幻想博物館      中井英夫 [#改ページ]       目 次 juillet 火星植物園 aout 聖父子 septembre |大望《たいもう》ある乗客 octobre 影の舞踏会 novemre 黒闇天女 decembre 地下街 intermede チッペンデールの寝台 もしくはロココふうな友情について janvier セザーレの悪夢 feurier 蘇るオルフェウス mars 公園にて avril 牧神の春 mai 薔薇の夜を旅するとき juin 邪眼 [#改ページ]    火星植物園  灰いろの曇天は、魚の尾のように垂れた。遠く海鳴りの響きが微かに伝わってくる。潮風に湿って草もまばらな赤土の丘の上に、その病院は建っていた。麓から仰ぐと、銃眼のついた尖塔や跳ね橋や、深い|濠《ほり》のある異国の|城砦《じょうさい》めいて見えたせいであろう、村の人びとは、そこを癲狂院とか脳病院とかの古めかしい名で呼んで、コンクリートの粗壁と鉄格子に囲まれたあの中には、血の染みた拷問室や、鎖で繋ぐ懲罰室があるのだと言い触らした。事実は日本でも稀れなほど設備の行届いた精神病院だったのである。  ここはまた、トラック何十台分もの黒土を運びこんで造成した、広大な薔薇園でも知られていた。新種の花々が|絡《から》みあい|縺《もつ》れあいして咲く異様な美しさは、早速また村人たちの憶測の種となったが、『|流薔園《るそうえん》』という変った名の由来を訪ねると、院長は、 「この薔薇たちは、いわばここへ流刑になったようなものですから」  と答えた。  それはしかし、院長自身の思いでもあったのだろう。さる大学の精神科主任教授という地位を離れ、資産のすべてを傾けて風変りなこの病院を建てたのは、大学にいては到底得られない、彼自身の期待を充たすためらしかった。というのは、ここでは患者の身分や貧富の差などはいっさい問題にしない代り、彼らの妄想や幻覚が類型的でない場合に限って入棟を許可していたからである。従って患者の盲覚が、自分の悪口をラジオが放送しているから止めてくれといった、ごくありふれたケースに落ちつき出すと、じきに麓に近い、別棟の一般病棟に移されてしまう。悪口をいわれたくないなどというのは、社会復帰をいそぎたいだけの心理だから、相応の医療を尽くしてやればいい。人間界に戻りたいなどという患者は、この院長にとってさしあたり興味もない存在で、彼のいちばんの関心は、残された幻視者の群れの、さまざまな反地上的な夢を蒐集し、蓄えて、この『流薔園』を病院というより、幻想博物館として完備したいということにあるらしかった。  七月のある日、久しぶりに院長を訪ねて雑談を交したあと、私は窓辺に立って流薔園を眺めた。|花季《はなどき》には、壮麗な色彩と香気の饗宴が拡げられるが、夏に咲かせるのを|厭《いと》うのか、いまは猛々しいほど繁った葉が強い日射しを返すばかりで、花はどこにも見当らない。  |丈《たけ》高い薔薇の沈黙。いまこのとき、薔薇の内部では、何が行われているのだろう。 「花もいいが、ああやって黙りこんだ姿も悪くはないでしょう」  いつのまにか立ってきていた院長が、うしろでそう呟くのを聞きながら、私は妙なものを見つけた。薔薇園の外れに、円いビニールテントらしいものがいくつか光っている。白い排気鐘めいて伏せられたそれは、小型の宇宙船か空飛ぶ円盤といった奇異な趣きだった。 「あれですか」  私の問いに、院長は苦笑したようにいった。 「実はうちのお客さんに、またひとり変ったのが殖えましてね。まだ若い男ですが、それが妙な実験に凝っているんです。あれはいわば、�火星植物園�といったところでしょう」 「へえ、火星の植物を育てているんですか」  私は呆れた声を出した。 「いや、くるなりここの薔薇に魅せられましてね。夢中になったのはいいが、花のほうにはさっぱり関心がないらしい。根っこだけが好きなんですね。薔薇の根を見ると、こう、ほとんど性的な興奮に襲われるらしいんですが、それがこのごろ本物の恋愛を始めたようなので、厄介なことになりました」 「恋愛って、ここの患者とですか」  ゆっくり話をききたくなって、私は坐り直すと煙草を取り出した。院長もまた、自分の大きなデスクの向うに廻りこんで腰をおろした。しばらく二人の吐き出す烟りが流れた。 「患者だか、事務の女の子だか、もうじき判り出すことだって笑うばかりで……。あとでたぶんこの部屋にもくると思いますがね、その薔薇の根から始まって�火星植物園�を作るようになったいきさつは、ここに本人の書いた手記があります。手記というより、小説まがいの告白のようなものですが」  院長は何のつもりか、この暑いのにわざわざ両の手に手袋をはめると、机の抽出しから一冊の大学ノートを取り出した。表紙に大きく、ラテン語の標題が書かれている。   TANTUS AMOR RADICORUMA  あいにく、そんなものは読めない。 「どういう意味ですか、これは」 「タンツス・アモール・ラディコルム。なべての愛を根に、とでもいうんでしょう。リンネの紋章のもじりですよ」  そういって、卓上の部厚い書物を指した。国際植物学会の年次報告書か何からしいその表紙には、図案化されたリンネ草の葉と花が左右からのびて、   TANTUS AMOR FLORUM  という文字を押し包んでいる簡素な紋章が、淡い緑で捺されていた。 「スウェーデンのウプサラ近郊のハマービーというところですが、リンネウスの別荘がまだ残されていましてね。そこでは蔵書から紅茶茶碗のはてまでこの紋章で飾られているんですよ。もっとも、こっちのこれを書いたのは、そんな大学者とは比較にならない、暗黒時代の|本草学者《ハーバリスト》でも考えそうな幻想ですが……。読んでごらんになりますか。なんだか筋が通っているようで、やっぱりどこかしらおかしいんですね。さあ、どうぞ、どうぞ」  手袋のままの手で押してよこされた大学ノートを、私は不審に思いながらも受け取り、そっと第一ページめを開いてみた。緑いろのインクで書かれた美しいペン字が、びっしりノートを埋め、それは私が先ほど薔薇を眺めながら考えた、同じ思いから始まっていた。 『……伸び立った一本の薔薇の中で、具体的に何が行われているか、男はそれを知りたいと|希《ねが》った。それも、地上のFlos(花)ではなく、地下のRadix(根)の部分に魅かれてならないのだ。植物は感覚作用を持たないとするアリストテレス以来の誤謬を、何としても打ち破らなければならない。感覚どころか、りっぱに思考作用も持っていることを、どうしても立証しなくてはならぬ。そのためには、あの地下の根が直接に水に触れたときと、あるいは肥料を含んだ土壌の湿った部分に触れたときとの差異を、あたかも舌で味わいわけるように感じるべきだろう。足許を濡らされるのは嫌だという水への好悪ひとつでも、根のうちのどの部分がどう区別して受けとめるのかを、自分の感覚として知りたいのだ。  人間でも夏の盛りに、清冽な井戸水を口いっぱい撥ね返らせてむさぼり飲むのと、よく冷えた生ビールのジョッキを傾けるのとでは、同じ渇きをいやすといってもその味わいはまるで違う。まして薔薇の根ほどになれば、ただの水と、さまざまな有機物の融けこんだ溶液とでは、すぐ区別するだろうし、その反応も異なっているのが当然であろう。男は、もし出来るものなら、自分の肉体のどこか、たとえば左の手の甲の一部分にでも培養地を造り、そこに本物の、思いきり小さい薔薇を植えこんでみたいと念じていた。爪楊子くらいの、ごく細い緑の茎がどうにか根づき、玩具のジョロで水をかけてやると、薔薇は嬉しがって白根をぞよぞよ動かす。そのむず痒いような感覚をじかに知ることができたら、少しは根の思考法に近づけるかも知れないので、そのためには左手の親指と人差し指のつけ根のあたりをいくらか抉って、その薔薇に必要なだけの養分や少量の土を埋めこんでやることも、すこしも苦痛だとは思えない。  いや、土壌などという|夾雑物《きょうざつぶつ》をいっさい介在させず、もし人間の躯のどこにでも薔薇が根づいてくれるものなら、頭にでも、肩の上でも、好きなところに住んでもらいたいけれども、高等植物と動物との共生はまず例のないことで、男にとってこれほどの不満はなかった。ナマケモノの背中や、ある種の亀の尾などに、緑藻植物が付着して拡がることはあるが、それは共生というには遠い。木の幹や酸性の花崗岩の上では好んで繁茂する|蘚苔《せんたい》類も、動物の皮膚で生育した例は聞かない。唯一の奇跡は綿吹き病の臨床報告だが、ただれた潰瘍とともに共生するほど落ちぶれた関係を結ぶのは堪えがたいことだ。人間もいつから花粉に触れてさえアレルギーを起すような高慢さを身につけたものか、このぶんでは到底しばらくの間は植物と一心同体になるわけにはゆかないだろうが、他のものはともかく、ただ薔薇のために生きたままの肉体を捧げられるならば、それも地下に潜む根のために奉仕できるならば、それだけでいい。 �車椅子�の中で、男は熱心に考えた。  むろん、死んだあとならば、そのまま土葬にしてもらって、ほどよく腐って土にまじり始めたころ、その上に巨大な薔薇を一株植えてもらうことはできるだろう。|貪婪《どんらん》に伸び続けるその根は、思わぬ獲物の|在処《ありど》を知って、暗黒の土の中をかきわけ、多くの支根を張りめぐらしながらしだいに近づいてくる。やがて逃れようもなく四方を取り包むと、ある日ついにそのひとつの尖端が腐肉に触れ、そのまま検屍用の|消息子《ゾンデ》めいて、どこまでも深くのめりこむ。そのときその薔薇の根は、触手のようにためらいながら入りこんでくるのか、|蛭《ひる》のように吸いつくのか、あるいはしなやかな鞭さながらにまつわるのか、あいにく腐肉の男には知ることができない。薔薇がその養分を吸いあげるためならば、どのようにでも肢体を取り巻き、胸からでも腿からでも、好きなところを採っていってかまわない。もとより内臓も脳漿も役に立てて欲しいし、うつろな眼窩の中に、褐色のひげ根が一本入りこんで、まだどこかに養分は残されていないかと探り廻ってくれるならば、それはまさに本望だけれども、そのめくるめく恍惚の|刻《とき》を自分で意識できないのでは、せっかく土中に埋もれた甲斐もないだろう。死にかけ腐れかけてまだ幽かに知覚が残っている、せめておぼろげにでも感触があるそのうちに、這い廻りうごめく薔薇の根の触手に犯されるのでなければいやだ、と男は思った。  薔薇の根への偏愛。  TANTUS AMOR RADICORUM  といってこんなことをあの�白人女�に聞かせたら、 「そんなもの、愛なんかであるもんですか」  と、にべもなく断言するだろう。 「だからあなたは、車椅子の中にしか住めないんだわ」  女は、よく男の髪をなでながらいった。 「いいこと。あなたは、あのお気の毒なポリオに|罹《かか》った方たちのように、脊髄を病んでいらっしゃるのよ。あなたの考えは、いわば車椅子の中の思想なんだわ」  初めてそういわれたときから、男はすなおに同意した。車椅子という言葉もひどく気に入って、ひとりでいるときにもふっと腰を浮かせ、右手でハンドルを廻して車椅子を漕ぐ真似をしてみることもあった。�脊髄を病んでいる�男にとっては、その中に腰をおろしているときがもっとも落ちつけたし、それが行為の始まりでもあった。そこではたとえばマンドラゴラの根を人体さながらに描いた中世の写本は、どう見ても淫靡をきわめた秘画のたぐいに思えたし、顔の代りに首の上に葉を生やし、手足の先が根となって|岐《わか》れている裸形に眼を凝らすときは、真剣にそんな生物と寝たいと念じた。この根が引抜かれるとき悲鳴をあげると信じていたビザンツ人たちの考えは、男にとってそれほど遠い時代のものとは思えなかったのである。  それにしても�白人女�の親切さは、ひどく男の心に染みた。あれが好意というより愛に近いものだとするなら、この地上の習慣に従って、男もまた優しく女を愛し返さなければいけないのだろう。それには何よりもわれわれの躯に馴染もうとしない植物をなだめて、人間の皮膚にだけは好んで生育するように変えるのがいちばんの贈り物だ。人間の体毛が、黒や褐色のケラチン繊維ではなく、苔植物の原糸体か、できれば柔らかい緑の草、それも絹糸草ほどのしなやかさでいちめんに生えるとしたら、どんなにすばらしいことだろう。それに�白人女�という呼び名は、女が軽くスカートをたくしあげたときに、びっしりと苔に蔽われた緑の脚をしていて欲しいという期待をこめてのことであった。 「きょうはちょっと、胞子体にくふうをしてみたの」  そんなことをいって、まるで新しい靴下を誇示するように、先週とは変った緑いろの脚を投げ出す女がいるとすれば、それこそ恋人にふさわしい。  さてその贈り物をどうやって作出するか、これは男にとって相当の難関だったが、まもなくひとつのヒントが訪れた。ソビエトの科学者G・A・チホフの天体植物園である。マリナー四号のおかげで、火星への夢はあらかたつぶされたが、といって苔や地衣類の存在までが否定され尽したのではない。どんなかけらでもいい、火星の植物の一片を掌の上において眺めたいというのが、久しいあいだの男の願望だったが、チホフやトクマチェフはそれに先んじて、この地上に火星と同じ気圧や温度を人工的に作り出し、その中で植物を育てた詳細な実験報告を行なっている。その結果は、火星のきびしい条件下でも繁茂の可能性があること、その植物は空いろがかった青に近い色を持つことが確かめられ、ソビエトの学会ではほぼ承認されている。火星ばかりではない、金星植物の研究も同様に進められて、それを総合した天体植物園が、天文台で知られるアルアマタに開設されたことは、日本にも一部に報じられた。  だが、もともと地球型植物は、どんな条件下におかれてもその固有の性質を|枉《ま》げようとはしない。男が求めるのは、何よりも人間、それも若い女の肌に好んで寄生する、新しい火星型植物の創造であった。下等菌類はこの際植物と認めがたい。しかし動物の体表に寄生する性質はこれを活用して、冬虫夏草の類から徐々に上へと及ぼさなければならぬ。かたわら男は、徹底した土壌の改良に挑んだ。男の左手の指の数本がその実験に供せられた、といえば、そのめざす方向は推測されよう。蘚苔類は、土壌も皮膚も区別することなく這い進んだのである。巨大な排気鐘の中では、走地性と屈性との奇妙な訓練が行われた。さらに世代交番の不規則性を、ある一種に限って定着することに成功したとき、ようやくかれら[#「かれら」に傍点]はその新しい性質を示し始めた。これらの苦闘の記録は、当然詳細な学術論文としてまとめられ発表されるべきだろうが、その反応としてあらわれる学会あげての混乱と発揚状態を思うと、当分はささやかな実験の成果に甘んじていたほうが無難であろう。  ああしかし、第一次の成功だけは、もう疑いがない。かれら[#「かれら」に傍点]は、ときどき気まぐれのように男の皮膚の上に遊ぶようになった。まだしっかりと根づこうとはしないが、頬の上を這いのぼる擽ったい囁きを聞くことはできるのだ。長い間の、植物の根に支配されたいという願望は、ようやく聞き届けられた。じきにこれを�白人女�にうつすことができるだろう。男はそのとき、初めて女を愛することを許される。そしてやがては、息ながら土中に身を横たえ、あの薔薇の根の、あらあらしい、息のつまるほどな抱擁を受けることが可能になる。あの褐色の根の愛撫ほど淫らで恍惚とした法悦があろうか。この役立たずな肉身の最後の一塊まで、どんな部分までも、ああどうか Radix 、君のほしいままな鞭の下に支配してくれ給え。………………………………………………………………………………………………………………………………  熱烈な祈りの言葉で、突然に切れて終っている大学ノートを、わたしは呆気にとられながら閉じた。 「なるほど、先生のところだけあって、風変りな患者もいたものですね。しかし、いくら蘚類や苔類みたいな下等植物だといっても、人間の皮膚に共生するわけはないでしょう。こういう妄想は、何型っていうんですか」  院長は奇妙な笑いを洩らしたまま答えなかったが、そのとき、廊下のほうで華やかな男女の嬌声がもつれあって、いきなりドアがあくと、色の白いミニスカートの女が駆けこんできた。 「先生、ごらんになって。やっとここまでになりましてよ」  そういってさし示す脚には、あざやかな緑の苔が、もう膝頭の上まで、うっすらと這いのぼっていた。  わたしを脅やかしたのは、その女ばかりではない、すぐあとから、けんめいに車椅子を漕ぎながら入ってきた若い男の顔であった。それはまるでビロードの仮面のように、びっしりと緑藻めいたものに蔽われていたのである。しかもこちらへ向かって、合図するようにふってみせる左手は、明らかに二、三本の指を欠いていた。  名状しがたい恐怖と嫌悪感から、思わず院長の傍に逃れ寄ろうとして、わたしは三たび身を退いた。院長のしている手袋の意味に、そのとき初めて思い当ったのだ。  そのとおりだった。ゆっくりと手袋を脱ぎ出すその下から、さっきまでなぜ気がつかなかったものか、緑の|鱗《うろこ》めいた手の甲が覗きかけていた。……』  緑いろのペン字を、ようやくそこまで読み終えた私に、こともなく手袋を脱ぎ棄てた院長が笑いかけた。 「これでお判りになったでしょう。このノートを人にお見せするとき手袋をするのは、いわばこの作者へのエチケットなんですよ」 [#改ページ]    聖父子  ………………………………………………  |滋彦《しげひこ》。  こうして呼びかけるお前が、いつこの手記を手にするか、それは判らない。さしあたってどんな方法でこれをお前の眼に触れさせるか、それも容易ではない。当然眼につきやすいところに、といって、どこかしら秘密めかしたところに、この手記はさりげなく、だがいかにも曰くありげに隠されているだろう。これを手にするお前が、少なくとも十七歳より上であることを望みたい。知恵や判断力をいうのではない、その年齢ならば、必ずやお前が、|膂力《りょりょく》ゆたかな若者に変身しているだろうからだ。この手記を読み終えたお前には、どうしても鋼鉄めく腕と、わけても握力の強い指とが必要になってくる。好智にたけた一人の殺人者を、お前のその指で思いきり締めつけ、かれの顔が赤黒くふくれあがってついに息絶えるまで、決して離してはならぬからだ。  十七歳。だが、その日はまだあまりにも遠い。それまでの時間を、ふつつかな父はただこうして書斎の椅子に|倚《よりかか》り、ひたすらに堪えて待つ以外にない。窓の外には、乳いろに輝く八月の空が熱風を孕んでひろがり、地上の風はすでに死んだ。灰紫のルリシジミがもつれ合って飛んでいるほか、動くものもない。桃の老樹は萎えた葉を垂らし、その樹肌には、とろりとしたなめくじや、蟻や、小さい毛虫たちが這い廻り、そのむず痔さに堪えかねたものであろう、飴いろの樹液がところどころに垂れ固まって瘤を作っているのが、ここにいてもありありと見えるようだ。この透視の能力もまた、わたしに不幸をもたらしたものの一つである。  何のために父のわたしが、こんな手記をお前に残そうとするか、滋彦はこれを手にするが早いか察するだろう。父と子と二人きりの家庭に立ちこめてゆく黴の臭い、隠された血の臭いに、お前はことにも敏感に育つ筈だ。従って当然それは、早くに死んだお前の母、わたしにとっては唯一の女性である|路子《みちこ》と関わりのあることも、またたちまち推察がつくだろう。なぜ母の遺影がたった一枚しかないのか、それも不鮮明な白い笑顔しか残されていないのか、お前はすでに疑念を持ち始めている。お母さんは写真嫌いだったんだよというわたしの答に、そのうち必ず満足しなくなるだろう。真黒な疑惑がみるみるお前の内部でひろがり、とめどもなくふくれあがるだろう。それをひたすら待つといえば、この父はあまりにも残酷にすぎるのか。だが、滋彦。復讐はぜひともお前の手で果して貰わねばならぬ。お前が快活な学生から、一転して暗い執念の虜となり、唇を引きしめた復讐者に変身することを念じて、この手記は書かれたのだから。  お前の母・路子は、過失死として葬られた。その真相は以下に記すとおりだが、順序としてまず、どのような状態で死亡したか、それから述べよう。路子は当時、わたしたちの住んでいた|市《いち》ヶ|谷《や》|台町《だいまち》の浴室で|斃《たお》れた。二十五歳であった。前年にお前を産み、ほぼ一年後の八月十一日、日曜のことである。この夏は連日三十一度を越す暑さが続き、その日の午後、汗を流す心算もあったろうし、|旁々《かたがた》おびただしい洗い物のために、しばらく洗濯機の唸る音がしていたのは、わたしも聞いている。だが、どうしてかその前後のわたしの記憶はひどくあいまいをきわめ、事件が起ってからのち、もっともわたしを苦しめたのはこの点であった。ただひとつ鮮明な記憶は、お前がわたしの傍らで無心に眠り続けていたということだけなのだ。それは神々しいばかりの天使の眠りで、わたしはひたすらその寝顔に見とれ、はては滂沱と涙を流しさえした。  事件に気づいたのは、当時その家に同居していた路子の実弟で、大学生の|朔郎《さくろう》である。(この青年は、のちに事情あってわが家より遠ざけた。滋彦はおそらく会うことがないだろう)。朝から出かけていた彼は、帰ってくるなり暑い暑いと騒ぎ立て、裸になって浴室へ飛びこもうとしたが、その硝子戸は内側から固くとざされて開かなかった。タオルを腰に巻きつけた姿でわたしの部屋へ顔を覗かせた朔郎のひどく怯えた、不安な眼のいろは忘れることができない。  ……………………………………………… 「姉さんは」と、彼は訊いた。 「さあ、さっきまで風呂場にいたようだが」  わたしは努めて平静に答えたが、もうそのときから激しい胸騒ぎに襲われた。それも、奇妙なことに、不吉な予感からというより、風呂場に横たわっている路子の裸身が、突如ありありと眼前に浮かんだせいであった。 「鍵がかかって開かないんだよ。来てみて」  朔郎は|口迅《くちど》にいって姿を消した。二人で路子を呼び立てながら硝子戸に手をかけ、力をこめて押してもびくともしない。鍵といっても、ごく簡単な手廻しのボルトを内側から差しこむだけのもので、わたしたちは締めもしないが、路子はいつでもかけていた。むろんこんなものはわたしがつけたのではない。引越してきたときからついていたのである。  わたしたちは途方にくれた。硝子を壊すといっても、中でただ気を失っているだけかも知れぬ路子に怪我でもさせてはならぬ。大声で呼びながら、いくら透かしても見えない硝子戸に焦立ったあげく、先に電話でかかりつけの医者を呼ぶことにした。日曜で心配したがすぐに来てくれ、三人で苦心の未に、硝子を割って、ようやく戸が開かれた。案じたとおりというより、先刻あざやかに眼前に浮かんだそのままの裸身で、路子は体をまるめたなり、完全に息絶えていた。死後約一時間。足をすべらせたのか、あるいは急激な眩暈でも起したのか、それは判らぬ。ただそのあげく、したたかこめかみをタイルの湯槽に打ちつけ、それが生命とりになったことだけは確かである。頭の下には、暗い血だまりがあった。  わたしがどれほど仰天し、悲嘆し、冷たい裸身をかき抱いて身も世もなく号泣したかは、医師も朔郎もよく承知している。しかしいまわたしが滋彦に伝えようとするのは、そうした世の常の夫にふさわしい狂態ではない。死後一時間というなら、なぜもっと早く気にして様子を見にゆき、硝子戸を蹴破ってでも飛込まなかったかという痛恨の念でもない。うつけたように通夜の席に坐っているあいだ、徐々に徐々に甦ってきたその日の午後の記憶についてである。まったくの空白だったその部分を埋めるように、おぼろげなものの形が見え始めた。それはほかならぬわたし自身の像で、しかも両腕には死亡直後の妻・路子を抱えあげていた。すなわち、少しずつ戻ってきた記憶は、こうわたしに告げたのである。  ——お前が路子を抱きかかえたのは、死体発見のときばかりではない、その一時間前にも同じことを風呂場でしたのではないか、と。  ………………………………………………  これはまことに奇怪な想念で、わたしは思わず|竦然《しょうぜん》として眼を見ひらき、通夜の客を見廻したほどである。だが、もしそれが事実だとするなら、いったい何のためにそんなことをしたのか。路子が足をすべらせて倒れたのではなく、わたしが横たえたというなら、あの致命傷となったこめかみの傷も、わたしが作ったのだろうか。まさか、このわたしが妻を殺した、このわたしが殺人者とでも?  だが、疑いはきりもなくひろがった。なぜ午後の記憶がひどくあいまいなのか、そして滋彦の寝顔ばかり眺めていたように思いこもうとしているのか。その寝顔を眺めながら、わたしは確かに泣き続けていた。なぜだ、何を泣いていたのだ。いったい、何があったというのだ? こうまでも何も思い出せぬというのは、よほど異常な事件があったに相違なく、その記憶が甦るのを怖れて、わたしは咄嗟に自分でそれを忘却という石の|甕《かめ》に封じこめ、しっかりと蓋をしてしまったらしい。だが、そんなにも心は都合よく器用に働くものだろうか。自分が殺人者であることまで忘れるということがあり得ることかどうか。  通夜の席では、しかしそこまで考えるのが精々だった。いや、あわただしい葬儀や初七日が済むまで、それ以上のことは何も思い浮かばなかった。さしあたってすぐ、滋彦の世話をする女性が必要だったし、身の周りいっさいのことにも人手がいった。しかしそれらが一段落し、また勤めにも出るようになると、再び執拗な疑惑がわたしを|苛《さいな》み始めた。  滋彦。記憶のほとんどが戻ってきたいま、こうした書き方を続けるのは本意ではない。真相のすべてを端的に書き残せばそれで済むことだが、しかしこの当時のわたしの、奇妙な苦しみも察して欲しいのだ。わたしの手がかりは、ただあの朔郎が顔を見せて「姉さんは」と訊いたそのとき、すぐ路子の裸身を、発見当時とそっくりに思い浮かべることができた[#「できた」に傍点]、ただその一点にかかっていたのだから。それが果して愛する妻の異変を察して働いた透視能力なのか、それとも残忍な殺人者の黒い笑いなのか、このときはまだ判断がつかなかった。だが紆余曲折の末、わたしはついに自分を殺人者として告発することに決めたのだった。  ………………………………………………  殺人者の条件を充たすためには、動機・犯行方法・アリバイの三つがまず明らかにされねばならぬ。アリバイはまったくない。朝から路子と共にいたのはわたしだけである。同時に動機にもまったく心当りはない。結婚して三年、ようやく愛の結晶を得たばかりの二人にどんな獣の血がたぎるというのか。とすれば残された犯行方法に、解明の|緒口《いとぐち》は残されている筈であった。ことにあの風呂場は、内側から掛金がさしこまれて、いわゆる密室だったが、わたしがもし滑稽にも探偵小説にあるようなトリックを弄したとするなら、必ずその辺に手がかりがあるに違いない。こうしてわたしは、おびただしい文献をあさって密室殺人の手口に専念してみたが、一向にはかがゆかない。思い余って|伝手《つて》を頼み、工学関係の、その方面に詳しい人を紹介してもらった。かれはまさかわたし自身が妻を殺害した方法を追求しているとは想像もしなかったのであろう。流行にのって推理小説でも書くつもりかと思ったらしく、気軽くわたしのいう条件での新しいトリックを創案してくれた。その際、洗濯機の位置と、中に水があるのか|空《から》なのかを決めてくれといわれたが、わたしは口ごもりながら空のほうがいいと答えた。硝子を破って入ったときは、気も動転して別段の注意も払わなかったが、洗濯機の放水ホースが外され、水はすっかり流れ出して、中に洗濯物がぐんにゃりとたぐまっていたような気がしたからである。  二、三日してかれの電話で呼び出され、行ってみると詳細な図解を渡されて説明を受けた。要するに密室殺人のトリックというなら、満水した洗濯機を斜めに倒して壁に立てかけ、それから放水ホースを外せばよいという。その際二本の紐をあらかじめタイムスイッチのダイヤルと、洗濯機の中の回転翼に引っかけ、双方からたるみを持たせて硝子戸のボルトのつまみにからみ合わせておく。殺人者が中でスイッチを入れ、半開きの戸からすりぬけて外へ出、戸をしめさえすれば、洗濯機の水が流れ出るにつれてその重心が移動し、ついに元通り直立すると同時に紐のたるみがのび、ボルトのつまみが引かれて鍵がかかるというものであった。さらに回転翼にからめた紐が、そのもう一本の紐を引っかけて洗濯機の中へ巻きこむという寸法だが、実際にこんなことが可能かどうか、内心ばかばかしいと思いながらも、一日、風呂場の中でひそかに実験してみた。その結果、少なくとも傾けた洗濯機が直立すると同時に、鍵だけはかかり得ることを知って、異様な感懐に捉われた。その紐をまた洗濯物の中に巻きこむという操作は、どうしてもうまくゆかなかったが、少なくとも肝心な密室を作るということだけには成功したのだ。むろん、あの当時の洗濯物の始末は、駆けつけた親類の誰かが気を利かしてやってくれただろうから、その中に二本の紐があったかなどと、いまさら聞けもしない。そしてこの実験をあえてしたのは、その動作をくり返すうち、確かにあの日もこれと同じことをしたという記憶の甦ることを期待したからであるが、それはついに返ってはこなかった。しかしながら、これによってわたしは、ともかくも殺人者に一歩だけ近づき得たのである。  ………………………………………………  そして、動機。  だがわたしは、いまこの手記を、ここで急速に閉じたい思いに駆られている。あらためてわたしの殺人の動機について語るより、お前ともどもに父子心中をとげたほうがどれだけましか知れないからである。  石の甕にとざされていた記憶が突然に甦ったのは、路子の死後半歳がすぎてからで、夕食の折に朔郎が暗い顔でこういい出したときであった。 「きょう姉さんの友達に会ったんだ。そしたらね、こんなことをいうんだよ」  その女友達の名を聞いたときから、不思議な戦慄がわたしの体を貫いた。つとめて忘れようとしていたその名。そのひとこそ、路子の死の前日にわたしの会社へあらわれ、路子の行状についての恐るべき忠告をしてくれた当人だったからである。果して朔郎も、そのときと同じことを、聞かされたままに語りはじめた。  といってその友達と路子とは、べつだん親しかったわけではない。葬式にも顔を見せなかったし、家も遠い、そんなひとのところへ、路子は死の一週間ほど前、突然に訪ねてきて、いきなり奇妙なことをいった。 「あなた、けさ早くに、お隣へいらしたでしょう」 「いいえ。でも、どうして? 行くわけがないじゃありませんか」  けげんに思って訊き返すと、路子は何ともつかぬ蒼白な顔であいまいに笑い、それもそうね、などといって帰ったが、夕方また、あわただしくあらわれた。汗をだらだら流して、こういた。 「さっき、うちのお隣の方がここへ見えたのね。話声がきこえたから、大急ぎできたの」  ——これはいけない、と友達も思ったという。路子は、まちがいなく発狂していたのである。それも、わたしとの結婚前からつき合っていた男と家で間違いを犯し、しかもその行為の直後に隣家の家人に見られた、と思いこんだ。こちら向きの窓がふいに閉ざされ、人影がすっと消えるのを確かに見たというのだ。それ以来、耳に|騒立《さわだ》つ声、声、声のすべては、ただ隣家の家人と友人たちとが、眉をひそめて語り合う|陰《かげ》ぐちに変った。いたたまれず友人のひとりひとりを訪ねては�その話�をしたかどうかを聞いて廻っていたのである。  会社へ訪ねてきて忠告してくれた同じ話を朔郎がしはじめたとき、わたしは突然立ち上がって獣さながらに吼え狂ったという。朔郎をやにわに打ちのめしたという、そのことも覚えていない。気がついたときは床に寝て、近所の人々が枕許につめかけ、かわるがわる冷たいタオルを額に当ててくれていた。  そうなのだ。あの日の午後も、一晩を懊悩反転したあげく、わたしは路子を呼んでその不倫をなじった。いや、不倫だけならばまだ許せる。その醜行を友人のひとりひとりに自分で吹聴して廻った情なさ、くやしさに、わたしは激怒した。わたしはこの手で妻の両肩を掴み、何か固いものに打ちつけ打ちつけした。妻は青白い|眸《ひとみ》をみひらいたまま、抗弁も抵抗もしなかった。ああ、そのあげくにわたしが逆上して路子を殺したのかどうか、それが憶い出せさえしたら!だが、滋彦、肝心なその一点だけが、どうしても甦ってはこないのだ。そのあとわたしが無心に眠り続ける滋彦の傍らへ戻り、お前のあどけない躯の中に、もうまぎれもなく潜んでいる狂気の因子、その黒い血を思って涙を流し続けたのは、前に記したとおりだが、果してこの手が路子の頭を掴んで叩きつけ、ついに死亡させたものなのか、そのあと裸にして風呂場へかつぎこみ、過失死を擬装したのかどうか、それはどうしても憶い出せないのだ。  だが、もうまちがいはない。わたしこそ、もっとも卑劣で残忍な殺人者にほかならぬ。朔郎の話に錯乱した夜、わたしは心をきめて近くの交番へ自首して出た。それなのに巡査は、愚かにも笑うばかりで相手にしない。あげく医師を呼んで引取らせさえした。わたしが殺人の動機だけは、秘して語らなかったからである。数日後、本署へ出頭し、このたびはその動機も包まず打明けて逮捕してくれと願ったが、容れられなかった。それから今日まで、まだ誰もわたしを殺人者として認めようとはしない。これほど確かな情況証拠をそろえても、どうしても彼らが|肯《がえ》んじないというなら、滋彦、お前だけが、わたしを裁き得る唯一の人間であろう。この手記のすべてに偽りはない。どうか滋彦、一日も早く逞しい若者となり、その母のための復讐をなしとげて欲しい。それだけが父の願いである。  神よ、裁きの速やかならんことを。願わくはわが愛児の怒りに血走った眼のより近からんことを。その若者の強靭なる指がわが咽喉に喰い入り、この愚かなる父にして殺人者が、血反吐を吐きつつ恍惚と悶死し得ることを!        ∴ 『|流薔園《るそうえん》』住人のひとりである男の手記は、こうして奇妙な祈りの言葉で結ばれていた。 「これは、ほとんど事実なんですよ」  院長は、いくぶん苦い笑いを見せた。 「暗い、悲惨な話のようですが、それでも彼はここへ来てから救われました。いま散歩場にいる筈ですから、会ってごらんなさい」  院長に連れ立った私は、手記の主という中年男を指さされてハッとした。彼は十七、八の少年と肩を組んで、いかにも仲睦まじい父子のように歩いていたからである。 「じゃ、あれが滋彦君なんですね。父親を罰する代りに許したんですね」 「ところが、そうじゃないんです」  院長はふたたび微笑した。 「あの二人は親子でもなんでもない。本物の滋彦君はだいぶ前に病死したんで、あの少年はまったく別な病因で来たのですが、もう初めから男の話に、自分がその滋彦だと思いこんだのですね。しかし、これもなかなかいい眺めじゃありませんか。案外ここは、二人にとっての天国かも知れませんよ」  いかにも、そのとおりかも知れない。私もまたほほえましい気持になって、肩を組んだまま遠ざかってゆく贋の聖父子を見送った。 [#改ページ]    |大望《たいもう》ある乗客  そのワンマンバスには、はじめ運転手を含めて十三人の客が乗っていたのだが、市街を出はずれるころには、客は五人だけになって、薄暗い車内灯の下でみんな黙りこくっていた。めいめいがひどく陰鬱な顔でうつむいていたが、ときおり何かを思いついたように顔をあげると、そこには誰もがぞっとするくらいの凄い微笑が浮かんだ。といってこの乗客たちは、お互いにまったく見知らぬ同士だったし、みんな自分の考えに忙しくて、相手のそんな表情に気をとめるものもいなかった。終点まで行くつもりなのか、誰も声をかけない。運転手も機械的に停留所名を口の中で呟くだけで、バスは郊外の夜道を走り続けた。  いちばん前のほうに、何事か念じるようにうつむいているのは、まだ若い人妻で|相原啓子《あいはらけいこ》といった。確かに彼女は、念じていたには違いない。今夜の計画は、どうしても成功させなければならなかった。あんな獣、死ぬのが当然だわ。そう心の中で呟くたび、それは次第にゆるぎのない確信に変っていった。  啓子のところに匿名の女名前で封書が届いたのは一週間前のことである。お眼にかかって折入ってお話したいという内容に、さっぱり心当りはなかったが、これはたぶん旅行がちの夫に女がいるという忠告に違いない。持ち前の好奇心から、指定された喫茶店へ出かけてみると、待っていたのは顔見知りの洗濯屋の店員だった。もうずっと前にやめた男だが、何をしているのか、汚れた足にゴム草履をはき、眼のふちをくろずませて、こともなげに十万円請求した。三年前、啓子は、まだうぶうぶしかったこの店員を、むしろこちらから誘惑したことがあったのだ。一遍こっきりのことだし、その時啓子の胸に顔を埋めて涙さえ流した態度からいっても、まさか|強請《ゆすり》にくるとは夢にも思っていなかったのだが、男の|削《そ》げたような陰惨な顔つきは、もう昔のものではなかった。 「十万円なんて、ある筈ないじゃないの」 「指輪でも売ってつくるんだな。二週間、待ってやるよ」  男はふてぶてしくいうと、残り少ないコーヒーを、いやな音を立ててかき廻した。  強請の金は、一度渡したらおしまいで、骨までしゃぶられるというのが映画やテレビの教えるところである。第一、貯金は家を建てるための資金にすぎないし、へそくりは五万円を出たためしがない。しかし男からの催促の電話は、執拗で正確だった。 「今、おたくの旦那の会社の前からかけてるんだぜ」  乾いた笑い声が、そのたび受話器の底に残った。  一週間めのけさになって、一枚のはがきが舞いこんだのは、どういう偶然であろう。 [#ここから3字下げ]   (電話専門)特別融資のおすすめ お宅の電話で12万円迄即日融資致します。利息は30日3分。返済は長期でも結構です。詳細は電話でお聞合せ下さい。 [#ここで字下げ終わり]  12万円の12だけが赤鉛筆で書き入れてあった。帝国信用という会社名も不安だったが、おずおずと電話してみると、実印と印鑑証明を二通、それに三文判を持ってきてくれればいいという。 「あの、あたくし、保証人なんてないんですけど」 「かまいませんよ。お待ちしています」  市役所へ寄って印鑑証明をとり、エレベーターもないビルの五階へ階段を登ってゆくときが、いちばんみじめだった。主任だという男が出てきて、はがきを見ながら、いまは相場がさがって十一万円しかお貸しできませんねという。 「でも、あたくし、どうしても十万円いるんです」 「それは大丈夫でしょう」  手もとに紙を引寄せて、翌月の何日までの利息が三分で三千三百円、質権設定費が四百円、組合の何とかがいくらと、結局、天引き七千円で十万三千円がお手許へゆきますが、よろしいですか、ただし利息は翌月から五分の五千五百円になりますというのだが、啓子にしてみれば否も応もなかった。それでは、と、主任なる男はほくそ笑んだようにいい、ちょっと実印を拝借、というが早いか、取り出した書類に片端からぺたぺたと捺しはじめた。  印鑑票が三通、買戻特約付電話加入権譲渡契約書が正副二通、名義変更の委任状、委任状承諾書、連帯借用証書、金員借用並質権設定契約証書、電話加入権質権譲渡承認請求書、同じく質登録請求書、それに約束手形から受取まで一息に捺し終って、ひとつひとつの説明をやり出したが、もう啓子にはどうでもいいことだった。三文判は、でたらめな兄の名を書いてそこに捺した。 「あの、お金はいついただけるんでしょう」 「それはこれから電話局へ行って質権設定の手続きをいたしますから、そのあとでお宅へお届けします」  主任はチラと憐れむような表情を浮かべた。少なくとも啓子にはそう思えたのだった。  欺されるんじゃないかしら、やらずぶったくりというように、電話と利子だけ取り上げて、お金なんて持ってこないかも知れないという不安に苛まれたあげく、ようやくの思いで一万円札を十枚、無事に受取って、それはいま啓子のハンドバッグの中にある。だが、もう啓子は、誰があんな男に渡すものかという気になっていた。これは見せ金。安心させてもう一度寝るふりをして、その上で、と、今日の午後から大いそぎで立てた殺しの計画をひとつひとつ点検し出すと、まず遺漏はないらしい。  夫は出張で留守だが、一応のアリバイ工作はしておいた。男に飲ませる薬は、夫の仕事の性質上、お手のものだし、何より有利なのは、これから訪ねようとする男が、出入りの自由な離れの一間を借りていて、どんなお客が来たのか見咎められる心配のないことだった。母屋の老夫婦が男の死に気づくのは三日も経ってからのことだろう。ただひとつ不安なのは、男が強請の相手、つまり啓子の名を、友人か情婦にでも話していないかということだが、啓子のカンでは、具体的に誰とまでは口に出さないのが、こういう場合の通例らしい。日記をつけているとも思えないが、書き残したものがないか、おちついて点検しなくちゃ。この手袋をこうはめて……。  この計画は成功するだろう。啓子がにんまり笑って下うつむいたとき、そのすぐうしろの席で物思いに耽っていた青年が、薄気味わるい笑い方をして顔をあげた。井川章次という大学生で、昼間のほうはろくに出席しないくせに、この春から思い立って通い出した、いまはやりのコンピューター学院の夜学には休みなく顔を出し、いまもその帰りなのであった。もっとも、彼の本当のお目当ては、プログラマーになりたいとか、就職のときの条件を有利にしようとかいうことではない。八十人ほどいるクラスに僅か三人もかいない女性のうちの一人と顔を合わせるだけが楽しみなのであった。聡明な顔立ちに、肩まで垂らした髪の似合う女の子で、入学式のとき口をきいてからずっと隣に坐って、これまで結構楽しくやってきた。それが、夏休みの前から郷里へ帰るといって姿を消し、そのまま九月の新学期にも出てこない。段々と事情を聞いて廻っているうち、意外なことを耳にした。コンピューター学院の講師で、いかにも秀才らしい冷酷な顔つきをした奴と前から出来ていて、妊娠したあげくに棄てられたというのである。  その講師は、たしかに初めから虫が好かない奴だった。早口でまくし立てる講義も、ひどく癖のあるもので、例えばコボルの上限下限ひとつについても、 「何ケタかというのはリシーヴィングできめてくれ、ただしヴァリューは何かといえば|0《ゼロ》とか|△《スペース》でなく、上限はワンメモリーロケーションでできる最高の値にしてくれ、従って8進数77といえば、バイナリーでいえば6ビット分が全部1ということです」  などと喋られても、もともと法律や政治の本にしかなじんでいない頭には、さっぱり何のことだか判らない。それが九月の新学期になって、コボルの入出力の動詞関係になると、いっそういけなかった。 「クローズを書いておけば、トレーラレーブルはもう全部やってくれるわけで、ウイズロックと書けばまずリワインドをしてバックスペースをするわけです。レディじゃなくチェック状態になる、判りますね」  この講師の頭には、日常意のままに使っているコンピューターの細部までが具体的にあるのだろうが、井川章次にとってコンピューターというものは、ただテープがくるくる廻っている巨大な機械というイメージしかないのだから、理解のしようがない。この男は大企業のエリート社員だということだが、こんな連中がこんな言葉で喋り散らす未来というものは、章次にとって反吐のでるくらい無気味な反ユートピヤに思えた。しかもその男が、あの純情な乙女を凌辱したのだという。手を廻して調べたあげく、ついに彼女の郷里まで行って事実を確かめると、章次はすぐ決心した。いま、このバスに乗っているのは、その講師の自宅へ乗りこんで、最後の対決をするつもりなのであった。  恋と革命に生きよう、というのが、章次のひそかな決意だったが、せっかく恋らしいものが実りかかったところで、その芽はあっさりと摘みとられた。革命のほうは、たびたびの学生運動で、火焔びんを通じてその一端を経験したが、こうしてコンピューター学院に通っているのも、ただそれのもたらす輝かしい未来に触れようと思ったからなのに、実際はわけの判らぬ講義の連続にすぎない。しかもその難解な講義を、クラスに十人ほどいる自衛隊員はこともなく受入れているらしく、ときどき出される問題もすぐ出ていって正解してみせるのが、章次にはいっそう容易ならぬ事態に思われた。コンピューターがただ資本家の走狗と軍国主義の若き担い手を結びつけるためにだけ動くものならば、いさざよく爆破してしまったほうがいい。今夜おれがあの講師の股間めがけて投げつけようとするこの火焔びんは、と章次は膝の上の鞄を押えた。まさにそのための第一弾なのだ。法廷でおれは堂々と訴え、暗黒の未来の恐ろしさを説こう。おれのしようとしていることは、恋の恨みなどというちっぽけな、個人的なことではない。このプランは完遂させねばならぬ。章次はもう一度、いとおしむように膝の鞄へ眼を落した。  バスは瞼しい山道にかかった。その振動でびっくりしたように顔をあげたのは、いちばん奥の席に手をつないで坐っている、幼い兄妹であった。固く唇を結んだ顔は|凛々《りり》しいといってもいいくらいで、澄んだ眼には、哀しいまでの決意が浮かんでいた。  |宇田《うだ》まさるに|葉子《ようこ》というこの二人は、きょう�町の小母さん�のところに遊びに行って帰るところだった。この小母さんというのは、パパの遠い親戚に当るとかで、ほんとならあたしがふたありのお母さんになる筈だったのよと、いつか冗談めかしていったことがある。それがどんな意味かはよく判らなかったが、幼い兄妹には、あたしが実は本当のお母さんなのといっているように聞えた。ママとほとんど変らないとしだというのに、若々しくて陽気で、パパと一緒にお酒を飲んでいるのを見かけたときは、あんまり美しく艶めかしい眼をしているのに、胸のときめくような思いがしたくらいだった。怒りぽくて口うるさくて、学校のお勉強と塾通いばかりをせき立てるママの代りに、あの小母さんが本当のお母さんだったらどんなにいいだろうというのが、まさると葉子の一致した意見だった。SFにも詳しくて、新しい宇宙のベムが、どんなにさりげない顔をしてぼくたちの周りにいるか、ぞっとするようなお話もたくさん知っていた。ただ近所の人の噂では、パパが近郊きっての大地主で、市街化調整区域に指定されるのをうまいこと外してどうとかしたから、後釜を狙って大変だという悪口めいたことを聞かされたことがあるけれども、もとより二人にはアトガマというのも、�死骸がチョーセイ�に喰いこんだという言葉も、何のことだか判らなかった。  それよりここのところずっと二人を悩ましていたのは、小母さんのことは別にして、どうみてもママが昔どおりの本物のママではないらしいという疑問であった。子どもの週刊誌ではよく見るけれども、宇宙の怪物がママを喰い殺して、そのあとママそっくりに化けているとしか思えない。  放し飼いにして卵を産ませていた鶏を、一羽ずつ平気で首を締めて喰べだしたのもこのごろのことだ。頭が痛いといって寝こんだりすることも昔はなかったし、お薬を飲んで、死んだように眠りこける姿も気味が悪かった。その寝顔を見ると、顔だってずっと頬がこけて、いつも青ざめたいろをし、脂汗みたいなものを額に浮かべている。これは贋物なんだという思いがだんだん強まったころの夜半、こわごわ便所へ行ったとき、まさるは大変なものを見た。それはあまりにも異常な姿だったので、どうしても信じられず、おかげで気を失わなかったくらいのものだった。 「ママが白い着物をきて、髪をふり乱してさ、お庭を歩いていたんだよ。はだしでさ」  妹の葉子は、いきなり両方の耳に指を突っこんで聞くまいとしたが、まさるはひきつったような眼で喋り続けた。 「ママに|角《つの》が生えていたんだ。そして手に金づちを持ってたんだよ。同じところを何べんも何べんも歩いていた。嘘じゃないってば」  翌日、ママとパパとが、藁人形がどうしたというようなことで大喧嘩しているのを聞いたが、まさるにはもう昼間でもママの姿を正面から見ることはできなくなっていた。やっぱり本当は|人鬼《ひとおに》だったんだ。だから平気で鶏の首をしめたりするんだ。夜、きまってうなされるようになった葉子をなだめながら、どうしたって妹だけは守ってやらなくちゃ、とまさるは心に決めた。きょう小母さんを訪ねたのも、さりげなくその方法を聞くためであった。 「ねえ、魔女を退治するのは、どうしたらいいの」  縛りつけて水をたくさん飲ませるとか、火焙りにするとかいう代りに、小母さんはあっさりと、大きな眼を輝かして答えた。 「魔女だって夜は眠るでしょ。そこをそうっと、首に紐か針金をからませてね、えいって引張っちゃうのよ、片っ方の端はベッドに固く|結《ゆわ》えつけといて。思いきって、眼をつぶってやらなくちゃダメよ、力いっぱいに。そうすればすぐ魔女なんて正体をあらわすわ。そしたら魔法がとけて、何もかも元どおりになるのよ。判った?」  その方法を小母さんに聞いたなんて、絶対に誰にもいわない約束をしたけど、当り前だ。妹を守ってやるだけなんだ。ただ最後に、鶏だって首をしめられたらどんなに苦しいか、判ったろうって、ひとことだけいってやろう。それで魔法がとけたら、あとのことはパパがちゃんとしてくれるって小母さんもうけあったし、本物のママだって戻ってくるんだから。きっと、何もかもうまくいくさ。まさるは、うつらうつら眠りかけている妹の顔を優しく覗きこんだ。  江崎みな子は、ひょいと顔をあげて外を見た。道はそろそろ下りになる筈で、家の前につくころだ。ぼんくら亭主は、また折紙に夢中になっているだろう。きょうこそ片をつけなくちゃ。  みな子の経営する美容院が繁昌すればするほど、髪結いの亭主さながら、のらくらするのはまだいいとして、我慢のならないのは、役にも立たない折紙に夢中になり、それもいっぱしの研究家づらで自慢することであった。『嬉遊笑覧』とか『守貞漫稿』、さては『和漢三才図会』から『古事類苑』のたぐいまで、古書展には欠かさず顔を出して買いあつめ、|伊勢《いせ》流や|小笠原《おがさわら》流ののしの折り方はなどと話しかけるのは、黙殺すればすむことだが、夜、寝る前に畳を掃き出そうとすると、いちめんに散らかっている小さな紙屑が、ひとつひとつ、蟹とか蛙とか蝉とかの形に丹念に折ってあるというのが、みな子にはどうしても許せなかった。第一きび[#「きび」に傍点]が悪くって仕方がない。  話し相手がいないので、嫌われるのを承知で知人の誰かれを訪ね歩く。それも折紙の話しかできないので、相手にされる筈もないのに、いっこうこりないらしかった。 「この間もね、ふいにいらしたの。あたしったら応接間にお通しして、それから店へ出ちゃったでしょう。ハッと気がついたのが一時間たってからなのよ。慌てていってみたらお帰りになったあと。それがね、まあテーブルの上いちめんに、よくも折ったと思うくらい鶴だの亀だのお猿さんだのが折ってあって。ごめんなさァい、あたし、どういってお詫びしようかしら」  親しい友人が笑いながらいう言葉に、みな子は強いて笑い返しながら、憤怒と羞恥で体の固くなる思いがしばしばだった。ぼんくらの髪結い亭主でも、せめて粋な遊びをしてくれれば、あたしだって人から後ろ指さされることもない。それを、七つ八つの餓鬼でもあるまいに、折紙だなんて。  この不満は、きょう、かねて狙っていたデパートへの進出が、ただあんな御主人をお持ちではとしか聞こえようのないいい方をされて破談になりかけたことで、ついに爆発した。美容のビルを建てる計画でも、パトロンになりそうな男から、それとなく仄めかされたことがある。 「まだお若くてお美しいのに、よくおやりですなあ」  そういう挨拶も、みな子には皮肉としか思えなかった。片づけてしまえ、と思い出してから日が長いせいか、具体的な実行案はすぐ実った。実際にあった事件から考えついたのだが、友人にやはりやり手な女事業家がいて、このほうはあたしと違って亭主を大事にしない、それどころか男をこしらえて亭主をほっぽり出そうとしている。可哀そうで見ていられないからというふうに切り出すのがみな子の計画であった。 「ちょっとのあいだ、その旦那さんに隠れてて貰おうと思うのよ。そいで、あんたその旦那さんの代りに、私が死ねばお前も幸福になると思うからって遺書を書いてくれない? それが、あんたとその旦那さんとが、偶然おんなじ名前なの。短い走り書きでいいわよ。ね、それをみたら女のほうだって、少しは慌てて反省するでしょ」  なんでもいい、自筆の遺書さえ手に入れてしまえば、あとは毒を飲ませようと崖から突き落とそうと、こちらの勝手だ。どうしたって今夜は、それを書かせてやる。きっとうまくいくだろう。  みな子はふたたび顔をあげた。もうじき家に着くころだ。尾島秀夫と貼り出してある運転手の名が眼に入って、降りますと声をかけようとしたとき、思わず息をのんだ。ハンドルの上に首を垂れて、まるでお祈りでもしているような恰好の運転手に気がついたからである。居眠りしていたのか、それとも理由があって乗客を道づれにしたのか、それは判らない。五人の�|大望《たいもう》ある客人�を乗せたバスは、右にスリップすると、勢いよく宙に浮いて、それから逆落しに崖下へ転落していった。 [#改ページ]    影の舞踏会  十月の、肌寒い日々が訪れた。暗い雨が続いて、それは、骨にまで沁み徹ってゆく氷雨の|季《とき》を思わせながら、まだ幽かに匂いを持っていた。かつて暖かかったもの、生きて、動いていたもの、いまはもう遠い記憶でしかないものへの哀惜を甦らせながら、雨の匂いは、|宇沢洋子《うざわようこ》の周りにも仄かにまつわった。  ——いやだわ、いつから濡れていたのかしら」  立止まった洋子は、手に提げたままだった傘をひろげた。その薄青い翳りに包まれて、洋子の眼はかすかに潤み、唇のはたには、|巫女《みこ》のような微笑が浮かんだ。 [#ここから1字下げ] ——あなたなら、ごぞんじでいらっしゃるわね。でも、わたしが当ててみましょうか。この雨の匂いは、あの仔犬たちの匂いと同じなの」 [#ここで字下げ終わり]  それは、もう記憶の沼の底深くに沈んで、濃い霜の立ち|罩《こ》めた夜としか覚えはなかったのだが、そこだけが明るい犬屋の店の前で、ふたりはどちらからともなく足を留めた。|木島勝男《きじまかつお》は、僧院にこそふさわしい黒の学生服のまま、硝子に額を捺しつけるようにして、仔犬たちの戯れに見入っていた。あたりには濃い獣の臭いが漂い、洋子は、所在なさに、何べんか訴えるような眼で勝男の横顔を見上げたが、その若々しい鼻梁は、夜の灯に滑らかに映えるばかりで、動こうともしない。硝子張りの小さな檻の中では、仔犬たちが寒さに体を寄せ合い、けんめいに眠ろうとしているのだが、潜りそこねた二、三匹が、ところかまわず上に乗ってくるので、騒ぎは、いつまでも鎮まらないのだった。  犬屋は、まるで花舗のように、豪奢な、眩ゆい光を舗道にあふれさせていた。道を行く人びとは、突然に靄の中からあらわれて次々に足をとめ、また、じきに離れて靄の中へ紛れ去った。街灯は淡いオレンジのいろに滲んで、暈に包まれたまま連なり、その向うには今夜だけの、奇妙な、得体の知れぬ闇の儀式が待ち受けているように思えた。 [#ここから1字下げ] ——あなたは、あの仔犬の|温《ぬく》みを欲しがっていらしたのね」 [#ここで字下げ終わり]  洋子は、ようやく鮮明になってきたその記憶を、いとおしむように反芻した。 [#ここから1字下げ] ——掌を当てただけで、激しく伝わってくる稚い動悸と、まろやかな毛の触りごこち。あの、生命そのもののような温みを腕の中に抱えていたいと、そればかりを考え、息をつめて見守っていらした。尿の沁みた藁の上で眠りこんでいる仔犬たちを、わたしは憎んだ。それは、わたしにも差上げられた筈のもので、もしあなたの掌がわたしの胸に伸ばされさえすれば、そこで同じに息づき、喘いでいたのに、わたしからは決して受取ろうとされない何かが、あの小動物たちにあるとでもいうのかしら。まさか、それとも…」 [#ここで字下げ終わり]  名づけようもないほど幽かに心の奥に兆した思いは、不安というにはあまりにも軽やかなものだったが、洋子はぜひそれを確かめたいと念じた。自分の齢が一廻りも上だという思いではない。若すぎる女に、勝男が何の興味も持たぬことはよく判っていたし、フラール・ヌーボーと名づけた、寒冷紗や|絖《ぬめ》を新しい感覚でデザインする洋子の仕事は、雑誌やテレビばかりではない、数多い女性教室でも、暇をもてあます夫人たちに囲まれて、ゆるぎはなかった。この夏には、火山の麓にひろがる高原の別荘地に、瀟洒な山荘も建てたほどで、もとより月々の収入は、勝男ほどの年齢の、蒸発させるというほかに評しようのない金の使い方を補って充分だったし、手渡し、受取るときの手つきを、縦、横、斜めというふうに眺め返してもごく自然で、その限りでは姉と弟のようにうまく続いていた。 [#ここから1字下げ] ——子供っぽい、ほんとうに子供っぽいひとなんだから」 [#ここで字下げ終わり]  犬屋の前を離れさせることを諦めて、洋子はそんなふうに自分にいいきかせ、強いて微笑もうとしたが、昼日なか、虻の群が立てる細かい顫音のような軽い不安は、変らずに残って、追い払おうとすると、それはたちまち縺れ合いながら、いっせいに空へのぼり始めた。そして、そのあとに、不安の正体は初めて姿をあらわしたのである。  それは、ひどく奇妙な発見だったが、勝男は決して仔犬たちを見守っているのではなく、何か別なものに心を奪われているということであった。その眼は確かに、奥行のない犬屋の店の中に注がれていた。しかし、その空間には、裸電球がいくつか輝き、若い男がひとり退屈そうに店番をしているだけで、勝男の凝視を誘うようなものは何もない。いったい、この人は、何をそんなに見つめているんだろう。洋子はそういぶかしんで、何べんもその視線を追ってみたが、間違いはなかった。勝男は、何もない空間に気をとられて、こんなにも熱っぽいまばたきをくり返しているのだ。  その発見は、いかにも無気味だったので、ひどく洋子を怯えさせた。本当にそこには何もないのか。自分が気づこうとしないのは、気づきたくないからではないのか。そう胸の裡で問いつめてゆくうち、洋子には、もうひとつの新しい疑惑が生れた。この不安は、決して今日だけの経験ではないことに思い到ったのである。  それは、つい一と月ほど前の、初秋の暗い昼なかのことで、そのときにも同じ覚えがあった。曇り日の街はそのまま音を失い、幅ひろい裏通りを歩きながら、ふいに誰もいなくなったような気がしてふり返ると、勝男は、それまでそこにあるとも気づかなかった一軒のビリヤード店の前で立ちどまり、はにかんだ笑いを見せているのであった。子供が新しい玩具を見つけた時のようなそのそぶりは、ちょっとの間、この店に寄ってゆこうという意味に違いない。  ——あなた、お出来になるの」  洋子も、同じように声には出さず、足をとめて訊き返したが、彼はもう先に立って、その暗い店の中に入ってしまっていた。  ビリヤードというのは、いくぶん上品な男の遊び、というぐらいの、漠然とした気持しかなかったのだが、小さな|城館《シャトオ》めく入口の構えもよかったし、何よりそれが魔法の店のように突然出現したことがおもしろくて、洋子もあとに続いた。かりにあとで洋子が、ひとりでこの店を探し廻ったとしても、おそらく決して見つからないだろうとさえ思われた。  しんかんと静まった店の中には、濃いグリーンの羅紗を張った大きな台が、三つ並んで横たわっていた。ひどく古めかしい木彫り模様が刻みこまれているその台は、まるで前世紀の巨大な獣が、長い眠りについたままそこに|蹲《うずく》まっているように見えた。窓べりの一台には、磨かれて光沢のいい紅と目の玉が散らばり、店の|主《あるじ》らしい若い男が、キューを手にひとりで黙々と突いていたが、二人が入ってゆくと、じきに顔をあげて、軽いこなしをみせた。  ——いらっしゃいまし」  そして、お茶だけは運んできたけれども、洋子のほうは初めから無視したように、こう勝男にいった。  ——おいくつ、おつきになります」  それに何と答えたかは、記憶にない。勝男はすぐ上衣を脱ぎ、壁際に並んで立てかけられたキューのうちから一本を選ぶと、その見知らぬ男と玉を突きはじめた。洋子は、諦めた思いで隅の革椅子に腰をおろすと、足を組んだ。  男は、白い仮面をつけたように無表情で、低い、しかしよく透る声で点を取っていた。自分で突くときも、数をいいながら狙いをさだめ、すべてにいんぎんなようすを崩さなかった。玉と玉の触れ合う音が、仄暗い店の中に響き、勝男は、彼にそんな勝負好きなところがあろうとは思ってもみなかったのだが、洋子のいることなどまったく忘れたように、熱心に体を屈め、キューをしごいた。羅紗の上に置く左手はしなやかに|撓《たわ》み、小指は美しく|反《そ》った。  冷えた心のまま、洋子は革椅子に坐り続けていた。眼の前を、二人は影と影のようにもつれ合い、行き交い、台の周りを靴音だけ響かせて廻っていた。生きているのは、羅紗の上を走る玉ばかりで、突き出されるキューの思いのまま、その白い象牙質の玉は、一瞬、体をのけぞらすように鋭い弧を描き、それから、いっさんに赤玉へ走り寄ってゆくのだった。  小さな棘のような苛立ちが洋子を捉えていた。自分勝手な遊びに耽っている男を見るのは、ふだんならばそれほど不愉快なものではなかったであろう。むしろ、寛やかに微笑して、砂場遊びに幼児を連れてきた保母のように待っていてやることも、あるいはたやすかった筈だが、革椅子の上で洋子の心に刺さったのは、彼らの左手の指の、あまりな美しさであった。  代る代る台の上におかれる白い指は、そのとき洋子には通じない黙契を果しているらしい。何かの暗号めいたもの、男たちの間でだけ通じる約束のようなもの。洋子は、ひとり自分の掌を打返して眺めながら、その暗号を知らぬ空しい指たちを憐れんだ。そればかりではない、仮面のように動かないと見えた男の口のはたには、ときどき皮肉めいた笑いが浮かんで、そのたびかすかな皺が鼻に寄ることに洋子は気がついていた。勝男が玉を取りそこねたときに限って浮かぶその笑いは、しかし嘲笑というのではなく、何事かの了解の合図のように思えた。  指と微笑。革椅子の上で、洋子は体を固くした。そのふたつが、肯き合うように取引されるのを見るのは、今日が初めてではないことに気がついたからである。こことよく似たところで、たしかに同じ経験をした、それもついこの間のことだ。苦い記憶が舌の上にのぼりはじめた。こことよく似たところ。それは、ここよりもいっそう暗く、さらに古めかしい科学博物館の中でだった。天井が高く、夏の盛りにも冷え冷えとして人の気配がないそこは、いま思えばいかにもビリヤードに似ていた。古風で、いくぶん上品めいていて、興味のない者にはやはり退屈な、別の小世界。二階、三階と昇ってゆくにつれ、靴音だけの静けさがいよいよ迫ってくる。  部屋は、どの部屋にも、しらじらとした硝子ばかりが光っていた。その中で薄くほこりをかぶっている鳥や獣たちの剥製を、勝男はゆっくりと見て廻った。いや、そのときも彼は、ただ見て廻るふりだけをしていたに違いない。というのは、その三階で、それまでどこにいたとも思えない人影が、急に近づいてきたからである。壁から湧いて出たという形容をそのままに、男は、足音も立てず、気配も感じさせずにあらわれ、勝男をみると、さもおどろいたように挨拶した。いかにも久闊を叙すといった顔で、ありふれた世間話を交し出す二人の傍らを、洋子はさりげなく離れた。  鼻のわきに目立って大きな|黒子《ほくろ》のある中年紳士で、半白の髪に櫛目の行きとどいた、さしあたり叔父さんとでもいう恰好だが、そんな人物とのつき合いを、勝男はこれまで一度も語ったことはない。二人は、いまここで、まったく偶然に行き合ったようなそぶりでいるが、初めから示し合せ、待ち合せていたことに疑いはない。というのは、洋子はわざと二人に背を向け、硝子ケースの中の、茶いろい硝子玉を眼に嵌めこんだ剥製の鳥を、余念なく眺めているふりをしていたのだが、その硝子ケースには、二人が寄り添って話をしている、もうひとつ別の硝子ケースが映っていて、二人の薬指が交互にそれに触れ、規則正しい|軽打《タベ》をくり返しているのに気づいたからである。  影の世界の、奇妙な合図。おそらく二人が口にしている会話のほうは、誰に聞かれてもいい変哲もないもので、たとえ洋子が傍にいたとしても、差支えなかったに違いない。いったい、何のために彼らは、スパイの秘密通信か、一と昔も前の党員のレポのような方法で連絡を取り合っているのだろう。その意図を考えると、洋子はみぶるいした。一度だけその意図をおぼろげに察した記憶が頭を掠めたからだった。いやだ、思い出したくない、とでもいうように、洋子は固く眼を瞑った。しかし、もうそれは、扉いちまい向うにいるというほどに近づいていて、いまにもその異様な貌をのぞかせるまでに迫っていた。もう一度眼をひらいて、ふだんに変らぬ後ろ肩を見せている勝男を硝子ケースの中に眺めた洋子は、そのとき、ふいに色のない焔が燃えあがりでもしたように、はっきりと彼を憎んだ。白昼の光の中でともされた、一本の蝋燭。眼にみえないその焔の舌は、洋子の心のはしをほんのかけらほど焼き、小さく爛れさせ、そしてたちまち全部にひろがった。それとともに洋子は、固く心に封じこめていた最後の記憶を甦らせたのだった。  この夏、火山の麓に設けた新しい山荘で、洋子は初めて勝男とベッドを倶にした。もともとその山荘も、ただ彼と、めくるめく夏を過すために建てたものだが、期待はすべて裏切られ、洋子に与えられたのは、苦い屈辱にすぎなかった。ベッドの上で、青年の裸身は、申し分のない逞しさを見せていながら、ついに一度も燃えることはなかったのである。  閉された窓の向う、漆黒の闇に塗りこめられた彼方に火山は姿を消したが、いわばその化身としての青年が洋子の傍らに横たわっていた。洋子はそのとどろきを待った。耳許に熱っぽく吹きつける噴煙を焦がれた。だがそれはいつまで経っても鳴動しない。じれったくなった洋子は、その繊い指をふるわせ、赤茶けた|山巓《さんてん》のガレを自分から辿った。右手はあわただしく左手を求め、どんな岩肌をも優しく愛撫した。洋子はいま、この火山に仕える巫女であり、やがて噴きあげる灼熱の熔岩に、他愛なくとろけ果てる筈であった。しかし、見かけだけ完壁をきわめた青年の裸身が、その内部にまったく火を持たず、ただの死灰にすぎないことを知るのは、それほど時間のかかることではなかった。  信じられない、という気持で、洋子は男の顔をのぞきこんだのだが、そのとき、まさに見たのである。男のほうも洋子を見返していた。そしてその眼にあるのは、何でこんなことをするのかという、非難とも、嫌悪ともつかぬ問いであった。不能者ではない不能者。初めから男女の営みというものを理解出来ないでいる、奇妙な生物がそこに寝ていた。それはむろん勝男の筈はない。ただいつのまにか勝男の肉体を藉りた、未知の宇宙生物にほかならなかった。  ………………………………………………  再び、あたりいちめんにまつわる淡い雨の匂いに気づいて、洋子は歩みをとめた。  逆行する記憶。愛だとばかり錯覚していた信頼が最初にあった。そこにかすかな疑いが兆し不安が芽生え、それは怖れから憎悪に変った。とすれば、その果てにあるのは、当然『死』でなければならぬ。記憶はさかのぼって行止まりとなり、行為はそこから始まったわけだが、そんなことは、時計の針が左廻りに戻ってゆくのを見るように、いま洋子の心の中では、何の矛盾もなかった。洋子はもう三か月も前に、この奇妙な宇宙生物のひとりを自分の手で始末したことを、まったく忘れていたのである。  それにしても、いつから彼らはこの地球に侵入してきたのであろう。それも、男の肉体にだけ寄生し、陰微な眼くばせと指先の合図で交信し合って、いつの間にかこの地上に、女を除いた、男たちばかりの、影のような舞踏会を開こうとしているらしい。彼らの通信法は、博物館の白い指の動きでもそれと察しがついたが、一種のモールス符号めいたもので、とすればあの犬屋の店先でも、勝男は何もない空間を見つめていたわけではない。わたしは強いてそれに気づくまいとしたけれども、やはりあの店の奥に、退屈そうな見せかけで腰をかけていた仲間のひとりに、まばたきで信号を送っていたのだ。おそろしいことだが、その内容は、ここにいるこの連れの女、彼らの生存にとってはひどく邪魔なわたしを始末する相談だったに違いない。  とすると、あのビリヤードでは、どんな方法で具体的な通信ができたのだろうか。初めは台の上におく左手の美しさに見とれて、あれが何かの黙契だとばかり思っていたが、そんな単純なことではないらしい。なぜあの店の男が、ときどき鼻に皺を寄せて笑っていたのか、それが判りさえすれば。たちまち洋子の眼前には、緑の羅紗の上に散らばった紅白の玉が鮮かに|顕《た》った。そう、たしかあの男は、「おいくつおつきになります」といった。そして、手球が白赤に当ると二点、赤赤に当ると三点というふうに数えていたけれども、もしかしてそれが、モールス符号の短と長のようにおきかえられるとすれば、そして字と字の切れ目では、構える仕草にちょっと間をおきさえすれば、どんな会話でも可能なことにならないだろうか。  それに違いはない。二人はこのわたしの眼の前でゲームをしているように見せながら、その実、わたしを消す相談をしていたのだ。あの男の奇妙な微笑は、まさにその意味だった以上、もうぐずぐずしてはいられない。彼らは示し合せて、すぐにもわたしを掴まえにくるだろう。女をすべて抹殺して、男たちだけの倖せな地上を作るために。……  洋子の推察は当っていた。さっきから見え隠れにあとをつけていた二つの黒い影が、そのとき急に走り寄って、左右から腕をつかまえ、つづいて野太い声がこういった。 「宇沢洋子だね。木島勝男殺害容疑で逮捕する」        ∴ 「いやあ、てこずるなあ、あのアマには。完全にいかれてますよ、主任」  若い刑事は調室から戻ってくると、|店屋《てんや》物の丼の上に顔を伏せている警部へ、呆れ返ったようにいった。 「ヒンマガリのメンチリが若い男にいれあげたら、これがあいにくのホモで、女はお呼びじゃない。いいくらいに金を絞るだけなんでカッとなって|殺《や》ったってことは、友人たちの証言で判りきっているんだが、どうしても認めようとしないんですからね。宇宙人が侵入して、玉を突きながら秘密の通信をしただなんて、いやはや、近ごろは女までSFぐるいなんだから恐れいるよ。三か月も腐爛死体をおっ放っといて、いい度胸だァ。冬の前には山荘の管理人が水道をとめに入るのを知らなかったんだろうが、それも認めない。つい先月も一緒に犬屋の前を散歩した記憶があるの一点ばりで、男がホモだてえのが、よっぽどショックだったんでしょうねェ、可哀そうに」  それから、ふっと鼻に皺を寄せて笑った。 「われわれのこともグルだってきかないんですよ。なんでもあたしはどっかのビリヤードにいて、ガイシャと玉を突いたことがあるてえんで」 「わしも同じことをいわれたよ」  警部はようやく井から顔をあげた。 「わしとは博物館で会ったそうだ。が、しかし……」  鼻のわきの大きな黒子へやった手を、いつもの癖でテーブルの上において|軽打《タベ》しながら、警部は遠い記憶を探るような、奇妙な微笑を洩らした。 「そういわれてみると、たしかにどこかで見かけた気がしないでもないな」 [#改ページ]    黒闇天女  堅く嵌めこまれた窓は、初冬の曇り空を直線に|截《き》った。その向うには数本の銀杏樹が黄色い炎をあげているばかりで、戸外にも室内にも、動くものは何もない。大理石のマントルピースに白熊の毛皮、農耕図を織り出したタペストリーに黒壇の大時計という調度は、格式張ってはいるが俗なもので、|星川《ほしかわ》家の昔を知っている|伊沢《いざわ》には、いまさらのことながら|為親《ためちか》がこの家にいたころの趣味のよさが懐かしまれた。  伊沢の父がこの家の主治医をしていたのは戦前までのことだが、そのころの星川家は、分家とはいいながら堂上方の血をひく由緒のあるもので、従兄弟にあたる本家の子爵は、大正の初めごろだかに、さる宮妃のペイジボーイをつとめたという。為親自身も赤ん坊のような皮膚をしてい、そう思ってみると、いかにも、縁飾りのついた紺ビロードの上衣や半ズボン、白い長沓下といういでたちで、官妃の裳裾を捧げ持つのが似合いそうな、貴公子のふぜいを残していた。  敗戦後いち早く爵位を返上した本家の没落はとめどもないものだったが、星川家のほうも、為親にとっては継母に当る|綾子《あやこ》|刀自《とじ》が坐り直さなければ、たぶん同じ運命を辿っていたことであろう。おそろしく利財の才に長けたこの女性は、公卿の末裔という|権高《けんだか》な美貌と態度を逆手にとって、戦前にもました資産を蓄えるのに成功したが、その代り為親と嫡男の|為弘《ためひろ》とは、疎開のため建てた|茅《ち》ヶ|崎《さき》の別邸に追いやられ、かつがつの手当をあてがわれて、不如意な親子ぐらしを続けている。もっとも、唯一の孫の為弘にだけは刀自も格別の愛着があって、伊沢を使者に何度か本宅へ呼び戻す工作が行われたが、そのたび、お祖母ちゃまは好きだけれどもという返事が届いた。伊沢にしても、明治・大正から続いているこの一家の確執を解くすべはなかったのである。  万事に荘重めかしたことの好きな綾子刀自は、広い客間を客との応接のためではなく、勿体ぶって客を待たせるために用いてきたが、今日は違っていた。いつもなら五つ紋のお召羽織か古風な被布を着こみ、冷厳な横顔を見せているひとが、ひどく怯えたようすで伊沢の前に腰をおろしている。もう八十歳近いというのに、最近の医師の診断では多少心臓と眼に衰えが来ているだけで、あと十年や十五年は息災に過されるでしょうと受け合ったくらいの、体も達者なら頭もいっそう冴えている刀自が、今朝あわただしく電話をかけてきた。得体の知れない品物が次つぎと届けられるので、すぐに来て謎ときをして欲しいということだったが、駆けつけてみて愕かされたのは、それらの品が茅ヶ崎にいる為弘からの贈り物だという点にあった。伊沢は、医師の業は継がなかったものの、史学研究所に籍をおく学究、というよりは雑学の徒なので、有職故実に明るく、まだ独身というせいもあって何かと重宝がられ、父の死後もよく星川家へ出入りしていたし、茅ヶ崎の別邸ではまた、為弘と撞球室に籠って、小半日、フランス大理石の玉台を囲んで過すというふうだったから、綾子刀自にしても、まず第一の相談相手に選んだのであろう。  ところでその贈り物というのは、この九月に最初の品が届き、まる一か月して次のが、そして今日、三つ目の品が来たのだという。それは刀自から見ると、いずれも信じられぬほど悪意と邪心に充ちたもので、口にいえないほど恐ろしい思いをしたとばかり繰返すので、伊沢はいいかげん|焦《じ》れていた。父の為親から何を吹込まれているにしろ、祖母と孫との間で、邪悪と呼ぶに足るほどのものを送りつける筈はないと思うのが常識である。 「それはもう、しんから恐うございました」  刀自は、いま一度その言葉を口にした。白い頬肉がこまかに痙攣し、その瞳は水いろの光を宿して怯えた。 「九月のわたくしの誕生日に、その小さな函が贈られてまいりましたの。為弘は子供の時分には、何かしら自分で見つけては贈り物をいたしてくれましたし、今度はまた、|吉野《よしの》の山奥にまで人をやって探させたという添え書もございましたから、喜んであけてみますと——まあ、何が入っていたとおぼし召す、あの、緑に|金斑《きんぶち》のある、|斑猫《はんみょう》という猛毒の昆虫だったんでございますよ。御存知でいらっしゃいましょう、わたくしどもの幼い時分には、触っただけで死ぬといわれておりましたほどのものを、何で手間暇かけて探したうえに送りつけてまいりましたのか、考えますと無気味で、無気味で……」 「ちょっとお待ち下さいよ」  伊沢は苦笑しながら遮った。 「そりゃしかし、悪意があってというわけじゃありませんでしょう。斑猫という、きれいな虫を掴まえたから、子供らしい気持でお祖母様に見せようという……。なんですよ、為弘君は、お小さいときにいつもなさっていたような、ごく軽い気持で……」 「とんでもございません」  刀自は、あからさまな非難の眼を向けて伊沢の言葉をふり払った。 「四つや五つの子供ならばともかく、あれももう廿三でございます。大学院にも通って、していいことと悪いことの区別は、ちゃんとついておりましょう。なんの、軽い気持でありますものか。ただ、どうしても合点が参りませんのは、為親のような根性曲りの父親と一緒におりますにせよ、あの気立ての優しい為弘が、なんでこんな恐ろしいことを思い立ちましたか、そこのところでございます。斑猫のような毒を送りつけるほどの才覚が、本当にあれひとりの胸から出ましたものかどうか、そこのところを……」 「その虫を、いまでもお持ちですか」 「まさか、あなた。すぐ|菊乃《きくの》に命じて、函ごと庭で燃やさせました。あんな猛毒のありますものを」 「ところが、斑猫は、ちっとも毒じゃないんですよ」 「は?」というふうにふり向けた水いろの眼をそのままに、伊沢は続けた。 「あれでございましょう、為弘君の送ってきましたのは、緑金色の、きれいな色をしておりましたでしょう」 「はい、もう見るからに毒々しい……」 「ですから安心なんですよ。あれは道しるべともいいましてね、山道などで歩いている先を、ふわっと道案内でもするように飛んでみせる、無害な虫ですよ。よく間違えられますが、毒のある方は、ツチハンミョウとかマメハンミョウという、色も黒や黄色の、地味なやつなんです。もっとも、その毒にしたって大したことはない、死ぬどころか、せいぜい軽い水ぶくれが出来るほどで……。あの為弘君が、何で大事なお祖母様にそんなことをしますものか。思いすごしですよ、それは」 「いいえ、気休めをおっしゃっていただかずともよろしゅうございます」  刀自は、かたくなにいいつのった。 「送りつけて参りましたのは、斑猫ばかりではございません。二つ目のものをごらんいただけば、わたくしの申します意味もお判りでしょう」  そういうと手をのばして、卓上のガラスの鈴をとり、いつもの冷厳な顔つきになって、小刻みに鳴らし立てた。 「およびでございますか」  たちまちドアの外に、可憐な声がした。菊乃である。この家の三人の使用人は、戦前さながらの厳格さで躾けられ、決して客間に入ることを許されない。先刻、レモンピールにジャムを添えたロシアティーを運んできたときも、刀自が自ら立って受取りに行くというふうで、菊乃ほどの愛くるしい娘が、いまどき珍しい女中奉公に甘んじているのは、むろん破格な給料にもよることだが、その三人は、いずれも伊沢が探し出し、因果を含めて住み込ませたもので、その点でも伊沢に対する信用は絶大な筈だった。 「あれを持っておいで」  そういっただけですぐ運ばれてきた|畳紙《たとう》包みを、自分でドアの外まで出て持ち帰ると、そそくさとテーブルの上いっぱいに拡げてみせた。  中から現われたのは、おそろしく時代のついた、黒の絵羽織であった。しかもその背から裾にかけては、蝋いろの、幽鬼めいた貌の老婆が、髑髏のついた杖を手に立っている奇怪な図柄が描かれている。さんばら髪に欠けた歯を剥き出しにした表情や、うつろに窪んだ眼窩は、ひどくおどろおどろしたもので、よほど名のある画家の手描きであろう、眺めていると、白昼といっても、八つ手の白い花のこぼれる音さえも聞えてきそうな、初冬の静けさがあらためて迫った。 「為弘が二度目に送って参りましたのが、これでございます。|河鍋《かわなべ》|暁斎《ぎょうさい》の|黒闇女《こくあんにょ》——。はい、わたくしなどが生れます前に描かせたものでございましょう。こちらの|義父《ちち》は大変な粋人でございましたから、明治の昔からこんなものを着て茶屋通いを致しましたにしても、それをいまさら、何のために送ってよこしましたものか、茅ヶ崎の倉の中に、疎開の荷物とともに入っていたという手紙はついておりましたけれども、斑猫に続いて黒闇女の絵羽織を送るというその神経を、どうお考え遊ばします」  畳紙を片寄せながら、綾子刀自はいささか切り口上めいていった。 「御承知でいらっしゃいましょうが、黒闇女と申しますのは、閻魔大王の妃で、いたるところに災いをもたらすと伝えられております。不吉な、凶々しいものを選んで送りつけて参ります為弘は、気が狂ったとしか思えませんけれども、本心は何を考えておりますものか、どうかお気づきのことを腹蔵なくおっしゃっていただきとう存じます」  伊沢は黙って絵羽織を見つめていた。梵名を|迦※[#「木偏+羅」、第4水準2-15-82]羅《かるら》|底哩《とり》という黒闇天女は、|大般《だいはつ》|涅槃経《ねはんぎょう》の南本に説かれているとおり、災禍をもたらす女神に違いない。�或時功徳天来りて福徳を生ぜしめんとせし時、門外に更に一女あり、名を黒闇と称す、形容醜悪にして到る所損亡あらしむることを聞き、利刀を以て之を逐ひ出さんとす、乃ち我姉と共に去らんと告げて二女相伴ひて去りたることを云へり�というのがそのあらましだが、一名を黒夜天ともいって、もともと天部に属しているのだから、いわゆる閻魔大王の妃とするのは俗説で、この絵柄のように髑髏杖を持たせたり、見る目嗅ぐ鼻の策杖を添えたりするのは、後世の十王思想や、|倶生神《ぐしょうじん》の信仰が混同したせいであろう。  といって、いま、癇の昂ぶっている相手にそんな講釈をしたところで、慰めになるとも思えない。何かいわなければという焦りは、しかしそのとき、もう一度ドアの外から、 「お薬の時間でございます」  と声をかけた菊乃によって救われた。  刀自自身の考案になる漢方秘薬で、若さの秘密はこれにあるのかも知れない。蜂蜜をいれた薬湯をゆっくり啜り終えるのを見守っていた伊沢は、ようやく安心したように口をひらいた。 「これだってしかし、考えようによっては、倉の中を整理していたら珍しいものが出てきた、あ、これは|曽《ひい》お祖父様のものだから返しておかなくちゃという気持じゃないんでしょうか」  見えすいた慰めはききたくもないというふうに、相変らずそっぽを向いたままなので、伊沢は仕方なく続けた。 「それにしても、九、十、十一月と、続けて妙なものばかり送りつけてくるというのは、確かにおかしいですな。それで、きょうは何を届けてきたんでしょう」  刀自はもう一度卓上の鈴を鳴らし、最後の贈り物を持ってこさせた。新聞紙に幾重にもくるまれたそれは、ほどくにつれてたちまち紫いろの、特徴のある花の姿を現わした。毒草といっても、これ以上のものはないアコニット——古代でも中世でも、毒殺には欠かすことのできない|鳥兜《とりかぶと》の一束がそこに包まれていた。ことに毒成分の強い根には、丁寧に水苔がからませてあって、送り手の意図はもうそれだけで明らかといえた。 「や、これはヤマトリカブトですな」  伊沢は、何もいわれない先に、自分からいそいで喋り出した。 「これならばぼくもよく知っていますよ。学名は確か Aconitum japonicum (アコニツム・ヤポニクム)という筈ですが、日本ではさる学者が、|妙高《みょうこう》、|日高《ひだか》、|伊吹《いぶき》、|白山《はくさん》なんぞと、産地別にやたら細かく分類してしまったんで、いずれ整理し直さなくちゃならないと聞いています。いまがちょうど花季で、新しい子根を伸ばす時期なんで、ごらん下さい、この根の、これ、この母根のほうを|烏頭《うず》、ここから生えてくる子根のほうを|附子《ぶし》といって、たいへんな猛毒です。そうですな、中に含まれているアコニチンの三ミリから四ミリグラムで、まず人間はお陀仏でしょう」 「そこまでよく御存知でございましたら」  老刀自は皮肉にいった。 「為弘がどういう意図でこれを送って参りましたものか、あれがいま何を考えておりますものか、すっかり御説明いただけましょう。あれほど親しくおつきあいを願っているあなた様が、まさか御存知ない筈もございますまい」 「まんざら知らないこともありませんが」  伊沢は、へんににやにやしながら答えた。 「なんじゃありませんか、為弘君は、お祖母様がいつも漢方薬を煎じて召上っているのを承知していますから、それの足しにとでも思って自分で採集したんでしょう。烏頭や附子はよくお用いになると伺っていますが」 「はぐらかさずにお答えいただきとうございます」  思いもかけぬほど強い調子だった。 「この三つの贈り物が、為弘の胸から出たものではない、周りにそそのかされてしたことだぐらいは、わたくしにも察しのつくことでございます。もともと為親には何ひとつ遺してやる気はございませんから、今夜にでも早速遺言書を書き替えまして、遺留分さえ行かないように手を打ってやりますわ。ただわたくしの知りたいのは、財産のあらかたを譲るつもりでいた為弘までが、ほんの少しでも殺意を持ったのかどうか、そこのところでございますよ。どうもわたくしには、これがたちの悪い冗談だとは思えませんの。為親とも違うシテの軍師がいて、あれこれ指図致しておりますような気がいたしますけれど、お心当りはございませんでしょうかしら」  刀自の口許には、あきらかに揶揄するようないろが浮かんだ。それを眺めていると、なるほど為親が、継母ながらあれは女怪だとつねづね嘆じているのが肯けるように思えた。もう、教えてやってもいいころだろう。 「そのシテの軍師がこのぼくだといったら、お驚きになりますか」 「いいえ、ちっとも」  相手はしかし、眉も動かさずに答えた。 「薄々は察しておりましたもの」 「そうでしたか。すると、このヤマトリカブトの使い方も、お判りいただけたでしょうな」 「さあ、どうでしょうか」  まだ端然と姿勢を崩さずに、刀自は、まっすぐ伊沢の眼を見つめていた。しかし、それももう長いことではない筈だ。 「こういうことなんですよ。これが届いて、あなたが開いてごらんになった。それからいまこうしてぼくが拝見する前に、菊乃がこの根の二、三本を抜いておいた筈です。あの女はいずれぼくと結婚することになっているんでね、まちがいなく仕度はしたでしょう。その根を何に使ったかは、もうお判りですね。さっき召上った薬湯にいつもいれる附子は、わざわざ北海道から取寄せる毒性の少ないものだということは承知していますが、今日だけはそれが違うんです。なあに、これまでずっと召上ってきたんですから、医者も警察も蓄積作用だと思うこってしょう。かりに量を|秤《はか》り違えたといっても、罪にはなりません。呼吸中枢麻痺というのは、あんまり楽な死に方でもありませんが、少しばかり長生きされすぎた報いで、それも仕方ないですな。あなたはいつものとおりお薬を召上った。ただ今日に限って薬草の中に毒の成分が少しばかり多かったという寸法になるんです。おや、お顔が蒼ざめてきましたね。そろそろ効いてきてもいいころだから。……動機ですか、動機は簡単ですよ。今年の八月、敗戦二十五年目っていう日に、茅ヶ崎で三人で相談したんです。戦争が終って四半世紀経つというのに、まだ堂上華族の生き残りめいた姿さんが、何億もの財産を抱えて元気でいるってえのは間違いだろうってね。それも医者の診立てでは、あと十年も十五年も長生きされるそうで、それじゃあ我々の楽しみもそれだけ減るわけですからな。オヤ、お苦しいですか。なに、じきに済みますよ」  だが老刀自が顔を伏せて身をよじっているのは、苦しんでいるのではなかった。それどころか、くっくっと身悶えするほどに笑いこけていたのである。 「わたくしのことより、伊沢さん」  なおも笑い続けながら刀自はいった。それはひどく若やいだ、ほとんど嬌めかしいといってもいいくらいの声だった。 「あなた、口の中が、そろそろ痺れてきやしないこと? ねえ、さっきのロシアティーはいつもよりずうっと苦かったんじゃないかしら。長いこと漢方に親しんできたわたくしが、鳥兜の別名を�継母の毒�だというくらい存じないとお思いでしたら、ずいぶん迂闊じゃありませんか。それに、菊乃がどうとかおっしゃっていたけれど、いまどきの女は男より金を選ぶというふうには考えられないかどうか、さあ、この鈴を鳴らしてお訊きになってみたらいかがでしょう。何を変な顔をなさっているの? ああ、もう舌が縮んで、そろそろ息が出来ないからなのね。大丈夫、じきに済むって御自分でもおっしゃっていたくらいだから」  それは本当だった。咽喉を押えて、すさまじい苦悶の表情をあらわに立上った伊沢をめがけて、そのとき無作法にドアからよろけこんできたのは、御殿女中のように身仕舞した菊乃であった。何を飲んだのか、口のはたには血にまじって茶色い液体が流れ続けた。 「許して、許してちょうだい、伊沢さん。あたくしにはどうしても出来なかったの。どうしてもお薬をすりかえるなんてことは……」  二人は、白熊の毛皮の上に折重なって倒れ、咽喉や脇腹をかきむしりながら、長いあいだのた打ち廻っていたが、やがてすっかり動かなくなったのを見定めると、刀自は、水いろの眼をした黒闇女さながらの表情で立上って、三たび、ガラスの鈴を鳴らした。ドアの外に控えて用向きを伺う二人の女中に、権高にこう命じた。 「不義者を片づけておしまい」 [#改ページ]    地下街  師走の一日、和風の|手妻《てづま》では名の聞えていた|旭日斎《きょくじつさい》|天花《てんか》の引退興行の通知が届いた。そのひとらしく趣向を凝らした|雲母《きらら》引きの案内状を手にしていると、久しい以前に楽屋を訪ねた折りの、濃い白粉の下に塗りこめられた皺ばんだ皮膚と、どこかへ誘われてゆきそうな眼の光とが、ひどく無気味だったことを思い出した。島田髷の娘姿で舞台を通し、日常の立居振舞まで女形のとりなりを崩すまいとするのは、芸人らしいといえばそうだが、間近く見ると、やはり老残の妖しさが先立つ。|高野《こうや》六十|那智《なち》八十といった|妍《なま》めかしさは、まだ若い芸能記者の|米倉《よねくら》にとって、到底理解できることではなかった。  名札のかかった楽屋の玄関で案内を乞うと、若い衆が出てきて膝を折りながら、「ただいま顔をしておりますので、少々お待ちを」といった。だいぶ待たせてから、またその男が、「ただいま通ります」と触れに来た。通りますというのは、何のことだか判らない。新米記者の米倉が、ただまごまごしていると、藤いろの長襦袢をしどけなく着て、二、三人の付人に囲まれながら現われたのは、トイレにでも行くのだろうか、いきなりそこへ三つ指を突くほどの腰のかがめようで、慇懃なこなしを見せながら姿を消した。米倉が部屋へ通されたのは、それが帰ってしばらくしてのことだから、写真一枚を借りに来ただけなのにと、いいかげんじりじりさせられたのだが、楽屋というものも初めてだったし、このひとが舞台では、せいぜいとって二十五、六という、あでやかな娘姿で通すのかという変身の不思議さに魅かれて我慢したのだった。ことにその帰り、奈落を通って客席へ抜ける楽屋廊下は、裸電球だけが点った長い地下道で、そのままどことも知れぬ世界に紛れてゆきそうな迷路に思え、束の間、異次元にさまよいこんだ思いに囚われた。  それから十数年が経つ。米倉はベテランの記者となったが、天花のほうは舞台を退いて久しい。古風な水芸や、切り紙の胡蝶の舞などが現代の色物席で通用する筈はないと思いこんでいたのは、こちらの認識不足で、テレビでも寄席でも出演交渉は後を絶たないが、天花自身が心霊術に凝り出し、どうしても霊界通信のメドがつくまではといい張って、交渉に応じないということだった。噂では任意の相手に催眠術をかけて|憑坐《よりまし》にするというのだが、フーディニほどの奇術師ならば、メスメリズムもネクロマンシイもふさわしいのだろうけれど、手妻使いと心霊科学がどう結びつくのか、それぎり気にもとめないでいたが、その研究がようやく実ったのであろうか、案内状にも大喜利に[#ここから割り注] 玄妙神秘 [#ここで割り注終わり]と|角書《つのがき》して、    降霊術【死者の呼び声】  としてあるのが眼についた。  死者の呼び声。  ふだんならば、それほど気をとめなかった言葉かも知れない。だが、つい半年ほど前に妻をなくしたばかりの米倉には、その一行が妙に心に沁みた。医者にもはっきりとは原因の掴めなかった全身衰弱で、ただ最後まで何事かを訴え続けるように、大きな哀しげな眼が見ひらかれていた。必死に見つめ続けて、ついに見つめ終らぬまま閉じられたその眼は、何をいいかけようとしていたのか、十万億土という言葉がふいに実感を伴って甦るほど、その隔たりの涯しなさは身に応えた。遠くへ去ったもの、二度と手に触れがたいものへの哀惜はあまりに痛切だったので、あり得ないと判ってはいても、死者からの呼びかけがもし可能ならという思いは、期待と怖れとがこもごもに身を責めてくる時期だったせいであろうか、案内状の一行は、思いもかけず米倉に、妻の|香織《かおり》の仄白い貌と、見ひらかれたままの眼とを、ありありと|顕《た》たせたのであった。  引退興行の会場は渋谷の劇場だったが、年末のことだし、久しく舞台を遠ざかっていた天花の名では、入りも知れているという予想を裏切って、花輪も盛大なら、ロビイにもあふれるほどの客がつめかけていた。受付に刺を通じて、第一部のあとの休憩時間に楽屋を訪ねることにし、顔見知りの誰彼と立話をしながら煙草を吸っていた米倉は、そのとき一人の、混血めいた美少女に眼を奪われた。思いきったカットを見せたイブニングは深いベージュだが、その背で軽やかにうねる銀のストールが鮮かな色の対比を見せている。濃い目の化粧は、稚な顔を隠そうとしてのことらしいが、それはかえって清純な初々しさを引立てるのに役立っていた。小学校のときの級長にあんな顔の子がいたなと米倉は思った。 「誰だい、あれゃ」 「ああ、天花の姪だ。御自慢の|娘《こ》だよ」 「やるのかい、これを」  米倉は巧みに吸いかけの煙草を指の間に隠顕させた。 「トリに�死者の呼び声�ってのがあるだろ。それに催眠術師として出る筈だ」  プログラムを繰って、旭日斎|天嬢《てんじょう》という芸名を見てとると、米倉は仲間から離れて、ひとり鉢植えのゴム樹の傍らに立った。こんな凛々しい顔の美少女が催眠術師というのも意外だったが、そうと聞くと、もっとよくその眼を眺めてみたいと思ったのである。それに、会場へ入るなり天嬢に気を取られたのは、必ずしもイブニングのせいではない、初めからすれ違いざまに向うが、あでやかな|盻《なが》し|眼《め》をくれていったからだった。それは芸人らしい媚というより、何かもう少し切実に語りかけるものを持っていた。果して、米倉が独りになったと知ると、天嬢は二度三度と前を行きすぎ、そのたびに黒く深い眸が、眼くばせめいたものを送ってくる。もとより今日が初めての出逢いで、マスカラや口紅に隠された素顔の見当もつかぬにしろ、これまで見かけたことがないのは確かだが、この少女が何事かを伝えたがっていることも、また確からしい。米倉は少年のような好奇心に胸をときめかせたが、そのとき第一部の開幕を告げるベルが鳴った。        ∴  当然裏方へ廻ると思った天嬢は、しかしどうしたことか客席に入って、しかもその席は米倉から少し離れた斜め前なので、折角始まった演技のほうには、さっぱり身が入らなくなった。銀いろのストールの翳から、時おり先程のあの盻し眼が向けられるような気がしたからである。  舞台では、賛助出演の若手が次々に現われて、軽妙なスライハンドを見せていた。ステッキは一閃してハンカチになり、ハンカチは鳩になった。五色のテープや時計やコインがめまぐるしく掌の裡に出没し、白日の幻となって消えてゆくのを見ながら、米倉はいつか回想に耽った。米倉のとしでは、もとより|天一《てんいち》や|天勝《てんしょう》の全盛時代とは無縁だし、二代目天勝が日劇で見せた『魔術の秋』の娯しさも知らない。僅かに戦後帰国した|石田《いしだ》|天海《てんかい》の妙技に花やかな昔を偲ぶくらいのことだったが、そのせいか、仕掛の大きい魔術ショウより、手先の鮮かさだけで見せる小奇術に親しみを感じていた。それもこんな舞台でなく、このごろはさっぱり見かけなくなったけれども、空っ風の吹く駅前などで、うらぶれて客集めをしている街頭の手品師がひどく気に入って、倦かずその傍に立ちつくした。  骨立った指が色鮮かなトランプを扇にひらき、指先の一めぐりでまたこともなく閉じるうちに、そのカードは次第に生き物めいて身をくねらせる。用心しながら、おずおずと客の抜いた一枚は、たちまち束の中から|迫《せ》り上ったり、別の客の上衣の裾から取出されたりする。煙草や銅貨の他愛もない出没は、いずれも種を知って見倦きている筈だのに、それがなぜこんなにも胸をときめかせるのか、米倉はいつも、つとめて無表情に、むしろ冷淡なふうを装いながら、手品師を囲む人垣のうしろに佇むのを好んだ。  一通り客寄せの芸を見せ終って、さて種を売る段になると、集った人々はすぐわらわらと風の中に散ってしまうのだが、そうなったときでも米倉は、帽子の廂をこころもち深く引下げるような気持で、少し離れたところに立止り、手品師のいくぶん哀しそうな表情を|窃《ぬす》み見した。つい、いまのいままで、得意げな微笑を浮かべ、シルクハットに燕尾服さえ似合いそうに颯爽としていたこの男が、いまは何という憐れな、寒々しい様子で立っていることだろう。着ている服もひどく見すぼらしげに、木枯しめいた風の中にひとりぼっちで唇を噛みしめている、これは遠いところから来た旅人だ。そして同時に、他ならぬこの俺なんだ。……  米倉は感傷から醒めた。舞台では白いタキシードの青年奇術師が、きりもない数の白兎を、手を虚空にひらめかすたびに取り出し終って、いまちょうど引込むところだった。プログラムでは、この次が第一部の|切《きり》で、天花お名残の水芸だが、そのときふっと天嬢の立上るのに気づいたからだった。いかにもさりげなく人をわけて、ドアの向うに消えようとする一瞬、美少女の謎めいた微笑が、あきらかに米倉へ向けて残された。  皆と同じように拍手をしながら、米倉もつとめて何気ないふうに立上った。あとはかまわず天嬢の姿を消したドアへ突進した。絨緞を敷きつめたロビイの廊下には人影がなかったが、その外れで、チラとベージュの色が動いたようだった。米倉は小走りに後を追った。突当りがトイレで、天嬢はその右にある扉の中に消えたらしい。勢いこんでそこへ飛びこんだ米倉は、たちまちぐったりと倒れかかってきた天嬢の、引緊った肉の感触を手のうちに受けとめなければならなかった。すぐ眼の前に、喘ぐように小さくあげられた朱唇と、深い怯えを秘めた黒い眸とがあった。その眸は活き活きと動いて、米倉を見つめ続けたが、次の瞬間、天嬢は少年のような身軽さで体をひるがえし、呀と思う間もなく走り去った。 「君」  ふいに腕の中から失われた花束の重さに、米倉はよろけた。眼の前にはなだらかな傾斜で降ってゆく別な廊下が、しんかんと続いている。その外れの曲り角に、銀のストールが吸いこまれた。靴音を響かせて米倉が追ってゆくと、折れ曲った廊下はどこまでも続いて、ただその曲り角ごとに、あたかもチェシャア猫のように謎めいた微笑だけが残されているのだった。廊下はしだいに奈落へ近づいてゆくらしい。初めて天花の楽屋を訪ねたときと同じで、ここは異次元の空間に続いているのかも知れない。未知の地下街がこの先にあって、地上とはまったく別な世界が営まれているのかも知れない。漂うように米倉は走り続けた。  とうとう追いつめた。行き止りになった廊下の外れのドアの前で、天嬢は力つきたらしく、再び米倉の腕の中に抱かれた。気を失ったのだろうか、閉じた瞼は蒼みをおびて痙攣し、細い腰も、少年めいて薄い胸も、すべてぐったりと米倉に預けられていた。柔らかい|項《うなじ》を抱え起すようにして、小さな朱唇へ心をこめたペーゼを捺し続けていると、天嬢は再びくろぐろと濡れた眸を見ひらいた。つくづくというふうに米倉の顔を眺め、それから耳許へ唇を寄せるようにして、こう囁いた。 「あたくしを殺して欲しいの。奥さんと同じように」        ∴  見つめ続ける天嬢の眼は、そのまま妻の香織に変った。それも一瞬で、その奥から二重映しに透けて覗いているのは、まぎれもなく白粉で塗り固められた天花の顔だった。 「待ち給え、君」  それは、声にはならなかった。身をひるがえしてドアの向うに消えた天嬢へのばした手は、ただ銀のストールの端を掴み、それだけが手の中に残った。  ドアをひらいて中に一歩踏みこんだ米倉は、思わず息をのんで立ちつくした。部屋の中には天嬢の生首だけが宙に浮いて、自在に走り廻っていたからだった。天井も壁も床も、窓いちめんのカーテンも、すべて天嬢の着ているイブニングと同じベージュで飾り立てられているせいで、黒幕の前で骸骨のバラバラ踊りを見せる奇術をそのままに、深いベージュの海の中に、天嬢の首と両腕と脚とが、それぞれ別な生物めいて、勝手に揺れ動き、狂い廻っていた。その首は、半ば愛らしく、半ば揶揄するように米倉へ笑いかけ、白い両腕が宙吊りになって手招きするのを呆然と眺めているうちに、それらは急速に一箇所へ集り、たちまちベージュの海の中に吸いこまれて見えなくなった。  その空間へ、米倉は力をこめて体当りした。案の定、そこは隠しドアで、よろけこんだ次の部屋は、まるで殺風景な、がらんどうだった。二、三の椅子と、三本脚の丸テーブルが置かれているだけで、天嬢の姿はどこにもない。姿が消えた一瞬後には、米倉もここへ飛びこんだのだから、向うに見えているもう一つのドアまでは絶対に行きつける筈もないし、どこに隠れる場所もないのに、天嬢はそこで、みごとに消失したのである。  米倉は、うなだれた。「奥さんのように殺して」という囁きが、耳に痛く甦った。身に覚えのないことでありながら、やはりそうだったのかという思いがし、臨終のときまで見つめ続けて見つめ終らなかった香織の眼が、何を訴えようとしたのか、いまようやく理解できる気がしたからであった。とすれば、最後に残った向うのドアは、そのまま刑場につながっていても不思議はない。覚悟をきめて歩み寄ると、ドアをひらいた。それを後ろ手に閉めるとき、しまった、いまの丸テーブルは、サロメの卓といわれる鏡張りのもので、天嬢はあの陰にかくれていたに違いないという思いがチラと頭を掠めたが、それはもうどうでもいいことだった。  強烈な白色光が正面から米倉を捉えた。予期していたように、そこは舞台の真中で、もうそこでは最後の番組の降霊術が始まっていた。口上を述べ立てながら、肩衣姿の天花は米倉の手をとって椅子に腰をおろさせ、一段と声を張りあげた。 「早々のお越し、ありがとう存じまする。さあて、只今申し述べましたる如く、ここにお出でのお客様は正真正銘、さる大新聞の幹部ともいうべき方、お名前はお預り致しますなれど、斯界ではそれと知られた先達の記者先生にござりまする。このお方の口を通じて、いかなる霊が天降りますか、皆様もお待ちかね、早速呼出しにかかりますれば、しばらく御静粛に願い上げ奉ります」  再び天花の、ひどく冷たい手が触れた。しかし米倉は、深い睡気に襲われて、もう頭を上げることも出来なかった。人前で心を裸にされてゆく羞恥心も失せていた。あのロビイで天嬢に催眠術をかけられたんだなということは判ったが、それよりも無辺際の空間を超えて香織が顕われ、その死の真相を語ってくれることのほうが待遠しかった。  重く頭を垂れた米倉の口から、氷の風が吹きぬけるような、きれぎれに甲高い女の声が洩れ始めた。 「わたくし、香織。妻でございます」 「歿くなられた方ですね。いつごろでした」 「半年ほど、前でございます」 「御病気ですか」 「いいえ、殺されたのでございます」 「殺された、誰にです」 「夫に……。ここにいるこの夫に殺されたのでございます」 「どんなふうに」 「…………」 「さあ、どんなふうに殺されたか、おっしゃってごらんなさい」  深い沈黙に包まれた観客席から、突然、一人の男が躍り上った。|濁《だみ》声で怒号した。 「やめろ、たったいまやめるんだ」  立上って叫んでいるのは、まぎれもないもう一人の米倉自身だった。だが奇妙なことに、固唾をのんで沈黙している観客たちや、残忍なまでに眼を輝かせている術者の天花には、腕をふり廻しているその男の姿も声も届かないらしい。舞台の女の声は、ためらいながら続いた。 「少しずつ毒を飲まされましたの。でも、わたくし、それが毒だということを、よく知っておりました。ですから、ちっとも夫を恨んではおりませんわ。いいえ、あんなものを飲ませられるより、ひと思いに夫の手で首をしめられたら、どんなに倖せだったでしょう。わたくし、それがいいたくて、けんめいに眼で合図したのでございますけれど、とうとう判ってもらえませんでした……」  観客席で立上った米倉は、その声をきくと、全身の力が抜けたように、また椅子へ腰をおとした。そうなのだ、医者にさえ理由の判らぬ全身衰弱で、刻々に病み衰えてゆく妻を見守っている間、俺はどんなにかこれが自分の手で企んだ殺人だったらと思い続けたことだろう。眼に見えぬ病魔にむざむざと生命を奪われるのを、手を束ねて眺めているより、そのほうがどれだけ愛の証しになるか知れない。その思いは、香織にもまた伝わった。妻は、朝晩の薬餌を、夫の手から与えられる甘美な毒薬だと錯覚して死んだのだ。それでもやはり、まだ不安で、自分の咽喉をたしかに締めつけてくれる愛の手を欲しがっていたに違いない。見つめ続けて、ついに見つめ終らなかったあの眼の訴えは、全身をふるわせて俺を愛していると叫ぶ代りのものだった。……        ∴  触れこみほどにもなく、ありきたりのサクラを使ったと覚しい降霊術が終りを告げて、場内が一斉に明るくなったとき、半ば昏睡状態でいる一人の中年男が客席で発見された。だが彼の口の周りには、みるからに倖せそうなほほえみが浮かんでいた。それは、心の地下街をへめぐって、ようやく死者の愛を確かめ得た者の、満足しきった表情であった。 [#改ページ]    チッペンデールの寝台      もしくはロココふうな友情について  |白坂《しらさか》|三郎《さぶろう》がニューヨークのクーパーユニオンで家具のデザインを学んだのは、もう十年以上も前のことだが、日本へ帰ってからもいっこう店を持つ気がなく、|上野毛《かみのげ》の工房に引籠ったなりでいるのは、一種の名人気質によるものだろうが、その仕事がおよそ当世風でないこともまた確かなので、ひとつひとつが入念に仕上げられた美術品を創り出すほか、さしあたって関心もないらしい。  もともと彼がめざしていたのは、チッペンデール系統のシノワズリーを現代に生かしたものだったから、一七五四年に出た Gentleman and Cabinet-maker's Director は、いわば彼にとっての聖書なので、アメリカにいた時分、その仕様書どおりに贅を尽して仕上げた寝台は、そのまま分解して日本に送られ、工房の奥に神殿さながらの勿体ぶったようすで飾られていた。こればかりは誰が何をいおうと譲ろうとしない。おそらく白坂にとっては、彼の美しい女房よりも大事なんだろうというくらいのものだった。  だいたい白坂の作品は、|飛騨《ひだ》ものとはまた趣きが違って、猫脚が美しく反った椅子ひとつにしても、材はカナダのマホガニー、表張りは中国産の緞子、詰め物は鴨の胸毛というふうだから、少数の顧客が、おとなしく順番にその仕上りを待つより仕方ないのだが、このごろはそれが|織原《おりはら》|衡平《こうへい》の独占めいてきていた。秋に建てた|下田《しもだ》の別邸は、壁張りから床組みまで、すべて白坂の家具に合せるという念の入れようで、組物のあらかたは仕上って運びこまれたが、あとひとつ、ローボーイふうのキャビネットが遅れているのに|焦《じ》れたものか、織原は何かというと車を駆って、|世田谷《せたがや》の奥まで催促に出向いた。それが近頃では、白坂が旅行で不在と判っているときにも訪れるので、やはりあれは女房を口説くのが半分の目的だろうと噂されていた。  白坂の妻の|未央《みお》は、誰が見ても猫のような美人というのが一致した意見で、歩くときにまるで音を立てない。めったにものをいわない。大きな眼がキャッツアイめいて光り、好んで着ているシナ服の腰のくびれが、いやでも視線をあつめた。中年以上の男には、その服を見ただけで、曲馬団に誘拐された少女とか、身売りされた花売娘とか、|太馬路《タマロ》の闇に咲く妖しい花といった、勝手な空想が湧くものらしい。織原には人の持物なら何でも欲しくなる悪癖があるけれども、金の力を過信しなければいいというのが、友人たちの一致した意見だった。  だが肝心の白坂のほうでは、一度でも嫉妬めいたそぶりを見せたことがない。繊原は有力なパトロンに違いないが、それ以上に自分の芸術のこよない理解者だと信じているらしく、下田の別邸をそのまま白坂美術館にするほどの意気ごみで、壁紙から絨緞までの細かい世話を焼き、織原が訪ねてくるといつまでも引留めて、イタリアへ実習に行ったころの勉強ぶりなどを聞かせた。未央はその間中、繻子の上靴の爪先を揃え、つつましく耳を傾けたり、上手に紅茶を淹れたりした。  例のキャビネット——丈の低い、ひとつだけドロワーズのついた飾り棚が、いよいよ仕上げに入るから、その前にちょっと来て欲しいという電話があったのは、クリスマスもほど近いころのことで、工房に続く庭もすっかりすがれ、樹木がへんにおし黙ったまま立っている、暗い季節だった。 「やあ、すまないなあ。壁の塗り変えをしなくちゃと思ってね。きょうは散らかったままでかんべんしてくれないか」  仕事着のままの白坂に通された工房は、いちめんビニールシートを敷きつめてあって、御自慢の寝台も今日ばかりは天蓋が外され、これもきっちりとビニールに包まれている。仕事の性質上、暖房には手をかけているので、室内は蒸しばむほどだった。 「何をまた思い立ったんだい」  そういいながらスリッパに穿きかえ、いつも坐ると決めている明朝スタイルの木椅子におちつくと、織原はいくぶん不安そうにあたりを見廻した。 「奥さんは?」 「ああ、|鏨《たがね》屋へ行って貰った。キャビネットの把手がね、どうもうまくないんだ。もうじき一緒に帰ってくるよ。紅茶でも淹れようか」 「いいよ、自分でやる」  未央がいないときはいつもするように、出し放しのポットに湯を注いでいる織原へ、仕事の話をし出すときに見せる、楽しい予測をあれこれとめぐらしている微笑を浮かべて、白坂がいった。 「これで今日キャビネットがいいということになりゃ、一通り仕事は終るわけだけど、いいかげん遅れて君にも迷惑をかけたからね、小さいものだけどクリスマスのプレゼントに、鏡を別に作って贈ろうと思うんだが……」 「鏡だって?」  織原は狂喜した声をあげた。 「本当か、おい。オレも実はどうしたって頼みたかったんだけど、こんところずっと君を独占しちゃったもんな。とってもいい出せなかったんだよ、迷惑だと思って」 「迷惑はこっちのことさ。どうも考えてみると、あの部屋も壁掛け鏡がないとしまらない感じだし、君はどっちかといえば純正なロココ派だからな」  鷹揚に笑っている白坂の顔を見ながら、チッ、何というお人好しだと織原は思った。まあ芸術家というのはこうしたものだろうし、オレも相応以上の金を払っているんだから、当り前といえば当り前だと考えながら、ふと白坂が旨そうに飲んでいる、湯気の立つ飲み物に眼をとめた。織原が淹れた紅茶には手をつけず、工房に続くキチネットに立って自分で持ってきたものだが、何の薬草を煎じたのか、爽やかな香りが鼻を|撲《う》った。 「何を飲んでるんだい、今日は」 「これかい」  白坂は、少しはにかんだように笑った。 「天雄散さ。きんぽうげ科の薬草を一時間ほどとろ火で煮てね、それを漉してから今度は蜂蜜をいれて五分ほど煮たものなんだ」 「へえ、何に利くんだい」  返事の代りに白坂は、本当に顔をあからめ、左手をパッとひらいてみせた。 「強精剤か。お安くないな」 「いやあ、恥ずかしい話だけどね」  カップをテーブルにおくと、口を拭いながら、 「ぼくのように坐業を続けていると、てんで衰えるものらしいよ。ところが未央はあのとおりまだ女盛りだろう。いくら何でも気の毒だから……」 「で、そいつは利くのかい」  織原は、はっきり生唾を飲みこみながら尋ねた。 「利くの何のって、利きすぎて困るくらいさ」 「ふうん」  残り少なくなった白坂のカップを、さも羨ましそうに覗きこんでいる織原の顔に、思わず笑い出しながら、 「飲んでみるかい。まだ少しなら残ってるけど」 「ああ、一杯くれ」  こんな男が強精剤を飲んで、未央の美しい腰にまつわりつくくらいなら、オレのほうがよっぽど資格があるというものだろう。もっともオレは、そんなものを飲まなくったって、いつでも未央をのけぞらしてはいるわけだが……。 「なんだ、ばかに甘いんだな」  キチネットに立って持ってきた、沸かしざましらしい湯気をあげている鍋から、とろとろの溶液をカップに注いでもらうと、織原は用心しいしい口をつけていたが、漢方秘薬の強精剤というのが魅力だったのか、とうとう最後まで飲み干してしまった。 「皮肉に聞えたら困るんだが……」  黙ってその口許を見つめていた白坂は、やはりはにかんだようにいった。 「ぼくのように仕事一点張りで、体も弱い男に、よく未央が我慢していると思ってね。その意味では君がときどきあれを楽しましてくれるのは、ほんとうに皮肉でなく、ありがたいと思ってるんだよ」  あくまでも穏かないい方なので、織原は照れたように笑いかけたが、それはうまく笑い顔にならなかった。どこかが痺れかけているような不安が襲った。 「ああ君。口の中が渇いてきたんじゃないのかい。誰でも初めはそうなるっていうよ」  そういいながら白坂は、何のつもりか、ドアのところへ行って鍵をかけている。しかし織原の眼には、それがひどく遠いところの風景のような気がした。  白坂の奴こそ、どうかしたんじゃないのか、と、まだチラとそんなことを考えた、というのは、戻ってくる白坂の姿が、へんに伸び縮みして前後に揺れているように思えたからである。 「あ、立上っちゃダメだよ」  白坂が揺れながらそんなことをいっている。唇と咽喉とがひどく渇いて、織原はなんべんも舌なめずりした。 「耳だけはちゃんと聞えるだろう? 実はね、天雄散をあげてもよかったんだけれど、きんぽうげ科といっても、それに使う薬草は|鳥兜《とりかぶと》という猛毒だから、うっかり処方をまちがえてコロリと死なれちゃ大変だと思って、やめにしたんだよ。判るかい、ぼくの飲んでいたのは、ただの蜂蜜湯に香りと色をつけたものでね、漢方薬なんかじゃなかったのさ」  白坂はまだそんなことをいっていた。織原にはそれが、うっかり彼自身の薬の処方をまちがえたための|囈言《うわごと》のように思えたのだが、それはやはり違っていた。 「何とかして君には、ベラドンナの実を御馳走したかったんだよ。知っているだろう、アトローパ・ベラドンナ。死の女神の花さ。なにしろ君は、どっちかといえば純正なロココ派だからね」  白坂は、一語一語をゆっくり、織原の耳の底へ届くように喋り続けた。 「ところがね、ベラドンナはどうしても手に入らないんで、日本産のハシリドコロで間に合せることにしたのさ。|莨※[#「くさかんむり/宕」、第3水準1-91-03]根《ろうとこん》という根にベラドンナと同じ毒があってね、これを煎じて飲むと気違いみたいに走り廻るからハシリドコロっていうんだ。人ヲシテ狂惑、鬼ヲ見セシムって古い本にも書いてあるから、ここにいてどんなふうになるのか、見ていてあげるよ」  そういうと白坂は、深い吐息をついた。 「さっきもいったけど、君が未央を誘惑したことは、ぼくは何とも思やしないんだ。女房をどうされたって、ぼくは平気さ。だが、君はあの寝台を使ったね、あの聖なる神殿を。あれを汚された以上は、どうしてもぼくには許すわけにはいかないのさ」  そういってチッペンデールの寝台を指さしている白坂の姿が眼に映じたとき、さしも鈍い織原も、自分が何をされたのか、白坂が何を怒っているのか、ようやく理解したのだった。そればかりではない、皮膚に赤斑を浮かべ、瞳孔をひらき放しにして、説明どおり工房の中を狂い廻りながらも、吐き散らす血反吐で、少しでもチッペンデールの寝台を汚さないよう、あらかじめ床いちめんにビニールシートを敷いた白坂の行届いた友情に、かすかな感謝さえ覚えたほどであった。 [#改ページ]    セザーレの悪夢  流薔園の窓という窓を鳴らして、激しい|虎落《もがり》笛が吹き荒れていたのが嘘のように、穏かな正月だった。空いちめん、砥ぎ澄まされた水いろのシーツをたらし、その向うに切り立った氷山が迫りでもしているような季節は早くも遠のいて、春ふたたびの思いに浸れる日も遠くはないらしい。風はまだ少しあるが、それもいずれは|雲雀《ひばり》|東風《ごち》から|貝寄風《かいよせ》という、春の先がけに変ってゆくのであろう。  院長室で、お|屠蘇《とそ》代りのベルモットのグラスを手にしながら、私はつくづくと流薔園主人の顔を眺めていた。五十歳はとうに過ぎている筈だが、頬髯も妙にくろぐろとし、皮膚もまだ光沢を失っていない。ひょっとすると二十代の青年が白衣を着こんで変装しているような気がしてくるのは思いすごしというものだろうが、どことなく精巧をきわめたアンドロイドと向き合っている感じが異様であった。  E・A・ポオの譚になぞらえるまでもない、この院長も患者のひとりで、とうから気が狂っているとするなら——。きょうはひとつ、この院長自身の話を訊き出してやろうという初めからのつもりが、早くも相手に伝わったのか、なかなか誘いにのってこない。ほんぞらと暖かい初春の陽ざしの中で、長い沈黙が続き、私はようやく院長の身許洗いを諦めて、こう訊いた。 「いままで伺ったここの患者たちというのは、だいたい何らかの事件を起した人でしたよね。つまり、みんなある物語の主人公といった形ですが、そうでないケースだって多いわけでしょう? たとえば、どういう理由で発狂したのか、その妄想の原因が皆目判らないといったような」  これまでお伝えしたように、流薔園の住人たちは、継母を黒闇天女の再来だと信じて怯えている老人だとか、あるいは日がな一日、病院内のビリヤード室で紅白の玉を撞いて宇宙人の信号を研究している女性とか、さらには善良な市民たちを道づれにした後悔のあまり、その乗客ひとりひとりが恐るべき殺人者だったと思いこみ、その計画を綿々と訴え続けるバスの運転手とかいうように、何らかの物語がからんでいる場合が多いけれども、妄想というのは本来もっととりとめもないものだから、まとまった話のていをなさないほうが当り前であろう。しかもそれが、必ずしも次元が低いとはいえない筈である。 「それはそうですね」  院長はすぐに肯いた。 「そちらのケースのほうが、ずっと多いでしょう。専門的にいうと、|Wahnwahrnehmung《ヴァーンヴァールネームンク》、妄想知覚には独特の意味づけが必要ですが、|Wahneinfall《ヴァーンアインファール》、妄想着想となると理由なぞいらない。いま、うちにも�苦悶者�と名づけている患者がいますが、これなぞもその一人かも知れません」 「苦悶者ですか」  私は、何となく、へらへら笑った。 「何だか、いつも胸でもかきむしっているような感じですね。GNP第二位の日本が、公害だらけなのに悩んでいるってとこですか」 「うちの患者に、そういう人がいると思いますか」  声は冷静だったが、いつになく険しく院長は私の軽薄さをたしなめた。 「むろん、彼にとっては、どんなことでも身を切られるような痛みに変ってしまうので、いわゆる正常人から見ればつまらない、些細なことでも、とうてい堪えがたいらしいんです。それが発狂の直接の原因だとも思えませんが、つけていた日記の最後を見ると、文房具店なんかで売っている地球儀ですね、あれが金属製でなく、ビニールに変ったことがあるらしくて、もう二度と冷たく青い金属の海が見られもしなければ手に触れることも出来ないと思いこんでからのことらしい。現在ではプラスチックの詰め物に金属を張ったのがほとんどのようですから、早とちりといえばそうですけれども、何となく判るような気がしませんか」  いかにも、金属の海や半島の代りに、ブヨブヨと頼りなくへこむビニール出来の地球儀しか売られていないということに、激しい絶望を感じて心をとざしてしまうほどのひとがいるならそれは、確かに�苦悶者�と呼ばれるにふさわしいかも知れない。ことに、院長がファイルから取出して見せてくれたその男の日記には、毎日の通勤途上に小暗いピアノ店があって、店の男が舗道の上に黒い|竪《たて》型ピアノを持出し、朝からそれの解体に取りかかっていたことが記されている。昼休みに見ると、それは半ば形を失い、やがて夕方、ピアノは溶け終ったように残骸をさらして、折柄、ほこりっぽい空に遠々と浮かんだアドバルーンを不安に眺めているうち、唐突に地球儀さえビニールに変ってしまったという思いに心を捉われたらしい。そのとき、その男の憂鬱の水甕は、ひたひたと一杯に充たされたものであろう。 「もう、四、五年前でしたか」  私はいくぶん沈んだ口調でいった。 「これとは一緒にならないかも知れないけれど、会社の同僚から二万五千円だかを借りて、道で出逢う人ごとにポケットに金を押しこみ、借金を返すんだから受取ってくれといってきかなかった若い男がいましたね。何て哀しい発狂の仕方だろうと思ったけど、これもただ気が小さいというだけで片付けられてしまうんでしょうか」 「そうでした。新聞にも出ていました」  院長もわずかにほほえんだ。 「罪業妄想も、そのうちだんだんと個人的なものでなく、痛みを忘れた他の人たちの身代りをつとめるケースが多くなるでしょう。しかし、うちにだってなかなか気丈なのもいますよ。これは�水死人�と名づけられていたひとですが、右手を固く握りしめて、決してあけようとしない。なんでも掌の中に白い時間というやつを掴まえたんだそうで、強直したまんま、もう本人の意志でもどうにもならないんですね。白い時間なんていうからには、どうせ何も握りしめていないことは確かですが、てんかんの発作とも違うんで厄介なことになった。ところが、これはうちでも稀れな例ですが、やはり患者のひとりが作った詩のようなものを何度か読んできかせるうち、それがアリババの呪文でも唱えたように、突然利いて、いきなりぱっと掌がひらかれた。本人もまるで憑き物が落ちたような顔でしたが、それぎり癒って退院してゆきましたよ。これがその『水死人』という題の詩ですが」  そういって差出された紙片には、次のような三聨の詩が記されていた。 [#ここから2字下げ] このてのひらをわれはひらく 固き指のひとつひとつ 握りしむる『無』を見んとして 指の間に 抱かるる記憶の相の白き深さ 秘めつつも漂える時の長かりし ことごとく放ち了え 死顔に微笑浮ぶ束の間 遂にこの冒し難き腐肉を離るる魚の群 [#ここで字下げ終わり]  そういうこともあり得るのかどうか、素人には判断のつかぬまま、なるほど、という顔で紙片を眺めている私に、院長は、ベルモットにうっすらと染まった笑顔を向けた。 「こういう連中の話をし出すときりもありませんが、もうひとり、御紹介しておきましょうか。�眠り男�という呼び名で……」 「眠り男? まるで『カリガリ博士』ですね。やはり夢遊病者なんですか」  思わずそう聞き返したのは、とっさにあの古いドイツ映画の、黒タイツに身を固めたコンラット・ファイトの姿体を思い出したからであった。眠り男セザーレが届けられてきたときのカリガリ博士のあの喜びようは、いったい何を現わしていたのだろう。 「いやいや、そんな犯罪に関係のあるような話じゃないんです。インシュリンのショックで昏睡しているわけでもない。むしろ眠ることを極度におそれているんで、�眠り男�というのは、願望と期待をこめた呼び名というわけです。それというのが、眠るたび決まってひどい悪夢に悩まされるからなんですね。私も何とか原因を掴みたいと思って、夢のひとつひとつを克明に記録しているのですが、やっぱり判らない。内臓の精密検査も何回かやりましたが、駄目でした。本人は衰弱する一方で、そのくせ悪夢のほうだけはいよいよ毒々しく色彩が強くなってゆくんですね。まあこれなどは最近の中では比較的おとなしいほうですが」  綴じたファイルごと、そのうちの一ページを開いて渡されたのを見ると、びっしりしたペン字が読みにくいほどに並んで、夢魔にとりつかれた男の苦痛をありのまま伝えてくるようであった。夢のならいで、前後の関連も時間の経過も支離滅裂だが、示された日付のところには、長い長い滑り台の上をゆっくりとすべり降りてゆきながら、紫いろの皮膚をした印度人の首を何とかして絞めようとする執拗な格闘のありさまが、くだくだしいまでに述べられていた。滑り台のうしろには、遠い花火が打上げられ、当人は印度人の首に五色の紙テープを巻きつけて殺そうとするのだが、もとより相手は口から泡を吹くようにして拒み続ける。紫いろの皮膚にも部厚い唇の上にも白い粉が噴き、首にからんだ水いろや赤のテープが異様に美しい。 「むろん当人は日常でも印度人とは縁もゆかりもないんですが、印度大魔術の舞台は見たことがあるといっていました。その影響かも知れないが、しかし本人は、どうもこのところ夢の中の人物と|互《かた》みに夢を見合っているんだといい張り出しましてね。つまりどこかの印度人は印度人で、見も知らぬ日本人から首をしめられる夢を見てる筈だというんです。まるでSF小説みたいな話ですが、そういう妄想もだんだん出てくるかも知れない。……SFの�多次元宇宙もの�というのを御存知ですか。われわれの宇宙にそっくりで、ただどこかしらが微妙に違う宇宙が限りなく並んでいる。ひょっとしたはずみでその一つへまぎれこんでしまうという話ですが、あのジョン・F・ケネディが暗殺されたニュースね、あれは確か六三年の十二月二十三日ですが、あの日の朝刊が同じ十二版で、ひとつにはむろん�ケネディ大統領撃たれて死亡�と特大の見出しで載せ、もうひとつには�池田体制地固め�なんていうだけの国内ニュースをトップに掲げている例があります。これなんか多次元宇宙のいい例じゃありませんか。�ケネディ死亡�というほうを見なかった少数の幸運な人々は、もしかしたらいまでもケネディが健在でいる宇宙に、まだそのまんま住んでいるかも知れませんからね」  たぶん私が妙な顔をしていたせいであろう、院長は気を取り直したように話を変えた。 「まあ、うちはこんな連中ばかりですからね、おとなしくしている間はいいが、いったんちょっとした騒ぎが起ると、もう大変ですよ。去年の春でしたか、ものもあろうに病院で唄がひとつ紛失したって届け出がありましてね。いいえ、楽譜なんかじゃありません、正真正銘の唄、シャンソン、ソング、まあ何でもいい、あの歌う唄ですよ。そんなものがなくなるわけはないけれど、そこが流薔園ですからね、すぐ元刑事と自称する古参の患者が出て来て探偵を始める。廊下に点々と花粉にまみれた痕があって、ここで唄が紛失したに違いないって結論になったんです。あいにくとうちには、元コロラトゥーラの歌手でガリクルチの再来といわれたと思いこんでいる老嬢がいて、まいにちベッドの上で舞台衣裳を脱いだり着たりしているから、これが真先に疑われて、元刑事の探訪を受けた。毛布にくるまって眼玉ばかり大きくして、そりゃもう大騒ぎでしたが、廊下が花粉にまみれていたと聞くと、元歌手のほうは、とたんにそれなんだわと考えた。花粉のせいなのね、あたしは花粉病だから思うように唄がうたえないんだというので、さめざめと毛布にくるまって泣き出す始末なんです。ああ、その唄がうたえさえしたらと呟くばかりなんで、元刑事もすっかりたじたじになった。するとそこへ真裸の男が廊下を駆け出してくる、後から看護婦だと信じこんでいる女が、長い釣竿を持って追っかけてゆく。これは彼らの儀式なんで、一日一回はこれをやらないとおさまらないんだから仕方がない。たぶん男がお魚のつもりなんでしょう。結局、その唄の紛失騒ぎは、ひとりの少女の患者が皆を集めて、わたしが実はその唄なの、どうかわたしを唄ってちょうだいといって、わっと泣き伏したものだから、めでたく幕になりましたがね、一時はれいの�白人女�や�車椅子�の男まで集まって、いやもう大変でした」  院長の長話を、しかし私は半分も聞いていなかった。�苦悶者�だの�水死人�だの�眠り男�だの、妙な連中の妙な話ばかり聞かされたけれども、やはり一番狂っているのは、他ならぬこの流薔園主人その人ではないか。私には彼が黒マントを羽織って眼鏡をかけた怪人カリガリ博士のような気がしてきた。とすれば、私もまた眠り男セザーレの悪夢を見続けているのだろうか。  何よりの証拠は、ジョン・F・ケネディが暗殺されたなどというでたらめを、平然と述べ立てていることだ。少数の幸運な人々だって? とんでもない、ケネディは、一九七一年のいまだってりっぱに大統領だし、次の選挙でも三選されるだろうことは、ベトナム戦争介入の鮮かな収束ぶりからでも、もう確実だと噂されているくらいだのに。それとも院長にそっと訊いてみようか、それならあなたは、いま誰が大統領だと思っているんですか、と。いや、よそう。まさかそんなこともいうまいが、ひょっとしてニクソンだなどと答えられてはたまらない。ましてそうと聞いたとたん、そちらの宇宙にまぎれこみでもしたら。——  私は|匆々《そうそう》にベルモットのグラスを置き、けげんそうな顔の院長をしりめに流薔園を辞した。 [#改ページ]    蘇るオルフェウス  第一信  昨夜来の雪はいちめん庭面を埋め尽して、陽光にひどく眩しい。尾長の群れは餌を求めて、こんな朝にも賑やかに訪れていますが、その一羽が雪のうえを低く掠めると、その青い尾羽の|翔《かけ》りは、たちまちアトリエの中にも映って、壁に貼ったギュスターヴ・モローの『死せる詩人を運ぶケンタウロス』——あのポスターのおもてに翳を走らせ、女体に紛うほどしろじろとしたオルフェウスの肉身は、そのたまゆらだけ蘇るようです。  オルフェウスの蘇生。この言葉に、貴女は何かしら不安なものを、かすかな怖れの予兆といったものを読みとられはしないでしょうか。  何通かの手紙を貴女に差上げるだけで、ひとつの殺人が可能だと、あの夜のパーティで私が断言したとき、|柚子《ゆうこ》さん、貴女を初め、居合せた皆さんが失笑なさいましたね。貴女と同じようにお美しい姉上の|薔子《しょうこ》さんや、優雅にパイプをくゆらせておいでだったパパの|保造《やすぞう》氏、屈託なげな笑い声をふりまかれる|香菜江《かなえ》伯母さんといった|藤井《ふじい》家の面々、それに若い|牧《まき》君や、|再従姉妹《またいとこ》だという、巫女めいた表情の|椒子《としこ》さん、そう、そのほかにも、あのときちょうどアイスペールに氷を盛って客間へ運んできた婆やの|時《とき》さんまでが、びっくりしたようにしばらく私を——この無躾な、見なれぬ客を見つめていました。皆が皆、そんなことが出来るわけはないというより、一瞬白けかけたその場の空気を、何とか笑いほぐそうと努めていらしたのでしょう。何しろ、私を初めてパーティに連れていった|由良《ゆら》は先に帰ってしまったし、居残った得体の知れない人物が不吉な予言をやり出したというのでは、皆さんの困惑ももっともですが、幸い、若い牧君が何かのゲームだと思いこんだのか、しきりに賛同してくれましたし、椒子さんもおごそかなくらいの声ですすめられるというふうで、ようやく、いま、手紙だけによる殺人という実験が開始されることになりました。  で、これがお約束の第一信です。おそらくこの手紙も初めのうちは、貴女も軽く笑って読み棄てにされることでしょう。しかし、四信、五信と重なるにつれて、貴女の頬はしだいに硬ばり、額はすっかり蒼ざめて、読み終ったあと、不安のあまり立上って周りを見廻さずにいられないでしょう。そして第六信、おそらくは七信あたりで、すべては終りを告げ、貴女は何もかも悟られる筈です。なぜ、手紙だけの殺人が可能なのか、殺されるのは一体誰か、誰がそれを果すのか、いやでも気づかずにはいられない。といって私は刑事でもなく、生命保険の事故係でもありません。名もない画家のはしくれですから、こんな手紙を送りつけたといって殺人教唆の罪に問われるのはまっぴらなので、これはあくまでも眠られぬ夜のためのゲームだという確認を先にいただきたいと思います。そう、不眠症なのは、お姉様の薔子さんのほうでしたね。  それでは今日は、オルフェウスが、青い翳に射られて蘇ることもあり得るのだという、謎めいた言葉をとりあえずお送りして、第一信を終りましょう。お約束したように、この手紙は誰にも見せず、そしてすぐ送り返すというルールだけは、固く守って下さい。  第二信  アトリエの隅に置かれた青磁の甕に、今日はたわたわにミモザの花があふれて、その暗い黄の花粉は、私の背後から忍びやかな香りの触手を伸ばしてくるらしい。この匂いの主成分はファーネソールですが、薔薇の主香ゲラニオール、薄荷のメントール、レモンのシトラールと同様、 C6H8 のイソプレン核を持つことは、化学専攻の柚子さんですから、よく御存知でしょう。テルペン類に関するワールラッハの法則が正しいものなら、藤井家にもそれはあてはまる筈で、どこかしら秘密めき|妖《あや》かしめいた雰囲気は、そこに立ちゆらぐ薫香のせいだと思われてなりません。  英語の perfume もフランス語の parfum も、ともにラテン語の per fumum �烟によって�という語からきていますが、あたかも藤井家を寺院のように思わせるその香煙は、何によって生れてくるのかといえば、まちがいなくそれは藤井の一族の、この世ならぬ美貌のせいでしょう。  不吉なまでの美しさ、といういいかたは、甚しく非礼なことに思われるかも知れませんが、でも、たとえば薔子さんという方。三十歳というおとしだというのに、あの透き徹るような頬のほのぼのとしたくれないは、どこから訪れてくるのでしょう。この薔薇は、おそらく氷の中でだけ息づくことができると思わせるほどに、いったい、この方は本当に呼吸をしているのだろうかと、ふと手を差しのべたくなる衝動を、なんべん抑えたか知れません。これほど美しい方が、なぜ結婚もされないのかと思うのは俗にすぎる疑問で、薔子さんにふさわしい男がこの地上にいる筈はないというのが私の確信です。しかも大学では薬学を修められて、古代香料についての独自の研究をすすめられている点が、わけても興味深いのです。 「エホバ、モーセに|言《いひ》たまはく、汝ナタフ、シケレテ、ヘルベナの香物を取りその香物を浄き乳香に|和《まぜ》あはすべし」とか、あるいは「推古帝の三年夏四月、沈水、淡路島に漂着す。其太さ一囲あり、島人、沈水たるを知らず、以て薪に交へて竈に焼く。其煙気、遠く薫れり」というような、和洋それぞれ最初の香についての記述がなされたとき、薔子さんの存在はもう約束されていたような気がします。海の泡からでなく、香煙から生れたアフロディテ。柚子さんともどもに、そうした学問を修められたのは、むろんお父上の保造氏が応用化学の泰斗でいらっしゃる影響が主だとしても、お二方のたとえもならぬ美貌は、おそらく早くに歿くなられた母上から譲られたものなのでしょう。  ですが、藤井家のもうひとり、六年前に思わぬ事故で、あたら若い生命を|隕《おと》された、あなた方の兄上——かの|杏介《きょうすけ》君こそ、何にもまして不吉なまでの美貌の持主でした。いまここで私が「隕す」という言葉をあえて用いたのも、まさにその死が天空の涯における、星の終焉にも似た迅さと美しさ、痛ましさとはかなさを持っていたからです。  思えばかれは、理科系の才に秀でた藤井家では、ひとり異端者だったかも知れません。何よりかれは、天性の詩人でしたから。だって、あれほど長く美しい指をしていたら、詩人になるほか何が出来たでしょう。針葉樹林を思わせる長身は、それ自体が息づく|樅《もみ》の木ともいえましたが、何より不思議なのは、かれが一種独特の体臭を持っていたことです。決して嗅ぐ必要がなく相手に伝わる体臭というものを、貴女は信じられるでしょうか。名のとおり仄かな杏に似た口臭、鋭い蓬の香に似た腋臭は、その意味で同性をも酔わせることが出来たのです。  あれほどに長く翳を落す睫毛というものもまだ見たことはありませんが、しかし、このあまりにも冴え冴えとした杏介君の美貌が、六年前の悲劇を生んだのでした。まだ小さかった柚子さんは、あるいはその真相にまったく気づいておられないでしょう。次便に私がお送りするのは、他ならぬ�オルフェウスの死�についてなのです。  第四信  予想したとおり第三信が届かぬ由、やむを得ずこれからは郵送でなく、こうして牧君の手をわずらわすことにします。しかし第三信が何者かによって遮られたということは、約束と違っておうちの中のどなたかが私の手紙を読んでいた、そして杏介君の死の真相を知られるのをいまも怖れていることの証明に他ならず、実をいえば私の狙いもそこにあった。オルフェウスの死について語ると予告したのはそのためだったのです。  どうせ第三信には、実のあることは書いてありませんから、こちらでいきなり本題に入りましょう。杏介君は六年前の二月、自宅の寝室でガス中毒による変死をとげた。結局は本人の過失死ということで落着したのは御承知のとおりですが、感性鋭い詩人のことだからというので、自殺という疑いも中にはあったようです。しかし、遺書もなければ死を仄めかした日記のたぐいも見当らず、部屋のガス栓がごく細めにあいていて、部屋中がその異臭に充ちていたこと、本人が特有の紅斑を浮かべて死んでいた等のことから、とりたてて調べられることもなかったのですが、その一夜、ある黒い影が杏介君の寝室に音もなく侵入し、またひそかに立去ったことを、私はここにいながら、時間を隔ててありありと透視できる気がします。  といってその影が、締まっていたガス栓をゆるめただけで出てきたというのではない。第一、その夜の藤井家には、時さんのほかは肉親しかいず、ふだんから仲の良すぎるほどいいその一族の間で、どんな憎しみが湧くというのでしょう。かりに殺人の動機が誰かにあったとしても、ガス栓をちょいとあけてくるだけという、いいかげんなことで済ます殺人者という者はまずいない。加えていえば、人一倍敏感な杏介君が、いくらわずかだといってもガスの異臭に気づかずに眠り続けるということもおかしいし、もし本当に気づかないほどだというなら、それが室内いっぱいになるまでの時間は意外なほどかかるので、致死量にはなかなか達しないのです。そしてもうひとつ、藤井家では夜中にガスの元栓を締める習慣がないのかというと、これは当時まで締めたり締めなかったりだったのですが、その日に限って婆やの時さんがしっかりと締めて寝たというのが本当のところで、つまり杏介君は、主治医の|内村《うちむら》博士の推定では、晩方の四時から五時の間に、出もしないガスで中毒死したことになります。  従って問題は、かかって時さんの締めたというのが思い違いではないのか、あるいはそのあと何者かが再びあけはなったのではないかという点に絞られてきますが、これはどちらもいいえという答しかありません。むろんこのことは、警察にも最後まで秘匿されたわけで、杏介君は藤井家の体面上、おとなしく過失で死んでもらう必要があったと考えられてくるのです。  どうか、くれぐれも誤解のないように。私には藤井家の秘密や旧悪を曝くという気持はさらさらありません。私はただオルフェウスのなきがらを頭うなだれて運ぶケンタウロスなのです。悲哀の聖地にまで詩人を連れ去って、何とかその蘇りを希うほかに、何をしようとも思ってはいないのですから。むろん貴女も、いまさら時さんを訪問したり、誰かれにこの手紙の内容を触れて廻るようなことは絶対なさらぬことを信じています。  第五信  一息に真相までを記してしまいたい衝動に駆られますが、慣れないペンで、思うにまかせません。さて、杏介君の死が発見されたのは、当日泊り合せていた香菜江伯母さんが、その朝かかってきた友人からの急用の電話を取次いで寝室をノックしてからということになっていますが、ではその友人というのが誰だったのか、これは由良が調べて廻りましたが、ついにはっきりしないままです。疑えばそんな電話なぞかかりはしなかったので、杏介君の死体は、あまり遅くならない時間に発見されないと都合の悪いことがあったともいえます。  それはともかく、驚いた伯母さんが薔子さんを呼んで、二人して寝室へ入ると、ひよわな体質のせいでしょうか、薔子さんまでがその場に昏睡してしまい、お二人を病院へ運ぶのにどれほどの騒ぎだったかは、貴女もよく覚えておいででしょう。当然杏介君のほうは、警察医の検屍を受けたわけですが、世間的にも著名な学者の家庭ということもあり、内村博士という権威者もおられたことですから、どこまで突込んで調べたものか、これはだいぶ疑わしい。薔子さんの昏睡の方はほどなく回復したというのですが、これも本当にガスのためだったのか、いや、伯母さんと一緒に杏介君の寝室へ行ったというのが本当かどうか、私には疑問に思えてきます。しかし、これら一連の、ほんの少しずつ奇妙な出来事の背後には、藤井家としてはどうしても隠さなければならぬ事情があったわけで、それも保造氏と旧制高校が同期だという内村博士の格別の配慮がなければ、到底秘匿しきれなかったでしょう。  いまさらそれを曝いて何になろうという気はします。しかし、もうお気づきでしょうが私は、お宅にこそ伺ったことはありませんが、杏介君の無二の親友だった——というよりかれは私にとってかけがえのない掌中の珠だったのです。それを突然に奪われてからの六年間、椒子さんや由良の援けはあったというものの、どれほど凄惨な努力をして死の真相を探ろうとしたことでしょう。そしてこれがその成果だと申しあげれば、ところどころに洩れてしまう黒い笑いも、あるいはお許しいただけると思います。次便には、何もかも打ち明けてお話しすることをお約束しましょう。  第六信  冷え冷えとした灰いろの空から粉雪が舞って、風花という言葉はいかにも美しいのですが、東京では火事場の|煤《すす》めいた薄墨いろをしながら、それでもしだいに力を揃えて白さを増し、淡い雪景色が外面に作られています。  六年前の二月、黒い影は眠りこんだ杏介君の傍らに立ちつくし、おそらくは涙さえ流していたでしょう。その寝顔はあまりにも美しく、影はまたこよなくかれを愛していたでしょうから。そう、憎しみからではなく、愛のために影は殺人を、つまり心中を計ったのです。杏介君の腕を取り、ある注射を手早く済ませる。ガス中毒と同じ紅斑をのちに浮かびあがらせる薬品といえば、青酸も考えられますが、その種類は影にとってはお手のものだったでしょう。何しろ影はそれを専門にしていたのですから。  そしてガスストーブの栓をごく細目にひらくと、黒い影は自分の寝室へ戻って、おそらくは多量の睡眠薬を一気に嚥下したのです。その枕許には、一通の部厚い遺書がありました。その内容だけは、藤井家としてはどうしても隠し了せなければならぬものだったのです。  しかしここで影には、いくつかの誤算があって、思わぬ成行が展開されました。その一は杏介君を即死させながら、中毒死にみせかける予定のガスが止められていたのに気づかなかったこと、その二は耳ざとい伯母さんに気配を知られ、まっさきにその遺書を発見されてしまったことです。  事は急速に陰蔽されねばなりませんでした。保造氏が叩き起され、内村博士が呼び出され、慌しい協議の結果、とりあえず影の方は胃洗滌と注射で一命をとりとめましたが、杏介君ばかりはもう蘇生の見込みがない。とすれば、かれは、藤井家にめったな風評を立てられぬよう、おとなしく出もしないガスによって中毒死していなければなりません。そのうちに貴女も起き出してくる、時さんも気づいていろめき立つ、その前に杏介君の寝室は浸みつくほどのガスの異臭で飾られなければならなかったのです。  もうお判りですね。われわれがガス臭いというときの都市ガスは本来無臭ですが、着臭剤としてメルカプタンが用いられることがあります。これは私のほうでも実験をくり返しましたが、いわゆるガスの臭いを分析してゆくと、ピリジンやメルカプタン、シクロペタンなど、いずれも環状の化合物にわかれるうち、シクロヘキサンが一番ガス臭さに近いようです。しかし、安全なのはチオフェノールかも知れません。これら無色の液体は大学の傍の試薬品売場でいくらも手に入るものですし、揃って化学に詳しい貴女方の手許には常時おかれてあったと見てもよいでしょう。  こうして杏介君は、モローの絵さながらのしろじろと香気ある肉体を死の床に横たえました。しかもなお生き続ける黒い影を、私はどう受けとめたらよいのでしょう。果して呼吸をしているのか、していられるのかと手を差しのべたい衝動については、すでにお話ししたとおりです。風花は、まだ舞い続けています。  第七信  二月尽。庭面では淡い早春の陽ざしを汲むために、クロッカスは忘れず|黄金《きん》の盃を置き、夕方、弱々しい微笑とともにそれを伏せています。  きょう、薔子さんの死の報をききました。二度めの遺書は、おそらく言葉すくないものだったでしょう。燃やされてしまった一度めの遺書は、むろん世にも異常な兄妹相姦のつぶさな叙述に終始していたと思われます。しかも愛する者は、この地上にほかにはいないという、確かな愛の誓いとともに。  不吉なまでの美しさ、と書きました。藤井家の美貌はこの世ならぬもので、一度それを自覚してしまったら、絶対にその身内とでなければ恋はできないと、でなければ鏡を近寄せて狂おしくくちづけをくり返すほかないだろうというのが私の意見です。  オルフェウスの蘇りを希ってこの手紙を書き初めた私でしたが、目覚めたかれに憐れみと蔑みの眼で見返されるより、聖らかな死体をこのままに、ケンタウロスは再び山を降ることにしましょう。ごきげんよう。 [#改ページ]    公園にて  わたしは、日暮れどきの小さな公園が好きだ。優しい灰いろの時間が好きだ。  緑いろのマントに長い杖をつき、ゆるやかな坂をのぼって丘の上に着く、これはわたしのような老人にとって何よりの運動だが、それよりもこの丘の上にひろがる小公園の静けさが何にも換えがたい。夕方には、とりわけ人影が少なく、乳母車を押す若い母親とか、兄妹のように美しい恋人とか、あるいはわたしのような風体の老人などが、木立の合間を縫う小径や、淡い緑に塗られたベンチに見受けられるばかりで、いまごろの季節ならば、じっとりと甘くかぐわしい空気があたりを包んでいる、このひととき。なべて世はこともなしという詩人の訓えを、このときほど身に沁みて味わうことはない。  眼路の果ては港だが、ここからは霞んで見えない。すぐ|眼下《まなした》には貨物の駅があって、黒く長い貨車の行き交いや操車場の屋根、鳩や煙突や信号灯など、眼になれたそのたたずまいが、やがて夕霧に蔽われてゆくとみる間に、きんいろの灯がそこここに点きはじめ、さあお帰りの時刻ですよ、おうちには暖かいスウプが湯気を立てていますよと告げ知らせる。なごり惜しい腰をあげて、わたしはまた杖を曳きながら家路を辿るのだが、その帰り道にも、この季節にはもうひとつの楽しみがあった。  公園を降りきろうとする坂道の途中で、わたしはふいに呼びとめられる、それは、まぎれもない沈丁の香りであった。ふり返ると、宵闇の中に、白い頬を初々しくそめた少女のような花叢が見え、その香りは、遠慮がちにこう囁くのだ。 「おぼえてらして?」 「おぼえているとも」  わたしの皺ばんだ皮膚の中に、いきなり青年の血が騒立つのはそんなときだ。しっとりした夜気の中に佇むこの少女を、わたしはちょうど一年待ったのだから。人眼のないここでは、老いさらばえたわたしでも、思うさま少女を抱き寄せてくちづけすることも許されていたから。        ∴  だが、これほどおだやかで平和な公園にも、あとで思い合わせれば、凶事のいくつかの予告はあった。たとえば沈丁花のうしろには戦争中に掘られた防空壕がまだそのままに口をあけていて、しかも傍には朽ちかけた蓋をしただけの古井戸さえあった。子供が立入らないよう、周りに形ばかりの柵はしてあるけれども、いつどんな事故が起るかも知れないこの古井戸を、わたしはどんなに憎んだことだろう。市役所ではわたしの姿を見るなり、「ああ、また井戸のことですか。いや、埋めます、埋めます」などと、笑いながらいうけれども、本当に気が気ではない。それというのが、あたかも井戸の上にさしかけた形で、一本の|樒《しきみ》が立っていたからである。これは不吉な、凶々しい木だ。墓地にだけふさわしいこんなものが、何でここにあるのかは判らぬが、年寄というものがどんな思いで木の花を眺めるものか、市役所の若い者には、おそらく察しもつかぬのだろう。  しかし、公園に初めての異変をもたらしたのは、そんな静物ではなく、二年ほど前に突然ここへ姿をあらわした、無作法な動物であった。みるからにむさくるしい中年の浮浪者で、昼間から安ウィスキーの瓶を手にしてらっぱ飲みをしている。大声で演歌を唄う。人にからまぬだけがまだしもだったが、わたしは当時、彼の姿を見かけるなり、いいようのない不快な思いが胸底にこみあげるのをどうしようもなかった。その彼が、ある日、わたしの眼の前でいきなり変死をとげたのである。  それはまったく不可解な事件で、日曜の昼間のことだから、目撃者はわたしのほかにも何人かいた。男はいつものとおり酔っぱらいながら、よろけて、|濁《だみ》声で唄をうたっていた。ちょうど反対側から、乳母車をそろそろと押しながら若い母親が来、さらに後から二人づれの女学生がくるのを見て、ベンチのわたしは眉をひそめた。女学生はともかく、浮浪者の捩れたような歩き方がいかにも危なかしく、いまにも乳母車につかまって、ともども横たおしになりそうな気配だった。若い母親も、|把手《とって》に手をかけたなり、ちょっとの間、棒立ちになった。狭い道で、どちらへよけることもできない。母親の困惑は、こちらで見ていてもありありと判った。  そのとき、ふいに男が、まるでバンザイでもするように両手をあげ、白眼を剥き出しにしてのけぞったと思うと、異様な咽喉声を出したなり、みごとにうしろへひっくり返ったのである。それはまるで、西部劇のインディアンのような恰好で、大仰にもぶざまな倒れ方だった。はずみに男の泥靴が、したたかに乳母車を蹴上げたのを見て、わたしはとっさに立上ると、女学生たちより早く現場へ駆けつけた。乳母車の中の赤ちゃんが、いまにも火のついたように泣き出すのをおそれたからである。  しかし、中は、しんとしていた。覗いてみると、純白の毛糸に包まれ、この上もない安らかな寝顔があった。ふっくらと愛らしい手が玩具の笛を握りしめ、この神々しい天使は、外の騒ぎも知らずに眠っていた。 「大丈夫なようですよ」  わたしは顔見知りの母親に笑いかけた。ひきつったような顔でいた彼女は、深く怯えた眼のいろで、黙って礼を返した。それからわたしは、足をすべらしたにしては、ずいぶん大げさな倒れ方だったなと、軽い気持で浮浪者のほうへかがみこんだのだが、たちまち驚きの声をあげた。男はあきらかに死んでいたのである。土気いろに醜くひきつれたその顔には、まるでこの世ならぬ異形の者を見かけでもしたような、深い恐怖の相があった。  わたしの声で、そこここから野次馬が集まってきた。日曜のせいかも知れない、ふだんは見かけたこともないような連中がわたしたちを取巻き、警察が駆けつけるまで、くちぐちに勝手なことをいい合った。しかし、何といわれても、目撃者はわたしばかりではない。母親も女学生もいることだし、誰ひとり浮浪者の体に手を触れた者はない。男は、ひとりで勝手にひっくり返ったので、おおかた飲みすぎのアル|中《ちゅう》で、心臓麻痺を起したのだろうというのが、その場の結論だった。それに、こうして身寄り頼りのない行路病者が、どんな扱いを受けるかは容易に想像のつくところで、おざなりな解剖のあと、かりに毒物死の痕跡がみられたところで、常用の薬物中毒くらいの病名でおさまってしまうのは眼に見えていた。市当局の扱いも、事実そのとおりだったのである。  ともかくわたしは、確かな目撃者ではあるけれども、なるべく警察とかかり合いを持ちたくなかったので、つとめて女学生のほうをおもてに立て、肝心な男の死にざまについては、眼が悪いのでとか、樹の蔭だったので確かではないがと断りをいれた。わたしのように隠栖した老人にとって、なまぐさい浮世とのやりとりぐらいうとましいものはない。それでもあの若い母親とは少し親しくなって、会うたび挨拶を交すほどになった。乳母車の中の赤ちゃんは、いつでもおとなしく、起きているときでも、まるで綿菓子の中から覗くような黒い眸で、まじまじとわたしの顔を見つめるだけだった。 「もう大きいんでございますけど、ちょっと足が悪うございまして」  母親はそんなことをいいながらも、やはり可愛い子供が自慢らしく、襟もとへ手を添えて直してやったり、ときおりその頬につくえくぼに指をさしのべたりするのだった。        ∴  二年前の事件からあと、公園はまたおだやかさを取り戻していた。あの母親は見かけなくなったが、あまり気にもとめなかった。代りに幾組かの乳母車が、あるときは緑の葉洩れ陽に|幌《ほろ》をそめながら、あるときはまたこのごろのように、どこかしらうるおいのついた空気の中を童話の影絵めいてゆき交うようになっていたからである。  わたしの緑のマントと、仙人めいた長い杖は、ここに集まる子供たちの人気の的になっていた。魔法使いのお爺さんというのが仇名だったが、わたしはそれを喜んだ。雛祭の前には、菜の花を薬袋紙に包んだり、去年拾い集めておいた銀杏の実を、緑の葉でくるんだりして素朴なお雛様を作ってやると、女の子ばかりでなく子供たちみんなが、僕にも作ってとせがむのだった。 「みんな、あの古井戸のあるところは知ってるだろう。あそこへ近寄っちゃいけないよ」  わたしは周りに集まった子供たちに、そういいきかせた。 「なぜ。ねえ、なぜなの」  危いからと教えるのは容易だったが、わたしはちょっと考えてから、こう答えた。 「あそこにはシキミが繁っているからだよ」 「シキミって、なに。ねえ、なあに」  たちまち子供たちの合唱が返ってくる。 「シキミっていうのはね、たいへんな毒を持った木でね、秋になって実がなるだろう。その実をひとつでもたべたら、七転八倒して苦しむんだよ」  子供たちは笑い出した。七転八倒という言葉がおかしかったのか、 「シチテンバットウ、シチテンバットウ」  といいながら、てんでんの方角に駆け出していった。しかし、ひとりだけ残った男の子がいる。五つか六つか、利口そうな眼をいきいきさせて、こう訊いた。 「ねえ、おじいさん。そんな木がそこいらにあるんなら、まだもっとほかにも、すごい毒のあるものが生えてるかも知んないよね」 「そうだよ。だから、めったにそこらの木の実なんか喰べちゃダメだ」  そう答えながら、わたしは俄かに慄然とした。この少年の質問の意味が、まるで違うことに気づいたからである。少年はあきらかにその別な毒を手に入れたがっているのだ。  探り合うような沈黙が続いた。無邪気な少年の顔のうしろに、わたしが何十年となく見続けてきたある種の貌が、もう半ばまであらわれかかっているような気がする。 「坊やは毒のあるものが好きなのかい」 「ああ、大好きだよ」  その|忌《いま》わしい貌は、突然天空から落ちかかって少年の顔に貼りついた。わたしは半ば眼をそらしながら、ひからびた声でいった。 「なんでそんなものが好きなんだね」 「おじいさんだって好きじゃないか」  少年は高らかに笑うと、そのまま走り去った。すこし跛をひいている後ろ姿に、わたしは憤然と眼をとめた。そんな筈はない、そんな筈はないと打消しながら、それから数日も経たぬうち、少年の母親が得体の知れない中毒で死んだときいてから、わたしはどうしてもかれの噂や行動に注意を払わずにいられなくなっていた。  少年には、その出生から凶々しいものがつきまとっていたらしい。あれほど騒がれたあとだから、サリドマイド系の薬品の筈はないが、かれの左の足指は何本か癒着して、そのためにいつも跛をひいていた。ひとには見えないところだから、そのせいで遊び仲間から嫌われていたのではない。かれと一緒に遊んでいた子は、この一年ほどの間に、みんな奇妙な事故で死んでいるので、いつも少うし群から離れて、ひとりでいることが多かった。ある子供は崖から落ち、ある子供は堀にはまった。つい先月にもおないどしの子が、置き去りにしてあったライトバンの運転台でマッチをすっていきなり火に包まれ、逃げる暇もなく焼死した。その少し前まで、噂の少年が一緒に遊んでいるのを見た子供がいたのだが、少年はかたくなに頭をふって、というより、おどろくべき無邪気な顔で否定するので、どうにも真相は確かめようがないということだった。  まだ学校にも行かない、幼児といってもいいくらいの年齢で、ひどく残忍な殺人をすることは、これまでにも例がないわけではない。しかし、この少年のように次々と計画的に、まるで娯しむように仲間を殺すなどということがあり得ようか。しかもそのあげくに、何を用いたか知らぬが、自分の母親まで毒殺するほどの、悪魔の申し子めいた怪物がこの世にいる筈はない。  笑い出そうとして心は凍った。わたしを捉えて離さない疑問は、いま足は悪くとも元気で跳ね廻っているあの男の児が、つい二年前まで乳母車にのせられて、外気にも当てぬよう育てられていたあの赤ん坊だったのではないかという点にあった。とすれば、こんど中毒死したという母親はあの日の若い母親であり、空を掴んでのけぞった浮浪者を殺し得たのは、乳母車の中に無邪気な眠りを装っていたかれではなかったか。あのとき、赤ん坊とみえたのは、すでに三歳か四歳の小児なので、手に握りしめていたのは玩具の笛ではなく、たとえば凶悪な土人の使う吹矢の類ではなかっただろうか。毒殺という噂はあの当時もきいた。「もう大きいんですけれど足が悪くて」という母親の挨拶も耳にしている。悪魔の子は、乳母車から出る前に、すでにひとりの人間を葬っていたのかも知れないのだ。        ∴  わたしはいつものベンチに坐って、さまざまに思い惑っていた。向い側の鉄柵の内らには、ムスカリや芝桜の緑が風に吹き靡いているばかりで、まだ紫や桃いろの花穂は見えない。そういえばきょうは、春を告げる風であろうか、砂塵を巻きあげるほどの勢いで走りぬけてゆく。風の日に吹きすぎてゆくのは、しかし砂埃りばかりではない。かつて美しかったもの、輝かしかったもののいっさいがむざんに吹き荒らされてゆくようだ。わたしは、まだ眠りについたままの花を見ながら、けんめいに考えをまとめようとしていた。いつのまにか、それを持ち歩くのが癖になっている小さな砂時計をわたしは手にしていたらしい、いきなり耳もとで、甘えるような少年の声におどろかされた。 「おじいさん、それ、なあに」 「おう、これか」  わたしは腕をのばして砂時計をかざした。桃いろの砂の結晶が、ガラスの中に美しい。この砂は、黒大理石を細かに砕いて、葡萄酒で煮ては乾かし、また煮ては乾かしして作りあげたものだ。わたしはこの数日、これを少年への贈り物にしようと決めていた。 「これは砂時計だよ。ホラ、こうして倒すと、下に砂がおちるまで、きっちり二分かかるというわけさ」  桃いろの砂は飛沫をあげるように落下し、みるまに下のくびれの中に溜まっていった。その一分の間に、わたしは充分、少年の心を量っていたのだ。 「これが欲しいかな」 「うん、欲しい」  少年は無邪気に答えた。その眸は澄んで黒く、かつて静かに乳母車の中からわたしを見返したものと同じに思えた。 「これを坊やにあげよう。だから今日は、正直にわしのいうことに答えなさい。いいナ」  わたしは少年の瞳をのぞきこみ、ゆっくりとこう切り出した。 「坊やは吹矢が得意だろう。どうかね」 「あれ、どうして知ってるの」  少年はすぐにポケットから手製らしい小さな筒を取り出し、縫針様のものを数本、中に潜めた。 「見ててごらん、あの木の枝」  指さした一本の細い枝に、たちまち狂いもなくその針が突き刺さるのをわたしは見た。 「ちっちゃいときは、もっと得意だったよ。でも、どうして? 誰にも見せたことはないのに、どうして知ってるの?」  そういいながら、少年はさっと体を離すようにして、それから改めてわたしを見た。 「そうか。おじいさんはアレなんだね。アレだから知ってるんだね」 「そうだよ。アレだから知っているのさ」  わたしはおだやかに答えた。 「だから正直にいってごらん。いままでずいぶん人を殺したね。こんどは誰を殺そうと考えているか、それを聞かせてごらん」 「考えてやしないよ。もうしちゃったよ」  少年はすっかり親密な態度になり、仲間だけに見せる表情で肩を並べて坐った。 「一年生の餓鬼大将がいるんだよ。いつもオレを跛だってからかう奴」  かれはその名をいった。 「春休みで、ひとりで九州の叔父さんちへ行くところだって威張ってたから、その前にいいこと教えてやるって、あの古井戸のところへ連れてったの。うん、旅行鞄もって、ついて来たよ。だからね、この井戸の底には変ったビー玉がいっぱい浮いてるんだっていってやったんだ。ビニールの縄を用意しといたから、勇気があったら降りて取ってきてごらんて。判るだろ、あとは。あのシキミの木に片っ方を結わえつけといて、体を縛ってそろそろ降ろさせたのさ。半分くらい行ったところで、縄をほどいてやったんだ。むろん鞄もあとから放りこんでおいたよ」  少年はあたかも、ねえこれでいいんでしょう先生、とでもいうように、ぞっとするほど残酷な笑顔でわたしをふり仰いだ。  先生には違いない。この子だけが見ぬいたように、わたしは「アレ」すなわち殺人者である。この砂時計が使われているところで、わたしは二十余年をつとめあげて来たのだ。刑務所では入浴時間をこれで計る。入口の円い衣類入れを一廻しして、縦長の二つの風呂に形ばかり入って出てくると、衣類はちょうどそこに来ている。その間にも浴室の隅で、砂時計はサラサラと砂をこぼし続けているのだ。この少年と同じように、わたしも小さいときから悪の天才だった。何十人が詭計にはまって死んでいったことだろう。それが、中年をすぎてのあの失敗さえなければ——。発覚したのは、そのひとつの殺人にすぎない。  だが、いまは違う。二十数年のムショ生活で、わたしの心は入れ替ったのだ。 「ああ、そのせいだな。さっきおじいさんがあの井戸の傍を通ったら、どっかで小さな悲鳴がすると思ったのは」 「ほんとう?」  少年は無邪気におどろいた。 「だって一昨日だぜ、奴を落っことしたのは」 「一昨日だって生きてるとも。中には水が溜ってるんだから、いくらだって生きて、人を呼べるさ。嘘だと思ったら行って確かめてみるかね?」  少年は他愛なかった。わたしもまたこれまでにない用心をして、マントの下にビニールの縄をひそませ、少年と連れ立って歩いているところを人に見られぬよう、うまうまと井戸の傍まで辿りついた。  長いあいだの要請が実って、ここはあすの朝から埋め立てられることになっている。悪魔の申し子は、その前に土に返さなくてはならなかった。成長すれば、またわたしと同じように長い刑務所生活を送るか、絞首台行きのいずれかであろう。わたしの震える手の先に、少年の重味はしばらく激しくゆり動き、そして暗黒の地下をめがけて落下していった。折からの風に、薄黄いろい樒の花はいっせいに揺れて、朽ちかけた井戸蓋の上にもその周りにも、さんさんと降りそそいだ。……  そしていま再び、わたしはいつものベンチに戻ってきたところだ。あるいは二人の少年の失踪は、あすの朝までに評判となって、あの古井戸も埋め立てる前に捜索されるかも知れない。何もかも曝き出されるかも知れない。それでもこうやって遠い港や、眼下の貨物駅をぼんやり眺めている、このひとときだけは、何にも換えがたい安らぎのように思える。  わたしは、日暮れどきの、小さな公園が好きだ。優しい、灰いろの時間が好きだ。………………………… [#改ページ]    牧神の春  なにしろ、そのころの|貴《たかし》の考えることといったら、役立たずという言葉そのもので、そのくせ一度それにとりつかれると、いつまでも抜け出せないで堂々めぐりをするというふうだった。たとえばいまノートへ書いたばかりの文字に吸取紙をあてたとき、その瞬間にひょいと身を移す文字の形態というものが、どうにも気になってならない。ノートから離れて吸取紙に移るあいだに、あいつはまるでサーカスのぶらんこ乗りといった要領で、かるがると体をひねって裏返しになるのだろうか。一ミクロンほどもない空間での曲芸を、貴はどうかして覗きみたいと希った。逆しまにぶらさがりながら、文字はそのとき束の間のべっかんこうをするかも知れないではないか。  あるいは一組のとらんぷの中で、スペエドの3はスペエドの2について、いったいどう思っているのだろうかと考え、たぶん、なんとも思っちゃいやしないんだと行き当ると、さながら自分が無視されでもしたようにはかない気がする。胸飾りをいっぱいつけたキングやジャックの札になりたいというのではない、いちばん地味な2だというのに、それでも皆はとらんぷの表面の、白く磨かれた光沢のように、よそよそしくそっぽを向くのだろうか。  ——プシュウドモナス・デスモリチカ。  ——プシュウドモナス・デスモリチカ。  呪文のように唱えていたそれが、そうだ、石油を喰うという微生物の名だったと思い出すと、たちまち貴の眼前いっぱいに青金色の彩光を揺らしている油層がひろがり、その中で蠢き群生するかれらの生態が、顕微鏡を覗きでもしたようにつぶさに映じた。  ——おれは早く土星に行かなくちゃ。  その日、街を歩きながら、貴は唐突にそう思った。埃りっぽい風の吹きすぎる、春の昼なかのせいだったかも知れない。貴にとって、春はいつでも汚れていた。桜はすべて白い造花の列だった。  ——こんなところでぐずぐずしてちゃいけないんだ。土星への旅。それにしてもあの土星の環ってのは、夜には色さまざまに映り輝いて、壮大な光の饗宴という趣きだろうけど、昼間見たらごちゃごちゃした|土塊《つちくれ》で、さぞきたならしいこったろうな。  そして、ちょうどそのときであった。なんの気もなしに頭へ手をやって、初めて触れたのがその|角《つの》だった。まさかとは思ったのだが、たしかに瘤などではない、異様に尖った二つの隆起が、額のすぐ上に感じられた。同時に全身、とりわけ下半身のほうに音を立てるほどの勢いで体毛の伸び出すのが判った。春の街なかで、何かとんでもない変身が起りかけているらしい。髪も髯も、前から長くのばしているんだし、人眼に立つとは思えないけれども、貴はあわてて行きずりのメンズウエアの店の前で立止ると、仄暗いウインドをのぞきこんだ。  みかけだけは平凡な若者がそこに映っていた。しかし、よくよく眺めると、長髪も頬髯も家を出るときよりはるかに伸びて縮れ、額のところへもう一度手をやってみると、まぎれもない二本の角が生えかけていた。顔つきまでがどことなく山羊の精めいてきているらしい。びらびらのついたインディアンコートの下に白のデニム、モカシンを穿いたいつものとおりのオレに、いったい何が起ったというのだろう。なんだって急に角なんかが生えてきたのか、そして、なぜオレにはこれが角だという確信があり、おまけに前からそれが判ってでもいたように、それほどうろたえもしないのか、貴にはむしろそのことのほうが不思議に思えた。  ウインドの中に立ちつくす黒い影のうしろには、こともなく明るい市街が拡がり、疾走する車も、行き交う通行人も、まだこちらに気をとめる気配はない。貴はそのままじっとして変身の終るのを待った。ありがたいことに、角はもうこれ以上伸びないらしい。ただモカシンの中で足の先が堅くなり、|蹄《ひづめ》の割れてゆく感じが異様だった。それに、何より尻の合間に短い尻尾が生え、そのむず痒い感覚といったらない。コートを着ているからいいようなものの、そうでなければずいぶん恥ずかしい思いをしなければならないだろう。どこか喫茶店にでも飛びこんで、トイレでどんな具合か調べたい気もしたが、どっちにしろみっともないことに変りはないんだと、貴はようやく我慢した。  変身はどうやら完了したらしい。サチュロスというのか、それともフォーヌとかパンとか呼ばれる、山羊の蹄と角とを持った、あの毛むくじゃらな牧神に自分がなってしまったことを、まだ誰も気がついていないんだと思うと、ちょっぴり嬉しいような、それでいてひどくみじめなような、妙な気分だった。こんなことになったのは|苜蓿《うまごやし》を食べすぎた山羊のように、あまりに雑多な理念をむさぼりすぎたせいだろうか。プシュウドモナス・デスモリチカなんて変な呪文を、やたら唱えなければよかったんだ。それにしても、このまんま街の中にいるのはまずいと貴は思った。牧神は当然、森とか沼の畔とか、放たれた空間を自由に遊び回るべきだろう。それに、鉢が変化したせいか、窮屈な衣服を脱ぎすてて、思うさま飛んだり跳ねたりしたい衝動がさっきからしきりとする。蹄のままの趾で靴を穿いて、うまく歩けるかどうか心配だったが、貴はそろりと一歩を踏み出し、痛くないと知ると急に元気になって、躯けるように駅へ向った。        ∴  ……決闘・金狼・愛餐・緑盲・幻日・袋小路・紫水晶・歪景鏡・贋法王・挽歌集・首天使・三角帆・宝石筐・帰休兵・火喰鳥・花火師・水蛇類・送風塔・冷水瓶・小林檎・逃亡兵・人像柱・水飼い場・聖木曜日・耳付の壺・神怒宣告・囚人名簿・女曲馬師・舌ひらめ・放浪楽人・夜見の司・草売り女・二人椅子・表情喪失症・とらんぷ屋・埃及の舞姫・西班牙の法官・ボンボン容器・貴族制反対者・土耳古スリッパ・仏蘭西の古金貨・露西亜の四輪馬車等々々……  さっきから耳の中で唸りをあげているのは、およそ脈絡もない言葉の羅列で、それがふらんす語やロシア語やらのきれぎれな発音を伴って次から次と風のように掠めては去るのに、貴はすっかり閉口していた。なるほどサチュロスというのは山野の精で、風の中を吹きすぎてゆく言葉は何でもこんなふうに聞きとめてしまうものらしい。すこしばかり尖って髪の間からはみ出している耳を、貴はいそいで隠した。  どこへ行こうと考え、初めはひたすら海が見たかった。こんな生ぬるい風の吹く日にだって、海だけは岬の間に柔らかな灰青色をして横たわっているだろう。だが、その砂浜へ行きつくが早いか、オレはどうしたって素裸になってそこいらを駆け回りたくなる筈だ。冗談じゃない。まだしばらくは人間のふりをしていなくちゃ。で、考えついたのが、T**川の向うにある、自然動物園だった。あの広大な丘陵の間には、どこかしら洞窟めいた隠れ処があるに違いない。それに、ずっと前、まだ子供のときに一度行って、すごく気にいったのは、どういうわけか裏門の傍の山羊の檻の中に一羽のオオハシが一緒にいて、真中の木にとまったまま、ひとりで眼玉をパチクリさせていたからである。  大きすぎる黄いろの口嘴をもてあましながら、そのときその鳥は、けんめいに何かを思い出そうとしているらしかった。ええっと、何だっけあれは。いや、そうじゃない、弱ったな。あれも違うしこれも違う。だからさ、ホラ、あれだよ、あれ。そんなふうにひっきりなしまばたきをくり返しているのは、得意の嘘を忘れてしまったからに違いない。オオハシとかツーカンというより、嘘つき鳥とでも名づけたい貌で困りきっていたのだが、もしまだあそこにいるなら、もう一度どうしても逢いに行ってやろう。  そう考えると、貴はようやく安心して、電車の片隅に立ったまま、再び自分だけの思いに沈んだ。もしかしたらT**自然動物園は小高い丘の上にあるんだから、あそこからだって海や岬が見えないとも限らない。  ——岬があんなにも孤独に見えるのは、  貴は眼裏にその情景を思い浮かべた。 [#ここから1字下げ] ——あれが海の中へ突き出された腕、我慢強い男の腕だからだ。で、愛する者は必ずその|突端《はな》を曲って見えなくなってしまうのさ。そうなったら古い望遠鏡を持ち出していつまでも眺めていよう。たぶんぼやけた人影が、目的もないように右往左往するばかりだろうけど。 [#ここで字下げ終わり]  ふいに近くで、若い女の声がした。 「ねえ、ちょっと。なんだかチーズみたいな匂いがしない?」 「え?」  話しかけられた連れのほうは、貴に気をかねたようにちらと顔を見てから答えた。 「そういえば、そうね。ブルーチーズみたような匂いね」  貴はさりげなくそこから離れて、人のいないドアのところへ歩いてゆき、凭れながら溜息をついた。 [#ここから1字下げ] ——匂いとは気がつかなかったな。むろんこんな躰になっちゃったんだから、山羊の乳を固めたような、饐えた匂いがしたって不思議じゃない。けど、本当にそうなんだろうか。もう人交わりのできないくらいに匂いもひどくなったんだろうか。 [#ここで字下げ終わり]  ふいに得体の知れない哀しみが貴を領した。その哀しみは風船のように柔らかく、それでいてひどく重かった。        ∴  T**自然動物園の正門を入ると、貴は人群れを避けて、右手の坂道を選んだ。昆虫館というコンクリートの建物に入ってみると、奥には赤いランプをつけた夜行動物の檻が並んでいて中には蝙蝠が飛び交ったり、オポッサムの類が怯えた眼でこちらを見ながら歩き回ったりしていた。外には眩しいまでの陽光があふれているというのに、|暗《くら》ぼったい赤色光の部屋は、ひどく残忍な拷問室を見るようで、貴は匆々にそこを離れた。夜になったら、ここでは反対に白色光を点して動物たちを眠らせるのだろうか。何だか、自分までが追われはじめたような気がする。狩人たちのしのびやかな跫音や、執拗な犬の追跡が、もうすぐそこまで近寄ってきたように思える。  ライオン園の柵のところで、向うから来た十六、七の少女が無邪気に手をあげた。 「ハーイ」 「ハーイ」  柄物のシャツに大きなベルトをしめ、白いパンタロンを穿いている。髪を栗いろに染め、幼稚な化粧をしている。フーテンだなと貴は思った。 「見たのか、ライオン園」 「ううん」 「一緒に見ようか」 「見たくないや」 「どうして」  少女は黙って顎をしゃくった。なるほど、ここから見おろしただけでも、ライオンたちは四月の陽気にぐったりし、ほとんど寝そべってばかりいる。檻付きのバスが通りかかっても、たまに一頭が眼もくれず前を横切るくらいのことで、吠えかかったり飛びついたりというスリルは、まず味わえそうもない。 「下にライオンの写真が出てるよ。みんな鼻に引掻き傷があってさ、餓鬼大将みたいな、いじめられっ子みたいな、へんな顔」  そんなことをいっている少女を連れて、貴はさらに山の奥めいた道を辿った。もう少し行くと、鷲のいる檻があるらしい。前に来たときも、美しいと思ったのは尾白鷲ぐらいのものだった。かれらは決して地上の人間どもなどに気を取られない。ひろびろとした檻の中でも、いちばんの高みの梢に羽を休め、じっと空の気配を窺っている。その鋭い、確信にみちた眼は、もうすぐ仲間たちの救援の羽ばたきが聞えてくることを、少しも疑ぐっていないようだ。  鷲をしばらく眺めてから貴は、ガムばかり噛んでいる少女と、兄妹のようにどこまでも歩いた。裏門のところにも行ってみたが、もう山羊の檻もなく、小さなワラビーが走り回っているだけで、もとよりオオハシもいなかった。きっとすばらしい嘘を思い出して、南米の森に飛んで帰り、仲間たちと眼玉をパチクリさせながら法螺の吹きくらべをやっているのだろう。貴がそうやってやみくもに歩き回っているのは、どこか早く人眼につかない洞のようなところを見つけて、いちど思い切って裸になってみたい衝動が、しだいに強まってきたからでもあった。だが、その前にこの少女に、何といって説明したらいいだろう。 「どこか、絶対に人のこないとこってないかなあ」  貴はそういって嘆息した。 「どうして?」  それには答えずに訊き返した。 「君はニンフって知ってるかい」 「知ってるよ。高校んとき、お芝居でやったもの」 「裸で出たのかい」 「バカいってら。ネグリジェ着てやったよ」 「じゃあ、牧神てのも知ってるだろ」 「ボクシン? ああ、あれ。山羊のおじいさん」 「おじいさんてことはないけど」  どっちへ行こうというように、ちょっと立止ってから、貴は少女の手を引いて、灌木の間に続いている細い径に入った。木立に隠れてだいぶ奥へ入りこんでから、ようやく一息に、だがやはり掠れた声になっていった。 「オレは実は牧神なんだよ」  少女が黙っているので、貴はふりむいてつけ加えた。 「近寄ってごらん。なんだかチーズみたいな匂いがするから」 「そんなの、平気さ」  少女はまだガムを噛みながらいった。 「あたいだって、もう何日もお風呂に入ってないもの」 「違うんだよ」  貴はいらだち、まじめな顔で告げた。 「ほんとうなんだ。ホラ、触ってごらん。頭に角が生えてるだろう」  そこにしゃがんで頭を突き出すと、少女は盲目になったように両手を差し出して、宙をまさぐった。それからようやく頭をつかまえて、二本の角に触れた。 「あらいやだ。ほんとに生えてるのね」 「そうさ。もっといいものを見せてやるよ」  細い径はしばらく暗い梢の重なりの下をすぎ、それからふいに円形の芝生になった小さい広場へ出た。人声も足音も遠く離れ、ここなら誰に見られる心配もなさそうだった。 「眼をつぶってろよ。いいか、よしっていうまで、あけちゃダメだぞ」  コートを脱ぎ棄て、シャツをむしり取り、貴は水浴びをする前のような手早さで、着ているものすべてをそこへ払い落した。靴下をとって二つに割れた蹄を見たときは、ちょっと哀しい気がしたが、それよりもこの青空の下で、生れながらの本当の姿に還れた喜びのほうが大きかった。下半身には長い毛が垂れさがって、大事なところはすっかり隠してくれているのが救いだった。 「よし、眼をあけていいよ」  それまで少女が確かに眼をつぶっていたかどうかは判らないが、うしろで無邪気な嘆声があがった。 「どうした、気味が悪いかい」 「ううん、とっても綺麗」  少女が近づいてきて、手をのばして触っているのが判った。 「これが尻尾なんだね」 「ああ、でもオレには見えないんだ」  少女はしばらくその短い突起物を、優しい手で撫で回していたが、ふいに思いつめたような声でいった。 「あたいも裸になっちゃおうかな」 「そうしろよ。ニンフはみんな裸だぜ」 「こっちを見ちゃ、いやだよ」 「見るもんか」  実際、見ることは不可能だった。少女の声はいつも背後からしたし、衣ずれの気配でニンフさながらの美しい裸になったことが判ったあとでも、首をめぐらしたときには、もう相手はすばやくうしろへ廻っていたからである。そのことはしかし貴には、まだ若干不満でないことはなかった。……  ふたりはしばらく、自由に軽快にそこいらを跳ね回った。芝生の生えた円形の小広場は細い径つづきでもう一つあることが判り、そこには水浴びに必要な小さな泉もあったし、木の切り株もあった。休息のためらしい丸太小屋も見つかったが、その戸はいくら押してもあかなかった。 「ダメよ。夕方にならなきゃ入れないのよ」  少女はまるで初めから知っていたように、そんなことをいった。そして、もっと不思議なことには、ふたりが広場から向うに出ようとすると、眼に見えない強い力で押し返されるように、そこには何かが遮っているらしかった。もとの広場へ戻ってみてもそれは同じで、ふたりが脱ぎ棄てた筈の衣服も、どうしてだかどこにも見当らない。束の間、貴には、罠にかかったような気持が胸を掠め、まだ見物人もいない新しい檻の中に自分がとじこめられた不安に怯えたが、それもすぐきらめく陽光と水と緑の木立の中に、あとかたもなく融けた。笑いながら尻尾を掴まえにくるニンフを追い回す生活が、楽しくてならなくなっていた。……  こういうわけでT**自然動物園には、新しく牧神とニンフの放し飼いになっている場所があることはあるのだが、それはまだ誰でも行って見れるわけではない。そこへ行くには、まずプシュウドモナス・デスモリチカというあの呪文を唱え、そう、それから……………… [#改ページ]    薔薇の夜を旅するとき �車椅子�の男のところへ、�白人女�から電話がかかった。 「ごぞんじかしら、多摩川べりのG**薔薇園。あれが、この五月いっぱいで閉鎖になるの」 「どうして」 「役に立たないから、つぶして自動車の教習場にするんですって。放っておけることじゃないわ。御一緒に、見に行きましょう」  黙っていると、 「三時に車でお迎えにあがってよ」  そういって、電話を切った。  男は、ふたたび車椅子の中に凭れこんだ。  外側から薔薇を眺めるなどという大それた興味を、男はもう抱いてはいなかった。暗黒の腐土の中に生きながら埋められ、薔薇の根の|恣《ほしいまま》な愛撫と刑罰とをこもごもに味わうならばともかく、僭越にも養い親のようなふるまいをみせることが許されようか。地上の薔薇愛好家と称する人びとがするように、庭土に植えたその樹に薬剤を撒いたり油虫をつぶしたり、あるいは日当りと水はけに気を配ったりというたぐいの奉仕をする身分ではとうていない。まして自分で交配した種子を砂地にまき、クリリウムの何パーセントの処理土が発根に適切かなどと呟く園芸家、さらには書斎いちめんに文献をひろげ、ガリカやダマスクの昔から系統を探り、もしくは実験室で顕微鏡を覗いて、ペラルゴニジンとシアニジン系の色素の微妙な差異を定着させようとする学者などの仕事は、思っても身ぶるいの出るほど奇怪な作業といえないだろうか。  将来、それらのいっさいは、精巧を極めたアンドロイドが、銀いろの鋼鉄の腕を光らせながら無表情に行えばよいことで、人間はみな時を定めて薔薇の飼料となるべく栄養を与えられ、やがて成長ののち全裸に剥かれて土中に降ろされることだけが、男の願望であり成人の儀式でもあった。地下深くに息をつめて、巨大な薔薇の根の尖端がしなやかに巻きついてくるのを待つほどの倖せがあろうか。うずくまり、眼を瞑って、その触手のかすかなそよぎが次第にきつく厳しく裸身をいましめてゆく、栄光の一瞬。これほどの高貴な方が、この醜い、下賤な奴隷に手ずから触れて下さるのだ。最後の最後まで意識は鮮明に保たれ、すでに半ば融けかかりながらも、いまのいま肥料として吸いあげられてゆく至福の刻。  根圧と蒸散作用の働くまま、導管と|篩《し》管の緑いろのエレベーターを自在に上下し、薔薇の内部を旅するとき、外側からだけ眺めてその美を讃えていた愚昧がはっきりする。細胞の一部に変じながらも、運よく緑の茎を最上階まで昇りつめて、花弁の構成分子となるよう命じられたとするなら、それはちょうど高層ビルの屋上に立って淡い色の天蓋を、空いちめんに張りめぐらされた光の薄膜を、それもオレンジや黄の|暈《ぼかし》に包まれた美しさを仰ぎ見るようなものだろう。ここは花の内部なのだ。柔らかな日光が照り翳りするたび心はときめき、眩しさと晴れがましさとのなかで、花の内部に住む楽しさを満喫できるに違いない。そのためにも早く、役立たずな肉身は地下に横たえ、暗い根の執拗なまで淫らな愛撫に身をまかせていたかった。    |TANTUS《なべての》 |AMOR《愛を》 |RADICORUM《根に!》  車椅子の中に深く凭れこんで、容易に立上ろうとしない男を、�白人女�はいくぶん輿味本位に、またいくらかは真剣に、母性本能めいた残酷さで、外へ、現実社会へつれ出そうと考えているらしかった。�白人女�という呼び名は、そうした強引さ・性急さがいくらか煩わしく思えるときの男のひそかな呟きだが、�車椅子�という、それに対する女の批評のほうが、より鋭く当っていたかも知れない。四肢の不自由さではなく、思考の不自由さを揶揄した言葉だが、薔薇の外ではなく内を、花ではなく根を愛する男にとっては、書斎の中でその車椅子をひとり漕いでいるときのほうが、はるかに自由な天地に遊ぶ思いが、するのだった。  女のプジョオは、正確に三時に着いた。ふきげんそうな男を積みこんで、かまわず出発する。|玉川《たまがわ》通りを左に折れて、川堤沿いの道に出ると、日曜のせいで、もうほとんど行き交う車もない。遠く第三京浜の長大な鉄橋が見え、糸杉が並ぶこのあたりは、どこか日本ばなれがして、東欧へんの小さな町を疾駆しているような気がしてくる。 「国境が近いな」 「そうなの」  女が応じる。 「なんとか全速力で脱出しなくちゃ、ね」  いま車を走らせてゆくこの先に、たちまち三、四人の異国の兵士が銃を持って飛び出し、くちぐちに判らぬことを叫びながら馳せ寄ってくる束の間の幻影。だが、お目当てのG**薔薇園は、こともなく平和に、遊園地の向うに見え始めていた。  何千坪かのひろがりの中で、色とりどりに咲き乱れる薔薇群を見渡しながら、男はつとめて憂鬱そうに眉をしかめた。たかがこれは�外�の風景ではないか。薔薇の内部の、この世ならぬ神秘な眺めは、暗い書斎の中でしか味わえないのだ。どれほど多くの花を見たところで、その外側にいる限り薔薇を知ったことにはならない。かれらの穏やかな秩序を敬愛し、その神殿に心身とも捧げる気持になって初めて果される交信。動物はまず自分らが、いかに不潔で下等な生物かを自覚すべきなのだ。色彩と香気とによって語られる薔薇たちの会話を、眼とか鼻とかいう低俗な器官が、どうして聞きわけられよう。いっそのこと動物は動物らしく、薔薇の花びらをサラダのように食べてしまったほうが、まだしももののはずみで、一語くらいは理解できるかも知れないのだが。……  そんなふうにそっぽを向いて、車椅子に戻りたがっているのをよそに、女は顔なじみらしい園丁に声をかけ、前にきたとき予約しておいた鉢が、いくつかまだそのまま埋めこまれているのを掘りおこす相談をしてから、ようやく、さあ、と促した。 「そんなお顔をなすっても駄目。きょうはどうしたってお見せしたいものがあるんですから」  肩をあらわにした、淡い水いろのクレープで、白のカーディガンを手にして歩き出すうしろに従いながら、男にはこの明るい五月の庭園が、やはり人並みに美しく思えることに苛立っていた。女のふるまいも、かぐわしい薔薇園の空気も、すべてがこうもこころよいとすれば、彼はやはりまっとうな人間、人間らしい人間という名の、なさけない小動物でしかない。その証拠に、なんという遺憾なことであろう、薔薇たちは外側から眺めても、ふしぎなまでに美しいのであった。  ベネチアングラスの杯を思わせ、透き徹る翅ほどに薄い桃いろの花片はラ・フランス。肉の厚いオレンジいろの花から、いきなりというふうに強い香を放つチガーヌ。この香は、まぎれもない刺客であった。濃緑の葉叢の中で深紅の風をそよがせているのはノクターンであろう。やや古風な大輪の黄薔薇、サンバーストやゴールデンレプチュアは、古城か廃園にふさわしい。それは雨に当って褪めかけたり、茶色くすがれたりしていても、なおひとつひとつが|譚詩《バラード》を語りやめなかった。女に命じられたのか、さっきの若い園丁が距離をおいて、つかず離れずといった形でついてくるのは知っていたが、それも気にならないほどに男は、ペルシアンイエローの傍ではジャルダン・マルメゾンの奥庭に佇み、サム・マクレディの前ではキウガーデンの一角で足をとめているような錯覚を楽しんでいた。 「お見せしたいものは、いちばん奥にあるのよ」  ふいに女は囁くようにいった。  もうそこはこの薔薇園でも入口から遠く離れたところで、初めからまばらだった入場者たちは、一人も姿を見せない。 「こっち。ほかの花はまだいいとしても、これがローラーで轢きつぶされて自動車の教習場になるなんて、どうしてもがまんできないの」  そういいながら身をひるがえすと、まったく突然に、ある巨大な何物かが眼の前にわだかまって見えた。点々と白い炎を噴きあげている、それが花だと判るには、その全容はあまりに大きすぎた。 「フラウ・カール・ドルシュキー。ほんとうの白薔薇といったら、これだけじゃないかしら」  日本名は不二。一九〇〇年、ランベルトによって作出され、二十世紀の開幕を告げるというより、古き艮き時代のすべてを身にまとった白薔薇の女王だとは後で聞いたことで、男の前にあるのは、得体の知れぬ何物かだった。丈高い数本の株立ちから、さらに強靭な蔓が縦横に伸び、こんなにも奔放に枝を張りめぐらしていいのかと思うほど熾んな樹勢が、まず男をおどろかした。それ自身がひとつの森のような威容を持ちながら、その全体になんともつかぬ寂蓼感が漂っているのは、どんな理由によるのであろう。咲きがけには仄かな紅を残しているが、開ききった花は、純白といってもこれほどの眼に沁みる白は、決してこの世にはあり得ないと思われるほどだった。それでいてその花群れから滲み出てくるのは、豪奢とか華麗とかの形容には遠い、もうとうに滅んでしまったものの哀歌に似ていた。これが薔薇といえるだろうか。  白い|墓窖《ぼこう》。  唐突にそう思い当って、男はようやく納得した。この巨大な白薔薇の一群は、それ自体が墓なのだ。今年限りで終りという運命をいちはやく知って、刻々に死に近づいてゆく装いをみずから続けてきたに違いない。といって、これほどの壮大な薔薇を、この五月を最後に終らせようなどという大それた考えは、いったいどこの誰が、どんな資格で持ち得るというのだろう。  跫音もなく、すぐうしろまで近寄っていた園丁に、女が声をかけた。 「ねえ、ここの薔薇を、全部が全部ブルドーザーで轢きつぶすわけじゃないんでしょう。これだけでも、なんとかして移せないのかしら」  園丁は日焼けした顔で、ひどく恐縮したように答えた。 「ハア、しかし、これぐらいになりますと、もう大型トラックにも積めないほど根が張っておりますもんで」  それはおそらくそのとおりであろう。男はあらためて、ようやく夕翳に沈もうとしている薔薇園の全景を見渡した。長い年月を咲き継いできたこの薔薇の群れは、ある日ふいに何者かの指令によって、鉄の固まりに|薙《な》ぎ倒され、押しつぶされる。土の下深くで息づいていた根までが無残に切断され、念入りに|篩《ふるい》にかけられて|地均《じなら》しされたあと、上いちめんにコンクリートが流されてゆくだろう。万一、僥倖に地下で生き残った根があったとしても、それで完全に息をとめられてしまう。このおびただしい薔薇はすべて記憶に変り、幻の残骸として埋め尽され、すっかり舗装ができあがったあとは、さまざまな形に教習場のコースが作られ、瀟洒なバンガローふうな事務所も建ち、やがて明るい色に塗られた練習用の車が走り出す。そこここに貼り出されるポスターが謳うように、川風の薫る、明るく広い快適な教習場が現出し、むらがるのは無心な、屈託もない若者たちだ。……  気がつくと、女は園丁にこう頼んでいた。 「それじゃあ、このフラウ・カール・ドルシュキーを、三本ばかり截って下さらない? うちへ持って帰って、つくかどうかやってみますから。いいえ、なんとしてでもつけなくちゃ、ね」  それから、沈んだ声で男にいった。 「三十本の白薔薇を飾って、今夜あなたのところでお通夜をしましょう」  立去る前に、男はもう一度この女王をふり仰いだ。それはまさしく白い墓窖であり、同時にひとつの王朝の終焉を、その歴史をさながらに映し出しているようだった。  夜、男の書斎に、あるだけの花瓶と、アイスペールまで持ち出して花を挿し終えると、二人は向き合ってしばらく黙った。灯の下で花はまた白さを増した。 「帰りの車でおっしゃっていた、教習場を狙い撃ちするお話、ね」  女が笑みを含んだ口調でいい出した。 「おもしろいけれど、でもどうして�過去からの弾丸�でなくちゃいけないの? 本当に計画しましょうよ」 �過去からの弾丸�、というのは、未来の教習場風景を思い描いていて浮かんだことだが、来年の三月か、あるいは早くて今年の秋か、いずれにしろ川風の薫るそこで、無心に運転を習っている若者の脚に、どこからともなく飛来する銃弾があってもいいという考えからだった。若者ばかりではない、教習場の所長室にも、あるいは本社のお歴々のところにも、一様にその見えない弾丸は、襲い、つらぬく。窓もドアも閉まったなりの重役室で、その革椅子にそっくり返っている生物をふいに貫通するものがあるとするなら、それは�過去からの弾丸�、いま現在、未来へ向けて発射されるべき薔薇の怨念だろうというのが男の考えだったが、�白人女�はもう少し現実的だった。 「そんな生ぬるいことで、彼らが何を感じるものですか。やるんなら、あそこが教習場として発足するその開所式当日に、いちばんのお偉方を狙って本当に撃たなくちゃ。どうせ連中は、胸に造花の白バラでもつけて、もったいぶって祝辞を読むでしょう。自分がどれほど大それた犯罪を犯したか、まるで気がつきもしないでね。その胸の白バラを狙って撃てば、まず外れっこないわ。本物の薔薇が、贋物のバラを襲うんですもの」 「胸を狙うのかい」  すこし心配になって、そういおうと思ったが、やめた。三十本の白薔薇に飾られた夜は、いかにも殺人計画にふさわしい。それに、�白人女�という呼び名のとおり、どことなく革のブーツを穿き、革の鞭を持った猛獣使いがふさわしいこの女は、実行力にかけては�車椅子�の男の比ではなかった。 「あたくしのクレーの腕は、ごぞんじでしょう。性能のいい狙撃銃が手に入るかどうかは判りませんけれど、もうトラップなんてまどろこしいことをやっていられないわ。開所式のあるまでに、みっちりラピッドファイヤの練習をするつもりよ。正確に、一発でそのけだものを仕留められるように。そしてむろん、その造花の白のバラが真赤に染まるのが見えたら、あとは掴まっても何しても平気。むろん銃と弾丸という、のっぴきらない証拠があることですから、すぐにも起訴されてたいへんな騒ぎになることでしょう。ただ、そうなっても、絶対に最後まで犯行を否認し続けるの。誰かひとりでも、動機をいい当ててくれるまでは。あたくしがこうして、フラウ・カール・ドルシュキーの遺児たちを育てていることを知ってくれるまでは。……」  そう、それなら、と男も思った。あの偉大な女王に最後の拝謁を仰せつかった身として、忠実な臣下であることを誓うのに、なんの否やがあろう。再興しようとしているのは、�美の王朝�にほかならないのだから。滅んでゆこうとしているのは、ただ一樹の薔薇ではないのだから。�車椅子�を出て、自分の二本の脚で立つときがようやく来たのだ。  三十人のいとけない王子と王女を囲んで、白い沈黙が続いた。  ……………………………………………… 「これがたぶん、一番その理由に近いと思うのですよ。つまり二人は、薔薇の夜を旅したのです」  語り終えて、流薔園の院長は、なお寂しそうだった。私がかねてから、�白人女�と�車椅子�の男と呼ばれる二人が、ここへ来るに到った理由を聞かせて欲しいと頼んでいたからである。 「実際にG**薔薇園が閉鎖されたのは三年前のことで、また実際にあの二人は、十二月の開所式にライフルを持ってのりこんだからです。弾丸は一発だけ射たれ、空しく初冬の青空に流れて、誰も傷つけはしませんでした。むろんそこに集まったお歴々は、自分の胸につけている白バラが、犯した覚えもない犯行の目印だなぞと気がつきもしなかった。薔薇がバラに復讐するなんて、聞いたこともない話ですからね。ですから、真相が明らかになりかけたときの驚きようといったらなく、とんでもない不祥事として揉み消しにかかったんです。警察でも殺人未遂で起訴するなど思いもよらず、銃砲不法所持ぐらいで片づけたかったのでしょうが、話がこじれて精神鑑定ということになり、二人に逢ったというわけです」  それはむろん、世間ふつうにいう狂気とは異なったものに違いない。ひとりは外部を、ひとりは内部を、ともに薔薇の夜を旅して、ともに|人外《にんがい》と呼ばれる異次元へ、この流薔園へ辿り着いただけのことだ。私は訊ねた。 「で、二人はその後どうなんですか」 「ええ、いつも一緒に暮しています。もう二度と離れることはないでしょう」  院長は妙な笑い方をした。 「じゃあそのフラウ・カール・ドルシュキーの三十人の遺児たちはどうしました」 「むろん一緒にここへ引取りましたよ。元気に育って、ちょうどいまいちめんに咲いています。御案内しましょうか」 「どうぞ、ぜひ」  院長につれられて、私は宏大な薔薇園の門をくぐった。色彩のシャワーが降りそそぎ、色彩幻覚のトリップが始まる。かねて話に聞いているとおりならば、�車椅子�の男の薔薇の根への偏愛はいよいよ深まり、その褐色のひげ根に巻かれる喜びを�白人女�にも教えこんだところであろう。  薔薇園の奥に、女王の遺児たちはかたまり合って白い合唱曲を流していた。みごとな成長ぶりである。三十本全部がうまく根づいたのだろうか。私は、順番に、ゆっくりと数えていった。しかし、どう数え直しても、その白薔薇は三十一本あった。 [#改ページ]    邪 眼  白い病室である。天井も壁も窓も、その窓の鉄格子さえ白一色の部屋で、純白のシーツに蔽われたベッドにも白い睡りがあった。昏睡を続ける青年を囲んで、白衣を着た三人の男が、影のように立ちつくしていた。彼らにとってこの青年はいわば名づけようもない患者であった。分裂症の治療を受けていたには違いないが、その昏睡は薬物や電気のショックによるものでけなく、ある白昼、突然に訪れた。そのとき彼は医師の質問にも答えず、ただひたすら雲母を貼りつめたような六月の曇り空を見つめ続けていたのだが、まったく不意に、あたかもそこに浮かんでいる巨大な邪眼に魅入られでもしたのか、すさまじい恐怖の表情をみせたかと思うと、水鳥の叫びに似た一声をあげてそのまま昏倒した。その瞬間から睡りは彼を包み、長く彼を蝕んだのである。   Evil eye.  といって、そのとき彼が何を見たのか、その後どのような夢魔に寄り添われているのか何ひとつ手がかりはなかったのだが、覚醒のためのあらゆる努力を斥けて日は過ぎた。だが、ようやく一年ほど前から、その唇はきれぎれな言葉を呟くようになった。克明にノートにとってみると、それは断片的ながら、ひとつびとつが短い物語の態をなしてい、さながら睡りの井戸の底から吹きあげてくる冷たい黒い風めいて、彼の陥ち込んだ夢魔の世界をかつがつに伝えていた。  妄想の源になっているのは、流薔園と名づけられた精神病院で、どうやら彼はそこの院長から、患者ひとりひとりの経歴を聞かされているつもりらしい。つまりこの青年の妄想には、架空の病院の、架空の患者の妄想が二重三重にからみついているので、しかもその話には奇妙な省略があって、なぜその話の主人公が流薔園へくることになったかについては、わざとのように伏せられていた。たとえば公園での老人と子供の話では、古井戸が曝かれたとき中に死体は一つしかなかった、というたぐいである。しかしその話のようすから推すと、ようやく彼が夢魔の手を逃れて、ふたたび地上に戻ろうとしている——今日明日にも覚めかかっているということが、病院側にも察しられた。 「ぼくには、かれが眼を覚ますということのほうが恐いね」  白衣を着た三人の中のひとりが、ぼそぼそとくぐもったような声でいった。 「知ってるだろう、『鏡の国のアリス』って童話。あの中でアリスが、お前は赤の王様の夢なんだよといわれて、けんめいに反対するのが判るような気特なんだ。ぼくたちみんなが、この青年の夢だったら、どうする。そして、もしかれが眼を覚ましたとしたら……」 「つまり、かれが眼を覚ますと同時に、おれたち三人とも、蝋燭みたいに吹き消されっちまうというわけかね、 Bang! てなぐあいに」  もうひとりが、皮肉な笑いで応じた。 「大丈夫さ。かれが夢見ているのは、流薔園とかいう、ありもしない精神病院だろう。そっちは消えるかも知れないが、こっちはあいにくと健在さ。つまりかれは、眼を覚ますと同時に、架空から現実の精神病院へお引越しになるんだ。向うと違って、こっちじゃ勝手に外へ出るわけにはゆかんから、永久にこの病院の名前は判りっこないよ」 「そうだろうか」  ぼそぼそ声は、まだ不安そうにいった。 「この病院の名を、最後まで気がつかれずに済むと思うかい」 「教えなきゃいいじゃないか」  皮肉屋はこともなく答えた。 「なにより逃げ出さないように、よく見張ることだ。もっとも、かりに病院の外へ出て、門のところであの古ぼけた、大きな木札を眺めたら、誰だってもう一度……」 「しーっ」  それまで黙っていた年かさの男が制した。 「そろそろ始まるぞ。用意はいいのか。これが終ったら、いよいよ覚醒だからな」  話し始める前、いつもしていたように、青年はシーツの中で苦しげに身をよじった。それは丹念に布に巻かれたミイラが蠢き出すような印象を与えた。唇はのろのろとうごき、不明瞭な音声が洩れ始めた。  ………………………………………………  門の前には、まだあの暗緑色に塗られた護送用の自動車がとまっているのだろうか。窓のない箱型の車に押しこまれてここへ運ばれるあいだ、おれは自分が玩具箱の中の古い玩具のように思えてならなかった。壊れたがらがらか、塗りの剥げた積み木。手足のもげた人形を入院させる人形の病院がどこかにあると聞いたが、そのうち、ませた子供は、自分の人形が気が狂ったと思いこみ、どうしても人形の脳病院を探してくれといいだすことだろう。ガラスの眼玉をとほんと光らせているだけの気違い人形。それがおれなのだ。 「ねえママ、あたいのブッチイ、また頭がおかしくなったの。見てやってえ」 「また悪くなったの? いけないブッチイだことねえ」  初めのころはひどく気味わるがったママも、このごろは慣れてしまって、気休めに人形の頭をなでてみたり、ガラスの眼玉を透かしたりするけれども、それで子供が満足するわけがないことは承知している。 「それじゃ、また叔父ちゃまに手術していただきましょうね。叔父ちゃま、お二階にいるかな」  そういってママが呼びにいっているあいだ、女の子は残忍な期待に胸をふくらませ、狂った人形を見つめている。ブッチイと呼ばれているおれは、腹話術師が抱えて歩くような男の子に作られていて、頬の肉がまるく盛りあがり、唇を歪めて、いつでも奇妙な忍び笑いを洩らしているみたいな表情を崩せないでいるが、こころは憎悪に煮えたぎっていた。 「さあ、ブッチイちゃん、またシジツしていただくのよ。嬉しいでしょ」  狂っているのはおれではない。少なくとも二十世紀までは、こんなことをいう人間のほうを、たとえ子供であっても入院させたものだが、今世紀の初め、なんとかいう博士の奇妙な論文が出て以来、人形がその代役をすることになった。しかも、おれのように、生きている人形が。—— 「どれどれ、どんな具合だね」  二階から降りてきた、叔父ちゃまと呼ばれる若い男は、そんなことをいいながら、いそいそと白衣を着こみ、くろぐろとしたつけ髭を鼻の下に貼りつけた。これは彼らが楽しんでするお医者さまごっこの服装である。それにしてもその顔は、なんと、かつておれの夢みていた流薔園の院長に似ていることだろう。  電気メスが取り出され、もう前に何度もあけられたこめかみの骨が切り取られる。ロボトミーという古い脳手術が、彼らのお気に入りの様式だった。こめかみに一センチ角ほどの穴をあけ、そこからへら[#「へら」に傍点]で僅かばかりの脳みそをかき出すあいだ、おれがどれほどの苦痛を味わうか、女の子は眼を輝かして見守っていた。しかもそれに堪えながら、なおおれは、腹話術師の人形らしく、テープを逆廻しするような早口で、おれの眼前に浮かんでくる幻覚について喋り続けねばならなかった。  おれが見ているのは広い浴室で、昔の風呂屋に似ていた。風呂屋といっても彼らは知るまいが、いたずらに天井の高いそこいちめん湯気が立ちこめている。タイル張りの大きな浴槽に浸っているのは、しかし人間ではなく、何頭かの馬であった。濛々と噴き出す蒸気に、馬たちは唸り声をあげ、脂汗を流してのたうっていた。その外には、三助ふうの恰好をした男が鞭を持って突立ち、冷酷な横顔を見せながら馬の看視をしている。そしておれはといえば、他の数人の男とともに、素裸でそこへ引きすえられ、おずおずと順番を待っているのだった。  順番を? そのとき、ようやくおれは気づいた。浴槽の中にいるのは、ほんものの馬ではなく、馬の皮を被せられた人間なのだ。彼らはこのおれと同じように、考えてはならぬことを考えた罰として、地上にふさわしくない思考者として、ひとりひとり馬の皮の中に入れられ、熱湯に浸けられているのであった。時間が来た。息も絶え絶えに赤茹でにされた彼らが引き出され、代りに鞭で追い立てられて、おれは湿ってじとじとする馬の皮の中に閉じこめられた。皮の匂いと熱気の籠った、そこは暗い洞窟だ。すでに下肢は灼けるように熱い。反抗する気力もなしに眼をとじながら、おれは、なぜ戦争中あんなにもおびただしい馬がいたのか、やっと判ったような気になった。あれらはすべて人間の変形にほかならず、あれこそミリタリストの陰謀だった!  激しい耳鳴りと息苦しさの中でもがきながら、おれの気力は尽きかけていた。斃れる前に、別な幻覚がおれを救った。いつ赦されたのだろう、おれの傍には、まだ少女めく妻が裸身のまま横たわり、柔らかくおれを受け入れようとしていた。おれもまたさっきのままの裸で、ああやっと帰れたんだと思いながら妻を抱いた。その唇に、思いのたけを捺し当てようとした。だが何ということだろう、おれの抱いていたのは女ではなく、同じように柔らかく白い腹部を持った、巨大な盲目の蛙にほかならなかった。そしてこれまでも、一度だって女は妻だったためしはなく、いつでも盲目の蛙であり、黒い眼玉をつなげたようなぬるぬるの卵を産み続けていることにもっと早く気がつくべきだったのだ。…… 「だめよ、ブッチイ、そんなお話をしちゃダメ」  ふいに女の子の声が耳もとでした。小さなこぶしをふり廻して話をやめさせようとしている姿が、ついで眼に映った。ロボトミーの手術は、どうやら終ったらしい。叔父ちゃまなる若い男は、まだ白衣のまま、憎悪と冷笑にみちた眼でおれを眺めている。それはもうまぎれもない、流薔園の院長そのひとであった。ああ、なぜもっと早く気がつかなかったのだろう、あいつは患者たちみんなから少しずつ脳みそをかきとり、それを薔薇の肥料にしていたに違いないのだ。でなくて、どうしてあの薔薇たちは、あんなにも美しく咲くわけはないのに。そのあげく廃人になった患者たちみんなを人形に改造し、生きている玩具として売りに出した。おれの脳に注入された記憶は誰のものなのか、もう判然とはしないけれど、その告発だけは最後まで続けることが出来る。おれが流薔園に放火し、みごとに炎上するあの建物に手を拍いたのは、まったく正しいことだったのだ。だのに院長だけは巧みに逃げだして、まだこんなところに生きのびているのか。 「お黙り、ブッチイたら。黙らないとお口をつねるわよ」  女の子はまだそんなことをいっている。おれはなんにも喋っていやしないのに。一瞬、奇異な思いがして、おれはガラスの眼玉をぐるりと廻し、あたりの気配をうかがった。そう、たしかに喋り続ける声だけがしている。それは|口迅《くちど》な、意味もよく聞きとれない話しぶりだが、呪咀と怨念にみちていることだけは判った。何を綿々と訴え続けているのか、いったい誰が喋っているのだろう。耳を澄まそうとするおれに、叔父ちゃまの毒々しい笑いが響いた。 「いいんだよ、ブッチイにもうひとつ口をつけてやったんだから。みてごらん、顎の下んとこ。これでもうブッチイは、心に思っていることを何にも隠せなくなったんだ。何でも喋ってしまうからね、聞いていて変なことをいったら、思いきり懲らしめておやり」  初めて声の主と、その綿々とした訴えの内容を理解したおれは、また初めてガラスの眼玉から滂沱として涙が流れ出るのを感じた。こんなにされてまで、まだ生きてゆかなければいけないのか。涙に曇ってぼやけた視界に、救いのように浮かんでいるのは、暗緑の箱型自動車だった。灰いろの風が吹きぬける門の前に、あれはいったいいつまでとまっているつもりなのだろう。それから、髪の毛の焼け焦げたようなこの匂いは何なのか。ふと手をやって、剃り上げられた坊主頭に触れたおれは、たちまち何をされたのか、はっきりと判った。おれはいつものとおり電撃療法を受け、獣さながらに吠え狂って、床の上をのたうち廻ったに違いない。女の子も腹話術の人形も、すべてその間の幻覚だった。…… 「さあ、もう泣かなくていい」  いつもの老先生が優しく肩を叩いた。 「これで君は帰れるんだ。治療はすんだよ。どうかね。よっぽど頭がすっきりしたような気がするだろう」  泣きじゃくりながらおれはうなずいていた。頭がすっきりしたかどうか、そんなことはおれにとってどうでもいいことだ。いまはただあの緑の護送車にのってうちへ帰るだけが望みなんだから。といって、うちというのはどこのことだろう。どこに本当の「うち」があるというのか。そしてそこにまたあの意地悪な叔父ちゃまがいないと、確かにいいきれるのだろうか。 「いやです先生。帰りたくないんです」  おれは体を固くして拒もうとしたが、老先生の笑顔はたちまちうしろに遠のいて、代りに三人の屈強な看護夫が、手とり足とりおれを担ぎ出そうとする。おれは暴れた。しかしいくらもがいても、檻から檻へ移される獣以外の生き方が残されている筈はなかった。ふたたび護送車の扉はとじられ、わめき続けるおれをのせて、車はどことも知れぬ「うち」へ向かって走り出した。  ……………………………………………… 「さあ、いよいよ御帰還になるぜ」  語り終えて青年がみじろぎをやめると、白衣の皮肉屋は薄い唇を歪めた。坊主刈りの頭をしたこの男の眼の中に、ふいに凶悪なものがよぎった。 「箱型自動車か。自分が乗ってきたことだけは覚えてるんだよな」 「先生を呼んどいたほうがよくないか」  これも五分刈り頭のぼそぼそ声が心配そうにいった。 「なあに、暴れたって知れてらあ」  皮肉屋は太い腕を剥き出しにし、残忍な笑顔になった。 「手間暇かけやがって、この野郎」 「しかし、なんだな」  年かさの看護夫は、感慨深くいった。 「これが意識を恢復したら、早速ロボトミーの実験に使うことになっているんだが、どこで聞いてたのか、昏睡していてもそれだけは恐くて仕方がないというふうだったな」 「こんな野郎の脳みそは、みんなかき出しちまった方がお国のためですよ」 「でも、ずいぶん変なことをいっていた」  ぼそぼそ声は記憶を辿るように顔をしかめた。 「何か月前だったっけ、一九七一年がどうとかで、アメリカの大統領がケネディだとかニクソンだとか。あれはどういうつもりなんだろう」 「おおかた時間旅行でもしているつもりなのさ」  皮肉屋は気にもとめないふうで、 「あと三十年も経つと、アメリカにそんな野郎が出てくるかもしれないがね、そんなたわごとはともかく、ルーズベルトは三選されてからというもの、めっぽう強気で、着々戦争準備をしてるっていいますぜ。一発、鼻づらにぶちかましてやりやいいんだ」 「今年はいよいよやるらしい」  年かさはおもおもしく腕組みをした。 「これは極秘の情報だがね、軍が南方へ進駐しようというのを、|松岡《まつおか》ひとりが反対してるんで近く|近衛《このえ》が松岡追出し策をとるだろうって話だ。そうなりゃ敵さんも放っとかんさ。いよいよわしたちもお役に立つときがくる。なにしろアングロサクソン民族なんてのは、ここの連中よりよっぽどいかれたのばかりだからな、やり甲斐があるというものだ」 「でも、戦争になったら、これなんかどうなるんでしょうね」  まだ少し気がかりらしいようすで、最後までぼそぼそのふくみ声が訊ねた。 「なあに、自分でいっとったろうが。それ、あのチャーリー・マッカシーのような人形の顔に似せて、ついでに手術してやるさ。昭和十六年というこの非常時に頭がおかしくなるような奴には、それが似合いだ」  ベッドの上で、青年は静かに眼覚めかけていた。その瞼は、いま徐々に徐々にみひらかれ、ついに大きく、いっぱいに開ききった。 [#地付き]〈幻想博物館・完〉