悪夢の骨牌      中井英夫 [#改ページ]       目 次 I 玻璃の柩のこと並びに青年夢魔の館を訪れること   janvier 水仙の眠り feurier アケロンの流れの涯てに mars 暖かい墓 ㈼ ビーナスの翼のこと並びにアタランテ獅子に変ずること avril 大星蝕の夜 mai ヨカナーンの夜 juin 青髯の夜 intermede 薔薇の獄 もしくは鳥の匂いのする少年 ㈽ 戦後に打上げられた花火のこと並びに凶のお|神籤《みくじ》のこと juillet 緑の唇 aout 緑の時間 septembre 緑の訪問者 ㈿ 時間の獄のこと並びに車掌車の赤い尾灯のこと octobre 廃屋を訪ねて novemre 戦後よ、眠れ decembre 闇の彼方へ [#改ページ]    水仙の眠り  新春の陽ざしは、金いろの恵みに充ちた。賀状の束を繰るうち、|藍沢《あいざわ》家からの一葉が混じっているのに気づいて、|木原《きはら》|直人《なおと》の胸は妖しく騒いだ。それも|瑠璃《るり》夫人の筆蹟で、午すぎからの賀宴にぜひ来て欲しいという招待状である。夫人といっても、夫の|惟之《これゆき》はすでにいない。心霊術師めいたその美貌はただならぬもので、月ごとに催される風変りなサロンの女主人として知られている。令嬢の|柚香《ゆのか》もまた、ドードーナの森に身をひそめ、梢のそよぎに耳を澄ます巫女の趣きがあり、一介の学究にすぎぬ直人にとってこの一葉は、甘美な異次元への誘いでもあった。ただ、旧臘、柚香の親友であり愛人とも思われていた二人の青年が相次いで失踪するという事件があり、直人もそのいきさつを知っているため、到底新年の祝宴は望めないと考えていたので、奇異な思いもしたが、それだけにいっそう心をときめかせて入念な身仕度をした。  |目黒《めぐろ》の高台にある藍沢邸は、通称�灯台の家�で知られている。坂の下から見上げると空中に浮かぶ巨船のようだが、中でも際立っているのは中央に聳える白亜の塔で、晩年、奇体な鬱病にかかって、いっさいの事業から手を退いてしまった藍沢惟之が、そこに引籠って星と夕焼を眺めるために建てたものだが、いかさま灯台としか見えない孤独なようすで残されている。そのひとはすでに亡いが、そこはまたたしかな狂者の檻であり、惟之はおそらくバイエルン国王ルードウィヒのように、心内の苦患に灼かれ、妄想の数々に苛まれながら、はかない星との交信を続けていたものであろう。その死とともに塔は鎖され、それ以来誰も昇った者はいない。邸内に入ってしまうと、頭上にそんな陰鬱な塔のあることはしばらく忘れられるが、それでも時折はそこへ昇ってゆく暗い螺旋階段が、幻のように思い浮かんだ。  いつもの広間には七、八人の先客がいて、めいめいグラスを手にしていた。新春の陽光はここにも柔らかく及んでいるが、一座の空気には何がなし重苦しいものが漂い、直人はそれをいぶかしんだ。瑠璃夫人は黒絹に銀糸のラメを織りこんだ服で、歩くたびそれは、あるときは燦めき、あるときは光を失った。柚香の姿は見えないが、直人がまずおどろかされたのは、広間のいたるところにおかれた壺で、ペルシア藍やボヘミアングラスや仁清や、色も形もさまざまなそれに差されているのは、ことごとくが白水仙であった。香い立つというほどではないが、これほどの花の群れに囲まれていると、どこか息苦しい。  先客のほとんどはサロンの常連で顔見知りだが、中には初めてのひともいる。いつもなら扇と微笑に添えて紹介を怠らない夫人が、どこかよそよそしい顔で立っているので、直人は自分から近づいた。 「きょうはいつもよりお客様が少ないようですね。もっとも、お正月にお招きいただいたのは、ぼくも初めてですが」 「ええ、ちょうど十人の方だけお呼びしましたの。あと、お一人。ああ、お見えになったようね」  入ってきたのは、直人と同じ研究室にいる|野口《のぐち》だった。これまで一度もサロンに出たこともない彼が、なんで突然に呼ばれたのか、直人にも意外だったが、勝手が判らない不安顔で近寄ってきた野口は、夫人に挨拶をし終えても、なおとけきらないようすでいる。それを無視したように、夫人は直人に語りかけた。 「木原さんは、水仙はお嫌いでしたかしら」 「いいえ、嫌いじゃありません。ただ、変った趣向だなと思って」 「そう、たしかに変った趣向ね」  ふいに夫人の眼の中に閃くものがあった。 「水仙の花言葉は�自己愛�。でも、どうしてでしょう。ナルキッソスは呪われて水辺に斃れたんですもの、わたくしなら�昏睡�とか�眠り�とかにしたいくらいですわ」  その言葉に、かすかながらも毒が秘められているのを直人は感じた。同時に、きょうのパーティが、ただの新春の集まりではない、何ごとかの意図を秘めたものだということも、いち早く察しられた。案の定、夫人は、暮れに失踪した二人の青年の名を唐突に口にした。 「|深見《ふかみ》さんと|水島《みずしま》さんのことは、お二人ともごぞんじでしたわね。あなた方の研究室にもよく出入りされていたとか」 「ええ、それは」  口ごもりながら直人は答えた。学部は違うが、その二人が直人らの人類学教室を.いい遊び場所に心得てよく顔を見せていたのは確かなことだし、研究室全体にそんな雰囲気があふれているのも事実だった。 「それなら当然御承知ですわね。柚香がその方たちをこよなく愛していたことも、それからお二人が続けて失踪なすったことも。いいえ、失踪とは思えませんの、あの方たちは水仙の葉のように並んで眠りにおつきになった。きょうお集まりいただいたのは、そのことのためなんです」  夫人は身をひるがえした。突然に湧き出した密雲に太陽は蔽われたのであろう。朝からの明るい陽ざしは、そのときいきなり翳って、広間はひととき光を失った。それを合図のように正面の扉は左右に開かれ、そこには柚香の黒い喪服を着た立姿があった。  書類の束のようなものを手にし、声にならぬざわめきを立てている一座の中央にまで進み出ると、いつもの透きとおるほどに細い声が香烟のようにゆらぎ出た。 「きょうはようこそお越し下さいました。もうお判りいただけたと思いますけれど、ここにお集まり下さったのは、深見|悠介《ゆうすけ》と水島|滋男《しげお》の二人に関係の深い方ばかりでございます。そしてこの中のただお一人だけが、二人の失踪の真相をごぞんじでいらっしゃる……。いいえ、あたくしの推察で申しあげるのではなく、ここに水島さんからの手紙が届いておりますの。あたくし、それを読んでいただきたくて複写して参りました。どうか先にこれを皆様でお読み下さいまし。その上でどうか、二人がもし生きているとすればどこにいるのか、皆様で考えていただきとうございます」  柚香はあおじろい微笑を見せ、ひとりひとりに手にしていたものを配り始めた。そしてすっかり手渡し終えると、母とともに壁際の椅子に退き、静かに腰をおちつけた。しかしその眼は油断なくあたりを見廻し、銘々のどんな表情も見落すまいとつとめているのは明らかだった。  直人も硬ばった顔のまま、渡された何枚かの複写紙に眼を落した。        ∴  その青年深見悠介の突然の失踪が伝えられたのは、師走のうすら寒い曇り日のことだった。もともと人に怯え物に怯え、扉を鎖して自分の部屋に籠ることの多い日常からいっても、失踪でも自殺でもあるいは静かな発狂でも、|人外《にんがい》という異境に容易に行きつくだろうと推察されていたが、家人の話では遺書めいたものも走り書きも何ひとつ書置きがないうえ、その夜はふだんどおりのベッドで眠ったらしく、ドアも内側から鍵を差したままだったという。昼をしばらくすぎて、いつものことながらもうそろそろ起こそうと母親が呼びに立ち、返事のないのをいぶかしんで窓をあけて覗いてみると、ベッドには皺の寄った白いシーツが乱れているばかりで青年の姿はなかった。といって持物や服は何ひとつ持ち出されていず、靴もスリッパもそのままとなると、思いつめての自殺行とか不意の旅立ちということも考えられない。せいぜい夜中に眠れぬままふらりと窓から庭に降りて散歩に出たぐらいの気配であったが、そのまま夕方になり夜になっても帰らぬことから急に家じゅうがあわただしく色めき立った。心当たりに次々と電話をかけたが消息もなく空しい一夜が流れ二夜が過ぎ、愁い顔で集まった友人たちも首をかしげるばかりだった。こうまでさりげなく姿を消すというのはよほど前々から計画を立て準備をすすめ、何くれと心を配らなくては出来ることではない。そしてもっとも親しい仲間たち、わけてもそのひとり、いまこれを書きすすめている水島滋男がひそかに心にうなずき確かな結論としたのは、これは決してありきたりの蒸発でも自殺旅行でもないという確信であった。その何よりの証拠はただ水島だけが読むことを許されたのだが、鍵がかけてあったとはいえ最近の深見の日記が机の抽出にそのまま残されていたという事実による。その内容をすべて公開することが彼の行方を知ることに繋がるものならば決してためらうものではないが、それはほとんどが架空の相手、まだ見ぬ相手に対するとりとめもない思慕の言葉に終始しており、青年同士の勘からいってことにも潔癖ではにかみ屋のかれが、こんなものをこのままおいて失踪するとは到底考えられないことであった。いくぶんか参考になると思われるのは夜ごとに彼を襲っていたらしい悪夢の詳細な記録で、それを読み返すたび水島の心の中に次第に大きくひろがってきたのは捜索願いの結果などは知れきっている、また全国のどんな変死者名簿にも入っている筈はない、なぜなら彼はもう地上のどこにもいず、それでいて決して死んだのではないという一事に尽きていた。この確信を裏書きするようにまぎれもない深見悠介の自筆の手紙が届いたのは失踪後一週間を経た今日である。その封筒に切手もなく局の消印もないということは、常識からいえば彼がどこか身近かなところに姿を隠してい、自身あるいは人に託してこれを郵便受けに投じたと考えることもできるが、あえてそう思いたくないまたどうしてもそうは思えないのは以下に示すその内容による。これを公表し併せて日記をも衆人の眼にさらして地上の捜索願いを打切るわけにゆかぬ理由、およびいまここにあわただしい走り書きのノートをつけてこれを藍沢柚香に送るいぶかしさもまた最後に納得されるに違いない。  ……………………………………………  水島。  こんな手紙を出すべきか、どうか、ずいぶん迷った。おれがふいに姿を消し、なんの消息もないことを、君がどう解釈したか知らない。しかし、もうおそらく、君は唯一の正しい結論に達していると思う。そう、そのとおりだ。他の誰が信じなくてもいい、おれはいま�夢魔の館�にいるのだ。  悪夢は、ほとんど血の味がする。  ベッドの上で、いっぱいに眼をみひらきながら、おれはひそかにその味を反芻した。舌は、塩からく苦いものを探り当てていた。  いま、灯りを点けるとともに、おれの腸に群がり寄っていた得体の知れぬ奴らが、ひどく慌てふためいて逃げ去るのを、おれは確かに見届けたのだ。その、影の群れ。小肥りに肥って矮小なそいつらは、ふいの灯りに醜くうろたえ、ころげるように四散して、壁やドアやカーテンの蔭に吸われていった。いったい、奴らは何をおれにしていたのだろう。眠るたび、灯を消すたびに忍び寄って、どんなにおぞましい行為をくりひろげていたのか。腐肉に群がるハイエナさながら、夢魔たちは夜ごとにこうしておれを犯し続けていたのだろうか。  後頭部の痺れがけだるく収まってゆくのを感じながら、おれは仰向けのまま躯を固くしていた。たったいま夢の中でおれに向かって激しい憎悪の言葉を吐き散らしていた水頭症の奇型児がこともなく消え失せ、いつもの部屋、いつものベッドの上で眼をみひらいているのが奇異でならなかった。石油ランプが熱すぎるといって、手を触れては跳びはねていたその侏儒。かれのうしろには暗い大きな町がひろがり、どこ行きとも知れぬ市街電車が、音もなく陰気に走っていた。そこは、まちがいなくおれの故郷だというのに、おれはまたこんな見知らぬベッドの上で眼覚めてしまったのだ。  そう気づくとともに、いま散り散りに消え失せた夢魔たちを憎むことのまちがいを、おれははっきりと知った。血の味のする悪夢を見ているあいだ、奴らが何をしていたかではない。このおれが何をしていたかを悟ったのだ。奴らが犯していたのではない、このおれが犯していたんだ。おれが夢魔を呼び寄せ、おれがその血を吸っていた、むさぼり、すすり、音を立てて。  ふたたび灯を消した闇の天井に、大きな影があった。その巨大な黒い腕は、ゆっくりと下降しておれを抱こうとしていた。  夢魔の王。  ついに現われてくれた巨人の、漆黒の息吹きが耳に囁く。  ——故郷に、帰りたいのか。  ——ええ。  低く、おれは答えた。水島。信じてくれ、その王の影の腕が、どれほど軽々とおれを攫ったか。そしてここ、夢魔の館が、どれほど暖く安らぎに充ちているかを。ここの臥処は、洞のなかの深い苔だ。それほどの睡りが許されることを、どう君に伝えたらいいだろう。なぜならここの住人たちは、その夜々、ぜんぶ地表へ舞い降りてゆき、かつておれを苦しめたと信じていたかれらを、おれは心から祝福できるからなんだ。  ただ、欠けているものがある。それは、君だ。  ………………………………………………  以上が深見の手紙であり見られるとおり彼の自筆なことにまちがいはない。とすれば一夜かれはたしかに現実から夢に飛翔し、いまなお夢魔の館に棲み続けていることはまず疑いをいれない。そこを訪れることは水島滋男にもまた可能な筈である。多量の睡眠薬があるいはその手だすけをしてくれるだろうか。しかし水島が彼の後を追う決心をしたのはただ深見とふたりその館に住みたいためばかりではない、なお深見の失踪に地上の犯罪の匂いを嗅ぐ気持が強いせいである。夢想癖の強い彼をそそのかし死に追いやることはあるいは容易であり、すでにその犯行が夢幻の裡に行われたとすればその探偵もまた|夢寐《むび》になされるべきことは当然であろう。首尾よく館に到着しその真相が明らかとなったら、それを十編の物語に変えて藍沢家の巫女・柚香に月に一編ずつ送り届けるとしよう。それは次第にある人物を描き定め次第にその犯行の裏の意図を摘発して最後に影の手が一閃するとき、犯人は醜く色を変えて床の上に横たわっているに違いない。それまでは柚香も瑠璃夫人もさらには懐しいサロンの諸兄にもしばらく別れを告げよう。月に一度の夢魔の館からの便りをどうか期待していてもらいたい。        ∴  そこここで紙を折畳み、あるいはめくり返す音が聞え、十人の客は水島滋男の手紙を読み終った。重苦しい沈黙を破って最初に口を開いたのは野口であった。 「ぼくにはどうもよく判らない。だいたいぼくは水島君たちとそれほど親しくはなかったし、もし二人が失踪してそのままだというなら、ここに書かれているようにそれは夢想癖のつのった二人の青年が|互《かた》みに自殺した、あるいは一種の心中をとげたと考えてもいいんじゃないでしょうか」  誰も答える者はいない。隅の方で、先客の一人がしきりに咳ばらいし、皺ばんだ声でいい出した。深見をモデルにして甘い青年の裸像を描き続けていた|能登《のと》である。 「するとこれは何ですかな、いわば殺人ゲームといったもので、われわれ十人の中に一人の殺人者が潜んでおるというわけですな。しかし、第一まだ殺人にもなにも、なんらかの犯罪が行われたという確証もなしに、犯人の候補者だけが決まっておるというのが解せんですなあ」  詩人の|御津川《おつがわ》が乾いた笑い声を立てた。 「いやあ、これはいつもの遊びですよ。新年早々から手のこんだことだが、こうしてわれわれを楽しませておいて、実は無事に二人は見つかりましたと披露しようという魂胆。そうでしょう、そこいらの扉の蔭に二人とも隠れているに違いないんだ」  志つ加工房で知られるデザイナーの|石塚《いしづか》が薄い唇を歪めて遮った。 「そうともいえないわよ。あたしや能登さんはべつですけど、ここにいる皆さんは柚香さんのたいへんな信者ばかりじゃないの。その御当人があいにくと深見だの水島だのって雛っ子のほうにばかり眼がいってるとなりゃ、小僧、なまいきだてんで、あっさり|殺《や》らないとも限らない。お上のお眼こぼしに預かるくらいの殺しは皆さんお得意でしょうから」 「ぼくはやはり夢魔の館を信じるな」  一メートル八十を超えるバレエダンサーの|美東《びとう》が、張りのあるバリトンでいった。 「みんな銘々勝手に夢を見るからいけないんです。もっと昔から人間が協力して夢の王国を建設していれば、いまごろは、きっとたやすく往き来できたに違いないんだ。いや、水島君たちは早くそれに気づいて、とうとうその入口を発点したんだと思いますよ」 「たいそうお賑やかな御意見ですけれど」  瑠璃夫人がゆっくり立上って一座を見渡した。 「わたくしも娘も、この水島さんのお手紙を本気で信じておりますの。また、信じていればこそこうして皆様をお招きしたんですもの。死体がなければ殺人はない、犯行の現場が残されなければ犯罪はないと信じていられたのは、もうずいぶん前のことではありませんかしら。いま、どなたかが、二人はそこいらの扉の蔭に隠れているだろうとおっしゃいましたが、ごらん下さいましな」  銀いろの光と影をゆらしながら、夫人は広間にある三方のドアを次々とあけ放していった。最後に、食堂に続くアコーディオンドアを左右に押しひらくとき、木原直人はふいの幻想に期待の胸をとどろかした。透明に光を返す巨大な棺が、並んで眠り続ける二人の青年と、あおあおとした水仙の葉を詰めて出現するような気がしたからである。  だが、ドアの向うは、いずれも寒々しい空間がひろがっているばかりで、人の気配はさらになかった。直人は、なお熱心に耳を澄ませた。どこがそこに繋がっているのか、それは知らないが、頭上の塔の部屋から誰かの、惟之であれ深見であれ、いずれにしろ死者の一人が、こつこつと松葉杖を衝くように、一歩ずつ螺旋階段を降りてくる跫音を聞きとめようとしたのである。  しかし、それも空しかった。広い邸内のどこからも、なんの物音もしない。  喪服を着たまま動こうとしない柚香。立ち尽す夫人。さらにひととき化石のように凝固した客たちから、開け放されたドアの向うの空間に眼を移して、直人はそのときようやく悟った。ここに行われたのは完全な「無」の犯罪であり、被害者も探偵もすべては不在であるにしても、ただひとり、そのためには架空の犯人がいやでも必要だということを。  直人は、眼に見えぬ警官から手錠を受けるように、うなだれて両手を差し出した。 [#改ページ]    アケロンの流れの涯てに  なつかしい柚香。きょうも瑠璃夫人のサロンにはいつもの連中が集まっているだろうか。先便に約束したようにこれはようやく夢魔の館に辿りついた水島滋男がしたためる第一の手紙だ。その館への旅はまことに奇妙なものでそれについても書きたいことは多いが、何より肝心な深見悠介がまだどこを探しても見当らぬことを報告しなければならない。地上での探索に疲れ、ここに来てもまだ捜し続けなければならぬとは因果なことだが、それほどにこの館は広くいくつもの棟にわかれ、間を埋め尽しているのは黒い森であり陰鬱な下生えの繁った庭園である。それらは地表のように明確な物の象があるわけではないが、おおよそは古びた中世の城館を思ってもらえばよい。アルコーブを設けた長い廊下や突当りごとの大鏡と燭台。それらは近づくにつれてゆらめきそのまま影の炎となって実体を伴わない。深見を捜しあぐねて日が経つうちそれでもその失踪に一つの大きな手がかりになるような話を聞いた。やはりこの館をついの|棲処《すみか》としている青年に出逢っての話だが、かれの経験は深見の行方について何がしかのヒントを与えずにはいないだろう。以下にかれから聞いたままを書きしるす。  ………………………………………………  父はその二人について話すとき、昔はいつも�叔父さんたち�という名で呼んでいました。それは、とても奇妙な二人づれだったらしく、むろん、ぼくなどが生まれるずっと前ですが、父がまだ小学生だったころ、その叔父さんたちはふいにやって来て、何か忘れがたい思い出を残していったらしいのです。そのことを父はひどくなつかしそうな口調で語るのでしたが、ぼくがだんだん大きくなるにつれて二人の話も、叔父さんたちという呼び名も出なくなり、たまに口にしかけても、ふっと気づいたようにやめてしまう。そしてどこか不安そうな、疑わしげな表情になって、じっとぼくの顔をのぞきこむようにするのです。まるで、うっかりその話を聞かせると、ぼくにとんでもない不幸なことが起こるとでもいうように。  子供ごころに、その叔父さんたちというのが何者なのか、何をしていったのか気がかりでした。それというのが父ばかりでなく、祖母からも一度その話を聞いたことがあるからです。祖父はぼくの生まれる前に奇妙な失踪をとげていましたが、祖母はぼくの小さいころ、非常に高齢でしたがまだ生きていて、病室にしている離れの座敷はいつ行っても陰気に湿っぽかったし、もう頭もぼけていたのでしょう、ぼくの顔を見てもおうおうとうなずくばかりで、子供にはおもしろくもなんともないところでしたが、それがある日、そのときだけ意識がはっきりしたのでしょうか、入っていったぼくの顔をまじまじと見つめているうち、だんだんに驚愕のいろをあらわにしたと思うと、いきなり、 「やっぱり帰って来たとか」  訛りを剥き出しに、叫ぶような一と言を洩らすと、起こしかけていた半身をまたばったりと倒してしまったのです。付添いの人があわてて駆けつけ、祖母はそれからずっと昏睡状態のまま一年あまりして世を去りましたが、ぼくには何よりもそのときの祖母の顔、おどろきと喜びと、それよりもさらに深く怯えたようなその表情が忘れられず、あとあとまでずいぶん怖い思いをしたほどです。 「やっぱり帰って来た」という言葉は、ぼくと誰かをまちがえたことは明らかですが、その誰かというのは、祖父ではなく、父がいつも口にする叔父さんであろうとは、子供ごころにもすぐ推察がつきました。いくらなんでも子供のぼくを祖父とまちがえる筈はありません。叔父さんは父の話ではたしか二人づれということでしたが、ぼくの空想はしだいにひろがり、もしかしてそれは二人でいながら一体であるような、つまり一つの体に二つの首をつけた怪物ではないのかとさえ思うようになったのです。それでいてその怪物は、少しも怖ろしくありませんでした。それどころか、思春期のころにはひどくなつかしくさえ思え、もしかしてその二頭一身の怪物こそ、ぼくの本当の父親ではなかったろうかなどということを、うつらうつら考えるようになったくらいです。この推察は、ある意味では当っていたかも知れないのですが。  父に向かって、正面から問いつめるような形でその叔父さんたちの話を聞きだそうとしたのは、高校に入った年でした。ぼくのきょうだいは姉ばかりでしたから、末っ子で男ひとりのぼくは、小さいころ父とは大の仲よしだったのに、そのころはこちらも向うも、何かお互いに避け合う雰囲気になっていました。その夜、ぼくはかまわず父の書斎に入ってゆき、ガウン姿でパイプをくわえたま揺り椅子を揺らしている父の傍に立ちました。何の話をしに来たのか、もう父には判っていたのでしょう、ひどく怯えた視線をチラと走らせたなり、しばらく向うを向いていましたが、 「まあ、おかけ」  嗄れた声で、やっとそういいました。 「ねえ、あの�叔父さんたち�のことだけどさァ」  ぼくはつとめて陽気に切り出しました。 「来たのは昭和九年だっていったよね」 「うん? うんまあ、そんなころだ。古い話だよ」  父は乾いた笑いを立てました。昭和九年というのは、その叔父さんたちが来たという年に|東郷《とうごう》元帥が死んで国葬があり、父の通っていた|番町《ばんちょう》の小学校が東郷小学校と名を変えたと聞いていたので、ぼくがあとから調べて確かめた年代なのです。なんでもその年には渋谷駅前のハチ公の銅像も立ったとかで、父は、その当時まだ生きていたハチ公の頭を撫でたこともあるそうです。他に聞いたのは�さくら音頭�という唄が大はやりだったというくらいですが、それがどんな唄かは知りませんでした。なにしろ、ぼくの生まれる二十年も前のことですから。 「その叔父さんたちって、親戚か何かなの」  ぼくは父の横顔をずっと注目しながら質問を続けました。というのは、叔父さんの話をするときに限って父の表情に、かすかだけれども決まってはにかみのいろが浮かぶのに気づいていたからです。そのときも確かに、年齢に似合わぬ擽ったそうな頬肉のふるえがすばやく掠めてすぎました。 「まあ、そうだ。親戚のようなものだ」 「じゃあ、お祖父さんの弟か何か」 「いや、弟じゃない」  ふいに父は、いままで見せたこともない厳しい顔でぼくをふりむきました。怒りというのでもない、ただの悲しみとも違う、それはほとんど哀願に近い表情で、眼鏡の奥には涙さえ光っていたようです。でも、ぼくはひるみませんでした。 「だって叔父さんなんでしょう。二人で来たって、二人とも叔父さんなの」  父は答えません。 「知りたいんだよ、ぼくは。その叔父さんたちとぼくとがどういう関係なのか」  さすがにそのころはもう、二頭一身で、しかも父親などということは考えていませんでしたが、長いあいだ胸にわだかまっていたその問いだけは、しずにいられなかったのです。  父は呻きました。頭をかかえ、天に祈るような声がこういいました。 「判ることだ、いまに判ることだ。おれに聞かないでくれ、聞くのならお祖父さんに聞いてくれ」  父はついに錯乱した、とぼくは思いました。なにしろ祖父は、謎の失踪をとげたといっても、年齢からいって当然もう死んでいる筈だったからです。ただたいへんな神秘主義者で、さまざまな予言をし、ぼくの名にしても父に向かって、お前には必ず男の子が生まれるから、ぜひこういう名前にしろといったという以外、写真でしか知らない人でしたから、祖父に聞けということは、その秘密はぼくが死んでから墓の下で知るがいいというに等しかったのです。  それ以後一度も父とはその話をしたことはなく、父との仲はいよいよ遠のくばかりでした。大学に入ると、ぼくは家を出て友人と二人で下宿へ移りました。|因《ちな》みに家は、もとは空襲にも焼け残った|麻布《あざぶ》|本村《もとむら》町に、それからしばらくして|紀尾井《きおい》町に移っていました。そんなところに住むのがステイタスシンボルであるような、そういう家系にいたのです。  下宿を|倶《とも》にした友人——かりにRとしておきましょう、彼はむろん当時のぼくの大の親友で、何でも話し合う仲でしたから、むろんぼくの奇妙な叔父さんのことも打明けて、彼の意見を請いました。 「昭和九年か」 と、Rはもっともらしい顔でうなずき、 「満州事変はもう始まっとるなあ」 などと政治史に詳しいところを見せましたが、ふっと思いついたように、 「いいものを見せてやろうか」 といって財布の中から取出したのは、大きくて重たい一枚の銀貨でした。 「五十銭玉さ。昔はこれをギザっていったんだ。|縁《ふち》にギザギザがあるだろう」  オリンピックの千円玉や百円玉と一緒に、彼はそれをお守りにしていたのです。ギザ一枚で結構いろいろなものが買えたという話は、ぼくも聞いて知っていました。といって四十年も前の時代の物価など、ぼくには興味もないことでしたが。 「おやじは、お祖父さんに聞けっていったんだ。お祖父さんてのはさ、戦争前に急に失踪したんだけど、なんでもすごく未来のことが判る人で、おやじが戦争中に兵隊へ行って、危いってときは必ずお祖父さんの予言を思い出して助かったんだって。オレの名前も、生まれる十年も前に決めてて、必ず男の子ができるから、そしたらこれにしろっていってあったんだ」 「ふうん。昔はそんな人がよくいたみたいだな」 「そのお祖父さんに聞けっていうんだから、訳が判らんよ。どっかにまだ生きているっていうんならべつだが」 「生きているんだよ、きっと」  Rはいきなりそんなことをいいました。もともと怪奇なこと幻想風なこと、非現実の世界が何より好きな彼は、理不尽な話となるとすぐ眼を輝かすというふうだったのです。  そう、彼がそんな性格でなければ、ぼくたちもあんな無茶な冒険にのり出さなかったかも知れません。ことしの初めですが、二人で街を歩いていて、地下鉄工事の鉄板を敷きつめたところがよくあるでしょう、その穴から灯りが洩れているのを、Rは立止まっていつまでも見つめているんです。 「何をしてるんだ、早く行こうよ」 「うん、しかし変だぞこれは」  Rはそんなことをいって周りを見廻していましたが、その地下へ降りる木造の入口小屋が建っているのを見つけると、黙ってぼくの手を引張りました。そして何と、人眼を避けてすばやくその扉を開くとぼくを中へ押しこみ、続いて入りこむとピタリと扉を閉めてしまったのです。 「何をするんだ、怒られるぞ」  ぼくたちの足もとには、狭い鉄の階段がのめりこむように下へ続いてい、大きな|梁《はり》をめぐらした|窖《あなぐら》がところどころに裸電球を点しながらひろがっています。人の気配はまったくありません。 「降りてみようよ。大丈夫だよ」  Rの誘いに、こわごわぼくも階段を降り始めました。それは梁の間を折れ曲りながら、どこまでも下へ続き、いつ現場の人に見つかってどやされるかも知れないと思ったのに、工事は今日は休みなのかと考えたほど、中には誰もいないのです。地下鉄工事というのがこんなにも深い、大規模なものかと呆れましたが、鉄板の下には文字どおりの奈落がありました。どうにか地底へついたというのに、階段はそこからまた小さな穴へ入りこんでいるのです。 「もう帰ろうよ、おい」  Rは口を結んで、強くぼくの手を引きました。坑道めいたその穴は、冷やかな土の匂いと、湿りけとをまつわらせ、頭上に一本の電線でつながれた裸電球の光に照らされて、下へ下へとぼくたちを導きました。不思議の国のアリスさながら、二人は落下していったのです。そして、ついに行止まりとなったところは、少し掘りひろげられた空間で、地下水を流しているのか、ねっとりと黒い川が眼の前にありました。どこへ続いているのか、幅広い暗渠がその川を吸いこんでいます。ぼくらは奇妙な感懐に打たれ、そこへ腰をおろしました。地底の静寂もそれほど恐しく思えませんでした。 「とうとう見つけたな」  Rが耳許でそう囁きました。ぼくはいつか眠りに誘われていたようです。気がついたときぼくは一枚の板の舟の上にいて、黒い川の上を音もなく流されていました。Rは前に坐って背中だけを見せています。まだ眠気から覚めやらぬまま、これは冥府の川なんだなとぼんやり考えていられたのがふしぎです。渡し守カロンの姿はなかったのに、Rはあの五十銭銀貨で渡し賃を払ったのでしょうか。  何度か白い明りが差しこみ、地上のざわめきがそのたび耳に入りました。Rは行先に確信があるのか、舟をとめようとしません。それでもついに、さあここが目的地だというように舟を片寄せ、狭い出口にぼくを押し上げました。明りの差すほうに歩いてゆくと、ふいに出たのが、なんと|築地《つきじ》の|三原橋《みはらばし》の近く、いまは埋め立てられてしまっている掘割の河岸だったのです。神秘な地底旅行が、いきなり地上の現実に続いているので、ぼくは呆気にとられました。東劇や|新橋《しんばし》演舞場があるので、場所はすぐ判りましたが、それにしても何かそこは異次元めいた、奇妙な雰囲気でした。陽気もひどく暑く、四月か五月の気候です。 「どうしたんだろう、みんな、なんだか変な服装だな」 「当り前さ」  Rは涼しい顔でぼくをふり返りました。 「おれたちは昭和九年にきたんだ」  なんということを、と一瞬は思ったものの、すぐそれが事実だと悟らざるを得なかったのです。街という街に飾られた造花の桜、そしてレコード屋の拡声機から割れるような音で響き渡るのは、まぎれもない勝太郎の唄う�さくら音頭�でしたから。 「どうしたらいいだろう」  ぼくはふるえていました。いろんな事がいっぺんに判りかけてきたからです。 「考えたんだが、|麻布《あざぶ》の君の家へ行くよりなさそうだよ。何しろおれたち、金はギザ一枚しかないんだからな」  二人がともかくもまっとうな服装、背広にスウェーターという恰好で、髪も長髪でなかったのが幸いでした。すうっと寄ってきた古ぼけたタクシーは、市内一円という札を正面に出し、窓から運ちゃんが不審顔もせずにこういったからです。 「旦那、どうです。お安くしときますぜ」  ——もう、お判りでしょう。神秘家の祖父は、突然に訪れた二人の時間旅行者、父のいう�奇妙な叔父さんたち�の話を容易に信じてくれ、ぼくたちを家に滞在させたのです。それは、じっさい妙な経験でした。ぼくは渋谷へ行って、うずくまっているハチ公の頭も撫でてきました。うす汚れた、茶いろの犬でした。|東横《とうよこ》デパートもまだ建てかけの、生まれる二十年も前の渋谷。  その世界に長く留まらなかったのは、もうすぐ戦争になるのがわかっていましたし、なんといっても小学生の父に顔を合わせるのが苦痛だったからです。いくらなついてくれても、どうしてぼくが父をあやせるでしょう。後から祖父にぼくたちの正体を聞かされたかどうか、それは知りません。でも、あのはにかみようからいっても、気づいていたことは確かです。一年後、ぼくらは黒い流れに戻りました。冥府の川アケロンではなく、時間の川に。そして空襲のひどくなる前に、祖父もまたひとりでそこを訪れたのです。黒い流れの涯てが、この夢魔の館だった。Rも祖父も、一緒にここにいますよ。ここでは誰も年をとる者はいませんから。  ………………………………………………  この話からひとつだけ推察できる深見悠介の行方は、かれが思いついて黒い流れを遡りまた地表へ戻ったのではないかということだが、それが容易に果たされるものではないことは四方から流れこむその涯ての湖を眺めれば容易に推察される。またその神秘な入口すなわち青年の入りこんだ地下鉄工事の小屋がどこにあるかは水島滋男も確かめたがそれはここでは明すまい。誰もがやたら時間旅行を試み出しても困ることだし、それを見出すのは当然限られた夢想家に委ねられてしかるべきだから。それでは藍沢家のサロンへ向けて熱い思いを送りながら、さようなら。        ∴ 「どういうことです、これは」  真先に口を開いたのはやはり野口だった。 「どうしたってこんな話を信じるわけにはいかない。夢魔の館なんて存在する筈がないじゃありませんか」  象牙いろのシルクブラウスに胸を包み、黒っぽいシャネルスーツをつつましく着た柚香は相変らず黙ったままだったが、瑠璃夫人がつけつけと遮った。 「いいのよ野口さん。地上の科学が及ばない世界だって、この世には確かに存在するんですから。木原さんをごらんなさい、もうちゃんとこのお正月に自分が架空の犯人だって名乗りでたくらいじゃありませんか。わたくしが女王ならば、野口さん、あなたには無知の罪を宣告するところよ」  石塚が傍から口を出した。なんのつもりか、黒のネイルエナメルを塗った細い指先を宙に泳がせながら、 「それにしても水島君もじれったいわね。せっかく遠いところにまで行きながら、また深見君を取り逃すてはないじゃないの。それにもう少しヒントになるようなことをいってくれなくちゃ、犯人の見当もつきゃしない。月に一度なんて終身刑の囚人みたいなことをいってないで、どんどん手紙を書いたらいいのに」 「その手紙だけど」  画学生の|征矢野《まさやの》がきまじめに首をかしげた。 「どうやって届くんだろう、ふしぎだな」  窓際に立ってカーテンを引きあけながら、星空に見入っていた|御津川《おつがわ》が答えた。 「郵便受けには星の光だって入りこむさ。ほら、シリウスがあんなに青い」  木原直人も窓に寄って上を仰いだ。地球は重く暗く傾き、真南にその星は痛いまでに輝いている。そのまたたきは、しかしいくら眺めても解きがたいものに思われた。  ふたたび直人は、この家の塔の中で果てた藍沢惟之を思った。ある深い視線がこれら冬空の星を見つめ続けてそのまま閉じられたとするなら、その星はまた必ず人にその思いを返してよこすだろう。シリウスの青い光に、直人はうつろな瞳を探した。その瞳は確かにひとりの見えない犯人がこの広間に潜んでいることを告げるように、二度三度、またたきを返し、確信は次第にたかまった。  直人は、そのひとりに歩み寄った。 [#改ページ]    暖い墓  水仙の眠りを倶にするため、アケロンの流れの涯てに夢魔の館に辿りついたという水島滋男の人外境便りは、その日、次のように始まっていた。        ∴  とうとう深見悠介に再会したこの喜びをいったいどう伝えたらいいだろうか。久しく逢えなかったのも道理で、かりに冥府でいえばアケロンどころではないさらに巨大なスチュクスの流れのあることに水島は気づいていなかった、それほどな館の宏大さをよく認識していなかったせいに他ならない。絶対の支配者である大時間の前にはわれわれの持つ固有の小時間がいかほど無力であるかをあらためて知らされたわけだが、さらにいえばその生の三分の一を眠って半ば死を装う一にぎりの生者と太古以来のおびただしい死者の群れとでは、その数も力もすべて比較にならぬことを早く知るべきだったのであろう。生者はすでにその刻々を冥府の査問にかけられているのだ。ともあれここにあるのは深い眠りでありその苔の|褥《しとね》にいまこそわれわれは水仙の葉さながらに並んで横たわることができる。この洞の奥に眠るエンデュミオンには決して月光は射しこむことがないのだから。ここで当然深見からの挨拶を送りたいところだが、あまりに友の眠りが深いため水島はただその寝顔を見守るほかにすべを知らぬ。せめてこの暇に二人がここへ辿りつくに到った経緯をひとりの青年の話を籍りてお伝えすることにしよう。かれはいまから二十五年も前のまだ戦争が終ってまもない時期にここを訪れたのだが、それはまたなにがしかわれわれの軌跡を証しせずにいないだろうから。  ………………………………………………   〜おいらは子供    見棄てられ投げ出され    ——おいらは|孤《みな》し|児《ご》  川沿いの小公園に続く僅かな空地に、その一かたまりの墓は並んでいた。それは、三年ほど前の戦争の、春の夜の大空襲で、猛火に追われてこの川へ逃げ、そのまま焼け死んだ人びとの墓であった。炎は、川に浮かぶかれらを伝わり、かれらを飛石にして対岸にまで及んだのである。そのため、ほとんどが身許不明になるほど焦げた屍体で、墓も、戦後すぐは「無名氏之墓」と記された木片だったのが、いまは「不詳之墓」と刻まれた、丈の低い石に変っている。  その青年がそこを訪れるのは、いつも夕方に限られていた。あるいはこの墓地には、いつでも夕方という時刻しか残されていないのかも知れない。うそ寒い三月のことで、西空はわずかな水いろをのぞかせているが、川面にはもうどんな明るい反射も残されていず、淡い灰いろの靄がすべてを宰領しようとしている。墓のうしろの草むらに、浮浪者らしい男がひとり、小さな焚火を燃やしているほかあたりにはまったく人影はなかった。低い石垣に凭れて川面をのぞくと、つながれた貸ボートの胴に波のうちつける音がするばかりで、対岸の並木の緑も夕靄に沈もうとしていた。  ——死にたくなったな。  ——うん、死にたくなった。  ひとりでそんな問答を交しながら、ついにここしかない、ここしか行くところはないというふうに、瓦礫の焼野原を越え、こうしてここに辿りつくのがいつでものことだったが、青年はそのたび自分が生者であることをいぶかしんだ。  ——まだ、生きているんだって?  化石植物とでもいうように、低く地面から生い出ている石の墓たち。土の下で、呪文めく死者の合唱が湧き起こる。青年はそれに併せて「人生案内」の唄、古いソビエト映画の主題歌を口ずさんだ。   〜おいらが死んだら誰かが    おいらを埋めてくれようさ    ——けど誰も知らぬだろ  ふりむくと浮浪者の焚火の炎は、すでに色濃く眺められた。先ほどからひどくその男が気がかりだったので、青年はポケットから煙草の袋を取り出してそこへ近づいた。青年自身、すりきれた黒のジャンパーに汚れたズボン、ひび割れた靴というなりである。  戦争が終って三年、かれの周りでは、ようやくすべてが浮浪の臭いを立て始めていた。蒸れた・暖い・どぶ水を煮立てたようなその臭いには、何かまだひとつの、見知らぬ愉楽が秘められているようであった。しまいまで頼りにできるもの、さいごにこの肌を暖めてくれるものがまだ残っていることを、青年はその汚臭から嗅ぎ当てていた。たぶんそれは浮浪者の体温に似たものであったろう。暖い墓。そのふところに抱かれてすごす一夜の予感は、懶惰な|日《にち》にちにいい知れぬ安堵を与えさえした。青年はその墓を求めて歩いた。後生を願って寺詣りを怠らぬ老人のように、乏しい持ち物を売払って浮浪者の|棲処《すみか》近くをさまようのがいつものことだったのである。  近寄ったとき、何かある異様な感覚、何かは判らないが時折り感じることのある一種の感覚が胸を掠めたが、こうして向き合ってみると、浮浪者は意外に若く、端麗ともいえる顔をしていた。着ているジャケットもズボンも、痛んではいるが、昔は相当にいいものだったらしい。これは、浮浪者じゃないなと青年は思った。少なくともそこいらに|蓆《むしろ》がけでおカンをしている連中とは違うらしい。火を貸してくれといい出す前に、男は明るい笑顔を見せていった。 「まあ、おあたりなさい」  相手に煙草の一本を献呈し、自分も蹲んで|榾火《ほたび》から火を移そうとして、青年は愕然とした。男は一人ではなかったのである。くろぐろと立っている枇杷の木のうしろに、もう一人が黒い外套を頭からひっかぶったまま横になっているのだった。  その男について問いただすのも憚られるまま、青年はしばらく黙って煙草を吸った。空気はすでに湿っぽく、冷え冷えとあたりを包んでいる。男の眼はかすかに微笑し、青年の若さを値ぶみしているようなところがあった。それでいてその態度は、格べつ不愉快というのでもない。  ——何をしている奴だろう。もしかして墓の番人?  いかにも、そうかも知れなかった。木片だった墓標を石に代えたり、周りを低い|榊《さかき》できれいに囲んだりという仕事は、そこいらの町会事務所などがするより、このての高等遊民まがいの男のほうがふさわしいかも知れない。青年は心の中で、ひとり死者のために唄った。   〜春がくりゃ鶯が    そっと来て啼いてくれようさ    ——おいらの墓場で  それにしても黒外套を頭からかぶったもう一人の仲間が、さっきからみじろきもしないのは、いかにもぶきみであった。青年は長いことそれをいおうかいうまいかと思案したあげく、ようやく吸いさしの煙草を焚火の中に投げ入れると、掠れた声で訊いた。 「眠って、おられるんですか」  男は、ふいに厳しい顔つきで青年を見た。まるで、いまの一と言で何もかも変ってしまったんだぞというほど、その眼にはなんともいえぬ陰惨な光さえ見受けられた。青年が思わず体を固くしたほどの凄い笑いを浮かべると、男はゆっくりとこう答えた。 「なあに、死んだんですよ」  ——そういう世界だとは知らなかった。  とっさに青年の頭を掠めたのは、そんな思いであった。自分自身がもう浮浪の臭いに色濃くまつわられているのだから、その世界とはもうお仲間同士だと安易に考えていたのが、突然手きびしく戸を立てきられたような、自分の甘えを思い知らされる気持であった。恐怖にもそれは近かった。ここからつい眼の先に眺められる、廃墟の中に建ち始めたバラックの履物問屋とか、その向うを走っている焼け残りの市電とか、あるいは川の上の鉄橋を何分おきかに渡ってゆく四輪の電車とか、そこにも人はいるに違いないが、ここでいくら声を限りに呼んだとしても、誰も助けにはあらわれないだろう。  ——見えているものなんか、なんのあてにもならない。  青年がそんな教訓を噛みしめているうち、男はもう元の顔に返って、こともないようにこういった。 「ちょっと、お見せしましょうかね」  男は黒外套に手をかけると、さもたいせつなものを見せるように、そっとその端をめくった。蝋いろの皮膚をした男の顔で、固く鼻を尖らせて眼をとじている、それは明らかに死人の容貌をしていた。一度見せておいてから、またすぐ外套で蔽ってしまうと、男は独り言のように喋り始めた。それは次第に|香具師《やし》の口上めいた熱さえ帯びて、もう一人の男の身の上をこう語ったのである。 「なんでもないことですよ。  ただの行倒れがひとり。べつに珍しいというほどのものじゃありません。  そりゃ、こいつはぼくの友人だった。友達でいながら、こいつが死んでぼくだけがこんなふうに焚火に当っているてえのは、いささか薄情ともいえますが——しかし、いずれにしたってこいつはもうダメでした。寒さだの飢えだの疲れだの、そんなものはなんとでも追払えますけどね、本人の怠け癖ってやつだけは、どうしようもないんです。何をしていても、いっぺん、こう、何か堰を切ったみたいに怠けの虫が繁殖し出すとね、もうそいつに全身を喰い荒らされて、死ぬまでダメ。おまけに無一文の上に無収入。ええ、働くつもりがまったくないし、たまにどこかへ顔と履歴書を出したって、あなた、向うも馬鹿じゃありませんや。一眼見て、結構です。そんなふうにそっぽを向かれちまうんですからね。つまるところは売り喰い。といって焼け出されだから、金にするようなものはありゃしない。しまいには肌着まで脱いで、垢のついたまま売払って、それで酒でも飲むならまだ救われるが、あなた、あつあつのお焼きかなんか買って喰ってるんだ。|生得《しょうとく》、生まれついての下女根性とでもいうんでしょう。  まあいまこうして眼をつぶった仏を前においてなんですが、この顔、ごらんになったでしょう? 顴骨が出っぱって、頬のこけた、みるからに下司で我の強そうな顔じゃありませんか。額が狭くって鼻が大きくって、こりゃあんた、馬鹿の上に欲望ばっかり強い相でさあ。いなくなったほうがお国のため、むろんいなきゃいないでいい男だし、いないほうが、へへ、そりゃずうっと結構てえクチでしょうな。  死んじゃった——んですね、まあ。それだけ、まったくそれだけのこってす。もう少しきれいな死に方をすりゃよかったけど、それがその生得のなんとやらで、死ぬまでダメだったんでしょう。  ところが、おもしろいことがあるんですよ。え、気がつかれなかったかしら、もういっぺんお見せしましょう、この顔。ホラ、いいですか。鼻の大きさ、頬骨の出っぱりかた。どこをとってもこのぼくにそっくりじゃないですか。ホラホラ、このぼくの顔に」  ぴたりと自分の鼻をさしている男は、もうまったく夕闇にのまれて、草を踏みしだきながらふり返ると、燃えさしの榾火だけがじんじんと赤かった。  逃げるように道をいそぎながら、青年はこみあげてくる嘔吐感に堪えた。なんという気違い、と思いながらも、黒外套をかぶって横たわっていた男とたしかに瓜二つだったジャケット姿の男の顔がなまなましく迫り、もしかしたらあれは二人とも死人なのかも知れない、いや、あるいは一人の死人が、自分のみじめな死にざまを人に|嗤《わら》われる先に自分から嗤ってみせたくて、ああして誰かのくるのを待っていたんだという思いに、しだいに強く捉われていた。だから、いまもしもう一度あそこへ帰ってみたら、ジャケット姿の男などはいず、ひとりの冷たい死骸が横たわっているだけではないのかしらん。……  ——おれだったらそうしたろう。  ふいにはっきりした言葉が耳もとでし、青年は慌ててあたりを見廻した。  ——おれだったらそうしたろう。  声は、もう一度、小さく聞えた。  誰かが通りすがりに投げてよこしたようなその言葉に続いて、いくぶん嘲笑めく声がどこかで響いた。  ——あの男はお前じゃないか。  そうすると?  ——そうなんだよ、だからお前は今日初めから奴を気にしていたろう。  そうすると? [#ここから1字下げ] ——そのとおりだ。お前があの男に近づいたとき、すうっと胸を掠めたあの感じを忘れたのか。あれは鏡の前に立ったときだけ、つまり、同じ距離、同じ速度で現われる相手を見たときにだけ感じるものだったろうが。 [#ここで字下げ終わり]  そうすると?  ——判らないかね。もうじきお前もあんなふうにして死ぬのさ。  声は、それなり黙った。  青年が歩いているのは、地下鉄の入口に近い賑やかな通りで、そこももう明るい夜景に変っていた。どろりとしたシチュウや、芋餡の汁粉を並べた人びとの黒い影にまぎれこもうとしながら、青年は愕然と立止まった。またしても生者の群れに戻ろうとする自分が、そのときたまらなく愧ずかしいものに思えたからである。青年の頬に、しだいにある得体の知れぬ微笑が昇り始めた。……  ………………………………………………  いかにもその青年はそこから唇を結んだまま足早やに引き返した。土気いろに鼻を尖らせた死者がひとり。その死の卑少さ無意味さをわれから述べ立てている亡者がひとり。それを教えられながらなお灯の下を歩もうとする生者がひとり。三人はすべて短い時間を隔てた同一人にほかならず、当然離ればなれに過すことは許されなかったからである。ここでいいたいのはこの話にあらわれる地上の川のことで、いまも確かにくろぐろと流れ続けている地表のそれさえ、条件が整えば容易に冥界へもあるいはこの夢魔の館へも通じる神秘の川と変じ得るそのことだ。ああ柚香、もうわれわれが何を望み何を希ってこの便りを書き送っているか察していよう。ためらうことはない、深見がもっとも愛したあの灰青色の衣裳をまとって虚空に身を躍らせるとき、われわれはふたたび倶に棲み倶に眠ることができるのだから。        ∴ 「お待ち下さい、皆さん」  サロンの客が手紙を読み終えるのを見すまして、木原直人は前に進み出た。 「今日でようやく犯人が何を考え、何を企んでいたかがはっきりしたようです。これじゃまるっきり自殺を教唆していると思うほかはない。柚香さんは犯人の注文どおりそんな青いアフタヌーンを着こんで、隅田川へでも身を投げるおつもりなんでしょうが、いいですか、この手紙の意図は初めから深見君の死因を探るなんてことじゃない、柚香さんを死に追いやるためのものだったんです。幸い藍沢家でこうしてサロンを開いて、次々手紙を公開なさったから、愚かな悲劇は未然に喰いとめることが出来ますが、そうでなく柚香さんが一人でこれを読み続けていらしたら、まちがいなく後追い自殺をとげていらしたでしょう。  深見君と水島君がどこに失踪したかは、ぼくも知りません。今日あいにく瑠璃夫人の御勘気を蒙って来ていませんが、あの野口が最初にいい当てたように、二人はおそらく一種の心中をとげたのでしょう。たぶん深い雪山へ姿を隠して、絶対に死体が見つからぬよう心を配ったとすれば、この先いくら捜索を続けたとしても行方は知れようがない。ただその二人の死に、眼も眩むような嫉妬を覚えた人間がこのサロンの常連に、つまりいまここにいる皆さんの中に確かにいた。それがすなわち犯人です。  犯人が二人のうちどちらを愛していたか、それは判らない。二人ともたぐい稀れな美青年でしたからね。しかしとにかく二人は死んでしまったとなると、取り残された犯人はたちまち錯乱した。生前に二人が愛していた柚香さんまでを、どうしても死に追いやらずには気が済まなくなった。それもこうした公開の席で、じりじりと追いつめる形でその美貌の痩せ衰えてゆくのを見守るという仕打ちを考え出したのです。水島君の手紙と称するこれらを、まさか正式に筆蹟鑑定までする筈はない。そこでよく似た手蹟の人間を探し出し、深見君の死因を探ると称して次第に柚香さんを自殺するよう仕向けてゆく。そんな心情を持つ犯人といえば、もうお判りでしょう。誰よりも二人を愛していた志つ加工房の石塚さん、でなければ深見君の裸像を描き続けていた能登さん。お二人のどちらが主謀者かは御本人の口から聞かせていただきましょうか」  だが、そうして面と向かっての告発を受けながらも、石塚は顔いろひとつ変えずにこうやり返した。 「ずいぶん早とちりの探偵さんだこと。貴方の推理はただもうこの手紙が水島君の|筆蹟《て》じゃないという仮定で出発しているんでしょう。どうぞどこへでも持出して調べておもらいになったら、どう。それでもしこれが本当の水島君の字だとしたら、結論はひとつ、かれはまだ生きていて、深見君を喪った狂乱のあまりに柚香さんまでをアケロンならぬどぶ泥の隅田川へ放りこもうって算段をしてるとしか思えないじゃないの。あたしは|最初《はな》っからそうにらんでいたから、ずいぶん妙なことをするもんだって、おなかで笑ってたくらい」  初めに名が出たときは、思わず身構えるほどに直人を|睨《ね》めつけていた能登も、ようやくおちついた表情に戻り、沈んだ声でいい出した。 「いかにも私はこよなく深見君を愛してはおった。愛したことで犯人扱いされるというなら、喜んでその名誉をお受けしますがな、しかし真筆でも贋でもそれはかまわん、もっとも強い愛がこの手紙を書かせたというなら、ここにはもう一人、その動機をお持ちの方がおられるようですな」  その言葉の終らぬうち、立ち尽していた柚香が、ふいに音もなく床に崩折れた。駆け寄る瑠璃夫人の手の中で、灰青色の服は|季《とき》ならぬ水いろの紫陽花が花開いたようだった。  直人はふたたび頭を垂れた。気を失っている柚香が、塔屋で果てた父の狂気を受け継ぎ、次第に妄想をつのらせたあげくのことなのか、石塚がとぼけているのか、それは判らないし、もうそれはどちらでもよかった。�犯人�を強いて求めるとすれば、それは次々とこの客のうえを移って、ついには自分に帰るほかないであろう。能登が言外に匂わせたように、男をも女をも誰一人愛したことのない者こそその名にふさわしいことをあらためて思い知ると、直人は静かにサロンに背を向けて歩き出した。 [#改ページ]    大星蝕の夜   藍沢柚香のなかで何かが変ったのは、その婚約者が不慮の死をとげた、あの事件のせいではない。それより遥か前、ある年の四月に日本へ来た、ミロのビーナスを見てからのことだった。それは期待や評判とまったく異なったものを彼女の心に植えつけ、急速にそれを発酵させた。あるいはその美の一撃が、久しく眠っていた暗い魂を激しく揺り起こしたのかも知れない。柚香はまだ女学生で、学校からも引率で見に行くことになっていたが、それには初めから参加するつもりはなかった。よけいなお喋りしか知らず、ビートルズの噂なら誰よりも詳しい癖に、美についてはことにも鈍感な生徒たちと長い行列を作り、たった一基、ポツンと置かれている彫像を眺めたって何になるだろう。 「まあ、どうかしら。江戸時代に象でも来たような騒ぎ」  柚香は心の中で、世間の反応の仕方をこう嗤った。実際、会場へ行ってみると、季節がら修学旅行らしい生徒がごった返し、入口にはメガフォンを持った若い男が見世物の呼びこみめいてどなり続けているのにも心は冷えた。中では古代ギリシアの曲を復原したとかいう音楽がスピーカーからうるさく流れ、柚香は頭をふった。 「本当はこんなところで見ちゃいけないんだわ。天井に靴音だけが響くルーブル美術館の特別室で、|海緑色《ベルマレエ》の台座にひっそり立っているのを一人で見る筈だったんですもの」  だが、その像を最初に一瞥したときから、そうした思いはたちまち遠のいた。入場者は初め高い処へ導かれていくつかの窓から見おろし、次第に下へ降りて最後に広場から像を見上げるようになっている。その広場の中央に、ビーナスは意外に小さかった。それは笑っていた。優しい微笑ではなく、不敵な笑みを浮かべていた。窓のひとつを廻るごとに袖香の眼には、女神像ではなく、ひとりの猛々しい剣士が映り始めていた。 「なんという、嘘!」  これまで教科書でも美術書でも、これこそは女性美の典型と讃え、なだらかな腹筋だの着衣の|襞《ひだ》の微妙さばかり説かれていたけれども、そんな評価は現代という品下った時代の男性が勝手にする臆測にすぎない。その思いは、下へ降り立って見上げたとき、ほとんど確信に変った。そこに聳えているのは決して世にいう女性像ではなく、鋭い猛禽に似た何かだった。檻の中の鷹や鷲が、人間どもには眼もくれず、ときおりチラと遠い青空へ視線を走らせる、望郷の思いをこめた一瞬の眼の輝きさえこの像は持っていた。 「女神というなら美の女神じゃない、勝利の女神に決まっているわ。絶対に、そう」  ビーナスの口辺に刻まれた微笑は変らなかったが、それはいま海と群集とを足下に見下し、無言の雄弁によって人々を納得させ|慴伏《しょうふく》させ得た、この上もない冷やかな微笑であった。左足をわずかに踏み出したその姿態は、まぎれもない剣士のものであって、無残にもげた左手の先に何が持たれていたか、これまでにもさまざまな推測が試みられているが、かりにそれを盾とし、右手には剣があったとしても不思議ではない。そして柚香は、あるいは柚香だけが、そこにもう一つの欠落した何かを発見したのだった。  その日、家へ帰ってから一週間、ふしぎな熱病が彼女を襲った。十七歳の少女にとってその発見は、あまりにも強い衝撃だったのかも知れない。母の瑠璃夫人も医師も、ただおろおろと病床に反転する少女を見守るばかりであった。体温計はいたずらに高かったが、柚香の意識は覚めていた。一度�それ�に気づいてしまうと、こうまで何もかもいっぺんに明らかになるのか、見てはならぬものを見、知ってはならぬものを知った思いだけが、肉体の熱を駆り立てていたのである。 「海の泡から生まれるのがアフロディテですって? あの像だって土から掘り起こされたのに」  病室に誰もいなくなると、柚香は眼を見ひらいてひとり呟いた。 「ミロのビーナスが農夫の手で、メロス島の畑の中から掘り出されたのがいい証拠だわ。女性こそ大地の産物なんですもの」  反対に、その名にふさわしいポセイドン像や、アンティキュテラの青年像など多くの男性像が海の底で発見され、そこから拾いあげられたように、海の泡から生まれるべきものは女性でなく男性かも知れないという思いが柚香をおどろかした。とすれば胎み、産み、育むべき女性が大地から出現するのは当然であろう。それこそは母性の象徴なのだから。そう気づくと、ジャン・コクトオが『オルフェの遺言』の中で、海の泡から生まれた青年に導かれ歩む詩人を、生涯の夢とも理想ともしてみせたように、柚香もまた早急にその青年を探さなければならなかった。  あいにく青年はいなかったが、手近なところに早宮秀樹という二歳年下の少年がいて、みるからに思春期特有のうるんだ眼と仄白い頬を持ち、本人も早熟な詩を書いているが、何より柚香に渇仰というに近い気持を抱いているのが手ごろだった。 「熱が引いたら、早速あの子に案内役をさせなくちゃ。それとも反対かしら」  ベッドの上で、柚香は奇妙な微笑を洩らした。これまでも二人が共有する空想の世界に、他愛もなく手を引かれて歩み入るのは秀樹のほうで、柚香が語り出す�街�の物語に、たちまちかれは溺れた。�街�というのは、二人の空想で次々と作られてゆく夢の|棲処《すみか》であり、いまのところ住人は柚香と秀樹しかいない。 「さあ、神聖な街の大工さん。今日もけんめいに働かなくちゃダメよ」  いつもの広間で、女王のような微笑みを浮かべた柚香がそう告げると、正面のやや離れた椅子に騎士然と坐った秀樹は、もう息のつまる思いがしてくるのだった。 「あなたのいない間に、あたくし、また一つ街を作ったわ。そこは星の街なの。青いのや銀いろのや、血のようないろをした星がいっぱいあるんだけれど、満月の夜になるとその光があんまり強いんで、星はぜんぶ消されてしまうのよ。星を甦らすためには、あなた、何をすればいいと思って?」  秀樹はひととき長い睫毛を羽のように動かし、それから正確に答える。 「ぼくが昇天すればいいんです」 「そのとおり。でもこの街では自殺は許されていないの。必ず誰かの手が直接触れて、咽喉を締めるなり心臓を|抉《えぐ》るなりしてくれなければ、お星様にはなれないからなのよ。だとしたら、どうなさるおつもり」 「お姉様の手で……」  秀樹は、二人きりの時にだけ許されている呼び名を掠れた声でいった。 「あたくしは駄目」  にべもないように首をふると、 「だってその街では、赤の他人に殺されなくちゃ星になれないんですもの。そうね、じゃこうしましょう。もう街もだいぶ建設が進んだから、そろそろ人をいれましょう。凛々しい少年たちがいいわね、白虎隊みたいな。それからその少年たちを誘惑して堕落させるための娼婦も大勢いるわ」 「娼婦って、あの……」 「そうよ。アイシャドーで凄まじい|隈《くま》を作って、口紅を毒々しく引いた女たち。腰をくねらせて流し眼を送って」 「いやだ、そんなのはいやだ」  秀樹はほんとうに躯をふるわせた。 「お姉様と二人きりの神聖な街に、そんな……」 「いいえ、これは試練なのよ」  どんな小さな怯えも見逃すまいとするように眼を凝らして、柚香はまじめに告げた。 「だってあたくしたちの建てているのは、いずれは硫黄の火で焼かれなくちゃいけない、ソドムやゴモラのような街なんですもの。でも御安心なさいな。街には娼婦のほかにあなたの仲間がいっぱいいるわ。さあ早く誰か相手を探すのよ」 「ええ、でもぼく……」 「駄目」  きびしくいい渡しておいてから柚香は、秀樹の好きでたまらない、とっておきの笑顔を見せた。 「でもね、その少年たちも町の猥雑な空気に堪えられなくて、皆な死のうと考えるの。日蝕や月蝕と同じ大星蝕の夜が来ると、皆なも自分が星になろうとするのよ。嬉しそうに、顔いっぱいのほほえみを浮かべて、それぞれいちばん好きな相手と刺し違えて死ぬの。でも、もうお判りでしょう、秀樹さん。あなただけはいつも奇数番ではみ出してしまうんだわ」  あとはいつものように秀樹の涙を見ながら物語をしめくくればよかった。この不倖せなはみ出し野郎のために。 「街には次から次に純潔な少年や若者たちがやってくるけれど、あなたはいつも奇数の|剰《あま》り者で、誰も相手はいない。暗い娼家の軒下を歩くのは、あなた一人なんだわ。でも大丈夫。あなたはその死者たちの残したほほえみを拾い集めさえすればいいの。ポケットにいっぱいに詰めて、両手にも捧げ持って、そうすれば一人でも天に昇れてよ」  秀樹は涙に濡れた頬をあげ、むりに笑おうとした。 「さあ、その前に、いつものように詩を一編残さなくちゃ」  少年の眼はふいに鋭く輝き、不敵な光さえ宿す。それを見るのが柚香にはこころよかった。  まぎれもない、いまこの私は少年のミューズなのだから。 [#ここから3字下げ] 死よ 香ぐはしき星よ 汝がまたたきの深みに降り 汝が光の臥処に休らはんを 死よ それまでは青くあれ [#ここで字下げ終わり]  たちまち少年は紙片にそう記した。柚香は口の中で確かめるように何度か呟き、おしまいの二行が特にいいと賞めてから、ちゃんと名前を書いてと促した。少年は勢いよく署名した。  ミロのビーナスの衝撃でひどい熱を出している間、柚香がうつらうつら考えていたのはその紙片のことで、そのほかにも習作ふうな散文などが残されているけれども、それはこの際、焼きすてておいたほうがいいかも知れない。柚香の胸は期待にあふれ、少年の才能は痛ましいほどいじらしく思われた。  少し元気になると柚香は電話で少年を呼び、しばらく逢えないこと、秀樹一人でミロのビーナスを見にゆくことを命じた。 「秀樹さん、あなた、あたくしのことをよく日記に書いたりするの」 「ううん、そんなことないよ」  少年は口ごもった。 「いいえ、書いてもいいの。でも変に具体的にお姉様がどうしたこうしたなんて書いたりはしないでしょうね。誰かに見られでもしたら、もう二人の街もおしまいよ。……ちょっと、聞いているの? あたくし、変なことを人からいわれたの。大丈夫だとは思うけど、具体的にあたくしの名前を書いたものなんかあったら、すぐ全部焼き棄ててちょうだい。これは�命令�よ」  その言葉にどれだけ秀樹が弱いかを、柚香はよく承知していた。これからの計画が少しでも地上の俗物どもに誤解されることのないよう、あらゆる注意を払っておかなくてはならない。 「ミロのビーナスを見てきたら、あなたにだけ大事なことをお話してあげるわ。本当の女性の秘密を、ね。ですからようく見てくるのよ。ことに、ホラ、あのビーナスは両腕がもげているでしょう。その両手がもしあったとしたら何を持っていたか、どんな恰好をしていたかも考えといて。判った?」 「判りました」  少年はおとなしく答えた。 「それからもうひとつ、あたくし、あの像に大変な発見をしたの。両腕ばかりじゃない、とっても大事な部分が落ちているんだって。それも考えてみてちょうだいね」  四月の末になって秀樹は、ようやく待ち焦がれていた指示を受けた。決して行先を告げずに家を出て、夜の十一時に、ある駅の改札口までくるようにというのだった。少年がいわれたとおりに待っていると、ふいに妖艶な顔が笑いかけた。黒ずくめの服を着た柚香で、その化粧は思わずたじろぐほどに大人っぽかった。 「びっくりしたでしょ。お友達んとこで着替えてきたの。お化粧もそこのお姉さんにしてもらったのよ。少しここんとこ、濃すぎるかしら」 「いいえ、でも……」  眩しすぎるとしか秀樹にはいうことができない。それと同時に新しく志望どおりの高校に入ったとはいえ、いつものとおりの学生服の自分が、この上なくみすぼらしい、稚い生物に思えた。 「おうちにはなんていって出ていらしたの」 「べつに……。高校へ入ってから、うるさくいわないんです」 「そう」  柚香はそれでも疑わしげに、しろしろ[#「しろしろ」に傍点]と秀樹の周囲を見渡した。 「この近くにとってもいい場所を見つけたの。大事なお話をするのに、喫茶店なんかじゃ、ざわついてていやでしょう」 「ええ、まあ」 「こっち」  角を曲って、ふいに大きな新築のビルの裏手に出ると、柚香は身をかがめて小さな石ころを拾い、うしろを向いたままいった。 「このビルはね、下がスーパーで上がマンション。でもまだほとんど人が入っていないから、大丈夫。屋上の眺めがとってもいいのよ。こっちから行きましょう」  大胆に非常階段の鉄柵に近づき、鍵もかかっていない低い扉をあけると、柚香はすばやく周辺に人影のないのを見すまして秀樹を促した。鉄の階段は星空へ向いて限りもなく伸びているようだった。跫音だけが夜気に昇った。  屋上に立って二人はしばらく満天の星を眺めた。柚香の躯は少し顫えていた。少年だけはまだ今夜が聖なる大星蝕の夜だと知らないのだ。…… 「夜風が気持いいこと。ところで、考えてきた? ミロのビーナスが両手で何をしていたか」 「ええ、まあ。でもよく判りません」  秀樹は言葉少なだった。 「あたくし、我慢がならないのよ。どんな御本を見ても、あの右手はつつましく裳裾をつまんで、左手は掌にリンゴを載せていたなんて書いてあるでしょ。そんなの、不潔な見方だと思わない? 女と見ればただもう優しいとかつつましいものと思いこむのは、あのビーナスを娼婦みたいに見ようとする大変な冒涜よ。あれほど猛々しい像をなんだと思っているのかしら。あのもげた両腕にあったのは、まちがいなく剣と盾だし、女性の本質ってほんとうは猛々しい威厳にあるの。粗野な暴力じゃない、優雅さを兼ねそなえた威厳。ですから逆に男性の本質は純潔とかはにかみにある筈なのに、現代ではまったくそれが逆になっているんですもの。どんなにいまが野蛮な時代か判るでしょう」  柚香は自分の言葉に酔っていた。秀樹もまた、一夜を変身した黒の女神の傍に立ち尽し、凝固したように動かなかった。 「ああ、もうあの時代を取り返すことは出来ないのかしら。緑のオリーブと無花果と、紫に泡立つ海とは返ってこないのかしら」  柚香の嘆きに、秀樹もまたようやく熱っぽい囁きに似た言葉をいった。 「教えて下さい、ぼくにも。ミロのビーナスから失われたもう一つのものって何ですか。もし、ぼくが教えるのに値いするなら、お願いです」  ふいに柚香は軽々と屋上の一部に走り寄った。工事の遅れか、そこだけは防護網がついていない僅かな隙間から低い石垣の上に立つと、艶然と秀樹をふり返った。 「それはね、翼よ。左の肩から生えていた大きな翼。こうして空を飛ぶための」  両腕を翼さながらに拡げ、いまにもそこから翔び立とうとする姿勢に、秀樹もまた夢中で走り寄った。 「大丈夫。あたくしには翼があるの。それからあなたにも」  柚香は優しく身を屈め、秀樹のいちばん好きな笑顔になっていった。 「ねえ、選ばれた人間にだけは、見えない翼があるって考えたことはなくて。物理学なんて卑しい学問のおかげで、あたくしたちまで空を翔べないように思いこんでいるけど、それは信念が足りないからなの。ここに立っておなかの底から深呼吸して、そこから星空を全部自分のものにするまで見つめて、そう、いまこそ翼があるんだって判るでしょう。そっと眼を閉じてごらんなさい。そのまま星に向かって旅立てば絶対に飛べる筈よ。それでいいわ。ええ、そうやって深呼吸して」  話しながら柚香は巧みに少年と入れ変り、下から優しい微笑を崩さずに畳みかけた。 「どう、ちゃんとあなたの肩に大きな翼があるのが判るでしょう」 「ええ、判ります。とても強い翼です」 「そうっとそれを|羽撃《はばた》かせて、ええ、そう、あたくしのももうこんなに大きく動いてるわ。さあ、あなたが先へ飛ぶのよ。あたくしたち二人で作りあげたあの聖なる街へ行くために。よくって。あたくし、もう待てないくらい」  柚香はほとんど息をつめていた。この豊かな詩才を持った少年を、いまミューズは本当に天の高みへ送り届けようとしている。神も必ずこの魂を嘉納されるだろう。熱病にうかされながら柚香の考え続けていたのは、まさにこの一瞬の法悦であり、あとはあの、    死よ    それまでは青くあれ  という二行を含む署名入りの紙片を、さっき拾っておいた石ころでこの屋上に飛ばないよう押えておけばいい。ここの真下はスーパーの横の空地だから、物音にさえ気づかれなければ、感傷的な高校生の自殺死体が発見されるのは明日の朝になるだろう。あたしはさっきの非常階段を誰にも気づかれぬよう降りて、報告を待ち構えている友達の家へ化粧を落しに帰るだけだ。 「どうしたの? さあ、一緒に翔びましょうよ」  柚香はできるだけ優しく、尖った声にならぬよう気をつけながら促した。 「ええ、いま翔び立つところです」  少年はふり返った。星明りに光る涙をふり払うようにして柚香を眺め、宙に身を躍らせる前に一言だけこういった。 「さようなら、星の街の娼婦さん」 [#改ページ]    ヨカナーンの夜  Nonはふしぎな微笑をたたえた少女で、Rueはその白い頬をみるたび、うすいガラスのエレベーターを思った。花は、その透明なエレベーターにのせられて、音もなく頬を上下するのである。銀とうす紅の花・淡緑の花・焦茶いろの花。微笑は花束からこぼれ落ちた固い花びらで、手品師が虚空からいちまいの銀貨をつまみ出すように、Rueはその微笑を摘みとり、指先に挟んでしばらく眺めてから、それを口に抛りこんだ。口中でそれは香り、小さな固型の粒になって咽喉の奥にころげこんでゆく。と、Nonの頬には、もう静かにべつのエレベーターが昇りはじめていた。 「あたくし、あなたの考えているほど�聖少女�じゃないわ」 「そうだった?」 「そうですとも。ね、あなたにあたくしの脳髄のスクリーン、貸してあげましょうか」  そういってNonは、むかしの無線技師が頭にはめこんでいたレシーバーをはずすように、それを脱いでRueに渡した。仄かな温もりがRueのこめかみに伝わり、スイッチをいれると、Nonが好んで空想するその場面が、いきいきと動き出した。 「ああ、本当だ。やっぱりきみは、残虐に血を流すことが好きだったんだね」 「残虐って、なあに?」  Nonは小さなあくびをすると、眠りに入るための水いろのボンボンを口にいれた。すぐに安らかな寝息をたて始め、透明なエレベーターはその頬で静止した。花たちはたちまち萎れ、Nonは貧血した少女のように動かない。その寝顔を見守りながら、RueはNonの残した空想の続きを追った。白銀の甲冑に身を固めたNonがまたがっている茶褐色の、顔の長い|鬣《たてがみ》のある獣はなんという名だろう。手にしている長い剣が西陽に煌くたび、Nonの周りにむらがる半裸の兵士は血しぶきをあげて斃れる。血は噴水のように夕空に散って、兵士たちはゆっくりのけぞってゆく。  僧院で育ち、聖歌隊のメンバーに加わったばかりのRueには、それが古代の戦いを模したらしいというほか、まったく理解できない眺めだったが、Nonのいうとおり、これは残虐なんかとは無関係だという思いはしだいに強まった。なぜなら、兵士たちは進んでNonの周囲にむらがり、聖なる祝福を求めるようにしてNonの剣の下に集まってくるのだから。  さしのべる両腕。草のサンダルを巻きつけただけの両脚。短衣に蔽われた腰。むかしの人間たちはこんなに大きく、力強く、こうまで筋肉を光らせていたのだろうか。そのまったく無用な肉の逞しさは、たぶん彼ら自身の縛めの縄なので、Nonの剣の一ふりは、つぎつぎそれを切り落し、解き放ってやっているとしか思えない。だからこれは�残虐�などではない、反対に�愛�そのもの�優雅�そのものなんだ。……  ………………………………………………  早宮秀樹が書き遺した、散文詩とも未来小説ともつかぬ文章をそこまで読むと、藍沢柚香は仄白く笑って顔をおこした。確かに才能はあったに違いない。少年にしては出来すぎ気がつきすぎている。だからこそ柚香はかれを星に還さずにはいられなかった。 「文学少年、飛降り自殺」という小さな新聞記事で事件が片づけられてから、もう数年が経つ。初めは書いたもの全部を焼き棄てておこうと思ったが、あえてこれだけを手許に留めたのは、少年の長い睫毛を偲ぶよすがが欲しかったのと、後半に柚香の意を受けて書いた、生首の宴の記述があるからだった。Nonというのは、むろん秀樹のひそかな渇仰をあらわした柚香への呼び名である。  ………………………………………………  ……Rueはスイッチを切ると、自分の脳髄スクリーンとかけ替え、Nonの眠りに向けてビームの出力をあげた。  眠りのなかでは、またあの酒宴が開かれようとしていた。そこではもうNonは、白銀の甲冑を脱ぎ、この城に並ぶ者のない美しい姫に戻ろうとしている。多くの侍女に囲まれながら浴みをし香をふり、長い時間をかけて化粧をし衣裳を選ぶ間に、今日の戦いで剣の下に斃れた敵の兵士のうち、とりわけて眉目の秀でた若者だけが選ばれてつぎつぎ首を|刎《は》ねられてゆく。あるいは捕虜の中からでも、眼に適った者だけは特に刎頸を志願することが許される。彼等ばかりではない、時として味方の兵士さえ喜んで首をさしのべようとするのは、Nonの国の生首処理の技術が大そう進んでおり、生前さながらに涼しげに眼をみひらき、血のいろも美しい頬に微笑みを絶やさぬ秘法が久しく伝えられているせいであった。一度そのみごとな仕上りを見せられると、何を措いてもこうありたい、生首になりたいと念じぬ者はいなかったのである。  酒宴の席にそれは欠かせぬ馳走であり、ことにも大きな玻璃の器に一つずつ置かれた若者の首は、燭台の灯に一際映え、王女や宮中の選りすぐった美女たちの前で、いっそう倖せな微笑を深めた。その|靨《えくぼ》を浸すほどに珍らかな酒が湛えられ、長い柄のついた銀の杓子で銘々の盃にとりわけられると、その夜の客の舌の上には仄かな血の味が沁み渡った。それはただちに、今日の仄明るい夕されどきに噴きしぶいた血の噴水を思い出させ、客たちはひとしきり合戦の模様を語り合って打ち興じるのであった。  夜気は花の香とともに|立罩《たちこ》めたが、姫は、まだ現われない。……  ………………………………………………  三年前、秀樹にこう書かせた以前から、柚香はどうしても一度、本当の生首パーティをやってみたいと念じていたのだが、今日こうして読み返していると、その願望はいよいよ昂じて息苦しいまでになった。二十歳を迎えた柚香の美貌はただならぬもので、崇拝者の中には持ちかければ幾人かは生首志願者も現われるだろうが、あいにくNonの国と違って、それをさながら生きているように保存する技術は現代にない。死首に白粉を刷き、紅をさしてもグロテスクな死相は消えないだろうし、第一それでは玻璃の器、現代ふうにいって巨大なパンチボウルの底に据えて、酒とともに楽しむわけにはゆかない。 「なんてことかしら」  柚香は心に呟いた。 「どんな未開の蛮族でも、大昔からミイラの乾し首はりっぱに作ってみせるというのに、現代の科学ときたら、なんてまあ役立たずなんでしょう、美しい生首ひとつ作れないなんて!」  柚香はうっとりと空想に耽った。その技術が進んで、頬艶のいい若い生首がいつまでも眼をあき、靨を絶やさずに冷蔵庫の中へ蔵っておけたらすばらしいのに。パーティでも、あるいは深夜独りでもそれを取り出し、照明を美しく工夫したパンチボウルの中にいれ、ひたひたに香り高い果実酒を注ぐ。そのとき切り口の封印は少しほどけて、僅かばかりの血が流れ出るようにしておかなければならない。掌に掬って飲んでもいい。塩はゆい血の味と南国産のフルーツの香りとがほどよく融け合ったその酒でなら、本当の酩酊を味わうことが出来るだろう。  柚香の頬は紅潮し、髪は苛立たしく額に乱れた。この生首パーティはどうあっても実行しなければならない。さしあたって助手がひとり必要だが、それは早宮秀樹を星の街へ飛翔させるとき手伝った友達——篠原真矢を措いてない。いまは美術学校の彫金科に通って、男のような口のきき方をする、ただし柚香のいうことには逆らったことのない便利な存在だった。 「そりゃ無理ってもんだ。SFや怪奇映画じゃあるまいし、ちょん切った生首だけが眼をあいて笑ってろたって、そうはいかないよ」  柚香の提案を聞くと、珍しく真矢は、つけつけと反対の意見を述べた。 「ですから、ちょん切らなくてもいいのよ。生きたまま首だけをパンチボウルの底から突き出させる方法って、何かないかしら。ホラ、昔の見世物小屋によくあったでしょう、台の上の首だけが笑ったり喋ったりする、あんな仕掛」 「ああ、サロメの卓って鏡張りの奇術だね」  真矢はそこでザラ紙を持出し、慣れたようすで図を描いてみせながらいった。 「パンチボウルじゃ、どうしたって無理だ。底を首廻りに合せてうまくつなぐってことが難しいし、第一まだ生きてるとなりゃ、お酒を鼻から上まで入れるわけにはいかないよ。唇だって浸けられないとなると、ね、こんなふうに底のほうにちょっぴりしか溜らないじゃないか」  真矢はいそがしく鉛筆を動かして生首の周りを塗りつぶした。 「電気スタンドの笠みたいなものをひっくり返しにして、首にはめこんだって詰らないだろ。だから、こうしようよ。ガラス工芸社に特別に頼んで、厚い丸火鉢の胴みたいな酒の器を作って貰うのさ。むろん胴だけで真中の底のない奴。顔の正面の部分があいててもいいけど、それじゃまるで西洋便器だから、ぐるりと囲んじまおう。それをサロメの卓に載っけて、照明をうまくすりゃ、結構気分が出ると思うよ」  喋りながら出来上がってゆく図を、柚香は冷やかな顔で見守っていたが、やがてこういった。 「イメージとはだいぶ違うけど、まあ仕方がないでしょう。それはいいとして、その夜のヨカナーンには誰か心当りがあって? 四時間でも五時間でも箱の中にじっと坐って、あたくしが顔を見せたときはいつでも嬉しそうに笑ってくれる子でなくちゃ。それもバプティスマのヨハネみたいな、むさくるしいのは、いや。喰べ物といったら蝗と蜂蜜の代りに、あたくしが額にするキスだけで満足する、清潔な感じの子がいないかしら」 「いる、いる、ぴったりなのが」  真矢は自信ありげに笑った。 「こないだ一度連れて来たけど、気がつかなかったかな。とんと『太十』の十次郎みたいな顔の癖に、胎内願望の強い子だから、箱ん中でじっとさせとくなら持ってこいだ。あんな気品のあるプリンセスはみたことがないって柚香にはいかれ放しだったから、いえば二つ返事で飛んでくるさ」 「そんな子がいたかしら」  柚香は仄かな眼づかいをした。  |杉山隆史《すぎやまたかふみ》というその青年は、そのころはしり[#「はしり」に傍点]のアングラ劇団に所属し、京都の在から家出してきて、係累がいっさいないというのも気にいった。どういう家系の突然変異か、横笛と小太刀に秀でた公達か若武者といった蒼白な面立ちで、切れ長な眼が冴え冴えとまたたく。純白の狼を思わせる歯も眼を引いた。改めて紹介されると、顔を伏せて、よくものもいえないというふうだったが、ヨカナーンの首の役と聞かされると心から喜色をあらわにし、かまわないから本当に首を切って、すてきに大きい銀盆の上に載せて下さったら、どんなにすばらしいだろうという意味のことを呟いた。  準備は着々と進んだ。サロメの卓も、それを匿す厚手な|天鵞絨《びろうど》の垂れ幕も新調して届けられた。舞台と違うから、客が酒を酌むために前までくれば、いやでも脚が映って仕掛はすぐ見破られるだろうが、それはこの際仕方がない。別誂えの円型の工芸ガラスは、酒を容れる部分が相当な幅をとってしまうので、やはり顔の前面の部分はあけられることになった。照明は酒の色を引き立てるためにも、思いきって明るい薔薇色と決まった。これなら杉山隆史の血の気のない顔も、生き生きと輝くことだろう。客は気心の知れた女性ばかりとし、半裸体の兵士、もしくは小姓の役としてなら男性も参加できることにした。  しかし、日が近づくにつれて、柚香はしだいに心楽しまぬ顔になった。もともとが巨大なパンチボウルの中に、生きているとしか思えぬ青年の首をいれ、かすかな血の味とともに酒を楽しもうという趣向が、こうまで変型されたのでは嬉しい筈がない。さらにもう一つは、隆史という若者が、見かけや容貌は完璧を極めながら、内実は女性一般に他愛もない憧れを抱いている程度と見極めがついたせいもあった。柚香が選んだ以上は、柚香にだけ心身を捧げる誓いが欲しい。なんべんかのリハーサルをくり返しながら、柚香はそろそろとそのへんに探りをいれるつもりで、こうもちかけてみた。 「よくって? あなたは井戸の底に捕えられたヨカナーンで、あたくしがサロメ。でも、御存知かしら。サロメっていうのは、本当は淫奔な妖姫でもなんでもない、つつましい人妻だったのよ。それが聖書にあるとおり、母のヘロディアスにそそのかされて、ヨカナーンの首を求めることになるんだわ。あたくし、それが恐いの。パーティの夜にも、母はきっとあなたとあたくしの仲を嫉んで、同じことをいい出すに違いないんですもの。首をちょん切っておしまいって。もし、本当にそうなったらどうしましょう。あなたの、こんなにも青白く燃えている美しい首を、皆の前で切らなければならないとしたら」  台の上に首だけ出し、サロメの卓に箱詰めになった隆史は、やつれたような微笑を浮かべ、予想どおりのことを答えた。 「かまいません。ぼくは初めてお会いしたとき、瑠璃夫人をあなたのお母様だなんて思わなかったんです。お姉様だとばかり思っていました。こんなにも美しい母娘の方がいらっしゃるなんて、いまでも夢のようだ。そのお二人が、もしぼくの首を、首だけを愛して下さるのなら、こんな晴れがましいことはありません。どうか、瑠璃夫人が首をとおっしゃったら、そのときは本気で、ひと思いにスパッと切って下さい。でも、ただ……、ただそのあとで、必ず約束していただけませんか、そのあとで瑠璃夫人と柚香さんが、こもごもぼくの首にくちづけして下さることを……」  箱の中で隆史は身悶えし、できるなら両手をさしのべたいというほどのふぜいであったが、柚香の眼はたちまち光った。母を持ち出したのはへロディアスから思いついた偶然にすぎないが、たとえ母であっても、それへ自分と同格の渇仰を惜しまぬ青年の無神経は許せなかった。それに、初めは確かにおとなしい、清潔なタイプを望んだには違いないが、自分から殺してくれといい出すヨカナーンというのも興醒めで、これではせいぜい、若いシリア人ナラボスの役処でしかない。 「それは違うのよ、隆史さん」  柚香は優しい声でいい聞かせた。 「母にでも誰にでも、絶対にあなたは渡したくないの。ねえ、判ってちょうだい、そうやって箱に入っているあなたが、あたくしはいちばん好き。なんべんでもこうしてベエゼしたいくらい」  いきなり両手で頬を挟むと、額にも瞼にもかまわずキスの雨を降らせた。 「もうパーティなんかで、あなたを人に見せるのは、いや。お願いだからそうやって箱に入ったまま、いつまでもあたくしの傍にいて下さらない? あたくしの傍だけに。その代り、なんでも好きなことをしてさしあげてよ」 「本当ですか」  青年は他愛なく眼を輝かせた。 「入っていますとも。一生入っていますから本当にお傍へおいて下さい」 「約束するわ。これが約束のしるし」  隆史の唇へ、ほとんど一滴の飛沫がかかったほどの感触で、柚香の唇が触れた。それからドードーナの森の巫女めいた眼が、正面から見つめて、おごそかにいい渡した。 「誓ってちょうだい。一度劇団に帰って、あとくされのないよう退団するの。むろん郷里にもどこにも、うちへ来るなんて一言でも洩らしちゃ駄目。この地上といっさい縁を切って、それから改めて来るのよ。約束できて?」 「むろんですとも」 「そう、それならその間に、あなたのお部屋を用意しておくわ。うちには誰も足を踏み入れたことのない開かずの間がいっぱいあるの」  一度隆史を帰してから、柚香の活躍はめざましかった。突然にパーティの中止を聞かされて真矢はだいぶ憤慨したが、それでもいわれるままに隆史の新しい�お部屋�、サロメの卓ならぬ、もっと丈夫な、やはり首だけを出す式の、錠前付きで底に特殊な仕掛をした四角な箱を作ることを請負い、期日にそれを届けた。 「あたくし、中の腰掛けは天鵞絨で作らせたの。そのほうがあのひとにいいと思って」 「ずいぶん手廻しがいいんだね。中に裸で坐らせようってわけか」  真矢はよく知っているが、隆史の下半身は顔に似合ず逞しいもので、白く光沢のいい太腿や尻に、天鵞絨の短毛はほどよい刺激を与えることだろう。 「昔は見世物小屋に出すために、子供を箱詰めにして育てたなんて話を聞いたけど、どうするんだい。飼うなら飼うだけの心がまえもいるし」  柚香は艶然と笑い、Nonの台詞で答えた。 「あたくし、あなたの考えているほど�聖少女�じゃないわ」 「おや、そうだった?」  真矢も同じ台詞で引取った。 「そうですとも。あたくしはただ彼を罰してやろうと思ってるだけ」  ——約束の夜が来た。哀れなヨカナーンは、柚香のためにだけ微笑む生首となるため、本当に地上のいっさいと縁を切ってきたらしい。ことさらに厚手なドアと、高い窓がひとつ浮いている部屋に木箱は置かれていた。予定どおり一糸まとわぬ素裸にしてその中へ追いこむと、柚香は遠慮なく前と後ろ、それに首の部分の三つの錠をおろした。 「坐りごこちは、どうかしら」 「ええ。でもなんだか少しこそばゆいです」  隆史は甘えた笑顔になって、皓い歯を見せた。  柚香は首の周りに花を飾り、血の色の酒を充たしたワイングラスを置くと、自分も椅子を引き寄せて、こう話しかけた。 「ガラスの酒器は、折角作ったけれど、二人には邪魔だからこうしてお話しましょうね。まずワインをひとくち召し上がれ。どう? これからは�首のあなた�の周りには、いつでもあたくしの笑顔と花とお酒と、それからおいしい喰べ物をふんだんに用意してよ。その代り�箱の中のあなた�は、その代償を受けるの。捕えられたヨハネが獄の中でそうだったように、あらゆる汚穢と汚辱が待ち受けることになるでしょう。みじめな暗黒を、でもあなたもあたくしも見ないで済むよう、箱の底にいろんな工夫がしてあるのよ。安心なさい、首から上の法悦があれば、あなただって満足でしょう? あたくしも心からこうして首だけのあなたを愛しているんですもの」  柚香はふたたび隆史の頬を両手に挟み、その額に軽い接吻を与えたが、ヨカナーンの首は、そのときもう世にも醜い、ひきつれた恐怖の表情を浮かべただけであった。 [#改ページ]    青髯の夜  数日後、杉山隆史は、たやすく発狂した。純白の狼を思わせるその鋭い歯で、舌を噛み切らなかったのがまだしものことだった。涎を垂れ放しにし、焦点の定まらぬ眼で、食物をまったく受けつけなくなると、藍沢柚香はまたすぐ篠原真矢を呼んで、こともなげに後始末を命じた。 「だから、いわないこっちゃない。ヨカナーンの首だけを可愛がろうなんて、初めっから無理だっていったろう」  その処置をすませてくると、さすがに真矢はそういって口を尖らせたが、柚香はなんの感じもない顔だった。 「いいえ、いいの。そういう約束で箱に入ったんですもの。堪えられないというのは、それだけ愛が薄かった証拠よ。それで、どうなさったの」 「ああ、東京駅へ連れてって、発車間際に新幹線に乗せてやった。ぼんやり坐ってたよ。おふくろから来た古い手紙をポケットに突っこんどいたから、終点まで来て降りないとなりゃ、誰かが気がついてなんとか故郷へ連れ帰すだろ。大丈夫、おとなしい気違いだから暴れたりはしないし、柚香のことも思い出す気づかいはないさ。それにしても、お姫さまの道楽にも困ったもんだ。いくら温水調節つきのトイレだからって、夜も昼もその上に腰かけさせられてごらんな。たいがい頭もおかしくなるよ」 「あら、そうかしら」  柚香は、不満そうに呟いた。  お姫さまの道楽、といっても、自殺だの発狂だのという大物ばかりを狙うとは限らない。ちょっとしたトリックで、周りに群がる男たちを片輪にし火傷をさせ、いともやすやすと廃人にする才能は生得のもので、幼稚園のころから、しんそこ無邪気にその能力を発揮してきたのだが、周りではついに一度も柚香の仕業だと気づいた者はいない。もともと本人自身が信じていないのだから、それも当然であろう。  二十歳をすぎて、周囲につぎつぎと熱烈な求婚者があらわれ出すと、このアタランテの駿足はいよいよとめどもないものになった。柚香の愛を得たいと望む者は、奇妙な事故としか名づけようのない形で屠られていった。だが、いつかは必ず女神から三つの黄金の林檎を授けられ、その駿足を封じるヒッポメネスが出現することは、あるいは当然な運命だったのであろう。|宇川《うがわ》|柾夫《まさお》が、研ぎすまされたほどに青い髯の剃り痕を見せて柚香の前に現われたのは、ヨカナーンの夜からさらに三年ほどを隔てた六月の宵であった。  真矢の姉——女流カメラマンの篠原美矢が仕事でシドニーへ発つというので、羽田まで行ったのだが、見送りの一団の中でも宇川の長身は人眼をひいた。三十歳をいくつか過ぎているのだろう、隙のないスーツの着こなしと、冷酷な印象さえ与えかねない引緊った横顔とを、柚香は見るともなく眺めていたのだが、その気配を見てとると美矢は、すっと体をすべらせるようにして二人の間に立った。コンピューター関係のエリート社員で、まだ独身という紹介のあと、いかにもさりげない顔で、 「そりゃあもう、何をなすっても手剛い方」  とつけ加えたのは、なんのためだったろう。宇川と柚香は、互いに涼しく微笑み合った。  如才なく服を賞め、持物の好みを賞め、家が目黒と聞くと自分も同じ方角だし、車で来ておりますからお送りしましょうといい、手早くドアをあけて直立不動の姿勢をとるという折りかがみの良さで、真矢は遠くから呆気に取られた顔で見送っていた。車はおとなしい型のセダンだが、フィアットの新車だった。 「美矢さんも大変ですね。こちらは六月でも、たった一晩でもう向うは冬ですから」 「ほんとうに」  柚香はつつましく相槌をうった。 「宇川さんは、よく外国へいらっしゃいますの」 「ええ、四、五回ほど。仕事の性質上、主にアメリカですが」 「コンピューターの関係って、どんなことをなさるのかしら」 「いろいろ、というより何でも屋ですね。まだ会社が発足したばかりで」 「でも、ああいうものでも、綿密に計画していざ実行という段になると、どこかで狂ってミスを犯すってことがありますの。あたくしには想像もつかないことですけど」  次第に話を核心に触れさせながら、袖香は試合の前の剣士にも似た微笑を崩さなかった。美矢がああして言い置いていった以上、宇川はこれまでとは比較にならぬ強敵に違いなく、なまじなことで屈伏するとは思われない。柚香の胸奥にある�夜�のひとつ、深い井戸にも似たそこへ落しこむためには、周到すぎるほどの用意が必要らしかった。だが宇川は、おや、こんな美しいお嬢さんが、というように、 「コンピューターのミスですか」  と、意外そうに柚香を見返った。 「そうですね。人間のすることですから、ファクターを入れるときのポイントミスもあるし、初心者のプログラマーだと途中の誤差に気づかないで、数字の手計算までして合ってるのにって不思議がるケースもありますね。マシンサイドだと、オンラインのデータ転送のときミスが起こりがちなのは、ノイズがひょいと化けちまうからなんです。プリンターってのが大体頼りになりませんしね」  喋っていることのあらかたは柚香には訳の判らぬ話で、さし当っての参考になるとも思えないが、こうした種類の男のものの考え方、思考の偏りを知っておくのも無駄ではない。宇川の方はしかし、よっぽど自分の仕事に理解があると思ったのであろう、一度ぜひ会社へ遊びに来て欲しい、電算室を案内するからと熱心に誘い、柚香はもったいぶって承知した。  デートを重ねるうちに、二人は誰の眼にもほほえましい恋人同士に映り始めたが、二人の考えているのは、当然べつべつのことだった。柚香は、今度こそ彼を、生首どころではない、完全な剥製にしたいと、そればかりを希っていた。中でも磨きぬかれたような剃り痕の青い頬を眺めていると、どうしたらこれをいきいきと保存できるだろうと心は逸った。ホルマリンに浸けこんで|生《き》の|明礬《みょうばん》液で仕上げをしたところで、人間の皮膚が色艶よく保たれるとは思えない。それでランプシェードを作ったというナチの女の話には興味もなかったが、考えているのは江戸川乱歩が『恐怖美術館』で蝋細工を芯にして描き、三島由紀夫がそれに惚れこんで自作自演したような、一枚皮の裸像[#「一枚皮の裸像」に傍点]であった。真矢は前の事件に懲りたのか、相手になろうとしない。それどころか柚香が本気で惚れこんだと思ったのであろう、無遠慮にこういった。 「どうしたんだ、他愛もない。そんなことをしてると二人とも獅子にされちまうよ。いいのかい」 「ええ、いいの。だってようやく生涯の相手にめぐり会ったっていう感じなんですもの」  真矢のいう真意も、そのとき柚香にはよくのみこめていなかったのだが、反対にそんな返事も、真矢にはだらしのない|惚気《のろけ》としか聞えなかったのであろう、肩をすくめてみせただけで、もう何もいわなかった。  宇川は柚香の家へ遊びにくるたび、父の惟之が果てた塔屋に興味を持って、一度どうしてもそこを見たいとせがんだ。 「だってあそこは母からタブーにされてますのよ。ことに男のひとは入れちゃいけないって」 「だから、瑠璃夫人のいらっしゃらない時に。ね、いいでしょう」  熱心にせがむ宇川の表情には、これまで見せたことのない子供っぽさが浮かび、柚香はようやく彼の弱点を一つ掴んだ気になったが、わざと話をそらせた。 「それより今度、千ヶ滝の山荘へいらっしゃらないこと。あたくし、いまごろの季節がいちばん好き。シーズンに入るともう暑苦しくていられませんもの」 「ええ、行きます、伺いますよ。だけど今日はお母様がお留守なんでしょう。ぼくは一度どうしても塔に昇ってみたいんだ。こんな美しい人を遺して、お父様が何を考えていらしたか知りたいんですよ」  相手が少年らしい隙を見せることは、柚香にとって何かの入口を見つけることに等しい。不承々々に承知して鍵は開かれ、二人は薄く埃の溜った螺旋階段を昇った。備え付けの望遠鏡も書棚も安楽椅子も、さらにふかぶかとしたベッドも置かれているそこで、宇川はしばらく眼を輝かして立尽していたが、やがてその腕はごく自然に柚香の肩を抱き、二人は初めて唇を合せた。長く熱い抱擁の刻が過ぎ、柚香はうっとりと男の頬を指で辿った。 「ねえ、ここはどうしてこんなに青いのかしら。あたくしには眩しいくらい」  その皮膚を優しく撫でている白い指が、何を希っているかには気づきもしないように、宇川は照れながらいった。 「一日二回は剃らないといけないんでね。めんどくさいったらないですよ」 「髪の毛や髭って、人が死んだあとも、すこうしだけ伸びるんですってね。本当かしら」 「ああ、そういうね。心臓や呼吸が停っても、皮膚の細胞まで死ぬわけじゃないから」  宇川は屈託もない笑顔を見せた。 「千ヶ滝のほうは、いついらして戴けて」 「そうだなあ。でも、あちらには瑠璃夫人もおいでなんでしょう。ぼくはどうもちょっと苦手だ。お母様のほうは気に入って下すっているらしいけど」  ——その母は、二人が下へ降りると時間より早く帰って来てい、塔屋に昇ったのを当然知っているだろうに、いとしい娘婿を迎える態度で手をさしのべた。  柚香がしきりと千ヶ滝の山荘に宇川を誘ったのには理由があった。まだ容易に尻尾を出さないが、人を愛する愛し方が一風変ってい、地上では残酷とだけ評されるそんな仕方でしか愛することのできない、いわば自分のお仲間として宇川を見ていたのだが、相手にかけらもその気配が見えてこないことに、ようやく不安を覚えたからであった。同じ東京ではなく、小さい時から夏を過して勝手の判っている軽井沢でなら、何とかその仕掛をするチャンスがあるだろう。そうはいってももしかすると彼は、智力の上でも数等こちらを上回ってい、うっかり罠をかけると、そのとき初めてびしっと打返して反対に罠を仕掛け、苦もなくこちらの正体をあばく準備をしているのだろうか。表情にも態度にもそれと表わさない宇川の本性は掴みどころもなかったが、予備知識を仕入れようにも、頼みの美矢はシドニーからメルボルン、パースと飛び廻って、ときどきのんきたらしい絵葉書を寄越すほか、連絡のつけようもない。  しかし、ようやく千ヶ滝の山荘へ行く話がまとまり、柚香を右脇にのせて車を走らせながら、何気ない話の合間に宇川がこういったときは、思わず胸のとどろく思いがしたほどだった。 「車っていうのも、いろいろに使われるものらしいですね。ぼくの知人の話だと思って下さい。Aという人間の運転していた車が、ふいにブレーキが利かなくなって、危うく大事故を起こしかけたことがあるんですよ。それが、調べてみると、どうもBという別な人物がブレーキのオイル管に細工をして、空気を入れておいたらしいんですね。それも、ある時間以後にそれが働くように。ところが、おかしなことに、そのBなる人物もそのあと奇妙な事故で死んでるんですよ。なんでも断崖の上に車をとめておいて飯を喰って、車に帰って当然ギヤをバックに入れたんだろうに、どうしたことかそのまんま前に突っ込んじゃったんですね。まあ、ぼくなんかでも自分の車じゃないのを運転してることを忘れて、いきなりわっとふかしたりすると、バックのつもりがロウに入ってたなんてことがありますけれど」  くだくだしく言っているが、要はかりに君がブレーキオイルにいたずらするような陳腐な仕掛をしても、すぐと逆に変速器のレバーを入れ違えさせるぐらいのしっぺ返しはされるんだぞという警告であろう。  ——大丈夫。あなたの体に傷をつけずに、本物の一枚皮を手に入れたいんですもの。  柚香は心の中でそうやり返した。だがそれとともに、どこかで何かが違うというか、本気で人の死を希うときにだけ湧き上っていた甘美な情緒が、少しも心を潤してこないことに気づかずにはいられなかった。する筈もない地上の恋を、そのとき柚香は初めて味わったのであろうか。あるいはあれ以後、しばしば塔屋のベッドを愛の営みに用いた、いわばそれと知らずにゼウスの神殿を汚した罪を意識しなかった報いなのか、山荘の帰り、|碓氷《うすい》峠で二人を見舞った無残な事故が、それを証していよう。宇川は即死し、柚香は奇蹟的に軽傷のみで助かったその経過が、まったく偶然なのか、あるいは綿密な人為の所為か、それとも女神レアの神意によるものかは誰も知らない。ただその一瞬、藍沢柚香がみごと一匹の牝獅子に変じせしめられたことだけは確かであった。……        ∴  読みようによっては、十七歳から二十三歳までの柚香の、一種陰微な犯罪記録ともとれ、あるいはその母の瑠璃夫人の神怒宣告めいた文書とも、さらにはまったく別な意図を秘めて何事かを訴えているともいえそうな三つの話が、立続けに藍沢家のサロンの常連に届けられたとき、いち早く皆に電話をかけて、われわれだけでこれを処理し、瑠璃夫人と柚香にはとにかく伏せておこうと提案したのは、やはり木原直人であった。  召集を受けて集まった皆の口から明らかにされたのは、何より三年前の自動車事故で柚香が婚約者を失った事実は確かだとしても、それをとっこ[#「とっこ」に傍点]にこうまで人を誣告できるものだろうかという疑問であり、いかにも早宮秀樹だの杉山隆史だのという若者が、以前に出入りしていたことはあったにしても、その後の消息は誰も知らず、かつて親友だった篠原真矢という女性はいまもいるが、どう持ちかけたところで生首パーティの手伝いをしたろうとか、あるいは本当に柚香は許婚の宇川柾夫の皮を剥いで、みごとな剥製裸像を作ろうとしていたのかなどと聞けもしないということであった。 「でもねえ、これは誣告っていうのとは違うんじゃないかしら」  志つ加工房の石塚がまず口を切った。 「要するに前と同じで、誰かが退屈なわれわれを楽しませてくれてるだけってわけか」  詩人の御津川がすぐ言葉を挟んだが、石塚は意外にまじめだった。 「そうじゃないの。おそらく調べてみれば、きっとこの早宮って坊やは飛降り自殺をしてるし、杉山っていう平家の公達みたいなのは何かの理由で発狂して故郷へ帰ってると思うのよ。それを、こうまでねちっこく柚香のしたことだって告発めいたことをいうのは、その蔭にもう一つの黒い意志が働いてるってこと。あたしなら、ここまでのことをいってくるのは、歿くなった惟之氏以外には考えられないくらい」 「じゃ、これもまた死者の手紙ってわけですか。水島君が寄越したような」  美東がバリトンを響かせた。 「ぼくが不思議に思うのは、前の二つと違って、なんだかこの�青髯の夜�ってのは、おしまいの歯切れがよくないでしょう。つまりこれは柚香さんや瑠璃夫人を悪くいうためではない、むしろ宇川柾夫という人が、ここに書かれているような殺人淫楽症でもなんでもない、アフロディテから貰った三つの黄金の林檎、いえば�愛�と�誠実�と�寛容�でもって柚香さんの心を射留めた、むしろそのことを秘めて語られているからだと思うんです」 「ああ、ぼくもそう思ったんだ」  画学生の征矢野が声を合せた。 「しかし、ギリシャ神話を踏まえてというなら」  年輩だけに能登は、ゆっくりと意見を挟んだ。 「アタランテは数多い求婚者と競争しては負かし、ついにヒッポメネスに敗れてその妻となった。その二人がゼウスの神殿と知らずに愛し合ったため、女神レアの馬車を曳く二頭の獅子に変えられた、つまりは二人ながら自動車事故の生贄となったというのが、この最後の話のしめくくりでしょうが、そうとすれば当然これは瑠璃夫人を指してのことで、私はこの三つの話とも、夫人自身が怒りをあらわにして誰かに書かせたものと見ますな。実際にここに書かれたことが事実とするなら、夫人にはさらに輪をかけた経験も手腕もある筈だから」 「どうも相変らず皆さんの御意見はまちまちのようですが」  自宅に集まってもらったこともあって、直人は最後にいい出した。 「本当のことを決める資格は、まず誰にもないと思うんです。ぼくの感じでは、前の三つの水島君の手紙は、柚香さんが寂しさのあまりに考え出したことだし、この三つの話は能登さんのおっしゃるように瑠璃夫人がゼウスの神殿、つまりあの塔屋を汚されたと思って誰かに書かせたのかも知れない。それにしてもここに書かれたことの真相なんて、永遠に明らかにならないでしょう。そしてまだこの先こうした不思議な話がつぎつぎと届けられるなら、それはあの塔屋に誰にも見えない死者の鐘が一つ吊され、それが折にふれて鳴るたび、われわれにだけ聞えるんだって、そう考えたっていいじゃありませんか。とにかくあの寂しい母娘の友人はぼくたちの他にはいないんだし、地上ふうな発想でこれを詮索することはもうやめようと思うんですが、いかがですか」  ——それはいかにももっともな提案だったので、皆はそのまま黙った。すると銘々のうなだれた耳には、また一つの深い韻きを伴って、見えない鐘の音が届くように思われた。 [#改ページ]    薔薇の獄      もしくは鳥の匂いのする少年  雲は熱気を孕んで、白銀色に鈍く輝いた。薔薇の新芽は、一日に三センチほども伸び続け、葉裏には小さな赤い蜘蛛を潜ませている。梅雨の|霽《は》れ間というより、今年もまた|空《から》梅雨のまま終るらしい。どこかに薔薇の墓を作らなくちゃ、と藍沢|惟之《これゆき》は思った。摘んだ|病薬《わくらば》や掻き取った台芽、あるいは花片を思いきり反らして|蕊《しべ》をあらわにし、踊り子めいた衣裳で終った花など、本当はすべて燃やさなくてはいけないのだろうが、まだ半ば生きている感じのままそれらを葬って、腐土に変じさせてゆくための深い穴が、薔薇園の夏には欠かせない。その穴は、しかも自分が埋められる墓になるかも知れないのだ。  そう考えると、白い高曇りの空の下で、惟之は俄かに慄然とした。いつ死刑を執行されるかも知れない囚徒。それも、大の男が小学生に逆に誘拐されて、こんな薔薇園に閉じこめられているなどと、誰が信じてくれるだろう。しかし一方で惟之には、いつかはこんな形で幽閉されるような予感が久しく棲みついていたので、いまの境遇をそれほど不思議とも異常とも思う気持はなかった。  鳥のような匂いのするその少年に出逢ったのは、この五月のことである。そこは広い屋敷町の裏手に当り、白昼の路上に人影はどこにもなかった。人を訪ねて探しあぐねているとき、少年はさながら光の精とでもいうように空から降ってきた。あるいはその出現があまり突然だったので、惟之にはそうとしか見えなかったのかも知れない。しかも訪ねる家の番地と苗字とを告げると、相手はこともなくこういった。 「それはぼくのうちだよ」  潤んだ黒い瞳が惟之を見返していた。こんな子がいたのかしらんと意外だったが、訊いてみると小学一年だという。すこし神経質そうなところはあるが、四肢のよく伸びた上品な身のこなしや、齢のわりに考え探そうな顔つきが、訪ねる相手の息子のイメージにそぐわなかったが、商売上のこともあって惟之はお世辞をいった。少年は答えない。先に立って身軽に歩いてゆく。そのときから惟之が少年を鳥のように思い始めたのは、相手が|鸚哥《インコ》の胸毛を思わせる緑の服を着ていたからではない、どこか熱帯産の鳥めいた黒い瞳のせいであった。  高い石塀がどこまでも続き、いっそうあてもない迷路に導かれた気持でいるうち、小さな潜り戸の傍で少年は「ここだよ」というようにふり返った。その少しのたゆたいには、もし表門まで行くのならこの塀添いに廻ってどうぞというような態度が見えたので、惟之はためらわず後について戸を潜った。そこはいきなりの薔薇園で、遠く母屋らしい建物の見えるところまで、みごとな花群れが香い立つばかりに続いていた。灌木の繁みは少年の姿を蔽い隠すほどで、緑の服はことにまぎらわしい。赤、黄、紫、オレンジ、白、ピンクと、めまぐるしく咲き続く花のあわいを、惟之は息苦しく後を追ったが、ちょうど半ばほどと思われるあたりの、少しひらけた中庭のところまでくると、少年はふいに立止まって、まともに惟之の顔をふり仰いだ。 「とうとう来たね、小父さん」 「なんだって」  何かが思い出せそうな気がする。この少年の正体がなんで、ここがどこで、そして自分がかつて何であったかまでが。——しかしその凍りついたような数秒が過ぎると、少年はまた初々しいほどの微笑を浮かべ、ようやく近づいた母屋の一角を指さしていった。 「これから小父さんの棲むところはあそこだよ」 「おい、待った」  惟之は太い腕を伸ばして、歩み去ろうとする華奢な肩を掴まえたが、少年は憤然と誇り高くそれをふり払った。 「これはどういうことだ。ここはいったいどこ……」  いいかけて言葉は消えた。自分の探しあぐねていた家の名をいおうとして、まったくそれを知らないことに気づいたのだった。確かに誰かを訪ねてきたような気はする。しかしいまはその名も用件も、すべて頭に残っていない。とすれば自分は初めからこんな見も知らぬ薔薇園を訪ねるために来たのだろうか。 「教えてくれ、おれはどうして……」  それもしかし訊くまでもないことだった。惟之は地上のいっさいを棄てて、この薔薇園の園丁となるために来たということを、もう知っていたからである。  ………………………………………………  月は夜ごとに|暈《かさ》を持った。星もまた西の夕空に輝きながら、銀いろの小太陽といった風情で小さな暈を滲ませた。  少年との生活は奇妙なものだった。食事はいつ調えられるのか、大きな食堂の長方形のテーブルに、二人前ずつ並べられた。廃屋じみて誰もいない母屋は、荘重な家具の類を並べながら、その秘密を明かそうとはしなかった。庭は四方に拡がり、惟之がどう探し歩いても涯にあるべき石塀も潜り戸も見当らず、いつかまた母屋の近くに立戻るように出来ていた。宙に浮かんだ円球上の蟻めいた数日が過ぎると、惟之はその空しい努力を放棄した。少年に詰問する気も起らなかったし、その問いが無駄なこともあらかじめ判っていた。何よりも庭仕事のいそがしさがそれを忘れさせた。油粕を腐らせて肥料も作らねばならず、梅雨明けも近いとなると、これだけの本数の薔薇に土盛りし藁を敷きこんでマルチングをしてやらなくてはならない。  しかも庭は薔薇園ばかりではなかった。栗の大樹のある広場には、その花の匂いが鬱陶しいほどに籠って、朝ごとに白い毛虫めいて土の上に散り敷く。グラジオラスの畑もあって、数十本の緑の剣が風にさゆらぎ、周りには春から咲き継いでいるらしいパンジーが、半ば枯れながらまだ花をつけている。ポンポンダリヤは黄に輝き、サルビヤが早々と朱をのぞかせ、|萼《がく》あじさいはうっすらと紅を滲ませているそのひとつひとつを見廻ることも園丁に課せられた仕事であった。  いつからその少年と寄り添って共に寝るようになったのか、記憶はさだかではない。最初の夜、少年はベッドにまっすぐ上を向いて横たわり、惟之は半身を起してその白い咽喉を見つめていた。顔を近づけると、七つなのか八つなのか、まだあまりにも稚い少年の躯は、小鳥の胸毛に鼻をおし当てたときのような、かすかに焦げくさい匂いがした。 「君は鳥のような匂いがするね」  少年は眼を瞑ったまま答えた。 「それはぼくの猫が鳥をたべたからだよ」 「猫がいるの?」と訊こうとして、その猫も小鳥も、少年が自分の躯の奥で行われている代謝についていっているのだとすぐに気づいた。とどめようもない新しい力は、たしかに猫のように身軽く跳躍して、それまでの小鳥たちの胸毛を散らしながら引裂くことだろう。あっけない、瞬時の死。  惟之は手を伸ばして白い咽喉に触れた。滑らかに冷たいその皮膚を優しく撫でた。 「きもちいい。きもちいい」  少年は喘いだ。紅唇は軽くほどけて、むしろ苦痛を訴えるような呻きが洩れた。いまこのとき、惟之の脂ののった太い指が咽喉に喰いこみ、次第に締めつけていったらどうするのだろう。自分のその考えに愕然として惟之が思わず手を放すと、少年は潤んだ黒瞳を見ひらいてこういった。 「でも水の退いてしまった湖の底には、必ず首を絞めた痕が紅く顕われるんだよ」  ………………………………………………  雲はいよいよ白い鉛いろに拡がり、息づくように照り翳りした。グラジオラスはまだ風にゆらぎながら、そのひとつ、アッカ・ローレンチアにようやく鮭いろの花片がのぞき始めた。やがてラベンダー・ドリームにも、眠たげな白紫がほほえむだろう。パンジーはまず黄が姿を消し、ついで黄紫が消え赤が消え、紫と白だけが衰えながら咲き続いている。ポンポンダリヤの第一号はすでに散り、|未央《びよう》柳が紙細工めく頼りない花をつけた。向日葵は下葉を喰い荒らされながら、みるまに惟之の背丈を越えて、晴れ晴れと一花がゆらいでいる。薔薇の伸びはすでに止まり、薬を撒くたび夜半の雨に流されるので、チュウレンジバチやクキタマバチの防ぎようがない。  名も知らぬ少年と二人だけの生活を続けながら、惟之はそれでも時折りは夢のように家のことを思い返すことがあった。十二歳になった娘の|柚香《ゆのか》は気強いたちだから却ってそれほど寂しがりもしないだろうが、妻の瑠璃は捜索願いを出しても何の反響もないのに、さぞ焦立っていることであろう。一度、少年にそのことをいうと、びっくりしたようにいった。 「それじゃ小父さんは、ここで時間が過ぎてるとでも思ってるの」 「だってげんに、花はあんなにどんどん成長しているじゃないか」 「季節は移るんだよ、そりゃ。移らなくちゃ花が可哀そうだもの」  この論理は惟之にはたやすく呑みこめなかったが、いかにも花の時間というものは、その茎立ちや葉の中に徐々に垂直に充ちてゆくばかりで、その頂点に花をつけ、それが咲き切ると同時に崩壊するといってもよいのだろう。こともなく少年にそういわれてみると、惟之もまた家庭のことはそれほど気にならなくなり、この薔薇園の園丁としていっそう励まなければという気がするのであった。 「だから君は学校にも行かないんだね」 「学校?」  少年はひどく奇異な言葉を聞かされたように眉をしかめた。 「そうだ。君は小学一年生だって、自分でいったろう」 「ああ、あれ」  少年は微笑した。 「あれは外だからそういったんだ。この中に学校なんてないじゃないか」  この論理も奇妙なものだったが、惟之は容易に納得した。いかにもここには宏大な花園のほか何もない。家庭も事業も、それはすべて�外�のことだ。…… 「でももう、薔薇もそろそろ終りだ。あと一つコンフィダンスが蕾をつけているけど、あれが咲いたら花はおしまいなんだ」 「ほんとう?」  少年は俄かに眼を大きくした。 「もう、そんなに?」  それが何を意味するのか、惟之にはまだよく判っていなかったけれども、別れの刻が近づいていることだけは、初めてうすうす察しられた。 「ああ、本当だ。あれが咲きそうになったらまた知らせるよ」  その数日、惟之は風邪に苦しみながら雑草取りに熱中した。風草や藪枯らしの凄まじい繁茂は手がつけられぬほどで、ほかにも|鴨跖《つゆ》草や昼顔の意外な強靭さにてこずった。雨に倒れ伏した矢車草やコスモスもすべて抜いてしまい、グラジオラスはことごとく截って活けてしまうと、ようやく薔薇のマルチングにかかった。たった一つの最後の蕾をつけて高々とゆらぐコンフィダンスの傍に立って見守っていると、いつか少年も来て、反り返った萼に手をさしのべた。 「これ、もう明日はきっと咲くね」 「ああ、たぶん咲くだろう」  肉の厚い花片と強い芳香とを惟之は思った。それから少年がその花の中に帰ってしまうことも。  その夜は遠雷がいつまでもとどろき、雨は来ずに寝室は蒸暑かった。やはり上を向いたまま躯を固くしている少年の傍で、惟之は再び灯明りに白い咽喉を見守っていた。おずおずと手を触れる。静かに上下に撫でさする。 「きもちいい。きもちいい」  身を|縒《よ》るような呻きが続く。 「君に名前をつけたよ」 「晶。水晶の晶」  少年は先に答えた。 「湖の底だといったね。そこに紅い痕が顕われるって」 「そう、だからもう一度。おんなじように」  ふいに少年は躯をひるがえして、惟之の腕の中に入ってきた。その白い咽喉をのけぞらせ、そこに喰い入る指先を待ち焦がれながら。 「お願いだよ。パパ」  ………………………………………………  薔薇の終りとともに元通りの五月、こともなく瑠璃の許に帰った惟之は、しかし八年ほど前、母体を慮って中絶し、その小さい亡骸をいとおしんで錘とともに湖底へ沈めた少年と暮した日々のことを、決して口にしようとはしなかった。そこは薔薇の獄というよりは、ほかならぬ薔薇の胎内だったのだから。 [#改ページ]    緑の唇 「柚香ぐらいの年齢のとき、わたくしが何をしておりましたかですって?」  山荘の居間で瑠璃夫人は、思いもかけぬ質問にいささかたじろいだようすだったが、それでも微笑は崩さずに木原直人を顧みた。 「それはもう、敗戦直後のことでございますもの、街も人も、ただ喰べるだけでいっぱいというふうでしたわ。屋根の上まで鈴なりに人の乗った買出し列車なんて、木原さん、ごぞんじでしたかしら。わたくしもモンペ姿でよく参りましたけれど、お藷を詰めましたリュックがあまり重くて、石炭車の中へ仰向けに落ちこんだこともございましてよ」  |栄耀《えよう》ずくめの豊満な夫人とばかり思っていたのが、そんな経験があるとは意外だったけれど、直人はなおもいい|募《つの》った。 「ぼくだって少しは覚えていますけど、でもあんな時代にだって、若い人たちは、やはり恋に身を灼くということもあったわけでしょう。ぼくは一度、御主人とのローマンスを、ぜひお聞かせいただけたらと思っていたんです」 「まあまあ、そんなお古いことを……」  夫人は頬を染めるようにみじろきしたが、その眼は懐しさというよりは、過ぎ去り喪われた時代を射る、一条の光の矢のように煌いた。 「わたくしどもには、ロマンスらしいロマンスはついぞございませんでした。時代が時代と申しますより、惟之とわたくしとの間の問題……。お話しましょうか。木原さんのおとしでは、あの時代の風俗も、ちょうど古いパノラマ絵のようなものでございましょうから」  七月といいながら、千ヶ滝の山荘の夜は冷え冷えと迫り、柚香は早くに部屋へ引取って音も立てない。 「そういえば、きょうは十日。浅草観音の四万六千日ですわね。わたくしどもが戦後初めて浅草へ参りましたのも、やはり|酸漿《ほおずき》市の時でございました。……」  いっとき眼をつぶるようにしてから、瑠璃夫人は二十六年も前の惟之との奇妙なデートを、こう語り出した。  ………………………………………………  戦争が終って二度目の夏のことで、そのころの東京は、幼児がクレヨンでいたずらに塗りたくったような色彩に溢れていた。四万六千日に行こうやと惟之がいい出し、二人は池袋で待合せたのだが、駅前の店は、あらかたがまだ|葦簀《よしず》張りの屋台で、ライターだの鼻紙だのを並べた間に、鯨ハムの固まりが置かれていたりする。赤黒い肉にくっついた白い脂身は、フライパンでいためるときの凄まじい悪臭を思い出させ、見るだけで胸が悪くなるようだった。武蔵野デパートへ行く通りの屋台では若い男が|泥鰌《どじょう》を割いてい、薄緑にぬめぬめした下腹を器用に指の間へくぐらせて包丁をいれると、黄と赤の内臓がとろけ出る。それを真赤に|熾《おこ》した炭火でかたっぱしから焼いてしまうのだが、頭を針で刺されながら、なお|俎《まないた》の上をくるくる廻っている、これは生きた時計であった。  黄土色をしたハリハリ漬けや、萎びた子供の脚のような沢庵。肉屋では桃いろの鶏モツの間に牛の腸が黄いろくわだかまり、果物屋の果実はことごとく熟れすぎて腐臭を立てた。書店の新刊書さえ、ここでは乱雑な色彩にすぎない。蛇精宣伝所のガラスの壺の中に、ぐにゃりと坐りこんでいる緑いろの蛇。惟之を待つつれづれに、瑠璃は見るとなしにそれらの暑気に|倦《うん》じた街のたたずまいを眺めていたのだが、人通りの激しい往来の中に一人だけデパートの鉄柵に凭れ、色の醒めた赤い水玉模様のパジャマめいたものを着こんで動こうとしない、病人らしい男を見つけて眼を凝らすと、それはチンドン屋がひっそりと休んでいるのであった。だがピエロまがいのその衣装は、男が病んだ皮膚をそのまま剥き出しに曝しているように眺められた。  惟之が駆けてきた。型は古いけれど夏物の背広を着こんでいるのが、まだ街中では眼立つほどで、軍服はさすがに減ったものの、よれよれの国民服やジャンパーが当り前な時代である。  惟之と親しくなったのは、昨年の五月、配給が遅れに遅れた戦後一番の端境期に、伝手を頼ってはるばる京都府の農家まで米の買出しに行った帰り、たて混んだ引揚列車で隣り合せてからのことで、惟之はジャワ島から強制送還され、京都の収容所からようやく故郷へ帰ろうというところであった。モンぺ姿につくろってはいても、久々に見る都会風な令嬢と映ったものか、通路までぎっしりリュックに埋まった上で体を扱いかねているとすぐ声をかけてき、隣りの客が早くに降りるのを知っていて、空くが早いか荷物の上を抱きあげるようにして坐らせてくれた。お礼のつもりで出した白米のおにぎりを旨そうに頬張り、収容所でも米の飯はただ一度出たばかりで、こうして帰るのにも糧食といえば外食券十五枚と乾パンが少々だけなんですと不安そうに呟いた。三十五、六歳か、日に焼けた精悍な鼻すじはしているものの、ひどく孤独な翳りがあって瑠璃の胸にも影を落したが、後で聞くと三年前に妻をなくし、子供もいないので、知人の経営するコタバトの奥の農園へ単身赴任したのだという。家財は疎開もせず、|江古田《えこだ》の親戚に預け放しだが、収容所の小学校に貼り出された戦災地図ではどうやらそこも焼けたらしいので、帰っても着のみ着のままでしょうと笑った。江古田のその番地の近くには折よく友人がいることを思い出して、大丈夫、焼けていませんわという答えに惟之は思わず瑠璃の両手を握りしめて飛びあがらんばかりだったが、気がついて耳許まで赧くした。引揚船がガラン島を出てから、これほど嬉しかったことはないと述懐したが、そのときから瑠璃が幸運の女神に見え出したとしても不思議はなかったであろう。  二人のつきあいはごく自然なかたちで深まったが、瑠璃がおどろかされたのは惟之がただの技師でも嘱託でもなく、一種の発明家であり、それもどうやら夢想家に近い心情でいることだった。内地にいた時から、棄てられて顧みられなかった黒松の表皮からタンニンを抽出したり、タカジアスターゼの六倍の消化力を持つ新しいジアスターゼのかびを分離して企業化したりということはやってきたのだが、ジャワでは蚊取り線香をこしらえていたという奇妙な仕事が瑠璃の興味を引いた。農園のほうは放たらかしにし、何かと名目をつけてジャワのあちこちを飛び廻っているうち、|向日葵《ひまわり》めいた黄色い花の植物に眼をつけたのがその端緒である。高さはせいぜい二メートルまでだが、どこへ行ってもうんざりするくらいに咲いている。ことに溝とか小川のほとりには、少し刈り取ったらどうだろうと思うほど群生しているのだが、誰に訊いても花の名を知らず、どうしてこう多いのだろうという問いにも答えはなかった。何か理由があるに違いないと惟之が見こんだのは、ふつうならどこの叢をゆすっても、わーんと音を立てて飛び立つ蚊の群れが、この花の咲いている溝のへんでは一匹もいないことに気づいたからであった。そのうちインドネシア人の古老から、こうして繁殖させてあるのはマラリヤ蚊を防ぐためだという一言を聞くなり、惟之はすぐ科学研究所を訪ね、へッベルというオランダの有機化学者に、花の成分の分析を依頼した。花の正式な名称は、ティトニア・ディベルシフォリアということも知ったが、そんなこむずかしい学名など企業にはいらない。彼が勝手に決めた名は蚊取りヒマワリというので、研究所から返事のくるまで、わくわくしながら商品化のてだてを思いめぐらし、ことに商売敵になりそうな除虫菊の分布状態を調べ、ジャワでは千メートル以上の高地でないと育たぬため、問題にならぬと知ったときはほぼ腹も決まっていた。  一週間ほどしてへッベル博士から返事が届き、それによるとティトニアは大そう珍しい花で、これまで除虫菊にしかないと思われていたピレトリンを〇・六%ほど含んでいる。精製したとして除虫菊の半分も有効成分があれば、なにぶん到る処にある花だから充分商品価値はありましょうという添え書きが惟之を有頂天にした。マラリヤ蚊の完全駆逐という夢のような力が与えられれば、軍も協力を惜しむ筈はないからである。もっともそう考えたのはお先走りな発明家の夢想にすぎず、蚊取り線香を作りあげることに決めて試作品に着手してみると、これが容易ではない。第一の難点は線香を固める糊のないことで、米やタピオカ、甘藷の蔓、カポックの枝、肉桂の類からディレニアの実、ゴム樹の液と、眼につく限りの植物から糊を抽出してみたがいっこうに思わしくなく、最後にアベルモスクスという葵の属から若枝と葉を乾かして粉末にし、これを溶かして作りあげた糊がどうやら一番の出来であったが、その他にもまだ火付けをよくするための植物も探さなければならなかった。これだけ苦心した試作品も、考えてみれば蚊取り線香なぞ密林地帯の作戦に向くわけはない。大得意で出かけた惟之は、掛合った参謀からしたたかに皮肉をいわれ、結局軍の方にはティトニアの改良種の種子を収めるだけとなったが、ともかくも、バタビヤ郊外に工場をひらくまでになって、�藍沢の蚊取り線香�の名は、それでもジャワ全土にひろまる気配であった。  それが一年足らずで敗戦となり、器材も家具も捨て値で売払って得た数万の金は内地へ上陸するとともに没収され、引揚者は一律に千円という金額をあてがわれたに過ぎない。京都で闇煙草の「光」を、さあ二十円、二十円としつこく片手に突き出す街の子供たちを見ていると、この千円がなんの足しにならないことも判っている。そんな心細い状態のときに知合った瑠璃は、その後なんべんも惟之がくり返した言葉だが、文字どおり光の珠であった。彼は勢いこんで次の発明——アンモニアによる新しい製塩法に取りかかって生き生きと飛廻っている。瑠璃との結婚も日が迫って、きょう浅草観音へ出かけようというのも、引けば必ず�大吉�が出るに違いないおみくじを手にして、いまの幸運を確かめたいくらいの気持であったのだろう。  しかし、瑠璃のほうの気持はまるで違っていた。発明企業家を志しながら、ともすれば少年めいた夢想に耽ろうとする惟之の性質が不安だったのではない。あるいはもともとが芸術好きな家庭の雰囲気に包まれ、いまも小脇にアメリカの週刊誌「タイム」——このとし初めてカフカを紹介した四月二十八日号を抱え、マックス・ブロートの、 [#ここから2字下げ] ……『城』を近代の『天路歴程』とするなら『審判』は二〇世紀の『ヨブ記』であろう。ヨオゼフ・Kはヨブのごとくに善良実直の人であり、神を畏れ邪悪を遠ざける者であった。 [#ここで字下げ終わり]  などと記した一節を思い浮かべて、英訳でもいいから、早く『変身』を読みたいと考えている瑠璃とでは、あまりに趣味が違いすぎるということでもない。それどころか、いわゆる教養という点でなら、惟之のほうがはるかに深かったといえるであろう。瑠璃が案じているのは、もう少し根深く二人の間に横たわる溝であった。 「浅草は、よくいらっしゃるの」  高曇りの空の下で、不安そうにあたりを見廻しながらそう訊いてみても惟之は、 「なんだか、べつな処へ来たみたいだな」 と嘆息するだけであった。  へうたん[#「へうたん」に傍点]池の青みどろだけは変らないが、六区の映画館は万盛座がピカル座と名を変え、半分ほど崩れおちた三友館がメトロポリタン劇場と名のりをあげている。新しい映画は「三連銃の鬼」と「かけ出し時代」ぐらいで、あとは「素晴らしき日曜日」「シー・ホーク」「鉄腕ターザン」等の古物がかかっている。池のほとりに並んだ露店は、一杯一円のレモン水がばかでかい氷を漬け、腐れ芋をすりつぶして紫色に着色したアンコが一皿五円。寄ってらっしゃい涼んでらっしゃいという呼び込みの声に、国際劇場に御|贔屓《ひいき》のオリエ|津坂《つさか》を観にしか来たことのない瑠璃は、怯えて惟之のうしろに従った。  その国際も再建が遅れ、オペラ館が|浜松《はままつ》に疎開したあと、衛生博覧会などをやっていた天幕張りの小屋は明治大正犯罪現場写真展、|奥山《おくやま》では「遠州小夜中山夜泣石の正体」が毒々しい幟を立てている。酸漿市の眼に爽かな緑と、吊された風鈴の赤だけが眼に沁み渡るような夏であった。その一鉢を買って提げながら来た観音のお堂は、チンマリと再建されたというものの、仁王門も焼けたなりで、境内まで入りこんだ|仲見世《なかみせ》のあらかたは古着を並べている。別に小さく建っている社務所で、惟之は早速一円玉をおいておみくじを貰ったが、ひろげるなり顔色を変えてまた一円を置いた。そんなことをなんべんかくり返している後ろ姿を、瑠璃は無感動に眺めていた。  国際通りまで引返し、戦前は六区の|瓢《ひさご》通りにあったスズヤというミルクホールで、一杯十円の上製氷あずきを前にすると、惟之は急に疲れきったようすで、頭を抱えこんだ。 「どうなすったの」 「いや、なんでもない」  そういいかけたが、急に憤懣やるかたないという顔で、 「こんな馬鹿なことってあるか」  と吐き出すようにいうのを瑠璃は静かに遮った。 「おみくじ、悪かったんでしょう。どれもこれも」 「え?」 「いいの。知っているわ。第六十九凶。事を惹いて心を傷ましむる処、船をやるに遠く|図《はか》ることなかれ。それとも第九十七凶、白雲帰り去るの路、月波の澄めるを見ず、かしら」  瑠璃のもの静かな笑顔を、惟之はひどくうろたえ、呆気にとられたようすで見守っていたが、その眼は次第に恐怖のいろに捉われ、声は慌しく吃った。 「君は……、君は一体誰なんだ」 「誰でもないわ。わたくしはわたくし。ただちょっぴり、前の奥さんを存じ上げているだけ。貴方の発明狂のおかげで、ひどく惨めに苦しんでお歿くなりになったでしょう。それより、今日のおみくじ、出してごらんなさい。絵解きをして差上げるわ」  暗示にかかったようにポケットから掴み出した数枚をひろげると、瑠璃は陽気に笑い出した。 「ほら、ごらんなさい。わたくしのいったとおりでしょう。  第六十九凶  明月暗雲浮(めいげつあんうんうかぶ)   あきらかなる月にもくもかゝり、はれやらぬていなり  花紅一半枯(はなくれなゐにしていつぱんかる)   くれなゐのはなもはんぶんかれたり、よき中にもあしきことあるにたとふ  お次は? ああ、第六十三凶ね。  佳人意漸疎(かじんこゝろやうやくそなり)   こんいの人もだんだんそゑんになるなり  久困重輪下(ひさしくくるしむぢうりんのもと)   久しくくらうして下にうづもれをるなり  どっちにしたって�ぐわんもう叶ひがたし��病人おぼつかなし��よめとり、むことり、人をかゝへるわろし�ってところね。どう、これでもまだやっぱりわたくしと結婚なさるおつもり?」 「しかし、これは……」 「なんでもないの。昨日わざわざあの社務所へ行って、あした夫を連れて来ますけど、とんでもない大ばくちに手を出そうとしているから、何とか凶のおみくじだけを出して下さいませんかって、あらかじめお願いしておいたのよ。ですからさっき、貴方の後ろで、ちょっと合図のお辞儀をして……。そりゃもう長年のことだし、あの方たち、箱のふり方ひとつでどんな札だってお出しになれるんですわ。いくらお引きになっても今日は逆数の凶ばかりが出たことでしょう」  惟之は低く圧しつける声で問い返した。 「なんのためにそんなことをしたんだ。君は妻の何に当るんだ」 「なんのためって、貴方を愛しているからですわ」  瑠璃は平気な顔で、淡々といった。 「前の奥さんの妹さんと、女学校時代からいちばんの親友で、今度貴方がお帰りになると聞いて、どうしても仇討ちがしたいって頼まれただけ。ですから引揚げられてからのことをすっかり調べ上げて、わざわざ京都まで買出しに行くことにして、無理矢理お隣りに席を取ったというわけ。あの混雑ですもの、お近づきになるのもたいへんな苦労でしたわ。でもね、頼まれたのはいかにも復讐の手助けという大時代なことで、わたくしも初めのうちは親友のためならという気持でしたけれど、貴方と知合ってから考えが変りましたの。それに調べてみると、前の奥さんて方は、実家の財産を鼻にかけて、ずいぶんひどいことばかりなすってらしたんだし、わたくし、昨日はっきりと妹さんにもいい渡してきましたわ。やっぱり藍沢さんと結婚するつもりだから、もう復讐なんて諦めてちょうだいって。いっさい黙っていようとも思ったけれど、いつまでも心にしこりを残すのも嫌なことですから、こうして何もかも打明けたんです。いかが? そんな女かって、もう愛想を尽かされたかしら。嫁取り、婿取りわろしですものね。でも、わたくし、いま初めて戦後の女になれたような気がしていますの。それから戦争に生き残って、しかも人を愛するってどんなことだかも。だってもう……、気がつかれなかったかしら、おなかに貴方の赤ちゃんがいるんですもの」  気丈にそこまでをいい終えた瑠璃を、惟之は深い瞳になって見つめ続けていたが、それはある感動を伴ったものであることは明らかであった。徐々に徐々に、テーブルの上を越して差し出されようとする腕に気を取られて瑠璃は気がつかなかったが、そこにはまだ緑の唇を閉ざしたままの酸漿と、溶けてしまった氷あずきの容器、そして数枚の凶のおみくじが、鈍い仙花紙の光沢を放って置きさらされていた。 [#改ページ]    緑の時間  敗戦後、三度めの夏が訪れた。  そのとしの八月一日、久しぶりに再開された両国の川開きは、瑠璃にとっていまも忘れがたいもので、あれから四半世紀も経つというのに、まだその夕方の花火は、朱いろの傘|形《なり》に打ちあげられては消える、はかない情景を瞼のうらでくり返していた。金いろに開きかけて、ひととき空にとどまると見えながらまたすぐ薄闇に吸われてしまう哀れさは、同時にそのころの瑠璃のものであった。夫の藍沢惟之も一緒に歩いていた筈だが、その姿はどうしてか記憶にない。生まれて間もない柚香をその日だけ実家に預け、わざわざ二人で来たというのに、思い返すと自分ひとりが群衆の中を歩いていたような気がしてくるのは、たぶん二人がめいめい自分だけのことを考えていたからであろう。自分だけ——それも自分だけが早く死ぬことを。  川面にはコバルト色に塗られたポンポン蒸汽が|舳《みよし》を廻し、海水着ひとつの紅毛びとが坐りこんでいる。きょう川を埋めた船のあらかたはアメリカ人の買切りなので、この川開きも江戸情緒を偲んでのことではない、もっぱら彼ら占領軍を接待するためのものであった。日本人のほうは、浅草橋から両国緑町まで、手に手に六尺棒を構えて往還を仕切る三千人の警官に追い立てられ制止され、暑苦しい行列を作って歩きながら、束の間、頭をめぐらす自由だけが許されていた。そのせいか、明るいうちの音だけの花火は、B29の昼間爆撃さながらで興醒めだったが、それでもようやく空が翳り出すと心はともに昏んで、その心象のおもてにだけ花火は|滲《にじ》み、かつ消えた。光と色彩で織りなされながら、これもまた遠い誰かの遺書かも知れないと瑠璃は思った。  このとしの主な事件といえば、内閣は|片山《かたやま》から|芦田《あしだ》、第二次の|吉田《よしだ》と変り、一月の帝銀事件に始まって|太宰《だざい》|治《おさむ》の自殺、福井の大地震、|古橋《ふるはし》・|橋爪《はしづめ》の世界新記録、埼玉の|本庄《ほんじょう》事件、昭和電工の汚職、アイオーン台風、老いらくの恋、|東条《とうじょう》|英機《ひでき》らの絞首刑判決、それに警視総監がオカマになぐられ、上野公園が夜は一時閉鎖される騒ぎまでおまけにつき、外ではガンジーが暗殺され、米ソの対立が激化してベルリン封鎖、米軍の大空輸作戦などが伝えられているけれども、当時の惟之にとってそれらは、まったく無縁な、走りすぎる車窓の風景でしかなかった。のちにはそれが成功して、次から次と新事業を興すことになる新しい製塩法も、このときはまだメドもつかずに失敗を重ねるばかりで、体がひりつくほどの借金に追い廻されていたからである。前の妻とのいきさつからしても、実家の援助だけは受ける筈がない。瑠璃は時たま内密に五千円とか一万円とかの封鎖預金を貰い、それを一時株券に変えてから現金化して、かつがつ生活を支えていた。二人は郊外の朽ちかけたアパートに籠り、惟之はカストリとかバクダンとかの安酒をしきりに|呷《あお》った。  だがいま二十五年という歳月をおいてみると、借金地獄にあけくれた当時も、瑠璃には時間の洞窟の彼方に、おぼろげな形でわだかまる煤けた生物を眺める思いしかしない。その八月に逮捕され、稀代の毒殺魔と騒がれた|平沢《ひらさわ》|貞通《さだみち》というひとがいまなおひっそりと獄中に生き継ぎ、いわばただ一人の時間の生き証人として存在していることが、あまりにも奇異に思われ、時間の獄というその刑罰がぶきみであった。帝銀事件は|椎名町《しいなまち》の支店で起こったことだが、瑠璃にはただ、そこと|池袋《いけぶくろ》との間にあった、上り屋敷という小さな駅のたたずまいが眼に浮かぶばかりなのだ。消えてしまった駅。上り屋敷と|万世橋《まんせいばし》と、それから……。  惟之の焦りをおろおろと見守る新妻という役を忠実に果しながら、瑠璃はその当時から自分の身内に、何か得体の知れない新しい力が蓄えられかけているのを知っていた。お嬢さんの時には思いもよらぬ、どんなにでも身を堕すことが可能だという確信は、あの時代特有のものだったのだろうか。瑠璃はひそかにパンパンガールの生きざまを心に|疎《うと》みさえした。聖女めいた思いからではない、そのあまりに効率の悪い、稚拙な方法を疎んだのである。GHQの高官とでもいうなら、何人でも手玉にとってやろうという心ばえは、そのひととき|慥《たし》かに瑠璃にも萌していた。  その郊外の駅に近い�ラ・リュウ�という店は、絵描き崩れと自称する、口髭の美しい中年男がひとりで珈琲を淹れたり麺麭を焼いたり、あるいはどぶ臭いカストリの盃を客とともにあげて「どん底」の唄を合唱するというふうで、瑠璃も時おりは惟之に連れられて顔を出したが、夜が更けるにつれて百鬼夜行のけしきになるのが楽しかった。といって当時はありふれた庶民に違いないのだが、中でも凄まじいのは、ひそかに客たちの間で�三十七歳の不仕合せ�と仇名されているダンサーだった。白粉で固めた皺のうえに青いアイシャドーで隈取りし、けばけばしいドレスを流行り初めのロングスカートにしてひきずっている。 「きょう銀座でパンパンにはっぱかけられちゃってサ」  珈琲の湯気に顔をあおられながら、独特の嗄れ声が陽気に語り出す。 「いえさァ、PXの前でボーイフレンド待ってたのよ。そしたら兵隊が、へーイドコイクノってうるさくってしょうがないから、ちょっと横丁に隠れてたの。そしたらデコデコに酔っぱらった二十一、二のパンちゃんがさ、やい手前っち、どこのズベだ、そんなところにまごまごしやがってヤキいれてやろうか、なーんてサ。相手にしないでだまあってたの。だって凄いんですもん。ラク町のミチ子を知らねえかだって、そうよあんた、男だってかなやしないわよ。ちょっとパンなんてのが聞えようもんなら、オヤ手前、何がおかしくって人の|面《つら》ァ見て笑いやがるんだなんて難癖つけてね、パンがどうしたって? なにょオ、手前らに喰わしてもらやすめえし、なんてってると、ナニナニどこのどいつが吐かしやがったんだなんて、たちまち十人ぐらいでずらっと取り囲んじゃってさ」  そこで�三十七歳の不仕合せ�は、ふっと声を落し、溜息をつくようにつけ加えた。 「でもね、ラク町のミチ子ってあんなんじゃないわ。もっと髪|真赤《まっか》」  そのパンパン諸嬢も店の常連なので、ラク町の何というほど格調は高くないにしろ、アンディとかキルロイとかのありふれた名の兵隊をつれてやってくるのだが、ダンサーというまっとうな職業はやはり羨望に|堪《た》えないらしく、 「ねえ、あたいも下地はあるんだけど、いまからじゃダンサーになれないかしら」  などと持ちかけるのがいると、 「あんた、ちょいと、そんな簡単に考えてたら、いちんちでやんなるわよ」 �不仕合せ�は噛みつくばかりにいい立てるのだった。 「テケツは一枚二円でしょ。四分六で八十銭の手取りが、健康保険費とかダンサー組合費とかで月九十円も引かれたうえ、一割の税引きですもん。結局手に入るのは六十八銭ぐらいにしかならないの。それも月に千五百枚稼がなくちゃ、あんたクビよ」  そう突っ放しておいてから、 「あたしはきょう百二十五枚」  口の中で確かめるように、何度かくり返した。  トロンボーン吹き、プロ野球の二軍選手、 「キャラコ買いました摘発喰いました、ではねえ」  などとぼやいている小肥りの闇屋。コンソリの猛爆で硫黄島の防空壕に生き埋めになり、危うく掘り出されてから絵をやめたという青年。新劇のチョイ役、もと「|哈爾浜《ハルピン》日日」の記者、 「おれみたいに刑事をなぐったってさ」  と意気がっている与太者。 �ラ・リュウ�に集まるかれらは、瑠璃にとってまったく初めて出逢ったというほどの種族には違いないが、それでもたとえば駅から少しばかり離れたお邸町に、下町の何がしという老舗の菓子屋が店開きし、そこでこころもち小首をかしげるようにしながら、 「アノ、こんせつはお饅頭なんぞないんざんすか」  と訊いている、明らかに昔の仲間というに足る若奥様ふぜいとつき合うより、よっぽど心の晴れる思いがした。  郊外の駅前ばかりではない、新宿三越裏の広大な焼野原もいちめんの屋台で、戦争前は毎日のように�山小舎�や�新聞とラジオの店�に通っていたという惟之は、しきりに懐しがって瑠璃を連れ歩くのだが、面影はもうどこにもなかった。若い文士が集まるので有名な「|魔子《まこ》」の店にも西瓜が並べられ、魔子が西瓜を売るようになったかねえと通りすがりの若い男が冷やかしてゆく。これは一斉よけのカムフラージュなので、八月に入っていよいよ銀シャリと酒の販売取締りが強化されたため、客の前にはいつも薄く切った西瓜が一つずつ並べられ、カストリのコップは腰掛けの脇に置かされるという念の入れようであった。六頭立ての競馬ゲームが軒並み流行って、一頭が十円、一着に賭けたのに煙草一箱が出る。新型の玉ころがしに集う若者たちは、気が違ったかと思うほどの素頓狂な声で、銀に青! などと叫んでいた、その日々。  のんきたらしくそんな店を廻りながら、惟之がどれほど資金ぐりに苦しみ、金、その咽喉笛に喰らいつき、血をば啜らんというほどの思いでカストリの盃を手にしているかは、瑠璃にも痛いほど判った。八月一日の大川の花火を二人で見に行ったのは、そういう日常にあがき疲れてのことには相違ないが、いつまでも暮れようとしないサマータイムの空の下で|焦《じ》れていたのは、もしかして自分ひとりではなかったのだろうか、おそらくは大群衆の中ではぐれぬため、二人は手をつないで歩いていたに違いないのを、なぜ一人だったように思い出されるのか、自分だけが早く死ぬことを考えていたといえばそれは確かにそうなのだが、何かそこに二十五年前には気づかなかった心理の綾がありはしないか。時間の洞窟の彼方に、おぼろげにわだかまる生物とばかり見ていたものが、ふいに鮮明に歪んだ表情を浮き出させ、醜い貌をさしつけて来そうな思いに、瑠璃はわずかにみじろいだ。  いまさら何を、という気はする。二十五年も気づかなかったとすれば、よくよく気づきたくないこだわりがあるに相違なく、それを追いつめ、曝いてみたところで、いまの平安を乱す以外の効果があろうとも思えない。それとも——。瑠璃の心に兆したのは、いわば記憶の中だけではぐれてしまった夫が、もしかして夫ではなく、もう一人のまったく別な人物であり、そのために思い出したくないのではないかという疑いであった。  ——あのとき一緒に歩いていたのは、本当に夫ではなかったのかしら。  ——そのとおり。  答えは意外にすばやく返って来、瑠璃は再びみじろいだ。  ——じゃあ、誰? 一緒にいたのは誰だったの?  影の応答者はひととき黙った。するとその短い沈黙の間に、犯した筈もない罪の記憶がすばやく頭を掠め、瑠璃はついに身ぶるいした。その相手を、わたくしは二十五年間も記憶の底に封じこめていたのだろうか。それほどの秘密や悪徳をその相手と頒け合っていたとでも?  凝固していた時間は、いま急速に流れ出し、その歳月は決して一すじの道ではなく、大きく拡げられた一枚のスクリーンのようで、そこにはさまざまな記憶の断片が、流星雨さながらに降り注いだ。たとえば——。  たとえば生き死にの境に沈んで頭を抱えるていの惟之を励ますため、当時の瑠璃があれこれと心を砕いて努めたことに間違いはない。あるときはさりげない冗談話のようにハムレットの台詞を持ち出し、   To be or not to be.  のnをmと換えて、   飛べ、もっと飛べ  と読めばいいんだわと笑ってみせたり、あるいはもう少し凝って or not を ornit とし、あとに hopter をつけ加えて、バタバタ翼の飛行機だっていいじゃないの、などといってみたりしたけれども、惟之はやはり暗い顔のままうつむいていた。  また、ある日曜日、珍しく瑠璃の伯母が進駐軍物資や青いりんごを山ほど抱えて二人のアパートを訪ねて来ているとき、ふいにドアがあいて奇体な風体の老人が顔をのぞかせ、いやいや私は決して怪しいものではなどといいながら、八卦見の鑑札らしいものを出してみせた。占いが何より好きな伯母が早速坐り直して掌を差し出すと、行きずりの八卦見に判る筈もない少女時代からの特殊な境遇をこともなくいい当てたことがある。惟之もすっかり驚いて興味半分に観てもらうと、あと二、三年、四十歳まで辛抱すれば豁然と運が展けますぞ、それも海に|縁《ゆかり》の深い仕事でというみごとな洞察だった。もっともそのあと瑠璃の掌を一眼みるなり、ひどく怯えた顔つきになったのは何のせいか、それとも三人で見料が百円じゃとふてくされたのか、 「貴女のお手は葉っぱの形、末はだんだん拡がる印し。末は輪廻の時間にまかせ……」  と、しどろもどろなことをいって出て行ってしまったのだが、もしかすると惟之は、それさえも|浅草《あさくさ》観音のおみくじと同じように、瑠璃が顔見知りの占い師に頼みこんでしたことと疑っていたのかも知れない。それだけは瑠璃の預り知らぬところだが、思い返すとあまりにも伯母の過去をみごとにいい当てすぎたのが怪しい。それにあの日、親戚の中でもつき合いが薄く、めったに往き来もしない伯母がなぜ訪ねて来たのか、それも不思議であった。どこか神秘家めいた美貌のこの伯母は母の姉だが、事情があって幼いころ里子に出され、瑠璃の実家にもめったに顔を見せたことがない。生涯独身のままで、晩年もその風体にふさわしく、ふいに蒸発してしまった謎の人物なのだが、派手好きで花やかな顔立ちに瑠璃は少女時代から憧れていた。向うもたまに逢うたび、なんともつかぬ|慈《いつく》しみの眼を向けながら、どこかこちらを避けようとする気配があって、瑠璃はひそかに、あの人が本当の母かも知れないなどと空想していたのだった。あの日曜日も、玉虫いろに燦めくノースリーブの大胆な服で、ちょうどいまのこのわたくしと同じ恰好をしていた、あの伯母…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………瑠璃はあたりを見廻した。そこは最近開店したばかりらしいフルーツパーラーで、あまりの暑さに冷房が故障しているのだろうかといぶかしんだが、すぐいまは昭和二十三年の八月なので、郊外のこんな店に冷房などあるわけはないと気づいた。瑠璃を訪ねるにはまだちょっと時間が早い。占いの爺さんが指定した時間どおりに来て、吹きこんでおいたとおりのことをうまく喋るかどうかは判らないが、まあ任せるより仕方ないだろう。いちばん肝心なのは製塩法のヒントだが、これはわたくし自身、惟之の発明が成功したときも具体的なことは詳しく聞かなかったので、海水の濃縮と脱塩とを交互に、しかも同時に起こさせるための新しい設備を、決して専門的でなく八卦見らしい口ぶりでいわせるというのが難しい。それにしても、まだお嬢さん気のぬけない瑠璃すなわち二十五年前の自分に会うという、このときめきはなんのせいだろう。決して相手にわたくしの正体を気づかせてはならず、必要以上の注意を与えて未来を|紊《みだ》すことも禁じられているけれども、そしてひとときの、おそらくこれが最後の使者ということも判っているのだけれど、人によっては稀れにこうして二重の時間を生きる奇妙な課役があることを、この齢になるまで気づくことも出来ないとは何という不自由さであろう。注意深く日常を見廻していれば、時間の再帰性というありふれた流れの法則は、誰でもすぐ理解できる筈だのに。  瑠璃はそこで、さっきから執拗にこちらへ視線を向けている、口髭を生やした中年紳士めいた男をようやく見返った。そう、慥かにあれは�ラ・リュウ�のマスターで、向かい合って喋っているのは�三十七歳の不仕合せ�に間違いない。懐しい嗄れ声がこんなことをいっている。 「マスターも隅におけないじゃないの。ホラ先々週の日曜さァ、あたし、ちゃんと見てたんだから」 「なんのことだい」  マスターは慌てて視線をひっこめ、�不仕合せ�の方に向き直った。 「とぼけたってダメよ。両国の花火に、あんた藍沢さんの奥さん連れ出したじゃないの。手をつないで歩いちゃったりして、ウフフ、悪いしと」  瑠璃はゆるく微笑した。マスターが手をふるようにして、そんなんじゃないったらと弁解するのも滑稽だった。そう、慥かに二人は何でもなかった。手をつないだのはあまりな混雑に怯えたひとときのことにすぎない。小金を溜めこんで、瑠璃には一方ならず心を傾けているこの初老の男から、金を借り出すという積極的な気持もなかった。しかしそのあと、若い瑠璃の潔癖さはそれを許さず、二十五年間も記憶の底に男の名をとじこめたのだ。  可哀そうな瑠璃。そして可哀そうな二十五年前のこの男女たち。先々週の日曜というところをみると、今日は八月十五日、敗戦三周年の記念日らしい。この二人がそれからどう生き継ぐのか、わたくしには知る機会もなかったけれども、昭和四十八年の繁栄とやらは、二人に、そしてわたくし自身に与えられる皮膚の皺ほどにうとましいものでしかないだろう。走り出そうとする�戦後�に、せめていまのうち何かを働きかければ。いまのうちせめて立って、何か一言を叫んだならば。……  瑠璃はしかし黙って席を離れた。そろそろ瑠璃のアパートに行っておかなければならない。クリームソーダは公定価格のせいで、伝票にはクリームが十円、ソーダが五円と、べつべつについている。PXで見つくろわせたチョコレートやウィスキーは手土産に抱えてきたが、他にも何か自分の手で買ってゆこう。瑠璃は果物屋の店先に立った。はしりの甲州葡萄に、水蜜なども並んでいる。青りんごが一個十円から二十五円、西瓜が百匁十円。店員がおどろいたように瑠璃の豪華な服を見ている。どこの貴婦人というわけでもない、わたくしはこの近くのボロアパートに貧乏ぐらしをしている若奥さんのなれの果てにすぎない。そう、はっきりいってしまえば、親戚の誰ひとり気づいてはいないが、GHQの高官相手の|高級娼婦《クルチザンヌ》でしかないのだ。……  瑠璃は緑いろの肌をしたりんごをいくつか取り上げた。印度りんごなどではない、早生で酸っぱいだけの、貧しいりんごだ。だがこうしてわたくしが手を触れ、わたくしが思いをこめて取り上げるというだけで、四半世紀に亙る戦後という時間が、せめてかすかにでもこの緑いろに染まってくれるならば。思いもかけぬ来訪におどろく若い夫婦、そして無心に眠り続ける柚香。わけてもやはり死別する運命にある惟之の沈鬱に引緊まった|風貌に、久しぶりに接するのだと思うと、あやうく涙がこぼれそうになる。 「おいくらかしら、全部で」  まだぼんやりと、憧れの眼で自分を見つめている若い店員に、瑠璃はつとめてはなやいだ声をかけた。 [#改ページ]    緑の訪問者  白く涼しい韮の花が咲きついで、九月。気がつくと窓のカーテンに、生まれたばかりの濡れた翅いろで精霊|蝗《ばった》がきている。黒い金属片を貼りつけた眼に新秋の灯が映って、それはひとときの静夜であった。 「それからまた一年ほどが経ちました昭和二十四年のことでございますが、でもそうした穏やかな秋の夜というものも、いつまでも味わえますかどうか」  戦後の異様な体験をなおも語り継ごうとして瑠璃夫人は、木原直人を顧みて頼りなげに笑った。山荘の居間に今夜は珍しく柚香も顔を見せ、ふだん見慣れぬ山住いの客たちも、灯りに遠く膝を揃えている。それはいずれも実体のない、影のような老人たちであった。 「このごろは九月と申せば、関東大震災の五十年忌とやらで、大地震の噂ばかりでございますもの。それも浅間の爆発から始まったことですから、またここへ帰って参りましょうけれども」  房総半島の隆起、アーツ衛星が発見した二本の活断層、絶え間のない小地震。それに赤トンボやサンマの異様な大群、やたら這い出てくる青大将ということになれば、鈍感な人間には判らなくても、虫や魚たちが恐慌を起こすほど地中になんらかの異変が生じつつあることを疑うわけにはいかない。ことに関東大震災も、直後の道学者流によれば、第一次大戦後の好況で消費と享楽に明け暮れた愚かな民への天譴と説かれたことだし、その点でもレジャーアニマルに溢れた現代は、充分すぎるほど時期が見合っているようなものであろう。 「戦前はなんでしたな、九月二日の例の時間になると、|午砲《ドン》でしたかサイレンでしたかが鳴って、必ず一分間の黙祷をさせられたものでしたな」  枯れたぼそぼそ声が遠くからした。奇妙なことに今夜の客は、誰もみな灯りから顔を隠すように銘々の椅子に凭れこんでい、直人は一度その顔をはっきり確かめたいと思って、薄明りを透かすようにしてみたが、声の主はただ黒く沈んだ生き物としか判らなかった。 「戦前だけじゃありませんよ、戦後だってやっていましたよ」  それより少し若い声が、ぶっきらぼうに口を添えた。 「震災からちょうど二十五年後、いまから二十五年前というと昭和二十三年ですが、その九月一日のやはり十一時五十八分にラジオがポーンと鐘を鳴らして、皆様、お忘れではないでしょうねなんていってるんです。ばかばかしい、つい三年ほど前の空襲の日々はどうなんだと思ってね、大いに腹を立てたものですが、どうやらまた戦災より震災てえことになったらしいです」 「儂は焼け跡で売っておったミカン水というものを覚えとるが、あれは確か一杯五銭という馬鹿高い値じゃった」  いっそうくぐもって|咳《しわぶ》きめいた声が、遠い憶い出話を語り出そうとしたが、 「焼け跡って、どっちの焼け跡です」  ぶっきらぼうなのは突っかかるように遮った。 「戦後の闇市だって同じようなものだったでしょう。少なくともぼくは、九月一日に黙祷するよりは、三月九日、四月十三日、五月二十五日といった空襲記念日に十秒でもいいから瞑目したいですね。地震のほうはいくら黙祷したって、くるときはくるんだから」 「君のような�短期旅行者�はそう考えがちだが……」  さらに遠くからおもおもしい声が届いた。 「第二次関東大震災と世界飢餓、それに続く第三次世界大戦、そのあとの凄まじい荒廃という人間の業を眺めてきたら、少しは意見も変るだろうよ」 「そりゃそうかも知れません。ぼくは貴方みたいに�長老�じゃないし、数知れない死を|看護《みと》るほどの器量でもない。しかしですね……」  何か訳の判らない論争が始まり、直人はなぜか、さっきより老人の客の数がずっと殖えたような気がして、体を固くしていた。得体の知れぬ影の一団が自分を取り包み、これから自分を生贄に黒彌撒の儀式が始まるような雰囲気を感じとると、強いて陽気に瑠璃夫人に話しかけた。 「藍沢さんは震災のときは、どちらにいらしたんですか」 「はあ、あの」  夫人も屈託のない声で答えた。 「いまの|西《にし》|日暮里《にっぽり》の近くにおりましたの。お蔭様で家も壁がちょっと崩れたぐらいのことで済みまして、うちじゅう近くのお寺の境内に避難は致しましたけれども、わたくしはまあ、周りの空いちめんが炎を映しておりますのに喜んで、夕焼け小焼けに日が暮れてを歌っていたそうですの。自分では覚えておりませんけれど、ずいぶん後までそのことで親きょうだいからからかわれましたわ」  低い、嗄れた笑い声がひととき周りをざわめかせ、またどこかへ吸われるように消えていった。灯はいっそう暗く、蝋燭のようにゆらめきさえした。 「この間のお話で……」  直人はなおも話しかけながら、声が顫えているのを自分で知っていた。 「ひとつ不思議でならないのは、貴女と伯母様とが同一人でいらした、とすると、伯母様としての貴女はその後どうなさったんでしょう。たしか謎の失踪をとげたと伺いましたが、時間旅行者というわけでなし、二重人格というのでもない、その伯母様のほうは……」 「それはこのわたくしには判りませんわ」  瑠璃夫人は哀しげに答えた。 「戦後という曠野をどうさまよい、どこで果てましたものか、それを知らせることは叶わない約束でございますもの」 「お連れしたらよろしいのに、その戦後へ」  黙っていた柚香がふいに口を挟んだ。 「そのために皆様に来ていただいたんですもの」  その皆様——影の老人たちは一斉に肯いたようだった。あまり暗いので気配しか判らないが、確かに彼らは一膝のり出すように、直人を取り囲むかたちに近づいてきているのに間違いはなかった。 「木原さんは戦後に興味がおありかしら。わたくしなら二度とあの時代に戻りたいとは思いませんけれども、ここで古いお話をするより一度見てきていただけたらと思って」  瑠璃夫人もいつかしら姿は影ばかりのように朧ろとなり、声だけが届き始めていた。直人もまるでそれが当り前のことのように、こう答えていた。 「そうですね。一度その戦後の時代とやらへ行って、�三十七歳の不仕合せ�ってひとには会ってみたいな。うちへ行けば赤ん坊のぼくがいるというのも妙な話だけれども。でも、向うでうまく暮せるかどうか心配だし、またどうやって帰ってくるんですか」 「それよりも、お若いの」 �長老�らしいひとの声が、初めて直人に呼びかけた。 「第二次関東大震災がいつ起こるか、そのほうに興味はないかね。ひょっとして瓦礫に埋まって焼死しかけている自分を助け出すチャンスが与えられるかも知れんて」 「ええ、いいえ」  直人はあいまいに、しかしすぐ心を決めたようにかぶりをふった。 「自分の未来を覗くというのは、興味深いといえばそうですけれど、やはり慎みたい気がするんです。それより時間旅行というものがどんな時代へ向かっても可能なら、ぼくは自分よりクレオパトラに会ってきたほうがいいし、でなければどこか遠くから恐竜でも眺めて帰りたいものですね」 「SFのようにはゆかんのだよ、お若いの」 �長老�は苦笑まじりにいった。 「時間は自分の生きている間にだけしか働かず、作用もしない。稀れにわたしのように因果な役を仰せつかることもあるが、あらかたはまず原体験に追体験を重ねて不都合のない地点にだけ行けるということだ。大地震のさなかに君が自分を助けることが出来るのは、その行為がかりに他人であっても不思議はないからで、他の場合にまで通じるわけではないのだよ。さて、それでは昭和二十四年の九月一日に案内しようか。ちょうど前夜がキティ台風で、風速三十メートル、電灯も消え水道もとまり、ガスもつかないという荒れようだから、叩きつけるような雨と風のなかへ姿を現わすというのもメフィストフェレスめいて効果があるだろう。服装はそれでいいとして、金はここにある。見当はつくだろうが千円札さえまだ出来ていない時代だからね、むやみな使い方をされても困るが……」 「ちょっと待って下さい」  あまり話が急なことで、このまま古い時代へ送りこまれそうな気配に、直人は慌てて喋り出した。 「昭和二十四年といえば、たしか下山事件に三鷹事件、それに松川事件と立て続けに起きたとしでしょう。何月かいまは覚えていないけれど、それを調べてぼく一人がその現場へ行くことも可能なんですか。カメラを持って行って真犯人の写真を撮ることだって出来るというならば、もうこれまでにも誰かがやっていそうなものですが」 「そうなんだ。ぼくはなんべんそれを志願したか知れやしない」  さっきの若い、ぶっきらぼうな声が焦立たしげにいった。 「何も真相を曝いて歴史をひっくり返そうなんてことを考えてるんじゃない、ぼくはただ真実をこの眼で見てから死にたいだけなのに、危険人物扱いで許してもらえない。あの当時ぼくは日本橋の商社に勤める、しがないサラリーマンだったけれど、あの三つの事件がどんな意図で、誰の手で惹き起こされたかは、そのときから判っていましたよ。いまでこそブレジネフがニクソンを訪ねて、握手をしたり冗談をいい合ったりという狃れようだけど、あの時代は米ソの対立が頂点に達して、トルーマンがソ連にも原子爆弾がある、核爆発があったことを発表すると、ソ連もにやりと凄んだ面構えで、実は一昨年から持っておりやす、なんて上眼づかいにじろりと見上げるってふうでさ、アメリカとしては共産党の勢力を何がなんでも叩きつぶしたかった時代でしょう。国鉄の大量馘首に組合が反対するのは当然だてえのに、下山総裁の死体をバラバラにして抛り出しとくと、新聞がすぐ他殺とするのはいいとして、背後に某団体かなんて見当違いの触れこみをする。組合側の気勢を削いだ鼻先へ三鷹事件を浴びせて国鉄十万人の整理は完了てえあのやりくちは、日本人が考え出せることじゃない。下山事件の当日、ぼくは昼に三越の裏を通ったけれど、事件を知らなくてもなにがあったのかと思うほどアメリカのステーションワゴンが何台もつめかけていましたよ。それはむろん通信記者たちがニュースを知って集まったといえばそうだろうけれど、それが事件の前からつめかけていたとしたってちっとも不思議とは思えませんね」  勢いこんでいう正義漢の口調に、�長老�はいささか閉口したようすだったが、やがていくぶん揶揄めいた調子でこういった。 「すると君は何かね、許されさえすれば七月五日の朝九時半からカメラを持って三越に張りこみ、下山総裁が背の高い紅毛びとや、えぐい顔をした猪首の男どもに囲まれ、地下鉄へ降りる傍の小さな出口から連れ出されるところを一発、ばっちり写真にとれば満足なのかね。そんなことをしたら当然君もまた一緒に連れ出されて、バラバラの轢死体にさえしてもらえない、セメントの樽漬けでどこかの海に沈められるだろう。そんなふうだから�短期旅行者�の資格しか取れんのだよ」 「ぼくがいうのはただ……」  正義漢はいくらかしょぼんとしたようだった。 「昭和二十四年から翌年にかけて戦後の反動化が決定した、その時代に生きていて何もしなかったことが恥ずかしいだけなんです。二つの事件のあとがレッドパージでしょう、朝鮮戦争でしょう。軍需景気のなかで警察予備隊が作られ、集会とデモを禁止し、日の丸と君が代を復活させという政策がまかり通って、一方ではフジヤマのトビウオなんてことで古橋を生神様のように讃え、これで奴らも日本民族を見直したろう、少しは日本という国の偉大さが判ったろうなんていう見当違いのうぬぼれで、またぞろ世界に必要な国みたいな錯覚をする、そのことがこうした反動政策とみごとに裏腹になっているのが悲しいんだ。あの当時の�待ちに待った引揚げ�だってそうでしょう。ソ連の奴め、なんてひどいことをしやがるんだ、四年もシベリアで冬を越させて、おお可哀そうに、さあ大丈夫、日本ですよ日の丸だよ万歳だよというおろおろ涙で出迎えたら、あいにく引揚者は全部マルキストに早変りしていて、まるでつづらからお化けでも出たようにびっくりしている中を、スクラムを組みインターを歌って皆さん|代々木《よよぎ》へ行っちまった。新聞もいまさら引込みがつかないから、ソ連の思想教育がいかに苛烈を極めたかという宣伝を始める。その俄かマルキストも、実は日本人生得のお先走りから起こったことだと、当時は気づく筈もないから、それはいいんです。でもこの六月だかにエフトシェンコですか、ソ連の詩人が来て、寿司屋のおやじだかが引揚者だと知ると、どうだったシベリアは。楽しかった。そうだろう、シベリアはすばらしいところだからなんてやってるのを聞くと、この馬鹿野郎と思ってね。シベリアは楽しかったなんていうほうもいうほうだけど」  正義漢はどうやら熱弁のあまり涙声になっているようすで、�長老�も挨拶に困っているらしい。思わぬ戦後史のおさらいに、直人はそれでも興味深く聞いてはいたけれども、ようやくこういった。 「どうもせっかく時間旅行をさせてもらえそうな雰囲気でしたけれど、お話を聞くと昭和二十四、五年というのも、あんまり楽しい時代ではないようですね。まあぼくは歴史の証人になるつもりもないし、大事件の真相を曝くという心がけもないんで、このあいだ瑠璃夫人のお話にあった緑のりんご、その仄かな、流れるような緑のいろに戦後という時間が染まるものなら、差し障りのない訪問者ぐらいになりたかったというのが本音です。しかしどうもこうなると出かけるのもぞっとしないな。�三十七歳の不仕合せ�にいまさら会ってみても仕方がないだろうし」 「でも木原さんはお芝居がお好きでしたでしょう」  柚香が傍から優しくすすめた。 「古い時代に帰って一幕見を覗いてくるというのも、しゃれてていいものよ。あの時代には何があったかしら、|演《だ》し物は」 「二十四年の九月というと……」  誰かがすぐ答えた。 「東劇で|幸四郎《こうしろう》の襲名披露がありますな。夜の部の『縮屋新助』などがいいでしょう。|吉《きち》|右衛門《えもん》は少し弱っていて、熱演ももひとつしゃっきりしないが、芝翫の|美代吉《みよきち》がずんといい。むろんいまの|歌《うた》|右衛門《えもん》ですが。それから十月にかけて帝劇で文楽が出ています。これはやはり文五郎と|山城《やましろ》|小掾《しょうじょう》の『寺小屋』が圧巻でしょう。中は浜太夫だが、まあ聞いてらっしゃい。ちょうど|清六《せいろく》が、この興行限りであんな冷たい人とはお別れやという爆弾声明を出そうというところで」 「あの、それで、どうやって行くんです。やはりタイムマシンとやらに乗るんですか。それと帰り方が心配だけれど」 「タイムマシンなどあるわけはないさ。時間の性質を考えたら、そんな機械が役に立たぬことはすぐ判るだろうに。秋へ行くには秋の呪文さえ唱えればわけはない」  誰かが遠くで呟くのに続いて、自分のと引替えに、当時の金の入った財布が渡された。  たしかに、吉右衛門でも六代目でも、死んでしまった名優たちを立見でなり観られるというなら時間旅行も悪くはない。それにしても瑠璃夫人や柚香がどういう手蔓でかそれの可能なグループに所属しているというのは、思いもかけないことだった。影の老人たちが改めて円陣を作り、いよいよ二十四年前の九月に送り届けられるらしい気配に、木原直人は手術を受ける前のように体を強ばらせたが、もう一度、弱々しい微笑を浮かべて訊いた。 「で、帰ってくるにはどうしたらいいんですか。その、つまり、ちゃんとこの昭和四十八年の九月のここへ帰るのは」 「それは簡単なことなの」  柚香が涼しい声でいった。 「行ったらまず、どこでも眼についた交番へ顔を出して、時間旅行者の登録をすればいいのよ。帰りも同じ。どの交番でも受付けてくれますから、大丈夫、すぐお帰りになれてよ」 「交番ですって?」 「ええ、ちょっと気がつかなかったでしょ。いまだって場所によってはやっているわ。このあいだ新宿三丁目の交番が爆破されたのは、赤軍派の仕業なんかじゃない、時間旅行者の内輪揉めだったの。犯人はもう逮捕されて厳重に処罰されましたけど」 「いや、当節は多少物騒なことになったが、二十四年前は、まだのんびりしたものだて」 �長老�が慰め顔にいった。 「党員がアイスキャンデー売りに化けて様子を探りにくるぐらいのことでな。パンパンが偽刑事におどかされて、恐かったからサービスしちゃったなぞというのんびりした時代さ。さて、あまり手間どってもいかん。お若いの。こう手を揃えて差し出して、軽く眼を瞑るがいい。すこうし眠気がさしたら、そうっと体を楽にして、らくーにして、そう……」  ひどく冷たい掌が——まるで骸骨そのままのように枯れきった掌が直人に触れ、それはおずおずと腕から肩に這いのぼった。 「さあ、秋の呪文を。君も一節ずつ口の中で唱えるのだよ」  老人たちは、立ちゆらぐ香煙の|経文歌《モテット》のように、その呪文を唱え出した。   ………   鏡は空ばかり映している   ………   こんなにも痩せてしまったと   山羊の嘆き   ………   谷底から   もう合唱も湧いてこない   ………  だが、ひどい眠気に誘われながら、直人は初めてあることに気づいた。この連中は、いかにも自分を過去のある時代へ送り届けることだけは可能なので、それはたぶん間違いはない。しかし、交番がその連絡所だなどというのは、真赤な嘘に決まっている。昭和二十四年九月のある日、交番へ駆けこんできた若い男が、自分は時間旅行者だなどと名のったとしたら。……  いくら主張しても信じてもらえず、業を煮やして朝鮮戦争やその他のいくつかの事件の予言をしてみたところで正確な日時を知っているわけではなく、|阿佐《あさ》|谷《がや》の自宅へ行って赤ん坊の自分や、両親の出生などをいい立てたとしても、やはり気違い扱いされるだろう。  またしても柚香の黒い願望——絶対に救いのない�過去の精神病院�へひとを閉じこめようとする、その悪念に自分はひっかかったに違いない。いやだ、助けてくれという叫びは、もう声にならなかった。深い眠りにおちこんでゆきながら直人が最後に聞きとめたのは、立ち上った柚香のけたたましいまでの狂笑であった。 [#改ページ]    廃屋を訪ねて  ㈵  鉄格子のついた窓の外に繁っているのは、見たところ確かに金木犀で、風につれて鋭い香が吹き渡る風情から推すと季節は十月と知れたが、広い病室のどこにも暦や時計はいっさいなく、もとより新聞やテレビのたぐいも見当らぬため、いまが一体いつなのか、どんな時代に生きているのか、患者たちは知ることができなかった。  朝夕のきまった時刻に回診にくる医師と看護夫とは、終始にこやかな微笑を浮かべ、気分はどうかねとか、欲しいものはないかとかの口先だけのいたわりは示すけれども、時間を返して欲しいという、いちばん切実な要求にだけは、決して応じようとしなかった。 「時計ならあげよう。なんならここの壁いちめん柱いちめんを時計屋の店先のように、大小さまざまな時計で飾り立ててもいい。でなければ諸君が工夫して作るというなら、日時計、水時計、砂時計その他の材料はいくらでも持たせよう。しかし時間そのものを、いったいどうやって手渡せると思うね。かりにいまが一九七三年だ、あるいは八三年だと私が告げれば、諸君はそのまま信用するというのかね。そんな借着の時間をやすやすと身につけるような真似は、これからもまずしないほうがいい」  医師は 本当に医師かどうかも疑わしいのだが、白衣のかれはそういってたしなめさえした。 「それに、いくら時計をおいたところで、これまでも必ずそうだったが、皆なしてそのひとつひとつを壊し出すにきまっているのだ。壊してバラバラになったぜんまいやてんぷの中に、ひょっとして時間が隠されているとでもいうようにね。そういう訳でここには時計もおいてないのだよ」  それはひどく残酷ないい方で、閉じこめられた患者たちは、しだいにその底にある、根深い悪意に気づかずにいられなかった。ここはもしかすると病院などではなく、時間の剥奪という新しい刑を課せられた囚人たちの獄舎であり、そのために設備は残りなく行届いているのではないかと疑い出すと、その悪意の周到さは容易ならぬものに思われた。かりにここを脱出できたとしても、外界にはいわゆる�娑婆�が存在する筈はなく、たとえば虚無の白波が空しく岩を噛んでは引返してゆく、すでに時間の破滅した荒涼とした風景がひろがっているばかりではないのか。内部ばかりではない、外部にもいっさいの時は喪われ、この建物の存在自体が�時間外�の領域にあるのだとしたら。——  この中で意識を取り戻してから木原直人が考え続けていたのは、�ここ�が時空の断層に危うくひっかかった特殊な位相に違いないということであった。途中の経過は何ひとつ覚えていず、かれが送りこまれようとしたのは昭和二十四年九月一日の筈であったが、暦の上の日時というものは、いわば向うで激しく揺れている空中ブランコの一転瞬の位置に等しく、玄人でもないものが無謀なタイムジャンプを試みたが最後、サーカスの救助網へもろに墜落する形で�ここ�へ陥ちこむということは、同室の仲間たちと話し合ううち容易に理解された。彼らもまた、なんらかの形で時間旅行を試みた連中ばかりだったからである。  その同室者の中の一人に藍沢惟之が——あの塔屋で星と夕焼けとを眺めながら果てたとばかり聞かされていた当の本人がまじっていたのは、いまとなってみれば偶然とはいえず、沈鬱に額を翳らせながら彼の語るのを聞くと、直人はいまさらながら、どれほど迂闊に瑠璃夫人や柚香とつき合っていたか、身に沁みて顧みられた。 「この現代にも確かに魔女は存在するといったら、まず大方の人は信じないだろうが、あの二人だけはべつなんだ。時間の特質を手に入れるという、ただそれだけの資格によって二人ながら時間の魔女になり得たといっていいだろう。私の怖れているのは、もしかしてここが実態のない、彼女らの妄想の檻ではないかということなんだ。かりにそうだとしたら、いったんその中へ閉じこめられた以上、それを中から壊すことはできないし、もとより脱出も不可能だからさ。なぜといって彼女らの妄想に、外界なんてものは初めから存在していやしないのだからね」 「だって、それじゃ………」  直人はいいよどんだ。 「それじゃ、窓の外の金木犀は、あれも仮象なんですか。春になったらべつな花が咲くとでも……」 「そう、あの窓の外の花は、君のように新入りがくるたび新しく咲くんだ。季節らしいものだけは残しておくという、それも時間刑の意地の悪いところでね、十月になったから金木犀が咲いたんじゃない、金木犀を咲かせておいていまが十月だと思わせようというんだが、それがいつの十月かは絶対に判らないのだよ。私が眺めくらしていた星座の知識も、この昼の館ではなんの役にも立たない。強いて時間を創り出すとすれば、古代人がそうしたように、ここだけの新しい暦を編み出すしか|術《て》はないのさ」 「ああ、でも……」  いいかけて、直人はうなだれた。たとえば夜空に壮大なジャコビニ流星群が降り注いだというなら、それは一九三三年の十月九日と知れるが、眺め尽し立ち尽してもどんな星屑ひとつ掠めようとはしなかった一九七二年のその夜はいったい何だったのだろう、名づけがたき十月とでもいうほかはないのかという思いが胸をよぎったからである。日蝕も月蝕もあらかじめ地上の暦を携えていればの話で、第一、この窓の外の天空が、地上のそれと同じものだという保証はない。  惟之がここにきたのは、晩年ついに瑠璃と伯母とが同一人だったとようやくに悟り、時間の再帰性という特殊な性質を自分で験すつもりになって失敗したと語ったが、いまが千九百何年ということが分明でない以上、それからどれほどの年数が経ったかという問いもまた無意味であった。ここでは時間が経たないんでしょうかという問いには、いっそう正確に経ちながら、いわばそれはから回りしているのだという奇妙な答が返ってきた。  何もかも訊き出したいことばかりであった。 「そういえばここに、水島滋男とか深見悠介といった青年は来ませんでしたか」  思いついて直人はたずね、手短かに藍沢家のサロンでのいきさつを語った。  時間の中を落下しながら直人が聞きとめた柚香の狂笑は、また一人をうまうまと異次元に葬り去った喜びの声としか思えなかったのだが、とすれば突然の失踪を遂げた水島も深見も、ともに同じ方法で過去へ、時間の彼方へと送りこまれたに相違ない。おそらく彼らはここを夢魔の館と信じてあの手紙を書き送ったのだろうという直人の推察は、やはり当っていた。 「ああ、知っている」  惟之は重苦しく答えた。 「二人とも純真すぎるというのか、いまだに奸計に嵌ってここへ送られたとは信じていない。それだけに瑠璃と袖香には恰好の獲物だったのだろうが、深見君のほうは寝込みを襲われて、眠ったままタイムジャンプをさせられたようだ。だから彼は夜の館にいるよ」 「夜の館ですって」 「そう、ここは昼の館だ。朝も夕もない�昼�という概念だけのあけくれがのべつ続くんだ。夜の館に入れられても、深見君はまだ自分が何をさせられたか気づいちゃいない。自分の夢想癖が募って、夢魔の王に攫われて非現実へまぎれこんだぐらいに思っているのだろう。それもいっそ倖せだろうが」 「そうか。じゃ、後を追いかけた水島君は、真相に気づいて柚香さんたちに迫ったんですね。秘密を公開しない代り、自分を深見君の許に送ってくれというふうに」  惟之は黙って肯いた。  直人はいまようやく正月のサロンで何が行われたのかを知った。瑠璃夫人と柚香は、あたかも舞台の女魔術師さながらの誇らしさで、サロンの常連に二人の消失を披露してみせ、一人でもその謎をとけるかというぐらいの気持であの手紙を配ったのであろう。その手紙がどんな手順で地上へ送られたのかは分明でないが、直人はいまさらながら水島滋男の、何か口籠ってたどたどしい言い廻しを思い返さずにいられなかった。冥界の川に託して時間旅行を語り続けた彼は、それとなく真相を知らせるというつもりもなく、まして柚香を時間の魔女だとも思わずに、ただひたすらこちらでもう一度|倶《とも》に住むことだけを願った純情な青年なのであろう。  しかし、かりにもここから地上に手紙が届くものなら、人間もまた何らかの手段で復帰することも不可能とはいえない。ただその中間に横たわる完全な�無�の海、�無�の砂漠に迷いこみさえしなければ。…… 「私もそれは考え続けているんだよ」  惟之は容易に同意した。 「なんとしてでもいま一度地上に戻って、瑠璃や柚香に一泡吹かせんことには気が納まらん。水島君もいま一度説得してみるが、ともかくも君が来てくれたのは大いに心強い。なんとか二人で頑張ろうじゃないか。柚香がどれほど酷薄な女かを知らせるために、私も三度ほど君たちに手紙を書いたが、その甲斐もなく君が送られてきたとなると、後の連中も危いものだ。もうぐずぐずはしておれん。大体この、時間の獄とも病院ともつかぬ館にしたって、まったく地表とは別な空間に存在している筈はない。どこか一部分だけは変りなく地上に露出していると思うんだが、その部分を外から、つまり誰か地上の人間が開いたら、一瞬のうちにここは崩壊してわれわれは元に戻れると思わないかね」  惟之の提案を聞きながら、直人は妙な微笑を浮かべていった。 「ここへ来てから、ぼくはひどく変った気持がしているんです。つまり時間の中を潜りぬけてくる間に、ぼくが二人に岐れちまったような……。一人はたしかにこうしてここにいる、しかしもう一人のぼくは、変りなく地上に残ってふらふらどこかをさまよっている感じなんです。プラトンじゃないけど、その半身とぼくとはなんとか合体したいし、向うもそれを熱望している。そいつが地上のどこを歩いているか、なんとなくいまのぼくには判るんですよ。ですから、もしここの一部が地上に露出していて、その門を開きさえすればいいというなら、ぼくがけんめいにテレパシーですか、その念力で半身を呼んで、そいつに開けさせたらどうでしょう」 「本当かね、君」  惟之の顔は俄かに喜色に溢れた。 「はっきりとその存在が感じられるんだね。確かに半身が実在して、その彼と交信できるというなら、頼む、いますぐに呼び寄せて、なんとか門を開かせてくれ。そうすればすぐにも二人は合体できるだろうし、こんな病院みたいなものはたちまち消滅するだろう。どうだね、出来そうかね。ああうまくその彼を門のところまでこさせることができさえすれば………」 「ええ、やってみます」  実際、もう一人の自分は、いますぐこの近くを歩いていて、あと一息でこちらの存在に気づきそうなことは疑いなかった。そう、その角を曲ってまっすぐだ。うまいぞ、それから左手の原っぱだ。かまわない、どんどん入ってゆけはいいんだ。木立の奥に、ホラ、ちゃんと門が見えてるじゃないか。何をぐずぐずしてるんだ。よし、そう、もっと近づいて、そうだ、その門を片手で押しさえすれば。……  けんめいに念じる直人のそばで、惟之もまた唇を噛むようにして、見えない半身を待ち続けていた。  ㈼  鉄格子のついた窓の外に繁っているのは、見たところ確かに金木犀で、風につれて鋭い香が吹き渡る風情から推すと季節は十月と知れたが、広い病室のどこにも時計はおかれていない。それというのもここの患者たちは、時計とみると必ずそのひとつひとつを壊してしまうからであった。壊してバラバラになったぜんまいやてんぷの中に、ひょっとして時間が隠されているとでもいうようなモノマニアたちを、木原直人はひそかに憎み、かつは軽蔑した。彼だけはいまが一九七三年の十月だと知っており、しかも絶対に自分だけは発狂していない確信があるからだったが、狂院の中で自分は狂人ではないと言い張る愚も、同時に思い知らされていたのである。  九月に千ヶ滝の山荘で柚香や奇妙な老人たちに囲まれ、時間旅行へ送り出すと称して催眠術をかけられたことは確かだが、なぜそんな手間暇をかけてまで自分をこんな精神病院に閉じこめる必要があるのか、そんなことをしてなんの得になるのか、その点だけはいくら考えても判らない。あれから一と月、どこで意識を失っていたのか、ここが東京かそれともどこかの地方都市なのかも医者は語ろうとせず、気分はどうかねとか、欲しいものはないかとかの口先だけのいたわりは示すけれども、家へ帰して欲しい、とにかく家族や友人に連絡だけはさせてくれといういちばん切実な要求にだけは、にこやかな微笑を浮かべるだけで、決して応じようとはしなかった。暴れ廻り喚き散らして、そのたびに容赦のない看護夫の殴打と拘禁衣と罰房というくり返しの末、直人はすっかり寡黙になった。眼だけを執拗に光らせ、この不当な監禁の意味を探ろうとつとめたが、ようやく知り得たのは、どうやら自分を囮にして誰かをおびき寄せようとしているらしいという、およそ見当違いな理由であった。  何か途方もない誤解の末にこんなことになったらしいが、かりに自分が囮になったところで、スパイ物語ではあるまいし、某重要人物がのこのこ現われるなぞということは絶対にあり得ない。突然行方不明になったとすれば当然家族から捜索願いも出されているだろうし、自分が千ヶ滝の山荘に滞在していたことは友人たち、わけてもサロンの常連は皆が知っている筈だから、その線からもいつかは必ずここが探知されるだろう。楽観は出来ないにしても、その点では直人は充分に冷静であった。  しかし、敵の——というふうにいつか考えるようになっていたのだが、敵の一味の考えていることはいよいよ得体が知れないと思わせられたのは、地上にいる筈もない藍沢惟之と称する人物が同室の患者として送りこまれてきたときであった。明らかに医師の回し者としか思えない彼は、ひどく親身な味方を装い、ここは精神病院ではなく時間の獄だなどと荒唐無稽なことを囁いたりするのだが、直人は逆に彼を利用して、何とかこの監禁の真相を探り出そうと心に決め、二人でここを脱出しようと持ちかけてみると、 「私もそれは考え続けているんだよ」  惟之と称する人物は容易に同意した。 「なんとしてでもいま一度地上に帰って、瑠璃や柚香に一泡吹かせんことには気が納まらん。君がいてくれるというのは大いに心強い。なんとか二人で頑張ろうじゃないか。大体ここがどんなところにしたって、地表と別な空間に存在している筈はない。その、変りなく地上に露出している部分、つまり門をだね、誰か君の知人に見つけてもらって、外から開かせさえすれば、こんな陰謀は一瞬の裡に崩壊してわれわれは元に戻れると思うんだが、誰かいないだろうか、その君の分身とでもいうべき人間は」  おいでなすったな。直人は妙な微笑を浮かべると、ためしにこう答えた。 「本当をいうともう一人のぼくがいるんですよ。つまりぼくの半身ですね。そいつをテレパシーで呼んで門を開けさせたらどうでしょう」 「本当かね、君」  相手の顔は俄かに喜色に溢れた。やはり敵の狙いはそれで、どういう誤解からか架空の半身とやらをおびき寄せたがっているらしい。 「確かに半身が実在して、その彼と交信できるというなら、頼む、いますぐに呼び寄せて、なんとか門を開かせてくれ。どうだね、出来そうかね。ああうまくその彼を門のところまでこさせることができさえすれば……」 「ええ、やってみます」  低く、直人は答えた。  笑いを噛み殺しながら眼を瞑って念じるふりをすると、ふいにありありと自分の像が浮かんで来たのに直人は慄然とした。どうしたというのだろう、そのもう一人の自分は、いま確かに存在し始め、間違いなく心眼に見え出したのである。いままで気づきもしなかったが、本当に分身がいるのだろうか。しかし、もしそいつがのこのこと此処にやってきたら、すぐにも敵に捉えられ、自分は完全な発狂者として終生をここで送ることになるだろう。直人はけんめいに心に叫んだ。馬鹿、その角を曲るな、戻れ、戻れったら。だが像はいよいよ鮮明になり、左手の原っぱに踏みこんで容赦なく門に近づいてくる。何をぐずぐずしてるんだ、引返せ、早く。その門を押したら、何もかもおしまいだぞ。……  けんめいに念じる直人のそばで、惟之と称する人物もまた唇を噛むようにして、見えない半身を待ち統けていた。  ㈽  鉄格子のついた窓の外に繁っているのは、見たところ確かに金木犀で、風につれて鋭い香が吹き渡る風情から推すと季節は十月と知れたが、木原直人はぼんやりとその外に佇んで首をかしげていた。原っぱは何か大きな建物を壊したあとらしいが、その向うの木立に隠れて、こんな病院めいた建物があるとは、いままでついぞ気づいたこともない。毎日のようにここを通りながら、第一、原っぱにもと何が建っていたのかさえ記憶にないのだ。おかしいな、もう十月か。なにしろ九月の千ヶ滝以来、どこかおれは魂が抜けたみたいになっちゃったな。まるで本物のおれは、どこかへ行っちまったみたいだ。……  あの夜、千ヶ滝の山荘で奇妙な老人たちに囲まれているうち、自分はいつか寝こんだらしい。 「ずいぶんよくお|寝《よ》ってでしたわ」  あとで瑠璃夫人にそう冷やかされたが、そのときおれは確か時間旅行の夢を見ていた。そうだ、呪文を唱えただけで過去へ行けるなんて、他愛もない子供のような夢だった。それにしてもあれからこっち、始終誰かに呼ばれているような気がするのはなんのせいだろう。いまだって、この金木犀の咲いた窓の中に誰かよく知ってる奴がいて、けんめいにおれに呼びかけているような気がする。ここはなんだろう。病院にしちゃ門札も出ていないし、およそ人なんか住んでないみたいな感じだけれど、廃屋かしらん。門だけはずいぶんりっぱだな。少し開きかけているようだから、ちょっと中へ入ってみようか。怒られるかな。かまやしない、ただ覗いてみるだけなんだから。  直人は誘われるように門の前へ近づき、ためらいながらその[#「その」に傍点]片手をさし出した。 [#改ページ]    戦後よ、眠れ  ㈵  その最初の震動が伝わったとき、藍沢惟之は、思わず低く「やった!」と叫んでいた。あたかも待ちに待った友軍が到着して、援護射撃のとどろきが初めて一斉に聞こえたとでもいうように、解放の刻の訪れはいま紛れもなく、少なくとも惟之と木原直人にとっては、分身の到着はもう疑いを容れなかった。  震動はひどく奇妙なもので、ちょうど古いエレベーターが急降下して停止するとき、一度ふわっと体が浮きあがるようなあの感じだったが、それもおそらく建物全体が時間相の中を急速度で移行したためであろう。時間の獄、時間の病院はいま、昼の館も夜の館も残りなく破砕される筈であった。  甦った時間が、一分経ち、二分経つ。しかしどうしたことか建物はまだそのままで、外も異様なまでに鎮まり返っている。 「あ、金木犀が」  誰かが頓狂な声をあげた。鉄格子の外で鋭い香をまき散らしていた金木犀は忽然と消えて、あとにはただきんいろの陽ざしだけが眩しいまでに溢れた。だが依然として建物自体には、なんの変化も見られない。 「おかしいぞ」  惟之が先に立ってドアへ近づき、力をこめてノブを廻した。いつもは頑丈に鎖されているドアはこともなく押し開かれ、見張りの咎める声もしない。のみならず長い廊下には、白衣の医師つまりは看守の姿も一人として現われる気配はなかった。 「そうか。建物はそのままで、奴らのほうが消えちまったんだ」  患者たちつまりは囚人たちは、一列につながって廊下へ出た。 「用心したほうがいい。どんなことになったのか、まだよく判ってはおらんのだから」  惟之は慎重にそう制したが、久しく静止した時の中にとじこめられていた皆は、 「戻ったぞ、動く時間の中に帰れたんだぞ」  と叫びながら駆け出し、てんでに勝手な方角へ散っていった。残ったのは惟之と直人ともう一人、小肥りのまるっこい指をした男だけになった。  古川というこの男とは直人もしばしば話を交したが、どこかあの�正義漢�に似た口調で戦後の反動化を罵り、聞いてみるとやはり昭和二十四年の九月に世相をいきどおって未来へ時間旅行を試み、あげくここへ陥ちこんできたものらしい。直人が同じ二十四年の九月一日へ送られるところだったと知ると、めざましく興奮し、たぶん二人はサーカスのブランコ乗りさながらに両方から跳躍して、ともにもつれて失敗したに違いないといい張るのだった。 「そうですよ、それに違いありませんよ。二十四年を隔てたタイムジャンプがうまく行きさえすれば、きっと二人は入れ替って存在していたんですよ。いうなれば二人は時間の兄弟みたいなものじゃありませんか。さ、握手しましょう、握手」  そういって、ぷよぷよと柔らかい両手で包むように直人の掌を握りしめたときの感触はへんになまなましく、だんだん問いつめてみると当時の学生には違いないが本職はスリだというのが気に入った。向うもひどく狎れていつも身近かにいるふうだったから、当然のように行動をともにする気になったのであろう。 「夜の館の方はどうなったんでしょう。水島君たちも解放されたのかしらん」 「うん、行ってみよう」  三人は宏大な館の奥へ踏みこんだ。元はおそらく何某という由緒ある邸だったのだろうが、アルコーブを設けた廊下や、つき当りごとの大鏡は、いま昼の光でみるとひどく醜い、荒れ果てた廃墟の残骸にすぎなかった。庭園もいたずらに草が繁り、夢魔の館というよりは時間の幽霊屋敷に用いられたというほうが当っていよう。  水島滋男と深見悠介は、何が起こったかも判らずに奥まった一部屋に坐っていた。傍にはアケロンの流れを遡って昭和九年に戻ったという青年やその友人のR、また戦後の隅田川の辺りに戦災者の墓を訪ねて分身に逢ってしまった青年もいたが、三人が来たのをみると安心したように立上って別れをいった。帰るべきところがあるのかどうか、それは直人たちも同じだが、帰らねばならぬということもまた同じであったろう。  直人は手短かに事情を説明した。  水島は最初から知っていたが、深見はただ、 「信じられない、ぼくには信じられない」  と呻くばかりだった。 「だけど、そうすると」 「その門のところまでやってきた木原さんの分身はどうしちゃったのかな。その瞬間にまた合体したとすれば、なんかこう異様な感じはあったんですか」 「それがねえ」  直人は首をかしげた。 「建物がこう大きな衝撃を受けた感じは君たちもしたわけだろう。ところがぼく自身には何もないんだ。このとおり自由になったんだから、確かに分身は来たには違いないんだけれど」 「それはそうと」  古川が口を挟んだ。 「あなた方はこれからその瑠璃夫人と柚香さんとやらの許へ行って一合戦するつもりなんでしよう。しかしね、あたしの予想じゃこの建物の外では大変な時間の混乱が始まっていると思いますよ。さしずめここを出ると、時間の砂嵐に見舞われること必定で、そうたやすく昭和四十八年へ戻れるとは考えられませんね。だって話を聞くとあの反動政策がそのまんま続いたっていうんでしょう。それだけでも戦後が空間的にじゃない、時間的に混乱しない筈はないんだから」 「ああしかし」  深見悠介はまだエンデュミオンの睡りから醒めやらぬ顔で嘆じた。 「ぼくにはどうしたってまだ柚香たちが時間の魔女だなんて思えないや。かりにそうだとしたって、ぼくはここが気に入っていたんだし、そんな外へ出て行って戦後の時間が砂嵐のように吹き狂っているような中を歩く気はしないよ。そんなのは自由になったってことじゃないもの。ねえ、水島、なんとかまたここで、二人で暮すてだてはないの」 「ああ。もうこうなったら出かけて、元の時代へ戻るしかないだろう。いままでと違って、たぶん腹も減ることだし」  ——しかし、五人が揃って門から外へ出てみると、古川のいうとおりであった。そこの原っぱを横切ることは、ほとんど戦後史を横切ることに近かった。その原っぱは、いわば忘れられ放置された戦後問題のごみ棄て場だったからである。  季節はいつも十一月で、|黄金《きん》の陽ざしがいちめんに溢れると、歩いている人たちはすべて黒い半外套を着ているように眺められた。古い写真集でおなじみの瓦礫の焼け跡、でなければ強制疎開させられた建物跡はどこも露天の闇市で、蜜柑、鰯、林檎、干物、ふかし藷、�美味しい�飴、するめ、大根、小かぶなど佗しい限りに並べられ、群がる人々も女はもんぺ、男はあらかたが兵隊服に、きまって肩から雑嚢をかけているのが異様だった。 「いつなんだろう、これは」 「きまっていますよ、昭和二十年ですよ。戦後はいま始まったばかりですからね。われわれは戦後の原点へ戻ったんだ」  古川が眼を光らせて説明した。同じように眼を血走らせた生の鰯が八匹十円で大安売りの札がついているのは、ふつう生干しで六、七匹十円が相場だかららしい。五人が固まって歩くと服装の違いが目立つので、少し離れるようにしながらその闇市を�視察�したのだが、聞くともなしに周りの会話が耳に入ってくる。  ——おじや[#「おじや」に傍点]にしますとね、なんだおじや[#「おじや」に傍点]かなんてって、またよけいに喰べますでしょ。  ——一まわり小さいのが、そう、五円から十円ね。  ——九合にこすんで樽が残りゃ安いよ。  きれぎれな内容はいずれも喰い物か闇の儲け話ばかりで、惟之が思わず嘆息した。 「私はこの当時まだジャワにいたんだが、内地もずいぶんひどかったんだなあ」 「ぼくたちはまだ生まれてもいないんだ」  水島と深見が声を揃えた。 「ぼくは赤ん坊だ。阿佐谷に行けば、なんにも知らずに泣いてるんだな」  直人があとをつけた。 「あたしはね、えへへ」  古川は急にくだけた調子になると、 「このころは大学のほうで『赤門戦士』ってガリ刷りの新聞を友人と出してたんで、なァに、いま思や『赤門文学』なんてのと同じ官僚臭芬々な題だけど、禁書の公開要求、志賀義雄氏学生に語る、学生諸君は何を見たかなんて原稿募集とかね、そりゃもうけんめいでした。なにしろこの十一月には、鳩山の自由党とか、町田忠治なんて骨董品を担ぎ出して進歩党なんぞという反動政党の結集がもう出来上ってたんですからね。へ、へ、ですからこれであたしは、赤門出のスリってわけでして」  そういって卑屈に笑ったが、そのスリの技術はこの際大いに役に立った、というのは、五人とも当時の金はまったく身につけていなかったからである。  古川は立売りの新聞スタンドへ近寄ると、いつの間に手に入れたのか小銭を出して一部を買った。 「ホラ、もう昭和二十一年ですよ」  それはいかにも二十一年の十一月二十九日付けの読売新聞で、気がつくとさっきの闇市もいくつかは屋根のある屋台に変っているのだった。 「ここに出てるでしょう、改元問題で政府は態度を決定って奴。昭和という年号が四十八年も続いたって、あなた方は不思議にも思わず、むしろおめでたいぐらいに考えてんでしょうが、その淵源がここにあるんです」  古川はまたいくぶん学生らしい口調に戻ってその新聞を差し出した。  それによると、このたび皇室典範の改正に付帯して改元問題が表面化してきたけれども、政府としては改元しないことに閣議の決定をみたというので、理由は新皇室典範の第一条に「改元は明治元年の行政官規則に依る」と明記してあり、従って元号は「一世一代とし、特に吉凶禍福のない限りこれを変えざること」という一行が、現代にもなお効力を有するためだというのであった。 「ねえ、どう思いますか」  古川は真剣にいった。 「あの八月十五日の敗戦が�特に吉凶禍福�ですらないというこの神経。国体とやらを温存さえすれば、それで日本は安泰だというその考え方が戦後を駄目にしちまったんですよ。ごらんなさい!」  五人はいつか駅の構内にいた。ホームには電車がドアをあけ放しにして動かない。只今なんとか列車の通過でございます、というアナウンスにつれて、そのなんとか列車が向うを颯と通りすぎた。気がつくと周りにいる早稲田や一高の学生が帽子を取って凝然と突立っている。他の人々も大抵が戦闘帽を取って直立不動の姿勢でいる。 「判りましたか。あれがお召し列車だと思うと泣くに泣けないじゃありませんか。ことにあの学生たち!」  古川は吐き出すようにいった。 「自分とその仲間たちが駆り出されて命を|隕《おと》したのは誰の命令だと思っているのか、それをまだ美しい、崇高な行為だと考えている限り、それは戦争中の指導者の思う壺だと、口惜しくってもなんでも、それははっきり犬死だったと考え直すこと。その犬死させた奴らとあらためて闘うこと。それしか戦後の方向はないっていうのに……」  どうやら彼もあの�正義漢�と同じ涙もろい性格らしい。まるまっこい指がしきりに瞼を拭うところはなんとなくおかしかったが、しばらく見ているうち直人は気の毒になって訊ねた。 「このころでしたっけね、天皇が人間宣言をしたのは」 「そうです、この一月です。ああ、考えただけでも胸くそが悪いや。それをまた五月には米よこせデモなんてことで宮城へ押しかけたりする、そんなことで天皇制の本質がビクともするものじゃないのに」 「でもあなたは……」  直人はちょっぴり意地悪にいった。 「もしかすると天皇を憎みながら、ひどく愛しているのかも知れませんね、三島由紀夫みたいに」 「三島由紀夫って誰です」  古川は血相を変えていった。 「誰が、誰が天皇なんて」  またもや眼がうるみ出すのに閉口して、直人は惟之に話しかけた。 「さっきからぼくたちは時間も空間も勝手に移動してるようだけど、これでやはり、例のあの原っぱから一歩も出られないでいるんでしょう。二十一年、二十二年と順番に世相を眺めてゆくとなると、こりゃあちょっと大変だな。といって、もう元にも戻れないだろうし」 「そうだ、私も閉口しているところだよ。これでいつか君が話したとおり、下山事件でもなんでも戦後の大事件だけを選んで見られるというならまだしもだが、いつでも十一月というのが|解《げ》せないね」 「しかし十一月だって大事件はあったんですよ。ケネディ大統領の暗殺もそうだし、三島由紀夫の自殺も十一月だし」 「それがいけないんだ、そんな表面だけの事件に眼を奪われるのが」  古川がまた説教口調で割りこんだ。 「ケネディだの三島だのって人は知りませんが、あの原っぱが戦後史の吹き溜りになったものなら、話題にもならなかったようなことの中にも歴史の真実はきらめく筈でしょう。いいじゃありませんか、じっくり構えたって。オヤ、またやっちゃった」  裕福な闇屋といった風体の、もじり外套に金ぶち眼鏡を光らせた一見紳士風とすれ違いざまに、古川の手には厚ぼったい革財布が残されていた。  周りの街の色彩はいよいよ原色調にどきつくなり、大統領選挙で予想をくつがえしてデューイが敗れ、トルーマンが勝ったという新聞をみると昭和二十三年の十一月らしい。相変らず陽ざしはきんいろで、土壌にさんざしの朱が美しく照り輝いている。 「これで」  古川は玄人らしく、器用に札束だけを引きぬき、財布を目立たぬように棄ててからいった。 「どっかでちょっと休んでゆきましょうよ。咽喉が乾いちまった」  その金を使うことに、不思議となんの抵抗もなかったのは、それこそ戦後の証しであろうか。 「まだちょっと明るいが、あそこに赤提灯の飲み屋があるな。ビールでもどうだね」  惟之が提案し、五人はぞろぞろとのれんをくぐった。中はしかしへんにがらんとしてもやしや春雨を妙めた代用中華そばぐらいしかできないという。 「そうか、忘れてたよ」  古川が心得て百円札を一枚握らせ、酒を頼むというと亭主の態度はたちまち変った。 「これァどうも旦那、さ、さ、奥へどうぞ」  調理場を通りぬけたその土間では、わんわんと人いきれのするほどの酒盛りが始まっていた。 「ビールはあるかい。それから、と」  古川はいけるくちらしく、学生らしくもない世慣れた調子で、 「酒をさ、その、封の切ってない奴があったら、ちょいとつけて欲しいんだが」 「へい、冨久娘ならございます」 「それでいいや。早いとこ頼ま」  亭主が行ってしまうと古川は水島たちに、この時代の酒はたっぷりと水で薄めるのがふつうなので、封のあけてないのを眼で確かめてからでなくては飲めたものじゃないんだと説明した。  うち続く奇異な経験のせいだろうか、ビールも酒も早く廻って、直人は一体こんなところで酔っぱらって大丈夫だろうかと案じながらも、眼はいつかとろんとしてくる。隣りの客は競馬場の道すじでカストリとフライを売っている爺さんらしく、しきりに自分の商売を廻らぬ舌で喋り立てていた。 「そりゃあね、いまは権利金たって顔をつなぎに行くこたァないのさ。初めに客徒てんで百円、あとは一日五十円を向うの若い衆が取りにくるって寸法だ。まあな、そういったって駅の近くは高くって高くって、とてもじゃねえが割り込めないやな。その代り足が近いや。豆にしても仕入れが百五十円から百七十円が四升から|捌《は》けら。ホレ、あの底高の枡で一杯が二十五円、帰りの客を叩くのが狙いさ。あんぱんなんかも出るには出るが、受けが八円で十円に出すんじゃ、二束売ったって四百円、知れたものだあな。フライはおめえ、そりゃその場で揚げて熱い奴を出さなきゃ足が遠いしよ、それで酒を釣るてえやつ。なあに店ったって空箱四つ並べるだけだが、デン助が早いとこ買い占めちまうでよ、箱ひとつ五十円するつうんで、おめえ……」  箱ひとつ五十円、五十円、五十円……。耳許でレコードが空廻りするように、酔客たちの声はいたずらに天井にこだました。ここで眠りこんじゃダメだと自分を叱りながらも直人は、オレが眠るんじゃない、戦後が眠るんだ、戦後よ、眠れ、などと呟き、いつか皆とともに汚染のついたテーブルにうつぶせてしまうと、古川はひとりで眼を光らせながら立ち上った。  ㈼  その最初の震動が伝わったとき、藍沢惟之と称する人物は「やった!」と叫んで門のほうへ駆け出していったが、すぐに意気揚々と他の看護夫とともにもう一人の木原直人、哀れな分身を引立てるようにして連れ戻ってきた。 「てこずらせやがって、野郎」 「一緒にして縛っとけ」 「うまく罠にかかったな。ざまァみろ」  口汚い罵言の数々が何を意味するのか、何を間違えて彼らがこんなことをするのか、直人には何ひとつ判らなかったけれども、本当に分身などというものが出現してしまった以上、この世には理外の理というものもあって、その中で闇から闇に葬られてゆく確かな存在もあるのだと思い知らぬわけにはゆかなかった。シャム兄弟さながら、向かい合せにくくりつけられた二人は、頬を寄せ合うようにしながら初めのうち口もきかなかった。しかしそうやって暗い部屋に放りこまれていると、地表にいるときも気づかずにやはりこうして分身を抱いていたのだと、それが人間の本当の姿だと、いつか納得されるような気になっていた。 「馬鹿だなあ、お前」  ずいぶん経ってから直人は、一度だけそういいかけた。 「なんだって生まれて来ちまったんだい」  もう一人の直人は、頬にうす白い涙の痕を光らせながら、ついに何も答えなかった。 [#改ページ]    闇の彼方へ  二号館の二階から三階にかけて階段添いに並べられていたサモア島土人の槍は、大学紛争の折りにいち早く片づけられてしまったけれども、仄暗い戸棚の奥にはジャワやエスキモーの仮面が変らず潜まっていたし、ミイラや長頭の頭蓋骨もうつろな眼窩のまま置かれている。廊下の壁には朝鮮の|長承《チャングング》や、ヤップ島の石貨が立てかけられ、発掘したまま未整理の土器や石器の収集箱も昔ながらのようすで積みあげられている。ここでも時間は、ひととき凝固し死滅したふりをしているらしかった。  ひそかに昼の|塒《ねぐら》と呼んでいる人類学研究室の、散らかり放題の一室に腰をおろしていると、木原直人には、この一年間の慌しい経験が、半分は確かに自分のものながら、あとの半分は誰か他人の記憶をそれと知らぬ間に植えつけられたようで、ひどく頼りない気がした。ある時点から自分が数人に分散して、勝手な時間空間をそれぞれ歩き出したような、それでいてそのどこにも少しずつ存在しているといった感じ——あるいはそのどこにも実は不在で、久しい留守をしてきた感じは、九月このかた離れたことはないが、それをいうと、研究室で机を並べる野口は、けげんそうに首をふった。そりゃ水島や深見は一月からこっち、ずっと顔を見せなくなったことは確かだが、君は間違いなくここへ来ていたさ、夏休みは別として、十月にも十一月にも留守をするわけはない、第一、時間の獄とか病院とかに閉じこめられたり、戦後史の原っぱとやらで奇妙な散歩をしたりする筈はないじゃないかといわれてみると、それもそうだと思うほかはない。直人は時おり鏡に向かって、頬を抑えたり眼の中を覗きこんだりして、これが本当の自分だろうかと疑うことが多くなっていた。もしかりに贋者だとしたら。知らぬ間に本物を裏切ってここへ戻ってきたというなら——。鏡の中の眼は深い怯えとともにこちらを見返した。  常識という無知の罪を宣せられて、いち早く瑠璃夫人のサロンから追放された野口は、それなりの現実家であって、確かな生き証人には違いないが、現実という強烈な光彩のスクリーンに添って歩き続けるこのての連中が、果してそのめくるめく光の洪水の中で他者を見失わずにいられるものかどうか。ましてそのスクリーンは、その気になりさえすればいつでもわけ入ることが出来、いわば真昼の表通りからひょいと薄暮めく裏通りへまぎれこむように、二十数年向うの戦後という街並みへひととき入りこんでしまうことも、あるいは可能な筈であった。眼を灼くほどの白色光に包まれた現実は、つねに時間の表通りにすぎないのだから。そこでは他者ばかりではない、自分すら時に見失われ、それに並行して段々に暗くなる裏通りが幾層にも続くとき、そこに一人ずつの自分が歩いているのはむしろ当然のことだろうから。ある空しい祈りだけがそれを可能にすることを直人は信じた。  ちょうど同じ角度から撮った震災直後の銀座通りと復興後のそれと、あるいは空襲後の瓦礫の街と現在と、さらにいえば明治初年ごろの赤煉瓦と瓦斯燈の街並みとがこともなく一つの空間に包含されているように、人間自体も体験した限りの失意も希望も一つに畳みこみ、いわば裏返しの空洞といった形で常時持ち歩いている以上、どんなはずみでそれがほどけ出して逆体験しないものでもない。この研究室におかれている埃だらけの遺物も、現在なおそれを用いている原住民や過去の文献とつき合せるとき、ふいに生き生きと経ることもあるのだから。  直人はさまざまに思い惑いながらも、なお惟之や古川たちと歩き廻った原っぱの戦後、脱け出られる筈もないクラインの壺から、こうして現在へ辿りついた自分をいぶかしんだ。それは決して鮮明な記憶に彩られたものではなく、生ぬるい、おぼろな記憶であり、いわばそこでの直人は単なる通過者であって、鮮烈に戦後を生きたという思いはどこにもなかった。その記憶も赤提灯の飲み屋でテーブルにうつぶせたあたりからいっそう混沌としてくるのだが、古川ひとりが眼を光らせて立上がったのを薄々気づいてはいた。そしてそのとき最初の古川は立ち去り、二番目の古川が代りに席へついたのであろう。というのは、直人が顔をあげたとき、他の三人はまだよく寝こんでいたが、古川はひとり手酌で盃を傾けながら考えに沈んでいたからである。 「あ、起きたの」というように眼で笑いかける古川に、直人は「いま何時」という代りにこう訊いた。 「いまはいつ?」 「え?」 「いや、さっきトルーマンがデューイを敗って勝ったとかいう新聞を見たでしょう。あれが昭和二十三年の十一月だったから、もう二十五年ぐらいにはなっているかと思って」 「ああ」  帽子屋ならぬ古川は、懐中時計を取り出して心配そうに眺める代りに片腕を突き出し、まるでそこに年単位で動く時計をはめているかのように眺めてからこう答えた。 「そんなには経ってませんよ。せいぜい一と月で、十二月になったってとこかな」  それから立ち上って促した。 「そろそろ行きますか」 「だってこの連中は?」  顔をテーブルにつけてぐっすり眠りこんでいる三人を直人は心配そうに見やったが、 「大丈夫」  古川は平気な顔でいった。 「こうして寝てる間に時間の砂嵐も収まるだろうし、存外簡単に元へ戻れるかも知れない。それよりあたしはね、昭和二十四年の九月までしかこちらにいなかったんで、ちょいとそれまでにしときたいことがあるんでさ」  亭主を呼んで勘定を済ませると、 「念のためこの旦那に、……」  といいながら惟之のポケットに何千円かの札束を押しこみ、このまま寝かせておいてくれといいおいて二人は外に出た。  古川がいうには、この十二月十日に初めて百万円の宝くじが発表されるので、先に当り番号の券を探し出して買ってしまおうというのであった。 「あんときはね。あたしたちの仲間は皆な五枚ずつ買ってきて、神棚に供えて、心魂こめて拝んだもんですよ。これがはずれたらあとァ押し込み強盗だけだなんてね」  それから軍資金を作るために池袋へ闇ドルを買いに行こうというのにおどろかされた。 「いまの相場は三百五十円、ましかし三百二十がいいところかな。入るのは二百六十円だけれど」 「そんなことまでやってたの」 「そりゃそうですよ。学資なんて誰も出しちゃあくれないもの。|煙草《モク》なんかもよく扱ったな」  古川の話によると、煙草の葉は|天葉《てんば》、|本葉《ほんば》、|中葉《ちゅうは》、|泥葉《どろは》または土葉、|雑葉《ざっぱ》の五種に分れて、本葉を最上とするのだという。天葉は一番上に出来る小さい葉だが、辛いだけでおいしくない。泥葉は一番下の土に近い部分で、色もくろずみ、配給煙草の�のぞみ�はもっぱらこれが用いられる。葉の値段は貫目で三千円、これに手数をかけて手巻きにすると大体四千本ほど出来、十本で二十五円が相場というものの買値は十七円にしかならない。交換所では�のぞみ�の二十五匁で靴下一足、七十匁で雪印チーズ一ポンドの割りだという。 「この七月の値上げ以来、いまは煙草だって全部闇でね、�金鵄�が三十五円、�ピース�や�光�が五十円てえとこかな。公定価格より安いのもあるんだから世話はないや」 「闇ってのも、やれば結構楽しかったんだろうな」  直人はぼんやりいいながら、戦後の反動化を罵る古川が、傍らいっぱしのエコノミックアニマルのはしりになりかけているのをおもしろく眺めた。 「ぼくもこっちへ送りこまれるとき、ちゃんとこの当時の金を財布ごと貰ってきたんだけど、どうしてだかなくなっちゃってね。あれがあれば何かやりたいところだな」 「へ、へ、えへへ」  古川はそれを聞くと、恐縮したように笑い出した。 「たぶん、なんですよ、タイムジャンプですれ違うときに、あたしの手の中に残っちまったんですよ」 「あんたが?」  直人は呆気にとられてその顔を見守った。いかにもこんな時代だから、時間旅行者の中にスリがいても不思議はないだろうけれど、これでは油断も隙もならない。 「そのお詫びにね、少うしこちらで金儲けをおさせ申しあげようてんで」  だがその池袋へ来てみると、中華の一斉があって千二百名の制私服が出たということで、何台ものトラックに詰めこまれてきた警官たちが笛を鳴らして整列するところだった。 「こりゃァいけねえや」 「なんです、中華の一斉って」 「え、中華料理の闇だけを狙う一斉取締りでね。ドル買いのおやじも中華やってるから、今夜はこりゃヤバい。またにしましょう。さあて、と」  古川はどこへ行こうというように立ち止まって考えこんでいる。瑠璃夫人が四万六千日に行くため惟之と待合せたのも、年代は少し前にしろこの池袋だったなと、直人は懐かしい気持になってあたりを眺めた。時間の砂嵐も少しは収まったのか、街はおだやかに灯を点し、俄かにどこへ連れ去られるという気配もいまはない。それだけにこのまま昭和二十三年の十二月に、時間とともに固定しかけている自分を危ぶむ気持もあった。こんな時代に住みつくというのではありがたくないが、といってぜひとも昭和四十八年に帰りたい気持もなかった。 「そうだ、ノガミにでも行ってみますか」  古川は思い当ったように手を打った。 「ねえ、戦後に警視総監がオカマになぐられたって話、聞いたことがあるでしょう」 「そういえば、あったかな」 「それでね、けしからん閉鎖しちまえってんで、この十日から上野公園は夜間立入り禁止になるんですよ。どうです、一度お別れに行ってやろうじゃないですか」 「お別れって、男娼にですか」  直人は情けない声を出した。 「いや、男娼ばかりじゃない、パン助だって大ぜいいますさ。あなた、本場のパンパン諸嬢はまだ見たことがないでしょう。いけませんよ、彼女らこそ戦後の英雄ですからね。さあ行きましょう、行きましょう」  上野駅の公園出口には、仙台や平へ行く人々の長い行列が出来、それを囲んで十円均一の月遅れ雑誌屋やアイスキャンデー売りがひしめいている。西郷の銅像下にも清水堂の下にもパンパンは溢れ、石段の上から見おろすノガミの眺めは、仲町から広小路、聚楽、永藤、赤札堂、それに裏通りは市松、いせかん、おらが春などにかけての灯が美しい。  袴越しの暗い樹の下に二、三人、ぞろりとした着流しに申訳ばかりの白粉を塗った、これが下駄をふるって警視総監になぐりかかったそのつれ[#「つれ」に傍点]であろう。古川は気さくに声をかけた。 「よう、これからどうするんだい」 「どうにかするわよ。あしたいちんち休んでゆっくり考えるわ」 「転業か。残念だな」 「あんた、ナアニ。新聞記者?」  年かさらしい一人が進み出てくると、貫禄のついた錆び声で、 「さっきも五枚くれて、いろいろ聞いていったのがいたわ」 「なに、お名残り惜しいからさ」 「そんならつきあいなさいよう」  若いのが嬌声をあげた。 「二枚ぐらいに負けとくわよーッ」  直人は辟易して匆々に離れたが、この当時のここは必ずしもこうした商売人ばかりがいたのでもないらしい。古川を待って佇んでいるのへ、妙につるっとした顔の小綺麗な男がチラチラ視線を送ってくる。それへ、闇の向うからいらいら声が飛んだ。 「ともちゃん、もう帰ろうよ。電車なくなっちゃうわよ」 「ちょいと待ってよ、も少し発展してきたいのよ。あんまりしけてるんですもん」 「帰るわよ、あたし」 「あらいやだわ」  小綺麗なのは、未練ありげに直人へ聞かせる声になって、 「だって三鷹までひとりじゃさびしいんですもん。いいのめっけて引張ってきたいのよ」  ——前に�三十七歳の不仕合せ�の話を聞いた時から想像していた百鬼夜行の現実がそこにあった。自分一人では到底パンパンをつかまえて交渉はおろか、他愛のない無駄話すら出来そうもないが、いずれ話すことといってはこれらの男娼やゲイボーイと大同小異であろう。そしてこれも落ちこぼれ忘れ去られた戦後の実体の一つなのだろうか。かりにそれらの娼婦・娼夫の一人をしんそこ愛してしまった男がいるとするなら。そのときは彼女らもまたふいにすべての襤褸を払い落し、俄かに聖性をあらわにするかも知れない。いずれにしろこの時代から二十五年をすぎて、自分はまだ誰をも心から愛したことはないのだから。  直人はうなだれ、もし自分をすら選んでくれるなら、その�三鷹�とやらまでお伴をしてもいいくらいに考えた。たぶん若造りにはしていても、明るい灯の下で見たならばおびただしい小皺に飾られた中年男の素顔が剥き出しになるにしても——。  闇の中から、古川の妙に緊張した顔があらわれた。それも道理で、古川は二人になっていた。 「すみません、こいつとここで会うことに決っていたもんで」  古川はうしろの古川を顧みた。 「こいつは前のあたしなんでして、やっぱりこの上野公園が閉鎖になる前の晩に一度会っているんですよ。会わなきゃよかったんだけど……」  どこか言葉を濁しながら、 「それでまあ、あたしの方は、あしたっから売り出される百万円くじの当選番号を覚えてるんで、二人してそれを探しましてね、兄弟会社を一度こさえたけれどみごとにそれは失敗でした。首をくくる代りにタイムジャンプをやったってえわけで、今度こそ大丈夫でさ。どうですか、木原さん。ひとつ仲間に入って一緒にやりませんか。未来のことをいろいろ御存知なんだし、三人一緒ならこいつァ成功すると思いますがね。いつまでもコレもやってられないし」  古川は右の人さし指で鍵を作った。 「いや、しかし……」  直人は静かに遮った。 「初めにいわれたようにこの戦後は、いわばあの小さな原っぱの上にだけ出来ているような狭い世界なんでしょう。むろんそれをそれなりに案内していただけたのはありがたいけれど、これから二十五年をここでやり直す気はもてないんです。あんまり嬉しい時代でもないけれど昭和四十八年に帰って、自分なりの一番めの人生を生きてゆくか、あるいは、もしやり直すというならあの時間の獄へやってきたぼくの分身ですね、そいつを探し出すところから始めたいと思うんですよ。どうもぼくにはそいつが、このぼくの代りにどこかへ閉じこめられているような気がしてならないから」  そしてそれが直人の記憶の最後であった。こともなく阿佐谷の自宅や大学の研究室、すなわち昭和四十八年の現実へ帰りつく前に、感じたとおり分身に出会った気もする。いや帰りついたというそのこと自体に、囚われた分身を身代りの犠牲にするという取引きがあった確かな証しのような気もするのだが、それらはすべて時間の闇の彼方へ沈み、残されているのは何者かを裏切ってこうして生きているに違いないという、うしろめたさばかりであった。もとより直人は、その後二度と瑠璃夫人や柚香の名を口にしたこともなく、いつかしらそれは、あり得ない非実在の人びとのようにすら考えられてくるほどだった。  直人は日常を|購《あがな》ったのである。        ∴  そのとし、十二月も押し詰って、藍沢家の母娘はひとしきり寂しい正月の準備に追われた。賀状は例年のとおり十人にだけ書き送られ、彼らと親しい二人の青年の失踪はもう予定されていた。 「本当に誰か一人ぐらいはいないものかしら」  その夜、珍しく座敷に床を並べてから、仰向けに眼を見ひらいて柚香がいった。 「いきなり古い戦後の中に放り出されても、裏切らずにここへ帰りつく人といったら」 「無理かも知れないわね、どうしたって」  瑠璃夫人もさすがに疲れた声だった。毎年毎年、いったいもう何回同じことをくり返し、何人をどぶ泥めいた戦争直後の時代へ送りこんだことであろう。だが、いまだに誰ひとりその戦後の核を、いわば輝く真珠を手に戻ってきたものはいない。それさえ手に入れてくれれば、正真の時間の獄もたちまち崩壊するだろうに。——  黙りこんだ母娘の耳に、長い貨物列車の通りすぎる音ばかりが響いた。それは夜更けの黒い葬列のようだった。 「あれに乗っている人は寂しいでしょうね」  柚香が呟く。くろぐろとした貨物の影は、いま二人の瞼の裏にも、部屋の壁のうえにも動いてゆくように思えた。一番うしろの箱に乗っている疲れた車掌。鉄路と電線にだけ僅かにきらめく青い光。  ワラ・ワラ・ワラ・ワム。それからトキ・トキ・トキ。もう一度ワラ・ワラ・ワラ・ワム・ワム・ワム。そしてワフ、でなければヨ。車掌車の赤い尾灯が彼方に呑まれてしまうと、闇はまた巨大ないきもののように息をひそめるに違いない。 「あなた寝たの?」  その小さな声には、もう誰も答える者はいなかった。 [#地付き]〈悪夢の骨牌・完〉