人外境通信      中井英夫 [#改ページ]       目 次 juillet 薔薇の縛め aout 被衣 septembre 呼び名 octobre 笑う椅子 novemre 鏡に棲む男 decembre 扉の彼方には intermede 藍いろの夜   janvier 青猫の惑わし feurier 夜への誘い mars 美味迫真 avril 悪夢者 mai 薔人 juin 薔薇の戒め [#改ページ]    薔薇の縛め  人外(にんがい)。  それは私である。  ことごとしくいい立てることでもない、殊更に異端の徒めかすつもりもない、ただ、いまは用いられることも少なくなったこの言葉に、私はなお深い愛着を持つ。人非人というニュアンスともまた異なる、あるいは青春の一時期に誰しもが抱くあの疎外感、いわれもなく仲間外れにされたような寂しさなどではもとよりない、ついにこの地上にふさわしくない一個の生物とでも定義すれば、やや近いかも知れない。どこかしら人間になりきれないでいる、何か根本に欠けたところのある、おかしな奴。そう呟きながらも、なお長く地球の片隅の小さな席にへばりついている哀れな微生物。  だが、そうした私の感懐とは別に、この地上にはさらに深く、さらに根強く別種の一群が存在すること、そしてかれらはまたいつか寄り集うて影の王国を、すなわち人外境を形づくっていることも確かな事実らしい。その扉は容易に開かれず、あるいはかりにあけひろげの扉から入りこんで、かれらの宴に紛れこんだとしても、人は気づかぬまま過ぎることが多い筈である。これから私が招待しようとするのは、その秘められた宴であり、それを取巻く囁きの森であり、血紅と漆黒のみが支配する城館の広間に他ならず、そしてそれを思い立たせその機縁となったのは、昨年六月から七月にかけてのヨーロッパ旅行であった。  旅行は主にフランスの優雅を極めた薔薇園を見て廻ることを目的としたが、その途次たまたま手に入れた『薔薇綺譚集』の中の一編が、それを私に唆かした。譚の舞台は中世の荘園というところらしいが、そこに語られている若い領主の奇矯な振舞が、私には時代を隔てた懐かしい友のように映ったのである。もとよりその時代には独特な発想法も生活形態もあって、一概に人外などといえもしないだろうし、中世の薔薇の歴史はまた意外なほどに伝わっていない。従ってここに記すのは私なりの勝手な飜案であり空想でもあって、中世という暗く輝かしい時代の雰囲気も果して伝え得るものか甚だ覚束ない。さらに怖れるのはこの話がすでに一部の好事家の間ではとうに知れ渡っているのではないかという点だが、ともあれ遠い異国の人でなしの宴に、いまは一夜を過していただければ幸いである。        ∴  世に隠れなきロザリアン大公妃の甥エグジール侯が領主の地位についてから、農民の評判は上々であった。地租は軽減する、作物の改良には援助を惜しまぬ、学芸を奨励して才能ある者は必ず引立てるというふうで、苛斂誅求に慣らされてきた領民にとっては、夢かと疑うばかりな善政が次から次と行われた。  北寄りの、地味には稍ゝ乏しい土地柄でありながら、布令が行届いて肥料と種苗との徹底した改良が進むと、両三年の裡には驚くべき増収が現実のものとなった。獣疫の予防に配慮が尽されたのを見ても進取の気性は信じられぬ程で、天然の要害に囲まれて侵略の虞もなく、貴族、僧侶、騎士、市民という身分制度はなお揺がなかったが、分を超えた権力をふるう者はいず、侯の威令は領土に|遍《あまね》く行渡った——|恰《あたか》もその頃から、とある黒い噂が忍びやかに囁かれ出したのである。  ひとつには侯もその奥方のミレーヌも、人前に出ることを極度に嫌ったことから流れ出た噂であろう。二人ともまだ若く、類稀れな美貌を喧伝されており、ミレーヌはまだしも折々はヴェールを掲げて優しい笑顔を惜しまなかったが、侯となると心を許した側近の他は近づけず、声は垂幕の向うに苦い憂愁を籠めて響くばかりであった。  宴会や舞踏会には絹のタイツの伸びやかな姿態を見せても、顔は必ずドミ・マスクに隠され、人びとはその秀でた鼻と美しい亜麻いろの頬髯の他に望み見るすべはなかった。従って噂好きな何人かは、ひそかにこう囁き交したのである。 [#ここから1字下げ] ——もしかして侯の顔には、醜い火傷の引攣れでもあるのではないか。否、もっと忌わしい皮膚病の徴候でも顕われているのではあるまいか、と。 [#ここで字下げ終わり]  この噂は、さらにもう一つの噂と重なって口から口に伝わった。北国の習いで薔薇の季は遅いが、その盛りの一日、侯を中心にごく内輪の宴が開かれる。だがその折の馳走は、すぐりのソースで味つけした鹿の肉でも、キャベツのブイヨン煮でも、さらには香りの渓谷を秘めた葡萄酒でもない、その宴席を取り巻く十二人の男女の裸形であり、かれらはことごとく薔薇の贄であった。すなわち強靭な蔓薔薇のひとつひとつが、選びぬかれた美少女と青年の裸身を犇々と縛めているので、容赦なく肌を刺す鋭い棘、|鮮《あざ》らかな血のしたたり、さらにはかれらの苦痛とも恍惚ともつかぬ表情を楽しみながら宴は続けられて薄暮から深更に及ぶという。  春の初め、新しい緑の茎の、さながら蜜蝋を滴らせたかのような柔らかい棘ならば、薔薇の縛めもむしろ甘美な情景かも知れない。しかし年を経た蔓薔薇の、魔女や鮫の牙、さては凍る波ほどに鋭い、したたかな尖りは、容赦もなく若者たちの滑らかな肌に喰い入り、それを裂くことだろう。みじろぐたびに新しい棘は新しい傷を生み、鮮血はとどまることがない。蜂や虻も群がっていよいよ増すに違いない苦痛を、かれらはどうやって堪え通すことが出来るのか、それについてもしめやかな噂が交されていた。すなわち毎年のこの薔薇の贄たちは、使者が回って早くから各地で候補者を選び、厳しい訓練をあらかじめ受けたのち侯の城館へ召出されるのだという。そこでさらに苦痛を快楽に亢めるまでの仕上げが施されてようやく薔薇と一体になることが出来るのだとまことしやかに伝えられたが、その措置はもとより極秘裡に行われることとて、どこに確証のある話ではなかった。  こうした黒い噂は、しかし|予《かね》ての善政のお蔭で、エグジール侯の徳望を損なうまでには到らなかった。そればかりか、館に引籠り勝ちな侯の、それが唯一の慰めというなら、人を殺すという訳ではなし、咎め立てすべきことでもないという意見さえあって、噂は下火になると見えながらまたふいに隠微な眼配せめいて交される程度に過ぎていたが、ここに一人の男、その名をセレストという牧童頭だけは、それがまぎれもない事実なことを知っていた。思いもかけずその春、彼は贄の一人を預けられ、苛酷な訓練を施すようひそかに命じられていたからである。  …………………………………………… 「それは儂とてどれほど驚いたか知れぬ。あの慈悲深い領主様がそのように非道な真似をなさろう筈がない。これはおそらく悪い側近の企みであろうとは疑ってもみたが、どうやら領主様じきじきの命令に違いはなさそうじゃ。それに、|孰方《いずれ》にしろこの秘密を守り通していわれた通りしないでは、儂の一族ばかりではない、この村の者たちに図り知れぬ災厄が舞いこむほど怠りなく用意が整えられている気配だてな、どうかひとつ、是非にも引受けて貰いたいのだ」  村の長老ルテランは、そういって白髯をふるわせた。 「幸いお前は牧場の外れの独り暮しで、気性も激しいかと思えば分別もあり、読み書きの出来るということが得難い取柄じゃ。というのは一週間ごとに領主様へ宛てて、訓練の有様と成果とを報告するというのが大事な勤めになっておるからでな、それを三回繰返して一人前に仕上げさえすれば、お前には莫大な褒美が約束されておるし、とりわけ調教に秀でた者は館へ召抱えられもするらしい。どうじゃ、引受けてくれるだろうな」 「判りました」  セレストは鋭い眼をあげてルテランを見返し、頬に不敵な微笑さえ浮かべて肯いた。 「しごきにかけちゃひけはとりませんや。しかしこの、皮膚に深い傷をつけてはならぬ、誇りを喪わせてはならぬてのが厄介でさあね。こいつが何のことだか……」  領主の使者が|齎《もたら》した命令書には、訓練の次第が事細かに定めてあったが、特に守るべきこととして冒頭にあげてある二つの戒めのうち、皮膚の傷は判るとして、誇り云々というのは、終の日の薔薇の宴に縛められ裸身を晒しながらなお昂然と頭を挙げて反抗の姿勢を示すほどでなくては、それだけ楽しみも薄いという意味であろうか。 「まあいいや。それで肝心な玉のほうは女ですかい、それとも……」 「それが男なのだ」  失望を揶揄するような口調でルテランは続けた。 「しかし女のほうがずっと厄介じゃよ。うら若い美女を裸にして傍に置きながら、決して犯してはならぬ、もし万一そのようなことがあったら火焙りは確実と思えという厳しいお達しだからな。男はその使者が離れた村から見つけて連れてこられた。ホレ、そこに……」  ルテランは立って一隅の帷を掲げ、手にした灯りを奥に差し伸べた。  不安に駆られた表情の若者が、粗衣を纏って腰かけていたが、それでも清冽な泉を思わせる涼しい眼で二人をふり仰いだ。 「名前はジュペールだ。銀十枚でいい働き口があると欺されて来たものらしい。ジュペール、こっちへ出てこい。その衣を取れ」  いわれるまま進み出て粗衣を落すと、光沢のいい白い裸身が露わになった。均整のとれた姿体は僅かな腰布に蔽われ、眼はいっそう哀しみと怯えの色を深くした。脚はぬかりなく鎖で繋がれ、手も固く縛められている。 「先刻から儂が諄々といいきかせたから、もう反抗はすまい。ジュペール、これが今夜からお前の御主人になるセレスト様だ。なんでもいいつけ通りに従うのだぞ」  セレストはふしぎな感懐に襲われてこの若い薔薇の虜囚を見つめていた。体つきはひどく優雅でいまだ稚ささえ窺われるが、おそらく齢は自分といくらも違わないだろう。毛深く逞しいセレストから見ると、頬も滑らかで生毛が|戦《そよ》ぐほどのこの若者は、まるで別種の生き物としか思えない。こんな華奢な男に命令書にあるような訓練が堪えられるかどうか、挙句、厳しい薔薇の棘に巻かれて一日を立尽すまでになるだろうかという疑問より先に、領主の奇異な好みが、ほんの僅かばかり理解出来るような気がしたからであった。  それはセレストにとって、いきなり深い陥し穴へ墜ちこんだような衝撃だった。しかもそこは暗い、湿った地底ではなく、意外にも緑豊かな、広々とした世界のように思われ、彼は自分でそれを訝しんだ。美しい男女を、縛めに堪え得るほどに鍛えること、それもおどおどといじけた獣のようにではなく、なお毅然として誇りを喪わぬ人間のままという証文の意味も、いまようやく理解のつくような気がする。セレストはなおも鋭い眼で裸の若者を見守っていたが、ルテランが足の鎖を外すのを待ちかねたように、 「来い」  と、低い声で命じた。  ……………………………………………  こちらで命じたことの返事以外は、決して自分から喋らせてはならぬ、食物は麺麭と乳と少しの果物の他与えてはならぬ、渇きと飢えに慣らすため、菓子や水を誘惑に堪えがたくなるほど手近かにおき、かりそめにもそれを盗むことがあったら容赦なく罰を加えること、主人への無言の奉仕、絶対の服従を躯に沁みて覚えさせるため、水浴と香油塗り、わけて足指の間を丹念に、必ず手ずから行わせること等々が最初の日課であった。ルテランの計らいで牧場の仕事には休暇が与えられ、セレストは人眼につかぬよう、この奴隷ならぬ奴隷の調教に取りかかった。  第一遇は柳の鞭がきまりである。それは翌朝早くから遠慮もなく飛んだ。これまでの生活からセレストにとっては暗い裡に起きるのは何でもないが、ジュペールにはそれが思いも寄らぬ苦痛らしい。夜は寝台の脚に鎖で繋がれ、|裘《かわごろも》を一枚だけ与えられて眠ることが定められていたが、セレストが眼を覚まして暫く様子を窺っていても、若者は一向に起きる気配もない。安らかな寝息と、無防備な、そしてむしろ倖せそうな寝顔を眺めているうち、セレストは次第に腹が立ってきた。意外に厄介な荷物だと気づいたからであった。  牧童を仕込むならいっそ簡単だが、これはいわば大切な預り物で、半殺しの目に会わせる訳にもいかない。いまはまだ幾分|孱弱《ひよわ》なこの若者を、あくまで美しいままに鍛え上げねばならぬことに思い到ると、セレストは奇妙な混乱に襲われた。これまで考えたこともない美というもの、それも男の、となると、どうにも手に負えない気がする。昨夜は何かしら肯けるように錯覚し、領主の望みどおりというより、それ以上に仕立ててやろうと気負ったのが嘘のようで、思いあぐねたセレストは俄かに床を蹴って跳ね起きた。さすがに気配に気づいて眼覚めたジュペールへ仁王立ちになり、すばやく手にした柳の鞭をしたたかにくれてやると、ようやく胸の|閊《つか》えはおりたが、もうこの時から彼は大事な調教に|躓《つまず》きを見せていたのだった。  朝寝坊という欠点を除いては、ジュペールは頗るまめに仕えた。食事の仕度、ことにも命令書で事細かく指示している水浴と香油塗りとは申分なかった。セレストは初めのうち擽ったがったが、じきにこの僕の繊細な指が、触れられたこともない躯の各部を入念に弄う日毎の奉仕に慣れ、むず痒い興奮と期待を抱くまでになった。ジュペールの食事は物静かで気品さえあった。盗みは彼にとって思いもよらぬことらしく、水や菓子の誘惑にのりそうもない。まったく口を利こうとせず、初めに変らず澄んで哀しげな瞳を見つめていると、セレストはこの亜麻いろの髪の若者の持つ優雅さに焦れ、ついに五晩め、おとなしく寝台の脚に繋がれて眠ろうとするのを足先でゆすり起こした。 「おい、お前はこれからここでどんな目に会うのか、知ってるのか」  ジュペールは黙って肯いた。 「いいか、鞭だってこんなものではなくなるんだぞ。恐くないのか」  やはりおとなしく肯く。のみならずその頬に微かな微笑を浮かべさえした。セレストはいっそう焦立っていった。 「そのあげく領主様のところで薔薇の樹にさせられるんだ。素っ裸で、棘という棘が躯に喰いこんで、幾日でもそのまんま放っておかれるんだぞ」  瞳の中でわずかに動くものがあり、それからやっとこう答えた。 「かまいません。私は薔薇の樹になりたいのです」 「貴様」  不意にセレストを襲った怒りが何によるものか、自分では判らなかった。矢庭に寝台を飛降りて若者の上に馬乗りになると、散々に打擲し、首を絞め、それでも倦きたらず唾を吐きかけさえしたが、ジュペールはいっさい逆らわなかった。のみならず、翌朝も変らず朝寝坊した。セレストはむしろ呆然とその寝顔を見つめ、すじの透った高い鼻が、ゆうべはしたたかに鼻血を出したのを思い出して愕然とした。彼はようやく、この手に負えない優雅さが、逆に自分の主人になりかけているのに気づいたのである。  ジュペールの眼を覚まさぬよう、静かに寝台を降りると、セレストはその足許に蹲んだ。裘から白い脚が伸びている。セレストはその足指に手をかけてそっと開いた。微かに桃色を帯びたその指の間には、ひとすじ、黒い垢が溜っている。しかしそれはセレストの眼に、この上もなく美しいものに映った。  ——命令書にあったのは、このことだったのか。  彼はそんなことを考え、なおも朝の光の中で若者の寝顔と足指とを交互に、いつまでも見つめていた。それから少しずつ、ゆっくり、その指の合間に顔を近づけていった。  ……………………………………………  一週間はたちまち過ぎた。報告書にはいかに自分が冷静苛酷にジュペールを鞭打ち、少しでもお役に立つよう鍛え上げたか事細かに記し、悲鳴を上げてのたうつ若者の描写まで書き添えると、彼は独り北叟笑んだ。領主様もこの俺と同じ心情に違いないと推察したからだった。ルテランが迎えに来、ジュペールを連れて去った。三日の後、新たな指示書とともに若者は戻され、第二週の訓練が始まる予定であった。  ——そう、今度来たならば、  セレストはその三日の空白にひどく焦々し、しきりに次の計画を考えた。  ——もっと思いきり非道いことをしてやろう。ふん、そうだ、女と違って男なら犯したことにはならないだろうからな。  だが、新たな命令書は意外なものだった。あの報告書どおりならお前はもう訓練を続ける必要はない、至急使者とともに領主の城館まで出頭せよというのである。まさか嘘がばれたとも思われない、たぶん褒美にありつけるのだろう、それともお城で調教頭に取立てられるのかと、さまざまに思い惑ったが、使者はいかめしい顔で物も言わぬので、旅は辛いものになった。  城館に着いてすぐ、エグジール侯のお召しがあった。せめて手足を浄め衣服を更めてと願い出たが許されない。間道を通って、人形としか思われない番兵の佇つ広間を過ぎ、これから先は一人で行けと突っ放された。どんな仕掛があるのか、扉はその前に佇つと自ら開き、セレストはついに侯の寝室へ導かれた。かねて話に聞いていたとおり、ドミ・マスクに顔を隠し、亜麻いろの髪も頬髯もいかめしいその人は、しかし愛想よく手を差伸べた。 「よく来たな、セレスト」  その声を聞いたときから、セレストの脚はいたく顫えて立つのもやっとだった。 「今夜はここに泊ってゆくがいい」  そういいながら侯はドミ・マスクを手早く外した。頬髯を|※[#「手偏+劣」、第3水準1-84-77]《むし》り取った。澄んだ哀しげな瞳がそのときだけ悪戯っぽく笑って、ジュペールはこういった。 「ただし、明日の朝はゆっくり朝寝坊させてくれるだろうね」 [#改ページ]    被衣  ……それが病んだ薔薇の樹の所為か、茸の惑わしか、それとも森の|魑魅《すだま》の誘いだったのか、ついに誰も知らない。ともあれ、それまでは、クレモンの奥方ほど信心深くまた慈悲深い方は、当節稀れであろうというのが|専《もっぱ》らの噂であった。  朝一番の御堂の鐘が森の樹々の|雫《しずく》を払い、遠い|野末《のずえ》にまで沁み渡って鳴り響く頃、いつもの|被衣《かつぎ》——フードのついたギャルド・コール、それもダルマチカ風の重い衣裳に身を包み、念入りにウィンプルと深い|面紗《ヴェール》に顔を隠した奥方は、供も連れず、木靴をしとどに濡らしながら|彌撒《ミサ》に急いでいる。篠つく雨、凍てつく霜の朝にもその姿は変ることがない。有難い説教を聴き、聖体を戴いてのち、修道僧の捧げて廻る鉢には、誰よりも大きな銀貨が慎しい音を立てて沈んだ。その帰るさ、独り暮しの老人や、病んだ寡婦の家には、声こそかけないが|生計《たつき》に困らぬ程の小銭が秘かに戸口に置かれる。富裕な商人であるクレモンは、好色で酒好きの救われぬ魂を持っていただけ、奥方の|面紗《ヴェール》の裡には、さぞや哀しみにみちた蒼白な貌があろうと噂された。  |扨《さ》て、そうして行ない澄まして日を送るうち、季節は北国の夏となって、とある美しく晴れた朝、御堂を出た奥方は、あまりな空気の香ぐわしさに、つい森の中へ誘われたのが仇になった。日頃は踏み入れたこともない奥の小径を気ままに歩くうち、遅咲きの薔薇が一株、恰度奥方の背丈ほどの高さで立っているのを見出したが、それは悉く虫喰いの、病んだ薔薇だったからである。葉といえば黄ばんで小さく縮れているか、何やら白く粉を噴いている様子。でなければ|疫病《えやみ》の紋章のように黒い斑点をちりばめ、枝は伸びかけて素枯れたまま、どうにか緑を残している蔓には、おぞましいほどに細かい虫が群れて取りつき、折角の新芽も蕾も|恣《ほしいまま》に喰い荒していた。それでも健気なその薔薇は、なお懸命に立って僅かな花を咲かしていたが、当然なことにそれは、畸型とよりいいようのない、いじけた、みすぼらしい紅を残すばかりであった。  その哀れな株立ちに眼を留めるより早く奥方を襲った感懐は、激しい嵐にも似たもので、四肢は顫え、唇はわななく他なかった。たちまち奥方は、 「あゝ」  と呻いて顔を蔽われたが、その白い繊細な指の合間からは、とめどもない涙と呟きとが洩れ続けた。 「あゝ、可哀相なお前。お前はたまたま薔薇の樹として生まれたばかりに、そんな姿となってもまだ薔薇の花を咲かそうと、|果敢《あえ》ない努力を続けておいでなのだね。その誇りの、なんという空しさだろう。しかるべき家の庭に生まれ育ったならば、充分に手当も受け、扶けられもして、巨きな花弁と強い香りとを垣根にも壁にも輝かしく開こうものを、こんな薄暗い森蔭に、|看護《みと》る者もいない老婆のようにうらぶれ、枯枝を杖のように|支《か》ててなお生きてゆかねばならぬとは。それでいてまだ誇りを失わず、薔薇の樹であり続けようとする痛ましさ、もういい、もうおやめ。そんな畸型な花を咲かすより、いまのお前にふさわしい邪悪な姿に変身しておしまい。人間とても同じこと、このような姿に堕ちたならば、いさぎよく誇りを棄てて|塵泥《ちりひじ》に|塗《まみ》れる生きざまを選ぶほうがどれだけましなことか。これまで御主イエズス・キリスト様に縋って、魂の苦患だけは救われたいと後生を願ってきた私だけれど、そして、せめてもと貧しい人びとに施しを怠らなかったけれど、思えば大それた望みを抱いたものだ。この一本の薔薇の樹さえ私の手にあまるというのに」  熱い涙に|噎《む》せ返って、ほとんど|転《まろ》ぶように元の径を辿ろうとする奥方の耳に、そのとき嗄れて深い声が囁かれた。 「そういったものでもございますまいよ、クレモンの奥方様」 「あゝ」  その囁きの主を眼にするなり、再び奥方が悲鳴に似た声をあげたというのは、それが|予《かね》てこの森の奥に栖む老婆と知ったからである。齢の頃も知れず、およそ顔立ちの似ても似つかぬ美しい娘と暮しているのは、おそらくどこからか|拐《かどわか》したに違いない、いや、老婆自身がおそるべき魔法使いなのだと取沙汰されていたが、いまこのとき、もっとも奥方が怖れたのは、薔薇の樹がそのまま老婆になり変ったかと一瞬、錯覚したせいであった。  その心を読み取ったように、水色の瞳をひたと据えながら老婆はいった。 「貴女様は確かに薔薇の樹に呪いをおかけになりました。邪悪な姿に変身してしまえと仰言ったからには、この婆があの醜い薔薇の化身だと思われても不思議はございません。ですが、町方の衆には魔法の妖術のと思われることでも、この森の中ではごく自然な営みである道理もお判りでございましよう。この森は生きております、恰度奥方様の家で煖炉の炎が生きておりますように」  そのいい方にはどこか真摯で、また親切な響きがあったので、奥方は稍ゝ安堵の息をついた。何より胸に懸けた十字架に手を触れている以上、どんな妖しい者でも仇することは出来ないと知っていたし、日頃の優しい心根から、異教の徒や無信心者ほど救いがあることを信じて疑わなかった。  老婆は言葉を継いだ。 「さあ、どうか御安心なさいまし。町方ではどういわれようと、この婆は森の掟以外のことはしようとも思わず、出来も致しません。森の中で道に迷われた方を無事に送り返すのが第一の勤めでございます。ですが、クレモンの奥方様、貴女様はあまりに疲れていらっしゃる。まずはこの婆の栖家へお寄りになって、少しだけお休み下さいまし。むさくるしくとも、暖いスウプも出来ておりますし、それに、ホレ、もうすぐそこでございます」  本当に、いわれてみれば俄かに疲れが体に重かった。咽喉も渇いて、この先不案内な森の中を一人で潜りぬける自信もない。 「でも、どうしてお前は、私がクレモンの家内だと知っているのかえ」  老婆の家へ連れ立ちながら、奥方はそう訊いたが、相手はこともない様子で答えた。 「何もかも森が教えてくれるのでございますよ、奥方様。梢のそよぎ、風の囁きがすべてをあらかじめ語ってくれます。お顔を見るまでもなく信心深い、お心の優しい方で、お子様は二人。上の坊ちゃまは気象の激しいところからいまは海の上へ出ていらっしゃる。下のお嬢様は、それはもう臈たけた、奥方様そっくりの美しい方だと、そこまで判っておりますからには、きょう、ふとした気の迷いで森の中へお出でになることも、薔薇の樹の痛ましさに涙されることまでも、すべてこの婆には見透しでございます。なんの、魔法なぞでありますものか。この森に翔び交う鳥の囀りさえ一日として同じことはございませんからには。さあ、もう着きました。汚くはしておりますが、ずっと中へお通り下さいまし」  奥方は物珍しそうに古びた小屋の内外を見廻していたが、それでもまだ胸の十字架から手を離そうとはしなかった。 「お前にも美しい娘さんがいると聞いたが、会いたいものだこと」 「ハイ、ただいますぐ参りまして御挨拶申し上げます。ですが、まあこちらへお掛け遊ばして、ゆっくりおくつろぎにならなければ。婆はちょっと召上り物を整えて参ります」  甲斐々々しく立働いて用意されたのは、洗い鉢に湛えられた美味しそうなスウプで、その柔らかな湯気は快く奥方の鼻を|擽《くすぐ》った。 「さあ、冷めませんうちに一口お召上りを。森でとれますものばかりで、お口に合えばよろしゅうございますけれども。娘は奥で支度をしております。一向に作法を知らぬ無調法者で、まともな御挨拶も出来ますかどうか」  奥方はようやく気を許して鉢を受取り、大きな木の匙で一口スウプを掬った。どんな香料で味つけしたものか、これまで嗅いだこともない香りが掠め、そっと舌の上に流しこんでみると、たちまち疲れも|医《いや》されるほどの味わいが拡がった。 「まあ、お美味い」  確かにそれは咽喉の渇きばかりではない、先程までの心の患いも、森の奥に一人でいる心細さもすっかり消えて、それはさながら天上に遊ぶといった甘美な気持にさせられるほどの飲物であった。 「お味がお気に召して戴いて、ようございました」  老婆は少し離れたところに立って、注意深く奥方の口許を見守っていたが、もうあらかたが、むしろ|忙《せわ》しないほどの動きで運ばれてしまったと見てとると、いっそう優しい表情になっていった。 「この森の奥でだけ取れる、変った茸のスウプなんですよ、奥様。どうかしら、体がもうすっかり楽におなりではなくって」  その突然に変った喋り方にも気づかぬらしく、奥方はなおも残り惜しそうに深鉢の底を掬いながら問い返した。 「娘さんはどうおしだろう。何も着替えることもあるまいに」 「まあ、まだお気づきにならないの」  不意に華やいだ笑い声が耳を打った。奥方の眼の前には、皺ばんだ老婆の代りに、輝くばかりの頬をした若い娘が、明るい色の衣裳で立っていた。 「さっきからここにこうしておりましてよ。クレモンの奥様、ようこそいらっしゃいました。スウプを気に入っていただいて、嬉しいわ。だって、幻茸を採るのに七日、煮て仕上げるのに七夜もかかりましたの」  鉢と匙を受取ろうとする腕が奥方の眼の前にあった。桃いろの皮膚に生毛が光り、これは紛れもない若い娘に違いない。 「何を驚いていらっしゃるの。あゝ、さっきの妖しいお婆さんがどこへ行ったかと吃驚していらっしゃるのね。どこにも行きはしませんわ。といってあたしに変ったってわけでもない、何もかもが入れ替っただけ。御覧なさい、この小屋だって」  いかにも、差し示されて初めて気づいたが、先刻の煤けた丸太小屋は跡かたもなく、内部は金殿玉楼というほどに輝き、それもことごとくが虹の光彩を帯びて燦いているのだった。 「そして一番お変りになったのは、奥様、貴女御自身でいらっしゃるわ。さあ、立って、こっちへ来て御覧になったら」  導かれたのは美事な大鏡の前で、その中に奥方は信じられぬものを見た。いわれるまま被衣を脱ぎ、面紗を取ると、鏡に映っているのはまさにこれから|眩《めくるめ》く恋に陥入ろうとするほどの情熱を籠めた瞳と紅い唇を持った乙女で、誰もが思わず見惚れずにいられぬその容姿は、どうしても自分のものとは思われない。 「これが? これが私?」 「そうですとも」  相手はすぐ|肯《うべな》った。 「あの悩ましい潤んだ瞳。どんな殿御の心も|唆《そそ》らずにおかない唇。それなのに貴女は、毎朝こんな重たい、野暮な被衣を着て、その花のようなお顔をわざわざ隠して、詰らない処に通っていらしたの。退屈で暗い、お墓の中そっくりの処へ。さ、こちらへ来て、自分でも見ないように、いいえ、触っても駄目、鎖の処にだけ手をかけて、その首に懸けていらっしゃるものをお取りなさい。そうっとよ、そうすればもっともっと貴女は美しくなれるわ。気をつけて、落さないように、さあ、この容器の中へ鎖ごと入れて、蓋をしてしまいましょう。大丈夫、旨く行ったわ。どう? ずうっと心が楽になったでしょう」  相手の娘は言葉巧みに十字架を外させると、自分でも見ないように容れ物の蓋をした。 「でも、でも私」 「なあに?」 「私、あの方にお仕えするって……、そう、ずっとあの方に……」 「莫迦ねえ」  娘はいっそう華やいだ声をあげた。 「もう貴女は何もかも忘れたの、あの方のことも家のことも。これからはずっとここで陽気な暮しが出来るのよ。貴女の美しさに相応しい、若い、立派な殿御がいっぱいいらっしゃるんですもの」  その言葉どおり、もう窓辺には派手な服装をしたお洒落男たちが幾人か顔をのぞけ、口ぐちに淫らな賞め言葉を投げかけていた。 「選り取り見取りよ、どんな男だって。ね、うんと下品な男になさるといいわ。安っぽい下司な男ほど床の娯しみは倍になるっていうもの」  娘自身も思いきって淫蕩なながし眼を男たちにくれ、鴉のような声で笑った。 「何を心配しているの。よくって? いままでの貴女はいつだってこの被衣を深く被り、面紗を垂らして歩いていたのよ。そりゃ、あそこでは思いきった寄進にもついたし、貧しい人に何がしか恵んでもやったでしょう。でも、そんなことは貴女でなくってもいい、つまり被衣の中にクレモンの奥方が入っていなくたって、誰でも出来ることじゃありませんか。ね、つまり貴女はただ被衣のお化けにすぎなかったの。お判りになったかしら。これからあたしがあの被衣と面紗をつけて貴女の家へ戻るわ。そうして夜も昼も祈っていたいからって、旦那様にねだってお庭の外れに祈祷室を作って貰うの。むろん秘密の脱け道つきでね。そうして明日の朝からは侍女の一人に特別手当をやって彌撒に行かせもすれば昼間は籠りきりで祈祷台に打伏せてるって寸法。誰がいいかしら。貴女のお付きには私の仲間が多いから大抵大丈夫ですけど、何なら祈ってる恰好の人形でも作らせましょうか。どう? 名案でしょ」  娘はそういうと、再び鴉のような声で笑ったが、主よ憐み給え、此度は奥方までが声を合せて笑ったのである。  斯うして森の奥の浅間しい肉欲の宴は、夜昼なしにその日から始まった。奥方が相手に選んだのは、肉瘤ばかりが逞しい粗野な男だったが、その男の何が気に入ったかといえば、それは男が|眇《すがめ》だったからで、行為の最中にも絶えず傍見しているような、あらぬ妄想を抱いているような表情に堪らなく惚れ込んだのだという。  娘は(あるいは老婆かも知れないのだが)一人で奮闘し、絶えずどこかから男と女を補充し、また一人でせっせと幻茸を採りに出て倦きることなくスウプを作った。しかし、斯かる破廉恥な、天を怖れざる肉の宴がいつまでも滅ぼされぬわけはない。程なく、高名隠れなき聖ビコルヌ、かつては半獣神でありながら不思議な徳性の故に洗礼を受け、遂には聖人の列に加えられたその人が、最後の苦行の地を求めてこの森を訪ね、魔性の者らを忽ち滅ぼした事蹟に就てはその地の所伝に詳しい。  驚くべきことに夫のクレモンは、最後まで妻の貞潔を疑わず、もとよりその所業も知らぬまま、被衣を着て早朝の彌撒に出、帰っては祈祷室へ籠って遂に顔を見せたこともない侍女だか人形だかを妻と信じていたという。哀れなその奥方は聖ビコルヌの手の一閃で忽ち迷いから醒めたが、身を恥じて隠れようとしたのを恩寵に救われ、秘かに祈祷室へ戻されて断食を続けたまま枯れるように死んだ。  それが病んだ薔薇の樹の所為か、茸の惑わしか、それとも森の魑魅の誘いだったのか、ついに誰も知らない……。        ∴  さて、先に続いて『薔薇綺譚集』の中から更に一編を紹介してみたが、異邦のわれわれにはこのどこに教訓があるのか、いささか見当のつきかねる気がする。薔薇の樹がどうなったかも分明でなく、クレモンの奥方の死後、その口から虫喰いの薔薇が噴き出して哀しい聖性を証したというなら、まだしも判ると思われるのに、そんな記載はどこにもない。あるいは聖ピコルヌに発見された時、奥方と眇の男とがどんな恰好で抱き合っていたとか、老醜の頬に紅白粉を塗り立てていたというなら、少しは潤色して書きようもあるのだろうが、下手な空想をつけ加えるのも憚られてそのままにした。  しかし、私が敢えてこの幾分稚拙な物語を選んだのは、この内容が殆んど現代に変らぬ点を滑稽にも思い、苦々しくも思ったせいで、例えば知合いの若い夫人で、マンモス団地に住んでいる一人は、日曜ごとに遠く離れた教会まで車を駆って礼拝に行くことを怠らぬが、その代り夜の所業となると……といった話柄は当節いくらも見られるところであろう。現代にも森はまだ到る処にあり、病んだ薔薇の代りとなるものや、幻覚剤にもまた事欠かぬに違いない。ただ幾許なりとも考えさせられるのは、そのときビザンツ風ならぬ現代の被衣とは果して何であろうという問題である。 [#改ページ]    呼び名  ……こうして『薔薇綺譚集』の貢を繰りながら、私の心は次第に沈んだ。|悒鬱《ゆううつ》は灰色の水を満たした大きな|甕《かめ》で、気づかぬ裡にその水は部屋に溢れ、部屋を湖に変え、心を湖底に沈めてしまうものらしい。いつ知らずその水が退き去るまで、心はそこで果てのない若さを|反芻《にれか》む他はない。 �綺譚�は何もヨーロッパ中世にばかりあるとは限らない、日本にも、そしてごく身近なところにもと思うと、私は不意に得体の知れぬ悒鬱に襲われたのだった。そこでは但し必ず�生活�といううっすらとした手垢めいたもの、|澱《おり》のようなものがまつわらずにいないので、近年、友人の画家・|矢川《やがわ》|澄人《すみと》を見舞った幾分滑稽な運命も、またその例外ではない。それは一人の、蒼白な頬をした少年によってもたらされたのだが、その背後には、やはり日本特有の、見えない汚れた手が働いて、薔薇の花片にもなにがしか泥の指紋を捺していったのである。  ……………………………………………  矢川の家の庭には、およそ百五十本ほどの薔薇が植込まれて四季を彩っていたが、それは花の美であるより先に、制作の合間、その手入に時間を費すことで、こよない慰めとなっていた。その花たちはあらかじめ厳密な色彩の構図を織りなすよう配置されていたが、薔薇の気紛れというよりはおのずからな遅咲き・早咲きがあって、剪定の時季をいろいろに工夫はしても、思うように咲き揃ってくれないというのが矢川の悩みのひとつであった。  妻のようこ[#「ようこ」に傍点]は、いつも広縁の椅子にショーツ姿の脚を投げ出し、庭に這いつくばっている矢川をおもしろそうに眺めるばかりだった。妻といってもいつものとおり、一年ほど前ふいに舞いこんできてそのまま居ついただけで、本名も知らなければこれまで何をしていたのかも分明ではない。ようこという名も、どんな字を書くんだと訊くと、めんど臭そうに、 「そうね、妖精の妖じゃどうかしら」  と答えた。妖子。しかしこの女には、その字面の感じから遙かに遠い稚さがあって、しなやかでいながら物憂い姿態は、最初のうちアトリエの中に新しい興奮をもたらした。矢川はもっぱらその骨を愛し、骨を透視することに腐心していたからである。  庭の垣根はいちめん蔓薔薇に蔽われ、そのしたたかに太い蔓はいま縦横に伸びて、容易に|撓《たわ》めることも難いほど力を持ってしまったのだが、咎はその棘にあった。一夜、矢川は警官の突然の来訪に愕かされたが、聞くと、通報があって、通行人のひとりがその棘に刺されて傷を負ったのだという。  ——たったそんなことで一一〇番したのか。  憮然とした気持で矢川は二人を眺めた。二人といっても同行の通行人は警官のうしろに隠れるようにしていたのだが。  これまでにも酔っ払いから捩じ込まれたり、通りすがりに嫌味をいわれることもあって、充分に気をつけてはいたのだが、よくよく垣根沿いに歩きでもしない限り怪我などする筈はないという自信があった。それも、おおよそは無理に花を採ろうとして掻き傷をつけるのだという見当もついていたが、警察まで来たのではそんなこともいっていられない。矢川はともかくも玄関の内に二人を招じ入れ、いかにも恐縮したように応えた。 「やあ、済みません、済みません。あの薔薇の奴、このごろすっかりいうことを聞かなくなりましてね。で、お怪我は……」  そのとき初めて訴えの主が前に進み出た。それはひどく華奢な少年で、矢川は何よりもそのあまりにも血の気のない顔色に愕かされたのだが、彼は左の手を前に差出し、それからこういった。 「ぼく、血友病なんです」  その左手には、ところどころ噴き出たばかりの血がまるい滴となって、その真紅の鮮やかさが意外な言葉とともに矢川を脅やかした。 「なんだって」  あらためて少年を見返すと、蒼白な頼、不安げな瞳は、いかにもその病気で知られるロシアの皇太子アレクセイを思わせ、矢川は腰を浮かせた。 「そりゃ大変だ。すぐ医者に行かなくちゃ。それより何か血止めを。おーい、ようこ」  うろたえて立騒ぐうしろに、ようこはもうネグリジェの上にガウンを羽織った姿で立っていた。妙に冷やかな眼で少年を見据えると黙って奥へ入ってゆく。 「|宮口《みやぐち》さんにすぐ電話しろ。救急箱はどこだ、救急箱は」  後を追った矢川に躯をすり寄せるようにしてくると、 「血友病ですって? フン、何だか判ったもんじゃないわ」  そんな、ふてくされた口を利いた。だが、結局は女の直感のほうが当っていたのかも知れない。近くの宮口医院で手当を受けるまでもなく、少年の血はもう止まっていた。医師も夜に起されたせいか、ひどくそっけなく、 「血小板やフィブリンの精密検査をしてみなくちゃ、何ともいえないね」  疑わしそうに歯茎を覗いてみたりしている。 「ぼくは前に血友病Bだっていわれました」 「PTCが欠けてるって?」 「判りません。鼻血が出るとなかなか止まらないんです」  少年は頬肉をいっそう引き緊めるようにして答えた。その癖は蒼白いままに燃えあがるかと思われるほどで、翳りの深い瞳と、あくまでも華奢な肩とを、矢川はとどろく思いで|窃《ぬす》み視た。これほどのあえかな少年には、いかにも怪僧ラスプーチンがふさわしいと思ったのである。後に聞いたことだが、ふつうは出血した折にフィブリンという繊維素が出て血球を固まらせるのだが、その最初のトロンボプラスチン生成の際に必要な因子が欠けると血友病を起すのだという。少年の透きとおるばかりな肌は、いかにもそのために余分な血のほとんどを放出したせいに思われた。  若い警官が挙手の礼をして帰っていったあと、矢川は近くだという少年の家に連れ立った。  |木村《きむら》|柾夫《まさお》、十七歳。  カルテに記入するときは確かそう答えたのだが、それをいうと少年は夜目にも涼やかな微笑をふり向けた。 「違います。本当はひろしっていうんです」 「ひろし? どんな字」  少年は勢いよく夜空に指でその字を書いてみせたが、もとよりそれははっきりしたものではなく、むしろ矢川に判らせまいとしてしたことのようだった。  矢川は黙った。齢のせいで人の名前を覚えることが苦手になっていることは確かだが、このごろは男女を問わず正式の名前なぞ必要でないタイプが俄かに殖えたことも事実だった。むろん画家という職業柄、そうした曖昧な人種とつき合う場合の多いせいもあるだろう。しかしこの先、石川とか鈴木とか中村とかいう同じ苗字がますます多くなり、人名漢字まで制限するという愚かな制度のお蔭で、名前もまたありふれたものばかりになってゆくと、あと二十年もしないうちに同姓同名は巷に溢れて収拾がつかなくなることだろう。むしろこの少年のように、あるいはようこのように、しなやかな肢体と柔らかな骨とを持ち、名のほうは何とでも新しく呼んでくれといわんばかりのほうが正しい在り方かも知れない。名づけるたび姿を変え、性格まで変えてゆく新鮮さを二人ながらに味わえるとするならば。  崩れかけたような木造の二階家が見えてくると、少年は、 「あそこです」  と指さした。それはいつも通るたび、よくこんな朽ちかけた家を消防がほっとくな、地震があったらひとたまりもないだろうなと思っていたところなので、矢川もおどろいたが、 「友達んところへ転がりこんでいるんです」  少年はそういうと、向き直って改まった挨拶をした。 「今晩はお騒がせして本当に済みません」 「しかし、大丈夫かい、君。もし傷がまたおかしいようだったら……」 「ええ、大丈夫です。どうもありがとう」  もう一度、涼やかな微笑をふり向けると、足早に去った。  ——なんという可愛い笑い方をする奴だろう。  というのが、その時の実感であった。それからまた、こうも考えた。  ——己も早くに結婚してりゃ、あいつくらいの息子がいるんだな。  矢川は何か独りで肯くようにしながら、夜道を家に帰った。  ……………………………………………  ようこがその奇妙な提言を聞いたのは、それから一週間ほど経ってからだった。いつぞやの少年を家に置こうというのである。 「冗談じゃないわ、そんな……」  ようこはとっさに気色ばんだが、矢川はおちついていた。 「いや、君にはあくまでも美しいモデルのままにいて欲しいのさ。実はあれから二度ばかり君の留守に来たんだが、係累はまったくないようだし、料理がいちばん得意だっていうんだな。家事がいっさい任せられるとなりゃ、君だって楽だろうし」  実のところようこの下手な料理に音をあげてというのが本音だが、そのことでは向うもだいぶ引けめもあるので、さすがにちょっと黙った。だが、またすぐ激しい口調になると、 「だって気味が悪いわ、血友病だなんて。包丁で指でも切ったら、どうするのよ」 「まあ、そりゃそうだけど、こないだも実際はたいしたことはなかったし、ごく軽い症状らしいよ。いいじゃないか、しばらく来てもらって、君がどうしても嫌だっていうなら、すぐ出てもらう約束にするから」 「あたしねえ、ああいう変に綺麗な顔立ちの子って嫌なのよ。何だか不吉な感じがして」  ようこはまだいろいろと難点を並べていたが、それでも少し折れる気になったのか、ようやく訊いた。 「それで、何ていう名なの」 「木村柾夫。木偏に正しいって書くんだが、名前はどうでもいいさ、好きなように呼べば。まあ一応、田舎の実家は確かめておいたがね。本人がデザイナー志望なんで、向うもこっちに来たがってるわけさ」  矢川はわざと嘘の名を告げた。柾夫という名をどうしてつけたのかは判らないが、それも案外少年の端正な横顔に似合っている気がする。北海道の出で、戸籍名は大柳ひろしとかいっていたが、そんな流行歌手まがいの名よりはましだろう。だが矢川が本当に呼びたいのはアレクセイ・ニコラエーヴィッチ——ニコライ二世と皇后アレクサンドラの狂信の裡に生まれ|育《はぐく》まれ、妖僧ラスプーチンの催眠術に飜弄されたあげく、ウラル山の東麓、エカテリンブルグで果敢ない十四歳の生涯を閉じた、ロマノフ王朝最後の皇太子の名であった。  呼び名。いちばんふさわしいのはアリョーシャだが、それではあまりに著名な長編のイメージがまつわりすぎ、といってアレックなどと呼ぶ気はしない。アレクセイのままではまた、姉のアナスターシャほど美しい|韻《ひび》きを伴わない気がする。  ——まあ、いい。一緒にいるうち、何かいい呼び名を考えつくだろうさ。  不承々々にようこが同居に賛成したあと、矢川はひどく浮き浮きとそんなことを考えた。三畳の居間を与えられてからというもの、少年の活躍はめざましかった。食事は朝昼兼用と、遅いめの夕食と二回だったが、朝は挽き立ての珈琲の香を欠かしたことはなく、その日の矢川たちの気分を見抜いたように、厚焼きのハムステーキが出るかと思えばシナモントーストとサラダでさらりと|躱《かわ》すこともある。最初の夕食に、アルミホイルで蒸焼きにしたミートローフに、軽く冷したボージョレを添えて出されたときは、矢川たちも思わず顔を見合せたが、あとで値段を聞いてその安さにまた一驚した。ただ料理を作るばかりではない、家計の出納はどこまでもきちんとしていたし、後片付けの手際もよく、台所はたちまち見違えるほどに磨き立てられた。客のあるときの折り|屈《かが》みのよさも目立ち、シャンゼリゼ辺のレストランでも勤まりそうな給仕ぶりだった。 「どういう子だい、ありゃ」 「いやあ、何となく転がりこんできたんだがね」  そんなふうにさりげなくいうときの楽しみといってはなかったが、ようこはまだ解けきらぬ顔で、 「そうねえ」  などといっていた。 「まあ、便利は便利だけど」  名前のほうは最初から木村君の一本槍で、慣れるにつれて柾夫君も混じるようになったものの、それ以上に進まぬのを矢川はむしろ喜んだ。それよりも日を重ねるにつれ、矢川の心には、これまでにないときめきめいたものがさざなみ立つのを、彼はひそかに怖れもし、みずから期待もしていたのだった。女については若いうちからむしろ自堕落めいたタイプを好み、ただそれがようこのようにほっそりと|撓《しな》う躯つきの場合に限って賞味していたのだが、仕事となるとおのずから別で、彼の作品には必ず透きとおるほどに薄じろい骨が描かれるのが常であった。制作が続くと、次第にその外側の皮膚までが疎ましくなり、衣裳を剥ぎとるようにその皮膚も肉も取り去って、しなやかにたわむ骨だけに自由なポーズをつけたくなってくる。その思いはついアトリエの外にまで持越されて、矢川はいつかようこの、かつては妖精のように思えた奔放さも自堕落さも鼻につき始めていたのである。  それは明らかに薄倖な皇太子アレクセイの訪れのせいに違いなかった。まだ呼び名は思いつかず、かれの裸身を描きたいとも思わなかったが、この蒼白な美少年と二人だけでいるとき、かれが青猫のように身じろきし、惹きこまれるような微笑を見せると、戦慄めいた快楽の予感が身内を走った。  ——女に倦きたというわけではないが、  矢川は自分に苦笑した。 [#ここから1字下げ] ——結局、中年になると、女より少年のほうが本当に必要になってくるのかも知れないな。ただ日本には、いまのところ薄汚い奴ばかり多くて、こんな、吸いこまれるような|靨《えくぼ》だの涼しい眼もとだのを持った子が少ないから、どうしようもないわけだけれど。 [#ここで字下げ終わり]  そんな心移りを見抜いたように、少年もまた明らかに矢川だけに甘え、いっそうまめに仕えた。ことに愛してやまない薔薇の手入を、家事の合間に喜んで手伝い、肥料作りや薬剤の撒布も抜かりはなかった。農家の出というわけでもないだろうに、妙なことを知っていて、米の研ぎ汁をやるといいだの、植穴はもう少し深く掘って、黒ボカと底の赤土との天地返しをしたらなどと口を入れた。 「おい、また薔薇の棘で怪我するとこと[#「こと」に傍点]だぞ」 「いえ、大丈夫です」  さすがに照れたように笑ったが、恰度ようこが内に引込んでいないと知ると、囁くようにいった次の言葉は、矢川の絵ばかりではない、そこに表わし得ないでいる秘密を見抜いてのこととしか思えなかった。 「焼き物には人間の骨を混ぜると綺麗に仕上るなんていうけど、薔薇にもきっと効くでしょうねえ。ことに女のひとの骨なんか」  矢川は呆気に取られて少年を見た。しかしそこにはいつものとおり端正な横顔があるばかりだった。しばらくして矢川は呻くようにいった。 「君も相当な小悪魔だな」  ……………………………………………  そのままで進んでいたら、乃至は矢川がもう少し積極的に出ていたら、少年と二人はようこの留守にアトリエの中、あるいはベッドの上でさえも、人知れずようこを始末するため、いろいろと策を練るまでになっていたかも知れない。少年のほうはそれぐらいを厭わぬ気構えがあったかと推察されたからである。  だが幸か不幸か、声は先に届いた。その声は少年の囁きよりいっそう残酷な響きを秘めたものだった。  買物に出た矢川が予定より早く帰り、重い荷物を裏の物置に入れようとしているとき、ようこの——いや、妖子の罵声が食堂の方でいきなりあがったのである。 「オイ、いいかげん肉料理ばっかり出すのはよしたらどうなんだい。こんなものより秋刀魚や鯵のひらきをジュウジュウ焼いたほうがよっぽど好きだって、昔から知ってるだろう。え、ひろし[#「ひろし」に傍点]。聞いてるのかい、ひろし[#「ひろし」に傍点]」  その呼び名は、哀れなほど深く矢川を刺し貫いた。それに続く「ハーイ、姐御」といった少年ののどかな声は、もう二度と耳に入らぬまでに。矢川は初めて中年ならぬ、残酷な老いの到来を知ったのである。  妖子と贋のアレクセイは、携えて家出をし、薔薇園はその後、廃れるままに置かれた。 [#改ページ]    笑う椅子  ……………………………………………  日あたりのいい草叢で、けたたましく椅子は笑った。およそ飾り気のないコロニアル・スタイルで、背もたれの部分は小割り板をあしらっていたずらに高い。|貫《ぬき》はゆるみ、座部は破損したあとにあり合せの木片を打ちつけただけというその椅子には、しかし、おかしくてたまらない理由があった。人間たちが傍にいるときは、それでも無表情に黙っているが、独りになるとどうにも我慢がならず、笑い出さずにはいられない。奴らときたら、まったく何も知らないのだ。これまでこの椅子をめぐってどれほどの血が流されてきたか、そもそもどんないきさつで生まれたのか、それさえ気に留める気配もないのだから、いずれまたすぐ、身いっぱいに真紅の血を浴びることになると思うと、いくら抑えようとしても、笑いはとめどもなくこみあげてくるのであった。  たとえばそれは四十年前の秋。  …………………………………………… 「|忠博《ただひろ》ちゃん、どこにいるの。忠博ちゃんたら」  居間のソファに凭れて、新着のファッション雑誌に夢中になっていた明子は、しばらく前から子供の声がまったくしないのに気づくと、慌てて立上がった。二階の子供部屋にもいない。また階下へ降りてみると、奥まった食堂は灯が消されて、フランス窓から月光が凄惨なまでに照りつけている。明子はわれ知らず身ぶるいした。  ——おや、椅子がひとつ足りない。  チラとそんなことを考えたが、いまはそんな詮索もしていられない。夫が留守のせいか、邸中がしずまり返って、台所にも女中部屋にもまったく物音がしないのを知ると、俄かに不安な思いにとざされた。  ——きっとまた御仏間だわ。御飯のあとはもう行っちゃいけないっていってあるのに。  姑のいる棟つづきの離れへ、足音を忍ばせるようにして行く。だが戸口に佇って中を覗きこんだ明子は、 「まあ、おばあちゃまり灯りもおつけにならないで」  思わず、立ったままそう口走った。  広縁の戸障子を明け放しにし、いちめんの月の光に影を浮かせていた姑の|兼子《かねこ》は、その声に無言でふりむいた。いつもながら妖婆めく姿に総毛立つ思いをしながら、 「忠博は参っておりませんの」  腰をかがめて訊く明子に、皮肉な嗄れ声が打ち返す。 「独りで庭へ出て行ったよ」 「お庭にですって。こんな時間に」 「ああ、お前に似て、月の庭で遊ぶのが好きなんだろうさ」  その言葉に含まれている異様な棘に気づくと、明子は思わず膝をついた。 「わたくしがどう致しましたって」 「お月様とお|戯《たわむ》れだということさ」  姑の声はむしろ淡々としながら、いきなり明子の秘事を曝き出した。 「|博行《ひろゆき》との結婚前に、お前があの|細川《ほそかわ》とかいう男とつきあっていたのはよく知ってるよ。それでも探偵社の報告を信用して、綺麗な躯で嫁いできたと思ったのが間違いだった。この三年、いっこうに切れてはいなかったんだからね。あげく裏木戸から引入れて、うちの庭で逢引とは、ずいぶん派手なことをするじゃないか」  ——見られたんだわ。  息を呑む明子へ、月光さながらの冷やかな言葉が続いた。 「いくら博行が旅行中でも、女中たちの眼というものがあるだろう。あれほどお月様が隈ない庭先で、よくもまあと不思議に思ったから、お|美代《みよ》を呼んで問いつめたのさ。大枚十円の口止め料だか買収費だかはここにあるよ」  不潔なものを払うように手が動いて、紙幣はかぐろく畳に舞った。 「きのうが立待、きょうが居待。あれから三晩考えたんだ。やっぱり忠博は孫なんかじゃない、お前と細川が乳繰り合って出来た子だってね」  明子の貌は白く凍った。 「おばあちゃま、まさか、忠博を……」  いいさして、いざり寄ると、ようやく底の坐った声になった。 「どこにおりますの、忠博は。さあ、すぐおっしゃっていただきます」 「どこだかねえ」  姑は——異形の老婆は、庭に顔を向けたままうそぶいた。 「おおかた、あの古井戸のへんで遊んでいるんじゃないかねえ」  明子は走り出した。裸足のまま庭へ飛び降りると、木立の奥の古井戸へ馳せ寄った。そこには、案の定、一脚の椅子が踏台代りに片寄せて置かれ、井戸の蓋は除かれて、涯もなく深い、かぐろい穴を——まぎれもない|墓窖《ぼこう》をのぞかせていた。  木立を洩れる月光は、到底その底にまでは届かない。しかし古井戸の冷たい石畳に両手をついて躯を支えながら、明子はそこに沈んでいるものの無残な姿態を、ありありと透視できた。あの妖婆のことだ。わざわざ食堂からダイニング・チェアーを持出すくらいだから、ただ欺して登らせたうえ、覗かせて突き落しただけとは考えられない。必ず残忍にその枯れた手で細い首を絞めあげ、あげく、ありったけの呪言を吐き散らしながら投げこんだことだろう。  その椅子の背を引っ掴んで仏間へ引返す明子の貌は、あきらかに笑っていた。笑いはますます拡がるばかりで、月光に半身を浮きあがらせたままの老婆を見ると、その笑いは耳まで裂けた。 「どうおしだい、お前の可愛い忠博は」  まだ揶揄するようにそんなことをいいかける相手へ、引きずってきた椅子を無二無三に打ちおろす。崩折れた躯へ、なおも叩きつけ続ける明子は、そのとき鋭い悲鳴を聞いた。悲鳴は怯えきって立ち尽す美代の腕の中に、固く抱きすくめられている忠博のものだった。  ……………………………………………  草叢で椅子は笑った。笑い続けた。もうひとつの、沁みついた血の記憶を甦らせたからである。  たとえばそれは三十年前の春。  …………………………………………… 「これはすばらしい。こいつは君、たいした掘り出し物だよ」  自分で古道具屋から自転車に積んで持って帰った小詰らない椅子を、独りで悦に入って自讃する夫の|康《やすし》を|梨枝《なしえ》はうとましく眺めた。 「だいぶガタがきて黒い|汚染《しみ》もついているが、なに、大したことじゃない。もとは大名華族の血すじの家から出たものだそうだがね、さすがに好みが渋いじゃないか。こいつは確か十八世紀の初めごろ、デラウェアの渓谷沿いで作り出されたものだが、のちにシェーカー教団の手でいっそう厳格な様式に統一されるんだ」  少壮の建築学者で、インテリアにもうるさいといっても、この戦争末期、家財も何もいつ空襲で焼かれてしまうかも知れないという時勢に、そんな講釈が何になるだろう。そっぽを向く梨枝に気づかず、康はいよいよ上機嫌で、 「こいつはぜひとも疎開の荷物に入れよう。あとの五脚はいつ届くか判らんから、何とかこれだけでも助けなくちゃ。せっかくアメさんの作り出した美術品を、アメさんの火で焼かれちゃたまらんからな」 「だって、あなた。昨日も茶箪笥を追加したばかりじゃありませんか。いくら軍の方で載せてくださるからって、そう次々に殖やしていったら……」 「いいさ、いいさ。|木崎《きざき》はおれのポン友なんだ」  康はまたいつもの台詞になった。いかにも木崎は、疎開先の高原にある技術研究所に勤める海軍大尉で、小学から中学にかけて夫の親友だったには違いないが、それへの遠慮というより梨枝には、いまのこの時勢に軍のトラックに便乗して疎開の荷物を運び出すことのほうが、肩身の狭い思いだった。 「ピアノだって頼んだ奴がいるんだぞ。何しろ奴は気がいいから、何でもかでも…」  いいかけて、不意に梨枝の横顔を窺うと、粘っこい口調でつけ加えた。 「しかし奴はまだ独身だからな。いいか、梨枝、お前がひょっとして……」 「莫迦なことをいわないで。|保夫《やすお》だっているんですよ」  梨枝は反射的に子供の名をあげていた。異常に嫉妬深い康のこうした妄想に、これまでどれほど苦しめられてきたろう。それもあまりな執拗さに梨枝が半ば呆れて、 「そんなにいうなら、少しは好きだったことにしてもいいわ」  ふてくされていうが早いか、やっと安心するという繰返しだった。しかし、それも長くは続かない。またぞろねちねちと疑い出し、責め立て、問いただす。それも同情していえば、この戦争でみるみる引き剥がされ、離されてゆく人間関係に堪え切れず、通常の夫婦愛に二重三重の嫉妬の糸をからませ、何とかそのしがらみを繋ぎとめようとしているのかも知れない。軍関係の仕事をしているといっても、いつ召集されるか判らぬ時だけに、せめてものそれが慰めなのかも知れない。しかし梨枝にはもうつくづくたくさんだという気がしていた。疎開しているうち、この夫が空襲で消しとんでくれたら、どんなにさばさばすることだろう。それに木崎は、これまでと違って架空の相手ではない、確かな約束さえ交した仲であるからには。  疎開先をその高原の古めかしい洋館と決めてからというもの、夫とともに、あるいは一人で、木崎とは屡ゝ会う機会があった。初めのうちその白皙長身の制服姿に不思議なときめきを覚え、康には絶対にない清潔な感じを好もしく思うだけだったが、最後には違っていた。凍雪の林の中で、木崎は白い手套で挙手の礼をする代りに、優しくそれを伸べて梨枝の手を引き寄せ、うやうやしく接吻したのだった。眼をあげる次の瞬間に、腕の中に抱かれていた。頼もしさと優しさとが、かつて知らぬ温もりとなって梨枝を包んだ。その長い抱擁と、灼き尽すような一度のくちづけだけが証しのすべてだったが、二人にはそれ以上の何もいらなかった。 「奥さん、待っています」  簡潔にそう囁いたすがすがしい声に、いま夫の|濁《だ》み声が重なる。 「おれは必ず、ひと月に二度は行くからな。朝早くか夜遅くか、それは判らんぞ。そんなとき、もしお前が……」  いつものとおりのくだくだしさも、今度ばかりは身に沁み、梨枝はひたすらに出発の時を待った。  雪溶けの川水が躍るように奔り、淡い色の茎や雪割草に約束の時間を事寄せる束の間の逢いは、しかしあまりにも短かった。急な命令で木崎が九州へ出張させられたあと、五月の大空襲に家を焼け出された康が、煤黒く汚れて辿りついてからというもの、高原は|衆合《しゅごう》地獄と化した。手に入る食物はキャベツに馬鈴薯しかないので、月に何度か康が米や肉の買出しに行く。警察を憚って帰りつくのは夜になるが、木崎がいないと知りながらその留守に男が来たろうと責め立てるのが、康の陰惨な娯しみとなった。 「そんなに疑うのなら、あたしを閉じ込めていったらいいでしょう」  思わずそう叫んだのが仇になって、康は嗜虐の眼を輝かした。 「ようし、望みどおりにしてやる」  牢獄は物置代りの屋根裏部屋だった。僅かな食物と布団と、それに便器まであてがってから、康は幼い保夫を負って買出しに出かける。百姓の憐みを買うためのねんねこ半纏を梨枝は侮蔑の眼で見おろした。梯子を取払われてしまうと、覗きこむ二階の床は眼も眩むばかり遠かった。おまけに一階からの階段が近くに口をあけているため、下手に飛降りでもしたら真逆様に下まで転げ落ちて、足を折るぐらいでは済まないだろう。一度めの経験で梨枝は、ひそかに丈夫な綱を隠そうとしたが、康の検査は徹底して、日がな一日、その屋根裏部屋で顫えの止まらぬ憎悪を守る他はなかった。  二度までは堪えた。しかし三度め、夜になっても帰らぬ康に、梨枝はついに我慢の限度を超えた。犀鳥という嘴の大きい鳥がいて、雛を育てるとき雌鳥は樹の洞の中に自分を閉じ込めてしまう。餌は雄が運んで小さな穴から与えるのだが、その雄が思わぬ猟師の手にかかることもあるように、夫も担いだ闇米の取締りにあって、一晩警察に泊められることだってあり得ないことではない。それにもうきっと木崎さんも帰っているに違いないと思うと、梨枝は血走った眼であたりを見廻した。帯を解いて巻きつけようにも、柱は降り口からあまりに遠い。そのとき暗い裸電球に照らされたものに、一脚だけ運んできた椅子があった。こちらで一度も使ったことのない役立たずな椅子だが、背もたれの長いこれは、逆さまにして座部をここの床に固定させれば、何とか掴まって一メートルぐらい下にはぶらさがれそうである。梨枝は熱心にその作業に取りかかった。二階も一階も電気はついていず、底知れぬ闇が口をあけている。いよいよ覚悟を決めて降りかけたとき、梨枝は玄関の方で、忍びやかな物音と人声を聞いたように思った。  ——木崎さん?  胸の裡に問い返して待ってみたが、それぎりで何も聞えない。しかし、夫にしろ誰にしろ、もう降りるほかはなかった。眼を|瞑《つぶ》って足をまずおろし、両手で椅子の背に掴まろうとしたとき、慌ただしく駆けあがってきたのは、やはり保夫を背負った夫のほうだった。訳の判らぬ罵声を発しながら梯子をかけて登ろうとする。憎しみの眼と眼が向き合った一瞬、重しの不完全だった椅子の座部は脆くも床を滑り、親子三人はもつれ合ったまま暗闇の底へ逆落しに落ちこんでいった。  ……………………………………………  草叢で、椅子は苦い笑いを浮かべた。自分の出生の記憶は、さすがに忌わしい気がする。作り出したのは、当時まだ珍しかった西洋家具店の親爺だが、それを注文し、あげくその上で血のミサをあげたのは、間違いなく悪魔の司祭ということになるのだろうか。たとえばそれは五十年前の冬。  ……………………………………………  注文の椅子六脚を大八車に積み、坂道に汗を流しながら少年店員が辿りついたのは、ひどく陰気な教会だった。玄関に出てきたその神父は、だぶだぶの黒い僧服に細紐を締め、見るからに異様な風体で怯えたが、中まで運んでくれといわれれば嫌ともいえない。しかもいわれたとおり、ストーブが赤々と燃えているだけの、がらんとした一室に運び終えると、神父はまるで少年の躯つきを値踏みするように眺め廻しながら、 「あなた、まだどこか、行くとこありますか」と訊く。 「ええ、近くにもう一軒だけ、お代を取りに」  おずおずと答えると、それで早く行って、そこに大八車を置いてから戻ってこい、そうすれば代金の他にもたくさんのお駄賃をあげようといわれて、少年は疑わずに引返した。珍しい菓子が出る、暖い飲物が出る。 「あなた、いくつ? 十七歳。それはすばらしい齢」  そういって神父が異様に眼を光らせたまでは意識があった。眠りこんだ少年を何のためらいもなく素裸にすると、三つずつ向い合せに並べた椅子の上に横たえる。それから鋭いナイフの|切尖《きっさき》が、白い胸から腹へ走った。一筋の鮮紅の溝を、神父は惚れ惚れと眺めていたが、やがて自分も僧服を脱ぎ棄て、筋骨逞しい全裸になった。金色の縮れ毛に蔽われた己れの胸を、今度はみごとに真横へ切り裂く。神父は静かに少年の上に重なり、二人の躯のあわいに、いま血の十字架が鮮やかに創り出された。  ……………………………………………  椅子は二人の重みに堪えた。堪えながら神父の碧いろの瞳を見ていた。何を希ってこんな振舞をするのか、これが何を念じての儀式なのか、そのときからもう判っていたような気がする。  たとえばそれは現在の夏。  ……………………………………………  事務に置かれて笑いを収めたコロニアル・スタイルの椅子に、いま三人の男女が近づいてゆく。夫婦と仲のいいその男友達。三人はこの椅子を高原の廃屋で見つけ出し、車に積んで自分たちの山小屋へ運んできたところだ。 「ちょっと直しゃ、まだ使えるよ」 「そうよ。りっぱなもんだわ」  夫の眼を盗んで、男と女の間にすばやい眼くばせが交される。  椅子はまたひそかに笑いを抑えた。夫婦とその男友達。つまりは二人の男と一人の女。二対一というこの永遠に陳腐な図式。これが続く限り、碧いろの瞳をした神父の念じたとおり、椅子の役目はいつまでも終らない。終る筈はないのだから。 [#改ページ]    鏡に棲む男  その季節になると|松原《まつばら》の心の裡に、きまって驟雨のように通りすぎるものがあった。それは冬も間近い暗い時雨かと見るうち、いつしか霧雨に変って、陰鬱にすべてを塗りこめてしまう。動かぬ窓、開かぬ窓を伝う水滴の向うに、人影は黒く行き交い、それでいてドアをあけてみると、濡れて拡がる大きな舗道に誰もいないことは初めから判っていた。雨を光らせて疾駆するのは、音もない車の群れにすぎない。  ——また独り取残された。  松原は老人のように呟く。その仄白い窓明りに照らし出されるだけの室内。せめて暖炉に燃すものをと思っても、何ひとつ見つかりはしない。灯に似たもの、炎に似たもの、何がしか心を明るませる暖い色はすでに去って、長い徒刑の日々が始まろうとしていた。  一つの椅子。一つの寝台。実際に松原の部屋には、その僅かな家具しかなかったし、心の中の室内にも同じような調度しか置かれてはいなかった。半身を映すに足る大きな鏡が、唯一不似合な贅沢品であったが、それさえも|立罩《たちこ》めた暗さを倍に拡げることにしか役立たず、そこに姿を見せるのは、怯えた眼をし、頬の|削《そ》げた青年でしかない。  鏡の中では、どちらが囚人であり、どちらが看守なのだろうか。きまった点検の時刻にきまって同時に現われ、肯いて同時に立去るこの|獄《ひとや》の|為来《しきたり》は空しいもので、空しいながら確実に行われてきたというなら。——松原は彼と顔を合せるたび、少しでも自分と違ったところ、自分ではない証拠を見つけてやろうとでもいうように、順番に眉だの鼻だの唇だのというありふれた造作を辿るのだったが、息を凝らしてこちらを見守っている相手の気配を知ると、先方の油断を見澄ましてという試みは、まず成功は覚束なかった。  かりに一つの精神病院に、医師と患者と一人ずつしかいないとするなら(それは屡ゝ一夫一婦制の夫婦の関係に似ているが)、どちらが狂人なのか、第三者にとって判別は困難を極めるに違いない。同じく看守も囚人もともにただ一人というここでは、その役割は日により気分によって変えられ、二人ながら看守、二人ながら囚人ということも多いが、それを|傍《はた》から確かめるすべはなかった。  むろん現実の松原は、もう一つのドア即ち現実のドアをあけて、買物にも行けば勤めにも出る。しかしその世界では、人間の行為はすべて精巧な、等身大の人形によって代行されていた。どこかしら無表情な、どこかしら冷酷な印象を与えるそれらの人形の中で、松原がもっとも気に入っているのは野菜を売るひと[#「ひと」に傍点]であった。かれはいかにも老人らしく造られてい、皺ばみ、血管のふくれた大きな掌をしていた。しかもその眼にはどこか哀しげな光があって、松原にはひょっとするとこれが人間でいながら人形のふりをして強制労働に就かされるという例の刑かとも思えてくる。ちょうど勤め先の松原のように、|堆《うずたか》い書類を窓よりももっと高く積み上げる作業の代りに、この老人もキャベツや胡瓜や人参やセルリーや、あるいは季節々々の果物をいっぱいに拡げて売っているのかも知れなかった。  松原はそこで緑いろの野菜だけを買った。緑だけが彼を慰め、喪われた遠い世界の記憶をひととき甦らせるからだった。それに、緑は、ほかのどんな色よりも優しいのだ。しかし、ピーマンは買わなかった。ピーマンはかれら即ち精巧な自動人形の科学者たちが、ついに作り出した怖るべき�贋の自然食品�であり、これほどの高度の技術は決して人間たちにはなかった。だが、それだけにこの人工野菜のいやらしさは比類がない。まず駄目なのは、その外側の色である。 �ヒト科生物に与える緑の効用について�とか、�残存遺種の緑色に対する反応�などという、もっともらしい研究のあげくに、かれらは贋の野菜の第一号に緑の色を選んだのだろうが、そのいくぶん暗っぽい色調は、決して本物の野菜にはない不快なもので、おまけに蝋状の物質で不自然な光沢を与えたため、かつての遠い記憶、母の時間を夢のように奏で出すあの優しい緑とは似ても似つかぬものになった。瘤のように盛り上がった形状も嫌味なもので、同じように肩を怒らせ、同じように緑の光沢を持つといっても、印度林檎のあの親しい手応え、あの優雅な重さ、そして流れるような色調と較べてみれば、この食品の卑しさは一目瞭然である。  しかもこれに包丁をいれてみれば、かれらの失敗はなお歴然とする。かれらはこれに匂いを与えた。しかしその匂いは、これまでのどんな野菜にもない、鼻粘膜を刺す異臭であって、同じく唐辛子の類として売られてはいても、原体とは似ても似つかぬ刺激臭がどれほど堪えがたいものか、もともと嗅覚の研究が一番遅れているかれらには想像もつかなかったのであろう。そして内部の、ついに充たし得なかった空洞!  肉の厚い果皮は出来た、白っぽい種子も驚異の発明として完成した。しかもその皮と種子との間に、本物の野菜ならばごく自然に充たされる筈の果肉だけは、ついにかれらの頭脳も作り出すことは出来なかったのである。うつろな頭蓋骨、ことに眼窩の窪みを覗きこむような暗い空洞こそ、この食品が完全な贋物、|擬《まが》い物、欺瞞と虚偽に充ち、僅かに残された人間の微かな記憶さえ消し去ろうとするための悪質な薬品のたぐいであることを立証している。松原は秘かに自分の墓碑銘を、   〈ピーマンを憎み続けし者、ここに眠る〉  としたい気持でいたが、それはこの薬品の普及によって、まだいくらかは残っている筈の、かれらのいうヒト科の遺存種が、その|棲処《すみか》から曝かれ、追い立てられることを怖れたからであった。彼自身はそれを唯一の反逆の証として、たとえば食堂で注文したピラフや|炒飯《チャーハン》に、細かに刻まれたピーマンが混っているときは、丹念に時間をかけて箸の先でそれを選りわけ、摘み出し、盛り上がったその残骸を皿の片隅に眺めながら、またもかれらの謀計にかからなかったことを感謝しつつ食事するのが常であったが。  だが、折角そうしてピーマンを置き去りにし、レタスやパセリやブロッコリーや、あるいは|莢豌豆《さやえんどう》、隠元、葱、|蚕豆《そらまめ》、白菜などの緑を、腕に抱えあまるほど持って帰っても、彼の室内ではそれら本物の野菜もまた忽ち色を喪い、影のように積まれて置き晒されるほかはなかった。  ——ここは暗すぎる。  思いはそれに尽きた。ここでは灯はその意味を喪い、かつては果物のように熟れた秋の灯火も、いまは自ら光を発することはなかった。少し前までは、それだけが松原にとっての最後の明りと思われた一本の蝋燭も、明滅し、さゆらぎ、何事かを誘いはしながら、却って自分を、それの手向けられた死者としか思わせない。手向けたのはむろん鏡の向うに棲む陰鬱な青年であろう。  今日も窓の外には雨まじりの風が吹きつけ、水滴はたちまち流れ伝わって現実の風景を溶かし出すと、そこにはくろぐろとした人影がしめやかに行き交い始める。記憶の行列。死者の投影。すでに喪われたものだけが映ることの出来る窓。  数日前から松原は、いつもの�煙草を吸う少年�が部屋の中に来ているのに気づいていた。それは昔の中国奇術の子役といった風体で、色の白い、おとなしい子だが、朝からきちんと椅子に坐って、ただ煙草だけを吸っている。口を尖らせ、慣れない手つきで、立続けに紫烟をあげていることは、部屋の中の濁った空気と、特別大きな灰皿にみるみる溜ってゆく吸殻の在り様とで判った。話しかけても答えず、腕を把ろうとしても突きぬけてしまうその虚体は、しかし次第に松原をいたたまらなくさせた。朝、起きてみると、たった一つの椅子はもうその少年に占領されて、わざとのようにスッパスッパと音をさせて煙草を吸っている、それ以外は何もしない少年は、松原を困惑させ、苛々させる。しかも窓はやはり晩秋の霖雨に塗りこめられ、室内は限りもなく暗い。  松原は久しぶりにドアをあけて外を覗いてみた。そこには相も変らず濡れて光る灰いろの舗道と、疾駆する黒い車とだけがあって、人間の姿はどこにもなかった。  ——旅に出るしかないな。  松原は心に呟いた。  ……………………………………………  そのとき黒い車の一台は吸い寄せられるようにドアの前に来て停り、客席の扉は音もなくあいた。ガラスに隔てられた運転席にいるのは、しかつめらしく制帽をかぶった男で、これも自動人形の一つに違いない。 [#ここから1字下げ] ——するとこれは奴らの招待というわけだな。よし、ひとつ誘いに乗ってみるか。 [#ここで字下げ終わり]  松原は珍しく強気になって、そのまま客席に入りこみ、シートに凭れこんだ。扉はすぐに閉って、黒い車は雨しぶきの中を走り出す。運転手は制帽を眼深に押しさげ、どちらへともいおうとしない。 [#ここから1字下げ] ——しかし、旅に出るしかないと考えたとたん、この車が停ったということは、 [#ここで字下げ終わり]  松原はいくらか眉をひそめた。 [#ここから1字下げ] ——奴らが己の心の中にまで入りこみ、どんな思考も傍受しているという証拠だ。こいつは油断がならないな。 [#ここで字下げ終わり]  旅へ、と自分は考えた。あてもない旅、といって無意識の底では、砂浜とか岬とか、あるいは火山の麓にある樹林地帯とか、|孰方《いずれ》にしろ海か湖の見える場所といった秘かな願望が働いていたに違いない。もしそこまでかれらが読み取っているなら、これはもう己の完全な敗けだが、まだそれほどは技術が及んでいず、それなればこそこうして己を乗せ、懸命に心の動きを追って少しでも深層心理へ近づく方法を完成させようと躍起なんだろう。だが、あいにくなことだ。己の行きたいのは喪われた過去、ほんの少しは人間たちが生き残っていた時代なので、かれらの黒い車は、決してそこにだけは行きつけやしないんだから。そのため、あんなにもぶざまに右往左往しているだけなんだから。  松原が考え続けている間に、車はいつか深い山奥に似たところへ差しかかっていた。ハイウェイはどこまでも続き、対向車の一瞬の光芒もしきりに行きすぎるところを見ると、まだそれほど辺鄙な山林の中というわけではないのだろうが、道の両側に押し黙って並んでいるのは、樅とか落葉松とかの高山帯の樹木に相違なく、忍び寄る寒気も次第に|徹《こた》えた。しかも視野いちめんを蔽いつつあるのはかつて知らぬ濃い霧で、ヘッドライトの照らし出す狭い範囲しかすでに視界は及ばなかった。路肩に並ぶ安全標識はその明りに照らされ、待宵草のように仄かな黄に光った。  霧はハイウェイの中央に漂い出て、さながら人魂か魔性の怨霊めく形でフロントガラスに襲いかかる。そして何度かそれが続くうち、どこも窓はあいていないというのに、車内までが濃い霧に包まれ始めていることを松原は知った。ようやく不安な思いが兆して、松原は仕切りのガラスを叩いた。 「運転手さん、いったい君はどこへ行こうとしているの。ねえ、ちょっと……」  運転手は初めて制帽の庇を撥ねあげ、バックミラーの中から睨み返した。 「きまってるじゃないか。己とお前とどちらか一人が残るために、決着をつけに行くのさ」  鏡の中の顔は、|慥《たし》かに松原自身に他ならず、その眼はこれまでになく憎悪に充ちた。 「己はお前に倦きたし、お前だってそうだろう。こうなりゃどっちかが従順な家来になる他はないさ。それを決めるのは決闘の他にないだろうからな」  喋る裡にその顔も肩も、さらにハンドルも計器の類もすべては霧の中に没し、松原自身も|噎《む》せるような霧の渦の中に埋もれて、自分で動かす手さえ見えなくなっていった。  ——決闘だって? 決着をつけるだって?  鏡の中の彼がいつの間にか脱け出し、黒い車の運転手に化けていたのも意外だが、愕きは彼が車を運転しているという、その点にあった。松原自身はまだ運転の仕方を知らず、覚えようとも思わなかったからである。両手両足をフルに使いわけ、眼と耳を絶え間なく働かせて緊張の連続を強いられるうち、運転手はいつかごく自然に、かれら[#「かれら」に傍点]の望みどおり自動人形化してしまう。いや、人形化計画のそもそもの始まりは、この夥しい車の氾濫にあったと考えている松原には、到底その席に坐って器械に変ずるまで待つつもりは最初からなかった。それを、こともなく、しかもさっき乗ったときからの運転技術を考えれば、相当高度にこれをこなすほどの、もう一人の松原の存在などあろう筈もなく、明らかにそれは第三者であり、顔がそっくりというなら何者かの扮した贋者に間違いはない。といってそれをもう一度確かめようにも、間のガラス仕切りは嵌込み式で開かず、すべては霧の底に沈んで、見えるものといっては対向車のオレンジに輝く霧灯の他にはなかった。  かりに運転席にいるのが本当に鏡の中の彼というなら、すでに絶対の優位に立っている奴といまさら決闘に及ぶまでもない、武器はピストルであれラピエールふうな長剣であれ、こちらの敗北は眼に見えている。 [#ここから1字下げ] ——それともかれらは、己が手に負えなくなってこんな贋者を用意し、何とか嚇かして己をもっと従順な人形にしようというのだろうか。人間の記憶をいっさい頭から払い落し、嬉々としてピーマンまで喰べるような無気味な新しい生物に変えたがっているのか。己はこれまで充分に勤め先では人形のふりをし、定刻がくるまで役立たずな書類を天井に届くほど積みあげる作業に熱中してきたというのに、それだけではまだ忠誠心が足りないという判定が下ったとでも? [#ここで字下げ終わり]  そこで松原は、見えないながらもう一度仕切りのガラスを叩き、運転席へ呼びかけた。 「おい君、君がそういうならいかにも決闘に応じもしようさ。それで、もしぼくが負けたら、今度はどうすればいいんだい。鏡の中に君が現われたら恭々しくお辞儀をして、囚人第一号、異常ありませんとでも報告すれば満足なの? そんなことで済むなら、何も決闘まですることはありゃしない、いつでもそうしてあげるよ。君だってまさか決闘でぼくを殺してしまったら、これから先、いつまでもからっぽの鏡、自分の映らない鏡を眺めるしかないんだぜ。さあ、もう家へ帰ろう。とっくに察しているだろうが、ぼくにはそろそろ、あの流しの傍に積まれたまま静かに腐ってゆく緑の野菜や、影のように坐っていつまでも煙草を吸っている少年が恋しくなってきたんだ。あれしかぼくの仲間はいないし、結局は雫の垂れる窓ガラスを内側から眺めているしかすることはないんだって、ようやく判ってきたところだからね」  しかし、そこまで譲歩し懇願しても、運転席に答えはなかった。松原の心に兆した不安は、ようやく確かな怯えに変った。いい気になってこの黒い車に乗りこんだのは、やはり間違いではなかったのか。かれらの管理する社会は知らぬうち苛酷の度を加えて、折角の発明品であるピーマンをわざわざ選りわけて喰べまいとするような不穏分子は、この際すべて消してしまうように決められたのかも知れない。でも、ピーマンだけは嫌だ。あの異臭だけは堪えられない。あの|髑髏《どくろ》の眼のような空洞を口に入れたら、心の中にいつまでも塞がれない黒い穴があいてしまうだろう。……  霧の中を車はなおも疾走し、処刑の場の断崖が近づいていることを松原は知った。死ぬ前にもう一度、自分の指を眺めたい思いがしたが、それさえ適えられそうもない。松原は左手で右手をまさぐり、その骨立った感触と、仄かな|温《ぬく》みとをいとおしんだ。  ……………………………………………  家に帰りつくが早いか、松原は何を措いても鏡の前に走った。期待と不安とは|交々《こもごも》胸を領して締めつけられるばかりだったが、いまそれは二つながら適えられた。鏡の中に、相手の姿はみごと消え失せていたからである。 「ああ、お前!」  からっぽの鏡の前で、贋の松原は悲痛な声を|迸《ほとば》しらせた。 「そうする気はなかったんだ。そうまでするつもりは己にはなかった。これはただ命令さ。命令でしたことなのさ。お前は決して悪い奴じゃない、ただちょっと、ほんのちょっと欠けているところがあっただけなんだ」  しかし、眼を挙げて、台所の隅に積まれたまま滅んでゆこうとする緑の野菜と、たった一つの椅子に腰かけたまま、無表情に煙草を吸っている少年の姿が——こちらには決してないその情景が眼に入ると、松原はふいに唇を歪めた。 「そうさ、馬鹿者めが。あの野菜の中にたった一つピーマンを入れてさえおけば、こんなことにはならないで済んだんだぞ」  憎々しげにそういい棄てると、山道でかぶった霧の雫と塵埃と、それからほんのちょっぴりついた血の痕を洗い落すために、黒い愛車の傍に戻った。 [#改ページ]    扉の彼方には  扉というものは、いったい出てゆくためにあるのか、それとも入ってくるためのものか、考え出すと|宮坂《みやさか》|四郎《しろう》には、それがただ一枚の板戸ではなく、ひどく堅固な鋼鉄とか岩のように思えてくるのだった。もとより生身の躯が突き抜けられる筈もない、頑丈な障害物として眼に映り、それが閉っているというだけで地底の牢に幽閉された気がする。扉には必ず把手なり引手なりがついているので、それに手をかけて押すなり引くなりしさえすればいいようなものだが、そこへ手を伸ばすその動作が次第にぎこちなくなってゆくのが自分でも判った。もしこの扉が出てゆくためのものでなく、入ってくるためのものなら、手を触れる行為そのものが違反であり、禁じられてもいる筈だ。�敵�はまた必ず扉の外に息を殺してこちらの様子を窺っており、規則に反して出ようとする者に容赦はしないだろう。引戸ならいい、左右に動く引戸なら、それは初めから出口も入口もない、共通の通路だ。しかし向うへか手前へか、どちらかしか動かぬ扉の場合、わけても内部から手前へ引く式の場合は、明らかにそれは入ってくるために作られているので、そこから出てゆくという行為が間違っていることは、誰の眼にも明白であろう。  一度その思いに取り憑かれてしまうと、宮坂はどうしてもこのアパートの自分の部屋に、二つの扉が必要なことを痛感した。第一、入るためのところから出てゆく、その罪悪感がたまらない。いまはまだ�敵�も少しは寛容に、いちいち咎め立てをせず、黙って見逃してくれているが、度重なれば決して放ってはおかないだろう。不意の銃弾か、有無をいわさぬ白刃が、ある日突然にこの胸を貫くことになるだろう。 [#ここから2字下げ] ——御免なさい。御免なさい。悪いことは知っているんです。そのうち必ずもうひとつ扉をつけて、それは外へ開くようにしてそちらから出ますから、ちょっとだけ勘忍して下さい。 [#ここで字下げ終わり]  そう口の中で呟きながら、ごく細めに扉を引き、廊下の気配を窺う。誰もいなければするりと躯をすべらせて抜け出るが、チラとでも人影が眼に入ると、大急ぎで扉をしめ、そこに凭れるようにして吐息をつく。 [#ここから2字下げ] ——危なかった! やっぱりちゃんと奴らは見張ってるんだ。そうして己の違反の回数を計算して、ある数になったら検挙するか、それともいきなり処刑しちまうつもりでいるんだ。 [#ここで字下げ終わり]  実際、廊下の向うの人物は、宮坂が急いで扉をしめ、またそろそろとあけて覗きにかかると、ひどく不審そうに、そして疑わしげに、さっきと同じ姿勢でこちらを見つめていることがよくあった。よくもそんなところから大胆に、図々しく出てこれるなというような咎め立てる眼をし、時にはそのままこちらへ引返してくる場合さえある。宮坂は押しつけるようにもう一度扉をしめ、把手を固く握りしめたまま冷汗を流し続けるのだ。そいつは扉の向うで何か独り言をいい、時には扉を叩いて呼びかけることさえあったが、蒼白に顔をひきつらして眼を閉じ、御免なさい、勘忍して下さいと呟き続けている宮坂には、到底その声は届かなかった。 [#ここから2字下げ] ——早く何とかしなくちゃ。こんなことがいつまでも許される筈はないんだから、出ていい扉を作らなかったら、もうすぐ己は処刑されるに決まっている。壁を破るのも大変だけど、でもどうにかして……。 [#ここで字下げ終わり]  血走った眼でうろうろと室内を見廻し、どこか簡単に破れるところはないだろうかと考えるうち、それもいわば収容された監房に勝手な脱け穴を作るようなものだと気づく。その方がずっと罪は重く、そんな作業に取りかかったら、それこそ光の射さない罰房に移されて、暗黒の石畳を這い廻らなくてはならないだろう。しかし一方で出口でないところから出ているという罪障感は、ますます強く彼を苦しめた。  部屋の中にいるとき、宮坂は決して内側から鍵を閉めたことがない。もともと罪人自身が鍵を持っていること自体が異常なので、本当は、もし内側から何とか外側に鍵をかけることが出来さえすれば一番いいのだが、人手を借りずには果せそうもない。その代り、うまく誰の眼にもつかず扉の外へ脱け出せた時は、歓喜に手が震えて、鍵穴にうまく鍵が入らぬことも屡ゝだった。これで奴はしばらく閉じこめられ、どう|足掻《あが》こうと|※[#「足偏+宛」、第3水準1-92-36]《もが》こうとしばらく出るわけにはいかない。鍵をかけ終ると宮坂は、部屋の中で苦しんでいる宮坂を思って胸を躍らせた。 「ざまァみろ、思い知ったか」  初めは小さな声でいっていたのが、だんだん大きく怒鳴るようになって、あちこちから人が顔を出すこともあった。宮坂はその人々に精一杯の笑顔を見せる。大丈夫、悪い奴はこうして閉じこめました、私があけてやるまで、奴はここで後悔と懺悔の生活を送るんですというその合図の笑いは、本当ならすぐ皆から肯き返される筈だのに、その連中は妙にお互い顔を見合せどこか不安気な表情をするのが気に入らない。 「大丈夫ですか、宮坂さん」  中にはそんなことまでいいかける者さえいる。 「大丈夫ですとも」  宮坂は意気軒昂と、抜きとった鍵を皆なに見せて廻るのだ。  ……………………………………………  一方、残された宮坂は、決して騒いだりはしなかった。腰をおろし、両手で膝を抱えたまま、考えることはひとつだった。どうしたら内側にいて外から鍵をかけられるかという問題である。人に頼まず、また人眼につかず、扉の外に差し込まれた鍵がそろそろと廻り、かちりと音を立てて施錠され、その上、出来れば室内の自分の手も届かぬ離れたところまで鍵が抜き取られて運ばれるにはどうしたらいいか、そればかりを熱心に考えていた。  機械仕掛というのは味気なくて嫌だし、後に何らかの痕跡が残るのも面白くない。ごく自然な形で好きなとき外から鍵をかけられ、自分が室内に閉じこめられるというのが、この課題の眼目であった。世に行われている推理小説には、被害者だけを室内に残して、犯人が外から巧みに中の鍵をかけ、しかもその鍵をたとえば屍体の掌に握らせるという、いわゆる密室殺人なるものがさまざまに考案されているらしい。宮坂の場合は話が逆で、決して内側からはかけられない状況で外から鍵をかけたい、それだけが出口ならぬ出口から出て行こうとする自分への罰であり、それで初めてもう二度と大それた行為をしなくなるだろうという期待があった。何かの参考になるかと思って、その密室殺人の手口もいくらか調べてはみたけれども、自殺する人間がある理由からそれを他殺に見せるため、外から施錠するというケースに|当嵌《あては》まるらしい。複雑な機械仕掛を除くと、たとえばこんな例がある。扉の内側に大鏡を立てて、変装した被害者自身が自分を訪問する。目撃者のいるのを承知で、鏡には被害者自身が写るようにし、変装した方は後ろ背だけを見せて室内へ招き入れられたように姿を消す。あとは大鏡だの変装用具だのを始末して被害者の姿に戻り、そこで倒れて死ぬと、目撃者はその間ずっと扉から眼を離さないので密室殺人が成立するというのだが、これではいかにも不自然で、宮坂の考えている趣旨には合いそうもない。それに、目撃者がそうそう都合よく見張ってくれる筈もないから、いつ発見されてもいいように——つまり一つの棺の中に身を横たえ、蓋をおろし、しかも外から人の手を借りず、充分な自分の意志で施錠するという形が望ましかった。確かに棺というものは入るもので、決して出るものではない。正確にいえば入れられるものだが、まだこちらが生きたままということになると、その仕掛は意外に複雑なことになりそうだった。  それともこうしたらどうだろう。外出するとき、わざと変装して宮坂とは思えぬようにしておく。扉の外へすべり出て、鍵をかけながらこれも声色で何かを怒鳴ると、いつものように誰彼がきっと顔を出すだろう。そこで顔を見られぬよう走りぬけて、ほとぼりの納まったころ帰って部屋に入り、宮坂自身に戻っているというのでは。しかしこれも、怪しい奴だというのですぐ一一〇番されたり、あるいは折角の健をこじあけられて中を点検され、誰もいないと判ると、やはりいま出ていったのが背恰好も似ていたし宮坂自身に違いないということになって、計画は何の効も奏しないのは眼に見えていた。むろん外の鍵だけは特別誂えの大きな南京錠にして、出来合いの安っぽい合鍵が利く扉の鍵などは使わないにしても、とっさの間の一人二役が出来ないのでは意味がない。犯人らしい奴が皆の眼の前で施錠し、一目散に逃げ出すのを|訝《いぶか》しんだ人々が、すぐ扉を破って入りこむと、もうそこに宮坂がいるというのでなければ駄目である。窓というものは初めから彼の念頭になく、部屋というものは壁も天井も床もない、ただ扉ひとつのついた空間として常に存在した。その扉が、出る扉か入る扉かだけが問題なのだ。  だが、そうして日夜考えこむうち頭に浮かんだ棺という想念は、ひとときひとつの啓示になった。棺には扉がなく、出入口は蓋になっていて、持上げて開けるか、おろして閉めるかという形を取る。死者は人形のように扱われるだけで、ここに自分の意志で出入りする奴は吸血鬼ぐらいしかいない。密室トリックを調べてみると、段々に手がこんできて、しまいには天井の一部を持上げて屍体を放りこんだり、あるいは屍体が先にあって後から部屋を建てるなどというケースもあるらしいが、これもおそらく棺からの発想であろう。その出入りの形式は長く心にとまって、扉ならぬ扉の存在を執拗に考えつめることもあったが、結局それは自分に課した重要な問題からずれたところで解決をつけようとすることだと反省した。扉だ、扉だけが問題なのだ。いっそのこともう、誰かが出ていいと声をかけてくれるまで、ここから出るのはよそうかと思った。心の痛みを押し隠し、周りの人眼を窺いながら外に忍び出て、いったい何をしようというのか。学校へ行く。しかし学校というものも、宮坂にはよく理解のつかぬものになっていた。そこにも扉があり、しかも大抵は明け放しになっているため、皆は平気で出入りしているけれども、それだって、もしかりに閉っていたら、宮坂にはたぶん手が出せぬものに変っていたろう。その大事な問題を語り合う友人は、そこには一人もいなかった。  あるいは部屋でつくねんと膝を抱えていると、ときどき現金書留が届く。それは紺の制服を着た郵便配達が持ってきてくれるのではなく、必ず管理人と称する小肥りの小母さんが受け取っておいて手渡すのだが、そのたびに扉の隙間から|胡散《うさん》臭げに中を覗き、宮坂の顔を気味惑そうに眺め、 「出かけるとき、あんまり変な声を出さないで下さいよ」  などと、つっけんどんに言い置いたりするのが堪えがたかった。そうして渡された金で、いったい自分は何をしているのだろう。パンだのバターだのトマトだのという喰物を買う。それで自分を養うという行為。あるいは町の食堂で、薄い味噌汁を啜るときの卑屈な温もり。それらも、ほんのひとときの許された自由の範囲でしていることで、部屋に帰れば、あの建物に一歩でも入れば、すぐ隠微な眼くばせと囁きと、時には聞こえよがしな罵りの声まで聞かされる、それが生活の全部なのだ。 「貴様はもう出るな。出ちゃいかん」  外から部屋に鍵をかけるとき、宮坂は大声でそう申し渡すようになっていた。中にいる筈の青年は、聞えているのかいないのか、ひっそりと音も立てない。  そしてある日、気配が違った。いつものように怒鳴って、念のためにガンガン扉を叩いていると、廊下いっぱいの人だかりは変らなかったが、その眼はすべて期待に溢れていた。宮坂だけがアパートの表に護送車の停ったことを知らなかったのである。白衣を着た屈強な男が二、三人、階段を駆け上ってきた。  …………………………………………… 「そうすると、君はうまうまと奴を閉じこめてきたってわけだね」  年配の男は、優しい表情で、いたわり深く話しかけた。 「ええ、もう大丈夫でさ。出られっこないすからね。なあに、出さえしなきゃいいんすよ。もともとあの扉はこっちから入るためのものだのに、奴ときたらもう長いこと、知ってる癖に中から平気で出ていたんだ。罰をくらうのは当然でさァ。まあこれでしばらく放っときゃ、いい薬になりますよ」  注射のせいとも知らぬげに、宮坂は饒舌になり、得意げに喋り続けた。 「だけどあそこはちょっと、閉じこめるには不向きなところでね。造りがひどく|柔《やわ》だし、鍵もね、初めのうちは両側から共通の穴ひとつしかなかったんすからね。ええ、あたしがこんなでっかい南京錠をつけたから少しはいいけど、窓に鉄格子さえ嵌ってないんじゃ、不心得者は勝手に飛び出しかねないすよ。それに皆な非協力的でね、あたしがやっと閉じこめてざまアみろっていうと、出てきてぶつぶつ文句をいうんだからなア。独りで大変でした」 「それは御苦労だったね」  年配者は逆らわない。あくまでも穏かな笑顔のままにいった。 「そうすると彼は、出口でもないところから平気で出ていたってわけだ。それはいかん。それはいかんが、君自身はすると何かね。看守の当然の権利として中へ入っても出るときは本来なら別の出口から出なくちゃいけなかったんじゃないか。何しろあの扉は入口で、出口じゃなかった筈だからね」 「ええ、ええ」  宮坂はうっすらと靄のかかってきたような頭をもてあまして、ためらい勝ちに答えた。 「ですからね、それは苦労したんすよ。ええといま何ていいましたっけ。カンシュ? そうだ、カンシュだ。看守は規則として入っていい。でも出るときはね、つまり奴のふりをして出るんです。奴がいつも規則違反をやらかすように、そうっと細目に扉をあけといて、誰もいないのを見澄ましてするっと、こうね、こうするっと体を|躱《かわ》して、うまーく忍び出るんでさ。まあ、それでもよく見つかって、また慌てて扉を締めたりしたけど、三遍に一遍ぐらいはね、成功するんです。で、出ちまえばもうこっちのもんですからね、ガチンとしめて南京錠をおろして……」 「ちょっと待った」  びっくりするほどの大声で留めると、男は俄かに眼を光らせた。 「それじゃあ証拠にならない。いいか、出てきたのが本当に看守の君だって保証はどこにもないじゃないか。もしかすると宮坂四郎が君のふりをして出てきたのかも知れん。オイ、欺そうとしても駄目だぞ。君は本当は宮坂なんだろう。そうだろう? よく自分を見廻して見給え。え? え? え?」  その声はいつまでも|谺《こだま》になって耳に響いた。それにつれて自分がずんずん小さくなり、椅子の上に一寸法師のように縮かまり、畏まっているのも判った。両手で耳を蔽うと、涙声になって懇願した。 「許して下さい、勘忍して下さい。そうです、ぼくは宮坂です。うまく欺して逃げ出すつもりだったんです。もうしません。しませんから勘忍して下さい」  見上げるばかりの巨大な赭ら顔の猿が、唇を捩じ曲げて笑った。鋭い犬歯が伸びるだけ伸び、その口はいまにも自分を一呑みにするほどだった。 「とうとう白状したな。出口じゃないところから出たらどうなるか、お前にはよく判っている筈だぞ。そうら、もう逃げようたって駄目だ。ほら、ほら、ほうら」  指先でつまみあげられると、テーブルの上に一吊しで運ばれ、何かの薬品の入ったビーカーに漬け込もうとする。足をばたばたさせても無駄だった。たぶん自分は濃硫酸か何かで骨まで溶かされるのだろう。宮坂は声を限りに叫んだまま失神した。  眼を覚ましたのは真白な部屋だった。窓も見えず、天井も床もただ白一色の部屋。そこのベッドの白いシーツの中に埋まっている自分を発見すると、何よりもまず自分の手の赤さが気になった。白い寝巻のまま裸足で床に降りると、今度はその足首の赤さが目立った。 「早く、みんなと一緒に白くならなければいけない」  そう口に出して呟いたが、それはどこかにスピーカーでもあって、そこから告げられた言葉のようだった。  白い闇のなかを手探りで歩き出したが、壁までの距離感がさっぱり掴めない。ようやく何か固いものにつき当る。まさぐってもどこまでも平面が続く、滑らかな手触りだった。眼を|瞑《つむ》って探り続けた。どこにもどんな小さな突起もないことを確かめ終ると、ようやく本当の安心感が全身にみなぎり、彼は床に崩れた。扉のないことだけが、いま唯一の救いだった。 [#改ページ]    藍いろの夜  枯芝の土堤は陽だまりに烟った。さすがにもうボートに乗る者はいない。風のたび|水皺《みじわ》を揺らしているこの濠も、やがて|薄氷《うすらい》を張りつめることだろう。 「こんどの正月には、ひとつ着物を着てみるかな」  そう|峻《たかし》がいい出したとき、|三輪子《みわこ》は一心に水面を見つめていたので、とっさの返事に詰った。 「え、ああ、いいわね」  それは、われながらお座なりないい方に思えたので、今度ははっきり横顔に向き直って訊いた。 「着物は、持っていらっしゃるの」 「いいや」  峻は前を向いたまま笑った。  その|皓《しろ》い歯、それは今年の四月に、アルバイトで入社したときに見せたそのままである。  ——|矢島《やじま》です。  ——わたくし、|岡田《おかだ》です。  初めての挨拶を交したときから、胸苦しいまでの思いに捉われたのは、堅い木の実でも苦もなく噛み砕くほどの、この歯のせいである。それから秀でた直線の鼻梁、それは、つねに横を向いている。これまで一度も——少なくとも三輪子が話しかけたときは、かつて一度もこちらに向き直ったことがないと思われるほど、それは端麗な横顔を刻んだ。三輪子がそこに見出すのは、早くに両親を歿くして独り住居をし、冬には猟銃を持って山に入るだけが娯しみという青年の、孤独な翳りではない。この半歳の余、こちらの好意だけは素直に、むしろ無遠慮に受け入れる�弟�である。その代り胸中の思いには決して手を触れようとしない�弟�の貌である。……   ——六つも齢が違うというのに。  自嘲はそのたび苦い葡萄のように|潰《つぶ》れ、三輪子は今日もまた光沢のいい鼻翼を|窃《ぬす》み視るほかはなかった。 「でも貴方には、デパートで売っているようなウールのアンサンブルなんか、絶対にいけないわ」  三輪子は力をこめていった。 「どうして」 「だって安っぽいじゃありませんか」  峻は答えない。どうせそれぐらいしか買えやしないという思いでいるのは判っていたが、和服というのなら峻には、ぜひとも|紬《つむぎ》を着せてみたかった。それも|藍甕《あいがめ》からいま引上げたばかりというほどのを。 「そりゃウールでも、このごろはずいぶん上等なのが出てますけど、貴方には似合わないわ。ね、こうしない? わたしの知合いの呉服屋さんでね、とってもいい生地をたくさん持っているところがあるの。そこでならデパートと同じくらいのお値段で仕立ててくれるかも知れなくてよ。一度御一緒してみましょうよ」  峻はふきげんそうに黙っていた。暮れのボーナスも、勤めたばかりのアルバイト学生では、出るにしろたかが知れている。ただ帰るべき故郷のないかれには、子供の時分からこの方、久しく着たことのない和服で正月を迎えたら少しは気が晴れるかと思い立ったばかりだから、めんどうに呉服屋まで行って、あれこれ三輪子に世話を焼かれるのは、うるさいばかりである。そう思うと、朝日しか当たらない自分の部屋で、元旦だけ仕立ておろしの着物で|畏《かしこま》ってみたいという気持もたちまち崩れた。 「風が冷たくなったな」  濠の水皺は俄かに寒々とひろがり、峻は尻をはたいて立上った。林や土堤の小径に、午の休みを終ろうとして帰りかける姿がもの憂げに動いた。 「何をしているの。帰ろうよ」 「ええ、いま」  三輪子は奇妙な微笑を洩らして峻の顔をふり仰いだ。ジャンパー姿の長身に、いままで夢みていた幻の裸身をすばやく重ね合せた。筋肉質の白い肌のそこかしこに、脱ぎ棄てた紬の藍が沁みつき、それはほとんど香い立つばかりに思える。三輪子は仕立ておろしの着物を、青年の素肌にじかに着せたいと希っていたのである。  ——結局、峻はその呉服屋に連れて行かれた。あらかじめ見立てておいたらしい生地は平織りの十日町紬というもので、峻には初めて見る高級品に思えたが、きょうは絶対にお値段のことを口にしちゃ駄目、呉服屋さんではそれはとても野暮なことなのと釘をさされていたので、こんな買物をしたことのない峻は、そんなものかと思って任せるよりなかった。 「そりゃあもう、お正月は平織りが結構でございますな、こう|畝《うね》の出ましたものは、やはりふだん着という感じでして……」  呉服屋の主人は寸法を採ってしまうと、もっぱら三輪子を相手に喋った。今日の三輪子はよそ行きのスーツに、これまでしたこともない大きな指輪をはめ、週刊誌やテレビなどで見る青山通りのミッシーといった風情でいるのが、峻にはひどく奇異に眺められた。 「殿方のお正月着ということになりますと、これはやはり下着からちゃんと致しませんと……」  主人はすっかり心得顔で、藍微塵の着尺地を押しやると、そんな講釈をした。肌襦袢や長襦袢、それに黒繻子の足袋は、お祝いにわたしから贈ると聞かされていたので、峻の心配はもっぱら角帯の締め方や羽織の紐の結び方にあったのだが、いま改めて下着からといわれてみると、何かしら|胡乱《うろん》な、淫靡な漂いがあった。果して主人は、とんでもないことをいい出した。 「まずお腰でございますな。これからきちんと締めませんと」  峻は呆気にとられ、呻くように掠れた声を出した。 「嫌だよ、オレ、そんな腰巻だなんて」  実際かれには、お腰と聞くが早いか、まるで自分が湯女か御殿女中の仮装でもさせられるような気がしたのだが、主人は笑いもせずにいった。 「いえいえ、これが不思議なものでございまして、これを召しますと初めてこう和服が身についたという気がなさいます。まあ|験《ため》してごらんなさいませ」  峻は眼を光らせて黙っていた。スコットランドふうにスカートをつけることを考えただけでも冗談じゃないという気がするのに、ましてびらびらの湯文字! それが自分の腰にまつわりつくさまを思うと、みじめたらしい男妾になりさがって、あさましく女の歓心を買うかたちとしか映らない。そしてかれは突然に気づいたのだった。それこそまさにいまの、そしてこれまでの自分の姿そのものではないのか。  峻の押し黙った憤怒を見てとると、三輪子は陽気に割って入った。 「いいじゃないの、そんなものは後のことで。それよりもお仕立てのほう、お正月に間に合せていただけますわね」 「へえもう、そのほうは確かに……」  近くの喫茶店で向い合うと、峻は|頑《かたく》なに、あんなもの要らないとだけくり返した。顔は伏せたなりなので、三輪子はせっかく正面に坐りながら、またしても光る鼻すじばかりを眺めることになった。 「ですから下着のほうは好きになさいな。あの十日町紬は、本当に安いの、信じられないくらい。ですから貴方はデパートで買ったつもりで、二万円だけお出しになればいいのよ。襦袢や仕立て代は特別にまけてくれるんですもの、御心配はいらないわ。ね、せっかくの晴れ着でしょう。少しでもいいものを身につけたほうがずっとお得よ」  三輪子はわざと値段を口にした、実際の差額の十万円ほどは、もし峻の肌に沁みついた藍の、その鋭い香を嗅ぐことが出来るものなら、なんの痛痒もない出費に思われた。 「いいんだ、オレ」  最後の弱々しい呟きには、とどめを刺すようにこう答えた。 「黙っていうことをお聞きなさい。しようのないやんちゃな弟ね」        ∴  その年のクリスマス・イブは月曜だったので、二人は一日早めに三輪子のアパートでささやかな祝宴を開いた。仕立てがその日に出来るというばかりではない、休みに入るとすぐに峻は山へ入るというので、一度その猟銃を見ておこうと思ったのである。丙種免許のポンプ銃と聞いていたので、案ずるにも当らないが、小さな鳥や獣を殺傷するからには、なにがしかの凶の紋章を帯びずにはいないだろう。  食卓には四本の太めなクリスマス・キャンドルが点されていたが、部屋の暗さは入ってきた峻の眉をしかめさせた。二十一歳のこの青年には、炎のゆらぎさえ純潔ならざるものの祝祭に映った。 「着物、出来ているわ、でもその前に、その銃をちょっと見せてちょうだい」  ことさらに胸の張りを誇張した白のドレスで三輪子がいうと、その姿は洞窟の奥に潜む古代の巫女さながらで、峻は黙ってケースを開いた。 「まあ、美しい」  素直な讃嘆をいおうとして、声は咽喉につまり、へんに嗄れた。初めて間近かに見る銃は、漆黒の銃身も、木目の美しい|銃床も、すべて若い、清潔な男性の化身のように思われて、三輪子は息をのんだのである。この銃口は火よりも熱い何物かを吐き、瞬時に稚い小動物をのけぞらすことだろう。 「これで、何を射つの」 「|鶫《つぐみ》か土鳩ぐらいさ。野兎にでも逢えりゃいいけど、こんなの、玩具みたいなものだもの」 「その野兎は、さぞ白いでしょうねえ」  三輪子は、意味もないことをいった。胸のあわいを射たれ、僅かに血が滲んだとしても、小動物はまだ死んではいない。|蹲《うずくま》り、待ち佗びるのは、落葉を踏みわけて近づく、しめやかな跫音である。眼を輝かせ、息を荒くして獲物へ手を伸ばす若者である。三輪子はもう一度、漆黒に輝く銃身に見惚れた。この長い、鍛えぬかれた脚。これはまさしく�弟�のものだ。�弟�そのものだ。…… 「ああ、わたしもこんな銃が欲しいわ」  三輪子は本音をいった。 「さあ、先に葡萄酒で乾杯しましょうよ。今夜は少し強いお酒も用意してあるの」  暗い灯の影で三輪子はグラスの血紅色をいとおしんだ。ロースト・チキンを暖め直し、冷した山盛りのサラダが青年の口唇へ勢いよく運ばれるのをこころよく眺めた。峻の酒量は知れたもので、眼元には早くも潤みがつき、優しい表情になっている。いまならば仮りにギターを持たせたら、かき抱いて低く恋の歌を唄い出すだろう。三輪子はバーゲンで仕入れたスコッチで、手早く水割りを二つ作ると、その一つを蝋燭の灯に|翳《かざ》した。 「ごらんなさい、氷の美しいこと。わたしもきょうは少しいただくわ」  三輪子は青年期特有の純潔を、少なくとも純潔好みを知っている。どんな誘惑もそれが|生腥《なまぐさ》い舌のように見えたが最後、容易に身を翻す性癖を知っている。かつて峻が二度とあの風呂屋には行かないぞとか何とか、ぶつぶつ言っているのを訊いてみると、番台の親爺が冗談に、そんなにのびあがってまで女湯を覗くなよと笑ったからだと知っておどろいた。そんな些細なことにも傷つく性の悒鬱をいっぱいに抱えこんでいるからには、媚態のかけらでも示すが早いか、すぐにも暗く顔をそむけて遠くへ立去ることだろう。三輪子は軽やかなアルコール分子が、峻の血管の中で奔騰するのを待った。それで何を誘うというつもりはない。ただかれの血潮が四肢に若々しく充実し、その極まりの果てに藍の香で蔽うひとときを焦がれたのである。 「そろそろ着てごらんになる、着物」  三輪子はさりげなくいった。とはいえそれは充分な間合いを測った上のことで、曖昧に笑って「まあいいや」などとはいわせない響きを持っていた。 「お襦袢も出来ているけど、貴方、おいやでしょう。ぞろっとして。素肌へじかに召したほうがいいね。きっとそのほうがお似合いよ」  |畳紙《たとう》をひらきながらそう続けたが、峻は意外にも、はにかみながらこんなことをいい出した 「ねえ、そのお腰ってのも出来てるの」 「ええ、入っているわよ。どうして」 「オレ、友達にいわれたんだ。男でも女でも和服っていうのは下着で着るもんだって。だから一度、ちゃんと着てみたいんだよ」  それがアルコールの作用というなら、三輪子にとってはとんだ計算違いであったが、いまさら反対する理由もない。三輪子は黙って二つの畳紙を押しやった。 「お願いだから向うを向いててよ。絶対に、だよ」  壁に向いた三輪子のうしろで、手早く服を脱ぎ棄てる音がし、影は部屋いっぱいに大きくゆらいだ。臆面もなくここで素裸になれるというのは、アルコールのせいでもなんでもない。わたしを女でなく姉としてしか見ていない明らかな証左であろう。   ——念願どおりじゃないの。  三輪子は自嘲した。とはいえその自嘲は、ほとんど憤怒に近かった。 [#ここから2字下げ] ——呉服屋ではあれほど怒ってみせたというのに、なんという裏切り! [#ここで字下げ終わり]  三輪子はむかし何かの雑誌で読んだ、さる新派の名優が、弟のところへ行く姉に扮する心がまえを作るため、舞台ではもとより必要のない猿股を一つ、箱の中へ入れて抱えたという芸談を思い出していた。下着の心配までしてやるというのが�おんな�でなく�姉�の|証《あかし》になるのかどうか、そこのところは疑わしいが、それにしても猿股と違って腰巻というのは、どこか滑稽で、締らない。 [#ここから2字下げ] ——ああ、もしそんなものをつける前に、紬をわたしの手でひろげ、裸のうしろ背からふわりとかけてやることが出来たら、そうしてたった一秒でもその肩に鼻を押しあてることが出来たら! [#ここで字下げ終わり]  しかし、三輪子の希いの刻はすでに過ぎつつあった。その引緊った白い腰はだらしなく湯文字に巻かれ肌は襦袢に隠され、そして上から藍の紬をまとった恰好でふり向くと、峻はこともなくいった。 「もういいよ。ねえ、角帯の本式な締め方、ちゃんと聞いてきてくれた?」  それにしても藍の香りは、そんなにも早く飛び去るものであろうか。峻の肩に手をかけ、帯にも手を添えて締めるのを手伝ってやりながら、三輪子は久しい念願だった鼻を撲つ筈の香りが掠めもしないのを、ふしぎに思う気持もなかった。 「そ、一回廻すごとにポンポンと叩いて、手早く締めこんでゆくのよ、そんなぐんにゃり巻いたら、さまにならないわ」  声は少しは尖っていたに違いない。 「どうしてかしら、腰骨の下にきりっと巻きつけたら、そんな、ずれるなんてことないのに。痩せてる人って、やっぱり和服には向かないのね。そうだわ、おなかに手拭でも挟んでごらんになったら」  いかにも、いま三輪子が涙の滲むほど欲しいと思い、傍にいて欲しいと念じたのは、父親のように大きく突き出た腹を持ち、父親のように暖い微笑を絶やさない、これまで一度も考えたこともない肥り|肉《じし》の男性であった。その傍でならわたしは、何日でも安心して眠り続けることが出来るだろう。…… 「履物は自分でお買いなさい。この着物なら革の鼻緒の、五千円ぐらいするんじゃないと合わないわよ」  邪慳にいい放つと三輪子は食卓に戻った。あまりにも長く、不当に自分を苦しめてきた年下の男性への愛着が、いま残りなく虚空に翔び立つ思いに浸りながら、いつまでも水割りのグラスを揺らし続けた。        ∴  峻は山へ入ったまま帰らなかった。どういう獲物を追い損ねたものか、崖から足をすべらせ、念入りに頭を打って死んだ。身許は携帯していた許可証からすぐに知れたが、三輪子の許へ会社の同僚から知らせがあったのは、もうすでに|茶毘《だび》に付されたあとで、遺骨はふだん往き来もない母方の叔父が迷惑そうに引き取ったという。 「あのぶんでは、とてもお墓へ入れてもらえそうもないわね」  同僚の|登美子《とみこ》は、そうつけ足した。  なにぶんにも会社が休みで、総務課長だけが金一封を持って出かけたほか、まだ誰も知らない。 「そうそう、貴女がよく面倒を見てらしたなと思って、おととい聞いてからすぐここへ来たのよ。でもお留守だったから」 「ええ、鉄砲打ちに山へ入るとは知ってたの。危いからって、ずいぶんいったんだけど……」  三輪子はいい加減な相槌を打った。同じ課で席が隣ということから、二人の仲はべつだん不自然というほどのものではない。ただこれも齢のいった登美子には、事実以上の組合せに映っていたことであろう。 「身寄り頼りがまったくないっていうから、何かと気を配っていたんだけど、孤独な人って、やっぱり孤独な死に方をするものね」  しらじらしくそういってから、ふいに思い出して訊いた。 「そうそう、それじゃあの銃どうしたのかしら」 「銃って?」 「鉄砲よ。小鳥か何か撃ちに行ったんでしょう。その猟銃」 「さあ、知らないわ。叔父さんが引取っていったんじゃない」  最初に知らせを聞いたそのときから、眉も動かさない三輪子の表情に拍子抜けしていた登美子は、なんの不審を抱いたようすもなく、早々に帰っていった。  実際、三輪子は、自分でもおどろくほど冷静だった。クリスマスの夜以来、すっかり心が離れたということばかりではない、実利的な計算もあったので、あの十日町紬は、代金こそ全部三輪子が立替えはしたが、一式そっくり手許に残されている。さすがにあの夜、もぞもぞと脱ぎ終えたものの、持って帰る気にならなかったのであろう。帯の締め方がまだよく判らないから、お正月前にまたくるよといい残して、峻はそのまま帰った。そのときからこれはもう形見の品に変じていたような気がする。平織りの地味な仕立てだから、何も二十歳そこそこの青年だけに向くとは限らない。背丈さえ同じであれば、三十代の固肥りの男性にだって少しもおかしくはないだろう。むしろそのときにこそ、喪われた藍の香は、一瞬の裡に鋭く甦るかも知れないのだ。唯一の証人である呉服屋は、あのときの青年が山奥で急死したことなど知るわけもない。  一度三輪子の心に兆したこの思いは、暮れの間じゅうふくらんで、それはまるで豊かなオーバーを一着新調したようだった。いまは冷えて沈黙している紬は、もうすぐ活力溢れる男性をその内側に迎え入れるだろう。これはまさにそのため、そのためにだけ残された幸運の使いのようにさえ思われた。 「貴方、ちょっと寸法計らせて。ううん、とってもいい贈り物があるの」  着丈から|桁《ゆき》、首回りに襟下と、ごつごつした腰骨の感触をしみじみ味わいながら、合うにきまっている男にメジャーをあてがうとき、妻の倖せは胸いっぱいにひろがるだろう。それをまあ、いまのいままで役にも立たたない年下の雛っ子にばかり眼を向けていたなんて。三輪子は街で男とすれ違うときも、必ず背恰好を値ぶみする眼つきになっていた。  初めて心をひらいて、年上の男性へ素直にかしずく気持になったことが、三輪子の表情まで変えたのであろうか、見違えるほど女っぽくなったと囁かれ、会社でもうちつけに、「どうしたの、岡田さん」といわれるほど、楽しげな微笑は絶えず口許に浮かんだ。予感がみごと適中し、理想どおりの身長を具えた男、|八木沢《やぎさわ》|太一郎《たいいちろう》が出現したのは、正月に入って間もなくのことである。うるさい係累もないようだし、言訳めいていう独身の理由も苦にならなかった。知りあったのはさる有名な天ぷら屋で、二人がけの合席で窮屈そうに坐っていると、四人がけの席に一人でいた太一郎がわざわざ立って来て、よろしかったらこちらへと慇懃に申し出てくれた、いささか強引な誘いに応じてのことだが、何よりそのときに見上げた背丈のあまりなほどの良さが否応なしに三輪子を頷かせていた。性急な求婚にもおどろかなかったし、三十代も半ばというのにひどく子供っぽい性格も却って好ましく、すべては幸運の女神の手招きのまま歩み出すことが残されていると思うほかない。結婚の日取りもきまった夜、三輪子はかねて夢見ていたとおりに男の寸法を計った。 「まあ、腰回りがこんなにおありになるのね」 「何をくれるんだい。ズボン?」 「ううん、もっといいもの」  童顔の柔和な眼が、いとしくてならないというように近づき、熱い抱擁に上気した躯は、男が帰ってからもいつまでも|火照《ほて》った。 [#ここから2字下げ] ——ああ、こんな倖せが、わたしにはちゃんと用意されていたんだわ。そう、何かの童話にあったけれど、大事に手の中に握りしめていた宝石を思いきって|擲《なげう》ったときに魔法がとけて、万事めでたしになるというアレなのね。矢島君はわたしにとって青いサファイヤみたいなものだった。でもそれを棄てる決心をしたからこそわたしは�おんな�に戻れたの。そう、�おんな�に戻れたのよ。 [#ここで字下げ終わり]  そう思うと、久しく忘れていた峻への供養をすべきだと考えついて、三輪子はあのときの太い蝋燭を引張り出して火をつけた。外はひどい|凩《こがらし》で、炎はしきりに隙間風にゆらいだが、気にならなかった。ついでに残りの葡萄酒やウィスキーも持ち出してくると、代りばんこに舐めながら、うっとりしたように峻へ呼びかけた。 [#ここから2字下げ] ——こんなに風の激しい夜、貴方はまだあの黒い光沢のある猟銃を手に、どことも知れない暗い道を歩いているのかしら。可哀そうなわたしの最後の弟。貴方が崖から落ちたとき、眼の前を掠めたのは、たぶんこのわたしの化身の白い兎だったのよ。貴方に射たれたくて血を流したくて、いつまでも身を縮めていたわたしを、貴方はとうとう手も触れず行ってしまわれた。その代りの野兎に気を取られてみごと崖を踏み外した、その仕掛をしたのがわたしだと思われてもかまわないわ。それぐらい貴方はわたしを踏みつけにしたんですものね。でも、もう許してあげましょう。貴方の遺した藍いろの紬は、いますばらしい人に贈られて、そこで本当に香り立つんですもの。その藍の香に包まれてわたしは恍惚と昇天するんですもの。 [#ここで字下げ終わり]  そのとき蝋燭の炎が再び激しくゆらいだのは、風のせいばかりではなく峻の幽かな応えだったのかも知れない。  約束の日、いそいそと取り出された畳紙に大きく記された商店名を見るなり、太一郎は無邪気な声をあげた。 「おや、着物をくれるの。それにしても偶然なのかな。この呉服屋、うちの親戚なんだ」 「なんですって」 「たしかおふくろの従兄弟か何かだよ。あの親爺、元気でいるかな。へんに職人気質で講釈のうるさいひとだけど、早速電話してやろう。わざわざ俺のを仕立てたんだって知ったら、きっと喜ぶよ」  太一郎はすぐ畳紙の紙紐をほどいて、十日町紬を引張り出すと、胸にあてがうようにしてしんそこ嬉しそうに三輪子を見返ったが、その姿は三輪子にはさながら青い幽霊としか映らず、もとより匂うべき藍の香はどこにもなかった。 [#改ページ]    青猫の惑わし 「ねえ|岬《みさき》、来年は辰年なのよ。あなたの年なんですからね、もう少ししっかりしてちょうだい」  暮れのうちから母にいわれいわれしていたのだが、岬にはさしあたってこれという思いも湧かない。しっかりというのは、いつまでも遊び半分の勤めなどせず、早く婿を取って孫の顔を見せ、親を安心させろということだろうが、縁のないものは仕方がない。いまのところ望みがあるのは|沢渡《さわたり》という三十を過ぎた男だけだが、猫の抜け毛を上衣にもズボンにもつけた偏屈なタイプだかち初めから母の気に入る筈はなかった。 「辰年というのはね、|万《よろず》に立つといって運気の改まる年なの。龍は雲を呼んで天に昇るというぐらいのものですからね、少しはあなたもあやからなくっちゃ。ほんとに、辰子とでもつけとけばよかったわ」 「よしてよ、あんな爬虫類」  岬はいつも肩をすくめ、まあそれでも辰だから助かった、あと二年遅れて生まれたら、一生やりきれない思いをするところだったと考える。 [#ここから2字下げ] ——どうして十二支には犬も鶏も鼠もあって、猫だけがないのかしら。 [#ここで字下げ終わり]  それは、小さいときから不審でならず、口にしては笑われた。猫年だったらいいのに、猫に囲まれて暮せたら倖せだのにという久しい願いは、あいにく大の猫嫌いな両親のせいで、一度もかなえられたことはない。早くに独立すればいいようなものだが、一人娘では思いきったことも出来ず、猫好きな男性はまた必ず両親の気受けが悪かった。どこかうじうじして、女を倖せにするタイプではないという偏見は昔からのことだが、実際に岬自身もためらうほど、お人好しというだけの男が多い。しかし、辰年に運気が盛んになるものなら、せめてそれを機会に、一匹のしなやかな獣と夜をともにする幸運を願うほかにはないだろう。  家で飼えないから、いきおい岬はそこらじゅうの猫にかまうことになる。駅近くの八百屋に、いつもロロという名の仔猫がつながれているのを見ると、|蹲《かが》みこんで倦かずというふうに相手をせずにはいられない。 「ロロ、ミャウーワ」 「ミャー」 「ミャウミャーミャ。ちょっと小母さん、そのお葱とおじゃが、包んでくださらない。ミャーオミュ?」 「ミャ」  仔猫の返事はだんだん短くなり、ミャからミになって、そのミも咽喉にひっかかったぐらいの声にすぎなくなるが、それでも岬は耳たぶを|擽《くすぐ》り、|蹠《あなうら》のくぼみに指を入れ、ひととき離れようとはしなかった。 「ずいぶん猫がお好きなんですね」  ようやくやれやれと背を伸ばして立ったとき声をかけてきたのが沢渡だが、彼が手ぶらだったらそのまま軽く頬を染め、小走りに立去っていたことだろう。ところが彼は見たこともない毛並の、高貴な|面立《おもだ》ちをした猫を腕の中に抱えていたのだった。  ペルシャでもない、シャムでもない、青とも銀ともつかぬ毛の色も美事だったが、まるで無関心に、それでいてこの上もなく優雅に岬を見つめている金いろの瞳の奥深さはたとえようもなく、そのひとときだけは沢渡までが異国の王子ぐらいに思えたのだった。 「まあ、なんてすてき」  声は咽喉の奥に掠れた。それとともに岬は何ともいいようのない、突然の恥ずかしさに突きあげられ、脚はおかしいほど顫えた。 「いい猫でしょう。ビルマ種の色変りでね、日本にはあんまりいないんです。牡ですが名前はマミー。魔物の魔に魅惑の魅。……おや、どうしました?」  並んで歩き出そうとしながら、沢渡はいぶかしそうに岬を見た。だが幸いに、一瞬の強烈な羞恥は拭ったように消え、そして岬は、まだその猫に見られていた。 「青猫というと他にもロシア猫とかコラットとかね、いろいろあるんですが、欲しいのはシャルトルってフランスだけにいる奴ですね。十六世紀ごろからシャルトルーズ派の修道院で育てられて、まず外国に出すことはないっていうから」  いかにも猫好きらしくそんな話をのんびりしているのに、つられて並びながら、岬はやはり青猫に魅入られていた。相変らず表情を動かさないこの猫が、決してただ無感動なのではなく、心の中で不思議な呪文をかけ続けているのがどうしてだか判るような気がする。 「ああ、ぼくは沢渡っていいます。うちはこの先ですが、ちょっとお寄りになりませんか」  それからすこしためらったようにつけ足した。 「母がいるだけですから」  行きたい、一度でいいからマミーを抱かせてもらいたいという思いは、その一言で冷えたが、青猫の呪縛だけは解けそうにない。男手にも重そうな躯をこんな道傍で抱けもしないし、猫のほうもそれを望んでいないことは初めから判っていた。  口の中でいう断りを沢渡は黙って聞いていたが、ふいに猫の前脚をとって、握手を求めるように差出した。おずおずとそれを右手に包みこむと、ほんの僅か身じろきするほどに青猫の爪は岬の掌を掻いた。こそばゆい合図は瞬時のことだったが、その感触だけで岬は、まるで沢渡がそれを通訳したような言葉として聞いたのである。 [#ここから2字下げ] ——それじゃお別れの御挨拶をなさい、マミーちゃん。あさっての日曜の午すぎには母が留守ですから、必ず来て下さいよ。ぼくのうちはその先を左に曲って三軒目です。いいですか、きっとですよ。 [#ここで字下げ終わり]  そしてマミーの金の瞳は、やはりまじろきもせずに岬を見守っていた。  ……………………………………………  しかし年が明けるまで、岬は沢渡を訪ねようとはしなかった。掌に僅かだけ残された、むず痒いような感触の爪の合図は、その夜からさまざまに岬を惑わせて決心がつかなかったのである。むろんもう八百屋の仔猫や、そこいらの駄猫にかまう気はしない。マミーと名づけられた神秘の青猫が、あのとき何を考えていたかを解き明し、もう一度会ったらこちらも眉も動かさぬ表情のまま意思を伝えられるよう訓練しなければならない。  調べてみるとビルマ猫といってもアメリカで改良されて新品種に定着したらしいので、当然会話も考えることもアメリカ語なわけだが、もうひとつ、そんな言語などという表現手段を超えたテレパシーに似たものが可能な筈で、なまじ猫語のお喋りに長じてしまっただけ、高度な交感は難しく思われる。大体がマミーを見たとたん全身を貫いたあの羞恥心は何だったのであろう。あまりにも貴族風な顔立ちをしているので、どこかの国の貴公子にいきなり紹介されたようにどぎまぎしたのだろうか。しかも相手がチラとでも表情を動かそうとしないので、醜い、下賤な育ちの女に見られた屈辱感か。   ——それだけは違うわ。  岬はかぶりをふった。 [#ここから2字下げ] ——ああいう猫は、めったに好奇心を動かさないよう、生まれながらに躾が行届いているから、あんなに澄んだ大きい瞳をしていられるのよ。それに初めから私に興味がないものなら、最後までああもまじまじと見つめもしないでしょう。ぷいとそっぽを向くに決まってるわ。好意を持ってるとまで己惚れたくないけど、とにかく黙ってても会話が出来るよう早く練習しなくちゃ。 ——そう、そしてあの爪! [#ここで字下げ終わり]  岬はほとんど恍惚と、掌の内側に動いた爪の感じを思い出していた。これまでどんな猫からも味わったことのない、鋭く短い戦慄に似た快感。あれだけは人間の男性の絶対に真似の出来ない愛情の伝え方で、慣れるにつれこそばゆさ、時には痛さで、千差万別の感情を表現し得るに違いない。いまではそこいらの駄猫を駄猫とも思わず、反対にこちらから耳のうしろを掻いてやったり、小さな乳首のふくらみの周りを指の腹でぐりぐりしたり、肢のくぼみ、両の脇腹などをそうっと擽ったりして、向うが小刻みに躯をふるわせるのばかりを喜んでいたけれども、反対にあんな微妙な愛情通信を受けることが出来るとしたら、なんとすてきなことだろう。   ——いやだわ、牡だなんて。  岬は声に出して呟く。 [#ここから2字下げ] ——あれはれっきとした王室の方よ。東南アジアだから、そりゃ少しは色が黒いけれども。 [#ここで字下げ終わり]  沢渡に再会したのは、正月に入ってすぐのことだった。近くの公園で、枯草いろの土堤の陽だまりにいて、やはり散歩に来た沢渡から眼ざとく見つけられた。 「やあ、ひどいなあ。待っていたのに」  屈託のない笑顔につられて、岬も思わず声をかけた。 「あら、猫ちゃんは。元気ですの」 「ええ元気ですとも。元気すぎてね、このごろはちょっと連れて出られないんです。そうだマミーも会いたがっているかも知れませんよ。行ってみませんか」 「だって、お母様が……」  岬は口籠った。 「なあに、いまちょっと弱っていてね、寝てますから出てきやしませんよ。それよりマミーに会ってやって下さい」  沢渡は弾んだ声でいった。   ——マミー。そうね、マミーだけが大事なんだわ。  岬は意味もないことを考えた。うまく沈黙の交信が出来るかどうか、まだいくらか不安が残っているが、沢渡の腕の中ではない自由な空間で、あの猫がどう振舞うか、背を丸めるにしろ、ゆっくり床を歩くにしろ、その動きもまた新しい啓示になることだろう。それに、男遊びは齢相応に経験を積んでいるが、こうも真剣な誘いを受けるのも久しぶりのことで、それについてはさっきも出がけに母から小うるさく、辰年なんだよと聞かされたばかりだ。  岬は近くの原っぱにあがっている凧のひとつを見上げた。朱色の龍という字が、水いろの空にすがすがしい。運気がどうの、よろずに立つだのといっていたけど、男なんかどうでもいい、私は猫年の女ですもの、今年はあの青猫に賭けてみることにするわ。  声をひそめるようにして名前を訊く沢渡に、家の所番地から勤め先までテキパキ教えると、岬はあとに従った。  ……………………………………………  マミーは少しの間に、またいっそう逞しさを増したようだった。気が立っているから抱かないほうがいいという注意で、手を触れることもしなかったのだが、恐れげもなく近寄って、やはり金の瞳をいっぱいに開いてこちらを見ている。ただその瞳の中に、ふしぎな微笑に似たものが浮かんでいるのを、岬はありありと感じた。それは決して好意の微笑、親愛の微笑というのではなく、かりにこの猫の前で殺人が行われたとしても、やはり同じような瞳で見守るだろうと思われるほど、それは何もかも見尽した、人間のすることならばすべて見透しだというほどの微笑であった。思いがけぬほど広い邸で、母なる人は遠くの病室にいるのか、音も立てない。  二人は猫の話ばかりした。帰国したアメリカ人が置いていったという由来から、喰べ物の好み、専用の小ベッドで沢渡の傍に眠ること、ロシア猫と同じでめったに声を立てない等々から、いきなり肩に手を伸ばすような口調になった。 「だから嫁さんは、どうしても猫好きな人でないと駄目なんですよ。母も病気してから、そればかりいうんです」 「でも、猫のつく言葉って……」  岬はさりげなく話をそらした。 「どうしてかしら、悪いことばっかりですのね。猫ばばとか猫っかぶりとか。私、猫いらずってお薬見ると、気味が悪くって。昔はよくあれで自殺する人があったんですってね」  はぐらかされて沢渡も苦笑しながら相槌を打った。 「そう、あれは苦しいらしいよ。黄燐が入ってるから吐いたものが夜でも光るんだって」 「恐いわ、私。でも猫が化けるってことだけは信じられないの。化けてもいいって気がするぐらい」  沢渡の頬には、そのときひょいと凄味のある笑いが浮かんで、またたちまち消えたが、岬はまったく知らずにマミーの方に気を取られていた。急にのんびりしたいい方に戻ると、 「そういえばろくな言葉がないねえ。猫背とか猫なで声とかね」  そういっておいて、科学技術関係だという自分の専門や、母のほか係累はいっさいないという話になった。それもしかし岬には、遠回しの求婚のように思われ、息苦しいまでの気持がする。   ——帰りにもう一度、あの原っぱの凧を見て帰ろうかしら。  どうせ沢渡は猫好きの上に、母一人子一人という家庭となると、両親の承諾は容易に得られないだろうけれども、さっきの、あのはればれと明るく空に刻まれた龍の字だけは、今日の記念にいま一度確かめておきたかった。  マミーを口実に二度三度と訪ねるうち、岬は自然に抱かれた。猫はその間も決して傍を離れようとせず、初めのうち何としても追っ払って欲しいと頼んだが、 「猫好きなんだから、いいじゃないか。ちゃんとホラ、出口も作ってあるし、嫌なものなら出て行くよ」  と相手にされず、しまいには、 「見られているほうがいいんだ」  とさえいって、片手で猫の頭を撫でながら岬を弄ぶことさえあった。実際マミーは、二人の行為を見ていても、まったくおどろくようすもなく、最初に出会ったときと同じに金いろの瞳のままなので、岬も次第に慣れたが、その無感動さには底の知れないところがあって、まだ折々は脅やかされずにはいない。そして沢渡の愛撫はマミーの爪どころではない巧みさで、岬は用心しながらも溺れずにいられなかったのである。母なる人も一度「今日は気分がいいから」と挨拶に出て、厳しい眼元ながら昔の武家風な品の良い風態が岬を安心させた。 「でもねえ、どうしたってうちじゃ承知する筈がないわ。そりゃあ信じられないくらいの猫嫌いなんですもの。それにいまさら別に養子を迎えるなんていったって……」 「だからさ、思いきって子供を作ろうよ。赤ちゃんが出来たら少しは御両親も折れるさ」  そんな会話を、岬のほうは一人娘・一人息子の、ままならぬ恋の溜息のように交していたのだが、破局は容易に訪れた。それは二人の痴態が次第にエスカレートし、白昼に真裸のまま戯れていたときだった。それまで黙って自分のいつもの場所に坐りこんでいたマミーが、何ともつかぬ声を——岬にとっては初めて聞く啼き声を立てて出口のほうへ飛び出していったのを思わず見送った瞬間、岬は信じられぬものを見た。  化け猫、ととっさに思ったほどの蓬髪の老婆が、その狭い猫の出口から、眼を吊りあげて中の様子を窺っている、それは最愛の息子を見知らぬ女に取られようとする母の、怨念に充ちた姿であることはすぐ察しがついたけれども、同時に沢渡の頬に不敵な苦笑が浮かんだのを見て、岬はすべてを悟ったのだった。この孝行息子は、珍しい青猫を餌に猫好きの女を漁り、巧みに口説いてベッドへ連れこんだあげく、こうしていつも老いた母親を慰めていたことを。それなればこそ青猫は牡でありながらマミーと名づけられ、その瞳は、もう何事にも感動せず、開かれたまますべてをただ�見て�いることを。  悲鳴をあげかける岬の口を、部厚い掌が|塞《ふさ》いだ。  ……………………………………………  八百屋のお内儀は、しばらく見えなかったお嬢さんが、駆けこむようにしてくるなり、やや大きくなった仔猫の前に蹲みこむのを見た。 「まあ、しばらくでしたわねえ。ロロもさびしがってたんですよ」  そんなお愛想も聞えぬように、その娘は昔どおり仔猫と、きりもない会話を続けている。 「ミャウワーワ、ミャウミャウミャウ」 「ンニャーウ」 「ミャーミュ、ミャワワーワ、ミャウー」 「ンニャー」 「ミャウ、ウ、ウ、ウ、ウミャー」 「ニャ」  すこし経って、仔猫のほうがいぶかしげに問いかけた。 「ミャーニュ?」 [#改ページ]    夜への誘い  二月という季節が意外に優しいものを秘めていることに、|藤木《ふじき》|悠治《ゆうじ》はいつかしら気づくようになった。もともと�きさらぎ�というのは、木が更生することからついた名の由で、紫立つ土の間にチューリップもようやく緑を覗かせ、小鳥たちの|囀《さえず》りも思いのほか賑やかである。末近くなれば薔薇の芽はことごとく動き、猫の恋は夜ごとに|喧《かまびす》しい。春は、ついそこの門口まで来ているのだが、それは|跫音《あしおと》を忍ばせた刺客ではなく、いわば呑気な郵便配達なのだ。かれの鞄には、何と多くのふくらんだ手紙が詰まっていることだろう。桃いろや青の、和紙の|毳《けば》立ちも優しい封筒。暗号めかした葉書。菫いろの航空便。それらは、たっぷり光を吸った野菜のようにみずみずしいというのに、郵便配達はまたいつものとおり、遠からぬ|他人《ひと》の戸口で、のんびりとお喋りに耽っているに違いない。……  で、その朝、郵便受けの中に白い長方形の封筒が混じっているのを見つけたとき悠治は、少しばかり早目に届いた春からの招待状のように|摘《つま》みあげ、浮き浮きと小さい銀の鋏で封を切った。裏には画廊ラビラントと記されていたが、もとより知らない名である。そして知らない名のほうが、このときはむしろ快かった。   小動物を主題にした   野奈古愁美新作展   2月16日→23日(日曜閉廊)  といって作品らしいものはどこにも印刷されていず、作者の経歴もない。野奈古という変った苗字にもいっこうに心当りはなく、悠治は|怪訝《けげん》に表裏を見返した。UREMI NONAKO というローマ字に、何かの紋章めいて巨きな黒猫を浮き上らせた図柄で、そのうす青い瞳のほかカラーはいっさい使っていない。そしてその瞳ばかりがひどく精巧に、まるで生きているように一筋の血管を走らせさえしている。  封筒を覗くと、小さなカードがあった。 [#ここから2字下げ] 16日PM・5時よりオープニングパーティを行います。御出席下さい [#ここで字下げ終わり]  そう印刷された傍に、女手の走り書きで、 [#ここから2字下げ] ぜひお越し下さいませ。久しぶりのおめもじ楽しみにお待ちしてをります。 [#ここで字下げ終わり]  とあるのを見て、奇異の思いはなお昂まった。作品が油とも版画とも断りがないのは、野奈古愁美という名だけで通る世界があるのだろうが、悠治の仕事は美術とは畠違いな建材を扱っているだけだから、同姓異人で宛名の書き違いと思うほかはない。考え出すと気になって、ラビラントという画廊に電話を入れた。|銀座《ぎんざ》の七丁目。あらかたの見当はつくが、聞いたことのないビルの五階にあるらしい。かぼそいベルが小じれったく鳴って、やがてこれも細い、きれぎれな女の声が「……画廊でございます」と告げた。 「いや、それでね、どうにも覚えがないものだから、ひょっとしてそちらの書き損じじゃないかと思って……。え、間違いない? こちら|大原《おおはら》二丁目の藤木ですよ」  しかし、事務員らしい相手は、よく聴きとれぬほど遠い声ながら、野奈古先生からも特にいわれているので、オープニングにはぜひと繰返すばかりである。悠治は電話を切ると、独り暮しにはいささか過ぎた離れ屋造りの一室で、手近かな椅子に躯を投げ出した。  これまでにも見知らぬ展覧会の案内状が舞込まなかったわけではない。しかしわざわざオープニングにペン書きを添えた招待などは初めてだし、明らかに向うはこちらを誰と知ってのことらしい。野奈古愁美というのが一種の雅号だとなると、本名の見当はまるでつかない。おめもじをお待ちしてをりますなどという筆づかいから推すと、ひょっとして相当な齢かも知れず、そうするとなおさら相手が多すぎて混乱する。  十年前、八年前、六年前……。|苑子《そのこ》かな、当時の苑子はちょうど仕事がおもしろくなり出したところで、小物のアクセサリーから靴や帽子のデザイン、それにインテリアにも手を出し、逢えば必ず小遣いをくれていたから、油なり水彩なりに移ったとしてもおかしくはないし、そういえばパリへ行ったきりで切れたんだっけ。いくぶん険のある顔ながら、ぎゅっと眼を瞑るときの瞼の|引攣《ひきつ》れと肉感とが同時で、あれはあれで悪くはなかった。  それとも九年前、七年前、五年前……|眉美《まゆみ》だろうか。夜になるにつれ物憂げな猫めいてくる姿態はもっぱらホステス稼業のためで、昼間はしゃっきりした和服で日本舞踊を教え、マンションには到るところ精巧な手製の刺繍が飾ってあったから、溜めこんだ末に先生と呼ばれたくなっても不思議はない。眉美では出が知れるから愁美という線も当っていそうだ。怒って札束で顔を引っ張たかれた経験は後にも先にも一回きりだが、結局はあの倍額が手切れ金になった。といって決して恨んでいる筈はない。でなければ|由良《ゆら》夫人。あのころで旦那は重役だったから、いまはもう専務か社長に納まっているだろう。押絵だか貼絵だかでは当時から婦人雑誌で先生扱いだったが、そうすると名前を変えてというのはちょっと解せないな。  貴方の牡々しい百合のためにと称して、毎月銀行に定額を振込んでくれた未亡人の名はすでに忘れた。たぶらかしたわけでもない、ホストクラブの誰彼のように巧みな甘えで取入ったのでもない。会えば自然にそうなったという時期が、こちらの若さのせいではなく時代の風潮として確かにあったので、当節では�母性本能をかき立てる男たちの優雅な生活�などといい立て、週刊誌が騒ぐ、テレビが紹介するという剥き出しの状態となり、向うもばっちり楽しもうと心がけてくるから始末に悪い。それでもこうして数々の情事を思い返していると、ベッドの上、あるいはそこから手を伸ばして取ることの多かった電話の受話器の底で耳を擽った、甘い囁きと含み笑いとはしきりに甦って、愁美という女がその中の誰であれ、無い込んだ二通の招待状には、慥かに春の|魁《さきがけ》という風情があった。  ……………………………………………  だが、俄かに待遠しく思われ出した二月十六日のくる前、悠治がもうひとつ愕然と気づいたのは、この年上の女たちが例外なく大の猫好きだったという点である。それも徒らに見栄を張って、高価な品種を競っていたのではない、仔を産むたび物臭になり鈍くなり、見るからにむさくるしいぼてぼての腹をした牝猫だろうと、シーズン中は一週間も十日も家に寄りつかず、たまに帰るなり餌を貪りくらって、またそのまま飛び出して行こうとする泥だらけの牡猫だろうと、彼女らはどこまでも寛大に面倒を見た。マンションに居た眉美がその出入口にはらった苦心など涙でましいほどで、持込まれる苦情先には高価な付届けを惜しまなかった。飼猫の常で、自宅の美食には見向きもしなくなっても、|他家《よそ》で出される粗食は喜んで喰う、そんな習性さえ可愛くて仕方がないらしい。  それを思い出したのは、庭先で屋根でところ構わず啼き立てる恋猫たちに悩まされているうちだが、そういえば案内状の黒猫の紋章もその証しであろう。悠治自身は小さいころからの犬好きで、猫とみると|苛《いじ》めてばかりいたのだが、それでも初めて東京へ出てきて郊外のアパートに住んだ学生時分、飼うというよりは棲みつかれたことがある。狭い台所の流しの下が雑な作りで、猫が通れるだけの抜け穴があり、そこからあどけないほどの仔猫が入りこんできたのだった。なんだとも思わず首すじを掴んで窓から放り出す、ともう同じ穴からけんめいに這い上ってくる。それを三遍くり返して、ようやく悠治はその猫の愛くるしさと利口さに気づいて、置いてやろうという気になった。管理人も雑な|普請《ふしん》のせいか黙認の形で、オレンジ色の綿毛の塊りは日ましに敏捷になり、牡だったがミミと名づけて育てるうちに、半年はど経って忘られぬ光景に逢った。  彼が帰るころ、ミミは必ずドアの前に小さくまるまって待ち受けている。大はしゃぎで肩に駆けあがり、足を踏み立て咽喉を鳴らし、少しでもドアの鍵をあけるのに手間取ると催促して啼くのだが、その晩はどうしてか姿が見えない。ドアをあけた時から中の異様な気配は察しられたが、灯りをつけて思わず立ちすくんだ。およそ十匹近い牡猫がミミを取り囲んで円陣を作っている。悠治の入ってきたとき、灯りのついたときだけは、ほんの僅かたじろいでみせたが、逃げるようすもなくなお執拗にミミの動きを見守り、二匹がさっと襲いかかる、際どく避けられてまたすぐ元の態勢に返る。もう二匹が手を出す、それを他の猫が牽制する。何をしているのかといえば、さかりのついたこの牡猫たちはどう間違えたか、まだ美少年ともいえぬ稚いミミの取り合いっこをしているのであった。  いかにもミミは器量よしで、それは確かにアパートの連中にも評判だったが、分泌物とかその匂いとかで異性を見分ける筈の猫が、いくら美童といってもお稚児さん狂いをするものだろうか。あとで管理人から、 「ちょいと藤木さん、あんたんとこの猫、牡でしょう」  と、いわれて返答に窮したが、それともこのあられもない、図々しい猫たちは、みんな|牝《めす》だったのだろうか。  ようやく我に返って蹴散らすように追い立てると、野良猫どもは悠々と台所の穴から退散したが、悠治にとっては、あるいはミミが受けたよりも激しい驚愕というに充分であった。 「よしよし、恐かったろうな」  掌にのるほどの仔猫はまだ顫えてい、頬にすり寄せて暖めてやると、その利口そうな瞳と整った鼻すじは、いつにもましていとおしく思えた。まぎれもなく悠治は、そこに自分の姿を見たのである。  牝猫が集団で牡の仔猫に構うということはシーズン中でもまずあり得ないだろうから、あの異様な円陣はやはり牡——それもよほど牝にあぶれた牡猫の群れとしか考えようはないが、そんな区別はこの際どうでもいい。これまでも不思議なほど年長者には可愛がられ、教師でも上級生でも自分のある種の笑顔に対しては、ほとんど狼狽に似たはにかみで対することは判っていたが、今度はそれを年上の女たち、それも豊かな肉体と財力とを持った女たちに向けてみようというのが、そのとき悠治に閃いた考えであった。  ミミはその後|幾許《いくばく》もなく食当りで夭折してしまったが、あるいはそれは身代りに死んだといえるかも知れない。悠治の事業[#「事業」に傍点]は成功し、まったく無心に、何の婚びも甘えも必要なく、年上の女たちとの交渉は絶えることがなかった。確かにマスクや筋肉はずばぬけていたが、もてるのは若さや美貌のせいではない、いまの時代がそれを可能にしているのだという彼の直観は正しかったのであろう、もう四年ほど前から女たちの態度がひどく露骨になり、こちらでそれを煩しく思い初めたころに悠治はあっさりと事業から手を引いた。独立資金といまの住居と車と、それだけを確実なものにした上で、さりげなく律儀なサラリーマンに転身してみせたのは、もとより齢を考えたせいもあるが、次の本物の事業に取りかかるにはいささか経験不足だという知恵が先立っていた。  猫との交渉もそれとともに絶えた。惰性で何匹か飼いはしたものの、ミミほどの器量よしにはついぞめぐり合わなかったし、いつかまた少年時分の、猫を苛める楽しさが甦ったものか、女たちの猫を構いながらも、つい眼を盗んで|悪戯《わるさ》をするので、ことにも敏感だった苑子の飼っていた董いろの瞳の黒猫などは、ベッドの下に潜りこんでめったに姿を見せないほどだった。いま、恋猫たちの夜ごとの合唱を聞きながら彼が思いめぐらすのも、どうしたら水をかけるとか石をぶつけるとかの生ぬるい手段ではなく、小気味よくまとめて安楽死させ得るかというその手段であった。たまさか庭に尾長の群れが来ると、悠治はそれを喜んだ。かれらは猫に対してはひどく挑発的で、わざと猫のすぐ上を低空飛行してからかうのが得意だったからである。  ……………………………………………  ようやく二月十六日が来た。肌寒い曇り日だったが、愁美に会うのはいずれ灯の下であることを考え、映りのいい苔いろの|天鵞絨《びろうど》の上下に、ワインカラーのアスコットタイを選んだ。これなら三十を過ぎてやや翳りを増した白い頬でも引き立つだろう。考えてみれば女たちは例外なく彫りの深いという形容で己を賞めたが、あれもまた何という陳腐な、日本人だけにしか通用しない殺し文句だろう。……  あれこれと女たちのことを思い返しながら、いい加減な見当で歩いているうち、ふいに眼の前にラビラント画廊の看板があった。淡い灯を点した酒場ふうな表示だが、悠治はためらわずそのビルに足を踏み入れ、エレベーターを探した。ラビラントというからには迷路か何かの意味なんだろうが、こうあっさり見つかっちゃおもしろくない。謎は深いほどいいので、今夜の愁美にしても、なんだあんただったのというたぐいではなく、誰かまったく思いもかけぬ女が、見違えるばかりに美しくなって出てくるんでなくちゃ。  エレベーターの箱には、背を掠めるようにして飛びこんだ外人の大男が、うしろから手を伸ばして先に五階のボタンを押したので、悠治はすこし鼻白み、手持無沙汰にじっとしていた。ふりむくわけにもいかないが、何か威圧されるようで、そのせいかひどくのろのろと上ってゆくような気がする。高層ビルならとっくに十五階ぐらいを通過しているぞと考えるうち扉があき、うしろの外人に押されるような形で、ぶつかったその鼻先が画廊の入口だった。  作品らしいものは何もない。照明は奥へ行くほど薄暗くなっているのも奇異な感じだが、グラスを手にした連中が|屯《たむ》ろしている向うに展示場があるのだろうと、そのまま奥へ進んだ。 「あらン、しばらくン」  蓮っぱないい方で女が話しかけ、どこかのバアで会ったなとは思っても場所と名前が出てこない。 「野奈古さん、いる?」  女は黙って人混みの向うを示した。狭い通路に、どうしてこう人が群れているのだろう。それになぜ一点も作品らしいものが飾られていないのだろう。無気味な予感にたじろいたが、奥にやや明るい部屋が見えたので、勇を鼓して進んだ。  ふいに柔らかく腕が掴まれ、確かに聞き覚えのあるアルトが甘く囁いた。 「やっぱり来て下さったのね」  悠治は眼をしばたたいた。色っぽく怨ずるように見上げている女は三十四、五というところか、黒ずくめのソワレに、胸につけているブローチの宝石が董いろにまたたく。しかしその顔は、どう考えても見覚えのないものだった。 「野奈古さん、ですか」  声は思わず掠れた。 「まあ、いやだわ、そんな……。それより一口、召しあがれ」  すばやくテーブルからグラスを取って渡すと、そのまま空いているソファへ押しつけるように並んで座った。 「ぼくは藤木ですが」 「何をおっしゃってるのよ、悠治さん」  なれなれしくいいながら、眼は射すくめるように鋭かった。  ままよ、と悠治は考え、望みどおり思いもかけぬ美人が出てきてくれたのだから、ここはじっくり時間をかけてと、ウィスキーのグラスを口に運びながら相手を窺った。 「きょうはいったい何の展覧会なんです? ちっとも知らなかったもんで」  探りをいれるようにそういってみたが、 「あら、だって、案内状の|字謎《アナグラム》は解いていらしたんでしょ?」  女はこともなげにいって、グラスのお代りを手渡しただけであった。アナグラムというのは何のことか判らないが、腕を動かすたびに伝わる香水が、ホラ、あれさ、あれだよというじれったさで頭をかき乱す。苑子? 違う。眉美? いや。  そうやって何かを払い落すようにかぶりをふっている悠治を、女はだんだんに冷たく見すましていたが、やがて急に立上ると、いきなりこう告げた。 「みなさん、ようやく今夜の主賓がお見えになりましたので、お静かに願います。逃げられないよう戸口はお締めになったでしょうね。それではわたくしの新しい作品、どうぞ御覧遊ばして」  群れていた連中の喧噪はたちまち鎮まった。皆が皆、今日の主題の�小動物�を見ようとして、そろそろと爪先立った。飼猫の常で、かれらはいっさい音を立てなかった。 [#改ページ]    美味迫真  エストラゴン・オウ・ヴィネーグル。  よもぎの、酢漬け。  フランス料理といっても、家庭ではまずめったに用いられないこの名を、できればあまり多くの人が知らないといいが。——というのは、そのほうがずっと、きょうのこの話の話し手には話がしやすいからである。  大体、私(というのはすなわちその話し手だが)は、おいしいものを喰べるのは人並みに好きだけれども、いまだかつて食通とか、美食家とかいわれるようになりたいとも、なろうとも思ったことはない。そもそもあれは熱心においしいものを探し、自分でもあれこれ|工夫《くふう》して料理法を心がけるうち、自然になるもので、専門家は知らず、なろうとしてなれるものではないことは、すでにブリア・サヴァランの『美味礼賛』にも説かれている。十九世紀初頭に出たこの本と、日本では明治末年の『|食《くい》道楽』——|村井《むらい》|弦斎《げんさい》の名著のおかげで、近代の|美味学《ガストロノミー》は確立したのだが、そうはいっても向うとこちらとでは、根本的に違うのが体力の差であろう。  エストラゴンの話はしばらく|措《お》くとして、その体力の差ということだが、|薩摩《さつま》|治郎八《じろはち》氏の伝えるルイ十四世のメニューに誤りがなければ、王のただ一回の食卓には次のようなものが供された。  |生牡蠣《なまがき》十二ダース、ポタージュ、魚、鳥の丸焼三羽、うずら十二羽、牛肉、野菜各種、サラダ、フォワグラ、果実、菓子。それに酒はブルゴーニュとボルドーが三本ずつ、シャンペンの大瓶が一本。 『美味礼賛』にも十五歳ほどのお嬢さんがデザートまでたっぷり平らげる話が出てくるけれども、先年、カンヌへ行く特急の食堂車で向い合せに坐った小柄なお婆さんは、魚貝の煮込みからステーキ、チーズ、ケーキという昼の定食をワインとともに実にすんなりと胃袋へ納めてしまい、眼の当りグルマンドの見本を示してくれた。日本にも近年は快食漢とでも名づけたいタイプの食通が殖えてはきたが、これはやはりあちら流のグルマンと称すべき人たちで、いささか神経質に、またいささか謹厳に味というものを勘案する、純日本風の食通に対しては、むしろグルメという名のほうがふさわしいであろう。(こうして喰べれば)どんなにかおいしゅうございましょう、を連発する村井弦斎もたぶんグルメに属するタイプだったので、それだけに単なる大食漢に対する嫌悪は、その冒頭からあらわれている。  しかしどちらの呼び名でいうにしろ「美食家」という存在はとにかく楽しい。ことにいまの三十代から上、芋の茎まで主食代りに配給を受け、それを甘んじて喰べた経験のある人の中から、それだけ味にうるさい連中が出てきたことは、楽しいというより大事な意味があるので、たとえば戦争中、漢文学の教授だったさる老人は、もとより生粋の国粋主義者だったけれども、昭和十九年の夏、それまで肥料にしかしなかった豆粕が米に混ぜられて配給されると、人民[#「人民」に傍点]を侮辱したといって憤ったという。そんな気概がもう少し多く臣民[#「臣民」に傍点]に持たれていれば、あの戦争の成行きも少しは違ったものになったかと思われるからである。  エストラゴンはまだもう少し先の話として——楽しいというのは、むろん食通についての文章のことだが、現実にでもそういう四十代そこそこといった人に馴染みの寿司屋に連れていかれる。と、いまの季節、春先の、三月ならば、黙って出される子持ち|烏賊《いか》もいいが、「かすご[#「かすご」に傍点]はあるかい」などとケースを見過す、ともう、 「へえい」  よく洗った|葉蘭《はらん》の上に並べられる小鯛の、なんという美しい桜いろだろう。 「かすごって、どんな字?」と小声で訊く、 「春の子って書くんだって。春日神社の春ですよね」  なんかんと、産地から喰べ方からの講釈を受けるのも、決してうるさくはない。  続いて、|比目魚《ひらめ》の縁側。|蝦蛄《しゃこ》の爪。  しかし、私の齢のせいか、あるいは主として幼稚な舌のせいか、それとも(自分ではいちばんそのせいだと思いこもうとしているのだが)戦争中に外地で、多くの戦友がみじめに、いやみじめ以上に飢え死ぬのを眼の当たりにした体験のあるためだろうか、私にはどうしても我を忘れておいしいものに没入するとまではいかない。何かしら忘れ物をしたような、早くとって返してその連中に「こんなおいしいものがある」といって連れてこなければいけないような、そのときいちいちそんなことを考えるわけではないのだけれども、饗宴はつねに不在の戦友たちにかまけて、もうひとつ弾まないのである。  感傷。幼児性。たぶん、それに違いない。実際のところ私は、いまごろ何をばかなと自分で思いながらも、たとえば新宿二幸[#「二幸」に傍点]の地下の食品売場を歩いている、と、ふいに、心からタイムマシンが欲しくなって、あたり山盛りの食料品がしわしわと瞼の中で妙な具合に揺れ出す。  ——そのまま、待ってろよ。  で、昔にとって返して、というのではない、こちらからそれを持ってゆくのではあまり意味がないので、向うから過去の私を含めて、連中をどうにかして呼び寄せたい、呼んだって現在の金を持っていないのだから仕方がないと思いながらも、何はともあれ呼んで、といったくだらない空想を、やっぱり本気で考えずにいられないのである。つまり、それほどに二幸の、二幸に限ったことではない、どこのデパートでもスーパーでも、そこに溢れている�喰べ物�は、戦後の時間がどれほど経とうと、まだ私にはどこか信じがたい、夢を見ているような気がするといえば、これは初めから美食家になる資格などあろう筈もないが、およそ戦中・戦後のそうした実情を直接に知ることのない現在の二十代、さらにもうとうに忘れておられるであろう大方のために、いまいきなり三十年前にタイムマシンを駆って、ひととき実況をお眼にかけようと思うのだが——といってそれは決して凄惨な飢えの場面へ御招待するというのではなく、例によってごくくだらない、役にも立たぬ場面だからどうか御安心いただきたいと申し上げて、とにかく御案内——といううちにも、もう一九四六年の三月、春寒の曇り日に着いてしまったようである。  ……………………………………………  予備知識というほどのものも要らないが、このとしの三月というと何より新円の発行が大きな事件で、二月十七日の預貯金封鎖以降、かりに何万円貯金があっても五百円だけしか使えないという生活が始まっている。それと、|片岡《かたおか》|仁左衛門《にざえもん》宅の同居人|飯田《いいだ》|利明《としあき》が、自分だけ二食の、それも一度は粥というその恨みから一家を皆殺しにした、つづめていえば空腹とインフレの空っ風に追いまくられていた時代——何しろ史上空前の餓死者が出るといわれた冬をどうにか越してみると、また五月危機などと叫ばれ、飢えは日常のものであった時代ということだけは——でもそれは、戦争中と違って声高に叫ばれていたので、一月に人間宣言をした天皇のところへ、   朕はタラフク食ってるぞ   ナンジ人民飢えて死ね  などというプラカードを掲げた一隊が押しかけたのが五月という、買出しに行っても物々交換のレートはあがるばかりで、百姓一揆ならぬ都会一揆がおきるだろうといわれていたその時期、さりげない顔で世相一端に触れるとすれば、そうだ、このころは何のためとも判らぬ行列がそこここに出来ていたので、何か配給にありつけるだろうと並んでいたら御焼香だったという笑い話も実際にあったけれども、まずそんな心配はなさそうな郵便局の中の行列に加わってみよう。旧円は封鎖になっても、それを新円に換えるさまざまな抜け道はあったし、また別な特典もあって、たとえば戦災者には千円までおろすことが許されていたが、何に使うか使い先の証明がなければ出してもらえないといった細かい話はさておき、時間旅行者も一緒に並んでいて、順番がきそうになったら抜け出してしまえばいいのだから。むろんここでも、ほとんど喰べものの話しかしていず、喋りまくっているのはいつの時代にも変らぬ中年女のひとりである。 「十キロで八日間なら喰べない方だ」  ——そりゃね、  と、きろり狡い眼つきになって、  ——うちは年中お芋切らさないから。ところがさ、こんだお芋の切れたところへもってきてお米の配給がないでしょう。さァ困っちゃって。  髪を無造作に束ね、汚れたコートにショールを巻きつけ、お風呂ィ行く暇がないからという顔も手も白粉っ気なしの真黒だが、お喋りが得意というのか、自分の話し方に自信のあるタイプで、行列はいっこう進まないまま、みな仕方なしに女の話に聴き入っている。  ——いくら高くっても三十円だから。こないだうち二十円で買ってたけど。 「よくまあ、ありますわね」  そう口を挟んだのは上品ななりのお婆さんで、それはさっきからあたりの人にくどくどと、 「年金おろして預け入れるんですけど、すぐやってもらえましょうね」  と聞いていた、それがさも羨ましそうにいろいろ問いかける。 「どちらへ買いに」  ——方々ですよ、方々。  と、敵もさるもので、  ——ホラ、|飯岡《いいおか》とか何とか、買出し列車って大騒ぎしてたでしょう。あのほうへ行きますのさ。行くたんび十二貫つ[#「つ」に傍点]|背負《しょ》ってくるから。 「まあ、ねえ」  ——ええ、ありゃ若いもんでなきゃ、駄目。  軽く突放しておいて、  ——政府の今度のじゃ、供出っての何てのか知らないけど、産地で出す値段はちっとも抑えてないでしょう。それを、持ってきた小売値だけ統制してるんですからね。駄目ですよ、どっかに無理があるから。結局、太るのは漁師と農民だけですもん。  一瞬、眼が鋭く光って、都会一揆ともなればあっぱれ闘士の風格を見せることだろう。  ——こないだうちは南京豆ばっかり。そう南京豆いっぺん背負ってくりゃ、お芋のお金ぐらい浮きますからね。  ——え、そう、あたしはこっちで手取りがあるから買喰いするの、買喰いを。ホホホ、まごまごするといちんち三十円は使っちゃいますよ、三十円はね。少なくても十円は使うし。 「切符がよく買えますね」  ——ええ、いまはね、新宿の三越の裏へ行って申込みゃ。それに、うちのがアレヘ出てますでしょ。だから私ひとりぐらいの切符は買ってきてくれますのさ。  ——本給は安い、六十五円。鉄道なんて安いもんですよ。二日で月給使っちまったわ。あがるあがるったって、本給はあがりゃしませんよ。うっかりあげたら、こんど物価の下がったとき急に下げられないからね。やっぱし手当手当で出してくよりありませんわ。  結局この女は自分の話を聞かせたいために会話をしているので、上品ななりのお婆さんが、頭に怪我をしたといいかけると、  ——災難なんてどこにあるか判んないから。  と一言で片づけ、別のお内儀さんの口端のおできには、  ——いけませんねえ。  その子が病気だといわれると、  ——いけませんねえ。  ひとつも親身なところがない。で、いいかげん詰らないお喋りの立聴きを切りあげて外へ出ると、兵隊帰りの学生が二人、声高に話し合って通りすぎる。 「オレ大隊副官だったんだ。命令なんて全部書くのサ。インチキだよアッハッハ」 「大隊副官て、いそがしいだろ」 「ああ、それにね、中隊長が古参中尉で、命令出してもこんな命令あるかってえし」  その二人にチラと気を取られたのがいけなかったのかも知れない。それは確かに私の仲間、というか、同じく学徒出陣をし、それでいてたいして苦労もせずに無事復員した学生、そのくせ身なりから推すと焼け出されもせずに済んだ、もうそれだけで私とは、身分に天地の差がある仲間だと気づき、怨念と羨望の眼をあげた一瞬に何かが間違ったのである。タイムマシンの乗り違えか、それともふいに昔の私が——よれよれの夏の兵隊服一着に藁草履をつっかけた、一九四六年の私がそのまま乗りこんだのか、そこのところはなおはっきりしない。そしてあの二幸へ戻りたいという意識が奇妙な作用をしたのであろう、この時点で戦友たちはもうとっくに死んでいないのだから当然だが、次の瞬間には私はたったひとりで二幸に似たところ、すなわち同じ新宿の高野[#「高野」に傍点]の地下に立っていることを発見したのだった。  …………………………………………… �エストラゴン�という名を最初に聞いたのではなかった。高野の地下の食品売場で、向うからきた十代の、ひとりはひょっとすると中学生かとも思えるほど、色白で華奢な二人づれの少年が、店員をつかまえて何かいっている。店員はこう答えた。 「さあ、似たような奴ならここにあるけど」  そういって手を伸ばした商品、小さな緑いろの壜を手にするが早いか、少年たちはたちまち歓声をあげた。 「ああ、やっとあった。ずいぶん探し廻ったんですよ」  その喜びようは見ていても微笑ましいものだったが、私にはすぐ近づくことは憚られた。で、なおも二、三の専門的な話を店員と交して、二人がレジの方へ行ったあと、私はおずおずとその売場へ近寄り、いまの商品を手に取ってみたのである。  エストラゴン・オウ・ヴィネーグルという標示はフランス語で記してあり、輸入元の貼ったレッテルには日本語の商品名に添えて、鶏肉料理やサラダによく合いますという説明がある。それはむろん私にとって初めての名であり、それだけにその小さな緑の一壜は奇妙な感懐をもたらさずにはいなかった。十四歳か十五歳か、それは判らない。その、いわばほんの稚いといってもいい年齢で、こんなものを東京中探し廻る心がけ。そしてその喜びよう。この二人は、いったいどんな料理を作ろうとするのだろう。  それを思っただけで、私はもうその一壜を掠め取って少年たちの後を迫っていた。どうしても彼らにいいたいことがあったのだ。地下道の人混みの中でも、野戦で鍛えた私の判断に狂いはなかった。私はすぐに追いつき、楽しげに話を交しながら歩いてゆく二人の肩を叩いた。 「ちょっと」  というなり、ポケットからその壜を出してみせたのがよかったのであろう、忘れ物か勘定の違いか、とにかくこの|胡乱《うろん》な風体の私を店の人間と思ったものか、二人はそれほど妙な顔もせず体を退いて、通行の流れを通した。 「このエストラゴンのことだけどね、ねえ、君たちこれでどんな料理を作るつもり?」 「え?」  年嵩のほうの眉根に、たちまち険しいものが走った。 「いやね、オレちょっといい料理を知ってるんだよ。そいつをぜひ教えようと思ってさ」 「なんだい、あんたは」  美食家の卵だけあって小粋な、喧嘩っ早い都会の子で、構えにもそれがあった。しかし私には、もうとにかく時間がないという気持ばかりがつのり、いったいいまの私が三十年前のままの年齢か、それとも現在どおり五十歳を過ぎているのか、それさえ判らぬまま、なおも早口に、泣き笑いめいた表情でいった。 「本当においしいんだよ。ここにホラ、鶏肉料理に合うって書いてあるだろ。鶏なんかよりずっと、そりゃもう……」  アミルスタンの羊といえば、この早熟な少年たちにはすぐ判ったのかも知れない。だが残念なことに、スタンリー・エリンの『特別料理』が書かれたのは、同じ一九四六年でも十一月のことだったのだ。 「行こう」  充分な軽蔑のあとで——というのは、かりに殴り合いになっても自分たちに勝目があると見てとったからだが、もう二人は背を向けて歩き出していた。 「待ってくれ。お願いだ。己は、己は……」  あとをいうとすれば、このエストラゴンで己を喰べてみてくれというしかなかったろう。しかし、もうひとつの思いが私を|止《とど》めた。時間がない。そう、時間がないのだ。いまならばまだタイムマシンの扉は締まり切っていない。いまならばまだ私は自分の風体にふさわしい�故郷�へ戻ることが可能だろう。  二人の色白な少年の、いかにも柔らかそうな肩や尻に心は残しながら、私は引返した。一壜のエストラゴン・オウ・ヴィネーグルを持ち、蓋をあけて、ひとつ急、その仄かに甘酸っぱい味を賞味しながら。  だが頼む、タイムマシンが、行き過ぎずに元通り一九四六年に停ってくれればいいが。…… [#改ページ]    悪夢者  その駅を降りたのはもう日暮れ方に近く、空は灰墨いろに蔽われていたが、僅かに西のほうだけに淡い水いろが溶き流したように覗いている。ここからほど近いT**精神病院は、|武蔵野《むさしの》の面影を留めた雑木林の中に赤い屋根を見せていたが、本館はすげて木造の平屋建てで、正面だけがいかめしい鉄門造りになっている。そこに近づこうとして|水品《みずしな》啓介は、何か大きな|洞《うろ》めいたものに呑みこまれるような予感に立止ったが、それは暗鬱に葉を繁らせて押し黙ったまま立っている樹々のせいであった。  この狂院の中から、再々執拗なまでに手紙を寄越す|鬼村《おにむら》|庄造《しょうぞう》という人物にまったく心当りはない。だが今日の午後五時に限って面会が可能であり、そのときに初めて貴方もお気付きでない重大な秘密について話をしたい。|宮内《みやうち》先生も一緒だから安心して欲しい、ただしこのことは誰にもいわず、一人だけで来てくれという三日ほど前の手紙には、やはり心を|唆《そそ》られずにはいなかった。それまでも文面は、狂っていると思えば確かに狂っているという程度だし、狂暴性のある様子もない。一度会いに行ってみようかと考えないでもないところだったから、最後の便りにはついにんまりしたくらいである。二十八歳という若さのせいか、あるいはこのときが一九四八年——戦争が終って間もない時期で、水品自身も薄ぺらなカストリ雑誌や、猟奇風俗読物を出している小さな出版社に勤めてい、好奇心に充ちていたのが災いしたのかも知れない。妻の|香苗《かなえ》や、生まれたばかりの啓嗣のことを考えれば、そんな怪しげな手紙に誘われるべきではなかったのであろう。  手紙が来始めたのは今年に入ってからで、カストリ雑誌の編集名義人は水品の名になっていたから、未知の読者の手紙は珍しいことではない。狂院の中からというのは初めてだが、他にも毎日のように分厚い封筒が社宛てに届いていたことがある。厳密にいえば社の気付で、宛名は各界の名士——それも主に政治家とか学者とかのことが多かった。差出人は女名前で、達筆な墨字から推すとかなりの年輩らしかったが、なぜ直接に出さずわざわざ社を経由して手紙を書いてくるのか、回送してやることもないので放っておいたが、ある日、文部大臣宛てというのが気になって開封してみた。型どおりの奉書の巻紙に、前文も何もない、いきなり、 [#ここから2字下げ] 今日は御天気が良いので髪を洗ひましたから、大層気分が宜敷う御座居ます。 [#ここで字下げ終わり]  という文面で始まっていた。そのまま最後まで午前中に自分が何をしたか、誰が訪ねてきたかという家事の報告が続き、唐突にまた終っている。つまりこの女性は、文部大臣でも誰でもいい、その日の朝、新聞を開いて、少しでも知った名前があると、すぐ衝動的に手紙を書かずにいられない、おとなしい狂人だったのである。医学上はまだ狂気ともいえないかもしれないが、それにしてもよく倦きずに同じような家庭内の些事を繰返し書くものだと、他の手紙の一つ二つを開けてみて、水品はほとほと感心した。だが静かさやおとなしさが反対に何ともいえず無気味だったその手紙も、あるときばったりこなくなったのは、家人に見つかったせいか、次第に病気が昂じたのか、ついに知らぬままにすぎた。  もうひとり、やはり女性で、これは脈絡もないただ卑猥なだけの描写を綴った原稿を次々に送りつけてきていたが、これが実業界のさる名士夫人であることを社長が聞きつけて来、いっそ本名で発表したらどうだろうということになって、その旨申入れたことがある。ふだんは監禁してあったのかどうか、いま逃げ出してそちらへ向ったから取抑えておいてくれ、すぐ引取りにゆくという電話が入ったのはそれから二、三日後のことだった。  看護人であろうか、血相を変えた若い男たちと、中年紳士風の引取り手が現われるまで、その女は社の応接間に坐って、ただニタニタしていた。名士夫人らしくもない洗いざらしの浴衣を左前に着、乱れ髪に履物も片々のままという異様な風体よりも、その笑いだけで参って、水品も到底相手をする気にもならず自分の机のところから様子を見守る他なかったが、結局、艶本の原稿は女もろとも、社長の思惑どおり多額の金一封で引取られてケリがついた。  今度の手紙は男のせいもあるのか、陰惨さや無気味さはそれほどに感じられなかったが、脳病院を訪ねるというのも初めてのことなので、あれこれと聞き廻って多少の予備知識は仕入れてきた。それによると面会人は病棟に入るとうしろからどーんと扉がしめられ、たちまち狂気の世界に取り残される。出るときはその扉を思いきり叩いてあけてもらうのだが、入るが早いか、鈍い黄色い眼の異様に光っている男たちに囲まれる気持は、どうにもぞっとしないという。何しろ彼らはつねに飢えているので、面会人があると何か喰べ物を持ってきたのではないかと思って、いつまでも周りをうろうろするからという説明であった。  もっとも狂人といっても戦争中から物々交換は盛んで、奇妙なくらい時の相場を知っているのだが、しつこいこともまた無類で、話してくれた奴がたまたま面会に行っていたとき、女形あがりという若い男が現われてこういいかけたという。 [#ここから2字下げ] ——アノ、まことにつかぬことをお願いにあがりまして何でございますが、…… [#ここで字下げ終わり]  まるで振袖でも着ているような物腰で入口のところに三つ指を揃え、それでも中に見慣れぬ人間がいるのに気づくと、慌てて艶然と笑ってみせた。 [#ここから2字下げ] ——ま、これはいらっしゃいませ。本当にマア、ようこそいらっしゃいました。 [#ここで字下げ終わり]  かと思うと、もうそのことは忘れたように、今日これで五へんめだという同じ頼みを繰返し始めるのだった。 [#ここから2字下げ] ——わたくしの煙草と、少しばかりで結構でございますから、小麦粉と換えていただけませんでしょうか。 [#ここで字下げ終わり]  水品はようやく決心を固めると玄関に向った。だがどういうことだろう、受付の守衛は、あれこれと電話をかけてくれたものの、患者にも職員にも鬼村とか宮内なぞという者は絶対にいないと言い張って水品をおどろかせた。手紙を持ってこなかったので証明にもならない。押問答も無益のことで、出直すほかないと決めた水品が、また駅に帰りかけたときである。さっきから樹蔭に佇んでいた若い男が、狙いすました獲物を窺う影のように、薄笑って近づいてきた。……  ……………………………………………  妻の香苗はもう何遍、いや何十遍眼を通したか知れぬその手紙を、これが最後のつもりで読み返し始めた。再婚話も迫って、いますぐにも決心しなければならない。手紙といっても実物は警察で持っていったままなので、これは写しにすぎないが、夫の奇妙な失踪と不可解な死を解く鍵は、やはりこの三通の鬼村庄造なる人物の手紙の他にはない。それでいてまったく取りとめもないその内容が、何の手がかりになろうとも思えないのは、最初に眼を通したとき以来である。  水品啓介は、その日廻るところがあるといって会社を早退し、そのまま家にも帰らなかった。執筆者のどこにも立寄っていず、かねて同僚に脳病院から手紙が来て困ると洩らしていたところから、その線が洗われて、夕刻にT**精神病院の受付に姿を見せたことまでは判明したが、鬼村某がいないと判ると、ぶつくさ呟きながら帰って、それきりどうしたか病院側ではまったく知らない。怨恨、物盗り、それに戦後いくらも経たぬこととて、戦争中の動静まで調べられたものの、いずれも思い当る不審な点はなかった。そしてちょうど二か月後、|太宰《だざい》|治《おさむ》の情死行騒ぎのすぐ後で、同じく|玉川《たまがわ》上水に泥酔した水死体として発見されたのだが、外傷は見当らず、自殺は論外としてもその二か月間どこで何をしていたのか、その死が鬼村某なる者と何らか関係があるのかということさえ、なんらの手がかりはなく、その小さな市井の死は、関係者以外からはたちまち忘れられた。いや、関係者からさえも忘れられたことは後述するとおりで、|下山《しもやま》総裁などの死と較べたら、完全に無意味な、理由も何もない死といえたであろう。  鬼村の手紙は、三通だけが会社の机の抽出しに残されてい、もっと数多く届いていたことは確かだが、なぜその三通が保管されていたのかは分明でない。  第一の手紙は次のようなものであった。        *  新年御芽出たう、編集長殿!  此頃は此処も大分袖の下が利くやうになって、我輩も時折は御忍びで市井風物を見学出来るやうになったが、扨、巷にも格別面白いやうな事柄はない。そこでこのウヰスキー乙類、アルコール分四〇度以上、メチル含有量一立方センチ当 0.2—1.0 ミリグラム、青地に白と赤を抜いた御存知三級ウヰスキーを嘗め乍ら君に新年の賀詞を述べる事とした。イミテーションは承知して居るが、兎に角、メチルでない|丈《だけ》を安堵して乾杯と行かう。尤も中身は石油ランプの様な臭ひがし、水を薄めたアルコールさながら、後からぐわーんと頭に来る事は君も先刻御承知の通りだ。一本三百六十円也の伊達巻や、百匁百円也の栗金團には到底手が出ないからして、漸く半分百三十円の蒲鉾を肴に|飲《や》って居るが、飲む程に寒々として来るのは瘋癲病院の内ともなれば致仕方あるまい。  我輩は此処では分裂症と云ふ病名の許に拘禁されて居るが、これぐらゐ滑稽な名称も無い。若し假りに精神が分裂したと云ふなら、これは当然亦統一出来る筈ではないか。野蛮極まりない電撃療法などではなく、或ひは微妙なる音響の連続、或ひは強烈なる色彩の任意な時間的投影とか、患者の残された五官の残像に手早く適確に投げかける網さへ用意されるならば、|容易《たやす》く肉体は引かかつて如何なる精神病も治癒さるる事は疑ひを容れない。既に我輩は|夙《と》うに此の療法を自ら応用して自己治療を為遂げたのであるが、今以て医師及び看護人は徒らに腕力のみを振ひ、肉体を精神の墓場と化せしめて居る。さうであるからして不幸な患者は肉体を零に置き、精神丈が無限の割算を続けて居る様な甲斐無い努力を続ける他はないのである。  然し、無理もない事であらう、実をいへば未だ君には打明けて居なかったが、此処の看護人共は皆|歴《れっき》とした類人猿なのだ。さうでなければあれほど無用の肉体のみを得々と誇示し得る筈はない。但しこれは絶対の秘密である。彼等が若し其の事実に気付いたなら容易に発狂する筈で、地上には彼等類人猿が人間を閉込めておく檻は用意されてゐても、発狂した類人猿を人間が閉込める檻は未だ存在しないからである。        * (第二伸)  昨夜また彼奴が来た。寝てゐるといきなり耳鳴りがし、鼓膜が内側からぐんぐん膨れてくる。頭の中一杯に拡がつてゆく痛みと痺れと。もう体は動かさうとしても動かぬ。その時に念じ続けてゐたのは、編集長、|只管《ひたすら》君の事なのだ。何も判らぬ激痛の中で、|怺《こら》へて怺へ切れず、骨の曲るやうな痛苦に堪へて俺は君の名を呼んだ。途端にすっと身が軽くなった。�彼奴�が躍り出たのだ。割れる様な頭から影に似て立出た彼奴。そして俺はまた彼奴のせいで狂ってしまつたのだが、そこは前住んでゐたアパートで、俺は直ぐ向ひの小野さんを尋ねた。薄暗い、夕闇の様に澱んだ部屋はしんとして誰もゐない。隣の石井さん。これもからつぽ。長い廊下も灰色に暗い。俺は次から次に扉を開けた。宇多川さんの部屋を覗くと、其処には河合の小母さん独りが寝て居たが、俺をみるとぎよつとした様に起き上り、どうして誰もゐないのと訊く俺に、さう? 変ね、ぢや此処で一寸待ってて、皆にさういってくるからと出ていった。扉がしまる。はっきりと俺は悟った。皆は気違ひの俺を怖れて隠れてゐるんだと。  そのあと、俺は彼奴と踊ったんだ。髪をさんばらにし、幽鬼そのままの眼をした彼奴と、二人してきちがひの踊を踊り続けたんだ。……  そこで眼が覚めた。あの割れる様な痛み。灰色の暗い廊下。あけてみて誰も居なかった部屋。物凄かった彼奴の眼を思い出して躯を固くした時、今度は夢でも幻聴でもない。扉をコン、コン、コンと短く三つノツクする音がはつきり聴えた。誰か来た、と考へてすぐ判つた。�彼奴�だ、彼奴はまだそこいらをうろうろし、この部屋に躍り込まうとしてゐるのだ。もしさうなつたら、俺は本当にいつぺんに狂つてしまふだらう。しかしノツクの音はもう二度と聞えてはこなかつた。  宮内先生に訴へて、�彼奴�につき話をする。大丈夫、来ない様にしてやるといつて呉れた。この先生丈が俺の今の味方だ。先生は何時もヤスパースだの富ノ沢鱗太郎だのの話をし、俺の考へにも決して逆はず耳を傾けてくれる唯一の人だ。未だ君の事は云つてゐないが、そのうち是非話す心算だ。あの激痛の中で只君の名だけを念じて居られた嬉しさに、この手紙を書いた。        * (第三伸)  朗報! 編集長殿!!  いや、水品啓介君!!!  判つた。すつかり判つたんだ。何故僕の夢の中に斯うも屡ゝ君が登場し、あの兇暴な�彼奴�の襲来の時にも君の名を念じさへすれば堪へられるのか、初めて、すつかり理解がついた。何だそんなことかと云はれる位簡単で、そして恐るべ真理がそこにあつた。早速宮内先生にも話したが、さうだ、それに達ひないだらうといつてくれた。  愉快、大愉快だ。どうしてもこの重大な秘密は、すぐにも君に教へたいが、二月のあのウヰスキー事件以来、外出もままならなくなつたことは承知だらう。電話も何時殺し屋みたいな腕をした看護夫に聞き咎められるか判つたもんぢやない。で、提案だが、  四月二十三日。金曜。午後五時。  いいね。絶対にこの時間以外はダメなんだ。この日のこの時間に、誰にもここへ来るなどといはず、必ず一人で訊ねて来て欲しい。|吃度《きっと》だよ!  あぁ其の時、君が此の秘密を知つてどんなに眼を輝かせ、どんなに喜んで呉れるかと思ふと、僕も胸が躍る様だ。宮内先生も立会つて説明してくれるといふから、安心して誰にも内密で来て呉れ給へ。では、待つてゐる。        * * *  読みようによっては本物の狂人の|囈言《たわごと》のようでもあり、何者かの陰険な謀略とも受け取れるこの呼び出し状は、しかしついに何の手がかりにもならなかったことは先に述べたとおりである。帝銀事件に幕をあけたこの年の世相も悪すぎたのかも知れない。|永井《ながい》|荷風《かふう》が『四畳半襖下張』で取調べられ、太宰治が投身し、老いらくの恋の|川田《かわだ》|順《じゅん》が家出し、|東条《とうじょう》他の絞首刑が決って翌年の下山、三鷹、松川事件へと続く毒々しい時代に、カストリ雑誌の編集者の行方不明など問題にもならぬ風潮がそこにあった。  香苗は三通の写しを窓べりのコンロの中に突込むと、マッチをすった。悪夢。そう、戦後の悪夢として燃して了おう。啓嗣が成人したら水品家を嗣がせるという約束の再婚話も、もう明日には返事をしなければならない。啓嗣がいずれは真相を知るにしても、実父はカストリ雑誌などでなくりっぱな出版社員で、単に事故死したと思わせておけばよい。鬼村某などという正体も知れぬ悪夢者の名を、なんで覚えさせる必要があるだろう。コンロの中で手紙は、もう血紅の|条《すじ》を走らせる黒い燃え滓に変っていた。  ……………………………………………  水品啓嗣はバスを降りると、行手のU**病院を眺めた。それは明るい、モダンなビルで、こんな中に精神病院があるなどとはちょっと想像もつかない。しかし、何分にもそんな処を訪ねるというのは初めてのことなので、あれこれと聞き廻って多少の予備知識は仕入れてきた。それによると面会人は、医局員の案内でエレベーターに乗り、そのまま病棟のある上層階まで運ばれる。但し降りる時はエレベーターはすぐ下の階までしか動かず、そこでもう一度医局員の同乗で一階までくることになるらしい。しかしモダンとはいっても、病棟に入るが早いか、どこかしら曰くありげに、沈鬱な眼を光らせている男たちに囲まれる気持は、あまりぞっとしないという。  ここにいる鬼村庄造という患者から手紙が来始めたのは、ことし一九七六年二月のことだが、きょう、  四月二十三日。金曜。午後五時。  に限って面会が可能だから、そのとき初めて貴方もお気付きでない重大な秘密について話をしたい、ただしこのことは誰にもいわず一人だけで来てくれという三日ほど前の手紙には、やはり心を唆られずにはいなかった。しかし、本当はよせばよかったのかも知れない。二十八歳という若さのせいか、それとも一流の固い物ばかり出している大手の出版社に勤めてい、それだけ好奇心に充ちていたのが災いしたのかも知れない。妻の|早苗《さなえ》や、生まれたばかりの|啓一《けいいち》のことを考えれば、そんな怪しげな手紙に誘われるべきではなかったのであろう。ましてあらかじめ病院に電話をして、鬼村庄造という患者がちゃんと実在していると知っていたからには。 [#改ページ]    薔人  薔薇園のおびただしい花群れの中では、どこかでひっそりと薔薇が薔薇を|妊《みごも》り、光と倶に産み、風のそよがすままに柔らかな揺り|籃《かご》の中でその|愛児《ういご》を育てている一組もあるに違いない。そうでなくて、どうしてあんなにも花たちは明るく優しい筈がないのだ。  |千秋《ちあき》|薔人《ばらと》は、自分もかつてはそのひとりだったと信じていた。何より鮮明な記憶がその証拠である。匂うばかりの産着にくるまれて眠っていた、その日々。それから元気な悪戯っ子に育って地上に降り立ち、朝露をふり|零《こぼ》しながらそこいらを跳ね廻っているときの、樹々の梢の穏やかな肯き合い。小鳥たちの弾む噂。だがそれも人間の気配が少しでもしたらおしまいで、薔薇の赤ん坊はすぐ|両親《ふたおや》の許に馳せ帰らなければならない。つぶらな瞳で花片の合間から、おそるおそる侵入者を覗き見する。その、みるからに異形な、世にも醜い二本足の生物を。  それが、いまはどうだろう。どんな罰でか神の手違いか、自分がその異形者の仲間入りをしてしまった。腕が生え、その先は五本に岐れた。口が出来、その中には歯さえ生えた。無気味な変身がいつ行われたのか、このほうはさっぱり記憶にないが、薔薇の子供だった、子供でいられた時のことを思い返すと、たちまち涙ぐまずにはいられない。喪ったもの奪われたものは無限であり、美のすべてといってよいが、中でも貴重なといえばあの香りだ。かぐわしい緑の風に育くまれ蓄えられた香りが何よりだ。……  もっとも人間たちの間では、当然ながら薔人の美貌は際立って見えるらしい。信じられぬほどだと取沙汰され、会うたび指先で軽く頬を突いて、生きていることを確かめる青年さえいた。 「お前さァ、本当はいくつなんだよ」 「十七」 「いつでもそういうけど、だってよう……」  いいさして、瞳のなかに自在にきらめく光に気を取られると、相手はもう黙って吐息をつく他はない。名のとおり薔薇いろに輝く頬には生毛が仄見え、さきほど突いた指痕はそのまま深い|靨《えくぼ》になっているからだ。  十七歳。それに間違いはない。あたかも薔薇の時間が、芽立ちから及んで緑の茎へ徐々に充ち渡り、頂上の花が開ききると何時に崩壊するように、薔人の内部でも時はすでに登りつめ、充溢し、これ以上齢を取ろうにも取りようがない。永遠にということはあり得ないだろうが、いましばらく十七歳でいるより仕方がないのである。  千秋薔人という名も、自分でつけたと思われているのかも知れないが、それも違う。姓の方はもしかすると養い親のままという微かな記憶があるが、名の方はこれ以外には考えられず、それがまた薔薇の中に生まれ、幼年期を薔薇園で過した唯一の|証《あか》しでもあった。ただし、このことはまだ誰にも打明けていない。いまのところ|類《たぐ》い稀れな美少年と思われていたほうが有利なので、本質は野蛮極まりない生物のことだ、薔人がもともとは仲間でないと知ると、すぐに狂暴な正体をあらわし、花片を|毟《むし》るように躯を引裂き、血に狂った凱歌をあげるか知れたものではない。  もっとも、人間のふりをして地上の生活を営むのに不自由はなかった。パトロンめいた者がいるとか、寄進につきたい男女が多いということではない。特殊な、秘められた能力を少しばかり駆使するだけで、必要なだけの金はすぐに手に入った。彼は人の心の中に自在に入りこむことが出来、あまつさえそれを操ることも可能だった。それも男よりは多く女の内部に寄生することで、薔人は屡ゝ主目的を果した。変身願望に憑かれた女は、自分がひととき心を操られていることさえ気づかず、恍惚として薔人のために奉仕する努力を惜しまなかったからである。  ……………………………………………  最初にその能力に気づいたのは、街の風呂屋で浴槽に腰をかけている時であった。これまでもよく裸の男たちから、「ほう」というように好奇の眼を向けられることは多かったが、それは多少の煩わしさと、さらにほどよい満足感を|擽《くすぐ》る程度に済んでいたのだが、そのときは少し違った。昼間のことで人影の少ないせいもあったのかも知れない。眼の前で湯の中に沈んでいる二十七、八の男は、タオルで蔽うことをしない薔人のあけひろげな股間に無遠慮な視線を走らせていたが、そのうちとんでもない独り言を呟き出したのである。  いや、いくら何でも独り言の筈はなかった。薔人がそれに気づいたのは男の口が少しも動いていないと知ったからで、相手はもっぱら頭の中で妄想を逞しくしていたにすぎず、その考えがまるで耳に聴くように、ずんずんこちらに響いてくることに薔人はおどろいた。錯覚かと照ったが、そうではない。男のみじろきのリズムにも、まったくそれは符合していた。 [#ここから1字下げ] ——こいつはまあ本当に人間なんだろうか。たしかにこうして素っ裸で、しかも男性のシンボルを隠そうともしやがらないんだから、まあ男には違いないんだが、しかし惜しいな。これで腰廻りがもう少しふっくらとして、胸に豊かな乳房があれば、完璧なアンドロギュノスというところだのに。 [#ここで字下げ終わり]  そこで男は泳ぎ出すような恰好でいっそう薔人に近寄り、立上ると見せて一渡り裸身を点検してから、また元の位置に帰って続きを考え始めた。 [#ここから1字下げ] ——そういえばルーブル美術館の、ミロのヴィーナスの隣の部屋にあった大理石像。そう、たしか眠るヘルマフロディットって題がついていた、あれもこんなふうになかなかの巨砲とでかパイで、何だか美しいというより異様な気がしたっけが…… [#ここで字下げ終わり]  そして男がそう考え出すと同時に、薔人にもありありと、これも大理石の布団の上に身をくねらせたその像の姿態が浮かんで、却ってたじろぐほどであった。男の名も職業も、どうしてパリを訪れたかも、そしてルーブルが日曜は入場無料ということまで同時に判った。 [#ここから1字下げ] ——まったく惜しいな。何だってこんなものをくっつけてやがるんだろう。皮膚ときたら薔薇いろの|絖《ぬめ》みたいに光ってるのに、男にしとくのはもったいないや。姉貴でもいりゃ一発だがな。 [#ここで字下げ終わり]  薔人は自尊心を傷つけられ、それに少々うるさくなって、男の灰いろの脳細胞を点検した。いそがしく膨らんだり縮んだりしている思考中枢の、そのまた中心へ押しわけるようにして入りこむ。そして初めて薔人は、鏡ならぬ他人の眼で自分の裸身を隈なく眺めた。薫風に育まれ、光に造型された薔薇の化身。それは我ながら惚れ惚れするほどの眺めで、あれだって決して男のいうほど大きすぎはしない。漆黒の恥毛さえ桃いろの肌にふさわしく輝き、薔人は薔人の眼を見上げ、二人はともに肯いた。このときから薔人は自分に恋したのであった。  そのあとで彼が男に命じたことは、思い返すとちょろりと舌を出したいほどで、初めての経験にしてはまず上出来といえたであろう。新しい主人の俄かの出現にうろたえ騒ぐ脳細胞を鎮め、男がこの午後婚約者とデートするつもりで、その仕度までして来たと知ると、計画はたちまち実った。思考中枢から立去るとき、押込み強盗の棄て台詞さながら、こういい残せばよかったのである。 [#ここから1字下げ] ——いいか、騒ぐんじゃねえ。オレが出て行ったら、命令だけ実行して、あとは綺麗さっぱり忘れちまうんだ。いいな、自分のしたことも全然忘れるんだぞ。 [#ここで字下げ終わり]  ともに湯からあがると、冷やかに薔人は待った。むろん本当は男が待っていたのだ。忠実な犬のように命令を実行する|刻《とき》を。鏡の前で入念に髪を撫でつけ、ネクタイの結び目を気にしながら、男は薔人の動きを横眼で窺っていた。いそいそとデートの仕度をしているつもりなのだろうが、どうしてもその前に果さなければいけないことがあるのだ。薔人が風呂屋を出ると、すぐ後を追駆けてき、一定の間隔をおいてつけてくる。薔人は人通りのない横丁へ折れ、|欅《けやき》の大木の下で待った。男はおずおずと近づき、内ポケットから部厚い財布を出すとそのまま手渡した。 「あの、これを、どうぞ」  薔人は少しからかってやる気になっていった。 「なあに、これ。ぼくの忘れ物?」 「そ、そうです。忘れ物です。受け取って下さい」  男の眼には明らかな喜色が浮かんだ。自分でも納得出来ない行動に理由がつけられたので、嬉しかったのであろう。薔人は無造作に札束を引き抜き、財布を男へ返すとその眼にもう一度いいかけた。 [#ここから1字下げ] ——いいか、みんな忘れるんだぞ。風呂場で金を取られたなんて、間違っても騒ぐんじゃない。どっかで落しただけなんだ。交番にも届けるんじゃないぞ。もう一度オレに会ったってお前は覚えちゃいやしないんだからな。 [#ここで字下げ終わり]  男は気弱なほほえみを浮かべ、首をふりながら引返していった。  ……………………………………………  こうして一度味をしめてしまうと、後の仕事はたやすかった。その気になれば銀行の金庫室から有金残らずを運び出させることも出来た筈だし、億万長者から遺産をすっかり譲られるのも可能に思えたのだが、もともとの気質のせいであろうか、それとも能力の限界か、入りこめるのは三十歳までの男女で、それも自分が満足できるほどの容貌を具えていなければ駄目だということが判ると、それは却ってこころよい刺激ともなり、つねに新しい興奮を伴った。若い彼らは、これほどまでとはまさか思えぬほどセックスに励んでいたからである。  習練を重ねるにつれ、入りこむのは何も一緒にいる必要はないまでになった。街で気に入りのアベックを見つけ、一度眼を見合せてしまえば後は簡単である。無垢の童貞だった薔人が思わぬ初体験をしたのは、その一組とともに訪れた瀟洒なホテルの一室であった。二人がシャワーを浴びるまでは、男の脳細胞の|襞《ひだ》に腰をかけた恰好で、じっと見守っているだけだった。いや、ベッドに横たわり、濃厚な愛撫が始まっても、思いきって男の中枢の支配者になる勇気は持てなかった。見ているだけでも薔人にはあまりに強い刺激で、実物の薔人の方はいたたまれず自分のアパートに駆け戻ったほどである。敷き放しの布団の上に|俯《うつぶ》せ、頭を抱えて酔ったように転げ廻った。だがいよいよという時になると、どうしても初めてのその感触を味わいたかったので、薔人は勇を鼓して男の中枢にわけ入った。花蜜の湛えられたその壺は、危うく薔人に故郷に戻った錯覚を抱かせたほどである。だがたちまちその行為は、女の|怪訝《けげん》そうな声に遮られた。 「どうしたのよ、|孝夫《たかお》さん。きょうはとっても変」  薔人は狼狽し、いそいで命じた。  ——何でもないっていえ。何でもないって。 「何でもないよ」  男は、——孝夫なる男は力なく答え、それでも薔人が慌てた一瞬に主体を取戻して、余計なことをつけ加えた。 「ただ何となく、どっかから見られてるような気がするんだ」 「いやあね」  女は白い咽喉をそらし、物憂げに室内を見廻した。 「大丈夫よ、ここは。変な仕掛なんかないわ。ねえ、もっと……」 「う、うん」  孝夫は、いや薔人は稚い腕を廻し、再び女体に蔽いかぶさった。  めくるめく、落下。アパートの一室で稚い腰を突っ張らせると同時に、ホテルのベッドでも異変が起った。二度三度と女を喜ばせてからでなくては決して果てたことのない孝夫が、他愛もなく全身を痙攣させたのである。 「いや、いや、いや」  女は小さな拳を固めて男の背を打った。痺れた中枢部から容易に撥き出された薔人は、それでも危うく脳の端っこに踏みとどまって、呆然と事の成行きを理解しようと努めていた。何で女が怒り出したのか、それが判らない。まして孝夫が死ぬほど恥じ入って、「ごめん、ごめん。どうかしてたんだ、俺」などと詫び事を囁くに到っては、到底理解の他である。あんなによかったのに、何が不足だっていうんだろう。思いついて、女の中に入ってみることにした。由布子。二十三歳か。……  だが一度その中枢部に近づこうとして、薔人は再び呆気に取られた。これはまさしく灼熱の熔岩に|爛《ただ》れた噴火口に近い。男とは比較にもならぬ恍惚感の中を漂いながら、女はまだその頂上の十分の一も極めてはいないのだ。アパートの一室でのろのろと起き上がって身繕いしながら、薔人もようやく女の怒った原因を知って、頬をそめた。そうか、早すぎるといけないのか。でもなんて女って欲張りなんだろう。  考える暇もなく、もうそれは始まっていた。薔人がいなくなって俄かに元気を取戻した孝夫が、思わぬ失敗を埋めるべく猛然と作業を開始したのである。それはあまりにも荒々しい動作なので、薔人はすっかり怯えたが、女は、由布子は夢遊病者さながらに、いやさらに貪婪に、あまさずそれを受け入れようとしていた。思考の中枢部などその激変の前には物の数でもなく、薔人はふり飛ばされぬようしがみついているのがやっとだった。  男の獣じみた眼が迫り、耳たぶは絶間なく噛じられる。そして中心の火口には、噴き上げる熔岩を反対に抑えこむ形で、天の|逆鉾《さかほこ》といった何かが灼熟して責め立ててくるのだが、そのたびに由布子は小さな叫びをあげ続けた。従って薔人がようやく女に命令を発することが出来たのは、およそそれから二時間も経った後のことで、これに較べたら最初に風呂屋で会った男などは、何と純情だったことであろう。  ——こりゃ、いけねえや。  薔人は小さく舌を出した。これからも絶対に�女の現場�には近づかないことだ。そこには決して思考中枢などありはしないのだから。  ただ、その後の経験で、虚栄心を逆手に利用することを覚えた彼にとって、女ほど便利な金融機関はなかった。何しろ彼女らは、向うからわざわざ薔人のアパートを訪れ、したたかな金額を部屋に放りこむと、後も見ずに帰って、二度とその部屋のことなど思い出さなかったのだから。  薔人がついに自分自身を男女どちらの相手にも選ばなかったことは当然であろう。己れに恋した彼にとって相手は自分しかあり得ず、それだけがこの超能力者の唯一つの泣き処だったのだから。        * * *  精神科医として知られる|宮内《みやうち》博士が、パリ近郊にある㈸**病院を訪れ、国籍不明に思われていた患者の一人に対面し、異様な衝撃に襲われたのはつい昨年のことである。そこは、広大もない敷地に数千株の薔薇を植え込み、軽症の患者に作業療法を行わせることで知られていたが、初めはしごく快活に手入れにいそしんでいたその患者は、あまりな薔薇の美しさに魅せられたのであろうか、ふいに躁状態となってあらぬことを口走り始めた。もともと長くヨーロッパ三界を放浪していたらしく、フランス語も達者な男だが、それが自分は確かに薔薇の赤ん坊だった、いまその記憶を残りなく取戻したといい出したのである。始末に悪いのは、それから次々と幼年期・少年期の憶い出を甦らせてゆくうち、どうしても薔薇から人間になった経過が判らず、俺はこんなグロテスクな生物ではなかった、知らぬ間に整形手術をしたのだろうと暴れ出したことで、もとより作業療法は中止されたが、それは却って患者の妄想をいっそう募らせる結果となった。記憶は十七歳のままで固定し、いまもってロザアルとかロザンドとかいう訳の判らぬ名の、輝く頬の少年でいるつもりらしい。  博士は、引合せられるなり日本人だと見抜いた由だが、それにしてもその男のあまりな醜貌には、顔を|背《そむ》ける他なかったという。十七歳といえばいかにも十七歳なのだろう、それは知能がそこらへんで停っただけで、本当の年齢は五十歳を過ぎているのか、あるいは六十あまりか、皺だらけの口許に狡猾そうな笑いを洩らし、禿の癖に残った蓬髪を長く垂らしているのがさらにうとましい。妖気の漂う眼は患者を扱い慣れた博士にも、どれほどの卑しい想念が内部に充ちているかが思いやられて暗然とした。ましてそれが二人きりになると俄かに正体をあらわし、「とうとう逢いましたね」などと|狃《な》れ狃れしく話しかけるというのも気味が悪い。それでいてたどたどしい日本語で得意げに語り続けるのは、十七歳のいまの自分がどれほど美しく魅力に溢れているかということばかりで、黄色い|乱杭歯《らんぐいば》をのぞかせ、生臭い息を吐きかけながら、日本名は実は薔人というのだと、さも大事そうに打明けたという。  苦心の末、本名は鬼村正造だと調べがつき、日本に送還する手続きも済ませてきた由であるが、もし誰か心当りの家族でもいるようならと、なぜか博士は私に語った。 [#改ページ]    薔薇の戒め  ……私はその部屋で、いわゆる�処分�の発表を待っていた。時計も暦もないここでは、実際、待つことのほかに何が出来たろう。かつて外にいた時分から、あるときは地検の固い木椅子の上で、窓の外の絶えず出入りする護送バスの発着を見おろし、あるいは廊下を往き来する囚人の腰縄や編笠といった、あまりにも古風なしきたりを眺めながら、私は待った。またあるときは病院の廊下の端で、リノリウムの床に散らばったスリッパの湿った感触を味わいながら、ドアの動きに気をとられ、窓口に覗く異様に大きな顔に怯えて、私は待った。ただそのときは、おおむね私の�白い友人�に関する処分だったから、祈り続け念じ続けはしても、やはりまだどこかに余裕があったといえるかも知れない。  ところが今度は、私自身に関する、いわば最終決定ともいうべき宣告を待っていたのだ。それも上級委員で構成される評議会が決めたとなれば、もう逃れようはない。どれほど苛酷なものだろうと、私はそれに従うしかなかった。たぶん私は身に覚えのない�罪�、そのきらびやかに縫い取りした奇妙な衣裳を着せられ、そこここを引廻されることになるのだろう。何しろ私は薔薇の掟を犯したというのだから。  それは、例年のように気象庁の梅雨入り宣言が出て、あんなにもみずみずしかった柿の若葉が俄かに|黝《くろ》ずむ季節だった。うす白い翅の蝶たちが限りなく墓から湧き立つ。霧雨の中のその葬列が誰のものかは初めから知れていたし、草叢に混る|鴨跖《つき》草は、ただ青い鬼火を点したにすぎない。そして私の掌には、やはり鉄格子の赤錆がざらつくばかりなのだ。 「だって、先生」  と私はいった。事態がそれほど進んでいるとは思っていなかったので、口調にはまだいくぶんの甘えがあったかも知れない。 「こんなところにいたら、せっかくの墓が全部駄目になってしまいますよ。ホラ、いま果物屋で、桜桃だの枇杷だの巴旦杏だのが、あんなに積みあげられたま静かに腐ってゆくのが、ここにいても見えるでしょう。あれが全部、こう紅くとろけ終るころには、薔薇だって当然滅んでしまうでしょうに」 「いいんだよ、君」  先生は、いつにない厳しい表情でいった。そしてそれに続く言葉は、思いもかけぬほど峻烈を極めたものだった。 「君が薔薇の世話を焼く必要はないんだ。いや、焼かれちゃ迷惑なんだと、この際はっきりいっておいたほうがいいだろう。第一だよ、これまでにも君が作業場で、能率よく仕事を仕上げたことが一度でもあるかね」  私は愕然と先生を、それから部屋を、そして最後に鉄格子の窓の外にある作業場を眺めた。私はここに、いつものあの先生と、のんびり薔薇の話をしにきただけではなかったのか。私が育てていたのは、間違いもなく私の庭の薔薇で、こんな見も知らぬ病院の薔薇ではないという思いも胸を掠めたが、それが錯覚にすぎないことは、いまの先生の一言でたちまち明らかになった。そうだ、私はずっと前からこの病院にいて、作業療法でもへまばかりしている一人の患者にすぎないのに、いったい何を考えていたのだろう。その証拠に、私に割当てられた数十本の薔薇は、いつだって初めのうちは勢いよく芽を噴き葉をひろげ茎を伸ばししているが、ある日ふっと理由もなしに|萎《しお》れいじけて、成長をとめてしまう。あるいはせっかく伸びてきた花枝も、案の定というほどブラインドとなり、見えない嘲笑を浴びせかける。肥料の不足とかやりすぎとか、薬を怠ったとか調合を間違えたとか、シュートの処理を誤ったとかいうことではない。理由はただひとつ、薔薇は私に育てられることを好んでいないのだ。そのために作業場では、私の受持の花圃だけが、いつも日蔭の地であるかのように、暗い翳りを見せている、そう、それだけは確かな事実であった。うなだれた私に、先生はさらにおもおもしくいい渡した。 「そのくせ君は、口をひらけば地下の薔薇園が暗い輝きに充ちたとか、虚の薔薇がどうの不在の薔薇だけが美しいのと、勝手なことばかりいっておるが、少しは|愧《は》ずかしいとは思わんのかね。いいか、君。薔薇には薔薇の掟というものが厳然とあるんだよ。それに違反する奴は容赦なく取締るし、薔薇の戒めがどんなものか、骨身に沁みて思い知ることになるだろう。そういうわけで君の処分も、評議会ではもうとうに決っておるんだ」  薔薇の掟。  いつ、誰がそんなものを決め、評議会とはいったいどんな人たちで構成されているんですと反論しようとして、言葉は|閊《つか》えた。訊かなくても判る気がしたし、何よりへたな薔薇作りというほどの罪悪はこの地上にある筈もない。それをまあ、私は何という大それた思い上り、そしてとんでもない思い違いをしていたことだろう。ここはかつての、あの優しい光と夢に溢れたS**病院ではなく、先生だって当然違うというのに、私は今日ちょっとここに遊びに来ただけだと錯覚していたんだ。…… 「処分が発表になるまで、ここでしばらく謹慎していたまえ」  先生はそういい捨てて部屋を出ていった。覗き穴のついた重い扉がとざされ、残された私はその�処分�の方法について、さまざまに思いめぐらすほかはなかった。  ……………………………………………  処分はおそらく処刑といってもいいほど厳しいものであることは疑いない。それもむろん常識を超えた、時間・空間を自在に操作しての刑罰で、確かな訪問客だった筈の私が、一瞬の裡にそれよりも確かな患者になるぐらいのことは、ここでは当り前なのだ。そういえばなぜあの宮内博士が、声をひそめるようにして私に、千秋|薔人《ばらと》こと鬼村庄造の醜貌を念入りに話して聞かせたのか、のみならずその話をするとき、ひどく不安そうに私の顔を覗きこんだのか、いまとなっては判る気がする。先生は何とかして、私が実は私ではなく、鬼村庄造そのひとであることを思い出させようとしていたのだ。それも初めのうちは、深い|靨《えくぼ》を持つ少年を持出し、薔人になりさえすれば男女どちらのセックス体験も思いのままという誘惑を試みもした。幸い、私はまだ充分に理性を保ち、あいにく薔薇の申し子だった記憶もなければ、それほど美しい頬をしていたことなんて一度だってなかったと突っ撥ねると、今度は反対に、陰惨にくすぶった顔つきの鬼村を持出したのである。私の生得のコンプレックスを|唆《そそ》るように、殊更その醜貌を私に似せて語ったのは、ついに堪えかねて、そのとおりだ、私がその鬼村だと悲鳴をあげるのを期待したからに違いない。  その一瞬、舞台の魔術さながらに二人の人格は入れ変り、あらかじめしつらえられた過去の犯罪までが私に|被《かぶ》せられる手筈だったのであろう。すなわちS**病院ならぬパリ郊外の㈸**病院から、エレベーターのついた東京のU**病院へと移送し、さらに過去の年代のT**病院へと送りこんで、そこで滅ぼすつもりだったと想像される。ただしその代り鬼村はいわば不死の人で、善良な市民である水品某を、親子代々、その家系の果てるまで誘惑し、生かすも殺すも思いのままという娯しみをつけ加えた。ほとんど私が、その�悪夢者�になるのも悪くはないと思うまでに。  こうして見ると私は、過去のどこかにあった精神病院の、黒く穴のあいた台帳を埋めるために作りあげられた影の存在、影の要員として処分を待っている気もしてくる。|恰度《ちょうど》手だれの刑事が、どこからかボロ屑のような人間を見つけてきて、否応なく放火犯人・強殺犯人に仕立てあげるように、着々とその準備は進んでいるのではないだろうか。だが私はその罠には|嵌《はま》らなかった。千秋薔人であることも、鬼村庄造であることも拒否し、のっぴきならず過去の精神病院へ送りこまれることだけはどうにか避けた。とすれば、次に考えられる処刑の方法は何だろう。  私は窓べりに近づき、鉄格子を両手に掴んで外を眺めた。何千株という薔薇を植えこんだ、広大もない作業場。人影もないそこには、いま薔薇だけがほしいままな色彩の饗宴をひろげている。してみるとここはやはり昔どおりのS**院なのだろうか。同時に私は、ある異様な事実に気づいて息をのんだ。いや、異様なということはないかも知れぬ。それは単なる�時間�にすぎなかったのだから。しかし、それが、単なるそのことが、地上で考え得る限りの残酷な処刑につながるとしたら。……  私は頭をふって、なんとかその想念をふり払おうとした。しかし、くろぐろとこびりついて離れぬそいつは、あざわらうように何度でも問いかける。  いまはいつだ? 何月だ?  六月。  ——すぐ、次の問いが襲いかかる。  いつの六月だ? 六月の何日だ?  やめてくれ!   私はほとんど悲鳴に近い声をあげ、さらにその事実[#「事実」に傍点]を認めないために、急いで他のことを考えようとした。  六月は判っている。しかし六月だって楽しい記憶がないわけではない。あれは、いつだったか。そう、とある日われは大海に……。よせ。大海に、いずこの空の下とも、はや覚えねど……。よせったら。美酒すこし海に流しぬ、いとすこしを。そして、どうなったんだ?  めくるめく、酩酊。そうだった。六月のとある日、私はパリにいた。これだけは本当のことだ。それもノートルダム寺院に近い、セーヌ河畔の晴れやかなレストランで、その美酒を傾けていた。焼きたてのパンにくるみ、煮こごりを添えたフォワグラのあと、すてきもないヴィアンドを待っていた。おや、これは洒落になるな、待っていたのはシャンピニヨンを添えたセニヤンのステーキだったのだから。すてきもないステーキ。  よせったら、でも、いいじゃないか。そのあとのデセールがまたとびきりだった。ワインは何に変えたっけ。とにかくジュエリーという木苺で、まず壺いっぱいの砂糖が持出され、次に大きな鉢になみなみと湛えられた生クリーム。そして素朴な赤い苺が山盛りになって届くと、もう食卓はそれだけで大入り満員。胃袋も大入り満員。それがしかも御たいそうな高級レストランなんかじゃない、ウェーターは全部、シャツをはだけて胸毛をのぞかせた兄ちゃんだし、一緒だった連中も生ハムだのソフトサーモンだのと、いいくらい好きなものを喰べて、一人前六〇フラン。サービス料ともで四千円にもならないなんて、いったいどういう仕掛になってたんだろう。そして次の夜は、つい隣りの戸外のテラスで、アントレのあのミートパイのおいしさときたら! よせといってるんだ。  私は鉄格子を離した。掌に|塗《まみ》れた赤錆は、そのとき確かに、こびりついた血の固まりとしか思えず、その血に、そしてこうやって鉄格子を握りしめていた私自身に、私は確かな記憶があった。それは二十一年前の六月。……  ……………………………………………  この部屋、閉じこめられたここに暦も時計もないことはすでにいった。とすればいまが六月だとは薔薇園の表情から知れても、いつの六月かということは私には判りようがない。かりにこの部屋が空間ではなく、時間のエレベーターだったらどうだろう。二十一階下へボタンを押すまでもなく着いてしまうことはいくらでもあり得る。いや、人間は、ただ老いに向って階段を昇るばかりの人生を送るわけではない。こうやって自在に時間のエレベーターを下降することだって、想像力というボタンに軽く手を触れるだけで可能なのだ。誰でも、そう、誰にでも。  しかし、いま、私の場合には、それがもっとも苛酷な処刑につながることに、いやでも気づかぬわけにはゆかなかった。なぜなら、二十一年前の六月十八日、土曜日、ここS**精神病院は、漏電と伝えられる自火のために焼け落ち、数十名の焼死者と行方不明者とを出したのだから。きょうがその前日、六月十七日だとすれば、もう逃れようはない。今夜半、確か一時すぎごろ、この部屋は猛火に包まれ、私は鉄格子を掴んだなりの焼死体に変るのだ。それが先生のいい残した�処分�、へたな薔薇作りの癖に大それた薔薇談議をした私への罰だとするならば。……  私はけんめいに当時の新聞記事を思い出そうと試みた。どこかに脱出の手だてが残されている筈だと思ったのである。    火に飛込む患者も     �バラの園�地獄と化す  陰惨な見出しが、きれぎれに瞼に浮かぶ。    病室ごとに違う鍵     逃げ遅れた重症者  そうだ、鍵ばかりではない、火に怯えた患者たちは、せっかくドアが開かれても、かえって中に固まり合って逃げようとせず、そのために死んだ者もいると新聞は伝えていた。しかし、それが例によって彼らの黒い笑いではないという保証があるのか。それからまた——。    鉄格子にしがみつき     薄幸の患者  二十一年前、すなわち一九五五年の六月、ここS**病院で、火は当然のように不可抗力の真夜中に出た。何時だ? 午前一時。正確にいえば午前一時十四分。原因は? ぬかりなく�漏電�。それも便所の天井からいきなり火を噴いたことになっている。彼らの指定した患者、すなわち処分に値する�不治の�連中は、あらかじ選ばれ、一か所に集められていたのか。いや、用意周到に、みんなバラバラの病棟に押込められ、鍵さえ違えて確実な死を招くよう工夫されていた。何名だ? 焼死者十八名。新聞に載っていた、おぼろげな顔写真が思い出される。私は感覚を研ぎすました。あの中に、他ならぬこの私の顔もあったのかどうか。  だが、そうやって思いを凝らすうち、ひとつの、もっとも正確な記憶が甦り、それが閃くとともに私は、助かったという気がした。あの騒ぎの中で、たったひとりだけ、最後まで行方不明だった人物がいることを思い出したのである。そうだ、かれ[#「かれ」に傍点]はその後、杳として消息を絶った。その可能性、かれ[#「かれ」に傍点]になる可能性だけは、たとえ今日が六月十七日だとしても、まだ残されている。ドアには鍵、窓には鉄格子というここからどうやって逃げ出すのか、具体的な方法はまだ思いつかないが、あらかじめ時間まで判っているからには、何とか脱出のチャンスはあるに違いない。ありとあらゆる手だてを思いめぐらしながら、なお私はとどろく胸を抑えかねていた。        ∴  しかし、過去へ送りこまれるというその考えは甘かったとしかいいようはない。彼らは、時間も空間も操ることなく、もっと直接に、いきなりこのいまの私の肉体を処刑したのだから。先生がにこやかな顔で入ってきた。この病院では、笑顔ほどおそろしいものはない。あとに屈強な看護夫が続き、私はむしろ彼に犯されることを願ったほどである。 「さあ、いつもの注射の時間だよ」  先生の、顔いっぱいの、笑い。それがのしかかるとともに私は昏睡した。  どれほどの時間が経ったものか、もとより覚えはない。厚ぼったい眼帯を取られたのは、薔薇園の真只中だった。しかし、それが薔薇園といえたかどうか、薔薇はすでに薔薇ではなく、私にとっての薔薇の|季《とき》も終ったのとを、いやでも思い知らされたからである。  薔薇の、戒め。  彼らは私の眼を、私にふさわしく、すなわちへたな薔薇作りに対する掟に従って手術したのだった。眼帯を取られたとき、私の眼に映ったのは、いっさいの色彩を喪い、もとより香りもなく、あの幽霊|茸《たけ》と呼ばれる銀竜草や錫杖草のたぐい、どう見ても腐生植物としか呼びようのない、僅かに形態だけを留めた異形の薔薇、薔薇の残骸であった。 「どうかね、君。この眺めは」  先生がいたわり深く声をかけた。 「これがいちばん君にふさわしいと評議会で決ったんだよ。これならまさに君の望みどおり、地下の薔薇園といったところだろうからね」  確かに、そのとおりだ。すべてが幻さながらに、色彩と香りと、ふたつながらの美を奪い去る、このみごとな処刑。  だが、日が経つにつれ、私の口辺には、ふしぎな、ゆるやかな微笑が浮かぶのを留めようもない。いまこそ、あるいはいまようやく、私は声を大にしていえそうな気がするからだ。仲間たち、あの影の王国の一員になれたからには、かつてはためらいがちだったその言葉を、誇りをもって。  人外(にんがい)。それは私である。 [#地付き]〈人外境通信・完〉