[#表紙(表紙.jpg)] 粘膜人間 飴村 行 目 次  第壱章 殺戮《さつりく》遊戯  第弐章 虐殺幻視  第参章 怪童|彷徨《ほうこう》 [#改ページ]   第壱章 殺戮《さつりく》遊戯     1 「雷太《らいた》を殺そう」  村の中学校からの帰り道、農道の途中にある弁天神社の前で兄の利一《りいち》が言った。低音だが力の込もった声だった。隣を歩いていた溝口祐二《みぞぐちゆうじ》は無言で利一を見た。ロイド眼鏡を掛けた面長の顔は強張《こわば》り、レンズ越しに見える目には刺すような光が浮かんでいた。その光を見て祐二は利一の言葉が嘘ではないことを知った。十五歳の年子の兄は本気で十一歳の末弟の殺害を決意していた。しかし祐二は驚かなかった。雷太の横暴な態度に祐二の忍耐も限界まできていたからだった。それは反抗期と言う言葉で片付くような生易しいものではなかった。  あれほど大人しかった雷太が変わり始めたのは一ヶ月ほど前、夏休みが終り二学期が始まった直後だった。  まず名前を呼んでも返事をしなくなった。ふざけているのかと思い頭をつつくと鋭い目つきで睨《にら》み返してきた。次に祐二と利一を平気で呼び捨てにするようになった。二人とも内向的で物静かな性格だったが、さすがに小学五年生に呼び捨てにされると腹が立った。しかも雷太は父親が再婚した女の連れ子であり義弟だった。さっそく利一が強い口調で注意すると「だったら俺を黙らせてみろ」と逆に挑発された。  雷太は顔だけ見れば普通の子供だった。坊主頭で頬が赤くいつも青洟《あおばな》を垂らしていたが、首から下が異常なまでに発育していた。身長が百九十五センチ、体重が百五キロもあった。腕も脚も丸太のように太く、左右の胸の筋肉は周囲を威圧するように高く盛り上がっていた。それは小柄で細身の祐二と利一の体躯《たいく》を遥《はる》かに凌駕《りようが》していた。雷太に挑発されて利一は言葉に詰まった。喧嘩《けんか》になれば叩《たた》きのめされるのは目に見えていた。小学生に負けるという屈辱だけは避けたかったのか、利一はそれ以上何も言わずに引き下がった。  その行為が雷太をさらに調子づかせた。翌日から雷太は祐二と利一を顎《あご》で使うようになった。自分には手出しができないと分かった途端、中学生の義兄達を使い走りにしたのだ。宿題や買い物、部屋の掃除など様々な雑用を言いつけ、少しでも気に入らぬことがあると大声で喚き散らした。二人は耐え難い屈辱に苛《さいな》まれ爆発寸前だったが、雷太の圧倒的な肉体の前には服従せざるをえなかった。  そんなある日事件が起きた。  祐二と利一に対しての横暴を知った父親が雷太を呼びつけ厳しく叱責《しつせき》したのだ。しかし雷太は全く動じなかった。にやりと薄笑いを浮かべこれ見よがしに畳に唾《つば》を吐いた。激怒した父親が平手で頬を打つと雷太は逆上した。父親を突き飛ばして馬乗りになり、その顔面をめちゃくちゃに殴りつけた。祐二と利一は雷太の腕にしがみついて暴行をやめさせたが、父親は鼻骨を骨折して全治一ヶ月の怪我を負った。  この出来事は祐二と利一を慄然《りつぜん》とさせた。二人に対する仕打ちはいくら酷《ひど》いとは言え所詮《しよせん》子供同士のものだった。しかしそれが大人に対しても行使されたことにより、事態はしゃれにならない深刻なものになった。父親を殴っている時も雷太は薄笑いを浮かべたままだった。人間の顔面を潰《つぶ》す快楽に浸《ひた》っているように見えた。その時雷太は明らかに己の肉体の持つ絶大な力に感づき、同時に暴力で他人の肉体を破壊する悦《よろこ》びに目覚めていた。それはまさに狂人が銃の操作を覚えたようなものだった。十一歳の子供が湧き上がる破壊の衝動を制御できるはずもなく、さらに唯一の抑止力となるはずだった父親が駆逐されたため、歯止めのきかなくなった雷太の暴力が今後さらに激化することは必至だった。祐二と利一はまだ暴行されたことは無かったが、それももはや時間の問題のように思えた。親を叩きのめして調子付いている雷太は、切っ掛けさえあればすぐに襲い掛かってくるはずだった。しかも二人の体躯は父親よりも貧弱だった。雷太の殴打で血まみれになった自分達の姿を想像すると、憤怒《ふんぬ》と恐怖で体が震えた。だから利一が雷太の殺害を主張した時も、祐二は身を守るためには至極当然のことだと思った。 「雷太を殺そう」  利一はもう一度言った。初めと同様に低音だが力の込もった声だった。 「あの化け物をどうやって殺す?」  祐二が歩きながら訊《き》いた。 「河童《かつぱ》だ。蛇腹《じやばら》沼の河童どもにやらせる」 「でも何と言って頼む? あいつら人間とはつるまねぇぞ」 「頼み方はベカやんに教えてもらう。ベカやんだったらいい方法を知ってるはずだ」 「じゃあこれから山に行くのか?」 「そうだ」  利一は前を向いたまま頷《うなず》いた。祐二の頭に小太りで人の好《よ》さそうな中年男の顔が浮かんだ。 「祐二、いま金持ってるか?」 「小銭なら少しある」  祐二が学生服のポケットに手を入れた。 「悪《わり》ぃが途中の煙草屋でゴールデンバットを三箱買ってくれ」 「土産か?」 「ベカやんは煙草が好きだから機嫌が良くなる」  利一が横目で祐二を見た。     *  ベカやんは村の東方にあるマルタ山に住んでいた。山の中腹に陸軍の古い防空陣地跡が残っており、その敷地内にある防空壕《ぼうくうごう》の中で寝起きしていた。  ベカやんは流れ者だった。祐二が物心ついた頃にはすでにこの村に住んでいたが、その素性は謎だった。本名も年齢も出生地も、いつどこからやってきたのかも知る者はいなかった。ただ五二式《ごうにいしき》の自動小銃を持っていて射撃に長《た》けているため、どこぞの部隊からの脱走兵ではないかというのが専らの噂だった。  しかし彼のことを憲兵隊に通報する村人は一人もいなかった。それはひとえにベカやんの明るく実直な性格のお陰だった。いつもニコニコと笑顔を絶やさず、人と会うと必ず自分から挨拶《あいさつ》した。子供や年寄りには殊の外親切で、山で獲《と》った鳥や獣の肉を気前良く分け与えた。田植えと稲刈りの時は無償で手伝い、村祭りには必ず自家製のどぶろくを神社に奉納した。誰とでも分け隔てなく平等に付き合ったが、村の女には決して手を出さなかった。  そんな己の立場をわきまえた真摯《しんし》な態度が功を奏し、いつしかベカやんは村民の一人として認められていった。  またベカやんは村内で唯一蛇腹沼に棲《す》む河童達と交流があった。村人は彼らの醜い容姿を忌み嫌い露骨に差別していたが、ベカやんは全く気にすることなく積極的に接触していた。初めは警戒して近づかなかった河童達だったが、その明るい性格と巧みな話術に少しずつ心を開いていき、今では猪の肉と沼の銀ブナを定期的に交換するまでになっていた。     *  祐二と利一がマルタ山の防空陣地跡に着いたのは夕方の四時過ぎだった。  山の南側の中腹に百坪ほどの平地があった。  白い花穂をつけたススキが一面に茂るその中央に、錆《さ》びついた二門の八センチ高射砲が放置されていた。二十メートルほど離れた砲と砲の間には、直径が二メートルある四式照空|燈《とう》が下向きになって倒れていた。後方には山の急斜面が迫っていて、そこに横穴式の防空壕が掘られていた。  二人はコンクリートで固められた壕の入り口の前に立った。幅も高さも二メートルほどで、二枚の軍用毛布が扉代わりに垂れ下がっていた。夕食の支度をしているらしく、中から米の炊ける匂いが漂っていた。 「ベカやん」  利一が呼びかけた。アルミの食器が触れ合うような金属音がしたが返事は無かった。 「ベカやんっ!」  利一は大声で呼びかけた。金属音が止まり、中で人の動く気配がした。すぐに毛布の間から小太りの中年男が出てきた。ベカやんだった。十月だというのに白いランニングシャツを着て、カーキ色の半ズボンを穿《は》いていた。 「どうした少年ども、何か用か?」  ベカやんが人の好さそうな笑みを浮かべて二人の顔を見回した。 「あの、河童に頼み事をするにはどうすりゃいいか、教えて欲しいんだけど」  利一が低い声で言い祐二を見た。祐二は学生服のポケットから煙草の箱を三つ取り出しベカやんに差し出した。 「おお、ゴールデンバットか。ちょうどきれかけてたんだ、悪いな」  ベカやんは嬉《うれ》しそうに煙草を受け取るとズボンのポケットに入れた。 「ところで河童に頼み事をするそうだが、一体何を頼むんだ?」 「ちょっと事情があって話せねんだ」  利一が視線を逸《そ》らした。 「やばいことか?」 「やばくねぇって言ったら嘘になるけど、そんなに大した事じゃねぇよ」 「まさか人殺しじゃねぇだろうな?」  ベカやんが好奇に満ちた目で利一を見た。  利一の顔は一瞬|強張《こわば》ったがすぐにその口元が緩んだ。 「俺らがそんなことするわけねぇじゃねぇか、悪《わり》ぃ冗談はやめてくれよ」 「いや、お前の目に妙に冷たい光が浮かんでるから、何となくそんな気がしたんだ。俺は今まで何度も修羅場をくぐってきたから、相手の発する殺気みたいなものに敏感に反応する癖があってな。まあ人殺しは冗談としても、それなりに血なまぐさいことをあいつらに頼むつもりだろう?」 「……確かにそうだけど、そんなにやばいことじゃねぇよ」 「警察にバレたら捕まるか?」 「頼むよベカやん、あんたには絶対迷惑をかけねぇから」  利一が懇願するように言った。ベカやんはしばらく無言で利一の顔を見ていたが、やがて大きく息を吐いた。 「俺は最近金を貯めている。なぜだか分かるか? 新しい銃を買うためだ。今使ってる自動小銃は三十年前の型式でいい加減ガタがきてる。すぐに装弾不良を起こして弾が詰まってな、その間に狙った獲物がどんどん逃げちまう。だからどうしても最新型の八二式狙撃《はちにいしきそげき》銃が必要なんだ。  お前らも貯金をしたことあるだろう? 金を貯めるにはどうしても我慢が必要だ。自分の欲望を可能な限り抑制しなくちゃいけない。人間は先天的に三つの欲望を持っている。睡眠欲と食欲と性欲だ。幸いに睡眠欲は完全に満たされてる。俺は酒に弱いからどぶろくを二合も呑《の》めば朝まで熟睡できる。食欲もどうにか満たされてる。米と干し肉だけは腐るほどあるから贅沢《ぜいたく》さえしなきゃなんでもない。  残るは性欲だが、俺の場合これがちょっとばかし問題なんだ。今までは月に何度か隣町に女を買いに行ってたがそれができなくなった。もう三ヶ月も女を抱いてない。確かに自分で処理することもできるが、出した後どうしても不満と虚《むな》しさが残る。性欲が満たされなくても死にはしないが心の苛々《いらいら》が治まらない。これは精神衛生上絶対に良くないことだ。そこで提案があるんだが、お前らが俺の性欲を満たしてくれたら河童のことを教えてやる。どうだ、悪い話じゃないだろう?」  ベカやんはニヤリと笑った。  祐二は半信半疑だった。ベカやんの言葉のどこまでが本気で、どこまでが冗談なのか判断がつかなかった。 「せ、性欲を満たすって一体どうすんだ、俺らは男だぞ」  利一が困惑した表情で訊《き》いた。 「なに、精液が出るまで手でしこってくれればいい。お前らが毎日一人でやってることだから簡単だろ?」  ベカやんが楽しそうに右手を上下に動かした。そのあまりにもあっけらかんとした口調に空恐ろしさを感じ、祐二の背中にざわざわと鳥肌が立った。隣の利一も激しく動揺しているらしく、眼鏡を掛けた顔が露骨に強張っていた。そんな利一を見てベカやんが笑い出した。 「そんなにびびることないだろう。安心しろ、俺がしこって欲しいのはお前じゃなくてこっちの奴だ」  ベカやんが祐二に視線を向けた。祐二の心臓がどくりと鳴った。顔から血の気が引くのが分かった。ベカやんは祐二の前にやってくると、無造作にズボンと猿股《さるまた》を下ろして陰茎を出した。赤黒いそれはいつの間にか膨張しており、あちこちに太い血管が浮き出ていた。ベカやんは祐二の右手を取り自分の陰茎を握らせた。それはゴムタイヤのように硬く、妙につるつるしていて生温かかった。 「早くしこってくれ」  ベカやんが待ちきれないように言った。祐二は二呼吸分ほど躊躇《ちゆうちよ》した後、右手を前後に動かし始めた。こうなった以上一秒でも早く射精させこの行為を終らせたかった。ベカやんはすぐに息を荒らげ祐二の肩を両手で掴《つか》んだ。 「もっと激しくしこってくれ」  ベカやんが呻《うめ》くように言った。祐二は陰茎を握る右手に力を込め前後に素早く動かした。ベカやんの呼吸がさらに荒くなった。ぎゅっと目をつぶり祐二の肩を掴む両手に力が込もった。 「もっとしこってくれっ、もっとしこってくれっ」  ベカやんがうわ言のように繰り返した。祐二はさらに右手を強く速く動かした。ちゃっ、ちゃっ、ちゃっと言う陰茎をしごく音が響いた。突然ベカやんが大きく唸《うな》り足を突っ張らせた。同時に亀頭の先から大量の白い精液が飛び出した。精液は祐二の学生ズボンを掠《かす》め、足元の雑草の葉の上に音を立てて落ちた。ベカやんは大きく息を吐き祐二の肩から両手を離した。祐二もベカやんの陰茎から右手を離して後ずさった。傍らの利一を見ると強張った顔のまま呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。 「やっぱり中学生の手は柔らかくて気持ちがいいな」  猿股とズボンを引き上げながらベカやんが満足そうに言った。不意に鼻を衝《つ》く青くさい臭いが漂ってきた。雑草にかかった精液が放つ異臭だった。祐二はそこで初めて自分がした行為に強い罪悪感を覚えた。陰茎の感触が残る右手が不快でならず何度も学生ズボンに擦《こす》りつけた。     *  ベカやんは約束を守った。  快楽の見返りとして河童《かつぱ》の詳細な情報を提供してくれた。現在蛇腹沼には三匹の河童が棲《す》んでいた。モモ太とジッ太とズッ太という三兄弟で、人間で言うとみな二十代前半位の若い河童だった。 「河童に何かをさせるのに一番確実なのは森にいるキチタロウという奴に命令させることだ。河童はキチタロウのことを神のように崇拝してるから言われたことはどんなことでもやる。でも残念ながらそいつはモノノケの類《たぐい》らしくて、人間の目には見えんそうだから接触するのは不可能だ。だからお前達が蛇腹沼まで出向いて行って、直接あいつらに頼む以外方法はない。でもな、それがまたとてつもなく厄介な事だから、これからする俺の話をよく聞いて、しっかり頭の中に叩《たた》き込むんだ。分かったか?」  ベカやんが語気を強めて言った。祐二と利一は無言で頷《うなず》いた。 「何よりも肝心なのは初めに長男のモモ太と話すということだ。河童はとても自尊心が強くて年功序列にこだわる。だから何かを頼む時、絶対モモ太より先に弟のジッ太やズッ太と話してはいけない。そんなことをすれば長男の面子《メンツ》を潰《つぶ》されたモモ太が激怒して襲いかかってくる。奴らと会う時はとにかく一番初めにモモ太と話すんだ。ジッ太やズッ太が何か言っても無視して目を合わせるな。そうすればちゃんとモモ太がお前達と交渉してくれる。  交渉が始まったら下手に出てモモ太を褒めまくるんだ。とにかく奴が喜びそうなことをいっぱい言え。河童の世界にはお世辞というものがないから、すぐに真に受けてお前らを自分の味方だと信じ込む。そうなったらこっちのもんだ。河童はみな純粋で間抜けだから、一度何かを信じると後は決して疑わなくなる。そこで何かを頼めば大抵のことはきいてくれる。  だけどタダではないぞ、必ず見返りを要求してくる。それが何なのかはその時によって変わる。金だったり食い物だったり武器だったりする。勿論《もちろん》常識で考えて入手可能なものしか欲しがらないが、それでもモモ太の要求するものを用意できなかったら、頼みはきいてもらえないからな」 「……でも、どうやってモモ太と弟達を見分けんだ?」  利一が訊いた。 「三匹の中で一番背が高いのがモモ太だ。眉間《みけん》に赤いほくろがある。中くらいの背丈の奴が次男のジッ太だ。右頬に傷跡がある。一番小さいのが三男のズッ太だ。腹に黒い染みがある。三匹とも特徴があるから一見してすぐ区別できる。でも最初はお前らを警戒して声をかけても絶対に返事をしない。だからまずこれを渡すんだ」  ベカやんはズボンの尻《しり》ポケットから一発の銃弾を取り出した。 「これは五二式自動小銃の弾だ。この村で五二式を使ってるのは俺一人だからすぐに俺の物だと分かる。これを渡してベカやんから紹介されたって言えば何とかなるだろう」  ベカやんは利一に銃弾を差し出した。利一はそれを無言で受け取り学生服の胸ポケットに入れた。 「いいか、河童は純粋で間抜けだ。それは間違いない。でもだからといって絶対なめてかかるな。純粋で間抜けだからこそ、ほんの些細《ささい》な一言に過剰に反応して人を殺すことがある。とにかく奴らと会う時は神経を尖《とが》らせて、非礼がないよう一語一句注意しながら話せ。分かったな?」  ベカやんは強い口調で言った。祐二と利一は再び頷いた。 「俺が教えてやれるのはこれだけだ。後は直接沼に行ってやれるとこまでやってみろ、陰ながら応援する。それにしても今日は楽しかった。俺に用がある時はいつでも来い。お前がサービスしてくれるならできるだけの事はするぞ」  ベカやんは祐二に顔を近づけてにやりと笑った。     * 「ベカやんのをしこってる時はどんな気分だった?」  マルタ山からの帰り道、隣を歩く利一が遠慮がちに訊いてきた。 「やってる時は夢中だったけど、終ってから凄《すげ》ぇ嫌な気分になった」  祐二は呟《つぶや》くように言った。まだ右手に陰茎の生温かい感触が残っていた。精液の青くさい臭いを思い出した途端、軽い吐き気が込み上げてきた。 「しかしよくやったな、俺が指名されてたら絶対に無理だったぞ」  利一が顔をしかめた。 「しょうがねぇだろ、無理矢理やらされたんだから」  祐二は両手を学生ズボンのポケットに入れ道端の小石を蹴《け》った。 「でもそのお陰でベカやんから情報を聞きだせたもんな」利一が笑みを浮かべた。「これであの忌々しいクソガキをぶっ殺せんだ、もう嬉《うれ》しくて嬉しくて村中を走り回りてぇ気分だ。明後日は日曜日だから、さっそく沼に行ってモモ太と交渉だ」  利一が声を弾ませた。 「でも見返りに何を要求されるかちょっと怖くねぇか?」  祐二が横目で利一を見た。 「おめぇは心配性だな。ベカやんも言ってたろ、常識で考えて入手可能なものしか欲しがらねぇって。何だかんだ言っても所詮《しよせん》河童だ、せいぜい猪の肉や芋焼酎《いもじようちゆう》ぐらいのもんだろ。そうなればまた山に行ってベカやんに売ってもらえばいいだけだ。怖いことなんかなんもねぇ」  利一は祐二の肩に手を乗せた。祐二は口元を緩めて「そうだな」と言ったが、胸の奥底で何かが不気味にざわめくのを感じた。     *  祐二の家は村役場の東側にある小さな住宅街にあった。木造平屋建ての古びた民家で、前庭に大きな柿の木が生えていた。  帰宅したのは夕方の六時過ぎだった。玄関の三和土《たたき》でズック靴を脱いでいると、不意に奥の客間から呻《うめ》き声が上がった。震えを帯びたそれは確かに父親のものだった。祐二は利一と顔を見合わせると、慌てて上がり框《かまち》を駆け上がり板張りの廊下を走った。また父親の呻き声が上がった。一度目より大きかった。利一が客間の襖《ふすま》を引き開けた。  中を見た祐二は息を飲んだ。正面の床の間の前に茶色い国民服を着た雷太が立っていた。右手に竹刀を、左手に火の点《つ》いた太い蝋燭《ろうそく》を持っており、その傍らに父親が全裸で正座していた。両手を後ろ手に縛られ、顔や禿《は》げ上がった頭の至る所に無数の白い塊が付着していた。それは雷太に溶けた蝋を何度も垂らされた跡だった。竹刀で滅多打ちにされたらしい背中には、血の滲《にじ》んだ赤いミミズ腫《ば》れが幾筋もできていた。 「な、何してんだ?」  利一が上擦った声で訊《き》いた。 「お仕置きだ」  雷太がぼそっと呟いた。 「どうして、お仕置きをしてんだ?」  祐二が雷太を刺激しないよう静かに訊いた。 「和子《かずこ》を馬鹿にしたからやってんだ、何も問題は無かろう」  雷太は青洟《あおばな》を啜《すす》り上げると蝋燭を父親の股間《こかん》に傾けた。溶けた蝋が萎《しぼ》んだ陰茎にボタボタと垂れ落ち父親が呻いた。和子とは雷太の実の母親で父親の再婚相手であり、利一と祐二にとって義母にあたる三十代の女だった。  二ヶ月前に二十代の男と駆け落ちし、現在行方不明になっていた。 「親父はおめぇの母ちゃんをどんな風に馬鹿にしたんだ?」  利一が雷太と父親を交互に見ながら訊いた。 「アバズレだと言った。あとパンパンだとも言った。よく意味は分からんが和子の悪口だということは分かった」 「何で親父がおめぇにそんなことを言ったんだ?」 「俺に言ったんじゃねぇ。電話で誰かに言ってたんだ。それで頭にきたから殴って脱がして縛りあげた。何も問題は無かろう」  雷太は父親の背中を竹刀で思い切り打った。甲高い音と共に父親は上体を大きく仰け反らせて顔を歪《ゆが》めた。 「なあ雷太、もう充分おやじをぶっ叩いたんだろ? おやじも反省してると思うから、そろそろ許してやったらどうだ?」  祐二がぎこちない笑みを浮かべた。  その言葉に雷太は父親を見下ろした。父親は顔を歪めたまま苦しそうに肩で大きく息をしていた。 「おめぇ、反省してるのか?」  雷太が父親の睾丸《こうがん》を竹刀の先で突いた。 「雷太、すまん、俺が悪かった、もう二度と和子を悪く言わんから、許してくれ」  父親が喘《あえ》ぎながら言った。 「俺は反省してるかって訊いてんだ」  雷太は父親の禿げた頭に蝋燭を押し付けた。じゅっと火の消える音がして大量の白い蝋が額や顔に流れた。父親は目をつぶり大きく呻いた。 「してる、反省してる、信じてくれっ」  父親は声を震わせて叫んだ。 「本当か? 命|賭《か》けるか?」 「賭けるっ、賭けるっ」  父親は何度も頷《うなず》いた。 「今度和子の悪口を言ったら金玉を潰《つぶ》すからな、分かったか」  雷太は竹刀を両手で握ると、バットで球を打つように父親の右頬を打った。父親は口から血を飛び散らせて前のめりに倒れた。雷太は竹刀を放り投げ客間から出て行った。  祐二と利一は倒れた父親に駆け寄った。後ろ手に両手を縛っていた紐《ひも》を解き、ぐったりとした上体を抱き起こした。 「おやじ、大丈夫かっ」  利一が声を掛けた。全裸の父親は口角から血を流しながら苦しそうに唸《うな》るだけだった。     *  今年七十歳になる村で只《ただ》一人の医者の診断は、殴打による全身打撲、頬粘膜裂傷、そして右鼓膜裂傷だった。命に別状はなく、破れた鼓膜も中耳炎を起こさない限り、十日ほどで自然に塞《ふさ》がるとのことだった。医者は頬の内側に麻酔の注射を打ち手際良く傷を縫合した。元軍医のため「古参兵のリンチにあった初年兵みたいだ」と言って笑ったが、なぜ父親が負傷したかは一度も尋ねてこなかった。それは以前父親の鼻骨骨折を治療した時も同じであり、村人の私生活は決して詮索しないというのが彼の信条のようだった。  医者は痛み止めと化膿《かのう》止めの薬をおいて帰っていった。  利一と祐二は父親を布団に寝かせると自室に入った。そこは元々納戸だった部屋で三畳ほどの広さしかなかった。以前は居間の隣の八畳間を兄弟三人で使っていたが、三日前突然雷太がここは俺一人の部屋だとごねだした。雷太の暴力に怯《おび》えきった二人は逆らうことができず、渋々納戸の荷物を運び出して自室としていた。 「このままいけば俺らは雷太に殺される」  床に胡坐《あぐら》をかいた利一が唸るように言った。向かいに座る祐二は大きく頷いた。 「もうぐずくずしてる暇はねぇ。明日は学校休んで朝一番に沼に行って、モモ太に殺しを頼む」レンズ越しに見える利一の目には白く冷たい光が浮かんでいた。「見返りに何を要求してくるか知らねぇが、モモ太が欲しがるものは絶対に用意すんだ。たとえ高価なもんでも諦《あきら》めんな。買えねぇなら盗んででもそれを手に入れて、必ず雷太を殺させるんだっ」  利一は板張りの壁を拳《こぶし》で強く叩《たた》いた。  祐二も全く同感だった。雷太の暴走を止めることは不可能だった。雷太を突き動かしているのは狂気だった。人間の肉体を破壊したいという血まみれの狂気が、雷太に過剰な暴力を振るわせていた。もはや理屈ではなかった。完全に精神を病んでいた。凶暴な狂人から身を守るには殺《や》られる前に殺るしかない、と祐二は思った。     2  蛇腹沼は村の北方に広がる森の中央にあった。スギやヒノキなどの針葉樹が生い茂る中、細い小道を二十分ほど進むとやがて緩やかな下り坂となり、そこをさらに五分ほど下りていくと大きな沼のほとりに出た。面積は学校の校庭ほどあり水面の至る所に水草が浮かんでいた。  河童《かつぱ》の住《す》み処《か》はすぐに分かった。沼のほとりの一隅にアカマツの大木が聳《そび》えており、その根元にうずくまるようにして古い掘っ立て小屋が建っていた。壁は大小様々な板切れでできており、天井は申し訳程度に藁《わら》で覆われていた。小屋の周囲には魚の骨や貝殻が散乱し、微《かす》かにすえたような臭いが漂っていた。利一と祐二は入り口の前まで来ると立ち止まった。 「モモ太、いるか? 用があんだっ」  利一が叫んだ。返事は返ってこなかった。祐二は入り口に垂れた筵《むしろ》をめくり中を見た。茣蓙《ござ》が敷かれた六畳ほどの室内は無人だった。小屋の中央に小さな囲炉裏があり、左側の壁際には古びた茶|箪笥《だんす》が置かれていた。囲炉裏の自在|鉤《かぎ》には鍋《なべ》が掛かっていて、蓋《ふた》の隙間から薄《うつす》らと湯気が立っていた。 「鍋で何かを煮てるから、多分この近くにいるぞ」  祐二は振り向いて利一に言った。利一は周囲を見回すと小さく舌打ちをし、「帰ってくるまで待とう」と呟《つぶや》いた。祐二は傍らのアカマツに寄りかかり学生服の第一ボタンを外した。利一はその場に立ったまま学生ズボンのポケットに両手を入れて沼を見つめた。  辺りはしんと静まり返っていた。  後方の森の中から野鳥の鋭い鳴き声が断続的に聞こえてくるだけだった。  五分ほど経過した頃、不意に前方の沼の水面にぶくぶくと泡が湧き上がった。それはたちまち数を増して辺りに広がり、やがてその下から三匹の河童が次々と浮き上がってきた。祐二は寄りかかっていたアカマツから体を離した。 「来やがったぞ」  利一がズボンのポケットから両手を出した。緊張しているのかその表情はどこか硬かった。 「まずはモモ太を見つけるんだ」  祐二が利一の耳元で囁《ささや》いた。利一は無言で頷いた。河童達は体をくねらせて岸辺まで泳いでくると立ち上がり、水しぶきを立ててこちらに歩いてきた。それぞれの手に魚が詰まった網びくを提げていた。  河童達は祐二と利一の前で立ち止まった。距離は三メートルほどだった。祐二は息を飲んだ。こんな近くで河童を見たのは初めてだった。三匹とも全身が鰻《うなぎ》のようにつるりとした皮膚で覆われていた。色は鮮やかな水色で表面は粘液状のものでぬらぬらしていた。相貌《そうぼう》はひよこに似ていた。口元に短い嘴《くちばし》が突き出し、その上に一対の大きな黒い目玉が付いていた。頭には噂通り『皿』があった。しかしそれは平たいものではなく半球形をしていた。まるで頭皮をきれいに剥《は》ぎ取り、頭蓋《ずがい》骨を露出させているように見えた。鉤形をした手足の爪は鋭く尖《とが》り、指と指の間は青白い水掻《みずか》きでつながっていた。股間《こかん》には人間と同様の陰茎と睾丸がぶら下がっていたが、陰毛が無く亀頭の部分が藍《あい》色だった。  三匹の中で一番背の高い河童は真ん中に立っていた。百七十センチほどあった。長男のモモ太だった。ベカやんの言っていた通り眉間《みけん》に小豆《あずき》大の赤いほくろが付いていた。次に背の高い河童は右側に立っていた。百六十センチほどあった。次男のジッ太だった。右頬に刃物で切られたような横長の傷があった。左側に立つ一番小さい河童が三男のズッ太だった。百五十センチほどあった。腹に小さな黒い染みがあった。三匹ともその場に突っ立ったまま一言も口を利かなかった。 「あの、これを見てくれ」利一は学生服の胸ポケットから五二式自動小銃の銃弾を取り出した。「俺らベカやんの紹介で来たんだ」  利一も一目見て見分けがついたらしく、ちゃんと真ん中に立つモモ太に銃弾を差し出した。モモ太は無言でそれを受け取ると暫くの間凝視し、それが終ると鼻を鳴らして執拗《しつよう》に臭いを嗅《か》いだ。 「おめぇら、ベカやんの友達か?」  モモ太が利一を見た。 「そうだ、俺らはベカやんの親友だ」  利一は笑みを浮かべて答えた。祐二も笑みを浮かべ大きく頷いた。 「ここに何しに来た?」  右隣のジッ太が利一に訊《き》いた。利一はジッ太を一瞥《いちべつ》したが無視し、すぐにモモ太に視線を戻した。 「実はモモ太に頼みがあんだ」  利一は笑顔のまま明るく言った。 「どうして俺に頼み事をする?」  モモ太が不思議そうな顔をした。 「それは、モモ太が強くてみんなから尊敬されてるからだ」祐二が大声でお世辞を言った。「村の男らはみんな、モモ太と喧嘩《けんか》したら負けるって言ってる。相撲大会で優勝した貞夫《さだお》も、モモ太にだけは勝てねぇ、本当の横綱はモモ太だって言ってた」 「本当か? それは本当の話なのか?」  モモ太が目を大きく見開いた。明らかに祐二の話に強い興味を示していた。 「本当の話だ。それに村の女どもはみんなモモ太のことをかっこいいって噂してる。モモ太に抱かれたい、モモ太の嫁さんになりたいってしょっちゅう言ってるぞ」 「俺に抱かれたいだと? それは俺とグッチャネをしてもいいと言っているのかっ?」 「グッチャネって何だ?」 「女の股《また》ぐら泉に男のマラボウを入れてソクソクすることだっ」 「そうだ、その通りだ。村の女どもはみんなモモ太に憧《あこが》れてて、モモ太とグッチャネをしたがってる」 「俺とグッチャネをっ」  モモ太は呻《うめ》くように言った。その顔は上気したように赤くなった。 「おい、女どもは俺ともグッチャネをしたがってねえかっ?」  左隣のズッ太が興奮した口調で叫んだ。しかし祐二はその言葉を無視してモモ太に一歩近づいた。 「これで分かったろ? モモ太は村で一番強くて一番人気がある。つまり村で一番偉い存在だ。だから俺らはモモ太に頼み事をするんだ」 「そうだ、その通りだ」隣の利一も一歩前に出た。「俺らが抱えてる問題は偉いモモ太にしか解決できねぇもんなんだ」 「ふうむ、そうか、そういうことか」モモ太が何度も頷《うなず》いた。「俺は村で一番強くて一番人気があるから村で一番偉い。だからおめぇらが、村で一番偉い俺に頼み事をしにきた。ふうむ、なるほど、確かに筋が通っている。ちなみに俺が兵隊だとすると位は何だ?」 「勿論《もちろん》大将だ」  祐二はにっこりと笑った。 「そうか、大将か。俺は村の大将か。そうかそうか、今までちっとも気づかなかった。それは凄《すご》く嬉《うれ》しくて楽しいことだ」モモ太はまた何度も頷いた。「ところでおめぇらが俺に頼みたい事とは一体何だ?」 「弟の雷太を殺してくれ」  利一が即答した。 「弟? おめぇらの弟を殺すのか?」 「そうだ」 「何歳だ?」 「十一歳だ」 「どうして自分らで殺さねぇ? そんな子供なら一|捻《ひね》りでおしまいじゃねぇか」  モモ太が首を傾げた。利一は言葉に詰まり祐二を見た。 「それが、異常に馬鹿でけぇ奴なんだ。物凄く凶暴で力が強くて、俺らではとても手がつけられねぇ状態なんだ」  祐二が低く呟《つぶや》いた。 「おめぇら、弟が怖いのか?」  モモ太が祐二と利一を交互に見た。祐二は何も言えずに目を伏せた。 「俺は弟なんか怖くねぇぞ。弟が二人もいるが今まで怖いなんて思ったことは一度もねえ。ジッ太もズッ太も俺にぶん殴られたらそれまでだ。あとは泣いて謝るだけだ。おめぇらはぺえぺえだ、年下の弟を怖がるなんてぺえぺえ以外ありえねぇ」  モモ太は小馬鹿にするように声を上げてケラケラと笑った。傍らのジッ太とズッ太も釣られて同様に笑いだした。その嘲笑《ちようしよう》は祐二の神経を逆撫《さかな》でしたが、ぐっと感情を押し殺して我慢した。今|河童《かつぱ》達ともめるのは得策ではなかった。機嫌を損ねたモモ太が雷太を殺さないと言い出したら元も子もなかった。  モモ太はひとしきり笑うとまた真顔に戻った。弟達もそれに合わせて笑うのをやめた。 「よし、おめぇらの弟を殺してやる」  モモ太が平然と言った。 「本当かっ? やってくれるかっ?」  利一が叫んだ。 「ああ、弟なんてみんな同じだ。一捻りで殺してやる。ちょろいもんだ」  そう言ってモモ太はジッ太を見た。ジッ太は頷《うなず》き「ちょろいもんだ」と繰り返した。ジッ太はズッ太を見た。ズッ太も頷き「ちょろいもんだ」と繰り返した。 「そのかわり欲しいもんがある」  モモ太が利一を見た。  きたな、と祐二は思った。 「何が欲しい?」  利一が訊いた。 「村の女が欲しい」 「女っ?」 「そうだ、おめぇらぐらいの若い女だ。その女と気が済むまでグッチャネがしてぇ」 「でも、それは、その」  利一は動揺してしどろもどろになった。 「どうした、何で困った顔すんだ? 村の女は俺とグッチャネをしたがってんだろ? 声を掛ければどんな女でも俺のとこに来んじゃねえのか?」  モモ太が怪訝《けげん》そうな顔をした。祐二は小さく舌打ちした。先程モモ太をおだてている時、調子にのって村の女の作り話をしたことが裏目に出ていた。祐二は激しく後悔したがもう後戻りはできなかった。今さらあれは嘘でしたなどと言えば、雷太を殺すどころか自分達が殺されかねなかった。利一は助けを求めるようにしきりにこちらを見ていた。追い詰められた祐二の頭は激しく混乱した。額に冷や汗が滲《にじ》み左右の膝《ひざ》が微《かす》かに震え出した。思わず走って逃げようかと思った時、不意に一人の女の顔が浮かんだ。  同級生の成瀬清美《なるせきよみ》だった。  祐二の胸が大きく脈打った。それは土壇場で見出《みいだ》した一筋の光明だった。迷っている暇は無かった。祐二は河童への生《い》け贄《にえ》を清美に決めた。 「モモ太、俺が女を紹介する」  祐二が語尾を震わせて言った。利一が驚いた顔で祐二を見た。 「本当か、本当におめぇが女を紹介してくれんのか?」  モモ太が身を乗り出した。 「本当だ」 「どんな女だ?」 「望み通り、俺と同い年の女だ」 「グッチャネはできるのか」 「できる」 「器量はいいか?」 「いい。おまけに胸と尻《しり》がでかい」 「何という名前だ?」 「清美だ」 「清美っ!」  利一が叫び、絶句した。 「どうだ、これでちゃんと雷太を殺してくれんな?」  祐二は唖然《あぜん》とする利一を尻目に笑みを浮かべた。 「いや、まだだ」モモ太は首を横に振った。 「清美が本当にいい女かどうかちゃんとこの目で確かめてからだ」 「確かめるって、写真は持ってきてねぇぞ」 「写真じゃねぇ。直接見る」 「じゃあ森を出て清美の家に行くのか?」 「そうだ。清美の家に行って、清美の顔と体を見てから決める」 「いつ行く?」 「今日だ。朝飯を喰《く》ったら出掛ける」モモ太は右手に提げた網びくを見た。「この魚を味噌《みそ》汁で煮る。おめぇらも喰うか?」 「腹は減ってないから俺らはいいよ」  祐二はやんわりと断った。 「じゃあ、そこで待ってろ」  モモ太は踵《きびす》を返して小屋の中に入っていった。その後にジッ太とズッ太が続いた。三匹の背中には亀頭と同じ藍《あい》色の甲羅が付いていた。それは薄くて平らでつやつやしており、まるでベッコウでできているように見えた。 「おめぇは一体何考えてんだっ」モモ太達が小屋に入った途端利一が詰め寄って来た。「よりによって清美なんかを選びやがってっ」 「じゃあ他に誰がいる?」  祐二が低い声で訊《き》いた。利一は何かを言いかけたがすぐに口ごもった。 「この村でモモ太に差し出して問題にならねぇ女は清美だけだ」 「でもあいつと関わったことを誰かに知られたらどうするっ」 「知られなきゃいいじゃねぇか、そこは俺らでうまくやるんだ。とにかくこうなった以上、清美を犠牲にする以外雷太を殺す方法はねぇぞ」  祐二が強い口調で断言した。  利一は忌々しそうに舌打ちをし、眼鏡を指で押し上げた。     *  成瀬清美が『非国民』になったのはちょうど一週間前だった。原因は四つ年上の兄、幸彦《ゆきひこ》だった。今年の春十八歳になった幸彦は、規定通り徴兵検査を受け甲種合格となった。しかし地元の連隊に入隊する前日の夜、密《ひそ》かに家を抜け出しそのまま行方不明になった。通報を受けた憲兵隊は幸彦を兵役忌避者とみなし、警官や消防団員を動員して三日間山狩りを行ったが発見することはできなかった。  政府は幸彦を『第一種非国民』に、そして残された清美と両親を『第二種非国民』に認定した。幸彦には銃殺刑が決定し、両親は強制収容所に送られた。十四歳の清美は処罰されなかったが完全な村八分となり、村営施設の使用や郵便物の投函《とうかん》などが禁止された。中学では全校集会が開かれ、来校した憲兵大尉が『非国民』生徒との交流を禁じる演説を行った。     *  祐二も利一も幸彦の逃亡が発覚した日から一度も清美を見ていなかった。ずっと家に閉じこもっているらしかったが、一体どうやって生活しているのかは誰も知らなかった。  清美の家は村の西方にある広大な林檎《りんご》畑の奥にあった。平屋造りの小さな一軒家で、壁は赤|煉瓦《れんが》、屋根は瓦|葺《ぶ》きになっており、鉄線を張り巡らせた何本もの木の杭《くい》が周囲を囲んでいた。祐二は近くの林檎の木の陰からそっと家の様子を窺《うかが》った。辺りに人影は無く、憲兵隊のサイドカーや装甲自動車も停まっていなかった。 「大丈夫、誰もいないぞ」祐二が振り向いて利一とモモ太に言った。「じゃあモモ太、俺が清美を外に誘い出すから、どんな女かここから見ててくれ」 「どうしても俺が行くのはダメなのか?」  モモ太が不服そうに言った。 「だから何度も言ったろ、清美は異常に臆病《おくびよう》な女だから、いきなりモモ太が行ったら驚いて出てこなくなるって。まずは顔見知りの俺が会って、ちゃんとおめぇの事を説明しなきゃ話は前に進まねぇんだ。頼むから約束通りここで待っててくれ」  祐二は子供に教え諭すように言った。勿論《もちろん》それは全てモモ太を騙《だま》すための嘘だったが、それでも五回も同じ事を訊かれるとさすがにうんざりした。モモ太はまだ祐二の説明に納得がいかないらしく、小声で何かを呟《つぶや》きながら地面の土を足で何度も蹴《け》った。 「じゃ、行って来るぞ」  祐二はモモ太を無視して利一に告げると、清美の家に向かって歩き出した。距離は三十メートルほどあった。すぐに林檎畑を抜けて広い砂利道に出た。その道の向こう側にある草|生《む》す荒れ野に家は建っていた。祐二は玄関の前に立った。樫《かし》の木でできたドアには赤いペンキで大きく『非』と書かれていた。それは家宅捜査に来た憲兵隊が印《しる》したもので、中の住民が『非国民』であることを示していた。祐二はドアを拳《こぶし》で三回|叩《たた》いた。肉が木を打つ鈍い音が響いた。しばらく待ったが返事は返ってこなかった。祐二はまたドアを三回叩いた。一度目よりも力を込めた強い殴打だった。数秒後中で微かな物音がした。床板が軋《きし》むような音だった。人の気配を感じ取った祐二はドアに右耳を付けた。今度ははっきりと床板が軋む音がした。清美がいるのは間違いなかった。 「清美、俺だ、祐二だっ」  祐二は叫ぶとノブを回したが鍵《かぎ》が掛かっていて開かなかった。祐二は玄関を離れ家の裏側に回った。雑草が生い茂る十坪ほどの庭があった。古びたリヤカーが一台置かれ、赤煉瓦の壁には両開きの窓が一つ付いていた。しかし芥子《からし》色のカーテンがぴたりと閉められ中は見えなかった。祐二は「清美っ、清美っ」と小声で連呼しながら、窓|硝子《ガラス》を指先で何度も叩いた。不意にカーテンの真ん中が五センチ程開き、隙間から清美の右目が覗《のぞ》いた。 「清美、俺だ、話があるから玄関を開けてくれ」  祐二が叫んだ。清美は無言で祐二を見つめた。その目には怒りの感情も怯《おび》えの感情も存在していなかった。ただ呆《ほう》けた老婆のような、虚《うつ》ろな淡い光だけが静かに浮かんでいた。清美はしばらく祐二を見ていたが、やがてゆっくりとカーテンを閉めた。祐二はまた清美の名を呼びながら窓硝子を叩いたが応答は無かった。完全に心を閉ざしているようだった。  祐二は途方に暮れた。どうやって清美を誘《おび》き出せばいいのか見当がつかなかった。ため息を吐いて壁にもたれかかった時、家の表からガシャリという低い金属音が聞こえてきた。祐二はもしやと思い慌てて走っていくと玄関のドアが開いており、白い長|袖《そで》の体操服を着た清美が戸口に立っていた。目が大きく、鼻筋の通った端整な顔はやつれていた。目の下に薄《うつす》らと隈《くま》ができ頬はこけていた。青白い唇はかさつき、肩まで伸びた髪は寝癖で酷く乱れていた。以前のよく笑う、明るく朗らかな面影は完全に消えていた。ただ十四歳とは思えない豊満な胸と尻、そして引き締まった腰回りはそのままだった。 「久しぶりだな」  祐二が少々照れながら言った。清美は答えなかった。あの虚ろな目でぼんやりと祐二を見ているだけだった。 「突然来たから驚いたろ? 実は最近生徒会が中心になって、『清美を励ます会』っていうのを作ったんだ。勿論学校には内緒でな。みんなは今、おめぇのことを凄《すご》く心配してる。特に体調のことを気にしてて、ショックで病気になってたらどうしようって毎日話してんだ。だから今日は俺が代表で様子を見に来た。どうだ、元気でやってるか?」  祐二は出鱈目《でたらめ》なことを言ってにっこりと笑った。清美は無言だった。完全なる無反応だった。顔の皮膚はぴくりとも動かなかった。その目は祐二の体を透かして、後方に広がる林檎畑を見ているようだった。祐二は清美が本当に呆けてしまったような気がし、少し怖くなった。 「お、おめぇ、大丈夫か?」  戸惑った祐二が訊いた。 「……あんたは幸彦じゃない」  不意に清美が低い声で呟いた。祐二は言葉に詰まった。突然のことにどう返答すればいいのか分からなかった。清美は祐二から目を逸《そ》らすとゆっくりとドアを閉めた。続いて中から施錠する金属音が響いた。  祐二は唖然《あぜん》として立ち尽くした。清美は明らかに尋常ではなかった。しかしそれは過度の飲酒によって酩酊《めいてい》しているわけでも、強い薬物を使用して幻覚状態にあるわけでもなかった。  拷問されたな、と祐二は思った。  憲兵が非国民の家族を連行し、厳しく尋問することはよくあった。その際程度の差はあるにせよ、必ず何らかの拷問を加えるのが彼等の常だった。清美はその時の凄《すさ》まじい苦痛に耐え切れず、精神に異常をきたしたように思えた。  祐二は試しにドアを何度か叩いてみたが、家の中は静まり返り物音一つしなかった。     *  林檎畑に戻るとモモ太と利一が木の陰から出てきた。 「ちゃんと清美を見たか?」  祐二がモモ太に言った。モモ太は頷《うなず》いた。 「どうだった?」 「そうだな、ぎりぎり及第点だ。丙種合格ってとこだ」  モモ太は鷹揚《おうよう》な声で答えた。しかしその言葉とは裏腹に、股間《こかん》の陰茎は勢い良く屹立《きつりつ》していた。ベカやん同様あちこちに太い血管が浮き出し、藍《あい》色の亀頭の先は透明な液体でしとどに濡《ぬ》れていた。清美をかなり気に入ったようだった。 「清美には俺のこと何て伝えた?」  モモ太がさりげない口調で訊《き》いてきた。 「モモ太がおめぇと仲良しになりたがってるって言った。そしたら清美が喜んで、私も仲良しになりたいってはしゃいでた」  祐二は淀《よど》みなく言った。 「本当か、それは本当の話なのか?」  モモ太が目を見開いた。 「さっきも言ったろ、モモ太は村の女どもの憧《あこが》れなんだって」 「ふうむ、なるほど、ふうむ、そうか、そういうことか」モモ太は鼻息を荒くしながら何度も頷いた。「それで、それで、俺は清美とグッチャネができるのか?」 「事情を話したらしてもいいって言ってた」祐二は笑みを浮かべた。「だから雷太を殺した後清美の家に行けばグッチャネができる」  その言葉にモモ太は放心した。口をあんぐりと開け、口角から涎《よだれ》を垂らして祐二を凝視した。屹立した陰茎がさらに膨張し、さらに大きく反り返った。かなりの興奮状態にあるのが分かった。 「でも一つ注意がある。さっきも言ったけど清美は異常に臆病な女だ。初対面の奴が来るとなかなか玄関のドアを開けねぇ。だから一度ノックして返事が無かったら、家の裏側にある窓をぶっ壊して中に入ってくれ。話はしてあるから特に問題はねぇ。万が一清美が騒いだとしても、二、三発殴ればすぐに大人しくなる。後は裸にしてやりたいことを好きなだけやれる。どうだ、これでいいだろ?」  モモ太は音を立てて唾《つば》を飲み込むと大きく頷いた。 「で、いつ雷太を殺してくれる?」 「明日だ、明日絶対殺す。だから明日清美とグッチャネするぞ」 「ご自由に。でもその前に雷太をどうやって殺すか、ちゃんと打ち合わせをしねぇとな」  祐二は利一を見た。利一は大きく頷いた。     *  祐二達は蛇腹沼に戻った。  巨大なアカマツの根元に建つ小屋に入るとジッ太とズッ太が駆け寄ってきた。 「兄しゃん、清美の乳はどうだったっ?」 「兄しゃん、清美の尻《しり》はどうだったっ?」  二匹は待ちかねたようにモモ太に訊いた。 「ぎりぎり及第点だ。丙種合格ってとこだ」  モモ太は先程と同じ言葉を繰り返した。 「それで兄しゃんは清美とグッチャネすることができんのかっ?」  ジッ太が興奮気味に言った。モモ太はその質問には答えず代わりに大きく咳《せき》払いをした。 「これからここで大事な話をする。おめぇらは森の中でも散歩してろ」  モモ太は入り口に垂れた筵を顎で指した。ジッ太とズッ太は不満そうに顔を見合わせたが、長男の命令は絶対らしく二匹とも黙って小屋から出て行った。祐二と利一とモモ太は囲炉裏の周りに敷かれた茣蓙《ござ》に腰を下ろし、胡坐《あぐら》をかいた。自在|鉤《かぎ》に吊《つ》られた鍋《なべ》の中には少量の味噌《みそ》汁が残っていた。 「じゃあ、俺が話す」  祐二がモモ太に目を向けた。祐二は昨晩利一と共に雷太の殺害計画を立てていた。 「この森の南側に猟師の丸太小屋がある、知ってるだろ? その小屋の窓の下に枯れ果てた古井戸が残ってる。直径が一メートルほどで深さは十メートル以上ある。地上の手押しポンプや石囲いは撤去されてて危険防止の柵《さく》もねぇ。ただ穴だけが地面にぽっかりと開いてる状態だ。そこでだ、その井戸の中に雷太を突き落として欲しいんだ」  祐二は低い声で言った。 「でもどうやって丸太小屋まで連れて行くんだ?」  モモ太が首を傾げた。 「騙《だま》して連れて行く」祐二は口元を緩めた。「奴の母親は今、若い男と家出して行方不明になってる。その母親が密《ひそ》かに村に戻ってきて、小屋で雷太を待ってるって言うんだ。なぜそんな所にいるんだと訊かれたら、俺らの父親と会いたくねぇからだと答える。雷太は体はでかいが頭の中は十一歳だ。所詮《しよせん》母親に甘えたい盛りのガキだから、その言葉を信じて大喜びで小屋までやって来る。そこで先回りしていたモモ太が雷太を井戸まで連れて行き、後ろから背中を押すんだ」 「ふうむ、なるほど、ふうむ。でもどうやって井戸の前まで連れて行くんだ?」  モモ太はまた首を傾げた。 「外で小便をしようとした母親が、間違って井戸の中に落ちたって言うんだ。驚いた雷太はすぐに駆け寄って中を覗《のぞ》き込むはずだ」 「ふうむ、なるほど、ふうむ。でも井戸に落として死ななかったらどうする?」  モモ太が腕組みをした。 「あの深さだ、落ちたらまず間違いなく即死する。仮に即死しなかったとしても瀕死《ひんし》の重傷を負う。地上まで這《は》い上がってくるのは絶対無理だし、中でどんなに叫んでも今は狩猟期じゃねぇから誰も小屋には来ねぇ。水も食料もねぇからいずれ確実に死ぬ。死体が人目につくことはねぇし、仮に見つかったとしても子供の事故として処理される」 「ふうむ、なるほど、ふうむ、そうか、そう言われれば確かにそうだ」  モモ太は何度も頷いた。 「単純で簡単な仕事だ。時間も一分とかからん。モモ太、やってくれるよな」  利一が待ちきれないように訊いた。 「やる」モモ太は即答した。「おめぇらの弟を殺す、そうすれば清美と好きなだけグッチャネができる、だから俺は殺す、井戸に落として殺す、やるよ、俺はやる」そう言ってモモ太はケラケラと甲高い声で笑った。  帰り際、祐二は念のためもう一度殺害方法をモモ太に説明した。そして明日の昼の十二時から十二時半の間に、雷太を小屋に連れて行くことに決めた。雷太は日曜日になるといつも昼近くまで寝ているからだった。モモ太には必ず十一時五十分までに小屋に来るよう指示した。河童《かつぱ》は時計を持たないので、利一が自分の腕時計をモモ太に貸して文字盤の読み方を教えた。左の手首に巻き付けてもらった腕時計が余程珍しいらしく、モモ太は動き続ける秒針をいつまでも見つめていた。     *  その夜、祐二はなかなか寝付けなかった。  目をつぶると清美の姿が鮮明に浮かび上がるからだった。昼間は何とも思わなかったが、なぜか闇の中ではその肉体が堪《たま》らなく卑猥《ひわい》に見えた。明日あの豊満な乳房や尻がモモ太に揉《も》まれ、舐《な》められ、吸われるのかと思うと異様なまでに鼓動が高まった。祐二は全裸の清美にのしかかり激しく腰を振るモモ太の姿を想像した。清美の喘《あえ》ぎ声や性交時の湿った摩擦音がはっきりと聞こえてきた。やがてモモ太の姿は祐二自身に変わり、清美の柔らかな肉の感触を掌《てのひら》や亀頭に生々しく感じた。  祐二は堪らず陰茎を握った。熱く脈打つそれは限界まで硬く膨張していた。祐二は素早く右手を動かした。鋭い快感が突き上げてきて頭の芯《しん》が熱くなった。脳裏に浮かぶ自分が清美の上で激しく腰を振っていた。胸の中で清美っ、清美っと何度も叫んだ。瞬く間に祐二は絶頂に達し射精した。強張《こわば》った陰茎が大きく脈打ち、炭酸の粒が弾《はじ》けるような微細な痺《しび》れが顔面を走った。全身の筋肉が一斉に緩み、陰茎に集中していた全ての感覚が瞬時に元に戻った。あれほど高まっていた性欲が憑《つ》き物《もの》でも落ちたかのように完全に消えていた。  祐二は大きく息を吐いた。  敷布団の上に放たれた大量の白い精液が、窓から差し込む淡い月光に照らされていた。鼻を衝《つ》く青くさい臭いがゆっくりと漂ってきた。その異臭は昨日のベカやんとの行為を彷彿《ほうふつ》とさせた。祐二は軽い吐き気を覚えながら枕元のちり紙で精液を拭《ふ》き取り、音を立てぬよう気をつけながら毛布の中に潜り込んだ。隣からは利一の規則正しい寝息が聞こえてきた。  祐二は枕に頭をのせ薄暗い天井を見上げた。板張りの天井には飛び散った血痕《けつこん》のような黒い染みがあちこちにあった。その染みの一つを見つめているうちに、祐二は清美を骨までしゃぶってやりたい衝動に駆られた。憲兵に拷問されたらしい清美は明らかに精神に異常をきたしていた。あの状態なら今日のように嘘を吐いて訪ねていき、いきなり押し倒せば容易に性交できるような気がした。それがうまくいけば、清美を自分専用の『便所女』にすることができた。家に家族はおらず、村八分で訪問者は皆無のため、毎日清美の体で性欲を処理することが可能だった。それは童貞の祐二にとってまさに夢のような生活だった。  昼間見た、清美の呆《ほう》けた顔が闇の中に浮かんだ。また陰茎が少しずつ膨張を始めた。清美に対する罪悪感は皆無だった。清美の一家は政府が認定した『非国民』だった。『非国民』は人間ではなかった。人間ではない女を性の奴隷にしても咎《とが》める者はいなかった。祐二はさっそく月曜日の放課後、また清美の家に行ってみようと思った。  眠気が霧のようにゆっくりと頭の中に広がっていくのが分かった。大きな欠伸《あくび》をした祐二は目蓋《まぶた》が重くなり目を閉じた。意識がゆっくりと眠りの世界に引き込まれている時、じわじわと湧き上がってくる尿意を感じた。全身がだるくこのまま眠りたかったが、やがてそれは我慢できない強いものになった。祐二は利一を起こさぬようそっと立ち上がり、静かに木戸を開けて納戸から出た。廊下の天井には二十|燭光《しよつこう》の電球が薄ぼんやりと灯《とも》っていた。居間の隣の八畳間の前を通りかかった時、襖越《ふすまご》しに中から雷太の大きな鼾《いびき》が聞こえてきた。それは巨大な体躯《たいく》に似合わぬ子供丸出しの甲高い鼾だった。祐二は苦笑した。明日殺されるとも知らず熟睡する様はまさに間抜けそのものだった。やはり雷太の中身は十一歳のガキでしかない、と祐二は思った。 「今に見てろよ」  祐二は低く呟《つぶや》いた。     3  翌日の日曜日、祐二が森の南側にある丸太小屋に着いたのは午前十一時二十分だった。爽《さわ》やかな秋日和で、目映《まばゆ》い露草色の空がどこまでも広がっていた。祐二は上空を仰ぎながら雷太の最期に相応《ふさわ》しい日だと思った。  昨日の段階で祐二が一人で小屋に来る予定は無かった。利一と共に雷太をうまく口車に乗せ、二人で家から連れ出す予定だった。しかし今朝になって利一が突然計画を変更した。理由はモモ太だった。 「どうも嫌な予感がする」と今朝になって利一が言いだした。「打ち合わせはしたし約束もしたけど、どうしても河童を心から信じられねぇんだ。モモ太のあのでっかい目玉を見てると、こいつは本当に俺らの言ってることを理解してんのかって気分になる。まあ、清美のことがあるからちゃんと仕事はすると思うけど、一応お前だけ先に行っててくれないか。もし十一時半までにモモ太が来なかったら、念のため沼まで迎えにいって欲しいんだ。もしかしたら時計の見方を忘れてるかもしれんからな。雷太は俺がちゃんと連れてくから、それまでモモ太と一緒に待っててくれ」  利一はそう言って微《かす》かに口元を緩めた。  祐二は古びた真鍮《しんちゆう》のノブを回して丸太小屋の木のドアを開けた。八畳ほどのがらんとした室内は無人だった。中央にずんぐりとした鉄の石炭ストーブがあり、傍らに粗末な机と椅子が一脚ずつ置かれていた。ストーブの上には白い琺瑯《ほうろう》のポットが乗っており、机の上には手斧《ておの》と束にしたロープが置かれていた。  祐二は中に入った。板張りの床が軋《きし》んだ音を立てた。しばらく使用されていないため空気は埃《ほこり》っぽく淀んでいた。小屋の東側の壁に磨《す》り硝子《ガラス》のはまった窓があった。祐二は窓を半分ほど開けてみた。雑草が茂る目の前の地面にあの井戸の穴が見えた。小屋から五十センチほどの至近距離にあるその中は真っ暗だった。どろりとした不気味な闇に満ちていた。得体の知れぬ化け物が棲《す》む、魔界の深淵《しんえん》のように見えた。あの中にもうすぐ雷太が落ち、叩《たた》き潰《つぶ》れて死ぬのかと思うと興奮で胸が高鳴った。  不意に表から複数の男の話し声が聞こえた。祐二は驚いて腕時計を見た。まだ十一時半にもなっていなかった。利一達が来るには早すぎる時間だった。祐二は困惑した。狩猟期までまだ二ヵ月近くあった。この小屋は猟ができる冬以外村人はめったに来なかった。もしかしたら密猟者かもしれぬと思い、祐二は少し緊張しながらドアを開けた。小屋の前にジッ太とズッ太が立っていた。二匹とも左手に酒の一升瓶を持っていた。なぜか実行役のモモ太がいなかった。 「よう、ベカやんの友達」  ジッ太が楽しそうに言い右手を挙げた。 「やあ、ベカやんの友達」  ズッ太も楽しそうに言い右手を挙げた。共に顔が赤らみ息が酒臭かった。 「モモ太はどうした?」  訳が分からず祐二が訊《き》いた。二匹は顔を見合わせるとケラケラと甲高い声で笑った。 「兄しゃんはな、清美の家にグッチャネをしに行った」  ジッ太が言い、一升瓶をラッパ飲みした。その言葉に祐二は愕然《がくぜん》とした。 「約束が違うぞ、清美とやるのは雷太を殺してからじゃねぇかっ」 「兄しゃんはな、どうしてもグッチャネがしたくてしたくて、ついに我慢できずに清美の家に行ってしまったのだ」  ズッ太が言い、一升瓶をラッパ飲みにした。 「じゃあ一体誰が雷太を殺すんだっ?」  祐二が上擦った声で叫んだ。 「俺らだ」ジッ太が言い、左手首に巻き付けた利一の腕時計を突き出した。「兄しゃんから頼まれたから、俺とズッ太でお前の弟を殺してやる。ちょろいもんだ」 「ちょろいもんだ」  ズッ太が繰り返し、何度も頷《うなず》いた。 「その代わり俺達にもグッチャネができる女をよこせ。勿論《もちろん》二人だ。女を用意できなきゃ殺しはやめだっ」  ジッ太が語尾を荒らげて言った。祐二は絶句した。背骨の中を冷たいものが駆け巡った。今朝の利一の「どうも嫌な予感がする」という言葉が頭の中に響いた。所詮《しよせん》河童《かつぱ》は河童でしかなかった。河童に人間と同じ常識があると思い込み、大事な約束を交わした自分達の愚かさを今更ながら痛感した。まさに完全なる自業自得だった。  後一時間ほどで雷太がここにやって来るはずだった。利一に騙《だま》され喜び勇んで駆けつけた雷太が、小屋に母親がいないと知ったらどうなるか考えるまでもなかった。激怒した十一歳の化け物は利一と祐二に襲いかかり、容赦なく二人の肉体を拳《こぶし》で破壊するはずだった。肉を裂かれ骨を砕かれ、たちまち血まみれになって絶命する自分達の姿が容易に想像できた。  もはや選択肢は二つしかなかった。女は用意できないと正直にジッ太達に話して雷太に殺されるか、女を用意すると嘘を吐《つ》いてジッ太達に雷太を殺させるかだった。そして祐二は迷わず後者を選んだ。後で二匹に何と釈明するかは全く考えてなかったが、今はとにかく自分達が生き残ることが最優先だった。 「よし、分かった」祐二は大きく息を吐いてジッ太を見た。「お前らにもちゃんと女を用意する」 「本当か? それは本当の話なのか?」  ジッ太が大きく目を見開いた。 「本当だ。ちゃんと清美のような若い女を連れてくる」 「グググ、グッチャネはできるのかっ?」  ズッ太が声を震わせて叫んだ。 「できる、モモ太と同じように好きなだけできる」 「な、名前は何と言うんだっ?」 「ゆかりと睦美《むつみ》だ」  祐二は適当に答えた。 「どっちが美人だっ?」 「二人共だ。一緒に連れてくるからそこでどっちにするか決めればいい」 「い、いつ連れて来るっ?」  ジッ太が待ちきれないように訊いた。 「今回は二人だから時間が掛かる。三日待ってくれ」 「三日だな、あした、あさって、しあさっての三日だなっ?」 「そうだ。その三日だ」祐二は笑みを浮かべて二匹を交互に見た。「だからその代わり、今日は確実に雷太を殺してくれ。殺し方はモモ太から聞いたか?」 「聞いたぞ」ジッ太はなぜか声を潜めて言った。「おめぇの弟が来たらぺこぺこ頭を下げて挨拶《あいさつ》して、お母様が小便をしようとして井戸に落ちましたと言うんだ。驚いて井戸を見に行ったおめぇの弟を、後ろから突き飛ばして穴の中に落とすんだ。そうだろう?」 「そうだ、その通りだ。ちゃんとやってくれるよな」 「グッチャネのためだ、ちゃんとやる」  ジッ太が声を潜めたまま言い、ズッ太を見た。ズッ太は素早く何度も頷いた。     *  ジッ太とズッ太は小屋に入ると床に胡坐《あぐら》をかき、持参した一升瓶の酒を飲み始めた。二匹はうわばみだった。まるで水でも流し込むようにぐいぐいと酒をあおった。顔だけではなく、剥《む》き出しの頭蓋《ずがい》骨のような頭の皿までほんのりと赤味が差していた。 「そんなに飲んで大丈夫か?」  傍らに立つ祐二が不安になって訊いた。 「大丈夫に決まってんだろうっ」ジッ太が大きな目玉でぎょろりと祐二を睨《にら》んだ。「河童にとって酒は気付けだ。飲めば飲むほど力が強くなる。おめぇの弟がどれだけでかいか知らねぇが俺達の敵じゃねぇ」ジッ太は右手を握り締めた。 「そうだ、その通りだ」ズッ太が大きく頷いた。「おい、おめぇも酒を飲め。そうすれば俺達みてぇに強くなって弟に勝てるぞ」  ズッ太が祐二に一升瓶を突きつけた。 「悪いけど酒はだめなんだ」  祐二はズッ太を怒らせぬよう笑みを浮かべてやんわりと断った。 「どうしてだ?」 「去年急性のアルコール中毒になって死にかけてな、またそうなるのが怖いから酒を止《や》めたんだ」 「怖いだとっ?」  ズッ太が大声で叫びジッ太を見た。二匹は同時に吹き出し腹を抱えて笑った。 「おめぇ酒が怖いのかっ、弟も怖くて酒も怖いのかっ、ぺえぺえだっ、やっぱりおめぇはぺえぺえだっ、一生女とグッチャネできねぇ底抜け馬鹿のぺえぺえ様だっ」ズッ太が嘲《あざけ》るように叫び、二匹はまた笑い出した。祐二は愛想笑いを浮かべたまま黙って嘲笑《ちようしよう》を聞いた。昨日モモ太にぺえぺえだと言われた時は頭にきたが、今日は何の怒りも湧いて来なかった。もうすぐ殺人が始まるという緊張で頭の芯《しん》が痺《しび》れ、感情の動きが麻痺《まひ》しているようだった。  二匹はひとしきり笑うと急に真顔になり、またぐいぐいと酒をあおり始めた。     *  利一と雷太がやって来たのは午前十一時五十分だった。  最初に気付いたのはジッ太だった。突然一升瓶の飲口《のみくち》から嘴を離し「来たっ」と叫んだ。「男が二人だ。一人は小便臭くてもう一人は精液臭え」ジッ太は鼻の穴をひくひくと動かした。  祐二は窓に駆け寄り外を見た。様々な針葉樹が混生する森の中、丸太小屋から伸びた小道の先に二つの人影が見えた。一人は背が低く、もう一人は異様に背が高かった。祐二は目を凝らした。間違いなかった。学生服を着た利一と国民服を着た雷太だった。二人は速い足取りでこちらに向かっており、小屋との距離がどんどん縮まっていた。祐二の心臓が異常な速さで脈打ち出した。緊張の度合いが一気に高まり強い便意を覚えた。 「おい、あいつらもうすぐここに来るぞ」  祐二が上擦った声で叫んだ。 「さあやるか、ぺえぺえ様の弟殺しだ」  ジッ太は空の一升瓶を置いて立ち上がった。それを見たズッ太も急いで立ち上がり、残った酒を喉《のど》を鳴らして飲み干した。 「兄しゃんは怖いが弟は怖くねぇ」ジッ太が笑みを浮かべた。「年下のガキンチョなんてちょろいもんだ」 「ちょろいもんだ」  ズッ太が繰り返し、手にしていた一升瓶を自分の頭に叩《たた》きつけた。瓶は大きな音を立てて砕け散った。ズッ太はけろりとした顔で頭に付いた硝子《ガラス》片を手で払った。岩のように固い皿だった。ジッ太がドアを開けて外に出た。その後にズッ太と祐二が続いた。  利一と雷太は丸太小屋のすぐ側まで来ていた。距離は十メートルも無かった。その近距離で利一を見て祐二は驚いた。左の口角が赤く腫《は》れ一筋の血が流れていた。手前に垂らした両手は白い紐《ひも》で何重にも縛られていた。利一が無言でこちらを見た。眼鏡が鼻先にずり落ちたその顔には怯《おび》えの色が滲《にじ》んでいた。雷太との間に一体何があったのか想像がつかなかった。 「これはこれはお大尽様」 「お大尽様いらっしゃい」  祐二の前に立っていたジッ太とズッ太が、ぺこぺこと頭を下げながら雷太に近づいていった。 「蛇腹沼の化け物じゃねぇか、気色|悪《わり》い」二匹の河童《かつぱ》を見た雷太は露骨に嫌な顔をした。「俺は和子に会いに来たんだ、おめぇらなんてどうでもいい、和子はどこだ」 「お母様はあちらです」  ジッ太が小屋の東側にある草叢《くさむら》を右手で指し示した。 「どこだ、どこにいる?」  雷太が草叢の辺りを見回した。 「お母様はお外でお小便をしようとして、あそこにある古井戸の中に落ちたのです」  ジッ太の隣のズッ太がにこやかに言った。 「下らん冗談言うな、和子は外で小便するような下品な女じゃねえ」 「本当でございます、小屋にお便所が設《もう》けられておらず渋々外に行ったのです。お母様は今、井戸の底で泣いています。お大尽様の目でお確かめ下さい」  ズッ太が深々と頭を下げた。 「おう、そこまで言うなら確かめてやる」  雷太は足早に草叢の中に入っていった。その後をジッ太とズッ太が付いていった。雷太はすぐに井戸の穴を見つけると、ひざまずいて中を覗《のぞ》き込んだ。祐二は胸中で「よしっ」と叫んだ。やはり雷太は十一歳のガキでしかなかった。まさに計画通りだった。 「和子っ、俺だっ、そこにいるのかっ、返事しろっ」  雷太が叫んだ。声は穴の中で大きく反響した。次の瞬間背後に立つジッ太が動いた。素早く十歩ほど後退すると勢い良く走り出し雷太の背中に体当たりした。同時にその体はゴムボールのように跳ね返され地面に転がった。雷太が不思議そうな顔で振り向いた。ジッ太の行動の意味が全く理解できないようだった。今度はズッ太が動いた。ジッ太同様素早く十歩ほど後退すると勢い良く走り出し、そのまま雷太の背中に体当たりした。同時にその体もゴムボールのように跳ね返され地面に転がった。  祐二は雷太の肉体の強靭《きようじん》さに驚愕《きようがく》した。それは想像を遥《はる》かに超える恐るべきものだった。殺害計画が失敗に終った今、祐二と利一に雷太を殺す術《すべ》は無かった。後は河童次第だった。あの二匹がどこまで戦ってくれるかに掛かっていた。もしジッ太とズッ太が敗北すれば、祐二と利一には確実に死が待っていた。  祐二は五メートルほど離れて立つ利一を見た。その視線に気づいたのか利一もこちらを見た。考えている事は同じらしくその顔は露骨に青ざめていた。 「おめぇらは一体何してんだ?」  雷太は立ち上がるとジッ太とズッ太を交互に見た。河童達との身長差は三十センチ以上あった。 「井戸に落ちろっ!」  ジッ太が叫びながら立ち上がった。 「井戸に落ちて死ねっ!」  ズッ太も叫びながら立ち上がった。 「何で俺が井戸に落ちて死なねばならんのだ?」  雷太が首を傾げた。 「やかましいっ、つべこべ言わずにさっさと落ちろクソガキッ!」  ジッ太は拳《こぶし》大の石を拾うと思いきり投げつけた。石は雷太の額を直撃してはね返り、草叢の中に落ちた。かなりの衝撃を受けたようだったが雷太は無反応だった。痛がることもなく平然とした表情でジッ太を見た。 「何で俺が井戸に落ちて死なねばならんのだ?」  雷太が同じ言葉を繰り返した。まるで石が当たったことに気づいてないようだった。不意に雷太の額に赤い染みが滲み出た。一円玉大のそれは筋になってたらりと顔に流れた。そこで初めて雷太は頭部の異変を知った。右手を額に当て、掌《てのひら》に付着した赤い液体を不思議そうに眺めた。二呼吸分の沈黙の後、漸《ようや》くそれが血だと分かったらしい雷太は驚愕した。目をかっと見開き、裂けんばかりに口を大きく開けた。巨大な全身がわなわなと震えだした。驚愕はすぐに憤怒《ふんぬ》に変わった。顔面が見る間に紅潮し、額一面に幾筋もの血管が浮き上がった。 「やりやがったなこの野郎っ!」  雷太は叫ぶとジッ太の顔面に拳を叩き込んだ。ジッ太は仰《の》け反って倒れた。雷太は胴体の上に馬乗りになり右手で喉を鷲掴《わしづか》みにした。五本の指が皮膚を突き破り肉の中に深くめり込んだ。ジッ太の両足が駄々をこねるように上下に激しく動いた。気道を塞《ふさ》がれ声が出ないのか悲鳴は聞こえなかった。雷太は腹の底に響くような重低音の叫び声を上げると、その凄《すさ》まじい握力で喉元の肉を一気にえぐり取った。ジッ太の首に大きな穴が開いた。白い頸椎《けいつい》が露出し断ち切られた頸動脈から赤黒い血が噴き出した。雷太は首の穴に手を突き入れ頸椎を掴んで引っ張った。枯れ木が折れるような乾いた音がした。頸椎を破壊した雷太はジッ太の頭部を両手で掴み、勢い良く左にねじって胴体から引きちぎった。  祐二は動けなかった。低く呻《うめ》くことさえできなかった。雷太の化け物じみた強さにショックを受け全身が凍りついていた。残るはズッ太だけだった。ズッ太が殺されれば次は自分達の番だった。  雷太は青洟《あおばな》を啜《すす》り上げると立ち上がり、手にしたジッ太の頭部をズッ太の足元に放り投げた。明らかな挑発行為だった。 「ほう、ぺえぺえ様の弟が首を取ったか、ほうほう、中々やるな、ジッ太の首を取れれば大したもんだ」ズッ太は落ち着いた口調で言ったが声が僅《わず》かに震えていた。内心の激しい動揺を、必死で雷太に悟られまいとしているのが分かった。 「それにだ、ぺえぺえ様の弟は立派な腕をしている。太くて長くて丈夫そうだ。嬉《うれ》しかろうな、そんないい腕を二つも持ってさぞかし嬉しかろうな。あまりにもいいから腕の肉を揉《も》んでやろう。血が良く巡るよう念入りに腕の肉を揉んでやるから、ちょいとこちらに来ておくれ」  ズッ太が媚《こ》びるような声で言い手招きをした。雷太を油断させるための作戦のようだった。  しかし雷太は動かなかった。無言のまま、敵意に満ちた鋭い目でズッ太を睨《にら》みつけた。 「どうした、遠慮するな、肉を揉まれるのは気持ちがいいものだぞ。そうか、分かったぞ、こちらに来るのが恥ずかしいのだな、だったら俺がそっちに行ってやろう」  ズッ太は何度も頷《うなず》きながら軽い足取りで歩き出した。その顔は明らかに何かを企《たくら》んでいた。祐二は学生服の胸ポケットを握り締めた。中には弁天神社のお守りが入っていた。ズッ太の勝利を神に強く祈り、「うまくいく、うまくいく」と繰り返し呟《つぶや》いた。  雷太との距離が二メートルを切った時、ズッ太が仕掛けた。突然|嘴《くちばし》を開け、喉の奥から青い塊を吐き出した。痰《たん》のようなそれは一直線に飛び雷太の右目に命中した。雷太が大きな呻き声を上げた。かなりの痛みらしく右の顔面を押さえてうずくまった。同時にズッ太が駆け寄り両手の鉤《かぎ》爪で無防備な左の顔面を掻《か》き毟《むし》った。爪は凄《すご》い速さで皮膚を切り裂いていき次々と血しぶきが上がった。祐二の鼓動が高鳴った。攻撃される雷太を見るのは初めてだった。 「やっちまえっ! 殺せっ、殺せっ!」  興奮した祐二は胸ポケットを握り締めたまま叫んだ。その途端うずくまっていた雷太が左腕を振り上げ、ズッ太の頭頂部に肘《ひじ》を叩《たた》きつけた。強烈な一撃だった。衝撃で脳|震盪《しんとう》をおこしたのかズッ太は崩れ落ちるように倒れた。半球形の皿の天辺には放射状に伸びる幾筋ものひびが入っていた。  雷太は体を起こして膝立《ひざだ》ちになった。血まみれの左顔面は激しい損傷を受けていた。目蓋《まぶた》がえぐられ潰《つぶ》れた眼球が眼窩《がんか》からはみ出ていた。頬の肉は細かく乱雑に切り裂かれ、傷口の裂け目から口内の歯列が見えた。顎《あご》や耳介、側頭部にも無数の切り傷がついていた。  雷太は天を仰いだ。上空には目映い露草色の空が広がっていた。雷太は左右の拳を握り締め口を大きく開けると、全身を細かく震わせながら絶叫した。それは人の声に聞こえなかった。猛《たけ》り狂った獣の、凄まじい怒りの咆哮《ほうこう》に聞こえた。雷太は倒れたズッ太の腹に右手を手首まで突き入れた。ズッ太が耳障りなけたたましい悲鳴を上げた。右手が腹の中で何かを掴んだように見えた瞬間、雷太はぬらついた桃色の腸を勢い良く引きずり出した。ズッ太がまたけたたましい悲鳴を上げ大量の血を吐き出した。雷太はさらに左手で腸を一メートルほど引きずり出すと、それをズッ太の首に巻きつけて一気に絞め上げた。ズッ太の全身が激しい痙攣《けいれん》を始めた。歯を喰《く》いしばる雷太の表情からありったけの力を込めているのが分かった。水色だったズッ太の顔面が瞬く間に紫色になり、嘴から赤く細長い舌が飛び出した。目が見開かれ、陰茎がたちまち勃起《ぼつき》した。  雷太は立ち上がり、両腕をさらに広げて腸を引き絞った。ズッ太の痙攣がより激しさを増した。顔面が紫色から土気色になり、肛門から糞《くそ》がひり出た。口角から涎《よだれ》が流れ、鼻孔から泡立った鼻汁が溢《あふ》れた。やがて勃起した陰茎が前後に数回揺れ動くと先端から精液が迸《ほとばし》った。それを待っていたかのように全身の痙攣が治まっていき、一分も経たぬうちに完全に動かなくなった。  雷太は腸から手を離した。  ズッ太は光の消えた虚《うつ》ろな目で空を見上げていた。  祐二はへなへなと地面にへたり込んだ。両膝が激しく震え、立っていることができなかった。ズッ太が殺された今、自分達の死は決定的なものとなった。後はどちらが先に殺されるかだけだった。心臓を握り潰されるような絶望感が湧き上がった。みぞおちの奥が重く冷たくなり激しい吐き気を覚えた。祐二は耐えきれなくなり胃の中のものを吐き出した。もはや逃げる気力さえ失《う》せていた。  雷太はゆっくりと利一を見た。 「おめぇ、騙《だま》しやがったな」  雷太が低い声で言った。  利一は顔を強張《こわば》らせて後ずさった。手前で縛られた両手が激しく震えているのが分かった。雷太が利一に向かっておもむろに歩き出した。利一は悲鳴を上げて逃げ出したが、恐怖のためかすぐに足がもつれて転倒した。雷太は倒れた利一の前で立ち止まると、その喉《のど》元を右足で踏みつけた。苦しそうに呻いた利一は雷太の足首を掴み、払いのけようともがいたがびくともしなかった。雷太はズボンの前開きのボタンを外し、無造作に陰茎を出して放尿した。大量の黄色い尿がしぶきを上げて利一の顔や頭に掛かった。利一は目と口を閉じることしかできなかった。放尿を終えた雷太は陰茎をしまい利一を見下ろした。 「おめぇは、どうやって死にてぇ?」雷太が低い声で訊《き》いた。「脳味噌《のうみそ》を潰されて死にてぇか? それとも、心臓を潰されて死にてぇか?」  利一は答えなかった。尿にまみれた強張った顔でじっと雷太を凝視していた。目前に迫った死の迫力に圧倒され、全身の感覚が麻痺《まひ》しているように見えた。 「答えねぇなら俺が決める。俺はおめぇの心臓を潰す」  雷太はそういうと利一の喉元から足を離し、巨体を揺らして地面に片膝をついた。利一は起き上がろうとしたが、雷太に胸倉を掴まれ地面に押し付けられた。  不意に祐二の脳裡《のうり》を一丁の手斧《ておの》が過《よぎ》った。  丸太小屋の机の上にあったものだった。祐二の心臓が大きく鳴った。雷太は今こちらに背を向けた状態で身を屈《かが》めていた。後ろから斧で頭を割れば簡単に殺すことができた。  躊躇《ちゆうちよ》している暇は無かった。祐二は立ち上がると丸太小屋に駆け込み、机上の手斧を取って外に飛び出した。ちょうど雷太が右手を振り上げるところだった。祐二は走った。瞬く間に雷太の背後に着いた。気配に気づいた雷太が振り向いた瞬間、祐二は渾身《こんしん》の力を込めて手斧を打ち下ろした。鋭い鉄の刃がその頭頂部を叩き割り中から赤黒い血が噴き出した。  雷太は動かなかった。声も上げなかった。こちらを振り向いたまま、無言で祐二を見上げていた。今の一撃がどれだけ効いたのか見当がつかなかった。祐二がもう一度頭を叩き割ろうと両手を振り上げた時、雷太の残った右目がくるりと上を向き白目になった。地面に片膝をついていた巨体がゆっくりと前のめりになり、そのまま利一の隣に倒れ込んだ。縦長に割れた頭蓋《ずがい》骨の裂け目から、淡黄色の脳がどろりとこぼれ出た。 「大丈夫か?」  祐二は手斧を置くと利一の手を縛る紐《ひも》を解き、腕を取って上体を引き起こした。死の瀬戸際まで追い詰められた利一は放心状態だった。口を半開きにし、虚ろな目で虚空を見ていた。 「しっかりしろっ」  祐二は利一の頬を平手で強く打った。  その一発で利一は我に返った。目の前にいる祐二を見て驚きの表情を浮かべた。 「雷太は、雷太はどうした?」  利一が喘《あえ》ぐように言った。 「安心しろ、俺が殺《や》った」  祐二は傍らに倒れた雷太の死体に視線を向けた。利一は目を見開いた。先程の恐怖が甦《よみがえ》ったらしく顔がさっと青ざめるのが分かった。利一は地面にこぼれ出た雷太の脳を、怯《おび》えた表情で見つめた。     *  当初の計画とは全く違う展開になったが、雷太を殺害するという目的は達成できた。もう二度と狂った小学生の暴力に支配されることは無かった。  祐二と利一は『血みどろ殺戮《さつりく》ショウ』の後片づけをした。凶器の手斧、引きちぎられたジッ太の頭部と胴体、腸が飛び出したズッ太の死体、頭が割れた雷太の死体の順に古井戸の中に落としていった。さすがに百五キロもある雷太の体は重く、二人がかりでなんとか持ち上げ足から中に突き入れた。辺りには夥《おびただ》しい血液が飛び散っていたが気にはならなかった。十二月の猟の解禁日まで小屋を使用する村人はおらず、それまでに雨がきれいに洗い流してくれるはずだった。     * 「どうして雷太に手を縛られたんだ?」  森からの帰り道、祐二が隣を歩く利一に訊いた。 「雷太をおびき出すホラ話をしてる時、あいつの母親を和子って言っちまったんだ。そしたらお前が和子って言うんじゃねぇって怒り出してよ、いきなりぶん殴られて手を縛られちまった。小屋に行って和子に謝るまでそうしてろって命令されて、逆らう訳にもいかねぇからそのまま大人しくしてたんだ」  利一が照れ臭そうに言い、眼鏡を指で押し上げた。  森を抜け、村の中心に続く広い砂利道に出た。しばらく歩いていると、向こうからモモ太が小走りでやってくるのが見えた。 「やべぇな、どうする? ジッ太やズッ太のこと、どう説明するか考えてなかったぞ」  祐二が利一を見た。 「こっちからは何も言うな。もしモモ太が訊いてきたら俺がうまく誤魔化すから、おめぇは黙ってろ」  利一が前を見たまま言った。  モモ太の足は速かった。垂れ下がった陰茎を左右に激しく振りながら、あっという間に二人の前までやって来た。 「兵隊だっ! 兵隊だっ!」  なぜか興奮したモモ太が、利一と祐二の顔を交互に見ながら叫んだ。 「兵隊がどうした?」  利一が怪訝《けげん》そうに尋ねた。 「俺は清美んとこにグッチャネしに行ったんだっ、そしたら家のすぐ近くの道で箱付きバイクに乗った兵隊と会ったんだっ。兵隊は俺を見るとにやにや笑いだして、いきなり鉄砲を撃ちやがったっ、見ろっ!」  モモ太が自分の左肩を指さした。近づいて見てみると、銃弾が貫通したらしい小さな穴が開いていた。拳銃《けんじゆう》で撃たれたようだった。 「おっかねぇっ! 鉄砲はおっかねぇっ! クソ漏れるぐれぇおっかねぇっ! もう清美の家には行かねぇっ!」  モモ太は絶叫すると、再び森に向かって走っていった。 「箱付きバイクって、憲兵のサイドカーのことだろうな」  利一が呟《つぶや》くように言った。祐二は無言で頷《うなず》いた。やはり清美は未《いま》だに憲兵隊の監視下にあり、時折尋問を受けているようだった。改めて清美との接触には危険が伴うことを知ったが、それでも祐二の粘りつくような性欲は消えなかった。あの豊満な乳や尻《しり》、そして濡《ぬ》れそぼった陰部を思うと恐怖は一瞬で吹き飛んだ。計画通り、明日の月曜日は清美を犯しにいくつもりだった。近くの林檎《りんご》畑から家の周囲を窺《うかが》い、憲兵がいないことを確認すればいいだけの話だった。後は前回と同じく清美にドアを開けさせればよかった。もし言うことを聞かなければ、窓を壊してでも侵入するつもりだった。  祐二は陰茎が急速に硬くなっていくのを感じた。いよいよ童貞ともおさらばだった。明日から清美は祐二の『便所女』だった。最初の性交は後背位でやると決めていた。後ろから犬のように交わるのが、非国民女には相応《ふさわ》しいと思ったからだった。祐二は学生ズボンのポケットに右手を入れ、硬直した陰茎を中から握った。それは心臓のように激しく脈打っていた。これがもうすぐ清美の中に入るのかと思うと興奮のあまり眩暈《めまい》がした。  祐二は森の中に消えていくモモ太の後ろ姿を見つめながら、ポケットの中の右手をそっと上下させた。 [#改ページ]   第弐章 虐殺幻視     1  どこかで声がした。  誰かが清美、と呼んでるような気がした。  それは遠くからの叫び声のようにも、耳元での囁《ささや》き声のようにも聞こえた。  椅子にもたれてまどろんでいた成瀬清美は耳を澄ませた。やがてそれが林檎畑を吹き抜ける風の音だと分かった。清美は薄目を開け、居間の壁に掛かった振り子時計を見た。針は四時四十分を指していた。しかしそれが午前なのか午後なのか、区別することができなかった。  清美は体を起こすとゆっくりと立ち上がり、覚束無《おぼつかな》い足取りで北側の壁にある両開きの窓の前に立った。鈍色《にびいろ》の雲が空を覆い、辺りはどんよりと薄暗かった。日が暮れて間もないようにも、夜が明けて間もないようにも見えた。混乱した清美は大きなため息を吐き、また椅子に戻った。室内はしんと静まり返っていた。時を刻む規則的な振り子の音が聞こえてくるだけだった。  清美はテーブルの上に視線を向けた。そこには七五式《ななごうしき》自動拳銃が置かれていた。次に右隣の椅子に視線を向けた。敷かれた薄い座布団の上に黒い三号甲種電話機《さんごうこうしゆでんわき》が置かれていた。 「お前の兄貴は必ず家に戻りお前と接触すると少佐殿が言っていた。そのため今日から三名の憲兵が村役場に常駐することになった。幸彦が戻ったら家に入れる前に必ずこちらに通報しろ。受話器を取るだけで自動的に役場の待機所と繋《つな》がる。家に入れたら普段通りに振る舞い安心させるんだ、我々は五分以内に駆けつける。もし感づかれて逃げるような素振りを見せたらすぐに射殺しろ。安全装置は外してあるから引き金を引けば弾が出る」  昨日の昼前にやってきて電話の設置作業を行った憲兵|伍長《ごちよう》は、そう言い残してサイドカーで去って行った。  松本少佐の顔がぼんやりと虚空に浮かんだ。  それは不可能だ、と清美は思った。  清美は『髑髏《どくろ》』の副作用で殆《ほとん》どの感情が消え、同時に記憶障害を起こしていた。自分に幸彦という兄がいることは分かったが、その顔や声を全く思い出せなくなっていた。清美は写真を探したが家には一枚も残っていなかった。幸彦に関するあらゆる物を憲兵隊が押収したためだった。  清美はふと、二日前に家を尋ねてきた学生服の男のことを思い出した。自分の同級生であろうその男は、見覚えこそあったがどこの誰なのかは判別できなかった。しかしそれでも兄でないことだけははっきりと分かった。それは自分が幸彦の顔を、ほんの僅《わず》かながらまだ覚えている証拠に思えた。清美は試しに目をつぶり幸彦の姿を思い描いてみた。灰色の上下の作業服を着た体はすぐに浮かんだが、首から上がぼんやりとぼやけて分からなかった。尚も顔に意識を集中させていると頭痛が起きた。左右のこめかみを強く圧迫されるような痛みだった。幸彦の顔の記憶を探ると必ず起こる症状だった。清美は目を開き、頭を数回横に振って深呼吸をした。煙が風にのって流れていくように、こめかみの痛みがすっと消えていくのが分かった。  清美は椅子の背もたれに頭をあずけ、机の上で鈍く光る銀色の自動拳銃をぼんやりと眺めた。 「……私は秘密を知っていた」  清美は低く呟いた。松本少佐が言ったように、確かに清美は幸彦の秘密を知っていた。あれだけの凄《すさ》まじい拷問にあっても決して口を割らず、ついに『髑髏』の副作用で記憶の奥深くに埋もれてしまった、幸彦の秘密とは一体何だったのだろう、と清美は思った。     *  清美の記憶は幸彦が逃亡した日を境に異常をきたしていた。まるで検閲を受けてカットされたフィルムのように、脳内で再生される映像は所々が欠落していた。  幸彦の最後の記憶は九日前のものだった。  あの、地元の連隊に入隊する前日の夜、幸彦は見知らぬ若い女と共に帰宅した。両親は勤め先の工場が夜勤だったため、家には清美しかいなかった。幸彦は寝ている清美を起こし、女を婚約者の美紀子《みきこ》だと紹介した。そして「俺は兵役を拒否する。兵隊の苦しみを二年も味わうくらいなら俺は逃げる。お前の知らない遠い所に行って美紀子と家庭を築く」と低い声で告げた。  清美は激しく取り乱した。もし幸彦の言葉が事実なら自分と両親は明日から非国民だった。確かに初年兵にとって軍隊が地獄なのは理解できた。『軍人教育』と称される連日の凄まじいリンチで、毎年必ず自殺者が出るのが常だった。しかしそれは十八歳の男子全員が経験する通過儀礼であり、ただ怖いというだけで女と逃亡するのは余りにも身勝手だった。清美は「考え直して」と涙ながらに懇願したが幸彦は聞く耳を持たなかった。納戸から大きな旅行|鞄《かばん》を持ち出すと、美紀子と二人で荷造りを始めた。  清美の記憶はそこで一度途絶えていた。  次に想起できるのは隣町にある憲兵隊本部だった。町外れの高台にある四階建てのビルで、壁一面が鬱蒼《うつそう》とした蔦《つた》で覆われていた。白い体操服姿の清美を乗せた黒い六輪自動車は、正面の大きな門を通って敷地内に入った。門の右側には衛所があり、短機関銃を持った衛兵が運転手に敬礼した。車は正面玄関には停まらずに奥へと進み、ビルの裏手にまわって停車した。  清美は隣に座る護送役の憲兵に命じられ車から降りた。両手には手錠が掛けられ腰には捕縄が巻かれていた。清美は小さな通用口から中に入った。コンクリートの長い廊下を進み、突き当たりにあるエレベーターで地下二階に下りると、八畳程の殺風景な部屋に入れられた。六十|燭光《しよつこう》の裸電球が灯《とも》る室内には、古びた机と二脚の椅子が置かれているだけだった。手錠と捕縄を外された清美は、椅子に座って待つよう指示を受けた。  数分後、二人の男がやって来た。  一人は憲兵少佐で「松本」と名乗り、もう一人の憲兵少尉を「清水《しみず》」だと告げた。松本少佐は三十代後半ぐらいに見えた。がっしりとした体格で口|髭《ひげ》を生やしており、大学教授のような知的な雰囲気を持っていた。清水少尉は二十代前半に見えた。痩身《そうしん》で背が高く精悍《せいかん》な顔立ちをしていたが、どこか情に欠けるような冷たい目をしていた。 「まず、昨日の夜から今朝にかけて何があったか聞かせてくれ」  松本少佐は立ったまま静かな口調で言った。 「夜の十一時頃、兄が美紀子という婚約者と帰って来ました」  清美は目を伏せながら低い声で答えた。 「その女とお前は初対面か?」 「はい」  清美は小さく頷《うなず》いた。 「その時家には誰がいた?」 「私一人です。両親は工場の夜勤で朝までいませんでした」 「お前の兄貴はそれからどうした?」 「俺は兵隊にならずにどこか遠い所で暮らすと言うと、美紀子と二人で荷造りをして出て行きました」 「出て行ったのは何時頃だ?」 「十一時半ぐらいです」 「その時なぜ憲兵隊に通報しなかった?」 「あまりのショックで取り乱してしまい、全く思いつきませんでした」 「その後お前はどうした?」 「非国民になるのが怖くて朝まで泣いていました」 「午前七時二十二分に憲兵隊に通報したのは誰だ?」 「父です。その時両親が夜勤から帰ってきたので、兄のことを話しました」  松本少佐は大きく三回頷いた。 「その美紀子という女はこちらでも把握している。お前の兄貴が勤めていた印刷所の出納係だ。美紀子もまた昨日の夜から行方不明になっている。会社の金には手をつけていなかったが、二人で逃げているのは間違いなさそうだ」少佐は軍服の左の胸ポケットから煙草を取り出し口にくわえた。隣の少尉が銀色のライターで素早く火を点《つ》けた。「長いこと憲兵をやってるとな、相手の口調や表情でその話が本当か嘘か分かるようになる」  少佐は勢い良く紫煙を吐いた。清美は煙にむせて軽く咳《せ》き込んだ。 「そこで言わせてもらうが、お前は兄貴の逃亡には関わっていない。一切の手引きも手助けもしていない。美紀子の存在を知らなかったのも本当だ。それは間違いない。でもな、お前の話の一部に虚偽がある」  松本少佐の言葉に清美の心臓が大きく脈打った。全身の皮膚がすっと収縮し、背中一面に悪寒が走った。「そんなことありません」と言おうとしたが、言葉が喉《のど》に詰まり出てこなかった。 「それは兄貴についてだ。お前は幸彦に関して何かを隠している。しかもそれは重要なことだ。この期に及んで兄を守ろうする家族愛には感動するが、憲兵としての立場上見逃すわけにはいかない。一体それが何なのかこれから突き止めさせてもらう。  秘密を知る方法は三つある。一つ目はお前が自主的に話すこと、二つ目はお前の肉体に拷問を加えて聞き出すこと、三つ目はお前の精神に拷問を加えて聞き出すことだ。さあ、どうする?」  松本少佐はまた勢い良く紫煙を吐いた。  清美は無言だった。何か言わなくてはと焦れば焦るほど、出かかった言葉が喉元で土塊《つちくれ》のように崩れていった。『拷問』という言葉が脳の中に深くめり込んでいた。膝《ひざ》の上で組んだ手が微《かす》かに震えるのが分かった。しかしそれでも幸彦の秘密を話す気にはならなかった。 「私、嘘は吐いてません。兄に対して知ってることは、全部話しました」  清美は声を振り絞りやっとの思いで答えた。 「そうか」松本少佐が静かに呟《つぶや》いた。「残念だが致し方あるまい、我々のやり方で秘密を教えてもらう」松本少佐は短くなった煙草を床に落とし、黒い長靴で踏みつけた。  清美は二人に両腕を抱えられ真向かいの部屋に移された。同じく八畳ほどの広さだったが室内は全く違っていた。壁と床が浴室のように正方形の白いタイル張りになっており、部屋の中央には鉄製の肘《ひじ》掛け椅子が置かれていた。左右の肘掛けと椅子の前部の左右の脚には、手首と足首を固定するための革バンドが付いていた。  その背後の壁には鉄製の蛇口があり、先端に細長いノズルの付いたゴムホースが伸びていた。壁の下には長さ一メートル、幅二十センチほどの排水溝があった。 「着ているものを脱げ」  清水少尉が初めて口を利いた。抑揚の無い低い声だった。清美は激しく動揺した。そんなことできる訳がなかった。頭を左右に振りながら両腕で胸元を押さえて後ずさった。清水少尉は素早く歩み寄り清美の顔を張り飛ばした。清美は悲鳴を上げて倒れた。凄《すさ》まじい衝撃だった。左の頬が熱を帯び、大きく膨れ上がったように感じた。 「立て」  清水少尉が清美の髪を鷲掴《わしづか》みにして顔を引き上げた。清美はよろめきながら立ち上がった。 「着ているものを脱げ」  清水少尉は同じ言葉を同じ口調で繰り返した。清美の意識は朦朧《もうろう》としていたが、それでも羞恥《しゆうち》心は消えなかった。絶対に人前で裸にはなりたくなかった。清美はまた両腕で胸元を押さえ首を左右に振った。清水少尉は清美の腹を思い切り殴った。固い拳《こぶし》がみぞおちにめり込んだ。激痛と共に呼吸が止まり、清美は体をくの字に折ってしゃがみ込んだ。苦しさのあまり口を大きく開けると、込み上げてきた反吐《へど》が溢《あふ》れ出た。 「立て」  清水少尉はまた清美の髪を鷲掴みにして顔を引き上げた。清美は途切れ途切れに反吐を吐きながら、壁に手をついてなんとか立ち上がった。 「着ているものを脱げ。今度逆らったら指の骨を一本折る」  清水少尉は囁《ささや》くように言った。その双眸《そうぼう》は冷たい光を帯びていた。冷酷で、強靭《きようじん》な意志の力を感じさせる光だった。上官の命令ならどんなことでもやり遂げる、青年将校特有の張り詰めた雰囲気が漂っていた。もし今度命令に逆らえば、間違いなく指の骨を折られるはずだった。  裸になろう、と清美は思った。  骨折の痛みを一度我慢すれば済む問題ではなかった。清水少尉は清美が逆らうたびに、指を一本ずつ全てへし折っていくに違いなかった。  一度決心するとなぜか羞恥心が希薄になった。清美は反吐で汚れた長|袖《そで》の体操服と体操ズボンを脱いだ。下着がわりの半袖のシャツを脱ぎ、少し躊躇《ちゆうちよ》してショーツを下ろした。全裸になった清美は左腕で乳房を隠し、右手で股間《こかん》を隠すと俯いた。 「椅子に座れ」  清水少尉の後ろに立つ松本少佐が命じた。  清美は中央に置かれた鉄の椅子に腰掛けた。尻《しり》に触れた鉄板がひやりと冷たかった。清水少尉が清美の手首と足首を、革バンドで椅子に固定していった。乳房と陰毛が露《あら》わになったが少尉の目に性的な愉悦や興奮は全く見られなかった。それは腕組みをして立っている松本少佐も同じで、清美は自分がただの肉と脂肪の塊になったような気がした。  固定作業を終えた清水少尉は椅子を荒々しく後ろに倒した。仰《あお》向けになった清美は天井を見上げた。二本の蛍光灯が白く寒々しい光を放っていた。頭のすぐ先には蛇口の付いた壁があった。  松本少佐が近づいてくると傍らに片膝をつき、清美の顎《あご》を右手でしっかりと押さえつけた。清水少尉はホースを手に取り、先端のノズルを清美の鼻先に向けた。 「やれ」  松本少佐が低く呟いた。清水少尉は蛇口の栓を右に回した。同時に大量の水が勢い良く噴き出し顔面を直撃した。清美は反射的に右側を向こうとしたが、松本少佐が顎をしっかりと押さえているため全く動けなかった。清美は息を止めて耐えた。水は容赦なく噴き出し続けた。顔一面に針で突かれるような鋭い痛みを感じた。すぐに心臓が酸素を求めて激しく脈打ちだした。苦しみは加速度的に高まり頭の芯《しん》がじりじりと熱くなった。  二分も経たぬうちに我慢の限界がきた。呼吸したいという欲求が理性を上回った。清美は堪《たま》らず口を開けた。それを待っていたかのように、清水少尉が口内にノズルを突き入れた。同時に大量の水が勢い良く体内に流れ込み胃の内部を満たしていった。清美は鼻で息をしようとした。しかし水が口内から鼻腔《びこう》内に溢れ呼吸は不可能だった。清美の胃はたちまち膨れ上がった。膨満感が湧き起こり強い吐き気を覚えた。しかし清水少尉は蛇口の栓を閉めなかった。水流の勢いを保ったまま放水を続けたため満杯の胃がさらに膨れ上がった。腹部に激痛を感じ清美は大きな呻《うめ》き声を上げた。胃が張り裂けてもおかしくない凄まじい痛みだった。清美は目を見開き、手足を激しく震わせて、やめてっ、やめてっ、と声にならない声で絶叫した。 「よし、もういい」  松本少佐がまた低く呟いた。清水少尉はノズルを口から抜き水を止めた。腹部の痛みが僅《わず》かに和らいだ。松本少佐が清美の顎から手を放した。清美は激しく咳き込みながら必死で息を吸った。吸っても吸っても吸い足りなかった。顔に水を掛けられてから三分近く、無呼吸状態が続いていた。  清美は肩で大きく息をしながら自分の腹部を見た。みぞおちから臍《へそ》の上までが大きく膨らみ、まるで妊婦のようになっていた。水で人間の腹がここまで膨らむことが信じられなかった。 「仕上げだ」  松本少佐が立ち上がり数歩後退した。  清水少尉が跳躍し清美の腹の上に飛び乗った。長靴の踵《かかと》がめり込んだ途端、胃が爆裂するような衝撃と共に口から大量の水が噴き出した。清美は身をよじって悶絶《もんぜつ》した。悲鳴を上げたかったが喉《のど》が詰まって声が出ず、代わりにぼろぼろと涙がこぼれた。  清水少尉が清美の腹の上から下りた。妊婦のように膨らんでいた腹が元の大きさに戻っていた。清美は肛門《こうもん》から柔らかくて温かいものが出ているのに気付いた。一瞬踏み潰《つぶ》された腸が飛び出したと思ったが、漂ってきた臭いでそれが大便だと分かった。  清水少尉は再びホースを手に取ると、椅子に固定されたまま倒れている清美の股間を洗い流した。この拷問を受けた者はみな脱糞《だつぷん》するらしく平然とした顔をしていた。  洗浄は一分ほどで終わった。  清水少尉は清美の座る椅子を持ち上げ元の体勢に戻した。腹部の痛みは残っていたが大分楽になっていた。 「楽しんだか?」  松本少佐がにこりともせずに訊《き》いてきた。清美は無言で視線を逸《そ》らした。返事のしようが無かった。 「今のお前の率直な意見を聞きたい。幸彦の秘密を話す気になったか?」  松本少佐は腰を屈《かが》め清美の顔を覗《のぞ》き込んだ。 「私、兄の秘密なんて知りません、信じて下さい」  清美は掠《かす》れた声で囁いた。  松本少佐が大きく息を吐《は》いた。 「少佐殿、もう一度やりますか?」  隣に立つ清水少尉が訊いた。 「いや、やっても無駄だ。今までにも何人かいたが、この手の奴らは肉親を守るという大義名分があるから、ちょっとやそっとのことじゃ絶対に落ちん。五年前に拷問した女は水責めを十回やったが、最後まで旦那《だんな》の居場所を吐かなかった」 「では、あれを使いますか?」 「そうだな、幸彦は未《いま》だに逃亡中だから今回は早めに使ったほうがいいだろう」 「すぐにお持ちします」  少尉は一礼すると足早に部屋を出て行った。  室内がしんと静まり返った。  清美は床の白いタイルを見つめながら、清水少尉が言っていた『あれ』とは何だろうと思った。今の水責めよりも苦痛を伴うものだということは分かった。清美はふと、先程の松本少佐の言葉を思い出した。少佐は秘密を聞き出す方法として、『肉体への拷問』と『精神への拷問』があると言っていた。水責めが終った今、次は『精神への拷問』だったが、具体的にどういう方法をとるのか全く想像できなかった。しかしそれでも清美は恐怖を感じなかった。何をされようとも、幸彦の秘密を絶対に口外しない自信があった。肉体だろうが精神だろうが好きなだけ拷問すればいいと思った。  清美は上目遣いで松本少佐を一瞥《いちべつ》した。大尉は押し黙ったまま清美を見ていた。全裸の若い女を目前にしているにもかかわらず、その目には依然として性的な愉悦も興奮も見受けられなかった。エリート軍人には同性愛者が多いと聞いたことがあったが、少佐はまさにそれではないかという気がした。  清水少尉はすぐに戻ってきた。手に持った銀色のトレイには、黄色い液体が入った細長い注射器が置かれていた。 「これは最近、帝大の教授が開発した拷問用幻覚剤だ。『髑髏《どくろ》』と呼ばれている」松本少佐はトレイから注射器を取った。「我々は今まで二十二人の被疑者に対し『髑髏』を使用してきた。この薬液を体内に注入すると、すぐに強い幻覚症状が現れて意識が激しく錯乱する。何が見え、何が聞こえ、何に触れるかは人それぞれだが、二十二人が共通して体験した幻覚が一つだけある。それは全員が何者かによって惨殺されるというものだ。それも異様なまでに生々しく、まるで現実の出来事のように自分の悲惨な最期を経験していた。  つまり『髑髏』とは、生命喪失の恐怖を疑似体験させるために造られた幻覚剤だ。その効果は絶大で、もう一度『髑髏』を打つぞと脅すと全ての被疑者が口を割った。まさに予想通りの結果だった。人間が最も恐れ、忌み嫌うのが死だ。その死を、それも絶命する瞬間を繰り返し体験すれば、どんなに図太い奴でも必ず精神に異常をきたす。この責め苦に耐えられる人間はこの世に存在しない」松本少佐は僅かに口元を緩めた。初めて見せた笑みだった。「『髑髏』は拷問の世界に革命を起こした。もはや我々の尋問に対し嘘や黙秘は一切通用しない。まさに百点満点、と言いたいところだが、残念ながら人工物に完璧《かんぺき》なものは存在しない。御多分に漏れず多少の問題は抱えている。それが強い副作用だ。『髑髏』体験者の約七割から感情の起伏が消えた。つまり喜怒哀楽というものを全く感じなくなった。未だに原因不明で治療法も見つかっていない。開発した教授の話では、ごく稀《まれ》に記憶障害が同時に起きて過去を思い出せなくなる場合もあるらしい。まあ、『髑髏』を使用するのは非国民か凶悪犯に限られているから、罪悪感は全く感じないがね」  松本少佐は手にした注射器の活塞《かつそく》を指で軽く押した。注射針の先端から少量の薬液が勢い良く飛び出した。 「説明はこれで終わりだ。『髑髏』がどういうものか大体分かってもらえたと思う。どうだ、心の準備はできたか?」  松本少佐は穏やかな口調で言った。  清美は無言のまま大尉が持つ注射器を凝視した。硝子《ガラス》の円筒の中に詰まった黄色い薬液が妙に毒々しく見えた。あれが自分の体内に入り、脳を侵すのかと思うと不快な気分になったが、恐怖は湧いてこなかった。少佐の話は酷《ひど》く大袈裟《おおげさ》なものに聞こえた。あまりにも現実離れしていて実感が湧いてこなかった。死を疑似体験するといっても所詮《しよせん》夢を見るようなものであり、そんなことぐらいで自分が口を割るとは思えなかった。 「では、そろそろあちらの世界に出発してもらおう」松本少佐が歩み寄り清美の傍らに立った。「意識が錯乱するのは十五分ほどだが、体験者はみな七、八時間が経過したような錯覚を起こす。その間に誰にどうやって殺されるかは人によって異なる。今までに二十代から四十代の女が五人、恐怖のあまり心臓|麻痺《まひ》を起こして死にかけた。率直に言うが完全な命の保証はできない。もしお前が途中で死んだら運が悪かったと思って諦《あきら》めてくれ」  松本少佐は冗談とも本気ともつかぬ口調でそう告げると、清美の左肩に無造作に注射針を突き立てた。痛みは殆《ほとん》ど感じなかった。活塞が押されると、薬液が血管を通って体内に広がっていくのが分かった。  不意に清美は眩暈《めまい》を覚えた。頭の中がひやりと冷たくなり、全身から急速に力が抜けた。強い眠気が湧き起こり、目の前に黒い霧のようなものが現れた。それはたちまち濃さを増し視界を闇で満たした。立ち眩《くら》みに似ている、と思いながら清美は『髑髏』の世界に落ちていった。     2  気づいた時、清美は半|袖《そで》のセーラー服を着て中学校の長い廊下に立っていた。  校内は薄暗かった。天井には五メートル間隔で二十|燭光《しよつこう》の電球が下がり、乳白色の硝子の中で黄色い光がぼんやりと光っていた。窓の外にはどろりとした濃厚な闇が広がっていて、今が真夜中だということが分かった。  清美の前には縦一列になって女子生徒が並んでいた。人数は三十人ほどで全員が清美と同じ半袖のセーラー服を着ていた。列の先頭は保健室の前まで続いていた。後ろを振り向くとさらに二十人近い女子生徒が並んでいた。生徒達は顔を伏せたまま、決して清美と目を合わそうとはしなかった。  廊下はしんと静まり返っていた。誰一人口を利く者はいなかった。列は三十秒ほどの間隔で一歩ずつ前に進んでいた。先頭の者は保健室の前に来ると一礼し、「失礼します」と言わずに無言で中に入っていった。室内で何が行われているのかは分からなかったが、抜き打ちの持ち物検査か、それに類することではないかと清美は思った。  列は等間隔で滞りなく進み続けた。  やがて清美の番になった。  清美は保健室の前で一礼すると、他の生徒達と同様に無言でドアを開けて中に入った。  白い蛍光灯が灯《とも》る部屋の中央に三人の男が立っていた。みな白衣を着てゴム製の防毒面を付け、左腕に赤い腕章をしていた。腕章にはそれぞれ違う漢数字が書かれていた。右側の男は「弐」だった。外国製の十六ミリカメラを持っていた。真ん中の男は「壱」だった。白い指揮棒を持っていた。左側の男は「参」だった。オープンリールのテープレコーダーを抱えていた。  弐番の男がおもむろにレンズを清美に向け、把手《とつて》についたボタンを押して撮影を開始した。フイルムが回るシャカシャカという乾いた音が響いた。 「踏め」  壱番の男が自分の足元を指揮棒で指した。防毒面を付けているため声がくぐもっていた。指揮棒の指す先を見ると、床の上に硯《すずり》ほどの大きさの銅版が置いてあった。清美は近づいて目をこらした。銅版にはX形の十字架に磔《はりつけ》になった、痩《や》せた裸の男の絵が彫られていた。  清美は息を飲んだ。  それは政府が信仰を禁じ徹底的に弾圧しているマーテル教の開祖、セント・アンデレの踏み絵だった。そして清美の家族は四人全員が狂信的なマーテル教の信徒だった。清美は三歳の誕生日から一日四度の祈りを欠かしたことが無く、密《ひそ》かにドロローサという浄化名も授けられていた。絶対に踏めないものだった。 「踏め」  壱番の男が再び指揮棒で踏み絵を指した。清美は無言で立ち尽くした。この危機にどう対処すればいいのか分からなかった。壱番の男が参番の男を見た。参番の男は頷《うなず》いてテープレコーダーの点滅器《スイツチ》を入れた。すぐに老人の嗄《しわが》れた歌声が流れてきた。  ふめふめふまぬかいちごろし  ふめふめふまぬかにいごろし  ふまぬとこわいぞとおせんぼ  ふまぬとこわいぞひきまわし  おにがでるぞじゃがでるぞ  くさりにまかれてちがでるぞ  ふめふめふまぬかさんごろし  ふめふめふまぬかよんごろし  ふまぬとこわいぞしろまんと  ふまぬとこわいぞべにじゅうじ  おにがくるぞじゃがくるぞ  くさりにうたれてちがでるぞ  読経《どきよう》に似た独特の節を保ったまま、老人は同じ歌詞を何度も何度も歌い続けた。それは極めて不快な声だった。耳の中にざらついた砂を注がれているような気分になった。清美は眉《まゆ》をひそめ両手を強く握り締めた。すぐにでも耳を塞《ふさ》ぎたかったが、そうすれば殴られるような気がして我慢した。老人の歌がちょうど二十回繰り返されたところで、壱番の男が指揮棒を左右に振った。参番の男がテープレコーダーの点滅器を切った。歌声が止まり、清美は大きく息を吐いた。 「踏め」  壱番の男が三度《みたび》指揮棒で踏み絵を指した。清美は下唇を噛《か》んだ。多分これが最後の命令だった。この命令を拒否すればどうなるかは分かっていた。しかしそれでもセント・アンデレに対する信仰心は揺るがなかった。誇り高きマーテル教徒として踏み絵は死んでも踏めなかった。清美は壱番の男を見ると、勇気を振り絞って大きく頭を左右に振った。弐番の男が驚いたような声を上げ、カメラを廻《まわ》しながら清美に近づいてきた。清美はそのレンズを睨《にら》みつけた。 「お前は右のドアだ」  壱番の男が後方の壁を指揮棒で指した。そこにはいつの間にか二つの鉄のドアが付いていた。左側のドアには白ペンキで「出」と書かれ、右側のドアには赤ペンキで「X」と書かれていた。「X」はマーテル教、及びマーテル教徒を示す記号だった。踏み絵を踏んだ者は左のドアから退室したようだった。  清美は無言で歩きだした。その後を弐番の男がカメラを回しながらついてきた。 「小便をしたくないか? 怖くて怖くて小便をしたくないか?」  男が楽しそうな口調で訊《き》いてきた。清美は質問を無視して「X」と書かれた右側のドアを開けた。中は座敷になっていた。茶の間風の八畳間の畳の上に、六人の女子生徒が寄り添うように正座していた。みな胸の前で両手を組み、アンデレ経典を小声で唱えていた。清美はこの中学にこれほど多くのマーテル教徒がいたことを知り驚いた。一体誰なのかと一人一人の顔を見てみたが全員面識のない生徒だった。  清美は上履きを脱ごうとして足に目をやった。そこで初めて自分が裸足《はだし》だということを知った。途端に足の裏にコンクリートの床の冷たさを感じた。清美は座敷に入り、後ろ手にドアを閉めた。  室内は殺風景だった。  正面の床の間に掛けられた牡丹《ぼたん》の掛け軸、右側の地袋の上で室内を淡く照らす有明|行灯《あんどん》、保健室と繋《つな》がるドアの左側に置かれた桐の箪笥《たんす》。この三点が座敷の中にあるものの全てだった。休憩用の座椅子も仮眠用の布団も備えられておらず、一体何のために使われる部屋なのかさっぱり分からなかった。  清美は六人の生徒達とは少し離れた場所に正座した。同じマーテル教徒だったが初対面のため声をかけづらかった。清美は微《かす》かに聞こえてくるアンデレ経典を聞きながら視線をドアに向け、その周囲を見るともなしに見た。ふと、動くものが視界の隅に入った。黒くて小さなものだった。ドアの右手の壁際をこちらに向かって進んでいた。清美は目を凝らした。  雄のカブトムシだった。  何かに襲われたらしく背中の翅《はね》が根元から千切れ、赤黒い蛇腹状の腹部が剥《む》き出しになっていた。その腹部を盛んに伸縮させながらカブトムシはドアの前を横切り、桐の箪笥と壁の間にできた五センチほどの隙間に入っていった。同時に音が聞こえてきた。低いざわめきのような、それでいて妙に立体感のある音だった。清美の好奇心が頭をもたげた。一体何の音なのか確かめてみたくなった。清美はそっと立ち上がると桐の箪笥に近づき、後ろの隙間を覗《のぞ》き込んだ。箪笥の裏で黒くて大きなものが波打つように動いていた。  カブトムシだった。  夥《おびただ》しい数のカブトムシが壁一面に張り付き、一斉に翅を震わせていた。清美は呻《うめ》いて後ずさった。カブトムシの巨大な巣だった。こんなものが座敷にありながら、なぜ今まで放置されてきたのか不思議でならなかった。  隙間から何かが放り出された。畳に転がったのはつい先程中に入った、あの翅の千切れたカブトムシだった。仰《あお》向けになったそれは小さくなっていた。清美は再び目を凝らした。頭部がすぱっと切断されていた。 「掟《おきて》よ」  背後で声がした。振り返るとさっきまで経典を唱えていた六人の女子生徒が青ざめた顔で立っていた。 「翅を失ったカブトムシは他の奴らの足手まといになる。だから頭を切られて巣から捨てられる。使えない奴は生かしておかない。それが虫の世界の掟なの」  頭にカチューシャをつけた女子生徒が囁《ささや》いた。その言葉に呼応するかのように羽音が一層高まった。 「ねえ、あれ見てっ」  隣の三つ編みの女子生徒が、怯《おび》えた顔で箪笥の下を指さした。仰向けだったカブトムシの胴体がいつの間にか起きていた。それは剥き出しの腹部を伸縮させながら、残った四本の足で畳の上を這《は》っていた。  カチューシャの女子生徒が悲鳴を上げた。その声にカブトムシの胴体が反応した。素早くこちらを向き、頭部の切断面から黄色い液体を噴射した。液体は清美の頬を掠《かす》め、カチューシャの女子生徒の左眼に命中した。女子生徒は崩れ落ちるようにその場に倒れた。失神したように見えた。黄色く染まった彼女の目蓋《まぶた》が見る間に溶けていった。 「毒よっ」  誰かが震える声で叫んだ。生徒達が慌てて逃げ出した。清美も逃げようとしたが足がもつれて転倒した。膝《ひざ》から下が激しく痺《しび》れていた。黄色い液体が頬を掠めた時毒が入ったのだと思った。 「お願い、助けてっ!」  清美は床の間の隅に避難した生徒達に叫んだ。その声にカブトムシの胴体が反応した。凄《すご》い速さで近づいてくると目の前で止まり、頭部の切断面をさっと清美の顔に向けた。清美は悲鳴を上げ咄嗟《とつさ》に手で払い除《の》けた。胴体は宙を飛び壁に当たってあっさりと潰《つぶ》れた。同時に箪笥の裏から響いていた不気味な羽音がぴたりと止まった。清美は畳の上に落ちた、平たく変形したカブトムシの死骸《しがい》を呆然《ぼうぜん》と見つめた。  突然鉄のドアが開いた。壱番の男が立っていた。女子生徒全員に対する踏み絵が終ったようだった。 「部屋から出ろっ」  男は指揮棒を大きく振って叫んだ。床の間にいた五人の生徒は駆け足で座敷から出ていった。 「何してる、お前も早く出ろ」  男は指揮棒で清美を指した。 「カブトムシの毒で立てないんです」  清美は倒れたまま涙ぐんだ声で言った。 「虫の毒ぐらいでだらしのない奴だ。もう一人のほうはくたばったらしいな」  男は目蓋と眼球が完全に溶け、左の眼窩《がんか》が露出したカチューシャの生徒を見て言った。毒が全身に回ったらしく倒れたまま微動だにしなかった。 「まったく面倒をかけやがる」  男は土足で座敷に入ってくると清美の髪を鷲掴《わしづか》みにし、そのまま強引にドアの外へ引きずり出した。  保健室では弐番の男が十六ミリカメラで生徒達を撮影していた。フィルムが回るシャカシャカという乾いた音が辺りに響いていた。弐番の男は清美を見るとレンズを向けて近づいてきた。 「腹が痛くないか? 怖くて怖くて腹が痛くないか?」  弐番の男が楽しそうな口調で訊いてきた。清美は質問を無視して上体を起こした。両足の痺れは残っていたが、いつまでも寝ているわけにはいかなかった。清美は傍らの壁に右手をつくとしゃがんだ状態になり、そのままゆっくりと左右の膝関節を伸ばして立ち上がった。ふくらはぎの筋肉が震え数回よろめいたが、何とか踏ん張って持ちこたえた。 「仔馬《こうま》のようだぞ、生まれたての仔馬のようだぞ」  弐番の男はローアングルでカメラを回した。 「よしお前ら、ここに横一列に並べっ」  壱番の男が大声を上げた。隣には参番の男も立っていた。生徒達は急いで男達の前に整列した。清美も列の左端に立った。 「今晩行った踏み絵の結果、お前ら七人のみが銅版を踏まなかった。よってお前ら全員をマーテル教徒とみなし、法に基づいて処分する。先程中毒死した一名を除く六人全員を鬼裂鉄刑に処すっ。場所は紅十字脳病院処刑場、日時は本日午前八時とするっ」  壱番の男はそう叫ぶと清美達の顔を見回した。防毒面の眼鏡越しに見える目は喜気に満ちていた。マーテル教徒を弾圧できるのが嬉《うれ》しくて堪《たま》らないようだった。  清美は処刑宣告を受けても全く動じなかった。踏み絵を拒否すれば死罪になるのは周知のことであり、分かりきったことを再確認しただけのことだった。マーテル教徒である以上、いつ処刑されてもいいだけの覚悟はできていた。それは他の五人も同じらしく取り乱す者は誰一人いなかった。 「ではこれからお前達に最後の慈悲を与えるため、スカラ座まで移動する。一列縦隊になってついてこいっ」  参番の男が叫び保健室のドアを開けて出ていった。生徒達は素早く縦一列になり男の後に従った。清美はその最後尾についた。いつの間にか夜が明けており、廊下の窓の外には朝日で山吹色に光る東の空が広がっていた。男は歩きながらテープレコーダーの点滅器《スイツチ》を入れた。陸軍の第二番行進曲が大音量で流れ、静まり返った校内に響き渡った。男は背筋をぴんと伸ばし、そのリズムに合わせて膝を交互に高く上げながら進んだ。廊下は異様なまでに長く、緩やかな登り坂や下り坂が至る所にあった。歩き続けていくと廊下のリノリウムが途切れ、茶色い土が剥《む》き出しになった。所々に水|溜《た》まりがあり、周囲に背の低い雑草が生えていた。水面には小さな蛙がいて、脇を通る度に足音に驚いて大きく飛び跳ねた。  映画館『スカラ座』は校舎一階の東端にあった。男は入り口の前まで来ると、テープレコーダーの点滅器を切り音楽を止めた。蛍光灯の灯《とも》った飾り窓には上映している映画のポスターが貼られていた。『地底怪人X』という題名で、血まみれのどぎつい死体の絵が描かれていた。男は入場券売り場の小窓に数枚の紙幣を押し込み中に入った。清美達はその後に続いた。  館内は中学校の体育館とほぼ同じ大きさだった。二十度程に傾斜したコンクリートの床は階段状になっており、そこに白いカバーの付いた座席が整然と並んでいた。早朝のためか他に客はおらず、清美達は一番後ろの座席に一列に座った。清美は右から二番目で、右端が参番の男だった。客席を見下ろすと中段の真ん中に長方形の小さな空間があり、新しい青い畳が二畳敷かれていた。畳の上にはダイヤル式の黒電話が載った卓袱台《ちやぶだい》と、紫色の大きな座布団が置かれていた。  ほどなく映画の上映開始を告げるブザーが鳴り場内が暗くなった。正面のスクリーンには『地底怪人X』というタイトルに続き、寂れた神社の境内が映った。闇の中、朽ち果てた小さな神殿の前に一人の女が立っていた。白い狐の面を被《かぶ》った女は全裸で、右手に出刃包丁を握っていた。小さくて張りのある乳房や薄い陰毛で、 まだ十代の少女だということが分かった。  少女の前方の地面にはマンホールがあった。丸い鉄製の蓋《ふた》は半分以上開いており、中から淡い光が漏れていた。少女は足早に歩いていくとしゃがみ込み、マンホールの中に右足を入れた。中には垂直に伸びる鉄の梯子《はしご》が設置されていた。十メートル以上の長さがあった。しかし少女は臆《おく》することなくするすると梯子を下りていった。階下には四畳半ほどの四角い空間があった。壁と天井はコンクリートで固められ、床は赤|煉瓦《れんが》が敷き詰められていた。正面の壁には鉄製のドアが付いており、その上部に灯《ひ》の灯った石油ランプが掛けられていた。少女は近づきドアに耳を押し当てた。中から男女の笑い声が聞こえた。狐の面でその表情は見えなかったが、なぜか彼女が激昂《げつこう》しているのが分かった。少女が荒々しくドアを開けた。室内は六畳の和室だった。中央に置かれた炬燵《こたつ》に、綿入れ羽織を着た奇妙な人間が当たっていた。胴体は一つだったが頭部が二つあった。右が男で左が女だった。二人とも二十歳前後の若者だった。男は少女を見て驚きの声を上げ、女が耳障りな悲鳴を上げた。少女は包丁を振りかざして突進し、切っ先をその左胸に突き刺した。二人が同時に呻《うめ》き声を上げた。少女が包丁を引き抜くと左胸から無数の蠅が飛び出した。双頭の人間が畳の上に倒れた。男も女も血を吐いて絶命していた。 「裏切り者……」  蠅の大群が乱舞する中、狐の面の少女が呟《つぶや》いた。  スクリーンには再び夜の神社の境内が映った。朽ち果てた神殿の前に、白い狐の面を被った全裸の少女が立っていた。少女の前方の地面には蓋の開いたマンホールがあった。少女は足早に歩いていくとしゃがみ込み、中に右足を入れた。清美はそこで映画が最初に戻ったことに気付いた。その後の展開は勿論《もちろん》同じだった。マンホールの下に男女の頭部を持つ奇妙な人間がおり、少女に胸を刺され死ぬだけだった。  二回目が終るとまた冒頭の神社のシーンに戻り映画が始まった。それは三回目が終っても四回目が終っても同じだった。『地底怪人X』は繰り返し繰り返し上映された。清美は七回目までは何とか我慢して観ていたが、いつしか強い睡魔に襲われ自分でも気づかぬうちに眠り込んだ。  清美はけたたましい電話のベルで目を覚ました。客席の中に置かれた卓袱台の上で黒電話が鳴っていた。清美は自分がどれだけ寝ていたのかが分からなかった。五分のようにも二時間のようにも思えたが、スクリーンではまだ『地底怪人X』を上映していた。隣の参番の男が立ち上がり、テープレコーダーを座席に置いて傍らの階段を下りていった。男は畳の上の座布団に座って受話器を取り、背筋をぴんと伸ばして話し出した。会話は一分ほど続いたが、やがて大きく三回|頷《うなず》くと受話器を置いて階段を駆け上がってきた。 「映画鑑賞は終わりだ。これからお前達を紅十字脳病院まで連行する。全員すみやかに映画館から出ろ」  男は叫ぶと座席に置いたテープレコーダーを素早く両手で抱えた。     *  保健室に戻った清美達は頭巾《ずきん》のついた白い外套《がいとう》を着せられた。その背中にはマーテル教徒を示す『X』の記号が、赤いペンキで大きく書かれていた。処刑用の正装をした五人の女子生徒と清美は縦一列に整列し、再び参番の男に先導されて保健室を後にした。清美は前から四番目だった。今度は後端に壱番の男が付き、右横に弐番の男が付いた。一行は校舎の北側にある昇降口を通り、正面の校門から住宅街の細い道に出た。三人の男は黒い編み上げ靴を履いていたが生徒は全員|裸足《はだし》だった。路上に散らばる微細な小石が足の裏を突き、清美は痛みに顔をしかめた。先頭の参番の男がテープレコーダーの点滅器を入れた。陸軍の第五番行進曲が大音量で通りに響き渡った。それはマーテル教徒を刑場に連行する際必ず流す曲で、すぐに沿道の家々からぞろぞろと人が出てきた。  一行は十分ほどかけて住宅街の道を抜け、商店が立ち並ぶ町の目抜き通りに入った。その頃にはすでに百人を超える見物人が集まり、清美達の周囲を取り囲んで同じ歩調で歩いていた。見物人には大人に混じって多くの子供の姿があった。子供達はみな拳《こぶし》を振り上げながら「マーテル野郎」「馬鹿アンデレ」「インチキ宗教」などと罵声《ばせい》を浴びせてきた。中には唾《つば》を吐きかけてきたり足を蹴《け》ってきたりする子供もいた。清美は頭巾を深く被って顔を伏せ、誰とも目を合わせないようにして歩いた。  目抜き通りは南北に一キロほど続いていた。清美達は南側の端から通りに入り北側の端までゆっくりと進んだ。突き当たりは丁字路になっており、その道を挟んだ真正面に紅十字脳病院があった。五階建ての大きな横長のビルの屋上には、高さが三メートルはある巨大な十字形の立体看板が立っていた。看板は鮮やかな紅色のアクリル硝子《ガラス》でできており、夜になって電気が灯ったら綺麗《きれい》だろうなと清美は思った。  一行は道路を渡り、病院の正門から敷地の中に入った。百人を超える見物人も一緒だった。病棟の前には百坪近くある広い円形の広場があった。周囲を高さ二メートル程の金網で囲まれたその中央には、一本のX形をした十字架が立っていた。大人一人を磔《はりつけ》にするのに充分な大きさだったが、なぜ六本ではなく一本なのかが分からなかった。  広場の片隅には蕎麦《そば》屋の屋台がとまっていた。白い暖簾《のれん》越しに見える屋台の中では、坊主頭の老人がズンドウで麺《めん》を茹《ゆ》でていた。処刑前の罪人には必ず蕎麦を恵与すべし、という法律があったことを清美は思い出した。  先頭の参番の男は、金網の出入り口に付いた鉄の扉の前で立ち止まった。扉には錆《さ》びついた南京錠が掛けてあった。参番の男はテープレコーダーの点滅器《スイツチ》を切った。大音量で流れていた行進曲が途切れ急に辺りが静まり返った。すぐに若い看護婦が駆け寄ってくると、大きな黒い鍵《かぎ》で南京錠を外し鉄の扉を開けた。参番の男に伴われて清美達は円形の広場の中に入った。その後に壱番の男と弐番の男が続いた。広場の地面は土だったがよく手入れされており、草一本生えていなかった。またローラーで地ならしをしているらしく競技場のように真っ平らだった。壱番の男が歩いてくると参番の男の隣に立った。 「これから末期の蕎麦を食べる。汁一滴残すんじゃないぞっ」  壱番の男は叫び、広場の片隅の屋台に向かい歩きだした。清美達はその後に無言で付き従った。弐番の男が十六ミリカメラで撮影を始めた。フィルムが回るシャカシャカという乾いた音が辺りに響いた。 「喉《のど》が渇かないか? 怖くて怖くて喉が渇かないか?」  弐番の男は楽しそうな口調で訊《き》きながら清美達についてきた。清美は男の質問を無視して顔を伏せた。  屋台の周囲には香ばしい醤油《しようゆ》の匂いが漂っていた。掲げられた白い暖簾には『そば処うんけい』と墨で書かれ、その下には背もたれの無い丸椅子が六つ並べられていた。 「いらっしゃい」  調理場に立つ老人がこちらを一瞥《いちべつ》した。清美達はそろそろと遠慮がちに椅子に座った。老人は湯気の立つどんぶりを一人一人の前に置いていった。刻んだ葱《ねぎ》が少量乗っただけの簡素な蕎麦だった。 「よし、喰《く》っていいぞっ」  壱番の男が指揮棒を顔の前で振った。清美は箸《はし》立てから箸を取ると蕎麦を摘《つ》まんで啜《すす》った。全く期待していなかったが、それは美味だった。汁は鰹節《かつおぶし》のだしが良く出ていてまろやかであり、麺にはしっかりとした粘りと弾力があった。金を払って食べてもいい位の出来映えだった。清美はゆっくりと咀嚼《そしやく》しながらその旨さを充分に味わった。他の生徒達も清美と同様らしくみな夢中で蕎麦を啜っていた。  三分も経たぬうちに全員がどんぶりを空にした。誰一人として汁一滴残さなかった。 「完食しやがった、どいつもこいつも完食しやがった」  弐番の男が呆《あき》れたように言いながら、六つのどんぶりの中を右から順に撮影していった。 「それではこれよりお前達六名を、ここ紅十字脳病院処刑場にて鬼裂鉄刑に処すっ」  壱番の男が叫んだ。その声は弾んでいた。防毒面で顔は見えなかったが笑っているのが分かった。 「全員今すぐ十字架の前に並べっ!」  壱番の男が指揮棒を振り上げた。清美達は慌てて立ち上がり駆け出した。  広場の中央にはすでに参番の男が立っていた。六人はX形の十字架の前に横一列に並んだ。清美は右から二番目だった。広場を囲む金網にはびっしりと見物人が群がっていた。その数はいつの間にか行進していた時の倍以上に増えていた。また正面の五階建ての病棟の殆どの窓が開けられ、無数の人が鈴なりになっていた。それらは入院患者や看護婦や医者達で、みなにやにやと薄笑いを浮かべていた。  清美はその表情に強い怒りを覚え誰彼無しに次々と睨《にら》みつけた。  壱番の男がこちらに向かって歩きながら左手を挙げた。参番の男が頷きテープレコーダーの点滅器を入れた。すぐに老人の嗄《しわが》れた歌声が流れてきた。  しねしねしなぬかいちぢごく  しねしねしなぬかにいぢごく  しぬときこわいぞしるでるぞ  しぬときこわいぞめんでるぞ  えんまのうでとがきのうで  しんのぞうまでひとひねり  しねしねしなぬかさんぢごく  しねしねしなぬかよんぢごく  しぬときこわいぞしこでるぞ  しぬときこわいぞやりでるぞ  えんまのあしとがきのあし  しりこだままでふみつぶす  それは踏み絵の時に聞かされたあの老人の声だった。歌詞は違ったが読経《どきよう》に似た独特の節は全く同じだった。  その歌が合図だったらしく突然出入り口の鉄の扉が開いた。見ると二人の男が広場に入ってきた。彼等もまた白衣を着て防毒面を被《かぶ》り、左腕に赤い腕章をしていた。前を歩く男の腕章には「肆《よん》」、その後に続く男の腕章には「伍《ご》」という漢数字が書かれていた。肆番《よんばん》の男は大きな黒い巾着袋を持ち、伍番の男はリヤカーを引いていた。荷台には大きな白い布が被せられ、何が載せられているのかは分からなかった。二人は清美達の前まで歩いてくると立ち止まった。距離は五メートルもなかった。 「よし、右から順に取らせろ」  いつの間にか参番の男の隣に立っていた壱番の男が、肆番の男に命じた。肆番の男は頷《うなず》くと、列の右端に立つ三つ編みの女子生徒に近づいていった。 「この中に入っている球を一つだけ取れ」  肆番の男は黒い巾着《きんちやく》袋を差し出した。三つ編みの生徒はゆっくりと巾着の中に手を入れ、一個の白いゴムボールを取り出した。その表面に漢字が一つ書いてあるのがちらりと見えた。肆番の男はボールを受け取りその漢字を見た。防毒面の眼鏡から覗《のぞ》く目に鋭い光が浮かんだ。 「さそりっ!」  肆番の男はボールを高く掲げて叫んだ。周囲の金網に群がった無数の見物人から歓声が上がった。伍番の男がリヤカーの荷台を覆う白い布をめくり、中から一振りの軍刀を取り出した。 「おい、外套《がいとう》を脱いでそこに正座しろ」  壱番の男が三つ編みの生徒の前方の地面を指揮棒で指した。三つ編みの生徒は白い外套を脱いでセーラー服姿になると、一歩前に出て正座した。自分の処刑方法を知ったためかその顔は青ざめ、膝《ひざ》の上で組んだ両手が小刻みに震えていた。伍番の男は歩いてくると三つ編みの生徒の真横で止まり、抜刀した。側にいた弐番の男が十六ミリカメラを構えて撮影を始めた。フィルムが回るシャカシャカという乾いた音が辺りに響いた。 「ゲロ吐きたくないか? 怖くて怖くてゲロ吐きたくないか?」  男は楽しそうな口調で質問したが三つ編みの生徒は無言のまま俯《うつむ》いていた。 「もっと首を出せ」  伍番の男が囁《ささや》いた。三つ編みの生徒は両手を震わせながら、深くお辞儀をするように頭を下げた。白く細いうなじが露《あら》わになった。参番の男がテープレコーダーの点滅器を切り老人の歌を止めた。  伍番の男は鞘《さや》を足元に落とすと軍刀を上段に構え、そのまま一気に打ち下ろした。鞠《まり》を蹴《け》るような音と共に生徒の頭部が斬り落とされ、その反動で仰け反る胴体が勢い良く後ろの地面に倒れた。首の切断面からは葡萄《ぶどう》酒そっくりの血が噴き出し、続いて先程食べた蕎麦《そば》がどろどろと流れ出た。周囲を囲む見物人から一斉に大きな拍手が起き、甲高い指笛があちこちから聞こえた。伍番の男は白衣のポケットから手拭《てぬぐ》いを出し、軍刀に付いた血を丁寧に拭《ふ》き取った。そして鞘を拾い刀身を収めると、リヤカーまで引き返して荷台に戻した。三つ編みの生徒の両手は組まれたまま、小刻みに震え続けていた。  清美は絶句した。それはあまりにも無残な光景だった。次は自分の番だと思った途端悪寒が背筋をつらぬき、ひざまずいて命|乞《ご》いをしたい衝動に駆られた。同時に清美は激しくおののく自分に愕然《がくぜん》とした。セント・アンデレに対する強い信仰心をもってすれば、怯《おび》えることなく安らかに死ねると固く信じていたからだった。しかし現実は違っていた。目前に迫った処刑の恐怖に完全に飲み込まれ、マーテル教徒としての矜持《きようじ》は消滅していた。もはや今の清美にはアンデレ経典を唱える余裕すらなかった。  傍らに立っていた肆番の男が清美の前にやってきた。 「この中に入っている球を一つだけ取れ」  肆番の男が黒い巾着袋を差し出した。清美は動けなかった。全身が硬直して瞬きもできなかった。全身の神経が凍りついたようだった。清美は巾着を凝視したまま立ち尽くした。  不意に肆番の男が清美の頬を張り飛ばした。清美はよろめいて後ずさった。 「早く球を取れっ」  肆番の男が苛立《いらだ》った口調で命じた。ビンタの衝撃で清美は我に返った。何とか右手を伸ばして巾着の中に入れ、最初に触れたゴムボールを取り出した。その表面には「蝮《まむし》」と書かれていた。肆番の男はボールを受け取りその漢字を見た。防毒面の眼鏡から覗く目が大きく見開かれた。 「まむしっ!」  肆番の男がボールを高く掲げて叫んだ。金網に群がった無数の見物人からまた歓声が上がった。それは三つ編みの生徒の時よりも遥《はる》かに大きかった。 「外套を脱いで十字架の前に立て。他の奴らは邪魔だからどけっ」  壱番の男が指揮棒で清美の後方を指した。 「蝮」は磔刑《たつけい》を意味する漢字のようだった。残りの四人の生徒が足早に五メートルほど離れた場所に移動した。清美もまた白い外套を脱いでセーラー服姿になると、高さが二メートル近くある十字架の前に立った。それは木ではなく、厚さ一センチ、幅二十センチほどの鉄板でできていた。四方向に伸びるX形の四つの柱には、手足を固定するための革バンドが十センチ間隔で四つずつ付いていた。罪人の身長によって使うバンドの位置が変わるようだった。また下の二本の柱は途中から土の中に埋まっていたが、全部でどれ位の長さがあるのかは分からなかった。  壱番の男がやって来ると、十字架の下に背もたれの無い丸椅子を置いた。それは蕎麦屋の屋台にあったものと同じだった。 「これからお前の処刑を開始する。手足を固定するからこの上に立って両手を広げろ」  壱番の男が指揮棒で椅子を指した。清美は眩暈《めまい》を覚えた。膝から一気に力が抜け足が激しく震えだした。震えはたちまち上体に這《は》い上がり肩から指先に落ちた。唇が痙攣《けいれん》するように揺れ動き、上下の歯列がぶつかってかちかちと音を立てた。『処刑』という男の声が頭の中で何度も鳴り響き、再び悪寒が背筋をつらぬいた。清美は生まれて初めてマーテル教徒になったことを後悔した。弐番の男が十六ミリカメラを構えてまた撮影を始めた。フィルムが回るシャカシャカという乾いた音が辺りに響いた。 「一番目の子は良かった。特に首から蕎麦が出るところが良かった。実に美しくて刺激的だ。ああいうのが観客に受けるんだ。お前も死ぬ時蕎麦が出るといいな」  男は嬉々《きき》とした表情を浮かべた。しかし極限まで追い詰められた清美の感情は麻痺《まひ》し、その言葉に対して何の反応も示すことができなかった。清美は老婆のような緩慢な動作で丸椅子の上に立ち、震える両腕を万歳するように左右に広げた。壱番の男は白い指揮棒を白衣のポケットに差し込むと、慣れた手つきでその手首を柱の革バンドに固定していった。清美の身長が百五十センチと低いため、使用されたバンドは下から二番目のものだった。  両手首の固定が終ると壱番の男は清美の立つ丸椅子を蹴って倒した。清美はX形の十字架に中吊《ちゆうづ》りになった。左右の手首に全体重が掛かり革バンドが皮膚に喰い込んだ。清美は苦痛に顔を歪《ゆが》めた。壱番の男は清美のスカートを無造作に剥《は》ぎ取り、その下のショーツを乱暴に引き下ろした。下半身が露出した途端、金網を取り囲む無数の見物人がどっと笑い声を上げた。「毛が生えてやがるっ」という子供の甲高い声が聞こえた。しかし清美は羞恥《しゆうち》を感じなかった。裸を見られて恥じらうような余裕はもうどこにも残っていなかった。時計の秒針のように正確に、そして確実に迫って来る「死」の恐怖に、清美はただただおののき続けていた。  壱番の男は再び慣れた手つきで、清美の左右の足首を柱の革バンドに固定していった。清美はすぐに手足をX形に開いた恰好《かつこう》になった。十字架の正面にいる見物人からは清美の性器が見えるらしく、男達はみな股間《こかん》を見ながら卑猥《ひわい》な笑みを浮かべていた。 「始めろ」  壱番の男がリヤカーの前にいる伍《ご》番の男に命じた。伍番の男は頷き、リヤカーの荷台から一本の細い素槍《すやり》を取り出した。それは長さが清美の身長ほどあり、刃だけでなく長柄の部分も銀色の金属でできていた。あれでつらぬかれて死ぬと分かった途端、清美は失禁した。小便は大きく開いた股間から勢い良く放たれ、音を立てて地面を濡《ぬ》らした。それを見た見物人がまたどっと笑い声を上げた。  伍番の男が槍を持って歩いてくると清美の前で止まった。男は屈《かが》みこむと清美の股間を覗き込んだ。 「子供だから小さいな。もう少し大きくしよう」  男は低く囁くと槍を置き、白衣のポケットから硝子《ガラス》の小瓶を取り出した。小瓶の中には黄金色の液体が半分ほど入っていた。男は蓋《ふた》を取って中身を掌《てのひら》に垂らし清美の肛門《こうもん》に塗りつけた。それは油のようにぬるぬるしていた。男は小瓶をポケットに仕舞い、今度は小型の折り畳み式ナイフを取り出した。  清美は短い悲鳴を上げた。肛門の筋肉が反射的に収縮した。何とか股《また》を閉じようと下半身にありったけの力を込めたが、足首を固定している革バンドはびくともしなかった。男はナイフの刃を指で摘《つ》まんで引き出し、おもむろに清美の肛門に押し当てた。金属のひやりとした冷たさを感じた瞬間、男は素早くナイフを引いた。初めは何も感じなかった。一瞬清美は男が切り損ねたと思った。しかし痛みは数秒後にやってきた。肛門とその周囲が不意に熱くなり、ひりつくような痛みが湧き上がってきた。傷口が花弁のようにぱっくりと開いているのが皮膚の感覚で分かった。思ったほど痛みを感じないのは、肛門に塗られた液体に原因があるようだった。  男はナイフをポケットに戻すと傍らに置いた槍を取った。いよいよ『串刺《くしざ》し』の始まりだった。清美は強い息苦しさを覚えた。胸の鼓動が尋常ではなかった。今まで経験したことのない異様な速さで心臓が震え動いていた。  男は金属でできた槍の長柄を両手で握り、鋭い切っ先を清美の裂けた肛門に挿した。また金属のひやりとした冷たさを感じた。男は一呼吸分の間を置くと槍を無造作に突き上げた。切っ先は素早く直腸の中を進み、そのまま突き当たりの腸壁をつらぬいて小腸に突き刺さった。下腹部に激烈な痛みが走った。それはとても耐えられるものではなく、清美は仰け反って絶叫した。耳をつんざく凄《すさ》まじい悲鳴が刑場に響いたが、男は全く意に介さずにさらに槍を突き上げていった。冷たく鋭い切っ先が腹の中を進むのが分かった。ぶちぶちと小腸がちぎれる音が微《かす》かに聞こえた。激痛は瞬く間に腹部全体に広がった。清美は身をよじり髪を振り乱して「やめてっ! やめてっ!」と叫んだ。大量の涙が溢《あふ》れ口から涎《よだれ》が飛び散った。しかし切っ先は止まらなかった。小腸の塊をつらぬき、その上を横行する結腸をつらぬくと胃の下部に突き刺さった。清美は強烈な吐き気を覚え、込み上げてきたどろりとしたものを吐き出した。 「出た、蕎麦《そば》が出たぞっ」  傍らで撮影していた弐番の男が嬉々として叫んだ。激痛はいつの間にか全身を覆っていた。頭の天辺《てつぺん》から爪先《つまさき》までがどくどくと激しく脈打っており、もうどこが痛いのか区別がつかなかった。叫ぶことも儘《まま》ならなくなった清美は、泣きながら頭を左右に振る以外なす術《すべ》がなかった。胃の内部にゆっくりと刃先が入ってきた。清美は再び強い吐き気を覚え嘔吐《おうと》した。 「また蕎麦が出た、また蕎麦が出た」  弐番の男がカメラを持ったままぴょんぴょんと飛び跳ねた。伍番の男は両手で持った長柄を慣れた手付きで左右に動かし、刃先を胃の中の右上部に突き刺した。そこには開口部のようなものがあるらしく、大した痛みも感じずにするりと刃先が中に入った。 「よし、噴門から食道への進入成功」  男は小声で呟《つぶや》くと、残りの長柄を素早く肛門の中に突き入れていった。全身を覆う激痛はさらに増幅した。清美は歯を喰《く》いしばり両手を力一杯握り締めた。食道の中を迫《せ》り上がってくる槍の冷たい感触がはっきりと感じられた。これだけの極限状態にいながら、なぜ自分が失神しないのか不思議だった。切っ先はたちまち喉《のど》元に達し、そこで止まった。 「おい、槍を貫通させるから上を向いて口を開けろ」  伍番の男が低く囁《ささや》いた。清美は湧き上がる凄まじい痛みに顔を歪めながら、何とか空を仰ぎ口を開いた。男は処刑の達人であり、口から槍を出すことに強いこだわりを持っているようだった。  男は再び槍の長柄を肛門に突き入れ始めた。しかしその直後、清美は首に鋭い痛みを覚えた。 「ちくしょう、失敗した」  男が舌打ちし長柄から手を離した。男の手元が狂って切っ先が食道を突き破り、首の右側から飛び出したのが分かった。頸《けい》動脈が切断されたらしく、瞬く間に込み上げてきた血が口の中一杯に広がった。生温かいそれは仄《ほの》かに塩辛く鉄錆《てつさび》の臭いがした。清美の口から大量の血が溢れ出した。周囲の見物人から一斉に拍手が起こった。 「ちくしょう失敗した。ちくしょう失敗した。ちくしょう失敗した」  伍番の男は同じ言葉を繰り返しながらしゃがみ込み、子供じみた動作で何度も地面を叩《たた》いた。  清美は肛門から首までを槍でつらぬかれたまま、生死の境を彷徨《さまよ》っていた。切断された頸動脈からの出血が酷《ひど》く、間断なく血が込み上げてきて半開きの口から溢れ続けた。血は白いセーラー服を赤く染め、真下の地面に落ちて大きな血溜《ちだ》まりを作っていた。程なく清美は強い寒気を覚えた。大量出血のために体温が低下したらしく、手足がわなわなと震え出した。朦朧《もうろう》とした意識の中、清美は激しい喉の渇きを覚えた。無性に水が飲みたくて堪《たま》らなかった。泥水でも海水でもいいから、腹が一杯になるまでがぶ飲みしたかった。  しゃがんでいた伍番の男が立ち上がった。男は白衣のポケットからまた折り畳み式のナイフを取り出した。 「お前は失敗作だ、芸術品としての価値が消滅した」  男は頭を左右に振るとナイフの刃を指で摘まんで引き出した。清美は手足を震わせながら虚《うつ》ろな目でその刃先を見つめた。 「だからもういらない」  男は素早く清美の左胸をナイフで刺した。  清美の体がびくりと跳ねた。心臓が破裂して四散するような痛みを覚えた。息が止まり視界が瞬時に暗くなった。周囲からたくさんの拍手が沸き起こったがそれもすぐに聞こえなくなった。全ての感覚器官が停止した。     *  気付くと清美は白いタイル張りの部屋の中で椅子に座っていた。しんと静まり返った室内には他に誰もおらず、天井に灯《とも》る蛍光灯の放電する音だけが微かに聞こえていた。  清美は全裸で、左右の手首と足首を革バンドで椅子に固定されていた。朦朧とした意識の中、清美はここが紅十字脳病院の病室だと思った。あれだけの傷を負った自分が生きているということは、病院で緊急手術を受けたとしか考えられなかった。しかしなぜ途中で処刑が中止になったのか、そしてなぜマーテル教徒の自分が助けられたのかが分からなかった。  不意に正面にあるドアが荒々しく開いた。清美はあの防毒面を被《かぶ》った男達だと思ったが、入ってきたのは二人の憲兵だった。一人は三十代後半で口|髭《ひげ》を生やしており、もう一人は二十代前半で背が高かった。中年の男は少佐の襟章を、若い男は少尉の襟章を付けていた。 「目が覚めたか。ちょうど十五分経ったところだ」少佐が腕時計の文字盤の硝子を指で叩いた。「お前は子供だから、ショック死するんじゃないかと内心ヒヤヒヤしてたんだ。凄《すご》かっただろ?『髑髏《どくろ》』の世界は」  ドクロという言葉が鋭く胸を突いた。清美は思わず息を飲み少佐の顔を見つめた。同時に麻痺《まひ》していた脳内が正常に戻り次々と記憶が回復した。自分が非国民であること、ここが憲兵隊本部の地下室であること、そして『髑髏』という幻覚剤で拷問を受けていたことなどを思い出した。 「廊下にまで悲鳴が響き渡ってうるさいなんてもんじゃなかったぞ。お漏らしまでしてるところを見ると、かなり強烈な体験をしたようだな」  少佐が僅《わず》かに口元を緩めた。清美は慌てて床を見た。椅子の下には大量の黄色い液体が広がっていた。立ち上ってくる臭いで尿だと分かった。清美は伍《ご》番の男がリヤカーから素槍《すやり》を取り出した時、恐ろしさのあまり失禁したことを思い出した。 「さて、『髑髏』の素晴らしさを充分理解してもらったところで、改めて訊《き》きたいことがある。お前が隠している幸彦の秘密とは一体何だ?」  少佐が静かに言った。  清美は目を伏せて下唇を噛《か》んだ。  私は一度死んだんだ、と清美は思った。紅十字脳病院の処刑場に立てられた、X形の鉄の十字架の映像が鮮明に浮かんだ。それは夢や幻のように朧《おぼろ》げで曖昧《あいまい》なものではなかった。『髑髏』が清美の脳内で創り上げた完全無欠の現実だった。清美は確かにあの真夜中の保健室から早朝の処刑場に至る間、ドロローサという浄化名を持ったマーテル教徒として生きた。その別人格の人生体験は呼び覚まされた前世の記憶のように、清美の心の中に深く染み込んでいた。  清美の体は肛門《こうもん》から首までをつらぬく槍の感触を、そしてそれに伴う気も狂わんばかりの激痛をはっきりと覚えていた。切っ先が腸を切り裂くぶちぶちという音と共に、周囲を取り巻く見物人の歓声が耳の中に響いた。清美の心臓がどくどくと激しく脈打ち出した。あの時味わった圧倒的な恐怖と絶望が悪寒となり背中一面に広がった。もしもう一度『髑髏』を使用されたら、正常な精神状態でいることはまず不可能に思えた。しかしここまで追い詰められても尚《なお》、清美の気概は揺るがなかった。今までと同様に、幸彦の秘密を口外するつもりは毛頭無かった。無論それが悲劇的な結果を招くことになるのは充分承知していた。  清美は自決の覚悟を決めていた。  自らの命と共に幸彦の秘密をこの世から消し去るつもりだった。そのためには『髑髏』の再注入が必要だった。清美は『髑髏』体験中のショック死に全てを懸けていた。少佐は五人の女が恐怖の余り、心臓麻痺を起こして死にかけたと言っていた。また清美が幻覚から覚醒《かくせい》した時、「死ぬんじゃないかとヒヤヒヤした」とも言っていた。それだけ危険な『髑髏』を二度注入された者は今まで皆無であり、続けざまに死の衝撃を体験すれば必ず心臓が停止するはずだった。万が一死ななかったとしても発狂する可能性が極めて高く、狂人となった清美の支離滅裂な言動の中から、何が真実で何が嘘かを区別することは絶対に無理だった。  清美はおもねるような目で松本少佐を見た。ここで今まで通り秘密は知らぬと嘘を吐《つ》けば、少佐が二度目の『髑髏』注入を即決すると予期していた。 「私は本当に、本当に兄の秘密なんか知らないんです、嘘じゃありません、これが真実なんです、お願いします、後生だから、後生だからどうか信じて下さいっ」  清美はわざと懇願するような声で叫んだ。  しかし少佐は何の反応も示さなかった。無言のまま清美の顔を凝視するだけだった。それは清美の心中を探っているようにも、込み上げてくる怒りを抑えているようにも見えた。清美はどうしていいか分からず、また目を伏せて下唇を噛んだ。  沈黙が一分ほど続いた。  やがて少佐は髭を右手でゆっくり撫《な》でると、鼻から大きく息を吐いた。 「清水、上には俺から報告しておく。全責任は俺が取るから『髑髏』を持って来い」  少佐が清美を見たまま低く呟《つぶや》いた。背後に立つ少尉は背筋を伸ばして「はいっ」と答え、素早くドアを開けて出て行った。     *  目醒《めざ》めた時、視界は真っ暗だった。  暗い場所にいるのか、目蓋《まぶた》が開かないのか分からなかった。やがて目の前を覆う黒い霧の様なものがゆっくりと薄れていき、徐々に白いタイル張りの室内が見えてきた。 『髑髏』の世界からの二度目の帰還だった。  まだ朦朧とする意識の中、清美は自分がショック死も発狂もしていないことを知った。まさに命を賭《か》けた一発勝負に敗れた訳だが、不思議と失望も戸惑いも感じなかった。代わりに胸の奥から湧き上がってきたのは、生き延びたことに対する安堵《あんど》だった。あれだけ固い決意で死に臨んだにもかかわらず、いざ助かってみると人間は本能的に「生」に執着するようだった。事実、清美の中で自決したいという思いは完全に消えていた。  清美は大きく息を吐くと目を閉じ、先程まで見ていた幻覚を思い出そうとした。しかし今回はなぜかその殆《ほとん》どが記憶に残っていなかった。何者かに惨殺されているはずだったが、肉体を破壊された時の感触も、それに伴う激痛の感覚も皆無だった。ただ一つ覚えているのは覚醒する直前、どこかの路地の中で見知らぬ男に追いかけられたことだった。国民服を着たその男は身長が二メートル近くあり筋骨隆々としていた。怪我をしているらしく左足を引きずっていたが、それでも走る速度は速かった。  清美は細く暗い路地を全力疾走で逃げていた。背後から足音と共に荒々しい呼吸の音が聞こえ、振り向く度に男との距離が縮まっていた。心臓が信じられない速さで脈打ち、全身から冷や汗が噴き出していた。丁字路に差し掛かり慌てて右に曲がった清美は足を滑らせ転倒した。追いついた男は清美の胸倉を掴《つか》んで強引に仰《あお》向けにし、腹の上に馬乗りになった。清美はそこで初めて追跡者の顔をはっきりと見た。男は顔だけが十歳ほどの子供だった。坊主頭で頬が赤く青洟《あおばな》を垂らしていた。 「おめぇはどうやって死にてぇ?」  男が呟いた。声も子供のものだった。  清美が記憶しているのはそこまでだった。残りはみな、どろりとした意識の底に沈んだままだった。  不意にドアが開き、清水少尉を伴った松本少佐が部屋に入ってきた。 「一日に二回も極上の幻覚が見られてお前は幸せだな。また悲鳴が廊下にまで響き渡ってたぞ」少佐が椅子に座る清美を見て楽しそうに言った。『髑髏』の効力に絶大な信頼を寄せているらしく、その顔は自信に満ち溢《あふ》れていた。「さあ、いい加減幸彦の秘密を教えてもらおうか」  その言葉に心臓が小さく鳴った。清美は反射的に幸彦の秘密を想起しようとした。しかし頭には薄暗い闇しか浮かんでこなかった。秘密は確かに清美の脳内に存在していた。それははっきりと自覚できたが、どれだけ意識を集中させても記憶を再生することができなかった。清美は慌てて幸彦の顔を思い浮かべようとしたが結果は全く同じだった。再び心臓が小さく鳴った。清美はそこで初めて記憶障害が起きたことに気づいた。原因は以前少佐が言っていた通り、『髑髏』の副作用以外考えられなかった。 「お、思い出せないんです、兄の秘密も、顔も、全然思い出せないんです、ど、『髑髏』の副作用です」  清美が震える声で少佐に告げた。  同時に今まで冷静だった少佐が初めて怒りを露《あら》わにした。歯を喰いしばる口を真一文字に結び、鋭い目付きで清美を睨《にら》みつけた。その双眸《そうぼう》には刺すような光が浮かび、額や頬が見る間に紅潮した。少佐は両手を握り締めて足早に近づいてくると、清美の頬を力任せに殴りつけた。凄《すさ》まじい衝撃に清美は眩暈《めまい》を覚えた。椅子に固定されていなかったら間違いなく昏倒《こんとう》した一撃だった。少佐は清美の髪を鷲《わし》掴みにし、うな垂れた顔を強引に上向きにした。 「いつまでもくだらねぇ猿芝居してんじゃねぇっ! 俺は十六年憲兵やってんだっ! てめぇが嘘言《たわごと》ぬかしてることぐらい目ぇ見りゃ一発で分かんだよっ! 殺されたくなかったらさっさと吐けっ! こっちにも我慢の限界があんだ馬鹿野郎っ!」  少佐は腹の奥底に響き渡る大声で怒鳴った。清美は左の口端から血が流れ出るのを感じながら、自分の感情の起伏が消えていることにも気づいた。憲兵に殴打され激しく罵倒《ばとう》されているにもかかわらず、恐怖というものを全く感じなかった。頭の中には怒鳴り声が耳障りだという思いしかなかった。清美は少佐の更なる罵詈《ばり》雑言を聞きながら、自分が廃人になってしまったことを知った。     *  松本少佐は最後まで清美を疑い続け、三度目の『髑髏《どくろ》』使用許可を本部の上層部に願い出た。しかし二度『髑髏』を注入しても何も聞きだすことができず、また診察に来た軍医が「これ以上拷問を続ければショックで死亡する」と断言したため、清美は即日釈放されることになった。少佐は納得できず直属上官の大佐に電話で抗議したが、拘禁の延長は認められなかった。  清美は漸《ようや》く拘束椅子から解放された。しかし足が震えて立つことができず、担架に乗せられて拷問室から運び出された。松本少佐と清水少尉は無言でその後を付いて来た。担架はエレベーターで一階に上がり、連行された時と同じビルの裏手の通用口から外に出た。通用口の前には野戦用の装甲患者車がエンジンを掛けたまま停車していた。清美が担架ごと車に乗せられる時、松本少佐が「俺は絶対|諦《あきら》めんぞ」と呻《うめ》くように言った。  翌日、一人の憲兵|伍長《ごちよう》が自宅を訪ねてきた。松本少佐の命令で来たというその伍長は、幸彦は必ず家に戻り清美と接触しようとすること、そのため今日から村役場に三人の憲兵が常駐することを告げ、幸彦が帰宅したら家に入れる前に役場へ通報しろ、もし感づかれて逃げようとしたら射殺しろ、と淡々とした口調で命じた。そして役場との直通電話を設置し、安全装置を外した自動|拳銃《けんじゆう》を置いて出て行った。     3  どこかで声がした。  誰かが清美、と呼んでいる気がした。  それは遠くからの叫び声のようにも、耳元での囁《ささや》き声のようにも聞こえた。  椅子にもたれてまどろんでいた清美は耳を澄ませた。それは確かに人の声だった。若い男が清美、清美とどこかで叫んでいた。清美は目を開けて居間の壁に掛かった振り子時計を見た。針は四時四十七分を指していた。先程から七分経過したのか、それとも二十四時間と七分経過したのか判別できなかった。清美は体を起こすとゆっくりと立ち上がり、覚束無い足取りで北側の壁にある両開きの窓の前に立った。白い長|袖《そで》の体操服を着た清美の姿が薄《うつす》らと硝子《ガラス》に映った。空は相変わらず鈍色《にびいろ》の雲に覆われており、辺りはどんよりと薄暗かった。  不意に窓の前に学生服を着た若い男が現れた。それは二日前に清美を訪ねてきた同級生らしき人物だった。 「清美、俺だ、ちょっと用事があんだ、中に入れてくれっ」  男は窓硝子を指で叩《たた》きながら叫んだ。なぜか声が露骨に上擦っていた。清美は窓から数歩後ずさると、その顔をぼんやりと見つめた。それは確かに以前から知っている男だった。もしかしたら小学生の頃からの知り合いなのかもしれなかったが、依然として名前は浮かんでこなかった。 「清美、俺の声は聞こえてんだろ? おめぇに大事な話があんだ、どうしても今日中に伝えなきゃなんねんだ、頼むから玄関のドアを開けてくれ」  男は窓硝子に顔を押し付けて懇願した。その目には油膜のようにぬめった光が浮かんでいた。清美はその光に淫猥《いんわい》なものを強く感じた。男は激しく発情しているようだった。清美は大きく息を吐いた。寝癖で乱れた髪をかき上げながら、ゆっくりと窓に近づいていった。男が嬉《うれ》しそうに笑みを浮かべた。清美と話せると思ったようだった。 「……帰って」  清美は呟《つぶや》くように言うと、左右に開いた芥子《からし》色のカーテンを閉めた。男は自分に気があるようだった。大事な話とは愛の告白かもしれなかったが、清美は向こうに何の興味も何の感情も持っていなかった。恋愛ごっこがしたいのなら誰か他の女として欲しかった。  清美が椅子に戻り背もたれに手を掛けた時、大音響と共に窓硝子が砕け散った。無数の硝子片が四散し角ばった石が床に転がった。鍵《かぎ》を外す音がし、窓枠を開ける音がした。カーテンがレールから荒々しく引き剥《は》がされ学生服の男が現れた。清美は椅子から立ち上がり男の顔を見つめた。感情が消えているため恐怖は感じなかったが、この状況にどう対処すればいいのか分からず動くことができなかった。  男は窓から居間の床に飛び降り、散乱する硝子片を白いズック靴で踏みながら歩いてきた。緊張のためかその顔は酷《ひど》く強張《こわば》っていた。男は程なく清美の前で止まった。 「今日からおめぇは俺の便所女だ。殴られたくなかったらじっとしてろ」  男はまた上擦った声で言うと、いきなり清美を抱きしめ唇を合わせてきた。まだ童貞らしく口内をまさぐる舌使いが稚拙だった。下腹に押し付けられた股間《こかん》には硬直した陰茎の感触があった。男は接吻《せつぷん》をやめると清美をテーブルの上に押し倒した。ちょうどそこには自動拳銃が置かれており清美の背中の下敷きになった。背骨に拳銃の銃把が喰《く》い込み鋭い痛みが走った。 「痛いっ、やめてっ」  清美は堪《たま》らず叫んだが男は強引にのしかかってきた。体操服を捲《まく》り上げて乳房を出し、両手で荒々しく揉《も》みながら左右の乳首を交互に何度も吸った。清美は背中の痛みに耐えかねて男を押しのけようとしたがびくともしなかった。  不意にテーブルの下からめりっと木の裂ける音がした。次の瞬間二人の重みに耐えきれなくなった四本の脚が折れ、音を立ててテーブル板が床に落ちた。衝撃で拳銃がさらに背骨に喰い込み清美は大きな悲鳴を上げた。しかし男は全く意に介さなかった。素速く体を起こして膝立《ひざだ》ちになると、清美の体操ズボンを中のショーツと一緒に強引に引き下ろした。下半身が露わになっても清美は羞恥《しゆうち》を感じなかった。ただ冷たい外気にさらされた性器に寒気を覚えただけだった。男は腰のバンドを外して学生ズボンを下ろした。下半身に下着を着けておらず、怒張した白っぽい陰茎が勢い良く屹立《きつりつ》していた。 「四つん這《ば》いになって尻《しり》を突き出せ」  男が低い声で命じた。初めての性交で緊張しているのか語尾が震えていた。清美はゆっくりと上体を起こした。背中から拳銃が離れやっと背骨の痛みが和らいだ。清美は言われた通り後ろを向いて四つん這いになった。性交したい気分ではなかったが抵抗するのが酷く億劫《おつくう》だった。さっさとやることをやって出ていって欲しかった。清美は性器が見えるよう上体を低くして尻を掲げた。男は清美の尻を両手で荒々しく掴《つか》むと、指や口で愛撫《あいぶ》することなくいきなり陰茎を挿入した。完全に濡《ぬ》れていなかった清美は痛みを感じて顔を歪《ゆが》めた。男はすぐに腰を激しく振り出した。しかしその動きは犬の交尾と同じく単調で何の技巧も無かった。清美は男が性交の快感に負け、すぐに射精すると思った。  しかし男は中々果てなかった。息を荒らげ何度も呻き声を上げたが腰の動きは止まらなかった。やがて清美の肉体は陰茎の動きに反応しはじめた。亀頭が膣壁《ちつへき》を擦《こす》る度、疼《うず》くような快感が湧き上がるようになっていた。それはピストン運動が速まるにつれて急速に増していき、いつしか抑え切れないものになった。清美は堪らず喘《あえ》ぎ声を上げ、男の動きに合わせて自分の腰を振った。快感は真っ赤な炎となって背骨を駆け巡り頭の芯《しん》を火《ひ》達磨《だるま》にした。清美はさらに激しく腰をうち振るい髪を上下に振り乱して「幸彦っ、幸彦っ」と叫んだ。その途端稲妻のような閃光《せんこう》が目の前を走った。同時に意識の奥底から解き放たれた記憶が、動脈から噴き出る鮮血のように脳裡《のうり》に迸《ほとばし》った。一人の男の顔が甦《よみがえ》った。細面で鼻梁《びりよう》が高く、一重の細長い目をした唇の薄い男。  兄の幸彦だった。  不意に男がむせび泣くような声を上げた。腰を振りながら清美の尻を鷲《わし》掴みにした。陰茎がさらに膨らみビクビクと数回跳ねると腰の動きが止まった。  射精を終えたらしい男は大きく息を吐き、四つん這いになった清美から体を離した。 「おめぇ、大分感じてたな。俺のマラボウは具合が良かったろ?」  男が背後から訊《き》いてきたが清美は答えなかった。顔に掛かった前髪をかき上げ、ゆっくりと上体を起こした。いつの間にか全身が汗にまみれ肌がぬるついていた。清美は右手で体を支えながら潰《つぶ》れたテーブルの上に尻をついた。下向きになった膣から生温かい精液がどろりと流れ出た。清美にはそれがとてつもなく汚らしいものに思えた。清美の性器は幸彦のものだった。そこに射精が許されるのはこの世で幸彦だけだった。その二人だけの聖域に汚物を放った男に対し、清美は強烈な嫌悪と憎悪を覚えた。  清美の目が先程まで背中の下敷きになっていた自動拳銃に止まった。迷うことなく右手が伸びてそれを拾い上げた。銀色の鉄の塊は見た目以上にずしりと重かった。清美は大きく息を吸うと後ろを振り向いた。男は下半身裸のまま床に胡坐《あぐら》をかいていた。それは溝口祐二という同じ二年一組の生徒だった。内向的で口数が少なく目立たない存在だったので、自分を犯しに来たことが信じられなかった。  初めての性交を終えた祐二は満足そうな顔をしていた。剥《む》き出しの陰茎はまだ半分ほど勃《た》っていた。 「いいか、もう一回言うぞ。今日からおめぇは俺の便所女だ。俺は毎日ここに来ておめぇとやりまくる。だからいつも体をきれいにしておけ」  祐二は薄ら笑いを浮かべた。清美は右手で持った拳銃《けんじゆう》を祐二に向けて突きつけた。三十センチほどの至近距離だった。祐二が「おめぇ……」と何かを言いかけた時、清美は目をつぶって力一杯引き金を引いた。凄《すさ》まじい火薬の破裂音と共に拳銃が勢い良く跳ね上がった。飛び出した薬莢《やつきよう》が床に転がる音がした。清美は目を開けた。白い硝煙が漂う中、祐二は仰《あお》向けに倒れていた。清美は拳銃を構えたまま立ち上がった。生きていたらもう一発撃ち込むつもりだった。清美は慎重に近づいていくと上から祐二の顔を覗《のぞ》き込んだ。弾丸は祐二の口元に命中していた。上唇が大きく裂け前歯が上下四本とも吹き飛んでいた。弾丸が後頭部を貫通したらしく頭の下から大量の血が溢《あふ》れ出ていた。  清美は拳銃を下ろした。  松本少佐が言っていた秘密とは、「幸彦の秘密」ではなく「幸彦との秘密」だったのだと思った。  二人が肉体関係を持ったのは去年の十二月のことだった。雪が降りしきるある日の夜、清美は肌寒さを覚えて目を覚ました。部屋の片隅に置かれたストーブを見るといつの間にか火が消えていた。灯油は半分以上残っていたが何度|点滅器《スイツチ》を押しても着火しなかった。あいにく両親は工場の夜勤で留守だった。清美は隣の自室で眠る幸彦を起こし、ストーブが故障したからみてほしいと頼んだ。しかし寝惚《ねぼ》け眼《まなこ》の幸彦は、明日直すから今晩は俺の部屋で寝ろと言って毛布を被《かぶ》った。しょうがないな、と清美は思った。冷えきった自分の部屋で震えながら眠る気にはなれなかった。清美はベッドに潜り込み、幸彦に背中を向けた。抵抗は全く感じなかった。小学四年生まではよく同じベッドで寝た仲のいい兄妹だった。清美はすぐに眠りに落ちた。  再び目を覚ましたのは早朝だった。寝ている間に寝返りをうったらしく、仰向けの幸彦の胸に頬を押し付けるような恰好《かつこう》になっていた。清美が密着した体を離そうとした時、幸彦の心臓が異様に大きく脈打っていることに気づいた。清美が顔を上げると既に目覚めていた幸彦と目が合った。夜明け直後の薄闇の中、その瞳《ひとみ》は潤みを帯びて光っていた。 「……おめぇ、いい匂いがするな」  幸彦が微《かす》かに震える声で呟《つぶや》いた。その言葉は清美の体を電流のように駆け巡った。幸彦が清美を強く求めているのが分かった。そしてその瞬間清美も幸彦をより強く求めていた。  二人は抱き合い激しく唇を合わせた。  それから週に四回、両親が夜勤の夜に二人は情を交わすようになった。兄と妹は完全な男と女になっていた。清美の初恋の相手は兄だった。幼い頃から幸彦に対し恋愛感情のようなものを抱いていた。しかしそれは外国の映画俳優を好きになるのと一緒で、絶対に実現不可能なものだと思い込んでいた。それだけに清美は幸彦との性交にのめり込んでいった。近親|相姦《そうかん》という感覚は一|欠片《かけら》も無かった。自分達は運命に導かれてこの世で巡り合った訳であり、恋愛しようが性交しようが二人の自由だと思った。将来は駆け落ちして結婚し、必ず幸せな家庭を築くものだと信じていた。それだけに幸彦が他の女と出奔したことは衝撃だった。清美の心は未《いま》だにめちゃくちゃに破壊されたままだった。  清美は手にしていた自動拳銃を落とした。  鉄の塊が床板を打つ鈍い音が響いた。  とにかく死体を何とかしなければならなかった。清美は下半身裸のまま祐二の両足を抱えると、後ろ向きに歩きながら引きずっていった。痩《や》せていて小柄な体格だったが死体になると異様に重かった。清美は歯を喰いしばってありったけの力を出さねばならなかった。途中祐二の腕が椅子に当たり座布団の上に載っていた黒電話が床に落ちた。受話器が外れ受話口から微かにプルルルと発信音が聞こえたが気にしている暇は無かった。  居間を出た清美はそのまま台所に入り、勝手口を開けて裏庭に出た。雑草が生い茂る十坪ほどの庭の中央にリヤカーが置かれていた。清美は祐二の足を離すと足早に近づいていき、荷台を押して二メートルほど前に押し出した。  リヤカーの下に古びた木製の蓋《ふた》があった。畳半畳ほどの大きさで正方形をしていた。右側の上下の角には直径二センチほどの穴が開けられ、その間に錆《さ》びついた鎖が通されていた。清美は両手で鎖を掴むと蓋を引き上げ、そのまま本を開くように左側の地面に倒した。中からコンクリートの階段が現れた。傾斜が三十度ほどの急なものだった。ここは清美が生まれる前に造られた防空壕《ぼうくうごう》だったが、今は穀物や薪《まき》の貯蔵庫として使われていた。憲兵が家宅捜索に来た時も屋内は徹底的に調べたが、庭のリヤカーの下までは気が回らなかったらしく、未だに手付かずの状態だった。死体を隠すには絶好の場所に思えた。  清美は再び祐二の両足を抱え、後ろ向きに歩きながら壕の入り口まで引きずっていった。そして死体の向きを百八十度回転させると頭から中に突き入れた。祐二は車が凸凹《でこぼこ》の坂道を下るように何度も弾みながら、急な階段を落ちていった。清美は念のために辺りを見回し、誰もいないことを確かめてからゆっくりと階段を下りた。  中はひんやりとした空気が漂っていた。清美は階下に着くと左側の壁の点滅器を押した。低い天井に付いた裸電球が黄色い光を発した。祐二は目の前の地面に仰向けに倒れていた。右腕が奇妙な角度で外側に折れ曲がっていた。  階段から一メートルほど離れた右側にコンクリートの壁があった。その中央に襖《ふすま》一枚ほどの大きさの鉄のドアが付いていた。その中が八畳ほどの広さの防空壕だった。清美はノブを回してドアを開けた。  強烈な臭いが鼻を衝《つ》いた。  液体のように濃い腐臭が鼻腔《びこう》にからみついてきた。清美が思わず顔をしかめた時無数の蠅が一斉に飛び立ち、不快な羽音を響かせて壕内を乱舞した。清美は床を見た。高く積み上げられた薪の下で二人の人間が仰向けに倒れていた。右側が作業服姿の幸彦で、左側がブラウスとスカートを着けた美紀子だった。衣服に染み込んだ大量の血液は黒褐色に変色して固まっていた。腐敗が進んだ青墨色の顔はどちらも蛆《うじ》だらけで、目の周りと唇が真っ黒だった。半開きの目蓋《まぶた》の中の眼球は白濁しており、鼻孔と口から灰色の腐汁が流れ出ていた。そして美紀子の傍らに転がる血の付いた出刃包丁を見た時、再び稲妻のような閃光が目の前を走った。同時に記憶の奥底の、さらに奥に埋没していた記憶が漸《ようや》く解き放たれ鮮やかに映し出された。  あの夜、あの、幸彦が美紀子を伴って帰ってきた入隊前日の夜、半狂乱になった清美は美紀子に対し、自分達兄妹の禁断の関係をぶちまけた。しかし美紀子は驚かなかった。隣に立つ幸彦が彼女には洗い浚《ざら》い告白したと前置きして言った。「俺はおめぇとやる度に罪悪感を抱いて苦しみ続けてきた。やっぱり妹は妹でしかねぇ。どうしても恋愛の対象にはならねぇんだ。そして俺が心から愛してる女は、やっぱり美紀子一人だってことを改めて思い知った。俺がおめぇとの関係を続けることは、俺にとってもおめぇにとっても、美紀子にとっても悪い結果しか出ねぇ。だからけじめをつけるために、おめぇとの関係を終りにして美紀子と結婚することにした。俺の告白を聞いた美紀子は初めかなり動揺したけど、最後にはちゃんと俺の苦しみを理解して許してくれた。婚姻届は今日二人で役所に出してきた。明日連隊に入隊するけど、二年後に除隊した後はどこか遠い所に行って美紀子と家庭を築く」そして納戸から大きな旅行|鞄《かばん》を取り出すと、美紀子と二人で荷造りを始めた。  その光景を見ているうちに清美は我に返った。強いショック状態が消えると清美の頭がカッと熱を帯びた。その温度は急速に上昇して脳を炙《あぶ》り始めた。「美紀子と家庭を築く」という幸彦の声が繰り返し鳴り響き、こめかみが激しく脈打った。やがて頭皮がジリジリと焼け焦げるような感覚を覚えた時、清美の中で何かが音を立てて弾《はじ》け飛んだ。清美は台所に走った。流し台の抽斗《ひきだし》を開けて出刃包丁を掴《つか》み、「裏切り者裏切り者」と呪文《じゆもん》のように呟きながら居間に戻った。清美の手元を見た美紀子が大きな悲鳴を上げた。幸彦が驚いた顔で振り向いた。清美は「裏切り者裏切り者」と呟きながら包丁を振り上げた。  二人を何度刺したのかは覚えていなかった。  気が付くと幸彦と美紀子が血だらけになって倒れていた。清美は裏庭の防空壕に二人の死体を運んでいき、凶器の出刃包丁と一緒に放置した。清美は何があってもこの殺人を口外すまいと決意した。もし犯罪が発覚すれば間違いなく死刑だった。完全な被害者である自分が加害者を殺したのは理に適《かな》った行為であり、その『正当な報復』のために銃殺されるのはどうしても納得できなかった。清美はどんな嘘を吐《つ》いてでも、どんな犠牲を払ってでもしらを切り通そうと心に誓った。  不意に家の前で車のブレーキ音が響いた。ドアが閉まる音と共に複数の荒々しい靴音がし、玄関の扉が激しく何度も叩《たた》かれた。清美の脳裡《のうり》を居間の黒電話が過《よぎ》った。受話器を取るだけで自動的に役場の待機所と繋《つな》がる、という憲兵|伍長《ごちよう》の言葉が耳の奥で響いた。 「おいっ、早く開けろっ」 「だめだっ、鍵《かぎ》が掛かってるっ」 「家の裏に回れっ」  男達の声が飛び交い靴音がこちらに近づいてきた。防空壕の入り口の蓋は開いたままだった。清美はぼんやりと幸彦の死に顔を眺めながら、「裏切り者……」と呟いた。 [#改ページ]   第参章 怪童|彷徨《ほうこう》     1  溝口雷太は板張りの廊下を歩いていた。  一人だった。  前を見ても後ろを見ても他に誰もいなかった。しんと静まり返った廊下は長く、どこまでもどこまでも続いていた。廊下の両側には無数の白い襖がずらりと並んでいた。しかし室内に人の気配は無く、全く物音がしなかった。ただ雷太が板を踏みしめる音だけが微《かす》かに鳴っていた。雷太はふとある事に気づき辺りを見回した。窓が見当《みあた》らず、どこにも照明器具が設置されていなかったが、なぜか廊下は薄ぼんやりと明るかった。  暫《しばら》く歩いていると前方に淡い光が見えた。近づいていくにつれ、それが提灯《ちようちん》の明かりだと分かった。雷太は橙色《だいだいいろ》に照らされたその襖の前で止まった。鴨居には『溝口家』と大きく書かれた箱提灯が一つ掲げられていた。室内から声がした。若い男の声だった。何かを話しながら笑っていた。好奇の念に駆られた雷太はそっと襖を開けた。中は薄暗い座敷だった。正面の壁に床の間と押入れがあり、左の壁に行灯《あんどん》の乗った地袋があった。部屋の中央に二人の男が立っていた。学生服を着た中学生だった。一人はガーゼマスクを口に付け、もう一人はロイド眼鏡を掛けていた。二人は顔を寄せ合い小声で何かを話していたが、やがてロイド眼鏡の中学生が襖の陰の雷太に気づいた。 「おい、そこの小僧、こっちへ来い」  ロイド眼鏡が手招きした。雷太は一瞬|躊躇《ちゆうちよ》した。二人から何とも言えない背徳的な臭いを嗅《か》ぎ取ったからだった。しかしこの部屋で一体何をしているのか知りたくてならなかった。雷太は無言で襖を開けると座敷の中に入った。 「金は持ってきたんだろうな?」  ガーゼマスクの中学生が低い声で言った。雷太は訳が分からず首を傾げた。 「おめぇ豚嫁|折檻《せつかん》を見にきたんだろ?」  ロイド眼鏡も低い声で言った。雷太は益々《ますます》訳が分からなくなった。ブタヨメセッカンとはどんな行為を指すのか全く想像がつかなかった。雷太の頭は混乱したが、取り敢えず国民服のポケットに手を入れてみた。指先が紙幣のようなものに触れた。取り出すとそれは二つに折られた一枚の十円札だった。雷太は紙幣をロイド眼鏡に手渡した。 「十円か、しょうがねぇな。本当は二十円なんだが今日のとこはまけといてやる」  ロイド眼鏡は十円札を学生服の胸ポケットに入れると、床の間の右側にある押入れの戸を開けた。中は空っぽだった。棚や寝具は取り払われ、畳二畳程の個室のようになっていた。 「入れ」  ガーゼマスクが雷太の肩を押した。雷太は素直に中に入った。ロイド眼鏡とガーゼマスクがその後に続き素早く戸を閉めた。辺りが闇に包まれた。同時に押入れの正面の壁から数本の細長い光が差し込んできた。見ると雷太の腰の高さに直径三センチ程の丸い穴があった。穴は等間隔で横に三つ並んでいた。 「もう始まってるぞ、小僧、見てみろ」  ロイド眼鏡が雷太に囁《ささや》いた。雷太は膝立《ひざだ》ちになり右端の穴を覗《のぞ》いた。そこもまた座敷だった。部屋の造りはこちらと全く同じだった。違うのは天井から垂れ下がった黒い縄に、両手を縛られた女が吊《つ》り下げられている事と、その隣に竹刀を持った男が立っている事だった。女は赤い腰巻きを一枚着けただけで上半身は裸だった。ざんばら髪で深く頭を垂《た》れているため顔は見えなかった。男は頭の禿《は》げ上がった小太りの中年だった。カーキ色の上下の作業服を着ていた。 「そんなに若い野郎がいいか?」  男は竹刀で女の頭をこづいた。女は頭を垂れたまま答えなかった。 「そんなに若い野郎がいいかって訊《き》いてんだよっ!」  男は叫び女の背中を竹刀で強打した。女は大きく仰《の》け反って呻《うめ》いた。その顔を見て雷太は息を飲んだ。自分の母親の和子だった。男は竹刀をバットのように振りながら、和子の背中を何度も何度も打った。その度に和子は大きく仰け反りくぐもった呻き声を上げた。雷太はやめろと叫んだ。死んじまうと叫んだ。  しかし声が出なかった。立ち上がって隣の座敷に行こうとした。しかし首から下が硬直して動かなかった。 「このアバズレッ、パンパンッ、なめた真似しやがってっ」  男は竹刀を投げ捨てると和子の顔面を殴りつけた。肉が肉を打つ鈍い音がした。 「……ずべふしゅる」口角から血を流しながら和子が呟《つぶや》いた。「ずべふしゅる、じゅるべんどんちゃぎ」  それは奇妙な言葉だった。雷太には何を言っているのか全く理解できなかった。 「今さら遅いんだよ馬鹿野郎っ」  男は言葉の意味が分かるらしくまた和子の顔面を殴った。 「げらみょんばりれん、らじぎぬんひゅる、ずべふしゅる」  和子は何度も頭を下げた。謝罪しているようだった。 「これで三回目だぞっ、我慢にも限界があんだよっ。絶対許さねぇからなっ!」  男は作業ズボンの腰から刃物を抜いた。それは普通の包丁よりも切っ先が鋭い、刃渡り二十センチほどの牛刀だった。途端に和子の顔から血の気が引いた。恐怖のためか半開きの唇が痙攣《けいれん》するようにひくひくと動いた。  やめてくれっ、許してくれ、お願いだっ、  それは俺の母親なんだっ!  雷太は絶叫し、壁を両手で叩《たた》こうとした。しかしやはり声は出ず、首から下も全く動かなかった。雷太は歯を喰いしばり涙を流した。できることはそれだけだった。  男は和子の顔にかかった髪の毛を乱暴に払い除《の》け、その鼻先を左の指で摘《つ》まんだ。そして右手で持った牛刀の刃を横にして鼻孔の下にあてがった。 「ずべふしゅるっ! ずべふしゅるっ!」  和子が哀願するような叫び声を上げたが、男は躊躇することなく右手を一気に押し上げた。肉を裂く鋭い音がした。和子の鼻は一瞬で削《そ》ぎ落とされた。平らになった顔面の中央には鼻腔《びこう》の穴が開き、流れ出した大量の血が顎《あご》を伝ってぼたぼたと畳に垂れた。 「ぎゅろびんっ! ぎゅろびんっ! ばびろれんきゅるっ!」  和子はしかめた顔を左右に振り、涙を流しながら絶叫した。血まみれの鼻腔の穴は洋梨に似た形をしており、まるで豚の鼻が付いたように見えた。 「これが豚嫁折檻だ」  真ん中の穴を覗いていたロイド眼鏡が楽しそうに言った。男は牛刀で和子を吊り下げている紐《ひも》を切った。和子は崩れ落ちるように畳の上に倒れた。男は和子を仰《あお》向けにし、両足を押し広げてその上に覆いかぶさった。そして作業ズボンを下ろして尻《しり》を出すとゆっくりと腰を振りだした。 「始まったぞ」  ロイド眼鏡が嬉々《きき》として言い、ガーゼマスクと顔を見合わせた。二人は穴を覗きながら学生ズボンの股間《こかん》に手を入れ、素早く上下に動かし始めた。雷太には男が和子にしている行為も、二人の中学生がしている行為も全く理解できなかった。しかし和子が蔑《さげす》まれ、辱められていることは充分に分かった。 「……ぎゅろびん……ぎゅろびん……ぎゅろびん」  腰を振る男の下で和子がうわ言のように同じ言葉を繰り返した。雷太は涙を流しながら復讐《ふくしゆう》を誓った。将来大人になり強靭《きようじん》な肉体を持ったら、必ずこの三人を殺してやると決意した。 「和子っ!」  雷太が叫んだ。なぜか今度は声が出た。驚いてもう一度叫ぼうとした時、雷太は突然|覚醒《かくせい》した。  顔を上げると目の前にコンクリートの壁があった。  くすんだ灰色をしたそれはかなり古びており、ざらついた表面の至る所に細かいひびが走っていた。雷太は後ろを向こうとした。しかし体がぴくりとも動かなかった。雷太は首だけを動かして左右を見た。どちらを見ても目前に古びたコンクリートの壁があった。雷太は首を反らせて上を見た。十メートルほど頭上に丸い開口部があり、そこから僅《わず》かな日の光が漏れていた。雷太はそこで初めて、自分が細長いコンクリートの穴の中にいることを知った。雷太の肩幅と穴の直径は等しく、両腕を胴体に付けた形でぴたりと嵌《は》まり込んでいた。雷太は直接見ることができない両脚を動かしてみた。膝から下は自由に動いたが、足の裏が地面に触れていなかった。雷太は自分がこの穴に落下し、途中で体が引っ掛かって宙に浮いた状態でいることを理解した。しかしこの穴が一体何なのか、そしてなぜ自分がこの穴に落下したのかは皆目見当がつかなかった。  雷太は目を閉じて耳を澄ませた。しかし自分の呼吸音以外何一つ聞こえてこなかった。完全な無音状態といってよかった。試しに大声を上げてみようとしたが、喉《のど》が干涸《ひから》びているのか掠《かす》れた声しか出なかった。  雷太は上空の丸い開口部をぼんやりと眺めた。それ以外やることが無かった。雷太はなぜか無性に今の時刻が気になった。それを知ってどうなる訳でもなかったが、とにかく正確な時間を確認したくて堪《たま》らなかった。不意に雷太は以前、元衛生兵の老人から聞いた話を思い出した。それは負傷や疾病などで死期の近づいた兵士は、しきりに今何時なのかを知りたがるというものだった。雷太は自分も死期が近いのかもしれぬと思ったが、特に怖いという感情は湧いてこなかった。  覚醒してから二時間程経った頃、頭上の開口部から見える空がその明るさを失い始めた。初秋のため日が暮れるのが早く、晴れ渡った青空に紫色の薄闇がじわじわと滲《にじ》んでいくのが分かった。雷太はその光景を見つめながら強い尿意を覚えた。ズボンの前開きのボタンを外して陰茎を出したかったが、両腕を壁に押し付けられ全く動かすことができなかった。雷太は暫《しばら》くの間両脚に力を込めて耐えていたが、やがてこらえきれずに失禁した。生ぬるい大量の小便が放たれ、たちまちズボンがびしょ濡《ぬ》れになった。満杯だった膀胱《ぼうこう》が空になったため、下腹部には何とも言えない爽快《そうかい》感が広がった。こうして小便や大便を垂れ流しながら、誰にも発見されずに餓死するのだなと思ったが、今度もまた怖いという感情は湧いてこなかった。 「おい、誰かいるか?」  突然上から甲高い声が響いた。雷太は驚いて顔を上げた。頭上の開口部に中を覗《のぞ》き込んでいる黒い人影が見えた。 「ああ、いるぞ」  雷太は掠れた声で答えた。 「おめぇ以外に誰がいる?」 「いねぇ、俺一人だ」 「そこから出てぇか?」 「出てぇ」  雷太がそう言うと人影は開口部から姿を消し、またすぐに戻ってきた。手に何かの束のようなものを持っているのが見えた。 「これからロープを垂らすからそれに掴《つか》まれ。引っ張ってやる」  人影は手にしていた丸い束を無造作に投げ込んだ。束はたちまちほぐれて紐状になり雷太の頭の上に落ちてきた。雷太は壁と胴体に挟まれた両腕を引き抜こうとした。しかしありったけの力を込めても微動だにしなかった。雷太は仕方なく目の前に垂れたロープに噛《か》みついた。 「おい、ちゃんと掴んだか?」  人影が聞いてきた。雷太はロープを噛んだまま「うおう」と唸《うな》った。意思が伝わったらしく人影はロープを引き上げ始めた。ずるずると音を立てながら、ゆっくりと雷太の体が持ち上がっていった。人影は人間離れした力の持ち主だった。百キロを超える雷太の巨体を一定の速度を保ったまま、一度も止まることなく引き上げ続けた。まるで巻き上げ機でロープを巻き上げているような感じだった。  一分程で雷太の上半身が地上に出た。雷太はロープを持っている者を見て驚いた。それは人間ではなく河童《かつぱ》だった。以前一度だけ遠くから目撃したことはあったが、これだけの近距離で遭遇するのは初めてだった。噂通りの醜悪な容姿であり、面妖《めんよう》な怪力の持ち主でもあった。自分の巨体を易々と引き上げたのも納得できた。雷太はロープから口を離すと地面に両手をつき、勢い良く腕を押し上げて穴から下半身を引き抜いた。小便でぐしょ濡れになったズボンが外気に触れ、股間や太腿《ふともも》が酷《ひど》く冷たかった。  雷太は辺りを見回した。そこは森の中だった。穴の周囲には無数の雑草が生い茂り、すぐ側には古びた丸太小屋があった。すでに夕暮れ時になっており、木々の間から見える紅色の西の空が眩《まぶ》しかった。 「丸太小屋の机の上にちょうど紐があった。だから使ってみた」  傍らに立つ河童が手にしたロープを地面に落した。眉間《みけん》に小豆《あずき》大のほくろがあった。 「穴から出られたのは良かったけど、おめぇ大丈夫か?」  河童が雷太の顔を覗き込んだ。雷太は無言で頷《うなず》いた。魍魎《もうりよう》の類《たぐい》と関わり合いになりたくなかった。 「穴から出られたのは良かったけど、おめぇ大丈夫か?」  河童が同じ言葉を繰り返した。 「……何がだ?」  雷太が嫌々|訊《き》き返した。 「おめぇ、ここんとこにものすげぇ怪我してるぞ」  河童が自分の顔の左頬を指さした。雷太が半信半疑で左頬に触ると、皮膚がずたずたに裂けていた。指先が傷口の裂け目から口の中に入り、上|顎《あご》の歯茎に当たった。 「おめぇ、ここんとこにも、ものすげぇ怪我してるぞ」  河童が今度は自分の左目を指さした。雷太は人差し指と中指で注意深く左目に触れた。目蓋《まぶた》が縦に裂け、潰《つぶ》れた眼球が眼窩《がんか》からはみ出していた。なぜ今まで左目が見えないことに気づかなかったのか不思議でならなかった。 「おめぇ、こんなとこにまでものすげぇ怪我してるぞ」  河童はさらに自分の頭の天辺《てつぺん》を指さした。雷太は両手で頭頂部を探った。何か鋭利なもので頭蓋《ずがい》骨を縦に割られていた。指先が頭蓋の中に入ったが、空間があるだけで脳には触れなかった。 「顔と頭がずたぼろぐっちょんだけど痛くねぇのか?」  河童が好奇に満ちた目を向けた。 「ああ、何でか知らんが全然痛くねぇ」  雷太は頭蓋から指を引き抜いた。 「そうか、全然痛くねぇのか。そりゃ良かったじゃねぇか。おめぇ得したなぁ」河童は笑みを浮かべて何度も頷いたが、突然その表情を硬くした。「ところでおめぇに訊きてぇことがある。この辺でジッ太とズッ太に会わなかったか?」 「ジッ太とズッ太って誰だ?」 「俺の弟だ。ジッ太が中くらいの背丈で、ズッ太がちっちぇえ背丈をしてる」 「そんな河童の兄弟、見たことも聞いたこともねぇ」 「じゃあ、おめぇはベカやんの友達の弟なのか?」 「違う。俺はそんな奴じゃねぇ」 「じゃあ、おめぇはベカやんの友達の弟を知ってるか?」 「ベカやんも、ベカやんの友達も、その弟も知らねぇ」 「ふーん、そうか、知らねぇか、ふーん」河童は雷太の頭の天辺から足の先までを何度も何度も見直した。「……ところでおめぇ何者だ? この村の者か?」  河童が黒く大きな目をぎょろぎょろさせた。雷太は思わず言葉に詰まった。そこで初めて自分が誰なのか、全く分からないことに気づいたからだった。 「俺は……俺は……一体誰だか分からねぇ」  雷太が低く呟《つぶや》いた。 「自分の名前が分からねぇのか?」 「分からねぇ。名前を思い出せねぇのか、初めから名前がねぇのかも分からねぇ」 「何で井戸に落ちたのかは分かるか?」 「それも分からねぇ。気がついたら穴ん中にいた」 「そうか」河童は真顔のまま腕組みをした。 「どうも話が噛み合わねぇ。おめぇはジッ太とズッ太を知らねぇと言うし、ベカやんとベカやんの友達と、ベカやんの友達の弟も知らねぇと言うし、自分の名前も何で井戸に落ちたのかも分からねぇと言う。でもな、おめぇの体からはジッ太とズッ太の血の臭いがぷんぷんすんだ。これはどう考えてもおめぇとあの二人の間に何かがあったっていう証拠だ。と言うことは答えは二つしかねぇ。おめぇが本当に全部忘れてるか、嘘を吐《つ》いてるかだ」 「で、でも、俺は本当に何も分からねぇ」  雷太は頭を左右に振った。 「だからこれからおめぇをキチタロウの所に連れて行く」 「キチタロウって誰だ?」  雷太が低い声で訊いた。 「俺の友達だ。もう四百年くれぇ森に棲《す》んでる奴で村一番の物知りだ。キチタロウだったら、おめぇの話が本当か嘘かちゃんと分かる」  河童はニヤリと笑った。     *  キチタロウの住《す》み処《か》は森の北端にあった。  背後に聳《そび》える岩山の険しい崖《がけ》に隣接する一角に、なぜかぽっかりと三坪ほどの円形の空き地があり、その中央に高さ五メートルほどのヒノキの古木が立っていた。ヒノキの根元には石でできた小さな祠《ほこら》があり、水が入った茶碗《ちやわん》が供えられていた。河童は祠の前に来ると二回お辞儀をし、拍手《かしわで》を二回打った。 「キチタロウ、キチタロウ、出てきておくれ、我に願い事あり。キチタロウ、キチタロウ、出てきておくれ、我に願い事あり」  河童は甲高い声で叫ぶと手を下ろし、深々と一回お辞儀をした。その途端祠の後ろに立つヒノキの古木がみしっと大きく軋《きし》んだ。同時に根元から上に向かって黒い裂け目が一本走った。その裂け目の中から黒い影のようなものが出てきた。巨大な瓢箪《ひようたん》のような形をしたそれは石炭タールのようにどろりとしていて、表面がさざなみ立つように揺れ動いていた。 「キチタロウだ、もっと下がれ」  河童が雷太に耳打ちした。二人は急いで五歩後退した。影はふわふわと浮遊するようにして祠の前に来た。その途端どろりとしていた全体が急速に固まり始め、瞬く間に物質化した。  目の前に、身長が二メートはある異形の者が立っていた。それは黒い外套《がいとう》に身を包み、首から上もすっぽりと黒い頭巾《ずきん》に覆われていた。不思議なのはその体型だった。頭と胴体が同じ大きさの完全な二頭身だった。 「おおキチタロウ、よく来てくれたなぁ、ありがとなぁ」  河童が嬉《うれ》しそうに笑った。キチタロウは外套から右腕を出した。それは体格とは裏腹に普通の長さと形をしていたが、妙に肌が白く艶《つや》やかでまるで若い女の腕のようだった。キチタロウはその右腕でゆっくりと頭巾を取った。その姿を見て雷太は息を飲んだ。胴体と同じ大きさの巨大な顔と頭は、無数の小さな瘤《こぶ》にびっしりと覆われていた。瘤は蜜柑《みかん》ほどの大きさで薄い小麦色をしており、だらりと垂れ下がっていた。上の部分はぶよぶよしており、下の部分は丸く膨らんでいた。表面には幾つもの筋が走り、黒くて縮れた毛がまばらに生えていた。それは見れば見るほど人間の睾丸《こうがん》にそっくりな瘤だった。 「何用だ?」  キチタロウが低くくぐもった声で言った。左右の目と口は垂れ下がった瘤の隙間から僅《わず》かに確認することができたが、鼻は見えなかった。 「こいつのことでお願いがあんだ」河童《かつぱ》が隣の雷太を見た。「ジッ太とズッ太がいなくなったんで森の中を探してたらこいつに会ってな、色々訊いたんだけど、弟達のことも自分の名前も何もかも分からねぇって言うんだ。でもこいつの体からはあの二人の血の臭いがぷんぷんするし、どうも怪しくてならねぇからこいつの話が本当か嘘か調べてくんねぇか?」 「承知した。ただしこいつは人間だから儂《わし》の姿も見えんし声も聞こえん。お前が直接聞きたいことを尋ねてみい」  キチタロウが雷太を顎《あご》で指した。河童は頷《うなず》き、隣に立つ雷太の方を向いた。 「おめぇは本当に俺の弟達のことも、自分の名前も分からんようになっちまったのか?」 「分からねぇ、何も思い出せねぇ」  雷太は小さく呟いた。 「こいつは嘘は言っとらん。本当に分からんようになっておる」  キチタロウは断言するような口調で言った。 「本当か? 本当にこいつの話は嘘じゃねぇのか?」 「人間が嘘の話をすると口から泥のような臭いがするもんだが、こいつの口からは何の臭いもせん。間違いない」 「じゃあ、なんでこんな風になっちまったんだ?」 「それはこいつが今、半馬鹿の状態にあるからだ」 「ハンバカ? 何だいそりゃ?」  河童が首をひねった。 「こいつは頭を叩き割られた時、脳味噌の半分が外に飛び出てしまったのだ。それで今までの記憶が半分消えて、色んなことが分からなくなっておる。脳味噌が全部無くなれば全馬鹿になって死んでしまうが、半分残ってるから死ぬことなく半馬鹿となって生きておるのだ」 「目ん玉や頬っぺたや、頭の傷が痛くねぇのもそのせいなのか?」  雷太がキチタロウに訊《き》いた。 「お、おめぇ人間なのにキチタロウが見えんのかっ?」  河童が驚いて雷太を見た。雷太は無言で頷いた。 「ほう、これは面白いっ」キチタロウは顔一面に垂れ下がった睾丸そっくりの瘤を揺らして笑った。田圃《たんぼ》で鳴くウシガエルの声によく似た、腹に響く重低音の笑い声だった。 「人間が半馬鹿になると、儂の姿が見えるようになるとは知らなんだ。お前は儂を見た初めての人間ということになるな、いや面白い面白い」キチタロウは楽しそうに笑みを浮かべ、好奇に満ちた目で雷太を見た。「お前の質問に答えてやる。お前の体の傷が痛まんのは、痛みを感じる脳味噌が外に飛び出して、今お前の頭の中に存在しとらんからだ。分かったか?」  雷太は頷いた。 「他に訊きたいことがあるなら何でも質問せい、儂が全部答えてやるぞ」  キチタロウは得意げに言った。雷太は少しの間考えてみたが他の質問は何も思い浮かばなかった。これも半馬鹿のせいかもしれないと思いながら雷太は首を左右に振った。 「なあキチタロウ、半馬鹿って脳味噌が出ちまってるからもう治らねぇんだろ?」  河童がつまらなそうに訊いた。 「いや、治す方法は一つだけある」  キチタロウが声を潜めて言った。 「何っ? 治る?」河童が黒く大きな目をさらに見開いた。「ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってくれ。じゃあこいつの半馬鹿が治れば消えた記憶が戻んのかっ?」 「戻る」  キチタロウが即答した。 「そうなりゃこいつがジッ太とズッ太の事を思い出すから、あいつらの行方を聞き出せるじゃねぇかっ。なあキチタロウ、どうしたらこいつの半馬鹿が治るんだっ?」 「足りない脳味噌を補充すれば元に戻る」 「ホジュウ? それは他の脳味噌をこいつの頭に入れるってことか?」 「そうだ。ただしこいつは子供だから大人のものはだめだ。こいつと年齢が近い奴の脳味噌を手に入れて補充するのだ」 「ということは村のガキンチョをさらってくんのか?」 「他に方法はあるまい」 「駄目だ、村には行けねぇ」  河童は急におびえたような表情を浮かべ、視線を落とした。 「なぜ村に行けんのだ?」 「村には兵隊がいる。兵隊は俺を見ると面白がって鉄砲を撃ってくる」 「鉄砲が怖いのか?」 「おっかねぇ、鉄砲はクソ漏れるぐれぇおっかねぇ、だから村には行きたくねぇ」 「だったらお前も鉄砲を持てばいいではないか」 「鉄砲を買う金がねぇし、もし金があったとしても河童に鉄砲を売る人間はいねぇ」 「人間の知り合いから鉄砲を借りることはできんのか?」  それを聞いた河童が顔を上げた。 「ベカやんなら鉄砲を持ってる。ちょっと古いけどデカくて頑丈なやつだ。でもあの鉄砲はベカやんの宝物だから貸してくれねぇ」 「では、奪えばいいではないか」 「むこうは鉄砲の持ち主だぞ。そんなことすりゃ俺が撃たれちまう」 「何も面と向かっていきなり奪えとは言っとらん。そのベカやんという奴を誘《おび》き出して、騙《だま》し討ちにした後で奪えばいいのだ」 「ダマシウチって何だ?」 「相手を油断させておいて、いきなり殺すことだ」 「ふーむ、なるほど、ふーむ、そうか、ベカやんを殺すのか……」河童は何度も頷いた。「それは今まで考えたことがねぇ方法だ。でも確かにそうすればあのデカくて頑丈な鉄砲は俺のもんになる」 「鉄砲さえあれば兵隊は怖くないから、村に行って子供をさらってくることができる。そしてその脳味噌をこいつの頭に補充すれば記憶が戻る。どうだ、見事問題が解決するではないか」  キチタロウは自慢げに胸を張った。 「でもどうやってベカやんをダマシウチにする? ベカやんは兵隊上がりで勘がいいから、ちょっとやそっとのことじゃ騙されねぇぞ」 「毒だ。毒猫の毒を飲ませる」 「毒猫の毒かぁ、ありゃものすごく強烈だからイチコロだ。でもどうやって飲ませる?」 「緑茶に混ぜて飲ませるのだ。毒猫の毒は緑色で緑茶にそっくりな上、無味だから人間にばれることはない」 「やっぱりキチタロウは凄《すげ》ぇなぁ、やっぱり村一番の物知りだ」河童は尊敬の眼差《まなざ》しでキチタロウを見た。「確かにそれだったらあのベカやんでも一発で仕留められる。そしてあのでっかい鉄砲は俺のもんになる。なるほどなるほど、そりゃいい考えだ」 「そういえばお前は毒猫を獲《と》るのが得意だったはずではないか?」 「ああ、得意だ。最近は獲ってねぇけどまだ腕は落ちちゃいねぇ」 「じゃあ何の問題も無いな。これで一件落着だ。他に何か知りたいことはあるか?」  キチタロウが鷹揚《おうよう》に訊いた。 「一つだけある。こいつの怪我の手当てをしてぇんだが、どうしたらいい?」  河童《かつぱ》がまた雷太を指差した。 「ほっぺたの傷にはケンゾウの実を三十粒と、シズミの葉を三十枚すり潰《つぶ》して塗れ。塗ったら手拭《てぬぐ》いで頬《ほ》っかむりさせておけばいい。潰れた眼球は取り出して、代わりにネコメグルミの実を入れておけ。頭の傷は放っておいて大丈夫だ。脳味噌を補充したらまた儂の所に連れてこい。その時にちゃんと治してやる」  キチタロウは淀《よど》みなく答えた。 「分かった、おめぇのいう通りにやってみる。色々世話になったな、ありがとなぁ」  河童がキチタロウに手を合わせてお辞儀をした。キチタロウは無言で頷いた。その途端二頭身の巨大な体が、またさざなみ立つように揺れ動き始めた。瘤《こぶ》だらけの顔が瞬く間に溶け、全身が石炭タールのようにどろりとした黒い影になった。影はふわふわと浮遊するように上昇すると、ヒノキの裂け目に吸い込まれるように入っていった。同時に古木がみしっと大きく軋《きし》み、裂け目が一瞬で消えた。 「な、キチタロウは凄《すげ》ぇだろ、あいつに分からねぇことなんて何もねぇんだ」河童は自慢げに言うと雷太の肩を叩《たた》いた。「まずは森ん中にあるちっちゃな泉で毒猫狩りだ」 「泉? 毒猫は水ん中に棲《す》んでんのか?」  驚いた雷太が訊いた。 「馬鹿かおめぇは。猫が水ん中で生きていける訳ねぇだろ。森ん中に毒猫の縄張りがあって、そこであいつらが固まって暮らしてんだ。その近くにちっちゃな泉があって、その水を飲みにあいつらが集まってくんだ」 「でも水なら沼にもあるじゃねぇか」 「毒猫は濁った沼の水は飲まねぇ。泉の透き通った湧き水だけを飲む生き物だ。よっく覚《おぼ》えとけ」河童は雷太の胸を指でつついた。「それが終ったらおめぇの怪我の手当てをしてやる。さ、行くぞっ」  河童はくるりと踵《きびす》を返し、森の中央に向かって歩き出した。雷太はのっそりとした足取りでその後についていった。     *  ヒノキの古木から南東へ二十分ほど歩いた所に毒猫の縄張りはあった。そこは様々な針葉樹が鬱蒼《うつそう》と生い茂り、森の小道どころか獣道さえなかった。毒猫は木から木へ飛び移って移動するから地面を歩かねぇ、と河童は説明した。そこから東へ百メートルほど離れた場所に泉はあった。リヤカーが二台ほど停められる大きさで人間の瞳《ひとみ》のような形をしていた。水深が一メートルほどの浅い底部には白砂が広がり盛んに水が湧き出ていた。 「毒猫はいるのか?」  雷太が辺りを見回しながら言った。 「いねぇ。あいつらは夜になんねぇと出てこねぇ。でももうじき日が暮れるし、目ぇ覚ましてる奴も絶対に何匹かいるから、そいつらを誘い出す」 「どうやって誘い出すんだ?」 「まあ、見てな」  河童はいきなり自分の陰茎を掴《つか》むと泉の畔《ほとり》に黄色い小便を掛け始めた。小便の量は多く、泉の周囲を一周するまで途切れなかった。 「毒猫は珍しい臭いを嗅《か》ぐと堪《たま》らなくなって寄ってくる。それが一体なんの臭いか知りたくなんだ。この辺りに河童はいねぇから俺の小便の臭いは凄《すご》く珍しい。だからあいつらはその正体を知りたくて必ず寄ってくる。そこをふんづかまえるんだ。さ、森の中に隠れて毒猫を待つぞ」  河童は雷太の手を引いて木々の中へ入った。  辺りはしんと静まり返っていた。夜が近いせいか鳥の鳴き声もしなかった。雷太と河童はスギの木の陰に隠れた。 「おっと、イシグルを作るのを忘れてた」  河童は独り言のように呟《つぶや》くとスギの木に絡まった蔦《つた》を一メートルほど引きちぎり、その両端に拳《こぶし》大の石を一つずつ縛りつけた。 「それで毒猫を獲んのか?」  雷太が声を潜めて訊《き》いた。 「そうだ、俺はイシグルの名人だからな」  河童も声を潜めて言い、それを右手に持った。  二人は無言のまま木陰から泉を観察し続けた。二十分近くが経過した頃、突然河童が「来た」と囁《ささや》き、泉の向こう側に立つマツの木を指さした。雷太が注意深く見ると確かに三メートルほどの高さの枝に一匹の猫の姿があった。顔しか見えなかったが毛が緑色をしていた。ひくひくと鼻を動かし盛んに小便の臭いを嗅いでいるのが分かった。 「おめぇ、毒猫見んの初めてだろ?」  河童が耳元で囁いた。雷太は頷《うなず》いた。 「毒猫は妖怪《ようかい》じゃねぇんだが、ここにしか棲んでねぇ珍しい猫でな、森から出ることがねぇ上に死ぬほど用心深いから、絶対人間の前には姿を現さねぇ幻の獣なんだ」 「村の猟師でも知らねぇのか?」 「知らねぇ。人間で毒猫を知ってんのはおめぇだけだ。だからおめぇは今日すっごく得したんだぞ」  河童は雷太を見てニヤッと笑った。  不意に毒猫が動いた。すっと姿が消えたと思った瞬間、今いる枝から一メートルほど下の枝に素早く飛び移った。そしてまた顔だけ突き出すと、ひくひくと鼻を動かして小便の臭いを嗅ぎだした。 「あいつ、俺らがここにいること知らねぇよな?」  雷太が前を見たまま訊いた。 「大丈夫だ。今は俺の小便の臭いに夢中で他の臭いは分からねぇようになってる」  河童はそう囁くと足音を殺してそっと木々の隙間に近づいた。そして右腕をゆっくりと振り上げ、手に持ったイシグルを素早い動作で投げつけた。それはぐるぐると横に回転しながら枝の上の毒猫を直撃した。僅か三秒ほどの早技だった。毒猫はマツから転落し泉の畔に落ちた。 「行くぞっ」  河童が走り出した。その後を雷太が慌てて追った。イシグルの蔦は毒猫の全身に絡みつき完全に動きを封じていた。毒猫はシャーシャーと荒い息を吐いて河童を威嚇した。普通の猫より一回り体が大きく、全身の毛が毒々しい緑色だった。また左右に三本ずつある前足の爪が黒く、長さが十センチ近くあった。 「おい、おめぇ、絶対毒猫には触んなよ。毒猫の毒ぢからはもの凄《すげ》ぇ強力だから、おめぇみてぇなトーシローにはとても扱えるシロモンじゃねえ。そこでじっとしてろ、分かったか?」  河童が強い口調で言った。雷太は頷いた。 「まずはぶち殺さねぇとな。こっちの命があぶねぇ」  河童は荒い息で威嚇を続ける毒猫の背中を左手で押さえつけ、右手で首を鷲《わし》掴みにして素早くひねった。同時に割り箸《ばし》が折れるような音が響いた。河童はさらに首を二回ひねり上げると、そのまま一気に引きちぎった。胴体から勢いよく血が噴き出したが、それでも四本の足は蔦から逃れようと激しく暴れ続けていた。 「毒猫はしぶてぇ。脳味噌《のうみそ》を潰さねぇかぎり、どんなに切り刻んでもくたばらねぇんだ」  河童《かつぱ》は雷太に引きちぎった毒猫の頭部を見せた。それは鋭い眼光で雷太を睨《にら》みつけながら、シャーシャーと荒い息を吐いて威嚇してきた。河童は頭部を足元に落とし、右足で勢いよく踏みつけた。ぐちゃりという音と共に血や肉片のようなものが辺りに飛び散った。その途端あれだけ暴れていた毒猫の四本の足がぴたりと止まった。 「これでもう大丈夫だ、怖いことは何にもねぇ。こいつは雄っ子で爪が長《なげ》ぇから毒ぢからも強力だ」  河童は地面に片|膝《ひざ》をつくと右の前足から順に黒爪を引き抜いていった。何か河童ならではの特別なコツがあるらしく、爪は簡単に指の鞘《さや》から外れた。 「大漁大漁。こんだけありゃベカやんを百回ぐれぇ殺せる」河童は六本の黒爪を右手で握り締めて立ち上がった。「これであの鉄砲は俺のもんだっ、鉄砲さえありゃもう兵隊なんか怖くねぇっ、堂々と村に行ってガキンチョをさらってこられるっ、ほれ、見てみろ、凄《すげ》ぇだろっ」  河童は右手を広げ、雷太に自慢げに突き出した。その途端弾みでばらばらと黒爪がこぼれ落ち、その中の一本が河童の右足の親指に突き刺さった。河童は悲鳴を上げてしゃがみ込み親指から黒爪を引き抜いた。しかし傷口周囲の皮膚が水色から緑色に変色していた。 「やべぇっ! こりゃやべぇっ!」  河童は右手の鉤爪《かぎづめ》で親指の根元を切りつけた。肉が裂けて血が溢《あふ》れ、白い骨が露出した。河童は親指を握ると真下に押し曲げて骨をへし折り、残った皮膚を鉤爪で引き裂いて足から切り離した。 「やばかったっ、今のはほんとにやばかったっ」  河童は腰が抜けたようにへなへなとしゃがみ込んだ。雷太は地面に転がった親指を見た。皮膚が緑色に変色したそれは熱した蝋《ろう》のように見る間に溶けていき、十秒もたたぬうちに短い指の骨だけになった。 「おめぇ見ただろっ? 今のが毒猫の毒ぢからだっ」河童が雷太を見上げた。「あと少しでも指切るのが遅かったら、俺はお陀仏《だぶつ》になるとこだった。おっかねぇっ、毒猫の毒ぢからはおっかねぇっ、クソ漏れるぐれぇおっかねぇっ!」  河童は顔を強張《こわば》らせて叫んだ。あまりの恐怖のためか黒く大きな目が涙で潤んでいた。 「おめぇ、指を切り取っちまって痛くねぇのか?」  雷太が河童の右足を見た。親指の切断面からは折れた骨が飛び出し、黒ずんだ血がどくどくと流れ出ていた。 「痛ぇけど、命が助かって嬉《うれ》しいからあんまり気になんねぇ」  河童は涙声でそう呟くと、地面に散らばった黒爪を拾い始めた。     *  森の小道がある場所まで戻った時にはすでに日が暮れていた。西の空には青黒い闇が広がり、宵の明星が明るく輝いていた。 「おめぇ、自分の家がどこにあんのかも分かんねぇんだろ?」  河童が雷太に訊いた。 「分からねぇ」  雷太は低い声で答えた。 「だったら半馬鹿が治るまで俺の家で寝泊まりしねぇか? ちゃんと飯も食わせてやるから心配すんな。どうだ、いい考えだろ?」  河童が笑みを浮かべた。腹は減っていなかったが体調が悪かった。脳味噌が半減したのが原因らしく気分が酷《ひど》くだるかった。頭の中にぬるま湯が溜《た》まっているような不快感があり、軽い吐き気がしていた。早く横になって休みたかった雷太は大きく頷いた。 「よし、決まりだ。日が暮れて暗ぇから逸《はぐ》れねぇように付いてこい」  河童は森の小道を足早に歩き出した。     *  河童の家は森の中央にある沼のほとりにあった。壁は大小様々な板切れでできており、天井は藁《わら》の束で雑に覆われていた。茣蓙《ござ》が敷かれた六畳ほどの室内には中央に小さな囲炉裏があり、左の壁際に古びた茶|箪笥《だんす》が置かれていた。  河童は囲炉裏に火を熾《おこ》し、その前に雷太を座らせた。そして茶箪笥から擂鉢《すりばち》を取り出してくると頬に塗布する傷薬を作り始めた。沼の小屋に来る途中、河童は森の中でキチタロウに指示された数種類の薬草を採取していた。辺りは真っ暗で雷太には何も見えなかったが、河童は匂いで植物の種類を識別できるようだった。 「キチタロウの言うことに間違いはねぇ。これを塗ればおめぇの怪我は必ず治る」  河童は真剣な顔つきになると、擂鉢に入れた山盛りの葉っぱと赤い木の実を擂粉木《すりこぎ》ですり潰《つぶ》し始めた。河童の手際は良かった。胡坐《あぐら》をかいた両足の中で擂鉢を固定しながら、両手で持った擂粉木を高速で力強く回転させ続けた。  作業は五分ほどで終った。あれだけあった葉っぱと木の実は完全にすり潰され、紫色のどろりとした液汁になっていた。 「おい、もうちょっと近くに来い」  河童が手招きした。雷太は四つん這《ば》いになって河童のすぐ側まで移動した。河童は右手で擂鉢内の液汁を掬《すく》うと雷太の左頬に塗りつけた。それは粘りがありひやりと冷たかった。まるで氷で冷やしたとろろのような感触だった。 「どうだ、キチタロウの汁を塗ってみてどんな感じだ?」  河童が好奇に満ちた目を雷太に向けた。 「汁は冷てぇが痛くはねぇ」  雷太が低く呟《つぶや》いた。 「怪我が治りそうな感じはするか?」 「よく分からねぇ。治りそうな気もするし、治らねぇような気もする」 「おめぇ何言ってんだ、キチタロウが教えてくれた汁だぞ、治るに決まってんじゃねぇか。二、三日もすりゃあつるつるのきれぇな頬っぺたに大変身だ」  河童は再び紫の液汁を手で掬い雷太の左頬に塗りつけた。 「そうだ、キチタロウはこの後|頬《ほ》っかむりをしておけって言ってたな」  河童は後ろを向くと手を伸ばし、茶箪笥の引き出しから豆絞りの手拭《てぬぐ》いを取り出した。そしてそれを雷太の頭から頬にかけて被《かぶ》せると、両端を顎《あご》の下で結んだ。 「よし、これでいい。あとは目ん玉だ」河童は黒く大きな目をぎょろぎょろさせて雷太の顔を覗《のぞ》き込んだ。「おい、おめぇの左の目ん玉、取っちまっていいか?」 「もう潰れちまって見えねぇから、おめぇの好きにしてくれ」  雷太が低い声で答えた。河童は眼窩《がんか》からはみ出た眼球を指で摘《つ》まみ、そのまま強引に引きちぎった。ぶちっ、と何かが切れる音がしたが痛みは感じなかった。 「おい、おめぇのこの目ん玉、喰《く》っちまっていいか?」  河童が遠慮がちに訊《き》いてきた。もはやただの生ゴミと化した眼球に未練などなかった。雷太は無言で頷《うなず》いた。 「そうか、悪《わり》ぃなぁ。じゃあさっそく馳走《ちそう》になるぞ」  河童は眼球を口の中に放り込み、くちゃくちゃと音を立てて何度も咀嚼《そしやく》した後飲み込んだ。 「うめぇ。おめぇの目ん玉うめぇなぁ。こりこりしてて銀ブナのはらわたよりうめぇ。もし右の目ん玉も潰れたらまた俺に喰わせてくれよ」河童が冗談とも本気ともつかぬ口調で言い、雷太の胸元を指でつついた。「さて、最後にネコメグルミを目ん玉の穴に入れねぇとな」  河童が左の掌《てのひら》を差し出した。そこには胡桃《くるみ》の実が一つ乗っていた。普通のものより一回りほど小さく、殻の表面が薄《うつす》らと赤味を帯びていた。河童は胡桃を指で摘まむと、慎重に雷太の左の眼窩にはめ込んだ。それは眼球と同じ大きさをしているらしく、ぴたりと中に収まった。異物が入っているという不快さは全く感じなかった。 「よし、これでキチタロウに言われたことは全部やった。あとはおめぇの怪我が良くなるのを待つだけだ」  河童《かつぱ》は満足そうな笑みを浮かべた。  眼球の代わりに胡桃を入れるという行為は酷く馬鹿馬鹿しいものだった。しかしキチタロウを崇拝する河童の気を損ねぬよう、雷太は敢えて何も言わなかった。これから暫《しばら》く小屋に泊めてもらう上での配慮だった。  その日の夕食はぶつ切りにした真鯉の身を味噌《みそ》汁で煮たものだった。河童が囲炉裏の自在鉤に掛けた鍋《なべ》で手際良く調理した。雷太がこれは何と言う料理かと尋ねると、河童は当り前のように『コイグツナ』だと答えた。人間の世界では一度も聞いたことのない料理名だった。  雷太は木の椀《わん》に盛られた味噌汁を啜《すす》り、真鯉の身を二口ほど食べた。思っていたよりも美味だったが、先程からの吐き気が続いておりそれ以上は無理だった。雷太は河童に事情を説明し、そこで夕食を終えた。河童は別段嫌な顔をすることもなく椀の残りを鍋に戻し、全て自分で平らげた。  食事の後は何もすることがないため就寝となった。小屋に布団は無く、雷太と河童は茣蓙にくるまって地面に横たわった。囲炉裏の残り火がちらちらと揺れ動き、辺りを仄《ほの》かな朱色に染めていた。藁を被せただけの天井の隙間からは大きな満月が見えた。 「明日、ベカやんが来るなぁ」  河童がぽつりと呟いた。 「何で分かんだ?」  雷太が薄闇に浮かぶ河童の顔を見た。 「ベカやんは満月の夜の次の日になると、必ず獣の肉を持って沼にやって来る。そして俺が獲《と》った銀ブナと交換して、また山に帰ってくんだ」 「じゃあ、明日ベカやんを殺すのか?」 「そうだ」  河童が平然と答えた。 「キチタロウに言われた通り、毒猫の毒を茶に混ぜて飲ませんのか?」 「そうだ」 「毒入りの茶に臭いはあんのか?」 「河童にとっちゃ少し生臭ぇが、人間の鼻じゃ何も感じねぇ」 「毒猫の毒を飲むとベカやんはどうなって死ぬんだ?」 「それは言わねぇ。見てのお楽しみだ」  河童が嬉々《きき》とした声で言った。 「凄《すげ》ぇのか?」 「凄ぇなんてもんじゃねぇ。びっくりして腰抜かすぞ」  河童はケタケタと笑った。 「それでベカやんが死んで、おめぇは鉄砲を横取りすんのか?」 「横取りじゃねぇ。持ち主のいねぇ鉄砲を貰《もら》うだけだ」 「おめぇ、鉄砲の使い方知ってんのか?」 「知らねぇ。だから殺す前にベカやんから教えてもらう」 「そんな簡単に教えてくれんのか?」 「大丈夫だ。ベカやんは俺のことを友達だと思ってるからちゃんと教えてくれる」 「……おめぇはベカやんのこと、本当に友達だと思ってんのか?」  雷太は試しに訊いてみた。 「あたりめぇだ、ベカやんは友達だ」  河童は真剣な口調で答えた。 「おめぇ、よく友達を殺せんな」 「キチタロウの言うことに間違いはねぇ。キチタロウの言うことは絶対に正しい。キチタロウの言う通りにすれば全部うまくいく。だから俺はベカやんを殺す。それだけだ」 「じゃあキチタロウがおめぇに首|吊《つ》って死ねって言ったらどうすんだ?」 「首吊って死ぬに決まってんじゃねぇかっ、分かりきったこと聞くんじゃねぇ」  河童はまたケタケタと笑った。     2  翌朝雷太が目を覚ますと小屋の中に河童はいなかった。傍らの囲炉裏では薪《まき》が焚《た》かれ、自在|鉤《かぎ》に吊るされた鍋の蓋《ふた》の隙間から薄らと湯気が立っていた。  雷太はくるまっていた茣蓙《ござ》から這《は》い出し、入り口に垂れ下がった筵《むしろ》をめくり外に出た。空は真っ青に晴れ渡り降り注ぐ日差しが眩《まぶ》しかった。昨夜は暗くて分からなかったが、河童の家は沼のほとりに聳《そび》える巨大なアカマツの根元に建っていた。白日の下で見るその外観はより一層みすぼらしく、まさに掘っ立て小屋と呼ぶに相応しい代物だった。  不意に背後で水の跳ねる音がした。振り向くと沼の水面に河童が顔を出していた。水中に潜り朝食の魚を獲っていたようだった。河童は体をくねらせて岸辺まで泳いでくると水しぶきを上げて立ち上がった。その右手には予想通り、銀色の魚の詰まった網びくが提がっていた。 「朝飯か?」  雷太が訊いた。 「よく肥えた銀ブナを獲ってきた。朝飯にも喰うが殆《ほとん》どはベカやんの肉と交換する分だ」  河童は網びくを一瞥《いちべつ》した。  朝食は昨夜の夕食とほぼ同じで、ぶつ切りにした銀ブナの身を鍋の味噌汁で煮たものだった。試しにこれは何という料理かと訊くと、河童は当たり前のように『フナグツナ』だと答えた。これも今まで一度も聞いたことのない料理名だった。雷太は依然として続く吐き気のため食事を断ったが、河童は「そうか」と答えただけで何の反応も示さなかった。そして出来上がった料理をまた一人で平らげた。  朝食後、河童は沼で鍋を洗った。手にした藁《わら》の束子《たわし》で隅々まで丹念に汚れを落とし、何度も鍋の中の臭いを嗅《か》ぐと、今度は水をなみなみと汲んで再び囲炉裏に掛けた。 「ベカやんが来る前に湯を沸かさねぇとな」  河童が火の中に薪をくべながら独り言のように呟《つぶや》いた。 「ベカやんはいつ来んだ?」  雷太が河童の隣に腰を下ろし胡坐《あぐら》をかいた。 「昼前には来る。この鍋の水が熱くなった頃だ」  河童は膝《ひざ》をついて屈《かが》みこむと、燃え始めた薪と薪の隙間に強く息を吹きかけた。炎が上がり大量の火の粉が舞い上がった。 「ベカやんが来たら俺はどうすりゃいい?」  雷太は頭上に落ちてくる火の粉を手で払いながら訊《き》いた。 「何もするこたぁねぇ。ただ黙って座ってりゃいい」 「ベカやんには俺のこと何て言うんだ?」 「新しい友達だって言えばいいだろ」 「でも俺、名前がねぇんだぞ」 「そうか、おめぇは名無しだったな。じゃあ今日からおめぇはゴンベエだ」 「何でゴンベエなんだ?」 「昔から名無しの権兵衛って言うじゃねぇか。だからおめぇはゴンベエだ」  河童はそう言って笑みを浮かべた。雷太はその名前に愛着を感じなかったが、特に嫌悪も感じなかったので反対はしなかった。 「俺がゴンベエだとして、おめぇは一体何て言う名前なんだ?」  雷太が河童を見た。 「あ、俺の名前をまだ教えてなかったな」河童は急に真顔になった。「俺はモモ太っていうんだ。おめぇ、一度くれぇは俺の名前を聞いたことあんだろ?」 「いいや、モモ太なんて名前一度も聞いたことがねぇ」  雷太は首を傾げた。 「おかしいなぁ、村の女はみんな俺に惚《ほ》れてて俺とグッチャネしたがってんだぞ」 「グッチャネって何だ?」 「女の股《また》ぐら泉にマラボウを入れてソクソクすることだ」  モモ太の説明に雷太はまた首を傾げた。マラボウの意味は知っていたので何か卑猥《ひわい》な行為だとは分かったが、それ以上のことは何も思い浮かばなかった。 「それに村の男らはみんな、俺と喧嘩《けんか》したら負けるって言ってんだぞ。相撲大会で優勝した貞夫も俺が本当の横綱だって言ってんだぞ。そのモモ太を知らねぇのか?」 「知らねぇ。全く知らねぇ」  雷太は首を横に振った。 「そうか、おめぇは脳|味噌《みそ》が半分ねぇ半馬鹿だったな。それじゃあ仕方がねぇ。脳味噌をホジュウすれば、絶対俺のことを思い出すから楽しみに待ってろ」  モモ太は燃え盛る薪にまた息を吹きかけた。  鍋《なべ》の水は小一時間ほどで沸騰した。  モモ太はそれを確認すると茶|箪笥《だんす》の抽斗《ひきだし》から毒猫の爪を二本取り出し、その中の一本を雷太に差し出した。 「茶を飲ますだけだからヘマすることはねぇと思うが、念のため持っててくれ。世の中何が起こるか分からねぇからな」  モモ太はなぜか声を潜めた。雷太は爪を受け取ると国民服の胸ポケットに入れた。モモ太は茶箪笥の中からさらに瀬戸物の白い湯《ゆ》飲みと急須、アルミの茶筒、U字形の小さな和鋏《わばさみ》を取り出した。 「毒猫の毒ぢからはおっかねぇから慎重にやらねぇとな」  モモ太は自分に言い聞かせるように呟くと爪を湯飲みの上に持っていき、その先端を和鋏でゆっくりと切断した。切り口からは緑茶そっくりの緑色の液体が滴り落ち、湯飲みの底に溜《た》まっていった。毒は全部で茶|匙《さじ》三杯分ほどの量があった。モモ太は空になった毒猫の爪を囲炉裏の火に投げ込んだ。 「よし、あとはこの上に茶を注げばいいだけだっ。そうすりゃあのでっかい鉄砲が俺のもんになんだっ。くううっ、堪《たま》らねぇっ! 堪らねぇなぁっ!」  モモ太は感極まったのか、両手を握り締めて頭上に高く掲げた。 「おいモモ太、いるかっ?」  不意に入り口の外で男の声がした。同時にモモ太の体がびくりと震えた。 「ベカやんだっ」モモ太が素早く立ち上がり雷太を見た。「おめぇはその辺に行儀良く座ってろ。いいか、俺がベカやんと話すから余計な口を利くんじゃねぇぞ」  モモ太が早口で言った。雷太は頷《うなず》くと囲炉裏の前に這っていき背筋を伸ばして正座した。 「おう、俺はここにいるぞっ」  モモ太が外に向かって叫んだ。入り口の筵がめくられベカやんが小屋に入ってきた。それは人の好さそうな顔立ちをした小太りの中年男だった。十月だというのに白いランニングシャツにカーキ色の半ズボンを穿《は》いており、肩には旧式の自動小銃と雑嚢《ざつのう》を掛けていた。  ベカやんはモモ太に親しげな笑みを浮かべたが、すぐに囲炉裏の前に正座する雷太に気づき目を見開いた。 「お前、俺以外にも人間の知り合いがいるのか?」  ベカやんが驚いた顔でモモ太を見た。 「この前森の中で友達になったゴンベエって奴だ」 「この村の者か?」 「いや、流れ者みてぇだ」 「流れ者って、こいつ体はでかいけどまだ子供じゃないか」  ベカやんは雷太に近づき顔を覗《のぞ》き込んだ。しかし左の眼窩《がんか》に入っている胡桃《くるみ》を見たらしく眉《まゆ》をひそめて後ずさった。 「こいつの左目、一体どうなってんだ?」  ベカやんが低く呻《うめ》くように訊《き》いた。 「何か知らねぇけど酷《ひど》い怪我してたから、目ん玉を取って代わりにネコメグルミを入れたんだ」 「何で頬《ほ》っかむりして顔を隠してんだ?」 「こいつほっぺたにも怪我してたから、薬草を塗って包帯代わりに被《かぶ》せたんだ。別に顔を隠してるわけじゃねぇ」 「村の医者には診せたのか?」 「いや、診せてねぇ。初めから目ん玉が潰《つぶ》れてたから診せても仕方ねぇだろ」 「そりゃそうだが、これは……」  ベカやんはそこまで言うと押し黙り雷太を凝視した。雷太は恥ずかしくなり目を伏せた。 「おい、ゴンベエとか言ったな、お前の親は今どこにいるんだ?」  ベカやんが静かな口調で訊いてきた。雷太は突然の質問にどう答えればいいか分からずモモ太を見た。 「ゴンベエの親はいねぇ。顔も覚《おぼ》えてねぇ。こいつは物心ついた頃からずっと独りぼっちのミナシゴだ」  モモ太が淀《よど》みなく答えた。雷太は無言で頷いた。 「ゴンベエは口が利けないのか?」 「いや口は利けるが人間と話すのが嫌なんだ。昔からいろんな奴らにいじめられて人間嫌いになっちまった。俺は河童《かつぱ》だからゴンベエとはよく口を利くけどな」  モモ太が得意気に笑った。雷太はまた無言で頷いた。 「俺も流れ者でミナシゴみたいなもんだから、ゴンベエの気持ちは良く分かる。でもいつかはこいつを元の世界に戻さないとな。やっぱり人間は人間同士でしか生きていけないようにできてるんだ」  ベカやんは真顔でモモ太を見た。 「それは分かってる、大丈夫だ。俺も一生ゴンベエといるつもりはねぇ。頃合いを見計らっていずれ人間の世界に帰すつもりだ。心配しねぇでくれ」モモ太はベカやんの胸元を指でつついた。「それよりも獣の肉は持ってきたのか?」 「ああ、生きのいいのが手に入ったから持ってきた」ベカやんは肩に掛けた雑嚢を下ろし、中から分厚い将棋盤ほどもある大きな肉の塊を取り出した。「昨日仕留めたメスの猪だ。体長が二メートルもある大物だった。牡丹《ぼたん》鍋にして喰《く》えば最高に旨《うま》い」  ベカやんは肉を雑嚢に戻すとモモ太に差し出した。 「こりゃ凄《すげ》ぇ、早速今日の晩飯でゴンベエと馳走《ちそう》になるぞ」モモ太は嬉《うれ》しそうに重そうな雑嚢を受け取った。「俺の方も大漁だ。良く肥えた銀ブナが八匹も獲れた。そこにあるから持ってってくれ」  モモ太が入り口の左側に置かれた網びくを顎で指した。 「いつも悪いな、遠慮なくいただいていくよ。また来月も新鮮な肉を持ってくるからな」  ベカやんは網びくを取ると、入り口の筵《むしろ》をめくり小屋から出て行こうとした。 「ちょっ、ちょっと待ってくれっ」  モモ太が慌てて叫んだ。ベカやんは不思議そうに振り向いた。 「何だ?」 「実はな、ゴンベエがベカやんの鉄砲を見てぇって言ってんだ。な、そうだろ?」  モモ太は正座する雷太を見た。その目には何かを急《せ》き立てるような光が浮かんでいた。雷太は訳が分からなかったが反射的に無言で頷いた。 「俺の五二式をか? どうしてだ?」  ベカやんが怪訝《けげん》な顔をした。 「ゴンベエの奴、今まで一度も本物の鉄砲を見たことがねぇんだ。だから俺がベカやんのことを話したら、是非ともそのお宝の鉄砲を拝見してぇって言うんだ。どうだ、悪《わり》ぃがいっぺんだけ拝ましてもらえねぇか?」  モモ太は胸の前で両手を合わせた。 「そう言うことか。この旧式のオンボロで良かったら好きなだけ見てくれ。そのかわり銃口を人に向けないでくれよ」  ベカやんは肩から自動小銃を下ろすと雷太に差し出した。雷太は一瞬|躊躇《ちゆうちよ》したが断るわけにもいかず、両手で押し頂くようにして受け取った。それは思っていたよりもずっと重く、火薬と機械油の交じり合った臭いがした。 「どうだゴンベエ、本物の鉄砲だぞ。嬉しいか? 楽しいか?」  モモ太がわざとらしく訊いてきた。雷太は大袈裟《おおげさ》に何度も頷いた。 「なあベカやん、ゴンベエがこんなにも喜んでんだ。ついでに鉄砲の撃ち方を教えてやってくれねぇか?」  モモ太がさりげない口調で言った。 「お安い御用だ。ゴンベエ、ちょっと鉄砲を貸してくれ」  ベカやんが雷太に右手を差し出した。雷太は小さく一礼して銃をベカやんに手渡した。 「操作は極めて簡単だからゴンベエでもすぐに覚えられる」  ベカやんはおもむろに両手で自動小銃を構えると、銃の左の横腹に付いた丸|螺子《ねじ》のようなものを半回転させた。 「それは何だ?」  モモ太が尋ねた。 「安全装置を外したんだ、鉄砲を撃つ時の基本だろ? 次にこの装填《そうてん》柄を引っ張って排莢蓋《はいきようぶた》を開けるんだ」  ベカやんは銃の右の横腹に付いた五センチほどの把手《とつて》を握り手前に引いた。把手はその下にある細長い溝の上を十五センチほど後退し、同時にガシャリという音と共に溝の下にある印鑑入れの蓋のようなものが開いた。 「これで弾が装填された状態になった。あとは銃口を撃ちたい方向に向けて引き金を引けばいいだけだ。簡単だろ?」  ベカやんは雷太を見て微笑んだ。雷太はまた何度も頷いた。 「鉄砲の撃ち方ってほんとに簡単なんだな。俺も一回で覚えちまったぞ」  モモ太が目を丸くした。 「まあ、ざっとこんなもんだ。他に何か聞きたいことはあるか?」 「いやいやもう大満足だ。こんなに喜んでるゴンベエを見たことがねぇ。ありがとなぁ、世話になったなぁ」モモ太はまた胸の前で両手を合わせた。「これだけ世話になったからにはお礼をしなくちゃならねぇ。なあベカやん、うめぇ茶を淹《い》れるから是非とも飲んでってくれねぇか」 「俺達は友達じゃないか、そんなに気を遣わなくていいよ」  ベカやんが照れ臭そうに笑った。 「いや、それじゃあ俺の男が廃る。ベカやん、早く囲炉裏の前に座ってくれ」  モモ太はベカやんの手を取って何度も引っ張った。 「じゃあ、一杯だけご馳走になるか」  ベカやんは自動小銃を肩に担ぐと、笑みを浮かべながら雷太の向かいに腰を下ろし、胡坐《あぐら》をかいた。 「すぐに淹れるから待っててくれ」  モモ太は用意していた急須に茶筒のお茶っ葉を入れ、竹の柄杓《ひしやく》で鍋《なべ》の熱湯を掬《すく》いその上に流し込んだ。そして急須に蓋をすると毒猫の毒が入った湯呑《ゆの》みに緑茶を注ぎ入れた。 「できたぞ。凄《すご》くうめぇ茶だから飲んでみてくれ」  モモ太は両手で湯飲みを持つとベカやんの前に差し出した。緊張しているらしくその手は微《かす》かに震えていた。ベカやんはモモ太の顔を一瞥《いちべつ》すると無言で湯飲みを受け取った。しかしなぜか口をつけようとはせず、中に注がれた緑茶をじっと見つめた。 「どうしたベカやん、早くしねぇと冷めちまうぞ」  モモ太が急かすように言った。 「お前、何で手が震えてるんだ?」  ベカやんが視線を落としたまま呟《つぶや》いた。 「ふ、震えてなんかねぇぞ、震えるわけねぇじゃねぇか」  モモ太は笑みを浮かべたがその声は露骨に上擦っていた。 「お前、このお茶に何か入れたな?」  ベカやんはゆっくりと顔を上げモモ太を見た。その表情は今までとは全く違う険しいものになっていた。まるで兵士のようだと雷太は思った。 「何言ってんだおめぇっ、どうして俺が茶の中に毒を入れなきゃなんねぇんだっ」 「俺は一言も毒とは言ってないぞ。そうか、お前はこの中に毒を入れたのか」 「俺は毒なんか入れてねぇっ、たまたま毒って言葉が口から出ただけで茶はただの茶でしかねぇっ」 「そうか、だったらお前このお茶を飲んでみろ」  ベカやんがモモ太に湯呑みを差し出した。モモ太は目を剥《む》いて絶句した。半開きの嘴《くちばし》からはくぐもった呻《うめ》きが漏れ、引き攣《つ》った顔にはたちまち冷や汗が浮かんだ。 「やっぱりそうか」  ベカやんは湯飲みを囲炉裏の中に投げ捨てた。緑茶が燃え盛る薪《まき》に掛かり音を立てて炎が消えた。ベカやんは立ち上がると肩から自動小銃を下ろし、銃口をモモ太に向けた。 「俺は今まで何度も死に掛けた。戦場でも、戦場以外の場所でもだ。だけど俺は毎回紙一重のところで命拾いをしてきた。なぜだか分かるか? それは俺が生まれながらに持っている特別な直感のお陰だ。死が目前に迫るとその直感が働いて俺に警告を発してくれる。警告が発せられるとまるで電流が流れるように、背骨の中がびりびりと痺《しび》れるんだ。そしてその痺れは今この瞬間も続いている。つまり俺の生命の危機はまだ去ってはいないということだ」ベカやんは銃の引き金に指を掛けた。「お前は一体何を企《たくら》んでるんだ? 俺を殺してどうするつもりだったのか、その訳を聞かせてもらおう」 「俺は何にも企んでねぇ、ほんとだ、信じてくれ、俺が友達のベカやんを殺すわけねぇじゃねぇか」  モモ太が搾り出すような声で叫んだ。見開かれた大きな目は涙で潤んでいた。ベカやんは無言で銃の引き金を引いた。耳をつんざく銃声と共にモモ太がひっくり返った。 「痛《いて》ぇっ!」モモ太が叫び右の太腿《ふともも》を両手で押さえた。指の間から見る間に鮮血が流れ出た。「撃ちやがったっ! 撃ちやがったっ! ベカやんが俺を撃ちやがったっ! 見ろっ、血がでてるっ! どんどんどんどん血が出てるっ! おっかねぇっ! 鉄砲はおっかねぇっ! クソ漏れるぐれぇおっかねぇっ!」  モモ太は狂ったように喚《わめ》くと本当に脱糞《だつぷん》した。 「おい、もう一度|訊《き》くぞ。お前は俺を殺してどうするつもりだったのか、その訳を聞かせてくれ。今度しらを切ったら左足にも弾をぶち込むからな」  ベカやんは再び銃口をモモ太に向けた。 「待ってくれっ、撃たねぇでくれ、俺はほんとに知らねんだ、ゴンベエに命令されて毒を入れただけなんだ、訳が知りてぇならゴンベエに訊いてくれっ」  モモ太は涙を流しながら叫んだ。ベカやんが囲炉裏の前で正座する雷太を見た。 「ゴンベエ、本当かっ? 本当にお前が俺を殺そうとしたのかっ?」  ベカやんはモモ太に銃口を向けたまま強い口調で言った。雷太は突然の責任転嫁に戸惑った。何とかこの場を切り抜ける巧い言い訳を考えたが、脳|味噌《みそ》が半分しか無いためか何も浮かんでこなかった。雷太は言い逃れることを諦《あきら》め、全部正直に話そうと思った。 「キチタロウに言われたんだ」  雷太が低く呟いた。 「キチタロウが?」  ベカやんの表情が一瞬硬くなった。 「何と言ったんだ?」 「俺の半馬鹿を治すには子供の脳味噌がいる。そのためには子供をさらいに村に行かなきゃなんねんだけど、鉄砲がねぇと兵隊がおっかなくて近づけねぇ。だからベカやんを毒猫の毒で殺して、鉄砲を奪えってキチタロウが言ったんだ」 「ハンバカ? 子供の脳味噌? ドクネコ? 一体何の話だ、お前は気がふれてるのか?」 「気はふれてねぇ、全部ほんとの話だ」雷太は国民服の胸ポケットから毒猫の黒爪を取り出した。「これが毒猫の爪だ。直接自分の手にとってよく見てくれ」  雷太は黒爪を掲げた。ベカやんは訝《いぶか》しそうに眉《まゆ》をひそめると、近づいてきて正座する雷太に右手を差し出した。  目の前に無防備なごつい掌《てのひら》があった。  雷太はふと、この手を黒爪で刺せば毒を注入できるのではないかと思った。ベカやんは全くこちらを警戒していなかった。雷太は躊躇《ちゆうちよ》しなかった。黒爪を強く握りしめ、掌の真ん中を思い切り突き刺した。ベカやんは短い叫び声を上げ右手を引っ込めた。 「何しやがるっ!」  ベカやんは声を荒らげ左手に持った自動小銃を雷太に向けた。同時に右手の皮膚が瞬く間に緑色になった。毒は凄い勢いで右腕を上昇し、十秒も経たぬうちに肩にまで達した。ベカやんはそこで初めて己の肉体の異変に気づいた。 「何だこれはっ!」  ベカやんが緑一色になった右腕を見て叫んだ。しかしすでに手遅れだった。毒は右肩から一気に全身に広がり、顔や胴体や左腕が目にも止まらぬ速さで緑色に染まっていった。突然ベカやんが甲高い悲鳴を上げ持っていた自動小銃を落とした。途端に左右の眼球が倍の大きさになって眼窩《がんか》から飛び出した。それはさらに硬球大にまで膨張すると、風船が割れるような音を立てて破裂した。緑の液体が辺りに飛び散り青草のような臭いを放った。  それを合図に肉体の溶解が始まった。緑色になった全身の皮膚や筋肉が一斉にどろどろと流れ落ち、眼窩や歯列、肋骨《ろつこつ》、左右の上腕骨などが次々と露出した。それはモモ太の親指と同様に熱した蝋《ろう》が溶ける様に似ていた。腹部からは緑色の様々な臓器が溢《あふ》れ出し、湿った音を立てて地面に落ちた。カーキ色の半ズボンの裾《すそ》からは緑色の液体が次々と流れ出た。そして背中の脊椎《せきつい》が見え始めた時、ベカやんの体は崩れ落ちるように前に倒れた。溶解は続き、一分も経たぬうちに全身が骨格だけとなった。小屋の中には青草のような臭いが充満した。  雷太は大きく息を吐くと、握っていた黒爪を囲炉裏の中に投げ捨てた。 「おめぇ、すげぇなっ」脚を撃たれて倒れていたモモ太が叫んだ。「ベカやんを毒猫の爪で刺しやがったっ、ベカやんをミドリドロドロにして殺しやがったっ、すげぇっ、おめぇはすげぇ奴だっ」  興奮したモモ太は拳《こぶし》で地面を何度も叩《たた》いた。 「おめぇ、怪我は大丈夫なのか?」  雷太がモモ太の右腿を見た。 「大丈夫だ、弾は脚ん中を突き抜けてどっかにいっちまったから取り出す必要はねぇ。そんなことより鉄砲だっ」モモ太は起き上がるとベカやんの死体の傍らまで這《は》っていき、地面に転がる自動小銃を手に取った。「見ろっ、ついに俺のもんになったぞっ! これでもう兵隊なんか怖くねぇっ! 思う存分大暴れできるっ!」  モモ太は大きな黒い目にぎらついた光を浮かべて叫んだ。 「村にはいつ行くんだ?」  雷太が静かに尋ねた。 「もちろん今日だ。もう嬉《うれ》しくて楽しくて待ちきれねぇ」  モモ太は自動小銃を抱きしめると愛《いと》おしそうに頬ずりをした。 「夜中にこそっと行くのか?」 「いや、夕方だ。ガキンチョをかっさらう前に清美の所に行く」 「清美って誰だ?」 「俺に惚《ほ》れてる村の女だ」 「器量はいいのか?」 「ぎりぎり及第点だ。丙種合格ってとこだ」 「清美と会って何すんだ?」 「グッチャネに決まってんだろうがっ。まずは清美とたっぷりグッチャネして、出すもん出してからじゃねぇと俺のマラボウが落ち着かねぇっ!」  モモ太は呻くような声で叫び、垂れ下がった自分の陰茎を握りしめた。雷太は再び「グッチャネって何だ?」と尋ねようとしたが、すんでの所で思いとどまった。モモ太のあの説明では、何回聞いてもそれがどういう行為なのかを理解することは不可能だった。それならばいっその事、モモ太が清美と『グッチャネ』する場面を直接見るのが一番手っ取り早い、と雷太は思った。     *  西の空が燃えたぎるような朱色に染まった頃、雷太とモモ太は小屋を出た。  自動小銃を右肩に掛けたモモ太はすこぶる上機嫌だった。清美と会うのが余程嬉しいらしく、卑猥《ひわい》な笑みを浮かべながら笹の葉の草笛をピーピーと吹き鳴らして歩いた。  ベカやんの死体は昼間のうちに処分していた。全身の肉や脂肪が溶けてできた大量の緑色の粘液は、洗い流すのが面倒なため小屋の地面に穴を掘って全部埋めた。肉片一つ付いていない真っ白な全身の骨格は、関節ごとにへし折って沼の中に投げ捨てた。試しに石で頭蓋《ずがい》骨を割ってみると中は空洞になっており、脳までもが溶解して流れ出たことが分かった。     *  清美の家は村の西方にある広大な林檎《りんご》畑の中にあった。平屋建ての小さな一軒家で、壁は赤|煉瓦《れんが》、屋根は瓦|葺《ぶ》きになっており、鉄線を張り巡らせた何本もの木の杭《くい》が周囲を囲んでいた。モモ太と雷太は近くの林檎の木の陰からそっと家の様子を窺《うかが》った。辺りに人影は無く、家の窓にも明かりは灯《とも》っていなかった。 「よし、兵隊はどこにもいねぇようだな」  モモ太は小声で呟《つぶや》くと清美の家に向かって歩き出した。雷太は無言でその後に続いた。すぐに林檎畑を抜けて広い砂利道に出た。その道の向こう側にある草|生《む》す荒れ野に家は建っていた。モモ太と雷太は玄関の前に立った。樫《かし》の木でできたドアには赤いペンキで『非』と書かれていたが意味は分からなかった。 「おい清美っ、俺だっ、モモ太だっ」  モモ太は叫ぶとドアを拳で三回叩いた。しかし家の中はしんと静まり返り物音一つしなかった。 「清美っ、どうしたっ? 早く開けてくれっ、河童のモモ太が来たんだぞっ、ベカやんの友達から話は聞いてるだろっ?」  モモ太はまた叫ぶとノブを何度も回したが鍵《かぎ》が掛かっていて開かなかった。 「清美はいねぇんじゃねぇのか?」  雷太が呟いた。 「いや、絶対にいる。出てこねぇだけだ」 「何で分かんだ?」 「清美はものすげぇ臆病《おくびよう》な女で、初めて会う奴が来るとなかなか玄関のドアを開けねんだ。ベカやんの友達が言ってたから間違いねぇ」 「じゃあ、どうすんだ?」 「裏の窓をぶっ壊して中に入る。話はちゃんとついてるから問題はねぇ」  二人は玄関を離れ足早に家の裏側に回った。そこには雑草が生い茂る十坪ほどの庭があった。庭の中央には古びたリヤカーが横倒しになっており、すぐ側の地面には畳半畳ほどの木製の蓋《ふた》があった。赤煉瓦の壁には確かに窓が一つ付いていた。しかし窓枠と窓|硝子《ガラス》がめちゃくちゃに破壊され、引き裂かれた芥子《からし》色のカーテンがだらりと垂れ下がっていた。 「何で窓がもうぶっ壊れてんだ?」  雷太がモモ太を見た。 「訳は知らねぇがそんなことどうでもいい。とにかく清美だっ」モモ太は不意に跳躍して窓の縁に飛び乗ると家の中に飛び降りた。「おいゴンベエ、玄関を開けるからすぐに来いっ」  モモ太が窓から叫んだ。雷太は小走りで家の表に向かった。鍵を開ける金属音が響き玄関のドアが開いた。雷太はズック靴のまま中に入った。そこは八畳ほどの居間だった。床一面に無数の硝子片が散乱した室内には、脚が折れて潰《つぶ》れたテーブルや倒れた椅子、受話器の外れた黒い電話機などが放置されていた。居間の左側には台所と便所があり、右側には家族の私室らしい部屋が二つあった。 「匂う、匂うぞ、清美の匂いだっ」  モモ太は肩に掛けた自動小銃を床に投げ捨てると、迷うことなく右の部屋のドアを開けた。四畳半ほどの室内は無人だった。左の壁際にベッド、右の壁際に机、正面の壁際に箪笥《たんす》が置かれているだけだった。しかしモモ太は清美がいないにもかかわらず「匂う、匂うぞ」と呟きながら一直線に箪笥の前までやって来た。そして素早くしゃがみ込むと、五つある引き出しの一番下を開けて中のものを取り出した。それは数枚のショーツだった。 「き、清美の股《また》ぐら泉の匂いだ、グッチャネの匂いだ、た、堪《たま》らねぇっ! これは堪らねぇっ!」  モモ太はショーツを鼻に押し当てるとすうはあと深呼吸をした。股間の陰茎が瞬く間に膨張し、ピンと屹立《きつりつ》した。『グッチャネ』とは女の下着の匂いを嗅《か》ぐ事だと雷太は初めて知ったが、なぜこんな他愛無い事にモモ太が夢中になるのか全く理解できなかった。  不意に家の前で車のブレーキ音がした。続いてドアが閉まる音と共に複数の男の声がした。 「おいモモ太、誰か来たぞっ」  雷太は不安になって声を掛けた。しかし目をつぶり、恍惚《こうこつ》の表情でショーツの匂いを嗅ぎ続けるモモ太は全く反応しなかった。意識がどこか遠い所に飛んでいるようだった。雷太は清美の部屋から顔を出して玄関を見た。同時にドアが開き二人の憲兵が入ってきた。 「モモ太、憲兵だっ、やべぇぞっ」  雷太はモモ太の手からショーツを奪い取り頬を平手で強打した。正気に戻ったモモ太が驚いた表情で雷太を見た。 「お前ら何をやっとるかっ! ここは立ち入り禁止だぞっ!」  背後で怒声が響いた。振り向くと二人の憲兵が自動|拳銃《けんじゆう》を構えて立っていた。一人は背が高くて痩《や》せている憲兵少尉だった。二十代前半に見えた。もう一人は中肉中背で口|髭《ひげ》を生やした憲兵少佐だった。三十代後半に見えた。 「おい、そこの図体のでかい小僧、手を挙げて部屋から出て来いっ!」  少尉が拳銃を雷太に向けた。 「な、何で兵隊がいんだっ」  訳の分からぬモモ太が怯《おび》えた声を上げた。  雷太は言われた通り両手を高く掲げて部屋から出た。 「そこに正座して両手を頭の上で組め」  少佐が落ち着いた口調で言った。雷太は硝子片が散乱する床の上に正座し、頬《ほ》っかむりをした頭頂部の上で両手を組んだ。 「少佐殿、もう一人は河童《かつぱ》ですっ」  少尉が驚いたように叫んだ。少佐は清美の部屋を覗《のぞ》き込み「ほう、珍しいな」と呟いた。 「自分は本物の河童を見るのが初めてなんですが、思っていた通り醜い姿をしてますね」  少尉が不快そうに眉《まゆ》をひそめた。モモ太は箪笥の前でしゃがみ込んだまま、泣きそうな顔で少尉と少佐を交互に見た。 「おい河童、お前も出てこいっ」  少尉が拳銃を構えたまま叫んだ。モモ太はよろよろと立ち上がり、覚束無《おぼつかな》い足取りで部屋から出てきた。 「この小僧と同じ恰好《かつこう》をしろ」  少佐が静かな声で命じた。モモ太は怯えた目で雷太の姿を一瞥《いちべつ》すると、その隣に正座をして頭の皿の上で両手を組んだ。少尉が壁の点滅器《スイツチ》を押して居間の電気を点《つ》けた。電球の黄色い光が辺りを照らした。 「お前らこの家で何をしていた?」  少佐が雷太に訊《き》いた。雷太はどう答えていいのか分からず無言で目を伏せた。 「かくれんぼをして遊んでいた訳でもなさそうだな」少佐は床に転がる自動小銃を横目で見た。「あの五二式はお前の物か?」  雷太は二呼吸分|躊躇《ちゆうちよ》した後、ゆっくりと頷《うなず》いた。モモ太の物だと言えばよけい話がこじれる気がしたからだった。 「どこで手に入れた?」  少佐の眼光が急に鋭くなった。 「……貰《もら》った」 「誰からだ?」 「ベカやんからだ」 「ベカやん? それはあだ名だろう、正確な氏名で答えろ」 「それが……分からねぇ」 「なぜ分からんのだ?」 「ベカやんはベカやんとしか言いようがねぇんだ」 「ではお前の氏名と住所を言え」 「……それも分からねぇ」 「馬鹿野郎っ!」  隣で見ていた少尉が叫び雷太の顔面を殴った。半馬鹿のため痛みは無かったが鼻に強い衝撃を感じた。すぐに鼻孔からボタボタと鼻血が流れ出した。 「憲兵隊を愚弄《ぐろう》するのは許さんぞっ、くだらん戯言《ざれごと》ばかりぬかしやがって、お前は阿片でも吸っとるのかっ?」少尉はまた雷太の顔面を殴った。「少佐殿、この小僧はどうも臭います。何か重大な事に関わっているかもしれません。本部に連行して尋問しましょう」  少尉が雷太の胸倉を掴《つか》んだ。 「そうだな、ここでこんな答弁を繰り返していても埒《らち》が明かんな。連行しよう。その河童はどうする?」  少佐は右手で握った拳銃でモモ太を差した。 「小僧は一応人間ですからそれなりに手加減せんとなりませんが、河童は獣です。手加減する必要は一切ないので、この場で徹底的に拷問して事の真相を聞きだします」  少尉は自動拳銃を革嚢《かくのう》に戻すと、腰の帯革に付けた革製の丸い容器から銀色の手錠を取り出した。それを見たモモ太の顔から一瞬で血の気が引いた。 「し、し、知らねぇ、俺は本当に何にも知らねぇんだ、ゴンベエに無理矢理この家に連れてこられただけで悪《わり》ぃことはしてねぇ、頼むから、頼むから勘弁してくれっ」  目に涙を溜《た》めたモモ太が上擦った声で叫んだ。少尉はその哀願を無視してモモ太の後ろに回りこみ、頭の皿の上で組んでいる右の手首に鉄の腕輪を嵌《は》めた。そして左右の腕を強引にひねって背中に回し、左の手首にも素早く鉄の腕輪を嵌めた。少尉は腕輪を繋《つな》ぐ十五センチほどの鎖を三回強く引き、手錠が完全に掛かったことを確認した。それを見て安心したのか少佐も自動拳銃を革嚢に戻した。『小僧』の雷太は脅威にならないと判断されたようだった。少尉はゆっくりとモモ太の眼前に歩いていき立ち止まった。 「おい河童、お前がこの家に来た目的は一体何だ? 正直に答えろ」  少尉は抑揚の無い声で訊いた。 「だから、だから、俺はゴンベエに、無理矢理連れてこられただけで、訳は知らねぇんだ、嘘じゃねぇ、信じてくれ」  後ろ手に手錠を掛けられたモモ太が途切れ途切れに答えた。恐怖のためか全身が小刻みに震えていた。 「そうか」  少尉は低く呟《つぶや》き、腰の左側に下げていた雑嚢《ざつのう》を帯革から取り外した。 「清水の『拷問袋』はこういう時、本当に役に立つな」  少佐が感心するように言った。少尉は「ありがとうございます」と言って少佐に一礼すると、『拷問袋』の中に手を入れて何か小さな物を取り出した。それは直径三センチほどの小さな鉄の輪が横に四つ付いたものだった。 「ほう、初めは鉄拳か」  少佐が口元を緩めた。少尉はその四つの鉄の輪に右手の人差し指から小指までを入れ、付け根まで押し込むと拳《こぶし》を握り締めた。そしておもむろに右腕を大きく振り上げ、モモ太の左頬を思い切り殴った。鉄の拳が肉を打つ鈍い音が響き嘴《くちばし》の中から血しぶきが飛んだ。モモ太は顔を歪《ゆが》めて大きく呻《うめ》いた。少尉の殴打は止まらなかった。無言で無表情のまま、まるで拳闘用の砂袋を打つように黙々と拳を振るい続けた。居間には殴打の鈍い音とモモ太の呻き声が何度も何度も響いた。  漸《ようや》く少尉が動きを止めた時、モモ太の顔は血まみれになっていた。至る所の皮膚が裂け、流れ出た幾筋もの血が顔から滴っていた。特に左目の目尻《めじり》が深くえぐれ、牡丹《ぼたん》色の肉が露出していた。 「おい河童、お前がこの家に来た目的は一体何だ? 正直に答えろ」  少尉が抑揚の無い声で一度目と全く同じ質問をした。日頃の鍛錬の成果なのか息一つ乱れていなかった。 「……痛《いて》ぇ、テッケンはものすごく痛ぇ、ベカやんの鉄砲で撃たれるより痛ぇ……もう嫌だ……家に帰って銀ブナ喰《く》いてぇ」  ぐったりと俯《うつむ》いたモモ太が掠《かす》れた声で呟いた。 「こいつ、河童にしてはなかなか根性があるな。第一関門を突破したぞ」  少佐が驚いたように言った。 「すぐ第二関門に突入します」  少尉は右手から鉄拳《てつけん》を外して『拷問袋』に戻すと、再び中から何かを取り出した。それは鉄製の錆《さ》びたペンチだった。 「ほう、今度は潰《つぶ》し鋏《ばさみ》か。だんだん本気になってきたな」  少佐が楽しそうに笑みを浮かべた。その言葉にモモ太が我に返った。慌てて顔を上げると少尉の持つペンチを見た。 「ま、まだやんのかっ? やめてくれっ、もう耐えられねぇ、これ以上痛ぇ目にあったら気が変になっちまうっ、本物のくるくるぱーになっちまうっ、助けてくれっ! 許しててくれっ! 俺は本当に何も知らねんだっ!」  モモ太は黒く大きな目をぎょろぎょろさせながら震える声で叫んだ。 「黙れっ!」  少尉はモモ太の腹を右足で蹴《け》り上げた。長靴の爪先《つまさき》がみぞおちに深く喰い込んだ途端モモ太の声が止んだ。衝撃で呼吸が止まったらしく嘴を大きく開けて苦しそうに喘《あえ》いだ。 「さっきより、少しだけ痛むぞ」  少尉は呟くように言うとモモ太の前に片|膝《ひざ》を付いた。そして股間《こかん》の右の睾丸《こうがん》をペンチの先端で挟み、躊躇することなく二本の柄を握り締めた。ぶちゅっ、というラッキョウが潰れるような湿った音がした。モモ太が空《くう》を仰いで絶叫した。それは化鳥の鳴き声のように甲高く、家中に響き渡り辺りの空気を震わせた。モモ太は前後に激しく頭を振り黄色い反吐《へど》を吐き出した。 「な、さっきより少しだけ痛かっただろ?」  少尉は微かに口元を緩めた。「じゃ、次いってみようか」  少尉はモモ太の左の睾丸をペンチの先端で挟んだ。 「分かった、しゃべる、この家に何しに来たか正直に全部しゃべるから、もうツブシバサミは勘弁してくれっ」  モモ太が搾り出すような声で叫んだ。 「そうか、やっとその気になったか。じゃあせっかくだから聞かせてもらおう。そのかわりまたくだらん戯言をぬかしたら男根を根元から切り落とすからな」  少尉は左の睾丸からペンチを外した。 「俺は、清美に会いにこの家に来たんだ」  モモ太がそう呟いた途端、少尉と少佐が顔を見合わせた。二人の目にすっと鋭い光が浮かんだ。 「清水の勘が的中したようだな。河童《かつぱ》の口から清美の名前が出てくるとは思わなかった」少佐はモモ太を見下ろすと、ゆっくりと口|髭《ひげ》を撫《な》でた。「おい、河童のお前がなぜ非国民の成瀬清美と面識があるんだ?」 「話す、ちゃんとその訳を話すから、その前にこの手錠を外してくれ。さっきから痛くて痛くてどうしようもねぇんだ」  モモ太が苦しそうに顔をしかめた。 「断る。まず成瀬清美との関係を説明しろ。手錠を外すのはその後だ」  少尉が語気を強めて言った。 「そんなこと言わねぇでくれ、本当に手首の骨が折れそうなんだ、こんな状態じゃまともに説明もできねぇ。頼む、頼むから手錠を外してくれ」  モモ太はぺこぺこと何度も頭を下げた。 「清水、外してやれ」  少佐がモモ太を見たまま静かに言った。 「しかし少佐殿、こいつは」 「いいから外せ」少佐は少尉の言葉を遮った。 「あれだけ拷問を受けたんだ、もう反撃する力も気力も残ってはおらんだろう。仮に何かしでかしてもこっちは二人で銃もある。心配するな」 「分かりました」  少尉は軍服の胸ポケットから小さな鍵《かぎ》を取り出し、モモ太の両手首に掛かった腕輪を素早く開けていった。すぐに手錠は外された。 「ああ、やっと痛ぇのが取れた。髭の立派な兵隊さん、世話になったなぁ、ありがとなぁ」モモ太は胸の前で両手を合わせ少佐に深々と頭を下げた。 「おい、約束は守ったぞ。なぜ成瀬清美と面識があるのか説明しろ」  少佐がせかすように言った。 「もちろんだ、これで物凄くいい気分で話ができる。なぜ俺が清美の家に来たかと言うと、清美が俺に惚《ほ》れてるからだ」 「清美が河童のお前に惚れてるだと? なぜそんなことが分かる?」  少佐が怪訝《けげん》な顔をした。 「ベカやんの友達が言ってたから間違いねぇ。この村の女はみんな俺に惚れてて、それでベカやんの友達が清美に聞いてみたら、清美もやっぱり俺に惚れててグッチャネしてもいいって言ったから、今日こうして清美の家に来たんだ。何も問題はねぇ」  モモ太は自慢げに胸を張った。  少佐は少尉と顔を見合わせた。そのまましばし無言の状態が続いた後、少佐が大きく息を吐いた。 「こいつは嘘は吐《つ》いておらん。長年の勘で俺には分かる。清美を知っているのは事実だろう。しかしあれだけの拷問を受けていながら、なぜ今のような意味不明の話をするのかが理解できん。これではもう一度拷問してくれと、自分から頼んでいるようなもんじゃないか」 「やはり河童と人間は根本的に全く違う生き物ですから、人間の常識は通用しないのではないでしょうか?」  少尉がモモ太を一瞥《いちべつ》した。 「同感だ。俺達も河童を相手にするのは初めてだから落とし所が分からん。もしかしたら痛みの感じ方も人間とは違っていて、さっきの拷問は全く効いてないのかもしれん。そうなると今の意味不明の話も故意にしているという可能性が出てくるな」少佐もモモ太を一瞥した。「清水、『髑髏《どくろ》』だ。『髑髏』だったら絶対に効果があるはずだ。人間も河童も最大の恐怖は生命の喪失だからな」  少佐は軍服の第二ボタンを外し、内ポケットから銀色の箸箱《はしばこ》のような容器を取り出した。少尉は足早に歩いていきその容器を受け取った。蓋《ふた》を開けると中には黄色い液体の入った細長い注射器が入っていた。 「おい河童、腕を出せ。体にいい注射をしてやる」  少尉は注射器を持ってモモ太の前に立った。 「ちょっ、ちょっと待て、ちょっと待ってくれ」モモ太の顔が露骨に強張《こわば》った。「セイメイのソウシツって一体どういう意味だっ?」 「お前には関係の無いことだ。知らなくていい」 「いや関係あるっ。絶対に関係あるっ」モモ太は少尉を睨《にら》みつけた。「セイメイのソウシツっておっかねぇ言葉じゃねぇのか? 何か物凄《ものすげ》ぇ嫌な予感がする。それにおめぇら、その黄色い汁をドクロって呼んでたな、ドクロってシャレコウベのことだろ? そんな縁起の悪《わり》ぃ名前つけるってことは、もしかしてそれ毒じゃねぇのか? おめぇら俺を殺す気だろうっ?」 「何を勘違いしてるんだ、これは滋養強壮の薬だ」 「嘘だっ、黄色い汁は毒だっ、ちゃんと正直に清美のことしゃべったのに毒で殺すなんて酷《ひで》ぇじゃねえかっ」 「頼むから俺を信じろ、これは毒ではない」 「じゃあ自分の体にその汁を打ってみろっ」  モモ太の突然の要求に少尉は思わず言葉に詰まった。 「ほれ見ろっ、やっぱり毒じゃねぇかっ、俺は騙《だま》されねぇぞっ」 「と、とにかく絶対に死なんから黙って腕を出せっ」  少尉はモモ太の左腕を掴《つか》んだ。 「嫌だっ! 毒は嫌だっ! ベカやんみてぇになりたくねぇっ!」  モモ太は叫ぶと嘴《くちばし》を大きく開け、喉《のど》の奥から青い塊を吐き出した。それは眼前の少尉の右目に勢い良く命中した。同時に少尉が悲鳴を上げた。かなりの激痛らしく注射器を床に落とし右目を押さえてうずくまった。 「清水っ、どうしたっ? 何があったっ?」  状況を把握できない少佐が叫んだ。少尉はうずくまったまま苦悶《くもん》の声を上げるだけだった。少佐が慌てて腰の拳銃《けんじゆう》を抜いた瞬間モモ太が動いた。凄《すさ》まじい早さで跳躍し少佐の上半身に飛びついた。少佐は拳銃を振り上げ何かを叫んだ。その口の中へモモ太は右手を突き入れた。少佐が目を剥《む》いて大きく呻《うめ》いた。モモ太は口内から勢いよく舌を引きずり出した。紅色のぶよついたそれは二十センチ近くもあった。少佐は血泡を吐いて仰《あお》向けに倒れた。自動拳銃が床の上に転がった。少佐の上に馬乗りの状態になったモモ太は腰を屈《かが》めたまま立ち上がった。少佐は白目を剥いて気絶していた。モモ太は長く伸びた舌を両手で握り、力任せに引きちぎった。太いゴム管が切れるような音がした。少佐の喉の奥から大量の血が溢《あふ》れ出し、瞬く間に顔面を赤く染めた。 「おい兵隊、馳走《ちそう》になるぞっ」  モモ太はぶよついた舌にかぶりつくと半分に噛《か》み切り、残りを無造作に投げ捨てた。そしてくちゃくちゃと音を立てて咀嚼《そしやく》しながら部屋の隅にいる少尉の所に歩いていった。少尉の容体は変わらなかった。右目を押さえてうずくまったまま、苦悶の声を上げていた。モモ太は少尉の傍らに転がる注射器を拾い上げた。硝子《ガラス》の円筒の中に詰まった黄色い液体が妙に毒々しく見えた。 「てめぇの毒汁でくたばりやがれ」  モモ太は注射針を少尉の背中に突き立て活塞《かつそく》を押した。黄色い液体が一瞬で体内に注入された。注射の効果はすぐに現れた。不意に少尉の呻き声が止まった。少尉は右目から手を離してゆっくりと顔を上げ、虚《うつ》ろな目で辺りを見回した。そして「見えない、真っ暗で何も見えないぞ」と低い声で呟《つぶや》くと顔面から床の上に倒れた。 「けっ、コロッと死にやがった」  モモ太は薄く笑い、咀嚼していた少佐の舌を飲み込んだ。 「二人とも死んだのか?」  正座していた雷太がのっそりと立ち上がった。 「死んだ、俺が殺したんだ、俺が兵隊二人をぶっ殺したんだっ。凄ぇっ! 俺は凄ぇっ! 俺はクソ漏れるぐれぇ凄ぇっ!」  モモ太は大きな目にぎらついた光を湛《たた》えながら甲高い声で叫んだ。     3  清美の家を出ると日は完全に暮れており、青黒い闇が上空を覆っていた。南の空には昨夜と同様に青白い巨大な満月が浮かんでいた。  雷太とモモ太は村に続く道に出るため広大な林檎《りんご》畑を東に向かって歩いた。 「なぁ、口ん中から変なの吐いて兵隊の目ん玉にぶち当てただろ? ありゃ一体何だ?」  雷太がモモ太に訊《き》いた。 「痰《たん》だ。河童の痰は人間のもんより粘っこくて目に入ると死ぬほど痛《いて》ぇんだ。毒じゃねぇから害はねぇけど、半日くれぇはじんじん痛んでしょうがねぇ」  自動小銃を右肩に掛けたモモ太が得意気に言った。 「おめぇ、顔中ぶん殴られて金玉まで潰《つぶ》されたのに全然平気だな」 「ああ、全然平気だ。テッケンもツブシバサミもきつかったけど、全部終っちまったことだから今じゃいい思い出だ。金玉もあと一個残ってるし何も問題はねぇ」 「兵隊を殺した時はどんな感じだった?」 「いい感じだった。溜《た》まってたクソがスポーンとひり出るぐれぇいい感じだった。鉄砲がねぇと絶対|敵《かな》わねぇと思ってたから嬉《うれ》しくてしょうがねぇ」  モモ太は満面に笑みを浮かべた。 「しかしおめぇはものすごく強《つえ》ぇんだな」  雷太が感心したように言った。モモ太は大きく頷《うなず》いた。 「やっぱりベカやんの友達が言ってたことは本当だった。俺はこの村で一番強くて一番偉い河童《かつぱ》なんだ。兵隊でいえば大将みてぇな河童なんだ。だから村の男どもは俺をおっかながって、女どもは俺とグッチャネしたがってんだ。ああ、いい気分だ、マラボウがおっ立つぐれぇいい気分だ」  モモ太は垂れ下がった陰茎をぎゅっと握り締めた。 「さっきは清美が留守だったけど、これからどうすんだ?」  雷太がモモ太を見た。 「焦ることはねぇ、清美が消えちまう訳ねぇんだから明日出直すまでよ。それよりも今はおめぇの半馬鹿を治すのが先だ。早く村に行って手頃なガキンチョをさらってこねぇとな」  モモ太は雷太の胸を指でつついた。     *  二人は五分ほどで林檎畑を抜け、村の中心に続く広い砂利道に出た。道の先にはぽつぽつと民家の窓明かりが見えた。 「いいか、よく聞け。こっから先は人間が仕切ってる危険な場所だから、誰にも見つからねぇようにこっそり行く。はぐれねぇようにちゃんと俺の後を付いてこい。絶対にでっけぇ声やでっけぇ音を出すんじゃねぇぞ」  モモ太は真顔で雷太を見た。  雷太は大きく頷いた。  砂利道を七、八分ほど歩くと村の中心部が見えた。三階建ての大きな建物を中心にして、その周囲に幾つもの民家が点在していた。 「あの真ん中のでっけぇのが村役場だ」  モモ太が小さく囁《ささや》いた。 「何で知ってんだ?」  雷太は驚いて訊き返した。 「俺は月のねぇ暗い晩になると、この辺りを見物に来るから知ってんだ。おめぇ、ここまで来てもまだ何も思い出さねぇか?」  モモ太が雷太の顔を覗《のぞ》き込んだ。雷太はしっかりと周囲を観察したが、どこもかしこも初めて見る風景として目に写った。 「駄目だ。本当に何も分からねぇ」  雷太は首を横に振った。 「そうか、仕方ねぇな。おめぇは半馬鹿だもんな」  モモ太は雷太に憐《あわ》れむような目を向けた。  どこからか犬の遠吠《とおぼ》えが聞こえてきた。人間の慟哭《どうこく》する声に似た鳴き声だった。 「夜、一番おっかねぇのは犬だ。あいつら河童より鼻が利くから、すぐに俺の臭いを嗅《か》ぎ取って馬鹿みてぇに吠えやがる。河童の臭いは珍しいから物凄《ものすご》く興奮しやがんだ。この辺は野良犬も多いから気をつけろよ」  モモ太は右肩から自動小銃を下ろすと両手で構え、足音を忍ばせて村の中心部へと前進した。森から続く砂利道が途中からアスファルトの舗装道路に変わった。それは東に向かって一直線に伸び、役場の手前辺りから村の大通りになっていた。道の両側には十数軒の小さな商店が立ち並んでいたが、夜更けのためかどの店も閉店しており通行人は皆無だった。モモ太は自動小銃を構えたまま足早に無人の通りを進んだ。商店街を抜け、村役場の前を通り過ぎると道の左側に住宅街が現れた。家の窓にはちらほらと明かりが点《つ》いていたが、相変わらず屋外は無人だった。 「おめぇぐらいの子供がいる家を探すんだ」  モモ太が前を向いたまま囁いた。  二人は一つ目の角を左に曲がると、足音を忍ばせて住宅街の奥に入っていった。二百メートルほど歩いた時、傍らの電柱に貼られた一枚の白い紙が目に留まった。上部に設置された電球の光で何が書いてあるのかが見えた。紙の一番上には右側を指し示す赤い矢印が描かれ、その下に大きく『溝口家』とあり、右端に小さく『故溝口祐二通夜会場』と記されていた。半馬鹿のためその意味は分からなかったが、『溝口』という二文字には確かに見覚えがあった。 「どうした?」  前を歩いていたモモ太が振り向いた。 「ちょっと来てくれ」  雷太が手招きをした。モモ太は怪訝《けげん》な顔で引き返してきた。 「この字を見たことがあんだ」  雷太は電柱の貼り紙に大きく書かれた『溝口』の部分を人差指で3回叩いた。 「どう読むんだ」  モモ太が不思議そうに貼り紙を見た。 「それは分かんねぇ。分かんねぇけど間違いなく見たことがあんだ」  雷太は語気を強めて言った。 「ふーむ、なるほど、そうか」モモ太は大きく頷いた。「これはおめぇが初めて思い出したもんだ。しかもここは村のど真ん中だ。この字とおめぇとの間にはきっと何か繋《つな》がりがあるに違いねぇ。なあ、この矢印が指してる方に行ってみねぇか?」  モモ太の黒く大きな目に好奇に満ちた光が浮かんだ。 「少しおっかねぇけど、俺もそうしようと思ってた」  雷太は胸の鼓動が微《かす》かに速まるのを感じながら答えた。 「じゃあ、さっそく出発だ」  モモ太が雷太の肩を叩《たた》き歩き出した。  周囲を警戒しながら五十メートル程進むと丁字路に出た。正面の板塀に先程と同じ貼り紙が貼られていた。赤い矢印は今度は左側を指していた。二人は丁字路を左に曲がり直進した。  貼り紙はほぼ五十メートル間隔で電柱や板塀、ポストなどに貼られていた。住宅街の道は細く、複雑に入り組んでいたが、矢印のお陰で迷うことなく進むことができた。  歩き出して五分程経った時、雷太とモモ太は一軒の家の前で立ち止まった。それは前庭に大きな柿の木がある木造平屋建ての古い民家だった。何か祝い事でもあるのか、玄関の格子戸の左右に灯《ひ》が灯《とも》った提灯《ちようちん》が一つずつ掲げられていた。提灯の前面にはそれぞれ『溝口家』と大きく書かれ、格子戸には『忌中』と小さく書かれた紙が貼られていた。 「見ろ、貼り紙にあったのと同じ字じゃねぇかっ。あの矢印はこの家を指してたんだっ」  モモ太は叫びながら左右の提灯を何度も見た。 「おめぇ、この家に来たことあんのか?」 「よく分からねぇ。でも確かに何かが引っ掛かんだ」  雷太は喘《あえ》ぐような声で答えた。 「とにかく中に入って誰が住んでんのか確かめねぇとな」  モモ太は雷太の手を掴《つか》むと玄関まで歩いて行き、磨《す》り硝子《ガラス》が嵌まった格子戸を横に引いた。鍵《かぎ》は掛かっておらず格子戸は静かに開いた。雷太はモモ太と共に三和土《たたき》に入った。中は薄暗く線香の香りが漂っていた。家の奥から微かに人の話し声が聞こえた。モモ太は自動小銃を構えると上がり框《かまち》を踏んで板張りの廊下に上がった。雷太もズック靴を履いたままその後に続いた。 「死体だ、人間の死体の臭いがする」  モモ太が振り向いて小さく囁いた。雷太は周囲の空気を嗅いでみたが、線香の香りが強すぎて他に何も感じなかった。  モモ太は足音を殺してゆっくりと廊下を進んだ。ミシッ、ミシッ、と床板が微かに軋《きし》んだ。奥から聞こえてくる話し声が徐々に鮮明になった。それは二人の男の声で重く沈んだような口調だった。  モモ太が家の一番奥にある部屋の前で止まった。襖《ふすま》越しに「俺はどうしても祐二のことが諦《あきら》めきれねぇ」という男の声がはっきりと聞こえてきた。モモ太は自動小銃を下ろすと片|膝《ひざ》をつき、音を立てずに襖を二センチほど開けて中を見た。後ろに立つ雷太も顔を近づけて隙間を覗き込んだ。  電灯の灯った六畳間の中央に布団が一組敷かれ、モモ太の言う通り死体らしきものが寝かされていた。顔に白い布が被《かぶ》せてあるため性別や年齢は分からなかった。枕元の右側には黒い背広を着た禿頭《はげあたま》の中年男と、学生服を着た中学生が正座していた。すぐに父親と息子だと分かった。父親はハンカチで涙をしきりに拭《ぬぐ》っていた。息子は無言で俯《うつむ》いていて顔は見えなかった。 「利一、おめぇは祐二とあの女の関係を本当に知らなかったのかっ?」  父親が涙声で息子に訊《き》いた。 「知らねぇもんは知らねぇ。いい加減信じてくれ」  息子は低い声で答え、顔を上げた。面長で色が白くロイド眼鏡を掛けていた。 「あ、あ、あの眼鏡のガキンチョ、ベカやんの友達じゃねぇかっ」突然モモ太が押し殺した声で叫び立ち上がった。「あいつなら絶対ジッ太とズッ太のことを知ってるはずだっ。ゴンベエ、おめぇはここで待ってろ」  モモ太は雷太を一瞥《いちべつ》すると、いきなり右側の襖を蹴倒《けたお》して部屋に乱入した。すぐに「動くなっ、妙な真似したらぶっ殺すぞっ!」と言う怒声が聞こえてきた。雷太は残った左側の襖の陰からそっと中を覗いた。モモ太が自動小銃を腰だめに構えて立っており、父親と息子が顔を強張《こわば》らせてその姿を見ていた。 「おいベカやんの友達っ、ジッ太とズッ太はどこにいるっ?」  モモ太が息子に向かって叫んだ。途端に息子の顔が青ざめ今にも泣き出しそうな表情になった。 「俺は昨日の夕方丸太小屋に行ったんだ。そしたら井戸の中にゴンベエがいるだけで、ジッ太もズッ太もおめぇの弟もいやがんねぇ。これは一体どういうことだっ。おい、ゴンベエ、おめぇもこっちに来て覚《おぼ》えてることをこいつらに話せっ」  モモ太がこちらを振り向いて叫んだ。廊下にいた雷太はのっそりと部屋の中に入りモモ太の後ろに立った。その瞬間父親と息子の顔が露骨に引き攣《つ》った。 「ライタッ!」  息子が絶叫した。その言葉に半分残った脳が反応した。雷太は頭に透明な銃弾を撃ち込まれたような奇妙な衝撃を受けた。息子は目を剥《む》き出し、口を半開きにすると小刻みに震え出した。 「か、勘弁してくれ、勘弁してくれ、勘弁してくれ、勘弁してくれ」  息子は両手を顔前で合わせ、何かに憑《つ》かれたように同じ言葉を繰り返した。両眼からは涙が溢《あふ》れ、学生ズボンの股間《こかん》からはゆっくりと黄色い液体が漏れてきた。なぜこの中学生が失禁するほど自分を恐れるのか、雷太には全く理解できなかった。父親の動揺も激しかった。今にも悲鳴を上げそうな驚愕《きようがく》の表情で雷太を凝視しながら、息子と同じように小刻みに震えていた。 「おい、目にネコメグルミを入れたおめぇの顔がよっぽどおっかねぇみてぇだな」モモ太が苦笑しながら言った。「とにかくこれじゃ話になんねぇ。おいゴンベエ、この眼鏡のガキンチョをさらっていくぞ。キチタロウのとこで色々話を聞きだすんだ。それが終ったらぶっ殺して新鮮な脳味噌《のうみそ》を頂戴《ちようだい》する。どうだ、いい考えだろ?」  モモ太がにやりと笑った。 「でも、どうやってさらってくんだ?」  雷太が小首を傾げた。咄嗟《とつさ》にいい方法が浮かばなかった。 「おめぇの締めてる褌《ふんどし》を外してガキンチョの手を後ろで縛んだ。そうすりゃ逃げらんねぇから引っ張っていける。何か喚《わめ》いたらぶん殴って静かにさせればいい」 「分かった」  雷太は頷《うなず》き国民服のズボンに手をかけた。不意に父親が動いた。素早く立ち上がると小銃の銃身を両手で掴み、強引に銃口を下に向けた。 「利一、逃げろっ、警察呼んでこいっ!」  父親が大声で叫んだ。驚いた息子が慌てて立ち上がろうとした。 「クソジジイッ!」  モモ太は叫ぶと引き金を引いた。耳をつんざく銃声が鳴り響いた。下を向いた銃口から発射された銃弾が父親の右足を一瞬で砕いた。父親は悲鳴を上げて倒れ込んだ。しかしモモ太は銃撃を止めなかった。甲高い奇声を発しながら父親と息子をめちゃくちゃに撃ちまくった。薬莢《やつきよう》が次々と宙を舞い、銃口から切れ目無く黄色い火焔《かえん》が噴き出した。銃弾が肉を裂き骨を砕く鈍い音が続いた。  やがて銃声が止まった。モモ太は引き金を引いたままなので弾倉の弾がきれたのが分かった。薬莢が散乱し、白い硝煙が一面に籠《こ》もる中、二人は全身に銃弾を撃ち込まれ血まみれで絶命していた。息子は右腕が肘《ひじ》の部分でちぎれ、学生服の腹の部分から桃色の腸がはみ出ていた。父親は右足と左の顔面を完全に吹き飛ばされていた。 「俺に逆らったジジイが悪ぃんだからな、恨むんならジジイを恨めよ」モモ太は低く呟《つぶや》き自動小銃を投げ捨てた。「おい、せっかくだから死体の顔を拝ませてもらおうぜ」  モモ太は血しぶきが飛び散った布団の枕元にしゃがみ込み、死体の顔から白い布を取った。現れたのはまた中学生位の少年だった。土気色の顔をして固く目を閉じており、口元にはガーゼマスクを付けていた。 「ほう、こいつもベカやんの友達じゃねぇか。とするとあのジジイはこいつらのオヤジ様ってことになんのか。そうかそうか、そういうことか」モモ太は何度も頷いた。「ジッ太とズッ太の行方を知ってるベカやんの友達が二人とも死んじまった。これはとっても残念なことだ。でもまだゴンベエが残ってる。ゴンベエの半馬鹿を治せば絶対あいつらのことを思い出す。だから俺は悲しくも何ともねぇ」モモ太は真面目な顔で雷太を見た。「おいゴンベエ、あの眼鏡のガキンチョの首を切り取れ。さっきまで生きてた新鮮な脳味噌を持って帰って、おめぇの頭ん中にホジュウする」 「でも、どうやって切り取んだ?」  雷太は小首を傾げた。咄嗟にいい方法が浮かばなかった。 「台所に行って一番でっかい包丁を持ってこい。それを使えば切れんだろ」  モモ太は平然と言った。     *  雷太とモモ太は並んで歩きながら帰路についた。相変わらず村の中は静まり返り、通りは無人のままだった。雷太は左手に眼鏡の中学生の頭部を持っていた。髪を鷲掴《わしづか》みにして西瓜《すいか》のようにぶら下げていた。中学生の頸部《けいぶ》は包丁では切断できなかった。薄刃がつるつると滑り太い頸椎《けいつい》には歯が立たなかった。仕方なく納戸の中を漁《あさ》り、見つけ出したノコギリでやっと切り落とした。 「新鮮なガキンチョの脳味噌が手に入ってよかったな」  モモ太は歩きながら笑みを浮かべた。 「ほんとだ。全部あの貼り紙のお陰だ」  雷太は頷きながら答えた。 「これでおめぇの記憶が戻る。そしてついにジッ太とズッ太の行方が分かる。ああ、早くあいつらに会いてぇなぁ」  モモ太がしんみりとした口調で言った。 「弟に会えたら何がしてぇ?」 「また沼のほとりで相撲がしてぇ。ズッ太はまだ弱ぇけどジッ太はそこそこ強《つえ》ぇんだ。十回相撲を取ったら三回はあいつが勝つ。あいつの上手投げは結構|凄《すご》くて、本気で堪《こら》えねぇと投げ飛ばされちまうんだ。そうだ、今度あいつらと相撲取る時はおめぇが行司をしてくれねぇか?」 「俺、相撲のこと良く知らねんだ」 「大丈夫だ、始まる前にハッケヨイノコッタって言うだけだ」 「そうか、それだけだったら俺にもできるな。じゃあやろう」  雷太は笑みを浮かべてモモ太を見た。 「あ、おめぇが笑うとこ初めて見たぞ。そうか、おめぇ笑うことができんのかぁ」  モモ太が感心したように雷太の顔を覗《のぞ》き込んだ。雷太は気恥ずかしくなり、視線を逸《そ》らせて夜空に浮かぶ満月を見上げた。  またどこかから犬の遠吠《とおぼ》えが聞こえてきた。それは先程聞いたものよりも甲高く、空襲警報のサイレンのように夜空に鳴り響き、闇を震わせた。     *  森に戻った雷太とモモ太はキチタロウが棲《す》むヒノキの古木へ向かった。上機嫌のモモ太はまた笹の葉で草笛を作り、ピーピーと吹き鳴らしながら小道を歩いた。雷太も見様見真似で草笛を作り吹いてみたが音は全く出なかった。風の無い穏やかな夜だった。辺りはしんと静まり返り、モモ太の草笛の音と梟《ふくろう》の低い鳴き声以外何も聞こえてこなかった。  しばらくぼんやりと歩いていた雷太は、ふとある事に気づいて立ち止まった。  眼前の風景がはっきりと見えていた。  いつもなら淡い月明かりを受けて薄ぼんやりとしか映らないはずの夜の森が、昼間と同じように細部まで鮮明に浮かび上がっていた。 「見えるっ」雷太は驚いて叫んだ。「見える、見えるぞっ」 「何が見えんだ?」  モモ太が振り返り、怪訝《けげん》な顔をした。 「周りの景色が昼間とおんなじようにはっきりと見えんだっ」  雷太が興奮して叫んだ。 「あたりめぇだ」モモ太は全く動じなかった。 「おめぇの左の目ん玉取ってネコメグルミを入れただろ? あれが体に馴染《なじ》んでくると本物の猫目みてぇに昼は勿論《もちろん》、夜でもちゃんとものが見えるようになんだ。おめぇそんな事も知らねぇのか?」  雷太は試しに右目をつぶってみた。確かに見えなかった左目に鮮明な森の風景が映っていた。雷太は興奮のあまり声が出なかった。両眼が見えるありがたさを初めて知り、心の底からキチタロウに感謝した。 「おめぇは本当にものを知らねぇ奴だな。ジッ太とズッ太の方がまだましだぞ」  モモ太は呆《あき》れたように言うと歩き出した。嬉《うれ》しくてならない雷太は四方八方を見回しながらその後を追った。     *  森の北端にあるヒノキの古木に着いた時、満月は西の空に傾いていた。  モモ太は以前と同じく小さな祠《ほこら》の前に立つと二回お辞儀をし拍手《かしわで》を二回打った。 「キチタロウ、キチタロウ、出てきておくれ、我に願い事あり。キチタロウ、キチタロウ、出てきておくれ、我に願い事あり」  モモ太は甲高い声で叫び深々と一回お辞儀をした。同時にヒノキの古木がみしっと大きく軋《きし》み、根元から上に向かい黒い裂け目が一本走った。そしてその中から黒い影のようになったキチタロウが出てきた。雷太とモモ太は黙って五歩後退した。石炭タールのようにどろりとした影は祠の上に来ると瞬く間に物質化した。目の前には黒い外套《がいとう》に身を包み黒い頭巾《ずきん》を被《かぶ》った、巨大な二頭身の男が立っていた。 「おおキチタロウ、よく来てくれたなぁ、ありがとなぁ」  モモ太が嬉しそうに笑った。キチタロウは若い女のような白く艶《つや》やかな腕で頭巾を取った。睾丸《こうがん》にそっくりな瘤《こぶ》で覆われた、あの奇妙な顔が現れた。 「何用だ?」  キチタロウが低く、くぐもった声で言った。 「この前言われた通り、村に行ってガキンチョをさらってきた。首だけだけど、これで大丈夫だよな?」  モモ太は雷太が左手にぶら下げている中学生の頭部を指でつついた。 「うむ、大丈夫だ。脳味噌《のうみそ》は丸々残っておるからな」  キチタロウが頷《うなず》いた。 「だったら今すぐゴンベエに脳味噌のホジュウをして半馬鹿を治してくれっ。俺は早くジッ太とズッ太に会いてぇんだっ」  モモ太が待ちきれないように早口で言った。 「まぁ、そう慌てるな。まずはそいつの頭蓋《ずがい》骨を割って、中から脳味噌を取り出せるようにせんとな。お前、できるか?」  キチタロウは雷太を見た。 「ゴンベエは図体がでけぇから力も強ぇはずだ。ガキンチョの骨は若くて柔らけぇから簡単だろ?」  モモ太が雷太の顔を覗き込んだ。雷太は左手に持った中学生の頭を右手の拳《こぶし》で軽く叩《たた》いてみた。コツコツと頭蓋骨の乾いた音がした。この程度の硬さなら何とかなるような気がした。雷太は中学生の頭部を顔を上にして地面に置いた。そしてロイド眼鏡を外すと、その額を右手で鷲掴みにした。少し力を込めると爪が皮膚に喰《く》い込み、さらに肉に喰い込んだ。雷太は万力で締め上げるように指先に強い力を加えた。爪が肉を破って頭蓋骨に達した。雷太は上体を前に傾け右手に体重を掛けた。同時にめりっと頭蓋骨の軋む音がした。雷太がさらに右手に体重を掛けると親指が右のこめかみの骨を砕き頭蓋の中に突き刺さった。雷太は左手で右の手首を掴むと腰を浮かせて前傾し、全体重を右手に掛けた。次の瞬間、巨大な胡桃《くるみ》が砕けるような音と共に前頭骨が粉砕した。血と脳漿《のうしよう》が辺りに飛び散り左右の眼球が飛び出した。雷太の右手は手首まで脳の中にめり込んでいた。それはほんのりと温かく木綿豆腐のように柔らかかった。 「こりゃ凄ぇ力だ、ガキンチョの頭をぶっ壊しやがったっ」  モモ太が興奮気味に叫んだ。雷太は脳の中から右手を抜くと、中学生の頭部を持ってキチタロウの前に歩いていった。 「こんなんでいいのか?」  雷太が訊《き》いた。 「ああ、これだけありゃ充分足りる。ではさっそく準備をするか」  キチタロウは雷太から頭部を受け取ると、顔一面を覆う睾丸そっくりの瘤を一つちぎり取った。 「そんなことやって痛くねぇのか?」  モモ太が尋ねた。 「いや、痛みは無い。それに瘤はまた生えてくるからいくらでも取れる」  キチタロウは瘤を砕けた頭部の上に持っていきギュッと握り潰《つぶ》した。中からはどろりとした黄色い液体があふれ出し、中学生の脳の中に滴り落ちた。 「この瘤汁には脳味噌を一度溶かして、また固める成分が入っておる。これを奴の頭に入れれば補充は完了する」  キチタロウが雷太を一瞥《いちべつ》した。 「そりゃ凄ぇっ、は、早く入れてくれっ、すぐに入れてくれっ」  モモ太は雷太の腕を取って強引にしゃがませると、頬《ほ》っかむりしていた手拭《てぬぐい》いを素早く剥《は》がした。 「では、入れるぞ」  キチタロウは中学生の頭蓋に手を入れ、黄色に染まった溶けた脳を掴《つか》んだ。それは泥濘《でいねい》のようにどろりとした状態になっていた。キチタロウはそれを慎重に雷太の頭頂部の裂け目に流し込んでいった。痛みは感じなかったが脳が入ってくるたびに頭の中がひやりと冷たくなった。また少しずつ首から上が重くなっていくのが分かった。溶けた脳を七回流し込んで『ホジュウ』作業は終了した。 「脳味噌が完全に固まるまで三十分ほど掛かる。それまでは頬っかむりをしておけ」  キチタロウが鷹揚《おうよう》に言った。モモ太はまた手拭いで雷太の頭から顎《あご》までを包み、端を丁寧に縛った。雷太は自分の頭蓋の中でどろりとしたものが蠢《うごめ》くのを感じた。中学生の脳と自分の脳が交じり合っているのが分かった。  不意に鼻孔から何かが滴った。手で拭ってみるとそれは血だった。 「この鼻血も、脳味噌が固まってる最中だから出んのか?」  雷太はそう言いながらキチタロウに目をやった。しかしそこにキチタロウはいなかった。モモ太が一人でヒノキの古木の前に立っており、その傍らに破壊した眼鏡の中学生の頭部が転がっていた。 「どうしたゴンベエ? 何で変な顔してんだ?」  モモ太が不思議そうな顔で訊いてきた。 「キ、キチタロウがいねぇ」  雷太が低く呟《つぶや》いた。 「何馬鹿なこと言ってんだ、キチタロウはここにいるじゃねぇか」モモ太は自分の右側の空間を手の平で二回、軽く叩いた。しかしそこで突然「あ、そうか、そういう事か」と独り言を言い、何度も頷《うなず》いた。 「おい、おめぇはもう半馬鹿じゃねぇから、モノノケの姿が見えなくなったってキチタロウが言ってるぞ」  モモ太が真面目な顔で雷太を見た。 「なるほど、じゃあしょうがねぇ」  雷太は呟くと手の甲で鼻血を拭った。  不意に頭蓋の中で溶けた脳が激しく動いた。まるで何匹もの太い蛇が激しくのたくっているような感覚を覚えた。雷太は両手で頭を押さえてうずくまった。視界がぼやけ強い吐き気がした。左右の耳の穴から何かが滴った。手で拭ってみるとそれも血だった。頭の中で甲高い金属音がした。受信機の周波数を同調させる時に起きる耳障りな音に似ていた。 「ライタッ!」  突然金属音が人の声に変わった。 「ライタッ!」  また声がした。それはあの眼鏡の中学生の叫び声だった。雷太は再び透明な銃弾を頭に撃ち込まれたような奇妙な衝撃を受けた。中学生の怯《おび》えた顔が浮かんだ。 「ライタッ!」 「ライタッ!」 「ライタッ!」  声が連呼した。頭蓋内の脳の動きがより激しくなった。のたくっていた何匹もの『蛇』が竜巻のように猛烈な渦を巻き始めた。こめかみがドクドクと脈打ち、左右の眼球が上下左右に忙《せわ》しなく動いた。乾いた舌の先端が痺《しび》れ、鼻の奥できなくさい臭いがした。  ガッ、という鈍い音と共に頭に衝撃を覚えた。硬く鋭いもので頭頂部を強打されていた。振り向くと学生服を着た少年が手斧《ておの》を持って立っていた。あの、眼鏡の中学生の家に安置されていた死体の少年だった。急に頭の中が熱を帯びた。瓦斯《ガス》の炎で炙《あぶ》られるような耐え難い熱さだった。同時に強い眩暈《めまい》がしてまた視界がぼやけた。眼前の風景が陽炎《かげろう》のようにぐにゃぐにゃと揺れ動いた。  気がつくと丸太小屋の傍らにある草叢《くさむら》に立っていた。すぐ目の前には以前雷太が落ちた古井戸があった。 「お母様は今、井戸の底で泣いています」  どこかから声がした。驚いた雷太は慌ててひざまずき中を覗《のぞ》き込んだ。 「和子っ、俺だっ、そこにいるのかっ、返事しろっ」  雷太は叫んだ。声は穴の中で大きく反響した。雷太はそこで母親の名前が自然に口から出たことに気づいた。 「和子っ、俺だっ、そこにいるのかっ、返事しろっ」  雷太はもう一度叫んだ。急に穴の中から臭いがした。魚の臓物のような妙に生臭い臭いだった。堪《たま》らず雷太が手で鼻を覆った時また声がした。 「おめぇの体からはジッ太とズッ太の血の臭いがぷんぷんすんだ」  それは明らかにモモ太のものだった。その途端頭蓋の中で猛烈な渦を巻いていた『蛇』の動きが止まった。 「雷太っ!」  声がした。眼鏡の中学生の叫び声だった。雷太はそれが自分の名前だという事をやっと理解することができた。  頭の中がしんと静まり返った。  二つの脳が激しく攪拌《かくはん》されて一つとなり、固形化したようだった。  雷太は目を開いた。  いつの間にか右腕で顔を覆うようにして地面に横たわっていた。視界が元に戻り、強い吐き気も治まっていた。雷太は国民服の右|袖《そで》の臭いをそっと嗅《か》いでみた。先程穴の中から漂っていたものと同じく、魚の臓物のような妙に生臭い臭いがした。それは人間の血液には無い独特の異臭だった。不意に眼鏡の中学生の怯えた顔が浮かんだ。雷太はあの中学生が利一、死体の少年が祐二という名の義兄だった事を思い出した。二人は自分の殺害を企てて実行したが未遂に終っていた。しかしなぜ利一達が義弟の自分を殺そうとしたのか、なぜ自分の服から河童《かつぱ》の血の臭いがするのかは分からなかった。そして全ての答えはあの古井戸の中にあるはずだった。  雷太はゆっくりと体を起こした。 「おい、おめぇ大丈夫か?」傍らに立っていたモモ太が心配そうに顔を覗き込んだ。「何か苦しそうにうんうん唸《うな》ってたぞ」 「大丈夫だ……何も問題ねぇ」  雷太はモモ太を一瞥《いちべつ》して呟いた。 「脳味噌《のうみそ》が完全に固まるまでもうちょっと掛かるみてぇだけど、おめぇ何か思い出さなかったか?」  モモ太が黒く大きな目をぎょろぎょろさせて訊《き》いた。 「いや、だめだ。未《いま》だに自分の名前も分かんねぇ……」  雷太はさり気ない口調で答えた。このモモ太という河童と利一達との関係をまだ把握していなかった。もしかしたらモモ太も自分の殺害に加担している可能性があった。とにかく発言も行動も慎重にしなければならなかった。 「でも一つだけ、ぼんやりと思い出したことがあんだ」  雷太は言葉を選んで注意深く言った。 「本当かっ? そりゃ一体何だっ?」  モモ太が身を乗り出した。 「あの、丸太小屋の古井戸だ。あそこで確かに何かがあった」 「ジッ太とズッ太とおめぇの間にかっ?」 「そこまでは分かんねぇ。でもあの場所に答えはある」 「よし、分かった。今から丸太小屋に行くぞ。おめぇがそこまで言うんだ、絶対ジッ太とズッ太のことを思い出すはずだっ」  モモ太が顔を紅潮させて叫んだ。     *  雷太とモモ太は森の南端にある猟師の丸太小屋を目指して出発した。  夜明けが近かった。巨大な満月は西の岩山の上に傾き、青白い光が薄《うつす》らと滲《にじ》む東の空には再び金星が輝いていた。  雷太は小屋までの道を思い出せないと嘘を吐き、わざとモモ太の後について歩いた。そうすることでこの得体の知れない河童からの不意打ちを防ぎ、常に監視することができるからだった。しかしそんな雷太の思惑など全く知らないモモ太は喜んで先導役を引き受けた。ヒノキの古木から小屋までは徒歩で三十分ほどの距離だった。 「おい、ゴンベエ」歩き出して三十秒も経たぬうちにモモ太が振り向いた。「ライタッ、てどういう意味だ?」  そのモモ太の一言に雷太の胸が微《かす》かに鳴った。 「知らねぇ、聞いたこともねぇ言葉だ。何でそんなことを俺に訊く?」 「おめぇの顔を見た眼鏡のガキンチョが叫んだんだ、ライタッて。あん時は気になんなかったけど、今になってだんだん気になるようになってきた」 「どうして気になんだ?」 「もしかして、おめぇの本当の名前はライタじゃねぇかって思うんだ」 「俺がライタだとして、何であの眼鏡がそれを知ってんだ?」 「それなんだが、俺がぶっ殺したあいつらが、実はおめぇの家族じゃねぇのか?」 「そりゃねぇだろう、もし家族だとしたら何であんなに俺を怖がんだ? あいつらが親兄弟だったら俺の顔見て喜ぶはずじゃねぇか、おめぇだってジッ太やズッ太に会ったら喜ぶだろ?」 「そうか、そう言われると確かにそうだ。家族だったらおめぇを見てあんなに怖がるはずがねぇな」  モモ太は真顔で何度も頷《うなず》いた。 「家族じゃねぇけど、俺のことをよく知ってる奴らだったんじゃねぇのか」 「なるほど、そんなら話が噛《か》み合うな。きっとおめぇはあいつらをぶったり蹴《け》ったりして、毎日いじめてたんだ。だからおめぇを見てあんなに怖がってたんだ。そうか、そうか、そういうことか、家族じゃねぇけどおめぇをよく知ってる奴らか、なるほどな。これでやっと謎が解けた」  モモ太は納得したように大きく二回頷いた。  その後も雷太はモモ太と会話を続けた。しかしそこにはある目的があった。他愛《たわい》無い雑談を交わしながら、注意深くモモ太の目を観察した。そうすればモモ太の心情を探れると思ったからだった。しかし眼球の動かし方にしても、視線の送り方にしても、そして目に浮かぶ光の光度にしても、自分に対する敵意は全く感じられなかった。モモ太は完全に自分のことを仲間として受け入れていた。雷太は一応安心はしたが、それでも相手は河童だった。あの注射を打たれた少尉が言っていたように、人間の常識は通用しないのかもしれなかった。雷太は気を緩めることなく、より慎重に接することにした。  巨大な満月が西の岩山の陰に沈み、東の空の青黒い闇に太陽の光が差し始めた頃、二人は森の南端に到着した。 「あそこだ」  モモ太が小道の左前方を指さした。生い茂る針葉樹の間から、丸太小屋の古びた屋根が僅《わず》かに覗いていた。それを見た途端雷太の脳の表面が痺《しび》れた。微細な電流が駆け巡るような感覚だった。小屋に対して明らかに反応していた。 「もうすぐだ、行くぞ」  モモ太は再び歩き出した。雷太は無言でモモ太に続いた。一歩一歩足を進めるたびに脳の痺れは強まっていった。同時に吐き気が込み上げ、胸が息苦しくて堪《たま》らなくなった。雷太はハァハァと犬のように短い呼吸を繰り返しながら必死で前進した。  やがて築四十年以上経つ、小さくて粗末な木造建築の全形が見えてきた。板張りの屋根には枯れ葉が積もり、薄っぺらい木のドアは表面の皮がめくれていた。東側の壁には磨《す》り硝子《ガラス》の嵌《は》まった窓があり、その下にはあの古井戸がある草叢《くさむら》が広がっていた。  小屋の二十メートル程手前に来た時、突然モモ太が立ち止まった。 「どうした?」  雷太が訊いた。しかしモモ太は前を向いたまま答えなかった。凶暴な野犬でもいるのかと辺りを見回したがその姿を視認することはできなかった。 「おい、どうした?」  雷太は再び訊いた。モモ太は無言のまま左右の拳《こぶし》をぎゅっと握り締めた。すぐに両腕が小刻みに震え出した。 「臭うっ、臭うぞっ」モモ太が呻《うめ》くように言った。「ジッ太とズッ太の血の臭いがするっ。この前来た時はゴンベイの服の血の臭いで分かんなかったけど、あの井戸からあいつらの血の臭いが物凄くするじゃねぇかっ!」  モモ太は叫ぶと小屋の東側にある草叢に走っていった。訳の分からない雷太も慌てて後を追った。古井戸の前でしゃがみ込み、中を覗《のぞ》いたモモ太が絶叫した。幼女の金切り声そっくりの、鼓膜に突き刺さるような声だった。 「死んでるっ! ジッ太とズッ太が死んでるっ! ずたぼろぐっちょんになって死んでるっ!」  モモ太が頭を両手で抱えた。その後ろに立った雷太の鼻に強烈な腐臭が流れ込んできた。それは国民服の袖《そで》についた臭いを数百倍濃くしたような、目も眩《くら》むような異臭だった。その瞬間雷太の脳がどくりと大きく脈打った。表面の強い痺れが急速に脳の内部にまで広がった。同時に首を引きちぎられた河童と、腸を引きずり出された河童の映像が脳裡《のうり》を過《よぎ》った。右の掌《てのひら》に頸椎《けいつい》を折る感触、ぬらついた腸を掴《つか》む感触が甦《よみがえ》った。強い眩暈《めまい》を感じ雷太は目を閉じた。  二日前の出来事を、はっきりと思い出すことができた。  雷太は利一に「和子が待っている」と騙《だま》され丸太小屋に行った。そこで利一達に雇われた河童《かつぱ》の兄弟に襲撃されたのだ。凄絶《せいぜつ》な死闘を繰り広げた末に二匹を惨殺した雷太は、騙した利一を殺す寸前に祐二に斧《おの》で頭を割られ気絶した。その後河童の死骸《しがい》と共に井戸に投げ捨てられたようだった。  雷太は取り乱したモモ太の背後から離れ、草叢から出た。脳の痺れも、吐き気も治まっていた。完全に回復した頭の中は、一点の雲もない青空のように澄みきっていた。全身に力が漲《みなぎ》り、心臓が力強く脈打っていた。このままどこまでも、地の果てまでも走っていけそうな気がした。雷太は早朝の空を仰ぎ大きく深呼吸した。 「おい……どうしておめぇの服からあいつらの血の臭いがするか分かったぞ」モモ太は低く唸《うな》るような声で言い、ゆっくりと立ち上がった。黒く大きな目には刺し貫くような光が浮かんでいた。「おめぇの本当の名前はやっぱりライタだ。そしておめぇがベカやんの友達の弟だ。俺はおめぇを殺してくれと頼まれた。だけど清美とグッチャネがしたくて、ジッ太とズッ太を代わりに行かせたんだ。そしておめぇを殺そうとしたあいつらを、逆におめぇが殺したんだ。そうだろう?」  雷太は何も言わなかった。否定する気も肯定する気も無かった。十メートル程の距離で対峙《たいじ》するモモ太に向かい微かに笑みを浮かべた。それが雷太の答えだった。 「この野郎……」  モモ太の水色の顔がすっと紅潮し、左右の目尻《めじり》が狐のように吊《つ》り上がった。半開きになった嘴《くちばし》からは、毒猫が相手を威嚇するような鋭い呼気の音がした。全身から放たれた強烈な殺気がモモ太を包み込んだ。雷太はその姿をぼんやりと眺めた。全く負ける気がしなかった。あの二匹の河童と同じく残虐に殺害し、死骸を古井戸に投げ捨ててやろうと思った。雷太は頬《ほ》っかむりをしていた手拭《てぬぐい》いを外し、投げ捨てた。  どこかで野鳥の甲高い鳴き声がした。  モモ太が一歩、足を踏み出した。 角川ホラー文庫『粘膜人間』平成20年10月25日初版発行