TITLE : 碑・テニヤンの末日 碑・テニヤンの末日 中山 義秀 目次   厚物咲   碑   秋風   テニヤンの末日   月魄   少年死刑囚   高野詣 厚《あつ》物《もの》咲《ざき》  瀬谷は七十の声を無視し最早世事一切を流れにまかした気持でいながら、やはり心気とみに衰えはじめたことを感じないわけにはゆかない。頭は冴《さ》え永年手がけた仕事に何の困難を覚えるのではないけれども、ともするとはて知らぬ放心に陥っている自分にしばしば愕《おどろ》くことがある。七十年の生涯をふり顧《かえ》ってみると溜《ため》桶《おけ》の蛆《うじ》虫《むし》が桶の壁を攀《よ》じ登っては落ち、攀じ登っては落ちして依然として汚物の中から脱《ぬ》けでられなかった姿の厭《いとわ》しさが考えられる。かの悲哀とか寂《せき》寥《りよう》とかいうものではなかった。自分の人生そのものが舌打ちしたいばかりいまいましかったのである。  その思いは朝から一碗《わん》の茶を給されたなり拠《ほう》っておかれながら、じっと同じ新聞を読み続けている片野の姿に気がつくと、燃えあがるように一層じりじりしてくるのである。片野は瀬谷と同年でありながら、頭髪はまだ若者のように黒い。面長な顔の皮膚は品よくつやつやと輝いている。そして眼鏡をかけずに細い活字の新聞を、いつまでも根気よく読み続けていることが出来るのだ。瀬谷と片野とが金鉱を探して、全国の山々をめぐり歩いた四十代の頃と片野は殆《ほと》んど少しも変っていない。驚くべき強《きよう》靱《じん》な生活力だと不思議がられるばかりである。  それは瀬谷と片野との生活の相違のためであろうか。瀬谷は区裁判所前のごみごみした路地内に住み片野は町の郊外にいる。瀬谷は朝から晩まで机の前に坐って代書業をこつこつと営んでいるのだが、片野は東南を開いた山の傾斜に果樹園を作って終日日光の中に働いているのである。もっとも生活の程度はどちらも同じである。瀬谷は昔弁護士の試験に努力しただけあって、あらゆる訴訟事務に詳しく町内随一の名代書人の評判をとっているが、半紙一枚拾銭程度の代書の収入はしれたものである。片野は桃・苺《いちご》・桜んぼ・葡《ぶ》萄《どう》・梨《なし》等を栽培しているけれども、老人一人の仕事でぼつぼつと町に売り出しにくるのだから、寧《むし》ろ瀬谷の収入には及ばないくらいだ。  昔を思えば両人ともに落ちぶれはてたものである。瀬谷の実家は大きな木綿問屋だった。片野は瀬谷の町から一里ほど隔った村の酒造家の旦《だん》那《な》だったのである。寺子屋式の学校で二人は知合った。それから二人は遠く旧藩の塾に遊学した。二人は秀才だったにも拘《かかわ》らず士族の子弟達に制されて、驥《き》足《そく》をのばす事が出来なかった。二人は夢破れて帰ってきた。片野はそのまま養家に居つき、瀬谷は東京へ出奔した。実家の父の反対を押切ったのだから、瀬谷は一切実家の助けをうけず苦学した。車夫、新聞配達人などの不規則で苦しい生活は、彼の健康を害し頭をそこねた。病弱な長兄の死で瀬谷は空《むな》しく帰郷し稼《か》業《ぎよう》を継いだ。老父が歿すると瀬谷は、同じく養父を喪《うしな》って独立していた片野と組んで、さらに大きな夢を描き全国の山々を金を探して歩きまわった。金は発見出来ず稼業は時勢におされて没落した。今度は片野が夫婦連れで上京した。五十歳を過ぎた夫婦は結局都会生活の苦渋をしたたか味《あじわ》ったばかりで帰って来た。故郷に帰って来ても家はなく僅《わずか》に残った持山の斜面を拓《ひら》いて果樹園にし、麓《ふもと》に仮小屋を建てて其《そ》処《こ》に住みついた。その間瀬谷は路地内の長屋で、ずっと代書業を営みつづけていたのである。  二人の生涯はザッとこんなものだ。彼等は相応に賑《にぎや》かな夢を見ようとして、夢の殻ばかりを掴《つか》まされたわけである。時勢の波は常に彼等の背を追越してすぎた。しかし瀬谷が片野を側に見てじりじりするのは、あながち敗亡の分身を彼に見出すためではない。また瀬谷自身の内部の衰えにも拘らず、この生涯の友が底知れぬ若さを秘めている故の嫉《しつ》妬《と》でもなかった。瀬谷は片野に三十円ほど借りがあった。九年前娘が嫁入りする時の支《し》度《たく》金《きん》に借りたものである。ほんの好意のつもりで返済の期限も利子も定めてなかった。証文さえも入れていなかった。瀬谷は自分の誠実を信じ、片野もまた友を信用していたからである。片野は瀬谷の生活の苦しさを考えて、毎月一円ずつを友から取立てた。月の五日十五日二十五日と三度朝早々から瀬谷の家にやってきて、その時々の都合次第、有ればよし無ければまたやってくるという至極気軽な態度で新聞を読んでいるのである。瀬谷はこうした片野の寛容さに感謝した。  九年の間には片野の身の上にはいろいろと痛ましい変動があった。貧窮のうちに老妻が死に、小さい時から他家へ奉公にやっていた一人息子が家へ帰って間もなく戦争に行き、負傷して帰ってくると片野は後妻を迎えていた。息子は第二の母の若さに遠慮して家を出て行き後妻もまた大酒を飲んだ末一年ばかりで老人を見棄て行方をくらましてしまった。片野は孤独になった。変らないのは彼が月の五の日に三度、欠かさず朝から新聞を持って瀬谷の家へ一円の金を取立てに来ることである。九年間といえば既に元金の三倍以上を支払っている訳である。一年に十二円、三年で三十六円、九年で百八円。  瀬谷には友の心が解らなかった。同時にまたそうと知って九年間も払いつづけている瀬谷自身の気持の始末もつかなかった。瀬谷は弱気な自分を顧み、今更のように片野の取立ての巧妙さに驚かざるをえない。 「片野君、今日は駄目だ。帰って下さい」  と瀬谷が不《ふ》機《き》嫌《げん》な心を思いきって口に出して云うと、四時間でも五時間でも辛抱強く同じ新聞を繰り返し読みふけっている片野は、「ほう」という風に顔をあげて忽《たちま》ち穏《おとな》しやかな微笑を浮べながら、 「では、この次またお伺いしましょう。どうせ、遊びついでなのだから」  そう云ってあっさり帰って行く片野に、それ以上強い言葉を出すことができなかった。またこの次にと思って延ばしていると、次に来た時には向うから何も云い出さないかぎり、やはりこちらから思いきって切りだすことができない。独《ひと》りで苛《いら》々《いら》している間に三時間経ち四時間経ち、つい《かん》癪《しやく》が起きてしまうのである。その心理の葛《かつ》藤《とう》が厭《いや》さに手元に幾らかでも余裕があれば、なに一円ぐらいと思って出してやる。そして九年間続いて来た。今では貸借りの関係よりも月ぎめ一円の小《こ》遣《づかい》でもやるような習慣になってきている。片野もそのつもりらしい。金銭の貸借りは一時だが、借りた恩は永久だとすれば、片野は金も恩も永久に貸したつもりでいるのである。返済の期限や利子を定めた証書を取交して置かなかったのが、つまり瀬谷の重大な手落ちだったのだ。瀬谷も代書業をしていてそれくらいの事に気づかぬ筈《はず》はない。当時彼は娘の嫁入りや何やかやでひどく生活が苦しかった。返済の期限をきめてもちゃんと払えるかどうか自信がなかった。月一円としてくれたのは片野の好意である。その好意に対して水臭く月一円宛《ずつ》何年間に返済などと証書を出す訳にはゆかない。片野も要求しないので暗黙の間に彼の友情をうけたつもりでいた。今になってみれば片野の友情は瀬谷を陥し入れる奸《かん》策《さく》だったことになる。片野は果して最初からそうした腹だったのであろうか。  瀬谷は近頃七十の声がしきりに頭にかかってくるにつけても、この際片野との貸借関係をはっきりして置いた方がよいと漸《ようや》く決心した。彼の弱気にまかせていれば片野の生きている限り借金を払いつづけなければならない。しかも片野がまだ四十代の人間のようにつやつやしていることを考えると、瀬谷の手では払い終らず妻や娘の上にまで及んでくるかも知れないのである。これまでの片野の遣《や》り方を思えば、瀬谷の亡きあと片野は随分彼の遺族の手からも金を取り続けかねない。 「ねえ、片野君。借金の方はもういい加減、勘弁していただこうじゃないか。今年で九年間払いつづけて来た訳だからね。月一円にして百円なにがし、利子ともに充分な筈ですよ」  すると片野は吃《びつ》驚《くり》したように新聞から顔を離して、 「へえ、もうそんなになりますかね。つい昨日のような気もするけど」 「冗談じゃありませんよ。郁《いく》子《こ》の嫁入りの時ですからね。その年生れた孫が、もう十になっておりますよ」 「どうも証文をいただいた訳でもないものだから、頭が耄《もう》碌《ろく》しちまって。それに瀬谷さん、私もこの年になりたった一人で生活が苦しいものですからねえ。月々の小遣に実はこちらさんを頼みにしているのですよ。あの時は貴方《あなた》に金をあげたつもりだったが、貴方がお堅く一円ずつでも払うと仰《おつ》有《しや》るものだから、それがすっかり癖になっちまいましてね。これは困った。どうも困ったことになったな」 「いや貴方がお困りなら、私もあの時お世話になったのだから、一円ぐらいどうにでもしますよ。しかし、はっきりするところは瞭《は》っきりしておかんとね」 「そうですとも、そうですとも。ほほう、九年経ちますかなあ。あれから女房に死なれ、子供には逃げられて、ああ私にしてみるとまるで夢のようですわい。長生きはしたくないものだと、この頃になって我が身が沁《しみ》々《じみ》と情無くなりますよ」  瀬谷には片野のこうした口調の話が苦《にが》手《て》だった。片野の愚痴がこれから長々と続くからである。そして妻あり子あり孫ある瀬谷の境遇を無上の生活のように羨《うらや》み、彼と較べて自身の孤独を喞《かこ》つ口の下から友の無情を恨むような口《こう》吻《ふん》をたらたらと洩《もら》し始める。竹馬頃からの友として明日をも知れぬ齢《よわい》の片野を、孤独に見棄ておく手はないというのである。では家を出た彼の一人息子を連れ戻してくれるように頼んでいるのかと思うと、片野は子供の事などよりも後添いの女をほしがっているのだ。これには瀬谷は唖《あ》然《ぜん》とした。片野はもっともらしく老後の寂しさを慰める茶のみ友達などというけれど、決してそんな風雅な欲望ではないことはこの前の例で解っているからである。四十年余連れ添った片野の老妻が亡くなると彼は早速後をほしがった。瀬谷も彼から頼まれるまでもなく心にかけて探し廻ったが、なかなか適当した老女が無い。四十過ぎ五十歳ほどの寡婦がまるきり無いわけではないけれども、片野の生活や気質《きだて》を承知で来てくれる者が無いのである。そのうち片野は自分の手で、娘といってもいい三十代の女を家庭へ連れ込んだ。長く女郎をやり廃業してからは町の或《あ》る隠居の妾《めかけ》になっていた女である。そして一年ばかりで女に逃げられてしまった。大酒を飲んだその阿《あ》婆《ば》擦《ず》れ女が時々片野を罵《ののし》った言葉が、瀬谷の記憶に今でもあざやかに残っている。 「こんなシツコイ爺イったらありゃしないよ。一日だって私をらくにしちゃ置かないんだからねえ」  女が片野を愛していたなら、そう汚《きたな》くは云うまい。片野は女から嫌《きら》われそして瞞《だま》されたのである。しかも逃げた女を探し廻る片野の狂態は、はた目に浅ましいばかりだった。伜《せがれ》が家出した場合は冷淡というよりも、寧ろ女と唯二人っきりの同《どう》棲《せい》生活のために却《かえ》って喜んでいたくらいだったが。  だから瀬谷は、片野の愚痴には相手になるまいとつとめた。そのためには金を出してやるか、片野が年々丹精をこめている菊の話に話題を転じるよりほかはない。菊の事になると長尻の片野も、急に留守のことが気にかかってそわそわと帰りかける。片野の菊は町の名物だった。毎年秋に催される町の展覧会で、片野の出品はいつも一頭地をぬいていた。彼は小心で吝《りん》嗇《しょく》な性質のくせに、ふしぎと菊は大菊作りに限りその中でも花弁のがっしり盛上って雄《ゆう》渾《こん》な味いのする平弁の厚《あつ》物《もの》咲《ざき》と管弁の太《ふと》管《くだ》咲《ざき》の二種にきまっていた。彼が会場へ出品する二三鉢は、ただならぬ気品と生彩とをはなち群花を圧してしまうのである。よろずに物惜みする片野は菊の苗にかけては殊《こと》にひどく、その方の好《こう》事《ず》家《か》連とは随分高値で取引きしているらしい。実は瀬谷も老後の手すさびかたがた菊作りには眼がなく、片野の菊苗には垂《すい》涎《ぜん》おく能《あた》わざる次第で、彼が九年間無駄に金を払いつづけてきた鷹《おう》揚《よう》さの裏には、なにとぞして片野から良き菊苗を手に入れたい、菊作りの秘訣の伝授にあずかりたいという下心が、無意識の間にしろ働いていなかったとは云えないかもしれないのだ。しかし片野が時たま配《わ》けてくれる菊苗に、ろくな物のあった例《ため》しはなかった。此《こん》度《ど》こそ、此度こそはと期待に燃え、肥料に心をこらし手をつくして、結局腹立たしい思いをなめさされる。しかも片野は決して苗が悪かったとは云わない。培養土や栽培法について、瀬谷のやり方に難癖をつけてしまうのである。  片野が帰った後は妙に気色が悪かった。片野のため苛《いら》々《いら》させられた胸の濁りが容易に澄まないのである。年齢の重みを感じる事ひとしお深くなったこの頃は殊にこらえ性がなく、片野に抱《いだ》く瀬谷の感情は体内でぽっぽっと焔《ほのお》するほどに強かった。金の事といい菊苗の事といい、また己の不幸や孤独をたてに他人にのみ期待する片野の虫の好さは、これが六十年来の友人といえるだろうかと瀬谷は片野を腹立ち憎みたくなる。巷《こう》塵《じん》に埋れつくした瀬谷の身にとっては友の善悪は最早問題ではなかった。ただ老いの身を互に劬《いたわ》りあうような心友が欲しい。己の生涯とともに片野との六十年の交遊もまた空《むな》しかったことを考え、片野のような人間と結び合された宿命を思うと瀬谷は二重にいまいましくなってくるのだった。  こうした片野の性格を更《あらた》めて見直すにつけ、歩いてきた生活の道が人間に加える変化の跡に愕《おどろ》かれる。少年の時分の片野は、なめらかな果実の緑の肌《はだ》のように美しく、温順で人々から愛され他人にも親切だった。彼は七つの時養家に貰《もら》われてきたのである。片野の生家は宿場の本陣で、養家とは姻《いん》戚《せき》関係になっていた。生家も養家も旧家を誇る家柄で、どちらも多勢の奉公人たちを使っていた。両家は城下町を中にして六里ばかり隔てた山間の在所にあった。片野は親の許《もと》を離れるのを厭がったが、城下町で武士の児が差すような小さな刀を買ってやろうとなだめすかして、彼の父親自身六里の道を養家へ二頭の馬で送ってきた。町で父から刀を買って貰うと片野はすっかり元気づいて、反対に父の馬の歩みを急がせるようになった。すると彼の父親は馬上に喜び勇んでいる可愛い三男の我が子を、人にくれてやるのが急に惜しくなってきた。  父子はこの山を越えれば養家へは半里ばかりという峠の頂で、馬を休ませかたがた路傍に下りて息子に菓子を喰べさせた。山々は今が躑躅《つつじ》の真盛りの、崖《がけ》には藤が花房をたれている若葉の季節である。脚下の谷間では鶯《うぐいす》が啼《な》いていた。父親は煙草を一服喫《の》んでは我が子の姿を眺《なが》め、二服喫んではまた眺めしていたが、とうとう、俊坊よ、母の家へ帰りたくはないかとカマをかけてみた。ところが片野は頭をふって、刀を買って貰ったからは約束通り養子に行くと答えたそうである。つまり片野俊三はそんな子供の時分からして律《りち》儀《ぎ》者《もの》だったわけだ。青年となり瀬谷と一緒に藩塾に遊学していた時にも彼のこの性質は変らなかった。二人は真《ま》面《じ》目《め》に漢学を勉強した。塾生達がぬけ遊びする放《ほう》蕩《とう》にも加わらなかった。殊《こと》に美《び》貌《ぼう》の片野は誘惑される機会も多かったであろうが堅固に身を持した。彼は美貌であるためにかえってすべての女性を軽視していた傾きさえあった。  遊学から失望して帰ってくると、片野は養父母が選んでくれた美しくもない女と結婚して、やかましかった養父の命に唯《い》々《い》諾《だく》々《だく》としながら小まめに働いた。彼は街道筋に大きな宿屋稼業を営んでいる客商売の彼の実家より、酒造りの養家の方を稼業の格が上のように考えていた。それ故瀬谷が東京へ出奔する秘密を打明けた時にも、片野は酒屋の若主人の地位の誇らしさにさして心を動かされた風も見えなかった。  瀬谷は数年間の東京生活を憶《おも》うと、悪夢の中を彷《ほう》徨《こう》していたような感情に憑《つ》かれる。大都会の生活はじつに多様複雑で、彼は竟《つい》にその性格を掴《つか》むこともそれに同化することもできなかった。彼はぎりぎりのところまで辛抱したし闘いもした。しかし彼はまるで空虚を相手にして戦ったように、彼のすべての努力は空《むな》しかった。田舎《いなか》や藩の塾にいた時には、あれほど鋭く生き生きと働いていた彼の頭脳は麻《ま》痺《ひ》したように動かなくなってしまった。彼が労働の苦学生活からやっと脱け出て代言人の書生に住み込みともかくも勉強に専心出来るようになった時、彼はその恐ろしい悲みを満喫した。彼は昼の勤めが終ると夜を徹するばかりにして六法全書と格闘しつづけたのである。しかし法典はつめたい恋人のようにいつも彼の頭脳の外にあった。彼は喰ったり喰わなかったりした不規則な苦学生活のために、ひどく胃をそこねていた。彼は漢方医が調合してくれる安価な煎《せん》薬《やく》を持薬にして服《の》んでいた。玄関に近い北向きの三畳の彼の部屋は、土《ど》瓶《びん》で煎じているその持薬の鼻持ちならぬ臭気がいつも充満していて下女さえも彼の所には近づかなかった。彼だけがその激しい臭いの中に無感覚に毎日々々必死に法典を諳誦しつづけていたのである。  過労が瀬谷をおとろえさせた。そのため彼は女性に無関心であることができた。彼の顔の皮膚は灰のように濁っていた。眼は飛びだして鋭かった。頭髪は脱けおち、地肌が白くすいて見えた。一度二度三度と弁護士試験の数を空しく重ねてゆくにしたがって、彼にとり試験は業苦にちかいものとなった。恐怖と不安のため彼は受験場では全くの痴《ち》呆《ほう》者だった。日々夜々諳誦しつづけた条文の一行すら思いだすことができなかった。彼は脂《あぶら》汗《あせ》をたらして時間一杯を最後まで苦しみ、とうとう白紙を出した。そして外見だけは昂《こう》然《ぜん》と場外まで歩いて来て不意にばったりと倒れた。  それでも瀬谷は、受験を思いきることも出来なければ、また自分に絶望することもなかった。反対に彼は愈《いよ》々《いよ》闘志を奮いおこし、悲《ひ》愴《そう》な信念の下に更に翌年の試験を目ざして邁《まい》進《しん》した。彼の兄が死に家人が強《し》いて彼を郷里へ引戻したのでなかったならば、彼はおそらく試験のために狂人となるか命を失うかしたに相違ない。彼は都会生活で破壊された健康と頭脳を恢《かい》復《ふく》するのに長くかかった。彼が長い悪夢からさめたように漸《ようや》く自分自身をはっきりと意識しはじめた時に、彼の老父が死に間もなく母も亡くなった、番頭が彼に代って稼業をみた。彼は再び自由になった。しかし彼は二度と出京しようとは企てなかった。彼は都会の土では萎《しお》れ、郷土でやっと息を吹き返すかの植物にも似た自分の宿命を観念した。  瀬谷直人は結婚して郷里の市井の人となった。日露戦役後のブウムに煽《あお》られた鉱山熱に駆られて、片野と一緒に金鉱をたずね歩いた。彼等が奥州の山間に行った時である。山を案内してくれる筈《はず》の土地のブローカアが留守で、彼の妻君が代りに彼等を金山へ先導した。彼等はその妻君の美しさに吃《びつ》驚《くり》した。鄙《ひな》には稀《まれ》なというけれど、彼女は単に美しいばかりではなく滴《したた》るばかりに色気があった。金は麗水より生じ、玉《ぎょく》は崑《こん》岡《こう》より出《い》ず。そういう昔藩の塾で習い憶《おぼ》えた句に新しい意義を附加しながら片野は彼女にすっかり夢中になってしまった。事実また駅から十六里もある人煙とぼしい片山里に、そうした美人を見出したことは奇蹟のように思われた。由来その地方は平家の落《おち》人《ゆうど》の後《こう》裔《えい》と称して、京型の美人が多いということを噂《うわさ》に聞いていたけれど、目のあたりそれに接してみると瀬谷にしろ心を動かさずにはいられなかった。物馴《な》れた起居振舞から判断すると、年は二十八九歳にもなっているのであろうが、清《せい》冽《れつ》な山間の気は少しも彼女の麗質を衰えさせてはいず、かえって年《とし》増《ま》ざかりの熟したみずみずしさが生地のままな新鮮さであらわに強く迫ってきた。  彼女の家は普通の農家ではなかった。街道筋にひらかれているささやかな茶店風の家だった。往来から土間へ這《は》入《い》るとすぐ炉がきってあり、店には駄菓子の箱や少しばかりの清涼水の瓶《びん》、鑵《かん》詰《づめ》などが並べられ、土間には酒《さか》樽《だる》が据えてあった。蚕も飼ってあるとみえて階段口から覗《のぞ》かれる二階は蚕室になっていた。二人は其《そ》処《こ》へ午前の十一時頃に著いた。女は榾《ほた》火《び》の灰を防ぐために頭髪は手《てぬ》拭《ぐい》でつつみ、モンペをはいた膝《ひざ》を斜めに色めかしく横坐りして、炉端にただ一人昼《ひる》餉《げ》の汁を煮ていたが、彼等の来訪を予期していたものとみえて、二人が店へ這入って来たのを見ると頭の手拭をとってにっこり愛想笑いをもらした。二人はその刹《せつ》那《な》呀《あ》っと眼をみはる思いがした。山《やま》家《が》風《ふう》のつくろわぬ装いの中から突然現れでた彼女の明《めい》眸《ぼう》皓《こう》歯《し》は、ひと眼で二人の感情を魅しさってしまったのである。女は良人《おつと》が親戚の不幸で急に留守しなければならなくなった言い訳をして、二人に昼飯を饗《きよう》応《おう》した。 「一本おつけ致しやすかなし」と女が銚《ちよう》子《し》を持って気軽に土間の酒樽の方へ立ちかかるのを瀬谷がとめた。瀬谷も片野も酒に弱かったので、酔っては折角の山の検分ができぬと思ったからである。片野は側《そば》で一本ぐらい宜いではないかという顔附をしていたが、別に何とも云わなかった。昼食後二人は女の案内で山へ出かけた。女はそのままの服装に夏の陽ざしをさけるため菅《すげ》笠《がさ》をかぶった。その姿がまた妙になまめかしかった。金が出るという山までは一里余あった。途中片野は何かと冗談を云って女を笑わした。生真面目な彼にしては珍らしいことだった。  女は先《ま》ず試掘しかけて落磐のためにそのまま抛《ほう》棄《き》してしまったらしい廃坑へ、二人を案内した。そして廃《ず》石《り》の間から鉱石らしい物を拾いあげて二人の試料入れ袋におさめた。それから木立の茂みを分け二カ所ばかりあった露頭を見せた。二人は探鉱鎚《づち》で露頭を欠いて袋に入れた。女は更に下の谷間を指して崖《がけつ》縁《ぷち》の粘土〓《ひ》があるから見ないかと云った。彼等が沢へ降りてみると、粘土〓の方々に穴が穿《うが》たれてあった。 「家の人が此処の試掘権を取る前村の人が金粉が出る云うてあんな悪さをしただからなし」 「ほう、金粉が採れたんですかい」 「今でも少しはあっかも知れねえだわし」  女は片野にそう云うと懐《ふところ》からお椀《わん》をとりだして白い粘土をかき入れ、モンペを脱いで裾《すそ》をたぐり白く豊かな脛《はぎ》を見せながら沢の水でそれを溶いた。谷間の青葉を透かして落ちてくる日光が女の手《て》許《もと》の水に揺らぎ、清水にひたった女の足形を、青いばかりにくっきりと描きだした。眼も魂も吸われるほど美しくあざやかな皮膚の色だった。やがて女が笠の上からやや汗ばむほど上気した顔をあげて二人の方にさしだした椀の底には、なるほど彼女の云うとおり微細な金粉がほんの僅《わず》かばかりきらきらと燦《かがや》いていた。  瀬谷と片野とは翌日帰ってくるという女の良人と会うために、村はずれの河原の湯宿へ泊った。鉱区の有望らしい事を語り合って前祝に一杯飲み早くから寝た。瀬谷が夜中にふと目ざめてみると傍の片野の寝床は空だった。しかし深く気にもとめないでそれなり眠ってしまった。後で聞くと片野は便所へ起きた序《ついで》に湯につかって来たのだそうである。翌日女の亭主の方から二人を宿へ訪ねて来て、試掘権を五千円ばかりで譲渡したい口裏を洩《もら》した。二人はいずれ試料の鉱石を分析してみた結果、技師立会いの上なるべく早く相談をきめようということでその男と別れた。知合いの鉱業所に頼んでやった鉱石分析の報告は、金の含有量十万分台で採算有望だった。それで専門家を連れ近日伺うと男に手紙を出してやると、折返して鉱区は既に他に譲渡したからという断りの返事が来た。手金を渡したのでもない口約束だけの話だったから、破約されてもこちらから不平の云ってやりようもなかった。  片野はあらわに失望落胆した。彼の失望ぶりは鉱区よりもあの妙になまめかしかった女にたいする未練のように聞えて瀬谷には可《お》笑《か》しかった。そういう瀬谷ももう一度あの女に会ってみたいという気持は充分あったのである。しかし見事に瞞《だま》されたのは瀬谷の方で、片野は瀬谷をだしぬき素早く手をまわして鉱区を一人じめにしてしまっていたのだ。片野は他人名義で試掘を始め鉱区の譲渡権利金とも小一万に近い資本をそれに注ぎこんだ。しかも試掘して採れた鉱石は最初の探鉱の時持帰った鉱石とは金の含有量が二桁《けた》も違った貧鉱で、当時の相場では到底採算がとれないばかりか鉱脈は途中の断層できれていた。彼はつまりインチキにひっかかったのである。後で知れたことだが片野から五千円の譲渡金をせしめた男は名うての悪ブローカアだった。女はそれしゃあがりの彼の情婦だったのである。片野は彼を訴えると息巻きこんで出かけて行ったが、逆に姦《かん》通《つう》の告訴をすると、ブローカアから威《おど》かされた。片野は河原の湯宿へ泊った晩一人ひそかに女の家へ訪ねて行って手附けの金を五百円とられて来たのである。その五百円と女いとおしさに彼は深みに陥《おち》込《こ》んだのだ。美しくない妻と不平もなく暮してきた片野にとりその女との情事は、恐らく生涯初めての不幸な恋の経験だったかも知れない。  この失敗は片野の一生の打撃となった。二人が鉱山熱に浮かれて稼業を人まかせに抛《ほ》ったらかしている間に、彼等の家運は次第に傾いて行った。片野は思い切りよく伝来の土地を売払って東京へ出て行った。そして長男を骨にし一層零落して帰ってきた。長男は東京の工場へ出て働き、肺で亡くなったのである。片野夫婦が東京で何をして暮してきたかは詳《つまびら》かでない。しかし、風聞によると片野の旦《だん》那《な》様気《き》質《しつ》から初めは体裁よく楽《らく》して暮せるような商売を狙《ねら》って損をし、だんだん落ちぶれて仕舞には子供相手の駄菓子屋のような事をやり、とうとう持って行った金を殆《ほと》んど使いはたして帰ってきたものらしい。  彼等夫婦はしかるべき商人に仕上げるつもりで子供の頃から他郷の商店へ奉公に出して置いた次男の若者を手許へ呼び戻すと、捨値で売るよりはと残して置いた唯一の財産である裸山の斜面を拓《ひら》いて果樹園にした。果樹園が出来上ると息子には洋品雑貨をになわせて村々を売り歩かせ妻には小作田をつくらせた。果樹園は東南に向って開き春夏秋と花を絶やさず、斜面の麓《ふもと》に建てられた掘建小屋に近い親子三人の侘《わび》住《ずま》居《い》も季節さまざまの花に埋れて風《ふ》情《ぜい》があった。片野は果樹や草花の栽培に器用だった。桃や梨や葡萄や栗等の新種の苗を取寄せて育上げるのに栽培をあやまらなかった。実のなる枝とならぬ枝の見分けや新旧の枝を按《あん》配《ばい》する伐切などにも巧みで、山頂から麓にかけ諸樹木は流れるばかり整然と布置され高さも枝ぶりも一様に統一されて見事だった。瀬谷は終日薄暗い長屋の店先の机に向って煩《はん》雑《ざつ》無味な代書仕事から解放され、郊外の広々とした大気と日光とをほしいままにした片野の果樹園を時折訪れることを、命の保養とするくらい楽みにしていたが、何故か片野が人の訪問を喜ばぬ風を知るとその喜びもいつか断念してしまった。  つまり片野はおそろしく吝《けち》になってしまったのである。もともと律儀な小心者だった彼は酒屋の旦那様と人々から奉られていた時分にも、村人を招いて大盤ぶるまいをするようなことは殆んどなく、慾ばかりはってけちけちと財産を減らしてきたのであるが、東京から帰って来て以来は都会人のそんな風だけを真《ま》似《ね》て彼の吝《りん》嗇《しよく》は病的におちいった。彼は一個の果物一茎の草花も売物になることを考えて、金儲《もう》けの話でも持込んで来ないかぎりの彼の所を訪れてくる人々をば彼の収穫を狙う害鳥みたいに看《み》做《な》した。果樹と草花を相手にしていれば孤独な生活など少しも意に介しないようだった。殊《こと》に菊の栽培をはじめてからはその秘密を盗まれることを何より恐れた。彼が多数の鉢を栽培しない原因の一つは、夜分それ等を隠しておく場所に困るからである。  検査に合格した息子の入営期が近づき迫った時に片野の妻が病に倒れた。胃《い》潰《かい》瘍《よう》だった。長年の粗食と過労とがたたったのである。父子で看病してなるたけ医者の手にはかけまいとした。ひどく苦痛を愬《うつた》える時には、片野がもぐさで鳩《みず》尾《おち》に灸《きゅう》をすえてやった。息子は母に心を残して入営した。片野は妻の病気を厄介がって瀬谷の家を訪れる度に愚痴をこぼして行ったが、病気そのものは重病であるにも拘《かかわ》らず、それほど心にかけていない風だった。ただ看病について手のかかることと、妻に寝つかれた老いの身の不自由さについての不平ばかりだった。見舞に行った瀬谷の妻は病人の衰えぶりに吃《びつ》驚《くり》した。病人はもう幾日となく絶食をつづけていた。喰べ物のにおいを嗅《か》いだだけで、嘔《はき》気《け》を催してくるというのである。それで瀬谷の妻が片野は一体どんな物を病人に喰べさせているのであろうかと台所を調べてみると、幾度も幾度も水を加えて煮なおしたらしい粥《かゆ》や蓋《ふた》をあけたばかりでプンと臭《にお》いのくる味噌汁鍋《なべ》等が隅《すみ》に抛りだしてあった。片野は無駄と手数を省くために病人の喰べ残しを幾日でも宛《あて》がいつづけていたのである。病人が喰べ物の臭いをかいだばかりで嘔気がくるというのも当然の話だった。  それからは瀬谷の妻が家事の隙《すき》をみて遠道を看病に通った。病人は何よりも新鮮な野菜を喰べたがった。農家に生れ育った女として無理ない望みだったが、冬の季節で野菜に乏しかった。それに病人はもう固形物を摂《と》ることはできなくなり、スープぐらいしか啜《すす》れなかった。片野は野菜を雪囲いして貯蔵していたけれども、スープをつくるため沢山の野菜を無駄にされるのを厭がって瀬谷の妻が求めても隠して出さなかった。瀬谷の妻は仕方なく自分の費用で町の店から野菜や肉を仕入れてきた。衰弱の極に達した片野の妻は、或る日不意にひきつけてしまったことがあった。すると傍に看《み》ていた片野は、 「あっ、とうとう死んだ。死んだ」  そう喜び叫んで吻《ほ》っと安《あん》堵《ど》の息をもらした。瀬谷の妻が病人の手《て》頸《くび》を握ってみると未だ確に脈をうっていた。それで直ぐ医者を迎えに駈けだそうとすると、片野がムキになって無駄な事をされては困ると怒りだした。 「といって未だ脈のある病人を見殺しに出来ますか。いいえ宜うございます、お医者さんの費用は私が払いますから」  瀬谷の妻は腹立ちまぎれにそう云いすてて街道へ飛びだして行き、折よく通りかかった村人に医者を至急迎えて来てくれるよう頼んだ。そして医者の来る間、 「おりんさん、おりんさん」  と不幸な同性の身体をゆすぶりつづけた。医者は息を吹き返した病人の太《ふと》腿《もも》に葡萄糖液を注射したが、病人の肉体はそれを吸収する力さえなく皮膚は液を注射されるにつれてゴム風船のようにふくれあがった。それでも病人はその滋養液のため全く食を摂らなかったにも拘らず、それからなお二週間生き延びて死んだ。片野によれば、唯苦しむために無駄に生きていたようなものだった。  兵営から特別の休暇をえて帰ってきた片野の息子は、母の死《し》骸《がい》を見て茫《ぼう》然《ぜん》となった。それほどに母の姿は変りはてていた。全身の肉という肉は落ちつくしてまるでひからびた蛙《かえる》のようであり、軽々と掌にのせられるかと思われた。片野が納屋から果物箱をひきだして棺を造り、杉森の細木を伐《き》って丸太を拵《こしら》え、父子で雪道を村の墓所へ担いで行った。その凄《すさ》まじいばかり侘《わび》しい野辺送りに附いて行った者は、瀬谷夫婦を入れ僅《わず》か数人にすぎなかった。  片野の妻の死後、瀬谷は堅く口止めされていたという彼女の秘密を妻から打ち明けられた。片野の妻のお鱗《りん》は五百円の金を肌身離さず持っていた。お鱗は自分の死期を覚ると、瀬谷の妻に頼んで彼女の甥《おい》を密《ひそ》かに呼び寄せその金をくれてやった。片野はその事実はもとより妻がそうした大金を持っていたことすら知らなかった。金はお鱗が片野の許へ嫁入る時彼女の父から与えられたものである。お鱗はそれを誰にも云わずまた銀行へも預けずに、実に四十年間秘蔵していたのだ。そして今わのきわに唯一人生き残っている彼女の身寄りに与えて死んだ。  瀬谷はこの話を聞くと片野の夫婦関係が今更のように考え直された。瀬谷はお鱗を嫁入り当時から知っている。片野のやかましい養父が選んだだけあって、お鱗は働くことと辛抱の強さでは全く申分のない女だった。代りに彼女はおそろしく無口で殆んど笑わなかった。彼女は片野の生活が盛んだった時分も片野が落ちぶれてからもちっとも変らなかった。いつも粗服を著て粗食に耐え誰からも注意を払われずに終日働いていた。彼女は莫《ば》迦《か》なのか悧《り》巧《こう》なのか分らなかった。片野が稼《か》業《ぎよう》を抛《ほ》ったらかして鉱山熱に浮かされていた時も彼女は不平を云わなかった。片野が悪ブローカアの情婦に誑《たぶら》かされて財産を失っても、彼女は怒らなかった。片野が伝来の土地を売払って東京へ出ようと云えば黙って彼に従った。東京でも彼女は恐らく田舎《いなか》にいた時と同様、転々する度に落ちぶれてゆく心細い都会生活を黙って忍び通したのであろう。再び田舎へ帰って来てからは二反歩ばかりの小作田地を、煤《すす》色《いろ》の血を吐くまで殆んど彼女一人で耕作した。彼女は自分の五百円の金をもって入院すれば、命を全うすることが出来たかもしれぬのにその金を使わなかった。病中片野からむごい扱いをうけたが瀬谷の妻に何も愬《うつた》えなかった。彼女が無智な昔者だったことは間違いないとして、彼女は一体片野という人間をどんな風に考えていたのであろう。彼女は片野を愛していたのであろうか、それとも憎んでいたのであろうか。いやそれよりも先ず彼女は、人間の感情というものを持っていたのであろうか。彼女は長男を骨にして東京から帰ってきてもついぞその悲みを人に語ったことはなく、片野のように愚痴をこぼさず息子の命日を弔うというようなこともしなかった。次男が入営する際にも、彼女が重病でそれが一生の別れとなるかもしれないのに、彼女は息子の挨《あい》拶《さつ》にたいして唯一言、 「ああもう行くのか。うん、身体《からだ》を気をつけて」  そう云ってくるりと後ろを向いたなり、涙一滴こぼさなかったそうである。  瀬谷は不思議なお鱗の性格を考えてきて急に愕《がく》然《ぜん》とした。そうだ、彼女は四十年間肌身につけて離さなかった金以外にこの世において何物も信じなかったのである。五百円といえば当時、まして若い女の身にとり莫《ばく》大《だい》な金額だった。その大金を誰にも知られず彼女一人で所有しているという満足と誇りとをもって、お鱗は生活のあらゆる艱《かん》苦《く》と運命の無慈悲さとに耐えてきたのに違いない。無智な彼女にそうした哀《かな》しい信仰を抱《いだ》かせたのは彼女の父であろうか、或いは片野の人柄の故だろうか、または女の個性を無視した時代のシステムの責めに帰すべきであろうか。瀬谷は彼女の血であり命であった金を、良人《おつと》にも息子にも渡さず唯一人の身寄りである彼女の甥にくれてやったことを思うと、良人や息子にたいするお鱗の愛情の有無を疑うよりもまず彼女の荒涼として救いなき魂の憐《あわ》れさにうたれざるをえなかった。なぜなら彼女の甥は近在に知れわたったならず者で、酒を飲み賭《と》博《ばく》に耽《ふけ》り彼女の金がどんな風に消費されてしまうかを、お鱗はよく承知していた筈だったからである。  ところで片野は何《ど》処《こ》からこの秘密を知ったのであろうか、多分お鱗の甥が酔いにまかせて喋《しやべ》りちらかしたのだろうと思うがお鱗の死後間もなく血相を変えて瀬谷の所へ馳《は》せつけてきた。さだめし秘密を知って彼に黙っていた不親切を、難詰されるのであろうと覚悟していると、片野は単に妻の金は良人に属すべきものか甥に属すべきものか聞きに来たのだった。それで瀬谷が権利は勿《もち》論《ろん》良人にあるがと仔《し》細《さい》に説きだそうとすると、片野はもうそれだけ聞けば充分だという風に話の腰を折ってまたあわただしく帰って行った。  瀬谷が娘の輿《こし》入《い》れ費用の一部に片野から用立てて貰った三十円の金は、片野が甥から取戻した妻の金の一部だった。一旦我が手におさめた以上たといどんな事があっても返す筈のない甥から片野がどうして金を取返したものか聞いてみると、片野は家を釘《くぎ》づけにして蒲《ふ》団《とん》を背負い甥の家へ居催促に乗込んで行ったのだそうである。甥はもとより片野の催促を鼻であしらった。すると片野は金を返してくれないかぎり此処は動かぬと云い張った。 「おお、勝手に好きなだけいなされ。けれど幾日居ろうと飯を喰わさねいから、うぬから先平《へ》太《た》張《ば》ったと云わねいようにさっしゃれよ」 「当り前じゃ、あの金がなければどっちみち生きてゆけない年寄りだから、餓え死にするまで此処に居らせて貰いますわい」  肩《かた》肱《ひじ》張った二人の間にそんな応酬が交《かわ》された後、甥は面倒くさいとばかり家を飛びだしてしまった。困ったのは彼の妻だった。片野は言葉通り家内の隅に蒲団を敷いて横《よこた》わったまま晩になっても動こうとはしない。まさか喰べさせずに抛っておくことも出来かねたので、夕飯をつくって出したが片野はふりむいてもみなかった。翌朝もそのとおりである。二日経ち三日経っても飯も喰べずに死骸のように凝《じ》っと寝続けている人間の気味悪さに、子供達は脅《おび》えて泣きわめくし甥の妻は焦《しよう》躁《そう》のはて気がおかしくなりそうだった。どうせ良人の極道に空しく使われてしまうそんなに思いのかかった金は一刻も早く片野に返して、この変な苛《いら》立《だ》たしさからのがれたいものだと彼女は躍起となって良人の行方を捜しまわった。そして町の淫《いん》売《ばい》窟《くつ》にしけこんだなり酒に酔っぱらって正体もなくなっている良人を漸《ようや》く探しあてると、遮《しや》二無二金を良人の懐《ふところ》からねじりとって来て片野に突返してやった。片野は命がけで亡妻の金の大部分を取戻して来たのである。  片野の息子が入営した軍隊は関東州の独立守備隊に廻された。そして満洲事変に参加し各地を転戦中息子は匪《ひ》賊《ぞく》の弾丸にあたって内地へ後送された。弾丸は彼の胸を貫いたのだが不思議と命が助かり、病院で手当をうけた後温泉で療養した。傷が殆《ほと》んど癒《い》えると彼は不意に帰ってきた。雪道を母の遺骸を担《かつ》いで葬ってから一年余ぶりでの帰郷である。町の郊外から桃や梨の花につつまれた小さな我が家を望見すると、彼は孤独に暮している父を思ってなつかしさに胸が躍《おど》った。彼は戦傷の身も忘れて思わず軍人らしい駈け足になり我が家に著《つ》いてみると、小さな家の中は客で賑《にぎわ》っていた。何かの祝い事らしく台所は酒《さか》樽《だる》や料理で足の踏場もない有様である。客の中には彼の見知らない顔も混っていた。息子はとっさに自分の凱《がい》旋《せん》祝かな、どうして自分の不意の帰郷を知ったのであろうと訝《いぶか》しく思ったが、新に建増された奥座敷から現れて来た父の顔を見てすぐそうでないことが解った。父は酒屋の旦那様だった時分に作ったフロックを著て、酒の酔につやつやと赤らみながらひどく若返っていた。父は息子の不意の帰郷に吃《びつ》驚《くり》していたが、同時に息子の意外に早い帰りを不服に思うらしい表情のひらめくのを息子は敏感にみてとった。  その日は片野の婚礼の披露日だった。客は息子の凱旋を二重にお目出度がって、早速奥の宴席へ息子を招じこもうとしたが、息子は囲《い》炉《ろ》裡《り》端《ばた》に腰をおろしたなり頑《がん》固《こ》に動こうとしなかった。片野も強《し》いて勧めなかった。まあ重傷を負って帰って来た身体だから、当人の望むよう楽にしておいた方が宜かろうと人々を制した。息子が帰ってきたと聞いて彼の新しい母となった女が挨拶に出て来た。白《おし》粉《ろい》やけのした下品な顔立ちの女だった。すぐ馴《なれ》々《なれ》しく振舞って息子の身を劬《いたわ》り、息子の著替に自分の丹前を添えて出した。息子は著替えてしまってからそれに気づいた。亡母の〓袍《どてら》にしては手触りが柔かだったからである。彼は片袖をひっぱって眺《なが》めてみてそれが三十代の商売女でも著るらしい渋いお召であることを知った。すると息子の眼からぽろっと涙がころがり落ちた。すべてが母の亡くなった時と余りに違いすぎていた。台所に充ち満ちた酒樽や料理、大勢の客達、老父のフロックコート、建増された新しい座敷、亡き母の夢にも思い及ばなかったであろうこの立派な丹前、息子は掌にのるばかり痩《や》せ乾《ひ》からびて死んだ母の姿の思い出に泣けてきたのである。  息子は父と新しい母との生活を数カ月辛抱した。片野は新しい妻を大事にした。手が荒れるということで妻には土いじりをさせなかった。妻の云うことを何でもよく肯《き》いた。妻は町から離れた山野の孤《ひと》つ家《や》生活を厭がり、町に小綺麗な小間物屋を持ちたがった。片野は妻の希望に内々心を惹《ひ》かれながらも、これだけは肯かなかった。店が妻の力で成功した場合、自分が妻から棄てられることをおそれたためである。片野と妻とは毎晩酒を飲んだ。町の旦那様みたいに膳に魚をきらさなかった。片野はすぐ酒に酔ったが、妻は三四合飲んで色にも出さなかった。五六合はいると漸くはしゃぎ出して淫《みだ》らな口を利いた。片野にはそれが魅力らしく妻に酒を惜まなかった。息子が見かねて反対すると父と子との間に争いが始まり片野は伜《せがれ》に出て行けと呶《ど》鳴《な》った。息子は政府から戦傷手当を公債で三百円余うけるとそれを現金に換えて百円を懐《ふところ》にし、子供の頃から他家へ奉公に出されて父母の縁薄かった自分の孤独を悲みながら残金を老父への孝行の仕納めに置いて家を出て行った。瀬谷は片野の息子をあまり知らなかったに拘らず妙に彼のことを思いだして、あれは片野には過ぎた子だと考えた。他家で苦労して片野の感化をうけること尠《すくな》かったのが、かえって彼の仕合せとなったに違いない。あの子なら何処へ行っても自分の運命を開くだろう。そのように片野の息子の行末を想像しながら、瀬谷は我れから志をたてて挫《ざ》折《せつ》した自分の若年時代とひき較べて、一人の人間が身を立てるも立てないのも其処に何か運命の準備してある自然の道があるような感慨におそわれた。  息子の家出後半年余りして今度は新しい妻に逃げられると、片野はすぐまた後添いをほしがるようになった。彼が命を賭《か》けて取戻した亡妻の金を使われた上息子が残していった金まで全部費消されてしまっても、片野は後妻に懲りるどころか一層夫婦生活への思慕が高まり独《ひと》り身暮しには我慢出来なくなってきたらしかった。しかし片野の酷薄さが知れ渡っているので誰も彼の貧乏暮しの所へ来たがらない。そのうち片野は瀬谷の事務所に出入りする金貸しの後家さんに眼をつけだした。彼女は地方官吏の未亡人で良人の死後そのままこの土地に居つき、亡夫の恩給でつましく生活するかたわら小金を貸して今ではなかなかの財産家になっている。最早二十年近く後家で通しているので、五十過ぎになっても彼女の真っ白な餅《もち》肌《はだ》は若い女のような湿《しめ》りに柔いでいた。彼女は瀬谷の誠実な人柄と法律上の知識を高く買っていて、貸借についての訴訟事はすべて瀬谷に相談した。彼女とすれば弁護士に依頼する費用を丸徳しているわけだが、瀬谷にとっても悪い顧客ではなかった。規定の代書料のほかに彼女に相応した謝礼もするからである。  彼女は亡夫の遺児を育てあげて東京の大学へ出している。そしてゆくゆくは息子の嫁にでもするつもりか親戚の美しい娘を引取って女学校に通わせ、女中と三人暮しの安《あん》気《き》な身の上だった。大体が男相手のしかも決してやさしい稼業ではないから気性も男まさりに強くなりがちなのであるが、琴の糸道に明るくて女らしい優しさを失うまいとつとめている程の嗜《たしな》みもそなえている。片野が彼女に目をつけたのは当然すぎるくらいだが、二十年も寡婦を通して金融業に成功したようなしっかり者が片野の後妻にくる筈《はず》がない。片野もさすがにそれは感じていて彼女を我が家に迎えようというのではなく、彼女の許に婿入りを望んでいるのである。さすれば彼女としてもどのように家のためになるか分らないと、無《ぶ》頼《らい》の甥から金を取返したことを手柄にして、瀬谷に彼女への橋渡しをしつこく頼むのだが瀬谷は相手にならないようにしていた。片野は九年前の貸金を帳消しにした上菊作りの秘伝も授けようと誘うけれども気がすすまなかった。瀬谷は未亡人を尊敬していた。稼業柄世間からいろいろと蔭口を叩《たた》かれているが、女の身で家を立て慾をかいて商売に無理するようなことはなく、分相応の静な生活をきちんと守りつづけている気持の裕《ゆた》かさは、瀬谷のように家をつぶしてしまった人間にはひときわ身に沁《し》みて立派に感じられた。彼は彼女から信頼されているだけに片野のことなど軽率に言いだしにくく、また彼女の態度にも数々の男の慾深い誘惑から身を守りとおしてきた近寄りがたい一種の気高さがあった。  ところで面白いのは片野が未亡人に接する様子である。彼が瀬谷の所に朝から催促に坐りこんでいる時にたまたま彼女が用事で来あわせるようなことがあると、彼はまるで彼女の前に平《ひら》蜘《ぐ》蛛《も》のようになって鄭《てい》重《ちよう》きわまる挨拶をした。そして彼女が明日もまた続いて訪ねてくることがわかったりすると、彼は翌日瀬谷の所にちゃんと彼女を待構えていて、うやうやしく彼女に座《ざ》蒲《ぶ》団《とん》をすすめ茶を取次ぎ彼女の履物まで揃《そろ》えておくのである。彼女が瀬谷と用談中は新聞も見ずに側に畏《かしこま》りとおしている。彼女が帰る時にはいち早く入口の戸を開けペコペコお辞儀をしながら、失礼申上げましたお大事にお帰りなさいましとかなんとか云って、まるで瀬谷の家の者みたいに猫《ねこ》撫《なで》声《ごえ》で彼女を送りだしてやるのだ。昔の旦那気質でややともすると人を見下すようなところのある片野は、自分のそうした豹《ひよう》変《へん》ぶりを男としてみっともないことだなどとはてんで反省してもみないらしく、下僕が主人にたいするような諂《へつら》いぶりを照《てれ》臭《くさ》がりもせず彼女にむかって振りまくのである。傍で見ている瀬谷のにがにがしさは云うまでもない。  やがて片野は未亡人が瀬谷の所から帰りかけると、 「私も途中に用事がございますから、其《そ》処《こ》まで御一緒に」  などと云って図々しく彼女を家まで送って行くようになった。彼女の家は大きくはないが四方を石垣で囲まれた門構えの立派な住居である。用心のために飼ってある猛犬が片野を見ると烈《はげ》しく咆《ほ》えたてるので、彼はまだ門内に這《は》入《い》ってみたことがないらしい。未亡人も門外まで附いてくる片野へ叮《てい》寧《ねい》に謝辞をのべて巧に片野の意図をかわしてしまうらしかった。片野は瀬谷の所へなど決して持って来たことのない手作りの見事な果物や珍奇な草花、愛《あい》玩《がん》の盆栽等を持って度々彼女の居宅を訪ねて行ったらしいが、いつも猛犬にさまたげられて空《むな》しくひっかえして来た不平をそれとなく瀬谷に洩らすことがあった。  或る日片野のいない折瀬谷の所を訪ねてきた未亡人が、 「片野さんて面白い方ですわね」  というような噂《うわさ》話をきっかけにして、片野が彼女へ恋文を送ったことを瀬谷に洩らした。それも一二度ではなくて近頃は毎日のように送って寄越し世間の手前も憚《はばか》られるから、瀬谷から片野へ然《しか》るべく注意していただけまいかという彼女の頼みなのである。落付いて若々しく聡《そう》明《めい》な彼女の口から友達の片野のそんな事実を云いだされると、瀬谷は狼《ろう》狽《ばい》して色恋には枯れきったような気持でいながら知らず識《し》らず顔の赧《あか》らむような思いがした。未亡人は片野から来た手紙を全部持ってきていて、片野へ返してくれるよう瀬谷の所へ置いていった。最初の分厚い一通だけ封が切られてあり残りの十数通は未開のままになっていた。瀬谷は開かれた最初の手紙を読んでみた。すると先ず片野の生家と養家の家系図が長々と引いてあって、彼の出生成育の由緒正しさが証明してあった。それから彼の目下の轗《かん》軻《か》孤独な境涯と未亡人にたいする切々とした恋慕の情を、昔藩塾の秀才だった頃の漢文調でめんめんと愬《うつた》えたすえ、若《も》し彼女が片野の入夫を許してくれるならば何人も及ばぬ忠節さをもって彼女に犬馬の労を献《ささ》げるであろうと誓い、またいかなる債権者であろうとも彼の勤勉と忍耐とで必ず負債を確実に取立てる自信があるから、彼女にとっても無比の協力者たりうること神明にかけて間違いないと力説してあった。そして終りにまた彼の現在の財産目録が、山は幾ら畑は幾ら諸果樹の見積価格とそれ等から生じる年々の収入は幾らという風に巨細にわたってしたためられ、これ等すべてを二人がやがて比翼連理の契りをかわした暁、花鳥風月の清遊を恣《ほしいまま》にする別荘地として「そこ許《もと》様に提供致すべく候」と結んであった。尚《なお》それに彼の畢《ひつ》生《せい》のこの恋がとげられない節には、余生とて最早残り少き身の彼女を思って焦がれ死にするであろうと哀れな言葉が書き添えられてあった。  瀬谷がこれ等の手紙を片野へ返してやると片野はひどく腹をたてた。瀬谷が片野との六十年の交遊の間、かつて見たことがなかった程の怒り方であった。しかし彼の憤激ぶりは何処までも陰性で、ヒステリイ女のように真っ黒に顔色が変り、今に見ていろ、この恨みはきっと報《し》らせてやるからと口の中で繰返し繰返し呟《つぶや》くばかりだった。それから片野はばったりと瀬谷の家へ姿を見せなくなった。折からそろそろ菊の季節が始まりかけてきた時ではあり、その方の仕事も忙しくて来ないのであろうと深くも気にとめないでいると、人《ひと》伝《づて》に片野は樹から落ち腰を痛めて寝ているという話を聞いた。町から離れた山野の孤《ひと》つ家《や》に病《びよう》臥《が》していると聞けば抛ってもおかれないので、娘の腹にできた孫をつけ老妻を見舞にやると、人の好い瀬谷の妻はやがて顔色を変えて帰ってきて、片野から瀬谷にたいする恨みつらみの百万だらを聞かされて来たと語った。妻の言葉によると片野はまるで瀬谷がああした金貸の性《しよう》悪《わる》な女を取持ったために、ひどい目にあわされでもしたかのような事を云って、彼女にまで厭《いや》味《み》を並べたてたそうである。そして片野は花の開きかけた二鉢ばかりの菊を日当りのいい枕許に大事そうに飾りたてていたが、妻に見られないように不自由な身体を無理に動かして縁側の隅へ隠してしまったということだった。瀬谷は片野の勝手な気質をいやというほど知らされていたが、今度は何だか黙っていられない気持がした。未亡人のことで恥をかかされたのは却《かえ》って瀬谷の方である。あれ以来瀬谷は彼女の前で肩身の狭い思いをした。また一方片野が不用意に口走ったことから察して、彼女にまたもや失礼な手紙でもやりはしまいかとひやひやしてもいたのである。証書のないのを幸いに九年間もぬけぬけと貸金を取りつづけて来たことといい菊苗のことといい、或いは瀬谷の大切な顧客に慾得ずくの無礼な恋をしかけたばかりか、その恋がかなわぬからといってわざわざ見舞に行った老妻にあらぬ云いがかりをつけて追いかえしたことと云い、瀬谷は老衰のため近頃気短になっているせいもあって思いきり片野を云い懲らしめてやりたいほど腹が立った。  しかし、それから数日して瀬谷が、大切な稼業の暇をぬすんでまで片野の所へ出かけて行ったのは、実はそのためばかりではなかった。妻の眼から隠したという片野の菊を一目見たい底意が、俄《にわか》に強く瀬谷に働きだしてきたのである。それにしても菊の大事な開花季節には片野が殊《こと》にも人の訪問を嫌《いや》がることを知っている彼は、そんな事を口実にでもしなければとても出かけて行く勇気がなかった。ところで彼がどうしてそのように片野の菊を見たがるかと云うと、片野はこの一両年展覧会に菊を出品しなかった。それは片野が妻の死や阿《あ》婆《ば》ずれ女との同《どう》棲《せい》で菊の栽培をないがしろにしたためではなくて、反対に彼は人工交媒によって新種の菊花を作りだそうと熱中していたらしい模様だからである。片野がそうした野心を起したのは勿論金儲《もう》けのためで、見事な新花によって町の好事家連をあっと云わせ評判の好い彼の菊苗の値をいよいよ高くしようと企んだからにほかならなかった。交媒によってえられた新種の菊の実《み》生《しよう》の第一年は失敗した。第二年目の根分けにも失敗したとみえて出品しなかった。今年は第三年目である。何も知らぬ瀬谷の妻の眼からさえ隠そうとしたところをみると片野はついに新花の栽培に成功したらしい。良花であればあるほど公開の日まで秘密にしたがるのは、菊を作るほどの者に共通した人情である。またそれだからこそ瀬谷は、片野の菊が出品される前に一目なりとも是非に見てやりたかった。そうすることが片野にたいする一種の復《ふく》讐《しゆう》のようにすら意地悪く考えられた。  片野の家は堅く戸がしまっていた。入口の戸を叩いてみたが返事がない。戸を開けようとすると錠がおりている。それで瀬谷は片野が女郎上りの女と同棲するために新しく建増した、東南に向って日当りの好い奥の間の方へ庭を廻って行った。戸は東側ばかりでなく南側もとざされてあったが、明りをとるため雨戸に硝子《ガラス》がはめこんであるので、縁側境の障子の隙《すき》間《ま》から内部を窺《うかが》うことができた。片野が寝ている筈の奥の間に蒲団もなく、綺麗に取り片附けられているところをみれば彼は留守らしい。それならば一層好都合だから彼のいない間に菊を見ておこうと思って、瀬谷は注意ぶかく家の周囲をたずね果樹園内から片野が椎《しい》茸《たけ》を栽培している穴室の方まで廻ってみたが、食用の小菊が垣根や畑の境に咲き乱れているばかりで、目ざす鉢菊らしい物は何処にも見当らなかった。  まさか腰を挫《くじ》いて寝ていた病人が、展覧会の始まる前に重い鉢《はち》を抱《かか》えて外出したとも考えられないので、念のためもう一度家へひっかえして南側の雨戸からよくよく中を覗《のぞ》いてみると、ずっと向うの入口の間にあたる納戸前の暗がりに、毛並の真っ白な猫がじっとうずくまっていた。野良猫が喰べ物を狙《ねら》って這《は》入《い》りこんだのであろうと思い、瀬谷は雨戸を叩き、しッ、しッと追ってみたが、猫は逃げるどころか振向いても見ない。人を馬鹿にした猫もあるものだと瀬谷が一層老眼をこらしてみつめている間に、それは猫ではなくて真っ白に咲きほこった大輪の菊の花であるらしいことにだんだん気づいてきた。するとそれと一緒に瀬谷の胸の動《どう》悸《き》が俄にはげしく打ちだした。片野の秘蔵の菊がどうした訳か鉢とともに傾き倒れているのである。  瀬谷はなかば夢中で雨戸をこじあけ屋内に飛びこんで行った。三輪仕立の鉢の菊は花弁がつるぎのように鋭く管ばしった走り附の厚物咲であるが、しかも平弁で組みあがった普通の厚物咲ではなく、千重の弁の一つ一つが太管咲のように巻きと組みと変化の精妙をきそいながら、花芯をつつんで雲のように湧《わ》きたちまたは砕かれた波のように渦巻いているのである。色は純白だった。瞑《めい》目《もく》した美女のようなあでやかさをもって、黒光りする板の間に神々しく照り輝きながらじっと身を横えている。瀬谷は眼も心も奪われて恍《こう》惚《こつ》となった。あのように心の汚《きたな》い片野の手からかほどまで美しい花がどうして咲き出るのか瀬谷は信じられないくらいだった。日本のあらゆる花《か》卉《き》の中で菊ぐらい人工の限りを致しそれだけまた作り人の心を柔軟に発揮する物はない。若《も》しこれが片野の心をさながらに写しいだしたものだとすればまさに奇《き》蹟《せき》だった。瀬谷は羨《せん》望《ぼう》と嫉《しつ》妬《と》にたえない気持で、あたかも眠れる人を抱き起すように菊花へ近寄り身をかがめて鉢に手をかけた刹《せつ》那《な》、不意に冷たい足でひやりと額を蹴《け》られた。悸《ぞ》乎《つ》として見上げるまでもなく、暗《くら》闇《やみ》の空中に覆面してぶら下っている人の姿を朧《おぼろ》げに認めたばかりで彼は屋外へ転がり出てきた。気がついてみると瀬谷はいつか片野の家から遠ざかり、町に通じる郊外の道をがくがくと顫《ふる》えながら走り歩いていた。しかも彼は右腕にしっかと菊の鉢を抱きかかえていたのである。彼はようやく我が家に辿《たど》りつくとそのまま熱をだして寝こんでしまった。  巷《こう》説《せつ》によると片野俊三は未亡人にたいする失恋の結果縊《い》首《しゆ》したということになっている。七十歳の老人の失恋自殺は哀れさを誘うよりも寧《むし》ろ可笑《おかし》味《み》をもって世間に騒がれた。片野は樹から落ちて腰を挫《くじ》いたのではなく、未亡人宅の猛犬を買収するため一片の肉を携え夜分石垣を攀《よ》じ登ろうとして失敗したのだった。そんな老人の分際で若者を真《ま》似《ね》て夜這いなどに忍びこむから罰《ばち》があたったのだと一般から笑殺されたが、片野のつもりははたしてどんなものであったろうか。  こうした巷説にもかかわらず瀬谷が展覧会へ出品した片野の菊は、稀《け》有《う》の名花として好事家連を驚倒させた。その評判を聞いて斯《し》道《どう》の専門家達がはるばる都から観に来たくらいである。片野の果樹園は失踪した彼の息子の行方が分るまで、親友の葬儀をとり行ってやった瀬谷の監理にまかされることになった。瀬谷が楽みとしていた命の洗濯が今度は誰憚《はばか》らず出来るわけである。しかし瀬谷は片野の跡をただ一度訪ねたばかりだった。片野の死以来瀬谷の頭は完全に白髪と化した。その白髪の痩《や》せた老《ろう》翁《おう》が秋風に吹き乱れる果樹園の小菊の間を、黙々と逍《しよう》遥《よう》している有様には一種の趣きがあった。彼はしきりに片野の死を考えつづけてたのである。彼は巷説を信じなかった。片野は失恋で自殺するような男ではない。また彼が口走ったように未亡人への復讐のためだとも考えられぬ。彼の女々しくて執念深い性格の一面を考えると、随分ありそうなことにも思われるが、彼のように強《きよう》靱《じん》な生命の者は自殺するまでもなく、もっと他の手段を講じたに相違あるまい。  それでは彼のこれまでの生き方とぴったり符合した理由が外にありそうなものだと思案しながら段々畑を登り歩いている間にいつか丘の高みに達していた。頭上をそれと感じられるぐらいの速度で緩《ゆるや》かに動いている大空の下を、その方向とは逆に翼をはった風がぱっぱっと光の火花をちらしながら吹きすすんでいる。秋風は麓《ふもと》からもまともに吹きあげてきた。体内の五臓六腑《ぷ》をばらばらに吹き飛ばされ、そのまましんしんと虚空の彼方にとけこんでしまいそうな心の澄みをおぼえる。前に田野を遥《はる》か隔てて片野の養家のあった村が見える。養家は村の高台にあったのだが、後山の崖《がけ》は赤土の肌をさらし、幾棟からの酒倉や二階建の大きな母《おも》屋《や》のあった跡は野菜畑や桑畑になっている。片野が上京の折全部を売払ってしまったのである。瀬谷の老眼ではそうした儚《はかな》き跡までは遠望されないが、旧街道が昔ながらの松並木に縁どられて村まで白く続いて見えるのはなつかしく、禿《はげ》頭《あたま》の眼の角ばったやかましやの養父の老人を中心に、多勢の使用人達が唄を歌い営々として働いていた昔の盛んだった邸《やしき》の有様が髣《ほう》髴《ふつ》として浮んでくる。父親に送られて養子に来た片野が鶯《うぐいす》の声を聴きながら憩《やす》んだ峠は、瀬谷が現在立っている丘と峯続きである。 「刀を買って貰ったから、養子にゆくよ、お父っちゃん」  そう云って父の勧誘を却《しりぞ》けた六十余年前の少年の声が、風の響きの中から今なお生き生きと聞えてきそうに思われる。その時の律儀な少年の魂は片野の性格から何《い》時《つ》失われてしまったのであろうか、と考えてきて瀬谷は急にはっと心に閃《ひらめ》いてくるものがあった。魂は何処にも失われていはしない。律儀な少年の精神は七十歳の老人の意地っ張りな性根となって頑《がん》固《こ》に存在しつづけていたのだ。「刀を貰ったからには行かねばならぬ」と答えた七つの子供の決心と、「死ぬと云ったからには死なねばならぬ」と考えた老人の決心との間にどれだけの違いがあるか。 「この恋相叶《かな》わざる節は余生とて最早僅《わず》かなる身の其《そこ》許《もと》様をお慕い申上げて焦れ死に致すべく候」と未亡人宛の手紙に書いた末尾の言葉は、つまり彼女にたいする片野の律儀な宣言だったのである。もとより少年の決心の裏には新しい養家にたいする好奇心が動いていたであろうし、片野の未亡人宛の最初の手紙には、多分に修飾の意味があったことだろうと思われる。しかしその修飾語を度々繰返している間に、そして彼の未開の十数通の手紙はきっとその事実を証明しているだろうと思うが、それは未亡人を脅す断《だん》乎《こ》たる決心となり、とうとうのっぴきならぬ実行にまで発展してきたに違いない。片野はその手を甥の妻に用いて成功したが未亡人の場合は失敗した。ただしそれは結果から見た上での事であって片野のつもりでは成功と失敗とに拘らず、「餓え死にする」も「焦れ死にする」も覚悟に二つはなかった筈である。片野が未亡人の宅に夜忍びこもうとした意図は那《な》辺《へん》にあったかもとより知る由もないが、恐らく甥から金を取立てた場合に倣《なら》って「焦れ死にする」彼の決心を未亡人の前に親しく実演しようと企てたのではあるまいか。彼は蒲団を担《かつ》ぎこんで行く代りに肉片を携えて行った。猛犬に咬《か》み殺されるようなことがあっては、未亡人のため「焦れ死に」した事の証《あか》しにはならぬからであろう。  怪《け》我《が》をした片野が暫《しばら》くでも彼の決心の実行を猶予したのは、やはり彼の苦心の菊に心を惹《ひ》かれたためだろうと想像される。彼は新花の成功に満足し喜びと誇りとをもって死に就《つ》いたらしい。彼は自分の作りだした新種の菊が名花となって世に伝わることなどに未練を残さなかった。彼はそれ等の花を自慢にあの世へ持って行くつもりで、両腕に抱きかかえて死んだ。鉢の一つは微《み》塵《じん》に砕け一つは奇蹟的に助かった。そして片野がこの世に与えた唯一の貴い贈り物となった。  眼下の貧しい孤つ家でそれぞれ悲惨な死をとげた片野や妻のお鱗の性格を顧ると今更人と変ったその奇妙さに驚かれる。彼等はいずれも無類の片意地者だった。そしてその奇怪な性格のために彼等はどれほど高価な犠牲を彼等の生涯に支払わなければならなかったであろうか。彼等の荒涼として冷かな生活の迹《あと》を考えて瀬谷はぞっとした。片野の妻は何事も片野の意に盲従した代り、片野がどのように窮迫した場合にも敢《あえ》て彼女の秘めた金を出そうとはしなかった。彼女はその金で自分の命を助けることすらしなかった。彼等を殺したのはそうした彼等の不思議な意地張りだった。だがその片意地でもって彼等の六十年七十年の生涯が支えられても来たのである。それは彼等の性格の秘密であり、同時に生存の秘密でもあった訳だ。人はこうした何等かの魂の秘密なくしては、その艱《かん》難《なん》な生活に耐えないのであろうか。それとも艱難の生活がそういう秘密を生むのであろうか。瀬谷ははからずも彼が曾《かつ》て送った東京の生活を思い起した。彼はあの時狂気していたのか。あの狂気なしにはああした生活に耐えなかったのか。瀬谷は今になってやっと生活の秘密が解ったような気がした。それとともにこれまで悩んで来た余生の覚悟もはじめてここに落ちつくような安らぎを覚えた。最早自分の過去に不平は云うまい。妻子に取り巻かれ町の人々に信頼されている現在の生活に感謝しよう。片野やお鱗の生涯は同じ人間の生涯にしても余りに凄《すさま》じすぎる。非情の片意地を培養土にして厚物の菊を咲かせるより、花は野菊の自然にまかして孫達のお守をしながらもっと人間らしい温かな生涯を送ったがましだと、瀬谷は二度ともはや果樹園の方を振《ふり》顧《かえ》ろうともせず、しかしさすがに永年の友を失った孤独に沁《し》みて反対側の山路を一人とぼとぼと下って行った。 碑《いしぶみ》 一  斑《まだら》石《いし》高範と茂次郎の兄弟は、小さい時分から反《そ》りがあわなかった。高範はねちねちした気質であるのに、弟は無類のせっかち者である。 「兄さん、どっかへ遊びに行こう」  茂次郎が子供心にそう誘っても、高範はほとんど一度も気持よく応じたことがない。するとまた弟の方は意地になって、無理強《じ》いにでも兄を誘い出そうとする。そこで喧《けん》嘩《か》になった。しかし組みあっては五つ年下の茂次郎は、兄に到底かないっこはない。組みふせられてぎゅうぎゅういわされる。茂次郎は口《く》惜《や》し涙をためてこらえている間に逆上して、兄の指へでも膝《ひざ》へでも所構わず噛《か》みついた。或《あ》る時など腹立ちまぎれに手裏剣を投げて、高範の腿《もも》へ突きたてたことがある。  茂次郎が九つ十となり腰に小刀をたばさむようになると、兄との争いにすぐに刀をぬいた。高範は彼の刀をもぎとろうとするが、素ばしこくて寄りつけない。よぎなく高範も刀を抜いて互に渡りあっているところへ、母の梶《かじ》が薙《なぎ》刀《なた》を持って飛びだしてきて兄弟の刀を叩《たた》き落した。  もっとも高範と茂次郎とは、いつも喧嘩ばかりしているわけではなかった。二人とも情に篤《あつ》くて普段の兄弟仲は、むしろ大変睦《むつま》じかったぐらいである。それというのも父が早く亡くなり、母親の手一つに貧しく育てあげられてきたからである。高範が家督をつぐまで領主から捨《すて》扶《ぶ》持《ち》をうけていたが、それでは足りなくて母の梶は傘《かさ》はりの内職をずっと続けていた。  もともと斑石家は、士分とはいえ軽輩の家柄だった。当主たる人が死んでしまった上に有力な親戚もなかったから、世の中から棄てられたも同様な日蔭者の身の上だった。それだけに茂次郎は人なつこくて、何事も兄と共にしようとするのだが、高範がはきはきしないたちだから、いつも結果はかえって逆になってしまう。  しかし高範の側からすると、母の平生の教から斑石家を興さなければならない責任を自覚しているので、弟と一緒に子供らしく遊んでもいられなかった。母や世間の教をきちんと守って、文武の道を励み立派に一家をたてようという心掛けである。茂次郎にはまたそういう高範の重々しげな態度が、格式の高い知行取りの子息達の真《ま》似《ね》をしているようで気にくわなかった。  末弟の平太は父が亡くなってから生まれた児で、母の不《ふ》愍《びん》さもひとしお深く加えられていた。そのためかかなり甘ったれ児で、茂次郎からよく苛《いじ》められた。平太はひどい泣虫だった。茂次郎は彼を泣かしてみたいばかりに、罪もない弟を苛め苛めしたので、平太は茂次郎の黒い顔を見たばかりで《かん》がたかぶり泣きだす癖がついた。 「まアこの子は、平太を苛め殺してしまうよ」  梶がそう云って茂次郎をうつと、茂次郎は、 「我は何もしねいや」  と母にまで喰ってかかった。そしてその後陰で平太を、一層こっぴどい目にあわした。平太が神経質な子になったのは生まれつきの故《せい》もあったであろうが、茂次郎にもたしかに一半の罪があったようだ。  しかし平太は七つ八つになると、今度はどんなに茂次郎から苛められても、決して泣かなくなった。といって反抗もしなかった。頭を殴《なぐ》られれば殴られたなり、又地べたへ顔をこすりつけられればこすりつけられたなり、顔色を蒼《あお》くして強情をはりとおした。かわりに我慢の度を越すと彼の青い顔色がみるみる黒く変ってきて、眼を白く吊《つ》りあげ手足をはげしくわななかして癲《てん》《かん》を起してくる。  そこで初めて茂次郎は吃《びつ》驚《くり》して手をゆるめ、家を遁《に》げだしたなり二日でも三日でも帰って来ない。母に折《せつ》檻《かん》されるのが怖《こわ》さに辻堂や山寺に夜を明し、人々が心配して捜しに来るのを待っている。つまり茂次郎にはこの時分から一種の放浪癖が、もう始っていたわけだった。  こういう腕白児の茂次郎にどういう見所があったのか、彼が十二の時、領主の本家の剣道師範の所から養子に望まれて、奥州の山間から江戸へのぼることとなった。茂次郎は薙刀をよく使う母の仕込みで剣道は何より好むところだったし、思わぬ出世に誰彼からとなくお祝いを云われる嬉しさで、一人家を遠く離れてゆく悲みなど子供心につゆばかりも感じなかったが、愈《いよ》々《いよ》出立という日の朝はさすがに心ぼそくなった。  師範の家の若党に伴われて江戸へ行くよそゆき姿の茂次郎を正座に置いて、一家四人が心ばかりの別れの食事を始めたのであるが、茂次郎は二杯目の赤飯を口に入れかけて、急にわっと泣きだした。拝領の長屋の二間ぎりの狭い屋内に、神《かみ》棚《だな》や仏壇の灯がゆらゆらと揺らめき、既に前髪を落してお城勤めを始めた高範の一人前の武士姿や、髪に二筋三筋の白髪が見え額に皺《しわ》の寄りだした母や、それから彼が苛めてばかりきた弱々しそうな弟の姿が、あまりに神妙に感じられたからであったろう。 「首途《かどで》に涙は不吉だから、お黙り」  とたしなめる母からして幾度も鼻をうちかむし、沈着な高範も思わず一滴二滴の涙を吸物椀《わん》の中に落したようである。平太さえ子供らしく涙で顔をくしゃくしゃにしながら、やたらと赤飯を口ヘかっこんでいた。  しかし茂次郎が真に別れの悲しさに身をつらぬかれ、家や母を恋しと感じたのは、江戸へのぼって養家の生活を始めてからである。一芸で身をたててゆく者の修行の苦しさからいえば、何業にしろそれほど変りはあるまいが、ことに武士の表芸を看板に一藩の師範をもって任じている剣士となると、その稽《けい》古《こ》のきびしさは殆《ほと》んど言語に絶していた。さすが乱暴者の茂次郎もあまりの稽古の激しさに、屡《しば》々《しば》血を吐いてぶったおれたことがあったくらいである。  茂次郎はこの修行に十年間耐えた後、養父から娘の福との結婚を許された。しかし福は病身で結婚後二年足らずで亡くなった。すると娘を鎹《かすがい》にして結ばれていた養父母と茂次郎との間が、妙につめたく変ってきた。まるで娘の夭《よう》折《せつ》は、あたかも茂次郎がその原因だったみたいな工合だった。  短気な茂次郎は養家の生活が面白くなくて、自分から養家を飛び出してしまった。腕に自信の出来た誇りから世の生活を手軽に考え、養家の生活が窮屈に思われだしてきた故もある。  茂次郎は客気にまかせ裸で世間へ飛びだしてみて、はじめて生活することの困難がどんなものであるかを骨の髄まで味《あじわ》った。何にとりついて生きるあてもない絶望の苦しみは、到底単純な修行の辛《つら》さの比ではないように感じられた。覚えの腕も引立ててくれる者がなければ宝の持ち腐れに等しかった。  茂次郎が養家へ詫《わ》びも入れず郷里へ帰ろうともしなかったのはやはり、もって生れた強情我慢な気質からであろう。養家から飛び出して以来というもの、茂次郎の存在は世間から消えてしまったも同様だった。郷里からの音信はえられなくなり、落《らく》魄《はく》した彼の方からはもとより便りする気になれなかった。  茂次郎が江戸へ出て以来、郷里の方にもかなり変遷があった。高範がたいして働きばえのない勘定方の勤めをひたすら忠実に励んでいる間に、奥路の山間の小藩ではあったが本藩の影響をうけて、時局柄尊攘派と佐幕派との対立抗争が、次第にあらわに激しくなってきていた。両派の争いには政権の争奪という生活問題まで絡《から》んで深刻に発展し、ついには暗殺や邀《よう》撃《げき》や斬《き》り込みなども行われるようになった。  尊攘派には藩の青年達が多く加担していたから、高範も同志としてたびたび勧誘されたけれども彼は自重して動かなかった。すると彼の要心深い態度が青年達の怒りをかった。丁度子供の茂次郎が、高範のはきはきしない態度にいらだったと同様な心理であろう。  高範は城内からの帰り青年達に襲われて、額に深手をおい片眼をつぶされた。そのため彼の容《よう》貌《ぼう》は、殆んど一変してしまった。彼の顔は縦よりも横に広い茶《ちや》釜《がま》みたいな形で、滑《こつ》稽《けい》に見えても決して悪い人相ではなかったが、傷つけられてからは陰惨で不気味なものとなった。  それと共に高範の性格もまた変化してきたようである。  彼は口重で愛想を云わなかったが、女親の手で貧窮のうちに人となったので、寡黙な表情の蔭に温く優しい心が隠されていたのだけれども、それがいち時に冷えきってしまったようだった。人は高範のぶきみな異相から、非情冷酷な性格を感じるようになった。  高範は挙措に慎重で動作にのろかったが、槍《やり》にかけては不思議な手練をえていた。彼には常人に見られぬ微妙な腰のねばりがあった。尊攘派の青年達がしつこく高範を勧誘したのも、有力な闘士として彼を味方の陣営に加えたかったためである。  血気にはやった青年達の無思慮な行為は、かえってこの有力な闘士を敵側へおいやった。役目にかくれて旗《き》幟《し》をあきらかにしなかった高範は、その後はっきりと佐幕派について尊攘派の青年等と闘った。両派の暗闘が凄《すさま》じくなってくるにつれて、高範の働きが目立ってきた。彼は常に真紅の革胴をつけて闘いの場にのぞんだ。わざと敵方の目標《めじる》しになってやるという挑戦の意である。しかし敵は彼の槍先を恐れて、反対に彼を避けるようになった。  高範はいつとはなく佐幕派の間に、隠然とした勢力を持つにいたった、それと一緒に彼の地位も次第にあがってきた。彼は微禄の勘定方から儕《せい》輩《はい》をぬいて、三十数カ村を見廻る目付役に出世し、あらたに広い屋敷を領主から賜わった。こうした結果から考えると、家柄や門閥におさえられて出世が容易でなかった時代に、彼は彼らしく功妙にたちまわったということになる。すくなくとも尊攘派の表面はなばなしい活躍とは反対に、藩の実権は依然として保守派の老臣達の手に握られていた事実から推すと、高範はあらかじめ自分の進退に目算をたてていて、ただそれを行為にあらわす機会を待っていた、ということになりそうである。少くとも彼のとってきたコースからは、青年らしい感激や情熱は微《み》塵《じん》も感じられなかった。  しかし人生のコースは、たといどのように精密に計算されようとも、やはり人間の打算に余るものがあるように思われる。高範の勢力に圧しられた尊攘派の青年達は、高範の弟の平太を同志にひき入れて彼の勢力を牽制しようとはかった。平太は兄とちがって多感な性情だったから、青年達の主張にも反対ではなくこの密謀がなかば成功しかけた時に、高範は先手をうって領主へじきじき弟の閉門を願いでて、平太を母の隠居所に蟄《ちつ》居《きよ》させてしまった。  幼時癲持ちで神経質だった平太は、茂次郎のいなくなった後、次兄とはまたちがった意味で病的に烈《はげ》しい性格の青年に育ちあがった。高範も茂次郎も母の丹誠で、それぞれ武芸名誉の者となったが、平太の二刀はことにも天才的だといわれた。彼が城内の二百畳余の大広間で、三間置きぐらいに据えた四尺高の屏《びよ》風《うぶ》や衝《つい》立《たて》の列を飛びこえ飛びこえ、二刀をもって居合の秘術をつくした軽妙至極のはやわざは、領主をはじめ満座の藩士達の歎賞を博した。  そのため平太はまだ部屋住みの身だったが、とくに扶持をいただいて家中の指南番となっていた。高範が斑石家の当主として平太をかってに処理することが出来なかったのは、藩士待遇のこうした事情があったからである。  高範は彼自身の栄達と同時に一家の安全のために、平太を一時犠牲にするつもりだったらしいが、感じやすい性格の平太の身にしてみると、これという罪もなくてうけた閉門という不名誉は、手痛い打撃となった。平太は内心尊攘派の主張に共鳴する所あったのだが、兄の立場を考えて軽挙を慎んでいた際だったから、彼を無視した兄の処置はそれだけ彼の憤《ふん》懣《まん》をあおった。平太は隠居所の一室に蟄居して誰にも会わず、母とすら一切口を利かずに三《さん》伏《ぷく》の真夏を頑《がん》張《ば》りとおした。茂次郎からどのように苛められても音をあげなかった少年時代の強情さが、青年となって一層苛《か》酷《こく》に発達してきたのである。それがどれほど烈しく彼の精神力の負担となったものかは、母の梶にも窺《うかが》い知れなかったが、日に日にきわだつ愛子の憔《しよう》悴《すい》ぶりに梶は真に老いの心を砕く思いをなめた。  はた目には平太の黙した懊《おう》悩《のう》よりも、むしろ老母の心遣《づか》いがいたましく感じられるくらいだった。梶が蟄居の憂《う》さを慰めるために、三度三度心をこめて作りあげる日々の料理も、室内からさえ出ようとせぬ平太の運動不足のために、単に箸《はし》をつける程度の食慾しか起きないらしい。 「これなら涼しかろうから、おあがり」  と清水で冷やした葛《くず》餅《もち》や心《ところ》太《てん》など勧めてみたが、いつも蠅《はえ》のたかるにまかして抛《ほう》ってある。そして殆んど終日奥の間の机の前に坐り通して、何を考えているのか庭前の暗い青葉の茂りを眺《なが》め暮しているのである。その彼の眼つきがまた、血《ちな》腥《まぐさ》いばかりに気味悪かった。月《さか》代《やき》はのびるにまかせ額には縦に太く青筋が張り、眼《がん》窩《か》はくぼみ両《りよう》頬《ほお》はそぎ落されて髯《ひげ》が深かったから、一層凄《せい》惨《さん》な光に感じられた。  しかし梶にとって何より辛かったのは、平太が一言も口を利いてくれなかった事である。物事にひたむきになりやすい平太は、剣技の熟達を希《ねが》うあまり、鎮護の武神に寒中跣足《はだし》詣《まい》りをして、百日の祈願をこめたことがある。その時も無言の行を守った。今度もやはりそうした誓をたてたものらしいが、前と違って今度は暑い盛りを一間にじっと閉じこもったぎりである。そして世間の交際から離れ、母とたった二人の生活を送りながら、全き沈黙を守り通しているのだ。  こういう生活が果して人間に堪えうることであろうか。梶は平太よりも前に自分の心が狂いそうであった。いかに心を尽してもそれが相手に通じないのではなくて、通じても相手はそれを言葉や感情に表すことを、堅く拒みつづけているのである。こういう心理上の苦痛は、石のように非情な人間を相手にしているよりもっとひどかった。  梶は平太の閉門を早く解いて貰《もら》うために、度々高範の屋敷を訪れたけれども、いざとなると云いだしにくかった。それは、 「斑石家のためです」  と高範から一言のもとにはねつけられるのを、恐れたからではなかった。奇怪な容貌に変ってしまった高範と対面していると、此《こ》処《こ》にも平太に劣らぬ強情我慢な人間がいるという思いに、梶の心が重くふさがれてくるためである。しかも梶自身がそのように彼等を育てあげてきたのであった——艱《かん》難《なん》に耐えよ、己にうち克《か》て、と。それが彼等に教えた、「さむらい」の掟《おきて》なのである。  梶にとって堪えがたいばかり辛かった夏がようやく過ぎて、山間の小さな城下町に初秋の風のおとずれを聞くようになった。まだ残りの暑さが家々の檐《のき》ばにたまって、気も遠くなるように街なみの気配がしずまりかえっていた真昼時に、高範の家来の老《ろう》爺《や》が八《はつ》朔《さく》の祝の団子を梶の隠居所へとどけてきた。  家来の声は主人の語音に似るものか、それとも平太の錯覚だったのか、家来と老母の話声を聞きつけた平太は、高範の来訪と勘違いしたらしく、突然沈黙を破って大声で何やら叫びだすと、奥の間から飛びだしてきた。見ると手に白刃をさげて、眼の色も顔の相もただならず変っている。  老爺は気丈な男で、とっさに危険を悟ったとみえ、 「危いッ」  と叫ぶと羽《は》交《がい》締《じ》めに平太の背後を抱きかかえて、 「お早く、高範様の所へ、お早く」  と梶を促したてた。梶はそれを高範の所へ早く報《し》らせろという意味か、それとも逃げろという意味かなかば夢中に聞いて、高範の屋敷へ駈けつけてきたが、途中でふっと気が変った。もしや老爺の身に間違いがあっては大変だと気がついたのである。そう考えたのはたとい逆上したところで、相手は我が子だという安心が、無意識のうちに梶に働いたからだった。  梶が隠居所へ引っかえしてきて、板《いた》塀《べい》の節穴から中腰に我が家の中を覗《のぞ》いてみると、老爺はすでに平太を突きとばして逃げてしまったらしく、平太一人凄じい顔色でぶるぶると顫《ふる》えながら、何かを探すようにあちこちと鋭く目をくばっていた。そして梶がハッと眼をそらすとたん、狂人特有のカンでぎらっと梶の姿に気がついたのは、呪《のろ》われた宿命とみなすよりほかはない。  四尺五尺の高さを飛び越えて、抜き打ちに斬《き》りつける早業にたけていた平太の兇刃を、薙《なぎ》刀《なた》の使い手だった梶もかわす暇がなかった。 「鬼《おに》婆《ばば》、見つけたッ」  という我が子の浅ましい喜び声を最後に聞きながら、梶はそれでも十間ばかり家裏へ逃げだしたのだった。そして第二の太刀をうけ、鬱《うつ》々《うつ》と茂った芋畑の広葉の上に突っ伏して息が絶えたのである。 「鬼婆を仕留めたぞ、出あえ、出あえ」  と喚《わめ》き叫んでいる狂人の異常な歓声を聞くと、近隣の街の人々は出会うどころか、ばたばたと戸をしめて家に隠れてしまった。  八朔の祝の登城から帰ってきていた高範は、いち早く凶事の注進をうけると、羽織の下に革《かわ》襷《だすき》をかけ袴《はかま》の股《もも》立《だ》ちをとって現場へ走って来た。彼がその節得意の槍をさげて行かなかったのは、意外の兇変にさすがの高範もそれだけあわてたものであろうと云われたが、弟を敵に討たなければならない高範としては、又別に考える所もあったのであろうか。  とにかく兄弟同士の不幸な仇《あだ》討《うち》は隠居所裏の広場で、互に一刀をとり五分五分の形式で行われた。武士の果し合いには一定の作法があったが、平太は発作に狂っていてもその作法を忘れなかった。互に式《しき》退《たい》をかわして蟻《あり》の歩みよりも遅いくらいに近づき合い、刃を一合するまでに十分二十分の時間がかかる。  兄弟はじつに二時間近く死闘をつづけたのであるが、家々の屋上や城の高みから二人の決闘を凝視していた人々には、高範の方が絶えず圧迫されていたように見えた。二合目の分れに高範はすでに小《こ》鬢《びん》を削られ、彼の額の鉢《はち》巻《まき》は赤く血に染っていた。高範を救ったのは、城中から馬で乗りつけてきた検視の役人が、 「平太、待てッ」  と声をかけたためである。その時両人を三度目の出合いで、互の刀の物打ちと物打ちとが焼きつき、必殺のほむらをたてていた。もし普段の平太だったらこうした場合、たとい百雷の声がしたところで動じなかったであろうが、錯乱に気が上ずっていたので、思わず「はっ」として後をふりむこうとした刹《せつ》那《な》、高範は刀を蛇のようにすべらして、平太の右小手をしたたかに斬り下げた。  しかし闘いは、それから却《かえ》って烈しくなった。深く傷つけられた平太は、今度は完全に狂人ぶりを発揮して、左手に刀をふりかざし獣のように高範に襲いかかってきたからである。高範はうけかねて広場の一隅にある池の周囲や、それへそそぐ溝《どぶ》川《がわ》の岸のかなたこなたを逃げまわった。そして出足の速い平太のために、今度こそ高範はやられたかと、観衆に幾度となく固《かた》唾《ず》をのむ思いをさせたが、その度毎に高範は腰のひねりを利かして危機をまぬがれた。しかも驚くべきことには、高範は立ち直る暇もないほど烈しく追いつめられながら、体勢をくずさず冷静に反撃の機会をねらっていたのである。  闘いは平太の右手の出血がひどく、彼の衰弱が加わってきたことで終った。平太は刀を高範めがけて投げつけると、街通りへむかって遁《に》げだした。高範は平太が周囲を警戒している捕吏たちにとらえられ、彼の決死の努力も水泡にきすのを恐れて、はげしく平太を追跡し大通りを突切り裏町から桑畑をくぐって、大川の土手を匍《は》い登ったところを、腰車を突いてやっと動けなくした。  土手の陰は青みどろをなした大川の淵《ふち》である。対岸は懸《けん》崖《がい》となって、清水に肌《はだ》をしめらしながらそばだっていた。平太はこうした場所を最期の背景にして、二十歳の若年で死んだ。死に際《ぎわ》に彼は哀れにも一時正気にかえって、 「兄上、なぜ私を殺すのだ」  と兄を恨んだ。高範が彼の耳に口をおしつけてその訳をささやくと、平太はしきりに何かを思いだそうとするように、うなだれて暫《しばら》くじっと考えこんでいた。それから瀕《ひん》死《し》の顔色がほのかにさっと色づいたかと思うと、 「お母あさん、御免なさい」  と呟《つぶや》いて前にのめってしまったのである。高範は仰向に彼をひき起してとどめを刺した。  高範は弟の屍《しかばね》に蓆《むしろ》をかけ、母の骸《むくろ》には定紋つきの彼の羽織をきせかけて、検視のすむのを待つ間、隠居所の中で母の仕残した傘張りを黙々とやりだし、その心憎い落ちつきぶりで人々を愕《おどろ》かした。しかし彼のつもりでは、梶の残した志を仕あげてやることに、せめてもの母への回《え》向《こう》を感じたものであろう。梶は高範の出世で生活に苦労しなくなってからも、手馴《な》れた昔の内職を続けていたくらいに古風だった。  こうして高範の生活コースの計算からはみ出た一家の不祥事も、高範の手で始末がつき事無くすんだばかりか、たちどころに母の仇をむくいた功で、平太の扶持分だけ加増されるにいたった。彼の反対派は依《え》怙《こ》の沙《さ》汰《た》として攻撃したが、功はとにかく、高範が死を覚悟で災禍にたちむかっていった意気は買ってやらなければなるまい。  その後高範の相貌や性格は、一層のにが味を帯びてきた。  養家を飛びだした茂次郎は、この時分江戸市中を徘《はい》徊《かい》しながら、下手な謡《うたい》の門《かど》附《づ》けをしてからくも生きのびていた。生活の困難は、しだいに彼の心を荒く、険しくした。彼は喜捨がえられなかった折には、大名行列の来るのを待ちうけていて、道の真ん中に臀《しり》をまくって蹲《しやが》みこみ、ことさら大きな唸《うな》り声をはりあげて脱糞する様をよそおった。すると供先の者が駈けてきて、なにがしかの草鞋《わらじ》銭《せん》を袂《たもと》に投げこんでくれるからである。  その後大江戸の浮浪生活に馴れてくると、盛り場で大道剣舞や居合抜きをやりだした。そのうち見物人中の掏《す》摸《り》をつかまえることに興味を持ちだし、一人捕えるごとに手の甲に手裏剣を突きさして胸中の鬱《うつ》をはらした。すると掏摸仲間のほうから慇《いん》懃《ぎん》をつうじてきて、彼を賭《と》博《ばく》師《し》や香具師《やし》の剣術の先生に頼みこんできた。そして名ばかりの小さな町道場を開いてもらったけれども、門弟となる者はほとんどなくて彼等のていの好い用心棒にすぎなかった。  茂次郎は生きるためには何でもやるつもりだったが、やはり剣にたいする功名の一念がすてがたくて、市井の無頼人共と同化することが出来なかった。それで何《い》時《つ》とはなく勤王の志士達と、交りをむすぶようになった。彼は元来武骨一方の男で、時代の思潮にはたいして関心を持たなかったが、彼にとり面白くない時勢や境遇にたいする不満で彼等に共鳴した。  だから彼は井伊大老を襲撃する企に参加をもとめられると、一も二もなく賛成した。一介の浪人で時の大老を討つ、これほどの快挙はないと、彼は久しい間の鬱血をわかしたのである。しかし日比谷の土手の陰に伏せて、大老が少数の一番隊の同志の手で、あっけなく討ちとられてしまっただらしなさを目《もく》睹《と》すると、茂次郎は長い間の夢が急にさめてしまったような幻滅を味った。同志の成功を喜ぶよりも寧《むし》ろ大老の死に落胆するのは、彼の心理上の矛盾には違いなかったが、茂次郎はこのような有様では、もう武門の世も終りだと悲観してしまったのである。  徳川の武家政治が長くないとすれば、この上武技の修行をつづけても無駄だと、気短かな茂次郎は早くも前途に見切りをつけて、用心棒かたがた望まれたを幸い、下町の商家へ再び婿入りしてしまった。彼は其《そ》処《こ》で二人の子等の父となった。  初めて人の子の親となったにもかかわらず、そして又浪人生活の苦労が身にしみていた筈《はず》であるにもかかわらず、四年も経《た》つと茂次郎はようやく平安無事な生活にあきがきた。彼には町家の生活は性にあわなかった。それに壮年の彼はまだまだ己の夢をすてきれなかった。彼の考えどおり徳川の政治が末にちかづいてそれだけ世の中が騒がしくなり、以前の同志達の目覚しい活躍を見聞きするにつけ、茂次郎は覚えの腕が鳴ってじっとしていられない思いだった。それで武田耕雲斎や藤田小四郎達が筑波に兵をおこしたことを聞くと、彼はやみくもに養家を出奔してしまったのである。  筑波で茂次郎は、永年もとめていた「生活」の渇を、とうとういやすことが出来た。彼の生涯を賭《か》けて鍛えこんだ彼の剣は、彼の期待と自信を裏ぎらなかった。彼がぞくした浪人隊は勇敢と無法で聞えていたが、彼はその中でも選ばれた者だった。  茂次郎は肥りじしで大兵な兄の高範にくらべると小兵なくらいだったが、筋肉の層でつみあがった彼の五体は藤《ふじ》蔓《づる》のようにしまっていて、黒い顔のところどころに面擦《ず》れの痕《あと》がしみつき、するどい眼差しに精《せい》悍《かん》な闘志と気《き》魄《はく》をこめ、みるからに一流剣士の風《ふう》貌《ぼう》で《りん》々《りん》と鳴っていた。  彼はどのような敵をも、ただ一刀で仕留めることが出来た。敵の多くは真剣のたたかいに慣れず、切っ先で大地を叩《たた》き、茂次郎の思うままのためし斬にあった。自衛団の土民達にいたっては、据物をきるも同様だった。彼は立ち向ってくる者ならば、郷民であろうと何であろうと逃さなかった。彼はただ剣を揮《ふる》って人を斬る悦びに憑《つ》かれていた。  茂次郎は鉄棒をふりかざして味方を悩ました敵の乱暴者を討ちとったり、筑波軍が得意とした夜襲戦に敵の百人隊長の首をとったりして、隊長から屡《しば》々《しば》感状をもらった。彼はこの当時、彼の生涯の一つの頂点に立っていたのである。いわば彼の人生の花であった。  筑波の天《てん》狗《ぐ》党《とう》が最後の優勢をほこって水戸を攻め、湊のかたに陣を布《し》いていた頃、茂次郎は単身敵陣の偵察におもむいた。そして竹《たけ》藪《やぶ》にひそんでいた敵の伏兵におそわれた。十余人の敵は槍をもって茂次郎をとり囲んだが、彼のはげしい気勢におされてじりじりと囲みを解き、ついに一団となって彼等の屯《とん》営《えい》である寺院のかたへ遁げだした。茂次郎は勝ちにのって彼等をおいかけて行った。敵側とすれば首尾よく彼を罠《わな》に誘いこんだわけである。  寺院の楼門の陰に彼等の隊長が、大刀をふりかぶって茂次郎を待ちかまえていた。茂次郎が夢中でそこを走りぬけようとした刹那、 「しめたッ」  という叫び声がして、茂次郎の陣《じん》笠《がさ》がふっとんだ。茂次郎はあおりで横へとんだひょうしに顛《てん》倒《とう》し、気を失ってしまった。  しかし失われた意識の裡《うち》にも、人間のすさまじい闘志はなお働くものとみえて、茂次郎は朦《もう》朧《ろう》とした意識の底から、くゎっと眼をみひらく思いで起きあがった。すると前方をのっしのっしと立ち去ってゆく、敵の隊長の大兵な後姿が眼にうつった。真紅の革胴に秋の日を照りかえしながら、鍔《つば》元《もと》近くから折れた刀を空にかざして眺め眺め歩いている。渾《こん》身《しん》の力で刀をふりおろした瞬間に、山門の横木にでもあたって刀身が折れてしまったものであろう。おかげで茂次郎は、奇蹟的に命を拾った。それにしても敵は茂次郎が気絶している間に、差添いで彼を仕留めることもできた筈《はず》なのに、刀の折れたにうろたえてそこに気がつかなかったのであろうか。  しかしうろたえた点からいえば、茂次郎のほうが一層みじめだった。敵の太刀風の下にひっくりかえって気絶するにいたっては、三十年の剣の修行に何をえた所があったのかと、茂次郎は自分自身に腹がたった。それで彼は自分の不覚をとりもどすつもりで飛び起きると、敵の気づかぬを幸い刃を伏せて敵の背後へ忍びよって行った。  彼が全身の気合をこめて、まさに敵に跳《おど》りかかろうとした時に、敵が後をふりかえって、 「茂次郎」  と呼んだ。思いがけないわが呼び名に、茂次郎がはっとして立ち止ると、敵は片眼の顔をくずして「にやっ」と笑った。そこで茂次郎はやっと気がついた。彼は敵のもの凄い顔の中から、はからずも三十年前に別れた高範のなつかしい、あの笑の表情を見出したからである。 「おおう」  と叫んで茂次郎が、思わず兄の方へ進みよろうとした時に、寺院の中へ逃げこんだ敵兵が、新手を加えてどっと溢《あふ》れだしてきた。茂次郎はずきんずきんと痛むような心を抱いて逃げ帰った。 二  天狗党の落武者斑石茂次郎は、故郷ちかくの山村へ遁《のが》れてきて、宿場問屋の寡婦お才の入夫となり身を隠した。名も藤木利右衛門と改って、一介の土民となってしまったのである。  藤木家は苗《みよ》字《うじ》帯刀をゆるされた家柄で、なみの土民とは違っていたが、なお侍を婿にしたことを非常な名誉にして、事件の決着がつくまで茂次郎を、土蔵の奥や近くのわびしい温泉場に匿《かくま》っておいた。  茂次郎が筑波を落ちのびて来たのは、思いがけなく高範と出会って、故郷の母や弟が恋しくなってきたためである。彼は高範とあった後、急に剣に自信をうしなったようにぼんやりして、はかばかしい働きぶりもしめさなくなった。  彼は他の臨時募集の浪人や博徒等と同様、本隊から離れて筑波を落ちる途中、郷民の自警団の手につかまった。そして後《うし》手《ろで》にくくられ官軍の屯《とん》営《えい》にひかれてゆく道すがら、下痢をよそおって民家の厠《かわや》へ入り掃除口から逃亡した。  それからは昼は山林にひそみ、夜は月あかりを頼りに里近く出てきては小田の稲穂を啄《ついば》んだりして、飢えと疲労に困《こん》憊《ぱい》しながら十日間ちかく山路を彷《ほう》徨《こう》した。そしてとうとう山中に倒れていたところを、蕈《きのこ》狩《がり》の老婆に見つけられて助った。  其《そ》処《こ》はもう故郷に近く、老婆は彼の実家のゆかりの者だった。彼がそのようなからき目にあって、故郷近く辿《たど》りついてきたにもかかわらず、茂次郎が最初にえた故郷の消息は、母も平太ももはやこの世にはいないということであった。  寡婦のお才には死歿した先夫の子が五人あった。彼女は三十代でまだみずみずしかったから、さらに茂次郎の子を次々と生んだ。茂次郎は先夫の子も自分の子も一切わけへだてしない善良な家長だったが、又一徹な侍気質のうせぬ変った父親でもあった。  彼は郷民となっても、頭髪を浪人風に大《おお》髻《たぶさ》にむすんでいた。村人はそれで彼を一般に、「長《なが》髷《まげ》様」とよびならわした。尊敬の意もいくらかはあったろうが、揶《や》揄《ゆ》味《み》も多分にあったのである。理由はいかがあろうと、死ぬべき命をながらえて郷民に身をおとしたからは、多少の蔑《さげす》みは忍ばなければなるまい。村民は侍という者を恐れはばかっていた反動で、自分等と同様な身分におちてきた茂次郎を軽く視る風があった。  ことに血気ざかりの若い衆達にその傾向が強くて、茂次郎にたいして故意に彼をあなどったり、反抗するような様子をみせる。武家政治がつぶれて世の制度が一変しようという変革の時期であったから、人々の心も荒く殺伐をきわめていた。  もっとも茂次郎と同じ村の人々は、旧家の藤木家にたいする遠慮からしてもそれほど露骨ではなかったが、他村内では容赦がなかった。茂次郎がたまたま遠出して山道を一人帰ってくると、三人の逞《たくま》しい若者が彼の後をつけて一里ばかりの間というもの、しつこく彼に揶揄の言葉をあびせたり悪態を吐《つ》いたりした。しかしさすがに茂次郎を恐れて、あえて側《そば》へは近づいて来ない。  そのうち道の曲り角へくると、茂次郎の姿がひょいと見えなくなった。 「気まり悪くなって、道をかえやがったらしい」 「案外、気のちいせい野郎だ」 「石ぐれい、抛《ほう》りつけてやんだったにな」  三人がそんな話をかわして、得意げに高笑いをひびかせながら何気なく曲り角を通りすぎかけると、三人が三人ほとんど同時に耳の後をぴゅっと撫《な》で斬《ぎ》りにされ、彼等は目をまわしてしまった。  茂次郎にしてみれば片側の丘の上から飛びおりざま、即製の鞭《むち》で彼等をひっぱたいたにすぎなかったのだが、若者達は衝撃があまりに強く頭へひびいたため、斬られたと思って動けなくなってしまったのである。  三人は茂次郎がすでに村へ帰りついた頃、後から来た通行人に助けられてやっと息を吹きかえしたが急所をきびしくはられたので、二三日は気がすこし変になった。睡眠中突然「わあっ」と叫んで飛びおきたり、戸外へ駈けだしたりしたのである。  こうした話が近郷近在にひろまると、茂次郎にたいする村民等の態度が俄《にわか》にあらたまってきた。そして若者等の間からすすんで撃剣を習いたいと茂次郎に頼みにきたが、郷民と化したつもりでいる彼は承諾しなかった。  藤木家は茂次郎を婿にしたことを名誉として喜んだが、その名誉がどのくらいの値につくか世の中が改るまでわからなかった。  明治初年以来、藩籍奉還、廃藩置県と時勢が激変すると同時に、参《さん》覲《きん》交代の要路だった街道筋は、ばったりと寂れてしまった。それで一番困ったのは、荷駄や為替《かわせ》金の運送をとりあつかい、駅馬や駕《かご》をしたてていた問屋や宿屋である。  藤木屋は稼《か》業《ぎよう》をしまって僅《わずか》の所有田畑や山林の収入に、生計をたよらなければならなくなった。ところで浪人くずれの茂次郎には、百姓仕事が出来なかった。彼は成長した先夫の子達をつれて野良や山へ働きに出たが、子供等の半分も仕事がはかどらなかった。それに彼は野良仕事をまったく好まなかった。つまり結果からいうと、藤木家は名誉のかわりに一種の厄介者を背負いこんだわけである。  茂次郎はそこで余儀なく、一度はことわった剣術を村の若者達に教えはじめた。問屋をやめて不用になった板倉の一つを、道場に作りかえた。他村へも教授に出張した。世の中が改ったとはいえ騒がしさに変りはなく、ことに武士も土民も一つになると、村の若者達はかえって武士の表道具である剣術を習いたがった。しかし剣術の教授からあがる収入はたかがしれたもので、金のかわりに米や野菜や炭などを礼に持ってきた。それでも茂次郎が教授にひどく熱心だったのは彼の天性もあったとはいえ、又それで彼の生活の無《ぶ》聊《りよう》が大いに慰められもしたからである。  彼の村の道場には、過去を忘れがたい旧藩士達が折々たずねてきて、互に自慢の武芸をきそいあった。茂次郎は相手の技《ぎ》倆《りよう》次第でかなり如才ない試合ぶりをみせたが、強敵となると仮借することなくいくらか詭《き》計《けい》めいた手さえ用いた。  彼がある旧藩の指南番とたちあった際に、左足に竹刀《しない》をぴたりとあてて立ちあがった彼は、双方の目礼が済むか済まない間に、「やっ」と叫んで飛びこむなり一突きに相手の胸をつきたおしてしまった。見物の人々の眼には、まるで相手が彼の気合で倒れたかと思われたくらいの早業だった。これは一刀流の極意とする、茂次郎の得意の構えなのである。  仰向けに突き倒された指南番は、さすがに飛び起きて怒りと屈辱に真っ青となり、 「もう一本、もう一勝負」  と竹刀先をふるわして茂次郎にせまったが、彼は頑《がん》として再試合に応じなかった。そういう折の茂次郎の表情は獣のようにたけだけしくなり、両眼はもえあがって筑波であばれまわった往年の面影をしのばすものがあった。  村人はまのあたり茂次郎のこうした武勇を見、また彼の正直な人となりを知るようになると、以前とはかわって彼の存在を徳としたばかりか、ひどく彼を頼みに思うようになった。実際村の若い衆がきそって武芸を習いたがったように、世の中の変動で失職した浪人者や無頼のやからが、このような奥路の村々まで流れこんできて、押借りや強盗騒ぎが毎日のように絶えなかった。  茂次郎はこれ等の暴漢の襲撃から、一村の平和と財産とを護ってくれた。茂次郎の村におしかけてきた不《ふ》逞《てい》の徒は、いずれも彼のために命からがらの目にあわされ詫《わ》び証文をとられた。茂次郎の屋敷の大きな構えをみて、大尽と誤解した浪人者が、小具足をつけ手《て》槍《やり》をもった仰々しい姿で白昼傍若無人にのりこんできて、庭内でこつこつと桶《おけ》の箍《たが》をはめていた茂次郎の姿をみると、宝物倉へ案内しろとおびやかした。  茂次郎が黙っていると、酒気をおびていた暴漢は彼の大《おお》髻《たぶさ》を滑《こつ》稽《けい》がって、槍の穂先でおどかしにチョイチョイつッつきだした。すると茂次郎は、 「鍵《かぎ》をもってくるから待て」  といって起ちあがり、大きな鍵を腰にさげて出てくると、暴漢をおとなしく倉庫の一つへ案内した。そして中で暴漢を苦もなく縛りあげ、がらくたの詰っている倉の中に閉じこめてしまった。三日すぎて倉を開いてみると、暴漢は鼠《ねずみ》に噛《か》まれ飢渇に弱って半死半生の体だった。彼は茂次郎からあらためて食物と路銭をめぐまれ、ひらあやまりにあやまって村を退去していった。  これ等のことが遠近の語り草となって、後には天《てん》狗《ぐ》党《とう》の浪人者が隠れているというので、不逞の者は彼の村を避けるようにさえなった。それで彼は近郷の町の大尽達からしばしば宿泊に招かれたばかりでなく、新たに鉄道工事が始って多数の土工達が町々村々へ入りこんでくると、それ等の旅館や料理店からも用心を頼みにきた。  良民をくるしめる不良漢の横行もひどかったが、また旅から旅へめぐり歩く、僧侶、行者、行商人、諸芸人、乞食、かたい、といった流民の数もおびただしかった。彼等は文字どおりいたる所各地に氾濫したといってもよかった。世の中の変動がはげしかったに比例して、犠牲者の数も多かったわけであろう。  茂次郎は暴漢はひどく懲らしめたが、反対にこれ等の流民の群をば病的なくらいに深く愛した。それは彼自身流浪の苦をつぶさになめ、大道芸人にまでおちた経験があるためだろうが、一つには彼が山里の単調な生活に苦しんで、広い世間の風聞に飢えていたせいもあったに違いない。問屋をやめて、人の出入りが少くなってからは特にそうだった。  彼は屋敷へやってくる旅人達を、喜んで幾人でも泊めた。時には強《し》いて引きとめさえした。彼の広い家内は旅人達の無料宿泊所みたいになって、諸国噺《ばなし》に花がさき諸芸の披露でにぎわった。めずらしい客人や芸人が泊るようなことがあると、茂次郎は自分から村中を大声にふれまわって、村人等をわが家に招待した。  彼は朝だちする旅人達を、村境の峠上まで必ず見送っていった。旅人達は一夜の世話にあずかったうえに、見送りまでうけていずれも恐縮したが、茂次郎は礼儀や形式でそうするのではなかった。彼は旅人の姿が峠を下り、曲り角に消え、ふたたび下方に小さく現れ、麓《ふもと》の杉木立の中に見えなくなって、やがて遠くの川の橋上に一点の黒影となり、ついに野のはてに失せてしまうまで、峠の野石に腰をおろしてじっと見送っているのが好きなのである。遠ざかって行く旅人の姿と一緒に、彼の心もまたはるばると広い世界へはこばれてゆくような思いがするものらしい。余生を山里へ埋める覚悟を定めた故、漂泊にたいする憧《あこが》れはひとしお強くなったものであろう。  それとも彼は旅人等の見送りを口実に、筑波へ無断で出奔したなり音信《たより》もしなければ又たよりも聞かぬ、江戸に残してきた妻子の上を、そうしてひそかに偲《しの》んででもいたのであろうか。茂次郎は江戸にある妻子等の事を、一言も藤木の家族に洩《も》らしたことがなかった。恐らく江戸の彼等が茂次郎の生存を諦《あきら》めているだろうように、茂次郎も自分を葬ったつもりで彼等を諦めてしまったようである。一種の侍気質といえばそのようなものかもしれないが、しかしだからといって彼等を忘れさったことにはなるまい。茂次郎は黙っているかわり、「生きる」ということがどんなものであるかを、身をもって感じていたわけだ。  藤木の家族は、茂次郎のやたらと旅人を泊めたがる性癖に困っていた。お才は茂次郎の子を四人生み、やがて先夫の長男に嫁を迎えて孫ができだすと、家内はいよいよ大勢になって、乏しい収入ではとても旅人を世話する余裕などはなかったのである。  ことに迷惑したのは、行き所のないレプラ患者が、茂次郎の温情を幸いに腰を据えて動かないことだった。家を追われ家族から見すてられた彼等は、むなしく死に場所をもとめて、街道筋の町や村々を彷《ほう》徨《こう》していたのである。茂次郎は彼等を憐《あわ》れんで、大きな物置小舎の藁《わら》床《どこ》の上に寝泊りさせておいたばかりか、重症者の看病や膿《うみ》血《ち》のついた衣類の洗濯を家族にいいつけた。  お才は何事も良人の意に従うといった昔気質の女であった半面、寡婦時代女手一つで問屋稼業をきりまわしていたような勝気なところがあったから、旅人の宿泊には茂次郎の一徹な気性をはばかって黙っていたが、レプラ患者の世話にはたまりかねて、 「もし、大勢の子供達に伝《う》染《つ》ったらどうします」  と良人に抗議をいうと茂次郎は、 「他人の身の上とばかり思うな」  と取りあわなかった。しかし彼とて病気の怖さを考えないのではなく、後には屋敷の裏山に幾つか掘立小《ご》舎《や》を建てて、患者達をそこへ収容した。そして食事を運んでやったり、彼みずから斯《し》病《びよう》の家伝薬といった物を、何《ど》処《こ》からでも買ってきてやったりした。  或《あ》る日茂次郎自身で食事を持って行ってやったついでに、患者が小舎の隅《すみ》にまるめておいた汚《よご》れ物を下の谷川へはこんで洗ってやっていると、もう身動きもできないほど弱りはてていた筈《はず》の病人が、いつの間にか彼の側まで匍《は》いおりてきて、地にひれ伏し彼の後姿をおがんでいた。  それには茂次郎もさすがに哀れをかんじ両《りよう》瞼《まぶた》を赤くして、黙々と家へ帰ってきたが、その患者は町のさる大家の内儀だったそうで、発病と同時に良人や子供達をすてて、一人身を隠したなれの果だという噂《うわさ》である。非常な美《び》貌《ぼう》をのぞまれて嫁入ったということであるが、赤くくずれた顔はふた目と見られなかったにしても、残りの黒髪や真白い頸《くび》すじなどに、ありし日の色香がしのばれないでもなかった。  茂次郎のこのような病癖は、彼が老齢となってくるにつれて益《ます》々《ます》ひどくなった。屋敷へくる旅人等を泊めるのはまだしもだったが、今度は日暮れちかくなると、彼の方からふらふらと遠くの新街道筋あたりまでさまよって行って、夜の泊りをもたぬ乞食や行路病者を捜しまわって家へ連れこんでくる。道路改修工事に囚人の群が隊をなして町の監獄からやってきたと聞けば、茂次郎は黒砂糖の大袋をかついで行って囚人達にくれてやり、それを咎《とが》めて彼を鞭《むち》打とうとした看守の手を逆にねじりあげて問題をひき起したこともあった。  彼の不敵な面《つら》魂《だましい》からすれば、まったく似つかぬ行為の数々だった。彼の思いどおり、何事もしゃにむに押し切ってきた前半生を考えると、なおさらである。百姓利右衛門となると同時に、彼の人柄も心のもちかたも変ってきたのであろうか。  彼は浪人時代から深酒をのんだ。志をえぬ憤《ふん》懣《まん》を酒にたくした次第である。だから酒の上が悪くて、暴れだすと手がつけられなかった。彼が大道芸人におちて居合などぬいていた時分、好んで観衆中の掏《す》摸《り》を掴《つか》まえたのも、捕えた掏摸を後手に括《くく》って転がして置き、稼《かせ》ぎを終ってから居酒屋へ連れこんで、手の甲を手裏剣で板台に縫いつけ、泣き喚《わめ》く姿を肴《さかな》にちびちびやろうという、たちのよくない趣向からだった。  筑波に籠《こも》っていた頃は、酒の上から度々同志と喧《けん》嘩《か》して刃物沙《ざ》汰《た》に及び、今度は彼の方が括られて一晩転がして置かれたことがあった。筑波の虚無僧寺の柱には、茂次郎が大酔して斬りこんだ刀痕が今も残っている筈である。  藤木家の継父となってからは、茂次郎は村の寄合でよく飲んだ。村人が一々律儀に、 「旦《だん》那《な》様、旦那様」  と云って大きな盃を、入りかわり立ちかわりさしかけてくるので、どうしても他人より余分に酒を入れることになる。すると彼の黒い顔が重く沈んで、眼附がひときわ凄《すご》くなった。そして一座を睨《ね》めまわしながら、膝《ひざ》の上の右拳をびくりびくりとうごめかしてくる。丁度蛇が鎌《かま》首《くび》をもたげるような恰《かつ》好《こう》で、あまり気味がよくない。そのうち彼の息使いがせわしなくなって肩が上下に動きだすと、村人等は何だか気《け》圧《お》されるように怖くなって、一人ひきあげ二人ひきあげして何《い》時《つ》の間にか皆いなくなってしまう。後で茂次郎一人、後へぶったおれてひどい苦しみぶりをしめした。  茂次郎はその理由を決して他人には明さなかったが、彼を介抱するお才に洩らしたところによると、酒が五体に深くまわりしみてくるにつれて、血のしたたる人間の生首が幾つともなく周囲に現れ、彼にむかってひゅっひゅっと飛びかかってくる幻におそわれるのだという。彼はそれ等が斬りたくて、思わず手くびがむずついてくるという話だった。  それで彼は老来次第に酒を慎むようになり、とうとうふっつりと禁酒してしまったが、今度は病気にかかって熱をだすとよく魘《うな》されるようになった。 「うむ、苦しい。ゆるしてくれ、宥《ゆる》してくれ」  となさけない声をしぼりだして、周囲の者をはらはらさせた。 「あなた、どうしたのです。どうしたんですよう」  とお才がゆすぶり起すと、茂次郎は両眼を開いて、妻の顔をしげしげとみつめてから、ほっと深い吐息を洩らした。それもやはり彼の手で殺《さつ》戮《りく》した人々の亡霊、ことにも抵抗らしい抵抗もせずに殺された筑波の土民の怨《おん》霊《りよう》に、しつこく悩まされるのだったそうだが、病気よりその懊《おう》悩《のう》のために彼は衰弱した。  それではいっそ僧を頼んで、供養してみたらどうかとお才から勧めてみたが、ふだんの茂次郎は、 「莫《ば》迦《か》な」  といって相手にならなかった。彼は性分として抹《まつ》香《こう》くさい事が嫌《きら》いだった。それでお才は良人《おつと》にかわって、ひそかに寺で供養を営んで貰ったが、しるしが見えたとも思われなかった。  お才等は茂次郎のなやみのもとが分ってみると、彼が夜をさみしがってやたらに旅人等を泊めたがる気持や、癩《らい》者《しや》にたいする度はずれた慈悲心を、深くとがめる気になれなかった。むしろ彼の侍らしからぬ、正直でやさしい心根をあわれに感じた。いわば茂次郎の後半生は、彼のむちゃな前半生にたいする一種の註解みたいなもので、二つあわさってそれぞれ人生の表裏となり、茂次郎らしい一つの生涯ができあがった形である。  ところで高範は、郷民とおちた茂次郎とは反対に、筑波の叛徒を追いはらって帰ってくると、藩中第一の勇士として迎えられ、門閥の者と肩をならべるまでに出世した。  しかし家庭生活にはあまりめぐまれなくて、一男を生んだ後、長らく病床にしたしみがちだった妻が死ぬと、同じ家中からひどく若い妻をめとった。彼女は高範の先妻の遺児と、あまり年がちがわぬくらいの妙齢だったから、女の早婚をあやしまなかった当時の風習とはいえ、この結婚は明らかに高範の権勢にたいして政略的になされたものであろう。そして高範はこういう女性を珍重する年頃に、そろそろ近づいていたのである。  武士制度が廃されて藩が解散され、家中の人々は金禄公債を資本にして、それぞれ生活の途をもとめなければならなくなると、高範は屋敷をたたみ財産を処分して、若妻と子をつれ飄《ひよう》然《ぜん》と他郷へでてしまった。そして新興の商工業市の貧民街に居をさだめて、いきなり細民相手の日歩金貸しをはじめた。  これが人々の意表にでた行為だったことは、改めて断るまでもあるまい。多くの藩士等は田園に隠れるか、城下にいついて居喰いのうちに閑日月をおくるか、或《ある》いは町の名誉職や教職につくかして、武士の名誉と体面を重んじることを、第一の心がけとしていたからである。  ことに高範は家中にきこえた名誉の侍だったから、彼の転業は同僚の怒りと指弾をうけ、知人姻《いん》戚《せき》から義絶同様にあつかわれた。高範もそれは覚悟のうえだったとみえ、旧知にいっさい消息をたち世間の交際からも退いて、一家三人孤独の生活のうちに影をひそめてしまったのである。  それから十幾年後、茂次郎が兄と面会するまで、高範の生活は謎《なぞ》になっていた。茂次郎がはじめて兄の所を訪問した時、高範は市の郊外の広大な隠宅に住んで、品の好い老女にまめまめしくかしずかれながら、はた目にうらやましい閑寂な余生をたのしんでいた。もっとも高範の若かった後妻はとくに亡くなり、先妻の一人息子は失踪して、いまだに行方がしれないということだった。  高範の妻の死と息子の失踪について、市の人々の間に或る風聞が伝えられている。いずれ高範に苦しめられた貧民達が、復《ふく》讐《しゆう》的にこしらえあげた妄《もう》説《せつ》にすぎないが、彼の奇怪な風《ふう》貌《ぼう》や人柄とむすびついて、いかにも真実らしく感じられるところに、この風聞のみそがあった。  この風説によると、高範は嫉《しつ》妬《と》のため妻を殺したのだとされている。しかも嫉妬の相手は、彼のひとり息子だったというから話が辛《しん》辣《らつ》だ。彼の子供は父の守銭奴といってもよい、吝《りん》嗇《しよく》な生活に反抗して放《ほう》蕩《とう》をはじめた。これは事実。そして父と衝突して、親子の間にきたない争いが続いた後、息子は父の金を盗んでにげた。これも事実に近いらしい。ところが息子はゆきがけの駄賃に若い義母にぬれぎぬをきせたような不倫な告白を、父に書き残して行ったというのだが、このあたりからそろそろあやしくなってくる。  高範はその書置きを証拠にして妻を責めた。妻は覚えのないことだから、高範に詫《わ》びようがない。といって息子が逃亡してしまった以上、身のあかしをたてる方法もみつからぬ。結局妻は白《しろ》無《む》垢《く》の花嫁姿を死装束にして、三宝にのせた短剣で高範から自裁をせまられたが、当時まだ二十歳そこそこだった彼女にはその決心がつかなかった。それで奥の仏間でひとときあまりもためらい続けていると、高範はぬきうちに彼女の細首をきり落してしまった。覚悟をつけかねていたところを、不意に斬《き》られたので血は天井にまで噴きのぼり、今にその痕《あと》が黒くまだらに残っている、という尤《もつと》もらしい話なのだが、真偽ははたしてどうであろうか。  しかし明治の初年時代には、こういう類の血《ち》腥《なまぐさ》い話はさして珍しくなかった。だからこれもそういう伝説の中の一つとみなして宜しいが、それはそれとして高範一家のその頃の暗い生活雰《ふん》囲《い》気《き》を、いかにも巧みに比《ひ》喩《ゆ》化《か》して伝えているところが面白い。  事実その時分の高範の生活は、暗《あん》鬱《うつ》をきわめたものであったらしい。彼は市の貧民街にのぞむ高台の一つ家に住んで、彼の稼業以外世間とはまったく没交渉に暮していた。街から眺《なが》められる彼の住居は、いつも門戸がとざされどおしで絶えて人の出入りがなく、家族の姿もほとんど外から見られたことがない。  わずかに日暮れ時に一回門がひらかれて、高範のずんぐりした姿が現れ、ややうつむき加減の姿勢で、坂道をゆっくりと街へおりてくる。おりから細民街は亭主等が一日の労銀をえてかえってきた頃で、家々がもっとも賑《にぎ》やかに活気をていする時分である。  その一家団《だん》欒《らん》のさなかへ、挨《あい》拶《さつ》もなく高範がぬうっと這《は》入《い》ってくる。そして家内の空気をいっぺんに冷してしまう。高範にしてみると、たんに日歩の金を集めにまわるにすぎないのだが、彼の容貌が容貌のうえにみじんも愛《あい》嬌《きよう》がないのであるから、人々はあたかも通り魔におそわれたような気がするのである。  数ある長屋の亭主達の中には一杯機《き》嫌《げん》で、 「侍あがりが何でえ、一両たらずのはした金に、こちとらは毎日五銭十銭の高い利子を、はずんでやるのだ。なにもびくびくするにゃ及ばねえや」  そういう気構えで高範をまちかまえていても、いざ高範とじかに向いあう段になると、われにもなくついペコペコとしてしまって、後から自分の卑屈さを一層にがにがしく思う。  借金をふみたおすことなぞ、屁《へ》とも思わぬ剛の者も、高範の前には頭があがらない。たとい焼《しよう》酎《ちゆう》や濁《どぶ》酒《ろく》の勢いをかりてじくねてみたところで、高範はてんから相手にならぬ。片眼をぎろつかせながら、黙って相手の顔を眺めている。眼をそらしもしなければ、表情も動かさない。そのうち相手は一人角力《ずもう》に疲れてきて、不意に「ぞおっ」とするばかり高範が怖くなるのだった。  このような態度で高範は、借金の支払いや利子の延滞を少しも仮借しなかったので、細民達の深い恨みをかった。誰も彼のことをよく云う者がない。冷酷非道の「我利鬼」というのが、高範の通り名となった。  細民街の盗癖ある一人が、なかば仕返しのつもりで高範の屋敷へ忍びこんだところ、高範にひっつかまり額に十字型の烙《らく》印《いん》をおされてつきだされた。それで彼は街にいたたまらず逃亡してしまった。  そうしたことがあってみると、高範にたいする細民の恐怖はなかば神秘めいてきた。やがて妻も子もなくただ一人、暗い屋敷内に起き伏ししている高範の孤独な姿は、しんしんたる鬼気をはなっているように人々に感じられた。  人気なく門をとざした高範の屋敷には、庭内から坂道の両側にかけて、桜の老樹が枝をつらねていた。梅雨あけて桜の実の熟《う》れる頃になると、細民街の子供達が樹に攀《よ》じのぼって実をむさぼり喰う。  悪戯ざかりの子供等が庭内にまで侵入して、梢《こずえ》の間で騒ぎちらしていると、いつの間にか高範が樹の下に佇《たたず》んでいて、生き生きとして悦ばしそうな子供等の姿を、片眼でじっと見あげていた。  子供等の一人がふとそれに気がつくと、黙って樹から飛びおりた。すると他の子供等も、気がついてつぎつぎと彼にならった。彼等は声もたてずに夢中で坂道をばらばらと駈けくだり、家に近づいてからはじめて足の挫《くじ》きや腰の痛みにはげしく泣きだした。  その後は子供達すら、高範の屋敷へ近づかなくなった。守銭奴のように云われている高範も、まさか桜の実まで吝《おし》む筈《はず》はないのに、子供達さえ遠ざかるにいたっては、高範の当時の生活は、まさに孤独のかぎりをつくしたというべきであろう。  しかし、高範はとうとう金貸しで成功した。また彼のように確実なやり方と辛抱にたえられれば、どんな商売でも失敗する筈がない。体面にとらわれていた旧藩士のおおかたが、時勢に流されて落ぶれてしまった頃、高範はもうしがない細民相手の日歩金貸しではなく、ますます発展してゆく新興市街の有力な実業家や工業家や、地方の豪農などばかりを相手にする、大きな金融業者になっていた。  彼は株式組織の銀行をつくるように、多くの人々から熱心に勧められもしたし、また選挙ごとに市郡会はもとより県会や国会議員にたつことを、運動屋連からうるさく説かれもしたりしたが、かたくなに彼等の勧説にしたがわなかった。そして債権の抵当流にとった富豪の広い別荘を隠宅にして、相かわらず世間と没交渉な生活をおくっていた。  彼の別荘は、市外の山水の名所の中に建てられてあったものである。だから自然の眺めをほしいままにすることができた上に、やり水を落した泉水には見事な大《おお》鯉《ごい》が悠《ゆう》々《ゆう》と群游しているし、高範が愛《あい》玩《がん》の珍《ちん》稀《き》な蘭や万《お》年《も》青《と》や古木の盆栽も数多く集められてあって、庭番の老夫婦の手で大切に世話されていた。  高範の横にひろがった茶《ちや》釜《がま》のような顔は、老境にいって頬《ほお》の肉がおち菱《ひし》型《がた》にかわった。そのため顔の線が一層こちこちとかたくなった感じで、大金融業者らしい禿《はげ》頭《あたま》と金《かな》壺《つぼ》眼《まなこ》とのとりあわせに、五分のすきも見いだせなかった。彼が世間と没交渉な生活をおくっているにもかかわらず、彼の隠宅を訪れてくる人の数はたえなかった。それぞれ高範から融資をうけようという相当な人人ばかりだが、高範は容易に人と会わなかった。再三再四手をつくし足をはこばせてから面会しても、話が面白くなかったり条件が気にいらないと、たちまち空聾をよそおって相手をてこずらせた。  彼の人物にもぐっと重味がついてきて、市内の有力者達も彼には頭があがらなかった。いろいろな悪評はあっても、とにかく一種の傑物にはちがいないというのが、衆口の一致するところだった。鍛錬された人間の貫禄といおうか、高範に会った者はなんとなく気《け》圧《お》されるような心持がするのである。彼がたまたま市内に姿をあらわすようなことがあると、多くの人々が彼にたいして帽子をとって鄭《てい》重《ちよう》に挨拶した。彼にはなった以前の悪口や風評など、まるで知らぬげな顔附である。  高範は実直で働き者の養子夫婦に、市街のめぬきの場所で手堅い店商売をやらせていた。養子夫婦は手すきの時をねらって、毎日高範の隠宅へかわるがわる機嫌伺いに顔をだした。それは彼等の発意からすることで、高範はむしろ店の忙しい時分にやってきたりすると機嫌がわるかった。  養子夫婦は高範の側につかえている老女を、「お母さん」とよんでいた。老女といってもまだ五十歳を多くでてないくらいの婦人である。おっとりと気品の高い顔だちで、口数はすくなかったが、何事にもよく気がつき、高範の側につききりで彼に不自由をさせなかった。こういう婦人の存在は、高範の数寄をこらした隠宅や数々の貴重な調度品にもまさって、彼の生活を奥行の深いものにしていた。高範は彼の妻とも妾《めかけ》ともつかぬこの婦人を、 「ひさ女、ひさ女」  とうやまってよんでいたが、歯のかけた彼の口からでるとそれが、 「ひさよ、ひさよ」  と訛《なま》ってきこえた。  老境に入るにしたがって、高範は手足の動きに不自由をかんじるようになった。それでひさ女をつれ、毎年春秋の二季湯治にいった。山の名高い温泉場には高範の定宿があって、彼はその宿に少からぬ金を融資していたから、宿では彼を特別に待遇した。  高範は神経痛のために冬がつらく、いつも春がくるのを待ちかねるようにして、ひさ女と二人二梃《ちよう》の駕《かご》をしたてていつも早々と山へ登っていった。市街に春がきても山々には雪がまだ残っていて、思いがけない時分に北風にのった淡雪が、無数の白糸を吹きながしたように二人の駕にむかって斜に吹きつけてくることがある。 「高範様の駕が、お見えになった」  という声を聞くと、長い間冬ごもりしていた温泉場の人々は、やっと春がおとずれてきたように感じた。  春早くまだ湯治の客の少い温泉宿の生活は単調をきわめたけれども、高範は客のないのをかえって幸いにして、終日でも湯に入りつづけてあきることがなかった。とがった禿頭のまわりに銀髪をまばらにひからした片眼の老人が、浴場の板の間に臀《しり》をついて低迷する湯気につつまれながら、至極みちたりた様子でぼんやりと渓流のせせらぎを聴いている。  そういう時の彼の姿はむしろ放心の人にちかく、到底あの多くの融資依頼者達をてこずらせるきびしい老人の姿とは見られなかった。彼の肩幅はまだがっしりとしていて、胸の肉附きも豊かだったが、手足はさすがに細くなり皮膚が皺《しわ》ばみたるんでいた。  ひさ女は高範が入湯中も側をはなれずに、着物の裾《すそ》をからげ襷《たすき》がけで控えていて、彼の入浴に手をかし湯からあがれば、彼の肩を叩《たた》いたり手足の肉をもんでやったりした。彼女は温泉場へ湯治にきていてもやはり生活はふだんと変りなく、高範の世話は一切宿の番頭や女中の手をかりずにやってのけた。おりおり高範が、 「ひさ女、ひさ女、お主も一緒にはいらっしゃれ」  と彼女をいたわって入浴をすすめるのだったが、女性としての慎みからか彼女の入浴は僅《わず》かに高範の起きだす前の早朝と、高範がやすんでからの夜分とにかぎられていて、一度も高範のすすめに従ったことがなかった。  高範は一体どのような機会にどのようにして、かほどまで彼に献身する婦人をえたのであろうか。高範の偉さは、彼が粒々辛苦して巨財をつんだことよりも、寧《むし》ろこのように賢い婦人から忠実に仕えられている、彼の人柄にあるのかもしれなかった。しかしそれとても、つまりはやはり彼の持つ財力のおかげにすぎないのであろうか。とにかくいずれにしても不幸な結婚を二度経験した彼は、晩年になって無二の好配偶をえたわけである。  高範はよく入浴するとともに、宿が念をいれてだす料理を好んでよく喰べた。質素な生活に慣れた彼は食物に好き嫌いを云わなかった。それに生涯酒をたしなまなかったので、老年になってとみに口さみしさをおぼえるようになったものと見え、老人に似あわず食慾がさかんだった。  ある日高範は浴場からの帰り、長廊下に冷えてふと粗相をしでかした。午《ひる》にたべた物がすっかり臀からもれてしまったのである。彼は真赤になって廊下に佇《たたず》んだ。ひさ女が大急ぎで汚物の始末をした。 「お湯につかりすぎて、湯あたりをおこされたのですよ」  そう彼女から慰められて、生涯を己の意志一筋に生きつらぬいてきたこの老人は、一瞬間なんとも云いあらわしがたいほど悲痛で、寂しげな苦笑をもらした。 三  高範のしあわせな晩年にくらべると茂次郎の境遇はひとしおみじめに見えた。彼の家族はすでに十数人をこえ、田畑の僅《わず》かな収穫では、家族の喰い扶《ぶ》持《ち》にも困るような有様だった。一家は春夏と蚕を飼い、秋冬には山林の木をきって炭を焼いた。なおその上に山間の荒地をひらいて、馬鈴薯や蕎《そ》麦《ば》をつくって糧《かて》の補いにした。先夫の長男や次男は荷馬車曳《ひ》きをして家計をたすけた。  茂次郎も生活におわれて百姓仕事を嫌《きら》っていられなくなり、馴《な》れぬ手に鋤《すき》鍬《くわ》をとって妻や嫁や子供等と一緒に野良に働き、山にはいってせっせと木を伐《き》り薪《まき》にたばね炭を焼いたりした。野良仕事が忙しくなれば、剣術の弟子達も通ってこなくなるからである。  しかし生活が苦しくなったのは、茂次郎一家ばかりのことではなく、旧街道筋一帯がそうだった。交通の要路が他に移ってしまったほかに、鉄道が新たに敷設されると、旧街道筋の町や農村はいよいよ寂れるばかりだった。町内の戸数はどしどしと減る一方だし、農村には田を売ったり借金の抵当にいれたりする家が多くなった。  茂次郎も村人に泣きつかれて、よぎなく借金の連帯証書に判を押したのがもとで、養家の財産をとられそうになった。すると彼は養家への申訳に、債権者を斬《き》って腹を切ると云いだし、久しく刀箱にしまいこまれてあった両刀を持ちだした騒ぎに、家族や隣人達が総がかりで彼をひきとめた。  妻のお才は茂次郎と先夫の長男の間にはさまり思案にあまって、ひそかに高範の所へ遠路をたずねてゆき、一家の危機をうったえて助けを乞うた。高範は茂次郎の近況をいろいろとききただした上で、藤木家の全財産を高範の名義で預ることにして、こころよく金を出すことを承諾した。  少年時代に別れた高範と茂次郎兄弟の交際は、こんな事情から晩年になって再びはじまった。茂次郎は妻から一家の破滅をすくった金の出所を聞かされ、高範の所へお礼をのべに行かさせられた。茂次郎は大《おお》髻《たぶさ》の上に菅《すげ》笠《がさ》をかぶり、お才が手織りの縞《しま》木《も》綿《めん》の新しい羽織着物に、紺ももひきの草鞋《わらじ》ばき姿で、てくてくと町の駅まで歩き、それから汽車に乗って高範のいる市街に行った。  ひさ女は山芋の藁《わら》づとを土産《みやげ》にしてやってきた、主人の唯一の親身である茂次郎の来訪を、非常に喜んで手厚くもてなしたが、高範はそれほど喜んだ風もしめさなかった。茂次郎が侍らしい切り口上で一別以来の挨《あい》拶《さつ》を兄にのべると、高範は軽くそれに応じたばかりで黙ってしまった。  茂次郎はみごとな懐《かい》石《せき》膳《ぜん》の料理に気をよくして、やめていた酒盃をとりあげ、ひさ女を相手に、隠宅の普請の結構なことや庭園の眺《なが》めの好いことを、しきりと褒《ほ》めたたえた。しかし彼は高範にたいして、改めて金を出してくれたことの礼もいわなければ、筑波での思いがけない出会いや母や弟の最期のことなど、過去については何事も語らなかった。  二人の老人は筑波の奇遇はべつにして、じつに四十余年ぶりで会いながら、まるで昨日まで一緒に暮していたように黙りあっていた。しかし二人の沈黙は、齢はかたむき姿はかわっても光ばかりはおとろえぬ互の鋭い眼差しのうちに、さすがに流れさった長い歳月の思い出が、つぎつぎと浮び蘇《よみがえ》ってくるような、意味ふかい黙りかただった。おそらく二人は互にそれぞれの生き方をしてきたという感じを、この時ほどじかに身にしみて味《あじわ》ったことはなかったに相違ない。  そのうち高範の方から、茂次郎の暮しむきのことなどをぼつぼつとききだすと、茂次郎も彼相応の答え方をして、二人ははじめて兄弟らしいくつろぎをみせた。茂次郎は高範の宅に一泊して、ひさ女から種々の土産物を持たされ、喜んでまた山間の我が家へ帰ってきた。  互に消息を絶っていた兄弟のつきあいが始ってみると、高範としても唯一人の弟の上が案じられるのか、わざわざ遠くから不自由な身体を車馬にたくして、弟の生活ぶりを見かたがた茂次郎の家を訪ねてくるようになった。地方になりひびいた高範の来訪をお才はひどく光栄にして、それだけ自宅の貧しさをはずかしがった。家附き娘だった彼女にしてみると、実家の落《らく》魄《はく》は茂次郎よりもかえって身につらく感じられたからであろう。  彼女の実家は、戸数三十ばかりの村の中央に敷地をもった堂々とした構えだったが、問屋をやめてからは屋敷の修繕などにもかまわず、塀《へい》は朽ち屋外の厩《きゆう》舎《しや》はこわされ、大きな土蔵も壁土のはげおちるままに抛《ほう》ってあった。多くの荷役の人々や村人等が出入りした広い母屋は、畳をあげ障子や襖《ふすま》をとりはらって蚕室にかわっていた。どうやら客を泊める設備のあるのは、母屋につづく裏の隠居所ばかりで、家族は板の間の藁の蓆《むしろ》の上に、うすい蒲《ふ》団《とん》をしいて寝た。ほの暗い広々とした土間の彼方の厩《うまや》には、三頭の馬と一匹の仔《こ》馬《うま》がしずかに飼葉をはみ、時折さわがしく蹄《ひづめ》の音をたてるようなことがあると、家族の誰かが、 「どう、どう」  と声をかけ鎮《しず》まらしてしまう。昼はみな働きに出て家内はひっそりとしているが、夜になると多数の家族が茂次郎を中心に大きな炉をかこみ、松《たい》明《まつ》の灯の下で賑《にぎ》やかな夜食がはじめられる。  茂次郎は老境にちかづいても、やはり色が黒く眼に精《せい》悍《かん》な光を漂わしていたが、大髻はごま塩となりこめかみや眼じりの小皺に、生活の辛労がかんじられた。高範が突然やってきてみると、茂次郎はひとり留守をまもって、日当りの庭前に敷かれた茣《ご》蓙《ざ》の上で草履をあんでいることもあれば、また大髻の頭に褌《ふんどし》一つという奇妙な裸体姿で、家族と一緒に不器用な手つきで蚕の世話をしていることもあった。もはや生活のために体面もなく、なりふりにかまわぬ姿だったが、それはそれなりで茂次郎らしい風格をつくりあげているのが面白かった。幾歳になってもまたどのように境遇がかわっても、身についた浪人者の姿は彼から離れないのである。  高範はこのような弟の姿を、感慨をこめた片眼で見まもっていた。世の生活に成功した彼から観れば、茂次郎の暮しのたてかたは、拙《つたな》さを越えて愚直にちかく考えられた。  江戸時代に窮迫をきわめた、長年の放浪生活や、命を賭《か》けた筑波のはげしい経験は、結局この男に何の役立つところがあったのだろうと、あきれられるばかりである。ろくでもない旅人達を幾らでも泊めてもてなしたり、いわば捨猫も同様な業病患者に無益な慈悲心を施したり、村の若者達に用無き剣術を教え、他流試合に勝ちをほこり、他人や村の紛《ふん》擾《じよう》には我から身をのりだし、水商売の家の用心棒に雇われ、とうとう他人の借財に判をおして、十数人の家族を路頭にまよわさないばかりの羽目におとしいれた——。  高範は弟の家へ来ると、彼の貧しい生活に寄生している流民や病者を追いはらった。己の最も大切な家族をくるしめ、あだな旅の者の世話をやいて、何の功《く》徳《どく》になるのだと手きびしく叱《こ》言《ごと》をいった。そういう高範は、己の考えでした行為を悔んで、今さらのように慈悲や人情をこととするのは、女々しい心掛けだ、という断然とした腹の中であるらしい。そして茂次郎ならびに妻のお才や長男夫婦へもともども、茂次郎一家の生活のだらしなさを指摘して細かに家計のやりくり方を教えた。  茂次郎は一々すなおに兄の言葉に服した。幼年の頃とちがって、兄にはもうさからえぬ気持だった。高範によって窮地をすくわれたからばかりではなく、茂次郎は率直な心で高範の成功に感歎していた。 「よくも思いきって、金貸しをやる気になったな」  と茂次郎は高範の気持を訊《き》いてみたことがある。すると高範は、 「ガキの時分から槍刀をひねくりまわして、外に能とてない者に、商人と競争して何ができる。金貸しぐらいが手頃のところさ」  と誇るでもあざけるでもなく、むしろ撫《ぶ》然《ぜん》とした感慨で語った。いかにも高範のように、藩士としての一生の計に営々としてつとめて来た者にとっては、武士制度の撤廃は心外に堪えなかったことであろう。茂次郎は時勢にたいする憤りを、逆な行為であらわした、高範の当時の心持を、ありありと想い描くことができるような気がした。思えば茂次郎自身も、ままならぬ時勢にたいして、少からぬ不満をいだいていたが、大名行列にいやがらせをやったり、掏《す》摸《り》をいじめたり、大老の暗殺に加担したぐらいの空《むな》しい反抗でおわってしまった。  また別に、高範が名誉の地位から一挙に嫌《けん》厭《えん》すべき職業に急転していった決意と勇気のほどを、剣の極意とするところから眺《なが》めれば、まさに死に投じて生をつかんだ概があったのである。茂次郎は剣のために生涯を賭けながら、ついに徒労におわった自分の一生をかえりみて、 「高範のようでなくては、とても成功はおぼつかない」  といつも沁《しみ》々《じみ》と子供達に云ってきかせた。  しかし茂次郎は高範の忠告は忠告として、やはり前どおりの生活をつづけていった。家族の喰い扶《ぶ》持《ち》をへらしても、旅人が来ればこころよく泊めるし、頼ってくる病者をみすてもしなかった。  それは彼が老境に入って奮発心がにぶったからではなく、また何事も運命と諦《あきら》める怠惰からでもなく、高範の言葉に服し、兄の成功をほめたたえることで、いさぎよく自分の失敗を認めながらも、やはり心の底に自分を信じる何かがあったからに違いない。  茂次郎の生涯は失敗だったにしても、とにかく彼は自分一人の力で生きてきた。そして彼相応の努力をつくし、命を賭けて闘いもしたのである。してみれば彼とても己の生涯を代償にして人生の底から掴《つか》み獲た物が、何かあったことだろうと思う。それは言葉にも文字にもあらわせぬ心魂の響にすぎなかったにしたところで、やはり誰からの借り物でもなく茂次郎自身の物にほかなるまい。 「他人の上ばかりと思うな」  と家人をいましめた茂次郎の言葉は、高範の観たように女々しい弱者の慈悲にすぎなかったであろうか。  高範は茂次郎の頑《がん》固《こ》な気質に見切りをつけたものか、後には弟にたいして何も云わなくなった。高範の名義に改められた藤木家の財産も、預り放しのままにして抛っておいた。すると窮場をすくわれた感謝の念がうすらぐにつれて、今度は反対にそのまま高範に体よく財産をとられてしまうのではなかろうかという不安が頭を擡《もた》げだした。高範の稼業が稼業である故に、そうした懸念のきざすに無理はないが、他からも親切ごかしに入《いれ》智《ぢ》慧《え》をつけて、そうでなくても落魄して動揺しやすくなっている藤木家の人々の心を、いろいろと煽《あお》る者があった。  ことに茂次郎は根がせっかちな気質だったから、不安になりだすとやもたてもなく我慢がならなかった。高範を信じる信じないは二の次として、やはり自分の名前で養家の財産を、先夫の長男に渡すのでなければ気が鎮まらない。前に腹をきって死ぬと騒ぎだしたのも、それができなくなった申訳のためである。  茂次郎は家計のくるしいなかから旅費を都合して、高範がたてかえてくれた金は年賦で払うから、財産をかえしてくれと早速高範のところへ交渉に行った。すると高範は、名義の変更には余分の費用がいるし、また茂次郎の名前の物になれば税金もそちらへかかってきて、それだけ生活の負担が重くなるから、暮しがいくらからくになるまで、今しばらくこのままにしておいた方がよくはないかと弟に説いてきかした。  それで茂次郎は一応納得して帰って行ったが、一年ほど経つと再び催促にやってきた。名義書替えの費用ぐらいは、なんとか都合するからという口実である。高範は今度は彼の意《い》嚮《こう》をはっきり云ってきかした。 「お手前の性分では、藤木の財産を無事にもちつづけることは難しかろう。伜《せがれ》に譲る時がくるまで、儂《わし》の手で保管しておいてやった方が安全ではないか」  しかし茂次郎は、 「それでは、俺の面目がたたぬからな」  と云いだした。彼はどこまでも自分の名前で、財産を義理の子に渡してやらなければ気がすまないのである。それに茂次郎は内々、高範の老齢も気にかけていた。手足の動きに不自由するくらいなのだから、高範が自分より長生きしようとは毛頭考えなかった。そしてもし高範に万一のことがあれば、自分の財産は高範の家の物になってしまうと、他人に教えられたとおり信じていた。  高範の莫《ばく》大《だい》な資産にくらべれば、山間の痩《やせ》地《ち》にすぎぬ茂次郎のちっぽけな財産など物の数でもなく、そうした杞《き》憂《ゆう》は笑止の沙《さ》汰《た》にちかいものだったが、財産というほどの財産をもったことのない茂次郎は、貧しい人達の心と同様にひたすら自分の所有物ばかりに憑《つ》かれて、高範が親切にとりあつかってくれればくれるほど心配になってきた。  それで、いくら茂次郎のためを思いはかってやっても解らぬ彼の態度に、うるさくなった高範が得意の空聾をよそおって相手にならずにいると、茂次郎は自分のばかにされていることに気がついて、一途に嚇《か》ッと腹を立ててしまった。高範の幼年時のあのにえきらぬ性格にたいする記憶が蘇《よみがえ》ってくると同時に、茂次郎の負けじ魂も高範憎しの感情にむらむらとなってきて、 「今まで聞えていたはずの耳が、急に聞えなくなるとは、おそらく頭がのぼせてきたんじゃろ。泉水で冷してやるから、こっちへ来い」  と叫ぶといっしょに起ちあがって高範の襟《えり》首《くび》をひっつかむと、ひさ女があわてて止めにかかるのを払いのけて、高範の身体を座敷からずるずると庭先へひきずりおとした。ひさ女もそのまま跣足《はだし》で庭へ飛びおり、兄弟のまわりを右往左往しながら、 「どなたか、いらしって下さいよう、大変ですから、早くいらして下さいよう」  と金切声をあげて叫びたてた。その叫びを聞きつけて、先《ま》ず庭番の老《ろう》爺《や》がかけつけてきて止めにかかったが、茂次郎の膂《りよ》力《りよく》にはとてもかなわない。高範は手足が不自由なままに、顔をまっ赤にして、 「うむ、うむ」  と唸《うな》りながら、みるみる泉水の方へひきずられて行く。とうとう堪《たま》りかねて、 「巡査をよべ、この馬鹿野郎を、警察に渡してしまえ」  とどなりはじめた。そのうち庭番の老妻の機転でかりあつめた、近所の出入りの人々がはせつけてきたので、高範は水びたしからやっと助ることができた。まさに今一歩という危いところだった。しかし、世間では、「我利鬼」が「長髷」のために、泉水に水びたしにかけられたということにしてしまった。  これが高範兄弟の喧嘩のしおさめだった。幼年時代には高範に負けどおしで、また筑波では偶然とはいえ、高範から気絶させられるような目にあわされた茂次郎は、最後の喧嘩でやっと勝つことができたわけである。  その後お才が申訳のために高範の所へわざわざやってきて、ひさ女を通じて高範へ泣き泣き詫びを入れると、高範は何も云わずに茂次郎の財産をかえしてよこした。名義変更の費用はもとより、立てかえた金もとらなかった。  茂次郎は雪にうずもれた山国の旧正月の稽《けい》古《こ》始めに、門弟の青年達を彼のまずしい道場にあつめ、彼と生涯をともにした秘蔵の愛刀で、彼が十八番とする居合の型を演じてみせた。彼の居合は彼が大江戸のさかり場で、それでもって一時たつきのたねとしたくらいであるから、多年の蘊《うん》蓄《ちく》になるものである。  茂次郎はもはや六十歳をすぎていたが、黒の稽古着に同じ黒木綿の袴《はかま》を裾《すそ》ながにはき、しっかと結んだ鉢《はち》巻《まき》の両端を後へたれながら、長刀を左手にひっさげ一歩々々足を床にするようにして、道場の中央へ進み出てくる姿には、さして齢の傾きも気魄の衰えもかんじられなかった。大髻の頭髪こそ胡《ご》麻《ま》塩《しお》にかわっていたが、道場にたてば両眼の冴《さ》え筋肉のしまりは壮者のように矍《かく》鑠《しやく》としてくる。  彼は道場の中央に両足を揃《そろ》えて立つと、一礼して愛刀を腰におび悠《ゆう》々《ゆう》と腰をおろして、おもむろに気合の熟してくるのを待っている。それから観衆の腹にぐんとこたえてくるような気合の声ともろともに、長刀は鞘《さや》ばしって空に一閃《せん》の白い虹《にじ》をえがき、彼の周囲にぱっぱっと白炎の光《こう》芒《ぼう》をひきながら、再び鞘の中へ烟《けむり》のように吸いこまれてしまう。それから又腰をおろして刀をとって起ち上ると、再びすり足で道場の端へもどってくる。  一本を抜く毎に同じ作法をきびしく繰りかえすのだが、前後左右の敵に応じ一本々々の構えが千変万化するために、少しも単調にはかんじられない。青年等はいずれも固《かた》唾《ず》をのみ息をつめて、茂次郎の神技にみとれていた。青年達にとって彼が真剣を揮《ふる》うのをみるのは、これがはじめてである。  時代は西南戦争がとうに終って、すっかり平和な生活気分になずみだしてきていたが、茂次郎の揮う切先からほとばしる殺気は、彼が生きぬいてきた血《ち》腥《なまぐさ》い時代のはげしさを、まざまざと思い描かせた。一刀を抜き一刀を揮う毎に敵をたおさなければやまぬ気魄が、彼の出る足ひく足、巧妙な身のかけひき全体にみなぎり溢《あふ》れていた。  本数がすでに十番をこえても、茂次郎の呼吸や挙措に乱れがなかった。顔色はさすがに少し青ざめていたけれども、まさに心身を鋼鉄のように鍛えあげた人間という感じだった。そしてそういう人間が今や全精魂を一刀にたくして揮う太刀さばきの見事さに、青年達が熱中の極思わず身ぶるいをおぼえていると、茂次郎の身体が突然後へ反って、仰向けにどうと倒れたなり動かなくなった。あたかもはりきっていた旋《ぜん》条《まい》が、ピーンとはじきかえったような工合である。  茂次郎は有名な癪《しやく》持ちだったので、門弟の青年達は、 「それ先生が癪を起した」  と駈けよって抱きおこすと、「水だ」「焼酎だ」と騒ぎだした。急を聞いたお才が熊の胆《い》をもってかけつけ、ありたけの薬を口移しにのましてみたが、冷えかけた身体がぼうっと温まりかけてきたばかりで、茂次郎の魂はついにかえってこなかった。  茂次郎が祝のあん餅《もち》をたべすぎた後で、急にはげしい運動をやったのがいけなかったのである。彼は深酒をやめてから反対に菓子や餅類をひどく好むようになり、そのため癪を病みだしていたが、天下無禄の浪人として生涯生活の苦労のたえなかった彼が、喰べすぎが原因で死んだとはいささか皮肉にすぎるようである。しかし白刃を握って倒れた茂次郎の最期を聞き伝えた人々は、知るも知らぬも侍らしい綺麗な死に方だといってほめたたえた。  茂次郎の葬儀は、真冬の折柄であったにも拘《かかわ》らず、彼の門弟達をはじめ村民が総出で参加して、非常に賑やかに営まれた。他町村からも彼の知り人や生きのこりの旧藩士等が、深い積雪を冒してあつまってきた。それで藤木の広い屋敷でも客の全部を収容することができなくて、近所の家々まで接待にかりなければならなかった。茂次郎の庇護をうけたレプラ病者が、彼の葬式を見送るために人中を遠慮して、庭の隅《すみ》や道ばたの雪の上に蓆《むしろ》を敷き、早くから控えていた姿はあわれであった。  茂次郎の遺骸は、彼の大勢の子供等や孫達の手で丁寧にあらいきよめられ、肌《はだ》もなまなましいばかり新しい杉板の坐棺におさめられた。生前広い天地を放浪した茂次郎は、今は額に三角の白布をあて、六字の名号をしるした薄い経《きよう》帷《かた》子《びら》の新しい旅姿で、窮屈な棺の中にあぐらをかいて納っていた。  旧藩士の人々は几《き》帳《ちよう》面《めん》に一々棺のふたをとって、こういう死者の姿と対面した。そしていずれも、 「立派な御最期にござります」  と遺族に挨拶した。  高範もひさ女に附添われながら、不自由な身体を橇《そり》にのせて告別にやってきた。彼のやわらか物ずくめの高尚な紋服姿は、田舎《いなか》人の多い会衆の眼をそばだたした。ことに手織のごつごつした羽織袴で、肩を武張らせている旧藩士等の姿とは、異様な対照をなして見えた。  高範は人々の凝視のうちによたよたと棺にちかづくと、藤木の長男がすでに蓋《ふた》をとって待っている棺の中の弟の死顔を、片眼でつくづくとうち眺めた。茂次郎の黒かった顔は、死の青味をおびて棺の中につめたく沈んでいた。骨ぶとい両手の指を胸に組み、色《いろ》腿《あ》せた唇《くちびる》をしっかりと結んで瞑《めい》目《もく》している死顔には、しずかでかつおごそかな深みがあった。今や貧しい土民の生活の垢《あか》が洗いおとされて、本来の侍の面目にたちかえったようなすがすがしさである。  高範はじっと彼の顔をながめていたが、顫《ふる》いぎみの片手をつとのばして、弟のつめたい額にあてると、 「お主は我が意どおりに世の中を渡ってきた。何も思い残すことは御座るまい」  とおののく声をはりあげて、不意に涙をぽたぽたと死人の上に落した。その光景に客にあふれていた奥座敷内は、にわかにしいんと鎮まりかえってしまったが、それは二人の兄弟の生涯の惜別に同情したというより、寧ろ弟を討ち妻を斬ったと伝えられている高範の思いがけない落涙に、おどろいたためらしい気配だった。  峠に一基の碑がたっている。三重の台石の上にたち、高さ一間ばかりのかなり堂々としたものである。頂ちかく彫られた家紋に厚く塗りこんだ金箔は、長い年月の風雨にくろずんでいるが、それでも日向きの加減で時折きらっと閃光をはなつことがある。  行人がこの光に不審をおこして、峠を登りつめ碑に近づいて見るならば、 「斑石茂次郎源兼通」  という名を読むだろう。そして姓名の上に、撃剣の面を中に二本の竹刀が、組み違いに浮彫りされてあるのをみて、 「なあんだ、田舎剣客の碑か」  と失望するにちがいない。そのうえこうした草深い峠の上に碑を建てて、後代まで名を残そうとした碑名の主の心事を憫《びん》笑《しよう》するかもしれぬ。しかし碑を建てたのは茂次郎の門弟達で、彼の墓は藤木利右衛門として別に藤木家の墓所にある。  門弟達は茂次郎が朝々旅人を送って、此《こ》処《こ》の野石に腰かけ江戸の方を眺めていた、彼の生前の姿を偲《しの》んで峠に記念の碑を建てたのである。そこは四方の山なみを遥《はる》かにみはるかすことの出来る絶好の場所だった。  峠の道をへだてて碑の向う側の藪《やぶ》蔭《かげ》に、泉が静にもくもくと湧《わ》きあふれて流れている。昔、旅人や駕《かご》かきや駄馬の救いの泉だったろうが、今は小鳥や野兎等の飲み水にすぎまい。それほどに峠は人通りなく、荒れはててしまった。雑草の茂りは道のなかばにおよんでいる。往時の名高い旧街道が、やがて近辺の村人以外には知る者もない廃路にきす日も、そんなに遠いことではなかろうと思われる。  泉の側の藪だたみの中に、もう一つ変な碑がたっている。蔦《つた》葛《かずら》に蔽《おお》われてちょっと気づかないかもしれぬが、碑の両側に天《てん》狗《ぐ》とおかめの面がとりつけてある。天狗の赭《あから》顔《がお》は鼻高々と東を向き、三《さん》平《ぺい》二《じ》満《まん》のおかめの白面は西を向いて尽きぬ笑をおくっている。峠を東から登ってきた者は天狗の渋面に迎えられる代り、峠を下る時にはおかめの愛《あい》嬌《きよう》に見送られ、西から登ってくる者はその反対となるわけだ。  碑の正面の苔《こけ》を削りおとしてみると、 「般《はん》若《にや》峠」  という文字が微《かす》かにあらわれ、その下へ二行に、 「東 利養道」 「西 涅《ね》槃《はん》道」  と記されてあるから、行《あん》脚《ぎや》の旅僧が仏の智《ち》慧《え》をもって衆生済度の発願をおこし、往時人馬のゆききの多かったこの場所に建てたものであろう。それにしても天狗とおかめの面のとりあわせは、人生行路を簡単に諷《ふう》喩《ゆ》した思いつきで興味がある。さらに茂次郎の堂々とした碑と、道をへだてて向いあっているところは、一層皮肉なかんじである。天狗とおかめの面は背中あわせに、 「あのお墓の主は、どんなかたですの」 「なあに、剣術で一生を棒にふった男さ」  とそんな問答を、退屈ざましにかわしているかもしれない。とにかくなかば廃路と化した峠の藪だたみの中に、ひとり喜怒の人間感情を表徴した二つの面を見出すことは、かなりぶきみである。じっと眺めていると、それ等の面がしだいに生気をおびてきて、実際そのような問答をかわしかねない。  奥路には時々こうした怪奇な場所があるようである。 秋風 一  私は東北地方の温泉場でこの夏をおくった。いささか神経衰弱の気味で人を避けるため、わざと不便な高《こう》爽《そう》の地をえらんで出かけて行ったのだが、都会の客が多く混雑していて期待にそむいた。  しかし久八という酒好きな老番頭がいて、折々私の酒の相手をつとめながら、珍らしい昔話を聞かしてくれた。 「宿がまだ、こんなに変らない時分でがしたよ」  という語りだしで、しかし古くから馴《な》染《じみ》の自炊の地方客は夏場は余り寄りつかなくなり、滞在費の廉《やす》い温泉場をさがしてどっと押寄せてくる、都会の客で繁《はん》昌《じよう》していた頃だった。  八月の上旬、珍らしい駕《かご》の乗物で、女客が二人午《ひる》さがりに宿に着いた。その頃にはまだ自動車がなくて、客は皆駅から二里近くの道を、乗合馬車でやってきたが、新しく切り拓《ひら》いたばかりの山道で、その馬車がひどく揺れる。それで乗物に弱い客や病人のために、駅前の茶屋に駕の用意がしてあった。  山深い高原の温泉場で、娯楽の設備も今のようにはなく、滞在客は退屈していたから、駕乗りの客を珍らしがって宿の廊下へずらりと出並んで見物した。  先の駕から下りたのは、四斗樽《だる》のように肥りかえった婆さんで、後のは若い女だったが愕《おどろ》いたことには腰が立たない。迎えの番頭が彼女を負ぶって、部屋へ連れこんだ。  これが忽《たちま》ち宿屋中の評判になって、入浴している人々は、新来の湯治客の常として、早速二人が入浴しにくるだろうと内々心待ちしていた。  すると期待通り、間もなく汗流しにやってきたが、婆さん一人である。年にも恥じず七つ道具を抱《かか》えこんで、古くからのしきたりになっている男女混浴を怪しがる風はなく、しゃあしゃあした態度で浴場へはいってきた。  小さい湯壺ではないのだが、涌《わき》口《ぐち》から湯滝がどうどうと落ちつづけているから、肥った婆さん一人の身体を沈めても、ざあと湯があふれだす。婆さんは人々がそれとなく自分を注視していることなぞ一向平気で、いきなりぶるんぶるんと顔を洗い終ると、「はあ」と思いきり大きな息をつき、眼を開いて初めて周囲の浴客達の姿に気がついたように、じろじろと見廻しながら、挨《あい》拶《さつ》代りのつもりか、湯が少し熱すぎるようだとか、道中では日盛りで難儀したとか、駕に乗ったのは生れて初めてだとか、思ったほど宿が立派でないとか、山の中の温泉場でいちばん心配なのは食べ物だとか、生きのいい刺身を毎日喰べるのでないと、息をついている気がしないとか、湯滝の音と張りあうような高声で、今度は一気に喋《しやべ》りだした。  しかしまわりの人達、誰も彼女の相手になる者がない。さもいやらしい婆さんだという素振を、露骨に表情に出してみせながらつんと押し黙っている。婆さんも程なく人々の不愛想に気がつくと、しばらく妙な顔をしていたが、急にふくれかえった様子で流し場へ坐りこみ、人々に分厚い背を向けて身体を磨《みが》き、手鏡をたてかけて薄化粧をすますと、手早く浴衣《ゆかた》をひっかけて、荒々しく浴場から出て行った。  後で浴客等の間の評判が、悪いったらない。 「なんだい、あ奴あ」  というのを皮切りに、 「下卑た婆さんだねえ」 「色きちがいだろう」 「つれの娘さんだって、怪しいよ」 「恐らく娘じゃねいな」 「じゃ、一体なんだい」  という工合で、いよいよ連の若い婦人に好奇心を起したが、その後二人は外へ姿を現さなかった。物好きな客が女中に訊《き》いてみると、若い女はすぐに寝床を敷かして横になり、婆さんはその枕もとで湯上りの麦酒《ビール》をきこしめしているということだった。  その日の夜ふけに近い頃、久八が飲み仲間の樵夫《きこり》達と湯にはいっていると、もうどの部屋々々もしんと寝静まった廊下を、例の婆さんが酔った足どりで、若い女を肩につかまらせながら、浴場へやってきた。  久八や数人の樵夫達が気持よさそうに、湯壺のふちに頭の後をのせて、ひっそりと温まっている姿を、天井からたった一つの電燈が湯気にくもりながら、淡い光をなげて照している。  二人の女は湯壺に近づいて、初めて彼等のいるのに気づいたらしかったが、夜おそく逞《たくま》しい男達ばかりはいっているのを別段恐れる様子もなかった。婆さんは彼等の姿にかえって何か興味をおこしたらしく、昼の時とはまた別ないかつい顔色で、二人がはいってきても無《む》頓《とん》著《じやく》に平然としている樵夫達を注視しだした。  若い女はそうした婆さんの後にうずくまって、ひとり静かに頸《くび》すじなど洗っている。久八は彼女が湯にはいる時、それとなく気をつけて視ていたが、脚《あし》が跛《びつこ》というわけではなく、身体の外見は普通の女と変りがなかった。撫《な》で肩の丸味をおびた可愛らしい肉づきで、小柄なだけである。容《よう》貌《ぼう》も丸顔に近く、顔色が青くなければ、むしろ愛《あい》嬌《きよう》にとんだ可愛い顔附である。特徴は彼女の睫《まつ》毛《げ》が深く、眼の大きなことだ。額のあたりに皺《しわ》を寄せると、憎々しいばかり意地悪い顔つきになる婆さんとは、似ても似つかぬやさしい面《おも》ざしである。  そのうち婆さんが、ことさら妙な咳《せき》払《ばら》いをして、樵夫達に話しかけた。 「なにかい、お前さん達は、此《こ》処《こ》に働いている男衆なのかい」  樵夫の一人が首をおこして、打ち消した。 「儂《わし》等《ら》は、山の木《こ》挽《びき》だよ、婆さん」 「おほっほっほ。まあそうだったのかい。山の衆なら正直者揃《ぞろ》いだ」  と婆さんはいかつい顔を皺だらけにして、俄《にわか》に愛嬌をみせだした。 「私も初めは、どうかと思ったんだよ。宿の男衆にしちゃ、あんまり慾のねい顔附をしてござらっしゃるからさ」  しかし相手の樵夫は婆さんからお世辞を云われても、別に嬉しくも感じないらしく、再び湯壺のふちに頭をのせて、眼をつぶりそうにすると、婆さんはおっかけて、 「此処には、もう長くいんのかね」 「かれこれ二週《まわ》りにもなったかな」 「そんならこの先、そう長くはいねいな」 「いや、秋口までいますだよ。帰ってもまだ仕事にはならねい」 「ほんとだねえ。夏場ぐらい身体《からだ》を休ませなくちゃあ。ゆっくりしてゆきなさいよ」  と云って婆さんは、湯からぽつぽつとあがって湯壺の縁に腰を下している樵夫等の一人々々の顔を、改めてじっくりと見直していたが、俄に声の調子をひくめると、 「ところで、これは今私がお前さん達を見かけて、ふっと思いついたお願いだが、そんなにゆっくり出来るなら、なんとお前さん達この娘を……」  とふりむいて背後の若い女を示し、 「みんなで世話みて、いただけないかねえ。腰を一寸《ちよつと》打ったのが打ち所が悪かったとみえて御覧のとおり手をかしてやらなければ、湯からもあがれないくらいの始末なんだよ。なに世話てったって湯にはいる時かおしもの時でも、歩かさして下さりゃいいのさ。私はこの年になっても、貧乏暇なしでね。明日にも帰らなけりゃならない身体なのに、ほんとうに困りきっているのだよ。宿の男衆や女中に頼んでもゆくけれど、あれ等を使うには万事(と指で丸い環《わ》をつくり)これでなくちゃ動かないから、心もとないのさ。それじゃ娘だって気詰りだろうし、第一これの身体の保養に、なりませんやね。そこへゆくと温泉場のお客同士の親切ほど慾得ぬきで有難いものはない。それに私みたいなお婆さんと違ってさ」  と婆さんは、片手で樵夫達をひとつ煽いでみせ、 「若い娘っ子の世話なら、お前さん達だってまんざらでもあるまいじゃないか。ほんとにそんな熊みたいな、正直な顔して黙っていないでさ。ここはひとつ侠《おとこ》気《ぎ》をみせて、うんと頼まれておくれよ」  これにはずらりと並んだ樵夫達はもとより、婆さんから慾ばり者の一人に扱われた番頭の久八まで、思わず声を揃えて笑わされた。  婆さんは翌《あく》る日、ビール一打《ダース》ばかり女中に持たせて、樵夫達の部屋へ改めて娘の事を頼みに行くと、今度は馬車に乗ってさっさと温泉場をひきあげて行った。  久八はその時実を云うと、婆さんの虫のよさよりも、荒くれた木挽達に、若い女一人を預けてゆく、彼女の度胸のよさに呆《あき》れた。それで、なるほど、他の客達が怪しんだように、婆さんは娘娘と呼んでいたが、恐らく彼女の真実の娘ではあるまいと疑った。 二  その頃山の木挽達といえば、一般に世間からは、警察の手のとどかないのを好いことに酒と賭《と》博《ばく》に日を送って、ややともすれば刃物三《ざん》昧《まい》の喧《けん》嘩《か》沙《ざ》汰《た》におよび、人殺しまでもしかねない血《ち》腥《なまぐさ》い人種のように考えられていた。  宿でも実は彼等が六人もうち揃って、蒲《ふ》団《とん》から米、味噌、醤《しよう》油《ゆ》、酒《さか》樽《だる》まで一切背負ってやって来られた時には、折角都会の客で繁昌してきた折柄、ひどく迷惑に考えた。  しかし下《へ》手《た》に断って彼等の機《き》嫌《げん》をそこね、またどんな仕返しをされないでもないという恐れから、余儀なく彼等をあまり人眼につかぬ、普段は物置部屋にされてある所へ案内して、彼等を体好く押しこめてしまった。そして都会の客の方へは、宿で使っている炭焼達という風に、云いつくろっておいた。  事実彼等は、冬は炭も焼くのである。元来が山地の開墾民なのであって、痩《やせ》地《ち》の畑仕事は女房や老人達の手にまかせ、働き盛りの男達は皆樵夫や炭焼となって働くのでなければ、生活が立たなかった。  だから彼等が自炊にしろ、湯治生活をするなどということは、生涯の中幾度もないことだった。ことに都会客の集る温泉場へやってくるようなことは絶無だった。彼等は宿が以前と変ってしまっていることを、まだ知らなかったのだ。数年もしくは十年前の話を、人伝に聞いてやって来たのである。奥深い山間に住んでいる彼等は、それほど世事にうとかった。  彼等は聞いてきた話と違った宿の立派さや、都会の客に遠慮して、非常に穏《おとな》しかった。酒を飲んでも暴れだすようなことはなく薄暗い物置部屋にとじこもって、花札をひいたり将棋をさしたりして暮していた。湯へもなるたけ人のいない刻限を見はからってはいるくらいに心をつかった。  かわりに、それだけ退屈もしていた。宿に古くからいて割に自由の利く、そして都会の客より昔ながらの地方客に馴染深い久八が、しぜん彼等の話相手となったり、飲み仲間に加わるようになった。  それ故樵夫達は、婆さんから娘の世話を頼まれたことを、迷惑に思うどころか却《かえ》って喜んだくらいだった。娘の部屋は離屋になっていて、彼等の所から廊下を廻れば遠かったが、庭越しに行けば近かった。彼等は婆さんから頼まれた言葉を律儀に守って、仲間の中からかわるがわる娘の座敷を訪れ、湯や厠《かわや》へ娘を連れてゆくばかりでなく、終日床に寝通しの娘の位置を変えてやったり、女中仕事の部屋の掃除までしてやった。  女にあまいと云えばとんだ甘い男達には違いなかったが、いずれも女房子供を持った、三十五六歳から四十過ぎの男達ばかりでそれに年よりずっと老《ふ》けて見えたから、若い女の世話をするというより、我が娘の面倒をみているようで、それほど見づらくはなかった。  湯には殊《こと》によく入れてやった。婆さんから打身だと教えられたので、入湯しただけ効験があろうと考えたのである。しかし娘が不自由な姿を、人に見られるのを厭《いや》がるので、早朝と夜ふけとをえらんだ。またその刻限の入浴が、最も身体にきくものと信じられていた。  娘は年の若いのに似合わず、気さくな質の女だった。彼等の世話を喜んでうけて、遠慮したり気を使ったりするところがなかった。あまり口数をきかないが、それでいて不愛想な感じを、相手に少しも持たせない人徳があった。  一人で寝ている時は退屈なので、宿から借りた古い講談本や小説類を、熱心に読みふけっていた。それでいて樵夫達がたずねてゆくと、すぐ本から眼を離して、ちらりと金歯を覗《のぞ》かせながら愛想笑いをする。その笑顔が、またなく可愛かった。  果物類が好きで、枕もとに季節の物をいつも山盛りにおいて、樵夫達にすすめた。花も好きで彼等に頼んで、山からいろいろな草花を採ってきてもらい、枕辺に活《い》けて眺《なが》めていた。  日が経《た》つにつれて、樵夫達もだんだん遠慮がなくなり、別に用事がなくても娘の部屋へ、ぞろぞろと遊びに来るようになった。娘もその方を喜んで、気前よく彼等に麦酒などを御《ご》馳《ち》走《そう》した。すると彼等は、娘の馳走になってはかえって心苦しいというので、前もって自分達の地酒持参でやってきた。樵夫達も獣ではないから、薄暗く蒸し暑い部屋で、見馴《な》れた仲間の髭《ひげ》面《づら》を相手に飲むより、娘の座敷の方が気が霽《は》れ酒の味もよかった。  娘は彼等の楽しそうな酒盛を、寝床に横《よこた》わりながらにこにこ顔で眺めていた。時には、 「あんた達のお酒は、地味だわね。歌でもやんなさいよ」  などとけしかけた。すると樵夫達も好い気持になって、 「此処でやっても、いいか」  と訊《き》くと、娘は見かけによらぬ大胆さで、 「構わないわ。私は普通の病人と違うし、あんた達は保養にきてんだもの」  そう云われると、歌にあまり自信のないらしい彼等は、かえって照れて、 「なにしろ芸妓買い一度したことのねい儂《わし》等の歌なぞ、とても町娘の気にはいるめい」  と素直に兜《かぶと》をぬいだ。 「じゃ番頭さんがいいわ。番頭さん達はみな芸人揃《ぞろ》いだから」  名指された久八は、追分がおはこだった。根が船頭あがりでもあったのである。賭《と》博《ばく》に身をもちくずし、故郷へ帰れなくなった。それに懲りて骰《さ》子《い》はふっつりと思いきったが、歌の方は今でもやる。客の間でも評判で、以前にはわざわざ彼のために酒をだして、彼の追分を聴きたがったものだそうである。  樵夫達は追分は格別好きだとみえて、皆眼をつぶって熱心に聴き入り、終ると口々にほめたたえた。娘も、 「ほんとにうまみのある、さびた好い追分ね。初めて聴いたわ。ただ調子が、少うし延びすぎるようだけれど」  久八は若い女から批評めかした事を云われて、得意なものだけに気を悪くした。 「追分は元来が船唄だ。櫓《ろ》にあわせて歌うものだから、素《しろ》人《うと》にそう聞えても、こればかりは仕方がねい」  とやり返すと、娘はすぐ穏《おとな》しく頷《うなず》いて、 「そうね。生意気云って、御免なさい」  しかしこの時から久八は、娘にたいしてそれまでと違った観方をするようになった。彼は久しく山間の温泉場にのんきな生活を送ってきていたので、他の新しい番頭達のように客の値ぶみや品定めに心をわずらわさなかった。浮世のことは、大抵どうでもよかったのである。  それでこの娘の事も、人の怪しむのにまかせていたが、自分の歌いぶりを批評されて、彼女がずぶの素人娘かどうか疑わしくなってきた。もっともその以前から、疑えば疑わしい節《ふし》は、いくらでもあったのである。  第一口の利き工合や身のこなし方からして、生《き》娘《むすめ》とはとても思えなかった。それにたとい色街育ちの娘にしたところで、熊のような木挽達の間に唯一人かこまれながら、笑顔で酒盛させておけるものでもなかった。またその座の取持ちが、彼女の身についたもののようにうまい。彼女が一人いるばかりで、座が自然に浮きたってくる。寝床の上で時に仰向けになったり腹匍《ば》いになったりしながら、人々を退屈させずに座をはこんでゆく。そして腰を痛めた人のようにもなく、その姿には色気があふれていた。  そうかと思うとまた一面に、ひどく子供っぽい所があった。木挽達の戯《じよう》談《だん》話《ばなし》に手を叩《たた》いて嬉しがる様子や、咽《の》喉《ど》の奥から堪《たま》らなそうに含み笑いを洩《も》らすところなぞは、からきし無邪気な素人娘だった。又ひとりでうとうと眠っているところを、そっと覗《のぞ》いてみると、長い睫《まつ》毛《げ》が下瞼に可愛くならんで、かすかにこまかな歯なみをみせ、頬《ほお》や喉もとのふくらみに、静かな息使いの跡をただよわしている恰《かつ》好《こう》は、まだ十七か十八歳の娘っ子のようだった。 「松ちゃんは幾つだ」  と訊いてみると、大きな眼を悪《いた》戯《ずら》っ児《こ》らしく輝かして、 「十五」 「年寄りをからかうものじゃねい。あのおっ母さんは、お前さんの血をわけたお袋かい」  そんな無遠慮な質問をうけても、笑顔でうなずいて、 「そう。肥ってるけど、好いお母あさんでしょ」  相手はちっともそうは思わないが、娘から素直にそう云いだされると、その時ばかりでもふっとそんな気持になる。つまり松子のやさしい気だてと、快活そうな心が相手を動かすのである。このような娘と仲好しになれば、誰だって彼女を憎んだり苛《いじ》めたりすることは出来まい。  いろいろ彼女の身を疑ってみることは、可哀想であるし罪でもある。やはり物事にこせつかぬ樵夫達のように、そうした悪い方面に頭を使わずに、親切をかけてやった方がどんなに男らしいか知れない。そう思いなおして久八は、彼の考えを改めようとするのだが、さて一度きざした疑はなかなか根深くて、彼は樵夫達と一緒に松子の世話をやいたり、暇があると彼女の離れに行って、彼女の読んでくれる講談本に耳をすましたり、一文花をひいて遊んだりしていながら、彼自身気づかぬうちにおのずと、松子の様子に眼をつけているような厭《いや》な癖がついてしまった。 三  松子に眼をつけていたのは、しかし久八ばかりではなかった。  宿の客殆《ほと》んど全部が、と云ってもその頃は、今の旧館ばかりの、六七十人にすぎなかったが、樵夫達にちやほやされている松子の日常を、鵜《う》の眼鷹《たか》の眼でにらんでいたのである。  彼等は樵夫達の場合もそうだったが、都会人特有の思いあがりからか、自分達と階級の違った人間の侵入をこころよく思わなかった。彼等は、何《い》時《つ》、誰からともなく、松子の身《み》許《もと》を嗅《か》ぎつけた。なんといってもいろいろな土地からいろいろな身の上の客がやってくる、出入りの多い温泉場のことであるから、日が経つ間には自然とわかってきたのである。それによると、松子は久八が疑っていたように、やはり普通の素人娘ではなかった。それどころか水商売の中でも、一番下等の女にされている銘酒屋の酌婦だということだった。つまり東北地方でいう淫売婦《くさもち》なのである。  これには大抵の事に驚かなくなっている久八も、呆っ気にとられた形だった。茶屋女とか芸妓娼妓ということならば、当時そういう者あがりらしい女達が、客の妻となって湯治に来ていないでもなかったが、町の土方や馬方、職人や職工、百姓の若い者や漁師などを客にする地獄女とは事がひどすぎた。  彼女等商売の者は世間からてんで人間扱いされていなかった。芸娼妓なら許された稼《か》業《ぎよう》で、それだけ警察の保護もあるわけだが酌婦は表向きで密淫売が本業の彼女達は、みつかり次第留置場に抛《ほう》りこまれて了《しま》う。彼女等の主人との契約もかなり好い加減なもので、身体《からだ》ひとつ証文にはったが最後弱い者は骨の髄までしゃぶられる。しぜん海千山千の阿《あ》婆《ば》擦《ず》れ女ばかりの集りということになる。松子はこういう女達の間では、比較的上等の部で、容姿や気質がいいから相手にする客の種類もよく、海岸近くの町で一番の流《はや》行《りつ》児《こ》だという評判の女だった。それ故女将の婆さんも彼女を大切にして、わざわざ湯治にまでもついてきたものらしい。  事実松子は、商売をしている時は格別、こうして湯治にきていれば、一般客とさして変りがなかった。まだ年若くてそれ程深く魔性に染っていないためであろうが、はしたない都会の女客より慎み深くかなり品好くさえあった。  だが、何と云っても気の毒なのは、そういう稼業の女とは知らず我が娘のように可愛がって、松子の世話をやいている樵夫達である。彼等はそれまでの退屈さも消えて、松子のために日の経つのも忘れているような有様だった。  彼女の腰の怪《け》我《が》を自分達の事のように案じて、毎日その経過に気をもんでいた。少しでも一人で歩けるようになったら、何をおいても彼等の所へ連れてってやりたいとか、外へでも何《ど》処《こ》へでも連れて行こうと楽みにして、ひたすら怪我の快くなるのを待ち望んでいる。湯に連れて行く途中などでも、時々彼等の肩に寄り縋《すが》っている松子の手を離させて、 「ためしに少し歩いてみな。人ばかり力にしていると、何時まで経っても歩けねいぞ」  などという。松子もその気になって足の爪先に力を入れ、鳥が羽ばたく恰《かつ》好《こう》に両手をひろげて歩きだしてみるが、二三歩よちよちすると直ぐまた彼等の肩なり、傍の柱なりに掴《つか》まってしまう。  あまり彼女に深はまりしないうちに、内々でも樵夫達に注意してやろうと、久八が考えていると、他の客達が次第に騒ぎだしてきた。温泉場といっても宿は古くから知られたその家一軒かぎりで家族連れでくる純粋の湯治場だったから、そういう種類の女がいては、子供等の教育のためにも宜しくないというのである。また彼女の腰の悪いのも、いずれ悪質の病気が原因に違いないから、万一家族に伝染するようなことがあっては、取り返しつかないことになるといって、今にも宿を引上げてゆくような気配をみせる客達さえあった。そういう客達の間にも、秘密でその方面の治療に来ている者も随分ないではなかったろうが、なにしろ人気を大事にする宿屋のことである。ことに上品な事を喜ぶ都会の客で繁昌しだした際だったから、一人の若い白首女のために、多勢の客の機《き》嫌《げん》を損じて宿の評判を落すも落さないもなかった。  久八は古顔の番頭ではあり、特に松子と馴《な》染《じ》んでいるというので、しかるべき口実を設けて彼女を追いだす役を主人から仰せつかった。つらい役目ではあったが、奉公人の身の上では仕方がない。といってさすがに松子へ直接云いだす勇気はなく、久八は困りはてた末、樵夫達に委細をぶちまけて相談した。  いずれ彼等に注意してやろうと考えていたことではあったし、なまじ彼等を出しぬくより先《ま》ず彼等に相談してみるのが、順序だとも考えたからである。また単純な樵夫達を瞞《だま》せば、結果は恐しかったかもしれないが、正直に委細を打ち明けられ、腹を立てるような彼等ではないと睨《にら》んだからでもあった。  久八が樵夫達の部屋へ行って、やかましくなっている浴客達の評判を話している間、彼等は胡坐《あぐら》をかきその上に頬《ほお》杖《づえ》をつきながら、黙って聞いていた。松子の身の上がわかっても、彼等は別に愕《おどろ》いた様子をみせなかった。内心は吃《びつ》驚《くり》したに違いなかろうが、よそ目には眉《まゆ》も動かさないくらいだった。  しかし久八がいよいよ客達の意見で、松子に宿を出ていってもらわなければならないと云いだすと、樵夫達の顔色が少しずつ変りはじめた。彼等の陽やけした真っ黒な顔が、だんだん血の気を失って、異様な青黒さに変ってゆくのを見ているのは、久八にとってあまり気持のいいことではなかった。いきなり獣のような声をだして、呶《ど》鳴《な》りちらすのじゃないかなと、思わずひやっとした瞬間があったが、声はおろか荒い息の音さえたてなかった。彼の話を仕舞いまでずっと穏《おとな》しく聴いてくれたかわり、話が終って暫《しばら》くしても、やはりうんともすんとも返事がない。 「これが商売のつらくて、厭《いや》なところだよ。宿屋なんかは弱い稼業で、たといお客様がたの仰《おつ》有《しや》ることが間違っていても、さからうことが出来ねい。お前さん達もさぞ気持が悪かろうが、儂《わし》共《ども》の立場を考えて料《りよう》簡《けん》して下せい」  と久八が仕方なく謝《あやま》るとようやく彼等の一人が口を切った。 「まだあれの腰はたたねいが、あのままで追いだしてしまうのか」 「実際気の毒でならねいが、多勢のお客様がたの意見で、どうもそうして貰《もら》うしか方法がねいのだ」 「しかし、ほかの客人が何と云おうとも、湯治にきている病人を追い出すちゅうのは、法にあわねい話のようだな」  それを合図にしたように六人の樵夫等が、ぎろりとした眼色で久八の顔を覗いた。久八はそら来たなと感じると、いささか周章《あわて》気味に、 「いや、追い出すといえば成る程穏かでねいが、つまりよそへ移って貰いていのよ」 「じゃあまだこの辺に湯治の出来る温泉場があるとでもいうのか」 「無いこともねい。この前の原っぱを左へ三里ばかし突っ切って下りてゆくと、丁度焼山の後あたりに、林区の人夫達などが泊り場にしている温泉小《ご》舎《や》がある。今は夏場だから、ことによると近在の百姓衆なぞも湯治に来ていべいし、普段だって留守番の者はいるのだ。十人そこそこの客なら、泊りに不自由はねい筈《はず》になっている」  樵夫達はその話を聞くと、互に眼を見合して、何事か考えている風だった。久八はその潮時をはずさず、 「松ちゃんさえ、それで承知してくれたら、明日にも儂が駅へ出向いて行って、駕を支《し》度《たく》させて来さすがな」  すると彼等は、急にうってかわった元気らしい声音で、 「なあに、それには及ばねいよ。こうして六人もの大の男が、ただ飯くらって遊んでいるのだ。松子がいいというなら、儂等がおぶってでも連れてってやるわい、なあみんな」  そう云って、互に機嫌好く笑いだした。するとまた一人が、 「いや、ひょっとすると、松子のためにもその方が、かえって仕合せかも知れねいよ。嫌《きら》われる所でいやいや療治しているよりか、のんびり出来るだけでも有難えわい。そいつは儂等からも是非ひとつ勧めてみべい」  久八はそれでほっとなって、 「お前さん達から勧めて貰えれば、これに越したことはねい。番頭の儂から話すのとちがって角がたたねいし、松ちゃんだって気がらくだ。是非お願いしますよ」  久八は早々にして、彼等の所をひきあげてきた。  翌日朝めしの済んだ頃を見計い、久八がそれとなく樵夫達の部屋へ様子を窺《うかが》いにゆくと、彼等はせっせと荷造りしていた。 「なんだ。お前さん達も、一緒に行く気なのか」  と驚いて声をかけると、彼等は異様な笑をもらして、 「久さん、惚《ほ》れた弱身で、何とも面目がねい。あの子が可愛くって、離れる気がしねいのだ。あめい男共だと思って、見ねい振りしていてくれろよ」  そういううちにも、忽《たちま》ちにして荷《に》拵《ごしら》えをすましてしまった。それから松子の方の荷を片附け、宿の勘定をすまして、いよいよ出発する時には、宿の湯治客は全部廊下へ出てみた。またたしかに、出てみるだけの値打ちがあった。五人の男達がそれぞれ荷をわけ背負って、他の一人だけが蒲《ふ》団《とん》を敷いた櫓《やぐら》形《がた》の物を負っている。その櫓の中へ、松子を入れて運んでゆこうというのだ。  久八が松子の部屋からおぶい出して、その櫓の中へ入れてやると、彼女は真っ赤な傘《かさ》をひらいて人目を避けた。樵夫達がどういう風に話をつけたものか、久八を不快に思っているような気色は少しもなく、いつもの通り愛《あい》嬌《きよう》のある笑声で、 「色々お世話になりました。御機嫌でお暮しなさい」と云って帯の間から紙にひねった物を、そっと久八の掌に握らせた。  背の松子を入れて七人の一行が、一列に並んで歩きだすと、一階二階の廊下にぎっしりと居並んだ見物の客の中の子供達が、手をうち声をあげてはやしたてた。それを聞くと樵夫達は後を振り返って、陽よけにかぶった饅《まん》頭《じゆう》笠《がさ》のてっぺんを、おどけた恰好に叩《たた》いてみせながら、草原の道を下ってゆく。  八月の中日がすぎれば、高原はすでに秋の気配が濃い。大空の眺めがひときわ広くなり、みなぎる光の色にも一種特別の香気が感じられる。宿の前ははるかな下方まで一面のすすき野である。高く穂をだしたすすきが、風の音もないのに野末のあたりを、前後に巻きかえり靡《なび》きふしている。  その青い野の中を真っ赤なパラソルが一つ、男達に前後をまもられながら、傾き傾き遠ざかってゆくのだ。まるで波にのせられて、ゆるゆると運ばれてゆく、美しい花びらのようだった。  久八は思わず、 「おうい、おうい」  と手をあげて挨拶を送ったが、しかしその声は秋風にけされてもはや彼等の所へはとどかなかった。 テニヤンの末日 一  敗戦後、四度目の夏がめぐってきた。サイパン、テニヤンの陥落から丁度五年目になる。浜野修介がテキサスの俘《ふ》虜《りよ》収容所から送還されて三年目だ。祖国へかえってきて以来あわただしい月日をくりかえしてきたが、時はすぎるようにして過ぎてゆくものである。混乱や破壊も徐々とながら水が水平にきするようにいつかあるべき姿にたちかえり、人間の凄《すさま》じい体験や恐しい記憶も同じようにして時日とともに遠ざかり薄れてゆく。  周廻十五哩《マイル》ばかりにすぎぬ太平洋上の挧《さい》爾《じ》たる一小《しよう》嶋《とう》テニヤンには、陸海の軍隊と居留民をあわせて万余の人々がいた。終戦後無事日本へかえりえた者はその十が一にも足りまい。将校にいたっては五指を屈するほどの数があるかどうかも分らぬ。浜野大尉はその少数な将校中の一人だ。この事を考えるとつくづく、神の恩《おん》寵《ちよう》といったものを感じないではいられない。ことに無二の僚友だった岡崎大尉の死を思う時、その感情は一層痛切に身にこたえてくる。  浜野と岡崎とは高等学校以来の同級生だった。二人がはじめて友となったのは、一高山岳部員が北アルプスを踏破した時である。碧《あお》空《ぞら》とまばゆい雪渓を背景としてなりたった二人の交遊にはそれだけなつかしく忘れがたいものがある。  二人は医学を専攻して大学を卒《お》えた。岡崎は二年現役の軍医として海軍へ入り、浜野は大学の研究室にのこった。しかし一年をすぎぬ間に、浜野もまた岡崎の後をおわなければならなくなった。そして昭和十九年の二月下旬、ほぼ期を同じくして二人ともマリアナの航空隊基地、テニヤンに派遣されることになったのは、偶然ではあったが奇縁というほかはない。  岡崎は先に特設空母で、浜野は後から飛行機でテニヤンへ向け内地をたった。浜野がテニヤンに着くとほとんど同時に空襲があった。トラック島を急襲した戦爆聯《れん》合《ごう》の敵機動部隊が、余勢をかって北上しマリアナ基地をおそってきたのである。  浜野は赴任早々爆弾や機銃の洗礼をうけたわけだが、テニヤンの守備隊にとってもこれは初空襲だった。テニヤンはそれまでラバウルその他の前線基地にたいする、中継所にすぎなかったからである。浜野は飛行機からおろしたシュートケースを持ってにげる暇がなく、飛行場側の叢《そう》林《りん》の中に身をつっ伏せにして颶《ぐ》風《ふう》の時のすぎるのを待った。三千米《メートル》の滑走路をもった飛行場には数カ所大穴があき、浜野のシュートケースにも機銃弾の痕《あと》があった。  飛行場の北、海岸にちかく航空隊や守備隊の兵舎があった。木造の長方形の建物が、幾棟となく並んでいる。その西側に病舎があった。床の高さ一米半ばかり、周囲は二米の廊下になっている。組立ベッドの数約百台、隔離病室の設もあった。  浜野が病舎の軍医将校等に赴任の挨《あい》拶《さつ》をしている間に、戦死者や負傷兵がぞくぞくと病舎へはこばれてきた。銃撃された守備兵や爆死した対空火器の兵隊達だった。収容した負傷者の数は、百台のベッドにあまった。初空襲に狼《ろう》狽《ばい》した指揮官のあやまった処置から、適宜に避退することをしないでそれだけ損害を大きくした。  浜野はあてがわれた宿舎におちつく間もなく、負傷者の手当に奔走しなければならなかった。しかしその忙しさが却《かえ》って彼を救った。いやおうなく軍医という任務をはっきりと自覚させられ空襲の恐怖や赴任早々の気まずさから免れることができたからである。  浜野と同じ頃につくはずの岡崎大尉は、なかなか島へやって来なかった。岡崎の乗ってきた特設航空母艦が、サイパン島のガラパンに入港中同じ空襲で爆撃された。岡崎はそれに積んであった医療品の跡始末にとりかかっていた。  戦死者の処置や負傷兵の後送などが一段落つくと、浜野は同僚に案内され自動車で島を一巡した。島をめぐって環状道路がつくられてあった。テニヤンは珊《さん》瑚《ご》礁《しよう》の隆起した小島で、台湾島をそのまま小さくしたような形をしていた。島の内部は北から南へかけ細長く台地をなしていて、とくに中央のラソと南端のカロリナスとが高かった。  東海岸はわずかの砂浜をのぞいたほかは、全部きりたつような断《だん》崖《がい》だった。東からおしよせる太平洋の荒波が、そこでふせがれていた。中央台地と海岸の間は、榕《よう》樹《じゆ》や蛸《たこ》の木、マングローヴその他の熱帯樹で蔽《おお》われた密林である。  南端にちかい西海岸に、ソンガルンの町があった。人口二、三千の小さな町で、砂糖工場や小学校や病院があった。住民は戦前から居留していた邦人のほかに、戦争中徴用されてきた朝鮮人や琉球人がいた。土人はこの島にはいなかった。  ソンガルンの港は一条の出口をもったリーフで囲まれ、それが天然の防波堤をなしていた。さらに対岸二キロを隔ててアギーガン島があり、絶好の港だった。港内は桟橋が一つ突きだしていて、そこからポンポン蒸気がサイパンとの間を定期的に往復していた。  時には桃色のネッカチーフを肩のあたりに翩《へん》翻《ぽん》とひるがえしながら、白《おし》粉《ろい》の濃く唇《くちびる》の赤い女達がこのポンポン蒸気に乗ってやってくることもある。この町には戦争中十数軒の料亭がひらかれて、百数十名にのぼる娼《しよう》婦《ふ》達が営業していた。そして戦局が急迫しない前は、前線へ行く者や帰る者、守備隊の将兵等の歓楽境となっていた。  密林地帯と高地をのぞけば、全島いちめんの甘《かん》蔗《しよ》畑《ばたけ》といってもよかった。戦前三千人の居留民が、それによって衣食していた。飛行場は甘蔗畑をつぶしてつくった。土壌は火山灰のように軽くて、少し深く掘ると珊瑚礁のかたい岩《がん》磐《ばん》に達した。それ故つくろうと思えば、甘蔗畑の何《ど》処《こ》にでも飛行場ができた。  かわりに水はえられなかった。ソンガルンの東北、カロリナス高地の山《さん》麓《ろく》にちかいマルポに唯一つの井戸があった。これが島のオアシスで周囲に木立が美しくしげり、住民の貴重な財産でもあったし生命の泉でもあった。日常の用水としてはコンクリートの石槽を各戸にそなえて、屋根におちるスコールの雨水を桶《おけ》にうけて貯えていた。  浜野は一日また島の公園となっているラソ山に登ってみた。ラソ山は高さ三十米ほどの丘陵で島の中心よりやや東北に位置していた。頂に南洋杉に囲まれた小さな祠《ほこら》があった。祠ののきにしめ縄がかざられ、ふとい鈴の紐《ひも》がひとすじまっすぐに垂れさがっている。テニヤン神社とよばれている祠で、海上をわたってくる風が周囲の南洋杉の細枝をそよがせ、鈴のふと紐をゆすっている。紐をふって鈴をならしてみても、内地にいる時のような感情はわいてこない。  台上から四方を望むと、陽光をぎらぎらと反映している海ばかりである。北の方四キロほどの距離にサイパン島の山が見渡される。反対の南の方角には、ロタ島が煙波の間に糢《も》糊《こ》として横《よこた》わっている。西南では眼下にアギーガン島の絶壁が白波を砕いている。東方は漫々とした大洋だ。島影一つ見えない。  浜野大尉は白色の軍服に同色の戦闘帽をかぶり、短剣を腰に吊《つ》っている。内地から来たばかりなので、まだそれほど日《ひ》灼《や》けしていない。海風がたえずまともに吹きつけてくるので暑いとも寒いとも感じないが、温度が高く湿気があるためおのずと汗ばんでくるような身内のだるさを覚える。  内地を出る時は厳寒の時であったのに、なんという気候の相違であろう。あたりには茶《ちや》碗《わん》ほどの大きさのある白い素馨《ジャスミン》の花や、仏《ぶつ》桑《そう》華《げ》の真《しん》紅《く》の花が咲きほこっている。トタン屋根の粗末な小屋が七、八戸かたまっている眼下の部落では、パパイヤの木蔭に牛がないたり鶏がかけだしたりしている。耳がじいんとするような静けさだ。密林の青葉の色が眼にしみ、海のはての水平線上にはうす赤い水《すい》烟《えん》がぼうとたちこめているように見える。  故国の遠いことが思われるにつけても、浜野はしきりと岡崎の来るのが待たれてならなかった。彼は新任者なので、基地隊の中で孤独だった。海軍軍医将校としての訓練も生活も、まだよく身についていなかった。いわば新学士に軍服をきせたにすぎないようなところがあった。  軍人になりきれぬ浜野は、周囲と調和しなかった。彼は軍人の鋳型にはまった将校達を、内心懐疑と批判の眼で見まもっていた。彼の父は東京で知名な病院を経営していた。母は熱心なカトリック信者だった。浜野も弟妹等も母の感化で洗礼をうけた。教養ある善良な家庭に人となったので、専門の軍人達のように大声で部下をどなりつけたり、理由もなくひっぱたいたり、酒に酔いどれて放歌高吟したりすることができなかった。  浜野はそのような人々を、真に勇気あるものとは信じなかった。なんとなく内部の不安を、そうして胡《ご》麻《ま》化《か》しているように思われてならなかった。内省の力をかく者に、本当の信念が生れるはずはないと考えている浜野は、別人種の中にただ一人あるような思いで、誰とのつきあいもなく黙って自分の仕事をはたしていた。  三月の十日頃だったであろうか。 「岡崎大尉がお着きになられました」  そういう部下の報《し》らせがあった。浜野は自室の寝台にねころがって歌集など読んでいたが、急いで病舎の方へ出ていってみた。岡崎は軍医長に報告をすませて帰ってくるところだった。浜野が岡崎を見るのは、大学をでて約二年ぶりである。互の消息はわかっていたが、任地が違うので会うことはなかった。  岡崎は二年前とほとんど変るところはなかった。緑色折《おり》襟《えり》の軍装で、病舎の廊下をこちらへガニ股《また》で歩いてくる。身体はほそいが怒り肩だ。ほそい眉《まゆ》、やさしい眼つき、笑《えみ》をたたえた口《くち》許《もと》の下に咽《の》喉《ど》仏《ぼとけ》がつきだして見える。  岡崎は右手をあげて「やア」と言った。浜野は走りよって彼の手を両手で握った。 「待ってたよ、君。来てくれてよかったな、ほんとうによかったな」  浜野はなつかしさに、涙があふれ出そうな気がした。しかし涙が流れでなかった。熱い処では思考と同様感情もふかくは動かない。 「ま、君の所へ行こう、外地勤務は君は初めてだな」 「君だってそうじゃないか」 「しかし、僕は君より軍隊生活は先輩だよ」  岡崎は浜野の現在の心細い心境を、見通しているような口吻だった。たしかにそれに違いなかった。浜野は岡崎にたいしていると限りない力強さをおぼえた。二人は浜野の部屋で岡崎がサイパンから持ってきた珈《コー》琲《ヒー》をいれて飲んだ。 「あの時の空襲にあったかい」 「丁度、飛行機でついたばかしで面くらったよ。最初のお迎えが空襲なんだからね」 「前線らしくていいじゃないか。しかし戦況は我が方に不利だね」 「大いに不利だよ」 「此《こ》処《こ》が僕等の墳墓になるのかな」 「そんな事はあるまい。先《ま》ずラバウルをとってパラオに上陸し、其《そ》処《こ》を基地にしてフィリッピンを突く戦略に出るだろうと、此処の人達は言ってるよ」 「それだと助かるが、空頼みかもしれんぞ」  岡崎は咽喉仏をならしてせきこむような笑いかたをした。 「誰もこんな所で死にたくはないからなア」  それは浜野も同感だった。現地へくるまでは多少の意気込や好奇心がないではなかったが、いきなり空襲に遭《あ》い死の恐怖におびやかされたりしてみるとかぎりない心細さにおそわれた。この島でいたずらに死を待っているような不安にたえられなかった。死ぬならば内地に帰って死にたい。両親家族のいる所で死にたい。そういう願望にせめたてられた。しかしこれは浜野や岡崎にかぎったことではない。おそらく外地にある全部の人々の心であろう。浜野は外地へ出てきてみて人間の生命が生れた郷土と、どんなに深いつながりを持っているものであることかに初めて気がついた。 「ところでこの島の防備状態は、一体どんな風なのだい」  岡崎は浜野に質問した。 「一個大隊の陸軍守備兵のほかに海軍の警備隊がいる。後は航空隊だ。兵数は相当だが大砲は数門しかない。高射機関銃も口径が小さいから、うっても敵機は墜《お》ちないよ」 「そうか、そんなものか」  岡崎は意外に防備の薄弱なのに驚いたらしかった。 「僕もきてみてがっかりしたよ。しかし、此処はもともと前線と後方との中間基地にすぎなかったのだからね。戦局の進展がはやすぎて、防備が間にあわなくなってしまったのだ」 「それにしても、それじゃ戦争はできないよ。目ぼしい空母はポカポカ沈められてしまうし、飛行機の数は少いし、優秀な敵に制海権を握られて後方を遮《しや》断《だん》されてしまったら、我々は一体どうなるのかね」  病院のまわりにはバナナの木がうえてあった。芭《ば》蕉《しよう》に似たその広葉の間から北方の青い海が見渡された。波のうねりもみえぬ静な海面を眺《なが》めていると、戦争はどこにあるかと思われ岡崎等の不安も嘘《うそ》のような感じがした。事実浜野は岡崎が身近にきてくれたことで、なかば戦争の不安を忘れたような落ちついた気持になった。 二  浜野と岡崎との楽しい交遊生活がはじまった。前線の孤島に朋友をむかえた者でなければわからぬ嬉しさである。浜野はこのような幸福をあたえてくれた神に感謝した。彼はいままでの孤独な感情から救われてひどく元気になった。  浜野と岡崎とは毎日の勤務がすむと、二人の部屋のどちらかに寄りあって、燈火管制の暗い電燈の下で香りの高い珈琲をのみながら、時にはオリオンの傾く夜明け近くまで語りあうことがあった。  二人には共通の話題があり数々の思い出があった。高等学校や大学時代のなつかしい回顧談から、現実の祖国の情勢や戦争にたいする批判、つづいて戦後における世界情勢の変化や人類の究極のありかた、そのような本質的な問題について議論や意見をたたかわした。二人は日本がはっきりと戦争に負けるとは感情の上からも信じたくはなかったけれども、やがて遠くない将来に媾《こう》和《わ》が成立すれば今までの暗い現実の反動からしても飛躍的に世の中が明るくなるような気がしてならなかった。人類は今度こそ戦争に懲《こ》りて、永久の平和を講ずるようになるであろう、そのためには漸《ぜん》次《じ》国際的な世界国家の成立を考え、その理想にむかって進むようになるであろう、是非そうなくてはならぬ、そうなってほしいというのが二人の一致した念願だった。  彼等二人は青春の初めから、いきなり戦争の現実に頭を突きいれられて、彼等の知性は少からず戸まどいしていた。本来平和であるべき文化の流が、急に其処で堰《せ》きとめられた形だった。科学を専攻する彼等は、合理的な考え方や処置に慣らされてきていた。その傾向は岡崎の方がカトリック信者の浜野よりも甚《はなはだ》しかった。  岡崎は軍隊生活の虚偽や救うことのできない形式性を、二年間経験してきていながらそれに同化することができなかった。其処に充満している不合理や矛盾を、たえず批判の眼で見まもっていた。又粘土のように柔軟な感受性や思考力をそなえた青年等が、軍の学校や兵営で強制的に一つの鋳型にうちこまれ、なかば器物化された均一品として作りだされてくるのに懐疑と反感をいだいていた。その点は浜野も同様で、彼等は局外者のような気持で周囲の軍人達を眺《なが》めていた。 「浜野君、君はここの航空隊の倉富分隊長を知っているか」  ある時岡崎が不意にそう言って、浜野にたずねたことがあった。 「ああ、あの遮《しや》光《こう》眼鏡《めがね》をかけて飛行場の組立椅子に、いつもじっと腰をおろしてる男だろう。知ってるよ」 「あの男は此処ではずいぶん穏《おとな》しくなっているが、内地の航空隊にいた時は暴れん坊で有名だったのだ。パイロットとしても相当の腕をもっている筈《はず》だ。ところが此処じゃ、『飛行機に乗らない分隊長』ってアダ名がついてるそうじゃないか。内地では想像できなかったことだ。前線へ来ると暴れん坊もみんなあんな風に、慎重になってしまうものかね。一つしかない生命だから、できるだけ大事にしておくつもりかな」  浜野は岡崎の皮肉に直接にこたえるかわりに、 「とにかく、みんな変るよ。あの大尉一人じゃないね。変らないのは僕等ばかりかも知れない。初めから臆病者として、半文官視されているだろうからな」  そう言って浜野は微笑した。 「半文官視されても、前線へくると思考上の半身不随者になってしまうよりましだよ。彼等は自分の座標内の世界に住んでいる間は驚くほど勇敢だが、一歩外へ出るとカラ意気地がなくなってしまう。機械的な集団教育の弊だよ。一人で生命の不安と直面するにたえられないのだ」  岡崎の論鋒はするどかった。しかし同時にそれはまた、彼自身の内省の声だったのかも知れない。現地のこの島では誰も彼もある漠とした不安に圧えられ、人知れず悩んでいた。眼に見えず耳にも聞えず誰から知らされたわけでもないが、じりじりと圧迫してくる敵の勢力を無言の間に感じないではいられなかった。  優勢な敵機動部隊は各所に出没して太平洋上の各基地と内地間の連絡を遮断し、機会ある毎に我が方の空軍をたたいてまさに制海権を握ろうとしている。我が方は及ばずながらそうさせまいとして、各基地の空軍をもって敵を攻撃してゆく、しかも劣勢な我が空軍は、そのつど敵の餌《え》食《じき》となった。  実際我が方の攻撃機の消耗は著しかった。  テニヤンの基地からも十機二十機と飛びたっていったが、帰還機はいつもその三分の一にすぎない。ほとんど全滅の憂き目をみることすらある。ことに先頭にたつ隊長機は、絶対にかえってきたことがなかった。指揮官機を墜《おと》しさえすれば後は支離滅裂になる我が方の弱点を、敵は経験によって知ったのであろうか。一時に数機むらがり襲いかかって隊長機を落してしまう。  基地には新任の隊長と二十歳前後の紅顔の少年航空兵等が、次々と補充されてきた。まさに絶えざる人の流といってよかった。しかし一海戦あるごとに、その数は急にごそりと減ってたといどのように我が方の「人的資源」が豊富であろうと、こんな状態では行末どうなる事かと不安がらずにはいられない。  攻撃隊の出発に際して基地航空隊の司令が飛行場正面の指揮台にのぼり、決死の隊員等に訓辞と激励の挨拶を贈る。遮光眼鏡をかけた倉富分隊長がその下にたち、黙々として隊員等の姿を見つめている。遮光眼鏡をかけているので彼の眼色はわからない。司令の挨拶が終って一斉に挙手の礼が行われる。分隊長も手をあげる。それから司令と共に、一機々々飛びたってゆく攻撃機を最後まで見送っている。  司令は宿舎へ帰ってゆくが、分隊長はなお飛行場の天幕内にとどまっていることがある。燃えたつばかり灼《しやく》熱《ねつ》した赤土の飛行場を前に、天幕内で唯一人褐色の遮光眼鏡を光らせながらじっと腰かけている分隊長の姿は、孤独そのものといった感じがしないでもない。彼はまだ三十になったかならないくらいの頬《ほお》のまるい青年だった。しかしその日《ひ》灼《や》けした黒い顔の表情は、なんと考え深く年ふけて見えることであろう。彼は孤独を好むもののように、殆《ほと》んど人と口を利かなかった。  一時間後二時間後三時間後、敵機の邀《よう》撃《げき》の熾《し》烈《れつ》な砲火をからくもまぬかれた味方機が、蹌《そう》踉《ろう》としたていで飛行場へかえってくる。出迎えた司令の前にたって戦果を報告する。分隊長が側でそれを記録する。それから宿舎へ帰って未帰還機の搭乗員達の名を書きつける。一回の攻撃から決して帰ってきた例のない隊長の名をまっさきに記す。そしてその名の下に戦死確認の印を捺《お》す。  分隊長自身もいつかはそのように、司令の手によって戦死確認の印を捺されるであろう。命令があれば彼の好むと好まないとにかかわらず、彼は飛行機に乗らなければならない。そして部下の飛行機をひきいて死地に突入しなければならない。避けることも遁《のが》れることもできない必然の運命と死が、いつも彼の眼の前にぶらさがっている。攻撃隊をおくりだすごとにその事実を確認している。 「倉富分隊長は、近頃しきりと本を読んでいるようだよ。前には書籍など、手にとってもみなかったが」  岡崎は浜野へそういう報告をした。彼は攻撃隊附の軍医なので、隊内の動静にくわしかった。 「生きてきた自分達の生活以外に、意義のあるもっと違った生活もあるものだということが、やっと解ってきたらしいな」 「しかしそれは却《かえ》って彼を、一層不幸にするだけじゃないかな。盲目者は盲目なりに自分の運命を信じていた方がいいと思うよ」 「けれど、一度懐疑に憑《つ》かれた以上は、それを解決するまで苦悩からはまぬかれられないよ」  たしかに岡崎のいうとおりだった。浜野は倉富が飛行場の天幕内に悄然といってもいいような姿で一人じっと腰をおろしている姿を見かけるたびに、彼をあわれむよりも彼の苦悩に敬意を表さずにはいられないような気になった。  岡崎の部屋に風間という戦闘機隊長が、新しく着任してきた。風間は海軍兵学校出身の航空中尉である。海兵出身の将校は学徒あがりの短期現役士官はもとよりのこと、海軍機関学校や下士官出身の将校にたいして鼻息があらい。それは海軍の嫡流だという自負があるからだろう。ことに航空将校となると、側へもよりつけないような張りきりかただった。そして風間中尉はその代表的な型といってよかった。  彼は六尺ちかい長身で、まだ二十四、五歳にしかならないのに、頬から顎《あご》へかけていっぱいに黒《くろ》髯《ひげ》をはやしていた。みずから鹿児島出身の薩《さつ》摩《ま》隼《はや》人《と》と称して、両肩を怒らせながら隊内を闊《かつ》歩《ぽ》していたが、根は快活で単純な性質だった。島へきてからはさすがに内地にいた時のような傍若無人の振舞をしなくなったが、それでも怒ると彼の部下は決して彼の側へよりつかなかった。彼の両眼に焔《ほのお》がもえだしたと見ると、みないち早く何処かへ姿をくらましてしまう。彼の平手打をくうとどんな大男の兵隊でも横へすっ飛ぶ。拳固で打たれようものなら、思わずギャッという声を発せずにはいられない。死を目前に予期しているだけに、彼の憤怒には狂気めいた殺気がこもっていた。  風間は赴任以来、寸時も部屋の中にじっとしていたことがなかった。いつも何処で何をしているのか、おそらく航空隊や警備隊の兵舎をめぐって彼らしい気《き》焔《えん》を吐いてるのだろうが、時々ぬうっと自室へ姿をあらわしてくることがある。そして岡崎や浜野が茶菓を喰べていたりすると、黙ってその一つをつまみ又何処へか出かけて行ってしまう。ソンガルンの町へ行って泥酔して帰ってくることもある。彼のことだから十数軒ある料亭を片っぱしから飲みあらしてくるのであろうが、いかに酔っていても同居者の岡崎に迷惑をかけるようなことはしなかった。  風間は多くの軍人と同じように本を読まなかった。彼にとって書籍は「読んでも解らん」ものだった。もっとも明日の生命を知らぬ戦闘機乗であってみれば、到底本など読んでいるような落ちついた気持でいられなかったに相違ない。しかし彼は知識の豊富な岡崎にたいしては一目おいていたらしい。彼のわからぬ事を岡崎に質問して明快な答がえられると、「はアそうですか、はアそうですか」と殊勝げにうなずいていた。  テニヤン島から三十浬《かいり》ばかりの東方海上に、友軍機が不時着したという報告があった。島から早速捜索の救助艇がだされた。風間中尉が指揮官としてそれへ乗りこみ、浜野大尉が同乗してゆくことになった。その日は南洋にはめずらしく時《し》化《け》模様の天候だった。海上にはチラチラと三角波がたっていた。  港外のリーフに沿うて舵を南へとり島の東部へ出てゆくまでの沿岸は、見あげるばかりの断《だん》崖《がい》絶壁をなしている。太平洋の波《は》濤《とう》はうわべはさほどに見えなくてもうねりが大きい。百噸《トン》たらずの汽艇はともすればその力におされて断崖にうちつけられそうになる。その荒波を乗りきり乗りきりして、目標の場所に到達するまでにはなみなみならぬ苦心を要した。  しかしせっかく苦心して目的の場所へついてみても、不時着した味方機はすでに波間に呑《の》まれてしまったものか、浩《こう》蕩《とう》とした海上にはいたずらに波濤のうねりを見るばかりでそれらしい物の影もみえない。  風間は汽艇の尖《せん》端《たん》にたって望遠鏡で海面をくまなく捜索しながら、艇のコースをさらに東へ或《ある》いは北へ南へと指図している。大洋を遠く離れて出れば出るほど波はいよいよ大きくなり、汽艇は上下左右に動揺してしばらくも静な時がない。二時間三時間と漂流をつづけている間に、船になれぬ浜野をはじめとして水兵の中にも胸ぐるしさをおぼえる者が出てきた。木の葉のような小艇内で、たえず身をもみ腹部をゆすぶり続けられるのだから、長くたえられたものではない。  しかし風間中尉は、容易に帰ろうとは言いださなかった。ようやくすすまぬ顔色を見せはじめた乗員等を叱《しつ》咤《た》しながら、艇の針路をあちこちと変えて根気よく捜索をつづけている。僚機の上を思う真情はそれほど切ないものであろうか。それとも同じ運命におちた場合の自分の身の上を考えているのであろうか。いずれにしろ諦《あきら》めることを知らぬ彼の真剣な努力には、浜野は身の不快も忘れて心をうたれずにはいられなかった。  とうとう日が暮れて、視界がきかなくなった。南洋の日暮れはおそいかわり、闇《やみ》が急速におちてくる。その頃になって空が霽《は》れだしてきた。ひくい彼方《かなた》の空に南十字星がきらめいている。まわりの群星より一つとびはなれて大きく、うるんだようなみずみずしい光を放ちながら、右方に少し傾いた姿で遠ざかるともなく近づくともなく、帰航をいそぐ艇をじっと見おろしている。  サイパンとテニヤンを分つサイパン水道に近づいた頃、雲間をやぶって十日ばかりの月がぽっかりと姿をあらわした。初め朱盆のように見えた月の面が白銀色に澄んできたかと思うと、蒼《そう》茫《ぼう》とした青白い光がみるみる四方の海面へひろがってゆく。艇のまわりで魚が鱗《うろこ》をひらめかしながらしきりと跳《と》ぶ。艇の行手に一艘の小船が一抹の黒影となって漂うている。サイパンあたりから同じく不時着機をたずねにでた汽艇らしく、エンジンをとめてこちらの近づくのを待っている様子である。乗員の姿が互に識別できる距離までくると、艫《とも》にたった士官らしい男が口を両手でかこいながら叫んだ。 「誰の艇かア」  風間が舳《みよし》から叫んだ。 「風間中尉だア」 「おッ風間、貴様まだ生きていたのかア。己は篠原だア」 「なに、篠原ア」  風間は思わず舳《へ》先《さき》におどりあがって、力いっぱい右手の拳《こぶ》しをふりまわした。 「きッ貴様も、よ、よく生きてたな」 「友部は死んだぞオ」 「神崎は」 「神崎も死んだ」 「林はどうした」 「林も戦死だア」 「田代、小河内、富永、斎藤、今泉、野方、広瀬等もさっさと死んでしまった。今度は貴様の番だぞオ、篠原」 「馬鹿言え、安島、寺内、小沢、永井、清水なぞまだ生きとるわい」 「それッきりか」 「それに、貴様と己とだ」 「うん、貴様と己と七、八人足らずだな」  二艘の汽艇は北と南と相ならぶほどになったが波が高いので一定の距離以上には近づけない。 「篠原、貴様サイパンにいるのか」 「ちょっと来たが、すぐひきあげる。貴様はテニヤンか」 「己も最近、移ってきたばかりだ。今日は不時着機をさがしに出たがどうしても見つからん。おそらく鱶《ふか》にでも喰われたんじゃろ」 「飛行機乗はお互さまだ。じゃ風間、失敬」  篠原の汽艇はエンジンの音をたてだした。 「篠原、ちょっと待てイ」  風間は舳先から艫へ走ってきた。 「己の顔をよく見ておけ」 「貴様の髯面なぞ、見たくあるものか」  二人は月光に半面を照らされながら向いあった。それからどちらが先にということもなく、さっと右手をあげて挙手の礼をかわした。双方とも何とも言わない。そのままの姿で右と左にひきわかれていった。  その晩浜野が岡崎の部屋に行っていると、風間中尉がぶらりと這《は》入《い》ってきた。 「やア、今日は御苦労さん」  浜野がそう言って挨拶すると、風間はにやりと笑って二人の間に割込んできた。そして卓上の黒羊《よう》羹《かん》に手をのばしながら、 「わしもそろそろもう、年《ねん》貢《ぐ》のおさめ時がきたようです」  その口調がいつになくしめやかだったから、浜野は彼をなぐさめるつもりで、 「今日、思いがけなく同期生に会ったりして、心細くなったのじゃないですか」 「ははははは、そうかもしれない。しかし——」  風間はそこでぽつりと言葉をきって羊羹をほおばりだした。その眼は秋の水のように澄んでいる。雲がその上に影を落すように、思いなしか悲哀の色が深くその中に漂うているように見られないでもない。部下を戦《せん》慄《りつ》させる猛《も》者《さ》とも思われぬ優しさだった。 「のう岡崎大尉、わし等は祖国の犠牲者だ」  岡崎は彼の言葉に黙ってうなずいた。その後間もなく風間の部隊はピリリウ島へ移動した。ピリリウはパラオ群島中の一つで、テニヤンの南はるか後方にある。つまりそれだけ後にひいたわけだが、敵機は容赦なくそこへも襲いかかってきた。風間機はその邀《よう》撃《げき》にただ一機飛びたっていったが、はやくも頭上に殺到してきた敵機の斉射をうけて、一発の銃弾をはなつ暇もなくあっという間に海中深く潜没してしまった。  風間中尉は岡崎の部屋に柳《やな》行《ぎご》李《うり》を一個残していった。行李は彼の名札をつけたなり棚の上に空《むな》しく放置されてあった。浜野はそれを見るごとに、髯武者の悲しげな眼色を思いおこして、何ともいえぬ憂愁をかんじた。 三  前任部隊だった第七五五空軍がガム島へ移った後、第一航空艦隊麾《き》下《か》の諸部隊は、飛行場の整備に忙殺されていた。テニヤン飛行場にはこれまで、飛行機の掩《えん》蓋《がい》壕《ごう》もなかった。  さらに島の中部と南部に第二第三の飛行場が、居留民を動員して新設されることになった。  兵隊達は朝の三時から起されて、終日労役にしたがった。一日の休暇もあたえられなかったので、彼等は寸暇があると何《ど》処《こ》へでも寝ころがって、睡眠をむさぼった。赤道以北十五度緯内にある熱帯地の労役は、暑熱のため体力の消耗がはなはだしくて疲労しやすかった。そのため早朝の涼しい時をえらんだわけだが、大部分の兵隊はこの労働におわれて飛行場以外のテニヤンを知らずに過した。  第一次の空襲以後、ときおり小規模な敵襲があったが、地上砲火は沈黙し味方機も応戦にとびださなかった。その間に敵の制海権は次第に後方にのびひろがり、内地附近にまでおよぶようになった。輸送路は遮《しや》断《だん》されて内地からの補給がたえ、各基地はなかば孤島化してしまった。出る船出る船が撃沈されてしまうので、島の居留民はもはや内地送還を希望しなくなった。内地から来る輸送船も無事につくのは稀《まれ》で、沈められた船の兵隊や乗組員が丸裸で上陸してくることが多かった。  過労のためか作業部隊の兵隊達の間に、カタル性の黄《おう》疸《だん》病患者が続出するようになった。発熱して頭痛をうったえ食慾がなく吐き気をもよおし、疲労と倦怠感におそわれて黄疸が発生してくる。こういう症状に最初に着目したのは岡崎大尉だった。彼は病気の前駆症状や進行の経過をリストに作って、各患者毎に記入していった。  戦況の悪化につれて何となく危機が予感され、部隊すべての者が一種の不安におそわれている時に、このような病気の蔓《まん》延《えん》は部隊の士気を沮《そ》喪《そう》させた。病気の原因や潜伏期について、軍医達の間に種々の説があった。流行性のものであることでは一致していたが、或る者は中毒といい他の者は腸間炎症の波及説をとなえ、又は胆管栓《せん》塞《そく》説を主張した。潜伏期についても、一週間説があり十日説があり、一カ月説があった。  岡崎や浜野の病室には、一個の顕微鏡と少数の試薬しかなかった。しかし二人は協力しながら可能な範囲で、最善の研究をすすめようとはりきった。部隊にとっては不幸なことではあっても研究のデータがえられたことで、二人は久しぶりに医学の学徒らしい精神の躍動を感じた。二人は毎日担当患者を診察して、病状を記録し統計にとった。そしてそれぞれ観察したり調査したところを、互に報告しあって討論した。  患者の数は四月上旬から、幾何級数的に増えていった。集団生活や作業を行っている兵舎から患者が多く出て、輸送機隊や航空隊からは一人も出なかった。四月下旬に頂上に達して、それから徐々に減退しはじめたところからしても、伝染病の疾患にちがいなかった。  患者は最初に三七、八度の熱をだして一両日で下熱し、四、五日すると黄疸があらわれてくる。岡崎大尉は患者の舌先の乳頭が赤く色づきふくれあがってくるのを見ただけで、黄疸の発生を予言できるようになったと言った。又発病の初期に膝《しつ》蓋《がい》腱《けん》反射の軽度の亢《こう》進《しん》があり、発熱状態の時には白血球の数が減少することからして、本病が中毒性の疾患であって、最初の腐敗期からその増進期にいたるものだと判断した。  岡崎の診断がはたして正しかったかどうかは別として、彼の研究の熱心さには驚くべきものがあった。そのため寝食を廃するほどではなかったにしても、彼の精力と情熱をささげてこの研究に熱中した。食事や雑談の間を惜んで、病室へかけつけて行った。彼の眼も顔の表情も、これまでの彼とは別人のように光り輝いて見えた。真理にむかって戦をいどんでいるという彼の誇と喜とが、岡崎の生活をよみがえらせたのである。  ところが岡崎の研究にたいして、意外な横《よこ》槍《やり》がはいった。岡崎の軍医長である小関少佐が、そんな調査は必要ないと言って岡崎の研究をとめた。直上官の命令には従わないわけにはゆかない。岡崎は意気込んでいた彼の研究を、中途で放棄しなければならなくなった。これは燃えあがっていた彼の若々しい精神にとって、大きな打撃となった。  それにしても小関少佐は、どうして岡崎の研究をとめたりしなければならなかったのであろう。軍隊内の伝染病の蔓《まん》延《えん》を阻止して病源をつきとめ、その治療法に手をつくすのは軍医の本分ではないのか。上長官としては部下の軍医を督励しても、相努めなければならない筈《はず》のものである。  岡崎と浜野とは憤《ふん》懣《まん》にたえなかった。しかし軍隊というところは、理窟や合理性の通らぬ世界である。理と非を弁別することさえ許されていない。小関軍医長は軍人の中でも一風変っていた。ことに前線の孤島へ派遣されてきてからは、彼の奇癖は一層はなはだしくなった。  小関は小柄で痩《や》せぎすな四十男だった。頭を丸刈にして口《くち》髭《ひげ》をはやしていた。召集される前はどっかの地方で、町医でもしていたのであろう。もう数年間軍隊生活をおくってきたらしく、その動作は緩慢で職務に何の熱意も感じないらしかった。報告や用向で彼の前に行くとキョトンとした眼付で相手の顔を見あげ、それから口の中で何やらぼそぼそ言った。  小関は病室にいても、ほとんど患者を診察しなかった。いそがしい場合はよぎなく自分の前に患者等を裸にしてたたせ、前と後と身体の工合をざっとみて舌を出させ、瞼《まぶた》をひっくりかえしたりして突きはなした。兵隊なぞは文字通り、人間とも何とも思っていないらしかった。  彼は病室の正面にある軍医長の席に腰をおろして、暇さえあるとナイフで有機硝子《ガラス》の破片を削っていた。有機硝子は爆砕された飛行機のものを飛行場から拾ってきたのである。彼はそれを円く削って、メダル様なものを作りあげた。形ができると今度は紙《かみ》鑢《やすり》で、削り口を丹念にみがきあげる。一個を磨ぎあげるのに何日もかかっている。人が前にくるとメダルの粉をフッフッと吹きとばしながら、指でつまみあげて自慢たらしく見せびらかす。その仕事以外に彼は何もしなかった。  小関軍医長は慰めのない孤島の生活に、退屈しきっていたのであろうか。それとも彼は軍隊から放たれていつ帰れるともわからぬ自分の境遇に絶望してやけになっていたのであろうか。熱帯の暑熱と変化のない気候とは、ともすると人間をかぎりない無気力と倦怠におとしこんでしまうことがある。若い岡崎や浜野にとっては、この誘惑はおそろしかった。彼等は強《し》いて仕事をみつけても、これ等と戦いたがっていた。環境の力にまけて自分達が、庸《よう》劣《れつ》化《か》してしまったという意識にはたえられなかった。  小関はそういう彼等の若々しさや思いあがりを、妬《ねた》み憎んだのであろうか。そして彼らしい復《ふく》讐《しゆう》をこころみたのであろうか。もともと小関と岡崎は、性格があわなかった。小関は知性や精神上の働きからいえば、すでにその活力を喪失した老《ろう》耄《もう》者《しや》にすぎなかった。真理の探究心にもえ科学の合理性の信奉者である岡崎とあう筈がない。そのため岡崎は内地に勤務している時から、精神上の畸《き》形《けい》者《しや》である軍医長に苦しめられてきた。活《かつ》溌《ぱつ》にのびようとする彼の生命力は、いつも小関のために窒息させられてしまう。  軍医長と衝突した日の夜、岡崎は浜野の部屋へたずねてきて、彼にかわり病気の研究調査を続けてくれるよう浜野に頼んだ。軍医長の性格については、二人の間で今さら何もいうことはなかった。またそういう不合理の許されている、軍隊内部の生活についても同様だった。  浜野は岡崎の申出を承諾した。そして蔭からの岡崎の援助を惜まないでくれと言った。浜野は所属部隊がちがっていたから、小関軍医長の指図や干渉をうける筋合はなかった。そして浜野の軍医長はまだ赴任していなかった。浜野は一人で先発してきたわけである。浜野は見る眼もいたわしいばかりに銷《しよう》沈《ちん》している岡崎の手をとって、静かにその甲をなでながら岡崎をなぐさめた。  四月の末ちかく病院船の氷《ひ》川《かわ》丸《まる》が、サイパン島のガラパンに入港した。浜野は医療の薬品をうけとるためにガラパンに行った。彼はそこで学友の荒木に会った。荒木はハルマヘラ島へ赴任する途中だった。岡崎をはじめ海軍に入っている同窓生の話がでた。幸いに戦死した者は、まだない様子だった。荒木は内地から持ってきたポール・ヴァレリイの原語の詩集を二つに割って、その一つを記念にくれた。ハルマヘラも空襲をうけて危険地帯だった。二人は互の無事を祈って別れた。  浜野は南洋興発会社の経営している売店にはいって珈《コー》琲《ヒー》を買った。片《かた》隅《すみ》の棚に埃をかぶってレコードが少しばかり積まれてあった。ベートオベンのヴァイオリン協奏曲とモツァルトのピアノ協奏曲とジュピタアの一部だった。浜野はそれ等全部を買いとって、テニヤンへの土産《みやげ》にした。放《ほう》蕩《とう》を知らぬ浜野や岡崎にとっては、読書と珈琲と音楽は何よりの慰めだった。浜野と岡崎とは学生時代、しばしば日比谷の演奏会へ出かけて行った。岡崎はとくにドビッシイが好きだったがそのレコードはなかった。  五月上旬に浜野の軍医長が部隊といっしょにサイパンに着いた。軍医長の乗ってきた輸送船はガラパン港の直前でアメリカの潜水艦に撃沈された。しかも真昼時の二時だった。まことに傍若無人と言おうか何と言おうか、不敵きわまる敵の行動である。ガラパンの邦人等は眼前にその光景を見せられて、ただ茫《ぼう》然《ぜん》とするばかりだった。  浜野の部隊が兵舎におちつくと同時に、今度は岡崎の所属部隊がピリリウ島へ移ることになった。部隊の移動には、備品の荷造やその他の準備がいる。そしてその度毎に船の沈没とか爆撃などによって、少からぬ代価を払わされた。浜野は岡崎との別離を考えて心さびしかった。基地の生活に馴《な》れ所属部隊が到着したとはいえ、親友が側にいるといないとでは大きな差異がある。ことに前途はかりがたい今となっては、一層別れがつらかった。  しかし幸いなことには、部隊の一部が派遣隊として島に残されるようになり、岡崎はその隊の軍医官としてテニヤンにとどまることになった。一寸先のことはわからないにしても、これは浜野にとってもまた岡崎にとっても大きな喜びだった。岡崎は大《だい》嫌《きら》いな小関軍医長を離れて、生活することができるからである。小関少佐が飛行機でピリリウ島へさった後、彼のいない病舎内は急に広々としたような感じがした。 四  二、三日たって岡崎大尉が、急に病気になった。部下の衛生下士官が走ってきてそれを浜野へ告げた。痙《けい》攣《れん》をおこしてひどく苦しんでいるから、すぐ来てくれという。夕食後のたそがれ時だった。今まで元気だった筈《はず》の岡崎がどうしたことであろうと急いで彼の病室へ行ってみると、岡崎は部下の衛生兵三、四人にとりまかれながら寝台の上に仰向けになっている。  頭を枕からはずし顎《あご》を上向け、脚《あし》を少し内側に彎《わん》曲《きよく》させて両手を上に突張っている。手《て》頸《くび》を衛生兵の一人がささえていたが、拇《おや》指《ゆび》をはなして四本の指をそれぞれ固くくっつけ手頸を折曲げていた。腹を波うたせ、せわしい息使いで、 「ビタカンを打ってくれ、ビタカンを打ってくれ」と叫んでいる。  部下が注射器の用意をして、皮下へ注射しようとすると、 「静脈静脈」と呶《ど》鳴《な》った。 「落ちついて、落ちついて」  浜野は岡崎に言葉をかけながら、彼の脈をとった。岡崎は浜野の姿をみると、いくぶん安心したらしく静になった。脈は少しはやかったが不整ではない。聴診器を心臓にあててきくと、鼓動は確実で雑音はなかった。顔面はやや硬《こわ》ばって見えたけれども、眼球にも異状がなかった。熱も平熱である。  岡崎はハッハッと息をはずませながらひどく苦しげな様子だったが格別さしせまった容態ではなかった。たんに上肢にきた硬直性の痙攣にすぎないように思われた。浜野が部下にかわって静脈注射をすますと、発作は数分でおさまった。今日はこれで三回目の発作だという。その程度がだんだん激しくなるので、部下が心配して浜野へしらせたわけだった。 「一体、どうしたんだい」  浜野が岡崎にたずねると、岡崎は発作にぐったり疲れた様子で、 「クラーレ中毒だと思うんだ。昨日、へんな果実を喰べたのが悪かったのさ。発作が強くなってその時間がながくなるのは、クラーレの蓄積作用に違いないよ」  島にはもちろん季節にもよるが、バナナ、パパイヤ、パインアップル、ザボン、シャシヤップ、マンゴー、オレンジ、レモン、ペエア、アラス・アバスなど多種の果物があった。そのいずれを喰べたにしろ痙攣を起す毒物、クラーレが含まれてあろうとは思われない。 「君一人で、そいつを喰べたのか」 「いや、ほかの者も喰べた」 「そして君だけが、中毒したわけなんだね」 「そうなんだ」  浜野は岡崎の症状にそれほど異常のみとめられない点からしても、岡崎の判断をなんとなくおかしく感じた。しかし敢《あ》えて否定するほどの確信はない。 「とにかく、あまり神経質にならん方がいいね、僕のみたところではたいして心配はいらんと思う。もう大概だいじょぶだよ」  ところが翌日の夕刻にちかく、ふたたび岡崎の部下が浜野をよびにきた。分隊長が危険な状態にあるからすぐ来てくれ、これは岡崎自身の伝言でもあると言った。行ってみると昨日と同じ容態である。両手を空に突張り腹をはげしく波うたせながら、ビタカンを静脈や皮下に注射させ、酸素吸入を命じ、はや息も絶え絶えといった有様である。その合間にかすかな声で、 「頑《がん》張《ば》るぞ、なにくそッ、負けるものか」  そうみずから励ましたり、或《ある》いは悲《ひ》愴《そう》な調子で、「日本万歳」を叫んだりしている。岡崎自身は自分の末《まつ》期《ご》がきたように感じているらしい。しかし脈をみると平静だった。心臓の鼓動も少しはやくはあるが、しっかりした打ち方をしている。  浜野は側に突立って、じっと発作の終るのを待っていたが、発作はよういにおさまらない。部下の衛生兵達はすっかりおびえていた。隊長の臨終が刻々にせまっているような顔色で、身じろぎもせずに岡崎を見まもっている。岡崎は彼等から信頼されていた。若くはあるが有能だと信じられていた。軍医長とは反対に職務にたいして熱心な態度が彼等をうごかしたのである。彼等は孤島の前線で、信頼する隊長をうしなう悲《かなしみ》をおそれていた。  岡崎の発作は、彼の呼吸がやわらいでくると同時に終った。昨日の倍以上の時間だった。それだけ後の疲労が甚《はなはだ》しく彼はくたくたになって、殆《ほと》んどあらゆる機能を喪失した人のように見えた。  浜野は発作の経過をはじめから観察して、彼の迷いをいっそう深めずにはいられなかった。岡崎の発作は定型的な痙攣である。酸素吸入が効かないで、むしろ発作の経過を長びかせるにすぎないように思われる点から判断しても、岡崎自身が考えているような痙攣性の中毒ではない。そして若《も》し発作の原因が中毒でないとすれば、いたずらにビタカンをうったり呼吸の困難をうったえて酸素吸入をしたりすることはかえって病気を増《ぞう》悪《あく》させることとなろう。  浜野は発作の原因は、カルシュームの欠乏と岡崎自身のヒステリイにあるのではないかと考えた。血液中のカルシュームの量を測ったりすることは、前線の病舎ではもとより不可能だったが、岡崎のヒステリイについてはたしかに思いあたるふしがあった。そのうえ彼は、クラーレ中毒になったという自己暗示にかかっている。そして喉《のど》を刺《し》戟《げき》して胃中の物を吐きだそうとしたり、下剤をかけて一日に数回むりに排便しようとしたりしていた。  浜野は薬局室へ行くと二〇CCのカルシューム液を注射筒に吸いこませて、ふたたび岡崎の病室へひっかえしてきた。もうあたりは薄暗くなりかけている。部屋の隅《すみ》のベッドに横わっている岡崎の頭上で、黒布に蔽《おお》われた電燈があわい光をなげはじめた。天井でヤモリのキ、キとなきだす声がする。  平静にかえった岡崎は首をまわして、注射筒を手に部屋へ入ってくる浜野の方をながめた。岡崎の視線には浜野を唯一の頼りとし、力にしている人間のあわれないじらしさが感じられる。誰もこんな孤島で身を終りたくはないのだ。 「病因はわかった。もう大丈夫だよ。発作は絶対におこらんよ」  浜野は両《りよう》頬《ほお》に笑《え》窪《くぼ》のできる微笑をたたえながら、岡崎の方へ近づいて行った。岡崎は嬉しいとも疑わしいともつかぬ曖《あい》昧《まい》な顔色で、 「何だ。ハーイプシロンか」 「いいや、そうじゃない。だがもう大丈夫なんだ」  浜野は注射針の痕《あと》が多数に残っている岡崎の静脈を、衛生兵におさえさせた。 「何だ。聞かせろよ」 「カルシュームだよ。君の病因はカルシューム欠《マン》乏《ゲル》さ。ま、黙って僕にまかせておき給え」  浜野は自信ある態度で、岡崎の静脈にカルシュームをそそぎこんだ。その夜ひょっとしてまた呼びにくるかもしれないと思った岡崎の使いは、とうとう来なかった。そして発作はそれきり二度と起らなかった。浜野のくだした診断が誤っていなかったわけだ。  しかし岡崎はその後かなり長い間病床から起きあがれなかった。幾十本となく打ちちらしたビタカンフルは、心臓を鞭《むち》うち疲れさせた。またヒステリックな自己暗示から上肢の筋肉を硬直させたり、過度に神経を緊張させたり、呼吸困難におちいったりした体力の消耗はよういに取返しがつかなかった。そうでなくとも熱帯の暑さは人間の体力を消耗させることが大きかった。  自己暗示の不安がさると急に神経の緊張がゆるんだとみえ、その隙《すき》をねらっていたように黄《おう》疸《だん》が岡崎の全身にあらわれた。彼は黄色くなった顔の瞼《まぶた》を閉じて、昼夜昏《こん》々《こん》と眠りつづけた。深い疲労に彼はとらわれていたのである。しかし彼の寝顔には、これまでになかった安らかさが見られた。  岡崎は医学の学究生として自己暗示にかかるほど、その学識は浅薄でその知性は脆《ぜい》弱《じやく》でもなかった。むしろ彼は真理や知識の合理性にたいして、神経質すぎるほど几《き》帳《ちよう》面《めん》な男である。その岡崎がどうしてこのような、悲惨といってもいい状態に陥ったのであろう。黄疸病の研究に熱中しすぎた為に、みずからかかる徴候をまねいたのであろうか。  浜野は今にして岡崎にあたえた小関軍医長の打撃が、どのくらい大きなものだったかということを悟った。若い学徒の純真な精神にとっては、不合理なことを強制されるほど苦痛なことはない。まして自分の専門とも生命ともしている学の研究を、不当に圧迫されたりしたらどんな思いがするか。岡崎の病気はこうした彼の精神が内攻して、急発してきたものに相違ない。小関のいる間はそれに対抗してこらえていたが、彼がいなくなると同時に爆発した。浜野は岡崎の心理をそんな風に推察せずにはいられなかった。  六月三日に、マリアナ地区の軍医学の研究会があった。陸海軍あわせて三十名近い軍医が、テニヤンに集ってきた。軍医達にとってはそれぞれの研究成績を発表する晴の舞台である。カタル性黄疸についての岡崎や浜野の研究も、この会で発表されることになっていた。そのため岡崎達はその研究調査に一層念をいれ、精密を期したわけである。  岡崎が病気でたおれたので、浜野がかわって報告を行うことになった。浜野は毎晩おそくまで資料原稿の整理、グラフやリストの作製に忙殺された。一冊の小さな内科医書以外に、参考にするものは何もなかった。浜野は研究会の前日までに苦心して原稿を準備し、それを岡崎にしめした。岡崎は病床を離れ廊下の長椅子に腰をおろして、読書できるまでに恢《かい》復《ふく》していた。岡崎は原稿を読んで、二、三カ所適切な訂正を加えた後、これで充分だといった。  研究会の当日浜野大尉は、岡崎大尉との協同研究である旨を附言して、「当基地に流行性に発生した、所《いわ》謂《ゆる》カタル性黄疸に就《つ》いて」という題目のもとに研究報告を行った。はじめに浜野はまず当基地における該病の発生状況の概略をのべ、それが伝染性をもって多数の患者をだした事実をグラフによって説明した。  次にこれまで定説のなかった該病の潜伏期に関しては、定型的の経過をとった実例十をあげてこれにたいする浜野等の主張を例証した。また発病率と感染率とのへだたりやその原因について両人が比較検討した調査の結果を報告し、最後にこの病気の治療法とその対策について論及するところがあった。  浜野の報告は、約二十五分で終った。傾聴していた第一航空艦隊の軍医長は、 「こりゃ大物だね。今後も宜しくたのむよ。しっかりやって下さい」  そう言って研究に熱心な少壮士官を激励した。そして二人の研究を軍医会誌に提出するから、書類をそろえて差出すようにということだった。浜野大尉は自分達の仕事を、軍医長から認められて面目をほどこした。軍医として当然の事をやったにすぎないと、内心卑下しようと思いながらやはり嬉しさがこみあげてきた。 「そんな研究は必要ない。強《し》いてやるなら自分の権限をもって反対する」  そういった小関少佐と艦隊軍医長の態度とが、自然に思いくらべられた。一方は人を殺し他方は人を生かすやりかた、同じ軍人気質《かたぎ》にもこんな相違がある。  岡崎大尉は浜野が研究会をおわって帰ってくるのを、自室の前の長椅子によりかかりながら待っていた。浜野が原稿をかかえてにこにこした笑顔で近づいてくる姿を、優しい眼でむかえ、 「やア御苦労さま」  と慰労の言葉をかけた。岡崎もまた努力した研究の結果にどんな反響があったか、一刻も早く知りたがっていた。そして浜野の報告をきくと、彼は声をあげて満足そうに笑った。黄疸はまだ少し彼の顔にのこっていたが、気持の上ではすっかり元気になっていた。 「よかったね」 「よかった」  二人は久しぶりに大学の研究室にかえったような気分になった。彼等はやはり骨の髄から軍人にはなりきれなかった。彼等の仕事が認められたことで、彼等はにわかに内地が恋しくなり研究室がなつかしくなった。 「帰りたいな」 「ああ、帰りたい」  しかし彼等はその思いを口にだして言わなかった。二人は廊下の手《て》摺《すり》に凭《よ》り、黙って北の海を眺《なが》めた。静な海面は白日の光下に、碧《へき》藍《らん》色に澄みかえっている。  ——あの海の彼方《かなた》に、日本がある。  彼等は遠い祖国の姿を、それぞれの感情で脳《のう》裡《り》に描いた。戦に疲れた貧しい現実の姿ではない日本を。彼等は部下に命じて海を眺めている二人の後姿を写真にとらせた。別にこれという理由はなかったが、なんとなくこの時の思いを形にとどめておきたかったからである。 五  後から思えば、これが予感というものであったのかもしれぬ。そして研究会はいわば嵐を前にした静さの、最後の一《ひと》齣《こま》にすぎなかった。戦雲はスコールよりもすみやかに南方島《とう》嶼《しよ》のうえ一帯にまっ黒く蓋《おお》いかぶさってきていた。  六月三日、研究会の当日遠くヤルイト島方面まで強行偵察をおこなった友軍機は、そこのメジヤドの大環礁内に、多数の輸送船団を伴ったアメリカ軍機動艦隊が集結しているのをみとめた。  翌々六月五日に、ふたたび同所を偵察した我が方の飛行機は、敵艦隊がまさに行動にうつろうとして、活況をていしている状態を報じてきた。  さらに六月七日、三度そこの上空に到達した友軍偵察機は、メジヤドの大環礁内がすでに空虚になっていることを発見した。  このように敵艦隊の動静がわかっていても、我が方にはそれを攻撃する飛行機がなかった。味方の航空隊はニューギニア、パラオ等の後方に移動していた。敵艦隊をフィリッピン近海にひきよせ、諸方の基地から飛行機をとばしてその勢力を減殺しながら、最後に彼我の艦隊決戦にもってゆこうとする所謂ア号作戦は、はたして敵がその手に乗るかどうか、今となっては甚《はなは》だあぶなっかしく思われだしてきた。  こういう不安は、敵の近接に比例して強くなってくる。はじめの程は敵はニューギニア東部かパラオ辺に上陸するように思われていたのが、今度は直接マリアナをつくのではなかろうかという危《き》惧《ぐ》にかわってきた。敵艦隊や輸送船団の行《ゆく》衛《え》がまだはっきりしないので、人々の揣《し》摩《ま》臆《おく》測《そく》はそれだけ盛んだった。浜野や岡崎等は他の同僚達といっしょに、病舎内の士官室にあつまりじりじりする不安にかられていた。  六月九日に内地むけの飛行機が一機発《た》った。浜野はそれに肉親あての手紙をたくした。そして岡崎と一緒に撮《と》った先日の写真の裏に、「慕郷《ハイムウエ》」と独逸《ドイツ》語で記してその中に封じこんだ。彼はその独逸語に万感の思いを託したつもりだった。  六月十一日の正午ちかく、我が哨《しよう》戒《かい》機《き》はテニヤンの南方二百哩《マイル》の海洋上を北進してくる、敵機動部隊と遭遇した。百五十哩の距離から敵の攻撃機が離艦してくるものと予想すれば、サイパン、テニヤンへの空襲は二、三時間後以内にせまっている。  基地は俄《にわか》にざわめきたった。我が方の飛行機は大部分後退して、戦闘にたえうる機数はすくない。それでも二、三十機の戦闘機が、爆音をとどろかしながら次々と離陸していった。  浜野は病舎へ走って行った。部下を指揮して、医療品を防《ぼう》空《くう》壕《ごう》にうつさなければならなかった。病舎にかけつけてみると、岡崎大尉はすでに白衣を軍服に着かえて、部下の兵隊等にあれこれと指図している。彼はまだ健康を恢《かい》復《ふく》してはいなかった。軍服の襟《えり》がだぶついて痩《や》せた後頸が病後の人らしく細々として人目にうつッた。  三時にならないうちに、空襲のサイレンがぶきみな余韻をひいてなりだした。三時といえばいつも午睡をむさぼりたくなる時刻である。海岸ちかくにたちならんでいる兵舎の上に陽光が灼《や》けつき、微風が芭《ば》蕉《しよう》に似たバナナの葉をゆるがしている。暑さに気の遠くなるようなしじまをつき破って唸《うな》り声をたてるサイレンの響は、あたりの明るい風景にそぐわないだけ却《かえ》って陰惨な感じを深くした。  各兵舎から兵隊が銃を手にしてぞくぞくと現れ、防空壕内に避退した。防空壕は遮《しや》蔽《へい》物《ぶつ》を利用して地上に設けられてあった。狭い壕内にぎっしり詰めこむと、窒息しそうな暑さだった。きりこむような急降下の爆音と、地上に炸《さく》裂《れつ》する爆弾の震動が日暮れまでつづいた。敵は息つく暇もないように、波状攻撃をくりかえしてきた。それに応酬する味方の僅《わず》かな地上砲火は、次第におとろえてきた。壕の一つは直撃弾をうけて、内部の兵隊はばらばらになって四散した。  夜になって人々はようやく、壕内の息苦しさから解放された。しかし軍医や衛生兵達には、負傷患者の搬送やその処置という忙しい仕事が待っていた。岡崎大尉は早くも懐中電燈の光をたよりにして、防空壕の前で緊急を要する負傷兵等に応急手当をほどこしていた。  翌日の爆撃は、さらにもの凄《すご》かった。人々は朝から防空壕にとじこめられて、外へ出ることができなかった。僅かの隙《すき》をみて壕の入口の戸を開き、人いきれした中の熱気を戸外の風と入れ換えるぐらいがせいぜいだった。  岡崎と浜野は同じ壕内にいた。病後の衰弱から充分恢復しているとはいえない岡崎の肉体にとっては、蒸し暑く息ぐるしい壕内に長くじっとしていなければならない事はいかにも辛《つら》そうに見えた。彼は時折顔に流れる汗を手《て》拭《ぬぐい》でふいたり、水筒をかたむけて水をごくごくと飲みくだしたりしてこらえていた。  壕内で人々はあまり口を利かなかった。防空壕は決して安全なものではなかった。直撃弾はもとより至近弾にも耐えられそうになかった。その不安が頭上を乱舞する敵機の轟《ごう》音《おん》とむすびついて、寸時も人々の心を安んじさせなかった。彼等はみな一様に息をころして、次々とおしよせてくる敵機の爆音や飛行場で炸裂する爆弾の音に耳をすましていた。もはや味方機は一機も影をみせず、地上砲火もまったく沈黙したままだった。  爆撃はその翌日も前日にまさる烈《はげ》しさで行われた。その執《しつ》拗《よう》さはただ事ではなかった。大きな不安が将兵の心にひろがってきた。タラオ、マキン両島を襲った同じ運命に、彼等もまた見舞われるのであろうか。そう思うとうす暗い壕の中で、一種異様な戦《せん》慄《りつ》をおぼえずにはいられない。  ところが午前十時頃になって、猛烈な爆撃がぴたりとしずまった。にわかにしいんとなったあたりの静寂には、なんだか信じられないような空虚さがある。兵隊等が壕の扉《とびら》をひらいて外へ出ていった。暫《しばら》くすると、 「船が見えます」  そう叫ぶ兵隊の声がした。つづいて二、三人の者が、大声で叫ぶのが聞えてきた。 「軍艦であります」 「しめたッ、我が艦隊がきた」  誰かが壕内で躍《おど》りあがるような声をだした。人々はハッとなった。すると次の瞬間、 「違う、そんな筈《はず》はない」  冷静な声だった。岡崎大尉である。人々はどやどやと壕外へ走りでた。彼等は思い思いの場所に立って、海上を眺《なが》めた。太平洋上の東北方の水平線から、点々と相連って姿をあらわしてくる船影がみえる。みるみるうちに大きな艦形となって此方へ迫ってきたかと思うと、約七、八百米の距離で方向を転じ横隊となった。数百隻にものぼろうかと思われる航空母艦、戦艦、巡洋艦、駆逐艦の大群である。  海を圧する威容をしめしながら、サイパン、テニヤンの両島をぐるりと包囲するような体制をとった。岡崎は浜野とならんで地上に折敷き、両腕を胸にくんでその様子をじっと眺めていたが、 「やはり、日本の艦型じゃない」  そう前言を自認するように呟《つぶや》いた。船体は日本の軍艦と同様黒灰色に塗られているが、吃《きつ》水《すい》線が高く砲塔や備砲や煙突の形も位置も違う。まぎれもなくアメリカの艦隊である。  二人は初めて目《もく》睹《と》する敵艦隊の姿をまじろぎもしないで見つめていると、ズズンという腹にこたえるような地響とともに、サイパン島の彼方タポチァウの山《さん》麓《ろく》にパッと白《はく》烟《えん》があがった。見るまにもくもくとした白い大きな雲の塊となって山腹をつつんでしまった。つづいて一弾二弾と巨砲の釣瓶《つるべ》うちである。  それから十分とたたない間に、今度は後方の飛行場が震動した。と思うまもなく耳は聾《ろう》し身も吹飛ぶような集中砲火である。その凄《すさま》じさは到底爆弾どころの沙《さ》汰《た》ではない。敵は飛行場ばかりでなく、兵舎をも狙《ねら》ってくる。遮蔽壕なぞは艦砲射撃の前には物の数でもないので、敵艦隊を眺めていた兵隊や将校は皆あっという間に四散してしまった。浜野は夢中で駈けだすと、飛行場と海岸の間にある排水溝の中に身を躍らして飛びこんだ。岡崎をかえりみる暇がなかった。岡崎も同様だったであろう。  すると一時影をひそめていた敵飛行機が、ふたたび頭上に襲来して爆弾や焼《しよう》夷《い》弾《だん》を投下しはじめた。その中には観測機もまじっていて空中を旋回しながら艦砲射撃を誘導している。そのため敵の砲撃はいよいよ正確になってきた。  浜野は排水溝の底にへばりついたなり身じろぎも出来なかった。砲弾や爆弾が身近に炸裂したりすると、思わず溝の砂の中に顔をうずめた。空と海両面からの挟《きよう》撃《げき》で息がつけなかった。  午後の三時頃、水平線上をまっ黒に埋めるばかりの大輸送船団が海面にうかみ出てきて、サイパン島に上陸を開始しだした。四時半すぎると、砲撃がやみ爆音も聞えなくなった。  浜野は排水溝から匍《は》いだして、背後の小高い丘に登ってみた。数百隻の艦船が水平線の彼方まで連りつづいている。そしてそれ等の船団とサイパン島との間を、おびただしい数の上陸用舟艇が蟻《あり》のようにゆききしていた。  テニヤンに面したサイパン島の巌壁の一部が巨弾に破壊されて、そこから敵兵が陸続と上陸している。他の地点からも上陸しているのであろうが、それは見えなかった。護衛の駆逐艦や病院船が、テニヤンとサイパンの間の水道内を悠《ゆう》々《ゆう》と遊《ゆう》弋《よく》している。友軍の抵抗など無視した形だった。  浜野は丘を下って飛行場へ行ってみた。飛行場は砲爆弾にたがやされて、一面に波のような起伏をしめしていた。方々に散らばった航空隊附の兵隊は、まだ一名も姿を見せなかった。僅か十人足らずの若い将校等が、航空隊司令の少佐を囲んで飛行場の一隅にかたまり、何事か声《こわ》高《だか》に論じあいながら殺気をほとばしらせていた。  彼等は次に来るであろう敵軍の上陸を予想して、ひどく苛《いら》立《だ》ち興奮していた。或《あ》る将校はすぐ兵を集めろと怒号した。或る者は敵の上陸地点を想定して、即刻防備策を講じるべきだと叫んだ。また或る一人は一応此《こ》処《こ》を後退して、他の適当な所で敵を防いだ方がよいと主張した。  彼等は手に手に拳銃をにぎり、空をめがけて丸《たま》をはなった。拳銃の発射の工合を調べるためである。司令は腰の長刀をひきぬいて頭上にふりかぶり、敵中に斬《きり》込《こ》んでゆく姿勢をとった。 「俺はこれで行く」  彼は士官達の顔をみまわして、硬《こわ》ばった微笑を洩《もら》した。敵を目前にして人々の赭《しや》顔《がん》は一様に青ざめその眼は血走っていた。彼等はそれぞれ落付いているつもりで、実はどっかで狂っていた。  斜陽がいつか飛行場の上に影をひきはじめていた。浜野はいきりたった同僚達の姿を傍観しながら、ひそかに岡崎の上を案じていた。あの時二人は夢中でわかれわかれになってしまったが、病後の岡崎が無事に避退できたかどうか、今更のように危ぶまれてならなかった。  するとまるで浜野の杞《き》憂《ゆう》を予知でもしたかのように、岡崎が飛行場の北側にひょっくり姿を現した。そして例のがに股《また》で夕陽を半身にうけながら、ゆっくりと此方《こちら》へ近づいてくる。 「おうい」  浜野は思わず片手をあげて彼を呼んだ。岡崎は両手をズボンのポケットに突込みうつむき加減に歩いていたが、顔をあげて浜野の姿をみつけると同じように片手をあげてこたえながらニコリと笑った。いつもと変らぬ優しい微笑である。  浜野は彼の笑顔を見ると、熱いものが胸にこみあげてきた。北アルプスで初めて彼を知って以来、浜野はいくたび彼の美しい微笑に接したであろう。そして今後いくたび彼の微笑を見ることができるか。浜野は駈けだして行って岡崎の手を握った。 「よかったねえ君、無事でほんとによかったねえ」 「あ、何でもないよ。それよか君、病舎へ行ってみたかい。兵舎は何もかも、すっかり無くなっちゃったよ」  岡崎はこの危急にのぞんで、浜野ほど感傷的になっていなかった。彼は平生と殆んど同じだった。彼の表情はおだやかで、彼の両眼は清らかに澄んでいた。目前にせまっている敵軍の上陸など、意にも介していない様子である。自己暗示にかかって我から病気を招いた人とも思われぬ岡崎の落附ぶりに、浜野は内心びっくりした。  浜野は岡崎の態度で反省させられると同時に、自分の職務を忘れていたことを恥じた。岡崎は砲爆撃がやむと、まず病舎へ駈けつけてその焼け跡を調べた。それから飛行場へ、自分の部隊や部下をさがしにやってきた。岡崎はいざとなると落附く人のように、自分の行動をあやまらない。  浜野は岡崎に教えられて、病舎の焼け跡へ行ってみた。何という変りようであろう。飛行場と海岸の間一帯を埋めていた兵舎の跡は、一望の焼け野と化していた。硝子《ガラス》の破片や柱や板の燃えのこりが、その上に散乱している。  無線電信の鉄塔は、艦砲の直撃をうけて横へ傾き、司令部のあったコンクリートの建物は、外郭だけ残して空洞となっていた。余《よ》燼《じん》がその内部でなお燃えつづけている。  映画の野外映写場などに使われていた広場は、砲弾や爆弾で足の踏み所もないように掘りかえされ、樹木という樹木は燃え焼けて醜い赤木と変ってしまった。  多くの労力を費して出来あがったテニヤンの航空基地は、僅か半日の砲爆撃で全壊し廃《はい》墟《きよ》となった。兵隊達が三々五々その焼け跡にむらがって、鑵詰などを掘りおこしている。浜野はなかば放心のていで焼け跡を眺めながら、日が暮れかけてもなおその場を立ちさりかねた。 六  予期された敵軍の上陸はなかった。アメリカ軍は最初にサイパンを片づけてから、徐《おもむろ》に、テニヤンへ鋒《ほこ》先《さき》をむけてくる方策らしかった。それで当面の危機は、ひとまず先へ延ばされたわけである。  基地を破壊された司令部は、本拠をラソ山下の洞窟へ移した。浜野の所属している偵察機隊は海岸に残され、岡崎の攻撃機隊はその後方の丘の上に移動して行った。  隆起珊《さん》瑚《ご》礁《しよう》島の常としてテニヤンには、巌壁の割れ目や洞窟が多かった。敵の砲火を避けるには屈強の隠れがであるが、それも敵が上陸してくる間までのことにすぎない。我が方には敵の上陸をふせぐ武器がなかった。飛行機もなく戦車もなく数門の大砲も役にたたなくなっている。浜野の部隊では小銃を持っている兵は、僅《わず》かに全体の三分の一だった。後は数個の手《て》榴《りゆう》弾《だん》と先を尖《とが》らせた竹《たけ》槍《やり》みたいな鉄棒をさげているにすぎない。何も持っていないよりはいくらか心強いという程度で、もとより敵をふせぐ手段にはならなかった。  このような貧弱な装備で、どうして優勢な敵と戦えよう。赤手をもって敵を迎えるにひとしい。今日か明日かと敵の上陸を待っている将兵の心は、刑の執行を待っている死刑囚の心に似ていた。起りそうもない奇蹟を万一の僥《ぎよう》倖《こう》をたのむ以外に、希望はなかったからである。  六月十五日にア号作戦が発動され、勝利の軍艦マーチと国旗の掲揚が行われたという報知がはいった。絶望していた人々はこの報告に躍《おど》りあがった。 「いよいよ、我が艦隊がやってくるぞ。そしてこの敵をやっつけてくれるであろう」  彼等は抱きあって、互の喜びをわかちあった。しかし二日たち三日経《た》っても二つの島をとり囲んでいる敵艦隊は、一向に動く模様も見えなかった。そして砲爆撃はかえって凄《すさま》じくなった。これまでも何回か大本営発表の勝利の報告があった。おびただしい数の敵艦が沈められた筈《はず》だった。しかし敵勢はおとろえるどころか、眼前に殺到してその威容をほこっている。今度もまた空《むな》しい声の上だけの戦果にすぎなかったのであろうか。将兵は一層深い絶望にとらえられた。  対岸のサイパン島に煌《こう》々《こう》と電燈がともるようになった。そこに占領軍の新しい町が出現した。電燈のつく範囲が日々に拡大してゆく。我が軍の陣地がそれだけ後退しせばめられて、敵の占領区域がのびゆく証拠だ。  テニヤンの守備軍は、夜になると台地の上にたってその様を遠望していた。救援に赴《おもむ》きたいにも赴きうる手段は絶無である。サイパン島の周囲は、敵の艦艇で隙《すき》間《ま》もなく封鎖されている。又たとい救援ができたとしても何程の効があろうか。孤立無援な友軍の全滅は、所《しよ》詮《せん》時の問題にすぎない。やがてそれは又テニヤンの運命でもあろう。そう考えると守備軍の将兵は一種の物狂わしさにおちいった。  サイパンの敵軍上陸地点に海岸砲が据えつけられ、昼夜をおかず巨弾がテニヤンに落下してくるようになった。それまで軍は夜間に行動していたが、今度はそれも自由ではなくなった。テニヤン全島を蔽《おお》うていた甘《かん》蔗《しよ》畑は、機上からまかれた石油と焼《しよう》夷《い》弾《だん》とで、赤茶けた枯野となった。島は砲爆弾の炸《さく》裂《れつ》で、たえず揺れている。轟《ごう》々《ごう》という物音と大地の震動で、人々は神経の常態をうしなっていった。  基地が破壊されてから各自の食事は、一日握り飯二個宛に制限された。主計隊がそれ等を各部隊に配達してきた。町や部落を焼かれて方々の巌窟や防《ぼう》空《くう》壕《ごう》に避難した居留民達にも、諸所に設けられた酒保から警防団の手で食糧が配給されていた。人々は空腹と疲労とたえ間ない砲爆撃に生きる意志を喪失してしまった。夜間行動するにも最早鉄《てつ》兜《かぶと》など誰もかぶらなかった。行動に不自由な物はみな捨ててしまった。人々はその重さに堪えられなかった。砲弾が落下してその弾片がヒュルヒュルと耳もとをかすめて飛ぶようなことがあっても、彼等は身を伏せたりはしない。彼等は死を恐れるどころか、むしろ我が身に死のはやく来ることを望んだ。静《せい》謐《ひつ》も安心も休息もない悲惨な境遇に生きているより、死んだ方がよほど楽なように思われた。  この以前から司令部の島外脱出が、ひそかに計画されていた。後方の基地から飛行機一台おくってもらって、司令部だけ夜間に島をぬけだそうというのである。この企《くわだて》はあながち不可能なことではなかった。サイパン島には時々アメリカ軍陣地にたいする友軍飛行機の夜間爆撃があった。その時ばかりは敵占領地区の電燈が消えるので、友軍機の来襲していることがわかった。つまりその機会でも利用して、一台テニヤンに着陸してもらえばよいわけである。  テニヤンの司令部と後方基地の間で、無電による打合せが行われた。そしていよいよ飛行機がくるという時には、設営隊をくりだして飛行場を整備させた。飛行場は日夜の砲爆撃で、完《かん》膚《ぷ》ないまでに掘りかえされていた。その地《じ》均《なら》し工事をするのであるが、夕刻や夜間をえらぶにしても敵側に探知されて砲弾が集中してくる。そのため少からぬ犠牲者がでた。  設営隊は内地で徴用した土方達だったが、その中には琉球人や朝鮮人がまじっていた。指揮官の隊長は海軍の若い大尉で、彼は内心司令部の脱出に反感をもっていた。敵に降伏する場合ならばともかく全員玉砕を覚悟している際に、いかなる理由があろうと部下をみすてて司令部ばかり遁《に》げだそうというのは武士の情にもとるという肚《はら》である。司令部の脱出計画を知ったならば、全将兵もおそらくかの大尉と同じ感情を抱いたに違いない。  脱出救援の飛行機は、来る来るといってなかなかやってこなかった。戦況の急迫とともにますます救援が困難になってきたためであろうが、司令部は容易にその企を諦《あきら》めなかった。そして犠牲者の出るのをかえりみずに、飛行場の整備をつづけさせた。隊長の大尉はとうとう怒ってしまった。  しかし上長官の命令に反抗するわけにはゆかないので、大尉は救援の飛行機がくる場合には、小銃の一梃《ちよう》でも多く武器をつんできて貰《もら》いたいと司令部に要請した。設営隊はその仕事がら殆《ほと》んど武器をもたなかった。鶴《つる》嘴《はし》やシャベルで敵と戦えない。小銃一梃でも多くといったのは、武器もなく死んでゆかなければならぬ設営隊の司令部にたいする精一杯の皮肉だった。その後飛行機の救援が不可能になったことがわかったので、司令部は脱出計画を潜水艦による方法にきりかえた。  六月末の日暮れ時、敵が夕食のため毎日四時半から五時半まで一時間砲爆撃を中止する間を利用して、ラソ山下の司令部を訪れた浜野は、そこで偶然岡崎大尉に出会った。相互の部隊が海岸と丘の上とにひき別れて以来の邂《かい》逅《こう》である。  岡崎は浜野の姿を見つけるとなつかしそうに近づいてきて、これから陸軍の野戦病院に行かないかと浜野を誘った。黄《おう》疸《だん》の痕跡はもうどこにもなくなって、岡崎は見違えるばかり元気になっていた。彼が日夜の砲爆撃にへこたれもせず益《ます》々《ます》元気になってゆくのは、たのもしくもあり不思議なことのように思われた。  二人はつれだって司令部を出た。野戦病院は焼けた甘蔗畑の地下にあった。広さ十畳ばかり背がようやく立つぐらいの洞窟である。入口が黒幕で遮《しや》蔽《へい》されていた。幕をおし分けて入ると、中にランプが一つともっている。その暗い光の下で二人の軍医が上半身裸になって汗にまみれながら、瓦《ガ》斯《ス》壊《え》疽《そ》をおこした兵隊の脚《あし》を切断していた。兵隊は航空隊の者である。岡崎がその手術を陸軍に依頼したわけだった。  浜野は洞窟内にたたずんで、しばらくその光景をみていた。べつに興味あるわけではなかった。ただ岡崎と一緒にいるだけで、なんとなくホッとするような気がした。それほど浜野は疲れていた。しかし彼はその疲労をとくに意識しているのではなかった。疲れや憔《しよう》悴《すい》があたりまえのものとなってしまって、なかば心神喪失者にちかい状態にあるにすぎない。しかも当人は常に何かを一生懸命になって、思いつめているような恰《かつ》好《こう》をしている。不幸な境遇にある人間のあの姿勢だ。万人がその傾向にあった。それ故岡崎一人元気そうなのが、へんに異様に感じられたのである。  夜がせまってきているので、浜野は岡崎に別れをつげ手術なかばに野戦病院から出てきた。暮れゆく焼野の丘の上を海岸にむかって一人とぼとぼと歩いていると、わけのわからぬ寂《せき》寥《りよう》がひしひしと胸にせまってきた。左手の空に南十字星が斜に傾きながら彼をみていた。 「郷愁《ハイムウエ》、郷愁《ハイムウエ》」  浜野はなかばうわの空にそんな言葉をつぶやきながら、丘をどんどん駈けだしはじめた。幾度となく躓《つまず》きかけて倒れそうになりながら、駈けつづけることを止《や》めなかった。海岸砲のうちだされるのを恐れたからではない。骨にくいこむような寂寥にじっとしていられなかったからだ。彼は父を思い母を思い弟妹等の面影を脳《のう》裡《り》に描いた。すると南海の孤島ではてなければならぬ我が身の悲しさで胸がはりさけそうになった。  月は変っても一向に止むことも衰えることもない砲爆撃下に、七月も五日すぎ十日すぎ二十日となった。テニヤン島の地表は完全に一変してしまった。もう眼をよろこばす花も草木もなかった。地はいちめんに砲爆弾でたがやされ、唯一色の醜いはらわたをさらけだしているにすぎなかった。人々の神経は麻《ま》痺《ひ》した弛《し》緩《かん》状態におちいりどんな事にも驚かず無関心になっていた。  サイパンはほとんど全島にわたって、あかあかと電燈がついた。我が軍が全滅してその抵抗が終ったしるしだった。それを見ても人々はさほど落胆もしなければ悲みもしなかった。又次にきたる運命を予想して、今更新しく騒ぎあわてる風もしめさなかった。その気力や感情はとうに尽きていた。 「もう、どうなと勝手にしてくれ」  そのような自棄の気分に覆《おお》われていた。その頃浜野はふたたび司令部で岡崎とめぐりあった。岡崎はこの前よりも更に元気になっていた。どのように若々しい強《きよう》靱《じん》な生命力が、彼の体内にひそんでいたことなのであろう。彼は司令部で浜野の軍医長と、何事か話しあっていた。頭髪を刈ったばかりらしく、後姿の襟《えり》足《あし》がすっきりしていた。  浜野が話のすむのを待って岡崎の肩をたたくと、彼は後をふりむき、「やア」と言って微笑した。その微笑は暗くも悲しげでもない。いつものように明るく冴《さ》えて温かだった。 「この頃、身体の調子はどう?」 「うん、とてもいいよ」 「君は怪物だね」 「小関軍医長の方が、よっぽど怪物だよ」  岡崎は声高く笑った。してみると小関少佐から自由になった精神上の解放が、こんなにも彼を元気にしたのであろうか。  しかし小関軍医長が他に去り、岡崎がこの運命の島に残ったことは、はたして彼のために喜んでいい事だったか悪かった事か。浜野は自分をあわれむと同時に岡崎の身の上を憐《あわ》れんだ。その時あいにく二人とも急ぎの用事をもっていた。 「又此《こ》処《こ》へ来るかい」 「ああ、来るよ」 「じゃ、その時ゆっくり話そう。さようなら」 「うん、左様なら」  浜野は急ぎ足に司令部を出てゆく岡崎の後姿に、ふと妙な名《な》残《ごり》惜しさを感じた。二人はその後ふたたび出会う機会をもつことなく、これが最後となった。 七  七月二十四日の朝、アメリカ軍は島の北岸にむかって幾度かもの凄《すご》い艦砲の斉射を加えた後、かんたんに上陸してきた。戦闘らしい戦闘は何も行われなかった。  浜野大尉と彼の軍医長とは、その時ラソ山下の司令部にいた。司令部では医官が足らなかった。それで浜野は部隊の患者に附添いかたがた、司令部に派遣されていた。  浜野の所属部隊のいた海岸は、敵の上陸地点となったため部隊は全滅した。浜野の十二名の部下も戦死した。おそらく艦砲の巨弾によって吹飛ばされてしまったものであろう。浜野がそこにいなかったのは天《てん》佑《ゆう》だったのであろうか。  浜野は部下の死を知った時、深い物思いにしずんだ。彼は彼の部下にとって良い隊長だったか悪い隊長だったかというようなことを考えたりはしなかった。ただ彼は部下にたいして、血縁に似た愛情をかんじていた。その部下達と生死を共にしなかったことが、彼の胸を刺してきた。部下達一人々々の顔や姿が思いうかんでくると、その痛苦はさらに甚《はなはだ》しくなった。 「だが、どうせ自分もおっつけ死ぬんだ」  浜野は深い悲哀とも悔恨ともつかぬ苦痛を強《し》いてふり払った。 「どうせ、自分も死ぬ」  それは悲《ひ》愴《そう》な決意でもなんでもなかった。今では誰でも抱いているありきたりの感情にすぎなかった。司令部内にわきたった人々の昂《こう》奮《ふん》と必死を覚悟した雰《ふん》囲《い》気《き》に浜野も同じくまきこまれて、やがて部下の死も何もかも一切を忘れてしまった。  翌二十五日の夕刻、敵ははや司令部のあるラソ山《さん》麓《ろく》にせまってきた。我軍の抵抗は敵に打撃らしい打撃をあたえなかった。  爆弾を背に手榴弾を手ににぎって突込んでゆく我が部隊の兵は、火中に投じられた氷塊のように、敵戦車砲の前にあえなく消えていった。ガダルカナル以来相もかわらぬ我が軍得意の夜襲戦法も効果がなかった。敵の機関銃や哨兵等の自動小銃で、かんたんに一掃されてしまった。  潜水艦による司令部の島外脱出策は、ついに実現する機会をえずに終った。二十五日の夜司令部は、全軍をあげて敵陣に突入し玉砕をとげる決意をさだめた。ところが一日も長く敵に抗戦してテニヤンの防備を確保せよという大本営の命令で、司令部は出撃をとりやめ島の南端カロリナス高地に移動することになった。  浜野大尉は軍医長と一緒に、司令部についてカロリナスに移った。守備軍も途中に陣地を構築しながら、司令部について後退した。その途次の洞窟に避難していた居留民は、軍の手によって追いだされた。敵の上陸以後敵のくわえてくる攻撃は、火山が爆発したと異らなかった。島の大地はたえ間なく震動し、砲爆弾は熔《よう》岩《がん》のように頭上に落下してくる。その中へ傷ついた親を負い子供達の手をひいて出てゆく居留民達は、たちまち砲爆弾の犠牲となった。 「我が居留民を殺すな」  将兵の中にはさすがにそう言って、兵の措置を阻止する者があった。陣地構築も抗戦も名ばかりで実は部隊自身が助りたさに、居留民を追いだすことがわかっていたからだ。しかし将兵はほとんど皆気が狂い、兇暴になっていた。 「非戦闘員は早く死んだ方がいい。いずれみな殺しにされるのだ」  中には居留民を追いだすまでもなく、洞窟の中に手榴弾を投げこんで同胞をうち殺す者さえあった。いちはやく部隊を逃亡して巌窟の奥に身をひそめてしまった将校があるかと思うと、またこれみよがしに半裸体で敵弾の中を横行闊《かつ》歩《ぽ》する兵隊があった。そういう間にも敵の戦車はじりじりと背後にせまり、部隊は夜になると蝎《さそり》のように洞窟から匍《は》いだして後退を続けながら、しだいにその兵数を減じていった。  七月二十八日、カロリナス高地の崖《がけ》下《した》にあったマルポの井戸が、敵の手に落ちた。井戸水をたよってその周辺に数多く避難していた居留民は、カロリナス山内へ遁《に》げこんだ。カロリナス台地は絶頂の高さ数百米、巌壁のひだや自然の岩穴が多かった。  マルポの井戸は我方の生命の泉だった。島にはこの井戸以外に水の湧《わ》きでる所はない。部隊の兵も居留民も毎夜、ここへ水をくみに集ってきた。此《こ》処《こ》を失えば後たよるものはスコールの雨水ばかりである。我方は敵の砲火と水の欠乏と、両面の脅威にさらされることになった。  我が軍の指揮も組織も行動も、もはや支離滅裂だった。各個に突入して全滅をとげる部隊もあるし、後方にとり残されて砲弾や戦車砲の餌《え》食《じき》となるものもあった。三十日には敵の戦車はカロリナス台地へ登ってきた。司令部はさらに台地の南端へ退いた。それより先は太平洋の断《だん》崖《がい》で海へ投じるよりほかに退くべき場所はなかった。  司令部附の若い航空参謀は、後退の途中崖から墜《お》ちて大《だい》腿《たい》部《ぶ》を骨折していた。彼は担架にのせられて司令部についてきたが、もはや担架で運ぶ余裕はなくなった。そこで彼は後にのこって自決することになった。浜野大尉は軍医として彼の自決に立会い、その跡始末をすることを命じられた。  参謀と浜野の残された所は巌壁の狭《はざ》間《ま》だった。一条の隘《あい》路《ろ》をなして山腹を縫い上下に通じていた。航空参謀は巌壁の一方に背をもたせかけ両《りよう》脚《あし》を投げだしたまま、一歩も動くことができなかった。参謀は近頃少佐になったばかりで、漸《ようや》く三十歳になったかならぬくらいの年頃だった。神経質らしく身体は痩《や》せていた。負傷の苦痛で顔色もひどく青ざめて見えた。  参謀は痛まぬ片脚をひきよせて正座の姿勢をとろうとした。それから両眼を正面にすえて静に、「一ツ軍人ハ」と軍人勅諭を唱えだした。   一ツ軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスベシ   一ツ軍人ハ礼儀ヲ正シクスベシ   一ツ軍人ハ——  その間も爆音と砲声はたえず頭上に鳴りひびき、地の震動はしばらくも止む時がなかった。飛びあがるような轟《ごう》音《おん》をもって砲弾が近くに炸《さく》裂《れつ》したかと思うと、粉のような土煙が巌壁の中に舞いおちてきた。しかし参謀は周囲の騒音は一切耳に入らぬもののように、高くも低くもない声《こわ》音《ね》で一条一条をゆっくりと朗《ろう》誦《しよう》しつづけていった。まるで今わの自身の声に自分で聴き入っているかのように。  参謀はもとより勅諭の意味を、あらためて考えなおしているわけではあるまい。又たんに軍人らしい習慣から、無意識に復誦しているのでもなかったであろう。恐らく年若な彼は死にのぞんで、何ものかに縋《すが》り心を安らかにせずにはいられなかったに相違ない。昔の武士なら南《な》無《む》阿《あ》弥《み》陀《だ》仏《ぶつ》をとなえるところである。キリスト教の信者ならば、神にむかって祷《いのり》をささげる気持であろうか。軍人精神の鋳型で教育されてきた彼は、身にしんだ軍人勅諭を読誦する以外、死を安らかにする手だてを知らなかった……。  浜野は傍で聞いていて、別段感動する心もおきなかった。又彼の態度を悲壮とも感じなかった。さりとて彼の無智を嗤《わら》う気持もない。浜野はすべての事に不感症になっていた。彼はただ自分にあたえられた責務をはたすつもりで参謀の自殺をじっと待っていた。  参謀は読誦を終ると、浜野の方をふりむいて眼顔でちょっと挨《あい》拶《さつ》をした。終った合図ともとれるし別れの挨拶ともとれる。二人は初めから終りまで口を利かなかった。他人の死に冷淡だからではなく、知らぬ者同士の遠慮からでもない。生きることが自然で死が不自然であるのとは反対に、この場合生きることは不自然で死ぬのがあたりまえだった。時の遅速はあっても、その自然な運命をたどる二人の身の上に変りはない。そのような際何を事々しく語りあう必要があろうか。  浜野は肩にさげていた拳銃をサックからぬきとると、黙って参謀にさしだした。参謀は拳銃をもっていなかったから、彼の拳銃を貸したのである。軍の拳銃には発射の悪いのがあった。参謀は念のため銃口を地にむけて試射してみた。ブスッと音がして丸《たま》がとんだ。それを見ると参謀はおもむろに拳銃を右のこめかみにあてた。それから両眼をつぶり、静に息を吸いこんで引金をひいた。鼻血が鼻孔から、ド、ドッと流れ出た。頭が左右にぐらぐらと揺れうごき、丁度居《い》睡《ねむ》りをはじめた人のように次第に低くさしうつむいたかと思うと、咽《の》喉《ど》の奥でゴロゴロと鳴る音がした。息が絶えても参謀の身体は巌壁に凭《よ》ったまま倒れなかった。  浜野は参謀の右手から、拳銃をそっと取りはずした。それから参謀の身体を地に横たえて、その顔を彼の軍帽でおおうた。跡始末といってもそれ以外に何もすることはなかった。浜野は遺骸のそばに腰をおろして、水筒の水を少し飲んだ。深い疲労感が彼をものうくさせた。浜野は巌壁にもたれて眼をつぶった。そのまま我知らずうとうとと睡りに入った。 「軍医殿、軍医殿」  そう呼ばれて浜野は眼をさました。彼の前に陸軍の兵隊がたっていた。浜野はしばらくぼんやりして相手の顔を見つめていたが、台地をつつんでいる遠雷のような響が耳に入ってくると、俄《にわか》に現実にたいする意識がよみがえってきてはっきりと眼がさめた。 「なんだ」 「砲弾の破片で足をやられたんでありますが、手当をしていただけませんでしょうか」  浜野は兵隊の傷ついた左足を調べてみた。くるぶしの所が砕かれて骨が白くあらわれている。 「よくこんな足で、歩いてこられたな」 「は、死ぬならみんなと一緒に死にたいであります。一人で死にたくありません」 「しかし、ここに薬も何も持ってないから駄目だ」 「薬はこの先の洞窟にいる看護婦が持っております。それで手当をしていただけませんでしょうか」 「この先に洞窟があるのか」 「は、百五十米ばかり先の右側であります」  浜野はその洞窟へ行ってみた。地面に沿うて横に巌の裂け目があった。腹《はら》匍《ば》いになって入ってみると中は案外広い。梯《はし》子《ご》がかかっていて下へ降りられるようになっている。浜野は懐中電燈で足もとを照しながら十米ほど下った。そこが底部で八畳敷ほどの広さである。二、三の居留民家族がほおけた姿で蹲《うずくま》っている。 「看護婦がいるか」  すると隅《すみ》のひとかたまりの中から、二十歳ばかりの娘が起ちあがって浜野の前へ現れた。丸顔で髪は乱れワンピースの白服は土に汚れている。ソンガルンの町の病院看護婦であろう。 「薬を持っているそうだね。消毒薬と傷薬と繃《ほう》帯《たい》がほしいんだ」 「はい、ございます」  娘は隅へ飛んで行って、救護袋らしい物の中から註文の品を持ってきた。浜野がそれ等を受けとって岩窟から出ようとすると、娘が追いかけてきた。 「私も司令部へまいります。連れてって下さい」  娘は此処へひそんでいた事を恥じたらしい。居留民は敵が上陸してきた場合、軍に協力して敵にあたる覚悟でいた。実際になってみるとそんな覚悟は、何にもならなかったけれども、看護婦ならば当然野戦病院に勤務しているべきである。娘が恥じたのはそのためであろう。すると母親らしい女が隅から声をかけた。 「清子」  娘はふりむかなかった。母親は泣きだしそうになった。 「お母アさんか」 「はい、お父うさんも居ります」  父親は母親のそばにうなだれていた。浜野はだまって岩窟から出てきた。娘は後についてこなかった。司令部へ行っても此処に止っていても、死は同じである。敵はゲリラを恐れ岩窟という岩窟に手榴弾を投じて、中にひそんでいる者を殺してしまうに違いない。同じく死ぬならば、親子三人で死ぬがいい。  外へ出ると、むっとした熱気がおしかぶさってきた。殷《いん》々《いん》轟《ごう》々《ごう》とした砲爆撃の響にも変りがない。浜野が兵隊の傷の手当をしているところに、輸送機隊の軍医長が通りかかった。軍医長もやはり司令部の後を追うて行くところだった。それで行を倶《とも》にすることになったが、兵隊の話によると台地の通路という通路は敵に遮《しや》断《だん》されてしまって通れないという。海岸へ崖をすべり下りて密林の中を行くしかないというのだが、昼は敵に姿をみつけられて射撃される恐れがある。そこで夜を待つことにした。  夜は照明弾の光で満月の夜よりも明るかった。敵は我が軍の断末魔とみて総攻撃を開始した。事実我が軍の抵抗はすでに終っていた。まだ生き残っている者の混乱と彷《ほう》徨《こう》とがあるばかりである。司令部も明日は全員出撃して最後の華を飾るであろう。急がなければならぬ。急いで司令部と死を倶《とも》にしなければならぬ。  軍医長と浜野は兵隊が去った後、巌壁から匍《は》いだして海岸への降り口をさがした。明滅する照明弾の光でみると、すべて懸崖絶壁である。高さは二、三丈もあるであろうか。僅《わず》かに一、二カ所四、五十度の勾《こう》配《ばい》をなした斜面が見つかった。二人はその一つから滑《すべ》りおりた。  密林の中へ入ってみると、逃げ場をうしなった居留民が未だ其処此処にうろうろしていた。躓《つまず》いた物を調べてみると、居留民の死《し》骸《がい》だった。蛆《うじ》がわき屍《し》臭《しゆう》がひどかった。  死骸はいたる所に転がり腐っていた。灌木のしげみの間に雪のように白く輝いているものを、水かと思って近づいてみると、死骸の顔や肩に波うっている蛆のかたまりだった。照明弾の青白い閃《せん》光《こう》のうちにうごめいている蛆の姿は、嘔吐をもよおすほど不気味だった。  死骸は敵の砲爆弾で死んだ者よりも、居留民同士で殺しあった者の方が多かった。鋸《のこぎり》で首をひいたらしい子供の死骸があった。鋸がそばにうち捨てられてあった。手《てぬ》拭《ぐい》でしめ殺された若い女の死骸もあった。刃物がないため硝子《ガラス》壜《びん》のかけらで頸《けい》動《どう》脈《みやく》をかき切ろうとして血まみれとなり、まだ呻《うめ》いている男もいた。そうかと思うと赤ン坊を海へ投げこんで、髪をふり乱し眼をつりあげ恐しい形《ぎよう》相《そう》をしながら荒々しい息使いをしている母親があった。きっと良人と離ればなれになったか死別したかして、恐怖と絶望のあまり錯乱してしまったものであろう。  居留民等は敵が上陸してくれば、みな殺しにされるものと考えていた。軍もそのように宣伝していた。既に敵飛行機上から屡《しば》々《しば》降伏勧告のビラがふりまかれ、島を周《まわ》って敵巡洋艦上からも降伏者には危害を加えない旨の放送があったが、彼等はそれを信じようとはしなかった。  軍医長と浜野は屍臭のただよっている密林の中を、一刻もはやく司令部にたどりつこうとしたが、気があせるばかりで道がはかどらなかった。密生した熱帯樹の枝やからみあった木の根に、行手を阻《はば》まれ足をとられいたずらに疲労をかさねるだけだった。  二人はほとんど力尽きた思いで、度々途中で休んだ。そして息をつくために水を飲んだ。水の貴重なことはわかっていたが、飲まずにはいられなかった。そのようにして終夜密林の中をさまよっている間に三十一日の朝になった。  早朝は靄《もや》が深かった。しかし間もなく洋上に陽がのぼってくると、密林の中は風が通わないために蒸れてきて、暑熱はたえがたいまでに甚しくなってくる。それにつれて喉《のど》の渇《かわ》も《き》烈《はげ》しくなってくるが、もう水筒の水は一滴もなくなってしまった。下草の雫《しずく》をなめようとしても、温度がのぼってくるとかえって舌唇の水分を草に吸いとられてしまう。身体の皮膚や顔の肌《はだ》は乾いた汗の塩分でざらつき、その上にも体内の水分が蒸発するため、ヒリヒリとした痛みさえおぼえてくる。  軍医長と浜野は喉の渇に意識が朦《もう》朧《ろう》として、足が一歩も前に出なくなった。二人が樹の根方にどうと腰をおろして、むなしく声のない喘《あえ》ぎをつづけていると、思いがけなく二人の前方をよろめきながら通りかかる兵隊の姿が目に写った。やはり疲労と飢渇にたえないで、なかば夢中にさまよい歩いているらしい。しかし、二、三個の手榴弾を離さず両手に握っている。なおそれだけの余力があるのか、それとも無意識にそうしているのであろうか。 「おうい、み、水を持たんか」  浜野はかろうじて兵隊に呼びかけた。 「おうい」  兵隊は茫《ぼう》然《ぜん》とした風で此方をふりむいた。 「や、き、貴様、金谷一水じゃないか」 「浜野大尉でありますか」  金谷はのめりそうな恰《かつ》好《こう》で、浜野の前へやってきた。彼は岡崎の部下だった。 「水はないであります」 「水! そうか。岡崎大尉はどうした?」  金谷はその瞬間、打たれたような顔つきになって眼をふせた。 「隊長は戦死されました。部隊で生き残っているのは、私一人であります」 「せ、戦死したと、何処で?」 「防空壕の中で、指揮官と作戦していられた時、戦車砲の直撃をうけられたのであります」 「い、いつの事か」 「二、三日前であります。いやもっと前だったか、私は忘れました」  浜野は金谷の返事をもはや聞いていなかった。彼は膝《ひざ》の上に頭をたれると、片手をふって金谷に行けという合図をした。耳の中がカアンと鳴りだして、砲爆弾の響も何も聞えなくなった。浜野は体内にのこっていた最後の力が尽きてゆくのを感じた。 「岡崎が死んだ、岡崎が死んだ」そういう声と、 「司令部へ行こう、司令部へ行こう」  その観念とがこんぐらかって浜野の頭をかきみだした。彼はだんだん気が遠くなるような思いで、側の軍医長をふりかえった。軍医長は膝の間に頭をつッこんだきり身動きもしない。浜野は軍医長を呼び起そうとしたが、声は出ずに喉の奥にひ割れるような微《かす》かな痛苦を感じただけだった。  目くらむような強烈な光の中で、熱帯樹の広葉がものうげに揺れ動いていた。視力がかすんできた浜野の眼には、それがあたかも岡崎の微笑の影のように写って見えた。 「岡崎はもうこの景色を見てはいない。この空気を吸ってはいない」  浜野はしびれた頭の奥で、そのような事をぼんやりと考えた。それは岡崎のことであるとともに、また彼自身の事でもあるようだった。カロリナス山頂を目ざして登ってくる敵戦車の砲声が雪崩《なだれ》のようにおしよせてきた。しかしすでに意識を失いかけている浜野には、もはや何も聞えず何も見えなかった。寂《せき》然《ぜん》とした忘我の世界が彼をつつんでいるにすぎなかった。 月《つき》魄《しろ》 一  平山行《こう》蔵《ぞう》、名は潜、あざなは子《し》竜《りよう》、幕末にちかい時代の英傑である。父祖代々幕臣中の剣客をもって、世に著《あらわ》れていた。  行蔵は刀、槍《やり》、拳、弓、砲の技に熟していたばかりでなく、和漢の文学、兵学にも通じていた。  寛政五年幕臣の中からえらばれて、当時の大学昌《しよう》平《へい》黌《こう》に入り、八年普《ふ》請《しん》役《やく》に任じられたが、壮志大にして区々たる官職にあまんじていることができない。仕進の志をなげうって民間に闊《かつ》歩《ぽ》し、練武堂をひらいて子弟に昼は武芸を教え、夜は兵書を講じた。門生二千余人をやしない、名声一世に震った。  世態の風俗、華《か》奢《しや》淫《いん》逸《いつ》をきわめた文政の頃である。行蔵はこの時潮に反抗した慷《こう》慨《がい》の人である。夏に扇を使わず、冬に足《た》袋《び》を用いなかった。老年にいたっても、冬にかさね衣しなかった。彼はふかく士風の懦《だ》弱《じやく》と、世俗の廃《はい》頽《たい》をいきどおっていた。  文化三、四年の候、露船が北辺に出没して、蝦《え》夷《ぞ》を侵し我が番卒を殺したことがあった。行蔵は幕府当局に上書して、門生をひきい衆軍の先鋒となり、異域に死をいたさんことを願った。二度上書したが、二度ともかえりみられなかった。  かえって行蔵の過激な言論と計画は、当路者の忌むところとなって、治安に害があるという名目で、子弟の教授を禁じられた。  相馬大作こと下《しも》斗《と》米《まい》秀之進も、行蔵の門に出入していたが、この禁止によって師の許《もと》を去った。彼が藩主南部侯のために、津軽侯を狙《そ》撃《げき》しようと計ったのは、その後間もない事である。  行蔵は文政十一年、七十歳で世を終った。近藤重蔵、間宮林蔵とならんで三蔵とよばれた。子の鋭太郎が跡をつぎ、門下の育成にあたった。鋭太郎は行蔵のような俊《しゆん》傑《けつ》ではなかったが、やはり父の血をうけて怪癖の行が多く、事を好む風があった。  嘉永六年の夏、米のペルリにつづいて露のプチャーチンが、軍艦四隻をひきいてやってきた。北辺の日露国境をさだめることと、通商条約をむすぶためとである。  幕府は俄《にわか》に役人を蝦夷に派遣して、その調査にあたらせた。それとともに蝦夷の領主松前氏を内地に移して、蝦夷地全土を幕府の直《ちよつ》轄《かつ》におき奉行を赴任させた。樺《から》太《ふと》、蝦夷をうかがうロシアの意図に、容易ならぬ企のあることを看取したからだ。  蝦夷地の警衛には、これまで南部、津軽両藩の兵をあてていたが、新しく秋田、仙台の兵をそれに加え、蝦夷地全部の沿岸と、千島の一部の警備にあたらせることにした。  そればかりではない。安政二年の秋天下に触《ふれ》をくだして、幕臣の五百石以下、目《め》見《みえ》以上以下、ならびにその総領次男三男、厄介、浪人者百姓、町人にいたるまで、志願する者は蝦夷地への移住を許可することにした。諸国の藩士も主人の意見次第で、お構えないというのである。  平山行蔵の上書をこばんでから、約半世紀の月日がたっている。その間に行蔵は亡くなり、鋭太郎は老いて、晩年にいたった。しかし壮気おとろえぬ彼は、父の素志をつらぬくのはこの時とばかりに、幕府の許可をえて一族門生をひきつれ蝦夷へ渡った。  鋭太郎は父譲りの武具甲《かつ》冑《ちゆう》を、数十領携帯して行った。まさかの時には露人相手に、はなばなしい一戦を試みようという肚《はら》である。彼は北辺の防《さき》人《もり》をもって任じていた。それを武人の本懐とした。  蝦夷へ渡った鋭太郎は、函館奉行支配組頭、栗本瀬兵衛の配下に編入され、函館の北四里ほど離れた無沢嶺下の峠下に住むことになった。  無沢嶺は一名、茅《かや》部《べ》峠という。一千尺ばかりの高さで、道は函館からこの峠を越え、大沼小沼のほとりをすぎ、駒《こま》ヶ岳の麓《ふもと》をめぐって、内浦湾沿岸の森、鷲《わし》の木などの港に通じている。  峠下の附近に、幕府のひらいた薬園がある。朝鮮人《にん》蔘《じん》その他の薬草のほかに、松、杉、檜《ひのき》、桐《きり》、桑、楮《こうぞ》などを栽培している。内地から持ってきたものだ。寒冷のため、八、九尺以上には育たない。  幕府が触をだして移民を奨励したのは、蝦夷地開拓のためである。荒地の開発、馬牛の牧養、鉱山炭山の発掘、薪材の伐採、山海の漁猟などの生産に働かせるのが目的だ。江戸の遊民を処置する手段としても良策だし、邦人が数多く占拠していれば、そのまま我が領国だという証拠にもなる。  鋭太郎の一行は耕地をあたえられて、農作物の栽培に従事することになった。地味はよく肥えていた。肥料をやらずにほうっておいても作物は見事にそだった。五年つづけて地力がつきると、他の新しい耕地に移った。  稲は出来なかった。勢よく成長するけれども、実を結ばない。内地の稲の品種が、此《こ》処《こ》の気候や土質に適さないからであろう。そこで粟《あわ》、稗《ひえ》、蕎《そ》麦《ば》、大豆、小豆などを作った。  しかし耕地の仕事は、鋭太郎の本来の志ではない。またそれに馴《な》れてもいない。彼は北門の衛兵たることを望んで、勇躍蝦夷へやってきたのである。彼は適任の地位をあたえられるよう、奉行に願出たが許されなかった。また露人の侵《しん》寇《こう》が現実におこってこないかぎりなど、そうして時期を待つよりほかはなかった。  蝦夷は無人の曠《こう》野《や》だった。二里四方の未墾の原野に、民家の数はわずか三十戸ばかり。それも多くは丸太づくりの茅《かや》葺《ぶき》小屋にすぎない。住んでいる者は、津軽、南部、秋田、庄内あたりの農民達である。故郷で暮せなくなった、貧しい出《で》稼《かせぎ》人等だ。  鋭太郎は蝦夷地の実際に接して、なかば茫《ぼう》然《ぜん》たる思にうたれた。蝦夷へ我が国人が姿をあらわしたのは、およそ千三百年前阿《あ》倍《べの》比《ひ》羅《ら》夫《ふ》が蝦夷を征したのが初めてである。その後、前九年の役《えき》、後三年の役、または頼朝の泰《やす》衡《ひら》征伐などで、故国を追われた俘《ふ》囚《しゆう》の残党がこの地へ遁《のが》れてきた。それ等を「渡党」といい、蝦夷の南部、松前、函館地方を「渡《お》島《しま》国」と名づけた。蝦夷拓殖の最初である。  鎌倉時代は兇徒をここへ追放する、流《る》民《みん》の島だった。足《あし》利《かが》義《よし》政《まさ》の頃若《わか》狭《さ》の人武田信広がこの地へ移ってきて、蝦夷の酋長コシャマインの乱を平げ、この地の主となった。松前(福山)に城塁をきずいて松前氏を称した。  松前氏は秀吉、家康等に封地を認められて、諸侯の一人となった。しかし内地の大名とちがって、封禄は何万石とも定められてはいない。未開の地だから、定めようがなかったのであろう。したがって無高の大名であり、内地の諸侯が負担しなければならなかった、種々の課役からまぬかれていた。  そのため松前家は富裕な諸侯の一人となった。耕地は少いけれども、蝦夷の天産は豊である。林業、鉱業、漁業の富は、ほとんど無限といってもよい。  ことに漁業の収獲は、四季を通じて絶えなかった。冬は鱈《たら》、春は鯡《にしん》・数の子、夏は日本一と云われた昆《こん》布《ぶ》、秋は鮭《さけ》。これ等の海産物をもとめて、内地諸国から船が函館、江《え》差《さし》、松前へ集ってくる。藩はそれ等の廻船へ、運上金といわれた税を課する。その収入ばかりでも莫《ばく》大《だい》なものだった。  幕府は松前氏の富《ふ》饒《じよう》をうらやんで、その領地をとりあげたことがある。奉行をはじめ八十余人の幕吏をつかわして、蝦夷地の経営にあたらせたが、業務に不《ふ》馴《なれ》なためと役人等がそれぞれ私利をいとなむ事の方に熱心だったため、年々壱万両ちかい損失をまねき、文政四年ふたたび松前氏の手にかえした。  こんど松前氏から領地をとりあげたのは、収益のためではない。露人の南下をふせぐ、国土防衛のためである。かつて松平定信は前執政田沼意《おき》次《つぐ》の蝦夷地開拓の計画に反対して、蝦夷はながく不毛の原野としておき、日露両国間の自然の障壁としたほうがよいと言ったが、時勢の急潮でそうはゆかなくなった。しかし蝦夷が依然として昔ながらの広漠とした原始境であることに変りはない。  人煙のにぎやかなのは、江差、松前、函館の三市港にすぎない。松前は松前氏の城下として戸数三千から五千におよんだが、函館は千戸に満たなかった。それでも背後の無人の曠野にくらべれば、ここは人間の住む世界であり、漁業や商業に賑《にぎ》わう歓楽境でもあった。  文化五年の終北録にいう。「夷地千里、茫《ぼう》々《ぼう》として草寂しく、烟《けむり》寒し。この閭《りよ》閻《えん》(都里の門)に至れば、地をうつ絃歌耳にみつ。はじめて夷《い》狄《てき》羶《せん》腥《せい》(なまぐさい)の気を一洗す」と。実感がおのずから筆端にあらわれている。  鋭太郎もおそらく、夷地千里にある思を忘れることができなかったであろう。村の背後の峠へのぼると、四方が洞究される。眼下は亀田平野だ。その先に黒く山を負うた函館の街がある。街のかなたは蕩《とう》々《とう》乎《こ》とした津軽海峡。海上五里をへだてて下北半島の島影が、烟《えん》霧《む》のうちにうす黒く霞《かす》んでいる。わずか数里の距離にすぎないが、内地と夷地となんと遠い隔りが、ひしひしと胸にせまってくることか。  背面の眺は一層すばらしい。大沼小沼の湖をふところに抱《いだ》いて、三千五百尺の駒ヶ岳が白煙をなびかせながら、美しい曲線を描いて正面に全容をしめている。その背後には内浦湾が、青々とたたなわっている。  明るく澄んだ空の色、赤い山《やま》肌《はだ》、涯《はて》ない海、緑野、涯しらぬ原始林。本土奥地の景色にかんじられるような、暗い翳《かげ》りはすこしもない。眼くらむばかり明るく耀《かがやか》しい。  しかし、何という深い静まりであろう。何の動きも見えず、何の物音もしない。寂としてひそまりかえった無の世界。じっと立って眺めると、いいしれぬ不安と怖れにおびやかされてくる。人煙を絶した、未開原始の蛮地なのだ。  鋭太郎がこのような寂しい世界や生活にたえられたのは、もって生れた侍《さむらい》気質《かたぎ》と意地ばりからであろう。彼等はその出征に際して、交遊者各方面からあたえられた、はなばなしい歓送にたいしても、手をむなしくして江戸へは帰れなかった。平常時勢を慨し、壮語を事としていた手前もある。  鋭太郎は門をとざして、あまり人と会わなくなった。函館へも出かけない。彼の父子竜は、脂粉の女を生涯身に近づけなかった。鋭太郎もまた、その通りだった。彼は函館の淫《いん》靡《び》な空気を憎んでいた。  彼は失望のはて気《き》鬱《うつ》症にかかり、やがて病に臥《ふ》すようになった。馴れぬ気候風土の故にもよる。彼は極寒の地にあって、なお江戸にいた時と同じように、厳冬の寒さと闘おうとした。  支配組頭の栗本瀬兵衛が、時々鋭太郎の病床を見舞った。瀬兵衛は幕府の医官の出である。父は将軍の侍医、喜多村槐《かい》園《えん》、兄は香城、ともに当時世に知られた篤学者で、瀬兵衛は栗本家を嗣《つ》ぎ、別に瑞《ずい》見《けん》ともいい鋤《じよ》雲《うん》と号した。  後に医官から士籍に移され、昌平黌頭取となり、軍艦奉行となり、安《あ》芸《きの》守《かみ》に任官して、幕末期の困難な外国奉行も勤めた。蝦夷在住当時は、薬園、病院、疏《そ》水《すい》、養蚕などの施設にあたった。  瀬兵衛が鋭太郎を見舞うのは、峠下附近の薬園を訪れてきた時である。鋭太郎は瀬兵衛にたのんで、養子の金四郎を書生に使ってもらった。鋭太郎には子がなかったので、近親者の子を後継者に定めておいた。彼は有為の若者を我が傍において、辺土に朽ちさせるに忍びなかった。  鋭太郎は金四郎を瀬兵衛に託すと、間もなく失意のうちに世を辞した。 二  金四郎は顔色が青白くて、口数のすくない青年である。大声で笑うようなこともない。性質はおとなしかった。その温順でつつしみ深いところが、鋭太郎の気に入り養子にえらまれたのかもしれぬ。  金四郎はその頃すでに二十六、七歳になる若者だったが、瀬兵衛にまめまめしく仕えた。侍は毎朝髪をととのえるのが、かなり厄介な手数である。金四郎は日々払暁に起き、湯をあたためて瀬兵衛の調髪にあたった。髪を梳《す》き油をぬり髷《まげ》を元結でむすぶ。それから剃《かみ》刀《そり》で鬚《ひげ》をあたる。  結髪や鬚剃りの技術は、侍の子のたしなみであった。侍は調髪に、女手を使わない。殿様ならば近侍小姓、士ならば若党の役目である。金四郎は調髪や剃刀の使用に巧みだった。鋭太郎の薫《くん》陶《とう》がきびしかった為であろう。  晩には役所から帰ってくる主人を迎えて、酒《しゆ》肴《こう》の用意をととのえた。他に門生や婢《ひ》僕《ぼく》がいないわけではなかったが、瀬兵衛の世話は我が役目として金四郎は忠実に働いた。しかも金四郎は儕《せい》輩《はい》にねたまれ婢僕からそしられるような事はなかった。彼は何事も控え目に身を持して、人々の言葉に決してさからわなかった。微笑をふくみ、黙々として聴従する。このような彼の態度もまた、鋭太郎の躾《しつけ》によることなのであろうか。  栗本瀬兵衛は眼色深く、鼻翼張り、口《くち》許《もと》大きくして、後年天下に名をはせるだけの才器を、風《ふう》貌《ぼう》のうちにひそめていた。そうした瀬兵衛の眼からみると、金四郎の精励さはみとめるが、彼の容貌や起居ふるまいに、特に他とちがった所を見いだせない。笑う如く笑わない如く、青白い顔の頬《ほお》をすこしゆるまして、いつも、じっと物静に控えている。 「金四郎、留守中何事もなかったか」 「はっ、ござりませぬ」  ただそれだけの返事である。他に何か言いだすかと待っているが、何も言いださない。夕《ゆう》餉《げ》の膳を前に盃をふくんでいる瀬兵衛の正面に畏《かしこま》って、時々および腰に銚子をとりあげ酌をする。 「今日は湯の川の温泉へつかってきた。硫黄《いおう》の気は強いが、結構な湯加減じゃった」  べつに話相手を勤めさせるつもりはないが、金四郎は愛想を言わず相《あい》槌《づち》すらうたない。それで話の腰が折れてしまう。退屈な相手である。酒が終ると飯をよそって出す。汁をかえてくる。給仕が終れば、一礼して膳をさげる。  毎晩その通りである。無言なことは朝も同じだ。一月たち、半年たち、一年経っても、彼の態度に変りはない。黙っているうえに感情を少しも外にはあらわさないから、馬鹿なのか利口なのかわからなかった。  文久二年栗本瀬兵衛は、樺太を巡視した後、江戸へ去って昌平黌の頭取となった。金四郎の身柄は瀬兵衛の同僚、三《さん》田《だ》葆《かね》光《みつ》に託された。金四郎は瀬兵衛同様葆光にもよく仕え、三田氏から愛された。  金四郎のような人柄は、誰からも愛される。彼は人に迷惑をかけたり、人の生活をそこなったりはしなかった。手先仕事に器用な彼は暇があると他人の刀のつかの繕いや飾りをやって、自分の小《こ》遣《づかい》銭《せん》を稼《かせ》いだ。彼は門生であって下僕ではないから、主人の給金はうけない。自分の費用は自分の手で稼ぐ。瀬兵衛の許にあった時も、葆光の所でも同じである。  文久三年、元治一年、慶応三年を経て、明治維新となる。目まぐるしいばかり、あわただしい世の変動だった。戦機をのぞんで辺土へやってきた鋭太郎等は、かえって変乱の中心から遠ざかった形となった。もし鋭太郎がまだ生きていれば、さぞかし髀《ひ》肉《にく》の嘆にたえなかったであろう。  その間に金四郎は結婚して、峠の家にかえった。葆光もまた江都へ帰り、よるべき人がなくなったからである。峠の家には数十領の甲《かつ》冑《ちゆう》が鎧《よろい》櫃《びつ》におさめて、ぎっしりと積まれてあった。軍資金の仕《し》度《たく》もある。鋭太郎は窮してもそれには手をつけずに、金四郎にのこしていった。金四郎も軍資金には手をつけない。遺言はなくとも父子言わず胸に相通じているものがある。  金四郎の妻は松子と言った。幕士の娘である。鋭太郎や金四郎等と同じ頃、父兄にしたがって蝦夷へ移住してきた。金四郎と結婚した時は十六歳だった。年は十余の隔りがあるけれども、夫婦仲は悪くはない。といっても、松子はまだ少女だ。しかし一年経つと赤ン坊を生んだ。  金四郎は無口だが従順なので、女達から愛された。色が白くて男ぶりも悪くはない。相手の顔を見るでもなく見ないでもなく、なかばほほえむような伏眼の表情で、おとなしく対している彼の姿は女人の心をさわがせた。瀬兵衛や葆光の許にいた時にも、下女達が彼に好意をよせ人知れぬ親切をつくす。  しかし、金四郎は三十近くなって結婚するまで、女との間に情事めいた事は何も起さなかった。同輩にさそわれれば色町へ遊びに出かけた。そういう点は父の鋭太郎や祖父の子竜とちがって、友達づきあいがよかったが、妓《ぎ》女《じよ》と会っている彼の態度は、ふだんと少しも変らない。女を好いているのかいないのか、甲《こう》羅《ら》をへた玄《くろ》人《うと》女《おんな》にも彼の意中はわからなかった。  妻の松子はまだ年がゆかないから、良人が自分をどう思っているかというような事に、いろいろ気を使ったりはしない。金四郎が無口でとくに自分を可愛がる風がなくても、主人はみなこういうものなのであろうと満足している。赤ン坊ができると彼女はすっかり母親きどりで、人形をあつかうように子供を可愛がった。  村へひっこんだ金四郎は、妻と一緒に農耕にしたがった。百姓の業を賤《いや》しんだり嫌《きら》ったりはしない。そういう所も鋭太郎とは大違いである。地味がいいので肥料をやらなくても作物がそだつかわり、雑草の茂りや伸びがひどかった。種子をおろしてから収穫をあげるまで、その手入が大変である。  九月末から十月にかけて収穫が終ると、今度は冬《ふゆ》籠《ごも》りの準備をいそがなければならぬ。金四郎は毎日焚《たき》木《ぎ》の伐切と炭焼に山へ出かけ、松子は食物の貯蔵にかかりきりとなる。函館地方は蝦夷でもいちばん暖い方だが、十月の初から雪が降り、四月までとけない。その間吹雪《ふぶき》の日でもないかぎりは、村人互にゆききして無《ぶ》聊《りよう》をなぐさめた。橇《そり》で函館へ出かけることもある。  金四郎は近隣の村人に徳望があった。人間が誠実で、人に親切をつくすからである。病苦災難に遭《あ》った人達の介抱をおしまない。彼は瀬兵衛について、医薬の知識があった。また父の徒党でなお残存している人々も少くなく、その仲間で隠然とした勢力をしめている。  慶応三年十月将軍大政奉還のことがあり、同十二月九日王政復古の大詔煥《かん》発《ぱつ》があった。翌慶応四年即明治元年は閏《うるう》年《どし》で、四月がふた月ある。その後の月の四月に幕領が官におさめられて、知藩事が任命されることになった。函館府には侍従清水谷公《きみ》考《なる》が知事として派遣されてきた。幕府の奉行杉浦誠は、五《ご》稜《りよう》郭《かく》を公考の手に渡して内地へひきあげた。  五稜郭は安政年間、幕府奉行の手によって築かれたものである。亀田川の水をひいて周囲に広く濠《ほり》をめぐらし、土塁を重ねて高さ一丈五尺ばかりの郭とした。周囲一里近く花《はな》菱《びし》形《がた》の城塁である。公考は此《こ》処《こ》に裁判所をおいた。名は裁判所だが、当時の行政官庁である。  徳川氏三百年の天下がくつがえったという事実は、辺土にあっても大きな変革である。幕吏をはじめ安政以来移住してきた幕士等は、奉行とともに倉皇として江戸へ帰った。幕府機関の下に集ってきた彼等は、その廃絶に面して不安にたえられなくなったのである。  しかし金四郎とその一党とは、蝦夷に残って引揚げなかった。どういう心からであったろう。彼等は大望を抱いていた。金四郎等は新政府の役人達を鏖《おう》殺《さつ》して、その機関を乗取ろうと企てた。  函館の守備兵は、千四百名である。土着の松前藩兵四百、津軽弘《ひろ》前《さき》藩の兵五百、それ等に備後福山の藩兵五百が、新に加えられてきた。彼等は五稜郭をはじめ、函館市の内外に分駐していた。  守備の軍の人数は少くないが、いわば烏《う》合《ごう》の衆であった。新政府の基礎の確実さを、信じているものはほとんどいない。形勢次第で又どっちにひっくりかえるか、危ぶんでいる者が大部分である。感情の上ではむしろ旧幕政府の治下にかえる事を、望んでいる方が多かった。金四郎達はそういう一般の気風に、乗じようとしたのである。  金四郎は新時代の趨《すう》勢《せい》に盲目だった。もっとも極北の辺土に生活しながら、急旋回する時潮に通暁しそれを理解することは、困難だったに違いない。金四郎が蝦夷に移ってきてから、すでに十余年経っている。この間の十余年は、平時の百年にも値する変革期だ。  金四郎は今は三人の子等の親であり、三十歳を越えた壮漢である。彼は依然として、昔の夢を追うていた。それは養父鋭太郎が生涯見続け、祖父の子竜が胸にいだいていたものと、あまり変らぬ種類のものだったかもしれぬ。  金四郎の身辺はにわかにせわしくなり、同志の往来がはげしくなった。妻の松子は、良人《おつと》の大望については何も知らない。ただ良人がいそがしい野良仕事をほったらかして、寄合事などに熱心になっているのを、内心不服に思っているぐらいである。  金四郎の密謀は、夜陰不意に起って五稜郭の裁判所を襲うことであった。十数人の同志があった。それに民兵を起用する。本部の占拠に成功したら、諸藩の守備隊に連絡をつける。福山は徳川譜代の藩であるし、津軽、松前の両藩にしろ、徳川のためだとあれば反対はすまい。その上で徳川一門の誰かを迎えて、蝦夷の領主とする。そうなれば天下の兵を敵にするとも、敢《あえ》ておそるるところではない。  そういう手《て》筈《はず》であった。  金四郎の考は単純である。事ならずば死ぬばかりだと覚悟している。成功不成功にはあまり頓《とん》着《じやく》しない。ただ何事か企てずにはいられなかった。彼等は何のために、はるばると蝦夷へやってきたのか。何のために十余年間、人無き原野の生活にたえてきたのであろう。  時勢の変転は、金四郎等のあずかり知らざるところである。彼等はその不満を、何かに洩《も》らさずにはいられない。新政府の役人が現れるとその前に頭をさげ、倉皇として内地へ引揚げて行った幕臣等の態度に、金四郎は憤激した。彼等はたんに、禄米をはんで生きていた虫にすぎない。 三  金四郎の同志の一人に、真《ま》鍋《なべ》という幕府の医師があった。彼は同僚が引揚げて行った後、一人函館に残っていた。彼は金四郎等と気脈を通じながら、ひそかに五稜郭の様子をさぐりつづけている時、衛兵に態度を怪まれて捕えられた。  真鍋の自宅を調べてみると、銃器弾薬が隠されてある。彼はそれ等を函館へ入港する外国船から買った。真鍋は函館の民家に監禁されて、拷問を加えられた。青竹で胸や背を強打され、肋《ろつ》骨《こつ》が折れた。膝《ひざ》に巨石を抱かされて脛《けい》骨《こつ》が砕けた。肉破れて血がほとばしり、手足の指の生爪はことごとくひき剥《は》がされてしまったが、真鍋は口を閉じて白状しない。  苦痛にたえなくなると、真鍋は気絶した。すると顔へ水を吹きかけて生きかえらせ、また拷問をつづける。後に彼はすぐ昏《こん》倒《とう》して、死をよそおうようになった。全身血まみれの半死半生の姿なので、責める者もつい瞞《だま》される、それをくりかえしている間に、番卒が油断するようになった。もはや足腰もたたないほど弱りはてていたからである。  三、四日の後、真鍋は夜分番卒が眠ったのを見すまして、監禁されている部屋の床下をはがし、縁下をくぐって外へのがれ出た。杖《つえ》にすがり倒れては起き転んでは匍《は》い、四里の道を終夜かかって金四郎の峠下の家へ、息も絶えだえにたどりついた。  大事を思いたってから、金四郎は油断をしなかった。同志がひそかに訪ねてきた場合の合図も定めてあった。彼は未明に門をたたく、微《かすか》な物音を耳にして眼をさました。側で妻子等は熟睡している。金四郎は一人、そっと家外へ出てきた。雨雲の間に明滅している半月が、まさに没しようとしている。  金四郎は門外の地に横《よこた》わっている怪物をみて、思わずぎょっとなった。歯を打ち折られ片眼をつぶされた血だらけの人間が、髪をふりみだして其《そ》処《こ》に呻《うな》っていたからだ。  真鍋は一言しゃべる毎に、口から血を噴いた。胸部を破られているためである。彼は事があらわれたことを語った。しかし同志については口を割らない。ひたすら、金四郎等の成功を祈る一念故である。 「どうか貴様の手で、俺を殺してくれ、助からぬことは医者の俺がよく知っている。苦しい思をするばかりだ。そのかわり俺が死ねば、この上謀《はかりごと》のあらわれる心配はもうない。それだけが、貴様達にたいする俺の志だ。それを告げ貴様の手で死にたいばかりに、俺は此《こ》処《こ》までやってきた。俺のこの気持を察してくれ」  真鍋のきれぎれの言葉をつなぐと、このような意味になる。金四郎は真鍋の心を納得すると、家の中へひっかえして刀と鍬《くわ》をたずさえてきた。それから歩く力のなくなった真鍋を背負って、裏山へ這《は》入《い》って行った。無沢嶺の麓《ふもと》は、原始の密林である。しかし樹々があまり深く茂りすぎると、自然に枯れたり朽ちたりするのでそんなに暗くはない。  十町ほど奥へ入ると、鬱《うつ》蒼《そう》としたとど松の群落があった。根方に大岩がなかば土に埋れて、岩屋の形にたたみ重なっている。金四郎はその岩屋の前に真鍋をおろした。真鍋の面影に、もう生色はなかった。くだけた脛骨をひきずって、四里の道をたどりついてくることに、最後の力を消尽してしまったのであろう。地上におろされたなり腰をつき、首をたれて微な息使いをつづけているにすぎない。金四郎は彼の耳《みみ》許《もと》にささやいた。 「後はひきうけた。じゃ、やるぞ」  月の落ちた後の暗がりである。真鍋は黙ってうなずいたようだった。金四郎は右手に白刃をさげ、左手で真鍋のうなじの毛をかきあげながら見当をつけた。互の姿がわからぬので、かえって斬《き》りやすかった。  バサッと音して首が落ち、身体が後に倒れた。金四郎は血《ち》糊《のり》をぬぐって鞘《さや》におさめると、地に膝《ひざ》をついて真鍋の首を手さぐりに拾いあげた。両手にささえて死顔を見ようとすると、血の臭が鼻をついてくる。 「よくこらえたな。貴様だからこそ、頑《がん》張《ば》れたんだ」  金四郎は首を膝にのせて、打撲に腫《は》れあがったその顔を撫《な》でまわした。首の異様なつめたさが敵にたいする憤怒の戦《せん》慄《りつ》となって、彼の五体をつらぬき走った。彼は夜明けをまって真鍋の死骸を巌根にうずめ、衣服についた血《けつ》痕《こん》を洗いおとし何くわぬ顔色で家にかえってきた。松子は良人が畑まわりに出て行った事ぐらいに考えて、彼の早起を怪まなかった。  金四郎は真鍋の死を同志の人々に通告して、一日もはやく好機をとらえ、事をあげるよう申合せた。新政府の役人等が失踪した真鍋の行方を、きびしく追及しているに違いない事が想像されたからだ。  一週間ほどたった日の早朝、二人の同志があわただしく金四郎をたずねてきた。彼等は旧幕臣で隣村に住んでいた。二人は今里正の所によばれて帰ってきたところだという。官では真鍋のことから、土地に居残った幕士等の上に嫌《けん》疑《ぎ》をかけてきた。  二人は役人達の訊《じん》問《もん》にたいし、一切あずかり知らぬ旨を誓って、書類に署名捺《なつ》印《いん》した。まだ密謀の事実がはっきり知られたわけではないから、問題はそれで簡単に解決した。金四郎の名も被疑者の中にあげられている。いずれ召喚されるか、逮捕の手がおよんでくるかであろう。そうなると、かえって事が面倒になる。むしろすすんでこちらから出頭して、釈明してきたほうがいいと思って勧めにきた。そういう二人の意見だった。  金四郎はその意見にしたがった。真鍋が死を賭《と》して秘密を守ったことを信じているので、べつに危《き》惧《ぐ》するところはなかった。二人と同様わけなく宥《ゆる》されると思った。金四郎は双刀をおび、すぐに里正邸へ出かけて行った。  村長の邸《やしき》は金四郎の所から一、二町先にあった。木立に隔てられて見えないけれども手軽にゆける。金四郎が門内に這入ってゆくと、意外なことには新政府の兵隊達が数十人、屋内や庭前にものものしく屯《たむ》し《ろ》ていた。肩に錦《きん》帛《ぎれ》をつけた、筒袖洋袴《ズボン》の兵士等である。  金四郎の入ってきた姿をみると、庭先にかたまっていた十数人の兵士達が、やにわに起《た》ちあがってきて彼をとり囲んだ。 「お取調の間、帯刀をあずかる」  金四郎は兵士等のただならぬ気勢をみて「しまった」と感じた。彼は巧に同志に売られ、新政府の陥《かん》穽《せい》におちた事を直覚した。二人の同志は、兵士達のことは何も言わなかった。彼等は行きさえすれば容易に事がすむように、教えたにすぎなかった。金四郎は代々名誉の剣家の後を嗣《つ》いだくらいであるから、武術に不鍛練な男ではない。たとい数十人の捕吏に囲まれても、ずいぶん恐れないほどの腕はある。官の方でもそれを考えて、金四郎を罠《わな》にかけたのであろう。  金四郎はそうと解ったが、もう遅かった。抵抗するだけ無駄である。彼はおとなしく佩《はい》刀《とう》を兵士の手に渡し、平然とした様子で隊長の前へ出て行った。内心の動揺は、些《さ》少《しよう》も外にあらわれていない。隊長は重大な容疑者だから、函館へ行って調べると言渡した。  そこで俄《にわか》に数十頭の駅馬をあつめることになった。蝦夷では犯人の護送には馬を用いる。兵士等が犯人を中にとりこめ、前駈け後かけして送ってゆくのだ。農家はどこでも大抵一、二頭の馬を飼っているけれども、数十頭となるとなかなか集らない。  多勢の人々が手分けして村々をかけまわり、大声で騒ぎたてている間に、空模様がかわって沛《はい》然《ぜん》と雨がふりだしてきた。そろそろ雨期に入りかけた頃である。しぶきをたてて落ちてくるはげしい雨《あま》脚《あし》に、外に出て馬の揃《そろ》うのを待っていた金四郎は、たちまち濡《ぬれ》鼠《ねずみ》になった。彼はちょっと家へ行って、蓑《みの》笠《かさ》をとってきたいといった。彼の家はすぐ近くだから、金四郎がそう申出るのも無理はない。隊長は彼の請を許した。金四郎の態度は落着いていて、怪しいような素振はどこにもみえなかったが、念のため二人の兵士を護衛につけた。  金四郎は二人の兵士とともに、雨の中を走って家に帰った。兵士達を外に待たせて直に奥の間へ入ると、鎧《よろい》櫃《びつ》の中から包をとりだし刀をひっさげ、裏口から屋後の山へそのまま姿をくらませてしまった。包の中には米、鍋《なべ》、火打袋、金などが入れてあった。彼は万一の場合を考えて、かねてから、それ等の品を用意しておいたのである。  二人の兵士は暫《しばら》く待っても金四郎が出てこないので、屋内へ踏みこみ、はじめて彼の逃走を知った。それから大騒ぎとなり、すぐ人数を手配して四方に人を馳《は》せ、彼の踪《そう》跡《せき》をきびしく捜索したが、何処へ隠れたものやら皆目わからない。真鍋の失踪といい金四郎の逃走といい、新政府の役人達にとってはかさねがさねの手落である。  函館の知府事は金四郎の人相書を、蝦夷地全土に配布して彼の行方を厳探した。しかし彼については、何の消息もえられなかった。良人《おつと》の失踪後、妻の松子はなかば気落ちしてしまった。彼女は二十歳をこえてまだ幾年もたたないのに、すでに三人の子等の母となっている。それ等の幼児をかかえ辺土の原野で、これからさき何を力に生きてゆこう。  松子は行末を考えると眠れなかった。幸い金四郎の徳望があるので村人は彼女に不親切にはしなかった。また近くの部落には、彼女の身寄の人々も残っていた。しかしこの世の何びとをもっても、良人に換えうる人はいない。突然いなくなってみると、なおさらその感がある。松子は自分に隠して何事かたくらんでいたらしい良人の心を恨みながらも、ひたすら彼の無事を祈らずにはいられなかった。  十数日たった或《あ》る夜、深更に金四郎が家にしのび帰ってきた。月影も星の光もない闇《やみ》夜《よ》である。松子はびっくりして息がつけなかった。彼女は良人が帰ってきた嬉しさなつかしさよりも、彼に早く遁《に》げてもらいたかった。金四郎の留守宅は、官の方からきびしく見張られていた。生命にさえ別条なければいつかは逢われる。松子は金四郎に抱きしめられて、思わずがたがた顫《ふる》えた。  金四郎は真鍋を埋めた岩屋の下に穴をほり、その中にひそんでいたのだそうである。あまり近い所なので、かえって人に気づかれなかった。もし見つかれば彼はそこで斬《きり》死《じ》にするつもりだった。金四郎は半死半生のむざんな姿で、彼をたずねてきた真鍋の志を忘れなかった。真鍋とならんで自分の屍を横えるのは、金四郎の本懐とするところだった。  金四郎は松子や子供等に、危険を冒して最後の別をつげにきた。無口な彼にもそれぐらいの情はある。大望をいだいているとは言え、幼弱な妻子を思うと金四郎はあわれにたえなかった。しかし士《さむらい》の妻として変乱の世に処する心構えは、いくら若くても松子にある筈《はず》だと考えている。  金四郎は人に怪まれないために、穴居生活に汚《よご》れた衣服をぬぎ風俗を改めた、乱れ髪やのびた髭《ひげ》は、松子の手でととのえ剃《そ》られた。戸外に灯が洩《も》れないように、行《あん》燈《どん》は一筋の微光をなげる程度につつみ蔽《おお》われている。その暗い光で厚くのびた鬚を、きれいに剃りあげることはなかなか困難だ。野良仕事に荒れた手で、剃《かみ》刀《そり》を器用につかうこともむずかしい。  松子はしばしばためらい、ひそかに涙を落した。良人の頭髪をととのえ鬚をあたるのは、これが最後になるかも知れない。金四郎も恐らくはその心で、あまんじて妻の手に自分の髪をまかしているのであろう。彼は調髪も剃刀の扱いも、妻よりうまかった。  金四郎は仕度をおわると、ふたたび戸外へ忍び出て行った。子供等は熟睡したままである。彼は行先を妻に言わなかった。逃げまわるより手のない彼は、その土地々々の様子次第で、何処へ身を隠すかわからない。ただ妻子が無事に暮していれば、また此処へ戻ってくる事もあるだろう。そうした覚《おぼ》束《つか》ない言葉を、後に残してゆくしかなかった。  松子は戸外を遠ざかってゆく、良人のひそかな跫《あし》音《おと》に耳をすましながら、家の土間に茫《ぼう》然《ぜん》とたちつくしていた。ほとんど無感動な状態と言ってもいい。良人の後にはもとより跟《つ》いてゆけないし、一人残されることにも堪えられない。 「いっそ、戻ってきてくれなければよかった。あれなり消息の絶えてしまったほうが、いっそさっぱりしている」  松子はなかば無意識にそんな言葉を呟《つぶや》きながら、良人を送りだした裏口から子供等の所へかえってくると、思わずふらふらとなって倒れた。良人の最後の抱擁をうけた寝床の上である。 四  金四郎は岩屋へひっかえすと、必要な品を持って山伝いに、内浦湾岸の鷲《わし》の木へ出た。しかし村へは入らない。手前の山に隠れて部落の様子をうかがっていると、顔見知りの杣《そま》人《びと》にであった。  樵夫《きこり》は金四郎の姿をみて、死んだ人が生きかえりでもしたように、吃《びつ》驚《くり》している。事情をきくと金四郎の人相書が、函館方面から鷲の木へいたる津々浦々、何《ど》処《こ》の部落にも貼《は》りまわしてあるという。とても危険で近寄れないから、他の方面へ道を変えたほうがよいと教えた。  金四郎は舟便があれば対岸の室《むろ》蘭《らん》へ渡り、さらに奥地へ逃げるつもりだった。彼はよぎなく方向をかえて、今度は東海岸から西海岸へむかった。中部の山々を越え、半島を横断して江差へでた。  江差は松前、函館とならぶ賑《にぎやか》な港町である。姿をひそめるにはむしろ、人の多勢集っている所がよい、と考えてやってきた。ところが此《こ》処《こ》の街の辻々いたるところに、やはり金四郎の人相書が貼りまわしてある。金四郎は新官庁の追及の意外なきびしさに、しばらく茫然となった。この様子では蝦《え》夷《ぞ》地全土、我が国の人の住むところには何処にでも、彼の人相書がまわしてあるに違いない。彼は蝦夷の厖《ぼう》大《だい》な天地の間に、身をいれるところがないような感にうたれた。  しかし町の人々の様子をみていると、いかにものんきそうである。目の前に人相書の当人が突立っていても、さらに気づく者がない。風俗も純樸で、ほとんど人を疑うことを知らないもののようである。事実当時の江差は、「山に盗賊なく、市に乞食なし。倉庫守らず、風俗最美なり」と伝えられていた。天の広さと生活のゆたかさが、おのずからそういう気風をそだてあげたものであろう。  金四郎は安心してこの町に滞在している間に、松前城下の様子をそれとなく人々に聞きただしてみた。すると松前の方も人々が鷹《おう》揚《よう》で、生活しやすい所だという話だった。松前の人口は江差の二倍三倍している。隠れるに一層好都合だ。そこで金四郎は、江差から松前へ下った。  金四郎は松子と別れて家を出る時、頭髪を町人風に結いかえていた。その方が逃走に便宜だからである。江差の町の人々に怪まれなかったのも、頭や身なりが町人風であったためかもしれない。彼は優《やさ》男《おとこ》なので、姿を変えると武士らしく見えなかった。  金四郎は姿が町人風であるのを利用して、髪結い床に職人としてはいりこんだ。松前市中の髪床は職人が不足していた。内地の御一新さわぎがひどいので、蝦夷へ渡ってくる職人がいなかった。  金四郎は髪床の主人から歓迎された。無口でよく働き、仕事がうまい。博《ばく》打《ち》をうたないし女遊びもやらぬ。渡り者の職人にはめずらしかった。もとより彼が新政府のお尋者だ、などとは夢にも気づかない。ただもう良い職人を得たことに満足していた。  八月の末ちかく幕府の軍艦奉行、榎《えの》本《もと》和泉守が幕艦八隻をひきい品川湾を脱走して、蝦夷松前へやってくるという噂《うわさ》がやかましくなってきた。閏《うるう》四月以来、奥羽地方の大半は官軍に征服され、もし幕艦が身をよせるとなれば、安全な所は蝦夷の地よりほかにはない。  それで松前藩は、上下こぞってあわてだした。もともと足利時代末以後、四百年間泰平と安逸な生活になれてきた藩兵である。幕艦の侵《しん》寇《こう》をふせぐといっても、しかとした方略がたたない。早く内地に難を避けようとする軟派があり、城にたてこもって抗戦しようと主張する強硬派がある。  結局抗戦派の議論が勝って、城の防《ぼう》禦《ぎよ》を固くするために、濠《ほり》を深め石垣を高くすることになった。その修築工事の壮丁を市内に募集した時、金四郎がこれに応じた。彼はもはや函館庁の追捕を、恐れる必要はなかった。幕艦の来攻さわぎで、函館庁も松前藩も金四郎の沙《さ》汰《た》どころではなくなった。  金四郎は多勢の人夫の中にまじって、土をほり畚《もつこ》をかついだ。彼は調髪に器用だったように、野良の耕作にも馴《な》れていたから、土方仕事におどろかない。人々にたちまさり、営々として働いた。  彼は新政府の役人や藩兵達とは反対に、幕艦の来ることが待ち遠しくてならなかった。いよいよ願望の成就する時が来たのである。十数人の同志等の手で、事をあげるとは規模が違う。十門二十門という大砲をそなえた洋式軍艦の前には、千や二千の守備兵は問題ではない。いまさら石垣を高め濠を深くしたところで、どれほどの効果があろう。金四郎は児戯に類したことに狂奔している、藩兵等のあわてぶりをわらいたくなった。  心に勇みのある金四郎の働きぶりは衆にきわだち、工事監督の眼にとまった。彼は書生となり農民となり人夫となっても、不思議と人に信用される。彼は人夫頭に抜《ばつ》擢《てき》されて、役夫等の宰領をまかされるようになった。金四郎にはおのずから、人の長となる資格がそなわっているものと思われる。  品川を脱走した幕府の軍艦は、仙台に寄って大鳥圭介以下数百の幕兵をのせ、十月十九日以後続々と鷲の木にやってきた。金四郎が室蘭に渡ろうとした所で、幕艦は砲台のある函館を直接つくことをさけ、背後にまわったのである。鷲の木函館間は、十一、二里の距離である。  鷲の木には尺余の積雪があった。蝦夷にはすでに冬がきていた。粉雪が朔《さく》風《ふう》にのり、まっ黒に空におおうている。幕軍は兵を本道と間道と二つに分け、凍った山道を南下して行った。知府事清水谷侍従は津軽、松前、福山の守備兵を茅部峠の頂上や峠下に配して、幕軍をむかえ撃ったけれども、戦意がないから長くはささえられない。土《ひじ》方《かた》歳《とし》三《ぞう》等の兵が函館の東、河《かわ》汲《くみ》方面の間道から進んでくると聞いて、背後を絶たれることを恐れ、急いで函館や五稜郭に退いた。そして二十五日の暁、知府事をはじめ津軽、福山の兵は船にのって青森方面へ遁《のが》れ、松前の兵は一部は青森に、一部は松前の城下にかえった。  五稜郭、函館を難なく手に入れた幕府軍は、十一月二日松前に攻めよせてきた。陸兵は大鳥圭介や土方歳三等がひきい、榎本は回天、蟠《はん》竜《りよう》の二艦をもって、海上から陸兵の攻撃を助けた。城主松前徳広は、この時江差にいた。城兵は城の外郭を焼いて江差方面へ遁れ、藩主は江差から熊石に移り、軽《けい》舸《か》に乗ってからくも津軽へ脱した。それで蝦夷全土は幕軍の手に帰した。  金四郎は人夫達と一緒に城内にとめられていたが、幕兵が近づいてきたと知ると、ひそかに城を脱出して幕軍に投じた。彼は前駆の隊長に城内の秘密をつげた。松前城は総地域二万坪、本丸、二の丸、三の丸の城郭がある。南は海に面し、東北西に濠をめぐらしてある。  金四郎が人夫となって城内に入りこんだのは、こういう城の要害を知るためだった。彼はその知識をもって幕軍にむくいようとしたのだが、隊長は金四郎を信用しなかった。反対に敵の密偵あつかいして彼を拘禁しようとした。味方の中に彼を知る者がなかったゆえだ。  金四郎はよぎなく祖父の名を言い、養父鋭太郎と共に、蝦夷へ渡って、十余年苦心経営してきた身の来歴をのべた。同志と計って事をあげようとした、密謀のことも打明けた。無口な彼としては、精一杯の努力だった。彼は祖父を思い父を偲《しの》び真鍋の死を考えて、隊長の疑惑をとくのに必死となった。かつて表情をかえたことのない金四郎の青白い顔に、この時人を信じさせずにおかぬ切実さがあふれ出ていた。  隊長は金四郎の名は知らなかったが、祖父子竜の名は知っていた。幕臣として文化の三蔵の名声を、知らない者はいない。ことに行蔵の名は海内に名をふるった一流の兵法家として、幕臣達の胸に銘記されていた。民間に闊《かつ》歩《ぽ》して諸侯伯の招きに応じなかった意気も、高く買われている。金四郎はその家を嗣《つ》ぐ者だということで、大鳥や土方等をはじめ幕軍の諸隊長にひきあわされた。彼は歩兵頭に任命され、函館千代ヶ岡の砦《とりで》を守る中島三郎助の組に所属することになった。  蝦夷をおさめた幕軍は五稜郭を本拠として、函館、松前、江差に奉行をおき、和泉守榎本釜次郎を総督として独立の中央政府を組織した。新政府は海陸の兵備をきびしくして、北辺のまもりと蝦夷地内の治安の維持に任じ、各国領事や英仏軍艦の将士に応接して、外交貿易のことにあたった。新政府の抱負は徳川の血《けつ》胤《いん》を此処に迎え幕臣を収容して、未開の原野に独立の新天地を開拓する事にあった。  明治政府はもとより、そのような勝手な行動を許しておく筈がない。北地の雪解けを待ち、明治二年三月黒田清隆等を派遣して、函館政府を討伐させた。薩摩、長州、その他諸藩の兵数千からなる征討軍は、四月まず江差、松前を陥し入れ、海陸両面から函館に五稜郭の本拠にせまってきた。  榎本釜次郎、大鳥圭介等は軍艦を函館湾内にあつめ、陸兵を江差、松前の両方面にだして防戦につとめたが、兵力の違いと弾薬の欠乏で、形勢日々にちぢまるばかりだった。五月七日、函館湾内の幕艦三隻はほとんど全滅し、将兵は艦をすてて陸にあがった。  五月十一日、征討軍は海陸から総攻撃を開始した。函館幕軍のたてこもる所は、五稜郭と弁天崎の砲台と千代ヶ岡の砲塁三カ所にすぎない。この日新選組の土方歳三は、五稜郭方面で馬上から兵を指揮している間に、敵弾に腹をつらぬかれ馬から顛《てん》落《らく》して戦死した。  参謀黒田了介清隆はしばしば使をだし幕軍に恭順をすすめたが榎本等はその厚意を謝しながらもきかなかった。五稜郭には榎本、大鳥、松平太郎、荒井郁之助等がいる。弁天崎砲台には、永井玄《げん》蕃《ばの》頭《かみ》尚《なお》志《むね》、千代ヶ岡の砲塁には金四郎の隊長である中島三郎助父子がいた。榎本、永井、中島達はもと海軍の伝習生だった。安政の初年和《オラ》蘭《ンダ》の伝習艦が長崎へきた時、彼等は勝麟太郎などと一緒に、和蘭の士官等から海軍技術を学んだ。その時の同僚三人がそれぞれ最後の残塁の首領として運命を共にすることになったのは一奇といえば一奇には違いない。  五月十五日、函館市西端の岬角にあった弁天崎の砲台は、弾薬や糧食がつきて永井玄蕃以下二百四十人が敵にくだった。翌十六日、中島父子の死守する千代ヶ岡の砲塁は玉砕した。十八日、五稜郭の榎本、大鳥、松平太郎、荒井郁之助等千余人が降伏した。  金四郎はどうしたであろう。 五  千代ヶ岡は安政の頃、津軽藩守備隊の屯《とん》所《しよ》だった。それで旧津軽陣屋の名でよばれている。五稜郭の西南、弁天崎砲台の東北にあたる。平地の間にやや高い台をなしている。周囲に溝《みぞ》をほり、柵《さく》を設けて砦《さい》塁《るい》とした。樹木がしげり陣屋の家屋がある。幕軍はこの台地に大砲をすえて、征討軍を射撃した。  征討軍は軍艦の大砲を函館山上にひきあげて、弁天崎砲台を攻撃した。湾内にある軍艦も砲撃を加えてくる。それで弁天崎はついに降伏した。弁天崎の陥落は幕軍の士気を沮《そ》喪《そう》させた。五稜郭内の兵士等はひそかに濠をこえて、続々と脱走しはじめた。榎本等はそれを知って抗戦のむだなことを悟り開城を決意した。  ただ千代ヶ岡の隊長中島三郎助だけが、最後まで塁を死守した。中島は下田奉行の与力である。海軍伝習生から軍艦頭取までのぼったが身体が弱くて職を辞した。強《し》いてまた軍艦役につかせられ、結局榎本等と運命を共にするような事になった。彼が品川海を脱し蝦夷へおもむくにあたって、郷里へおくった歌がある。    嵐ふく夕の花ぞめでたかる      散らですぐべき世にしあらねば  中島は弁天崎が陥ちたと聞くと、敵の次の攻撃が千代ヶ岡にむかってくることを覚悟した。彼は敵の降伏勧告をしりぞけ、部下にたいして去りたい者は今のうちに去れと言ったが、誰も逃げさる者はなかった。  五月十五日の夜、明日の死を予期して中島は、壊《こわ》れかけた大砲に詰まるだけ多量の火薬をつめた。それでは弾丸が発射する前に、大砲の方が先に破裂してしまうであろうと部下がわらうと、 「俺は病身で働けないから大砲と一緒に砕けて死ぬんだ」  そういう彼の意見だった。中島は身体が小柄で、病身らしく痩《や》せて見え、その言葉はいたましかった。彼は二児をともなってきていた。兄恒太郎永保、二十二歳、弟房次郎永固、十九歳。中島は二人の子供等と最後の酒を酌《く》み、酔って手を叩《たた》きながら歌った。 「節に死するも意気地で死ぬも、武士の最後はアア桜花」  蝦夷に桜はなくても、五月は百花一時にひらく花の季節である。中島は齢四十九。彼は歌にたくして若者達の死をなぐさめた。  翌十六日、朝霧のはれない間に敵の砲撃が轟《とどろ》きわたった。中島は飛び起きて陣頭にたった。白兵戦である。溝濠を越え木立の間を匍《は》ってせまってくる、十数人の敵の姿が眼下に見えた。中島はそれを狙《ねら》って砲に点火させた。砲は破裂せずに敵影を一掃した。 「こりゃ、まだ役にたつ。どしどし撃て」  しかしもう間にあわなかった。背後の霧の中から急に現れた敵にとりまかれ、父子三人剣をとって闘いながら戦乱の間に斃《たお》れた。  金四郎は十数人の歩兵に槍《やり》をもたせ、濠側の柵の蔭に伏せていた。敵が濠をわたり柵を越えようとする時、起って敵を突き刺した。闘いにあまり馴れていない歩兵は一人を突き落すと再び伏すことを忘れて弾丸にあたり敵に斬られたりして次々と死んで行った。金四郎が大声で注意しても、上ずってしまって何もわからなくなっている。  金四郎は木立の間に匍《ほ》匐《ふく》をつづけながら、敵影を見ると走って行って刺した。三人四人の相手でも恐れない。霧と木立と持って生れた彼の沈着さが彼を守った。しかし死闘をかさねてゆく間に、さすがの彼も血相がかわってきた。青白い面は唇《くちびる》まで白く色を失い、眼じりは裂けるばかりにつりあがって、全身で喘《あえ》ぐような息づかいになった。槍の柄は手許まで血《ち》糊《のり》でぬるぬるした。拭《ぬぐ》ってもとれない。気がつくと拳《こぶし》も血まみれなのだ。彼は幾人敵を斃したのであろう。  いつか霧がはれ、あたりがひどく明るくなっている。台地の上に人声がなかった。彼我の銃砲声もハタと絶えてしまっている。知らない間に戦いはすんでいた。敵は中島父子を屠《ほふ》るといちはやく、五稜郭の方へ進撃して行ったのであろう。  到る所死屍の散乱している千代ヶ岡台上に、生き残っている者は金四郎ただ一人だった。彼は身に微傷すら負うていなかった。奇《き》蹟《せき》といおうか天《てん》佑《ゆう》なのか、金四郎はにわかに夢から醒《さ》めたような気持になった。  彼は槍をすて溝の流で、手に泥をつけ血を洗いおとした。それから流弾で死んだらしい人夫の襤《ぼ》褸《ろ》半《はん》纏《てん》をはぎとって、自分の軍服と着替え藁《わら》帯《おび》をしめた。人夫小屋から古《ふる》籠《かご》をさがしだして背に負い、頭の髻《もとどり》をきって散髪となり藁土をこすりつけ汚くした。  金四郎が溝を渡ろうとして、適当な場所を探しながら台地の廻りをうろついていると、数人の敵兵が後から追いかけてきて彼を誰《すい》何《か》した。弁天崎から五稜郭へ行く途中此処を通りかかったものであろう。 「儂《わし》ア、湯ノ川村の者です」 「何で今頃、こんな所にうろついている?」 「ここの陣屋の人達に、魚を持ってきやしたが、戦争で帰れないでおりやした」 「戦争のある所へ、わざわざ飛びこんでくる奴があるか」 「でもそのかわり、飛びきり高く買ってもらいやすでな。はははは」  金四郎は不敵な笑い声をひびかせた。驚くべき度胸である。つい先程まで死闘をつづけていた人間の昂《こう》奮《ふん》は、もう跡方もなく消えうせている。兵士達は疑をはらした。 「この濠は渡れるか」 「浅うごすが、泥が深え。ちょっとお待ちなせい、儂がこうして渡るから」  金四郎はその辺に散らばっている欠け瓦《がわら》や板《いた》屑《くず》を拾いあつめて、濠の泥に投げ敷きその上を踏んで渡った。 「じゃ、儂はこれで失礼しやす」  彼はわざとぶらぶらしながら、湯ノ川村の方へ姿を隠した。湯ノ川村は函館の東一里半、海に面し河岸に温泉がわく。金四郎は湯ノ川村北方の山中に、四、五日ひそんでいた。五稜郭がおちて敵の警戒がゆるんだのを知ると、山伝いに峠下の我が家をたずねた。ほとんど一年ぶり近い。函館へ移ってから、冬の積雪とその後の戦争騒ぎで訪れる機会がなかった。  峠下の部落は、綺麗に焼きはらわれていた。松子の実家の村をたずねてみると、そこも兵《へい》燹《せん》にかかって消えうせていた。松子や三人の幼児等は、何処へ避難したのであろう。それとも戦争のいけにえとなって、死んでしまったのであろうか。金四郎は松子が幼児を背に負い、子等の手をひきながら遁げまどう幻をみた。  金四郎は重い眩暈《めまい》におそわれた。彼が最後に忍んで行った夜、無心に眠っていたおさな子等の寝顔が思いだされた。泣きながら彼の髪をととのえ、鬚《ひげ》を剃《そ》ってくれた若い松子の面影も忘れられない。彼は我が妻子にたいし、何という罪深いことをしたのであろう。 「罰だ。罰があたったんだ」  金四郎は孤影悄《しよう》然《ぜん》とした我が身をかえりみた。襤褸半纏に身をやつし藁縄を帯代りにしめ、何処に身を置くところもない。彼は再びとぼとぼと、我が家の焼け跡へひきかえしてきた。それから裏山の岩屋へ林を分け入ってみた。そこばかりは彼が去った時と同じ姿だった。とど松の叢《そう》林《りん》が厚く枝葉をかさね、陰森としたもの静さである。  真鍋の死骸を埋めた跡は、まだ盛土の高さをとどめていた。深い積雪も彼の死骸をそこなわなかったものと思われる。金四郎はその前に膝《ひざ》まずいて合掌した。 「真鍋堪忍してくれ。俺達は敗れたよ」  金四郎は涙を落した。ぼろぼろこぼれ落ちる涙を、両手で押えた。彼は声を忍んで泣きつづけた。冷静そのものだった彼も、この時の悲しさは堪えられなかった。戦いにやぶれたばかりではない。金四郎は自分の生にも傷《やぶ》れたのである。  叢林の梢《こずえ》で、鴉《からす》が一声二声「がア」と啼《な》いた。蝦夷の鴉は内地の鴉よりも声が大きい。樹林が深く土地が広いためだろうか。そのかわり寂しくはひびかない。いかにも悠《ゆう》々《ゆう》としている。鴉の一声は叢林の静寂を破り、金四郎を悲みから呼びさました。彼は暫く盛土の跡を眺めた後、大地に両手をつき礼をしてたちあがった。  金四郎は山々を東南に横断して、河《かわ》汲《くみ》の海岸へ出てきた。河汲は太平洋にのぞむ、白砂の浜の河口にある。人目をさけるため、夜をえらんだ。二十日をすぎた下弦の月が、無人の浜と静な海を照していた。日本海から太平洋へ落ちる津軽海峡の潮は、魚ものぼりわずらうほどに速いけれども、半島東端の恵《え》山《さん》岬《みさき》をまわれば海はおだやかだ。  河口に出てみると、漁船が幾艘かつないである。金四郎はその一つに乗って、河から海へすべりだした。彼は内地へかえるつもりだった。落《おち》人《ゆうど》の身でもう蝦夷にはとどまっていられない。内地へ帰っても危かろうが、蝦夷よりはいくらか安全だ。それに何よりも内地がなつかしい。妻子もなく友もいないとすれば、何を希望に辺土に生きていられようか。  河汲から下北半島の東尖《せん》端《たん》、尻屋岬までは、海上十数里の距離。しかし岬附近は潮が渦巻いている上に、断《だん》崖《がい》と乱礁とで船は近よれない。迂《う》回《かい》して南へ下らなければならぬ。潮にさからわず遠廻りしてゆくつもりならば、扁舟にすぎなくても海上の荒れないかぎり難破の憂はない。  空には北斗七星が爛然と耀《かがや》いていた。澄みわたって繊《せん》翳《えい》もない北海の夜空である。半弦の月も星の光も、黒曜石の面にちりばめられた宝石のような鮮麗さだ。  金四郎は北斗を目あてに舟の位置をはかりながら、双腕に力をこめて櫓《ろ》を漕ぎつづけた。金銀のうねりに波うっている蝦夷の海を、今宵かぎり去ってゆくかと思うと、寂《せき》寥《りよう》ともつかぬ縹《ひよう》渺《びよう》とした神気におそわれた。 少年死刑囚  左記の書は、昭和二十三年二月、某地方裁判所で死刑の言《いい》渡《わたし》をうけた、昭和六年一月生、当時かぞえ年十八歳の少年の手記である。少年の犯罪は、強盗殺人、同未遂、放火未遂。  私は罪《ざい》業《ごう》の子である。罪の子として生れ、罪の子として育ち、罪の子としてはてる。十八年の生涯をかえりみて、犯した罪以外に何の意義も、我が生活に見《み》出《いだ》すことができない。私はただ罪を犯すためにのみ、この世に生れ出てきたのであろうか。呪《のろ》われた私の生存であり、私の恐しい宿命である。死刑は当然にして、しかも私に似つかわしい、生の結末であろう。  私は西国の生である。父は四人きょうだいの中、唯一人の男の子だったから、両親から愛された筈《はず》だが、それほどではなかった。  父は無口でぶあいそだった。陰気でめったに笑わない。可愛気のない子だというので、勝気な生母からはことにうとまれた。  父は若い時分、いろいろ職をかえた。商店の小僧になったこともあるし、陶器工場の職工になったこともある。何《ど》処《こ》もなが続きしなかった。  父は祖母のえらんだ女を嫌《きら》って、他の女と私通し私を生んだ。その女は紡績女工だったともいうし、もっと卑しい身の上の女だったとも云われている。祖母は私の母を、家に入れなかった。私は生母の顔も名も人柄も、その生死すら知らない。  父は私を祖父母の手に残し、家を出て満洲へ渡った。私の母の事で、両親と争ったためであろう。私の祖父母は花柳界の片《かた》隅《すみ》に、小さな雑貨屋をいとなんでいた。父がいなくなれば、私の祖父母は将来、私にたよらなければならぬ。そこで私は、祖父母から大事にされた。孤児という憐《あわれ》みも、あったに違いない。  母をもたぬ私は、なま牛乳やミルク、豆乳、重《おも》湯《ゆ》、葛《くず》湯《ゆ》などで育てられたため、幼時はひよわかった。五、六歳の頃だったであろうか。私は風邪から、肋《ろく》膜《まく》炎《えん》にかかったことがある。  重病だというので、祖父母は私の看護に手をつくした。近所の人々や知合の人達が、菓子や果物や絵本などを見舞に持ってくる。私はいい気になって、病の永びかんことを祈った。熱がさがることをおそれて、体温計を火鉢であたためたりした。  人をいつわる事を知ったのは、これが最初である。すくなくとも、最初の記憶である。私は六、七歳の頃から、絵本やお伽《とぎ》噺《ばなし》や漫画の本などを読むことをおぼえた。紙芝居も好きだった。ところが芸《げい》妓《しや》街《まち》なので、十二、三歳の子守や下地ッ子が、塵《ちり》紙《がみ》、蚊やり、日用品の類を買いに、私の家へよくやってくる。そしてそのついでに、暇つぶしや買《かい》喰《ぐい》のため、私の所であそんでゆく。  私は彼女達からいつともなく、仮名文字を読むことを教わったばかりでなく、男女間のことをはやく知るようになった。むつという十三になる子守女は、裏の納屋へ私をつれこみ、私のものをおもちゃにして遊んだ。背の赤ン坊が泣きだして、納屋に隠れていた私達は、祖母にあやしまれたこともある。  小学校に通うようになると、私はもう平気で幼い女の友達と、男女の戯れを真《ま》似《ね》するようになった。異性さえみると、すぐそのほうへ気をとられる。十六、七歳の肉附のよい芸妓の湯上り姿などに出会うと、身体《からだ》がふるえて痺《しび》れるような気がした。  一方私は年をかさねてゆくにつれて、両親のいないことに、大きな不平と友達にたいするひけ目を感じるようになった。学校友達が父母にあまえている姿をみると、堪えられなかった。そのため祖父母にあたりちらした。祖父母から機《き》嫌《げん》をとられると、かえって悪くなった。私はひねくれ、すべての事に不満をもち、祖父母や友達や世の中へ復《ふく》讐《しゆう》してやりたくなった。私は祖父母のいうことを一切きかず不従順になり、我《わが》儘《まま》一杯にふるまった。  私の小学校は、男女共学だった。三年の時、同級にいく子という少女がいた。私はひそかにこの少女に思をよせるようになった。私は学校の帰り、彼女を野あそびにさそったが、彼女は私の勧めにしたがわなかった。その後彼女はいつも、友達と一緒に家へかえる。  私はいく子の機嫌をとるために、家の金を盗んだ。店の売上げの金は、祖母がきびしく保管していた。毎夜おそく店をしめてから、祖父を相手に売上げを勘定した。私の盗は、すぐ祖母に発見された。  私は近所の芸妓屋へあそびに行き、芸妓の鏡台をあけて金を探しているところを、女中に見つかった。私は芸妓の化粧道具に、興味をいだいている風な様子をして白《しら》ばくれた。 「あら、この子はもう、色けづいてきたのかしら」  女中は私の芝居にだまされた。私は映画をみたり、大衆雑誌を読むようになった。私は早熟で、空想好きだった。自分を中心に、世の中のことが万事自分の思い通りになるように考えて、毎日を上の空で暮した。  予習、復習なぞ、もとよりしない。勉強や強制されることは、何より嫌《きら》いだった。自分のやりたい事、好きな事だけに耽《ふけ》っていたかった。私は自分にあまい祖父母を、なんとかかんとか胡《ご》麻《ま》化《か》して金をせびり、映画をみに行った。映画は私の空想を刺《し》戟《げき》して、かぎりなく面白かった。  私は決して勉強しなかったけれども、学校の成績はさほど悪くはなかった。 「浩さんは、どこか人と違ったところがあるよ」  そんな事を近所の人から云われて、子供心に得意になっていた。勉強は嫌いだったが、好きないく子の手前、できるふりをしたかった。 「宿題をやってきたか」  先生から聞かれる度に、私は必ず「はい」と答えた。すこしでも不安な表情をしたり、あわてた様子をみせたりしては、嘘《うそ》を見破られると思って、私はきわめて自然に、先生の前でにこにこ笑ってみせた。  私はそんな芝居をつづけている間に、嘘を嘘でないと信じていれば、他人は看破できるものでない、という事を悟るようになった。そして不思議なことにはその後、私には嘘と真実の境がしだいに不分明なものになってきてしまった。嘘も私が嘘でないと信じれば、真実なものとなってしまうからである。反対に真実を嘘だと思えば、嘘になってしまう。私が真偽、善悪の識別感をうしなってしまったのは、少年時代のこうした習癖からだった。  人は私の犯した罪の極悪さから判断して、私を一種の精神病者、ないし天成の異質者とみなすかもしれぬが、私自身にはすこしもそうした自覚はない。私は私の少年時代をかえりみて、私の意志薄弱さは云わでものことだが、私を育ててきた環境の不潔さと、運命の不幸をより強く感じないではいられない。私に父母があったら、そして私がもっと健全な環境に住んでいたら——そういう悔と悲《かなしみ》に、私は胸をひきさかれている。  小学校の四年、五年とすすむにつれて、私の盗癖は膏《こう》肓《こう》にいってきた。はじめはいく子を悦《よろこ》ばせたさに、金をとって雛《ひな》人《にん》形《ぎよう》など買ったりしたが、いく子が私を顧みないことがわかると、今度私自身のために物を盗り、後には盗することがあたりまえに、面白くさえなってきた。つまり嘘に平気になれたように、盗も私には悪事とは考えられない。悪事と考えたり感じたりするのは他人の事で、私にとっては猿がほしい物を手にとると変らぬ、無意識の行動となった。これまた心を左様に、訓練した結果だったかもしれぬ。  誰でもそうかもしれぬが、私は六つ七つの頃から、高い所に登るのが好きだった。屋根にのぼり樹にのぼり、祖父母をはらはらさせた。私の家は街並にあった。隣家との間は左右とも、僅《わずか》しか離れていない。屋根伝いにあるこうと思えば、一町内をまわることができる。  私は身軽で、すばしこかった。町内の人々の眼を忍んで、鼠《ねずみ》のように音をたてず家々の屋根をわたり歩き、物蔭からよその家の二階座敷の様子をうかがったりするのは、たまらぬ魅力でありスリルでもあった。  私は四年生の五月非常な苦心をして、西洋館建になっている、町の大きな文房具屋の三階によじのぼった。そこは商品の物置になっていた。私は窓から忍びこんで、かねがねほしがっていた万年筆や、服のカラア、その他の文房具を手当り次第にぬすみとった。太平洋戦争も三年目に入り、物資が欠乏してきた頃なので、これ等の獲物は私をひどく悦ばせた。  文房具屋の隣は、本屋だった。私はその二階に入って、好きな大衆小説の本を数冊とってきた。それから二階の屋根に匍《は》いのぼって、廂《しよう》上《じよう》の陽だまりに隠れ、壁によりかかってその一冊を悠《ゆう》々《ゆう》と読みだした時には、幸福感が胸いっぱいにあふれてきて、この世に恐しいと思うものは何もなく、天下の第一人者になったような気がした。  文房具屋も書籍商も、私の家から二、三町離れていた。私は本がほしさに、度々危険を冒《おか》して本屋の二階に忍びこんだ。そしてついに、そこの主人に掴《つか》まえられた。主人は部数のきまった本のなくなるのに不審をおこし、網をはって私の入りこむのを待っていたのである。  私は本屋の主人にひどく叱られ、頸《くび》根《ね》ッこを押えられて、私の実家へひきずって来られた。祖父は留守で祖母が一人店番をしていたが、本屋の主人にひらあやまりにあやまって、私がこれまで盗んだ本の代価をはらい、ようやく私をゆるしてもらった。  勝気な祖母は、その後目だって私をうとんじるようになった。しかし、祖父母にたいしヒネくれていた私は、それを少しも苦に思わず、かえって祖母に反抗した。六十歳をすぎた祖母は、口でも体力でももはや私に敵《かな》わなかった。祖母は気を苛《いら》立《だ》てすぎて、身体をわるくした。 「私はこのぬすっとに、殺されてしまう」  祖母は憎々しく告げ口して、私のことを祖父にうったえた。好人物の祖父は、だまって溜《ため》息《いき》ばかりついていた。私の盗癖は、その後もやまなかった。  昭和十八年の冬、私が国民学校の六年生の時、父が満洲からとつぜん郷里へかえってきた。じつに十余年ぶりの帰宅である。  それほど長く住みなれた土地から、父がどうして生活の不自由な内地へ帰る気になったのか、子供の私にはわかりようがなかった。人々はむしろ、食糧物資のゆたかな外地へゆくことを、望んでいたくらいだった。おそらく父の帰国には、何かよぎない事情があったに違いない。  しかし老いた祖父母は、思いがけない父の帰りを、涙をながして喜び迎えた。物資の統制や食糧の配給は、長い人生を生きてきた老人達にとっては、初めての経験だった。なにもかも不足だらけ不自由がちの生活は、昔気質《かたぎ》の祖父母等にはやりきれなかった。 「これから先、日本はどうなるのだろう」  病身の祖母は、毎日そんな愚痴ばかりこぼしていた。 「こんな世の中が、長くつづくくらいなら、一日もはやく死んでしまいたいものだ」  老婆の絶望は、少年の私にも影響した。大衆小説など読んで、空想ばかりさかんだった私は、祖母と同様心のどっかで、悪い世の中を呪《のろ》っていた。経験がないだけに、こういうなかば無意識にちかい呪いは、一層危険だった。私の盗癖は私の生れつきだったとしても、悪い世の中の影響が皆無だったとは云えない。物がなくなれば、人はそれを盗《と》りたくなる。  気弱くなっていた祖母は、父の顔をみると生きかえったように元気になった。父を憎んでいたことを忘れたばかりか、昔父につらくあたったことを詫《わ》びさえした。そして私にまで優しくなった。  私はまた、初めてみる父というものが、珍しくてならなかった。世の中にたいして、急に肩身がひろくなったような気がした。友達にむかっても、ひけ目を感じなくなった。私は父に見せたいばかりに、今まで手にしたこともない学校の教科書を机の上にひろげて、毎晩勉強する風をよそおった。  しかし、父のつめたい気質は、依然として変らなかった。赤ン坊の時見すてた子供が、大きな少年になっている私の姿をみても、べつ段感動した様子はなく、珍しがりさえしなかった。ほとんど他人の子みたいに、関心をはらわない。私はこういう父の態度に、親みにくいものを感じた。  父はまだ四十代である筈なのに、頭髪がうすく頭が禿《は》げかかっていた。顔色は青白いというより蒼《あお》黒《ぐろ》く、両眼に凄《すご》味《み》があった。父は無口で、笑うということがない。毎日黙って、莨《たばこ》ばかりふかしていた。  父は品物を沢山もってかえらなかった。かわりに金や貴金属は、かなりふんだんに持っていたらしかった。父は祖父母の厄介にならずに、自分の生活費は自分の懐《ふところ》からだした。父は闇《やみ》の高い酒を買って飲みさえした。  私はその頃、中学へあげてもらうことを、祖父母にねだっていた。勉強したいからではなく、私の虚栄心のためである。私は同級生の誰彼が中学へ行くのに、自分の取残されるのが堪えられなかった。  私は祖父母がささやかな雑貨屋を営んでいるにもかかわらず、長い間つつましやかな生活をおくることによって、相当小金をためていることを、暗黙のうちに心得ていた。私は祖父母の跡継ぎにされているのを幸い、もし中学へやらなければ不良になって、この家をつぶしてやると祖父母を威《おど》していた。  祖母がある日、私の希望を父に話した。父は案外わけなく、私の望をゆるしてくれた。私の学費を、父がだそうというのである。父が外見ほど、私に冷淡でないことを知って、私は勇みたった。  私は中学の受験準備にとりかかった。私は幼時から乱読してきたお蔭で、国語、歴史、作文などの成績は、人に負けなかった。その他の暗記物もわるくはない。苦手は数学だった。  私はなにか将来への希望にあこがれ、私としてはめずらしく真《ま》面《じ》目《め》に勉強した。私はもはや大衆小説を読まず、映画もみなければ女の子にも戯れなかった。もっとも附近の芸妓屋は、自粛的に休業させられていたので、家へ遊びにくる女の子もいなかった。私が自分の短い生涯をふりかえってみて、もっとも真面目でありかつ幸福だと思ったのは、じつにこの時期だった。  翌年の春、私が首尾よく中学へ入れたのと前後して、父は神奈川県の保土ヶ谷へ行くことになった。満洲時代の父の友人が、軍需景気でさかんなその土地へ、父をよんだのである。父は郷里にいても、何もすることがなかった。保土ヶ谷へゆけば会社工場の物資あつめをしても、充分生活ができるという話だった。  祖父母と半年ちかく同居している間に、父はやはり祖父母から独立して生活してゆくべき人間であることが、双方に了解されるようになった。独身で無為にくらしている父の陰気な存在は、祖父母の気持の負担になった。満洲を放浪してきた父は、田舎《いなか》町《まち》のささやかな雑貨屋の主人として、おさまっていられるような人柄ではなかった。  祖父母は父の出発を、むしろ喜んで見送った。しかし私にとり父との別離は、なにか大きな力が自分の体内から飛去ってゆくような感じだった。冷淡な親みにくい人でも、父は父である。父は私のはっきりした希望でも喜びでもなかったが、それに似た或《あ》る感情を私の心にうえつけた。それがまだしっかり根をはらない間に、父は私の側から離れさった。私はいつともなくまた、生活のはりを失ってしまった。  私は中学で初めて習う英語や漢文に、容易になれることができなかった。数学にも困った。小学校時代のように、胡麻化してすごすわけにはゆかなかった。私が怠《なま》けていれば、それだけ学科の進行におくれてしまう。一度おくれると、その取返しがつきにくい。しまいには何が何やら、五里霧中になってくる。そうなると学科が面白いどころか、自分の心を重く圧《お》しつけてくる恐怖の的だ。  私の一学期の成績はひどく不良だった。私は学校に絶望して、しだいに通学をサボるようになった。頭が痛いとか熱があるとか云って学校を休み、ふたたび大衆小説に親みだした。それからさらに菊池寛や長谷川二葉亭の物などへすすみ、飜《ほん》訳《やく》のモンテ・クリスト、椿《つばき》姫、サフォ等、なんでも手当りしだいに読みちらして、自分一人の空想にふけった。  祖母は父の出発後、また身体が悪くなった。どこがはっきり悪いというわけではなく、一種の老衰であろう。一日の半分は寝床に横になって、ぶらぶらしていた。祖父は毎日鋤《すき》鍬《くわ》をかついで町裏の畑へ野菜づくりに出かける。商いの品物がなくなって、商売は休業も同様だった。  私は祖母とよく喧《けん》嘩《か》をした。祖母は学校へゆかずに、配給物をたらふく喰べて、のらくらしている私を憎んでいた。私もまたそうした祖母の気持に反《はん》撥《ぱつ》して、わざと不《ふ》貞《て》腐《くさ》れてみせる。  私は祖母のいうことはきかないし、祖母の吩《いい》咐《つけ》や頼みにも応じない。一度祖母は《かん》癪《しやく》をおこして、私に鋏《はさみ》を投げつけた。鋏は私の腕に刺さった。私は、祖母の寝ている部屋へとびこんで行って、祖母の腰を足《あし》蹴《げ》にした。そのため祖母は、二、三日動けなかった。  私は怒に逆上すると、兇暴になる。私は父の怒ったのを、見たことがない。しかし父のそばにいると、時にひやっとするような不気味な恐しさを感じることがある。暗い穴をのぞいているみたいだ。父は満洲を放浪している間、どんな生き方をしてきたのであろう。私の体内にもこういう不気味な父の血が、まだ目ざめずに流れているのであろうか。  私はよそへ下宿させられた。祖母は私と一緒にいると《かん》を昂《たか》ぶらせて、身体がまいってしまう理由からである。学費は父からおくってくるので、私を下宿させても祖父母の負担にはならない。配給物がだんだん減ってゆく折柄、かえってそのほうがいいのだ。喰べざかりの私は配給食で足りずに、祖父母のぶんまで喰べた。それでも足りないので、買喰や盗み喰をした。  私の下宿させられた家は、もと書籍商だった。主人が工場へ徴用されたので店をしめ、二階に私を下宿させたのである。二階の隣室には売残りの書籍雑誌の類が、沢山積んであった。書物好きの私にしてみれば、まるで宝の庫《くら》へ入れられたようなものである。  私は学校を休んで好きな本をむさぼり読み、通学の時には鞄《かばん》の中に教科書よりもそれ等の本や雑誌を、いっぱい詰込んでいった。そして読みおわったものから、古本屋に売払って買喰をした。後には値のいい本を盗んで売り、買喰と映画の代にあてた。  下宿の主人は几《き》帳《ちよう》面《めん》な男だった。町内に新設された軍需工場へ通っていたが、工場の仕事にはいっこう興味をもたず、時々二階へあがってきて好きな書籍の整理をした。彼は後に高くなるような戦前の書物を、売らずに残しておいた。  主人は私の盗を発見すると、私を祖父母の所へ追いかえした上、私の罪を学校へ通告した。そういう気質の男だった。私は危うく、退校処分にあうところだった。私の空涙と祖父の陳謝が、処分から私を救った。私は転校の形式で学校をやめ、祖父によって、保土ヶ谷の父の所へ送りとどけられた。  父は結婚して、保土ヶ谷に世帯をもっていた。父の景気はわるくはなさそうだったが、父は私の罪を怒って私を工員にしようとした。新しい母が父と私の間をとりなして、私を横浜のミッション・スクールに転校させた。もっともその頃、ミッション・スクールの祈《き》祷《とう》や礼拝や聖書の講演は禁止されていたが。  初めて会った私の新しい母は、三十前後で初婚だった。父とは十幾つ齢《とし》が違う。横浜うまれで気のやさしい人である。母は私の不良な性質を、ふかく見ぬく力がなかった。ミッションに入れれば、矯正できるぐらいに考えていたらしかった。母は私が父の前でこぼした空涙に、瞞《だま》されていた。  私はいつ、何《ど》処《こ》ででも、自由に空涙をこぼすことができた。べつに修練をつんだわけではない。罪の自覚がなかったから、感情が冷静で必要に応じ、どんな芝居も巧《たくみ》に演じることができる。私は新しい母の前では、ことに殊勝らしく態度をよそおった。  しかし私は父の所に、四《よ》月《つき》といたたまれなかった。早生れの私は声がわりして、そろそろ若者になりかけていた。春になる前の気象のうつりかわりにも似た、感情のはげしい嵐にもまれて、自分の中心がとれず安定が保てなかった。 「ああ、こんな事をしてはいけない。こんな事をすれば、身の破滅となる」  そう予覚し警戒していながら、次の瞬間にはもう破滅の中に身を溺《おぼ》らせている。自分の力で自分を制することができず、波に漂《ただよ》う小舟のようにその場その場の感情や気持に支配されて精神が散漫になり、少しもじっくりと落着くことができない。こういう統一のとれない自己分裂を、私は涙がでるほど悲しくなることがあったが、私自身の努力ではいかんともしがたかった。  少年期から若者にかわる際のこうした感情の激動は、私一人の現象だったのであろうか。快活であるかと思えば急に沈《ちん》鬱《うつ》になり、沈鬱かと思えば今度は狂気じみた亢《こう》奮《ふん》におそわれる。他人の気持と同調することができず、感情の平衡がとれない。絶望、希望、自殺、狂気、そんな気持がめまぐるしく回転して、我ながら何をしでかすか不安でならなかった。  私は電車で通学中、乗客の物をすりとることをおぼえた。朝晩の電車は横浜をはじめ京浜間の工場地帯に通勤する工員を主に、乗客を満載して身動きがとれなかった。そのような混雑の中で、人の物をすりとり品物を掻《か》っ払うことなどは何でもなかった。しかし通勤の工員等は弁当ぐらいがおもで、ろくな物はもっていない。  私は父の家から、金や品物を盗みだしはじめた。父は新世帯にもかかわらず、箪《たん》笥《す》、長《なが》火《ひ》鉢《ばち》、鏡台などの家財道具を、一通りとりそろえていた。闇でなければ当時そのような品物の手に入る筈はないから、父はよほど金まわりがよかったのであろう、晩酌もかかさなかった。父は工場の物資課に勤めていた。  私は母の針箱や鏡台のひきだしにしまわれてある箪笥の鍵《かぎ》をみつけだして、箪笥の小引出から金を盗んだ。戦争末期の瀕《ひん》死《し》状態にあった横浜は、私が生れそだった西国の田舎町からみれば、やはり大都会だった。無いといってもまだ、いろいろな品物や観物がある。私は腹のひもじさをみたすためにも、金がほしかった。  新しい母は私の盗に気づいたが、最初の一、二度は見のがしてくれた。三度目に父に告げ口した。私は父からひどく、叱りとばされた。私は腹立のあまり、家を飛びだしたが、夜中になって帰ってきた。母が寝ずに待っていてくれて、戸をあけ私を家の中に入れてくれた。  このような事が、二、三度あった。父はまったく私に口を利かなくなり、明《あきらか》に私を憎みはじめていた。母ももはや、私をかばってくれようとはしない。私によそよそしくなり、私を警戒している。私はだんだんヤケになってきた。そのうえ、故郷をはなれて初めて未知の土地へ出てきた私は、何処へ行っても見知らぬ人々ばかりなのを幸いにして、大胆に図太くかまえるようにもなっていた。  箪笥の鍵をかくされた私は、場末の古道具屋から合鍵をさがしだしてきて箪笥をあけた。鍵を肌《はだ》身《み》はなさず持っていた母は不思議がって、私の行動をそれとなく見張っていたらしかった。私が夜中に起きあがって、合鍵で箪笥をあけようとしていると、母が寝室に電気をつけた。私は便所へゆく途中、寝ぼけて座敷へ迷いこんだ風をよそおって、その場を胡麻化した。  翌日、私が学校から帰宅してみると、私が隠しておいた筈の箪笥の合鍵が、私の机の上においてある。私はぎくりとした。母は夜中の私の所業に感づいて、私の持物を調べたらしい。そして合鍵をみつけだして、これみよがしにわざと机の上に置いたものに違いない。  私はこれでもう、父の家もだめだと思った。それで母が配給物をとりにいった隙《すき》を窺《うかが》い、合鍵で箪笥の小引出をあけ、あり金全部を盗みだして、私の僅《わずか》な持物を携え、家をとびだした。  私はまっすぐ東京へ行った。東京はかねてから、私の憧《あこが》れの都だった。私は保土ヶ谷にいながら、まだ東京を知らなかった。私は銀座へゆき、上野へゆき、浅草へ行った。それ等の土地はまだ何処も爆撃されていなかった。  おおかたの家は戸を閉ざしている商店街を、満員電車がはしり、国民服をきた人々が巷《ちまた》にあふれ、黙々として道を歩いているけれども、街や人々の姿に生色がない。無人の都のような、灰色のさむざむとした風景である。しかしさすがに大都会の大きなたたずまいは、田舎者の私を威圧した。  私は金があるままに、店をひらいている喫茶店や食堂なら何処へでも入りこんで、味のない飲物やへんな喰べ物を、やたらと腹へつめこんだ。そして浅草六区の映画館に入り時をすごした。  映画がはねると、また夜店の物をつめこんで、附近の宿屋に泊った。私は寂しくも心細くもなかった。父の家を出て、私の自由をとりもどしたような気がした。  私は父に反感をいだいていた。父が満洲から帰ってきた当時、父は私の悦びであり心のささえだった。保土ヶ谷へきて、その幻影はくずれた。結婚した父にとっては、私は余計者だった。父は若い妻に満足し、金にめぐまれた現在の生活に、幸福をかんじているらしい。私だけが父の幸福を、邪魔している。  父が独身だった時には、父が私に冷淡であっても、さほど気にかからなかった。しかし、今はそうではない。私は私を疎外して、自分一人悦にいっているような父が、面白くなかった。私は父に叱られると、ひねくれた。新しい母のやさしい心づかいや遠慮も、ひねくれた私には無効だった。私は工場から帰ってきた父が、母と共に私の盗や家出におどろき憤慨している様子を想像して、ひとりほくそ笑んだ。  その夜、警察の臨検があった。私の家出がばれて、私は署に留置された。おそらく宿の者が私の様子をあやしみ、警察へ密告したものに相違ない。嘘を云いなれた私も、とっさの事で警官の尋問を胡麻化せなかった。  あくる日、警察から呼出されて、父が私をひきとりにやってきた。父は警官の前ではひたすら恐縮して、自分の監督不行届をわびていたが、私をつれて一歩署の外へでると、掌《てのひら》をかえしたようにつめたくなった。  父と私は隅《すみ》田《だ》川《がわ》のほとりに出た。河《か》畔《はん》のベンチに腰をおろして、父はだまって川の流をみていた。二月だったが風がないのでそれほど寒くはなく、対岸には青くうす靄《もや》がたちこめていた。  父は胸に紫の紐《ひも》のついた純毛の国民服をきて、戦闘帽をかぶり革《かわ》靴《ぐつ》をはいていた。物資不足の折柄、それ等はいずれも父の自慢の品物だった。私は学帽に国防色の木綿の制服をきて、破れ靴をはいていた。私は表情をかたくして、父の側にうなだれていた。私の心はその時、トゲだらけだった。私は自分の悪事について身を護ろうとする時、いつもそんな心構えでいる。  父は私の顔を、一度も見ずに云った。 「もうお前は俺の子ではなく、俺はお前の親でもない。お前には、何を云ってきかせても無駄だ。何処へでも、お前の好きな所へゆくがよい。死ぬるも生きるも、お前の勝手だ。二度と俺の所へ、帰ってくるな」  私の盗んだ金の使い残りは、警察でとりあげられて父の手にかえされていた。父は私の蟇《がま》口《ぐち》に数枚の紙幣を残して、ぷいとベンチをたつとそのまま振りかえらずに立去った。  私は顔をあげなかった。一人ベンチに取残されながら、父の最後の言葉を心に反《はん》芻《すう》していた。そしてニヤリと笑った。反抗の笑ではあったが、その笑はつめたく私の唇《くちびる》に凍りついた。私は心ぼそく、奈落につきおとされた感じだった。  私は東京駅から汽車にのって、四カ月ぶりに西国の祖父母のもとへ舞いもどった。  私は父や継母に虐待されて、保土ヶ谷をにげだしてきたように、祖父母の前で空涙をこぼした。私が家にいなくなってから、いくらか寂しさを感じていたらしい祖父母は、たやすく私の嘘《うそ》を信じて私の帰宅をゆるしてくれた。  祖父は父に手紙をだして私の帰郷を報《し》らせ、私の移動証明書をとりよせた。父はすぐ証明書をおくってよこしたが、私については何も云ってよこさなかった。もはや私を自分の子供と、考えなかったのであろうし、またすっかり厄介払した気持で、ことさら私の罪をつげる心にもなれなかったものらしい。  私は郷里へ帰ってきても、ふたたび学校へ通う気はなかった。学校にあきていたばかりでなく、学校へ出たところで勤労奉仕にこき使われるにすぎなかった。といっていつまでも祖父母の家に、ごろごろしているわけにもゆかなかった。配給の食糧はいよいよ少くなり、私は空腹にたえない。また祖母との争が、はじまりそうでもある。祖母は相かわらず病身で寝たり起きたりしていた。  私は祖父の知人によばれて、九州へ行った。知人は小さな工場を経営していて、軍需工場の下《した》請《うけ》負《おい》をやり飛行機の部分品をこしらえていた。祖父は私のことを知人に頼んでやったのであろうが、私は労働を好まなかったし仕事もつまらなかった。私は給料をもらえることや、食事が充分とれそうなことにつられて其処へやってきた。土地や生活の変ることにも、心を惹《ひ》かれていた。  私は祖父母のところにいる間に、朝寝夜ふかしの癖がついていた。もともと強制されることの大《だい》嫌《きら》いな質《たち》であるうえに、はたらく事に興味がない。私は労働をなまけて、ちょいちょい主人の金を盗み、買喰や映画みに費消した。  サイパン島が昨年の六月におちて、アメリカの飛行機が本土を空襲するようになってきた。九州の海軍工《こう》廠《しよう》で新設計の飛行機の大量生産をはじめようとしている時に、敵機に襲われて工廠は徴《み》塵《じん》になった。それで主人の工場も、仕事がだめになった。  私は主人の紹介で、某重工業会社の工員になった。私は工員の寮で仲間と雑居生活をしている間に、仲間の金品をぬすんで見つけられ、彼等から袋《ふくろ》叩《だたき》にされた。私は寮にいたたまれず、会社の金を盗《と》って逃亡した。  私はそれから東へ行き西へ行った。何処でも工員が不足していて、私は働く場所に事欠かなかった。私は色白の生れつきで、一見やさしい顔をしている。初めて私に会った者は、誰も私がおそろしい不良性をおび、盗みの常習犯だなどと気づく者はない。私がしおらしい様子をして、口から出まかせの嘘をつけば、移動証明がなくても人は私を信用して使ってくれた。  私にはまじめに働く気持は、少しもなかった。私が工場や会社へ入るのは、ただ食事ができるためと金品をかすめるためである。そのうち私は浮浪児となり、専門の盗賊となった。軍需会社や工場の証明がなければ、汽車に乗れない時代だったが、私は駅員や車掌の眼をかすめ、いつでも汽車にただ乗りして、何処へでも自分の好きな所へ行くことができた。子供の頃街の家並を屋根から屋根へ、走りまわった敏《びん》捷《しよう》さをもってすれば、汽車のただ乗りなど私にとっては自由自在といってもよかった。  またまっ暗な燈火管制は、窃盗には絶好の機会だった。自転車の掻っ払い、駅待合室における荷物のもちにげ等、何でも容易にできた。空襲のどさくさ時にいたっては、他人の家にいりこみ金品を盗みだすことなど、道路で物をひろうよりもたやすかった。  私は盗んだ品物を自転車につみ、農村にもって行って食糧にかえてくることをおぼえた。その食糧品をさらに町へもってくれば、何処の家でも喜んで高値で買ってくれる。私はそれ等の家々の様子を、それとなく見ておいて夜分盗みにはいった。  私は金はもう、さしてほしくはなかった。金をもっていても買える品物が少くなり、物々交換の時になっていた。私は盗みに入ると、まず食物をねらった。昼間売りこんだ食糧が、調理されて台所に貯蔵されているのを発見した時など、愉快さに思わず笑いだしたくなった。  私は次にほしいと思う品物を物色した。私は万年筆をもち腕時計をはめていた。シャツもズボンも服も帽子も靴も、汚《よご》れたり破れたりしているものを身につけてはいなかった。私は純毛のスウェタアや襟《えり》巻《まき》、なめし革のジャンパアさえ持っていた。そのため私は人に怪まれなかった。  私は窃盗になれてくると、しだいに大胆になってきた。忍び入った家が無人だとみると、火を焚《た》いて飯を喰べさえした。酒があれば酒を飲んだ。食糧不足で喰い意地のはっていた私は、何でも口に入れた。そして「泥棒御用心」などと、ふざけた楽書を残してきた。  私は工員や社員でまわった、馴《な》染《じみ》の土地でしか、仕事をしなかった。地理不案内の土地は、仕事に不便であり不安でもあった。また妙なことには、汽車で各地を乗りまわっていても、降りたくなる土地と降りたくない土地があった。仕事の上からいえば、村よりも町、町よりも都市のほうがいい。  同じ場所に、永くいることは危険だった。私は物にひかれるように、だんだん故《ふる》里《さと》の県内へ帰ってきた。故郷へ近づいてくると、空気、水の色まで違ってくるような気がする。人々の姿にも親みが感じられる。泥棒は知った土地の知った家へ入りやすいように、私もまた故郷の県を盗みの縄張とするようになった。これは私がまだ、少年の故であろうか。  ふるさとの県内へ帰ってきた私は、最初に私の従《い》兄《と》弟《こ》の家を訪ねて行った。従兄弟の慎太郎は、祖父母の長女の子供である。結婚して県内一の都市に世帯をもっていた。慎太郎は私の町の商業学校をでた。兄弟のない私は、その頃彼を兄さんと呼びなれていた。年齢は私より、十余年上である。  慎太郎は軍需品の会社に勤めていて、景気がよかった。闇商売にかけても、抜目がないという噂《うわさ》である。才ばしった押の強い男であるから、こういう時節には儲《もう》けるだけもうけようという下心なのであろう。  そういう従兄弟の所へ、私は私なりの見栄をもって訪ねて行った。つまり故郷の中学を放逐された私でも、これぐらいの身なりはしているというところを見せに行った。泥棒をしていながら変な云いかただが、みな戦争で困っている時に一人いい事をしている人間をみると、私は癪《しやく》にさわった。身内の者にたいする、一種の嫉《しつ》妬《と》もあった。  従兄弟夫婦は留守だった。慎太郎は勤めに行っているのであろうが、妻君はどこか近所へ遊びにでも出かけたらしい。戸締りはしていなかった。私はかまわず留守宅へあがりこんだ。  私は習慣になっているみたいに、まず台所へ行って食物をさがした。鼠入らずをひらいてみると、白い餅《もち》が皿に盛られてあった。意外な御《ご》馳《ち》走《そう》である。私は火をおこしてその餅を焼き、醤《しよう》油《ゆ》をつけてみんな平げた。麦酒《ビール》が一本あった。それも飲んだ。  それから家内をまわってみた。五《いつ》間《ま》ばかりの家だが、いろいろの品物が豊にそろっている。茶の間に電蓄が据えてある。晩食の時ビールを飲みながら、ニュースを聞いたりレコードをかけたりするのであろう。  私は流行歌のレコードを、電蓄にかけて聞いた。それでも妻君は帰ってこない。箪笥をあけると、新しいシャツや靴下やタオルの類が、沢山しまわれてある。闇売の品物なのであろう。当時としては、えがたい貴重品だった。押入には革鞄や地下足袋、石《せつ》鹸《けん》があった。私は手ごろなボストンバッグに、それ等の品物をいっぱい詰込んだ。それから、 「留守ヲスルト、空巣ニネラワレル」 と紙に書き茶の間の卓上において、膨《ふく》らんだボストンバッグを提《さ》げながら、悠々と従兄弟の家を出てきた。  私は旅館に泊る時にはいつも、二度目に勤めた九州某重工業会社の身分証明書をしめし、あたかもその社員であるかのようにふるまった。私は浅草で警察の臨検を経験して以来、とくに宿の者にあやしまれないようつとめた。  しかし田舎では私の一人泊りを、それほど怪みもしなかった。かえって私の若さを憐《あわ》れみ、私のさしだす米袋を、 「次の宿で困るさかい、いいからそのままお持ちなされ」  そう云って受取らぬ所さえあった。私も旅馴《な》れてくると、旅館の好意につけこみ、飲み喰いしたうえ、宿賃をふみたおして逃亡した。行きがけの駄賃に、金品をとったこともある。人の好意を仇《あだ》でかえすということがあるが、隙《すき》さえあればその虚につけこむのが私の習性となった。  季節は春であった。三月に硫黄《いおう》島《じま》が陥《お》ち、四月にはアメリカ軍が沖縄に上陸してきた。空襲はひきつづき、本土内にたえ間なく行われている。  何処の都市や町々でも、荷物を満載した荷車、牛車、三輪車、手車、乳母車まですらが、ゆききの人もない無人の街路を、黙々とうごき続いている。おそらく近在の村々や山間などに、それ等を疎開させようとしているのであろう。  馬車や自動車は、軍や官庁に徴発されて、民間には一台もなかった。軍服の兵隊さんが馬の轡《くつわ》をとり、木材を運搬している。高級軍人や官吏等は徴発の自動車を利用して、家財を遠くへ運んでゆく。敗戦末期の形《ぎよう》相《そう》だ。人々の顔はやせて蒼《あお》白《じろ》く、春の季節を忘れたような陰《いん》鬱《うつ》な風景である。  しかし私は、日本の敗戦などには、いっこう頓《とん》着《じやく》しなかった。私は自分のことだけしか考えなかった。日本が勝とうが負けようが、私のしったことではない。私がもの心つく頃からの戦争つづきで、私は戦争に飽いていた。はやくどちらかへでも片がつき、物の豊だった昔の時代がかえってくればよいと願っていた。  私は金や米のある間は、戦争にも時勢にも無関心に、その土地々々の宿屋にごろついていた。宿屋にいられなくなると、盗みにはいった。何処の家でも目ぼしい品物は、防《ぼう》空《くう》壕《ごう》に入れたり土中に埋めたりしていた。夜は戸締りをせずに眠り、いつでも空襲から避難できるように仕《し》度《たく》している。敵が眉《び》目《もく》の近さにせまってきたので、人心が落ちつかなかった。  夜盗に入るには都合がよかったが、盗む金も品物もない。食糧は各自に携帯して、側をはなさなかった。しかし、中には呑《のん》気《き》な家々もあった。まだ日本の勝利を信じて、荷物を片づけようともしない人達である。私はそういう家を目ざして盗みに這《は》入《い》った。  或《あ》る夜私は、女二人の留守宅へ忍びこんだ。台所へもぐりこんで懐中電燈で照してみたが、食物は僅な野菜類のほかは何もなかった。台所内がきちんと整《せい》頓《とん》されているので、一目でわかる。  私は座敷のほうへ行ってみた。床の間に出征軍人の写真が、額縁に入れられて飾られてあった。その上に黒い喪章が結びかけられているところを見ると、ここの主人は戦死したものであろう。四、五十歳の間と思われる、海軍将校である。軍人らしくない、穏《おとな》しげな品のいい顔立だった。  座敷には何もなかった。箪笥は空っぽである。私は茶の間へ行ってみた。女二人が寄りそって、そこにやすんでいた。私は盗みをかさねてくるにつれ度胸がすわり、見つけられた時には居直る覚悟でいた。まして女二人なら、何も恐れるところはない。  私は懐中電燈をつけて、二人の寝顔を照しだしてみた。二人は母娘だった。母親は四十代にちかい年頃で、娘はまだ十代の少女である。枕もとに避難の際持ちだす品物がとり揃《そろ》えられてある。娘は女学校の挺《てい》身《しん》隊にでも出ているのであろう。白リボンのついた制服の上に、日の丸入りの手《て》拭《ぬぐい》が折りたたまれてのせられてあった。  娘は私と同じ年頃である。私はその寝顔を覗《のぞ》きこんで思わずハッとなった。反射的に電燈を消して、闇の中につッたちながら高まる胸の動《どう》悸《き》を抑えた。私は夜盗に入って、こんなに愕《おどろ》いたことはない。私は黙って茶の間を忍び出ようとしたが、足が動かなかった。後に心ひかれる未練も強かった。  私はこわごわ懐中電燈をつけて、ふたたび娘の寝顔を熟視した。まぎれもなかった。長い睫《まつ》毛《げ》、隆い鼻、うけぐちの赤い唇《くちびる》。ただ色が白く、頬《ほお》がまるみをおびて、以前よりずっと美しく、娘らしくなっている。 「いくちゃん、いく子ちゃん」  私は我知らず心の中で、彼女の名を口ばしった。私が小学四年生だった時分の同級生である。私はこの人を喜ばせたいばかりに、初めて盗みをした。どうしてこの町へ、来ているのであろう。この町は私の故郷より、十里ほど南へ隔たっていた。いく子の父は医者だった。おそらく軍医として海軍にとられ、どこかで戦死したために、医院をたたんでこの町へ移ってきたのでもあろうか。  私が茫《ぼう》然《ぜん》としていく子の寝顔に見《み》惚《と》れていると、懐中電燈の直射をあびてまぶしさをかんじたものか、彼女はぱちりと両眼をひらいた。手拭で覆面して突立っている私の姿を認めた瞬間、彼女の瞳《どう》孔《こう》がひろがって彼女はがばと身をおこした。私はあわてて電燈をけして遁《に》げだした。 「大変よ、お母あさん。起きて下さい、起きて下さい」  私は彼女の声を後にしながら、茶の間をとびだそうとしたが、あわてて火《ひ》鉢《ばち》に躓《つまず》いて倒れた。家屋がゆすぶれるような大きな音がした。 「泥棒々々、いく子や、はやく金《かな》盥《だらい》をお叩《たた》き」  金盥を叩けば警報のかわりになる。母親は茶の間の電燈をひねろうとした。私はそうさせまいとして、母親の身体《からだ》にぶッつかっていった。母親は仰向けに倒れた。私はその上に馬乗りになって、彼女の頸《くび》をしめた。母親は私の両手をにぎり、脚《あし》をばたつかせた。  台所からけたたましい金盥の音とともに、近所隣へむかって助けを呼ぶいく子の金切声が響いてきた。私は茶の間から廊下へとびだし、雨戸を蹴破るようにして戸外へ遁れでた。近隣の家々から、人々が馳《は》せ集ってくる気配がする。私は裏の垣根をこえて闇の中を走った。  私としては大失敗だった。私はいく子の家に、覆面の手拭と懐中電燈を落してきた。後にそれ等が証拠となって、私は彼女の家へ強盗にはいったことになった。私は法廷で母親の頸をしめたことを自認したけれども、殺意はなかったと申立てた。事実母親は死んでいなかったので私の供述は通ったが、あの場合いく子が騒ぎたてなかったら私は母親を殺していたかもしれない。そして私はいく子にたいして、何か乱暴をはたらいたに違いなかった。  私はその後いく子の面影が幻にうかぶ毎に、きっとその事を想像した。千載一遇の好機を逸した事を残念に思い、夢魔に憑《つ》かれたようになった。私は、ふたたびかの家に忍びいって母親を殺し、家に火をつけいく子を担《かつ》ぎだすことを、幾度となく空想したが実行はしなかった。  かの母娘は賢い。二度と賊の忍びいる隙を見せないであろう。私はもとめて灯に飛びこむようなものである。そう思って私の焦心を制しながら、次の機会をまつ事にした。私が自分を制しえたのは、この時が最初である。掴《つか》まるのが怖かったよりも、私はやはり心にいく子を畏《おそ》れていたのだ。  まぢかに見たいく子の寝顔は、私の心をとらえて放さない。彼女のとみに、娘らしくなってきた、玲《れい》瓏《ろう》とした美しさは、私を恍《こう》惚《こつ》とさせた。私は盗みを専門にはたらくようになってから、喰い気ばかりにいきばって女性のことを忘れていた。いく子をみてから何物かが、私のうちに燃えあがってきた。  私は今獄中にあって死刑をまつ身でありながら、やはり彼女のことを忘れることができない。ややともすれば私の脳裏に浮んでくるのは、彼女の白い、ほのぼのと美しい面影である。その大きな瞳《ひとみ》で或る時は私をつめたく、或る時は微笑しながら、或る時はあわれみ悲むように、私の姿をじっと見まもっている。私の罪障にたいする懺《ざん》悔《げ》の間にも、彼女の幻は私の心から離れない。死が私の意識を滅するまで、変らないであろう。仏さま、煩《ぼん》悩《のう》の子をお憐み下さい。  私はいく子の町をのがれて、慎太郎の住む都市へ戻ってきた。私は私に留守を荒らされた、慎太郎のその後の家の様子を知りたかったばかりでなく、彼の闇物資に心ひかれた。彼のもっている襯衣《シヤツ》一枚、地下足袋一足でもいい値になったし、私の落したタオルもふんだんにあり、懐中電燈も彼ならばおそらく持っているに相違なかった。懐中電燈は私の仕事の必要品である。  勝手を知っている私は、ぞうさなく従兄弟の家に忍びこんだ。その後べつだん、用心をかたくした様子も見えない。慎太郎にとってあれぐらいの被害は、何でもなかったのであろう。  そのうえ彼は留守だった。会社の用で出張していたらしかった。景気がいいかわり、多忙でもあったわけである。  私は台所でみつけた手拭で、顔の下半分をつつみ、出刃庖《ぼう》丁《ちよう》をもちだすと、妻君の寝間へ行き電燈をひねって、彼女をつつき起した。妻君は私の姿をみると、がたがた顫《ふる》えだして口が利けなかった。私はできるだけ声をふとくして、 「飯をだせ」と云った。妻君は無意識に二、三度、うなずいて見せたようだったが、腰がぬけて立てなかった。彼女は寝床のまわりを匍《は》いずりまわって、ようやく着物をきた。私はそういう妻君の腰を蹴《け》とばして、彼女を台所へ追いやった。  食事の仕度ができると、私はふたたび妻君を寝間へつれこんで、廊下の柱に後手にくくりつけ口へ布きれを押しこんで猿《さる》轡《ぐつわ》をはめた。妻君はまったく抵抗力を失ってしまったもののように、何事も私のなすままになっていた。  私は妻君があまりに意気地なく、私の自由になっているのをみると、ふと彼女に悪《いた》戯《ずら》をしてやろうかなというような気持をおこしかけた。しかし恐怖のために血の気をうしない、醜くゆがんでいる彼女の顔や、死《し》骸《がい》のようにつめたく硬《こわ》ばっている、年上の女の分厚い肉体をかんじると、そんな気持はたちまち無くなってしまった。私にはやはり、色気よりも喰い気のほうが先だった。私は茶の間へもどって覆面をはずし、ゆっくりと食事をした。  私が闇物資をしこたまスーツケースに詰めこんで、玄関口から堂々と外へ出てくると、眼の前の暗闇に警官がたっている。あわてて身をひるがえし遁げだそうとすると、私の周囲はいつの間にか、棒などもった警防団員等にとりかこまれていた。  従兄弟の慎太郎は、私に空巣へはいられた後、近所の家と連絡して盗難予防の電鈴をとりつけておいた。賊におそわれた際ひそかにボタンを押せば、報《し》らされたほうではすぐ警察へ電話をかけるなり、町内の警防団の詰所へ駈けつけるなりするという仕組である。  私の従兄弟はこのように、どこまでも抜目ない男だったが、それにしても彼の妻君が、いつの間にボタンを押したのであろう。私は彼女が台所で食事の仕度をしている間、刃物をもって彼女の後にたち彼女を見張っていた。その後は柱に括《くく》りつけておいたから、ボタンを押すことはできない筈《はず》である。  してみると妻君が恐怖に腰をぬかして、寝床のまわりをごそごそ匍いまわっていた時が怪しかった。彼女は恐怖をよそおいながら、枕《まくら》許《もと》の壁か柱にしかけてあった、秘密のボタンを押したものに相違ない。だからすっかり安心して、あのように私のなすがままに身をまかせていたわけである。下手に反抗して、怪我などしてはつまらぬからだ。  そう思うと大人の癖にひどく臆病に、間抜けてみえたあの妻君も、どうしてなかなかの代《しろ》物《もの》だった。図太いようでも私はまだ、大人の狡《ず》るさと頭のはたらきにはおよばなかった。  私は東京の少年審判所におくられて、懲役五年の刑を申渡された。強盗犯二度、窃盗の数は、かぞえきれない。私は未成年ではあるが、感化院などで、矯正される見込のない人間と判定された。私は同行の囚人二人と一緒に、函館刑務所に収容されることになった。二人の囚人はみな大人で、少年は私だけである。  私は犯行地の警察から東京へ護送されてくる途中、横浜近くの保土ヶ谷を通過する時、車窓からかつて私の住んでいた辺を眺《なが》めて、父や新しい母の生活を想いやった。私のいなくなった後、父は重荷からとかれて、以前にまさる仕合せな生活を楽んでいるに違いない。満洲時代のことは知らないが、今が一番父の幸福な時といってよかろう、明日にも空襲があって、父の家庭が破壊されないかぎり……  私は実際それを望んでいた。私は依然として父一人幸福で、私がその分前にあずかれないことが不平の種《た》子《ね》であった。私は隅田川のほとりで、私に背をむけ立去った父の後姿を、いつまでも忘れなかった。他人でもあんなひややかな感じは与えまい。  あの時は二月初めだったから、それからまだ三月と僅《わずか》しか経っていなかった。過ぎてみればつい昨日のことのようでもあり、またかなり昔の出来事のようにも思われる。あれから私は、完全に私一人になってしまった。  私は私を突放した父の事を思うと、どんな事も平気でやれるような冷酷な気持になれた。父すら私を見放すような世の中なら、すべての人々はみな私の敵だとみなしてもよかった。  もっとも私は、いつもそんな心で悪事を犯したわけでない。その場その場の機会と出来心でやったことにすぎないが、私が悪事にいよいよ図にのってきたことだけはたしかである。私は世に畏《おそ》れ憚《はばか》るものを持たなかった。  私の父も祖父母も警察署の通告で、私の逮捕や犯罪を知ったには違いないが、誰も私に手紙をよこしたり面会にきてくれたりはしなかった。私もまたあてにはしなかった。あてにしたとすれば誰かが来て、私を助けてくれることである。しかし若《も》し世の中へ助けだされれば、私はまたもや悪事をかさねずにはいられないであろう。私みたいな者は、この世に生れてこなければよかったのだ。  護送の警官に附きそわれて、青い獄衣に編《あみ》笠《がさ》をかぶり、手錠と腰縄に自由を奪われている私達一行の姿は、いたるところで人眼をひいた。当人等はさほどはずかしく感じていないでも、よそ目にはひどく痛ましげに写るものらしい。  青森行の車中で、私にキャラメルをくれた婦人がある。少年の私の姿が、婦人の同情をひいたのであろう。婦人は護送の警官にはずかしげに断りながら、私に一箱のキャラメルをさしだした。当時は非常な珍品だった。ことにいつも甘い物に飢えている囚人達にとっては、何よりの贈物である。  物分りのよい警官は、私にかわって婦人に礼を云った。囚人に物をやることは禁止されている。婦人は巡査にむかって、こんな言訳を云った。 「私にもこの方ぐらいの子供が、ございますのよ。今、少年航空隊に居りますわ。だものですから差出がましく、ごめんなさいね」  察するところキャラメルは、少年飛行兵から母への贈物であろう。私は編笠の下から顔をあげて、その婦人に媚《こ》びるような笑をみせた。そして警官をはじめ同行の囚人達と一緒に、そのキャラメルをしゃぶった。  青《せい》函《かん》連絡船の出るのは、朝だった。敵の潜水艦が出没して、危険だなどと云われていても、乗客の数は非常に多い。汽車も汽船もいっぱいの人である。いったい何の用があって、こんなに多勢の人々が、到る処さも忙しそうに右往左往しているのであろうと怪まれるほどだった。  私達囚人一行は人目にふれさせないため、とくに夜のうちに、連絡船の三等室の片《かた》隅《すみ》に送りこまれていた。朝になって先を争いながら船室になだれ落ちてくる群集の姿をみると、私達は恵まれているようなものだったが、私達は一分間でもながく外気や外光にさらされていたかった。とりわけ初めて渡る北海の景色を、思うさま眺めやりたくてたまらなかった。  私達囚人は、かわるがわる便所へたった。逃亡の心配のない船中なので、腰縄ははずされていた。自由に一人で便所へゆくことができる。ただ、甲板にでることは許されなかった。  汽船の便所は、甲板から船室へ降りる階段の横にあった。通路も階段も便所前の僅な空所にさえ、乗客が陣どっている。どうして広い気持のいい甲板に出ないのだろうかと腹立しく思われたが、甲板は日光の直射で長くはいたたまれないらしい。  六月初めの珍しくよく晴れた日だった。階段の下へくると、人々の頭越しに青空の一部と明るい光が見られた。海風も鼻に匂《にお》ってくる。私はしばらく其《そ》処《こ》に、うっとりしていた。人々の私を見る眼などには、頓《とん》着《じやく》しなかった。  便所の前に三人の子供をかかえたお神さんが、うずくまっていた。六、七歳の男の子と、四、五歳の女の子と、三つばかりの幼児である。幼児はかなり大きな身体をしながら、まだ母の乳をのんでいた。  母親の齢は四十五、六かと思われた。着物にもんぺをはいている。子供等の服装も、みすぼらしい。顔色がわるかった。ひどく元気のない様子をしている。  炭坑夫や重労働者には食糧の特配があるし、農民は食事に困っていない筈《はず》だから、この親子は都会の貧しい罹《り》災《さい》者《しや》の家族なのでもあろう。三月、五月の東京大空襲に、焼けだされた人々かもしれない。良人《おつと》らしい人は側に見えなかった。  私はなに気なくお神さんの顔をみた時、何《ど》処《こ》かで会ったことのある人のような気がした。向うでも私の姿がめずらしいのか、悴《やつ》れた蒼《そう》白《はく》な顔をあげて私の顔をじっと見かえした。すると私は思いがけずへんな羞《は》ずかしさにおそわれて、便所の中へ姿を隠した。便所から出てきた時、私はわざとその人のほうを見なかった。  しばらくすると、私はなんとなくお神さんのことが気にかかって、またそわそわと起ちあがった。 「垂《たる》井《い》、また便所か」  巡査が私に声をかけた。 「はい。腹がよくないのです」 「下痢だな」 「はい」  私は警官の眼をごまかすために、急いで便所へとびこんだ。出てからまだ腹が痛む風に、下腹を押えながら便所の前にぐずぐずしていた。  私は機会があったら、何かお神さんに話しかけたい気がした。便所の中でも考えたことだが、お神さんとどこで会ったというはっきりした記憶はなかった。話しあってみたら、思いだすかもしれないというつもりだったが、お神さんは私をみてもつめたい顔をしている。私が囚人だからであろう。  そのくせ私にはどういうものか、お神さんが無縁の他人だという心がしない。お神さんも子供等も、べつに私の容《よう》貌《ぼう》に似たところはなかった。ただ感じだけで惹《ひ》かれた。生れながらのものと云っていい、或《あ》る種の人にたいして抱《いだ》く特別な親近感である。相手が若い女性ならば、この感じを恋とよんでもいいであろう。  私は血縁の人々にも、まだこのような感じを味《あじわ》ったことがなかった。父が突然満洲から帰ってきた時にも、私はただ我が父として無意識にうけいれたにすぎなかった。こうした云いがたいなつかしさに、心を惹かれはしなかった。今ではむしろ肉親の人々に、私は反《はん》撥《ぱつ》をかんじている。肉親である故にいやなのだ。  私は三度、便所にたった。私がさしむける笑顔にたいして、お神さんは顔をそむけながら、ちんと手《て》洟《ばな》をかんだ。そしてその跡を片足の下駄でこすった。それっきりもう、私のほうを見ようともしない。うつむいて幼児に乳房をふくませている顔の額に、ぱさぱさした後《おく》れ毛がおいかぶさって、彼女は私と同様、ひどく孤独で不幸な人のように思われた。  私は席へかえると、編笠をかぶって顔を隠した。するとどうしたわけか、熱いものが私の鼻すじを伝って流れ落ちてきた。私は必要な場合、いつでも空涙をこぼすけれども、心から泣いたことはない。意識せずに涙が流れでるなどというのは、稀《け》有《う》のことである。  監視の警官は、私の膝《ひざ》にしたたり落ちる涙を目ざとく見つけて、 「垂井、どうした。腹が痛むのか」 「はい」  私は涙声で答えた。 「下痢はまだとまらんか」 「止まりました」  囚人の一人が、笑いながら巡査に云った。 「旦那、こいつは内地が恋しくなって、函館へゆくのがつらくなってきたんですよ。五年の刑期は長いですからな。私達だってそうでさア」  巡査も囚人も、それきり黙ってしまった。船の動揺が大きくなり、汽船が海峡の中心を進んでいることがわかった。  昭和二十二年の秋、私は仮釈放の言渡しをうけて、函館刑務所からだされた。私にとっては全く、思い設けぬ出来事だった。私はまだ刑期の半ばも、終えていなかったからである。おそらく敗戦後の混乱で拘置所に収容しきれないほど犯罪者の数が激増したため、そうした処置がとられたのだったかも知れぬ。  私は一人連絡船に乗って、津軽海峡をわたった。二年前の初夏の頃函館に護送されてゆく船内で、見知らぬ難民の女に母の幻を感じて涙したことが夢のように思いだされた。  戦争が終ったにもかかわらず三等船室にあふれている乗客の姿は、戦時中とさして変っていないように私の眼に写った。むしろ、一層悪くなったようにさえ思われる。なんとなく落附がなく物事にがつがつしているみたいで、様子が見すぼらしく卑しげである。前科者である私にとっては、しかしそのほうがかえって気安かった。  青森に上陸して汽車に乗りうつる時、人々の混雑する間をくぐりぬけて、私は素早く座席をとった。戦災浮浪児というのであろう。汚《きたな》い身なりをした八歳あたりから十二、三歳ぐらいの少年達が、列車の通路にまぎれこんで車掌から追い立てられている。人々の注意がそれへむけられている間に、私は座席の下に置かれてあった籠《かご》から林《りん》檎《ご》を盗みとって喰べ、そしらぬ顔をしていた。  二年あまりの拘置生活から放たれた私は、見る物聞く物がめずらしく何でも欲しくなった。少年の私に刑罰は所《しよ》詮《せん》、なにほどの効《き》き目もあらわさなかったようである。身柄が自由になるとともに、私の心もまた以前の気持にひきもどされていった。  私は保土ヶ谷で電車を降りた。保土ヶ谷の町は戦災で焼失していた。父の家のあった所へ行ってみると、そこも焼け跡になっている。私は北海道へ送られる時、汽車の窓から父の住居のあたりを眺めて、いっそ空襲で焼けてしまえばいいと無情な父を詛《のろ》ったが、その呪《のろい》が実現してみると今度は逆に私のほうが途方にくれないではいられなかった。  壕舎生活をしていた近所の人が、父一家の行方を私に教えてくれた。父は横浜の野《の》毛《げ》にある、義母の実家にいるという。私はそこへ尋ねて行った。  義母の実家は二階建の仕舞《しもた》屋《や》であるが、そこに数家族が同居していた。私の名をいうと、義母が二階からかけおりてきた。 「まア浩さん」  義母は私の姿を見て、おびえたような妙に複雑な表情をした。私はこの義母にいろいろ迷惑をかけたことを考えて、義母の前にうなだれながら黙って立っていた。  義母は下駄を突掛けて、私を外へ連れだした。義母は私の刑務所へおくられたことや、刑期のことも知っている筈であった。そして私が突然姿を現したことを不審がっている様子だったが、さすがにその理由は尋ねなかった。私もあらためて説明はしない。  私が義母の後についてゆくと、義母は私を空地へ連れこんで気の毒そうに云った。 「浩さんのお父うさんは、お亡くなりなすったのよ」 「空襲でですか」 「いいえ、戦争がすんでから、……脳《のう》溢《いつ》血《けつ》で。気落ちなさったのね」  義母はポトポトと涙を落した。私は靴先で地面をこすりながら、何も云わなかった。悲しい気持も起らない。父のさまざまな姿を脳《のう》裡《り》に浮べながら、なんだか遠くへ行ってしまったような感じだった。義母は涙を拭《ぬぐ》って、 「だから、ねえ浩さん、おじいちゃんやおばあちゃんの所へいらっしゃい、これを旅費にして……」  義母は私の手に、二枚の大型紙幣を握らせた。その時になってはじめて、私の眼に涙がうかんできた。私が右《みぎ》肱《ひじ》を顔にあてて泣いていると、義母がそばへ寄添ってきて私をなぐさめた。 「お可哀想ね。でも勇気をだして、元気で生きていらっしゃい」  私はこの時の義母の励しをすぐ忘れてしまったが、今になって暗夜に光る一点の星のように思い出される。  私は西国の祖父母の所へ帰って行った。ところが故郷の町も、戦災で廃《はい》墟《きよ》と化していた。バラック住いしている人々に聞くと、祖父母は従兄弟の慎太郎の家に、厄介になっているとのことである。  慎太郎の家は私が二度盗みに入って、捕われたところだ。しかも二度目には慎太郎の妻を縛って、強盗をはたらいている。到底足踏みできない筈であるが、私はあえて其処へ祖父母を尋ねて行った。他にどうすることが出来よう。  十七歳になった私は、罪の意識をもたぬ精神薄弱者である。悪かったとあやまれば、それで済むと考えている。まだ深く、恥ということを知らない。私はその時、風に吹かれる落葉のように孤独だった。私は肉親をたよる以外に生活の拠《よ》り所を考えることができなかった。  私は慎太郎夫妻から、恐怖と嫌《けん》悪《お》の顔色で迎えられた。しかし、刑務所へおくったことを、いくらかうしろ目《め》痛《た》く思っているらしく、二人は私を追出すようなことはしなかった。  祖父母は私の無事の姿を見て、涙をこぼした。彼等は裏手のうす暗い三畳の部屋に、身をすくめるようにして生きていた。祖父の頭髪はまっ白だった。祖母は相かわらず身体《からだ》が悪いらしく、肩も腰もひねこび痩《や》せおとろえて寝床に横たわっていた。  老衰した祖父母にひきかえ、私は小柄ではあるがとみに若者らしくなってきている。顔色もいきいきしていて、刑余の人のような暗い翳《かげ》りは何処にもみいだされない。若木のたくましい成長力がどのような傷も、痕《こん》跡《せき》をのこさず癒《い》やしてしまう。  私は二年余の刑務所生活で、看守等の機《き》嫌《げん》をとり人前をつくろうことに馴れていた。私は祖父母の前に、きちんと両膝をそろえて挨《あい》拶《さつ》をした。 「唯今帰りました。これからは心を入替えて、まじめに働きますから、どうぞ御安心下さい」  そういう事を、ぬけぬけと云えるほど厚顔になっている。 「ほんとに浩や、そうしておくれやす。今じゃお前一人が、私達の跡取じゃけん」  祖父母は戦火に焼けだされ、子供である私の父に死なれて、ひどく気弱くなっていた。孫夫婦の世話になっているという肩身のせまさも、大いに手伝ってるらしい。私が帰ってきたことで、慎太郎達の手前しきりと気を使っている。  私はそこで従兄弟夫婦の前に手をつき、あらためて私の罪をわびた。慎太郎は幼《おさな》馴《な》染《じみ》であるので私をゆるしてくれたようだったが、私におどかされてはずかしい目にあわされた彼の妻は、そっぽをむいて私の謝罪を白眼視していた。  私は慎太郎に教えられて、その都市の職業安定所へ就職口をさがしに行った。すると静岡のある鉄工所の口を世話された。しかし、そこへ入るには私の移動証明書が必要である。  私の籍は先に、保土ヶ谷の父の所に移されていた。父が横浜へ越したので、現住所は義母の実家にあることになっている。そこで私は横浜にふたたび義母をたずね、市役所へ移動証明の手続をとりに行った。所員に事情をうちあけて話すと、函館へ行って行先地の変更をして貰《もら》わなければ駄目だという。私は落胆して、祖父母の所へ帰ってきた。  北海道へ手紙をだして手続を終えるまでには十余日かかる。食糧不足の折柄、その間従兄弟の家に厄介になっているわけにはゆかない。  私にたいする慎太郎の妻の態度は、ひどくつめたかった。私には一切口をきかず食事の世話をしないばかりか、余憤をもって祖父母につらくあたる。そうでなくても祖父母はこれまで、彼女から出て行けがしに取扱われていた。そういう家庭の空気を察しると、私にしても居たたまれない。私は刑務所にいるより、もっと辛《つら》い思をした。  私は平気で強盗に入る半面、気が弱く見栄がつよい。私は祖父母を安心させるために、東京へ行けばなんとかなるというような事を口実にして、横浜から帰ってきた翌日家を出ることにした。  折角刑務所から解放されてきても、世の中に身の落ちつけ所のない私は、心中に一種絶望した、兇暴な気持が燃えあがってくるのを感じた。私はその夜三畳の狭い室内に、祖父母と枕をならべてやすみながら容易に寝つかれなかった。  かなたの寝室に眠っている従兄弟夫婦の上を思い、老い先短い祖父母の上を考えたりしている間に、しらずしらず昂《こう》奮《ふん》してきて痙《けい》攣《れん》するような身《み》顫《ぶる》いにおそわれ、思わず、 「ああ、いっそ……」  そうした呟《つぶや》きを洩《もら》すと、側に寝ていた祖父が聞きつけて、 「浩、まだ眠らんのかい」 「ああ」  私は呻《うめ》くみたいな返事をした。 「お前、東京へ行ったら、何してやってくつもりや」 「向うでおぼえた手仕事もあるし、闇《やみ》屋《や》をやったって喰ってゆける」 「もう二度と、恐しい考えおこしたら、いけへんぜ。わし等、明日にも死ぬ身だから、かまやへんけど。若い者は、さきを大事にしなきゃ、あかへん」  虫が知らせたものか、祖父はいつになくそんな訓戒を私にあたえた。私は闇に眼を光らせながら無言でいた。  翌朝祖父は私がまだ眠っていた間に、附近の農業組合員の家へ行って、私のため甘藷一貫目をヤミ買してきてくれた。そして孫夫婦に頭をさげながら、私の弁当を支《し》度《たく》させた。  一家食事の時、病気の祖母は寝床から起きだしてこなかった。そして今朝は御飯がたべたくないから、彼女の分を浩にやってくれと祖父に伝えてきた。祖父もまた遠慮して、慎太郎がすすめたにもかかわらず一杯しか食事をとらない。私が世話になることについて、祖父母はそれほど気がねしていたのである。戦時中より、もっと情ない世相だった。  祖父は甘藷の袋を私に持たせ、駅まで私を送ってきた。雑食ばかり摂《と》っているとみえて、祖父の顔はへんにむくんでいる。あるいは死期が、近づきかけているのかも知れない。人中へ出るとよけいに、その貧しさと醜さが目立った。別れぎわに、祖父が私への訓戒をくりかえした。 「わしや婆ちゃんの事考えて、辛抱してくれへんとあかんぞや」  祖父は改札口の外に佇《たたず》んでこれが生涯の見おさめでもあるかのように、くぼんだ老眼に涙をたたえながらいつまでも私の姿を見送っている。私はぴょこりと頭をさげ汽車に乗込むと、もうたちまち祖父のことなど忘れてしまった。そして前夜よく眠らなかった私は、いつともなく深い睡《ねむ》りに入った。  東京へ近づくにしたがって、列車の中は芋を洗うような混雑ぶりである。窓からどしどし人が乗込んできて、身じろぎもできない。  私の隣の窓ぎわに、十三歳ばかりの少女が腰をおろしていた。私は気がつかなかったが、熱海辺りから乗ったものらしい。金持の家のお嬢さんとみえて、立派な洋服をきている。おそらく一人で、東京の親《おや》許《もと》へかえってゆくところなのであろう。  客席は三人掛けで、私は少女と復員者らしい三十男との間にはさまれていた。前にも人々が立ちはだかっている。少女は車内の雑《ざつ》沓《とう》が鬱《うつ》陶《とう》しいらしく、私に背をむけ窓外ばかり眺《なが》めていた。  少女の後の席の隅《すみ》に、彼女の手《て》提《さ》げがおかれてあった。口がなかばひらいていて、中に無造作に突込まれてある札《さつ》束《たば》らしい物が、ちらりと私の眼に写った。私は少女の後へ右手をのばすと、その束をそっとぬきとりズボンの隠しにおしこんだ。  私は横浜へつくと、どっと降りる人波にまじって汽車をおりた。戦時中ただ乗に馴《な》れていた私は、この時も汽車の切符をごまかしていた。それに盗みをしているので、東京まで行くのが恐しかった。出獄後、二度目の盗みである。  駅外へ出て札束を調べてみると千円ある。私はぼうッとなった。生れて以来、つかんだことのない大金である。私は中華人街に行って、その金を無茶苦茶に使ってしまった。  横浜へ来ていながら、私は義母の所へ顔をださず東京へも行かなかった。私は移動証明をもたずに、静岡へひっかえして鉄工所に行った。鉄工所の支配人は安定所の紹介を信用して、私を工員に採用した。  所内で私にあたえられた仕事は、螺《ら》旋《せん》の頭にカッタアで割を入れる簡単な作業にすぎない。私は仕事に興味がなく、まじめに働く気もしなかった。私の望はただ腹いっぱい物をたべて好きなことをやり、自堕落に遊んでいたいということだけである。  工員の食物はお粗末だった。麦飯に味噌汁、夜はそれに乾物や塩漬けの冷凍魚などがつく。鉄工所の女主人や支配人は、銀飯に刺身など喰べている。私は毎日腹が減ってたまらなかったが、金は使いはたして一文もない。私は夜な夜な台所へ忍びこんで、鼠《ねずみ》のように食物をあさった。  私は戦争の始った十二、三歳の時分から、いつもひもじい思をしつづけている。もし食物が充分私にあてがわれていたなら、私は盗みはしてもしだいに罪の深みにおちいるようなことがなく、したがって恐しい大罪を犯さずにすんだかもしれない。  私の罪は私の生れつきによるのであろうけれど、たしかに時代の環境も悪かった。私は弁解するわけではないが、私はまたこうした意味で、戦争の被害者だったといえないこともあるまい。私ばかりでなく犯罪者の大多数が、おそらくそうではなかろうか。  一夜私は台所で盗み喰しているところを、女主人に見つかりきびしく叱《しつ》責《せき》された。彼女は弟を支配人にして、小さいながら工場を経営しているぐらいであるから、よろず油断がない。  私は鉄工所を放逐されるかも知れないと考え、女主人の憐《あわれ》みをひくために私が受刑者だったことを告白した。罪は掻《かつ》払《ぱら》い程度のことで、胡《ご》麻《ま》化《か》しておいた。その正直さが逆効果を奏して、女主人は私に太っ腹なところをしめした。 「今が育ち盛りの若者だもの、ひもじかったら御飯ぐらい、いくらでもお喰べ」  私は彼女の温情がキモに銘じたように見せかけるため、空涙をこぼして幾度も頭をさげた。しかし、翌日になってみると、下女はいつもと同じく小さな茶《ちや》碗《わん》に、三杯の飯しかよそってくれない。つまり女主人と女中と、互に肚《はら》をあわせているのだ。移動証明をもたない私は、強《し》いて催促もできなかった。  私は空腹をしのぐため、綿入のチョッキを街へ出て売った。そのチョッキは病気の祖母が、自分のものを脱いで餞《せん》別《べつ》に私にくれたものである。品物を一度金に換えると、以前の癖がまた私にかえってきた。  私は支配人のシャツを盗んで、それを自分の服の下につけ街へ売りにいった。衣類が不足していたので、値よく売れる。それに味をしめ私は食物を狙《ねら》うかわりに、人目をぬすみチョイチョイ同居人のものに手をつけるようになった。  或る日、私は自分の粗《そ》忽《こつ》から、カッタアで右の無《む》名《めい》指《し》をかなりひどく傷つけた。医者へ行って治療をうけ、翌日は工場を休んで、部屋にごろごろしていた。その時人のいない部屋をまわって押入の中から他人の行《こう》李《り》をひきだしズボンを盗んだ。  私はそれを支配人の物だと思って、留守を幸い穿《は》いていると、一人の工員が翌朝それに眼をつけて、 「垂井、そのズボンを何処から見つけてきた?」  と私に訊《き》く。私は内心、しまったと思ったが、平気で嘘《うそ》をついた。 「昨日、街から買ってきたんだ」 「ほんとか。どうも俺のに似てるがな」  彼は半信半疑で、工場へ出ていった。誰もみなはいている茶褐色のズボンなので、しかと見定めがつかなかったのであろう。彼が自室へ帰って、行李の中を調べなかったのは幸いだった。  しかし、おッつけ私の罪はバレるに相違ない。バレれば九州の工業会社で経験したように、私は仲間から袋《ふくろ》叩《だたき》にあわされ、鉄工所にも居られなくなるであろう。  私は治療へ行くといって工場へゆかずに、かねてから目をつけていた支配人の洋服を盗んでトランクに詰めると、道路に面した屋根の廂《ひさし》の上につきだしておいて、家を出るなりそれを持って一目散に遁《に》げだした。  私は洋服やトランクを売払い、その金をもって又以前のように、鉄道沿線の市町村をさまよい歩いた。隙《すき》あらば空巣をねらい、食物にありつこうとしたのである。しかし戦時中とちがって世の中はようやく秩序だち、窃盗も掻払いも容易にできなくなってきた。警察の取締りもきびしい。  私はもはや祖父母や義母の許へ、帰れぬ身の上となった。鉄工所の支配人の訴えで、警察の手がまわっているかも知れないからである。廻っていなくても、祖父母は私をひきとれる境遇ではなく、義母は父が死ねば赤の他人にすぎない。  私は餓《う》えて倒れそうになっていた。私が或る市街から村に通じる街道筋で、枯草の堤に腰をおろし頭をかかえてぼんやりしていると、腰の曲りかけた老婆が杖《つえ》をつきながら私の前を通りかかった。顔色の悪い私の様子を見て病人と思ったらしく、立止って私に声をかけた。 「兄イさん、どうしんさった? お腹でも痛みやんすか」  私は顔をあげて、小さな老婆の姿をながめた。丁度私の祖母と、同じくらいの齢頃である。私は老婆にあまえる心で、わざと苦しげに顔をしかめながら黙ってうなずいた。 「ほんなら、わしの家さ来んされ。ツイ其《そ》処《こ》じゃて」  私は片手で腹を押え、彼女の後に跟《つ》いて行った。腹痛に見せかけるばかりでなく、そうしないと空腹で歩けなかった。  老婆の住居は村の入口に近い、畑の中の一軒家だった。二間ばかりの貧しい小屋である。老婆のほかに、誰も住んでいる気配は見えない。  老婆は柱にかけられた黄色い紙袋から、越中富山の腹薬をとりだして私に飲ませた。私は何もたべないよりはと思ってそれを飲み下すと、畳の上に横になってしばらくじっとしていた。  老婆は寺詣りからでも帰ってきて腹が空いたらしく、戸《と》棚《だな》からふかしたさつま芋を取り出して喰べながら私にきいた。 「どうや。ちっとは楽になりンしたか」 「はい、お蔭さまでだいぶ、快《よ》くなりました」  私は起きなおって、老婆に微笑を見せた。じつは甘藷に心ひかれて、寝ていられなかった。 「腹がよくなったら、これでも喰べてみんされ」  老婆は私のもの欲しげな顔つきをみて、私の前に芋を盛った皿をおしだしてよこした。 「では、遠慮なくいただきます」  私は二、三本を、夢中でたべた。五、六本目になって、ようやく人心地がついてきた。 「兄イさんは、どっから来ンさった」 「栃木の宇都宮から、やって来ました」  私はでたらめを云った。 「何ぞこっちの方に、用でもござらんしたか」 「焼出された父を尋ねて来たんですが、行方がわからなくて困っているのです」  私は老婆の同情を、ひこうとつとめた。 「まア、親子はなればなれの目に、あいンさったのか、可哀想に——」  老婆はたちあがって仏壇の前にすわると、伏せ鉦《がね》をたたきながら念仏をとなえだした。仏壇の中には戦死したらしい、兵隊姿の若者の写真が置かれてある。老婆は念仏をはじめると夢中になって、それぎりもう私の相手にならなかった。  私は森中の神社にひそんで、夜になるのを待った。老婆が一人暮ししているのが、私にとっては非常な誘惑だった。なまじいに甘藷を恵まれたのが、私の仇になった。私はその美味さを忘れかね、それ以上の食事を腹いっぱいたべてみたいという、強烈な欲望を抑えることができなくなった。  私は夜分忍びこんで、この老婆をしめ殺した。殺す必要はなかったようなものだが、私は親切をつくしてくれたこの老婆に顔を見られるのが怖かった。安心してゆっくり物をたべたい気持も強かった。  老婆は私にしめ殺される時、一言かすかに「南無阿弥陀仏」とつぶやいたようだった。少しもあばれたり、抵抗したりはしなかった。鶏をしめるよりも容易に、あっけなく死んでしまった。私はその時はほとんど夢中だったが、後になって老婆の細《ほそ》頸《くび》を扼《やく》殺《さつ》した掌に、ぶきみな感触がよみがえってきて私を悩ますようになった。  私はかまどで飯をたき味噌汁までつくって、久しぶりに腹がさけるほど喰べた。そして、もうこれで死んでもいいと思うような満足感を味《あじわ》った。私は残った飯をお握りにすると、仏壇のひきだしを開けて小金を盗みとった。品物には手をつけなかった。もっとも老婆の貧しい一人ぐらしで、ろくな品物もない。  私は夜明けがた小屋をぬけだすと、市街の駅へ行って汽車に乗った。私は故郷へかえってゆくつもりだった。どういうものか、私はひどく祖父母に会いたくなった。一目でいい、会って別れを告げたい。——そのような思いにせきたてられた。  私はとりかえしのつかぬ、恐しい事をしたというような後悔には、たいして襲われなかった。ただ掌に残る厭《いや》な感触が、気になってたまらない。私は乗車中そわそわして、無意識に両手の掌をこすりつづけていた。私の前に腰をおろしている男が、眼をあけて、私の動作をながめている。私は気がついてハッとした。  私がじっとしていると、男は眼をとじて窓によりかかり眠っている。私がいつの間にか両手をこすりだすと、彼もまた眼をひらいて私を注意している。私はこの男が気味悪くなってきた。  彼は丸顔で肥っていた。服装はあまり立派ではない。背広に細くねじれたネクタイをしめ、霜降の外《がい》套《とう》をきている。頭は五分刈で色が黒く両眼はほそい。むッつりとした無愛想な顔つきである。齢は四十ぐらいかも知れぬが老《ふ》けて見える。  何者であろう。私は彼を、闇物資のブローカーでもやっている男と睨《にら》んだ。彼はひそかに私を見ているばかりで、何も私に話しかけてはこない。その冷然とした親しみのない態度が、ふと私に死んだ父の面影を思い浮ばせた。  私は不安になって、席をかえようかと思った。しかし、そんな事をすれば、一層怪まれる。私は右を見左をみて男の視線をさけたが、心は少しも落ちつかない。いまにも不意に男から、頸根っこを押えられ、 「みんな知っとるぞ。さア白状しろ」  そう云って迫られそうな恐怖がある。私はとうとう便所へゆくふりをして、握り飯を網《あみ》棚《だな》に残したまま、最《も》寄《よ》りの駅へ下車してしまった。私はその町の安宿に一泊した。翌朝の新聞を見ると私の老婆殺しがかなり大きく出ている。  新聞記事によると老婆は、土地で念仏婆さんとよばれ、頼みの孫に戦死された孤独な身の上だった。犯人は不明だが、昼間老婆が一人の旅の少年をつれて、家に入るのを見た者があるから、目下その少年の行方を捜査中と記してある。  私はこれを読んで、九州か或《ある》いは反対の北海道方面へ高飛びせねばならぬと考えた。その前に是非一度、祖父母に会ってゆきたい。こんど遁げたら、もう二度と会えまいという予感があった。それに旅費の問題もある。私はついでにそれを、慎太郎夫婦から盗んでやろうと計画した。  私は汽車に乗る前、金物屋で一梃《ちよう》の鉈《なた》をもとめた。途中でもし掴《つか》まるような事があれば、それで抵抗して敵《かな》わなければ死んでしまうつもりだった。鉈の重みや柄の握り工合は、ちょうど私に手頃であり、私の落ちつかぬ不安な心を勇気づけた。  深夜にちかい頃、私は祖父母のいる都市についた。私はそのように時刻をはかって、汽車に乗った。私は慎太郎夫婦と顔をあわせたくなかった。よそながらでも祖父母の顔が見られたら、それでいいような気がした。  月光の冴《さ》えた寒い夜だった。野末をかける木《こ》枯《がらし》のどよめきが、遠い海音のように聞える。駅の構内を切符なしに脱けでた私は、暗い月影をえらんで歩きながら、時折つよい痙《けい》攣《れん》に見舞われた。あながち、寒さのためばかりではない。瘧《おこり》のようなものがいきなり、胸《むな》もとへ突きあげてきて、私の五体をゆすぶるのだ。これまでなかった経験である。私にはその自覚はなくとも、私はやはり気がたち、どっか異常だったに違いない。  私は慎太郎の住居のまわりを、一度注意ぶかく見廻ってみた。この前盗難予防の非常ベルで掴まえられたので、その電線を切ってしまうつもりだったが、戦後装置をはずしたものとみえ電線はなかった。  私は安心して湯殿の戸をこじあけ中へ入った。私は他人の家へ入ると、へんに気が強くなる。私はまたしてもひもじかった。祖父母に会うのも旅費をかせぐのも腹をこしらえてからだと、台所の電燈をひねって食物を探していると、奥の方から、「誰だッ」とどなる声がした。慎太郎の声である。  私は電燈を消して、台所の隅《すみ》に隠れた。遁げだす心はなかった。奥の間から跫《あし》音《おと》が近づいてきて、台所の硝子《ガラス》戸《ど》をひらいた。手に懐中電燈を持っている。私が飛出してゆくと、慎太郎は電燈をとりおとして尻《しり》餅《もち》をついた。声ほどにもなく虚勢をはっていたのである。  私は彼の頭と思うあたりに、鉈で一撃を加えた。やわらかい手《て》応《ごた》えがして、慎太郎がぶきみな叫び声をあげた。私はその声にあおられて、彼にめった打をくれた。慎太郎はスウスウと荒い鼻息をもらしながら、動かなくなった。  奥の間へ行ってみると、闇の中で黒い物がうごめいている。台所のただならぬ物音と、良人《おつと》の断末魔の叫びを聞いて慎太郎の妻がこの前と同様腰がたたなくなり、無意識に遁げ場をもとめて部屋の中を匍《は》いまわっているのだ。私が彼女の後頭部に鉈をうちおろすと、彼女はつぶれたように腹匐いになった。そして頭や顔に私の鉈をうけてる間、伸ばした両手や両《りよう》脚《あし》を昆虫のようにふるわせていた。  血に狂った私の頭に、祖父母の姿がひらめいた。 「エイやっちまえ。そのほうが好いンだ」  私は出獄後祖父母のみじめな老後の有様をみて、「いっそ」と思いたったことがある。 「こんな風にしてビクビク生きてるより、いっそ死んじゃったほうが仕合せじゃないか」  私はその際、慎太郎夫婦も殺してやろうと考えた。近親者を恋い慕いながら、彼等にいだくこうした根深い憎《ぞう》悪《お》は、一体どうしたことなのであろう。愛情の一種ふしぎな混《こん》淆《こう》というよりほかあるまい。  私が箪笥のひきだしをあけて金や品物を盗みだそうとしていると、私の背後にふわりと負いかぶさってきたものがある。 「浩!」  たしかに私の耳もとで、そう囁《ささや》かれたような気がした。恐怖にゾオッとして、私は思わず飛びあがりそうになった。私はふりむきざま、相手を鉈で斬ったか拳《こぶし》で殴《なぐ》ったか、しかとおぼえてはいない。  私の胸に倒れかかってくる相手を、私は両手で突きとばした。一枚の襤《ぼ》褸《ろ》布《ぎれ》を押しやったように、手応えが弱かった。私の祖母である。私はかあッと逆上すると、三畳の間にとびこんで行って、蒲《ふ》団《とん》をひっかぶり顫《ふる》えていた祖父をも惨殺した。  私は血まみれの着衣を従兄弟の洋服に着替えると、金品を盗みとって家に火をつけた。証拠を湮《いん》滅《めつ》して、高飛しようと計ったのである。火は近所の人々に消しとめられ、私は捕えられた。  私を捕えた人は刑事である。私が夢遊病患者のように、ふらふらして汽車に乗ろうとする時、私は彼に呼びとめられた。私は相手の顔をみて悸乎《どきつ》となった。老婆殺しの後汽車中で、私の様子をうす目で見ていた男だったからだ。私は彼に手錠をはめられた瞬間、昏《こん》倒《とう》してしまった。  未決の独房に入れられてから、すでに二カ月余たつ。警察署から刑務所へおくられるまで、私は昂《こう》奮《ふん》のはて死んだように眠りつづけた。疲労が去って気力を恢《かい》復《ふく》すると、私は別人になっていた。  私は当然死刑を覚悟していた。私はまだ満十八歳の丁年に達してはいなかったが、少年保護法の改正される前だったので、死刑を宣告されても致しかたがない。  遁《のが》れることのできない運命の前に立たされて、私は一匹の獣《けもの》と化した。私は人を殺すことは何とも思わず、自分を育ててくれた祖父母まで手にかけていながら、自分が強制的に殺されるという事には我慢がならなかった。  私は自分の兇悪な犯行について、とくに反省もしなければ従って後悔もしない。ただ刻々と自分の目前にせまってくる、恐しい運命にたいしてばかり心が奪われ、他をかえりみる余裕などはさらになく、ひたすら爪をとぎ牙をならして、日夜この無形の敵と格闘をつづけた。  はてしない不安と恐怖とが、私の相《そう》貌《ぼう》を一変させた。私の少年らしい丸顔はとげとげしく憔《やつ》れ、眼光は暗く獰《どう》猛《もう》になった。私は社会のあらゆるものに敵意を抱きながら、兇暴な気持で生きていた。  私は何か喰べ物を与えてくれなければ、検事の調べに応じなかった。私は再三当局にたいして、私の裁判のはやからんことを要求した。私を捕えた警察署長が蜜《み》柑《かん》や林《りん》檎《ご》を差入れてくれたけれども、重罪犯人である私の御《ご》機《き》嫌《げん》とりであるように思われて、感謝の心などは微《み》塵《じん》もおきない。  私は苦痛からまぬがれるために、毎日を放縦な空想におくった。第一は拘置所から脱出することである。運動や入浴で外につれだされた時や便器を監房外にだす場合など、あわよくば担当の看守を殺しその制服を着て獄外に逃走する。  娑《しや》婆《ば》にでたら附近の家に忍び入り、自分が兇悪犯人の垂井であることを知らせおどかして金品をゆする。応じなければ一家を鏖《おう》殺《さつ》して、家を焼きはらってしまう。  或いは交番の裏口から入って、そこに寝ている巡査を殺し、外にたっている警官の頭上にも、手《て》斧《おの》の一撃を見舞ってやる。そしてピストルを奪い官服をきて、悠《ゆう》々《ゆう》と汽車に乗り好きな所へ逸走する。  私の警察にたいする反感は強かった。私は私を捕えた復《ふく》讐《しゆう》に、警察へダイナマイトを送る。それが破裂して署長以下みな粉々になって吹飛ぶ。私はさらにそれへ、ポムプで石油をそそぎ、全員黒焼きにしてやる。  絶望と自棄にみたされた私の頭は、殺人、暗殺、暴動、放火、そんな事ばかりを空想し、その光景をまざまざと眼底に描きだすことで、わずかに自分を慰めていた。私は可能ならば、じっさい逃走をやりかねなかった。そして私の空想を、実現したに違いない。  私は正常な心をうしなって、夢魔に憑《つ》かれていた。いや私の十八年の生涯そのものが、不幸な夢魔にとりつかれていたものであったのかもしれぬ。  いよいよ私の公判の開かれる前々日、地方の新聞記者が訪ねてきて私の心境を聞いた。私の老婆殺しと近親殺人ならびに放火事件は、戦後の惨虐事件の中でも未《み》曾《ぞ》有《う》のこととして、その地方の人心を震《しん》駭《がい》させた。ことに十七歳の少年の手で行われたということは、一層世間の耳目を聳《しよう》動《どう》させた。  私は新聞記者にたいして、呪《じゆ》詛《そ》の言葉を投げつけた。もし狂人として無罪を言渡されるならば、私は復讐のために片っぱしから人を殺し、町といわず村といわず悉《ことごと》く焼き払ってしまうであろうというようなことを。  その記事が新聞に出たものか、翌日品のいい老婆と彼女の息子らしい学生が、私に面会に来た。二人は私へ卵、林檎、チョコレートなどの食物のほかに、一冊の聖書を添えて差入れてくれた。老婆は万人は罪の前に平等であるから、私の心に神の恵と平和の来《きた》らんことを祈っていると私に告げた。私は独房へ帰った後、食物はたべたが、聖書はひき裂いて床に叩《たた》きつけた。  三月七日の二回目の公判で、予期通り私に死刑の判決が下された。私はその刹《せつ》那《な》、大声で裁判長をどなりつけた。 「馬鹿野郎、手《て》前《めえ》なんかに、俺の気持が解るかい。誰にも、人を裁く資格なんかないんだ」  私は最後の言葉を、ひき裂いた聖書から読みとって憶《おぼ》えていた。傍聴人で満員だった法廷は、私の不敵な罵《ば》声《せい》にどよめいた。私は看守にひっぱられて、すぐ法廷から退かされた。その時裁判長を睨みつけた私の眼は、炎々と焔《ほのお》がもえあがっているみたいに凄《すご》かったと、後に看守が笑いながら私に語った。  それが私のこの世にたいする、最後の抵抗だった。私はすぐに控訴を申立てたけれども、もとよりそれによって助かる見込はない。二審の判決の下るまでの間、刑の執行がそれだけ延びる程度ぐらいのところであろう。  死刑を宣告された当時、私は二畳半の独居房内を荒れ狂った。器物を破壊しコンクリートの壁を蹴《け》りつけ、巡回してくる看守にむかって、かあっと歯を剥《む》いた。狂人であり猛獣だった。担当も雑役も私の監房の前を過ぎるときには、みな顔をそむけて通った。  私は心身を消耗しつくすと、こんどは極度に沈《ちん》鬱《うつ》になった。蒼《あお》ざめ、痩《や》せおとろえ、何事にも無関心になり、何物も視ることを拒絶する重い眼色で、終日終夜暗い死の穴を覗《のぞ》いていた。虚脱した私の心内を、いつもつめたい風が吹いている。  風は外にも吹いていた。私はよく眠れぬ深夜夢うつつの境に、遠く海鳴りするような木枯の音を聴いた。寒月のつめたく澄んだ光が、影ふかい下界のしじまを照している。 「浩、浩」  私はしばしば祖母の声に、夢うつつの境から呼びさまされる。闇の中に血まみれ姿の祖父母が私の前にたっている。 「宥《ゆる》して下さい。私はおじイちゃん、おばアちゃんが、可哀想でならなかったんだ」 「お前のほうが、私達よりよっぽど可哀想な子や。私達の待っている、極楽へ早うお出」 「はい」  私は突然、大声で哭《な》きだした。その声で、私は恐しい夢魔から目《め》醒《ざ》める。なつかしい祖父母の面影が、余《よ》翳《えい》をひいていつまでも私の心に残っている。二人の姿がいつか学生をつれて面会にきてくれた、品のいい老婆とかわっている。 「どなたも、同じ罪びとです。平和があなたの心に、訪れてきますように——」 「有難うございます」  私はこんどは彼女にむかって、素直に頭をさげた。しかし私の孤独な心はかぎりなく重たい。私の前に初恋のいく子や父や義母や、私を捕えた刑事の姿が現れてくる。私はこの人によって、はじめて恐怖の正体を知らされた。或いは刑罰というものの恐しさだったかもしれない。  私は彼等が現れてきても、会話をとりかわさない。互の心に通じあうものがないので、何もいう気がしないのだ。私は無言で彼等とむきあっている。そして自分の孤独さを心に噛《か》みしめている。私はたった独《ひと》りぽっちだという寂《せき》寥《りよう》——  思春期に達した私は、誰よりも美しいいく子の幻に心をひかれたが、同時にまた自分の生涯のはかなさに、胸をかきむしられる思を味《あじわ》った。私はまだ真の幸福に浴したこともなく、美しい女性の愛情をうけたこともないという未練である。独居房に閉じこめられ孤独な時間をおくっている間に、今まで知らなかった人生の尊さが、私にもようやくぼんやりと解りかけてきた。  私が静になったのを見て、教《きよう》誨《かい》師《し》の石井先生が私の房に這《は》入《い》ってきた。彼は真宗の坊さんである。 「百号、だいぶ落ちついてきたようだな」  私は黙っていた。彼は憔《しよう》悴《すい》した私の姿をじっと視つめて、 「だが、まだ熱ッぽい眼つきをしている。夜眠れんのだろう」  私は頭でうなずいてみせた。 「食事をせぬと身体《からだ》がもたんように、精神も栄養をとらんと病気がなおらん。少し、本でも読んでみるか」  私はそう云われて、なるほど私の心は病気だったのかと気がついた。私は死の恐しさとそれを待つ苦痛のあまり、それ等から救われるものなら何にでもとり縋《すが》りたかった。 「どうぞ、自分にでも解るような物を、お願いいたします」  苦悩がいつの間にか、私の倨《きよ》傲《ごう》さをうち砕いてしまった。私は強制された運命の前に、まったく無力で臆病な赤ン坊にすぎないことを悟った。自暴自棄になってあばれてみたところで、絶体絶命のこの運命をどうしようもない。  今となって私がそれから脱れる唯一の方法は、自分の死を恐れなくなることである。しかし、人を殺すことはできても、自分を殺すことは不可能だった。何等かの支えなり何者かの力をかりるのでなければ、私はとうてい一人で死の関門をくぐってゆきうる勇気がなかった。  教誨師が巡回の担当に託して、親《しん》鸞《らん》上《しよう》人《にん》の歎《たん》異《に》鈔《しよう》を教務からとどけてよこした。私は小学校時代雑誌や小説本の類を耽《たん》読《どく》したが、まだ曾《か》つてこういう種類の書を手にしたことがない。  歎異鈔はこれまで多くの人々に読まれてきたものとみえて、表紙はすりきれ中もかなり汚れていた。私は初め字義になじまないので、読みづらかった。しかしこの本の薄っぺらなのが、私の気をらくにした。私は教誨師に云われたように、暇にまかしてそれを繰返し読んだ。教誨師が時折私の房を訪れてきて、私の解らぬところを説明してくれた。  つまり歎異鈔の本旨とするところは、どんな悪人でも阿《あ》弥《み》陀《だ》さまのお袖にすがって、ひたすら御念仏をとなえさえすれば、私の恐れる死を易《やす》くすることができ、極楽浄土に再生することができるというのだそうである。 「——善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。ここが眼目だ、阿弥陀さまは劫《ごう》初《しよ》の昔から未来永《えい》劫《ごう》にわたって、人間の罪障救済を本願にこの世に示現していらっしゃる。それ故罪《ざい》業《ごう》の深い人間であればあるほど、阿弥陀さまはその者をお憐れみ下さるのだ。  善人は他の力をたのまずとも、往生ができる。しかし罪深い悪人は、阿弥陀さまにお縋《すが》りせずには成仏できない。げんに君が苦しんでいるのも、そのためだ。また阿弥陀さまも、君のような人間のために、有難い御誓願をたてられた」  心身ともに弱りはてていた私は、たちまち教誨師の暗示にかかってしまった。 「阿弥陀さまにお縋りして、極楽に行くにはどうしたらいいでしょうか」 「まず、過去に犯した自分の罪業を、よくよくふりかえってみることだな。そして、ああ悪かったと気がつけば、自然と阿弥陀さまの御姿が君の前に現れてくる。その御声も聞えてくる。それが阿弥陀さまの、どんな悪人もお見捨ならない証拠だ。我慾や生死の煩《ぼん》悩《のう》に、耳目を蓋《ふた》されていては、御姿を仰ごうとしても仰ぐことができない。ここの所を読んで、よく考えて御覧、阿弥陀さまの御心がわかるから……」  ——弥陀の誓願、ふしぎに助けまゐらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思ひたつ心の起るとき、すなはち摂取不捨の利《り》益《やく》にあづけしめ給ふなり。弥陀の本願には、老少善悪の人を選ばれず、ただ信心を要とすと知るべし。その故は、罪悪深《じん》重《じゆう》、煩悩熾《し》盛《じよう》の衆《しゆ》生《じよう》をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なき故に。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきが故に。  これが仏説のいわゆる、所縁というものであろうか。私は阿弥陀さまに帰《き》依《え》するようになってから、死の重荷が軽くなり心が明るくなってきた。私の罪業は宿《すく》世《せ》のものである。私は人間の煩悩や悪性の体現としてこの世にあらわれ、その業因をはたした後は永世不死の世界に帰ってゆく。  死の平和はすなわち、新に生きることだ。私は火宅のこの世を旅立って彼岸の浄土に赴《おも》く《む》のである。この自覚が死の恐怖から私を蘇《そ》生《せい》させ、むしろ死を悦《よろこ》び迎えるような希望に私を勇みたたせた。飢餓の苦しみも生活の不安もない永遠に平和な安住の世界、そこへは死を機縁にしなければ這《は》入《い》って行かれぬ。  私は十八年の生涯をあらためてふりかえってみて、私にはそれがあまりに重すぎたことを感じる。私のように意志の力を欠き精神の薄弱な者は、死によるのでなければ無《む》明《みよう》の煩悩を断ちきることができない。私は死によって美しい己に再生できることを、有難く思う。私は私の醜い現世の姿を、今ではいとわしくさえ考える。  弥陀への信仰は、ふたたび私を別人にした。観世音が三十二相の変身をもつように、因果の仮象にすぎない私も本然の姿を具現するまでに、幾度も変化する。私は宿縁の人々の幻を見るかわりに、夜な夜な弥陀の御姿を仰ぎその御光をあびるようになった。  死の悩みから救われると共に、私は気力をとりもどし快活になって、身体もまるまると肥ってきた。仏恩広大、我慾のために多くの人々をそこない、祖父母まで殺してみずから死の道をえらんできた極悪人の私にたいして、弥陀は永久無量の生命をさずけて下さる。その忝《かたじ》けなさを思うと私は、物をたべ何事をなすにも報恩感謝の念で胸がいっぱいになった。  私を見るほどの人々は皆、私の顔が仏相をおびてきたという。私の面が真理の光に赫《かく》奕《えき》として輝き、口辺に自然の微笑を絶やさぬからに違いない。私はまた私を見る人々の眼つきに、愛憐にみたされた仏の慈眼をかんじた。歎異鈔に、「一切の有情は皆もて世々生々の父母、兄弟なり。いづれもいづれもこの順次生に仏になりて助け候べきなり」とあるのは、この事であろう。  私にたいする二審の判決もまた、死刑だった。私は喜んでその言渡しをうけた。 「有難うございます」  私が裁判長にむかって丁寧にお辞儀をすると、裁判長は眼鏡ごしに私の顔をじっと視つめた。よほど意外だったらしい。私が一審で裁判長に暴言をあびせかけた事を、この裁判長も聞き知っていたからだろうと思われる。  私は裁判長の不審そうな顔つきに、心からの微笑をもってこたえた。裁判長は私の微笑を見ると、なぜかさっと表情をかえて顔をそむけ、眼鏡の下で二、三度眼をしばたたいた様子だった。私がまだ丁年未満の少年だったことを、憐《あわ》れんだためであろうか。満廷の傍聴人の席も私がお辞儀して礼をいった瞬間、水をうったように静になった。  私の執行の時が近づいてくるにつれ教誨師や担当や雑役の人達の私に接する態度が、目だってあたたかく親切になってきた。ほとんど私の遠い旅立ちを、惜むかのようにさえ感じられる。教務課長や刑務所長までが、私の房へ来て私を慰めるようになった。  或る日、所長室へ呼出された。囚人として異例のことである。室内に所長と教務課長と四十代の洋装の婦人が、椅子に腰をおろしていた。三人でいろいろ私のことを話し合っていたらしい。婦人は所内の視察にでも来た、都会の立派な身分の人なのであろう。所長達の彼女にたいする態度は、鄭《てい》重《ちよう》である。 「この少年です」所長は婦人に私を紹介して、 「此《こ》処《こ》へおかけ」  所長は婦人と向合せの椅子を、優しく私に指さした。有《う》縁《えん》無縁何びとであるにかかわらず、みな仏性をついだ父母兄弟であると信じている私は、畏《おそ》れることもためらうこともなくその席についた。 「このかたは国会議員でいらっしゃる。君達のために、少年福祉、保護法案や矯正院法案に関する法律を審議されるについて、全国の少年院、家庭裁判所、刑務所などを視察に来られた。ところでなア垂井」所長は私を番号でよばなかった。 「私からこのかたにお頼みして、丁度いい折だから君のお母アさんになって貰《もら》った。君は生れた時から、お母アさんというものを知らない。こんな立派な先生にお母アさんになっていただいたら、君も嬉しかろう。自分にその御資格はないと御辞退なさるのを私からたってお願いした。君も承知してお母アさんに、云いたい事を何でも申上げるがよい」  所長は職掌柄、これまで度々死刑囚の執行にたちあって、死刑廃止論者になっていた。彼は母もなく死んでゆく私の身上を不《ふ》憫《びん》に思い、そのような処置をとったのであろう。私はにこにこしながら、椅子から起ちあがって新しい母に礼をした。ひたすら阿弥陀さまにおすがりしている私に、新しい母の必要はなかったけれども、私は所長等の温情に謝したのである。  婦人は私に劣らぬ丁寧さをもって、私に礼をかえしてよこした。私の婦人にあたえた印象は彼女の予想をまったく裏切ったらしい。婦人は少年の身で死刑に処せられる私の姿を、ひどく陰惨な恐しいものに想像していた様子である。私の微笑と明るく輝いた表情は、婦人を感動させ涙ぐませた。 「所長さんが今おっしゃられたように、私はあなたのお母アさんになるなどという資格はございません。あなたは立派に救われていらっしゃる御様子なのに、まだ何も救われていぬ私があなたの母になるなんて、ほんとにお恥ずかしいようなものですが、でも何か私に役立つことがあったら、御遠慮なくおっしゃって下さい。たとえば差入れ物で何か……」  婦人は私が少年なので、この世の名《な》残《ごり》にあまい物でも腹いっぱい喰べたがってるように考えたらしかった。私は信仰に生きるようになってから、すべてに不平をもたなくなった。刑務所の食事を感謝してたべ、それに充分満足していた。 「喰べ物はべつにほしくありませんが、心の悦びになるような本があったら、読みたいと思います」 「承知しました。あとで教務課長さんと御相談して、何か適当なものをお届けしましょう。そのほかには?」  私は婦人と眼を見合せた。婦人の眼差しには、私にたいする精いっぱいの好意があらわれている。私の死はそれほどまでに、人の同情をよぶのであろうか。私はむしろ喜んで、この汚辱の世を遁げだしてゆくのに。私は婦人が代議士であることを考えて云った。 「私は今まで、誰にも申したことはありませんが、私生児なのです。私は父母の愛情や家庭の悦びを知らずに育ちました。どうぞ子供に私生児なぞという悲しみや僻《ひが》みを、味《あじわ》わせないような法律をこさえて下さい。私が現在のような身の上になった最大の原因は、そこにあったんじゃないかと身に沁《し》みて考えられます。それから人々に最低限度の生活が保証されて、泥棒しなくてもすむような法律を作っていただきたいと思います。もし食事が充分にできたら、私にしても或る程度、罪を犯さずにすんだかもしれません。私ばかりでなく、この刑務所にいる千人以上の受刑者の中、大部分がそうなのじゃないでしょうか」  婦人はうなずきながら、椅子からたちあがって私に右手をさしのべた。 「あなたはもう、この世でいちばん幸福な人の子に、生れ替っていらっしゃいます。私の祝福をうけて下さい」  彼女は私の手を握ると、そのままひきよせて、私の身体を両手でしっかりと抱きしめた。婦人の熱い涙が、滴々と私のうなじにしたたりおちてきた。  私は今、自分の体内が光り輝くような気持で生きている。阿弥陀さまが私の中に住んでおられるからだ。私はいつ刑場にひきだされてもいいように、監房内を塵《ちり》一つ落ちていないようきちんと片附けておく。私は一日もはやく、祖父母の待っている極楽へ、飛んでゆきたい思でいっぱいだ。憎みも争いも苦しみもない、楽園の浄土界。そこにほんとうの私の生活がある。  私は処刑は朝のうちに行われる、ということを知っている。朝になると雀が、私の監房の窓辺に飛んでくる。私がそこへ飯粒を置いておくからだ。私がいなくなれば、雀は失望するに違いない。それが私のこの世にのこす、唯一つの心がかり……南無阿弥陀仏。 —————————————————————  少年の手記はここで終っている。婦人代議士はその後折々、この少年のことを思いだして、死刑があのような少年にたいし、はたして妥当なものかどうかにつき、思いまどうことがあった。  ところが二年経って、婦人は少年がまだこの世に生存していることを、偶然の機会に知らされた。彼女はさっそく、少年に会いに行った。  少年は、あのようによい子供を、むざむざ殺したくないという人々の計らいから、少年保護法の改正されるちょっと前でもあったので、恩典により刑一等を減じられ、無期囚として他の刑務所で、作業用の白手袋をつくる労役に服していた。  婦人は少年に面会して愕《がく》然《ぜん》とした。まるまると肥っていた彼が、再び見違えるばかり痩《や》せおとろえ、人に咬《か》みつきそうな兇悪な相に変っていたからである。  楽しい憧《あこが》れをもってあの世へ旅立とうとしていた少年は、ふたたびこの世にひきもどされて絶望してしまった。彼はとざされた獄舎の生活に、何の希望も幸福も見出しえなかった。  少年ははるばると訪ねて来てくれた婦人代議士にたいし、涙を流して愬《うつた》えた。 「なぜあの時、私を幸福に死なせてはくれなかったのでしょう。あれから二年あまり経ちますが、私は毎日生きてゆくのが苦しくてならんのです。こんな苦痛にさいなまれているくらいなら、獄外へ脱走してもう一度殺人罪を犯し、死刑に処せられたいと考えます。死んでゆく時の身も心も軽る軽るとする、晴々した悦びを思うと、私は助けられたことが怨《うら》めしくてたまりません」  そういう苦悩にみちた、少年の悲痛な顔つきは、いたましいかぎりだった。往《おう》生《じよう》の要《よう》諦《たい》を説く仏教は、少年の死にたいする恐怖や苦悩をやわらげてその悦びや功《く》徳《どく》に転じ、生への執着を、嫌悪へ変らせえたが、生涯を獄舎に葬られ、絶望して生きている少年にたいしては、もはや効力をもたなかった。婦人代議士にしても、彼がもとの幸福な、善い少年にかえってくれることを願う以外に、慰めようがない。  少年の短い生涯が運命のからくりに飜《ほん》弄《ろう》されてきたように、彼の無智な精神もまた信仰のからくりに弄《もてあそ》ばれて悩んでいる。自力か他力か、要は当人の自覚や信念の把《は》握《あく》にまつしかないようなものの、それで人間の生きてゆく道が解決されたというわけでもあるまい。 「とにかく私は、うんと仕事をします。それによって幾分でも、現在の苦痛を忘れるように致しましょう」  少年は最後にそういって、暗い未来におしつぶされたように、うなだれよろめきながら獄内へ消えて行った。 高野詣 一  人の賢さは、たかが知れている。躓《つまず》いてみなければ、解らない。  西島はそんな思を抱《いだ》いて、高野へ行った。  五十をなかば過ぎてから、高野は彼のイメージになっていた。年齢には年齢相当のイメージの世界がある。べつに信仰の有無には、かかわらない。  高野には、西島の知人があった。韓国人である。中華料理をやっていた。  西島は午食にたちよって、ふと彼と顔を見合した。 「やア」  それよりも早く、相手のほうから飛んできて、西島の手を握った。 「やア、先生」  どういうものか彼は、西島を先生と呼びつけている。中国人のいう、「大人」という意味かもしれない。もっとも二人の年齢に、三十歳ちかいひらきがある。 「朴《ぼく》君たっしゃで結構だね」  西島は思わぬ所で、彼と再会したことをさして意外としなかった。年齢から云っても、西島はすでに人事にたいする、新鮮な感情をうしなっている。  霊場などとよばれる処は、いわば死者の天地だ。そうした場所を訪れたがる気持に、はや死の静《せい》謐《ひつ》を希《ねが》う心が萌《きざ》している。 「先生、僕は、此《こ》処《こ》では、松井というのです。松井隆作。僕は結婚しました。八月になる子供があります」  この民族の特徴として、身の上の説明を急ぐ風がある。西島は微笑した。 「それは、お目出度う」  松井は西島を、一隅の卓へ案内した。 「先生、何を召上りになられます?」 「まず、君の発展を祝して、祝盃をあげよう」 「それは嬉しいですな」  彼は店の女を呼んで云った。 「おい、麦酒《ビール》」  麦酒がくると、二人はグラスを合した。 「なかなか、いい店だ」  西島は店内を見廻して云った。 「客もだいぶ、詰めている」 「これもみな、先生のお蔭です」  松井は始終、笑顔を見せている。落附いているようで、内心はかなり昂《こう》奮《ふん》しているらしい。戦後六、七年ぶりの再会である。彼は旧知に会い、自分の成功を見てもらうのが、嬉しくてたまらぬのであろう。 「中華料理とは、思いつきだったね。この町では、君の所だけだ」 「そうです。僕の家一軒しかありません。後は全部、日本料理とうどん屋です。僕がこの春此処へきて、簡単にやすい料理を喰べさせようとしたのが、当りました。僕はここでうんと金を儲《もう》けて、秋の末には東京へ帰ります」  そういう松井は、真夏の避暑客をあてにしているとみえる。 「冬はだめかね」 「駄目ですな。ここは人口七、八千しかありませんから、稼《かせ》いでもたかが知れてます」  松井は目先が利いた。常にそうして、他国で生きている。 「先生は、いつこちらへ?」 「二、三日前だ」 「暫《しば》らく、御滞在ですか」 「いや、そう永くはいません」 「お宿は?」 「三宝院」 「お一人ですね」 「そう」 「奥さんやお嬢さんは、お変りありませんか」 「ふむ、まア」  西島は言葉を濁したが、思いなおして、 「今、娘とは別居している」 「あ、そうですか」 「中野で道楽半分に、骨《こつ》董《とう》屋《や》をやってるよ」 「ホテルはお嬢さんに、譲られたんですな」 「そうだ」  話の間に二人は、麦酒を二本あけ三本あけた。その合間に簡単な料理が、つぎつぎと運ばれてくる。 「先生は、高野は初めてですか」 「初めてだよ。前から一度、来てみたいと思っていたのだ」 「御感想は、いかがです」 「気に入ったな。それで、滞在しているのだが。……しかし、山上よりも電車やケーブルで、深山に分け入り、幽谷を攀《よ》じのぼってくる、途中の感じが素晴らしい」 「山上は、俗化してますか」 「それは仕方があるまい。此処ばかりでなく、何《ど》処《こ》でもそうだ」 「先生、明日一つ、面白い所へ御案内しましょう」 「遊ぶ所かい」 「それが、変ってるのですよ。峠の一軒家なんです」 「ホテルか」 「ホテルじゃありません。腰掛茶屋ですよ」 「女もいるの」 「います。しかし、パンパンじゃありません。パン助なら、御案内しても、つまらんです。それに、途中の景色が素敵だ。僕はこの間、初めて連れて行かれたんですがね。三千尺近い草山の尾根を、赤土道が二里も三里もつづいているのです。その眺《なが》めといったら、熱海の十国峠なぞ、遠くおよびませんね。和歌の浦から淡路島、四国のほうまで見渡されます。第一、野趣があって、一度行ったら忘れられませんよ。明日三宝院へ、自動車をつけさせます。楽みにして、待ってて下さい」  西島は松井と別れて、三宝院へ帰った。彼は客殿の奥座敷に泊っている。  八畳の二間つづき、前の間には炉が切ってあり、水屋があって茶を点《た》てられるようになっている。  次の奥の間の襖《ふすま》は、雪舟派の墨絵、金《きん》泥《でい》に菊花を描いた光《こう》琳《りん》風《ふう》の六曲の腰《こし》屏《びよう》風《ぶ》。座敷の中央に一間の朱卓、赤絵の火《ひ》鉢《ばち》、床に僧侶の墨《ぼく》蹟《せき》がかかっている。   江水江南一白鴎  表装の簡素な一軸だが、書体に素朴な風韻がかんじられる。西島は骨董屋をいとなんでいるくらいだから、書画や調度の鑑賞にくらくはない。  袋戸《と》棚《だな》にはなお仏像などが数体飾ってあったが西島はべつに手にとって見ようとはしなかった。三宝院には国宝級の逸品が、かなりあるはずだが、それ等は何処かに秘蔵されてあるのであろう。  座敷の東と西は、濡《ねれ》縁《えん》になっている。東側に奥庭がある。裏手の山《やま》裾《すそ》を利用して泉石をあしらい、岩組みの間につつじや百《ゆ》合《り》、なでしこなどが咲いている。地面は砂石まじりの赤土で、雨に濡れ、陽に乾いても美しい。  朝から鶯《うぐいす》が啼《な》きしきり、曇り日には蜩《ひぐらし》が鳴く。夜は何処からともなく、虫の声が聞えてきた。老杉、高野槙《まき》などの巨樹に蔽《おお》われた山上の台地は、山房の奥にひきこもっていると閑寂をきわめている。  朱卓には仏書や高野の案内記などが、二、三冊積まれているが、西島は読む気もおこらなかった。昼夜ある一事に心をとらわれて、精神が安らがない。眠っていながら、夢裏になお眼を開いているような不安に、とり憑《つ》かれている。  暁の鐘がかんかん鳴りわたると、西島は本堂に出て寺僧達の勤《ごん》行《ぎよう》に侍した。寺僧等は、本尊の大師像にたいして、毎暁看《かん》経《きん》礼《らい》拝《はい》を行う。西島は密教の儀《ぎ》軌《き》というものに、初めて接した。  僧正の院《いん》家《げ》が主僧となって、若い僧侶等が七、八人、内陣に円を描き、擦《すり》鉦《がね》をすり鳴らし銅《どう》鉢《はち》をうって、読経の声をあげる。  朱塗の仏壇、金色の厨《ず》子《し》、天《てん》蓋《がい》などが燈《とう》明《みよう》の灯にきらめく森然とした仏殿の隅《すみ》で、彼等の礼拝、供養を見ていると、西島は一種のエキゾチシズムに誘われた。そしていつともなく、彼等が終りに口ずさむ真《しん》言《ごん》の呪《じゆ》を、そらんじるようになった。   羯《ぎや》諦《てい》羯《ぎや》諦《てい》 波《は》羅《ら》羯《ぎや》諦《てい》 波《は》羅《ら》僧《そう》羯《ぎや》諦《てい》 菩《ぼ》提《じ》薩《そ》婆《わ》訶《か》  渡れ渡れ、彼岸にわたれ、渡って正《しよう》覚《がく》を成就せよ。大略、そうした意味らしい。西島は若い頃煩《ぼん》悩《のう》からの解《げ》脱《だつ》を考えたりして、人なみに思いなやんだことがある。年老いた今は彼岸とか正覚というような言葉を耳にしても、あまり直接にはひびかない。悩みも苦業も、要するに死ぬまでのことだ、彼岸なぞあろう筈《はず》はない、そういう風に人生をなかば割切り、なかば諦《あきら》めている。  彼がいつも考えることを余儀なくされるのは、やはり現実界の束縛だ、生活の法則の外に立とうとしても、立てるものではなかった。六十年ちかい生涯の経験が彼にそれを覚《さと》らせている。  西島は松井の朴運享に遭《あ》って憑《つ》かれた一事から幾らかでも考を、紛らわせることができた。  朴は西島のホテル前の道ばたで、金魚売りをしていた男である。二、三円で箱槽に泳いでいる金魚を、紙の網で掬《すく》わせたり、人絹の糸で釣らせたりする商売だ。  春から始めて半年ほどすると、今度は儲けた金を広告取の観光新聞に投資して、その営業部長におさまった。  西島のホテルは、湘《しよう》南《なん》の有名な温泉街にあった。東京はもとより各方面から浴客や、観光団体が集ってきて、四季を通じおそらくは全国一の賑《にぎわ》いをみせている。  したがって街全体が、ホテル、旅館、料亭、飲食店、土産《みやげ》物《もの》屋で埋っている。それ等の店から広告をとって、週刊の観光新聞をだせば儲けは疑なしということで、始めた仕事であったが新聞は数号だしたばかりで潰《つぶ》れた。  朴は営業部長の名につられて、体好く詐《さ》欺《ぎ》にかかったようなものであった。投資した金を丸損したばかりでなく、なおその上に事業の損失額を、償わなければならなかった。  朴はその金を、西島に借りにきた。西島は当時市会議員を勤めていて、朴と交渉があったうえ、ホテル前で金魚売りをしていた頃の朴の実直な人柄を知っていた。  朴は日本生れの韓国人で、両親のほかに弟妹をかかえて困っていた。西島は彼が馬鹿でないのをみて、彼のために銀行から二度金を借りてやった。  朴はその金を元手に闇《やみ》商売をやって、西島に負債を返した後、街から姿を消した。東京に行ったと思っていたところ、高野に来ている。西島と出合ったのは偶然だが、朴のように帰るべき故国をうしなった人間が、生きるために才覚を働かして、各地を転々している姿は偶然ではない。 二  翌日、朴が車に乗って、誘いに来た。奥の院の入口前を右折して、山道を登る。細雨が降りこめていた。高野は雨が多かった。西島が来てからも、晴れた日はすくない。  路傍に木《き》苺《いちご》が、赤く熟《う》れていた。採る人もないとみえて、到るところ枝もたわわに紅玉のような実をつらねている。桃色の百合、名の知れぬ野草の白い花が、草山のなぞえに細雨に濡れながら、かすかに揺らいでいる。  道幅はトラック一台が、通るほどの広さだった。高野には七つの登り口がある。みな険《けん》峻《しゆん》で車は通らない。この口一つだけが切りひらかれて、トラックが通っていた。  道は山々の尾根を縫い、大和から遠く紀伊のほうに通じている。車は谷間をじぐざぐに辿《たど》りながら、しだいに高みに登ってゆく。  登っては下り、下ってはまた登り、やがて尾根の腹に達した。摺《すり》鉢《ばち》の縁をめぐるように、ひとすじの赤土道が遠く谷間の上を、蜿《えん》蜒《えん》とつづいている。  はるか下に見おろされる谷間の杉森の梢《こずえ》から、煙が迷うように青い霧が噴きあげてくる。雲と雨にとざされて、眺《ちよう》望《ぼう》はきかない。しかし、三千尺の高処を稲《いな》妻《ずま》のように疾走する自動車の速力は、天空を駈けているような爽《そう》快《かい》さだ。  運転手の小倉は、戦争中の七年兵だ。満洲、中国と転戦してあるいて、神経が荒くなっている。彼は茶屋の女の一人に惚《ほ》れていた。女も客を案内してくるので、小倉を大事にする。  朴はこの小倉に連れて行かれた。そしてやはり他の女に惚れ、忘れがたくて西島を誘ったわけである。西島はそのようなことは、何も知らない。ただ彼は、気が紛れさえすればよかった。  車は、とある萱《かや》葺《ぶ》きの家の前で停った。  そこが峠の茶屋である。前後を杉の木立や森でつつまれているので、ちょっと気がつかない。横手が広場になっている。西島達は、そこで車を降りた。  入口が土間になっている。硝子《ガラス》箱や棚《たな》に、菓子、罐詰、サイダアなどが置かれてあった。古び煤《すす》ぼけた田舎《いなか》家《や》である。高原の樹蔭に、ただ一軒隠れている。  二人の女が店に現れてきた。朴の云ったとおり、なるほどパンパンではない。それぞれ白や黄のワンピースを着て、リボンで頭髪を結んでいる。年は二十二、三から四、五歳ぐらい、明るい善良な顔をしている。  久しぶりの客とみえて、喜色が二人の表情にあふれている。彼女等は西島達を店裏の座敷へ案内した。六畳の部屋である。しきりの襖《ふすま》や板戸はまっ黒にすすけ、畳は茶色にかわり、隅《すみ》には家族のぬぎすてた衣《い》裳《しよう》が、散乱している。 「奥のお座敷にいたしましょうか」  色の白い年かさの娘が云った。 「いや、此処でいい」  朴は茶卓の前に腰をおろした。彼がそういうところをみると、奥の座敷はもっとひどいらしい。女達は急いで、部屋の中を片づけた。  やがて、酒や料理が運ばれてきた。魚や肉がないとみえて、卵の料理や罐詰類である。 「どうですか」  朴が西島に、感想をもとめた。 「ふむ、面白い」 「なにが、面白いんですの」  化粧をあらためてきた色白の娘が、西島と小倉の間にすわって、二人の話を聞きとがめた。富久子というのである。小倉の好いている女だった。 「このような山の中の一軒家に、君たちのような美人が、隠れているのが面白い」 「まア、お上手でいらっしゃいますこと」  富久子の声は、すこし嗄《しわが》れている。口を大きくあけて笑うところなぞ、少しも気取った風を見せない。香料はほのかないい品を使っている。  朴と小倉の間にすわった女は、富久子より年下で、色が浅黒く顔立が鄙《ひな》びていた。しかし農家の娘のように、垢《あか》抜《ぬ》けしていないわけではない。地方の町娘でもあるのであろう。口数が少く、穏《おとな》しそうであった。  茶屋の内儀が、新しい銚《ちよう》子《し》をもって、西島に挨《あい》拶《さつ》に出てきた。朴がいつの間にか西島のことを、大きく吹込んだものとみえる。  西島とほぼ同年ぐらいの老婆である。筒袖の単衣《ひとえ》をきて質朴そうだ。小倉の話によると、内儀の一家はもと山《さん》麓《ろく》の農民だったそうだが、いつの頃からか此処に茶店を開くようになったのだという。  この家にはほかに八十歳すぎの盲《めし》いた老婆と、それの連合いの老人と、内儀の娘がいた。老人は水《みず》汲《く》みのために、深い谷間の沢へ登り下りするのを、一日の仕事にしている。盲いた老婆は内儀の母親で、老人は内儀の父親ではないらしい。  そういう一家も変っているが、西島にはそれよりもこうした不便な場所に、若い女連を置いてあるのが不思議でならなかった。  ここは高野から、二里以上隔っている。茶屋をすぎるものとしては、木材や物資をつんだトラックと、山麓の農民ぐらいである。女達がたとい身を売るつもりでも、第一客がないではないか。  運転手の小倉が、ここへ客をつれてきたのは、西島でやっと二人目だ。往復の車賃が二千円以上かかる。そんな高い足代を払って、誰がこんな所へ遊びに来よう。高野の町には飲食店が軒をならべているし、パンパンや連込み宿もあるらしい。  女を置く家も家だが、かような所にいる女達も女達である。稼《かせ》ぐつもりなら、彼女等の若さだ、何処にでも口があるではないか。西島は旅館を経営していたので、女達の気持がわからなかった。 「これには、何か事情があるに違いない」  西島はそう考えたが、べつに女達に訊《き》こうとは思わなかった。また、聞きただす必要もない。彼はただ愉快に遊んで、鬱《うつ》した気分を紛らわせさえすればよかった。  三人の間でようやく酒がまわりだした頃、また一人の女が現れて、西島と朴の間にそっと座をしめた。その動作があまり静で控え目なので、酔いだした三人は気がつかなかった。  そのうち彼女の真向いに坐っていた小倉が、ふと彼女の姿に目をとめ、 「やア、またニューフェイスが増《ふ》えたぞ。君はいつ此処へ来たのだ」 「五日前です」  女は低い声で答えた。喉《のど》の奥からむりに押しだしたような調子である。 「それじゃ、僕も知らんわけだ。まア、お近づきに一杯」  小倉が女に盃をさした。 「君の名は何というんだ」 「とき子と申します」 「ときちゃんか。僕は小倉というんだ。憶《おぼ》えておいてくれ給え」  運転手をしている小倉は、土地の顔だった。彼は飲食店の女たちとは、みな馴《な》染《じみ》になっていた。彼は女によくもてた。神戸にいた時も女のために、自分の持ち車を売り払い、高野へ落ちてきたのだそうである。  西島は朦《もう》朧《ろう》とした眼で側の女をかえりみて、思わず「おや」と感じた。 「おや、この女は、こんな所へ来る女じゃない」  彼は長い間ホテルで、多勢の女中を使っていたから、一目その顔をみるとたいていその人柄や身の上がわかる。またその女が、水商売むきかどうかも見ぬける。とき子は水商売向きの女ではなかった。  彫のととのった顔で、表情が澄んでいる。齢はもう三十歳半ばを、越えているであろう。しかるべき人の令夫人として、恥ずかしくない人柄である。  戦後、落《らく》魄《はく》した人が多かった。華族や軍人、実業家の夫人や令嬢で、旅館や料亭の女中、茶房その他の女になった人々も少くない。西島のホテルにも、そうした女達が見えたことがある。  働くのは立派な事だ。なにも前身を誇り、現在を恥じる要はない。西島はそのような目で、彼女等の上を見すごしてきた。そして戦後七年経つ間に、危ぶまれた彼女達も、たいがい落附くところに落附いたようである。  西島は酔っぱらって、間もなくとき子のことを忘れてしまった。朴や小倉が音頭をとって歌をうたったり、女達が立って踊ったりしはじめたからである。朴の愛しているという女は、無口で穏《おとな》しそうなのに似合わず、歌や踊りがうまかった。富久子はダンスをやる。  山中の一軒家で、誰憚《はばか》らず踊り狂いまわるのは、また一種独特の楽みである。千百余年間法燈をまもりつづけてきた聖地、などとよばれている高野では、どんなに俗化していても、やはりこう大っぴらには騒げまい。  寺院と死者にしめられた霊域には、息づまるような空気が漂っている。破戒のともがらには、時々息ぬきが必要だ。その意味では霊場外にある、こういった場所も面白くなってくる。朴が西島を誘ったのは、その趣きを云ったのであろう。  酔にまかせて得意の朝鮮民謡をうたっていた朴が、歌いおわると突然とき子を指名した。 「君はいったい、どうしたんだ。さっきから黙りこんで笑いもしない。何か歌えよ」  人々が大騒ぎしている間、一人うなだれていたとき子は、叱られでもしたように顔をあげた。青白い細面が、水のようにつめたく澄んでいる。 「姐《ねえ》さんは、端《は》唄《うた》の加賀節がうまいよ。もっと酔わせて聴きなさいよ」  富久子ががらがら声で、人々に教えた。西島は加賀節というのを、初めて聞く。義太夫節の元となったと云われているくらいの古い浄《じよう》瑠《る》璃《り》で、後江戸や島原の遊里で端唄としておこなわれた。 「亡くなったお祖《ば》母《あ》アちゃんから、子供の頃おそわったのですわ」  とき子は西島にそう断って、三《しや》味《み》線《せん》がわりに膝《ひざ》で手拍子をうち、ほそい声で歌った。 いずれいずれの日に立ちそめて いなさ細《ほそ》江《え》のみをつくし 朽ちも果てなば浮名と共に 同じ浜名の橋柱  この文句通り古雅なふしで、単調な歌い口の間に、遊女の身を浜名の人柱になぞらえた、薄命の女の哀愁を惻《そく》々《そく》と人に感じさせる。  聴き終って西島は、思わず「うむ」と唸《うな》った。若い人々の耳には陰気すぎるであろうけれども、老齢の胸には深くこたえるものがある。  西島はとき子を相手に、酒を飲みだした。朴や小倉はそれぞれ好きな女を擁して、献酬に余念がない。日は午《ひる》をすぎたが、誰一人茶店を訪れる客の声もしなかった。 三  西島はとき子に訊《き》いた。 「あなたには、子供があるだろう」 「はい、ございます。十八歳になる娘と、十六歳の息子と二人」  とき子の答は素直だ。相手が老人である故もあろう。 「この商売は、初めてかい」 「初めてです」 「何《ど》処《こ》から来たの」 「増美ちゃんと、同じ町です。紀伊の海岸のほう」  増美というのは、朴の愛している穏しい娘である。 「どうして、こんな所へ来たんだい」  西島はやはり、訊くまいとしたことを訊いてしまった。酒興の誘惑である。女は黙っている。 「訊いちゃ、悪い事か」 「いいえ」  とき子は頭をふった。 「大きな旅館だと聞いたから、働きに来ました。ところがこの通りなので、びっくりしてしまったのです。五日間、一人の客もありません」 「人に瞞《だま》されたの」 「お世話してくれた人も、知らなかったのでしょう」 「こんな所とわかったら、帰ればいいではないか」 「借金があります」  女はささやくように云った。 「なるほど、それで解った」  女達が此処に辛抱しているのも、金に括《くく》られているためなのだ。 「大きな金かい」  とき子は茶卓の下に手を開き、指でその額をしめした。すると富久子が、西島の袖をひっぱった。 「二人で、何をひそひそ話してんの。富久子にも、お盃をちょうだい」  彼女はすっかり、酔っぱらっていた。からだも顔も丸ぽちゃで、眼がくりくりと大きい。色白なので身体全体が、白《びやく》蘭《らん》の花のような感じである。 「この人の身の上話を、聞いていたんだ」 「女の身の上話なんか、聞いたってつまンないよ。誰もかれも、似たりよったりじゃないか」 「その通り。不幸なことで、みな共通している」 「先生は、女にあまいよ」  小倉が西島を見てわらった。 「この人はこれで、お公《く》卿《げ》さんくずれなんです。やけを起して家を飛びだし、勝手なことをしてるんだ。不幸だなどと、云えた義理じゃない」 「そうよ、あたいはおもうさんやおたあさんに、復《ふく》讐《しゆう》してンだよ。あまり家が、封建的だから……」 「何が封建的なのです」  西島は富久子が、でたらめを云ってるとは思わなかった。小倉の言葉は、おそらく本当であろう。だからといって、別に驚いているわけではない。 「厭《いや》な人を、あたいのお婿《むこ》さんに押しつけるからさ。あたいはうんと堕落して、思い知らせてやるのだ」  富久子は小倉の膝に、もたれかかりながら、大きな眸《ひとみ》で西島をみつめた。その眼差しには、いたずら娘らしい媚《こび》と色気を漂わせている。 「それも嘘《うそ》だ。この子には、子供があるんです。それで両親が、迎えにくるのを待っている。母親が違うので、意地を張ってるのですよ」  小倉は富久子の身の上に、かなり詳しく通じているらしく、口とは反対に彼女に同情していた。若いだけに西島より彼のほうが、もっと女にあまそうである。 「おもうさんやおたあさんに、あまり苦労をかけちゃいけません」  西島は戯《じよう》談《だん》を云いながら、急に心が暗く沈んできた。子を憎めば子は親の敵となる。そういう言葉を、思いだしたからである。肉親の間の愛憎は、他人の場合よりももっと深刻だ。彼は痛む心を、酒で鎮《しず》めた。 「あなたもお子さん達の所へ、帰らないといけないね」  西島はふたたび、とき子に話しかけた。とき子は無言で、うつむいている。西島以上に心が痛むのであろう。 「御主人は?」 「戦死しました」 「ほう、それは……」 「それから私は、一生懸命働きました。ミシンも踏めば、編み物もやります。しかし、どんなに働いても、田舎《いなか》では三、四千円にしかなりません。闇商売もやって、二十日間警察にとめられたこともございます」 「二人の子供をかかえちゃ、大変だ」 「娘はともかく、男の子だけでも、立派に教育してやりたいと思いましてね。それに戦災で家を焼かれ、今度借金して小さな小屋を建てましたの」 「この家の借金は、その一部かい」 「はい」 「あなたが家を出た後、お子さん達はどうしているの」 「娘が勤にでて、弟を養っております」 「あなたの娘なら、美人だろう」 「ええ」  とき子はこの時初めて、微《かすか》に笑顔を見せた。 「今年、ミス××に当選しましたわ」 「そんな美人ならば、私が一つ世話してやろうか」  とき子からは、もとより返事はない。といって西島の戯談を、真《ま》にうけた様子でもなかった。彼女は何かに、思いなやんでいた。  とき子は袖の短いシャツに、羅《ら》紗《しや》のスカアトをはいていた。胸部に厚味がなく、袖からあらわれている両腕も、おそろしく瘠《や》せている。一握りしたら、折れてしまいそうだ。  神経質で怜《れい》悧《り》な性格なのであろう。この女の前身は分らない。役人か会社員の妻女だったのかもしれない。親戚には相当な人もいるそうである。  とき子は親戚にも子供等にも隠して、此処へきた。彼女は身を殺しても子供を教育したいという、日本の女性らしい虚栄にとらわれている。そのため危い橋を、渡りかけていることに気がつかない。 「おい、ちょっと散歩にでないか」  西島はとき子を誘った。 「はい、お供致します。仕《し》度《たく》して来ますから、少しお待ち下さい」  とき子はすぐ、彼の誘いに応じた。彼を疑ったり用心したりする気振りはない。彼女も朴の法《ほ》螺《ら》を信じて、西島を東都の大実業家のように思っているのであろうか。  とき子は黒の明《あか》石《し》の和服に改めてきた。帯は博多のひとえである。手編みの帯止も悪くはない。おそらく彼女の一帳羅なのであろう。彼女は服装によって、彼女の前身の悪くなかったことを、西島にしめしたがっているように思われた。  二人が外へ出ようとすると、富久子がとめた。 「あら、二人して、何処へ行くの。狡《ず》るいよ。行っちゃ駄目」  彼女は西島の洋服のズボンを掴《つか》んだ。 「いいじゃないか。ゆっくり散歩していらっしゃい。お帰りまで、お待ちしています」  朴は西島を見上げて、にやにやした。西島が女を誘いだす気持を、のみこんでいるという表情である。あるいは彼は彼なりに増美にたいして、別な下心を持っているためかも分らない。  西島は茶店を出しなに、雨衣に雨帽をかぶった。しかし、雨はやんでいた。かわりに霧が、あつく谷間の上を覆っている。尾根の草山の上にも低迷していた。ただ二人の姿だけが、影絵のように霧の中に浮んでいた。  散歩といっても谷は深く、尾根のなぞえは急なので、道の上をあるくよりほかはない。西島はもときた道をひっかえした。路傍の草むらに夏《なつ》艸《くさ》の白い花が、霧を吸ってはかない色香をみせている。 「この花は、何というのだ」 「知りません」 「そりゃそうだろう」 「あら、なぜですか」  とき子が西島に寄りそうてきた。 「朽ちもはてなば浮名とともに、おなじ浜名の橋柱——。水草でないだけましだ。お子さん方の所へ、お帰り」  西島はあらかじめ用意していた金を、とき子の掌に握らせた。彼女が茶屋から借りた負債である。  とき子は十幾枚かの札を握り、うなだれた。いつまでも黙っている。別段、喜んだ様子もない。かえって表情が堅く、青白くなった。霧に隠れた夏艸の花のようである。 「たまたま、あなたのような人に遭《あ》ったのが、私の不運、あなたの幸運といえば幸運。私は仏への供養を親にする。私もあなたと同じ橋柱、不幸な人の親です」  西島はとうとう、本音を吐いた。しかしとき子には、彼のつぶやきが解らないらしい。気まぐれな東都の富裕人と思っている様子である。そしてその出現に、驚いている風だ。どう金の始末をしていいか判断に迷っている。 「ひっかえしましょう」  とき子が、西島の袖をひいた。 「お茶屋の小母さんに云います、私が嘘をついたのではないことを——」  彼女はこだわっていた。西島は歩行をやめなかった。 「私は帰るつもりで、出てきたのだ。私は酒に酔った。若い人達とはつきあえない」 「でも皆さんが、お待ちしてますわ。このままお帰ししては、私が叱られます」 「叱らないよ、私の気まぐれを知ってるから。飲むだけ飲んで引上げてきたら、途中で車に乗ります。それまで、黙っておきなさい」 「じゃ私も、それまでお供しますわ」  とき子は何かの形で、貰《もら》った金の償いをしたげである。身体をもとめられたら、すすんで身をまかせそうだ。いくぶんでも、気持の上の重荷を軽くしたい。  彼女はひどく、真剣な顔つきをしていた。しかしその顔色には、どこにも雲の霽《は》れ間が見えない。この天候と同じである。四方が霧に閉ざされている。  とき子がたとい茶屋の負債を払って、子供達の所へ帰ったとしても、生活の暗雲は依然として前途にたちこめている。彼女はそれを案じているのであろうか。  それとも良人《おつと》の戦死とともに、彼女の生活の悦《よろこ》びも希望も、まったく失われてしまったのであろうか。彼女の心の灯は、消えうせている。誰かがそれに火を点じないかぎり、彼女は蘇《よみがえ》らない。 「もう、お帰りなさい」  西島はふりむいて、とき子の薄い胸をついた。とき子はハッとして立止り、ぽかんとした顔をあげた。黒髪が花環のように、色《いろ》褪《あ》せた彼女の青白い細面をかこんでいる。とき子は物《もの》怖《お》じした眼で、西島の顔を熟視した。彼女は西島が、怒ったと思ったらしい。それほど彼女は、感じやすくなっている。 「敗者は弱いものだ。俺とても朽ちた橋柱……」  西島はまたしても、加賀節の句をくりかえしながら、赤土の峠道をぶらぶらと歩いてゆく。一度も後をふりかえらない。霧につつまれた道路の真ン中に、黒い鴉《からす》が佇《た》っている。鴉は不吉な鳥だ。彼を呼びかえさなければいい。呼びかえしても戻らないことを、鴉は知っている。彼女は彼女の巣にかえるだろう。  西島は間もなくそんな事も忘れて、道ばたの苺《いちご》をあちこちとついばみ始めた。 四  西島は夜半にきっと眼をさます。闇《やみ》の中に獄屋につながれた娘の姿が浮んでくる。手錠をかけられ、検事の前で俛首《うなだ》れている姿が見える。なんというあさましい、情ない姿であろう。 「我が娘だ。私の分身なのだ」  西島は自分の身体までが厭《いと》わしくなる。彼は罪の穢《けが》れが、こんなにまで執《しつ》拗《よう》であることを知らなかった。洗っても洗っても落ちない。すでに、彼の皮膚の一部になっている。しかもなおたまらないことは、娘がその罪に平気でいるらしいことだ。彼女はふてくされ、西島一人が苦しんでいる。  彼は娘に会いにいった。娘もやはり薄汚く、罪に汚れていた。横向きに椅子へ腰をおろして、決して父親の顔を見ようとはしない。  横顔に血の気がなかった。皮膚は苔《こけ》がついたように、青白さを通りこして黝《くろず》んでいる。娘は父親以上に不幸そうであった。身体全体で絶望していた。額や頬《ほお》にかかっているほつれ毛も、針のように硬直して動かない。  西島は娘の手を握った。かさかさに冷めたく乾からびている。握りしめても、反応がない。 「勇気をお出し。母親がお前を護っている」  彼はあふれでる涙をおさえて、獄屋の外へ出てきた。娘にたいする愛情で、全世界を敵として戦いたいような気持になった。そして彼は、かぎりなく孤独だった。肉親、血縁、親子——今こそ彼は、その神秘と奇《き》蹟《せき》を見《み》出《いだ》したのである。  昔は罪によって、三族が誅《ちゆう》せられた。子或《ある》いは父、母、妻兄弟、叔《しゆく》姪《てつ》さえも、磔《はりつけ》にかけられ、火《ひ》焙《あぶ》り、牛裂き、車裂き、生埋めにされた。謀《む》叛《ほん》人《にん》、切支丹《キリシタン》、権力の反対派。犠牲になった肉親の誰も、それに抗議し、反抗したものはない。  しかし、時が経つと理性や感情は、また風車のようにぐるぐると回転する。娘にたいする愛情や憐《あわれ》みが、憤激となり憎《ぞう》悪《お》となり、人間性にたいする恐怖や絶望と変る。  西島はその動揺と変転に、生きる力さえ失われそうであった。 「なんという、馬鹿なことをしたものだ。なぜ父に一言、相談しなかったか」  彼は愚痴と知りながらも、闇に浮ぶ娘にむかって、その嘆きを繰りかえさずにはいられない。  恋は人を盲目にするということがある。娘も眼前の必要と生活の困難の前に、理性も判断も自省力もうしなってしまったのであろう。それにしても……。彼の考えはどうどう巡りするばかりで、脱け道がなかった。魔法の輪で、頭をしめつけられているようなものである。  娘は戦後、好きな男をえらんで結婚した。その以前から西島は、ホテルの女中だった若い女を妻にしていた。その妻と娘の折合が悪かった。娘は母の死後、女中などと結婚した父をうとみだした。  娘の結婚後、今度は娘の婿と西島の間が面白くなくなった。西島は戦後青年の典型のような、婿の軽薄さと無責任なルーズさを嫌《きら》った。娘がそのような男を相手にえらんだのは、父にたいする面《つら》当《あて》だったのかもしれぬ。そう邪推したくなるほど、娘は父の再婚後急に態度がかわってきた。  西島は娘夫婦にホテルを譲って外に出た。彼は戦時中軍部にホテルを接収されてから、旅館の仕事に熱をうしなっていた。もとから好きな稼《か》業《ぎよう》ではなかったが、死んだ妻の働きでホテルが支えられていた。西島が市会などに出たのも、商売が厭《いや》だったからである。  娘夫婦は二、三年間は、稼業に熱心だった。そのうち新しく大きなホテルが、近くに建ったり富豪や貴族の別荘が旅館になったりして、しだいに周囲の競争に負けてきた。  娘夫婦は無理をしてダンスホールや、喫茶室を作ったりしたが、経費倒れになった。戦後は個人のお客よりも、団体客を主にする。まとまった金が、一時にえられるからである。そのために小さなホテルや旅館は、経営難におちいった。  娘夫婦は金融にこまって、高利の金を借りた。一時の急をしのぐためには、手段をえらばない。西島はその尻《しり》拭《ぬぐ》いをさせられ、娘夫婦の出入りをさしとめた。西島は若夫婦の無分別と愚さに、愛想をつかしたのである。  若夫婦は困難にたえるということを知らなかった。彼等は世間体だけを追っている。そして内情がどんなに苦しくとも、見栄をはることを忘れない。みずから努力せずに、いつも人を頼りにしていた。西島にはそれが情なかった。  婿は稼業がうまくゆかず借金が重ってくると、その重荷を投げだして家を外にするようになった。賭《と》博《ばく》や競輪に凝《こ》って、家によりつかない。関係している女も、少くないようであった。自分の家ではないから、執着も薄いのである。ホテルを売って負債をすませ、いくらかでも現金をにぎったほうが、好いくらいに考えている。  西島はそういう噂《うわさ》を耳にしても、いっさい無関心でいた。知人等から度々忠告されたが、耳を傾けない。たとい鉅《きよ》万《まん》の富をつんで、彼等に引渡そうとも、彼等の心に目ざめがないかぎり、瓦《が》礫《れき》にひとしいものとなる。西島はそのように肚《はら》をきめていた。  娘も自分のえらんだ男であるから、婿の所業について父に不平は云えない。またホテルの女中だった継母にたいする意地があって、父の家へあやまっても行けなかった。彼女は父にすてられ良人には裏切られて、進退谷《きわ》まった。  娘はホテルへ火をつけ、保険金詐《さ》欺《ぎ》を企てた。火はホテルの一部を焼いたばかりで消しとめられたが、娘の罪は消えない。彼女の罪は一家を破滅させると共に、また一家の人々の良き心をよびさました。  婿はホテルへ帰ってきて、娘にかわりその復興を真剣に考えるようになった。彼はさっそく、西島のところへあやまりに来た。西島や彼の若い妻も、娘の罪を自分等の罪と感じていた。  非難や嘲《ちよう》笑《しよう》や嫌《けん》厭《えん》は、他人の考え方である。肉親や夫婦の間では、罪びとと不幸を倶《とも》にするという以外に脱出の道はない。犯人の罪を憎み怒る気持とは別にその罪を分担しなければならぬよう、感情的に強制されているのだ。罪三族におよぶという縁坐の法は、封建の暴制だとしても何か血につながる人間社会の眼にみえぬつながりを、象徴しているように思われる。  仏教では因果の法則を説く。過去は過去として何一つ、空《むな》しく消え去ってしまうものはないようだ。事実の一つ一つに、因縁の機がはらまれている。  西島は今にして先妻を喪った、事実の因果に愕《おどろ》いている。亡くなった妻が生きておれば、娘はおそらくこうした罪は犯すまい。さほどでもない結婚を、急ぐこともなかったであろう。  母の存在、母の価値、母の人生にしめる大きな位置とその威厳。西島ははじめて生者の間に遍満している、死者の霊魂の重みをかんじた。死者は生きていたのである。  その母と娘の姿が二重写しとなって、西島から顔をそむけている。その手には手錠がはめられている。死んだ妻まで、娘の罪を負うのであるか。西島は如《によ》法《ほう》の闇の中で、声をあげて哭《な》きたくなった。  高野は贖《しよく》罪《ざい》の聖地として、古来から多くの人々が登山している。死をまぬがれるために、この山へ遁げこんだ罪人達もすくなくない。西行、熊《くま》谷《がい》次郎直《なお》実《ざね》、三《さん》位《み》中将維《これ》盛《もり》、佐々木四郎高綱。源平時代ばかりでも、これだけの人々が登ってきている。  関白豊臣秀次は従者数人をひきつれ、この山で腹を切った。高野の本山、金《こん》剛《ごう》峯《ぶ》寺《じ》の主殿に秀次自刃の間というのが残っている。その正面の板戸に狩野探幽の筆で、雪の降りつもった柳の古木が描かれてある。  高野につたわる伝説の中で、人々のあわれをさそうのは石童丸と、小松内府の滝口の武士、斎藤時頼の話だ。時頼は入道して、この山の大円院の宿房へこもった。そこへ死んだ恋人の横笛が、鶯《うぐいす》となって慕ってくるという悲話である。  娘のことが暗雲のように、頭に覆いかぶさっている西島にとっては、高野山の故事にも伝説にも心を惹《ひ》かれない。彼はとらわれた心で、不安な日夜をおくっていた。   行々円寂に至り 去々原初に入る   三界客舎の如く 一心是《こ》れ本居  これは弘《こう》法《ぼう》大師の頌《しよう》文《ぶん》だが、西島は火宅にいた。霊場にあっても、暁の勤行に侍しても、安心がえられない。周囲が静《せい》謐《ひつ》なだけに、かえって不安が増してくる。彼は放火犯の一家として、世人の憎みと侮《ぶ》蔑《べつ》をうけている、妻の所へ帰ろうと思った。  出発の前夜、西島は院家の僧正と酒をくんだ。院家は彼よりも年下だが、弱年の頃から数々の試練と苦業にたえてきている。  西島の悩みは、院家にもよそながら、察しられたようであった。彼は西島に云った。 「私は人生を、苦海だと思っています。その中に、大《たい》岳《がく》の如く聳《そび》えたって動かない。楽みもまた、おのずから其処に見出される。常楽常浄、その精神で生きております」  苦業に生きるを誇りとする。西島は以前そのようなことを、しばしば考えたり口にしたりしたことがあった。  しかし、一度試煉にであうと、そんな覚悟はひとたまりもない。人間は弱いものだ。西島は六十年近く生きてきて、あらためてその事実を痛感する。  院家のさり気ない言葉は、時にとっての救いであった。真にこの世は苦海である。その中に大嶽のごとくありたい。西島は何も云わずに、院家にむかって一礼した。彼は院家を通して、初めて仏心というものを感じたのである。死者と共に、真理は生きていた。 Shincho Online Books for T-Time    碑・テニヤンの末日 発行  2000年9月1日 著者  中山 義秀 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町七一     e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861003-9 C0893 (C)Himeko Nakayama 1969, Coded in Japan