TITLE : 海軍技術研究所 エレクトロニクス王国の先駆者たち 講談社電子文庫 海軍技術研究所    エレクトロニクス王国の先駆者たち   中川靖造 著   目 次 プロローグ 戦後に生きた技術と人材 第一章  海軍技術研究所電気研究部 第二章  電波兵器 第三章  レーダー研究始まる 第四章  ドイツ情報を入手せよ 第五章  ウルツブルグレーダー 第六章  マイクロ波レーダーの開発に挑む 第七章  焦燥感深める開発陣 第八章  技研電波研究部 第九章  広がる技術・量産力格差 第十章  運命決めたマリアナ海戦 第十一章 難関突破 第十二章 第二海軍技術廠 第十三章 潰  滅 第十四章 それぞれの再出発 第十五章 生きた人的・技術的遺産 第十六章 潰えた壮大な夢 エピローグ 海軍技術の失敗と教訓   あとがき   主要参考文献 海軍技術研究所 プロローグ 戦後に生きた技術と人材  強大な軍事力もなく世界経済の主役になった日本が、戦後最大の危機にさらされ大きく揺れている。  昭和六十一年後半から始まった円高ドル安の対応策に追われている矢先、第三国市場での256KDRAMのダンピング輸出という予期しない問題が起きたためだ。しかも、米国政府は締結して日の浅い半導体協定違反を口実に対日報復措置の実施という強硬手段に出た。これが日米経済問題をより深刻なものにしてしまったのである。  この背景には巨額の財政赤字、いっこうに減らない貿易赤字、ハイテク産業の低迷という三つの難問を抱えた米国の焦りがあることは言うまでもない。それだけに問題の根は日本の関係者が予想する以上に深い。そのあたりは在日米大使館のマイケル・イリー公使(経済担当)の発言をみてもうかがい知ることができる。 「半導体をめぐる日米間の対立は、太平洋戦争以来はじめてといっていいほどの日米の衝突だ。繊維、鉄鋼、自動車など、これまでの日米貿易摩擦と違って、いま起きている高度技術に関する衝突は、防衛問題と密接不可分の関係にあるからだ……」  かつて、世界の警察官として自らを任じ、防衛力に絶対の自信を持っていた米国も、最近では防衛産業という先端技術が不可欠な分野で、日本の技術に頼らざるをえなくなっている。それが焦りをつのらせる最大の原因である。つまり、こんどの措置は、米国の安全保障を脅かすハイテク分野での日本の技術優位を座視するわけにいかなくなったためにとったとみるのが正しいようだ。  しかも、問題の火種は超LSIなど半導体製品だけにとどまらず、スーパーコンピューターや光通信、バイオテクノロジー、新素材、産業用ロボット、いま話題の超電導といった先端技術から金融サービスの分野にまで拡大波及しそうな気運さえ見える。  これはこの分野での競争力強化を目指す日本にとって、死活に関わる重大な問題だ。それだけに日本側も対応に苦慮しているというのが実情である。  もっとも、これまで日本は同じような危機に何度も直面している。その矢面に立って問題を処理し、活路を拓いてきたのは、太平洋戦争を通して欧米との技術格差がいかに大きかったかを身をもって体験した経営者や技術者たちであった。  これらの人々は、戦後、外国の先進技術を積極的に学び、工業技術のレベルを欧米並に引き上げることに総力をあげて取り組んできた。その結果、安かろう悪かろうの代名詞だった「メイド・イン・ジャパン」を、高品質で安値というイメージに転換させることに成功した。  この技術成果は日本人のもって生まれた知的能力と学ぶ力、旺盛な向上心、欧米という良い見本があったことなどがうまく噛み合って実現したものと言われている。ところが、その発展の軌跡をたどると、もうひとつ意外な事実が隠されていることに気づく。旧日本海軍の技術とその開発に携わってきた海軍技術官が、戦後の技術復興に大きな役割を果たしたことである。  たとえば、ひところ外貨稼ぎのリーダーだった造船業界が世界の注目を集めたのは、昭和三十五年、石川島播磨重工が開発した「経済船」がきっかけであった。これは海軍華やかなりしころの軍艦づくりに用いたブロック工法と早期艤装技術を採り入れたものである。そのずん胴型の特異な船型は、同じ量の鋼材を使った船より多くの荷物が運べるのが特長だった。そのせいか、外国で「KEIZAI・SENKEI」と、ローマ字で書いても十分通用するほど有名な設計になった。  また、三十九年に開通した東海道新幹線も、海軍航空技術グループの卓越した力をフルに活用、完成させたものだ。もっと身近なものにカメラがある。戦後、世界の最高級機と言われたドイツのライカ、コンタックスをしのぐ35ミリカメラ“ニコン”“キヤノン”は、軍艦の測距儀づくりで培った高度な光学技術が生んだものだし、電子クオーツで代表される腕時計も大砲の信管技術が役立っている。そのほか自動車やオートバイのエンジンは航空機用エンジン、あるいは、ロボットに象徴される自動制御技術は艦砲の射撃盤装置技術の延長である。  なかでもひときわ目立つのが、海軍の先端技術と言われた電波、通信、磁気、音響などの電子関連兵器技術とその開発に携わってきた技術官の存在である。  それは、戦後、いち早く国産テープレコーダやトランジスタラジオを開発、日本のエレクトロニクス産業発展のきっかけをつくったソニー(当時、東通工)を見るとよくわかる。  ソニーは好奇心の旺盛な天才的エンジニア井深大(早大理工学部電気科、名誉会長)と、海軍技術中尉だった盛田昭夫(阪大理学部物理科、会長)が協力してつくりあげた技術指向のベンチャービジネスである。  それがなぜ海軍と関わりがあるのか、訝(いぶか)る人もいるかもしれない。だが、ソニーの草創期を支えた人脈を見れば納得してもらえるはずだ。  当時、無名の町工場だったソニーの開発責任者、岩間和夫は東大理学部地球物理科出身の技術大尉、開発商品第一号のメカニックを担当した児玉武敏(阪大理学部物理科、相談役)、北条司朗(東大第二工学部造兵科、ソニー幸田)は、盛田と同じ釜のメシを食った技術中尉、磁気テープ開発に苦労した戸沢圭三郎(名大工学部航空工学科、前ソニーエバレディ会長)は、零戦の改造を手がけた技術大尉、トランジスタラジオやトランジスタテレビに使う半導体づくりに活躍した塚本哲男(ソニー学園湘北短大学長)も、盛田、児玉と同じ阪大理学部物理科出身の技術中尉、また昭和三十六年、通産省電気試験所からソニーの初代研究所所長になった鳩山道夫(東大理学部物理科)は、戦時中東京目黒にあった海軍技術研究所で電波兵器の開発に携った海軍技師、さらに一時期、ソニーマグネスケールの社長を務めた成松明寿(東大理学部物理科、技術大尉)は、岩間前社長の海軍時代の教官の一人だった。  もっとも、岩間、戸沢、成松を除く四人はいずれも戦争末期の昭和十九年九月、見習い尉官に採用された一番若いクラスの技術士官だけに、海軍時代の体験なり、技術が直接仕事の上で役立ったとは思えない。しかし、古き佳き時代の海軍技術官の気風や精神は、ソニーの経営や技術開発の面にいたるところで活かされている。  一方、ソニーの宿命のライバル、日本ビクターには、海軍のレーダー開発に指導的な役割を果たした高柳健次郎(少将待遇技師、元副社長、顧問)、その高柳の指導を受けた宍道一郎(東大理学部物理科、技術大尉、会長)や、宍道と同期の技術大尉、高野鎮雄(浜松高専精密機械科、副社長)がいる。  そのほか、“C&C”を旗印にエレクトロニクス業界のリーダー的役割を果たす日本電気には大内淳義副会長(東大工学部電気科、技術大尉)、緒方研二(同、元副社長、安藤電気会長)をはじめ、多数の海軍技術官や技師経験者がそれぞれの分野で指導的役割を果たしている。  ところが、こうした事実があるにもかかわらず、戦前、戦中、戦後の連続性という観点から日本の技術開発の一断面を捉えるという試みは、これまでほとんど行われてこなかった。  とくに日本のエレクトロニクス開発の源流は海軍の電波兵器開発と深い関わりがあると以前から言われていた。だが、その全貌と戦後への貢献は、鉄道技術や航空・造船技術のように明らかにはされていない。また、電波研究開発の中心であった海軍技術研究所自体についても、これまで触れられていない。そういう意味でも、戦後、日本の技術発展を支えた男たちを数多く輩出させた海軍の先端的な技術開発のやり方、また、その中核となった技術士官の演じた役割、あるいは、戦争で先進的な技術情報の入手を断たれた海軍が、どのような方法で情報を集め、技術開発をすすめたか、技術研究所を中心に改めて探ってみる必要があろう。  現代はさまざまなレベルの国際的な技術情報ネットワークが張り巡らされ、発達した通信手段を用いれば瞬時にして必要な情報を海外から入手できる。だが、最近の日米関係は太平洋戦争開始直前と酷似しているとの指摘もある。それだけに今後、高度技術情報の対日流出が、突然、制限される懸念もないわけではない。  その点、技術封鎖という最悪の環境の下で最先端技術の開発に取り組んだ海軍の研究開発方式は、良かれ悪しかれ、今後の日本企業の研究開発を考える上で、何かヒントを与えてくれるのではないだろうか。  こうしたモチーフの下に海軍の技術開発の実態と、技術士官の苦闘のあとを、エレクトロニクス分野に絞って明らかにしていこう。  ところで同じ海軍でも経理を担当する主計科士官と違い、つねに陰の存在に終始した海軍技術科士官の本来の姿は、一般にはほとんど知られていない。そこで陸軍との比較を含め、日本最大の技術者集団「海軍」の組織と概略を簡単に紹介しておこう。  戦前、日本海軍は軍艦の数では米国、英国には及ばなかったが、重装備の個性豊かな軍艦と、猛訓練で鍛え抜かれた精鋭を擁し、世界三大海軍国の名に恥じない陣容を誇っていた。その象徴である各種艦艇を造っていたのが、造船、各種機械、搭載兵器の開発を担当する「海軍技術科士官」と呼ばれる一群のエリートたちである。  技術科士官には大学在学中に海軍委託生の選抜試験に受かった永久服役士官(在学中、大学卒初任給程度の手当を卒業まで支給される)と、大学卒業後、二年間現役に服務する短期現役士官の二通りがあった。両者とも大学卒業後ただちに中尉に任官する。中尉の初任給(二号俸)は、一般大卒者の初任給よりはるかに高い(昭和十三年ごろで八十五円)。しかも身分は高等官である。  戦前、一般官庁のエリートコースは、文科系の「高等文官試験」合格者で、この試験に合格すれば、将来、局長、次官、大臣のコースを歩むことができる。だが外務、大蔵、内務の主要官庁でも、大学卒業後、ある期間は判任官として過ごすことが義務づけられていた。また医学部や医大出身者も、大学に残ると、官立では副手から助手になってはじめて判任官となるのであり、高等官は助教授に登用されてからである。つまり、大学を卒業して就職、そして即、高等官になれるのは海軍の軍医、薬剤、主計、技術各科の士官のみであった。エリート中のエリートと言われるゆえんもそこにある。  また、海軍は、職務上、海外に出張したり、外国の艦船と接する機会が多い。そのため服装やマナーも洗練されたものを身につけることを要求される。そのうえ、軍艦そのものが独立した城という環境にあるため、起居を共にする将兵の連帯感も強い。それがいい意味での一家意識を生む。  同じ軍隊でありながら何かにつけてやぼったいと言われた陸軍と違い、海軍の将兵がスマートで格好よく見えたのもそのためである。  こうして、太平洋戦争中、海軍で活躍したエリート技術士官は、およそ七千四百余名、このうち開戦後、採用された理工系学生は五千九百四十余名(うち電気、通信関係は七百十四名)を数える。この中で兵科士官同様、最前線で生死を賭けて血みどろの戦いを演じたのは、十七年九月採用の三十二期、十八年九月採用の三十三期の技術科士官たちである。それは三十二期の戦死者が百十四名(電気通信関係十七名)、三十三期六十四名(同十三名)だったことを見てもうなずける。これに対し、最後の三十四期の戦死者は一名、それも豊川海軍工廠で空襲に遭い戦死したものだ。  もちろん、海や空で散華した予備学生出身の兵科士官と比べたら、戦死者の数ははるかに少ない。戦争に必要な艦艇や兵器を造り、実戦部隊が戦いやすいようにするのが主任務である技術科士官だけに少ないのも当然であろう。  このような海軍の技術陣構成に対し、陸軍は、技術士官の数も組織の規模もはるかに大きかった。それは兵器行政本部管轄下の技術研究所十ヵ所、造兵廠八ヵ所(ほかに兵器補給廠)、航空本部管轄下の技術研究所八ヵ所、航空廠八ヵ所を有していたことでもわかる。また予算も海軍以上に潤沢だった。そのせいか、部外の協力者も海軍に対抗し積極的に動員した。その中から電波関係の著名な学識経験者をあげると、抜山平一、八木秀次、宇田新太郎、小池勇二郎、福島弘毅、神谷六郎、岡村進、和田正信、植村三良(以上東北大)、浜田成徳、西堀栄三郎(以上東芝研究所)などで、いずれも勅任官、奏任官、高等官待遇の顧問、技師として指導を仰いだ。  しかし、ヒト、モノ、カネは豊富だったが、組織のまとまりが悪く、先端兵器開発は期待したほど成果が上がらなかった。技術者を軽視する風潮が強かったからである。何しろ、陸軍は建軍以来、質実剛健と不屈の精神力をモットーとする人間集団、それは機動力がものをいう近代戦になっても歩兵中心の戦術思想を変えようとしなかったことでもわかる。  一方、海軍は西欧社会のスマートさを身につけた少数精鋭のエリート集団、しかも、戦力の核である軍艦は機械のかたまりとあって、いやでも技術者を大事にしなければならない。そういうものの考え方の違いが、先端兵器開発にも微妙に影響していたようだ。  いずれにしても、未曾有の戦争も敗戦という惨めな結果で終わった。そして生き残った技術士官はさまざまな分野に散っていった。その中でいち早く脚光を浴びたのは、エレクトロニクス分野に入った人たちであった。戦時中の先端兵器と言われた電波、通信技術が戦後の復興に役立ったのだ。  その中心に一人の優れた技術者がいた。海軍技術研究所の伊藤庸二技術大佐である。伊藤は、戦後、防衛庁技術研究所の初代所長に推された学識経験豊かな研究者でもあった。その伊藤大佐の軌跡を海軍技研を中心にたどりながら、海軍電波(エレクトロニクス)技術開発の実態を改めて振り返ってみよう。日本最大の技術者集団「海軍」の遺した技術と人材が、戦後の技術発展にいかに貢献したかがわかるからである。 第一章 海軍技術研究所電気研究部  伊藤庸二と草鹿竜之介  昭和四年八月、東京の空に思わぬ珍客が訪れた。ドイツの飛行船「グラフ・ツェッペリン」号である。全長二百三十五メートル、ガス容積十万五千立方メートル、乗員四十名、乗客二十五名を収容できるこの巨大な飛行船は、ドイツのフリードリヒスハーフェンを飛び立ち、二回目の世界一周飛行の途中であった。数日間の日本滞在を終えたツェッペリンは、仮泊地の海軍航空隊霞ケ浦基地をあとにロサンゼルスに向けて飛び立った。  そのとき霞ケ浦からツェッペリンに同乗した一人の海軍士官がいた。太平洋戦争の口火となったハワイ真珠湾攻撃に出動した南雲機動部隊の参謀長として勇名を馳せた草鹿竜之介中将(当時、中佐)であった。  草鹿はもともと砲術出身だが以前から飛行機に人一倍関心を持っていた。それだけにツェッペリンによる太平洋横断飛行は、将来、必ず役に立つと思い、すすんで便乗を希望したのである。  ところが、飛行機と違い飛行船は速度も遅いし、客室も思ったほど広くない。おまけに揺れがひどかった。そのせいか、大柄な草鹿は、目的地であるロサンゼルス郊外のマインスフィールド基地に到着後、急性肺炎にかかり、現地の病院で三週間ほど入院を余儀なくされた。おかげで出発前に予定していた米国視察旅行もすべて中止、九月下旬、日本郵船「太洋丸」で帰国することになった。  病みあがりのあとの船旅はけっして楽ではない。しかも、太平洋航路はおよそ二週間かかる。それを思うと、草鹿も気が重かった。だが、船に乗るとそんな懸念はいっぺんで吹き飛んでしまった。気のおけない仲間と珍客が連れになったからである。  気のおけない仲間は佐藤源蔵少佐と、青年気分の抜けていない伊藤庸二造兵大尉(のち大佐)、珍客は声楽家の関屋敏子、関屋佑之夫妻であった。  草鹿はこの四人と毎日食卓を共にしながら、愉快な船旅を続けることができた。とくに畑違いの伊藤を知ったことは、草鹿にとって大変プラスになったようだ。現に草鹿はこんな一文を残している。 「彼は常識に富み、親切で、几帳面で、すべての人に好かれた。私は彼の専攻学科である振動学に関する話を聞かされ、また、彼の恩師であるバルクハウゼン博士の話も聞かされた。その話がなんであったか、いまは記憶にないが、基礎的知識の全くない素人の私がそういった科学的な問題に興味をもつに至った素地をつくってくれたのは、伊藤技術大佐その人であったことは言うまでもない」  これをきっかけに、草鹿と伊藤の垣根を越えた交遊が始まった。  帰国した草鹿はもっぱら航空畑を歩き、のちに作戦用兵の分野に首を突っ込んでいたが、何か問題にぶつかると、自然、兵器の改善、あるいは新兵器の考案を思いつく。その話を艦政本部に持ち込むと、「予算の関係がある」とか「そんなことは自分たちにまかせ、貴官は専門である戦略、戦術の研究に没頭したまえ」と、突っぱねられるのがオチだった。そんなとき、草鹿は伊藤と会い、それとなく意見を聞くことにした。  伊藤もそのつど、適切な助言やアイディアを草鹿に提供する。草鹿や軍令部三課長の柳本柳作大佐(のち少将、空母「蒼龍」艦長、ミッドウエー海戦で戦死)が、太平洋戦争勃発前「電探(レーダー)なくして戦争突入は無謀の極み」と、レーダー開発の必要性を訴える伊藤を積極的にバックアップしたのも、そんないきさつがあればこそであった。  草鹿や柳本がそれほど高く評価した伊藤庸二造兵大尉は、海軍の電子技術を育てた草分け的な存在である。しかも、単なる補助兵器の域を出なかった電波技術を索敵、攻撃兵器に応用すべきだと早くから提唱していた逸材でもあった。  だが、当時の海軍首脳陣は「そんなものは痴人の夢」として、誰も取り上げようとしなかった。これも首脳陣の戦術思想を支えていた“大艦巨砲”主義と、兵科優先の旧態依然とした官僚組織がそうさせたのである。  このため伊藤をはじめ、多くの技術科士官が難題を抱え込むことになった。そのあたりの事情を知るには日本最大の技術者集団「海軍」の屋台骨を背負ってきた海軍技術官制度の変遷から説き起こす必要がありそうだ。  海軍技術官制度  戦前、日本の海の守りを一手に担っていた海軍には二つの組織があった。戦闘要員を主体とする兵科と、戦闘要員が支障なく任務を遂行できるようにする支援グループである。  前者は艦艇や飛行機など、近代的な兵器を駆使し、外敵に備える武装集団で砲術科、水雷科、通信科、航海科、機関科、飛行科などの将兵を中心に構成されている。  一方の支援グループは、軍艦や各種兵器、機材をつくる技術科、医療部門を担当する軍医科、薬剤科、歯科医科、司法を担当する法務科、経理、衣糧支給を担当する主計科に分かれていた。  このうち兵科の中堅幹部になる士官の養成機関には、海軍兵学校と海軍機関学校(入学資格はいずれも旧制中学四年の教程を修了したもの)があった。ここで三年間の教育を終えると少尉候補生として練習艦隊に配属される。初級士官の心得を実地に勉強するわけだ。そのうえで、それぞれの特性に応じて各種術科学校(砲術、水雷、通信、航海、潜水、飛行)の選科学生となり、勇敢な戦士であると同時に、機械の優秀なオペレーターになるように再訓練される。この教育をすませ配属が決まると、はじめて一人前の兵科士官とみなされる。 (註=機関科は昭和十七年十一月から兵科に統合)  一方、支援グループの将校相当官の採用は明治初期からスタートしているが、対象は最初から専門教育を受けた者に限定されている。たとえば、医療部門と法務科は、大学、高専の卒業者で、採用後、所定の機関で幹部教育を施し、そのうえで現場に配属する。また主計科は海軍経理学校(入学資格、修業年限は兵学校と同じ)出身者が主流を占めていた。  これに対し、技術科はこの種の学校がなかったため、大学在学中や任官後の実習をもってそれに代えていた。平和な時代はそれでも十分通用したわけだ。ただし、兵科士官と違って、支援グループの将校担当官には艦船や部隊を指揮する権限(軍令指揮権)はなかった。つまり、軍服を着た専門家、技術者という立場におかれていたのである。  その後、技術科士官の採用方法も何度か変わり、明治三十年十一月に海軍委託生制度という新しい採用システムが導入された。  これは帝国大学に入学した新入生の中から数名の希望者を選抜し、海軍の委託学生として採用する。採用された学生は卒業後、海軍に奉職することを条件に月額十円の学資と、年間三十五円の被服費が学校を通じて支給される。そして卒業と同時に海軍技術中尉に任官させようという制度で、いわば人材の“青田刈り”であった。  大正時代になると、俄然、様相が変わってくる。とくに第一次世界大戦後、世界的な軍拡競争がはじまると、技術科士官の絶対量の不足が問題になった。  そこで、海軍は委託学生の範囲を東京帝国大学から「大学令に基づく大学」(いわゆる七帝大)にまで範囲を広げ、人材の確保に努めた。とはいえ、毎年採用する学生の数は、せいぜい十〜二十名どまり、技術科士官がエリート中のエリートと言われたゆえんもそこにある。  しかし、採用された学生の内訳をみると、航空工学科(船舶工学)、造兵学科(精密機械工学、航空工学)、火薬科(応用化学)、電気科(電気工学、通信工学)が主体で、圧倒的に多いのが、軍艦や大砲、水雷、光学機器、火薬など、即戦力につながる技術を修得した学生である。  一方、通信機器や一般電気関連は二次的な兵器とみられていたせいか、電気科出身の学生は採用数も少なく、海軍部内では非常に地味な存在であった。ところが、後述するように短波時代の到来を境に状況が変わり、通信部門の拡充が急務となってくる。大学一年のとき、海軍委託学生になった伊藤が、東大工学部電気科を卒業し海軍中尉に任官したのは、その直後の大正十三年四月のことであった。  当時、海軍は創設以来はじめてというきびしい環境におかれていた。大正十一年八月に成立したワシントン軍縮条約(戦艦保有率、対米英比六割)のおかげで、大幅な軍縮を余儀なくされていたからである。  しかも、この年には廃棄と決まった旧式戦艦「安芸」「薩摩」(基準排水量、一万九千三百トン)以下の十四隻、建造中の八・八艦隊の四番艦、戦艦「土佐」(同三万九千トン)、巡洋戦艦の一番艦「天城」(同四万三千トン)の解体作業や海没実験が次々に行われていた。 (註=戦艦の三番艦「加賀」、巡洋戦艦の二番艦「赤城」は、空母に転用し廃棄を免れる)  また、一連の軍縮計画の進行によって、千七百名の士官、準士官、五千八百余名の下士官兵、一万四千名の海軍工廠従業員が整理されている。この中には日露戦争以後、軍艦造りに功績のあった技術官が多数含まれていた。この結果、日本海軍は限られたヒト、モノ、カネの下で少数精鋭を目指した「量から質へ」の転換をはかることになった。そういう意味でも、伊藤は大変な時期に海軍に入ったわけである。  一高、東大時代、生真面目な勉強家にすぎなかった伊藤が、のちに頭角を現わすようになったのも「自分たちがやらなければ……」と危機感を抱いたからにほかならない。そのせいか伊藤は最初から成績も抜群で指導教官の受けもよかった。そんな伊藤を「要領が良すぎる」と酷評する仲間もいた。しかし、伊藤はそんな中傷を意に介さず、つねに己れの信念に従って行動した。  やがて砲術学校の初級士官教育、呉海軍工廠の実習を終えると、連合艦隊司令部付となり、いわゆる乗艦実習に移る。これがすんではじめて一人前の士官として扱われる。当時の連合艦隊長官は岡田啓介中将(のち大将、二・二六事件のときの首相)、先任参謀古賀峯一大佐(のち元帥、連合艦隊長官)といった顔触れで、いずれも軍縮路線を支持した「海軍良識派」に属する人たちであった。それだけに艦隊全体の雰囲気も明るく、のびのびした気分が溢れていた。  大正十五年八月、八ヵ月に及んだ艦隊勤務を終え、久しぶりに陸に戻った伊藤に思いがけない朗報が待っていた。ドイツ駐在が決まり、伊藤がかねて念願していた海外留学が実現する運びになったことである。当時海軍において留学を許された者は年間ごくわずかであった。それだけに伊藤にとっては、このうえない朗報であった。  これは伊藤が海軍入りをするきっかけをつくってくれた箕原勉技術少将(明治四十年、東大工学部電気科卒、のち中将、海軍技研所長、日本放送協会技術研究所長歴任)の推挙によるものであった。その動機を箕原自身は次のように述べている。 「当時、世界列強の電波技術の発展は顕著であったので、この際、少壮の技術者を海外に留学させることになり、伊藤君がその候補に選ばれた。その場合、語学の問題などもあり、留学先は米、英が対象になることが多かった。しかし、応用技術という現実的な研究はドイツが最適と考えた。幸いドイツの事情は余り知られていない。そこで研究範囲を電波に限定し、伊藤君にドイツ流の学風を学んでもらいたいと思った」  伊藤もこの方針には諸手をあげて賛成した。あとは留学先をどこにするかであった。そのとき相談相手になってくれたのは、「八木アンテナ」の発明者として有名な東北大学の八木秀次教授である。  初対面の八木は伊藤の話を細かく聞いたうえ、かつて自分が師事したことのある弱電工学の権威、バルクハウゼン教授の指導を受けろとアドバイスしてくれた。大正十四年九月はじめのことであった。  伊藤、バルクハウゼンの下へ  その年の十一月、インド洋、マルセイユ経由の船便でベルリン入りをした伊藤は、ドイツ語の習得に五ヵ月を費やし、昭和二年四月ドレスデンに移り、バルクハウゼン教授の門をたたいた。  ドレスデン工科大学はベルリン工科大学と並び称せられる名門校で、弱電工学ではヨーロッパ一の定評のある大学である。それだけに海外からの留学希望があとを絶たなかった。現に伊藤がはじめて大学を訪れたとき、同じ目的でバルクハウゼン教授に師事していた日本人がいた。のちに京都大学教授になった加藤信義博士である。  ところが、バルクハウゼン教授は外国からの留学生といえども絶対に特別扱いをしない。当初、伊藤は最初から学位研究に取り組めるものと思っていた。だが、教授はそれを許さなかった。それよりまず三年の学生といっしょに先生の講義を聞き、所定の実験を一通りすませることを要求した。  これには伊藤もガッカリした。だが、それは間違いだったとすぐわかった。というのも、学生が手がける実験は、測定、電信電話から高周波関係までおよそ七十種、それを毎週月水金の午後一時から夕方にかけて行う。その実験指導は数名の助手が担当することになっていたが、週のうち二日ぐらいは教授自身が実験室に顔を見せ、二時間、三時間ぶっ通しで学生を指導してくれる。そうやって基礎を徹底的にたたき込むのである。  結局、伊藤は最初の一年間は、先生の講義と実験の明け暮れであっという間に終えた。そして翌年の二月になって、やっと本来の目的である無線用真空管の研究に取り組むことを許された。  こう書いてくると、伊藤は熱心な勉強家のように見える。だが実際はドイツでの生活をエンジョイしながら、自由闊達に振る舞っていたらしい。当時、バルクハウゼン教授の研究室で助手をしていたエーリッヒ・シェーファー博士が、そのあたりの事情を次のように書き綴っている。 「加藤と伊藤はその気質が異なっていた。加藤はどちらかと言えば、静かで繊細な学者であって、バルクハウゼン教授の下で電子工学の分野を研究しにきたという印象が強かった。そのせいか、常日頃、ドレスデンに引き籠っていた。これに対し伊藤は、科学の応用を重んずる天才的技術者タイプであった。しかも、科学技術の研究に情熱を注ぐだけでなく、ドイツ人の風俗、習慣、家庭生活、文化、生活観及び宗教までを知ろうと心掛けていた」  たとえば、伊藤を自分の家に招待すると、家の中にちょっとした台風が起きる。伊藤がドイツ人の日常生活のすべてを知りたがろうとするからだ。そのために忙しい思いをするのは夫人である。  というのも、伊藤の求めに応じて台所道具の説明から料理調理法の実演、家の間取り、暖房、照明、庭園、地下室まで案内させられるからである。また子供部屋では令嬢の教科書を全部展示し、学校の勉強法まで解説しないと伊藤は納得してくれない。それでいて伊藤は夫人に嫌な印象を一つも与えていない。これもドイツ語が身についてきた証拠かもしれない。  伊藤がドイツ語を本格的に勉強し始めたのは、ベルリンに着いてからである。しかも伊藤は、日常会話に事欠かぬようになってもドイツ語の学習を続けた。そのあたりが並の留学生と違うところだ。  また伊藤は暇を見つけてはドイツの地方都市や農村を見てまわった。そして行動を共にした友人とビールを味わったり、ダンスに興じたりもした。こうした一連の遊びは佳き時代の海軍士官なら誰もが経験していることである。  そんな楽しい留学生活の中で伊藤が一番喜んだのは、ベルリン工科大学に留学していた東北大の渡辺寧助教授(当時)と知り合ったことだ。渡辺は弱電工学の権威で、戦後日本の半導体開発の必要性を最初に説いた人物だが、伊藤にとっては一高、東大の五年先輩にあたる人であった。そこで渡辺の下宿に電話を入れ、ベルリンで落ち合うことを約した。もちろん、初対面であった。しかし、話を始めるとすっかり意気投合してしまう。共通の話題が多かったからである。  たとえば、出身地が茨城県久慈町と千葉県御宿町の漁村で、父親はいずれも教育者、おまけに二人とも次男坊と境遇がよく似ていることも親近感をつのらせる原因になった。  この出会いを契機に、伊藤は、渡辺を同学の研究者として個人指導を仰ぐ約束を交した。以来、渡辺と伊藤の交遊は戦中、戦後を通じて深まり、切っても切れない間柄に発展していったのである。 「あすの討論会で、私の二つの仕事を発表する。“グリッド・ダイナトロン”と“ダイナトロン理論”。それで忙しいため方々へ大分ご無沙汰した。近頃、スキーがうまくなった。日曜には滑っている。だが、昨日は例外。一日中、家で図面をひいた。そして考える。そんなときに暇をつくって、遊ぶときは徹底して遊ぶ。それで本当の遊びの愉快さを味わえる。愉快に遊ばないではもったいないような気がする」  こんな手紙が、伊藤の実弟、中島茂(当時、早大理工学部学生)に届いたのは、昭和四年一月下旬のことだった。前の年の十一月から手がけていた「二極管の加熱電流制御による超低周波電気振動の発生」という新しい着想の研究が順調に進んでいたからであった。  やがて、「二極真空管理論並びに超低周波発生」と題した論文がまとまった。それから三ヵ月後、論文審査が行われた。それがすむと、こんどは口頭試験がある。それも試験官一名、副試験官一名が、バルクハウゼン教授の司会の下に意地の悪い質問をいろいろぶつけてくる。博士号を取得するためにはこの壁を乗り越えなければならない。工博の試験を通過できるのは学士中百分の五と言われるのもこうした難関があるからである。  幸い伊藤は、この難関を無事に乗り越え、晴れて博士号を取得することができた。昭和四年七月のことである。前述の草鹿竜之介中佐との出会いは、二年半に及ぶ留学生活を終え、帰国する途中の出来事であった。  海軍技術研究所の由来  足かけ三年ぶりに母国の土を踏んだ伊藤は、海軍技術研究所出仕の技術官になった。海軍技研は、大正十一年のワシントン軍縮条約成立後「量から質へ」の転換を迫られた海軍が兵器の質的向上をはかるため、東京・築地にあった海軍艦形試験所、航空機実験所、造兵廠を統合し、大正十二年春に発足したのがそもそものはじまりである。  ところが、発足直後、関東大震災で被害を受けたため、東京・目黒の高台にあった旧陸軍の火薬製造所跡地に移転することになった。海軍技研の復興建設工事は、昭和二年から始まったが、緊縮財政のおかげで完成が大幅に遅れ、昭和五年九月にやっと工事を完了した。  ちなみにつけくわえると、当時の海軍技研所長は“軍艦づくりの神様”と言われた平賀譲造船中将(のち東大総長)である。平賀は八・八艦隊の一、二番艦「長門」「陸奥」(基準排水量三万四千百トン、四十センチ砲八門搭載、大正九、十年完成)の主任設計者であった。  その平賀が世界的に有名になったのは、十四センチ砲六門、六十一センチ二連装魚雷発射管二基を搭載した排水量三千百トンという画期的な軽巡洋艦「夕張」(大正十二年七月完成)を世に送り出してからである。  独特のシルエットを持ったこの高速巡洋艦の誕生を知った世界の軍艦デザイナーはそれが小型軽量であるにもかかわらずかなりの重装備をしていることに注目し、「タマゴのカラがハンマーを持った船」と、一様に目を見張った。  続いて平賀は、「量から質へ」の転換の先鞭をつけた重巡洋艦「加古」(基準排水量八千六百トン、二十センチ砲六門)型、「那智」(同一万トン、二十センチ連装砲塔五基搭載)の設計を手がけ、軍艦デザイナーとしての地位を不動のものにした天才的な造船官であった。  だが、一見、無口でおとなしそうに見える平賀も、妙な癖を持っていた。何かに熱中するとガラッと人が変わり、場所柄もわきまえず人をどなりつけることである。そのせいか、艦政本部や軍令部首脳陣の平賀評は必ずしもよくなかった。艦政本部第四部設計主任のポストから海軍技研所長に転出させられたのも、それが原因だったと言われている。  昭和五年にできあがった新研究所は、殺風景で、武骨一点張りの海軍の建築様式と異なり近代設備とモダンな外観を備えた立派な建物であった。また恵比須寄りの正門から本庁舎までの道路両側には、みごとな欅並木が配されていた。よりよい環境をつくり、研究者が快適な気持ちで仕事に取り組めるようにしたいという平賀の切なる希望で、明治神宮の造園主任、田坂美徳技師が苦心の末つくりあげたものであった。  皮肉にも、これが海軍部内で問題になった。「現場サイドが緊縮予算で四苦八苦しているのに贅沢すぎる」というのだ。このため平賀は「研究所建設の経理処理に適切を欠いた」という理由で、二代目所長の座を後任に託し、予備役に編入されてしまう。昭和六年春のことである。  そんな経過をたどり、艦政本部の外局として再発足した海軍技研は、理学、化学、電気(無線を含む)、造船、材料、実験心理など各部門別に分かれ、それぞれの立場で艦艇、艦艇用機関、艦艇用各種兵器の開発に役立つ基礎・応用研究を担当するアカデミックな機関であった。その研究開発の水準は英米と比べても遜色はなかったと言われている。  これに対し、海軍省の出先機関である横須賀、呉、佐世保、舞鶴の各鎮守府は、傘下に工廠を持っている。ここは艦艇や兵器の造修を担当する工場部門と、実験部門で構成されている。したがって、規模も大きいし、抱えている技術者、工員の数も多い。  たとえば、日本海軍のシンボルと言われた戦艦「長門」「大和」、空母「赤城」「蒼龍」、重巡「那智」「愛宕」「最上」を建造した呉海軍工廠(現石川島播磨重工・呉工場)は、敷地面積百万坪弱、最盛期(昭和二十年六月)には、九万余の技術者、工員を擁する日本最大のマンモス工場であった。しかも、呉工廠には時代の先端をゆく最新鋭の施設や機械、実験場があり、プロトタイプの大型艦を建造したり、改造するのにはうってつけの工場と言われた。  こうした工廠と技研の特色、環境の違いが、同じ技術科士官でありながら、工廠に配属になった技術官と、技研の技術官の間に微妙な意識のズレをもたらすようになった。これは現代のハイテク志向企業によく見られる中央研究所の研究者と製品工場の技術者との意識の相違と通じているようで興味深い。  そのあたりは、あとで触れるとして、まず伊藤の配属された技研電気研究部の組織を簡単に紹介しておこう。  当時の電気研究部は、無線電話機、無線応用・方位測定機、受信機・測波器、艦船用無線機、暗号機、大型送信機、無線操縦、写真伝送、航空無線、音響の各部門に分かれていた。伊藤は、そのいずれにも属さない電気研究部長研究室というところに配属され、もっぱら無線通信全般の基礎研究を担当するように指示された。これは、電気研究部長の箕原少将たっての希望によるものであった。  電波伝播研究に新境地拓く  海軍技研が再出発した昭和五年はワシントン条約では不十分にしか実現されなかった日・米・英三国の軍縮をより徹底させるために巡洋艦以下の補助艦艇保有量を制限した「ロンドン軍縮条約」が成立した年である。それだけに海軍を取り巻く環境は以前にもましてきびしくなってきた。要求する予算はどんどんカットされ、ヒト、モノ、カネのすべてが不自由な時代であった。  一部の士官は、そんな海軍を「ネイバル・ホリディ」(海軍の休日)だと皮肉な目でとらえ、首脳陣の不甲斐なさに苛立ちを覚えるようになった。  しかし、軍艦の保有量は制限されはしたが、戦力になる艦艇用の兵器や装備品の開発競争はかえって激しくなった。その顕著な例が通信分野だった。短波通信の実用化の道が拓けたからである。  これは無線通信の世界にとって革命的な出来事であった。というのも、短波を使うといろいろなメリットが出てくる。たとえば、電波を発射する空中線が小さくてすむ。第二はエネルギーの損失が少ないこと、第三は空中線を組み合わせることによって容易にビーム・アンテナをつくることができ、所要の方向にエネルギーを収束して出すことも可能になる。その結果、周波数の割り当てが容易になり、これまで関係者の頭痛のタネだった混信も防げる。また空電、その他の雑音比率を高くとることができるという利点もあった。  だが、これらのメリットをフルに活かすためには、無線技術の質的向上が先決だった。艦政本部が伊藤を応用研究では一頭地を抜いていたドイツに派遣し、弱電工学を学ばせたのもそのためである。  技研電気研究部に出仕するようになった伊藤が最初に取り上げた自主研究のテーマは振極管の研究であった。これは真空管の電極に機械的振動を与えて、電気振動を増幅させるというものだった。  ところが、上司の箕原少将は難色を示した。理論的には面白いが、海軍では実用価値が薄いと思ったのだ。しかし、伊藤はあきらめない。そして何度もやらせてほしいと訴えてくる。結局、箕原もその熱意にほだされ、しぶしぶ研究着手を許した。  この研究成果は、のちに「磁電管の研究」と題する学位請求論文となり、昭和十一年、東大に提出された。その結果、同年十二月、東大から工学博士号が授与される。伊藤の存在が学会で注目されるようになったのは、こうした実績によるものであった。  その伊藤は、当時、もうひとつ大きな研究テーマと取り組んでいた。それは電離層の研究である。  短波が遠距離通信に使われ始めるとやっかいな問題が起こった。その一つがフェイディング現象(屈折反射)である。普通地上から発射された電波は大気電離層で屈折し、地上に降りて地表で反射し、再び上空電離層に向かう。こういう経路をたどり遠距離に到達する電波は、その途中の気象条件や地形によっていろいろ変化する。そのため肝心な電波が混信したり、ときには、まったく聞こえないことがある。これは軍事目的に使用する場合、致命的な欠陥になる。そこで、海軍としても電波伝播の研究に本格的に取り組むことが急務になったのである。  最初、この問題に挑戦を試みたのは、英国のアップルトンであった。大正十四年のことである。アップルトンは電波を上空に向けて発射、上空からはね返ってくる電波の干渉状況を観測して、見掛けの高さを測定した。  一方、米国ではもっと簡単にこの高さを測定する方法が考案された。それは短いパルス電波を上空に打ち上げ、返ってくるエコーの時間を測定して高さを測る方法である。  海軍もこうした欧米の動きに刺激され、積極的に部内研究を進めるかたわら、学術研究会議電波研究委員会の仲介によって、関連官庁、民間会社の協力を得て、大掛かりな実験を始めたが、なかなか期待したような成果が得られない。  そんな矢先、伊藤がドイツから帰国した。これを機会(し お)に、この研究は箕原少将の特命事項として伊藤が引き継ぐことになった。  伊藤はもともと正攻法で取り組むことが好きなタイプであった。それだけに、まず前任者が使っていたアップルトン方式の装置で測定実験を試みた。その結果、電離層からの反射層の存在は確認することができたが、反射層の高さやその変化に対する正確なデータを得るには至らなかった。多重反射波の妨害が強すぎたからだ。それを自分なりに確認した伊藤は、いろいろ考えた末、インパルス波を用いた独自の測定装置をつくりあげた。昭和七年のことである。  そして、二メガヘルツと四メガヘルツの電波を使い、電離層の定期観測を開始した。これが、わが国における電離層定期観測のはじまりであった。  この観測結果は、当時、世界的に行われていた極年観測(国際地球観測年の前身で、二十五年ごとに行われる)に対する日本からの情報として、日本学術研究会議電波研究委員会を通じて、全世界に発表された。また、同委員会は伊藤が計測した記録を万国無線科学協会(URSI)の事業の一環として、毎週一回、測定結果速報という形で全世界に向けて放送した。  この放送は、昭和十六年十二月、太平洋戦争が始まる直前まで続けられ、世界の無線学会の研究に大きく貢献したはずである。  以来、伊藤は電波伝播の研究に一途に取り組んでゆく。たとえば、日食観測の行われた昭和九年には電波日食観測班の一員として、南洋ローソップ島に出張した。そしてそのために開発した自動記録装置を駆使して、貴重な観測結果を学会にもたらした。これに自信を得た伊藤は従来の観測手法の一部を手直しして独自の研究を続けた。  こうした活動に対し、海軍部内の一部関係者は「学術的でありすぎる」と批判した。日本最大の技術者集団を誇った海軍の中堅幹部の中には、科学実験の重要性をわきまえない“天の邪鬼”が跋扈していたのである。  ところが、のちにこの一連の観測研究が、軍事用短波通信の波長選択に必要不可欠であることがわかってくる。そのため、艦政本部は一目でわかる波長選択の図表を作成するようにと命じた。問題の図表は、昭和十二年、関係者の努力によって完成し、実施部隊の貴重な資料となった。伊藤が昭和十七年八月、海軍大臣から海軍技術有功章を授与されたのもそのためであった。 第二章 電波兵器  いびつな軍備拡大  少数精鋭による戦力向上を目的とした「量から質へ」の転換は、軍艦の機能のバランスを大きくゆがめる結果を招いた。それを補おうとした典型的な例が、実施部隊の猛訓練である。とくに軍縮に強硬に反対した加藤寛治大将が軍令部長に就任した昭和四年以降は、「月月火水木金金」という実戦さながらの猛訓練が常識と言われるようになった。  これを契機に軍令部の強硬な意見が公然とまかり通るようになり、条約を尊重しようという海軍省(軍政系)との対立が目立ち始めた。軍令部を中心とするいわゆる武断派が主導権を握り始めたのである。そんな矢先、満州事変(昭和六年九月)、上海事変(同七年一月)というやっかいな問題が立て続けに起こった。  上海に大きな利権を持つ米国と英国は、この一連の事件を重大視し、日本を威圧するような態度を公然ととるようになった。米国海軍が総合大演習を名目に、大艦隊をハワイ周辺に集結し、示威運動を展開したのもその一環であったことは言うまでもない。  こうしたきな臭い世界情勢に刺激されたのか、巷に「日米戦近し」を思わせるような本が次々に出版され、ブームを呼んだ。しかも、一流新聞や月刊誌までがそれに同調し、危機感をあおるような記事や読物を掲載する。  海軍良識派と目される人々が眉をひそめたのも当然であった。だが、良識派の正論も艦隊派の強硬な態度で消されがちになる。海軍少壮士官を首謀者とする五・一五事件(犬養毅首相暗殺)は、そのような背景の下で起こった。  この事件のあと日本は斎藤実内閣が成立、政党内閣時代に終止符が打たれ、しだいに右傾化の道をたどり始める。とくに昭和八年三月の国際連盟脱退を皮切りに、海軍部内でも米国を敵視する風潮がしだいに露骨になってきた。これと並行して戦力の拡充、強化が密かに進行し始めた。  それを端的に物語っているのは、日本最大の兵器廠、呉海軍工廠の目まぐるしい動きである。  呉工廠はロンドン軍縮条約成立直後の昭和六年四月、三千七百余名の職工を整理し、地元経済に深刻な波紋を投じた。ところが、一年後の昭和七年から八年初頭にかけ、七千八百余名に及ぶ大量の工員を再募集せざるをえなくなる。これは、新規建造を中止されている戦艦の改造が始まったことによる。改造の重点は、水平並びに舷側防御の増大、主砲性能の向上、機関の換装、飛行機カタパルトの新設、艦橋の改造、艦型の改修、防空兵器の強化などであった。  改造終了の一番艦は戦艦「扶桑」(基準排水量三万一千トン)で、昭和八年五月、再び艦隊に戻ってきたときは、昔日の面影はまったくなく、堂々とした大檣楼を持った巨大な戦艦に生まれ変わっていた。もちろん、排水量も一挙に三万九千百五十トンに膨れ上がって、関係者をびっくりさせたほどだ。  また同型艦の「山城」をはじめ、巡洋戦艦の「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」(排水量はいずれも二万七千五百トン)の二次改造が始まったのも、昭和八年から九年にかけてである。そして改造が終われば、三万六千六百トンの戦艦に変身するはずであった。  海軍が航空部隊の育成に本腰を入れ始めたのも、そのころである。それもロンドン軍縮会議に日本側委員の一人として出席した山本五十六少将(当時)が、航空本部技術部長に就任した昭和五年以降である。  その山本が最初に手がけたのは、技術要員の確保であった。当時は軍縮下の緊縮財政時代で武官(技術官)や文官(技師)を増員する余裕がない。そこで考えた苦肉の策が、技術系大卒者を枠外の工員として採用、折を見て技師に登用するというやり方である。  また、昭和七年には霞ケ浦の海軍技術研究所航空研究部、横須賀海軍工廠航空機実験部、同発動機実験部を統合、海軍航空廠(のち航空技術廠)を発足させるなど、基礎固めに努めた。その成果が実り始めるのは、昭和九年から十年にかけてであった。 (註=山本は昭和八年十月、第一航空戦隊司令官に転出、その後、本省勤務、ロンドンで行われた二回目の軍縮予備交渉の代表委員などを経て、昭和十年十二月、航空本部長に就任する)  こうした一連の近代化計画が軌道に乗り始めた直後、予想もしなかった突発事故が発生した。昭和九年三月十二日早暁、水雷艇「友鶴」(基準排水量六百トン)が、佐世保港外志志伎島の沖合いで訓練中、突然、激しい風と横波をまともに受け、あっという間に転覆してしまったことである。  もともと駆逐艦や水雷艇はボイラーとタービンを収納したブリキ船のようなもので、その高速性を利用して、敵艦船に接近、魚雷攻撃を敢行するのが役目である。それだけに重装備の割に吃水も浅く、身軽に行動できるように造られている。  そんな重心の高い船が三十ノット近いスピードで突進すれば、艦首が浮き安定性が悪くなるのも当然であった。それが思わぬ事故につながったのだ。  ところが、これと同じような事故が一年前に起きていた。それは大正末期に建造された二等駆逐艦「早蕨」(排水量八百五十トン)が、台湾東方海上で時化に遭い、転覆沈没、艦長以下百四名が殉職した事件である。このとき海軍当局は「やむをえない、不測の事故」と判断、事故原因を深く追及しなかった。  だが、こんどの事件は事情がまったく違う。事故に遭った船が就役したばかりの新造艦だったからである。そこで艦政本部は軍艦造りの権威者を集め、急遽、事故調査委員会を発足させ、原因の徹底的究明に乗り出した。その結果、構造設計そのものに問題があったことが判明した。 「現場」が研究開発を振り回す  ——量の不足を質でカバーしろ——これが当時の軍令部の要求であった。つまり、船の数を増やさないで、いかに戦力をアップするかが至上命令であった。そこで艦政本部は無理を承知で個艦の性能や重装備を施した軍艦造りを関係者に指示する。  だが実際に船を建造してみると、必ずしも計画通りいかない。決められた容積の中で限界以上の重装備をすれば必ずどこかに皺寄せが来る。  現場サイドの造船監督官はその矛盾を中央に報告せず、独断で修正し、要求に見合うような船に造り変えていった。それが不測の事故を招く原因になったのである。  これを知った軍艦デザインのエリートたちは一様に顔色を変えた。なかでも設計陣の責任者である藤本喜久雄造船少将は「そんなバカな!」と、絶句したきり黙り込んでしまった。事態を重く見た艦政本部は、建造中の艦船の工事にストップをかけるとともに、着工直前の艦船はすべて設計のやり直しを命じた。また問題のありそうな艦齢の浅い船は、安全が確認されるまで行動を制限するよう各鎮守府に依頼する非常措置をとった。  一方、責任を問われた艦政本部第四部計画主任の藤本造船少将は海軍技研に転出させられる。技研と査問委員会を往復する藤本の苦難の謹慎生活は、それから始まった。  その藤本に代わって、隠居の身であった平賀中将が嘱託として復帰し、再び軍艦設計の指導にあたることになる。昭和九年四月であった。  これは年内着工が予定されていた戦艦「長門」の大改造に伴う異例の措置だったが、「友鶴」事件で広がった造船官に対する不信感を平賀の手で払拭させようという艦政本部の政治的なねらいも多分に含まれていた。それは「長門」改造の際、平賀の要求を無条件で受け入れていることでもわかる。  だが、この人事は海軍の近代化のためにはあまり役立たなかった。平賀はすでに“過去の人”だったからである。  確かに、現役時代の平賀は軍艦造りにかけては群を抜いた存在であった。その点は質を重視した一連の巡洋艦、あるいは、ワシントン条約で建造中止になった八・八艦隊の戦艦、巡洋戦艦のデザインを見てもわかる。  しかし、それは「大艦巨砲」主義の権化を思わせる一時代前の軍艦であった。つまり、外見は戦国時代の鎧武者を連想させるほど美しく、たくましい。攻撃力も世界一と言われた英国、米国の水準をはるかに上回る重装備を有していた。ところが、この艦隊には見えざる欠点があった。これらの艦隊を動かすには膨大な重油が必要不可欠だった。また、守りに対する配慮も万全とは言えなかった。つまり、攻守のバランスを欠いていたのである。  現にそれをさらけ出すような大事件が再発し、艦政本部をあわてさせた。昭和十年九月下旬、北方海域で訓練中の艦隊が台風に遭遇、多数の損傷艦を出した、いわゆる「第四艦隊」事件である。  このとき艦政本部があわてた理由は二点あった。ひとつは被った被害が予想以上に大きかったことである。最新鋭の特型駆逐艦「初雪」「夕霧」(いずれも排水量千百トン)は艦首切断、「睦月」「菊月」「三日月」(同千三百十五トン)「朝風」「春風」(同千二百七十トン)は艦橋倒壊、さらに空母、「鳳翔」(同九千三百トン)「龍譲」(同一万トン)、完成したばかりの新鋭軽巡「最上」(同九千五百トン、のち重巡に改造)なども、大なり、小なりの被害を受けた。  さきの「友鶴」事件のほとぼりのさめていない直後の事故だけに、艦政本部首脳が顔色を変えたのも当然であった。  もうひとつは、演習の二ヵ月前、艦政本部牧野茂造船少佐(のち大佐)から「一連の特型駆逐艦の中に問題のある船が発見されたので、同型艦の演習参加は当分見合わせてほしい」という意見具申が艦本首脳陣になされていたことである。  ところが、兵科出身の担当部長は「演習計画に支障を来たすのでまずい」と、この意見を握り潰してしまった。技術者集団「海軍」に常識が通用しなくなったのはこの前後からと言われている。  こうした一連の不祥事件は、呉工廠で始まった「長門」の改造計画にも微妙な影響をもたらした。  たとえば、当初、軍令部が艦政本部に示した近代化要求は、水平、垂直防御の範囲を出ていなかった。ところが、平賀はそれを上回る改造を強く主張した。結局、原案は平賀の主張通り、対戦相手からの攻撃に対する防御を強化する方向で大幅に修正される。このため一部着工ずみの工事はすべてストップし、改めて造り直すケースも出てきた。  竣工以来、何度かの小改造で三万七千トンに膨れ上がっていた「長門」は、平賀案を全面的に採り入れたため、長さも、幅も、艦型も一回り大きくなり、基準排水量は一挙に四万三千五百トンにはね上がり、関係者を驚かせた。  しかも、この平賀の思想は、のちに世界最大の戦艦と言われた「大和」「武蔵」(公式排水量五万九千百トン)の基本設計の中に随所に活かされている。そういう意味では、平賀の果たした役割は大きい。  だが、その反動で飛行機や電波兵器のような近代戦に不可欠な兵器の開発は大幅に遅れる。幸い飛行機の場合は、山本五十六という強力なリーダーシップを持った実力者が台頭したことで、当初の遅れを取り戻すことができた。  それにひきかえ、無線機器に代表される電波兵器は、最後まで陽の当たる場所に出られなかった。部内に理解者が少なかったためである。  不遇の電波兵器開発  海軍が電波兵器開発に出遅れた理由のひとつは、若手研究者の絶対量が不足していたことである。というのも、当時は軍縮下のきびしい財政難時代。そのせいか、一生を海軍に捧げようという篤志な学生も非常に少なかった。  もともと海軍の依頼で設けられた東大工学部の造船科や造兵科からは、少ないながらも、毎年何人かの学生が海軍委託生として採用されていた。ところが、電気の場合は採用者が少なかったせいか、志望者ゼロという年が何年か続いた。  それを心配した海軍の先輩は、ドイツ留学から帰ったばかりの伊藤を東大に派遣し、積極的に勧誘に努めた。  そんな工作が功を奏したのか、その年、各学年から一人ずつの志望者があったという。これは伊藤が海軍入りをして以来、久しぶりの志望者だった。つまり、これまで六年間、東大から委託生が出なかったわけだ。このため海軍技研電気研究部は慢性的な人手不足に悩まされ通しであった。  そこで技研のスタッフが考えた苦肉の策は、必要な学卒技術者を“金物(かなもの)”に見たて採用する方法である。昭和九年から伊藤研究室の要員として、電波伝播の研究に携わってきた新川浩(のち海軍技師、国際電電技術研究所長)は、そのあたりのいきさつを次のように語っている。 「つまり、技研からある品物を発注し、それを技研の中で作るという名目で、大学、高専出の技術者を入れた。もちろん、身分は海軍の人間じゃなく、建前上メーカーの人間にしておく。だから技研からメーカーに払った品物の代金から給料が出るわけです。そういうメーカーには、あらかじめ特別の記章が渡されている。それをつけていれば、通用門から自由に出入りできる仕組みになっていた。伊藤さんはそうやって数名の人を採って、一人前の研究者に育ててきたんですね」  ところが、新川が入った直後になるともっと徹底し、職夫という名目で採用するケースが増えてくる。職工の下の臨時雇いという意味だ。前述の“金物”と違う点は、技研が直接雇ったことである。  しかし、たとえ身分は低くても、研究室では班長格の責任者としてどんどん登用する。待遇面でもその実績に応じて別枠で加給されるから文官(技師、技手)並の給料が保証されている。そんなところは、いかにも海軍らしいやり方だった。  伊藤の初期の仕事である電波伝播とマグネトロンの研究は、こうした一連の人々の協力を得てすすめられたものである。しかも、この前後、変則的な形で入所した技術者は、のちに技師や武官に登用され、最後まで海軍電波兵器開発の中核として活躍した。これも伊藤の人柄と指導力に負うところが大きい。  また、伊藤が部外の有力者と共同研究を積極的に進めるようになったのも、この前後からであった。  たとえば、電波伝播の研究では日本学術会議電波研究委員会(長岡半太郎委員長)と、また、昭和八年からスタートした艦船用の秘密通信装置の開発では、東北大学の渡辺寧教授、永井健三助教授(当時)の指導を受けている。そのころ、永井は磁気録音の基本特許である高周波バイアス録音法の研究に着手した直後だけに、海軍技研との共同研究は、永井のためにも役立ったはずである。  それは別として、当時、伊藤は海軍部内でも異色の存在として注目されるようになっていた。とくに軍令部や海軍省、艦隊の通信関係の一部士官からは高く評価されていた。電波兵器の開発には用兵者の生の声が欠かせないという伊藤の前向きな姿勢が好感をもって迎えられたらしい。  各自の所管事項を明確に区分していた海軍で、このような思い切った行動をする人はそうはいない。艦政本部から技研に、苦情や叱責が舞い込むのも当然であった。だが伊藤は一向に気にしない。技術官として当然のことをやっているのになぜ悪いのかというわけだ。伊藤はそんな反骨精神もあわせ持っていたようである。  だが、伊藤の地道な努力もなかなか活かす機会がなかった。それどころか、理解のない一部用兵者の高圧的な姿勢が目立つようになる。それも個艦や通常兵器に対するきびしい要求だけでなく、電波の割り当てにまで及んだ。  当時、海軍省軍務局の通信担当だった佐藤勝也少佐がこんな趣旨の記録を残している。 「昭和九年といえば、満州事変直後で、軍令部の鼻息は荒かった。軍令部、海軍省間に“省部互渉協定”ができたためである。この協定ができてから事の大小を問わず、何事も軍令部に相談しないと、手も足も出ないというところまで押しまくられた。当時、陸海逓の三省間で結ばれた“三省電波統制会議”では、電波の割り当てでずいぶんもめた。それより前に、海軍の意見をまとめるために軍令部と軍務局でもめる。最後は軍令部が『作戦上の要求』だと宝刀を振りかざし、一歩も引かない。おかげで二階と三階での電話合戦は絶える日がなかった」  そうやって海軍が獲得した使用予定電波数は、総計一万にも及んだ。ところが、海軍はそれを有効に活用する手段を講じなかった。  というのも、作戦中に軍艦なり、艦隊が下手に電波を発射すればたちまち自己の存在が敵に察知され、行動の自由を失うと考えたからである。そこで無線管制という制度をつくる。  とくに太平洋戦争開始前後の両一年は“無線封止”なる言葉を考え出し、無線の使用を厳重に制限してしまった。要するに実戦部隊は耳をふさいで戦うことを強要されたわけだ。  しかし、戦場では長波、中波、短波を通信目的に従って使い分けることで、敵の探知を回避することができたのである。実際、このことは時をおかずして実証されることになる。したがって当時の海軍では無線装置の機能は十分活かされていなかった。このように、無線を含めた電気担当の技術官はつねに不遇の環境におかれていたのである。  無視された情報  こうした海軍の消極的な姿勢をよそに、欧米では電波を索敵兵器に使用する研究が密かに進んでいた。現に、昭和十年にこんなことがあった。技研に勤めていた日系二世を通じて耳よりな情報が艦政本部にもたらされた。 「米国のある技術者が、数十マイルの彼方を飛んでいる飛行機を検出できる装置を開発している。これが完成したら日本の海軍に売りたいと希望している」  という内容だった。艦政本部は、さっそく関係者を召集し、検討会を開くことにした。少佐に進級していた伊藤も、そのメンバーの一人であったことは言うまでもない。会議の席では各人各様の意見が出された。 「可能性はある」「そんな簡単にできるわけがない」「もっと詳細な内容が知りたいから、当事者と接触し、もっと突っ込んだ話を聞くべきだ」といった意見が飛び交った。  しかし最終的には、「それが本当なら、米国から売りにくるはずがない」という結論に達し、この一件はその場限りで不問に付されてしまった。  一方、再軍備宣言をしたばかりのナチス・ドイツも、密かに電波兵器の開発に取り組んでいた。この情報を最初にキャッチしたのは、ほかならぬ伊藤自身であった。昭和十二年初夏のことである。  この年の春、伊藤は二度目のヨーロッパ出張の途についた。ルーマニアのブカレスト、オーストリアのウィーンで開かれる国際無線学術諮問会議と万国短波学会に出席するためであった。  伊藤は最初の会議であるブカレストでの日程を消化したあと、ナチス政権下のドイツまで足を伸ばした。ドレスデンで恩師のバルクハウゼン博士やかつての旧友と会うためである。  当時、ドイツはヒトラーが政権を握って四年目、大国防軍の建設に邁進している最中であった。久しぶりに旧友に会ったときも、当然、それが大きな話題になった。その一連の会話の中で、伊藤は思いがけない話を小耳にはさんだ。 「ドイツ海軍が、夜間、電波を使って測距できる装置の開発に成功したらしい」  という情報だった。もちろん、未確認情報である。しかし、弱電工学の進んでいるドイツだけにありえない話ではない。また、こんどの旅行の最初の訪問国イタリアのローマで会ったマルコニー博士からも、短波を使った新しい兵器の開発は夢でなくなったという話を聞かされたばかりである。  それだけに気になった伊藤は、この話をドイツ大使館付の海軍武官、小島秀雄中佐(当時、のち少将)にそれとなく伝えた。  すると小島は「それが事実とすれば夜戦に革命的な変化が起こる。夜戦を重視する日本海軍も無視できなくなる。僕から中央に報告しておこう」と、確約してくれた。だが、軍令部も艦政本部も、なぜかこの情報を握り潰してしまった。  これと似たような話がもうひとつあった。造船担当の技術官、牧野茂少佐が英国でつかんだ情報である。  この年、牧野はジョージ六世の戴冠式記念観艦式に参列する重巡洋艦「足柄」(基準排水量、一万トン)に、司令部付技術官として乗務、英国に出張した。やがて所定の行事をすませた「足柄」は、最後の帰港地ドイツのキール軍港の訪問を終え、六月初旬、帰国の途についた。その「足柄」が、英仏海峡のドーバー寄りを通過したのは夜に入ってからである。  そのころ英国では防空演習が盛んだった。軍備を拡充するナチス・ドイツに備える訓練であることは言うまでもない。たまたま艦橋でその模様を眺めていた牧野は、奇妙な現象に気づいた。地上から照射される探照灯が飛行機を捉えるのがものすごく速いことである。何しろ、二本の光芒が上空でクロスしたと思った瞬間、その中にガッチリ機影を捉えている。しかも、何度見ても同じ結果が出る。これが牧野の脳裡に妙にひっかかった。  そこで帰国後、この事実を艦政本部や呉工廠の関係者に話し「研究してみる余地があるのでは……」と持ちかけたが、誰も取り合ってくれなかった。日華事変の勃発(昭和十二年七月七日)で、艦艇の改造や予備艦の復帰作業に追われ、そんなことを考える余裕がなかったのだ。  もっとも、こうした素っ気ない態度は、いまに始まったことではない。現に一年ほど前、伊藤の先輩である谷恵吉郎造兵大佐(のち少将、横須賀工廠無線実験部長)が、電波を使った索敵兵器の開発を提案したことがある。すると艦政本部の首脳は「そんなものは闇夜に提灯をつけるようなもので、海軍の伝統である奇襲攻撃には不向き」と、全然取り合おうとしなかった。  つまり、当時の海軍首脳は「海上決戦は主砲と魚雷の優劣で勝負がきまる」という昔ながらの戦術意識にこだわり、文明の利器である電波を駆使して効率よく戦うことなど毛頭考えていなかったのである。そのあたりの事情は、昭和九年から本格的になった軍艦の改造計画を見てもよくわかる。  呉工廠で行われていた戦艦「長門」の大改造工事が終了した昭和十一年一月末、日本はさきのワシントン条約破棄(昭和九年十二月)に続き、ロンドン軍縮会議脱退を米英両国に通告した。これで大正十一年二月以来、十三年間に及んだ“ネイバル・ホリディ”からやっと解放され、自由の身となった。  これを契機に海軍は、重巡洋艦の改装に手をつけ始めた。そのねらいは水中防御を強化すること、十二・七センチ高角砲の装備が中心であった。この結果、当初の基準排水量一万トン以下という設計は大幅に変更される。  たとえば、二十センチ単装砲を連装砲に改めた「古鷹」(排水量八千六百トン)級二隻は、一万六百三十トン、「那智」(同一万トン)級四隻は一万四千九百八十トン、「愛宕」(同九千八百五十トン)級四隻は一万三千四百トン、「最上」(同九千五百トン)級二隻は一万二千トン、「鈴谷」(同九千五百トン)級二隻は一万三千四百四十トンと、いずれも三〜五割方排水量がアップした。  一方、近代戦の花形になる航空母艦も「赤城」「加賀」が、昭和十年から十三年にかけて改装を終え、四万トン級の大型空母に生まれ変わる。また、さきの「友鶴」事件のあおりで着工をストップ、設計変更を行った「蒼龍」(一万八千四百トン)が、昭和十二年十二月、さらに、十四年七月には「飛龍」(二万三百五十トン)がそれぞれ完成した。  こうして海軍は“無敵艦隊”にふさわしい陣容を着々整えていったのである。  電気部員の労苦  エレクトロニクスと直接関係のなさそうな軍艦の近代化改装の話を、長々と述べたのも、その陰でいろいろ苦労した電気(艦内通信を含む)担当技術官の地味な活動ぶりを知ってもらいたかったからである。  前に触れたように、電気部員には無線を担当するグループと、艦内の電気工事全般を受け持つグループがあった。  前者は短波時代の到来で脚光を浴びたせいか、結構志望者もあった。だが、後者は仕事自体が地味なうえ、受け持つ分野が非常に広い。それも発電機、電動機、照明、二次電源、電池、配給電、各種有線機器、砲位射撃装置、自動制御装置と数え上げたらきりがない。しかも、そのひとつひとつは軍艦にとって必要欠くことのできないものばかりである。そういう意味では技術者にとってやりがいのある面白い仕事ではあった。にもかかわらず、なかなか優秀な人材がきてくれない。  艦艇の近代化工事が始まった当初は、そんな状態が暫く続いたらしい。そのあたりの事情について深田正雄技術中佐(のち松下電器、関西電子工業振興センター専務理事)は、次のように語っている。 「私が東北大学の電気を出て任官したのは昭和十年四月、同期生は二十名いたが、電気出身は私一人でした。その後、砲術学校での初級士官教育、呉工廠、技研の実習をすませ、十一年一月から連合艦隊司令部付になった。艦隊勤務は五ヵ月だったが、その間、いろんな船に乗りました。そうやって軍艦の仕組みがどうなっているか、徹底的に頭にたたき込まれるわけ。それを終え佐世保工廠造兵部電気工場に配属になった。私は大学時代、永井健三助教授の研究室にいたので、無線を希望したんです」  しかし、工場の幹部は「無線をやるやつはたくさんおる。だが電気担当に適任者がいない。すまんが君にそれをやってもらおうと思っている」と言われた。深田は気がすすまなかったが、命令とあればやむをえない。以来、深田はセルシンモーターを使う艦内の電気装置を一貫して手がけるようになった。  だが、この仕事は端が考えるほど容易ではなかった。というのも、有線通信は砲術、水雷、機関、航海、無線など、あらゆる分野と密接なつながりがあるからだ。  しかも、作業時の主導権はその部門の技術官が握っている。それだけに配線ひとつするにもいちいち関係技術官の指示を仰がなければならない。  ところが、ときとしてその要求が常識を超えるケースがしばしば出てくる。とくに新造艦と違って、改造艦にそれが多かった。無理を承知で重装備をしたがるからである。  軍艦の電気設備は陸上のそれと違い、狭い場所にたくさんの機器をやたらに詰め込む。その一連の機器は、つねに高温、高湿、高振動にさらされている。また船の性質上、当然、火災、浸水、被弾、それによって生ずる断線、ショートなど、いろいろ危険性がつきまとう。  それを避けるため、大きな艦船は、前後に主配電盤を装備し、状況に応じていつでも切り換えできるようになっている。そのほか、使用する電線も、鋼線や鋼帯で鎧装したケーブルや電線にするとか、電路を左右に分けるなど、万全の保護策を講じている。  それだけにあとの配線工事がむずかしい。何しろ、軍艦の場合、電線は狭い艦内の片隅とか、天井の高い所に配線するものと、昔から決まっていた。乗組員の行動を妨げないためである。幸い、重巡以上の船は電線通路という区画があって、電源線、通信用多芯ケーブルなどはここを通すことになっていた。  だが、通路といっても、人間の肩がようやく通れる孔や入口をもぐって這ってゆくようなところばかり。おまけに通路は水防区画のところでいったん切ってある。そこで隔壁ごとに水防グランドを通し、被鉛、鋼線装鎧の丸太棒みたいな電線を引っ張り込むわけだ。  そのうえで改めて水密工事を施し、接続筺や端子筐を取り付け配線してゆく。そのあたりが電気工事の一番むずかしいところである。というのも、場所が場所だけに通風が悪い。そのため暑い真夏は焦熱地獄、寒い冬はまわりの鉄板が氷のように冷え切っている。  そんな最低の環境のなかで、無数の枝配線や関連機器の取り付け、動作の確認など、細かい仕事をこなすわけだから、担当者の苦労は並大抵ではなかった。  それだけでも大変なのに、船によって電線溝のついていないものが出てくる。改造の過程でつけ忘れたか、つける余地がなくなったかのどちらかである。そこで電気部員が苦情を申し入れると、「そんな余裕がなかった。あとは君たちにまかせるから適当に処理してくれ」と、体よくあしらわれる。  また、独断で配線を変えると、「なぜそんなところに線を引っ張る。やり直せ」と、逆に噛みつかれる。この手のわからず屋は、砲熕(大砲)、水雷、造船担当の技術官に多い。  彼らは兵科士官同様、海軍技術の主導権を握っているという意識から技術官の最右翼を自認するエリートたちである。そのせいか「電気屋はオレたちの指示通り、黙って仕事をすればいい」という意識が念頭にある。それが何かにつけ出てくる。そのため、工廠電気部員がどれだけ泣かされたかわからない。  明治、大正時代に建造された船と違い、昭和以降に建造、改装された軍艦は、発電機や電動機の数が増えてきている。それにともなってパワーも大きくなった。  たとえば、昭和十年に改装を終えた戦艦「山城」の発電容量は、千三百五十キロワット、十二年改装の「金剛」は千三百キロワット、なかでもひときわ目立つのは、十六年十二月に完成した「大和」で、その発電容量は四千八百キロワットと、ちょっとした小都市の電力をまかなえるくらいのパワーを持っていた。つまり、どの船も推進機以外は、すべて電力の力を借りなければ、軍艦としての機能を発揮できないほど電化が進んでいたわけだ。  もちろん、発電機や電動機が重要な設備であることは、エリート技術官も十分承知している。だが仕事に追われると配線のことなどケロッと忘れ、いかにパワーをあげるかに熱中してしまう。燃料のことを考えず、むやみに大きな軍艦をつくったり、限られた容積の中にメリット以上の重装備を積み込んだのもそのためだ。これで問題が起きなければ奇跡としか言いようがない。 「量から質へ」の転換期は、そんな危険性をはらんだ仕事の連続だったのである。 第三章 レーダー研究始まる  バルクハウゼン博士来日  伊藤が六ヵ月のヨーロッパ出張を終え帰国したのは、そういう緊迫した気運が高まってきた昭和十二年晩秋のことである。  しかも、こんどの出張は公務以外に思いがけない手土産もあった。ひとつは、イタリア駐在の海軍武官平出英夫中佐(当時、太平洋戦争開始時大本営海軍報道部課長、のち少将)の肝入りで、無線界の泰斗、マルコニーと話し合う機会を持ったこと、もうひとつは伊藤のかねての夢であったバルクハウゼン博士の日本招聘が本決まりになったことである。  これはウィーンの万国短波学会終了後、東北大の八木秀次教授とともにドレスデン工科大学を再訪したとき、バルクハウゼンの来日を懇請、快諾を得たことに端を発している。もともと博士もいつかは日本を訪ねたいと思っていた。それも「学者として行けるなら……」という条件つきであった。もちろん、八木も伊藤も異存はなかった。それがきっかけでトントン拍子に話が運んだものである。  帰国した伊藤は、さっそく日本学術会議に長岡半太郎博士を訪ねた。そして事情を説明し、長岡博士を委員長とする招聘委員会をつくってもらうことに成功する。  またバルクハウゼン招聘に必要な資金は、川西機械製作所(のち川西航空機)の川西龍三社長が委員会に寄付する形で出資、それを渡航費、滞在費に充てることでメドがついた。  やがて伊藤が待ちこがれたバルクハウゼン博士が横浜に到着した。昭和十三年九月十四日のことであった。伊藤は海軍から特別の休暇をもらい、博士のガイドと接待役を一手に引き受け、各地を案内してまわった。それも二ヵ月に及ぶ奉仕活動であった。  この間、バルクハウゼンは東北大通信研究所、金属研究所、逓信省電気試験所、理化学研究所、東京電気(現東芝)研究所、富士電機、川西機械などの官民研究所、工場を精力的に視察した。  また、多忙なスケジュールの合間を縫って、東大、東北大、京大、学会、NHKラジオなどの求めに応じて記念講演を行い、多くの人々に感銘を与えた。もちろん、通訳はドイツ語の堪能な伊藤自身があたったことは言うまでもない。  そのバルクハウゼンは、観察力の鋭い学者でもあった。それだけに短い滞在期間にもかかわらず、日本の大学やメーカー、研究機関のあり方について、いろいろ示唆に富んだ批判や感想を残している。  しかも、この一連の批判は現在の日本にあてはめてもそのまま通用するものが多い。参考のためにその語録の中から、いくつか拾い出してみよう。当時の日本の教育界、産業界の実情を知る緒になるだろう。 「日本の大学は、中等実業学校のようだ。なぜならば、大学で何を勉強するかはじめから定まっている。これでは大学の自由も、教授の自由もないに等しい」  バルクハウゼンが最初に伊藤に洩らした日本の大学についての印象は、そんな鋭い批判だった。そして、その理由について次のように述べている。 「本来、大学における学生の自由とは、学生が卒業後、自分の職業に対しあくまで自分の責任を全うするため、どのように勉強し、それを社会に出たときどのように社会に役立てるかを自発的に考えることである。にもかかわらず、勉強の方法を細かく指定し、これを強要する日本の大学制度は、中学校と同じでしかない」 「教授はまわりからいかなる制約も受けず、独立の立場から学生を教育する。教授は弟子である学生を意のままに教育する自由を持つというのが“教授の自由”である。この二つがうまく融合するところに“大学の自由”が存在する。これが日本の大学に欠けているような気がする」  と、問題点をズバッと指摘した。こうしたバルクハウゼンの批判は、当時のドイツの大学制度と比べてみるとよくわかる。  ドイツで大学進学を希望する者は、高等学校の最終学年に国家成熟試験という国家試験を受けることが義務づけられている。この試験に合格(合格者は高校全修学者の六〇パーセント)すれば、満員でないかぎり、どこの大学でも自由に入学できるし、複数の大学で自分の好きな教授の講義を聞くことも許される。  しかし、その場合、理工系の大学だと、最初の二年間は数学、物理、化学を中心とした基礎学問の勉強のみに費やし、その間、四〜六科目の試験に合格することが必須条件になっている。  この期間が終わり後期学年に入ると、最初の一年間は、大体専門分野の勉強が中心になる。しかも、この期間に自分はどこの大学で、どういう教授について学ぶべきかを考える。そして、その教授に合うような勉強法を工夫しておく。というのも、特定教授のゼミに入るには、その教授の厳重な試問にパスしなければ弟子になれないからだ。  そういう難関を突破し、教授について一定期間勉強し、卒業できる自信がついたと判断したら、教授に卒業試験を受けさせてほしいと申告する。それが自分一人であってもかまわない。  試験日は教授と学生が話し合って、両者の都合のいい日が選ばれる。試験当日は祭祀のように、非常に厳粛な雰囲気の下で行われる。それも学生があらかじめ提出してある研究課題に関連した鋭い質問が教授から矢継ぎ早に出される。  たとえば、「ケーブルに適用されるマクスウェルの方程式の概要を述べよ」「マクスウェルが偏位電流を発見するに至った動機について知っていることを述べよ」「それが君自身の研究にどういう意味を持っているのか」「グリーンの定理に述べている物理上の概念を述べよ」と、かなり勉強した者でないと返事できないような質問が飛び出すのだから学生も大変である。  工科大学の場合、一回の卒業試験で合格できる者が一〇パーセントそこそこという理由も、どうやらそのあたりにありそうだ。  こうして卒業試験を無事に通過した学生は「学士」になれる。あとに残った学生のうち五パーセントぐらいは学士号も得られず、大学課程修了という形で大学を去ってゆく。  一方、学士になった者は、自信があればいつでも博士の試験に挑戦することができる。しかし、その合格者はわずか五パーセントにすぎない。工科大学を出て博士号を取得することはそれほどむずかしい。  これに対し、いわゆる「総合大学」となると若干様子が変わってくる。卒業試験の中身は工科大学とそれほど大差はないそうだが、試験そのものは全学年を通じて一回しかない。試験にパスした者は全員学士になれる。  ただし、ドクターの称号を得られるのは全体の二〇〜三〇パーセントで、あとは大学の課程を修了したインテリゲートでしかない。もっとも、ドイツの場合、博士という称号は「学問をする能力のある者」に与えられるもの。したがって、旧制の日本の博士制度とは意味が違うわけだ。  ドイツの大学制度でもうひとつ特筆すべきことは、学生の指導法である。その点に関連してバルクハウゼンは次のように述べている。 「一部の天才的学生を除いて、講義を聞いただけで、学問の真の意味を理解できる学生は殆どいない。つまり、大学は教育の入口の範囲を出ないものであるから、この時期は学生に講義の内容をシッカリわからせるため実験をもって示しながら解説するのがもっともよい。こうしておけば、他の点はそれが必要になった時期に自らの努力でできるのである」  事実、ドイツの工科大学では講義は実験をもって行うというのが常識であった。しかも、大講堂や大きな階段教室で二時間講義する場合は、実験準備に最低二時間をかけるという徹底したもの。それが工科大学ではあたりまえのことなのである。  バルクハウゼンが「日本にはそれがないだけでなく、指導法も形式的で内容に乏しい。これで日本の学生は納得しているのだろうか」と、疑問を投げかけたのも当然であった。  バルクハウゼンの鋭い日本批評  バルクハウゼンはそういう指導理念を持った教育者だけに、日本にきても軽率な言動は一切しなかった。  たとえば、来日した直後、ある新聞記者から、これからの日本のあるべき姿を予想してほしいと頼まれた。するとバルクハウゼンは「私は予測を述べないことにしている。それは自分の今後の判断を誤るから……」と、きっぱり断わっている。  また、講演を頼まれると、事前に何を話すべきか、一、二時間じっくり考え、草稿をつくる。そのうえで、演壇に上るという慎重な姿勢を見せた。  伊藤がバルクハウゼンを単なる学問の師でなく、人間形成のまたとない指導者として敬愛し、慈父のごとく慕ったゆえんも、そういう真摯な態度に魅せられたためであった。  そんなバルクハウゼンが、日本の後進性を肌で感じたのは、工業社会の実情を知ってからである。現にいくつかの弱電メーカーを視察したあと、伊藤にこんな感想を洩らした。 「日本のメーカーは、どこへ行ってもみんな同じようなことをやっている。材料から製品まで同業他社とまったく同じやり方でものをつくって競争している。これでは企業としての特徴が出せないのではないか。早く学問を発達させ、学問をもって経済を引っ張るようにしないと、国家を繁栄させることはむずかしくなるだろう」  バルクハウゼンは、かねてからドイツの工業社会が理想的な姿だと確信していた。というのも、ドイツでは日本のように複数のメーカーが同じ製品をつくり、国内市場で激しい過当競争を繰り広げるケースは、ほとんどなかった。世界の名器と言われたライカ、コンタックスは、いずれも輸出向けの花形商品で、国内産業建て直しの牽引車の役割を果たしていた。  また、中小企業に多い部品産業にも同じことが言える。たとえば、ある町工場で新しいアイディアの部品が生まれると、シーメンスでもテレフンケンでも、その工場の部品をすすんで使う。もし部品の性能に不満があれば、その会社を援助し、性能向上をはかるように仕向ける。そうやってお互いに補完し合いながら、工業を発展させる。  つまり、ドイツでは競争相手は国内でなく、外国にあるとの考え方が戦前から徹底していたわけだ。それを端的に物語っているのが、テレフンケンの生い立ちである。  テレフンケンは無線通信研究の草分けとして有名なA・E・Gとシーメンスの無線機部門が、ときの皇帝カイゼル・ウイルヘルム三世の要望にしたがって、一九〇三年(明治三十六年)、合併した会社である。そのねらいは国内での無用な競争を避け、英国のマルコニー社に対抗できる強力な会社をつくることであった。これが成功し、テレフンケンはヨーロッパ有数の無線通信、電話機製造会社に発展したことは周知の通りである。  このように、終始、クールな目で日本の現状を見てきたバルクハウゼンが、好奇の目をもって視察した研究所もあった。東北大学の通信研究所、金属研究所、東京の理化学研究所である。とくに東北大学では本多光太郎総長の話に熱心に耳を傾けるなど、その前向きな姿勢に讃辞を惜しまなかった。  また理化学研究所では、長岡半太郎博士の案内で所内を見学したが、なかでも、一番関心を寄せたのは仁科芳雄博士のサイクロトロンの研究であった。それはバルクハウゼンが宿舎の帝国ホテルに戻る車中で「仁科博士の飾り気のない態度が、私には限りない喜びであった」と、伊藤に語ったことでもわかる。  やがてバルクハウゼンは二ヵ月の滞在日程を終え、十一月下旬、印度洋経由で帰国することになった。その直前、長岡、八木の両博士を交えて最後の晩餐会を開いた。その席でバルクハウゼンは、こんどの日本視察旅行の印象を次のように結んだ。 「日本は国家の成立、国の組織を見る限り非常によい国だと思う。だが惜しむらく、学問的、科学的レベルは二流の域を出ていない。なかには欧米のそれと比べ、見劣りしない研究もあるにはあったが、総体的に見て全体がまだ板についていないような気がする」  もちろん、こうした見方には異論を唱える人もいるかもしれない。だが、明治維新以来、欧米の文化、科学技術を導入、それをひたすら模倣することで国力を伸ばしてきた当時の日本の実情を考えると、それが一番妥当な結論のように思えるのである。  陸軍・日本電気、一歩先を制す  バルクハウゼンが帰国すると、伊藤の身辺は前にも増して多忙になってくる。手がける仕事が多くなったからだ。幸い伊藤研究室のスタッフもだんだん増え、研究活動も効率よく運べる体制が整ってきた。そのあたりは伊藤直属の超短波研究班が、昭和八年から手がけていた、世界の最先端をゆく電子管技術マグネトロン(磁電管)の研究開発の経過を見てもわかる。  最初、試行錯誤の連続だったマグネトロンの開発も、基礎研究の積み重ねで、方向づけも終わり、前途に明るいきざしが見えるようになっていた。  その地道な積み上げの集大成とも言うべき最初の試作品ができたのは、伊藤が二度目のヨーロッパ出張から帰国した直後の昭和十二年末のことである。当時、マグネトロンには、米国G・E社のA・W・ハルが一九二一年(大正十年)に発明した非分割陽極マグネトロンと、東北大の岡部金治郎教授(のち阪大)が昭和四年に発表した二分割陽極マグネトロンの二つがあった。しかし、いずれも性能、出力に問題があり実用の域に達していなかった。  これに対し、伊藤研究室が考案したのは、発振波長の短い、八分割陽極マグネトロンと呼ばれるもので、岡部教授のB型振動とはまったく別種のものであった。  直接、開発を担当したのは、東北大の渡辺寧教授の愛弟子で、伊藤がとくに乞うて技研に来てもらった伊藤恒雄(のち海軍技師)と、助手の高橋勘次郎(のち技手、前日本電子常務)の二人であった。  だが、のちに“橘型”と命名されたセンチ波マグネトロン(出力十ワット)も、すぐには陽の目を見なかった。電波兵器に活用するには、もっと確実なデータの積み上げが必要だったからである。  研究陣はこの成果をたたき台に、さらに実験を重ね、新しいタイプのマグネトロンの開発に成功する。のちに“菊型”と命名されたこのマグネトロンは、波長六センチで三十ワット、同三センチ波で三ワット、同一・五センチ波で一ワット程度の連続波の出力が発生することが確認された。  この“橘型”“菊型”二つの成果は、当時としては特筆すべきことであった。というのも、そのころ世界でもっとも短い波長のマイクロ波は、英仏間四十キロのドーバー海峡実験で成功をおさめた十六センチ波だった。これは、バルクハウゼンが発明したBK振動管を使ったものだが、海軍の開発したものはそれをはるかに凌駕していたからである。もし、この波長の短いマイクロ波が現実に応用されれば無線通信に革命的な進歩をもたらすことも可能であった。それだけに、技研の開発は画期的であった。  こう書いてくると、電波を使った索敵兵器の研究は、海軍が群を抜いていたように見える。だが、必ずしもそうではない。  現に陸軍科学研究所(東京の戸山ケ原、大正六年設立)では、昭和十二年ごろから畑正史少佐、佐竹金次大尉(いずれも当時)を中心とする研究陣と、日本電気の小林正次技師(当時真空管課長、のち生田研究所長、専務歴任)、日本無線の上野辰一技師(のち長野日本無線社長)などの協力を得て、索敵兵器の開発研究に着手していた。その鍵(キー)マンの役割を果たしていたのは、日本電気の小林技師であった。  横道にそれるが、そのあたりの経過を少し追ってみよう。陸海軍の電波に対する考え方を比較するうえで格好な材料になるからである。  昭和十三年五月、小林は世界の通信事情視察を目的に欧米に出張した。二年後に控えた東京オリンピックの放送事業に対応するためであった。  前回のオリンピック開催国ナチス・ドイツは、ベルリンで派手なデモンストレーションを展開するなど、新興ドイツの国威を世界に誇示することに成功している。しかも、競技の模様は世界初の四十キロ短波放送機を使って放送され、参加国民の血を湧かせたものだ。  そういう前例があるだけに、日本の関係者も、ベルリン大会を凌ぐ斬新な企画を盛り込んだ大会にしたいと意気込んでいた。そのひとつの目玉がテレビジョン放送であった。そのために、世界のテレビジョン研究の実態を知っておく必要がある。小林の欧米視察もそれがねらいであった。  ところが、実際に調査を始めると意外な事実にぶつかる。一九三一年(昭和六年)からテレビの放送実験を開始、世界をリードしていると思われた米国より、風雲急を告げるヨーロッパ、とくに英国でテレビ研究が盛んに行われていること。その英国でテレビ関係の研究所見学が全面的に禁止されていたことである。小林はそれを不思議に思った。  その後、たまたまある場所でテレビの実験放送を見る機会に恵まれる。そのとき急に飛来した飛行機によってテレビの画像がくずれるのを偶然目撃した。これが、のちに電波探知機開発のヒントになるのである。  欧米事情の視察を終えた小林は、さっそくテレビ放送に必要な大型送信管の開発に取り組むことになった。最初、試作した送信管は出力一キロワット程度のものだった。この出力を一千ヘルツで振幅変調したものを、玉川向工場の実験アンテナから発射する。そしてダブルスーパー受信機を積んだ自動車を走らせ、受信感度の実験を何度も繰り返した。  そんなある日、実験車を中央線立川駅の近くにストップさせ、小休止していると、突然、受信機の音がビート音のようにワンワン鳴り出した。実験の指揮をとっていた小林や関係者は一様に首をかしげた。  そこでしばらくその場に車を駐め観察していると、立川の陸軍飛行場から飛行機が飛び出すたびに、この現象が起きることがわかった。小林は、とっさにロンドンでの出来事を思い出した。そして「車をもっと飛行場に近づけてみろ」と指示した。  その結果、いろいろなことがわかった。たとえば、飛行機が遠ざかるにつれ、ビート音はローピッチに変わり、ちょうど受信機と電波の出ている玉川向工場を結ぶ直線上を飛行機が横切るとビート音はゼロになる。だが、再びビート音はローピッチからハイピッチに連続的に変わってゆくことがわかった。  つまり、この現象は玉川向工場からの直接波と、飛行機に当たった反射波が合成されて受信機に入るものと、その場で結論が出されたのである。  超短波が飛行機の探知に役立つことが、日本で実証されたのはこれが最初である。  このニュースは陸軍科学研究所の関係者にも報告された。佐竹大尉(前出)も、この成果にことのほか関心を示し、非公式ながら、今後もこの研究を続けるよう小林に依頼した。  そんな矢先、東京オリンピック開催見送りが正式に決まった。日華事変の長期化で軍事費の支出が増大し、オリンピックどころではなくなったのである。  こうした国の方針を受けて、日本電気もテレビ研究から一転して、電波探知兵器の研究開発に力を入れることになった。幸い陸軍科研の佐竹大尉の呼びかけによって、東京電気、日本無線、阪大、東大、それに日本学術振興会が加わった組織がつくられ、大規模な研究が始まった。  そこで採り上げた研究は二つあった。ひとつは日本電気が考案した電波の干渉を利用した“ワンワン”方式と言われるもの、もうひとつは海軍と同じような波長の短い電波を使う方式であった。このうち“ワンワン”方式は、意外に早く兵器化が実現した。そして太平洋戦争開始前に中国大陸の戦場で使用され、それなりの効果を発揮していたという。一方、超短波方式の研究はワンワン方式の成果に隠れ中途で見捨てられてしまった。  伊藤研究室・日本無線、「暗中測距装置」研究に着手  一方、海軍は一向に重い腰をあげようとしなかった。軍令部や艦政本部が電波兵器の有用性をなかなか認めないのである。ところが、陸軍の成果を知った実施部隊の強い要望があったため、とりあえず試作してみようという気にやっとなった。それも“ワンワン”方式と同じように電波の干渉を応用した探知機であった。  そして何台かの試作機をつくってみたが、結果はいずれも思わしくない。取り扱いが不便なうえ、陸軍とは異なり使用地域(海上)の制限など本質的な欠陥があったためである。結局、この試作機は海軍には不向きという理由で、実用化は見送られてしまった。  それに代わって浮上したのが、伊藤研究室が開発した“橘型”マグネトロンを使った「暗中測距装置」の開発である。これは水雷戦隊の夜襲用に使う装置で、探知距離は数キロメートルという注文がついていた。そこでこれまで極秘扱いにされてきたマグネトロンの研究の一部を日本無線に公開し、その出力増加と、量産化の研究を委ねることが正式に決まった。昭和十四年初頭のことであった。  日本無線は、東京電気、日本電気に次ぐ電子管メーカーで、海軍との関わりも深かった。しかし、後発だけに研究実績も浅く、いろいろ問題点や悩みを抱えていた。その最大の障害は特許問題であった。  昭和十年までは、高出力真空管の特性に関する基本特許は米国のGE(ゼネラル・エレクトリック)社が保有しており、日本では東京電気が特許実施権を一手に握っていた。その前後の事情をアロカの中島茂相談役(当時日本無線技師、のち専務)は、次のように回想する。 「私は昭和六年に日本無線に入った。学生時代から真空管に特別な興味を持っていたのでメーカーの研究所を選んだわけです。ところが、そこでハタと壁にぶつかった。有効期限が切れていると思った高出力真空管の特許権が延長を認められ、生きていたことがわかったからです。このため真空管メーカーは東京電気から少量の生産しか許されておらず、みんな苦労していた。そこで私はいろいろ考えた末、この特許に抵触しないマイクロ波用の真空管開発を思いついた。その対象として選んだのが、バルクハウゼン博士が発明されたBK振動管でした」  ちなみにつけ加えると、中島は伊藤の実弟にあたる人である。それだけにバルクハウゼンの研究実績や人柄については、伊藤を通じていろいろ聞かされ熟知していた。それが、BK管の実用化研究を思いつく動機につながったのである。  だが、実際に開発に取り組んでみると、容易でないことがだんだんわかってきた。それもそのはずだ。何しろ、当時の無線通信は長波、中波、短波の時代で、海のものとも、山のものともわからない超短波、極超短波に挑戦しているメーカーは皆無に等しい。おかげで中島は社の内外からいろいろ批判される。「そんなものは、一メーカーが手を出すテーマではない」というのだ。しかし、中島は自分の信念を曲げようとしなかった。そのあたりは、伊藤の実弟だけによく似ている。  そんな中島を中心とする日本無線研究陣は試行錯誤を何度も繰り返し、曲がりなりにも自力で発振管をつくりあげることができた。昭和十年のことである。  それも日本無線と提携関係にあったテレフンケンで出している技術レポートを参考に開発したもので、波長五十五〜百センチ、出力十ワットというほかに類を見ない高出力の発振管であった。のちにこの発振管は陸海軍に採用され、いろいろな装置に使われたそうである。  また中島は発振管の開発と並行して、マグネトロンの開発も手がけていた。前にも触れた通り、日本のマグネトロン研究は、東北大の岡部教授によって道が拓かれ、関心を寄せる研究者の数も徐々に増えていた。東京工大の森田清助教授(のち教授)もその一人であった。  日本無線も森田からマグネトロン研究のための試作品を数多く受注していた。そんな関係で中島もマグネトロンに関する知識や情報を教えられ、いつかは自分の手でものにしたいという衝動に駆られるようになっていた。  しかし、この夢を実現するには研究費がいる。だが、現状ではそれを会社に求めるのは不可能だった。そこで中島は研究費の捻出方法を自分なりに考えてみた。その結果、思いついたのが兵器開発に結びつけることであった。  じっとしていられなくなった中島は、さっそく陸海軍の研究機関に共同研究を働きかけた。だが、どこも相手にしてくれない。時期尚早だったのである。  それから一年ほどたった昭和八年、海軍技研の超短波研究班のスタッフが変わった。新しい担当者は伊藤恒雄(前出)であった。中島はその機会をねらって、再び海軍技研に働きかけ共同研究の道を拓くことに成功する。これがマグネトロンの大研究陣を社内に備えるきっかけになった。つまり実は、海軍技研が開発した“橘型”“菊型”という二つのマグネトロンも、日本無線の空洞型超大出力マグネトロンの発明も、両者の協力なくしては実現しなかったと言っても過言ではなかったのである。  その集大成ともいうべき仕事が、昭和十四年から始まったマグネトロンを応用した「暗中測距装置」開発のための共同研究である。しかも、こんどの仕事は単なる試作と違い、兵器開発と直結した研究であった。それだけに中島を中心とする研究陣も、気を新たにして未知の技術に挑戦を開始した。  短期現役技術士官制度発足  昭和十三年から十四年にかけては海軍にとっても大変な年であった。昭和十二年度の第三次補充計画(達成期間四〜五年)、十四年度の第四次補充計画(同五〜六年)が相次いで決定したからである。これらの計画が予定通り進行すれば、戦艦十四隻、空母九隻、基地航空隊千八百機、海上航空兵力七百五十機となり、米国と互角の戦力になるはずであった。  この膨大な軍備拡張計画を進めるためには、まず中堅技術者を大量に動員しなければならない。そこで海軍は、昭和十五年採用の委託学生(十四、五年大学卒業者)の数を、これまでの平均三十名から、一挙に百名前後に増員する方針を固めた。  また、この年の二月には軍医科、薬剤科のみに適用していた二年現役制度(大正十四年制定)を、造船、造機、造兵、主計の各科にまで広げ、三月卒業の大学、高専学生の中から九十数名採用した。これがいわゆる「短現士官」と言われる人々である。  短期現役士官は、卒業後、士官候補生となり、所定の教育終了後、中尉、少尉にそれぞれ任官する。そして二年間軍務に服役すれば即日、元の勤務先に戻す。もし海軍が当人を必要とし、本人も希望すればそのまま現役にとどまることもできるという制度だった。もちろん、待遇は永久服役の技術官となんら変わるところがない。  この時期、もうひとつ特筆すべき動きがあった。技術科士官を陰に陽に支えてきた海軍技師、技手などの文官を武官に転用し始めたことである。これは、陸軍の徴兵攻勢に対応するのがねらいであった。  当時、陸軍は日華事変の早期解決を大義名分に、兵員補充を急いでいた。しかも、その対象を海軍工廠や海軍関連施設で働く技師(将校相当の文官)、技手(下士官相当の文官)にまで広げ、「赤紙」(召集令状)一枚で有能な人材を持っていってしまう。  このため海軍当局も以前からその対応に頭を悩ませていた。その結果、思いついたのがこれらの人々を武官に転官させることであった。待遇はそれぞれのキャリア、勤務年数によって決められるが、大学や高専を同年に卒業した永久服役士官に比べると、だいたい一、二年下のところにランクされている。  この制度の導入で、昭和十四年に転官した文官は、造船六名、造機二十二名、造兵百十四名にのぼった。  伊藤研究室のスタッフの一人で、電波伝播、特殊通信の研究に携わっていた山本正治技術大尉(昭和八年、日大工学部専門部電気科卒)も、そのときの転官組である。その山本は言う。 「あのころは陸軍の力が強かったせいか、海軍の人間をどんどん持っていってしまう。そこで技研でも研究者を確保しなければいかんというので、部内転官という形で士官に登用したんです。もっとも、転官後、改めて士官教育とか、横須賀工廠無線実験部での実習と、いろいろ油を絞られましたがね。そして一年後に技研に戻り、終戦まで過ごした。技研復帰後は伊藤さんのところを離れ、別の研究をやらされたわけです」  だが、数多い文官の中には武官転官を敬遠する人もいた。いまさら“剣吊り技師”になってきびしい軍規に縛られるより、技術者として自由に仕事のできる現在の立場の方がいいというわけだ。  こういう人は、中堅クラスの文官に多かった。何しろ彼らは、いずれもその道のスペシャリスト。それだけに大学や専門学校を出たての青くさい中尉、大尉クラスの技術官とは、技量、識見いずれをとっても格段の差がある。  現に、技研でも判任官(下士官)クラスの技手が、高等官である技術科士官にあれこれ指図して仕事させるというケースが、あたりまえのこととしてまかり通っていた。  こんな光景は海軍工廠にゆくともっと顕著になる。呉工廠内に設けられている技手養成所(幹部工員養成機関、昭和三年横須賀工廠より移管)で鍛えられた、生き辞引のような工員上がりの技手がたくさんいるからだ。工廠配属の技術監督官はそういう有能な部下をうまく使うことで、自分の実績をあげることができたのである。  しかし、こうした一連の“剣吊り技術者”の増加を、兵科士官は技術科士官の品位の低下を生むものとみなし、さまざまに批判した。なかでも若手の兵科士官の技術官に対する風当たりは一段と強くなった。海軍軍人としての人間形成がまるでできていないというのである。なかにはこんな趣旨の意見書を出した士官もいた。 「われわれは兵学校で軍人精神を徹底的にたたき込まれる。そして練習艦隊勤務を経てやっと少尉に任官できる。これに対し技術官は、大学、高専を出て入籍後、若干軍隊教育を施し、すぐ中尉に任官させる。しかし、入隊前の経歴がまちまちなせいか、ものの考え方も、習性も学生時代の域を出ていない。これを矯正するには海軍技術士官学校のような機関を設け、徹底的に鍛え直す必要があると思われる……」  もちろん、海軍当局はこれを握り潰した。そんな時間的な余裕もない。それにこれまでの教育体系をぶち壊すことになるからだ。結局、技術官の自覚を促すことでこの問題は立ち消えになった。  だが、兵科士官の技術官に対する偏見は解消したわけではない。それどころか、陰湿な形で次第に部内に広がり始めるのである。 第四章 ドイツ情報を入手せよ “W測定”に役立った伊藤の研究  いまは開発がすすみ新興住宅街になっている埼玉県大和田町に海軍の施設があった。昭和十一年に建設された無線傍受専門の大和田受信所(のち通信隊)であった。  場所は西武池袋線の東久留米駅から北へ歩いて十数分のところ、近くに有名な禅寺「平林寺」がある。当時、このあたりは武蔵野の名残りをとどめる雑木林と芋畑がバランスよく広がり、のどかな田園風景を満喫できたものだ。  そんな辺鄙なところに、海軍が受信所をつくったのも、東京近辺でもっとも電波状況が安定し、外国の無線通信傍受に適したところだったからである。事実、この受信所は発足以来、予想以上の働きをしている。  たとえば、昭和十二年七月、日中出先部隊の話し合いでいったん鎮静化した紛争を、拡大させる原因になった宋哲元将軍麾下の二十七軍の日本軍に対する反攻計画を事前にキャッチしたとか、同年八月十四日の海軍陸上攻撃機による渡洋爆撃の成果をいち早く探知するなど、その後の作戦指導に役立つ情報をいろいろ提供している。  この大和田受信所の初代所長は軍令部十一課の和智恒蔵少佐(のち大佐)で、伊藤とは昭和九年以来、昵懇の間柄であった。その和智が極秘に伊藤に会いたいと連絡してきた。昭和十四年春先のことである。  そのころ、和智は対米通信諜報の班長としてもっぱらハワイを拠点とする米太平洋艦隊の動静をさぐることに専念していた。その対応策の一環として手がけていたのが、太平洋艦隊主要艦艇の発信電波を解析することであった。  ところがある日、旗艦「ペンシルバニア」の発信電波から独特のエコーが発生しているのに気づいた。念のために、これまでオシログラフで録写した波形を調べてみると、同じ現象を持ったものが多数発見された。  和智は「これはいける」と思った。このエコーを数値的に算出できれば、太平洋艦隊の動静はたなごころを指すようにわかると思ったのだ。  和智は自分なりに工夫を重ね、ある算式をつくりあげた。そして、自分のイニシアルをとって“W測定”と名づけた。  だが、これを実用的なものにするにはもっと専門的な知識がいる。それには電波伝播のオーソリティである伊藤の知恵を借りるのが一番手っ取り早いと思った。  ただ、この仕事の内容は部内でも関係者以外には絶対に漏らしてはいけないことになっている。そこで和智は上司の柿本権一郎大佐(のち少将)の許可を得て、伊藤に研究を委嘱する腹を固めたのである。  和智から一通り話を聞いた伊藤は、喜んで協力を約した。伊藤は、これまで、自分が行ってきた電波伝播の研究成果を実地に応用するまたとない機会と判断した。そして極秘に作業を進め、数ヵ月後には分厚い研究報告書をつくりあげ、和智に届けた。  問題の報告書にはたくさんの図表や地図、数値表が添付され、いつどのような状態のときに受信すれば望ましい結果が得られるか、その場合、受信地はどこがよいかなど、適切な助言が克明に記されてあった。これは、さまざまな方面に電波技術を応用することに情熱を注いできた伊藤の知られざる功績のひとつであった。  和智はこの助言にしたがい、昭和十五年はじめ、青森県大湊通信隊分遣隊に出張、ハワイ海域にある米主要艦艇の発信電波のエコーをとらえ、“W測定”の演練を行った。  その結果、ハワイ海域の太平洋艦隊は週のはじめに基地を出て“ライハナ・ロード”と呼ばれる海域で訓練を続け、週末真珠湾に帰投、休養する行動様式をとっていることが確認された。  また、同艦隊所属の哨戒兼爆撃隊が数次にわたって実施していたハワイ・比島間の太平洋横断飛行の経過も、的確にキャッチできるようになった。  のちに海軍が真珠湾奇襲攻撃を日曜日の早朝と決めたのも、こうした事前の諜報記録があればこそであった。一方、開戦直前日本海軍の動きを刻明に探っていた米海軍も、この“W測定”の存在は終戦まで知らなかった。  昭和十五年十一月、和智はメキシコ駐在の武官補佐官として現地に出向した。もちろん、それは表向きで、実際は大西洋の米艦隊の動静をさぐるのが目的であった。  また、これと並行して対独(G)、対仏(F)作業班が部内に設置された。海軍は、このころになってようやく戦略遂行における情報収集・分析の重要性と、それを支える電波技術の必要性を認識し始めたのである。  大和田受信所は諜報活動の拠点として以後、海軍にとって必要欠くことのできない存在になる。  三国同盟締結、海軍左派無力化  海軍が大和田受信所に対独、対仏作業班を設け、諜報活動を強化したのにはわけがあった。ナチス・ドイツが東ヨーロッパを舞台に戦争を始めたからである。これは、ある程度予測されたことであった。  そのあたりの事情は、当時のナチス・ドイツの動きを見ればわかる。第一次大戦で失った国土の回復を目指すヒトラーは、一九三八年(昭和十三年)、オーストリアを武力併合、翌年初頭にはチェコスロバキアを保護下においた。そして四月にはポーランドに対し、ダンチヒ市の併合、ポーランド回廊の返還を要求、そのかたわらイタリアと軍事同盟を結ぶなど、強気の外交活動を展開していた。  この一連の動きには、ナチス政権の侵攻を恐れ軍備強化に走る英国、フランスを牽制する意味も多分に含まれていた。ところが、ポーランドは英、仏の支援を頼みに逆に動員令をもって対抗した。誰も予想しなかった独ソ不可侵条約は、その直後の八月二十一日に締結された。  このニュースは日本にも大きな衝撃を与えた。とりわけ、日独伊軍事同盟の早期締結を望んでいた陸軍強硬派にとっては、大変な誤算であった。対ソ戦略重視の構想が狂ったからである。  一方、平沼騏一郎内閣もこの国際情勢の急変に、政権維持の自信をなくし、総辞職に追い込まれる。  三国同盟を頑として認めなかった米内光政海相も辞表を提出、山本五十六次官も連合艦隊長官に転出していった。この二人を補佐してきた井上成美少将は留任したが、まもなく支那方面艦隊参謀長に任ぜられ、海軍省を去ってしまった。平沼内閣のあとを継いだのは陸軍の阿部信行大将で、海相には山本と同期の吉田善吾中将が就任する。  機甲師団を中心とするヒトラーの精鋭部隊がポーランド侵攻を開始したのは、それから一週間後の九月一日であった。  これと軌を一にしてソビエト軍も国境を越え、ポーランドはあっという間に二つに分割されてしまったのである。第二次ヨーロッパ大戦は、こうして始まった。  これを契機に陸海軍の対立はしだいに深刻の度合いを加える。このため阿部内閣は五ヵ月で崩壊、米内光政を首班とする内閣が発足する。しかし、それも六ヵ月の短命内閣でしかなかった。  そこで近衛文麿公爵に大命が降り、第二次近衛内閣が成立する。ここでナチス・ドイツは再び軍事同盟締結を強く働きかけてきた。  一方、米国もこうした動きを牽制するかのように、航空機用ガソリンの対日輸出禁止、石油、屑鉄の輸出許可制を適用した。十五年七月であった。  阿部内閣以来、海相の地位に留まっていた吉田が病いに倒れ、任期途中で辞任したのはその直後だった。その吉田に代わって及川古志郎大将が海相に就任した。  ところが、及川はいともあっさりと三国同盟締結を認めてしまう。海軍左派と言われた米内、山本、井上のトリオが二年余りにわたって築いてきた戦争防止の砦は、これでもろくも崩れ去ったのである。  昭和十五年秋は、東京で紀元二千六百年記念式典が開催される予定であった。  その幕開けの行事は式典一ヵ月前の十月十一日、横浜沖で行われる特別観艦式であった。この観艦式には近代化改装で面目を一新した連合艦隊の精鋭が、国民の前にはじめてその雄姿を見せることになっていた。  海軍技研の伊藤研究室が、一年前から手がけていた極超短波発振管を使った新兵器である味方識別用の「暗中測距装置」の試作機をつくりあげたのは、ちょうどそのころであった。  開発を担当したのは森精三造兵大尉(のち少佐、昭和十二年東大工学部電気科卒、防衛技術協会)、水間正一郎技師(当時技手、のち島田理化工業会長)、日本無線の中島部長、山崎荘三郎、佐藤博一など、伊藤研究室の限られた人々である。 「暗中測距装置」の実験は、特別観艦式の前日、鶴見沖に仮泊中の航空母艦「赤城」を対象に行われた。実験場所は横浜港内を出入りする船舶を見やすい鶴見臨港線の海芝浦駅前の芝浦工作機械製作所(のちに東芝に吸収合併)の屋上が選ばれた。ここから十センチの極超短波の電波を発射、海上の小艇に載せた受信機で反射波を捉えようとしたのである。  この実験は、ものの見事に成功した。極超短波を使って遠距離にある物体からの反射波を検出することが可能なことを立証できたのである。とはいえ、今日ではセンチ波はきわめて一般的なものであるが、当時はその取り扱いは誰にとっても不馴れなものであった。送信機にしても受信機にしてもアンテナにしても、いざ兵器に組み立てようとすると、新しいアイディアが必要になる。  日本無線が昭和十四年に開発した波長十センチ、連続出力五百ワットの高出力マグネトロンがなかなか活用されなかったのも、そのためであった。しかし、時局は緊迫の度を増してくる。海軍と日本無線のマイクロ波レーダー研究陣の全智全能を傾けての奮闘は、それから始まった。  ところで不思議なことに、ほぼ同じ時期、英国でもまったく同じ方式のマグネトロンが開発されていた。その現物は、戦後しばらくロンドンの科学博物館に展示されていた。しかも、その説明書には次のように書かれてあった。 「このマグネトロンは、一九四〇年(昭和十五年)四月、英国のバーミンガム大学で発明され、同年結ばれた米英技術協力協定により米国に渡され、その後、米国の努力によってマイクロ波レーダーが完成され、今次大戦を勝利に導いたものである」  戦後、この事実を知った伊藤や中島ら関係者は、あまりの偶然に目を見張った。当時自分たちの手がけていた研究が間違っていなかったことを改めて知ったからだ。ところが、海軍はマイクロ波技術は即戦力に結びつかないとの理由で、開発を中止させてしまったのである。これが結果としては、マイクロ波レーダーの開発で米・英に後れをとる最大の原因になる。  陸海軍、ドイツへ大規模視察団派遣  国民的な祝賀行事と言われた二千六百年記念式典が終わると、巷の話題は躍進を続けるナチス・ドイツの動きに集中する。いつ英本土に上陸するかという身勝手な憶測が公然とされるようになったのだ。  事実、ドイツ軍がヨーロッパで繰り広げた戦いぶりには、目を見張るものがあった。一年前の九月、ソビエトとともにポーランドを分割占領したのち、しばらく鳴りをひそめていたドイツ軍は一九四〇年(昭和十五年)四月十日、電光石火の勢いでデンマーク、ノルウェーを占領、五月十日には、その矛先を西に転じ、大攻勢を開始した。それも、独仏国境に横たわるフランスの要塞“マジノライン”を避け、中立国のオランダ、ベルギーを強硬突破、フランス領に侵入するという傍若無人な戦いぶりを見せた。  不意を突かれた英仏連合軍は、たちまち総崩れになり、ヨーロッパ戦線の勝敗は一気に決着がついてしまった。  このためフランス政府はドイツに屈服、孤立無援になった英軍主力は、ナチス空軍の猛爆撃にさらされるダンケルクから辛うじて脱出、全滅を免れた。  こうして、ドイツ軍はノルウェー北端からフランス南端に至るヨーロッパ大陸の拠点をすべて制圧することに成功した。とすれば、あとはいつ英本土に上陸するかが大きな話題になるのも当然であった。  そんな気運に引きずられたわけでもあるまいが、陸軍は、山下奉文中将(当時、のち大将)と技術系将校を中心とする視察団をドイツに派遣し、英仏軍と戦う国防軍の組織、戦略、戦術、新兵器の性能、その生産技術などを見学させ、日本の兵器充実に役立てたいという計画を立てた。昭和十五年春のことである。  当初視察団の出発は秋ぐらいと予想されたが、人選に手間どったことと、ドイツ側の受け入れ準備の都合などで大幅に遅れ、十二月中旬、満州里、モスクワ経由でベルリンに向かった。陸軍の視察団は山下中将以下二十名、現地合流者四名という大規模なものであった。  何かにつけて自信過剰な陸軍が、なぜそんな気を起こしたのか。その理由は、電撃戦の花形だったドイツ機甲師団の実態を知りたかったからである。  陸軍は昭和十三年から十四年にかけ、ソ満国境の長鼓峰やノモンハンでソビエト機械化兵団に手痛い打撃を受けている。とくに内蒙古国境に近いノモンハンでは、関東軍の誇る戦車部隊が壊滅的な打撃を受け、参謀本部をあわてさせた。  このため陸軍首脳はソビエト機械化兵団に対抗できる戦車の開発を陸軍科学研究所に命じた。ところが、その意向を受けた陸軍科研と造兵廠が試作した戦車は、重量が百トンという異常に巨大なもの。当時、陸軍の常備戦車の重量は二十トン台、それを一挙に五倍にしようとしたのだから、うまくゆくはずがなかった。  そんな苦い経験をしているだけに、ドイツの戦車づくりのノウハウをなんとしても入手したかった。それが、視察団派遣の最大のねらいだったと言っても過言ではない。  こうした陸軍の動きに刺激された海軍も、同じように軍事視察団をドイツに派遣することになった。その目的は、次の四点である。  (1)ドイツ海軍の関係機関の活動状況を実視、戦訓を得ること、  (2)わが国の軍備急速整備上、必要な各種技術および工作機械、器具の入手についての調査、  (3)新兵器の実地調査、  (4)ドイツの持っている外南洋関係の資料、またはその写しの入手、  などであった。  これによって三国同盟の意義も強まるし、日本海軍の泣きどころとされていた応用技術の向上もはかれる。それだけに、海軍首脳も使節団の成果に期待を寄せた。海軍史上、最大の技術視察団派遣という形になったのも、そのためである。  派遣者の人選は十五年十一月下旬にほぼ終わった。その顔ぶれは次の通りで、各部門から厳選されたエキスパートがそろっていた。  団長・野村直邦中将、副団長・三戸由彦少将、第一班長(艦政本部系)・入舟直三郎少将、第二班長・酒巻宗孝少将、団員・佐藤波蔵大佐(機雷)、仁科宏造大佐(潜水艦)、松尾実大佐(大砲)、横田俊雄機関大佐(燃料)、頼惇吾造兵大佐(魚雷)、永井太郎中佐(航海兵器)、小林淑人中佐(飛行機操縦)、内藤雄中佐(同上)、大友博機関中佐(航空機体)、跡部保機関中佐(航空発動機)、稲葉柾史主計中佐(会計)、喜安貞雄造機中佐(内燃機関)、伊藤庸二造兵中佐(無線)、森永健三少佐(航空兵器)、藤尾重樹書記、松本清書記、樽谷由吉技手、金川漸技手の二十二名であった。  当初、一行は往復ともにシベリア鉄道を使ってドイツ入りをする予定だった。しかし、軍務局の意向で往路は船便を使うことになり、出発も一月中旬と変更になった。この変更は、風雲急を告げる日米関係を考慮して、パナマ運河の防備状況をそれとなく見聞させようというねらいがあったためと言われている。  やがて年が明け、運命の十六年を迎える。出発前の準備に追われる海軍技研の頼大佐と伊藤中佐のもとに、一通の伝言が届いた。海軍技術士官の元最高幹部であり、また欧州の技術事情に通暁している伍堂卓雄造兵中将が、渡欧関係者に是非会って話しておきたいことがあるというのだ。  当時、伍堂は東京築地の聖路加病院に入院中であった。そこで頼と伊藤は、出発直前の一月十五日早朝、伍堂を病床に訪ねた。ひとしきり雑談を終えると、伍堂は改まってこんな話を始めた。 「ドイツの科学技術は、日本よりはるかに進んでいる。それをじっくり見てくるといい。そしていいものがあれば公開してもらい、どんどん吸収すべきだ。たとえば、製鋼技術にしても、ドイツは五十万トンプラントを九十人で運営している。これに対し日本は四百人近い人間を投入している。いくら人件費が安いといっても、人件費の無駄は大変なものだ。これではとても太刀打ちできない。それにドイツでは雑工を使わず、工員の奉仕によってその仕事を賄っている。そういう細かい点もよく見てくるといい」 「また、日本人はよく製造権を買うような風を装って品物を買い、あとで製造権の購入をキャンセルしてしまう。そして購入した製品を真似して類似品をつくることを平気でしているが、これはもっとも悪質で、相手に嫌われる。その辺をよく考えて君たちも、本当の意味の視察に重点をおき、買物など抜け駆けの功名をあせって引っかき回すことのないように心がけてほしい」  もちろん、二人ともそんな気持ちは毛頭なかったが、伍堂の言わんとすることの意味はよくわかった。それだけに視野を広げ、ドイツ軍事技術の本質をつかんでくる必要があると痛切に感じた。  緊張高まるパナマ運河  一行は一月十六日、午後三時、横浜を出港した特務艦「浅香丸」(艦長、三浦速雄大佐)に乗り組み、一路、太平洋を東に向けて旅立った。  これから数ヵ月に及ぶ視察旅行が続くわけだ。以下、次章も含めその旅、および旅先で見聞きした戦時下のナチス・ドイツの状況を、頼技術大佐の遺著『その前夜』(非売品)と、伊藤技術中佐が日記がわりに詠んだ歌集から抜粋し、再現してみよう。海軍が、ナチス・ドイツの先進軍事技術にどれだけ期待を寄せていたかが、わかるからである。  もともと浅香丸は、日本郵船の貨物船で排水量は満載時で八千トン弱、その船に口径十二センチの大砲を前後に一門ずつ、艦橋の左右に十三ミリの機銃と防雷具四基を積んだ特設軍艦である。  だが、本物の軍艦と違ってエンジンは一基、推進器は一軸しかない。したがって、もし洋上でエンジンが故障すれば漂流を余儀なくされるという頼りない船である。しかも、往路はこれといった積荷もないので船全体が浮き上がっている。  そのせいか沖に出るにつれ揺れが激しくなった。太平洋を五回航海した経験を持つ酒巻少将も「こんな揺れる船は乗ったことがない」と、音をあげるほどであった。  そんな乗り心地の悪い船中で、午前中は現地到着後の行動方針や視察予定先の検討、打ち合わせ会を開く。また午後はドイツ語の堪能な伊藤中佐、喜安中佐を講師にして、ドイツ語の講座が始まる。それもある程度基礎のできている人には、むずかしい発音と文法、ドイツ語に馴染みのない人にはabcの発音から始めて、実用単語にすすんでゆくという教え方である。これは船内でも評判がよく、他の便乗者もすすんで受講を希望したそうだ。  横浜を出て七日目、浅香丸はハワイ群島の西にある日付変更線を通過した。これを機会に濃紺の一種軍装から、白の二種軍装に衣替えする。船の上甲板に飛行機識別用の大きな日の丸を描いたり、後部砲台で大砲の操作訓練を始めたのもその前後である。  そして一月末、はじめて実弾射撃を行った。全航海を通じて、浅香丸が二十センチの大砲を打ち放ったのは、あとにも先にもこれだけであった。  やがて、浅香丸は進路を南に向けた。万一、米国がパナマ運河通過を認めない場合、南米を大きく迂回して大西洋に出なければならない。というのも、海軍首脳を苛立たせる問題が起きたからである。  それは浅香丸が出港した日に起こった。これまで米国はパナマ運河を通過する船舶には、武装監視兵を乗せることを法令で義務づけていた。それを一月十六日からすべての外国軍艦にも適用すると一方的に改めた。しかも、米国はそれを日本に知らせず、一月二十八日になってはじめて日本に通告してきた。  これは、明らかに浅香丸を意識した措置としか思えなかった。米国による対日経済封鎖の強化策が取り沙汰され、ABCD包囲網が形成されつつあったこの時期、複雑な日米関係のもつれは、こんなところにも微妙な陰を落していたのである。  もちろん、海軍もグルー駐日大使やワシントン駐在の海軍武官を通じて、抗議を申し入れた。  その結果がわかったのは、二月二日。その日の早朝、海軍省から浅香丸宛に二通の電報が届いた。第一報はこんな内容だった。 「米国側は、貴艦がパナマ陸軍長官の安全保障条例に従うなら、通過差し支えなしと返事してきた。貴艦の使命について悪質なデマが飛んでいるので、英米はもちろん独伊に対しても充分な警戒を要す」  またあとを追うように入電した第二報には、「外務省はグルー米国大使を招致して、外務、海軍次官から次の通り申し入れた。『浅香丸のパナマ運河通過については、たびたび通告しているにもかかわらず、出港後十二日もたって窮屈な制限の法令が発令されたことを知らせてくるのは迷惑至極である。わが方は法令に従うが、軍艦の威厳を損ずることは、絶対に耐えられない。したがって、少数の兵士がピストル携帯ぐらいで訪問にくるのなら歓迎する。ただし、そのときはわが大使館付武官も同乗させる。そんなことで妥協できないか』と、大使に斡旋を要望した。これに対しグルー大使は本国に通達を約し帰った」とあった。  この電報を見てもわかるように、浅香丸のパナマ運河通過については、日本側も必要以上に神経を使っていた。というのも海軍省は、対米戦略上の重要拠点パナマ運河の実情把握を視察団一行に期待していただけに、その企図が米側に気づかれたのではないかと、よけい緊張感を高めたのである。  そうこうしているうちに、米国側から正式の回答が海軍省に寄せられた。その要旨が浅香丸に打電されてきたのは、それから四日後、その内容は次の通りである。 「新規則は独伊の不逞分子が横行するので自衛上設けたもので、やむをえない措置である。それに四日程前に英国の巡洋艦デマルダ号が通過したときも、さっそくこの新規則を適用しているので、日本の軍艦が適用を受ける最初の艦ではない。そのとき英艦からは何も異議はなかった。なお、当方が監視するところは機関室、弾薬庫、銃架である」  そして、もし日本だけを特別扱いしたら、他の諸国から抗議を受けるだけでなく、同様な要求が出て、当方が迷惑するだけと結んであった。また、海軍省からは、「この回答をもってよしとする。乗組員は慎重に行動し、米国側に無用な刺激を与えないようにして、すみやかに運河を通過せよ」と、指令してきた。  翌二月七日、浅香丸はパナマ運河の入口のバルボア港に到着した。だが、予想していたこととだいぶ事情が違う。確かにピストルを持った四十名ほどの監視兵が乗り込んできたが、非常に丁寧で、礼儀正しい。それだけでなく、海軍区長官と海岸砲兵隊長官から「主だった幹部を食事に招待したい」と申し入れてきた。  そこで入舟、酒巻の両少将と大佐四名、中佐二名が代表として招待に応ずることにした。食事の席にはパナマ地帯の軍司令官バン・ボールス陸軍中将、海岸砲兵隊長官のジャーマン陸軍少将、海軍区長官代理のディロン海軍大佐など軍の幹部や、地元知事、運河会社の技師長などの名士も顔を見せた。  また、食事のあと、運河の要所、要所に設けられた陸海軍の基地や砲台、陣地を案内してくれる。そのうえ、一行を飛行機に乗せ要塞地帯を空から見せるといった至れり尽せりの歓迎をしてくれた。米軍の現場サイドには、この時期対日臨戦気分はみじんも見られなかったわけである。  とはいえ、これをあとで知ったパナマ駐在の米公使は「日本人を乗せ、要塞地帯を飛行するなどもってのほか」と、関係者をどなり散らしたという後日談があったそうである。  こうして浅香丸は最大の難関であったパナマ運河を通過し、九日には大西洋側のクリストバル港をあとに、進路を北にとった。カリブ海からプエルト・リコ島の西を通り、大西洋に抜けるためであった。  ドイツ側招待は映画で始まった  大西洋は英独海軍の戦場であった。それだけに太平洋を航行しているときと緊張の度合いが違う。現にクリストバル港を出港して七日目に、海軍省から艦長宛に極秘の電報が入っている。 「某国の潜水艦が、貴艦を襲撃しようと狙っているという風評が飛び交っている。海軍当局も心配し、ドイツに警報を発し、貴艦の位置を通知している」  という警告であった。だが、三浦艦長は乗組員の動揺を避けるため、この情報を公表しなかった。しかし、これを境に哨戒警備が厳重になった。また、万一に備え脱出訓練を行うなどの細心の注意を払った。  そんな緊迫した関係者の動きをよそに、視察団の一行は連日打ち合わせ会を開く。海軍次官から託された課題の検討、購買物件や見学先の選定会議などに追われていた。その作業が一通り終わると、頼、伊藤、喜安の三人でドイツに対する質問事項を専門別に分け、ドイツ語に翻訳してゆく。浅香丸のヨーロッパ到着が近づいた証拠である。  その浅香丸がポルトガルのリスボンに着いたのは、二月二十日早朝であった。日本なら厳冬のさなかなのに、現地は四月陽春の気候でのんびりした風情が漂っていた。  リスボンのホテルで一夜を過ごした一行は、午後の飛行便でマドリッド、バルセロナ経由、ベルリン入りする予定だった。ところが、急に予定が変わり、伊藤と小林、便乗組の築田の三中佐と野間口大尉は朝の便で先行することになった。ベルリン駐在の海軍武官と詳細な日程を詰めるためであった。  視察団の後発組が雪の降るベルリンに到着したのは、二月二十四日の夜半である。それから三日間は駐在武官との連絡、打ち合わせ会が続き多忙な時を過ごした。  ドイツ側から視察団のスケジュールが届いたのは二月二十八日。それによると、三月三日から十四日までは日本側との会談、質問に対する回答に費やし、三月十六日から三十一日まではフランス戦線の視察旅行、そのルートはベルリン、デュッセルドルフ、ブリュッセル、ガン、オスタンド、ダンケルク、カレー、ベルク、ブローニュ、ル・アーブル、カン、サン・マロ、ブレスト、ロリアン、パリ、ブレーメン、ベルリンの順であった。  ドイツ側が予定した公式行事は、その日の夜、ゲーリング元帥招待の新作映画鑑賞会から始まる。場所は動物園脇のウーファ・バラストという劇場。日本で言えばさしずめ東京丸の内の帝国劇場といったところである。しかも、上映される映画は「リュッツオ戦闘機中隊」。つまり、ゲーリング自慢の空軍の活躍にロマンスを織りまぜた戦意高揚映画の発表試写会だった。いかにも宣伝上手なナチス・ドイツらしいやり方と言えた。  三月一日は、ドイツ海軍首脳と正式会見の日であった。野村中将以下の団員は一種軍装に勲章、記章を全部つけて、ドイツ側で用意した車で海軍省に出向いた。ドイツ側の接待委員長はグラスマン中将である。そのグラスマンは歓迎の挨拶で次のように述べた。 「われわれは目下戦争で非常に忙しく、士官もそれぞれの任務に追われているが、みなさんのためにできるだけのことはするつもりである。日本が知りたいと要望して、提出された事項が大変多いのでびっくりしたが、その旺盛な研究心にはわれわれも強く打たれた。そこで喜んで要求に応ずることにした。いまや日独伊は同盟関係にある。それを利己的な心から妨害しようとする米英にはわれわれも対抗せざるを得なくなった。幸い日本には伝統精神に満ちた海軍があり、われわれもこれに期待するところ大である。また、現在中国と戦争をされているからいろいろ経験も豊かだと思うので、それについても承りたい。なお、ベルリンには空襲があるかもしれないが、どうか規律を守って怪我のないように留意されたい」  これに対し、野村中将は、われわれは日露戦争以来、海戦らしい海戦をやっていない、と前置きした上で、 「ドイツは前の大戦と、こんどの大戦を通じていろいろ貴重な体験をされておられると思う。その豊富な経験のなかからわれわれの参考になるものを分けていただけたら幸いである。また日本海軍の持っているもので、貴国に役立つものがあればなんなりともお手伝いしたい。もし米英が利己的な我欲をもって枢軸国に対抗しようとすればわれわれもそれなりに対応するつもりである。ついては、われわれとしては、とくに技術の面において貴国の協力を得たいと思っているので、よろしくお願いしたい」  と、ドイツ訪問の意図を説明、挨拶に代えた。  引き続き軍事はAグループ、兵器はBグループ、造船造機はCグループに分かれ、それぞれ担当者同士が顔合わせを行い、レクチャーや質疑日程について詳細な打ち合わせを行った。その日の会合はそれで終わり、午後は無名戦士の慰霊碑の参拝など儀礼的な行事に当てた。  ドイツ海軍のレクチャーは三月三日から始まった。講師は大佐、中佐級の士官、もしくは技師で、大きな問題になると中将、少将が演壇に立つことがあった。講義は一般事項と専門技術の講義に分けられている。  たとえば、一般事項は戦争指導最高機関の組織ならびに機能、国防省の組織ならびに陸、海、空三軍の関係、海軍と海軍省の組織と役割、ドイツ海軍の作戦指導系統、産業動員法の方法、開戦後急速軍備拡充の方策、陸、海、空軍の作戦関係、ドイツ海軍はどのようにして再興したか、海軍の人事関係のあり方などであった。  一般問題の場合は、午前中一時間半〜二時間で講義が終わるが、技術的な専門講義になるとそうはいかない。ものの考え方や対応の仕方も違うし、ときによってはシークレットの分野に踏み込んでいかなければならない問題もあるからだ。そのため二時間の予定が、三時間、四時間になることもザラであった。 第五章 ウルツブルグレーダー  ヨーロッパ戦線視察  視察団一行は、技術情報の吸収に努める一方で、戦時下ドイツの国民生活のありさまにも注目した。当時すでにドイツでは、日本同様、軍需物資の不足が大きな問題になり始めていた。  ベルリンには、アワードとかカドベーという大きな百貨店がある。いずれも、伝統を誇る有名店で、品数の多いことでも知られていた。ところが、そのころになると品数は豊富だが、大半は代用品。なかにはこれはと思うものもあるにはあったが、購買券がないと簡単に入手できない。  たとえば、ナイフ、フォーク、スプーンで有名なWMF(ウェルテンベルグ金属工業)の製品は、すべてガラス製品に代わっていたし、ゾーリンゲンやヘンケルズの刃物も品数が少ない。やはり、軍需優先で、原材料の入手がむずかしくなった証拠である。  また、ある士官は、街角で若い夫婦が買ったばかりの書斎机を二人で重そうにかかえ、運んでいる姿を見かけた。配達してくれないとみえる。これも人手やガソリン不足が深刻になったためとあとでわかった。  もうひとつ、視察団の一行が話題にした問題があった。それは商店の飾り窓や扉に貼ってある広告だった。その広告には「ユダヤ人とは取引せず」とか「ユダヤ人との取引は午後四時から六時まで」と書いてある。  これまでドイツがユダヤ人を差別しているという話は何度か聞いていた。原子物理学の先覚者アインシュタイン博士がドイツを去り、米国に渡ったのもそのためだし、原爆開発の火付役となったハンガリー生まれの物理学者、ウイグナー、テラー、シラードも、ナチス・ドイツに追われたユダヤ人であった。  それどころか、有名な詩人ハイネがユダヤ人であったがためにその作品がボイコットされ、多くの人々に親しまれたローレライの歌は、当時のドイツでは聞くことができなかった。ナチス・ドイツのユダヤ人対策はそれほど徹底していた。  やがて、二週間に及んだドイツ海軍の講義、質疑応答も終わり、前線視察出発の日が近づいてきた。その直前の三月十五日、団員は海軍長官のレーダー元帥に会うことができた。元帥は、ドイツ海軍の最高責任者で、第一次大戦のときジットランド大海戦で第二艦隊参謀長として参加、数々の偉勲をたてている。そのせいか、小柄でおだやかな風貌にもかかわらず、近寄りがたい威厳を併せ持っていた。  その日の午後、元帥主催の招宴がホテル・カイザーホフで開かれ、伊藤も出席する光栄に浴した。そして軍令部長のシューニウイント大将、ウイッツエル大将、作戦部長のフリッケー中将らドイツ海軍の首脳陣と親しく懇談する機会を得た。  三月十六日、視察団の一行はボッツターマ駅から特別仕立ての列車に乗り込み、ベルリンをあとにした。午前十時すぎであった。これからデュッセルドルフまで一昼夜の旅を車中で過ごすわけだ。幸い車両は一等寝台車で、二両が借り切ってあり、士官は大抵二人用のコンパートメントを一人で占有できた。それだけにこれまでの疲れを癒すには申し分のない広さであった。  翌十七日朝、デュッセルドルフに着き、駅を出た伊藤は思わず目を見張った。駅の正面玄関が爆撃で破壊され、見るも無残な姿に変わっていたからである。一行はここからドイツ海軍がパリから差し回してくれた真新しい揃いのパッカード十三台に分乗する。それも一台に三人という割り当てである。一行の荷物は随伴のトラックが運んでくれるので、車内でゆっくりくつろぐことができた。  隊列の前後をオートバイで守られた一行はドイツご自慢の自動車道路(アウトバーン)を西に向けて走り出す。ライン河を渡り、アーヘンを過ぎると、もうベルギー領である。一年前、ドイツ機甲師団がこの道を進撃し、フランス領に雪崩れのように侵入したわけだ。そのせいか、道筋には戦いの傷あとが生々しく残っている。コンクリート舗装のドイツの道路と違い、ベルギーの道路は石で舗装してあるため、最新型のパッカードも小振動が絶えない。  このあとブリュッセルのホテル、メトロポールで現地司令官の丁重な食事の饗応を受け、再び車中の人となる。そして、夕方には北海に面したオスタンドに入った。ここにはドイツの高速魚雷艇の基地がある。一通り見学を終えて、最初の宿泊地ラ・パンヌのホテルに着いたのは七時半を少し回っていた。  翌朝、ベルギー国境を越え、一時間足らずで“悲劇の港町”ダンケルクに着く。車を降りた一行は港湾沿いを見て回ったが、ドイツ軍の猛攻ぶりが手にとるようにわかった。何しろ、家という家はことごとく破壊され、いたるところに自動車の残骸がうず高く積まれ、とても人が住んでいたように思えなかったからである。  ダンケルクからカレーに抜ける海岸線の右側はドーバー海峡、その向こうに白い断崖に囲まれた砂丘が続く。英本土である。  そんな風景を車の窓越しに眺めていた伊藤の目に、見馴れぬ四角な籠様なものが大きな柱からぶら下がっているのが映った。伊藤は車を止めてもらい、案内役のドイツ士官にそれとなく尋ねた。だが若い士官は首をすくめるだけで返事をしなかった。伊藤にはそれがなんであるかピーンときた。超短波の空中線のような気がしたのだ。  やがて車は、カレーの市内に入る。海辺の道路沿いや入江に船首を切った変な格好の舟艇が、いたるところに隠されているのが一行の目に入った。長さ十三メートル、幅六メートル、トン数も二百トンそこそこの小型船ばかりである。  現地海軍司令部の上層部は、この船は英本土上陸に備え特別につくったものと説明した。それもいざ出撃と決まったら、船の底にコンクリートの板を敷きつめ、中央に戦車、自動車を並べ、両側に兵員を乗せ出港する。そして目的地の海岸に着いたら直ちに渡り板を降ろし、車両を発進させるようになっているという。  説明を聞いた団員は「この程度の船で……」と、一瞬、首をひねった。だがよく考えてみると、このあたりは英本土にもっとも近いところ。それだけに制海空権さえ確保すれば、不可能でないとすぐわかった。現にドイツ軍はその体制を着々整備していた。  たとえば、口径二十八センチ、弾丸重量二百五十五キログラム、射程距離四十キロメートルという巨大な列車砲を付近に配置している。また海岸線の砲台には二十八センチと三十八センチ口径の大砲を据えつけ、英仏海峡に睨みをきかせていた。  秘密兵器「X装置」  そのあと一行は、海岸沿いの道路を西に走り続け、ブーローニュに向かう。ブーローニュにはナポレオンが英国を睥睨している銅像があることで知られている。そのナポレオンの軍隊が実現しえなかった英本土上陸作戦をいまヒトラーがやろうとしている。もしそれが成功すれば、ヒトラーは世紀の大英雄として、もてはやされるに違いない——と誰もが思った。  その日はブーローニュ近郊のベルクという町のホテルに泊り、翌朝、セーヌ川河口に沿った港町ル・アーブルまで足を伸ばす。ル・アーブルは、フランス第二の貿易港として有名だったが、戦火ですっかりさびれ、昔日の面影はなかった。  ここで一泊した視察団は次の目的地、ノルマンディー半島の要衝サン・マロに向かった。そのあとは大西洋に望むブルタニュー半島の海軍基地ブレスト、ロリアンなどを三日がかりで見学することになっていた。  ドイツの電波技術者の苦心の成果である「ウルツブルグレーダー」の現物を、伊藤がはじめて見たのは、その最終日の三月二十三日のことであった。  この日、北フランスのビスケー湾に面したドイツ海軍最大の潜水艦基地ロリアンを訪問した一行は、軍港内の施設や付属の工廠を時間をかけて見て歩いた。なかでも団員の関心を呼んだのは、巨大な潜水艦修理工場であった。  工場の仕組みを簡単に紹介すると、まず海中の潜水艦をクレーンで陸上に引っ張りあげる。そして回転台に乗せ向きを変え、防空施設のあるドームつきの工場の中に引き込もうというもの。しかも、その修理工場は五百トン級の潜水艦六隻を二列に並べ、一度に十二隻修理できるという大規模なものである。視察団が見学したころは、工事もあらかた終り、三週間後には本格的な活動が可能な状態になるとのことであった。  次いでドイツ潜水艦隊総司令デーニッツ中将主催の歓迎会が催される。同中将は、潜水艦乗りにとって神様のような存在だった。身体つきは小柄で、やせているが、眼光が鋭い。顔もキリッと引き締まり、一分の隙もない印象を与えた。それでいて態度は鷹揚で、こせこせしたところがない。そんなところが部下を引きつける魅力の一つになっていたのだろう。  二時間に及んだ招宴が終わると、団員は三班に別れ、ドイツ海軍の誇る潜水艦「Uボート」を見学した。  伊藤が「X装置」と呼ばれるウルツブルグレーダーを見せられたのは、その直後である。場所は、ロリアンの町はずれにある高射砲陣地の一角だった。  そこは矢来を丁寧に組んで囲い、衛兵が厳重に警備している。問題のX装置は、その囲いの中の仮小屋に置いてあった。  ウルツブルグレーダーは、世界でも初めての高射砲と連動する対空射撃用測距装置であり、その射撃精度は英国のレーダーを凌ぐだけの高い性能を誇っていた。  装置の見学はドイツ側の強い意向で、入舟少将と伊藤など数名の関係者に限定された。  伊藤が許された見学時間は、三十分そこそこでしかなかった。しかし、伊藤は大きなショックを受けた。四年前、たまたま訪ねたバルクハウゼン博士の教室で、ドイツ軍が電波兵器の開発に着手しているという情報を聞いただけに、実現の可能性は高いと予想していた。それがここまで進んでいるとは、さすがの伊藤も気がつかなかったようだ。  だが、幸いなことに日本のものと方式が違っていた。伊藤が見たウルツブルグレーダーは、電波の衝撃波(インパルス波)を発射し、目標からはね返ってくる電波をとらえて、電波が空間を通るのに要した時間を測定し、反射物体の所在を知ろうというもので、波長二・五メートルの電波を使用していた。  つまり、電波の干渉を用いる日本陸軍の方式とも、飛行機の検出をセンチ波でとらえようとする海軍技研の方式ともまったく異なる技術を使っていたわけだ。それだけにやり方によっては、X装置を上回るものもつくれるのではないかという自信めいたものが、伊藤の脳裡に浮かんだ。  七日間にわたるフランス戦線の視察を終えた一行は、ドイツ占領下のパリに向かった。そして月末にはいったんベルリンに帰り、四月一日からドイツ国内の軍事施設や関連工場の見学に回ることになっていた。  その多忙な合間を縫って、伊藤はロリアンで見たウルツブルグレーダーの見聞報告書のまとめを急いだ。一刻も早くこの情報を国内の関係者に知らせたかったのだ。  そのころベルリン駐在の陸海軍代表部のスタッフは、ドイツ政府に対し、ウルツブルグレーダーの譲渡を懸命に働きかけていた。山下、野村両団長の強い要請があったからである。  しかし、ドイツ側は言を左右にしてなかなか応じてくれない。なかにはゲーリング元帥のように、「ウルツブルグは国家の最高機密兵器、古い同盟国であるイタリアから再三譲渡の申し入れがあったが断わったほどなので、ご了承願いたい」と、秘書を通じて断わる者もいた。これは三国同盟を結びながら、一向に態度を鮮明にしない日本政府の姿勢に不信感を持ち始めたためであった。  その不信の種を蒔いた張本人は松岡洋右外相であった。松岡は、四月四日、独伊訪問旅行を終え、ベルリンからモスクワに向かった。そしてソビエト首脳を相手にねばり強い交渉を重ね、日ソ中立条約締結を実現した。それが、以前からくすぶっていたヒトラーの対日不信感をあおったのである。  そんなあわただしい環境の下で視察旅行を続けていた伊藤は、ある日、偶然英国の科学雑誌『自然』の最新号を入手した。  退屈しのぎにページを繰っているうちに、謎めいた論文が掲載されているのに気づいた。それもお伽の国の物語で、タイトルは「金の鶏」となっている。その物語の中に「屋上にとまった“金の鶏”が、盗賊の来襲をいち早く発見して雄たけびをあげ、王国は盗賊を撃退して無事だった」というくだりがあった。  伊藤はそれが妙に頭にひっかかった。自然科学分野で権威のある一流雑誌が、なぜそんなおかしな論文を載せたのか訝ったのだ。  史上初のレーダー戦  ワシントン駐在の海軍武官補佐官、実松譲中佐が、在米イタリア海軍武官のライス中将から耳寄りな情報を入手したのも、そのころであった。それは「英海軍は、闇のなかでもものが見え、探照灯をつけないで射撃できる“秘密兵器”を持っているらしい。このためイタリア海軍は手痛い目に遭って、手も足も出ない」という内容であった。  それが事実とすれば、日本海軍にとって見逃すことのできない大問題である。また英海軍がこの種の秘密兵器を保有しているとすれば、当然、米海軍にもあるとみなさなければならない。  そこで在ニューヨークの海軍監督官事務所の有坂磐雄造兵中佐(無線担当)に依頼し、米西海岸に停泊中の大西洋艦隊の主力艦艇をそれとなく調べてもらった。  すると戦艦、空母、重巡などのマストにそれらしきアンテナがついているという連絡が入った。それをもとにさらに調査を進めると、米海軍も独自でこの種の兵器開発に力を入れていることがわかった。  この情報を知った実松は「早急に電波探信兵器に対する方策を立てなければ、帝国海軍の伝家の宝刀ともいうべき夜戦の利は、いっぺんに崩れてしまう」という内容の意見具申電報を軍令部宛に打った。  伊藤からウルツブルグレーダーに関する詳細な情報が艦政本部に届いたのは、その直後であった。軍令部や艦政本部が色めきたったのも当然であった。  そんな矢先、軍令部にさらに思いがけない情報がもたらされた。五月下旬、アイスランド西の大西洋上で、戦艦を含む英艦隊とドイツの新鋭戦艦「ビスマルク」(排水量四万五千トン、三十八センチ砲八門搭載)が、レーダーを駆使した激しい砲戦を展開、双方とも大きな被害を出したという外電報道である。  その戦闘経過をルーセル・グレンフェル著(ドン・コンドン編『コンバット』所収)「ビスマルクの挿話より」(宇都宮直賢訳、白金書房刊)から抜粋してみよう。  一九四一(昭和十六)年五月二十一日、英海軍省は竣工間もないドイツの戦艦ビスマルクが、ノルウェー南西の要衝ベルゲンを出港、アイスランド方面に向かったという極秘情報を入手した。随伴艦は重巡「プリンツ・オイゲン」(排水量一万二千トン)一隻だけだった。  そこで英海軍は、最新鋭の高速戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「フッド」を基幹とする艦隊をビスマルク迎撃のため出動させた。二十三日早朝のことである。  また数時間後、戦艦「キング・ジョージ五世」と空母「ヴィクトリアス」を含む艦隊が、アイスランド南方に派遣された。同海域の輸送船団の航路を守るためであった。さらにスペイン南端の英海軍基地ジブラルタルから、空母「アーク・ロイヤル」を旗艦とする少数の艦隊が北に向かって行動を開始した。  翌二十四日未明、プリンス・オブ・ウェールズのレーダーは、アイスランド南西の海上を南下中のドイツ軍艦の艦影をとらえた。だが砲戦を展開するには距離がありすぎる。そこで英艦隊は速度を上げ接近を始めた。  ビスマルクが最初に放った斉射砲弾がフッド(四万二千トン)を直撃したのは、その直後だった。その弾着の正確さから推して英国側は、ドイツ側がレーダー射撃を行っていると判断した。  艦齢の古いフッドは艦体を真っ二つにされ、あっという間に沈没した。生存者はわずか三名であった。またプリンス・オブ・ウェールズも、数発の直撃弾、至近弾を受け、戦場から離脱を余儀なくされた。  一方、ビスマルクも、プリンス・オブ・ウェールズの攻撃でかなりの被害を受けていた。付近の海面に大量の重油が流出しているのを発見したからである。これを知ったチャーチル首相(海相兼任)は、現場付近の艦隊にビスマルクの徹底的追跡を厳命した。  大西洋を北上したアーク・ロイヤルの索敵機がアイスランド南西の海上を南下中のビスマルクを発見したのは、翌二十五日の日没直前であった。またアーク・ロイヤルの前衛である軽巡洋艦「シェーフィールド」もその艦影を視界でとらえた。  しかし、付近は暴風雨の影響で海は大荒れに荒れている。その悪天候を衝いてアーク・ロイヤルを発進した十数機の雷撃機が、現場に飛来したのは午後八時前である。だが、厚い雲と荒天に阻まれ魚雷攻撃は失敗に終わった。  その飛行機群が去ると、ビスマルクはうるさくつきまとうシェーフィールドに砲火を向けてきた。このためシェーフィールドのレーダー装置は至近弾の破片をもろに受け、あとかたもなく吹っ飛んでしまった。これはシェーフィールドにとって手痛い打撃だった。追尾が不可能になったからである。  東方から六隻の駆逐艦が近づいてきたのはその直後であった。この小部隊がシェーフィールドに代わって執拗な追尾作戦を開始、深夜、再びビスマルクの捕捉に成功する。そして、二十六日深更から二十七日未明にかけビスマルクに接近を試みた。だが、ビスマルクのレーダー射撃に遭い、思うように近づけない。  そこで作戦を変え、各艦が独自の判断で反覆攻撃することにした。ビスマルクのレーダーを攪乱させるためである。これは功を奏したかにみえた。ビスマルクに幾発かの魚雷を打ち込むことができたからである。だが、悪天候のため命中は確認できなかった。 (註=実際は命中魚雷は皆無、のちに英海軍省もそれを認める)  辛うじて駆逐艦の魚雷攻撃をかわしたビスマルクは依然戦闘力を失っていなかった。しかし、速力は十数ノットに落ちていた。そのビスマルクを追い詰め、致命的な攻撃を加えたのは戦艦キング・ジョージ五世と、ロドネイの四十センチ砲、重巡ノーフォーク、ドセットシャーの二十センチ砲であった。しかも、その烈しい集中攻撃は午前八時半過ぎから二時間余に及んだ。  このため堅塁を誇ったビスマルクも、十時過ぎには完全に戦闘能力を喪失してしまった。そして最後にドセットシャーの放った魚雷にとどめを刺され、横転沈没した。十時四十分過ぎのことである。  こうして暴風雨下の熾烈な追撃戦はやっと終止符を打った。だが、のべ四日間に及んだ戦闘で英海軍が被った損害もけっして少なくなかった。  しかし、それにもまして英軍には大きな収穫があった。それは主要艦艇に装備して日の浅い秘密兵器“レーダー”の威力を、実戦で確認できたことである。おそらくこの新兵器がなかったらビスマルクを捕捉することは悪天候の中で不可能だったに違いない。結果的には、この海戦は第二次大戦以後の現代戦において、レーダー(情報)が決定的な役割を果たすことをはじめて実証した最初のケースであった。  英国のレーダー開発  ところが当初、軍令部や出先機関は、この戦いがこれまでの海戦の様相を一変させる電波技術の戦争であったことを知らなかった。英独両国ともレーダーの存在を極秘にしていたからである。  やがて外電を通じ、新しい電波兵器を使用していたことがしだいにわかってきた。だが、それがどのような兵器であるのか確認できない。  そこで軍令部首脳は、さっそくロンドンの海軍監督官事務所宛に問い合わせの電報を打った。昭和十六年六月十二日のことである。在ロンドンの浜崎諒造兵中佐からの第一報ともいうべき返電が、軍令三部長のもとに届いたのは、それから一週間後であった。その内容は次の通りである。 「英国は飛行機および水上の艦艇探知に電波反射の方法をとり、効果をおさめつつありと、六月七日発表せり。今日においては方向距離の測定誤差は、対空射撃にも有効なる程度と認められる。右発表によれば、本装置は一九三五年以来研究をなし、その後、急速に発達し、昨年末の独軍の大空襲時非常なる貢献をせり。現在全国に散在する本組織関係者は数千名にのぼるも、さらに空陸海軍の即時必要とする人員は約一万(計画最大人員、空軍及び陸軍各男八千、女三千、海軍男二千、女三百)なり」 「なお、本装置らしきもの一組、六月十五日以来、ハイドパーク高角砲台付近に装備、目下調整中なるが如し。右は移動式にして、外見貨物自動車のもの四両、(イ)発電車一、(ロ)空中線を有するもの二、(ハ)有せざるもの一、より成る。空中線は垂直にして幅十メートル、高さ四メートルの矩形網の上に配したる波長二メートル以内で、テレフンケン型短波指向性のものの如く、幅四メートル、高さ二メートル、奥行三メートルの筐体とともに車台上にて回転し得る構造なり。(ロ)の一両は受信車らしく、(ハ)は送信儀の一部を蔵するものの如し」  と、あった。  これがワトソン・ワットの開発したレーダーで、伊藤がダンケルクからカレーに向かう途中で見た四角な籠様なものは、レーダーの空中線だったのである。  しかも、英国はこの新兵器をフルに使ってナチス・ドイツの侵攻を阻んでいた。ヨーロッパ大陸と英本土の間に横たわるドーバー海峡で、もっとも狭いところはフランスのカレーと英本土のドーバーで、その距離はわずか三十五キロメートル。それだけに大陸を席巻したドイツ軍の勢いをもってすれば、英本土上陸は可能と世界の誰もが思っていた。現に英国自身も上陸は必至と戦々恐々としていたほどだ。  というのも、当時、英国はダンケルクで大量の兵器と軍需物資を失い、上陸軍を迎え撃つ兵器にさえ事欠いていた。それは戦車二百九十両、野砲五百門を集めるのがやっとで、各種弾薬に至っては一週間もつかどうかと言われるほど欠乏していたことでもわかる。  一方、攻める側のドイツ軍の内情も苦しかった。上陸用舟艇の絶対量は足りないし、頼みの海軍はさきの北欧作戦で手痛い打撃を受け弱体化、英国本土上陸作戦支援などできる状態でなかったからである。そこでヒトラーは、ゲーリング元帥に英本土爆撃の強化を命じた。  だが、この作戦は英国のスピットファイアー戦闘機部隊の抵抗に遭い、難航をきわめた。何しろ、ドイツの爆撃機が目標に近づくと上空に待機しているスピットファイアーが猛然と襲いかかってくる。これは英国の対空見張用メートル波レーダーが事前にドイツ爆撃隊の進入路をキャッチ、適切な迎撃位置に戦闘機を配していたことがものをいったのだ。  このためドイツ爆撃機の被害は日を追って急増し、その後の作戦展開に支障をきたす恐れが出てきた。この誤算にあわてたヒトラーは、急遽方針を変更、開発中の新兵器の完成を急がせた。それがロケット誘導弾“V1号”“V2号”であった。  独ソ戦勃発で帰国を迫られる  昭和十六年六月二十二日、ナチス・ドイツの崩壊を早めた独ソ戦が勃発した。そのあたりの動静は海軍視察団もある程度察知していた。しかし、いずれも未確認情報の域を出ていなかったため、それほど深刻に考えていなかった。  それが単なる噂でないことを知ったのは、六月十七日のことである。その日の午後、視察団の野村団長は、ドイツ海軍の首脳を海軍武官邸に招待、謝礼の午饗会を開くことになった。  ドイツ側の賓客は、海軍長官のレーダー元帥をはじめ、ウィッツエル大将、フリッケ作戦部長、グロース中将、フックス中将などであった。その席でレーダー元帥は、挨拶代わりに意味深長な所信を披瀝した。 「ドイツはヨーロッパ新秩序建設のため、宿敵英国を徹底的にたたくつもりである。そのためにはアフリカも確保しなければならない。またソ連もヨーロッパにおける英国の策源地として残っている唯一のものだが、天才的な政治家であるヒトラーはこれを見逃すことはない。われわれ陸海空の三軍もその統率の下に一致協同して、初志の貫徹に邁進しようとしている。そのため近く世界中の人が驚異の眼を見張るような大事件が起こるであろう。しかし、これは既定の方針を遂行するだけであって、突飛なことでないと考えている」  この発言を聞いた団員は、一瞬、顔色を変えた。それはドイツの将軍連も同様であった。客が帰ったあと、視察団の面々は野村団長を囲み対応策を検討した。だが、なかなか結論が出ない。  一方、海軍より二ヵ月早くドイツに到着、ヨーロッパ各地を精力的に回っていた山下中将を団長とする陸軍軍事視察団の一行が、ベルリン発の国際列車でモスクワ経由帰国の途についたのは、皮肉にもその日の夕刻であった。  そのとき、一行を見送るためフリードリッヒ・ストラーゼ駅に出向いた海軍監督官事務所の奥造兵中佐は、陸軍のある士官からこんな話を耳打ちされた。 「海軍さんはそんなゆっくりしていていいのですか。われわれはローマにいたとき(五月二十日ごろ)、すでに全員帰国を決めていたんですよ」  奥造兵中佐はそれが何を意味するのか、わからなかった。ところが、あとでレーダー元帥の話を仲間から聞かされ、陸軍の情報収集の早さに目を見張った。事実、陸軍の視察団は独ソ戦開始直前に満州国に入り、無事に日本に帰国することができた。  ヨーロッパ脱出  そんな陸軍に対し、海軍は視察に気を奪われ、情報収集に手ぬかりがあった。このため、帰国の方法もスケジュールも決められないという破目に追い込まれてしまった。  結局、六月十七日夜おそくまで話し合いを続け、調査事項の残っている三戸少将、伊藤、喜安の両中佐以外は、六月二十七日にモスクワ経由で帰国する方針を固め、海軍省に許可を求める電報を打った。  ところが、十九日に海軍省から返電が入り、全員一緒に帰るように指示してきた。ドイツ軍が国境を越え、ソビエトに進撃を開始したのは、それから二日後の六月二十一日夜半であった。これで視察団が考えていたシベリア鉄道経由の帰国は絶望的になった。  そこで米国経由で帰国することも検討されたが、ビザがなかなかとれないことがわかり、断念する。  残った方法は三つしかない。一つはイタリアの飛行機で南米に渡り、そこから日本船で帰国すること。第二は、外国船で南米に渡りそこで日本船に乗り継ぐ。しかし、当時、リスボンから南米に渡る客船は満員で、容易には船室が確保できない。  とすれば、最後の方法は浅香丸を派遣してもらうことしかない。だが、それでは帰国がさらに遅れてしまう。視察団の一行に焦りの色が濃くなるのも当然であった。  艦政本部から「伊藤中佐を至急帰国せしめよ」という電報が届いたのは、その直後である。ロンドン駐在の浜崎造兵中佐からレーダーに関する第二、第三の詳細な情報が軍令部に届き、レーダー(電波探信儀)開発の機運が盛り上がってきたのである。  この結果、視察団の一行は三班に別れて帰国する方針を固めた。問題はいつ、どういう方法で帰国するかであった。もっとも手っ取り早い方法は、南米までイタリアの旅客機で飛び、そこから日本船に乗り継ぐことである。  ところが、肝心な定期便は休航中ということがわかった。これを知った海軍省は在日イタリア大使を通じてなんとか帰国の便宜をはかってほしいと交渉を始めていると連絡してきた。  しかし、かりに交渉がまとまったとしても、問題が残る。飛行機だと身のまわりの手荷物しか持てない。とすれば、あとの大小の荷物をどうやって運ぶか、これが視察団にとって最大の悩みのタネであった。  というのも、その中には海軍がドイツ海軍からやっと入手した航空機、潜水艦、高速魚雷艇、高性能爆薬、電波兵器、工作機械(溶接を含む)、人造ゴムの製造技術などの貴重な報告書や図面、調査資料が含まれていたからである。  どれほど、それらが貴重であったかと言えば、たとえば、ドイツの航空機用エンジンは日本のものより数段高性能であったし、高速魚雷艇はそれまでの水雷艇に代わる、格段に威力を増した迎撃兵器で、その建造ノウハウは海軍にとってまったく目新しい技術であった。  またドイツの精密工作機械は、その精度において日本製をはるかに凌駕し、人造ゴム(防震ゴム)の製造技術に至っては、日本には皆無のものであった。いわば日本海軍が持ち帰ろうとしたのは、技術先進国ドイツの最先端をゆく技術情報のつまった宝庫でもあったのだ。  そこで、協議の末、一、二班はイタリアの輸送機で南米に飛び、三班はスペインからしかるべき船便を求め南米に渡る。そして一行の荷物は、最後の帰国者が一括して持ち帰るということで決着した。  こうして七月中旬、永井、森永中佐などがベルリンを発ってイタリアに向かった。次いで三戸、入舟、酒巻の三少将を中心とする十一名が、七月二十八日、ベルリンを出発することになった。伊藤もそのメンバーの一員であった。  ところが、その直前、北アフリカでイタリアの輸送機が英軍に撃墜されるという事件が起きた。このためイタリア空軍は、輸送機を南米に派遣することに難色を示し始める。危険を伴う仕事だけに、日本海軍士官の生命の安全は保証しかねるので中止したいというのである。  あわてたのは海軍監督官事務所のスタッフたちだ。ここで出発を見合わせたらいつ帰国できるかわからなくなる。そこでイタリア駐在の海軍武官に電話をかけ「なんとか飛行機を出してもらうよう空軍省に掛け合ってくれ」と問題解決の下駄を預け、予定通り一行を出発させることにした。  第二班の一行が国際列車を乗り継ぎ、ローマに着いたのは、それから二週間後の八月五日であった。イタリア駐在武官と空軍省の交渉は思いのほか難航しているとみえ、話し合いはまとまっていなかった。結局、日本側の強引な説得が実り、空軍省もしぶしぶ二機の輸送機を派遣することを許可した。ただし、出発は八月十五日と、日本側の思惑とは大きくずれ込んだ。  そんな思いをして、やっとローマ空港を飛び立った特別機は、スペイン南部のゼビラを経由して、アフリカ西海岸を一路西に向かい、スペイン領サハラの軍事拠点ビラ・チスネロに着く。当時、スペインは日本と友好関係を保っていた。その関係でスペイン政府も視察団の帰国に対し、ビラ・チスネロで駐屯部隊の士官宿舎を一行のためわざわざ提供するなど、いろいろ便宜をはかってくれた。  翌十七日、ビラ・チスネロを飛び立ったイタリア機は、ウェルデ諸島のザール島を経由して、一気に大西洋を横断、ブラジル北東部の一角ペルナンコブの州都レシェフに到着した。  ここまでくれば帰国の目安がついたも同然だった。一行を乗せたイタリア機は、再び大西洋を渡り、故国に引き返した。  視察団の一行は、ここからドイツの四発旅客機コンドルに乗り換え、ブラジルの首都リオ・デ・ジャネイロに向かう。あとは最後の目的地、アルゼンチンのブエノス・アイレスから日本船に乗り継ぎ、南米最南端のマゼラン海峡を通り太平洋に出さえすれば、予定通り九月下旬か、十月初旬に日本に帰ることができる。それだけに一行は安堵の色を隠そうとしなかった。  これに対し、最後に帰国する頼造兵大佐をリーダーとする十一名(うち視察団員は四名)は、八月十日、ベルリンを発ち、スイスのバーゼル、ドイツ占領下の南フランス、スペインのマドリードを経由して、八月下旬、スペイン南部のカディス港を出港するスペイン船に乗船する予定だった。  問題はその船旅である。最初の寄港地リスボンを出て、大西洋を横断するのに最低十日間かかる。しかも、途中の航路には英領トリニダート島寄港も含まれているだけに、英国官憲の臨検があるものと覚悟しなければならない。  そこで、重要書類や外交文書は厳重に封印し、いかなる場合でも開披を拒否する。それでも、なお臨検を強行しようとすれば海中に投棄する。そのためあらかじめ封緘の中におもりを入れておくなど、万全の準備を整えていた。つまり、船便での帰国者は悲壮な気持ちでベルリンを出発したのである。 (註=三班はトリニダート島での検問も無事にすませ、九月二十五日、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロに到着、十一月一日、大阪商船の貨物船「東亜丸」に乗り継ぎ、十二月十五日、横浜に到着することができた。)  レーダー開発命令下る  ここで舞台を国内に戻そう。  伊藤がベルリンから送った電波探信儀(レーダーに対する当時の呼称)「X装置」に関する報告や、ロンドン駐在の浜崎造兵中佐の一連の情報を検討していた軍令部と艦政本部は、改めて関係者を交え検討を重ねた。その結果すべての基礎研究を省略、英国の対空見張り用レーダーと同じものを試作して、作動させてみようという結論に達した。  そして十六年八月二日、電波探信儀研究実験着手の大臣訓令を関係部署に通達した。このため計上した予算は一千百万円。一年前、伊藤研究室が試作した「暗中測距装置」の研究開発費が二万円だったのに比較すると破格の措置であった。軍令部、艦政本部は実用的なレーダーをなんとしてもつくりたかったのだ。  一方、訓令を受けた海軍技研電気研究部長の佐々木清恭少将は、この実験を早急に進展させるため部員が総力をあげて協力するよう指示した。  出張中の伊藤に代わってまとめ役を担当したのは、電波応用の研究を手がけていた四科の橋本宙二造兵中佐(のち大佐)である。  また佐々木部長は、伊藤の片腕と目されていた水間、新川技師の進言を入れ、テレビ研究の権威である日本放送協会技術研究所の高柳健次郎博士と日本電気技術陣の協力を要請した。これは、テレビと同じパルス技術とCRT表示技術が重要な決め手になるからであった。  この模倣品の開発は意外に早く軌道に乗った。まず、伊藤研究室の新川技師が電離層研究で使っていた技術を活かし、パルス変調器を試作、これで二科(送信関係研究室)のつくった超短波電話機を変調させることから始め、八月末にはともかく、波長四・二メートル、出力五キロワットの実験機をつくりあげる。  さらにこの実験機をたたき台に改良を重ね、波長三メートルの対空見張りレーダーの試作に成功する。  完成した試作機は、三浦半島野火の海軍機雷学校実習所構内に仮装備され、垂直のビームアンテナを使い、本格的な実験を開始した。九月八日のことであった。  その結果、中攻単機(一式陸上攻撃機)の場合、最大九十七キロメートルまで測定が可能であることが確認された。  しかし、当時、飛行機の機体からの電波の反射状況についての資料は何ひとつない。それだけに電波の偏波面が垂直でよいのかどうか、皆目見当がつかなかった。  そこで関係者はそれを確かめるため、ビームアンテナの改良を進め、十月初旬、二度目の飛行実験に挑戦した。すると条件は前回とまったく同じなのに、中攻単機で百十キロメートル、三機編隊の場合は百四十五キロメートルまで測定距離を伸ばすことに成功した。  その後、この試作機は問題箇所を手直しし、兵器化されることになった。生産を担当したのは、送信関係が日本電気、受信関係は日本ビクター、空中線の旋回装置は富士電機製造がそれぞれ分担した。 「一号一型」と言われたこの陸上用対空見張電波探信儀(電探)の一号機は、千葉県勝浦灯台付近の海抜八十メートルの台地に据え付けられる。  戦争末期、サイパン島を発進した米国のB29重爆撃機が、日本本土に飛来するようになったとき、陸軍の東部方面軍は「南方洋上に敵数目標、本土に接近しつつあり」という情報をラジオで流した。その情報を提供していたのが、海軍勝浦電波見張所に設置された一号一型電波探信儀(レーダー)の改良型であった。  一方、これと並行して伊藤研究室の森造兵大尉、水間技師、日本無線などは、センチ波暗中測距装置の技術を生かせばセンチ波レーダーが開発できるのではないかと考え、その開発に着手した。しかし、思うように進捗せず、関係者の焦りの色はしだいに濃くなった。安定した性能をもった受信装置がなかなかできないためである。  そのあたりの事情を知るにはレーダーの原理をわかりやすく説明するのが手っ取り早い。たとえば、強力な電波をパルス変調器で変調し、一万分の一秒ぐらいの短時間だけパッとアンテナから発射すると、電波はちょうど大根を輪切りにしたような格好で、広く空間をおおいながら前進する。もし途中の空間に飛行機とか山があれば、それに当たった電波は反射され、山彦のように再びアンテナに帰ってくる。  この反射波を受信器で増幅して、ブラウン管の上に映像を出す。電波が空間を走る速さは、光と同じだから電波を発射したときから、反射波が帰着するまでの時間を、ブラウン管上で測定すると、目標までの距離が割り出せる。この動作を一秒間に五百回とか、千回の割で断続して繰り返し行うと、ブラウン管の上にはっきりした目標の映像が得られる。これがレーダーの原理である。  ただその場合、レーダーの用途によって発射する電波が違ってくる。たとえば、射撃用レーダーは発射する電波の幅(ビーム)を極力狭くして、角度を正確にとれるようにしなければならない。また対艦船見張り用のレーダーは水面上の電界強度を強くするため波長の短いものを使用する。  つまり、対空見張りの場合は比較的波長の長い電波でもそれなりの効果を発揮できるが、射撃用とか艦船見張り用には、波長の短い電波の方が正確に目標をとらえやすい。海軍技研が強力なマグネトロンの研究開発に力を注いできた理由も、そこにあった。  日本無線の中島研究室は、こうした海軍技研の強い要請をうけ、昭和十五年から波長三センチの三相発振マグネトロンによる回転電磁波を利用したレーダーの開発に着手していた。これは、反射物体からの反射効率の向上をねらったもので、周波数変調方式により数キロメートル離れた煙突などは、一応識別できるところまで研究が進んでいた。とはいえ、まだ実用化にはほど遠かった。  そこへ訪独軍事視察団の一員としてヨーロッパに出張した伊藤からウルツブルグレーダーが、パルス方式を使っているとの一報が届いた。そこで急遽、方針を変え、周波数変調方式からパルス方式を採り入れたレーダー(電波探信儀)研究に切り換えることになった。  そして十六年十一月には後述するように出力三百ワットのキャビティ・マグネトロン(空洞磁電管)「M三一二」と、受信用小型マグネトロン「M六〇」の開発に成功する。 第六章 マイクロ波レーダーの開発に挑む  受信装置が足を引っ張る  時期はさかのぼるが、キャビティ・マグネトロンは、もともと昭和十四年四月、日本無線の中島研究室が苦心の末開発した水冷式高出力磁電管である。これは十二年に開発した橘型磁電管の特性をより効果的に活かすために考案されたものであった。というのも、橘型磁電管は過熱現象を起こしやすく、寿命が短いという点が問題となり、実用化は見送られていたからである。  そこで中島は、その欠点を解消する方法をいろいろ考えた。その結果、思いついたのが、一・四センチの銅の厚板を打ち抜き、橘型の陽極をつくり、これを水冷することによって過熱を防ぎ、出力の増大をはかることであった。さっそく、試作品をつくり、テストしてみると、波長十センチで連続出力五百ワットという驚異的な出力が確認された。  昭和十六年、森や水間たちが開発したセンチ波(マイクロ波)電探にはこれを小型にした改良マグネトロンを送信用に使ったわけだ。  これに対して受信用マグネトロンはできる限り小型化が必要だったため、モリブデンの薄板を細工して陽極をつくった。しかし、これが受信装置不良の最大の原因になる。そのあたりの事情を中島は次のように語っている。 「送信用マグネトロンの陽極は、銅のブロックを打ち抜いてつくったので、きちっと任意の周波数を出すことができた。問題は受信用のタマだった。何しろ、こっちの陽極はブリキの金物細工を無理に曲げてつくったようなもの。それだけにちょっと心配な点があったので、送信用のマグネトロンの陽極の近くにニッケル板を置き、これを微細に動かして周波数を変えられる別の磁電管をつくって、これを採用してほしいと海軍に働きかけたんです」  ところが、技研の担当者は「そんなやっかいなものは兵器に使えない。それより真空管をもっと簡単にしろ」と、逆に無理な要求を持ち出す始末。“武人の蕃用”に耐える兵器にするためにどうしてもそれが必要だというのである。要するに、性能より兵隊が乱暴に取り扱っても十分使用に耐える便利な兵器をつくれというわけだ。もっとも、これは急にそうなったのではなく、日本海軍の兵器づくりの基本思想とも言うべきものであった。  そんな悪条件と闘いながら、日本無線の研究陣は何度も試行錯誤を繰り返し、ともかく、マイクロ波電探の試作機をつくりあげる。ちょうど、伊藤がヨーロッパ軍事視察の旅を終え、帰国した直後の十六年十月初旬のことである。  この試作機の実用化テストは、鶴見臨港線「海芝浦」駅前の芝浦機械製作所の屋上で行われた。テストに立ち会ったのは、技研の森部員、水間技手のほか、矢浪正夫造兵大尉(当時、のち少佐、昭和十四年東北大工学部電気科、八木アンテナ顧問)、技研着任まもない吉田稔造兵中尉(のち少佐、昭和十五年東北大工学部電気科、TBSブリタニカ副会長)、松村武一、広瀬健三技手、日本無線の山崎荘三郎技師、佐藤博一、金井典二、伊東伝一郎、真島鉄柱などであった。  しかし、最初の実験は失敗に終わった。肝心な映像が出ないのである。しかも、原因がわからない。  そこで二度目の実験には放送技研の高柳博士や日本電気の大沢寿一博士(のち常務、日電アネルバ相談役)などの権威者に立ち会ってもらうことにした。その結果、受信機に問題のあることがはっきりわかった。それを高柳は次のように解説している。 「送信機から強い電波をパッと出すと、一瞬、受信機の信号が途切れ、無信号状態になってしまう。しばらくすると、受信機が動き出し、ノイズが出て、二キロ先、十キロ先の映像は見えるんです。だから受信機に問題があるとすぐわかった。その場合、送信が終わったら、受信機をもとに戻し、みんなエコーが聞けるように改良すればいい。そのあたりはテレビをやっていたからお手のものです。その結果、五百メートル、三百メートルでも見えるようになった。もっとも、肝心な受信機そのものの感度も悪かった。そんなことが原因でしたね」  ところが、その受信機の改良は簡単ではなかった。それは高柳自身がテレビ実験放送で、さんざん体験したことであった。  たとえば、東京・日比谷の市政会館の屋上に据えたアンテナから発射した五百ワットの電波は、千葉や成田に行くとまったく受信できない。それどころか、上野の不忍の池付近でも本郷の高台が邪魔になり、受信できなかったという。  つまり、当時は高感度受信機をつくること自体、大変な仕事だったのである。  海軍技研と日本無線の開発担当者は、高柳、大沢の両博士、あるいは、海軍技研の顧問だった東北大の渡辺寧教授の指導を受けながら、受信機の改良に何度も挑戦する。  こうした地道な努力が実り、十月下旬には近いところの映像もとらえることができるようになった。  こうしてメートル波電探も、センチ波電探も、地上実験でそれなりの成果をおさめ実用化のメドはついた。だが、これを兵器化するには、もっと小型にして、艦艇に搭載できるようにしなければならない。  幸い波長の長い「一号一型」は重量軽減と波長の短縮化が順調に進み、波長一・五メートル、出力五キロワットの試作機(重量八百四十キログラム)が完成した。艦船用対空見張り電探「二号一型」が、それである。  一方、センチ波電探の実用化のための改良は予想以上に難航した。そのころ、日本無線では海軍の要求に基づき波長十センチ、連続出力三百ワットのより小型の送信用水冷式マグネトロン「M三一二」と同じく小型の受信用マグネトロン「M六〇」の開発・試作に成功する。しかし、肝心な、マグネトロンで受けた電波をブラウン管上に増幅・処理する受信装置の改良が思うようにはかどらず、一進一退を続けていた。  そして横浜港を出入りする商船の反射波を、なんとかブラウン管にキャッチできるようになったのは、十二月三日のことであった。  そんな矢先、艦政本部から開発を終えた陸上用対空見張り電探「一号一型」(重量八千七百キログラム)を五十台、急遽整備せよと命令が下った。このため研究者の一部は製造陣にまわり、海軍技研電気研究部は、およそ研究機関の名にふさわしくないような雰囲気を呈し始めた。  通称“マグロ”(センチ波レーダー)完成  やがて運命の昭和十六年十二月八日を迎える。  この日、朝のニュースは「帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と、繰り返し放送した。海軍がハワイ真珠湾の米国艦隊ならびに航空部隊に「決死的大空襲を敢行」したと、大本営から発表されたのは十一時すぎである。  しかも、米太平洋艦隊の主力艦を全部撃沈したほか、航空部隊にも致命的な打撃を与えるという大戦果をあげたことがだんだんわかってきた。  このころから電気研究部はますます緊迫の度を深めていった。陸上用の一号一型電探の生産、やりかけの二号一型(艦艇用対空見張り電探)、艦艇用水上見張り電探の実用化を急がねばならぬという切羽詰まった状況に追い込まれたからだ。  そんな電波兵器関係者の苛立ちとは裏腹に、緒戦は日本軍の優勢裡に展開し、用兵者の鼻息はしだいに荒くなった。とくに十二月十日、韓国の元山で編成された陸攻部隊がマレー半島クァンタン沖を北上中の英極東艦隊の主力、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を捕捉、撃沈するという偉勲を立てた。  これを契機に軍令部や大本営は“無敵海軍”という言葉を公然と使い出した。心ある兵科士官や技術科士官は、その姿勢に懐疑の目を向けた。世界一の富と工業力を持つ米国の国力を、甘く見すぎているような気がしたのである。  伊藤もその一人であった。技術者の目で先進国ドイツの軍事技術、兵器開発に執念を燃やす科学者の姿勢を見てきただけに、大国アメリカをあなどる用兵者の驕慢ぶりがよけい気になったのだ。  そんな意識が頭にあったせいか、十七年二月、連合艦隊参謀たちとの会議の席で、「原子爆弾」の研究の話を持ち出し、参謀連の度胆を抜いた。  それは、山口県岩国沖の柱島に停泊中の戦艦「大和」で開かれた連合艦隊図上演習の分科会の席での出来事である。この図演は、シンガポール陥落後の第二段階の作戦をどう展開するかを検討する研究会であった。伊藤も海軍技研所員、電波物理研究会委員として会議に参加した。  伊藤はまず、呉海軍工廠長・渋谷隆太郎中将の求めに応じ、電波兵器の開発改良の現状と今後の見通しを一通り説明した。  そしてそのあとの質疑で、伊藤は「ドイツならびに米英で、電波探信儀よりも、なお恐るべきものを研究中であります」と前置きして、ウラニウム235セパレーションの話をし始めた。 「もしこの研究が成功すると、一握りのウランがあれば、サイパン、パラオの基地などいっぺんでぶち壊されてしまいます。目下理論的にも、技術的にもドイツが先行しており、兵器としての開発使用はドイツが先になるものと予測されるので、そう心配はいらないと思いますが、今後の研究課題として、注目、警戒を要すべきものであることは間違いありません」  伊藤の意外な発言に、並いる参謀連は声を呑んだ。はじめて聞く話だし、意見の出しようがなかったのかもしれない。  その直後、緒戦の勝利に酔う“無敵海軍”に冷水を浴びせるような出来事が起きた。十七年四月十八日の米軍機による東京初空襲である。  この日早朝、海軍の厳重な警戒網をかいくぐって、日本近海に接近した米海軍空母「ホーネット」「エンタープライズ」(基準排水量二万トン)から発進したノースアメリカンB25爆撃機十六機は、低空で東京、川崎、横浜、名古屋に分散侵入した。そして無差別に爆弾を落とすと、一気に中国大陸、ソ連沿海州に向けて飛び去った。  空襲そのものの被害は微々たるもので、国民の士気にほとんど影響を及ぼさなかったが、海軍首脳の受けたショックは測り知れないものがあった。それは、さきの連合艦隊図演後に連合艦隊司令部が立案し、実施許可を求めていたミッドウェー攻略作戦を、軍令部がやっと認めたことでもわかる。  この決定で海軍技研電気研究部は、戦場のような騒ぎになった。作戦に参加する戦艦「伊勢」「日向」に、対空見張り用と水上見張り用の電探を装備することが決まったためである。  それから艦政本部、海軍技研、製造メーカー、呉工廠の血の滲むような連係プレーが始まった。最大の難物は相変わらず不安定要素の多いセンチ波電探を、いかに実用化するかであった。  伊藤を中心とする技研開発陣と、製造メーカーの日本無線は、試行錯誤を繰り返しながら、総力をあげて未知の技術に挑戦を開始した。  その結果、送受信装置とアンテナを一括して回転させながら、Aスコープ(アンテナを任意の方向に向けると、その方向の目標物からの反射電波がブラウン管の直線軸上に、遠近に対応してあらわれる方式)で測定する試作機(仮称一〇三号)をやっとつくりあげた。  この試作機は直径一・五メートル、奥行二メートルというパラボラアンテナのお化けのような装置で、その特異な形状から通称“マグロ”と呼ばれた。  試作を終えた一〇三号電探(マイクロ波)と、二号一型電探(VHF方式)は、呉工廠で伊勢、日向に仮装備し、装備実験を行うことになった。  このとき日向に搭載される一〇三号の仮装備と実験指揮に当たったのは、伊藤研究室の若手技術士官である吉田稔大尉(前出)であった。その吉田は当時を次のように振り返る。 「私は一月に技研から呉工廠電気部に派遣され、でき上がった電探の調整をやっていた。そこへ二号一型と一〇三号、のちの二号二型の装備実験の話が舞い込んだわけです。さっそく関係者と話し合い、伊勢には二号一型、日向には一〇三号を装備することが決まった。担当は、伊勢が一年先輩の矢浪さん、日向につけるマイクロ波は鶴見の実験のとき私も立ち会った関係で、私が受け持つことになりました……」  比較実験は四国近海の某所で行われた。実験に立ち会ったのは、艦政本部第三部長の名和武少将(のち中将)、第一艦隊通信参謀桜義雄中佐(のち大佐)、技研の伊藤、橋本両中佐と高柳顧問などであった。 “マグロ”が「日向」を救う  軍艦と飛行機を使った実戦さながらの比較テストは、長時間にわたって行われた。その結果、伊勢に装備した二号一型は、艦上攻撃機単機の場合、高度三千メートルで五十五キロメートル、軍艦(目標日向)に対しては二十キロメートル。一〇三型は軍艦(同伊勢)に対し三十五キロメートル、飛行機に対しては使用不能ということがわかった。  このデータをもとに、実験委員会は、慎重に検討を重ね「二号一型は装備を可とするも、一〇三号は撤去すべし」との裁定を下した。  伊藤は研究者の立場から、この判定に異論を唱えた。その理由は飛行機に対するものと、水上艦艇に対するものを同一の装置で兼ねさせるのは、技術的にむずかしすぎる。第二点は電波探信儀の重量、容積に対する用兵者の認識が、これまでの常識の範囲を出ていない——というものであった。  というのも、日向に仮装備した一〇三号は容積が大きいうえ、微調整がむずかしい。つまり、用兵者がよく口にする“武人の蕃用”には耐えられない、つまり、技術的知識の乏しい兵士が直接操作するには、あまりにデリケートすぎた兵器だった。  それは当時の技術力と、時間的制約を考えればやむをえないことであった。伊藤はその点を強調し、説得に当たったが、決定を覆すには至らなかった。  ところが、結論が出たのが出撃直前だったため、撤去する時間的余裕がない。そこで伊藤は技研の熟練技術者(松村武一、広瀬健三技手ほか二名)を日向に派遣、保守業務を担当させることにした。  このあと関係者の間でちょっとした騒ぎが持ち上がった。日向の仮装備を担当した吉田部員(大尉以上は部員と呼称)が、自分も日向に乗り、行動をともにしたいと名和少将に直訴したことである。 「そのころ私は大尉になりたてで、気力が一番充実しているときだった。その勢いで名和さんに食い下がったんです。何しろ、一〇三号は、マイクロ波電探の試作第一号だし、それが実戦でどんな使われ方をするか、自分の目で確かめておきたかった。その体験をもとに武人の期待に応えられる兵器をつくる。それが技術科士官の務めだと私は思ったんです。だが名和さんは頑として聞き入れてくれない。その理由はいろいろありました」  と吉田は言う。なかでも、吉田が納得できなかったのは「お前らはこれからの海軍電波技術を背負ってゆくエリート、そういう大事な人材を戦場に出すわけにはいかん」という一言であった。  もちろん、吉田も名和の言わんとする意味はよくわかった。だが、海軍が本当に人材を育てるつもりなら、危険な環境に身をさらし、実体験をさせることが一番望ましい。それによって、実戦部隊の将兵がどんな兵器をほしがっているか、あるいは、これからの兵器はどうあるべきかを考えることもできる。それが技術科士官の本来の使命だ、と吉田は思ったのである。  東北大学の渡辺寧教授の教え子であった吉田には、もともとそんな一途なところがあった。しかも、永久服役の技術科士官としての自負心も人一倍強かった。  そのせいか技研時代も伊藤の指導法にさまざまなクレームをつけるなど、いろいろ話題を残している。真面目で、恐いもの知らずの強気な性格がそうさせたのかもしれない。それに関連して吉田はこんな話をする。 「私は技研に一年そこそこしかいなかったが、伊藤研究室の雰囲気にどうしても馴染めなかった。というのも、伊藤さん自身は学識経験も豊かだし、人柄も申し分ない。だが、惜しむらく学者でありすぎた。そのあたりは伊藤さんの生き様を見ていればよくわかる。生意気だったかもしれないが、私はそれをよく批判したものです。海軍の技術科士官ならそれらしい見識と姿勢で、事に当たらなければいけないとね。それがたたって呉に出されたのかもしらん。そういう意味じゃ、私は伊藤スクールの落第生だったんでしょうね」  と、苦笑する。しかし、吉田にはそれが性に合っていたとみえ、水を得た魚のように元気になった。ミッドウェー出撃に伴う装備実験は、その直後の出来事だっただけに、吉田が火のように燃えたのも当然であった。  そんな吉田の切なる願いもむなしく、五月二十七日、南雲忠一中将麾下の機動部隊が、次いで二日後の二十九日には「大和」以下の連合艦隊主力が柱島錨地を離れ、中部太平洋の戦場に向かって相次いで出撃していった。  周知のようにミッドウェー攻略作戦は、日本海軍はじまって以来の大作戦であった。それだけに連合艦隊も精鋭を結集して戦場に臨んだはずである。だが、六月五日の朝、ミッドウェー環礁北方海域で展開された海空戦は、主力空母四隻と練達の搭乗員を多数失うという見るも無惨な結果に終わった。  このときの犠牲者のなかには、伊藤のよき理解者であった空母「蒼龍」(基準排水量一万八千四百トン)の艦長・柳本柳作少将も含まれていた。柳本少将は、軍令部三課長時代から「電探なくして戦争突入は無謀のきわみ」と主張、伊藤の研究を陰に、陽に支援してくれた数少ない用兵者の一人であった。  一方、南雲機動部隊の後方、五百マイルほどの海域を航行中の主力部隊は、最後の空母「飛龍」(基準排水量、二万二百五十トン)の喪失を確認したあと、山本長官の決断で「作戦中止」の電報を発し、全作戦部隊の反転を命じた。  ところが、天候不良、通信の不達など予期しない問題が続出し、主力部隊は、戦場から離脱するのに一時、収拾がつかないほど混乱した。そのなかでも重巡「最上」と「三隈」が衝突し、三隈は沈没、最上は大破してしまった。無用の長物と烙印を押された日向搭載の一〇三号電探“マグロ”が威力を発揮したのはこのときである。  何しろ、悪天候のなかで見通しがまったくきかず、しかも伊勢搭載の一・五メートルの超短波電探では味方の所在がつかめないのに、マイクロ波電探は、三十五キロまでの艦船が確認できた。そのため日向は、他の艦と衝突することもなくかろうじて撤収に成功したのである。  日向艦長の松田千秋大佐(のち少将)は、内地帰還後「一〇三号電探がなかったら、戦場からの離脱は混乱をきわめ、最悪の事態を迎えたであろう。そういう意味でも水上見張り用電探は絶対に必要である」と、軍令部や艦政本部の首脳陣を説いて回ったほどである。  これに力を得た伊藤も、艦政本部に対しセンチ波電探の実用化研究再開を強く働きかけた。それも電波技術の理論上の判断から、今後の電探はセンチ波以外にないと訴えた。  しかし、艦政本部は伊藤の要望に耳を貸そうとしなかった。「武人の蕃用に耐えない玩具のような兵器の研究はまかりならん」というのである。ちなみにつけ加えると、当時の艦政本部長は、戦争末期の連合艦隊長官を務めた豊田副武中将(のち大将、軍令部総長)である。  だが、伊藤はあきらめなかった。現に電波利用の歴史は長波から中波、短波へと、利用領域はしだいに短い方へと広がりつつある。それだけに、極超短波への道は必ず拓けるとの確信を持っていたからであった。  水泡に帰したウルツブルグレーダー情報  海軍がミッドウェーで手痛い打撃を受ける前、レーダーに関する新しい情報が、南方最前線から次々に入っていた。その情報を最初に中央にもたらしたのは、シンガポールを占領した山下兵団である。  十七年五月中旬、陸軍の第五技研(のちの多摩技術研究所)から、日本電気生田研究所の小林正次所長宛に「シンガポールの戦利品のなかに、現地で理解できないものがある。どうやら電波兵器らしいので調査にきてほしい」という連絡が入った。そこで小林は東芝の浜田成徳研究所長などと調査団を編成、シンガポールに飛んだ。五月下旬のことであった。  シンガポールの英軍高射砲陣地にあった電波兵器は、予想した通り射撃用電波標定機で名称は“GL”となっている。波長は一・五メートル、受信空中線に八木アンテナを四組持ち、給電系の工夫により受信空中線を上下左右に振り回し、等感度法で中心方向を定める方式を使っていた。  日本で誰も顧みなかった八木アンテナが、英国のレーダーに見事に活用され、威力を発揮していたのである。これには、小林たちもびっくりした。  また同じころ、フィリピンにおける米軍の最後の拠点、コレヒドール島を占領した本間兵団も、“SCR五二五型”と名づけられた電波警戒機(波長一・二〜一・五メートル)を戦利品として手に入れた。  この二つのレーダーはいずれも陸軍第五技研に送られた。 (註=海軍もシンガポールで英国製のレーダーを入手、技研に持ち帰る)  そして、日本電気や東芝など兵器メーカーの技術者に公開される。このレーダーをベースに大至急実用機をつくり配備したかったのだ。これは、ドイツから譲り受けたウルツブルグレーダーの入手が遅れていたためである。  前に触れた通り、ドイツを訪問した陸海軍の軍事視察団は、ウルツブルグレーダーの譲渡を、ドイツ政府に何度も懇願した。しかし、日本の外交姿勢に不信の念を抱いたヒトラーはどうしても首をタテに振らない。  ところが、十六年十二月八日、日本が対米英を相手に戦端を開くと、態度を一変、ウルツブルグレーダーとドイツの誇る潜水艦「Uボート」二隻を、天皇に献納すると命令を下した。  ただし、ウルツブルグレーダーの現物と関連図面は日本海軍の潜水艦で運ぶことが条件になっていた。当時、ドイツが日本に軍需物資を運ぶのに使っていた商船改造の仮装巡洋艦ではリスクが多すぎ、秘密兵器の輸送には適さないというのがドイツ側の言い分であった。  しかし、当時、日本には日独間を往復できる潜水艦がなかった。結局、十七年春に完成する「伊三十号」(基準排水量二千百九十八トン)を派遣することが決まった。連合艦隊がミッドウェー作戦に出動する直前の五月末、呉をあとにした伊三十号は、印度洋、南アフリカの最南端喜望峰沖を経由して、大西洋を北上、八月六日、北フランス・ビスケー湾に面したロリアン軍港に到着した。  艦長の遠藤少佐以下百二十名の乗組員が大歓迎を受けたことは言うまでもない。ところが、遠来の日本の最新鋭潜水艦伊三十号に接したドイツの専門家は、一様に首をかしげた。ディーゼルエンジンから発生する雑音が非常に大きく、水中聴音機(ソナー)を使うと、簡単に所在が確認できるからであった。  居住性や安全性を犠牲にして、小さな艦のなかに、強力な動力機関や重装備を施す日本海軍の造艦技術の欠陥を指摘された駐独海軍武官は、困惑の色を隠さなかった。  ベルリンからの極秘電報でこの事実を知った軍令部と艦政本部は、事の重大性に気づき、あわてて対応策を協議した。その結果、ドイツ海軍に依頼し、適当な防護措置をとってもらうよう現地に訓令を発した。  改修工事を引き受けたドイツ海軍工廠は、二週間で改造をすませると確約してくれた。そして、土、日曜も休まず突貫工事を重ね、八月二十一日には予定通り工事を完了、日本側に引き渡された。  さっそくビスケー港で走行テストをしてみると、ディーゼルエンジンやモーターから発生する独特の水中騒音は嘘のように消えている。防振ゴムや特殊なスプリングをふんだんに使った防音工事のおかげで艦内の騒音が外に漏れなくなったのだ。  テストに立ち会った日本側の関係者は、ドイツ海軍の造艦技術の素晴らしさに思わず感嘆の声をあげた。同時に、大きな危険を背負って作戦行動を強いられる日本の潜水艦の前途に少なからぬ不安を覚えた。  ベルリン駐在の海軍武官渓口中佐が運んできたウルツブルグレーダーや暗号機などを艦内に収納した伊三十号は、八月二十二日ロリアン港を出港した。  そして危険海域を突破、十月八日にはマレー半島西海岸にあるペナン島海軍基地に到着する。ここで燃料を補給し、一路シンガポールに向かった。  このシンガポール寄港が命とりになるとは関係者は夢にも思っていなかった。それも、シンガポールで一部の積荷を降ろし、帰国の途についた直後、英海軍が敷設した機雷に触れ、あっという間に沈没してしまったのだから不運としか言いようがなかった。  幸い沈没現場が港に近かったため大多数の乗組員は、駆けつけた救助隊の手で無事収容されたが、乗員十三名とウルツブルグレーダーは艦と一緒に海底に沈んでしまう。  報告を受けた海軍当局は、急遽、佐世保工廠から三百名の工員を派遣、現地人作業員を使って潜水艦を引き揚げるよう指示した。その結果、沈没七日目に水に浸った図面と、十三名の遺体を収容したが、肝心なウルツブルグレーダーは、機雷爆発の衝撃で見るも無惨に破壊され、修復はほとんど不可能とわかった。  結局、日本の陸海軍が早期導入を切望したウルツブルグレーダー関連機器の入手は、昭和十八年十二月と大幅に遅れ、実戦にはほとんど貢献することなく終戦を迎えたのである。 (註=「伊三十号」潜水艦の快挙は、吉村昭著『深海の使者』〈文芸春秋社刊〉に詳細に記述されている)  英国がレーダー開発競争を制す  ところで、話が前後するが、伊三十号の派遣が決まる直前の昭和十七年二月、ドイツ占領下の北フランスでちょっとした事件が起こった。ウルツブルグレーダーが英軍特殊部隊に奪取されたことである。  当時、英空軍はドイツ本土をしばしば襲い、軍事拠点の爆撃を積極的に行っていた。しかし、一九四一年(昭和十六年)後半から、爆撃機の被害が急増、出撃作戦に支障をきたすほどになった。  ドイツ占領下の北フランス、オランダ、デンマークなどに配備されたウルツブルグレーダーが威力を発揮し始めたのだ。英空軍もそれが電波兵器によるものと推察していたが、その実態や機能については皆目わからなかった。  そこで二月中旬の深夜、セーヌ川河口の港町ル・アーブルの北二十キロにあったドイツ空軍のレーダーサイトに特殊部隊を落下傘降下させ、ウルツブルグレーダーの要所を奪取、海岸まで運び、そこから英本土に持ち帰るという映画もどきの冒険作戦を演じ、ドイツ軍を唖然とさせた。  さっそく英空軍は奪い取ったウルツブルグの心臓部を徹底的に調べあげた。そして、レーダーの波長が五十センチであることを突き止め、予防策を検討した。  その結果、半波長に当たる長さ二十五センチの短冊状の銀紙を大量に用意して爆撃機を出撃させた。ドイツの高射砲陣地に近づいたときその銀紙をバラ撒き、測定を妨害しようと考えたわけだ。  これは一時的には効果があった。しかし、何回か同じことを繰り返していると、ドイツ側も動体と静止体の区別がつくようになり、効果も薄らいできた。英空軍もそれを見越し、新しいレーダーの開発を急いでいたのである。  一九四〇年(昭和十五年)春、英国のバーミンガム大学で開発した波長九センチ、出力五キロワットのマグネトロンを使った航空機搭載用のパノラマ方式のレーダーがそれである。これは機上からパルス信号を地上に向け発射、その反射波で地形図をとらえるという画期的なものであった。  というのは、地上用、水上用レーダーは、限られた方向しか探知できなかったが、パノラマ方式のレーダーは、上空から全方位を探知することができたからである。  この方式のレーダーが完成したのは、一九四二年(昭和十七年)末で、実戦に使用されたのは翌年の一月三十一日、ハンブルクの夜間爆撃が最初である。  それから三日後、英国の爆撃隊はオランダのロッテルダム周辺のドイツ軍事施設を爆撃した。ドイツ軍はそのとき撃墜したリベレーター爆撃機(米国製B24爆撃機)に、問題のパノラマレーダーが搭載されているのを発見する。 (註=ドイツ軍はこれまでの慣習に従って、このレーダーを“ロッテルダム・レーダー”と呼んだ)  ベルリンに運ばれたロッテルダム・レーダー(製造番号6)を調べた空軍関係者は九センチ波を使ったパノラマレーダーの出現に目を見張った。英国がここまで追い上げていたとは知らなかったからだ。  同時に、この方式を使った航空機用の水上見張りレーダーが出現すれば、通商破壊に猛威をふるう「Uボート」は手も足も出なくなる。それを恐れたのである。  当時、ドイツのUボートは波長一・五メートルの対空見張り用の電波検出機「メトックス」を搭載していた。だが、この受信機では九センチの電波は捕捉できない。  そこで急遽新型の電波検出機の開発を急いだ。ところが、この開発が容易でない。技術的な壁が多すぎたのだ。これは、極超短波の研究がしばらくストップしていたことが影響していた。  一九四〇年(昭和十五年)、ヒトラーはヨーロッパ侵攻作戦を短期間に終息させるため、総力をあげて取り組むことを指示した。その結果、一年以内に成果を期待しえない研究開発はすべてストップされてしまった。  このなかには原子爆弾、V1、2号に象徴されるロケット誘導弾、ジェット推進の戦闘機、極超短波を使った電波兵器が含まれていた。  ところが、ヨーロッパ大陸の席巻は果たしたものの、英本土上陸は英海空軍の抵抗に遭い、遅々として進展しない。そこで矛先を東に転じ、対ソ戦に突入した。これが裏目に出て逆に窮地に追い込まれる破目になったのである。  九センチ波の航空用水上見張りレーダーに捕捉されたと思われるUボートの被害が続出し始めたのは、それから一ヵ月もたたない一九四三年(昭和十八年)三月からであった。  作戦中のUボートの艦長は新型レーダーに対応できる電波検出装置を至急配備してほしいと訴えるが、開発は一向に進展する気配を見せない。このためUボートの被害は日を追うごとに増え、七月には最悪の事態を迎えるに至った。  たまりかねた潜水艦部隊の総司令デーニッツ大将は、大西洋で作戦中のUボートの総引き揚げを命じたほどである。  事態を重視したヒトラーは、ようやくシーメンス社のキュブフミラー博士を首班とするエレクトロニクス研究開発促進機構を発足させた。しかし、これがかえって混乱を招いた。開発はさらに遅れ、新型の電波検出装置「ナキソス」の配備は一九四四年(昭和十九年)初頭にずれ込んでしまった。  一方、対空見張り用レーダーの開発で、本土防衛態勢を固めた英国は、積極的に米国に働きかけ、一九四〇年にレーダー開発についての共同連絡会議を持っていた。  そして、英国で開発したマイクロ波利用の各種レーダーのノウハウを提供、実用化を促進するように努めた。  その情報をもとに実用的なレーダーの開発に当たったのが、ボストンのマサチューセッツ工科大学ラジエーション・ラボラトリー(現エレクトロニクス研究所)を中心とする研究機関であった。  こうした米英の共同研究の成果が、九センチ波のパノラマレーダーや極超短波の水上射撃用レーダーの開発につながったのである。 第七章 焦燥感深める開発陣  艦政本部との軋轢  ここで舞台を再び日本に移そう。  ミッドウェーで虎の子の主力空母四隻を失った連合艦隊は、機動部隊の再編を急ぐかたわら、トラック島、ニューブリテン島のラバウルを拠点にガダルカナル島攻防の激しい戦いを展開していた。戦局そのものは、一応日本側優勢に進んでいたせいか、軍令部も艦政本部も、まだ気持ちの上でゆとりがあった。  そんな背景の下で、技研電気研究部の伊藤研究室のスタッフは“武人の蕃用”に耐えないと、実用化を見送られた水上見張り用マイクロ波電探の実用化の緒をさぐるべく、懸命の努力を続けていた。今後の作戦展開に必要欠くことのできない兵器と信じていたからである。  しかし、艦政本部は「その必要なし」と、全然、取り合おうとしなかった。なかには研究予算の支出を迫る伊藤に、こんな暴言を吐く幹部もいた。 「伊藤中佐、マグネトロンは君の弟のつくったタマだな。それと関係があるのかね。まさかそんなことはないと思うが、気をつけることだ。それに水上見張り用電探は、現在の二号一型(メートル波)で十分事足りる。それなのになんで実戦に役立たん電探をつくる必要がある。そんな余裕があるなら、もっと実用的な兵器の開発に力を注いだらどうかね」  さすがの伊藤も顔色を変えた。しかし、伊藤は昂ぶる感情を抑え、対空見張り用と射撃用電探の違いを理論的に説き、マイクロ波電探の必要性を執拗に訴えた。しかし、首脳陣は頑として認めない。  それどころか、艦政本部のある幹部はセンチ波電探研究の中止命令を出し、研究ならびに製造に協力していた日本無線に対し中断の意向を伝えた。しかも、技研研究者の中にもその措置に同意するものが出てきた。伊藤が窮地に立たされたことは言うまでもない。  なぜそんなことになったのか。ひとつは、海軍技研の兵器開発に対する姿勢に問題があった。  本来、海軍は軍艦でも、兵器でも、最初のものは海軍の直属機関でつくることを建前としていた。軍艦の第一号艦がすべて海軍工廠でつくられていたのもそのためだ。そして図面や仕様、実験データを全部整備し、民間の造船所に渡し「この通りの艦をつくれ」と指示する。その場合、部分的な改良を必要とするところがあれば、メーカーが考えた改善案と、その実験データを艦政本部に提出、承認を得てから工事にかかる。  そのために海軍は、わざわざ各工廠に実験部を設けていた。たとえば、呉工廠には砲熕、製鋼、水雷、電気、造船、光学、横須賀工廠は通信、電池、航海、機雷、機関の実験部があり、実用研究から、即戦力に結びつく兵器開発まで手掛ける体制が整っていた。  一方、技研が担当する各種兵器の研究開発は、研究所の性格からして基礎的なものに重点が置かれていた。そのため、工廠と同じやり方を踏襲したくてもできなかった。それに場所が山の手の住宅街に近い目黒だけに、大掛かりな試作工場や実験場もない。 「そんな環境の技研のなかで、即戦力に結びつく兵器をつくろうとしたことが、そもそも間違いのもとなんです。しかも、伊藤さんたちは実用兵器をつくった経験はほとんどない。そういうものは、工廠実験部がどんどん先行してやってしまうので、勢い研究装置のようなものばかり考える。それもせめて“明日の戦さ”に役立つものをやってくれるならまだしも、“あさっての戦争”に間に合うかどうかというものの研究に血道をあげていた。これじゃ批判が強くなるのも当然ですよ」  これは戦争末期「武蔵」の通信長から技研に移り、電波探信儀の製造に関与するようになった松井宗明大尉(のち少佐、防衛庁技術研究所第五研室長、東陽通商顧問)の話だ。  平時と違い、一刻を争う戦時中だけに、その批判も的はずれではない。技研内部から同調者が出たのもそのためであった。  だが、その背景にはもっと根強い問題があった。それは伊藤が原子爆弾の研究というとてつもないテーマに手を染めていたことに対する批判である。  前にも触れたように、十七年二月の連合艦隊図演後の分科会の席で“原爆の研究”の話を持ち出した伊藤は、あとに引けなくなり、当時の電気研究部長・佐々木清恭少将に諮り、さっそく、調査機関設立のための準備委員会を設けることになった。  伊藤の呼びかけで委員に名を連ねたのは、技研電気研究部長の佐々木少将と、数名の部員。部外からは理研の長岡半太郎、仁科芳雄博士をはじめ、東大の西川正治、嵯峨根遼吉、日野寿一、水島三一郎、阪大の浅田常三郎、菊池正士、東北大の渡辺寧、仁科存教授など、いずれもその道の権威や一流の学者たちであった。  その後、関係者は何回か会合を持ったり、独自の立場で調査を進めた。そのうえで原爆製造の可能性を検討する「物理懇談会」(仁科芳雄委員長)を発足させる。十七年七月のことである。  この研究会は、翌十八年三月までに十数回開かれた。その結果、到達した結論は、  (1)原爆製造は可能である。ただし、日本にはウラン原鉱石がないので、研究開発には長時間を要し、今次戦争には間に合いそうもない  (2)米国も、たぶん今次大戦中には実現は不可能と思われる  などであった。  日本の原爆研究は以後、陸軍でも仁科博士を中心に行われたが、海軍の物理懇談会が最も組織だった研究であった。  強まる伊藤への風当たり  ところで、電波兵器研究の第一人者である伊藤がどうしてこんな突飛なことを提唱する気になったのか、その動機はいまひとつはっきりしない。記録が残っていないのである。  ただ、当時の関係者や近親者の話を総合すると、対米戦の前途に不安を持ったためというのが、伊藤の真意だったようだ。現に実弟の中島茂はこんな話をしている。 「兄は、はじめからこの戦争は勝てるわけがないと、言っていましたね。たとえば、こんなことがあった。私どもの故郷である千葉県の御宿の家には、松の大木がいっぱいあった。それを見ながら兄は『いまにこの松も船をつくるために供出しろと言ってくるに違いない。そのときは一番先に手をあげて出してしまいなさい。どうせこんなものを残しておいても日本はゼロになるんだから……』と、言っていたほどです」  つまり、原爆研究の委員会を提唱したり、のちにB29撃墜のための「殺人光線」の研究を始めたのも、何か前代未聞の新兵器を生み出さないかぎり、この戦争には勝てないと思っていたのである。  だが、それが逆に海軍部内の不信感をあおるきっかけになったことも紛れもない事実であった。艦政本部や工廠の一部関係者は「電波兵器担当の立場にあるものが、よけいなものに首を突っ込んで、時間を浪費している」とあからさまに批判を加えていたほどだ。  もうひとつやっかいな問題があった。それは、伊藤が部下の水間正一郎技師(当時技手)を重用しすぎたことである。  水間は、昭和九年、日大工学部専門部電気科を出て陸軍の幹部候補生になり、少尉で除隊したのち、海軍技研に職夫の資格で入ったやり手であった。その水間が伊藤に大事にされたのも、技術者というより物事をまとめてゆくコーディネイターとしての資質を見い出したからと言われている。  そんな水間を連想するエピソードとしてこんな話がある。  戦争突入前のある日、水間は一面識もない大倉喜七郎男爵を麹町の私邸に訪ねた。当時、大倉男爵は日本無線の大株主であった。用件は日本無線の三鷹工場拡張の費用を出してもらうためである。  もちろん、最初は門前払いを食った。だが水間は、それにもめげず通った。その熱意が通じたのか、三回目にやっと面会を許される。応接間に通された水間が、さっそく用件を切り出すと、大倉は「そんな重要な話なら、君のような下っ端でなく、艦政本部長が頼みにくるはずだ」と、冷たく突き放した。  だが、水間は引き下がらない。そして海軍首脳のレーダーに対する認識のなさをすべて話し「試作費の捻出にも事欠く、日本無線の窮状を救ってほしい」と、正直に訴えた。この意表を突いた水間の陳情が功を奏し、日本無線は新しい工場と多額の開発資金を手にすることができた。  このように、水間は太っ腹で、これはと思うことがあると、周囲の思惑をよそに積極果敢に行動する。伊藤はそんな水間のけれん味のない気性を高く評価し、自由に仕事ができるように仕向けた。 「判任官風情の水間が、高等官である技術科士官をアゴで使っている」と評判になったのも、それが誇張して伝えられたものである。しかし、そういうふうにさせた伊藤のやり方に反発する技術科士官もかなりいた。こうしたイレギュラーな問題が重なって伊藤は海軍部内で孤立するような形になり、スタッフの困惑の色は日を追って濃くなった。  そんな重苦しい雰囲気を払拭させるきっかけとなったのは、十七年八月八日から始まった一連のソロモン海戦であった。  この戦いは、一次海戦は日本側の一方的な勝利、二十四日の二次海戦は、機動部隊同士の遭遇戦になったが、米側の損害は空母一、戦艦一大破、日本側空母「龍譲」(基準排水量一万二千七百トン)沈没と、ほぼ互角で終わった。  ところが、十七年十月十二日のサボ島沖海戦でまったく予期しないことが起こった。  この日、夜九時半、第六艦隊の重巡「青葉」「衣笠」「古鷹」と二隻の駆逐艦は、輸送船護衛と、ガダルカナル島のアンダーソン飛行場砲撃を目的に、ソロモン諸島沿いに南下を続けた。艦橋には練達の見張り員が大型の望遠鏡について、前方を凝視している。やがて南方特有のスコールを抜け、サボ島西側の作戦海域に進路を向けた。  すると、突然、頭上に曳光弾が打ち上げられ、前方の暗闇から無数の砲弾が「青葉」目がけて飛んでくる。付近の海域で輸送作戦に従事中の味方の艦による誤射と勘違いした「青葉」は、“ワレ青葉、ワレ青葉”を連送しながら急転回を試みた。だがうまく回避できず、三十数発の砲弾を浴び、艦は一瞬にして大破してしまった。このため司令官の五藤存知少将や副長、幕僚長も戦死する。  また、近代巡洋艦のはしりと言われた平賀造船中将の代表作「古鷹」も、集中砲火を浴び大火災を起こし、数分後に沈没した。  夜戦を得意とする日本海軍が反撃する暇もなく惨敗したのは、この夜戦がはじめてであった。それが英米の共同開発で完成した、マグネトロンを使った波長九・七〜十センチの水上用射撃レーダー(レーセオン社製GS1型)によるものとは、その段階では連合艦隊首脳も気づかなかった。米艦隊はこのころから既存のメートル波レーダーから、より高性能なマイクロ波レーダーに切り換えていたのである。  それから、一ヵ月後に起こった第三次ソロモン海戦は、日本がはじめて戦艦二隻を失った海戦である。しかも十一月十二日に戦艦「比叡」が、艦砲による先制攻撃で大破、最後は艦上爆撃機の爆弾で止めをさされた。  次いで十四日には「霧島」が、「比叡」同様、集中砲火を浴び行動の自由を失い、自沈する羽目に追い込まれる。  この報告を受けた軍令部と艦政本部は顔色を変えた。先の「日向」艦長、松田千秋大佐の再三の進言と思い合わせ、射撃用レーダーの重要性がだんだんわかりかけてきたのである。  海軍の官僚的体質が開発の障害に  こうして、いったん抹殺されかかったセンチ波電波探信儀は、再び開発研究が認められた。十七年秋のことである。ただし前回の比較テストの結果を勘案して、海防艦、駆潜艇などの小艦艇に装備する対潜水艦用に限るという条件がついていた。  これを知った伊藤はその無理解さに失望を感じた。しかし、いまはそんなことを論じている場合ではない。ともかく期待に沿うような電波探信儀をつくらねばと思い直し、スタッフに一〇三号の改良研究着手を命じた。  そして日本無線の研究陣と試行錯誤を重ね、やっとの思いでつくりあげた試作機は七五ミリの円型導波管を使用した。“ラッパ”型の電波探信儀で、のちに「二号二型」と言われた。  十七年末、新潟で行われた駆潜艇装備実験で、ある程度使える見通しもついたので、量産態勢に入ることになった。  ところが、艦政本部から生産指示が出たものの、肝心な資材の割り当てがない。そこで水間が関係筋に働きかけ、ヤミ物資のルートを探してくる。製造メーカーの日本無線はそこから必要な資材を調達したのである。 「それで最初のマイクロ波のレーダーを百台ほどつくったんです。ところが、それが警察にバレて、経理担当の重役と、経理部長が浅草の方の警察につかまってしまった。確か夏の暑い盛りだったと思うが、散々油を絞られて一ヵ月後に釈放されたはず。それが悪いことぐらいわれわれもわかっていたが、海軍の力じゃ入らんのですよ。それでやむを得ずヤミ屋から買った。あのころ、ヤミ資材はいくらでもありましたからね」  と、中島は当時の一齣を語っている。これは、何も日本無線だけに限ったことではなかった。現に日本電気生田研究所の小林所長も、その日記『未完の完成』で、次のように書き残している。  十七年十二月十七日(木) 「海軍技研に伊藤庸二大佐を訪問、(一)海軍は研究問題を与えるとき、一貫性がない。(二)海軍は生産拡充計画に対し熱心でない。(三)海軍は資材の世話がよくない。(四)研究拡張に協力が足りないと、申し出ておいた。伊藤大佐は積極的に協力することを約束してくれた……」  だが、実際はそう簡単に事が運ばなかった。伊藤が間に入って悩むのも当然であった。ところが、資材割当問題の背景には技術開発をめぐる海軍のセクショナリズム、組織全体の官僚化が見え隠れしていたのである。なかには、陸軍以上に官僚的だったと言う人さえいる。  たとえば、陸軍のやり方は何十種類もの兵器を並行して民間に大量発注する。それも民間の状況を睨み合わせ、開発方針を決め、発注後は技術的に細かい指図はせず、民間技術をフルに活かすように努めた。  この方式だと、開発を担当する陸軍科研の人材が育ちにくいという弊害があるが、兵器を大量につくるにはうまい方法であった。もちろん、必要な資材の手当ても、予算枠が大きかっただけに海軍よりはるかによかった。もっとも、でき上がった兵器、機関銃を例にとってみると、その五割近くは使いものにならなかったという。部品の品質管理が悪いためである。  そのせいか、組織を大きくするテクニックは陸軍の方が一枚上手だった。だが惜しむらく、その組織を有効に活用する方法を誤った。現に陸軍の電波兵器研究機関は科研、第五技研、多摩研の三つに分かれ、それぞれ独自の研究を進めていたが、結果的には三すくみの状態で、うまく機能しなかった。  その点、海軍は限られた「ヒト・モノ・カネ」を有効に活かし、うまく機能するような組織づくりは成功したが、その運営方法が官僚的すぎた。官の許可がなければ何事も先へ進まないのである。  そんな風潮は末端にまで及んでいた。もともと海軍は、陸軍より技術を理解し、兵器製造メーカーを大事にするとの声が高かった。しかし、その海軍の技術研究所でさえ官尊民卑が横行し、会社の社長を“商人”と呼び、軽視する風潮があった。 「所用があって技研を訪ねると、まず守衛所で面会者の氏名と用件を書かされる。そして守衛所脇の待合小屋でしばらく待たされます。ところが、その小屋は狭いし、夏の午後などは西日をまともに受け暑くてたまらない。そこで小屋を出て涼んでいたりすると『コラーッ、商人、溜り場に入っとれ!』と、守衛からどなられるんです。こんな調子だから、メーカーの幹部連もいやな思いをした人がたくさんいるはず……」  と、某社の元首脳は言う。前述の水間技師などはその典型的な人だったらしい。というのも、政治力は長けているし、出入り業者に対しなめてかかるような態度を平気でとるからである。そんなわけでもあるまいが、水間技師の評価は極端で、べたほめする人と、まったく評価しない人に分かれていたという。  だが、水間自身は「きわどい仕事をこなすには善人じゃできない。オレのようなアクの強い人間だからできるんだ」と、公言していたという。  伊藤がそんな水間を最後までかばったのも、貴重な人材をつまらない中傷で失いたくなかったからである。これも、電波兵器開発要員の絶対数が不足していた反動がもたらしたものかもしれない。  技術科士官、大量採用  太平洋戦争勃発当時、米国も日本と同じように技術者の絶対量不足という悩みを抱えていた。そのため技術開発に後れをとり、米海軍は、最初、英国が開発した一・五メートルのレーダーを国内生産し、急場をしのいだほどだった。  ただ、日本と違った点は、日本軍の真珠湾攻撃を契機に国内の学者、研究者、技術者、学生を総動員し、自前のレーダー開発と、オペレーター要員の育成に全力をあげたことである。  そのためにすべての大学は一時閉鎖され、理科系学生の三分の一は国内の関連研究機関の助手に、残りは陸海軍に召集するという徹底したものであった。  その結果、英国のそれを凌ぐ極超短波の各種レーダーや、超小型の電波発振機、受信機を内蔵した高射砲弾(VT信管付)を開発、どんどん実用化していった。昭和十七年十一月の第三次ソロモン海戦を境に、日本の艦艇、航空機の被害が急増したのも、そのためである。  一方、日本の海軍当局も遅ればせながら要員の確保に努めた。その供給源が委託学生、短期現役の技術科士官であったことは言うまでもない。十七年三月卒業予定の大学生の卒業が三ヵ月繰り上がり、十六年十二月卒業となったのもその一環である。この緊急措置で、十七年一月、海軍技術中尉に任官した学生は永久服役九十九名(技術科三十一期)、短期現役六百九十四名であった。 (註=昭和十六年四月採用の三十期は、永久服役六十五名、短期現役約二百名)  また、この年(十七年)には、次年度の卒業がさらに三ヵ月短縮される。そして九月に永久服役百九十八名、短期現役一千百五十二名(うち電気、無線関連百二十六名)と、前期の二倍近い学生が紺色の第一種軍装を着るようになった。  ところが、これだけ大量の学生を一ヵ所に集め、初級士官教育をする適当な施設が国内になかった。そこで中国山東半島膠州湾にのぞむ青島が訓練地に選ばれる。三十二期技術科士官を別名「青島一期」と呼称するのも、そのためである。  技術科士官大量採用のピークは、十八年九月入隊の三十三期生。何しろ、このときは永久服役、短期現役を含めて二千名(うち電気、無線関係三百九十七名)もの学生が採用された。もちろん、初級士官教育は前期同様、青島で行われた。  しかし、よきにつけ、悪しきにつけ、海軍の雰囲気にひたることができたのは、せいぜいこのクラスどまり。あとの十九年九月入隊の技術科三十四期(永久服役、短期現役を含め、千八百名、うち電気、無線関係百八十七名)になると、環境も待遇も一段と悪くなる。  それは、憧れの第一種軍装の支給さえもままならなかったのを見ても察しがつく。しかも、このクラスの訓練地は、東海道線の浜松と豊橋の中間点に位置する静岡県浜名郡新居町に新設された「浜名海兵団」。ここで六ヵ月の初級士官教育を受け、そのまま各地の工廠や出先機関に赴任するというあわただしさであった。  こうした若き技術科士官の苦闘の軌跡は、あとで触れるとして、話を再び電波兵器の開発現場に移そう。  海軍技研の伊藤研究室と日本無線が、苦心の末つくりあげた水上見張り用、マイクロ波電探「二号二型」は、一応かなりの数がつくられた。しかし、相変わらず信頼性が乏しく関係者泣かせの電探だった。  この電探の特徴はアンテナ代わりに二本の電磁ラッパがついていることである。しかも、送受信管からラッパまでは導波管という鋼のパイプで電波を導くようにしている。設置場所に制約のある艦上で使うためこんな形にしたのだが、アイディアとしては面白いものだった。  ところが、肝心な送信磁電管と受信磁電管の波長がなかなか合わないのである。そこで可変周波数の送信管を新たに開発、取りつけてみたが、やはりうまくいかない。結局、送信管と受信管の波長の合いそうなものを選別し、使用しなければならなかった。実戦部隊から敬遠された理由もそこにあった。  もっとも、信頼性がなかったのは、二号二型だけではない。対空見張り用として大量につくられ、多くの艦艇に装備されたメートル波の二号一型も、信頼性が乏しく、第一線でしばしば故障を起こし問題になった。  これは電探を操作する電測員の技量が未熟なせいもあるが、大半は真空管の不良が原因であった。たとえば、二号一型は大小さまざまな真空管が五十四本(二号二型は約四十本)使われている。このうちの真空管が一本でもボケると、電探全体が用をなさなくなってしまう。  とくに初期の電探は、実戦を念頭につくったものでなかったため、主砲や対空砲火の一斉射撃のショック、反動のため、真空管の球切れや性能の狂うものが続出する。そのほかコンデンサー、抵抗器類、絶縁物といった部品も、南方特有の高温多湿に遭うと、たちまち性能不良になってしまう。それが実情だった。  キスカ撤退に役立ったマイクロ波レーダー  やがて昭和十八年を迎える。この年は米軍が全戦線にわたって本格的な大攻勢に転じた年でもあった。このため、補給線の延び切った日本軍は各地で守勢に立たされ、戦局はしだいに深刻な様相を呈し始める。  その緒となったのが、十八年二月のガダルカナル島からの全面撤退であった。これを境に南太平洋の戦いはニューブリテン島のラバウルを中心とした航空決戦に移行してゆく。しかも撃墜しても、撃墜しても、米軍は攻勢の手をゆるめない。そんな最中、山本連合艦隊司令長官戦死の報が入る。四月十八日のことであった。  次いで五月十二日には、アリューシャン列島の日本軍の拠点、アッツ島に米軍が上陸した。山崎保代陸軍大佐の指揮する陸海軍二千六百名の守備隊は、懸命に防戦に努めたが衆寡敵せず、五月二十九日、敵集団地点に最後の突撃戦を敢行という悲壮な電報を発し、そのまま消息を絶った。  アリューシャン列島のもうひとつの拠点、キスカ島の撤収作戦の行われたのは、それから二ヵ月後の七月二十九日であった。  この日、濃霧をついてキスカ湾に侵入した軽巡「阿武隈」以下十一隻の艦艇は、わずか五十分間で五千百八十三名の守備隊員全員を収容、八月一日、無きずのまま北千島に帰還した。この撤収作戦は、戦史上「完全に成功」した数少ない戦例のひとつと言われている。このように濃霧であったにもかかわらず成功したのは、主要艦艇に装備したセンチ波電探「二号二型」があればこその結果であった。  軍令部や艦政本部が、センチ波電探の実用価値を明確に認めたのは、これが最初であった。  技研電気研究部改組  キスカ撤収作戦の成功で認識を新たにした艦政本部は、技研に対し、電探の改良と増産を指令する。それも二号一型、二号二型のほか、試作を終えたばかりの陸上用対空射撃電探「四号一型」(波長一・五メートル、重量五トン)の増産と改良を要求してきた。  このため技研開発陣は調査員の派遣、資料収集、設計、試作、実験と目まぐるしい日々を送った。  そんな多忙な合間を縫って、伊藤は水上射撃用電探の開発に力を注いだ。ところが、艦政本部や用兵者は、最初この種の電探の必要性をそれほど重視していなかった。それは海上での砲戦は世界一と折紙付きの測距儀があればという意識が、首脳陣の頭に強く残っていたからである。  もちろん、ほかにも理由があった。それは水上用射撃電探の距離精度は光学式測距儀に比べ抜群にすぐれているが、方向精度が悪いという泣きどころがあることだった。  またアンテナの搭載場所が前檣の頂上とあって、用兵者や造船官がなかなか首をタテに振らない。現にはじめて水上見張り用電探を軍艦に搭載する話が出たとき「花魁の簪みたいなものをメインマストにつけるなどもってのほか、第一敵の目標になりやすい」と、猛反発されたほど。性能を犠牲にした小型軽量の二号一型電探(重量八百四十キログラム)をつくったのも、そのためであった。  幸い、一連のソロモン海戦を契機に、軍艦同士の砲戦にもレーダー射撃が必要なことを、首脳陣も意識するようになった。  だが、肝心な艦政本部は過去に水上見張り用電探の例があったせいか、依然として重量制限にこだわる。そして「よほどのものができないかぎり、考慮の余地なし」という姿勢を崩そうとしなかった。開発陣が悩むのも当然であった。  そんな開発陣の苦労をよそに、実戦部隊から「もっと役に立つ電探を送れ」と、矢のような催促が艦政本部に寄せられる。また電探装置を担当する工廠関係者も、これに同調し、「責任者である伊藤大佐が大風呂敷を広げ、できもしないあさっての兵器研究にうつつをぬかしているからいけない」と、きびしい批判を容赦なく浴びせる。  そのたびに艦政本部三部長の名和少将や伊藤は、上層部に呼びつけられ「君たちは風呂敷ばかり広げるが、締めくくりができんのではないか」と、皮肉を言われる。伊藤もそのたびに、いろいろ対策を立てるが、事態は一向に好転しない。たまりかねた伊藤は、名和に「どうも独楽の芯棒が細すぎます。これは部長の責任です。なんとかしてください」と注文をつけた。  つまり、自分は責めを負ってやめるから、もっと芯の太い人か、複数の人に役割を分担してもらい、独楽がうまく回転するようにしてほしいと、逆に訴えたのである。  それは伊藤にとって大変辛いことであった。当時、部内の大多数の人は伊藤がすべて主導権を握って事を運んでいると思っていた。事実、そう思われても仕方のない面も確かにあった。だが、それはほかに適任者がいないため、やむを得ず引き受けたにすぎない。  それを外部からとやかく批判されたのでは立つ瀬がないと、開き直るのが普通のやり方だった。しかし、伊藤はそういう弁明は一言も言わず、適任者がいればいつでも自分の城を明け渡すと、率直に心情を吐露したのである。  艦政本部が技研電気研究部の改組を発表したのは、その直後の十八年七月のことであった。そして艦政本部第三部長の名和少将が技研に移り、新設の電波研究部長に就任、陣頭指揮に当たることになった。  これは異例のことであった。職制上格下げ人事になるからである。  技研に着任した名和少将は、手はじめに呉海軍工廠電気工場で電探装備を担当していた矢島弥太郎技術大佐を電波研究部に転属させた。矢島は伊藤と同期の技術科士官で、生産管理のベテランだった。その矢島を技研に呼んだのは、伊藤の管轄下にあった生産部門を分離独立させ、増産体制を確立しようと思ったからである。  また、これと並行して、いままで海軍嘱託として協力を仰いでいた東北大学の渡辺寧教授と放送技研の高柳健次郎博士を、中将、少将待遇の技師として迎える。さらに阪大の浅田、菊池の両教授も奏任官待遇の技師に登用し、電波兵器の開発に積極的に参画してもらう方針を固めた。  さらに電気試験所、理化学研究所、放送技研、大学で活躍している若手の有能な人材を技師や嘱託に採用、開発陣の強化をはかった。鳩山道夫(理研、のち電気試験所物理部長、ソニー中央研究所初代所長)、清宮博(電試、旧姓根岸、のち電通研、富士通社長)、武田行松(旅順工大、のち電通研、日本電気顧問)、霜田光一(東大大学院、のち東大教授、慶応大学教授)などが、そのとき採用された代表的な人たちだ。  この一連の組織づくりに伊藤が貢献したことは、改めて言うまでもない。 第八章 技研電波研究部  本格的なレーダー装備始まる  海軍技研電気研究部の組織替えが艦政本部で問題になり始めたころ、若い技術科士官の異動が発令された。いずれも、十六年十二月繰り上げ卒業で海軍に入り、各工廠で電気装備の仕事に携っていたエリート技術官ばかりである。転属先は、南方最前線や技研であった。  横須賀工廠造兵部無線工場に勤務していた緒方研二中尉(当時、のち大尉、戦後電電公社技師長、日本電気副社長、安藤電気会長)もその一人であった。 「最初、私は横須賀で艦艇の電探装備を担当していたんですが、十七年の秋、日本の海岸線を電探の網で結ぼうという構想が出てきた。そこで私は三浦半島から静岡県の御前崎、三重県の大王崎灯台のラインを結ぶ工事を担当させられたわけです。その仕事が終わったらこんどは南方に行ってくれと言われた。いよいよわれわれの出番だなと思いましたね」(緒方研二)  出張先は中部太平洋の要衝、ギルバート諸島。目的は電探基地の設営である。装備する電探は陸上見張り用一号一型の改良型(波長三メートル)と決まった。ミッドウェー出撃のとき、吉田技術大尉が艦隊同行を迫り拒否されたのに、一年もたたないうちに状況がまったく変わってきた。装備と使用法を指導するために専門知識を持った気鋭の技術士官を派遣せざるをえなくなったのである。  十八年三月九日、緒方は横浜航空隊(通称浜空)の九七式大艇で、空路南に向けて出発した。途中、サイパン、トラック、クェゼリンを経由して、マーシャル諸島のイメージ島に到着する。  ここで装備ずみの同型の電探の使用状況、長所欠点を詳細に調べた。このデータを参考にしてギルバートで電探を装備するよう命令されていたからである。  調査を終えた緒方は、五百トンそこそこのキャッチャーボートのような輸送船に便乗、ギルバート諸島のタラワ島に向かった。四月下旬の夜明けのことだった。ところが、出港直後、突然、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けた。幸い魚雷は当たらず無事に外洋に出ることができたが、船内の緊張はしばらく続いた。再度の攻撃を予想したのである。しかし、敵の潜水艦は輸送船を駆潜艇と誤認したとみえ、二度と攻撃をかけてこなかった。  だが、油断はできない。この付近は敵潜の作戦海域だからだ。実際、ギルバート諸島のマキン島は、一度手痛い目に遭っている。それも十七年八月、米軍のガダルカナル島進攻作戦に呼応して、数隻の潜水艦に分乗した百余名の海兵隊が密かに島に上陸、日本軍の陣地に奇襲攻撃をかけた。このため島の守備に当たっていた海軍陸戦隊の大半は戦死、重要書類まで奪われる失態を演じている。  そんな苦い経験があるだけに、海軍も航空基地の増設、特別陸戦隊(司令官柴崎恵次、のち少将)を派遣するなど、防衛力の強化をはかっている最中であった。 「電探はタラワ島の近くのテチョー島という島に装備したが、これがうまくいきましてね。柴崎少将からお褒めの言葉を頂戴した。そのうちマキンにも装備しろという追加工事の訓令が届いた。そして十月のはじめにマキンに移り、装備工事を終えたのは十一月の半ばだった。そんな矢先、海軍技研への転勤命令がきたわけです。そこで十六日にマキンをあとにしてクェゼリン島まで戻ってきた。それが二十日。米国の機動部隊がマキン、タラワを大挙して襲ったのは、その日の朝なんです」  と、緒方は当時を回想する。この作戦に動員された米艦隊は空母十一、戦艦六、重巡三、軽巡三、駆逐艦二十二隻で編成された五十八機動部隊(司令官ミッチャー中将)を主力とする百八十一隻の大部隊。これが終日空襲と艦砲射撃を繰り返し、両島の軍事拠点をあらかたたたき潰してしまった。  そして翌二十一日には、一万八千名の海兵隊を上陸させる。海軍陸戦隊を中心とする四千八百名の日本守備隊は、決死の反撃を試み、米軍をして「恐るべき人命と、労力の浪費」と言わしめる損害を与えたが、力及ばず、全員玉砕してしまった。十一月末のことであった。  当時、古賀峯一長官の率いる連合艦隊は、内南洋の要衝、トラック島に集結していた。それだけに千五百マイルの海を突っ切って、救援に駆けつけることも不可能ではなかった。  ところが、肝心な機動部隊の艦上機群をラバウルに進出させ、手痛い損害を被ったあとだけに、飛行機も、練達の搭乗員の絶対数も足りない。そのため、四千八百名の守備隊をみすみす見殺しにするような形になってしまったのである。  米軍レーダーに翻弄される日本軍  一方、緒方中尉が南方最前線に出発した直後、目黒の海軍技研に転属になった技術科士官たちの動静を追ってみよう。技研転属組の目的は、実戦部隊の電測兵に電探の使い方を教える指導要員を育成するためであった。  これまで轟々たる騒音と煤煙のなかで、油まみれになって仕事をしていた若い技術士官たちは、緑に囲まれた象牙の塔を思わせる静かな技研の環境に、一様にホッとした気持ちを抱いていた。  だが、電探の現状と戦局の不利をはじめて聞かされ、これからの仕事の重大さがだんだんわかってくると、甘い気持ちもいつの間にか失せ、身の引き締まる思いに駆られた。  それだけに教育もきびしく、連日、朝から晩まで熱のこもった講義と実習が集中的に行われる。それも各パートごとに分かれ、基礎理論から専門知識まで徹底的にたたき込まれ、一人で装備組み立てができるようにしごかれる。  そして七月下旬には千葉県大東にある技研分室で、電探の操作取り扱い、故障修理の実地研修を一ヵ月にわたって行うことになった。  その準備に追われていたある日、技研の士官食堂に見馴れぬ外人が、幹部と食事をしている姿を見かけた。  これはドイツ海軍から贈られた潜水艦「U五一一」(呉到着は八月七日)に便乗、マレー半島のペナン基地で海軍の輸送機に乗り継ぎ一足先に東京に到着したドイツ人技師であった。  その一人はドイツ海軍工廠のシュミット博士(電気溶接の権威)、あとの二人は潜水艦建造で有名な「デシマーク」社のミューラー、ヘーバーライン技師である。  また、十六年一月、訪独した海軍の軍事視察団団長を努めた野村直邦中将も、駐在武官の任を終え、U五一一に便乗帰国した。そして海軍省に出頭、帰朝報告をすませるとともに「今後は電波兵器の改良と潜水艦の量産をはかって、通商破壊戦を積極的に展開すべきだ」と、意見具申を行った。  ところが、これまで日本の潜水艦は艦隊決戦を念頭においてつくっていたせいか、航続力、水上速力は抜群であったが、小回りが利かない。そんな艦をガダルカナル攻防戦の際、局地輸送に振り向けたため、大損害を受けてしまった。それは数ヵ月の間に十一隻もの遠洋潜水艦が撃沈されたことでもわかる。  しかも、その被害は高性能レーダーを駆使した米側の徹底した対潜攻撃によるものであった。もちろん、日本海軍もドイツの情報をもとに技研でつくった受信専用の逆探(メートル波)を二千数百台生産し、各艦に配備してあった。大きさは、戦時中一般家庭で使われていたラジオ受信機ぐらいで、アンテナはドイツから教わった通りのものをつけていた。それだけに取り扱いも簡便で、とくに潜水艦には重宝がられたものである。  だがせっかくの逆探も、米軍が極超短波のレーダーを使い出したため、レーダー電波の検知ができなくなり、被害に遭ったというのが大半だった。レーダー開発の遅れは、そんなところにまで影響を及ぼしていたのである。  そのあたりはあとで触れるとして、話を先にすすめよう。  千葉県大東の技研分室で最後の特訓を終えた若手技術官たちは、八月二十日、転属命令を受け、それぞれの任地に出発することになった。  京大工学部電気科出身の立石行男中尉(のち大尉)もその一人である。立石の任地はトラック島在泊中の連合艦隊第二艦隊司令部(旗艦・「愛宕」)であった。その立石は出発当時の模様を次のように書き残している(「電探かく戦えり」〈『今日の話題』土曜通信社刊より〉)。 「十八年八月末、私は木更津航空隊を飛び立つ一式陸上攻撃機九機の中の一機に身を託し任地に向かった。私にとっては電波技術士官としてはじめての出陣であった。  木更津をあとにした編隊は、高度三千メートルに上昇、一路サイパンに向かう。眼下にみる内地の山々、そして海と雲の織りなす美しいパノラマは、私の眼を心からたのしませてくれた。  ところが、サイパン飛行場に着陸の際、飛行機は目測を誤って飛行場の端に尾部をひっかけて、物すごい衝撃とともに、之の字型に蛇行して、滑走路の中程で止まってしまった。私は痛む頭を押えて、地上に降りてみると、機体の尾部は半分ちぎれて、機は二目とみられぬ憐れな姿になっている。これには肝を冷やした。よく助かったと皆に慰められながら宿舎に入ったが、当時すでに搭乗員の練度はかなり落ちているように思えた」  それは事実である。何しろ、百戦練磨の優秀な搭乗員はラバウル方面にどんどん駆り出される。海軍もそれをカバーする後詰の搭乗員の養成に力を入れていたが、燃料の制約があって訓練も思うにまかせない。空母の発着艦さえ満足にできない搭乗員がたくさんいたほどである。  にもかかわらず、実戦部隊からの欠員補充の要求は増える一方。勢い技量未熟な搭乗員を無理を承知で前線に送り出すという悪循環がそのころから目立ってきた。十八年四月から始まったソロモン海域の航空消耗戦は、それほど深刻な様相を呈していたのである。  たとえば、海軍の航空部隊が大挙して敵の基地を爆撃に行くと、どんな時刻、天候でも、必ず敵戦闘機の大群が高空優位に何段も身構えていて、いきなり飛びかかって銃撃を加える。その命中率も高かった。  これは、いままでにないことだった。その厳重な警戒網を突破して目的地上空に到達すると、対空砲火はとみに精度がよくなり、高射砲に撃墜される日本機の数はしだいに増えていった。  それは、米軍が長距離まで探知可能な見張り用レーダーを各所に配備、ラバウルを出撃する日本機の動静を一機余さず探知していたためであった。その情報を受けた地上の高射砲部隊は精巧な対空射撃用レーダーを据え、手ぐすねひいて待ち受ける。  また上空を警備する米軍機の何割かは、接敵用レーダーを装備し、絶対有利な陣形を組んで迎撃態勢を整えていた。これでは被害が多くなるのも当然であった。 「われに夜の目を与えよ。電探をつけよ、一刻も早く!」  といった悲痛な叫びが、前線の水上部隊、航空部隊から矢の催促となって艦政本部、航空本部に殺到する。たまりかねた艦政本部が技研電気研究部の改組を思い立ったのも、そのためであった。  遅ればせながらのレーダー全艦装備  立石が着任したトラック島は、直径四十八キロの大環礁に囲まれた内南洋最大の海軍基地。米側から「日本の真珠湾」とか「太平洋のジブラルタル」と呼ばれたこの基地も、飛行場の整備拡充、千葉県館山で編成された海軍防空隊の配備を終えたのは、十八年八月のことであった。  当時、トラックは多数の空母、巡洋艦、駆逐艦、特務艦の群れに守られるようにして古賀長官の将旗を掲げた「武蔵」と、僚艦「大和」が、紺碧の海に錨を沈めていた。  これまでの海軍自慢の測距儀に代わって、“軍艦の目”となった電探は、ほとんどすべての艦に装備されていた。たとえば、戦艦、巡洋艦には、対空見張り用二号一型が一台、水上見張り用二号二型が一〜二台、そして駆逐艦にはそれぞれの作戦目的によって二号一型、もしくは二号二型が一台、空母には二号一型が一〜二台装備されていた。  だが、肝心な電探は信頼性に乏しく、しばしば故障を起こす。現にこんなことがあった。十七年九月、完成したばかりの戦艦「武蔵」に対空見張り用二号一型電探を装備し、主砲の射撃演習が行われた。場所は呉と柱島の間である。  ところが、肝心な電探は主砲の一斉射で見るも無惨に壊れてしまった。十五メートルの測距儀筒上に装備された畳状のアンテナは一部の取りつけ碍子の破損ですんだが、測距塔内に装備された送信機のパルストランスが塔内を跳ね回ったり、送信管が衝撃で破損するなど惨憺たる有様。  たまたま視察にきた艦本三部長の名和少将を案内したのは松井宗明大尉(当時)である。松井は海軍から阪大に選科学生(浅田研究室)として派遣留学し、九月に繰り上げ卒業したばかり。その松井が久しぶりに海上生活に戻り、最初に拝命したのが、武蔵分隊長(通信長職務執行)だった。  それだけに松井は初対面である名和に電探の脆弱性を訴え、技研の開発姿勢をきびしく批判した。前に触れた松井の“技研批判”は、すでにこのころから始まっていたのである。  このように工廠で装備されて日も浅いし、操作する電測員の技量が未熟なことが重なって、いっこうに仕様通りの機能を発揮しないのである。  第二艦隊司令部に着任した立石も、そのような事情を念頭におき、まず通信参謀の了解のもとに電測員の教育から始めた。あとは各艦を順番に回り、故障箇所を修理し、調整の足りないところは調整をやり直す。また運転取り扱いのまずい連中には、現場で手をとって再教育を施すなど、大車輪のように活躍した(立石の活躍については同氏の前掲「電探かく戦えり」より抜粋)。  ところが、電探室は狭い艦橋付近に、あとから無理矢理に取りつけたものだから、窮屈の一語に尽きる。そんなところで精巧な機器の裏をひっくり返し、故障箇所の調整をやっていると玉のような汗が滴り落ち、四、五時間もいると立ち暗みの現象に襲われる。  しかも、苦労の末やっと調整を終え、飛行機をかなりの距離まで探知できるようにしても、翌日、スイッチを入れてみると調子が狂っている。これは真空管の不良によるものだ。  もちろん、こうした情報は通信参謀を通して、艦政本部や技研に戦訓資料として送られる。それでも真空管の不良問題は、いっこうに改善されなかった。  そんな立石たちにとって唯一の慰めは、どの艦に行っても親切にもてなしてくれることであった。第一線部隊の幹部の間に「電探をよくしなければ、戦さに勝てない」という認識がだんだん広まってきた証拠である。しかし、なかには立石に過大な要求をする艦長もいたようだ。  それを象徴する話がある。ある日、砲術科出身の重巡の艦長から「本艦電探につき至急相談したきことあり、技術士官を派遣せしめられたし」という信号が「愛宕」に寄せられた。さっそく、立石が出向くと艦長は「二号一型電探を射撃用に利用したいから改造してくれ」と、言い出した。  もともと二号一型は対空見張り用につくったもので、放射電波の波長は比較的長く、海面すれすれの所の電界強度はきわめて弱いため、水上に浮かぶ小さな目標をとらえることは原理的にむずかしい。またかりにとらえたところで、方向精度が悪いので、とても射撃用に使えるものではない。  立石は事情を説明し、二号二型が装備されるまで待ってほしいと断わったが、なかなか承知してくれない。見かねた副長が折衷案を出した。 「全然手を出さずにできないでは艦長も納得せんだろう。そのあたりを考慮してとにかくやってみてくれ」  と言うのである。困り果てた立石はいろいろ考えた末、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、アンテナ素子をこれまでの水平取り付けから垂直に改造し、八木アンテナを真似て、導波アンテナをそれぞれ取り付けた。  水平電波より垂直電波の方が海面上の電界強度は強くなる(その代わり飛行機の探知力は落ちる)。また導波アンテナを付けると、方向精度も探知距離も増えるというのが原理だが、とにかく、まるまる二昼夜費やして改造を終えた。  改造電探のスイッチを入れ能力を試してみると、少しはよくなっている。これで艦長に納得してもらい、逃げるように司令部に帰ったが、あとで上司の橋本大佐に叱られたという。問題の良し悪しは別として、当時の実戦部隊がいかに性能のよい電探をほしがっていたかがわかる。  その後、立石は二度出撃の機会に恵まれる。中部太平洋にしばしば出現する米機動部隊を迎撃するための作戦であったが、いずれも敵を発見し得ず、トラック島に帰投している。  ところが、十八年十月三十日、有力な米艦隊が、中部ソロモンに現われ、ブカ島を砲撃、ブーゲンビル島西岸のトロキナ岬に上陸を始めたという電報が入った。当時、ラバウル方面の航空兵力は連日の消耗戦で漸減の一途をたどり、はなはだ心細い状態であった。  そこで古賀長官は参謀連の反対を退け、連合艦隊とっておきの母艦航空部隊、一航戦の精鋭百七十八機をラバウルに投入する決意を固めた。十一月一日のことである。そしてすでにラバウルに進出ずみの第十一航空艦隊の二百機と協力、航空決戦を挑むことになった。いわゆる“ろ号作戦”の発令であった。  古賀長官はこの航空作戦と並行して栗田健男中将麾下の第二艦隊(愛宕、高雄、摩耶、鳥海、最上など重巡八隻)の全兵力をラバウルに進出させることにした。これが、立石にとってはじめての第一線出陣になった。  トラックを出港した艦隊はいっせいに行動を起こし、四日後の十一月五日にラバウルに到着した。途中、B24爆撃機に追尾されるなど不安な航海だったが、ともかく昼すぎには全艦無事にラバウル港内に錨を降ろすことができた。その直後、空母二隻を基幹とする機動部隊から発進した米軍艦載機に襲われたのである。  “ろ号作戦”失敗  狭い港湾に目白押しに並んでいる重巡は、この奇襲攻撃に全然自由が利かない。となると、頼みは基地の戦闘機と艦の対空砲火だけであった。立石はその模様を次のように記述している。 「急いで戦闘服に着替え艦橋に上ろうとしたら、はやくも敵機が近づいたらしく、主砲の一斉射のショックが激しく伝わってくる。つづいて高角砲、機銃の鋭い連続音、まったく不意打ちに近い速さだ。基地の電探はあまりよくないのかも知れぬ。そのうち艦は激しいショックに見舞われた。どうやら急降下爆撃を一発食ったらしい。やっと艦橋に駆け上ってみるとかなりの死傷者が出ていて、軍楽兵が呻く傷兵を担架に乗せて艦橋を降りている。すでに艦は広い港外に退避し、かなりの速力で回避を続けながら応戦している。艦が走っているということを、こんなに心強く思ったことはなかった。動かなくなったらおしまいだからだ」(「電探かく戦えり」より)  この日の空襲は二十分ぐらいで終わった。しかし、被害は予想以上に大きかった。重巡「最上」は機関室に直撃弾を受け大火災を起こし、航行不能になったし、立石の乗った「愛宕」も、左舷機関室付近に至近弾を受け、浸水でちょっと傾いていた。また、艦橋には爆弾の破片や機関銃の貫通した孔が空いている。しかも二十分足らずの戦いで、艦長以下三十名近い死傷者を出してしまった。  それから六日後の十一月十一日、米軍艦載機は再び第二艦隊を襲った。こんどは五隻の空母を基幹とする大がかりな機動部隊だったせいか、空襲も一段と熾烈をきわめた。  結局、第二艦隊は、二度にわたる空襲で、駆逐艦が一隻沈没したほか、重巡四、軽巡四、駆逐艦三隻が大きな被害を受け、作戦行動は不能になった。つまり、艦隊は完全に出鼻をたたかれたわけである。  一方、古賀長官の決断でラバウルに投入された第一航空戦隊の被害も甚大だった。それは十一月十日までに、最初の百七十三機が百機に減っていたことでもわかる。そして、翌十一日の激しい戦闘の結果、損害の累計は百二十機に増大してしまう。しかも、この一連の戦闘で日本海軍は技量練達の“虎の子”の航空戦隊百九十二名のパイロットのうち八十六名を失ってしまう。  この比率であと数日間空戦が続けば、航空戦隊再建の基礎要員すらなくなる可能性が強くなった。そこで古賀長官はやむをえず“ろ号作戦”の中止を発令、残存機五十三機の引き揚げを命じた。  米軍の機動部隊が大挙してギルバート諸島のマキン、タラワを襲ったのは、その直後であった。当時、連合艦隊麾下の機動部隊は一連のブーゲンビル島海空戦で、戦闘機の半数、急降下爆撃機の八五パーセント、雷撃機の九〇パーセントをなくし、動くに動けなかったのである。  研究・開発体制刷新  こうした予想を上回る艦艇や飛行機の損害は、電波兵器の優劣の差であることを、海軍首脳もいやでも認めざるをえなくなった。軍令部の艦政本部や技研に対するきびしい要求はその反動であったことは言うまでもない。  それだけに、新設の電波研究部長に就任した名和少将の胸の内は複雑だった。伊藤の進言をもっと早く受け入れていたらという気持ちがあったからである。だが、二人の出会いが遅すぎた。というのも、名和は東大工学部電気工学の出身(海軍大学校専科学生として、さらに東大化学科で学ぶ)で、潜水艦用の蓄電池開発の権威であった。しかも、名和が呉海軍工廠電気部長から艦本三部長に就任したのは、伊藤がドイツ軍事視察の旅を終え帰国した直後の十六年十月、つまり、名和は艦本三部長に就任するまで電波兵器とは無縁の存在だったわけだ。  その名和をなぜ電波研究部長に据えたのか。ひとつは電波研究部が技研内の最大の組織となり、かつ問題を最も多く抱えていたこと、また、それだけに名和の人柄と統率力が高く評価されたからにほかならない。  確かに伊藤は研究者としては稀にみる逸材であった。だが、エリート意識が強かったせいか敵も多かった。しかも、伊藤イズムの信奉者と目される人も伊藤のやり方を批判することがあった。技研の森精三少佐はこう話す。 「伊藤さんはよい意味での野心家で、海軍で一番優れた人物ということを標榜していた。そのせいか、仕事のやり方もほかの人と全然違う。ハッタリでなく、本当にむずかしい目標を先に掲げ、背水の陣を張り、あとは全力をあげてその目標まで曲りなりにも持っていこうと努力される。そしてそれを若い者にも強制された。その言わんとすることはよくわかるのだが、私はどうも天邪鬼なせいか、そういう伊藤さんの姿勢に絶えず反発したものです」  そしてときには、一週間もあれこれ考え、肺腑をえぐるような悪口をぶつけるが、伊藤は顔色ひとつ変えない。気心を知った部下の批判など眼中になかったらしい。のちに名和が「伊藤大佐は自分の悪口を言う者ばかりをまわりに集めている」と、皮肉な見方をしたのもそのためである。  だが、こんどは事情が違う。名和の強い希望で技研に転属させた矢島弥太郎技術大佐は伊藤と同期の技術官で、“伊藤批判”の急先鋒の一人であった。それだけに部内に思わぬ問題が起きないとも限らない。それを抑えて、陣頭指揮に当たれる人物は、当時、名和をおいてほかになかったのである。  八月十五日付で技研に移った矢島は、名和から伊藤の管轄下にあった生産関係の仕事を受け継ぎ、製造専門の部隊をつくれと命令を受けた。  これは、矢島にとって非常にやりにくい仕事であった。確かに仕事の上では容赦なく“伊藤批判”はするが、私生活では同じ釜のメシを食った同期生として、兄弟同様の交際を続けた仲だからである。しかし、戦局は私情をはさむ余地がないほど切迫している。そこで腹を決めた矢島は命令通りきびしい態度で改革に着手した。そのときの模様を矢島は次のように述べている。 「研究者が保管していた図面や関連書類を全部提出させるとか、呉、横須賀、佐世保の各工廠から中尉、大尉クラスの若手技術官を二十数名、技研に転属させるなど思い切ったことをやったので、相当抵抗があると覚悟していた。だが名和部長の統率力と、伊藤大佐の調和力のおかげで、移行作業は非常にうまく行われ、ほぼ初期の目的を達することができた」  しかし、組織が変わったからといって、問題の多い二号二型電探の生産性が急によくなるものではない。そこで矢島は、生産管理の練達の部下数十名を製造メーカーの日本無線に派遣、生産上のネックを徹底的に洗い出した。その結果、仕事のやり方を一部分変えれば現体制でも月産百五十台の生産は可能と判断した。  矢島はさっそく日本無線の中島進治社長、河野広水常務(いずれも当時)を技研に招き、「月産百五十台の線を絶対守ってほしい。万が一、できない場合は、他の方法を考えざるをえない」と、技研側の意向を伝えた。  これは日本無線にとって苛酷な要求であった。資材の入手が日増しに困難になり、部品や製品の歩留りにも影響し初めていたからである。  その事情は伊藤も十分承知していた。だからこそメーカー側の自主管理にまかせ、過大な要求を押しつけることは極力避けるようにしてきた。それが手ぬるいと判断され、組織変更という事態を招く原因になったのかもしれない。  結局、矢島の強い要望にもかかわらず、日本無線はその目標を達成することができなかった。そこで矢島は技研内の関係者と相談し、機械をユニットごとに分散して発注する方法に切り換えることにした。  たとえば、送信機は日立の助川工場、受信機は東芝、指示機は日本ビクターにつくらせる。そしてでき上がったユニットを技研部内の試験場に持ち込み、総合テストを行い、合格したものを組み立ててゆくというやり方である。その結果、十八年の末ころから月産百五十台の線をなんとか維持できるところまで漕ぎつけることができた。 「殺人光線」研究  一方、東北大の渡辺寧教授、放送技研の高柳健次郎博士、理研の菊池正士博士を海軍技師として迎えた研究陣も、未解決の問題点や新しい電波兵器の開発に総力をあげて取り組んでいた。  その当面の目標は二号二型電探の改良、本格的な射撃用電探の開発、さらに電波対抗兵器(電波探知機、電波妨害機、電波偽瞞機)、電波応用兵器(味方識別装置、電波誘導機、電波高度計、電波信管、強力電波装置)、磁気関連兵器等の開発であった。  なかでも伊藤が密かに期待したのは、強力マグネトロンを使った通称「殺人光線」の研究である。これはこんどの組織変更のきっかけになった曰くつきの研究であった。そのあたりの経過を知るには、話を一年前に戻さなければならない。海軍部内から批判の多かった原爆研究と深い関わりがあるからである。  伊藤の提唱によって発足した物理懇談会(委員長仁科芳雄工博)が、一年余にわたって原子力の兵器利用の可否を検討、最終的に実現不可能との結論に達し、研究会を解散したことは前章で述べた。  ところが、その過程で複数の委員から「マグネトロンを使った強力電波を利用、兵器化した方が実現の可能性が高い」との示唆を何度か受けた。  ミッドウェー敗戦以来の不利な戦局を打開するには、米英を凌ぐ前代未聞の兵器を実用化する以外に道はないと、一人悩んでいた伊藤が、この提案に異常な関心を寄せたのも自然の成行きだった。  幸い海軍技研は、日本無線と協力し、十種を超えるマグネトロン(多相磁電管、うち二種は二号二型に使用)の試作研究を終えている。それだけに電波の遠隔操作を用い、強力電波を発生させる装置をつくれば思いがけない兵器ができるかもしれないと考えたのだ。  そこで伊藤は上層部を説得し、大出力磁電管の研究実施の許可を取り付けることに成功した。そして十七年十月には東京三鷹の日本無線本社工場内に技研三鷹分室を設け、第一期の研究に着手することになった。その当面の研究目標は、次のようなものであった。  極超短波を発生輻射し、物理、化学、および生理作用を研究し、これを用兵、技術的に利用できる具体案を検討し、その上で必要な装置を試作する。つまり、無線工学、電波技術の粋を結集して熱線兵器を完成させ、局面の打開をはかろうと策したわけだ。  その初期研究に携ったのは東北大の渡辺教授(当時海軍嘱託)、技研の水間技師、水冷式陽極マグネトロンの発明者の一人である日本無線の山崎荘三郎技師などである。  こうして基礎研究を続けるかたわら、実験場の用地探しも行われた。その結果、静岡県島田に七万坪の土地を入手、ここに建坪二千坪の本格的な実験場を建設することを決めた。十八年六月のことであった。  だが、こうした一連の動きが部内にくすぶっていた“伊藤批判”を逆にあおる形となった。「肝心な電探開発をそっちのけに大風呂敷ばかり広げる」というわけだ。  そんな苦い思いをしながら発足させたプロジェクトだけに、伊藤は意地でもものにしたかった。しかし、研究者の不足と必要物資の入手難が隘路となって、研究は遅々として進まない。海軍技研電波研究部が発足した十八年後半は、そんな切羽詰まった日々の連続であった。 第九章 広がる技術・量産力格差 「青島一期」の配属  太平洋戦争勃発後、二度目の大量採用となった三十二期技術科士官(十七年九月採用)が、青島での初級士官教育を終え、正式に配属先が決まったのは、十八年一月末である。  いわゆる「青島一期」総勢千三百四十七名のうち電気無線関連の技術官は百二十六名、このうち技研電気研究部に配属されたのは久邇宮家から臣籍降下した宇治家彦伯爵(京大理学部物理科)と、山崎晃市(東大工学部電気科、のち富士通インターナショナル・エンジニアリング)の二人だけであとは各地の海軍工廠や出先機関に配属され、基本実習、応用実習をすませ、はじめて所属部署が決まる。  とはいえ、身分は大尉に昇進するまでは、“副部員”、兵科でいうといわゆる“ガンルーム士官”(士官次室)扱いである。その立場を「ガンルーム士官心得」で、次のように説いている。 「次室士官は“自分が海軍士官の最下位で、何も知らぬのである”と心得、譲る心掛けが大切。親しき中にも礼儀を守り、上の人の顔をたてよ」「犠牲的精神を発揮せよ。大いに縁の下の力持ちになれ」「次室士官時代はこれからが本当の勉強時代、一人前になり吾れ事なれりと思うのは大間違いだ」  つまり、修業時代は何ごとも現場を掌握している先輩やベテラン技師、技手、幹部工員の指示に従って行動することを義務づけられているようなものだ。事実、副部員時代には人に教えることのできるのは、青島仕込みの「海軍体操」ぐらいのもの、あとはすべて教わることばかりであった。しかも、青島での「軍人精神教育」とはまるで違う軍事技術者としての修業一途の実践教育の連続であった。そして見聞したり、経験したり、研究したことを克明に記録するようにやかましく指示される。  また、配属先の現場に意地の悪い技師や技手がいて、難解な問題をわざと副部員に押しつける。そしてモタモタしている姿を見て「なんだ。こんなこともできないのか」と、満座のなかで恥をかかされる。かと思うと、露骨に嫌味を言うベテラン技師もいる。 「軍令承行権のないような士官は士官として認めない。君らのような技術科士官は、自分の能力に自信のない人が一生を海軍に保証してもらうための肩書にすぎない。能力に自信のある人は最初から技師になっている」  永久服役の技術科士官でさえこんな調子でこきおろされるのだから、二年現役の短現士官もラクであろうはずがない。そんな若手技術官のなかで比較的恵まれた境遇にいた人もいる。音響兵器担当の大内淳義中尉(のち大尉、東大工学部電気科、日本電気副会長)が、それに該当する一人である。  大内は青島一期の短現士官だが、海軍に入った動機からして変わっている。というのも、卒業直前、日本電気に就職する予定だった大内のところに、陸軍から赤紙が舞い込んだ。十月中旬に宇都宮の通信隊に入隊せよという召集令状である。  そのころの大内は背丈はあるが細身で、体重も五十キロそこそこしかなかった。そこで大内は考えた。どうせ兵隊にとられるなら一兵卒より士官の方がいいと。そして急遽、陸軍と海軍の技術官試験を受ける気になった。 「ところが、陸軍の方は身体検査ではねられました。身体は異常はなかったが、お前のようなヒョロヒョロしたやつは陸軍将校にはできんというわけ。こりゃ海軍もダメかなと思いましたね。その直後に行われた海軍の試験で陸軍の結果を試験官に正直に話すと『そうか、海軍は艦が狭いから細くてもかまわん』と、ポンと合格の判を押してくれたんです。もともと海軍は嫌いじゃなかったが、これでいっぺんに好きになってしまった……」  と、大内は述懐する。陸軍の主計中将だった大内の厳父も「お前みたいな細いのは陸軍だとすぐ死んでしまう。その点、海軍は人を大事にしてくれる。その方がよかった」と、喜んでくれたそうだ。  もうひとつ運がよかったのは、専修特科に音響を選んだことだ。それも技術的に自信があったわけではない。もともとクラシック音楽が好きだったことから、日本電気の試験を受けるときも音響を志望した。その考えをそのまま踏襲しただけであった。  これが結果的にプラスになった。というのも、当時、音響兵器は、機雷防御技術などの磁気兵器と並んで、日本海軍のもっとも立ち遅れた分野だったからである。  ソナーに代表される水中音響兵器は、第一次世界大戦のときドイツの潜水艦作戦に手を焼いた英海軍が開発したものである。それも二種類あった。ひとつはスクリュー音など相手の発する特徴のある音を受信して、目標物体の方向を探知する水中聴音機(パッシブソナー)と、自ら音波を発射して目標物体からの反射波を検出、その方位、距離を測定する音波探信儀(アクティブソナー)の二種である。  日本海軍も昭和初期からこの種の兵器の必要性を痛感、欧米先進国の技術を輸入、独自の研究を進めていた。それも、もっぱら潜水艦用の水中聴音機の開発に重点をおいた。  その理由は、音波を発射し目標をとらえる探信儀は、自らの存在を暴露するおそれがある。また艦底から海中に突出する探信儀の送受波器によって航行速度が低下する欠点があった。つまり海軍の伝統である先制、奇襲、夜戦を考慮し、音波探信儀の開発を見送ったのである。  しかし、肝心な研究は思ったほど進展しなかった。それは一般民需と無縁な水中音響工学という特殊な分野だけに、研究者の絶対数が足りなかったこと、しかも、音波は電波が大気中を駆け回るように能率よく水中に伝わらないなどの障害があったからだ。  音響兵器の開発研究  ところが、日華事変、第二次ヨーロッパ大戦を契機に、水中音響兵器の重要性が再認識されるようになった。そこで海軍は技研電気研究部の一部科であった音響研究のセクションを分離独立させ、新たに音響研究部を設けた。昭和十五年のことである。しかし、研究の対象は相変わらずパッシブソナーが中心であった。  この空気を一変させたのは、十六年にドイツを訪れた軍事視察団からの情報だった。当時、ドイツは発射音波を鏡で反射し、視覚によって距離、方向を同時に測れるアクティブソナーを開発し、対潜水艦用に使用していた。これを知った艦政本部はすでに試作を終え、そのままになっている音波探信儀(フランスSCAM社製の模倣型)の改良を急ぐとともに、ドイツ駐在の海軍武官に現物と図面を入手するよう指示した。  しかし、話し合いが成立しても現物が到着するまでには時間がかかる。そこで音響研究部は日本電気と共同し、ドイツ方式の模倣型を開発することにした。十八年から本格的に生産を始めた三式探信儀がそれである。この探信儀は月産三十〜五十台ほどつくられ、軽巡、もしくは駆潜艇に装備された。  任官したばかりの大内が、最初の任地佐世保海軍工廠で音響兵器担当副部員として活躍を始めたのは、十八年一月中旬というから工廠での基本実習、応用実習をすっ飛ばして、いきなり音響兵器にタッチさせられたわけだ。これも音響関係の技術者が少なかったためである。 「私の役割は音響検査官、佐世保で建造した艦にソナーを装備すると、さっそく、あの付近の海を走って性能テストをやるわけです。そのときは艦長にあれこれ指示ができる。たとえば、進路をこっちにとってくださいとか、ローコーターで走ってくださいと、学校を出たての若い中尉が指揮をとる。こんなことはほかのセクションだったらできませんよね。しかも、ソナーの装備はベテランの技手がちゃんとやってくれるので、安心して指示できる。そういう意味じゃ非常に楽しかったですね」(大内淳義)  そんな生活を半年ほど続けていると、転属命令が出た。赴任先は広島県大竹の海軍潜水学校。大内はそこの教官になったのである。そして下士官、兵である練習生に電気理論と水中音響兵器の原理、取り扱いなどを、また、兵学校出身の士官たちである学生に水中音響兵器の概要を教えることになった。  だが、高等教育を受けていない練習生に電気磁気学や交流理論の原理を数学を使わないで図解だけで教えなければならない。しかも、潜水学校ではじめて設けられた科目のため、既成の教科書はなく、テキストづくりに散々苦労したという。  大内の仕事はそれだけでなかった。潜水学校教官と同時に、呉工廠電気実験部、並びに第六艦隊(潜水艦隊)兼務の辞令をもらっていたので、ときには呉潜水戦隊の潜水艦に乗り組んで瀬戸内海での訓練に参加し、水兵たちに水中聴音機や探信儀の操作を教える。それも狭い艦内で何日も訓練を続けると、身体がくたくたになる。  その疲れをいやす唯一の楽しみは潜水母艦での休養である。もっとも、瀬戸内に停泊中の母艦は観光船を船員ごと徴用したものだけに設備はあまりよくない。しかし、専任のコックが乗っているので、夜食は戦時下と思えない山海の珍味を味わうことができる。これも艦隊勤務ならではの特権であった。  ドイツ海軍が開発したアクティブソナーを積んだ仮装巡洋艦(船名不詳)が横浜港に到着したのはそのころだった。排水量千五百トン程度の商船を改造した船だが、中甲板の内側には十二センチ級の大砲四門と魚雷発射管二基、さらに後部甲板には単座で二個のフロートを持った小型水上機まで搭載していた。  また、この船にはドイツ人技師十人が乗っていた。これは日本海軍にドイツの新しい技術を教えるため派遣された潜水艦建造の技術者で、造船、造機、電波、音響の専門家たちであった。  問題の探信儀は、さっそく陸揚げされ、関係者に公開された。日本電気で三式音波探信儀の送受信系の設計に携っていた中野伸平(のち中部工大教授)は、その印象を次のように述べている。 「われわれがドイツ情報をもとに国産化した三式と比較して印象に残ったのは、三式は見るからに電気技術者が、その守備範囲の工学を主体につくったものとすぐわかるんですが、ドイツの現物は、電気工学、機械工学、光学など、それぞれの特徴を引き出して、総合工学としてつくりあげたものという感じでした。短所があるものを無理に使おうとせず、他の工学の方が容易に実現可能であれば、躊躇なくその工学に基づく手段にまかせるという考え方が、いたるところで見られました」  つまり、分割された工学間の垣根を取り去った渾然融和の総合工学の所産をまざまざと見せつけられたというのである。  このように日本海軍のために貴重な機材と有能な人材を運んでくれたドイツ仮装巡洋艦も残念ながら再び故国に帰ることができなかった。  というのも、横浜港に到着して二週間ほどたったある日、突然、原因不明の爆発を起こし、沈没してしまったからである。ボイラー室の爆発という説もあったが、真相は定かでない。またその直後、若い水兵の遺体が海面に浮かんでいたという情報も伝えられた。  いずれにしても、連合軍の制圧下にある危険海域を何十日もかかって通り抜け、やっとたどりついた同盟国の軍港内で、それも停泊中の事故で遭難したのだから、乗組員もやり切れない気持ちであったに違いない。  技術に対する保守性が新しい芽を摘む  ドイツのアクティブソナーを詳細に調べた技研音響研究部と日本電気は、この機器を参考に用途の違った四種類の改良型を開発することになった。  こうして十八年後半から生産の重点はパッシブソナーから、アクティブソナーに移行していったが、その新兵器さえ有効に活用されなかった。自らの所在を暴露するアクティブソナーを使うのがこわいのである。それを象徴する話がある。大内が第六艦隊と潜水学校教官を兼務しているころの話だ。 「潜水艦にアクティブソナーをつけても、自分から音波を出すのをいやがる。敵に発見されやすいというんですね。だが、パッシブソナーもけっして安全じゃなかった。むしろ、こっちの方が危険だった。というのも、相手のスクリュー音をとらえることはできても、正確な位置がわからない。そこで潜望鏡をあげると、パッとやられてしまうんです。そこで私と、私の上司の井川一行という兵学校出の少佐と相談し、パッシブソナーの新しい使い方を考えたわけです」(大内淳義)  それは潜水艦の艦首と艦尾に二つの水中聴音機をおいて、横向きになって相手の音を聴く。こうすれば、測距儀と同じ理屈で相手の位置がわかる。こうすれば潜望鏡を出さないでも魚雷発射ができるというプランである。  大内は、その聴音測距の具体案と構想を大まかな図面にまとめ、艦政本部に出向き意見具申を行った。艦政本部のお偉方も若い技術大尉の話を熱心に聞いてくれたが、採用には至らなかった。  また、音響実験部の技術官も探信儀と聴音機の併用案を何度か提唱したが、眼で観ることに拘泥している用兵者はなかなか首を縦に振らない。  結局、戦況が不利になった戦争末期にやっと方針転換をはかったが、そのころには装備する艦がなく、できあがった製品の多くは引き取り手のないまま、メーカーの倉庫に放置されたままというのが実情であった。  こうした保守性は研究する側にも非常に多く見られた。ロッシェル塩(酒石酸カリウム・ナトリウムの結晶)を水中聴音機のマイクロフォンに活用する問題をめぐる論争が、その代表的な例である。  太平洋戦争開始当時、日本の潜水艦が装備していた水中聴音機は、昭和八年に実用化された九三式で、ダイナミック型のマイクロフォンを使用していた。ところが、その前後からロッシェル塩が強誘電体で、圧電力を利用する材料にはうってつけという説が欧米で盛んに提唱されるようになった。  だが、日本の研究者や専門家は「高い温度でロッシェル塩の電気的な性格が変化して、実用化に適さない」と、あまり関心を示さなかった。  その定説を覆したのも、訪独軍事視察団の情報である。それによると、ドイツ海軍はロッシェル塩を用いたマイクロフォンをパッシブソナーに用い成功しているという。これを聞いた日本の識者は「ドイツの方が日本より緯度が高い。成功しているのは気温が低いからでは……」と、一様に首をかしげた。  しかし、その後の情報でドイツ潜水艦は地中海に出動し、イタリアのドックに入っても何ら問題がなかったことがわかり、日本海軍も急遽この技術を導入、新しいパッシブソナーの国産化に踏み切る気を起こした。  十八年秋、危険を冒し、横浜港に入港した仮装巡洋艦に便乗、来日した十人のドイツ人技術者の中に音響技術者が二人いたが、その一人は水中聴音機の製造とロッシェル塩結晶作りに堪能な技術者で、他の一人は水中聴音機の装備技術の専門家であった。  こうしてマイクロフォンに使用するロッシェル塩結晶体の製造設備は、ドイツ人技術者の設計指導により、川崎の東芝小向工場に建設されることになった。だが、稼働寸前の二十年初頭、B29爆撃機の空襲で、苦心の設備も跡かたなく破壊され、関係者の努力は水泡に帰してしまった。  もし、この技術が一年早く導入されていたら、戦争後半期の米潜水艦による船舶被害も、ある程度防ぐことができたかもしれない。しかし、そのころはとてもそんなことを考える雰囲気ではなかった。  結局、用兵者側も、技術者側も、新しい技術の導入に対しては、非常に臆病であった。そのあたりの背景を技研の伊藤大佐は、次のように述べている。 「日本の大多数の研究者、技術者は何ごとにつけても新しいものに懐疑の目を向けたがる。そしてその不成立の証明を出すことにきわめて巧妙である。一般にその方が見識が高いと見えるらしい。現にロッシェル塩は使えないものという証明が幾多も出された。それが日独潜水艦の聴音能力に格段の差をつけたのである」  そのドイツ潜水艦さえ連合軍のパノラマレーダーと、アクティブソナーの前にもろくも破れ去った。両者の特徴をうまく活用した連合軍の戦略が功を奏したことは言うまでもない。  また、米海軍は広大な太平洋でもソナーを効果的に使って、日本海軍を窮地に追い込んでいった。その最たるものが、十八年春から始まった潜水艦による集団攻撃「狼群作戦」である。このため南方から戦略物資を運ぶ日本輸送船団の被害は日増しに多くなり、毎月二、三十万トンに及ぶ艦船が海のもくずとなって消えていった。  連合艦隊主力が健在だったのに米海軍がこんな大胆な戦略を展開できたのも、海洋調査船が水温・海流状況の変化など、四季にわたる調査を経て作成した太平洋全海域のソナー実用マップを持っていたからである。これを活用すれば、潜水艦の進退も自在だし、攻守もやりやすくなる。たとえば、潜水艦は相手が探しにくい場所にひそみ、攻撃の機会を待つことができる。また進攻する艦艇や輸送船団は比較的安全な航路を選んで航行することも可能だった。  どんな性能のよい兵器や道具も使い方次第で、相手に与える威圧感が変わってくる。とくに新しい兵器や設備は、その基本を理解しているか否かで成果に差が出る。日本海軍はその点、兵器の絶対的な性能そのものにこだわり、兵器の実地での応用研究を無視するきらいがあった。  空技廠による航空機用レーダー開発  ここで、航空機用レーダーの動静を述べておく必要がある。これも同盟国ドイツや連合国に比べ立ち遅れていた分野だからだ。航空機用レーダーの開発研究は技研でなく、三浦半島の中ほど、東京湾に臨む追浜にあった海軍航空技術廠が担当していた。  レーダー(電波探信儀、略称電探)の研究水準では技研の方が一日の長があったにもかかわらず、空技廠は独自に開発を進めた。これもセクショナリズムの表われであった。  空技廠が本格的に航空機用電探に手を染めたのは、技研が陸上用、海上用電探の研究に着手してから数ヵ月後であった。  空技廠が開発した電探は、俗称「空六号」、または「H‐6」(波長二メートル、出力六キロワット、重量百十キログラム)と言われるタイプで、大型飛行艇、中型攻撃機搭載が目的だった。その探知能力は港湾百五十キロメートル、大型艦百キロメートル、小型艦なら五十キロメートルまでで、送信管はU‐二三三という真空管を二個使っていた。  この送信管に八千ボルトのプレート電圧をかけるわけだが、面白いことに、飛行機の高度が三千メートルを超えると、大気圧が低くなるため放電しやすくなり、プレートとグリットの間がコロナ放電でつながり使用できなくなるという欠点があった。そこで実用化して一年ほどたった十八年に、三千メートルを超すとプレート電圧を六千ボルトにするような構造に改められた。  また飛行中のブラウン管の映像は、遠方まで探ろうと高度を高くとると、二千メートルぐらいまでは海面の反射が現われて、他の目標があっても全然区別がつかない。したがって、二、三千メートル以上遠い目標でないと探知できないという不便な電探であった。  それでも、この電探は終戦までにおよそ二千台つくられ、もっぱら索敵用に使用された。これに対し米国は、十八年の時点で艦爆搭載の対艦見張りおよび雷撃補助用(波長六十センチ、八木アンテナ)、B24搭載の全方向パノラマレーダー(波長十センチ、回転アンテナ)、夜間偵察機用(波長一・五メートル)など四機種、二万数千台の航空機用レーダーを装備していた。日本との技術・生産力格差はそれほど開いていた。  こうした遅れを取り戻すため空技廠は、小型機搭載用の電探開発に総力をあげて取り組んでいた。しかし、飛行機用は艦船用以上に重量制限が厳しい。発電機のパワーに限界があるからだ。  たとえば、空六号を搭載していた双発の一式陸攻の場合、ひとつのエンジンを動かすのに五百ワットの電力を必要とした。つまり、一キロワットの発電機で機内の電力をすべてまかなっていたわけだ。とすれば、電探に分けられる電力は五百ワットが限度。本来なら電探のために別の発電機がほしいのだが、それを搭載すると全体の重量が増え、飛ぶための馬力が落ちてしまう。  無理を承知で小型軽量の電探をつくろうとするから、開発に手間どったのだ。結局、航空機搭載用レーダーはその後も開発が続けられたが、実らずに終わった。  参考のためにつけ加えると、十八年七月、ボーイング社で開発を終え、量産に入っていたB29重爆撃機は、パノラマレーダーのために二キロワットの電力を割いていたという。これも技術力の差と言ってしまえばそれまでだが、用兵者の電探に対する認識のなさは、そんなところにも悪影響を及ぼしていたのである。  開発の障害、重量制限ようやく撤廃  その元凶とも言うべき軍令部も、電探の占める役割がいかに大きいかがしだいにわかってきた。後に述べるように十九年三月、やっと方針を転換し空六号電探を艦攻「天山」(単発三座席)に搭載を決めたり、これまで水上射撃用電探開発のネックになっていた重量制限を全面的に撤廃し「いかに大きくても、どんなに重くてもよいから、要求性能を充たすものを期限に間に合わせるようにつくること」と、大きく譲歩する姿勢を見せたのもそのためであった。  これは異例のことである。これまで何度か触れたように、軍令部の首脳や一部の用兵者は電探の能力を信用していなかった。  たとえば、電探は装備する場所が高ければ高いほど威力を発揮する。遠くまで電波が届くからだ。最初「伊勢」「日向」の装備実験のとき技研が電探をメインマストの最上段に装備するよう主張したのも当然だった。  ところが、用兵者はそれが気に入らない。「そんな高いところにつけたらトップヘビーになる。艦が旋回するとき邪魔だ」と反対した。結局、用兵者の言い分を認め、設置場所を測距儀の下に降ろすことにした。  また、アンテナも小さく、コンパクトにすることを要求され、地上実験のときの半分の面積にせざるを得なかった。電探はアンテナの面積に比例してエリアが広がるのに用兵者にはその理屈がわからない。このため実験段階で二十キロ、三十キロ届いた電波が、装備段階で十キロ、十五キロと性能が落ちる。それで互角に戦えというのだから用兵者側のきびしい要求は技術者の常識を超えていた。 「終戦直後、相模湾に入ってきた米艦隊を見たら、みんなメインマストの上にでっかい簪みたいなメートル波のレーダーをつけているんです。またセンチ波は大きなお椀のようなパラボラアンテナを艦橋の横にくっつけてグルグルまわしていた。これを見て負けるわけだと思いましたね。彼らと同じような機能の電探を持ちながら半分の能力しか発揮できなかったんだから、結局、われわれの説得力が足りなかったんでしょうかね」  これは十八年八月、海軍嘱託から少将待遇の技師として、電波兵器開発の指導に当たってきた高柳健次郎博士の話である。  結局、軍令部の重量制限撤廃というせっかくの方針転換も焼石に水だった。しかし、制限が撤廃され仕事がやりやすくなったことも、まぎれもない事実であった。それだけに電波研究部のスタッフも目の色を変えて開発に取り組んだ。  ちなみにつけ加えると、当時、技研電波研究部は部外の協力者を含め総勢三百名という大世帯に膨れ上がっていた。各部の役割分担は、渡辺寧教授が真空管を中心とした研究全般の指導、伊藤が第一研究係主任、高柳博士が送受信機やアンテナの改良と開発、理研の菊池博士がマイクロ波関係の開発研究のリーダー、新任の矢島大佐が業務、作業、教育を受け持つという官民協力の組織に変わっていた。  だが、新兵器の開発も、試作機の生産も資材不足の影響をもろに受け、いっこうに進展しない。なかでも最大のネックは、真空管や電気回路など関連部品の質の低下であった。  無念……資材の絶対的不足、粗悪品の横行  こうした現象は何も急に起こったわけではない。日華事変当時から、識者が何度も指摘してきたことだ。これも日本に量産技術が導入されて日が浅く、定着していなかった証拠である。 「昔、海軍は兵器用の部品購入にきびしい条件をつけていた。とくに通信機材などは念入りにやってましたね。その代わり購入する部品は市場価格の十倍ぐらいの値段で買ってくれる。しかも、海軍はそういう信頼性の高い部品を大量に備蓄していた。ところが、太平洋戦争が始まって一年もたたないうちに、それを全部消費しちゃったんですよ。あとから補充したものは、そのあたりの町工場で、素人みたいな連中を動員して生産したものが多いから、どうしても信頼性が悪くなる。そのあたりの事情が用兵者にわからなかった。それが問題でしたね」(高柳健次郎)  これに拍車をかけたのが資材不足と、粗悪な代用品の横行である。当時、東芝、日本電気、日本無線などの大手メーカーは、真空管の不良率の増加と、短寿命に泣かされていた。何しろ、ひどいときは百個つくっても特性検査に合格するのは一、二個しかない。しかも、通電して百時間もするともう球切れ現象を起こす。  そのためメーカーの責任者はしばしば技研に呼びつけられ「不良品をなくせ、寿命の長い球をなぜつくれない」と、頭ごなしに叱られる。メーカーも必死になって改善努力を重ねるが、いっこうに成果が上がらないというのが実情だった。  そんなことを何回も繰り返しているうちに、素材に問題があることがだんだんわかってきた。とくに代用品の場合、それが目立った。それもそのはずだ。  たとえば、ニッケルの代わりに純鉄を使うとか、入手難のトリタン線も、タングステンにトリウムを塗布、加熱したものを自社生産して使っていたのだから質が落ちるのも当然であった。  ニッケルと言えばこんな話もある。あるメーカーで電探用の高性能な真空管をつくるためどうしても天然のニッケルが必要になった。そこでブローカーを通じて“ヤミ物資”を探したがどうしても入手できない。思い余った購買担当者は軍需省に掛け合いに出向いた。そして良質な電子を出すためには純度の高いニッケルでカソードをつくらなければと窮状を訴えた。すると、馴染みの担当官は「香港で手に入れたニッケル貨がある。試しにこれを使ってみないか」と、思いがけない話をする。さっそくそのコインをもらい受け、再鋳して使ってみると、非常によい結果が得られた。以来「カソードはコインに限る」という情報が業界に流れ、香港コインの争奪戦が始まったほどである。  真空管は電波兵器の心臓部に当たる最も重要な部品であるだけに、このような信頼性問題は電探開発の大きな障害になっていた。事の重大性に気づいた軍部も長岡半太郎、八木秀次、渡辺寧などの学識経験者、メーカーの代表を委員とする陸海軍電波技術委員会(十八年八月発足)を組織、何度も会合を開き、対応策を協議するが、なかなか意見が噛み合わない。問題の本質が、原材料の入手難という技術の枠外のことだからである。  そんなきびしい情勢を反映してか、新しい電波兵器の開発にも、真空管の使用本数を極度に制限される。それで能力を上げろというのだから、技術者に負担がかかるのは当然であった。 「戦後、占領軍の実情を聞いたが、われわれが二、三球でやっているものを、向こうは六、七球使っている。これには私も驚きましたね。真空管の信頼度が高ければよけい使う方が便利に決まっている。機器の性能もよくなるし、設計も楽になるからですよ。ところが、海軍は少ない数で性能のいいものをつくれと過大な要求をする。これじゃ折角の制限撤廃も意味がなくなってしまう。もっと困ったのは、コンセントとかプラグ、コードの類、そういう細かい部品にも粗悪品が多かったことです」  と、高柳は当時の内情を打ち明ける。知らない人はそんなことが、と思うかもしれない。だが、部品の品質問題は、そんなところまで広がっていたのである。  たとえば、プラグをコンセントに差し込む。ところが、導通が悪い。そこでプラグをグッグッとゆすってしっかり差し込む。これで通ったと思ったらプツンと切れてダメになる。接点が悪いのだ。  高柳に言わせると、これのいいのができていると、接点も五とか六などと、ケチなことをせず、十とか二十に増やせるし、機能を高めることができる。だが、部品の信頼性がないからそれができない。仕方なくマルチボードを使ってつなぐと、こんどは配線ミスが出てくる。  このため研究室の実験段階でいい性能が確認されたのに、実際に使ってみると半分以下の能力しか出せないとか、全然作動しないというケースが出てくるのである。  空技廠が開発していた小型機用の哨戒索敵電探「N‐6」(波長一・二メートル、出力二キロワット、重量六十キログラム)、夜間戦闘機用接敵電探「FD‐2」(波長六十センチ、出力二・五キロワット、重量七十キログラム)など四機種の試作完了が十九年、二十年にずれ込んだり、技研電波研究部の開発陣が総力をあげて取り組んでいた水上射撃用電探三号二型(波長十センチ、出力二キロワット、重量五トン)の試作が予定より二ヵ月も遅れ、肝心の艦隊決戦に間に合わなかったのも、そういうもろもろの悪条件が重なったためであった。 第十章 運命決めたマリアナ海戦  トラック島全滅  十九年一月七日、内南洋の要衝トラック基地上空に米国の大型機がはじめて飛来、白い飛行機雲を残し東の空に消えていった。不気味な予感を持った連合艦隊首脳は水上部隊の転進を古賀長官に進言した。油の豊富な昭南(シンガポール)南方のリンガ泊地で出撃の機会を待つ方が賢策と考えたのである。  当時、トラック泊地には再編のため内地に帰投した空母部隊を除いた主戦部隊が在泊していた。だが五ヵ月前、連合艦隊主力が集結したころとは大分趣きを異にしている。というのも、さきの“ろ号作戦”で手痛い被害を受けた重巡「愛宕」「最上」は、修理のため内地に回航されたし、同じような損害を受けた「高雄」「摩耶」「筑摩」も近く戻る予定だった。  また、内地から南方最前線に転戦する陸兵を満載入港した戦艦「大和」も、入港前夜、米潜水艦の雷撃を受け、傷ついた巨体を港内に曝していた。その大和も一月十日、防御用バルジに大破孔を空けたまま内地に戻った。修理先の呉工廠のドックがやっと空いたためだった。  一月下旬、水上部隊の移動が始まった。中部太平洋の最後の拠点、マーシャル群島に六百機の艦載機、数十機の大型機が殺到、猛攻撃を始めたのはその直後である。  このため、防御にあたっていた五十機足らずの基地航空隊は壊滅的な打撃を受けてしまった。二月一日には米海兵隊が大挙して上陸した。そしてマーシャル諸島の要衝ルオットは三日に、クェゼリンは六日にそれぞれ音信を絶った。  一方、パラオ環礁に向かった水上部隊もこの異変を知り、いったんトラックに引き返すことにした。ところが、二月四日、トラック基地に米大型機が再び飛来、偵察活動をして帰った。それまで泊地に踏み止まっていた連合艦隊司令部も「トラックへの進攻近し」と判断、全艦に既定方針通り行動するよう指令を出した。  こうして旗艦「武蔵」は、「大淀」以下の護衛艦を従え、北に進路をとって内地へ、また戦艦「長門」以下の水上部隊主力もパラオ経由リンガ泊地に向けて、いっせいに退避行動を起こした。二月十日のことである。  水上部隊主力が出港したあとトラック泊地に残ったのは、軽巡「那珂」「香取」、修理中の「阿賀野」以下、駆逐艦、駆潜艇、特務艦など十数隻の艦艇と、三十余隻の輸送船だけであった。  二月十七日未明、そのトラック基地に、突然、空襲警報が鳴った。大型空母五隻、小型空母四隻、戦艦六隻を基幹とする米機動部隊の艦載機が夜明けの各飛行場をねらって不意打ちをかけてきたのだ。  このため地上にあった三百機近い海軍機は次々に燃上し始める。その焼煙を縫うように零戦が必死の勢いで飛び立った。しかし、上空で待ち受けるグラマンF6Fを主体とするアメリカ戦闘機群の銃撃にあっという間にたたき落とされる。その数も数十機に及んだ。  以来、のべ三百数十機の艦載機が九回にわたって港内の艦船や地上施設に襲いかかり、執拗な雷爆撃を繰り返した。さらに翌十八日未明、およそ十機の雷撃機がレーダーを駆使して艦船攻撃を加えた。夜が明けると、こんどは艦爆や戦闘機のべ百機が三波に分かれて来襲、わがもの顔に銃爆撃を浴せ、午前九時すぎに東方海上に飛び去った。  この二日間に及んだ空襲による被害は甚大であった。撃墜破された飛行機は二百七十数機、艦艇の沈没は軽巡「阿賀野」、「那珂」、「香取」以下十二隻、損傷艦は水上機母艦「秋津州」、特務艦「明石」「宗谷」など九隻、また輸送船の沈没は三十一隻、座礁二隻と、港内はさながら海の墓場と化してしまった。  もちろん、地上施設の損害も大きかった。多数の倉庫、建物をはじめ、一万七千トンの重油、二千トンの備蓄食糧が焼失した。人員の被害は、陸上だけで死傷者六百名。  こうして内南洋の日本海軍最大の拠点、トラック泊地は、基地としての機能を完全に失ったのである。  この報告を受けた軍令部首脳は愕然とした。今後の作戦展開に大きな狂いを生じただけでなく、本土防御にも重大な支障をきたすおそれがあるからであった。  そこで急遽“次善策”の検討を始めた。その結果、中部太平洋の防衛線をマリアナ諸島からパラオ環礁、ニューギニア北部、ボルネオ北東部まで後退させる。そして米機動部隊が進攻してきた場合は、連合艦隊と基地航空隊の総力をあげてこれに立ち向かおうという基本方針を決めた。そのためにも性能のすぐれた電探がほしい。  十九年三月、海軍省で開かれた水上射撃用電探対策会議の席で、軍令部がこれまでの方針を改め、電探の重量・容積制限を全面的に撤廃すると発表したのもそのためであった。  しかも、そのとき司会者は「本装置はこの六月(十九年)までに主要各艦に装備できるようにしたい。この機会を逸したら本装置を実用化する機会は永久になくなるであろう」と、強い調子で技術陣の奮起を求めたという。  このころシンガポールに集結中の艦攻「天山」の搭乗員に対する電探教育も着々進行していた。指導に当たったのは、第二艦隊司令部付だった立石技術大尉である。  立石は米軍のトラック大空襲直前、呉に回航された「大和」に便乗、いったん内地に帰った。横須賀の空技廠で航空機電探の装備実習を受けるためであった。そして三月はじめ第三艦隊司令部に転出、岩国を出港した空母「翔鶴」に乗艦、シンガポールに到着したばかりだった。  当時、シンガポールには五十機近い「天山」艦攻が、次期決戦に備え、猛訓練に励んでいた。このうち空‐六型電探を装備していたのはわずか十数機。立石はその搭乗員(無線担当)と整備兵を対象に理論教育と取り扱い法を徹底的に教えた。  紅顔の美少年の域を出ていない搭乗員、整備兵も知識欲が旺盛なせいか覚えが速い。そして二ヵ月もすると、百〜百五十キロ先の大型艦も探知できるようになった。 “電波封止”解除  いったん内地に戻った連合艦隊旗艦「武蔵」が、パラオ新基地に雄姿を見せたのは十九年二月下旬のことである。その数日前の二月二十三日、マリアナ近海に米機動部隊が出現、サイパン、テニアン、グァム島が艦載機の空襲を受けた。この海域の制空権の確保もしだいにむずかしくなってきていた。  それを決定的なものにしたのは、三月三十日のパラオ大空襲であった。連合艦隊司令部はその動きを事前に察知、とりあえず水上部隊を北西海域に退避させることにした。トラックの二の舞いを避けたかったのである。ところが、将旗をはずした「武蔵」は出港直後、米潜水艦の雷撃を受けた。被害そのものは軽微だったが、大事をとった司令部は駆逐艦三隻をつけ、そのまま呉へ回航させることにした。  米機動部隊の艦載機がパラオを襲ったのは、一夜明けた三十日の未明であった。それもトラック同様、のべ六百機の艦載機が二日間にわたって激しい銃爆撃を繰り返した。その結果、工作艦「明石」(基準排水量九千トン)以下六隻の艦艇と輸送船十八隻が沈没した。そのほか基地航空隊の損害五十機、サイパン、テニアンから出動した第一航空艦隊も半数近い九十機を失ってしまった。  これに追い討ちをかけたのは、古賀長官の殉職であった。パラオからダバオに向けて脱出する途中、搭乗機が予想外の低気圧に巻き込まれ、消息を絶ったのである。  その悲報が公表されたころ、シンガポール南西のリンガ泊地には連合艦隊の精鋭が次々に入港、錨を降ろした。そして、開戦三代目の連合艦隊長官、豊田副武大将が木更津沖の旗艦「大淀」(軽巡、基準排水量九千八百トン)に将旗を揚げた五月初旬には、呉工廠で修理を終えた「大和」、「武蔵」をはじめ、神戸の川崎重工で建造された重装備空母「大鳳」(基準排水量三万四千二百トン、搭載機五十二機)なども到着し、リンガ泊地は大小六十余隻の軍艦でいっぱいになった。  しかし、そこで新たに編成された艦隊は新造空母「大鳳」を旗艦とする第一機動艦隊(司令長官・小沢治三郎中将)で、これまで連合艦隊の象徴であった「武蔵」、「大和」などの戦艦群は、空母部隊の支援艦という存在に変わっていた。  やがて編成を終えた艦隊は、ボルネオとミンダナオ島の中間に位置するタウイタウイ泊地に向けて移動を開始した。ところが、進攻近しと思われた米機動部隊はいっこうに姿を現わさない。このためリンガ泊地で猛訓練を重ね、満を持していた将兵は、蒸し暑い澱んだ空気に包まれたタウイタウイ泊地に一ヵ月近く閉じ込められ、しだいに焦慮の色が濃くなった。とくに空母搭乗員にそれが目立った。外洋での発着訓練ができないからである。  というのも、泊地の周辺海域には相当数の敵潜水艦が配備されているとみえ、訓練に出た駆逐艦何隻かが雷撃を受け沈没している。それだけに巡洋艦以上の大型艦は外洋に出ることを制限された。潜水艦に強いはずの駆逐艦ですらやられるのだから、図体の大きい空母や戦艦は危なくて出せないというのだ。  そんな雰囲気の艦隊のなかで多忙な日を送っていたのは、立石のような電探担当の技術官である。何しろ、このころは電探のついていない艦は一隻もなく、電測員の技量も向上しているので、指導は苦にならなかった。だが、肝心な電探の整備は容易でない。真空管や関連部品の品質が悪くなってきたころだけに、故障や性能劣化の電探が増えてくる。そのたびに「武蔵」乗務の立石が呼び出され、修理調整にあたるのだ(以下、立石「電探かく戦えり」より抜粋再構成)。  ある日、こんなことがあった。旗艦「大鳳」の対空見張り用二号一型電探の調子がおかしいので見てほしいという連絡が入った。さっそく立石が出向くと、二台の二号一型のうち一台の感度が非常に悪い。まったく反射波が出ないとか、送信機が発振しないという故障は意外と修理しやすいのだが、「大鳳」の電探の場合はどこが悪いのかさっぱり見当がつかない。そこで丸一週間、一睡もせずに各部の検査調整、部品の取り替えなどあらゆる手を尽くしたが、うまくいかない。旗艦だけに艦長や通信参謀が心配して見にくる。しまいには小沢長官まで狭い電探室まで足を運び「調子はどうか」と聞きに来たほど。これには立石もすっかり恐縮してしまったそうだ。  結局、アンテナをつくりかえ、その場を取り繕ったが、実際は感度が多少よくなった程度で、完全に修復できたとは立石も思っていなかった。幸い「大鳳」にはもう一台の二号一型があるので実戦にはほとんど影響がなかった。だが、「大鳳」もその直後のマリアナ海戦で沈没しているだけに最後まで心にひっかかるものが消えなかったという。  ところで、このタウイタウイ泊地で待機中、電探関係者にとって画期的な朗報がひとつあった。それは電探運用の最大のネックになっていた“電波封止”が解除になったことである。  それまで軍令部や艦隊司令部は隠密を要する艦隊航海中は、一切電波の使用を禁止していた。うっかり通信用電波(中・長波)を出すと、敵に方位を探知され、艦隊の作戦行動がわかってしまうことをおそれたのだ。もちろん、電探もそれと同じ考えで使用を止められていた。  しかし、以前とは違い、そのころは米潜水艦の情報網が発達していて、日本艦隊の動きはすべて敵に知られている。そんな状態では電波封止という発想はまったく通用しない。とくに電探の電波は極超短波で遠方まで届かないから、積極的にこれを用い、敵機の奇襲攻撃から艦を守るべきだ、と橋本宙二大佐が参謀連を強引に説き伏せ、実現に漕ぎつけたものだ。  以来、巡洋艦以上の艦が輪番制で、昼夜の別なく、電探哨戒を行うようになった。ただ、電探と逆探は同時併用ができない。そこで電探二十五分、逆探五分というやり方をとることにした。これだけでも大変な進歩であった。  日米機動部隊決戦  戦局に変化が起こったのは、その直後であった。それも大本営や連合艦隊司令部が考えていた中部太平洋でなく、ニューギニアの北西部ビアク島に輸送船団を伴った強力な機動部隊が出現したのである。日本の海軍記念日にあたる五月二十七日の早朝であった。そして午前五時ごろから艦砲射撃、空爆を繰り返し、七時すぎ、島の南岸にマッカーサー元帥麾下の第一軍団(軍団長アイケルバーガー中将)の精鋭、一万二千名が上陸を開始した。  これに対する日本軍守備隊は、陸軍四千名、海軍二千名(うち二千五百名は陣地構築のため徴用された非戦闘員)で、上陸を阻止できる兵力でなかった。それだけに第一機動艦隊の小沢長官も、一瞬出撃をためらった。米軍の攻勢が本物なのか、単なる陽動作戦なのか見分けることができなかったからである。  一方、木更津沖の連合艦隊司令部は、ここを失えばその後の作戦に重大な支障をきたすと判断し、マリアナ方面の基地航空艦隊の一部にビアク島来攻艦隊への攻撃を発令、次いで第二艦隊第一戦隊の戦艦「武蔵」「大和」「扶桑」と、第二水雷戦隊の軽巡三隻、駆逐艦八隻を支援活動(渾作戦)に振り向けることを命じた。六月十日のことである。  ところが翌十一日、大型空母七隻、軽空母八隻、戦艦十四隻を基幹とする強力な米機動部隊が意表を突いてマリアナ近海に出現、サイパン、テニアン、グァム、ロタ島の日本軍拠点に猛爆撃を開始した。さらに十三日からサイパン島に対し艦砲を交えた立体攻撃を展開し始めた。  この報にあわてた第一機動艦隊はともかく迎撃態勢を整え、いっせいに行動を起こした。ビアク島に向かっていた支援部隊も急遽作戦を中止、本隊との合流を目指して反転、進路を北に向けた。米軍がサイパン島に上陸を開始したのは六月十五日早朝、豊田連合艦隊長官が「あ号作戦決戦発動」を発令した直後であった。  有史以来、最大と言われた日米機動部隊決戦、いわゆる“マリアナ海戦”は、六月十九日、早朝から始まった。夜明け前、各空母および戦艦、重巡から索敵機が放射状に、何段にも分かれて飛び立っていった。「大鳳」「翔鶴」「瑞鶴」の正式空母三隻を基幹とする総勢九隻の空母の飛行甲板には、零戦をはじめ、彗星艦爆、天山艦攻が所狭しと並び、発進の機会をいまや遅しと待ち受けていた。  午前八時半、待望の発進命令が出た。第一次攻撃隊三百四十機は勇壮なエンジン音を残し、次々に暗雲の低く垂れこめた大空に舞い上がってゆく。そして最後の一機が飛行甲板を離れ、上昇態勢をとったとき、先に飛び立った彗星艦爆一機が突然、海面目がけて突っ込んでいった。  旗艦「大鳳」の艦橋でこれを目撃した首脳陣があっと息をのんだ瞬間、見張員が「右舷前方に雷跡、こちらに向かってます」と、悲鳴に似た絶叫をあげた。あわてた艦長の菊池朝三大佐は緊急操舵を発令したが、かわし切れず“ガァーン”という独特の金属音と同時に右舷艦橋下から大きな水柱が上がった。その飛沫は艦橋を越え、艦全体は激しいショックに見舞われた。魚雷が命中したのだ。  しかも、当たったところは前部ガソリンタンクの近く、そのためガソリンが漏れているとの報告が上がってくる。また爆発のショックで前部リフト(エレベーター)は途中で傾いたまま停止しているという報告も入った。にもかかわらず、三万四千トンの巨体は普段と変わりなく、白波を蹴立てて直進していた。  後続の「瑞鶴」艦橋からその光景を望遠した立石は「さすが不沈空母は違う」と、思わず目を見張った。同時に輪形陣のなかに入り果敢な攻撃を仕掛けた敵潜水艦の大胆な戦法に、背筋の寒くなるのを覚えたという。  というのは、通常、戦場に向かう空母は潜水艦の攻撃を避けるため他の艦と同様“之の字運動”をしながら進む。だが飛行機を発進させるときは、風上に向かい相当長時間直進しなければならない。空母が危険なのはこのときだ。潜水艦の攻撃を受けやすいからである。  だから空母の両舷にはつねに駆逐艦が一隻ずつ配置され、同じ速度で伴走する。ところが、敵潜水艦は、この護衛駆逐艦と空母の間に入り込み、至近距離から魚雷を発射、結果も確かめず急速潜航している。つまり、電探や駆逐艦のソナーの死角から攻撃を加え、素早く退避してしまったというわけだ。  そんな騒ぎをよそに、午前十時、第二次攻撃隊八十余機が再び母艦から飛び立った。それを見送りながら艦隊の首脳は、第一次攻撃隊の吉報を一日千秋の思いで待ち続ける。だが、それらしい情報は入ってこなかった。  それもそのはずである。攻撃隊は、接敵直前、レーダーと無線電話を活用し待ちかまえていた米戦闘機群に襲われ、苦戦中であった。その網をくぐり抜け、やっと機動部隊に取り付いたと思ったら、こんどは至近距離で自動的に爆発する対空砲火(VT信管)を浴び、次々に撃ち落とされる。そんな悲惨な戦いを演じていたのである。  十一時二十分をすぎたころ、一航戦の二番艦「翔鶴」の右舷から大きな水柱が四本上がった。またも潜水艦の雷撃を受けたのだ。このため翔鶴は大火災を起こし戦列を離れていった。そして午後二時ごろ沈んだ。ハワイ以来の歴戦の空母の壮烈な最後であった。  レーダーの優劣が命運を分ける  一方、最初に雷撃を受けた旗艦「大鳳」はガソリンタンクの漏洩防止と、エレベーターの穴を塞ぐ努力を懸命に続けていた。その合間を縫って、思わぬ奇禍で発進の遅れた最後の二次攻撃隊十八機が飛び立っていった。時計の針は十二時三十分を指していた。  尾羽打ち枯らした第一次攻撃隊の艦載機が帰投し始めたのはそのころである。着艦し飛行甲板に降りてくる搭乗員の目は、いずれも血走り、はげしい興奮と疲労の色が見える。その報告によると、「密雲で視界をさえぎられ敵艦隊の発見は至難だった。しかも、その前方五十キロの上空には敵戦闘機群が網を張って待ち受けていたため思うような戦果があげられなかった」とのことであった。  だが、事実はちょっと違っている。というのも、その日、米機動部隊は、日本艦隊主力はグァム近海にありと判断、出動可能な全艦載機をグァム島周辺に投入した。ところが、それから一時間後、米機動部隊の対空見張レーダーは、南西方面から接近してくる日本攻撃隊の機影をとらえた。その距離はおよそ二百五十キロメートルあった。そこで指揮官はグァムに出撃させた戦闘機群をあわてて呼び戻した。その帰り途に運よく日本の攻撃隊と遭遇、激しい空戦に発展したというのが真相だった。つまり、ここでも電探の優劣の差が勝敗の分かれ目になったのである。  現にこの作戦に参加した米空母の艦長は、こんな証言を残している。 「日本の攻撃隊は、わが艦隊の上空を何度も旋回していた。それだけに急降下爆撃、魚雷攻撃は必至と思い、万全の防御対策を立て待ち受けた。しかし彼らは少数の爆弾を海に落としただけで飛び去ってしまった。深い積層雲にはばまれてわれわれを発見できなかったらしい。これも日本機にレーダーがついていなかったからだと思う」  これが、米機動部隊首脳陣の精神的負担をどれだけ軽減したか測り知れないはずである。  そんな矢先、旗艦「大鳳」が突然、大爆発を起こし炎上し始めた。舷窓をすべて開放し、艦内に充満した軽質油ガスを排出したはずなのに、まだ艦内の一部にガスが滞留し、外に漏れていたらしい。その上を着艦したばかりの飛行機が通過した。爆発はその瞬間に起こったと言われている。エンジンから出る小さな排気の焔がガスに引火したのかもしれない。このため、二百五十キロの爆弾にもビクともしないと言われた自慢の飛行甲板は無惨にめくれあがり、人影も見えない。爆風で吹っ飛ばされてしまったのだ。その後、大鳳は何度も誘爆を繰り返し、二時間余にわたって燃え続け、午後四時三十分、ついに沈没した。完工以来、三ヵ月という短い生涯であった。  沈没直前、幕僚とともに艦を脱出した小沢長官は、駆逐艦「若月」を経由、重巡「羽黒」に将旗を移した。さらに「瑞鶴」に移乗、作戦指揮を続行することになった。そのとき一部参謀は、前衛部隊の「武蔵」「大和」を動員し、第三次攻撃をかけるべきだと進言した。だが、残る艦載機は百機に満たず、攻撃を断念せざるをえなかった。  結局、この夜は部隊をまとめるため、いったん北上、翌三十日、残存飛行機をもって最後の反撃を試みようと、再び南下したが、夕刻になっても敵影を発見できなかった。やむなく小沢長官も引き揚げを決意、沖縄中城湾目指して北上を開始した。  やがて太陽が西に傾き始めた五時すぎ、瑞鶴の電探は、後方百二十キロの地点に接近してくる大目標を発見した。敵の追討ちが始まったのである。  のべ百数十機による空襲は、二十分ほどで終わった。しかし、第一機動艦隊の被った被害は大きかった。空母「飛鷹」(郵船出雲丸改装、二万七千五百トン、搭載機四十八機)が沈没、同「隼鷹」(郵船檀原丸、飛鷹と同型)、同「千代田」(水上機母艦改造、一万三千六百五十トン、同三十機)が大破したほか、「瑞鶴」「龍鳳」(潜水母艦大鯨改造、千代田と同型)などが、至近弾や機銃掃射でかなりの損傷を受けていた。  敵機が去ったのを見届けた「瑞鶴」は、空中に退避していた十数機の飛行機の収容を急いだ。その直後、参謀から索敵用天山艦攻の電探をはずせと指示がきた。雷装して他の天山艦攻と一緒に敵機動部隊に薄暮攻撃をかけるというのだ。  これを知った立石は発案者の真意を疑った。もちろん、重量の関係で、天山が電探と魚雷の両方を積めないことは十分承知している。だが、夜にかかる攻撃であれば、せめて一〜二機に電探を装備していれば、索敵も容易なはず。それを無視して雷装を重視する参謀連の科学性のなさに唖然としたのである。  この索敵行も立石が予想した通り空振りに終わった。空しく引き揚げてきた天山艦攻を収容した第一機動艦隊は、傷ついた空母を中心に一路西北に退避し、沖縄に向かった。二十二日沖縄中城湾に入港した敗残部隊は、大がかりな修理を要する艦は呉回航、他の艦は燃料の豊富な昭南リンガ泊地へとそれぞれ散っていった。  こうした一連の戦闘のなかで、意外な活躍をした艦があった。重巡「愛宕」である。愛宕が十八年十一月の“ろ号作戦”で大損傷を受けたことは前に触れた。その修理を呉工廠で行った際、通信参謀・桜義雄中佐のたっての要望で、実用試験の域を出ていなかったオートダイン方式の受信機を持つ二号二型改一マイクロ波電探を装備してもらった。  この電探が思わぬ効果を発揮し、前衛を務めた第二艦隊を無傷に近い状態で帰投させることができた。「愛宕」の電探オペレーター(准士官)が優秀で、艦隊の前衛で電探によっていち早く敵の動静を察知し、それを各艦に知らせたからである。  この報告を受けた軍令部は、艦政本部に対し二号二型改一電探をすべての艦に装備するよう命令した。それも一ヵ月以内というきびしい条件がついていた。  艦政本部の指示を受けた技研電波研究部は、製造メーカーの日本無線に二号二型改一を大量発注する。できあがった電探は呉工廠に送られ特急で装備工事が行われる。  ところが、その調整試験は呉工廠電気実験部が担当することになってはいたが、装備と損傷艦艇の修理などで要員が不足、とても手がまわらない。そこで、技研電波研究部が総力をあげて調整を担当することになった。その要員を運ぶ特別列車が東京駅を出発、呉に向かったのは六月二十六日の昼下がりであった。  敗戦の予感漂う呉工廠  前にも触れたように呉海軍工廠は、艦の建造にかかわるあらゆる設備を持った日本最大の軍需工場である。それだけに大きな被害を受けた艦はすべて呉に回航される。終戦時、水上艦艇が残っていたのが呉だけだったのもそのためだ。  当時、呉工廠の従業員は徴用工、勤労動員学生を含めておよそ十万人。それが三交替昼夜ぶっ通しで作業を続けても仕事がさばき切れないほど多忙を極めていた。  十九年三月、その呉工廠電気部に着任した若い技術科士官がいた。青島二期(十八年九月採用)の永久服役組・野田克彦技術中尉(旅順工大電気工学、のち大尉、戦後電総研電算機部長、松下電器産業技術本部顧問)である。野田は厳父が旅順工大の学長をしていた関係で旅順生活が長い。そのせいか戦前から海軍と縁があった。 「旅順には、毎年、連合艦隊が入ってくるんです。そのたびに軍艦に乗せてもらった。改装前の長門、重巡の羽黒とか……。そんな関係で幼稚園、小学校のころから海軍好きだった。それが海軍の委託生になるきっかけでした。呉の電気部を志望したのは、私なりの理屈があった。というのは、私は昔から、一番中心になるところ、あるいは本拠というか、そういうところで腕を磨くことが技術屋にとって大事だと思っていた。そういう意味で各地の工廠の中でちゃんとした電気部を持っていたのは呉だけ。あとはみんな造兵部の中の電気なんですね。だからためらわずに呉配属を希望したんです」  と、野田は言う。だが、無線と違って一般電気は手がける分野は広いが、非常に地味なセクションである。それだけに他の技術官とは異なった苦労や貴重な体験をしている。そのなかから戦争末期の呉工廠の実態がわかるような話をいくつか紹介しておこう。  野田が所定の教育を終え呉に着任したのは、パラオ方面の戦局がきびしい様相を呈し始めた十九年三月二日であった。当時、呉工廠最大の四号ドックではトラック島で雷撃に遭った「大和」が、損傷箇所の修理に追われていた。野田ははじめて見るその巨体に思わず目を見張った。隣接の三号ドックで修理中の二隻の駆逐艦や造船ドックで改修工事を急ぐ金剛級の戦艦と比べ、あまりにも違いすぎるからである。  やがて工作工場での基本実習が始まる。その直後、艦政本部第三部の安部三郎技術中佐(昭和九年東大工学部電気科)が呉に出張してきた。野田たち若手技術官はその安部を水交社に訪ねた。先輩の話を聞き今後の参考にしようと思ったのだ。そのとき安部は意外なことを口にした。「貴様らがくるのは少し遅すぎたようだ。もう、お前たちが働くときはないような気がする」と——。  野田たち若い技術官にはそれが何を意味するのか、咄嗟に判断しかねた。その真意がなんとなくわかったのは、瀬戸内で訓練中の改造空母「飛鷹」を見学に行ったときであった。たまたま居合わせた砲術長が「お前たちに話しておきたいことがある」と、若い技術官たちを飛行甲板の真ん中に車座に座らせた。そしてまわりで作業をしていた下士官、準士官を遠ざけ、「現在の戦局は非常にきびしい。おそらく連合艦隊が自由に動けるのはこの春だけだ。貴官らもそれを念頭において今後慎重に行動するように努めろ」と、海軍のおかれた環境を率直に話してくれた。  正直いって、野田にはそれが信じられなかった。しかし、日がたつにつれ、だんだんそれが実感としてわかってくる。修理する艦が増えてきたからだ。  工作工場での基本実習が終わると、こんどは応用実習に入る。とはいえ、実際は水上艦艇担当の基礎部員と同じ仕事をさせられる。それも最初は駆逐艦が担当であった。  これは一般電気を担当するものにとって伝統の風習である。というのも、駆逐艦は小なりといえども大砲や魚雷発射管も揃っているし、指揮系統も大艦並に整っている。それだけに軍艦の電気まわりを覚えるにはうってつけの対象だった。そこで野田が担当を命ぜられたのが、十七年半ばころからつくられるようになった防空駆逐艦「涼月」(基準排水量二千七百トン、同型十二隻)の修理であった。ところが、これが容易でない。そのあたりの事情を野田は次のように言う。 「この艦は豊後水道を出たところで潜水艦の雷撃を食ったんですね。だから艦の前の三分の一が艦橋もろとも吹っ飛ばされなくなっている。それをまず切りとって装備からやり直すわけ。当然モーターや機械類は積み替えなければいけない。したがって、修理を終えて公試運転までもってゆくのに一年ぐらいかかります。もちろん、われわれ新米はやれと言われても手が出ない。図面を見てもわからないことだらけでしょう。だから実際は工手さんの説明を聞きながらやったが、足手まといになったと思いますよ」  そんな矢先、マリアナ海戦で手荒く痛めつけられた第一機動艦隊の主力が続々と柱島の連合艦隊泊地に戻ってきた。おかげで工廠全体は蜂の巣を突っついたような騒ぎになる。  こうした騒然とした雰囲気のなかで落ち着いているのは、何度も修羅場を経験している先任部員とベテランの技手、工手たちである。すでに先任部員は前の晩から内火艇で全員柱島まで出向いている。そして泊地に入る艦の破損箇所を手早く調べ、技手や工手に修理の段取りを指示していた。  それを知らない野田のような新米部員は、朝方、満身創痍で工廠構内に入ってくる艦を見て大きなショックを受ける。雷爆撃の被害がこんなにひどいとは知らなかったからだ。気を取り直した若手技術官も各部の担当部員と内火艇に乗り、損傷艦を一巡する。自分の受け持つ艦に近づくとどんどん乗り移ってゆく。  その直後、同乗の工手が「部員、あれを見てご覧なさい。花魁のかんざしですよ」と、誰となく呼びかけた。見ると駆逐艦の横っ腹の破損孔に不発の魚雷が突きささり、頭の先が向こう側に抜けている。しかも、被害を受けたどの艦にも血の飛び散ったあとが、艦内のあちこちに残っていた。  このとき野田は空母「瑞鶴」の修理担当を命じられた。それまで手がけていた「涼月」の工事はあとまわしだ。新しい損傷艦の修理で人手を引き抜かれ仕事にならないからである。 「こういうとき、われわれ電気まわりのものが一番手を焼くのは、至近弾を食らった破損箇所の修理です。何しろ、爆弾が海面で破裂するとカミソリの刃のように尖った大小の破片が艦内に飛び込んで、あちこちひっかきまわすようにはねる。当然、艦内に張りめぐらせてある動力線や通信多芯ケーブルにグサッと突きささってるのもあります。通信用の多芯ケーブルには何百芯の線が入っているのもある。そのどれがやられているのかを探すのが大変なんですね」(野田克彦)  数年前、東京世田谷で電話ケーブル火災があり、修理に大騒ぎしたが、ちょうどあれと同じで、何百芯もの線を間違いなくつなぐのが大変な仕事だったというわけだ。 第十一章 難関突破  鉱石検波器、レーダー開発に光明もたらす  技研開発陣が総力をあげて取り組んだ新しいセンチ波水上射撃用電探の開発は、予想以上に難航していた。最初、伊藤を中心としたスタッフは重量容積の制限がなくなれば開発も可能と思っていたらしい。だが、目の前に立ちはだかる技術の壁はそんな甘いものではなかった。やはり、受信機そのものに問題の根があったのである。  そこで何機種もの試作機をつくり改良研究を重ねたが、結果はいずれも芳しくない。スタッフの焦慮が深まるのも当然であった。  そんな重苦しい環境に一脈の光明をもたらしたのは、鉱石検波器の活用である。それも技研三鷹分室で菊池正士技師の助手として活躍していた若い研究者が考案したものであった。その人の名は霜田光一(十八年九月東大理学部、のち東大教授)。当時、東大大学院の学生であった。その霜田は菊池の指示で鉱石の検波特性を調べていた。大学時代、西川正治教授の指導で鉱石の研究に携わった実績を買われたのだ。  実際の仕事は開発ずみの受信用マグネトロンM‐六〇を発振源に使い、各種鉱石の検波特性を調べることから始めた。そのために全国各地から取り寄せた天然鉱石は二十種類を超える。  その結果わかったことは、一昔前、ラジオ受信用の鉱石検波器に使われた方亜鉛鉱は全然役に立たず、黄鉄鉱とシリコンがマイクロ波に適した特性を持っていたことである。これをもとにさらに分析を進め、最終的に群馬県の某鉱山の黄鉄鉱を採用することにした。また、シリコンも純度を上げれば十分使用に耐えるものができそうな気がしたが、その純度を上げる方法が見つからない。そこで黄鉄鉱一本に絞った。  こうして方向づけを決めた霜田は、さっそく受信機入力部の改造に着手した。そして二ヵ月後には鉱石スーパー式のアンプをつくりあげる。テストしてみると在来のものに比べ調整もはるかに容易で、感度もよいことがわかった。十九年一月末の話である。このプロトタイプはのちに七欧無線に回され、実用改良をしたうえで、マイクロ波用逆探として正式に兵器化された。  これを見届けた菊池技師は、この鉱石検波器を二号二型電探の検波器に応用することを思い立ち、霜田に検討を命じた。器用で実行力に富んだ霜田は、この難問に挑戦を始める。そして部分研究をすませ、バラックセットを組み立て実験してみると、鉱石検波スーパー方式は非常に安定した結果が得られることがわかった。  ところが、伊藤を中心とした開発陣は、なぜか鉱石検波器の採用にあまり熱意を示さなかった。熱に弱い、不安定という先入観があったからである。このため霜田の苦心の作も菊池研究室の片隅に放置されたままになっていた。  横須賀工廠無線実験部の桂井誠之助少佐(東大工学部電気科) が、電波研究部に転属してきたのはその直後の四月一日である。桂井は技術科二十五期(昭和十一年採用) の永久服役組で、任官後、しばらく伊藤研究室でマグネトロンの初期研究を手がけた経験もある。それを買われ、難航している二号二型改一電探の改良主務担当に選ばれたのである。  その桂井は不安定な二号二型をなんとか使用に耐えるものにしたいと、あれこれ思案をめぐらせた。だが、なかなか妙案が浮かばない。そんな矢先、鉱石検波器を使った七欧製の逆探が兵器として正式に採用されたことを知る。桂井はこれに目をつけた。  二号二型の最大の欠点は、受信機前面にある“導波管整合”と“波長整合”という二つのつまみを使って、送信電波周波数と受信周波数の和をさがすところにある。それは専門家でさえ困難な仕事であった。つまり、性能不安定で調整のむずかしいM‐六〇に局部発振器と第一検波器の両方の役割を兼ねさせようとしたところに問題があった。  この考え方を改め、M‐六〇には局部発振器の役割だけにし、受信検波は鉱石検波器にまかせる。この「一目的、一装置」の原則に徹すれば、道は拓けると考えたのだ。  問題は、この仕事を誰にやらせるかであった。センチ波の経験者にまかせれば従来の考え方にこだわり難航する。そこで、桂井はセンチ波と無縁な高木行大技手をまとめ役に選んだ。高木はメートル波受信機を手がけてきた気鋭の技術者である。それだけに違った発想で取り組んでくれるのではないかと思ったのである。  桂井はこのアイディアを菊池技師に話し協力を求め、霜田のつくったバラックセットを高木技手の実験室に持ち帰った。そして霜田と高木が協力して実験を進めた結果、現用のオートダイン受信機の一部を改造するだけで安定した受信装置をつくることが可能との確信を得た。  これを聞いた桂井は、さっそく名和部長の了解を取り付け、艦本第三部の主務担当・出浦中佐と密接な連絡をとり改造計画を進めることにした。もちろん、この計画は第一研究係主任の伊藤大佐にも報告されたが、伊藤は“鉱石”に不安があると言わんばかりの面持ちで、改造に積極的な姿勢を示さなかった。  電波技術の第一人者である伊藤が、なぜそんな態度を見せたのか、その真意は定かでない。しかし、当時の関係者の話を聞くとなんとなくそれらしいものが浮かんでくる。たとえば、二科の責任者であった高柳技師はこんな話をしている。 「鉱石検波器がいいということは最初からわかっていた。だが、それを兵器に組み入れるのがむずかしい。“武人の蕃用”に耐えなかったからですよ。当時、艦政本部は一メートルの高さからコンクリートの床に落しても壊れないものをつくれと、きびしい制約条件をつけていた。ところが、鉱石検波器はちょっとした操作ミスでも感度に影響する。そんな微妙なものを乱暴に扱えばダメになるに決まっている。だから採用を見送らざるをえなかったんですよ」  一方、同じようにレーダーの検波に鉱石検波器を使っていた米国は、その取り扱いに細心な神経を使っていた。それも関係者以外、手を触れるなとか、装備したものをゆすってはならないときびしく制限をしている。また、オペレーターの採用も大学出の技術者に絞るなど、徹底した電探管理を実施していた。  つまり、電探開発の思想とオペレーションに対する考え方が、米国と日本とではまるで違っていたのである。  戦局に間に合わないレーダー装備  桂井たち三科の技術スタッフは二号二型電探の受信機の改良に総力をあげて挑戦を始めた。 “あ号作戦”で難を免れたすべての艦艇に二号二型改一と、比較的評判のよかった小型軽量の対空見張用電探一号三型(波長二メートル、出力十キロワット、重量百十キログラム) を装備せしめよという命令が出たのはその直後である。  このため桂井たちは受信機の改良研究を一時中断、大挙して呉に出張した。突貫作業の連続だった装備工事が終わると、技研から出張していた斎藤成文技術大尉(東大工学部電気科、のち東大教授、宇宙開発委員) 他五名が第二艦隊司令部付を命ぜられ、戦艦「大和」に乗り組んで艦隊とともに南方に向かった。目的はシンガポール在泊中の艦艇に二号二型改一電探を装備することと、取り扱い調整法を指導するためであった。  斎藤は十八年秋、技研転属となった緒方研二大尉と同期の短現士官、それも舞鶴工廠での基本実習終了後、技研電気研究部に呼び戻され、極超短波受信機の改良実験に取り組んできたエリート技術官の一人であった。その斎藤は言う。 「当時、僕は二十五歳だったかな……。そんな若僧が技研を代表して、艦隊の艦(フネ)、あれ四、五十パイあったんじゃないかな。それ全部をまわって電探がうまく働くようにしたわけ。だから時間もかかった。それを助手二人、工手三人でやった。いま考えてみるとよくやったものだと思いますね」  一方、問題の鉱石検波器を組み込んだ受信機の試作は、霜田、高木の連携プレーで順調に進み、一応満足な結果を得ることができた。そして十九年八月初旬には日本無線とはじめて打ち合わせを行い、基本設計の大要をまとめるところまで漕ぎつけた。  また桂井は、この改良受信機にもうひとつ新しい技術を採用することにした。それは遅延発振素子(レーボック) を中間周波回路に組み入れることだった。  レーボックはドイツ海軍がウルツブルグレーダーの方向、高低、精度を検査する目的でテレフンケンと共同開発した擬似目標発生装置である。これに着目した二科の緒方大尉は、それをたたき台にして独自の研究を続け、八月初旬、やっと国産化のメドをつけたばかり。これを使用すれば、目標なき太平洋でもレーダーの性能を誰でも自由に検査調整ができる。  それは八月末に艦政本部第三部立会いの下で行われた最終実験で、無線計画主任の北川金光大佐が「何もわからんオレにもエコーが出せる」と目を見張ったことでもわかる。  こうして二号二型改一受信機の改良が終わると、直ちに量産にかかった。また、これと並行して高木の体験を活かした取扱説明書と設計図の作成を急いだ。  そして九月中旬ごろから改良部品とともに飛行機、駆逐艦でシンガポールセレター軍港内の海軍工廠(旧英軍施設) に送られた。さらにこの改造と取り扱いを指導するため、新たに技研の岡村総吾技術大尉(のち少佐、東大工学部電気科、戦後東大教授、日本学術会議評議員) が、部下を伴って現地に飛んだ。九月二十七日のことであった。  岡村は緒方や斎藤の一期先輩にあたる短現士官で、海芝浦で行われた二号二型電探の最初の地上実験(十六年十一月) に参加して以来、電探開発に取り組んできた技術官である。その岡村が斎藤と入れ代わり現地に飛び、二号二型改二の最後の仕上げを担当することになったのだから不思議な因縁と言えた。しかも、装備を終えた二号二型改二電探は、いずれも好調で、各艦の首脳陣も「これでやっと対等に戦える」と、安堵の色を見せたという。  伊藤がもっとも期待を寄せていた新型水上射撃用電探三号二型(波長十センチ、出力二キロワット、重量五トン) の試作機が完成したのは、二号二型改二受信機の量産が始まった九月のはじめであった。この電探の受信検波器には、当初伊藤が採用を渋った鉱石検波器が使用されていた。二号二型改二の実績がものをいったのである。  テストの結果は戦艦を三十キロメートルで捕捉でき、測角精度〇・二五度、測距精度二百五十メートルと、予想以上の成果を収めた。だが残念なことに艦隊主力は、最後の決戦に備えシンガポールに集結中とあって、装備は見送られてしまう。結局、この電探は陸上用として、六十台ほどつくられたが、いずれも実用には至らなかった。  また、三号二型と並行して開発に着手した小型軽量の水上射撃用電探三号一型(波長十センチ、出力二キロワット、重量一トン)、三号三型(同十センチ、同二キロワット、重量八百キログラム) は重量軽減化を達成する作業が予想以上に難航し、試作機の完成は二十年にずれ込み、未使用のまま終戦を迎えた。  ロケット砲装備  ここで再び呉工廠に舞台を移そう。損傷艦艇の修理を一通り終え、戦艦、重巡などの主力部隊を南方に送り出した呉工廠は、空母の対空砲火の強化に追われていた。それも、二十八発とか、三十二発を続けて発射できるロケット砲が中心であった。  空母搭載のロケット砲は、指揮官が四基の砲座(一基は二十八〜三十二発装備) を同じように動かせる自動操縦機構の対空砲であった。  その仕組みを簡単に紹介すると、照準装置と砲座にそれぞれ旋回用、俯仰用のモーターを一組ずつギアで噛み合わせ、全系統を一台の制御器で完全並列運転するというもの。その制御電源は一系統ごとに備えた電動発電機からとっている。これは旋回用直流発電機、俯仰用直流発電機、およびセルシン用三相交流発電機を駆動用モーターと一軸に直結したものであった。  いわばロケット砲は、当時最も先進的な電気駆動技術の粋を集めたものであった。  操縦はそれほどむずかしくない。たとえば、照準装置付の台座に乗った指揮官(射手) の前に制御器がある。そのハンドルは軸が一本で、握りは両手で二又に組まれている。制御器の内部には上下、左右回転用の計四組の振動接点があり、小型のモーターで振動させる。そして射手がハンドルを握り、下の方に押せば、俯仰用発電機の上向用界磁電流が流れ、これが全部の俯仰用モーターのローターに並列に供給され、いっせいに上向き回転をさせることができる。  また、ハンドルを押す力が強いほど振動接点の時間が長くなり、界磁電流が増加、出力電圧が高くなる。これで回転スピードが速くなるというわけだ。  開発担当者が一番苦心をしたのは、照準装置と各砲座を誤差なしに連動させる技術であった。そこで担当者が考えたのは、各直流モーターの軸に強力な三相セルシンモーターを直結し、旋回、俯仰各系統のセルシンのローター回路を電気的に直接結合させる方法。これによって系統内の旋回、俯仰は、セルシンモーターの同期引き込み角度の範囲内で完全に同期運転ができるようになった。  これは一般電気担当の深田正雄中佐(前出、当時艦本第三部) を中心とする自動制御技術グループが、昭和十二年ごろ考案した高角機銃発射装置をたたき台に、新しく開発したものだ。この装備の電気まわりを担当したのが、前出の野田であった。 「僕はその現物をはじめて見て、うまいことを考えたものだと思いましたね。何しろ、指揮官の前にある照準用の望遠鏡のクロスファイヤーに目標が入ったところで射手が引金を引けば、砲弾の信管につないである線に電流が流れ、ロケット弾がパッ、パッと火を噴いて飛び出すわけ。そして二千メートル立方の範囲で炸裂した弾幕ができ、中にいる編隊をやっつけることもできるんです。もちろん、指揮台には人も乗ってるし、砲弾も十二・七センチ口径だから砲座そのものもかなりの重量になる。そういう大きなものを空母の飛行甲板の下の左右につけるんだから、大騒ぎしたものです」(野田克彦)  ところが、これまでの高角砲と違ってまったく新しい形式のものだけに、装備直後いろいろ珍談もあったようだ。たとえば「瑞鶴」の最初の発射実験をやったときこんなことがあった。  テスト当日は天気もよく、海も穏やかだった。しかし、地上での試射と違い艦上での発射実験は、あくまで実戦を想定したものだけに、関係者も緊張した面持ちで現場に臨んでいる。  発射実験の指揮は砲熕部の技術中佐が担当した。そして照準器の眼鏡をのぞいている。やがて目標の吹き流しをつけた飛行機がクロスファイヤーに入ったとみえ「撃て!」と号令をかけ、甲板にパッと身を伏せた。ロケット噴射の焔を避けるためだ。  だが、肝心なロケット弾は一向に飛び出す気配がない。それもそのはず。射手役の野田がいったん電動を切ったからである。指揮者はそれを知らず、「撃て! 撃て!」と、一生懸命叫んでいる。  そこで野田が「いま電動試験中ですから、弾は出ません」と、大声をあげた。この種の実験は、まず信管が爆発しない程度の弱い電流を流し、電気回路がちゃんと導通しているかどうかを確認するのが常識。指揮者もその打ち合わせ事項を忘れていたのだ。おかげで野田はあとでたっぷり油を絞られた。恥をかかされたというわけだ。  その野田がロケット砲装備の電気まわりを担当した空母は「瑞鶴」だけでなく「龍鳳」「瑞鳳」(給油艦「高崎」改造、基準排水量一万三千百トン、搭載機二十七機) の装備も、ほとんど一人で手がけている。それも昼夜連続の突貫工事の連続だった。そのせいか最後には精も根も疲れ果て、夜中に飛行甲板の真ん中にひっくり返り、そのまま寝入ってしまった。それを巡邏の兵が見つけた。飛行甲板におかしなやつがひっくり返っていると思ったらしく、銃の台尻で何度か小突いた。 「それで僕もハッと気がついたわけ。そしていかんと思って立ち上がったんです。そうしたら向こうも士官だとわかり、あわてて捧げ銃をしやがった。アレは本当に具合が悪かったな……」  と、野田は苦笑する。そんな思いをしてロケット砲を装備した空母群は、次の決戦に備え激しい訓練を開始した。しかし、実際は飛行機や搭乗員の絶対数が足りない。また燃料の制約もあって思うような訓練もできなかったというのが実情であった。  米機動部隊が中部フィリピンを襲い、比島海域の動きがにわかに騒がしくなったのは、その直後の十九年九月中旬のこと。連合艦隊もこれに呼応して最後の反撃態勢を整えることになった。  やがて瀬戸内在泊の空母部隊にも出動準備が発令される。当時、第一機動艦隊の動員可能な空母は、第三航空戦隊の「瑞鶴」「瑞鳳」「千代田」「千歳」の四隻と、第四航空戦隊の航空戦艦「伊勢」「日向」(後部主砲を撤去、飛行甲板を設けた)「隼鷹」「龍鳳」の八隻で、搭載機総数は三百十二機が配備されることになっていた。  レーダー活躍の余地なくレイテ海戦惨敗  一方、サイパン、テニアンを制圧した米軍は、内南洋の制海空権を完全に握り、比島奪還の機会をねらっていた。その前ぶれともいうべき機動部隊の攻勢が始まったのは、九月に入ってからである。  まず九月九日、ミンダナオ島を、次いで二十一日にはルソン島近海に出現、日本軍の防衛拠点を徹底的にたたいた。そして、十月十日には大方の予想を裏切って沖縄に矛先を転じた。  たまりかねた連合艦隊司令部は、二日後の十月十二日、第一機動艦隊の艦載機と比島、台湾、九州の基地航空部隊を動員し、反撃を指令した。いわゆる“台湾沖航空戦”はこうして始まった。  二日間にわたって行われた激しい航空戦の戦果は、「敵空母、戦艦、巡洋艦など十二隻撃沈、大破炎上二十三隻」と報告され、大本営も久しぶりに鳴りもの入りで発表を行った。だが実際は、巡洋艦二隻に損害を与えただけで、逆に日本側は百七十八機の飛行機を喪失していた。技量未熟な搭乗員が噴煙を撃沈破と誤認した結果である。  その戦果を誤報と知らない第五艦隊(司令官・志摩清英中将) の重巡「那智」「足柄」、軽巡「阿武隈」と四隻の駆逐艦は、連合艦隊司令部の指令に勇んで瀬戸内をあとにした。「南方海域の残敵掃討と不時着した友軍機の搭乗員を救助する」ためであった。ところが、現場付近の海域に近づいてもそれらしき目標が見当たらない。そこで念のため索敵機を飛ばすと、はるか南方海上に空母十隻を基幹とする三十余隻の大艦隊が、二群に分かれ、南東に移動しているのを発見した。これを知った艦隊首脳はあわてて各艦に反転を命じ、全速力で北上を開始した。もたもたしていれば逆に全滅の憂目に遭うと思ったのだ。  十月十七日、マッカーサー麾下の精鋭部隊がレイテ、サマール島に上陸を開始した。連合艦隊もすかさず“捷一号作戦”を発動した。それも、動員可能な兵力をすべて投入した最後の決戦であった。  しかし、これを掩護する飛行機がない。九日から始まった比島、沖縄空襲、台湾沖航空戦などで失っていたからだ。それは、内地から戦場に向かう小沢中将麾下の第一航空艦隊の実情を見ればよくわかる。  たとえば、出動した艦隊は正規空母「瑞鶴」一隻で、あとは改造空母三隻、航空戦艦二隻、軽巡三隻、駆逐艦八隻。野田たちが苦労してロケット砲を装備した改造空母「隼鷹」「龍鳳」は、搭載する飛行機がないために出撃を見合わせた。また「伊勢」「日向」(各二十七機搭載可能) も、飛行機を積まず戦艦として出撃させたほど。  これではなんのために飛行甲板をつけたのかわからなくなる。結局、第一航空艦隊に配備された搭載機は「瑞鶴」六十機、「瑞鳳」「千代田」「千歳」各十六機でしかなかった。しかも、与えられた任務は敵機動部隊を北方海上におびき寄せ、「大和」以下の主力部隊のレイテ突入を容易にすることであった。  これに対し、決戦の主力部隊になる第二艦隊(旗艦「愛宕」、司令官・栗田中将) は、十八日午前一時、昭南リンガ泊地を出港、ボルネオ北岸のブルネイに向かった。その陣容は次の通りであった。  第一戦隊(戦艦大和、武蔵、長門)、第三戦隊(戦艦金剛、榛名)、第四戦隊(重巡愛宕、高雄、摩耶、鳥海)、第五戦隊(重巡羽黒、妙高)、第七戦隊(重巡熊野、鈴谷、利根、筑摩)、水雷戦隊(軽巡矢矧、能代、駆逐艦十五隻)と一応数は揃っているが、索敵機も、掩護の飛行機もない傘なしの“裸の艦隊”であった。  また、このほか二つの艦隊が別動隊として攻撃に参加している。一つは同じリンガ泊地から出動した足の遅い西村部隊(司令官・西村祥治中将) で、艦隊の編成は戦艦「山城」「扶桑」の第二戦隊、重巡「最上」、駆逐艦四隻の水雷戦隊で成っている。もう一つは、台湾沖航空戦で沖縄に逃げ帰り、その後台湾の馬公要港で出撃の機会を待っていた志摩艦隊である。  この四つの水上部隊と呼応してレイテ海のアメリカ機動部隊に強襲をかける予定の比島の第五基地航空部隊(司令・大西瀧次郎少将、のち中将) の出動可能な飛行機は百数十機にすぎなかった。さきのトラック、パラオ、マリアナ空襲、台湾沖などの航空決戦の被害が、こんな結果を招いたのである。  十月二十二日から二十七日夜半にかけて展開されたレイテ海戦は、日本側の惨敗に終わった。それも空母「瑞鶴」など四隻、戦艦三隻、重巡六隻、軽巡四隻、駆逐艦十二隻、潜水艦三隻の合計三十二隻が撃沈破された。それも潜水艦の先制攻撃と艦載機の反復攻撃によるものであった。これに対し米国側は、軽空母一隻、護衛空母一隻、駆逐艦二隻が沈没しただけであった。  結局、斎藤、岡村の両技術大尉が苦労して装備した射撃用の二号二型改二電探は「大和」以下の残存艦隊がレイテ突入の際に使用しただけでほとんど有効に利用されずに終わった。なかでも一番哀れをとどめたのは、第二艦隊旗艦「愛宕」である。  愛宕は二号二型改一を最初に装備、その効果を実証してくれた大型艦。しかも他艦にさきがけ対潜水艦用のソナーを搭載、今後の活躍が期待されていた。それが出撃一昼夜たった二十三日早朝「敵潜感度、はなはだ大なり」という警戒信号を発した瞬間、魚雷四本の直撃を受け、二十分後に沈没してしまったからである。  またその直後、後続の重巡「高雄」「摩耶」も同様の被害を受け、一発の砲弾を撃つことなく、戦列から脱落していった(摩耶は沈没、高雄はシンガポール回航)。  その勝利を誇示するかのように、サイパンを発進した新編成の第二十一爆撃機集団のB29爆撃機二機が、白い飛行機雲を吐きながら、東京上空に姿を見せた。十一月一日の昼前後のことである。それも偵察が目的であった。  迎撃に飛び立った日本の戦闘機も、高射砲も、高度一万メートルの上空を飛ぶB29には手も足も出ない。五ヵ月前の六月十四日、中国大陸から飛来した第二十爆撃機集団のB29が北九州八幡を空襲したときとまったく同じであった。科学技術と工業力の差がこんなに違うことを日本人識者が知ったのは、これがおそらくはじめてだったはずである。  B29東京初空襲、「信濃」沈没  ブルネイ泊地で応急修理を終え、待機中であった「大和」以下の戦艦部隊に内地回航命令が出たのは、十九年十一月十五日であった。同日夕刻燃料を満載した戦艦部隊は、軽巡「矢矧」、駆逐艦四隻を先頭に、「金剛」「長門」「大和」の順でブルネイを出港した。そして二十四日八時、大和と矢矧は呉に、長門は翌二十五日午後三時、原隊である横須賀に久しぶりに戻ることができた。だが艦齢のもっとも古い戦艦金剛と、駆逐艦「浦風」は、二十日夜、台湾基隆沖で米潜水艦のレーダーに捕捉され、雷撃を受け沈没、さびしい帰還となった。  リンガ泊地で二号二型改一電探の装備を担当、技研に戻っていた斎藤技術大尉が呉に出張したのはそのころである。斎藤は九州佐伯湾で行われる新編成の海上護衛隊の演習に参加する途中であった。 「久しぶりに大和を見かけ懐かしくなり訪ねたら、第二艦隊司令部の人がみんないるじゃないですか、それで参謀に会うと、『愛宕はやられ、生命からがら大和で帰ってきた』という。そしてこれからは潜水艦をやっつける兵器をつくってくれと、さかんに強調していたが、半ば諦めていたみたいでしたね」  と、斎藤はそのときの印象を語っている。無惨な敗北を喫した第二艦隊首脳のショックはそれほど大きかったのだ。  これに追い討ちをかけたのは、B29爆撃機集団の東京初空襲と、完成したばかりの巨大空母「信濃」(基準排水量六万八千トン、搭載機四十八機) の沈没であった。  前述のように、十一月一日、高度一万メートルで東京偵察飛行を行ったB29は、五日東海地区、七日関東地区、十三、二十三日の両日は伊勢湾周辺と入念な偵察飛行を続けた。そして二十四日未明、マリアナ基地を発進したB29爆撃機八十八機は東京西北部を襲った。昼前のことである。その主目標は中島飛行機武蔵野製作所(現NTT武蔵野通研付近) であった。幸い悪天候に阻まれたせいか、工場は大きな被害を受けずにすんだ。  この東京初空襲は横須賀で完成したばかりの空母「信濃」の運命を大きく変えてしまった。「信濃」(百十号艦) は、もともと大和型戦艦の三号艦として、昭和十五年五月、横須賀工厰で起工した艦である。だがミッドウェー敗戦後、軍令部の方針で、空母に造り変えるため、途中で設計変更された。そのうえで再着工に入る予定であったが、そのころ横須賀工廠は空母「雲龍」(基準排水量、二万四百五十トン、搭載機四十五機) の新造、水上機母艦「千代田」の空母改造などで手が回らず、工事はいったん中断され、進展していなかった。  ところが、マリアナの敗戦を契機に、急遽、工事再開が決まり、昼夜兼行の突貫工事を開始した。それも防水区画を簡素化したり、水密性を確認する気密工事を省略するなど手抜き工事の連続だった。そんな苦しい思いをして、「信濃」は、ともかく、軍艦旗を掲げ正式に海軍の軍艦籍に入った。十一月十九日のことである。  そんな矢先の東京空襲である。不安を感じた海軍首脳は、比較的安全な呉工廠でロケット砲などの対空火器の調整を行い、そのうえで松山に回航し、艦載機を収容することにした。そしてガラあきの格納庫には航空技術廠がつくりあげた人間爆弾“桜花”五十機と、爆薬、などを積み込み、十一月二十八日午後六時、「長門」を護衛して帰着したばかりの駆逐艦「浜風」「磯風」「雪風」を随伴、横須賀を出港した。東京湾を出て相模湾に入ると「信濃」は進路を南西に向けた。米潜水艦に発見捕捉されたのは、その直後だったと言われている。  一方、「信濃」と護衛の駆逐艦も、二十九日午前零時半すぎ、潜水艦の潜望鏡らしきものを発見したが、確認できないまま見失ってしまった。やがて「信濃」は遠州灘から志摩半島大王岬沖合にさしかかった。 「信濃」の進路を事前に読み、先回りしていた米潜水艦“アーチャーフィッシュ号”は二十ノットの速度でジグザグ航法を続ける「信濃」の横腹めがけて六本の魚雷を放った。午前五時二十分ごろであった。しかも、その距離は八百メートル。方位盤を使うまでもなかった。  右舷水線下に四本の魚雷を食った「信濃」は、一瞬、大きく揺れた。だが、航海に支障がなかったとみえ、相変わらず直進している。これを見た護衛駆逐艦の誰もが「やはり不沈艦は違う」と思った。事実、「信濃」はそれから五時間半ほど走り続けたが、しだいに横に傾き始め、午前十時五十分、力及ばず横転沈没した。和歌山県潮岬沖合百マイルの地点であった。  そんなことがあったとは知らず、ひたすら「信濃」の到着を待ち受けていたのは、呉工廠のロケット砲装備担当者である。すでに艦政本部から所要の機材は全部届いており、いつでも工事にかかれる態勢が整っていた。その担当者の一人であった野田は次のように言う。 「ところが、呉に入ってきたのは三隻の護衛駆逐艦だけ、ちょうど雪の降っている日でしたよ。おかしいと思った主務担当が駆逐艦の艦長に尋ねたら、敵潜にやられたという。それを知ってわれわれはガッカリしてしまった。海軍もこれでおしまいかなと思ったんですね」  そう思うのは当然だった。というのも、「信濃」の沈没で動員可能な正規空母は、新たに編成された一航戦の「雲龍」「天城」(雲龍と同型) と「葛城」(基準排水量二万二百五十トン、搭載機五十七機) のみであとは小型改造空母三隻しか残っていない。  しかも、虎の子の正規空母「雲龍」は、それから半月後の十二月十九日、特攻用の爆装ボート“震洋”を満載、比島戦線に向かう途中、東支那海で敵潜水艦の雷撃に遭いあえない最後を遂げた。この結果、機動部隊再建の夢は完全に潰え去ったのである。 第十二章 第二海軍技術廠  空技廠電気部  昭和十九年十二月七日午後、東海地方に死者一千名も出るような大地震が起こった。その余韻もおさまらない十二月十三日、マリアナ基地を発進したB29の編隊が名古屋の三菱重工大幸工場(発動機) を襲った。ついで十八日の正午すぎ、こんどは二百数十機の大編隊が名古屋地区に来襲、三菱と愛知の航空機工場に爆弾の雨を降らせた。本格的な本土空襲の前ぶれであった。  二十年に入るとそれが現実のものとなった。一月だけで大編隊の来襲は七回を数えた。それも東京、名古屋周辺の軍需工場の破壊が目的であった。これを契機に日本側も軍需工場の疎開を計画するが、実際は構想だけでとても実行に移せるような状態ではなかった。このため飛行機工場と部品工場の被害が続出、軍用機の生産は急速に減退し始めた。  この劣勢に歯止めをかけるには、各地の基地航空部隊を整備拡充し、防空態勢を強化しなければならない。だが、悲しいかな、そのころ本土防衛に投入できる航空機の数は、陸海軍併せて六百数十機しかなかったと言われている。  それだけに海軍航空本部も、メーカーを叱咤激励して航空機の増産を急がせる。だが、消耗が激しすぎ、なかなか需要を充たすところまでいかないというのが実情であった。  その事情は海軍機開発のメッカ、航空技術廠も同じである。当時、空技廠は職員千七百余名、工員三万余名を擁する航空技術の一大センターとしてなくてはならない存在となっていた。しかし、これまで零戦をはじめ局地戦闘機「雷電」「紫電」、艦爆「彗星」、艦攻「天山」、陸爆「銀河」などの名機を生み出した開発陣も、戦局の変転に追われ悪戦苦闘を繰り返していた。後継機の試作、稼働中の制式機の改造、あるいは十九年六月ごろから密かに始まった特攻兵器の開発をめぐって、用兵者と技術側、海軍と民間の意見が噛み合わなくなったためである。  ところが、そんな多忙な空技廠が十九年のはじめから機体やエンジンの基礎研究を担当する新人技術官の受け入れを拒むようになった。そのあたりの事情を体験者である青島二期組の技術官、宍道一郎中尉(のち大尉、東大理学部物理科、日本ビクター会長) は次のように語る。 「僕は卒論に高速圧縮性流体力学を取り上げた。マッハを超えるときに衝撃波というのがあるが、それを理論的に解明する研究をやったわけです。それだけに短現の試験を受けたとき、ためらわずに空技廠を志望した。あすこは大きな風洞もあるし、研究所的な色彩の濃いところでしたからね。そこで四、五人の仲間と着任の挨拶に出向いた。すると応対に出てきた少佐が『いまの戦況は新しい飛行機をつくれるような状況でない。それよりいま日本で一番必要なのは電探である。とくに飛行機用の電探は非常に遅れている。だから君らは今日から電気部にまわってもらう』と、一方的に言われました」  宍道は困惑の色を隠さなかった。電気回路の知識など何も知らないからである。不安な面持ちで空技廠電気部に出向くと、電気部の主務担当は「物理屋なら計算が得意だろう。だから空中線を担当してくれ」と、いとも簡単に配属先を決めてくれた。  技研や工廠の電気部と違い、空技廠の電気部は航空機用の電気機器、通信機の研究を専門に手がけている分野である。それだけに研究員も電気工学出身者が大多数を占めている。  こういう人たちは物づくりはうまいが、理論的な高等数学はあまり得意でない。ところが、空中線(アンテナ) は、電波の反射波を数値的にとらえ、もっともエッセンシーのよい場所を探し、設計しないと、性能に微妙な影響を与える。その計算を電気屋が苦手としていたわけだ。英国や米国のレーダーと比べ、日本のそれが見劣りしたのも、案外そんなところに原因があったのかもしれない。  いずれにしても、宍道はそれがきっかけでエレクトロニクスと関わりを持つようになった。手がけた仕事は、当時、開発中の夜間戦闘機接敵用電探の空中線の設計であった。これは空技廠の最重要課題の一つで、すでに何台かの試作機ができていた。しかし、どれも要求性能を充たすところまでいかず、用兵側からきびしい批判を受けていた。現に宍道はこんな話をする。 「飛行機用の電探発電機は重くてね。あれ十キログラム以上あったんじゃないかな。それに電探そのものの性能もよくない。そのせいかパイロットが電探積むのを嫌がるんです。肝心なときに働かない。だからこんなもの降ろして機関銃をもう一丁積んだ方がましというわけ。僕は電探つくる係じゃないので、ああそうですかと聞き流していたが、つくってる連中が聞いたら頭にくるようなひどい発言だったと思いますよ」  これも、真空管や部品材料の質の悪さが原因であったことは言うまでもない。そんな宍道が技研電波研究部の高柳技師の知遇を得るようになったのは、二十年二月、空技廠が第一技術廠と改称したのを契機に、空技廠の電波、音響関係の組織と、技研電波研究部が合体してできた第二海軍技術廠に転籍したのがきっかけであった。  研究開発・生産を統合した組織  前に触れたように海軍技研は、十八年七月、艦政本部第三部長の名和少将を長とする電波研究部を新設、電波兵器開発部門の強化をはかった。さらに十九年四月には電波、磁気、音響兵器の研究開発を促進するため電波研究部を発展解消、新たに大臣直属の電波本部を発足させた。つまり、艦政本部、航空本部と同格の組織に格上げしたわけだ。  これは一九四三年(昭和十八年) 七月、ナチス・ドイツがヒトラー直属のエレクトロニクス研究開発促進機構を発足させたのを真似たものと言われている。海軍はここに至って電波技術の開発を最重点課題として前面に押し出したのである。  しかし、格は上がったものの、目的は研究開発と改修が主体で、装備、量産は従来通り艦政本部、航空本部の管轄下にあった。ところが、物資不足で深刻な様相を呈しているこの時期に、研究開発と量産担当(発注)が分離しているのは、運営上何かと不便だという意見が続出。そこで電波本部を解消、二十年二月、三種の兵器の研究、試作、修理を担当する各部を統合一本化し、第二海軍技術廠を発足させたのである。  こうして名和は第二海軍技術廠の電波兵器部長(通信兵器部長も兼務) に横すべりしたが、この組織変更には批判的だった。それは「事ここに至って組織、配置換えをしても大して得るところがない」と、側近に胸の内を漏らしていたことでもわかる。日本海軍の先端兵器開発部門は、そこまで追いつめられていたのである。  米機動部隊の空母十六隻が日本本土に接近、のべ二千機の艦載機を繰り出し、関東、東海地区の軍事施設、航空基地を急襲したのは、その直後の二月十六、十七日のこと。  これは小笠原諸島の要衝、硫黄島攻略の前ぶれであった。東京から六百九十マイル、沖縄から七百五十マイル、ここを支配下におけばマリアナ基地を発進するB29の格好な不時着場になるし、また、B29爆撃機集団を護衛する戦闘機の基地に活用することもできる。米軍は、それをねらって思い切った攻勢をかけてきたのである。  スミス中将麾下の米海兵隊六万名が八百余隻の海軍艦艇、輸送船の支援を得て、上陸を開始したのは二月十九日であった。これを迎え撃つ日本軍守備隊は栗林忠道陸軍中将以下三万三千名。それも陸海軍の混成部隊である。しかし、孤立無援の守備隊は物量に物を言わせる上陸軍に抗し切れず、二月下旬には一部陣地を除いてほとんど制圧されてしまった。三月六日にはP51戦闘機集団が硫黄島に進出、硫黄島は三月十七日陥落した。  マリアナ基地の第二十一爆撃機集団(司令官メール少将) がこれまでの戦術を変え、市街地に対する一連の低空夜間爆撃を開始すると決めたのは、その直後であった。そして、三月十日、二百九十八機のB29を動員し、東京を襲った。  以来、十日間に東京、名古屋、大阪、神戸に対し、五回、のべ千五百九十五機による焼夷弾攻撃を展開した。戦争の実態を知らなかった国民が、日本の前途に不安を感じたのはこのころからであった。  それを決定的なものにしたのは、米機動部隊の二度目の空襲である。二月十六、十七日の両日にかけて日本各地を荒し回り、硫黄島上陸軍の掩護の役割を果たした米機動部隊は、補給と休養のため、いったんウルシー泊地に戻ったが、三月十八日、こんどは土佐沖に接近した。そして十八日から十九日にわたりのべ二千五百余機を繰り出し、九州、四国、中国、阪神地区の軍事拠点に大規模な反覆攻撃を加えた。もっとも安全と言われた日本最大の海軍基地、呉が襲われたのもこのときが最初であった。  当時、呉には「大和」をはじめ「伊勢」「日向」「榛名」など残存艦艇十数隻が在泊していた。それだけに被害も大きかった。幸い沈没したのは敷設艦二隻だけだったが、「大淀」は大破航行不能、また他の有力艦艇の大半も損害を被り戦闘能力を完全に失ってしまった。これが、のちに大和の沖縄特攻出撃に微妙な影を落とす原因になったことは言うまでもない。  九州地区に展開していた第五航空艦隊(司令官・宇垣纒中将) は「地上において食わるるに忍びず」として麾下の全部隊(約五百余機) を投入、機動部隊に猛反撃を開始した。そして二十一日までにのべ六百八十五機を出撃させ、空母四隻に大きな損害を与えた。しかし、味方の損害も多く、未帰還機は百七十二機を数え、その後の作戦展開に大きな狂いを生じた。その後、米機動部隊はいったん南方に姿を消し、退去したものと思われたが、一日おいた二十三日、こんどは南西諸島に来襲した。  一方、マリアナ基地のB29爆撃機集団も、三月二十四日の名古屋空襲(二百二十五機) を契機に、その矛先を九州地区の航空拠点爆撃に切り換えた。これを見た連合艦隊司令部は米軍の沖縄進攻近しと判断、「天一号作戦発動」を指令する。三月二十六日のことであった。  関東地区配備の第三航空艦隊(約五百八十機) と、予備部隊の第十航空艦隊(実用機約一千機) は、いっせいに九州方面に移動を開始した。しかし、そのころ沖縄周辺海域には多数の艦艇に護衛された大輸送船団が集結、虎視眈々と上陸の機会をねらっていた。太平洋戦争中最大と言われた沖縄決戦はこうして始まった。  主要海路、機雷封鎖さる  米軍が沖縄本島に上陸を開始した四月一日以降、関門海峡や豊後水道で機雷による船舶の被害が急増し始めた。海軍も三月下旬から夜間ひんぱんに現われるB29爆撃機がバラまいたものと判断、掃海活動の強化に努めた。だが、いっこうに効果があがらない。  その直後、呉地方の臨海山間部にB29が誤って落とした機雷を発見する。呉工廠電気実験部は、さっそくこれを回収し分解調査を始めた。その結果、投下された機雷はこれまでの接触型と異なる新型であることがわかった。  さらに調査を進めると、投下された新型機雷は船舶の推進器音を感知して爆発する音響機雷、船舶の磁気を感知して爆発する磁気機雷、船舶の航行によって発生する海水圧を感知して爆発する水圧機雷、あるいは、磁気と水圧の複合型があり、起爆装置も十回まで調定できる回数起爆装置を内蔵していることが判明した。つまり、投下直前に起爆装置を六にセットしておくと、五回船が機雷の上を通過しても爆発せず、六回目に爆発するというやっかいな新兵器だったわけだ。  当時、海軍が使っていた掃海装置は開戦直後、香港で鹵獲した英国の掃海具を改良した三式掃海具(磁石棒状のものを海中に落とし引っ張り回す方式)、磁石がわりの電線に電流を通し、それを引き船で曳航する二式掃海具、また十九年秋、呉の対潜学校が考案した菱型線輪に電流を通し、これを三隻の船で曳く五式掃海具の三種類があった。だが、この掃海具はいずれも新型機雷には通用しない。そこで電気実験部では模型実験などを重ね、五式掃海具の改良型を開発、若干の機雷を処分することに成功した。  ところが、投下範囲も対馬海峡、瀬戸内海各部、紀伊水道、横須賀方面港湾水路、北陸方面と広がったことと、性能が向上したせいか、掃海はますます困難になった。事態を重く見た艦政本部も海軍技研、第二技術廠の専門家をはじめ、各大学の教授陣を動員して機雷の性能分析、掃海対策を検討したが、これといった名案も浮かばない。  このため沖縄戦が終焉に近づいた六月初旬には、日本近海の海上交通は完全に麻痺状態に陥ってしまった。 「私も先任の楡井清技術少佐と音響機雷の掃海具の開発を担当したが、最初は解析にえらい苦労しましたね。そのくらい精巧につくられていた。たとえば、電気回路部分は冷陰極放電管をたくさん組み込んだものを使っている。この放電管のことはわれわれも学校で習ったが、日本ではほとんど使われていない。それだけに解析が非常にむずかしい。しかも、音が入れば作動するという単純なものでなく、推進器特有の低周波の音響が、小さな音からあるスピードでしだいに大きくなったときに作動する。つまり、当時の日本の技術じゃ百パーセント掃海しにくい機雷だったんですね」  これは、呉でソナーの装備やバラックテストを担当していた大内技術大尉(前出) の話である。大内は音響兵器を担当していた関係で音響機雷の解析調査に駆り出され、以来、終戦まで掃海対策に追いまくられた人である。  その楡井、大内の二人がいろいろ工夫を重ねつくりあげたのは、直径一メートル以上もある鉄製の太鼓のような器具。これに五十サイクルの交流発電機で電磁石を直接働かせて太鼓を鳴らし、小さい音からしだいに大きくしてゆく。それを木造の小さな舟で曳航しようというもの。  だが、この苦心の作もほとんど効果がなかったという。結局、機雷を作為的に爆発させる決め手は最後まで見つからなかったそうである。  この一連の作業を通じて大内が感心したのは、連合国が先端技術を持ち寄り協力して兵器づくりにあたっている事実を目のあたりにしたことであった。たとえば、音響機雷に使われていた真空管は米国製だが、バッテリーはフランスのトムソン製のものを使っている。  しかも驚いたことは、その電池部分にタイマーがセットされていたことだ。はじめなんのためにそんなものがついているのか、大内もわからなかった。ところが、あとで聞くと、このタイマーは二十年八月以降に自動的にショートし、機雷の起爆装置を自滅させるものだと教えられ、思わず溜息をもらした。  つまり、連合軍は八月以降に日本本土に上陸作戦を展開する。そのとき味方の艦船がバラまいた機雷で被害を受けないように自滅装置をつけたというのだ。米軍はそこまで先を読んで兵器づくりを考えていたのである。  これに対し、日本の陸海軍はいつも目先のことにこだわり、方針も猫の目のように変わった。そのうえ、両者はつねに縄張り意識を先行させ醜い争いを展開していた。  それは、陸海軍の管理下にある軍需工場の実態を見ればたちどころにわかる。たとえば、工場で働く社員、技術者は、陸軍関係者はR、海軍関係者はKの印のバッジをつけて区分されていた。しかし、技術者のなかには立場上両方の仕事を兼務する人もかなりいる。そういう人は、いつも二つのバッジを持ち使い分けていた。RとKのバッジの併用を固く禁じられていたからだ。  その程度ならまだいいが、もっとやっかいな問題がたくさんあった。ひとつは所要資材の流用を互いに警戒し、その持ち分に必要以上に監視の目を光らせていたこと、また一番困ったのは、使用する部品の規格や仕様までいちいちうるさく言うことだ。  さらに、それぞれの固有の兵器と違い、電波兵器は同一基盤にあるものが多いにもかかわらず流用を固く禁じた。それも陸軍の指令による実験と結果は、海軍に漏らしてはいけないという徹底したものだった。もちろん、海軍も同じことを強要する。このため第一線では目の前に似たような部品があっても使用できず、みすみす反撃のチャンスを逸したというケースが至るところで見られた。  また、こんな例もあった。海軍に頭を下げるのを嫌った陸軍は、自前で食糧輸送用の潜水艦を発注、宇品の暁部隊(舟艇特攻隊) に配備した。ところが、その潜水艦に大きなソナーをつけたまではよかったが、肝心な使用法がわからない。その指導を頼まれたのが前出の大内であった。 「あまり気乗りしなかったが、上からの命令なので仕方なしに引き受けたんです。そして兵隊を集めてもらい話を始めたら、若い陸軍少尉の艇長が『陸軍にきたら命令調で話してくれないと困ります』とか『敵性語が多すぎて兵隊にはわかりません』と、あれこれ苦情を言う。海軍は戦争中でも平気で英語を使っていたから、そんなことできんと突っぱねた。結局、最後はケンカして帰ってきちゃいましたけどね」(大内淳義)  末端でさえこんな調子だったから、上層部での対立は容易に想像できよう。  極限状態での“Z兵器”開発  海軍が“菊水作戦”と銘打って展開した沖縄反攻作戦は、しだいに深刻な様相を呈し始めた。米軍の膨大な物量作戦に防衛拠点を次々に奪われ、ジリジリ追いつめられてゆく。その重圧を少しでも柔らげるべく、海軍は九州の各基地からのべ三千機(他に陸軍のべ八百機) を連日のように出動させた。だが、海上にひしめく輸送船団、護衛艦隊、機動部隊の空母群の数はいっこうに減らなかった。  ベルリンの総統官邸でヒトラーが自決、ベルリンが陥落したというニュースが飛び込んできたのは、その直後の五月一日である。そして五月八日、ドイツは連合国に無条件降伏を申し入れ、今次大戦のきっかけとなったヨーロッパ戦は事実上終焉を告げた。日本は完全に孤立した。  沖縄上陸作戦支援のためしばらく鳴りをひそめていたマリアナ基地のB29爆撃機集団が、再び日本本土攻撃に転じたのは五月中旬からであった。それも気象上、高々度精密爆撃が可能な場合は、独立工業目標をねらい、厚い雲がおおっている日はパノラマレーダーを駆使して、市街地に焼夷弾の雨を降らせる。しかも、一回の出撃に四百〜五百機と、ひところの倍のB29を投入し徹底した絨毯爆撃を繰り返す。このため六月中旬までに東京、大阪、神戸、名古屋、横浜、川崎などの大都市はほとんど焼失、都市としての機能はまったく麻痺してしまった。  そんな切羽詰まったきびしい環境のなかで、若い技術官たちは、それぞれの持ち場で懸命に兵器づくりに取り組んでいた。たとえば、呉工廠では開戦劈頭ハワイ真珠湾攻撃に参加した甲標的と呼ばれた特殊潜航艇「蛟竜」と、と言われた人間魚雷「回天」の建造が急ピッチで進んでいる。また横須賀の第一技術廠でも、潜水艦でドイツから持ち帰ったメッサーシュミット一六三のエンジンと図面を頼りに、国産ロケット戦闘機「秋水」(B29迎撃用) と、独自の発想で開発した日本初のジェット戦闘機「橘花」(特攻用) の試作改良に総力をあげて励んでいた。  一方、技研電気研究部でも緒方、斎藤、藤波恒雄大尉(東大工学部電気科、科学技術庁原子力委員) など若手技術官が、撃墜したB29のパノラマレーダー(波長三センチ、鉱石検波器使用) を参考に、飛行機用全方向式電探を開発中であった。 「アメリカが使っていた波長三センチのものは、当時の日本じゃとてもできなかった。そこでわれわれは波長を十センチにしたんです。これの基礎的なところは菊池先生のところの鳩山さんのグループにお願いし、受信用の電子管をつくってもらった。そして試作を終えたのが六月の末か、七月のはじめでした。最初、この実験は横須賀の航空実験部でやる予定だったが、横須賀は危ないというので実験部は青森県の三沢に疎開していた。そんなわけで私も三沢に出張し、いちばんでっかい一式陸攻に積んで二回ほど飛行実験をやった。一回目は失敗したが、二回目のときは八甲田の山並みや、海岸線がきれいに出たんです」(斎藤成文)  それが終戦直前の八月八日のことであった。ところが、翌九日、米機動部隊が北海道近海に出現、函館、室蘭、三沢などに激しい銃爆撃を加えた。七月十四日以来、二度目の空襲である。この空襲で三沢基地は壊滅的な打撃を受け、斎藤たちが苦心の末つくりあげた全方向式電探も灰燼に帰してしまった。斎藤は口惜しがった。これで何もかもおしまいになったと思うと、居ても立ってもいられなかったのである。  日本海軍のシンボルと言われた戦艦「大和」も沈んだ。また数千機の特攻機を投入しても米国の機動部隊に歯がたたない。とすれば、起死回生の新兵器の出現を期待するしかない。その新兵器のひとつが、技研の伊藤が提唱した“Z兵器”である。  前にも触れたように、強力なマグネトロンを使った新兵器の開発は、技研三鷹分室での基礎研究もほぼ終わり、十九年六月に開設した技研島田実験所で本格的な実用研究の段階に入っていた。島田実験所の運営は海軍とつながりの深い東北大の渡辺寧教授があたり、電波研究部の陰の実力者で、マグネトロン研究のリーダー的な存在と言われた水間技師が副所長として渡辺を補佐する立場にまわっていた。  また、このプロジェクトに参画した部外の研究者は、水冷式陽極磁電管の発明者の一人である日本無線の山崎荘三郎技師とその部下、元海軍技師の旅順工大の高尾磐夫工博、東大の荻原雄祐教授、菊池技師、その弟子の渡瀬譲阪大教授、東京文理大の朝永振一郎教授、東大の小谷正雄教授、理研の仁科芳雄博士などが、助手、学生を引き連れプロジェクトの一員になった。そのほかにも各方面から物理、電気関係の研究者、技術者が多数加わり、島田実験所は文字通り物理学者の一大研究所のような存在になった。  こうして初期研究も順調に進み、テストプラントもできた。そして五メートルぐらいの距離にあるウサギを殺すところまで実験が進んだ。だが、本来の目的である応用研究(殺人光線、飛行機撃墜用の強力電波) はいっこうに捗らず、せっかくつくった直径十五メートルの巨大なパラボラ反射鏡を使う機会がなかった。これは肝心な大出力のマグネトロンがなかなかできなかったからである。  そんな焦慮をよそに、米軍の攻勢は日増しに激しさを加える。六大都市の大半を焼き尽くしたマリアナ基地のB29爆撃機集団は、一転して中小都市の焼夷弾攻撃を開始した。  それが島田実験所に対する、過大な要求となってはね返ってくる。日本の英知を集め研究に取り組んでいるのだから、当然、何か成果が出てもよいはずと用兵者の誰もが考えるらしい。そして、海軍首脳や軍令部の要人がひんぱんに島田に現われ、研究の進捗状況や見通しについて督促がましい質問をぶつけ、関係者を困惑させた。  あまりに空想的な兵器 「渡辺さんは、絶対にものにしなきゃとイキがっていたが、僕は最初からダメだと思っていた」と語るのは、技研三鷹分室で熱電子管の研究に携わっていた鳩山道夫(のち電気試験所物理部長、ソニー中央研究所所長) 技師の話である。  鳩山は菊池正士技師の甥にあたる情感豊かな研究者であった。東大理学部物理科を出たあと理化学研究所に入り、しばらく原子核の研究に携わっていた。その鳩山が海軍技研に入ったのは菊池に勧められたからだ。 「もともと叔父は一本気で、非常に真面目な人でした。そんな人柄だけに『こんどの戦争は科学戦である。だから科学者といえども閉じこもって勉強ばかりしていてはダメだ。もっと積極的に軍に協力しないと戦争に負ける』といって、何人かの同志を連れて技研に入ったんですね。そんな関係で私も十八年九月から技研に出入りするようになり、十九年八月に正式に海軍技師になったんです」(鳩山道夫)  そして、三鷹分室でスタートした“Z兵器”の初期研究からこの仕事にタッチするようになった。ちょうど三十三歳の働き盛りであった。  その鳩山がこの研究はダメだと判断したのは、物理屋の直感である。というのも、マグネトロン自身は確かに群を抜いた高性能なものができていたが、その発振理論が正確に解明されていない。それがわからなければ、応用機器の回路づくりもできないからである。  そこで首脳陣は理論物理の権威である東大の富永名誉教授、小谷、朝永博士の協力を仰ぎ解明に着手した。この研究成果は、昭和二十二年、学士院賞が贈られた小谷、朝永両博士の「磁電管の発振機構と立体回路の理論研究」に発展している。逆に言えば、伊藤と日本無線が協力してつくりあげたマグネトロンの理論体系は十分解明されていないところが多すぎ、応用化研究を阻むひとつの障害になっていたらしい。  それはともかく小谷・朝永両者の研究をもとに前途に一条の光明を見い出した開発陣は、鋭意研究を進め、いくつかの成果を生み出した。またこれとは別に、同じ十センチ波で連続出力百キロワットの橘型マグネトロンの試作設計に成功した。さらに菊池研究室の渡瀬博士が数センチの短い波長から十数センチの変化した波長を容易に出せ、しかも、連続出力の強大な全く新しい空洞型マグネトロンのプロトタイプをつくりあげた。とくに後者は東芝の青木佐太郎技師を中心とした技術陣によって、瞬間出力(約一秒) 数千キロワットのものを設計するところまで漕ぎつけた。  とはいえ、実用化のメドはもっと先の話になる。そこで島田実験所のスタッフは計画を変更し、応用研究の成果をB29迎撃用兵器の開発に振り向けることにした。地上管制可能な電波信管がそれであった。  しかし、これも間に合いそうもない。ところが、渡辺はそれを自分の口から絶対に言わない。そのくせ会議の席でいろいろ新しいアイディアを提供する。たとえば、海岸に爆弾をつけた気球をあげ、そこにねらいをつけて電波を発射、起爆させたらどうかといった具合である。  そんなやり方に批判的だったのは高柳技師である。高柳は名和中将のたっての要望で“Z兵器”の開発を側面から協力するよう依頼され、島田の実情を何度か見聞した。そのときの印象を次のように言っている。 「島田でつくっていたZ装置のテストプラントはパワーが弱すぎる。あれじゃ兵器になるわけがない。だからそのとき僕は言ったんです。飛行機はスピードが速いだけじゃなく、丈夫な鎧を着ている。そんな金属のかたまりみたいな飛行機の中にいる人間をやっつけるには、十キロワットや二十キロワットじゃダメだ。それより雷が落ちてくるときのように何百キロワットもの強力な電気をたくわえ、それをマグネトロンでいっぺんにダァッと放電する。つまり、一種の電波砲だね。それをまともにくらった飛行機は、ひとたまりなく燃えて、墜落しちゃいますよ」  実験所のスタッフが考えた兵器より、この方がはるかに現実的だった。だが、これにも問題があった。強力な電波を出す側の装置や人間が、放電の反動で一瞬にして融けるか、吹き飛ばされる恐れがあることである。  そこで、高柳は自分なりにいろいろ考えた末に、サイクロトロンのように高圧電流を徐々に加速して、あるパワーに達したときにパッと放電できる直線軸加速機の開発を思い立った。つまり、大砲を射つとその反動で砲身がうしろに下がる。その原理を電波砲に応用してやろうと思ったのである。しかし、島田実験所のスタッフはあまり関心を示さなかった。それを採り上げる時間的余裕も、資機材も底をついてきたからである。  結局、高柳のアイディアも活かされることなく終わった。だが、高柳はこのまま引き下がるのは忍びないと、戦後も密かに研究を続け、リニア直線軸加速機と称する装置を発明、特許を申請した。昭和二十一年のことである。(特許は二十二年成立)。  ただ当時は、占領軍の監視下にある終戦直後とあって実験は差し控えた。ところが、その後米国のカリフォルニア大学のローレンス教授が、同じような発想のリニアクリエーターを発明、脚光を浴びた。それだけに高柳のアイディアがもっと早い時期に実現し、兵器化されていたら、戦争の流れも多少違ったものになっていたかもしれない。  もっとも、戦争末期にはこういう類の新兵器の開発が、各方面で進められていた。伊藤の片腕で技研電気研究部の新川技師(前出) がタッチしたロケット誘導弾「奮竜」も、そのひとつであった。  「奮竜」は、ロケット戦闘機「秋水」と同様、B29迎撃用の兵器だが、秋水と違って無人で目標をとらえる十文字翼付きの飛翔体である。それもレーダーと電波誘導装置をフルに活かし、軌道を自動修正しながら目標にぶつかるという触れ込みで開発に着手したものだった。考案者は艦政本部第四部の吉田隆技術少佐(昭和十一年、九大工学部造船科) で、構想そのものは、十七年後半から十八年に固まっていた。にもかかわらず、艦政本部や技研上層部は誰もこれを採り上げようとしなかった。「人間不在の兵器など、信頼できない」というのが、その理由である。  ところが、十九年六月、ナチス・ドイツがロケット誘導弾“V1号”を開発、実戦に使い始めると状況が一変、開発許可がおり、空技廠、技研電波研究部などから専門家が選ばれプロジェクトチームが発足した。  そして空技廠での風洞実験も終わり、本格的な試作研究に着手したのは、二十年に入ってからである。この場合、決め手になるのは、電波誘導装置とレーダーであったことは言うまでもない。 「そこで僕と、僕の下にいた風戸健二(機関少佐、元日本電子社長) 君がタッチするようになったんです。しかし、あれはむずかしかった。ものすごく手数がかかるんでね。海軍には無線操縦の技術はかなりむかしからあったんだが、それとは比べものにならないくらい面倒な仕事でしたよ。それでも浅間山の麓に実験場をつくり飛翔テストをやるところまで漕ぎつけたが、最後までものにならなかった。あの兵器の構想はいまのミサイルとまったく同じ、そういう意味じゃ発想はよかったが、技術が未熟すぎましたね」(新川浩)  結局、こうした一連の新兵器の開発においても、海軍首脳のなかに、すぐれた技術の評価者がいなかったことが、アイディアと現実とのギャップを埋められない原因となった。 第十三章 潰 滅  浜名海兵団  三年八ヵ月に及んだ太平洋戦争中、軍艦や兵器づくりに活躍した七千六百余名の技術科士官のなかで、もっともみじめな思いをしたのは、十九年九月に採用された技術科三十四期の見習尉官たちであった。戦局の逼迫で、環境、待遇条件が最低だったからだ。  前にも触れたように、太平洋戦争勃発後の十七年九月から大量採用された三十二期技術科士官は、中国山東省の青島で四ヵ月の初級士官教育を受け、その後、各工廠で基本実習、応用実習をすませ、軍務局の指定する任地に配属された。次の三十三期も同じコースをたどって技術士官になった。  ところが、三十四期採用者の集合教育の場は青島でなく、東海道線の浜松と豊橋の中間点に位置する静岡県浜名郡新居町に新設された「浜名海兵団」であった。本来なら前例にしたがって外地で教育したいのだが、当時の戦局は輸送船一隻の確保さえままならないほど逼迫していた。  それはやむをえないとしても、採用者をいちばん失望させたのは、入団直後支給された軍服である。最高学府で学んできた若者が海軍見習尉官を志望した動機は、個人によって異なるが、共通している点は海軍に対する憧れであった。その象徴が濃紺の第一種軍装と鮫皮の束頭の短剣、白手袋であった。  しかし、各自に支給された官給品はカーキ色の第三種軍装、ベークライト製のおもちゃのような短剣、半袖のペラペラなYシャツでしかなかった。しかも、その軍服たるや、袖やズボンの裾が指の先までダラリと下がり、三寸以上折り返さなければ着用できないというシロもの。  各人が受け取った入団通知書の返信欄には洋服の細かいサイズを記入する欄があり、それを記入して返送したはずである。にもかかわらず、この有様だった。それでも最初は「一種軍装は調整中で、そのうち支給される」と、誰もが信じていた。だが、一ヵ月たっても、二ヵ月たってもその徴候は見えなかった。  そのうえ、食事もひどかった。見習尉官の初級教育は軍人精神の涵養、品性の向上、体力の錬磨に重点がおかれる。まず“娑婆っ気”を抜こうというわけだ。それだけに訓練もきびしい。たとえば、朝の「総員起こし五分前」から始まって、訓育、陸戦、銃剣術、手旗信号、笛信号、手先信号、短艇、座学、海軍体操などの日課がぎっしり詰まっている。その間を継ぐものはすべて駆け足、こうして軍人精神をたたき込まれるかたわら、組織教育、エリート教育もびしびし行われる。  それも一般兵科士官同様「海軍士官は短絡するな」「五分前精神」「キョロキョロするな」「ネービイはスマートネス」「常に髭をそり、爪を切れ」「乗物、宿泊は最高のものを」「食事に関して人に不愉快な感じを抱かしむる言動を慎しめ」と、実に細かい。手荒いの一言に尽きる日中の訓練が一通りすむと、夕食、入浴、あとは火の気のない大部屋で温習(自習)時間にあて、二十二時十五分「巡検終り、煙草盆出せ」で、やっと激しい訓練から解放される。  このように、どなられ、走らされ、しぼりにしぼられると、あとの楽しみは食い気しか残らない。それがお粗末なのである。外側が青く、内側が白く塗られたホウロウの食器に盛られた飯が食べ切れず残ったのは、入団直後の一週間足らず、それ以後は誰もが一粒も残さないようになる。献立は朝が味噌汁と漬物、昼は一菜と漬物、夕食は一菜と汁、漬物、ときおり、肉や魚もつくがお世辞にも上等とは言えない。なかでもへきえきさせられたのは大根であった。何しろ浜名郡は大根の名産地とあって毎日の食事には必ず大根を使った惣菜がつく。ひどいときは三回とも大根ずくめの日もあったという。これでは、ストレスがたまるのも当然である。  そのやり場のない焦慮を吹き飛ばしてくれたのは、マリアナ基地から飛来するB29爆撃機だった。十一月に本土偵察を終えたB29が十二月に入ってひんぱんに来襲するようになったことは前に触れた。そのB29はまず富士山を目標に伊豆半島沿いに北上してくる。そして静岡上空で東、あるいは西に進路を変え、東京、名古屋などを襲うわけだ。 「そのたびにいまにみておれと敵愾心を燃やす。しかし、アレきれいでしたよ、多分一万メートル以上の高々度を飛んでいるんだろうが、飛行機雲を吐きながら悠々と飛んでいる。敵ながらすごい飛行機をつくりやがったなと思ったものです。ところが、油断していると帰り道に使い残した爆弾を落してゆくやつもいる。豊川に海軍工廠がありましたからね」  これは阪大理学部物理科出身で、のちに空技廠に配属になり航空写真を担当するようになった児玉武敏(のちソニー商事社長、相談役)の話だ。  ちなみにつけ加えると、ソニー会長の盛田昭夫(阪大理学部物理科)をはじめ、塚本哲男(阪大理学部物理科、ソニー学園湘北短大学長)、北条司朗(東大第二工学部造兵科、ソニー幸田)など、ソニー創業に重要な役割を果たした人々も、分隊、配属先は違うが、同じ海兵団の釜の飯を食った仲間である。  そのあたりはあとで触れるとして、結局、全員がのどから手の出るほどほしかった第一種軍装を手に入れたのは、自分で調達できたほんの一部の人だけで、あとの大多数は終戦直後にやっと支給されたというのが実情だった。  末期的様相  二十年二月、浜名海兵団の初級士官教育を終えた千八百余名の見習尉官は、それぞれの任地に配属され実習期間に入る。それも先輩のアシスタントとして走り回るような仕事ばかり。つまり、自分の学んできた知識を活かす場は、例外を除いてほとんどなかったといっても過言ではない。  そんなあわただしい実習期間が終わると、技術中尉に任官する。五月十五日のことである。もちろん、仕事は実習期間中と何らかわることもない。たとえば、阪大工学部航空学科出身の細越赫一郎(前松下電子工業副社長)は次のように当時を振り返る。 「私は追浜の第一技術廠の航空機部に配属になった。学生時代から飛行機は海軍が一番先端的なところと思っていたので、自分から志望しました。そういう意味では希望通りの職場にいけて非常に嬉しかった。しかし、手がけた仕事は銀河を改造し斜め銃をつけるとか、零戦の爆装といった仕事が多かった。それだけ切羽詰まっていたんですね。なかでも一番辛かったのは、零戦に爆装をつけること、あれは簡単のようで、ものすごくむずかしいんです」  五百キログラムの爆装をすると飛行機の重心が変わり、離陸できないこともあるからだ。そこで重量計算をしてきちっと位置を決め、万全の対策をとる。しかも、戦争末期になるとそういう仕事が多くなる。それも徹夜の連続であった。当時、細越は逗子の水交社で寝泊りしていた。だが、戦局がきびしくなると、設計部の机の上でごろ寝して夜を明かす日が何日も続いた。こんな調子だから細越は逗子や横須賀の町をほとんど知らない。多忙すぎて町に出る暇などなかったというわけだ。  一方、浜名海兵団にほど近い豊川海軍工廠に配属された北条司朗も、およそ海軍士官らしい生活をしたことのない技術官であった。豊川工廠は十四年二月、指揮兵器、機銃、光学兵器、火工、治具工具などをつくるため開設された工場である。それだけに非常に地味な存在だった。北条が配属されたのは光学部で、特殊潜航艇の小型航海用計器をつくるところであった。 「それもベークライト製の小さなコンパスでした。これを本格的につくり始めたのは私が中尉になってすぐの六月だった。正直言ってこんなものつくるようじゃ海軍も終わりかなと思った。しかも、工場のメインの設備は信州の飯田に疎開させている最中、そこで私も信州に転属させられた。ところが、名目上の工場長は豊川工廠にいて、飯田は主任の技術少佐と大尉、あとは私と、私の同期の技術官の四人だけ、だから工場の運営監督から雑用となんでもやりましたね」  疎開先の飯田は、食べ物にはそれほど不自由しなかったが、一番困ったのは銅とか非鉄金属系の材料が欠乏し、しばしば生産ラインがストップしてしまうことだった。北条はそのたびに「本土上陸が近いのかな」と思ったそうである。  ところが、芝浦工大出の工場主任は、大変馬力のあるやり手で、各工廠や軍需工場、あるいはその下請工場まで顔が利いている。そのせいか、材料がないと聞くと「よし、オレが調達してこよう」と、工場を飛び出し、二、三日後には少ないながらも必要な資材を手当てして帰ってくる。また、この技術少佐は工場にテーラーの管理システムをいち早く採り入れ、生産能率の向上に努め、周囲をヒイヒイ言わせたという。そういう意味でも貴重な存在だったと北条は述懐している。  それは別として、北条は学生時代に奇妙な体験をしている。それも、昭和十九年春、東条内閣が総辞職する前の話である。当時、北条は東大第二工学部の平田森三教授(応用物理)の講座を聴講していた。そんなある日、講義を終えた平田教授が、思いがけない話を始めた。 「実は軍のある機関から特別の研究を頼まれているのだが、手伝う気はないか、ただし、仕事の内容は最高機密に属するので、暫く親許をはなれて私と一緒に行動してもらうことになる。希望者がいたら手をあげてくれ」  それを聞いた北条は深く考えもせず手をあげた。同じように手をあげたのはほかに二人いた。さっそく三人は平田教授に丸ノ内ホテルに連れて行かれた。そこで会った人物は東条首相の息のかかった陸軍の影佐禎昭という中佐である。影佐は“影佐機関”という秘密の組織を持ち、特殊な仕事を専門に手がけていたやり手であった。その影佐は北条たちの意思を確認したうえで乾パンの大きな包みをポンと投げ出し「これからは食い物には一切不自由させない。だから先生に協力して一生懸命やってくれ」と励ましの言葉をかけた。問題は仕事の内容である。平田教授が影佐中佐から依頼された仕事は、敵潜の魚雷攻撃を防ぐ網をつくることであった。  前にも触れたように、当時、米潜水艦による被害が急激に増え始め、海軍も対策に手を焼いていた。それを知った東条首相は太い綱を編んで特殊な防御網をつくり、船のまわりに張り巡らせてはとある会議で提案した。もちろん、海軍は一笑に付し取り合おうとしなかった。そんな子供だましのアイディアに飛びつくほど海軍は落ちぶれていないというわけだ。海軍の冷淡な態度に腹をたてた東条首相は、それなら自分の手で物をつくり海軍の鼻を明してやろうと思ったらしい。  そこで影佐中佐を呼びつけ、しかるべき民間の権威に委嘱し研究させろ、それに必要な資金は惜しむなと命じた。その話が巡りめぐって平田教授のもとに持ち込まれたのだ。一見眉にツバをつけたくなるような話だが、ともかく、平田教授と北条以下三名の助手は丸ノ内ホテルに缶詰になり、毎日、軍の車で越中島の商船学校まで通うようになった。 「最初は網づくりから始めたんです。それも、一応強度計算をしてかなりの衝撃にも耐えられるものをつくった。そして校内にある高さ二十メートルの塔の下にそれを張り、上から爆弾の模型を落としテストしてみました。ところが、実験は失敗だった。網の真ん中に穴があいて全然役に立たないんですよ。そこで方程式から考え直そうということになった。そして実験物理の手法を使って落下物の軌道を解析して、数値計算をきちっと出し、そのデータをもとに改めて網をつくった。そんなことを何回か繰り返したが、結局、ものにならなかった。それで影佐中佐も諦めたんです」(北条司朗)  いずれにしても、動機や実験の中身は他愛のないものだったが、時の総理がそういう機関を通じて緊急のプロジェクトを民間に研究させる。そんなやり方も硬直した組織を刺激する意味で、必要だったかもしれないと、いまでも北条は思っている。  盛田昭夫、井深大と出会う  本題とはずれるような話をあえて持ち出したのは、ソニーの盛田昭夫会長につなぐための布石にしたかったからである。というのも、盛田と北条は浜名海兵団で同じ分隊、しかも隣り合わせだった。その縁で北条は戦後ソニーの一員になったのである。  問題の人、盛田は阪大の浅田常三郎教授の愛弟子であった。恩師の浅田は、応用物理の一方の旗頭で、技研の伊藤の提唱で発足した原爆研究の諮問機関「物理懇談会」のメンバーの一人でもあった。  また、その浅田は技研伊藤研究室の面々が性能不安定で苦労していた二号二型電探の受信検波に「鉱石検波器を使え」と、十七年ごろから助言していたという。そのあたりの事情は、当時、海軍から阪大に委託生として派遣留学していた松井宗明少佐(前出)の話を聞くとよくわかる。 「そのころ浅田先生は技研の会議や打ち合わせ会に出席するため頻繁に上京された。そしてお帰りになると、こんどはこういう話をしてきたと教えてくださる。鉱石検波器の話が出たのもその時分だった。たまたま二号二型を量産しようということになり、技研は真空管を使った二極検波方式を採用した。それを知った浅田先生は『そんなものじゃダメだ、鉱石検波器が一番いい』と、何度も助言された。理由は鉱石検波器そのものが半導体だからですよ。先生はそのころから半導体の必要性を説いておられた。そしてその研究データを海軍に提供されていたと伺っています」  この話を聞いてもわかるように、浅田と海軍のつながりは深く、その研究の大部分は海軍から委託されたものが多かった。そんな実績を持った浅田研究室の俊才と言われた盛田だけに、学生時代から特異な才能を発揮していた。それはそのころ浅田が朝日新聞のコラムに毎週執筆していた「時局科学談義」の代筆までしていたことでもわかる。その盛田が海軍の委託生になったのは、十七年のこと。それも研究者の道を歩むためにやむをえず選んだものである。  再三述べてきたように、海軍には一生を海軍に奉職する委託学生制度と、二年現役の短現士官制度があった。短現は二年で元の職場に戻ることができるが、現役の間は前線勤務になるケースが多い。これでは好きな研究生活から遠ざかることになる。それがいやさにあえて永久服役の試験を受けたのだ。  周知のように、盛田は愛知県の銘酒「子の日松」を醸造する名門酒造家の御曹司である。そんなわけでもあるまいが、浜名海兵団の初級士官教育を終え、横須賀の第一技術廠航空光学部に配属されたころには、自前で第一種軍装を調達し、羨望の的になっていたそうだ。それは別として、配属された航空光学部(のち光熱兵器部)は、盛田にとって馴染みの職場だった。海兵団入団前、勤労動員学生として何ヵ月か過ごしたところだからだ。  盛田は新任の職場で内務班の仕事を担当していたが、やがてその才能を買われ、陸海軍科学技術委員会の第一分科会に出るようになる。  この委員会は、海軍技研の伊藤庸二大佐や陸軍技研の斎藤有大佐(のち電波技術協会理事)などの提唱で、昭和十八年にスタートしたもの。その目的はとかく対立しがちな陸海軍の兵器研究体制を改め、軍官民が一致協力して兵器生産の着想を効率よく具体化しようというところにおいた。それだけに出席する委員の顔ぶれも多彩で、陸海軍、軍需省、大学、研究所、民間企業の権威や著名な技術者が多数名を連ねていた。  盛田の関係した研究会はその中の熱線探知で飛ぶロケット弾を開発している分科会であった。そういう国家的な研究会に学校を出たばかりの新米技術中尉が出席できたのだから、やはり盛田も並の研究者ではなかったようだ。  そんな盛田にとって最大の収穫は、研究会で天才発明家として著名な井深大(早大理工学部電気科、ソニー名誉会長)の知遇を得たことである。当時、井深は三十七歳。日本測定器という小さなメーカーの技術担当常務であった。  日本測定器は文字通り測定器の専門メーカーで、つくっている製品はいずれも特殊なものばかり。しかも、大半は陸海軍に納入されていた。  その一連の製品のなかでとくに注目されたのは、井深の発明した周波数選択継電器、これは低周波の波のなかで特定の周波数にだけ敏感に反応して振動する機器で、これの先に接点をつけ、継電器(ある回路の断続に応じて、別の回路を開閉する装置)を働かせるようにしたものだ。この継電器を利用すれば増幅のむずかしい非常に低い周波数の波も、接点で継続させることによって高い周波数に変調し、増幅させることが可能になる。  これに目をつけたのが、海軍航空技術廠の計器部であった。開発中の航空機搭載の潜水艦探知機に使ってみようと思ったのだ。そのねらいをわかりやすく説明すると、たとえば、海底に潜水艦がひそんでいると、当然、その場所は地球の磁場の関係で変化が起こる。それを磁気探知機でとらえ、周波数継電器で増幅すれば、微弱な磁気変化も十分感知することができる。そして、その所在を探知したところに色のついた粉を散布しておく。連絡を受けた味方機はそれを目標に爆撃するという仕組みである。  こうして十八年十一月に開発されたのが、航空機搭載磁気探知機三式一型であった。このとき用兵側は「探知距離に難点があり、用兵的価値はそれほど高いとは思われないが、潜没潜水艦探知を可能にする唯一の兵器なるをもって、これの実用化を促進する」と判定した。  これを知った技研の伊藤は、いつになく憤慨したそうだ。現にごく身近な人に「技術陣が苦心して開発した兵器に対し、何かとケチをつけないと気がすまない用兵者は、科学戦を担当する資格などまったくないと言っても過言でない。彼らはつねにゼロか満点か、完璧か竹槍か、その中間を把握しないで、いたずらに完全を希求する。そのため幾多の開発の芽を摘んでしまった。それが残念」と、感想を漏らしたという。  性能不安定、重量過大を理由に、採用を見送られた二号二型電探のプロトタイプ、一〇三号に対する用兵側の無理解な姿勢が、脳裏に根深く残っていたからにほかならない。  だが、用兵側が難点があると評価した三式一号磁気探知機は、十九年四月の米潜水艦探知を皮切りに、しだいに効果を発揮し始める。とくに台湾、比島方面で活躍中の九〇一航空隊は、十九年八月二十四日から二十日間の間に、敵潜発見回数四十二回のうち三六パーセント、また撃沈回数十二回のうち五回は磁探による成果という実績を残したほどである。  呉空襲、広島に原爆投下  そのころ、陸軍も井深の開発した周波数継電器を使った熱線追従爆弾を開発中だった。これは京大理学部物理教室の某教授の考えたアイディアをもとに、陸軍航空本部、東大工学部航空学科の守屋富次郎教授、中島飛行機から東大航空研究所に移った糸川英夫助教授(当時)などが中心になって試作研究を進めていたものである。  その概念は、当時、海軍が開発していた自動誘導弾「奮竜」と似ている。しかし、中身は大分違う。たとえば奮竜が電子ビームを用いた誘導システムとレーダーを使うのに対し、はボロメーター凹面鏡を使った熱電堆(サーモカップル)で受けた熱の変化を周波数継電器で断続して増幅し、目標物体(艦船)の熱源方向に向けて爆弾の舵を切るというものであった。  盛田が関係するようになった陸海軍科学技術委員会の第一分科会は、同種兵器の開発関係者が集まって、意見交換や技術検討をする研究会であった。この研究会を通じて盛田は井深の人となりを知る。また井深も若いに似ずハキハキ思ったことを言う盛田に好感を持つようになった。これがのちに二人を結びつけるきっかけになったことは言うまでもない。  しかし、肝心な研究会の成果は、ほとんど実ることなく終わった。やはり、経験、知識が乏しいうえ、軍の秘密主義、セクショナリズムが障害になり、先に進めようにも進めなかったのである。  そのころ米国は対日最終作戦(オリンピック作戦)の検討を終え、本格的な日本本土攻撃の準備を急いでいた。その幕開けは七月二十四日、トルーマン大統領が下した原爆投下命令であった。それに呼応するかのように米機動部隊は、二十四日未明、豊後水道沖に姿を現わし、艦載機を発進させた。ねらいは日本海軍最大の拠点呉軍港である。  当時、呉には三月十九日の艦載機の空襲で損傷を受けた航空戦艦「伊勢」「日向」、戦艦「榛名」、空母「天城」「龍鳳」、重巡「利根」「青葉」、軽巡「大淀」などが、湾内の島陰に転錨していた。  たとえば、日向が情島沖、伊勢が倉橋島音戸沖、榛名は江田島小用桟橋といった具合である。それも自力航行するだけの燃料がなく、呉からきた曳船に引かれ、押されて移動したもの、つまり戦艦は浅瀬に固定し防空砲台の代わりに使おうと思ったわけだ。  海軍とともに栄えてきた呉も、それほどきびしい環境に追い込まれていた。それは数々の名艦を生んだ工廠の被爆のあとを振り返ればよくわかる。  まず、六月二十二日、百余機のB29爆撃機が工廠を襲った。そして一千発もの一トン爆弾を投下した。このため自慢の設備も造船部を除いた砲熕、製鋼、電気、水雷などの造兵関係の工場が破壊され、潰滅状態に陥った。このとき砲熕地区では工作兵や工員、女子挺身隊、勤労動員学徒七百人が退避した防空壕の入口に爆弾が命中、全員爆死という惨状を呈した。また七月一日夜半から二日未明にかけて、B29八十機が来襲、全市に焼夷弾の雨を降らせ、市街地の中心部を焼き尽くしてしまった。そこへ二度目の機動部隊来襲である。  艦載機の本格的な空襲は九時すぎから始まった。それも軍事施設、艦艇攻撃部隊と二手に別れ、激しい銃爆撃を行った。この日の攻撃は三波で終わったが、二号二型電探の威力を最初に実証してくれた日向は、アベンジャー雷爆機五十数機の集中攻撃を受け、直撃弾十、至近弾数十発をくらい大火災を起こし、完全に戦闘能力を失った。そして二日後の二十六日早朝には、ほぼ水平のまま着底した。  次いで四日後の二十八日、米機動部隊は、再び呉を襲った。ねらいは湾内の島陰にひそむ残存艦艇をたたき潰すことであった。  その結果、「伊勢」、「榛名」、「天城」、「龍鳳」、「利根」、「青葉」、「大淀」などの在泊艦艇主力は、転覆したり、マストだけを残して沈む“海底艦隊”に変じてしまった。しかもこの日の空襲には沖縄か硫黄島から飛来したと思われるB24コンソリデーテット爆撃機と、ロッキードP38戦闘機などの編隊も港湾施設の爆撃に参加していた。つまり、陸上施設の攻撃はB24にまかせ、艦載機は総力をあげて在泊艦艇の攻撃に終始したのである。  こうして呉は軍港としての機能を喪失し、あとは残った機械類をいかに安全な場所に移すかが重要な仕事になった。そのためには新しい防空壕を掘らなければならない。そんな仕事に明け暮れていた八月六日の朝、呉市北西上空に無気味なきのこ雲がモクモクと立ちのぼった。 「こんなことを言うと叱られるかも知れないが、アレが爆発したときものすごくきれいだった。それも二回きれいに見えたんです。最初は爆発した瞬間、ピカッとコバルト色に光った。それから二度目は夕方。ちょうど白い雲が夕陽に映えて何かトキ色に赤く染まっていたが、何とも言えない色でしたよ。こっちは原爆だなんて知らないから、いったい何が起こったんだろうと思ったくらいです。そのうち新型爆弾だということがわかった」  これは呉工廠の裏山で土木作業を監督していた鎮守府勤務のある兵科将校の話だ。やがて広島の被害状況が口こみで次々に入ってくる。そのうち新型爆弾は原子爆弾らしいという未確認情報が工廠にも伝わってきた。これを知った多くの技術官たちは、一様にがっくり肩を落とした。負けたと腹の底から思ったのである。  玉音放送  二日後の八日、ソビエトが対日戦に参入、満州(中国北東部)に進攻を開始した。翌九日には二発目の新型爆弾が長崎に投下される。それが原子爆弾であることを短波放送で知った陸海軍首脳は色を失い、誰もが牡蠣のように口を閉ざし本音を言わなくなった。その間政府は懸命に終戦工作を続けていた。そして八月十日と十四日、日本の運命を決める御前会議が開かれ“ポツダム宣言”無条件受諾の聖断が下った。  国体護持に懸念を抱き徹底抗戦を主張した陸海軍統帥部は、この聖断に動揺した。この間隙をついて陸軍省軍務局の一部少壮軍人は阿南惟幾陸軍大臣をかつぎ、全陸軍によるクーデターを目論んだが、首脳陣の説得に失敗、聖断を覆すことはできなかった。一方、海軍も九州の第五航空艦隊、厚木航空隊などで徹底抗戦を唱える一部将校もあったが、軍令部首脳の懸命な説得工作で事態を収拾することができた。  当時、海軍が本土決戦に備え準備した兵力は、陸戦部隊が七万八千、水中特攻艇四百四十一隻、水上特攻隊三千三十隻、潜水艦三十八隻、航空機五千二百余機であった。  これが最後の一戦に敵と刺し違えようと捨身の攻撃に出たら、日本本土は全面的に流血の惨事を引き起こしていたはずである。それを未然に防いだのは軍令部作戦一部長の富岡定俊少将と、最後の連合艦隊長官・小沢治三郎中将の巧みな連携プレーによるものである。  用兵側の緊迫した動きと対照的に、技術陣の受け止め方は、思いのほか冷静だった。やはり、科学技術の優劣の差をいやというほど見せつけられ、戦うことの無意味さを悟っていたのかもしれない。そして技研や第一、第二技術廠で働いていた勤労動員学生や女子挺身隊、工員を順次帰省させるとともに、機密書類の焼却を命じた。  情報伝達の早い中央機関と違い、地方の施設や分遣隊に派遣されていた技術官たちは終戦処理にとまどった。技術科三十四期の城阪俊吉中尉(東北大工学部通信工学科、松下電器副社長)も、情報不足で振りまわされた一人である。城阪は浜名海兵団の初級士官教育を終えると、木更津航空隊に配属になった。ところが、その直後、原因不明の熱病に冒され一ヵ月近く入院生活を余儀なくされる。やがて病魔から解放され、本来の任務につくと、こんどは鈴鹿航空隊に転属命令が出た。 「その鈴鹿も二週間おっただけ、すぐ岡崎の第六補給廠に行け言う。そこで、兵装基地の建設やれと言われたんですわ。手がけた仕事は九州や台湾に空輸する飛行機に通信機や電探を装備すること。ところが、肝心な真空管や電解コンデンサーの質が悪うて、全然役に立たん。あれには手をやきましたな。正直言うて、海軍に入ったころ、私は、日本は負けると思っておらんかった。単純やったんですな。だが、いざ首を突っ込んでみるとこの有様。これには私もあきれてしもうた。こんな頼りない兵器つくってよう戦争始めたもんやと思ったくらいです」  と、城阪は当時を振り返る。後年、城阪が松下電器に入り、通信機器の素材研究に執念を燃やしたのも、このときの苦い経験に発奮したからだ。そんな城阪にも敗戦は時間の問題と肌で感ずるようになった。通信機を装備する飛行機がなくなり、防空壕づくりが多くなったからだ。  そんなある日、城阪は公用にかこつけて郷里の宮津に一時帰省することにした。海兵団入団以来、一度も故郷に帰っていない。それだけに身辺を整理し、来たるべき本土決戦に備えようと考えたのだ。その場合、上司に申告してゆくのが士官の務めだが、岡崎の兵装基地の指揮官は城阪自身。そこで部下に後事を託し、夕方、列車に飛び乗り京都に向かった。京都には姉が嫁いでいる。その姉に会って宮津まで足を伸ばそうと思ったのである。八月十四日のことだった。  翌朝、久しぶりに会った姉に「今日の昼、天皇陛下の放送がある」と教えられた。しかし、問題の放送は雑音がひどく、何を言っているのか聞きとれなかった。その内容を知ったのは、皮肉にも宮津に着いてからであった。それも、両親に「お前、何しとるんや。戦争はもうすんだやないか」と、言われ愕然としたのである。 「さあ、えらいこっちゃと思うて、あわてて宮津から貨物列車に飛び乗った。そして舞鶴で次の貨物に乗り換えすぐ寝てしもうた。これいつものクセですわ。そうしたらこれ福知山に行く列車やった。しまったと思うたがもうどうしようもあらへん。仕方なく福知山で降りて、京都行の貨物に乗り換え、京都から東海道線に乗り継ぎ、ともかく十六日には岡崎に戻ることができたんやけど、ほんまにあわてた。下手すりゃ敵前逃亡で営倉もんですからね……」  と、城阪は笑う。これも情報伝達の悪い地方分遣隊ならではの出来事かもしれない。  敵前逃亡と言えば、技研の伊藤も濡れ衣を着せられた一人である。伊藤は、十八年八月、電波研究部新設と同時に兵器試作のポストを同期の矢島技術大佐に委ね、自らは研究一科の主任として電波兵器全体の開発を促進するコーディネイターとして東奔西走していた。  しかもその専管業務は広く、東大、東北大、京大、阪大、早大、米沢工専、浜松工専、広島工専、大阪工専、山梨工専といった大学、工専から、逓信省電気試験所、国際電気通信研究所、理化学研究所、放送技研、日本電気、東芝、日立、日本無線、松下電器などの官民研究所三十七ヵ所に及んだ。  また伊藤自身が技研側担当官として、直接、研究にタッチしたものは二十四件を数えた。終戦直前、伊藤が米沢に出張したのも、自身が手がけていた多相空中線の打ち合わせのためであった。そこで、終戦を告げる玉音放送を聞いたのである。  予想していたこととはいえ、その場になると、さすがの伊藤も大きなショックを受けた。同時に技術官としての責を全うできなかった己れの非力を責めたりもした。その心労と日頃の疲労が重なったのか、数日後に高熱を発し病床の人となった。  ところが、それを知らない一部の技術官は「終戦のどさくさにまぎれ何か仕出かしに出かけたらしい」と、悪口を言い始めた。終戦直後の海軍技研は、そんな根も葉もない噂が囁かれる不信の場に変わっていたのである。 第十四章 それぞれの再出発  降伏調印式  有史以来はじめてという降伏調印式は、九月二日、東京湾上に浮かぶ、「大和」に次ぐ世界最大の戦艦「ミズーリ号」(基準排水量四万五千トン)の艦上で行われた。  だが残念なことに、この式典に臨む前日本海軍は恥部をさらけ出すという失態を演じてしまった。それは日本側の全権を決める段階で、海軍側がごねたことである。最初、連合軍は政府を代表する全権と、大本営を代表する陸海軍の全権各一名と随員数名の出席を指定してきた。そこで政府は、重光葵外相を首席全権に、陸軍は最長老の梅津参謀総長を無理矢理に代表に据えた。とすれば、当然、海軍は豊田軍令部総長を出さなければならない。  ところが、豊田大将は「オレは嫌だ」と、逃げる。軍令部次長の大西瀧次郎中将(八月十五日自刃)も頑として応じない。いまさら恥をさらしたくないという単純な理由であった。そのあげく、「作戦に負けたのだから、作戦部長が行け」と、富岡定俊少将に責任をかぶせてしまった。  富岡は軍令系の俊才で男爵でもあった。開戦時、作戦一課長としてもっぱら物資動員計画を担当、戦争遂行に貢献した。その後、連合艦隊旗艦になった軽巡「大淀」艦長、南方戦線参謀を歴任、十九年から軍令部作戦一部長として活躍した。事ここに至っては、富岡も拒むわけにはいかない。そこで、やむをえず海軍の代表として調印式に臨むことになったが、心の中では泣くにも泣けない気持ちだった。現に富岡はそのときの心境を、次のように漏した。 「こういうところは、海軍は確かにずるかった。もっとも、『降伏するぐらいなら死ね』と、十八、九のころからたたき込まれてきているだけに無理はないと思うが、そのために代表にまつりあげられた私は、死ぬよりも辛かった……」  その富岡の苛立ちを柔らげてくれたのは、皮肉にも米海軍の紳士的な取り扱いであった。その模様を富岡の伝記『太平洋戦争と富岡定俊』(史料調査会編)から抜粋、再現してみよう。  当日、午前八時すぎ、横浜埠頭桟橋に横づけされた米駆逐艦四隻のうちの一隻に乗った全権一行は、上甲板の士官室に案内された。やがて、駆逐艦は静かに桟橋を離れる。そして、波の穏やかな東京湾上をすべるように二、三十分走り、木更津と横須賀の中間ぐらいの位置に停泊するミズーリ号の近くで停止した。周囲には東京湾を埋め尽くすかと思うぐらいの軍艦と輸送船が停泊している。その間を縫うように迎えのランチが近づく。それに移乗する日本側代表の重光外相は、モーニングにシルクハット。梅津、富岡の陸海軍代表は、丸腰の軍服姿であった。  ランチがミズーリ号のタラップに着くと、大兵肥満の水兵が隻脚の重光外相を軽々と抱きあげ、慎重な足取りでタラップを登ってゆく。案内の将校や水兵のいたわり方に、昨日まで血みどろの戦いを続けた敵国人という意識がみじんも感じられない。周囲に集まった物見高い水兵がその情況をカメラに収めようと、いっせいにレンズを向ける。見かねた外務省随員の岡崎勝男(のち外相)が先導の将校に「この写真やめさせて頂けませんか」と、小声で頼んだ。すると若い将校は、「オーライ」と引き受け、大声でカメラを引っ込めるよう指示した。これを見た富岡は救われたような気持ちになった。  式場はミズーリ号の第二主砲塔の右舷側にしつらえてあった。その中央にテーブルが一つ、椅子が二つ、マイクが数本備えてあるだけの質素なもの。その机の艦首に向かって右側が日本全権、向かい合って正面に連合国代表、両側には米軍将兵が並ぶ。そのうしろには従軍記者、映画班のための専用桟敷が設けられている。両者の代表が定めの席に着くまで、誰一人、声を発するものもいない。八月十九日、マニラに派遣された日本の軍使がフィリピン人から受けた屈辱的な扱いとは打って変わった雰囲気であった。式場の側壁には、一八五二年、ペルリ提督来航の際の古い星条旗が掲げられていた。  式は九時すぎに始まった。無雑作な軍服姿のマッカーサー連合軍最高司令官が、ゆったりした足どりでマイクの前に進み寄った。そして声量豊かな声で高らかに宣言した。 「戦いは終わった。恩讐は去った。神よ! この平和を永遠に続けさせ給え!」  大空の一角を見据えるように最後の言葉を結んだ。そのマッカーサー元帥の堂々たる態度と声音は、人に語る姿ではなかった。目に見えぬ神に捧げる誓いと、祈りのほか何物でもなかった。この歴史的な一瞬を、富岡は次のように述懐している。 「聖旨をかしこみ、恥を忍んで降伏したものの、このときまでの私は心の底から降伏していなかった。しかし、元帥のこの言葉と態度に接し、心の底から組み伏せられてしまった。恩讐の彼方にあるおおらかな気持、キリストの愛があの大きな胸に包まれている。それに引き替え、われわれはなんと小さな島国根性であったかと、心の底から打ちのめされた感じであった。そして不覚の涙で目尻が熱くなるのを抑え切れなかった……」  式典に臨む前、軍令部は毎日のように外国の論調を無電で聴取していたが、その内容は俊厳そのもので、日本を実力で抑えつけて管理し、変革するという厳しいものばかり。ところが、そんな押しつけがましい姿勢は、元帥の言葉や態度にもみじんも感じられない。ペルリ提督の星条旗を飾ったマッカーサー元帥の真意を、富岡が理解できたのはそのときであった。  富岡が戦後「史実調査会」を主宰し、太平洋戦争開始に至る経過から日本海軍崩壊までの記録を残し、後世の平和国家建設に役立てたいと思いついたのは、このマッカーサー元帥の広い心を知ってからであった。  占領軍、執拗に技研聴取  その五日前の八月二十八日の厚木進駐を皮切りに、連合軍は続々と日本本土に進駐を開始、軍事施設の接収を始めた。海軍技研も、いずれその運命をたどるはずであった。  その対応に追われていた海軍技研に、マサチューセッツ工科大学総長K・T・コンプトン博士を団長とする科学情報調査団の一行が出し抜けにやってきた。そして、技研の研究組織、電波兵器技術の現状と研究成果の詳細な報告と資料の提出を求められた。九月十七日のことであった。  これを契機にコンプトン調査団、米海軍、極東空軍、陸軍調査団、GHQ(連合軍最高司令部)のCCS(民間通信局)関係者の来訪、呼び出しがひんぱんに行われた。その回数は十二月下旬、GHQマイヤー少佐が調査打切りを宣言するまでに三十八回、来訪者ののべ人員は百数十名に及んだ。  その応待に当たったのは名和中将、渡辺技師、高柳技師のほか、新川技師、矢島大佐、高原大佐などで、問題によって森少佐、桂井少佐、岡村少佐といった若手、中堅技術官が随時駆り出され事情聴取に応じた。こうした一連の調査のなかで、米側がとくに関心を寄せた問題は六点ほどあった。  (1)科学情報調査団グリック博士、ウオーターマン博士のマグネトロンについての事情聴取(日本側、渡辺技師、桂井、森技術少佐説明)  (2)ペリー少佐の電波伝播資料調査(名和中将、新川技師、蓑妻大尉)  (3)ホーラー大佐よりウルツブルグレーダーの入手経緯、ドイツの資料入手方法についての事情聴取(名和中将、高柳技師、新川技師)  (4)ピッカリング博士より単一導波管についての事情聴取(名和中将、森少佐)  (5)海軍調査団クーリー少佐、島田実験所の装置について事情聴取(渡辺技師)  (6)通信局長、エーキン陸軍少将より陸海軍の技術協力情況、部外研究者の利用法、復員技術官の就職状況事情聴取(名和中将)  この米軍の一連の戦時調査を通じて日本側関係者の誰もが感じたのは、伊藤がいてくれたらということであった。現に病気入院中の伊藤に代わって、米軍調査団の応待を一手に引き受ける形になった矢島技術大佐などは「伊藤大佐がいてくれたら、もっと明快な答弁をして相手を納得させることができたのに……」と、口惜しがった。  また、何回かの事情聴取で米軍も伊藤庸二の存在を知るようになり、質問のたびにその消息を知りたがる。とくに十二月三日、GHQのフェル大佐に呼び出され、第一相互に出向いたときは、「伊藤大佐はいかなる目的でドイツに出張したのか、そのときどんな資料を持ち帰ったか、また同大佐の報告は、日本のレーダー研究にどのような影響を与えたか詳細に知りたい」と、たたみかけられ、大変面食らったという。  それほど頼りにされた伊藤なのに、なぜ部内に批判者が多かったのか、それに関連して上司の名和中将は次のように述べている。 「伊藤大佐は円満な人柄であったが、その反面、何かに熱中するとその目的に向かって直進する癖があった。しかも途中に他人の畑があろうと、眼中にはその目的物しかない。そして相手の畑の作物を蹴散らして走る。畑の持ち主は激怒して伊藤大佐を責める。すると伊藤大佐は別に他意がないとケロッと謝罪した。ところが、畑の持ち主はなんと図々しい野郎だとまた誤解する。だが長い目で見ていると、全然悪意がないことがわかり、たいていの人は納得した。伊藤大佐はそんな単純なところがあった」  そんな憎めないところがあっただけに、一度その人柄を知った人は最後まで伊藤を信じて疑わなかった。前出の軍令部作戦一部長の富岡少将もその一人で、しかも、伊藤と交遊関係を持ったのは開戦直前のことである。  当時、富岡は大佐で、軍令部第一課長(作戦担当)の要職にあった。したがって山本連合艦隊長官のハワイ奇襲作戦の計画立案の際にも、オブザーバーとして参加している。  その富岡に伊藤が話したいことがあると面会を申し入れたのは、十六年十一月、伊藤が訪独軍事視察団の一員としてヨーロッパ戦線の視察を終え帰国した直後だった。最初、伊藤から連絡を受けた富岡は、面識のない伊藤と会うべきか否か判断に迷った。というのも、海軍の複雑な組織があるからであった。  何しろ、大本営の奥の院である作戦課と科学技術の研究計画の担当者である技研の伊藤の間には、海軍省、艦政本部という中間機関がある。そのため技術者は作戦の要求や実相が理解できず、作戦計画者は、科学技術の現実を理解していないというのが実情であった。その溝を埋めたくても、それが日本海軍の制度であり、秩序であったため、両者が直接談合することはほとんどなかった。  その常識を伊藤はあえて破ろうとしている。そんな伊藤の前向きな姿勢を汲みとり、富岡も会ってみる気になった。最初の会合は芝の水交社で行われた。  その席で何が語られたか、いまは知る由もない。しかし、以来、富岡と伊藤は何度か膝を交えて話し合う機会を持つようになった。ところが、これを知った艦政本部は黙視できなくなり、伊藤を呼びつけきびしく叱ったという。  マネジメントの不在が停滞もたらす  このように、ものわかりのよいはずの海軍部内は、実はセクショナリズムが蔓延していた。それが戦争遂行の大きな妨げになった。たとえば、戦争末期、艦政本部長に就任した渋谷隆太郎中将は、航空本部との協力体制を絶えず強調した良識ある軍人だったが、その渋谷ですら「やや節度のない個人能力の発揮と、セクショナリズムの弊害」が、敗戦を早めたと述懐しているほど。  つまり、歴史の古い艦政本部系は、自分の城をかたくなに守り、歴史の浅い航空本部系は自分のエリート意識をあからさまにして協調を拒む。それが日本海軍の実態だったと言っても過言でない。  渋谷はそれを肌で知っていたからこそ、艦政本部長就任以来、航空本部系の要求を積極的に受け入れ、艦本系の技術者を航空技術廠、あるいは各地の航空廠に派遣したり、艦本系工廠でも航空機を生産できるような体制づくりに力を入れたわけだ。二十年二月、航空技術廠を廃して第一技術廠、第二技術廠が設けられ、技術者の交流が活発になったのもその結果であった。  日米戦開始以来、伊藤がその必要性を強調したマイクロ波レーダーの実用機が、二号二型一機種だけで、あとの三号一型、三号二型、三号三型(以上水上射撃用)、五号一型(航空機用全方向電探)が試作段階の域を出なかったのも、艦政本部系のセクショナリズムが微妙な影響を及ぼしていたためであった。  もっとも、工廠系の電波兵器の装備・修理を担当する者が言うように「兵器をつくったことのない基礎研究者が、兵器づくりに手を染めた」ことが、そもそも間違いのもとであったことは否定できない。だが、それは海軍技研の宿命であった。それと実は、それ以外にももっと大きな問題があった。  それはマイクロ波レーダーの開発に取り組んだ技術陣のかたくなな姿勢である。現に技研の若手技術官の一人だった斎藤大尉もこんな話をする。 「マイクロ波は導波管とか、マグネトロンなど、ほかの人たちが見たことのないようなものでやっていたでしょう。そのせいか、マイクロ波は特殊なもので、部外者にはわからないんだという何か特別なフィールドができちゃった。これが一番いけなかったと思います。そりゃ確かに測定の方向を決める理論的な構成などは特殊かもしれないが、それを発展させ、デバイスにする段階では、特別なものという意識を取っ払わないと、先に進まない。そういう姿勢が欠けていたような気がしますね」  しかも、戦局に追われるあわただしい最中だけに、どうしても手早く実用化することを要求される。そのため設計も杜撰だったし、部品の質もよくない。とくに送信機用の水冷機の心臓部ともいうべきポンプに粗悪品が多く、すぐショートして使えなくなる。そんな状態だっただけに、前線部隊の電探要員から批判されるのも当然であった。  また、伊藤が苦心して動員した部外の研究者も、一部の学者、研究者を除いた大多数の人は、実際の兵器開発にはほとんど貢献できなかったという。これは日本の科学技術水準が欧米に比べ相対的に低かったということのほかに、研究開発のマネジメントが十分ではなかったところに原因があると言っても過言でない。  たとえば、戦前戦中を通じて、日本では技術者と言えば、それはハードウエアのエキスパートであることを意味していた。また、研究者も、デバイス(装置、部品)の開発者が多く、さまざまなデバイス、技術を組み合わせて実地への応用を考える、ソフトウエアを含めたシステム研究というものはほとんど無視されてきた。これが、先端兵器をつくるうえで大きな障害になってきたのである。伊藤の片腕だった新川技師(前出)は次のように話をしている。 「マイクロ波のレーダーにしても、マグネトロンそのものの研究は非常に進んでいた。これはデバイスの研究としてよかったという意味ですね。だが、それを使ってレーダーをつくるというシステムエンジニアリングという点からみると、まるで穴だらけに近い。伊藤さんはそれを心配した。そこで大学の先生方を動員して手伝ってもらおうと考えたわけです」  伊藤が学識経験者に期待したのは「レーダーの電波はものに当たってなぜ反射するのか」とか「反射系数はどのくらいがよいか」、あるいは「波長によってどういう影響が出るか」、また飛行機用の場合「高度によってどう変化するか」といった個々の現象を学問的につかんでもらう。そのデータをもとに、それに合うようなデバイスをつくり、兵器づくりの専門家にまかせる。伊藤はそういう軍学民一体の組織づくりを密かに考えていた。  ところが、協力を仰いだ大多数の学識経験者は、研究室の片隅に転っている素材や部品をかき集め、おもちゃのようなバラックセットをつくり「オレのところでこういうものをつくった」とか「これを使えばよくなる」と得意顔で持ち込む。それが伊藤には歯がゆくてならなかった。  もっとも、これは軍の指導層の考え方のせいでもあった。というのも、当時、艦政本部首脳は“伊藤批判”の二の舞いを恐れ「あさっての研究はいいから、明日の戦争に役立つものを考えてほしい」と、しつこく要請する。これがこんな現象を生んだと、新川は問題点を指摘している。結局、研究開発のマネジメントが確立されていなかったのである。  こうした日本側の実情に対し、連合国側の技術運営、研究推進の規模は桁はずれに大きく、軍部以外の技術者の動員は日本の十倍を超えていた。たとえば、英国では軍部、学識経験者、研究者、技術者、兵器メーカーの経営者を、毎週一回の割で動員し、国防に関する円卓会議を開く。それも出席者のすべてが対等の立場で忌憚のない意見をぶつけ合い、国防技術の向上に努めた。  また米海軍も直属の研究機関のほか、一流の学者、研究者を網羅した海軍研究局を設け、部外の研究機関に対する研究の委嘱、促進、援助活動を積極的に進めるなど、科学者の動員に万全の策を講じていた。  その典型的な機関がマサチューセッツ工科大学に設けられたマイクロ波レーダーのメッカ、ラジェーション・ランジェリー・ラボ(現MITエレクトロニクス研究所)であった。  この研究所はMITやベル電話研究所などを中心に民間企業の研究機関、陸海軍と文字通り官学民の総力を結集したレーダー専門の研究機関で、連合軍が使用したマイクロ波レーダーは、すべてここで開発されたものであった。  高柳、若手を連れ日本ビクターに転じる  GHQが一般的な対日科学政策を発表したのは、二十年九月二十二日のことである。それによると、今後日本での一般的研究活動は許されるが、毎月(のち半年)、その報告をGHQ経済科学局に報告すること。また原子力に関する研究はすべて禁止するという内容であった。  次いで十一月十八日には航空関係の研究および教育の禁止が、さらに十二月二十四日には、テレビ、レーダー、パルス変調式多重通信、電子近接装置、音声秘密通信等の研究禁止(のちに軍事目的としない範囲で許される)が指令された。  この措置に愕然としたのは、NHK技研所長に復職することになっていた高柳技師である。終戦時、高柳は第二技術廠の電波兵器部長(小将待遇)であった。しかし、その技術廠も九月十日に解散、米軍に接収された。それだけにそのままNHKに戻ることも可能だった。ところが、伊藤が出張先で入院を余儀なくされたため、名和中将を助けしばらく終戦処理にあたることになった。 「終戦直後は電波兵器に関する米軍の調査や事情聴取、技術資料の作成、報告などで忙しい思いをしました。だが、それ以外にもうひとつ大事なことがあった。それは復員する若い技術官の身の振り方ですよ。何しろ、当時、私のところだけでも若い技術士官が二、三百人ぐらいいた。このうち元の職場に戻れる人はいいが、そうでない人をなんとか再起できるようにしてあげたいと思った。名和さんも、それを非常に心配されて、僕のところへ相談に来られる。幸い僕はNHKに戻ることになっていたので、君のところでまとめて引き取ってもらえるようにしてほしいと頼まれたんです」(高柳健次郎)  そこで高柳は監督官庁の逓信省の了解をとりつけたうえで、NHKに働きかけ復員技術官の採用を要請した。NHKも異存はなかった。その結果、直属の部下であった緒方研二、宍道一郎などこれはと思う若手五十人ほどを引き連れ、NHK技研に戻ることにした。そしてNHK技研の研究室の整備を始めた矢先、GHQからテレビジョン研究禁止の通告を受けたのである。  しかも、通達に違反したものは厳しく処罰するというおどし文句まで言われた。これには高柳も困惑した。五十人の復員技術官の処遇先が宙に浮いてしまったからだ。それに追討ちをかけたのは高柳の公職追放であった。つまり、戦時中、軍に積極的に協力したものはNHKのような報道機関に転職することはまかりならんと言ってきたわけだ。  ダブルパンチを食った格好の高柳もさすがにあわてた。かといって、いまさら古巣の浜松に戻るわけにはいかない。そこで、待機中の若手技術官にしかるべき落ち着き先が見つかるまでしばらく待てと励ましの言葉をかけ、身売先探しに奔走し始めた。  責任者格の名和も心配し、伝手を頼りにいろいろ会社を当たってくれる。しかし、終戦直後の混乱期とあってなかなか受け入れ先が見つからない。そのため技術官たちも自力で職探しを始めるようになった。  緒方が大学の先輩松前重義(無装荷ケーブルの発明者で、著名な元逓信技官、東海大総長)の口利きで、電気試験所に傭員の資格で採用が決まった。永久服役の職業軍人が役所に入るにはそれしか方法がなかったためである。  一方、終戦末期、四ヵ月ほど高柳の指導を受けた短現士官出身の宍道は、故郷の島根県出雲で新しい年を迎えた。本来なら復員後、東大の航空研究所に戻るはずであった。それがGHQの指令で航研復帰の望みもなくなり、高柳に一身を預けることにしたばかり。それだけに高柳からの呼び出しを心待ちに待っていた。  そのうち名和が旧知の東芝の幹部から耳よりな話を聞いた。日本ビクターが将来に備えテレビジョンの研究を考えているというニュースだった。高柳はワラをつかむような気持ちで、ビクターのトップを訪ねた。テレビに関心を寄せていたビクターは受け入れを確約してくれた。喜んだ高柳は待機していた復員技術官に手紙を書き、吉報を報らせる。二十一年二月はじめのことであった。  テレビジョン研究禁止の指令を出した経済科学局のスレーグル少佐が、高柳に会いたがっているという話が伝わってきたのはそのころである。最初、高柳はスレーグル少佐の意図がなんであるかわからなかった。だが、その謎はすぐ解ける。 「私がNHKをやめる前、放送技研にコンプトン調査団の一行が視察にきた。そのとき僕が掲示板に貼っておいたGHQの立ち入り禁止の通達を見てびっくりしちゃったんですね。そしてテレビジョンのような民生機器の研究を禁止するのはけしからん。さっそく軍政当局に談じ込んでやると憤慨して帰ったが、それが効いたんですよ。現にスレーグル少佐は、僕に向かって『お前はオレの言ったことを誤解している。オレはあのとき研究を禁止するとは言わなかった。ただ、日本の現状ではテレビジョン研究は早すぎる。だから自戒してやめておけとカントリー・アドバイスしただけだ』と、しきりに弁明するんですよ。アレは本当におかしかった」  と、高柳は当時を振り返り苦笑する。しかも、スレーグル少佐は自分のとった措置の反響がよほど気になったとみえ、「もし君がNHKに戻りたければ、オレが口をきいてやる」とまで言った。もちろん、高柳は丁重に断わった。ビクターに入れることがほぼ決まっていたし、それにNHKの研究室にいたかつての部下も別のセクションに移り、一人も残っていなかったからである。  ところが、皮肉なことに高柳を受け入れてくれるはずの日本ビクターで労働争議が起こった。しかも、その解決は意外に手間取り、経営は悪化の一途をたどる。そして首脳陣の交替という最悪の事態にまで発展してしまった。そんな矢先、禁止されたテレビ研究の再開が認められるというニュースが飛び込んできた。二十一年六月のことである。  アクシデントの連続でさすがの高柳も頭を抱えてしまった。しかし、いまさらどうすることもできない。そこで集めた若手に「ビクターに行くが、もう少し待て」と連絡、新しい首脳陣と改めて交渉を始めた。幸い新しい社長は蔵前高工の先輩にあたる橘弘作であった。それだけに話はしやすかった。  結局、高柳のビクター入りは、最初の予定より大幅に遅れ、二十一年七月すぎになった。また連れてゆく予定だった若手も、会社側の希望もあって二十名ほどに削減せざるをえなくなった。しかし、当時としては異例の大量採用であったことは間違いない。  伊藤、海軍技術情報の収集に注力  戦後、朝日新聞の嘉治隆一記者が書いたコラム“青鉛筆”で、井深の消息を知った盛田が上京したのは二十年十月末のことである。そして、二人は協力して新会社を起こすことになった。それがソニーの前身である東京通信工業であることは言うまでもない。  その盛田の呼びかけに応じて義弟の岩間和夫(東大理学部地球物理科、技術科三十二期短現、元大尉)も、新会社の技術陣の一員になった。岩間は戦後、日本電気に復職した大内淳義と同じ分隊で、現役時代は横須賀工廠航海実験部でラジオゾンデの研究に携わっていた。  ちなみにつけ加えると、岩間の隣りの部屋で対潜兵器の研究に没頭していたのが、同窓の力武常次(技術科三十二期短現、元大尉、のち東大、東工大教授)である。  そんな岩間が盛田の妹、菊子と婚約したのは、横須賀在勤中のこと。しかも、見合いの当日、航海実験部の仲間に「オレは今日、見合いをしてくる。もっとも相手は幼馴染だがな」と、吹聴して回る。また帰ってくると見合いの模様を逐一報告するなど剽軽ぶりを発揮していたという。だが、復員後はよい職に恵まれずくさっていたらしい。そのあたりは岩間と同じ航海実験部にいた常木誠太郎(東北大工学部電気科、三十三期永久服役、のち電気通信研究所、日本電気技術研修所)の話を聞くとよくわかる。 「終戦直後、僕は岩間さんから手紙をもらったんです。そのころ彼は浅間山の東大地震観測所に勤務していた。そのせいか、こんな山のなかでつまらん仕事に追われていると、えらく悲観した内容でしたね。もっとも、あのころはほかにいい仕事がなかったから引き受けたのかもしれないが、岩間さん向きの仕事でなかったことは確かですね。それからしばらくしたら、こんど東通工という会社に入った。折があったら寄ってくれと連絡してきた。そこで通研に入った直後、五反田の本社に顔を出したことがあります。確か二十四、五年だったと思うが、そのとき岩間さんはすごく張り切っていましたよ」  当時、東通工は、電電公社と放送協会向けの測定器をつくるかたわら、テープレコーダーの本格的研究に着手したばかりであった。それだけに岩間も、水を得た魚のように活気を取り戻していたというわけだ。  こうした、敗戦を冷静に受けとめ新しい目標を見い出していった若い技術官と違い、どっぷり海軍につかって生きてきた少佐以上の技術官は、いずれも深刻な悩みを抱えていた。公職追放の身とあって役所や教職に就くことを禁じられているからだ。  そこで民間に職を求めても復員者がいっぱいで、頭が高い高級職業軍人はどうしても敬遠されてしまう。あとは伝手を求めてどこかにもぐり込むか、独立するかしか手がなかった。  それを心配したのは、米内海相や名和中将たちである。そして可能な限り手をつくし、就職先の確保に努めた。しかし、なかには伊藤庸二のように自分の職務、経験を活かし、海軍の技術史を後世に残そうと考えた人もいた。伊藤がそれを思いたったのは、米沢で療養生活をしているときであった。  ひとつには、戦争関係資料が次々と焼却されていくなかで、貴重な技術資料を無にしてしまうことを惜しいと考えたこと、また、それが必ず後世の技術復興に役立つと思案したからである。  そして、いったん郷里の千葉県御宿に戻り、構想を練ったうえで改めて上京した。伊藤のよき理解者の一人である高松宮殿下の協力を仰ぐためであった。  伊藤の話を聞いた高松宮は「軍令部の富岡少将が、旧海軍大学の構内で史実調査の組織をつくり、太平洋戦史の編纂の仕事を始めている。そこで一緒になってやったらどうか」と助言してくれた。こうして伊藤は、富岡と手を携えて史実調査の仕事に取り組むことになった。  その伊藤の当面の仕事は、目黒の旧海軍技研や横須賀工廠、釜利谷の第二技術廠などに放置されている技術資料の散逸を防ぐことである。そこで伊藤はかつての部下数名に働きかけ極秘裡に資料の収集を始めた。  問題は、その保管場所だった。目黒の史実部に置くと占領軍に没収される恐れがある。そこで伊藤は富岡と相談のうえ、とりあえず御宿の生家に運ぶことにした。それも軍用トラック二台分に及ぶ膨大な量であった。  こうして集めた貴重な技術資料は、伊藤を中心とした海軍関係者の手で細かく分類され、伊藤家の菩提寺である寺の一部を借り保管してもらった。このため伊藤は週一、二回は御宿、東京の間を往復し、両方においた専従者に指示を与えながら集大成を急いだ。  そんな伊藤にとって最大の悩みは、技術史編纂に必要な資金をいかに捻出するかであった。最初、御宿の海岸に製塩工場を仮設、海水から塩を採る小さな会社を興し、費用の捻出をはかった。しかし、この事業は手間がかかる割に利益が出ない。そこで、こんどは電気に関わる仕事をやることを思いついた。二十一年春、史実調査会の出資を仰ぎ設立された光電社が、それである。  新会社の事業目的は、御宿の農漁業の電化をはかり、地元の振興に貢献しようというものであった。さっそく有志を招き研究会や勉強会を開き、農漁業関係者の意見を積極的に聞いた。その声を製品に反映させようと思ったのだ。  こうして生まれたのが、漁船の航海灯、停電灯、誘蛾灯などである。なかでも好評だったのは誘蛾灯であった。そのころ各地の水田は蛾の発生が多く、稲の育成、収穫に大きな障害になっていた。これを知った伊藤は蛍光灯を用いた誘蛾灯の製造を思いつく。幸い東芝の技術研究所にいた旧知の浜田成徳(のち電波監理局長、東北大教授)の協力を得て試作品をつくり、一部の水田でテストしてみた。結果は上々であった。これが初期の資金をつくる有力な手段になったことは言うまでもない。  一方、海軍省がなくなったため厚生省第二復員局の一部門として、公的に海軍関係資料の保存を目的として発足していた史実調査部も、二十一年三月に文部省認可の財団法人「史料調査会」に生まれ変わり、本格的な活動を始めるようになった。  伊藤も調査会の技術史部を主宰し、御宿—東京間を精力的に動き回り、文献や史料の整理、編纂に情熱を燃やした。ところが、その活動が多忙になればなるほど台所は逼迫してくる。大勢の人手を借りなければできない仕事だけに当然であった。この窮状を打開するには核になる事業を興す以外に途はないと思うようになった。  そこで伊藤は方向探知機、船舶用レーダーなど、舶用機器の専門メーカー「光電製作所」の設立を構想した。 第十五章 生きた人的・技術的遺産 「海軍技術を再建に生かせ」  戦後、日本経済の復興に大きく貢献したエレクトロニクスは、オールウェーブラジオの製造を出発点にしている。それも戦時中、軍需用に生産した通信機器や、陸海軍の各基地に山積されていた廃兵器の払い下げを受け、そのなかから抵抗器やコンデンサーなど、転用できそうな部品や材料を取り出し、組み立ててゆくというところからスタートした。  しかし、当時の国民生活は“タケノコ生活”という言葉に象徴されるように、着ているものまで食糧に換えて、飢えをしのぐのが精いっぱいで、とてもラジオどころではなかった。つまり、需要の少ない民需品をつくって辛うじて、経営を維持していたというのが実情だった。  そんなきびしい環境だけに復員技術官の再起は困難であった。それは前にも触れた通りである。だが陸軍と違い、海軍は組織をあげて、技術官の就職さがしに力を入れた。それを裏づける話がある。終戦直前の八月八日、米内海相は軍務局長の保科善四郎中将(のち衆議院議員)を呼び、密かに次のように指示を与えた。  (1)連合軍は日本海軍を全滅させたが、近い将来、必ず極東の軍事バランスが崩れる恐れがある。その際どうしても日本海軍の再建が必要になる。  (2)海軍の技術は、日本でもっとも優れている。この技術を、戦後再建しようとしている会社に入れ、大きな力になってもらうよう努めよ。  (3)海軍のよい伝統を、単に海軍だけでなく、全日本に拡大するように努力してもらいたい——。  保科は、この米内の指示を受け、海軍と密接な関係にある代表的なメーカーのトップに面会、「戦後、海軍の技術者を貴社の再建に役立てるため、ぜひ採用してもらいたい」と申し入れた。その結果、一社の例外を除き、異論なく応じてくれたという。  しかも、その対象は海軍に入って日の浅い若い技術官にまで及んだ。横須賀第一技術廠で飛行機の改造に取り組んでいた細越技術中尉(前出)のケースなどが、それだ。  戦後郷里の大阪に戻った細越は、今後の行くべき道を教職に求めようと漠然と考えていた。ところが、十月末のGHQの指令で職業軍人の教職就任はほとんど絶望になってしまった。そんな矢先、第二復員省(旧海軍省)から葉書が届いた。「松下電器で人を求めているから行ってみてはどうか」という内容であった。  家でブラブラしているよりはと思った細越は、さっそく松下電器の本社(いまの無線研の建物)に出向き、人事部長に面会した。ところが、人事部長は「あなたの希望にそえない」という。別に食うに困るほど切羽詰まっていたわけでもないので、細越もあっさり引き下がることにした。 「それから一週間ほどしたら人事部から電報がきたんです。社主が面接したいので何月何日の何時までに来いという電文だった。そして指定された日に行くと、すぐ社主の部屋に案内され面接があった。そのとき相談役は『これからうちも民需産業に転換する。そのため相当の従業員を整理しなければならないが、反面、技術の中核になる人材が少ない。松下の将来を考えて君のような技術者も入れなあかん』と言われたわけです。そのうえでやる気があるかと念を押された。もちろん、喜んでお受けしました」  と、細越は当時を振り返る。その細越が最初に配属されたのは、松下電子工業の前身である松下真空工業所であった。それが細越にとってエレクトロニクスと関わりを持つ最初のきっかけになったことは言うまでもない。  細越と同じ技術科三十四期の城阪俊吉が、松下電器に入ったのもそのころであった。ただ城阪の場合は、社主と昵懇の紹介者がいた。それだけに細越とは若干事情が違う。 「復員してきてどこかいかないかんと思っていた矢先、知り合いの京都の寿重工という会社の社長が相談役をよう知っとるから紹介しようと言うてくれたんです。そのうち面接に来いいうんで出かけたが、わしの面接はなんぞやいうと、わし自身の哲学を話すことであった。それも人事部長を相手に一時間ほど、戦争の経過とか、わしの疑問に思ってたことなどを一方的にしゃべりまくっただけやった。だから、なんとか就職させてもらえないかという発想やなかったんですな。それでもわしを採ってくれはったのは、たぶん、相談役の意志が働いていたんと違いますか」  と城阪は言う。それは事実かもしれない。というのも、松下幸之助は名和中将と関わりがあったからである。戦時中、松下も仕事を通じて海軍の技術幹部といろいろ接触があった。  その一人に電波技術本部長だった名和がいた。名和は、南北朝時代の有名な武人、名和長年の後裔で、厳父は日清、日露の戦争で活躍、のちに海軍大将にまでなった人である。そのせいか、人柄も穏やかで、情愛も深かった。それだけに松下が名和に尊敬の念を抱いていたとしても不思議ではなかった。  ところが、敗戦で日本海軍は潰滅してしまった。以来、松下は名和を自社に迎え入れ、指導を仰ぎたいと思うようになった。前述の通り、名和は潜水艦用電池の権威である。その名和の知恵を借り自社電池の品質向上をはかりたい。それがこれからの日本のためになると考えたのだ。そこである日、名和を訪ね顧問就任を懇請した。松下の意図を知った名和も喜んで引き受けてくれた。それも名和の希望で無報酬でよいという条件だった。つまり、名和は「金儲けのためでなく、日本の電池技術を向上させたい」という松下の熱意に動かされ、無報酬で指導を約してくれたのである。  そんなことがあっただけに、松下も有能な海軍出の技術者を積極的に受け入れるように努めた。名和の好意に報いるためである。事実、その前後に松下電器が採用した人材はいずれも粒ぞろいで、松下電器の血となり、肉となって組織の活性化に貢献した。経営幹部に昇進した城阪や細越は、その代表的な人だったと言える。  渡辺寧、トランジスタ研究を唱導  戦後、海軍技術官のエリートを採用したところと言えば、逓信省電気試験所、国際電気通信、鉄道技術研究所などがあげられる。このうち、電気試験所と国際電気通信は、民生用の電信電話技術の開発では海軍技研と劣らない水準にあった。もっとも、職業軍人は公職に就くことを禁じられたため、最初は緒方のように傭員という身分でとり、のちに職員として正式に採用する変則的な方法をとった。  呉工廠で水上艦艇の電気まわりを担当、のちに電気試験所に入った技術科三十三期の野田克彦もその一人だった。野田の話はあとで触れるとして、その前に特筆しておかなければならないのは、戦後、電気試験所の基礎部長を兼務していた東北大の渡辺寧教授の存在である。  これまで再三触れたように、渡辺は昭和九年から海軍技研嘱託となり、以来、伊藤と協力して研究者の育成、電波兵器の改良、開発に指導的な役割を果たしてきた。また、戦後は名和中将を助け、終戦処理を手伝うかたわら、コンプトン調査団や米軍技術調査団の粘り強い質問攻めにも悪びれず応対し、関係者から好感をもって迎えられた。それが、その後の研究活動に僥倖をもたらすきっかけになるのである。  それは教職追放を免れただけでなく、電気試験所の基礎部長という要職に就けたことでもわかる。ちなみにつけ加えると、戦時中、陸軍に協力した八木秀次(当時、技術院総裁)、中央気象台長であった藤原咲平、理化学研究所所長の大河内正敏など理工系の学者が公職を追われた。なかでも大河内は、それ以前に戦犯容疑者として五ヵ月間巣鴨拘置所に収容され取り調べを受けた。にもかかわらず、渡辺は公職追放の憂目に遭わずにすんだ。これも渡辺の人徳かも知れない。  それは別として、問題の電気試験所には強電部門と弱電部門の二つの研究部門があり、斯界の権威を網羅した日本の電気・通信工学のメッカとして君臨する巨大研究組織であった。  しかし、人材は豊富だが、戦後の混乱期だけに、肝心な研究活動は遅々として進まない。とくに戦災で壊滅的な打撃を受けた電話事業の回復の遅れは、GHQ首脳の間でしばしば問題になった。  これを逓信官僚の怠慢とみたGHQは、逓信省の電気通信部門を分離、電気通信省(のち日本電信電話公社、現NTT)を発足させる。それにともなって電気試験所も商工省工業技術院傘下の強電専門の研究所に衣替えを命ぜられる。二十三年春先のことである。  その過程で渡辺もGHQの電気通信関連の要人と顔見知りになる。なかでもCCR(民間通信局)のフランク・A・ポーキングホーンの知遇を得たことは、渡辺にとって最大の収穫であった。ポーキングホーンはベル電話研究所の出だけに共通の話題も多い。それが、二人の間を親密にしたのだ。  そんなポーキングホーンが、渡辺にトランジスタ発明のニュースをそれとなく教えてくれたのは、その年の初夏のことである(拙著『日本の半導体開発』ダイヤモンド社、講談社文庫参照)。  海軍時代、質の悪い真空管でさんざん泣かされてきただけに、渡辺はトランジスタという固体能動素子の持つ無限の可能性がおぼろげながらわかった。以来、渡辺はすっかりトランジスタ熱にとりつかれ、何かにつけてその“偉大さ”や“有用性”を吹聴して歩くようになった。  だが、多くの学者研究者はそんな渡辺の姿勢に批判的だった。大風呂敷を広げすぎるというのである。 「渡辺先生は確かに実績のある学者だが、ちょっと誇大妄想的なところがあった。そのせいかときどき論理が飛躍してとんでもない方向へ発展してしまうことがある。たとえばトランジスタはいますぐにも真空管にとって代わるようなことを平気で発言されたり、学問的な裏づけのない論文をでっちあげ、みんなを煙にまく、それが若手の反発を食う原因でした」  とある研究者は言う。とはいえ、この渡辺の啓蒙運動が口火となり、トランジスタ研究の機運が盛り上がった。そしていくつかの私的な勉強会が生まれた。東京千代田区永田町にあった電気試験所本部で、月一回開かれた勉強会(座長・渡辺寧)、東京田無の電試田無分室の若手研究者の勉強会(座長・鳩山道夫)、東北大渡辺研究室の勉強会がその代表的なものである。  その勉強会の情報源は各地の米軍司令部所在地にあったGHQ民間情報局(CIE)の図書館であった。戦時中の数年間、外国文献から遮断され技術鎖国の状態のなかで過ごしてきた多くの研究者や技術者は、知識に飢えていた。それだけに暇を見つけてはCIE図書館に足を運び、新しい知識の吸収に努めていった。戦時中、レーダー開発に携わっていた日本の技術者が“ラジェーション・ラボラトリーシリーズ”というレーダー関係の技術書を読み、彼我の力の違いを知って大きなショックを受けたのも、この時分であった。  マイクロ波通信研究開発競争始まる  二十三年八月、電気通信省が発足するころになると、電子(エレクトロニクス)技術をめぐる環境も大分変わってきた。二十一年六月のテレビ研究解禁に続いて、パルス変調方式多重通信の研究規制もしだいに緩和のきざしが見えてきた。その背景には、コンプトン調査団のGHQに対する強い働きかけがあったからだが、実際は日本の電波関連技術の水準が低かったことに安堵したためと言われている。  そのあたりはドイツに対する規制と比較してみるとよくわかる。戦後、ドイツも日本同様、テレビ、レーダー、マイクロ波関連技術など軍事に直結しそうな技術は、ほとんど連合軍のきびしい監視下におかれた。それも長期間にわたってである。しかも、全ドイツに普及していた中波放送の電波は連合軍に取り上げられてしまう。このためドイツはすべての放送を超短波に切り換えざるをえなくなったほど。連合軍は、それほどドイツの科学技術復活を恐れていたのである。  そういう意味では、日本は運がよかった。現にGHQの監視のきびしかったマイクロ波多重通信の研究も大っぴらにできるようになったからだ。それも、CCSがその研究を奨励したことに端を発している。  米国がマイクロ波多重通信の研究を始めたのは、太平洋戦争終了直後であった。戦争中のレーダー研究を通じて培ったマイクロ波技術を軍事目的以外に活用するのが目的だった。そしていろいろ試行錯誤を重ね、電力会社とパイプライン会社がその長大なシステムのメインテナンスとコントロールにマイクロ波通信を活用することを思いついた。最初に開発された方式はこれまでの周波数変調(FM)方式と異なる時分割変調(パルス・タイム・モジュレーション)というシステムで、簡便、経済性の高いマイクロ波多重通信という触れ込みが利き、米国で急速に広まり始めた。  またベル研も本格的な研究を開始、一九四七年には四〇〇〇メガヘルツのマイクロ波通信方式の開発に成功する。  これに刺激された日本の通信機メーカーも密かにマイクロ波通信の研究に着手した。日本電気、日本無線、東芝など、いずれもレーダー生産の実績を持つメーカーで、戦時下での技術蓄積がフルに活用できるからである。換言すれば、戦後当初のマイクロ波技術開発競争は、過去の技術蓄積の度合いに左右された。  成果を最初にもたらしたのは日本無線である。それもマイクロ波レーダーで実証ずみの自社製のマグネトロンを受信管に使い二六〇〇メガヘルツ、一〇チャンネル時分割方式の装置の試作に成功する。そこで電気通信省調査課の了解を得て、日本無線三鷹工場と箱根双子山間で通信実験をする段取りまで取り付けた。  ところが、その直前、東京・目黒の旧電試本部に看板を掲げた電気通信研究所から待ったがかかった。あわてたのは実験担当の責任者中島茂である。そこでさっそく電通研に出向き、吉田五郎所長に面会を求めた。そして準備も完了し、今日からでも実験が可能なので、一日でもよいから実験させてほしいと懇願した。  だが、吉田は頑として認めない。それどころか「双子山の中継所は絶対に使わせない。装置は直ちに撤去せよ」と、頭ごなしに命令した。その理由は「電波伝播などアテにならん。信頼性を第一にしなければならん電話の中継に頼りない電波を使うなどもってのほか」という単純なものであった。  だが、それは表向きで、実際は電通研に断わりもなしに装置を開発したことに腹を立てたというのが真相のようだ。それは電通研自身が、二十三年秋からマイクロ波通信の研究に着手していたことでもわかる。つまり、日本無線は手順を誤ったのかもしれない。しかし、そこまで言われたらどうすることもできない。 「仕方がないので撤去部隊を編成、現地に派遣することにしたんです。ところが、出発する前の日の夕方、通研の担当課長が飛んできて『実験をやってもよいことになったので撤去は中止してほしい』と言ってきた。そのわけを聞いたら、その日、たまたま通研を視察にきたCCSのポーキングホーンが『マイクロ波の研究が進んでいないのはなぜか、ベル研では全研究の八〇パーセントをマイクロ波多重通信の開発に向けている』と、文句を言ったらしい。それを聞いた所長は驚いてその実験はほかで進めている。必要なら明日にでも実験が可能だと返事をして、その場を取り繕った。それであわてて私のところへ使いをよこしたとわかったんです」(中島茂)  いずれにしても、中島にとってポーキングホーンが救いの神になったことは事実だ。こうして、日本初のマイクロ波時分割方式の多重通信の実験は六十五キロメートル離れた双子山頂と電通研神代分室で行われた。二十四年五月七日のことであった。  これを契機に各地のマイクロ波多重通信研究も大っぴらになり、通信機器メーカーは活気を取り戻した。  一方、復員後、古巣の東大第二工学部に復職した斎藤成文元大尉も、海軍時代に手がけたマイクロ波の研究に着手していた。それも海軍からもらってきたマグネトロンや神田のジャンク屋から買ってきた米軍放出のクライストロン(速度変調管)を使い、センチ波の誘電体特性の研究から始めた。技研在勤中、性能のよい測定器がなく苦労しっぱなしだった苦い経験を活かすためであった。  その研究成果のひとつは、電通研の標準測定法として採用されている。そして、二十五年には、旧海軍技研の水間正一郎技師らが設立した島田理化(静岡県島田市)に測定器の試作を依頼、電通研基礎研究部、東大生産技術研究所にそれぞれ一台ずつ納入された。これが、マイクロ波測定器メーカー島田理化の第一号のマイクロ波測定装置であった。  日本無線、実用化一番乗り  マイクロ波多重通信をめぐるホットな争いが始まったのはそれからである。マイクロ波多重通信は、電話、放送といった通信の高度利用を可能にするきっかけとなる技術である。それだけに各メーカーは力を入れた。  それも電電公社、国鉄、警察庁、電力会社の通信回線の受注合戦と技術開発を競う激しいぶつかり合いであった。  その口火となったプロジェクトは、電気通信省(当初計画は逓信省)が計画した東京—大阪間四〇〇〇メガヘルツ広帯域回線の建設、東北電力の仙台—会津若松間の専用回線の建設、国鉄の青森—函館間の専用回線建設などである。  このうち最初に激しい受注合戦を演じたのは、東北電力のプロジェクトであった。このとき日本電気が提案した方式は二〇〇〇メガヘルツ二三回線の時分割(PTM)方式だったが、競合メーカーの東芝、日本無線を退け、受注(完成は二十八年六月)に成功する。  一方、青森—函館間の国鉄のプロジェクトは、日本無線が受注した。日本無線のシステムは四〇〇〇メガヘルツ、二三回線のPPM・AM方式で、海軍のレーダー技術をフルに活用したシステムだった。だが、場所が津軽海峡の海上、海岸線という複雑な伝播特性を持った地形だけに、工事は思いのほか難航した。しかし、関係者の努力が実り、二十七年十月には何とか開通させることができた。つまり、マイクロ波多重通信の実用化は、タッチの差で日本無線が一番乗りを果たしたのである。  他方、この一連の動きが呼び水になり、日本電気は関西電力、北海道電力、中部電力、電源開発、九州電力、東京電力など電力会社専用回線の過半数を受注し、マイクロ波通信の普及に貢献した。しかし、その経済性、有為性が認められると、二三チャンネルでは足りなくなり、六〇チャンネル、一二〇チャンネルがほしいという要望が強くなってきた。 「そうなるとパルス電波でなく、連続波でないとまずい。そこでマグネトロンに代わる主力真空管が必要になるわけです。その候補として板極管、進行波管、クライストロンの三つが上がった。このうち板極管は、戦時中、レーダー用として海軍技研と日本電気が協力して開発したものがあった。そのころ私は技研の副部長格の技師で、この球の開発にタッチしていた。そして、終戦の三週間ほど前に反射波の受信増幅実験に成功したという、私にとっても因縁深い球なんですよ」  これは戦後、電通研の電子管部に移り、マイクロ波多重通信の開発に参画した武田行松(元旅順工大助教授、日本電気技術研修所長)の話だ。  つまり、広帯域のマイクロ波通信になると、PTM方式よりFM方式の方がはるかに有利になる。日本電気はそれをいち早く見越して、周波数変調方式の研究も並行してすすめていた。これがその後の展開に大きくものをいったのである。電気通信省が建設を決めた東京—大阪間の多重通信回線主装置の製作メーカーに、日本電気を選んだのもそのためであった。  ところが、マグネトロンの可能性を過大に評価した日本無線は、この時流の変化に目もくれず、ひたすらマグネトロンの品質向上に努めた。そして、高性能なマグネトロンを開発、気象用レーダーや船舶用レーダーの性能向上に貢献した。だが、エレクトロニクスの花形になった実用通信の分野では、しだいに見向きされなくなった。やはり、マグネトロンは必ずしもオールマイティではなかったのである。  二十六年春、武田は上司の器材実用化部長であった清宮博(のち富士通社長)と米国に渡った。マイクロ波回線の主力真空管を何にするか、米国の先進技術から学ぶためである。それも占領下とあって、一般人は旅客機で太平洋を横断することが許されず、片道二週間の船旅であった。 「ちょうど、私どもが渡米する一年前にATTのニューヨーク、サンフランシスコ間の四〇〇〇メガマイクロ回線が完成した。まず、その装置を見せてもらいました。するとベル研で開発した装置は板極管(通称「モルトンチューブ」と呼んでいた)を使っていることがわかった。清宮さんも、私も米国の真似はしたくないと考えていたので、進行波管を選ぶことにした。これは正解でしたね。現にATTもそのあとは板極管を使わず、進行波管を使うようになった。そういう意味でも私どもの選択は間違っていなかったわけです」  と、武田は言う。だが、進行波管にした決め手は、武田の勘であった。前述のように、武田は海軍技研で板極管の開発を担当し、大変な苦労を強いられてきた。それだけにベル研で板極管を見せられたとき「これは超精密加工技術の粋を結集して、やっと四〇〇〇メガ用にしたもの」と、一目で見抜いた。それだけに日本で実用生産するには、新しくできた進行波管の方が将来性があると判断したのである。  戦時下レーダー研究を巧みに生かす  マイクロ波通信回線で市場を席巻した日本電気で、もうひとつ見落せないことがあった。それは他社にさきがけて、シリコン検波器を開発していたことである。  戦時中、連合国は航空機用のパノラマレーダーの検波にシリコン検波器を使っていたことは前にも触れた。また海軍技研の助手だった霜田光一(前出)が鉱石検波器をつくり、性能不安定な二号二型電探の改良に貢献したことも述べた。こうした実績に目をつけ、戦後、レーダー技術の平和利用をマイクロ波の広帯域通信に活用することに的を絞り、密かに研究を始めた技術者が日本電気にいた。同社の生田研究所から玉川向の真空管工場に移った長船広衛(昭和十六年東大工学部応用化学、のちNECエレクトロニクスUSA会長)である。  長船は、戦時中、レーダーに使う暗視管の蛍光体の研究に携わっていた。それだけにマイクロ波技術もある程度の知識は持っている。そんな長船がシリコン検波器の開発を思い立った動機は、ベル研のトランジスタ発明のニュースだった。以来、長船は半導体研究のオニになる。  だが、当時は占領軍の命令でレーダー関連の研究も、電波を出すことも厳禁されていた。そこで小林正次技師長(前出)を強引に説得、検波器用のダイオード研究に着手した。それも研究費ゼロ、装置は手製、材料は廃品の活用という悲壮なスタートであった(拙著『日本の半導体開発』参照)。  幸い長船を支援してくれる仲間がいた。森田正典(前専務、特別顧問)、川橋猛(前副社長)、見目正造(日電ICマイコンシステム会長)の三人である。さらに途中から一人助っ人がついた。大内副会長と同じ技術科三十二期の短現士官だった水原徳至(東工大応用化学、のち日電東芝情報システム専務)であった。  この数人のグループの血の滲むような努力が実ったのは、二十五年五月、電通研がマイクロ波通信研究に本格的に取り組み始めた直後のことだった。そして長船が開発したシリコンダイオードを使った検波器は、マイクロ波通信に欠くことのできないキー・エレメントになる。  このため他社は日本電気からシリコン検波器を購入せざるをえなくなった。日本電気が、その後のマイクロ波通信の分野で、独占的優位をかちえた原因のひとつはそこにあった。そういう意味でも、日本電気のレーダー技術は戦後のエレクトロニクス発展に重要な役割を果たしただけでなく、現在の同社のC&C戦略の原点となったと言っても過言ではなさそうである。  電波三法実施で弾みつく  ところで、ようやく戦後の混乱期を脱し復興の緒についた二十四年から二十五年は、日本のエレクトロニクス業界にとって革命的な年であった。そのエポック・メーキングな出来事のひとつは、一九四九年七月、ベル研のウィリアム・ショックレーが発表したPN接合、いわゆる接合型トランジスタの設計理論である。群盲触象のシロウト集団にすぎなかった日本の研究者たちが、トランジスタの原理を理解し、半導体研究に強い関心を持つようになったのは、それがきっかけだった。  だが、それも物理学者を中心としたほんの一握りの研究者、技術者にすぎなかった。あとの大多数はトランジスタの仕組みはわかったが、それが発展途上の電子工業にどんなインパクトをもたらすのか、皆目見当がつかず、懐疑の目で見守っていたというのが実情であった。そんな海のものとも、山のものともわからないトランジスタより、もっと手近なところに大きなメシのタネが転がっていたからだ。  それは二十五年五月二日に公布された電波三法(電波法、放送法、電波監理委員会設置法)の実施であった。これによって戦前戦後、国および米軍の管理下にあった電波は、はじめて民間にも開放された。これが通信機メーカー、家電業界に大きなビジネスチャンスをもたらしたことは言うまでもない。事実、二十六年には民放の開局が続き、NHKの受信契約者が一千万を超す“ラジオブーム”を巻き起こした。  だが、肝心な技術の中身は米国の足許にも及ばなかった。真空管の性能がケタはずれに違うためである。前出の武田は、それに関連してこんな話をする。 「二十六年に渡米したときすごいと思ったのは、ミニチュア管のすばらしいのが市場に大量に出回っていたことです。これ、日本じゃピーナツ管と呼んでいたが、各社ともやっと試作ができるようになった段階で、大多数の生産現場ではその前のGT管ですったもんだやっている、そんな実情でしたね。ところが、ニューヨークのコートランド・ストリート、ここは日本の秋葉原に匹敵する町だが、ここに行くとそんなのザラに売っているんです。あとでRCAの工場見せてもらったら、そのハイティMのミニチュア管をジャンジャンつくっている。あれには驚いた。底力の差をいやというほど見せつけられた感じでしたね」 “ミスター・海軍”の獅子奮迅  この年の秋、海軍短現二期の技術官だった商工省工技院の技官が、米国に向けて旅立った。電気試験所に勤務していた和田弘(元少佐、東大工学部電気科、のち成蹊大教授、日本アルゴリズム社長)である。渡米目的はマサチューセッツ工科大学(MIT)に一年間留学し、戦中戦後十数年間の空白があった日本の電気技術の遅れを取り戻すにはどうすればよいか、自分の目で見てくることであった。  和田は祖父が名和中将の厳父と同期、父は山本五十六と同期で艦政本部一部長などを歴任した海軍中将という文字通り“海軍一家”の出であった。その和田は大学を出て逓信省電気試験所第四部に入る。  だが思うところがあり、十四年に海軍の短現士官になった。そして二年間の服務を終え、一度電気試験所に戻ったが、十七年一月、召集で横須賀工廠電気部の部員として再び軍務に就いた。その直後、たまたまトラック島の工廠支所に出張を命ぜられる。ところが、所定の任務をすませると「まだ残っておれ」という上司の指示を無視して帰国してしまった。もともと一本気な性格だけに、仕事もせずにブラブラ時を過ごすのが嫌いだったからである。  だが時期が悪かった。米軍がマキン、タラワに上陸した直後とあって、この命令違反が問題になり査問委員会にかけられてしまった。そのとき和田は「自分のような才能のある人間はむざむざ死ぬようなことはしない。生きていて仕事をした方が国のためになる」という内容の弁明を、悪びれずに披瀝したという。当時、これだけはっきり自分の所信を言える士官はそうザラにいなかった。  それだけに批判の的になった。そんな和田を助けたのは電波研究部長だった名和である。これを契機に和田は技研に移り、名和の部下になった。その直後の部員会議で、名和は、和田自身に懲罰の公報を読ませ「貴様の言わんとすることはわかるが、要領が悪すぎる」と、きびしく注意したそうである。  そういう経歴の持ち主だけに鼻っ柱も強いし、思ったことはズケズケ言う。MITに留学したときも机にかじりつくようなことをせず、米国各地を積極的に歩き回った。先進技術を自分の目で確かめたのであった。この前向きな姿勢が、和田の人生を大きく変えることになる。  それは電気試験所の俊才、菊池誠(昭和二十三年東大理学部物理科、のち電子総合技術研究所基礎研究部長、ソニー中央研究所長)、垂井康夫(東京農工大教授)、伝田精一(小西六写真工業常務)などの若手研究者を集め、トランジスタを試作、国産コンピューター開発の道を拓くという大仕事をやってのけたことでもわかる。  だが、電総研での評判は必ずしもよくなかった。他部門といさかいは起こすし、部下をやたらにどなる。実績を正しく評価しないなど、欠点をあげたら枚挙のいとまがない。  だが、和田の心を見抜いた部下には、得がたい上司だった。予算は十分とってくれるし、必要な器材も惜しみなく買ってくれる。省間折衝はうまい。ただし、やることをやらないと雷が落ちる。つまり、和田は戦時中、海軍技術陣が演じた失敗の数々を教訓に、新しい国立研究所のあるべき姿を構築しようと、人知れず苦労していたのである。 「確かに和田さんは人の反発を買いやすい言動をする。そのせいか、だいぶいろんな人に憎まれたが、根は純情なんですよ。ただ事に望む姿勢はきびしい。しかも先を見る目は鋭い。だからマネジャーとしてはうってつけだった。つまり、良き時代の海軍精神を身につけていたんだと思いますね。もっとも、あの人の生まれは兵学校の官舎だもの、だから当然かもしれない。それだけに彼から海軍を取ったらとりえがなくなっちゃう。そういう意味でも、和田さんは“ミスター・海軍”だな。真から海軍が好きなんです」  これは、昭和三十九年、和田のあとを引き継ぎ電総研の電算機部長になった野田克彦(前出)の話である。  しかも、その野田も、和田と同じように型破りの技官として業界から注目された。また有能な若手技官も数多く育ててきた。現在、電総研で第五世代コンピューターの開発に取り組んでいるスタッフがその代表的な人たちである。 第十六章 潰えた壮大な夢  方向探知機で伊藤の光電製作所躍進  終戦直前、米内海相が予言した極東の軍事バランスが崩れたのは、二十五年六月下旬の朝鮮動乱が発端であった。これが警察予備隊、海上警備隊を生み、やがて自衛隊創設(二十九年七月)につながったことは周知の通りである。  こうした政情の変化にともなって、伊藤の身辺もにわかに多忙になった。本来の仕事である海軍技術史の編纂も大詰めを迎えたうえに、国防技術の確立という陰の仕事が増えたからだ。幸い史料調査会の資金づくりのために始めた光電製作所も、漁船用の方向探知機(受信電波の発信先を探知する装置)がヒットし、やっと従業員に世間並の給料が払えるまでに成長した。  また、そのかたわら兄弟会社ともいうべき日本電子(風戸健二社長、元技術少佐、電子顕微鏡製作)、産研(平野正勝社長、元技術少佐、魚群探知機製作)、電波タイヤ(中村仁社長元技術中尉、古タイヤ再生)などの技術指導と、手がける仕事は増える一方。にもかかわらず、伊藤はそれを苦にせず、精力的にこなしていた。そういう企業を育て、将来、光電製作所を核にした電子産業グループをつくろうと遠大な構想を持っていたのである。  かといって、伊藤は企業の経営者を指向していたわけではない。それは光電製作所を主宰しながら、二十八年十二月まで専務の立場で社員の指導に当たっていたことでもわかる。  それを訝ったある人が「なぜ社長にならないのか」と、伊藤に問うと、伊藤は「私はとてもそんな器ではない。誰か適当な方がおられたら、その人に社長をやってもらうつもりで空席にしてある」と答えたという。その真意は定かでないが、事業家として生きることを潔しとしなかったようだ。伊藤の二男である伊藤良昌社長も「これはあくまでも推測」と、前置きして、こんな話をする。 「父は、やはり学者として、もしくは、負けた日本を建て直す政治家としてやってゆくつもりだった。そういう意識が強かったように思います。しかし、世の中の要務はまず食べること、そこで科学技術、あるいは、日本の将来を見据えていろいろな事業を考えた。それが結果的に当たったんですね。日本電子の場合も、最初、風戸さんが電子顕微鏡をやろうとしたら、仲間がみんな反対した。それをやれやれとけしかけたのは父だと聞いている。そういう風に会社を経営するより、有能な人材を育て、活かすことに情熱を燃やしていたように感じますね」  そんな伊藤に外遊のチャンスが巡ってきた。そのきっかけは光電製作所が開発した陸上用方探が電波管理局に納入されたことに端を発している。  一進一退を繰り返していた朝鮮戦線で休戦機運が盛り上がった二十七年秋、GHQは郵政省に対し、全国に電波監視網をつくれと指示してきた。それも米陸軍の野戦用の方向探知器を使ってはと指示してきた。そこで、電波監理局は問題の方探の性能をチェックしたがどうも使い勝手が悪い。それならいっそ国産でという話になり、小規模ながら舶用方探で実績をあげている光電に意向を打診してきた。  思いがけない朗報に光電の技術陣は、喜んで引き受け、総力をあげて陸上方探の開発に取り組んだ。そして二十八年には試作機をつくることに成功する。この方探は米陸軍のものより使いやすいうえ、長時間の使用にも耐えることがわかった。その結果、第一号機は宮城県石巻にあった東北電波監理局に納入された。純国産の方向探知機が官需に採用されたのは、これがはじめてであった。以来、各地の電波監理局に同型、もしくは、改良型が次々に納入され、光電のドル箱商品のひとつに成長していった。  この陸上方探の評判は米軍関係者にも伝わり、にわかに輸出機運が盛り上がった。これは伊藤の創業以来のひとつの夢であった。冒頭で触れたように、伊藤は大正末期から昭和のはじめにかけてドイツに留学している。当時のドイツは第一次大戦に敗れ、新しい国づくりに取り組んでいる最中であった。しかし、肝心な経済再建は連合国に対する莫大な賠償金の支払いと、経済政策の失敗による悪性インフレでいっこうに好転しない。このため大多数の国民は、貧困のどん底にあえいでいた。  そんななかにあって、一人万丈の気を吐いていたのは、顕微鏡やカメラで有名なカール・ツアイス社である。カール・ツアイス社は持ち前の高度技術を駆使して、高級カメラや解像力のすぐれたレンズなど付加価値の高い製品を次々につくり出し、それをドル建て輸出する。この経営方針が当たり業績は上がる一方。そして、いつの間にか世界の超優良会社にのし上がってしまった。  伊藤は留学中にその躍進ぶりを自分の目で見ている。それだけに光電製作所をなんとかカール・ツアイスのような不況に強い会社に育てたいと自分なりに考えていた。それだけに、この輸出機運の盛り上がりは、願ってもないチャンスと思ったのだ。  そこで伊藤は、海軍時代の親友である藤村義郎元大佐に協力を仰ぐことにした。藤村は元スイス駐在武官で、戦争末期、ジュネーブを舞台に活躍した米大統領補佐官アレン・ダレスと密かに接触、戦争終結の下地をつくった人である。その藤村は、戦後、航空機の部品輸入と保守を扱う貿易会社を経営していた。したがって、米国にも知己が多く、相談相手としては申し分のない人であった。その結果、ロサンゼルス在住の日系貿易商を紹介してもらうことができた。こうして伊藤は、米国渡航のきっかけをつかんだのである。  日米共同技術研究開発構想  そのとき伊藤の頭にひらめいたのは、戦後初の外国出張を有意義なものにしたいということだった。それを念頭に伊藤は慎重に出張計画を練った。そのうえで思いついたのは、ヨーロッパまで足を伸ばし、恩師バルクハウゼン博士と旧交を温めること、史料調査会伊藤研究室のスタッフが苦心して収集した旧海軍の技術資料を米国に持ち込み、日米共同研究の緒をつくることであった。そのあたりの事情に詳しい田中磯一(元国際電気通信技師、当時、光電製作所研究部長、会長)は、次のように言う。 「伊藤さんは旧海軍の研究成果をなんとか活用したいと、以前から考えておられた。とくに光線、マグネトロン、マイクロウェーブ関係の技術は米国に劣らない高度な技術を持っていましたからね。それをうまく使えば将来いろんな分野に応用できる。そこで伊藤さんは海軍時代の研究論文や、私どもが発明した自動方探の技術資料を英訳して、米国の軍関係者に公開する。そして日本の大学や民間の研究機関に、委託研究がもらえるように働きかけたいと思ったんですね」  もちろん、研究費は向こう持ちである。それによって旧海軍の貴重な研究も生きるし、同時に日本の産業復興に役立つという一石二鳥の効果をねらったのだ。このあたりは、いかにも伊藤好みの発想と言える。  問題はその橋渡し役となる伊藤の渡航資格をどうするかであった。昭和二十七年四月、対日平和条約が発効し、日本は国際社会に復帰が認められたが、そのころは誰もが自由に海外に行けるような雰囲気ではなかった。何しろ、当時、出国できたのは輸出実績のある企業関係者とか、外貨割り当てをもらっている特別な人に限られている。伊藤はそのいずれにも該当しない。そんな矢先、思いがけない朗報が舞い込んだ。伊藤の日頃の考えに共鳴している米極東空軍の幹部が、賓客として招待するから米国にくるようにと誘ってくれたことである。  そこで伊藤は史料調査会の富岡と相談し、近く設置が予定されている防衛技術研究所嘱託の資格が得られるよう便宜をはかってもらった。これで立派な渡航資格ができた。また、渡航費や出先で必要な外貨の不足分は、藤村元大佐に一時用立ててもらうことでなんとか調達できた。  こうして伊藤は、二十九年四月下旬、羽田発のSAS航空で欧米出張の途についた。最初の訪問国は、伊藤にとって第二の故郷とも言うべき西ドイツである。それも、恩師バルクハウゼン博士に会うためであった。  当時、バルクハウゼン夫妻は東ドイツのドレスデンに住み、ナチォナール・プライス(国家栄誉章受章者)として破格な扱いを受け、物質的には恵まれた生活を送っていた。しかし、二人の愛娘は西ドイツに居住している。その愛娘に会うという名目で出国許可をもらい、わざわざ西ドイツのハノーバーまで出向いてくれることになっていた。  五月初旬、博士と十二年ぶりに再会した伊藤は、つもる話を重ねながら令嬢の住むカールスルエーまで行動を共にした。それも十日足らずの短い期間であったが、伊藤にとっては終生忘れ得ぬ旅であったことは言うまでもない。  その旅中で伊藤が一番感銘を受けたのは、博士の国を思う心だった。伊藤はそのときの模様を次のように語っている。 「私が、先生はなぜ西ドイツに移住されないのですかと質問したら、博士は『東ドイツの青年も同じドイツ民族なのだ。自分にはこれをむげに捨てる気にはなれない。それにいつかは両ドイツは一緒になれるはず』と、淋しげにおっしゃられた。この先生の大きな祖国愛には私も胸をうたれました」  恩師との束の間の再会を終えた伊藤は、テレフンケン、シーメンスなどで活躍している大学時代の知己や友人と旧交を温める機会を持った。そして、きびしい占領下で科学技術の再建に賭けるドイツ人のたくましい生きざまや、戦後ドイツ産業界の復興ぶりをつぶさに見聞することができた。  そのあと伊藤はベルギー、英国、フランスを経て、空路ニューヨークに入った。ここで一足遅れて日本を発った光電製作所の田中研究部長と合流、全米各地を歩くことになった。それも最初の数週間は米空軍から派遣された日系二世、松尾大尉がつきっきりで案内するという破格の扱いであった。  松尾大尉の案内で、伊藤が最初に訪れたのはマサチューセッツ工科大学のエレクトロニクス研究所である。この研究所にはドイツ留学時代の旧友が何人も研究に従事していた。ついでワシントンのフォートマンモスの空軍研究所、ニューヨーク州のR空軍研究所などを歴訪した。空軍研究開発長官パット将軍と会い、意見を交換したのはその直後である。その席で伊藤は持参した旧日本海軍の未公開の研究論文や技術資料を紹介しながら、ポトマック河畔の桜並木の由来を引用、今後の日米関係のあるべき姿を切々と訴えた。 「ワシントン名物の桜は、戦前、東京市長だった尾崎行雄が、しっかりした根を持つ苗木を貴国に贈り、貴国が十分な肥料を与えたから立派な桜になって、両国の親善のしるしとなったものである。それと同じように、もし貴国が日本を本当に味方として育てたいなら桜の苗に相当する研究課題と、肥料に相当する開発資金をわれわれに与えてほしい。そうすれば、研究は実を結び、両国の友好関係は持続的なものになるだろう。だが、貴国がいまの桜の花のような完成品(食糧などの援助物資)のみを日本に提供するのであれば、両国の関係は咲き終わった花のように落ちて、飛び去ってしまうに違いない……」  理路整然とした伊藤の話をじっと聞いていたパット将軍は、その思想に共鳴を感じたのか「ドクター・イトウ、その仕事を君がやってみる気はないか」と、逆に提案した。  そこで伊藤は「日本には数多くの優れた若い研究者がいる。これらの研究者に、それぞれの機関を通じて研究を分担してもらうのが最善の策だと思う。自分は陰の人として働くから日米政府間で得心のゆく協定を結んでほしい」と、答えたそうである。  伊藤、防衛技研所長に推されるも、急逝  四ヵ月近くに及んだ欧米旅行から戻った伊藤は、再び多忙な日々を送るようになった。そのころ、伊藤が手掛けようと考えた研究課題のひとつに、コンピューターがあった。  これはMITのエレクトロニクス研究所で、世界初の電子計算機「エニアック」(一九四六年、ペンシルベニア大学とIBMが大砲の弾道計算をするために共同開発したもの)を見せられて思いついたものである。この電子計算機は真空管が一万八千八百本使われており、本体を稼働させると、二、三時間に真空管が一本ずつ切れてしまうというシロ物であった。それだけに伊藤は何か真空管に代わるものがないか、それができれば本当の意味の電子計算機ができると思ったのだ。  その真空管に代わるものとしてクローズアップされたのが“パラメトロン素子”であった。これは、当時、東大工学部大学院の特別奨学生後藤英一(のち教授)が、二十九年五月の電気通信学会で発表したアイディアである。問題の素子はフェライトを使ったもので、真空管の論理回路と比べ構造が格段に簡単で、つくるのが容易であった。そのうえ、一種の素子で、記憶も論理演算も、増幅もすべてできるという便利なものだった。  伊藤はこれに着目した。そして発案者の後藤を光電に迎え入れ、全面的に援助しようということまで考えた。  だが、それは話だけで終わった。資本金六百万円、売上高一億八千万円、従業員百名そこそこの小企業には荷が重すぎたようだ。しかし、その後、関係者が話し合い、パラメトロン電算機の開発は国際電電、電通研、東大高橋秀俊研究室の三者共同で開発する方針が決まる。そして光電は関係の深い国際電電の指導の下に、素子の開発を手伝うという形で共同研究に参画することになった。  吉田内閣の大番頭として活躍した緒方竹虎副総理(元朝日新聞編集局長、緒方研二元大尉の厳父)が、伊藤を訪ねてきたのはその直後である。用件は近々発足が予定されている防衛技術研究所の初代所長に就任してほしいというものだった。その間の事情に詳しい光電製作所の佐藤重雄相談役(当時、取締役)は、そのいきさつを次のように語る。 「防衛庁が技研をつくることになったが、残念ながら所長をまかせられるような人材が防衛庁にいなかった。そこで伊藤さんに白羽の矢が立ったんです。この要請に伊藤さんも乗り気になった。現に緒方さんが帰られたあと、僕は伊藤さんに呼ばれた。そして『実はこういうわけで、オレも再度、お国のために奉公することになるかもしれない。それも二年の約束なので行ってもかまわんか』と相談を受けた。だから僕は『お国のためにぜひやってください。あとのことは心配ありません』と、申し上げた。防衛技研の所長になると、光電の社長はやめなければならない。それを心配されたんですね」  だが、伊藤の防衛技研入りは実現しなかった。それから二ヵ月ほどたった三十年五月九日、光電製作所の会議室で、社員を集め指導中、突然倒れ、そのまま不帰の人となったからである。行年五十四歳であった。  こうして伊藤は一生を海軍に捧げる形で生涯を終えた。それが伊藤にとって得心のゆく人生であったとは思えない。学者肌で戦時向きの研究者でなかっただけに、やり残した仕事がたくさんあったはずである。そういう意味では損な役割を演じた人であった。それも、ひとつには伊藤のもって生まれた性格によるのかもしれない。  何しろ、頭は切れるし、夢は大きい。そのせいか、次々に新しい発想を展開する。そして自らひたむきに努力する。だが、その割に効果が上がらない。大風呂敷と言われたゆえんもそこにある。そんな悪評を浴せられても、伊藤は最後まで自分の意志を貫ぬこうとした。信念の人だったのである。それに関連して名和が興味ある追憶文を残している。 「伊藤君は努力の人であった。戦後“逗子寺詣で”と称して、筆者の家によく訪ねてきた。話題は旧海軍の文献の隠匿、技術の温存、後年は光電製作所の金繰り、アメリカと日本で軍事技術の共同研究をする案など、種々雑多であったが、“逗子寺”の和尚である私には、残念ながら知恵も、金もあまり持ち合わせがない。結局は彼の抱負経綸に感心(表面ではときどきくさしたが)するのがオチであったから、彼はいつも不服に思ったに違いない」 「しかし、ときには二時、三時ごろまで議論し、拙宅に泊まってゆくことがしばしばあった。そんな日は、私はヘトヘトになり、翌朝は九時すぎまで寝てしまう。ところが、朝起きてみると、彼は私の書斎で書きものをしている。『なんだ、もう起きていたのか』と、声をかけると、五時から起きて昨夜議論したテーマをメモにまとめているという。これには私も完全に兜を脱いだ(中略)」  また、名和はこうも言っている。 「幸か、不幸か、彼と私は共通の欠点を持っていた。それをお互いに指摘し合って、図星をあてびっくりする。そういう意味では話し相手として、お互いに愉快な存在ではなかった。お互いに好きな相手でないといった方が妥当であろう(後略)」  つまり、伊藤は直截的な面と繊細な神経を併せ持った学者肌の軍人でありすぎた。そんな性格が部内の仲間から敬遠される原因になったのかもしれない。  伊藤の技術復興プラン  それほど切れ者の伊藤が、なぜ米空軍との共同研究を思い立ったのか、その事情がいまひとつ判然としない。しかし、欧米旅行の一年ほど前、その動機らしき話を、ある業界誌の座談会で述べている。参考のためにその一部を抜粋してみよう。科学者としての伊藤の考え方なり、理念がわかるような気がするからである。 「私はアメリカに負けた瞬間から、これからアメリカの一部になって歩いてゆくより方法がない、と思った。USAというのを改めて、ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ・アンド・エシアというわけです。世界が小さくなりすぎたので、いままでの観念の独立国というものは成立しなくなると思うんです。そうなると、アメリカがこれだけやるなら、われわれもこれだけやるという考え方は成り立たない。人口においても何がしかの相違があるし、地面も、二十分の一。それで同じ力を出そうというところにムリがあるのです。だから、アメリカの一部として力を出し、活動すべきだと思ったわけです……」  そして、今後は、いままでの日本式の銅鉄研究(阪大の浅田常三郎教授の持論で、アメリカが銅でやったら、日本は鉄でやるという考え方)はやらない。日本は日本で、頭脳的にも、産物的にも独自性のある問題点を求めて、きつく食い込んでゆく、それをアメリカに供給し、日本が不得手なものは無理にやらず、アメリカから提供してもらう。  これを徹底的にやれば、日本にも湯川秀樹のような優れた学者が出るようになる。問題は、そういう人材なり、エキスパートを国や組織がいかに活かすかを考えることだと、いかにも伊藤らしい見解を述べている。  また、技術立国を目指し国を再建してゆくために産業や技術者の在り方についても、次のような独特な理論を展開する。 「私はいつも思うが、われわれが生まれてから、一番大きな仕事は何かというと、子供をつくること、人間にとって、自分の生命を延ばすという子供をつくることより大きな事業は、この世の中にあり得ないと考えているんです。ところが、この大事業は、親の真似以外になにもないじゃないか(笑い)、そう考えれば、世の中、万事、真似ですよ。本質的なものになればなるほど、真似が必要です。日本は神州なるが故に、神の選民なるが故に、日本独自の発明を出さなくてはと、そんなえらそうなことを考えるのはおかしい。私は海軍時代から、そういう説をなしていたんです」  一見、矛盾した見解のように聞こえるが、伊藤はそれをひとつの糸で結ぶ方法を、ちゃんと考えていた。伊藤は、それをオーケストラにたとえる。 「日本にも法隆寺や金閣寺という立派な文化財がある。だが、これは音楽でいえばソロにあたる。技術の世界において、このソロは罪悪なのです。技術はオーケストラでなくちゃいけない。何千人、何万人のメンバーが、一本のタクトで、ワッとゆく、いかに第一バイオリンが上手でも、ただそれだけでは規模が小さい。現代の科学技術はオーケストラでなければいけないんです」 「ところが、日本のものは、弓道でも剣道でも、殆どソロをもって珍重がる。宴会で、皆でコーラスを唄うという話は、私は聞いたことがない。大抵自慢ののどを聞かせるというやつで、聞かせられる方からすれば、多くは迷惑至極なんです。なぜ皆が一緒に唄って喜んでくれないのか、それと同じことが技術にも言えるのではないか、それが日本の技術が発達しない原因です」(「時報通信」昭和二十八年四月特大号)  この一連の発言は二十余年間の海軍生活を通して味わった苦い体験や、反省をもとに語られたものだが、これを見ても、伊藤が海軍技術官のなかでも異質の存在だったことがわかる。  その伊藤が口ぐせのように指摘する問題点があった。日本人の無秩序な競争意識である。たとえば、A社が何か面白いテーマなり、良い商品を出すと、同業他社がすぐそれに食いついてゆく。また企業に力がついてくると、どんどん手を広げ、なんでも自分のところでつくろうとする。これが日本に特殊な分野の専門工業(たとえば測定器)が育ちにくい原因だと説いている。  つまり、日本にはオレがオレがという経営者、技術者が多すぎ、本当の意味の専門工業やエキスパートを活かす土壌ができていないと言っているのである。  確かに日本の産業界にはそんな一面があったし、現にいまでさえそうである。そういう意味では、伊藤の指摘もあながち間違っていたとは思わない。だが、少し理想を追いすぎたような気もする。これも伊藤の頭に戦前、戦後のドイツの印象が強く残っていたからであろう。伊藤はそれほどドイツが好きだった。それどころか、国柄、国民性、技術力、そのいずれをとっても、日本はドイツに及ばないと思い込んでいた節さえある。  そんな伊藤が密かに描いていた技術復興の理想像は、第一次大戦後、ナチス・ドイツが採った高度国防国家の建設プランであった。もちろん伊藤はナチス・ドイツに惹かれたわけではなく、その建設プランの持つ長期的なビジョンづくりと計画性を手本としたかったのである。  一九三三年(昭和八年)、政権を握ったヒトラーは、国民の文化生活水準を向上させる目的で、五大プロジェクトの実施を指令した。  (1)自動車専用道路(アウトバーン)の建設、(2)誰もが購入できる国民自動車の製造、(3)石油に代わる人造燃料の開発、(4)国民受信機の生産と普及、(5)テレビジョン研究の推進など——で、いずれも慢性不況に苦しむ国民に期待感を持たせるような政策であった。  共同研究構想の挫折  だが、それは表向きで、本当のねらいは国防に直結する軍事技術を育成強化することであった。たとえば、自動車専用道路は、有事の際、軍用道路や小、中型機の飛行場に転用する。国民自動車は戦車、軍用車両の量産研究。石油に代わる人造燃料は、飛行機、ロケットの代用燃料。国民受信機は各種電波兵器の開発と、量産体制の確立。テレビジョンは原子力関連兵器や未来兵器の開発に直結させるというものであった。  しかも、ヒトラーは、いきなり道路建設に着手せず、まず土木建設用機械開発の研究所づくりからスタートさせた。このあたりはいかにもドイツ人らしい発想である。おそらく日本で同じような事業を手がけたら、大量の人間を動員、スコップとモッコを使って土運びから始めたであろう。日本人とドイツ人の発想の仕方はそれほど違う。  それはさておいて、ともかくナチス・ドイツは、第二次大戦開始直前におよそ四千キロメートル(現在は八千キロメートル)のアウトバーンを完成させた。これが戦車の機能を活かした有名な“電撃作戦”を可能にした原因である。もっとも、のちに反攻に転じた連合軍はこれを逆用しドイツ占領を早めたのだから皮肉であった。  とはいえ、このアウトバーンが、第二次大戦後の西ドイツ復興に果たした役割は大きい。また開発途上で軍用に供された国民自動車は、戦後フォルクス・ワーゲンとして復活、経済再建の重要な担い手になった。  しかし、あとの三つのプロジェクトから生まれたV2号の研究成果や高度な電子技術、人造石油の技術は、戦利品として連合軍に根こそぎ没収される。また、その研究に携わっていた優秀な科学者や研究者は米ソに移住(ソ連は強制移住)、両国の軍事技術向上に大きく貢献した。  こうした戦後の西ドイツの復興策のなかで、伊藤が感銘を受けたのは、住宅対策であった。ドイツの都市も日本同様、連合軍の爆撃や進攻作戦で徹底的に破壊されたはずである。にもかかわらず、戦前のそれに劣らぬ閑静な住宅街が建設されている。これには伊藤も目を見張った。  これも時のアデナウワー・エアハルト政権が、国民の無駄な消費を抑制、徹底した財政政策を実施した結果である。西ドイツが日本に先んじて“奇跡の復興”を遂げたのも、この計画性があればこそであった。これを知った伊藤は、頭の下がる思いに駆られた。日本の復興ぶりとあまりにも違いすぎるからである。  伊藤は帰国後、その実情を小、中学生だった子弟に話し、次のように教えた。 「日本は遊興施設から復興し、ドイツは生産的なものから着手した。われわれは総花的にバラックをたくさんつくったが、彼らは、着実に都市計画によって少しずつ家を造っていった。この考え方の違いは協調心の有無である。残念なことに日本にはそれがない。すべての人が自分を主張する。それは電車に乗る姿、町を歩く様を見てもわかる。そして政治にも科学にも不思議なほど協力が行われていない。日本人、一人一人をとってみると、確かに優秀だ。むしろ、個々のドイツ人と比較したらわれわれの方が勝っているかもしれない。だが、それが一堂に集まると、自己主張の強い人間の集団でしかない。これに対しドイツ人は単一の性格を持った集合体になり、お互いに協調し合う。それでいて自己の自由と独立心、協調心同様、毅然としたものを持っている。日本とドイツの違いはそこにある」 「もしいまの日本がこのまま進むと、『昔、東洋の片隅に黄色い色をした小さな人間が、小さな島の上に押し合い、へし合い住んでおりました。その人たちはただオレが、オレがと、他人を押しのけようと争っていました。自分のことばかり考えて暮らしておりました。だから……』と、百年後にどこかの国の炉辺で、お婆さんが子供に聞かせる昔話ができるだろうと——。そうならないようにするには、海外に行って広く世界を知り、日本を傍観者の立場で見ることだ。そのうえで新しい日本をつくるにはどうすればいいか、つねに青年らしい理想を持って、求め、拓いてゆくことが必要だ」と——。  これを見ても、伊藤がいかに大きな視野で日本の行末を考えていたかがわかる。そのロマンに似た理念が、米空軍との共同研究という、当時の人が考えもしなかった発想を生む動機につながった。資源も、これといって世界に誇れる固有技術もない日本が生き残るためには、人間の頭脳を活かすことしかない。  そこで米軍の委託研究を引き受け、同盟国として米国の国防に寄与する。同時にその成果の一部を日本の技術復興に役立てれば、日本の技術水準も欧米並みに向上する。そのあたりはいかにも軍人らしい発想だった。この協力体制が実現していれば、いま日本が直面している貿易摩擦など起きなかったかもしれない。  ところが、日本の大多数の大学、研究機関は、この提案に拒否反応を起こした。米軍の“ひもつき研究”はやりたくないというのだ。研究費はほしいが、左派勢力に睨まれる。それがこわかったのである。  伊藤は失望した。なぜ、そんな目先のことにこだわるのかと思ったのだ。こうしたもろもろの心労が伊藤の死を早めたのかもしれない。ところが、皮肉なことに、その直後、伊藤が予想もしなかった技術革新が起こった。無名の町工場にすぎなかったソニー(当時、東通工)のトランジスタラジオの開発である。それも伊藤が急逝して三ヵ月後の出来事であった。  これが刺激になって、電機業界にトランジスタブームが起こり、その後のエレクトロニクス発展に結びついた。そして、あれよあれよという間に、日本はエレクトロニクス大国アメリカの牙城を脅かす存在にのし上がってしまった。それも便利で使いやすい民生機器開発に的を絞り、熾烈な競争を展開しつかんだ成果である。別な見方をすれば、戦後の“ニッポン”は、欧米諸国の常識では考えられない異常な活力を発揮し、技術発展を遂げたということになる。  無秩序な競争は技術発展の障害になると警句を残して世を去った伊藤がもし生きていたとしたら、現在対外摩擦の焦点としてクローズアップされている、この日本人の猛烈な“横並び意識”をどう見ているか知りたいものである。 エピローグ 海軍技術の失敗と教訓  敗戦で過去の蓄積をすべて失った日本が、民生技術を梃子にわずか四十年そこそこで世界有数の技術大国に成長した。これは、世界の技術史のなかでも稀なケースと言われている。  この“奇跡の復興”に旧海軍の技術官や、関連メーカーの技術陣の果たした役割がいかに大きかったかは、これまで述べた通りである。これも関係者が海軍時代の苦い経験を自分たちの職場で活かし、一歩先んずる努力を惜しまなかった結果であった。その原動力になったのは、飽くことのない知識欲である。  戦後、海外の技術情報に飢えた日本の若い研究者や技術者は、外国の文献や技術資料を貪欲に読みあさり、戦時中の遅れを取り戻そうと懸命に努めた。その過程で自分たちに欠けていたものがなんであったかを知る。それは、  (1)計画性の欠如、  (2)高度な専門技術者の不足、  (3)研究推進のマネジメントの不在、  (4)量産技術の未熟、  (5)技術の芽を正しく評価する評価者がいなかった、  などであった。  日本の技術者たちは、この教訓をもとに技術の再構築に取り組もうと意欲を燃やした。だが、その夢はなかなか実現しない。そんなことより疲弊した経済を建て直すことが先決だった。そこで事業家は外資という注射を射ち、外国の先進技術を取り入れ、急速に工業水準を上昇させ、海外市場で太刀打ちできる体質をつくることを考えた。  そのねらいはよかったが、中身はお粗末の一語に尽きた。何しろ、当時、日本の事業家は一にも二にも米国のものでないと夜も明けないと思い込んでいた。事実、米国のものはなんでも売れた。それだけに一刻も早く、米国と手を組んで、米国のものを自分たちの手でつくり出し儲けたい。それによって同業者を叩き潰すことも不可能でないと誰もが考えた。  そのうえ、文字通り島国に閉じ込められ一層狭くなった“島国根性”は、せめてこの島で大将になることを望んだ。そこで先を争って米国詣でを始める。それが、のちに無秩序な競争を生む動機につながるのである。  そのため多くのメーカーは莫大な月謝(ロイヤリティ)を払い、これはと思う技術を見境なく導入した。それは、昭和二十五年からOECD(経済協力開発機構)に加盟した三十九年までに三千六十二件もの技術を導入したことでもわかる。  だが皮肉なことに、手に入れた技術の大半は書庫に山積みされ陽の目を見なかった。活用したくとも、周辺技術が未熟だったり、日本の土壌に合わなかったりでものにならなかったのである。つまり、かつて日本の陸海軍が演じた誤ちを、こんどは米国を相手にしていたわけだ。これも日本人有識者の間に根強くはびこる欧米崇拝思想と、指導陣の技術に対する無知が原因であった。  やがて世相が落ち着くと反省する余裕が出てくる。米国という“反面教師”から良い点を学ぶ姿勢が出てきたことがそれを物語っている。同時に、その米国から新しいプロセステクノロジーの種をもらい、付加価値の高い製品をつくり出すことに活路を見い出した。  こういうやり方は、日本人のもっとも得意とする分野だけに、技術者も水を得た魚のように活躍し始める。その成果が実り、日本の工業水準も欧米と肩を並べるところまで成長した。そして輸出で稼いだ利潤を元手に新しい技術への挑戦を開始した。  とりわけオイルショックを契機に取り組んだエレクトロニクスの技術革新は、世界の耳目を集めるにふさわしい技術成果をもたらした。高品質の鉄鋼製品、低燃費小型乗用車、NC工作機械、高集積の半導体メモリ、家庭用VTR、オーディオ機器、電子複写機、ファクシミリ、OA機器、産業用ロボットなどがその代表的な商品である。しかも、日本のメーカーはそれらの製品を大量に生産、出血覚悟の輸出競争を展開、稼ぎまくった。これが貿易摩擦の火種になったことは言うまでもない。  だが、技術社会がここまで成熟してくると、従来の技術の延長やちょっとした改良で付加価値を高めるやり方にも限界が出てくる。とすれば、欧米のように新しい技術のタネを自分たちで見つけ、育ててゆく努力をしないとライバルに蹴落されてしまう。  そこで、メーカーも次世代技術の開発に積極的に取り組んでいるが、期待するほど成果が上がっていないというのが実情である。ソフトをうまく取り込んだ技術開発や、未踏技術のシステム構築に馴染んでいないため、と多くの識者は指摘する。  目先のハード開発に追われ、ソフトの取り組みを怠った“とがめ”が、いまになって表面化したわけだ。しかも、こうした傾向は巨大プロジェクトやハイテク分野に顕著に見られる。専門技術者を動員した組織的な研究体制が整っていないためだ。日本最大の技術者集団「海軍」が、先端技術のタネを持ちながら短期的成果にとらわれ、最後までそれを活用しきれなかったのも、それが原因だった。  戦後、東大に戻り、マイクロ波通信、レーザー光線、宇宙観測ロケット、宇宙通信など先駆的な研究を手がけてきた斎藤成文元大尉は、その問題点を次のように指摘する。 「この手の仕事を進める場合、一番問題になるのは技術者の思い上がりです。たとえば、先端技術のプロジェクトに携わる研究者や技術者は、みんなエリート意識を持っている。それはチームの団結をはかるうえでは役立つが、実際に仕事を進める段階になると、逆にこれが疎外感を生む原因になるんです。というのも、意見をまとめるとき『ここが重要』『これはむずかしい』と、誰もが自分の担当分野の特異性を強調したがる。これじゃ仕事はいつまでたっても先へ進まない。やはり、こういうものは専門の壁を取っ払って、みんなに理解してもらい、お互いに知恵を出し合うようにしなければ、まとまるものもまとまりませんよ」  これは、斎藤が海軍技研でのマイクロ波レーダー開発、あるいは宇宙開発事業を通じて体験した教訓でもあった。  ところが、現実の企業社会では「オレが、オレが……」という、他人を押しのけ一歩でも前に出ようとする強烈な競争意識にとらわれたタイプの研究者、技術者を主体にした昔ながらの研究体制がまかり通っている。個性的な研究を行ったり、すぐれた固有技術を持ちながらも、日本の組織研究が欧米に比べ見劣りすると言われるゆえんもそこにある。これも技術の評価者、プロジェクトをまとめてゆく有能なマネジャーが少ないためであろう。  もっと心配なのは、メーカー同士の過当競争である。ライバルを抑えてシェアを拡大するには新しい技術、魅力のある製品を他社に先んじて市場に出し、優位に立つしかない。そのため研究者や技術者は、どうしても目先のハード開発に追われる。  現に名の通ったメーカーの研究者や技術者に会うと、「尻をたたかれ、執念を燃やして開発に取り組んだ」とか「仕事に追われ、落ち着いて考える暇もない」といった話を何度も聞かされる。これも時代の流れかもしれない。  だが、このような息苦しい状態が続くと、日本では本当の意味の独創性豊かな研究者、技術者が育たなくなるのでは、という嫌な予感がしてならない。そういう意味でも、日本最大の技術者集団「海軍」の演じた失敗をもう一度振り返り、研究者、技術者のあるべき姿を再確認してみる必要があるのではないか、という気がするのである。 あとがき  いまから七年ほど前、『日本の半導体開発』という本を書くため、十数社のエレクトロニクスメーカーを時間をかけて取材したことがある。その過程で旧日本海軍の電波兵器開発に携わっていた人が、この業界でいろいろ活躍していることを知った。  海軍の技術の掘り起こしをやってみたいと思ったのは、そのころであった。とはいえ、私自身は技術畑出身でなく、一介の物書きにすぎない。しかし、海軍とは全然無縁だったわけではない。戦争末期、仕事(報道)を通じ若い士官や予科練出身のパイロットとの交遊もあったし、戦争のすごさ、恐さも何度か身をもって体験している。  だが、正直いって海軍がああいう惨めな負け方をしようとは、夢にも思っていなかった。それどころか、見るからに“戦さ艦”らしい独得のシルエットを持った軍艦や、性能のよい飛行機を駆使して必ず劣勢を覆す働きをしてくれると思っていた。その期待は、見事に裏切られた。そういう意味では残念の一語に尽きる。  敗戦に至る経過や原因は、旧軍人や関係者がそれぞれの立場で記録を残している。しかし、純技術的な目で敗因をえぐった文献は意外と少ない。とくに電波関係でそれが言える。『日本の半導体開発』(五十六年十二月、ダイヤモンド社発行)を書き上げてから、よけいそう感ずるようになった。  日本経済新聞社出版局から執筆の打診を受けたのは、その直後であった。私はためらわずに「海軍技術官」をテーマに選んだ。だが、海軍技術官といっても造船、飛行機、各種兵器、施設、燃料関係と非常に幅が広い。それを全部追っていったら脱稿はいつになるかわからない。そこで多少基礎知識を身につけたエレクトロニクスに的を絞ることにした。  ところが、取りかかってみると容易でないことがわかった。何しろ、電波関係の技術官といっても数が多い。しかも、所在がなかなかつかめない。それを探しながら取材をするには、時間と費用がかかる。そこで二年ほど準備期間をおいて、本格的に取材を始めたのは五十九年春からだった。  この間、お目にかかった関係者は五十名を超える。しかし、レーダーに的を絞ったため使ったデータは全体の半分ほどでしかない。残ったデータをもとに改めて再挑戦するつもりだ。記録を残す価値があるからだ。そのためにはさらに取材をすすめなければならない。もし、旧海軍の関係者が本書を読まれ、何かお気付きになられた点、参考になる話があれば、是非ご協力を仰ぎたいと思っている。  なお、本書を書くために別掲の通り数多くの文献を引用、参考にさせていただいた。とくに元海軍技術大尉の内藤初穂氏(技術科三十二期)の『海軍技術戦記』、頼惇吾技術大佐の遺著『その前夜』(非売品)、伊藤庸二技術大佐の追悼録『伊藤さんの俤』(非売品)、立石行男大尉の「電探かく戦えり」は多くの箇所で抜粋、引用させていただいた。このうち伊藤家、内藤氏にはご了承を得たが、頼氏、立石氏のご連絡先が確認できず、ご挨拶ができなかった。その辺は筆者の意図を汲み、ご寛恕賜りたい。  なお、文中の敬称は略させていただいた。その点改めて関係者にお詫びしたい。    一九八七年六月 中川 靖造   主要参考文献 伊藤庸二君記念文集刊行会『伊藤さんの俤』(非売品、昭和三十一年七月) 頼 惇吾『その前夜』(非売品、昭和四十七年三月) 立石行男「電探かく戦えり」(土曜通信社刊『今日の話題』所収、昭和三十年五月) 千藤三千造ほか『機密兵器の全貌』(原書房、昭和五十一年六月) 内藤初穂『海軍技術戦記』(図書出版社、昭和五十一年九月) 田丸直吉『日本海軍エレクトロニクス秘史』(原書房、昭和五十四年十一月) 史料調査会編『太平洋戦争と富岡定俊』(軍事研究社、昭和四十六年十二月) 阿川弘之『軍艦長門の生涯』(新潮社、昭和五十年十二月) 小林正次『未完の完成』(自伝と論文、非売品、昭和五十二年十二月) 日本電気『日本電気ものがたり』(昭和五十五年二月) 日本電気『続日本電気ものがたり』(昭和五十六年十月) 名和武追想録刊行会『名和武追想録』(昭和四十六年五月) 藤岡由夫監修『長岡半太郎伝』(朝日新聞社、昭和四十八年十月) 伊藤正徳『連合艦隊の最後』(文芸春秋新社、昭和三十一年三月) 高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』(光人社、昭和四十六年) 防衛庁研修所戦史室『戦史叢書・マリアナ沖海戦』(朝雲新聞社、昭和四十三年) 福井静夫『日本の軍艦』(出版協同社、昭和三十一年) ルーセル・グレンフェル「ビスマルクの挿話より」(ドン・コンドン編、宇都宮直賢訳『コンバット』所収、白金書房、昭和四十九年) 津田清一『幻のレーダー・ウルツブルグ』(CQ出版社、昭和五十六年十二月) 電波関係物故者顕彰霊会編『海軍電波追憶集(1)』(昭和三十年) 海軍施設系技術官記録刊行会編『海軍施設系技術官の記録』(非売品、昭和四十七年) 海軍航空史編纂会編『日本海軍航空史1〜4』(時事通信社、昭和四十四年) 深田正雄『自動制御想い出ばなし』『電気制御想い出ばなし』(KEC情報、関西電子振興センター、昭和五十二年十月〜昭和五十七年四月) 「週刊読売別冊」『実録太平洋戦争、激動編、慟哭編』(読売新聞社、昭和四十九年八月、九月) 呉造船所社内報編集局編『船をつくって80年』(KK呉造船所、昭和四十三年三月) [著者]中川靖造 一九二六年、東京生まれ。総合誌編集記者などを経て、現在、フリーランス・ライター。著書には『巷談日本経済20年史』(荒地出版社)、『日通事件』(市民書房)、『ウジミナス物語』(産業能率短大出版部)、『全日空』『日本の半導体開発』『日本の磁気記録開発』『日本楽器の超LSI戦略』『創造の人生 井深大』『東芝の半導体事業戦略』(以上、ダイヤモンド社)、『ソニー神話は甦るか』(講談社)、『NTT技術水脈』(東洋経済新報社)などがある。      * 本作品は一九八七年六月、日本経済新聞社より刊行されました。 本電子文庫版は、講談社文庫版(一九九〇年一〇月刊)を底本とし、一部字句を改めたものです。 登場人物の肩書きは取材当時のものですが、親本にある“現”、“故人”の表現は削除しました。 海軍技術研究所(かいぐんぎじゆつけんきゆうじよ) 電子文庫パブリ版 中川靖造(なかがわやすぞう) 著 (C) Yasuzo Nakagawa 2001 二〇〇一年三月九日発行(デコ) 発行者 中沢義彦 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 *本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。