川」「冷笑」などの長短篇を、つづけざまに発表して、その官能的なシニスムと文明批評と郷愁の詩情とが混合した多彩な才能の開花を示すと、自然主義の牙城と見られた『早稲田文学』はその年にもっともすぐれた仕事をした作家として、小山内薫と荷風をあげています。  しかし荷風の登場は、鴎外の活動にもまして、将来耽美派を形造る青年たちに自信と刺戟をあたえたので、当時大学生であった谷崎潤一郎は、これらの荷風の仕事に接して、芸術上の肉親と邂逅したような喜びを抑え得なかったといっています。  明治四十二年(一九〇九年)は『スバル』と荷風の出現によって新しい芸術主義の誕生の年として記憶されてよいので、この新しい機運は翌年に荷風を中心として『三田文学』が発刊されるとともにますます強まりました。  『新思潮』によった谷崎潤一郎の「刺青」「麒《き》麟《りん》」等の諸作が、荷風によって激賞され、彼を一躍新時代の代表作家としたのも、この機運を背景にした事件です。  しかしこのころから荷風は、彼の文明批評が実際の社会の動きにたいして無力であることを悟ると同時に、幸徳事件などを機縁に彼自身近代文学者としての資格に欠けるところがあるという反省を強いられて、次第に花柳小説に自らを韜晦し、江戸の戯作者の末流をもって自任するにいたりました。  荷風の場合は彼の作家的成熟が、彼の青年期に示されたさまざまな可能性の犠牲の上に得られたことが、ほとんど悲劇的な印象をあたえるほどはっきりしています。  これに反して、専ら官能の世界に生きて、自己の資性を延ばすこと以外には、思想の悩みを経験しなかった潤一郎は、このような成熟の悲劇を味わなかったので、荷風にとっては狭苦しい舞台であった官能に限定された反逆は、潤一郎にとってはその資性をのばすに恰好の天地でした。彼は反道徳の選手として悪魔主義を標榜し、「少年」(明治四十四年)「悪魔」(四十五年)などの問題作を書き、大正期の耽美派の代表的存在になりました。  そのほか、明治末期にパンの会などに集った耽美派の文学者には、北原白秋、吉井勇など、詩人、戯曲作家が多く、それらについては他の場所で述べられている筈ですから、ここでは中心人物のひとりである木下杢太郎について、略述するに止めます。  杢太郎は本名太田正雄、明治十八年(一八八五年)に静岡県で生れ、医学を修めて東北帝大から、東京帝大医学部の教授として終りました。一方詩と美術の才にめぐまれ、明治四十年ごろから明星派の詩人と交って詩作を始めましたが、四十二年には『スバル』に参加して、小説、戯曲をさかんに発表し、ほかに『方寸』『屋上庭園』などの雑誌にも関係して、詩においても独自の境地をひらきました。彼の文学の基調は教養の高い都会人の趣味であって、異国情緒江戸情緒はその濃い彩りでしたが、一方において科学者の理智がいつもその耽美の慾求の背後に働いていて、彼の詩にフランスの高踏派に似た趣きをあたえています。  彼の小説には日本橋附近の風物を背景に青春の自画像を描いた「荒布橋」(明治四十二年)があり、戯曲ではやはりこの年に発表された「南蛮寺門前」が、四十四年に発表された「和泉屋染物店」とともに代表作とされています。  このころ彼が方々の雑誌に寄稿した詩は、のちに詩集「食後の唄」にまとめられました。  いまひとつ、この群像のなかの際立った個性に小山内薫がいます。彼は明治十四年(一八八一年)に広島で生れ、東大英文科在学中から鴎外に知られ、劇場にも出入しました。しかし一方では藤村にひかれるようなところもあり、竜土会の人々に交を求めました。  在学中から同人雑誌『七人』を刊行しましたが、明治四十年には第一次『新思潮』を創刊し、西欧の演劇評論や戯曲の紹介のほか、長谷川時雨の戯曲、正宗白鳥の小説、有明、白秋などの詩をのせ、自分は多くの雑誌に小説を発表しました。  しかし彼の青春を記念し、文学史上にも劃期的な意味をもった大事業は、市川左団次と結んで自由劇場を起し、明治四十二年十一月の末に、イプセン作鴎外訳の「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」を上演したことで、これは我国の新劇の重要な起原のひとつとされています。  その後も自由劇場は活動をつづけ、彼は明治四十五年から大正二年にかけて外遊し、モスコウ芸術座でスタニスラフスキーに演出を学び、かえってから、ゴルキーの「どん底」チェーホフの「桜の園」ほかの戯曲を上演しました。彼が築地小劇場の創設者であり、我国の新劇の父であることはよく知られています。小説家としての彼は、劇作家、演出家としての名声におおわれた観がありますが、代表作である長篇「大川端」(明治四十四年)は作者の青春の自画像であり、明治末期の花柳風俗を描きながら、幼い甘さと清純さが感じられる点、作者の個性とともに、時代の気風がうかがえます。 註 第一章 明治初期 (明治元年——十八年) 第一節 戯作  註一 最後の有能な幕臣のひとりであり、江戸開城の報をきいて、自決した川路聖謨は、その直前に孫にあててかいた文書のなかで「薩は詐を以京都をかりて天下を乱すもの也」といいながら一方において「此節京都之軍勢大風之残を巻くが如し是順を以逆を御討被故也……二千年之末御幼主に而被為在ながら此威力を御持被遊候とは五世界廿二史中絶テなき事也日本之難有御国なることを知るべし」(東洋金鴻)といっています。  註二 合巻、草双紙の一種。或る体裁の草双紙、あるいはその内容をなす小説の形態をさします。合巻とは元来巻を合綴じする意で、合本という意味で、綴し合わせた草双紙という意味がもとです。  元来、草双紙の体裁は、赤本、黒本、青本、黄表紙の順で発達してきましたが、そのころは紙数五枚を一冊とし、二三冊までが普通でした。それが種々の原因で次第に長篇化するにつれて、数冊分をはじめから綴じ合わせて、華麗な表紙をつけたものが現われ、これを合巻ものと呼ぶようになりました。嘉永二年(一八四九年)から明治六年まで、二十年にわたって刊行された柳亭種員の「白縫譚」は、その一例です。  註三 角《つの》書《がき》 小説の題名の上に内容を暗示するような言葉を細字でつけたもの。「一読三嘆当世書生気質」など。形が角に似ているためについた名前でしょう。現代でも通俗小説ではつけられることがあります。  註四 このことについて当時の『東京日日新聞』に次のような投書がのっています。  「寔《まこと》に開化進歩の今日さもあるべき事と深く感銘せり。抑も、豊後、新内の唱歌に於るや、一章中に、サハリ色文句抔《など》言ふありて、多く淫奔野合の媒となり、善を勧め、悪を懲《こら》すの意に反せるなり……況《いはん》や外国人の聞ときは之を以て国風国習となし、人心一般の好む所ならんと嘲りを免れず、余輩朝暮これを憂ひしが、今日幸ひに教部省の管を蒙る上は、声曲の道一変し、自然開化の域に趣くべき唱歌に御注意あるべしと竊《ひそか》に雀躍せる所なり。」  これは当時の知識階級が教部省の芸術への干渉を時代の「開化進歩」に適合させるために必要な措置と見ていたことを示しています。  歌舞伎や音曲の「浮薄の少年多情の少婦」にたいする影響と、外人への体裁を同列に扱っているところが、時代の心理を巧まずに表わしています。  後年の演劇改良運動なども、この知識階級の伝統芸術にたいする不満から生れたと云えます。  註五 このころの新聞小説は作者の名を誌さなかったため、「金之助の話」の筆者についても諸説があります。普通前田夏繁とされていますが、染崎延房、高畠藍泉、前田健次郎、古川魁雷などとする人もあります。なお新聞小説の起原としては、「鳥追阿松」「金之助の話」のほかに「岩田八十八の話」(明治八年十一月末『東京平仮名絵入新聞』に数回連載)をあげる人もいます。しかしこれはその数日前に落着した裁判事件を絵入の続きものにした記事で、ほとんど事実そのままで、小説とはみとめがたいと玉井乾介氏が考証しています。  註六 当時の戯作の標榜した「勧善懲悪」の実体については、坪内逍遙が「小説神髄」の緒言で左のように云っています。  「古来我国のならはしとして、小説もて教育の一方便のやうに思ひて、しきりに奨誡勧善をば其主眼なりと唱へながら、なほ実際の場合に於てはひたすら殺伐惨酷なる、若くは頗る猥《わい》褻《せつ》なる物語をのみめでよろこび、他のかたくるしき筋の事は、目を住《とど》めてだに見る人稀なり。しかして作者の見識なき、総して輿論の奴隷にして流行の犬ならざるなければ、競うて時好に媚《こび》むとして、彼の残忍なる稗史をあみ彼の陋猥なる情史を綴り、世の流行にしたがふものから、勧善といふおもむきの名義もさすがに抛《なげ》棄《すて》がたさに、しひて勧善の主旨を加へて人情をまげ、世態をたわめて、無理なる脚色をなすことなりけり。」 第二節 啓蒙思想 ——明六社の人々——  註一 「コノ書ヲ作ル主意ハ、約シテコレヲ言ヘバ、昔ヨリ言伝フル善教ヲ、少年ノ人二申戒セント企テタルモノナリ、曰ク、少年ノ時、労苦セバ、暮年ニハ安楽ヲ享クベシ、曰ク、天下ノ事、勤勉学習セズシテ能ク成就スルモノハ、決シテコレナシ、曰ク、学者為シ難キノ事に逢フト雖モ、ソノ志ヲ折ルベカラズ、忍耐恒久ノ心ヲ以テコレニ勝ツベシ、就中《ナカンヅク》最要ノ教ニ曰ク、人タルモノハ、ソノ品行ヲ高尚ニスベシ、然ラザレバ才能アリト雖モ、観ルニ足ラズ、世間ノ利運ヲ得ルトモ貴ブニ足ルコトナシ」(「自助論」原序)  註二 「論語徴」荻生徂徠の主著、十巻から成り、「論語」の文字や物名の出典を、五経に求めて、その解釈を試み、「論語」に関する歴史的研究の方法を確立したものとして劃期的業績とされています。(「世界大百科事典」による)  註三 大久保利謙氏は、西周全集第一巻の解説で次のように云います。  「『百学連環』に於いて試みられた諸学の基礎づけは、勿論主として西洋哲学の移植過程に於いて行はれたのであるが、又我国従来の学問観念に対する批判として為されてゐることも注意しなければならない。従来の学問は封建的観念に制約された儒教が中心で、諸科学の如きはこれに従的の関係におかれた。近代社会の勃興に伴ふ近代科学の勃興は、まづこの関係を打破して学問の解放と独立が要求されなければならない。この書に於ける学問論の重点はこゝに在る。このことは単に西のみに限らず明治初期の啓蒙思想の基調であるが、西の場合は議論が認識論的に行はれてゐるところに優れた特徴がある。」といっています。  これは西の学問論(哲学)の特色をよくとらえた言葉です。彼のしたことは、結局文学の上で逍遙がやったのと同じことです。儒教への従属開係から学問を解放することは、その担い手である書生たちが、封建的身分の枠から解放された事実と照応します。  彼等が得た自由は主として出世の自由であり、彼等の最高の善がその知識で国家に役立ち、それによって一身の栄達を得ることであった時代の空気は、西の哲学にも反映しています。  大久保氏は西が「学たる終」が「利用」にあるとしているのをひき、「学の究極は利用に在りとする主張が功利主義の立場にあることは容易に看取される。この思想は彼の実証主義思想と極めて有機的に結び合ってその思想を特徴づけてゐる。功利主義は更にその倫理思想へと発展し、『人生三宝説』に於てはミルの功利主義を祖述して健康、知識、富有の三つを以て人生に福祉を齎す基とした。」といっています。  註四 諭吉は、「西洋事情」が明治維新の当時、政府当路者の方針決定に大いに役立ったのは、政権を担っていた「諸藩の有志者」たちが概して「儒学の極意より之を視れば概して無学」であり、彼等が死文字にとらえられず改新を断行する勇気を持ったからであると云い、「新説の容易に実際に行はれて故障を見ざりしは当局士人の漢学に入ること深からずして一言これを評すれば其無学なりしが為めなりと断定せざるを得ず。」と漢学の害を説き、さらに、「維新の有志輩が事を断ずるに大胆活溌なる其割合に学を知ることは甚だ深からず、……一片の武士道以て報国の大義を重んじ苟《いやしく》も自国の利益とあれば何事に寄らず之に従ふこと水の低きに就くが如く、……変遷通達自由自在に運動するの風にして……即ち日本士人の脳は白紙の如し、苟も国の利益と聞けば忽ち心の底に印して其断行に躊躇せず、之を彼の支那朝鮮人等が儒教主義に養はれ、恰も自大己惚の虚文を以て腹中縦横に書き散らされたる者に比すれば同日の談に非ず、左れば維新の当初我国の英断は当局士人の多数が漢文漢学を味ふこと深からざりしが故にして、奇語を用ふれば日本の文明は士人無学の賜なりと言ふも過言に非ざる可し。」(「福沢全集」緒言)といっています。 第三節 漠学者の戯文  註一 「明治詩話」の著者、木下彪氏は、同書のなかで、明治初年の文学が一般に軽視され、たまたまこの時代の戯作や政治小説を説く者はあっても、「当時文学界の首座を占めてゐた漢文体の文芸作品を説く者に至つては、殆ど絶無に近い」のは「この時代の文学を文学として歴史的に認識する」上での大きな欠陥であるとじて、次のように云います。  「江戸幕府時代に於ては、学問即ち漢学、漢学即ち学問で、二者は異名同体であつた。……経書の素読と詩文の習作とは、幼少の時から士人の教養として植付けられた。源氏物語や枕草紙など婦女の手に成ったものを読んだり、稗史小説を読んだり書いたりすることを学問とは夢にも考へなかつた。否小説などは口にするだに恥づべきものと為した。山本北山は浄瑠璃の文を愛読しつつ、之を厠の中でのみ繙いたと云ふが、北山のみならず、当時の学者は総てかう云ふ観念であつた。明治になつて、急に西洋の文物が輸入せられると共に、漢学のこの絶大の権威は失墜するに至つたが、前代からの権威は確乎として抜くべからず、当時教養ある士人の間には、猶ほ漢詩文の外に詩文なしと云つた考へが殆ど支配的であつた。芳野金陵、島田篁村、中村敬宇、重野成斎、川田甕江、信夫恕軒等、幾多の漢学大家が、文学の権威として世人の尊敬を鍾《あつ》めて居り、其の作物は多くの読者に読まれて居たのであつた。」  註二 「柳橋新誌」には短篇小説に近い技巧で、さまざまの挿話が織りこまれていますが、そのなかの短いものをひとつ左に書きくだしの形で引きます。  「一妓口に長じて才に短なり、人皆命《なづ》けて饒舌児《おしやべり》と云ひ又無眼娘と曰ふ。一日衆妓と某公の宴に侍す。酒闌《たけなは》なり。妓従容として公に問うて曰く、聞《きくなら》く公卿の西京に在るや皆合花《はなあわせ》牌《ふだ》を造つて以て業となすと、知らず、殿下も亦曽て之を造る耶。公愕然語無し。少頃《しばらく》して答へて曰く、往時諸子閑散知らず或ひは戯れに之を造れる歟、……近来国家多事復た一人の這様の閑事を為す者無き事必せり矣と。妓膝を拊して曰く、解せり矣解せり矣。近来坊間花牌甚だ乏し、価も亦随つて貴し、阿爺毎《つね》に之を嘆ず、妾も亦其の故を知らず。今殿下の話を奉承して宿疑氷解す。夫れ之を生す者寡く之を用ふる者多ければ則ち牌恒に足らず、価の貴き亦宜なる哉と。満座皆汗を其の掌に握る。」  註三 「明治詩話」は田島の辞任したあとの『団団珍聞』について次のような記述があります。  「後に操觚者として又漢詩文家として成島柳北に雁行した石井南橋が入社してから其の茶説は更に好くなり、狂詩は一層精選されたものとなつた。後更に狂詩の天才真木痴嚢が入社してから、団珍の狂詩は天下に独《どく》擅《せん》場《じよう》を誇るものとなり、一時同誌寄稿の狂詩家は合せて百名近くに達し、仲々手腕ある作者も少くなかつたのである。」 第五節 翻訳小説  註一 「花柳春話」の文体は次のようなものです。「(アリスハ)忽チ戸ヲ開キ去ラントシ、首ヲ回ラシテマルツラバースヲ一顧シ、恰モ離別ノ情ヲ表スルカ如クナリシカ、勿チ往事ヲ追懐シテ愁思胸ニ鍾《アツ》マリ、情切ニ悲迫リ、覚ヘス倒レテ悶絶ス。マルツラバース忙ハシク起テアリスノ側ラニ疾走シ、之ヲ抱ヘテ呼ヒ回ヘスコト数声、且ツ謂ツテ曰ク、余復タ離別ノ事ヲ言ハスト。右手ニアリスノ左手ヲ執リ、左腕ニ其頭ヲ抱キ、冷水ヲ口ニ含ンテ朱唇ニ灑《ソソ》キ去ル。此時アリス漸クニシテ眼ヲ開キ、繊手ヲ伸シテマルツラバースノ頸辺ヲ抱擁シ、瞳ヲ正フシテ顔ヲ見ル。マルツラバース密語シテ曰ク、余実ニ卿ニ恋着ス、焉クンゾ離去スルヲ得ンヤ」(第一篇第六章) 第二章 明治中期 (明治十八年——三十九年) 第三節 『しがらみ草紙』  註一 「一体日本人は生きるといふことを知つてゐるだらうか。小学校の門を潜つてからといふものは、一しよう懸命に此学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思ふのである。学校といふものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまはうとする。その先きには生活があると思ふのである。そしてその先には生活はないのである。」と「青年」の主人公が考えますが、これは「妄想」に次のような形で述べられた作者の青年期の体験を一般化したものでしょう。  「生れてから今日まで、自分は何をしてゐるか。始終何物かに策《むち》うたれ駆られてゐるやうに学問といふことに齷《あく》齪《せく》してゐる。これは自分に或る働きが出来るやうに、自分を為上げるのだと思つてゐる。其目的は幾分か達せられるかも知れない。併し、自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感じられる。その勤めてゐる役の背後に、別に何物かが存在してゐなくてはならないやうに感じられる。策うたれ駆られてばかりゐる為めに、その何物かが醒覚する暇がないやうに感ぜられる。」  彼の生涯はその「何物か」を手探りする歴史であったとも云えます。そしてこういう生き方を強いられているのが彼ひとりではなく、彼の世代だけでもなく、近代の日本人全体がそうであることを実感するところから、彼の同時代への文明批評が始ります。  なお「舞姫」に中国小説の影響を見、あるいは、主人公等の恋愛に人情本的な要素を指摘する研究が近頃現われましたが、これはおそらく同時代人にとっては自明の事柄であったのでこのような伝統的な物語の性格と、題材のエキゾティズムとが、この小説を成功させた、卑近で有力な原因であったと思われます。 第四節 評論の時代 ——北村透谷を中心に——  註一 当時第一高等学校の教授であった内村鑑三が、明治二十四年一月に行われた教育勅語の奉読式に敬礼しなかったというので物議をかもした事件。  註二 いまひとつの離教者の群は、社会運動、社会主義のなかに、新しい活路を見出しました。 第五節 明治二十年代の意味  註一 「西学の東漸するや、初その物を伝へてその心を伝へず。学は則格物窮理、術は則方技兵法、世を挙げて西人の機智の民たるを知りて、その徳義の民たるを知らず。況《いはん》やその風雅の民たるをや。……今や此方《はう》嚮《かう》は一転して、西方の優美なる文学は、その深邃なる哲理と共に我疆に入り来れり。而してその文学の種属を問へば、叙情詩あり、叙事詩あり、又た戯曲ありて、固《もと》より一体に局せずと雖も、輓近西欧諸州に盛なる小説を以てこれが主となす。」(森鴎外「柵草紙の本領を論ず」) 第六節 明治三十年代の特質 ——樋口一葉——  註一 和田芳恵氏は、「一葉の日記」で「たけくらべ」について次のように云います。  「これは、桃水に手をとつて教へられた、読者をたのしませるための趣向、はつきり云へば、職人的な腕のたしかさを、その稟《ひん》質《しつ》によつて、『文学界』派の浪曼的な理論行動を、すばやく、感性で受けとり、自ら芸術家に育つた一葉の成果である。そして実行しきれなかつた下層社会の改革運動が、作品の世界に昇華したと考へられる。」  ついで一葉の生活と芸術について、次のように付加えます。  「一葉は、世の中に投げだされたやうに生きてきた。どういふ場合にも、相手を吟味し、計算した。さうしなければ生きてゆくことができなかつたから。一葉の日記は、その場で、すぐに相手の気持を吟味し、計算した総決算書と云へるだらう。……一葉の吟味と計算は、いつも現実のしあはせと喰ひちがつてゐた。これは一葉が詩人であつたからだ。一葉が考へた真実は、やはり、この世にないものであり、小説の世界にだけあるものだつた。」 第七節 『文学界』  註一 遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。 そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新声と空想とに酔へるがごとくなりき。 うらわかき想像は長き眠りより覚めて、民俗の言葉を飾れり。 伝説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帯びぬ。 明光はまのあたりなる生と死とを照せり、過去の壮大と衰頽とを照せり。 新しきうたびとの群の多くは、たゞ穆実なる青年なりき。その芸術は幼稚なりき。不完全なりき。されどまた偽りも飾りもなかりき。青春のいのちはかれらの口唇にあふれ、感激の涙はかれらの頬をつたひしなり。こゝろみに思へ、清新横溢なる思潮は幾多の青年をして殆ど寝食を忘れしめたるを。また思へ、近代の悲哀と煩悶とは幾多の青年をして狂せしめたるを。われも拙き身を忘れて、この新しきうたびとの声に和しぬ。 詩歌は静かなるところにて想ひ起したる感動なりとかや。げに、わが歌ぞおぞき苦闘の告白なる。 なげきと、わづらひとは、わが歌に残りぬ。思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に励まされて、われも身と心とを救ひしなり。 誰か旧き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがしゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。 われもこの新しきに入らんことを願ひて、多くの寂しき暗き月日を過しぬ。 芸術はわが願ひなり。されどわれは芸術を軽く見たりき。むしろわれは芸術を第二の人生とも見たりき。また第二の自然とも見たりき。 あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの巻とはなれり。われは今、青春の紀念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。 (明治三十七年「藤村詩集」序)  第九節 小説の拡大  註一 「自然は自然である。善でも無い、悪でも無い、美でも無い、醜でも無い、たゞ或る時代の、或国の、或人が自然の一角を捉へて、勝手に善悪美醜の名を付けるのだ。小説また想界の自然である。善悪美醜の孰《いづれ》に対しても、叙す可し、或は叙すべからずと羈絆せらるゝ理窟は無い、たゞ読者をして、読者の官能が自然界の現象に感触するが如く、作中の現象を明瞭に空想し得せしむればそれで沢山なのだ。……云々」 後記  文学史という言葉はひとつの矛盾を含んでいます。文学に限らずすべての芸術作品は時間をこえる生命を持っています。芸術の名に価する芸術作品はいつも作られたときと同じように新しい、言葉や風俗の差をこえて僕等に訴えてくるものを持つ、ということは実際それらに接した者には、疑いようのない事実です。  現在するものに歴史があり得るか、これが文学史の筆をとる者の答えなければならぬ疑問です。  かりに織田信長や徳川家康が今日も(むかしのままの壮齢で)生きているとしたら、今日の歴史学は根本から別物になっていたでしょう。  明治文学史には、しかし、このような文学史の性格はそのままでは、あてはまりません。明治文学が同時代人の生活のもっとも誠実な証人であるのに間違いないにしても、そのなかで真の芸術作品としての生命を得たものがあるかという疑問に僕等はまだ答えられないのです。平安時代や江戸時代のように、明治の日本にもながく国民の間で親しまれ、人類の財産になるような芸術作品が生れたかというと、文学については否定的に答えるほかないように思われます。  したがって、明治文学にたいする僕等の興味は、主として時代の性格の証人ということに帰着するのですが、この点では、僕等にとって世界に類のない興味ある文学です。明治という時代を本当に理解できるのは、世界中に、僕等しかいないし、僕等にとってもそれを理解せずに、現代の世界に生きて行くことは、不可能でしょう。  本書は、筑摩版「現代日本文学全集」の附録「現代日本文学史」の明治篇として書きおろしたものです。その関係で小説を主として扱っていますが、再刊の機会を得て、あえて「明治文学史」と題したのは、明治人の精神生活の証人として小説は他に類のない地位をしめると思うからです。  詩にも戯曲にも、僕の知る限りでは、これとはっきり異質な精神の劇は見出されないのです。  本書の校訂、索引年譜の製作については、高橋和夫氏をはじめ、筑摩書房編集部をわずらわしました。記して謝意を表します。 一九六三年八月 中村光夫 中村光夫(なかむら・みつお) 一九一一年、東京に生まれる。本名、木庭一郎。三五年、東大仏文科卒業。この年の正月号から「文学界」に「文芸時評」を連載し、新鋭批評家としての道を歩み出す。精力的に執筆活動をしながら明治大学教授、日本ペンクラブ会長を歴任。八八年没。主な著書に『二葉亭四迷伝』『フロオベルとモウパッサン』『わが性の白書』『中村光夫全集』全一六巻ほか。 本作品は一九六三年八月、筑摩叢書として刊行された。 なお、電子化にあたり口絵、年表、索引は割愛した。 明治文学史 -------------------------------------------------------------------------------- 2002年1月25日 初版発行 著者 中村光夫(なかむら・みつお) 発行者 菊池明郎 発行所 株式会社 筑摩書房 〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3 (C) HISAKO KOBA 2002