岬 〈底 本〉文春文庫 昭和五十三年十二月二十五日刊  (C) Kasumi Nakagami 2001  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 [#改ページ]    目  次    黄金比の朝    火  宅    浄徳寺ツアー         後  記      タイトル名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ]    岬 [#改ページ]      黄金比の朝

        1  眠りが固まらなかった。|眼窩《がんか》の奥、頭の中心部に茨の棘でさしたような甘やかな痛みがあった。蒲団を蹴り払い、声をかけて起きあがった。裸の上半身が寒気でたちまちはっきりわかるほど鳥肌がたった。ぼくは胸のちいさな薄茶色の乳首の周辺にできたそれをみながら、もういちど眠ることに努力してみるべきか、それともこのままあきらめたものか、思案した。眼が痛かった。壁に貼ったチェ・ゲバラの追悼集会のポスターに、窓の一番上の透明硝子を通して射し込んでくる午後の黄色いさらさらした光があたり、ポスターの下方にあるチェ・ゲバラ日本人民追悼委員会と書かれた黒の文字を眩ゆく照らしていた。そのポスターをいつ、誰にもらったのかも、ぼくは忘れてしまっていた。チェ・ゲバラのひげづらを描いたそれは、ぼくの四畳半の壁の一部分として自然にみえた。外から、子供の泣き声と、女の荒げた声がきこえていた。ずいぶんながい間、若い女と年老いた女が|諍《いさか》いをしていた。ぼくの筋肉、と不意に、自分の寒気で張りつめた皮膚の粒つぶをみながら思った。いまのアルバイトのような力仕事をこれから三年か四年やっていると、筋肉は固まり、盛りあがり、どこからどうみても労働者そのものの体格好になるのだろう。ぼくは、立ちあがった。寒さが立ちくらみのように襲ってきた。あわてて服を着たかったが、ぼくはその軽佻浮薄なぼくの心を律して、眠る前に折りたたんでおいたシャツとズボンとジャンパーを、わざと自分の心を試すようにゆっくりと丁寧に着た。  ぎしぎし鳴る廊下を歩いて、ぼくはつきあたりの便所に入り、小便した。便所の土埃のたまった窓をあけると、小学校の鉄筋校舎に掲げられた日の丸の旗と、大地にではなく青い空にむかって根を張ったような、リンパ腺の解剖図を想わせる、裸のケヤキがみえた。いつから旗日でもないのに日の丸が掲げられるようになったのだろうかと思い、不意に、小学校の時担任だった女教師が、「よくないことです」と日の丸の旗のことを泣いて非難していたことを思い出した。小便をし終り、炊事場の流しで手をあらい、それから冷たいきよらかな水を飲みたくなって、蛇口に口をつけて水を飲んだ。炊事場の窓からは、裏のアパートと、くずれおちそうな板塀と、駅の方面の屋根が三つほどみえた。  ノックをしないでいきなりドアをあけた。斎藤は口をあけ、蒲団からパンツ一丁の、なま白い足を出して眠りこんでいた。「おい」とぼくは、斎藤の枕元に立って言った。「起きないか、起きて風呂にでも行かないか」斎藤は口を閉じ、ううとうなり声のようなものを出し、頭と足を蒲団の中にもぐりこませた。ぼくは、海老の形に体をおりまげているらしい斎藤の蒲団をみながら、花模様のクッションを敷いた椅子に腰かけた。壁にギターがかかっていた。金属のこすれあうような頭にひびく声を出して調子っぱずれにうたう歌手の笑顔のグラビアが、机の前に貼られ、その脇に、石母田+20、吉村+55、ケン+105と書いた麻雀の点数なのだろう紙切れが画鋲でとめられ、そして保健飲料の会社名の入った今週の格言が釘でひっかけられていた。《他人を嘲笑う者は己れが嘲笑われ、他人を尊ぶ者は自分が尊ばれる》雑然とした部屋だった。緑色の柔らかい生地のカーテンが窓にかけられていた。斎藤の枕元には、マンガ週刊誌と、『短期決戦・物理のテクニック』が置かれてあった。「よお、風呂にいこうぜ、明日、おまえも休みだろ」斎藤は返事をしなかった。  そのままアパートの外に出た。光が睡眠不足の眼に痛く眩しく、ここ一カ月ろくなものを食べていないし、夜勤と受験勉強のため疲れが骨の中心にまできているらしく、|眩暈《めまい》がした。春に変りはじめたばかりの季節の風は、ここち良く冷たかった。どこへいこうか? と迷った。黒のジャンパーのポケットに手をつっこむと、中に英語の単語カードがあった。abandon 棄てる。放棄する。=forsake ぼくは、まるでその単語カードをみつけ日の下にさらしたことが、今日一日の|禍々《まがまが》しさを予言しているとでも言うように、それをすぐさまポケットにねじこんだ。アパートの隣の家の松根善次郎が、道に縁台を置いて並べた一様にいびつにひんまがり幹の部分が茶っぽくなった植木鉢に、綿入れを着こんだ腰をかがめ、ひしゃくで丁寧に水をやっていた。葉がすっかり落ちた植木は、植物という類のものではなく、いくら水をやっても光をあててもけっして葉をつけることも花を咲かせることもない針金の類、釘のたぐいに見えた。もう親子喧嘩は済んで、今度は盆栽の手入れか、と思った。昼日中から、ののしりあっていたのだった。一回目、ぼくがめざめた時に、窓をあけてのぞくと、ののしりあっている当の娘がつれてきたのだろう、ヤクザか水商売かの男が、電柱の脇にしゃがんで、ちっちっと舌を鳴らして仔犬を呼んでいた。「おまえは、お父さんにむかってなんてことを……」そう言うのは松根善次郎の女房すみのであり、その声にかぶせてそんなもっともらしい了見などこの家に通じるものかと、「お父さんなんてどの顔で言えるのさ、わたしは自分の洋服とりにきただけ」と声を荒らげ、ずっと昔から親でもないし子でもないと言いたてるのは、娘の順子という派手な服の女だった。家の中で、叫びたてののしりあっているというのに、男は、尻尾をふって首のほうからすりよってきた仔犬を撫ぜさすり、抱きあげ、顔をなめられてわらっていた。仔犬はどこの家のものかわからないどぶ川のこちら側、あやめ橋のこちら側のこの近辺を、尾をふってうろつきまわっている犬だった。このようなてあいの無節操な犬はどこの町にもいた。まったくはた迷惑な家だった。  あてもなく駅まで歩き、あてもなく電車に乗って予備校のある駅で降り、予備校まで歩いた。予備校の前で黒いラッカーでヘルメットを塗りつぶした五人の男が、ビラを配り、カンパを募っていた。急激に温度が下がりはじめたのがぼくにはわかった。ジャンパーのポケットに両手をつっこみ、体をまるめ、道路に面した校舎の壁につけられた硝子ケースの中に貼ってある二月初めの摸擬試験の順位を、ぼんやりとみていた。五四八点高品秀一(ラサール)からはじまり、百位まで書きあげられている。硝子にぼくの顔がうつっていた。この模擬試験は、ぼくも斎藤も受けなかった。ラサール、灘、西と高校の名前を見ていて、不意にぼくは、自分の高校を思い出し、兄をおもいだし、母をおもいだした。インバイノクサレオマンコ。しゃらくさいじゃないか。予備校の五階建の屋上にいこうとして予備校生が出たり入ったりしている玄関で、黒ヘルメットからガリ刷りのビラを渡された。〈再度、武装した軍隊の創設〉とあり、共産主義武装軍団とあった。兄の所属する党派ではなかった。息苦しかったがそれがいまのいま、このぼくに課せられた責務であり賭けだと思い、じぐざぐ形になった階段を休まず五階まで一気にかけあがった,息ができなかった。大きな夕陽がみえた。それは血膿の色だった。屋上に張られた太い金網に手をかけて下をしばらくみつめ、それから、いまさっきもらったばかりのビラをポケットからとりだし、ちいさくちぎって一片ずつ手を離して棄てた、まったく悠長な暇つぶしだった。紙片は、風に乗って蝶のようにひらひら舞いながら下に落ちる。  夕飯を食べて部屋にもどった。兄がいた。兄は、ぼくの蒲団をおりたたみもしないでくるくると壁にまるめ、それをソファがわりにしてもたれこみ、斎藤相手に競馬のはなしをしていた。兄はぼくの顔をみるなり、「どこをうろついてるんだ、勉強もしないで」と言った。斎藤は兄に寝ているのを無理に起されたためか、呆けた顔でぼくをみた。「どけよ、おれの蒲団にもたれたりするな」と、ぼくは兄の前に立って言った。兄はぼくの腹だちのようなものを察したのか、起きあがりあぐらを組んで、「しばらくなあ、ここに潜らせてもらうから」と断定口調で言った。「ひどいものさ、別件でどんどんパクりやがる」「そうらしいですねえ、ぼくの高校の時の友人のそのまた友人が、一年ぐらい前のおでんの食い逃げでパクられた」斎藤は言い、兄はいったいなにをこの男は言いだすのだろうかというふうな顔をして、ぼくをみ、苦笑した。「破廉恥罪ってわけか」 「破廉恥罪だけど、なにも一年も前の食い逃げつかまえなくっても良いのに、なにか裏にあるなって思ってると、やはりツリー爆弾のことばかりきくんだってさ。リストをつくってるらしいんですよ」 「しつこいからなあ、あいつら」兄は言った。兄は蒲団の脇においた黒の模造皮のショルダーバッグをひきよせ、チャックをひらき、中からチョコレート四箱とコンビーフ二個、さけのかんづめ一個を出し、「ほら、東京のお土産」とわらった。「おまえまでが東京に来てて、東京のお土産もなにもないけど、おまえ、おれが帰るたんびに、東京のものだったらなんだって良い、よこせと言ったろう」兄はそれから斎藤にむかって、「おれたちほんとうに仲が悪いんだよ、それもこれもこいつがこんな性格だから」となれなれしく言い、まだつっ立っているぼくを見あげた。ぼくは、自分のいまの感情を整理できないで、やせこけた兄の眼の、いままでぼくなどにみせたことのない哀れみを求めるような柔らかい色を読みとりながら立っていた。兄がこの部屋にあらわれ、これから当分潜るということは、厄介であるが、身より一人ないこの都会で血をわけた兄弟がぼくのすぐそばに来たということでもあり、それはなんとなく心づよく、楽しげでもあった。 「いっしょうけんめい、おまえのためにパチンコやって、東京の土産とってきたんだぞ」 「おれはそんながきじゃないよ」吐き棄てる口調だった。兄は気まずげにわらい、ぼくの蒲団の上にまた体をもたせかけ、しわくちゃのズホンのポケットから煙草をとりだし、一本口にくわえて、「マッチ、マッチ」と自分のポケットのあちこちをたたいて捜した。上衣の左ポケットに入っているらしく、おっ、と声をたて、手をつっこんだ。「なんだよ、こんなもの入ってるよ」と兄は、内ポケットから桃色の柄の歯刷子をとりだし、わらい顔をつくって、その歯刷子が、ぼくの感じているとまどいや不機嫌を一挙に打ちくだく手品の種だというふうにみせた。斎藤は兄の手品に乗ってわらった。ぼくはわらわなかった。おもしろくもおかしくもない。それは子供のころから兄が何度もくり返しくり返しつかった手だった。 「ここずっとわたり歩いてるから、必需品なのさ」兄は斎藤の渡したマッチで火をつけ、煙草をすいながら言う。けむりが裸電球の光をうけて、ゆっくりとゆらめきながら流れ消えてゆく。「大変なことなんだぞ、革命の志抱いて転々とこの資本主義社会を移り住むって言うのは、おまえなんかにはわからんだろ、真の革命家は乞食でもあり、貴族でもある」 「それで女の歯刷子なんか持ってんだろ」ぼくが言った。 「ああ、さすがおれの弟だけあってよくわかるな。今朝まで“|救対《きゆうたい》”の女の子の下宿にいたんだ」 「きたならしいよ」ぼくはなぜなのかわからなかったが、兄を殴りつけたい衝動があるのを知った。「その桃色の歯刷子はおまえに似合っているよ。帰れ、帰れ。おまえらの言う革命なんて仲間を殺したり罪もない人を爆弾で殺したりするだけだろ」ぼくの言っていることは、けっしてぼくのほんとうの意見ではなく、他人のもの、新聞や雑誌などからなんとなく兄の所属する党派への批判的な言い方をまねしたものにすぎないというのを知っていた。兄はいったいなにを言うのだろうという顔をしてぼくをみつめている。「おまえら人間の屑だよ、働きもしないで、好き勝手なことやって。なんにも知らんだろ、おまえと同じくらいの齢のやつが、どんなふうに思って働いているか」ぼくは椅子に腰かけた。 「おまえだって同じだろ、おまえだって同じくらいの齢のやつのことなんにも知らないよ」 「知ってるよ」ぼくは語気をつよめる。 「知ってても知らなくてもたいした違いはないさ。どうせろくなこと考えちゃいない。女とか車とか、麻雀とか競馬とか、大衆の考えるものはそんなものさ。昔から大衆ほどバカで度しがたいほどおめでたいものはないと相場がきまっててな」  カーテンのない窓から外の寒気が直接、硝子の粒子ひとつぶひとつぶをすり抜けてこの部屋にやってくるのだった。兄はいかにも寒いというふうに身ぶるいし、うすぐろく垢でよごれたコートのえりを立て腕組みした。壁に貼ったチェ・ゲバラのポスターとアルバイトの公休日に丸をうったカレンダーが、やけにこの部屋を質素に清潔にみせた。つまり、必要なもの以外なんにもない。いわば裸の、純粋抽出したぼくそのものの部屋だ。右隣の部屋からテレビの笑い声がきこえてきた。 「こいつ、毎日ちゃんと勉強してる?」兄が斎藤に訊き、斎藤が真顔で答えるより先に、「そんなこといらんおせっかいだよ、それより、自分の今晩泊る宿屋でもみつけてこいよ」とぼくは、兄の持ってきた煙草を抜きとり、火をつけ、吸った。「おまえがちゃんと勉強しておれの学校に入学できたら、突撃部隊にでも入って立派にやれるんだけどなあ。公然と非公然にわかれていて、非公然の精鋭が突撃部隊さ」 「あれ、ぶっつぶれたんじゃないの」斎藤がとんきょうな声を出す。 「ああ、ぶっつぶれたさ」兄はため息をつくようにわらった。「だからこうやって逃げまわってるんじゃないか、そうじゃなかったら、誰がおめおめとこんな薄情で、おれの言うことやることになにからなにまで逆う弟の部屋に来て、乞食みたいに泊めてくれなどと言うもんか」 「おれをほめたんだろう」とぼくはわらった。兄の煙草は苦いだけだ。  翌日の朝、ぼくは隣に眠った兄の寝息をきき、そしていつものように始まった松根善次郎のなにを唱えているのかさっぱりわからない読経の声をきいた。朝のあけきらないうちから八時まできっかり三時間、犬の呻き声さながら波をつくって唱えた。うるさい、近所迷惑で眠れやしないとどなりだしたかった。蒲団を頭からすっぽりかぶると、ちょうど印刷工場のモーターがうなる音のようにきこえる。カーテンをつけていないのがいけないらしく、くもり硝子の粒子の隙間から、それが人の声だとは誰もはじめてきくとけっして思わないだろう重っくるしく妙につやのある声、しかしながら怒声に似た荒っぽい声が、細かな糸のようなものになってすり抜け、すり抜けたとたんまた一つの声になって部屋の、凍えた空気の中に、蛇のようにくねる。波を打つ。兄の寝息をきき、その部屋いっぱいにこもった読経の声をきき、苛だたしさにとらえられた。 「おきなよ」とぼくは兄に言い、それが昔のように子供じみた言い方だと思い、「おきろ、おきろ」と蒲団をはいでやった。兄はいそいで体をまるめる。「おきろ、おきろ、もう六時だぞ」ぼくはいよいよ佳境に入ったというように一段と声をはりあげた読経を耳にしながら立ちあがり言った。「これから小学校の屋上にたててある日の丸に御来光があたるのを拝みにいくぞ」兄はぼくの言葉がわかったらしく、眼をとじたままにやりとわらい、「寒いし、眠いんだ、なんでも勝手にやってくれ」と蒲団をたぐりよせた。ぼくはいつものように、全身にあらわれる鳥肌を楽しむふうにゆっくりとズホンをはき、シャツを着、ジャンパーを着る。三月十二日、ちょうど今日、公休の日だ。服をつけ終えてから、窓をあけた。このぼくのアパート富士見荘の隣のボロ家、それが松根善次郎の家だった。松根善次郎のだみ声がはっきりと、なむみょうほうれんげきょ、なむみょうほうれんげきょときこえた。腹の底からふりしぼり、うんうんと読経のあいまに息をつぐ音までもきこえる。「よお、起きろよ、いっしょにマラソンでもしてこないか」ぼくが言っても、兄は死んでしまっているみたいに動きもしないし返事もしない。ぼくは兄を起すのをあきらめた。ポスターのチェ・ゲバラだけが、ぼくと同じように、身を律して眠らず起きているように思えた。それにくらべ、こいつらは堕落している。空は白っぽく変化していた。松根善次郎の家の屋根はところどころめくれあがり、そのうすよごれ、茶っぽく変色したかわらが、いまにも根っこからぽろりと取れそうな虫歯のようにみえた。  走った。耳の後側で鳴る風の音が楽しかった。そして不意に走りやめ、ポケットから単語カードをとりだし、あてずっぽうにひらいた。occurrence 生起、とあった。これでは勝負にならない、良いことも悪いことも生起するではないか、そう思い、はぐらかされた気持ちになり、もういちど、六百語の英単語の中からこんどは眼をとじて任意に選んでみることにした。fuse,a fuse 信管、とでた。弾丸を炸裂させるために炸薬に点火する装置のこと。これは吉だろうか凶だろうか? これもはっきりしなかった。pierce 突きとおす。不意にその単語から、子供のころ、兄のふりまわした木の棒で額に二針ほど縫う怪我をさせられたことがあったのを思いだした。傷跡はいまでも黒いしみのようなものになって残っていた。これは凶だ、と思い、不意に、自分が吉か凶か占いをやりながら、凶の、禍々しいことを暗示する単語以外求めていないのに気づき、ばかげたことをやっていると声をたてずにわらった。鼻腔から出るぼくの息が白かった。「このまえ、おれのところに、おふくろから手紙きてて、東京へ行ったきり住所も知らせてこないと嘆いていたぞ」「いいんだ、おれは親子の縁を断ったんだから」「そういうもんじゃないだろう、毎日つらいめしておまえを女手一つで高校卒業させたんだから」「おれはおまえをうらやましいと思うよ。酒のんで酔っぱらって、きゃあきゃあ若い女とさわぎながら帰ってきて、おばちゃん、また明日、と若い女が言うと、あいよ、と言って、家に入り、ぼくの顔をみるたびに、なんや、へちゃむくれのくせに、ちょっと若いと思うて人のことをお座敷でも、おばちゃんおばちゃんて呼びくさる。ああ、福善、勉強してたか、ちょっとすまんけどなあ、おかあちゃんに水もてきて。そんなことないだろう」「しようがないじゃないか、親父が死んじゃったんだから」「おれはあんなヨイヨイのインバイなんか、母親じゃないと思ってるよ」ぼくは言った。そうだ、ぼくは自分の母親と縁を切りたい。  ぼくは兄とは腹ちがいだった。父の先妻である兄の母親が、旅役者とかけおちして、その後妻に入り、中学三年の時、父がオートバイで木の切り株に激突して死んでから、ぼくの母は、土建請負師であった父の懇意にしていた山田屋へ仲居に入ったのだった。女は嫌いだ。「ええ学校に入らなあかんよ。お母ちゃん、好きで酒のんでると思う? 好きで、唄うたって、悪どいことしてもうけた山奥の材木屋におせじ言ってると思う? 武志君なんかに負けたらあかん」と母はいつも兄の名前を引きあいに出した。しゃらくさい。インバイめ。ぼくは、兄がぼくの母親のことばかり言うので、しゃくにさわり、兄の母親のことを言ってやった。「ひょっとすると、おまえのおふくろも、あそこにもどってきてるかもわからんじゃないか?」 「ああ」と兄は、眼をとじた。「哀れな大衆って感じだな」 「なんだよ、その大衆ってのは」兄はいきなりみぞおちを殴りつけられたというように、ぼくの貸し与えた冬ものの布団の中で身を大きくのばし、「女の悲しい性ってわけさ」と言い|欠伸《あくび》をした。眼のふちに涙がたまっていた。昨夜斎藤が自分の部屋にもどってから、ぼくと兄は子供のころそうだったように二つ並べて敷いた蒲団に入り、夜の二時ちかくまではなした。  fuse,a fuse と英単語をそらんじるように声に出してつぶやきながら、走った。朝の光が、ぼくの全身に当っていた。朝そのものが、ぼくにくっついて走っている気がした。ブロック塀の角からぼくと同じくらいの年齢の新聞配達が、猫のように足音もなくとび出してきて、あやうくぼくとぶつかりそうになった。ちっと舌打ちし、新聞配達は走るのをやめ、紙飛行機をおるとでもいうように新聞を二つおりにし、村越貞二郎後援会連絡所とプレートをかけたクリーニング屋の裏口に入っていく。緑色のからたちの生垣の家の前でとまり、ぼくはその一枝をおった。なんとなく a fuse という英単語とその植物の先がまっすぐにのびた棘が似ている気がし、もし fuse という単語の出てくる英文解釈でもあれば、この棘を思い出そうと決めた。そんなふうにして覚えた単語はいっぱいあった。gentle それは五月頃の柔らかい芽ばえたばかりの草、それはコンクリートのからからに乾いた感じ、そして revolution は乾電池で動くおもちゃの船だった。小学校の裏側では、工事をやっていた。ダンプカーが裏口の中に首だけつっ込んだ格好でとまり、エンジンがかけられていた。ヘルメットをかぶり、地下足袋、乗馬ズボン、うす茶色のセーターの男が、事務服を着た男と、今日一日の仕事の段どりをたてているらしく手まねをいれてはなしていた。  部屋にもどると、兄はおきていた。「日の丸あおいできたか」と兄はぼくの顔をみるなり言った。その兄の言葉が妙に腹だたしくきこえ、「ああ、あおいで身をきよめ、誓いをたててきた」とぼくは答えた。「やっぱし日の丸は良いよ、自分がほんとうにいま確実に日本の中にいて日本人の十九歳の男なんだって実感がわくよ」まだ読経はつづいていた。 「右翼ってわけか」 「ああ、右翼だな、おれは、れっきとした」もってきた植物の枝を机におきながらぼくが言うと、兄は、「けっ」と声を出して、読んでいた新聞を投げだして口をあけて無理にわらう。兄はそんな馬鹿馬鹿しい話につきあっていられないというふうに、ズボンの外にはみだしたシャツを中にたくしこみながら、「ほんとうにこの部屋はなにもないんだな」と立ちあがった。「なんて言ったっけ、あいつ、すっとんきょうな奴。あいつの部屋にでも行って、コーヒーでものませてもらうよ」兄は植物の枝を置いて椅子に坐ったぼくに気圧され逃げだすのだというふうにドアのノブに手をかけ、「よくこんなになんにもない部屋で平気だな」と言った。「変な部屋だよ」「ぜいたく言ってられる身分かよ」ぼくは切り返してやった。  ぼくと斎藤は同じ予備校に籍を置き、駅の売店で売っているアルバイトニュースに紹介されていた貨物輸送会社に働きにいっていた。斎藤は三浪、ぼくは一浪だった。月曜の夜から土曜の朝まで、毎晩、夜勤だった。朝、アルバイトから帰り、喫茶店によってモーニングサービスつきのコーヒーをのみ、それからアパートに帰る。それで眠り、午後になってめざめ、予備校に出かけるか、部屋でもう何度も何度もやったために解題の方法まで暗記してしまった数の問題集をとく。それからまた夜勤だ。夜勤の合い間に勉強している具合だった。ちいさな字で計算まできっちり並べて書いてあるので、ぼくの数学のノートも物理のノートも、そのまま一冊の印刷されたノートにみまがわれそうなくらいだった。よく斎藤はそう言う。物理の公式をつかって問題をといていて時々わけもわからず腹立ちがはじまり、発作的にめちゃくちゃに自分のノートに×印つけたり破りすてたくなる衝動にとらえられるが、それでも自分自身を律して、(なんと律してばかりいるのだろうと思うが)ノートのすみのほうに、囲みをつくって、やはり印刷された活字のような字で思いついたことを書く。〈現代の日本はまちがっている。みんな殺しあって死ねば良い。人は愛しあってなど生きてはいない。我だけしかない。だから、我だけなのだから、宗教とか、社会主義などは我の前ではぎまんである。自由は、嘘だ。平等は嘘だ。民主主義は嘘だ。豚め〉  兄がこの部屋に泊ることになるまで、死んだ父のことも、母のことも思いださなかった。いや、そう言えば嘘だ。むしろ断じて思いだしたくない、ぼくはまったくどこにでもある普通の十九歳の少年になると決心していたのだと言ったほうが良い。故郷に手紙を出さず、住所すら知らせなかった。喫茶店で、斎藤はそんなぼくを理解できないと言う。「あたりまえのことだろうがあ」とトーストを口いっぱいにほおばったまま言い、口の中のそれをのみこむために、砂糖をたっぷり入れた甘ったるいコーヒーをすする。「誰だって家におふくろ一人しかいないとわかってたら、万が一のこと考えて、住所ぐらい知らせるなあ」ふたたび斎藤はトーストをくいちぎり、唇をバターとパンの粉でまぶし、「おまえはつくづく変ってると思うよ」と、真顔で言う。「だいたいからして、あんな人使いの荒い、おれたちを人間などと思っていないところで、安いバイト料で、まじめに働きすぎるよ。昨夜なあ、おまえ、あのバカ鉄に呼ばれてなんか言われていただろ? はい、はいって直立不動でうなずいてさ」斎藤は眼をこすりながらわらう。「くそまじめにヘルメットかぶってさ。他のアルバイトのやつら、おまえの態度みて、なんだ、あいつ、って言ってたぞ」「おれは普通だよ」とぼくはいつもそう言い返すのだった。「おふくろに手紙なんか絶対書かないって思ってるのは、おれにとっては普通のことなんだし、はいって返事するのも、あたりまえのことじゃないか」 「おまえのは度がすぎるってやつだな」 「じゃあ、おまえらみたいにダラダラ仕事中に麻雀の話したり映画のはなししたりするのが良いってのか。ふざけるんじゃない、冗談じゃない。おれはまともに生きていきたいんだ。おまえらみたいに、ぐちゃぐちゃしたことなど大嫌いなんだ。|反吐《へど》が出るよ、インバイ野郎らめ」斎藤はぼくが興奮しはじめる過程を楽しむとでもいうように、座席に大きく身をそらして、ぼくをみつめる。 〈おれ一人で生きていく。親も兄弟も、嘘だ。母親がいたということも、父親がいたということも嘘で、おれは木と石が交接して、木の|叉《また》から生れたのだ〉  ぼくのノートにそうあった。実際、そう思わないと、耐えられなくがまんできなくなる。自分がふっと気がついてみると、故郷の川の近くの、そして山のそばの花町のはずれの家で、土間に包丁をにぎって立って、乳房のあたりまで化粧した年老いさらばえしわしわの皮膚むきだしの、まだかすかにアルコールのにおいがしている母の屍をみているかもしれない。ぼくは十九歳、もういっぱしの男だ。ほんとうになにもない奇妙な部屋だった。なむみょうほうれんげきょなむみょうほうれんげきょと、松根善次郎の読経がつづいていた。ぼくは机にむかい、数のノートをひろげ、印刷されたようにきっちり小さな字で書かれてある数式を眼で追いながら、頭の中がからっぽになり、考えることもできなくなっているのを感じていた。なにひとつない。いまぼくの体のどこか一部分を針でつつくと、ぼくの体の中につまり、ぐちゃぐちゃになっている精液のようなもの、外にとびだしたくてもその外にひらいた穴やとびだす方法のわからない血のようなものが、ぴゅっと出てくる。腹立たしい、しかしそれは悲しいということと同じだし、うるさい、黙れ、と叫びたいのは、もっと大きな声でやれと言うのといっしょの感情だった。わけがわからなかった。いったい、このおれにどうしろと言うのだ。 「ああ、福ちゃん」と不意に母の言葉をおもいだした。それだけで不愉快になった。隣の部屋から、鉄工所員の女房の「べんとうもって……」という声がきこえ、ドアがしまり、また開く音がした。鉄工所員の女房の声はすべて性的にきこえ、みだらだ。ほとんど毎夜、あの二人は犬のようにつがっている。模擬試験のあった時、斎藤がぼくに数学の解答をききにき、ザラ紙に式を書いていると、斎藤は「おっ」と言い、壁に耳をあてて、きいてみろと言ったのだった。それまでぼくは、それが男と女がつがって、女がもらす快楽の声だということを知らなかった。それから、斎藤は、ぼくの部屋に夜くるたびに壁に耳をあて、「なんだ、今日は休みかな」とあいさつ代りに言う。昨夜、兄と故郷のはなしをしている時も、鉄工所員の女房の声はきこえたが、兄は知らない顔をしていた。そんな声などぼくはききたくなかった。ぼくは、性的なものいっさいを自分自身に禁じていた。  なむみょうほうれんげきょなむみょうほうれんげきょと唱えている。この世の中にそんな苦しげに荒ぶる声をだして呻かなければ耐えられないことがあるというのか? そう思い、その声が、あの毎日綿入れを着てめがねをかけ、針金細工のような盆栽に水をやったり、鉢ごと手にとってためつすがめつみている松根善次郎のものだということが、不思議な気がした。「おまえはお父さんにむかってなんてことを——」と昨日の昼間声をはりあげたのは、この声ではなく、松根善次郎の女房のものだった。奇妙な感じの町だった。半年前、占いをやってなりわいにしていた老婆が大量の睡眠薬をのんで腐乱死体でみつかり、その老婆がこのアパート富士見荘の管理人堀内みきとの友人だったということで、警察がきたり、堀内みきとが泣いたりわめいたりし、そのほとぼりがさめないうちに、小学二年の女の子が暴行されるという事件がおこった。警察官はこのアパートにも調べにきた。不意に読経が止んだ。午前七時十五分。松根善次郎の屋根のむこう側にうすい青の空がみえた。  隣の斎藤の部屋にノックもしないではいりかけ、一瞬たじろいだ。中からなにを言っているのかわからない低い兄の声がきこえた。手垢とも埃ともつかないもので黒ずんだ茶色のニスを塗ったドアを、こんこんとたたいた。アパートそのものが古くなったせいか、それとも下手な大工の安普請のせいか、ドアと柱の間にすきまがあり、ノックと共にガタンガタンと鳴った。「あいてるぞ、どうしたんだあ」と斎藤の声がきこえた。むかいの部屋から、背広を着た男が新聞を持って出てき、ぼくに目で挨拶をし、廊下をぎしぎしきしませながら階段のほうへ歩いていく。男の持った新聞から、広告チラシが音をたてておちた。男はふりかえり、ぼくがみつめているのに気づいて笑をつくって広告チラシをひろいあげ、口笛を吹きながら階段をおりてゆく。今日は日曜日だった。 「どうした? ぼんやりしないでコーヒーのめ、コーヒーを」兄が電気ごたつの中で背をまるめて言った。「なんだ、調子が悪いのか? 朝から日の丸をあおぎにいって、それで気分が悪くなったのか?」答えるのがめんどうくさく、ぼくは兄のそばを避けて、斎藤の体にくっつくようにコンセントにさしこんだ電気釜の脇に坐った。こたつをめくると、斎藤のものか兄のものかわからないむれた足のにおいがした。カーテンをしめているために部屋全体が緑色のうす暗がりだった。《他人を嘲笑う者は己れが嘲笑われ、他人を尊ぶ者は自分が尊ばれる》今週の格言はめくられていなかった。不意に気になり、ぼくは立ちあがり、次の格言をのぞいてみた。《真実の教えに遇わねば生死の道はながい》いったいどういうことなのかわからなかったが、なんとなく《生死の道はながい》という文句が気にいった。 「いま、飯つくっているからな」兄が言った。「あとで昨日おまえに渡した東京のお土産もってこいよ。それでおかずはできあがりだ。兄弟で飯をくわしてもらおうって言うのにおかずぐらい出さないとな」兄は斎藤の持っている文庫本をとりあげ、ぱらぱらめくり、ふんふんとうなずく。 「キャンプみたいで楽しいじゃないか、こういう生活も」  斎藤は兄にどういう態度をとって良いのか迷っている様子で、兄の言うことがおもしろくもおかしくもないのに、ぐすっと鼻でわらった。兄は二十五だった。斎藤は二十一だった。たった四つしかちがわないのに、兄はずいふん横柄な態度をとっていた。兄は壁に背をもたせかけ、手だけのばしてトランジスタラジオのダイヤルをまわした。過激だといわれる党派に入り、殺したり殺されたり、死ぬの生きるのと、犬も食わない喧嘩をやっていて、いま官憲に追われているという兄のことだから、ニュースをさがしているのだと思っていると、兄はまず歌謡曲にダイヤルをあわせた。それからFMに切りかえ、クラシックにダイヤルをあわせた。ぼくと斎藤がけげんな顔をしていると思ったのか、兄はわらい顔をつくり、「そら、ブランデンブルグきくほうが麻丘めぐみきくよりよっぽど良えというのを知らなあかん」と方言で言った。「朝から、ピーピー鳴く声でさえずられたら、かなわん。福善はそれを知っとるなあ」兄は言った。「おまえは小学校の時と中学校に入って声変りしてからもコーラスやってたから」 「こいつ、コーラスやってたの」とんきょうな声で斎藤が言った。「へえ、こいつ歌うたってたの」ぼくは黙ってはずかしさを耐えた。 「うまいもんだよ。いまでもおぼえてるよ。親父がまだ生きてるとき、こいつをかわいくってしようがなくって、酒のんで酔ったとき、福、歌、うとうてみい、と言う。おれにはそんなこと全然言わん。だから、ひょっとすると親父は、おれが、あのおふくろの子供だというんで憎んでるんかもわからんと思ったこともあった。おれはおぼえてるよ。おまえが眼かがやかして、こんな歌ならってきたと、親父やおふくろの前でうたったの。先生がみんなのお父さんやお母さんにうたってきかせてやりなさいって言ったと言って、ボーイソプラノでな」兄はうたった。「しあわせはおいらのねがい、あまいくらしはゆめでなく、いまのいまをよりうつくしくつらぬきとおしていきること」 「泣けてくるような歌ですね。そんなの、ボーイソプラノでうたわれたら、こたえる」斎藤が言った。 「おれはそんな歌うたわないよ、おまえがうたったんだろ?」ぼくはいった。 「しごとはとってもくるしいが、ながれるあせにねがいをこめて、あかるいしゃかいをつくること、か。古き良き時代の歌ってやつだな」兄はそう言って眼をつぶり、それからFM放送の音楽にあわせて、茶碗をスプーンでたたく。茶碗の中には、兄の飲みかけのインスタントコーヒーが半分ほど入っている。不意に兄は眼をあけた。「冗談じゃないぜ」兄は思わず呻きをあげるというふうに言った。「そんな歌うたっていっしょうけんめい働いてつくってきたのがこんな社会だっていうんだからな。なにがあかるいしゃかいだよ」 「おれはそんな歌うたわないよ。おれがうたってたのはオリンピックの歌さ」 「なにが人民は海だよ、ボリビアの山奥で戦争しようってんじゃないんだ、この日本で戦争するしかわれわれには可能じゃないんだ」 「でも良い歌ですね」 「良い歌なもんか、あんな御詠歌」兄は舌打ちをし、ラジオを切った。「良い歌だよ、おれたちのいまにぴったりだよ、なあ斎藤。その歌は、予備校生のおれらの歌だよ」そう言ってぼくはわらいをつくって兄をみた。電気釜のふたがもちあがりごとごと鳴りはじめ、それがやけにおおきく鮮明にきこえた。兄の顔をみているそのことがやりきれなく、ぼくは斎藤の花模様のこたつ蒲団に眼をうつし、みつめた。それは不愉快な絵柄だった。コーヒーをのむか、と斎藤がきき、ぼくはいらないとかぶりを振った。fuse,a fuseと不意に思い、手でおりまげひき裂くようにして、朝、生垣からとってきた植物の一枝が、いま、ぼくの部屋でひき裂かれた痛みにもだえ、それでもじっと耐え、硬く凝固した痛みが、棘そのものに転成していると思った。棘はますます硬く鋭くなる。花などおれには似あわない、好きじゃない。兄は鼻でふっと大きく息を吐き、壁にもたせかけていた体を起きあがらせ、「もうめちゃくちゃにやられたもんなあ」と言い、灰皿の中からまだ吸えそうな長さの煙草をさがした。「牛乳屋に住み込んでもぐりこんでオルグをやってたんだけど、組合つくって、バリケードつくって、結局おれだけたたきだされたよ。高橋っていうやつ一人だけだ、おれの同志は」 「そんなことわかりきったことだと、おまえはおれの手紙に書いていたろう。学校はどうしたんだよ?」ぼくが訊くと兄は、「ああ、学校、とっくに除籍さ」と弱よわしいわらいをつくった。 「なんだ、おまえはルンペンか。おまえは、要するに、挫折したいから挫折したんだろ」 「そうさ」と兄は苦笑する。「だけどおれがここにきても、こんなにめちゃくちゃになっているのを知って喜ぶのは、おまえ一人だってわかってるんだからな」 「へんな兄弟だな」と斎藤がぼくと兄のやりとりをきいて言った。実際、へんな兄弟だった。と言っても、どこでも誰でもそうなのかもしれないが、仲が良かったという記憶はまったくなかった。兄が高校生の頃、泣いて勉強部屋からとびだしてき、「おれの悪口ばかり言うて」とぼくがどんなに陰にかくれて悪いことをしているか暴露したことをおぼえている。その時母は、自分の姉、ぼくからみれば伯母にむかって、父と先妻の子である兄のことを悪く言っていて、ぼくが、大人のはなしをそこに坐ってきいていたのだろう、「なんやしらん、気色悪りてね」その言葉をおぼえている。  兄は、父が死んで、母が山田屋へ仲居にいきはじめたのを、内心では、ほら、みろ、と思っていたのかもしれないが、ぼくが出した手紙の返事にはきまって、母上によろしく、福の通っている高校の実力テストで常時十番以内に入っているようだったら、浪人しなくてもこの大学に入れると書いてきた。ひょっとすると、兄が東京の大学に入り、ぼくが高校生で、毎晩毎晩きまって酒のにおいをぷんぷんさせて帰ってくる母をみるのがつらく息苦しく、それで「東京」の「大学」にいっている兄に手紙を書いている頃が、一番兄弟双方にとって相思相愛の状態だったのかもしれない。母のことは思いだすだけでも反吐がでる。「福ちゃん、いっしょうけんめい、誰にも負けんように勉強せなんだらあかんけど、根つめんと」母はあがりかまちに腰をおろし、水をコップにいれてさし出したぼくに、「おおきに」とお座敷でやるやつなのか頭を下げわらいをつくり、ため息をひとつし、おびひもをときにかかる。時にはそのまま泣きくずれることがある。「なんや、チンバ、太鼓腹、下っ端のくせして大きな顔しくさって。お父ちゃんが生きとったら、あんな太鼓腹、この街では大きな顔はさせん。福ちゃん、はよ大人になって、一人前になって、お母ちゃん救けて。福善、きいてんのか、わかってるのか?」母はさめざめと泣く。あがりかまちにうつぶせになった母のわきには、宴会が山田屋であった時にきまって持ってくる料理の残りものと鮨のおりづめが、おいてある。それは、ぼくにとっては屈辱の食べ物だった。|やとな《丶丶丶》の母が、持ってくる鮨もお座敷で出される刺身、照り焼、海老、から揚も、日頃母がつくるどんな料理よりも上等であり、うまいものには絶対まちがいないが、ぼくにはそれは食べられなかった。そうかといって、母に食べないから持ってくるなと言えば、やとなの母は苦しむ。だから、結局、ぼくはそれを食べた。ぼくが片意地でありすぎるのか、それとも母が合理的であり、子供のぼくの気持ちなどに無頓着でありすぎるのか、だから、ぼくが、そんな心苦しさをまぎらせるために、ふすまひとつへだてた隣の部屋からきこえる母のいびきを耳にしながら、螢光灯の明りの下で書いた手紙に、兄は、いまから思えば安っぽい気取りなのだろう英語の文章のまじった返事をくれた。つまり、高校時代のぼくにとって、東京の、大学生の兄は、ぼくの希望だった。希望はたちまち色あせる。いま、東京にいて、大学が射程距離に入ったぼくには、兄は、単なる兄だ。 「やとなってきいたことがあるか?」 「知らない」と斎藤は言った。兄がみつめているのを感じた。 「ほら仲居とかやとなとかって言うだろ、あれだよ。芸者じゃなくって下働きなんだけど」 「売春婦?」 「そうだよ、それ。おれのおふくろ、田舎でそれやってんだ」ぼくが早口に言うと、兄は、「良いかげんにしろ、おふくろのことそんなふうに言うの」と茶碗をスプーンで乱打した。その兄の口のききかた、言葉、なによりもその言葉を兄が言ったことにぼくは、自分の母親をふみつけにされ、犬よりも豚よりも下等だとさげすまれた感じになり、腹だった。ぼくは兄をみすえた。兄はすぐぼくから眼をそらした。なにが過激派だ、と思った。ここにいるのは、弟の部屋にころがりこみ、弟の仲間に飯をたかる節操のない、身を律することをまったく知らないルンペンの男じゃないか。兄はいっぱしの革命家きどりで便せんを何枚も何枚も使って、延々と暴力のこと、国家のこと、大衆のことを図入りで書いてきたのだった。革命だって? そんなものはおもちゃの船だ。わかりきったことじゃないか。何度も何度も革命するって? 要するにそんなしんどいことやらなくちゃいかんのなら、そのままほったらかしにしておけば良いじゃないか。大衆はうつくしい、すばらしいと兄が名指しで言ったおれのヨイヨイのクサレオマンコが、「なんや大きな顔しくさって」と街の最近大手にのしあがった建築業者をけなし、「福ちゃん、お母ちゃんを救けて、はよエラなって、みかえしたって」というその心情が権力を支え、生みだしていることをおまえは知らないだろう。その心情を根底的に革命できるというのか。そんなことわからないおまえなんかに革命ができるはずがない。よしんば成功したとしても、このクサレオマンコの子供のおれが打ち倒してやる。 「おまえなあ」とぼくが言った。変に声がうわずっていた。「おれが高校生の頃、しょっちゅうおれに手紙書いてきただろ」 「ああ」と兄は気の抜けたあいづちをうち、電気釜のふたをあけてみる。湯気が兄の顔にまともにあたる。「みっともないことやめろ」ぼくは兄をたしなめた。「この男、いま黙ってるけど、女みたいなやつだから、あとで吹聴してまわるんだから」兄はむっとした顔をし、「みっともないことあるものか、実に自然なことだよ、三日も食ってない人間のそばで、うまそうな音たてて飯がたけるんだぞ」と反論する。斎藤はただわらってみている。「おれがおまえの返事読んでなんと思ってたか知ってたか?」 「おまえが手紙に書いてたじゃないか、大学に入ったら、自分も同志として活躍したいってな」 「だから、おまえはヌケてる。おれはその反対のこと考えてたんだよ。おまえらが権力を否定したり打ち倒したりしようとして血まなこになっているのなら、おれは、一流の大学に入って、政治家でもブルジョアでも良い、階段をかけのぼってやるってな」  へっと声を出して兄はわらった。「この社会、そんなに甘くできちゃいないさ」 「社会じゃなくって、世間だろ」 「なんでも良いよ、世間だろうと社会だろうと。一流大学でて権力の階段かけのぼるなんてひと昔前のことだ。おまえは古すぎるよ。そんなこと言うのなら、自民党にでも共産党にでも良い、入るほうがよっぼどおまえの野望にてっとりばやいぞ」 「おれは右翼さ」 「ああ右翼ねえ」兄はまた電気釜のふたをあけた。「このごろ、がんばりはじめてるよな」兄はふたを元にもどし、「なんかこういらいらしてくるなあ」と斎藤をみてわらいかける。兄はぼくの気負いのようなもの、へたをするとのびきってちぎれてしまいそうな|昂《たかぶ》った感情をみすかしたように、「やっぱしこの飯の炊ける音ってのは、われわれを豊かにするな」と言った。「こいつ、こんなヘリクツばかりいつも言ってるの?」兄が訊いた。斎藤は苦笑した。「もうすこししか時間がないのに、勉強、大丈夫なのか」         2  結局、兄はぼくの部屋に“潜る”ことになった。ぼくがはっきりその事に同意したのでもなんでもなく、なんとなくうやむやのままそうなった。その時からぼくは変った。ぼくのなにかが変化した。三人で通りの喫茶店にいったのだった。ぼくたち三人は窓際の席に坐り、水と灰皿をもってきたボーイに、それぞれコーヒーを注文した。「サービスは?」ボーイが訊いた。「あたりまえだろ、それを目的にきてるんだからな」電気釜で飯を炊いて食ったばかりなのに斎藤がサービスを食うのは当然だといった顔で言った。十一時十七分。壁にかけた丸い時計が眼に入った。黄色いしみったれた光の照明が、時計の硝子に反射していた。有線放送のポピュラーが耳ざわりなほど大きな音で流され、客が出たり入ったりするたびに、「ありがとうございました」「いらっしゃいませ」と、四人ほどいるボーイは声を張りあげた。ボーイたちはカウンターに集まり、何がおもしろいのか互いに体をこづきあってわらい、注文を誰か一人がとってくると、「ヒコ一丁」とか「レスカ一丁」とか隠語をつかい、カウンターの中に入っているボーイが「はいよっ」と声をかけた。ぼくたちの横の座席と、そのむかいの座席には、日曜日でも動いている近くの工場の工員たちらしい作業服の一団が坐り、テーブルの上にレシートと金をまとめておいて、一心不乱にマンガ本をみ、競馬新聞を読んでいた。雑多な感じの喫茶店で私鉄沿線にあるこの街のふん囲気によく似合っている。通りの向う側は、バスのターミナルになった駅前広場があるが、この喫茶店のある場所が一等地であるらしく銀行や書店や洋品店がかたまっていた。そして不思議なことに、この喫茶店の裏の大どぶを渡ると、一軒肥った女の経営するホルモンと看板のある店をのぞいて、アパートと、印刷工場と、鉄工所だらけの街で、飲食店や八百屋は、駅の裏側にまわりこむような形の通りにしかないのだった。大どぶの向う側、『あやめ橋』とらんかんにある橋の向う側は、舗装されていないためにすこしでも雨がふると道はぬかるんだ。ぼくらのアパート富士見荘は、あやめ橋の向う側にあった。注文し終り、斎藤が喫茶店の入口のマガジンラックからスポーツ新聞と週刊誌を取ってもどると同時に、入口付近に坐って脚を組んで煙草を吸っていた女が、立ちあがり、ふらふらした足どりで斎藤の背後からついてきた。作業服の男たちが顔をあげた。女は斎藤が席に坐るのをみて、ぼくたちのテーブルの前で立ちどまり、「すみませんけどお」とぼくとむかいあわせに坐った兄をみつめた。眼が茶色っぽくおおきく、顔の皮膚がまっ白に塗られていた。毒々しく赤いセーターとやはり毒々しく赤いスカートをはき、エナメルの黒のブーツをはいていた。いでたちは最新流行のものだが、なんとなく泥くさい感じだった。「すみませんけどお」女はまた言った。かすれたけだるげな声だった。 「このあたりのことくわしいの? 学生さんでしょ? おしえてもらいたくってえ」女はそう言うと立っていることが苦痛でたまらないというように、ぼくたちに断わることもしないで、ぼくの隣に坐った。化粧のにおいがした。 「おしえてもらいたくって。昨夜からずっとさがしてるの」女は、窓のはち植えの観葉植物の細長い葉を手でなぶっている兄の顔をみて、なれなれしく口をきいた。「あの」と女は言い、急にけだるげな様子をふりすて、「あっ、あそこに置いてる」と言い、「ここに移るから」と立ちあがり、元の入口付近の自分の席にもどった。女はエナメルのハンドバッグと赤いコートと、赤いネッカチイフをもち、作業服の男たちのちょうど真中を、男たちの視線を浴びてこちらに歩いてくる。女は、よいしょと掛声をかけてぼくの隣に坐り、何のつもりか、「ごめんね」と詫びた。「あのね」とまた兄の顔をみて言い、黒のハンドバッグをひざの上に置き、中をひっかきまわし、銀行の名前の入ったくしゃくしゃのメモ用紙を、あった、あったと取り出した。「すぐなんでもなくしちゃうんだから……、三の十五っていうの、この辺でしょ」女は兄に訊いた。兄は苦笑して、斎藤をみた。 「ここらあたりは二丁目じゃないの? 三丁目っていうの橋の向う側だろ、おれたちのアパートのほうだよ」斎藤が言った。「川向うだな」 「その人の名前がわからないのよ」 「名前を教えてくれって?」斎藤が言った。「そりゃあ無理な事じゃないかな、あんたの捜している人の顔も知らないし」斎藤は女を小馬鹿にしてへっへっとわらい声をたてた。 「顔はわかってるの、だけど名前を忘れちゃったのよお」と女は子供っぽい口調で、尻下がりに言い、話すことがめんどうくさくてたまらないというふうにため息をついた。 「ところばんちは、書いておいたんだけど、名前を書くの忘れちゃったの。ちょっと、とろいんだな、このアタマ」ふっふっと、女は斎藤を上目づかいにみて、返すようにわらった。「いっつもいっつもね、いこういこうって思ってたのだけど、いそがしくって。その人の写真と記事でてる週刊誌ずっと神さまの棚にのっけて、いっつもいもうとに手をあわせるたんびに、きっとみつけてあげるからね、と言ってたの。鏡台の横にサイドボードおいてるでしょ。大きな人形おいてて、その横に白いレース飾って神さまの棚にしてあるの」 「なんのはなしだよ」兄が言った。 「だから、わたし、はずかしい仕事してんだあ」女はまったくとんちんかんなことを答えた。「わたし、いくつにみえる? ほんとうはね、十八よ。中学でてからすぐ果物屋にいって、それからお兄さんが死んだから、いまのお店にいって、十九だと嘘ついて働いたの。だからお店では二十一、ベテランよ。いもうとにもあいたいし、死んじゃったお兄さんにもあいたいの」 「君のいもうとさんをさがしてるの?」兄が変にやさしい口調で訊いた。ぼくは兄をみた。そんなふうなやさしい口調で、カクメイノココロザシを抱いて、“|救対《きゆうたい》”の女の子の部屋を転々としてきたのか。 「あいたいの。あいたいのよ、お兄さんにもいもうとにも。だからさがしてるの、その人。ほんとうにつくづくとろいと思う、このアタマ。週刊誌なくしてしまったし、それにその人の名前も忘れてしまった。どうすりゃいいのかねえ」女はまたひとつため息をついた。それは奇妙なことに、アパートの管理人である堀内みきとの顔をおもいださせ、ぼくはその女が十八歳などではなくもっと齢をとっているはずだと思った。「あんたたち、きいたことないかなあ」女はそう言って顔をあげ、それから手をふってボーイを呼んだ。その動作が奇妙に生き生きとしてみえた。「この学生さんたちに、ケーキかなんか追加してやってよ」そう言い、自分は、トマトジュースを追加した。ボーイがカウンターのほうにむかって歩き去ると、女はまた元気をなくしてしまったように、「ああ」と声を出し顔をうつむけ、テーブルの上にひろげた紙片をみつめた。「つらいねえ、つらいねえ」 「なにがつらいんだよ」兄が訊いた。 「その人の名前忘れちゃったの」女は言った。「あんなにも大事にしてたのに週刊誌もなくしちゃったの」女はまったく要領を得ない答え方をした。  四人で喫茶店を出た。もしこの場所に、兄がいなかったら、こんな女など、うっちゃってしまいいっさいかまいつけないだろうが、ぼくも、ぼくの予備校仲間、アルバイト仲間でありアパートの隣室の住人でもある斎藤も、兄の熱心さ、つまり好奇心に負けた。知りもしない町なのに、赤いコート、それに敗戦直後の風俗画や写真にみられる街娼を思わせるネッカチイフを首にまいた、酒をのんでいるのか睡眠薬にでもやられているのかおぼつかない足どりでふらふら歩く女に、兄は、その占いの女をさがしてやると言い、強引にぼくたちを誘った。兄がいったいなにを考えているのか、さっぱりわからなかった。黒いのか茶色いのかわからないにごった溝川にかかった橋をわたった。その橋があやめ橋だった。  印刷工場の隣、前にえん台を置き、いっこうに芽ぶく様子もない盆栽を並べた家のその隣がぼくたちのアパート富士見荘で、女はとたんにまた元気をとりもどしたように、「このアパートなの?」ときいた。斎藤が兄にむかって話のつづきのようにうなずき、「知ってるかもしれないですよ」と言った。「なんせ、彼女、この川向うの主だから」「おばさんいまいるの?」女は勢いこんだ口調で訊いた。斎藤はぼくたち三人にそこで待っていろ、管理人を連れてくるからと中に入っていこうとして、ドアの前で立ちどまり、「誰をさがしていたんだっけ?」と、いまあらたに、女のさがしている人間が誰なのかわからなかったということに気づいたとでもいうのか、訊ねた。「だからトランプで占いをやっている女の人だって言ってるんだ」兄が横柄に言った。女は話をすることも立っていることもつらいというように張りのないしゃがれた声で、「さがしてるのよ、昨夜からずうっと」と兄の言葉をひきとった。露地のむこうから警察官が歩いてきた。ぼくは兄の顔をみた。兄は素知らぬ顔をしている。女はなんのつもりか、とっさにぼくと兄の腕をつかみかかえこんだ。ぼくは、腕が女の胸のふくらみに当っているのを感じた。斎藤は女のおびえた表情をみて、誰が来たのだろうと|訝《いぶか》るように顔をつきだして露地をのぞき、なんだという顔をつくり、「まっててくれよ」とアパートのドアをあけ、それからサンダルをぬいであがりかまちにとびあがる。女はぼくたちの腕をつかんで身を固くして、眼鏡の律儀そうな顔の警察官がとおりすぎるのを待った。化粧のにおいが鼻にまつわりつく。ふっとぼくは、田舎の母をおもいだした。そしてこのままぼくと兄が、君が好きだよ、君を愛しているよ、兄をとるか弟をとるか、さあどうする、と言いだしてもけっしておかしい構図ではないと思った。警察官が露地を右にまがってみえなくなっても、女は二人の腕をはなそうとしなかった。女はぼくと兄の腕にしがみつく格好で、鼻元にこまかいしわをつくって口紅にそまった歯をみせてにやっとわらい、ぼくのそんな感情をみすかしたように、「はずかしい仕事してたからあ」と言った。それからぼくの耳元に口をちかづけ温い息とともに、「ほんとうはそんなこと思ってないけどさあ。だって、お金になるもの」と低い声でささやき、女はぼくの腕をはなし、両手で兄の左腕をかかえこんで、くっくっと声をたててわらった。女は兄の顔をみる。「なんだってそうよ、お金があれば、世の中勝ちじゃない。お金でいま買えないものあると思う?」 「資本主義社会だからな」と兄は女の背中に腕をまわして言った。へっとぼくは兄の言葉をわらった。資本主義社会だから、まじめに自分で働いて自分の力で学校へ行こうとしている弟の部屋に転がりこみ、弟の生活のリズムをかくらんして良いというのか? 資本主義社会だから、インバイやってかせごうってのか。兄と女にむかって棘だらけの、毒のいっぱいつまった言葉を吐きかけてやりたかったが、ぼくは、女と兄のしゃべった言葉そのものが日本語でなくベンガル語やチベット語のまったく理解できない言葉だというように、うなずきもしないで、ただ女の顔をみつめた。女はぼくの知っているどの女の顔にもタイプにも似ていなかった。管理人の堀内みきと、それはたまねぎを放ったらかしにしてしなびさせたようなタイプ、隣の部屋の鉄工所の男の女房は、眼がきつく頬骨とんがり、これは絵本にでも描かれてあるキツネのタイプ、他に焼まんじゅうのタイプ、のしいかのタイプ、猿、鳥、イノシシ、ブタ、いろいろあったが、どれにも似ていなかった。いや、どれにも似ていないのではなく、女はすべてに似てい、もし女の母親が管理人であってもかまわないし、女の妹が隣の部屋の女房であってもいっこうにおどろかない、そんなどこにでもある顔だちだった。だが、抽象的な顔だちなんてあるのだろうか。女の顔をきれいだと思った。そしてそれと同時に、ぼくはぬりたくった化粧をそぎおとせばヨイヨイのクサレオマンコや管理人や定食屋の内儀さんや、昼日中からさわぎたてる松根善次郎の女房のように、みるだけでうんざりするほど生活にどっぷりつかり、厚かましげにこの世をわたっていく女とさして変らない顔があらわれるのだろうと思った。 「いないよお」と斎藤がドアをあけていきなり言った。 「買物にでも行ったのかなあ」斎藤はそう言い、寒さに抗うため肩に力をこめて立っているぼくになんのつもりかウインクした。女は、もうこれ以上立っていることができないというようにその場にしゃがみこんだ。横に立ったぼくの位置から、アイラインで描いた眼のふちに大粒の涙のかたまりがぶらさがっているのがみえた。女は声をあげ、涙をハンドバッグの中からとりだしたハンカチでぬぐった。 「いいよ、いいよ、これからおれたちがさがしてあげるから」へんにやさしくくぐもった声を兄は出した。  四人でだらだら歩きながら、橋の向う側、どぶ川の向う側一帯をさがした。女の赫い服装が、奇妙にこの町の茶っぽくすすけた家並に似合っていた。車が辛くもすれ違うことができるくらいの、駅の裏側にまわりこむ形の通りに店を出した八百屋で、女がまとはずれのトンチンカンなたずね方をしているのをききながら、不意に思いあたった。それはあの老婆だ、ということに気づいた。「トランプ占いして、よびだすのお」と女は言うが、それはトランプではない。あの老婆はなにもつかわなかったはずだった。管理人は、老婆が自殺し腐乱していたということがわかった時、調べにきた警察官に、「あのお人がねえ、わからないもんだねえ」と言い、老婆の占いの様子を演じてみせ、警察官の手のひらをつかみ、「これが運命線、これが子宝の線、あんた、良い手相してる。あの人はなんでもかんでもこう言うんだよ、わたしなんかの手相にでもさ、良い手相だねえ、あと五年、あと十年でも良いからがんばってみなさいよ、末広がりだよって」と言い、泣きだしたのだった。「あのお人が死ぬんだからねえ。裏切られたようなものだよ……」きっとその老婆を、この女はさがしているのだ。その老婆の家は、今朝、ぼくが散歩した小学校へ行く道の、二つ手前の道をおれたふくろ小路にあった。fuse,a fuseとぼくは不意に思った。女は、手をやすめないで蜜柑の山をかごに盛りつけている八百屋のぶっきらぼうな言葉から、なんとかして占いの女の情報を得ようとして、懇願する口調で、「知らないですかあ」と訊く。八百屋はなにをわからないことを言うのだといった顔で、時おり女の顔をみ、「さあねえ、わからないねえ」と答える。「知らないですかあ、五十五、六の女のひとなの」「このあたりにいっぱいいるんじゃないかなあ、そんな人」八百屋の女房が業をにやしたのか、「米屋のお兄ちゃんにきけばわかるんじゃないの」と言い、ダンボールの中からきゅうりを両手でつかみだし、これもかごに五本ずつ分けて盛る。「このまえまでトラックでやってたんだけど、もう、ちっさいけどちゃんと一軒かまえちゃったでしょ。これでも、配達の商売だったら、一軒かまえちゃっても、どこそこに一人もののおばあさんがすんでる、どこそこに不幸がおこったって、すぐわかるんだけどねえ」女房はそう言って不意になにごとか思いついたというように顔をあげ、「六本にしようか」と言った。「六本でも今日は良いのよ、昔のこと考えたら、八本だってかまわないのよ」八百屋の亭主は、ああとうなずき、「今日の蜜柑は、これはとびきり甘いよ」とつぶやく。「腕が良いから、甘いか甘くないか一目でみわけられる」女はその八百屋の言葉からなにごとかを悟ったというようにハンドバッグをひらき、「その蜜柑、千円分くれる」と言った。女は花摸様の財布からまあたらしい千円札をぬきとった。女の様子は、喫茶店でぼくたち三人分のケーキを追加注文した時や、レジで勘定を済ます時と同じように、実際的で、いきいきとしてみえた。「いいの?」と八百屋は訊いた。「なにも甘いって言ったってすぐとびついて買わなくっても良いんだよ」「いいの、千円分ちょうだいよ」その答え方は、いままでの女の様子とはまるっきりちがう別人のようにみえた。ぼくや斎藤とは反対だった。ぼくや斎藤はたとえ口ではどんな強がりを言っても、この実際的な世界の、実際的な場所、それは端的に言えば、金のうけわたしの場所であるが、そこでは、妙に自分が萎えちぢみ、ちいさくなってしまうのだ。コーヒー百二十円。定食二百円。すばやく、自分が一カ月にアルバイトでかせぐ金といまポケットに入っている金と、支払わなくてはいけない金をたし算したりひき算したりする。おおらかさがないし、精神が五十円玉にあいたちいさな穴をくぐりぬけた分量しか、この世界には有効でないことをみせつけられるようでいらだたしくなる。五十円玉の穴をくぐりぬけた精神の分量なんかたかだか知れているではないか。財布のふくらみからみつもって、女は、十万以上の金をもっていることはたしかだ、とぼくは思った。そしてぼくは、ぼんやりと日の光を背にうけて立ち、八百屋が蜜柑を紙袋につめているのを見ている女と、斎藤と兄をみつめたまま、一瞬、女を殺害してハンドバッグをひったくっている自分自身の姿を想い描いた。  ズボンに手をつっこんで立って八百屋をみている兄は、ぼくが故郷にいた頃と、体つきや顔かたちがまるっきりちがってみえた。 「どうして、おふくろに手紙書いてやらないんだ?」その時、ぼくは黙っていた。おまえの知ったことじゃないと思っていた。そして、兄はうつぶせになり、煙草を口にくわえ火をつけ、「母親なんてもんはな、いくつになっても子供が心配なんだぞ」と言い、けむりを吐いた。「女は嫌いだ」とぼくはチェ・ゲバラの顔をみながら言ったのだった。そうだ、女は嫌いだ。赫い服をきて、赫いネッカチイフをまいて、堅気の女ではない、キャバレーかトルコの女だと一目でわかる化粧をして、口では子供のためだ、兄弟のためだときれいごとを言って、こいつら、きゃあきゃあ騒いで楽しんでいるのだ。女などこの世からいなくなれば良い。女などすべて殺してしまえば良い、ぼくは息苦しかった。  道をまっすぐ行き、一旦停止の標識がある角をまがれば、八百屋の女房の言うその配達商売クリーニング屋があるのを知っていたが、ぼくは教えなかった。女や兄に教える必要は一切ない。兄は、ぼくや斎藤がいまどう思って、女の占い女さがしについて歩いているのか考えもしないかのように、ぼくたちの先に立って、いっしょうけんめいその占いの女をさがすために配達商売をさがそうとしてきょろきょろみまわし、看板をさがした。小児科の看板と、運送会社の看板だけしか、電柱にはなかった。迷い犬、預っています、というビラが、防腐剤を塗りたくった印刷工場の玄関口に貼ってあった。ぼくは、女から大きな紙袋にぎっしり入った五百円分の蜜柑をもたされ、ひとつ分でも軽くしようと皮をむいてまるごと食べつづけながら歩いた。「千円の蜜柑だったら、たいへんだよ」ぼくは言い、わらった。女はなにを勘ちがいしたのか、あの実際的な場所でみせるきっぱりとした口調で、「いいのよ、いくらお金つかったって」と言った。「だってさあ、わたし働いてきたのよ。はずかしい仕事でもずっと耐えてきたんじゃない。千円や二千円やすいものよ」ぼくはそのまま女が泣きだすのではないかと恐れ、あわてて眼をそらし、歩いた。正午すぎの光が眩しかった。まだ五分の一ほどしか食っていない蜜柑の袋を胸にかかえこみ、欠伸した。 「もうくたびれちゃってえ、昨日の夜からずうっとさがしているんだからあ」と女は誰に言うでもなしに言った。「いもうとは、なんにもしらないのよお。お兄さんが死んじゃったことも。あの子はぐれてたから、ろくでもない男にひっかかって泣いてるよ、きっと。この世にたった三人しかないきょうだいじゃない。あいたいのはあたりまえでしょ」兄と斎藤は、いったいなにを言っているのかさっぱりわからない女の話に、うんうんとあいづちをうった。「あいたいのよ、あいたいのよ。あって言ってやりたい、おまえは甘ちゃんだわって。お兄さんが死んじゃったよって」 「死んだのかあ」兄がため息をつくように言った。 「首つって、三月三日にい」女はそう言い、立ちどまり、兄の体にまわしていた手をほどき、泣いた。兄は女の背中をなぜた。女はその兄の手をこばもうとするように身をゆすり、顔に両手をあて、くっくっとのどを鳴らした。ぼくは女のその様子が、正視するに耐えないほどはずかしいと思った。いったいおれたちにどうしろと言うのだ、いや、この女はおれたちにどうしろと言うのではない、泣きたいから泣いているのだ。ぼくはそう思った。まるで酔っぱらいがくだをまいてるようなものじゃないか。「あいたいのよお、あわせてほしいのよお」女はこらえかねるように泣きじゃくった。アイラインが涙でとけて、顔の厚塗り化粧にまざる。下まぶたのアイラインが消えてなくなった女の顔は、すっとんきょうでまが抜けている。午後の黄色く変色した光が、まぶしかった。女は泣きおわると、ハンドバッグの中からコンパクトと水玉のガーゼのハンカチをとり出し、丁寧に涙をふき、それをまたおりたたんでハンドバッグに入れた。女は歩きだし、みつめているぼくに鼻元にしわをつくってにやっとわらい、「あたらしいから、靴ずれするのお」と言った。「靴は上等でもさ、はくほうの足が上等じゃないし、またこの足が、ごつごつしてて大きくってさ」女はたのしくってたまらないことをうちあけるとでも言うようにわらい、ブーツをみせた。それは最新流行のものらしかった。ぼくは突然、ブーツなんてもんじゃなく、それは長靴だろうと思い、よく見事に泣いたりわらったりできるとおかしくなり、声をたててわらった。女の顔は、泣く前と泣いた後と、まるっきりちがってみえた。 「そんなわらいかたしなくたってえ」と女はぼくのわらいかたをとがめた。「失礼よお」 「いいんだ、気にしないほうが良いよ、こいつはまだガキだから」兄が言った。そして兄はぼくに目くばせした。その兄の大人ぶった態度が、気にくわなかった。アパートのせまい庭に植えられている木の枝が、吹いてくる風にゆれていた。ブロック塀の半分ほどまでたれさがったつややかな樹皮の枝の一本が、まるで空たかく首をのばしたクレーン車のようにたわんで身をおこし、力つきたように元にもどった。  まったくおかしな女だった。こんなへンな女につきあって、なぜ、貴重なアルバイトの休みの日一日を費さなくてはならないのか、理解できかねた。おとつい、夜勤に出かける日、ちょうど雨がふっていたのだった。よほどアルバイトを休もうかと思った。だが、ぼくは、自分自身に命令し、すぐ手綱をゆるめると勝手にうごきはじめるナマケゴコロをしかりつけ、アルバイトに出かけた。金がほしかったし、休みの日がすぐ来るから、その時、ゆっくり眠り、ゆっくり勉強しようと思ったのだった。  細かい冷たい雨だった。眠りからさめて、午後二時にかけためざまし時計の、ベルをとめて、服をきた。顔をあらい、歯をみがき、それからさしせまった試験のために勉強をはじめた。ぼくだって、ぼくと同じとしごろの男と同じようにオートバイにものりたいし、ホットロックにもくるいたい、熱中したいと思うときもあるが、ぼくは、いまばかげた熱中より、まじめに勉強して、学校に入るほうが得だと思っていた。  斎藤はそんなぼくを、「そんなの、つまらんだろうがあ」となじり、嘲笑う。「無理して一流に入ったって、得でもなんでもないぞ」 「まじめに、まともに生きるってことを言ってるんだ」 「おまえはすぎるんだよ、まともすぎる。いまごろ女の子にも興味ない、麻雀にも興味ないやつなんていないよ」  冗談じゃない、とぼくは思った。そう言っているおまえだって、ぼくと同じように受験勉強して、アルバイトに行ってるじゃないか。要するに、中途半端はいやだということだ。斎藤と議論するたびに、いまに泣きつらかくな、と思った。しかし、ぼくだって中途半端だった。生活費と入学金を自分自身の手でまかない、やとなの母に負担をかけたくないと思ってアルバイトに行って、貨物を積んだりおろしたり、ラベルを貼ったりこんぽうしたりする分だけ、中途半端だった。普通の予備校生とはちがっていた。  ぼくは机にむかって英文解釈をやりながら、隣の松根善次郎の家の屋根にふりつづけ、雨樋が途中で破けているため、下の板塀と家の間に放り置かれたダンボール箱におちかかる雨水の音をきいていた。アルバイトに行きたくなかった。そしてそう思っているぶんだけ、勉強に熱が入らず、せっかく苦労してしあげた訳文は、なにを言っているのかさっぱりわからない日本語になった。パタパタパタとはやい速度でダンボール箱がなっていた。ぼくは、その音をききながら、父が死んだ年の梅雨季のとき、授業が終って帰ろうとして傘をもっていないことに気づき、雨が止むのをまとうと図書室に入り、窓際に坐っていて、不意に泣きたいとも思わないのに涙が出てきたのを思いだした。ぼくはその時、あめあめふれふれ母さんが、という歌を思いだし、昔、ぼくがまだちいさかったとき、父がよく小学校にオートバイをのりつけ、ぼくをむかえに来たことを思いだしたのだ。ぼくは父にしがみついて、家に帰る。母はいまみたいにやとなの、インバイの、クサレオマンコではなく、普通のどこにでもある母親だった。  パタパタパタとダンボール箱は鳴りつづけていた。ぼんやりと、ぼくはあけはなったカーテンのない窓の外をみながら、不意に思ったのだった。この雨で茶っぽく灰色にぬれた屋根の下に、けものではなく、人間が生きている。松根善次郎は人間だ。そう思うと、不思議に、アルバイトに行きたくないという自分のナマケゴコロが消えるような気がした。休みの日、ゆっくり勉強しよう、ゆっくり眠ろう、そう思ったアルバイトの休みの日、日曜日の今日だった。なにもかも兄が悪いのだった。  三丁目40の標識の印刷工場になっている家を左におれると、そこから、このあたりの商店街になっているのだった。この商店街だけが、小さな工場の吐きだす煤煙とも鉄くずとも土埃ともつかぬものでくすんだあやめ橋のむこう、大どぶのむこう一帯の家並と違い、赤や緑や黄の色彩がくっつき、それだけにはなやいでみえた。斎藤が一番端の菓子屋に入っていき、白い服の女店員に、「占いのおばあさん、知らんですか?」と訊いた。女店員はとりあわなかった。四十四、五の女が、ポテトチップのケースをゆびさし、「これ二百」と言い、それから買いものかごの中から財布をとりだしながら、「駅前にいる人?」ときいた。女は即座に反応した。「ほんと、駅前にいる?」女は息せききって訊いた。「いるわよ、だけど、まだ若い人よ」「週刊誌にその人、載った? その芸能人なんかの話の週刊誌にね、テレビにも出て、芸能人なんかを占ったってでてたの。有名な人よ。わすれちゃったんだなあ」「そんなこと知らないけど、駅前に出てるわよ」子供っぽい口調でかすれた声のいかにも軽薄な話しかたをする女を小馬鹿にした言いかただった。女は、ビスケット二箱、それに陳列ケースの中に入っているケーキを指さし、「なに食べたい?」ときいた。ぼくや斎藤を見るその眼つき、口のききかた、態度には、五十円玉にあいた穴のむこう側にいま生きているしこれからも生きていく女の自信がありありとうかがえた。やけくそだった。うんざりしていた。しかし、女は、ぼくと斎藤が、あれもあれもと指さした十五のケーキを、律儀に嬉々として買った。兄はぼくの振舞いに苦笑しているようだった。そして、ぼくと斎藤は箱に入ったケーキをかたっぱしから食いつきながら、うきうきしはじめたことが一目瞭然の女の後について、駅前まで歩いた。「ほんとうは、おれ、こんなケーキなんかより、ビフテキの厚いやつなんか食いたいんだけどなあ」ぼくは歩きながらひとりごちるように言うと、女はあっさり、「いいわよ」と言った。「りかちゃんにまかせといて。このためにお金ためたんだし、他にさ、お金なんかの使いようがないじゃない。あいたいんだなあ、あってどういうこと思ってたのかきいてみたいんだなあ」斎藤は口のまわりにケーキのクリームをくっつけながら、こみあがってくるわらいをこらえかねるようにぼくの頭をこづいた。兄はそんなぼくたちを煙草をすいながらみていた。まったく斎藤のショートケーキの食い方は、びんぼうのにおいがぷんぷんしている。頬をうさぎのようにふくらませ、ものを食っているいまは恥も外聞もないといった調子で、もぐもぐとやる。  兄がぼくの顔をみつづけているのがしゃくにさわり、「一つ食ってやれよ」と、ぼくはケーキの箱を鼻先にさし出した。「おまえは、大衆を愛してるんだろ、人民を愛してるんだろ、だったら食ってやれよ」斎藤は、兄に対するぼくの言葉がよほどおかしいダジャレにでもきこえたのか、口いっぱいふくらんだケーキをあやうく吹きだしてしまいそうになった。「一人だけかっこうつけても、さまにならないんだよ」ぼくは女にきこえない声で耳うちするふうに言った。 「なんのことだよ」 「なんでも良いさ、まず食ってやれよ」  兄はいらないと言った。兄に対して、おまえら大衆はすばらしいなんて言うが、体を張って、女自身が言う恥かしい仕事をしてかせいだ金で買ったショートケーキひとつ食えないじゃないか、と毒づいてやりたかったが、それはよした。ぼくは、鼻先にさしだしたショートケーキの箱から顔をそむける兄を、憎んだ。おまえは、おれほどの苦しみを味わったことはないだろう。おれほどのやさしさと愛情を感じたことはいちどでもあったか?  おまえは、かつて学生運動がさかんだったころ、過激だといわれる党派に身を投じ、おれに延延と手紙で、暴力とはなんなのか、大衆とはなんなのか、書いてよこしたが、一度でも、あのやとなの母の持ってくる宴会のあまりものを食ったことはあるか? 宴会やお座敷に出ると、やとなが、酒のおしゃくや唄をうたうだけですむはずがないことは、母がやとなに入りはじめたときからぼくは知っていた。その母がもってくるあまりものの刺身、すのもの、鮨、から揚を、ぼくは食って育ってきたのだ。  女は、立ちどまり、ハンドバッグの中からコンパクトを出してひらき、自分の顔の化粧の具合を点検するように眺めた。かぶさった髪をかきわけると桃色の大きないわゆる福耳というやつがみえた。「あんまりさがしあてられないと、お兄さんがわたしにあうのをいやがっているようにみえるのよ」女はパフで鼻筋をたたいた。  駅前に占いの女はいなかった。いや、いるはずがなかった。女のさがしているその占いの女が、あの老婆なら、あの老婆は、相ついでおこった奇妙な事件の幕あけとして、睡眠薬を大量にのんで自殺し、腐乱死体でみつかり、とっくに煙になり灰になってしまっていたのだった。ヘンな町だった。それは、ぼくが予備校の駅前の学生援護会で、富士見荘を紹介されてひっこしたときからの印象だった。どぶ川にかかったあやめ橋、その橋の名前すらなにやらいわくがありそうだった。一度、斎藤がぼくにその橋の名前から、何を連想するか訊いてきた。いつごろの昔かわからないが昔、このあたりの土手にあやめの花が咲き乱れていた、と答えた。斎藤は、あやめとは、人を|殺《あや》めるという意味のあやめだと言った。  赫いコート、黒のブーツ、エナメルの黒のハンドバッグの女は、駅前に占いの女がいないのを知ると、さっそく泣き出そうとするように顔をしかめ、「いないじゃないのお」と兄に身をゆすって言った。  不意に、女の甘ったれたそぶりをみていて、ぼくは女のあとをついて歩くのがばかばかしくなり、「やめよう、やめよう」と言った。「おれは部屋へ帰って勉強するよ。どうせ、ろくなことになりゃあしないんだから。あんたも、帰ったほうが良いよ。おれはきらいなんだ、おんなは」 「いいよ、あんたになんか好いてもらおうと思わない」女が言い返した。女の言葉にぼくはアタマにかっときて、いかにも意地悪げで歯をむきだしにした猿のような自分の姿を思いうかべながら、早口でやりかえした。「クサレオマンコ、バイドクで頭いかれてるんだ、おまえは」 「それはあんたのことでしょ」 「おまえだよ。おまえのことを言ってるんだよ、インバイめ」 「いいじゃないのさあ、インバイのどこがわるいのよ、なに言ってるのさ、カワカムリ。りかちゃんにそんな言葉吐くんだったら、おとついおいで。わたしはね、人を泣かしてるわけでもないし、人のものを盗ったりしてるわけでもない、お天道さんの前でも、堂々としてやるわ。厚生大臣から表しょうされたって不思議じゃないって、お客さんだってマネージャーだって言ってるんだから」兄が、まあまあと女をなだめた。「弟のあいつはガキだから」女は兄の言葉をきくと、ぼくがいまはじめて、兄の身うちだ、弟だと気づいたように、口をあけ、へえとわらった。「へえ、あんたたち兄弟なのお、月とスッポンじゃない」斎藤が声をあげてわらった。女は悪のりした。「ぼくちゃん、スッポンポンよ」 「ぶっとばすぞ」ぼくが言った。 「いいよ、ぶっとばせるものならぶっとばしてみなさいよ。いい、今は、昔じゃないのよ、電話一本わたしがお店にかけると、五十人ほどこわいおニイさんがここに来て、店の看板をいったいどうするって袋だたきにあうから。それでも良いの?」 「卑怯者」 「卑怯じゃないよ、あたりまえのことじゃない」 「なんでも良い、おれはおまえに忠告してやってるんだ、はやいめに帰ったほうが良いって」 「よけいなお世話よ」 「とっくに死んでるんだぞ、その女」斎藤がほんとうのこと言うなというふうにぼくの肩をこづいた。「ほんとうだぞ、とっくにくたばっちまったよ。おまえみたいな、何言ってるのかさっぱりわからない女がきて、占いをやってて、心臓麻痺でコロッと死んじゃった」 「嘘だろ」と兄が訊いた。「ほんとさ」ぼくは答えた。妙に体が重ったるく疲れていることに気がついた。 「ふん」と女は鼻でわらい兄の体に腕をまわし、「あんたたち、帰るのなら帰って良いよ」とわざとらしく兄の腕に体をすりよせた。「わたしは嘘つきの子供なんかに用事はないんだから、ねえ、二人でさがしましょ」と女は芝居がかった声を出した。兄は苦笑していた。女は兄の顔をのぞきこみ、「頼りない人ねえ、はっきり言いなさいよ、二人でさがそうって」と言った。 「おまえもいっしょにさがしたほうが良いよ、ほんとに」ぼくは兄に言った。「おまえら二人、似合いだよ。おまえら二人、ひょっとすると兄妹じゃないのか? 二人でいっしょにさがして、もしかすると、おまえをおいてけぼりに駈け落ちしたほんとのおふくろの声でもきかせてもらえるかもしれない」ぼくは声をたててわらい、「そんなこと、絶対おこりっこないけどさあ」とつけ加えた。兄は知らんぷりをしていた。  駅の広場のちょうど真中に、右肩に大きな歯車をかつぎ、左手を空につきだした男の裸像があった。その下は小さな池になり、ベンチがおかれ、三つの方向にむかうバスの乗り場になっていた。斎藤が歩道橋にかけのぼり、それからまたかけおりてぼくの肩に抱きつき、「あそこに中華料理屋があるんだ」と言った。息を切らしていた。この私鉄の駅を中心にした町は、他のどの駅のどんな町よりも変っているようにみえた。いや、他の町のことは知らない。ぼくがこの町と比較できるのは、故郷の町だけだ。しかしそれはぼくだけが感じていることなのかもしれないが、ここはぼくの故郷の町よりも、数倍、暗く、うすよごれ、そして、人々は気ちがいじみていた。女のさがしている老婆が自殺し、腐乱していたというそのことだけでも、ぼくの故郷では考えられないことだった。もし千に一つ、万に一つ、百年に一つ、そんな事件が起きようものなら、確実に半年はその事件はうわさになり、町の人々は心いため、あるいは嘲笑うことは明白だった。しかしここでは、たちまち忘れさられる。そしてたちまち次の事件がおきるのだ。もちろん、ぼくだってそうだ。ぼくだって、次のあたらしい事件に関心はうつる。そして、こう思う。世の中、どのくらい人間がいたって、どのくらいぼくと同じような境遇の予備校生がいたって、まともなのはこのおれだけだ、まっとうにものを考え、これから長い人生をまっとうに生きようとしているのはこのおれだけだ、他のやつのことなんか知らない、と。朝、ぼくはめざめる。壁のチェ・ゲバラがぼくをみている。そしてぼくは外に出て、走る。fuse,a fuse そのぼくの、完全調和の、一人の予備校生の外と内がつりあう朝の町で、少女は暴行され、老婆が自殺し、腐り果てた姿でみつかったのだった。 「とっくに死んでるんだよ」とぼくはけだるげな声で言った。 「嘘よお」と女は言った。「さっきの人も言ってたじゃない、ここに占いの人が店出してるって」 「死んだのか、ほんとに?」兄がまの抜けた訊ねかたをした。 「おれがいっぺんでもおまえに嘘ついたことあるか?」とぼくは兄にむかって言った。斎藤はぼくの口調に心配でたまらないといった顔で、つっ立っている。「死んだんだよ、くたばって、腐ってたよ」  女はここで待っていると言いはった。ヘンな女だ、といまさらに思った。兄が、弟のぼくの言うことが事実かどうかたしかめることも必要だと、トンチンカンなことをくちばしって動くことをいやがる女をくどき、やっとその占いの女、自殺し、腐乱していた老婆、吉田はまの家へ行ってみることに同意させた。こんなヘンな女などにかかわりあいたくなかった。兄にとってはなんでもないただの日曜日かもしれないが、ぼくには、貴重な一日だった。そのことを思うだけでもいらだたしく、切なく、泣きだしたい気持ちになった。condition,comfortable,congratulation と単語を思い出した。  午後五時、腹がへったと言いはる斎藤に同意して、占いの女の家へ行く前にぼくたち四人は中華料理店にはいった。そこで、ヤケクソになったみたいに、「あんたら、なんでも食べて良いよ」と言う女の言葉に応じて、斎藤は、ヘラヘラわらい、メニューをひろげ、自分だけで料理をきめるのに気がひけるのか、「なにが良い?」とぼくに訊ねた。 「なんでも良いよ。食いたいのは、おれは、マグロのにぎり」ぼくが、女に中華料理をおごらせるのに気がひけ、冗談のつもりで言うと、「ばかっ、中華料理屋で鮨なんかやってるか」兄がわらいもしないで真顔で言った。ヘンなのは女だけでなく兄もそうだとぼくは思った。 「じゃあ、カレーライス」  女はけらけらとわらった。兄は、「おまえはまじめなのか冗談なのか全然わからんなあ」と女につられてわらう。 「いや、ほんとに、こいつは困るんだ。こいつといっしょにいると、おれだけ、調子が狂ってくる感じなんだ」  スブタ、ハルマキ、肉団子、海老、斎藤が、注文した。兄と女はビールをのんだ。女は、ときおり思いついたようにとりとめなく、脈絡を欠いた女のお兄さんと妹のはなしをし、占いの女の話をし、自分のつとめている店の仲間のはなしをした。女のはなすところによると、その占いの女は、ちょうど下北半島の恐山のイタコのように、口寄せをやり、死者や生者の魂を呼び出すらしかった。芸能週刊誌にのり、いまをときめく芸能人を占ったらしかった。  その老婆、吉田はまの家は暗いままだった。あの事件の後、家には誰も住んでいないようだった。ここが占いの婆さん、吉田はまの家だと言うと、女は、ああと呆けたように言った。花模様に紙を切って破けた硝子に貼った玄関の脇に Fortune Teller と小さな看板があった。「ああ、ここが、わたしのさがしていた占いお婆さんの家なの」女は、いかにも、あっけなくみつかったというように言った。その家はなんの変哲もない家だった。 「ああ、ここがそうなの」女は又言った。 「そうだよ、ここがそうだよ、こんなものだよ」ぼくは女にむかってではなく、自分自身にむかって言うように言った。「ほんとうにここが、占いのお婆さんの家なの?」女が疑い深げな声で訊いた。「ほんとうさ」斎藤が言った。 「いまさら、君に嘘ついてもしようがないだろ、中華料理だってくわしてもらったしさ」 「なんかさあ、信じられない気がする、わたしの勘みたいなものでね、ぴったりこないなあ」 「ここがあんたのさがしている吉田はまさんの家だよ、ここで死んで腐ってみつかったんだよ」 「ちがうよお」女は身をゆすって言う。「この人じゃないわ、あのね……」女はそう言ってどうしたのか声をつまらせた。涙がでてきたのか、両手で顔をおさえ、しゃがみこんだ。「どうしたんだよ、いったい……」と兄がさっぱりわからないといった口調で言い、女を抱きおこした。「あいたいのよお……あってききたいのよお……」女は兄の胸に顔をうずめておえつした。兄はあごの先にあたる女の髪がくすぐったいらしく顔をふり、どうするんだというふうにぼくをみつめた。もういいかげんにこの女をいじめるのは止せ、とその眼は言っているふうにみえた。  いったい兄がなにを考えてこの女に親切をほどこそうとするのか、わからなかった。いやひょっとすると、やとなのヨイヨイのインバイの子供であるぼくには、兄の女一般に対する気持ちや感情などわかるはずがないのかもしれないが、兄は必要以上に女にやさしさを示し、女が自分の兄さんのことをとうとうとのべる、かすれてやけに哀しげにきこえる声に、うっすら涙さえ浮かべているのだった。考えてみれば、いまにはじまったことでなくもともとへんな男なのだった。成績優秀、品行方正の見本のように高校時代に言われ、難しいといわれる大学に現役で入り、殺すの死ぬのとほど遠い内気でおとなしい性格なのに、大学に入るととたんに、過激といわれる党派に入ったのだった。ぼくとはまるっきりちがっていた。ぼくはむしろ父の性格に似ていた。父が酒をのんでオートバイに乗って木の切り株に激突し、頭をぐしゃぐしゃに壊し、体のそこいらじゅうの骨を折って死んだとき、兄は涙を流さなかったが、ぼくは泣いた。他でもない父が死んだのだ。それなのに兄は、病院へかけつけることもせず、家で受験勉強し、ぼくや母が病院から眼を泣きはらして帰ると、「大前のおじさんにすぐ電話して、みんな頼んだらええ」と言ったのだった。大前のおじさんとは父の兄で、兄の母親が旅役者と駆け落ちして父がぼくの母といっしょになる何カ月か、兄はその家に預けられていたのだった。母は父の葬儀の後、しばらくたって、「あの子は、わたしのこと母親などとは思おてない。わたしのこと、全然信用してへん」と言ったことがあった。ぼくにはそんな兄がなぜ過激といわれる党派に入ったりするのか、そのことを理解できないのだ。  ぼくは兄を無視し、Fortune Teller と言う英語の看板に手をかけてはがしにかかった。白くペンキで塗った木の看板は太い釘でうちつけられているらしく端をもって力をこめると、まるで生きている動物の毛をはぐようにかん高い木の軋む音がたった。なにが Fortune Teller だ。ハイカラな看板なんかかけて。ぼくはその看板をひきはがすために努力しながら、吉田はまが、昔は米軍の占いもやっていたのだろうと思った。きゅっと軋む板の音がきくに耐えず、ぼくは看板をひきはがすことをあきらめ、女と別れる時、占いの女をたしかにさぐりあてたという証拠のようなものとして、その Fortune Teller の看板をやろうというぼくの思いつきも棄てた。隣の家からテレビの歌がきこえていた。「もういいわ……わたしのさがしていた人は、ここに住んでたお婆さんじゃないから」女は兄の胸から顔をおこし、髪の乱れを手でなおしながら「ありがと」と言った。「ここに住んでた人だよ。絶対に」ぼくがその一点だけは認めさせようと思い言うと、女は「そんなこと考えてたら、よけいつらくなってくるじゃないのお」とふてくされた声を出した。「もう帰るわ、ありがとう。またさがすわ」女はそう言い、ハンドバッグをあけ、ちり紙を出し、鼻をかんだ。うすぐらい露地の中で、その女の白いちり紙が、奇妙に清潔にみえた。  その老婆吉田はまの家から、ぼくたちのアパート富士見荘はすぐだった。管理人はテレビの落語番組をみていた。斎藤がドアをあけ、「吉田はまって人のことききたいって人がきたんだけど」と言うと、管理人はわらいすぎたためか眼に涙のたまった顔でふりむき、「ああ、またかい。警察だけで、もうまにあっているんだけどねえ」とめんどうくさげに言い、テレビを切った。管理人は、ぼくと斎藤をみ、「この方たち?」ときく。女と兄が組になって吉田はまの様子をききにきたと思ったのか、「うちはねえ、あの人の親戚でもなんでもないのに、難儀なことだねえ」と電気ごたつに座ぶとんをふたつ用意し、女と兄にはいるように言った。「勝手なお人だよ、まったく。あんたたちだってそうでしょうが、あのお人のところに手相みておくれ、明日の相談にのっとくれって涙ながしてかけこんでも本心じゃ、ここできくのはほんの一時のきやすめ、ほんのいっときの甘い言葉だって思ってますよねえ、なにも他人様のところに本心などでいきませんよ」 「本心よお」女がドアのそばにコートをぬいですわりこみ、小さな声でつぶやく。 「あの人は、ほんとうに赤子のようなお人で、なにもかも本心だ、本気だって思いこんじまったんだねえ。弟さんをさがしてましてね、仙台にいる、釜石にいる、福島にいるときくと、どんなに体がわるかろうがとんでいった。よほど、戦災で離ればなれになったことがふびんだったんだねえ。あの人は、どうせ嘘っぱちだとわかってるのにねえ、わたしがそう言うと、みきさん、わたる世間に鬼はいませんよって言うの……嘘ですよ、そんなこと、この世間に生きてる人は鬼だらけですよ……鬼が人間の顔してるだけですよ、十日間も放りっぱなしにされてたのよ、あの人」「お一人ですんでるんですか?」女がなにを思いついたのかきいた。 「そうよ、あのお人もわたしも一人者、この世間は鬼だらけですよ、だからねえ、わたしも覚悟しましたよ、何人このアパートに住んでいようと、死んだら、腐るまで放ったらかしでね、明日の日にも今日の日にもこの世は極楽のようになると言っていたお方が、ああなんだから、鬼ばかりだと思ってるわたしなんかお骨になるまでそのままですよ」斎藤とぼくが同時にわらった。管理人はあわててぼくたち二人の顔をみ、「なにがおかしいの、あんたたち」と言った。うすぐらい電燈の形が、壁にかけた男の額の硝子にうつっている。「あなただってそうですよ」管理人がそう言うと女は、「わたしは占いのお婆さんをさがしてるの」とトンチンカンなことを言った。 「だからその人が吉田はまさんだよ」ぼくが言った。 「ちがうよ」女が兄の顔をみて頭をふる。 「その占いのお婆さんは自殺などしないわ。いやなのよお、わたし」女はだだをこねる口調だった。「お兄さんが死んでるのにい……」 「ここまで訪ねてきてくれた人は、みんなあなたのようにおっしゃるねえ」 「ああ、他にも彼女みたいに訪ねてくる人がいるのかあ」兄が言った。ぼくは管理人の部屋の入口に、女にかくれるように坐っている兄の顔をみた。いまさら気づいたってもうおそい、と思った。なにが大衆はすばらしい、だ。なにがおめでたい、だ。おまえら一度として、大衆というやつをみたことがあるというのか。なにが再度武装した軍隊の創設だ。二階の廊下を歩く音がしていた。ぼくの部屋は管理人の部屋から二つ横にずれたところにあった。松根善次郎の家の仕事部屋とちょうど背中あわせになっていた。 「あなた方のように、ここまできて、みんなそうおっしゃるねえ」 「弟さんみつかったの」 「みつかりました、死なれる一カ月ほど前、さがしにいった釜石で。雨のふっている時でね、あのお人、ここにきて、みきさん、わたしはやっと恋人にあえましたよおって。傘たたんでどこにおこうかまよってるの、すぐそこに傘入れがあるのに。あがりなさいよ、池田屋のお茶買ってきてもらったから、そう言ってもなんか変なの。くよくよしなさんな、わたしが言うと、あのお人は、そうねえ、つらいと思うからつらくなるのねって言って、わたしにおせんべいをおみやげだと言ってくれた。弟さんは、戦災で焼けだされたときあずかってくれていたお寺で栄養失調で死んでいたの。だれも覚えてなくって、過去帳にだけなまえがあったの。ほんのちっちゃい子供だったから、よけいつらかったんだろうねえ、あたしゃしあわせだ、あたしだけしあわせだったって、泣くの。この二十何年間。そうなんですよ、あのお方は、この二十何年間ずっとわたしだけしあわせだと言いつづけてきたのよ、思いつづけてきたのよ。ほんとうはちっともしあわせでなかったのに。そのお人があんな死に方なさるんだからねえ……この世は地獄ですよ」 「わたしもいもうとをさがしてるの、お兄さんをさがしてる……」女は言った。 「この世は地獄ですよ……」管理人はまた言い、こたつの中で背をまるめる。 「あってききたいの、いったいなにをわたしに言いたかったのおって」 「でもあんた本心からでないでしょう、ねえ」管理人は女の顔をみつめた。「そうでなくちゃあ生きていけませんよ」 「本心よお」女が声を強める。 「死んだ人間はなにも言いたいことなどありませんよ、死んだ人は死んだ人ですよ」管理人は女の声にいらだったように、いかにも意地悪を言っている口調だった。ふっとため息をつく。「この世は地獄ですよ、生きている人間はみんな鬼ですよ」その背をまるめた格好がなんとなくおかしく、そして死んだの生きたの、人間だの鬼だのと言っていることが息苦しく、ぼくは無理にわらいをこしらえて、斎藤のふとももを指でつついた。「くすぐったいなあ」と場ちがいな声を斎藤は出した。そのとんきょうな声でなにかが崩れ、それを待っていたように「あいたいのよ、あいたいのよ」と女は泣きだした。「占いのお婆さんはその人じゃないわあ」  四人で富士見荘を出た。女はまだおぼつかない足どりだった。アパートの隣の松根善次郎の家は、奥で随分遅い夕飯でも食っているのか、波風のまったくたったためしのない顔をしてテレビをかこみ一家団らんの最中か、ひっそりと声もなかった。玄関は灯りが消され、奥のふすまでしきった部屋が明るかった。この家から毎朝、読経がきこえ、昼日中から親子喧嘩の荒らげた声がきこえるのが嘘のような気がした。だが、それは夢でもなく嘘でもない。事実だ。突然、ぼくは、pierce の反対語はなんだろうか? と思い、貴重な一日をフイにしてしまったと思った。つめたいのかそれともぬくもっているのかわからない風が吹き、印刷工場の脇の木をゆすっていた。その風そのものが危っかしい気がし、ぼくは兄に、「もういいよ、帰してやれよ」と耳うちした。 「また泣きだされたりしたら、かなわないよ」 「泣かないよ。わたしゃ、こんなこと馴れてるさ。ネンネじゃないよ」  兄が酒でものもうかと言い、女が賛成し、ぼくと斎藤が従った。女は、鼻にしわをよせてわらい、兄と腕を組み、体をすりよせ、「また、さがすよお」と言った。「馴れてるから、こんなことぐらい」とあっけらかんとした声を出す。大どぶのこちら側、あやめ橋のこちら側にただ一軒ある、ホルモンと看板のかかった飲み屋をめざして四人で歩いた。女は、兄に、大どぶの向う側の喫茶店で出会って以来、くり返しくり返し語った死んだお兄さんの話と家出した妹の話をあきもせず、しゃべっていた。まったくちんぷんかんぷんで、自分一人つじつまがあっているからそれで良いというふうだった。兄はふんふんとかうんうんとか相槌をうつ。ぼくと斎藤は、そんなもの相手にできないと野球の話をした。もともと野球などに興味はないし、野球選手の名前すら知らないので、ぼくと斎藤のはなしはたちまちシラけてしまう。いまさらながら、まったくなにひとつ意見のあうことのない斎藤と、よく毎日顔つきあわしていられると感心した。結局、ぼくと斎藤のはなしは、アルバイトのことに落ちついた。  女は飲み屋に入っても、まだ身の上ばなしをしていた。中学を卒業して、彼女はすぐ集団就職で上京し、渋谷のフルーツパーラーにつとめた。そしてそこで、田舎の母親から、たった一人いた自分のお兄さんが自殺したと電報を受け、一番はやい電車にのって、あくる日の朝、駅についた……。 「嘘かほんとうかわかりゃしない、行ってたしかめてみなけりゃ、と思いながら、それでも後から後から涙がでてきて泣きどおしで一晩汽車にのって、三月五日の朝ついたの。ついたとたん、もうわかった。お兄さんは自殺した。直感のようなものね。そう思ったとたん涙がとまった。声をあげて、山も川も海も空もはり裂けてしまうぐらい泣きたいという気持ちなのに一滴の涙も出ないの。お兄さんが死んだ。うちはお父さんがわたしらのちいさいとき死んじゃってたでしょ、それでわたしらにとったら、お兄さんはお父さんのかわりみたいに頼りにしていたのね。つらかった、つらくってどうしようもなかった。お母さんが憎くってしようがなかった。ずうっと、通夜の晩から酒ばっかしのんでるの。若い男といっしょにい。世の中に、そんな母親がどこにいる?」  女は顔をあげた。白く塗りたくった顔の眼が涙のためか赤らみ左右につりあがってみえ、一瞬ぼくは中国や朝鮮の踊り子の顔写真を思い出した。女はビールの入ったコップをくちに持っていき、口唇をしめらせる程度にのみ、それから、壁の棚の上に置いてある音をひくめたテレビにぼんやりした視線をうつした。客は、ぼくたち四人以外誰もいなかった。ぼくは、ぼくの足元に寝そべった犬を足でこづき、時々肉を放ってやりながら女の話をきき、犬の頭脳、チンパンジーの頭脳とたいしてちがわない女の脳味噌にうかぶ悲しみや、苦しみの感情を想像してみようとした。いったいどんな具合なのだろうか? そして、人の感情を想像しているぼく自身が兄に負けずおとらずべたべたとお人好しに思え、ばかばかしくなった。だれが死のうと生きようと、このおれの知ったことじゃない。 「あんなふうにはなりたくないねえ」女はそう言い、雨にうたれ風にさらされた仔犬がみせるような眼をして、兄とぼくたちをみ、「でもさ、毎日楽しいよ」とわらいをつくった。「ほんとよ、毎日毎日、どんちゃんさわぎだからあ。だからよく忘れるんだなあ。固定の中で、自分の好きなタイプいるじゃない。そんなタイプだと、うれしくなってりかちゃん、どんどんおごっちゃう。お店終ってから、待ちあわせして、それから飲みにいくの、へべれけになるまでよ。そんなとき、ろうそくに火ともすのも忘れてさ。お兄さんは、写真ではわらってんだけど、こんなあほなたよりない妹もってつらいよ、というふうにみえるんだなあ。怒っているようにみえるんだなあ。やきもちやきだからあ。そして夢にでてくるの。白い背広きて白いズボンはいてきちんとしてるんだけど、お兄さんはくたびれきってるの。ドアの前に立って、りえこおって呼ぶの。お店ではりかって言ってるけど、本名はりえこって言うの。りえこお、りえこお。お兄さんは立っている。私がドアをあけると、お兄さんは、ドアに立ったまま、ずっと歩きどおしだと言う。さがして、さがしてなあ。兄ちゃん、寒かったやろ、あがりい、わたしが言うと、お兄さんは、いや、いや、ここで一晩中ねずの番をしたる、悪い虫がつかんようになあと言うて、わたしに毛布もってこいと言う。わたしが、なに言うてるの、遠いとこから来てつかれとるのに、外は寒いし、それに番をしてもらわいでもええ、虫くいだらけや、と言うと、お兄さんはつらくてしようがないと言う顔をしてわたしをみる。兄ちゃんのせいかあ? ちゃうちゃう、わたし自身のせいや。むしろ兄ちゃんが首つったのも、わたしらのせいや」女はそう言ってため息をついた。そしてなにごとかをいま耐えるというように黙った。くだらない、とぼくは思った。きくも涙、語るも涙ってわけか? だいたい自分の兄のことを他人に言うのにお兄さんなどという神経が気にくわない。 「なんで自殺などしたんだろうねえ」と兄が、黙りこんだ女にいまいちど話の糸口をさし示すように言った。「どうしてなんだろうねえ」女はコップのビールをのみ乾す。不意に「そう、そんなにいっぱい睡眠薬のんで死んでたの。それじゃあしようがないねえ、覚悟してたんだねえ」という管理人の声をおもいだした。 「なあ、死んだ人間のことなんかどうでも良いことじゃあないのか?」とぼくは言った。斎藤が、ぼくのしゃべった言葉を女のめぐりの悪い頭から打ち消そうとするように、 「いもうとさんがどこにいるのかもわからないんだって?」ときいた。 「そうなの、中学でてすぐ渋谷のお店にいったでしょう、だから、いもうとはちいさいときのことしかわからないけど、グレてたんだってえ。グレて、まだ子供のくせに家とびだした」 「なんか悲劇だなあ」 「喜劇だよ」と兄の言葉をからかうように、ぼくは力をこめて言った。「ほら、昔からあるじゃないか、親の因果が子にむくいって、あれ喜劇の口上じゃなかったっけ」兄はとりあわなかった。女と斎藤は何のつもりかわらった。 「お兄さんが死んだことはつらいけどさ、でも毎日毎日、けっこう楽しいじゃない。アケミなんか、わたしに、なにか悲しいはなしして、今日泣きたいような気がするのって、リクエストするの。だからわたしは、うつくしいお母さんと、ハンサムなお兄さんと、かしこい妹がいたが、それぞれはなればなれになって、一人は病気、一人は自殺、あとの一人は行方不明のはなしするの。すると涙ぽたぽたたらしてさ。最後に、だから、あたしゃ、こんなところで働いてかせぎまくってるのって言うと、みんなわらうの」女はそう言い、愉快なことをおもいついたというようにわらった。  足元に寝そべったあきらかに雑種とわかる毛のむくむくした犬に、ぼくは、甘いたれのついた肉を、そのぶしょうたらしく鼻づらだけをあげてぼくをみあげている犬の、体を動かさなくてもくわえつくことのできる距離に、ひとつまたひとつと放ってやった。 「これ、犬の肉かもしれないのに……」と斎藤はビールをコップいっぱいのんだだけなのに赭い顔で、ぼそぼそと言う。「ホルモンなんて言うの犬の肉のことじゃないのか」 「嘘よお」女が憤然とした口調で言った。 「そんなこと言ってると、おばさんに、おこられるから、ねえ」 「おこらないですよ」と脂でべたついたカウンターの中のかっぽうぎのおばさんが言い、裸電球の光で妙に華やいでみえる笑顔をつくった。それは、ぼくには、田舎の炊事場での母の笑顔に似ているように思えた。「あんたら、そんなこと言ったって、もうずいぶん食べたでしょ」脂でべたつき、それでもひっきりなしに布でふいたためか木目のくっきりあらわれたカウンターに、〈闘争勝利〉〈裁判取り消し〉とあった。白黒のテレビがボリュームを下げられてただ青っぽく写っていた。壁にホルモン、焼鳥、おでん、とあり、めちゃくちゃなサインの入った色紙が二枚飾ってあった。その二枚ともに、〈がんがんのおばちゃんへ〉とあった。おばさんは、ビロードの座蒲団をゆわえつけた丸椅子に坐り、かっぼうぎのポケットから煙草をとり出してため息をつくように吸った。「おばさん、のむ?」と兄がビールをもちあげると、それはただの職業としての習性になっているわらいをつくり、「ありがとう」と、あらってふせたコップをひとつとって、ビールをうけた。 「なんかさあ、今日は、のってきたから、どんどんのもうよ、みんなりかちゃんのおごりだから」 「のりすぎだよ」と斎藤が意地悪な口調で言った。 「おごるのはあたりまえだろ、のもう、のもう」ぼくは言った。実際おごるのはあたりまえだった。なにを言っているのかわからないのに、ここまでこうやってつきあってきてやったのだ。 「めったにないのよ、こんなこと。これでもしっかりしてるんだから、一番みんなの中でお金ためてるんだから、だってそうでしょ、お金がめあてじゃなかったら、なんでこんな若い身空であんなことして働かなくちゃあいけないの?」女はそう言ってビールをのみほし、「どんどんのっちゃうんだから」と、日本酒にしてくれとおばさんに伝えた。おばさんは、チャンポンにしてのませていいのかと言うふうに曖昧なすぐにでも哀しげな顔に崩れてしまいそうなわらいをつくって、女のとなりの兄をみた。「ようし、おれものっちゃおう」と兄はおばさんに答えるようにビールをのみほし、「酒、酒」と言った。良い気なものだとぼくは思った。 「ほんとは好きなのよってアケミなんか言うの。もちろんよ、だけどうんざりしちゃうよ」女はわらう。「でも、プロだからさ」  斎藤は一本のビールに四苦八苦しているようだったし、ぼくは最初につがれたビールにほんのしるし程度に口をつけただけで、焼鳥とホルモンだけを食べ、足元に寝そべっているナマケモノの犬にすこしずつわけてやっていた。二人は猛烈ないきおいで、まるでめちゃくちゃに酔いつぶれることだけが目標のようにのみはじめた。女はすこしのことが愉快でたまらないというふうに大きなわらい声をあげた。げんこつやまのたぬきさん、そう言って遊戯の真似をし、最後にジャンケンをし、勝ったの負けたのと言ってわらいこけた。車がやすみなしにとおっていた。風呂帰りの男たちが、二人入ってきて、騒ぎたてる兄と女をわらってみつめ、それから思いついたように仕事のはなしをはじめた。ぼくと斎藤は、結局また予備校と入学試験のはなしに戻った。だが、しらけっぱなしだった。今日一日完全に失くしてしまった。赭い顔の、口で息をしている斎藤に、「よう、みてやってくれよ、あの二人、いまさら遊戯する齢でもないのに」とぼくは言った。なんとなく、いらだたしく、腹だたしくかなしく、泣きだしたい。インバイノクサレオマンコ、とぼくは小声でつぶやいた。 「どうしたんだよ」兄がいきなり女の手の甲をつかんで訊いた。女の手の甲に煙草で焼いた跡が二つあった。 「いいよ、そんなこと、なんでもないことなのだから」女がわらいすぎたために眼に涙をためたまま、いそいで兄の手をふりはらい、急激に酔いがさめたと言うように言った。酔っているのは、兄で、素面なのは、女だ、そんな感じだった。 「福」なにを思ったのか兄がぼくの名を呼んだ。かつてそんなふうに兄に呼ばれたことはなかった。「なんだよ」とぼくはめんどうくさげに答えた。 「いいか、なんでも良いんだ、どこでどうしろと言うんじゃないけど、おまえは過激になれ」 「なんだよ、そりゃあ、なんのことだよ」 「過激になってな、権力を奪取しろ、邪魔なやつはテロってやれ」 「おれに過激派になれって言うのか、爆弾破裂させて罪もない人を殺せというのか」その答え方によっては、ほんとうに兄を殴りつけてやろうと、挑戦的な言い方をした。 「ちがう、ちがう」兄は首をふり、カウンターに両ひじをつき、酒を一口のみ、体をおこした。「ちがう、ちがう、なんでも良いんだ、こんな社会ぶっつぶしてやれ」兄はそう言ってカウンターにたおれこんだ。「こんな社会なんてなあ、ふっとばしてやれ」 「良いお兄さんね」と女が言った。  兄がその女の言葉をききつけ、カウンターからおきあがり、「良い男ねって言ってくれよ」とだだをこねる口調で言った。女はわらい、「良い男よ、ハンサムよ」と言いなおした。  朝、めざめると、やはり、松根善次郎のけものの呻きのような読経の声が、きこえていた。それは、どんなに努力してみても、人間の出す声の類には思えなかった。ぼくが斎藤の部屋で寝、兄と女が、となりのぼくの部屋で寝たのだった。いっときぼくは、斎藤の部屋のこたつにうつぶせになり、ぼくは斎藤の寝息とそのけものの呻きの掛けあいをききながら、とりとめなく、田舎の母や死んだ父のことをおもいだし、それから目前にひかえた入学試験のことを考えた。机の前に、《他人を嘲笑う者は己れが嘲笑われ、他人を尊ぶ者は自分が尊ばれる》と格言があった。ぼくは立ちあがった。しあわせはおいらのねがい、と昨日の朝、兄がうたっていた歌をおもいだした。なんとなく、自分の神経というものが、兄や女のために、ズタズタに切られてしまっている気がし、それから、空にむかって枝をひろげたその格好がリンパ腺の解剖図をおもわせるケヤキの木をみたく、胃袋の中、体の中を洗いきよめてくれる冷たい水をのみたくなった。なむみょうほうれんげきょ、なむみょうほうれんげきょ、ときこえた。また今日も綿入れをきて、仕事のあいまに外に出、春になりはじめた光をあびても芽ぶこうとしない針金細工のような盆栽の木に水をやるのだろうか? ドアをあけ、廊下に出、ぼくは、隣のぼくの部屋のドアをあけた。鍵はかかってはいない。兄と女はぼくの蒲団に裸のまま死んだように寝込んでいた。ポスターの男だけがめざめていた。ここも読経の声がきこえていた。  素足につめたい古びてガタがきているために軋む廊下を歩いてつきあたりの便所に入り、アンモニアの臭気に息をつめながら小便し、小窓をあけた。そこから、晴れるのかくもるのかはっきりしない暗い空に、日の丸の旗が風にたなびくのがみえた。便所を出て、炊事場になっているところで蛇口から直接水をのんだ。しみがつき埃がこびりついた柱に、鏡がかけられていた。ぼくは鏡にうつったぼくの顔をじっとみつめた。しあわせはおいらのねがい、しごとはとってもくるしいが、ながれるあせにねがいをこめて、あかるいしゃかいをつくること。歌声が鏡にうつったぼくの顔の内側で流れた。「過激になれ、権力を奪取しろ、邪魔なやつはテロってやれ」とぼくは兄の言葉をおもいだし、反復暗誦した。しゃらくさいじゃないか。そして、不意になんのつもりか、ぼくは鏡の中のぼくにむかって、挙手をやってみた。にやっとわらってもみた。朝の寒気がここち良かった。朝の寒気に耐えて、冷たい水をのみ、鏡にむかいあって立っている自分がここちよかった。 [#改ページ]      
火  宅

 大きな体の男だった。いったいその男がどこからやってきたのか、誰も知らなかった。いや、狭い町のことだ。おおよその見当はついた。まず言葉だ。阿田和から木本、せいぜい行って尾鷲あたりらしい訛だった。男は、カーキ色のズボン、カーキ色のチョッキを着、ハンチングをかぶっていた。いつのことか忘れたが、母が、彼に、そう語った。その時、家のすぐそばを通る汽車の音がした。 「あがれよお」彼の兄が、男にむかって横柄な口をきいた。男は、外に立ったままだった。男は、裏の麦畑の脇につくられた溝に唾を吐いた。「あがってくれよお」と彼の兄は、いまにも涙を流しそうな顔で男に言った。「いや」と男は唾をまた吐き、手で口元を拭いながら言った。「またにする。それに今日のうちに、これからひとつやらにゃいかんことがある」兄は、家の外に出た。「そしたら、おれも行く」「今度の仕事は、おまえみたいなのが一緒にやるのとは違う」男は駅の方にむかって歩きだした。兄は後を追った。麦畑を通り抜け、男がしたように焼いた木の柵をとび越えた。そこは線路だった。「おれがおったら、邪魔やと言うんかあ」兄は線路の枕木の上を跳びながら歩いた。男は、黙っていた。男の踏む砂礫の音が、兄には気にくわなかった。男は自分をおいてけぼりにするつもりだ。汽車が駅の方からあらわれた。男はひょいと体をどけ、そしてはずみをつけて、草が茂ったむこう側の土手にとび移った。兄も真似た。「ついてくるなと言うとるのに、このガキは。帰れ、帰れ」 「なあ、こんども仲間に加えてくれ」 「ガキを仲間にするほど、ヤキがまわっとらん」 「ほしたら手下にしてくれ」 「おまえなど手下にしたら、若後家をひっかけるのに子供を手下にしたと、口のへらんやつらにうわさされる」男は立ちどまった。唾をチッと歯と歯の間から音させてとばした。それがその大きな男のくせだった。男は戦争から帰ったばかりだった。いや、戦争などに行かなかったのかもしれない。「かまんやないかあ」と兄は、男の顔をみながら言った。「そんなことかまんやないか、うわさしたいものにはうわささせといたらええ」汽車の笛が鳴った。この時、彼の兄は幾歳だったろう。十一、二であることは確かだった。草いきれがしていた。風は吹かなかった。すすきやよもぎの葉の緑が、強い日の光をあびて、草の内側から皮を一枚溶かして外にあらわれたようにみえた。兄の父は、死んでいた。家には、母とあと三人、女のきょうだいがいた。まだ三人とも幼かった。兄は、男の真似をして、歯と歯の間からチッと音させて唾を吐いた。兄はよもぎの葉をちぎって噛んだ。男は歩きはじめた。兄は、その後を追った。  駅前を通り抜け、男は、上田の秀の家によった。上田の秀は、男の後に立っている兄をみて、「なんじゃ、もう|馬喰《ばくろう》になるのはあきらめたんか?」とわらった。上田の秀は、どこから仕入れたのだろう進駐軍横流しの罐詰を、ひとつひとつ丁寧にふいていた。このあいだまで遊郭にいたキノエが、首のあたりに白粉をぬりたくり桃色の襦袢ひとつで、蒲団に横ずわりして、煙草をすっていた。家の中に、魚の腐ったようなにおいがしていた。「馬喰はやめた」と兄は、上田の秀の手元にある罐詰の数をかぞえながら言った。 「お母に叱られたかよ、あっちこっちへ行って、あれもやりたいこれもやりたいと言ってまわると」秀は|下穿《したばき》ひとつだった。 「叱られるかあ」兄は言った。「金がないさかいやめたんじゃ」 「おいさ、金やと」上田の秀はわらった。眼が一本の線になる。かたわらの男もわらった。またチッと唾を吐く。「金を持っとっても、いまはクソにもならんわなあ。女買うんでも、芋の一貫でも持っといてみろや。牛でも馬でもそうじゃな」上田の秀は、後をふりかえり、キノエにむかって、「おい、そこの食いかけの罐詰やれ」と言った。「まだ、うち、食べてないよお」キノエは言った。「かまんかまん、やれや、おまえの分はどっさりあるんやから」  男はあがりかまちに腰かけた。キノエが、蓋を包丁であけたらしいラベルをはがした罐詰を、土間にしゃがんだ兄に、「甘いよお」とさし出した。化粧とも酒のものともつかないにおいが、キノエの体からした。兄はそれを受け取ろうかどうしようかと迷った。母にとめられていた。遊郭の女はすべて梅毒持ちだと教えられていた。女に体を触れてもならないし、女が口をつけたもの手を触れたものに触れたりすると、体中からじくじく膿が出、かさぶたができ、そのうちぽろりと鼻が落ち、気違いになる。「なにしとるの、せっかく人があげよかと言うとるのに。甘いよお、こんなん他では食べられへん」「もらえや」男がキノエの手から罐詰をとり、「ほれ、ねえちゃんがやると」と兄にさし出した。兄はうけとった。目をつぶって、まず汁をのんだ。指をつっこんで中から果物の輪切りを取り出し、食った。男も上田の秀もキノエも、その兄をみてわらった。男は、「こんな罐詰五つで、おまえの母さん売ってくれと言うたら、どうする?」と兄をからかった。キノエは体をゆすってわらって、むせた。男は上田の秀とはなしはじめた。 「ありゃ、やったらなあかん」と男は言った。「まあ、まあ」と上田の秀は、なだめ役にまわっていた。 「おおきな顔しすぎとる。まあ、みてみい、おれがあっと鼻をあかしたる」 「一直線じゃからのう、安さんは」上田の秀は言った。男が、「なに言いくさる。わりゃ、おじけづいとるのか」と語気荒く言った。なにを話題にしているのか、兄にはわからなかった。上田の秀の家の土間にしゃがみこみ、中身を食いつくした罐詰のかんに、土間に散らばっている藁屑を集めていた。男が怒るのは、以前からたびたびみていた。男の喧嘩も二度ほどみたことがあった。相手が口でなんだかんだ言いはじめたのを男は黙ってきいていて、それに相手が気をゆるめたすきに、突然、喧嘩とは口でするものではなく体の中に蓄えた力でするものだというように、男は大きな体をそっくりそのまま腕の先、拳の先にこめ、相手の顔面を殴り、あごを殴った。一言も物を言わなかった。それは、男の体の中の暴力が直接外に吹き出した感じだった。  彼も、それをみた。たしかに直にみた。それは、自分の体がまっすぐその男とつながっている感じにさせた。自分の体の中になにかが、ざわざわと動く気がした。一言も発せず、言葉などでなく、相手を力で、うち倒す。ありありと、いま思いだす。彼が、たしか小学三年の時だった。運動会の時だった。彼はその時、その男が、運動会に来ているなどとは思わなかった。便所のあたりで、彼はみた。男は、相手を殴り倒すと、暴力をふるうことがこの上なく羞かしく後めたいことであるというように、すぐに人混みにまぎれた。殴られた相手は、のろのろとおきあがった。彼の仲間は、興奮した。まもなく、彼らの出場する借り物競走があるというのに、「どんごい、強いねえ」と口々に言い、人混みにまぎれた男の後をついていこうと言った。それから、その男は、どこへ行ったのだろう。彼は借り物競走に出て、めがね、とけい、おじいさんと借りてまわりながら、その男が、人混みの中から、他ならぬ彼を、みつめていることを感じたのだった。 「やらなあかん、なあ、秀よ、ここまで来て、逃げはせんわなあ」 「逃げますかいな」上田の秀はふてくされたように言った。兄は、しゃがみこんでいたために足首がしびれ、とうとう土間に尻もちをついた。「なにやっとるのか、こいつは」と男が言った。口をもぐもぐさせた。いまにも男は、前歯のすき間から、チッと唾をとばしそうにみえた。兄は立ちあがった。キノエが、「なあ、ちょっと入相のおじさんとこまで走っていって、この罐詰、上田の兄ちゃんからやと渡してくれん」と言った。兄は渋った。男が、「行ってこい」と言った。  その夜のことだった。遊郭から常盤町、それに中地頭にかけて大火事があった。真夜中だった。炎は噴きあがった。遊郭から駅にむかって抜ける新道の周辺まで火の粉はとんだ。火元は、遊郭の『弥福』だと、誰かが言いはじめた。『弥福』になんらかの怨みをもった者が、つけ火した。いや『弥福』の女郎の一人が、男と抜けようとしてかなわず、やけになって、火をつけた。こう言う者もいた。遊郭に身売りした女の兄が、妹が夜ごと朝ごと男をむかえるのが|不憫《ふびん》で、客を装って妹を指名し、部屋に上って、妹を自分の手で殺し、火をつけた。見物の人は、こりゃあ、女郎の火じゃと言った。燃えはじめたら、ちょっとやそっとではおさまらんぞ。燃え尽すまで待つことじゃ。強い風だった。ごうごうと音をたて、炎はまっすぐ天にむかってつったち、そして次々と移ってゆく。兄は、男をみのがすまいと思って、火事を見物するより、炎にみとれている男の顔をみつめていた。男は、まるっきり、それまでと違ってみえた。体が自分の三倍もあると思えた。兄は、男が恐かった。いったいこの男は、どこから、なんのためにこの町にきたのだろう、人混みにまぎれて、なにくわぬ顔して、あれは女郎の火じゃと口裏をあわせている男が、おそろしかった。どこに、こんなことを平然とみるこころがあるのだろう。火をつけたのは、この男だった。人混みの中にまぎれ、腕を組み、仁王だちになったこの男は、いったいどこからきたのか、親が誰なのか、なにをやっていたのか、いつ生れたのか、今幾歳なのか、正真正銘の名はなんというのかあきらかでない。ただひとつあきらかなのは、この男がこの土地の者ではなく流れ者だということだけだった。いったい、この男は、どこの馬の骨か。謎だった。兄は、男の顔をみていた。男の顔のむこうにみえる炎をみていた。どこからともなしに、女郎の焼死体が二つ出たとうわさが伝わった。兄は、男に、「女郎が二人死んだと」と教えた。男は、「ははあ、女郎火じゃから、女郎の死体ぐらいみつかるわい」と鼻を鳴らしてわらった。そして、大きな手で、兄の頭を押えた。兄には、その男の仕種が、もうそれ以上話をするな、黙って火事を見物しろと言っているように思えた。同時に、頭全体を包みこんだその手から、男の後悔とも火に対する畏れともつかぬものが伝わってくる気がした。柱が崩れおち、見物人から声があがった。青年団のハッピをきた者が火の周囲を行ったりきたりするが、手出しはまったく出来なかった。また新たに、大きな家の庇に火がついた。「尾関さんとこの家」と誰かが言った。男は、兄の頭を大きな手でごしごしこすった。その手が、燃えろ、燃えろ、と言っているように思えた。人混みの後から、声がした。ハッピ姿の男たちが、人混みをかきわけホースを持って新たに加勢しに来た。男は、兄の頭をこづいた。歩きはじめた。兄はその後を追った。なぜ、男は、火をつけたのだろう。怨みからか、それとも、誰が発したのかわからぬ|実《まこと》しやかなうわさどおり、遊郭に身売りした妹が不憫で殺し火をつけたのか。翌日になって、兄の母は新たに別のうわさを持ってきた。それはもっともらしいものだった。常盤町、初之地、中地頭、それに新道にかけて、佐倉という家の所有する土地だったことに気づいた。佐倉あるいは佐倉の土地に対する怨みをもった者が、火をつけた。何カ所も同時に一斉に燃えだした。佐倉は大きな声じゃ言えんけど、そのぐらいされてもしょうないわな。だが、兄はわらった。男は、人から怨みをかう佐倉の手下だ。佐倉に頼まれたと言った。  上田の秀の家へ行くと、男が酒をのんでいた。「おれ、きた」と、男は言った。兄は、土間にも入らず、玄関の溝のところに立ち、男がやるように唾を吐いていた。つぎはぎだらけの家だった。隣は入口を開けっぴろげでいた。女が裏口で物を洗っているのがみえた。「きのうは、おもしろかったねえ」男が言った。キノエが酔っているのか突拍子もない声を出してわらい、「うちら、胸すうっとした」と言い、立て膝をついた。道で子供が四人、けんけんをしていた。男が、キノエの股倉に手を触れた。「安さん、うち、女郎とちごて、秀の女房え」「かまん、かまん」上田の秀の酔った声がする。「カカすてても朋輩すてるな、朋輩信用してもカカ信用するなと昔から言うとる」「わちきは嫌じゃえ」キノエが作った声をだした。兄は土間に立った。「上れ、上れ、そのうち兄やんが牛も購うたる、馬も購うたる」上田の秀が言った。「お母に言うたれ。上田の秀兄やんが、そのうち、牛も馬も購うておれを馬喰にしてくれるらしいから、心配せんとおれと」 「またおおきいこと言うて」キノエが、兄をみて相槌を求めた。襦袢の裾をなおし、「よいしょ」と掛け声をかけて立ちあがり、「お兄ちゃん、あがり、うちらの戦勝祝賀会や」と言った。キノエは兄の手をとった。つめたく固い手だった。酒と化粧のにおいがした。「いつごろからやの、うちを、引いたる引いたると、上ってくるたんびに言うたんは。不実な男や」「じゃかまっしゃい」上田の秀は言った。 「じゃかまっしゃいとどの口で言えるんやろかねえ。自分の嫁を女郎に売りとばしてバクチをやって、ちょっと景気がようなったからと、身受けにくる」 「嫁、嫁言うて」上田の秀はコップの酒をのみほす。 「ありがたいことやけどな、遊郭にこんでもええような娘が、遊郭に売られてくるような御時世やから」  兄は男のわきに、あぐらをかいて坐った。「飲めや」と男がコップに酒をついだ。それは麹くさい密造酒だった。「ぐっとあけろ」という男の言葉どおり、一息であおった。「おおえらいえらい」それをみて、男と秀がはやしたてた。新たに酒をつぎながら男は、「どうな、きのうはおもしろかったやろ」と訊いた。兄はうなずいた。「おれと組んでなんかやると、おもしろいことばかりあるなあ」男と上田の秀はわらった。障子の前に、きのうまで積んであった罐詰はなかった。代りに、柳行李が四つおいてあった。柳行李から、赤い着物がはみだしていた。兄は酔った。兄は、眠った。まだ、昼をすぎたかすぎないかの時間だった。外で遊ぶ子供の声が、男や上田の秀のはなし声にまじった。兄は、一度も子供の遊びをしたことはなかった。母が三人の妹と自分のくいぶちをかせぐのに手いっぱいで、兄に眼をいき届かせることをしなかったからか、それとも、十一や十二であるのに、充分な大人だと思ったのか、兄がどこの家へ出入りし、だれと、遊んでいるのか、遊ぶように仕事をしているのか無頓着だった。母は行商に行った。その時代は、物々交換でなければらちがあかなかった。つまり、物があるかぎりどんな人間でも生きられた。金ではなかった。人はみんな遊戯をやるように仕事をした、生きた。遊戯をするように苦しんだ。「あれ、つらいよ」キノエが言った。「このお兄ちゃん、こんなとこで、寝てしもたよ」キノエは、そう言って、兄の鼻をつまんだ。口で息をした。「てんごうすんな、寝かしとけ」と上田の秀がとめた。  どのくらい眠ったのだろう、キノエの「いや、雨やあ」と言う声に眼ざめた。雨の音がした。「おう、雨じゃねえ」男の声がした。ふっと、兄は、息苦しくなる。母は、いまどこかで雨やどりしているだろうか。三人の妹たちは、また雨にぬれて、外で遊びまわり、風邪を引くのではないだろうか。二番目の妹は、肋膜をやって、辛うじて生きた。人みしりをするすぐ吐いたり熱を出したりする子だった。極端に、清潔好きだった。父に一番よく似ていた。父が一番かわいがった。兄たちの父は、この二番めの妹のために山を売り払い、畑を売って、医者にかけた。生きることは十中八九ない、と言われた。父は、仕事場から帰ると、「おう、かわいもんよ」と言い、作業着を脱ぐのもそこそこに、熱を出しただ息をしている、かすかに手足を動かすだけの、妹の体をなぜさすった。「かわい、よ、はよ、ようなれよ、ようなったらなあ、あっかいべべ着てなあ、かんざしつけて」妹は、体をなぜさすられるたびに、父に苦しさをつたえようとするのか泣いた。妹は、背中に大手術をして、生きのこった。父は死んだ。「まあ、ちょっとは雨降ってくれると、たすかるけどねえ」キノエが言った。 「せいせいするわ」キノエはわらった。「遊郭におるときも、うち一人よ、雨ふってきてよろこんでたの」 「おまえはトッパやから」上田の秀が言う。 「トツパで悪りかったなあ。トッパなどでなかったら、どうして遊郭になんぞ身売りするもんか。こんなしょうもないこと言いふらしてるあんたの甘言など待って。なあ、安さん。みんな、いややなあ、また雨やあ、と言うけど、うちだけ、雨や雨や、雨は天から降ってくるんやで、と言って、なんかしらん|力《りき》ついたよ。そんな時にあたったら、お母ちゃんがあとでおこるほどのもてなしや」 「えらい雨やなあ」と男が言った。屋根に張ったトタンが鳴っていた。上田の秀が兄をみた。「ほれ、安さんの子分、眼さましたど」兄は起きあがった。耳の中、頭の中が熱かった。外は、明るかった。道にはね返った雨滴が窓の障子にとんだ。男は、|欠伸《あくび》をした兄の頭をこづき、「食え」と、鳥の太股をつきだした。兄は、呆けたままそれをみていた。「心配いらん、心配いらん、犬の肉などではない」とわらった。眼が青っぽくみえた。兄は昨夜男の眼が炎を映して赤かったのを思い出した。眼も鼻も口も、凶暴な感じだった。父の顔とはまるっきり反対だった。父の顔はやさしさがあった。だが、この男の顔は、恐ろしげだった。それに大きな体だった。  彼は、自分でこの男の顔に似ていると思う。だが、いったいどういうことだろう、一人の人間の顔に、自分の顔が似ていると知るということは。二十何年後には、この男の後頭部は、いわゆる、ホタル禿となるのだが、職場で彼は、仲間から、「なんか後、薄いんじゃないか」とからかわれる。そのたびにドキッとする。彼の仲間は、「タマっているんじゃないですか、三次会あたりで、全員でトルコなんてどう? タマリすぎの若禿なんてカッコ悪いじゃん」とからかう。「若禿じゃない、中年禿だよ」彼は言う。ロッカーの前に立って作業服を着替えていた山本が、上半身裸の体をのぞかせ、スッパ抜くというふうに、「禿じゃないんだ、それはね、風呂場でかみそりつかって散髪して、そこだけ切りすぎたんですよ。ちゃんと証人が居るんだから。風呂場でインモウをドライヤーで七三にわけてさ」  男は酒をのんだ。わらった。雨は激しくふりつづいていた。隣の家から、壁ごしに、子供の泣き声がきこえた。兄はぼんやりと、雨で濡れた障子の窓をみていた。  男は、肉を食った。「ほら、食わんかあ」男は兄の頭をこづいた。兄は首をふった。なにもかも雨は濡らしていた。家の前の麦畑も、大溝も、共同井戸も。なにかわからないが、不安だった。切なかった。柳行李からはみでた赤い着物が、眼をひいた。男や上田の秀は、肉を食っていた。この上田の秀の家には食い物があり、妹たちが着てもよいような着物がある。家には、何もないはずだった。母が物々交換して増やしてくるあまりもの、腐り物を、食い、着るだけだった。妹たち三人は、雨がふっているため外で遊ぶことができず、がらんとした家の中で、母がゆでておいていった里芋のくず、さつま芋のくずを、食いつくし、歌うたったり、人形ごっこしたりして遊んでいるはずだった。 「お兄ちゃん、なに考えてるのう」キノエが言った。「ねえちゃんがダッコしたるから」 「いらん」と兄は答えた。 「ははあ」と男はわらった。「キノエねえやんには用心せえよ、上手やさか、遊郭で一番の上手やさか」 「なに言うとるの」キノエはわらい、坐りなおす。立て膝をつく。 「なあ、それで、秀も、ひともうけしたら、いっそいで、身請けに行ったんやなあ、あほ、ばか、畜生と、弥福の婆に言われて。結局、得したのは、おまえが一番や。えらい借金こさえとっても、焼けてしもたら、わからん」上田の秀は、にやにやわらっている。酒のびんはすっかり空になっている。  男といっしょに、兄は、小降りの雨の中を、外に出た。「どこへ行くんな」と訊いても、男は答えない。まず、坂をあがって遊郭の焼跡に出た。「おいさ、えらいことになった。これじゃ男はどこへ遊びに行ったらええんじゃろ」と、大きな声で、焼跡に立っている者にきこえるように言った。けむりがほうぼうから立ちのぼった。風景はすっかり変ってみえた。新道のあたりが、家に邪魔されることなく、そのままみえた。灰のにおいがした。「どいらい広なったようにみえるねえ」兄は言った。男はあわてた。「あほか」と言って頭をこづいた。兄はなぜ男があわてたのかわからなかった。兄がなにかを見破ったのかも知れない。初之地、常盤町、中地頭は、いまは、その市の中心地になっていた。スーパーマーケット、銀行、百貨店、それに呉服屋が並んでいるところだった。  新道の、権おじの家へ行った。男は金を持っていた。五人ほど男がいた。バクチをしていた。男は、その中にはいった。むしろを入口につるした小屋同然の家だった。兄は、外で、山羊の相手をして遊んだ。新道の山際に生えた草をむしって山羊に食べさせた。草は、雨に濡れていた。山羊は、だらんと垂れさがった乳房をゆすらせながら、草を食べた。そのうち、家の中から諍う声がきこえた。男と、赭ら顔の男が、とび出てきた。二人共、はだしだった。赭ら顔はパンツひとつだった。腕に刺青をしていた。「おのりゃ」と赭ら顔は殴りかかった。男の肩にあたった。「大きな口ききくさって」赭ら顔は、足で蹴った。はずれた。男は、黙っていた。「人をなめくさって、ああ、ここをどこやと思っとる、流れもんのくせに」権おじがむしろの脇からひょいと顔を出し、「やめろ、やめろ」と言った。「警察がくるぞ、警察が」赭ら顔は男の鼻のあたりを殴った。男は、山羊の横の草に尻もちをついた。あわてておきあがった。そして、赭ら顔をみつめながら手をのばして、山羊の小屋にかけるカンヌキ棒をつかんだ。いきなり、それで、赭ら顔の頭めがけて殴りつけた。肩にあたった。棒をふりはらい、赭ら顔は男にむかって突進した。男は、その棒で顔面を殴りつけた。血がふきでた。ひっくり返ったところを、ちょうど肩から腹にかけてタスキがけに殴る。「やめろ、やめろ」と権おじが悲鳴をあげて、とび出してきた。男は、赭ら顔の股間を、蹴りつけた。権おじが、男に体あたりした。家の中からバクチをやっていた連中がとび出してくる。「おい」と男は、兄に言い、それからはだしのまま走り出した。兄は、立っていた。男は跳ぶように走った。  男はいつのまにか兄の家へ出はいりしだした。そのうち男は、入りびたった。母は、身ごもった。母が彼を身ごもって六月の腹の時、男はバクチであげられた。それだけなら、母は、男と別れようとは思わなかっただろうが、その時、男は母の他に、二人女をつくり、同時に妊ませていた。いかにもこの男にふさわしい。母は嫌った。不実だ、と大きな腹をかかえてわざわざ拘置所になじりに言った。男が、刑務所を出た時、彼は満三歳だった。男は一直線に、母のところへ行った。母は怒った。男は、幼い彼のところへも来た。「やしのてくれもせんのに、お父ちゃんとちがうわい」と男に彼は言ったという。覚えていない。母は、彼のその一言で、男の申し出を剣もほろろにことわり、以降、顔もみせるな、と追放した。その男が、死ぬ。先おとついの夜、昼勤から帰った彼を待ちうけるように、田舎の母から電話があったのだった。最初、父が出た。そして、母に代った。母は、その男が死にかかっている、と、ぶっきらぼうに言った。オートバイに乗っていて、木の切り株に激突し、あばら骨を折った。彼には、なんとなしにユーモラスに思えた。「オートバイ乗ってまわる齢とちがうやろが」彼は言った。「おうよ」と母は答えた。「それでも気持ちは、若い衆といっしょなんやろねえ。もうあかんな、これであのオイサンもあかんな」母はそう言い、彼にむかって、その男の死に目に会いにもどるかどうか、訊いた。「おまえも、もう大人やから、母さんはどうしろと言わん。自分で決めたらええ」彼は、会いになどいかん、と答えた。  その男の視線を絶えず、彼は感じていた。彼が十二の時、兄は、二十四で自殺した。兄の声、兄の息、兄の眼が死者のものなら、十二からこのいまの齢まで、彼はこの死者の視線をいつも感じたのだった。その男の視線は、言ってみれば、現世の生きているものの視線だった。みんな、死ぬ。みんな消えてなくなる。彼は、言った。それが、母から電話をうけた先おとついの晩だった。「みんな、どんどん死んでいくなあ」 「ショックなのう」女が言った。「田舎へ行くたんびに、会わせてと言ってるのに。これで田舎へ行く楽しみがひとつ減った。お姉さんなんか、下の子抱いて、ちょっとあのあたりをぶらぶら散歩してこうと、連れて行くのに、わたしには一緒に散歩しようと言ってなんかくれないんだから。孫じゃないの、わたしは嫁じゃないの」 「孫じゃないよ、嫁じゃないよ」 「かわいそうよ」 「かわいそうなものか、けっこうあれで楽しんでいたんだから。どこかにかくれてみてるのさ。おれがおまえと別れて、他の女といっしょになって、人にわからないように子供をみたり、こっそり会っても、かわいそうだと思わないほうがいい。男なんてそれがいいのさ。男なんて、どこの馬の骨やら、と人に思われてるのが一番いいんだよ」 「だけど安心できないじゃない」 「安心もクソもあるか」彼は吐き棄てるように言った。  彼は、思いついて二番目の姉に電話した。母のはなしを信用しかねた。 「えらい怪我して、もうあかんと言っとる」と、姉は言った。一緒に住んでいる女の両親が、ソファに腰かけ、彼の顔をみていた。四歳と一歳九カ月になる娘は、積み木を双方でとりっこしていた。きょうだいの中で唯一人田舎にすむ二番目の姉は帰ってくるのかなどと訊かなかった。「そうか、ほんまか」と彼は、電話を切った。  彼は子供の横に坐りこんだ。子供は、彼を無視して、三角や四角や丸をつかって、家のようなもの塔のようなものを造り、壊していた。狭い家だった。いや、建て売りとして売られている家ではけっして狭い方ではない。下に六畳、二階に四畳半と六畳、そしてこの八畳ほどの居間兼食堂があった。彼が一年前まで借りていた家よりよほど広かった。百姓の借家では、しょっちゅう大家と喧嘩していた。百姓の無神経さが癪にさわる。夜勤からもどりまどろんでいると、機械にまかせるほどでもない土地なのに耕耘機をばたばたかける。子供は騒ぎまわる。あげくの果、彼はパンツ一丁の裸、素足で外へとびだし、百姓のそばに行き、「てめえら、大きな顔しやがって、何時間もばたばたさせやがって、ぶっ壊すぞ、そんなおもちゃ」とどなる。大家の内儀さんが、まあまあととんでくる。同じように借家ずまいをしていた女の両親と、ローンを折半することにして、手狭になり、はなはだ居ごこちの悪くなった借家を払い、この家へ移ったのだった。女の両親はなんと言っていいかわからない様子だった。女は、両親に、「|彼《か》の人ってとこよ、浩ちゃんの男の恋人」と言った。「あほんだら、なにぬかす」彼は、女に返した。 「帰ったほうがいいんじゃない」女の母が言った。 「帰らなくてもいいんですよ、死に目にあえないくらいが、どうだというんだ」「そうですかあ」と女の母は、口をつぐんだ。 「ピアノをね、ここへ置こうと思うんだ」女の父が話題をかえた。 「ピアノって、あのピアノ?」彼は訊いた。 「いま、内山さんとこに安いピアノがでてる。それをね、ぼくが、ちゃんと調律して、修理して」 「スタンウェイ?」女が訊いた。「へんなピアノなんか置いたら、人がきたとき、恥かくのお父さんなんだから」 「おれがそんなへんなもの家に入れるはずがない」女の父はわらう。「スタンウェイといかなくっても、そのちょっと下ぐらいはなあ」女の父は、ピアノ調律師だった。  ぼんやりと娘たち二人のそばに坐りこみ、積み木遊びをみていた。湯上りのため、二人ともガウンを着ていた。下の娘を後から抱いた。うがあ、と言う声と共に彼は撥ねつけられた。ふっと、涙のようなものが、眼窩の奥のあたりから出てくるのがわかった。いったいその男はおれのなんなんだろう。大きな体は、その男の遺伝によるものだし、かっとくる性格もその男によるらしかった。その男が、自分の年齢もわきまえず、オートバイに乗り、木の切り株に激突したと言う。  なにもかも洗ってほしかった。浄めてほしかった。翌日、彼は夜勤に出かけ、仕事をしながら、とりとめなく、その男のことや、その男を母に引きあわせた兄のことを考えた。雨が降っていた。ふきっさらしだった。雨はつめたく痛い。「ツーサウザンズパウンドね」と、アメリカ人のウィリーがいつものように彼に、軽口を言ってきた。「ばか、なにぬかすか、エテ公め、スリーサウザンズだ」と彼は答えた。三時間ほどある仮眠時間に、風呂にはいった。「今日は、インモウにドライヤーかけないの」とからかう言葉に、「どうせ寝乱れるから」と答え、すぐオートパーラーへ行った。ジュークボックスがあった。一枚だけ入れてある都はるみのレコードをくり返しくり返しかけた。「好きだなあ」と、仲間は言った。  彼は酔っていた。三次会でキャバレーに行った。そこで金を使い果たし、文なしのままタクシーに乗りこみ、家まできた。そして、ささいなことで暴れた 女を殴った。蹴った。シャンデリアを食堂の椅子でたたき壊し、ツードアの電気冷蔵庫を、アメリカ人が、ツーサウザンズパウンドね、とからかう馬鹿力でぶん投げた。仲間といる時は嘘のように機嫌がよかったのだった。運転手に金を払ってふりかえった女の眠たげな迷惑げな顔をみたとたん、むらむらと、腹が立った。「このあまっ、どこの馬の骨だと」彼は、きょとんとしている女を玄関につきもどし、居間に、髪をわしづかみにして引きこみ、ドアをしめ、いきなり殴りつけた。「どこの馬の骨でどこが悪い」女は彼に殴られ、尻餅をつく格好で、女の父がピアノを置くと言っていた電話横の壁にぶちあたった。「どこが悪いのか言ってみろ」彼はどなった。体が一瞬にして燃え上る気がした。彼は、女をみた。女は、壁にもたれたまま、うなだれた。言葉を返そうともしないし、動こうともしない。それが一番の得策だと悟っているふうだった。彼はその女の態度が気に食わなかった。「起きろ」と言った。その言葉に反応しない女を、足で蹴りあげた。女は、壁に、手で頭をおさえ体をまるめてしゃがんだ。  いつもならああ言えばこう言う女だった。彼が、いまの仕事につく以前、つまり失職中の時、女は彼にさまざまな種類の職を紹介した。いちいち彼は面接にいった。ことごとくハネられた。いまの職は、高校時代からの友人に紹介された。女から、あそこへ行け、ここへ行けと言われ、生活のためだと意を決してのこのこ面接を受けに出かけ、残念ながらこの職にはあなたは不適合だとハネられる屈辱を味わったことがあるだろうか? そうだ、彼は不適合だった。それが我慢ならない。女のイトコがやっているアクセサリーの店で、着飾った女相手に、大きな武骨な手でひとつぶ真珠をとりだし、「とってもおにあいですよ」と猫撫ぜ声で言うことなど到底不可能だ。たしかに、女のほうが、彼よりも数倍、数十倍、この現実、この時代に適合する才にたけている。だが、女は、いまはなにも言わなかった。女は、色気のない黄色いパジャマに、ネンネコのようなガウンをはおり、尻を彼のほうにむけてうずくまっている。「てめえ」と彼は、柔道の足払いを、その尻に食わせた。ごつ、と壁に女の頭が当った。「言ってみろ、馬の骨がどうしたと言うんだ」 「あなたが言ったのよお」女が泣き声を出した。女は床に両手をついた。頭は壁にくっつけたままだった。「なんにもそんなこと言わなかった、ただ、あなたが言うことにうんうんとうなずいただけよお」「嘘つけ」と彼は、女のガウンの首筋をもった。女はぐったりと力を抜いていた。引いた。女はひっくり返った。額がはれあがっていた。彼はその顔をみ、おびえている女の眼に自分がみられているのを知り、物も言わず、蹴りつけた、女は、泣き声も悲鳴もあげなかった。女の両親が、起き出してきた。 「どうしたの?」と女の父は、まばたきしながら訊いた。「ほっといて下さい、ほっといて。これは夫婦の問題だ、夫婦のことだから、出てこないで下さい」彼は、女の父を居間から押し出してドアをしめた。女は、泣かなかった。彼はソファの横の書棚に飾ってあったウィスキイを、これも書棚に置いてあった紅茶ぢゃわんについだ。紅茶を、夜ふけに、女と、その父母と娘二人の団欒に飲んだらしかった。一気に飲んだ。「そうかい、てめえら、おれのことを、そう思っとるのかい、結構なことやないか」彼は言った。女は顔をあげた。彼の腹だち、爆発がおさまったと判断したようだった。「お父さんのこと、あなたがそう言ったのよ」 「お父さん? お父さんて誰のことや?」女は黙った。いきなり泣きだした。「泣くなあ」と彼はどなった。 「そんなこと言うはずがないの、あなたが一等知ってるのにい」 「おれは馬の骨さ、あいつも馬の骨さ」彼は言った。「ええか、何遍も何遍も言うけど、これからあいつのことを馴れ馴れしいにお父さんと言いくさったりしたら、その首の骨へし折るからな。あいつはお父さんやない、馬の骨や、馬の骨で上等じゃ」ふっと悲しくなった。どうしてなのかわからなかった。みんな死ぬ、と思った。唯一人居なくなってしまう。この世界、こちら側の生きているものの世界に、誰もいなくなる。それがたまらない。彼は、ソファのひじかけを、足で思いっきり蹴った。女の父母たちが借家にいるころから使っていたソファのひじかけは、あっけなく取れてすっとんだ。「やめてえ」と女は言う。「うるさい」とどなった。こちらへ二軒の家から引っ越しして新しく買ったそのツードアの冷蔵庫を、彼は持ちあげて、外に放り出してやろうと思った。さながら、大力のキントキが、クマを軽々とさしあげる娘の絵本のように持ちあげ、外に放り出してやる。棚の上から、女の母が、こまごまとした残り物をしまいこんだ様々な色の茶筒、ミルクのかんが落ちてくる。持ちあがったが、さしあげるには無理だった。千ポンドはある。チーズの食いかけ、たくあんの残り、レタスにきゅうり、グレープフルーツの半分、そんな残り物の貯蔵をしたから、たっぷり重量は増えている。柔道の大外刈と、相撲の寄り倒しの格好で、そのツードア冷蔵庫を横だおしに投げた。次はカラーテレビをやってやろうかと思った。テレビは気に食わなかった。百姓の借家にいるころ、白黒のテレビさえ、女や娘につけさせなかった。まず耳ざわり眼ざわりだった 夜勤明けの時はしゃくにさわった。夜、ふっと眼をさますと、女は音を低めてテレビをかけ、声を殺してわらっていた。これも新調したカラーテレビをぶち割ってやろうと思った。娘二人が朝おきてきて、テレビが破けていて泣き騒ぐ姿を想像した。彼は思いとどまった。食事用の椅子をつかみ、それをふりあげて、この家を買う時、不動産屋のチラシにも室内スナップにも写っていた、当世マイホーム向きのミニチュアシャンデリアをたたき割った。光が消え、ばらばらと硝子が落ちる。もういちどシャンデリアめがけて椅子をふりおろす。  朝、二階の部屋でめざめた。妙に家全体が静かだった。女が下の娘の体を抱いて|俯《うつぶ》せになって、娘たちの四畳半の部屋で寝ていた。上の娘はいなかった。彼は階段をおりていった。女の父母たちもいなかった。シャンデリアが根っこからとりはずされていた。普段とあまり変ってはいなかった。いや普段よりきちんとかたづいていた。清掃が行き届いていた。がらんとしていた。どうしたのだろうと思った。「おおい、おばあちゃんとノニは、どうした、どこへ行った?」と眠っている女にむかってどなった。下の娘が起きだす音がした。「いいの」と言う女が娘をとがめる声がした。女は答えなかった。小便した。アルコールくさい。彼は腹が減っているのに気づいた。何かすぐ食い物を作ってくれと言おうと二階にあがった。起きだした娘が彼の顔をみて、「パパア、パパア」と、一年ほど顔をみなかったふうにわらいを顔いっぱいにつくった。女は俯せに寝たままだった。「おい」と彼は言った。「パパア、パパア」と蒲団の中で手足をばたばたさせ、あばれた。「パパじゃないよ」女は娘に言った。「おいで」と彼は言った。娘は蒲団から出ようともがいた。「パパじゃないよ」娘は、女に体を押えつけられているのか、外に出ようとして、「うがうが」とあばれた。  隣の家との境目の、鉄の柵に置いた餌台に、ギイがきていた。固くなった残り物のパンを大きな塊りのままのみこんだ。梅の木にも一羽いるらしかった。夏の最中から葉を巻き黄ばみはじめた梅は、ほとんど裸だった。みている眼が痛かった。なにもかも外は透明だった。静かだった。|宿酔《ふつかよい》はなかった。いままでもそうだった。どんなにメチクチャに飲んでも、どんなに乱れても、体だけは、頭が痛くなったり、吐き気がしたり、熱をもったりすることはなかった。仕事仲間や飲み友達は、人並みはずれて大きな彼の体が酒を飲み、昂揚させ、燃焼しつくすのだと言った。彼と、その大きな体は、別だ、と言った。彼は、ソファにもたれていた。自分の体から、ちょうど子供のころ理科室で解剖した蛙の心臓のように、こころというやつが、外にとびだし、ひくひく、ひくひくと空気に触れてうごいている気がした。物音はなかった。彼は、死ぬも生きるも皮一重のところにいると思った。眼が痛かった。ギイが翔びあがった。  右手の甲が赤く腫れていた。一羽、またギイが、餌台におりた。パン屑をのみこんだ。日が、ちょうど建物と建物の中間に移ったらしく、餌台を置いているあたりに光があたった。梅の根っこあたりの、サルビアの花が、ゆれていた。血のような色だった。枯れて色があせたのもあった。このまま、死んでしまいたいと思った。草が立ち枯れるように死んでしまいたい。物音を立てないせいか、ギイは、パン屑をあらかたたいらげ、ひょこひょこと柵をとび、隣の屋根にとびあがる。彼は、サルビアの花がゆれているのをみつめた。おまえなど生きている価値などない死んでしまえ、彼は言った。みんな大人しく暮らしているのに、我慢して耐えて生きているのに。なあ、と彼はサルビアの花にむけて言った。彼は兄の顔をおもい浮かべた。よくこのごろ兄の夢をみるのだった。夢に出てくる兄は、いつも怪我をしていた。ずっとどこへ行っとったかとさがしてたんや、と彼は兄に言った。  ふっとまた彼は、子供のころの兄を想像した。その男を想像した。三人の姉や母や、いまの父に昔からくり返しくり返し聞いていたので、わけないことだった。兄も男も、ありありと想像できた。草の葉のにおいがしていた。それはよもぎだった。母は、よもぎの新芽を大きな籠にいっぱいつんできたのだった。それはなんの日だったろう? 母は大きな腹をしていたのだった。男が、家に居つくようになってから、暮らしむきは、急速によくなった。以前、母ひとり物々交換の行商をしていたころにくらべると、雲泥の差だった。三月三日の、おひな様の日、女の節句の日だったはずだ。母は、小麦粉によもぎを入れてまんじゅうをつくった。男は、三番目の妹を足にのせ寝っころがり、ピーヒョロヒョロをしていた。「ほうれ、トンビやどう」と男は、妹の腹のあたりを足の裏でささえ、手をはなす。妹は、足をおずおずと伸ばし、手をトンビの翼の格好にひろげる。「ピーヒョロヒョロ、ピーヒョロヒョロ」と男は足をうごかす。妹は、くすぐったいのかわらう。「ようし、おわり、次は、シイヨ」と男は、じっと坐り口元に妹につられてつくったわらいをうかべた二番目の妹を、手招きする。「いやいや、わたし、わたし」と三番目の妹は体をふって、寝ころんだ男の足にのしかかってゆく。「あかん、あかん、順番じゅんばん」男は言う。二番目の妹は手招きされ、もうそれだけで警戒している。二番目の妹は体が弱い。それに、男を、嫌がっている。なつかない。妹は、兄に体をこすりつけ、男の手招きに応じようかどうしようか迷っている。「さあ、ピーヒョロヒョロするど、次は誰や、誰がしてほしいんな」男は言う。三番目の妹が、「わたし、わたし」とのしかかる。男は妹の腹に足をかけ、手をもって、「ほうれ、高い、ピーヒョロヒョロ」と足をのばす。妹はわらう。男の足の上で体をよじり、わらっている。わらって、ずりおち、尻餅をつく。すかさず、「次は誰な」と男が誘う。三番目が、「きゃあ、わたし」と尻餅から起きあがり男にとびつくのと、二番目の妹が「わたし」と男のそばに走るのと同時だった。「順番、順番や」と男は言い、二番目の妹の手をもち、腹に足をかけた。その途端、妹は後悔したのか、泣きべそをかいた。男はかまわず足にのせ、「ほうれ高いぞ」とさしあげた。妹は、体をよじった。くすん、くすんと泣き出した。「高い、高い、ピーヒョロヒョロやあ」男は言った。妹は泣きじゃくった。あばれた。尻からおちた。「なにしいるんなよお」と母が、強い声で男をなじった。「その子は普通の子とちごて体が弱いんやのに、そんなに乱暴したら体がもじれるがい」男は起きた。二番目の妹は、兄のそばに来た。兄は、自分が妹を泣かせて母に叱られたみたいに、後めたかった。  一番上の妹は男みたいだった。だからすぐ、男を、お父ちゃんと呼んだ。三番目もそう呼んだ。男を母に引きあわせることになった当の兄と、人見知りの強い二番目の妹だけが、母にそう呼べと言われていたにもかかわらず、お父ちゃんと呼ばなかった。兄は、「おいさん」と男を呼んだ。それでも不自然なので、なるべく「おいさん」とも呼ばないことにした。妹は、男が来てからも、よく熱を出した。夜中に、発熱し、男がバクチに出かけていていない時など、母は、大きな腹をして家の中をひっかきまわし、金をさがし、駅前の病院へ、兄に妹を背負わせて出かけた。金がない時は、兄に、バクチ場から男を引っぱって来い、と言いつけた。バクチをやめられないと言うなら、男から金だけもらって来いと言った。兄は走った。バクチ場にいない時は、男の行き先をききこんで、新地の女郎屋まで行った。男が女郎を抱いている時もあった。  女、子供には男はやさしかった。あれは、いつだったか。たしか彼が、小学三、四年生の時だった。その頃は、もう母は彼だけつれて、いまの父と暮らしていた。夏のことだった。川では、まだ筏があった。仲間といっしょに、彼は筏と筏の間を競争して泳いだ。白い石を放り、それを潜って取りっこした。川のすぐ上が、城跡だった。蝉が嗚いていた。誰かがみている。なんとなく気づいた。それでもすぐ忘れ、仲間との競争に熱中した。何時間も何時間も水の中につかり、唇が紫になるまで遊び、震えながら筏に上り、またとびこむ。服を着て、川遊びをきりあげようとすると、せんだんの木陰に男がいた。「兄やんよお」と言った。男がそこにいたこと、そこにいて自分をずっとみつめていたことが、彼には妙にはずかしかった。その時も、この顔で、この体で、どこからそんな声がでるのかと不思議に思えるくらいやさしい言い方だった。いや、やさしいのではなく、それはいわば営業用のつくったものだったのだ。男が子供を棄てたのではない。子供が男を棄てたのだ。だから、やさしい声を出して当然だった。  母や兄たちの家は、広かった。古座から、祖母と伯父がきて、長いこと泊っていくこともあった。男は、伯父と組んで、馬喰をやったこともあった。伯父は、母が男の子供を身ごもっていることを知ると、まるで自分の子供がうまれるように喜び、「そうか、そうか、ようできたようできた」と言った。酒をのんだ。浮かれて踊った。男は、唖然としていた。伯父と男につれられて、兄は、山奥へ、牛を買いにいった。それは、うきうきする程楽しいことだった。高森へ行ったが、目当ての牛はなかった。それで、持っていた金の大半を使って、芋や、柿や、それに米を買いこみ袋につめ、かついで戻ってきた。途中、警察の眼をのがれるために、それらを防空壕にかくした。案の定、警察は張っていた。女や男たちの買い出した品物のはいった袋やかごは、次々と没収された。ちょうど、その時からだった。男にはつきがなくなった。  男と伯父は八橋の闘鶏場に寄った。防空壕の荷物は、後で取りに行くと二人は打ちあわせた。八橋には、兄の父方の叔父と、その子供のキンジがきていた。キンジが、兄の顔をみるなり、「どこへ行ってきたんな?」と訊ねた。兄は、「どこへも行かん」と答えた。男と伯父は、八橋の家の裏へ行った。男は、「このあたりにおれ」と言った。裕福な百姓家らしく、大きな家と広い庭だった。キンジは父親に買ってもらったらしい黄色い羽根のひよこを二羽、持っていた。キンジは、「そこで売っとるがい」と庭の井戸のところを指さした。手拭いを頭にかけた女が、木の台に尻を降ろし、前に、箱を置いていた。キンジのひよこは、手のひらの中で、思案にくれるというふうに眼を閉じる。指で頭を触ると、眼をあける。つつきにくる。「こいつはもう死にかけじゃ」とキンジは、欠けた前歯をみせてわらう。片手のヒヨコは地面に降ろした。まだそいつは元気があるらしく、きょろきょろとあたりをみまわし、歩きだす。「競走させてみい」兄は言った。キンジは、死にかけも地面に降ろす。死にかけは、地面をおぼつかない足どりで歩き、不意に立ちどまる。眼を閉じる。頭の位置が定まらないというようにゆする。キンジは、しゃがみこみ、ひよこの尻を指で突く。また歩きだす。「水飲ましたら元気になるかいね」兄は思いついて言った。キンジはとりあわなかった。兄の忠告が気にくわなかったのか、二羽のひよこを、また、左右のポケットに入れた。八橋の井戸の向う側に、馬小屋があった。黒い大きな馬だった。一時、二人で馬をみつめた。兄は馬喰になりたいと思った。母屋から八橋の女が出てきて、「あんたら蹴られても知らんよ、あっちへ行って、シャモのほうで遊びなあれ」と二人を追い払った。そして、二人で、牛小屋や、薪木を積みあげた小屋をみてまわり、手の指がやけどか爆弾でちょうどあひるの水掻きのようにくっついてしまった女が、藁や木ぎれを燃しているのをみていた。寒くもないのに、焚火に手をかざしてあたった。「あっ」とキンジが言った。あわててポケットのひよこをとりだした。二羽とも死んでいた。「ちくしょう」とキンジは口唇を噛み、「こうしたる」と、ひよこの毛をむしった。兄にも一羽をわたし、同じようにやれと言った。毛はむしりにくかった。キンジは、竹を二本、裏へまわって、折ってきた。竹をくちばしをこじあけて中に深ぶかと突っこみ、たき火の炎にむかって差し出した。ちりちりと羽毛は音をたてて燃えた。すぐ黒くなった。兄も真似た。火をかきまわしていた女が、「くさいなあ」と羽毛が燃えて立つにおいをとがめた。  黒焦げのひよこの肉を歯で|毟《むし》って食べながら、裏へまわった。二十人ばかり大人がいた。杭をうちこみ、むしろで囲った中に、二羽のシャモが血を流して闘っていた。兄は男と伯父をさがした。男は伯父から離れて、髭づら男の隣でむしろの中をのぞきこんでいた。男は、しきりに声を掛けていた。「ほら、ほら、右へまわりこんで、行け、行け」兄は男の横に割りこんだ。髭づらが、兄の顔をみた。「ようし、ようし」髭づらが、言った。双方のシャモは、血だらけだった。茶色が、緑色の首のあたりにくちばしをたて、けった。羽根が舞いあがった。男は緑色に賭けているらしかった。 「なにしとるか、首しめて食てしまうど」向うから声がかかった。わらった。兄は、男の賭けている緑色を応援した。シャモは、にらみあう。どちらからともなく、くちばしを相手の首のあたり眼の下頬のあたりにつけ、首をからませ、爪をたててとびあがってける。そのたびに風がおこり、むしろのすみにくっついていた抜けた羽根が舞いあがる。「そらいけ、いてかましたれ」兄は言った。「弱い、弱い、そんなやつは、すぐ泣き声あげる」男は、兄の頭に手をおいた。緑色のくちばしが相手の眼のすぐそばをとらえた。「いけ」男は言う。ほとんど同時に、緑色はとびあがり、ける。また、にらみあい、双方で、首のあたりにくちばしをおき、爪でける。「なんじゃなんじゃおびえとるのか」「ほら、どんどんやらんと日が暮れるわよ」声がとびかった。相手のくちばしがちょうど眼のあたりにあたった。一瞬のことだった。茶色は、その一撃が完全に有効のものであることを熟知しているようにすばやく、それまでとは打って変って軽々と翔び、けった。どよめいた。緑色は右眼をつぶされた。血があふれた。闘いのリズムを忘れたように、|盲目《めくら》滅法に緑色はとびあがりけりはじめた。緑色が、それから戦意を喪くし、ただ茶色につつかれ、けりつけられるままになるまで、ものの一分とかからなかった。「あかん、あかん、大損や」男は、兄の頭から手をはずしながら言った。緑色のシャモは、両方の眼を潰されて、おろおろしていた。緑色の飼い主らしいのが、手を差しのべて、つかみあげた。「ひねりつぶしたれや、どぐさいやつは」誰かが言った。  伯父が来た。男の顔をみて、「あかん、あかん、大損まくってしもたにい」と言った。「坊、なんか食おうかあ?」と訊いた。男は、ポケットの中から金を出した。「これじゃもう牛もなにも買えん」と腹立ったような声を出した。「ようし、あとひとつ、いちかばちかで行こか」  男と伯父は、酒を飲んだ。兄は、芋で作ったらしいまんじゅうを食った。伯父は母に似ていた。いや、伯父も母も、祖母に似ていた。古座には、三人の伯父がいた。伯父の父親と母の父親は違っていたのだった。伯父は、坐っている時はそうでもないが、立つと、男との背丈の違いは歴然としていた。男の肩のあたりまでしかなかった。  長靴を履いた男が、つめにカミソリをくくりつけた黒いシャモを抱えて前をとおった。シャモをむしろの囲いの中に入れた。「あかんあかん」と伯父が言った。コップに入れた酒をすすった。「あんなもん付けたら、どっちが強いかわからんに」「おもしろい」と男は立ちあがった。酒を一息で飲んだ。兄の顔をみつめ、「よっしゃ、これで取りもどしたるからな、ほして、また明日にでも、牛を買いに行こ」と言い、わらった。「もう高森はやめじゃ、替りに甲子山へ行こかあ」男は酒くさかった。「兄やんは、牛を購うたらどうするんな。牛に、車牽かせて、母さんも三人の妹も乗せて、なべかま持って、山越えて天王寺にでも行こか?」兄は男の言っていることがわからなかった。天王寺という地名が兄には耳あたらしかった。それはどこにあるのだろ? 男は兄をみてわらう。いまさらながら、大きな男だと思った。この男の親は誰なのか、どこでどういう具合に育ったのか皆目見当がつかない。男は、ついてこいというふうに、兄の頭をこづいた。  男は、むしろの囲いを取り巻いた群の中に入った。金が双方に賭けられた。八橋の闘鶏場を経営するらしい長靴の男が、「ほら、賭けんかあ」と紙切れをふりあげ、金を集めてまわっていた。男は持ち金をありったけ賭けた。すぐ闘鶏ははじまった。ちょうど右脚のけづめにカミソリをくくりつけられた二羽のシャモは、軽くびっこをひいた状態だった。足が痛いのは、相手のせいだと思っているようだった。双方でつつき、けりあい、カミソリが肉に深くくいこみ、たちまちのうちに血だらけになった。血のとび散る中で、必死になって闘っていた。とさかが半分ほど切れてたれ下った。一方は、眼の下が深く切れ、血が黒い羽根の上をあふれ流れていた。血が、むしろの中にとび散る。とさかが半分ほど切れたのが優勢だった。くちばしの上をとらえて、見事に深々と爪をたて、けり裂く。相手はくうと鳴く。勝負がつく。誰もそれに気づかない。むしろのあたりで、鳴き声をあげたのはびっこを引いて血を流して立つ。一瞬に、双方でける。とさかの切れたやつが、転がる。立ちあがる。ける。とさかの切れたやつが転がる。脚が、カミソリで裂けているらしかった。血だらけの、鳴き声をあげたやつが、立ちどまる。ふっと、人間のように、いったい自分はなにをやっていたのだろうかと反省しているふうにみえる。ふたたび、双方で、翔びあがり、けりあう。とさかは転がる。その眼をねらって、けりつける。裂ける。けりつける。起きあがれない。鳴き声をあげたやつは、また、自省するというふうに首をあげて立ちどまる。くちばしの上から血がふきでている。男は、「くそ、なんじゃ」と言った。また、けった。立ちどまった。長靴の男は、以前のようにシャモを抱きあげず、「時間、時間」と言った。どよめいた。置き去りにされた格好の鳴き声をあげたシャモは、思いついたように、とさかをけった。男は、とさかに賭けていたのだった。 「兄やん、行こか」と男は言った。兄は男の落胆がわかった。「最初に、あいつのほうが、鳴いたのに」兄は言った。男はとりあわなかった。「行こ、行こ、母さんに、またシャモに行ったんかと、こら、|叱《しし》られる」男は、兄に言った。「すってんてんじゃい」男は歩きだした。「牛は買いにいけんなあ」兄は言った。男は兄の顔をみた。「なに、牛の金ぐらい、どうにでもなる。どうにでもならんだら、どうにでもしたったらええんやろ? やさしいことじゃ、兄やんにわかるか?」「わかる」と兄は答えた。ははあと男はわらった。伯父が二人をみていた。  その夜、男は家にいなかった。火事があった。「みにいく、みにいく」と騒いで、一番上の妹が、母にぶたれた。当の妹は泣かなかったのに、二番目が、まるで自分の尻や背中を、気性の激しい母に思いっきりぶたれたというように泣いた。実際に痛いみたいだった。祖母が抱いた。泣きやまなかった。伯父が酒臭い息を吐きながら、「よし、よし」とあやしたが、泣きやまない。母が癇癪を起した。「自分が殴られせんのにねえ、この子は」母は、つき出た腹が苦しいのか、うっうっと息を吐き、祖母の体から妹を抱きとろうとする。「あんまり泣いとったら、そのあたりから、|山姥《やまんば》が出てくる」妹は、しくしく泣く。 「シイヨ、兄やんとこへ来い」兄は言った。妹は泣きながら、兄の蒲団に入る。三番目の妹は、とっくに寝ていた。妹は、まるでぶたれた背中や尻の痛みがやっととれたというように蒲団をすっぽりかぶる。母が、「シイヨ、母さんの蒲団へ入れ」と言う。妹は、素直にしたがう。「わたしも」と、一番上の妹が言う。「これやから」と母は、伯父の酒の相手をして、ぽつんと坐っている祖母に言う。「もう大きいのに」 「まだネネやのい」祖母は、妹が母の蒲団にもぐりこむのをみてわらう。  兄は起きた。母が、咎めた。兄はきかなかった。外に出た。  それは八橋の闘鶏場だった。母屋が燃えつきようとしていた。炎は赫く、みるみるうちに、黄金色に変った。男が、いた。男は、兄の顔をみとめるなり、「兄やん、燃えよる、燃えよる、こりゃ、シャモの祟り火じゃな」と言った。「何遍みても、火ィゆうのはあきんなあ。火事ゆうのはおもしろいなあ、ほれ、落ちるぞ、落ちるぞ」男が耳元で言った。「なにもかも燃えてしもたらええ」男は、言う。その男の声に合わせるように、炎が、母屋の真中あたりから噴きあがる。「燃える、燃える」兄は言う。兄は、一体その時どんな気持ちで火事をみたのだろうか? 男が火をつけた。それは確かなことだった。遊郭の一帯を、兄に手伝わせて、上田の秀と三人で火をつけてまわったように、その火事も男が火をつけた。男がやった。ぱちぱちと火の粉がはぜた。消防団が水をかけていたが、もう手のほどこしようがない。「どけ、どけ」と人混みをかきわける声がする。馬が、引かれてくる。手綱をふり切ろうと暴れる。黒い体の筋肉がもっくもっくと動く。屋根の上を炎が這い出す。風に煽られるのか、くねり、上にたちあがり、ふっとかくれる。また這いでてくる。 「おもしろいなあ。燃えたら跡かたもなしにのうなってしまうんやから」男は言う。八橋の裏は、すぐ山だった。その隣は、杉皮ぶきの家がかたまって建てられてあった。火の粉が、その家の方にとぶたびに、見物人は騒いだ。男たちは、杉皮屋根や板壁に水を打っている。炎に照らしだされて湯気がみえる。「どんなに大きい家でも、木の家じゃ、紙の家じゃ、なあ、兄やん」男は兄に言う。「ぼんぼん燃えるわい」兄は男の顔をみた。八橋の者が、見物人のうしろのほうで、「馬が逃げたあ」と叫んでいた。見物人がどよめく。男が、ふっと我に返ったように、兄の耳に顔を近づけ、息を吹きかけ、「なあ、兄やん、もう母さんとこへもどれ」と言った。 「なしてよお」と兄は不満げな声を出す。「なしてと言うて、また、おれと一緒にどこへでも行くと、兄やんは母さんに|叱《しし》られるやろが。母さんの家へ行て、よう火の用心して、寝とけ。そしたら、朝おきたら、兄やんの眼の前に、赤いコッテ牛を連れてきたる。手品みたいなもんやどお」兄は顔をしかめる。また炎が噴きあがる。兄と、男の顔を照らしだす。  サルビアの花は風に揺れた。お辞儀をするように前にたわみ、起きあがった。その横には、女が、春に、鉢植を買ってきて、花が終ったので移し代えたポリアンサスが、あった。葉が、ごわごわしてみえる。山際や空地からつんできて、山羊に与えたギシギシと呼ばれる草に似ていた。今度は、サルビアの花が、そのギシギシの葉にくっつくぐらいたわんだ。彼は、風に揺れている花をみつめていることが、苦痛になった。花も草も、まっとうだ。そこに在る。草よりもこのおれは下等だ。彼は、一人言をつぶやきながら、流しに歩いた。水をのんだ。酒をのんでいる時は、男のことはすっかり忘れていたはずだった。それがなぜ、家へ帰るなり、出てきたのだろう。男を、おれは、いま居る父の他の、もうひとりの父だとでも認知していると言うのか? いや、断じてちがう。おれを子供として認知したのは、まず、母だ、兄だ、三人の姉たちだ、伯父だ、そしていまの父だ。父は、おれが中学を卒業する時、戸籍の上での実子として認知した。だが、その男は、おれの何にあたるのだ。生物学的父親か、しゃらくさい、しゃらくさくって、へそが茶をわかす。だが、その男が、おれをこの世にあらしめたかたわれだ。いや、母が体を許し、おれを妊むために必要とした一滴の精液の提供者だ。それはほんとうのこととしてある。だがいったい、そのほんとうのことがなんなのだ? 一度もおれはその男と暮らしたことはない、一度もおれはその男に抱きとめられたことはない、一度も頭を撫ぜられたことはない、男は、ただ遠くからおれをみていただけだ。母がそれを拒んだ。母の子であるおれが拒んだ。刑務所から出るとその足ですぐさま母の元にきた。まっとうになる、もう一度やりなおそうと言う男の申し出を、拒んだ。では、せめて、この子をくれ、初めで、しかも男の子だ。おれは、「やしのてもくれんくせに、お父ちゃんとちがう」と、母が教え吹き込んだように言ったという。男はすごすごとひきあげた。猿の仔なら犬の仔なら、それで良い。いや、バナナがたわわにみのり、タロイモを食って、遊ぶように生きられる土人の子ならそれでいい……。ふっと、彼は、考えていることがおかしくなった。どうせ、土人じゃないか、と思った。どう思ったところで、その男がいて、いまの父がいるということになんの変化もおこりはしない。オートバイに乗って、木の切り株に激突して死ぬ死に方は、その男にふさわしい。男も、自分が子供として認知し、子供からも父として認知された正々堂々とした親子という関係の、一人の娘と二人の男の子にみとられつつ、同時に、名づけようのない間ながら、自分とそっくりの顔、そっくりの大きな体の男が、いまここで、草が枯れるようにひっそりと息を断つのを感じとめているということに、本望だろう。いや、本望ではないかもしれない。彼の到着を、いまかいまかと待ちうけているかもしれない。浪曲か講談にでもあるように、それまで秘しあっていた親子の再会というやつだ。子供は、包帯でぐるぐる頭をくるみ胸をくるんだ姿の男をみて、なつかしさが、恋しさが、猿でもない犬でもない獣でもない朝は四本足昼は二本足夕は三本足の人間の五体をかけまわる血の熱さがいちどきにどっとこみあがり、虫の息草の息の男に、「お父さん」と呼びかける。涙があふれる。胸がつまる。会いたい、会って、一緒に、暮らしたいと、どんなに思っていたことか。父よ、子よ、となんのてらいもなく呼びあって暮らしたい、そうなればどんなに良いだろうかと、子供の時から、毎日毎日考えた。怨みは、もちろん数かずある。もしたとえ、ぼくが、あの時、親でもない子でもないと言ったところで、たった三歳ではないですか。三歳の子に、自分の言葉の責任をとれと、あれからずっと言いつづけてきたようなものです。ああ、この世に、ぼくをあらしめた男が、いま死ぬ。父よ。おれの父、ほんとうの父よ。涙がでる。あふれる。もう死ぬのですか? もうあなたは、あの世へいくのですか? 兄はぼくが十二歳の時、二十四歳で首をつって果ててしまいました。祖母も死にました。伯父も死にました。親しくしていた人も、次々死にました。それなのに、もう行くのですか?  彼は、立ちあがった。木端があたったらしくすりむけたような跡があるドアをあけた。まず、洗面所で水をのんだ。それから、小便した。階段を下に降りてくる小さな足音がした。下の娘が、よそ行きの服を着て、自分の掛け蒲団と枕を両手に持ってやってくる。いつもその二つがそばにないと、娘は、どんな方法をとっても寝つかないのだった。娘は、ソファに坐った彼をみつけた。「パパア、パパア」とわらって駆け寄った。階段の上の部屋に寝ている女が、「ちゃこう」と呼んだ。それは彼の家族が、下の娘を呼ぶ時の掛け声だった。「さあ、行こう」がつづまり、舌足らずになったものだ。娘は、女の声をきかなかったというように、「パパア、パパア」と足にまつわりついた。彼は抱きあげた。ちぢれて細い髪を撫ぜた。そのうち、「うが、うが」とその手を振り払った。床に降りた。とんとんと床を鳴らしながら、流しに走っていき、よくそこに立っていた女やその母にやるように、備え付けのステンレス流しを手でたたき、「おじじ、おじじ」と言った。彼は立ちあがって、流しに歩き、女の子の顔が付いたカップに水をくんだ。娘は、「うが、うが」と差し出したカップをふりはらった。水がこぼれた。「おじじ、おじじ」と言い募った。仔鹿の絵の付いたカップであらたに水をくんだ。今度は素直に受けとった。  絵本を読まされた。白い鳩が空をとび、ムーミンがみおくっているところをくり返しくり返しみた。ばたばた、ばたばた、ほうほう、と鳩の翔ぶ羽音、鳴き声をまねた。彼は娘を抱き、頭をなぜた。手が大きいためにすっぽり娘の頭は入ってしまう。青い空だった。白い鳩は名残りおしげに、下の草むらに小さく描かれたムーミンを見下している。「さようなら、ムーミン、さようなら、鳩さん、またあおうね」と絵本の活字が、まるでそっくり声になって耳元でささやかれている気がした。クイ、クイと鳴る鳩の翼の音がする。いったいどこへ翔んで行こうというのか?彼はその眩しいほど白い鳩をみて言った。この東京の、ここにでも来ようというのか?  彼は娘をみていた。昨夜のことが嘘のように思えた。救けてほしいと思った。ここから、この自分の眼でみているものから、できるなら救けあげてほしい。おれは素直で、柔順な男でありたい。誰をも殺したくないし殺されたくない。誰をも殴り傷つけたくないし、誰からも殴られたり傷つけられたくない。やさしい人間でありたい。善人でありたい。娘は、彼の腕に抱かれている。手で、腹を触られ、わらう。娘の腹はいったい中になにが詰っているのだろうと思うほどふくらみ、固い。  女が降りてきた。顔が変形し、頬のところが、赤黒く|痣《あざ》になっていた。女は便所に入った。長い時間だった。女は出てくるなり、「別れようよ」と言った。女は、坐りこんだ。「お父さんだってお母さんだって齢だし、自分の娘が半殺しの目にあってるのみてるのは、地獄と一緒よ。あなたは酔ってなにやっているかわからないでしょう、だけど、わたしたち素面なんだから。あなた、暴れたら、誰もとめられっこない。いつだったか、コンパの帰り、暴れたでしょう、あなたは知らないかもしれないけど、止めに入った男の人、あなたに持ちあげられて背中から落とされたの、その人殺そうとしたのよ、酔うと、鬼になるんだから。普段は気が短いけど、やさしいよ。この家買う時だって、お父さんやお母さんは、それ心配してたのに」 「あいつが死にかかってるときいたから」 「あいつって誰よ? そんなこと世迷い言じゃない、わたしには関係ないんだ、ききたくないんだ、そんな事。あんたは昨夜、自分がなにをやったか全然覚えていない。お父さんとお母さんが、朝起きて、全部かたづけたんだから。掃除したんだから。椅子が壊れてる、冷蔵庫が転がってる、シャンデリアの破片がずっとちらばっている。お父さんやお母さんの気持ち考えてみてよ」女は泣き出す。「地獄じゃないか、おまえが地獄をつくるんじゃないか」 「そうかい、別れてやるよ」彼は言った。「ただしなあ、その時は、おまえも、おまえの親たちも、二人の子も、ぶち殺しといてなあ」彼はそう言って、膝の上に絵本を広げて坐った娘の頭をなぜた。「冗談言っているんじゃないんだ。なにもかもごはさんになるんなら、それくらいのことはしてやるよ。だれがおめおめと尻尾まくか」女は泣き止む。彼の顔をみつめる。「理由もなしになんでそんなことができるのよ」女は言う。「理由? そんなものは、|殺《や》ってから思いつけばいいじゃないか」彼は言い返す。 「百通りでも千通りでもな」 「いいよ、やりなさいよ、殺すのなら殺したらいい、それであんたは本望でしょう」 「そうさ、その時は斧で、ぽっくり頭を割ってやる。おれはそのあたりでうだうだできもしないことを言ってるやつじゃないからな」 「お父さんのこと?」女は気色張る。「あんたにあの人が批判される筋合じゃないよ」 「なんでもいい、やるって言ったことはやる。おまえは理窟が多すぎる。だからおれに殴られる」彼は娘を膝から降ろす。娘が怒る。また抱きあげ、頭をなぜる。 「女を殴るなんて男の屑のすることじゃないか」ふっと女は声を低める。 「もう、嫌なのよお、酔うたんびにおそろしい目するの。子供を抱いて痛くって眠れないで泣いてるのに、大の字になって、大酒のんで暴れていびきをかいて眠っている。気持ちよさそうに眠っている。よっぽど、庖丁で刺してやろうかと思った。いったいわたしはあんたのなんなの? 拳闘選手がたたく砂袋なの? 踏んだり蹴ったりする動物だとでも言うの? いったいわたしはあんたのなんなのだよ。昨夜、会社の仲間とどんなことがあったのかしらないけど、あんたは帰ってくるなり、いきなり殴りつけ、蹴りつけたんだから。なんて言って暴れたか覚えている?」女は訊き、彼が首をふる。「覚えていないんだから、覚えてもいないことを口実に暴れたんだから。最初は、あなたの、あのお父さんのことを、わたしが馬の骨だと言ったと暴れ、そのうち、馬の骨だ、あのお父さんは馬の骨だ、それをわたしが認めないと暴れた」 「あいつは」と彼は女の顔をみつめた。「お父さんじゃない」 「めちゃくちゃなんだから。言ってることもやってることも。もう、いやだよ、もう疲れました、わたしも生きてるし、わたしのお父さんお母さんだって生きてる。世界はなにもあんただけを中心にしてまわっているんじゃない、わたしはわたしの、おじいちゃんはおじいちゃんの世界の中心にいるんだから。子供だってどんどん大きくなってくる。ノニなんか、もう知ってるよ。おばあちゃんが村川に行くって言うと知ってて、きちんと自分の洋服持ってきて、これ着せてちょうだいとおばあちゃんに言って、普通なら泣いたりだだをこねるのに、全然おとなしいんだから」「裏切者」と小声で言った。「知ってるんだから、自分の父親がまた暴れて、冷蔵庫ぶん投げたり、シャンデリアをたたき割ったりしたってこと。もう嫌よ、もう疲れたよ」 「そうかい、そうかい」と彼は言った。「そんなひどい野郎とはさっさと別れてしまったほうがいい。別れて、おれと一緒になるこったなあ」 「疲れたのよお、あんた悪い人じゃない、それ知ってるよお、その分だけ、酔い方まちがうと、外にふきでてくる。あんた、人なんか、うじ虫だと思ってるんでしょ、自分だけがこの世の中のたった一人の人間だと思っているのでしょ、だけど、わたしとあんたとどこがどうちがうのよ、言いなさいよ、言ってみなさいよ、男が女を踏んだり蹴ったりできる理由、言ってみなさいよ」「あいつが悪い、なんせから、力がありあまってんだ。そんなやつに、気違い水を飲ませることがいけない」 「わかっているのなら、飲むなあ! なんで暴れるまで飲んでくるう」女は立ちあがった。娘を彼の腕からもぎとった。娘は暴れた。娘は彼の膝に抱かれた。「おじいちゃんやおばあちゃんのこと考えてみなさいよ。子供のころから、おじいちゃんにも頭ひとつこづかれないで育ってきたのに、その自分の娘が、眼の前で殴られるんだから。幸せに孫といっしょに暮らそうとしているのに、その家をめちゃめちゃに壊す。ローンの返済も頭金の借金も半分ずつするのはいいよ、あんたは違うかもしれないけど、おじいちゃんおばあちゃんからしてみれば、あの齢でやっと落ちついた家じゃないか、それをめちゃめちゃにした、鬼だよ、あんたは、人間じゃないよ」 「馬の骨さ」 「ほんとうは鬼なんだ、血も涙もない、人間の皮かむっているだけ。わたしらは鬼じゃない、人間なんだ」 「なんとでも言え」彼は、痛かった。体のどこかがじんじん痛み、鳴っている気がした。もう死んだのだろうか? と思った。頭を打ちつける。顔面を潰す。もんどりうって、胸を地面にたたきつけ、肋骨をおる。骨が肉からはがれ、内側に突き刺さる。内臓が破けている。それでもまだ生きている。その男は、もう痛む壊れた体からとき放たれ、自由になったろうか? 壊れていても痛んでも、生きていてほしい。この世に、自分も生き、呼吸し、娘も生き、呼吸し、母も生きて呼吸するこの世にいてほしい。いや、苦しみから一刻もはやくとき放たれ自由になってほしい。彼は、包帯にくるまれ、そこに寝かされている男を、ありありと想像できた。その男が、彼だ。彼が、その男だ。いや、そうじゃない、彼は、決してその男じゃない。彼は女になじりつづけられながら、考えた。いったい、ほんとうに、その男は、彼のなんにあたるのか? その男もこんなふうに、鬼だ、破壊者だと女になじられたのだろうか? 彼は、娘を抱いたまま、涙を眼ににじませた。大きな体だった。「兄やん」と言った男の声が耳にきこえる。炎は噴きあがる。そのたびに、見物人の中から、声があがる。男は、兄にみつめられつづけているのを感じていた。炎は、人をうっとり夢みごこちにさせる 男は、兄の頭をなぜた。火を放ったのは、自分だった、しかし自分の手から放たれたとたん、火は、次つぎとなにもかも巻きこみ、自由に動いていく。それが男には不思議だった。「兄やんよお」男は、身をかがめて、兄の耳元に言った。「兄やんは、これから母さんとこへ帰れ、おれは、これから、秀のとこへ寄って、商売の段取りつけてくる、明日楽しみにしとけや」男は、そう言って、兄の頭から手を離し、肩を突いた。 「ほらあ、帰れと言うのにい、言うこときかんだら、どづくど。母さんは、腹おおきいんやのに、おまえがそばにおったらんかあ」  男は、歩きはじめた。八橋の前の道から、切り通しを抜けた。上田の秀の家は、そこから右に折れたところだった。その家は、正確に言えばもう上田の秀の家ではなかった。キノエの家と言ったほうがよかった。上田の秀はとっくに、他の女といっしょになってその家を明け渡していたのだった。キノエは男の顔をみるなり、「またえらい火事やあ」と言った。「ほっとけ」と男は言った。「火事も起るわい、こんな狭い町に人がうようよ住んどるんやから」男は、ポケットから、金を取り出し、半分ほど渡した。 「ええのん、こんなにい?」キノエは訊いた。「あのお兄ちゃんの母さんと、それに、あそこのおさげ髪の女の子に渡さないでもええの? うち知ってるんやから、あのおさげ髪の子も、腹おっきいんやろ?」 「ええ、ええ、つべこべ言わんととっとけ、そんな体でパンパンにでも出たら、腹の子も死んでしまう」 「おもしろい人やなあ、いっぺんに三人の女の腹おっきさせて、どうするつもりやろ。あの子の母さんは怒るやろなあ。けど、うちは知らんよ、うちはうちの子欲しさか生むんやから。けどあの子の母さんはちがうよお、あんたときちんと世帯持ってるつもりやから。あの娘さんかてそうや、どんな甘言ゆうてたぶらかしたか知らんけど、あんたが一人やと思てる、信じてる。おもしろい見物やなあ、三人の腹のおっきい女、いま会うたりしたら、つかみあいや。安さんの火事よりおもしろい」 「どあほ、黙っとけ」 「なんでやねん?」 「黙っとけと言うとるんじゃ」 「なんでや、なんでうちが黙らんならんのや? なんどうちが悪いことしとるのか?」 「ああ、悪いことない」男は折れる。キノエの妹が山奥から持ってきたという干柿を食う。 「三人の女、喧嘩しても、安さんなんかうらめへんけどな、三人生れてくる子供ら苦労するでえ、きょうだいと言うても、一緒になど暮らして行けへんし、どうせちりぢりになるやろし。いっぺんなあ、三人の子供できたら、それぞれ、こんな顔のができましたと、見せ合いせんかと、安さんから言うてくれん?」 「どあほ」男は言う。  兄は、まっすぐ家に帰った。家は、暗かった。兄は戸をあけた。後で、麦畑が揺れた。父が自分の後に立っていて家の中へ一緒に入りこもうとしている気がし、兄は、ふりかえった。誰もいなかった。確かに、男の言うように、家は、紙と木でできている。それは、決して父の家でもないし、男の家でもない、母の家だ。母がここで、子供を妊み、産もうとしている。それは、母の巣のようなものだ。その家が燃える様子を想像した。燃えてしもたら、また、建てたらええ、と一人言をつぶやいた。兄は、こっそり、蒲団の中に入りこんだ。伯父が、「坊、火事はどこない?」と訊いた。八橋と答えた。それ以上訊かない。あの男が火つけなら、母の腹の中にいる子供は、火つけ男の子供になるのか、あの男が人殺しなら、腹の中の子供は、人殺しの子供か、と思った。後悔した。いまさら手遅れだが、母が子供を妊むなら、もっとまともな、気のやさしい人に危害を加えない善人をえらんでいっしょに仕事をやるべきだった。あいつは悪人だ、鬼だ、平気で人の家に火をつける、平気で、人を殴る、あいつは人の十人や二十人殺ったって痛くもかゆくもないような顔をしている、あいつは悪い、あいつは、不幸をつくる、地獄をつくる、紙と木でできていたとしてもあれだけの家をつくるのに人はどれくらい苦労したかわからないのに、平気で壊す、燃す、それをよろこんでいる。  彼は、思った。その男は、いま頭の骨をくだき、顔面を潰し、あばら骨を折っている。 [#改ページ]      
浄徳寺ツアー

 スクランブル交差点で、彼は、念のためと数えてみた。関口由起子を加え彼を加え、ちょうどぴったり十八名いた。安堵した。彼の顔に思わず笑でも浮かんだのか、和尚が、「大変、御迷惑をかけますねえ」と、鼻に抜ける声で言った。「みなさん、お齢を召してますから」和尚はそう言い、骨があるのか疑いたくなるほどのふっくらした青っぽい指であごのあたりを触る。女の子が頬杖をついた仕種だった。それがこの和尚の癖らしかった。彼は、曖昧にわらった。左手に、黒の、不つりあいな手提げを持った洋服姿の老婆と、腰を屈め、ひょこひょこと踊るように歩く老婆が、赤信号の交差点の中に入っていこうとした。「渡らないで下さい、渡らないで」彼はあわてて、ハンドスピーカーのスイッチを入れて、言った。「信号が青になってから、渡って下さい。車と競争してみても、勝ちっこないんですから」彼の言葉に、年寄りどもはどっとわらった。「せっかく浄徳寺までおまいりに来て、あの世へ直行ということにでもなったら、つまりません」彼の言葉を、男がわらっていた。その男のコートをつかんで、十三、四になるのだろう、ぶよぶよした顔の、一見してすぐ白痴とわかる女の子が、ゆすっている。男は、知らん顔をしていた。「おおっおおお」と声を出す。コートのすそをいきなり口にくわえる。男はやっと気づき、わらいを眼尻に残したまま、その子の頭に手をおく。口から出たコートのすそは唾で濡れている。スクランブル交差点の信号が、青に変った。「さあ、渡りますよ」彼は、間髪を入れずに言った。通行人が、わらっていた。スクランブル交差点にチャイムがとりつけられているらしく、お馬の親子のメロディーが鳴りはじめた。  先頭に、旅行社の旗を持ち、ハンドスピーカーを肩にかけた彼が立って、歩いた。駅から浄徳寺までの二十分の距離を、バスに乗るかそれとも歩くことにするかは、関口由起子の紹介で和尚が、この旅行の企画を会社に持ち込んだ時から、ひとつの難問なのだった。彼は、バスをチャーターすることを言い張った。しかし和尚は、積み立てておいた予算で間に合わなくなる、駅からすこし歩いたほうが、またそれで浄徳寺の有難味も増そうというものだ、と言った。年寄りどもは、汽車の中にいた時とは打って変って、無口だった。アーケードの下を黙り込んだまま、もぞもぞと、おとなしい羊のように歩いた。浄徳寺の門前町が発展して、東京の町とほとんど変らないスマートな都市になっている場所だった。彼が住んでいる町の、駅前の光景に似ているとも思った。喫茶店があった。民芸品店があった。ベーカリーがあった。関口由起子は、和尚と話しながら、歩いていた。  浄徳寺の石段をのぼった。仁王門があった。鳩がむれていた。仁王門のちょうど足元に、手拭いで頬かむりした老婆が背をまるめ、台を出していた。ちいさな皿の中に、ゆでた大豆を入れて置いてあった。一皿十円。彼は、ハンドスピーカーで、「また明日、ここへ来ますから、今日は三十分ほどでおまいりは切り上げて下さい」と予定を言った。年寄りどもは妙におとなしかった。「明日、朝からたっぷり、おまいりする時間は取ってありますから。有難いことは、明日の日に」誰もわらわなかった。仁王の門から通してみえる浄徳寺の本堂と、右手の大きな地蔵を、年寄りどもは、黙って見ていた。ひとかたまりに彼の周囲に集まったまま、動こうとしなかった。「ええ、三十分ほど、自由時間があります。自由ですよ」彼は言った。スピーカーのスィッチを切った。彼は、思いついて、一皿十円の豆を買った。いきなり鳩は群がった。彼の頭にとびのるもの、肩にとまり、翼をぱたぱたうちふるうものもいた。持っていた豆を、石段の下に放り投げた。あわてて鳩は、豆にむかって次々と翔んだ。男が、彼のまねをして、一皿買った。鳩の一羽が、それをめざとくみつけて、男の手にとまった。男は、鳩を左の手で力をこめて、たたき落とした。それから男は身を屈めて白痴の女の子の手をつかみ、ぶよぶよした白い柔らかい手をひろげさせて豆を握らせ、「ぽうんとしてみい」と優しい声で言った。頭に桃色のヘアピンをつけた白痴の女の子は、男の言っている事が咄嗟には呑み込めないらしく、「おおっおおっ」と声を出した。鳩は女の子めがけて殺到した。いったい何羽いるのだろう。鳩は、頭に乗り、肩に乗り、男のコートのすそをしっかり握った手、腕に乗り、鳩どうしで争う。男は、「ぽうんとしてみい」と言い、自分の手にとまろうとする鳩をたたき落とし、女の子の頭に乗った二羽をはらった。翔びあがり、またとまった。豆を右手にしっかりと握っていた。投げることも出来ず、女の子は、「おおっおおっ」と声を出した。男は、女の子の右手をつかみ、固く閉じた指を一本一本ひらいて、豆を取り上げようとした。「ほったってみいや」男は言った。女の子は、豆を握った腕を振った。叫び声をあげた。女の子の腕が左右に振られるたびに、鳩は翼をふるわせバランスを取った。次々、餌がそこにあると気づいた鳩は、腕に翔び乗ろうとした。男にも群がった。女の子の手から、豆がこぼれた。叫びつづけた。男は、女の子の体を持ちあげようとした。女の子は、手足を振って暴れた。横だきにした。スカートがめくれあがり、たぶんよそ行きに新しく買ったものだろう白いタイツと白い毛糸のパンツがむきだしになった。仁王門の柱の横に移った。 「ちょうど餌がなくなるころだから、もう」彼は言った。「鳩だって必死だ」  老婆の一人が、彼の言葉をきいて、「畜生は、恐ろしいねえ」とつぶやいた。鳩は、男と白痴の子の後を追って、移動した。「あああ」と声をあげ、ひきつってかんしゃくを起した白痴の子の、力いっぱい握った手をひろげて、その父親らしい男は、皮がむけ潰れた豆を取り出した。「みよこ、ほれ、みてみい」男は優しい声になった。潰れた豆を手のひらに乗せた。「ぽおん、ぽおん」と掛け声を出して、一粒ずつ、ちょうどソフトボールのピッチャーがやるようにほうった。鳩は豆のとぶ方に移動しはじめた。  日はちょうど葉を落とした裸のぼだいじゅの真上にあった。彼は老婆たちの話し声をききながら、今回がはじめて年寄りのお寺旅行に添乗してきたのに、いままでも何回もこんなことがあった、こんな光景を見た、という感じがした。彼は大きく口をあけて|欠伸《あくび》した。関口由起子が、和尚たちと連れ立って、日蓮上人筆塚の方へまわっていく姿を見ていた。  ぼんやりと、もう産まれただろうか、と思った。彼の女は、今日、明日が、出産予定日だった。結婚してから、三回、それ以前に一回、中絶手術をした。もうここいらが限度だと産婦人科医に脅かされた。それで子供を産む決心をしたのだった。一カ月ほど前からアパートに女の母親が泊り込んでいた。予定日が、ちょうどこの〈浄徳寺ツアー〉の日程と重なった。しかし、彼は、男がそばにいたってなにもすることがないと、他の人に担当を振り替えてもらえと言う女の言葉を無視したのだった。産まれてくる子供に、興味はあった。女の子宮の中に射出した自分の精液の一滴が、どんな姿形を取ってくるのか、見たくもあった。だが、それだけだった。子供など厄介きわまりないと思っていた。親の娯しみを妨げる。それで、関口由起子にちょっかいを出したのだった。  女の子は、まだ「ああ、ああ」と言い続けていた。男はしゃがみ、女の子の唇に出たよだれを、日本手拭いでぬぐった。男はなにをなりわいとしているのだろう、ごつごつしたつめの厚い指だった。彼は、煙草をとり出し、吸った。あんな白痴の子を持つと、大変だろうなと思った。時計を見た。そして彼は今日これからの予定を考えた。四時半に、この浄徳寺から山にむかって入った温泉地にぶち込む。それで終りだった。宴会の準備をしてやることも、夜の町を案内することも要らなかった。養老院から出て来たようなこの年寄りどものツアーの添乗は、だからいわば、まごまごする羊を脅したりなだめたりする牧畜犬のような役目だった。年寄りどもを旅館にぶち込んだ四時半以降が、彼の自由時間だった。いや、関口由起子との、自由時間だった。関口由起子は和尚の遠縁に当った。このツアーは関口由起子が口をきき、持ち込んできたものだった。彼は女に関しては自信があった。だが、それにしても、この浄徳寺パッケイジツアーと彼が名づけたお寺旅行を持ち込み、「わたしもいくから」とニンマリわらった関口由起子は、イイタマだと思った。生殖器が口紅をつけ化粧し服を着ているようなものだった。「いいのかよ、ほんとうに」彼は、連れ込みの一室できまって訊く。「いいのよ」と答える。「知らんからな」「いいのよお」いつもその問答だった。これを幸いと彼は思った。彼の女ともし一回でもこんなふうにゴムをつけないでいると、たちまち妊んでしまう。ウマが合う、という事かもしれないと思ったりした。要するに、関口由起子とはウマが合わないのだ。  鳩は、仁王門の下あたりにかたまって餌をさがしていた。老婆が三人、松の下に置かれたベンチに腰かけて、話していた。そこから低い石段をのぼったところに甘酒を売る小屋があった。年寄りが五人、坐っていた。鳩はそこにも群れていた。彼はベンチに歩いた。「坐らせて下さい」と老婆たちにわらいかけた。「ね、海老様に似てるでしょ」と、顔にしみの出た老婆が言った。日を受けて地毛とは色が違うヘアピースを被った老婆が、「今度の方がいいわね」と、信玄袋の中をひらきながら言った。「この前の時なんか、お住職さん一人でしょ、つまんなくってさ」「あら、つまんなくないって顔してたわよ」「嘘よ。だって、信ちゃんが行って来い、行って来いって言うから行ったんで、京都はもう四回も行ってるんだから」 「御近所の方ばかりなんですか?」彼は訊いた。 「わたしとこの子が姉妹、この子が、死んだ姉の子、なんです」しみの老婆が、顔に他所行きの愛想わらいを作って、言った。すかさず、「なによお、姉さん、この子なんてえ」と、ヘアピースが言った。眼鏡をかけたとんがった顔が、「いやあねえ」と間のびした声を出してわらった。 「さっきから、あなたのこと、この子が海老様に似てるって言うの」 「だいたい海老様のこと、みたことあるの? 先代でしょ」 「もちろん」眼鏡が言った。 「つまり、なんですか」と彼は言った。「ぼくが、歌舞伎俳優にしたって良いくらい男前だってこと? そうですか、よくそう言われるんですよ」老婆たちは、彼の軽薄な口調がおかしいとわらった。「松竹に入ろうか、それともこの旅行社に入ろうかと迷ったんですがね、ほんとうは」 「そうそう、あなた覚えている?」しみの老婆が眼鏡に言った。彼は、自分に訊ねたのだと思い、とまどった。「姉さんが、この先の湯治場に来てた時のこと」 「なに言ってるのよ、幸ちゃんは、うちで預ってたのに。信ちゃんだって預ってたのに。ひどいのよ」ヘアピースは、彼に向って、秘密をすっぱ抜くというふうに顔をつき出して言う。「こっちは新婚一カ月めよ。それがこんな騒々しいのがとび込んできたんだから。石川なんか、なんにも知らないから、びっくりしてたわよ」 「石川さんには悪かったわねえ。でもねえ、しょうがなかったのよ、あんた、うらむなら斎藤さんうらみなさい。わたしだってつらかったんだから。まだ二十歳すぎたばかりなのよ、わたし。羞かしいなんたってありゃしない。男はいいよ。斎藤さんはいいわよ。カシで働いて、女遊びやって、酒を浴びるほど飲んで、病気もらって、死んだって。だけど女はなんなのよ。姉さんはなんなのよ。やきもち焼いて、苦しんで、あげくの果て病気移されて、それでもあの人、斎藤さん、好きなの。つらかった。湯治に来たときは、もう病気は脳にまわってるの。狂ってるの。つきそってるわたしは、まだ二十歳すぎたばかりよ。きちんと髪ときつけて着物きせても、駅の待合で、こうよ」しみは、手をあげてひろげる。「またを男みたいに広げてさ」老婆はへっとわらった。ベンチに坐った老婆たちと自分の影が、石砂利の上に短かく落ちていた。「信ちゃん、もういいおじさんだものね、順ちゃんなんか肥っちゃってえ」老婆たちはなにがおかしいのか一斉にわらった。彼は身をのりだした。自分の靴をみながら、煙草を吸った。関口由起子と、夜の温泉街をぶらつき、ストリップでもみようと思った。それとも、一度、バス会社の社員旅行を受けたとき、コネクションをつけた湊興業の男に連絡をとり、シロクロか、シロシロを、みに行くか? この前の時は、ヒドかった。バナナの輪切りをやって、女はそれを食えと言った。誰も食ってみる勇気のある者はいず、結局、彼が食った。うまいものでもまずいものでもなく、バナナはバナナの味だったが、フリーで行ってコネクションをつけた手前、しようがないことだった。小さな旅行社が、大手の間をぬって生き抜くためには、地元と結びつかなくてはしようがない。地元のヤクザ、旅館、女と手を結ばなくてはしようがない。けむりが、影をつくってゆっくりと動く。 「ねえ、ここには千手菩薩様がございますよねえ?」しみが訊いた。彼は、うなずいた。ひとわたり仕入れたこの浄徳寺の見どころを語ってきかせようか、と思った。めんどうくさくなり、やめた。「この前の時なんか、和尚さん一人でしょ、だから、朝からずっと掃除してたの」「京都の時でしょ?」「そうよ、みんなお婆さんばかりだから」老婆たちの話は、彼には脈絡がつきかねた。煙草を指にはさみ、口と鼻からけむりを吐きながら、すり切れて木目の出たベンチに坐っている三人の老婆をぼんやりと見た。日が当っていた。どういうふうにしてこの齢まで生きてきたのだろうかと、そのちいさなひからびた皺だらけの顔、体つきをみながら、不思議に思えた。塩っ辛いしゃがれ声でしゃべり、わらう。「この前は、奉仕員なんて書いたたすきかけられて、羞かしいったらありゃしない」「あらあ」と眼鏡がまた間のびした声を出す。「そんなことなかったみたいよお、おばさん一人みんなの中で張り切っていたじゃない」くすくすと眼鏡はわらう。「姉さんは信ちゃんや順ちゃんによくしてもらってるから、あんな時じゃないと体、動かせないのよ。結構なことじゃない。姉さんが順ちゃんの悪口言っても、誰もまともにききやしない」「でもさ、うちのお嫁さんは肥っちゃってさ」「なに言ってんのよ、順ちゃんだって齢なんだから。なにしろ姉さんは順ちゃんの悪口なんて言える筋合じゃない」  粉っぽい日の光だった。光の中で、浄徳寺は、何の変哲もない寺にみえた。〈|左手《ゆんで》におわします慈母観音〉とパンフレットにある観音は、その寺からすこし手前の道を左に廻った小さな小屋の中にあるはずだった。あと十分ほど待って集合をかけようと思った。それから、バスに乗って、温泉地に行く。それから、関口由起子と外に出る。それから……、彼は、へんにむずむずするのを知った。誰も彼をもだましている気がした。だましていないのは、自分自身だけのような気がした。女と姦って、いい感じになりたい、それがほんとうのことである気がした。鳩が、ベンチのすぐそばにいつのまにか集まっていた。雄が喉首の緑色の毛をふくらませ、雌の周りをまわって鳴いていた。砂利と砂利の間、砂利がめくれて赤っぽい土がむきだしになったところに、餌の滓でも落ちてはいないか、と嘴でほじくっていた。合計二十羽ほどもいるのだろうか。欠伸をした。老婆たちは、順ちゃんがどうの、石川さんがどうしたの、とまだ話していた。老婆と鳩の嗚き声の他に物音はなかった。「あの時は、つらかったわよお」しみのものらしい声がした。「あそこはなんという所だったかしらね、汽車を降りてバスに乗って、それから歩いたの。昔から、双子みたいだと言われてきたでしょ。齢は違っていても。姉さん、もうすぐよ、もうすぐよって、言いながら坂道を歩いたの。人間の体って、動かないのね、重くってさ。だけど、きれいだったわよ。あれから何十年もたったけれど、まだおぼえている。きれいよ。行った日の次の朝、雪ふってたの。泣けてきちゃうくらい」声がたかぶり、震えた。顔をみた。眼鏡とヘアピースが、ハンカチで眼頭をおさえていた。「どこもかしこも雪。来た道だって、雪でかくれちゃう。こんな事って、あるんだなあって、その時思ってたの。まだ、若かったから。いくら妹だからと言って、なんでわたしが羞かしい目をしなくちゃいけないのかしら、そう思ってたから。だから、つらいのは、こっちのほうなの。それがね、ついた日の朝、雪ふったのう」栗色のうす汚れた羽根の鳩が一羽、よろよろと彼の足元に近づいた。蹴りつけようとした。鳩は、咄嗟に逃げた。方向転換して、老婆の足元の方に、よろよろと歩きはじめた。彼は、立ちあがった。栗色が翔びあがった。それに驚いて、黒い鴉のようなやつが翔びあがった。いままで砂利をほじくり返していた鳩どもが、次つぎと翔びあがった。「さあ、出番だ」と彼は、ことさらに力をこめて言った。わざとらしく欠伸した。「海老さんの時間だよ」彼は、スピーカーをかついだ。スイッチを入れた。鳩は甘酒屋の前におりた。 「駄目ねえ、今の若い人は」ヘアピースが弾んだ声を出した。「さんじゃなくて、海老様って先代のことは言うのよ」 「いいじゃないのう、ねえ」眼鏡がハンカチで鼻水をおさえつけるようにぬぐいながら、彼の肩を持つ。「どっちでもいいことよお」それから眼鏡は、「どっこいしょ」と声を掛けて、ベンチから立ちあがる。  集合を掛け、和尚と一緒に人数を点検した。まったく小学生の遠足でも引率してきたようなものだった。和尚が、甘酒屋に入り込んでいる二人を呼びに行っている間に、彼は、関口由起子に話しかけた。「夜、楽しみにしているからな」と彼は、自分が助平ったらしい声を出しているのに気づきながら、耳元で言った。「いやよ」と彼女は、首を振った。「なに言ってるんだ、今さら」「今さらだから、いやよ」なにを言っているのか、わからなかった。ぴったり人数が合い、それで、浄徳寺の下のバスターミナルまで歩いた。「すぐ乗りますから、土産物屋は明日にして下さい」と彼はハンドスピーカーで言った。土産物屋に入って行こうとしていた黒の生地の厚いオーバーを着て、マフラーで首元をつつんだ男は、すごすごと出た。バスに乗った。彼は、前の座席に和尚と並んで腰かけた。関口由起子は、一番後の座席に坐った。「としさん、こっちこっち」と老婆の一人が、五十を出たばかりの年寄りを手招きした。窓辺の座席の背もたれをたたき、「あなた、ここへ坐りなさいよ」と言い、自分はその後の席に腰かけ、「今度はよくみえるわよ、汽車の中で、外みえなかったから」と言い訳のようなことをつぶやく。よく観ているといくつかのグループができているらしかった。関口由起子は、そのグループのどこにも属さず、窓に頭をもたせかけていた。すぐ、バスは発車した。彼女の長い髪が揺れていた。彼女の隣に、これもまたグループから離れて、白痴の女の子と男が、坐っていた。和尚に促されて、彼は立って、浄徳寺の縁起を説明した。そしてバスが走っている源平峠の故事を説明した。パンフレットに書いてあることを空んじているだけにすぎなかった。浄徳寺、源平峠、それにこの近辺にある民話を話した。〈|慈母観音《じぼかんのん》〉とは、梅貴丸というわが子を、ひとさらいにかどわかされた平家のやんごとなき身の女が、乞食となってさがし求め、路端でそのわが子が乞食となって死んだことを知り、狂女となり、貴賤を問わず子供とみれば乳房をふくませんとする話だった。子供に乳房をふくませ、眼を糸のように細め、口元に笑をたたえ、こうこつとした慈母観音の写真が、パンフレットにあった。〈|狗《いぬ》の|女房《にようぼう》〉という話は、人間の女が山奥で狗の女房になって暮らす話だった。人間が狗と暮らすのはおかしいと、旅人は、この源平峠に人をたのんで山狩りに来たが、狗も女もどこにもみえず、旅人は禁を破ったと、祟りにあって死んだ。母の恩をうたった〈|母《はは》の|業《ごう》〉というのは、母に溺愛されて育った男が、女を好きになり、母が邪魔になり、浄徳寺の上人が法会をひらくと家より連れ出し、峠の道すがら母を殺そうとした。峠がとたんに崩れた。母は、天にむかって、この子はわたしを殺そうとしたが、どうかみのがして救けてくれと頼んだがききいれられず、男は、まっ逆さまに峠より堕ちた。それ以降、子供を想って母は、峠に庵をつくってこもり、五穀を断って念仏をとなえつづけた。〈|猿《さる》の|松茸《まつたけ》〉という艶笑譚もあったが、有難いお寺旅行にはふさわしくないと思って、話すのを止めた。年寄りどもは、パンフレットの丸まる棒読みに近い彼の説明を、黙り込んだまま、きいていた。  和尚が彼の手を握った。「いいお話ですなあ」と言った。振り返って彼は関口由起子をみた。素知らぬ顔をしていた。なんか知らん、腹が立った。浄徳寺に来て、おさい銭あげただけで、浄められるわけではあるまい。彼は思った。いまさら、殊勝な振りをしたって。和尚の手を離した。座席に坐った。バスは、まだ源平峠を走っていた。日が、黄色かった。和尚が立って、彼の代りにハンドスピーカーで、話しはじめた。後に坐った白痴の子の「あっあああ」とむずかる声がきこえてきた。一斉にわらった。変な団体だ、と、いまさらながら、思った。もし関口由起子との事がなければ、最初からこの団体の添乗は断ったはずだった。いや、企画そのものを引き受けるかどうか。また、「あっあああ」と呻く声がした。なんとなくとらえどころのない団体だった。それは、年寄りどもが檀家になっている和尚の広開山寺という寺を、彼が知らないということからくるのだろう。朝の十時に、私鉄の駅広場で待ち合わせすると、どこからともなくひょこひょこと、一人、二人と、それぞれ上等のカッコウして集まったのだった。ライトバンの助手席に乗ってきた者もいた。実直そうな眼鏡をかけた男は、運転台から降り、小学生をでも遠足に送り出すように老婆をおろし、手さげを持たせ、それから歩いてきた。和尚に話しかけた。和尚はにこにこわらっていた。彼にも話しかけた。「すこし時間に遅れてしまいました。なんせお婆ちゃんはのろのろしているから。よろしくお願いします」彼に頭を下げた。十時集合が、点呼を取り、目印しに黄色いリボンつけさせ、人数をたしかめたのは、十一時だった。最初から十五名の年寄りどもは、自分と同じ人間であるような気がしなかった。油断しているとどこへ迷いこんでしまうかもわからぬ羊の群か、ボンクラな牛の群か、それとも地面の下あたりから這い出してきて集まった幽霊の群か。またわらった。彼の真後に坐った二人の老婆のどちらかが、入歯をはずしているらしく、声が、きゃっきゃっと赤ん坊のもののようにきこえる。そのわらい声に抗うように、 「みいよおっ」と白痴の子の声がする。 「結婚してらっしゃる」後から声がした。振り返った。白髪を染めたとすぐわかる老婆が、彼の座席の背もたれに手をかけ、わらっている。入歯をはずした老婆は、窓に手をあてていた。彼の顔をみて、わらいかけた。「ええ」と彼はうなずいた。「若いわねえ、いいわねえ、うらやましゅうございますよ。内田さんがね、あなたが海老蔵に似てるって喜んでるけど、嘘ですよねえ、あなた、歌舞伎なんか知らないでしょ」「知りません」彼は答えた。入歯が、わらった。なぜそこでわらうのか不可解だった。「お国はどこですか?」「関西です」「関西のどこ?」「和歌山県」「和歌山県というと、紀州、紀の国、ああ、そうですか」と白髪の老婆はうなずく。二人に、いいようにからかわれている気がした。「あのねえ、あの人たちも関西よ」秘密を話すというふうに声をひそめた。口をあけて男のひざにあおむけにもたれこみ、「ああっああっ」と声を出している白痴の子を指した。「奥さんさ、この間、若い男と駈け落ちしちゃったの」老婆はいっそう声を低めた。そして、くっくっと喉の奥でわらい声をたてた。和尚が、「じゃあ、後よろしく」と彼の耳元で言った。ハンドスピーカーを彼に渡した。「ごめんなさいよ」と言って、彼の前を通り、窓寄りの席に坐った。「山室さんたちは何の楽しいおはなしですか?」和尚が、振り返って白髪に訊いた。ハンドスピーカーのスイッチを切った。「すぐですから」と、彼は和尚に言い訳した。  窓の外を見た。ちょうど源平峠を抜け、川に沿ってカーブするところだった。そこから温泉地は一望できた。浄徳寺とその板倉という温泉地を、源平峠で東西に結んでいるようなものだった。畑中家古文書によると、念仏聖たちが、さござろうよ、|黒谷《くろだに》の|法然様《ほうねんさま》、|西《にし》にござる|浄徳寺《じようとくじ》、と歌ったらしいが、西にござるとは、板倉温泉から見た西であった。山と峠と川にかこまれたちいさな町だった。この温泉町に縄を張っているのは、湊興業だった。組員十五名ほどらしいが、妙にすごみがあった。裸の木が道の脇に並んでいた。いい感じになりたい、と彼は思った。「みいよおのう、ううちいい」と声が後からきこえた。  宿に着くころから、白痴の子の、「みいよおう」と叫ぶ声が、いっそう繁くなった。バスを降りた。老婆、老爺たち、年寄りどもは、素直に玄関に入ったのに、白痴の子は、「あっああ」と声をあげつづけたのだった。男が、手を引っ張っても抱きあげようとしても、「ううちいい」と言って、入ろうとしなかった。腕を振りまわした。どんどんと足踏みした。男は、白痴の子の頭を撫ぜ、唇を日本手拭いでふいた。「どうしたんですかねえ、酔ったんですかねえ」と和尚は言った。男は、和尚に言葉も返さず、女の子の前にしゃがみ込んだ。自分の眼の前には、むずかり暴れる白痴の子しかいないというように見えた。「みお、みお、お父ちゃんといっしょに、|赤子《ややこ》みたいにして、おぶはいろな」と言う。「みいよお、ううちいい」と頭を振って叫ぶ。そんなに頭を振っていると、それだけで眩暈がして、酔ったようになってしまうと思った。男は、立ちあがる。声の調子を変えて、「さあ、皆んなと一緒に、はいろ」と言い、手を引っ張る。「あああ」と今度は、頭を振りながら坐り込む。男の手を振り放つ。足をする。サンダルが脱げる。玄関の泥落し用のマットが、女の子の足で蹴られてななめにずれる。「みお、お父ちゃん、どつくぞ」男は口をすぼめ、怒った顔をし、こぶしを固めて手をふりあげる。「あっああ」と声をたてる。足をするリズムに合わせて、あっああ、あっああと声をたてる。「よし、よし」と男は手をおろしながら言い、身を屈め、いきなり抱きおこしにかかる。いくら子供と言っても、体が大きいので手にあまるふうだった。暴れた。叫び声をあげた。男は、白痴の子を抱き上げたまま、「すんません」と彼に言った。その時、彼が、はじめて気がついたのだった。「血じゃないの?」彼は言った。和尚が、「ああ、そうですね」と言った。バスの中で話しかけてきた老婆が、硝子をきしらすような声で、「西嶋さん、あんなになっちゃって」と言った。白い毛糸のパンツの股の部分が、赤黒っぽくしみついていた。「一階の奥ですから」彼は、暴れる白痴の子を抱いて歩いていこうとする男に言った。男は、女の子の異状に気づいていない様子だった。 「初めてでしょうかね」彼は訊いた。 「さあ、どうでしょうか?」和尚は言った。「哀しいもんですなあ」 「かなしい?」彼は和尚をみた。 「慈母観音のおわしますこの浄徳寺で月経を知るなどということは」和尚は、手で頬を撫ぜた。「かなしいものですよ。うちに犬がございましてね、雑種ですが。仔どもをつくらせずにおこうと思うのですが、駄目ですな。すぐつがってくる。雄犬が乗っかっている。はしたなく、住職の身であることを忘れて、かあっとなって、ゴンタロウの雄犬を蹴りとばして、いそいでお湯でふいてやるのですが、駄目ですな。そのうち、腹がふくれ、赤や黒や白の仔どもが生まれるんですよ」なにを言っているのだろうと彼は思った コーヒーでものまないかと誘われたが、フロントで食事の打ち合わせをすると言って、断った。嘘だった。食事と蒲団の事は、すでに電話で打ち合わせずみだった。入歯のために、固いもの、噛みちぎらなくてはならないものは、出さない。絶えずちょっとずつ食っていたいという年寄りどもの習性にあわせて、夜食を一回出す。そして、蒲団は、敷きっぱなしにしておく。  フロントで宿の女と話していると、関口由起子が出てきた。「ちょっとお」と、彼女は言った。一瞬、弾んだ。手招きに応じると、「薬局に行きたいのよ」と言った。「どうしたんだよ」とぼけて訊いた。「なんでもない」彼女は怒ったように言った。「薬なら、おれが買ってきてやるよ」彼は、顔をみた。「それとも、なんか、おれにはめさせるのにあれでも買いに行こうというのか」「ばか」彼女はわらいもしないで言った。「ちがうのよお」  関口由起子を案内して外に出た。薬局へ行った。店の外で待っていろと言い張った。その言い|種《ぐさ》が、妙に女を感じさせた。宿に引き返した。『やよい』と名のついた部屋の前で、「むこうへ行ってて」と彼女に追われた。老婆たちが四人、彼をみてわらっていた。『やよい』『しらゆき』『はるな』の三つが、宿から与えられた部屋だった。蒲団を敷いていない『はるな』が、添乗員である彼と和尚の部屋だった。  最初、泣き出したのは、歯の抜けた老婆だった。そして、それが広がった。板倉駅を右にまわり、ちょうど源平峠の入口あたりにある寺だった。日が赫かった。峠のむこうにもうかくれてしまうところだった。それは変哲もない地蔵だった。黄緑色の赤いふちどりのあるよだれかけをしていた。老婆を四人と関口由紀子を連れてここへやってきた時から、誰かがたむけたのだろう線香にけむりが出ている。白くゆるやかに糸のように立ちのぼる。この地蔵も、平家のやんごとなき人の伝説が絡んでいた。この峠を逃げのびた妊み女が、鬼に足蹴にあった。鬼にしてみれば、まさに元も子もなかった。腹の子だけではなく、せっかく自分の女房にしようとしていたそのやんごとなき人も、三日三晩たって死んだ。それでここに地蔵が建った。水子地蔵とも子殺し地蔵とも呼ばれた。  歯抜けは、地蔵の頭を撫ぜる。頬を撫ぜる。「トシよお」と言った。後の三人の老婆はしゃがみこみ、ぶつぶつなにやら口でとなえた。鼻水をすすった。泣いた。関口由起子は、泣きながら彼の胸に顔をうずめた。一瞬、彼は、ひょっとすると、いま彼の女が難産しているのかもしれない、と思った。それから、ちょっとずついい格好になってきたとも思った。彼は、関口由起子の髪を撫ぜた。「どうしたんだよ」彼は訊いた。「なんだかわからないの。悲しいの」「かなしい?」と彼は訊き返した。和尚と同じような口をきくと思った。  じょじょにあたりが暮れはじめる。空だけが赫く明るい。「トシよお」とまた言う。四人の老婆は、自分たちと同じ人間であるように思えなかった。薄暗がりの中で、地蔵にすりより、口でぶつぶつとなえる。孫でも死んだのだろうか、と思った。女が、歩いてきた。そして、そこに彼らが居るのを知ると、「どうも」と言って、頭を下げて、寺の方へ歩いていった。花を持っているらしく、彼の前を通りすぎる時、ふっと甘いにおいがした。顔ははっきりとわからなかった。だが、声は若かった。やさしい柔らかい声だった。そのうち線香のけむりすら見えなくなった。四人の老婆を促し、繁華街の方へ行ってみることにした。石塔のところに女が立っていた。女は、彼らと入れ替りに地蔵の方へ歩きだした。「どうも」と今度は彼が、すれちがいざまに声をかけた。女は、答えない。 「あのねえ、教えてあげましょうか」老婆が歩きながら言った。「ちょっと」と彼の脇腹をつついた。「あの人ねえ」彼は体をかがめた。老婆は耳元でひそひそ声を出した。「あの人ね、昔、お女郎さんだったらしいのよ」はっきりききとれなかった。訊き返すと、老婆は、「いいの」と言った。むくれたらしかった。すぐ繁華街に出た。明るかった。土産物屋に入った。つげ口をしてきた老婆が、外に立ったままだった。「どうしたのよお」と歯抜けが言った。手さげをぶらぶらゆすり、草履をぱたぱた鳴らしている。まったく三歳の子供がすねてむくれたのと一緒だった。関口由起子は、「もてて、大変ね」とからかった。わらった。 「どうしたんですか、おばあさん。すねてるんですか、それとも疲れたのかな?」 「疲れちゃったのよお」老婆は言った。その言い方がおかしかった。老婆は照れわらいをつくって、店にはいった。関口由起子は、リンゴあめを買った。「誰に持っていくんだよ?」彼は訊いた。彼女は、ふふんと鼻元に皺を造り、「お母さんとね、それから、うちのアルバイト」とわらった。「あの子、バイトに来た日からわたしに気があったんだって」  腹立った。「あんな寝小便タレにやることないって」 「かわいいわよお」と彼女は、金を店員に差し出す。「まだ十九歳だって」 「ガキじゃないか。だいたい憎たらしいんだよ、あいつ」彼は言った。 「でもさ、まだ純粋の独身じゃない。ヒロちゃんみたいに、独身のふりしたりしないじゃない」「独身だよ、おれ」彼は言った。彼女はわらった。「一番最初、おれと話した時、おれのところにわざわざやってきて、体育部に入っている学生はみんな裏口入学で、それで右翼になるんだろうって訊きに来るんだからな」彼女は彼の顔をみて、「あら、裏口入学したんでしょ」と半畳を入れる。「知性も教養も縁遠いって、言いたかったんじゃないかなあ、あの子」「旅行社の社員に知性も教養も要らねえよ」彼は答える。彼の旅行社は、ひょろ高いビルの四階にあった。関口由起子が勤める学習器材販売会社は、一階に陣取っていた。彼女は店員から包みをもらう。「あいつもバカだよ。おれに尻尾ふって頭のひとつでも下げてれば、四流ぐらいならロハで潜り込ませてやるのに」「ヒ口ちゃん、コネいっぱい持ってるもんネエ」と彼の胸を人指しゆびで突く。「ヒ口ちゃん、このあいだ大学の先生たちの旅行のセットもしたんだよねえ。橋口さんから聞いたわ」「なんだよ、あいつから寝物語で聞いたのかよ」「嘘よお」「学校の先輩だからな」彼は弁解した。「大立ちまわりやったんでしょ」「先輩は強いんだよ。止めたって止りゃしない」橋口とは、旅行社の同僚だった。関口由起子は、確実に橋口とも寝たのだなと思った。  土産物屋の奥に四人の老婆が集まっていた。陳列ケースをゆびさしてわらっていた。「あら」と関口由起子は言い、顔を赭らめた。老婆の一人が、彼にむかって手招きした。彼は歩いた。ケースの中に、摸造男性器が並べられていた。老婆たちはくっくっと声をたててわらった。彼がどんな表情をするのか、顔をみていた。「なんですかねえ」と彼は大人ぶった声を出した。「いい齢をしてまだこんなものに興味があるんですかあ」と彼はへきえきした口調で言った。店員が照れていた。まだ三十をすぎたばかりの女だった。女店員を老婆たちの悪だくみにのって、からかってやろうと思った。「すみませんが、ちょっと、この電池でくねくね動くやつ、みせてくれませんか」彼は言った。すかさず、「やめなさいよ」と、でんでん太鼓を置いているあたりにいた関口由起子が言った。「やめてよ、ハレンチ、だからいやなのよ、体育部は、ハレンチ、ハレンチ!」老婆たちは、その関口由起子の言葉をきいて、満足がいったらしく、一斉にわらった。変に、安堵した。じょじょに、いい感じの方に近づきつつあると思った。  四人の老婆たちは上機嫌だった。涙も流したし、念仏もとなえたし、若い者もからかったし、というところだった。それに較べて、関口由起子は、へんに疲れている様子だった。疲れているのなら何故なのか。彼にはわからなかった。わからなくてもいいのだ、と彼は思っていた。女の疲れたの、苦しいの、くたびれたの、という事などに彼がいちいちつき合っていたらたまったもんじゃない。繁華街を歩いた。ゆっくり歩いても十分とかからない距離が、板倉通りというところだった。浴衣にドテラをひっかけた男たちが、歩いていた。有線放送なのだろう、流行歌がきこえた。左にまがり、「水車」という喫茶店にはいった。彼と関口由起子は、老婆たちとは別の席に坐った。 「あのクソババアどもを宿に帰して、二人で、おもしろいところに行こうか?」彼は言った。 「うんざりよ」彼女は答えた。「どうせあんたが行こうなどと言うところはろくなところじゃないでしょう。あのお婆さんたちでも連れてってやってよ。よぼよぼしてんのに、途端に元気になるんだから」ため息をついた。ソファに深く体をもたせ込んだ。  運ばれてきたパフェのクリームをかきまわす。中に入っているリンゴを食べる。彼女は皮を吐き出す。老婆たちは四人、体をくっつけあって汁粉を食べている。ずるずると鼻水をすするような音が立つ。長いこと、柔道から離れていたのに気づく。いや、本気になって、喧嘩したことがないのに彼は気づく。学生時代、屁理窟を並べたてる連中が憎たらしくてしようがなかった。いまは違う。関口由起子がリンゴあめを買って行ってやるんだという予備校生のアルバイトを、どこかに引っ張って行って殴る気などない。ひょっとすると、今、学生の身分になれば、あれほど憎んだ理窟をこねまわす連中の仲間に、一直線に加わるかも知れない。むかいあった関口由起子の足をつついた。知らん顔をしていた。  空は暗かった。日は、もうまったくその浄徳寺のむこう、源平峠のむこうに沈んでいた。八時だった。そろそろ寝なくてはいけない時間ではないかと、老婆たちを宿まで送りとどけた。「また二人でいくの?」と歯抜けは言った。その歯抜けが昔お女郎さんをしてたとつげ口をした老婆は、肥った老婆に、「いつでも厄介払いされるのかしらねえ」とあてこすりのつもりか言った。「気をつけなさいよ、ねえ」と老婆は、草履をそろえるために身を屈めた。宿の女が、「おばあちゃん、いいわよ、いいわよ、ちゃんとわたしが下駄箱にしまいますから」と声をかける。むっとした顔をする。広間で、しみの老婆と和尚が、坐ってはなし込んでいた。彼は、和尚に目礼した。ちょっとはおれに息抜きをさせてくれ。彼は言葉に出さず、言った。「いいわねえ、うらやましいわねえ」と老婆が、玄関口に立った二人をみて言った。「わたしも兼時さんと一緒にアベックで行こうかしらね」一斉にわらう。「わらったりしたら、悪いわよ。あれでも自分では若いつもりなんだから」「お婆さん、からかわないで下さいよ」彼は言った。「からかってなんかないわよお、正直うらやましいのよお。いいわねえ」  二人だけでいまいちど、夜の板倉温泉をぶらつきに出かけた。老婆や和尚たちが、彼ら二人を、自分たちとは違うのだ、特別なのだと思っているように、彼にはみえた。違うのは当然だった。二人は、まだこれからなのだ。関口由起子は黙っていた。コートのポケットに手をつっこみ、彼の後について来た。坂を歩いた。板倉温泉は、ちょうど窪みの底のような地形をとっているはずだった。坂が多かった。駅と繁華街は、いくつものなだらかな坂の集結点に、ちまちまと固まってあった。ほとんどの旅館は、坂にあった。のぼりつめたところにもあった。坂にはそれぞれ名前がついてあった。|登《と》坂、|聖《ひじり》坂、|上人《しようにん》坂、それから|逢負《あいおい》坂、|夫婦《みようと》坂というのもあった。|千毒《せんどく》坂というのもあった。いつぞや、電算機メーカーの旅行をセットしてここに来た時、その坂の名がおもしろく思え、旅館の女中に訊いてみた。「ああ、あそこですか、由緒あるいわれなどなんにもないですよ」と言った。「あのあたりに住んでる人は、体に千の毒があるっていうことなんでしょ。あのあたりの人は、自分たちは平家の子孫だと言ってるけど」と事もなげに言った。「お客さん、なんにも訊かん方がいいですよ。いまあそこはそんな名前ないんですから」女中は、彼の顔をみつめた。千毒坂、変に、その名に心ひかれた。関口由起子を連れて、そのあたりへ行ってみようと思った。繁華街をつっ切った。そのつっ切ったあたりからが聖坂だった。ストリップ小屋があった。あきらかにポン引きとわかる男が、立っていた。「なんじゃ、アベックか」と男は、聞こえるように言った。関口由起子は彼がなにをしようとするのか不安になったらしく、腕をまわしてきた。「ストリップでも見ようか?」彼は、ポン引きを挑発してやりたくなった。彼女は「いやよ」と素直に反応した。「おもしろいものあるけど、どう」とポン引きは訊いた。彼はポン引きの顔をしげしげとみた。そして、「どうせ、たいしたことないんだろ」と言った。「そんなことないですよ、お客さん」「くだらないインチキだろ」押し問答した。そして、彼と関口由起子は、ポン引き男の後について行った。坂の中ほどにある普通の家だった。肥った四十過ぎの女と若い男が、一所懸命性交していた。暗くした六畳に客が三人ほどいた。  喫茶店にはいった。妙に後味が悪かった。いったいおれは、なにをしにここへ来たのだろうかと思った。彼女は物も言わず、運ばれてきたコーヒーに口をもつけなかった。疲れ切った表情で坐っていると彼は思った。なにが原因なのかわからなかった。自分が、意外に、もろくなっているとも思った。この間も、こんなことがあったのに気づいた。いい加減に酔っていたのだった。応援歌をうたった。ワイセツな歌をうたった。ちょうど隣の大広間で、近くのバス会社の宴会がひらかれていた。十人ばかりなので彼らは狭い十畳ほどの広間にはいっていた。大広間とはアコーディオンカーテンで仕切っていた。芸者が来るのが遅かった。大広間では喉自慢のガイドたちがマイクを使ってうたっていた。こちら側はワイ歌をうたうが妙にしらけてきた。そのうち、アコーディオンカーテンが、いきなり揺れた。三十四、五の浴衣にドテラの男二人が、とっくみあったまま転がってきた。「なんだ、なんだ」と先輩の引きつれる男たちは騒いだが、まあまあと取りなした。大広間は、乱れに乱れているらしかった。芸者を催促に、彼は外に出た。しなびた性器をみせて、ハチマキをした浴衣姿の男が、仲居を追っかけていた。男同士で肩くんで、よろよろとフロントの方へ歩いていく者もいた。乱れたのは、その後だった。芸者は三人、フロントで立話をしていた。「こっちだ」と彼は言った。「ちゃんと時間どおりに来ないと、その分、金払わないからな」「わからんかったんよ」と一人が言った。「フロントでききゃ、わかるだろう」「それでも……」と弁解した。ひどい芸者だった。和服を着ているだけで、三味線ももっていなかった。三人は、コートを投げ棄てるように置き、坐り、それでも「こんばんわ」と声をそろえて挨拶した。一人は、二十四ほどの男のそばに、もうひとりは、高校のコーチをしている男のそばに、あと一人は、先輩と彼の間に坐った。先輩と彼の間に坐った女一人手拍子とってうたった。後の二人は、傍の男の性器をつかんで、けたけたとわらい、残った他の男のことなど頓着ないというふうに、「わあ、すごい、すごい」とか「好きねえ」と遊びはじめた。カッテ、クルゾトイサマシク、と歌うたった。先輩は完全に悪酔いしはじめた。「おい、ストリップやれ」と女にどなった。「ブス、スベタ、てめえの歌なんぞ、ききたかねえ、ストリップおどれえ」「なに言ってんだい」女はとりあわなかった。女は、先輩と彼とをテンビンに掛け、彼の方をとるというふうに、「ねえ、チークダンスしようか」と言った。いきなり、先輩は抱きついた。「おれが、ひんむいてやるう」女はテーブルの上に倒れた。それからが大変だった。ぐでんぐでんの先輩を、部屋に連れ戻した。女をひんむいてやるという先輩と彼とのとっくみあいだった。意外に自分が強いのに気づいた。いや、先輩が、弱くなったのか。彼が学生の頃、六回に一本というのがせいぜいだったのだ。そして、そのうち、わからなくなった。胸、ひざ、背中のすりきずが、あくる朝、湯に入るといたかった。しみた。ぼんやりと彼は思い出した。「いい加減にしてよねえ。もうすぐあんただってパパになるんだから」彼の女はあきれたという顔で言ったのだった。「花もはじらう二十八さ、まだパパなんかになりゃしないさ、子供にはオニイチャンと呼ばせる」「こんなの棄ててやるから」と、黒帯、柔道着の胸をはだけ、大股ひろげて立った写真の入った写真立てを、クズカゴに放り込んだ。「いやらしいと思わないの、自分の若いころの写真を飾ってヤニ下がってるなんて、気色の悪い」「カッコいいじゃないか」「度しがたいねえ」  機嫌の悪い時は、物も言わず、殴りつけた。一発、顔面をぶったたくと、女は以前からずっと口答えひとつしたこともないというふうになった。その女は、いま、子供を産もうとしていた。もう産まれたかもしれない。彼は思った。関口由起子は、そのことを知らないはずだった。いや彼女のことだから、知っていても、知らない素振りをしているのかもしれない。彼の女が、彼に、また妊娠したと言った時、彼は即座に頭の中で、金の勘定をしたのだった。それは、自然な成り行きと言えば、そうだった。女が妊めば、はっきり主義主張があったわけではないが、いままでそうだったように、そうすればよい、堕ろしてしまえばよいと思った。女もそれを承知したのだった。素頓狂な女だった。なにひとつ、まともに出来るものはない女だった。第一、嘘つきだった。街でひっかけた時、女子大生だと言ったが、一時間もつき合えばバケの皮がはがれた。デパートの食料品売場にいた女だった。結婚してからのことだが、給料もらって十日目に、もう金がないと言った。嘘も生活にひびけば許しがたいと思い、家さがしすると、彼の二カ月分の給料以上の金が、女が持ってきた「うつくしい手紙の書き方」という本の中から出てきたのだった。あきれ返った。「子供なんか要らないよ、堕ろせ、堕ろせ」と彼が言うと、「そうね」と相槌を打ち、いそいそと産婦人科医へ行くのだった。そして五回目の時、女は、産婦人科医に、もういくらなんでも駄目だと言われ説得されたと、今度は絶対に産むと言い張ったのだった。「産むなら、産めよ」と彼は言った。どうでもいいと思った。実際、子供などどうでもよかった。子供など親の快楽の|滓《かす》にしかすぎない。滓が、親の足を引っぱる。|足枷《あしかせ》をはめる。女は、腹がせり出すにつれ、やせはじめたのだった。彼にはそれが不思議だった。何回も堕胎した時は腹に三重の輪が出来るほど肥っていて、子供が出来た途端に骨が浮き出てくる。六畳と三畳、それに台所と便所がついた部屋だった。女は、布を買い込み、田舎から母親が上京すれば、それでおしめをぬってもらうのだと言った。そして彼に、「全部棄ててくれる?」と言った。子供が産まれたあかつきには、そこにベビーベッドを置くから、その机。押し入れにしまう場所もないし、そうかと言って外に出しておけばあぶない鉄アレイ、エキスパンダー。「なによ、いったい、これ」と、目の敵のように彼の写真を言った。「みっともないと言ったらありゃしない」そんな女をみながら、彼は、ひょっとすると年貢の納め時なのかもしれないと思うのだった。いや、いまなら、まだ間に合うと思うのだった。まだなんとかなる。  関口由起子が土産を買って渡すのだというひょろひょろした予備校生を、飲みに誘ったことがあった。話は最初から喰い違い、「あなたは体育部でしょ、右翼でしょ」と言い募るのがしゃくに触った。学生会館に集結した一派を、五寸釘を打ち込んだ生木を持って襲い、たたきのめし追い払った。学長室に入ってスクラムを組んでインターナショナルうたっているやつら三人を首根っこつかみ、地下の教室につれ込み、冬のさなか素っ裸にして水ぶっかけた。上には上がいる。シャツを着せろ。それから水をぶっかけろ。皮かむってやがら。なんだ、こりゃ、こんな貧弱な体で戦争やれると思うのか。予備校生は「反革命、あんたみたいな人が革命になれば一番最初に殺されるんだ」と言った。「革命、革命って言うけどねえ、いまみんななにやってるんだ?」「なんでもいいんだ、あんたにはわからんことです。あんたはぼくにいま酒をおごってくれればいいんです」「いま革命なんて言ってるやつら、みんな死ねばいいな」「そういうのをセクトの連中は何と言ってるか知ってますか?」「なんて言うんだよ」「言うの、止めます」「なんて言うんだよ」「きくと怒るから。それにおごってもらってるし」「言えよ」彼が言うと、予備校生は、彼の反応をみながら、「ウジ、ムシ」と言う。別に怒る気もしなかった。そして、昔なら、即刻、予備校生を外に連れ出し、殴ったろうと思った。青くさい理窟を言いたてる「左翼」というものに対する憎しみ、不快感が、学生であったころから比較すると、ほとんどしるしを認めることができないくらい薄められているのに気づいた。いまから考えてみると、昔は気違いじみていた。全学連、全共闘、新左翼、それら左翼と呼ばれるものに対して狂おしいほど憎悪し、不快になり、軽蔑していた。何故かわからない。 「雪ふってたのよお」と老婆は言った。「きれいなものですよ、あなた、雪が、ふってくれたの。もう何十年も前の話だけど。いまでも雪ふると、ああ、いまごろ有難うございますって、手あわせている人いるだろうなあって思うの。嫁なんか、有難い有難いって言ってるのは、おばあちゃんだけよ、みてごらん、松もやられた梅もやられた、かわいそうにせっかく根づいた木れんだってぽっきりおれてしまったと言うの。雪なんかふらないほうがいいって。でもね、あの時の気持ちはたとえようがありませんよ。まだ、こっちは娘なのよ。汽車にのるときから、宿につくまで穴があったら入りたいくらい羞かしい目してたんだから。内田なんか、わたしを送りにきて、姉さんの姿みてびっくりしてた。おい、ひでえなあ、と言うの。あの人、おしゃれだったのよ、昔は。それがね、頭はときつけても、ときつけても藁のようにしちまうし」老婆は身を屈めた。「こうやって」と、旅館の名の入ったスリッパをぬぎ、足袋をみせる。「下駄の鼻緒を親指との間にいちいち入れてやらないと一人ではけない。足がしびれてバカになっちまっている。それでもふっと気はたしかになる。『とめちゃん、なくしちまったらいけないから、財布預っといておくれ』そう言って、財布を人に預ける。外を歩いてて、土産物屋で何か買いたいと思うと、『とめちゃん、財布から払っといておくれ』と言う。何回も何回も風呂にはいって、いい加減、くたびれたので『もう今日はいやよ』とわたしが言うと、急に、『すまないねえ』と泣くの。『すまないねえ、許しておくれ、すまないねえ』わたしは、『なに言ってるのよ、いまさら』とわらうけど、『すまないねえ、すまないねえ』それからふっと正気づくのか、『とめちゃん、雪ふってるのかい?』『来たときから、ずっとよ。いま気づいたの?』姉さんは気づかなかったと言う。『じゅうじゅう鳴ってたのは雪の音かあ』とわらう。こっちはわらいもできやしない。どうせ|空《そら》でじゅうじゅう鳴っているにちがいない。キ印になってるんだから。『東京でも雪ふってるんだろうねえ』と言う。答えようがなくって、『もう寝てなさいよ』と言う。寝ててもなおる病気じゃないんですよ」老婆はわらう。彼は、老婆たち二人をみていた。外とは温度が二十度も違うらしく、宿の広間は、あたたかく、心地よかった。自分の中心が、ぼうっとぼやけてくる気がした。海老様か、と思った。「結局、春になって病院で死んだのよねえ。マラリヤって言うの? あんな病気のための治療法で、熱で菌を焼き殺す。心臓の方がもたなくって。それからよねえ、今度は、おまいさんの御亭主殿が家出したの」 「一カ月も|過《た》ってないころね」ヘアピースの老婆が言った。「思い出したくないわ、あんなこと」 「泣いたり騒いだりしたでしょ」しみだらけの老婆が言った。「満州で、久志さんの弟、死んだからでしょ。あなた、おしゅうとめさんと一緒にいたのよねえ」 「おばあちゃんは朝鮮でお姫様みたいに育ってるから、いつも誰かそばについていてあげないと駄目なの。それを知ってて女と逃げたんだから。ひどい男よ。いまごろ家でくしゃみしてるわ」 「くしゃみぐらいさしときゃいいよ」老婆は、真顔で言う。 「なによお」ヘアピースはわらう。「そう言わないでよ。これでもあの人、わたしの亭主なんだから」 「あなたは甘いのよ。末っ子だから、なんにも苦労をしらないで」 「苦労ぐらいしたわよ」 「なにが苦労なものですか、苦労っていうのは、姉さんみたいなことを言うのよ。すまないねえ、すまないねえって言いつづけてさ。子供のことばかり気にしてさ。とめちゃん、あの子は大丈夫だろうね、大丈夫だろうねって言っててさ。姉さんの事思うと、泣けてきちまうよ」老婆の声がふるえ、つまる。「夜中、なにしてるのだろうと思うとね、あんなにたくさん人の分まで取ってごはん食べたのに、おせんべいを食べてるの。ぽりっぽりっと音がしてた。眠りながら、なんの音だろうと考えていた。あのあたりは、なんとかせんべいって言って、大きいの。それを三枚も四枚も蒲団の中に引き入れて、ぽりっぽりっと食べる。『お姉さん』とわたしが怒って言うと、『とめちゃんも食べるかえ、欲しきゃあげるよ』『なに言ってるの』あいた口がふさがらないとはこの事。そんな時は、キ印がだいたい薄まった時なんですね。キ印がひどい時は、壁の方むいてね、坐り込んでいるの。黙ったまま。なにを考えていたんだろうねえ、なに思案してたんだろうねえ。雪のふる終日、壁みて、坐ってる。あの病気は、髪が抜けるのよね。櫛ですいてやると、すっぽりくっついてくるの。姉さんの機嫌の良い日、金だらいに水を入れてつげの櫛ですいてやるの。水が毛でまっ黒になっちまう。窓をあけて、『ほらあ、雪よお』と言うと、『うん』としか答えない。窓の手すりに積った雪を、姉さんの手に握らせてやる。『冷たいでしょ』『うん』もう雪の冷たさすら感じないの。窓から雪におおわれた山がみえた。まだ降りはじめたばかりで、ところどころ、青っぽい木がみえたり、岩がみえたりする」 「もうよしましょ、しめっぽい話、せっかく旅行に来たんだから」ヘアピースが言う。 「なに言ってるのよ、お寺の旅行よ、これ」しみは言う。うつむく。浴衣のえりですっぽり首がかくれてしまっている。両脚を、ぶらんぶらんとゆする。それから、ますますもってしめっぽい話をするぞというふうに「よいしょ」と声を出して、ソファに正座する。宿の広間には、正面に一台、大きなカラーテレビが置いてある。ニュースがかかっている。だが、誰も見てはいない。ヘアピースの老婆は、風呂に入ってきたばかりか、顔が赭らんでいる。  彼は、そのヘアピースの横顔としみの横顔を見くらべた。二人が、姉妹だというのに、まるっきり似ていないことに気づいた。そして声も似ていないが、そのしゃべり方、仕種が似ているのだと思った。二人には、そのキ印になった姉のことをしゃべるのが、この上なく楽しいことであるふうにみえた。不意に、「咲さんがね」と関口由起子の顔をみた。「あなたのお母さんがね、去年秋に、今度も一緒に行きましょうて言ってたの、旅行。まあ、あの人とも、一緒にあっちこっちよく行ったねえ。戦災で焼け出された時、裏に住んでたのよ」彼女は、老婆にあいづちも打たない。「あれから、いろんなことがあったのだねえ。咲さんだって、このあいだまで、あなたが結婚するってそりゃあ喜んでたの」「嘘っ」と彼女が低くつぶやいた。「あら、違ったかしら」  フロントで、眼が悪いらしい女と若い男が、話し込んでいる。奥の方から、四歳ほどの女の子が走り出てくる。「まってえ」と後から、女が追ってくる。これもあきらかに眼が悪い。|眼《がんか》のあたりが落ち窪んでいる。女の子は、若い男にすがりつく。わらい入る。かくれようとする。追ってきた女は、「すぐ、わかるんだからア、こらア」とおどける。彼たちの方をみながら、和尚と男が、歩いてくる。和尚はフロントに行き、男が一人、老婆と彼らの坐っているソファの前に歩いてくる。「何度も何度も入ってると、のぼせちゃったよお」男は言った。「大騒ぎだったねえ」背の低いやせた男だった。彼と、関口由起子がそこにいることをいま知ったといういうように、「どうも」と頭を下げた。「西嶋さんも大変だよねえ、あの子があんな具合になっちゃって」 「めでたいのよお」しみは言った。黙って坐っている関口由起子に、「ねえ」と相槌を求めた。「あなたが、あの子のお世話して下さったんですよねえ。めでたいですよねえ」 「そら、めでたい」男は言った。「かわいそうにねえ」ソファに坐った。 「かわいそうじゃありませんよ。あなた、男だから、そんなことわからないの」しみが言った。男は、ドテラの中から、煙草を取り出した。火をつけ、吸う。「もう忘れちゃったのですか? 兼時さんのところだって、三人も娘さんございましたでしょう」 「あんなの、ございましたっていうしろものじゃねえや。もうあいつらババアだよ」けむりを吐き出す。ヘアピースがわらう。 「じゃ、あの娘さんたちがババアなら、わたしらはなにになるの?」 「まあ、もう人間じゃなくって、仏に一歩手前と言うか、棺桶に一歩手前と言うか。厄介なもんさ。厄介払いされて、とめさんだって、お寺旅行に来たんだろ? ちがうかい? あれなんか、まだ若いんだ。たしか、まだ五十出てないだろ。おれの子供だって言ってもおかしくない」 「あなた、もうそんな齢?」しみは言った。ヘアピースと顔をみあわせてわらった。 「いつの間にか、齢くっちまったのさ。子供のためだと馬車馬みたいに働いてきて。西嶋さんも、苦労するのはこれからだよな」  テレビでは、東京でおこったビルの火事が映し出されていた。彼は、テレビをみた。一瞬、旅行社のある小さな細長いビルが赤黄色い炎をあげて燃え上がる図を想像した。フロントから和尚が、彼をみていた。いや、外からもどったままの私服姿の関口由起子とその隣に坐った彼をみていた。暖房が効きすぎているのか、妙に暑っ苦しい。ひと風呂あびて、それから地下にあるバーにでも行ってみよう、と思う。なんとなく、周りにいる人間がうっとうしく思えてきた。女、女、女、と彼は小声で言った。関口由起子はその声がきこえたのか、彼の顔を見た。ふっと思い出した。「おまえ、橋口と寝たのかよ」と訊いた。答えない。むくむくと、この女を徹底的に痛めつけてみたいという気持ちが頭をもちあげる。血にあふれ、血に呻く。変態でもいい、いい感じになりたい、大オルガスムスを味わいたいと思った。大オルガスムスの前では、子供など屁のようなものだ、と思った。子供など子宮の中にできた吹出物にすぎない。かさぶたにすぎない。彼の女は、その吹出物を十月十日大事にかかえているのだ。いま、その吹出物を、潰そうとしているのだ。いったいその吹出物とはなんなのだ? 関口由起子はコートのえりを立てて、ソファに正坐したしみの老婆をじっとみつめていた。彼女がいったいなにを考えているのか、きき出してみたい気がした。  関口由起子に、一階奥の家族風呂に一緒に入ろうか、と彼は訊いた。三つほどちいさな浴室があり、それぞれ内側から鍵がかかる仕組みになっていた。彼女は断った。では、地下のエレベーター前のバーで待っていろと言い、彼は、部屋にもどり、浴衣に着がえ、この宿自慢の展望ローマ風呂に行った。坂に宿が建っているせいか、二階にその展望ローマ風呂があるのに、透明硝子の大きな窓から見える景色は、ほとんど板倉温泉全体を見渡せるくらいだった。繁華街が、見えた。そのむこうに源平峠が見えた。源平峠の自動車道につけられた水銀灯の列が、寒ざむとしていた。酒に酔ったらしい男が三人、タオルを腰に巻いて湯舟のへりに腰かけ、話していた。湯につかり、出て、体を洗っていると、和尚が入ってくるのがわかった。和尚は、タオルを湯につけて前をぬらし、それから湯に入る。湯から出て、彼がそこに居ることをみつけたのか、「お世話をかけますなあ」と、隣に来た。和尚は湯気でくもった鏡を手でぬぐった。そして、その上に石鹸を塗った。湯をかけた。ぺったりとタイルの上に坐り込んだ。鏡台もどきの持ち運びできる鏡だった。「あなたが一緒に来てくれて、たすかります。ほんとうに」和尚は言った。「いや、こちらこそ」彼は言った。「背中でも流しましょうか?」お世辞のつもりで言うと、「はい、ありがとう」と素直に返事する。泡の立ちにくい石鹸だった。「また、春にでもお願いするかもしれませんが」和尚は言った。「春と秋に毎年二回、皆さん、あっちがいいこっちがいいって行くんですよ。この間の春は京都ですが、なにしろ、みなさんあれで箱入りなんですから。たすきかけて朝から庭の掃除やらふき掃除をしている写真をね、とったんですよ。それを子供さんらが見て、うちのおじいちゃんやおばあちゃんに、ひどいことさせる、と言って、もうお講にもなににも寄せないと言うんですな。お寺ってものは檀家で持ってるものですからね」 「みんな楽しそうですね」 「そうですか、そう見えますか、あなたに」和尚は言う。脇腹のあたりもこすってくれと、右手をあげる。おれはおまえの三助しにここに来たんじゃないよ、と思う。「はい」と、タオルを渡す。「まあ、そうでしょうなあ、楽しいんでしょうなあ」和尚は、湯舟から湯をすくって、音をたてて顔を洗う。「あれの母親が、この春、なくなりましてね。自殺ですが。言ってみれば、浄徳寺をえらんで来たのはその供養もかねてるんですな」 「供養?」彼は訊き返した。 「御存知なかったですか、みんな母親の親しい仲間ですよ。あなたに、たのしくみえたのなら、よかった」  奇妙な感じがした。奇怪な感じがした。そんなことは知らされてはいない。和尚は湯を頭からかぶった。タオルで顔をぬぐい、立ちあがり、湯舟に片足ずつ中腰になって、ちょうど女がするようにしずしず入った。むらむらと腹が立った。なぜだかわからなかった。「そうなんですか、彼女のお母さん、死んだばかりですか」彼は言った。湯をかぶって、それから立ちあがった。彼の裸をみて、「意外に毛深いですな」と和尚は言った。「もう結婚しておられる?」と訊いた。「はあ」と彼は、湯舟のへりに腰かけた。和尚は、タオルで湯をすくい、顔を洗った。「お子さんは、まだ?」「はあ」と答えた。あわてて、「いえ、もう産まれるんですけどね」とつけ加える。「ひょっとすると産まれてるかもしれない。いまごろ、女房のやつ、産んだ産んだ、と言ってるかもしれん。男は種を仕込むだけで、子供が産まれるなんてわからんもんですね」そして、ひょいと性器をつかみ、ひっくり返してみる。「こんなのがついてきたらいいんだけど、あんな穴じゃかなわん」わらう。「やっかいですよね、あれは」彼のわらいにつられて、和尚もくぐもったわらい声をたてる。いまごろ、産み出そうとして、彼の女は力みかえっているのだろう。いったいそれは人間の子か、と思う。もし、猿の仔でもない犬の仔でもない正真正銘の人間の子なら、いったいなにをしにこの世に産まれてくるのだろう。和尚に訊いてみたい気がした。おれたちは、いったいなにをしにこの世界に来たのだ? 生まれて、姦って、死ぬためか? かれの子供は、生まれて、姦って、死ぬために、女房の腹の中から子宮を蹴って、外に出てこようとしているのか? なにかもっと別の方法がないのか?  風呂から上り、浴衣に着がえて、バーへ行った。和尚も後から行くと言った。関口由起子は、庭に面した硝子窓の席に坐っていた。バーというより、スナックだった。バーテンダーと女が一人居た。客はいなかった。すぐ、そこを出た。彼女を『はるな』に引っぱりこもうとした。だが、和尚が戻ってきそうに思えやめた。『はるな』の隣の板間の物置になっている部屋に入った。奇妙だった。彼女はぐったりとしていた。「いやなのよお」と言った。「なに言ってるんだ、いまさら」彼は言った。頭のあたりに、座蒲団をあてた。ひっくり返した。彼女は浴衣に着がえてもいなかった。あおむけにひっくり返されたまま、足を閉ざしていた。「いやなのよお」と言った。スカートをめくり上げた。ストッキングのとめ金をはずし、パンティをぬがそうとした。ひざを立てた。「この|女《あま》、いまさら」と彼は、声を殺して言った。舌うちした。なぜだかわからないが、彼はあせっていた。ブラウスの中へ手を入れ、乳房に触ろうとした。固くブラジャーが乳房をつつんでいた。指を胸とブラジャーの間にひっかけ、ひきちぎろうと力をこめた。「やめてえ」と呻く声をたてた。体をよじって起きあがろうとする。「やめてえ」声は震えた。思いっきり、顔を殴りつけた。呻いた。力を抜いた。無抵抗になった。白くはっきりみえるパンティを取り去った。ぐったりしている関口由起子の股をひろげさせ、ひざを立てさせ、その中に割りこんだ。「痛い」と言った。関口由起子の体の中は熱い。「いやなのう、こんなところでえ、いやよお」と言った。それでもゆっくりと体を動かしはじめた。あいつともこいつともほとんどみさかいなしに男と寝ている彼女が、いやであるはずがない、と思った。「いやなのう、いやなのっ」と彼の体の動きに合わせて言った。くっくっと声がどこかからきこえた。「いやなのう」と言いつづけた。また、くっくっと声がした。誰か、のぞいているな、と思った。「いやなのう」と言いながら、彼女は、彼の首に手をまわした。首をあげ、彼に口づけした。誰かが、確実にのぞいていた。のぞいていてもいい、いやのぞいてくれ、この女を果の果まで連れていく、ブラジャーの上から乳房に頬すりよせた。彼女は、脚を彼の脚にからめ、彼の尻をつかんだ。けもののような声をひとつたてた。それは、体の奥の奥、彼女の生きていることの中心からのようなものだった。「いやなのう」と大きくあえぐように言った。尻に深くつめを立てる。  眠ろうとした。寝つかれなかった。変に自分が昂ぶっているのを彼は知った。彼は、いつか柔道部の合宿でも、こんなことがあったことを思い出した。仲間も、寝つかれないらしかった。先輩の眼を盗んで、その肥って長身の男と合宿を抜け出した。合宿地の駅前にいる女を買いに行こうと、夜道を走ったことがあった。女とは、あっけなかった。いまとなってみると、夜の暗い道を全力で走ったほうを、鮮明に思い出すのだった。心臓がどきどき鳴っていたのだった。ただ、その心臓を破裂させたい、と思った。いったい自分はなにをしているのだろう。ポン引きか、と思った。いつも、彼はそう思った、それは仕方のないことであることは、わかりすぎていた。社員四名の旅行社が生き残るには、ポン引きでも女衒でも幇間でもしなくてはいけない。お客と旅館の中にはいり、利ざやをかせぐためには、それ相応の苦労をしなければいけない。それらの元手は、体だった。彼は、ぼんやりと考えた。だが、いったい齢とってしまったらどうなるのだろう。実際、旅行社の社員四名は、彼を含めて若さと体力で勝負しているようなものだった。四人ともまだ三十になるには、いくばくかの間があった。だが、それはいくばくかであって、十九歳の予備校生のように、自分の生きていく人生がどんな形をとるのか、そんな悠長が許されるものではなく、このままこうやっていると、ぼんやりとみえてくる時間だった。十九歳、二十歳、二十一など、まだ子供の延長にすぎない。和尚のいびきがきこえた。寝つかれなかった。三十の自分は今と大差ないだろうし、四十の自分は三十と大差ないだろう、だが、四十の自分と今の自分は、大きく違っている。いや、ひょっとすると、全然、違ってないのかもしれない。失望だな、と思った。四十になって、ポン引きまがいをつづけているのだろうか。眠った。  ふっとめざめた。一瞬、わからなかった。どこにいるのだろう。彼は、隣の蒲団を見た。和尚は、いなかった。障子があけはなされ部屋の戸が半びらきになり、廊下の螢光灯がみえた。起きあがった。和尚の蒲団をまたいで、入口の脇の便所に入った。ついでに水を飲み、それからまた蒲団に入った。思いついて、廊下に出た。『しらゆき』のドアをあけた。鍵はかかってなかった。中は、灯りがつき、蒲団が六つ敷いてあったが、誰もいなかった。その隣の『やよい』から、ひそひそ話す声がした。老婆の誰かがたてるのだろう、せきの音とすすり泣きの声がした。しばらく立っていた。ドアをあけて中に入ろうと思ったが、あきらめた。おれの出る幕じゃない、と彼は思った。もう一度、小便し、水をのみ、蒲団に入った。また、彼は、とりとめなく考えた。いったい関口由起子はどういうつもりで、自分の母親の供養のお寺旅行を、彼に紹介したのだろう。いったい、そのお寺はどこにあるのだろう。石塔が、幾つも並んでいる。松の木がある。梅がある。妊んだ白い犬が、日だまりに寝そべっている。浄徳寺を小さくしたような寺がある。何人、死んだのだろう。|戦《いくさ》で死に、戦争で死に、病気で死ぬ。いったい、その寺や、この寺、この地面の下に、何人、死んで眠っているのだろう。寝返りを打ち、そしてまた彼は、蒲団に顔をくっつけて眠ろうとした。彼は、産婦人科のベッドに寝ている女を想像した。その横に、彼の子供が居る。それが自分と同じ人間と思えないほど小さい。動いている。オギャアと泣くのだろうか、いや、泣けなくとも、眼が額に一つしかなかろうと、指がアヒルのように水かきでくっついていようといい。そして、彼は眠った。また、夢をみた。まっ赤なヘルメットを被ってタオルで覆面した男が、校舎の四階の窓からのぞいていた。男は投げた。彼のすぐ脇に落ち、びんははじけ、炎はぱっと広がった。その四階に男がとらえられているはずだった。赤いヘルメットが顔を出し、「みせしめの為、処刑するうっ」とどなった。左翼のやつらめ、ひとりひとりつかまえて、殺してやる。正門から、白に赤の線を入れたヘルメットの別部隊があらわれた。不意をつかれた。逃げた。アパートの下に水がたまっていたのを知らずに踏み込んでしまった。階段に足跡がついてしまった。彼はあわてた。玄関をあけ、流しからバケツに水をくみ、まいた。あわてたので体にひっかかってしまった。部屋に入り、身をふるわせて、水を落とした。女は寝ていた。女を起し、背後から性交し、そして、くるっと尻と尻をあわせた。「どうしてそんなに暴れてくるの?」女が訊いた。「うるさい事、言うな。あいつらの顔みてると|虫酸《むしず》が走るのさ」女の腹の中で、もぞもぞと動いた。彼はわらった。「おい、中に、幾ついるんだ?」「さあ、幾つかしら。ちょっとわかんない」「六つぐらいいる感じだな」「そお」と女は言う。「つわりはひどかったけど、時期が短かかったから。それだから皆んなけっこう元気がいいの」女は、右手で腹をさわる。「赤ちゃんたち、お父さんですよ」ふっふと鼻でわらう。「まて、まて」と彼は言う。「てめえら、一匹ずつ、しめ殺してやるから」  朝の日が、ぼだいじゅから透けてみえた。鳩が、地面を這っていた。影が幾つも動いた。昨日よりも数が増えたようだった。彼は、数をかぞえてやろうかと思った。そしてばかばかしいことなのに気づいた。自分がおかしかった。年寄りどもは、和尚に引率されて、浄徳寺の本堂にはいっていった。彼一人、残った。ベンチに坐っていた。なにが原因なのかわからないが、もやもや心の中がくすぶっていた。不愉快だった。関口由起子が、わらいながら、本堂の階段を降りてやってくる。「ねえ、一緒に行ってくれない」と歩きながら言う。「体育部がついててくれると、安心だけど、わたしだけじゃ恐くって」彼の前に立った。 「あれは一人で行くもんだよ、それにおれが行かなくったって、爺さん婆さんいるじゃないか」「よけい気持ちが悪いよ」彼女はわらう。髪をかきあげる。桃色の耳がみえた。「わたしらの前に入った女の子なんか、青くなって出てきたのよ。中はまっ暗なんだって。お婆さんたちはへっちゃらなんだから」 「棺桶に近いからな」彼が言うと、真顔になり、「うん」と相槌を打つ。「インチキだよ、インチキ」彼は言う。なにが、慈母観音だ、と思う。「あいつら、地面の下に入る日が近いからな、地面の下はこんなものじゃない、もっと暗くっておそろしいんだと思いながら、闇の中通り抜けてるんだ。この浄徳寺を建てたやつも知ってるんだ、そんな気持ち。だから、恐ろしいと思うのは、若い女だけだよ」彼は、音も立てず、二人の方へむかって地面をひょこひょこ歩いてくる鳩の群をみた。「今日はサエてるじゃん」そう言って、彼女はベンチに坐った。先頭の鳩が立ちどまった。その鳩の周りで、雄鳩が喉をふくらませ、尻尾を下げて鳴きはじめる。 「女房がガキ産むんだ、今日」彼は関口由起子の顔をみた。「へえ」と彼女は言った。「あんたでもパパになるの」彼は苦笑する。 「供養は済んだのかい?」彼は訊いた。彼女は黙っていた。なんとなくちぐはぐな感じがした。何故だかわからなかった。どなり出したい気がしていた。どんなつらいことがあっても、どんな悲しいことがあっても、神や仏に頼るのは、嘘だ、と思った。いや、そんなことは、この浄徳寺まいりに来る人々は知っているのかもしれない。神にも仏にも頼れないことを知っているその知るということ、自分の中にある智恵というものを、ここになだめにくる。たぶらかしにくる。供養と言って、ここにくる。そう思わないと辛気くさくて、やり切れない。「お袋、死んじゃったって?」「うん」と答えた。「おれ、昨日のうちから、知ってたよ」「気づいてた」と髪をまたかきあげた。桃色の耳がぴょこんと出た。「あんたって、意外にデリケートでやさしいんだなって、みなおした」 「なに言ってるんだ、おりゃ、姦りたかっただけさ」「うん」とうなずく。顔を上げる。「うちの母は幾歳だったと思う? 六十七よ。わたしが四十の時の子供なの。六十七で、もうあと十年も生きれば、自然に死ねるという齢になって、死んだの。それもよりによって、あんな方法で、いくらなんでもひどいと思わない? そら、親戚に和尚さんいるけどさ」彼女はわらう。だが、すぐ崩れる。涙が眼にたまる。「わたしより、お講の仲間の人たちのほうが、つらかったのね。一緒に浄徳寺に行こうって言ってくれたの。来たくなかったけど、しょうがないもん」 「それでうちの旅行社がもうけたわけだ」彼は言った。「だけど、ひどいババアどもだな、あいつら」 「でも夜中ね、お婆さんたちしくしく泣いてた。わたしも泣いてたんだ。結局、いつのまにか寝ちゃったけど。朝がまたはやいんだ。年寄りだから。五時ごろから、ひそひそはなしてるの。爺さんたちも隣からくるし。あなたと、あの女の子だけよ、遅くまでねてたの」 「なんだよ、おれまで白痴みたいじゃないか」彼はわらった。雄鳩が、雌鳩の上に乗っかった。途端に、ぼだいじゅの方から一羽、翔んできた。すぐ離れた。翔んできた一羽が雌の周囲で鳴きはじめる。群がななめに移動しはじめる。男たちが三人、ベンチに腰かけたのだった。九時十七分だった。予定と言えば、この浄徳寺に昼まで居て、浄徳寺のすぐ下の食堂で、年寄りどもに食事をとらせ、それからバスに乗り、今度は、県庁所在地のある市へ行くだけだった。途中、柿沼富士見峠で降りて、休憩する。そこから富士山がみえると本にはあるが、いままで四回ほど行ったのに、富士が見えたためしはなかった。パノラマ展望台があったことを思い出した。年寄りどもが、「いいわねえ、すごいわねえ」という姿を想像した。男たちが三人、彼と関口由起子を見ていた。その視線がわずらわしく、彼は関口由起子を促して立った。鳩が二羽、驚いたのか、翔びあがり、また舞いおりる。  彼女を連れて慈母観音を見に行った。低いちいさな小屋の中、金網のむこうに、木彫りのその観音はあった。伝説のほうが、きれいだった。写真で見るほうが、そのやんごとなき身の人の気高さのようなものが出ていた。そこにあるのは、朽ち果てた木だった。いや、木に、いくらか、人間が人間の赤ん坊を抱いて乳房を差し出している形が、彫りつけているように見える程度のものだった。顔はのっぺりしていた。眼は、ただ線を彫りつけていた。その線が微かに目尻の辺りで太くなっていた。それをいま元の顔に復元したところで、どこにでも転がっている百姓女の顔と変らない、と彼には思えた。彼女は、首をななめに傾げ、コートのポケットに両手をつっ込んで、見ていた。「きれいね」と言った。「浄徳寺の売り物のひとつだからな」彼は言った。「あなた、お母さん、元気?」彼女は訊いた。「元気だよ」と彼はぶっきらぼうに答えた。 「お孫さん、産まれるって喜んでるでしょ」彼は答えなかった。「なんだろうねえ、母親って。こんなの見ていると、考え込んじゃう。子供産んで、育てるだけ育てると、もう母親じゃなくなっちゃうのかしらねえ。こんなふうにお乳を与えている時だけが、母親なのかしらねえ。母親って一体なんなの」「おれが知るか、そんなこと」「自分ひとり苦しんで死んでもいいと思うのかねえ。わたしね、母のことあってから、考え方変ってきちゃった。新聞によく、子供を道づれにして母親が死んでるでしょ、前はひどいことすると思ったの。子供だって一人の人間だと思ったの。それを道づれにするのはひどいって。死にたかったら一人で死ねばいいって。でもちがうよ。母親ひとり苦しんで死んでいくの、たまんない。たまんないわよ、一緒に死んでやればどんなにいいかと思う」 「親孝行してやればよかった」 「そうなのう、心配ばかりかけて。結婚しないで男遊びばかりやってたんだから」わらう。 「男漁りだろ?」  にいっと、鼻元に皺をよせる。舌を出し、首をすくめる。「いま誰が恋人か知ってる? あの坊や。ヒロちゃん、恋人にしてても、もうパパになっちゃうんだし」 「あのガキ、いまごろそんなことやってたら、また浪人するぜ」  光があふれていた。ぼだいじゅの上の方に、日が移ったのを見ていた。へんに昂ぶっていた。自分の中で、じょじょに形を取ってくるのを感じた。それはいったいなんだろう。わからなかった。わからなくってもいい、彼は思った。明るかった。空も木も、石も、土も。こんな感じがいつかあったような気がした。それがいつの時か、忘れた。浄徳寺は、日を受けていた。何回も何回もこの市にやってきて、この浄徳寺を見ていたのに、今まで全然見たことがなかったような気がした。空が、屋根で断ち割られていた。日を浴びてつやつやしている古びた柱があった。板があった。それが浄徳寺だった。中に、ちょうど博物館のようにさまざまな仏、飾り物があった。人工的につくったいかにもインチキの、まっ暗の地獄があった。この寺をひらいたという上人の木像が、置いてあった。昔から何百万人、何千万人の人が手で触ったのだろう、顔はひらべったくすり切れた板同然だった。その寺にいまいると思った。彼女とまたベンチに坐った。和尚と年寄りどもが本堂からぞろぞろ出てきた。犬が一匹、本堂の脇にいるのがみえた。男が、白痴の子を抱いて、階段をこちらの方へおりてきた。「あっあああ」と叫んだ。男は、「ほれ、また」と声を出した。浄徳寺にまいりに来たアベックが、おどろいた顔をしてみていた。白痴の子は服を着替えてたらしかった。赤と桃色のストライプの上着、黄色のスカート、赤いコート、なによりも毛糸の赤いパンツが、子供っぽく愛らしくみえた。「みいよお」と言った。男は彼のそばに、その子を抱いて近よった。遠くからは、軽々と抱いているようにみえたが、暴れなくても意外に男の手にあまるのか、肩で息をしていた。「みいよお、ううちい」と白痴の子は叫んだ。「よっしゃ、よっしゃ」男は言った。男は白痴の子を降ろした。「一緒におばちゃんとこへ行こなあ」と男は言った。関口由起子に、「どもならんですわ」とわらいかけた。白痴の子は、男の手を握ってつっ立っている。まぶたがたれ下がり、口唇が厚く、そしてあごのあたりがふくらんでいる。「みいよお」と言う。こいつも人間とは思えない顔をしている、と思う。だが、生きている、と思う。 「あとどのくらいありますか、バスに乗るまで」男が訊いた。彼は、まだしばらくここにいて、昼飯を食ってからバスに乗ると答えた。老婆たちが、石段をおりてくるのがみえた。男は、「そうですか」と得心したようにうなずき、「そうやったら、なあ」と言った。「あとですみませんけど、あれ替えるの手伝うてくれしまへんか?」と男は関口由起子に言った。「三回ほど、便所へ連れて行った時、替えたけど、なんやしらんもれてますようで」男は言った。関口由起子は、「はいっ」とまるで軍隊口調で返事した。「なんやしらん、これ、今日は血ィくさいようで、浄徳寺さんに叱られるようで、悪うて」白痴の子は、男のコートのすそをくわえはじめている。関口由起子の顔がみるみるうちに上気する。「みよう、鳩おるでえ」男は言う。それから何を考えついたのか、「ちょっとすんません」と白痴の子をそこにおき、男は、仁王門の下に台を出した老婆のところへ行く。豆を大量に買う。めざとくみつけ、鳩は次つぎ、男をめがけて翔びあがる。屋根から空をグライダーのように翔びおりる。男は、群がる鳩を乱暴にふり払いながら歩いてくる。白痴の子は、その自分の父親の姿が道化てでもいるようにみえたのか、突拍子もない声でわらう。「みよっ、ほうれ」と男は言う。モーションをつけ、「ぽうん、ぽうん」と声をかけてほうる。鳩は群がる。体をぶつけあう。つばさをあげ、豆のおちるほうに、とことこ歩く。豆のおちるあたりに群がってもらちがあかないと、男の手、腕、肩や頭にとまろうとするものもある。男は、肩にとまったやつをたたきおとす。白痴の子は、なにがおもしろいのかわらう。「みいおっ、みいおっ」と言う。男は、歩いてくる。頭に図々しく乗った一羽をつかまえ、「焼き鳥にして食うぞ」と言う。男ははなす。左手に握った豆を、「みいおっ、みいおっ」と足をふみならしている白痴の子の手に入れる。「鳩ら、おそろしいことないなあ、ぽうんとしたってみい」男は言い、豆を乗せて手のひらを広げたままの白痴の子の腕を、「ぽうん」と声を掛けてふる。豆は、足元におちる。鳩が殺到する。白痴の子は声をあげてわらう。男は、また豆を手のひらにのせる。「ぽうん」と放る。だが今度も足元におちる。  その二人をみながら、ふっと彼は、「あなたはバカよ」と言った女の言葉を思い出した。「若いとか、体がいいとか思ってるけど、そんなものは病気よ」女はそう言ったのだった。鳩が一羽、彼の肩にとまろうとする。ふり払う。確かに病気だと思った。体が普通以上に健康であることは、病気といっしょだ。若いということも病気だ。なにかをしでかしたくてしようがなくなる。おさまりがつかなくなる。夢の中に出てきた、地面に落ちてくだけ、ぱっと赤い炎が広がった火炎ビンを想い出した。なにかもやもやしていると感じたのは、これか、と思った。まだ敵味方に分れて、殴ったり殴られたりしたいのか? 殺したり殺されたり、鉄砲で撃ったり、槍でついたりしたいのか。彼らの方へ和尚に先導されてぞろぞろ歩いてくる老婆たちの後の、浄徳寺が、炎を噴き上げていた。いや、一瞬、光の加減で、そうみえた。火の粉をとばし、音をたてて燃えていた。ごうごうと鳴った。「みいよお」と白痴の子が言った。わらった。鳩が、ばたばたと翔びあがった。 [#改ページ]      

 地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえる程だった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴きつづける。彼は、夜の、冷えた土のにおいを想った。  姉が、肉の入った大皿を持ってきた。 「奥さん、一杯いかんかい?」管さんが、ビール瓶を片手に持ち上げた。 「酒はあかんのやよ」と、姉は、七輪の横に皿を置く。姉は管さんにでなく、コップ一杯のビールで顔を赧らめ、大きな体をまるめ、熱い息を吐いている彼の顔を見つめ、教えるように、「酒飲むと、頭が悪りなる血筋やから、恐ろして、よう飲まんの。弟の秋幸が飲んでるのみても、心配になるん」と言った。べそをかくように姉は|笑《えみ》をつくる。管さんは、はじめから飲むことを姉に勧めるつもりはない。人夫の自分たちにビールを供し、肉を取り寄せてくれたことに対する愛想の一つだった。 「飲みなあれ」と、彼の真むかいに坐った光子が、酔った声を出す。「たまに、親方の事を、忘れて、ドンチャン騒ぎしょうれ」 「あかん、あかん」姉は、笑を浮かべたまま首を振った。 「かまんのにい」光子は、よいしょ、と胡坐を組む。桃色のフリルのついたパンティが彼に見える。それを察して、隣に坐った亭主の安雄が、「かくせ、かくせ」とわらいながら、光子のまくれあがったスカートをひっぱる。光子は、「減るもんでなし、みせたるぐらい、かまんやないのう」と安雄の体を腕でこづく。「言うとくけど、安雄、わしは、美恵ちゃんと違うからな。ちょっと知られた女やからな。これくらいなんやあ」  姉は、ビールの空瓶を持って、台所に行った。  玄関も窓もあけっぱなしだった。仕事を終え、親方の事務机が置いてある六畳の板間で、人夫たちが酒盛りをはじめた。その時、近所の子供たちが、何が始ったのだろうと、のぞきに来ていた。路地に面つきあわせて、車座になっているようなものだった。肉の焼けるにおい、親方の家の、鉄と土埃のにおいが、路地から吹き入ってくる風に払われる。すると隣近所の老人や後家が育てている草花のもの、溝のもの、それから急激にやって来た夜そのものの冷たいにおいがした。  安雄が、「飲め、飲め、頭が悪りてもかまんやないか」と、ビール瓶を持ち上げた。「誰もここに頭のええ血筋はおらんど」彼は、ビールを飲み干す。安雄は、注いだ。 「頭の悪り血筋は、わしのとこが一番」と光子が言った。肉をひっくり返していた箸に、ぼっと火がつく。「そんなこと言うたりしたら、兄さんにどつかれるけどな、ほんまに」へっと舌を出す。 「親方は、頭は悪りことない。ええよ」藤野さんが言った。 「ええことあるかいな。あんたらは、自分の親方やから、ええと言うけど、あれ、正真正銘のわしの兄貴。都会弁で言うたら、うちの二番目のお兄さん。子供の時から、阿呆やなあ、と思て育ってきたんや。うちが誰よりもよう知ってる」  台所から、「光ちゃん、あんまり親爺の悪口言わんといてよお」と、姉の声がかかる。光子は、また舌を出す。ついでに、光子は、安雄に「誰がなんと言うても、あんたが一番、頭の悪り血筋やろなあ」と、頭をひとつはたく。「わしよりも悪りもんなあ。ひょっとすると、あんたの父さん、しょうもない女買うて、梅毒でもうつされて来て、出来た子と違うか?」  安雄は、へらへらわらっている。ビールでは酔いが体にまわりきらないのか安雄は全然、酔っていない。洒に酔っていない安雄は、猫のようにおとなしい。陽気だ。仕事もまじめだった。光子に、いいように振りまわされている。しかし酔うと、安雄は変る。  姉が、彼を呼んだ。彼は、台所に行った。「おまえ、もう酒、それくらいにして、ちょっと母さんとこまで一緒に行ってくれん? 夜道、おそろしから」 「なにしに行く?」と彼は訊いた。酒で、声まで熱いな、と彼は思った。 「法事のこと。父さんの法事のこと」姉は言った。「姉やんのガードマンになってえよ。おまえのその体みたら、誰でもおびえん者はおらんのやから」 「美恵ちゃん、怖じくそたれやもんねえ」六畳の板間から、光子が口を入れた。「浜の家らで、絶対、よう住まんわ」光子は、人夫たちにむかって、姉がどのくらい恐がりか、しゃべりはじめる。浜の家は、光子たちの父親が残した家だった。父親が死んだ後、いつのまにか、運送会社の事務員をしている一番上の兄の古市夫婦が住みついた。光子は、よく、「わしかて父さんの娘や。父さん、わしを浜の家へ住ませたかったんや」と、古市夫婦をなじった。浜の堤防のそばだった。近くに防風林があり、共同墓地があった。 「なにを光ちゃんは、言うんなよお。怖じくそなもんですか」姉は言うなり彼の手をつかんだ。「行こ、行こ。姉やんのガードマンや。すぐ帰ってくる。光ちゃんが、ちょっとの間、みんなに酒のましといてくれる」 「怖じくそう」と光子は言った。「そこがまた美恵ちゃんのかわいらしとこ。あの、古市と、あの嫁みたいに、心臓に毛がはえたのとは違うんやから。今度、親方が、浮気したら、わしが、美恵ちゃんの代りに締め上げたるからな」光子は、安雄の肩に頭をもたせかける。  夜気は冷たかった。踏み切りとは反対側に路地を歩いた。  姉は、小走りだった。姉の背丈は、彼の肩までしかなかった。彼は上着を、腹巻のように体にまきつけた。ちぢみの下着についていた汗が冷え、皮膚に触るのが、心地よかった。路地に縁台を出し、その上に鉢植えを置いていた。花がにおった。路地をまがり、駅前からの通りを突っ切り、畑の中の道を歩いた。地虫が、また、耳鳴りのように鳴いていた。山の切り通しを越えた。牛小屋の前を通った。「父さんの法事に、また皆んな来る」姉は言った。それから、ふと思いついたように、「秋幸」と彼の名を呼んだ。彼は、なまくらな返事をした。「光子と、あんまり親しいにしたら、あかんよ。姉やんはいややから。きょうだいでごたごたするの」 「わかっとる」彼は言った。歩くたびに、作業着にした乗馬ズボンのこすれあう音がたった。大きく股をひらいて歩いた。地下足袋は、音をたてなかった。前方から、軽自動車が走って来た。ライトが眩しかった。行きすぎるのを立止って待つ間、姉が、彼を見ていた。ガソリンの甘いにおいがした。「秋幸」と姉は、言った。「姉やんと、手つなご」姉は、彼の手を握った。 「なんや|赤子《ねね》みたいに」彼はふり払った。「怖じくそ、恐ろしんか?」  姉はまた手をつかんだ。「秋幸が、死んだ兄やんみたいな気がしたんや。秋幸も、兄やんみたいに、手、つないでよ。兄やんが生きてる時、いっつもこの道、手をつないで歩いて、母さんの家へ行ったんや。ここへ来ると、兄やんは、美恵、恐ろしやろ、恐ろしやろ、と訊くんや。こっちは全然、そんなことないのに。そう訊くから、思いついて、恐ろしなってくるの」くすくすとわらった。姉の手はつめたく固かった。 「うちの人と、うまいこと行っているのか?」ああ、うまいこと行っている、と彼は答えた。 「うちの人、きつい事言うたりするんやろなあ」と姉は言った。返答に困り、彼は黙っていた。  親方の家から、ものの十分とかからなかった。母は、台所で、洗いものをしていた。母は、姉の姿をみつけるなり、「ああ、ええとこへ来たわ」と、タオルで手をぬぐいながら玄関に出て来た。「さっき、名古屋から、電話があったばかりや」母は言った。「名古屋の芳子が、また難し事言うんや、わしは長女や、と言うて、えらそうに文句つけるんや」母は顔をしかめた。 「|義父《おとう》さんは?」姉は訊いた。 「おらん。寄り合いがあると言って、外へ行った。文昭は、アパートに帰ったし」母は、彼の顔をみて、「秋幸、早く飯食べて、風呂にはいれ」と言った。「ちゃんと風呂場に着替えも用意しとるから」母は、彼の顔が赧らんでいるのに気づいたのか、「また人夫と一緒に、酒のんだんか? 明日になって、頭が痛いとか尻が痛いと言うても、知らんど」 「ほんのちょっとやねえ」姉が、彼を庇った。 「つきあいで、ほんのちょっとじゃ」彼が言うと、「よっしゃ、ほんのちょっとやな」と母は、わらった。「まあ、秋幸も十五や十六じゃない、二十四にもなっとるんやから、ちょっとぐらい酒飲んでもかまんけどな」 「兄やんの死んだ齢やもん」姉は言った。姉は彼の体をみまわした。 「おうよ」と母は言った。卓袱台の前に坐り込んだ。妙に、母の体から力が抜けていくのがわかった。姉の眼が、螢光灯の光を映していた。 「さっき、ここへ来る時、兄やんがおる、と思たんやだ。びっくりしたよ」姉は坐った。「よう似て来て」 「おうよ」とまた母は言った。「秋幸みるたんびに、思うよ」  彼は、母と姉のはなしをききながら、飯を食った。母と姉は、父さんの法事の話をしていた。いまさっき、名古屋の芳子から、|義父《おとう》さんの家で、父さんの法事をするのはおかしくないか、と言ってきたのだった。父さんも義父さんも、彼には血のつながりはなかった。兄とも姉たちとも、母の血でしかつながっていなかった。土方請負師でもないのに、乗馬ズボンをはき、サングラスをかけたあの男が、彼の男親だった。獅子鼻で、体だけがやたら大きくみえるあの男。彼は、母や姉たちが、父さんの事を口にするたびに、あの男のことを想い浮かべた。あの男とは、町なかで、たまに出会った。話しかけてきた。一言、二言、話を交わした。それ以上、話さなかった。彼は、体つき、顔の造りが自分と似ていると思った。そう思い、それを認めるたびに、一体そんな事がなんだ、と彼は思った。あの男に関する噂は、知っていた。新地に若い女を囲っている。いや、この姉は、それは確かに彼の腹違いの妹にあたる女だと言った。あの男が、相前後して三人の女に産ませた子供のうち、女郎の腹にできた娘らしかった。それが成長して新地にやってきた。このところ、男はとみに裕福になった。山林地主から山をまきあげた、土地をまきあげた、と噂が、耳にはいった。「ひどい人間もおるもんやねえ」と誰かが言ったのを、彼はいつでも、あの男を想い浮かべるたびに思い出す。  飯を食い終っても、まだ話していた。二人の話が続いている間に、と、彼は、風呂に入った。体中が土埃のためにざらざらしていた。腰のあたりから、色がはっきり違ってなまっ白かった。腰から上は、日焼けして黒かった。湯を何杯もかぶった。  離れの四畳半が、彼の部屋だった。壁に一枚、女優のグラビアが貼ってあった。他になにもなかった。彼の遊び友達の部屋なら、ステレオも、自分一人のテレビも、サイドボードもあった。半月に一度ずつ、親方からもらう金で、それらを買おうと思えばわけないことだった。だが、部屋を飾りたてたり、部屋に物を置くのは、彼の性に合わなかった。高校時代もそうだった。高校卒業して、半年ほど勤めた大阪の建設会社にいた時も、寮には蒲団一組と、下着、衣服のたぐいしか置いてなかった。同僚は、けげんな顔で彼をみた。部屋で、寝て、起きる。いまでもそうだった。女のことさえ、考えたくなかった。やっかいな物一切を、そぎ落してしまいたかった。土方仕事から帰り、風呂に入り、飯を食い、寝る。起きて、顔を洗い、飯を食う。朝、日が入ってくる時は、いや、雨が降らない限り、ちぢみのシャツを着て、乗馬ズボンをはき、地下足袋に足を入れた。毎日毎日繰り返していることだった。日射しは濃かった。母屋では、義父と、義父の子の文昭が、飯を食っていた。 「いま、どこの現場やっとる?」と文昭が訊いた。彼は、答えなかった。代りに、パンツ一つの格好のまま、腕立て伏せを二十回、腹筋運動を二十回やった。乱れはじめた息のまま、風呂場横の洗面所で顔を洗った。母が、彼をみていた。「もうコンクリまで進んだか?」 「掘り方」と答えた。タオルで顔をぬぐいながら、「親爺っさんとこは、どこまで来た?」と彼が訊いた。  義父は答えなかった。代りに、文昭が、「こっちは、今日からコンクリじゃ」と言った。「今日は、馬力かけて一日のうち、打ち終らんと後がつかえよる。ええ天気になったし。せっかく、水、かいだしたのに、雨が降ったら、また水をかいださんならんのかと、心配やったけどな」文昭は、顔を前に突き出し、漬け物をこりこり音させて食べている。母が、仏壇のある間から、洗った乗馬ズボンを持ってくる。「地下足袋も新しい方、洗っといたから、あれをはいてゆけよ」彼に、ぶっきら棒に言う。義父は作業着を付けたまま胡坐をかき、茶碗に茶を入れて飲んでいる。頭に混った白髪が、顔つきを丸くさせている。いつから白髪が目立つようになったのだろうか? いや、いつから、全体が柔らかく優しくなったのだろう、彼には不思議だった。それがいつからだったか、彼には覚えがない。彼が文昭と、コンクリの時の持ち場で言い争いをして、それから義父とも妙に折りあいが悪くなり、義父の経営する土方の組を辞め、姉の夫の組に行ったころからかもしれない。その時、言い譲らなかった彼に、義父は、「文昭は、おまえより二つも齢上や」と言った。「わかっとるわい」口答えした。そんな彼を、怒ることもせず、ただ義父はみつめたのだった。半年ほど勤めた大阪の建設会社を辞めて義父の組で土方をやりはじめた頃、文昭と一緒に彼は、スコップの柄で背中をぶったたかれたこともあった。もっとも文昭がいつも強く殴られた。追いかけまわされた。 「おまえみたいな性悪は戻って来いでもええ」と、逃げ出す文昭に義父はどなった。ちょっと子供に口答えされるのも、許すことなど絶対になかったのだった。  この家は、不思議な家だ、時々、彼はそう思った。母ひとり子ひとり、父ひとり子ひとりの四人で暮らしていた。文昭と彼は、義理の兄弟、母のない子と、父のない子の兄弟だった。いや、双方に、産みの親はいた。生きてはいた。ただ文昭はその産みの親から見棄てられ、親を母と思えず、彼もまたその男を父親などと思えなかった。姉たちや死んだ兄は、母の最初の夫の子供だった。母は、いまの夫、彼からは義父に当る男と再々婚するに当って、姉たちとは父親を異にする彼だけ、連れたのだった。  文昭の隣に坐りこんで、彼は飯を食った。彼の胸まわりも腕も、文昭の二倍近くあった。「月給もろたら、今度こそ、ええとこ行こうよ」文昭は言い彼の裸をみまわした。彼は母の顔をみた。  彼が、親方の家へ行くと、人夫は二人しか来ていなかった。すぐ、姉から鍵をもらって、倉庫をあけた。鉄と、炭のにおいがした。  駅一つ向うから通っている藤野さんが、さっそく、竹で編んだバイスケ、スコップ、じょれん、それにつるはしを小型マイクロの後部に積み込んだ。  嫁が、「熱いお茶でも飲まんかん?」と勝手口から、顔を出した。顔が日に照らされ、むくんでみえた。女の人夫は、どうすると訊くように、彼の顔をみた。「飲む」と彼は答えた。  女の人夫と藤野さんが勝手口に腰かけ、彼は外に立ったまま飲んだ。奥から、「あと十分経ったら行くど」と親方の声がした。「しょうもないやつや、あいつら。酒飲ますと、明くる日は、休もうと思てけつかる」 「来るやろう」と女の人夫は言った。 「安雄のやつ、また遊びぐせがついたんじゃな」  親方の言い方に、一瞬、朝、めざめたばかりの二人が、抱きあっている姿を想い浮かべた。彼は茶を飲み干した。光が当っていた。親方の家の前の路地は、日にさらされていた。溝のにおいがした。まだ親方の家の他に、起き出した家はなかった。路地を左にまがった踏み切りの横に、一本植わっている木が、ゆっくりと、葉をゆすっていた。彼は、その木が自分と似ているように思えた。なんの木か知らなかった。知りたくもなかった。花も実もつけなかった。ただ日に向って葉を広げ、風にゆれていた。それでいいと思った。花も実もつけることなど要らない。名前などなくていい。彼は、その木をみながら、夢を、いまみている気がした。  日が、ちょうど、むかいの家の屋根すれすれにあった。姉の家は、日の直射を浴びた。小型マイクロの腹にもたれて、彼は、姉の家をみた。家は、改造に次ぐ改造で、もう昔の面影はなかった。この家で兄は、首をつって死んだのだった。しかしいまは、その首をつった木もない。  六時半になってもまだ来ないのが、安雄だけだった。それで、現場へ行くついでに、田んぼを埋めたてた所に建った安雄と光子のアパートに寄った。彼が呼びに行かされた。親方は、「二人にええかげんにせ、と言うたれ」と、アパートの階段をのぼりかけた彼に言った。ドアをノックすると、中から、女の声がした。「だれ」と光子が顔を出した。彼だとわかると、「なんや、秋ちゃんか」と、わらいかけた。化粧を落しているせいか、青白くのっぺりした顔だった。 「ほらあ、すけべえ、むかえに来てくれたど」光子は、部屋の中にむかって言った。  光子は、ドアを開いた。安雄は飯を食っていた。赤い生地のカーテンが窓にかかり、サイドボードがあり、その上にぬいぐるみの犬が置いてあった。蒲団が敷いたままだった。掛け蒲団がめくれてずれていた。 「安う、のろのろしくさらんと、はよせんかい」光子は言った。 「一分、一分」安雄は言い、飯をほおばった。 「また親方に、わしが怒られる。ぼけえ、すけべえ」 「よう言うてくさる、どっちがすけべじゃい。なあ、秋ちゃん」安雄は言った。彼は苦笑した。くちゃくちゃ飯を噛みながら、安雄はやっと立ちあがり、地下足袋をはく。 「おまえはそれでまた眠ったらええかしらんが、おれは、これから土方じゃ、掘り方じゃ」  汗が裸の体から吹き出るのが、ここちよかった。つるはしを、彼は土にうちつける、現場が、小高い山の中ほどにあるせいか、土が他の所と違って柔らかく先から根元まで、土の中にすっぽりのめってしまう。地表は白く乾いている。だが、掘り起した土は、黒々と湿っている。それをシャベルですくいあげ、外に出す。側溝をつくるためだった。掘り方を終えると、すぐ、コンクリを打つ作業にかかるはずだった。手まわしよく、コンクリに使うバラスと砂は、運んであった。 「秋ちゃん、今度いっしょに遊びに行こな」 「遊びに行こ」彼は安雄に答えた。親方と一緒に、明日には、コンクリを打てるように、図面と首っぴきで水引きとメジャーで計ってまわっていた管さんが、「安雄らと遊びに行ったら、恐ろしど」と声をかける。 「なに言うとるんじゃい」 「最初は猫なぜ声で、どこのボンボンやらと言う顔して。うまいもんじゃ。ぼく、もう酒はだめです。女、それにひっかかって、外へ出たら、殴りつけて言うことをきかせとる。そばについとるのが恐ろし。ようあれで警察にひっぱられんもんやな」 「二回ひっぱられた」安雄は言う。一斉にわらう。親方がわらいながら、「安雄、秋幸に変な遊び教えたら、承知せんど」  安雄は、よいしょと声を掛けて土をシャベルで出しながら、「はい、はい」と調子よく相槌をうつ。「なあ、秋ちゃん、いつまでも監視付きの赤子とちがうのになあ」  女の人夫が携帯用のプロパンで、茶をわかしている。親方と管さんは、水引きを張っている。藤野さんは、畑仕事をでもするように腰を屈め、じょれんで土をすくっている。安雄が、とびあがり、掘り進んだ穴からあがる。長袖シャツのまくった手首から、|刺青《いれずみ》がのぞいている。安雄のわきがのにおいがした。彼は息をつめた。吐き気がした。彼は、区切りのつくところまで、土を掘り起しておこうと思った。つるはしを打ちつけた。見事に根元まで入った。引き起す。土はふくれあがり、めくれる。つるはしを置いて、シャベルに代えた。腰を入れ、シャベルのかどに足をかけ、土をすくった。外に、ほうり出す。汗が出た。まだ塩辛かった。いつも掘り方の時、塩辛い汗が出る間は、息をするにも力がいった。それが、水のようになってしまえば、体は嘘のように楽になった。掘り方に体が馴れ、力を入れ、抜く動きにぴったり息が合っているのだった。特に掘り方は、好きだった。なによりも働いたという感じになった。この単純さが好きだった。現場の横の、切りひらかれていない山の雑木が、ゆれている。つるはしをふるう。シャベルですくいあげる。腕の筋肉が動き、腹の筋肉が動く。それは男らしかった。  彼は、安雄や女の人夫の話をききながら、区切りがつくまで、掘りすすめた。彼は、土方仕事が好きだった。他の仕事や商売よりも、貴いと思っていた。朝、日と共に働きはじめ、夕、日と共に働き止める。単純で、泥まみれになる仕事だが、思いがけない事にも出会う。豚小屋のそばの大溝を、さらって、石垣を築いた時だった。豚の|屎尿《しによう》が、底にたまっていた。体中が濡れた。屎尿にまみれた。屎尿のにおいと、ぬるぬるした汚物そのものに、親方も人夫たち皆んなも、打ちのめされたが、彼は平気だった。この時だった。大溝に、ソーセージを入れたコンドームが流れてきた。色めき立った。豚小屋の向うのアパートか建て売りのあたりか、それとも町方の家のどこかに、昼も夜ももだえる若後家がいるのだ、と結論した。一言、声を掛けてくれればいいものを、と安雄は言った。土を掘る。土はふくらむ。裂けてくだける。また、つるはしをふりあげ、腰を入れて、打ちつける。汗が、眼に滴になってたまっていた。ふっと、顔を上げた。一瞬、なにもみえなかった。額に巻いたタオルを取って、汗をぬぐった。体がじいんと鳴っている気がした。彼は、ひょいと上にあがった。 「清ちゃん、おれにも茶を入れてくれ」彼は女の人夫に言った。切りをつけた管さんの釣の話をきいていた女の人夫は、亭主にぶったたかれて欠けたという歯をみせてわらい、やかんから湯呑に注ぐ。「管ちゃんは、よう物知ったあるから」女の人夫は、湯呑を差し出す。 「まだまだやけどな。もうちょっと経って、奥へ行ったらヤマメがとれる」 「このまえ、高田の現場に親方とこのボクが遊びに来とった時、秋ちゃんが鮎をとってきたげ」安雄は言う。「浅瀬におるやつに、石ぶつけて。頭ぐしゃぐしゃ。傷がどっこにもついとらんのに死んどるのもあったねえ。あれ、どうした?」 「ああ、おれが食ったった。姉やんとこへ持っていたら、気色悪りと言うさかに、塩焼きにして」 「おっきいん?」女の人夫が訊く。 「あたりまえや、おっきいよ、秋ちゃんがとったんやから」安雄は彼の顔にまばたいて合図する。 「ちっさいやつじゃ。小鮒みたいなやつばっかし」  彼がそう言うと、安雄は真顔で首をふる。そうかな、と独り言をつぶやくふりをする。そして腰を屈めたまま、股間のあたりで両手を使って、「このくらいあったと思ったんやけどなあ」とひとりごちる。 「安さんが言うと、何の話してたんかわからんようになる」女の人夫は言い、わらう。それにつられて、皆んなわらう。  彼は苦笑した。一人、妙にさめた。どこへ行っても、男と女のわいせつな話ばかりだと思った。親方が、笑を眼尻に残したまま、彼をみた。彼は眼をそらした。  木がゆれていた。ゆっくりと葉をふるわせていた。余計なものをそぎ落したい。夢精のたびに、そう思った。人夫たちの声の他に、音はなかった。振り返るとそこから、市の全体がみわたせた。駅が、ちょうど真中にあった。駅から、十文字に道路がのびて人家がかたまっていた。商店街もみえた。駅の左脇に小高い丘があり、その下が姉の家のある路地になっていた。そこから、彼の家まで、線路に沿った道をたどり、田圃の道を行く。歩いて十分ほどの距離だった。彼の家から防風林まで、道が枝別れしながら一本ついている。防風林のすぐそばに墓地があった。そのならびに、古市の家がある。日を受けて白い屋根がみえる。防風林のむこうに、浜が見えた。海がみえた。町は海にむかって開いたバケツの形をしていた。日が当っていた。彼は不思議に思った。万遍なく日が当っている。とどこおりなく、今、すべてが息をしている。こんな狭いところで、わらい、喜び、呻き、ののしり、蔑む。憎まれている人間も、また、平然としている。あの男が、いい例だった。あの男は、何人の女を泣かせたろう、何人の男から憎まれているだろう。いつも噂にのぼったあの男も、それから、文昭の産みの女親も、この狭いところで生きているのだ。愕然とする。息がつまった。彼は、ことごとくが、うっとうしかった。この土地が、山々と川に閉ざされ、海にも閉ざされていて、そこで人間が、虫のように、犬のように生きている。  彼はしゃがみこんだ。材木の上に坐っていた親方が、体をずらし、ここへ坐れと言った。 「秋幸、昼を食ったら、管ちゃんとセメントを取って来い」親方は、言った。 「長徳でか?」彼は訊いた。 「おお、そうじゃ、長徳」親方は言った。「あそこの女の子が、おまえにほれとると。なあ、管ちゃん」皆がわらいからかうより先に、彼は、「女は誰でもおれにほれるわ。男前やし。気はやさしいし」と一人で言った。 「ほほう。秋ちゃんは、男前に自信があるな」と安雄が言った。  昼までに区切りをつけようとして働いている時、光子が安雄の弁当を持って、上ってくるのがみえた。いつもそうだった。光子は、現場が、町に近いところは歩いて、遠いところは自転車で、弁当を持ってきた。アイラインを入れ、まっ赤な口紅をつけていた。髪にクリップをつけたままの時もあった。光子は、掘りあげた土をまわり、プロパンガスのそばに立った。ひとつ大きく息を吐いた。「安雄っ、ここへ置くど」と、最新型のジャー式の弁当を置いた。「やれ、疲れたあ」と、人夫の一人が置いていたセルロイドの煙草ケースから、一本抜きとった。口にくわえる。それから積みあげた砂利をサンダルで踏んで、マッチを取った。火をつける。ちょうど安雄がしていたように、しゃがみ込む。 「安雄、今日も、また、むかえに来てな、むかえに来なんだら、浮気するど」 「阿呆な」親方が言った。光子は親方の顔をみる。よく似ている、と彼は思った。 「安雄、まじめに土方をしてなあ、しっかり、かせげよ。土方してたら、船に、乗らいでもええんや、土方、しっかりしてたら、こうしていっつも、一緒におれるんや。弁当持って来たれるんや」光子は鼻からけむりを吐き、それで気がすんだというように、一口吸っただけの煙草を地面にこすりつけて火を消した。 「浮気もせんと。なあ、ちっさい兄やん、うちら、傍からみたら、新婚ほやほやにみえるやろ?」 「しょうもないこと言うて」安雄は言う。また、安雄のわきがのにおいがする。 「しょうもないことではありませんよお」と光子は欠伸する。「昨日、寝たのが三時。起きたのが六時。安さんが仕事へでてからうつらうつらしてたけど、隣の子らがさわぎまわって眠れへん」また欠伸する。今度は、口を手でかくす。「また今日も、バーへいかんならん」 「辞めたらええやないか」管さんと、掘ったところをはかっていた親方が、顔をあげた。「安雄が、働いとるのに」 「安さん、いつ何どき、土方いやや、また船に乗ると言い出すかわからんしい」光子は、ふっと顔つきを変えた。 「アパートの家賃かて、払わんならんしなあ。ちっさい兄やんも、いっぺん古市兄ちゃんに言うたってよお。父さんが死んだかて、家も、土地も、一人占めにするな、言うて。誰も、トラック事故で、助かった方の右脚をくれとも言うてへんのやから。わしかて、父さんの子やからな。娘やからな。権利はあるんやから」 「知るか」親方はどなった。「そんなことばっかし言いくさっとったら、光子、いっぺん、どつきあげるど」 「そんなことばっかし言うてないけどよ」光子は、親方の見幕にあわてて弁解した。「バーになど働きに行きたない。いっつも、安さんと、昼も夜も新婚みたいに一緒におりたいと、言うてるの。欲を言うてるんと違う。人のことをないがしろにせんといて、と言うとるの。なあ、わしにあるのは、色欲だけや」  尻をおとしてしゃがんだ光子のスカートから、太ももがみえた。親方にどなられ、どうつじつまを合わせればいいのか、分らない様子だった。仕事のリズムが、狂ってしまった。彼だけではなく、親方を入れて、六人の組員全体がそうなってしまった。光子は、ぼんやりとしゃがんでいた。安雄は、黙って、シャベルで土をすくっていた。  ちょうど夕焼けが、始ったばかりだった。倉庫に道具をしまい込み、外の水道で手と顔を洗った。ついでに頭に水をかぶった。ぽたぽた滴の垂れる頭を下げ、裏口に行き、「姉やん、タオル。タオル取ってくれ」と言った。姉は、バスタオルを差し出す。二階から、姉の小学六年になる男の子が降りて来て、「今度、また高田に行こうよ。鮎、また、つかまえようよ」と言った。「ああ」とくぐもった声を出した。上りかまちに腰かけ、地下足袋をぬいだ。 「秋幸は、どうする? ここですしを食べていく?」  姉が、大皿に、すしをよそっている。酢飯に、魚の煮た細い切身、しいたけ、れんこん、さやえんどう、数え切れないくらい入れ、混ぜあわせている。姉は、ラップで皿をおおう。紫のふろしきで包む。祭りの日、祝事の日、法事の日、その度ごとに、このすしを食べてきた。母もよく作った。  姉は、「はいむこうの家へ持ってて」と、わらいをつくって、ふろしきに包んだ大皿を渡す。ふっと、姉の笑が、感染する気がする。姉が、この家で、暮らしている。兄が死んだこの家で、暮らしている。彼は、姉の裸をみた時のことを思い出した。まだ子供が産まれて幾許も経っていない頃だった。姉は、一時、親方の女道楽で夫婦別れして、母の家へ来ていた。姉は風呂に入った。なんの気なしに風呂場をあけた。姉は子供を洗っていた。姉の背中は、右半分、ぽっこりくぼんでいた。子供の時の、肋膜の手術跡だった。夫婦別れしたのは、親方の女道楽などが原因ではなく、その背中のせいだ、と彼は思った。それから間もなく複縁した。  姉の子供が、川の瀬にいる鮎をつかまえるには、どんな道具を持っていけばいいのかと、彼にまつわりついた。親方が、風呂場からどなっていた。姉は、着替えを持って風呂場に行く。「秋幸、どうする?」と振り返り、急に思いついたように、「義父さんも母さんもおるから、やっぱし、むこうで一緒に食べたほうがええな」と言った。それから玄関をみて、「ああ、また」と言った。  彼は振り返った。そこに弦叔父が、立っていた。弦叔父は、兄や姉たちの父親の弟だった。 「美恵」と呼んだ。姉は、「はい、はい」と返事した。「ちょっと待ってねえ、うちの人、風呂に入ってるから」 「あれには用事ない」と姉の顔をにらみつけて言った。また酒に酔っていた。姉は、風呂場のドアをあけ、下着を置き、すぐに出て来た。台所の冷蔵庫をあけ、ビールを一本取り、「叔父さん、ビール持ってて」と言った。玄関に仁王立ちになった弦叔父をみて、姉の男の子供がくすくすわらった。しかし、弦叔父は、腕を組み、姉をにらみつけていた。彼が、姉の手からビールを取り、「ほら」とかまちに置いてやっても、ビールにみむきもしない。 「美恵、叔父さんの顔をみよ」弦叔父は言った。「悪いことをしてないか、人にうらまれる事ををせなんだか?」 「してませんよお。さあビールを叔父さんに持って来たのに」 「叔父、ビール飲め」彼は言った。 「栓が開いてない」と言った。  男の子が、声をたててわらった。姉が、「これ」とたしなめる。 「たまには、美恵の顔みながら、飲みたい。叔父さんは、今日はここで、坐って、飲むど」  弦叔父の言葉をきいて、彼が立ちあがった。姉は、なにをするのだろうと、おびえた顔をした。彼は、姉のその気持ちがわかった。「コップ、コップ」と彼は言った。「栓抜きとコップ」彼は台所に歩いた。台所の窓から、夕焼けの終りかかった空がみえた。弦叔父の言う声が聞こえた。「おっきい体じゃね、雲突くみたいな大男じゃね。あの男にそっくりになって来たね」 「叔父さん、秋幸はわたしの弟やで」 「叔父も安心じゃ。美恵にこんな雲突くような弟がおるから」弦叔父は上りかまちに坐り込んだ。彼は、ビールの栓を抜いて泡のたれる瓶を渡した。弦叔父は右手でコップを持ち、左手でビールを注いだ。右手は、指がなかった。五本の指が、くっつき、大きく二つに裂けた具合だった。生まれついてのものだった。それは、けもののひづめを思わせた。「美恵、なんどあったら、叔父に言うて来い。おまえの婿であっても、ようしゃせんと。妾などまたつくったりしたら、死刑じゃ。叔父はこのあたりの帝王じゃからな」その手でコップを持ちつづけていることすら苦痛らしく、左手に持ちかえた。 「アル中の帝王」男の子が言った。姉が、「これ」とまたたしなめた。 「市役所との喧嘩はどうした?」彼は弦叔父の手から、眼を外した。 「あれもおれの勝ちじゃ。おれが市長に電話したら、一発で、黙った」弦叔父は、その手を振った。 「それでどうして取り壊しにおうたんじゃ?」彼はわらった。弦叔父は、市有地にバラック小屋を建てたが、人の噂になり、市役所から苦情が来た。弦叔父は、がんばった。一指たりとも役人に触れさせはせぬ、と、このあいだ会った時は、彼に、力説していた。ところが一日のうちに、バラックは壊された。市の有力者から内々で金を取ったから壊すことに同意したと、人々は言っていた。弦叔父は、コップのビールを、一口ずつ飲んだ。「おれが、判事じゃ。おれが法律じゃ」  風呂から出てきたステテコ姿の親方が、頭をタオルでこすりながら、わらっていた。 「叔父の法律は、めちゃくちゃだ」親方が言う。 「めちゃくちゃなものか。おまえらでも、悪いことして、この美恵を泣かしとったら、すぐ死刑じゃ」と、一人でうなずく。 「叔父さん、うちの人を死刑にしたら、わたしがつらいから。他の人はかまんけど、うちの人だけ、もう悪りことせんと反省したらもっと軽うして」 「あかん。死刑じゃ。悪いことしたもんは、死刑」弦叔父は言う。そうして一人で納得して、うなずく。姉の反応をみながら、「な、な」と言う。  一体どこで酒を飲むのか、彼にも姉にもわからなかった。姉の、父親の、唯一人生き残っている兄弟だった。けもののひづめの手を持った弦叔父は、確か四、五年前まで路地の角で、女房と二人で駄菓子屋をやっていたはずだった。それまで彼は、この弦叔父の手をみたことはなかった。母から、姉たちの叔父に、どういう因果でか、ひづめの手の男がいるときかされてはいたが、彼は見た事がなかった。手をかくしていたのかもしれない。それとも弦叔父そのものが、外に出ることを嫌ったのかもしれない。酒に酔い、姉の家に酒を無心にくるようになったのは、三年前、女房が死んでからだった。  弦叔父が、一度、彼たちの家に来て、母に、酒をねだったことがあった。母は、一本、渡した。たしか義父の組の人夫たちのために買いおいてあった二合瓶の酒だった。たちまち飲み干し、もう一本くれと言った。そんな飲み方をしては、体に悪い、と言った。「体に悪いのはわかっとるんじゃ。おまえは、こんな手のおれが、亭主だった男の弟やというのが、気にくわんのか?」母は、怒りはじめた。手ェが悪りことと、なんでこのわしと、関係がある。その亭主は死んだ。死んだ者となんでこのわしが関係ある? 母は、まきを握った。女やと思て阿呆にするな。どつきあげたろか、と、ふりあげた。ちょうど居あわせた文昭が、とめた。後になって姉が、そのことを知り、最初は、母のむごい仕打ちをどなり、なじってやると息せき切って、母の家へ出かけた。ちょうど彼が家に帰ると、姉は、仏壇のある間の壁に顔をむけ、背をまるめ、泣いているところだった。 「美恵」と弦叔父は言う。「悪りことするなよ」  はい、はい、と姉はうなずく。「悪いことなど、全然してませんよ」姉はビールをコップに注ぐ。  弦叔父が、姉の子供の顔をみつめる。眼をまるめ、おどけてみせる。「坊、叔父が話したろか?」男の子はうなずく。「あそこに山があるやろ、あそこに天狗がおるど。叔父は、いっつもその天狗と話しとる。天狗の顔は赧い。叔父が酒飲んでいくと、叔父を自分の仲間やと思て、いろいろ教えてくれる。なんでも知っとるんじゃ。今日は、あいつとあいつが喧嘩した。あいつが悪いことした。あいつが、死ぬ、と」 「嘘ばっかし言うて」と彼はわらった。不愉快になった。姉が気がいいことにつけ込んで、姉を苦しめている。弦叔父がビールを飲み尽したのを知り、親方は姉にもう一本出してやれと言った。姉は、冷蔵庫から取り出した。彼は立ちあがった。姉の家の、小さな仏壇に、兄と姉たちの父親の写真が飾ってあるのをみた。姉たちの父親と、弦叔父は似ていた。写真を老けさせ、黒ずませ、皺をつくれば、弦叔父じゃないか、と思った。  すしを持って、親方の家を出た。夕焼けは終っていた。わざわざ遠まわりして、新地をとおった。体に甘い疲れがあった。客引きの女達が、狭い路地に立っていた。あの男、彼の男親に当る男の、何度目かの新しい若い女とも、女郎の腹に産まれた彼の腹違いの妹とも判別つかないが、新地の路地の店に出ているという噂を彼は思い出していた。いつか、その店に行ってみようと思った。いま、彼は、その女に会うつもりはなかった。会ったところでどうにもならない。どうするてだても思いつかない。  溝のものとも、小便のものともつかないにおいが、新地の路地にあった。「お兄ちゃん、ちょっと寄らへん」と女の一人が声を掛けてきた。彼は、返事をしなかった。「寄って行っててよ」と女は、彼の腕に手をまわした。酒と化粧のにおいがした。金はあった。酒を飲み、女を買う相場の金は持っていた。だが、女を知らなかった。知りたくなかった。余計なもの、やっかいなものに自分をかかわらせ、汚したくなかった。いや、ひとたびそれを知ると、とめどなくのめり込み、どろどろになり、女とみれば見境いなしに手をつけたあの男と同じになってしまいそうな自分が不安だった。「安うしとくから寄っててえ」女は、手を引いた。路地の角の木が、ゆれていた。彼は息苦しかった。あと一つ、腕を強く引いてくれ、と彼は思った。そうすれば、今日こそは酒をのみ、夢の中ではなく、現実に女を抱く。女を初めて経験する。あふれる。しかし女は腕を離した。「金がないんじゃ」と彼は女に言った。女はそっぽをむく。  兄が生きていたころ、よく酒を飲んだという店があった。その二軒隣の店『弥生』が、それだった。そこを足早にとおりすぎた。その店に入ることも、その店の前を通りすぎることも誰かにみられ、禁じられている気がした。自分の地下足袋の足音を確かめながら、家にむかった。夜の闇の中で、白い花が咲いていた。それは、人間の顔にみえた。兄は、彼の今の齢で死んだ。母や姉が言うように、自分が兄と似ているとは、思えない。彼は、大きな体だった。手も足も、ごつごつしていた。眼は、板にくり抜いた穴のようだし、鼻は、獅子鼻だ。そのような体、そのような顔の彼が、兄に似ているとは思えない。兄は、優しい顔の男だった。あの姉たちの父さんや弦叔父の顔と母の顔をかけ合わせたものが、兄の顔だった。おれの顔は、あの男の顔だった。世の中で一番みにくくて、不細工で、邪悪なものがいっぱいある顔だ。彼は思った。その男が、遠くからいつもみている。いつもおれの姿を追っている。彼は立ちどまった。男が、女郎に産ませたその子に会ってみたいと思った。『弥生』へ行って、確かめてみようかと思った。だが、もし腹違いの妹だとわかっても、どうなるわけでもない。彼は種違いのきょうだいの中で育ち、いま、母の三度目の夫の義父を、親爺と呼び、その子供を、兄と呼んで暮らしていた。女郎の子は娼婦になる。土方の家で育つと土方だ。それが一番てっとり早い。足早に、彼は、歩いた。幾種類もの兄弟、幾種類もの父や母に、自分がとりかこまれているのに、自分のような気持ちの人間が、たった一人だということが、嘘のような気がした。  土方は、彼の性に合っている。一日、土をほじくり、すくいあげる。ミキサーを使って、砂とバラスとセメントと水を入れ、コンクリをこねる時もある。ミキサーを運べない現場では、鉄板に、それらをのせ、スコップでこねる。でこぼこ道のならしをする時もある。体を一日動かしている。地面に坐り込み、煙草を吸う。飯を食う。日が、熱い。風が、汗にまみれた体に心地よい。何も考えない。木の梢が、ゆれている。彼は、また働く。土がめくれる。それは、つるはしを打ちつけて引いた力の分だけめくれあがるのだった。スコップですくう。それはスコップですくいあげる時の、腰の入れ方できまり、腕の力を入れた分だけ、スコップは土をすくいあげる。なにもかも正直だった。土には、人間の心のように綾というものがない。彼は土方が好きだった。  その日、午後から雨だった。仕事を切り上げた彼は、雨がうっとうしく、早々と家に帰った。義父も文昭もいなかった。風呂を沸かして入り、一人だけ随分早い夕飯を食べた。母は、さきほど雨が降り出す前まで、姉が来ていた、と言った。「これですっぱりするよ」と言った。長いこと、母は、最初の夫、姉たちの父親の法事のことを思案していたのだった。その法事までにあと一カ月になった。母は、「名古屋の芳子が」と下穿ひとつのまま飯を食っている彼に言う。「自分らの父さんの法事やから、美恵の家でやると言うてきたけど、美恵の家でやったら、わしの気持ちはどうにもならん」母はふっと声をおとす。「芳子から電話きたときは、泣けてきたよ。父さんの法事は、この家でやって、美恵に全部取りしきらす。この家に来る坊主でなしに、むこうの家の坊主を連れてくる」母は立ちあがり、台所のガスを消した。 「どうでもええやないか、そんなこと」彼は言った。 「どうでもええような事やが、しちめんどうくさい関係やからなあ」母は坐り込む。彼はその母を、孕んだ犬のように思った。外は細い雨だった。家の中だけが、薄暗い。義父のズボンが、かもいに、ひっかけられている。遠くで、エンジンを空ぶかしする音がしていた。  飯を食い終ると、まったくすることはなくなった。仏壇とテレビを置いている部屋に横になった。母が、枕と、夏ものの掛け蒲団を出した。母は、枕元に坐り込んだ。「あと五年の辛抱じゃね」と母は言った。「その間に嫁ももろて、子供もつくって、それから独立したらええ。それまで見習いじゃよ。人夫と一緒になって酒をのんだり、バクチをしたりせんと。母さんはそれが一番心配じゃ、酒のむのと、バクチをすること」 「酒はのめんし、バクチはやらん。好かんのじゃ」 「好かんことあるかあ」と母はわらう。「おまえの顔みたらすぐわかる。酒もバクチもやってみたい」 「そそのかしとるのか」彼は言う。 「阿呆を言うて。どこの親が、子供に、酒やバクチをすすめる。酒にもバクチにも、わしほどこりごりしたと思ってる人間が、他におるもんか」母は、怒ったような顔で、わらう。「人夫らと同じこと思ってたら、請負師にはなれんねえ。義父ちゃん、みてみい」母は言う。「酒もつきあいでしか飲まんし、バクチはやらん。おまえがいっぱしの請負師になって、兄さんもいっぱしになって」母は文昭のことを兄さんと言う。「二人で、組んでこの義父ちゃんのあとを継いでもええし、それが嫌なら、自分だけ一人で、機をみて独立したらええ。母さんが、後押ししたる。それがわしの務めや」 「いまごろ、あいつと一緒に暮らしとったら、おれは、大地主の坊ちゃんやな」  ふと口をついて出た彼の言葉だった。母の表情が一瞬に変った。「あんな者、あんな者は、よう行かへん。絶対によう行くものか」母は、彼のすぐ後にあの男が居るように言った。「人の物をふんだくって、自分の物にする人間らは。あれの噂きくたびに、おまえの体半分割って、血も半分、出したりたいと思うよ」母は興奮した。彼は、母の顔をみつめた。  その時、玄関の戸が、激しく開く音がした。母が振り返った。義父が、雨にぬれた作業着のまま、入ってきた。「えらいことじゃあ」と母の顔をみるなり、言った。「とき、えらいことじゃあ」義父は言い、声を呑んだ。「古市が刺された」義父は、一刻の躊躇もならないように、整理ダンスの上に置いてあったモーターバイクの鍵を取る。  起きあがった。「誰に、やられた?」と彼は訊いた。 「安雄じゃ」義父は言った。「これからすぐ病院へ行ってくる」 「美恵は?」母が訊いた。 「わからん」と義父は言った。「おれはすぐ病院へ行く」 「美恵は? 義父ちゃん、美恵は?」母が言った。「わからん、わからん」と義父は言う。  雨が降っていた。彼は、傘も持たないまま、外に出た。ズボンとTシャツ姿で外にとびだし、姉の家に走った。彼は、妙に自分が冷静であるのを知った。すぐ息が切れた。それでも走った。細い粒の雨が、顔面にかかった。わからなかった。突然、何故、そういうことがおこったのか。親方の兄、光子の兄の古市が、光子の亭主の安雄に刺された。義足をつけた古市を、人一倍健康な安雄が、何故、刺したのか? 義父はみたのだろうか? それとも誰かに聞いたのだろうか。小高い丘の緑が雨に濡れて、ひかっている。彼は、まず本当かどうか、確かめなくてはならないと思っていた。光子と古市の兄妹仲が、光子と親方、親方と古市の間とは比較にならない程、悪いことは知っている。だが、どうして安雄が剌さなくてはならんのか?  姉の家には、男の子が一人居ただけだった。男の子は、畳に寝ころがり、漫画本を読んでいた。彼は、拍子抜けした。ずぶ濡れのまま、入り込んだ。姉の家に、人が集まり、警官がいる、姉が動転して、髪ふりみだしただ泣いている。そう彼は想像していた。 「姉やんは?」と彼は男の子に訊ねた。顔もあげず、「病院」と答えた。 「ほんまに刺されたんか?」 「うん」と男の子は、初めて顔をあげた。「血が、どくどく出て、捕った」 「誰が」と彼はどなった。 「安雄おじさん。古市おじさんは、病院へ入った。皆んな病院へ行ったよ」  彼はためらった。びしょ濡れだった。雨が降りつづいていた。だが空は変に明るかった。煙草を吸った。安雄が、古市を刺した。血がどくどく流れた。それを実際見なくても想像できる。刺されれば、血が出る。血が出すぎれば、死ぬ。古市のことは、どうでもいい気がした。それより、姉が、心配だった。もともと体が弱かった。子供の頃からいままで、すぐ熱を出し、吐いた。極端に清潔好きで、よくこれで土方の女房がつとまると思うくらいだった。髪の毛が一本飯の中にまじっていたと言っては青ざめ、羽根をむしった鳥の皮を見たと言っては、不快になる。その姉が、血を大量に流す人間をみて、どうしているのか、彼には気懸りだった。その姉の傍に居てやろうと思った。バスタオルで頭をぬぐった。そして彼が顔をバスタオルから離した時、いつ現われたか、外に、こうもり傘をさした弦叔父が立っていた。 「美恵、美恵」と呼んだ。 「叔父、姉やんはおらんど」彼は、窓から顔をつき出して言った。「今日は、酒飲もと思ても、あかんど」 「美恵、美恵」と弦叔父は呼んだ。まっすぐ立つことも出来ず、ふらふらしていた。サンダルをつっかけた素足が、ひっかき傷だらけで赤く、泥でぬれている。 「おらん、おらん」彼は言った。弦叔父は、彼を無視した。「美恵、悪いことしてないかあ、人にうらまれるようなことをしてないかあ」その声をきいて、男の子が、ぐすっと鼻でわらった。  姉は病院にいた。彼をみつけるなり、「ああええとこへ来た」と言った。姉は、彼を、看護婦の控室に連れて行った。控室に、古市の嫁と小学校二年生の女の子がいた。嫁は、女の子を抱いて泣いていた。女の子は、犬のように眼をひらいて彼をみた。「ねえさんをわたしの家へ連れて行って、休ませてやって」しかし嫁は、「いやよお」と首をふった。「お父ちゃん、死んでしまうのにい。いやよおっ」嫁は叫んだ。女の子は、彼が、父親を刺した男だとでも言うようにみつめた。涙ひとつ眼に浮かべていない。 「大丈夫、死なへん。いま輸血しとるんやのに」 「いやよお、お父ちゃん、死んでしまうよっ」また首をふった。 「大丈夫や、死なへん」姉はきっぱりと言う。嫁は、お父ちゃん、死んでしまうよお、と言いつづける。彼は、姉の後に立っていた。「皆んな、輸血のために血をとってくれたんやのに。死ぬことあらへん」姉が、嫁をなぐさめる。姉が、たのもしくみえた。  姉の後について部屋を出た。古市は、手術室にいる、と姉は言った。手術室の前で、立ちどまった。「どうする?」姉は訊いた。彼は、首をふった。 「あとで母さんに頼んでくれん? ねえさん、あんなんやから、当分、病院におらんならんから、子供の世話を頼む言うて」 「よっしゃ」と彼は答えた。 「むこうの家で御飯と風呂だけ入れてやって。寝るのは、こっちの家でええから」 「学校へ行くのに、朝飯はどうする?」 「そうやなあ」と姉は思案する。「ええわ。わたしが、暇みつけて、行って世話するわ。今日だけ、むこうの家で夕御飯、食べさせたって」  一体何が原因なのか、彼にはわからなかった。突然、起ってしまった。安雄の姿を想い浮かべた。いや、安雄の体が動く時にわきの下からもれるわきがのにおいを想い出した。昼、雨が降り出すまで、一緒に土方をやっていたのだった。いつもと変りはなかった。コンクリを昼から打てるように、準備をした。そして一段落した。光子が、弁当を持って、現場の山道を登ってきた。光子がくると、人夫たちは、途端に軽口になる。光子が帰ってから、昼にした。空の雲が厚く日はみえなかった。ただ風だけが吹きつけ、いつものように木の梢、葉むらが、揺れた。準備をし終り、いざこれからという時、雨がふってきた。ついてなかった。一日延ばすことにした。仕事を切り上げた。安雄には、一体、それからなにがあったのだろう。安雄は刺す。古市の体から血が流れ出る。また刺す。古市の嫁と、女の子が、声をあげている。  彼は、待合室のベンチに腰かけていた。薄い髪を結い上げた小さな老婆が、受付と話しているのをみていた。濡れた服が、乾いてくるのを知った。奥の方から、義父が歩いてくるのがみえた。彼は立った。義父は彼に気づいた。 「えらいことじゃな。ありゃ、あかんど。輪血しとるけど。助かっても、足切らんならん」 「どこを刺された?」声がくぐもっている。 「足じゃ、足、ふともも。何回も刺されとる。助かっても、達磨といっしょや。むごいことするもんじゃ」  姉が、廊下を小走りにやって来た。「義父さん、母さんに心配せんように言うといて」姉は言った。義父はうなずいた。  安雄は、古市の、義足をつけた方ではなく、まともな方のふとももを、三回刺していたことが、後になってわかった。光子にそそのかされたのだ、と皆は言った。彼が、親方の家の倉庫に土方道具をしまい込み、安雄と別れてから、わずか三時間の間だった。三時間に、なにもかも変ってしまった。  古市は、死んだ。葬儀は、浜の古市の家で行われた。彼は、姉をみていた。姉の肩に力がなかった。ぺったりと坐り込んでいた。  むし暑かった。坊主が読経していた。窓をあけはなっているが、その前に、花輪が飾ってあるので風がさえぎられた。彼は外に出た。浜の家の、道のむこうに、丸太が置いてあった。電気ノコギリの音がした。彼は、煙草に火をつけた。しばらく、電気ノコギリと読経の音をきいていた。日射しが濃く、まぶしかった。ふと、彼は思った。兄は、母とおれを、安雄がやったように刺し殺したかったのだ。何度も、何度も、包丁を持ってやってきた。鉄斧を持ってきたこともあった。昨日の事のように、覚えている。彼は、十二だった。兄は、二十四歳、いまの彼の齢だった。早朝で、まだ雨戸を閉め切っていた。電燈はついていなかった。母の声で、眼をさました。蒲団の上に、母は、寝巻き姿のまま正坐している。義父は、その横で胡坐をかいている。彼と文昭は、隣の部屋で寝ていた。兄が来ているのがわかった。また、泥酔している。 「母さんと秋幸が幸せに行くのが、憎いんか」 「おう、憎いんじゃ」兄は言った。「おまえら二人だけ、好き勝手なことさらす」 「二人だけ言うて、秋幸はまだちいさいのに。おまえも美恵も芳子も大人やないか」 「それで、ほったらかしてええんか。おまえが好き勝手なことさらして、秋幸だけ連れて、他の子供はほっといてええんか」 「秋幸は子供やのに。おまえら大人やないか」 「おまえは、昔からそうやったなあ。おまえは、おれら兄妹だけ、放ったらかして、秋幸だけ連れてこの男と逃げようとしたな。ちゃあんと覚えとる。まだ芳子も美恵も、いまの秋幸ぐらいの時じゃ。おれらは忘れてないどお」兄はどなる。語尾がふるえる。「ぶち殺したろかあ」  彼は、悲しくはなかったが、泣いてみた。そうすれば兄の怒りがおさまるかもしれない、と思った。隣の蒲団で寝入っているはずの文昭が、手をのばして、彼の口をふさいだ。「秋幸、おまえもここへ来い。裏切り者」兄の声がした。寝たまま文昭が、手で、外へ出るなとおさえていた。彼は、文昭の手を払った。襖をあけた。兄は、包丁を持っていた。「そこへ坐れ」と、同時に畳に包丁をつき立てた。彼は泣くのを止めた。 「われら、二人だけ幸せになって、他の子供のことは、どうなろうとええんか」 「大人やないか」 「子供を犬の仔みたいに捨ててもええと言うんか。嫁入りもさせんと、放っといてもかまんのか」 「もう大人やないの。貧乏で嫁入りも大きく出来なんだけど、ちゃんと世帯持ってるやないの」母は言う。「憎いんやったらなあ、母さんと秋幸を殺せ。殺すんやったら、殺せ」 「おう、殺したる」兄は、包丁を畳から抜いた。握った。義父が、「やめよ、やめよ」と気抜けた声で言った。「うるさい」と兄は、また畳に包丁をつき立てた。「おまえに、おれはつべこべ言われることない。黙っとけ」 「殺すんやったら殺したらええ。わしも、こんなおまえをみるのはつらい。自分の腹いためて産んだ子に、憎いと言われる。自分の腹痛めて産んだ子が、憎みあふれかえって殺そうとするの、つらい。母さんは、おまえにまかせる。刺すんやったら、刺してもかまん」母は言った。「義父さんと文昭にも、はずかし」  その時は、それですんだ。姉が、兄と一緒の時もあった。姉は、兄をとめていた。母は、兄よりも姉にむかって、「おまえらはそんなことするんじゃ、わしの子と違う」と言った。姉が一人、身をもみしだいて泣いた。その時も、彼は、姉が、自分のことのように泣くのが、不思議だった。  その年の女の節句の朝、突然、兄は、家の庭の木に首をつって死んだ。姉は、家にやってきた。寒い日だった。母に物も言わず、いきなり抱きついた。姉の口からもれる息が白くみえた。呻きが声にならず、白い息になっている。彼は二人をみていた。あまりにあっけなかった。あんなに繰り返し繰り返し、刃物や鉄斧を持って、母や彼を殺しに来たのに、血をみることもなく、憎んでいる彼や母の悲鳴をきくこともなく、ぷっつり死んだ。それからちょうど十二年目だった。彼は、二十四歳になった。兄が死んだ年に生まれた姉の男の子は、十二歳になった。なにかが大きく変った。そしてなにかが、十二年前の元にもどった。  彼は、浜の家をみつめた。日を受けていた。ここで人が刺されたとは、納得できなかった。一体、なにが原因で、義足の男のまともな方の脚を、三回も刺したのだろうか?  十五ほど花輪が並んでいた。彼は、入口に立って中をのぞき込んでいる近所の子供をみた。珍しそうだった。 「秋幸」と声がした。文昭だった。「親爺、中から呼んでくれ」と言った。 「なんじゃ、なんど用事か?」 「仕事のこと」と文昭は言った。彼は立ちあがった。家の中の仏壇近くに坐った義父に、「ちょっと」と言った。柩が、眼の前にあった。柩そのものが、古市の死体にみえた。古市のわらい顔の写真が、仏壇にあった。義父のそばに、母がいた。母の隣に、姉が、坐っていた。姉は、母にもよく似ていた。母がやせて、若返れば、姉そっくりになるはずだった。義父は、外に出た。文昭が、道具の数が足らないと言い、どこに電話して持って来させればいいのか、訊ねた。 「おまえは、そんなことまでわからんのか」義父は言った。「ヤマキに電話したらええ。遊ぶことばかり一生懸命で、ちっとも仕事に頭がいかん」 「そんなことまで、おれが分るか。自分で全部やってて、いきなりおれにやれと言うても」文昭は小声で言った。 「なにをえらそうに」義父は、広場にとめたライトバンの方に歩いていく文昭に、言った。数珠を片手に持ったまま身を屈め、小石をひろった。「親にむかって、口答えしくさって」はやく行け、と言うように、義父は石を投げた。石は文昭の尻のあたりをとんだが、はずれた。  ちょうど霊柩車が、橋からの道をのろのろやってきた。義父が、家の前に立って、「ほらあ、どいたらんか」と手を振ってどなっていた。文昭はライトバンのエンジンをかけ、勢いよくバックし、クラクションをひとつ鳴らし、方向転換して、浜の方へ走り抜けた。その後に、霊柩車が、バックで入った。  夢をみていたはずだった。覚えていようと夢の中で思った。だがめざめると、忘れていた。文昭が、彼をみてわらった。日が当っていた。なにかが変ってしまったように思っていたのに、いつもの朝と変りはない。「秋幸、はよせんかい」と母が言った。死んだものに、この朝がないというのが不思議だった。干物を焼いたにおいがしていた。兄に、あの時、刺されて死んでいたら、自分もこの朝を見ることも、感じることもない。  姉の家は、閉ったままだった。以前にはなかったことだった。彼は、迷った。戸を叩いて、起そうかと、思った。葬儀の翌日だから、休むのだろうか、と思った。それでなくとも、雨の日、安雄が古市を刺してから、仕事がめちゃくちゃになっていた。今日中に、コンクリを打ってしまわなくては、次の段取りが立たなくなる。彼は思った。閉ったままの硝子戸の前に坐り込んだ。犬が一匹、路地の横から出て来た。親方がいなくとも、仕事は出来る。彼と、管さんと、藤野さんと女の人夫でやればいい。倉庫の鍵と、車の鍵があればよい。踏み切りの方から、藤野さんが歩いてくるのをみつけた。彼は、安堵した。仕事をすることによって、日と共に働き、日と共に働きやめるいつもにもどれる。そう思った。人が人を刺すなどということは、あってはいかん。そんなことはすぐ忘れ、考えないことが、一番よい。  藤野さんは、親方の家が、雨戸を閉めたままなのに気づき、「親方も、奥さんも、疲れとるんやで」と言った。 「コンクリ打ってしまわんと」彼は言った。 「そのうち起きてくる。ちょっとほっといたら」  女の人夫と管さんが来た。「さあ、今日から、わしら、仕事じゃ」管さんが言った。「安雄も、思いきったことしよって」 「殺すつもりと違ごたんやろ」女の人夫が言う。「包丁持って、おどしに行くつもりやったらしい」  玄関の硝子が、かしゃかしゃ鳴った。鍵が内からはずされ、戸が開いた。親方が、上半身裸、ステテコ姿のまま、顔をみせた。「おう、集っとるねえ」と眼をこすった。「美恵、後で、母さんに来てもらうように言うとくさかな。それに医者にも、来てくれるように電話しとく。今日は、寝とけ」  それから、人夫の顔をみて、「昨夜から熱を出しとるんや。体弱いから」と弁解した。顔が腫れぼったかった。 「病気か?」彼が、訊いた。中から、「風邪引いたんやよ」と姉の声がした。喉に痰がひっったような、しゃがれた声だった。 「疲れたんやろ」親方が言った。「秋幸、倉庫をあけてくれ」と鍵を、彼に渡した。鍵はつめたかった。  妙におとなしかった。十時の時も、昼も、三時の休憩の時も。軽口を言っても、すぐ、ひそひそ声を低めてする噂話のようになった。安雄がいないせいだった。実際、一人で四人分ほど、陽気にはしゃぐ男だった。腕に刺青をしてはいたが、けっして人を刺すような人間だとは思えなかった。  人夫の一人は、親方が現場を離れている隙に、また、「光子にそそのかされたんじゃ」と言った。安雄は巻き添えを食った。安雄こそ被害者じゃ。人夫たちは、刺されたあげくに死んだ光子の一番上の兄の古市より、刺した安雄に同情した。「これでまた安雄は当分、光子に会えんね。今度は、船に乗っとるより長いど」管さんは言った。  噂話を楽しんでいる人夫たちが、彼には理解できなかった。もし、彼が、人を刺しても、その後、こんなふうに噂話をするのだろうか? 彼はミキサーのエンジンをかけた。バラスをかごに六ぱい、砂を三ばい、セメントを小バケツに一ぱい、それに水を、ミキサーの中に放り込む。六・三・一の割合だった。ミキサーは程よく、こねまわす。彼が、ミキサーの担当になった。藤野さんが、一輪車にこねあがったコンクリを受け、持ってゆく。親方と管さんが、コンクリをならす。女の人夫は、水の汲み役と砂のかき役だった。「柔らかいなあ」と藤野さんが言う。それを彼は女の人夫に伝令する。ミキサーの中に、女の人夫は、砂を三ばいとちょっと入れ、水を入れる。彼が、後を受け、セメントをバケツで放り込み、バラスを多めに入れる。追いたてられるようにして、次のために、空いたかごにバラスをかき、バケツにセメントを入れる。安雄がいて、それぞれの持ち場に不足なく人夫がついている時は、彼は、セメントと水をバケツに入れるだけでよかった。ころあいをみて、彼は、女の人夫が用意した砂と、安雄が用意したバラスをミキサーの中に入れ込んだ。義父の組にいた時、文昭と言い争いになったのは、この持ち場のことだった。コンクリを打つ時の要にあたる場所だった。柔らかくも固くもなく、コンクリをつくった。親方は、よく、天下一品だとそのコンクリをほめた。だが、今日はまるっきり勝手が違っていた。コンクリを打ち終ったのは、五時をまわってしまっていた。最後まで、いつもの調子を取りもどすことができなかった。 「安さんの代りに、一人連れてこな、仕事にならんの」女の人夫が、親方にそう言えというふうに、彼の顔をみる。彼は道具を集める手を休めなかった。コンクリを打ち終ってしまうと、当分、この現場には、来ないはずだった。坂をならし、石垣を築く女子高校の現場に、明日からかかる予定だった。この現場には、親方と管さんが来る。二人で、二日もあればかたがつく。ミキサーは、ここに置いたままで、道具屋のヤマキに電話すれば、引き取りに来る。彼は、ヤマキの親爺を思い出した。管さんと、道具を買いに行ったり、リースのブルドーザーやダンプを借りに行った時、ヤマキの親爺に、これがあの男の子供の一人か、と憎々しげに見られている気がした。ヤマキが、あの男に手形をパクられ、乗っ取られそこなったのは、このあいだのことだった。  親方の運転する車に乗って帰った。彼は助手席に乗った。親方は、黙っていた。車は、家までの最短距離を走った。それまで三回に一度は、安雄のために廻り道をして、アパートのある道に出た。「親方、今日は光子、機嫌悪かったさか」安雄はそう言い、途中で降ろしてくれと言ったものだ。しかしそんな時、親方は、わざとアパートの前で車を停めた。  カーブを曲ると、繁華街だった。信号を右に折れ、一直線の道を走った。スピードメーターの針が七十を上下していた。朱と黄金色に雲が変っていた。さっきまで木の緑がみえていたのに、山は、暗く黒く変った。不安だった。誰かに、体の一部をしっかり押えてもらいたい気がした。なにかが変化した。なにかが破けた。それは、一体なんなのだろうか? 彼は、体に疲れがあるのを知った。親方も、管さんも、藤野さんも、それからよくへらへらわらう女の人夫も、黙り込んだままだった。  葬儀の翌日から、そのまま、姉は、風邪と疲労のため、寝込んでしまったのだった。突発した事件のほとぼりがさめないうちだったから、人々は、姉に同情する。刺した本人や刺されて死んだ古市より、風邪と疲労と心労で寝たっきりになった姉こそ、事件の一番の被害者だと言った。医者は、肋膜の再発だ、と、みたてた。それを聞いて、姉は泣いた。姉にしてみれば、なによりも一番恐ろしい病気だった。それが彼には、わかった。  姉は、満四歳の頃、肋膜を患ったのだった。医者は、助かる見込みはほとんどない、と言った。その話は、当の姉から、繰り返しきかされていた。姉の父親は、仕事から帰ると、上着を脱ぐのもそこそこに、熱に浮かされ、ただ息をするだけの、ちいさなやせこけた姉の体を、さすった。「かわい、よ。かわい者、よ」父親は言った。声をあげて、泣くこともできず、ただ息をもらして呻くだけだった。父親は、山を売った。その金で、姉は背中の肋骨を三本取り、手術して、生きかえった。約一年ほどしてその父親が死んだ。財産は一切なかった。姉は、その話をたぶん母から聞かされたのだろう。彼に、いま、自分の父親から、「かわい、よ、おお、かわいよ」と言われたばかりだというように話したのだった。そんな時、眼に涙さえ浮かべていた。  姉が寝込んでから、母が、足繁く通った。食事の用意と洗濯、掃除をした。土方を終えた彼が道具をしまうのを母は待って、姉の蒲団のそばに坐っていた。姉は、首まで蒲団をかぶっていた。姉の顔は、青白かった。家に上り込んだ彼に気づき、母が、「おかえり」と言った。 「ちょうど、美恵と、おまえが生まれた時の話しとったんや」 「こんな姿みとると、兄やんによう似とるねえ」姉は顔をあげて、彼をみた。うつぶせになった。起きあがろうとして、母にとめられた。 「仕事は?」姉は訊いた。 「終った。明日のうちに、石屋が来なんだら、段取りがつかん」 「お父ちゃんがよう言うけど、秋幸は、仕事のことになると、一生懸命になるんやで」姉が母に言う。 「ああ、そら一生懸命にならなんだら、請負師にもなれん」母は言う。そして独りごちるように、「いまでも、わしは、よう覚えとるんや。あの男と別れた後、|六月《むつき》の腹やったけど、どんなにしょうか知らんと思た。兄やんも名古屋の姉やんも、おまえも、母さん、|赤子《ねね》産んで、産んで、と言うたやろ。おまえら、自分で育てるんでないから、人形でも出てくるつもりやろが、母さんにしてみたら、おまえらと片親の血が違ごて、行く行く一人だけ、きょうだいじゃないと仲間はずれにされるかもしれんし、なによりも食べさせていかんならん。それでも産んでみよ、と決心した。今度は、兄やんが、男を産め、男を産め、とうるさい。女ら、要らん、ぴいぴい泣いてばかりおって」 「兄やんに、よう、泣虫じゃ、とおこられた。母さんは病気のときしか、優しいにしてくれんもん」 「わしが、優しいに、世間の女親みたいにしとったら、飢え死にするわ。戦争のすぐ後やし、買い出しに行かんならん。他と違ごて、元がなんにもないんやから。そこの、いまは奥様という顔しとる入相のとみさんと、あそこで芋、ここで柿と、二人組んで行った。あの人も、ちょうど腹おっきかった。そうやんで、五分と五分で、ちょうどよかった。お寺で、坊さんが、おお、腹おっきいね、と餅をくれた。わしら二人の、腹みてね。こんな時やさか、ええ子を産めよ、と言うて。二人の顔をみつめて、わしに、おまえは男の子みたいやからと白、入相のとみさんには女の子のようやなと赤。うれしかったんやあ」母は、足を投げ出して坐りなおす。彼の顔をみる。 「とみさん、しょげかえって。あそこも女の子ばっかりやったさか。ときさん、わし、女の子かいの? 女かいの? と訊く。心配するなん。そんなん迷信や。わしは、口でそう言うたけど、心で、男の子や、男産むんや、と思っとった。背中に芋を何貫目もかついどったけど、家まで、ちっとも苦にならなんだ。兄やんに、その餅見せて、こうこうやと話すと、兄やん喜んで……」 「そのお坊さんも死んだやろねえ」姉はぽつりと言う。 「あの時でも、七十ぐらいやったからねえ」 「昔にもどりたいねえ」姉は言った。涙が眼にふくらんだ。「昔は、みんな生きとったのに」 「おうよ、わしも思うよ」母は、彼の顔をみた。「あれから二十四年か」 「秋幸生まれて、母さん、すぐ外へ働きに行ったさか、秋幸育てたのわしみたいなもんや。腹すいたら、ぎゃあぎゃあ大きい声で泣くし」姉はふと母をみる。「あの頃にもう今の義父さんとつきあってたん?」 「つきあうかいな」母は、ぽんと、彼の投げだした足をたたく。ぎゅっと脛を手でおさえ、「あの時は、もう男はこりごりじゃ、男になど頼るかと思って、毎日毎日、行商しとったよ」 「そうかん」と姉は言う。「母さん行商に行って、秋幸腹へらして泣き出してもしばらく帰ってこなんだ時、兄やんと芳子姉やんに言うて母さんさがしに行ってもろて、泣き叫ぶ秋幸抱いて、うずくまって、秋幸と一緒に泣いてたん。水のまして、お湯のましても、またすぐ泣き出す。わたしかて腹へってたけど、秋幸泣くの、一番つらい」 「今の父さんとおうたのは、秋幸歩きだしてもの言いだして、それから一、二年たってからやから。行商してて、むこうも女手なしに文昭かかえとるの知ってからやもん」母は、また彼の足をぽんぽんとたたく。 「昔は、みんな、いっぱいおったねえ。おもしろい人間ばかりおった」姉は、話を変えるように、起きあがる。寝巻の白が、青っぽくみえる。「なんやしらん、こうして、母さんにつきっきりで看病してもろとったら、昔にもどった気がして。わたしらの父さん、外から、その玄関、入ってくる気して」姉はわらう。「さっき、母さんが町へ買物に行ってる時、うつらうつらしてたん。外から、弦叔父が、また酒に酔うて、偉そうに、美恵、美恵と呼ぶんやのに。声が、よう似とるんや。夢の中で、わたしが、すっかり赤子になってるんや。父さん、美恵、病気や。また肋膜や。肋膜にまたなってしもたよお。父さん、美恵、よう物も言えん、そう言うて、ああ、ああ、と泣いてたん。父さんよお、父さんよお」姉は、涙を浮かべたまま言った。ちょうど姉たちの父親が生きていた頃、肋膜を患った時のように、外から呼ぶ弦叔父の声を耳にしながら眠り、夢をみて、泣いていたのだ。彼は、そんな姉を想像できた。家には誰もいない。仕事に出かけたし、子供は学校へ行っている。昼中、つきっきりで看病している母は、買物に行っている。「美恵、美恵、おれにあうのが羞かし事でもしたんか?」弦叔父は言う。姉が言う弦叔父の声も、想像できた。「あんまり悪い事は許せんが、ちょっとぐらいやったら、美恵の事やから許したるどお」弦叔父は言う。酒を飲んでいるせいかまっすぐ立つことができず、よろける。ガラス戸に背中をうちあてる音がする。ふと、夢からさめる。「美恵、美恵」と呼ぶ弦叔父の声がした。姉は起きあがった。体に熱がある。 「酒をやったんか?」母が訊いた。姉はうなずいた。 「あんなになっても、あんなんでも、わたしの叔父やもん」 「あかん、あかん」と母は言った。「くせになる」 「安いものや。他の人にやるんでないし、ええわと思て。わたしの親孝行のつもりや」 「気持ちはわかるけどな。そんな親でもない人間に、親孝行せいでもええ」 「母さんに、ひとつも親孝行してないけどね」姉はわらう。「体が弱いし、泣虫やし」  母と連れ立って、歩いて帰った。ひたひた、と地下足袋が鳴った。自分と母親の二人を、誰かが見つめている気がした。一体、それは誰なのだろう。何度も刃物を持って二人を殺しに来て、あげくの果てくびれた兄か、それともあの男か? 彼は、母を連れて、あの店へ行き、確かめてやりたい気がした。新地に住む女。一体、どんな顔をしているのだろう。母は、彼の男親にあたる者が、女郎に生ませた子供を、みたことがあった。その子供は、彼の腹違いの妹になる。母なら一目でわかる。いつぞや、母が、彼に言った。いや、それは姉から聞いたことかもしれない。あの男は、豚箱に入っていた。バクチで挙げられた。母は、もう、他に二人の女がいることを知っていた。だから、六月の腹の時、歩いて駅一つむこうの豚箱に出むき、おまえとはこれ以降、一切関わりない、腹の子は一人で生み、一人で育てる、三人育てよと四人育てよと一緒じゃと、言いに行った。そいつが、豚箱に入っている時、腹違いの男親の血だけでつながった子供が三人、ばたばた産まれた。三人の中で、彼一人が男だった。だから彼はそいつの初めての子供で、初めての男の子にあたる。母がそいつと縁を切り、女郎も身を引き、後一人残った女に豚箱から出るとそいつを、ノシつけてくれてやることになった。商売から身を洗い、山奥へ帰ると言って、女郎は、産まれた女の子を連れてやってきた。母も、子供をみせた。「ほれ、お兄ちゃんやでえ」と、女郎は赤いおくるみの女の子に言った。それが、彼の腹違いの妹だった。だから、彼も見たはずだった。しかし、記憶はなかった。いま、会ったとしても、兄妹という実感からほど遠いだろうが、せめて、確かめたかった。彼は母を見た。因業な事をしたものだ、と思った。  母は足早に歩いていた。義父に、心苦しい気がするのだろう、と彼は思った。 「姉やんは、弱虫で、泣虫じゃ」彼は言った。  母は、歩を緩めた。「なんでかしらん、腹立って来た」母は、彼の顔をみて、言った。「えらいところへ、嫁に行かせたもんやと、後悔するよ。あの子はあんなんやから、人の事まで考えすぎて、苦しむ。安雄や光子は、死刑にしてしもうたらええんや。ろくでなしの、無精者の、あんなやつら」  しばらくの間、姉は、肋膜に誘われて、昔の、弱虫で泣虫の子供の姉に、戻ったようだった。肋膜の再発、というのは、医者の誤診だった。単に風邪をこじらせていただけだった。姉は、自分で、「よかったよお。よかったよお」と言って喜んだ。  普段は、洗濯物や、盆暮れに集った手つかずのビール、酒をおいている部屋だった。雨戸を開けていた。姉の顔には、いくらか赧みがさしている。化粧っ気がないため、そばかすがみえる。「今度、肋膜やったら、わたしは死んでしまうとこやった。あれはなによりも、恐ろし」姉はそう言った。親方が、「高いばっかりで、ろくなこと言いくさらん」と医者をなじった。  姉の回復により、なにかがじょじょに元に戻りはじめている。彼は思った。しかし、人夫たちは、安雄のことがあってから、軽口もめったに言わなかった。姉の家に朝、集り、親方から倉庫の鍵をもらい、開けて道具を出し、車に積む。夕方、道具を倉庫にしまう。軽口も言わず、酒も飲まず、まっすぐそれぞれ自分の家にもどる。いま、安雄と光子が、ここにいないだけなのだった。女の人夫は、上り込み、台所で、人夫用の湯呑みをさがしていた。母が、親方の家の台所を一切、仕切っているので、母が帰った今、どこに仕舞ったのか分らない。「奥さん、湯呑み茶碗どこにあるんやろ。いつものとこにないし、棚にもないし、親方は、一杯飲んでくれと言うけど、なかったら飲めん」女の人夫は言う。 「どこやろ? さがして」姉は蒲団に入ったまま言う。彼は、歩いて行って見当をつけた。母の性格は分っていた。人夫用の湯呑みを家族の者の食器を置く場所や棚に、置くことはなかった。彼は流しの下の、戸をあけた。漬け物樽の上に、盆に載せて湯呑みはあった。水滴がついていた。「ここにあった」と彼は、母を弁解するように声をあげた。  姉が、まだ床についたままなので、家で酒盛りするわけにはいかなかった。倉庫に電燈をつけ、ゴザを敷いた。鉄と炭のにおいがした。携帯用のプロパンで、干魚を焼いた。一升瓶の蓋を開け、冷のまま、飲んだ。酒は、舌に甘かった。四人だけの酒盛りだった。女の人夫は、コップいっぱいの酒を飲んでも、平気な顔をしていた。「よかったわあ」と言った。「奥さんまで病気になってしもたら、うちの組はめちゃくちゃになるとこやった。親方の、顔みてたら、ちょっと代れるものなら代ってやりたいと思た」 「奥さんが、一番苦労した」管さんが言う。 「最初はどうなるもんやろ、と思うて、わしゃ、安雄の事聞いて、とんで来た。まさか、と思ったのが、本当やった。管さんと二人で、あわくって、医者に走ったんじゃったのう。わしゃ、息が切れたが、管さん、やっぱり若い」藤野さんが言う。 「おれも走った」と彼は言った。「雨がびしょびしょ降りくさって」 「のう、あれで、昼に雨降らんと、天気で、あの日にコンクリの段取りしてたら、安雄さんもあんなことせなんだんやろうがねえ。人間云うのは、どんな事、起るかわからんもんやねえ……。古市さんもかわいそうに。古市さん、嫁さんや子供の見てる前で、刺されたんやのに」女の人夫の言葉に、また、彼は、兄が包丁を持ってやって来た時のことを思い出した。兄は殺せなかった。  刃物で、刺し傷つけることすら出来なかった。湯呑みの酒を彼は飲み干した。胃が熱く痺れ、腸を通って、陰嚢のつけ根あたりに伝わる。下着から汗がにおった。「雨が悪りんじゃ」と彼は、言った。顔をあげた。管さんの顔も藤野さんの顔も、電燈の光でけばだって見えた。「くそ雨が降りくさって」 「しょうないしねえ。このあたりは雨多いし。土方は、雨の日はできんし」女の人夫は、管さんに酒を注ぐ。 「よう言うたもんよ。土方殺すにゃ、刃物は要らん」  四人だけの酒盛りは、気勢が上らなかった。酒を半分も残したまま、切り上げた。帰りがけ、彼は家へ上って、台所で水を飲んだ。親方が、六畳の板間の事務所で、帳簿をつけていた。その脇で、男の子が、音を低くして、テレビをみている。姉が、「ちょっと電話してほしいんやけどなあ」と言った。姉の顔は、母が居る時みせたものとまるっきり違っていた。病気と疲れがいちどきに顔にあらわれた、と彼は思った。 「名古屋の姉やんに、父さんの法事のことは、わたしと母さんとで、全部用意できたから、予定どおり、来て、と。秋幸、頼むからなあ、名古屋の姉やんには、わたしが病気になった事、黙っといて。わしがなんで直接、電話をせんのか、と訊いたら、鼻風邪引いてマスクしとるからとでも言うといて」 「マスクしとるのか?」彼はわらった。 「心配かけたないんや。楽しみにしとるんやから」  法事までに、姉は体をなおす、と言った。母や姉が、法事のことでその父さんの事を言うたびに、彼は、その父さんの血を自分も引いているのだと錯覚し、あわてて打ち消した。そして、あの男のことを考えた。そいつが、自分の父さんか、と思った。虫酸が走る。反吐が出る。彼は思った。実際、草の葉を擦り潰すように、きれいさっぱりもともとなかったこととして、消してしまいたい。そいつは、この二十四年間、おれがここに|存《あ》ることをどう思って来たのだろう。彼は、その男と、よく似ていた。彼は、時々思った。彼の体の中にも、女と見れば、子持ちの後家であろうが、女郎であろうが、娘であろうが手を出す、好色の、淫乱の血が流れている。人を足蹴にする。友人を裏切る。人の弱味を突いて、乗じる。一体、その男は、どこから流れてきたのだろう。繁華街に事務所を一つ置いていた。山も土地も、一代で手に入れたものだった。人々の噂では山林ブローカーの上前をハネる、と言っていた。彼は、折にふれ入ってくる噂を耳にして、そいつが、ちっぽけな卑劣漢にすぎないとも思った。いつか、セメントを安雄と取りに行って、彼は出会った。彼は最初、気づかなかった。 「あかん、あかん、光子にしぼられとるから、ふらふらやわ」と安雄は弁解した。安雄とは、力がまるっきり違う。彼にはセメントの一俵ぐらい軽いものだった。それをそいつがみていた。十七、八のチンピラが乗りまわすようなばかでかいオートバイにまたがっていた。土方仕事をするわけでもないのに、乗馬ズボンをはき、薄い色のサングラスをかけていた。いつ見ても大きな男だった。「なんじゃ、なんど用事か?」彼は言った。「見世物じゃないど。あっちへ行け」そいつは、黙ったまま、動きもしなかった。オートバイのエンジンが耳に障った。  夕方、名古屋の芳子から、母に電話がかかった。これから、店のトラックに乗って、出発すると言った。  幌付きトラックが、着いたのは、深夜一時をまわっていた。クラクションの音をききつけて、彼は外に出た。子供が、荷台から跳び降りようとしているところだった。「ほら、やっぱり起きてたあ」と彼をみつけると、男の子は言った。女の子が、顔を出した。男の子に「早く跳び降りて」と言う。「押すなあ」と男の子は言った。ライトが消され、エンジンが切られた。ドアの開く音がし、義兄が、「ついたよ、ついたよ」と出て来た。顔をみて挨拶した。助手席のドアを開け、「芳子、芳子、ついたぞ」と言った。「ことんと眠っとる」彼の顔をみてわらった。「芳子、あこがれの母上様の、紀州についたよ」荷台から二人が同時に跳び降りた。「何カ月も前から、紀州に行く、紀州に行くと騒いでいたのに、いざついたら、眠り込んどる」義兄は、彼に言い、呆れたというように声を大きくした。「ほらあ、二人とも紀州についたぞお」  その声に、芳子のはだけた胸に、手をつっ込み眠っていた三歳になる久志が、眼をさました。眠り込んでいたことを照れたように、「紀州、紀州」と、芳子の頬をたたいた。それでやっと、姉は眼をさました。彼がそこに立っているのをみて、「ああ、紀州やねえ」と言った。芳子はトラックから降りた。 「夢をみてたんよお。途中で、よっぽど停めてくれ、助手席でなしに、荷台のマットレスの上で寝るわ、と言おうと思て、そのまま眠り込んでしもた」 「車に乗ると、すぐ眠ってしまう」男の子は言った。 「気持ちよかったの。お父ちゃんが、芳子、矢ノ子峠やぞ、と言う声も聞こえてたけど、眼が、開けられへん。なんか思い出せんけど、ええ夢やった。楽しい夢」 「芳子は、紀州の話しとったら、楽しいものなあ」義兄は、また眠気がさしたらしくむずかりはじめた男の子を抱えた。話声が、大きく聞こえた。トラックをそのままにして、家に入った。  母と、義父が待っていた。母は、「よう来た、よう来た」と、名古屋の家族をひとわたりみまわし、義兄の腕の中で、眠った久志のために、テレビを置いてある部屋に蒲団を敷いた。「えらい遅いなあと心配してたんや」母は言った。芳子がわらった。 「ずうっと山道ばっかしやさか。見えるのは、暗い山ばっかしや。紀州に来るたんびに、恐ろしほど田舎やな、と思う」名古屋の姉は母にそう言い、ステテコ姿の義父に、かしこまり、手をついて、挨拶した。義父は、「なんにも、ようせんけどなあ」と言った。義兄は、眠たい、眠たい、と口々に言い出した二人の子に、「久志の蒲団に入ってりゃ」と言った。義兄は、立ったまま会釈した。どう自分が挨拶すればよいのか、分らない様子だった。 「義兄さん、ビール、飲むか?」彼が訊いた。「もらうわ」芳子が代りに答える。芳子は、服を脱いだ。眠たい眠たいとまつわりつく、二人の子に押入れから、蒲団を出して敷いてやってくれ、と、義兄に言った。「オンボロトラックで、久志にまといつかれて乗ってきたから、くたくた」と、首をまわした。「なんやしらん、肩が凝って」と、彼を見た。「あんたあ、後で、肩もんでえ」義兄に言った。「なにを言うとるのかねえ、この子は。正夫さんは運転してきて疲れとるのに」母が、呆れ返るというふうに言った。「もう四十近くになって、まだ昔の、女大将みたいな気持ちが抜けんのかねえ。ちょっとは、奥様らしいにせなんだら」 「こぶつきで、なにが奥様らしいにできるかの」芳子は、立ったまま、整理だんすの上に置いてあった義父の煙草を、一本抜きとった。火をつけた。鼻から、煙をふうっと長く吐いた。芳子は、彼を見た。「秋幸、兄やんによう似て来たねえ」と言った。「また背が、高なったのかあ? 美恵が、電話で、秋幸が兄やんによう似とる、よう似とる、と言うはずや」  気をきかせるつもりらしく、義父は、帳簿つけがあると言って、奥の、自分たちの部屋に引き込んだ。彼は、冷蔵庫から、ビールを出した。母が、彼を見ていた。普段ならほとんど空っぽの冷蔵庫の中に、法事の夜、出すための料理の材料がぎっしりつまっていた。 「矢ノ子峠をいつ越えたかわからん。お父ちゃんが、芳子、矢ノ子峠だぞ、と言う声は聞こえて、うつらうつらして、起こされて眼をさましたら、秋幸が立っていた。母さんと秋幸がおる」芳子はそう言って、腕をひっかいた。皮膚に赤い線ができた。「あのトラックに、虫でもおるのと違うの」義兄はわらった。「かいて、しょうがない」それから、ふっと声を落した。「あの矢ノ子峠を、一人で越したんやのに。ふろしきづつみ持ってね。兄やんに、途中まで送ってきてもろて、わたしが十五で、兄やんが十六やもんねえ。今から思うと、十六言うたら赤子と一緒やが。汽車で、木ノ本まで行き、バスに乗り換えて、矢ノ子峠越して、また尾鷲で汽車に乗る。いまでも覚えとるよ、兄やんとバスが出るまでちょっとだけ時間あるさか、駅前で、きつねうどん食べた。あの頃、兄やん、羽振りよかったもん」芳子は思い出して言った。「きつねうどん、食べたないのか?」兄は、そう訊いた。兄に弱い気持ちをみせているととられるのが嫌で、最後の汁の一滴まで、飲んだ。兄と別れ、バスに乗り、矢ノ子峠を越えてから、どうしてなのか分らない、悲しいともつらいとも思わないのに、涙が、後から後から出た。名古屋の姉は言う。 「秋幸はまだ小さかったし、美恵があんなんやったからねえ」母が、弁解のように言う。 「芳子の得意だからな、その話」義兄は言う。 「いまでも時々思い出す。家の隣に出来た喫茶店に、このあいだも行ったら、どこかの工場の女工なんやろか、いっつも、ぽつんと坐っとった子が、髪赤うに染めて、見違えるほど奇麗になってる。お父ちゃんが、ああ、ええ子やったのにスレてしまったと言うけど、わたしは、自分の妹みたいな気がして、奇麗になったこと、喜んだの」 「工場だめだからな、紡績はまるっきりだめだからな」義兄が言う。「あの子は、十六、七ぐらいかな?」芳子はうなずく。また、腕をかく。 「幸せになれよ。奇麗になって、金もうけて、阿呆せんと。他人事とは思えん。心の中でそう言うてた。その子は、それっきり姿みせん」 「そう言うたら、おれが小学校に入る時、ランドセル送ってきたな」彼は言った。 「ランドセルだけと違う。服も靴も、送ったねえ」芳子は、母に言った。母はうなずく。「母さんから、毎月、きまって手紙来るもん。母さんが字をよう書かんから、人に頼んで書いてもろて、それが、むつかしい漢字いっぱい使った手紙で。わたしが、また、むつかし字なぞ読めんから、寮の友達に頼んで読んでもろて。何の手紙やろと思ったら、はいけい、ばんしゅうのこう、あなたさまはいかがおすごしですか、といまでも覚えとる。何の事やろ、と思たら、つまり、金送れや。羞かしてしょうない。手紙来るたんびに、寮の友達に読んでももらわんと、すぐ金送った。金送らんと知らん顔してたら、ハハキトク、アニキトク、ミエキトクと電報がくる」 「しょうがなかったんや。こっちは女手一つやし、兄やんは、外へ行きっぱなしでめったにもどって来んし」 「わかってるよ。わかってるけど、びっくりするよ。美恵は、あんなやから、夜中に、電報などもろたらびっくりする。二回ほど帰った。母さんにだまされた」芳子は、わらった。シュミーズの腕がゆれた。「ほんまやったのは、兄やんが、自殺した時だけや」  ビールが五本ほど空になって、彼が新たに取りに立ちあがったのを潮に、母が、二番目の、この土地に住む姉の嫁ぎ先で起った刺殺事件のあらましを、名古屋の姉夫婦に語った。芳子には思ってもみない事だった。浜の家で葬儀を出した。それが二週間ほど前だった。確かに、彼にも、狐につままれているように思えた。当事者のそばにいても、その刺殺は納得できなかった。「かわいそうに」と芳子は言い、ビールを飲んだ。 「火事と人殺しは、このあたりの名物やな」彼は言った。母が、彼をみつめていた。火事にも人殺しにも、それぞれ捜せば、理由なり原因なりがあるだろうが、そのほんとうの理由は、山と川と海に囲まれ、日に蒸されたこの土地の地理そのものによる。すぐ熱狂するのだ。 「美恵は、ずうっと寝込んでたんや」母が打ち明けた。 「ちっとも知らなんだ。寝込んでたんかあ」 「あの子は、あんな性分やろ。むこうの家のごたごたやから、放っといたらええのに、まるで自分の兄弟にそんなことが起ったみたいに、親身になって駆けずりまわる。放っといたらええんや。どうせ、光子や安雄は、ろくでもないし、あの古市にしても、刺されるのは、それ相応に訳があるんや」 「安雄、言うの、その男?」 「船乗りをやってたらしいけど、どうせ、ヤクザじゃわ」 「光子、言うて、あの?」芳子は訊いた。母はうなずいた。 「この前に聞いた時は、トラックの運転手とか船乗りとか、と、駆け落ちした、と言うてたやろ。子供放ったらかして」 「それ、と、戻って来て。子供は里子にやった」 「あの女も、噂の多い女やねえ。昔のわたしと張り合うねえ」と、芳子は、義兄を見た。「この前も、乳飲児放ったらかして、駆け落ちして、美恵の旦那に殴りまくられたと聞いた時、あきれ果て、私ならようやらんわと思たけど。なあ、お父ちゃん。もし、浮気して、本気になっても、わたしは子供だけは離さんからな。駆け落ちするのなら、色男と、子連れで駆落ちするからな。安心してや」芳子が、スーツケースをひらいた。中に和紙のつつみがあった。着物が入っていた。「どや、お母ちゃん」と得意げに言った。「貧乏しててもな、めったにない父さんの法事の日に、変なもの着られんと思って、清水の舞台から跳び降りる覚悟で、作った」 「おうよ」と母はうなずいた。 「父さんの娘が、へんなもの着られへん。これでも長女やからな」  芳子は立ちあがり、シュミーズ姿の体に着物をあててみた。  その法事の日、朝早くから、名古屋の子供達が、騒いでいた。ビールを飲んで、酔ったまま眠ったせいか、体がだるかった。日が射し込んでいた。パンツ一枚のまま、腕立て伏せを二十回、腹筋運動を二十回やった。今日、一日、仕事を休んでも、男の彼に、することはなにもないはずだった。法事の後に出す料理の準備は、母や姉たちや近隣の女たちがやることになっていた。姉たちの父親の法事を、母の今住んでいるこの家でやる。それに芳子は反対したのだった。確かに、そう言われれば、変に思えた。ここは、母の家であると同時に、義父の家だ。この家は、義父のみのものだと言ってよい。そこで、先々夫の法事をやる。義父はどう思っているのだろう。上の女の子が恐る恐る顔を出した。「起きてるなら、御飯食べりゃあ」とわらいもしないで言った。母屋から芳子が、「秋幸、飯くええ」とどなった。妙に、母の声に似ていた。おう、と返事して、パンツ一枚の裸で外に出ると、芳子が「おおきな物、ぶらぶらさせて。みっともないから、はよ、服着」とわらいかけた。 「羞かしないんかいの」姉が、母に言う。 「羞かしこと知らんのじゃわい」母は、彼の普段着を出した。いつもなら、作業着を出すのだった。「秋幸も文昭も、風呂に入って、人が来たら羞かしさかパンツをはけとわしが言うまで、裸で歩きまわっとる」 「母さんのとこは、原始人ばっかしおるんやな」  彼が、飯を食っていると、文昭が来た。義父が、文昭の顔を見るなり、「もっと早よ起きてこい」とどなった。「アパートに住みたい言うて、夜遊びする為やったら、アパートに住まさんど」 「昨日、掘り方や」文昭は言った。「いくらなんでも、疲れるよ」 「はよ、寝たらええやないか。夜遊びするさか、朝、遅なるんじゃ」義父は言った。 「たいへんだよね」と義兄が言った。文昭は、母によそってもらった飯を、不味そうに食いながら、「いっつもうるさいの。現場へ行っても叱られどおし」と言った。 「好きこのんで叱るもんか、おまえが、叱る種をまくんやないか」 「文昭くんは、幾つになったんや?」芳子が訊いた。 「二十六やな。おれより、二つほど上じゃ」彼が答えた。文昭は、飯をほおばったまま、うなずいた。  名古屋の姉と、三人の子供達を連れて、彼は、親方の家へ行った。日が当り、家々のことごとく、樹木のことごとくが、光っていた。毎日毎日、その道を歩いていた。日が空にあるのに、仕事を休んだ事が、うしろめたかった。走ったりしゃべったり、声を張りあげ叫んだりする名古屋の三人の子をみながら、彼は、今日は、特別なのだ、と、自分に言いきかせた。 「秋幸、背が高いねえ」と芳子は言った。芳子は、昨夜の化粧をぬぐい落してしまっているため、急に齢を取ってみえた。「こんな大きな若い衆になった秋幸みたり、こんな道を歩いたりすると、夢や、と思う。みんな夢やと思う」 「姉やんが齢を取ったんじゃ」 「齢も取るわいさ。三人の子持ちやもん。昔のことや。このあたりも、昔は、田圃やった。母さんも兄さんも、わたしが外で喧嘩してくるたんびに、呆れ返っとった。芳子、ちょっとは女の子らしなれ、言うて」  名古屋の子供達は、すでに親方の家に上り込んでいた。芳子は、顔中にわらいをつくり、「美恵、遠い名古屋から姉やんが来たぞう」と、芝居の科白のように言った。芳子は、上った。彼は、後ろから上った。美恵の声がした。その声は、かすれ、力なかった。  芳子は、持ってきたウイロウの箱を、姉の枕元に置き、「えらいこと起ったもんやねえ」と坐った。姉は、顔をしかめてわらいをつくり、起きあがった。寝巻の前をかきあわせた。昨日と姉はまるっきり違っていた。髪が、乱れていた。顔が、青黒っぽかった。「声がかすれてうまい具合に出やんのう。父さんの法事までに、病気なおそと思たけど、あかん」姉は昨日よりも体が小さくみえた。 「肋膜や、言われたんやて? このあたりのヤブ医者は、言うことないと言うても、しょうもないこと言う」芳子は、言った。それから、隣の部屋で、騒いでいる子供達に、「こら、ちょっとはおとなしせえ」とどなった。「明子。おばさんは病気やし、お母ちゃん、静かに話したいから、ちょっと久志連れて、お菓子でも買いに行ってこい」  すると、女の子が、「お母ちゃん」と声をひそめて言い、歩いてくる。「あのねえ、さっき、行ってきた。そしたらねえ、菓子屋の前で、恐っそろしいおじさんが、いたの。乞食みたいな、顔のまっ黒な、眼のギョロギョロしたおじさん。わしらに、どこから来た、と訊くの。知らん、そんなことあんたに関係あるか、と言うとねえ、恐っそろしい手をみせて、この手でチョン切って食べよか、って言うの」 「弦叔父じゃ」彼は言った。 「久志がわあわあ泣いて、だから、逃げて来た」 「恐ろしことないよお」と姉が言った。かすれた声で、歌うような口調だった。「叔父さんやのに、あんな、神様みたいな人お」そう言い、弱々しくわらった。 「恐ろしかった」と言い、久志が芳子の膝にまたがった。 「ぼく、泣いた」 「泣虫」と彼がからかった。「ばあんと一発、パンチ入れられんかったんか」彼に額をひとつこづかれ、久志は、泣こうかどうしようか、と、母親である芳子の顔をみた。芳子は取り合わなかった。久志はいきなり、彼の体をめがけて足をつき出した。よけた。「泣虫、あかんなあ、名古屋はあかん。紀州の子は強いけどなあ」久志は彼に体ごととびついた。めちゃくちゃに、頭を殴りかかった。 「強い、強い、名古屋も強い」と彼は言った。「泣虫とちがう、弱虫とちがう、強い、強い」  法事は、七時から行われるはずだった。美恵はいつも義父が使っている部屋に、坐っていた。台所で、母と芳子が、下働きに来てくれた女の人夫や、近所の女と、話していた。閉めた襖越しに、その声がきこえた。黒の着物は姉によく似あう、彼はそう思った。髪をときつけ、薄く化粧をしたこの姉は、他の誰よりも、姉たちの死んだ父親に似ている。義父の声と文昭の声がした。子供たちの騒ぐ声がした。「しんどいのか?」と彼は訊いた。彼に答えようとして、声がかすれるのであきらめ、首を振った。姉は彼をみつめた。  彼は姉にみつめられることが息苦しく、台所に行った。芳子が母と話していた。芳子は着物を着たほうが、老けてみえた。「美恵は横になっとるか?」と母が訊いた。「青白い顔をして、起きとるから、疲れてまた、病気悪なりはせんかと心配や」  母がそう言っている間にも、参会の人たちは来た。義父の親戚、義父の組の人夫、近所の人、入り混っていた。坊主が玄関から台所にひょっこりまわり、「えらい立派になって」と芳子に言った。顔が、一瞬、笑に変った。 「うれしいよ。うちの、和尚さんが父さんの法事に来てくれた」 「誰やろ、どっかで見た顔やと思ったら、あの芳ちゃんやった。大きなったですねえ」 「もう、おばあちゃんやよ」 「いやいや、こんな小っさい時のこと知ってるんですから。なあ、お母さん。苦労しましたねえ」 「苦労は誰でもせんならんもんや」ぶっきらぼうに母が言った。坊主は、母の言葉に返答に困って、「また後でゆっくり」と、仏壇の部屋の方へ行った。義父も、文昭も、親方も、義兄も、そこにいるはずだった。 「あとで、和尚さん、酒飲んでね」と芳子は言った。坊主は、振り返り、うなずいた。「うれしいよ、うちの和尚さんが、来てくれた。父さんも、今日は喜んでくれる。なあ、母さん。こんなうれしいことない」芳子は、涙ぐむ。「どんな偉い坊さんに、お経を読んでもらうよりも、わたしら、小っさい時から、毎月、お布施つつめる日も、つつめん日も、小さい仏壇でお経をあげてくれたうちの和尚さんに、おがんでもらう方が、ずうっとうれしい」  あと十分ほど待って、お経を読みはじめてもらおうと言っていた時だった。家の外から、声が聞こえた。「美恵ェ、美恵ェ」と聞こえ、やっとそれが、弦叔父の声だとわかった。「美恵、美恵はおらんかあ、叔父が来たぞお」と言っていた。芳子が不意に黙りこくった。「弦叔父じゃ」と彼は言った。台所の窓から、彼はのぞいた。まだ暗くなりきってはいなかった。だが、どこに立って、声を張りあげているのかわからなかった。母が顔をしかめた。 「どこにおるかわからん」彼は言った。「幽霊みたいに姿は見えんど」 「ほっとけ」母が言った。 「叔父さあん」と芳子が、彼の横に立って、どなった。答えはなかった。芳子の手が、彼の肩にあてられていた。化粧の香がした。らちがあかないと思ったのか、彼に、「呼んできて」と言った。  弦叔父は、家の横の、倉庫の脇で、「美恵ェ、美恵ェ」とどなっていた。また酒に酔っていた。彼が腕をつかむと、「こら、若造、おれは、曲がりなりにも叔父やど」と言い、振り払った。「酒を持って来い、酒を」 「酒は家にいっぱいある」彼は言った。「名古屋から芳子も来とるぞ」 「うん、芳子も来とるか」弦叔父は、両手をポケットに突っ込み、倒れそうになる。「芳子も、親の法事、忘れんと来たか」  彼は弦叔父の腕をつかんだ。また振り払った。大事にそろそろと手を上げ、「ほれ、恐ろしどお」と言った。 「なんじゃ、そんなもんくらい」  玄関に連れ込んだ。「美恵ェ、美恵ェ」と、立って呼んだ。彼がどう言っても、弦叔父は上ろうとしなかった。  姉が、襖をあけて、ふらふらと出て来るのがわかった。台所の脇に坐り込んだ。 「叔父さん、父さんの法事にまいったって」芳子が言った。 「芳子、叔父に挨拶もせんと。酒持って来い、酒を。叔父は、悪りもんは好かんのじゃ、悪りもんは絶対に滅びる」弦叔父は、言った。芳子は、彼に、酒を持ってくるように合図した。母が後から、「やらいでもええ」と彼に言った。弦叔父は、一人でまっすぐ立っていることもできなかった。上りかまちに、坐り込んだ。 「おまえはこの家にまで、なんの用事で来た」母が、彼の後からどなった。芳子が振り返った。「おまえには、関係ない。おまえらみたいな無精者に、関係あってたまるか、帰れ」母は、どなった。「帰れ。帰らなんだら、たたき出すど」  彼は母の着物の袖口をつかんだ。  芳子は、母の顔をみて、「あんまりなこと、言うな、母さん」とつぶやく。 「なにがあんまりなもんか。わしは、こいつらに一膳の飯も世話になったことないど。こいつら、わしらが貧乏しとっても、自分ら、うまい具合に行っとったら、みむきもせんくせに。なにが、叔父じゃ。美恵にも、芳子にも、叔父などない」 「それでも叔父さんや」芳子は言った。眼に涙がたまった。 「なにが叔父じゃ。いまごろ、叔父じゃ、叔父じゃ、ときれいなこと言いくさって、気のええ美恵に金せびったり酒せびったりする。そうやけど、ここは違うど。帰れ」  弦叔父は上りかまちに腰かけ、母の言葉をきかなかったように、「美恵ェ、美恵ェ」と優しい哀しげに聞こえる声で、呼んだ。玄関に、近所の人の顔がみえ、すぐ引っ込んだ。義父が奥からやって来た。「どした、玄関口で大きな声出して、みっともない。なんじゃ」と言った。  それまで台所の脇に坐りこんでいた姉が、ふらふらと立ちあがり、義父と入れ代りに奥へ行った。すぐ、物音がした。奥で硝子が割れる音がたった。「はなせえ」とかん高い声がきこえた。「われらあ」と姉が叫んでいる。彼と母は、あわてて奥の仏壇の間に行った。母が、「美恵」と言った。姉は、親方に後からはがいじめにされ、顔をねじり、親方の腕に噛みつこうとしていた。集まった客たちは、隅に体を寄せていた。姉は、仏壇を壊しにかかったらしい。仏具が散らばり、果物が転がっていた。「美恵、なにやるんじゃ、美恵」親方は言った。その親方の手を振りほどこうと暴れ、姉は、うっうっと声をたてた。母が、坐り込んだ。「美恵よお、美恵よお」と言った。「殺せえ、殺せえ」と姉は顔を振って、どなった。  暴れる姉を車に載せ、彼と芳子が両脇に坐り、文昭に車で送ってもらった。文昭は帰った。二人の姉と彼の、三人だけが、その家に居た。他に誰も居なかった。  自分の家にもどって来ても、姉は人が自分を殺しにくる、と言っておびえた。彼と芳子の二人は、おびえる姉のそばに居た。  姉たちが待ちに待った父親の法事は、いま、当の二人の姉がいないまま義父の家で行われていた。姉は、蒲団をすっぽりかぶり、体をまるめ、「恐ろしよお、恐ろしよお」と言った。子供の、カクレンボみたいだった。芳子は、「美恵ちゃん、なに言うの、しっかりせなあかんのに」と言った。蒲団を撫ぜていた。  汽車の通る音がした。レールを鳴らして、駅から汽車は鉄橋の方へ走る。彼は音をいつまでも耳で追った。姉は義父の家で、弦叔父の声をきき、姉たちの父が、いま立ち現われてきたと思ったのだ。他の誰よりも、そのけもののひづめの手を持つ弦叔父と血が濃いと思い、畏れている姉は、弦叔父を通して父に呼ばれたと思ったのだ。かつてこの家に、姉たちの父は、住んでいた。ここで姉たちの父は死に、そして兄も首をつった。ここでこそ死んだ者をなぐさめるための法事をやるべきだった。 「恐ろしよお、恐ろしよお」と蒲団にもぐり込んだ姉をなだめている芳子をみつめていた。もし死んだ者の魂があるなら、いまここに本当に立ち現われ、美恵をなだめ、そして芳子をもなだめてやってほしい。母をもなだめてやってほしい。  彼は、以前、やはりあのように、母が怒り、きびしくはねつけたことを思い出した。その時は、兄だった。「殺したろか?」と兄は言った。すかさず母は、「おう、殺してみよ。殺すんやったら殺せ」と答えた。「腹を痛めて産んで、身を粉にして育てた子に、ちょっとは楽に暮らして行きたいと思ったら、殺されるんか」母は言った。それから、殺すことも、刃物を振り上げて暴れることもできなくなった、酔いがさめかかっている兄に、「おまえのような子供は知らん。この土地でくだくだするのも見たない。一人前の男になっとるんやったら、女を町で引っかけて、飯場へでも行ってこい」と追い打ちをかけた。彼は、いまでも、その母を覚えている。兄が帰った後、母は泣いた。一言、二言、ききとれないほど低い声で義父の声がきこえ、母は、「悪いのはわたしやよお」と長く語尾を引いた泣き声をあげた。それは、先ほどまでの母の声とは、まるっきり違っていた。「わしが悪いんやよお。罪つくりなんよお」という声は、耳をふさいでも、彼にはきこえた。悪いのは兄だ、罪つくりなのは、兄だ、母ではない、と彼は、母の泣き声と一緒に体が震え、心が震え、どうするてだてもなく、蒲団の中で身を海老形にまるめた。別れる、別れない、と二人は、言っていた。彼は泣いた。母と義父が離別すれば、彼まで生きていけない気がした。  隣の蒲団から文昭が、手をのばし、蒲団の中の彼の頭を撫ぜた。悲しみとも不安ともつかぬもので、体がいっぱいになった。文昭が、彼の蒲団の中に顔を突っ込み、「泣くな」と言った。雨戸を閉ざした朝の家の中で、文昭が握ってくれる手によって、彼も、母も、そして兄さえも、辛うじて救われる気がした。確かに、あの家では、義父とその子と、母とその子で、そんなふうにして手を握って互いにぬくもりを伝えあい、かばいあって、暮らして来たのだった。だが、母は、兄をはねつけ、弦叔父をはねつける。いや、それだけではない、彼の実の男親のあの男を、はねつけたのだ。  姉は、「恐ろしよお」と言った。蒲団が、声を出すたびに、上下に脈打った。芳子は、「しっかりせなあかん、しっかりせなあかん」と言うだけだった。地虫の鳴く声がきこえた。親方の家の玄関は、開けられたままだった。  彼は、立ちあがって、玄関の硝子戸を閉めた。その彼の、畳を踏む足音に、姉は「来たあ来たあ」と言った。 「誰が来るもんか」彼は言った。実際、姉をさいなみいたぶりに来る者など、このおれがたたき殺してやる、と思った。  姉は、突然、泣き出した。芳子に、背中を撫ぜられて、「母さんよお、母さんよお」としゃがれ声で呼び、敷いた蒲団に両手をつき、首を振った。「母さんがおらんよお。母さんとこへ行きたいよお」と言った。  姉の背中を撫ぜていた芳子が、「あんなの」と言った。顔を手でおおった。「母さんと思わん」  姉は、「母さんよお、母さんよお」と言い募った。 「なんで、母さんなんよ、あんなのが……わたしらになにしてくれた……」芳子は言った。彼は、二人の姉をみていた。「母さんなら、もっと母さんらしいにせえ」  その法事の日から、三日間、名古屋の一家が、幌付きトラックで帰ってしまうまで、また姉は、子供になってしまったように甘えた。体に微熱があった。蒲団に入ることを拒んだ。病気はなおったと言い張った。姉は、一本体のどこかにはめられていたタガがはずれてしまったようだった。すぐ泣き、すぐおびえる。親方は呆れ顔だった。「仕事休んで、あれについていたってくれ」と彼に頼んだ。  姉の変りようは、滑稽にもみえた。姉は、芳子に、昔の話をしてと言った。芳子は話した。話に興が乗りはじめた頃、脈絡もなしに、「母さんと一緒におりたいよお」と、泣き声を出した。涙を眼ににじませていた。「母さんとこへ行きたいよお」と、子供のようにべそをかいた。母は、いま、洗濯の最中だ、掃除の最中だ、となだめてもきかなかった。芳子と彼と二人で、体をかがめてよろよろ力なく歩く姉を連れて、義父の家へ歩いていった。姉は、母の顔をみると、安堵した。母が敷いた蒲団に横になった。姉は蒲団に顔をうずめ、さっきまで、疲労と心労と病気でくたくたになり、もうなにもかも壊れてしまったという顔でべそをかいていたのが、にっとわらう。「母さんのにおいは卵焼きのにおい」「あほらし」と彼はわらった。芳子もつられてわらう。母はひとり、おろおろしている。姉から、だまされている気がした。姉は気がふれたふりをして、子供の頃の自分を味わいなおしているのではないのか。  姉は、名古屋の女の子の被った帽子を、ひょいと横取りした。それを頭に載せた。女の子は、わらっている大人たちまで、すべて、気がふれているとみえたのか、「もう名古屋へ帰ろ、名古屋へ帰ろ」と言った。 「明日の日にでも、医者にみてもらお」と母が、言った。 「山の医者にか?」彼は訊いた。  姉は、不意に、「いややあ」と叫んだ。山の医者とは、精神病院のことだった。 「みてもらうだけでも、みてもらわなんだら」 「いややあ、また、人を殺すんかあ」姉は叫んだ。母に、とびかかろうと、身を起した。芳子が、「美恵」と姉に抱きついた。母は、荒い息をした。芳子が「美恵、美恵」と耳のそばで言った。姉には、きこえない。「また、殺すんかあ、おめおめと殺させへんどお、人殺しい、鬼い」体を振った。芳子は、腰にしがみついていた。「鬼い、鬼い、もうどうなってもかまんのじゃ。鬼い、鬼い」ふッふッと、息の音をたてた。母は、姉をみつめていた。泣きもしなかった。  姉が、一緒に行きたい、と駄々をこねた。だから、日が暮れて、母と名古屋の姉夫婦と、その子供たちは、姉と共に、親方の家へ行った。姉にとってそこは、単に親方と所帯を持つだけの家ではなく、死んだ父さんの家でも、兄の家でもあると思うのだろう。彼は、一人残っていた。腹立たしかった。外へ出た。いったい、どこからネジが逆にまわってしまったのだろう、と思った。夜、眠り、日と共に起きて、働きに行く。そのリズムが、いつのまにか、乱れてしまっていた。自分が乱したのではなく、人が乱したのだった。ことごとく、狂っていると思った。死んだ者は、死んだ者だった。生きている者は、生きている者だった。一体、死んだ父さんがなんだと言うのだ、死んだ兄がなんだと言うのだ。  風が、吹いていた。冷えた土のにおいがした。新地に、出た。細い路地だった。裸電球の街燈がついた角をまがり、新地の裏に出た。男と女がいた。女が男の体をかかえ、しゃがみ込んでいた。彼が来たのを知って、あわてて抱きあった。彼が、その横をとおりすぎようとする時、女が、くッくッと声をたてて、わらった。角をとおり、ぐるっとまた、元の新地の路地にまわり込む形で、角をまがった。先ほどの女のわらい声が耳に届いた。 「お兄ちゃん、どう、安うするよ」と、化粧のにおいのする女が、彼の腕を取った。彼はその手を、黙ったまま、力を入れて、振り払った。「なんや、そんなにい……」と女は悪態をつきはじめ、彼は、女の悪態をききたくないと思い、『弥生』のドアをあけた。  暗い店だった。四つほど、ボックスがあった。申し訳程度に、桃色のライトを天井につるしていた。カウンターがあった。中に、六十にもなる老婆が入っていた。「いらっしゃい」と老婆は、声を張りあげた。「久美ちゃん、頼むわあ」と老婆は、言った。ボックスに、男と坐っていた若い女が、立ちあがった。老婆は、その女にむかってウインクした。「なんじゃよ、殺生やな」客が言った。 「心配せんと。昔取ったキネヅカで、お母ちゃんがサービスしたるから」 「あかん、あかん」男は言った。「齢考えてみいな」 「なに言うとるのかねえ。これでも一番やったんやから。|女郎《やま》の弥生言うたら、男は一度は抱いてみたいと列をつくってたんやから」 「いつのこっちゃ」  若い女が、つっ立っている彼の腕を取った。奥のボックスに坐った。「なに、飲む? ビール、ウィスキイ?」 「ウィスキイ」彼は答えた。 「高いよ」女は言った。彼はうなずいた。女の顔をみた。女は、彼にみつめられ、首をかしげた。「なんや」と怒ったふうな声を出した。「こんな顔で気にくわんかあ」彼は、女に、首を振った。女は誰にも似ていなかった。女は立ってカウンターに行き、水割りを二つ持ってきた。膝に手をおいた。「くすぐったい?」と指で膝をこすった。女の手があたたかいのを知った。 「ちょっと触らしてねえ、のろのろしとったら、お母ちゃんに叱られるから」と、女は言い、ズボンの上から、彼の性器を撫ぜた。しばらくそうやっていた。「なんや、柔らかいままやな」女は言った。「そしたら、キッスしよう」と言った。彼の首に手をまわした。「もっと力抜いてよ」と言い、彼の首を引きよせた。唇が重なった。女の舌が、彼の歯と歯の隙間から入ってきた。舌は動く。女は唇を離した。「ここ触らんと」と、彼に乳房を指した。女はいまいちど唇を重ねた。「なんや、まだあかんな」と女は言った。彼はうなずいた。ジッパアをあけた。女は、手を入れてきた。彼は自分の性器が、じょじょに硬くなっていくのを感じた。「ほらあ」と女は言った。彼は、女の乳房に触った。固い乳房だった。  一体なにをやりに来たのだろうと思った。女は彼の性器を触り、彼に、スカートの奥に手を入れろと言った。彼の耳に口をつけ、「二階に部屋、あるんよお」と言った。「要らん」と彼は、言った。 「変な人やねえ」女は言った。彼は、女の手を払いのけた。いま一度、顔をみた。女は、手を払われたことに腹が立ったのか、「なんや、からかいに来たんか、人の商売、邪魔しに来たん」と、立ちあがりかかった。腕を引っぱり、坐らせた。 「ききたいことあるけど」と彼は言った。 「うちなあ、いそがしいの。お金かせがな、あかんからなあ、あんたと話しとる暇あらへんの。話したいんやったら、お母ちゃんとしい」女は立ちあがった。ぶら下った桃色の照明に頭をうちつけた。「お母ちゃん」女は言った。「この人、はなしをしたいと言うとるよ。暇やったら、ちょっとつきおうてやってくれん」すかさず、老婆は、「いま、いそがしの。また、今度にしてと言うてくれん」と答えた。  彼は、追い出されるように、外に出た。女は、久美といった。あの女が、あいつが新たに囲った妾だというのか、あいつが、女郎に孕ませ産ませた子供だというのか。あの女が、おれの妹か? そう思った。妹が、なんにも知らず兄の性器をなぶり、自分の乳房を触らせたのか? 彼は、女に訊いていた。どうして、新地の、あんなところで働いているのだ? どして、娼婦まがいのこと、しとるんじゃ? 母を孕ませたあの男の子である彼は、ここでこうやっている。素人の若い娘に、あの男が孕ませた子は、いま、箱入り娘になっている。あの男が、女郎に産ませたおまえだけ、どうして、そんなことやっとる? 噂であるにせよ、どうしてあの男の妾にならんといかん? 涙がふっと浮かんだ。まわり道をして、駅の線路に沿って歩いた。  彼の顔を見るなり、「どこへ行ってたん?」と芳子が訊いた。夜の闇を歩いていたので、親方の家の螢光灯がまぶしかった。 「美恵が、まるで恋人呼ぶように、秋幸、秋幸って呼んでばっかしやのに」 「明日、姉やんについて、岬へ行って来い」と母が言った。母の顔を、彼はみつめた。 「皆んなで、昔と同じように、岬へ行くんや」姉が言った。「なあ、皆んなで行くんや、秋幸、皆んなで、弁当持って行くんやでえ」姉が、胸にかかえた麦藁を模したビニールのかごを、たたいた。 「調子に乗って、はしゃぎすぎて、また熱出すなあ」 「赤子とちがうよ。母さんも」姉は言った。その言い方を、芳子がわらった。 「おまえは昔から、体弱いし、かんがきついし、心気病みやし。母さんは、心配ばっかりしてるんやから」 「大丈夫や、もう肋膜もなおった」姉は、また、花模様のついたかごを、ぽんぽんとたたく。それは、十四、五の、女の子が持つようなものだった。 「秋幸も、義兄さんも、頼むよ」と事務所にいた親方が言った。 「親方も行かんのか?」彼は訊いた。親方は顔をあげた。 「古市のことがあったし、美恵がこんなんやから、段取りがめちゃめちゃじゃ。人夫らも、どこから手つけてええか分らんようやし」 「おれも、休んどるしなあ」 「しょうがないしな。秋幸に迷惑かけて」  蒲団に坐った姉の周囲に、母と芳子と義兄がいた。彼がいた。親方がいた。名古屋の三人と、姉の男の子は、二階にいた。彼は、義兄をみた。義兄には、この血のつながりだけでも、分り難いはずだった。きょとんとした顔で坐っている。変な、血のつながりだ、と思った。姉だけがおかしいのではなく、もともと、この血のつながりがおかしい。濁っている。上機嫌の姉を見ているだけで、息苦しい。 「お弁当に、卵焼き入れてな」と姉は言う。彼にむかって、「おいしいよお、砂糖入れて、おしょうゆ入れて、味つけて焼くん」と言う。 「母さんのにおいは卵焼きのにおいか」芳子が言う。わらう。「昔から貧乏して、卵焼きが、うちの一番のおかずやったもんねえ。兄やんも美恵も、夜のおかずは卵焼きときくと、わあわあ言うて」 「貧乏はいややな」母は言った。 「貧乏でも、かまうかしてえ」芳子は言う。「なあ、美恵ちゃん、貧乏でもかまんなあ」  姉はこれに答えず、にやっとわらい、かごをぽんぽんとたたいた。  日が当っていた。眩しかった。芝生が緑色に光っていた。あまり日射しが強いために、緑の芝生は、濃く黒っぽく見えた。岬の突端にある木が、海からの風を受けて、ゆっくりと揺れていた。梢がたわみ、元にもどり、また、たわむ。この木の他に視界を遮るものはない。空と海だけだった。寝転んだ腹に芝生が、くすぐったかった。彼は見ていた。姉はぽつんと肩を落して、花模様のついたかごを膝に抱えて坐っていた。化粧っ気がないため、そばかすが目立った。眼尻に細かい皺があった。姉の男の子と、名古屋の男の子が、義兄の行司で、相撲をとっていた。女の子は、一番下の久志を連れて、岬の売店に行っていた。  芳子は、膝にタオルを置いて、果物をむいていた。四つに割り、ひとつを彼に、ひとつを姉に差し出した。要らない、と姉は首を振る。「食べんと、あかんよお」と芳子は言った。芳子は、果物のひとつをほおばり、残りをタオルの上に置いた。それから、「ちょっと、そこの魔法壜を取って」と指差す。中に茶が入っている。「それから、そこのアルミホイル」彼はめんどうくさくなって、ふろしきづつみごと芳子の前に置いた。アルミホイルを開き、焼いた鳥のモモを出し、食べはじめる。「わたしは美恵とちごて、好き嫌いはないからな。昔から、よう母さんに、なに食べても大丈夫や、とホメられたな」芳子は、彼にわらいかける。「あの女も、口が悪りからな。乞食バラと言われた……」芳子は、姉の顔をみる。肉をくいちぎる。「秋幸も、もっと食べなあれ」彼は首を振る。芳子にいちいち答えるのも、めんどうくさい。不意に、姉が、呻いた。「兄やんもおったら……」と、言った。姉は、かごをかかえて、ふらふらと立ちあがった。芳子が、「秋幸」と、肉をほおばったまま言った。彼は、素速く起きあがり、姉の手をつかむ。坐らせる。姉は、芝生に尻餅をつく格好だった。それでもしっかりとかごを抱えている。「兄やんが、おったら、ねえ」 「首くくって、死んだ」彼は言った。「あの男が、誰よりも先に死んだ」舌を出して、嘲ってやりたい気がした。 「兄やんは、死んだよお」芳子が言う。 「楽しかったね」姉は、力をこめて言った。そして、いきなり力が萎える。かごを胸に抱いたまま、肩を落す。「姉やん、楽しいね」と言う。「楽しいねえ、風吹いとるし、日が当っとるし」 「ええ天気やねえ」芳子が返答した。彼にウインクした。「しっかりせなあかんよ」  姉はうなずいた。「つらいけど、しっかりするよお。姉やんもおるし、秋幸もおる。体弱いし、またいつ肋膜病むかもわからんけど」 「なに言うてるの、そんな気弱いことで。美恵がしっかりせなんだら、きょうだいはどうしたらええの?」 「体があかんし、気ィ弱いけど、しっかりするよお。わたしが、しっかりせなんだら、あかんのや」 「そうや。美恵より、わたしのほうが苦労しとるよ。いまでこそ、お父ちゃんと一緒に、皆んなで紀州に帰ってこれるようになったが、あんたにも、誰にも言えんかったけどなあ、わたし、あの人と結婚すると言うた時、あの人の母親に、髪つかまれ、畳の上を引きまわされた。貧乏人の、どこの馬の骨かわからん女が、ハコイリの息子をだましたと言うて。そんなの知らんやろ、あんた外に行っとらんから」 「兄やんがおったらねえ」 「兄やんがおっても、言わなんだ。何遍も一人で、泣いた」 「楽しいねえ、ここに、兄やんがおったらねえ」姉は言った。光が眼に眩しいのか、姉は眼を細める。潮風が、間断なく、下から上ってくる。平日なので、人はいない。子供達は、芝生の隅と隅を目印に、駆けっこをしている。義兄は久志を連れて、土産物売り場の横にとめた幌付きトラックに乗っていた。彼の眼の前に、姉がいた。体が、優しく、柔らかくみえた。写真の父親にそっくりだった。「楽しいねえ」姉は言った。  幌付きのトラックで、祖母の墓に寄った。墓地は、岬をみおろす崖上にあった。  芳子の記憶をたよりに、石塔を捜した。やっとみつけた。線香の代りに煙草をみたてて供えた。それだけで、祖母が気づいてくれるかどうかと芳子が言い、紙を燃やした。炎が、揺れた。「婆は、一人でさびしいか? さびしいことないもんねえ。こうやって、十年に一ぺんでも、孫やヒ孫が、思いついて、参りに立ち寄るからねえ」芳子は、姉に言いきかせるようにひとりごちる。「婆は、秋幸が生まれたばっかしの頃来て、よう言っとったねえ。墓には、雀も鳩もとまる、さびしない、と」芳子も、そう言い、顔をあげた。彼をみて、「秋幸、たわけ」とどなった。彼は、立ちあがった。「なんに尻おろしとるの、そこ、伯父の墓やのに」 「伯父?」と彼が訊いた。  姉が、わらった。「母さんの、兄の墓やよ」姉が、しっかりした口調で答えた。 「蚊に刺されてばかりだが」名古屋の女の子が言った。 「帰ろ、はやく、鯨のプール見に行こ」 「墓になど来てえ」と、久志が、いきなり、芳子にとびつき、足で蹴った。芳子の尻に当った。条件反射のように、芳子は、平手で、久志の背中をぶった。大きな音がした。痛みに驚き音に驚いて、久志は、顔をしかめ、反応を見るようにゆっくりと、べそをかく。涙を眼からあふれさせ、声をあげて泣きはじめる。「親の尻を蹴りとばしてええと言うのか」芳子は言う。「そんな子は、名古屋に帰りやあ」義兄が、「強くぶったたくことない」と言い、久志の頭を撫ぜている。 「見に行こ、プール見に行こ、なあ」と女の子は、義兄に言う。姉の男の子一人、黙って、墓の竹筒にさした枯れた花の葉をむしっている。「岬など、ちっともおもしろくなかった。なんにもない。店だって高いだけだもん」それから、女の子は姉の男の子に訊く。「鯨って、本当の鯨? 本当の鯨がプールにいるの?」男の子はうなずく。女の子はなお訊ねる。「本当? 嘘言ってるのとちがう?」男の子は、「本当じゃ」と、やっと答える。  幌付きトラックのむこうに、岬と海が見える。日が雲でおおわれる。墓地の前の崖っぷちの真下は、竹林だった。風に波打ち、色が変った。その下に、遮るものもなく、芝生がつづく。岬の突端が、ちょうど矢尻の形をして、海に喰い込んでいる。海も、青緑だった。岬の黒っぽい岩に波が打ちよせ、しぶく。  義兄が彼の横に立った。「いいところだね」と言った。「なんにもないとこじゃ」彼は答えた。義兄の視界から、この岬を隠したい気がした。自分一人のものとしておきたい、誰にもみられたくないと思った。岬から山にあがったこの墓地に葬られている人々は、昔から、水は、雨水を飲み、海がすぐ目と鼻の先にあるのに船を着ける湾がなく、漁も出来ずに、暮らした。山腹をひらいて畑を打って暮らしたのだった。母はそう言った。子供達は、もの心つくかつかないうちに、方々へ子守りに行った。母も、その一人だった。  姉たち二人は、まだ墓地の中にいた。子供達は、荷台に乗り込み、次にまわる鯨のプールのはなしをしていた。彼は、二人が、思ってもみないほどに年寄りくさいのに気づいた。姉は、食い残りの食べ物、握り飯、果物を入れたかごをかかえ、しゃがんでいる。芳子が、腰を屈めて、墓石の間の細い道をちまちまと歩き、山からのわき水をためた水がめに行く。さびつきゆがんだブリキバケツで水をくむ。よほど重いのか、よろけながら、運ぶ。魔法壜のコップで、水をすくい、墓石にかける。祖母のもの、伯父のもの、それから祖母が産んですぐ死んだという子供のもの、次々とかける。草をむしる。眼をこらしてみると、彼があげた線香みたての煙草が、かすかに、けむっている。彼は、二人をみながら、姉たちが齢をとり、老婆になっても、ああいうふうに、やるのだろうか、と想像した。老婆になった二人が、母の墓の掃除をしている。ぺちゃくちゃとはなす。涙を流す。話すことも楽しいし、泣くことも、楽しい。まだ老婆でない姉たち二人は、その分だけ、痛ましく思えた。 「いつまで、やっとるんじゃ」と、彼はどなった。 「ちょっと待ってえ」と姉の、機嫌のいい声が返った。 「のろのろしとったら、二人ともここへ置いていくど」 「罰当り」芳子がどなった。「明日、帰らんならんから、めったにこれんから、婆にも伯父にも、昔のお礼を言うとるの。おまえが一番、かわいがってもろたくせに、罰当り」 「そんなこと、おりゃ、知らん」彼はどなり返した。 「死なせてよお」と、姉は、素足で家をとび出した。夜、名古屋の姉一家が、幌付きトラックで帰った次の日だった。ちょうど親方がいた。彼が、眼を離した隙だった。「秋幸、つかまえてくれ」親方が叫んだ。彼も、とび出した。後を追った。踏み切りの手前で、姉の衣服の後ろえりをつかんだ。力を込めて引いた。姉はあおむけにひっくり返った。彼に体当りする格好で、素早く起きあがった。川にかかった鉄橋を渡って駅に向う汽車が、ちょうど、踏み切りを通過しかかった。頭からダイビングする格好だった。姉の髪を持った。姉は手足を振った。彼は髪を握ったまま、姉の体を大外刈で投げつけた。やっと追いついた親方が、被さって姉の体をおさえつけた。首元を握りしめ、右手で頬を二回張った。「死ぬんやあ、死ぬんやあ」姉は、足をばたばたさせた。スカートがめくれあがった。白い太ももが、彼には不愉快だった。「離せえ、離せえ」と言った。姉は口をあけ、歯をむきだした。顔をねじり、噛みつこうとした。親方は、姉の体に馬乗りになり、「おのりゃ」と又、頬を張った。この時、汽車が、音をたてて通過した。息を荒く吐きながら、彼は汽車の轟音が、自分の体の奥で反響しているのを知った。親方の家の隣の女が、こちらをみていた。姉は、「死ぬんやあ、死ぬんやあ」と呻いた。親方は、姉の上に馬乗りになり、手をおさえつけていた。上着を脱ぎ、アンダーシャツにステテコ姿の親方の腕や足の筋肉が、妙にけものじみて見えた。  土だらけだった。彼は裸足についた土を、風呂場で洗った。脱衣所に、久志の置いていったものらしい鯨のビニール玩具があった。泣き続ける姉の声がした。親方が、「秋幸、母さんを呼んで来てくれ」と言った。水に濡れた足のまま、親方のものらしいサンダルをはいた。救けたい、と彼は思った。誰をも彼をも、救けたい。だが、どんな方法があるのだろう。姉は狂っているのだろうか、と思った。ふと彼は、岬の墓地にいた姉を思い出した。あの時は楽しげに見えた。あの時から、二日も経っていない。法事で、ああいうふるまいをしてから、幾日も経っていない。彼は、姉の変化を現実のこととして、のみ込めなかった。あんなにも病気をおそれ、死ぬことにおびえたのに、姉は死のうとした。  母は、泣きもしなかった。「阿呆なことして」と言った。義父の方が、うろたえた。母は、洗濯物を折りたたんでいた。「古市が死んで、それでのうても、ごたごたしとるんやのに」母は言った。「すぐ行くからな、すぐ行って、美恵に言いきかせるからな」顔を上げて彼をみた。 「すぐ行ったれ。そんなこと、後からでもできる」義父は、言った。母は手を休めなかった。「あれも大変じゃ、いまどこの現場やっとる?」義父が訊いた。彼は、答えなかった。口をきくのがめんどうくさかった。「これ」と母が、言った。 「なんじゃあ」乱暴に言った。母は洗濯物を整理する手を止めた。立ったままの彼をみつめた。 「お父ちゃん、訊いとるのに」  彼は嘲った。歪み、涙が、眼に浮かんだ。なにがお父ちゃんじゃ、阿呆らしいこと言いくさるな、彼はそう声に出して言いたかった。おれは、もう子供と違うど。涙がこぼれた。 「秋幸、返事せなんだら」と母が言った。優しげな声だった。「すぐ行くからな」  もろい、どちらか一人が踏みはずせば、壊れてしまう家だった。敵には強かった。しかし、そんなものは嘘だ。嘘の家など必要ではない。いや、もともと家など要らない。彼は思った,離れの彼の部屋にはいった。おれは、母だけの子だった。父などなかった。いま母にむかって、彼は、おれの兄と姉を元に戻せと言いたかった。兄も姉たちも、母の子であることには変りない,あの男の顔を思い出した。あの男の声を思い出した。あの男が、自分の何ものかであることは確かだった。だが、父とは呼びたくない。一体、おまえたちはなにをやったのか? 勝手に、気ままにやって、子供にすべてツケをまわす。おまえらを同じ人間だとは思わない。おまえら、犬以下だ。もし、ここにあの男がいるものなら、唾をその顔に吐きかけてやりたかった。あの男は、絶えずおれを視ている。子供の頃から、その視線を感じた。その眼を、視線を、焼き尽したい。彼は部屋の中を歩きまわった。壁を蹴った。この手にも、この足にも、あの男が入り込んでいる。  親方の家に、光子がいた。その後に、若い男がいた。若い男は、彼と母の二人を見て、正坐した。 「おばさん、美恵ちゃんのこと、ちっとも知らなんだ」光子は言った。母は黙ったまま、姉の蒲団のかたわらに坐った。姉は母を見て、柔らかい、すぐ消える笑を浮かべた。姉は蒲団から両手を出した。左手首に包帯が巻いてあった。 「これはどうしたん?」母が訊いた。その包帯は、彼もはじめてだった。 「ちょっと眼を離した隙に、かみそりでやった」親方が言った。「取りあげて、皮切っただけで、すんだけど」 「おばさん、ごめんしてよ、安さん、あんな事して」光子が言った。若い男は、彼にみつめられていることを知り、あわてて眼を空にむけた。 「阿呆なことをしてえ」母は光子にはとりあわず、「なんで、そんなことしようとするんや」と言い、息を大きく吸った。ふっと吐いて肩をまるめた。姉は、母に、また、笑をつくる。「美恵、ようきかなあかん。人間いうのは、死んだらあかん。死んだら、終りや。皆んなみてみい。皆んな生きとるのに」 「ごめんしてよお」光子がまた言った。顔を手でおおった。若い男が、光子の背中に手を当てた。光子は肩を振った。親方が、「泣くな」とどなった。「泣いてもしょうあるもんか。それより、光子」と親方は声を変えた。「安雄が出てきて、また人殺しさせんようにせえよ」光子はうなずいた。 「若い男を、安雄のおらん間に引っぱり込むのはええが、いま時分、人一人殺したら死刑になるわけでもなし、また出てくるど」親方は、光子の背中を、撫ぜている若い男に言う。「あんたも、光子とあんまり深入りせんように」若い男は、「はあ」とうなずく。手は、光子の背に置いている。 「美恵、死のと思たりしたらあかんよ」母は、姉の額に手を置いた。「肋膜、患ろた時、父さんも、死んだ兄やんも、美恵をなんとか生かしてやりたい、とあんなに、願ごたんやのに」 「死なへんよお」姉は言った。「死にたないよお」 「おうよ、生きやなんだら」母は、額から手を離した。「母さんも、名古屋の姉やんも、秋幸も、まだ生きとるのに」 「美恵ちゃん、死んだりしたらあかん。死のと思たりしたらあかん。こんなわたしみたいな女でも生きとるのに、美恵ちゃんが死んだりしたらどうするん。神さんも仏さんも、びっくりするわ。びっくりして、今日かぎり、神さん仏さんと、言われ、まいられること止めると言うわ。親方もおるし、子供もおるのに」 「死にたないよお、生きるよお」姉はかすれた声で言い続けた。あの時、汽車に駆け込もうとした姉とは、別人に見えた。包帯が、妙に白くくっきりと、眼についた。姉は、蒲団の中で、身うごきもしなかった。じょじょにさめているのだろうか? 彼は姉をみつめていた。奇妙な生き物に思えた。化粧をしていないためか、螢光灯の具合か、顔は青っぽかった。光子の顔のような艶がなかった。その皮膚、その肉、その骨の中に、どういうものが入っているのだろうか? 彼は、その奇妙な生き物が、他でもない、母の血でつながった姉であることが不思議だった。息苦しくなって立ちあがった。彼は、台所に行って水を飲んだ。日が外から入り込んでいる。彼は、水と共に日を飲んでいる気がした。 「また、夏に、名古屋から皆んな海水浴に来るし、美恵がしっかりせなんだら」 「美恵ちゃんがしっかりせなんだら、わたしらあかん」光子が言った。光子は、優等生のようなしゃべり方だった。若い男が、立ちあがった。台所にやって来た。髪にパーマをかけていた。風呂場に入って行こうとした。彼が訊ねると、「便所」と答えた。「あっちじゃ」と彼は、玄関の方を指さした。「順ちゃん、なにい?」と光子が声を掛けた。「便所やと」彼が代って言った。「男やのに、外でして来い、と言うてやって」光子は言った。若い男は、頭をかいてわらった。男は、笑を残したまま、勝手口のサンダルを指さし、はいていいかというように彼を見てうなずいた。背は彼とたいしてちがわなかった。齢もたいしてちがわなかった。優しい整った女のような顔だった。安雄に代って土方など、とうてい出来そうになかった。  姉は、寝たままだった。顔を、横にむけた。髪が後で束ねられていた。薄べったい桃色の耳が、ぴょこんと、それだけが姉とは別の生き物だというようにみえた。「あの子ら、喜んでた」と母がぽつんと、言った。「紀州はええな、紀州はええな、と言うて。生きとる鯨、どっさり湾に飼うとるのを見てきた。名古屋に持って行きたいな。名古屋の、プールに入れても、あかんな、と小さい方と男の子が、一生懸命に相談しとる」 「生けどりにして、自然の湾の中に入れとることは、どこを捜してもないからな」親方が言った。「ここだけや」 「紀州か」と彼は、ひとりごちた。海に突き出した岬を思い出した。海は、青緑だった。 「芳ちゃん、名古屋から来てたの知っとったけど、安さん、あんなことしたさか、この家にも来れなんだ。芳ちゃんにも、会いたいねえ。名古屋のええとこへ嫁いで、奥さんになったやろねえ」光子は言った。「昔は、いっしょに、練り歩いとったんやのに。わたしと芳ちゃんが、いっしょにおると、男でも、そばによれなんだよ。ねえ、親方」 「阿呆を言うて」 「美恵ちゃんの死んだ兄さんと親方は朋輩で、わたしらも、朋輩でなかったけど、まあ朋輩みたいなもんや。死んだ兄さんが、わたしの初恋の人。あんたら問題にならんくらい、男前やったよ。散髪屋がモデルにしてたんやもん」若い男に言った。男は照れた。 「兄やんのこと、言うな」彼が言った。 「わあ、秋幸くん、やきもち焼いとる」光子はわらった。母は、苦笑した。姉が、かすかに笑をつくって、彼を見る。 「秋幸かて、男前じゃね」親方は、眼を細め、笑を残したまま言う。助平ったらしい、と彼は思った。不快だった。「秋幸を、好きで好きでしょうがないと思っとる事務員がおるから、なあ。秋幸が、知らん顔しとるだけじゃ」 「いまごろから、女に、|現《うつつ》を抜かしたらあかんわい」母が言う。 「もう幾つ、二十四?」光子が訊く。彼はうなずきながら、おれは、どろどろのおまえたちとは違うんだ、と叫び出したくなった。  外から、「美恵、美恵」と呼ぶ声がした。弦叔父の声だった。彼が一番最初に気づいた。母を見た。声は勝手口から玄関にまわった。「美恵、おるかあ、美恵ェ」と、言った。弦叔父が、立っていた。光を背にしていた。一瞬、気まずかった。母が、どなりはじめるのではないかと心配した。「おるどう、なんじゃあ」と彼が、誰よりも早く言った。あけっぴろげたままの玄関の戸と柱に、両手をひろげて体を支え、「叔父じゃあ、叔父が来たどう」と言った。姉は黙ったままだった。 「そんなとこへ立たんと、入れ、入れ」彼が言った。手招きした。 「秋幸か」弦叔父は言った。顔を歪め、おどける。 「なんな、また? なんの用な、酒か?」母が、言った。  弦叔父は、ふらふらとはき物を踏みつけて入り、上りかまちに、音をたて、坐った。「母さんも来たあるんか」と独り言をつぶやく。「うん」とうなずく。酒のにおいがする。「美恵、はよ、ようなれよ。叔父が、市長にかけあったるさかいに。なんでもっと、この市を、便利にせんかと。なんで、この市を、他所みたいに、金持ちにせんかと」また演説をぶつのか、と思った。弦叔父は、右の、手を振る。「いっぺん、燃やしたったら、ええんじゃ。あっちへくねくね、こっちへくねくね、市の道がつづいとる、不便じゃ」 「うろうろ歩くのに、不便かい?」親方がからかう。  弦叔父は、「ははあ」とわらう。つられてわらった彼の顔をみて、また、顔を歪め、おどける。兄や姉たちの父親は、こんな顔をしていたのだろうか、と思う。親方の家の小さな仏壇の中に飾った姉たちの父親の写真と似ていた。だが、雲と泥の差だった。弦叔父の髪は、誰かに、バリカンで刈ってもらったらしく、まだらだった。頭が歪んでみえていた。顔は埃と垢のため黒ずんでいる。ひっかき傷にヨーチンを塗り、そのかさぶたがはがれ落ちかかっていた。皺が額に幾つもあった。歯も眼も黄色かった。服は、誰かにもらったのか、それとも昔のものか、ところどころ、つぎが当っていた。一体、誰がつぎを当てたのだろう、誰がめんどうを見ているのだろう。バラックを市の所有地に無断で立て撤去されてから、どこで眠っているのか、噂をきかなかった。人に疎まれる、蔑まれる。弦叔父は、それが心地よいと思っているみたいに、うろうろと路地の家家をまわる。  姉はなにも言わなかった。蒲団に寝ていた。耳だけが、生きているように彼には思えた。 「叔父、美恵が、阿呆みたいなことばっかしやる。叔父からも、叱ったってくれ」親方が言った。 「そうか」とうなずく。「叱ったる」弦叔父は、顔を姉にむけ、声を高める。「こら、美恵、阿呆なことしたら、あかん。阿呆なことすると、美恵も、死刑にするど。親方も心配しとるのに。阿呆なことしとったら、刑務所に入れるど」  熱を計るつもりか、母が姉の額に手を置いた。姉の眼に涙がふくれあがり、こぼれるのがわかった。 「叔父、酒、欲しか? 酒あるど」親方が言った。彼が、立ちあがった。ビールを一本取り出した。栓を抜き、コップといっしょに、弦叔父の前に置いた。  天井からぶら下った螢光灯に、赤い豆電球を取りつけたものだった。それが点いていた。彼には、その弱い赤い光のむこうは見えなかった。むし暑かった。汗が流れていた。女は、彼に顔をむけてみていた。二人とも素裸だった。  女はあおむけに寝た彼に、おおいかぶさった。乳房で、彼の胸をこすった。彼の性器に手をまわし、「ほら、また、もうこんなになってるやんか。サービスしたるわ」と、女の中に入れようとする。女を体の上から降ろした。「ちょっと、待て」と彼は言った。 「へんな人やなあ。ちょっとぐらいかまへんけど、はよしてなあ。お母ちゃんにまた怒られるから」女は言った。また女は彼をみつめた。彼の腕を枕がわりにした。彼のわき毛を、髪でくすぐった。鼻をおしあて、においをかいだ。「くさいことあらへんな、青いような、石鹸のようなにおいするな」女はひとりごちるようにつぶやく。「いっつもなあ、若い人ばっかしやったらええけどなあ」  さっきまで、町を歩きまわっていた。明日から仕事に出る、そのために新しい地下足袋を買う必要がある、と母に言い、外に出たのだった。彼は一人になりたかった。息がつまる、と思った。母からも、姉からも、遠いところへ行きたいと思った。あの朝、首をつって死んでいた兄からも自由でありたかった。すぐ踏み切りに出た。一本立っているひょろ高い木の梢が、揺れている。自分は、一体なんだろうと思った。母の子であり、姉の、弟であることは確かだった。だが、それがいやだった。不快だった。姉たちとは、片方の血でしかつながっていないのも確かだった。姉たちの父親は、彼には、父親ではない。弦叔父は彼の、叔父ではない。かくしても、とりつくろっても、それは本当のこととしてある。彼は歩いた。その男と出会う事を、願った。姉に、死んだ父さんがあるように、彼にもある、人間だから、動物だから、雄と雌がある。雄の方の親がある。その雄と決着をつけてやる。いま、自分の皮膚を針ででも突つくと、そこから破け、自分がすっかり空になりそうだ。切って、傷口をつくって、すべて吐き出してしまいたかった。彼は、|昂《たかぶ》っていた。酷いことをしでかして、あいつらに報復してやる。いや、彼が、その身に、酷いことを被りたかった。どこを歩いているのか見当がつかなかった。  いつのまにか、薄暮の新地にやって来ていた。川向うにあるパルプ工場のにおいがした,川から離れたこの新地に、そのにおいがすると、今日の夜にも雨になる。この土地の天気は、変りやすい。雨は禍々しかった。ろくな事はなかった。彼は、『弥生』の前に立った。入ろうか、それともこのまま引き返そうかと迷った。胸が鳴った。誰かが、背後から彼をみている気がした。その眼を石で潰してやる、そう思った時、彼の手はドアをあけていた。  彼は、傍に坐った女に、すぐ言った。ポケットから、金を出した。「なんや、無理して金つくって来たんかいな」女は彼を覚えていた。二人っきりになりたいと女に言った。「よっしゃ」と答える。女は、カウンターに入った老婆に、「お母ちゃん、二階、あいとるかいなあ」と訊いた。老婆は首をかしげた。「さてなあ」と、芝居っ気を出して言う。「ちょっと、待っててや。さっき、誰か使っとった気配やな」老婆は、カウンターの横の、二つほどあるブザーを交互に押す。「塞がっとったら、久美ちゃん、『三杉』へ行ってもええやんか。二人とも若いし、誰もあやしまへん」右側のブザーが、鳴り返してきた。左側はそのままだった。「空いとるかいな?」老婆は言った。桃色の照明で老婆の顔は、赤っぽく、尖ってみえた。  四畳半の部屋だった。雨戸を閉め切り、カーテンを下していた。蒲団が敷いてあった。狭い板間に、ソファがひとつ、テーブルがひとつ置いてあった。女は、螢光灯のひもをひっぱった。桃色の光に変った。彼には、手品を見ているようなものだった。女は、下で見た時の顔と、違って見えた。眼が光っていた。「兄ちゃん、服脱ぎい」と言った。彼は、迷った。廊下を通って階段の下から、女のわらう声がきこえた。むし暑かった。雨がまもなく降る、と彼は思った。  女は服を脱いだ。パンティ一枚になった。 「なんや、のろのろしてんと、はよ脱いで」と、つっ立ったままの彼に言った。言葉が、見当らないのを知った。おまえは、あいつの子か、あいつの子か、と体の中で訊いているのに、声にならない。部屋に、男と女のにおいがこもっているように思えた。女はパンティを取った。 「兄ちゃん、はよ、服脱ぎい。ええことしょうよ」女は、蒲団に入った。まだ、猶予はあると思った。そう思いながら、シャツを脱ぎ、ズボンを脱いだ。パンツひとつのまま、蒲団に入った。女はいきなり唇を重ねてきた。舌が割って入ってきた。体が震えた。初めてだった。パンツを脱いだ。女の手が、彼の勃起した性器に触れた。そして、彼に、股をからみつかせた。女の乳房に顔をこすりつけた、乳房を手で握った。赤い、ぴょんと、それだけは、女とは別の生き物であるというふうに固くつきだした女の乳首を、口に含んだ。「いやや、いやや」女は言った。「そんなこと、せんといて」と妙にはっきりした声で言った。乳首に歯をあてて噛んでみた。あの男も、こういう具合に、女をやったのか? 「いやあ、いやあ」とまた女は言った。首を振った。乳首を離した。歯型が赤くついていた。自分が、あの男の子供を犯そうとしている、と思った。あの男そのものを凌辱しようとしている。いや、母も姉たちも兄も、すべて、自分の血につながるものを凌辱しようとしている。おれは、すべてを凌辱してやる。女は、彼の首に手をまきつけたまま、呻く。女の奥の奥まで、性器は入っていた。女は眼を閉じ、声をあげる。妹か? と彼は、訊いた。ほんとうに、あの、別れたままの、あいつの血で繋がった妹か? 女に頬をすりよせた。愛しい。愛しかった。子供の頃から、おまえのはなし聞くたびに、どこでどう暮らしているのか、思案していた。彼は、射精した。女は、きょとんとした顔をしていた。  妹と姦った、妹と知って、姦った、彼はそう確信したかった。けもの、畜生。人にどうなじられてもかまわない、いや、人がどう嘆いてもかまわない。  女は、彼のわき毛を指でひっぱっていた。くすぐったかった。腕まくらしたその腕に唇をあてた。ワン、ワン、と犬の真似をして歯をあて、柔らかく噛んだ。彼が反応を示さないのをみて、「なに考えとるのお」と言った。彼は答えなかった。  女はうつぶせになった。もともとそこに置いてあったものか、煙草を口にくわえ、火をつけ、ごほんごほんと咳をして、「はい」と、彼にそれをくわえさせた。女の唾がついた。一服吸っただけで、「消してくれ」と女に渡した。「なんや、煙草吸わへんのかいな」女は咳をしながら言った。女は灰皿で消した。 「死のと思たことがあるか」彼は訊いた。 「しょうもない」女は言った。彼に足をからめた。「こんな若い身空で、そんなこと考えますかいな。そのうち、金をどっさり持った人と結婚してな。兄ちゃん、その時、あいつは新地で体売ってたなんて言うて、邪魔せんといてな」  彼はうなずいた。女の手が彼の性器にのびた。海にくい込んだ矢尻のような岬を思い浮かべた。もっと盛りあがり、高くなれと思った。海など裂いてしまえ。女の手は、彼の勃起した性器をつかみ、力を入れてにぎる。「男の人の、見るたんびに、罪つくりなこんなもん持って、しんどないかな、と思うわあ、ふりまわされてえ」  不意に、女を抱きしめた。「痛ァ」と女は言った。女をひっくり返し、上になった。それがこの商売で習い性となったものか、女は膝を立てて腰を浮かせた。「いきなり、なんやのん。サービスしたろかと言うとるんやのに」女は言った。それからわらい、|科《しな》をつくり、腰を動かした。「そんなにきつうに、抱きしめんかてえ」  この女は妹だ、確かにそうだと思った。女と彼の心臓が、どきどき鳴っているのがわかった。愛しい、愛しい、と言っていた。獣のように尻をふりたて、なおかつ愛しいと思う自分を、どうすればよいのか、自分のどきどき鳴る心臓を手にとりだして、女の心臓の中にのめり込ませたい、くっつけ、こすりあわせたいと思った。女は声をあげた。汗が吹き出ていた。おまえの兄だ、あの男、いまはじめて言うあの父親の、おれたちはまぎれもない子供だ。性器が心臓ならば一番よかった、いや、彼は、胸をかき裂き、五体をかけめぐるあの男の血を、眼を閉じ、身をゆすり声をあげる妹に、みせてやりたいと思った。今日から、おれの体は獣のにおいがする。安雄のように、わきがのにおいがする。酔漢なのだろうか、誰かが遠くで、どなり叫んでいるのが彼にきこえた。苦しくてたまらないように、眼を閉じたまま、女は、声をあげた。女のまぶたに、涙のように、汗の玉がくっついていた。いま、あの男の血があふれる、と彼は思った。 [#地付き]〈了〉

   
後  記 「黄金比の朝」は一年半前に書いた。  吹きこぼれるように、物を書きたい。いや、在りたい。ランボーの言う混乱の振幅を広げ、せめて私は、他者の中から、すっくと屹立する自分をさがす。だが、死んだ者、生きている者に、声は、届くだろうか? 読んで下さる方に、声は、届くだろうか?  昭和五十年十二月 [#地付き]中上健次    初出誌   黄金比の朝      「文學界」 昭和四九年八月号   火  宅      「季刊藝術」昭和四九年三二号   浄徳寺ツアー      「文芸展望」昭和五〇年九号   岬      「文學界」 昭和五〇年一〇月号   単行本   昭和五十一年二月文藝春秋刊 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     岬     二〇〇一年四月二十日 第一版     二〇〇一年七月二十日 第三版     著 者 中上健次     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Kasumi Nakagami 2001     bb010405