影の狩人 幻戯        中井英夫 [#改ページ]       目 次       影の狩人       幻戯 [#改ページ]    影の狩人   壹  青年はひたすら夜を待った。夜になれば親しい友人のような顔をして�彼�が訪れてくれるからだ。   貳  �彼�に初めて逢ったのは、行きつけの近所のスナックで、カウンターに並んだ客と頻りに悪魔の話に興じているのが関心を|唆《そそ》った。いくらか翳のある横顔で、それまで見かけたことはない。齢はやや上というところか、悪魔についてもその階級から役割と詳しかったが、知識を誇るような話し方ではなく、もっぱら悪魔の美しさだけを話題にした。醜い駱駝の姿で現われるベルゼビュートなど御免だというのである。  青年はいつもより長く、余分にウィスキーグラスを手にしていたが、隣の話が血の供犠から失われた大陸に移ったところで立上がった。部屋に帰って、自分だけの夢想に耽りたくなったからだった。立つとき偶然に眼が合って、相手が前からの知合いのように軽く肯いたのにどぎまぎし、慌てて外に飛び出した。  冷え込みが鋭く、寒気と遠い星のほかには何もない暗い道だったが、お誂えに黒猫が一匹、先を歩いているので青年は笑った。借りている離れの庭先をいつも用心深く横切り、時折こちらを窺っている奴に違いない。まだ若く、しなやかな姿態で、手馴づけようとして口笛を吹いたり、小魚を抛ったりしてみても、軽い跳躍で姿を隠し、甘える気配はなかった。  いまも黒猫は、先導するように歩いて行きながら、眼を離したとも思わぬうち、不意に姿を消した。そこは両側とも石の塀の、邸街の裏手だったから、塀を駆け上りでもするほか、隠れるところはない。  ——やはり知らんふりをしながら、気を許してはいなかったんだ。  青年はそんなことを考え、黒猫ならば闇に紛れることはいくらでも可能だと思うと、何か自分がなくしものをしたような気になった。  ……その夜、青年は、なかなか|温《ぬく》もろうとしないベッドの中で、幻の黒猫を抱いた。猫は滑らかな|天鵞絨《びろうど》質の柔毛に蔽われ、甘えて擦り寄ってきた。のみならず次第に大きさを増し、重さを増した。手触りも猫のように柔らかくなく、しなやかであっても筋肉質の肉体に変った。  ふさふさと長い尻尾が下肢にまつわり、愛撫に似た|軽打《タペット》を繰り返した。これは黒猫などではなく、今夜の話に出たあの美しい悪魔かも知れないと思いながら、青年は眠りに落ちた。   参 �彼�と二度めに出逢ったのは次の週の水曜で、話しているのは夭折した天才についてだった。五次元方程式とか楕円関数とかいっているところからすると数学者のことらしい。数学者ではガロアしか知らない。それも業績は皆目判らず、ただ時の官憲の仕組んだ入念な罠に嵌って、決闘という名目で嫐り殺しにされた|経緯《いきさつ》だけを覚えている。実際、ド・ルルシン街の療養所で、さも偶然のように同室者となった美青年アントワン・ファレールほど卑劣な犬はいないだろう。その悪意は、陽気でほとんど鼻唄まじりなだけに、反吐が出るほどおぞましく思われる。  青年がグラスを前にぼんやりしているうち、話は麻薬から自白剤のことに変っていた。どうやら彼は、地上の出来事の中でも、殊更に影に|涵《ひた》された部分が好みらしい。それなら自分も同じだ。話がさらに植物毒に及んだとき、青年はかすかな苛立ちを感じた。   肆  三度め、青年は初めて�彼�のすぐ隣に坐ることが出来た。彼は珍しく一人でいたが、先週の土曜のようにごく自然に肯き、親しみの持てる笑顔を向けた。いつも話をしている客を待っているのかなという遠慮もあり、それに、いざとなるとこちらから何を話題にしていいか判らない。すると彼は囁くようにいい出した。 「このごろは星空が美しいね」 「え? ああ、そうですね」  青年はぎこちなく答えて咳払いをした。 「ぼくは変光星が好きなんだ」  彼は続けた。 「あれはいかにも星が息づいているという感じがするからね」 「でもまだぼくは見たことがありません」 「見なくても判るだろうに」  彼はやや語気を強めていた。 「蝕変光星は二つの星がお互いに|蝕《むしば》み、脈動変光星は一つの星が膨脹と収縮を繰り返す、そういう知識よりも、こうして坐りながら星と一緒に呼吸できることの方がぼくには楽しいのさ。腹式呼吸じゃなくて星式呼吸かな」  そういうと彼は、カウンターの壁の向うに変光星が見えでもするかのように、静かな深呼吸をしてみせた。 「貴方は何というか……」  青年は言葉を探した。 「物事の影の部分がお好きなようですね」 「そうかも知れない」  彼は素直にいった。 「星の光は弱いからいい、強ければ影が落ちるでしょうからといったのは、ワロージャという少年だけど」  それからその星の光と影が|交々《こもごも》に差すような表情をふりむけて言葉を継いだ。 「確かにぼくには逆しまの思考の方が|性《しょう》に合ってるようだな。たとえば壁画で有名な洞窟があるとする。普通ならその入口を撮るにしても外から撮るけれども、外国の本に一枚だけ、中からその入口を撮った写真があって、それが何ともいえず雰囲気を伝えていた、そういった物の見方ね。だって、中からではそこは出口に違いないけれど、古代の壁画の世界に遊んでから夢が醒めたように引返して外に戻ろうとするとき、ほうっと明るんだその出口は、また確かに別の次元の入口になっている筈だよ。カメラマンの意図もそこにあったと思うんだけれど」  青年はようやく彼のいう影の世界が朧ろげに理解出来るような気がした。それを目指すこの人物は、いったい影のコレクターというべきか、それとも影の狩人といったらいいのか、言葉を反芻しながら黙っていると、相手はもういち早く話題を飛躍させていた。 「まあ壁画は壁画で立派なものだけど、ぼくはね、|手宮《てみや》|洞窟《どうくつ》の古代文字のようにあやふやなものじゃない、文字の記録が残されていたらと思うな。しかもそれが暗号だったらすばらしいじゃないか」 「古代人の暗号、ですか」  青年は掠れた声を出した。 「暗号に興味はないの」 「いや、あります。あるけど、よく判んないんです」 「ぼくの知人にね、暗号を迷路で解くことを考えたひとがいるけど、この取合せもおもしろいね」  青年はなおさら答えられず、何杯めかのグラスの氷を揺らすばかりだった。  相手が知識を誇るために話題を変えているのでないことは判っている。しかしこの影の世界の水先案内は、蹤いてゆけばゆくほどその暗い部分へ連れて行きそうに思えた。洞窟の中に続く流れにまで船を乗り入れたからには、|黒白《あやめ》も判たぬ闇の中へ導かれるのも遠くない気がする。そして、もしかするとそれが彼の最初からの狙いではなかったのか?  ばかな、というように頭をふってから、青年は辛うじていった。 「貴方は一週間ほど前、ここで悪魔の話をしていらしたでしょう」 「ああ、あのベルゼビュートのこと?」  相手は平気な顔で答えた。それからようやくぞんざいな口調に慣れたような早口になった。 「君は馬の首星雲の天体写真を見たことがあるかい。ぼくにはあの醜い駱駝のお化けが、あれによく似ているもんで嫌でしょうがないのさ。で?」 「それからの血の供犠の話になった……」  青年の怯えたような呟きをようやく聞き取ると、彼はほとんど呆れ顔になった。 「なんだ、みんな聞いてたのか」  それでも周りを憚ったように小さい声になりながら、頬には奇妙な微笑が刻まれた。 「それで、何の話だか判ったの?」 「いえ、よく聞えなかったけど、世界各国の生贄のことじゃなかったんですか」 「まあ、そうだけど」  何か思案するように上を向いていたが、急ににっこりすると、明らかに前に耳にしたのとは違う話を始めた。 「あれはこういうことだよ。聖書にあるアブラハムとイサクの話は知ってるね。エホバに試されてアブラハムは独り子のイサクを羊の代りに燔祭の捧げ物にしようとする。ところがイサクの方はまだ何も気づいていない……。  アブラハム|乃《すなは》ち燔祭の|柴薪《たきぎ》を取て其子イサクに負せ、手に火と刀を|執《とり》て二人ともに|往《ゆけ》り。イサク父アブラハムに|語《かたり》て父よと|曰《い》ふ、彼答て子よ我|此《これ》にありといひければイサク即ち言ふ。火と柴薪は有り、|然《され》ど燔祭の|羔《こひつじ》は|何処《いづく》にあるや……」  創世記の一節を誦し終ると彼は突然に青年の膝をつついて囁いた。 「ところでちょっと出ないか。続きは道々話すよ」  青年は従った。彼が何をいおうとしているかは判らないが、イサクが愕然と気づいたように、自分自身が燔祭の羔にされかけているような、それでいてそのことが半ば嬉しいような、妙に甘えた気分になっていた。   伍  並んで歩くと、やはり彼の方が背は高かった。彼が名前を告げ、やや曖昧に医学関係らしい勤め先をいい、齢は二十七歳と教えたので青年もそれに|倣《なら》った。 「いつも店で話してらした方は……」  いいかけて青年は口籠った。お友達ですかという言葉が素直に出てこない。もっとも、その客も今夜の自分のように、もっぱら聞き役に廻っていたので、印象は薄かったのだが。 「いいや、知らない人だよ」  と彼は答え、それから行きつけの店だという仄暗いバアへ誘った。 「水曜と土曜にさ、いつもここで会うことにしないか」  いきなりそういわれて、青年はぶっきらぼうに、 「ええ、いいです」  とだけ答えた。  二人は遅くまで飲んだ。気がおけぬ店のせいか彼はいっそう饒舌になり、モアイやアク・アクの話をするかと思えば砂漠の国の暦や一角獣のタペストリーについて語り、憑き物のさまざまな例から転じて熱烈に刺青讃美をするというふうだった。  それらの言葉は色彩豊かな万華鏡を見るように青年の周りに飛び交い、錯綜するばかりだったが、酔い痺れてゆく頭の中で青年は、その一つ一つが見えない糸で繁っている気がしてならなかった。それはそもそもの最初から、ある意図の下に、ある確かな順序で語られてきたのではないだろうか。  悪魔・血の供犠・失われた大陸・夭折・麻薬・自白剤……  だが呂律の回らぬ舌でそれをいうのは憚られ、青年は黙ってただ聞いていた。それにしても二人が店を出たとき、暗い夜道で思いもかけず流星を見たのは、後になってみれば驚くべき偶然といわねばならない。そのときは一瞬の青白い光茫に打たれて立ち尽し、声も出ないままだったのだが。   陸  その夜、青年のベッドに寄り添ったのは黒猫ではなく、初めから美しい悪魔だった。青年は酔に火照った躯をもてあましていたが、悪魔は黒天鵞絨に似た冷ややかな肌でそれを鎮めた。肉体はいっそうしなやかに弾みがあった。青年は自分が燔祭の羔に選ばれたことを知ったが、それは明らかに恍惚感を伴ったものだった。あるいは『青頭巾』の僧と美童のように、貪り喰われることの快美感を斯待しながら、青年は眠りに落ちた。   漆  だが、青年は一種の誤解をしていたといえるかも知れない。確かに�彼�から選ばれたのには相違ないにしろ、それは悪魔の誘惑やギリシャ風な恋愛と違って、大そう手間のかかる、面倒な手続きの要る選ばれ方で、何で彼がそんな儀式を必要としたのかは不明だった。  冬のあいだ二人は、約束どおり水曜と土曜ごとに逢い、ますます親しみを深めた。彼には病弱な妻がいるということだったが、それは青年を自宅に近づけぬための言訳とも受け取れ、家庭や女性関係のことになると話は急に曖昧になった。その代り青年の部屋にはよく遊びに来、時には連れ立って風呂に行くこともあったが、決して泊ろうとはしなかった。  青年の蔵書を見ながらの感想でも、話はまったくとりとめがないようでいながら、やはりある秩序に従っているとも思え、青年はその日その日の話題を克明にノートしておくことを忘れなかった。  彼と直接口をきいた最初に変光星の話が出たように、もっとも深い関心が宇宙にあることは知れたが、それは暗黒星雲やブラックホール、さらには反宇宙がそこに含まれているからで、同じく茫洋とした海についても、そこにはなお多くの未知が潜むために興味を持っていることは明らかだった。すべて反地上的なものへの収斂を目指しているにしても、そこにはたとえば時間が必ず介在しているといった印象を青年は受けた。  占星術について熱心に語るのは当然として、それは自分の運命を知るためではなく、青年が仮りに永遠などという問題を持ち出しても、すぐ永遠に動くものに話を変えてしまうのは、具体的なものだけが関心の的のせいらしい。ひとしきり心霊現象の新しい在り方について語ったあと、彼はいくらか気恥しげにいった。 「こんなことばかり喋っていると、まるで知識の淫楽者か快楽主義者に思われるかも知れないが、こんなものは知識でも何でもないし、ただの雑学でもないさ。ただぼくはどうしてだか生まれが乙女座なんでね、反宇宙の指令には従わなくちゃ。それに君を相手にしていると何となく楽しいんだ」  ——でも、どうして……  といいかけて青年は口を|噤《つぐ》んだ。どうしてぼくなんかを選んだんですかという質問は、まだしばらく心秘かな謎にしておきたい。従順という他に性質に取得はなく、容貌は人並みだとしても、かつて人から美しいなどといわれたこともない。それに、そんな己惚は持ちたくもなかった。  ただ一度だけ風呂の帰りに彼から、 「君は本当に色が白いんだね」  と嘆ずるようにいわれて、ひどく恥しかったことがあり、それは深く心に残っているけれども、これまで彼は酔ったまぎれでさえ、同性愛風な振舞を見せたことはついぞなかった。  ——まあいいや、彼が楽しいといってくれるんだから、俺もいままでどおり新しい兄貴が出来たと思ってりゃいいんだ。  青年はそう自分を納得させた。それはしかし多少不満でないこともなく、次に逢ったとき彼は、幻覚剤から始めて古代ギリシャの詩型、その詩人のソロンやカリマス、トランプの王子たちの素性、地獄に棲む黒闇天女まで、例のとおりさまざまな話を聞かせてくれたが、青年はあまり熱心になれなかった。   捌 「春になったら二人して海を見に行こう」というのが、そのころの彼の口癖だった。実際その冬はあまりにも長く、暗かった。世界の各地を大寒気団が包み、地球は再び氷河期を迎える予感に堪えた。  彼の儀式はまだ辛抱強く続けられ、水曜と土曜ごとの逢いは確実に守られた。それは青年が薄々ながら彼の意図に気づいて、むしろそれを早めるために守ったといえるかも知れない。話は相変らず多彩で、ツタンカーメンのマスクから狼男、さまざまな爬虫類、かつて行われていた宇宙通信、隠れ里の伝説、神話のいろいろ、白夜についてなど自在に移ったが、青年はそれらを結ぶ見えない糸に微かながらも手触れ、それを手繰ることが出来るようになった。ただ彼の最終の目的がそうだといいきれぬまま、もう少し黙っていることにした。 「春になったら、一緒に海へ行きたいなあ」  その日、青年の部屋へ遊びに来た彼は、また同じことをいい、眼を輝かせてその楽しさを語った。海辺で拾った猩々貝や月日貝の色彩。きらめく砂の砦。あるいは自然に|穿《うが》たれた洞穴。少年時代に夢見た海賊船の一員になること。  そんな話をしながら彼は、何のつもりか、青年の部屋では唯一の装飾になっている、大きな壁掛け鏡の前に行き、その中から注意深く青年をみつめていった。 「こうしてぼくが見ているうちに、君が立って歩いてきて、重ならないように注意したら、たぶんこちらへ脱け出せるかも知れないね。そうしたら同じ言葉で話し合えるんだのに」  しかし、いつまでも青年が動こうとしないので、諦めたように元の椅子に戻り、たぶんそうするだろうと期待していたとおり、古い暦の話を始めた。それは前に話したものとは違って、美しい名前を持つフランス革命暦のことだった。 「一月から三月までが秋で葡萄月、霧月、霜月。バンデミエール、ブリュメール、フリメール。春が七月からで芽月、花月、草月。ジェルミナール、フロレアル……」  青年はベッドに腰掛けたまま、話の区切りを待ってこういいかけた。 「前に星の光がもっと強かったらって話をなさっていたでしょう。あの本、やっと見つけましたよ。母と子が二人きりで影絵を映しながら少しずつ狂ってゆくなんて、すばらしい小説ですね」 「そう、ソログープの中ではいちばんいいかも知れない」  彼はいくぶん不機嫌そうに答えたが、表情には、やっとお互い暗黙の了解に達したかというような安堵感があった。従って、そのあと猛然と話し始めた事柄のすべては、もう青年にとってノートに取る必要もない、既知のことだった。  次に逢ったとき、ドクササコやニガクリタケなどの毒茸から、聞香、宦官で話を打ち切ったとき、青年はようやく紛れもない彼の目的を知った。やはり初めから燔祭の贄にするつもりで近づいてきたんだと思うと、疼くような期待感に溢れた。   玖  その夜、彼は腕の中に黒猫を抱いて青年の部屋に現われたが、黒猫は床に降されると、たちまち走り去って消え失せた。 「君の|頸筋《くびすじ》に触らせて欲しいんだ」  彼はさすがに顔を引き緊めてその頼み事をした。 「頸筋ですか、咽喉じゃなくて?」 「ああ」 「いいですよ。だけどその前に教えて下さい。どうしてこんな手間のかかることをしたのか」  青年は幾枚かの紙片を出した。そこには美しいペン字で、そもそもの初めから彼の喋った事柄が順に書きつけられていた。  悪魔・血の供犠・失われた大陸・夭折・麻薬・自白剤・植物毒・変光星・洞窟絵画・暗号・馬の首星雲…… 「初めて気づいたとき、これを結ぶ糸は�時間�かななんて思ったんです。それから生贄の話をしたときは�血�じゃないかとも思った。それはむしろ当っていたけど、ばかばかしく単純なことを、何だって順番に……」 「だけどフェアにはやった筈だよ」  彼は平然と答えた。 「最初に口をきいたときが変光星だったろう。アルゴルっていうのは�悪魔�って意味なんだから。それにあの流れ星もみごとな偶然だったな。だって落ちてしまえば当然あれは隕石になる筈だからね」 「そうですね。アグラハムからイサクへというのも、うまい説明だった。あとからだけど、ぼくはあれでもしかしたら五十音順じゃないかって気づいたんです。夭折した数学者はアーベルのことだったんですね」  青年は別の紙片を示した。  悪魔・アステカ王国・アトランチス大陸・アーベル・阿片・アミタール面接・アルカロイド・アルゴル・アルタミラ洞窟・暗号・暗黒星雲……  生贄・イサク・イースター島・イスラム暦・一角獣・犬神憑き・刺青・隕石……  …………………………………………  永久連動・エクトプラズム・エピクロス・M87星雲・LSD・エレゲイア・円卓の騎士・閻魔……  王家の谷・狼男・大蜥蜴・オズマ計画・落人伝説・オラクル・オーロラ……  貝殻・海岸・海食洞・海賊船・鏡の国のアリス・革命暦…… 「だからぼくは影絵の話をしてあげたんだ。貴方はやっと判ったかという顔で、火山やガス灯、カストラート、火星、化石、カニバリズム、仮面、からくりって具合に続けて喋った。そしてこないだが、茸、伽羅、宮刑で終ったでしょう。それが今夜のためというのは判るけど、なんだってこんなくだくだしい手続きが要ったんですか」 「それがぼくら[#「ぼくら」に傍点]の儀式だからさ」  彼はまともに青年の眼をみつめ、少し苛々したようにいった。 「さあ、もういいだろう。早く頸筋に触らせてくれよ」  青年はまだ解けやらぬ顔で、この新しいタイプの吸血鬼[#「吸血鬼」に傍点]を眺めていたが、やがて覚悟を決めたように白い|項《うなじ》を差し伸べた。しかし期待とは違って、その痛みは一瞬で終り、彼はすぐ顔を離した。本来なら一寸ほどに伸びる筈の皓い犬歯もなく、彼は明るく笑っていた。 「おどろいたかい。便宜上その名にしておいたけれど、残念ながら生身の吸血鬼なんて現実にいるわけはない。いるとすればぼくのような嗜血症というか、噛むという行為が好きで、少しだけ血を見れば気の済む手合いだろう。もっともそれじゃ君が不満だというなら、望みどおりしてやってもいいが」  青年ははにかんでうつむき、彼はその肩に手を置いて続けた。 「君はくだくだしい手続きなんていったけど、それを経ないでこんな行為だけするなんてぼくはいやだね。イサク即ちいう燔祭の羔は何処にあるや、さ。段々にそれが判って、それでもついて来てくれる奴だけがぼくには必要だったんだ。しかし、吸血鬼を友人に持つのも、そう悪い気持じゃないだろう?」   拾  青年はひたすら夜を待った。夜になれば親しい友人のような顔をして�彼�が訪れてくれるからだ。 [#改ページ]    幻戯  魔術師Qという私の名を、どなたか覚えていてくれるだろうか。グレート・マジシャン・ミスタQ。たぶん、誰も知る筈はない。私の指先に美しいトランプの扇がひらき、ウォンドは一閃して鳩になりスカーフに変ったのは、もう遠い昔、戦争が終ったばかりのころだ。五彩の照明も、軽やかな紗幕も、私を囲んだ踊り子たちも時間の彼方へ去り、いかにも私は年老いた。仕掛物に新しいアイディアが生まれることもなく、スライハンドの指は慄えてネタをこぼしかねない。何よりも私自身の心が冷えきって、華やかな舞台を作り出そうという気組みも湧かないのである。  ——何もかも終ってしまったんだな。  といまは思う。  あなたは魔術の女王といわれたTを御存知だろうか。そう、その彼女の引退興行が行われてから四十年あまり、死んでからでもざっと三十年ともなれば、その偉大さをまのあたり見たひとも年々に少なくなる道理だが、戦争が終ってこの方、この道のさびれ方はひととおりでない。科学万能という新しい迷信がはびこったせいか、それともこれぞという大物スタアが生まれなかったせいか、それは明らかでないけれども、ついぞ評判の大舞台がかかったためしのないことでも、衰退は疑いを容れない。文字どおり満都を湧き返らせたTの人気を知っているだけに、私にはそれが情なく歯がゆくて仕方ないのである。なるほど、若手の奇術師は数多いかも知れない。しかし彼らの多くは、へんなもったいぶりばかりが先立って本来の愛嬌というものが見られず、技にしたってこちらが冷汗をかきかねないのが実情ではなかろうか。演しものといえば五十年も昔からの道具ばかりだというのに、客が娯しむ先を越して「どうだ不思議だろう」と得意顔をするのだけは止めてくれと、なんべん心に思ったか知れないのだ。  何よりも芸人であれ、ショウマンに徹しろと、そういう私自身、古めかしい芸名を棄てて魔術師Qを名乗り、進駐していた異国の兵士たちのキャンプを廻って、はかない人気を得たのも僅かな期間のことで、こよない相棒だった妻のRに先立たれてからは、子供もいず、人の運にもめぐまれず、芸も枯れたといえば聞えはいいが、人気も腕も衰えるばかりという仕儀に立到った。皮肉なことにテレビというものがこれほど粗末な芸人を濫造する前に、私の名はとうに忘れ去られてしまったのである。  木枯らしの中に私はいる。奇術師としてはもう場末の小屋の前座がせいぜいだろうし、駅前のネタ売りにさえ堕ちかねない私の先行きなど知れたものだが、安酒に唇をしめらすたび思い返すのはTの妖しいまでの魅力であり、妻のRの限りない優しさであった。|雲母《きらら》引きの眼も眩む衣裳に豊満な肉体を包み、ダイヤの義歯を光らせる魔術の女王の舞台姿は、なお語り草として残っているが、たった一人でどんな大劇場も狭く見せてしまう風格もさることながら、私にはあの当時の観客の熱狂が懐かしい。とにかく素直に魔術というものに酔うことが出来た、むろん私もその一人だが、あれは時代のせいばかりではない。客が純朴だったということでもない。照明も衣裳も装置も、そのひとときだけ贋の世界に奉仕したからこそ、燦然とそれを輝かせ、あり得ない色彩幻覚の夢を白昼に現前させたのだ。Tのしなやかなマジックウォンドの一振りがそれを導き出したには違いないが、観客のほうで初めから贋の王国に酔い、心からそれに溺れるつもりでなければ不可能の魅力はあり得ない。そう、だからその気になりさえすれば、いまだってこの白茶けた現実を気をそろえて憎みさえすれば、またすぐその夢の世界は帰ってくる筈ではないのか。  幻戯。  手品とも奇術とももうこれからは呼ぶまい。幻戯。それでいい。メスカリンにもLSDにも依らない白昼の色彩幻覚をもし地上に造り出したいというなら、いま一度この贋の王国に憧れ、夢み、それを切望しさえすればいいのだと私には思えるのだが、頭から子供だましと決めてかかる観客と、そういわれても仕方のない芸人たちと、しょぼくれた男やもめにすぎない自身に行き当ると、たちまちその思いも冷えて遠のく。私は深い涸れた井戸で、その底にはもうどんな水も溜まる気配はない。  そして妻のR。いまでも私はインパラという羚羊の写真を見るたび、すぐ若いころの妻を思い出す。もともとがサーカスあがりだったから、肉襦袢が何よりも似合った。|撓《しな》う腕、跳ねる肢のどこをとっても、それは草原を疾駆する獣さながらで、紅の滲んだ眼もとに涼しい微笑をたたえ、エスケープマジックでも例の空中浮揚でも欠かせない花形だった。小柄なためにキャンプの兵士たちからはうぶうぶしい美少女に見られていたが、齢を聞いたら彼らもさぞ愕いたことだろう。それでいて日常はまめやかに仕えてくれ、あまりにも私には分不相応にすぎたというのか、神はその倖せをこともなく奪った。戦後まもないうちに妻はジープにはねられて死んだのである。  歳月が隔たったとはいえ、その白い頬とともに過した日々のことを、こうまで淡く、むしろ平然と思い返し得るのは自分でも奇異な気がするほどだが、それには理由がある。妻は死んでからのち、まがうことのない再生を告げたからである。初めのうち私は腑抜け同然だった。ついで酒浸りになった。契約に厳しい軍の仕事はじきに馘になり、ずいぶん地方も転々とした。そしてようやく思い到ったのは、他ならぬ死者との交信であった。  といってこの世界では、手錠王として名を馳せたかつての巨匠でさえ、その妻に必ず霊界通信を送ると遺言し、十月末日の命日のたび、妻も友人たちも待ち続けてついに何のしらせもなかったという哀しい逸話が知られている。非力の私がどうして自在に交信を果たし得よう。しかも何をいい残す間もなく事故死した妻が、いったい死者の国のどこへ立去ったのか、どこにその霊が浮遊しているか、どうして探り得るだろう。しかしその当時の私には、すがるべきものは何もなかった。冥々暗々の境にさまよっている妻を見つけ出し、その魂をおちつかせること、かたがたその口を開かせてこちらから慰めもし、地上に置き去りにされた私の凍えかけた心を少しでも温めてもらうこと。それ以外の何が出来、何をすることがあったろう。  私の念力も霊力も知れたものであった。念じて念じ抜いて、しかも何の応答もないのに焦立ったあげく私は再び酒の力を籍りた。その酔いの中で頭はさらに濁り、死者の国に何が届くとも思われなかったが、それでも酔ってさえいれば、妻の顔だけは容易に蘇った。鼻すじの一刷毛濃い白粉が少年じみて愛らしい。眼もとにほんの抑えに使う紅は汗に流れ、いかにも緊張したさまを伝えている。しかしそれが動かず固い死者の表情だと知れるのに時間はかからなかった。そのままでいたら、私はなおのこと酒に浸り、とうの昔に中毒患者として廃人になり果てていたろう。それを|礙《さまた》げたのは、一つの思いがけない声であった。その当啼いくらもあった|葦簀《よしず》張りの屋台の傍を通りかかった私の耳に、その声はふいに届いた。若い女の、いくらか甘えたような嬌声である。 「いやよ、いやだったら。お酒臭いもの」  その声音はあまりに妻に似ていたので、私は思わず足を留めた。ついで激しい顫えが襲った。もしかして妻が蘇り、この世の中で私にかかわりなく生きているとしたら。それよりも妻が死んだなどというのは、まったくの妄想であり長い悪夢でもあって、いまのいま、それが醒めてくれたというなら。  そこに佇んでいたのが何分か何秒か覚えはない。表情を硬ばらせ、酔いにまかせた足どりでその屋台に顔をのぞけた私は、醜くはないが妻には似もつかぬ女と、それに戯れている酔漢とを見出しただけであった。いぶかしげな客と女将をあとに蹌踉と立去りながら、私はいまの声が、声だけがいわば妻の伝言であることを疑わなかった。 「よし、よし」  私はひとり頷いた。何かが癒えてゆく、癒されつつある確信もあった。もともといける口でもなかった私が日夜こうまで酒臭いのは、妻にとっても堪えがたいに違いない。そしてこれをきっかけに酒を手控え、仕事に精を出し始めるとともに、奇妙なことに妻の�伝言�はしきりと届くようになった。  たぶん人は嗤っていうだろう。それはアルコール中毒につきものの幻聴にすぎず、お前はもうとうに廃人になっていたのだと。真偽は私にも自信はない。小さいころから奇術に憧れ、将来は必ず魔法博士か鉄下駄を穿いた道士になろうなどと夢見ていた私ごとき屑人間が、いったい本当に生きているのかどうかさえ実は疑わしい。この齢になってもまだ私は物語にあるような誰かの夢の中の人物、その誰かが眼を覚ましてしまえばたちまち消滅してしまうやくざな人間だと信じているくらいだから、いつからか自分自身で創り出した幻覚の中に生き始めるというのも充分あり得ることだ。ともかく私は再び三度妻の伝言を聞いた。それは明るい昼の喫茶店で、|斜《はす》向いにいた中年女性が喋り出そうとしてチラと私に眼をとめ、それから相手に視線を戻していったため、ことのほか身に沁みた言葉である。 「そりゃあそうよ、あなた。別れたきり二十五年も逢えないってことになりゃ、そりゃもう当然よ」  その前後の会話はまったく聞きとれず、私の耳に響いたのはただ、これから二十五年も妻とは逢えない、逢うことを許されないというそのことであった。私は俄に竦然として会話の主を見た。向うは先に一度こちらに眼をとめたことなど気にもかけぬようすで、二人だけの話に熱中し、その声はもう届かなかった。  二十五年。なんという残酷な刑であろう。そのときそろそろ四十歳に手の届こうとしていた私に、なお四半世紀の禁固をいい渡すとは。それまで待たなければ地上で妻に再会出来ぬくらいなら、私もまたジープであれ地下鉄であれ喜んで轢かれることを選ぶだろう。冥界がどれほどの暗さだろうと、馳せ廻って妻を探すほうがまだしも易しい、まだしも救いがある。だが、憤然と立って伝票をつかみ、忌々しいその喫茶店を出ようとした私の耳に、また突然の伝言が届いた。それは先の二人とはまったく関係のない若い女のグループで、中の一人がはしゃいだ調子で友人にこういったのである。 「大丈夫よ。そんなもの、あっという間よ」  ——こうして私の刑は決定した。二つの会話は偶然であろうか。昼の茶房の喧噪の中から、ことさら選びぬいたように耳に飛びこんできた言葉に、明らかな妻の遺志を聞いたと思うのはあまりな無知であったろうか。だが私はそれに従う道を選び、その生活を自分に課した。気も遠くなるような徒刑の日々を送ることに決めたのである。倖い、それからほどなく勤めることになったデパートの玩具売場、そこでの手品の実演と販売という仕事が、しばらくは時間の刑のいくばくかを消してくれた。  ただ、死者はもう老いることはない。その代り私の生身の肉体は容赦なく古び、思いもかけぬ病の訪れも屡々であった。再会時の妻の失望を思って、私は夜ごとに鏡に向い、己の皺ばみかけた顔に薄くクリームを塗ることさえした。指は|就中《なかんずく》私の生命である。そのしなやかに骨立った指を鏡に映し、シカゴの四つ玉を、ミリオンカードを昔ながらに演じてみせるとき、私は僅かに吐息をつく。もうかつての舞台の面影はまったくないにしろ、この指だけはまだいくらか名残の夢を、その郷愁を誘うことが出来る。むざんに老いてゆく肉体の中で、まだ唯一別種の生物、別次元の|寄生木《やどりぎ》といったあんばいで生え延び、深海魚のすばやい揺らめきをさながらに伝えることも可能なのだ。そのためにふだん道を歩くときでも、カードと玉とはポケットから離したことはなく、いつでも絶えず指を動かしているのが私の日課であった。そして夜、こうしてひととおりの練習を終えてしまうと、私はまた鏡に向っていつもの呪文を唱えずにはいられなかった。  ——時よ、時よ、時よ、速やかにすされ。彼方へ退け。小さく、小さく、小さく、己れの本体に戻れ。  そうだ。時間はあまりにふくらみすぎ、勝手にはみ出しすぎている。ちょうど何者かが過って堤防を壊しでもしたように、濁流はあたりに渦を巻き、ガラスの城、ガラスの庭園にすぎぬ人間たちの|棲処《すみか》をほとんど埋め尽そうとしている。いつかは退くだろう、いつかは治まるだろう。だがどうしてそれまで安閑と待っていられるものか。既に私の内部にある|鰾《うきぶくろ》さえ破れ出したからには。  こうして私は待ちに待ち、焦がれに焦がれたあげく、ようやく刑期を終えた。二十五年という歳月をとにもかくにも乗り越え了えたのである。このいい方を若者はたぶん|肯《うべな》わぬに違いないが、ほとんど孤島とも思える老いの岬へ辿りついたひとならば、憫れみつつも許すことだろう。乗りこえてきた時の潮騒をその耳に聞いたひとならば。  二十五年前の喫茶店で苛酷な声を聞きとめたときの日付も時間も私の脳裡には深く刻みこまれていたから、再会の刻を誤る怖れはなかった。問題は場所である。肝心なその時刻に私がそこに居合せなければ、天はまたこともなく妻を|攫《さら》って死者の国に投げ返すだろう。  ——R。  と私は呼んだ。  ——教えてくれ、その香しい花咲く地を。すべてが充たされ、何もかも許される約束の地を。そりゃむろんこの地球の裏側かも知れない。あるいは私がここだと信じて待つ、つい隣の街角かも知れない。だが一度だけは与えてくれ、お前の姿を確かに見かけ、追い、せめて手を差し伸ばして捉えることの出来るチャンスを。  そしてこの希いに応えるかのように、それ以来さまざまな�伝言�がそこここに氾濫し始めた。南船北馬といっては大げさだが、その声に従ってどれほど近県の町を訪ね歩いたことだろう。そしてついに、やはり近県のU市が指示され、私はそこで妻に再会したのである。いまから二年ほど前のことであった。  約束の時間、晩秋の枯れ色の風景の中で、すりきれたオーバーの襟を立てて私は待った。かねての呪文どおりそのとき時間はふいに凝縮し、体を固くして小さく遠のいていった。眩暈と絶え間のない嘔吐感がそれに伴った。私は鉄道の柵に凭れてくずおれるのに堪えた。瞑り続けていた眼を思いきってみひらいたとき、私は眼の前に、不安そうにこちらを見上げている稚い女の子を見出したのである。  小さな水色の法被を着ている。鼻すじに一刷毛の白粉がある。眼もとには抑えた紅が滲んでいる。それが眼に入るとともに私は再び気を失いかけた。近くの神社の秋祭の日だと思い当たるより早く、そこに紛れもない妻の稚な顔を見たからであった。七つか八つ、この生まじめに引結んだ唇はどうだ。少年じみて凛々しい眼は、細い剃りあげた眉は。私は神々の声のない揶揄を聴いた。悪意というにはあまりにも底知れぬ嘲弄を感じた。神は妻をマジックハウスに閉じこめ、二十五年の歳月を加える代りに引き去って私に返し与えたのだ。その私はといえば地上の掟どおりの齢をとって、六十歳をとうに過ぎたというのに! 「大丈夫だよ、大丈夫だとも」  私は顔を歪めて泣き笑いに堪え、少しでもこの文字どおりの稚な妻が怯えて走り去らないよう心を尽した。たったいま抱き上げたい、頬ずりをしたいという念いを必死に抑え、さりげない笑顔でこういった。 「心配してくれてありがとうよ。さあ、お礼におもしろいものを見せてあげようね」  ポケットから離したことのないシカゴの四つ玉は、たちまち巧妙に私の指の間に隠顕し、一つは二つになり、二つは三つになった。私の生涯を賭けて断言するが、このときほど冴えた技を披露したことは絶対にない。少女の眼の輝きがそれを証していた。それはかつての日、私を畏敬し、ほとんど神の御業をまのあたりにしたかのようにいつまでも眼を離そうとしなかった妻の、妻だけの持っている輝きであった。そう、この輝きのもとでだけ、私は稀代の魔術師に変じ得るのだ。  もうそのころは眼ざとい他の子たちが一人二人と周りに集まり、賑やかにはやし立てながら見物してくれたので、却って私は案じないで済んだ。こんなところに少女と二人だけでいて、誘拐犯人だなどと騒ぎ立てられてはたまらない。私は心をこめてトランプの一組を取り出した。それはたちまち一重にも二重にも花ひらき、生き物のように閉じた。腕の上に長い橋を架けたかと思うとすぐ起き上り、喜び勇んで手許へ走り寄った。カードは甦ったのである。少女の食い入るような眼が、その熱いまなざしが奇蹟を可能にした。スライハンドにかけてはキャンプに並ぶもののない名人といわれたその昔の指の感覚は、いま再び確かに私のものであった。  ——だが急ぐまい。  と私は考えた。もうさっきからの子供たちの会話で、この少女の呼び名も知れている。大体の家の見当もついた。Lちゃんというその名は、妻とはいささか異なってはいるけれども、マジックハウスを抜けてきたとあればそれも当然であろう。ただ私はひそかに少女の母のことを思って多少の胸のときめきを覚えた。それがもし、万が一、Rそのものだとしたら。…… 「さあ、きょうはこれでおしまいだよ。また見せてあげようね」  通りかかる大人たちの好奇と疑いを呼びさまさぬうちに、私は手早く店仕舞をした。 「きょうはお祭りなんだろう。おじいさんも連れていっておくれ。そうして皆のおうちも教えておくれよ。そしたらいつでも、もっとすばらしい魔法を見せてあげられるからね」  私は一度だけ、さりげなく少女の手を曳いた。その手はあまりにも小さく、そして冷たかった。        ∴  そのあとの経過を、手短かに書きつけておくべきだろう。私は早速にU市へ移り住み、倉庫番という地味な仕事を見つけた。私の魔術の腕が甦ったことは、少なくともいま天下無双といえるほどだということは、少女だけが知っていればそれでいい。そのうちに私の力は次第に充ち、大仕掛な舞台奇術にもつぎつぎ新機軸を出すほどになるだろう。一流の劇場から迎えられて演出を頼まれることも、そう遠い夢ではない。なにしろ私にはあの少女が、変身した妻がいてくれるのだから。  Sという少女の母なるひとにもじきに会って親しくなった。私がことさらその家に近く部屋を借りたからである。未亡人で仕立物の仕事で生計を営んでいる、おとなしい、平凡な女で、顔はむろん妻とは似てもいなかったが、それは当然であろう。これは妻の母なのだから。そして私がどうやらその町におちついてみると、彼女は男やもめにとって恰好な茶飲み友達となり、二人は結ばれた。少女が目当てだったのではない。まことに滑稽な錯覚だが、Sは少女の母ではなく、実の両親は若い共稼ぎ夫婦なので、なついているのを倖い、保母代りに預けていたことがじきに判明したからである。  滑稽な錯覚。それだってかまいはしない。私はもともとその錯覚、そのトリックに生命を賭けてきたのではないか。しかし、そうはいってもSが、私と結婚してからというもの安堵したせいか俄に老けこみ、この一年の間に、まるでずっと以前から私と夫婦だったような、齢恰好もそうとしか思えぬほどの婆さんになってしまったのを見ると、あるいいようのない不安が頭をもたげる。もしかして、そう、本当に万が一……。  私がいま熱中しているのは、少女Lちゃんのために三月の雛人形を豪華な飾りつけで見せてやることだ。といって貧しい老人に十五人飾り、十八人飾りなどは手の出しようもないので、私が工夫を凝らしているのは�幻茶屋�という昔ながらのトリックである。向うに見えている美人がいつの間にかすうっと骸骨に変り、オヤと眼をこらすとまた知らぬ間に美人になっているというあの仕掛は、ただ黒幕の前に大きなガラスを斜めに置き、正面と横から交互に光を当てて変化させるだけのものだが、私のはそこをさらにひねって、スライドの雛飾りを次から次に映し出すようにしてやろうというものだ。あの子は躍り上がって喜ぶだろう。そしていつか私が奇術界にカムバックしたら、あの魔術の女王が演じた�京人形�をさながら、雛壇の内裏様も三官女も仕丁も、全部生きて踊り出す、すてきもないマジックレビューを創案して見せてやるのだ。  だが、こうまで齢を取ったせいか、このごろあらぬ妄想はいっそう頻繁に私を苦しめる。もしSがときどき愚痴をこぼすように、私は一度だって魔術師だったことはないとしたら。Rなどというサーカスあがりの妻などもともと存在せず、このうちの婆さんが三十年あまりも前からの|糟糠《そうこう》の妻だというなら。  ばかな、と思わず口を歪める私の頭の中に、その奇怪な空想はいっそう拡がるばかりである。私はただの奇術好き酒好きの平凡なサラリーマンで、停年退職ののちU市へ隠栖し、しがない倉庫番という隠居仕事をしているだけだと、子供もない老夫婦ぐらしで、近所に越してきたLちゃんという少女に夢中になり、下手な手品を見せては御機嫌を取り結んでいるだけだと、そんなくだらない想念があまり次から次に湧いてくると、私は思わず舌打ちし、ついにはこう自分にいい聞かせるのだ。  ——よしよし、かりにそれならそれでもいいじゃないか。いや、その方が私にとってはよほど楽な人生だし、なんならそのとおりだといってもいい。どうせ人生はいま作っている�幻茶屋�どおり、他人には何が見えているのか、美人か骸骨か判りはしないのだ。そしてそれこそ私が残生を賭けて完成させようとしている本当の幻戯、あの|目眩《めくら》ましの本体に違いはないのだから。 [#地付き]〈とらんぷ譚・完〉