中上健次 野性の火炎樹     1  明け方、夜が白みはじめると、小鳥が一羽また一羽と白い花の蜜を吸いに来る。花から花へ翔び廻るその小鳥の鳴き声を、男らは夢とも現《うつつ》ともつかないまま耳にした。甘い蜜を吸って囀る小鳥の悦楽の声は波を打ち、男らは自然に路地の裏山を思い出した。  男らが働く石切り場と男らの住む安普請の飯場が、フジナミの市の高台に建った向井織之進の持つ産婦人科病院のだだっ広い駐車場にあったし、それに何人もすでに月経が干上がってどう見たところで子供を生めそうにない路地の女らが、向井織之進の気のいいのにつけ込んで、妊婦然として入院していたから、何を話さなくとも、顔をあわすだけでくどくどと昔か今か判別のつかない繰り事をきかされたような気になっていた。  夜が明け切り朝になる頃、いっそう小鳥の鳴き声は昂まり、花の甘い蜜に誘われ、何よりも淫蕩な花の匂いに誘われて群れた小鳥らの微細で透明な鳴き声の一つ一つが、この世のものでもあり、あの世のものでもあったような路地で生きる事の愉楽を喚起する。  小鳥らを魅き寄せる花が今をさかりと満開になった頃、向井織之進の病院の一室を妊婦でもないのに占拠するようにして住みついていた女の一人が、木の下にオリュウノオバが立っていた、と言い出した。女の言い方が「死んだオリュウノオバがおった」という妙な言い廻しだったので、最初誰も本気にせず、死んで何年も経った人間がどうしてそこにいるのか、路地からそのフジナミの市まで歩きかねる老婆がどんなふうにして来れるのか、と突飛さを笑ったが、一日たち二日たち、産婦人科の病院にいた女の方も、同じ病院の敷地内の飯場にいた男らの方も、朝毎に耳にする金色の小鳥の鳴き声にさとされたように、仏につかえた礼如さんとつれそって生きて来たオリュウノオバだから姿を見せても当然だと思うようになり、そのうち木の下に現われたのは、オリュウノオバそのものではなく、死んで葬られ霊魂となったオリュウノオバだと気づいたのだった。  霊魂なら、死んで何年経とうと、老衰で足腰立たない状態で長い間寝込んでいた身であろうと、路地からフジナミの市の高台まで難なくやってこれる。路地の裏山の中ほどに家を建てて住んでいたオリュウノオバが、裏山にも朝毎に来ていた金色の小鳥の声を賞でないはずがない。春の日に遠出する類のような、まるで一気に三十も四十も若返るような出来事だった。オリュウノオバは野山を難なく駆けて来て、若い淫蕩な身になったように白い花の咲き乱れる夏芙蓉の木の下に立つ。  病院の方にいた女らも、飯場にいた男らも、半ば冗談、半ば本気で、夏芙蓉の下に立つ霊魂のオリュウノオバを見ようと、飯場と病院の双方から涼台やベンチを持ち出して来て坐る事にした。女らは三人、それぞれ産婦人科病院が妊婦らに与える浴衣を着ていたが、産婦人科病院に入院しているのは分娩の為でも婦人科の具合が悪い為でもない。体は至極健康なのだと示すように帯に工夫をしている。  ベンチに腰を下ろすなり飯場の男が「噂、聴いたかよ?」と訊く。女らは三人共、鼻で吹き、「わしら、子供産んだの、オリュウノオバの時やもん」と言う。 「オリュウノオバやったら、何から何まで知られとるさかかまんけど、どんな大学出てエライ人になったんか知らんけど、織之進らに見せるの要らんよ」 「何を考えとるか分からん」  女の一人が顔をつんと上向けて安普請の飯場の屋根の具合を見るように見て、「オリュウノオバ、テテなし子でも産んでみよ、と言うたんじゃけど、織之進ら、堕ろせというじゃから」とつぶやく。 「若い娘ら安気じゃわい。どんな事しても始末つけてくれる医者が出来たんじゃさか。そうやけど、うまいことしたもんで、皆な、腕が下手やと言うて寄らせんの」 「そんなことあるもんか。わし、何人も娘ら、病院の中で見た」女は言う。  ふと思い出したように、「下の町の娘、病院の中でわしを見て、オバも孕んだんかん、とむきつけに訊いた。わし、ムッとしたさか、犬みたいに産んだらええのに、と言うたったんや。本当は、犬みたいに孕んだんやさか犬みたいに生んだらええのに、と言いたかったけど、娘、何を思たんか、うん、体からみたら安産型やけど、と言うの。その時も、わし、それ以上は言葉使えんから、心の中でオリュウノオバじゃったら、外へ連れていて、子を生めと説くじゃろと思て、娘のあんまり気にしてない素振りみながら、茫然としてたんや」  女らも男らも、毛坊主の礼如さんの女房で路地の唯一人の産婆だったオリュウノオバにそうやって女親が説得されたおかげで、路地を出てもフジナミの市の高台で、夕暮の周囲に漂う夏芙蓉の甘いにおいをかぎながら、涼台やベンチに腰をおろし話をしている現在《いま》がある、と思い、いまさらながら、オリュウノオバの力に気づき、感謝したのだった。オリュウノオバが老衰して寝たきりになっても、ついに最後の一息を吸ったきり永久に呼吸しなくなってからも、路地の者らは折にふれて、オリュウノオバの話をした。  長い事、路地を出たまま寄りつかず、風の便りで借金で首が廻らず逃げて廻っていたという向井織之進が突然、フジナミの市の高台一帯とその高台にあったモーテルを超安値で買い取り、モーテルの看板を塗り替え、モーテルを一部改造しただけで産婦人科病院を始めた。  向井織之進はどう手を廻したのか、裏山削り取り建物をことごとく取り壊して更地にされた路地から、裏山に一本自生していた夏芙蓉の木を産婦人科病院の庭に移植した。裏山に生えていた時は威勢のよいものでなかったのに、移植がよかったのか、夏芙蓉は幹太く繁茂し、梅雨の終りから一つ二つと花をつけ始め、夏の始めの花の時期になると、かつて誰も眼にした事がないような勢いで花をつけた。  女らも、石切り場の飯場に人夫として雇われた路地の男らも、日にかげりが見えるあたりから花弁がふくらみはじめ、薄暮ごろに開き、日が空にのぼり始めるとしぼみ、落ちる夏芙蓉の木が心を持って生きているような気がし、開ききった白い清楚な花弁が放つ甘い匂いの薄暮の中にいて、路地の祥月命日の家々を廻りお経を唱えていた毛坊主の礼如さんや、路地の何から何までを記憶していた産婆のオリュウノオバが説いていた浄土の愉楽はこの事か、と思った。  飯場の中から、一人だけ人夫としてまぎれ込んでいる黒人のように見える少年のかける騒々しい音楽が、夏芙蓉の木の根方を監視するように涼台を置き坐った女や男らの耳に届く。 「オリュウノオバの事じゃさか、あの黒んぼの子のラジオ、聴いて、面白そうじゃねと出てくるど」 「黒んぼかん?」 「さあよ」人夫は首を振りかかり、「黒んぼとも色の黒い九州あたりの血かと思うけど、風呂入ってみたら、怖ろしような物、持っとるど」と笑い出す。 「オリュウノオバ、おうよ、と舌なめずりするんかい?」 「アホな事言うて」女の一人がたしなめる。 「面白い子供じゃわ。人なつっこいし」 「オリュウノオバ、何て言うんかいの?」  女が、一向に耳を傾けても分からない音楽の方をじっと見つめ、まるで夏芙蓉の木の下から立ち現われたオリュウノオバがスタスタと歩いて黒人のような少年を見に飯場に入って行く姿を見ているように、「オリュウノオバやったら、黒んぼの血が入っとるのか入ってないのか、一目みたらすぐに分かるけどねェ」とつぶやく。  確かに、オリュウノオバは子供の顔を見るだけで、その子の男親も女親も、親の顔も記憶していて当てたし、その子が長じて成す子供の事も、それが雑木の繁茂した裏山とふもとの蓮池跡に出来た路地である限り分かった。オリュウノオバは裏山の中腹にある家の仏壇の間に老衰の身を横たえ、序々にせばまる自分の息のかそけさに耳を澄ましているだけで、その子が路地から出て神戸のアメリカ軍バーで働いていたヨイの生んだ子だという事が分かった。  ヨイは一目で臨月と分かる大きな腹で神戸から戻り、そのままオリュウノオバの家に来て、嘘とも本当ともつかぬお伽話のような神戸での派手なぜいたくな暮しを物がついたように語り、礼如さんの朝夕お経を唱える仏壇に大枚の金を御布施として包み、世話になるからとオリュウノオバにも札ビラを切った。  オリュウノオバは身動きがつかない老衰の身を横たえて、札ビラを切るヨイと、ヨイの腹にいて日の光のあふれるこの世に出る気力の漲りを女親に伝えようとする子の気持ちを考えて涙を流した。オリュウノオバは子が現のこの世に出てくる前から、子供の運命を分かっていた。  案の定、潮の満ちた時に生れ出た子を見て、ヨイはすぐに顔をそむけた。オリュウノオバはヨイの生んだ子が普通の子よりも色が黒いこと、胴や頭の大きさに比して手足が長い事を知って、予期していた事が現実になったと覚悟を決め、かたくなに子供を見まいとするヨイを説得しつづけた。 「何にも変りあらせんど。どこ違とるというとこないど」  オリュウノオバは、まるで子供を殺す仏を相手にしてでもいるように、どんな事情にせよ、子供には一切罪がない、そんな態度を取るものではない、と説きつづけた。  子供の泣き声を耳にしつづけていると、ヨイは感情が激して来たようにまだ後産が出ないので股をひらいてあおむけに寝たまま身を震わせて唸り声を上げる。子供をヨイの手の届く範囲におけば、昂ったヨイがどんな突飛な振る舞いに出るかもしれないと思い、オリュウノオバは人を呼んで子供を他所の女に預け、ヨイを説得しつづけた。  オリュウノオバは身を震わせるヨイの股間から出る後産の始末をしながら、まるでヨイが自分の子で、ヨイの昂りに煽られて自分も子を食い殺す鬼子母神になったように、分けの分からない怒りに震え、いまさっきまで説得していた事が嘘のように、女陰の中に入った男の性器が放った精で孕み出来た男の性欲の塊のような子を、バリバリと骨ごと食ってしまいたい衝動にかられる。  礼如さんの唱える念仏もお経も、血だらけの股間を浄めてやりながら炎が吹き上がるようなオリュウノオバの気持ちの前ではかぼそい嘘々しい声のように見える。  気持ちが鎮っても、ヨイは生んだ子に関する事を一切言わなかった。生んだ子の姿形から見ても、ヨイが札ビラを切りながら話した事からも、神戸のアメリカ軍バーで知り合った黒人か黒人らしい男との間の子と知れたが、オリュウノオバがどんな風にカマをかけても、圧し黙っているだけだった。  二日目に祥月命日のお経を唱えに行くという礼如さんを送り出した後、預けた子の具合を見に路地の三叉路の中のソソノイネの家に行き、ヨイの気が変るまでの辛抱だからと、乳の手配や肌着の手配をし終えて家に戻ってみると、ヨイは居なかった。それがヨイの女親としての最大限の気持ちの現われか、敷いていた布団を畳んだその上に縫いかけて止めた一枚を含むオシメが十組置かれ、やはり大枚の現金が置かれている。  オリュウノオバは、その子が路地に若さの輝きをふりまく宿命を受けた若衆の一人になったのを知っていた。  女らは路地の若衆の本当の産みの親が、実のところ産婆のオリュウノオバだという事を気づいていた。オリュウノオバを通せば、見も知らぬ黒人らしい少年も、オリュウノオバ一人、秘密を握っている事として、路地に千年の昔から吹き溜った貴い血や腐った血が若衆の黒い肌の中に脈々と流れ、オリュウノオバを始め女らがこの世にこれほど眩い性の輝きを発ち魅了する若衆が他にあろうか、と騒いだ半蔵とはまた違った美丈夫の若衆になる。  実際に飯場にいる黒人のような少年は、愛嬌があり、ふっと見せる沈んだ顔は黒い肌の持つ底なしの沼のような不思議さともあいまって、触れれば終る事のない愉楽の中におち込みそうな凄みさえある男前だったが、女らがオリュウノオバならこう見ただろうと想像して、夏芙蓉の濃密な浄土の香りを呼吸しながら語り合うと、半蔵の美しさが極点まで高まって血の因果で滅びていかざるを得なかったのとはまた違った、半分ほどの血が若衆の体の中で継ぎ木された事から来る仏の果報によってか、半蔵には思いもつかなかったような健康な張りのある輝きがあふれ出て来る気がする。  オリュウノオバは誰にも、子供がどのようにして、オリュウノオバの家に現われる事になったのか一切言わなかった。また路地の誰もが、以前から何人もそうやってオリュウノオバの黙秘によって守られ、出生を一切問われる事なく路地の子として育っていたし、路地の者の誕生と死を空んじているオリュウノオバ一人記憶してくれればよいと分かっていたので、子はまもなくヨイの血筋に当る夫婦にもらわれていった。  ヨイの半分の血は半蔵らと同じ中本の血だったが、オリュウノオバが里親を中本の方から選ばず、中本と同じように路地開闢以来続く向井の方、ヨイからみれば男親の血の方に当る方へ里子に出したのは、中本の血に七代に渡って清算すべき仏の因果が、その子に及ぶのを止めようと思っての事と読めた。中本の血は若死にしたし、勝一郎の弟の弦のように手が生れついて尋常でない者がいたし、三好のように突然失明する者がいた。  その中本に里子に出してそれがヨイの秘かに生んだ子と知れると、因果が全身の肌に現われ、それで肌が黒いのだと噂されかねなかった。オリュウノオバはそう思って配慮して、向井のキチとトメの夫婦に里子に出したが、後日トメが語ったのを聞くと、実のところ、オリュウノオバがその子の肌の黒いのは、中本の仏の因果が現われて黒く、それを知った女親のヨイが子を生むやすぐ見棄てて逃げたのだと言い出し、仏が罪もない無垢な子に酷い事をすると涙を流したという。  思うに、オリュウノオバは自分で秘かに仕立てた因果話を、黒い肌の子に与え、結局は高貴にして穢れた血が半蔵に女の奥深くを蠱惑する輝くような性の眩さをつくったように、その黒い子も中本の血が駆けめぐっているので女を性の奈落に引きずり込むという若衆に育って欲しかったのだ。  オリュウノオバのかけた呪文のような言葉の結果は、子供が十歳の時にすぐに現われた。  マサルと名づけられた子は十歳になると、同じ齢格好の子らの誰よりも体躯が抜きんでていて、顔に深い翳がつき、女らの評判を呼びはじめ、そのうち、十七の娘がマサルにひっかけられたという噂が飛んだ。十歳の少年が十七の娘をひっかけたというのはひと聴き悪い、と周囲の者は言ったが、その十歳の少年が並の若衆の体躯をはるかにしのぐ黒い肌のマサルだと知ると、誰もが黙ったのだった。  ラジオのスイッチが切れた。涼台に腰かけた女の一人が、飯場から流れてくる黒人の少年マサルのかけるラジオに気を取られていたので、気づかず、音が静まって、今、耳にしたように夏芙蓉の木に小鳥が来ていると言った。 「もう夜やのに、アホよ。あんまり甘い蜜ばっかし追いすぎたら暗くなって、眼が見えんようになってしまうど。巣にも戻られん」  別の女が突然くすくす笑い声を立てる。 「わしらみたいや」  ベンチの端に腰かけていた男が、暮れかかる空の明りを頼りに急くように花から花へ翔び廻る小鳥の鳴き声に耳を澄まし、マサルの話の続きだと言うように、「あれら、この下のフジナミの市の若衆らと組んで悪い事やっとる」と言う。  女の一人が、今まで話していたマサルの出生も、オリュウノオバも現実の事だと言うように、「おうよ、悪い事せいでよ」と言う。「オリュウノオバがよう言うとったわ。若衆手つかずのままにしとったら、元々人間は悪い事するように出来とるんじゃさか、何の罪も感じんと悪い事すると言うて、悪い事したと責めるんじゃったら、仏さんもせめなあかん」  それからまた話は、オリュウノオバの話になった。  オリュウノオバが中本の血の若衆に魅かれつづけたのは、礼如さんが中本の一統の末流だったからだけではなく、中本の血に刻まれた仏の因果がたまらず、どうしても最初に親よりも早くこの世で抱き上げた産婆として、仏の因果から守ってやりたい、という気持ちからだった。  老衰で起き上がる気力もなく、ただうつらうつらとしながら、オリュウノオバは自分が取り上げた中本の子の一人一人を思い出し、マサルが十で女を知り、中学を出るとすぐ路地を出、十八の若衆になって、フジナミの市の高台の石切り人夫として飯場に働いたのを知り、それが夢なのか現なのか、実際にあった事なのか空想事なのか判別つかないまま、ちょうど花の季節を迎えた為、夜の闇の中に満開になった白く浮き出た夏芙蓉の花の下から、ふらふらと飯場の方に歩いていく姿を思い描いた。  オリュウノオバの横たわった仏壇の間にも、季節ははずれてしまったが、裏山の頂上にヒョロヒョロとある夏芙蓉の放つ甘い芳香がかすかに洩れ入ってきている。オリュウノオバは、その夏芙蓉が、何年か後の現在、フジナミの市の高台に咲き誇る夏芙蓉だという事を老衰の身を横たえながら知っている。ただ、その花の廻りには、生きて性を持ったものの愉楽の波だちが渦巻いているのを知っている。  オリュウノオバが丁度戸口に立ち、中に声を掛けて上がろうとすると、二階からマサルが降りて来て、一瞬、オリュウノオバの顔を見て、けげんな顔をして立ちどまる。  マサルはオリュウノオバを瞬時に判別出来ず、外へ出て行こうとした。 「マサルかよ?」  オリュウノオバが訊いてやっとマサルは認め、「オリュウノオバか?」と言う。  うなずくと、マサルは、「ここに居るの、今日が最後だから、遊んでこようと思って」と言う。 「どこへ行くんな?」  オリュウノオバは驚いて訊いた。  マサルは何のつもりか、片目を瞑り、「船に乗って他所へ行く」と言う。「サンパウロか?」マサルはさあと首を傾げる。  オリュウノオバは不意にマサルから手を払われたような気になって、床の中で、マサルにはオジに当るオリエントの康が生きているならサンパウロかベノスアイレスに居ると独りごちている。  マサルがフジナミの市の繁華街にあるディスコ69に着いた時、高台の下の集落の密集した京町の若衆らはまだ来ていなかった。すでに三回換えた三カ月有効のカードを見せ、中に入りかかり、切符売りをしていた男が「最後なんだってネ」と妙なアクセントで言う。「黒んぼだからよ」マサルは言う。  そのまま曲が変ったので、マサルは曲の初っ端だけ戸口で踊って見せた。男はマサルのはだけた胸にかかったペンダントを見つめ、「分かってるよ。セクシーなの」と言い、一拍間を置いて、「今日、最後だから寝ようよ」と言う。 「嫌だね。ター坊とか、キシイだったら寝て、姦ってやってもいいけど、おまえなんかオカマだから嫌だね」  男はマサルが踊りながら言うので冗談を言ったとしか思わないのか、カウンターの中からくぐり戸を越えて出てくる。男はマサルの前に立ち、二人だけの時に限って見せるなよっとした素振りで、「この前、言ってたじゃないか。鑑別所で経験あるって」と首にしなだれかかる振りをする。 「よしてくれよ。気色悪い」マサルは男の腕を払う。  男はわざとよろよろとよろけ、なおふざけようとするように壁にぶち当るふりをして女言葉で、「まだこの前の残り香、体の内に残っているんだから」とすねたような眼つきをし、「いいわよ。私って女が居ながら、ター坊やキシイに心を移すのね」 「あいつらオカマじゃねえよ」  男は「そう」と急に冷えた声を出す。 「こうまで言っても分かってくれないなら、ここの会員カードの三回分と、店の中のボトル代三十万と、それから約束して貸した三百万、もう船に乗るんだったら返してもらわなくちゃ」 「だから船に乗って金つくるって言うんだろ」  マサルが踊りをやめ、後から入ってきたアベックの男がキシイに似ていると顔を見ると、小声で「男の顔ばかり見るんじゃねえよ」と言い、男はカウンターの中に戻る。  アベックの客が中に入ってからマサルは、「三百万なんて借りてないぞ」と荒げた声を出す。 「当然でしょ。二百万は慰藉料だから。私が惚れているの知ってるからいい気になって、マスター、お腹すいたからおごってよ、と言って、何度も何度も数えられないくらいたかってさ。当然、私の方はいい事あるって思うから、色男におごるわよ。何人、あんたの黒んぼ頭くらいのまるでパーのダチにおごったの。何人、あんたの連れたマタハリ・サセコにおごったのよ。マタハリ・サセコの食ってる物も飲んでる物も、全部、私が金出すのだというのに、結局、オカマ扱いにされて、ギャハハハと笑われて。じゃあね、マタねって、そっちは連れ込みに行くし、こっちは暗い部屋に行く。マタなんぞないわよ。そんだけ尽して、全然いい事、ない。チンポコ、触らしてくれたけど、握らせてくれた事もない」 「当然だろ」マサルは涙ぐんだ男を見て苦笑する。 「当然よねェ。ガキのくせにマッチョマンだし、男前だから恋の駆け引きうまいのよねェ。慰藉料、どうしても払ってもらうわよ」  その時、キシイと女が三人入って来た。キシイが「おっ、濡れ場を演じとるな」と方言を使う。  マサルが体で、いままでカモにしてきたオカマのマスターに口説かれて困っているというように、ステップを踏むと、マサルがこのあいだまで交際していたルミ子が、「マサルなんかさあ、結局、結婚サギみたいなもんじゃない」と暴露するように言う。 「ちょっと冷たくされると、これだからな」マサルは言う。「俺、何も金出してくれなんて誰にも言わないぜ。黒んぼのチンポコ食わえて、あんまりよかったもんだから、これ買ってあげる、あれ買ってあげるって言ったんだろ」  マサルは、外へ行くと知ると寄ってたかって悪口を言う、とむかっ腹が立ち、「皆俺とやりたいやつばかりじゃないか。なァ、キシイ」と先制攻撃をするようにキシイの顔を視る。  キシイは一瞬、顔を赧らめた。キシイに悪いと思ったが、自分が黒んぼのせいで女からも男からも人間の形をした性の玩具のように見られるのに腹立ち、「キシイだってよ、俺が部屋に泊ったら、俺に擦り寄ってきてよ」と言い、マサルはそこまでで話を止めた。 「へェ、キシイだって凄腕だねェ」マスターが妙なアクセントで言う。 「キシイの彼女が俺と69の便所で立ったままやった事、根にもって、キシイ、女を俺の前でもホテルに連れ込んでも、ぶったたいてよ。その後、男同志だから仲直りしようと俺に言って部屋に連れ込んだのさ。酒ガンガン飲まされて、それから音楽かけて踊ったのさ。汗かいたからシャワーあびさせてもらって、それで、また酒飲まされて、キシイが俺の事、綺麗だって言う。黒んぼの頭に酒入るとパアだからな、そんなに綺麗だったら見なよって、キシイに裸になってみせてやったよ」  しゃべりながらマサルは、マスターに一回ぐらいキシイがやったようなことをさせてやってもよかったと思った。 「ききたくないよ」マスターは言い、客が来たので、店の中に入れと言う。  女が三人先に中に入り、キシイがマサルと並んで立ち、マサルの耳元で、「おまえ、あの様子じゃ、マスター本気でだまされたと怒ってるぞ」とつぶやき、キシイは自分のやった事を暴露された腹いせのようにわざとマサルの尻を撫ぜ、マサルが振り払うと「今日中に借金返せるのか?」と訊く。  マサルは首を振る。キシイは耳元でどなる。「あの女らもう金出さないぜ。だから二つしか道ないだろう。一つは福祉のババアに無心に行くか、もう一つは、あのオカマに今晩一晩つきあって、借金帳消しにしてもらうか」  二つ共、有り得なかった。 「二人とも、殺しちまうよ。殺して、逃げるよ」マサルはキシイの耳元でどなった。キシイが返事を返すようにマサルの耳元に口をつけ、「バカ」とどなる。「殺さなくったって、逃げりゃいいの。あのオカマ、お前をどうしても物にしたいから、フジナミの市のヤクザ呼んでるよ。そいつら来たらめんどうだから、いますぐここから逃げて、フジナミの市から出りゃいい。車、わけないだろ?」  キシイは鍵をこじあける手つきをする。マサルはうなずく。鑑別所入りを繰り返したのは、自動車を盗み、乗り廻していたのが大半の理由だった。マサルは混乱した。  音楽が変って、マサルは、なるようにしかならない、とあきらめる事にした。 「踊ろうぜ。俺の最後のフロアショウだよ」マサルが言うと混乱をじっと見つめていたキシイが、「これだからな。あいつら、ヒガシ組の一派なんだからハンパじゃないから、とっつかまってリンチ受けても知らねェよ」と言う。  すでにマサルが、黒い皮膚の上を這い廻る音の波や、体の中心部にわき立つリズムに酔いしれるように、音楽に合わせて踊りはじめると、キシイは「音鳴ってりゃ、踊ってんだ」とあきれはてたように言う。  キシイが、フロアで踊れと、マサルの背中を突つく。フロアの方からジュンコが、照明の充分届かない暗がりの中にいて、一人音楽の楽しさに思わず悦楽に浸ってしまったように踊るマサルを、「ねェ、マウイ、こっちで踊ろうよォ」と呼ぶ。  踊りを踊っている間はマウイと呼ばれたい。いや、踊りを踊ってなくとも、外に出かけると決めた以上、今日からはマウイと呼ばれたい。目を閉じて踊りながらマサルはそう思う。「ジュンコが呼んでるよ」キシイがマサルの背中を突つく。マサルの体はすでに汗をかいている。マサルはキシイの声を聴かなかった振りをする。眼を閉じたまま踊っていると、音が他でもない自分の黒いなめし皮のような皮膚の内側からわき起こり、建物の地下にある69の室内の空気に伝わり、さらにフジナミの市の高台下の大きな路地に伝わって、そのせいで皆が皆、愉楽に打ち震えているような気がする。  高台の下の路地には、マサル、いやマウイの遊び仲間は何人もいた。路地の遊び仲間も、路地に住む元大盗ッ人と自称するケンキチノオジも、マサルの事をマウイと呼ぶ。マウイという名前はマサルがつけたのではなく、むしろ自称大盗ッ人のケンキチノオジがつけたようなものだった。 「ようけ、おまえみたいな顔の奴、おった。カウイとかカイケーイとか言う名前じゃの」ケンキチノオジは戦時中に出かけた南洋の楽土ダバオで見たマサルと同じ顔のような若衆の話をした。島国の日本が南方に侵出して楽土建設を志したそのダバオの原住民の若衆は、色が黒く体格がよく美形で、汗水たらして働かなくとも、勝手にマンゴーが実り、パパイヤが熟れ、バナナがなる熱帯だから、踊りを踊り、歌を歌い、女と姦っている。  マサルはそのダバオを気に入った。船に乗ると決めたのも南洋の楽土ダバオに行ってみたいという気持ちがくすぶっていたからだった。ケンキチノオジが、高台の飯場から遊び仲間をさそいに高台の下の路地に来たマサルを、名前を覚えられずカウイとかカイケーイとかダバオの若衆のように呼ぶのを聴いても、厭な気はしなかった。カウイと言うよりマサルなのだから、マウイとした。  踊り続けているマサルは、踊りと音楽と性の愉楽に打ち震えるマウイに変る。マウイはシャツを脱いだ。シャツの下には、一度69のオープニングに呼ばれてやって来た黒人のダンサーからもらった米軍用のモス・グリーンのランニングシャツ。マウイは目を閉じ、音楽の波に体を動かしながら、汗をかいた筋肉だけが時々、フロアの方からもれてくる照明に光り、金色に浮かび上がっているのを想像する。  ジュンコがランニングシャツからむき出しの腕に触り、汗がついたので手を引っ込める。穢いわけじゃないだろ、黄金色の汗だぜ、そんな事するなら姦ってやらないよ、からかおうとして目をあげ、ジュンコに「なんだよ」と言いかけると、ジュンコは「向うのフロアに行こうよ」とマウイの両の腕をおさえる。ジュンコのその仕種は悪くなかったし、それに69の便所の壁に背をもたせかけ、足を曲げさせ、女を立った姿勢で姦る時、必ず女がやる姿に似ていたので、マウイは機嫌をなおした。  ジュンコの耳元で「両方の腕、おさえられちゃうと、姦りたくなっちゃう」とマウイはニヤニヤしながらつぶやく。音に邪魔されてジュンコには聴えない。 「フロアで踊ってんの、ダサイ芋ばっかしじゃん。マサル、踊ろうよ、フロアで踊って、ちょっとレベル上げようよ。皆言ってるから。マサル、呼んで来いって」 「俺はもうマサルじゃないの。マスターに金借りたんでオカマの相手させられそうになったマサルは、さっき死んじまったの。俺はマウイ」 「マサルって死んじゃったの?」ジュンコは、マサルがまた調子っぱずれの冗談を言い出したというように見て、マウイが真顔なのに気づき、「マウイでもいいんだけど、東京から戻ってきておかしいんだよね」と言い、マウイの両腕を離す。  マウイは子供の玩具用に育てられた家畜のように、ジュンコの手が腕から離れた途端、音楽に乗って踊り出す。 「東京で何かあったの? 戻って来たら金なんかバンバン使うし、マサルに誰もつきあえないって言ってるわよ」 「何にも」  マウイは目を瞑って音楽に浸りながら言う。目を瞑っていると、音が耳から直に性器のつけ根に流れ込む気がする。体を動かし続けると勃起し、ニューヨークのクラブのフロアショウのように、性器に指一つ触れず、踊り続けているだけで射精してしまう気がする。 「マサルは何か変ったの?」  マウイは目を開ける。 「マウイって名前だって言ったろう」 「マウイ」  ジュンコはまたマウイの両腕をおさえて手紙の字の誤りを直すように訂正する。マウイは玩具のように、動きをやめる。 「俺は玩具だよな。ブレイク・ダンス、上手いしよ。ブレイク・ダンスっての、自分は超合金の合体ロボで、これからヘンシンだって思ったり、玩具が遊びすぎてもう限界だよってバラバラに部品飛び散って解体しちゃうと思えば上手になるんだよね。チンポコなんか、俺なんか、バイブレーターだよ。女なんか玩具だから勝手にいじくり廻してよ、吸ったり、なめたり、噛んだりして」  マウイは突然、腹が立ってくる。 「東京だってフジナミの市だって一緒。東京の女もフジナミの女も、黒んぼだと思うと、金出しゃ買えるダッコちゃん人形だと思ってる。女、金使ったの、だから当り前だろ。東京で女、金出してくれるんだから、何もフジナミの市の女にタダで姦る事ないって、金使わしたの、悪くないだろ。東京もフジナミの市も、平等さ」  ジュンコは吹き出す。「マウイって、あんまり理屈考えない方がいいのよね」マウイは「まァネ」と答える。「女、金あるから出すんだものね」 「だから、そのくらいの理屈も考えない方がいいのよね。金あるからって出してれば、マウイとつきあってたら、親元から遺産でも分けてもらうか、トルコとか働きにいかなくちゃならなくなるわよ。マウイの女になったら、苦しむわよ。金のある女、出て来たら、そっちへふらふら行くって思うからあせるし、マスターなんかが金をバンバン使いはじめたら、オカマに取られちゃうと思うでしょ」 「姦んねェよ」マウイが言うと、「駄目よォ」と笑い出す。ジュンコはマウイの腰に手を廻す。マウイは極く自然にジュンコの肩に手を掛け、向かいあったジュンコに股間をすり寄せるようにして、もう一方の手で髪をかき上げる。目に軽く触り、「楽しんだろ。何回かいい目したろ」とつぶやく。 「ジゴロォ」ジュンコは上ずった声で言う。 「しょうがないんだよね。飯場で働いてもらう金、安いから。ネックレスも欲しいしよ。カッコいいじゃん。黒んぼの金のネックレスって。ダバオに船で行くんだから」 「金なんかないわよ」 「いいんだよ」マウイは少し失望する。 「他の奴にプレゼントさせてやるから。誰かの、盗んじゃってもいいな」マウイは内緒事を言うようにジュンコの耳元に唇を寄せてひそひそ声でつぶやき、唇で耳に触れる。ジュンコは突然、笑い出した。「いや」ジュンコは笑い入る。  その時、「マウイ」とマウイの肩を叩いた者がいた。マウイが振り返ると、一目で地廻りだと分かる身なりの男が二人、マウイに「外へ出よ」と言い、声が音楽にかき消されたと思ったのか手で合図をする。地廻りの男二人に前後からはさまれて外に出ると、マスターが立っていて、マウイの顔を見るなり、「ほうら、本当だっただろ」と言う。マスターはマウイが汗をかいてシャツを脱いでいるのを見て、「シャツどうしたの? 中に置き忘れ」と訊く。マウイがとぼけて、今気づいたように顔をねじって肩を見る。黒い肌にやはり金色の汗の粒が浮いている。マスターはマウイの後に立った男に「取って来たったって」と妙な方言で言い、「おまえ、行け」とはねつけられた。マスターは、ちッと舌を鳴らし、「ホレた男の弱みだよ」と店の中にシャツを取りに戻る。前に立った男の方がそのマスターの後姿を見て笑った。 「どうするんだろ?」マウイは不安だった。「しゃあないんじゃ」前に立った兄貴分格の男が吐き棄てるように言った。 「おまえの事、あの盗ッ人のケンキチノオジからよう聴いとるんじゃけど、あの男に金借りとるんじゃろ。金、払うたらなあかん」 「金ないんだ」マウイはつぶやく。  マスターが戻って来る。  シャツをマウイに「はい」と渡し、「どうするんだよ」と訊く。 「だから、船に乗ったらすぐ返すって言ってる」 「信用出来ないって言ってるだろ」マスターは言う。「いつものお前のやっている事を見たら、そんな甘言は信用出来ないに決ってるだろ。船に乗るって契約に行けば、二百万円かそこいら前借りさせてくれるよ。タンカーじゃなしにシビ船だったら三百万くらいだな。だけど、その金持ったらどうする? おまえの事だから、一万ぐらい使ったっていいんじゃないか、と思うだろ。で、使っちゃう。女の子、向うから歩いてくる。口笛吹いたら振り返った。喜々として飯食ってお茶飲んで、ディスコへ行って、また飯食って、しかもみさかいなしに食うからな、それでホテルにしけ込んで、これで四万ほど飛んでるよ。東京に契約に行ってお前は一日で戻ってこれるか、まア最低四日だな。交通費抜きで、一日十万使うな。四十万に交通費十万で五十万。それでも二百万借りたなら百五十万残ってる。お前の事だからな、ここに金持って来るまでに色々考える。契約に行って前借りしてくるだけで五十万使ったのだから、今度は本当に船に乗るまでに幾らかかるかと考える。まず一日一万でフジナミの市の滞在日を考える。三日で三万。船に乗るまで東京に五日居るってわけで、約七十万くらい。それを差し引こうとする。合計百二十三万。二百から百二十三万引くと七十七万」 「そんな事、しないよ。いくら黒んぼだって」マウイはケンキチノオジを知っているという地廻りの兄貴分の方に向かって訴えかけるように言う。 「マスターの見る俺ってそんなにバカですか?」 「バカもバカ、オオバカ」マスターが苦笑する。  地廻りの二人はマウイとマスターの戯れ合いめいたやりとりにうんざりしたようだった。兄貴分の方は、「おい、椅子くれ」と頓狂な物言いをし、マスターがカウンターの中から持ち出した椅子に坐る。椅子に坐るなり、「よっしゃ、分かった」と兄貴分は言い、煙草をさぐるように服のポケットをさぐり、内ポケットから札でふくらんだ財布を取り出して一万円札を一枚抜き取り、「ちょっと中のカウンターへ行ってウィスキーでも買うて来い」とマウイに渡す。 「俺ビールがいいんだけど」マウイがつぶやくと、兄貴分はバカモノとどなる。「われのような黒んぼに飲ます気持ちない。バーボンを買うて来い。われのおらん間に、俺とマスターが、金で解決さすんか、どうするんか決めるんじゃ」 「そりゃ、金ですよ」マスターが言い、また、なよっとしたふりを見せ、「黒んぼのガキに気持ちなど通じませんよ」と言う。「見て下さいよ。私を見る目。誘うみたいだし、軽蔑してるみたいだし」 「誘ってなんかいない」マウイは言う。 「俺は手玉に取られたんだよ。本当の本当は金なんてどうでもいいんだ。もちろん寝る寝ないって事もどうでもいいんだ。ただ、マスター、いいですねっとか、凄いですねっとか、カッコいいですねっとか、何せからいい言葉をこいつから聴きたかったんだ。十九だろ、こいつ」 「十八」マウイは訂正する。 「十八の黒んぼの混血に、弟だったり、彼氏だったりする口調でホメられたかったんだ。こいつは上手に使いわけたよ。朝まで踊って飯食いに行ったら、女の子連れてる時はこいつの嘲いもの、オデキみたいに見られてんの。女の子とそのままホテルに行くのを見送る時ばかりだけど、極くたまに女の子帰して二人切りになる。こいつは俺はホメるね。カッコイイですよ。腹なんか出てませんよ。うん、まァね、と言いながら、まんざらじゃない。服の上からならどこ触ったって怒らない。こいつ、こっちの心理を突いてるってわけ。というのも、もうちょっと上手い言葉を掛ければ、清潔で純粋でそれでいて野性の性の本能にもだえているような少年が落ちて来そうなんだもの。股倉触るのに、だから一年かかった」  地廻りの兄貴分は聞いてなどいられないという顔をし、足を投げ出す。立っていた弟分の方が、兄貴分に言われたとおり、店のバーへ行ってバーボンを買って来いと突つく。  マウイは気が気でなかった。マスターが何を言い出すのか、気が気でなかったし、兄貴分とマスターが話の結果どんな裁決を下すのか、心配だった。「バーボンですね」マウイは一言かけて、店の中に入りかかる。音楽がいちどきに押しよせる。耳はマスターの方に向いていた。「いっつも冷たいだけじゃなく、時々、触れりゃあ、おち……」と耳にしただけで音楽に体をすっぽり包まれてしまった。早くバーボンを買って戻ろうと店のバーテンらの立ち働くバーのカウンターの方に歩いた。  カウンターの横に非常口という赤ランプが灯いているのが見えた。動悸がした。カウンターのバーテンに「ヤクザが店の前でバーボン飲みたいと言うから持っていってやって」と一万円札を出した。それからマウイはトイレに行く振りをした。トイレの入口と非常口のドアは一等近い。トイレの前に立ち、ドアを開けかかって自分を見ている者がないかどうか、確かめた。フロアで踊っているキシイがマウイの動きを見ていた。  マウイは上手く行くと、笑いを送り、極く自然にトイレのドアを間違えたのだというように、非常口のドアを開けた。  マウイはフジナミの市のただひとつのディスコ、69の裏に出て、そのまままっすぐ石切り場の飯場のある高台に向かって走った。走っていると自分の呼吸と体の風切る音が妙なリズムをつくっている、と思い、まるでマスターや地廻りの手から抜け出して来たのではなく、踊りの新種の練習しているのだという気になる。  フジナミの路地の入口に来て、走るのを止めた。路地はすでに灯を落としている家が多かった。涼みに外に出たステテコ姿の男らが立ち話に興じていたし、子供らが暗い外を走り廻っていた。マウイが脇を通り抜けると、すでにその道を何度も通っているのに「黒人じゃだ」とか「黒人」とかつぶやきが起こり、「黒いさか暗がりじゃ顔見えんわだ」「何来たんかと思たよ」と聞えよがしに声が飛ぶ。マウイは気にしない。何度も、フジナミの市に来てから出来た遊び友だちに「そんな事言われて腹立つだろう?」とか「厭だろ?」と訊かれたが、腹も立たなければ、厭でもない。たまたま土人かアメリカ黒人か、そんな黒い肌の血が混っただけで、端から仕方のない事だと思っているし、夜の暗がりの中に溶ける事も、人と並んで写真を撮ると自分だけ目も鼻もはっきりしない状態でまっ黒に写っているのも、悪い事ではないと思っている。  マウイは何もかもを良い方に考える楽天的な性格だったし、何よりも人と違う混血の美しさを持っていた。路地の中を歩き、ひょっとするとこれで路地に来るのは最後かもしれないと思い、そこだけ特に明るい照明をつけた駄菓子屋の前を通りかかると、案の定、店先の涼台に遊び仲間が二人、どこで見つけて来たのか、新しい女の子二人と坐っている。女の一人が気づき、遊び仲間のヤスオが、「早いね。もう踊って来たんか?」と声を掛ける。高台の上に今を盛りに咲いた夏芙蓉の甘い香りが流れて来て駄菓子屋まで漂っている。夏芙蓉の匂いは路地の家でたかれる蚊取線香の煙の匂いや仏壇の線香のものと混り、まっ香臭くなっている。マウイは路地の家の中で、親の居ない隙に娘と姦った時の匂いを思い出しながら、「借金、払えって言うから逃げて来た」と苦笑する。「クソオ」ヤスオは同調する。「俺もこれからもうちょっと経ってから69へ行くんじゃけど、さっきトモキが自分とこに置いとったオキモノからも涙が出たと言うたって、大騒ぎしたんじゃ」ヤスオはそのトモキを待っていると言う。  たわいない悪戯だった。大盗ッ人のケンキチノオジの元の女房で、やはり盗ッ人の名人のスミエノオバが持っている小さな木の観音仏が涙を流しつづけている。マウイもその仏像の涙は見ていた。ケンキチノオジが、一時、盗ッ人稼業から足を洗い、盗ッ人の女房のスミエノオバとも別れて南洋の楽土ダバオに行っていた。その間にスミエノオバの子が死に、スミエノオバは悲しくてたまらずケンキチノオジに頼んで仏像を楽土だと言うダバオの木で彫ってもらい、送ってもらった。その仏像から涙が出る。ダバオ観音と呼ばれるその仏像は本当だったが、トモキは、入口の下駄箱の上に置いてあった人の北海道産の熊の彫物から、涙が流れ出たとケンキチノオジに見せに行ったのだった。  普通のオジだったらすぐ悪いさかりのトモキが持ち込んだその涙を流す熊の彫物は、単に水につけただけだと見抜くだろうが、大盗ッ人で鳴り響いているケンキチノオジは、そうはいかない。「おお、ほんまやね」と真底驚き、深く感動し、熊の涙だとふれ歩き、また霊異が起こったとスミエノオバの家へ持ち込む。 「あいつも熊の涙じゃ言わんと、熊のションベンで濡れたんじゃと言うたったらええのに」 「そう言うても、あの二人なら信じる」もう一人の遊び仲間のタケシが笑う。  マウイは追手がひょっとすると69から先廻りして高台の飯場へ行っているかもしれないと思い、気がせきながら、声を立てて笑う。マウイも二人なら、どんな事であれ、霊異だと言うだけで信じると思う。白い伝書鳩に輝くような桃色のラッカーを吹きつけ、ケンキチノオジの家へ持って行った時は、マウイが主謀者に仕立て上げられた。「オジ、飯場で俺が飼っていた白い鳩、一晩でこんな色になった」マウイが言うと、「おうよ、えらい事じゃね」と深い溜息までついて驚く。「どしたんないね? 桃色の血が羽根に廻ったんかいね」ケンキチノオジはすぐにスミエノオバを呼びに行く。スミエノオバは息せき切って駆けてくる。スミエノオバはその輝くような桃色の羽根の鳩を見て、ブラジルにそのような鳥があったとやはり溜息をつく。「そうやけど、一夜でなったと言うんやさか」「もうちゃっと赤かったと思うけど」と言い出してスミエノオバは子細に見つめるので、桃色の鳩をつかんでいたマウイは手を離した。桃色の鳩は空に翔び上がり、「ああ、見えんようになっていくよ」と言う二人の感嘆の声を後に消えた。  霊異はむしろそれからだった。マウイの飼っていた鳩の羽根が桃色に変ったのは、楽土のダバオで彫った観音が涙を流したのと同じ事で、仏の果報を示すのだと言い出し、マウイの顔を見つめ、マウイはどう見ても美形の男女ばかりだったダバオの土人の血を引いていると口々に言い、そのうち、マウイが南洋の楽土からそれとなく仏が路地のそばに送り出した仏につかえる若衆ではないか、となり、そう考えれば、マウイの体全体からぼうっと金色の後光が射しているように見えると言い出し、ケンキチノオジとスミエノオバ、二人の盗ッ人は、マウイに向かって手を合わせた。マウイが笑うと、トモキやヤスオが突つく。手を合わせ、目を閉じ、口の中でぶつぶつ御経らしきものを唱えている二人に向かって、トモキが、「ほんまじゃ。オジらが祈り出したら、体、どんどん光り始める」と声をつくって言い、ケンキチノオジが目を開けたのに合わせて、「あッ、オジが御経唱えなんだら消えてしもた」と残念がる口調で言う。  マウイは東京へ出て、そのまま船に乗ってしまうのなら、そうやってたわいもない遊びをしたトモキにも会いたかったし、まだマウイが楽土のダバオから仏に派遣されてきた仏の弟子ではないかと疑っているケンキチノオジに会いたかった。 「俺、これからスミエノオバのところへ行ってくる。今日、船に乗る為に東京へ行っちまうから、トモキにも会っておくから」 「ディスコのコンテスト、どうする?」ヤスオが訊く。夏のコンテストがまもなくある。 「東京のディスコでグランプリ、取った方がいいじゃん」  マウイは69のマスターの顔を思い浮かべる。 「ここはレベル低いんじゃ」 「マウイら特別じゃさかね。おまえぐらいの一人、居たら、女の子ら、男前の先生来たと言うて、踊り習うつもりでディスコへ通うさかね。タダじゃろ。入場券も買わんでも69は入れてくれるんじゃろ?」 「金払えって」 「金、払わんでもええよ」タケシが言う。涼台に坐った女の子二人、うなずく。 「じゃあ、東京へ行って、船に乗る契約してから前借りして、マスターに借りた金払うつもりだったけど、払わなくったっていいかな?」 「いいよ」ヤスオが事もなげに言う。  ヤスオの言葉に促されたように、どうせ金なんか払いっこない、とマスターが言っていたのだし、それに人の体を何回も数えきれないくらい撫ぜ廻していると思い直した。もしケンキチノオジやスミエノオバに信じられているように、自分が南洋の楽土ダバオから仏に派遣された仏の弟子なら、着物の上からであったが、頭から首から胸、腹、尻、股間まで数えきれないくらい、撫ぜ廻したマスターは、マウイに貸した金の分だけ、自分でそれと気づかず願をかけ、それと気づかず祈り、御利益を受けた事になる、と思い気が楽になった。 「船の契約したら、東京でしばらく遊ぶよ。金持ってればブスい女なんて姦る事ないし。東京で大変だぜ。女の部屋に泊めてもらったら、どんなオバンでもブスでも姦んなくちゃなんないし」 「嫌いでないじゃろ」 「嫌いじゃないけど、気を遣うじゃないか。ここだったら一応、飯場に泊ってるしさ。あそこの頭痛くなるようなメスの木の匂いでも、俺の体、好きだから、擦り寄ってくるんだって思って、いいよ、俺、寝るから、俺の体に好きなようにまといついてって、どんなにディスコで疲れてても眠れるけど、生身の女ってのは違うだろ。なめたり、吸ったりしてやんなくちゃいけないし、またさせなくちゃいけない、やっているとだんだん乗ってきて、最後はどんなオバンとでもブレイク・ダンスだけど」  ヤスオがニヤニヤ笑い出し、傍の女の子の耳元に口を寄せ言葉をささやく。女の子はちらっとマウイを見てすぐうつむく。ヤスオは「なッ」と女の子に問いかける。「なんだよ?」マウイはヤスオに訊く。ヤスオはニヤニヤ笑う。マウイもつられて笑い出すと、「おまえは素直な奴じゃわ」と言い、股間を見てあごで見てみろと教える。「ちょっとそんな話すると、ムクムクとなっとる。ケンキチノオジに言うたら、それも仏の証拠じゃと言うんかいね」マウイは苦笑する。股間に手をやり、確かに微かに大きくなりかけているのを知り、線香の匂いと混りあった夏芙蓉の匂いのせいだと気づき、これがお宝さ、と独りごちる。  スミエノオバの家でトモキの持ち込んだ霊異の木彫りの熊をためつすがめつ眺めていたケンキチノオジは、マウイの船に乗るという話を聞くなり、「やっぱしダバオへ行くんか?」と溜息をついた。ケンキチノオジは手に持っていた木彫りの熊を造作なくスミエノオバに渡し、「ホトケサンと一緒に置いといたらええ」と言い、家の薄暗いかまちに立ったマウイがけげんな顔をしていると見て取って、「トモキが持って来た熊じゃけどの」と教える。 「このトモキ、オジやオバらが盗ッ人に行て、しくじった事ないのは、スミエノオバのまつっとるダバオ観音のおかげじゃろと言う。トモキ、二回も足ついたさか、熊泣いとるの、トモキを哀れんで、熊、俺をまつれという事じゃないかい? と訊くんじゃ」  齢の割には華やかな絵柄のムームーを着たスミエノオバは、トモキの意図を疑っているように、「まつっとったら、ええ事もあるわ」とつぶやき、木彫りの熊を仏壇の中に置く。マウイの後に、面白い見世物をのぞき見するように立ったヤスオらの中から笑いがもれる。ケンキチノオジが喰い入るような眼で見つめていたトモキが振り返った。木彫りの熊の眼から涙が流れ出したのも真実、涙で濡れそぼったのも真実、盗ッ人の神仏が腕を上げるのなら自分をまつれ、と啓示を受けたのも真実。トモキは真実の塊のような顔をしていた。  そのトモキがマウイに「本当にダバオに行くんか?」と訊く。 「どんなところか、あまり知らないけど、行く」  ケンキチノオジが「どんなとこじゃえ?」と焦立ったように言う。「おまえが来たとこじゃのに。まっ赤な火みたいな花、咲いとるとこじゃ。火吹き上げとる木。木になっとるのも、つたみたいに絡んどるのもある。もう何年も前じゃけど、わしらがおった時、あれら花の木ひいて、笛つくったり、太鼓つくったり、琴みたいなものつくっとった。あれら、それ売って足しにしとるけど、ええ物は自分らの分として置いて、売らん。ちょっと山に入ると、あれら木切っとる音鳴っとる。南方の柔《やわ》い木じゃから、不精者のあれらでも楽に切れる。柔い木切って干しとったら固なる。カーン、カーンじゃなしに、スカーン、スカーンという音じゃの」マウイはその音を耳にしたような気がした。「あれら、何するんでも歌うととる。山の奥の方からも、入口の方からも、木切る音と歌うととるの、聴える」 「マウイが行ったら、そこで、マウイも木切るんか?」ヤスオがマウイをからかって尻をこづく。 「ふざけるな」マウイは振り返って言う。マウイはケンキチノオジの言うダバオが、他でもない、フジナミの市の高台とその下にだだっ広く網目状に広がった路地に酷似している気がした。風が高台の方から吹く度に、威勢よく枝を広げ葉を密生させ、さながらその葉と同数だけ季節中ひっきりなしに花をつけるような夏芙蓉の白い花の香りが、昼となく夜となく路地に漂う。  オリュウノオバは十八のマウイが抱いた直感は正しいと思った。路地の裏山から向井織之進の手によって高台に移植された夏芙蓉が、裏山では思いもつかなかったくらい繁茂し花をつけ、それ自体、天から飛来する仏の使いのような金色の小鳥の群を朝毎に狂喜させるように、路地は増殖し、一つが消えても一つが増え、膨らみ、たとえ海の彼方であろうと路地の種が一粒、金色の鳥についばまれ運ばれるだけで路地は出来る。ダバオのそこが仏の楽土なら、盗ッ人のケンキチノオジが住み、昔の女房のスミエノオバが住み、黒い肌のマウイの遊び仲間の住むフジナミの市の路地も、仏の楽土だった。オリュウノオバはマウイに語りかけた。南洋のダバオにも、真珠貝採りに出かけたオーストラリアの島にも、南米のサンパウロにも、バイアにも、ベノスアイレスにも、マウイが行く路地がある。オリュウノオバはそれが現なのか幻なのか判然としないまま、老衰の身を仏壇のすぐ脇に敷いた床によこたえ、まるでオリュウノオバの信心する有難い夫だった礼如さんの読んでくれる一等最後の仏の物語のように、中本の血に顕れた黒い肌のマウイが、逆さまにねじれた七代に渡る仏の因果、仏の果報の子として、ダバオを廻り、オーストラリアを廻り、サンパウロ、バイア、ベノスアイレスを廻って、マウイから言えばいずれもオジか齢の離れたイトコに当る中本の血の若衆の真実の消息を確かめて歩く姿を思い描く。  しかし、マウイはオリュウノオバのたっての願いを知らない。ただケンキチノオジが言ったスカーン、スカーンと柔な木の幹を切り倒すオノの音を耳にとめている。マウイは火を吹き上げる木が、高台に繁茂する夏芙蓉のような木だと想像した。  マウイは路地を一人で抜けた。路地の裏手から高台の上についた雑木におおわれかけた細い道をのぼり、石切り場の裏に出た。切り出した石に身をかくしてのぞくと、飯場の方からもれ出る明りを頼りにまだ夏芙蓉の木陰では涼台やベンチに腰を下ろした女や男らが話に興じていた。  白い花が浮かび上がっていた。鳥の姿はなかった。夏芙蓉の木の下に坐った女や男らが、夜の闇が周囲に立ち籠めるのと共に鎮まってしまった小鳥のざわめきの代りに、ふらふらと産婦人科の病室や飯場から甘い蜜と匂いに誘われて出て来た亡霊のような気がした。話を交わす声の中に、マウイを追う者がないかどうか、確かめた。男の声の中に、二人の地廻りも69のマスターの声も含まれていない。マウイは積み上げた石の間から外に出て、夏芙蓉の木陰にいた女らが自分を注視するのを気づきながら、飯場の方へ歩いてゆく。  飯場に入り、二階の部屋に素早く上がり、すでに準備していたショルダーバッグを取った。中に、仕事着と下着の換えしか入っていない。念の為にと、押し入れを開けた。押し入れにウォークマンがあった。「一番大事な物、忘れて行くとこじゃった」マウイは思わず方言で言った。ウォークマンをベルトにつけ、ヘッドホーンをつけ、スイッチを入れる。69のD・Jに特別に頼んで録音してもらったサンバが流れる。マウイはショルダーバッグを肩にかけ、サンバの一等高度な踊り方だというように部屋を出て、階段を駆け降りる。  玄関を出ると、丁度、一日分の話題が尽きたというように夏芙蓉の木陰から女や男らが立ち上がったところだった。飯場の人夫の一人がマウイを見て、「もう行くんか?」と訊く。病院から入院患者に支給されるくすんだ柄の浴衣の為に、若やいだ帯をしめた女が、「どこへ行てもここくらい安気なとこないど」と声を掛ける。その言い方は、声を掛けた当の女自身、奇妙さに苦笑した。「ここてどこよ?」女の一人がすぐに混ぜっ返す。女が「ここて、ここ以外にないわだ」と答えると、あきらかに路地の女たらしの若衆が年老いたと分かるような張りがなく崩れた物優しい顔の男が、引っ張り出したベンチを飯場の脇の方へ運びながら、「ここがええ、ここが極楽じゃと言いおうて、遊び暮らして来たんじゃのォ」と独りごちるように言う。その男はマウイに「女にもてると言うて、あんまり遊び過ぎんなよ」と最後の忠告をするように言った。「女、追いかけ廻しとったら、男、気イクたんびに命、縮めるんじゃさか。血ィがだんだん減ってくるんじゃさか」奇異な話だと思ってマウイは立った。そのマウイを視て同じ齢格好の者よりも体のつくりが数等立ち優ってはいるが、まだ年端もいかない十八の少年だったと気づいたように、苦笑した。「気づくのもっと後じゃろうけど」とつぶやく。  ショルダーバッグを肩にかついで、高台を路地に向かって降りると、雑木がマウイを引きとめようとするように体に引っかかった。東京に行けば用のない仕事着と下着しか入っていないショルダーバッグが邪魔だと思い、マウイは遊び仲間の待っているケンキチノオジの家へ着くなり、「預ってもらえないかな」と訊いた。ケンキチノオジは気軽に「おうよ」と言うが、トモキが、「何にも持ってかいでもかまんのか?」と訊く。マウイはベルトにつけたウォークマンを教える。 「これ一つ。ダバオに行ったって、これ一つで、踊って過ごせるよ」  ケンキチノオジが険しい顔でマウイを見る。 「アホな」ケンキチノオジはつぶやく。 「そんな音も聴えせんもの、どうするんな?」 「オジ、音、耳に聴えとるんじゃ」トモキが言う。 「耳に聴えても、外に聴えなんだら、どうするんな」ケンキチノオジが言う。トモキもヤスオも連れている三人の女の子も、外に聴えなくとも耳に聴えればそれでよいと思ったように、ケンキチノオジの物言いに顔を見合わせて苦笑する。  ケンキチノオジは自分の考えが伝わらず焦立ったようだった。炎が立ちのぼるような木やつたの密生するダバオの森で、たとえマウイ一人の耳に音楽が聴えていても、マウイと同じような顔や体つきのダバオの若衆らに音が届かないなら、同じ遊びも出来なければ、同じ踊りも出来ず、マウイは故郷ダバオに戻っても朋輩も出来ず一人のままだ。ケンキチノオジは家に集まった若衆の皆が我慢ならないように、「おまえら、盗ッ人、教えてくれ、オジ、昔の手柄話してくれ、と来ても、本心で教えを乞うて来たんでないの、知っとるど」と怒りはじめる。  ケンキチノオジは茶袱台の下の箱から、長年、研究に研究を重ねて七年前に完成したと自慢の栓抜きのような盗ッ人万能器を取り出し、たたいて音させる。 「おまえらにこれやらんのじゃ。カウイにやるんじゃ」ケンキチノオジはマウイの名を間違える。 「マウイにやるんか? ええねェ」トモキが盗ッ人万能器など興味ないのに、からかう。 「おお、マウイにやるんじゃ。硝子も切れる。針金も切れる。鍵も開く。金槌にもなるし、高いところにのぼる時、ひっかけたら足場になるし、ロープくくりつけたら、滑車の役目もする」 「栓抜きみたいじゃだ」  ヤスオの言葉を受けて、トモキが「盗ッ人に入って、追いつめられて、絶体絶命になったら、ロープくくりつけて、首縊れるわだ」と言う。 「負け惜しみだよ」マウイはトモキの言葉を笑った。  ケンキチノオジはマウイ独りが自分を弁護したと嬉ぶように「ほれ、やる」と栓抜きのような盗ッ人万能器を渡す。マウイは手に取るや、ケンキチノオジがしたように、かまちの板をたたいてみた。音は立たず、鋭く削られた金具の先が板に深く喰い込んだ。力を込めなければ、取れなかった。トモキやヤスオが驚くと、ケンキチノオジは得意がった。 「盗ッ人万能器言うたら聴えは悪いが、言うてみたら、忍者道具じゃの。盗ッ人言うたら、忍者じゃわ。ダバオでわしら、忍者じゃったし、スパイじゃった」  ケンキチノオジは若衆を煙に巻くように見廻し、若衆らが何を言い出すのか固唾を飲んで見つめているのを見てから、「わしら軍隊より先にダバオに行っとったんじゃし、軍隊が来てからも、通訳で使われたんじゃさか」と言い、嘘なのか本当なのか、ダバオの人間らの家にしきりに忍び込まされ、金銀宝石から家財道具の類を報告させられた。ダバオの者らは、たとえ酋長の館であれ、金銀財宝の類と呼べるものはかけらもなかった。ただ家々に火を吹き上げる木に貝殻をはめ込んでつくった長持ちが置かれ、中に大小の宝貝や青や紫の貝がつめ込まれている。それが金銀財宝に代るものと知れた。音楽を四六時中やり続け、折に触れて歌い、一人が踊りはじめると次つぎと踊り、性の喜悦に満ちみちたようなダバオの男女にふさわしい宝物だが、軍の誰も、すこし海にもぐればすぐにでも腕いっぱい集まる貝の財宝には見向きもしなかった。  ケンキチノオジは思い出す。或る日、そのダバオの男女らの宝物がことごとく割られつぶされ、村のはずれに山となって捨てられていた。日に青や赤にきらめいたつぶされた貝の殻は夜になると月明りでも色が抜け落ちたように光らなかった。次の日の朝、敵が軍隊の駐屯地を空爆した。 「わしは酋長のカーイケーイの家へその晩忍び込んで、聞き耳たてたんじゃけど、あれら別の言葉でしゃべっとったさかさっぱり分からなんだ。マウイ」  ケンキチノオジは呼ぶ。 「ダバオへ行たら、まず酋長をさがせよ」  バンドに着けたウォークマンと首に掛けたヘッドホーン一つ持ってマウイが女の子を含む遊び仲間らと路地を出、フジナミの市の繁華街のはずれのパチンコ屋の駐車場に歩き出したのは、午後七時過ぎだった。遊び仲間三人は、駐車場の前に来て、急遽話合いをはじめ、結局路地の悪の三人の中でも親分格のトモキが、マウイの仕事を手伝う事になった。駐車場の車の列の中を並んでトモキは歩き、ふと思いついたように、入口にかたまって立った中から自分の彼女とこのあいだまでキシイの彼女だった女を二人手招きして呼び、「手早う決めて、モーテルに寄って行こうよ」とマウイに言う。  マウイは色のよい車、形のよい車、傷のない車を物色しながら、「モーテルだったら、高速の入口か、海のそばの方がいいな」とつぶやき、一台、あきらかに暴走族のものと判る車を見つけ、点検の為に廻りを一廻りしてみる。駐車場の入口にヤスオとヤスオの彼女がぼんやりと立っている。  トモキがこの車か? と無言のまま訊く。マウイはうなずく。途端に、車体にステッカーをベタベタ貼った車が久しい以前から自分のもので、車を駆って繁華街にパチンコに来て、キイをなくし途方に暮れた気がする。楽天的なマウイはキイを失くしても、泣き言を言わない。口笛を吹き、「すぐだからな」と二人の女の子に語りかけ、用意していた細い針金を窓のゴムをこじあけてさし込み、ものの五秒とかけないで、ドアのロックを開ける。ドアのロックを開ける方法はまだある。それこそマウイの手製の何の変哲もない、万能車盗ッ人キイ一つ使い、キイにつけたくびれを穴のくびれのどこに当てるか、指先一つで確かめながら開ける。  ドアを開けた途端、車の匂い消しの人工香料が鼻についた。マウイは身を乗り出して、ドアのロックをすべてはずした。女の子らは二人共、すぐ後ろに乗った。助手席にトモキが乗り込みかかるのを見て、マウイは、不満だった。フードを開き、身をかがめ、エンジンを直結させてから、助手席に乗り込んでいるトモキを呼んで外に連れ出し、「お前、モーテルまで運転しろよな」と言う。トモキは最初、分からなかった。トモキが運転席に乗り込んでから、マウイが助手席のドアを閉め、女の子二人すでに乗り込んだ後ろの座席に乗り込んでやっと分かったように、「おい、俺の女じゃからな」とマウイに警告するように言う。マウイは「何言ってんだ」と後ろからトモキの頭をこづく。  トモキはエンジンを空ぶかしさせたまま、バックミラーに映った三人の顔をじっと見つめる。マウイはトモキの彼女のミチコに耳うちし、体をずらさせて二人の女の子の真ん中に入った。バックミラーに映ったトモキの顔に向かってマウイはウィンクを送る。 「大丈夫だよ、何もしやしないよ」マウイは言う。 「なあ、ミチコなんて俺が本当に姦ったの、キシイの彼女の、マチコだけだから。マチコに触らせてあげる」  マウイが左隣のマチコの手を取り、股間に置くと、マチコは腹立ったように「厭ッ」と声を上げ、マウイの腕をはね上げようとする。マウイは腕をのばし、マチコの肩に廻し、耳に小声で「マチコが俺と親密になってないと、右の方のちゃっちゃいオマンコの方に気がいっちゃうだろ」とささやく。  トモキはまだマウイを見ている。そのトモキの眼を意識しながら、またマチコの手をつかみ、ズボンの上から股間のふくらみに押しつける。「厭ッ」とマチコは撥ねのける。 「マチコ、そんな事やったら、俺がさびしいじゃない。さびしさ出てきちゃうじゃないか。黒んぼは奴隷の頃から、さびしかったら騒ぐんだから」  トモキが苦笑する。その苦笑にそそのかされたように、マウイは両脇を女の子にはさまれた姿勢のまま、腰を浮かしてズボンを下げ、顔や胸の色と同じ色の黒いふくらみかかった性器を出す。二人の女の子共、マウイの突拍子もない行為に笑いをこらえ、それぞれ横を向いた。運転席のトモキが「アホな黒んぼじゃ」と呆れ返ったように言う。トモキは決心したように車を走らせる。 「よっしゃ。昔みたいに、姦ってもかまわん」トモキが言う。 「四人で姦るの?」マウイが訊くと、トモキは黙ったままうなずく。  駐車場の出口まで猛スピードで走り、トモキは見張り役に立ったヤスオらの前で車を急停車させた。トモキはヤスオらに黙ったまま親指で後ろの座席を見てみろと指差した。ヤスオらはのぞき込み、ズボンを足元に下げたマウイを見た。なだめすかして二人の女の子の手をそえさせた性器は、頭を持ち上げ半勃起の状態になっている。ヤスオらは笑った。マウイは性器を指で強く弾いた。 「ちゃんと勃てば格好、いいんだからな」  マウイは、勃て、勃て、と声を出して言いながら指で弾いた。 「マチコにこすってもろたらええんじゃのに」ヤスオが言うと、間髪を入れずマチコが、「ヘンな事、教えんといて」とあわてて言う。マウイは苦笑する。「俺がヘンタイみたいじゃないか」マチコとミチコがそう言った途端、さっと手を離す。手を離した方がムズムズし、性器は完全勃起の状態になり、下腹を打つ。「勃ったよ」マウイはマチコの手をつかむ。「つかんでみろって」マウイは言う。 「俺、飯場で石切り人夫らに勃たせて見せてばかりいたんだからな。あいつら、俺の事、チンポにしか血が廻らないバカだと思ってるよ」  突然、トモキが、性器の自慢話など聴きたくないというように、マウイが路地の遊び仲間のヤスオやキシイと充分な言葉を交わしていないのに、クラクションを鳴らし車を発進させる。  モーテルに車を入れ、女二人がトモキと一緒に部屋の中に入っていくのを見て、マウイは一人取り残されるように思い、ちゅうちょした。エンジンをかけたままにすれば、排気ガスはモーテルの車庫から部屋の方へ逆流し、酸欠状態にならないともかぎらなかった。マウイは決心し、エンストを起こさせ、止めた。排気ガスが鼻についた。  マウイは一瞬に、自分が別な性格の男に変った気がした。それは陽気な黒い肌のマウイに訪れる啓示のようなものだった。マウイはモーテルの部屋の入口の硝子に映った自分の姿を見ているのは、自分ではなく、自分と瓜二つの男のような気がした。男は物言わず昏い顔で、自分の血が女らの淫乱な血のざわめきを受けてざわめき、気の昂まりの絶頂で滅びるのを自覚したように見つめ、女を腰から落とすような笑を浮かべる。マウイは、それがマサルだと思った。硝子に映ったマサルを見つめていると、マウイは昔の事を思い出しそうで苦しくなり、眼を閉じ、ダバオの血をひき、日がな一日、歌をうたい音楽を奏で踊りを踊って不思議ではないマウイのまま、女らの声のする方に行った。  大きな丸いベッドの脇に女二人が腰かけ、トモキがベッドに坐り込み、電話を掛けていた。マウイが部屋に入ると、ミチコがかすかにトモキの方に体を寄せた。 「どこへ掛けてる?」 「あいつら寄ると言っとったスナック」  トモキが受話器を持ったまま言う。マチコがマウイを見た。マウイは眼で合図した。マウイが歩き出し、中に恋人同士泡踊りが出来るようにマットを敷いた浴室の中に入ると、後を従いてくる。マウイはマチコの肩を引き寄せた。 「キシイに殴られて、もう別れたんだろ?」マウイが訊くと、マチコは腰に腕を廻し、「いいんよ。大人同士の関係だからァ」とつぶやき、眼を閉じ、マウイを誘う。マウイは唇を合わせる。舌がマウイの舌と絡まる。唇を離すとマチコはマウイの胸に顔をすり寄せ、「キシイが殴ったんよ、あいつ、卑怯だから」と急に思い出し憎悪が募ったように身を震わせる。マウイは「ここで、姦る?」と訊く。マウイの眼をのぞき込みうなずき、身を震わせながらブラウスを脱ぎかかる。マウイはマチコの指に手をそえる。ふと思い出し、マウイは広く浅い浴槽の中に湯を張る為に蛇口をひねる。マチコはマウイの腰に腕を廻したまま、モーテルに入って車に乗っていた時とまるで人格が変ったように、「キシイが友だちのくせに、何て言ったと思う?」と言いつづける。 「黒んぼうと寝腐って、とぶったたいたんよ」 「知ってるよ」 「何回イッたんじゃって訊いた。どんな風にしたんじゃと訊いた」  マウイは湯で濡れた手をズボンの尻でふいた。その手をマチコはつかむ。マウイはマチコの言葉に取り合わず聞き流しながら、素肌にはおっていたマチコのブラウスをはだけ、二つの小ぶりの乳房に身をかがめるようにして唇をつける。マチコは声を上げる。力が抜けた体を支える為に、マウイは左手で背中をおさえ、右手でブラウスを取る。乳首を舌で転がし、吸い、はっきりと色の黒さが浮き出た指でマウイはもう一つの固い乳首をなぶり、ふと、マウイは、自分が今、マウイなのかマサルなのか分からない状態だと知る。マウイはマチコのスカートを取った。眼を閉じ、マウイに身をまかせ切ったマチコの体を支えたまま、床に敷いたマットの上に寝かせ、ブラウスとスカートを浴室の外に放る。マウイは立ち上がって、服を脱ぎかかり、声がしないので浴室の外をのぞいた。  トモキは相変らず電話の受話器にしがみつき、ボソボソと話を交わしているだけだった。ベッドの脇に腰をかけたミチコが、上半身裸になって浴室の入口に立ったマウイを見て、誘われる事に臆し自分はトモキの女だと言うようにこころもちトモキの方に身を寄せる。マウイはミチコを見つめる。昔、俺が色の道、教えてやったんだろ。俺にフラれて、トモキと仲良くなったんだろ。マウイは心の中でつぶやいている。さっき、俺が、バカな黒人の真似して、おまえに握らせたろ。いい目した時の事、思い出したろうよ。ミチコはマウイの心が通じたように、マウイを見る。トモキなんか、口ばっかりだろうよ。女放っておいて、電話掛けるなんて情熱がないんだよ。マウイはズボンのベルトに手をかけ、じっと見つめるミチコの眼に向かって微笑を送る。見せてやるよ。黒い肌。マウイはベルトをはずし、チャックを下ろして、一気にブリーフごとズボンを引き下ろす。勃起した性器がバネのように飛び出す。マウイはミチコに見せるように腰を突き出す。 「早くおまえらも脱げよ」  マウイが言うと、電話に熱中していたトモキが振り返り、素裸になって浴室の戸口に立ったマウイを見て驚き、車の中で見せた黒んぼの血の阿呆らしい騒ぎの一つだというように笑う。ミチコはトモキのそばに寄る。 「ヤスオらが地廻りの幹部にとっつかまったんじゃ」トモキが言う。 「69のマスターが呼んだ二人の地廻りの幹部、おったじゃろ。あれ、俺らのアニじゃ。俺らの兄貴分じゃ。おまえにバーボン買いに行かせたら、買うて来んと逃げたんで、怒り出してヤスオらがおまえのかわりにつかまった。地廻りの幹部ら、おまえを連れて来なんだら、ヤスオらが逃がしたんじゃさか、指つめさすと言うとる」 「嘘だろォ」マウイは言う。 「嘘であるもんか」トモキは言い、まだ話し中の電話を切り、立ち上がりざま「くそッ」と受話器を足で蹴る。受話器を拾い、元にもどしているミチコに、「服、脱げ、四人で姦ってから、後で考える」とトモキは言い、服を脱ぎはじめる。「脱がしてやろうか?」マウイはミチコに言う。ミチコは白い肌のトモキを見る。「脱がしてもらえよ」トモキは言う。マウイはトモキの言葉に促されたように、浴室から出てミチコの脇に立った。入れかわりに、トモキが浴室の中に入ってゆく。ミチコの髪に手を触れた途端、浴室の中から「マウイ」とマチコの声がする。  マウイは返事をしなかった。両手で耳にかぶさったミチコの髪をかき上げた。顔を髪に埋めようとすると、また浴室の方から幻聴のようにマウイを呼ぶマチコの声がする。マウイはミチコの髪に顔を埋め、唇をつけ、小声で「すぐ行くから」とささやき、髪から立ちのぼるディオールの香油の匂いをかぐ。両の手で髪を撫ぜ、頭をはさむようにしてマウイはミチコに合図すると、ミチコはゆっくりと立ちあがる。髪の匂いと腋の下の匂いも陰毛の匂いも、ミチコはディオールの匂いで染めているのだ。マウイは思う。  ミチコは立ち上がりながら、以前にマウイとつき合っていた頃を思い出したように体に腕を廻し、自分の方から唇をせがみ、マウイがじらして髪を撫ぜ始めると、マウイの手に唇を圧し当て、舌を微かに動かす。素裸のマウイに体を圧しつけ、マウイが、さあ、もういいぞ、というように頬に顔を寄せると、こらえかねるように唇を唇に圧しつける。マウイが舌を差し入れると吸う。マウイはミチコの舌をくすぐり、からめようと誘った。ミチコはマウイに応じた。舌の遊戯に熱中しているミチコを驚かさないようにそのままマウイは体を撫ぜ廻しているふりをして、服のボタンやブラウスをはずした。車のドアを針金一本であけるように指一本で女の服を脱がせてやる事が出来る。  しびれてしまってただマウイの唾液を吸うだけしか反応しなくなったミチコから唇を離し、耳元に移ってから、「最後だから面白くやろうな」とささやく。マウイはミチコの服を脱がす。案の定、体全体からディオールの香油が匂い立つ。 「トモキなんか、俺が色んな事、教えてやったんだから。69のオープニング・ショウで、黒んぼ来た事あったろう?」マウイが訊くと、裸にむかれながらうっとりした顔になっていたミチコが「ブレイク・ダンスの先生?」と訊く。  しまった、とマウイは思う。苦笑して「俺ってムードないのな」と独りごちる。ミチコはマウイの体に裸の体をすり寄せ、首を振る。 「俺、姦ってる最中でも話していたい。黒んぼっておしゃべりなんだよな。俺、ブレイク・ダンスの先生と、女二人、とっかえてやっていて、女、互いに下でアヘアヘ言ってるのに、ペチャクチャ話してるんだ。黒んぼのダンスの先生、上手なんだよな、腰、小きざみに振ったり、ねじったりしながら、俺にも同じ事やってみろと言う。先生が四発、俺が六発、一番最後はイクの一緒にしようって言ったけど、俺の方が早かったよ。二時間半だぜ。女、二人とも、死ぬ寸前だったね。でっかいコックでひっかき廻して二時間半だからな」マウイはミチコの圧しつけた体の間にはさまれた性器を教えるように腰を突き出す。  トモキがさっきマウイがしたように浴室の入口に立って、半勃起の性器を手でしごきながら、「来いよ」と声を掛けた。トモキはマウイと体を寄せ合って立ったミチコに未練があるように見つめ、決断したように性器をしごきながら背を向けて浴室の音がする方へ歩く。  ミチコは浴室に入って立ちどまった。ミチコの背後からのぞくと、あおむけに寝たマチコの顔の上にまたがり、トモキは性器を咥えさせていた。単純な姿勢だったが、マチコが寝そべっているので顔を動かす事が出来ないから、トモキが腰を使う。時々、加減が分からず、喉の奥に入るのか、マチコはむせる。マウイがマチコの立てたひざの方に廻ろうとすると、ミチコがおさえるように手を取る。マウイはそのミチコを誘い、マチコと並んで寝かせた。ミチコは顔の上にまたがったマウイの陰嚢を舌を出してなめ、勃起して反った性器を手で下に向けると、マウイのその手が一番関心のある器官だというようになめる。  トモキはマチコの唇がつくった穴にむかって腰を使いながら、ミチコの動きを見ている。ミチコがマチコのように唇の穴になるには、マウイの性器がトモキよりはるかに固く堅固に上を向いているので、マチコより顔を起こさせなければならなかった。枕一つあれば用を足すが、浴室の中に枕がわりになるのは、プラスチックの洗面器以外にない。洗面器を枕にしろと言いかねていると、ミチコは顔にかぶさる髪を左右にかきわけ、ひじをついて上半身を起こしマウイの性器を口に咥えようとする。口いっぱいの性器は、上半身を起こした苦しさに耐えきれずミチコが力を抜くとすぐはずれ、とび出し、ミチコの顔をつく。何度も口に咥えようとするミチコにマウイは身をかがめて声を掛けた。「こう?」とミチコが、髪をマウイの性器に巻きつけて言う。 「そう」マウイはうなずく。 「オマンコの中に髪がどっさり生えてしまってるんだ」  性器に縮れのない柔らかい髪が当る感触を味わいながら言う。眼を閉じてマウイは長い黒髪が自分に巻きつく姿を想像する。 「ヘンな気持ちだよ。テレビで見た昔の女の人と姦ってる気するよ」  眼を開けると、トモキが声を立てず、マウイの股の下のミチコに物を言いかけていたのに気づいた。トモキと目が合うと、「ちゃんとやれ」と言う。手につかんだ髪の穴にむかって腰を使いながらマウイは、「ヤキモチ焼くな」と言い返す。 「マウイはこれだから目、離せんのじゃ。ちゃんと姦るとこに姦らんと。穴じゃったら何でも一緒じゃと、耳の穴に突っ込もとするみたいじゃ」 「だけど気持ちいいぜ。黒んぼだったら、皆、そう思うよ。ちりちりの髪にやったってちっともよかないけど、ミチコなんてまっ黒のまっすぐな柔い髪じゃん。それにこいつ、昔、髪が尻ぐらいまであったって。だから髪撫ぜられたり髪にキスされたりするだけでイクって。髪のオマンコだよ」 「マウイ」とトモキが腰を使いながら改まった口調で言う。 「オレ、おまえの親友じゃから忠告するんじゃけど、黒んぼとか土人とかっての、一発やって行こう、ハイッて言うてモーテルに入って、オメコとか口とか、バックとか、そんな普通のとこで姦らんと、髪で姦るような突拍子もない事はじめるから嫌われる」 「セックスって遊びじゃん。どこで姦ったっていいんだぜ」  マウイが言い返すと、トモキはしばらく考えて急に昂りがおしよせたように息をつめ、顔をしかめ、「お前に説得するの難しいの知っとる。わかったさか」とまた腰を使いはじめ、「髪の上で出すな」と言う。 「お前にミチコの髪の上でイカれてみよ。まだ口とかオメコじゃったらええが、髪じゃったら、昼日中、ミチコの顔みるたんびに、おまえのチンボ、髪に巻きつけていたの思い出す」 「分かったよ。出さないよ」マウイは言い、ミチコの上から立ちあがる。  ミチコの上から立った拍子にマウイの中に悪意が芽生えた。マウイはトモキの背後に廻り、トモキの性器を咥えたマチコの立てた股の間に立ち、ミチコを呼んでマチコの体をまたがせて、ミチコの女陰を指で撫ぜながら中腰になり、性器をマチコの空いている女陰に入れる。マチコの声がする。強く腰を使うと、声はさらに尾を引く。声の響きようからマチコが咥えていたトモキの性器を放したと知れた。「マウイ」と名を呼びトモキが不満を言いに振り返りかかったので、マウイは前に股を開いて立ったミチコを抱き寄せ、股間に顔をうずめようとする。ミチコの陰毛を一本一本吸うように唇をつけ、女陰の花弁を舌でなぶる。腰を小刻みに早く使うとマチコのやさしい声がきこえ、力を込めて花弁を吸うとミチコが声を立てながら股間を圧しつけ、マウイの頭や顔を撫ぜ廻す。  トモキがマチコの顔から離れたのが分かった。「クソッ」と声がし、吸っていたミチコの体がふと遠くに動いたと思うと、ミチコは喉の奥が詰ったような声を出す。トモキが、ミチコを背後から姦りはじめたのだと知れた。マウイは体を起こし、手をのばして、ミチコの女陰をさぐり、まさに花弁が開くようにトモキの性器を受け入れたミチコの女陰の突起を見つける。左手でマチコの女陰の突起を撫ぜ、女陰の花弁を圧し開く自分の性器の動きを感じ、右手でトモキの動きを助けるようにミチコの突起を撫ぞる。マウイは二人の女の掛け合いのように響く声を耳にし、昂りに向って一直線にかけ上っていこうとする自分とトモキのあえぎを耳にし、それがケンキチノオジの伝える南洋の楽土ダバオでの歌の一種に似ていると思うのだった。  車のエンジンを直結し直して、モーテルを出て自分の彼女のミチコをマウイに姦られる事のなかったトモキは機嫌よかった。地廻りの幹部ら二人に人質同然になっている遊び仲間の元にマウイを連れていかなければ、遊び仲間は指をつめられる、と言ったが、まるでその話が、気心の知れた路地の者だけに通じる遊戯だと言うように、「ええわ。かまんわ」と言い、マウイに車を空け渡すからまっすぐこのまま東京へ走っていけ、と言った。繁華街まで目と鼻の先の空地にまで来て、トモキは二人の女を連れて車を降り、「東京へ行ったら姦りまくったれよ」と声を掛け、傍のミチコを引き寄せ、髪の匂いをかぎ、 「おまえ、おらんでも、しばらくこいつ、くさい匂いしとる」と片目を瞑る。 「マチコまた俺の匂いしとるって、キシイにヤキモチ焼かれるなァ」  マウイがドアの窓に手をかけたマチコに言う。「帰ってくる?」マチコが訊く。マウイはうなずく。 「だって俺が、東京で船の契約して金持ってこなかったら、あいつら指つめられるんだからな」  マウイが真顔で答えると、トモキが大仰にのけぞり、「これじゃから」と言う。 「マウイ、あいつら今、地廻りの連中に捕っとるんじゃ。おまえが東京で、ヌカ三とかヌカ四とか二時間も三時間もかけて姦り狂って、フジナミの市に戻って来る一カ月後の事じゃない。今、指つめられかかっとる。今日じゅうにおまえが行かなんだら、指つめられる」  マウイは驚く。「今日じゅうか」マウイは混乱する。確かにトモキは地廻りの幹部が路地の兄貴分だと言った。幹部の方もマウイに見逃がしてやりたい、と言った。その幹部がマウイを逃がしたという理由で路地の若衆の指をつめるはずがない。 「本当に指つめるのか?」  トモキは苦笑する。 「本当じゃ。俺ら、分かる。あのアニら、義理堅いさか、最初は何とか逃がしたろとしとったんじゃが、おまえが勝手に69から逃げ出したんで、メンツ潰れたと言うて、あいつらにオトシマエをつけさせると言うんじゃから。俺はさっきまでおまえ連れて、アニらの所へ行こと思たんじゃけど、気が変ったんじゃ。どうせ、指つめても、あいつらタダでは転ばん。その事、アニらも知っとるんじゃ。あいつら、昼間、土方に行っとるじゃろよ。指、潰すだけで、金入ってくる。指、切り取ったら、五百万ぐらいの労災の金、転がり込むはずじゃから。アニの事じゃから、ちゃんと金入れるように、ドスで切らんと、オノかナタで、バスッと切る。アニの方はアニの方で、路地の可愛い弟《オトト》分の指をつめさせたとあの69のマスターに指持っていて、貴様《ワレ》のヘンタイ趣味のせいでこうなった、と脅して、見舞金じゃ、治療費じゃと金取るんじゃ」  マウイはさらに混乱する。 「指一本つめればそんなに金になるのか」マウイはつぶやく。 「土方だから金出るのかな? 石切り人夫じゃ出ないのかな?」  トモキは苦笑し、「こんな事やるの、石切りとか山の飯場で始ったんじゃから」と言い、マウイが69のマスターに借りた金など黒い指一本でそっくり払え、おつりであと半年、遊び暮らす事が出来ると言う。  一瞬、マウイは迷った。フジナミの市の遊び仲間に迷惑をかけ逃げ出して東京へ行くのなら、指をつめて借金を清算し残りの金で、遊び仲間におごりまくり、女らからの悪評も清算して東京へ行こうか。女らはマウイが金遣いが荒いと言った。マウイとつきあっていたいが金が続かないと離れて行った。マウイは黄金のブレスレットをしている自分を思い浮かべる。へえ、すごいじゃん、マウイ。まあね。マウイはブレスレットをさりげなく触る。しかし、その手から小指がなかったり人差し指がなかったら、哀れだ。マウイは黄金のネックレスを想像する。薬指。黄金のイニシャル入りの指輪を想像する。人差し指。 「痛いだろうな。痛いの厭だな」  マウイはつぶやく。 「お前はあかんじゃろ」 「駄目だな」マウイは言い、エンジンを空ぶかしさせる。そのエンジンの音が五百万の金が入るとはいえ理由なく指をつめられる遊び仲間の呻き声のように聴えた。マウイは黙ったまま今一度、空ぶかしさせた。そうやる事をマウイが東京へ逃げようと気がせいているのだと勘ちがいして、 「じゃあな、船に乗ったら手紙書けよ」  とトモキが声を掛け、ミチコとマチコに合図して繁華街の方へ歩いて行きかかる。  マウイはもう一度、空ぶかしさせた。マウイは決心し、ギアを入れ、発進させ、トモキらに追いつき、トロトロと車を走らせながら窓から顔を突き出し、 「いいよ、俺兄貴分のところに行って、何でもするからって泣きついて謝るよ。一緒に連れてってくれよ」  とどなる。トモキは取り合わないというように歩き続けながら行け、行けと手を払う。 「あいつら俺の友だちじゃん。指つめたら、痛くって、呻くよ。五百万もらったって一生、指、取れちまったままになってしまう。俺の為に友だちにそんな事、させられないよ」  トモキはマウイの顔を見ない。 「俺がやった事だから俺が出て行くよ。黒んぼだから、土人だからって、友だちに苦しい目させたって言われたくないよ」  トモキは黙ったまま歩きつづける。 「トモキ」涙が出てくる。 「黒んぼだって友だちじゃん」  マウイは言う。道が二股に分かれ、繁華街に行くには二股の左の狭い道を選ばなければならなかった。咄嗟の判断だった。二股の真中にコンクリートの電柱があった。マウイはドアを開け、身をずらしてからアクセルを目いっぱいに踏み込み、車から飛び降りた。車は激しい音をたてて電柱に激突した。一瞬に起こった出来事の意味を呑み込めないようにトモキと二人の女が身を寄せあって茫然と立ち、コンクリートの電柱を抱え込むような形で大破した車の方を見ている。  油が洩れ出し、暗がりの地面に広がっていくのが分かる。マウイはポケットからライターを出す。三人がマウイを見つける。「トモキ、俺、おまえらの仲間だよな」マウイが言う。マウイはライターをかざした。マウイは自分が一体何をしようとするのか分からなかった。トモキが繁華街の方から洩れてくる明りでマウイの体を透かし見て、マウイの手にかざしたのがライターであり、黒い海の潮のようにマウイの足元を塗るように広がっていくのがガソリンだと知って、深い溜息をつくように「おうよ」とつぶやく。 「俺、友だち救けに行くよ」  マウイがつぶやくと、ミチコとマチコが互いに身を寄せあって興奮に耐えられなくなったようにすすり泣く。トモキが「おうよ」とまたつぶやく。マウイは広がる黒い潮を避けるように跳んで三人の脇に立ち、傍に寄る二人の女にかくれるようにしてライターのガスの穴を広げ、三人の一メートル手前まで広がった黒い潮の方に身をかがめ、「離れろ」と言って火を点ける。  炎が音を立ててあがり、黒い潮が流れて来た方向を逆にたどり、車の方に走る。「マウイ」とトモキの声を耳に聴いた。マウイは逃げろ、と合図した。四人が繁華街の角を曲がった時、低いタンクの爆発する音が届いた。  四人がスナックに着いた途端、店の奥にいた地廻りの弟分の方が、マウイの胸倉をつかみ、「何さらしとったんじゃ」と血相を変え詰め寄った。奥から兄貴分が「大事な売り物じゃから傷つけるな」と言う。 「黒んぼのくせにナマイキな真似しくさって」  弟分は兄貴分の視線をさえ切るようにマウイの前に立ち、胸倉をつかんだ手を離すふりをして膝で股間を蹴る。マウイは呻いた。奥から、「こらァ」と兄貴分のたしなめる声が飛ぶ。トモキに連れられてマウイは奥のボックス席に行き、兄貴分に謝った。 「ええんじゃ。これらどっちにしても半端者じゃったから、ヤキ入れる必要あったんじゃんから」  ヤキを入れられ、指をつめられかかったヤスオは、マウイを見つめる。ヤスオの眼は、どうして逃げなかったのか問うているようだった。ヤスオはマウイを見つめたまま氷の解けかかった水割りを飲む。兄貴分は弟分に69のマスターに電話を掛けろと命じ、マウイにボックスに坐れと言った。マウイが、ヤスオの脇に坐ろうとすると、兄貴分は一つ身をずらし、脇に来いと呼ぶ。そうやる事が路地の地廻りの幹部を機嫌よくさせるのだというように、ことさら身を小さくし、脇に坐った。 「船に乗るんじゃと言うとったな?」  兄貴分は訊く。弟分が、 「すぐ来ると言うとったです」  と耳うちすると兄貴分は「そうか」とうなずき、返事を確かめるように、 「船じゃろが?」  と訊き直す。マウイがうなずくと、 「男のくせに、はっきり返事せんか」  と頭をこづく。手をのばした拍子に背広の上着がはだけ、内ポケットに入れた白ざやのドスが見える。マウイは「はい」と返事をする。 「さっきおまえをさがしにケンキチノオジの家の方に行たら、タケキというのに会うた。タケキというの、生れたの、南洋の方らしいんじゃ。ビアフラとかアラフラとか言うとこで生れて、親ら皆、南洋の方で死んだんじゃけど、あれ一人もどって来て、古座におったというんじゃ。古座、知っとるかい?」 「知りません」  マウイは改まった口調で答える。 「そうか、古座を知らんか」  兄貴分は話の腰を折られたというようにつぶやき、あたりを見廻し、バーボンのオンザロックを一口口に含み、ごくりと飲み干してから、 「英語分かるかい?」と訊く。 「はい。何とか」マウイは答える。 「サーズデイと言うの、何ない?」 「木曜日」マウイが答えると、 「ああ、木曜島の事、言うたんじゃ」  とつぶやく。 「それから、ドンデ・ウステ・カサというの何ない?」  マウイは分からない。小声で、ドンデ・ウステ・カサとつぶやいてみて、「分かりません」と答える。  兄貴分はバーボンのグラスを持ち直しながら「おかしいの」とつぶやき、「後でタケキに訊いたら分かるじゃろけど」と言う。 「俺が子供の時、オバから教えてもろたんじゃけど。オバ、英語も読めたさか、てっきり英語じゃと思たけど。この間まで古座におったんじゃ。俺が車で乗りつけたら、ベンツのええ車じゃねと言う。オバ、車に詳しいんじゃね、一目見たら分かるんじゃと言う。嘘言え。嘘言うもんか、何の車でも、ベンツじゃとかトヨタとか書いとる。ほんまかァ。そう言うて、オバに車の名読ませたんじゃ。オバ、何でも読める。オバ、えらいもんじゃね。英語も読めるんかと言うたら、日本語は習わなんださか読めなんだが、英語は外地で習たさか読めるんじゃと言う」  兄貴分が話し終えた時、スナックのドアが開いた。マウイは緊張した。69のマスターではなく、マウイとさして変らない齢の若者だった。若者はあたりを見廻し、奥に坐っている兄貴分を見つけ、笑を浮かべ、「荷物ないんじゃ」と言い、歩いてくる。 「これじゃ、こいつがおまえと一緒に行くタケキじゃ」兄貴分が若者をあごで教え、マウイに小声で、 「これらが一芝居打ったの知っとったかい?」と訊く。 「芝居って?」マウイはトモキを見る。トモキも狐につままれたような顔をしている。 「指つめると言うたの、嘘かい?」  トモキが訊く。ヤスオはうなずき、何もかもつくり話だというように笑い出す。兄貴分がバーボンを一息で飲み干し、ボトルから空のグラスになみなみとそそぎ、マウイに飲めと言う。 「考えてみよ。俺が黒んぼの一人や二人の不義理の事で、おまえら路地の悪の弟《オトト》分の指つめたと聴いたら、俺は末代までひねくれて、性根の悪い男じゃと言われてしまう。いくら何でも俺じゃて、そこまではせん。トモキ、だましたれ、と言うたの、ケンキチノオジじゃ。ケンキチノオジ、お前が涙流し出したと熊の彫物持ってきたの、オジやオバらをからかう為じゃと言うの知っとった。ケンキチノオジの筋書きに俺も、このヤスオらも乗ったんじゃ」  マウイは心が明るくなった。 「冗談かァ」マウイは言った。そのマウイを後ろからいきなり弟分がこづく。 「ワレは冗談と違うど。ワレの為にあの69のオカマに、アホ呼ばわりされて、俺が力ずくでおまえを連れて来て一晩、オカマの自由にさせると約束して来たんじゃし、金もふんだくって来たんじゃ」 「マウイ、お前、売られたんじゃ」  ヤスオが言う。マウイは呆然とヤスオの顔を見る。 「あっちこっちからおまえが船に乗ると言うたらだまされたという声、聴えてくる。一番だまされたのが、あのマスターじゃろよ。それで弟《オトト》分があいつに掛けおうて、一晩五十万円で話しつけたんじゃ。この五十万あったら、タケキも東京に出て、船に乗って南洋に行ける。じゃから、今日からタケキはおまえの弟分じゃ。弟分の為に体張るの、お前の役目じゃ」  兄貴分が言い、タケキに立って挨拶し、礼を言えと言う。タケキは立って、「おおきに」と言い、「用心棒のつもりでやるさか」と頭を下げる。  マウイはふくれっ面のまま、 「いいよ、何だってすりゃいいんだ。元々が奴隷だし、チンポコにしか血が廻らない土人だからよ」  と吐きすてるように言い、口の中でファキユウとつぶやく。 「何て言うた?」  兄貴分がタケキに訊く。 「クソッタレ」  タケキがにやにや笑いながらマウイの顔を見て答える。スナックのドアが開いた。  マウイはわざとドアの方を見なかった。タケキは振り返ってドアの方を見、「あいつか?」とヤスオに訊いた。ヤスオは笑った。その笑いを見て、マウイは入口の方を見た。  ドアを開けて入って来た69のマスターは奥に陣取った路地の悪の連中に気遅れがしたように入口にたたずんでいた。服装も仕種も他の男と変りはないが、マウイを一晩ものにする為に改めて五十万を地廻りの兄貴分に払ったというのに、おずおずとしている姿が、マウイの眼にはオカマ特有の気弱さのように見え、妙に腹立った。 「あいつ五十万、払ったんだろ」  マウイは言った。 「五十万、ふんだくったんだろ」  マウイはやり切れない気がした。一人ごちるようにつぶやくマウイの顔をヤスオが見て、 「あいつ、お前を待っとるんじゃ」  とくすくす笑う。その笑い声に連られたように、 「すぐ行かすさか」  とウィスキーの入ったグラスを持った地廻りの兄貴分が、入口に立ったままの69のマスターに声を掛けた。兄貴分はけたけた笑う。その笑い声に誘われて皆が笑い出す。マスターは呆然としている。マウイは嘲っている遊び仲間らにも気遅れしているマスターにも腹立った。マウイは立ちあがった。 「おッ。決心したんじゃ」  トモキが声を掛けた。  マウイは一瞬、躊躇し、兄貴分がマウイの弟分だと言ったタケキに「ウィスキー、注げよ」とあごでグラスを教える。兄貴分が面白い劇の始まりだというように、「おッ、気ィつかんで」とおどけて頭を一つ下げ手に持っていたグラスをマウイに差し出す。マウイは一気にウィスキーを飲んだ。喉が焼け、胃の中に炎が噴きあがる。マウイは体をよじり、息をつめて耐え、ついでにスナックの中に流れるかったるい流行遅れの曲に合わせて踊ってみせた。  マウイは弟分のタケキに「行くぞ」と声を掛けた。 「俺も行くんか?」 「俺も行くんかって、東京へ行くんだろ? 東京へ行って、船に乗るんだろ」 「まァ、そうじゃけど」  マウイはタケキの肩を突いて、立てと命じた。タケキはマウイとほとんど重ならない上背だった。 「アイヤがあの男とホテルに行ってくるのが先決と違うんかい?」 「アイヤって何だよ?」  マウイはじれて訊いた。 「兄さんという意味」  マウイはタケキの説明を聞いて鼻白んだ。 「なァ、俺はアイヤじゃないって。黒んぼの、土人のマウイ。アイヤなんかだったら、マスターが五十万余計につぎ込むかっての。黒んぼの、土人のマウイだから、ヤクザに金巻き上げられたって我慢してんだ。昔から奴隷だし、今だって奴隷だね。マンディンゴって映画観た? 白人のババアが黒んぼのキンタマ調べて、値段決めてんの。どっち握ってみたのか映画でやんなかったけど、きっとキンタマだと思う。だってキンタマ大きい方が繁殖能力あるだろ?」 「路地のオジのキンタマ、夏蜜柑くらいあるど」トモキが言う。 「マウイ」  マウイはトモキにむかって言う。 「一緒のモーテルで女とやっただけで、トモキはマウイみたいになってる」  マウイはそう言って奥からまだ呆然と立ったままのマスターの方に向って歩く。 「俺のそばにいて、俺の匂いうつったり、俺と寝ると皆マウイになっちゃう。マウイは馬鹿な事しか考えないからね。昔から歌うたって、踊って、オマンコ姦ってて、頭使わないで気持ちのいい事だけしようとしてきた血だからね。淫獣って知ってる?」  目の前にマウイが立って訊くと、マスターは姦りもしないですでにマウイになってしまったように、「インジュウ?」と訊き返す。 「そう、この間、フジナミの市の映画館でかかっていたポルノ。E・Tと一緒にやっていた。あれもマウイだね。何で淫獣ってポルノとE・Tって映画を一緒にやっていたのか分からない。ポルノ最初にやってて、俺、勃っちゃって、ミチコに触ってもらっていたの。なかなかいかないからさ。それでE・Tはじまっちゃって。ミチコったら、マウイ、腕つかれちゃった、それにE・Tってポルノじゃないわよ、って言うの。やりはじめたらやっぱり快楽だから俺はフィニッシュまでもち込みたい。じゃあ、口でやりなよ。俺が言うと、ミチコ、あきれ返ってんの。泣き出しそうな声で耳元で、周りを見てよ、子供いっぱい居るじゃない、E・Tみながらそんな事っておかしいわよって」 「マウイはE・Tだよ」  マスターがオカマ口調で不貞腐れたようにつぶやいた。マウイはニヤリと笑った。 「映画観ながらならいいよ」  マウイはマスターの耳に顔を寄せささやいた。路地の遊び仲間や地廻りらにはやし立てられ、「じゃあな」とマウイは皆に答えるようにウィンクし、弟分のタケキを連れて69のマスターの後に従いて外に出た。  マスターは外に出るなり、ふくれっ面になった。スナックのドア越しに笑い声が聴えてくるのを耳にして、 「おふざけじゃないよ、まったく」  と棄てゼリフを吐く。 「結局、五十万、いいようにしてふんだくっただけじゃないか。これでマウイが逃げ出したら、あの二人、タダじゃおかないからね。全国組織の本当の幹部、知ってるんだ。あいつらの親分の兄貴分だ。どんなにでもしてやる。オカマの居直りって恐いんだからね」 「姦りゃいいんだろ」  マウイは言う。69のマスターは立ちどまってマウイを見る。 「姦りゃいいってもんじゃないよ。もう蛇の生殺しの状態だからね」 「オカマの生殺し」  タケキがマウイの横からくちばしをはさむ。タケキは笑うが、マウイは一瞬、オカマと蛇とは同じかもしれないと思い鳥肌が立った。69のマスターはタケキに一瞬、喰ってかかろうとし、タケキの顔を見て、急にオカマ気分が出たように、ふん、とすねた顔をする。69の常連の誰もが、69のマスターは相手が若いマッチョマンでハンサムなら、少々の事なら大目に見てくれる事を知っていた。タケキも悪い男ではない。69のマスターは繁華街を先に立ってどんどん歩き、遅れて従いて行く二人を振り返り、「トロトロ歩いたって、もう逃げ出せないんだからね」と言う。 「終ったらすぐ東京へ行くから」  マウイが言うと、マスターは「終りなんかないよ」とからかう。  一瞬、マウイはオカマと蛇は同じかもしれないと思い、いつまでも自分にまきついて離れない蛇のようだったらどうしようと不安になった。  マウイは黙り込んだまま歩いた。横を歩いている長靴姿のタケキが、マスターの歩く後姿を見ろ、とマウイに教える。尻を振って歩くマスターを見て、見てはいけない物を眼にしたと、あわててそらすと、タケキは「どした?」と訊く。マウイはタケキに訊かれ、自分がとんでもない奸計にひっかかっている気がした。  タケキはマウイの肩に手を掛け、 「ダバオまでもう一歩」  と明るい声で言う。 「ダバオがどこにあるのか、ケンキチノオジから聴いて知ってるだろ」  タケキは訛りのない標準語で言う。 「ダバオってフィリピンだからな。もしマウイが本当にダバオから来たのなら、モロ族だよ。モロ。古座のあそこは東牟婁郡という。ムロウという言葉とモロという言葉と一緒だという人居るぜ。あっちがモロ族ならこっちはムロウ族だよ。いっしょさ。そこがいまドンパチ、やっている。革命しようとしている。ダバオが中心地さ。ダバオに宝物どっさり埋められてる話、船に乗ってる奴、皆知ってるぜ」 「土人の宝物って貝殻の事だろ?」 「黄金じゃないのか」タケキが言う。 「黄金」  マウイは立ちどまってつぶやき、まるで呪文の言葉を唱えたように、重く暗くなった心が明るくなるのを知った。 「昔の日本が攻めていったあたりにいつも宝物の話あるな。満州だってそうだろ、ダバオだって、ビルマのあたりだって。宝物っての黄金だと思うんだ。金塊。後はダイヤモンドとかエメラルドとかヒスイだとかの宝石」 「黄金のブレスレット」  マウイは言う。 「船に乗るの、その宝物さがしに行くのか?」マウイは訊く。タケキは「いや」と大人びた感じで首を振る。  角を曲がろうとしたマスターが後を振り返り、「何やってんのさ」と声を荒げた。 「もうそっちで出来ちゃったのかい」  マスターは歩いてくる二人を見て、二人が女の放って置かない男振りの若者だった事に気づいて機嫌がよくなったように、「近親相姦って一番よくないのよね」とナヨッとしたふりを見せて言う。  69のマスターの部屋は五階建てのマンションの一番上の部屋だった。マスターは応接間に二人を通し、すぐ戻ってくるからと言って退屈しのぎにヴィデオでも見ていろと言って、何人もの男のオナニーを撮ったヴィデオをかけた。長大な柔らかい性器は手の中でまるで粘土のように動いていた。マウイは立ってラックの中から男と女の絡んだものがないかさがした。男と男の絡みを暗示するものばかりでヴィデオを変える事をあきらめた。  ドアがバタンと開く音がし、マスターがマウイを呼んだ。ほら来た、と言うようにタケキを見ると、「じっとしてればいいんじゃないか」と言う。「まァね」タケキが同情の言葉をかけてくれると思っていたマウイは拍子抜けしたようにつぶやき、マスターの声の方に行った。マスターはシャワー室のドアを開け、濡れた体のまま、「一緒に浴びよう」と言う。マウイはとまどったが、決心し、「わかったよ」と服を脱ぎはじめた。 「俺、自分の趣味じゃない事するんだから、わがまま言わせて欲しいんだよね。感化院でよだれが出るほどだったからベッドに入ってからチョコレート食べたいんだ。もちろん、マスターだって食べてほしい。煙草吸ってる女とキスする時、いつもそうするんだから。ヤニの匂い、いやなんだ。姦ってる最中、音楽かけて欲しいんだね。ブスな女とする時でも、音ひとつあったら、自分を変えられるからさ」 「ブスじゃないわよ」  マスターは服を脱ぐマウイに魅入ったまま言う。 「マウイなんかに音楽かけたら、姦りながらブレイク・ダンスされちゃう。壊れちゃう。女と違って男ってデリケートなんだから」  マスターは苦笑し、 「どんな曲?」と訊く。 「何でもいいさ。ヘヴィー・メタルでもメン・アット・ワークでも」 「いやよ」マスターは言う。 「ハードすぎて、即刻、明日病院行き。工事中って意味でしょ。ツルハシで掘るみたいになっちゃう」  マスターはそう言って自分の言葉に欲情したように見る。 「マウイはずうっとぼくの事、ほめてくれていたんだよね。踊っているから腹も出ていない。色白だから、赤いシャツだって似合う。清潔だって。素敵なハーフに言われたんだから、舞い上がっちゃうよ。何でも耐えてみせます。フィストだって、マウイがやるって言うなら、耐えてみせます」  マウイは下穿き一つの裸になった。下穿きを取ろうかどうしようかと迷うと、「シャワー浴びるのにパンティーつけてる人、どこにいるのォ」とマスターがうるんだ声で言う。マウイは覚悟を決め下穿きを取り、マスターの視線からかくすように脇をすりぬけて、シャワー室の中に入ろうとした。そのマウイの体をマスターは素早くタックルし、体をこすりつけ、シャワーの当る壁におさえつけた。シャワーが頭上から降りそそいだ。マスターの圧しつけた体の腰の部分に固い異物があり、マウイはマスターが勃起しているのを知った。マスターはマウイにキスしようとした。マウイは顔をのけぞらせ、熱いシャワーを顔一面に浴びながらのがれた。マスターはマウイの首筋に唇を圧し当てた。唇はそのままゆっくりと下に這い、へそのあたりで停り、それから陰毛の密生した下腹部を何度も何度も旋回し、遂に性器にたどりついた。性器がマウイの意志に反して勃起しはじめるのが分かった。 「マスター、マスター」  マウイは顔を上に向けたまま言った。口の中にシャワーが入り込む。 「音楽。何でもいいから、音、かけてくれよ」  朝、髪を撫ぜる手の感触で目覚め、マウイは素裸のままマスターのベッドでうつぶせになって眠っていたのに気づいた。マスターが銀の盆に絵模様のついたカップを乗せて、枕元に坐り、「マウイの旦那様、愛妻の作ったジャマイカ・コーヒーよ」とささやく。  顔を上げ、枕カバーにチョコレートのしみがついているのを見て、うつぶせに眠ってしまった為にヨダレを垂らしてしまった事に気づいた。手でぬぐおうとすると、「いいの」とマスターがおどけ半分にとめる。 「旦那様の初夜のしるしよ。これからチョコレート一口ほおばるたびに、旦那様のハードな愛を思い出す。あっ、口のはしにもチョコレートついちゃってる」  マスターの手がマウイの口元にのびる。マウイはぼんやりしたまま、マスターになすがままにさせている。マウイはベッドの上に起きあがり、コーヒーを飲んだ。  飲み終えてから、タケキが居たのに気づいた。 「タケキは?」  と訊くと、マスターはくすりと笑い、「昨日の夜、愛妻の絢爛の声で眠れなかったって」と言う。 「居るの?」 「寝たのが、旦那様の三回目のもよおしの終った頃だから、それでも眠れずにいたので、いまごろ眠っている」  マスターはそう言ってタケキには何の関心もないように、マウイを見つめ、ぼそっと「上手だよね」とつぶやく。 「何にも知らないって嘘なんだろ。キシイもその気があるから、俺が狂ってるの知りながら、キシイに手ほどき受けていたんだろ。情熱的だよ。カッコいいよ。男らしいよ」 「黄金のブレスレットはめてる夢見た」  マウイが言うと、マスターは一瞬、悲しげな顔になる。 「生れつきのジゴロだよね。買ってやりたくなるけど、マウイ、東京へ行っちゃうだろ。ここにいて、俺に天国の夢見せてくれるなら、何でも買ってやるよ。たぶん一番最初に買うの、貞操帯だろうけど。マウイのチンポコにはめるのそうないだろうけど。ここにいる? 夜だけ一緒に居てくれりゃ、昼間、何やってもいい。女となら姦り狂ったっていいよ。金も使っていい。69、全部まかしてもいい」 「東京って面白いよ」 「そりゃ、そうさ。面白いだろうさ。人口三十万そこそこのフジナミの市より一千万いる東京の方が。ディスコだって設備整ってるし」  マスターは飲み干して空になったコーヒーカップを盆に載せさせ、それを脇に置く。マスターはマウイの脇に身を寄せた。嫌悪感は沸かなかった。ただ音楽が欲しいとマウイは思った。  シャワー室を出て、マウイの要求するとおり、チョコレートと音楽を用意した部屋でマスターの誘いに応じたのは、胃の中と口の中で溶けたチョコレートと部屋いっぱい鳴り響き皮膚から血管に浸透した音楽のおかげだった。音楽でざわめく血のおかげで、女も男も変りなかった。最初は外で、二回目からはマスターの中で果てた。マスターはマウイをほめた。マウイが臆する事のないのは、性を信じているからだと言った。マウイは心の中で音楽を信じているのだと独りごちるように思ったのだった。  タケキが目覚めて部屋に入って来た時、マスターはマウイにキスをしてくれと迫っていた。タケキは、「まだやってるのか」とあきれたように言い、すぐ出て高速バスに乗ろうとマウイを促した。マウイは立った。体が自分のものともマスターのものともつかない精液の匂いとグリスの匂いがするのにむかつき、マウイは素裸のままシャワー室へ駆け込んだ。  シャワー室を出ると、マスターが折り畳んだ下着を持って立っていた。マウイは無言のまま下穿きをつけた。シャツをはおり、一番下に置かれたズボンをマスターの手から取ろうとして、「手品だから」とマスターが右手でポンとズボンをたたいた。マスターは手を引いた。ズボンの上に黄金の太いブレスレットがあった。 「ブレスレット。誰の?」 「誰って、俺が今、手品で出してやったんでしょう。だから、さっきから言ってるよ。あたしは錬金術師だから、ベッドの上で黄金のブレスレットくらい作るの簡単だって。ただ種蒔く必要あんのね。種がきちんと黄金になる。ずっと一緒にこのベッドで種蒔いてごらんよ。黄金だらけになる」  マウイはブレスレットをつかみ上げた。 「おい、見てごらんよ、黄金のブレスレット」  マウイはタケキに振ってみせる。タケキはマウイの手の中のブレスレットを見、マスターを見る。 「おろかなオカマだと思うんでしょ。チンピラ地廻りに理由なしにあんたの東京行きの金ふんだくられて、こんなものまで用意して。マウイなんかに手品で出したと言ったら口からか尻の穴からか出したと思うだろうけど、ちゃんとした十八カラットなんだからね。つけてみなよ。清水の舞台から飛び降りた気で、マウイみたいな子は女相手にするより男相手にする方がよほど身入りがいいんだと教えてやる為に、昨夜のうちに買っといたんだからね」  マウイはブレスレットをはめ、ブレイク・ダンスをやった。タケキが拍手するのを聴いてから踊り止め、「あと二、三日居ようかな」と言い出す。タケキはあきれ返ったという顔をした。 「だってそうだろう。借金、消えちゃったし、黄金のブレスレットまで出来た」  マスターの呼んだタクシーに乗って高速バスの乗車場に行き、タケキが二人分の切符を買って、一時間近くもある待ち時間を潰す為に入った喫茶店の中で、マウイはしばらくマスターのヒモとしてフジナミの市で暮らす事を考えていた。マスターから渡されたあり余る金でホテル代も食事代もマウイが払うので女らからジゴロ扱いはされないし、マスターのヒモという身分なので、69に何の後ろめたいところもなく出入り出来る。月に一回、マウイの遊び仲間だけで69でパーティーを開いてもよい。何もかもうまく行く。女の柔らかさがなく、ただ同じような構造の味気なさを耐えてひたすら自分の勃起射精という動きをやっていれば、もう始まってしまったのだから、入れる穴が女陰ではなく尻の穴だという違いなどこだわる必要もない。  しかし東京は魅力だった。元々、路地からフジナミの市の高台に来て働きはじめたが、東京は一層路地より遠ざかる。東京にしばらく居た時、最初はたまたま知りあったほんのごく少数の人間しか顔見知りが居なかったので、東京は人ばかり多くて建物ばかりやけに建った味気ない街に見えたが、毎日六本木のディスコに通い、遊び仲間が出来、どこに何があるのか分かってくると、東京はマウイになくてはならない街になった。  マウイは路地に一人住んでいた産婆のオリュウノオバが自分を中本の血の子供だと言っていた、というのを知っていた。死んだオリュウノオバは、黒い肌の子として生れ、生れ落ちてすぐに里子に出されたマウイが、中本の血の七代に渡る因果の子として、どこでどう生きるのか、心を砕き、祈るような気持ちで見つめていたのを知っていた。オリュウノオバはマウイが東京に行きたいのは、沸騰する湯のような町で身も心も焼きたいのと、マウイの体に入っている中本の高貴にして澱んだ血の本能からなのだと思っていた。オリュウノオバはマウイが中本七代の因果の子として女親の女陰から焼けこげて出て来たから色が黒く、さらにマウイに、中本の血の因果を背負って外に出かけたまま消息の途絶えたオリエントの康の消息も確かめてもらいたかった。オリュウノオバは終日、うつらうつらしながら、他の中本の子が総じて抜けるように色白であったのに、マウイ一人黒い子として生れた本当の意味を考えていた。  目鼻だちは中本そのものだった。その中本のマウイに流れる歌舞音曲に現を抜かした血が、沸き立っている東京に来てディスコに入り、音楽と踊りに陶然としてしまう。オリュウノオバはマウイに若死の不安はないものと思っていた。オリュウノオバは半蔵の名を呼び、若死した中本の血の若衆の名前を次々と挙げ、涙ぐんだ。若死はもううんざりだった。オリュウノオバは中本に生れた肌の黒い子のマウイに励まされるように、床についたきりの老衰の身のまま、すでに死んだ礼如さんが黄泉の国でつかえる仏にむかって、折に触れて何故、あんなに美しい者らを若死にさせる必要があったのか、と問うのだった。  すべて花の盛りだった。肌の黒いマウイがごく何でもない事を考えている時に、69のマスターでなくとも、ありったけの金を注ぎ込んで入れ上げてみたいと思うような、人を魅きつけるが取りつく島もないような美しさを半蔵もオリエントの康も持っていた。半蔵が笑うと周りに光が射して明るくなる気がしたし、オリエントの康もそうだった。それがどうして若死するのか。  マウイは喫茶店の中で、目の前に停った東京行きの高速バスを見ながら、ボンヤリと、フジナミの市から車で三時間ほどかかる古い路地を思い出し、その路地の開闢以来の一統である中本の血が自分にも流れているのを幻のように思いながら、その昔、中本の血の若衆は男の盛りでいつも早死すると噂されていたのを思い出す。何故その噂を思い出すのか分からなかった。早くから路地を出て他所で育ったのでマウイにしてみれば噂が本当なのか嘘なのか確かめる術もなかったが、自分が中本の血を引いていると考えると、胸の中に不安が芽生えてくる。 「何、考えてるんだよ」69のマスターがマウイに訊いた。 「何にも」マウイは笑をつくった。 「何にも考えないで、ボーッとしてられるんだ。だいたい何かやろうとすると前からボーッとしちゃう。これから東京へ行って東京で遊びまくって、それから船に乗るだろ。そんだけの事だけど」 「仲間に行ってくるって電話しなくっていいの?」  マスターがマウイの手に手を重ねて訊く。タケキがまた癖が出たというように苦笑する。マウイは手を引っ込めながら、 「何度も東京へ行くって言ったし、それに昨夜、じゃあな、って言っておいた」と言う。  高速バスのエンジンがかかった。アナウンスが始まった。 「じゃあ、わたしにも、じゃあな、ってしか言ってくれないのか。切ないよ、さみしいよ」  マスターはマウイの顔をみつめ、はらはらと涙を流す。「泣かないでくれよ」タケキが周りを気にして見廻しながら言う。 「そうだよ。昨日、だから一生懸命やったんだからな」  マウイが言うと、マスターは涙を流しながら「だからブレスレットあげたでしょ」と返す。 「そうだよな。ブレスレットなんか、女くれないよな」  マウイの言葉に間髪を入れず「そう」と相槌を打ち、涙をハンカチでぬぐう。「行こう」というタケキにうながされ、マウイは立ち上がった。 「ここに居ろよな。従いて来るなよな」タケキがマスターに言った。  喫茶店のドアを開け、外に二人は出て、エンジンの音にせかされるように高速バスの方に走った。走りながらマウイはフジナミの市に二度と戻ってくるような事はないだろうと思った。高速バスに乗り込んだ途端、タケキがポケットに手をつっ込み、中から指輪やネックレスの類をつかみ、みせる。 「ほら、ざっとみつもって百万以上だよ。あいつ、五十万分取り返そうって、何度もおまえのしごいてたの見たから、ガメてやった」 「東京のディスコで女に売りゃあいいよ」マウイは明るい声で言った。 [#改ページ]     2  マウイとタケキの二人が乗ると高速バスはすぐ動きだした。マウイは外を見た。69のマスターが大きく手を振っていた。じゃあな、と言うように合図を送り、マウイは動き出す外の風景をはっきり見ておこうと、眼をこらした。額が窓硝子に当った。マウイの後の席を陣取ったタケキが肩ごしに身を乗り出し、「なァ、見てみろよ」と言う。マウイは窓の外から眼を離さなかった。  高速バスは国道にむかって両側に家の立ち並ぶ狭い道を走った。すぐ道を左に折れる。その道を右に折れ、まっすぐ進めばフジナミの市のだだっぴろく広がった路地の端に出るし、さらにその路地の幾重にも折れ曲った道をたどると、マウイが居た高台の石切り場に行き着く。ことさら過去の事を思い出さなかったが、マウイは自分が今、大きな変り目に居るように思え、ひょっとすると二度とフジナミの市に戻る事はないかもしれないと感じ、胸が痛む気がした。ただ胸の痛みは他所へ行ける嬉しさより強くはなかった。 「なァ、マウイ、見てみろよ。キラキラ光ってるよ」タケキがまた言った。  タケキのその言葉が自分の痛みともおののきともつかない気持ちを言っているようで、マウイは言葉に連られて顔を上げ、タケキの座席ごしに突き出した掌を見る。 「お前、持ってろよ。がめてやったけど、お前のものだからさ」  タケキは掌を動かし、中の指輪を動かす。 「木曜島って真珠だろ。真珠って宝石の一つだから他の宝石だってどの程度のものかだいたい分かるのな。そんなに悪くないよ」  マウイはタケキの掌からはっきり男物らしい青い石の指輪を取った。 「ラビズリー」タケキは得意げに言う。 「よく知ってる」マウイが言うと、タケキは後から腕を突き出している姿に疲れたように、「隣に坐っていい?」と訊く。一瞬、マウイはタケキに言い寄られた気がした。そのマウイの気持ちを見抜いたようにタケキは苦笑する。隣の席にタケキは坐った。 「ラビズリーってアフガニスタンのあたりが一等いいらしい。はめてるだけで魔よけになるって」 「よく知ってるよな」マウイはそう言って青い石の指輪を右の薬指にはめる。黒い指に青い石は似合った。  青い石の指輪を見ながら、いつか見た映画のシーンで若者が金持ちの男を殺してその男になりすまし、海辺の避暑地のレストランで勘定書にサラサラとサインする際に指輪があったのを思い出した。その指輪にイニシャルが入っている。イニシャルは若者のものではなく、殺された男のものだった。マウイはサインする真似をした。 「字かなんか書きたくなるのな」  マウイは言った。タケキはマウイの言葉が分からなかったらしく、 「俺なんか外地で生れたから、漢字、難しくって」と別の事を言う。 「なあ、こうやってボールペン持つだろ。サラサラと横書きにする。マサルって外人には言いにくいのかな、マウイだって、あいつらマーィって言うぐらいだから。モーイーって言うやつもいる。だからサインする時はmauiじゃなくって、muiiiって感じで、やっちゃうんだ」  マウイはそう言ってタケキの顔を見、「イニシャル入ってなくってよかったよな」と言う。 「選んだから。あいつの持ってる真珠のタイピンなんて、つまらないクズ真珠だったから、がめて来なかった。おッ、青真珠って、もう一つの方を思ったけど、よく見るとイミテイションだよ」  マウイはタケキが映画を観ていないのだ、と思った。 「本当に俺が六本木あたりで売っちゃっていいの?」マウイが訊くとタケキはうなずいた。 「金の方をもらっちゃったし、指輪、高く売ったって一本十万ずつくらいだから五十万。ちょうど同じ額になる」 「あッ。そうか」マウイはうなずいた。マウイは現金五十万と指輪五十万円分なら同じ額だと思い、「有難う」と礼を言い、タケキの掌から赤い石の指輪を取った。 「ルビー」とタケキが言う。 「これは?」と緑色の石をつかむと、「サファイア」と言う。  マウイは色のついた石を美しいと思った。色のついた石を手に取り、自分の物としてまじまじと見つめるのは初めてだったが、それらの宝石が名も知らない遠い国から産出されて今マウイの手にあるのではなく、子供の頃住んだ路地やフジナミの市の高台、感化院の暗い廊下の中にさえあきれるほどの量があったような気がした。感化院の廊下は晴れていようと雨であろうと暗かった。廊下の一等奥が硝子戸になり、職員らはその硝子戸を開けたり閉めたりして出入りしていた。西日が硝子戸に当り、硝子の破れ目に宝石がはさまれたように緑に光ってみえた。見る角度によって色は違った。マウイは自分が職員らから叱られた罰として廊下に立たされているのを忘れ、宝石かどうか確かめる為に歩いて近寄った。宝石は目を凝らしていても、近寄るうちに霧消した。何度も何度も確かめる為に廊下を歩き、そのうち職員に見つかり、廊下に立たされる罰を受けている最中だというのを忘れたのかと、こっぴどく叱られた。  高速バスは国道に出てすぐ、高速に入った。マウイはまた外を見た。市内を走っている時とは風景は一変していた。口の中にまだチョコレートの味が残っているようでマウイは唾を飲み込み、それから横に坐ったタケキが自分を見つめているのを知って「何?」と訊いた。 「五時間くらいで厚木に着くから、眠ったらいいんじゃない」  タケキはそう言った。マウイは心の中で、黒ん坊を間近に見た事なかったから珍しくて見ていたくせに、と思ったが、地廻りから弟分にされたタケキだからまァいいや、と思い、逆にタケキを観察してやろうと向い合い、「ダンス、出来んのか?」と訊いた。タケキはいきなり訊ねられて驚いたようにマウイを見つめた。その見つめた顔がマウイよりはるかに幼い気がして「幾つだよ」と訊いた。 「二十一」 「二十一なのか。オジンじゃない」 「幾つ?」タケキは訊いた。  マウイは言い渋った。 「俺より上?」と訊き直すので、 「誰でも俺の事、本当はこうでこうだったって言うけど、本当の事がまちまちだからさ。幾つか分からない。十八か十九じゃないかって、自分で思っている」  マウイはふと高台の産婦人科医院に入院していた路地の女らを思い出す。 「俺、色、黒いだろ。誰が見たって、黒人の血か土人の血、混ってるって分かるだろ。それなのに、俺が高台で、石切り人夫らのオッサンに、ディスコでの踊りをちらっと見せてやっていると、いつもペチャクチャ話している路地の女、来て、おまえはマサルじゃがい、由緒正しい中本の一統のマサルじゃから、黒んぼうのような真似するなと言う。マサルじゃないよ。黒んぼうのマウイだよ。俺が言うと、なにをよォ、と怒るの。本当に怒るの。マサルに一滴も黒んぼうや土人の血ィ、入っとるものか。そう言って路地の女ら、死んだオリュウノオバがはっきり断言しとった、と言って、中本の誰がどうしたと俺をつかまえて話し出す。俺は頭がクラクラしちまう。それでなくったって簡単に出来てる頭なのに、複雑な事言われてると、頭の線が方々でショートしちゃってクラックラ。眼がチカチカ。だってあの白い花の雌の木、元気がよくて昼ごろからふくらみはじめるから、光に当ってチカチカする。エア・ドリルとかハンマーとか、ダンプカーの音で耳がガンガン」  マウイが言うとタケキは笑う。 「おまえが弟だよな」  タケキは言う。マウイはむっとする。 「おまえが弟じゃないか」  マウイは言う。 「俺がお前の金つくってやったんだからな」 「五十万だろ。だからその五十万分の指輪、おまえにがめてやった」  タケキの言い種にマウイは憮然とした。指輪に俺に弟分扱いされたくないという意味が入っていたのか。おまえ、ひょっとすると名前をマウイと言うんじゃない? とからかおうと思ったが、タケキではなく結局、自分をからかってしまう気がしてやめた。 「どこも悪くないような路地の女ら何人もいたから、一度、俺の事、いい加減な事ばかり言うので、腹が立ったから、何人も入院して養老院のつもりかって訊いてやったんだ。産婦人科病院って、赤ちゃんを産むとか堕ろすとか、オマンコの具合いいとか悪いとかって、女が行くところだろ。あいつら女じゃないよ。もう皆ババアだよ。中本がどうのって、あんまり俺の事を言うので、ここはババアには関係のない産婦人科だろ、無料で入れる養老院もあるから、そっちへ行けと言うと、皆、癌だって言うの。どうせ嘘だろうけど、チカチカの雌の木の下で涼んで俺をああだこうだって言うのを止められない」  マウイはその女らが今、夏芙蓉の木陰にベンチを置き、マウイの事を話し込んでいる気がした。  ほどなく高速バスはパーキングエリアに停った。タケキがバスを降り、すぐにアイスクリームを買って戻って来た。「食べる?」と訊き、マウイがうなずくと、一つ差し出す。高速バスは動き出した。 「オーストラリアから古座に戻った時、俺も土人と言われたぜ」  とタケキは言う。タケキはマウイの隣に坐り、マウイのむいたアイスクリームの包装紙をまるめて座席のネットの中に納い、「色が黒くたって黒くなかったって一緒なんだ」と言う。 「あっちへ渡ってしまえば勝ちさ。エメラルドの海があるよ。パール・シェルが海の底で口を開けてる。ノドチンコみたいにパールが光るんだ。海の底に名前がついてる。だいたい昔の古座や中本の人間らがつけた名前だから、馬の背とかナマコのクビレとか、あんまりポエティックじゃないのな。潜水服着て昔は潜ったんだから、ポエティックになりようがないけど、後からおまえは海の向うから来たんだぞ、おまえの親は海の中で、立ち泳ぎしたり逆立ちしてひっくり返って泳ぎながら、オマンコやって、おまえを産んだんだぞって、南洋の話を聞いてると、俺はどうしようもないポエットになる。海の中でオマンコ姦った事ある?」  マウイはタケキの言葉に目を輝かせた。 「波で余計に感じるの?」  マウイが訊くとタケキは苦笑し、マウイの頭をこづく。ヘッと自然に馬鹿な事を訊いたというように笑ってしまってから、年齢がどうであれタケキが弟分だと取り決めしたのに、遊び仲間ですらやらないような事をやる、と腹立った。 「子供の頃から話聴いてきたから、海の中で姦ってみたくて、子供の頃から狙っていたんだ。ウニのオマンコとか、イワシのオマンコとか、鯨のオマンコってあるよな。シャーって精液放って。卵がそれをかぶって。鯨ってやっぱり俺たちみたいに放り込むらしい。だけど周りに洩れてな、海が一面に真っ白になるって。太地の俺の連なんか、見るだけで興奮してたよ。俺の連なんか、鯨取りだけじゃやっていけないから、南洋までマグロを追っかけていくけど、あいつらは姦りたくなったらどうすると思う?」  マウイはまだ腹立ちがおさまらず黙っていた。 「島へ寄って、女見つけると思うだろう? だけど島なんかない。海ばかり。どうする?」 「尻、貸しあう……」  マウイは正解を見つけたと言うように言った。タケキが「ばっかだなァ」とまたマウイをこづいた。 「やめろよ」マウイは言った。  タケキは突然不平を言い出したマウイを見て、急に笑いを消し、眼に戦意を顕わにしながら、「おまえ、その気があるんじゃないの」とつぶやく。 「何、言ってやがる」  マウイが言うと、タケキは、やるかと見つめる。マウイは自分の中で怒りが燃え上がってくるのが分かった。沸点に達する前に、タケキが折れ、「悪かった」と言い、「漁師ら、姦りたくってたまらないから、イルカなんかつかまえて姦るのな」と言う。  マウイがまだタケキを見つめると、「分かったよ、俺はおまえの弟分だよ」と言い、何のつもりかマウイの唇に素早くキスをする。 「なんだ」マウイは鎮りかかった怒りが一瞬に火を噴いた。 「いいじゃないか、減るものじゃなし。ひょっとすると、これから南洋に行ったって、イルカすら見つかんない事あるかもしれないんだから、その時、二人で姦りっこしよう。イルカって賢いから分かるのかな。俺の連、イルカを捕まえて姦って、姦ったら食っちゃうのが可哀そうになって放してやったんだって。まったく女と変らない。構造なんて女そのもの。イルカは船に従いて廻ったんだ。太地の鯨博物館でイルカのショウやってるけど、イルカが人間にキスをするの、本気なんだぜ。女だったら絶対にしないイルカもいるし、男だったら絶対にしないイルカがいるって」 「ヘビー・メタルかけて、チョコレート食わしてれば、どっちだってやるよ」  マウイはぶっきら棒に言う。タケキはマウイの言った意味を分からなかったが、マウイの機嫌をそこねないでおこうと思ったのか、「へーえ」と大仰に声を出す。 「マグロで姦った時あったけど、暴れるの二人がかりで抑えつけてやるんだけど、すぐ死んじまうのが多いらしいのな。生きてるのは、船主に悪いけど、逃がしてやるらしい。マグロが一尾百万ぐらいするから、百万円のオマンコだよ。だからあいつら人魚をつくってんだよ。人魚。俺のオヤジも、本当はオーストラリアとかフィリピンとかビルマの沖で、真珠貝取りながら魚と姦って、俺をつくったんじゃないかと思うね。海の中で泳ぎながら、上になったり下になったり、底に沈んだり上に浮きあがったりしながら、オヤジは腰使い続け、オフクロは尾ビレを撥ね続け、姦る。底に沈むのは海の上で呼吸出来ないオフクロの為だし、上に浮きあがるのは、海の中で呼吸の切れるオヤジの為なんだ」 「人間同士なら、楽しいよな」マウイは言う。 「姦った事、ある?」タケキが訊く。マウイは首を振る。 「モーテルの風呂の湯の中でオマンコに放り込んで姦ってたけど、あんまりよくなかったのですぐ外へ出てしまった」  タケキは真顔で「そうだよな」とうなずく。 「この間、やっと海の中で、女を岩につかまらせてて姦ったけど、波が邪魔するし、体が思うように動かない」  タケキは座席の上で腰を突き出して動かし、廻し、「こうやって廻すのが一等いいみたいだけど、男、この形じゃいつまで経っても行かないよ」と苦笑する。  苦笑につられてマウイが笑った時、運転席の脇に居た車掌が脇に立ち、「お客さん、どこまでだっけ?」と訊く。  腰を出したままタケキが、「東京」と答える。 「東京のターミナルね?」  車掌は訊き返す。 「東京に入ればどこで降ろしてくれたっていい。荷物なんかないしさ。ウォークマン一つだけだから」マウイは答える。 「ターミナルね」車掌は言う。 「ターミナル」マウイが答え直す。  タケキがまだ車掌がそばに居るのに、 「畜生、姦りたくなってくるな」  と声を荒げて言う。 「ターミナルに着いたら、すぐ眼に入ったのから口説いていこうよ。姦って姦って姦りまくってから船に乗る」  そう言うマウイを車掌が驚いたように見つめる。 「上手だなァ、完璧な日本語だよ」  マウイは苦笑した。  眠ってマウイは夢を見た。肩を揺さぶられ、目覚め、車掌が眼の前に立ち、どう言葉を使えばよいのか分からないように、「ターミナル、ユ、シー、ターミナル」と手で四角をつくっているのを見て、マウイは何もかもが夢だったのに気づき、自分の身に人には言えない苦しい事が山積みしているようにのろのろと起きあがり、窓を見た。  窓にうっすらと黒んぼうの顔が映っていた。車掌がそのマウイの肩を叩き、「ターミナル、ユー、チケット」と切符を寄こせと手真似した。マウイは無言のまま一つ後の座席で眠っているタケキに言えと指差した。車掌はタケキの前に立ち、「ターミナルですよーッ、お客さん、起きないと車庫に入っちゃいますよーッ」と自信ありげに歌うように言う。  マウイはウォークマンのスイッチを押した。イヤホーンを耳に当てた。瞬時に、そこは大きな東京というディスコテックだった。音が半勃起状態の性器のつけ根からピンクの照明が点滅する脳の神経の先まで響く。マウイはタケキを待たずに高速バスを降りた。外で脳のピンクの照明の点滅にあわせてリズムを取ってタケキを待っていると、運転手がマウイを見つめている。音のクライマックスが来た。マウイは一回転してみた。夢の重さが消えた。  タケキが高速バスを降りたので、マウイはニヤニヤ笑いながら馬鹿な黒んぼだと見ている運転手と車掌にファックユーの合図を送り、出口のほうに歩いた。通りに出て、マウイはやっとウォークマンをはずした。  六本木の交差点で車を降り、マウイはすぐに眼に入って来たハンバーガー屋にタケキを誘った。タケキは二つ目のハンバーガーを食べかかってから、「バカな知恵のトロいのが、東京砂漠って歌の文句の真似してジャリだ、砂だって言ってたけど」と言いかけてマウイが店の奥を見つめているのに気づき、振り返る。女が二人、並んでミルク・シェイクのカップを抱え込むようにしてストローで飲みながら、マウイの方を見つめている。 「畜生、キタナイのな」タケキが言う。女の方を見つめながら「何だよ」とマウイは訊いた。 「俺、ここでハンバーガー食うだけだと思って、あいつらに背中向けた椅子に坐ったけど、おまえ、さっさと向う見える椅子取ったのな」 「気にするな」マウイは言った。マウイはそう言いながら、二人の女にむかって素早くウィンクした。 「キタナイよ」タケキは小声で言う。  マウイはもう一度、ウィンクして信号を送る。女が顔を見合わせ、首をすくめ、笑う。 「ほら、ハミング・バードが逃げかかっちゃった」  マウイはつぶやく。タケキが食いかけのハンバーガーを持ってマウイと並んだ隣のテーブルに移る。 「駄目だよ、あいつら落ちないよ」  マウイはタケキに言う。 「この時間にこんなハンバーガー屋で子供みたいにミルク・シェイク飲んでるの、ダサイし、金持ってないし、つきまとってしつこいし、ロクな事ないよ。本当のハミング・バード、今頃、とまり木さがしてあっちのディスコにちょっと、こっちのディスコにちょっとって顔出してる」 「ハミング・バードって何だ?」 「チーチー、とかシーシーって鳴く蜂みたいな小鳥。蜜吸って廻る。蜂鳥っていうのかな、ハミングっていうほうがきれいだけど」  マウイはそう言って、手を翼に見立ててハミング・バードの真似をした。女の片方が笑った。マウイが「おっ」と声を出し、手を振ると、女の片方は手を振った。タケキを見ると、タケキはハンバーガーを平らげようとし、中からもれ出たケチャップに目を奪われ、女の方を見ていない。マウイは苦笑し、あらためてその弟分の顔を見た。悪い顔ではない。 「おい、あいつら違って来たよ、落ちるよ」  マウイはタケキに言った。 「ちょっと待て」タケキは言い、ケチャップで汚れた手をどうしようかと迷い、マウイに救いを求めるように見る。マウイは黙ったまま立って、ダッシュ・ボックスの上に置いてある紙ナプキンを取ってやり、そのままタケキにかまわず奥の二人の女の方へ歩いた。  女の片方がマウイを見て、「ハーイ」と蓮っ葉な口調で声を掛けた。 「ウォンチュージョイナス?」  女の子はマウイに英語で訊いた。 「もちろん」  マウイは日本語で答えた。マウイは女の前に坐った。女は「えーと、えーと」と繰り返し、混乱して英語の単語を並べはじめた。 「僕、日本語、出来るよ」  マウイが答えると、二人同時に、「ホントォ」と声を出して顔を見合わせる。 「日本語は天才的だよ。何にも不自由ない。アクセントだってきれいだし、発音だってきれいだし、ダンスだって上手だし」  女はスゴイと言った。マウイは心の中で、スゴイのはそれじゃないよ、とつぶやく。 「さっき、高速バスで着いたんだよね。友だち、紹介する」  タケキが口を手でぬぐいながら歩いてくる。 「タケキって言う」タケキは歩きながら頭を下げた。マウイはまるでフジナミの市のスナックで会った時と同じじゃないか、と思ったが、誰彼かまわず姦りたいのはタケキだと思って、六本木のハミング・バードを捕まえる手助けをしてやろうと、席を一つ奥にずれ、タケキを坐らせた。 「こいつ、生れたの、オーストラリアなのさ。英語できるんだっけ」  マウイが訊くと、タケキは「うん」とうなずく。 「じゃあ、これ何?」と女の一人の手を持って訊くと、 「ジス・イズ・ア・ペン」と言う。  二人の女は笑い入る。  マウイはふとフジナミの市の地廻りの兄貴分に訊かれた言葉を思い出した。 「じゃあ、ドンデ・ウステ・カサ? っていうの何?」マウイが訊くと、 「スペイン語?」と訊き返す。 「スペイン語なの?」  マウイが訊き返す。 「あのヤクザの兄貴分が、オバから聴いたと言ってたけど」とマウイが言うと、タケキは、ああ、とうなずき、 「スペイン語じゃわ、あのアニのオバら、一時パラグアイの方に行っとったさか」  と言い、家はどこか? という意味だと言う。女二人はスペイン語にも、パラグアイにも興味がなく、外見はまるっきり普通の日本人の若者と変りないタケキそのものにも関心がないように鼻白んだが、マウイは感心したのだった。 「面白いよな。古座のあんなとこでスペイン語、分かっちゃうって」 「みんな方々に出かけてるだろ。混血のやつも結構居るぜ」 「あそこでオバがスペイン語しゃべってるのだからな」  女二人はマウイがタケキの話に乗ってしまったのを不満なように、ひそひそ声で言葉を交してから、 「ちょっと他所で待ち合わせがあるから」  と言い、マウイがハミング・バードを取り逃がすと気づいて、あわてて女に「一緒にディスコに行かない?」  と訊くと、女はえーと、えーと、と繰り返し、 「ウイハブアポイントメント・トウミートフレンズ」と英語で答える。 「ねえ、行こうよ」  マウイが言うと、女はまたえーと、と言い、小さなバッグの中から名刺を取り出す。 「ジスイズアマイネイムカード」  そう言って差し出した名刺にはただ、みほ、とだけ書いてある。 「日本語話せても読めないわよ。お店の電話番号とローマ字で読み方書いてやったら」もう一人の女が言う。 「何の店?」とタケキは訊く。  女は顔を見合わせ、くすりと笑い、 「ファッション・パーラーでーす」  と声を合わせる。タケキが指をまるめて上下させ、「これ?」と訊く。 「そう、それとかこれとか」  女は唇を開けてまるめ、顔を動かす。 「行くとタダでしてくれるのか?」タケキは訊いた。 「店で?」みほという名の方が訊き返す。 「店でなんかダメよ。こっちの外人だって、お店へ来たら仕事になっちゃうからお金もらうわよ」 「じゃあ、これから遊ぼう」マウイは言う。 「これから?」みほが言う。 「うん、これから」 「だってさっきお店に居て出て来たばかりよ。ハンバーガー屋でジュースのんで、同じ事して帰ったらバカみたいじゃない。もっと違う事するんだから」 「じゃあ、違う事しようよ」マウイは言う。  二人の女がハンバーガー屋を出ると言うので、マウイとタケキも相談して、外に出た。女の一人が自分の脇に立ったマウイに話しかけたいが、話すには英語でなければならないと言うようにちゅうちょし、タケキがオーストラリアから来たと思い出したように、 「英語出来るなら通訳してくれる?」  と訊き、タケキの返事も聞かないうちに、 「すぐそこのアイスクリームの店で、メイとヴィクトリアに会うから。メイとヴィクトリアなら、お店の人だってあきれてるから、二人の相手してくれる」  と言う。 「二人は駄目なのか?」  タケキは通訳せずに訊き返す。マウイの右隣りに立って、マウイが自然に腰に廻した手を取り、マウイの掌を指で挑発するようにこすっていたみほが、 「今日はあまり仕事に関係ない遊びしたいのよね」  と気持ちとは反対の事を言ったというように笑い、マウイの体に身を寄せる。マウイはその女の耳に、 「ハニー、ふくらんで来ちゃうよ」  とささやく。 「どっちがハミング・バードになったっていいんだから。どっちがチーチーって小鳥になったって、蜜狙って吸うんだから」  マウイのささやきを、タケキともう一人の女は耳にし、マウイのその言い方が露骨な性技の摸写だというように気遅れした表情をした。それはフジナミの市の遊び仲間が、時々マウイに見せる表情だった。マウイはそれが面白かった。 「だってそうだろ。俺なんか、音楽とかダンスとかセックスとか、気持ちのいい事しか考えてない黒んぼだから、街を歩いている人間みたって、みなハミング・バードごっこしてるように見える。男ひっかけたいと思ってる女なら、その子がハミング・バードだし、女ひっかけたいと思っている奴ならそいつがハミング・バード。どっちかだよ。ネオンが点いてるの、こっちだよ、と教えてるの。ここに蜜の花あるよ、ハミング・バードさん、こっちだよ、と教えてる」  マウイはそう言ってみほの耳に、「ハニー、俺、ハミング・バードしちゃうよ」とささやく。二人に取り残されたが傍に居るタケキに関心のない女が、「ねえ、いいの?」とみほに訊く。 「この二人、すぐホテルに行こうと言うんじゃない?」 「ホテルって?」  マウイがみほの耳元で小声で訊くと、みほはマウイを見て、くすりと笑い、マウイに耳を貸せと言って背のびし、身を屈めたマウイの耳元で、「アプレイスオブメイクラブ」とつぶやく。  マウイは英語風に、「リアリ?」と答え、「甘い蜜吸うのに場所なんか要らないさ」と気遅れしたままのタケキを促すように、「なア」と問いかける。  タケキは困惑したようだった。女をものにしたいのはタケキの方だったが、一緒にフジナミの市から来たマウイがあまりに自然に、ファッション・パーラーで働くという女と体を寄せあっているのを見て、もう一人の連れの女にどう言葉をかけてよいか分からないように黙り、それから、急に解決策を思いついたように、 「アイスクリーム屋で人と会う約束、あるんだろ? そこへ行こう?」  と言い出す。  マウイはタケキの言い方に苦笑した。タケキはマウイに黙れというようにウィンクした。 「さっき高速バスで着いたのだから、俺たちだってホテルに直行したくないよ」  もう一人の女の方が、「そうよ、おなじよ」と相槌をうつ。 「疲れちゃってるんだから」  女が先に立って歩き出す。タケキが小声で、 「どこ、疲れてんだよ」  と言うと、女は振り返り、 「ファッションはソープランドではないんです」  と言う。マウイの脇でみほが、「そうよ」と、タケキがよほどひどい物言いしたように言う。 「どこ疲れてんだよ」  タケキが二人の女の反応に自信を持ったように訊く。女は先に立って歩きながら言う。 「わたしたちのミルク・シェイクの飲み方見て分からなかった。こう腕で抱えるように持って、お口だらりと開いてなるたけストロー、舌とか唇に当らないようにしてたでしょ。みほなんか、そうやっても段々疲れてくるものだから、いいわよ。かまわないって、両手で持って、まるで仕事しているみたいに吸っていた」  マウイの脇でみほが、「ひどい」と声を出す。 「ひどくないんじゃない? 本当だから。自分で外人の顔みながら私に言ったんだから。もっとひどい事、さっき言ってたくせに」 「ケイコって悪いねェ」  みほは言う。 「言っちゃうよ」  ケイコと呼ばれた女は言う。 「言ってくれよ」  タケキは言う。 「あのねェ、みほったらねェ、最初、ソープランドにしようかファッションにしようかと迷ったんだって。結局ファッションにしたのは、体はあんな素敵な外人の為に取っておこうと思ったからだって」  みほは「ひどい」と絶句する。  ケイコはマウイの脇にくる。えーと、えーと、と繰り返し、日本語でもいいかなァとつぶやき、タケキが「いいよ、何語だって」と言うと、「今、ファッションの子の間で黒い外人、恋人にするの流行りはじめたのね」と言い出す。 「へーえ」とタケキが驚いたと言うように声を出し「どうして?」と訊く。 「あんまり理由ないけど、以前、仕事終ると『イエローバナナ』とか『玉霊園』へ行ってオモチャみたいな男の子とキャーキャー言って遊んでたけど、結局、つまらないから。ムナシイのよ。ファッションだと聴いただけで、あいつら男の客にお尻の毛まで見せてるくせに、わたしたちをバカにする。ファッションの子も悪いの。イブちゃんなんて子がデタラメ言って、いい加減な話ふりまいたでしょう。ファッションのスターだから。みんな真似してクスリやって、それでメロメロになって男買いに出かけるの」 「男買いか?」  タケキがケイコのそばに寄る。 「男遊びと言うのかしら、クスリでメロメロになっている」  タケキはケイコの肩に手を掛ける。ケイコはタケキの手にしなだれかかるような素振りをした。クスリを飲んで酔って男買いをしに行ってバカにされたのがケイコだったように見えた。  マウイがタケキに、ハミング・バードをやっとつかまえたね、というつもりでウィンクした。そのウィンクを見てケイコが、「みなで遊ぼう」とまだマウイに未練があるように言う。ケイコのその言い方が可愛かった。欲しい菓子をみほに一人占めされ、別な菓子を選ぶはめになったが、まだ未練がある。マウイは自分がチョコレートで出来ている菓子のような気がした。かじっちゃ駄目だよ。なめるだけだよ。マウイはつぶやき、今度ははっきりとケイコにむかってウィンクした。  31フレバーと書いたアイスクリーム店のパティオに、一見して東京のどの女の子とも違う化粧した女の子が二人、大事そうにバッグを抱えて坐っていた。女の子二人は聴き覚えのない言葉で話し込んでいて、マウイの顔を見ると、目を輝かせ立ちあがった。 「フィリピーナ?」  女の子の一人が訊いた。マウイが咄嗟に「ウィワナゴトゥゼア」と答えると女の子は「ああ」と落胆したような声を出し、後から入って来たみほとケイコを見てまた目を輝かせ、「待って疲れたァ」と手を振り、ふと気づいたようにマウイを見て、「ボーイフレンド?」とみほに訊く。 「さっきつかまえたハミング・バード」  みほがマウイの真似をして言う。 「ハミング・バード?」  女の子の一人が訊く。 「そうハミング・バード。歌をうたっている小鳥」  マウイがそう言って高い声でハミングすると、人目につくまっ赤なワンピースの女の子の方が、 「わたしもシンガーね。マニラでシンガーのテストを受けて東京へ来たから」  とマウイのピッチに合わせてハミングをする。ケイコが「ヴィクトリア、いまはシンガーじゃなしにフィンガーでしょ」と言う。ヴィクトリアと呼ばれた女は笑い出し、ハミングをしつづける事が出来ず声を立てて笑い、「シンガーよ」と言う。  みほがマウイとタケキにフィリピンから来たヴィクトリアとメイだと二人の女の子を紹介した。「フィリピン人だと思ったよ」ヴィクトリアがマウイに言うと、ケイコが違うと首を振り、「フィリピン人だと思っちゃった」と直す。思っちゃった、思ッチャッタ、とヴィクトリアは真似て、語感が面白いというようにメイに向って違う言葉で話しかけて笑う。 「ねえ、鳥の言葉みたいに聴えない?」みほが言う。 「二人で話すたびに、鳥が話しているみたいに聴えるの。ヴィクトリアもメイも最初、私たちの話も鳥みたいに聴えたんだって」 「言葉って鳥から真似して出来たんだろ」マウイが言う。  ケイコが「何でもいいのよね」と「サーティー・ワン」の店の中に入って行ってアイスクリームを買いに行く。メイが振り返り、鳥の言葉で一大事が起ったように言って、あわてて立ちあがる。その姿をみながら、みほが「言葉って鳥の声、真似したの?」と訊き返す。  マウイは一瞬、高台の上の夏芙蓉に群れていた金色の小鳥を思い出す。金色の小鳥の鳴き交わす高い澄んだ声を真似て、路地のオバらは病院が支給した寝巻を浴衣がわりにして、他所の土地では通じない訛とアクセントで、マウイが東京に着いた事、東京ですぐに女をみつけ、さらにマウイの肌の色とさして変らない二人のフィリピンから来た女の子と出喰したてんまつを語る。それは鳥の言葉としか言いようがなかった。甘い香りのする蜜のたれる夏芙蓉の木の下にいて、そこがどこであろうと自分らは人間ではなく鳥そのものだというように、ほとんど意味のない言葉を交わし合う。それは店がひけて外に出るのに仕事仲間を誘うみほやケイコと変らないし、同じ肌、同じ匂いの人間と合うと目を輝かせるヴィクトリアやメイと変らなかった。  同じような鳥の声で話しているだけでオバらは安堵し、どこに居ようと、そこが裏山で自然に他の町と区切られた蓮池跡の路地だというようにオバらは、すでにもう死んで立派な葬儀を出してもらい、白い小さな骨だけになって骨壺に納まり、浄泉寺の納骨棚に乗せられ、いずれ路地の者が路地の出の市会議員か成功した商店主らの企画する京都の本願寺もうでの折に運ばれるのを待っているオリュウノオバの霊を呼び出す。  マウイは路地を詳しく知らなかったが、高台で鳥の言葉で話を交わすオバらにはオリュウノオバの骨壺の行方は最大の関心事だった。というのも路地に近年になって他所から入り込んで来た者らが、もともと西本願寺に帰依していたのを嫌い、東本願寺系の寺の檀家になった。後から路地に来た者が成功し、土建請負師や市会議員を出すようになって、西か東かと時々争ったがオリュウノオバは「かまうかよ。どっちでも」と言った。 「骨になってしもたら、なにも分かるもんか。わし、ホトキさん好きやけど、もしそばへ行ても、手合わせる事せんと、人をどう思とるんな、なんでそんなに人につらいめをあわせるんな、と喰ってかかって礼如さんに、オリュウ、ここァ、天上じゃど、とたしなめられるんやろから、どこでもかまんの」オリュウノオバはうつらうつらしたまま考える。  固い物、柔らかい物、熱い物、冷たい物、辛い物、甘い物、歯の抜けた口の中でまだ処女のままのような桃色の舌でオリュウノオバは此の世の歓喜を味わって来た。今、オリュウノオバの透視する、中本の高貴にして澱み穢れた血が、女親の女陰をすべり出る時、一瞬にして肌の表に凝固し、中本七代に渡る仏の因果が焼け焦げた黒い肌のマサル、マウイが、口にするアイスクリームの美味は、オリュウノオバの味わった冷たい物の歓喜だった。  歓喜は実に容易に愉楽に変る。マウイはアイスクリーム一つで、気がイく。マウイは同じように「サーティー・ワン」のアイスクリームをほおばる四人の女の誰が、舌で溶けるアイスクリーム一つで、皮膚の一つ一つがよみがえり、目づまりした神経が愉楽にむかって駆け昇る状態になるのか、見つめた。  メイが「マニラの方が一つ、多いよ」とマウイに言う。 「マニラのエルミタにサーティー・ツー・フレイバーのアイスクリーム屋あるよ。ここ、だから、トウティ・フルーティ、ないね」 「トウティ・フルーティ、うまいね」  ヴィクトリアが言うと、みほが「おいしいね」と直す。 「おいしいアイスクリーム。マイフェヴァリット」ヴィクトリアが言うと、メイが「ミーツー」と合の手を入れる。 「中にね、フルーツがいっぱい。だから、あッ、パイナップル、あッ、マンゴー、あッ、オレンジって、楽しいね」  メイはそう言って、マウイの顔を見て笑をつくる。  マウイはメイが四人の女の内で一等感度がいいと見当をつけ、ウィンクをし、「東京って、トウティ・フルーティ・アイスクリーム置いてないの、それはこんなとこじゃない。ベッドで食べるんだって知ってるからだよ」と言う。メイは「ベッドで? インサイドザベッド?」と訊き返し、マウイがまたウィンクすると、冗談だと気づいて笑い入る。 「メイなんてイートトウマッチでしょ。バッド・イエロー・バナナ・フルーティ・アイスクリーム、お店だって外でだって食べてお金、マニラへ送ってるでしょ」ケイコが軽蔑した口調で言う。  ケイコはタケキを見る。 「この子たら、本当はソープランドへ行けばいいのね、私たち、手とか口でするだけだけど、メイなんか口はいやなんだって。私なんか下でやるより、口でする方がいいけど」 「口の中で発射させるんだろ」  タケキが訊くと「そう」とうなずく。 「だってうがいすればおしまいじゃない。くたびれないし。そりゃ、手とかあごとか、くたびれるわよ。でも全身じゃない。メイなんか下でやらせて、この間までプロテクションなしに中で出させていたんだから。マニラじゃないんだからって教えたの。プロテクションなしに中で出させたら、ファッションじゃないって、ずっと説教して、最近やっと使いはじめたの。何で使わなかったかって言うと、プロテクション買うお金がもったいなかったのね」 「ゴムなんかはめるの。俺、厭だな」  タケキが言い、互いに目で話を交わしているようにメイを見つめているマウイに「お前、どう?」と訊く。「アズシーメイ」マウイはつぶやく。「キタナイのな」タケキが言う。  マウイはメイから視線をはずし、タケキを見る。 「俺、何でもいいよ。女、気持ちよがってくれたら、どんなにでもしてやるよ。抜き身でさせてくれるというならそうするし、駄目だって言うなら、相手の言う通りにするし。だって、金持ってないだろ。ブレスレット売れば金入るけど、せっかく手に入れたんだから、黄金狂いの俺だから手放したくないし、だから女の言うまま、蜜、吸いつづけてろ、と言うなら、そうするよ。中で出さないで、外で出してって言うなら、そうするよ。だって、女イッた後に出すんだから、女、アレを体中に塗ってほしいの、居るのな。ボディ・シャンプーだよ。ボディ・マッサージだよ」  マウイはそう言って脇に坐ったケイコを自分の方に引き寄せ、耳に「イッた後、鎮まるまでマッサージして欲しいんだろ」とささやく。マウイの甘い息が耳に当るのが咄嗟の出来事だったようにケイコは「いや」と声を出し、急に上ずったように食べかけのアイスクリームの箱をテーブルの下に落とす。マウイはアイスクリームの箱を身を屈めてひろった。半勃起状態の性器が身を屈めると、まるであたりに漂う東京の夜の手ごたえのように腹に当った。マウイはケイコの前にアイスクリームを置き、後々にこじれないようにと思って、「俺たち遊ぶだけなんだ。全然金持ってないの」と言った。 「ほんとに何もないの。持ってるのアレだけ。だから、どんなブスの子だってディスコに連れてってくれるだけで、一日だって二日だって奉仕しちゃう。何にも考えないの。考えたって頭の中味しれてるから、おまかせしちゃう」 「いいのよ」  ケイコが言う。 「どうせお金なんか、バッド・イエロー・バナナ、口に咥えてればシャワーみたいに空から降ってくるんだから」  六人でサーティー・ワンを出て坂を降りた時、通りすがったカップルを見て、みほとケイコが同時に声を出し振り返り、「やっぱり週刊誌の書いた通りね」と言う。マウイが訊ねると、男の方はこのところ愛の破局で週刊誌をにぎわせている歌手だと言った。歌手の名前を知らないと言うと、ケイコは、「そうねェ、外人にまで浸透してないわねェ」と言う。メイが、「知ってるわ」と言う。「香港のコンサートで、ケガした人いるよ」ヴィクトリアが「あの人、私のお客ね」と言う。「ほんとォ」ケイコが訊くとヴィクトリアが、「あの人、私のバッド・イエロー・バナナね」と言う。  階段の下の受け付けでみほがまとめて六人分のチケットを買い、ディスコに入った。マウイはすぐそのディスコがただ大きいだけで、質の悪い客だけが集っていると分かった。奥に入っていこうとするケイコを止め、あきればすぐに他所へ移動出来るように入口付近に席を取った。飲み物を注文し、フロアに踊りに出る前にみだしなみを整えておこう、と便所へ行った。用を足して洗面所の前に立ち、手で縮れた髪を撫ぜつけていると、タケキが入ってくる。タケキはマウイの後に立ち、「男前だよな」と言い、マウイがきちんと型どおりTHの音を使ってサンキューと言い笑うと、「どの女選ぶんだよ」と訊く。 「一応、マウイって俺より齢下だけど俺の兄貴分だろ。先に決めといてくれよ」 「みな、俺とやりたがってる」マウイはウィンクする。 「分かってるよ。だけど俺姦りたいんだから。この便所へ連れ込んで立ったまま姦っちゃうよ。待てない。ベッドまで待てない」  タケキは後からマウイの尻に股間を擦りつけにくる。マウイは苦笑する。鏡を見る。フロアで踊るなら衝撃のデビューが、黒んぼの女たらしのマウイさまにふさわしい。ライティングを受けて、縮れた髪は、鉄の固さと黄金のきらめきを放った方がよい。マウイは水道の蛇口をひねり、流れ出た水を手に受け髪を撫ぜつける。顔も首も、はだけた胸も69のマスターにもらった黄金のブレスレットをつけた腕も、うっすらと汗をかき、草いきれと夏芙蓉のような甘さのまじった体臭が微かに漂っているように仕立てるのがよい。マウイは胸を水で濡らし、香油をつけるように腕になすりつけた。 「なあ、早く決めなよ」  タケキが鏡の中のマウイに言う。 「誰でも好きなのやっていいよ」  マウイが鏡の中の自分を見つめたまま言った時、少年が一人、用足しにドアを開けて入って来て、マウイの真後に立ったタケキに誤解したように、「あッ」と声を出し鏡の中のマウイを見つめたまま用足しはじめる。タケキが「じゃあ、俺の気に入ったの連れてくるな」とドアを押して外に出る。少年はマウイを見つめたままだった。  マウイは水で濡れそぼっていた。  少年が洗面台を使いたそうに立ち、口をもぐもぐさせ、意を決して、「エキスキューズミー」と声を掛けるのを聴いて、マウイは「どうぞ」と鏡の前の洗面台を明け渡し、ついでにドアを通して洩れ聴える音楽に合わせてステップを踏んだ。  少年は鏡に写ったマウイの姿を見て、「グレイト」と声を掛ける。  すぐタケキがみほを連れて入って来た。タケキはドアを閉めるなり、みほをドアに押しつけ、せいて抑えがきかないようにところかまわずキスをする。みほは了解してないようだった。顔をよじってタケキのキスからのがれ、マウイと眼が合うと、 「マウイ、アイニードユアヘルプ」  とつぶやく。タケキが右手でマウイにそばに来いという合図をする。マウイはそばに歩きかかり、鏡の前で少年が水を出しっぱなしにしたまま、三人の動きに目を見張っているのを知る。マウイは少年がどう誤解するのか想像しながら、タケキの尻に自分の股間がぴったり被さるように重ね、タケキの肩ごしにみほに顔を寄せ、双頭の人間のように舌を出し、唇をなめ、深々とキスをした。みほの動きが治ったのでタケキがみほのパンティーをおろし、自分のズボンのジッパーをおろす。タケキが、体でみほをドアに押しつけたままだったので、マウイとキスをしているみほは重っ苦しさに呻き、口の中に深く差し入れたマウイの舌を噛んだ。今度はマウイが呻き声を出し、タケキの背中から離れる。口を手で押え、振り向くと、便所の中に閉じ込められた形の少年が、一層驚いたように見る。 「舌、思いっきり噛まれちゃったよ」  マウイは言う。  少年の後にある洗面台の鏡に向かってマウイは舌を出し、濡れた赤いビロードのような自分の舌が、まるで人になど見せてはいけない秘密のもう一つの性器のように思えてじっと見つめる。手の甲で舌をぬぐってみた。血はついていなかった。少年がそのマウイを見ていた。 「血、出てるか?」  マウイは舌を見せて訊いた。少年は「分かんない」と首を振る。 「大事な舌なんだよ。女なんてさ、先で転がして、平っべったいここで」とマウイは舌をつかむ。 「べったり圧して、また転がしてやれば、それだけでイッちゃうよ。時々、唇で強く噛んで振ってやるのな。歯じゃないから強くたって痛くない。ハミング・バードなんかそれで歌い方、間違っちゃう。お父っつあんにも、ジイさんにも、習わないで、十ぐらいの時から自分で見つけて来たんだけど、知らないでやっちゃう先祖の血なのな。頭がセクシャルだからよ」 「頭がセックス?」  少年は訊き返す。マウイは笑う。 「そう。黒んぼって頭がミソ汁じゃないの。頭がセックス。だから女向きの奴隷。二時間、姦りつづけてって言えば、二時間一回も抜かないで姦りつづけるし、女が満足して、もうイッてって言えば、イッちゃう。アウトサイドででも、インサイドででも、女の思うとおり。だから舌って大事なんだ」 「セックスの事、あまり分かんない」  少年は言う。 「分かんないって、見りゃいいじゃないか」  マウイは少年の前から振り返って、みほの片足を曲げさせ、ズボンをひざまでずり下げてむき出しの尻を振っているタケキを見る。  イターイ。みほが呻く。タケキはみほの声にかまわず尻を振りつづける。 「セックスって、ブレイク・ダンスなんだよね」  マウイはタケキのせきにせいた尻の動きを見ながら、思いつきを言う。戸の向うからもれ出てくるディスコ音楽にあわせてタケキの尻の筋肉が動いているような気がした。マウイの後で少年が息を詰めるのが分かった。みほが感じはじめたように、声を変え、立ったままもどかしげにみもだえし、タケキの尻がそれに呼吸して単調なせいた動きではなく、衝きあげて廻しはじめた。  便所の中がぼうっと桃色に発光しはじめたようだった。みほのあげた足をさらに上にあげさせた時、女陰の中に半ば喰い込んでいるタケキの性器が見えた。マウイは体がむずむずしてくるのを感じた。マウイは勃起した。マウイはジッパーをおろし、自分の濡れて黒い性器を取り出し、唾をつけた掌でしごきながら、タケキとみほのそばに歩いた。みほは眼を閉じていたのでマウイがそばに寄っても気づかなかった。タケキの首に廻したみほの手をはずし、姦っている最中で自覚のないみほの掌をひろげ、マウイは性器を握らせた。タケキがマウイに気づき、険しい目でマウイを見た。 「いいじゃないか」マウイがつぶやくと、「邪魔するなって言うの」としゃがれ声を出す。 「俺だって姦りたいよ」 「後」  タケキは短く言い、マウイの性器を握ったみほの手を離そうと上にあげかかる。 「いいじゃないか」  マウイは圧しとどめる。 「駄目だ」  とタケキは強引にみほの手を上にあげ自分の首にまきつかせる。みほは今、自分だけのものだ、というように、タケキはまた激しく尻を振り、衝き上げにかかる。みほは声を出す、みほの手が離れると性器は所在ない。  マウイは悪戯を思いついた。タケキのむき出しの尻の穴に入れてやる。マウイはタケキの後に廻り、穴に性器を圧しあてた。69のマスターならさして努力もしないでマウイの性器はマスターの尻の穴にたどりついたが、みほの女陰に性器を突き立てている最中のタケキでは、どこが尻の穴か分からなかった。二度三度、腰を使い、「クソッ」とマウイはどなり、勃起した性器をズボンのジッパーから出したままターンし、少年が驚き入っているのを見て、性器を見せて歩く白痴が踊るようにディスコ音楽にあわせて踊ってみた。  マウイの後で尻を振りつづけていたタケキが、「アイムカミン」と英語であえぐ。「知らねえよ」マウイは言う。 「行きたきゃ、勝手にどこへでも行けってんだよ。お前なんか面白くねえよ。俺のブレイク・ダンスの黒んぼの先生なんか、姦りながら横目で俺を見て、俺がちょっとあきたという顔してたら、モーイイ、スワップしよう、オマンコなんかしかめっ面でせっかちにやるもんじゃないぜと言ったぜ」  マウイがつぶやくと、今、果てるというようにタケキの呻きが聴える。「クソッ」とマウイは一人、愉楽に取り残された悔しさを言う。 「なあ、俺、いい男だろ。黄金のブレスレットだってしてる。裸になったら、女なんかポーッとしちゃうぜ。チンポコだってさ、綺麗だしさ。チンポコにだって黄金のブレスレット似合うよ」  マウイは少年の前で性器をしごいてみせる。 「十歳の頃から女の穴ぼこで慈善事業して来て、そのうち、サルベーション・アーミーからこのチンポコ、勲章物だぜ。ビートルズのレットイットビーって曲知ってる? あの曲、俺のチンポコに天使がささやくって言う風に考えるの。そのまんまにしてたら、サルベーション・アーミーのオバンらが、勲章くれるから、その時は俺、パンツがわりにそれつけて、女の子とホテルに入ったら、パッとみせてやろうと思う」  少年はマウイの言葉を分からなかったらしかった。けげんな顔で性器をしごくマウイを見ていた。鏡にみほとタケキが抱き合って立っているのが写っていた。  ハミング・バードだよ。ハミング・バード。マウイは性器をしごきながら思った。少年の後姿に邪魔されているので性器をしごく自分の姿を見るには体をすこし脇にずらさなければならない。マウイは自分の姿を見たかったが、勃起した性器をしごく自分を見てしまえば、女の手にも触れてもらえずに孤独に本気でオナニーをしてしまう気がして体をずらさなかった。しごきつづけていると、体の中にフジナミの市の高台の小さな金色の小鳥の群れる夏芙蓉のように甘い蜜が皮膚の隅々から滲み出して溜まりはじめる気がする。  マウイは抱き合って、立ったまま性交した愉楽の残り香を味わっているような二人を見つめた。マウイは何故か分からないが、今、いちどきに、自分がフジナミの市のはるか向うの路地に、中本の血の一統として肌が焼け焦げたように黒く生れた宿命が吹き出したように悲しく、苦しかった。眼を開けていると、ドアから漏れ聴える音楽に刺激され、悲しみが吹き出てくるようで、眼を閉じた。  涙がまぶたににじんだ。甘い蜜は体の中に溜まりはじめた。マウイは夏芙蓉になったと思った。マウイは性器をしごいた。金色の小鳥が路地の裏山でそうだったように、フジナミの市の高台でそうだったように空から弧を描きながらマウイの今いるディスコの便所の中に飛び入ってくる。誰かの手がマウイの手に触れた。誰かの唇がマウイの性器に触れた。マウイは愉楽にうめいた。  オリュウノオバは老衰の身を床によこたえながら、夢なのかそれとも現なのか、実際にあった事なのかそれとも、礼如さんと一緒にいて四六時中、仏の事ばかり考える暮らしだったから、ほんのちょっと退屈ざましに味つけした結果の絵空事なのか、マウイがまだ路地でマサルとも名づけられていない頃、高貴にして穢れた中本の七代に渡る仏の因果の子として、焼け焦げたように黒い肌を持って産れ出た直後、すぐに親に棄てられたその子が不憫で、黒いトウガラシほどのその子の性器をなめた事を思い出した。  オリュウノオバはそれが将来、中本の血の男の常として、女に心ゆくまで愉楽を味わわせる仏が授けた徴だと知りながら、その徴が本来清浄なものであり、清浄なものから愉楽も痛苦も一切合財が生れ出ると思って、股の間の芽のようなもの、種のようなものに祈るような気持ちになったのだった。  ディスコのフロアに戻ってもマウイは踊る気がしなかった。マウイが自分で性器をしごいて、結局は三人の見ている前で射精した不機嫌を取りつくろうように、タケキは「音楽のセレクションが悪いよね」と言い、メイやヴィクトリアが踊りにフロアに出ようとするのを止め、 「もうすこし派手なところがマウイに合ってるよ。東京での衝撃のデビューだからな。腕にブレスレットしてるし、それから、ポケットの中にいっぱい宝石持ってる」と誘い水をうつ。マウイはそれが自分だけが女と性交をしたうしろめたさから来るタケキの機嫌取りだと分かったが、ブレスレット、宝石という言葉で気分が一気に晴れた。 「そうだ。忘れていた」  マウイは明るい声で言った。マウイは立ちあがってズボンのポケットに手を入れ、タケキが69のマスターの宝石箱の中から盗み出して来た指輪を取り出した。マウイは指輪の中からラビズリーだけを選んで残りをすばやくポケットに戻した。 「見せてよ」  ケイコが言った。 「駄目」  マウイは笑いながら答えた。 「金がなくなりゃ、一本ずつ売りとばしちゃうけど、しばらく俺はブレイク・ダンスとファックで食っていくから。何だってしちゃう。さっきだって便所でライブ・ショウやったんだから」  ラビズリーの指輪をはめ、汗のかわりにメイの持っていたローションを髪につけ、照明が当るとはえるように工夫し、いつでも踊り出せる形にしてから別なディスコへ行こうと外に出た。  店の先に便所の中に閉じ込められて二つのライブ・ショウを無理矢理見せられた形の少年が、マウイを待ち受けていた。少年はおどおどと近づき、話しかけようとする。 「ほら、ラビズリーの指輪。アフガニスタンの石だからな」  マウイは明るい声で言い、両脇に立ったメイとヴィクトリアを紹介する。 「お金持ちなんですか?」  少年は訊く。 「金?」マウイは訊き返す。 「金なんか女が払うよ。彼女らファッションで稼いでいるから」  マウイがそう言ってメイとヴィクトリアの背中に手を当てると、メイが、 「お金、駄目よ」  と口をとがらせて言う。 「わたし、フィリピンでお父さん、病気ね。きょうだい八人居る。だから口でだって、手でだって、下だって、私するんだから」 「メイ。外でそんな事、言っちゃ、ダメでしょ」  ケイコがたしなめる。メイは舌を出す。 「私、お金なんか、ないよ」  ヴィクトリアが言う。 「分かった」  マウイが二人の混乱を止めるように言うと、タケキの腕に腕を絡めていたみほが、「マーイイ」と外人が呼びかけるような声を出す。 「お金、わたし、出す。さっき、マーイイが涙、流してたの、見たもの。どうせ泡銭なんだからァ。好きでもない知らない人のを、おフェラしてさ、何にも信じられなくなってクスリなんかやって男買いするより、マーイイの涙見ただけで、マーイイもタケキもお客なんかに来る人とは全然違うってわかるもの」 「わたしだってお金、あるわよ」  ケイコが言う。 「そうなんですかァ」  少年は言う。 「何だよ?」  マウイは訊いた。 「いいんです。ただ金を持ってるのかどうか訊いてみたくって」 「持ってないよ」  マウイは言う。 「金なんか持って東京に遊びに来るはずがないだろ。黒んぼで、ブレイク・ダンサーの俺が。お前、変態じゃないの? 俺のチンポコまた見たいって言うの。それとも、俺のチンポコにはめるブレスレット買ってくれると言うの」 「ぼく、ジゴロやってるんです」  少年は言う。マウイは訊き返す。タケキが後から、「ジゴロだってよ」とマウイを突つく。 「じゃあ、俺と一緒じゃん」  マウイは言う。 「そうなんでしょう。そうだろうと思った」少年は急に明るい声を出す。 「ぼくアキラと言うんです。年齢は十八だけど、ぼく、これでも、ジゴロ会のスカウト役やらされているから、人を見る目があるんです」  アキラという少年がそう言うと、「ウリセンよォ」とケイコがみほにささやく。 「違いますよォ。ジゴロ会はちゃんとした身分の女性しか相手にしていません。だからフェローになると、徹底的にテクニックを教育されますし、会話だって、趣味だって教育されるんですから」 「俺にその会に入れって」  マウイがウィンクすると少年はウィンクを返し、「もしよかったら」と言う。 「会になんか入んなくったっていいわよ」ケイコが言う。  マウイはまたウィンクする。 「会に入れば、チンポコにはめるブレスレット買えるかな」  タケキが「ブレスレットよりパールはめた方がいいじゃないか」と合の手を入れる。マウイは性器にはめ込んだ真珠を想像する。真珠をはめる痛みに自分が到底耐えられそうにないと思い、身震いし、「真珠はタケキにまかせる。俺はブレスレット」と言い、少年が返事を待ち受けているのを無視したように歩き出す。  ディスコの中に入って、すぐにマウイは踊り出した。さして珍しい音楽ではなかったので一人特別なステップを踏むのがはばかられ、一緒に踊っているみほやケイコに合わせてステップを踏んでいると、またアキラという少年がマウイのそばに来て、「ジゴロ会に入りませんか?」と訊く。  黙ったまま断わるサインのつもりで一回転し、油をつけた髪をのばすふりをすると、「黒人でそんだけ日本語話せればステキですよ」と言う。 「黒んぼがいいって言うのか?」 「ステキですよ。一番ナウイですよ。結構、いい客筋ですから、そのあたりのファッションの女の子なんかつかんでいるより、よほど金になるんです。ぼく、ここに入る前、一家八人射ち殺して死のうかと思っていた」  アキラという少年はささやく。マウイは「嘘つけ」とつぶやく。アキラは不意に踊り止める。 「嘘なんか何で言う」  アキラは怒ったように言う。マウイはアキラの怒った声を耳にして急に腹立った。 「何で知らないやつの、重っ苦しい話聴かなくちゃいけないの?」  マウイがそう言うとアキラは一層怒ったようににらみつける。 「重っ苦しい話じゃないよ」  アキラはそう言い、マウイの腕をつかみ、むこうへ行こうという。腕をつかんだ手を振り払った時、タケキが寄って来て「どした?」と方言を使って訊く。マウイはタケキの介入を避けるようにアキラにむこうへ行こうと合図する。  マウイは誤解していた。アキラの言ったむこうは喧嘩で決着つける為の人気のない外ではなくディスコのむこうのバーだった。ソファにマウイを坐らせ、アキラはボーイを呼び、マウイに断ってジンを注文した。 「何か、話したいんだ」  アキラは言った。 「あんたを俺と同じ道に引っぱり込みたい気する。ジゴロ会の事、さっき言ったけど、やっぱりどう考えたってトルコ・ボーイだよ。あの女の子らと変らない。あの女の子らが厭な男の客相手にするのなら、俺なんか、厭な腐ったアジのひらきのようなババアが相手だよ。臭い腐ったオマンコなめさせられてさ。いつも考えてるよ。首飾りとかイヤリングとか指輪とか引きちぎって、ひきちぎれないならぶったぎってでもして取ってやりたい。どでんとマグロのように寝そべって鼻だけ鳴らしてるの見たら、ピストルでぶち殺してやりたくなる」 「女だろ?」 「女。だから腹が立つ。俺、十八だよ。まだ童貞だって不思議じゃないんだよ。それが一日に四発やらされる時あるんだから。女ってしつこいし、疑りぶかいから、自分の日じゃなくっても、俺が他の客と寝てると分かると気まぐれのふりしていきなりやってくる。常宿のホテル替えたって、すぐさがし出して、ドアをドンドンたたく。電話をかけまくる。オーケー、オーケー、後でファックしに行ってやる。まだ十八だし、三発出したって勃起角度四十五度だからなって言って、テレフォン・セックスさ。奥さん、自分で触っちゃ駄目ですよ。そこはぼくのものでしょ。毛をくるくると巻きつけるとぼくの指が燃えてしまいそう。電話かけながら、別の奥さんの愛撫に迫められている。受話器をおさえ、クソったれ、とどなる。別な奥さんは喜ぶってわけ。ぼくはジゴロじゃなくって、トイだよ」 「ババアは厭だな」  マウイは言う。まだファッション・パーラーの女の方がよい。 「あんたをトイにしてやりたいと思ったんだ」  アキラは言う。 「ぼくと同じになったら、あんたならどうするだろうって思ったんだ。ハンサムだし、スタイルいいし、パワーがありそうだし、暗いところ何もないって感じだし。あんた口説いてジゴロ会に連れていきゃ、会長は大喜びするだろうし。ぼくなんか会長が暴走族の頭やってた頃の子飼いの手下だから」  アキラは物に憑かれたように言う。 「金は会長がピンハネするけどびっくりするほど入ってくるよ。これは暗い話みたいだけど、暗い話じゃないんだ。だから初対面のあんたに言うけど、うちの八人はぼく一人の稼ぎでもってるのね。ぼくはお母さんの生んだ一人息子。お母さんも昔、コールガールしてた。コールガールしてた時に知り合った男との子がぼくで、その男はすぐ死んじゃった。お母さん、それから六度結婚した。正式には一度もないけど、お母さん、男と一緒に暮らしている間はコールガールやめてる。ぼくはお母さんのコールガール仲間の間で大きくなったの。コールガールに行く時、ぼくも一緒に行く。ホテルのツウィンの部屋でお母さんと寝てて、夜、眼がさめるとお母さん、いない。お母さん、隣の部屋で、アヘアヘやってるんだ。そのお母さん、もう四十五だよ。ぼくが十六の頃に彼氏と一緒にサラ金で借金しちゃって、何でか分からないけど彼氏の子供とか、子供の旦那とかで合計八人いる。サラ金の借金返済が月二百万。お母さんたち、八人は金が残るとすぐ競輪とかオートだから、ぼくがトイになってかせいだ金、まるっきりなくなっちゃう」 「おまえもハミング・バードの来る蜜の木だからじゃないの?」 「蜂蜜みたいだって、ババアは言うよ。ぼくのは甘いって。女もぼくの蜂蜜にたかっているし、お母さんらもぼくの蜂蜜にたかっている。この間、ぼくは拳銃買った。弾丸二十発つき。誰を射つのか分からない。お母さんを射ちたくないし、それならぼくなのか、と思うけど」 「拳銃持ってんの」  マウイは話があまりに込み入っているのでボンヤリしたまま訊く。 「ぼくの部屋に来たなら見せてやる。ババアが居るけど。あんた見たらたぶん、猛獣みたいに飛びかかっていくだろうけど。ぼくからあんたに乗り換えて、ぼくは拳銃一丁と弾丸とそれから赤ん坊みたいな服と手切れ金もらってお払い箱になるだろうけど」 「いやだよ、ババアは」マウイは言う。 「その人ならチンポコのブレスレット買ってくれるかもしれない」 「冗談言ったんだよ」 「でもカッコいいよ」 「冗談なんだよ」 「カッコいいよ」  アキラの眼が笑っていた。マウイはその眼にウィンクし、フロアの方から歩いて来るタケキや女の一群を教え、 「あいつらのオマンコにあきて、金なくなったら、蜂蜜吸い取られる覚悟で拳銃見にゆくよ。コケインあるというのなら、いまからでも行くけど」  アキラは「本当?」と目を輝かせる。 「あるの?」  マウイは勢い込んで訊く。 「ないけど、ロング・ハリーに訊けば手に入る。さっき、そこにいた」  アキラは思い出したと言うように立ちあがる。 「ロング・ハリーって?」  マウイが訊くと、耳元に口を寄せ、 「でっかいチンポコだけどインポだからってジゴロ会から首になったミクスチャアだよ。あんたもミクスチャアだろ?」 「でもインポじゃねぇ」  マウイが言うと、「知ってるよ」と肩をたたく。  アキラは周囲を見廻す。丁度、タケキがやってきた方を見て、「あっちの方だな」とつぶやき、「ロング・ハリーをさがして交渉してくるからな」と言い置き、最初のおどおどした態度とはまるで違うイキのよいチンピラのような姿で、人ごみの方に歩いてゆく。  コークと呼ぼうコカ・コーラとアキラのうたった声が届く。汗を顔面にかいたタケキが、「まさかジゴロ会に入るの、OKしたんじゃないだろうな」とからかい、四人の女の子らに席を一つずつ作ってやりはじめた時、アキラの向った人ごみの方で、耳に轟く拳銃のもののような音が立ち、ワーッと声が上った。マウイは席からはじかれるように立ち上った。  マウイは騒ぎのする方を見つめているとタケキがマウイの隣に坐り、「鉄砲の音じゃないよ」と言い、席に坐れと腕を引く。 「あんな音じゃないよ。外で撃ちゃあ、もっと乾いてるし、こんな音響効果考えられたとこだったら、もっと腹にこたえるくらいに響く」  マウイはタケキの言葉を聴きながら、コケインの売人ハリーをさがしに行ったジゴロ会のアキラが拳銃で撃たれて苦しんでいる姿を想像した。それはマウイが現実に眼にしたというより、フジナミの市の映画館で視たヤクザ映画の俳優の演技だったが、性器一本で八人を養っているアキラの話の結末には似合いの姿のように思えた。  またバーンと音がし、どよめきが起る。その音の方からアキラが歩いてきた。マウイはアキラを見つけて、席に坐った。 「爆竹だよ。ほらチャイニーズ・ニュー・イヤーの時、チャイナ・タウンであいつらがやるやつ」  タケキが言う。タケキの隣のみほと話しているメイが、「わたし、見たヨ」と言う。 「この間チャイニーズ・ニュー・イヤーで、いっぱい鳴らした」 「ディスコで鳴らすの、バカよ」  メイの言葉にケイコが相槌をうつ。 「東京ってバカが多いよな」  タケキがケイコに相槌をうつ。マウイは弟分のタケキに気圧されているのに気づく。マウイは席に坐った四人の女の子の顔を見、いいんだ、とひとりごちた。ファッション・パーラーの女二人とフィリピンの女二人、皆タケキがマウイの心の間隙をぬってものにしたとしても、新たにハミング・バードを見つけるから一向にかまわない。コークと呼ぼうコカ・コーラ、と歌いながら戻ってきて、自分を見つめているマウイを見てウィンクするアキラを見て、マウイは何故か、ほら一羽、オスのハミング・バードが来たよ、と思った。オスのハミング・バードは、「もうすぐ来るって」と言い、マウイの脇に立つ。アキラはマウイの隣のタケキに「椅子ひとつ、ずってくんない?」と言う。タケキはアキラに負目があるように素直にひとつむこうにずれようとみほに伝える。椅子をひとつずつずらしアキラが坐りかかろうとした時、フロアの方から白人がやってくる。アキラは、「来たじゃない」と降ろしかかった腰を上げ、白人に手を差しのべる。 「入口でアキラが捜してるって聴いたから、入って来たよ」  白人はアキラに握手をしながら言う。 「アキラが来てるって言わなかったら、ここ不良の集まりだから、寄らないんだけど」 「自分が不良じゃないから」  アキラが切り返すとニヤリと笑い、白人は、「いまもう六本木に来ないね。仕事でちょっとだけ寄って、すぐ69へ行くから」と言う。タケキが、「シックス・ナイン?」とつぶやく。 「そう、69、新宿のレゲエの店。時々、僕らの方は新しいメンバー補充の為に、69へ行ってジゴロ狩りするけど。沢山、外人集まってるから、その中からマスクの良いの狩り出してジゴロ会に入れちまう」 「69ってフジナミの市のディスコだろ? マウイのアレだろ?」  タケキはマウイに訊く。マウイはタケキの気持ちが読めたので鼻白んだ。タケキは厭な事をマウイに圧しつけ、女との遊びは自分だけのものにしようとしている。マウイはその不満の気持ちを伝えようとして、 「69って聴くだけでナーバスになっちゃうよ」  と言うと、何を勘違いしたのか、アキラが、 「俺もそう。69って聴くだけで舌がよれてきちゃう」  と言う。白人が苦笑し、 「レゲエの店だから」  とつぶやく。 「フジナミの市のディスコ」タケキが言う。 「俺ら二人、そこから東京へ来て、香港に行くし、マニラに行くし、マウイの故郷のダバオに行くし、ボルネオ、ジャカルタ、ニューギニア、それに俺の生れ故郷の木曜島に行く。何の船に乗るか分からない。メイやヴィクトリアの故郷のマニラへ行くの。イエロー・バナナ・ボートだろうけどな」 「木曜島って言うの、オーストラリア?」  アキラがタケキに訊く。タケキがうなずく。 「オーストラリア人?」 「分かんない」タケキが首を振る。 「向うで生れて小さい頃、日本に来たから、行って確かめてみないと分かんない。母親が魚で父親が人間だったってずっと思ってたけど、向うで生れて向うの子供だったけど、紀州のお婆さんに引き取られて育ったけど」 「魚と人間の混血《メステイーソ》」  メイが驚いたように言い、あわてて口をおさえる。ケイコが「バカねェ」とみほに相槌を求めるように見て言う。 「俺は黒んぼだから黒と黄色の混血《メステイーソ》だってはっきりしてるよ。魚と人間を掛けたらあんまり普通と変んない人間の混血《メステイーソ》出来るけど。ただこいつ、オマンコしたくて興奮すると、背中とか尻にちょっと背ビレが立つんだよね。さっき立ったままみほと姦った時、後から触ったら、勃起した背ビレが棘みたいに出てるの。その点、俺なんか、黒んぼとか土人でも、人間だったから、普通だよ。黒に黄色を掛けたら黒。白に黒を掛けても黒」  マウイが言うと、アキラが一人立ったままの白人を紹介し忘れていたのを思い出したように、 「こいつ、象のお母さんとオーストラリア人のお父さんとの混血《メステイーソ》で、象のお母さんの鼻がチンポコになっちゃって、長いダランとしたチンポコ持ったロング・ハリーって仇名のハートフォード」  と言う。マウイは坐ったまま頭を下げ、 「黒んぼの、車泥棒の名人のマウイって言う」  とあいさつし、ひょっとするとコケインの良物を廻してくれるかもしれないと思って一人ずつ紹介した。タケキは魚と人間の混血。ファッション・パーラーのみほは、タツノオトシゴとの混血。立ったまま何でもやる。ケイコは熱帯魚との混血。口の中で受精し、卵をかえす。メイとヴィクトリアはハミング・バードとマウイと同じ土人との混血。イエロー・バナナをせっせと食えば黄色くなるかもしれないと心配している。  マウイの冗談にメイとヴィクトリアが「違うよ」と非を鳴らした。マウイには意味不明な鳥のような声で二人は話し、結論がついたというように、セブとマニラの混血《メステイーソ》で、セブの方はスペインの混血《メステイーソ》だと言い出す。マウイは分かった、分かった、とうなずいて二人をなだめ、アキラに勧められるまま席を立って隣のテーブルに移り、コケインを欲しいのなら69へ行って、そこの従業員にロング・ハリーの預り物を取りに来たと言えば手に入る、と言った。ロング・ハリーはさらに内緒の事だとマウイの耳に口を寄せ、ヘロインが欲しいのなら今晩、アキラと一緒に六本木中のディスコをハシゴして踊っている最中に手に入れてやる、と言う。 「ヘロイン」  マウイはぬうっとした感触の白人のロング・ハリーから身を引き、身震いしながら、言う。 「ちゃんとした上物だよ」  アキラが保証するというようにマウイを見つめる。 「注射だろ?」  マウイが訊くと、ロング・ハリーはうなずく。 「俺の体に違う物、入っていくの?」  マウイは言う。マウイは自分の声が自分の物ではなく、マウイを見つめ続ける物が天から声を掛けて来たように思い、また身震いする。 「注射って、感化院の頃から怖かったよ。俺の皮膚、人より黒いじゃない。みんな泥んこになっていても石鹸つけて洗ってこすったら、泥だって垢だって落ちちゃったけど、俺の黒いのは、ママレモンでも落ちなかったもの。ハイパワーだって落ちなかったもの。一人、炊事室にしのび込んで、ごしごしこすったんだから。結局、教官に見つかったけどね。だからそんな黒い皮膚に注射されたら、針の穴から空気もれちゃう気がした。風船に針さしたら、バーンと割れるだろ、あんな感じ」 「空気なんかもれないよ」  アキラが言う。マウイはそんな事を言っていないと思いながら、アキラに、「うん、まあね」と相槌をうつ。  オリュウノオバは、高貴にして澱んだ中本の血を持つマウイが何を言いたいのか、分かっていた。若さの盛りで、まるで劇の昂りの頂点で突然幕が引かれるように若死にした中本の一統の若衆がすべてそうだったように、マウイも中本の血が招き寄せるかげりを、本能として気づいていたのだ。オリュウノオバはヘロインを勧めるアキラと白人を、仏の因果を伝える二人の仏の弟子なのだ、と思った。仏は酷かった。マウイはその仏の酷さを本能として感じとめ、女であろうと男であろうと、目にすれば淫蕩の血がわき立つような暗い奈落に引きずり込むような男振りの顔をくもらせ、傷一つない黒い無垢の肌に一つの針を刺す事が、身の破滅のはじまりだと予知している。マウイは自分の黒い無駄な肉ひとつない腕を見る。幻のように針が肌に刺さり、そこから水に溶けたヘロインが血管内に流れ込むのを想像する。 「気持ちいいって。何だってぶっとんじゃうよ」  アキラがささやく。マウイは身震いする。 「金の事、心配してるのか」  アキラが訊く。マウイはまるですでにヘロインをやったようにけだるげに首を振る。フジナミの市の69のマスターからタケキが盗んで来た指輪がポケットにある。金なんかじゃないよ。マウイは心の中でつぶやく。ロング・ハリーがまたマウイの耳元に口を寄せ、 「金なんかどうにかしてやるよ。今晩、あいつらまいてアキラとディスコで踊ってればいいよ」  とささやく。 「一人で厭だったら、アキラと俺が一緒に射ってもいい。気持ちいいよ。禁断の果実ってこの事だよ。オールド・テストメントで、蛇がアダムとイブに禁断の果実を食えって勧めるだろ。今日は俺たち蛇だよ。バクーニンは蛇が解放者だと言ってるよ。素敵じゃないか。白の俺なんか、黒に音楽とかダンスとか、スポーツとか、絶対かないっこないって知ってるよ。黒って素敵だぜ。黒のジャンキーって、光ってるよ」  マウイは身震いする。 「まァね」  マウイは言って顔を上げる。ロング・ハリーはそのマウイを見つめる。 「アキラと組んでちょっとだけ女の御用きいてやれば、ヘロイン射つ金ぐらいすぐだから」  マウイは決心した。新宿にあるレゲエの店69へ行ってコケインを受け取り、アキラと一晩つきあってヘロインをロング・ハリーから受け取り、射つ。それでディスコをいったん出ようと皆に勧めた。コケインの事もヘロインの事も言わなかったので、タケキは隣のテーブルで内緒話をし終え、すぐディスコを出ようと言うマウイにけげんな顔を向けた。  ディスコのフロアを通り、ごった返す通路を抜け、外に出てタケキは、 「何かくしてるんだよ」  とマウイに訊いた。 「何もかくしてない。おまえどうせ、女らと一緒に行くんだろ。俺はあいつらと廻る」  マウイが断定口調で言うと、タケキはかたわらに居たみほを突きとばすようにして払い、 「何、言ってるんだ、このヤロー」  とマウイの胸倉をつかみに来る。マウイはタケキの気の短さに苦笑しながら、素早く一歩、後にさがる。 「さっき東京に着いたばかりじゃないか。東京に着いたら俺を捨てるのか」 「お前、女と遊ぶだろ? 俺はこいつらとつるんでこれから明日まですごす。どうせ女ひっかけてもぐり込むけど。明日、このディスコで会えばいいじゃないか」 「マスターに仕込まれて、それぞれのオカマに口説かれたのか?」  タケキが言うと、アキラが口をとんがらせ、「オカマじゃないよ」と強弁する。 「オカマだよ。すぐ分かるよ」 「ジゴロ」 「ジゴロじゃねえよ。オカマだよ。腐ったオマンコにばっかり突込んで何がジゴロだよ」 「いいですよ。オカマですよ。けどトイレの中で立ったまま見境いなしにやりません。僕らプロですから、腐ったオマンコ相手にしてますけど、きちんとベッドの中でします」 「立ったままやって何が悪いんだ?」  今度はタケキはアキラの胸倉をつかみにゆく。アキラもマウイのように素早く一歩、後にさがってかわす。 「僕、ピストル持ってます」アキラが言う。 「腐った淋病のピストルだろ?」  アキラは薄笑いを浮かべ、すぐ消し、真顔になってタケキをみつめる。 「お前らの持っているピストルなんてのは、イエロー・バナナより性悪の淋菌の膿を出すしか能のないピストルだろ」  アキラは首を傾げる。怒りが爆発寸前の時にそんな風に首を傾げる少年が感化院にいたのを思い出し、マウイはアキラが本当に怒ったと思った。 「僕らこんな商売だから本当にピストル持っているんです。撃ちますよ。いつでも撃てるように弾こめているんですから」  白人のロング・ハリーがアキラに、ノーと声を出して止める。 「本当に持ってるんですから、撃ちますよ」 「アキラ・ノー」  ロング・ハリーが言う。アキラは体を震わせる。ロング・ハリーは、ノー、と言い続ける。アキラはタケキを見つめる。マウイが、 「分かったよ、一緒におまえと居る」  と言うと、タケキがマウイを見る。その視線の動き一つで、たがが一つはずれてしまったようにアキラが涙を流す。ロング・ハリーが後から肩をたたく。涙が止まらない。 「さっきマウイに話したんだ。親とかまとわりつくの、全部皆殺しにするか、自分で死ぬ為に、ピストル持ってる。マウイに部屋に置いてるって言ったけど、本当はどこでだって死ねるように持ってるよ。ヤクザの地廻りから買ったんだから。死んだってどうって事ないよ。いつでも撃ち殺してやるよ。いつでも死んでやるよ」  マウイはタケキの方に歩きかかり、心変りして繁華街の交差点の方に歩き出した。タケキがマウイの後に従いてくる。タケキが歩き出すと女ら四人が従いてくる。 「どこへ行くんだよ」  タケキが後から訊く。 「どこへ行っちゃうの」  タケキの声の後からみほの声がする。マウイは黙り込んだまましばらく歩き、信号の手前に来て、振り返り、タケキの後から従いて来るハミング・バードたる女らに、 「今晩、どうするか分からないから、従いて来ないでくれ。もうここで帰ってくれる」  と言った。 「どこへ行っちゃうの?」  みほが訊く。 「どこか分からない。さっき東京へ着いたばかりだから、俺たち、何にも相談していない。これから二人で相談してから、どうせどこかにもぐり込むけど、俺なんかウォークマン一つあれば生きていけるから。いま、皆と遊ぶ雰囲気じゃないんだ」  マウイは涙を流したアキラの為に言っておいてやろうと決心する。 「あいつ、本当にピストル持ってる。ジゴロやって親とか親戚とかわけのわかんないの入れて八人食べさしてるんだって。他の奴、誰も働かない。あいつ、ピストル持ってんの。その八人撃ち殺すか、自分一人死ぬか、どっちか分かんないけど、どっちかやるって。ピストル見せなかったから、皆は信用しないかもしれないけど、マウイだけは直感で、あいつピストル持ってると信じてる。タケキ、撃ち殺そうと本気で思ってたよ。タケキが侮辱したから」 「撃てるものか。オカマじゃないか」  タケキが言う。マウイは苦笑する。 「あいつ、撃つよ」 「撃てないよ」  タケキが言い張るのでマウイはこれ以上争いたくないと思い、ウォークマンのスイッチを入れ、ヘッドホーンのコードを取り出し、耳につけた。音が幕を下ろすように遮断する。マウイはタケキに背をむけ、信号に向って歩き出す。  朝、マウイはベンチの上で目覚めた。タケキはとっくに起きて公園の水飲み場の横の鉄棒にぶら下がり、蹴上りを繰り返していた。タケキと話もせず、眠くなったからたまたまあった公園のベンチに、ウォークマンをかけたまま横になり、いつの間にか眠ったのだった。  ハミング・バードの女の子らはとっくに居なくなっていた。一晩中掛けっぱなしだったので、電池が切れかかり、波音のように雑音がまじっていた。音楽は歪みに歪み、音が割れた。歪み割れた音の向うの波音が妙に懐かしくて、マウイはそのままにして、鉄棒にぶら下がったタケキのずり落ちかかったズボンから見える白い肌を見つめていた。  タケキはマウイが目覚めたのに気づいていなかった。水飲み場で顔を洗おうとして、まずウォークマンのスイッチを切って耳からヘッドホーンをはずし、立ちあがった。タケキがマウイに気づいて「おはよう」と片手をはずして振り、飛び下りた。マウイは水を手に受け、顔を洗おうとして感化院の頃、歯みがき粉まで持ち出して黒い色をこすり落そうとしたのを思い出し、止めた。子供の頃の記憶は苦すぎた。マウイとタケキはそのまま公園を出て歩き出し、早朝から営業している喫茶店に向った。  道路の真中に雀が死んでいた。マウイが、「ひき殺されたんだ」と言うと、タケキは腕を振り廻しながら、雀などに興味を持たないように「毎朝鉄棒やっていると腕の筋肉が発達するだろうな」と答える。 「青っちろいやつばかり踊りに来てるから、マッチョマンになってディスコへ行くと、相当目立つだろうな」 「東京の奴、そんな事で関心持たないよ。踊りがうまけりゃ、別だけど」  マウイはタケキが昨夜の事にこだわっているのを知る。マウイは誤解を避ける為、タケキに言っておいてやろうと思った。 「昨日、あいつらコケインとヘロイン、俺の為に手に入れてくれると言っていたんだ。コケインもヘロインもお前は知らないだろうけれど。コケインってのはやった事あるけど、フジナミの市じゃ手に入んない。東京だったら簡単だな。ヘロインはフジナミの市でも手に入る。地廻りの幹部なんかやっていたよ。俺はヘロインは知らない。コケインは鼻から吸う。粘膜で効いちゃう。たぶんあいつら、ジゴロなんて言ってるけど本当はコケインとかヘロインの売人なんだ。ジゴロだとしても、金持ちの女にヘロイン射ってやってフリー・マッサージかなんかやってやる役してんのな」 「ヘロインって『ディア・ハンター』の?」  マウイは一瞬わからない。「なんだっけ?」と訊くと、 「ベトナム人にとっつかまったアメリカ人がヘロイン中毒にされて、ロシアン・ルーレットで賭けの道具にされる」  と説明する。マウイは一瞬、アキラがピストルを持っていたのを思い出し、二人が黒んぼのマウイにヘロインを射ち、ジゴロ会の会員の民族差別者《レイシスト》の金持ちの女の前に引き出し、ロシアン・ルーレットをさせるつもりだったような気がする。八人を一度に射殺する事が出来るというから、八連発のピストルの中に、弾が一発だけ込められている。賭けは丁か半か。その一発かそうでないか。ひきがねを引いて一発に当るのは八分の一の確率。賭けの金の配当は複雑になる。その一発、丁として賭けて勝っても、戦争のサイゴンでなく、平和な東京の事だから、マウイの死体処理金として黒人ぎらいの民族差別者《レイシスト》は配当金以上に金を出さなくてはならない。  いずれにしろ、マウイには厭な想像だった。マウイのような根っからの音楽好き、根っからの踊り好きの美丈夫の若衆らが山で木を切る音が、スカーン、スカーンと響き、月夜、ヤシの葉が月明りに浮かび上がった頃、女らが水浴びする胸に泌みいるような光景だったという南洋の楽土ダバオに着く前に、東京でロシアン・ルーレットの道具にされてはたまらない。  タケキが顔を上げ、「おッ」と声を出し立ちどまった。マウイがタケキの見ている方を見ると、遠くのビルのシャッターの前に男らが三人、鉄パイプ状のものを持って立ち、それを振り下ろしている。音がドス、ドスと響く。タケキが、 「あいつら誰かを殴ってる」  と言い、走り出そうとする。その時、オートバイが二台、マウイの後方から現われ、鉄パイプをふるう男らの方に走ってゆく。  タケキは走り止めた。オートバイは警告を発するように手前でクラクションを鳴らし出した。男らは振り返り近づいてくるオートバイに気づき、逃げ出そうとする。どこからか笛の音が響いた。三人の男らは笛の音に指示されたように方向転換をはかり、ビルの隙間に入って姿を消してしまう。血だらけの男が路地に倒れていた。オートバイ二台はその男のすぐそばに止まり、乗っていた少年二人が飛びおりる。 「ひどいなァ」という少年の声が、歩いて近寄るマウイの耳に届いた。 「なんだよ。バカヤロウ。それでも人間かァ」  少年が憤慨に耐えないというようにどなるのが聴えた。少年らはあたりを見廻し、近寄って来るマウイとタケキを見つめると、 「自警団のエンジェルですがァ、善良な市民がやられています。協力して下さい」  とまるで丸暗記したような言葉で言った。遠目にも路上に倒れた男の血が広がっているのが分かる。あきらかに天然のものと分かる縮れ髪の少年が、また、 「自警団のエンジェルです。協力して下さい」  と声を張り上げ、早く来いと手招きする。  縮れ髪の少年は声を聴きつけて近寄ってくるマウイとタケキを知って、一瞬、計算違いだったというような顔をし、「日本人じゃないじゃん」と声を出した。道路を横切ってくる二人を待ってても何の役にも立ちそうにもない、と振り返り、同じような齢格好の少年に、「一一〇番するだけでいいよね」と言う。 「どうしたんだよ」  少年のオートバイの脇に来て、タケキが訊いた。 「ケンカ?」  マウイが訊くと、少年は黒人が日本語をしゃべるので驚いたというように視て、 「こいつら、キタナイ血、流してさ」  と足元に血の吹き出す頭を抱かえて横たわる男をあごで差す。 「一一〇番掛けて、パトカー来るまで、ここにいるの?」  男の頭から流れ出す血を見て顔をしかめていた少年が縮れ髪の少年に訊く。縮れ髪の少年が、 「いないよ」  と間髪を入れずに声を出す。 「正義の味方のエンジェルだって暇じゃないもの。こいつら勝手に殺し合ってるの、たまたま見つけて救けただけだもの。パトカーなんか来ると、どうせ目撃したんだからって、警察につき合わされる。みんな、見た? こいつ、鉄パイプで滅多打ちされるの?」  縮れ毛の少年はタケキに訊く。タケキは曖昧にうなずく。 「見たよ。向うから見えてた」  マウイが言うと、 「あッ。キミ、外人だから、こんなとこ、見ないのな」  と言い出す。 「キミが見たって言っても、パトカーのオマワリ、信用しない。そっちのが見たと言うなら、じゃあ、キミ、署まで来て、調書取るのに協力してくれないかって言うけど。ディスコからの帰りなの? 俺たち、そっちが日本人の二人連れだと思ったから呼んだけど、なんかトッポそうな黒人じゃない。ちょっと警察にこの死にかかってるオッサンの為につき合わせるの無理だ」  マウイは横たわった男が血の出る頭を抱えて呻くのを見ながら、「厭だな」と独りごちる。血は男の頭から流れ出し、まるでくま取りをしたような形でアスファルトの舗道の上に溜っている。血を見つづけていると、まるで自分の体から洩れ出したような不安を感じる。 「草の汁みたいに流れてる」  マウイは顔をしかめながらつぶやく。 「そうだよね」  縮れ髪の少年が相槌をうつ。 「なんか、こいつらの血って、草の汁みたいに沢山流れるんだよね。これで三回目だよ。こいつら殺し合ってるのに出喰わしたの」 「三回もこんなの、見たのか?」  タケキが訊く。 「四回じゃない?」  オートバイにまたがったままの少年が言う。 「四回かな? 三回だと思うけど。どっちでもいいけど、キタナイよね。呻いて、血、流して」  マウイは血溜りがまるで目の錯覚のように徐々に広がっているのに見とれながら、アキラやロング・ハリーと一緒にヘロインをやったら、こんな破目になっていたかもしれないと思い身震いする。ロシアン・ルーレットで頭から血を流さなくとも、針を射して血管にヘロインを流し込んだ微細な傷口から、ヘロインのもたらす快楽の波と共に、マウイの体を駆け巡っていた血が丸い玉の滴となってしたたり、そのうち堰を切ったように流れ出す。血は音楽とブレイク・ダンスと性の甘い味がする。マウイはまた身震いする。その身震いが朝の寒気のせいだったような気がする。  一一〇番に電話を掛けに行った少年が走って戻ってくると、縮れ髪の少年は自分のオートバイにまたがった。すぐにオートバイにまたがったままの少年がエンジンをかけた。縮れ髪の少年がエンジンを掛け、空ぶかししてから、急に血を流す男のそばに取り残されるマウイとタケキが被る迷惑を察したように、「一緒に行くなら、乗んなよ」と後の座席をあごで差す。 「行こう」とタケキは間髪を入れずに言った。 「ここはフジナミの市じゃないからな」  タケキはそう言ってマウイを縮れ髪の少年の方に乗れ、と差図し、電話を掛けて来た少年のオートバイにまたがる。  二台のオートバイは赤信号でも停らなかった。三回、交差点で車と接触しかかったが、縮れ髪の少年も他の一人もハンドルでよけ、その度に声を立てて笑い、改造したクラクションを鳴らした。走りながら縮れ髪の少年は後にぴったり体をくっつけて自分の体を抱えて坐っているのが黒い肌のマウイだった事に気づいたように、 「日本語、上手だよね」  と言った。マウイの耳に言葉は届いたが、どう答えてよいか分からず、 「あいつ、死ぬんだよな」  とまるで見当はずれの事を言った。マウイの後から血まみれの男が追ってきそうな気がした。 「昨日、東京に来たばかりだから、どうして殺し合ってるのか、全然分かんない。殺し合うって、殺すのが好きなんだよね」 「分かんないよ」  縮れ髪の少年は言う。 「俺らエンジェルだからさ」  縮れ髪の少年は国立競技場の裏手に当る二十四時間営業のドライブ・インの駐車場に入ってオートバイを止めた。  少年らのものと同じ型のオートバイが十台ほど停っていた。マウイがオートバイを降りると、ドライブ・インの中から出てきた少年が、「ボク、キミを知ってるよ」と話しかけてくる。マウイは覚えがなかった。とまどうと、 「随分前にディスコのコンテストに出たじゃない」と言う。 「あの全然、駄目だった時?」 「駄目じゃなかった。だからトロフィーもらったでしょ」  マウイは一瞬、随分前に東京に来た時、ディスコのコンテストで二位になったのを長い事、自分だけ駄目だったと思っていた、と気づいて、「そんなによかったのかな」と口ごもる。縮れ髪の少年が目を輝やかせる。 「踊りうまいの?」  縮れ髪の少年が訊く。マウイは気分が明るくなる。 「まあね」  マウイは得意げに言う。 「皆知ってると思うけど、黒んぼってそんな事ぐらいしかないじゃない。銀行に勤めるのだって駄目だし、銀行が勤めさせてやるって言ったって、どうせ金勘定なんかハチャメチャだから、本人だって苦しいし。ダンサーが一番向いてるって思ったんだ。プロのダンサー。昔なりたかったの。だから東京へ来て、ディスコのコンテストなんかに出たけど、プロってきついんだよね。契約したらデューティ背負っちゃうし。遊べないし」  縮れ髪の少年は、「プロになろうとしたのか」とつぶやいている。  二人の少年の後についてタケキがドライブ・インの中に入っていった。そのタケキの後について行こうとして、マウイはふと訊いてみたくなり、 「皆、暴走族?」  と訊いた。 「エンジェル」  縮れ髪の少年が言った。 「オタスケマン」  とマウイを知っていると言った少年が苦笑しながら言った。マウイがけげんな顔をしていると思ったのか、縮れ髪の少年は自分の名をトミーというのだと明し、 「エンジェルって言うの、ニューヨークと手結んでるんだ」  と得意げに言った。 「最初はぼくらは何でもないワッカ好きとかバイク好きの集まりで、暴走族なんか軽蔑していたんだ。だってあいつら、ほとんど、ちゃんと走れないやつらばかりだから。最初、五人ぐらいから、始めた。そしたら、ツッパリしかない暴走族にあきた連中が集まって来たの。走るっての、機械の問題でしょ。テクニックとかテクノロジーが要っちゃう。情報交換とかテクニックの教え合い。その中にハナオカさんが居たんだ。ハナオカさん、ずっとニューヨークに住んでいて、オートバイやってたし、ニューヨークのエンジェルのメンバーだったの。ニューヨークっての地下鉄、メタメタなんだ。人殺しがあったり、ホールドアップがあったり。それで、ハナオカさんが言い出して、エンジェルを東京でも組織した」  縮れ髪の少年トミーは話し出すと急に幼くなる。  ドライブ・インの中に入り、店の中で三、四人にかたまってバラバラに坐っている仲間らに手を挙げて合図し、縮れ髪の少年トミーはタケキらの坐った窓の方に向う。そのトミーに、反対側の窓際にいた少年らの中から声が掛かる。トミーは振り返り、 「いまエンジェルの説明してた」  と言って手招きする。 「そのハナオカさん」  トミーは言う。一目で周りの少年らよりも齢上だと分かるハナオカは咳払いしながら歩いてきて、マウイの差し出した手を握り隣に坐る。 「どっさりニューヨークと同じ事が東京で起ってるって」  トミーは話をひきついでくれと言うようにハナオカを見る。ハナオカはただうなずくだけだった。 「今朝みたいな事があるし、電車でも暴力事件あるし、それにプータロなんか、中学生とか高校生にやられまくっている。殴り殺されている」  マウイは絶望する。 「東京ってそんなの」  思わずマウイはつぶやく。少年らが注文したジュースやミルク・シェイク、ハンバーガーの類が運ばれてくる。後から来て注文しそびれていたマウイらも店の女の子に、「エンジェル」の少年らと同じように甘い飲物を注文する。  マウイは二つ椅子を離れて坐ったタケキの顔を見た。寝不足のせいか普段よりボンヤリした印象だったが、マウイの受けているような衝撃を受けている様子はなかった。タケキは一日に三本程度しか吸わない煙草の一本を口に咥え、火を点ける。まるで煙をマリファナのように吸う。マウイはフジナミの市で遊び仲間とコケインをしみ込ませたタイ・スティックをやった経験を思い出す。その当時は、よくフジナミの市の港に出入りする船員から手に入れたマリファナを吸う事があったので、マウイの頭の柔らかい桃色の快楽を感じてパルスを打つ脳神経のコイルは、二服めですぐ反応した。マウイはその時、血管の中を流れる血液の音を聴いた。心臓が一拍打つたびに、ラジオドラマの波の効果音をつくる金網のザルの上の小豆のような音をたてて血液は流れた。血液の中のヘモグロビンが、血管の中に注入された無数の砂金のように、音と共に流れ、その無数の細かい砂金の粒が血管の壁に当たり、体が内側からちりちりとしはじめた。無数の砂金の粒はそのうち、心臓の鼓動の短い間隔で頭の先から足の先まで一回転しはじめ、さらに脳神経に打つ快楽のパルスに合わせて、すさまじい速さで一回転しはじめる。  マウイは、血を流していた男を思い浮かべる。 「東京ってそんなにムチャクチャなの」マウイはつぶやく。 「だから僕たちエンジェルが、弱い者の味方しようって立ちあがった」トミーが言う。  エンジェルの少年らが飲むミルク・シェイクの音が寝不足の耳にやけに大きく聴える。マウイの前にもトミーの前にも、ミルク・シェイクが運ばれてくる。トミーはミルク・シェイクを一口飲み、「俺たち、だから終電あたりで電車とか地下鉄に乗り込んでパトロールすんの」と言う。トミーは舌を鳴らす。 「早朝は特に暴走族の喧嘩だとか、左翼の連中が殺し合ったりするから、方々に別れてパトロールする。暴走族どうしだとか、今朝みたいなのは、そのまま放っておいて、結着ついた頃にやられた方の手当てにいくだけだけど。エンジェルだから。死にそうな奴って、そのまましとく」  マウイはうなずいてミルク・シェイクを飲む。カップをおさえたマウイの黒い手の指に深い青のラビズリーの指輪がある。黒い指と青い石は妙に合う。甘い液が喉を通ると、急に自分がまたフジナミの市の高台にあったハミング・バードの群れる夏芙蓉の木になったような気がする。  エンジェルのリーダーだというハナオカひとりコーヒーを飲んでいた。ハナオカはタケキに煙草を勧め、タケキが断わると、マウイの方に煙草の箱を差し出して、吸うか、と訊く。マウイは手で要らないと合図する。ハナオカはマウイの合図を見て、唇で小声でつぶやく。声は聴え難かったが、唇の形で、 「チキン」  と言ったように思えた。不意になじる言葉を耳にしたと思ってマウイが驚き見返すと、ハナオカはマウイを見つめ、それから急に眠りから目覚めたというようにマウイを見て、 「おまえの事じゃない」  と言う。 「誰の事だよ?」  マウイが訊ねると、縮れ髪の少年が、 「唖のケイの事だよ」  と言う。 「ハナオカさんがニューヨークで飼っていた唖の神様」 「神様じゃねえよ。小悪魔だよ。エンジェルの俺が今日は小悪魔一匹にしてやられてる」  ハナオカは言う。 「ハナオカさん、手話出来る。手話じゃなくったって、ニューヨークでジプシーの魔術とかブードゥの呪術やっていたから、霊波で唖の金髪のケイと話出来る」 「レイハって?」  マウイはトミーに訊いた。トミーはマウイの顔を見て、 「ヴァイブレイションとかテレパシーってやつ」  と答える。トミーはマウイの脇腹を突つき、ハナオカの顔を見てみろ、と言う。マウイの眼にもハナオカは異様に見えた。遠くの何者かと交信しているように眼は一点に止ったまま動かず、それでも体はここにいてエンジェルの少年らやマウイやタケキと朝の一時をくつろいでいるというように動き、声のする方に顔を向ける。 「ハナオカさん、この間、ニューヨークに霊波送って、唖のケイを東京に呼び寄せたんだ。すごいよ。電話も手紙も使わない。東京からニューヨークに電話したって唖のケイに通じないから。唖のケイってすごい綺麗だよ。ブロンドの髪が腰のあたりまであんのな。それをハナオカさん、首筋のあたりまで切っちゃった。ハナオカさん、そんなにしたらケイは男の子みたいだよ、と言ったら、あいつ、オトコだよって言う。えッ、嘘でしょうって言ったら、ケイは完璧なアンドロギュヌスなんだって。オカマなの? と訊いたら、アンドロギュヌスはオカマじゃないって。ちゃんと立派なオマンコがあるんだって。だけど、興奮するとクリトリスのとこがどんどん大きくなって、チンポコの形になってきちゃう。ケイってすごい綺麗なのな。オッパイも大きくないけどふくらんでいるし、裸になんなかったら、誰もアンドロギュヌスと分からない」 「あいつ、夜、霊波送ってきた」  ハナオカが不意に言う。 「霊波送って返すと、一人で日本にいてもつまらないから、外へ遊びに行くと言う。それから部屋にいない。つまんない男つかまえて遊んでいるのだろうけど、どう罰加えてやろうか、と考え込んでしまう。あいつを飼っているの、俺だぞ。ブードゥとか黒魔術とかインディアンの魂呼びとか全部やって来た俺だぞ。俺がエンジェルにかまけてるからって、ずっと待っていると言っていた部屋から出て約束を破る。部屋を出て、男つかまえて、オマンコするのはどうって事ないんだ。俺は怒りゃしない。その男はケイのオマンコに突っ込んでて、そのうちケイのクリトリスがぐんぐんのびて、腹につき当るのにびっくりするだろうさ。気の弱い男なら勃ってるのもしぼんで逃げ出しちゃうだろうが、元気な男なら面白がるし、こいつは神様じゃないだろうか、と思ってハゲむだろうが、俺はそれでも怒りゃしない。許せないのは約束を破ったという抽象的な事だ。肉体的な事じゃなく精神的な事だ。あいつは俺のブードゥの神に恐怖するのに、俺がそばにいないと恐怖を忘れる」  ハナオカは物に憑かれたように言い、マウイに、 「このエンジェルは俺の広めたブードゥの信者なんだよ」  とまったく何のまやかしもないというように、あっけらかんと言う。 「機械をいじくったってテクに精通したって何の救いもない。東京なんて悪魔がバッコしているだけさ。単純に言うとこうだ。世の中に神と悪魔が居る。神の方は全智全能で、だから道具など要らなかった。悪魔はしかしそれを破った。蛇に姿を変えてアダムとエバにリンゴの実を食えと勧めて、それから神の弱い部分は堕落して、道具を持つ人間というものに変ってしまった。道具が全部を駄目にしたのだ。道具は或る時機械になった。だが、それだって駄目だ。機械にまたがって速く走っても、悪魔に道具を与えられる前の、霊的に交感出来る昔に及ばない。だからこいつら、エンジェルは、オートバイに乗って走り廻っているけど、機械などまるで信用してない。ブードゥの信者だ」  マウイは縮れ髪の少年トミーを見た。トミーの目におびえのようなものが漂い、マウイが、「宗教の事は分かんないよ」と言うと、それがふとなごんだものに変る。 「そのケイって唖の子の裸、見てみたいけど」  マウイが、「つまんねえよ」と言うと、タケキが挑戦的な口調で言う。 「オマンコが二つあるとか、オッパイが四つだとか、そんなのなら面白いけど、クリトリスが、チンポコになっちゃう女なんて、白けるだけで面白くないね」 「でもすごい綺麗だよ」  トミーが弁護するように言う。 「俺なんかがハナオカさんの部屋へ行ってると、いつもアメリカのマンガのヴィデオ観てるけど、二部屋向うからコーヒーを持って来たり、焼いたパイを持ってくるの。女優のブルック・シールズってのにそっくり。声が出ないし、耳もまるでダメだから、俺なんか話する時、英語を紙に書くんだけど、何だって分かる。メチャメチャなつづりでも分かるし」  マウイはミルク・シェイクで甘ったるくなった舌をすすぐようにグラスの水を飲み、 「すごいね」  と相槌を打つ。九時になると、エンジェルの大半がリーダーのハナオカに挨拶してドライブ・インを出ていった。  マウイもタケキもドライブ・インに居る事にあきていたが、他にこれと言って行くあてもないので、仕方なしにハナオカらの話に耳を傾けていた。ハナオカは四谷の地下鉄構内で起った飛び込み事件を話していた。男は電車に飛び込むどんな理由もなかった。声が聞こえたようにあたりを見廻し、声の方へ踏み出すように走ってくる電車に身を投げた。ハナオカの声を耳にすると、男は東京に蔓延する悪霊の祟りの犠牲になって死んだように聴えた。男の肉体は電車に裂かれ、飛散した。マウイは飛散した男の肉のかたまりを想像し、身震いした。電車のレールや車輪にこびりついた血と肉のかたまりを思い描きながら、そのような電車が何台も網目状のレール網を走り続ける東京が、フジナミの市とはまるで違う場所なのだ、と気づき、自分がハミング・バードの狂喜して群がる夏芙蓉なのだと思うのは、蔓延する悪霊にやすやすと餌食にされかねないほど危険な事なのだと思った。  マウイは女らに吸われる自分を思う。みほもケイコも、メイもヴィクトリアも夏芙蓉に群がるハミング・バードだが、東京には悪霊が蔓延している。悪霊の手下と化した四人の女は、マウイの精気を吸い取る。精気を吸い取られたマウイは、ひからびて、エチオピアの子のように白い眼をむいて死を待って横たわっている。ハナオカがブードゥの神の威大さを言い出した時、マウイは居たたまれずに立ち上がった。ポケットの中から自分の分の金を払おうとすると、トミーが金はエンジェルが払うと止め、 「行きたいところへ送ってやるよ」  とマウイの後に従いてくる。外に出て振り返ると、一緒にドライブ・インを出て来るはずだったタケキがハナオカと話している。そのタケキを待っていると、トミーが、 「唖のケイに興味ある?」  と訊く。マウイはさして興味を抱かなかったが、うなずくと、トミーはくすりと笑い、 「ケイは俺のエンジェルの仲間のその仲間のマンションに居る」  と言う。 「ハナオカってブードゥの霊媒師だったって言うけど、ケイが誰とでもすぐ姦っちゃうアンドロギュヌスだって事、分かんないのな。本当はエンジェルなんてケイがつくってるみたいなものさ。エンジェルの皆と姦ってるし、俺だって姦ってるし」 「あいつの言ってる事、インチキ?」  マウイが訊くと、トミーは、 「そうでもないけど」  と首を振る。 「あいつ、スプーン曲げられるし、停っている振り子動かせるし、一度なんかマクンバ聴いてて失心しちゃった事あるもの」  トミーはドライブ・インの中のハナオカを振り返りながら言う。 「でもケイの方がすごい。あいつ、ジプシーとか黒魔術とかインディアンの呪術の訓練受けたと言っても、単純に言えば催眠術をかける事が出来るだけ。俺なんかが単純だからコロッとかかっちゃうだけ」 「俺もかかっちゃう」  マウイが言うと、トミーは、 「一緒だね」  と肩をたたく。 「じゃあ、仲間のところへ行って、ブルック・シールズを見ようよ。本当に金髪で綺麗だよ」  マウイがうなずくと、トミーはまだハナオカと話しているタケキを差して、 「あいつ、何?」  と訊く。 「何って?」 「うん。何?」  トミーは訊き直す。 「弟分。人からおしつけられたけどしょうがないから。昨日、あいつの為にいい目しそこねた。四人もファッション・パーラーの女の子みつけていたけど、あいつの為に全部、捨てた。全部だよ。あいつ居なかったら、俺なんかどこへでももぐり込めるのに、公園のベンチで眠っていたよ」  マウイの話をきいてトミーはうなずく。トミーはマウイに、タケキを置いて唖のケイを見に行こうと誘った。タケキが激怒するのを想像しながら、マウイは、 「行こう」  と返事し、駐車場に歩き、トミーのオートバイの尻に乗った。 [#改ページ]     3  トミーのオートバイが停ったのは国立競技場からさして離れていない参宮橋のマンションの前だった。トミーはオートバイのエンジンを切るなりマンションの中に入り、名札表を見て、やはりこのマンションに間違いないというように手をあげ、手を振る。エンジェルの仲間の仲間、の部屋は十二階にあった。トミーは十二階の一等角の「MIYAMA」とローマ字の表札の出た部屋の前に立ち、「ケイ一人かな。あいつ、耳も聴えないし、声も出ないから、俺たちが来たって分かるかな」と、ドアのチャイムを鳴らしながら一人ごちる。すぐにドアが開いた。マウイは「すごい」と声をあげた。トミーはマウイの声に驚いたように振り返り、マウイを見て首を振って来いというように合図する。トミーは無言のまま首をつき出して中にいる金髪の女にキスをさせた。マウイが後に立つと、トミーは体をずらし、声を出さず唇でMAUIと形をつくり、マウイの顔を見る。そのマウイにも、声を出さず、KEITと唇でアルファベットの形をつくる。マウイは金髪の女を見ながら、トミーの教えたアルファベットを正確に発音し、英語風にTの音まで出してみた。トミーは、「違う、違う」と言う。 「ケ、でしょう。イでしょう」と唇を作る。 「ああ、ローマ字ね」  マウイは言い、いまさっきトミーにやったように自分にもしてくれと首をケイの方に差し出す。ケイはマウイの両胸に軽く手を置き、マウイの両の頬にキスをする。ケイは眼で、よく来てくれた、と物を言っていた。マウイは、突然圧しかけて来ちゃったの、きみに興味を持ったからだよ、という風に眼で言葉を返し、ケイが招き入れるのに従いて部屋の中に入っていくトミーの後からマウイは歩く。  壁に写真が飾ってある。レザーのようによくしなる紙でつくった魚が部屋中を泳いでいる。白人の子供が夢からさめて夢を思い出しているような姿で映っている。写真の下方に署名があった。マウイは署名を読んだ。サンディー・スコグランド。女名前だった。唖のアンドロギュヌスだというケイが、トミーを部屋の奥のシマウマ模様のソファに坐らせている。マウイは子供と紙の魚の写真を見てその写真家がおそらくケイのような唖なのだ、と思いながら、ケイの方に歩くと、ケイが眼で、「面白い物見つけた?」と訊く。  うん、面白い物って、マウイはフジナミの市のネイティブ・ボーイだから、何だって面白い。この部屋って全体に白っぽいだろう。白っぽい水の入った水槽みたいなところに、青っぽい写真飾ってるから、あそこから白っぽい水が落ちていく気して、気になっちゃった。 「坐らない?」ケイが眼で誘った。  坐っていいの? 「いいわよ。ハンサムね。黒人でこんなに若くてハンサムなの居ないんじゃない。眼がいいわね。少しオリエンタルで」  ケイは笑を浮かべながら、マウイの全身を気づかれないように注意してみる。 「黒人にオリエンタルが混っているからトゲトゲしくなくて魅力的なのね。普通、恐いわよ。白人は黒人を恐いと感じるわよ。特にケイなんかはそう。声が出ないから逃げ出せない。白人は黒人を恐いから逃げるし、逆に魅きつけられるのね。マウイはでも何か違うみたい。体から女を魅きつけるフェロモンみたいの出てる感じ」  マウイはケイの笑を見ながら、ゆっくりとソファに歩き、坐る。トミーがそのマウイに小声で、「裸見たいだろ。口説いちゃおうよ」と誘いかける。 「もちろん、見たいよ。でも、厭だな。いつもなんだか分かんないけど、トリプルでさ。フォースの時は面白いけど、トリプルって神経使っちゃう」 「トリプルって三人でやる事? 3P?」 「自分だけでイカしても悪いと思うし、自分一人楽しんでたら悪いと思うし。女二人の時なら、ちょっと違うけど、やっぱし後でサーヴィスしすぎたなと思ってしまう」 「一対一がいいの」 「それだけじゃないけど、どんなのだって好きだけど、昨日、オレ、傷ついたからさ。一緒のやつ、オレにひっかかった女、オレを利用して姦って、オレだって姦りたいからってトリプルに持ち込もうとすると、オレを入れてくんないの。逆だったら、オレは親友だからって自分がイキそうになっててもぐっとこらえて、クイーンの歌かなんかうたって、どうぞ、イエロー・バナナ入れてやって下さいって空けてやるよ。一緒のやつ、空けてくんなかった。たぶんオレがアイツより女にイイめさせるとやっかんでだろうけど、オレとアイツは親友じゃないか。親友ってオマンコの時は別なの?」 「別なんじゃない」マウイはトミーの言葉に不満の声をあげる。 「違うよ」マウイは言う。 「そんなのはイエロー・バナナだけのつまんない考え方だよ、オレなんかちっともそんな事、思わないもの。ブレイク・ダンスの先生だって、楽しくやるもんだ、オマンコなんて一人だけ楽しみ独占するものじゃない、独占したいのなら、一人でこすってればいいって言ってた」  トミーはマウイの物言う顔をじっと見つめている。マウイが隣の部屋からカップを二つ持って入ってくるケイの姿に目をやると、「マウイって目のよく動く人形みたいで可愛いのな」と言う。  マウイはケイを見つめる。ケイの差し出すカップを手をのばして受け取る。 「可愛いじゃなくてオリエンタルな深い色気が目のあたりにあるの」  ケイは微笑む。ケイはもう一方のカップをトミーに渡す。 「ここへ坐んない? 話しようよ」  トミーが声を出して言う。ケイはトミーの声に含まれる魂胆を察知して意図的に聴えないふりをするように、ヴィデオの方に歩いて、腰をかがめてラックの中をのぞき込み、「何かける?」というふうに振りかえる。 「カートゥンなの、それとも超人ハルク? それともロック?」  マウイは「音楽なら何でもいい」というふうに片目をつぶる。 「それともそんなカッコで後からが好きなの?」  マウイは微笑む。 「薄いサッスーンの桃色のジーンズなんだね。下に何もつけてないの?」 「みんな若いからロックにする」  ケイはヴィデオのスイッチを押す。マウイの知らないロッカーが汗をまき散らしながら歌っている。声はない。音はまるで届かない。唖で耳の聴えないケイは最初から無用の物としてヴィデオの音量を消していたのだった。トミーはマウイの膝をつつく。ケイが、「どう。これがN・Yで一等ナウのロッカー」というふうにマウイの方に振り返り、また笑を浮かべる。そのケイの笑から、唖の写真家の撮ったような写真の中の紙の魚が、白い水のあふれる水槽のような部屋中にあらわれ、泳ぎ始める気がする。 「ケイ。音が出てないよ」  トミーが言う。ケイは一瞬、驚く。金髪と、ブルック・シールズのような顔と体に似合わない声を喉から出し、「もう一度言って」というふうにトミーを見る。 「ゼアラナシングサウンズ」  トミーは両耳を指で差して英語で言う。ケイはあわてて振り返る。また尻を突き出しかがみ込んでヴィデオの音量目盛を見ながらヴォリュームを上げる。ケイの笑から部屋にあふれた紙の魚は、音量が上がる度に、水槽の部屋の中に酸素がなくなるというふうに動きが激しくなり、撥ね、あえぎはじめる。 「OK、OK」  マウイはそれ以上音量が上がると耳が耐え切れなくなると思った。部屋の中にあらわれた紙の魚が死んでしまう。 「いいよ。もう大丈夫だよ。ケイの音楽の趣味、分かったよ」  マウイはソファから立ちあがってケイのそばに寄り、まだヴィデオの音量目盛とにらめっこしているケイの肩を突つき、振り返ったところを肩を支えて抱きあげるように身を起こさせる。 「音なんて人間が魚みたいに泳げないからあるんじゃない?」  マウイは目の前にあるケイの髪のにおいをかぎながら言う。マウイの顔を髪に感じて、ケイはいたずらっぽく肩をすくめて、マウイを見る。マウイは一瞬、注意深くケイの背中に体を寄せる。半勃起状態の性器がまるでズボンの中にまぎれ込んだ魚のようにもがき、一瞬、触れたケイのサッスーンのジーパンで硬い感触の尻に触れるのを感じる。 「坐ろうよ」  マウイは声に出して言う。 「音楽って、酸素ポンプみたいなもんなんだね。水槽の中に金魚飼ってて水そのままにしてると金魚死んじゃうでしょう。だから水を換えるけど、水換えられなかったら空気送り込んだり、酸素送り込んだりしてやる。人間はそのままにしていると、苦しくなってくるから、酸素がわりに音楽使って自由になる」  マウイはトミーとの真中に坐らせたケイの髪に軽く手をやり、「酸素がわりの音楽だから」と言い、はっきりとケイに分かるように撫ぜる。 「金髪って軽いの?」  突然マウイはトミーに訊く。トミーが訳分からないというように「どうして?」と身体を起こす。マウイがケイの髪をつかみ、指でほぐし、またつかむと、ケイが何を話題にしはじめたのか、と不安げに、マウイとトミーの顔を交互に見る。 「なんか黒い髪より金髪の方が軽いみたい」 「ほんと?」  トミーはマウイがしているのと同じやり方でケイの髪に手をのばし、指で触り、こすってみる。 「分かんない。髪の毛、こんなにカールしてる女の子、いないもの」 「軽いって。本当に軽い。ほら、サーファーって髪の毛、赤っぽくて金髪に近くなっちゃうじゃない。あれ、海の塩水で黒い色素、抜けちゃうからだよ。金髪って黒い色素がないんだ。だからその分、軽いのな」 「よく知ってんの」  トミーは感心したように言う。マウイは一瞬、肌の色素を抜く為、オキシフルで肌をふいていた事を思い出しながら、「まあね」と答える。髪の毛を撫ぜつづけ、ヴィデオを観ていると、ケイが物言いたげにマウイを見た。心の中で、 「つい、カッコいいんで見とれちゃった」  とヴィデオに気を取られ、ケイの霊能力を頼りにテレパシーで話しかけなかったわびを言い、ウィンクすると、「ダメッ」と言うように少しマウイの方に寄る。 「それならキスして気を魅いてくんない」  と、まるでジゴロが女を誘うように顔を上げ、合図すると、ケイはマウイの方に身を寄せる。マウイは髪を撫ぜていた手でケイの頭を支え、ケイが自然に寄せた顔に唇をつける。ケイの唇の間からディープキスを誘うように舌が出て、素早くマウイの唇を撫ぜる。マウイは唇を圧しつけ誘われるまま舌を差し入れ、中でくるくると渦巻くケイの舌をつかまえ、こすり、吸った。マウイは一瞬、ケイと一緒にソファのどっちに倒れようかと思った。ケイを下にしてマウイがのしかかるように倒れていくと、ケイの体はトミーにあたり、たちまちトリプルになる。マウイは昨日のタケキの振る舞いを思い出し、反射的に反対側に倒れる。マウイの手はケイの小さな乳房の上にあった。ケイの手はマウイの縮れ髪の上にあり、ハンサムなオリエンタルの神秘を身につけた若い黒人をほめそやすように何度も頬の方へ撫ぜさすり、撫ぜあげ、額といわず、眼といわず、唇をつけ、舌でこすり、思いが昂じて苦しいような声を出す。マウイはケイに身をまかせながら、ブラウスのボタンを指先一つではずし、あらわになった小さな乳房を手でつかみ、乳首を指でこすり、もう一方の手をのばして尻を撫ぜ、さらにジーンズのホックをはずす。はずし終ると、その手で、さっき撫ぜて熱を持った尻が冷え切らないうちに熱を加えるというようにジーンズの上から尻を撫ぜ、熱があがったと見るや、「サッスーンだってゴワゴワして今は邪魔なんだよね」と心の中で話しかけて、乳房を愛撫していた方の手もそえて、ジーンズを脱がせる。  ケイはマウイのシャツをはずした。胸ボタンを一つ一つはずしながらあらわになるマウイの黒い皮膚をそれこそがブードゥの神体だというように息の音を立て、短い昂って洩れる喉の音を立てながら吸い、恋い焦れているように頬を寄せる。ついにケイの唇と舌はマウイの腹に達する。ケイはマウイのズボンにそのまま唇をつけた。ズボンのベルトをなめた。ベルトの真中のバックルを中心に、左側にむかってなめ、次に右側にむかってなめ、一等最後に大事に取ってあったというようにバックルの金具を口に含む。水槽のような部屋の中にヴィデオの音量で動きを加速させられていた紙の魚が動き廻る気がする。マウイのズボンの中にまぎれ込んだ魚が苦しげにピチピチはねる。その魚を解放してやろうと、マウイはバックルに自分で手をかけた。ケイはそのマウイの指をなめる。ケイにかまわずバックルをはずすと、ケイはバックルの細い小さな留め金をなめる。マウイはジッパアをはずし、ケイがブリーフの上から唇をつけにくるのをさえぎって、ズボンを脱ぎ捨て、ブリーフを脱ぎ捨てた。ケイが性器を口にふくもうとするのを見ながら、マウイはまず自分のシャツを脱ぎ捨てて素裸になり、次にケイのブラウスを脱がせた。  ヴィデオの音が急に消えた。音が鳴っていた時より一層、水槽のような部屋に紙の魚が増え、優美に尾を振り、口を開けて呼吸する。音といったらケイの唇と舌のたてる音か、思わず洩らす意味不明の声しかないのに、それがほどよいのだと泳ぐ事が愉楽そのもののように泳ぐ。マウイは素裸のまま股を開き、あおむけに寝て下になり、ケイがマウイの性器を舌でなめ、そして陰毛の茂みにせり上がり、へそに上がり、胸をなめ廻すのを見ていた。ケイはまるでマウイが女のように感じるのだというように胸をなめ廻し、左の乳首の周囲をなめ廻す。ケイの手はマウイの性器のつけ根をしっかり握っている。ケイがマウイの性器が写真のベッドの下から顔を出した黒いかさのある魚だというようにつかんでいるので、魚がビクビクとはねるように動かす。マウイは「そこじゃなくて、こっちだ」と心の中で言う。マウイは左胸ばかり唇をつけ吸いなめているケイをうながすように、腰をつき出し、上下させ、ふとトミーを見る。トミーは突然はじまった二人の動きにあっけに取られたように呆然として見ているだけだった。 「トミー」とマウイはささやいた。 「オレの後、姦らしてやるから、用意してろよ」  マウイがささやくと、ケイは急に耳が聴えるようになったように、顔を上げ、マウイがトミーの方をみているのに気がついて怒ったように左胸の乳首を噛む。痛みに声を出し、マウイは息をつめて呻いた。乳首の痛みは消えなかった。ケイは乳首をなめつづけた。思いきり噛んだ乳首をなめ、得心したように周囲をなめ唇で吸うと、乳首の痛みは周囲の方に広がる。広がり切って次第に消えかかると、チリチリする新たな痛みが周囲にわきおこる。ケイの舌が当るたびに痛む。マウイはブードゥを信仰しているというケイが、かくし持っていた刃物で周囲に傷をつけ、流れ出した血を吸おうとしているのではないかと疑った。ケイ、ケイ、と声を出し、マウイは舌が皮膚にヤスリのように当ると心の中で言って、ケイの愛撫を止めた。 「ケイ、されてばかりだったら、苦痛だよ」  マウイはケイを抱え、身を入れかえ上になった。マウイは血が流れていないか、胸を見、表面がヒリヒリし中からチクチク針で突つくような痛みのある皮膚を触ってみた。血は流れていなかった。マウイは自分の胸を自分で見た。色が辺りと変っている気がし、服を脱ぎはじめたトミーに、 「なんか刺されたみたいに痛いけど、ブードゥってこんな事しない?」  と訊く。トミーは勃起した性器を見せて立ったマウイに話しかけられおびえたように、 「色が黒いから分かんない」  と言い、チラッとマウイの性器を見て、あわてて目をそらし、まるで神がかりになって入眠状態に入ったように自分の指をしゃぶり、腰をくねらせ、片一方の手で股間をおおったブルック・シールズのようなケイを見る。ケイはマウイを流し目で見て自分の指をなめる。早く欲しい。魚が方向を変える時のように腰をくねらせる。胸の乳房は白く、乳首は明るい桃色だった。マウイはひざまずき、片手にすっぽり入ってしまう白い乳房をぎゅっと握り、黒い指の間から出た桃色の乳首を舌の先でころがし、それでもくねりつづける体をのしかかるようにして体でおさえた。ケイはマウイの体の重みを感じると、重みの中心を股間に導くように足をひろげる。ケイは、左手で股間をかくしたままだった。マウイは勃起した性器でケイの股間をおおった手を下から突くように当て、ケイがしたように下に向って、全身にうっすらおおった金色の産毛を唇に感じながら、降りていった。脂肪がほんのりとついている程度の少女のような体つきだったので臍は深くなく、息をかけ舌でさぐればすぐにたどりつく。手でおおっているので陰毛の半分はきゃしゃな腕にかくれていた。腕が邪魔だったが、ケイの好きなようにするしかないと、マウイは丁寧に金色の陰毛の一つ一つを唇と歯でとくようになめ、腕をなめ、唇をつけ、ケイの耳には決して届かないだろうが、テレパシーを感じるケイの体の中心部には届くだろうと音を立てて吸い、腕を伝ってじょじょに手の方へ降りる。マウイは指の一本ずつをなめた。指の関節、指の皮膚、指の股。見せてくれない。マウイは言った。  誰にも教わんなかったけど、舌一本でいかした女の子、何人もいるよ。ケイ。開いてよ。俺のデッカイの、そん中に入りたいとビクビク体ふってもだえている。  マウイは指の先をなめた。舌がまるで普段の二倍の長さになったようにのび、広げた白い形のよい脚と脚の真ん中に出来たひだに当り、そのひだを伝って指がおおった端までゆく。指を舌でおすと、ケイは声を出し、かすかにずれる。そのずれた部分の先に、ケイの形のよい桃色の女陰の端が見える。マウイは唇をつけ、その端にむかって舌を這わし、こすり、先を錐のように立てて突つく。その動きを根気よく、まるで架空の音楽にでもあわせるように続けた。突然、ケイは股間をおおった指を開き、ズルズルと手を引きながら、まるで洞窟にむかって吠えるようなくぐもった喉の声を出した。トミーがマウイの背後に立ち、 「ねェ、すごいだろ」  と言う。  マウイは一瞬、写真の魚の最後のかくれ場所が金髪のブルック・シールズのようなケイの股間だった気がした。股間をマウイにさらして穴があくほど見つめられる羞かしさを言うように、ケイは声を上げ続け、その度に水槽のような部屋の中に泳ぎ廻る紙の魚の数が増える。女陰は美しい桃色をして、いまさっき魚の一匹が中から飛び出した時、あまりきつかったので肌がこすれ細かいウロコをはいでしまったというように濡れてキラキラ光り、マウイの黒い固い性器を待ち受けるように、声を上げるたびに動いていた。その動く女陰の上に、十三歳の少年のまだ大人の物になり切っていない、だがはっきりと男の物と分かる性器があり、小さな陰嚢がついている。マウイは言葉がなかった。壁にかかった部屋を泳ぐ魚の写真が頭にちらつき、何の脈絡もなくサンディー・スコグランドという写真家がケイのようなアンドロギュヌスなのだと思い、ケイに心の中で「姦っていいの?」と問いかける。  ケイはマウイの撫ぜ廻す手に身をまかせながら、「ファックして欲しい。何でもいいからファックして欲しい」と体で言う。マウイは、 「さっきしてたみたいに後ろからがいいのかもしれない」  と言うと、「いいの。このまま」と腰を上げ、マウイの体をはさみ込む。マウイは興奮した。その足をなめた。マウイは足をなめ中腰になり、そのまま腰の突きだけで性器を女陰の中に入れようとする。女陰が小さすぎて入らない。マウイは足を広げ、下からすくい上げるようにして中に入れ、ゆっくりと休む事なくきつく狭い壁をおしひろげるように根元まで入れようとする。ケイは呻き続ける。根元まで入れマウイの黒い陰毛がケイの小さな陰嚢にかかるのを見てゆっくりと大きく動きはじめると、ケイは身を震わせ、喉の声で叫び、まるで盲てしまったように手さぐりでマウイの腕をつかみ、「上にのしかかって」と、せっぱつまったように強く引く。マウイは心の中で、「見たいよ」と言うが、ケイには伝わらなかった。マウイはケイの上にそのままのしかかり、腹と腹をくっつけた形でゆっくりと大きく網を打つように突き、網をたぐり寄せるようにひく。ケイは口を大きく開け、叫ぶ。動きをすこし速めた。ケイは息を詰め、苦しさに耐えるようにソファの布を指でつかみ首を振り、マウイが速度をはやめ、深く大きく動くと、ケイはあえぎが頂点に達したとマウイの首に腕を巻きつける。ケイは腕を巻きつけ、快楽を伝えるように力を込めて締め上げ、それが爆発したように痙攣しつづける。マウイは動き続けた。ケイの固く締まりすぎた中をこじあけつづけ、長く水の中にもぐるように息をつめ、一直線に水底に向い、それから反転して水面に向うように動きつづけ、一どきに息をつぐように射精した。ケイと抱きあい、荒い息を吐きながら、動かずにいると、トミーが、 「ほら、こいつ、やっぱし、ヘンだ」  と声を上げる。マウイがケイの髪を撫ぜ、軽いキスを交わしながら裸のまま股間をおさえて立ったトミーが、「ほら」とマウイの下腹におさえられたケイの下腹を指さす。ケイの下腹に液体が流れている。 「ちっこいチンポコから出したんだ。やっぱし女だけど、男なんだぜ。ケイが出したんだ」  マウイはトミーの言葉を無視する。心の中で、それはケイのチンポコじゃない。紙の魚の滴だ、とトミーに言い、笑顔を見せる金髪のブルック・シールズそっくりのケイにキスをし、「また魚で遊ぼうね」と語りかける。  トミーはせっかく素裸になっているのに、性器は勃起していなかった。マウイが気を効かしてケイの桃色に発熱したような裸を全部見せてやろうと体を脇にずらし、さらにサーヴィスするように、ケイの小ぶりの乳房を手でおおい、撫ぜ、ケイがゆっくりと動くのを「ほら、見てみなよ。エロチックじゃん」と言うようにトミーに合図するように見せても、トミーの性器は固くならない。トミーはひざをついて、指で白いゴムのような性器をしごいている。 「姦りたくないの?」  マウイは訊く。マウイはケイの乳首を指でつまむ。 「俺なんか、こうしてるだけで、また姦りたくなっちゃうのに」 「だって、ケイのオマンコ」  トミーは性器をしごく指を止めて言い、息をつぐように区切る。 「べたべたになってる」  マウイは一瞬、トミーの性器が勃起しないわけを分かった気がした。フジナミの市で、マウイと寝たと分かった女は、いつも損な目にあった。黒んぼの味を知り、癖がうえつけられ、臭いがついている。マウイと寝た女らはマウイの遊び友だちからしばらくうとまれた。縮れ毛のトミーが心の奥底でマウイを嫌っているのだ、と思い、性器をしごきつづけるトミーを無視して、ケイの方に顔を向けた。 「黒んぼって何か、違う?」  マウイは声を使わずに訊く。ケイはマウイを見る。ケイはキスをして欲しいとテレパシーで語る。マウイはキスをする。顔を離してケイを見つめると、「黒んぼって言い方、よくないわよ」とケイが言う。 「でもマウイ、素敵よ。黒い体が炎みたいになってるの。マウイはNASAのシャトルみたい。大気圏に突入すると、シャトルは炎を吹き上げるでしょ。マウイはケイの中に入ってきた途端、炎を吹き上げた。炎の鳥。フェニックスと言うの」 「フェニックスって火の鳥の事?」 「そうフェニックス。N・Yのブロードウェイ45にコカ・コーラの看板の隣に炎を吹き上げるフェニックスのネオンがあるの。いつも見とれるけど。石油会社のネオンだけど、一度、ブードゥの神の信者ツアーでサンフランシスコに行った時、そこにもそのフェニックスのネオンあった。ロスアンゼルスにも、ダラスにも、リオ・デ・ジャネイロにも、ロンドンにも、パリにもあるの。おそらく東京にもある。たぶんあれはメッセイジなのね。共産主義者の核攻撃を受けても、わたし達はフェニックスのようによみがえる。マウイはそんな感じ。これ」  ケイはマウイを見つめたままマウイの性器に手をのばす。 「アウトサイドで終ってと言おうとして、あまり熱くって言いそびれた」  マウイはケイのテレパシーを受けて、あっと声を出す。ケイの中で射精したから、トミーが意気をくじかれたようになっているのだ。マウイは思い、まだゴムのような性器をしごいているトミーを見て、「待って?」とケイに声を掛けて立ち上がる。  マウイは白い扉のバスルームに入る。バスルームの壁に異様に肥った女のモノクロ写真が額に入れて飾ってある。洗面台の上の棚に折り畳んであったタオルを取り、湯でそれを濡らし、扉側の壁を見ると、目をひんむき舌を出して威嚇するバリ島の仮面が飾ってある。マウイは、肥った女の写真と言い、バリ島の仮面と言い、ケイが身を寄せているMIYAMAという名の部屋の持ち主が、普通の日本人の男ではないような気がした。  湯で濡らしたバスタオルを持って戻りかかり、さっきまでマウイが居たソファの上で、ケイが横たわったままトミーの性器をなめているのを見つけた。 「そうだよ、そうしてもらえばいいんだ」  マウイが言うと、トミーは振り返り、「早く来てよ。血を吸い取られちゃうよ」とベソをかきながら言う。 「ケイは勃たないと強く吸うの。糸切り歯で噛むし」 「血を吸うの?」  マウイは驚いて言う。マウイはケイと並んでソファに坐る。ケイの腰をマウイはひき寄せる。濡れたタオルでマウイがよごした股間をぬぐってやろうと、ケイの腰を持ち上げ、股を開かせようとする。ケイの顔がトミーの股間に埋もれ、ケイが顔を動かすと、トミーの勃起していないゴムのようにのびる性器が見える。トミーはのけぞる。 「血が出てる」  トミーが言う。マウイの手がケイの股間を開き、濡れたタオルを当てようとすると、陰毛の茂みから、むくむくと少年の性器があらわれる。ケイは一瞬、咥えていたトミーの性器を離して振り返り、ケイの股間を抱えていたのがマウイだと分かって得心したように、トミーの腰を両手で抱えて引き寄せる。トミーはケイに逆らえないようだった。エンジェルの一人としてブードゥの神の言いなりになるようにケイにソファの上にあおむけに寝かされる。萎えたままの性器をケイが咥えると、 「血を吸い取られちゃうよ」  と呻き、両手で顔をおおう。ケイはトミーの振る舞いに昂ぶっているようだった。ケイはトミーの性器を咥えたまま、マウイの性器を握った。  マウイの性器はすぐ勃起した。ケイの下半身を預けられた形のマウイはケイの持つ雌雄二つの性器をなぶった。マウイが再びケイの女陰の中に性器を入れようと体をずらすと、ケイはトミーから顔をあげて、「このイエロー・バナナ、姦っちゃうからな」と急に男になったようにテレパシーで言う。 「オカマ、掘っちゃうの?」 「当然じゃないか、こんなの。いつもクリトリスで姦られたいと思ってる男、N・Yにはいてすてるほどいる。ここのMIYAMAだってそうさ。ここへ来てずっとクリトリスで姦ってる。日本人の甘ったれ坊やは、女を姦れないのね。姦られたいと思ってる。最初は入れたいって言うの。ケイはレディだから、レディのようにもだえる。でも駄目。MIYAMAは、マミー、独りで行かないで、とすすり泣きはじめる。マミーさみしいよ。ケイはマミーじゃないけど、マミーの役をする。ケイのクリトリスはチンポコだから。いけない子ね、どうしてそうまでマミーに手をヤかせるの。バシン。まるで、ほら、バスルームの写真のデブのお母さんみたいに振る舞う。バシン。おしおきをしなくちゃ。ほら、足を上げて」  ケイはあおむけに寝たトミーの足を曲げさせる。 「お尻をちゃんと見せて。いい子はいつも綺麗にしているでしょ。マミーを手こずらせる為にお前はお尻をよごす。いつもいつもニコニコ笑ってないわよ。バシン」  ケイはオシメを取りかえられる子供のように尻を見せたトミーの一層萎えた性器をつまみ、のばして離す。 「おしおきだからね」  ケイはトミーの尻の穴に指を入れる。トミーは悲鳴を上げて呻く。 「痛かった?」  ケイが言い、呻きつづけるトミーに、よしよしと子供をあやすように股間に頬ずりし、性器を唇でなぶり、呻きがおさまってから、本当のおしおきだというように、指よりは確実に太い少年のもののような性器を入れる。トミーは悲鳴を上げ、呻く。  中にすっぽり入ってから、ケイは急に金髪のブルック・シールズのような女に戻ったように、振り返り、ウィンクして唇を舌でなめ、マウイを誘うように体をトミーの方にのしかけ、股を開く。マウイの眼に、トミーの尻に接合したケイの少年の性器のつけ根にある女陰がマウイを誘うようにはっきりと見える。マウイは手をつかわず、体重をかけないように足に力を込めながら、ケイの中に入っていく。マウイが動くとケイが動き、トミーが悲鳴をあげる。  午後四時を廻ってやっとマウイはタケキの事を思い出し、トミーを誘って外に出た。マンションの下に降り、オートバイのそばまで来て、トミーはマウイに、 「乗っけてやんないよ」  と言った。ケイが果てマウイが果て、それでやっと苦痛から解放されたトミーは部屋の中でずっと不機嫌だった。しかし、オートバイに乗る寸前に突き放されると、タケキをさがす方策も失ってしまう。 「どうして」  マウイが訊くと、トミーは、 「分かってるくせに」  と言う。マウイは知らばくれた。 「分かんないよ。楽しかったじゃん」 「楽しくないよ」 「イったじゃないか」  マウイが言うと、それが不機嫌の最大の原因だというように黙り込む。マウイはトミーを見ながら、タケキが激怒している姿を想像する。タケキはアンドロギュヌスのケイの居るMIYAMAの部屋でマウイがやった事を知ると一層怒る。マウイはトミーの不機嫌をなだめなければ四面楚歌になると思った。 「あいつ、アンドロギュヌスなんだね」マウイが言うと、「あたり前」とトミーが返す。 「でも初めてだよ。あんな事、するの。彼女、神さま?」マウイは縮れ毛のトミーを見ながら言う。 「すごいね。テレパシー、びんびん来る。ハナオカという人じゃ、彼女、コントロール出来ないよ」トミーは顔を上げる。 「そう、コントロール出来ない。だから皆と姦って、血を吸ってる。本当に血を吸われてないかもしれないけど、血、吸われてる感じするの。皆そういうよ。もう十五回ぐらい、姦ってる。十回めくらいまで、俺だって、ちゃんと勃った。十一回くらいから口でやられていてイクだけで、勃たないの。皆、そう。たぶんハナオカさんだってそうだと思う。でもひょっとすると、あの人勃つかもしれない。ケイがいつもぶったたかれるって言ってるから、ハナオカさんだけは、違うかもしれないな」 「他の女の子とでもそうなの?」マウイが訊くと、トミーは首を振る。 「他の子とはボクだって誰だってギンギンになっちゃう」トミーは自分の言い方に笑う。 「あいつ、特別だものね」  急に機嫌のよくなったトミーに相槌を打って、ふとマウイはタケキに弁解するのは、アンドロギュヌスのケイを直接見せる事だと思いついた。  しかしタケキが、あのドライブ・インから出て、今どこにいるのか、見当がつかなかった。マウイは時間を元にもどすように、タケキがドライブ・インから居なくなったマウイに気づきどういう行動を取るのか考えてみた。ハナオカとウマが合えばハナオカのオートバイに乗ってハナオカらのたむろする場所に行っているだろうが、気の強い怒りっぽいタケキだから、十中八九、一緒ではない。タケキは東京をほとんど知らない。だから、タケキはわずかな東京滞在の時間のなかでマウイと出かけたハンバーガー屋やアイスクリーム屋、ディスコにマウイをさがして顔を出す。  そう考えていて、マウイはふとハナオカが超能力でケイの行動を読み取れると言っていたのを思い出し、 「ケイに頼めばいい」  とつぶやいた。マウイはトミーに待っていてくれ、と念を押し、ケイの部屋に行った。  チャイムを鳴らそうとすると、ドアが開き、ケイが出てくる。ケイはマウイを見つめ、 「外に行こうと言うんでしょ」  と言う。ケイは滑るように外に出る。トミーはケイを連れて出て来たマウイに、 「何か、恐いよ」  とささやく。 「ハナオカさんに知られても、MIYAMAさんに知られても、ケイに勝手な事した、と制裁受けてしまうし。そんな事より、東京中の悪魔が動き出して、非道い事、起っちゃう気して」 「大丈夫さ」マウイはトミーに言う。 「ディスコに行ったり、バスのターミナルに行ったり、面白いじゃん」 「バスのターミナルって?」  トミーが訊き返す。マウイは、思わず口を衝いて出た場所が、トミーには何の興味もない場所だった事に苦笑する。オートバイを運転するトミーの後にケイ、その後にマウイが乗り、マウイが、 「さっきみたいじゃん」  と口を滑らすと、トミーは、 「じゃあ、運転しないよ。三人乗りで運転してたら、すぐオマワリにつかまるんだから」  と、オートバイを降りかかる。ケイが声を出し、トミーが降りるのを拒むように背中をたたく。 「厭だよ。さっき知りあったばかりなのに、エンジェルの仲間みたいなふりして」  トミーはふて腐れ顔で振り向き、マウイに言う。マウイは機嫌が悪くなったトミーを持てあました。心の中でケイに語りかける。 「トミー姦ったの、俺じゃないぜ。アンドロギュヌスのケイだろ。ケイのちゃちなチンポコがトミーの尻の穴を姦ったんだろ。俺のディックはケイのちゃちなカント狙っただけだから、機嫌をなだめてやんなよ。そうじゃなかったら、ハミング・バードにしてやんないよ」  ケイはマウイの言葉に反応するように、喉の音をたてて笑う。マウイが体を抱えた手を動かすと身をよじる。 「鬱屈してるのよね」  ケイは言って笑う。ケイが尻を動かす。丁度、マウイの性器のあたりに腰のくびれが当るので、その感触を楽しむようにみえる。マウイは笑い出す。 「降りてよ」トミーが言う。マウイは笑い止める。黙ったままトミーを見つめると、トミーは何を思ったのか、「どっちか降りてよ」と語調を変える。 「二人居ると、ボクだけバカにされてるみたい。ボクだけインポになっちゃって、女に姦られて笑われてる気になる。どっちかにしてよ」  マウイはオートバイから降りた。ケイが振り返り、降りかかる。トミーがオートバイのエンジンをかけ、ケイが降りようとするのを防ぐようにいきなり発進させ、「ケイ」とマウイが話しかけるのを邪魔するようにトミーは道路に飛び出す。丁度車が通りかかり、接触しかかったが、車とオートバイの双方がハンドルでかわす。マウイはオートバイの走っていった方に向って歩いた。  午後の光で街はケイの居た部屋のように水に浸っているように見えた。マンションを背にして歩き続けていると、淡い光がつくり出す水は、実のところケイの居た部屋から洩れ出して、丁度マンションの十二階の高さまで溜っているのだと思えた。マウイは歩きながら、マウイもケイもトミーも、東京中の人間すべて、自分では空気の中で生きていると思っているが、本当は水の中で生きているのだ、と思い、ケイの居た十二階の部屋で濃かった水が外で急に薄まっているのに気づいて苦しさにあえぐように深呼吸した。マウイは薄い水の中でアクアラングを操作するように、ヘッドホーンを耳に当て、カセットをかけた。電池を取り換えていなかったので音はノイズを出し、余計、苦しくなる。  信号を二つ渡り、Y字型の交差点を左の道を選んで渡りかかると、オートバイが後からやって来る。クラクションを鳴らし合図するので振り返ると、トミーが、 「まだこんなとこ、歩いてやがんの」  と声を掛ける。トミーの後にケイの姿はなかった。 「ケイは?」マウイが訊くと、「関係、ねえだろ」とトミーは言う。 「さっき、そこでハナオカさんに捕まっちゃったんだから。ハナオカさん、ボクの前でケイを怒れないからアジトに連れていっちゃった。ケイは何もしゃべらないよ。ハナオカさん、ボクに言ってた。ケイは何にもしゃべれないから、過去の事は訊かないんだって。だからケイと知りあった奴も、ケイに過去を持ち出すなって」 「どういう事?」 「だから、さっきの事も過去でしょう。ケイと姦ったからってまといつくなって」 「まといつくって」  マウイは言う。 「俺は何にもまといついていない」  そう言うマウイを脅すように、 「普通だったら、頭の女と姦ったらリンチだよな」  と言う。 「ニューヨークでもリンチはよくあるって。だけどハナオカさんはしない。ハナオカさんはケイが神さまだと本当は知ってるから」  トミーはオートバイのエンジンを切りかかる。マウイは、「乗っけてくれよ」と言う。 「俺も過去の事、もう忘れちゃった。それに忘れちゃった方がいい。フジナミの市から一緒に来た奴に、叱られるよ。これからそいつさがすだろう、さがしてディスコに行って、女の子つかまえるのな」  マウイの顔をじっと見つめていたトミーが、 「さっきの事、言わない?」  と訊く。マウイはその言葉を聴いて、すでにオートバイに乗せてもらう許可を受けたようにガードレールを跳び越える。 「もう黒んぼの頭からさっきの事などすっかりないよ。黒んぼっておしゃべりだけど、秘密だって事、絶対言わないの。だいたいからして覚えてないんだよね。フジナミの市で、だから女の子にちょっと評判悪かった。マウイにどんなに尽したって、今がよけりゃと思ってるから、パーティ券二枚あるから行かない、とか、どんな靴がいいの、って言うだけで、昨日までの事を忘れて別な子に従いていってるって」  マウイはしゃべりながら、オートバイの尻に乗る。 「フジナミの市で行くところないから、ずっと石切り場の寮にいたんだ。ガガガガッとかダダダダッとか鑿岩機が鳴るでしょ。クイーンとクレーン車の音がする。ダンプカーがピーピーとバックすると音がしてガーと持ちあがる。クレーン車とかダンプカーの助手をしていたんだけど、誰も俺の赤い旗や白い旗の合図なんか信用してない。OKが白、ノーが赤だけど、たとえばノーというのがOKだよ、とか、OKというのは嘘、本当のノー、って白と赤の旗で言おうとしたら、メチャクチャになってしまう。メチャクチャだからメチャクチャ」  マウイがトミーの体を抱えてしゃべると、トミーは身を寄せるようにして楽しげに笑う。トミーはオートバイを発進させる。マウイは一瞬フジナミの市の69のマスターを思い出す。 「誰もメチャメチャの旗振りなんか信用していない。それにガガガ、ダダダだろ。天然の音楽。それでリズムを取って踊るの、よっぽど踊りのカン冴えてないとダメだけど、このマウイさんはやっちゃう。みんなあきれてみてるけど、雑音が音楽に聴えるから、もうブッとび。このオートバイの音だってそうだろ。ダダッダダッ。ダダダダッ、ダダダダッ」 「ダンス習ったの?」  トミーが訊く。マウイは苦笑する。  トミーの耳元に唇を寄せ、過去にそんなふうにして半ば意識して相手の気持ちを引くように話しかけたと思いながら、「何も習わないよ。アレのやり方だって全部、一人で覚えた」と言う。 「一等得意なのはベッドの事だけど、次が車のかっぱらい。アレとコレってよく似ている。指一本で完璧にできる」 「アレとコレって」トミーが訊く。 「女イカす事と車のかっぱらいさ。車なんかすごく簡単だぜ、針金一本あれば、鍵のかかったドア、パチンとあくし、すぐエンジン直結出来る。その次がダンスだよね」マウイは言う。  マウイは不意に金色の小鳥が群れていた夏芙蓉を思い出し、胸がつかえる。オートバイがまき起こした風の音の中に金色の小鳥の高い澄んだ鳴き声が混っている気がする。 「どこへ行けばいい?」  トミーが訊いた。一瞬マウイは意味を取り違えたように、ケンキチノオジが耳にしたスカーン、スカーンと木を切る音が山に響くダバオだと思い、あわてて、「どこでも」と答える。 「朝、俺と一緒だった奴をさがさなくちゃいけないから、まず六本木のアマンドの交差点のハンバーガー屋に行ってくれる」  六本木の交差点は赤信号だった。  車が何台も通っていたのでマウイはトミーに、「ここで降りるから」と耳うちした。 「ここで降りちゃって、ハンバーガー屋をのぞきに行けば、丁度、あそこまでオートバイが進んだ距離だよ」  マウイが言うとトミーはけげんな顔をする。  マウイはトミーのオートバイから降りて、「何?」と訊く。 「だってただ乗っけてと言うから乗っけたんだよ。マウイってエンジェルの仲間じゃないし、友達じゃないし。降りたら、ここまでって事じゃない」 「そうなの?」マウイは訊く。 「俺の友だち見つけるの手伝ってくれるって約束しなかったっけ」  トミーはマウイを見て不満げに口をとがらせ、「しないよ」とつぶやく。マウイは縮れ髪のトミーの幼い表情に苦笑し、ヘーイ、メーン、と黒人の物真似をする。 「もう俺たち友だちだよ。だってマウイって俺の名を呼んだろ。マウイって呼ぶの友だちしかいない。このあいだのハミング・バードなんて、英語風にモオウイって言ってたけど。モーニングとモオニングとは違うだろ。牛がさ、モオウって鳴くと、あいつ牛に生れて苦しんでいる気するもの。モオウン。黒んぼってモオウン。苦しむ事が宿命だって思うの。だからモオウイって呼ばれるの、あんまり好きじゃない。黒くったってさ、綺麗じゃない。今日もディスコへ行って、踊る時、髪に油ぬんの。途中でシャツ脱いじゃう。汗で光るよ」  信号が青に変った。車が動き出した。マウイがオートバイの脇で踊りのステップの真似をすると、トミーは、 「そんな事より早く行ってよ」  と困惑げな顔をする。マウイは一瞬、突き放された気になる。オートバイの前に停った車が動き出したので、マウイは決心して踊りのステップの次の一つのようにガードレールを飛び越え、歩道に移った。オートバイがクラクションを鳴らして走り出すのがわかった。マウイは振り返らなかった。交差点のハンバーガー屋をめざして歩きはじめると急にケイのマンションの部屋の高さまであった水が急速に希薄になり、街のどこかにあった穴から洩れ出してしまったように、水に浸っていたマウイは苦しくなる。モオウイ。英語風の発音が耳によみがえる。  ハンバーガー屋の中を外からのぞき、そこにタケキがいないのを確かめ、すぐに二階に続く階段を駆け上がる。客は誰もいない。マウイは一層苦しくなる。階段をおりようとして、マウイは本当に魚にでもなって、六本木の街中にまぎれ込んでしまったように息苦しいのに気づいた。マウイは息を整えながら階段をおりた。胸を手でおさえて自分の心臓の鼓動を確かめて息をつぐが、苦しさは増すばかりだった。マウイはハンバーガーのポスターを貼った壁に手をついて体を支え、立ちどまった。息を大きく吸うと一層苦しく、階段に坐り込んだ。マウイの眼の位置から外が見えた。マウイは眼を閉じた。耳に入ってくる街の騒音が、フジナミの市での高台の夏芙蓉に群れる金色の小鳥の、高く透明な鳴き声のように波を打つ。  オリュウノオバは中本の一統に生れた黒い肌の子マウイが、いま東京の空の下で中本七代に渡る仏の因果の徴が現われ出るのを、わが事のように苦しい息を感じながら見つめていた。オリュウノオバは黒い肌の子に言いたかった。苦しい息はいま初めてではない。畏れる事はない。産道を通りこの世のとば口に待ちかまえた路地の産婆オリュウノオバの手に抱き止められるまで、無明の闇で息をこらえていたはずだった。オリュウノオバは苦しげに荒い息を吐くマウイに声を掛ける。オリュウノオバは何故マウイが息をつぐ事も苦しいのか、何もかも知っている。路地の産婆オリュウノオバは終日うつらうつらしながら、元気な時同様に日毎に巡ってくる路地の者らの祥月命日を思い出し、誰々の子、誰々の一生を思い描き、まるでオリュウノオバの枕元でその子の一生がそっくり再現されでもしているように喜びにも苦しみにも同じように声を震わせていた。  オリュウノオバは、肌が焼け焦げて生れ落ちたようなまぎれもなく中本の血の子マウイを、その頃はすでに半蔵も三好も若死していたので一層不憫にも思うし、期待もかけていた。生れ落ちてすぐにその子を路地の外に出したのは、オリュウノオバの配慮以外何ものでもなかった。オリュウノオバはこう考えたはずだった。路地の昔からある言い伝えどおり、総じて色事にたけているが歌舞音曲で暮らした淫蕩な血の応報のせいか、美男ぞろいの中本の一統の若衆が若死するのは、中本の若衆が路地に長くいるからだ。それなら、色が抜けるように白い半蔵とも三好とも違った黒い肌のその子を路地の外に出してみる。もし路地の外で育ったその黒い肌の子も中本の仏の因果からまぬがれる事が出来ないというなら、せめてその子に半蔵や三好と違う生き方をさせてやりたい。オリュウノオバは秘かにその子マウイが、仏の因果をものともせず生き抜いて、自分の枕元に来て北海道で殺されたという達男の真実や、ベノスアイレスに出かけたまま消息を断ったオリエントの康の本当の姿を確かめて伝えてくれるのを心待ちにしていた。  オリュウノオバは立つ事も出来ず、息をする事も出来ず、ただ往来を見て、波をうつ金色の小鳥の群の鳴き声を耳にしているマウイに、「死んだりせん、オリュウノオバが言うんじゃさか、死んだりせん」と声を掛けるのだった。 「息の一つや二つ出来なんでも死んだりするものかよ。その齢で、まだ充分に無明を通り抜けて来た分を取り返す愉しみも味おてないのに。おまえの寿命そこまでと言うんやったら、オバがホトキさんにでもエンマさんにでもタテついて取り返したる。半蔵も三好もおまえの親の代の若衆や。何代、因果を払ろたら気が済むんな」  オリュウノオバはうつらうつらしたままぼんやりとした明りの向うに坐ったホトキさんに向って直接声を掛ける。 「暗闇から出て来たもんを暗闇に送り返すの、誰も出来んど」  オリュウノオバは涙を流しながら声を出し、明りの向うに坐ったのがホトキさんでないのも知っているし、たとえよしんばホトキさんであったとしても、無明の外のこの世のとば口に立ってすべり出てくる子をあわてて抱き取るしか能のない産婆の自分の声は、闇夜に鳴く鴉のように醜い、意味のないものでしかないと知っている。オリュウノオバはマウイの顔をのぞき込む。マウイは額に汗を玉のようにかき、あえぐ。  マウイが立ちあがり、まだフラつく足で階段を降りかかって、階段の下にハンバーガーとミルク・シェイクのカップを乗せたプレートを持った二人づれの男女が階段をふさぐように迷惑げに立っているのに気づいた。マウイが二人の顔を見ると男の方が、「あんまり東京をキタなくするなよ」と敵意の見える言い方をする。 「ラリってよ。ラリるの、そっちの勝手だが、日本人に迷惑かかるだろうが」  マウイは一言でも黒という言葉を使ったなら殴ろうと思った。マウイは階段を踏みはずさないように壁に手をかけ、体を支えながら降りた。二人づれは階段に立ちはだかる形のままで、マウイの為に脇をあけようとしなかった。男のすぐ前まで来て、脇にどけろと言おうとする矢先、トミーが階段の下に来て、 「何してんだよ。ずっと待ってるのに」  と声を出す。男が振り返った。その時、マウイが階段を踏みはずした。プレートがマウイの体に当って飛び、そのままマウイは男にぶつかり男をおさえ込む形で下に転がった。階段の一等下の壁に頭を打ちつけた男はあおむけになったまま条件反射のようにマウイに殴りかかった。トミーがその男の顔を靴で蹴った。血が吹き出た。マウイは起きあがった。マウイの足をつかもうとする男をトミーはまた足で蹴る。 「しょうがねえだろうよ。知ってて転んだんじゃないから」  トミーは男を蹴りつづける。女が悲鳴をあげてトミーは逃げようというように合図した。トミーはマウイを突きとばすように外へ走り出ろと教える。トミーのオートバイに乗り、コの字型に大通りを廻ってから、建設中のビルの角でマウイはいまさっき経験した事を伝えた。トミーはオートバイのスピードを落し、「まだ苦しい?」と訊いた。 「すこしだけ」  マウイが大きく息をつぎながら答えると、トミーは「そうなんだ」と独りで合点したように言って、「休もうか」とオートバイを停める。  そこは七階にディスコのあるビルの前だった。トミーは一階の角の硝子と金属だけのバーに入った。 「ここ、結構、エンジェルの仲間使うの。この間なんか、ここで東京のエンジェルとN・Yのエンジェルの集会開いたよ」  トミーはマウイの顔を見つめながら言う。 「N・Yから来た奴、写真はカッコよかったけど、実物は一つもカッコよくないの。茨城、埼玉とか栃木とか場末の、お客さんがあんまり入んない動物園の熊みたい。毛が抜けちゃって残っている感じ。毛だらけだけど。それに赤毛だからみっともない」  トミーはくすりと笑い、マウイに、「大丈夫?」と訊く。 「息が出来なかった。初めてだよ」 「初めてでしょ」  トミーが念を押すように訊く。マウイがうなずくと、「やっぱり」と声を出し、それはブードゥ教の信者のハナオカが唖でアンドロギュヌスのケイからマウイの事を訊き出し、霊波でこらしめに来たのだと言う。 「ケイがハナオカさんに抵抗したんだ。たぶんハナオカさんはケイをぶって、一緒に誰がいたかって訊き出して、それでマウイを知ったからそんな事をやったんだ。N・Yの熊みたいなやつもやられたよ。本当はケイが誘ったんだけど、あいつ自分がぶたれるの厭だから、ハナオカさんにN・Yのエンジェルの熊にレイプされたと嘘ついた。もっと本当は、ケイがN・Yの熊二人と姦ってるって教えたの、俺らだけど。ハナオカさんがアジトに戻った時、熊二匹は満足して帰った後だったけど、ケイが姦んないって言っても一目瞭然だよ。あいつら街で手に入れた電動コケシとかシビレフグとか、使ったもの置きっぱなしだし、ケイって、それを見れば、ハナオカにすぐバレるって気づかないんだもの。熊の二人、上のディスコで踊っていて、締め上げられて七転八倒してるの」 「ハナオカさんって超能力あるんだ」マウイは訊く。 「だからブードゥの信者だから」トミーは声をひそめる。 「ケイって本当は可哀そうだよ。自由がないだろ。俺らだっていったんエンジェルに入ったらそうさ。自由がない。エンジェルなんてオタスケマンの仕事、イヤだと思ってエンジェル辞めるって言いに行くと、よくってリンチだね。本当は血を抜かれる。みんな奴隷だな。あいつらから逃げるのに、殺すしかないと思う」 「ピストル持ってるやつ、知ってる」  マウイが自殺用か家族惨殺用にかピストルを持っているというアキラを思い出す。 「俺たち、奴隷だよ。ピストルで撃ち殺すしかないよ」 「借りりゃいいんじゃない。アキラなら貸してくれる」 「でも見つかんないかな。あんまり大袈裟にやると、あいつテレパシーわかっちゃうからバレちゃう」  マウイは思わず、「大丈夫だよ」と声を荒げた。  マウイはトミーの言葉を信じなかった。マウイはそれはフジナミの市の向う、路地で言われている自分の半分の血の因果がこの齢になってはじめて体に顕われ出た徴だと気づいていた。息が詰まり、あえぎながら、マウイははっきりと自分が中本の一統の若衆の一人だと思い知った。  マウイも耳にした路地の中本の血の一統は、ケンキチノオジの言う南洋の楽土ダバオでの昼日中から歌をうたい、遊び暮らす者らにあたうる限り似ていた。それをトミーに言いたい。マウイは息の苦しさがまた自分を襲うと思いながら、言葉をさがす。 「ハナオカなんかピストルで撃っちゃえばおしまいだよ」マウイは言う。 「息苦しくなって、喉とか心臓をぎゅっとわしづかみにされた感じになったの、ブードゥのハナオカのせいなら、怖くも何ともない。百回でも殺してやる。もっと怖いんだ。テレパシーとかヴァイブレーションとか霊波なんかよりもっと畏いやつ。たとえばディスコばっかしやってるとか、歌とか楽器ばっかしやってる奴の天罰。踊りだとか音楽って血がざわめくでしょ。女なんか踊りの上手な奴いたら目の色変るじゃないか。俺なんか生れつきそうだよ」 「音楽とかディスコの罰なの?」 「そう。その罰。ケンキチノオジって人に聴いたけど、そこは元々、夜になれば目の色が変って、体が冷たくなって獣みたいに変る悪霊の住む土地だったんだって。昼間も夜も、風景は狂うぐらい美しい。そこの土人は女も美女ぞろい。男も美男ぞろい。だから姦り狂っている。南洋の楽園だからトロピカル・フルーツはどっさりある。だから働かなくっていい。土人が働くのは楽器をつくる為に木を切ったりする時だけ。木を切る音も、カーン、カーンじゃなくって、スカーン、スカーンって響く。木を切りながら踊ったり歌ったりする。俺の血の半分はそこの血が入っている」 「黒人じゃないの」 「黒んぼの土人」  マウイが言うと、トミーはふーんと疑いもせずに納得する。マウイはそのトミーにケンキチノオジが目撃した不思議極りない話を教えた。  ケンキチノオジは美丈夫ぞろいの土人の若衆らがスカーン、スカーンと斧のひと振りで斬り倒せるほどの柔らかい木の幹で楽器をつくっていく過程を目にしたのだった。若衆らは楽器の胴体を作り終えると赤や青の貝をはめて細工し、弦を張った。音を鳴らすたびに天気が変った。若衆らが興に乗り、歌をうたいながら楽器の弦を弾くと雲が乱れ、空がかきくもり、ヒョウさえ降った。ケンキチノオジは土人の若衆らと天空の秘儀を見てしまったようで怖ろしくなって逃げて帰った。マウイは話しながら、ケンキチノオジが見たその若衆の中に自分が混っている気がした。 「音楽とかダンスとか、本当は普通の奴、やっちゃあいけないんだ。ダンスが特別に上手だし、音楽が好きでしょうがないそこの土人は夜になると目が光って悪霊に戻る。そこの土人は早く死ぬって」 「マウイは夜になると目が光って悪霊に戻るの」  答えないでマウイはトミーをみつめる。そうかもしれない、とマウイは声に出さずに独りごちる。トミーはマウイを見つめ、ふと往来を見て、見てみろと合図した。  黒人が二人、歩いていた。マウイは失望した。あの黒人は百%の黒人でマウイのように五十%オリエントの血が混っている黒人ではない、と言おうとして、その向うの道路に停ったベンツの脇に立った背広姿の男がタケキなのに気づいて、思わず目を疑った。 「あいつ」マウイは立ちあがった。 「いま、ベンツに乗って降りて来た」  トミーは言い、それから歩道を歩いて三つ先のビルに入って行こうとする少年を指差す。 「あいつが運転したんじゃない」  マウイはその少年がアキラなのを知った。マウイは店を出た。後からトミーが従いて来て、 「あいつ、どう見てもホスト・クラブのボーイの格好だよ」  と笑う。マウイはベンツの脇に立ったままのタケキを見つめたまま歩み寄った。マウイが声を掛けるより先に、ビルの中から足早に出て来たアキラがマウイを見つけ、 「いたじゃない」  と声を掛けた。マウイはタケキを見つめて立ち止まった。タケキもマウイを見つめる。タケキはえりの広い背広を見ろというように手をひろげ、吹き出す。 「俺にひどい事、言ったのに、あんたとハグレたって俺にさがしてくれって泣きついたんだから」 「ジゴロ会に入った?」  マウイが訊くと、アキラは、 「俺、口説いたのはあんたで、この人じゃないよ」  と言う。 「車の中にどっさり花束入ってる」  トミーが言う。アキラは同じ齢格好のトミーの物言いの幼さに苦笑する。 「そりゃ、そうさ。ジゴロ会でナンバーワンを保持しようと思ったら、おツトメできない日はせっせと花束贈るぐらいするよ。そこのビルの女社長も、花束もらってニッコリしてた。丁度、社長室に客、来てたから、急遽、超高級花屋のデリバリー・ボーイのフリして、誕生日の花束です、って届けたんだけど。ドアの外まで追って来て『あら、幾つの誕生日かしら』だってさ。俺は正確に一分、ドアに押しつけて、女社長に握らせて『ずっと待ってるのに』ってやる。ホラ」  アキラはズボンのチャックをおろす。半勃起状態の性器がのぞく。 「中に何もはいてない。俺、十八だよ。何だってやっちゃうよ。チンポコにふりかける香水、ひとビン、空にしちゃう」 「車の中でふりかけとるの」  タケキが苦笑する。 「それもこれもこの混血《メステイーソ》の大物、釣る為じゃないか。ロング・ハリーだってマウイがジゴロ会に入れば久々のスターの誕生だって太鼓判おしてる。俺なんかマウイのワンマンショウ見てから、ずっとあの客もこの客も取られちゃうと思ってるんだから。そのマウイをさがす為に今日は花束だけ贈って廻ってるんだから」 「背広なんか着ているから、タケキがジゴロ会にスカウトされたと思った」 「花束のデリバリー・ボーイ。厭な客だけ、タケキに行ってもらう」  アキラは言う。タケキは苦笑する。 「怒ってると思った」  マウイがタケキの和んだ表情に安堵して言うと、マウイの耳元にタケキは口を寄せ、「まァ、えらい商売じゃ」と方言を使う。 「おまえを捜す手伝いをするからしばらく御無沙汰するという合図だと言うので手伝ったら、三人三様に違う。一人目はヒステリー起こして、花たたきつけた。二人目はそうなれば誰でもいいと俺に迫り、俺があかんと言うと口でしたると言う」 「やってもらったって」  アキラが合の手を入れる。タケキはバツ悪げにマウイを見る。 「三人目は捨てられたと泣き出す」 「その三人目をまたなぐさめて、今度は姦ってしまって、金までもらった。後で俺に報告すんの。他に恋人居るのか。商売なのか。訊かれて正直に答えて、三日に一度会って欲しい、一週間に二度でもいい、ツバメになってくれって口説かれて、今度から俺のかわりに出入りするんだって。ジゴロ会のアキラに金つぎ込みすぎた、もう何人もの女の影チラチラ出されて、シットでのぼせあがらせて金引き出すのには疲れたって。タケキに言ったのさ。疲れたってのは金がなくなったって事だから、いいのさ。金で始ったんだから金がなくなりゃ終ればいいんだ。お客の方だって、あきりゃ別なのを金でつかまえるだろうし」  アキラをじっと見ていたトミーが不意に、 「ピストル持ってるの」と訊く。アキラは急に黙り、大きく息をつぎ、「マウイから俺の話、聴いたの?」  と言う。 「ピストル持ってるって聴いた。俺に貸してくんない? 殺したい奴、居るんだ」  そこまで言ってトミーは言葉に詰まり、涙を流す。 「殺したいよ。マウイだって殺したいよ。ケイと姦った奴、殺したいよ。N・Yの熊の事しゃべったのもボクだし、マウイの事、ハナオカさんにしゃべったのもボクなんだ。ケイって唖だからしゃべれない。マウイが苦しむの、知ってたから、ハナオカさんにしゃべった後、すぐマウイの後つけてオートバイに乗っけたんだ。ハナオカさん、ボクがマウイの苦しむの見てすぐ戻ってこないから、裏切ったと知ってボクを殺すよ。エンジェルの奴、いっぱいいるし、ボクもマウイみたいにされる」 「何、苦しんだ?」  タケキがマウイに訊く。マウイはハンバーガー屋での体験を話した。タケキはマウイの顔を見た。 「顔色すこし青いのか? 黒いから分かんないけど、何かやつれた感じする」  マウイは苦笑し、タケキにではなくマウイのワンマンショウを見て感動したというアキラの耳元で、 「ブルック・シールズみたいな金髪のアンドロギュヌスと、二発、いい目して来たから」  とささやく。 「耳元で言われるとジゴロの俺でもボーッとするよ」  アキラが言う。そのアキラにトミーが涙を目に浮かべて、 「ケイと姦ったマウイなんか殺しちゃうから。ピストル貸してよ」  と言う。 「俺だってマウイ殺したい」アキラがつぶやく。 「俺も」タケキが言う。 「今日、こいつ、男の俺が見てもセクシーだよ」  タケキが言うとアキラが思いついたように、ガードレールをとび越え、ベンツの後部座席の花束を、外に無造作に放り出す。アキラはベンツに乗れと合図する。 「よし、今晩はマウイの為にヘロイン・パーティーやっちゃう。全部、俺が金持つから、俺がマウイの黒い腕に射つ」  ヘロイン、という言葉を耳にしてマウイは興味がわいた。タケキがやめようというように素早く合図を送ったが、マウイはかまわずアキラに誘われるままベンツに乗り込む。 「しょうがないよな」  何を言っても甘い言葉の方に体が動いていくのはマウイの黒い肌のせいだと言うように舌うちし、タケキはマウイに従いてベンツに乗る。ベンツはすぐ走り出した。後部座席にあった花束を路上に放って来た、とアキラがフェンダーミラーを見ながらつぶやき、今、花束が車に踏み潰された、と言った。 「タダじゃないんだぜ。俺が肉体労働して稼いだ金で買ったんだぜ」  アキラはひとりごち、自分の言葉に苦笑した。 「肉体労働だって」  タケキがへきえきしたように、 「俺なんかだったら一日だってやってられない」  とつぶやくと、 「そうだろ」  とわが意を得たりというように言う。 「十八って言うの、まだ何んか希望持ってるよな、何んか楽しいよな。俺なんか何にも楽しくない。高級ホテルのスイートに泊るだろう。心で何思っているのか知らんが、常連客の恋人だって言うんで俺はかしずかれる。俺は下着なんか持っていない。部屋にいる時はスッポンポンの上に、バスローブはおってる。外へ行こうかって時は、白の上下のスーツに、シャツは絹のブルーとか白。胸はだけて青とか緑のペンダントしてな。足はノー・ソックス。白いスリップ・オン。ホテルで俺は完全にリゾート地のジゴロだよ。たぶんマウイだって、タケキだって、若いやつなら完全に似合う。二流のホストクラブのホストなら、高級ホテルに行けば気取りきってんの。だけど一流ジゴロは違う。高級ホテルが船橋ヘルスセンターじゃないってふてくされてる感じ」 「つまらないよな」タケキが言う。マウイが「つまらない」と曖昧に相槌をうつ。 「つまんないって?」アキラが訊く。 「つまんねえもん」タケキが嘲るように言う。 「おまえじゃないよ、マウイに訊いたんだよ」 「つまんない」  マウイはどうでもよいという返事をする。マウイはそれっきり黙った。アキラはマウイの言葉を待ち受けていたが、それ以上言葉が浮いてこないので黙ったままでいた。アキラはそのマウイの沈黙に刺激されたように、後部座席に乗った二人に断わりもなしに高速に入った。  東名高速のゲートを越えてから、「見せてやるよ」とアキラは独りごちた。品川を越え多摩川を渡ってから、アキラは運転しながらボックスを開け、眼鏡拭きに使うようなベルベットの布に包んだものを取り出し、右手に握った。 「いつもズボンのベルトの内側に突っ込んでるけど、今日はズボンの生地薄いからすぐバレちゃうので車に入れてた」  アキラはそう言って、左手に握り直す。 「見てろよ。モデルガンじゃないんだから」  アキラはそう言って、スピードを加速させ、窓を閉め切り、右手をのばして座席のクッションに当てる。アキラはひき金をひく。煙が上がり、きなくさいにおいが立つ。筒口を離すと座席に黒こげの穴があいている。 「ほら、見ていいよ」  アキラはピストルをマウイに手に取れと言う。マウイがちゅうちょしていると、タケキが手に取る。 「撃ってもいいのか?」  タケキは訊く。アキラは思案するように黙り、決心したように、 「いいよ、だけど外を撃て」  と言う。 「外なんか撃ったら見つかって警察問題になるだろうが」 「だから、いいんだと言ってる。調べて追っかけてくる頃は、全部、俺は解決してるんだから」  アキラの言葉を聴いて、「じゃあ、何、撃とうかな」とタケキは思案する。窓を開け、首をつき出してのぞき、後から追越しをかけてきた大型トレーラーを見る。 「あれ、やっちゃえよ」アキラは言う。 「ようし」タケキは両手でピストルを狙う。 「一番前のタイヤ」タケキは言う。 「もうすこしスピードあげて前に出てやるから、ヘッドライトの方が音がして面白いよ」  アキラはそう言ってスピードをあげ、車線をまたぐ形で走り続ける。タケキがピストルをかまえて身を乗り出す。トレーラーの運転手が気づいたらしく、ヘッドライトを点滅させ警告する。タケキは撃つ。音と、トレーラーのクラクションが鳴るのが同時だった。フェンダーミラーで見ていたアキラが、「やった」と言い、「逃げるぞ」とフル・スピードで走りはじめる。  横浜で高速道路をおり、タケキはそのまま中華街まで走り、車を停めた。マウイとタケキに「待っててくれ」と言い、中華街の脇の麻雀屋に入っていく。すぐ走り出て来て、マウイとタケキに来いと手を振る。 「えらい一家だよ。一家で賭けて麻雀してる」  アキラは言い、ドアを半開きにし、 「お母さん、ボクの友だち連れてきた」  と声を出す。中からどっと笑い声が起こる。 「入れよ」  アキラは言う。煙草を口に咥え、ぷっくりとふくれた横顔の綺麗な女が自分の手を見つめ、決断したようにパイを放り、「ほら、煙草に火をおつけよ」と隣の男に言う。隣の男は火をつける。 「お母さん」  アキラが言うと、 「待っといておくれよォ、泣かないでおくれよォ、あんたよりワチキが火がついちまったんだからァ」  とパイをみつめたまま言う。隣の男がわらう。 「お母さん、友だち連れてきたよ」  間髪入れず、 「あら、そう。アキラにしては珍しいねェ。子供の頃からワチキを羞かしいってひとりも連れてこなかったのに」  と言う。 「ハナエちゃんがツトメの邪魔になるから連れて来るなって言ったんだろ」 「あら、そうかしらねェ」  男が言うと、アキラの母親が声を作って言う。 「いつもロクでもない男をくわえ込んじまってさ。皆なワチキにつくしてくれたけどさ、くわえた男、くわえた男、死んじまったり、破産したりしたのよ。五十になってつくった彼氏なんか、自殺しそこなって、大ケガしちゃってさ。保険会社と喧嘩して、やっと事故だと認めてもらったから、あの人足一本なくしてくれたおかげでノンビリ麻雀を打てると思ってるとさ、横からさっと本妻が保険金を横取りしちゃってさ」 「お母さん、こっちを見なよ」  アキラがどなると、声色を変え、 「何だよ、人の恋路を邪魔する気かい」  と早口でなじるように言い、しかめっ面で顔を上げる。母親はタケキを見て笑をうかべ、「いい男だこと」と馬鹿にしきったように言い、次にマウイを見て、「あら、外人さんの友達」と言う。 「わかった、アキラの同じジゴロ仲間でしょ。ステキねェ。アキラだってこう見ると、ステキだわ。よろしく」  何もかもが芝居だというように、母親は、 「さあ、心おきなくやろォ」  と男らに言い、手のパイを見つめウーンとうなる。 「殺してやるから」アキラはつぶやく。 「そのうち殺してやるから」アキラはどなる。 「うるさい子だね。そんなのとっくに分かってるよ。殺すんだったらさっさとやってくれ。いつまでもピーピー泣いてばかりで。ああ、ハナエは死んでしまいたいよ。いつもこんな手だからね。ワチキはいつも運に見放されている」  アキラの母親はそう言って麻雀を投げ出すように立ちあがった。 「また負けた。バク才がないから」アキラは鼻でせせら笑う。 「ちょっと話がある」アキラは母親の手を引っぱる。 「抜けられるはずがないでしょ」  母親はアキラの手をはずし、逆にアキラの腕に手を当て、ふと思いついたように、「ヤスミちゃんがさがし廻っていた。電話代が要るって」と言う。 「お母さんが払ってやればいいじゃないか」 「お金持っているなら麻雀なんかやるはずないでしょ」 「この間の金、どうしたの? その中からやればいいじゃないか」  母親はアキラをねめつける。元々色が白いので薄く白粉を塗り口紅をひいただけなのにくっきりと映える。顔と言わず体と言わずぷっくりとしているが、アキラに似て整った顔だちだった。 「ヤスミちゃんじゃなくサブローさんが頼んでくるなら今でも渡すわよ。でもこっちだってサラ金に追われてんだから。ヤスミちゃんの言い分なんか知らないね。あっちはワチキの為にサブローさんがサラ金から借りてつぎ込んだと言ったって、もう切れてるんだから。カンさんと一緒なんだから」 「一緒の家に暮らしてるんだから、サブローさんに渡してもいいじゃないか」 「じゃあ、あんたが連れて来て。サブローさん、ここへ連れて来て」  麻雀のパイを男がかきまぜながら、「昔の彼氏の名前出して、心おだやかじゃないゾー」と声を掛ける。母親は取り澄した顔になり、「あら、そう」と言う。 「連れて来てくれるのなら早くしてよ、どうせ負けるんだから。カンさんの分だって払わなきゃ」  アキラはたまりかねたように、 「いい加減にしてくれよォ」  と言う。アキラは振り返り、マウイを見る。 「なあ、撃ち殺したいの、分かるだろ。このバカな母親のおかげで、俺が苦しみ抜いているの分かるだろ」 「あら、そうかしら」  母親は舌を出し、マウイを見てウィンクをする。 「この女は、俺を女だったらいいと思い続けて来たんだって。ずっと俺はこの女のパンティーから肌着から何から何まで洗濯させられて来たんだよ。男に機嫌取るのに熱中してアンネナプキンまで俺に買いにやらせる」 「そうしないと、男、逃げちゃうじゃないか」 「いつも電話が鳴ったら、おまえが女の子だったらいいのにと言うの。女の子だったら、母さんと二人で手分けして客を扱えるし、年取ったら俺一人にまかせて安気に暮らせるって」 「あら、それはアキラがワチキに言ってくれたんじゃないの」 「言わねえよ」 「言いましたよ。時々、母さん、化粧してよって言って、化粧してあげると喜んで鏡に写していたじゃないか。母さんと並ぶと、どっち綺麗に見えるかって訊いたじゃないか。ワチキは自分の子供でも自分より綺麗だというのしゃくだから、男の人の眼は顔ばかり見てやしないのよ、って言ったよ。今でもヤスミちゃん、家にいたって一向にかまわないのは、正直、不細工だからだよ。サブローさんは色男なのにヤスミちゃんがブスだから、出来た子供みんなブスばっかり」 「ババアのくせに」アキラは言う。 「あら、ババアかしら」 「ババアだよ」 「ひどいわよ。アキラ。ねえ」  と母親はマウイに素早くウィンクする。マウイはウィンクを返す。母親は驚いた顔をし、後を振り返り、パイをかき混ぜ終って母親が卓に帰りつくのを待っている男の一人に、 「カンさん」  と抑揚をつけて呼びかける。 「また、イイ男、見つけちゃったァ。わたしが遊んでいる間、ヤキモチ焼かないで待っててくれるゥ」  母親の隣の席の男は半ば冗談、半ば本気の状態で、 「ああ、いいよ。麻雀代出してくれるって言うなら」と不貞腐れたように言う。 「いいわよォ」  母親は言い、何を思ったのかマウイのそばに歩み、 「こっちへいらっしゃいよ」  と腕を引き麻雀卓の方に連れていこうとする。一、二歩、歩きかかった時、アキラがマウイを突き飛ばしかかった。 「何するの」  母親は声を上げ、タケキもマウイを被うように、 「おい」  とアキラに近寄った。瞬間、アキラが激情に襲われるのが分かった。アキラは、 「この黒んぼ野郎」  とマウイを突き飛ばした。 「アキラ、お前は」  と母親はどなった。マウイは態勢を立て直した。だがすぐアキラに胸倉をつかまれる。 「止めろ」  とタケキが仲に入った。胸倉をつかんだ手を離した。 「撃つぞ」  とアキラは言った。タケキは立ちすくんだ。マウイも、アキラの手に握られているのが、高速道路で大型トレーラーのヘッドライトを撃って威力を試してみたピストルだと知り、立ちすくんだ。麻雀卓にいた男らは騒然となった。 「アキラ、あんた、何してるの」 「うるさい、ババア」 「その子、あんたの友だちでしょう。その子が何したと言うの。何にもしていないのに、その子はあんたと一緒に横浜に来たばかりだというのに」  母親は泣きわめくように言い、 「止めて」  とアキラの肩に手を掛けかかった。  一瞬の事だった。アキラは身をねじり母親の乳房に銃口を突きつける形で撃った。母親は吹き飛び、空いている麻雀卓に身をぶつけ、床にずり落ちた。その母親にアキラはもう一発撃ち、母親の方へ寄ろうとしたカンさんと呼ばれた男の額を狙い撃つ。男は人形のように倒れる。後の二人を狙い撃とうとして、アキラは不意に気づいたように、「行くぞ」と声を掛け、先に麻雀屋を飛び出す。マウイとタケキも走り出た。アキラは車の脇に立って鍵でドアを開けようとしていた。混乱し手が震え、鍵が穴に入らなかった。タケキとマウイが車に走り寄ると、アキラはマウイにピストルを突きつけ、 「運転しろ、言うとおりしないと撃つ」  とどなる。マウイはホールドアップし、混乱したまま、運転は出来ないと首を振る。子供の頃からマウイはそうだった。興奮しすぎると訳が分からなくなった。タケキがマウイが黙ったままなのを見て、「俺がやる」と申し出た。タケキとマウイは前に乗れと命じられた。アキラはピストルをタケキの後頭部につきつけたまま、横浜から東京まで高速道路を駆け抜けさせた。  渋谷で高速を降り、ピストルを突きつけたアキラの言うまま右に曲がり左に曲がり、車はマンションの駐車場に入った。エレベーターに乗り、十五階まで上り、奥の部屋の前に立って、アキラはタケキに突きつけたピストルをはずした。 「もういいよ。お前ら帰るのなら帰っていい。この部屋、警察つきとめるまで三日かかる。もっとかかるかもしれない」  アキラは言い、鍵をポケットから取り出し、 「入る?」  と訊く。マウイはうなずく。アキラは上着を脱ぎ、ソファに坐ってから、 「遂にやっちゃったよ」  と言う。 「やろうと思って行ったんだ。ずっと計画してたし、この前も、今日も、マウイの顔見たら、どうしてか分からないけど、あのハナエちゃんの事、思い出して、ついに今日、やった」  アキラは混乱した話し方をする。マウイも同じように混乱する。 「二発、ハナエちゃんに撃ったろう。一発目で即死だったけど二発目で体がピクッと動いたろう。あれ、ハナエちゃんの子宮が死んだからなんだ。俺はそう思ってた。車の中でずっとそう考えた。俺しかそこにいた事なかったけど、色んな奴のタネが入り込んでいった。男、何人もいるよ。バカだから、男、金なくなったってつきあって、俺がかせぐ金、全部、つぎ込んでいる。俺のヒモがあいつで、あいつのヒモが、ダメ男らなんだ。あいつの一番幸せな状態だよ」 「何でいきなり逆上した?」  マウイが訊くと、 「ギャクジョウ?」  と訊き返す。マウイは黙り込む。アキラは黙り、それから立ち上がり、 「シャワーあびてすっきりしてくるよ」  とシャツを脱ぎはじめる。 「足カセ、手カセ、つけられていたの取れたんだからな。俺は今日かぎりジゴロを止められる。自分だけの楽しみでオマンコ出来る」  アキラは一人でしゃべりながらブリーフ一枚になり、隣の寝室に入って着替えを持ってくる。 「おい、マウイ。見てくれよ。俺はジゴロやめる時の為に、この服、上から下まで全部買っていたんだ。十八の普通の服だよ。靴だって、ほら、こんなにダサイの。この部屋の持ち主のババア、俺がここに居ない日に来た時、いつも調べるって。この服着て靴はいて出ていくからって言ってあるから、これがあると安心する。女ってかわいいよな。幾つになっても、どんなにエラくったって変んないの。調べる時、不安なんだって。ドキドキするって。だから、俺はこれを着て出てってやる。ここに服脱ぎ散らかしてな。小鳥、飼ってた事なかった?」  タケキが、「飼っとった」と方言を使う。 「逃げちゃったら虚しいよね。アレ。羽根みたいに服散らかして、何にも持ち出さないで」  アキラは洗面所に湯を張りに行く。湯の音がする。その湯の音に混って呻き声がする。呻き声が絶え、顔をぬらしたアキラが出てくる。 「緊張して吐いちゃったよ。俺はお母さんにずっと奉仕して来たんだって思ったら吐いちゃう。子供の時はホテルまで連れていって、お母さん、俺を寝かせると、客と姦っていた。お母さんは客にすぐ惚れ込んでしまうコールガールだから。小学校に行く頃からまるで女の子のように炊事、洗濯やった。俺のお客なんか、お母さんと較べれば扱いやすい。わがまま言ったってしれてるし、第一そのわがままって、こっちの気を引く為だから」湯の音が変る。アキラは洗面所に入っていく。しばらくして、「マウイ」とアキラの呼ぶ声がする。マウイがどう答えようかとタケキの顔を見ると、 「行って背中でも流してやれ」と言う。 「何でだよ?」  マウイは訊く。 「だってあいつの母さんがおまえにウィンクしたり、おまえがウィンクしたりしたから、親を撃ち殺してしまったんだろう。誰だって友だちと母親がウィンクするの見たら、逆上してやってしまうど」 「そんな事」  とマウイは絶句する。 「マウイ」  またアキラが呼ぶ。 「何だよ」  マウイは心苦しくなりながら、洗面所のドアを開けた。アキラは素裸のまま鏡に向って髭をそっていた。 「俺、死なないよ」  アキラは言う。 「そうなの」  マウイはつぶやく。 「それからさァ、約束したようにちゃんと極上のヘロイン手に入れて、ヘロイン・パーティーやるからさ。俺が出た後、シャワー浴びればいいよ。服なんか、どの服、着たっていいよ。欲しけりゃ、みんな持ってていいし、俺のかわりにここのババアとつきあってやってくれるなら、ちゃんと紹介してやるよ」  マウイはアキラの顔を見つめる。 [#改ページ]     4  アキラはマウイが自分の言葉にどんな反応を示しているのか確かめるように振りかえる。アキラは声を低め、また鏡に向きあった。 「何だって持ってていいんだぜ。ここの物、みんなあのババアが俺の為にくれたんだから。どんなババアなのか顔見たいって言うなら、ひき出しの中にどっさり写真貼ったアルバムあるよ。本当ならそんな写真なんて放り棄てたいけど、純情なとこ見せなくちゃなんないから、一枚一枚アルバムに貼ったんだ。想像してくれよ。思い描いてみろよ。オレが写真貼ってんだぜ。十八のオレが四十八のババアの写真、大切そうに貼ってる。一発やって寝そべっているダブダブのケツの上にのしかかったまま、オレは小鳥みたいな声出して、ほら見て、とひき出しからアルバム出してやんの。この間、ボクが撮った伊豆旅行の時の写真。このスカートの中にいやらしい股とステキなあそこがかくれているんだ、そう言うとあのババア、言葉で酔ってもう感じている」  アキラは髭をそり終り、マウイに、「見てみる?」と訊く。マウイは言葉を返さず首を振る。「見てみない? ひき出しの中に、何枚かポラロイド写真、入っている。オレと姦ってるのと、あいつ一人の大股びらき」マウイは首を振る。  アキラの勧めに乗りマウイとタケキはシャワーを浴びた。タケキはすでにアキラから服をもらっていたのでそのまま脱いだものを着たが、マウイは着替えた。アキラの勧めるままリゾート地のジゴロのように素足に靴をはき、麻の上下のスーツを着た。  部屋を出る時、アキラは鍵をかけなかった。 「何でも分かっちゃうよ。あのオバアちゃんがこの部屋に来るだろう。オマンコふくらまして、鼻の穴をふくらませて、ここに立つんだ。まずチャイムを押す。返事がない。ドキン。それで鍵をあけようとする。鍵をあけようとして、あいているのに気づく。どきん。だっていつもオレ、部屋に鍵をかけるもの。ドアのノブを廻す。カチャ。あいた。それでドキン。玄関を見る。オレの靴がない。ドキン。オバアちゃんがもし心臓悪かったらクロゼットの中の取っておきの服調べるまでに心筋梗塞起こしているよ」  アキラはエレベーターに乗ろうとして未練があるように部屋を振り返った。タケキがアキラの未練を察したというように、「書き置きでも残してやればいいのに」とつぶやくと、「そんなに甘かあないよ」とアキラが吐き棄てるように言う。アキラはエレベーターに乗り込み一階のボタンを押す。 「ただかくれ場所に丁度よかったから、もったいないと思ったんだ。オレとあのオバアちゃんの秘密の部屋だから誰も知らない。警察だってそう簡単に見つけられない。あの部屋にかくれていたら、一カ月逃げられるけど、あそこを出ると一週間ももたないだろうなって。オレはいやだ。もういやなんだ。オレは自由なんだから、あんな部屋にいるの、いやだ」  エレベーターが一階で停ると、アキラは先に立って外に出た。 「ベンツは?」  マウイが訊くと、アキラは苦笑し、マウイの肩をたたく。 「マウイってこれだから好きだよ。ババアに買ってもらった物は何にも欲しくないと言ったろう。それにベンツ、乗り廻してごらんよ、すぐ捕っちゃう」  マウイとタケキがアキラに従いて行ったのは、広尾の地下にあるカフェバーだった。三人共、まだ体の周りからピストルのきなくさい硝煙と血の匂いが漂っている気がして、アルコールも食物も頼む気がしなかった。 「なにか頼みなよ」アキラはそれでもマウイに言った。マウイは炭酸ソーダを頼んだ。 「あ、オレも」  タケキが言うとアキラも同じ物を頼むと言う。ライムのスライスの乗ったペリエが三本運ばれてくると、「乾杯しようよ乾杯」とアキラが言う。 「炭酸入ってても水で乾杯するの、誰もしないよ」マウイが言うと、「知ってんの」とアキラが言う。 「どうせ短い命だから乾杯しようぜ」  アキラはそう言ってマウイの炭酸ソーダの入ったグラスにグラスを当てる。  すぐアキラは電話を掛けた。電話を切って五分とかからないうちに、男がやって来てアキラを呼び出した。アキラはマウイとタケキにちょっと席をはずすと断り、男と外に出た。  アキラは戻るなり、二人にカフェバーを出ようと言った。カフェバーから歩いて三十分ほどの距離にそのディスコはあった。まだ暮れ切ってもいないのでディスコの入口には誰も居なかったが、階段を下り切ると中から音楽が聴えてきた。アキラの後を従いて中に入った。いちどきに音が体をくるむ。マウイは一瞬何もかも忘れた。音に合わせてリズムを取る。自然に手足が動く。マウイは人気のないフロアの方へ歩きながら、ディスコ中に響く音楽がマウイの黒い皮膚の表面をマッサージするように当るのを感じ、音楽に出会うまで長い時間、重苦しい事を耐えてきたような気がした。アキラが自分の母親をピストルで撃ち殺した。マウイは信じられない気がした。 「ここに坐ろうよ」アキラが言った。 「ここに坐っていれば、オレの計画に乗ってくれる奴が来てくれる」  アキラはフロアに接して置かれたソファの真中に坐り、マウイとタケキに坐れと合図する。マウイはソファに坐った。音楽が鳴り響き、レーザー光線が飛び、色彩のついた光が動き廻り、撥ね廻るフロアには誰もまだ踊るものはない。タケキがマウイの耳元で、「女、来るのかなァ」とささやく。 「女いればいいけど、女いなくて俺ら三人でヘロインやっても、ひとつも楽しくないんじゃないか」  タケキがマウイの耳にささやいている間に、ロング・ハリーがフロアを横切ってやってくる。ロング・ハリーは手を上げる。ロング・ハリーはアキラに手を差しのべた。 「ハリーってあいかわらずトッポイよな、ヘロインを持ち込むのに、カラチ・ルートか、ベルリン・ルートかって思ってたら、ロシア・ルートを使って、フロアから来るんだもの」  アキラはそのディスコに出入りする不良グループの出入り口四つに、それぞれ名前がつけられていると言った。カラチ、ベルリンと名前のついた出入り口は非常口もかねているので、複雑な道をたどれば二つ隣のビルの駐車場にも出る事が出来る。アメリカン・ルートは正式の入口。ロシア・ルートは入口から従業員の更衣室、さらにカラチ、ベルリンにも抜ける事の出来る裏口。マリファナやヘロインの手入れがよくあるのでいつの間にか出入り口は客にそう呼ばれるようになったのだった。 「マジックみたいじゃない?」ロング・ハリーは言った。 「人が居そうもないところから、フロアにわいて出る。しかもヘロインを持って」  ロング・ハリーは片目をつぶる。 「ほら」  ロング・ハリーは小さな紙包みを胸ポケットから取り出し、フロアの端に立って広げる。紙包みの上の白い粉は光をうけてキラキラひかる。 「魔術だよ。アキラ。マウイ。苦しい事、全部忘れる天使の涙がこの粉を溶かした一滴だよ」 「天使の涙」アキラはつぶやいた。 「そう一瞬にこのフロアに天使が舞いおりてくれるのを見れるよ」  ロング・ハリーは、光を受けてキラキラ光る白い粉をこぼさないように注意深く持って、ソファに坐った。白い粉の入った紙包みを、身をよじって後のテーブルに置き、胸ポケットから注射針と小さなビンを取り出す。 「誰から行くって?」ロング・ハリーは訊く。 「マウイ」  アキラはマウイの名を呼ぶ。マウイは一瞬ちゅうちょした。 「アキラが先にやんなよ」マウイは言った。 「何言ってんだ。マウイの為にわざわざロング・ハリーに声掛けて一等良いやつを直々に持ってきてもらったのに。マウイが一等最初にやるんだ」 「でも、オレ、初めてだから」 「だからこのロング・ハリーが看護婦みたいに注射器と蒸溜水持って射ちに来たんじゃないか。こいつ、六本木とか青山の不良外人でも、ヤクの事になると右に出るやついないんだよ。こいつが自分で吟味したものを、自分の手で射つなんて絶対ない事だよ。マイケル・ジャクソンとかデビッド・ボウイなら分かんないが」ロング・ハリーは小さなビンのコルクのふたに注射針をつきたて中の液体を吸い上げる。吸い上げた液体を粉の上に垂らし、溶けた液を注射針で吸い上げる。 「天使の涙」ロング・ハリーは手元を見つめているマウイの耳元につぶやく。ロング・ハリーは顔を上げ、極く自然にマウイの腕に手を掛けた。 「麻のスーツ」ロング・ハリーは言う。 「スーツ脱いじゃいなよ」ロング・ハリーは言う。マウイは催眠術にかかったように、その麻のスーツはジゴロのアキラの商売着だと言われ、非難された気になり、素直に上衣を脱いだ。下には何も着ていなかった。ロング・ハリーは素裸の上半身を見て、「いいじゃないか。黒いオルフェみたいで」と言い、マウイの腕に手を当てこすり、持ちあげる。 「血管、分かる?」タケキが訊く。ロング・ハリーは顔を上げ、タケキを見、「肌が黒いから射ちにくいと言うのか?」と訊く。 「俺はプロだよ、プロ。ベトナムだってニューヨークでだって、まっ暗いところで射って来たんだ。ここは明るいじゃないか。ディスコの明りでギラギラしている。いいか、見てみろ」  ロング・ハリーはマウイの腕をつかんだまま、注射器を持った手の指で、血管をなぞりはじめる。 「ここに太い血管があるだろう、これはずっとななめに走って、ひじの脇に出る。その横の血管もだいたい同じ道を走る。昔は、敵のどこを切れば、出血多量で戦意を喪くさせ、殺せるかも研究した。軽く相手の首に触るだけで、動脈をさぐり当てられる」  ロング・ハリーは興に乗ったようにマウイの首を触り、指で押える。 「ここだよ、ここ。ここに一センチの切り込み入れれば動脈が切れて、マウイは一発さ」  ロング・ハリーはマウイの首を押す。タケキがふと我に返ったように、「やめろよ」と言う。「ここはベトナムじゃないんだぜ」  ロング・ハリーは、「ああ」とうなずいた。 「ベトナムより始末の悪いトウキョウさ」ロング・ハリーは黙ったままのマウイの顔をのぞき込み、「俺はやっぱしまだ黒い奴の方が安心するよ、トウキョウの黄色いやつって分からない」と言い、腕の血管を再度なぞり、一点にとめる。 「素敵な表情してるな。黒いオルフェだな」ロング・ハリーは注射針を一点に当てる。「いい目を味わわせてやる。天使がフロアで歌うたうからな」注射針が皮膚を破り、血管の中に入る。天使の涙が血管に混りあう。  一瞬、マウイはいつか東京にやってきた時、地廻りの幹部の知っている女の家でコケインをやった時の事を思い出した。その時はフジナミの市で知りあった空手の猛者の一人と一緒だった。体中が急に熱くなる。坐ってディスコの音楽を聴き、点滅する明りを見ていると体の中に渦がわき出し、血液がキラキラ光る金属の粒子に変ったように、くっきりと分かる。  オリュウノオバは思わず悲嘆の声をあげたのだった。年若いマサルの持って生れた好奇心のたま物とは言え、傷一つなく生れた肌に自分から傷をつける。オリュウノオバは、何故、子らが摂理にはずれた事をするのか、とうつらうつらしながら、考えた。女親の腹の暗闇の中から日の光の方にすべり出て来てオリュウノオバの手にうけとめられた子らは、摂理に反する事はなにもしなかった。乳を呑み、腹がくちくなると眠り、また乳を呑み、眠る。肌に針を立て異物を入れる。若衆らはえもいわれぬ愉楽を感じている。マウイもそうだった。光の点滅するフロアを見つめ、体中を愛撫するように空気を震わせる音楽に身をゆだね、その愉楽が体に有害な、一時的なものだと知っているのに、いままで天使の涙に出喰わす為に、不自由な体をひきずって来たのだという思いにふけっている。  オリュウノオバは愉楽に震えるマサルを見て涙を流し、さらにそのマサルが歌舞音曲を得意とし、どこから見ても非のうちどころのない中本の一統の血の美質がありあり出た形立ちなのを知り、肌の焼け焦げたマサルもまた中本七代の血の因果をまぬがれぬものでないのを知り、枕元にボンヤリと浮き出たホトキさんに言うのだった。  ホトキはマサルにヤキモチを焼いている。オリュウノオバのつかえてきた路地唯一人の毛坊主の礼如さんが生きている頃、オリュウノオバが若衆らを親身になって世話を焼き、心配しているのに、 「なんな、他所の事ばっかしして」  と当り、物も言わず経ばかりあげていたように、ホトキさんは信心をするわけでなく、木の股から自分一人で生れて来て大きくなったように振る舞う若衆を苦々しく思い、ヤキモチを焼いている。マサルが中本七代の因果から解かれていないのなら、摂理に逆らい、因果に逆らい、ホトキさんに逆らって生きてやれ、とオリュウノオバはつぶやいた。信心深いオリュウノオバにあるまじき言葉だが、路地の女らは、自分の手で取り上げた子の行く末を案じるオリュウノオバなら、ホトキさんにもつかみかかると分かっている。  マウイは次々と天使の涙を射つアキラやタケキを見ていた。マウイは自分の体が自分だけのものではなく、ディスコのフロアにあふれる光の渦や音楽にひそんだ姿の見えない天使のものでもあるような気がした。天使は何人もいた。ただはっきりと姿を見せず、すぐ光の及ばない影にかくれたり、音楽の震動の届かない物の裏にかくれた。物影から音楽のリズムに関係なく、手品のように夏芙蓉に群れる金色の小鳥の鳴き声をたてた。  フロアの中に女が一人現われてマウイを呼んだ。マウイはふらりと立ちあがり、光の渦巻くフロアに出てゆく。女が踊り出すのでマウイもステップを踏む。小鳥の声が耳につく。姿が見えないが天使らがどっさりフロアにあふれてマウイと同じようにステップを踏み、ついでにマウイの胸に触る。マウイは女と向いあって、体の内側に流れる金属の粒子に変った血液がつくり出す自然のリズムに身をまかせるように踊りながら、言い知れぬ至福感にひたされていた。マウイは眼を閉じた。フロアは天使らで一層混み入り、マウイに次々とぶつかる。頭上で金色の小鳥の群が鳴き騒ぐ。 「綺麗ねェ、カッコいいじゃない」女が言う。 「うん。まあね」  マウイは言う。女はマウイの胸を触る。 「ほら。汗でもはげないの」  マウイは眼をあける。 「黒んぼだからはげないよ」  マウイは言って女の顔を見る。一瞬、肝を潰す。女は顔中が焼けただれている。マウイは女の顔を見つめる。マウイは苦しくなる。このままではフロアの真中でまた倒れてしまうと思い、ソファの方にあえぎながら引き返そうとするとロング・ハリーがマウイの異変を察知したようにあわてて出てくる。 「大丈夫か?」  ロング・ハリーはマウイを支える。マウイはロング・ハリーに支えられた途端にふっと一瞬、気が遠くなった。ソファに戻ると、天使の涙をやったタケキが、「おまえ、胸に何つけてんの?」と億劫げに訊く。マウイはその時初めて見たのだった。  マウイは声をあげた。マウイは瞬時にして、胸にある物がなんなのか、気づいたのだった。それはフジナミの市で会った三人の空手の猛者と同じ青アザだった。まぎれもなく光が当ると、闇の中で青く蛍光色に浮き上がった。アキラもタケキも、突然マウイの胸に浮き出たそれが持って生れた数奇な運命の徴ではなく、ディスコの照明を計算して貼りつけた蛍光色のタットウの類のように眺めた。  ディスコに客が入り始めていた。ロング・ハリーは、青アザに興味を持っているというように、 「不思議だよな」と言う。 「フィリピンに男や女のダンサーをスカウトに行った時に、アメリカ人からそんな話、聴いた事あるけどな。そいつは昔の俺の仲間だけど、ギャルアンドガイのスポーツ・ジムでマッサージ・トレーナーをやっている。つまり女らにマッサージの仕方教えている。昔、俺と同じようにベトナムで仕込まれた必殺ワザを、女らに教えている。平たく言えばベトナムでの任務は終ったが、帰るに帰れずフィリピンの前線にいるわけだ。女らにマッサージ教えながら、CIAの下請けかなんかで情報を取り、どうすりゃ相手をいちころに殺れるか腕がなまらないようにやっている。そいつが、興奮してくると桃色に発色する女がいるとしゃべっていたけどな」 「俺もそうだ。興奮したから出て来たし」マウイがつぶやくと、タケキが、「やっぱり、ケンキチノオジの言ってたダバオの血だろうな」と言う。 「光ってるよな。ライト、当んなくとも、ボウッと光っている。ダバオの人間は夜になると何もかも変ると言ったぜ」  マウイはタケキの声を耳にしながら、眼を閉じる。マウイは混乱した。心の中で、ダバオの血がマウイに流れているから、青アザが今になって現われるのではないとつぶやいた。青アザは、空手をやるシムやタツヤやウタリがそう思っているように、何かの徴なのだ。しかも今になって、マウイの胸にあらわれる。  天使の涙にいかれたアキラが、マウイの脇でふるえはじめた。ロング・ハリーはアキラに小声でささやき、アキラがうなずくと立ちあがる。 「マウイ、車に乗って、もっと落ちついたところに移動しようって」  ロング・ハリーの運転するバンは随分長い間走りつづけた。ロング・ハリーがバンを停めると、アキラがまっ先に降り、暗闇に走っていって吐いた。ロング・ハリーがアキラをからかうと、アキラは、「俺に射ったの、ろくでもない代物だったんだろ」と応じた。 「ベトナム帰りのジャンキーのロング・ハリーも腕がなまっちゃってジゴロ会の仲間にまで非道いものつかませるようになったのだろう」  アキラはまだヘロインが効いたままのマウイとタケキに、暗闇の中に見える石段をあがり、家に入れと言った。石段をのぼりはじめて波の音がするのに気づき、マウイは振り返った。暗闇の中に黒々と海らしいものが広がっていた。石段の下でアキラがうずくまっていた。アキラ、と呼びかけるとロング・ハリーがマウイの腕を持ち、指で血管をおさえるように軽く力を込め、 「放っておいてやろうよ。あいつマザーを殺してしまったのだから」  と言う。ロング・ハリーは石段をのぼりながら、「母親いるの?」と訊く。 「いるはずねェじゃないか」  マウイは腕を触りに来るロング・ハリーの手を払いながら言う。 「ジゴロをやっているアキラじゃねェってんだ」  マウイが言うと、ロング・ハリーは面白い事を耳にしたと言うように笑う。  それは外人の夏の家らしかった。だだっ広い板間があり、脇に寝室が三つある。ロング・ハリーは海の眺めが素晴しいという海側の雨戸を開け、さらに反対側の木立の密生した裏を開けた。アキラは外で吐きうずくまったまま家に入って来なかった。ロング・ハリーは一人、勝手を知った者としてステレオをかけてクラシックを流し、マウイとタケキに酒を用意し、 「あ、これもやるならやっていい」  と小さな洗面具をポケットから出して、チャックを開け、中を見せる。中に、注射器と使い棄ての注射針、ヘロインの入った紙包みが幾つも入っている。ロング・ハリーは電話を掛けた。相手は気のおけない外人の女らしく、冗談を言いあい、そのうち真顔になり、相槌をうって切る。ロング・ハリーは、「俺、あいつら苦手だよ」と言う。 「厭な奴なんだ。夫婦で住んでるんだけど、金がないわけじゃない。退屈しきっている。遊びたいけど、普通の遊びじゃ厭なんだ。だからまず、俺が断れないキャスに電話よこして、旦那が大量にヘロインを買い込むのさ。金くさるほど持っているのに、金がないって言い張る。金がないのならどうするのかとつめよると、まず俺に女房を抱かないか? と来る。抱かないよ。俺はジゴロだから、たとえマドンナが寝ようったって金を相手が払わない限り、寝ない。それに随分前から勃たねェよ。インポだ。仕方なしに俺は女房を金持っている日本の男に紹介するんだ。ヘンタイ夫婦は日本のハンサムな若い金持ちを紹介して欲しがるが、だいたいヤクザをあてがうのさ。3Pの出来上りってわけだ」 「そいつが来るの?」マウイが訊く。 「来ねえよ」ロング・ハリーが言う。 「アキラがああじゃないか。いくらキャスが、この夏の家は自分のものだ、ステキな日本人の男ら居るって耳にして、オマンコふくらました金髪女を買いつけにやらすと言ったって、今日だけは断る。今日はジゴロの慰安会だよ。アキラがバッドになってるし、マウイは照明に当るとヘンなアザ、胸に出て来ている。今日は誰の言う事も聴かないよ」  ロング・ハリーはそう言って、テーブルの上の洗面具入れの脇に無造作に置いた煙草入れから一本、煙草を抜き出す。火をつけるのを見て、マリファナのスティックだった事をマウイは知った。  ロング・ハリーは煙を吸い込みながら、ふと気づいたように戸口に行き、「アキラ」と呼ぶ。 「|大丈夫かよ《アー・ユー・オー・ライト》? |もう吸ってるよ《ナウ・アム・ゴナ・スモーク》」ロング・ハリーは声を掛け、マウイの脇の、ソファに坐る。マウイはロング・ハリーを見ている。  幾つなのか白人の年齢は推量が難かしかった。西部劇の俳優に似た顔立ちで悪くはなかったが、白人特有の締りのないヌーッとした印象はロング・ハリーにもある。ロング・ハリーはマリファナのスティックをまた吸う。レコードが女歌手のソロに変る。 「ケネディの時の平和部隊というの知ってるか。ベトナム始まる前に、アメリカから方々に行ったんだ。その平和部隊の一人と、この間、フィリピンで会ったんだ。奴さん、日本人の彼女、連れていた。こっちは、むこうで調達した芸能人どっさり連れている。目を丸くしてやがるの。こっちから行った日本人らも最初はオーディションで選んでいたが、だんだんめんどうくさくなって、女も男も網ですくうようにドサッとひとまとめにして契約したんだ。だからキャスから頼まれていたフィリピン人のジゴロのスカウト、出来なかったのさ。マウイはちょうどいいよ。まっ黒でもないし、黄色でもない。キャスが求めていた男だよ。というのはフィリピンで網ですくった男ら、全部ゲイさ。だってゲイ・バーのショウやってるやつ、全部契約して引き抜いたのだから当然だよ。マウイは俺にマネジメントさせれば思いっきり高く売ってやるよ」  ロング・ハリーは言い、急にマリファナが廻ったように、「奴隷商人のようだな」と笑い出す。 「インポテンツになったら、売りとばすか、ドラッグで相手をメチャメチャにしてやるか、どっちかしかないよ。奴隷商人の血がわきたつよ。ベトナムで黄色い奴に殺されかかってきたんだからな。トウキョウで黄色い奴に復讐して何が悪い? 黄色いオマンコ、黄色いチンポコ、俺はレイシストじゃないけど、レイシストだよ。レイシストになっちゃったよ。というのは、あいつらがレイシストだから」  その時、外でマウイを呼ぶアキラの声がした。ロング・ハリーが立ちあがった。戸口から外を見てロング・ハリーは驚きの声をあげる。  外からなおマウイを呼ぶ声がした。マウイは答えなかった。アキラのその声は天使の涙がまだ効いている耳に夜空を翔ける鳥の声のように響いた。鳥の声はゆっくりと近づいてくる。夏の家の外に広がった暗闇の中を、奇怪で醜悪な鳥が二本脚で立ち、マウイの名を呼びながら石段をのぼってくるように思えた。マウイはその鳥が戸口に姿を見せる瞬間を目撃しようと思って目を凝らした。 「マウイ」  戸口の近くで声がし、すぐにアキラが戸口に立った。マウイはアキラが一瞬のうちに緋色の羽根を持つ鳥の姿から赤い液体を塗りたくったアキラに変ったのだと思った。ロング・ハリーがアキラに駆け寄り、「大丈夫か?」と言って、体を支えようとして、「ノー」と拒まれる。マウイはアキラを見つめ、体に塗りたくり、体の方々からポタポタしたたるものが何なのか気づいた。 「血?」  とタケキに訊くと、 「ああ」  とタケキはうなずく。 「ディスコで俺にヘロインやりながら、言ってたよ。血が方々から流れ出るって。天使の涙をやると、いつもそう想うって。体中の皮膚の血管がナイフで切られたようにとんがっていて、心臓一つ打つたんびに、血がそこから花火みたいに吹き出すって。血は霧になっちゃう。だからアキラの体の周りは血がガスったもやがかかっていて、ボーッとかすんでいる」 「こいつ、自殺しようとして、腕とか首とか自分で斬りつけたんだ」  ロング・ハリーがタケキの言葉に苛立って、かん高い声で言う。 「アキラ、駄目だよ。死なないよ」 「知ってる。血はもう停まった」 「死なない。俺は知ってる。アキラは死なない」  ロング・ハリーはアキラの体に触れかかり払われる。ロング・ハリーは拒まれて行き場のない両手を握り、 「何をしたんだ」  と声を震わせる。アキラを見つめているマウイの名をタケキが呼ぶ。振りかえると、タケキはマウイの肩に手を置き、内緒話をしようと言うように耳元に口を寄せ、 「あいつ、自分をイエス様だと言ったぜ」  とつぶやく。 「ずっと昔、俺も日曜学校に通っていたろう。なんにしろ、婆さ、らも、爺さ、らも、古座のどこの家でも、他所から戻ってきた者じゃさか、日曜日に子供らカトリックの教会の日曜学校に行くのは、当り前の事じゃった。あいつはイエス様なんだって。天使の涙、やるとイエス様になって血が切れた血管から吹き出るって」  アキラがマウイの隣に坐り、血が流れ出しているので疲れたのか寝そべった。アキラにまといついていたロング・ハリーが、どこからか切りとってきた端布《はぎれ》を持ち、血のしずくのたれるアキラの腕をつかみ、止血をしようとして、「うるせえんだよ」と払われる。アキラの寝そべったソファに血が溜りはじまる。 「死なないよ。すぐ止まるよ。ほら」  アキラはだらんと垂らしていた腕を上げてみせた。血が帯になった手首から腕の方に流れおちたが、傷口が塞ったのか、滴は出てこない。 「ほんとだ」  マウイは手品を目撃したように言う。マウイの声に誘われたようにアキラが、「ねッ」と言い、明るい微笑をつくる。  夏の家にロング・ハリーのかけたドイツ語のオペラが響いていた。タケキがマリファナのスティックを咥えたまま、マウイの腕をつかみ、天使の涙を射った。アキラは薄目をあけ、ソファに寝そべったまま、天使の涙が効き、またマウイの胸に青白く光る青アザが浮き出たのを見ながら、「横になってると羽根が生えてくる感じだよ」とつぶやく。 「イエス様だったら何でも生えるさ」タケキが言う。「横になってボンヤリしていると、一瞬だけ夢、見るのな。あいつ俺が居ないと分かってショック受けている姿、夢に見ちゃった。いまさっき。だけど本当はあいつじゃないんだ。あいつがショック受けるんじゃないんだ。俺がショックを受けているんだ。だってあいつ、三日もすれば次のジェイル・バード連れてきてるよ。逃げ出したジェイル・バード追ったってろくな事ないと分かっているから、次のジェイル・バード捕まえてくる。俺の方は、あいつから逃げたからその分だけ、あいつから逃げ出せない。あいつから逃げ出して、あいつにショックを与えてみて、本当はあいつとイチャついていたから、逃げてやる、自由になってやると思って楽しんでいたんだと分かる」 「お母さんの事?」タケキは訊く。 「お母さんとあの彼女」アキラは言う。「自分の方で捨てたんだと思ったけど、本当は捨てられたんだ。捨ててやる、と思っててついに捨てたのは、捨てなきゃ捨てられるからなんだ」  アキラが言うとタケキはクスッと笑う。「惚れてたんだ?」  アキラはかすれ声で、「そう」とつぶやく。 「惚れてないと思ってたけど、俺の周りから二人も大事な女が消えると、どうしていいか分かんない。二人共、お母さんなんだ。本当のお母さん、生理の一週間前あたりからかんしゃく起してたし、あの彼女もそう。お母さんは俺に平気でナプキンを買いに行かせるけど、彼女の方はナプキンとかそういうの、かくしてまわる。でもどっちも一緒なんだよね。彼女にもらった金をお母さんにあげる。お母さんにお金もらって彼女にあげたってよかったんだ。お母さん、殺しちゃったよ」  アキラはつぶやく。  マウイはアキラの声がレコードのオペラから響くトリスタンとイゾルデの恋の二重唱に重なって聴えるのを耳にして、ボンヤリと、アキラが母親を愛し抜いていたと思い、記憶にない自分の母親のぬくもりが体の周りに漂う気がした。灯を極端に落した夏の家の薄闇の中でマウイは青白く浮き上がる台形の青アザを見て、それが母親の残した言葉のようにも思う。マウイは天使の涙たるヘロインのつくる快楽の波が黒い肌の内側で渦巻くのを感じたまま、遠くの方からマウイを見つめ続けているものがあるのを感じる。  マウイはフジナミの市の高台の夏芙蓉を思い出し、ケンキチノオジの言うダバオを思い描いた。その土地は不思議な事だらけの土地だった。その土地に船に乗ってゆく。タケキはさらに南下し、フジナミの市から海岸線づたいに枯木灘沿岸までの集落の男らが真珠貝取りに出かけたアラフラ海の木曜島やブルームの方に出かける。  アキラはロング・ハリーが何度申し出ても傷口からしたたる血を止めるための応急処置を拒んだし、血で汚れた服を脱げと言っても、 「自由になった日の為にとっておいた服だから」と拒んだ。 「どことどこを斬ったんだ?」ロング・ハリーは業をにやしたように言った。 「わかった。楽しみながら死にたいと言うなら、そうさせてやる。ヘロイン射ってるから傷が深くたって痛くないしな。ポタポタたらす一滴ずつ死んで行っても、天使の涙のおかげで怖くないしな。死なせてやるよ。なんならバスタブに湯を張ってきてやる。しかし、見せて欲しい。おまえの体のどことどこに傷があるのか?」  ロング・ハリーはアキラの前に立ち、寝そべり目を閉じたアキラの顔をのぞき込んで言う。ロング・ハリーはしゃがみ込む。ロング・ハリーはアキラの腕をつかみ、脈搏を診る。血が腕と手首から流れ出す。ロング・ハリーは驚き、アキラの腕を元にもどし、「死ねないぞ」と涙声になる。 「甘くみてる。このぐらいの血なんかで死ねないぞ。俺はもっとどっさり血流した奴見たんだ。そいつにヘロイン射って止血して、そいつに銃を持たせたんだ。どこをやればイチコロか、どこを叩けばそいつが何日後かにコロリと死ぬか、俺はそればかり考えて来たんだからな。分かったよ。死ぬなら、バスタブの中で死ねよ」  ロング・ハリーは意を決したように立ちあがる。 「バスタブにちょうどよいぬるま湯を張ってやる。オペラも途中を省略してトリスタンかイゾルデかが死ぬところに替えてやる。バスタブの中で聴けるようにしてやるよ」  ロング・ハリーは夏の家の奥の方へ歩き、部屋のドアを開け、灯りもつけず暗がりの中で湯をひねる。バスタブをたたく湯の音がしばらく響き、不意に止まり、ロング・ハリーが出てき、アキラの前に歩き、 「血だらけだ」  とつぶやき、横たわったままのアキラに、 「クスリが切れてこないか? 怖いのならもう一本、射とうか?」  と問いかける。アキラはゆっくりと首を振る。ロング・ハリーはアキラをしばらく見つめ、 「ベトコンのような眼をしないでくれ」  とつぶやく。 「お前がベトコンならさっさと息の根、止めてる」  ロング・ハリーはそう言ってしゃがむ。アキラは出血の為に弱り、抵抗出来ないようだった。ロング・ハリーはアキラの体を抱えあげ、衣服を脱がせ、アキラの体から流れ出した血に染まりながら傷口をさがした。胸の下にあいた傷を見つけて子供のように、 「これだ」  と声を立てた。 「これでアキラはもう死ねない。死なせてやらない」  ロング・ハリーはアキラの胸を手でこすって傷口をマウイに見せた。 「死んだの?」マウイが訊くと、ロング・ハリーは激しく首を振る。 「こいつは朝起きると、今日の極楽の変りに地獄の苦しみを味わうんだ」  ロング・ハリーは上半身裸のままのアキラを再び血だまりの出来たソファに横にする。 「いまこいつは死ぬスレスレのところにいるけどな。湯の中につかれば傷口がひらいて血が出るから天使の涙でぶっとび、痛みもなしに、死ぬ恐怖もなしに快楽のまま死ねるけど、このままじゃ傷口が塞がれて死ねないよ。いや、ひょっとしたら死ぬかもしれない。でも俺がついている。こいつは死なない、死なせない。俺がそうだから。ベトコンを殺すのなら簡単だけど、俺はこいつに明日の朝の地獄を味わわせてやるのだから、仲間にしてやったように手当てをして生かせてやる。俺はプロだよ。CIAだって俺の腕を欲しがるプロだ。一発の天使の涙で地獄の苦しみから脱出出来たって、そんなもの本当じゃないんだって知っている」 「地獄の苦しみって?」マウイが訊く。 「生きてる事だ」  ロング・ハリーは答え、マウイが、 「生きてる事」  とオウム返しに言いはじめると、 「死ぬって事を禁じられてる事」  と言い直す。  オリュウノオバは黒い肌に生れついた中本の血の一統のマサルがアキラとロング・ハリーに人の死の瀬戸際に連れ込まれ、マサルの頭には難解な謎のような言葉を次々と聴かされていると思い、気が気ではなかった。オリュウノオバはアキラとロング・ハリーをいずれ仏の元からつかわされてきた弟子らで、まっさらで純無垢のマウイに何事かを悟らせる為に次々謎を仕掛けているのだと想像した。マウイには難解な謎でもオリュウノオバにはごく当り前の事だった。一発のヒロポン、一発の覚醒剤、一発の麻薬にせつなの夢をたくす若衆は路地の中に沢山居た。地獄の苦しみとは高貴にして澱んだ中本の血を受けて生きる事その事だったし、死ぬ事を禁じられているとは、たとえ中本の血の若衆が生きたとしても、それは仏に命じられて一代を悲惨に通ってみるという事だし、そこで死ぬとは、一代が終り次の一代に交替するというリンネの事に他ならない。もっともオリュウノオバはそのように理屈を考えない。元気な頃は路地の中に生きる他の年寄りと少しも変らず三叉路の天地の辻で人の噂に興じ、相槌をうっていたのだった。オリュウノオバは終日身を床に横たえ、うつらうつらしながら、マサルが今感じている、燃え上がり高みにあがったまま震えるまるで性のような愉楽を分かろうと身をすり寄せ、さらにマサルの心の中にわきおこる不安を感じ、震えているマサルをはげますように、「不安なものか。怖ろしいもんか」と声を掛ける。 「オバ、そうじゃけど、連れがナイフで自分の身、斬り刻むみたいに傷つけたんじゃからね」 「女親、殺したんじゃさか」 「つい、殺したったんじゃだ。あれ、女親、憎んどったわけじゃない」 「おうよ」  オリュウノオバは黙る。オリュウノオバは黙ったままマサルの深い青みがかった眼を見て、マサルに一等伝えたい事は黙っているのだと示すように見つめる。オリュウノオバはマサルが美しさの盛りにいるのを気づく。深い青みがかった眼は産婆としてこの世で初めて抱き上げたオリュウノオバさえ誘うようで、オリュウノオバはそのマサルが生れ落ちた路地に暮せず、すぐに他所に仲介して出してそこで育った若衆だというのが一層、黒い肌をしている親のない子として不憫さ胸かきむしられる思いがし、切なさに涙が出る。 「オバ、何な? どした?」マサルは訊く。 「おうよ。おまえが大っきなってこうしてオバのところへたずねてきてくれたと思て」 「大っきいど」マサルは路地の若衆と変らない言い方をする。「アホよ。産婆のオバに自慢するんかよ。いくら大っきても女にかなうもんか」  オリュウノオバはマサルがとまどうのを見ながらクスクスと笑い、マサルに言いたかったのはその事だったと独りごちる。たとえどのような男でもオリュウノオバの目にして来た子を産む女にはかなわない。それなら何一つちゅうちょする事は要らない、半蔵がそうだったように短い命を愉楽の中でまっとうさせればよい。マサルの育った他所はいざ知らず、産れ落ちた路地は開闢以来、女らが網目を張り、子を増やし、支えて来た。オリュウノオバはもしマサルがオリュウノオバの常日頃思っている事を十全にわかるのなら、他所で育ったマサルにだけ、夫の礼如さんにも言わず心の中に秘めてきた事を打ちあけてもいいような気がした。オリュウノオバは毛坊主の礼如さんの女房だから信心を疑う者はいなかったが、もし仏さんと産れてくる子のどちらかを選びどちらかを捨てろと言われれば、文句なく子の方を選ぶという思いだった。オリュウノオバはマサルを前にして胸がつまり、また涙を流した。親より先に子を抱き上げる産婆のオリュウノオバは仏の身勝手な振り分けとしか思えない尋常の子も尋常でない子も分けへだてなく抱きあげ、尋常でない子には仏の振る舞いを謝まりさえした。無明の腹から出て来た無垢の子が仏の無慈悲なつめ痕を残して外に出て来た時はオリュウノオバはいつも子に産湯をつかわせながら心の中で、「なんでこんなむごい事出来るんなよ」と仏をなじった。マサルが生れた時も、オリュウノオバは肌の黄色い者ばかりの路地で黒い肌のその子にただ肌が黒いという理由だけで降りかかる災忌が目に見え、心の中で悲嘆の声をあげ、「何様じゃと思とるんなよ」とつぶやき、もし死んで仏に会う事があったら、たとえ口がすぎると舌を引き抜かれ地獄に蹴り落されようと言うべき事を言おうと腹をくくったのだった。その黒い肌の子が、まるで黒いその肌が香木にも劣らず甘く匂い立つような若衆としていまオリュウノオバの眼の前にいる。マサルはマウイという名前で呼ばれていると言った。  オリュウノオバは今一度マウイの黒いつややかなビロードのような触感の胸に手を触れ、青アザを触った。 「おうよ」オリュウノオバは独りごちた。 「仏ら、恐ろしもんか」マウイは鳥肌立つ。  オリュウノオバは床の中でうつらうつらしながら、自分が音量を抑えた女声の歌が鳴るその薄闇の中に居て、マウイを直に視ているように、路地に生れ落ちた子の一人の胸にくっきりと青アザがついていた、と記憶をたどって語りかける。仏につかえる礼如さんの女房だった事など何かの間違いだと言い出したいような気になり、苦笑する。オリュウノオバはいつも自分の手で抱きあげた子らの事を考えていた。裏山の中腹にある毛坊主の礼如さんと産婆のオリュウノオバの家で、朝、ひとしきり経をあげる礼如さんに暗誦していた子供らの祥月命日を空んじてから、家は死ぬ事と生きる事のとば口のようだと思いつき、いつも、礼如さんの信心する仏に粗相があれば食ってかかるほどの気力がなければ、仏の慈悲の及ばない子らを、この世のとば口で抱きあげる事もかなわない、と思うのだった。今、オリュウノオバは蛍光塗料をぬったようなマウイの青アザに手で触れて、かつて路地の中にくっきりと青い同じアザを持って生れた子があった事を思い出して、オリュウノオバが産婆をしながら願いつづけた仏への悪意が実を結びはじめたのだとひとりほくそえんだ。肌が焼けこげたように黒く生れついたマウイと、バクロウのミツの子のトメ、その子のタツヤは何の血のつながりもなかった。  まるでアキラを見守る三人の心を代弁するように夏の家の灯りの届かない闇に、悲嘆にくれた女声の歌が響いていた。ソファによこたわったアキラが天使の涙にひたり愉楽のただ中にいるというように静かに呼吸しているのを見、歌に聴き入っていたロング・ハリーが、 「もうすぐその女も死ぬ」  とつぶやく。ロング・ハリーはマウイに言葉を教えるように、女声の歌の歌詞を言う。   Mild und leise   Wie er lŠchelt,   wie das Auge   hold er šffnet,  マウイはロング・ハリーに習って空んじるように歌詞をつぶやく。   Immer lichter   wie er leuchtet,   sternumstrahlet   hoch sich hebt ?  マウイは歌詞をつぶやきながら、ぼんやりと、その歌詞が横たわり眠ったように動かないアキラではなく、マウイ自身の事を言っているような気がしたのだった。理解出来ない言葉は呪文のように聴えた。昂まる音楽の響く薄闇の中に、まるで天使の涙の幻覚のように、夏芙蓉そのもののような甘い匂いが漂っている気がする。  音楽が終った。ロング・ハリーはレコードを替えに立つ。すぐに聴き覚えのある管弦楽がかかる。メロディを口ずさみながらロング・ハリーが戻りソファに横たわったアキラの体の下の床に坐る。 「蛍光塗料ぬったみたいに青っぽく光ってる」  ロング・ハリーはマウイの胸の青アザを見てささやく。 「なんで出て来たのだろうな。天使の涙やってアレルギー起こしたのかな。ジンマシンみたいなものかもしれない。呼吸苦しくないか?」  マウイは首を振る。声に出さず心の中で、この青アザをつけた奴があった事を、何人も知っている、とつぶやく。  その管弦楽のレコードの終り近くだった。波音と管弦楽の音にまじって虫の羽の震動ほどだったオートバイの音が湾を廻り切って夏の家の下で止った。エンジンが切れたらしくオートバイの音が止むと、タケキが不意に立ちあがった。そのタケキを見て、「いいよ。俺が見てくる」とロング・ハリーが体を起こしにかかると、タケキは、「帰るんだよ」と言う。 「帰るって?」  タケキはロング・ハリーに答えず、マウイの頭を小突き、「ほら、服、着ろよ」と言う。 「効いてるよ」  マウイは言う。 「天使の涙が効いて俺の体からも、アキラのようにハミング・バード呼びよせる蜜が流れ出して来てる。ほら」  マウイは腕を見せる。 「ロング・ハリーが腕のちぎれた奴に止血して、天使の涙射ってやったというから、音楽聴きながら、何遍もその事、考えていたんだ。俺の腕、ぶっちぎれて、その傷口から天使の涙流れ出して、段々、元にもどる。元にもどるまで苦しいの。だけど指の先あたりが生え出す頃はイッちゃいそうな感じ。誰?」 「誰って……」  ロング・ハリーは不意に訊ねられてとまどう。 「誰の音楽?」  マウイが訊き返すと、「ワーグナー」とロング・ハリーは言う。 「ぶっちぎれて生え出して、またぶっちぎれて生え出して」  外で声がする。タケキが、「帰ろう」と促す。 「頼むよ、もう少し居て欲しい」  不意にロング・ハリーが興奮したように言ってタケキの腕に触れ、ノーと振り払われる。 「俺の友だちだよ。アキラが明日の朝、地獄の中で眼をさますよ。こいつ、眼をさまして、一度に何もかもぶち壊れたの見て、絶望するし、恐怖にかられる。お母さん、殺したんだからな」 「腕はよかったよ」  タケキが言う。 「一発で撃ち抜いた」  タケキは額を人差し指でこすり、それから何を思ったのかロング・ハリーの前にゆっくり指をつき出し、額の前で止め、「おまえら知らないだろうが、黄色い肌の俺ら、レイシストなんだぜ」と額の真中に指を当てる。 「女だって男だって、おまえみたいな白の、このあたりを狙っているんだ。おまえら、黄色や黒いのを人間だと思ってないかもしれんが、おれらも白いのを人間だと思っていない。おあいこだよ。白いのって、智恵がトロくって、図に乗るのな」 「俺はレイシストじゃない」  ロング・ハリーは言う。外で声がし、石段を歩いて来る音がする。 「行こうぜ」とタケキは外の声に耳をそばだてながら言う。その声が誰の物だと訊くようにタケキはロング・ハリーを見る。 「マッポウ?」  ロング・ハリーはつぶやく。タケキは戸口まで迫った声に気づき、外を見つめる。 「アキラ、いるの?」という声を聴き、外の闇から夏の家の薄暗い中に姿を見せたのが、アキラたちの遊び仲間だったと知って拍子抜けし、急にロング・ハリーに嫌悪がつのったように、「おまえなんかチンポコ勃たなくなったヘンタイだろ?」と言う。 「白いのとも姦れないし、黄色いのとも姦れない。黄色いのに、踏んづけられて蹴とばされて、嬉しんでるのだろ? それも女じゃなくて、アキラにやられてるんだろ?」  外から入ってきたのは、アキラやマウイと変らない齢の少年だった。ロング・ハリーは、アキラを呼ぶ少年に英語で、動き廻るな、声を立てるな、と命令口調で言い、早口で事態の説明をした。少年は、「ほんと?」と驚き、血の流れ出たソファに横たわって眼を開けたままのアキラをのぞき込み、すすり泣きをはじめた。ロング・ハリーは少年を抱きかかえるようにして床に坐らせ、ヘロインが効いているので動かないのだ、明日になれば回復する、と言う。タケキが薄暗がりの中で嘲けるようにチッと舌打ちする。 「六本木でヘロインやコケイン売って、黄色い国にしがみついてるんだ。ヘロインやコケイン持ってると、黄色いやつも優しくしてくれるから」  マウイは、天使の涙をタケキはやらなかったのだろうか、と思った。体の中の芯が溶け、黒い皮膚や骨以外は、甘く熱い愉悦の蜜のようにマウイはなっているのに、タケキはまるでスピードをやったように攻撃的だった。 「ロング・ハリーがかわいそうだよ」  マウイは言う。ロング・ハリーは、「ノー」と声を荒げる。 「だってこいつ俺の為にヘロイン、都合して来てくれたんだぜ」 「俺はこいつ、嫌いだよ」  タケキが言う。 「嫌いって言ったってこいつ、おまえに何もしてないよ。俺に、ジゴロになれってすすめてるけど」  タケキはマウイの言葉を封じるように、 「行こう」と額を突つく。 「行かないと、マウイまで撃ち殺したくなってくる」  タケキの言葉にロング・ハリーが、「俺だって、おまえを撃ち殺したくなってくる」と答える。 「ワーグナー二曲も聴くと頭の中、血だらけになる。おまえの言うように、俺は黄色い肌の人間らを怖い、怖いからこいつを好きなんだ。こいつは俺の気持ちなんか分からない。おまえほど俺の事を分かっているなら、とっくに俺はこいつをベトナムでやったように殺していた。サイゴンで俺は何人も殺したんだ。ヘロインの濃度変えるだけで、少女も少年も泡はいて死ぬよ」  ロング・ハリーは思い出したようにクスクス笑い、アキラの足元に坐り込んだ傍の少年の頭を撫ぜ、「トウキョウだってサイゴンだって違いなんかありゃしないさ。こいつらヘロインの周りにむらがる」と言う。ロング・ハリーは立ちあがる。奥の暗がりの方に行き、物音を立て、戻って来る。ソファの前まで来て、「何て言ったっけ?」と考え込み、「タケ……」と声に出す。 「タケキ」マウイが教える。 「そうだ、タケキだ」  ロング・ハリーはそう言い、手に持ったものを突き出す。 「撃った事、ないだろう」  手のひらに拳銃と弾丸が三つ入っている。 「レイシスト同士やろうじゃないか?」 「ロシアン・ルーレット? あの『ディア・ハンター』みたいに?」  マウイが訊くと、少年が、「ヘロイン射って死ぬと気持ちいいって」と言う。 「やるの?」  マウイが訊いてもタケキは黙ったままだった。ロング・ハリーはそのタケキを見つめ、身動きせず息を詰め、反応をうかがい、それからいたずらっぽくクスッと笑って、弾を三発拳銃に込め、「ロシアン・ルーレットなんかやらないよ」と言った。 「誰かに撃たせてやる。どうせアキラは明日、息吹き返しても、ダメージ受けすぎているから生きられない。何度も自殺しかかって死ねなくっても、廃人になる。俺はこいつを撃って死ぬ。こいつに天使の涙、頼まれた時から、俺が一緒に生きていこうと考えたこいつ、母親殺して生きていく気がないのが分かった。こいつと一緒に死ぬよ。白いジゴロと黄色いジゴロが死ぬのもいいじゃないか」 「独りで死ね」  タケキが圧し殺した声で言う。タケキはロング・ハリーの前に立つ。 「よこせよ、自分で死ねないのなら、俺が撃ってやる。どうせ俺はもう日本を出るんだ。俺がおまえをロシアン・ルーレットのようにして一回だけサーヴィスしてやるから。運がよけりゃ一発で死ねるさ」  タケキが言い、手を差し出すと、ロング・ハリーは突発した事故にまき込まれたように茫然と立つ。まるで術にかかったように拳銃をタケキに差し出す。タケキは拳銃を取り、重さをはかるように手を揺すってみ、いきなり振り返ってマウイの額に圧しつける。 「俺を最初にロシアン・ルーレットやるの?」  マウイが訊くと、「厭だと言うのなら、これから俺がおまえの兄貴分になるの、認めろ」とすごむ。 「いいけど嫌な事、しない?」  タケキは考え込む。しばらく考えて、「無理だな」と答える。 「どうして?」  マウイが訊くとタケキはすでに傍若無人の兄貴分になったように、拳銃で頭をこづき、 「反省してみろ。自分だけ勝手な事やりやがって」とどなる。 「おまえが嫌じゃない事ってのは、音楽とダンスとオマンコだろ。その一つでもあったら、そっちの方、そっちの方へ流れて行って、東京の事を一つも分からない俺をほったらかしにして、俺の事に気づくの、クタクタになってからなんだ。イエスかノーかしかない」 「ノーと言えば引き金をひくの?」  タケキはうなずく。マウイはタケキを見つめる。心の中で、ノーと叫んでいた。しかし確実に一発目に弾が入っていると思い、マウイは、「イエス」と声を出した。 「よし」  タケキはマウイの額から拳銃をはずし、今度は少年の額に当て、「おまえはどっちなんだ?」と訊く。少年は困惑する。 「何を約束するのですか?」 「いろいろあるだろう」 「だって、今、アキラと約束していたからオートバイで来たのだから、何も分からない」 「いいんだ」  タケキはどなる。 「俺の命令をきくかどうかだ。もしロシアン・ルーレットに当ってこのケトウが死んでみろ。お前の喋り方次第で、俺がこいつを殺したいから殺したという具合にもなる。そうなったら、まず本当の事をしゃべる事だ。警察にバレる前に、アキラも含めて俺らが逃げるのを救ける事だ。どうせ、お前も女に買われてるジゴロだろ?」 「そうですけど」 「それなら俺ら三人の為に金を作るんだ」  タケキが言うと、少年は、「そんなー」と言って絶句する。少年は、「ノー」と叫ぶ。タケキが一瞬にむかっ腹立つのが分かった。少年がまた、「ノー」と叫び額に当てられた拳銃を払いかかった。払った方に向ってタケキは拳銃の引き金を引いた。音響と共に硝子が割れた。タケキはすぐに少年の額に拳銃を突きつけた。 「そんなー、ひどいー」と少年は身動きしないまま声を出して泣き出す。タケキは、「イエスと言え」と圧し殺した声で言い、泣き続ける少年に業を煮やしたように舌うちし、「動くな」と命じる。  タケキは少年の胸ポケット、ズボンのポケットをさぐり、まるで路上強盗のようにポケットから取り出した中味を吟味もしないで自分のポケットに納った。尻ポケットをさぐりはじめて、少年は、「許して下さい」と言い、タケキが、「イエスと言え」とささやくように言うと、「イエス」と蚊の泣くような声でつぶやく。拳銃を額から離すと少年は泣きじゃくった。 「マウイ」  タケキが、兄貴分になって最初の命令だと言うようにマウイの名を呼び、「背中でもさすって慰めてやれ」と言う。タケキは、ロング・ハリーには特に公平にやるというように、弾倉を回転させ額の真中に銃口をつける。 「弾が二発入ってるよ」タケキは言う。 「一回だけ、引き金を引くだけだからな。それでハズれたら、アキラじゃなくっておまえが、死ぬ事も出来ないって苦しんで、また俺みたいな篤志家の現われるまで待ってりゃいいよ。お前が当りをひいてもハズレをひいても、まっすぐ俺らは港に行く。この二人連れてな。お前がカモを見つけて、天使の涙、おまえの勃たないチンポコがわりの注射針さし込んで射っている頃に、俺らは台湾に寄っているか、フィリピンに向っている。船に乗るとベトナムってすぐなんだよ」  タケキが言うと、「早く引き金、ひけよ」とロング・ハリーが言う。 「いやだな。ゲームは簡単にやっちゃあ面白くないもの。お前はずっとこうされてたいと思っていたんだ。これがお前の本当の姿だと思って、一人で夢に見て、ひょっとするとグニャグニャのチンポコを濡らしていたのかもしれん。戦争でこんな経験したのか、これと同じような事あったんだ。俺は日本人じゃでオーストラリア国籍だから分かるよ。お前は黄色い肌のやつに、殺られたんだ。わけ分からない言葉しゃべって、わけの分からない物食って、わけの分からない事を考えている奴らにもみくちゃにあい、犯され、殺されたいんだ。気持ち悪くて反吐をはいているけどそれが好きなんだ。アキラなんかその典型だよ。母親と近親相姦の仲みたいじゃないか。おまえは気持ち悪いんだよ。だけど、そこが好きなんだ」 「気持ち悪くなんかない」  ロング・ハリーは言いかける。タケキは、銃で思いっきり頭を殴る。ロング・ハリーは頭を抱えて呻く。 「起きろ」  タケキはどなった。ロング・ハリーはまるでタケキの捕虜にでもなったように従順に歯をくいしばって身を起こす。 「お前ら白人は、黄色いのを怖いんだよ。黄色いのを攻めてろくな事ないのを分かっている。そうだろ」  ロング・ハリーは答えない。タケキは再びロング・ハリーの頭を拳銃で殴る。マウイはタケキが天使の涙で狂ってしまっているのだ、と思った。少年はマウイに身を寄せ、泣き続けた。何もかもロング・ハリーは熟知しているように何度も拳銃で頭を殴られながら、夏の家で最初にかけたワーグナーのオペラをかけ、それからアキラのソファの下の血のこびりついた床に坐り、天使の涙を自分の腕に射った。ロング・ハリーは天使の涙の愉悦に身をゆだね、タケキに引き金をひいてくれと懇願した。タケキは意地悪だった。当りなのかハズレなのか、そばで見ているマウイさえじれてくるのにタケキは引き金をひかない。 「かわいそうじゃないか」  マウイが言うと、タケキは、「われ、兄貴分に文句言うんか」と方言でどなり、「ようし」と策をめぐらすというようにロング・ハリーを見て、「マウイへのバツもおまえが受けるんだ」と言い、口に拳銃の銃口を咥えさす。ロング・ハリーがいやいや銃口を口に咥え、すぐにタケキは引き金をひいた。こもった轟音がたち、ロング・ハリーが後に瞬時に倒れるのが分かった。少年は悲鳴を上げた。マウイは驚愕し、息を詰めた。タケキはロング・ハリーに拳銃を口に咥えさせようとした時に床に片膝をついたまま、茫然として床にあおむけに倒れたロング・ハリーを見ている。マウイは大きく息を吸った。 「タケキ」  声がそれ以上出なかった。立ちあがろうとして足がもつれ、少年に倒れかかる。夏の家の中に恋の喜びを語る男女の歌声がひびく。 「やってしもた」  タケキはつぶやく。  タケキが乗り込んだ車は、ロング・ハリーが運転していたものだった。運転席に乗り込み、ハンドルを握ってみて、座席の具合が違うのに気づいたようにタケキは誰に向ってともなしに、「替れよ」とどなった。後部座席に、少年と二人がかりでアキラを運び込み、自分も乗り込んだばかりのマウイは身動きがつかなかった。のばしたアキラの足元に横坐りになって乗り込もうとしていた少年は、「オートバイしか運転出来ないもの」とつぶやく。 「替れよ。俺が撃ったあいつの車じゃないか」  タケキはどなって握っていたハンドルを両手でどんどんと叩く。 「アキラの時は俺が運転したんだ」  タケキは灯りをつけていない車の暗い前方を見つめる。室内灯がついている為に、マウイの眼に唇を噛み呻くタケキの顔が鏡のようになったフロントグラスに写っている。マウイはまだ天使の涙が効いている。マウイは自分のひざに当ったアキラの頭に手を触れながら、フロントグラスに写ったタケキの眼をさがす。タケキは後から見つめるそのマウイの眼を感じない。タケキは衝撃で倒れ血と肉片が吹き飛んだロング・ハリーを記憶の中からたぐり寄せて再現しているように、フロントグラスの向うの暗い外を見つめる。波音が間断なく響いている。マウイの耳には恋の昂まりを歌う女声の歌が混っている気がする。その女声の歌が混乱しやすい自分を鎮め、方向も皆目分からないマウイを導いてくれる気がした。一刻も早くその場を離れる必要があったし、アキラを医者に診せる必要があった。マウイはタケキと運転を替った。  湾沿いの道を方向も分からず走り続けながら、マウイは衝撃のせいなのか、それともたて続けに起こった事件のすぐそばにいたのが、この上なくスリルに富んだ楽しくてしょうがない事だと体で気づいての事か、心がおどるような気がした。いままでマウイが抱えていたもやもやが変化する。もやもやは、路地の中心をうがつ中本の血を持ちながら、黒い肌を持って生れたので、どうしても付着してしまうマウイの体の分泌する垢のようなもの。なめれば舌を刺す体毒のようなもの。それが一瞬に変化する。マウイの黒い肌の周囲で燃え上がる。  マウイはスピードを上げる。カーステレオをかける。FENのディスクジョッキーが流れる。十年前だぜ、まったく。マウイはそうつぶやいて日本語放送に切り替える。日本語はベトナム語のように響く。タケキが「切れよ」と言った。マウイは心が昂ぶったままスイッチを切った。日本語が消えると、またマウイの黒い肌の周囲で炎が上がる気がする。タケキと少年がアキラにつきそって後部座席に坐っていたので、黒い肌の周囲で上がっている炎はマウイだけしか気づかない物のような気がした。  湾沿いの道に他の車の姿はなかった。先の方にオートバイが二台、競うように走っていたが、車のアクセルを踏み込み後を追うと、道の脇に身を寄せたので、車を運転するマウイの眼には、超常的な力に満たされた不思議な夜の道路のように見えた。物思いに沈む事なぞめったにないのに、マウイはただ湾沿いの灯りのとぼしい道を走りながら、自分が遠い昔から一人だった事を思い出し、車の無断拝借で補導され感化院に入れられた頃のように独りごとをつぶやく。ただ物思いに沈み、独りごとをつぶやいてもマウイは、車のエンジンの音やタイヤのきしる音に言葉が重なり、新種のロックを自分の手で作っている気がする。カーブを曲がるたびにわざとブレーキを強弱をつけて踏み、それを口真似する。加速する為にアクセルを踏んでエンジンの音を口真似する。後部座席に坐ったタケキが、マウイの独りごとを耳にしてクスリと笑う。  オリュウノオバは闇の中を飛ぶような勢いで車を走らせるマウイを見て、どこを走り、どこへ向うとも知れずただ黒い肌にせかされるように車を運転し続けるのが不憫でしょうがなく、仏壇の間に敷いた床の中でただ涙を流した。オリュウノオバは手を合わせ、随分久しい前から大きな背をむけて縁側に坐り続けているホトキさんらしい姿に、どう頼もうと、酷い試練しか中本の血の若衆には与えないのだろうと分かっていながら、この世にまだ試す事が山ほど残ったマウイの運を一つでもよくしてくれと祈るのだった。  オリュウノオバは路地に高貴にして穢れた中本の一統の血の子として生れ落ち、若衆として育ったマウイのなにからなにまで知っている。半蔵がそうだったように、三好がそうだったように人に誘われるまま疵ひとつない黒いつややかな肌に一瞬の愉悦を求めて針を刺すマウイに、床に臥したままの身ひとつをもてあますオリュウノオバがどう手をこまねいても、美しさと若さの漲りの絶頂で人生の幕が非情にも落ちるという宿命が待ちかまえている。オリュウノオバはマウイの肌を撫ぜるように手をあげ、ぼうっと眼の前に形づくった影のようなものに触れて、「何にも知らん方がええんじゃよ」とつぶやいた。  確かに知らない者が沢山いた。その子が誰と誰の子でどうやって生れ落ちたのか、その子の一生がどんな波瀾に満ちていたのか、どんな失意の日々があったのか、病死にしろ、衰弱死にしろ、自分から息をつめたり、身を粉にくだいたり、血を流したりしての死にしろ、人は幾種類もの噂をしあったが、オリュウノオバが決心し、オリュウノオバの夫の礼如さんが同意した真実とはほど遠いしろものだった。  オリュウノオバは不意に思い出し笑いをした。終戦後まもなく、その女は、或る時山の坂道を駆け上がり、オリュウノオバの家にやってきて孕んでいるかどうか確かめてくれと言った。確かめるもなにも月のものがとまり体に変調があるなら孕んでいる事だと言うと、その女は、オリュウノオバの前でさめざめと涙を流したはてに何を思ったのか、腹の子の相手は町会選挙に出る男だと言い出した。オリュウノオバは思わず苦笑した。たとえ腹の持ち主であろうと相手が誰か特定するに難かしいほど路地の男誰彼となしに姦りについたように寝ているのは、男らは産婆だと思って気を許してオリュウノオバに洩らす前から分かっていた。腹が誰の目にもせり上がっているのが分かる頃、女は、男に会い、それで金をもらったのか、それとも相手が町会選挙が済むまでそうして人の耳目をそらせと知恵をつけたのか、女は突然、路地の青ウラナリ同然の若衆に近づき、若衆が人のよいのにつけ込んで腹の大きな身でいかにも親密な仲だと言うように振る舞い、あげくは路地の天地の辻で腹の子はその青ウラナリの子だという言い方をした。青ウラナリには女房も子もいたので噂は一夜にして広がり、蜂の巣を突いたような騒ぎになった。女は子を産み、かなと名づけられたが、抱き取ったオリュウノオバでさえ妙にさもしい怖気をふるいたくなるような品のない、ただ女のデタラメと業欲が出たような赤子で、その赤子を路地の者らに見せるのを羞たのか、男との交渉に負けたのか、女は赤子をミカン箱に寝かせて町会議員立候補の事務所に棄てたのだった。  オリュウノオバが笑う女が生んだその赤子とマウイの出生は、片方は抱き続ける事も厭になるほど品のない尋常の赤子、片方は高貴にして穢れた血の因果がくっきり出て黒くびろうどのような肌をし、泣く声も涙も甘いというほど気品に満ち神々しい、という違いはあってもまったく同じだった。オリュウノオバは黒い肌の赤子を抱き上げた瞬間のおびえを思い出し、そのおびえがあったからマウイを路地の外に出したのだと思った。そのおびえはいま一気に形になってオリュウノオバの前に姿を現わそうとしている。 「オバ、何をおびえたと言うなよ?」  マウイはオリュウノオバに理解出来るように東京弁ではなく路地の言葉を使って訊く。 「オバは俺の朋輩のタケキが、ベトナム帰りの外人を撃ち殺したのにおびえとるんかよ? ジゴロのアキラが、母親殺して自殺しかかったさかかよ?」  オリュウノオバはマウイの深い昏い眼を見つめ、まるでそのマウイを自分が生んだというように子宮が物を言い出す気がしながら、「違うんや」とつぶやく。オリュウノオバは黙る。物を言えばマウイを傷つけてしまう気がする。マウイはじれるようにオリュウノオバを見る。マウイのその表情は見ていると切なさがこみあがる。マウイは今、少年の顔や体つきから若衆のものへ変る瀬戸際だった。眼の表情、笑い、方向ひとつ変る顔の表情に少年と若衆のものが同居し、オリュウノオバはそれがすべて、よかれと思って生れ落ちるやすぐに自分の手で外に出した路地の外で身につけたものだと思い、オリュウノオバはマウイを目の前にしてはじめて、路地が窮屈なところだとも思ったのだった。  赤子のマウイを目の前にしてオリュウノオバがおびえたのはそこだった。戦争が敗け戦になり路地の娘らの何人かが都会地でなだれ込んで来た外人兵相手のパンパンになっていたのを聴いていたが、路地の中心を縦にも横にもうがつ一統、路地開闢以来の血の一統に突然まったく予期しなかった血が外から入り込んで来たのだった。しかしオリュウノオバは考えた。マウイの誕生はオリュウノオバにタンゴを聴かせベノスアイレスに出かけたまま行方を絶ったオリエントの康に感じた悲しみと同じものだ。オリエントの康はマウイのような路地の中本の血と他所の血の混った子をつくり、その子こそ地上にも天上にも楽土を建設出来ると考えていたのだ、と思い、マウイの誕生は外の血にじょじょに蝕ばまれて減り消える事ではなく、強い血と混り増え広がる事なのだと考え直した。オリュウノオバはマウイこそ外へ行った者らの消息を伝えてくれるのだと思った。  しかし、おびえは消えない。昨日まで夏の盛りで暑さにうだっていたのに昼の準備をしようと勝手口から薪を取りに裏に廻り、山肌に小さな萩の花が目立たぬように咲いているのを目にした時、オリュウノオバは何人もの死んだ子や不幸に会った子を思い出し、ふとオリエントの康を考え、どんな若衆に育ったのかとマウイを想像する時があった。その度に、マウイは黒い肌をしているが、中本の血が肌の奥に流れていると思い、安堵もするし不安にもなった。肌に針を刺し歌舞音曲に血がざわめくマウイは、いま危うい瀬戸際にいてオリュウノオバの前にいる。  オリュウノオバは独りごちる。マウイは生れながらそれが仏の定めた宿命のように他所に行き、オリュウノオバが祈りオリエントの康が志したように他所で路地の者が増えているのか、確かめる。 「オバ、どんなところか知らんやだ」  オリュウノオバはつぶやく。 「おまえの親をオリエントの康とせえよ。同じ中本の血でイトコかカタイトコじゃだ。おまえの兄じゃと思てもかまん。オリエントの康はバイアに行たんじゃわ」  オリュウノオバは海辺の町を想像する。その海辺の町からオリエントの康はベノスアイレスに移る。ベノスアイレスの路地に入り、オリエントの康は騒ぎに巻き込まれ消息を絶つ。オリュウノオバはマウイの顔を見つめながら、オリエントの康の顔を重ね、マウイもまたオリエントの康同然に他所の騒ぎに巻き込まれて消息を絶つのだと思い、胸かきむしられる思いがする。その思いはまた中本の一統の若衆らの仏の試練を目にするたびに抱いたものだった。  金色の小鳥の群が、波を打つように甘い香りを放ち蜜を含んだ花を開いたばかりの夏芙蓉の木に飛び交い、高い澄んだ声で鳴き交わすのを聴きながら、女らも作業服姿の男らも、路地の千年を生きてきたようなオリュウノオバと、路地に生れ落ちすぐに他所に出された黒い肌のマウイが対面する姿を思い出し、オリュウノオバの心の底にわだかまる路地唯一人の産婆としての苦しみを話しあうのだった。  向井織之進記念病院のあるフジナミの市の高台は、夏芙蓉のむせかえるような芳香と甘い蜜にむらがる金色の小鳥の声で、女らも男らも自然に、今となっては跡かたもない裏山とその中腹にあったオリュウノオバの家を思い浮かべ、オリュウノオバがおびえた事、悲しんだ事、胸かきむしられる思いに駆られた事がこの上なく尊い事だと言いあった。  路地に生れる者をもれなく手に抱きとめて取り上げ、路地で死んだ者の祥月命日を記憶しているオリュウノオバがすでに死んでこの世にいず、オリエントの康が出かけ、さらに今、マウイが朋輩らと身を躍り出そうとする他所よりはるか彼方のあの世にいると思うと、そこが蓮の花の上の極楽であろうと血の川のある地獄であろうと、誰もがオリュウノオバの住みついたところで、また再び産婆のオリュウノオバの手で取り上げられて生れ、祥月命日を記憶してもらって死ねる気がする。  女らはオリュウノオバが若衆に育ったマウイを実際に見たなら、どう言うだろうかと噂しあった。夏芙蓉の芳香に誘われた小鳥同然に路地を思い出し、産婆のオリュウノオバを思い出し、オリュウノオバと夫の礼如さんのただ頭を下げるしかないような振る舞いを言いあい、そのうち、女の一人が、いつも路地の中で毛坊主の礼如さんが敬愛されながら背の低さや説教の文句を引きあいに出されからかわれたように、オリュウノオバの振る舞いを言いはじめる。何ひとつ確たる事実はないが、オリュウノオバほど他の男女、特に中本の血の一統の若衆の一挙手一投足に関心を寄せ、心をくだくのは、心の中で中本の眉目秀麗の若衆らを父にも兄弟にもしたし、恋人にも、夫にもしての事だと言う。  マウイは波止場の倉庫の前で車を停めて降り、外に出た。車の前に立ってフロントグラスの向うに身をもたせかけ眠っているタケキを見つめた。そこが正確にタケキの言った波止場かどうかは分からなかった。しかしタケキが眠りに入る前に言った道は間違いなくたどったという自信はあった。マウイは眠っているタケキに、心の中で、ここから外へ出てゆくぞ、とまだロング・ハリーを撃つ前の兄貴分だった頃のように話しかけた。  車の後部座席に、事件に遭遇して無理に連れて来られた少年が、ドアに身を寄せて身を縮めるようにして眠っていた。マウイは少年の寝顔を見つめた。どこにでもいる日本人の顔だ。  マウイは振り返った。波止場に白い漁船が波に揺られながら浮いている。その左手に射すような電球の灯りのついた水揚げ場があり、男が魚を船から降ろし、並べている。男らは魚を箱に入れクレーン車で運ぶ。男らはコンクリートの床に並べた魚をセっているのか、隠語のような言葉を叫び合っている。  マウイは、そこが遠洋漁業の基地だと知り、タケキが言っていたタンカー船の出る港ではないと気づき、タケキを起こして訊きただそうと車の方に向いた。車の中で身を起こす者がいた。目を凝らして見つめると、いままで死んだように無反応だったアキラが、まるで眠っているタケキと、傍の少年を起こさないよう注意を払ったように、弱々しく静かにドアを開けかかる。マウイは素早くドアに寄り、外から開けてやる。 「もう朝?」  アキラは座席から身を乗り出して訊いた。返事を待たずにアキラは右足を車の外に出し、前の座席の背もたれに手を掛けよろよろと立ち上がる。アキラは波止場に浮いた船の向うの海を見る。いま水平線は赧らんだばかりだった。一時、二人は黙っていた。 「もう行くよ」マウイはつぶやいた。 「うん」とアキラは赤味が広がる水平線を見つめたままうなずく。 「一人でここまで運転して来て、いろんな事、考えてたんだ。マウイって考えた事、ないじゃない。考えるって何の事かずっと分かんなかったんだから」  マウイはふと子供の頃を思い出す。マウイはザリガニをつかまえた。手で触れば後に撥ねて逃げるか、大きなハサミをあげ威嚇する。マウイは指でつつく。素早くハサミから逃げる。指でつつく。逃げる。ザリガニはめくら滅法にハサミを振り廻し、ついにマウイの指をつかまえる。痛みと驚きに悲鳴を上げると、マウイの行動を見ていた大人が笑い、黒んぼの子は物を考えないので、ザリガニにはさまれてハサミの威力を知るのだ、とあからさまに黒い肌のマウイを侮蔑したような言い方をした。マウイはザリガニのハサミの痛みと侮蔑する大人への熱い憤怒がわき上がる気がする。 「ずっと考えた事、なかったんだよね、でも今度は考えた。外へ行ってしまうんだから。ダバオから来たのなら、まずダバオへ行ってみる」 「ここから船に乗るの?」  アキラの問に急に心もとなくなり、「分からない」と首を振り、眠り続けているタケキを見て、 「なにもかもあいつが握っているから」と言う。アキラが顔をしかめる。薄明りの中で黒い汚点になった服のわき腹を手でおさえその手を広げる。まだ止らない血がしみついている。 「あいつが船員手帖なんか握っているから、一緒に外へ行くなら、頼めばいい。船員手帖あればパスポートなんか要らないんだから。あいつが全部やってくれる」 「夢の中で鳥みたいに逃げ出したの、後悔してる。オレは分かってたんだ。あいつ、もう一人のお母さんだったんだ。金もらって、車もらって、マンションに住まわしてもらって、ジゴロやって義理でセックスしてたけど、もう一人のお母さんだから、いつも平気であの人の言いつけを破ったんだ。あの部屋に誰も連れてこないで。あの人、そう言った。だけど、連れて行った。あの人、連れて行った事はすぐ許してくれる。でも、約束した事を破ったという事に、怒っている。夢の中で、あの人がいつまでも怒っている意味が分かった。泣いて許して欲しいと言っている。泣くたびに体が痛くって。あの人は許してくれない」 「ジゴロやめて、一緒に船に乗って、ダバオや木曜島に行こう」  マウイは言う。アキラは首を振る。 「お母さん、殺しちゃったから」 「刑務所に行くの?」マウイは訊く。 「タケキや俺は逃げるよ。もういちど鑑別所に入るのなんてこりごりだから。ロング・ハリーを殺るそばに居たってだけで、黒んぼで感化院も鑑別所も出た事のある俺なんか、共犯なんだから」  マウイの言葉にアキラは茫然とする。体の方々の刺し傷からいちどきに痛みが消え、元の、ジゴロのアキラが蘇生したというように身を乗り出し、「いま、何と言った? ロング・ハリーを殺った?」と訊く。マウイが、「そう」とうなずくと、「夢じゃなかったの」とつぶやく。アキラはドアを開けたまま、車の座席に腰から崩れ落ちるように坐り込み、頭を抱え、「痛ーイ」と呻く。痛みが体中を襲っているのかアキラは震え、それから顔を上げて、「あいつベトナムからやっと生きて帰ってきたのに」と言い、怒りが爆発したようにマウイをにらみ、「なんであんないい奴を殺したんだ」と歯をむき出してどなる。  タケキが助手席から、「うるさい。おまえも撃ち殺してやろうか」と威嚇する。アキラは驚いてタケキを見て、ロング・ハリーを撃ったのがタケキだった、と正確に気づいたように、身を乗り出しタケキに襲いかかる。  タケキの動きは速かった。タケキはアキラの顔面を狙って殴り、どなり声で目をさました少年の体の上に倒れ込んだアキラに手をのばし、胸倉をつかまえてひきずり起こし、「さっさと死にやがれ」と言う。 「どうせ母親とヒッツリハッツリだったんじゃろよ。体売って金稼いで、ナマッ白い白ッ子のウスノロに尻ホられとったんじゃろよ。死に腐れ」  マウイは興奮したタケキを鎮める為に名前を呼ぶ。少年の側から後の座席のドアを開けにかかると、「うるさい。黒んぼ、黙れ」とタケキはどなる。  一瞬、マウイは体が熱くなる。炎が黒い肌から吹き上がり着ていた服を焦した気がする。マウイはゆっくりと熱い指を意識しながらドアを開け、タケキの顔を見、興奮したタケキの突然の攻撃を予測しながら身を乗り出し、「ヘーイ、メーン」とわざと黒んぼの物言いを真似て、タケキを見る。 「離してやれ」  マウイはタケキの目を見ながら、腕を突き出し、胸倉をつかんだタケキの手をねじり上げる要領ではずしにかかる。子供の頃から自分を守るのは腕力しかないのは骨身に泌みていた。体力は誰にもひけは取らなかった。フジナミの市のスーパーマーケットの前に置いてあるパンチの測定器のバネを壊したのはマウイだったし、倒れたハーレー・ダビッドソンを起こし、さらに持ち上げたのはびろうどの艶をした黒い肌のマウイ以外に誰もなかった。  タケキが抵抗すれば、即刻、顔面をたたきつける覚悟だった。タケキはマウイの気迫にのまれたように自分からすすんで胸倉をつかんだ手を離した。少年をまず車の外に出し、続いてアキラを抱え起こして外に出るのを手伝いながら、アキラの耳元でまるで女を口説くように、「黒んぼってブレイク・ダンスもうまいけど、精液の量だって多いんだよね」とつぶやく。 「アホウ」タケキがつぶやく。 「フジナミの市の女、みんなこのマウイから精液、ふりかけられてるよ。インサイド? アウトサイドって訊いて、アウトサイドって言われるたびに、魚になった気がするの」 「アホウ」タケキはつぶやく。 「何で殺したんだ?」  外に立ったアキラは車の中にまだいるタケキに訊く。タケキはまた、「アホウ」とつぶやき、車の正面に見える朝焼けの海を見つめている。マウイの耳に恋人の死を嘆き悲しむイゾルデの歌声が響く。  アキラの体から血が流れ続けていた。マウイはそのアキラに病院へ行くように説得した。アキラは断り続けたが、業を煮やしたタケキが、アキラに病院行きを勧めるのは、二人船に乗って日本を出る為に船主に交渉したり、船頭に連絡をつけ、必要あらばワイロを贈って乗船の準備をする為だ、と言って、フジナミの市の69のマスターから盗んだ指輪を見せたのだった。 「邪魔なんじゃよ。どうせおまえみたいなのがそばにおったら、事件起こして来て高飛びするんじゃろと怪しまれて、身元調べも綿密にされるかもしらん。ダバオで俺らが行方くらます目的じゃと見抜かれるかも分からん」  タケキはそう言ったのだった。 「分かった」アキラは言い、少年がおっかなびっくり運転する車に乗った。 「マウイ、じゃあな」アキラは六本木の街中で別れるような物言いをした。 「大丈夫?」  とマウイが訊くと、アキラは片目を瞑り、ジゴロ風の笑をつくり、 「どうせ、六本木にたどりつくまで何かにぶつかってるよ。こいつ、車、全然知らないんだから」  と言い、警察に出喰わし、取り調べを受けたってマウイとタケキの事は言わない、と言う。アキラの合図と共に少年は車を発進させた。直進し、波止場の出口のポールに車をこすりつけた。  アキラの乗った車が姿を消してから、タケキはマウイを誘って、波止場の端の食堂に向った。 「そこに誰かいる?」  マウイが訊くと、タケキは首を振り、「誰もいねえよ。ただ厭な事、忘れるのに、飯食うの」と言い、自信ありげにスタスタと歩いていく。 「カジキマグロかなんか追って南へ思いっきり出る船、狙うんだからな。ダバオと関係があるなんて言わない方がいい。俺もオーストラリアとかアラフラとか、絶対言わない。金、借りて、船に乗り込んじゃえばカチさ。船の中でダバオって百回言おうと、木曜島とか真珠貝取りとか百回言おうと、船乗りなんかボーっとしてるから分かんないよ。フィリピンのどこでもいいさ、ダバオでなくったって、ザンボアンガでもマニラでも。そこに船が補給の為に入ったら、女を買いに行くふりをして降りて、かくれてればいい。二日もたったら、俺らが女から離れられなくって帰船時間を忘れてんだと待っていたのもあきらめて、出てゆく。面白いぜ。そこからダバオに行けばいいんだから」  船に乗ってからの事を想像して笑うタケキを見ながら、マウイは漠然と不安になる。 「ダバオって本当にあるの?」  マウイはつぶやく。ケンキチノオジが繰り返して言っていたダバオに本当に行き着けるのだろうか。食堂で漁師らに混って取りあえず飯を食い、マウイとタケキは漁師らの話に耳を澄ました。惣菜が幾種類も陳列棚に飾ってあり、客は好きなだけ自分で選び皿を運んで来て食べる。焼魚はカウンターの奥にいる女に声を掛けて注文し、さらに、陸揚げされたばかりのマグロは身内どうしが食うのだからというようにタダ同然の値で、サシミにしてくれる。マウイはあれもこれもと惣菜の皿を運び、皆が注文しているからと、焼魚もマグロのサシミも注文した。鮮度のよい魚を食うのはしばらくなかった事だった。マウイはサシミを平らげ、また注文する。マウイが人目を引いたのは、肌の黒さのせいではなく、その食欲のせいだった。マウイほどではないが、潮焼けして眼と歯だけが白いという漁師は何人もいる。 「おッ、張り合うなァ」  とマウイに声を掛けたのは、食堂の壁際のテーブルで五人かたまっていた肌の黒い若い漁師らの一人だった。若い漁師はカウンターの女らが焼魚や洗い物に手が廻らないのを見て、自分でドンブリに飯をよそい、カウンターの上においた伝票をさがし、飯一つ追加の印をつける。 「勝手にやっちゃあ、駄目よ」  カウンターの中から女が声を出す。 「他所のにつけてない。ちゃんと大分船につけた」若い漁師は言い、マウイに、「ここの連中、大分船にキツいんだからな。賄いの女まで」と話しかける。若い漁師はマウイを見て、初めて肌の黒さを知ったように、「おまえも黒いよなァ」と言い、連れの四人が黙々と飯を食っている方に行きかかる。 「地黒だよ」  マウイは言って、女に切ってもらった大盛のサシミ皿を持ってタケキの前に坐る。 「俺なんか、尻のあたりだけ、まっ白でよォ」  若い漁師はドンブリから飯を一口ほおばりそのまま、トレーニング・ウェアのゴムの入ったパンツを下げて尻を見せる。 「二カ月、働きっぱなしで底抜けるほどマグロ獲って来て、もう油と水積み終ったら、海に行くんだからな」  若い漁師が言うと、タケキの後にいた男が、「しこたま稼いでいつ遣うんだよ」とからかう。 「いつか分からん」  若い漁師は飯を呑み込み、また次の一口をほおばる。若い漁師の隣の、やはり若い男が、「トロトロやって稼ぐより、パッと稼いだ方がやりがいがある」と言い、「飯、食ったらすぐ風呂入って、出港するぜ」と申し渡すように言う。五人が立ち上がり、一人が五人分の勘定を水産会社の名入った袋の中から出した金で払った。 「じゃあな」  と若い漁師がマウイに声を掛けて外に出ていって、店に残った客らは、大分船と呼ばれるマグロ船の話になった。炊事当番に欠員が出来たと言って港々で人を募っても、誰もその大分船に乗ると申し出る者はいない、と言った。大分県の港から出港して一年中、近海マグロを追って休みなしに働き、およそ二カ月周期でどこの港を拠点にするとも定めないで、出港し、船倉がいっぱいになったからと帰港する大分船は、若い盛りの漁師で、しかも切りつめた人員でフル稼動するので、炊事当番さえ他の船のように行かず、二十前後の漁師の熱気のとばっちりをうけ、クタクタになる。だからたった五人の若い漁師で何もかもやる、三十トンから四十トンの船を動かして近海マグロを追い、船倉がいっぱいになると近くの港に入り、荷を揚げて休息もなしにその足でまた船に乗り、沖に向う。 「面白いね」  とマウイが言うと、タケキが、 「遠くまで行かないで」  とマウイに、目的地のダバオや木曜島は黒潮のもっと遠くの流れの方にあるのだ、と言いきかせるように言い、あらためて食堂に居合わせた漁師らに訊くように、半年とか一年の規模でマグロを獲りに出かける船で欠員二人を埋めようとしているのはないかと訊いた。昨日の昼、ちょうど欲しがっていた船があったが出ていった、四日前もそういう船があった、と漁師らは言うが、今、入っている船に欠員ができたとは聞かないと首を振るばかりだった。タケキは、二人の船員手帖は岡田という男に預ってもらっていると言い、今、すぐにでも二人は船に乗ろうと思えば乗れると言う。  漁師の一人が、「岡田?」と訊き、 「あのハエナワの道具貸したり、人夫を調達している岡田興業の岡田かい?」  と訊く。タケキがそうだ、とうなずくと、漁師の中から失笑が起こる。漁師の一人が、ニヤニヤ笑い、 「何をしでかして来た? サラ金の使い込みか?」  と訊く。二人は漁師らの変化にとまどい事の成りゆきを見さだめようとするように黙っていると、 「それとも、兄貴分の女《スケ》に手を出して、ヤキ入れられるために岡田興業に売りとばされたのか?」  と訊く。 「岡田興業の伝手で船に乗るんだったら、今、入っている船でも乗ることができる。ただし、金はいくら稼いでも入ってこん。とっくにあの連中に前借りされとる」  漁師はケタケタ笑う。 「あの地廻りの幹部らにだまされたのか?」  不安になってマウイはタケキに訊いた。 「オレがフジナミの市、出るとき、二重三重に売りとばされてたのか?」  タケキはマウイを見てうなずく。漁師らが笑う。 「売りとばされていた」  タケキは言う。タケキは立ち上がり、先に立って勘定を払う。 「オレとマウイの二人で二百万は固い。あいつら前借りしている。オレらはなんにもしてないのに船主から借金してんだ」  タケキは食堂を出かかる。 「どこへ行く?」漁師が訊く。 「岡田興業」  タケキが答えると、漁師の一人が同情を寄せるように、 「逃げたらいいんだ。港の方へ来ないで、東京の中にいたら相手がどんな大組織でもつかまりゃしない」  と解決案を教えるように言った。タケキは食堂の外に出ると、こらえきれなくなったように不意に笑った。タケキは後ろからついて出たマウイを振り返り、肩をたたき、 「要するに、オレとマウイと岡田興業がグルになって船主をだますんだ」と言う。 「どうして?」マウイが訊く。 「岡田興業はオレらの分前借りして船主から金を取ったろう、つまり、工作料さ。オレらは南洋についたら姿を消す。マウイ、本当にそうなったらダバオに行ける」  マウイはタケキの言う事がはっきり分からなかったが、タケキを喜ばすように、 「そうか」と相槌をうった。 「ダバオって、あの歌をうたったり踊ったりするヤツばかりいるダバオ?」  マウイは言う。タケキはうなずき、ポケットから指輪をつかみだし、「ホラ」と見せる。 「そこへ行けばこんなのどっさりあるさ」タケキは言う。  マウイはふと想像する。そこでは宝石のような石は道端に転っている。甘い蜜を吸いに金色の小鳥が炎のように咲いた火炎樹に群がり飛び交い、鳴き交っているのだ。マウイは目の前にある海を見る。ケンキチノオジの言う仏の楽土のダバオから、スカーン、スカーンと斧の音が伝わるたびに海は波立ち、だから光は眩しく撥ねるのだ。 (なかがみ・けんじ) 一九四六年、和歌山県新宮市に生まれる。一九九二年没。 県立新宮高校卒業後上京し、肉体労働に従事しながら小説を書く。一九七四年『十九歳の地図』で文壇デビューし、一九七五年『岬』で芥川賞受賞。以来、土地に根ざした人間の地の奔放と回帰を描き、聖と俗、性、暴力と差別などが渾然一体となった独自の世界を築く。主な作品に『枯木灘』『化粧』『鳳仙花』『千年の愉悦』などがある。 この作品は一九八六年三月、マガジンハウスより刊行され、一九九三年一二月、ちくま文庫に収録された。 なお電子化にあたり、写真・解説は割愛した。