真珠母の匣      中井英夫 [#改ページ]       目 次 I 三人姉妹予言に戦くこと並びに海の死者のこと   janvier 恋するグライアイ feurier 死者からの音信 mars 海の雫 ㈼ 老女独り旅のこと並びにセーヌ河に浮かぶ真珠のこと avril 幻影の囚人 mai ピノキオの鼻 juin 優しい嘘 intermede |虚《うろ》 ㈽ 花火と殺人の誘いのこと並びに青は紅に勝つこと juillet 紅と青と黒 aout 金色の蜘蛛 septembre 青い贈り物 ㈿ 砂時計の砂の滅びのこと並びに飛べない翼のこと octobre 無の時間 novemre 盗まれた夜 decembre 絶滅鳥の宴 [#改ページ]    恋するグライアイ  正月も半ばを過ぎて、冬ざれの曇天に僅かばかり覗いている|群青《ぐんじょう》いろが救いのように思われるほど、寒々しい日だった。レストランの小部屋で、ひととき玻璃窓から空模様を窺っていた|星川《ほしかわ》|江梨《えり》は、昔を思い出したときにする、おぼつかない、遠い瞳になって、二人の姉妹のどちらにともなくいいかけた。 「ねえ、群青いろっていえば、もとはラピス・ラズリから来ているんでしょう。青金石なんだから本当はもっと鮮かな色でよかった筈なのに、昔のクレヨンじゃ、ずいぶんと灰いろがかった、地味な色じゃなかったこと?」  姉の|由良《ゆら》も妹の|志乃《しの》も、ともに答えない。江梨は少しはにかんだようにつけ足した。 「あたし、クレヨンの中じゃ、群青いろと、それから|黄土《おうど》いろってのが、いちばん好きだったわ」 「そう?」  志乃は細く尖った、形のいい鼻を向けると、少しそこに小皺を寄せた。 「いやだ、あんな、ねぼけた色。あたくしなら金と銀だけ。あれならいまでも欲しいくらい」 「そうでしょうとも」  揶揄するでも咎めるというのでもない、淡々とした声で江梨が応じた。 「あなただけは二十四色の箱を買ってもらえたんですものね。あたしなんか、いつだって八色がせいぜいだった」  貧乏学者だった星川家では、江梨の小さいころまで極端に切りつめた生活をしていたので、学用品ひとつを取っても暗い思い出しかない。金と銀の入った二十四色ものクレヨンは、少し齢の離れた志乃のころになってようやく買い与えられたのだが、万事に甘やかされて育った妹を羨む気持はすでになかった。  ボーイがオードブルを持ってきたので、二人はそれなり黙った。この三姉妹の新年の会合は毎年のことなので、白葡萄酒を注ぎわけてしまうと給仕は心得て引きさがり、それから陰気な祝宴が始まる。すっかり孫も大きくなって、未亡人ながら気楽な隠居の身分の姉や、夫が運輸業で羽振りのいい妹と違って、これまで独身を通し、ペーパークラフトの手芸教室で生活を支えている江梨には、お正月だけでも顔を合せましょうよというまま続けられてきたこの集まりが内心|疎《うと》ましくてならない。何かと都合をいい立てて出席すまいとしていたのだが、今年だけは特別だからと暮れの内から釘を刺されて、やむを得ず来たため、他の二人のように和服でなしに、ことさら眉をひそめせるためのセーター姿だった。その腕を少したくしあげ、型どおりの乾盃を済ますと、早速つんけんした口調になった。 「なあに、お姉様、今日は特別に大事なお話があるって。あたしねえ、こうしてお正月ごとに集まって、段々お互いに齢取ってくのを見較べるってのが、このごろ情なくなってきたのよ。志乃ちゃんだってもう五十でしょう。数えだったら誰の齢かって思うくらいよ。そのうち話といえば昔の苦労話や病気のことばかりなんて、いやなこったわ」 「その病気のことなんだよ」  由良はふっくらした掌の中でグラスを廻し、清澄な金いろの液体を思い入れ深く眺めながらいった。 「去年の御法事のあと、何かこうひどく空しくなってねえ。だって三十三回忌といや、生きてる者の出来る最後の年忌だもの。これで戦争の思い出ともお別れだし、あと何を支えに生きていったらいいか判りゃしない。そう考えたら今年はひどく悪いことが起りそうに思えてきてね、気になったから久しぶりに|宇田川《うだがわ》さんのところへ行ってきたんだよ。そうしたら……」  著名な女占い師の名が出て、江梨は俄かに眼を輝かせた。気だても顔かたちも異なる三姉妹にただひとつ共通しているのが無類に占い好きということで、ことに宇田川女史の御託宣は絶対の権威を持っている。そのひとに何かいわれたとあっては、聞き逃せることではなかった。 「そうしたら?」  問い返す江梨の声は、すでに僅かながら顫えていた。 「案の定さ。女の厄が三十三で終るなんてとんでもないことだって。こう皆な長生きするようになると、五十代に必ずもう一度厄年が廻ってくるんで、まだいくつと決ったことはいえないが、わたしたちそれぞれ今年がいちばんいけないそうだ。ことに眼と歯の病気から大変なことになるというんだが、そればかりじゃなくて……」  由良は再び言葉を切ると、少しばかり白葡萄酒で唇を湿した。あとの二人も見習って杯を傾けたが、いつもなら甘すぎると感じるそれが、江梨にはこころもち苦いような気がしたので、眉をひそめながらいった。 「眼と歯の病気ってなんのこと? あたし、このごろよく歯が欠ける夢を見るのよ。実際に奥歯はとうにないし、これだってほとんどが継ぎ歯ですから不思議はないんですけど、いやあね、この上まだ悪くなるっていうのかしら」 「わたしもね、こうして……」  由良は顔を仰向けて眼をしばたたいた。その眼はまさに何かの病気を思わせるように淡い水いろをしていた。 「ひょっと動かすたびに黒いものがだいぶちらつくようになったんだよ。気がかりですぐ志乃ちゃんに電話してみたら、やっぱり眼と歯がいけないっていうじゃないか」  志乃は軽いこなしをみせ、照れたように笑った。いわれてみると、これまで齢よりは遥か下に見え、若作りにしてもそれが似合っていたこの妹にも、いつかしら老いの影が寄り添い、その眼もどこか焦点が定まらぬうつろさを宿しているようで江梨は愕然とした。 「まあ飛蚊症というほどじゃなし、そこひの心配もすぐにはないことだろうが、宇田川さんもひどいことをいわれるのさ、放っておくとギリシア神話のグライアイのように、三人で一つの眼、一つの歯しかなくなるだろうって」  かすかに聞き覚えのあるその名は、ひどく忌わしい何かの象徴のようで、押し返して訊ねるのは憚られた。自分でいっておきながら由良は、それほど気にしているようすもない。ようやくフォークをとって、ムール貝を口に運びながらこんな感懐を洩らした。 「まあ考えてみりゃ、わたしたち大正の女ってのは損な役廻りだね。わたしの場合はそれを承知で嫁に行ったんだから、戦死されても諦めるしかないけれど、江梨ちゃんの頃にはもう生きのいい相手そのものがいなかったし、嫁入り道具を飾り立てられる時代でもなかった。せっかく山下さんと纏りかけたかと思うと、お父様が些細なことから壊しておしまいになるし」 「いいわよ、そんな古い話」  ただひとつの甘美な記憶に触れられるのがいやで、江梨は尖った声を出した。 「それよりそのギリシア神話って何だったっけ。子供のころ読んだことがあるようだけど忘れたわ」  聞きたい話でもないが仕方がない。手を伸ばして水槽から葡萄酒壜を取ると、銘々のグラスに注ぎ足しながら銘柄を読もうとしたが、老眼鏡をバッグから出すのも億劫なのでそのまま元に戻した。 「志乃ちゃん、書いてきておくれかい。わたしもうちの|広志《ひろし》が詳しいから聞いといたんだけど、何でもゴルゴーン退治の話さね」 「ええ、ペルセウスの冒険譚」  志乃は手廻しよく書きつけてきたメモを出すと、これも明りに透かすようにして読みあげた。ゴルゴーンもステンノー、エウリュアレー、メドゥーサの三人姉妹だが、グライアイもまたパムプレードー、エニューオー、デイノーという同じ父母から生まれた三人姉妹で、ただしこちらは初めから老婆だった。ペルセウスがメドゥーサの首を切り落す前、その棲処を訊ねるために寄って、一つしかない眼玉を取り上げて強迫した話が著名である。  いいかげんに聞き流しながら江梨は、いわれるまでもなく今日の三人が、どこか滑稽で哀しいグライアイになりかけていることを思い知らされずにいなかった。それはあくまでも歯欠け眼なしの醜悪な老婆で、頭髪に生きた蛇をそよがせ、手は青銅、黄金の翼を張り伸べて飛行するというゴルゴーンのように凄まじくも力強くもない。また同じ三人といっても『マクベス』の妖婆たちや北欧神話のノルンのように、何事かを司どるという柄でもない、大正生まれの女たち。 「ちょっと、それが今日の大事なお話なの? せいぜい眼医者や歯医者に通えっていう」  オードブルが下げられ、銘々の注文した皿を並べ終って支配人やボーイたちが引き取ると、早速に江梨が意地悪声を出した。 「まあさ、せかさないでお聞き」  由良は仄かに紅らんだ眼元に、おだやかな笑いを滲ませた。 「宇田川さんの話に後があるんだよ。それも途方もないことで、いまのグライアイだけど、わたしたちのところにも今年は必ずペルセウスのように凛々しい美青年が現われて、それに三人が三人とも恋をするって。……いいえ、わたしもすぐにいったの、冗談はやめて下さいって。でもそれが冗談どころか、まじりっけなしの本当の話で、その美青年というのが幻の母を求めて旅をしている真剣そのものの男だから気をつけなさいというんだよ。まあこれが宇田川さんの話でなけりゃばかばかしくて、聞いてもわざわざ報告するものかね。だけどあの人の占いで外れたためしはないんだもの」  声を立てて笑い続けていた江梨は、そこでようやく黙った。笑ったのは戦争を挟んで四十年近く、ついに実ることのなかった不毛の恋への嘲笑であり、同棲さえ拒んで独り生きてきた自分への憫笑だが、この人の言葉だけはと信じてきて、しかもかつていわれたこともない新しい恋の予言となると、あまりにも何もかもが惨めすぎて、滑稽さはさらに加わるほかなかった。親子ほども齢の違う青年に、いまさら何をいいかけることができるだろう。のみならず姉には孫が、妹には夫がいるというのに、三人が争って恋をするなどという情景は想像するだけであさましすぎる。 「いやよ、いやよ。あんまり笑わせないで」  だが、しきりとハンケチで眼を抑えながら江梨は、溢れ出てくる涙が笑いのためばかりではないと知ると、いそいでバッグをさらって手洗いに立った。タイルと鏡とに囲まれたそこで、躯はおかしいほどふるえた。洗面器に両手をつき、しばらくうつむいたままにしていたが、思いきって顔をあげる。鏡の中には、きつい眼をした初老の女がひとり、こちらを見返していた。だがその背後には、須臾の間にさゆらぎ消えた何者かの透明な像があった。  食卓に戻った江梨は、半ば放心の態で、料理には手をつけず、残った白葡萄酒をしきりと口に運んだ。由良はゆったりとナイフ、フォークを動かしながら、こんなことをいっている。 「わたしたち大正の女ってのは、あれだよね、戦争中に皆なと同じ病気に罹って、むしろそれでやれやれと安心していたら、いつの間にか皆なは癒っちまっているのに気づかなかったところがあるんじゃないかしら。いいえ、皆さんは本当に病気になったかどうかも疑わしいものさ。いっときそんなふりをしていただけかも知れないのに、情ない、わたしたちだけはまだ病気のままなんだから」 「それより、お姉様」  志乃が甘ったれた声を出した。 「その魔除けの宝石はどうなすったの。一月はガーネットでしょう。いい石が手に入りまして?」  江梨を除け者にして、というほどでもないが、この二人が特別に仲がよく、二人だけで通じる話を交すのはいまに始まったことではない。幼いころから慣れすぎているくらいだのに、由良は気を兼ねたように言訳がましく話し出した。 「さっきのペルセウスの話だけど、そんな輝くばかりの美青年が現われて、年甲斐もない騒動を起すことになっちゃ大変だから、宇田川さんにとっくり相談したんだよ。何かあらかじめお|呪《まじな》いをして、厄除けするわけにはいかないだろうかって。そうしたら大まじめに、宝石だけが魔除けになるっていうの。わたしたちの誕生石はむろんだけれど、向うとの相性というものがあるから、毎月ひとつずつでも新しい石を買って、その力で何とか防ぐ他はないというのさ」 「それで? お姉様ったらそのガーネットをお買いになったの」  江梨は思わずのり出すようにして訊いた。貧しい中流家庭に育って戦争を迎え、徴用だ挺身隊だと炎の中を走り廻っているうち終戦になった過ぎ行きからいっても、宝石らしい宝石は身につけたことがない。それを、志乃もそうだが由良のほうは夫の実家が地方の素封家だった上に、三人の子供は自動車屋、カメラ屋、弱電屋と不況知らずの輸出業界でそれぞれ活躍しているので、厄除けだなどとばかな理由さえいわなければ、ひとつずつ宝石を買うぐらい差し障りのあろう筈はなかった。 「まあねえ、それがさ、とんだ失敗をしちまったんだよ」  由良は手提げを引き寄せると、|天鵞絨《びろうど》の美しい小筥を出した。蓋があくと、スターカットだけに小さくは見えるが、1/2カラットはありそうなダイヤの指輪が光を返す。だが見たとたんに江梨は、どこかに不自然なものを感じた。いままでこれという石をはめたことがないだけに、憧れは却って本物贋物を見る眼を養っていたのかも知れない。 「初めから、ホラあの|石川《いしかわ》さんへ行けばよかったんだけど、知り合いの|塚田《つかだ》って奥さんで、そりゃあ上手に宝石で利殖なさってる方があるの。大そうな|目利《めきき》というからすっかり信用して、この石がたったの十万というんだもの、ぜひにもって頒けていただいたの。そうしたら、結局その奥さんも欺されていなすったんだけども……」 「だってこれ、まるっきりのガラス玉ってわけじゃないでしょ」  志乃はさっそく筥ごと自分の指に近寄せて、と見こう見している。 「それゃ、そう。贋物というよりは|悪戯《いたずら》物っていうのか、石川さんに見せたらすっかり笑われたよ。ダイヤモニヤって商品名がついてて、一カラット六千円が相場だって。通称をヤグ——YAGっていうそうだけど、それがおかしいの。ガーネットにまんざら縁がないでもない。YがイットリウムでAがアルミニウムでGがガーネット。つまりこれでもガーネットの結晶らしいんだよ。それなら少しは厄除けになるだろうしさ」 「いやだ、こんなもので間に合せになさるおつもり? ダメよ。それに誕生石にはひとつずつ何かの花がついているんでしょう。ちゃんとした石にちゃんとした花を添えて、宇田川さんのところで念じていただかなくちゃ」 「花はね、そう、花は確かスノードロップだけど、あんなもの、二月にならなくちゃ生えやしないよ」 「花はともかくも、石だけはちゃんとしたものをお買いにならなくちゃ。財産の意味がないじゃありませんか」  姉と妹の、殊更にはしゃいだ浮薄な会話をひどく遠いところに聞きながら、江梨はひそかに石の中でも魔除けの力が強いというガーネットが実際に買われなかったことを心の中で祝福した。いくら宇田川女史の予言でも、もとよりペルセウスにまがう美青年が実際に現われる筈もないし、かりに現われた途端、三人は本物のグライアイに変じて、老醜無残なまま不死という恐るべき刑を受けねばならぬだろう。  たった一度のめくるめく恋は、三十数年前の戦争のさなかに芽生え、そして踏みしだかれ、消えたのだ。その甘美な記憶だけを唯一の宝石として生きてきたのに、それ以上の何が必要だろう。  ——でも宇田川さんの占いだけは外れたことがないもの。  再び三たびその思いが頭を掠めると同時に、江梨はまたバッグを手にしていた。 「ちょっと失礼。またおトイレ」  小走りに立つと、しんかんとした鏡の部屋に再び閉じこもった。そこにはしかし前と違って、俄かに若やぎ、眼も優しい女がひとり佇んでいた。そして背後には銀いろの狭霧か淡い靄めいた何者かが立ちゆらぐ気配がさらに濃厚となった。鏡の奥に、まぎれもない青年像が現われようとするのを江梨は知った。 [#改ページ]    死者からの音信  星川|江梨《えり》は紫水晶の結晶体をひとつ、大事に|蔵《しま》い込んでいる。むろん宝石ともいえない雑な代物で、眺めるほど美しくはないし、せいぜい文鎮代りにするぐらいしか利用価値はない。それでもこれは二月十日が誕生日だった山下|洋司《ようじ》を偲ぶための記念品なので、戦後だいぶ経ってから甲府で買った。取り出して眺めるたび江梨は、不規則な尖りを寄せ合っているその形に、丘の上に建つ紫いろの古城を思った。それは同時にもう誰も近寄ることは出来ぬ墓なので、埋められた柩の中で死者は永遠に若い。  洋司は昭和十九年十月、航空母艦の瑞鳳に艦長付きで乗り、レイテ沖海戦で艦長とではなく、艦と運命を共にした。戦後すぐに江梨が第二復員局へ行って調べたところでは、たった二人だけの行方不明者の中に入ってい、万一の奇蹟を願わぬでもなかったが、それから三十三年、いまもって死者からの|音信《おとずれ》はない。  知り合ったのはその二年前、洋司はまだ早稲田の専門部に通っている学生だったが、江梨が町会の女子青年団の団長をつとめ、向うが男子の副団長ということからのつき合いで、齢は数えの二十二歳、いくらか下というその差はお互い口にしたこともない。色白で華奢で眼が澄んでいてというのは最初の印象だけで、喧嘩早いやくざじみたところもある男だったが、その代りきっぷは滅法よかった。唄が旨く英語も達者だったため、ウクレレの爪弾きでその時代にはおよそふさわしくないハワイアンを囁くように聞かせるとき、|晩熟《おくて》だった江梨は初めて躯の芯を揺さぶられる思いがした。あれは何という唄だったのだろう、青い月の夜に扉をあけてテラスに走る娘という出だしの唄は。  学徒出陣で|佐世保《させぼ》の先の相浦海兵団へ入団と決ったあと、ふいに郷里の高松の在から両親が出てきて、征く前に仮祝言だけ済ませたいと申し入れて星川家をおどろかせた。齢下、身分違いという難点は時局柄どうにか超えられたが、本人と会った父の|広之進《ひろのしん》が吐き出すようにいった、あんな不良に娘はやれんという一言ですべては破談となった。それでも江梨は、母や姉の隠れた応援で、学徒列車にともに乗って佐世保まで送った。その途中、|鳥栖《とす》の町で少し時間があき、駅前の旅館で過した二人だけの刻は忘れられない。宿の女中が真赤に|熾《おこ》した炭を惜し気もなく火鉢についでくれている間の、息苦しいまでの沈黙。そしてすぐ、さらに熱い火は江梨をつらぬき、裂いた。むろん形見の児を残さぬ配慮はとっさに行われたのだけれども。  相浦からじきに三重の海軍航空隊へ送られ、再々の検査で視力不足が発見されたため、念願の飛行機乗りになることは出来ず、航空要務員の予備生徒となって鹿児島へ、さらに高知から|呉《くれ》へと転々するのだが、その間ひそかに雑記帖へ日記をしたため続けていたのは、当時としては相当に度胸もいり、難しいことだっただろうが、むろん内容はありふれた若者の感想にとどまり、教育係の少尉への反感を除いては、かりに見つかったとしてもバッター棒に|譴責《けんせき》没収ぐらいで済んだことだろう。その雑記帖は遺族から贈られて江梨の手許にあるが、たとえば昭和十九年一月の記述は次のようなものである。 [#ここから1字下げ]  一月二十七日 木曜日 晴  いよいよ二等水兵の戦友と別れてなつかしの相浦海兵団団門を出づ、親友|萩本《はぎもと》より送別の歌を貰ふ。   天かけり寄せ来る敵機打ち落せ    君が燃え立つ大和魂  元日にものせし余の歌。   今年こそ天かけらむと決意もて    初日を拝す海のつはもの    ………… [#ここで字下げ終わり]  たった四十日あまりの兵団生活で、やや大人びた都会の不良という表面の苔は洗い流され、単純といえば単純な、無垢の青年に帰ったものであろう。五月の鹿児島生活となると、いっそう字句も躍るようだ。 [#ここから1字下げ]  五月十二日 金曜日 晴  久し振りのいゝお天気だ。朝飛行場で行ふ体操も特別気持がいゝ。要務の試験、大して出来なかったがそれでも予想よりは出来たと思ふ。しかし他の人が殆んど出来たと思ふから結局俺は駄目だらう。……しかしくよ/\することはない。もう過ぎ去ったことだもの。明日の数学では絶対に挽回するぞ、俺は得意なんだから。  昼からカッターに乗って敵前上陸の演習を行った。武装もしなかったのであまり状況が映らなかったが、それでも俺は一生懸命にやったので愉快だった。もう海の中に飛び込むといゝ気持だ。一度水泳がして見たくなった。帰って来てすぐ洗濯をしてしまつた。    …………  五月十五日 月曜日  今日も又いゝお天気だ。|桜島《さくらじま》の噴煙が、風の都合でこちらへ流れて来て、とても硫黄臭かった。こんなこと始めてだ。  |高居《たかい》中尉の訓話、実に味はふべきものがある。  意気、若さ、熱、  そして我等の人生は、試練の連続に終始する。神は只一つのみ。正しく生き抜く事が我等の皇国に尽くす所以。  祖国の為に召された命を、いつ祖国の為に捨てゝも、それは悠久の大義に生きることなのだ。  意気、若さ、そして熱!    ………… [#ここで字下げ終わり]  この日から五か月あまり、百六十日の後にはすでにこの世にいないのだと思うと、江梨はいつも同じ涙に誘われる。おまけにレイテ沖海戦ときたらもう周知のことだが、空母も持たぬ主力の|栗田《くりた》艦隊があやふやな情報でうろうろするうち、瑞鳳を含む|小沢《おざわ》艦隊は|囮《おとり》となって敵のハルゼー艦隊を引きつけたはいいが、そのまま恰好の目標となり餌食となって波状攻撃を受け、十月二十五日午後、瑞鶴は二時すぎ、瑞鳳は三時半、千代田は夕刻と、その朝に沈んだ千歳とも空母四隻がルソン島東方海上でやられて日本海軍の命運は尽きた。この愚かな捷一号作戦を直接指揮した司令長官や参謀長たちは、戦後のんびりと、初めから勝てる自信はなかった、天佑に恵まれなかったなどと談笑しているが、江梨は一度も洋司の死を、祖国の運命に殉じたなどと思ったことはない。二百万に及ぶ戦死者・行方不明者の、たった二百万分の一なんだからと諦めたこともない。おびただしい戦記のたぐいより洋司の日記の方がよほど身近なものだが、反対にそれを通して埋もれていった兵士たちの魂の復権を叫ぶ気持もなかった。魂というなら洋司個人のため自分のために反魂香を|※[#「火偏+(十/工)」、第3水準1-87-40]《た》くしか出来ることはない。それを、もうなんべん試み、なんべん失敗したことだろう。正月のレストランの化粧室で念じたのも、そのひとときの魔法だったが、銀いろの靄はついに本物の青年像となって甦ることをしなかった。 [#ここから1字下げ] ——どこかにまだ欠けているものがあるんだわ。洋司さんからの合図を忘れているような。 [#ここで字下げ終わり]  自分のことを江梨様と呼んで神聖化したり、あるいは危うく肉体のことにまで及びそうな箇所はもうことごとく|諳《そらん》じているので、あわただしく日記の他のページをめくる。高知の海軍航空隊にいたときの一葉が眼につく。 [#ここから1字下げ]  六月十六日 金曜日 薄曇後本曇  夜半にサイレンの音に眼を覚ます。つひに空襲警報発令、真暗の中で直ちに服装を整へ温習室に待機するもつひに敵機来らず、夜明方ベンチの上に横になり、しばしトロリと仮眠する間にもう夜は明け放たれる。待避した者は草原に寝たさうだ。総員起しと共に空襲警報解除、再び第二警戒配備となる。朝のニューズに聞けば「北九州に敵重爆二十数機来襲、|中《うち》数機撃墜、我が方の損害軽微」といふ。つひにやって来た。いよ/\のんびり出来ないぞ、これからは何時来るかも分らないから。朝休業、八時より十一時まで眠って昨夜の睡眠不足を補ふ。昼のニューズでは敵は又サイパンに上陸したらしい。  あゝ早く前線に出たいものだ、一刻も早く。  昼からは予定通り、五次限航空基地、別科、排球。夕方のニューズによれば敵機動部隊|小笠原《おがさわら》父嶋来襲、同時に|千島《ちしま》にも来襲したといふ。もうぢつとしてゐられない気持だ。|和田《わだ》の|恵子《けいこ》さんと|利雄《としお》から便りを受け取る。もう外出どころのさわぎぢやないよ。全く! 東京でもさぞ緊張してゐることであろう。今夕も温習なし。待機。八時三十分就寝。    ………… [#ここで字下げ終わり]  ——ここでもないわ。  ふいに四方を灰色の扉にとざされたような不安が兆す。だが瑞鳳に乗り組む前の、次のような遺詠と短い遺言が残されているからには、地上の時間が何十年経とうと二人の|絆《きずな》の切れる筈はなかった。 [#ここから1字下げ]   しみじみと御身の姿に思ひ入る    このごろの我に哀しみもなし   |天皇《すめらぎ》の御盾となりて死なむ身の    生きてある日は楽しかりけり  天から貴女を見守らせていただきます。    江梨様 [#地付き]洋司    ………… [#ここで字下げ終わり]  たぐいなく健康であるが故に、逃れられぬ本物の死を約束された若者たちの、束の間の交信。それは、灰色の曇天からいきなり放たれた銀の|箭《や》のように江梨を射とめ、いまだに射とめたままでいる。このあいだ正月の会合で姉の由良は、大正生まれの女たちというのは、戦争中にようやく皆と同じ病気に|罹《かか》ってやれやれと安心したら、皆は実は罹ったふりをしていただけだったという感懐を洩らしていたが、どちらかの相手が死んだ二人にとってその病気は終身つきまとう。悠久の大義とかすめらぎの御盾などという美辞麗句を心底信じたということではない。死を賭けた信義がこの世には確かにあると知って、黙々とそれを実行しただけという誇りまでを汚泥に埋め|溝《どぶ》に棄てて築かれた戦後という名の繁栄。それが大正生まれの女には|徒《いたず》らに肩に重いばかりなのだ。とりわけそのとき|廿歳《はたち》前後で、一度きりの恋をした者にとっては。 [#ここから1字下げ] ——でも建前と本音とはやはり達うだろうし、洋司さんの日記は内緒で書かれたといってもそのへんの見わけが自分でもつかなかった時代なんだから……。 [#ここで字下げ終わり]  それを考え出すといつも暗い渦に巻きこまれるような軽い眩暈を誘った。つまり洋司もまた多くの司令官のように元気で復員し、二人が結ばれてともに齢を取ったとするなら、この日記帖などすぐどこかへ蔵い忘れて得意の英語を生かし、口髭を蓄えたバイヤーかなんぞになってどこまでも商売上手な初老の紳士に変じているかも知れないこと。可愛い子供も孫も多く生まれるだろうが、同時に上品な女蕩しにもなって決して尻尾を掴ませぬ情事の数々で自分を苦しめていはしないかという|惧《おそ》れ。それは古い友人たちの一見倖せそうな結婚の陰にもっともありふれて行われていることだったから、江梨にとっても例外ではあり得ない。  ——洋司さん、あなた本当にそんなふうになるの?  紫水晶の城、その小さな墓に指を触れながら、江梨は頼りなげな声を出した。  この年の冬は日本ばかりでなく世界中寒気が厳しく、豪雪の報は到る処から届いた。死者の誕生日である十日にも晩方から雪が降ったほどだが、それでも春というものは忘れずにくるものだと陳腐な感懐を催すほど、手芸教室を兼ねた自宅のささやかな庭にもチューリップは確かな芽立ちを見せ、霜柱も立たなくなると鶯が稚い声を聞かせるようになった。  玄関のチャイムが鳴って男の声がする。いつもは内弟子めいた生徒が二、三人はいるので、めったに応対に出たことはないが、材料を買いに行かせていたので、紫水晶をおいたまま江梨は気さくに立った。 「ハイ、どなた?」  何とかカンコーでございますという、若い癖に沈んだ声が扉の向うにする。チェーンをつけたままドアを細めに開いた江梨は、たちまち顔を硬ばらせた。紛れもない洋司の面影を持つ色白の青年が、左手にアタッシュケースを提げ、右手にパンフレットを持って笑いかけていたからである。 「何のお話かしら」 「ちょっと奥様に|伊豆《いず》の別荘の御案内を申し上げようと思いまして」  喋り方は型どおりの|慇懃《いんぎん》さで、声も洋司のあの弾むような元気さはない。だがこれまでにも何人か、ああ似ていると思うひとには出会ったが、これほどじかに眼の中に飛びこんでくるというほどの顔はなかった。  ——冗談じゃないわ、別荘なんて。  明るく笑い放そうとしたが、差し出されるパンフレットをつい受け取ってしまったのは、その上に一枚の名刺が似顔絵入りで載っているのを知ったからであった。  瞬時に名前は読んでいた。六車|多計志《たけし》。幸いに山下洋司とは縁もゆかりもない名である。  ——うちはね、独り暮しでお金なんかないの。  そういおうとして江梨は、もう一度その名刺だけを明るみへ向けて名を確かめてから、自分でも思いがけぬことをいった。 「珍しいお名前ね。ムグルマって読むのかしら」 「ハイ。四国の高松の近くにはわりに多くありますが」 「まあ、あなた、高松」  声は途切れた。やはりこれだけの似た顔でどこかに繋がりがない筈はない。だが、 「いいわ、お入りなさい。お話だけ伺いますから」  そういってチェーンを外したのは、懐かしさのためではなく、もとより宇田川女史の予言のペルセウスが現われたと思ったのでもなかった。むしろあの洋司が、もう一度人生をやり直そうとして、およそ不似合なセールスマンになってしまったような錯覚、どこかしら滑稽なその間違いぶりをもう少しこの眼で確かめたいというほどの気持からである。マンションならば知らず、この白昼に無用心ということもないし、それにこの青年が少しも強引なところがなく、むしろ引込み思案で仕事も|覚束《おぼつか》ぬ風情なのが内心じれったくもあった。意気、若さ、そして熱という予備生徒に較べたら、何という頼りなさだろう。 「でも悪いけど、本当にお話だけよ。いまお茶を|淹《い》れるわ」  ストーブをつけ替えるのも面倒なのでダイニングのテーブルに押し据え、魔法壜を取りに立つのを、青年は腰を浮かしてとどめようとしたが声にはならない。それでもそのまま坐り直すと、どこか育ちのよさそうな、悪びれないようすであたりを見廻している。 「伊豆はいま春が盛りでございます。ことにこの南|熱川《あたがわ》となりますと、およそまだ……」  テープに吹き込んだような台詞に江梨はあっさりといった。 「いやだわ伊豆なんて。いつ大地震がくるかも知れないんでしょう」 「いいえ、いまはそんな……」  躍起になって弁解をしたあげく、もういまからだって泳げるくらいだが、海はお嫌いですかというたぐいのことを青年がいいかけたとき、江梨はこう答えていた。 「海はあたしにとってのお墓なの。あたしの主人は戦争中に、あなたぐらいの齢でルソン島沖で戦死しちゃいましたけれど、泳いで泳ぎぬいて死んだかと思うと、あんまり海も好きにはなれないわ」  青年は俄かに深い怯えを伴なった眼で江梨を見つめた。それは思いもかけぬほど柏手が齢を取っているのだと知って、その思い違いを計りかねているようにも見えたが、 「そうですか」  と吐息をつくようにしてからいった次の言葉を、本当に聞いたのかどうか、後から考えると自信はない。 「ぼくの叔父も航空母艦に乗ってて、ルソン島沖で死んだそうです」  ふいの嘔吐感がいったい何によるものか江梨には判らなかった。 [#ここから1字下げ] ——ああいや、そんな話をしないで。叔父さんが誰だか、その名前だけは絶対にいわないで。 [#ここで字下げ終わり]  とっさにそんなことを考えた、その瞬時の間の幻影めいて青年が立上り、近々と顔を寄せてこう囁いたのはもとより錯覚だろうが、その不安げな顔にだけは見覚えがあった。それは死者にだけ許される筈の、あのいたわりの表情だったのだから。 「ぼくだよ、ぼくが帰って来たというのに、どうしたんだ。躯でも悪いの」  それほど長い時間をうつぶせていたのではなかった。眼尻に残る涙を拭いながら、江梨は残された名刺の走り書きを庭先の明りで読んだ。ご気分が悪いようなので失礼します。またうかがいます。 「なんてへたくそな字!」  声に出して呟くと、それを持ったままテーブルの上に出し放しの紫水晶の前に坐った。つくづくと似顔絵と面影を見較べ、そうっと指を出して結晶のひとつに触れる。 「いまね、あなたによく似たひとが来たの。もしかしたらあなたの甥かも知れないなんて思ったくらい。でもね、よく見たらちっとも似てやしなかったわ」  紫水晶の墓は何も答えない。 「だけど、もしかしたら、本当にもしかしたら、あたしがこうして触ったから、魔法のランプのように洋司さん、あなたが出て来て下さったの? ねえ、もしかしたら……」  紫水晶の墓は、それでもまだ何を答えようともしなかった。 [#改ページ]    海の雫  江梨は押入れの中に78回転のレコードがかかるプレイヤーをまだ持っていて、ごくたまに古いSP盤を取り出してかけてみることがある。プレイヤーのほうは十年ほど前のものだが、レコードはもういつとも知れぬ昔から手許にあって、表面には無数の白い引掻き傷が走り、あるものは|乾反《ひぞ》って始末に負えない。ステレオもSPも同じ針というのでは、逆に針のほうが傷んで仕方がないことは判っているが、新しいステレオなどめったに聴くこともないので気にはしていなかった。それより暗い押入れの中に半分首を突込んでアームに指をかけ、そっと針先を落すと、たちまちめまぐるしく廻り出すレコードと、|擦《す》れ合い|軋《きし》り出す昔ながらの音のほうが慰めとなった。そのとき押入れは過去という名の洞窟に変り、傷だらけで厚ぼったいSP盤は、自分たち大正生まれの女さながらに不器用な生きざまを引摺って廻っているとしか思えない。  曲はそれほど多くはなく、ブルッ・ブルッ・ブルッ・キャナーリーと|燥《はしゃ》ぐダイナ・ショアの「青いカナリヤ」、アーサ・キットの鼻にかかった「セシボン」、シャンソンではさらにアンドレ・トッフェルの「ドミノ」、ジャン・サブロンの「メランコリー」といった渋いところが、いつ買ったとも覚えぬまま小|抽斗《ひきだし》に納まっている。中には乾反ったうえ|縦《たて》ひと筋に深い傷がついて、もうとてもかけられないのも何枚かあるが、これは戦後間もないころ、手廻しの蓄音器で針も鋼鉄針だった時につけたものに違いない。ダミアが|嗄《しゃが》れた声で唄う「|私の心は大洋よ《モン・クール・エタノセアン》」という曲もまたその一枚であった。裏面は「|小さな居酒屋で《セ・ダンザン・キャブロ》」という軽いヴァルス・ミュゼットだが、こちらはあまり聴いたこともない。  もともとフランス語がよく判らない上に、ついていた筈の解説書もとうに失われたため、どういう内容の唄だったかもうおぼろげな記憶しかないけれども、私の心の大洋に一羽の不吉な鳥が翔ぶとか、飛べ飛べ私の夢想よとかいった詞句があったことは確かで、そのためにこの曲は久しく忘れがたいものとなった。これもまた江梨にとっては、ルソン島沖で死んだ山下洋司を偲ぶよすがだったのである。  ダミアの唄う海は少しも明るくない。老婆めくその声はもともと碧い波、陽の|燦《きらめ》きとは無縁である。希望は初めから断ち切られ、鳥さえも曇天に見まがう灰色をしている。だがそれだけに江梨にはこの曲が鎮魂の意味を持ち、レコードの白く深い傷は空母瑞鳳のよろめく航跡のように思えた。いずれにしろ海は逃れようのない黒い円盤ではなかったのか?  それにしても死者は老いず、そのまま永遠に若いとは不都合なはなしであった。昨年の三十三回忌以後、とりわけて感じられるようになったのだが、例の洋司が遺した雑記帖はかつての恋人のものではなく愛児のそれであるかのような稚さで眼に映った。たとえば先の高知時代には、引続いてこんな記述がある。 [#ここから1字下げ]  六月二十九日 木曜日 晴  朝からきつい夏の日ざし。午前中兵用資料調査法(|青木《あおき》少尉)であつたが、猛烈に眠くて仕方がなかった。暑い、暑い、まだ六月末だといふのに、七月八月はどんなであらう。午後攻撃、約半分は眠つて居つた。  俺は眠らない、そしてがんばつた。希望に向つて成功を期して、進め、進め、後九週間の後、又嬉しい事がお前を待つ。楽しい事がお前を待つ。  失敗なんぞ遠い過去へ小包で送るのだ。  夕、別科「スモウ」。生れて始めて「マワシ」なるものをしめて「スモウ」をやった。三勝一敗、よき成績なり。  今日は誰からも便りなし。    ………… [#ここで字下げ終わり] �遠い過去へ小包で�という表現をし得たとき、洋司の時間は逆行を始めたに違いない。軍刀を持つ制服姿の、あまりにも稚い遺影がその証しである。いっぱしの大人でもあり|悪《わる》でもあったのは学生時代という過去で、日曜日の外出だけを楽しみに汗みずくで生きていたこのときには、およそ純粋無垢な少年の魂に還っていたのであろう。七月には「俺は本当に生きて帰る積りは毛頭ない。只、聖なる戦士でありたい」とか、「お母様、洋司はこのまま御国に命を召されても幸福です。江梨様、美しい心の人よ、永遠に幸あれかし」といった、単純な学徒兵の心境を書き連ねている。  だがサイパン玉砕の報が伝えられたこの七月、こうして海軍予備生徒の生活はすでに|恣《ほしいまま》な波の上にあった。それは実際に海の戦場に逆巻く激浪とは比較にならぬにしろ、いまからふり返るといかにも日本人ならではの騒立ち方で、洋司はその薄い板の上で揉みくちゃにされていたのである。十八日になってようやく玉砕を知ると、 「いよいよ来るべきものが来たのだ。喜んで俺達も死の配置につくのだ。でも間に合ふのかしら、俺達の出て行くときに、その決戦に」  という不安と決意を記した前日には、 「午後五時三十分より|奥田《おくだ》|良三《りょうぞう》、|淡谷《あわや》のり子の慰問演芸会あり、生徒は見学止であったが、やつと隊長の許可により見学する事を得」  とあって、ラ・クンパルシータや雨のブルース等、おなじみの曲名が出る。そういえばダミアも戦争中はどこぞを廻ってフランス兵士を鼓舞していたのだろうか。もっともあの声ではどこに行ってもたちまち厭戦気分をかき立てるだけだったろうけれども。  八月に入ると教育係の少尉との確執、生徒のひとりが発狂した話、またひとりが番兵とトラブルを起し、総員上陸止めという禁足のことなどが|細々《こまごま》と記されている。 「生きた人間の体を血の通はない棒でなぐるなんて以ての外だ」  という上官(教育係の少尉)に対する強い反抗の言辞が見えるのは、八月を終ればひと月の実習を経て少尉候補生になるというプライドからであったろう。  この辺になると江梨はそわそわと落着かなくなるのだが、それはそろそろ日記が終りというせいではない、二か月後の運命を予知したかのように、海との関わりが事細かに記されているからである。ひとつは外出止めとなった日曜日、行軍という名目で隊長が生徒全員を海に連れ出す。網曳きをさせるつもりだったらしいが波が大きくて中止となり、代って泳いだことが次のように記されている。 [#ここから1字下げ]  八月十三日 日曜日 晴  ……水泳の許可が出たので早速裸になって飛び込んだ。生れて始めてこんな大きな波の中で泳いだ。太平洋の黒潮、それは暖かであった。大波に揺り上げられ揺り下げられ、とてもいい気持だつた。ところが泳ぎ疲れて岸に上るとき約七回波に巻き込まれてもがいた。潮を呑んだ。ふら/\になってやつと上って来たらぐつたりしてしまった。今まで海では相当鍛へて来た積りだが、今日許りは本当に参つた。こんな大きな波の中では、人間の力なんて本当に頼りのないものだと思つた。    ………… [#ここで字下げ終わり]  もとよりありふれた水泳の記録である。だが江梨にはこの浜辺でもがき潮を呑む姿と、血と落日に染まった激戦地の高波の中で泳ぎ疲れて沈んでゆく姿とをひそかに較べずにはいられなかった。高松の|在《ざい》といっても海浜育ちではないから、どれほど泳ぎに自信があったかは知らない。だがもしかするとこれは、その郷里に近い波の中であらかじめしたためられた遺書という気さえする。  それでいて一方洋司は、海の底に果てたのではない、飛行機乗りの夢は充たされなくとも、天空に散ることも可能だったと思えてくるのは、日記の最後に近く、こう記されているからである。 [#ここから1字下げ]  八月二十一日 月曜日 晴一時雨  ……夕食後、避退訓練をしてゐると、太平洋に竜巻が起つて美しかった。「トーネード」なるものを生れて始めて見た。絵や写真ぢやずいぶん見たが、実物を見たのはこれが始めてだ。かやうなすごいものとは思はなかつた。    ………… [#ここで字下げ終わり]  そしてそこには幼稚ながら二すじの竜巻の絵が添えられている。アメリカ艦隊がこれに巻きこまれたら痛快だという続いての夢想は当時誰しもが持ったことだろうが、江梨にとってはせめて最後の日、|大竜巻《トルネード》によって昇天するのは洋司自身であって欲しかったし、それこそダミアの唄うように、心の大洋の上を飛ぶ、�|わが夢想《マ・シメール》�であった。とはいえそのレコードに深い縦傷があって二度とかけることも|適《かな》わぬというのは、いわばみごとな象徴に近く、江梨はひとりで壊しもならぬ黒い廃盤のような自分の心をもてあました。        ∴  洋司の面影を持つ|六車《むぐるま》多計志という青年が二度めに訪ねて来たのは、あれからひと月ほど経ってのことで、江梨は鉢植えのパンジーを庭に移し植えているときだった。  クロッカスもそうだが、いったいこうした多色系の花には、咲く色の順序というものが決まっているのだろうか。大体が黄から始まって赤、ついで紫、それから白、そして白紫で終るような気がしているけれど、確証があってのことではない。ただパンジーは放っておくと初夏のころまで白紫がきりもなく咲くので、多少|疎《うと》ましい気持で眺めると同時に、そんなことを考えるばかりである。  気配に気がつくと、木戸のところに青年の姿があった。 「奥様、この前は失礼を致しました」 「ああ、あの時の……」  ようやく思い出したという顔で立上ると、しらじらしくいった。 「こないだは何だか急に気持が悪くなったの。御免なさい話の中途だったのに」  本当はこのひと月、どれほどこちらから電話をしようと思ったか知れない。だが別荘のセールスマンをわざわざ呼んでとなると、この先どうなるかは知れている。その面倒さでようやくこらえてきたというくらい、この青年は気がかりな存在であった。顔を見たいばかりではない、あのとき本当に自分の叔父も航空母艦に乗ってルソン島沖で戦死したといったのかどうか、それだけはもう一度じかに確かめておきたかった。 「どう? その後は。少しは注文がとれて?」  青年ははにかんだように笑って、軽く頭を下げた。それは「お蔭様で」というのではない「いっこうにダメです」という意味なことはすぐ判ったが、それでもそれを苦にしているらしくもなく、服装も明るい色の上下で、貧にやつれたといった感じはこればかりもなかった。今日もまた生徒たちが一人もいないのは幸いである。 「まあおあがんなさいな。相変らず別荘は買えそうもありませんけどね」  一応釘をさしておいて先に立つ。青年は「失礼します」といって庭先で靴を脱いだ。 「何ですか今年は春がこないかと思ったら急に来ちゃって。こんなところでも毎朝のように鶯が来て鳴くのよ」 「本当にいいお住居ですね」  青年はとってつけたようなお世辞をいった。初めて会ったときはこんな頼りのない性格でセールスが出来るのかしらんと思ったが、鷹揚な坊ちゃん育ちという感じは、昼の時間をもてあます主婦たちに存外に受けるかも知れない。ただそれだけは洋司さんになかったと思うと、江梨はまたしても�意気、若さ、そして熱�という青春を生きた彼の短い一生を、反対にひどく空しいものに思い返した。 「ところで……」  本題に入ろうとして江梨は、もう蔵いこんだこのあいだの紫水晶を思い出すと、唐突に質問を変えた。 「うちの主人は二月生まれでアメジストが誕生石ですけど、貴方は何日のお生まれ?」 「はあ?」  いきなりのことで間の抜けた問い返しをしたが、すぐおとなしい笑顔に戻って答えた。 「三月です。ついこないだ過ぎました」 「あら、じゃ、いくつになったの」 「二十五です」  ——なんだ次男か、と江梨は思った。これはいつからか癖になった数え方で、戦後すぐに洋司さんと結ばれていたとするなら、子供たちはいったいいま幾つになっているだろうと想像すると出てくる答えである。長男はやはり三十歳ですっかり分別臭く、孫もひょっとすると二人になっている、そんな計算からであった。 「三月というと誕生石アクアマリンね」  この正月に姉の由良から話を聞いて、改めて宝石の本を買いこみ、少しは詳しくなっているので軽い気持でいったことだが、青年は急にとんでもないという顔つきになった。 「違います。三月はブラッドストーンです」 「あら」  たじろいだ江梨に、青年はひどく得意そうにYシャツの腕を伸ばし、カフスボタンを見せた。 「だって買ってもらったばかりですから」  血石という名をそのまま、緑の石の中に飛び散った血のような斑点が見える。しかしそれは江梨にとって、何かひどく忌わしい紋章のように映った。 「いいえ」  ことさらに静かに|訓《さと》すような口調になると、 「そんな石は下品だわ。三月はね、やはりアクアマリン。アクアは水、マリンは海のことですから海の水という意味の、澄んだ綺麗な水いろの石なの。むしろ海の|雫《しずく》とか海の涙とでも呼びしずくたいくらいな、いい色。エメラルドに似てますけど暗いところでも輝くから、ヨーロッパの社交界ではエメラルドより大事にされるんですって」  読んだ本の受売りでそんな講釈までしたが、いまこのとき江梨が考えていたのはどうかして美しい原石の、それも出来ればいつか写真で見たことのある平行連晶のアクアマリンを手に入れたいということだった。それこそ誕生月は違っても洋司へのこよない贈り物——海の雫・海の涙そのままではないか。  それから俄かに気づいていった。 「御免なさい、変なことをいって。でもきっとその石のほうがアクアマリンよりお高い筈ね。どなたに買っておもらいになったの」  ガールフレンドでして、と頭でもかくと思いのほか、青年はいとも無邪気に答えた。 「母にです」 「お母様ですって」  江梨が悲鳴に近い声をあげたのは、何という甘ったれだと呆れ果てたからだが、それでも油断のない顔つきで少しずつ躯を起すと、とうとう最後の矢を射かけるようにいった。 「ねえ貴方、こないだ見えたとき、確か叔父様がやはりルソン島沖で戦死したとおっしゃらなかった?」 「ハイ、いいました」  おどろくほどの素直さで青年は答えた。 「父と腹違いで齢上ですけど、航空母艦の瑞鳳に乗っていたんです」  瑞鳳——江梨の頬から血の気が引いた。 「まさか艦長付きだったんじゃないでしょうね」 「いえ、艦長付きです。艦長って人は生きて帰ってきたらしいけど、叔父は行方不明のままだって聞いてます。ですからぼく、この間御主人がそうだとおっしゃったとき……」 「それでお名前は」  おそらく江梨の眼は、ほとんど青年を怯えさすほど光っていたに違いない。だが泣き声めいた相手の答えはまったく予想を裏切っていた。 「ぼくとおなじで六車……ただタケシってのが武士の武で、ぼくの名はそれからつけたんだって。本当です。六車武っていうんです」  がっくりと肩を落しながら江梨が考えていたのは、艦長付きといっても何も一人とは限らなかったろうこと、それでもこれは驚くべき機縁で、その六車武という青年はもう名も覚えていないけれど、第二復員局へ行って調べたときの、たった二人の行方不明者のもう一人であることは間違いなさそうだった。 「貴方、山下洋司って名を聞いたことない? やっぱり高松の出で、貴方によく似ている顔をしてたの。それがあたしの夫」 「いえ、知りません。聞いたことありません。済みませんけど、ぼくもう帰らなくちゃ」 「逃げないで!」  鋭く命じると崩れるようにまた腰を落す相手へ、江梨は諄々と説くようにお父様でも親戚にでもすぐ問い合せて、至急に山下洋司という名に心当りがないかを聞いてくれることを、大事な写真の一枚を添えて依頼した。反対にその六車武という青年の写真も探して見せて欲しいこと、そうすれば青年のセールスにはどれほどでも便宜を計ることも申し添えた。  一週間経ち、十日経った。その間に江梨のしたことといえば、大きめなアクアマリンのペンダントを手に入れただけであった。待ちかねて会社へ電話すると、案の定、青年はもう辞めて行方が判らないという。ただそれと前後して一通の封書が届いたのがまだしもの慰めだった。向うの住所はないが、手紙には洋司の写真が戻されて入ってい、郷里へ問い合せたが誰も知らないこと、そしてしまいにはこんな一行が、例のへたな字で添えられていた。  ——でもこの写真、ぜんぜんぼくに似ているとは思えません。        ∴  久しぶりに押入れをあけ、仄暗い�過去�へ首を差入れたのは、手紙が届いた夜である。アクアマリンの一顆はその中で海の雫さながらに輝いた。今夜は針が飛ぼうと何しようと、どうしても「|私の心は大洋よ《モン・クール・エタノセアン》」をかけずにはいられない。心を鎮めて針を落す。レコードはたちまちがたぴしと廻り出し、ダミアは縦ひと筋の傷に途切れながらも、深い老婆の嗄れ声で唄い始めた。 [#ここから2字下げ] Mon coeur est un ocean, Vole, vole, ma chimere! ………… ………… Sur l'ocean de mon coeur, Plane un oiseau de malheur! [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]    幻影の囚人  星川家の長女・由良からの慌しい電話で、江梨と志乃の二人に至急の呼び出しがかかったのは、四月も末近いころであった。テープレコーダーの売込みでベルギーに行っている三男の広志が、何ともいえぬ異様な体験をし、ひょっとするとそれは星川家の浮沈に係ることだというのだが、江梨がその大時代な言葉を咎めても、笑いもしない真剣さだった。もともとこの三姉妹が、内輪だけの結束を固めるかのように仲が良いのは、徒らに大正生まれの女の不運を嘆き合うためではない。ずばぬけて頭の良かった長兄の|俊男《としお》が、ただひとりの後継ぎでいながら、戦争中にドイツから帰国する途中で行方不明になったせいもあるので、両親はそれを嘆くかのように次々と歿くなった。由良は早く|宮原《みやはら》家に嫁いで、夫は戦死したものの三男一女を儲け、志乃も戦後にあっさり|塩沢《しおざわ》という男と結婚してしまったので、星川の家名は独身を通した江梨だけに伝えられることになった。三姉妹それぞれその名に愛着を持ちながら、孫の一人に継がせてという古風なしきたりを推し進めることも出来ないでいる。それだけに俊男の生死不明は長い|痼《しこ》りとなって、三人の頭から離れたことはなかった。 「何があったっていうの。こんなところに呼び出したりして」  指定されたホテルのロビーで、江梨は居心地が悪そうに革椅子の上でみじろきした。 「広志さんが国際スパイ団の活動に巻き込まれでもしたのかしら」  もみあげを長く伸ばした|赭《あか》ら顔の外人たちが多いので、つい口にした言葉だったが、いつにない由良の緊張したようすは、いっこうにほどけなかった。 「そうかも知れないんだよ」  油断のない顔つきで声をひそめると、 「志乃ちゃんが来てからと思ったけど、先にこれを読んでおくれでないか。あとの話はここに部屋がとってあるから、そこでのことにして」  渡されたのは航空便を複写した広志からの手紙で、その長身を思わすような細長い字が並んでいる。電機器業界の大手に勤め、齢も三十半ばというのにまだ独身で、詩人肌というのか、ひそかにこまごましたものを書き溜めているのは江梨も知っていた。  ……………………………………………… [#ここから1字下げ]  アントワープにて。  |塚田《つかだ》夫人と待合せるため、この町いちばんの広場グランプラスのカフェテラスで、しばらく放心の刻を過しています。 [#ここで字下げ終わり]  ………………………………………………  そんな書き出しを見るなり、江梨は眉をひそめた。 「いやだ、塚田さんなんかと一緒なの」  この正月に贋のダイヤを掴まされたばかりだというのに、|性懲《しょうこ》りもなくまだつき合っているのかという非難だったが、由良は動じない。 「そうなんだよ。どうしても本場の取引所や研磨工場を見たいとおっしゃるから、わたしのほうでおすすめしたの。広志も仕事が済めば一週間ほど体があきますから御案内させましょうって。でも肝心なのは、それじゃなくて終りのほう……」  早く先を読めというように顎をしゃくった。 「ちょっと待って。暗いわね、ここ」  バッグから老眼鏡を出して、ゆっくり拭うと、腰を据えて読み出す。  ……………………………………………… [#ここから1字下げ]  つい先ほどまで眩しいくらい差し込んでいた夕陽は、もう市庁舎のうしろに廻って、向う正面の建物の上にある、金いろの女神像を輝かしています。年寄りのギャルソンが、テーブルの上の日覆いを片づけ始めました。広場の中央にある噴水は、アント(手)ワーペン(捨てる)の名の由来となった巨人退治の伝説でネオ・バロック期の彫刻ですが、それもいまは緑の翳になって沈もうとしています。長い、たゆたいの刻。忙しかった仕事を離れてこうしていると、ようやく夕闇とともにベルギーという国の中にも溶け込むことができるような気がしてきます。  何しろこの国を二分する、ワロン語・フラマン語両族の複雑さは、行きずりの旅行者などにはもとより理解の外で、せいぜい駅名の表示が両方の言語で書かれているのに戸惑うくらいですが、そのために教育相、文化相の閣僚も必ず二人ずついるとなると、日本人には到底のみこめないしきたりでしょう。  それと、人種問題。いまこのカフェテラスの周りにも、黒い山高帽に黒い髯を生やしたユダヤ商人が、夕闇とともに俄かに殖えてきましたが、たぶん日本の旅行者はこの風体を異様に思うばかりで、必ず被り物をしなければならないユダヤ教の戒律を知ろうとする人は少ない筈です。こちらの観光局にむりやり頼みこんで、昨日、日本人は天皇のほかまずもって入ったことがないというダイヤモンドセンターの内部を案内してもらったのですが、やはりこのスタイルのユダヤ人が多かった。ここばかりではなく、世界の市場を動かすユダヤ人のダイヤへの執着、その裏の虐げられた歴史を肌で理解することは、まず不可能というほかないでしょう。  センターは何しろ一日の取引高が七兆ドルに及ぶところなので、街の入り口からして見えない狙撃者・監視者の眼をひしひしと感じるほどです。商人たちはダイヤを入れた鞄を自分で左手に鎖付けにして歩いているので、奪うならその手を切り落すしかないと考えて、自分でぞっとしました。ここは塚田夫人の|強《た》っての望みで見学を頼んだのですが、中のお偉方にいきなり妙な英語で取引を申しこむので冷汗をかきました。何でも大そうなエメラルドをひそかに持出してきているらしいのですが、およそ場違いも甚しく、向うからは皮肉をいわれるし、間に立った観光局の役人も頭をかかえて舌打ちするほどで、後でさんざん文句をいわれました。  だいぶ暗くなってきました。黒い山高帽のユダヤ人たちは、どうやらぼくを遠巻きにして監視しているようなのが無気味です。約束の時間をとっくに過ぎてまだ現われない夫人のことも心配です。あのひとが大手デパートの社長と親戚というのは本当でしょうか。いま、ユダヤ人のひとりが [#ここで字下げ終わり]  ………………………………………………  手紙はそこで突然に切れている。老眼鏡を外した江梨は、めったにないほど沈みこんだ由良と眼を合せて、初めて自分も深い怯えに捉われていることを知った。読んでいる途中に志乃が来て、向い合せにつつましく腰をおろしたが、覗きこむでも問いかけるでもないのは、いつものとおり、あらかじめ由良から何もかも聞かされているせいであろう。 「でも何だってこんなところで……」  江梨はもう一度周りの外人たちを見廻した。気のせいか彼らも、それとなくこちらの様子を窺っているような気がする。 「こういうざわっとしたところのほうが、却って安心だと思ったんだよ。まさかわたしたちまでが狙われもすまいじゃないか」  由良は言訳にもならないことをいいながらもう一遇の航空便を出した。 「手紙にはあとがあるの。ところがおとついの夜、いきなり国際電話があってねえ」  いいさしたまま放心のていでいるのは、よくせき考えに余ってのこととしか思えない。江梨は黙ってまた老眼鏡をかけると、残りの手紙をひったくった。  ……………………………………………… [#ここから1字下げ]  無事にホテルへ帰りついたところです。初めから順序立てて手紙を書き直せば心配させずに済むでしょうが、ひどく疲れてもいるので前のをそのまま同封し、続きを書きます。  あのユダヤ人たちは、やはり昨日の塚田夫人の件で、背後関係を探るために現われたのです。丁重な英語で御同行を願いたいといわれ、センターに近いビルに連れこまれたときは、正直のところ生きた心地がせず、顫えを見せないのが精一杯でした。着いてからも慇懃な態度は崩さないものの、早口に飛び交う各国語の洪水で、ようやく理解がついたのはわれわれが大がかりな密輸団の一味かと疑われている滑稽な錯覚でしたが、何しろ夫人の態度が態度だったので、言い|釈《と》くのに大汗をかきました。彼らはぼくをミスター・パールと呼び、売込みに来たにしろこの町を雑貨屋とまちがえてくれるなというたぐいの嫌味を口にしましたが、後で聞くと夫人も別室へ連れ込まれて、マダム・エメロードなどと|嬲《なぶ》りものにされたようです。もっとも彼女のほうは言葉があらかた判らない上に、ぼくより度胸が坐っているためか、日本語で啖呵を切ってやったなどと得意がっていましたが。  それはともかく、二人が救われたのは、この町でも相当な顔らしい日本の老紳士のおかげです。服装を見ただけでこちらの生活が長い人だと察しがつきましたが、電話で呼ばれたのか、それともこういう情報網を握っているのか、品の良い顔立ちで現われたとき、彼らが一種畏敬のざわめきを見せたことは確かで、もの静かにこちらのいい分を聞きとると、ぼくに判らない言葉ですぐ彼らを納得させ、ホテルまで送り返してくれました。  名前を訊いても首をふるばかりでしたが、ぼくには何よりその顔立ちがあまりにも深い憂愁と|苦患《くげん》に充ちていることにおどろかされました。何かがその瞳の奥で燃えている、それは確かに魂と呼ぶに足るものだという感じで、齢は六十をとうに過ぎているでしょう。ほとんど慈父といいたいくらいの優しさと、それでいて峻烈に甘えを拒否する厳しさとが一緒になっているのは、故郷を思い棄てた人特有のものでしょうか。 「日本へはお帰りにならないんですか」  と訊いてみましたが、これにも黙って首をふり、それからちょっと妙なことをいいました。  ——帰ったらお母さんによろしく、と。  こんな老人に心当りはおありですか。  とにかくとんだ経験でしたが、無事一件落着というところです。塚田夫人はまだ|懲《こ》りずまにここで頑張るといっていますが、ぼくはあすブラッセルへ帰り、ゲントでファン・アイクの祭壇画を見てから、ブルージュへ遊んで、予定どおりパリから帰国するつもりです。お元気で。 [#ここで字下げ終わり]  ……………………………………………… 「これならどうってことはないじゃないの。電話では何といってきたの」  人騒がせなというように手紙を返し、やれやれという顔で老眼鏡を蔵い込んだが、由良の一言は充分に江梨をおどろかすに足りた。 「その老人が俊男兄さんだったっていうのさ」  それから急にせかし立てて、わざわざ取ったというホテルの部屋へ案内すると、三人は改めて顔を見合せ、深い吐息をついた。  兄の生存説はこれが初めてではない。何しろその行方不明も第二次大戦秘話という形で、出来すぎ作り話めきすぎているので、親しい人に打明けて話すのも気がひけるほどだった。それだけに意外なところでひっそり生きていることも充分にあり得るというのが、三人姉妹それぞれの思惑だったのである。  東大では応用化学を学んで、その秀抜さに教授はしきりと大学に残るよう勧めたが、貧乏学者のくらしは父の代でたくさんだと、あっさり三菱商事に入社してしまった。数え齢二十九歳の若さでドイツへ出張を命じられたのは昭和十六年のことである。アメリカ経由で船は野村吉三郎特命駐米大使と一緒だったことでも知れるように、着いてしばらくすると十二月八日の開戦となり、商売のほうは手詰りとなってすることがない。海軍の嘱託となったのを機会に、大学時代から専攻していた火薬の研究、それもロケット燃料について勉強し直したいと、ブランデンブルク門に近い地下のレストランで在独邦人の懇親会があったとき挨拶したのは、多くの人が聞いている。しかしそれがついにぺーネミュンデの地下要塞に潜り、フォン・ブラウンの下でV2号の設計にまで携わることになるとは、初めのうち本人も思いもしなかった成行であろう。  この秘密兵器については日本の陸海軍も刮目していたので、その設計図が一民間人によって入手できるとなると、騒ぎはただごとでなくなった。各国スパイの暗躍ぶりもめざましかったが、どうにか日本の海軍側が勝って設計図とともにノルウェーのフィヨルドのひとつから潜水艦に乗せ、日本へ送り出したのが二十年の三月初旬だった。  後で聞くと俊男は、設計図と一緒では危ない、それはもう頭の中に叩きこんであるし、ソ連邦がまだ参戦していないのを幸い、シベリア経由で帰らせてくれと懇願した由だが、軍人の石頭が聞き入れる筈はなかった。どちらの経路を取っても無事に帰国は出来なかったろうが、とにかくフィヨルドを出た潜水艦はそのまま消息を絶ち、どこで沈められたにしろ星川家では、その三月のとある日を命日と考えて戦後を迎えた。  その兄が実は生きていて、それも潜水艦ごとソ連邦へ持って行かれたという新しい情報がもたらされたのは昭和二十九年になってからで、米ソの対立が極まった中で起ったラストボロフ事件以来である。これはベレンコ中尉のミグ25のような派手さはなかったにしろ、当時は世間を瞠目させるに充分で、駐日ソ連代表部からラストボロフ二等書記官がアメリカ情報機関に抑留されたと発表があったのが一月二十四日、ついで日本側から彼は書記官などではない内務省所属の陸軍中佐で、自発的にアメリカへ亡命したのだという説明やら、勝手にそんなことをされても困るというアメリカへの苦情やらがつけられた。その間、本人と親しかった日本人の一人から、最初の星川俊男生存説がひそかに伝えられたので、俊男は潜水艦ごとソ連邦へ抑留され、いまも軍事ロケットの開発に従事しているという。  そしてそれを裏づけるように、その三年後からスプートニク1号、エクスプローラー1号の人工衛星合戦が始まり、ガガーリンのウォストーク、テレシコワのヤーチャイカと続いてみると、フォン・ブラウンら百五十人のスタッフがそっくりアメリカへ連れ去られたことが公にされているだけ、星川家の姉妹たちは、ソ連邦のどこか秘密の研究所で、兄ひとりが孤独に黙々と向うの成果に太刀打ちすべく働かされている姿を思い浮かべるしかなかった。あり得るともあり得ないとも、二十世紀の鉄仮面さながらの暗黒生活は、俊男の死ぬまで続けられることだろう。スプートニクを開発した科学者の名さえ公表しないソ連邦の秘密主義は、こうしてひとりの幻影の囚人を生み出したのである。  その兄がまだ生きている、それも全世界の七割のダイヤモンドを研磨するアントワープの町の隠れた黒幕のように、となると、姉妹たちにはどう空想の翼をひろげてみても、追いつける現実とは思えなかった。 「だから広志さんは電話で何といってきたのよ。正確に、言葉どおり教えてったら」  いいかげん|焦《じ》れた口調で江梨は何度めかの同じことをいったが、由良の答えにも変りはなかった。 「だからいったろう、パリからだって。何か交換手が訳の判らないことをいってさ、おつなぎしますっていうから、てっきりこれは広志だと思って耳を澄ましていたら、向うが興奮しちゃって話にならないのさ。母さん、大変だ、俊男伯父さんが生きてたんだ、判らない? 手紙に書いた老人のことだよ。またよく調べてから電話するよって。こっちはもう何を訊き返す間もありゃしない、え、え、っていうばかりで、切れちまった」 「無理もないわ。突然のことですもの」  志乃が取りなし顔で口を挟んだが、江梨はなお胸の中がくすぶる気持だった。 「思いついて会社へ訊いてみたら、やはり国際電話で帰国が遅れるっていってきたって。じれったいのはこっちのほうさ。コレクトコールでも何でも、どんどんかけてくりゃいいのに」 「だってパリのホテルは判ってるんだし、こっちから問い合せたらいいじゃないの」 「ああ、むろん|雄一《ゆういち》にかけてもらったさ。前の日に引払って行先も判らないそうだ」 「それでお姉様」  訊かないでももう目的は判ったが、江梨はわざとゆっくりとたずねた。 「こんなところにホテルを取って、これからどうなさるおつもり」 「むろん向うへ行くつもりさ。ホテル住いなどしたことがないから、少し慣らしておいて、このまま広志から連絡がないようなら、どうでも行って見つけてこなくちゃ。ミスター・パールと、その得体の知れない老人とをね。マダム・エメロードとやらは、これはまあ勝手にしてもらうしかないけど」 「呆れた」  小さく口には出したが一図に思いつめた�母の貌�を見ると、それ以上はいえなかった。 「だって、たったひとりで?」 「ああ、ひとりで」  由良は当然のように答えて唇を結んだ。 [#改ページ]    ピノキオの鼻  アンカレジを飛び立ってしばらく、食事が出て映画が終ると、初めての海外旅行に何かとおちつかなかった宮原由良も、ようやく心がくつろぐのを覚えた。何しろ時差というものが判らないので、|朦々《もうもう》と暗い雲から雲の中ばかりを飛び続けるのが不安だったが、いま外はすっかり明るく、北極に近いとかで窓の下に氷山が青い翳を伴って輝いている。それでもこれから四時間あまりを、ひたすら朝から朝を追って飛び、あげく出発したと同じ日の午前七時に逆戻りしてアムステルダムへ着くというのは、どうしても呑み込めることではなかった。  アントワープから妙な手紙を寄越したなり消息を絶った三男の広志はそのままで連絡はないが、同行していた塚田夫人のほうはやっとのことでアムスにいるのを掴まえることができ、国際電話で訊きただすと、広志の行方ならいくらか心当りもあり、たぶんオランダにいる筈なので探し出せるだろうから、なるべく早くいらっしゃいという。それにあの事件以来わたしの名はマダム・エメロードとしてこちらの業界にも知れわたり、却って一種の名士になっているからどのような|伝手《つて》を辿ることも可能だし、奇妙な老人のことも気がかりなら調べてあげるというので、何はともあれ出かけることにし、それが実は長兄の俊男かも知れないという内輪話は、塚田夫人との電話では伏せておいた。しばらくアムスに滞在するからスキポール空港まで出迎えに行く、かりに急用ができても|VVV《フィフィフィ》(市観光局)の|美原《みはら》さんという人に頼んでおくから心配は要らないという声を頼りに、由良にとっては雲烟万里の彼方にあるオランダまで旅立つことになったのだが、五月という美しい季節にも見知らぬ土地で人探しかと思うと、心はいっこうに|霽《は》れなかった。  それが少しずつほどけてきたのはアンカレジの空港からで、地図を見て初めてそこがアラスカだと知ると俄かにもう引返しもならぬという度胸がついた。日本人のために漢字で大書された�金・毛皮免税店�という看板はいかにも気がひけるが、それにも異国へ来たんだという実感があった。女学校のとき以来使ったことのない英語で、時候の挨拶ぐらいしてみようかという気になったのは、志乃の見立てで整えた久しぶりの洋装のせいかも知れない。  もうひとつ幸いだったのは隣に坐った青年が、年に二、三度はこちらにくる旅慣れたフリーのカメラマンで、言葉も達者なら現地に友人も多いから、いつでも御案内しましょうと申し出てくれたことである。きっかけは一杯のブランデーにあった。窓が暗くされると、鶏のようにすぐおとなしく眠りにつく客たちをまあ羨ましいと思い、いっこうに睡気がささないのに弱っているうち、薄い水割りでもいただいてみようかしらという気になった。スチュワーデスに頼みながらふと気づくと、隣でも退屈そうに眼を据えている。一杯いかがと声をかけると、はにかみながら、ではブランデーをといった。それじゃそれを二杯、わたしのは水で薄めてと頼んだのは、免税で一杯が二百五十円という安さが珍しいこともあったが、やはり旅慣れない不安に加えて、初めからその青年の横顔の孤独な翳りが気になっていたせいであろう。  |江崎《えざき》|卓也《たくや》、二十七歳。  その彼はいまようやく安心したように眠り始めた。少し上を向いて尖った鼻をピノキオみたいだと思うと、急にすべてが可愛らしくなって、よく光る巻毛や若々しい皮膚までがひどく好もしいものに眺められる。ブランデーで体は火照っているが、まだ睡気はささない。由良はぼんやりとこの正月の、宇田川女史の予言を思った。幻の母を求めて旅を続ける、輝くばかりの美青年が現われてという話だったが、いっこうにそれらしいものと出逢いそうにもない。江梨のところには戦死した恋人そっくりの青年がふいに訪ねて来たらしいが、問いつめるまでもなく何も起らなかったことは明らかである。このピノキオ青年もひとときの幻影を醸すためかと思うと、外れたためしのない占いというものも、実は意外に残酷な意図を秘めていることが知られる。  ——そりゃあそう。占いが当るか当らないかは、皆さんの心ごころですもの。  宇田川女史の口癖が聞える気がする。魔除けの石はさしあたって塚田夫人の持つエメラルドだろうから、空港へ着いてしまえば安心だなどと考えているうち、いつか知らずに由良にも、きれぎれな短い眠りが訪れていた。  ………………………………………………  しかしスキポール空港には、塚田夫人の影も見えず、代りにくる筈の美原という人もいるようすがない。宿だけは日本語が通じるようホテルオークラにしてあったので、とにかくそこまで辿りつけばいいようなものだが、二人がいないと判ったときの心細さは類がなく、ピノキオ青年が甲斐々々しく面倒を見てくれなければ、由良はその場に坐りこんだかも知れないくらいだった。江崎は仕事が始まるまで二、三日はあるから、大丈夫ずっとついていてあげますといい、空港で換金を済ますとホテルまでタクシーで同行してくれた。フロントには塚田夫人のメッセージがあって、急な商談で迎えに出られなかった詫びと、夕方までには帰る旨が記されていたが、またしてもという不信感ばかりが募った。後になって美原からも電話が入り、約束の時間に待っていたのだが、ともかくも着かれたならば安心というのも、外国ではこれからもこうした行き違いが屡々起るという予告のように聞えた。  日本時間でいまが何時だなどと考える暇もなく、フロント|傍《わき》の電話室で東京へ繋いでもらい、あらましの報告だけを済ませると、急に疲れが出てもう鞄のひとつも持つ元気はない。江崎は部屋までついてきてくれ、 「バスを使って一と眠りなさって下さい。三時間後に車でお迎えにあがります」  といい残して去った。しかし浴衣に伊達巻という姿でくつろごうとしても、いっこうに眠くはならない。  ——やはり無理だったのだろうか。  後悔はじっくりと胸に這い登った。日常の会話もできない身で、息子だの幻の兄だのを探そうとする無謀さは判っていたが、くる早々に肩すかしをくってみると、まだまだ陥穽は到るところにしつらえられている気がした。  ——それでもさ、こうして来てしまったものを、いまさら仕方もなかろうじゃないか。  声に出して呟く。  ピノキオ青年にはまだ何も打ち明けてはいないが、いよいよとなれば頼るほかはない。行きずりの赤の他人に過ぎないものを、こうまで親身に面倒を見てくれるからには、お礼も相当弾まなくちゃと気づいて、由良はもう一度起き上ると旅行者小切手やら現金やらを確かめた。ふた月はたっぷり滞在できるほどの大金だけに、これもまた気重の種である。広志の手紙にあったユダヤ人のように、自分で左手へ鎖で繋ぐというわけにもいかないだろうが、何かいい工夫はないかしらんと由良は真剣に考え始めた。  飛行機の中ではジーンズの上下だった江崎が、見違えるほど瀟洒な服で現われたとき、由良もまた淡い藤紫のスーツにともいろの帽子をつけ、入念に化粧も済ませてフロントにいた。三十分も眠れはしなかったが、ともかくも気を張って頑張るほかはないと思い定めたからで、初めて運転台の横に乗るときは、ひどく若やいだ気分になっていた。 「もう少し遅いかも知れませんが……」  気のせいか江崎は、そんな由良を多少とも吟味するように眺め、それから気に入ったという思い入れで晴れやかにいった。 「キューケンホフのチューリップ公園にでも行ってみましょうか。車は、大丈夫ですか」  涼しい眼許が笑いかけるのは、車に酔わないかという意味であろう。 「ええ、わたしは平気」  由良もはなやいだ声を出した。  ——諸君、|季《とき》は五月だ。そしてここはハイデルベルヒだ。  というのは、|水《みず》の|江《え》|滝子《たきこ》がデビューして間もないころの『アルト・ハイデルベルヒ』の台詞で、その舞台姿も声もいまなお由良には灼きついている。この明るい五月、晴れわたったアムステルダムで、かりにひとときの幻影というにしろ、美青年とドライブするのをためらう必要はない。  車は快適に一直線の幅広い高速道路を走り続けた。左右は運河と並木とはろばろしいまでの牧場が眺められる。乳をふくらませるだけふくらました乳牛たちも風の中である。青年は|口措《くちお》かず、この牛たちは三月から十月までこうして出し放しなこと、ポプラ並木のこの樹から木靴を作ること、海抜下七メートルというところもあるので、逆に道路の上を運河が走る場合もあることなどを喋り続けた。  キューケンホフのチューリップ公園はオランダのどんな観光案内にも載っているが、さすがにもう衰えが見え、何よりも見に来ている外人たちがすべて老人だと知ると、由良はまた心に翳りが差すのを覚えた。尖った形や風変りな色で織りなされる花の絨緞は、そのとき不意に退屈無残な美に変じ、自分の藤紫いろの服さえそのひとつに過ぎない気がする。青年がニコンのF2を持ち出してこちらの写真を撮ろうとするのを、由良は大げさに手をふって遮った。  ………………………………………………  |DE《デウ》・|VIER《フィエール》・|BALKEN《バルケン》(四つの|梁《はり》)という赤い窓のレストランに連れて行かれたとき、由良は思いきって今度の旅の目的を打ち明けた。さすがに奇妙な老人のほうは、親しい知人らしいというぐらいに留めたが、そう聞くと江崎はまるで腕組みでもするように考えこんでしまった。それからおずおずといった言葉は、ひどく由良をおどろかした。もしかすると広志は、誰かに強制されて手紙を書かされ、電話をかけさせられたのではないかというのである。 「でも、なんのために?」  由良は反論した。 「いいえ、電話の傍に人のいる気配はなかったし、かりにそうでもわたしなど|誘《おび》き寄せたところで、誰の得にもなる筈もないしね。それは違うと思うの。ただ……」 「ただ?」  青年はそう問い返したが、由良には胸の中の不安を旨くいい表す言葉が見つからない。仕方なしに第二次大戦の秘話から始めて、兄の俊男生存説までを残らず話してしまったが、江崎は聞き終ると、つくづくというような声を出した。 「そんな大事なことを、たったおひとりで解決されにいらしたんですか」 「解決できるつもりもないけど、何か手がかりぐらいは見つかるだろうと思ってねえ」  ついいつもの年寄りじみた口吻に戻ったのも気づかぬように続けた。 「塚田さんひとりを信用して出てきたのが間違いよね。もう少し頼りになると思っていたけど」  実際そのとき由良には塚田夫人が、眼の前の大皿に山盛りになっているじゃがいもほどにも疎ましい気がした。 「ぼくがいるじゃありませんか」  突然何かの決心をしたように、江崎は顔を輝かしていった。 「たまたまお近づきになったというだけですけど、ぼくでよかったらお手伝いしますよ。ベルギーにも友達はたくさんいるし」 「だってお仕事が……」 「いいんです。今度はぼく独りに任されてるんで、時間はどうにでもなりますから。しかし、こんなことって初めてだなあ。日本人はどだい顔からして向いてないんで、ヨーロッパでスパイやら宝石の密輸やらができるとも思わないけれど、案外そのへんも噛んでいるとなると、宮原さんおひとりの手に負えることじゃなし……」 「でも江崎さんのお顔なら大丈夫ね」  思わずそんなことをいってしまったのも、頼もしい味方ができた喜びに、また少し浮かれた気持になったというより、いきいきした青年の表情が前よりいっそう彫りが深く、上向いた鼻もさらに高く、黒い巻毛のイタリア人かスペイン人に見まがうくらいだと思ったからである。 「まさか」  江崎は屈託なく笑った。 「こちらの暗黒街は底の知れないところがありますからね、迂闊に入りこんだら大変ですよ。ただ広志さんの行方ぐらいは何とか探れるんじゃないかと思って。それで塚田さんという方は何ていってらっしゃるんですか。どこかに心当りがあるとか……」 「それもね、電話で請合っただけだから」  由良は心細さ、嬉しさ半々の声を出した。  もともと塚田|多鶴子《たづこ》という女には得体の知れないところがあって、夫がどことかの大学教授というのは本当らしいが、知合いの夫人はことごとく聖心か学習院の出のようなことをいい、|日本橋《にほんばし》のデパートの社長は親戚でなどと触れ廻るところは|胡散《うさん》臭いながら、宝石の利殖に|長《た》けていることは事実だった。いつもは石川という確かな筋の宝石商からしか買ったことはないのに、一度あまりにも安すぎるというほどの石をすすめられて正式に鑑定してもらうと、これがまちがいのない上物だったときからのつきあいで、いつぞやのダイヤモニヤだけが唯一の失敗例である。資金を殖やして商会を作ってという話にも一口乗ってもいいと思うほど肩入れする気持になっていたのを、初めての海外旅行に迎えにも出なかったいまは、もう誰が|助《す》けてやるものかという気さえする。肝心の広志の行方さえ見当がつけば、あとはもうこの青年だけを頼って縁を切ってやろう、何より一度彼女に見せつけてやらなくちゃと思うと、由良は再び若やいだ表情に戻っていった。 「でもこのお料理、ずいぶん盛りだくさんだこと。オランダって、みんなこんなにおじゃがばかりが多いのかしら」 「え?」  青年は初めて気づいたように皿の上のものを見た。  ………………………………………………  江崎に送ってもらってホテルに戻り、再会を約したあと、ようやく疲れが出て部屋でうとうとしていたが、夕方になって塚田夫人からいま戻ったという電話が入った。ごめんなさーい、このまますぐお部屋に伺うわという軽薄な調子もうとましく、それでも何か手がかりがあったのだろうかと聞いてみると、それはまだだという。 「ひどく体が大儀なのよ。えゝえゝ、長旅のあげく貴方にお逢いできなくて、すっかりくたぶれたらしくてね」  軽い嫌味をいって、六時半に下の食堂で逢うことを約した。  四十五ギルダーという天ぷら定食を頼み、前は日本人の好物と知らずみんな棄てていたという北海のかずのこを肴に、二人はハイネッケンのビールで気のない乾杯をした。 「こちらで商売を始めるつもりなの? 広志の手紙には大そうもないエメラルドを持ち出して売り込みに歩いてるってあったけど」  多鶴子はすばやく辺りを見廻した。その卑しい一瞬の表情に由良は眉をひそめたが、相手はさらに油断のない顔つきになって、 「いいえ、エメラルドといってもまだ本物ともいえないの。あとでお見せするわ」  一と息に残りのビールを飲み干して口を拭った。 「何よ、そりゃ、まだというのは」 「いえね、あなた、いま日本の鑑定協会がエメラルドをめぐって真二つに意見が|岐《わか》れてるのを御存知?」 「知らないわね。何でも戦後すぐのころはそんな話があったって聞いたけど」 「あれはチャザム・エメラルド。今度のはね、もし合成とすれば大変なしろものなのよ。日本じゃ|埒《らち》があかないから、いい機会だと思ってこっちへ持ってきて、本職に見てもらおうと思っただけ。それが売り込みにまちがえられたの。むろんこっちでお墨付きがとれれば、大きな商売にはなる話ですけど」  多鶴子のいうことはどこかあやふやだが、由良はそんなものかと聞き流すことにした。 「でもね、おかげでこことベルギーじゃ、マダム・エメロードつてことですっかり有名になっちまったわ。むろん彼らは見当違いに、あたしが大量の売込みにきたと思いこんでるだけなんだけど」 「そんな、危くはないの? 生命を狙われるようなことが起らなければいいが」  口ではそういったものの、広志の行方なぞ少しも本気で心配しているわけではないと見極めがつくと、せっかくの美しい五月の石をこんな女が持ち歩くというだけでも腹が立ち、早く運河でもどこでも死体になって浮かべばいいという気がする。  ホテルの多鶴子の部屋に引き取ってから、広志についてはゆっくり相談するつもりで、それよりどうにかして江崎という青年の出現を教えてやりたくなった由良が、小出しに話し出すとたちまち多鶴子の顔いろが変った。ことにそれがフリーのカメラマンで、鼻ときたらピノキオのようにちょっぴり上を向いているのとつけ加えたとき、たまりかねたようにいった言葉は充分に由良をおどろかせた。 「まあ、何といううっかり者なの、宮原さんは。ピノキオの鼻といえば嘘をつくたび伸びるってことぐらい有名じゃありませんか。黒い巻毛のイタリア人みたいって、あなた、よく鼻をごらんになって?」  思い返すまでもない、�四つの梁�で、青年の鼻は確かに前より高くなっていたと気づくと、由良のはしゃいだ心はたちまちうなだれた。 [#改ページ]    優しい嘘 「ところで広志の行方のほうは、全然見当もつかないままなの」  ピノキオの鼻などとは思いもかけぬことをいわれて、由良は慌てて話題を変えた。 「ええ、電話をもらってから、大急ぎで二、三当ってみたのよ。それがベルギーにもパリにも、まるで手がかりがないまんま。ごめんなさい、お役に立たなくて。でも、いるとすればきっとこのオランダだわ」  塚田多鶴子はこともなげにいった。 「どうして」 「どうしてって、それはあたしのカンよ」  およそ無責任なことをいうと、また声をひそめるようにして、自分の持ってきたエメラルドがいかにすばらしいか、合成だとすればギルソル系だが、その見わけのつけようがないので、名古屋から飛火していま東京でも鑑定業界は大騒ぎをしている、もしこちらであたしがお墨付きをもらって帰れば、沖縄のルートを知っているので思いきった投機もできるし、それこそ日本でもマダムエメロードとして箔がつくだろうなどと、のべつに喋り立てたが、由良はもう半ばも聞いてはいなかった。やはり考えつづけていたのはピノキオと呼んでいた江崎卓也のことだが、飛行機でたまたま隣り合せ、スキポール空港からホテルへの案内、キューケンホフの見物と甲斐々々しく面倒を見てくれた彼に、どのような魂胆があろうとも思えない。それでも塚田夫人から半ば冷笑するように、ピノキオの鼻は嘘をつくたび伸びるのがきまりといわれてこうまでうろたえたとなると、問題は向うにでなく、こちらの心にありそうであった。 [#ここから1字下げ] ——判っているよ。わたしが年甲斐もなくあの鼻に見とれたことを見抜かれたような気がしただけさ。 [#ここで字下げ終わり]  由良はそう自分にいいきかせた。いかにももうこの齢では、みずみずしく光る青年の鼻すじだの、ちょっぴり上向いた具合だのを惚れ惚れと眺めることは滑稽にすぎるかも知れない。しかし、いくら齢を取っても女ごころに変りはなく、それも不案内な異国で親切にされ、思わず知らず頼りにしたあげくのことだと割り切ると心はきまった。何より眼の前にいるこの女が、自分の商売にかまけて、広志の行方などひとつも本気で心配しているわけではないと見極めがついたいま、彼のほかに誰が頼れるとも思えない。 「まあ広志のことはもういいけれど……」  由良はもうひとつの肝心な話を訊き出しにかかった。 「なんでもアントワープのダイヤモンドセンターかどこかで、二人を助け出してくれたお年寄りがいたというじゃないの。それはどんな方だったの」  むろん塚田夫人にまで、その老人が実兄の俊男かも知れないなどと打ち明けるつもりはないが、人相・風体の特徴だけはぜひにも聞いておきたい気がする。といって年月を隔てたいま、何が目印になるとも思えず、際立った|黒子《ほくろ》などもあるわけではなかったのだが。 「そうねえ、何といったらいいのかしら」  さすがにそのときのことになると、多少とも照れくさいのか、小狡く視線が動いた。 「名前も何もおっしゃらなかったから、よくは判りませんけどね、まあ日本人には違いないわね。六十をだいぶ過ぎた齢恰好ですけど背丈のしっかりした、顔は……顔はそう、彫りが深いというのか、りっぱなお顔だったわ」  あまり手がかりにもならないことを、しどろもどろにいいかけたが、由良のほうでもまた訊いた瞬間から、答えが何の役にも立たないことを承知していた。兄と別れたのは、もう三十六年も前のことなのだ。かりに偶然に出逢ったとしても、二十代だったその|俤《おもかげ》を探し当てられるのは、三人の姉妹のほかにいる筈はない。  由良はあまりにも遠いその日の光景を思い浮かべた。三菱の社員でも二十代で洋行というのはめったに先例のないころで、アメリカ経由で行くことになった兄を、一家揃って横浜の埠頭まで見送りに行ったのは、昭和十六年の一月二十三日であった。野村吉三郎大使が最後の日米交渉に出かけるのと同じ船で、その鎌倉丸の甲板は、おおよそが故国へ帰る外人たちで埋められ、色とりどりのテープの向うに辛うじて兄の姿も認められた。だがそうやって出航を待っている間に、由良はいつの間にか船の手すりに凭れ、いまにも泣き出しそうな顔でこちらを見つめているひとりの白人が気になり出していた三十四、五歳ぐらいのポーランド人、と勝手に決めて見ていたが、それはもとより確かではない。何よりその表情があまりにも寂しげなので、誰も見送りがいないようなら、せめてわたしだけでも送ってあげましょうと、初めのうちはひそかに手をふっていたが、次第に二人は眼と眼を見つめ合うように引かれ始め、意思の通い合うのが互いに判った。相手は|解纜《かいらん》間際に、いきなりなんべんも肯いたかと思うと、熱っぽくこちらに手をふり始めたからである。そしてついには甲板から体いっぱいに乗り出し、何事か絶叫するように手をふり続けていた、その彼。  すでに五年前に結婚して、子供も二人まで儲けていながら、それはたった一度の、心で犯した不貞であった。しかしいまなお由良には�白皙のポーランド人�の声のない絶叫が耳に残り、涙でくしゃくしゃになった顔が忘れられない。むろん傍目には実の兄を見送っていたとしか映らなかった筈だが、あのときぐらい見も知らぬひとと心の通い合ったことはかつてなかった。……  しばらくして鎌倉丸での仮装パーティの写真が実家に届けられたが、三角帽子をすっとこ冠りにした野村大使を中心に写っているのは、兄を含めておおむねが日本人ばかりで、肝心のその顔はついに見当らず、瞼に灼きついたままに終った。とはいえそれも三十六年の昔である。いまかりにこのアムステルダムで七十歳を過ぎた彼とすれ違っても見わけのつく筈はなく、万が一ついたとして、二人の間にどんな話があるとも思えない。  戦争、その海。  由良は意味もない言葉を心に呟いていた。そこに揺れる、茫洋と涯もない時間の波の彼方・此方に、いったい何が浮いているというのだろう。 「どうなすったの、急に」  気がつくと塚田夫人のいぶかしげな顔が迫っていた。 「いえ、ね」  まだその波に揺られているような感触を味わいながら、由良は歪んだ、奇妙な笑いを浮かべた。 「ずいぶん遠くまで来たもんだって、ふっと思ったのよ」  ………………………………………………  広志さんはアムスにいるに違いないし、何かあればこのホテルか|VVV《フィフィフィ》に連絡がある筈だから、ここでじっとしていたほうがいいというのをふりきって当てもない旅に出たのは、せめてそれぐらいのことはしなければ来た甲斐がないという思いからでもあったが、何より江崎卓也の好意に甘えられるうち甘えておこうという心づもりが大きかった。薔薇の写真集を作るのが目的で、六月半ばまで自由に撮って廻ればいいのだからという言葉をそのまま信じ、旅費やホテル代はあらかじめ相応な金額を渡して、親子というにはいささか齢の離れすぎた二人の旅が始まったのだが、由良は由良で充分に満足していた。志乃にいわれて服装をすべて若作りにしてきたこともこちらでは気がねもいらず、いくらかでも江崎の齢に近づけるのが嬉しかった。宇田川女史の予言にはいささか遠いにしても、思いもかけぬ美青年に案内されて、ダイヤにエメラルド、そして真珠と続く月を、オランダからベルギー、さらにはフランスと気ままに廻る機会に恵まれたことは、素直に喜ぶ気持しか持てなかったし、もうひとつ、特別な理由もあった。塚田夫人と食事をし、自分でも忘れていた横浜埠頭の情景を思い浮かべてからというもの、探し求めるつもりできた兄のイメージがふいにしらじらと遠のいたことを、いやでも心に噛みしめるほかなかったのである。  かりに俊男が健在で、たまたまアントワープに姿を見せた老人がそうだとしても、それはすでに故国を思い棄て、二度と帰るつもりのない人間だということは明らかで、日本とも星川家とも縁のない異邦人、永遠の放浪者として生きていることに間違いはない。折角こうして来たといっても、二人を隔てているのはただの時間ではなく、名づけがたいまでの落下と酩酊とを秘めた断層とでも呼ぶほかはなかった。うかつに近寄れもせず渡りもできないことが実感として判ってしまうと、出かけるまで涙の出るほど懐しく甦った兄は、またこともなく一枚の写真の中に戻った気がする。平面の、冷たい、白黒の写真。その中からどうやって現実に兄を呼び出すことができるだろう。…… 「ねえ、�さまよえるオランダ人�というのは、何のことだったかしらん」  由良がそんなことを口にしたのは、アムストーンのダイヤモンドセンターへ行こうとして車を走らせている途中であった。 「え?」  江崎はチラと顔を向けたが、すぐ何でもないように答えた。 「ワーグナーのオペラじゃないですか。幽霊船の船長がノルウェーの海を永遠にさまようっていう。……」  どうかしましたか、という問いに何といっていいか判らず、ただこう呟いた。 「そう、やっぱりノルウェーだったのね。きっと霧が深いだろうから……」  江崎はもう一度、由良の横顔にすばやい視線を走らせた。  アントワープの取引所とは違って、ここは観光宣伝のために開かれているので、センターにはぬけめなく日本語のパンフレットもおかれ、日本人の案内嬢もいたが、江崎は電話をしておいたからといってショールームのフロアマネージャーに刺を通じ、別室で話を聞くことができた。日本でも物の本に説かれていることかも知れないのだが、こうして外人の口からじかに聞かされるダイヤモンドは、ロンドンにあるデ・ビアスのシンジケートにがっちり握られていて、二百三十のそのメンバー以外どうにも動かしようのないものだということが、由良にもおぼろげながら察しのつく気がする。 「日本人はその会員の中には誰もいないんでしょうね」  小声で江崎に囁いたことだったが、すぐ通訳してくれ、あいにく日本人は一人も入っていないが、会員になるにはメンバー全員の承認と、入会金の八千ギルダーが必要だというたぐいをぼんやり聞きとめた。  ユダヤ人が牛耳っているのは虐げられた歴史があるからで、家具でも橋でも造ることはいっさい許されず、ただ物を扱うことだけが許可されたため、自然にダイヤと結びついたというのも由良には初耳であった。十四年前にここでエリザベス・テーラーが、百七十カラットのラフストーンからペア・シェイプに磨かせて七十カラットのものを仕上げたこと。しかし研磨より何よりまずどんな型にするかのアドバイスのほうが大切だという話。各国の王室からどんな注文がどういった手順でくるかというたぐいをマネージャーは立て続けに喋り、江崎はまた片端からそれを通訳してくれたが、由良には宝石業界はもとより、ふいに宝石そのものがひどく遠い存在に思え、ほとんど空しい気さえした。美しく硬く稀れな鉱物というのが宝石の定義だが、それが日本に産しないばかりではない、もともと日本人には根本的に向いていないとまで思えてくるのは、塚田夫人のような臆面のなさを目の当りに見すぎたせいであろうか。  帰り際の立話になって、ミスター・パールという早口の言葉が聞えたので、さりげなく広志の行方を訊いてくれたのだと察したが、マネージャーは首をふってこれも|口迅《くちど》に何か答え、それからいくぶん気の毒そうに由良のほうを見たのが、お辞儀をしながらも判った。 「いいのよ、江崎さん、もう広志のことは」  玄関を出ながら由良は正直にいった。 「あれも子供じゃないんだし、心配はいらないわ。連絡場所さえきちんとしておけば、いずれ顔を出すでしょうから」  それはまったくの本心で、もうこのとき兄とともに広志の行方もいっこう気にかからなくなり、あとは気ままな旅をするだけという決心がついたのもこの瞬間であった。 「それよりも御迷惑でなかったら……」  再び車に戻りながら、由良ははしゃいだ調子でいいかけた。 「貴方のことを卓也さんと呼んでもいいかしら」 「えゝ、どうぞどうぞ。そのほうがこちらじゃ自然ですからね」  卓也は横顔を見せたまま答え、由良にはどうやらまたその鼻が少しばかり前より高くなった気がしたけれども、そのときはピノキオ青年がどんな嘘をついたってかまわないという気持のほうがはるかに強かったのである。  ………………………………………………  車の旅は快適で楽しかった。もっともこちらの規制は日本に較べると呆気に取られるほど緩やかで、道路が整備されているせいかも知れないが、オランダでは酔っ払い運転も平気だし、踏切で一時停車の必要もない。鼠取りはいつも決った場所でしかやらないという寛大さだが、それでいて事故の件数が少ないのは人と車の体質的な慣れ合いのせいであろう。ただそのオランダで魔の赤ナンバーとして恐れられているのがベルギーの車で、かつては誰でも無免許で乗れたため、いったん事故が起ると常識では信じられない形態を取ることもあるという。  広志の手紙にあったとおり、ベルギーではブラッセル、ゲント、ブルージュといった都市を訪れ、むろんアントワープにも行ってみたが、セントラルストリートのダイヤモンド街はその入り口から立入りを断られ、謎の老人の消息も名前が判らないのではと相手にもされなかった。むろん由良にとってそのことはもうどうでもよくなってい、俄かにフランス風の優しさを増す町のたたずまいと食事だけが楽しみとなった。  パリのパガテル園で世界の新種の薔薇コンクールがあるからという卓也に従ってフランス入りをしたのが六月で、もうそのころ由良はすべてのものに酔っていた。むろん行く先々の宿は東京にもアムスにも連絡することは怠らなかったが、それよりもヨーロッパの古い町がもたらす色彩と香りは、この齢になってと時折は自嘲の浮かぶほどに深い陶酔をもたらした。卓也が何を考えてつき合ってくれるかはよく判らないが、美貌の騎士に守られているという思いだけが確かなもので、そのほかに何がいるだろう。ピノキオがまだ嘘をついているというなら、それは世界でもいちばん優しい、いたわりに充ちた嘘だという確信に由良はすべてを賭けたのだが、それは間違ってはいなかった。  惟悴しきった表情の広志が、セーヌ河に面したパリのホテルに突然現われたとき、すべては知れた。部屋にいた卓也に、広志はいきなりこういったからである。 「どうも長いことありがとう。もう大丈夫だから」  卓也は黙って頭をさげ、それから深い瞳になって由良を見つめた。 「それじゃ、これで」  それだけいうと自室に引き取るため、そしておそらく二度と姿を現わさないため、その長身は扉の向うに消えた。 「わたしだって薄々判っていたさ」  いきなりまた元の老女に戻るのではあまりに辛い。由良は広志に背を向け、立上ってガウンを羽織った。 「全部�あの人�の差し金だったんだね」  飛行機で隣り合せに席を取ることにどれほどの技術が要るのか判らないが、やって出来ないことではないだろう。塚田夫人のほうはルーズな性格で空港にこなかっただけだろうが、VVVの美原という人が妙な伝言を寄越したときから、誰かがわざと到着便の変更を告げたことは気がついたし、それ以後全部のスケジュールを卓也の意のままにすること、そしてごく自然に兄の存在も広志の行方も案じないようにすること。それが�あの人�の指示のまま動いていたピノキオ青年の優しい嘘のすべてだった。従って�あの人�、すなわちアントワープに現われた謎の老人は兄ではなく、ただし俊男と非常に親密な関係にあったであろうことは由良にも察しがついたし、それが判ったからこそノルウェーのフィヨルドから潜水艦で出航した兄のイメージにダブらせて、ふいに�さまよえるオランダ人�という言葉が浮かびもしたのだから。 「母さん、念友って何のこと」  広志は唐突に訊いた。 「さあ、知らないね」  由良は古びた緑いろのセーヌ河を見おろす姿勢のまま答えた。 「何でもドイツ時代に、あの人は俊男伯父さんのいちばんの念友だったって。まあそれはいいんだけど、おんなじ海軍の嘱託で、潜水艦ごとソビエトに抑留させるように仕向けたのもあの人のしたことらしいよ。つまりはスパイ行為だけど、世界の情勢を考えると、どうしても新しいロケット技術をアメリカに独占させるわけにはいかなかったって。でもそのあと伯父さんに、二十世紀の鉄仮面のように一度も名前を明かされることもなく研究所で死なれてみると、どうにもやりきれなくなって、自分で自分を追放して、さまよえるユダヤ人みたいに一生をこちらで暮すことに決めたらしい。それでいて母さんのこと、叔母さんたちのこと、つまり元の星川家の家族全部の動静はすっかり調べ上げてあるんだからね。今度聞いて、本当におどろいちゃった。聞いてるの? あの人はね……」 「名前は、いわなくていいよ」  由良はぽつんといったが、その思いにはあの�白皙のポーランド人�もおのずと重なっていた。名前も知らず顔もさだかではないままの人間でも、他人の一生に重い影を落すことはあり得るのだ。 「ヨーロッパって、ぼくたちの想像を超えた何かがあるんだね」  しばらくして広志がそういい出したとき、室内はすでに相当暗くなっていた。 「この半月ほど、ぼくはあの人につきっきりで、本当は弟子入りして一生こちらで暮すぐらいの気持でいたんだけど、いわれちゃったよ。日本人にはマーケットの問題ばかりじゃなく、宝石の本質とはどこか合わないところがあるって。それだからこそ|御木本《みきもと》さんの養殖真珠の発明は偉大なんで、あれは日本人の心を取り出してみせたんだって。つまり脆さとか傷つき易さってのは、決して欠点とばかりはいえない、傷つくからこそ美しいものもあるんだっていうけど、ぼくはお前なんかやっぱりミスター・パールだって皮肉をいわれたのかと思った。母さん、何のことだか判る?」 「ああ、こないだやっと判ったよ。アムストーンのダイヤモンドセンターで」  由良はくぐもった声で答えたが、その眼には、まだ明るい|外面《とのも》を流れ続けるセーヌ河が、次第に凝固しかかっているように眺められた。同時に茫洋とした時間の波に浮いているもののひとつが、まぎれもない真円の真珠だということも、いまようやく理解がついたのだった。 [#改ページ]    虚(うろ)  庚申薔薇は夢を見ようとしている、と少女時代の江梨はいつも思った。そのころはまだ郊外にすぎなかった渋谷の星川家は、|簷《のき》の深い暗い家で、庭には徒らに|桧葉《ひば》や八つ手が繁り、この季節の花といっては|萼《がく》|紫陽花《あじさい》か|※[#「草かんむり/(「揖」の旁+戈)」、第3水準1-91-28]草《どくだみ》ぐらいしかなかったので、内庭の垣根にまつわる庚申薔薇はひとときの彩りとなった。乏しい房咲きながら濃い紅は|花綵《はなづな》のように垂れ、長い|揺蕩《たゆた》うような夕暮、それは羽虫たちの|宴《うたげ》のために点された灯りのように眺められた。そしてほどなく闇の手が伸び、柔らかな眠りの刻が訪れる。庭は暗い湖の底に沈み、宴は終ったのだ。  この花については、父の広之進から一度妙なことをいわれたことがある。大学で水理学を講ずる地味な学者で、家庭でも固苦しい姿勢を崩さぬひとだったが、その夕方、江梨がふっと、 「あのお花、もっとたくさんあればいいのに」と呟くと、傍らに立ちながら、 「どうして」と問い返した。 「だってあんなに美しいんですもの」  すると父は珍しく江梨の肩に手を置いてこういった。 「あんなものを美しいと思ってはいかんよ」  その声の調子がいつになく優しかったばかりではない、これまで末娘の志乃のほかは、子供を抱き上げたり頬ずりしたりなぞ決してしたことがないだけに、江梨は肩に置かれた手を奇妙なほど重い、息苦しいものに感じて黙っていた。それでもそのぎこちない躯の動きで、父にはすぐ気持が伝わったのであろう、じきに手を離すと|諭《さと》すように続けた。 「美しいというのは調和があるということだろう。ところが本当の調和は、決して肉眼で見えるところにはないんだよ」  続いて望遠鏡で仰ぐ天体の運行や、顕微鏡で覗く花粉の精緻さなどを話してくれたような記憶があるけれども、その教訓は少女の江梨にとって、すぐ素直に飲み込めることではなかった。父の専門が地下水流の研究だとは知っていたので、肉眼で見えないというのは多分その意味だと咄嗟に思ってしまったせいもあるのだろう。ただ、ふだんから武骨な、いかついひとだとばかり思いこんでいた父が、もしかすると見かけによらずロマンチストなのかも知れないといった感懐は、肩に置かれた手の重みとともに長く心に沁みた。  だがいま自分が満で六十歳近い齢になってみると、あのとき父は美というよりもう少し何か深い意味での眼に見えぬものに怯え、そのためにふっと江梨にまでその不安を語ってしまったのではないかという気がする。もとよりそれが何であったのかは、いまからでは推測の届かせようもないが、肉眼で見えぬというより五官の及ばぬ神秘なもの、運命的なものを畏れていた節がある。戦争がエスカレートするにつれ�|産霊《むすび》�こそが宇宙の原理である式の神がかりな言辞が多く、頑迷固陋な日本主義者になり了せたのも、好意的に考えれば必ずしも時流にのったせいばかりではなく、一種の神秘思想に取り憑かれたためかも知れない。GHQの追放令にも遭わず、戦争が終るとともに死んでくれて、そのときはやれやれとしか思わなかったが、いまになってみるともう少し長生して、固く鎧ったままだった胸の内を、ほつりほつりとでも聞かせてくれたらという気がするのは、紛れもなく自分がその死の齢に近くなり、老いに浸され始めたせいであろう。 「いまならばいい話し相手になれるのにね」  益にもならぬことを独りごちて、江梨は思わず苦笑した。  それにしてもこのごろ江梨が閉口しているのは、戦争中の記憶と実際との食い違いであった。手近な歴史年表にでも当ってみれば、すぐこちらの間違いと判ることでも何か釈然としない気持で、たとえば満州事変が昭和六年の九月で上海事変が七年の一月とあっても、あら、上海事変の方が先じゃなかったかしらんという疑いが離れない。ましてフランス映画だのシャンソンだのとなると、南京陥落の年に�我等の仲間�、徐州徐州と軍馬は進むなどと唄っていた翌十三年に�舞踏会の手帖�、続いてノモンハン事件の年に�望郷�が封切られたとは到底信じられず、順序も逆だったとしか思えない。シャンソンの�暗い日曜日�や�待ちましょう�はさらにそれらの前年らしいが、兄の俊男がそのレコードをかけづめにかけていた姿が瞼に残るばかりで、戦争の狂躁とはおよそ別の時間が流れ、その中での出来事だという気がする。  記憶が当てにならぬことを、しかし江梨は老いのせいだとは思いたくなかった。個人の体験した過去の出来事は、当然のことながら一つ一つ重さが違い、記憶の中で浮きもすれば沈みもする。それを押し拡げて時間の流れの中でも同じことだと、個人の歴史のほかに歴史など決してありはしないといっては間違いだろうか。たとえば江梨にとって、瑞鳳の沈んだ昭和十九年十月二十五日はいつだって�昨日�であり、一度も遠い過去になったことはない。うっかりこんな齢まで生きてしまったが、それをつねに�昨日�であり続けさせるために江梨は、絶間なく�明日�から時間を補充し統けたのだ。しかし一度めくられてしまった日暦は、いくら手を差し伸べても届く筈がない。時間の絶壁の上に立って江梨は、その白い暦の一葉がいつまでもゆらゆらと漂い、緩慢に下降してゆくのを眺める気持だった。 「あたし、こないだ調べてみてびっくりしちゃった。あの�望郷�って映画、昭和十四年の二月に封切られてるのね。何だかもっと前みたいな気がしてたのに」  そんなふうに切り出して、由良ならば判ってくれるだろうと久しい感懐を披瀝しようとしたことがあるが、四歳齢上だけに当時のことはよく分別がついていたのか、 「そうだよ、知らなかったの」  と、|気《け》もない顔で管えた。 「ちょうど|幸次《こうじ》が生まれる前でねえ、でもどうしても観たかったから、主人の眼を盗んで大きいお腹で出かけてさ。恥ずかしかった」  目許を皺めて笑い顔になったが、すぐうっとりした表情になった。 「だけどまああの時代は、どうしてあんな素晴しい映画ばっかり封切られたのかねえ。�ミモザ館�だろ、�女だけの都�だろ、�ジェニイの家�だろ。フランソワーズ・ロゼエを見てると、自分もお婆さんになってもいい、いっそ早くなりたいぐらいのものだった。まあ、こうして間違いなくお婆さんにはなったけどさ」  江梨はすっかり気押され、もう感懐を述べる気もなく、 「いやだ、お婆さんになりたいだなんて」  と呟いたばかりだったが、由良はまだ懐古調をやめなかった。 「そうそう、それに�乙女の湖�のジャン・ピエール・オーモンのよかったこと。眩しいくらいな美青年でさ。あれは昭和十年、結婚する前に観た最後の映画だった。いえ�モンパルナスの夜�や、何といったっけジョセフィン・ベーカーの、そう�はだかの女王�も観たかしらん」  放っておくと当時の映画の全部の題名を並べかねないようすなので、江梨は慌てて遮った。 「それに俊男兄さんがシャンソン好きだったでしょう。お父様の留守によくおんなじレコードばかりかけて。あんな時代でもフランスのものがあんなに流行ったなんて不思議ね」 「それそれ」  由良はすぐ合槌を打った。 「コロンビアから�シャンソン・ド・パリ�の第一輯が出たのが�望郷�の封切られるちょっと前でね、兄さんがどうしても聴きにおいでっていうから、雄一をおぶって行ったものさ。十一円もするお|高値《たか》いアルバムで、|藤田《ふじた》|嗣治《つぐじ》さんの絵がしゃれていたねえ」  モンマルトルの丘を描いたそのジャケットは江梨の眼にもはっきり残っているが、続いて何気なくいわれた言葉にはすっかり驚かされた。 「あのレコードなんか、みんなどうしちまったんだろう。イヴォンヌ・ジョルジュの�水夫の唄�とか、ダミアの�私の心は大洋よ�なんてよかったもんだが」  ——そうだったのか、というのが最初の感慨であった。�水夫の唄�の方はないが、古ぼけたダミアの一枚が兄の形見としてうちの押入れに紛れ込んでいたとは思いもしないことだった。だが同時に、その一枚のレコードにはかない思いを託した自分を思い出すと、何かいたたまれない気がして、江梨は話を打ち切るようにただこういった。 「お姉様ったら、ずいぶん詳しくいろんなことを覚えてらっしゃるのね」  ………………………………………………  由良とはそんな具合で、とても父の鬱憤についてまで話をするに到らなかったが、ふだんはあまり反りの合わぬ、五つも齢下の志乃が、話を聞くとすっかり共鳴してくれたのは意外だった。のみならず志乃はこんなことをいったのである。 「記憶っていうのはアレね、いろんなものの詰った古い大きな壺を誰かから貰ったような気がするの。手を突込んで、手探りだけで中の品を引張り出してみると、形はそっくりだのにまるで違うものだったりして。いやあねえ、齢とってくると、守銭奴みたいにこんな壺を大事にしなくちゃいけないのかなって。でも本当。他に蓄えもないんですもの、せめてこの記憶でも整理して暮すしかないわ」  戦前に限ったことではない、戦後だって時間はまっとうな流れ方をした筈はなく、記憶もまた順序正しく積み重なるわけがない。ごろた石もあれば宝石もあるその中から、いいものだけを大事に並べ直すつもりという志乃をほほえましく眺めながら、江梨はふっと気がかりになって訊ねた。 「そういえば宇田川さんの御託宣はその後どうなったのかしら。あなたのとこにも来たでしょう、お姉様の絵葉書。なんだか思わせぶりなことが書いてあったけど、魔除けの|宝石《いし》どころか、あちらで本場ものの幸運の宝石でも買い込みかねない気配よ。何かよっぽどいいことがあったみたい」  自分のアクアマリンには口を拭ってそんな探りを入れてみたが、志乃は弱々しくかぶりをふった。 「ええ、お姉様の方はね、思いきって来てよかったって、とてもお倖せそうですけど、あたくしなんか、そんな気のきいた青年が現われる筈もないわ。アンドロメダみたいに鎖に縛られてでもいたら、ひょっとしてペルセウスが援けに来てくれるかも知れませんけど」  まだとてもその齢には見えない、光沢のいい白い頬を翳らせたが、すぐまた悪戯ぽい眼つきになった。 「でも宝石の方はね、このごろまた塩沢といろいろあって、くさくさするから百万ぐらいのをパァって買っちゃおうかしらんなんて考えてるの。いいえ、本当は三百万ぐらいじゃなきゃ腹の虫が納まらないんですけど」 「おや、おや」  江梨は仕方なく白けた笑いをした。  夫の運輸業が盛大になるのと引換えに、志乃との間はいよいよ冷えきって、公然と女を囲っているという話は前から聞いている。その夫は見たところ温厚な、いたわり深い性格に思え、京育ちの上品さもあったが、いつものことで家庭内のいざこざは、親身に聞く気にもならない。 「まあでもあなたはそうして憂さ晴しが出来るだけまだいいわ。あたしなんか娘盛りにだってあの戦争で、宝石なんて何ひとつ買っちゃ貰えなかったもの。もっともお父様があんな風だから、それは志乃ちゃんも同じことだけどね」  だが志乃は擽ったいような表情になると、照れながらいい出した。 「白状するとね、一度だけおねだりして買って貰ったことがあるの。いいえ、宝石といっても月長石って安物の飾り玉で、五十円もしなかったんじゃないかしら。でも一応宝石は宝石でしょう。お姉様のこともあるし、隠すのに往生したわ。お母様にだって内緒にしてたんですもの。だけどこれは絶対の秘密だぞってお父様にいわれてみるとゾクゾクするくらい嬉しくって、それだけにあれは真珠母いろっていうのかしら、乳白色の曇り玉がどんなものより美しい宝物に思えたくらい。御免なさい、気を悪くすると思っていままで黙ってたんですけど」  それはまったく初めて聞かされる話であった。末娘だけに父からもひとしお眼にかけられていたことは確かだが、由良が婚約したときでさえエンゲージリングなど夷狄の風習だといきまいていたほどだのに、よくもまあと呆れる気にもならない。  ただ、いま志乃が口にした真珠母いろという言葉に、たちまち江梨の眼裏にもムーンストーンの柔らかい肌合いと、大粒の葡萄めく形とが浮かび、もし戦争中にそんな一顆を秘密の手匣に隠し持っていられたら、確かに何よりも美しく見えたろうという気はする。江梨は嫉みのいろを隠さずに聞いた。 「それで、どうしたのその宝石。いまでも大事に持ってるってわけ?」 「いやだ、とうに手放しちゃったわよ、戦後のどさくさに。匣だけはまだ残ってますけどね」  ——ふうん。  江梨は心にうす白く笑った。やっぱりそうかという気がする。同時に�真珠母いろの匣�という言葉が唐突に浮かび、それは星川家の三姉妹それぞれに、生まれたときからあらかじめ配られているのかも知れないと思った。開けてみると、肝心な宝石は溶け去ったようになく、皺の寄った絹布の窪みだけが残されている、その匣。それは別な言葉でいえば虚とか不在とでも名づける他ない天与の贈り物であろう。……  その虚のイメージを振り払うように、江梨は努めて優しくいった。 「それはお父様と志乃ちゃんだけの秘密だったってわけね。でもあのお父様がそんな隠し事をなさるなんて意外ねえ。このごろ何だか、思ってたのとは別なひとだったんじゃないかって気がし始めてるの。齢が近くなったせいかも知れないわね」 �|産霊《むすび》�とは生成の原理すなわち宇宙に充満する生命力に他ならず、�|神随《かんながら》の道�の道とはすなわち�|御血《みち》�であってそれを体し伝える血の流れであるというたぐいのことは、その晩年、いやというほど聞かされ、いくらなんでもこじつけが過ぎるという気しかしなかったが、�|天津《あまつ》|日嗣《ひつぎ》�を体現された天皇こそ無窮の生命を託されているという予言は、こうも昭和という年代が続いてみると、もしかすると本当かも知れないと思われてくる。ヒットラーもムッソリーニもルーズベルトも戦争とともに斃れ、生き残ったスターリンもチャーチルもそして|蒋《しょう》|介石《かいせき》も|毛沢東《もうたくとう》もついに|北※[#「亡+おおざと」、第3水準1-92-61]《ほくぼう》の煙と化したというのに、この奇蹟はただごとではない。忠臣|面《づら》をしていた|奴輩《やつばら》もそろそろ薄気味が悪くなったかして、不敬きわまる元号法案などを画策しよると、父が生きていたら反対に一喝するだろうと、いささかおかしくなってそんな思い出のあれこれをいいかけると、志乃もまた沈んだ眼色になって答えた。 「神秘思想といえるかどうかは判りませんけれど、お父様って本物の右翼じゃなかったことは確かね。三月十日の大空襲の時だったかしら、防空壕の中であたくしを抱き寄せるようにしていったことがあるの。ちょうど俊男兄さんが行方不明って報せがあったばかりの時でしょう。アレが死ぬことはもう前から判っておったって。戦争も負けるし、儂らの言辞がどれほど|囈言《たわごと》扱いされるかも知っている。ただ儂の祈りはお前の無事だけで、すべてと引換えにあと三十五年の平安だけは約束していただいたから安心しろなんて、独りで泣いているのよ。躯がブルブル顫えて、あたくし、何だか酔っ払いの知らない小父さんといるみたいで怖かったわ。月長石の小匣だけを握りしめて……そうよね、あの時はお姉さんもお母様も一緒だった筈ですけど、向うの隅で黒い影になって何もいわないでしょう。防空壕の入口から炎明りが差して、あの晩のこと、覚えていらっしゃる?」 「いいえ、知らないわ」  江梨は冷たくいった。実際に女子青年団の仕事にかまけて、おとなしく防空壕に潜むことなど出来ず、どこかを走り廻っていたには相違ないが、それよりももう少しましなことだと思っていた父の鬱懐がただの子煩悩——それも末娘への偏愛にすぎなかったのかということが腹立たしい。 「それじゃ戦後の平和は、もっぱら志乃ちゃんのおかげってわけね。ありがたいこった」 「そうですとも」  志乃は意外に強気で応じた。 「あたくしばかりじゃないけど、これまでどうにか泰平の御代が続いたのは、大正生まれの女たちからの、せめてもの贈り物ですとでも考えなくちゃやりきれないでしょ。だからこんなに生ぬるい、ふやけた時代だっていわれてもそれは平気。他に誰がこんな|襤褸《ぼろ》風呂敷を繕ってつづくり続けるもんですか」  自分こそ�戦後という時間の縫い子�だとでもいうような気焔に江梨が黙っていると、志乃は少ししみじみした口調になって続けた。それは先ほど江梨がぼんやり考えた�真珠母の匣�と同じことをいっているのかも知れなかった。 「このごろよく空想するの、あたくしたちのお墓ってどんなだろうなって。きっと野っ原に一列に並んで、石材だって脆いに決まっているわ。雨に打たれてだんだんに穴があいて、あたくしにはいまからそのまるい|虚《うろ》が眼に見えるような気がする」 [#改ページ]    紅と青と黒  宮原由良、星川江梨、塩沢志乃の老いた三姉妹は、七月の蒸暑い一日、|新宿《しんじゅく》|御苑《ぎょえん》の池を見おろす太鼓橋の上に寄り添って佇んでいた。池の面のあらかたは睡蓮で埋まり、それも|糶《せ》り合うように浮きあがり伸びあがりして光沢のいい広葉が|蔓《はびこ》っているため、花といえば僅かな白が覗いているにすぎない。太鼓橋の下にかぐろい波が騒立っているのは餌を求める鯉の群れで、橋袂にいるアベックがソフトクリームのコーン容器をちぎっては投げ入れするたび、幾十とも知れぬ黒い鯉たちがうねり盛りあがって旋回するさまは、地底の大蛇が作る渦のようだった。アベックが去るとその騒ぎもじきに収まったが、それはむしろ朱の|銹《さ》びた錦鯉が一匹、群衆を鎮める女王のように悠々と泳ぎ寄ってきたためかも知れなかった。…… 「もう花には少し遅いのかしら、白ばっかりなんて。七月には紅い睡蓮がふさわしいんだのに」  不満そうに呟く志乃に、 「そうねえ。でも|不忍池《しのばずのいけ》へ行ってみたら、もしかして紅いのもあるんじゃないの」  江梨は軽い気持で応じたが、たちまち由良に遮られた。 「馬鹿をおいいな。不忍池のは、あれはただの蓮。睡蓮なんかじゃありゃあしない」  ——あら、そうなの。  という顔の江梨にかまわず、遠く西の方に立ち並ぶ高層ビルを見やりながら、由良は続けた。 「昔はそれでも呑気だったねえ。朝、暗い裡から不忍池の畔りに集まって、蓮の花が開くときは確かにポンて音がする、いやしないとか、聞いた聞かないで大騒ぎしていられたんだもの。戦争前までは、さ」  しみじみとした口調を反対に江梨が|嗤《わら》った。 「いやだ、それならいまでもやってるわ。夏に一度だけ朝の四時ごろから集まるんですってよ」 「違うんだよ、昔の風流ってのは」  鼻白んだ由良の呟きを志乃が受けていった。 「暗い裡からっていえば|入谷《いりや》の朝顔市もそうでしたでしょう。お|天道《てんと》様が出てからじゃいけないって早くから集まって、帰りには|池《いけ》の|端《はた》の�揚出し�で朝御飯をいただいて。あたくし、一度だけ連れてってもらったわ」 「誰に」 「お父様に」 「へえ」  およそそんな思いをしたことのない由良は、気のないようすで答えたが、江梨にとっては二十四色のクレヨンと同じで羨む気にもなれない。だが志乃にしてもその日の記憶はあまり楽しいものではなかった。�揚出し�にはたまたま|広小路《ひろこうじ》に面した表玄関からでなく、池に向いた通用口から入ったのだが、下働きや仲居に廊下の角で出くわすたび父の広之進は、おでこでも叩くような調子で、 「いやー今朝は|搦手《からめて》からあがっちゃったよ」  などと、さも通人ぶったきまりを繰り返したからである。お固い学者先生の|捌《さば》けたところを見せたかったのだろうが、女中がいちいち大げさにおどろいてみせるのも志乃には腹立たしかった。そのせいか朝御飯に何が出たものやら、さっぱり覚えてもいない。  ……由良が先に立って|雲母《きらら》を張りつめたような高曇りの空の下を歩き出す。ふだんの日なのにベンチというベンチは若いアベックで埋まっているので、休むとすればコンクリートの休憩所の他にない。だがたちまち江梨の不服そうな声が後ろからとんだ。 「ねえ、お姉様、今年もうこれで三回めよ、大事な話があるってのは。桜のころならともかく、暑いさなかに御苑なんてとこへ呼び出されて、ありがたくもない。あちらでのお話をまだよく伺ってないからと思って来たんだけど、今度の大事な御用って何なのかしら」 「あら、御免なさい。御苑はあたくしがいい出したの、どうしても紅い睡蓮が見たかったもんだから」  志乃の言訳にかぶせて、由良はむしろ|怪訝《けげん》そうに問い返した。 「いやだねえ江梨ちゃんは。今朝の新開、読んでこなかったのかい」 「え? 忙しかったのよ、今朝は。なんでも南太平洋かどこかでネッシーみたいなものが見つかったってニュース、うちの|娘《こ》がいってたけど、まさかそんな話じゃないでしょう」 「当り前だよ、ばかばかしい。あの塚田さんが宝石詐欺で指名手配されたのさ。知らなかったの」 「ほんとう? まあおどろいた」  口ではそういったものの、それはいかにもしらじらしい響きを伴っていた。この三月に買ったアクアマリンのペンダントは、まだそのまま持っているが、それがあまりにもはかない海の雫だったことは身に沁みている。裕福な姉や妹が騒ぎ廻るのは勝手だが、江梨にとって宝石は、もう前以上に空しく遠い存在としか思えなかった。  この日の朝刊には�助教授夫人が宝石詐欺��暴力団員と逃避行�という派手な見出しで、マダム・エメロードこと塚田多鶴子がこれまで一億一千万円の不渡りを出したあげく、先月末に二千万円近いダイヤの指輪を空手形で詐取しこの八日から前科四犯の男と行方をくらましたので全国に指名手配になったという記事が賑々しく出ているが、逃げ疲れた二人はこの翌々日に自首して出た。もともとヨーロッパでの商談もうまく行く筈がなく、由良と別れてからじきに帰国したらしいのだが、スキポール空港にも迎えに出ず、広志の行方についても何の役にも立たなかった彼女のことなど、こちらではとうに忘れた気でいた。それを、向うは逆に由良の不在を幸い志乃に近づき、相当高額な石を売りつけたというのが、休憩所へおちついてから聞かされた今日の�大事な話�だった。といって江梨にとっては、それさえ遠い出来事というほかはない。 「だって何よ、お|高価《たか》い石って。またお正月のダイヤモニヤみたいな贋物だったっていうの」 「いいえさ、それがスタールビーの上物なんだけれど、志乃ちゃんは本物らしいから|口惜《くや》しいっていうんでね。いい機会だから被害届けを出したらと思っていたのに、何だか話がこんぐらがっちゃってさ」  由良はいとおしむように九つも離れた末の妹を見やった。だが江梨にしてみれば、たまたま今朝の新聞を見ていなかったこと以上に筋の通らない話で、納得しようにも出来ることではない。 「なぜ本物じゃいけないの。塚田さんを訴えてやれないから? オランダの仇を東京でって、お姉様が肩入れしていらっしゃるわけ?」 「いいの、もうその話は」  志乃は少しばかり尖った|頤《おとがい》をこころもちすくめるようにして答えた。女学生時代は�花王石鹸�という仇名だったなと思い出しながら江梨は、昔からこの妹には愛情を注ごうとしても両親や兄姉の分で先にいっぱいだし、心を|展《ひら》いて接しようとすると向うで頑なに扉を|鎖《さ》すといった繰り返しだったことを苦々しく反芻していた。  ——なにさ、わざわざ呼び出しておいてからに。  そう思うとまた意地になったような|苛々《いらいら》声でいい|募《つの》った。 「大体があなたの誕生石は八月で、サードニクスか何かでしょう。それを、張りこんでルビーを買って、何の間違いがないものなら結構じゃないの。そういえば紅い睡蓮てルビーの付き物だったわね。なあに、それでわざわざ御苑まで呼び出したってわけ?」 「まあさ、そればかりでもないんだよ」  由良が穏やかに割って入った。 「まあ塚田さんのことは指名手配になったというだけで、捕まってもあとどうなるか判りゃしないんだけどね。わたしの留守を承知で志乃ちゃんに取り入ったというのが憎いんだよ。わたしもアレはこれこれこういう女だからって、もっと|強《きつ》くいっときゃよかったんだけど、まさか志乃ちゃんにまでと思いもしなかったし……」 「そういえばお姉様、向うでは大そうお倖せだったみたいね。いただいた絵葉書にもなんだか当てられたくらい。その護衛してた騎士は結局どうしちゃったのかしら。こないだのお土産話じゃそのへんが曖昧でしたから、今日はそれもゆっくり伺おうと思って楽しみにしてたの」  いきなり鉾先が変わったのも、由良はやんわりと受け流した。 「なに、パリの宿に広志が現われてくれたから、そのままお別れしただけさ。初めからお仕事が始まるまでってお約束でガイドをお願いしたんだもの、タイミングはちょうどよかったわけ。そりゃ少し寂しい気はしたけど、まあ仕方もないことだしね」  まさかいまさら妹たちに、ピノキオ青年の鼻はほんの少うし上向き加減で、若々しく光っていたなどと|惚気《のろけ》も出来ない。別れた日、窓越しに眺めた苔色のセーヌの流れは、あのとき確かに何かを断ち切ったに違いないのだから。 「それゃもう過ぎたことだけどね。今度のルビーは少し大物すぎてそれが心配なのさ。まさか宇田川女史の予言を恐れて、魔除けのために買ったわけでもないだろうが……」  しかし今日の志乃はいつもと違って、由良にもうちとける気配がない。さしぐんだようすで横を向いたまま、力のない声で、 「いいのよ、もう」  を繰り返すばかりであった。実際そのときの志乃には、由良が小声になりながら、かいつまんでする説明も煩しかった。五十万とか七十万とか口を濁しているけれども、志乃ちゃんの買ったのは小粒ながら百万を越しているに違いなく、それが売り手は塚田夫人ながら鑑定書もしっかりしているし、石川さんに見てもらってもまあ値段相応ですなといわれて、その点では何の問題もない。その問題のないことが問題という点を由良までが|釈《と》きかねているのがじれったい。あるいは察してくれているのかも知れないが、江梨に気を兼ねてというのなら初めから呼ばなければいいのに、こればかりは由良にもこちらから打ち明けたい話ではなかった。  休憩所の外に群れて、浅間しいまで餌の取り合いをする鳩の|貪婪《どんらん》な眼玉を見ながら、いつか志乃が思い沈んでいったのは、あの横に長い�揚出し�の建物から連想される戦前の風物であった。父の話では広小路には三本の橋がかかって馬車が行き交い、不忍池の周りで行われた競べ馬には明治大帝も十二|単《ひとえ》の女官たちを連れて臨席遊ばされたというし、松坂屋のへんは草茫々の原っぱだったと聞かされていたが、むろんそんな時代のことは写真でさえ見たこともない。ただ松坂屋の送迎バスは覚えていて、東京駅から出ていた三越のバスに較べると、飴色で幾分野暮ったかった気がしているが、これも確かな記憶とはいえなかった。  それから必ず助手を乗せていた円タク。母と乗るといつもぎこちなく、言い値どおり五十銭取られてしまう距離でも、あの渡部の小母さんは乗る前に優しく、 「上野まで三十銭ね」  と値切ってしまうのがいかにもスマートに思われ、大きくなったらぜひ真似をしようと思っているうち戦争になって、たったそれだけのことも果せなかった。  ——そういえばずいぶんできなかったことがあるわ。  志乃はぼんやり思い返して、そのぶんだけ大人になりきれなかったのだろうかと|訝《いぶかし》んだ。江梨はすぐ、志乃ちゃんのころは何でも買ってもらえたからいいなどというが、先に生まれていればこそできたことも多いのだ。 [#ここから1字下げ] ——縁談だってそう。江梨姉様にだってずいぶんいいお話があったのに、山下さんなんて兵隊に取られるに決まっている人に義理立てして、あんなの、戦争中の感傷にすぎないじゃありませんか。 [#ここで字下げ終わり]  そういう自分にも父のお弟子で一番の秀才だった|若林《わかばやし》という講師とすっかり話が決まりかけたことがある。しかし志乃はもうひとりの弟子で|田所《たどころ》という助手にひそかに夢中になってい、どうしても気が進まないまま父に泣きついて断ってしまった。といって代りに田所さんを、といえるほど自由な家庭でも時代でもなく、かりにいい出したら末っ子で甘やかされていたとはいえ、若林を断っておいてふしだらなと叱りつけられたことだろう。 [#ここから1字下げ] ——九州の大学で、もう名誉教授におなりの筈だけど、どうなすったかしら。 [#ここで字下げ終わり]  青年時代の田所は白皙長身の、誰が見ても惚れ惚れする容貌だったが、どういうわけか毛嫌いされて、父の死ぬまでは不遇だった。何度か東京へ帰るチャンスがあったのに、それさえ父の手で|潰《つい》えさせられたほどである。田所が目立ったのは顔立ちばかりでなく、着ている学生服が黒でなく、同じサージ系統に違いないだろうが、いつも深い青だったせいもあった。いまならばミッドナイト・ブルーとでもいうのか、底知れぬ深さを|湛《たた》えた青い服は仕立てもよく、白皙の顔にいっそう映えた。 [#ここから1字下げ] ——あのとき思いきって若林さんと結婚していたら、まだしも田所さんとおつき合いが続いたかも知れないのに。 [#ここで字下げ終わり]  考えが次第にある一点に——そもそもの初めから強いて思うまいと努めていることに近づこうとしているのを知って、志乃は小さく身顫いした。戦後になってからの塩沢との結婚が、すべて自分に勇気がなかったことへの罰であり、報いだという考えである。  もっとも初めのうちは塩沢も、働き者の気のいい青年だった。実家は京都の格式ある香道の家元から別れたとかで、三男ながら|胤保《たねやす》という勿体ぶった名もそのせいらしい。それはいいのだが、オート三輪一台で始めた運送業が次第に拡がり、いまは各地に営業所を置くほどになってみると、その格式は厄介なことになった。さすがに事業の上では使わないが、自宅の表札は�塩沢�でなく�鹽澤�と正字で大書されている。手紙の名もいちいち墨でしたためろと強要するほどで、閉口した志乃は判こを彫らせて間に合せた。当然のようにいい出したのは後継ぎのできない不満で、胤保という名は血すじを保つという意味だとうるさくいわれても、医学的には問題のない二人にとっては、やはり相性が悪かったと思うほかはない。長い争いの末に妾は半ば公認となり、|三枝《みえ》というその女には二人の男児がいて認知もされているのは承知していた。そして三人めを懐妊した祝いに女の誕生石を贈る気だと知ったとき、志乃はあえてそれを許し、自分からその石を——眼眩むばかり鮮かな贋物のスタールビーを探すことを決心したのだった。  もとより金は夫から出ているので、百万が二百万でも知ったことではない。ただ、いかにも|胡散《うさん》臭い塚田夫人ならば、相当の目利きでも欺し了せるほどの贋物を掴ませるかと思いのほか、役立たずな本物をこんなときだけ持ってくるとは何事だろう。出処は夫にも明していないので、今朝の新聞記事で怪しむ筈もないが、いっそさっぱりとあのルビーはこの女から買ったのよと打明けたらどんな顔をするだろうと思う傍ら、有利な離婚材料を提供するだけだという気がして、せめて腹癒せに紅い睡蓮でも眺めてやりましょうというのが今日の気持だった。しかし、どうしても今度だけは親しい由良にも相談する気になれない。それに江梨からもいわれたとおり、自分の誕生石は中でも安物のサードニクス——赤縞めのうだということも屈辱だった。 「あたくし、どうしてかひどく頭痛がするの。悪いけど独りにしてくださらない」  あれこれと推測を逞しくしている二人の姉に、志乃はとうとうそういった。たちまちおろおろ声になる由良を制して、 「ねえ、お願い。もう少しここでゆっくりしてゆきますから」  そういって不安顔の二人を無理に帰したのは、さきほど太鼓橋の上から見た錦鯉の上品な朱色を、もう一度独りで眺めたいと願ったからであった。ルビーの紅でもサードニクスの赤でもない、あの|銹朱《さびしゅ》にだけ本当の安らぎが秘められている気がする。姉たちの姿がまったく見えなくなるのを待って、売店からパンを買うと、志乃はいそいそと池の方へ歩き出したが、橋へ行きつくまでもなく足はたちまち止った。 「田所さん」  と思わず声をかけようかと思ったほど、そっくりな長身の青年が池の畔りに佇んでいたからである。学生服ではないが同じミッドナイト・ブルーのタウン・ウェアーで、その白い額にも鼻すじにもすべて見覚えがあった。  とどろく胸を鎮めかねるまま、少し離れたところからパンを僅かばかり投げると、たちまち先ほどと同じように黒い渦がうねり出す。青年はおどろいたように志乃を見た。 「投げてごらんになる?」  つとめて気さくに声をかけると、パンを半分ほどちぎって渡した。 「とってもいい色の錦鯉がいるんですけど、きょうはどうしてか出てきませんわ」  無心そうに池に眼を落しながら志乃は、これまで本当に望んでいたのが紅でも赤でも朱でもなく、ただ深い青だったことを知った。同時に水に映るその立姿を絶え間なく掻き乱す邪悪な色の渦が自分の心にも秘められていることに気づくと、志乃は激しい眩暈に堪えかねたようにその場にしゃがみこんだ。 [#改ページ]    金色の蜘蛛  新宿御苑の太鼓橋の畔りで、崩折れるようにしゃがみこんだ塩沢志乃は、|幾許《いくばく》もなく動悸を収めて立上ったが、馳せ寄って腕を支えてくれ、 「大丈夫ですか、奥さん」  と、何度か耳許で熱っぽく囁いてくれた青年の顔を改めて眼にするなり、俄かに躯を固くして二度めの眩暈に堪えた。いまのいま、かつての田所にそっくりだと思った面影はどこにも見当らず、それはむしろ武骨で実直そうな若者だったからである。着ているのはいかにも青系統の服だが、それもミッドナイト・ブルーなどではないありふれた色あいで、白皙の顔どころか陽に焼けて健康そうな頬艶や強く張った眉は、見も知らぬ他人としかいいようはない。しゃがみこんだ須臾の間に別人と入れ替ったのではないとするなら、この白昼に幻を見るほど自分は、心の底で田所を慕い続けていたのだろうか。 「あそこのベンチがおいています。少しお休みになったほうがいいです」  青年は突立ったままで掠れ声を出した。志乃の微かな身じろきと|硬張《こわば》りとを感じ取るなり支えた腕を放して、もう二度と触れようとしない。それが青年の潔癖さによるものか、それとも束の間の感触にこちらの老いを読み取ってのことか、志乃には測りかねた。 「ありがとう、そうするわ」  こんもりとした植込みの陰のベンチに向って歩きながら、志乃はふっとはかない思いに捉われた。それは先ほど半分にちぎって渡したパンのことで、自分があの場に置いてきたように、青年もとっさに取り落すか棄ててしまったに違いない。だがそれは双方とも少しずつ|毟《むし》られているので、拾い上げて合せようとしても、ぴったり元の形になる筈はないのだ。……  志乃がベンチに坐ると、青年は護衛するように斜め後ろに立った。その角度からなら、せいぜい取って四十代そこそこの夫人という風情に映る筈である。 「あのう、ぼく、事務所へ行って、何か薬でも貰ってきましょうか」  ぎこちなくいい出す青年を、志乃は凄艶な笑顔でふり仰いだ。行ってくれといえば、鉄砲玉か|疾風《はやて》のように駆け出すことだろうが。 「いいえ、いいのよ。少し貧血気味なものですから、ときどき目まいがするだけ。それよりあなた、もう少しここにいてくださらないこと?」 「はあ、まあ……」 「それじゃ、おかけなさいな」  志乃が躯をずらすと、青年はおずおずと端に腰をおろした。はにかんだようにあらぬ方を向いている横顔を少し後ろから見ると、顎と鼻を結ぶ線に僅かながらも田所の面影が偲ばれ、志乃はひそかに安堵した。 [#ここから1字下げ] ——たぶんさっきもこの角度から見かけたので一瞬錯覚しただけ。そう、それだけのことよ。 [#ここで字下げ終わり]  白昼に幻を見るほど飢え渇いていたわけではないと自分に納得させようとして、同時に志乃はさっきから身内に疼いていたものが急速に昂ぶり、突き上げ、ついには炬火のようにあかあかと点じられたのを知った。  新しい赤の誕生。  いかにも贋のルビーによる隠微な復讐は失敗した。腹癒せに眺めようとした紅い睡蓮にもめぐり逢えなかった。しかし思わぬ偶然でベンチに並び合せているこの青年は、まだ名前も知らないとはいえ、代っての慰めであり天の賜物とはいえないだろうか。二十四、五歳か、あるいは体育大の学生さんかしらんと思えるほど健康そうな様子からいっても、夫への当てつけにする浮気の相手として先ずは及第であろう。 [#ここから1字下げ] ——でも気をつけなくちゃ。急いでみじめなことにならないように。 [#ここで字下げ終わり]  敗戦の日の前日が満二十歳の誕生日だったということは、五つ年上の江梨などのまた及ばぬ貧しい青春をたっぷり享受させられたということで、徴用のがれに転々とした軍司令部や監督局の事務室でも、いたわりの瞳・いとおしむ瞳・いざなう瞳のいくつかに囲まれることはあっても、それはついに腕や唇を伴うまでには到らなかった。からめ合う指先ほどに白く細い|絆《きずな》。それが敗戦までの記憶のすべてであった。  戦後いきなりの放縦な男女関係は|巷《ちまた》のもので平凡な家庭までを浸し崩したわけではないが、何よりも——飢餓よりも鋭く身を刺す人恋しさに加えて、その|露《あら》わさは眼に見えぬところであらゆる|覊絆《きはん》を解いた。志乃はいわば軽々と塩沢に|攫《さら》われ、同時に奔逸な性の高波にも攫われていたのである。 「ああ、ずいぶん楽になりましたわ」  緑いろの池の面に眼をやりながら、志乃はまだいくぶんせつなそうな声を出した。 「すっかりお世話をかけて……。そういえば朝からまだ何もいただいてないんだわ。いやだ、きっとそのせいでしたのね。あなた、よろしかったらお食事につき合ってくださらないこと? いいえ、大げさなことじゃなくて」  言葉の矢はいま葉陰に潜む白い睡蓮に向って放たれ、その花に突き刺さってみごとに血を流すことを志乃は念じた。  ………………………………………………  青年は|矢島《やじま》|竣介《しゅんすけ》と名乗り、警備保障会社のガードマンだと告げた。仕事に興味を失って辞める気でいることも話の合い間に知れた。群馬の|在《ざい》の出で、恋人もいず友達も少ないといいながら、それほど苦にしているようすもない。ただ、笑うと逆に翳りめいた淋しさが眼元に滲み、志乃はそれを賞味した。おどろくほど健啖なのも皓い歯とともにこころよかった。車の運転だけが趣味で、二種の免許も持っているという。 「そう。だったら安心ね」  ぼんやり相槌を打ちながら志乃が考えていたのは、このごろは行ったこともないが夫の営業所で立ち働く若者の中にさりげなく入れたらということで、その二人だけの秘密を持つとき翳りは初めて全身に及んで、孤独な狼の相を現わすに違いない。同時にその皓い歯で引き裂かれ喰いちぎられることも可能であろう。 「昼間はほとんどあたくしだけですから、かけていらしてもいいわ」  |庄沢《しょうざわ》という偽名を口にしながら、自宅の電話番号を書いて渡すと、矢島はおどけて押し戴く真似をした。再び目許に色濃く滲むものを、全身に疼く人恋しさのせいと志乃は判断したのだが、それだけに宇田川夫人の忠告どおり魔除けの|宝石《いし》を買っておかなくちゃという思いも胸を掠めた。  親子ほどに違う齢を気づいてもいないのか、あるいはもともと年上の女を愛するタイプなのか、機会は予想より早く訪れた。  |MON《モン》 |LOUP《ルウ》、私の狼と呟きながら抱かれた志乃は、それでも乳房を這う舌と牙に怯え、喘ぎながら頼んでいた。 「お願い、歯型だけはつけないで」  そうでなくとも人工の闇の中で感知される筋肉と剛毛とあらあらしい息遣いは、充分に森林と水原と断崖と、そこでの咆哮と疾駆と跳躍とを味わわせ、志乃は幾度かの失墜に堪えた。 「初めてお逢いしたときから、奥さんとはこうなると思ったんです」  激情がけだるく鎮まって、まっすぐ上を向いた姿勢のまま、矢島がそんな律儀なことをいい出したとき、志乃はくすりと笑ってその耳に口を寄せた。 「頼みがあるの。ねえ、聞いて」  八月十四日の誕生日に指輪を贈って欲しいこと、むろん費用はこちらで持つけれども、安い宝石だから心配はいらないこと。裏にはMON LOUPという字に日付だけ彫って、サイズはいくらでと囁きながら、最後にその石の名をいった。 「まちがえないで、サードニクスよ。誕生石の中でもいちばん安いくらいな石」  しかしこのとき志乃には、どんな安物の赤縞めのうでも、スタールビーも及ばぬ輝きを秘めている実感があった。睡蓮の白花は血を流すことによって忽然と紅花に変ったのだ。 「十四日なんですか、奥さん」  矢島はまだ上を向いたまま、手だけが志乃をまさぐった。 「ぼくは二十五日でね、どうしてだか乙女座なんだな、これが」 「まあ、おんなじ八月?」 「ええ。だけど十四日というと、何曜かな。その日にぼくと一緒に|北軽井沢《きたかるいざわ》へ行きませんか。毎年、十四日か十五日にあそこで花火大会があるんです。相当大がかりだし、綺麗ですよ、そりゃ。花火を見ながら……ねえ、いいでしょう」  志乃の手を取って自分に導く。その感触だけで頭は痺れた。 「行ってもいいけど、だけど、指輪だけは忘れないで。ねえ待って、少し……」  だが前にも増してしたたかな|量感《ボリューム》を取り戻した肉塊と、それまで気づかなかった|強《きつ》い体臭——革のように鋭く苔のように深いその香りが鼻を|撲《う》つとともに、志乃は他愛なくまた無明の闇に溺れた。  ………………………………………………  指輪のためにサードニクスのおよそ三倍ほどの金額を渡し、旅行のための細かな打合せを済ますと、さすがに気落ちして仄かな自嘲もわいたが、一方で十四日の誕生日は子供の時も及ばぬほど待たれた。ちょうどその日は日曜で、今年は十四・十五の両日とも花火大会が開かれるという。北軽井沢にはまだ行ったことはないが、|浅間《あさま》山の北麓に当るので旧軽のような混雑もなく、群馬の在という矢島の故郷にも近いらしい。  ——いったいあの子は、あたくしにとって何に当るんだろう。  考え出すとその映像はすぐに崩れ、流砂のように下半身を埋めて身動きもならぬ気がする。宇田川夫人の予言に外れはなく、口を濁してはいるが二人の姉にもそれぞれ年甲斐もない出来事があったらしい。といってあたくしほど烈しい体験をした筈はないと思うと、部屋にいてもつい|目蔭《まかげ》せずにいられぬほどの眩しい気持だった。ペルセウスほどの美青年というには遠く、逢うほどに田所の面影などかけらもないことはいやでも身に沁みて、ひたすら毛の長い優雅な狼というイメージしか湧かないが、激しいのはベッドの上だけで、獣の正体を剥き出しに、卑しく小遣いをせびったりする気配などまったくないのが救いであった。 [#ここから1字下げ] ——そうなの、これは夫への当てつけなんかじゃない、戦争への復讐なんだわ。 [#ここで字下げ終わり]  考えがそれに行き当ると、ようやく心は和んだ。誰が企て、誰がいちばん望んだのか、いまとなっては瓦礫の焼野原に埋もれて見当もつかぬ戦争というもの。それはしかし何よりも多くの瞳を奪った。そして戦後はまたせっかく生き残った瞳を濁らせ、そのおかげでようやく続けられた平和というもの。そのどちらにも|与《くみ》する気持のないまま流されてきたとなれば、性だけが——埋み火とも|燠《おき》ともなりかけていた性だけが確かな証のように燃え上ったとしても不思議はない。そのチャンスに恵まれ、肉体がまだ老けこまずに済んでいたことを大事に思いさえすれば、いまはそれでいいとしよう。もともと喪われた青春を僅かばかりのお金で|購《あがな》えると思うほど愚かなつもりもないし、いまはただ燦爛と夜空を彩る花火のほかに欲しいものはなかった。  夫は三枝という女のところに決っているし、留守番の心配さえすれば言訳も口実も必要のないことだったが、友人の別荘に招かれたからといって志乃は前日に家を出た。教えられたとおり|吾妻《あがつま》線というのに乗って|万座《まんざ》|鹿沢口《かざわぐち》に着くと、改札の向うに矢島が|雀躍《こおど》りするように手をあげているのが見え、思わず頬がゆるむ。その無邪気さにはどこか測りかねるものがあった。  シルバーメタリックの車に乗りこみながらふっと不安になって尋ねた。 「ずいぶんいいお車ね。これ、あなたの?」 「そうです。新車です。いまあちこちで広告してるでしょう」  矢島はいくらか得意そうに答えた。父親はこちらで役所に出ていると聞いたが、開発の拡がっているここいらでは、土地持ちとすればこの程度の車も当り前なのかも知れない。ただ失業中の身でと思うと、何かおちつかない気がする。  |草津《くさつ》・|白根《しらね》のルートを離れ、すっかり舗装された村道へ走りこんだとき、志乃は独り言のようにいった。 「指輪は、間に合ったのかしら」 「ええ、それはもうバッチリ。だけどホテルが混んじゃってて、一部屋しか取れなかったんです」 「困るわ、そんな……」 「でもね、ちょうど偶然に高校んときのダチが部屋取っててね、譲ってもいいっていってるんです。でなくてもぼくがそいつんところへ転がりこんでもいいし」  前を向いたまま済ましてそういわれると、それで我慢できるのかと訊かれているようで、志乃はほっと肩を落した。これまで数回の人工の夜の、無限の陶酔を誘う失墜。その甘美な闇のあるじは、いま事もない顔で隣にいる。そう、それはもう紛れもなく、すべての夜なるもののあるじに他ならなかった。 「だけど、あのサードニクス、安いなあ。プラチナ台にして、いわれたとおりの字を彫ってもらって、預かったお金の半分もしなかった。あとでお返しします」  正直にそんなことをいい出す矢島の横顔は、そのときひどく朴訥そうに見え、志乃はむしろ慌てた気持になった。 「いいのよ、そんな。残ったらお使いなさいっていったでしょう」  二十五日という誕生日になったら、正真のミッドナイト・ブルーのセーターか背広を贈るつもりでいるのに、という秘かな心構えが自分でいじらしい。だが何を考えているのか矢島は、 「ええ、あとで」  とだけ繰り返した。高校時代の友人だという|鷹見《たかみ》|三郎《さぶろう》にホテルの部屋で紹介されたとき、志乃は大げさでなく凶変の予感に怯えた。�悪魔のような美青年�という言葉は、テレビのタイトルだったのかどうか覚えはないが、さしあたってそうとでもいう他ないくらい、しなやかな体つきの、謎めいた微笑、ひどく紅い唇、誘いかける瞳、さては青い髯剃り痕のどれをとっても、洗練された女蕩しという印象しか与えず、それでいて決して不快でない戦慄をそそるところがあった。 「こいつは無類のオカルト好きでね、読心術にも長けてますから用心したほうがいいですよ」  そんな紹介にも優雅に|一揖《いちゆう》したまま、ただ深い瞳がこちらを見つめ続けている。 「怖いわ、あの方」  鷹見が出てゆくと志乃はすぐそういった。それからサードニクスの指輪を取り出した矢島が、まず指にうやうやしく接吻しようとするのをふり払うと、厳しい表情になってしどろもどろに告げた。 「これはね、あたくしにとって魔除けの石なの。ですから今夜はどうしても駄目。あしたね、あした花火が終ってからならば何でもおっしゃるとおりにするわ」  急な怯えが何によるものか自分でも判らない。指輪の裏に彫られた文字は細かすぎて見えなかったが、注文どおりだとすれば�わがウルフ�の筈だと思うと、それを指に嵌めてみることさえ憚られ、志乃は独りでまんじりともしない夜を過した。  翌日の夜は三人で食事をしたが、志乃は珍しく盃を重ねた。花火大会は、例年のことらしいが|埒《らち》もない歌謡曲だの役員の挨拶だのがいつまでも続き、ようやく始まるころは天気も崩れて小雨になった。�夏空に轟く大輪の舞�八号玉一発に尺玉一発、�夜空に輝くレジャーの園�四号玉八発、特大スターマイン等々が靄がかった空に開くと見えては消え、色とりどりの残像を残した。広場を埋める群衆に暗く|気押《けお》されて、離れた薄暗に立っていると、従っていた筈の矢島の姿はなく、代って鷹見の紅い唇が間近かに浮いた。  尺玉が金の刺繍をくりひろげ、赤と緑の雨が夜空に吸われる。 「御心配いりませんよ、塩沢の奥さん」  酔いのせいか、庄沢でなく確かに塩沢と聞えたように思ったが、鷹見は横顔を見せたままである。 「ウフフ、これはいってみれば腹話術のようなものでね、いいから知らん顔をして聞いていらっしゃい」  女のアナウンスが合間にかまびすしい。 「次は第十六番、天下に轟く星空の乱舞。早打ち五号玉七発。提供は吾妻信用組合|長野原《ながのはら》支店……」  また低く囁きが這いのぼる。 「もっと正直に強くならなきゃいけませんな、塩沢の奥さん。ホラ、あの三枝という御主人の女のことですよ。何でも三人めの子供ができるっていうじゃありませんか。かまわないから先の二人の子を、先手を打って殺しちまえばいいでしょうに。なに、お任せ下さればいつでも請け負います。なにしろ花火の夜のことだ、殺人計画を練るにはもってこいですぜ」  ウフフフという含み笑いは、どう見ても鷹見の紅い唇を洩れたものとは思えない。だが声は執拗に余韻を引いた。 「次は第十八番、高原を七色にいろどる共栄の花。四号玉二発、尺玉一発、提供は……」  再び金いろの傘が夜空いっぱいに開いてのしかかる。しかしそのとき志乃にとってそれは、巨大な金色の蜘蛛としか映らなかった。 [#改ページ]    青い贈り物  北軽井沢の花火大会の夜、耳許に囁かれたのが果して鷹見三郎の腹話術によるものか、それとも己れの内心の声か、志乃はついに判らぬままであった。正直に心の底を覗き込んでみても、三枝という女の子供を殺したいほどの憎悪が|激《たぎ》っているわけもなく、これまでうっとりとそんな空想に耽った記憶もない。とすればその囁きは、紅すぎる唇と、|滑《なめ》らかに青い剃り痕を持つ容貌が醸し出したひとときの幻聴であって、燦爛と降りかかる花火を巨大な蜘蛛のように錯覚したと同じい凶変の予感、惨事への期待だったのかも知れない。  酔いは二重に這い登り、もつれた足でホテルへ引返す志乃を、鷹見はすばやく追った。部屋へ入って鍵を|鎖《さ》すより先に肩は優しく抱かれ、掌は胸乳を包んだ。首すじを這う吐息に志乃は容易に知った。間違いなく矢島と鷹見は、初めから示し合せて交替したので、薄暗いこの部屋のどこかに、もうひとつの光る眼が潜んでいても不思議はない。だが、いつもなら身顫いする筈のそのおぞましさは、いま|譬《たと》えようもない|快楽《けらく》に変った。二人の青年はついに手触られることのなかった戦争中の彼ら——あんなにも深かったいとおしむ瞳・いざなう瞳の持主の化身に他ならず、その数はかりに十倍であっても当然と思えたからである。彼らの年齢はそのままに、志乃だけが時間を|遡行《そこう》して無垢の乙女に変じ、彼らの無数の腕の中で|羞《はじ》らい、歓喜し、ついには悶え、のけぞった。床の上に滴る血の色の|鮮《あたら》しさまで、ありありと瞼の裏に映じたのである。  枕許の卓燈が小さな音を立てて点じられたとき、志乃はようやく現実に戻った。花火も納涼踊りもとうに終ったのか、マイクの喚声も群集のとよめきもすでに伝わらない。深沈とした高原の夜気だけがこの部屋を包んでいる気配であった。  鷹見はそしらぬ横顔を見せながら、閉じた眼元に笑いが滲んでいる。頬の翳りに指を伸ばした志乃は、そのしたたかな張りと冷たさにおどろかされた。それは青く凍えた沼で、硬く厚い氷は容易に|罅《ひび》割れるとも思えない。しかもそこにはすでに新しく生え伸び始めた苔の感触があった。  ——どうしてここはこんなに青いの。  そういおうとして志乃が口にしたのは、自分でも思いがけない言葉だった。 「教えて。ねえ、青っていったい何なの」 「青がどうしたって?」  鷹見はこちらに向き直ると、肩を抱き寄せながら聞き返した。唇は隠れて見えない。 「青って何だか知りたいのよ」  志乃は稚く繰り返した。 「ふん、青って何、か」  笑いながら手と唇は動きをやめない。 「困りましたな。青は光の三原色の一つでありまして、なんてことを聞きたいわけじゃないだろうし、ゲーテ先生によればそもそも色彩とはエレメンターレス・ナトゥールフェノメーン、すなわち基本的なる自然現象と定義されておられまするが、もともと無限時間を一定の振幅で運動し続ける振動子なぞあり得ないからには、この地上に純粋な単色光は存在しない、すなわち純粋な青もまたないことになりますな」  鷹見は言葉と行為のちぐはぐさを楽しむようにそんな術語を並べ立て、傍らいっそう動きを早めた。 「本当なの? 本当に青はこの世にないの」 「ああ、ないね、残念ながら」 「だってアレでしょう、白色光をプリズムで分解したら虹の七色になるって、どんな教科書にも載っているわ」  志乃も釣られたように古い知識を口にしながら、相手の磨きぬかれた青い皮膚に頬を寄せた。 「だからって無理に白色光を衝撃波だって考えることはないのさ」  ついに鷹見はしなやかな躯を躍らせ、真上から催眠術師めく瞳をちかぢかと寄せた。その眼のいろも志乃には、ひととき青い沼か湖のような底深さに映った。尠くともその底に沈んでいる一顆の宝石は鋭い光茫で志乃を射すくめ、ひたすらその理由によって志乃の|購《あがな》った魔除けの石、安物のサードニクスを一撃で打ち砕いた。悪魔めく美青年の妖しい力によってではない、人は生れながらその瞳の中に自分の誕生石を秘めているとするなら、どんな誓いも用心も及ばないのは当然であろう。……  埒もないことを考えるうち、湖の氷は柔らかく溶け出し、委ねられた女体を緩やかに揺さぶった。やがてはその中心部に運ばれ、ほしいままな上下動を続けて奥深く突き沈められてしまうにしても、志乃にとってそれはもはや甘美な戦慄以外の何物でもなかった。  ………………………………………………  青とはいったい何だろうという疑問は、その一夜を過ぎてもなお深く心に残った。むろんそれは戯れに口にした色彩学や光学や、あるいは鷹見が専門に学んだという高分子化学などに|係《かかわ》りのあることではない。青という神秘な色が自分にもたらす、この不思議な感情はいったい何かという問いにすぎないので、もともと考えて解ける性質のものではなかった。  はろばろしいまでの海の青、空の青。あるいはモルフォ蝶科のメネラウスやカテナリウスの輝く翅。露草や矢車菊、そして朝顔の底知れぬ藍色の井戸。さらには磁器の染付の色。宝石ではサファイヤばかりではない、ブラック・オパールやラピスラズリに潜む青金色も、あるときは謎の手紙のように胸ときめかす一条の光を投げて寄越す。それらの傍えにいるとき、心はつねに和み、また理由もなく騒立った。その優しい誘いがまったく同時に憧れと苛立ちとを唆る理由について知りたいというのが志乃の願いだったが、それはもともと適えられる筈もない、心理に譬えていえば深層生理[#「生理」に傍点]の問題であった。そしていま鷹見三郎がそのすべてを統べる青の|変化《へんげ》者として、青い鞭を手に現われたというならば。  もっとも、瞳の中に一顆の宝石を見るというのは、これが初めての経験ではないことに志乃は気づいていた。敗戦直後に、志乃の住む街にも多くの米兵が来たとき教えられたことだが、さすがに婦女子は顔に鍋墨を塗って|濫《みだ》りに近寄らざることなどという布告は、もう誰の念頭にもなかったにしろ、初めのうち彼らはオフリミッツの禁制も無視して酒と女を漁る大男という印象しか与えなかった。それが一夜、強制疎開させられた駅前の広場に一人の若いGIが椅子を持ち出し、腰をおろしてギターの弾き語りをしている。酔っているらしくシャツ一枚の胸をはだけ、郷愁に堪えかねたように唄う曲の数々を、人びとはむしろ呆気にとられ、遠巻きにして聴いていた。乱れた金髪と哀しい声に魅かれ、志乃もまたいつまでも佇んでいた一人である。一曲終るごとにハワユ、ドーデスカと周りを見廻すが、固くなった日本人は誰も拍手ひとつ送ろうとしない。だが小さな男の子が、ためらいなくハローと声をかけたときのGIの喜びようといってはなかった。その子の手を執らんばかりにして調子を替え、モシモシカメヨを弾き出したとき志乃は突然に悟った。この若い異国の兵士の瞳、その|奥処《おくが》にどれほどの優しさが充ちているかを——。  正確にいえば、臆せず彼らと向き合い、その美しい水いろの瞳の中に望郷という宝石を見たのは、おそらくそれよりだいぶ後のことだったであろう。だがその一夜を境に志乃は、それまで胸に抱いてきた紅毛碧眼という言葉の意味を変えた。碧眼の中にこそ紛れもない異国の風物がそのままに揺れ動いているのだから。彼らにつきまとうパンパン諸嬢を心に疎むことも止めた。彼女らもまた自分と同じ幻影を共有し、より間近く覗きこむために接しているのだろうから。  それにしても三十年前の古い記憶がこうして唐突に甦り、ひとつの瞳の中で合体するというのはいかにも奇異な体験だったが、志乃にとってそれほどの違和感はなかった。敗戦までの二十年間、わけても物心ついてから戦争ばかりしていた日本に住んでいたこと自体が奇妙といえば奇妙で、その闇の中で時間はまっとうに過ぎていった筈もない。いまさらあの戦争がどうで誰が何をしてなどと考え直す気にもなれないが、朝鮮戦争以降そのうちでも確かな指導者だった政治家や実業家がみごとな復活をとげたというなら、自分でも気づかぬうち闇の中の時間は再びあたりを包み、戦後もまた何ひとつ過ぎて行きはしなかったといえるのかも知れない。オキュパイド・ジャパン時代の初期はともかく、その後の占領者はまさしく|旧《ふる》い日本人そのものだったと思うと、志乃には心ばかりでなく肉体さえみずみずと老いないことを不審に思う気持もなかった。  鷹見とのつき合いは東京へ帰ってからも続けられた。勤めている薬品会社のほうは電話はちょっとまずいということで一方的な交流だったが、たまさかの逢いは存分に志乃を燃え立たせた。ただ矢島については二人ともしらじらしく触れようとせず、その存在は初めからなかったもののように蔵いこまれた。老眼気味で確かめもしなかったが、|MON《モン》 |LOUP《ルウ》(私の狼)などと彫らせてしまったサードニクスの指輪も同様であって、もともと安物の赤縞の石は、イメージの上からいってもとうに砕かれ終っている。  志乃は鷹見の生まれ月だけは訊くまいと思い定めていた。瞳の中に誕生石があると知ったからには、それはこれから九月になるというばかりでなく、ひとときの青の幻にもっともふさわしいサファイヤ以外に贈るべき石は考えられなかった。 [#ここから1字下げ] ——ただ黙って持っていてもらえばそれでいいんだから、そんなにお高い石でなくてもいいし。 [#ここで字下げ終わり]  ぼんやりそんなことを考えたり、いっそ二つ買って一つずつ持っていようかしらんなどと思うと、微笑は絶えず頬にのぼった。元はといえば御苑の池の畔りから起ったことである。ついに見ることのできなかった睡蓮の紅。かぐろい鯉の群れ。そしてそこに佇んでいた青の人は実は矢島などではなく、もともと鷹見がいるべきだったので、あるいはこれも時間を透視したための錯覚かも知れない。紅と青と黒でいうなら、矢島はその猛々しい裸身からいっても黒以外に考えられず、それはもう地底に鎮まるべき瞬時の擾乱と思う他にない。残された紅は、ひたすら青とは何かを問い続け、そしてついに答を見出すことだろう。  そのためのサファイヤは決して無駄な|費《つい》えではないと心を決め、志乃はすぐダイヤルを廻し始めたが、じきに気がついて受話器を置いた。宝石詐欺で捕まったという塚田夫人の番号を無意識に廻していたからである。だがその小さな過ちは奇妙に尾を引いて心に残った。  ………………………………………………  九月に入ると夫の塩沢はこれまでになく家で過すようになった。夏にまた支店が出来たようなことをいっていたが、それも順調に成績が伸びてきた安心感というより、七月の贋ならぬ贋のルビーの一件を志乃の寛大さだと勘違いして、俄かに見直す気になったものらしい。たぶん三人めの子供も三枝のお腹の中ですくすくと育っているのだろうと思うと、嫉妬の代りに擽ったさ・おかしさがこみあげてくるほどだった。  塩沢は中年を過ぎてからの美食家で、やたら形式張ったフランス料理を家庭でも並べさせたがったが、そんなものは倦きるほど贅沢に一流のレストランを連れ廻してくれたら作ってあげると突放して、まだ一度も手がけたことはない。おそらく三枝を仕込んで、ワインもボージョレはルイ・ジャドの七三年に限るなどとやってきたのが、いささか倦きがきたのだろうと、その夜も子持ち鰈の煮つけにハムとキャベツの煮込みという、いいかげんな手料理を並べながら、志乃は皮肉の気持もなしにいった。 「珍しいわね、あたくしのお料理をおいしそうに召上るなんて。もう一本、つけましょうか」 「そうやな、それより畳み鰯をもう少し焼いてくれんか、こんがりと」  それから少し照れたような口調になっていい出した。 「やはりな、心尽しという奴が一番さ。心尽しの贈り物には何かお返しをせんと」  ——やっぱりあのルビーを恩に着てるんだ。  ダイニングのガス台で手早く焙った畳み鰯を血に盛りながら、志乃はやんわりと切り返した。 「あら、だって贈り物もいろいろだわ。紅い贈り物に青い贈り物。あたくしならやっぱり青がいちばんですけどね」 「そうか、お前は昔から青い色が好きやったな」  ひとりでうなずく気配に、志乃はまた差向いに坐ると慌てていった。 「いいのよ、着物なんか買って下さらなくても。あたくしが自分で買ってツケだけそちらへ廻しますから」  それから少しからかう気になって、神妙につけ加えた。 「でもこのごろどうしてかしら、しみじみ青という色が|愛《かな》しく思えるの。青っていったい何なのかしらんと思って。齢のせいね、きっと」  愛しくはむろん哀しくとしか聞えない筈で、寄る年波の悲哀だと思わせておけばいい。紅い贈り物が実は黒い悪意の贈り物だったことなぞ永久に判りはしないのだから。だが少しいいすぎたように思ってそれなり話題を変えた。 「ねえ、今度出来た支店て|下北沢《しもきたざわ》だったかしら。あたくしもたまには奥さんらしく顔を出さなくちゃね。あなたのお仕事のこと、知らなすぎるんですもの」 「うん、まあ、それはいいよ」  夫は急にうろたえたようすで冷えた盃を干した。たぶん店には三枝という女が女房気取りで出入りしているためであろう。  ——ばかねえ、初めっから行く気なんかないわ。  志乃はまたうそ寒い気持になって茶碗を取り上げた。  ………………………………………………  すべては偶然に始まったと思い込んでいた誤りを教えられたのは、その一週間ほど後のことである。鷹見からはしばらく連絡のないまま、買い求めた一カラットに満たぬ小さなサファイヤは、そのまま手提げの中で空しい色を返していたが、一度不安になると例の指輪にしてもMON LOUPならぬMA LOUPEと彫られていたかも知れないと思われた。  その日、下北沢まで出たのは友人を訪ねるためで新しい支店のことなどその時は念頭になかった。だが|小田《おだ》|急《きゅう》線と|京王《けいおう》の|井《い》の|頭《かしら》線が交差するこの駅は区切られた四つの街並が入り交って、これまでもそうだったが思うところへ素直に行けたためしがない。まごまごしているうちに駅は遠ざかって小さな工場めいたところに出た。その看板に塩沢運送下北沢支店とあったのは、従ってまったくの偶然だが、向うからその塀添いに歩いてきて、連れ立って構内へ入って行った二人を見かけたのまで偶然だったのかどうか。紛れもなく二人は矢島と鷹見だったからである。  とどろく胸を抑えかねていた志乃は、入れ替りに門から出てきた作業服の男の許へ小走りに走り寄った。 「ちょっと御免なさい、あなた、塩沢運送の方?」  怪訝そうに肯くのに畳みかけて訊いた。 「いま入ってった二人連れ、ええ、門のところですれ違った若い二人よ。あの人たちも塩沢の店の人?」 「さあ」  男はふり向いて不審顔をしていたが、じきに答えた。 「ええ、一人はね。二、三日前に本社のほうから転勤になった、そう、矢島ってたっけかな。もう一人は知らないけど、何か?」 「いいえ、いいの。どうもありがとう」  背を向けて歩き出しながら志乃は、ようやくこの間の夫の、妙に口籠るような喋り方の意味を知った。矢島という青年そのものが、すでに七月ごろから因果を含められ、孤閨を慰めるべく偶然らしい出逢いを狙っていた�黒い贈り物�であり、確かとはいえないにしても鷹見もまたあるいは逆の�青い贈り物�だったとすれば。すべてはただの�お返し�にすぎなかったというなら。……  |MA《マ》 |LOUPE《ルウプ》。瑕物の宝石。  いま憎悪のルビーはいよいよ紅く彼方に輝き、愛情のすべてを託したサファイヤは手提げの中で青く冷えた。 [#改ページ]    無の時間  何かというと呼び出しをかけてきた姉の由良が、このところさっぱりと電話も寄越さなくなったことを、星川江梨は別段気にするでもなく家居する日が多くなっていた。正月に聞かされた宇田川女史の奇妙な御託宣は、いったい当ったのか当らなかったのか、どちらともいえない。由良もわざわざヨーロッパまで出かけたくらいだから、なにがしか収穫と呼ぶに足るものは得てきたのだろうが、その話となると言葉を濁し、むしろ沈痛な翳りさえ表情に窺われる。妹の志乃となるとなおさらで、暑い盛りに新宿御苑へ呼び出し、ルビーが本物だから口惜しいなどと訳の判らぬことをいっていたが、これもおそらく太刀の一振りは空を斬って、手ひどい肩透かしをくったせいであろう。一度その後の成行を知りたいと思って電話をしてみたが、珍しく夫の塩沢が出て、只今はちょっと北軽井沢の別荘に出かけておりますがという口上だった。いつの間に別荘など作ったのか知らないが、花火大会もあることだし、たまにはお出かけになりませんかという誘いを、江梨はこの上もなくしらじらしいものに聞いた。 「何なら別にホテルをお取りしますが」  という言草にも腹が立ち、誰が行ってやるものかとそのままにしたが、考えてみると三人師妹の中では、自分がいちばん貧乏|籤《くじ》を引いた気がする。今年のささやかな出来事にしてもそうで、もともとは六車という見知らぬ青年が|南《みなみ》|熱川《あたがわ》の別荘を勧めにきてから起ったことだった。まさかあれが宇田川女史のいうペルセウスのような美青年だと思いもしなかったが、それでも仄かな期待に似たものはあった。だが結局は渡しもならなかったアクアマリンの淡い水いろの石を傍らに、過去そのままの暗い押入れへ半身をさしこみ、古びたダミアのレコードを聴いていた自分を思い返すと、羞恥とも憤怒ともつかぬむず痒さが躯を走る気がする。   ………………   私の心は大洋よ   翔べよ翔べよわが夢想   ………………   私の心の大洋に   一羽の病んだ鳥が翔ぶ   ………………  唄ったのは嗄れ声のダミアではない、老婆に変じた自分である。歯欠け眼なしの妖婆グライアイのひとりである。そう断定してしまうことはさすがに堪えがたかったが、この十月、さらに翌年の十月、レイテ沖海戦の当日を迎えるたび、山下洋司の面影はいよいよ若く、ついには稚く輝き、自分の棲むべき場所は押入れの中にも似た�過去という名の洞窟�であることは間違いないらしい。 「先生ったら、このごろ何だかお元気がないみたい」  通いの弟子の一人にそういわれて、江梨は僅かに眼元を皺めた。  ぺーパークラフトの教室を始めて、もう二十年になるだろうか。むろん昔はこんな名称はなかったので、とある女性週刊誌が雑誌の名を冠せた講習会を開くことになり、千代紙細工の教室を受け持ってもらえないだろうかと話を持ち込んできたのが最初である。紙手芸というのも冴えないし姉様人形ではいっそう古めかしい。新しい紙の素材も出廻り出したころなので、外国の本から思いついてペーパークラフトにしてもらったのだが、相手はなかなか承知せず、ペーパーがつくとどうしたっておトイレを連想してしまうから、パピエ何とかにしていただけませんかと粘ったのが昨日のことのように思い返される。  いまは主に昼間が暇をもてあます夫人たち、夕方からは勤めを終えたお嬢さん連中に囲まれ、あるいは団地ごとの巡回教室という形で名前も知れ渡っているが、改まって元気がないといわれてみると、いかにも働きすぎかも知れないと思い、このまま本物のグライアイに変じてはたまらないという気が俄かにした。 「そうねえ、この夏もとうとうお休みしないままだったし」  江梨は何か鬱陶しいものでも見るように、八畳と六畳をつなげた教室の、広いテーブルの上に散乱する色とりどりの紙細工と、まだきょうは小人数ながら屈託のない娘たちの表情とを眺めた。 「それにね、十月になるとどうしても気が滅入ってくるのよ。ごぞんじないでしょうけれど十月二十五日がレイテ沖海戦の日で、あたしの大事なひとが戦死したもんだから」  何をいい出す、という気は自分でもした。胸奥に秘めてきたからこそ記憶は宝石となり得たものを、この頬の明るい、|項《うなじ》の白い乙女たちに話すことによって、いっぺんに|擲《なげう》つつもりなのか。  だがたちまち歓声をあげるほどな期待に釣られて、栗田艦隊のレイテ湾突入と突然の転進、それを成功させるために|囮《おとり》となった小沢艦隊の無残な敗走、そして航空母艦瑞鳳の最後という戦史のおさらいをしてみせ、ほんの少し仄めかすように、艦と運命を共にした無名の青年士官の話をつけ足した。 「うわあ、かっこいい」 「じゃ、その方が先生の恋人だったのね」 「ねえ、戦争中ってどうでしたの。デートだってむつかしかったんでしょう」  くちぐちに騒ぎ立てる戦後っ|娘《こ》たちへ、江梨は訓すようにいった。 「むろんですとも、腕を組んで歩いてても非国民だって本当に石をぶっつけられたぐらいなのよ。何が出来るもんですか。でも、戦争中の恋人なんて、みんなそんなものだったわ。手も触れずに眼と眼を見交すだけ」  図にのって喋りながら江梨は初めて自分の躯の中を充たしているものの正体を知った。羞恥でも憤怒でも、また悲哀でもない。老婆に変じる怖れでもない、それはちょうど砂時計の中の桃いろの砂が|迸《ほとばし》り落ちた跡のような�無の時間�であった。  ………………………………………………  しかし江梨の空しい思いとはうらはらに、�眼と眼を見交すだけの恋�という言葉は、ひとしきり教室ではやり、もてはやされもした。さらに古株の弟子たちが音頭取りとなって、先生を元気づける会までが結成されることになり、思わぬ人気に苦笑するしかない。 「そうよ、先生。少しお仕事のしすぎよ。そろそろ骨休みをお考えにならないといけませんわ」  親身らしくいい出したのは古株の一人の|本多《ほんだ》|可奈子《かなこ》であった。夫は鉄工関係の重役で、不況で首が廻らないといいながら苦にするようすもない。戦前ならば典型的な有閑マダムといわれただろうと思うと、どうでもいいと思う傍ら、戦後になっていつしか失われた古い言葉を拾い集めてみたい気もする。 「どこかに保養地をお作りになったら、どう? 別荘なんていうと御大層に聞えますけど、いまどき車夫馬丁だって持ってますわよ、先生」  ——車夫馬丁か。  江梨は心に笑った。人力車も馬車もあらかた姿を消したため、危うく差別語などといわれずに済んでいるのだろうが、これも失われた言葉のひとつに違いない。 「別荘ねえ」  思い入れのある調子になって、江梨は繰り返した。 「実はこの春にもずいぶん勧められたの、南熱川にいいところがあるって。でも東伊豆なんて地震が怖いから嫌だって断ったのに、いつまでもしつこくいわれて……」  しつこく来てくれたらどんなによかったろうという思いを籠めて遠い眼になったが、相手はもとより何だとも思わぬ顔で相槌をうった。 「そりゃあそうですわ、先生。私も昔から伊豆が好きで、|蓮台寺《れんだいじ》から河内、|下賀茂《しもがも》なんて温泉めぐりをよく致しましたけれど、いまはちょっとねえ。でしたら、どう? 軽井沢へんに二百坪ぐらいお持ちになったら。いえね、軽井沢といっても群馬県のほうですけれど、まだいい土地がございましてよ」 「まさか」  とはいったものの、笑い放してしまえぬ引っかかりがあった。 「群馬県て、あの、北軽井沢のほう?」 「ええ、群馬県|嬬恋《つまごい》村。いい名前でしょう、先生」  それから急に雄弁になって、地元の人が口を揃えていうけれども、軽井沢はどこでも秋がいちばん美しいので、ことにいまからの紅葉と青空の|邃《ふか》さ、|黄金《きん》の炎をあげるような落葉松がついに光の針をふり|零《こぼ》すまでを、何の受売りか滔々と説いてきかせた。 「それがね、先生」  相弟子のいない気安さで、いたずらっぽい眼つきになると、 「地元の不動産屋の青年にいまうるさく勧められてますの。それが三十過ぎって齢恰好ですけど、|鄙《ひな》には稀れな逸品てところ。ヌレエフってバレエダンサー、ごぞんじでしょ。そっくりな彫りの深い顔で、眼なんかキラキラしちゃって、どういう突然変異かしら。その子がね、もし土地を買ってくれるなら特別に大黒シメジの群生地と、それに松茸の採れるところも内緒で教えてくれるって。シメジはともかく、私、松茸ときたら眼がなくて……」 「呆れた」  短く口の中で呟いたが、自分でさえ行きずりのセールスマンにあれほど心を傾けたものを、一回りも齢の若いこの夫人が、ヌレエフ紛いの美男子にやきもきする図は、むしろほほえましいぐらいのことかも知れない。 「ねえ先生、こんどの土曜日に御一緒しませんこと? 主人は忙しくて別荘どころじゃないと申しますけど、このごろはもう呆れて勝手にしろですって。私、どうしてもその不動産屋、先生にお眼にかけたくって」  これでは何のための誘いか判らないが、江梨はひそかにその北軽井沢とやらに土地を持つのも悪くはないと考え始めていた。地価は知らないが頭金ぐらいの用意は充分にある。志乃への当てつけというつもりもあったし、本多夫人が熱っぽく語って聞かせる男についても若干の興味が湧いた。同じ不動産のセールスといっても、捉える間もなく手の内を滑りぬけたような六車多計志と違って、いくぶん骨太な、土の匂いのするような頑丈さだけは持っているに違いない。  ——ヌレエフねえ。  何かのグラビアで見たぐらいのことだが、亡命したこの舞踏家がヨーロッパではニジンスキーの再来と謳われ、日本にも以前に一度来たというぐらいの知識はあった。 「そうね、見るだけでいいんだったら、お伴してもいいわ」  せいぜい気のないようすで答えながら江梨は、久しぶりの旅行なんだからたまには若造りにしなくちゃと考え、衣裳箪笥の中の洋服のあれこれを思い浮かべていた。  ………………………………………………  約束した日の午後、数か月前に志乃が同じところに降り立ったとつゆ[#「つゆ」に傍点]知らぬ江梨は、万座鹿沢口という終点の駅で本多夫人から、問題の不動産屋に紹介された。三十歳を僅かに過ぎた思慮深い顔立ちで、骨太の頑丈なという予想はみごとに外れ、ヌレエフは大げさにしても磨きぬかれた容姿は、かりに制服を着せるとしたら海軍の青年将校あたりがふさわしい。ただしすでにそれは山下洋司とは何の関わりもない、大人びた、別種の肖像であった。  こちらが全国にお弟子を持っていらっしゃる、日本一偉い先生という夫人の紹介をうるさく聞きながら、しかし江梨は、何とか高原観光KK|水谷《みずたに》|良治《りょうじ》という名刺にちょっと眼をくれたなり、何の表情も見せなかった。この三月、自分がひそかにアクアマリンの一顆を買ったことを、六車多計志はついに知らぬまま過ぎたわけだが、いま十月、この青年のためにオパールを買うことは決してないだろうという思いがどこかに湧き、そう考えること自体の滑稽さも惨めさもすでに江梨からは遠かった。車に向いながら夫人がすばやく、どう印象はと眼顔で問いかけたのにも軽く肯き返しただけで、水のようといっても心は冷えているので平静というのでもない、何かをくぐりぬけた別天地に来てしまったことだけが意識の底にあった。  それは|中之条《なかのじょう》から長野原と多くの隧道を通りぬけてこの高原に着いたせいだったかも知れない。紅葉はあと十日ほどして急速に山と渓を埋め尽すということで見られず、花もたぶん野紺菊と|御山《おやま》|龍胆《りんどう》のほか何もないでしょうという寂しい季節だったが、とにかくそこは底抜けに明るかった。一点の雲も留めない快晴で、蒼穹の天蓋だけが無限に深い。落葉松の黄葉を透かすときだけその深さは実感となった。初めて北側から見る浅間は|突兀《とっこつ》と尖り、一条の白い噴煙が光る蛇のようにたなびく。 「ねえ、ちょっと、あれ大丈夫なのかしら」  車の中で、江梨は不安な口調で囁いた。 「大丈夫って?」 「噴火よ。あれが大爆発したら、ここいらひとたまりもないんじゃない」  名刺を取り出して窓外に向け、事務所の住所に嬬恋村|鎌原《かんばら》とあるのを読み取ると慌ててつけたした。 「そうだわ、ホラ、天明の大噴火でいちばん被害が大きかったのが確かここいらよ。何でも神社の石段が百段から埋まったって」 「いやだ先生、こんどは地震じゃなくて噴火の心配? そんなこといったら日本国中どこにも住めないじゃございませんの」  夫人はこともなく笑い放したが、水谷はまっすぐ背を向けたまま、おちついた声で遮った。 「大丈夫でございます、先生。火山の爆発は前触れもなくいきなりということはありませんので、天明の噴火にしても四月から鳴動し始めたんです。それが七月に入ってひどくなって、でも大爆発までは一週間かかっております。いまは測候も予知も昔とは比較になりませんし、第一このところずっと安定していますので御心配には及びません。埋もれた神社の石段はこの下にございますが、御覧になりますか」 「いいえ、それはいいわ」  小さく答えながら江梨はまた青い影になってそそり立つ浅間山を窓から窺った。  これは著名な別荘地のある側からいえば、いわば裏浅間であろう。その頂上を長野県と群馬県の境界線が走っていることは今度の旅で初めて知ったのだが、同様に自分もいつか何物かの裏側へ来てしまったのかも知れない。あるいは二度と愛する者の面影も|顕《た》つことはなく、深い瞳の肯きも、声にならぬ唇の囁きも見ることの|適《かな》わぬ世界。ただしそれは徒らな老いに溺れるのでも、愛に背かれるということでもない、ひたすらな�寂�の境地。ちょうどいま水谷という青年が背中だけを向け続けているように。  本多夫人は前に何度か来たという、その売地を見せられたときも江梨は、そこここに蔓を伸ばしている唐花草という名の、白緑いろのホップに似た花を眺めてばかりいた。事務所に戻ると早速契約の話になったが、これもパンフレットをもらうだけに留めた。ローンにすれば百坪の土地に小さい山小屋を建てるのはそれほど重荷でもなく、さまざまな設計図を見ているだけで心は弾むものの、この澄明な高原の秋が寂の境地への第一歩と知ったいま、三割以上の頭金をいつまで、二分の一に達したとき所有権を移転、但し完済まで抵当権を設定するというたぐいの交渉はひどく煩わしく、手をつける気にはならなかった。  その夜、二人は|新鹿沢《しんかざわ》の温泉に泊った。待望の三百坪を手に入れた夫人は、あすの朝は水谷の案内でシメジ採りという嬉しさもあってひどくはしゃいでいたが、江梨にはまだ、きょう初めて見えてきたもう一つの世界のイメージがまつわりつき、容貌は衰えぬままとしても中年と初老との間に横たわるものをしみじみ眺める気持になっていた。 「あなた、あの人がそんなに気に入っているんなら」  少しばかりの酒に紅潮した相手の頬を、美しいというのでもない|疎《うと》ましいとも違う眼で眺めながら、江梨は優しくいいかけた。 「きょうの記念に小さなネクタイピンでも買ってあげたら? そう、むろん石は十月のオパールがいいわ。それもあの乳白色のメキシコものは駄目。オーストラリアの思いきって青味の強いブラックオパールで、少しどぎついぐらいのほうが似合うかも知れなくてよ」 「まあ、先生」  夫人は手を|拍《う》つようにして笑顔を寄せた。 「何てすてきな思いつきなんでしょう。ブラックオパールね。あの青や緑や赤が寄り合って、カレイドスコープのようにめまぐるしく色変りして。そうですわ、あの人にはきっとそんな暗く輝くものだけが似合う筈ですわ、先生」  江梨はただ冷たく笑った。この先、二度と宝石に手を触れることのない自分を思うと、やれやれと呟くような気になり、バッグから水谷の名刺と老眼鏡を取り出し、改めて仔細らしく眺めた。 [#改ページ]    盗まれた夜  紅葉もあらかたが散り、|石蕗《つわぶき》の黄もようやくすがれ始めた庭には、水仙の芽立ちばかりがみずみずしく青い。揺り椅子に身を凭せながら間もない師走を思うと由良は、一年という歳月を晩秋にも似た自分のいまに引き較べずにいられなかった。念仏を唱えるように�寂滅為楽�と呟いてみると、またいつもの影が傍らを掠めるように思える。四十歳を過ぎるころから由良は、人生の折目折目にこの何者とも知れぬ影のような人物が佇み、行き過ぎようとする自分に紙片めいたものを渡す気がし始めていた。もともとその人物も淡く朧ろで実体はなく、渡されるのも紙片かどうか疑わしい。読み取れるほどの文字が記してあるわけではないそれが、もし何かの切符のたぐいだというなら、それはたぶん老いへの入場券か通行許可証にすぎないだろう。それでいて五十歳を過ぎ、すでに六十代を迎えたいま、影の佇立者はいよいよ実在のいろが濃くなって、その数も次第に殖えてくるように思えた。これが死後というなら——すでに自分が死んだ後というなら、|奪衣婆《だつえば》もカロンの渡し守もいて不思議はない。それを、まだ生きているうちから黙って側に立ち、確実に何かを手渡すというのが無気味である。しかもそれはとっさには判らず、しばらく行き過ぎてから、ああまたと気づくのが|習慣《ならわし》であった。由良は、現実の街角や駅前でビラなどを渡されようとすると、これまでになく強く手をふって拒むようになった。  それもこれも老いの岬に立って、終末の修羅がどうにか見渡せる地点に来たせいであろう。大正五年に生まれたといっても、はっきり物心がついて育ったのは、昭和という何者かの牙が剥き出しの時代だった。大体が一九一二年から二六年までという大正生まれは、初めから数が少ないうえ、戦争にはほどよく間に合って消耗品となり、心細い小集団になっている。頭を抑えられて育ったせいで奔放さにも乏しく、明治女といえば心意気とつけられるが、大正女といってみても何のイメージも浮かばぬうちただの老媼となって、あとどれほどの楽しみが残されているとも思えない。手渡されるものが何なのかは判然としないが、ただそれを繰り返すうち自分の中に重苦しく貯ってくるものは由良も覚えがあった。それは奇妙なまでに情景化された記憶で、場末の小屋で見る活動写真がひどく擦り切れて雨が降っていたように、過去も同じく白黒はおぼろでありながら映像を伴わずにはいない。たとえば|飛鳥《あすか》|山《やま》や|村山《むらやま》の貯水池へ遠足に行ったとき見た光景はただその再現ではなく、それを見ている自分を小さくつけ加えて瞼の裏に甦るのが不思議だった。  引越し好きだった父のせいで、子供のころは|田端《たばた》から|目白《めじろ》、それから渋谷の奥と、当時の郊外ばかりを選んで借家住まいが続き、雨の日は高下駄なしでは歩けないぬかるみの道がいまでも眼に浮かぶけれども、たとえば|谷崎《たにざき》|潤一郎《じゅんいちろう》が大正七年に書いた『金と銀』という小説を読んだ時など、あ、と声をあげたいほど、子供のころの情景がありありと迫った。それは、 [#ここから1字下げ] �動坂の終点まで行く筈であつた青野は根津の停留場へ来ると、なぜか慌てて車掌台の方から電車を飛び降りてしまつた。� [#ここで字下げ終わり]  という書き出しで、これは夏外套を借りて質に入れてしまった友人の姿を見かけたせいだが、それにも懲りず青野は、田端に住む画家仲間を訪ねて牛鍋を御馳走になってやろう、あわよくば金を借りてやろうと思いながら足を早め�動坂を右へ曲って、閑静な郊外の町へ�入って行く。 [#ここから1字下げ] �其の辺には、一体にかなめの生垣を|繞《めぐ》らした、気楽さうな、小綺麗な住宅が並んで居た。茶の湯の師匠でも住まひさうな、庵室めいた風雅な|普請《ふしん》だの、市内の豪商の別邸ででもありさうな、広々とした庭を囲んだ、奥床しい板塀の構へなどが、ところ/″\に入り交つて、油のやうに光つて居る緑樹の新芽と其の鮮かさを争ふやうに、新築の家の木の香を漂はせて居た。� [#ここで字下げ終わり]  この訪ねる先の友人というのは、おそらく坂の上に住んでいて、由良も何度か見かけたことのある|芥川《あくたがわ》|龍之介《りゅうのすけ》をモデルにしたものだったのであろう。そうして大正も半ばごろの田端は、いかにも文人村らしいおちつきを持っていたに違いない。晴れてさえいれば由良の記憶もそのとおりで、春秋の彼岸には無花果の葉越しに聞える与楽寺の鐘の音が睡気を誘うほどだったし、|潺湲《せんかん》と音を立てる谷田川の流れも眼の底に残っている。卵アリ升という貼り紙。そして縮緬の帯を胸高に締め、メリンスの長袂をもてあましていた自分の姿までが、入口のドアもまだなかった朱色の市電と一緒に浮かんでくる。 [#ここから1字下げ] ——つまりはこの記憶の重たさが人間に齢を取らせるんだろうね。 [#ここで字下げ終わり]  由良はひとり肯くように心に思った。  大震災のときはこれという被害も受けなかったのだが、火の見櫓から迫る|擂半《すりばん》の音はいまも耳に在るほどで、下町が近くて危いというだけの理由で父は目白へ越した。おびただしい雑木林に囲まれた、それこそ郊外の一軒家という風情だった。  小学校だけは転々としないで済んだが、囲炉裏を切った小使室も、そこにかかっていた紫の大薬罐も、それから小使が触れて歩く真鍮の鐘も、すべて戦争前までの色であり音であった。原っぱもなければ安心して遊べる路地もないいま、ジャンケンの仕方だって変るのは当然で、パアをパ・イ・ナ・ツ・プ・ルなどといって飛び出したら、まず間違いなく小型車ぐらいには衝突するだろう。スーパーの階段を登り降りしながら同じ遊びをしているのが痛ましい。もっとも、グウをグリコ、チョキをチョコレートなどといい始めたのは、由良などよりはるか齢下の子供たちの発明だったが。  遠足のお弁当は竹の皮包みのお握りと決まっていたが、外側の茶いろの|毳《けば》、内側の白く滑らかな繊維に滲む梅干の赤から次第に贅沢になって、厚手な卵焼きやサンドイッチまで持ってゆけるようになったのはいつごろからであろう。小さな籐のバスケットは魔法の箱で、時に思わぬヌガーや氷砂糖などが入っていることもあったが、金貨の形をしたチョコレートなどは�いいおうち�の友達から頒けてもらうしかなかった。ジャミパン、三色パンと数えてくると、|餡《あん》パンに芥子胡麻をつけるという偉大な発明が誰のものでいつからのことか、ぜひにも知りたい気持がする。 [#ここから1字下げ] ——いつだって貧しかったし、いつでもお行儀のことばかりいわれていた。 [#ここで字下げ終わり]  そう思い返すと、せめて家が貧乏学者でなければ大正生まれといってもこうまで負目を|背負《しょ》うことはなかったのにと由良は思った。目白の次は坂の入り組んだ渋谷の奥に越したのだが、周りは高い板塀や|建仁寺《けんにんじ》|垣《がき》をめぐらしたお邸ふうの家が多かった。しかし気位の高い母は、どれもこれも成金商人ばかりだと近所づきあいを避け、由良にも往来を禁じた。ピアノを羨しがると軟弱だと叱り、士族の娘はお琴を覚えれば沢山ですと眼を吊り上げた。学用品にしても|倹約《しまつ》に倹約を重ね、薄いノートの粗い手触りはいまも指先に残っているほどである。正月の会合で志乃が二十四色のクレヨンのことをいっていたが、むろんそんなものは手にした覚えもなく、さてようやく学齢期の子供たちに買ってやろうとすると、戦争はあっさり一本の色鉛筆さえ奪った。谷崎の小説でいう金と銀は、画家それぞれの天賦の才についての言葉だが、こう辿ってくると自分の一生にもっとも欠けていたのは、この�金と銀�のもたらす煌きだという気がする。そこまで考えた由良は、また独りで顔をあからめた。ことしの外国旅行が与えてくれたのは、楽しさばかりではなく、ほとんどその煌きにさえ似た深い恥もあったことを思い出したからである。  ………………………………………………  幻の兄を求めて、あてもなくヨーロッパ三界まで出かけて行ったのは、いまからすれば大変な冒険だったに違いないが、元はといえば宇田川女史に|唆《そその》かされたのでも、それから�あの人�の差し金でもなかった。よくよく考え直してみると三男の広志がすっかりお膳立てをし、兄弟で打合せをして、容易なことでは腰をあげそうにない母親への親孝行のつもりで引張り出したというのが真相ではないのか? ともに帰国してからも何もいわず、問いつめたわけでもないが、塚田多鶴子とも口裏を合せれば、架空の�あの人�を創り上げるぐらいはたやすい。何しろ兄の行方不明は星川家の三姉妹にとっては一つ話といっていいくらい、小さいときから広志にも大戦秘話としてさんざん聞かせてきたのだから。ただ、かりにそうだとしても、あのピノキオ青年同様に欺され放しになっていたほうが倖せなのか、そこのところが由良にはまだちょっと納得がいきかねた。兄までだしにしなくてもと思う傍ら、そうでもしなければとても思いきって出かけはしなかったし、ピノキオこと江崎卓也とともにいた時間は、これまでになく光に充ちていたこともまた確かであった。  その卓也の消息も、あれぎり尋ねたことはない。しかし、あの彼が宇田川夫人の御託宣になぞらえたペルセウスだとするなら、こちらはやはりグライアイの一人で、一つの眼・一つの歯しか持たぬおぞましい存在になるほかはなく、記憶はたちまち楽しさと惨めさとの二重映しになるのが常だった。 [#ここから1字下げ] ——楽しさというならまずあれだね。何といっても食事のほかにないだろうね。 [#ここで字下げ終わり]  由良はせめてもの思い出に縋るように呟く。オランダではあいにく�四つの梁�も�五匹の蝿�も、料理はさほどに思えなかったが、それはもっぱら戦争中に喰べ倦きたじゃが芋が多かったせいで、ベルギーとフランスでは名もないような河岸のレストランでも、料理そのものには存分に酔うことができた。ふんわり軽い仔牛の|喉《のど》肉のフリカセ。香料の利いた鴨のパテとオレンジ。鶏レバーをこってり浸すオマールのソース。苺とすぐりをふんだんに使ったデセール。あるときは卓也が慣れた口調で頼み、あるときはソムリエ任せにしたワインとともに、それらは由良にとって眩ゆいほどの饗宴に違いなかったが、その場合の記憶はすぐ彼を酒壜や卓上の花の向うに小さく押しこめてしまう。尖った鼻も光る巻毛も鮮明な像を結ばない。 「フランス料理にフルコースって言葉はないんですよ。だって彼らは昼も夜も、いつだってフルコースしか喰べないんですから」  そんなことをいって笑っていた表情もふいに遠く思えてくるとき、由良はようやくその理由を知った。金と銀とに煌く恥は、旅にまつわるさまざまな宝石からもなおいっそう閃光のように襲いかかり、その記憶のいっさいが却って疎ましいせいであった。アントワープやアムストーンのダイヤモンドセンター、マダム・エメロードなどと得意がっていた塚田多鶴子、そして苔いろのセーヌにひととき浮かんで見えた真珠さえ、いまは何という離れた存在であろう。宇田川女史の予言に惑わされたのではない。それこそもっとも自分自身に欠けているものだと知るとき、すでにいっさいは明白であった。 [#ここから1字下げ] ——それはそう。もともと大正女ぐらい宝石の似合ない種族もないだろうし、何しろわたしたちはまだあの病気に罹ったなりでいるんだからね。 [#ここで字下げ終わり]  由良はそう自嘲した。  こちらが日本主義を鼓吹する学者、相手は裕福な家柄ながら陸大出の武骨な軍人、そして結婚が二・二六事件を|閲《けみ》した春という時勢で、西洋風な婚約指輪などもってのほかだったし、ダイヤというだけでユダヤ人の陰謀と罵るような家風にも疑いを挟んだことはない。ひたすら身を縮めるようにしてハイこのとおり到らぬわたし|奴《め》も軍国日本に一身を捧げ、悠久の大義に生きる覚悟でおります、皆様と同じ病気にやっと罹ることができましたと本気で考えていたというのに、年長者たちはこともなく、いやなにアレは罹ったふりをしてみせただけさ、その証拠にホレこのとおりと皮膚を洗い落すと、いかにも何の痕跡も残さず白い肌が現われ、あっと驚いてからもう三十年あまりが経つ。|皸《ひび》、|皹《あかぎれ》のたぐいなら時間が経てば癒りもしようが、この病気ばかりは皮膚に喰いこんで離れぬ業病として、いまはおそらく大正生まれだけが持ち続けている特殊な症例だとすれば、その醜い肌の持主に、いったいどんな宝石が似合うというのだろう。  正月に妹たちを呼び集めて宇田川女史の御託宣を聞かせたのは、あまりにも突拍子もない内容で、いまさら美青年も宝石も無縁だと決めこんだ上での笑い話のつもりだったが、心のどこかには微かな期待もあった。内緒で誕生石を一つずつ買っていたのもそのためだが、いまは俄かの円高不況に加えて気持もそれどころではなくなっている。まだ何も聞いていないが妹たちも事情は同じであろう。 [#ここから1字下げ]  ——だけど宇田川さんは、何だってあんなことをいい出したんだろうねえ。 [#ここで字下げ終わり]  思いはまたそこへ帰った。自分よりは遥かに若いが、同じ大正生まれの女史は昔風の餅肌に金|縁《ぶち》の眼鏡をかけた、男にはいいだろうが同性にとってはあまり人好きのする顔立ちではない。ただ占いだけは滅法当るという評判で信者も多く、これまでは由良も何かと寄進についてきたのだが、今年のように中途半端な結果も珍しい。何がいけなかったのか、報告がてら一度行って確かめてこなくちゃと思う傍ら、子供もなければ結婚したようすもない女史自身の私生活を何とか窺い知りたい気もした。いずれその背後には時間の深淵に似たものが截り立ってい、自分がこれまでそうしてきたように思い棄てたものいっさいが投げ入れられ、尾を曳く悲鳴も痛恨もいまは次第に鎮まりかけているような暗い海につながっていることだろう。 [#ここから1字下げ] ——宝石ばかりじゃない、事の|次手《ついで》に身にそぐわないものいっさいをもっとどんどん投げ棄てて、いっそのこと自分自身まで投じてしまったら、どんなにさばさばするこったろう。 [#ここで字下げ終わり]  揺り椅子の上で由良の思いは次第に沈み、庭の面もようやく暗さを増した。 [#ここから1字下げ] ——まだ何かある筈だ。わたしの身につかぬ金と銀に似た何かが。そういえば十一月の石って何だったっけ。 [#ここで字下げ終わり]  眼をつぶるたまゆらにその石は瞼の裏に|顕《た》って黄の雫をしたたらせた。 [#ここから1字下げ] ——おや、そう。トパーズだったのね。黄水晶でなけりゃお前さんも悪くはないけれど、どっちにしろわたしにはもう関係のないことさ。何だって? [#ここで字下げ終わり]  黄の雫はなおも誘うように揺れ、それは次第にある形を取った。同時に由良は宝石よりなお自分に似つかわしくないものがあることを思い出していた。それはいまでも鏡台の|抽斗《ひきだし》かどこかに蔵われたままになっている筈の、小さな香水壜であった。  ——おやおや、大変なものを忘れていたよ。  由良は笑いながら立って化粧室へ行き、容易にその金いろの液を湛えた容器をみつけて揺り椅子に戻った。ヴォル・ド・ニュイ。夜間飛行という名のそれは古くから人気のある香水で、この間の旅行にもひそかに携えた一壜である。しかし栓を緩めて、ほんの僅か左手の甲にすりこむが早いか、金の香はたちまち立って胸苦しいまでになった。遠い思い出のためではない、いまのいま忘れよう思い棄てようと定めた宝石と美青年との二つながらが、かつてない妖しい誘いとなって香りの中に現われたからである。  それは交々にさゆらぎ、微笑し、遠退くかと見えては大写しとなり、由良は堪えかねて左手を押しやるように離したが、またすぐ引き寄せて鼻を埋めた。香りは星屑のようにまたたき、その夜のその沼の畔りでなら、いつまでも裸身の少女でいられるような気さえする。  何か他のことを考えなければ、というけんめいの思いが招き寄せたのは、何で読んだのか、誰の言葉だかは忘れたが、ヴォル・ド・ニュイのヴォルには飛行の他に盗みという意味もあるので、必ずしも夜間飛行とは限らないという奇妙な解釈であった。  盗まれた夜。  だがいま煌く金と銀との星空の下、無心に遊ぶ少女こそが本当の自分——どんな美青年とも愛を語らい、どんな宝石も髪に飾って映るもう一人の自分だというなら、ここにいる老女こそすべての輝かしい夜を奪われた残骸ではないのか?  由良は夢想から醒めた。立って窓を明けると、栓をしないままの香水壜をいきなり庭に抛った。薄暗の中に押し黙って咲く石蕗の|葉叢《はむら》にそれは沈んだ。 [#改ページ]    絶滅鳥の宴  志乃はいつもながらの|擽《くすぐ》ったい気持で、食卓の向うの夫を見つめていた。九月ごろからそれが当り前のように、また当り前には違いないのだが、夕方きちんと家に帰って食事を|倶《とも》にするようになったことが、やはりまだ幾分か奇妙な気がしてならない。何しろここ十年近く、夫は三枝という女のところに入り浸りで、家庭などとうに崩壊した気でいた。離婚だけは絶対にしてやらないと決めたのも、べつに意地や張りの問題ではない、銀婚式を過ぎて何をいまさらというほどの気持からである。それが、この七月の�本物のルビー�事件から、どうやら風向きが変ってきたらしい。これもいまさらという気はするものの、故障していた暖房装置がまた不意に動き出して、柔らかな温風に包まれているような感じは、それなりに棄てがたいものであった。とはいっても、秘かに�青い贈り物�を差し向けて寄越すほどの塩沢のことだから、おなかでは何を考えているのか油断はならない。いつかはしっぺ返しをしてやらなくちゃというように、志乃はうつむいて箸を動かしている夫の、すっかり白くなった|小鬢《こびん》を改めて眺めた。  きょうの献立は、酒の肴は別に、蟹と白菜のクリーム煮と|鰤《ぶり》の照り焼き、それに|菠薐《ほうれん》草の胡麻和え、香の物は十二月らしく浅漬けというありきたりの取り合せだが、それでもそこには五十代の半ばを過ぎて、歯もあまり丈夫ではない夫への心遣いがあった。齢なりにそれが嬉しいのであろう、湯気に顔を埋めながらしきりに味のほどよさをいうのに、志乃は含み笑いをしながら話しかけた。 「覚えていらっしゃるかしら、結婚する前に、うちのアパートで、配給のメリケン粉を生で喰べたことがあったでしょう」 「メリケン粉を、生で?」  塩沢は|鸚鵡《おうむ》返しにいったが、すぐ、 「うん、うん、うん」  と何度も肯いた。 「おれの下宿が|吉祥寺《きちじょうじ》だもんで郡部扱いされて、そっちは駅ひとつ離れているだけなのに東京いうことで、放出物資の罐詰やら何やら配給があって……」  いかにもそれは不公平な扱いだったが、郡部は自給自足が出来る建前なので、戦後すぐのころは配給でも三十五区内とはいちじるしい差があった。星川家も離散して、志乃は|西荻窪《にしおぎくぼ》にアパート住いしながら勤めに出ていたのだが、知り合ったばかりの塩沢は復員したての学生で、京都からいきなり区内に転入できぬまま吉祥寺にいた。何かというと遊びに来たのは、人恋しさもむろんだが、外食券食堂ではまずお眼にかかれないアメリカの放出物資も魅力だったに相違ない。  そんなある日、これまで見たこともない純白に精製されたメリケン粉が四日分ほど配給になったことがある。それは|生絹《すずし》か|繻子《しゅす》にも似た手触りで、煤黒くぼそぼそしたうどん粉とは較べ物にならぬ高級品であった。 「ね、この真白いお粉ねえ、ただ水で溶いてお塩入れて、生でたべるとおいしいわよ」  志乃がそういうと塩沢は眼を丸くし、兵隊帰りだけに妙に中途半端な京都弁でいった。 「そやけどおなかに悪いことないの、生で喰うたら」 「そんなこと。あたくし、もう何遍もたべたわ。待ってらっしゃい」  狭い台所でごそごそやっていたが、 「ホラ」  丼いっぱいに白いのを練り上げて持ってくると、匙ですくってみせた。塩沢はきび[#「きび」に傍点]悪そうに少し舐めてみたが、意外に甘味があって、つきたての餅のような感じがする。 「ふうん、こらおいしいな」 「でしょう」  志乃は自分でも一と匙しゃぶって、また匙を渡した。そんなにして二人は交りばんこに丼いっぱいのメリケン粉を綺麗に舐めてしまった。 「ほんまにお腹こわさへんやろか」 「知らないわよ、そんな、たべちまってから」 「ふつうのうどん粉はあかんの」 「ううん、おんなじよ。でもそりゃお味が違うわね。これだとほんとにお餅みたい」 「これな、お酒燃やして焼いたら、あんじょういくいうて聞いたことある」  そのころまで酒を嗜まなかった塩沢は平気でそんなことをいったが、志乃はすぐ遮った。 「勿体ないじゃないの、そんな。でも、もうじきお酒の配給があるわ。売れるといいんだけど」 「売れるやろ、酒なら」 「ううん、駄目なの。いまはすぐ腐っちゃうでしょう。酒屋でうんとこさ水入れるんですもの。前は合成酒でも一合二十円からで買ったけれど」  戦争前は思いもよらぬ世話じみたことをいうと、志乃は溜息をついた。 「油があるとね、何でもおいしく作れるんだけど」 「油いうたら、いま時分なんぼや」 「そこで売ってるの、二十三円、一合」 「二十三円やて」  財布に十円札の納っていることも珍しい二人には、天ぷらや焼餅は当分望みもない。 「生がええわ、手がかからんで。なあ、もうちょっと作ってくれへん?」  ……………………………………………… 「よくまあ詳しく覚えてるなあ、そんな昔のこと」 「そりゃあ覚えてますわ」  志乃は澄まして答えた。夫も本当は忘れている筈はない。その夜、二人はごく自然に結ばれたからである。停電ばかり多かった時代だが、蝋燭の芯が音を立てて燃える感じに似た貧しい青春は、それでもめったなことで吹き消されはしないという昂ぶりも伴なっていた。事実、ほどなく大学を出て結婚するとともにたった一人の運送業を始めてからの塩沢は、京の優男という印象からはおよそかけ離れた逞しさで志乃をおどろかせた。  食卓を立って丁寧にお茶を淹れると、名前が通い合うのでとりわけ好きな鼠志野の茶碗を手に、志乃はまたゆったりと坐り直した。 「男はどうか知りませんけど、大正の女ってもう記憶だけが生き甲斐って気がするの。いいえ、過去を懐かしむなんてことじゃなく、記憶の中で二重に生きるってこと。……そうすれば未来も全部記憶の中から引き出してこれるんですもの」  何をいいたいのか測りかねた塩沢は、それでもまだ上機嫌にいった。 「えらくまた難しいことをいい出したな」 「べつに難しいことでもないわ。男の人は仕事があるから、いやでも現在から未来のことしか考えられないでしょうけれど、あたくしのような立場の女ができることといったら、過去を忠実に再現してその中にきちんとした法則があるのを見つけることしかないって、いくらあなたでもお判りになるでしょう。そう、それができたら、あたくし、りっぱな占い師になれるわ。いいえ、このごろ本当に女占い師になろうかと思っているくらい……」  次第に渋い顔になって、手持ち無沙汰な夫へ、急須から茶を注いで押してやると、志乃は続けていった。 「宇田川さんて名前、覚えてらっしゃるでしょう。外れたためしがないって占いをなさる方。あなたと別れて、あの方のところに弟子入りしようかって、今年はずいぶん本気で考えたくらい。だって……」  それから急に凄艶な眼になって相手を見澄ますと、自分でもいうつもりのなかったことを口にした。 「そうそう、この夏はいろいろと御配慮いただいたようで、どうもありがとう。そういえば昔あなたに田所さんの写真を見せて戦争中の|惚気《のろけ》をいったことがあったの、忘れてたわ。でもね、あなたの�青い贈り物�より先に、宇田川さんはこのお正月にもうちゃんと予言なさっていらしたの。今年はペルセウスのような美青年が現われて、あたくしを慰めてくれるだろうって。どう? 凄い読みでしょう。姉たちも一緒に聞いて知ってますけど、ただそのためにはぜひとも魔除けの宝石が必要だといわれてたから、次手にあのルビーを探したの。次手でも結構いい石だったでしょう」  黙りこくった夫が眼ばかり光らせているのは、おそらく憤怒のせいだろうが、志乃はもう何もかもいってしまう気でいた。 「大丈夫よ、あたくしから別れ話を持ち出したって、大正生まれの女は慰藉料なんて字、書けもしないくらいですから。むろん一応はきちんとしたことはしていただくつもりですけれどもね。それより、あたくしまだその魔除けの石って買ってないの。何かのお|咒《まじな》いに、本当に青い贈り物を下さらないかしら。サファイヤはちょっと気の毒だし、十二月ですからトルコ石っていいたいところだけど、それじゃ安っぽすぎるし、そう、あの群青いろのラピスラズリがいいわ。前にもいいましたけど、このごろ青って色が|愛《かな》しくてならないんですもの」  夫はふいに立上っていた。同時に右手がすばやく伸びて志乃の頬は小気味のいい音を立てて鳴ったが、実際は軽やかな|疾風《はやて》が吹き過ぎたほどの感触だった。 「おれはお前と別れる気はない」  そういって一瞬だけ立ちはだかり、すぐ背を向けて去ったその須臾の間に、志乃ははっきりと夫の双の瞳を見た。それはかつてのギターを弾いていたGIや、むろん鷹見三郎などとは比較にならぬ、若い日の塩沢胤保そのままの、きらきらしい瞳であった。  ……………………………………………… 「ですから、ひっぱたかれたといっても、本当は痛くもなんともなかったの」 「まあ、とんだ『リリオム』じゃないの」  江梨はそういって笑った。  暮れ近い宇田川女史の家の奥座敷である。正月の女史の御託宣のいわれを訊くため、由良・江梨・志乃の三姉妹が顔を合せての酒宴で、一人ずつ今年の出来事とその結末を語ったところだが、歯切れの悪い姉二人と違って、志乃の話はいちばんあけすけで、それなり迫力があった。 「でもね、おかげで三枝の上の男の子だけはこっちの籍に移されそう。四十万や五十万のラピスラズリを買ってもらっても、とんだおまけつきっていうところだわ」 「それでも正月に江梨ちゃんのいったとおりだったんだね」  由良は、薄い切子ガラスの杯に注がれた日本酒をゆっくり含みながら、おだやかにいった。 「クレヨンでも宝石でも同じことで、ねぼけた群青いろがわたしたちにはいちばんお似合いなのさ。金と銀なんて身のほど知らずのものに手を出すと、ろくなことはありゃしない。……でも、先生」  床の間を背にした、教祖ともいうべき宇田川女史の方に向き直ると、ことさら皮肉な調子もなくいいかけた。 「これで厄落しというにしては随分と中途半端な気もしますけれど、よろしいんでしょうか。まあ、幸い、眼と歯もどうやら|保《も》ったようだし、ペルセウスほどの美青年には逢わなかった代り、それほど手ひどい火傷もせずに済みましたしね。いま聞くと銘々がどうということもない宝石を買いこんでいたらしくて、そんなものでも魔除けの役に立ったのかしらんて、不安は不安なまんまだけど……」 「それはもう御安心下さいまし」  宇田川女史——宇田川圭子は、いつもの金属的な声で答えた。 「正月にわたくしが申し上げましたのは、このお三方がまだまだ若くお美しくいらっしゃるのに、控え目な|性質《たち》で御損ばかりなさるのが歯がゆかったからでございますもの。せめて宝石で身をお飾り下さいまし、男だって諦めずに、それも思いきって若い子を、昔で申しますステッキボーイのようにお連れ下さいましという意味でしたの。今年は必ずそうなる、でなければ歯も眼も衰えるだけで、グライアイのようなお婆さんになるだけですわと、まあその暗示を強く申し上げておけば、あとは心ごころでございましょう。ダイヤのつもりがダイヤモニヤ、サファイヤは勿体ないからラピスラズリというのは、相変らず皆さん欲がおありになさすざるから……。金と銀、大いに結構じゃございませんの。いつまでも大正女の|宿命《さだめ》だなぞとお嘆きにならず、来年もかまわず宝石をお求め遊ばせな。もっとも今年はわたくしも、ああ申した責任上、少しは蔭で工作致しましたけれども」  細身の金縁めがねを光らせるのに、由良がつけつけといった。 「えゝえゝ、そうらしゅうございましたね。広志もやっと白状しました。母さんを何とか外国旅行に出したいけど、どうしたらいいかってこちらに御相談にあがったとか。塚田さんも前は随分熱心な信者でいらしたようだし、何もかもお膳立てしていただいて、本当にありがとうございました。でもねえ、わたしどもの引込み思案は、これはもう身についた殻ですもの、いまさら剥がせも致しませんしね」 「それがいけませんのよ。では、こうお考えになりましたら」  女史も手酌で注いだ杯を口許に運びながら平然と切り返した。 「大正生まれの女たちは、いま世界各地でどんどん滅ぼされようとしている絶滅鳥のようなものだと。一度滅んでしまったら二度とそれは創り出すことも|適《かな》わぬことは知れていますのに、この地球では平気で追いつめて狩さえなさるんだと。ねえ、わたくしたちもこれで|生《しょう》のある生き物でございましょう。むざむざ片隅で息を殺したまま死んでゆくこともなかろうじゃございませんの」  透きとおるような青白い翳りを帯びた餅肌の女というのは、三姉妹にしてみれば大正生まれというより、戦前は黒板塀の蔭にひっそりと息づいていた大正時代の女のイメージで、名前にしても圭子よりは古風にお圭とでも呼ぶほうがふさわしい。それでも絶滅鳥とまでいわれてみると、どこか擽ったい気持はするものの、失われかけている翼を精いっぱい張って、自分なりの新天地をひらかなければという思いもした。 「でも妙な|譬《たと》えねえ。絶滅鳥って何?」  志乃が小声で囁く。 「ほら、昔はよく絵本にあったじゃないの、ドードーとかモアなんて巨きな|趾《あし》をした鳥。アラビアンナイトのロック鳥も仲間だし、そういえばアメリカの旅行鳩なんてのも、何億羽もいたのが百年ほどの間に一羽残らず殺されたって何かに出ていたわ。……あたし、少し酔っぱらっちゃった」  江梨は遠慮のない恰好で躯をそらせたが、女史は|眼端《めはし》で笑顔を送るとお愛想をいった。 「どうぞ、きょうは少しお過し遊ばせ。|牡蠣《かき》のコキールがお口に合えばよろしいけど」 「いいえ、とってもおいしい」  由良が引き取っていった。 「でも江梨は本当に子供のころから弱くて、よくまあ育ったと思うくらい。薬戸棚の固腸丸とか感応散、サントニン、ブロチン、キナエン丸、ゼローデル錠なんて、みんな江梨が独り占めしていたくらいだもの」 「まあ古い名前」  古ぼけた薬戸棚を透視するように江梨は眼を細めた。 「でもそれも当り前ね。あたしがおなかにいるとき、あのスペイン風邪でしょう。世界で六億人が罹って、日本でも四十万人近くが死んだほどですもの。生きて生まれたのが不思議なくらい」  旅行鳩と較べるかのようにそんな数字を口にしたが、由良はいっそうしみじみした顔になった。 「あのときは本当にひどかった。お母様が発熱で顔を真赤になすって、それでもあれは迷信だったのかどうか、とにかく咳をしちゃいけない、咳をしたらもう片方の肺も駄目になっておなかの子が死ぬといわれて、そりやもう必死に我慢なすったんだもの。お父様がまたよくお努めになったんだよ」  それは江梨が無事に生まれてからも、口おかず聞かされた一つ話で、大正七年から八年にかけてのスペイン風邪では、日本の患者総数は二千万人を超えている。いつかしら三人の姉妹には、そこに住んだことのない志乃でさえも、田端の家の暗い奥座敷で咳をこらえて身悶えする母と、夜昼なしにつきそって励ます父との像が灼きついていた。大正という時代そのままのような、その一つ家。 「そんな思いをなさってお育ちになって、それから年頃になってみれば戦争でございましょう。いいえ、もう誰にも遠慮は要りません。お三方だってこれから翼を張って、とにかく生きてごらんにならなければ。いま熱いのを持って参りますから、御一緒に乾杯しませんこと?」  そうして整えられた杯を、四人は空に打ち合せた。 「大正の女たちのために」 「新しい金と銀のために」 「ペルセウスのようなステッキボーイのために」 「絶滅鳥のために」  だが薄い切子ガラスの杯は、打ち合せるまでもなく脆く崩れるかのようだった。 [#地付き]〈真珠母の匣・完〉