TITLE : おねえさんといっしょ    おねえさんといっしょ   野田 秀樹 目次 ㈵ おねえさんといっしょ 美空ひばり 松田聖子 増田明美 上原ゆかり 京塚昌子 山崎浩子 瀬古美恵 マドンナ あみん 三浦良枝 大原麗子 アグネス・チャン コラソン・アキノ 二谷友里恵 ブルック・シールズ 和泉雅子 松島トモ子 岡田有希子 〓阿玉 藤谷美和子 森田健作夫人 落合博満夫人 内藤千秋 番外篇 膝小僧時代 宮田輝 長島茂雄 加山雄三 双羽黒 ホーナー ㈼ そのほかいろいろ 大人でも楽しめるお正月子供劇場——泣いた青鬼 オレのケンカ道 宇宙開発——それはブスを愛することから 悪魔の囁きを私、一生懸命ここに書きとめました ドキュメンタリー・P子さん(26)は、こう言った〓 わがともをかたる——求人広告 激突 サラダVS.煮込み——世紀末試験第一問 激突 僕VS.天才——世紀末試験第二問 激突 無茶VS.番茶——世紀末試験第三問 現代を十倍楽しく死ねる方法——世紀末試験第四問 骨は生きている 野球漫画淡々派——ちばあきお『キャプテン』 私は、記憶喪失になって…… やがて悲しき役者かな 「は」行による現代世相の考察 数字による愛の考察 “第六感”による宇宙創成期の考察 そうなんですよ、川崎さん 激突対談「頭博士VS.手職人」 書体文体話体——往復書簡 人並みならぬ女性蔑視のわけ 父、野田秀樹 吉永小百合——青い空とオール5と マイ・ファースト・メモリイ——思春期篇 野田秀樹的ドラキュラ——乙女でいられる夜は 「一人の劇評家よりも一人の女子高生」の時代 大根役者は平然と無欲で素、素、素 美は掃除機である—— 奇妙遊園地 ふだんの努力——青山劇場楽屋で、1987,4.29 想い出メルヘン——小川未明童話集 エジンバラ公演記 われら盗用人 “非不”真面目人の勧め 聖徳太子が見た「のたり松太郎君」のこと “わたしゃもう、なんだかよくわかんないよう”日比野克彦によせて パチンコの玉がでるが如《ごと》く おねえさんといっしょ おねえさんといっしょ 「おねえさんといっしょ」は昭和六十年四月から昭和六十二年三月まで、「膝小僧時代」は昭和六十二年四月から八月まで、『小説新潮』に連載されたものである。各人物の「後記」は、平成三年三月時点での著者のコメントを編集部でまとめたものです。    美空ひばり 賛  都はるみのことを「みそら!……」と絶叫したハナシは、国民的な話題にはなったけれども、刑事責任までは問われなかった。それは所詮《しよせん》、ミヤッコ! は、引退するまでもなく、どうっせ、フツウのオバサンだったことの証《あか》しである。  ところがもしも、この逆だったら——美空ひばりを「みやこ!……」とやっていたなら——  この空白は手抜きではない。考えただけでも、ぞっとした間《ま》なのである。  紅白の司会者が進退伺いを出すぐらいのことでオトシマエのついたはずはない。紅白が終り、ほっとしたのも束《つか》の間、元日の朝に、その司会者は、荒川に身元不明の死体として浮かんでいただろう。  さらにこれを契機として、美空ひばりと日本放送協会は、全面戦争に入ることは必至でおそらく日本放送協会の幹部が、数名射殺される、などという事態も、まぬがれなかったであろう。  広域放送暴力団追放委員会の山下ひろしさん(56)も、「もしそうなれば、頂上作戦を展開し、一気に日本放送協会のカイメツに身を乗り出すつもりだ」と語っている。  どうして日本放送協会と美空ひばりは、ダーティーなイメージがつきまとうのだろう。  日本放送協会の場合、ダーティーな理由は、はっきりしている。放送料金の徴収の仕方が、年貢《ねんぐ》的な、あまりにも年貢的な、なのである。都会でひとり暮しを始めた青年が、なけなしの金でやっと買ったテレビを、目ざとく見つけて「おら、おら、おらあ銭払わんかいっ!」と現われる姿は、どう見ても、払えねえというなら、ヘッヘ、お光をさしだせ、とすごむ庄屋《しようや》である。見ているぶんには、愉快な貧乏人イジメであるが、当の本人は、憎さも憎し、日本放送協会である。  が、美空ひばりはどうだろう。あんなにも歌がうまく、少なくとも視聴者の前ではイヤミのひとつを言うこともなく、時には笑顔を見せ、かみつくこともなく、ヨダレもたらさず、全身から毛が生えているわけでもない。  嫌《きら》われる要素などどこにもないのである。にもかかわらず若者にとって、「オレ美空ひばりが好きなんだ」と告白することは「昨日は二回もマスかいちゃったよ、オレ」と告白するに等しい。いや、それ以上のことかもしれない。 「あたしって、どうして、こうダーティーなイメージが沁《し》みついているのかしら?」僕《ぼく》の書斎に、ひばりから電話があったのが十日前のことである。  ずいぶんと長い間、隠し続けてきたが、僕とひばりは幼ななじみで、ひばり&ひできとしてデュエットデビューを誓いあったほどだ。  あれから二十年、つもるハナシもあるからといって、僕は、ひばりと旅へ行くことにした。傷ツイタひばりの心をイヤスには、そうさ、旅が一番さ。 「ひでき、どこへ行くの?」 「都に行こう」  気まずい沈黙が、二人の間に流れた。僕は、都はるみのことだけは、絶対に言わないでいようという心が、かえって僕にミヤコと言わせてしまった。  京都タワーの夜景は、ラスベガスの夜しか知らぬひばりにとって、かえって新鮮だった。その夜、僕に心と体を許して、ひばりは、そのすくなめでない唇《くちびる》から、たくさんのコトバを吐いた。センメンキ一杯にはいた。 「ひばりちゃん」 「なあに?」 「僕、思うんだけど、ひばりちゃんには、無名な時代というのがないだろう、だから凡人向きじゃないんだよね。ひばりは、どうせオジョー、オジョーと言われてちやほやされたって。やっぱり苦労に苦労を重ねた昔を、スターの過去には欲しがるもんなんだ」 「でもひでき、今更、無名時代なんて、無理なハナシだわ」 「バカ——ッ! 甘ったれるな!」  旅の空が、知らず僕を森田健作にしていた。 「無名時代がなければツクレばいいんだ」 「ツクル?」 「それが、若さだ。そうともそれが青春さ。今でこそミソラひばりだけれど、昔は、シドレひばりだった。なんていうのはいい。シドレでは、ミソラより音楽的に高度すぎる。そうさ、ミソラひばりは天上界を飛んでいたシドレひばりが万人の為に贈られた天の声。転落した姿なんだ! 天上から堕《お》ちてきたひばりの苦しみの声を聞け!」  僕はゆっくりと紫色の煙を吐いていた。ひばりの心はもう明るくなっていた。ミヤコホテル902号室から眺《なが》める京都の朝焼けの中で、朝のひばりがさえずっていた。 “意外! ひばりが無名歌手? シドレひばり時代の写真見つかる”——フォーカスの冒頭の一ページが、こう飾られた日、この新連載の価値は見直されるだろう。  或《あるい》は、生涯《しようがい》見直されないかもしれない。 ●後記  ……お亡《な》くなりになった方ですからね。連載の最初だからまだ勢いがないな、オチばっかり気にしちゃって。この人は、死んでから好きになった。でも、大人ならいいけど、美空ひばりが好きな子どもって、なんか不気味な感じがするよね。   松田聖子 賛  松田聖子は、イマイチである。  いや松田聖子が、ではなくて、僕が今日の旅で聖子とおちあう駅が、栃木県の今市なのである。  この今市を起点とする旅路は、あの「愛国—→幸福」の切符販売で知られる、一時しのぎ商法を思いつく天才、国鉄にあやかってのことである。  今市から谷津田まで行くのである。 「今市《イマイチ》—→谷津田《ヤツタ》」の旅とあいなれば、最近、イヤなことばかりが続いていた聖子のイマイチの心も、開かれて、ヤッタリヤラレタリ楽しい旅路になるのではないか。  この行間は、手抜きではない。  松田聖子を今市駅で待っていた間なのである。  なかなか聖子は現われない。発車のベルが鳴っても、電車にのりこんでこない。やはり忙しいのだろう、そういえばいつも忙しそうだ。サイン会にふらっと現われて、「今市—→谷津田」の切符を渡して「僕、聖子チャンのファンです、こんど一緒に旅しませんか?」「え? ええ。暇だったら」あんな口約束ぐらいじゃ、一緒に旅行してくれない身分なのかもしれない……前に座っている十人並のムスメが、松田聖子だと気がつくまでには随分と時間がかかった。  聖子は、この旅に、素顔のままでやってきたのである。素顔と化粧した顔は、芸名と本名のギャップほどに開きがあった。  本名、蒲池法子《かまちのりこ》——福岡県久留米市生まれ。23歳。  元厚生省久留米出張所所長のムスメ。同時にブリの子供としても有名。  16歳の時、ミス・セブンティーンに応募して落選。 「あれは、16歳だったから、ミス・セブンティーンになれなかったの」と今でも信じている。  17歳で上京、辛《つら》く悲しい東京のひとり暮しになれるため、涙を流さず泣く術を体得。この特技を一般公開するや、たちまち人気者となる。  当時、混迷する日本社会は、ポスト山口百恵捜しにやっきとなっていたことは周知の通り。なにを勘違いしたか、松田聖子が、方々の街角で、ポストの真似《まね》をしているという噂《うわさ》が、芸能通の間で乱れ飛んだのもその頃《ころ》である。 「フリルのドレスは、えいえんです」という名言を吐いたこともある。一説では、フリオ・イグレシアスと長島茂雄のことを言わんとして舌ったらずになったとも言われる。  昨年の売上げ78億円、シングルレコード連続18曲1位。その余勢をかって、長年の夢、郷ひろみに手を出し、騒ぎ、わめき、泣き、別れ、そして今、笑っている。本人が思っていたほど、郷ひろみとのロマンスに日本国民は踊らされず。 「イマイチだったわねえ」  蒲池法子は、百恵—友和ロマンスぐらい世間が騒いでくれると思っていたのに、イマイチであった、その真の理由を知りたがっていた。電車は東北如何《いかん》線、今市——谷津田間の長いトンネルに入った。  アイドルNO・1でありながら、松田聖子はオナペットのNO・1ではない。では、オナペット聖子のライバルは誰《だれ》だろう、小泉今日子? 否《いな》。菊池桃子? 否。オナッターズ? 否。……同級生なのである。   あなたのオナペット初体験は?  一位 同級生のことを思って…  二位 担任の女の先生のことを思って…  三位 隣りのお姉さんのことを思って…  (電通性風俗情報リサーチ部調べ、ず)  このように身近で、金がかからず手を伸ばせば届きそうなところから青少年のオナニーはハジマル。  アイドルという遠い存在は、身近で安上がりなオナペットの中へ食いこんで行かなければならない。青少年のネヤまでも支配してこそ、名実ともにアイドルである。松田聖子は、その点でイマイチなのである。 「あたしに、イヤラシサが足りないっていうの?」  トンネルの中で、そうふくれる蒲池法子に僕は、とどめをさした。 「君のやっていることは、まだネンネだ。郷ひろみの後ガマに神田正輝を選んだのだって、郷ひろみの父親が、元、東京駅の助役であったことへのあてつけだ、ということに日本中の国民が気付いていないとでも思っているのか! そんな子供だましに、賢明な日本国民がのると思っているのか」  しまった! バレテいたか、と化けの皮がはがれるや蒲池法子にとりついていた怨霊《おんりよう》松田聖子は、ケケケと音をたてて去っていった。  そして目の前に残ったのは、なんでもなかった頃の蒲池法子である。  今市から谷津田までの長いトンネルから電車がでてきた時、遠のいていくトンネルの中で、怨霊が、最後に、 「ゴ——」  という呪《のろ》いの声をあげた。  怨霊松田聖子は、まだひとりの男にこだわっていたのである。 ●後記  書いたときは嫌いだったけど、今は憎まれ役だからかばってあげたい。このエッセイって憎しみから出発してるから、書いちゃうと浄化されて、あとは愛情だけが残る。   増田明美 賛  スポーツに、もしもは存在しない。  しかし、彼女の20歳《ハタチ》の誕生日に、なにか贈ってあげることができたならば、「もしも」を贈ってやりたかった。  ——野田秀樹、29歳、スポーツライター  この行間は、手抜きではない。  いきなり沢木耕太郎と化している自分に驚いて気を落ちつかせている間《ま》なのである。  もしも、彼女がせめて1メートル60センチあれば、42・195キロのマラソンにおいて500歩ぐらい節約できて、世界のトップランナーの尻《しり》ぐらいは見て走ることができただろう。  もしも彼女が、1メートル80センチあれば3000歩ぐらい節約できて、ベノイトやワイツとしのぎをけずることもできたろう。もしも彼女が、1メートル99センチあれば、1万歩ぐらい節約できて、北尾と相撲をとることも夢ではなかったろう。  もしも彼女が、3メートル70センチあれば、3万5千歩は節約できて、もう、これだけ節約できるならば、走らなくてもいいことになる。さらに、しつこく、もしも彼女が6メートル15センチあれば、12万歩は節約できて、42・195キロのマラソンでは、あまってしまい、マラソンを走る前に歩幅を返してもらえそうな勢いである。  とにかく彼女の前に、もしもをつけるとこんなにも偉大なマラソンランナーになれたはずなのである。  彼女——増田明美。ロサンゼルス五輪期待の星。にとどまった女の子。  たった一度きり模擬試験で早稲田大学文学部合格率60%を出したばっかりに、誰もが「とても早稲田大学なんか」と知っていながらなお、もしも万一を期待されて結局、駒沢大学におちついた受験生のような女の子。  太ったら走れないと信じこんで、レタスだけ食べて走った草食動物。貧血をおこしながら走る技巧派のマラソンランナー。  倒れても倒れても、なおたちあがらないマラソンランナー。  アンデルセンにあてつけがましく完走されたマラソンランナー。別名、逆アンデルセン。敗戦国日本の集合無意識「やっぱり日本人はダメダナー」を甦《よみが》えらせ大和民族の肉体的劣等性を知らしめたマラソンランナー。ああ、それでも……あの日、もしも、もしも、……あの日……  増田明美が「海が見たい」と言ってオリンピックの壮行会をすっぽかして、鎌倉へ行った日のことを覚えているだろうか。実は、あの日、増田明美はひとりではなかった。男の同伴者がいたのである。いや、その男こそが増田明美を鎌倉へ連れ去ったのである。  その頃、増田明美は悪夢の14・7キロ、貧血で倒れ、救急車で運ばれたかと思うと、カムバックし、カムバックしては突然、足の故障で走れなくなり、駄目《だめ》かと思うとカムバックし、したかと思うと血を吐いてみたりしていた。ほとんどカムバックが趣味になりかけていた。 「このままでは、明美が駄目になる」男は、そう思っていたのである。  男にとって鎌倉の町など、どうでも良かった。江ノ電に明美をのせたかった。  江ノ電は42・195キロと近い距離を走る。そして江ノ電は単線である。走り始めたら最後、後戻《あともど》りなどできない。マラソンとて同じだ、自《おの》ずとこの旅で明美はそのことを学ぶはずだった。いわば江ノ電は啓蒙《けいもう》的観光旅行であった。この旅さえうまくいけば、明美がロサンゼルスを完走し、あわよくばメダルも……男の心は知らず高揚していた。  藤沢から江ノ島へと向う、海の見える路面電車、江ノ電。その中にあって明美は終始無言であった。啓蒙にコトバはいらない。窓から見える風景で充分だ。それは、その男の、スポーツライターとしての信念だった。ますます沢木耕太郎と化していく自分に、男は再三再四ふるえおののきつつも、明美の海を見る瞳《ひとみ》が変っていくのに、確かな手応《てごた》えを感じていた。明美は、なにかを学びつつあった。 (そう、後戻りなどできないんだわ、私はやっぱり前へ前へと走るべきなんだわ)  九分九厘、明美がそのことを学びとった時、江ノ電は丁度、腰越《こしごえ》と別れを告げようとしていた。由比ケ浜のあたりであった。  と、その時! ガタアンと大きな音をたてて止ってしまったのである。ウンともスンとも言わず電車は故障してしまった。男はとっさに青ざめた。しまった!……こんな江ノ電から増田明美が一体、何を学びとるだろう……  ロサンゼルス五輪、増田明美が途中キケンをした時「ガタアン!」と声を出した話はあまりにも有名である。さらにまた、堂々と引退を表明した舌の根の乾かぬうちにカムバックを宣言した。カムバック病は治るどころか悪化しつつある。今では買い物に行くにも、5、6回カムバックするのだそうである。八百屋の店先で買い物の引退表明をすることもある。それもこれもすべて、増田明美のマラソン哲学が、江ノ電に根ざしているからである。止ろうが、後戻りしようが「かわいい!」と笑って許してもらえる、お客に甘ったれた江ノ電。あの日、もしも増田明美をのせた江ノ電が、鎌倉まで完走してくれていたならば……  途方にくれた男は増田明美についてこれ以上書くことを途中キケンし、スポーツライターとして引退を表明した。  男——29歳、元スポーツライター、沢木耕太郎になれなかった男、野田秀樹。 ●後記  なんか、やっぱり暗いよね、今でも。日本の女子マラソンって増田明美からはじまったでしょ。これってとりかえしがつかない。   上原ゆかり 賛  チャコちゃんもいた、アッちゃんもいた、ケンちゃんだっていた、皆川おさむ君もいたし、関口少年まででてきた、そしてなにより——、上原ゆかりがいた。  マーブル、マーブル、マーブル、マーブル、マーブルチョコレートの歌声にのって子役の時代が始まり、かわいい子供はゴッツウ銭になっていった。 「しかし、肥満ゆえにうけたチャコちゃん、アッちゃんは、肥満ゆえにこけた。ケーキ屋転業まではうまくいったケンちゃんも、洗濯《せんたく》屋の事業に手を出し失敗した。皆川おさむとて、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラーラッラ、と沈んでいく歌声からの再浮上はならなかった。関口少年こそ、なるほど現役でお騒がせはしているものの、そのイメージチェンジには誰もが、ついていけずにいる。だから、多分……もう、僕には……ゆかり、君しかいないんだ。あの日、あの頃、僕らに夢を見せてくれた、あの子役達の時代をソーカツしなければ、僕らは美しく老いていけない……」  人妻になつてゐる上原ゆかりに、の目をしやうとすると思はず、ソークワツとか美しく老いるなどと、大時代なコトバが飛びだした。  ソーカツがソースカツと、どう違うのかを説明する間に、新幹線は名古屋に到着していた。  やっとのことで「ソースカツとは違うのね」と上原ゆかりが納得してくれたものの、所は名古屋、今度はミソカツとソーカツの違いがわからぬといいだした。  これは厄介《やつかい》な問題を抱えこんだと思い、ソーカツとはミソカツのことだと当り障りなく答えたら、くるっとした丸い目で上原ゆかりは、ウソミターイと言った。マーブルちゃんの口癖にまで新しい時代の波はウソミターイに押しよせていた。  広島で呉《くれ》線にのりかえた。あずき色の電車に乗りこんだ時、はじめて僕の方から上原ゆかりに尋ねてみた。 「20年以上も昔のマーブルチョコレートの宣伝コピーを君は覚えているかい?」  一ツブ一ツブ色がついています。  ぜんぶで7色、虹《にじ》みたい。  おしゃれなチョコレートです。  食べたり、眺めたり、楽しさもイロイロ……。 〈マーブル〉といえば、カラーチョコのこと。日本にこれ一ツしかありません。  貴重な存在です。  めっそうもない、この行間は、手抜きではない。時の流れと移りゆく人の心に涙している間《ま》である。  かつて、マーブルチョコレートは《おしゃれなチョコレート》であったし、《貴重な存在》だったのである。  この二十年の間に我々は豊かさを代償に《貴重な存在》を失なったのである。失なったものの重みは、あまりに大きく、新聞記事のように書くのは、あまりにた易い。 「《ぜんぶで7色、虹みたい》の謳《うた》い文句を信じて、虹の7色の中には、あずき色やフジ色があると覚えこんだ子供も多かった。それほどマーブルは、僕らにとって《貴重な存在》だった。《食べたり、眺めたり、楽しさもイロイロ……》なんてものではなかった。第一、食べたり眺めたり、だけなら楽しさは、ふた通りのはずだ。色がわからなくなるほど、手のひらに、じいっと握りしめている奴《やつ》はいたが、眺める奴なんかいなかった。そして、なにより《食べたり眺めたり》そんなズサンな文句では片付けられないほどの楽しみを、マーブルは僕らに与えてくれた。鉄腕アトムのシールやカラースタンプが入っていた。食べ終った丸い筒のカラ箱は、ッポンと音がした。ッポンだよ。工夫をすれば糸電話になり、口にくわえればスピーカー、目にあてれば遠めがね。  そのほどよく長い丸筒は、空箱による工作の時間、車輪にエントツに大砲にと、大活躍をしたんだ」  そこまで話を終えた時、電車は、ようやく目的地に辿《たど》りついた。  呉線の竹原駅——そこから先は、徒歩で、でこぼこの田舎道を歩いた。ここは上原ゆかりではなくて、マーブルチョコレートゆかりの土地であった。竹原の工場で、今なお生産されているマーブルが、どんな姿に変り果てているのか、上原ゆかりと僕とふたりで、どうしても見届けたかったのだ。  ……そこではマーブルチョコレートのつぶつぶは、まるで米粒のようにゴミ入れの大きなビニール袋一杯につめられ、一�いくらで売られていた。ニセモノではないだろうか? マープルチョコとかマブールチョコなのではないか、微妙に名前と味を変えたニセモノ。いやしかし、マーブルにニセモノのあるはずがない。《日本にこれ一ツしかありません。貴重な存在です》とタンカをきったマーブルに限って……。  マーブルチョコレートは、やはり、ビニール袋に一�いくらで売られていたのだ。  しかし僕の知っているマーブルは、ッポンと音のする丸い筒に入ったあのマーブルだ。  なにより、その丸い筒を覗《のぞ》けば、向うからも覗いている上原ゆかりがいたはずなのだ。ビニール袋越しの関係になってしまった僕と上原ゆかりは、竹原という田舎町でお互いに覗くに覗けず、とまどったまま、いつまでも、とまどっていた。 ●後記  実はおれ、学生のころ、上原ゆかりにちょっと会ったことあるんだよね。ふつうの女子大生だった。偽者だったかもしれないけど。竹原の工場でつくってるっていうのは実話。好きなものに対してはどうも悪意の筆が鈍ってるな。   京塚昌子 賛  京塚昌子——五十五歳、本名肝っ玉かあさん。他人の失敗も、どーんと胸たたいて「まかせなさい」と大笑い。それでも駄目なら「くじけちゃ駄目よ」とまた、あの肥満体をゆすって大笑い。考えてみれば笑っているのは他人の失敗。  肥満、大笑い、他人の失敗ゆえの不屈の精神、この三拍子、これが、日本のオフクロと評判をとったわけだが、キャップ、どうもこの話は、うますぎますよ。  そうか山さん、じゃあその線で洗ってくれ。  はい。  というわけで今月は京塚昌子と旅をして背中を洗うことになった。日本のオフクロの疑いがかかっている、代表的背中をとことん洗うのである。  しかも、はじめての海外進出をはかる船旅である。京塚昌子と二人連れではこころもとないので、僕は山さんを連れて行った。  他人の失敗ゆえの不屈の精神——これは、オフクロの特徴というよりも、ホモサピエンス全般の特徴である。「大丈夫よ、なんとかなるわよ」「また、がんばればいいじゃないの」「立つんだ、ジョー」転んでいるのが他人だと思うと、こういうコトバがすらすらでる。人類の特徴である。オフクロに限ったことではない。むしろこの旅で、僕と山さんが、シロクロをはっきりさせたいのは、肥満で大笑いするのが、日本のオフクロにふさわしいかどうかなのである。  東京湾を後ろに見て、豪華客船メイフラワー号は、はるけき太平洋に出た。 「山さん。肥満、大笑い、まかせなさい、この三拍子は、ブルガリアジャムの作り方を思い出させる。やはり日本のオフクロというのは、やせこけていて、背負ってみれば石川木、くらいの目方でなくてはならない。日本のオフクロとは《わが子の体重の半分から四分の三》の肉の袋。これが理想ではないだろうか」 「うむ」ミッドウェーを船が通る頃、山さんは目を閉じてうなずくだけだった。 「しかも《わが子の体重の四分の三》のオフクロよりも《わが子の体重の半分》のオフクロの方が、オフクロとしての価値は高い。ここが、牛、豚との違いだ。特にオフクロというものを連れて歩いて、世間に親孝行を見せびらかすような非常用のオフクロとしては《わが子の体重の半分》しかないオフクロは最適だ。『うわあー、親孝行が歩いているうー』という感じがするだろう。そんな場合は、時に《わが子の体重の半分》しかないオフクロを人知れずつついて、フラアッとさせると余計、世間の歓心を買うんだ」  ミッドウェーの波しぶきを受け黙祷《もくとう》していた山さんが鋭く反撃してきた。 「《わが子の体重の四分の三》以上《わが子の体重と同じ》以下のオフクロを連れて歩いても、親子二人は仲よく見えるだろう」  僕は、ニンマリ「山さん、いかにも幸福そうには見えるが同情は買えない。あの年になってまで親子で歩くなんて、少しあの家《うち》おかしくない? そういえばオークさん、中学校3年の時まで一緒にお風呂《ふろ》に入ったりなんて、きいてますよー、と噂《うわさ》のえじきになりやすいのもこのクラス、《わが子の体重の四分の三》以上《わが子の体重と同じ》以下のオフクロである。だから理想は、あくまで《わが子の体重の四分の三》以下だ。しかし、今問題なのは——」  山さんと僕は、そこで顔を見合わせ、甲板後方にいる京塚昌子の方を見やった。彼女は船のオモリとしてタダノリさせてもらっていた。  しかし今問題なのは——そうなのである。《わが子の体重と同じ》以上の場合、しかも大変言いにくいゆえに、書きやすいことだが、京塚昌子の場合は、超《わが子の体重と同じ》以上クラスである。柔道でいえば山下選手がいるような難しい階級である。比喩《ひゆ》ではなくて、親を負ぶったら骨が折れるのは、このクラスである。首輪をして連れて歩こうにも、首のまわりがフラフープぐらいある。いつ、こちらがひきずられるかわからない。一旦《いつたん》ひきずられはじめたがサイゴ、馬のうしろに手首しばられ、ひきずられる極刑のように町中のさらしものになってしまう。  さすがの僕も、京塚昌子が、どうしたら日本のオフクロに見えたりするのか、悩み悩んだ挙句、思いついたのが、初の海外進出の船旅だった。  ところはオアフ島。小錦のフルサトである。そこはまた、日本のオフクロの疑いのある京塚昌子を「ほんもののオフクロにしてあげるためのフルサト」でもありはしないか?  小錦がゴロゴロしているというオアフ島、さすがの彼女も《わが子の体重の半分》のオフクロに見えて、軽いね母さんと言われそうだ。  豪華客船メイフラワー号が、旅の終りを告げる汽笛を鳴らしオアフ港に着いた。はしけにかかるキザハシを京塚昌子が降りていった。旅の間中、京塚昌子から逃げまわっていた僕と山さんは二週間ぶりに彼女を見た。すると彼女はオソルベキ変化を遂げていた。豪華で優雅で動くことのない船旅に、肥満は巨大化し、旅の前の二倍になっている。小錦にまさるとも劣らない。京塚昌子は、オアフ島でも超《わが子の体重と同じ》以上級に所属し、大笑いしていた。不屈の精神で太っていた。 「やっぱり山さん、京塚昌子は、アリバイがありますぜっ」 「シロか」 「はい。オフシロです。……コホン」 ●後記  なんでこんなの書いたのかな。記憶喪失だ。若人あきらが書いたみたいだな。最近、京塚さんのお姿を見ませんね。そういえば、皇太后に似た方ですね。   山崎浩子 賛  脱いで稼《かせ》いだポルノ女優が、人気がでると服を着る。  服を着ていたアイドル歌手も人気が落ちれば服脱ぎすてる。  タレントの服一枚、人気百万人。  人気稼業《かぎよう》の服や皮は薄い方が良い。  ましてレオタード、ああ新体操。  山崎浩子——愛称ヒロ、25歳。鹿児島県種子《たねが》島《しま》生まれ。  公称、新体操を日本に普及させた女性。  通称、レオタード一枚で首の繋《つなが》っていた娘。こまたのキレアガッタ女という意味を全国的に誤解させた女性としても名高い。  俗称、変死体で見つかると美人と書かれやすい女性、内縁関係でもつれると、男好きのする女と書かれやすい女性、自殺などしようものなら、覚えもないのに死人に口なし、男狂いなどと書かれやすい女性。  詐称《さしよう》、クイズダービー出演中のタレント。  服を着こんだ山崎浩子が、タレントでないことは一目瞭然《りようぜん》である。  鋭角15フレオタードをはいて、なんぼの女である。キュッとしまった尻の肉をつきあげて、躍動する汗にオクレ毛がうなじに巻きついてなんぼの女である。  僕は、こういうことは、はっきりさせておきたい。  イヤラシイものだけが美しい。  だのにヒロ、なぜかヒロ、ああ新体操。  ヒロは、新体操の女王を返上し、あたしタレントになります! と決意した門出の席で、大粒の涙を流した。  晴れがましい旅立ち——だのに涙。  その涙は、シーズンオフに喘《あえ》ぐスポーツ新聞の見出しにとって恵みの雨となった。  どうでもいいと思いつつも、暇に任せて読まずにいられない、あのシーズンオフの見出し独特のふんいきを漂わせて、こう問いかけられた。 「ヒロの涙の真相やいかに?」  ……………………………………そして、その答は、まだかえってきていない。  僕とヒロは、鹿児島・宮崎ミニ周遊券を手にしていた。  僕もヒロも思わず流したヒロの涙のルーツを知りたかった。  スポーツ新聞の見出しは、こう伝えている。 「周囲に負けてタレントになった」  けれど、あれほど日本国内で無敵を誇り勝ちつづけていたヒロが、周囲ぐらいに負けるものだろうか?  日本国内というのは山崎浩子の周囲よりも弱いものだったのだろうか。  僕とヒロが周遊券を手にしたのは、そんなわけだった。  日本の周囲をめぐることで、ヒロが、なんに負けてタレントになり、なんに負かされて涙を流したのか。  できれば僕は、ヒロがこの旅で、また一枚脱皮してレオタードの皮に戻ることをのぞんでいた。いや、もっと脱皮したっていい。ヒロが、なんに負けたのか、その答さえわかれば……。  けれど南九州を14日間ぐるぐるとめぐっても、亜熱帯観葉植物と野生の馬しか見えてはこなかった。鼻につくのも、焼酎《しようちゆう》の臭《にお》いばかりであった。  僕とヒロは、フェニックス公園で、新婚連れに間違えられこそすれ、まさかヒロの人生を占う旅の道連れには、とうてい見られなかった。 「なぜ、あたしはタレントなんかに……」  ヒロのこの真摯《しんし》な人生の問いかけに対して、南九州の風土がよこした返事は、火山灰ばかりであった。  周遊券のようにヒロの問いかけは、ぐるぐると頭をめぐった。  いたずらに時間ばかりがすぎていった。  僕は、のこりわずか、8時間しか使えない周遊券を見つめた。  答のでぬまま、この旅は終るのか。  旅の終り、それはヒロが洋服を着こんだタレントになることを意味していた。  なぜだヒロ、ましてレオタード、ああ新体操。  ……と半ば僕があきらめかけていた時、ヒロは、周遊券をビリッと破いたのだ! 「あたしのルーツは、めぐることではないわ。周囲なんかに負けたんじゃない! あたしの故郷は種子島!」  本土最南端、佐多岬《さたみさき》の風を頬《ほお》にうけて、ヒロが、そう呟《つぶや》くのを耳にした。  岬には霧がたちこめて、遠くの景色は見えなかった。  しかし、ヒロには見えていた。  幻想の種子島、ヒロのフルサト、戻ることのできない故郷が。  種子島——それは鉄砲伝来の地、そこに生まれ育った人々は、島から出て行ったがサイゴ、決して戻ってこない、鉄砲玉の人種と言われている。  そこでは人々は、どんなに晴れがましい門出であったとしても、決してそこへ戻ってこないことを知っている。  門出だというのに涙を流す風習があったのである。 「ヒロの涙の真相」それは、ぬいだが最後、再びレオタードを着るところへは戻ってこない、鉄砲玉人種の末裔《まつえい》、ヒロが感じた宿命への涙だったのだろうか。はたまた宿命に挑《いど》み、鉄砲玉の人種に別れを告げた訣別《けつべつ》の意思表示だったのだろうか?……そしてその答もまた、いまだ、いったきりでかえってこない。 ●後記  これ書いた直後に、ご本人に会ったもんだから、おれ赤面しちゃって。でもやっぱり、服を着たらただのヒトだよね。とはいっても、マラソンと違って新体操は山崎浩子ではじまったから、まだ将来がある。   瀬古美恵 賛  アンナ・カレーニナへの疑惑が持ち上った。さっそく僕は木場へでむいた。アンナ・カレーニナは花嫁衣裳《いしよう》を身にまとい、おろしたての材木の筏《いかだ》に乗りながら、でむかえてくれた。  疑惑の渦中《かちゆう》にある花嫁、アンナ・カレーニナと呼ばれる女——瀬古(旧姓渡辺)美恵。26歳。材木問屋のひとり娘、美貌《びぼう》も学問も文字通り、金そなえた女性。だのに何故、あんな男のところへ。よりによってあんな彼の元に。……あんな彼にな。  アンナ彼——瀬古利彦。28歳。世界一面白《おもしろ》くない男。見ただけで冗談の通じないとわかる男。そしてなにより、性犯罪に走る代りにマラソンコースを走っていたと疑われている男である。 「そんな言い方って、ないと思います」  けなげにもアンナ・カレーニナは、アンナ彼をかばった。それが僕には異常なまでのかばい方に見えた。なにかある! 「アベベもショーターも君原も走る姿に哲学があった。でもあなたの旦那《だんな》、瀬古利彦にはそれがない。ペニスむきだしで走っているようなその姿は、スポーツの祭典というよりも性の饗宴《きようえん》というにふさわしかった。勝利者へのインタビューに答えて、おどおどと小刻みに動かす瞳《ひとみ》は、42・195キロを走り終えた世界的マラソンランナーというよりも、事を成就《じようじゆ》した超一流の性犯罪者の風格があった」  僕の話をここまで聞くと、アンナ・カレーニナに動揺の色が見え始めた。サバババアーンと材木を海へ流す音を耳に、アンナ・カレーニナはじいっと目をつむっていた。やがて重い口を開きアンナ彼について語り始めた。 「瀬古はきっと、中学生の頃から、すごくやりたかったのだと思います」「やりたかった?」「けれども保健体育の中村先生の教えを守ったんです」「どんな教えです?」「『思春期の青少年のおさえきれない性の衝動は、スポーツで発散するべきだ』という教えです。いえ、その教えを守ったどころか進んで利用したんです。やりたい、やりたい、やりたい心を、おさえて、おさえて、おさえつづけて、マラソンの当日に、一気に走って、走って、走りまくっていたんです」 「やはり性犯罪に走る代りに……」  アンナ・カレーニナは黙った。黙った目が、かえってものを言った。……………………それでも瀬古が勝っているうちは、それはそれで良かった。“やると思うな思えば負けよ”瀬古の部屋にはられた中村先生の庭訓《ていきん》には神通力があった。  しかし、ある日、瀬古はあっさり負けた。やらなかったのに負けた。やれないうえに負けた。こんなことならやっときゃ良かった。瀬古は、そう思った。ちんぽの先からそう思った。今や瀬古は、性犯罪者の本性をむきだしにした。 「女性なら誰《だれ》でもかまいません」  瀬古は公然と言ってのけた。公衆電話のソバに、こっそりとよくそんなセリフの書かれた紙きれを見かけることがある。世間は、英雄瀬古利彦の嫁とり宣言だと、体《てい》よくとりつくろったが、明らかに女買いである。  瀬古利彦だからやれたのである。  しかし、まさか、そんな歴然とした性犯罪行為がこの法治国家でまかり通るはずがあるまい、性犯罪者に嫁ぐムスメはおるまい。人間の良識と性善を信じる者は誰もがそう思った。  ところが、いたのである。そんな娘が。 「それが、あなたなんです〓」  ……その声に、びくっとしたようにアンナ・カレーニナは黙ってうなずいた。もはやとりかえしのつかない性犯罪に手を貸したことを認めていた。 「美恵さん。相手がまだしも、相撲とりならば、あきらめがつく。相撲とりの元へ嫁に行く女というのも、ちょっと考えると信じられない。けれど、相撲とりの元へ嫁ぐという感覚は、現実離れしすぎていて、まあさかあ、そおんなあ、バアカナア、という度がすぎていて、かえってわかる気がする。相手は相撲とりだ。よっぽどなにか、ヒトに言えない深い深いワケのある感じがする。世の中には絶対にあってはならないことがおこる。それが奇蹟《きせき》だ。だから朝潮太郎に嫁がきた。こういう筋道で納得することができる。相撲とりの嫁なら、あんな彼になとは言われない。皆なあきれてモノが言えない、笑う他《ほか》ない感じがある。あんな彼になと後ろ指さされるのは瀬古の花嫁。あなたひとりだ!」  アンナ・カレーニナをここまで追いつめ、もはや自白は時間の問題だと思った。  その時、突然、ズズズズズグワンという異常な音がした。もはや、材木をきったり、流したりする音ではなかった。海が渦《うず》を巻く音であった。いつしかアンナ・カレーニナと僕をのせた筏は、江戸深川の木場町から流れ流れて、瀬戸内へ入る鳴門《なると》の渦に巻きこまれていた。そこは瀬古の花嫁の入口であり、この完全性犯罪の疑惑の出口だった。アンナ・カレーニナが、再び口を開いた。鳴門の大渦の轟音《ごうおん》にまぎれて、そのコトバはききとれなかった。しかし僕は鳴門と疑惑の渦中にある瀬古の花嫁が、潔《いさぎよ》く自白する、その大団円の唇を懸命によみとろうとした。  ところが、よみとったその唇は、なんとこう言っていた。 「あんた、ひがんでるだけじゃないの?」  アンナ・カレーニナはしたたかな女だった。これまでの沈黙は、完全性犯罪を認めようとするそれではなかった。こちらの本心を見抜く為の沈黙にすぎなかった。  そして、美事に本心は見抜かれていた。  あんな彼にな——それは、ただのひがみだった。 ●後記  どうしてこんなきれいな女性が瀬古なんかの嫁さんになったのか、っていう怒りだけが書かせた原稿。でも、瀬古も最近ちょっと人間らしくなった。むかしは犯罪者みたいだったもん。あのころは不幸につきまとわれてたから。保険金掛けられたらちょっとこわいよね。   マドンナ 賛  最近、私は“マドンナの宝石”と呼ばれる真珠を手に入れた。マドンナの宝石は願い事を叶《かな》えてくれる、と昔から言われている。  書いてみてびっくりしたが「昔から言われている」をつけると嘘《うそ》に太鼓判を押し、責任を昔の人に押しつけることができる。 「阪神タイガースが強い年は、株に手を出すなと昔から言われている」  実にまことしやかだ。 「台風の日に、年寄りを外へ放《ほう》り出すとせいせいする、と昔から言われている」  当り前のことでさえ説得力が違う。  気をつけいっ! 礼! 休め!  話はマドンナの宝石であった。さっそく私は、宝石を前にして願い事をしてみた。 「骨休みに温泉にでも行ってみたいなあ」という現世利益追求型の願い事をした。  マドンナの宝石は、さっそく私の願い事をかなえてくれた。私は、晴れて骨休みできることになった。有難《ありがた》いことである。病院のベッドの上で、今、私は骨を休めている。肉と皮がいためつけられたからである。まことに有難い、実話だけに有難いことである。だれが、こんな姿で骨休みさせてくれって頼んだのよう。  つくづく「骨休みして下さい」とは、末おそろしいコトバだ。つきつめれば「骨になって休んで下さい」早い話が「死んで焼かれて骨休み、ヤーイのヤイのヤイ」ということである。  マドンナの宝石は、そこまで極端に願い事をかなえはしなかった。  そう信じていた。つい、さっきまで……。  コン、コンと病室の扉《とびら》がノックされた。  ふつうの人間のノックとは明らかに違った。病室内に異様な空気が流れ、異臭がたちこめた。まずい! 逃げようと思った時は遅かった。 「お迎えにあがりました」  死神だった。死神は眼鏡をかけて背が高かった。小説新潮の編集者に化けていた。 「今月は、マドンナのおねえさんといっしょの旅行記を書く約束だったでしょ」  死神は、この場におよんでそういうのだ。この場とは病室である。 「ぼ、ぼ、ぼ、僕は今、病院の先生に絶対安静と言われているんだ!」  病躯《びようく》に鞭《むち》打ち、渾身《こんしん》の力をふりしぼってそう答えると死神は、ニンマリ、 「よろしい、たっぷり骨休みはさせてあげましょう。ふふ、たっぷりとね。どうです? マドンナと一緒に温泉旅行というのは」  私はドキッとした。マドンナの宝石にかけた願い通りになりそうではないか、吉とでるのか、凶とでるのか。 「野田さんが、マドンナのことを坊っちゃんのマドンナと取り違えて道後温泉に連れて行っちゃう、というのはどうです?」 「取り違える?」 「マドンナと漱石のマドンナとをですよ」 「じゃあ、今月のマドンナっていうのは……もしかしたら、あの銀行員用語で言うところの『おしりとおっぱいをプリプリふって日本円を稼《かせ》ぐ毛唐』のことか?」 「ハイ」  さすが死神、話を灰《ハイ》とするその素早さ。  ふらつく腰で、私とマドンナは道後温泉の湯畑にいた。イオウのイオウな臭いと言ってみたが、マドンナにはさっぱりうけなかった。まったく頭の悪そうな女だ。SEXの事しか考えていないのに違いない。そもそもマドンナのイメージは、当て字を当てるならば窓女か惑女、どこかハイカラで知的な日本女性と昔から言われていたのである。それを、この全身お尻みたいな女が『ライク・ア・バージン』という『処女好き』としか誤訳しようのない唄《うた》を歌ってからというもの、マドンナ=女の獣性というイメージになり下がってしまったのである。  よくもよくもあのハイカラな惑女《マドンナ》を、こうまで台無しにしてくれたわいっ、憎さも憎し、ええいっ、このお尻女、獣女《マドンナ》、そこになおれいっ! 成敗してくれるわっ!  という勢いで私は、この道後温泉までマドンナに同伴するふりをして命をつけ狙《ねら》ってきたのである。病身をひきずって。隙《すき》あらば必ず、このマドンナの首にヒモをくくりつけて獣ならば獣らしく、やい女! 道後温泉内を市中おひきずりの刑にしてくれるわ。マドンナの後ろから様子をうかがい、湯煙りの中を歩いた。「山嵐《やまあらし》弁当はいらんかなもし」「うらなりまんじゅうは食わんかなもし」という売り子の声も耳に入らぬほど、マドンナの後ろ姿に私の視線は集中していた。女豹《めひよう》をとらえるリヴィングストンのような心持ちでいた。次第に私の目は、マドンナの尻の揺れになれてきた。なれてきたということは、尻に対する敵意が好意に変ってきたということである。さらに三十分歩くうちに下駄《げた》の鼻緒と鼻の下がのび、好意《こーい》は恋《こい》にちぢんでしまった。私の唇《くちびる》からいつしか『ライク・ア・バージン』が漏れていた。揺れる尻の催眠術にでもかかったのか。意志が強固堅牢《けんろう》で名高い私が、どうしてこのマドンナという女の尻の前では魔力にでもかかったようにかくもあっさりと心なびくのかが不思議であった。  ハタと、自分の姓に思い当った。  野田である。野田いこはマドンナの尻の後を調子よく歩く太鼓もちである、と昔から言われていることを思い出した。 「ヘイ、ヘイ、そりゃもう……あっ、マドンナの姐《ねえ》さまあ、そんな早く歩いちゃっちゃイヤですよう」  どうみても、市中をひきずられ、この身を恋に焼かれ骨になりそうなのは、この私の方であった。マドンナの宝石は着々と、骨休みの願い事を実現しつつあった。 ●後記  これを書いたときから、この連載エッセイも全盛期を迎えるわけですね。マドンナの近況は……。そうそう、東スポかなんかの見出しで「マドンナ永眠の準備」っていうのだけ見たな。いろいろ想像してたんだけど。そうか、お墓買ったのか。マドンナのお墓って欲しいよね。骨もいいな。   あみん 賛  ここに二つの人間蒸発リポートがある。 【あみん】——本名、岡村孝子と加藤晴子。  アダ名、タカコにハコ。当時21歳。  当時フォーク歌手を装った演歌歌手。  当時「待つわ」のみで大ヒット。以後待たれず。  当時名古屋在住の女子大生。著しく出身地のセンスがアダ名に反映したミソカツのような女の子。ジーパンしか似合わない女の子。  蒸発年月日、昭和57年の年の瀬。  蒸発時の情況、町のパチンコ屋、有線放送、五反田の電器屋の店先に流れていた唯一《ゆいいつ》のヒット曲「待つわ」が、年おしつまると、ジングルベルやアンディ・ウィリアムスのホワイトクリスマス、サンタがママにキスをした、などに縄《なわ》ばりを荒され、ある日パタリと、どこからも「待つわ」が流れなくなる。同時にあみんも蒸発。風の便りに「フツウの女子大生に戻《もど》る」と耳にするものの、それは「うんこに戻る」も同じである。言いすぎだと言うのならば「うんこを食べる」も同じである。あまりかわらないというなら「うんこをなめる」でもいい、いや「うんこをかじる」ドロヌマだっ!  ドロヌマに消え、二度と待たれない、あはれあみんのサダメではあった。 【アミン】——本名、イディ・アミン。  アダ名、イディ・アミン。  当時、アダ名もつけてもらえないほど親しみもたれぬ嫌《きら》われもの。当時51歳。  当時ウガンダの大統領。  当時、弾圧に走り、虐殺《ぎやくさつ》の攻め、迫害の守りと、走攻守三拍子そろった独裁者。  当時、はみだしYOUとぴあで「衝撃のそっくりさんシリーズ、アミンの顔と児玉誉士夫の顔」と出なかったが為、若者の政治への無関心、ついにここまでと共産党員をなげかせる。  蒸発年月日、昭和54年4月。  蒸発時の情況、タンザニアに一方的に押しまくられ、こらえ性もなく土俵をわり国外亡命した姿は、アフリカの琴風といわれた。あれっ? 琴風どうした? まだ相撲とってた? とってます、東前頭10枚目で。ま、消えるのも時間の問題か。という風に、アミンもまた二度と待たれぬサダメのアミンではあったことよのう。に、詠嘆の気持ちがこめられています。  私が、飛行機でウガンダの首都カンパラに降りたったのは、キキンにあえぐアフリカの様子をヒヤカシではない、見に行くためであった。こういう事はヒヤカシで書いてはいけない、おしかりをうける。だからくれぐれもヒヤカシではない。が、私にはひとつの確信があった。  何故《な ぜ》、今年、突如として日本のアフリカへのキキン援助が盛りあがったか。「今年から急に日本人の性格は変ったのである」と唱えた人もいる。それは私です。しかし考えてみれば、今日までこれほど純粋な島国根性で「なんで、わてのもうけたゼニをひとにやらな、あかんの。ビタ一文、使い古しのちり紙一枚、ヒトにはやらん」という姿勢を貫いてきた、わが内なる大阪、大いなる日本人が急に目尻《めじり》を下げて「ウィアーザワール」と意味もよくわからぬ英語に肩組んで、使い古しの毛布をアフリカへ送りはじめたのは、不思議このうえない。今、アフリカでは、毛布を主食にする国も現われたという。  このアフリカ支援フィーバーぶりは、どういうわけか、日本人の心をどうやってとらえたのだろう。どんなチカラが日本人の魂をゆさぶったのか。  長島茂雄の頬髯《ほおひげ》にも似た内容の濃い「いわゆるひとつの、可哀相《かわいそう》ですね」という熱弁。いじめか車内暴力かキキン、どれかをとりあげていないと寝ざめの悪い正義の新聞社。地震か大惨事かキキンか、とにかく不幸な人を見ないではいられない午後三時ごろの主婦。こうした人々の日々の支えも確かにアフリカ支援フィーバーにはなくてはならないものである。  しかしこのアフリカを支援しようと流行している姿は、まさにヒット曲が突然ヒットチャートをフロックでのぼりはじめたごとき盛り上りである。私はピンと来た。  これは演歌だ。アフリカのどこかに演歌の心が流れているのだ。一体どんな……?  ヘリコプターで、さらに奥地へと舞い降りると、私はアフリカの広野を、編上げにからみついてくるサソリや頭の上の木から降ってくるヘビなどを手で払いおとしながら歩いた。日本人の魂をゆさぶる音楽の方向へ、しゃにむに歩いた。アフリカの奥地にその歌を捜した。川口浩が何故横にいないのかと思うほど、歩きつづけた。遠くにほのか、歌がきこえてきた。私は最後のジャングルを駈《か》けぬけ大河を渡り、漸《ようや》く最後の茂みも払い、そこで目にし耳にしたものは黒人の大合唱であった。「待あつわ!」と歌っているではないか。 「まあつうわ、いつまでも待あつわ。たとえあなたがふりむいてくれなくても」  黒人が支援物資を待つ歌としてあみんの歌は生きていた。いや、そればかりではない。私は目を疑った。その黒人の輪の中心には、亡命したアミンではなく、あのあみんがいたのである。はじめて女子大生が、社会に役立った感動的な日を私は一生忘れはしない。  ただ、なぜあみんがアフリカへ現われたのだろう。あみんとアミンが日本とウガンダの間で隠密《おんみつ》にシーズンオフにトレードされたのだとすれば、この日本に迫害と虐殺が始まる日も近いのかもしれない。 ●後記  これだけは先を読みまちがった。蒸発したはずの岡村孝子がもどってきてしまった(笑)。まあしかし、半分は当たったわけだから、たいへんなことですよ。しかし、「待つわ」って、この歌、ほんとに嫌いだったな。五反田で稽古してたとき、角に電器屋があって、毎日こればっかかけてるの。「軍艦マーチ」のほうがまだましだな。いまは「愛は勝つ」がおんなじくらい嫌い。   三浦良枝 賛 「三浦和義を社会的に葬《ほうむ》ることだけは絶対に許しません」——三浦良枝(27)  僕も同感である。  社会的に葬るには惜しい人だ。なにより夫婦愛の新しい形を、社会に提示したのだから。  かつて三浦和義ほどはっきりと「妻は夫にとって、かけがえのない財産である」ことを金額で示した人間がいただろうか。  愛妻家のふりをするのはたやすい。しかし「ではあなたの奥さんは、どのくらいの財産ですか?」と聞けば、返答につまるような愛妻家が多い。そのていどの愛妻家ぶりで、ぶるんじゃねえよっ、足がくさいぜっ。 「私の妻は、一億五千万円ほどのお値段でした」と言ってのけたのが三浦和義であり、言われてのけぞったのがフツウの夫である。  突然ですが、日航機事故がのこした教訓はサマザマある。「確かに、恋は焦《こ》がれる」とか「人間は皮一枚にだってなれる」とか書いてみて大丈夫かと思うほど、ぞっとする教訓である。反省している。口づけするほどおわびしたい。しかしなんと言っても「人間、主婦に生まれたら損、お値段が格安」この教訓である。日航機事故の補償金では、フツウの主婦は一番安い。三ツか四ツの子供と同じ値段だ。人間の生命《いのち》は、どんなにお金をつんでも償えるものではないと言いながら何千万円かのハシタ金で償っている。万一、自分の女房《にようぼう》が事故にあって、何千万円かの金と引き換えになることがわかっていたら、いっそ今の今のたった今、一億五千万円と取りかえてやった方が、どれほど妻に女としてのハクがつき喜んでくれることだろう。  そう考えるのが人情である。フツウそこまで考えは発展しませんよ。という夫はよっぽど人情味がない。フツウの夫は、そのくらい発展的にものごとを考えるべきである。  それにしても、フツウとはなにかを考えさせられる毎日である。 「そうでしょう。誰《だれ》もなにが、フツウかなんて決められるもんですか」  雪化粧をはじめた北海道の平野を窓の外に見やり、三浦良枝はさらに北へと向う列車の中でそう云《い》った。 「あたし達にとっては、夫婦とはホームドラマを創《つく》っていくゲームなの」  ——ゲームというのはもしかして……エンマで黒びかりする夫のチンポを一般公開した、あのゲームのことだろうか? 「まあ、あれもそうね。落合と西本+篠塚を交換しようって御時世よ、夫や妻を交換してどこがワルイノ。長いからダラッとしてんのよ」  ——突然何を言い出すんです。 「昭和よ」  ——はい? 「昭和が長すぎて、ダレきってんのよ」  ——ああ、びっくりした。エンマのチンポの後で、長いのダレルの言うから。まさか話が昭和にとんでいるとは……。 「昭和なんか30年ぐらいでやめておけば良かったのよ、戦争があって立ち直りました、みんなすっきりああよかった、昭和とは歯が治ったような時代だって孫にも説明しやすかったわけよ。それが60年もつづくから、後先がわかんなくなって、昭和46年と47年なんか、そうっとひっくりかえしたって、気がつく人なんかいやしないわよ。40年代と50年代を総取っかえしようっていう噂《うわさ》もあんのよ。なあんかさ、もう、皆なで暇をもてあましちゃって、なにかむしゃくしゃしちゃう、なんだって言うの? 田中角栄がワルイのよ、でなけりゃ江川よ、それでなかったら、今ダレが一番悪いの? 三浦? だったらそいつよ、三浦ってやつがワルイのよー。それでうちの和義さんが世紀の大悪党になっちゃったわけ。言っときますけどねえ、あの人は無実よ」  三浦良枝は、どこまでも夫を思う女であった。僕は来年、網走《あばしり》で慰問芝居をするその下見に、三浦良枝はその刑務所を下見に網走へ向っていた。夫の無実を信じながら、それでいて夫の入る刑務所を早々と社会見学へ行く用意周到さ。それこそが彼女のすべて「してやったりわが女房」と人の女房を賞《ほ》めてやりたい。彼女が用意周到にマスコミ撃退用に買った痴漢撃退用の携帯スプレー、マスコミを痴漢扱いすることで既にマスコミは一撃をくらわされている。彼女はそこまで考えている。夫の逮捕に備えても声明文と、その声明文用の声色を用意し、疑惑の夫の妻にふさわしく華麗な前歴までも用意して、それでいながら料理上手というけなげさ、そこまで用意しているかと思うと、ほんとは用意なんかしてなかったのではないかと思うほどだ。そして今、刑務所に入るであろう夫の身を案じ、刑務所を下見し、万一のことがあってはならないと夫に内緒で、そうっと一億五千万円の保険を夫にかけてさえいるという。 「あの人はあたしのかけがえのない財産」そう言いながら、くったくなく笑う三浦良枝に、僕は頼もしささえ感じた。犯罪者の女房にしておくにはもったいない。犯罪者にしたい女である。 「社会的に三浦を葬ることは絶対に許しません。社会的なんて……葬るなら、はっきりとした形でやってもらわなくちゃ」  葬るか葬られるか、それが三浦夫妻のホームルドラマだ。そう感づいた時、列車は止ってしまった。車内放送があった。 「ただ今、留萌《るもい》—網走間で電車はフツウになっております」  きっと、なにもかもフツウになってしまったのだろう。 ●後記  おれ、行ったんだよね、三浦良枝の店。フルハム・ロード・ヨシエだっけ? いたよ、いた、三浦良枝が。でかいの。大女。身長二メートル八八のぼくが大きいなと思った女の人は、この人と桐島かれんと和田アキ子だけだな。   大原麗子 賛  昼間はとても紳士で、見るからにエリートで理知的な男が、実は夜になると女装趣味があったり、SMクラブへ通う趣味のあることが知れた時の驚き——これが、大原麗子ともあろう女優が、森進一と一緒になった時の驚きに、もっとも近い。 「えっ、そんな趣味があったのう〓」なのである。  そんな趣味というのは、森進一的な趣味ということである。森進一的な、あまりにも森進一的な……。  変態というのは、一見理解しがたいようだが、合理的にできている。Sの趣味にMの趣味が一対一対応し、タチ役があってネコ役がある。いや……その……別に、森進一的趣味が変態というのではない。けれども森進一的趣味を、サドの鞭《ムチ》にたとえるならば、そのムチをうける大原麗子的趣味があるはずなのである。永遠のマドンナ大原麗子を知る為には、一対一対応する森進一的趣味を知ることから始めなくてはなるまい。  森進一的趣味:その1(金銭感覚)——銀行を見たらドロボーと思う感覚。金が金を生んだりしたら、かえって金の養育費がかかるだろうという思いこみ。金だろうが子供だろうが、生むということは損であると信じて疑わない感覚。  窮極的に、反生物系を標榜《ひようぼう》するニヒリスト。具体的には、銀行に金を預けず、タンスにしまいこんでいたタダのケチ。  森進一的趣味:その2(言語感覚)——今晩は森進一です。ひとことしか喋《しやべ》らない、もしくは喋れない。たったひと言で、全人格を表現でき尊敬を勝ちえ財を成したのは、後にも先にも、この森進一と「そっす」の横綱北《きた》の湖《うみ》だけである。  森進一的趣味:その3(女性感覚)——大原麗子を嫁にした時は、女性の趣味だけはハイセンスで、天下に比類するものなしと言われた。大原麗子が「えっ、そんな趣味があったのう〓」と言われた裏返しで「えっ、そんなに趣味が良かったのう〓」と絶讃《ぜつさん》された。  ああ、それも束《つか》の間、だのに、しかし、けれど、だども、もうダレもが知っている、まさか、バカな、そんな、嘘《うそ》だ、大原麗子と別れたその後釜《あとがま》に、よりによって、よせ、やめろ、みなまで言わせるな、言いたくない、けれど、しかし話は進む、あのタワシからやっと人間の体裁を帯びてきたばかりの森昌子、口にするだに森昌子。空を見上げて、おふくろさんの声が聞えてはこないのだろうか。「進一、おまえ、女ならなんでもよかったとね」  女ならなんでも……。この趣味は遠回しに言えば「穴があったら入りたい」いや、かえって近回しの表現にも聞えてしまった。うっかりすべって落し穴にはまったというか、あ、これも遠回しのつもりでいったのだが、つまり思わぬ穴に、はめっこ、ああまた遠回しのつもりが……という風に森昌子の泥沼《どろぬま》にはまりこんでいったのだろうか。とにもかくにも永遠のマドンナ大原麗子への、これほどの侮辱があろうか〓  ……と僕は、成田発537便の飛行機の中でひろげた週刊誌の中に“森進一熱愛森昌子”という近親相姦《そうかん》的活字を見つけて憤慨していたわけである。その時僕の隣りに座る大原麗子は、ただ「ふふっ」と笑うばかりだった。何故、ふふっと笑うのだ笑えるのだ麗子。森進一熱愛森昌子と八つもつづく漢字はうまく読めない。というのは世間知らずの麗子さんには、ありそうなことではある。飛行機の中でスチュワーデスを呼びつけて「気分が悪いから窓を開けて頂戴《ちようだい》」と言ったほどの、かわいい世間知らずである。世間を知らないのに漢字など知っていて欲しくない。一流の芸能人は漢字をヨメナクとも、ふんいきで字をよむ。一流の芸能人にとって、漢字とは感じと書くのが正確である。「日中友好」と「三浦乱交」と「三浦友和」とを美事にカンジでヨミワケるものなのである。だから“森進一熱愛森昌子”の活字のふんいきくらいは大原麗子にも充分伝わったであろう。かつて、その森昌子の活字のところに大原麗子と書かれていた季節があったことも覚えているであろう。らくがきされたあいあい傘《がさ》の自分の名前がけされて、代りに、ほやほやのうんこと書かれたようなものである。  だのに大原麗子は、ふふっと笑うばかりなのである。そこに森進一的趣味を耐えぬいた大原麗子的趣味があり彼女の魅力のすべてがある気がする。思えば、大原麗子は、結婚という漢字はヨメタのだろうか。ヨメになりきれなかったくらいだからヨメナイに決っている。と決めつけよう。ではどんなカンジに読んでいただろう結婚という二文字を。祭典ぐらいの感じだろうか。離婚のほうはどうだろう、解散ぐらいだろうか。Sexという英語はどうだろう、Sportsぐらいの感じだろうか。祭典、Sports、解散、そのくらいの軽さで、一連の結婚生活を感じとっていたのだとしたら……誰もが、いつかは必ず別れるだろうと思っていた森進一との暮しが、意外にも長くつづいた、その年数を、僕はふと思った。四年であった。四年という結婚生活が全《すべ》てを物語っていた。  蝶々《ちようちよう》が一匹、ダッタン海峡を越えていったように、大原麗子は今「ふふっ」と笑いながら海峡を渡っていた。二年後のオリンピックの開催国、ソウルへむけて。五輪競技という漢字を結婚生活と読み違えたまんま。結婚は四年に一度するものだと信じこんだまま。  森進一的趣味が鞭にたとえられるなら、その鞭をうける大原麗子的趣味とは、もうひとつの無知だったのである。そして無知こそが女を麗《うるわ》しくするのだ。 ●後記  大原麗子は子どものころから好きだった。この原稿にも愛情がにじみ出てるでしょ、ちょっと知能をバカにしてるとこがあるけど。うちの芝居観にきたときに、カーテンコールで拍手してくれたのはいいんだけど、そのあと大事なイアリングなくしたらしくて、けっこうあとまで必死になってさがしてた——という伝説が残ってる。   アグネス・チャン 賛  なれない日本語で媚《こ》びるように歌う十代のアグネス・チャンの姿は、酢を飲むサーカスの薄倖《はつこう》の少女を思わせた。赤い靴《くつ》をはき異人さんに連れられて、海の向うから売られてきたムスメにも見えた。誰の目にもカタコトのアグネスは、けなげにうつった。  けなげなうえに、ひなげしの花を歌ったものだから、けなげなヒビキにひなげしの磨《みが》きがかかった。今思えば、必ずしもひなげしの花である必要はなかったのかもしれない。 「なけなしの花」でも「はなげぬきの花」でも良かった。むろん「丘の上、なまはげの花で、占うのゲゲゲの鬼太郎」でも、けなげな感じはしただろう。  そのいっしょけんめさは、具志堅用高のいっしょけんめさに通ずるものがあった。 「やっぱ、アグネス、いっとう、つらいよのねの事、海の向うの子が、日本のことば、いっしょけんめ話すのことばかり感心して、アグネスの歌のこと、きいてくれるじゃなかったコトね」  気持ちはわかるがアグネス、くれぐれもひなげしの花がうけたのではない、異国の丘の上、けなげな花がうけたのだ。と、僕がアグネス・チャンに説明する頃、飛行機の窓から茜《あかね》色に染まる雲が見えてきた。  エアポケットに入ったのか、ガクンと飛行機が高度を下げた。その衝撃で、アップダウンクイズというクイズのあったことを思い出した。  十問正解すると、なあんとハワイに御招待してくれて、しかも副賞が、なあんと十万円もついていた。ラッキークイズに正解すると、なあんと二段階もアップする。とにかく凄《すご》いクイズだったのである。アップダウンクイズは。——————その頃は。  これが大切である。  その頃、すなわち15年前の有難《ありがた》みである。  その頃は、ハワイは南国の楽園で、なあんと、太陽と夢が一杯であり、ハネムーンの二人の為には、なあんと青い鳥までがいる島だったのである。  けれども、なあんと青い鳥までいたのが、今や青い鳥も太陽も夢もない、OLと芸能人と正月しかない島になった。今では、あれほど苦労してクイズを解いて「なあんとハワイに御招待」などと言われても、え? これ、元祖どっきりカメラ? と視聴者に切り返されそうなほど有難がられない。ハワイへ御招待などとは、とても口に出せない。代官山や田園調布の歳末大売り出しの福引では、ハワイ旅行は残念賞として使われている。もはや15年前の有難みでしかない。そして今思えばアグネス・チャンは、アイドル歌手界のアップダウンクイズであった。香港《ホンコン》からはるばると歌を歌う為にだけやってきたんだ、という有難みには、十問正解するとなあんとハワイに御招待されるほどの有難みがあった。  15年前ならではの、こうした海の向うの有難みは、マイティーハーキュリーという5分間マンガ(正味2分間)の滅亡と運命を共にし、ハワイをちらつかせ有難みを強調しつづけたアップダウンクイズも、遂《つい》に昨年、テレビ界から他界なされた。  けれども、なのである。  アグネス・チャンは今なお、なんとなく消えることなく15年前の有難みと共に、ここにいる。正確には、今、僕の横にいる。アグネスの夫と共に。  アグネス・チャンの四泊六日のハネムーンは、あろうことか、ハワイであった。これだけは史実に基づいている。僕は、今、その飛行機に同乗している。というより、その史実に便乗している。  15年前の芸能人ならばいざ知らず、ハワイへハネムーンへ行く、というのは、中華料理というと決まってチリソースばかり食ったり、寿司屋へ行くと「海老《え び》!」としか言えない、病室に見舞いに行くのに、いまだにバナナをもっていくような、そんな15年前の有難み的趣味である。  松田聖子ならばそれで良い、しかしアグネス・チャンが、こんなことで良いのだろうか。  答。良い。  その理由。突然学習参考書のようになったが、俺《おれ》の勝手だろう。足がクサイぜッ! アグネス・チャンは、姓名判断によれば、15年前の有難みと共に生きていく運命にある。  そんな姓名判断が、あるだろうかとお思いだろうか。答。ある。  異国の丘の上で、けなげな花がうけたのは、ただ、ひなげしの花のひびきばかりではない、アグネス・チャン、その名のひびきも忘れてはなるまい。アグネス・チャンという呼び捨てても子供の名にきこえるヒビキ、これが“永遠のけなげさ”に役立ったのである。もしも、アグネス・チャンがアグネス・サンだったら、永遠ではなかっただろう。  もうしっかり30のオバサンだ、アグネスおばさんに違いない。童顔といってもたかが知れている、寄る年波のしわには勝てない。けれども、アグネスの後ろには、いつも必ず、チャンがついている。百恵ちゃんが百恵さんになり、聖子ちゃんが聖子ばあさんになることはあっても、アグネス・チャンは、老いても永遠に呼び捨てのままのアグネス・チャンである。アグネス・チャンは、15年前のアグネス・チャンのままである。ハネムーンとて15年前の有難み、ハワイで良いのである。なぜなら、この島にすむという15年前の青い鳥は、手のひらに止ったままの成長《セイチヨウ》という名の手のり文鳥だからである。  茜の空に夜のとばりが降りてきた。  確かに時は経《た》ったはずなのに、15年前のホノルルの空港が見えてきた。日付変更線を越えたことを忘れていた。 ●後記  問題の大論争の前ですね。すでにこのころからアグネス・チャンを好きじゃなかったわけだから、おれも先見の明がある。この人だけだな、書いたあと、前よりもっと嫌いになったの。   コラソン・アキノ 賛  正義と真実の為に、僕が激動の国フィリピンへむかったのは、東京杉並区立永福小学校の元PTA役員A子(53歳・匿名《とくめい》希望)から一冊の本が送られてきた直後のことであった。もしも、その元PTA役員A子が送ってきた一冊の本の内容に嘘偽りがないとすれば、今度のフィリピンの政変は、アメリカCIAの画策などという小事ではなく、日本PTAが絡《から》んでいる一大事だったことになる。僕は見も知らぬその元PTA役員A子とフィリピンの砂糖キビ農園で会うことを約束し、正義と真実のためにひとりの女の故里《ふるさと》へとむかったのである。  ひとりの女——コラソン・アキノ女史。53歳。フィリピン・ルソン島、タルラック州生まれ。 【略歴】△二男四女の三女▼でありながら三女そこらの女ではない家柄《いえがら》の三女。  △貧乏人がミエで飼う犬コリーを愛称にもつ女▼でありながら金持ちが軽い気持ちで飼うアフガンハウンドを愛犬にもつ女。  △貧しい人民の味方▼でありながらフィリピン十大財閥の娘にすぎないという見方のできる女。  △コーラを購入するのにも2セント安いのでペプシコーラを買うほどの質素さが国民の共感を呼ぶ女▼でありながら少女時代は米国でメイドを酷使する留学生活を送り、三日に一度フルコースのステーキを食べブロードウェイにオペラと贅沢三昧《ぜいたくざんまい》に飽き飽きとしたことがある程で、贅沢が本業で質素は趣味でやっていると噂される女。 【姓名判断】コラソン・アキノ女史。東京女子大出、と後からコトバがつづいても不思議ではないほどのエセインテリ感覚をもつ名前でありながら、ようく考えると、アキノ東京女子マラソンのような名前であることにハッと気付かせる憎い奴《やつ》。コラソン・アキノ女史——それはまるで秋の東京女子マラソン。ああ、なんと平凡な主婦の夢だろう。子供もようやく学校に入り子育ても楽になった主婦が、主人と子供をめいめいに送りだした後に手にした自由、その自由がやがてテレビとせんべいに少しずつむしばまれ、自由と思いこんでいた時間は暇に変わり、暇はやがて肥満という肉体的特質として表われはじめるころ「ああ、このママではいけない、違うママにならなくては」けれども所詮《しよせん》、無芸大食。だめね——と長いため息をつき見上げたテレビで秋の東京女子マラソン、ああこれならあたしにもできそうと重い体を陰気にひきずり、歩いた方が早い走り方で、陰気に陰気にジョギングするその道々で浮かべるコトバは、ああ秋の東京女子マラソン、平凡な主婦の夢。そしてその現実は、せいぜい小学校のPTA役員。コラソン・アキノ女史は、その秋の東京女子マラソンのおかげで主婦層の人気を勝ち得たといっても過言ではない。  こんななんの変哲もない彼女の略歴と名前に僕が目をつけたのは、やはり元PTA役員A子から送られてきた一冊の本の内容と一致する部分を見つけだしたからである。  コラソン・アキノ女史が国民から支持された理由は、略歴でいえば、他《ほか》ならぬ△の部分である。それは、いかにも秋の東京女子マラソン感覚であり、貧乏人の味方である。2セント安いコーラを買って大統領になれるくらいなら、3円安いスーパーを捜して遠くまで買いものに行くうちのカーちゃんだってフィリピンの大統領くらいになれらいっ! という大工の棟梁《とうりよう》の声すら聞えてくる頃、僕はルソン島に到着した。  フィリピンは貧困の国という先入観のあった僕は驚いた。コラソン・アキノ女史の故里タルラック州にある生家は、確かに砂糖キビ農園から銀行経営までしている地主にふさわしかった。おそらくアキノ女史の▼の部分、東京女子大出風な部分が知れていたなら、ああまでフィリピン大統領選でコリーブームが巻きおこっただろうか。アキノ女史が、本当は秋の東京女子マラソン的ではなく、秋の東京女子大出マラソンであることがバレテいたなら……。自分を貧乏人の犬の名前で呼ばせたのも、なれない倹約も皆な砂糖キビ農園と銀行経営を隠ペイする為だったのだろうか、そんなうがった見方でタルラック州の広大な砂糖キビ農園の夕景を眺《なが》めていると、約束の時刻に元PTA役員が姿を現わした。夕闇《ゆうやみ》に包まれて、A子の姿がはっきりとわからなかった。やがてA子が近づいてきた。顔がはっきりとわかるほどの距離になった。僕の目はまたたきもせず彼女の顔を見ていた。僕はあの一冊の本の内容が真実であることを確信した。紛れもない。その元PTA役員A子はコラソン・アキノ女史そっくりの女性であった。一冊の本の名前は、「もうひとつの王子と乞食《こじき》」であった。それはこんなハナシだった。……昔、杉並区立永福小学校のPTA役員をしていた秋野さんは、フィリピン財閥の娘のアキノさんと文通をしていた。お互いに自分の生活にあきあきしていた二人は、身分をとりかえることにした。フィリピンへ渡ったPTAの秋野さんは、まるでPTA役員会に立候補するような軽さで、正義と真実のために大統領に立候補し、しかもPTA役員だったころの主婦の特性をいかんなく発揮し、2セント安いペプシを買うことで庶民的と親しまれ、そして、ついに大統領になってしまった。そして本当のアキノさんはPTA役員になったまま祖国に帰るに帰れず暮していたとさ。……この「もうひとつの王子と乞食」がただのつくり話だと言ってしまうには僕の目にはあまりにも、あの眉毛《まゆげ》を太く濃くかいたアキノ女史の顔は元PTA役員に見えてしまう。 ●後記  いまだに大統領だってのはすごいね。これ書いたのは、まだ化けの皮がはがれてないころだった。なんか、近所のおばさんにいそうな顔だね。PTA。コラソン・アキノとPTAはしぶとい。   二谷友里恵 賛 「傷ものの男でもいいわ」  女は残りものの福に賭《か》けてみようと思った。  残りものの福と呼ばれた男——郷ひろみ30歳。元人気歌手。犬も食わぬ夫婦喧嘩《げんか》で松田聖子と別れ、竜《りゆう》が食うアメリカ留学へと旅立った。そして残りものの福がアメリカへ旅立つ空港で、女の肩には力が入っていた。その日に限ったことではない。いつもいつでも女の肩には力が入っていた。  肩に力の入りっぱなしの女——二谷友里恵、21歳。現人気薄女優。二谷英明の娘、兼白川由美の娘。ななひかりするという親を二人もつ血統的にも、今いっとう、まぶい女。そのまぶい女よりもまぶしいフラッシュを浴びて緊張のあまり、肩に力が入ってしまったのだろうか? いきなりつけたテレビの画面に彼女が現われるとアメラグの生中継だと若いモンは思うし、少し前の若いモンならば、ウルトラQの怪獣ジャミラの再放送だと思う。古い若いモンは、着つけ教室のえもんかけが映っていると思う。 「もういいんだよ、肩の力をぬいても……」  フラッシュがおさまり緊張がほぐれても、いかり肩に変化はみられなかった。あの肩は緊張ゆえではなかった。空港でひろみと別れた友里恵は旅に出た。その旅を尾行し、まかれながらも三週間にわたる追跡旅行をした僕にだけ、二谷友里恵のいかり肩のおそるべき秘密が知れてきたのである。  友里恵が富山との県境にある新潟県親《おや》不知《しらず》へ行くといって家を出たのは3月18日のことである。残りものの福と別れたその足で親不知へと向っていることはまちがいない。ところが実際に、親不知にある聖《セント》親不知教会に姿を見せたのは4月8日のことである。その間の足どりは全くつかめない。僕は顔をしかめ下唇《したくちびる》を突き出した。もはや松本清張にならなければ友里恵の足どりを推理することはできない。友里恵は親不知へ行くまで親戚《しんせき》や友人の家へ寄ったと言っている。そのアリバイ崩しから始めなくてはならない。「いや、アリバイ崩しもだが、親孝行娘と評判の二谷友里恵が、なにゆえ親不知などという観光地を選んだのだろう、動機を探ることのほうが事件解決の糸口になるのではあるまいか、ゴホン、ゲホッ」  松本清張の“点と線”にあやかったわけではないが、僕は“へんとうせん”になってしまい、旅先の親不知の旅館で寝こんでいた。喉《のど》のいたみと高熱にモーローとしながら、あれこれ考えていた。この同じ旅館の屋根の下、葵《あおい》の間に二谷友里恵が一人で寝ているはずであった。肩をいからせながら今夜もまた……「ゲホッ、それにしても寝ている時まで肩肘《かたひじ》はっていると本当に肩がこるだろうなあ、あんな肩に生んだあの母親の肩をさぞや恨んでいるだろう。ゴホッゲホッ、だから今その怒りをイカリ肩にこめてゲホッ親不知へ来ているのだろうか」  動機としてはあまりに安直である。第一、推理小説の常道として、はじめに浮かぶ下手人や動機は誤まりである。つまり二谷友里恵は親を恨んで親不知に来ているわけではない。その時、葵の間の扉《とびら》の開く音がした。友里恵が階下の大浴場へ行った。チャンスだと思った。へんとうせんに顔も腫《は》れあがり、もはやまごうかたなき松本清張と化した僕は、病躯《びようく》をひきずり、葵の間に忍びこんだ。いけないこととは知りながら友里恵のカバンをまさぐった。そして空港から親不知までの三週間に及ぶ消えた足どりをカバンの中に捜し当てた。足どりは歯ぶらしの形をしていた。ニュー小田原ホテルの歯ぶらし、群馬の桐生《きりゆう》イン華子傷害保険センターの歯ぶらし、岐阜《ぎふ》の根尾川旅館の歯ぶらし、福岡、勝山町古墳荘の歯ぶらし、そして沖縄《おきなわ》の金武《きむ》湾ホテルの歯ぶらし。歯みがき粉の小さなチューブがセットになっている一流ホテル型から、水にぬらしてやっと塩がしみでてくるしみったれ型まで千差万別だが、これらの歯ぶらしは一つの事実を示唆《しさ》していた。旅なれていない奴は旅先に大きな歯みがき粉やパジャマを持っていき、ホテルにそなえつけの歯ぶらしを使わないでカバンに押しこみタオルを持って帰る。紛れもないその庶民感覚の形跡が、二谷友里恵のカバンの中に見られた。そんなことはどうでもいい。問題は群馬から沖縄まで友里恵が歯ぶらしと共に、てんてんとしていたという事実である。  僕が地図帳を開き、友里恵のてんてんとした町に点をうち推理の糸を紡《つむ》ぎ、点を線で結んでみたのは、僕が親不知から東京への帰り道のトンネルの中であった。なにも解決できぬまま途方にくれていた。トンネルのゴー! という音は、郷ひろみの郷にも聞えたが、次第に女の業に聞えてきた。ふともう一度、友里恵の業がさまよった町の付近を地図帳に眺《なが》めた。桐生のそばに松田川があり、岐阜にも松田、福岡にも沖縄にも友里恵の泊った宿のソバには松田という地名が見つかった。小田原近くにも松田があった。女の業は男の郷を許すことができず、全国の松田を訪ねていたのだ。二谷友里恵の女の業は、水子供養《くよう》ならぬ聖子供養をしていたのだった。  親不知トンネルをぬけると子不知トンネルに入る。その手前、教会が見えつ隠れつしてきた。聖《セント》子不知教会であった。友里恵の最終目的地は、親不知ではなかった聖子不知だった。二谷友里恵は「彼の昔のことは気にしません」と穏やかに笑いながら、げにおそろしき怒りを、あのイカリ肩にひめていたのだ。この巡礼の旅が終れば、怒りもおさまりあのイカリ肩にも変化がおこるのだろうか? 松田聖子の体に変化がおこっているように。 ●後記  最近肩が目立たなくなったのはどうしてでしょうね。脱臼したって噂を聞きましたけど(笑)。ま、そういうことですね。   ブルック・シールズ 賛  私は遂《つい》に悔い改めました。昨日迄《まで》の才能に溺《おぼ》れた傲慢《ごうまん》な文章のスタイル、横柄《おうへい》な口のきき方、数々の尊大なふるまい、おしなべて私のライフ・スタイル、すべて悪うございました。お許し下さい。  と申しますのは今月号は岡田有希子《ゆきこ》さんの路上での寝姿について書こうと思っていたのです。それはもう、うければなんでもいいというあさましい考えでした。死人に口なしをいいことに、死者にムチ打ち、その口に無理矢理、飴《あめ》でもなめさせたらどんなだろう。というオソロシイほどの悪にとりつかれていたのです。今思えば、その頃、私の体の中には悪魔がすんでいたのでしょう。  そんなある日、トントントンと家の扉を叩《たた》くものがあります。「聖書は要らんかね」というのです。私は「イラクの隣りの国はどこ?」「イラン」と遠まわしに断わりました。しかしその聖書売りは帰りません。こいつなにか下心があるなと思っていると「この聖書を読んでエッセイを書け」といって玄関先に聖書をおくと、またたく間に消え去りました。その聖書売りは今思えば、どことなく編集者のようにも見えましたし、ただのやな奴にも見えました。聖書と呼ばれた書物の表には『ブルック・シールズ/私のライフスタイル』と書かれ、新潮文庫という聞いたこともない聖書のハンバイソシキによって、たくみにセールスされていました。しかし、私は表紙の写真——つけヒゲを眉につけている女性の顔を見た瞬間、霊感が走り、稲妻が光り「ホシよー、お前というやつはあ」と叫んでしまいました。  私は、今、この聖書を手にして、とても良かったと思っています。この聖書には、健康とダイエットとボーイフレンドの事、いわば人生の全てが描かれていました。と書きながらタバコを吸っている私に「タバコ——考えただけで胸がむかつきます」(同書、P46より)と早くも、現代のキリスト=ブルック・シールズ様は、私の右の頬《ほお》をお打ちになるのです。その赤くなった右の頬についても「顔の縦横の長さがほぼ同じで、いちばん幅の広いところは頬です」とブルック様は、ルックス頬紅の章でおっしゃっています。  浩宮様もブルック様を理想の女性のひとりとしてお挙げになっています。この聖書を深く読めば読むほど、その理由もわかろうというものです。ブルック様の教えは、決してうわっつらだけではわかりません。たとえば、ブルック様は人間の二大本能である食欲について、ダイエットの章、P168で「どうして私は一度の食事でサラダを三回もおかわりしたのかしら、それもオリーブやアンチョビやら、いろいろなサラダの付け合わせまでも一緒に?」と問いかけています。やがてその煩悩《ぼんのう》は「けれども私の悩みは私の悩みです——それは私だけがどうにかしなければならない私自身の小さな怪物です」という悟りに変っていきます。  このようにブルック様は、そんじょそこらのキャピキャピギャルのようにルックスの事ばかりに目を奪われている女子大生俳優ではありません。勉強の章を眺めてみましょう。「教授たちは実に豊富な知識を持っています。そしてそれを私たちと分かち合ってくれるのが授業です。ですから友だちや他の学生が授業によく欠席するのを見ると、あきれてしまいます」とブルック様はおっしゃっています。日本の薬師丸ひろ子様が大学の授業をとても大切になさっているのは、おそらくこのブルック様の教えを守っている為かと思います。ただ大学の教授が、実に豊富な知識をもっているのだと錯覚できるのはブルック様という神様が芸能界という魔界の出身だからと申せましょう。芸能人一般を見る時、頭《カシラ》のことをアタマーと呼ぶ萩原健一のような、知識に対して汚《けが》れを知らない姿、知識的無垢《むく》を身につけています。放っといても我々凡人は知識を少しずつ獲得できるというのに、なにゆえに芸能人は、知識を無の領域にとどめておくことができるのであろう。決してブルック様が無知だとか、そういうことを言っているのではない、いえ滅相もないことである。現に「はじめに白状してしまいますが、私は試験がとてもこわいのです」(同書、P192より)とブルック様は告白している。試験がこわい、という感覚は、並大抵の芸能人では思いつかない。神様のブルック様ならではである。  こうして読み進むうちにブルック様のコトバのひとつひとつが私の心の目を開かせてくれて、なにか見知らぬ土地へやってきた思いになれた。この連載は、今まで必ず、私がどこかのおねえさんといっしょに旅をするという形式でつづいてまいりました。今回、私ははじめてどこにも行きませんでした。けれどもブルック様の聖書を座右の銘として、自分の部屋にいながらにして、私の心は、かけがえのない旅をした気がします。釈迦《しやか》の手のひらで旅した孫悟空のように私は、ブルック様の掌中で心の旅をしたのです。この旅は人生という航海における私の処女航海だったといえます。そしてブルック様は、驚いたことに、その処女航海についても予期していたように、説法なさっています。「私は自分が処女であることを喜んで認めます。なぜならそれは私にとってとても重要なことだからです。信じられないことかもしれませんが、この私の考えは、別にそれほど珍しいものではありません」(同書、P268ボーイフレンドの章より)これは、ブルック様の処女コーカイせずという信じられないほど珍しい教えとして知られています。 ●後記  これはすごくブルック・シールズを研究して書かせていただいたエッセイです。あんまり日本人が好きな顔じゃないと思うけど、そのへんも浩宮様が国際性に富んでいらっしゃる証拠ですね。   和泉雅子 賛  次に並ぶ三つの名前から、それぞれ、仲間はずれを捜しなさい。   ㈰掛布雅之 ㈪江川卓《すぐる》 ㈫江川卓《たく》(ロシア文学者)   ㈰桜田淳子 ㈪山口百恵 ㈫森鴎外《おうがい》   ㈰吉永小百合《さ ゆ り》 ㈪松原智恵子 ㈫和泉《いずみ》雅子  いずれも答えは㈫番である。  しかしながら古い書物をひもとくと、日活三人娘の項には、吉永小百合、松原智恵子に加えて、和泉雅子とある。  うーまがしゃべる、そーんなばかなほどの驚きがある。びっくりしたなあもう、ほどの驚きだといってもいい。あるいは、シェーッ、おどろいたざんすと言い換えても良いし、ガチョーンでもあるし、あっと驚くタメゴローという直截《ちよくせつ》な表現を用いても良い。ひいては、ハイドンの交響曲94番、驚愕《きようがく》である。  実際、和泉雅子ほど、その印象を加速度的に変えていった女優も珍しい。  ふりだしは日活三人娘。陽《ひ》のあたる坂道。山内賢とのロマンス。青春の女神。第二のサユリ。  間。  ややあってホームドラマ。そば屋の気のいいネエちゃん、おひとよし女優、第二の肝っ玉母さん。  間。  かなりあってクロネコヤマトの宅急便。クロネコとのロマンス。第二のイリオモテヤマネコ。  暗転。  突如、北極に出没。シロクマとの格闘。セイウチとのロマンス。松島トモ子との共喰《ぐ》い。  ざっとこんな印象である。和泉雅子を思う時、  物体は上から下へ落ちる。  物体は陽のあたる坂道をころがる。  重たいものほど加速を増す。  といった物理学の法則の正しさを改めて知らされる。  いや物理学の法則ばかりではない。再びマスコミの中心に入っていかんが為に、世界の果てまで出むいていったかに見えるその姿は、中心と周縁という社会学を浮き彫りにしたともいえる。中心から周縁へ疎外《そがい》された女優が、ヌードになったり国会議員になったり山東昭子になったりすることは、往々にしてありがちである。  マコの北極探険は青春スターのマコから松島トモ子としてのマコへの転身なのだろうか。いや、今や日活の青春時代の愛称マコで呼ぶのは、女アムンゼンを目指す彼女には失礼だろう。現在の顔つきにはふさわしくない。  勇を鼓して、こう呼ぼう。  ボーケンデブ。————————と。  ボーケンデブは何故、北極をめざしたのだろう。ぼんやりと考えている頃、マコ自身からの手紙が届いた。北極点をめざしてカナダ最北端のワードハント島にマコはいた。はるかカナダからの手紙であった。 「前略、琴天山(カナダ出身・佐渡《さど》ケ嶽《たけ》部屋)が日本へやってきた頃《ころ》、私は北極を目指し、日本からカナダへやってきました」  手紙は、そんなあいさつではじまっていた。桜の花が咲き誇る頃という季節のあいさつの代りに琴天山がやってきた頃と書いてあった。すでにそこに貿易マサツが叫ばれる昨今、琴天山と和泉雅子は、100g250円相当の肉の値段として相手に過不足なく、このたびの和泉雅子の冒険が社会に役立つことを誇示しているかのようであった。  確かに、我々が考えるように現世の栄利聞達《えいりぶんたつ》ばかりを求めた極地探険でないことは、その後の文面からも窺《うかが》い知れた。 「子供の頃から女優をつづけ今日まで働きづめだった」マコは「女性に認められるはずの産休」を使って「化粧はしなくていい、美容院に行かなくていい、いいモン着なくてすむ、とっても気楽、こういう自分が夢」をかなえるために北極点をめざしていたのである。北極点を人里離れた温泉とか、熱海とかグアムとかいう名称におきかえても文脈が通るところに、非の打ちどころのない冒険哲学がある。「海外旅行なんか気軽に行っちゃえばいいのよ」風なOLの哲学さえ感じる。「押し流されるだけの暮しに区切りをつけたかった」そのマコの願いはやがてかなって、マコは氷に囲まれ身動きができなくなった。押し流されまいとすれば、世界の果てで身動きのとれない氷に囲まれ、身動きをとろうとすればマスコミの中心で押し流される、という二律背反がそこに見られる。それは「目立ちたいけれど放っといてくれ」という芸能人永遠のテーマである。なあんだ、ただ根性が甘えてるだけじゃねえか、とやっと、はるかカナダからの手紙の中に冒険の真意をくみとったと思った矢先、ボーケンデブからの続報がつい最近届いた。  北極点はちょいと大変すぎるので「ピクニックがてら」誰《だれ》でもいける北磁極にトライした。その手紙は、やはりこう結ばれている。 「マコ、甘えてばかりでごめんね」  甘えだとはわかっていても、そう甘えられると、やはり身動きのとれなくなったマコを救いにいこうとはじめての極地探険に旅立つことを決意してしまった。  ライバルのノビレを救いに北極まででむいて、そのまま世界の果てで共に遭難したアムンゼンのように。 ●後記  この人もいろいろあったけど、〈紳士服のコナカ〉の松平健の向こうを張れるのは、〈クロネコヤマトの宅急便〉の和泉雅子だけだよね。そういえばおれ、去年、エジンバラの公演の初日に、クロネコヤマトのテーマソングを歌って踊ったな。ウケなかったけど。   松島トモ子 賛  松島トモ子——40歳。愛称、野生のトモ子。  クラマ天狗《てんぐ》の杉作《すぎさく》少年として鮮烈にデビューしてから、サザエさんのワカメ、さらにミネラル麦茶改め、ミネラルウーロン茶にまで転落。そのままお茶を濁して、二度と浮上をしないかと思っていたところが、突如、ライオンやヒョウのエサとしてカムバック。  ワカメ→麦茶→エサ。これは転落の人生のフルコースである。こういうフルコースを生きる場合、やはり体力が勝負となってくる。猛獣に二度も食いつかせてなお、生きつづけた生命力はアンデスの聖餐《せいさん》を彷彿《ほうふつ》とさせる。と同時に、細身に目玉だけがついているような、あの体のどこに、あれだけのパワーが潜んでいるのだろう。  あの細身、あの目玉、それでいながら、あの闘争心。  見世物師としての私の本性が疼《うず》いた。細身と目玉の野生のトモ子を軍鶏《しやも》とむかいあわせてみてはどうだろう。軍鶏は、どんな反応をするだろう。  私の夢はふくらんだ。  ヘビ女や牛女、そういった祭りの見世物の中に軍鶏と闘う野生のトモ子が混じる。なんと失礼な夢だろう。そう思いながらも、乙女の胸と見世物師の夢は、ほっといてもふくらんでいく。  ああ、本人さえ納得してくれるならば、今世紀最大のスペクタクルとなるだろう。古代ローマ円形劇場で奴隷《どれい》とライオンが食いあったなんぞ、たいしたことはない。現に野生のトモ子はライオンにかませて平然、味をしめてなお、ヒョウにまでかませたではないか。  野生のトモ子をかんだライオンやヒョウのその後については、マスコミはなにもふれていない。ライオンやヒョウが腹をこわしていないとは、誰も断言できないはずである。いや、なぜマスコミはなにもふれないのだ。ハラをこわしたどころではないのかもしれない。ライオンやヒョウの方も、半分ぐらい体を食われたのではないか、今アフリカへ行くと半身だけで骨を見せている魚のような猛獣が、うじゃうじゃいるのかもしれない。  かもではない。しゃもなのだ。うじゃうじゃいるしゃも、きっとそうなのだ、そうに決っている。いや! なんと不謹慎な妄想《もうそう》だろう。そう思いながらも、男の股間《こかん》と見世物師の夢は、ふくれはじめると止らない。ああ、本人さえ納得してくれるならば……。  私は松島トモ子とクラマ山へ旅にでた。猛獣に食いつかれて傷心の彼女を慰めるのだという口実をもうけての旅だった。野生のトモ子を旅先で、えづけして、なんとか軍鶏の前にひっぱりだしたい。ボストンバッグには軍鶏と謀略をしのばせていた。  クラマ山には野生のトモ子が、なじみにしている旅館があった。クラマ天狗の杉作少年を演じていた頃、ロケ地として訪れていたのだと言う。野生動物を手なずけるには、リラックスさせるのが一番だと思った。 「食事の前にお風呂《ふろ》へどうぞ」  女中に言われるがまま、私の方がリラックスして山里の温泉につかっていた。……どんな食事がでるのだろうか、食事の終ったころを見はからって軍鶏を野生のトモ子の目の前につきだしてみよう、どんな反応をするだろう。  それにしても野生のトモ子はこの旅館についてからというもの、どこかびくびくとしている風だった。もしかしたらバッグの中から軍鶏をいつとりだそうかと、好機を待っている気配を気取《けど》られたのしゃもしれない。野生動物一流の勘が働いているのだ、いや待てよ、それにしては、野生のトモ子はびくびくというより、そわそわしている風であった。野生の動物が、フルサトに戻って野生の喜びにふるえているのだろうか、なにをあんなにそわそわしていたのだ?…………………。 「体につけたセッケンは、しっかりとおとして下さい」  湯気のむこうで女中が大きな声を出した。そんなことは客の勝手だろう、なんだかんだと口うるさい旅館だと思った。  大体、到着するなり、客にむかって「いらっしゃい」と言うでなく「カネメの物を体につけていますか? つけているなら、必ず、貴重品係にお預け下さい」とどなる旅館があるもんか、まったく、なんと注文の多い旅館……私は心臓の止る思いがした。さっきから聞えている、あのコーン、コーンという音はなんだろう、クラマの山の天狗の音だと女中はクックと笑っていたが、合間にきこえる、シャッシャという音は、刃物をといでいるようだ。うまく野生のトモ子をはめたつもりが、はめられたのは私の方では?  そう思った時は、すでに遅く、湯舟をとびだし、慌《あわ》てて服を着ようとしている私の目の前、湯煙りの向うに、野生にかえったトモ子が、大きな瞳《ひとみ》をカアッと見開いて、獲物《えもの》をねめつけているのがわかった。獲物は、そこにたちすくんだ。あの、のどにくらいついてやれ、獲物は、それしか生きる術《すべ》はないと知った。  注文の多い旅館の獲物、野生のトモ子の今日のエサ——それは私であった。あの時のライオンやヒョウの心がわかった。ええいっ! こうなりゃ食うか食われるか、くわあっ!……ぐわあっ!……ぐえっ!……ぐをおっ!……げげっ!……たすげっ!……たすげで〓……………………(以下聴取不能) ●後記  読み返してほんっとに失礼だと思いましたね。でも笑った。二回食わせたんだもんね、自分の体を野生動物に。ギネス・ブックに載らないかな。本人の手紙でわかったけど、じっさいヤバかったらしいね。〓阿玉のとこに松島さんからの手紙が載ってますが、これは本物です。すげえ達筆でね。びっくりしたな、あれは。   岡田有希子 賛  早い話が、今までこの欄で起きていたことはすべて架空である。会ったこともないおねえさんと架空の旅をし、架空の会話をし、架空の物語をつくりだし、この世にあらゆる嘘をばらまいた。  しかしお待たせ。ついに危ない。危ない話だ、実話の旅だ。あの世の真実とこの世の嘘と、どちらがほんとかを知る旅だ。ほんとに旅の身の上にいながらのこの先なにがどうなるかわからない今月号。  しかもお楽しみ三大ふろく付エッセイである。危ないふろくのその1は、僕は今、空にいる。架空ではない。空である。  ロサンゼルスへむかっている。  架空ではない、ほんとである。今、飛行機が突然墜《お》ちれば、そのまま遺書になる。「明子、ひとりで強く生きていけ!」と書けば、新婚の新進演出家のあまりに早すぎた死を、独占手記として掲載できるだろう、とこのうえない気の配りよう。ベストセラーもかたい。遺品としても超一流だ。  ロサンゼルスへ到着したら原稿を送るよ、という私の命を賭《か》けたこの前向きな試みに、はじめ、原稿と共にトンズラするのでは? と首をたてにふらなかった編集者そっくりの死神も、早すぎた死、独占手記、ベストセラーなどという蠱惑《こわく》的言語に「危ないのなら、いや、危ないけれど行ってきて下さい」とコロリと姿を変えた。  その売れる為なら死人に鞭《むち》打ち唾《つば》をするという死神が、地上から「おせん泣かすな馬肥やせ、おまえ焦《こ》げても手記焦がすな」と念力をかけているかと思うと、危ない危ない。  飛行機がガクッときた。危ない旅である。この危なさは日航機以来一年ぶりの盛り上がりである。坂本九に挑《いど》んでいる。  おっと危ない。ご冥福《めいふく》をお祈り申し上げます。今飛んでいる飛行機の中で、へんなものを挑発《ちようはつ》してはいけない。第一、私は「坂本九は死んだ時、上をむいていたそうだね」などとジョークをとばす馬鹿《ばか》者ではない。ガクッと飛行機が一段落ちた。なんのこれしき、でるならでてこい坂本九と、書かんではいられないほど私は果敢に坂本九の霊魂に挑んでいる。これは飛んでいる飛行機の中で書くには勇気がいるんだぞっ! 日航機遭難事故一周忌特集のサンデー毎日の弱腰なんかに負けないぞうっ! ベ平連は闘うぞっ! 清水谷公園に結集するぞっ! 危ない、ベトナム戦争が終ってから、ひとりぼっちで集会を開くのは楽しいぞっ! こうなったらなんでも言えるぞっ! アメリカはロサンゼルスから手をひけっ! なにをいってるかわからないぞっ! 危ないぞっ! 話までとんでるぞっ!  危ない。死神の呪《のろ》いと挑発した坂本九、ただでさえ、このお楽しみ二大ふろくがこの飛行機にとりついているというのに、まだやる気か野田秀樹、これで墜ちた時の他の乗客の皆さんの御迷惑をかえりみないのか。ふん! 死なばもろとも、読者の楽しみもいやまさるというものだ。さていよいよ、お楽しみ三大ふろくのその3、きわめつけは、なんといってもこれ、今月の、この架空ではない空の旅に登場というか、同乗なさっているおねえさんを紹介します。私の隣りは空席である。だのに同乗。それもそのはず、今月のおねえさんは、この方でーす、ハイ、拍手うーっ。岡田有希子さんでーす。  危ない、危ない、危ない。  坂本九だけでは飽きたらず、下をむいて死んだ人までひっぱりだして、飛行機を墜とそうとしている。危ない! やめろ、もうよせ、わかったオレの霊魂へのチャレンジ精神は、もうよせ、自分で書いていても怖くなった。ご冥福だ! つつしんでご冥福を祈れ! 私は、死人で遊んでいるのではない。信じてくれ。私は真面目《ま じ め》だ。  私がロサンゼルスへと思い立ったのは、岡田有希子が日本のテレビに再デビューしたことがきっかけであった。  私は人間の尊厳な死を、ああいうおフザケで、とりあげることが許せなかった。私は真面目なのである。中森明菜が歌っているうしろに岡田有希子が現われるなどといった、テレビ局の御都合主義が許されてなるものか、画面のうしろにでるはずがない。コーラスガールなどするはずがない。でるなら、画面の前にでてくる。芸能人の幽霊は目立つに決っている。それどころか、幽霊姿で再デビューするなら、日本のケチなテレビ番組にでるはずがない。魂は自由だ。本場ラスベガスにでるに違いない。……そう、ここまで書いた時、ほんとだぞ! 読者、おちつけ! おちつくんだ!  危ない!  飛行機が飛びはじめて二時間弱、信じられない揺れ方を始めた、嘘ではない! と言いながら嘘をかくつもりだった。あの世のことでこの世の嘘をかくつもりだった。  うおおおおおっ! またものすごく揺れた。再びベルトを止めようにも止められないほどのこの揺れ、おさまるまい。  うおおおおおおおおおお             おっ! とおが一行ずれるほど揺れた。もしも来月号も執筆が可能ならば、この後の顛末《てんまつ》をご報告したい。ロスまであと八時間、今は書く字も心も揺れて、先行などわからない。  私は慌《あわ》ててほんとに心から慎しんで、アメリカの領空ならば、シンシアリー慎しんで岡田有希子さんのご冥福をお祈り申しあげます。岡田有希子さんを、冥土へ手厚く葬《ほうむ》ると共に、私の科学的精神を葬り去りたい。今後私は、この世の嘘よりも、あの世の真実を信じます。とりあえずロサンゼルスへ到着するまでだけ。うおおおおおおっ!  P.S.  ロサンゼルスすぎれば霊魂忘れる ●後記  ずっと書きたかったんだけど、周囲の反対で止められてたんだよね。でも、どうしてもがまんできなくて、十八回目にしてついに書いた。この前の回が松島トモ子だから、きっとおれ、このころ精神状態がふつうじゃなかったんだよね(笑)。まだ松島さんからの手紙が届く前だから、これが最後のこわいもの知らずですね。飛行機の中で書いたのは実話。命を張って書いたエッセイですね。あれからどうしたんでしょうね、岡田有希子。死んじゃったんですけどね。   〓阿玉 賛  先々月号のこの欄でのできごとである。ライオンのエサ、いや松島トモ子をエサに、いやライオンにいっぱい食わされた松島トモ子、いや松島トモ子の食えない話、どうもうまい表現が見つからないのだが、そういった失敬千万なエッセイを書いた。その失敬千万に対して当事者から手紙をいただいた。「おねえさんといっしょ」という題名でありながらこの誌上に御本人にいっしょに参加していただくのは今回がはじめてということになります。紹介します、松島トモ子さんの手紙でーす。イエーイ。 「ライオンのエサから、ひとことご挨拶《あいさつ》申し上げます。西友ミュージカルの旅公演中、ちょっと東京に立ち寄りましたところ、母が買っておいてくれた『おねえさんといっしょ』を拝見しました。まー、ひどい! と最初はかなり頭にまいりましたが、ごもっともコ。ジョージ・アダムソンからの手紙によりますと、あれから豹《ひよう》のコミニューンはショックの為か行方不明とか、ライオンは元気だそうです。(略)私の首は私の体にしっかりとくっついていて、私と一緒にガンバッてくれてます。ぜひ一度おめもじしたいと存じます。その時はご覚悟のほどを……あなた様のギプス姿が眼《め》に浮かびます。残暑厳しい毎日、どうぞお体をお大切に遊ばして下さいませ。 エサにもなれなかったトモ子より」  ごもっともコで良かった。シャレのわかる人で良かった。ああ食いつかれなくて良かった。いや、この食いつかれるというのはヒユである。コトバは慎重に選ばねばならない。ともこかくこの手紙、いや、ともかくこの手紙は私の人生観を変えた。ま、一日に三度人生観の変わる私にすれば、そう珍しいことではないのだが、少なくとも、「おねえさんといっしょ」の方針だけは変わった。この欄の主旨は、元を正せば、人を憎むことを知らず、生まれてこのかた人を悪く言ったことのない私の作家としての将来をオモンパカった編集者に「もっと人間悪くならなくちゃいいもの書けませんよ」とそそのかされて、私の性格をリハビリする為に、設けられた欄なのである。かくて、毎月一回私は、心を鬼にし、電車に乗ってもお年寄りに席を譲らずシルバーシートにゲロをはきながらこの欄を書いている。おかげで人間がだいぶ悪くなった。その分才能があると言われるようになった。だから文学なんてキライさ! ここまで心が薄汚れて、ええいちくしょう、こうなったら他人のことをボロクソに書いてやらあっ! ここまですさんでいた私の心に松島トモ子さんのお便りは、一条の光を投げかけてくれました。「罪もなく苦しんでいる人をワルク書いてなんの得があるの?」そう優しく私を諭しているようで、金持ちの余裕というか荒稼《あらかせ》ぎ、いやひと稼ぎした人の余裕、人生の勝者の敗者へのサゲスミ、あっまた私のひがみ根性がでている。とにかく悟ったのだ、私はもうこの欄で悪口を書くのはよそう。悪口というのは必ずその人の耳に入る。だから絶対に入らない、そうたとえば日本語のわからない、ヨメない、たとえばだ、〓阿玉《とあぎよく》なんかいいのではないか? ゴルフという金持ちの余裕にハングリーをもちこんで私の世界観を変えた、彼女の悪口、いや事実をありのままに語ろう。  スポーツには階級がある。一番貧乏人がやるのが、大相撲とボクシングである。あっ具志堅さん、ぼくを殴らないでください。松島トモ子さんの手紙をいただいてからというもの書く方も命がけである。ボクシングの上の貧乏スポーツは、ボウリング、バスケット、サッカーとかいったところだろうか、その上にバレーとか野球とかのっかってきて、大相撲の対極にある金持ちのスポーツは、ヨット、馬術なんかに混ざってゴルフというのがあったのである。〓阿玉がでてくるまでは。ゴルフというのは、この土地の少ない日本において、やあい貧乏人ザマーミロ、こんなにもムダに土地使って、へーい、ちっこいボール一個打ってるだけだぜいっ、という心地良さがあった。タシカニ貧乏人というのは、ちっこいボール一個見せても卓球を考えだすのがやっとなのである。ゴルフには金があると創造力も違ってくるという思想さえ感じられた。そこに賞金稼ぎの〓阿玉。はじめて彼女を見た時、かつて金持ちのスポーツであったテニスが、女子大生という、うんこ以下の人間により、くそまみれとなった日のことを思った。ゴルフだけはそうさせてはならない。金持ちの牙城《がじよう》を守るべきだ。貧乏人は四角いジャングルで殴りあってろ。あっ具志堅さんぼくを殴らないで。とにかくハングリーはボクシングでたくさんだ。ゴルフにハングリーは反則だ。賞金のためにやるスポーツではない。金だっ! 金のためだっ! といってゴルフボールを打つな〓阿玉!  これだけ書けば松島トモ子さんの時のように〓阿玉さんからも手紙がきて「私は賞金もカップもヤマハのヨットもピアノもトヨタスプリンターもミンクのコートもオーク製高級家具もフェアレディZ300ZXもあまるほど持ってます。どうです一度、私の海外ツアーに御一緒しては? 途中、南の島でビンボーダンスでもしませんか?」そんな金持ちの余裕からくるシャレッけある返事がくることを確信して、私は旅行カバンに歯ぶらしまで入れて海外への旅仕度をしている。ああ、また人の金で外国へ行けるぞっ!……といきまいて、もし〓阿玉さんから返事がこないとしたら、やはりこの悪口がヨメなかったのだろうとあきらめる他《ほか》はない。 ●後記  下北沢で芝居が終わったあと、喫茶店に連れてかれて、編集者の目の前で書かされたエッセイですね。〓阿玉も、最近はあんまり調子がよくないみたいだけど、やっぱりこれが原因かな。   藤谷美和子 賛  藤谷美和子——23歳。女優。恋に破れ心に変調をきたした女優。心身症に悩む女優。体調の悪い女優。とても仕事のできない女優。自分でも女優をやりたくないと言っている女優。そんなにイヤならやめちゃえばいいじゃない、なにも母さんそんなにお願いしてまでやってもらいたくないよお前に、と言われやすい女優。仕事をやりそうになると、すぐ泣いちゃう女優。  こうやって書いてみると女優というよりは病人の方が肩書きが似合う。  藤谷美和子——23歳。病人。どこまでもカルテが似合う女優。石原真理子と双璧《そうへき》をなす不倫、破局、プッツン女優。石原真理子と対談をすれば、そのかみあわなさは、 石原「ふふ」 藤谷「やりたくない」 石原「今、笑っちゃった」 藤谷「やらない」 石原「そっかなあ」 藤谷「いやなの」 石原「心がモロッコ」  と、別役実が真っ青になるほどの不条理劇となるだろう。考えてみれば、女優の歴史は、ほとんど病人の歴史なのかもしれない。  そこで私は、病人藤谷美和子の社会復帰、女優復帰、ひいては人間復帰を願い、ミクロ決死隊の一員となり、女優という病いの病巣をさぐるべく藤谷美和子の体内へ入っていくこととなった。  この連載史上、はじめてのSFタッチのミクロの旅は、こうしてはじまったのである。  ミクロの旅への入口を捜すのは難関であった。なにせ、相手は女優さんである。めったな入口から体内へ入りこんだりしては失礼だ。  そこでミクロ決死隊は、藤谷美和子の下半身への挿入《そうにゆう》ではない突入はあきらめ、上半身のワキの毛穴から入っていった。ワキから入れば、くすぐったくて、藤谷美和子が泣き出すこともないであろうし、また、これ以上ワキ道にそれようもあるまい。  ミクロ決死隊の勘は当っていた。ワキから入ったら、いきなりテーマにぶち当った。女優の病いの病巣である女優菌が見つかったのだ。ワキのすぐそばのリンパ腺《せん》には、女優菌が元で、女優シュヨウと呼ばれる悪性のハレモノができていた。女優の付き人が、ハレモノにさわるように気を使っているわけがわかった。女優という病気はハレモノだったのだ。  こうしてみると、女優は、その病巣に当るワキのハレモノを切ってしまえば良い気もするが、そうではない。ワキにできたハレモノそのものが、どんどん大きくなり、人面疽《じんめんそ》のように、そのハレモノが女優の顔をもち、やがて肉体を持つようになるのである。ワキにできたハレモノそのものが女優の全身である。だから女優への道はワキ役からしか入れない。ワキ役とはいえ、まがりなりにも女優菌に感染した新人女優は、美人女優(臨床例、吉永小百合菌)を目指す。シュンがすぎていつまでも美しいハレモノでいられないと判《わか》ると、女優菌は次の手にでる。いわば、年相応、分相応の本格派女優(臨床例、高峰三枝子菌)を目指す。これも技量に美貌《びぼう》がおっつかず、本格派は難しいとなると、本格派女優は性格女優(臨床例、市原悦子菌)へと姿を変える。こうなるとインフルエンザだ。なかなかとらえがたい、性格女優ほどの技量がない場合は個性派女優(臨床例、桃井かおり菌)という姿に女優菌は化ける。他に異端派女優(臨床例、匿名《とくめい》希望)もある。これはアングラ劇団出身の女優に多かったりする。個性派、異端派までに身をおとしてなりをひそめるならば女優菌は好き放題に暴れ回る。変人女優(匿名希望)とか奇人女優(匿名希望)とか怪人女優(匿名希望)とか片桐はいりとか、そんなのありかよーの反則技にでるのである……。  ミクロ決死隊は、藤谷美和子のワキの毛穴で女優菌と直面し、一般的な女優という症状について、上述の如《ごと》き分析をおこなった後、藤谷美和子に姿を変えた特殊な女優菌についての考察をはじめた。 「この藤谷美和子菌による症状は、美人女優から奇人女優への、あまりに急激な変化に適応できなかった為の新種のアレルギー症状として考えられているが、このたびのミクロレベルでの分析により、藤谷美和子が美人女優のハレモノとしての頭角を現わす前段階の症状、新人女優期に、その原因をさかのぼらねばならないことがわかった。新人女優→美人女優という姿は、一日三箱六十本→肺がんというくらい、病気としてはステイタスのあるものだが、肺がんになったら喫煙していた事を恥じるように、美人女優は新人女優期を恥じ入る(臨床例、美人女優としての松坂慶子の新人女優期は、『おくさまは18歳』のカタキ役、乃至《ないし》、『夜の診察室』の松坂慶子)。連続ドラマのワキぐらいでの女優としての発病ならばまだしも、ポルノ女優菌とか裏ビデオ菌などに新人女優期を、おかされたものは、その恥じ入り方、いかばかりか。  藤谷美和子の場合、さほどではないにしても、はじめてワキにできた女優のハレモノは、CM女優菌によるものであった。『100円でポテトチップスは買えますが、ポテトチップスで100円は買えません、あしからず』あの御菓子のCMが女優のハレモノとしての発病であったことを思えば、今の奇人女優ぶりもうなずける。彼女は、はじめから、おかしな子だったのだ。あしからず」  ミクロ決死隊は、そう言って今回の調査報告をしめくくった。 ●後記  村上龍さんといっしょにテレビに出たとき、藤谷美和子のこと聞いたの。そしたら、リハーサルのときはさんざん悪くいってたのに、本番になると、いや、あの人はちゃんとした女優ですよ、だって。なかなかたいへんみたいですね。藤谷美和子と石原真理子の対談は、ぜひ実現させたいですね。   森田健作夫人 賛 「片山美子さん(24歳)は、このほど地球人として初めて、宇宙人との接触に成功した」  と週刊女性、女性自身、微笑などのインテリ雑誌は一斉《いつせい》にそのことを報じている。  片山さんが接触した宇宙人は、地球名をMORITAKENSAKU、地球年齢は36歳(以下略称番号MORIKEN36)である。MORIKEN36は、20歳を越えると、年をとってもとらないふりをし、スキがあれば「青春!」と叫んでは浜辺を走る性癖がある。以下に記されるのは、片山さんとの接触を通してえられた、この奇怪な宇宙人の生態をオムニバス形式でおくるトワイライトゾーン——未知への旅である。  1第一次接近遭遇  1985年12月。片山さんが接触に成功したその時の様子は、MORIKEN36の音声キャッチに成功した週刊女性から知ることができる。 「みんなで自宅に遊びにきたとき、友達みんながいる中で、僕は彼女と何かお互いにパッと目が合ったんですよ。僕がその時にアレッと思ったら、彼女もアレッという顔をしたんです。だから僕はこれは縁かなと思ったんです」  宇宙人MORIKEN36は、二人きりなどというSEXを前提としたつきあいではなく、あくまでもみんなという仲間に囲まれたグループ交際に端を発した第一次接近遭遇であることを強調している。 「ダチとダチのスケ達とダンスってたらフィーリングあっちゃってえ、そのままこまそうと思っただけよー」という地球のみだらな若者の姿とこの第一次接近遭遇との類似性が指摘されると、片山さんは毅然《きぜん》とした態度で「私は、全日空スチュワーデスという仮の姿にまで身を落とし第一次接近をはかったんです。MORIKEN36との接近遭遇は、こますのこまさないのって下品なものではありません。アレッと思ったら、アレッと思ったんです」  と宇宙人との精神感応《テレパシー》を強調した。しかし、その時すでに彼女とMORIKEN36は、二人きりのデートを約束していた。その手口のスバヤサ、ぬけめのなさを地球の性に飢えた若者との類似性ととるか、異星人との接触へのひたむきな義務感ととるかは、今後の不純異性異星人交流研究にまたれる。  2第二次接近遭遇(又は第一次青春感染)  なぜ地球人の数ある女性の中から片山さんと接触したのかについて、MORIKEN36は「彼女は、昔、映画館でタバコを吸っている人にやめて下さい! と注意したほどの女《ひと》だから」と音声を発している。MORIKEN36は、そうした正義感と倫理感に貫かれた宇宙人である。ふぬけた地球の若者とは違う。初デートを誘うのも、「仙台の浜から見る朝日が素晴らしい」という音声記号をうけ片山さんが「見てみたい」という返信記号を返したことによる。 「湘南《しようなん》で初日の出見ない?」「見るうー」  という会話とは、大変似てはいるが絶対に非なるものだ。そのことは、仙台の海辺での初デートについてのMORIKEN36の音声を読みとることで知れる。 「僕は仕事の都合で夜の11時過ぎから車で仙台へ行きまして、前日新幹線で行って泊まっていた彼女と朝5時すぎに会いました。二人で海辺を走って『さらば涙と言おう』まで歌っちゃった」  ここでも、夜中のアリバイを強調し二人の清い交際は、接触ではなく接近であることを示唆《しさ》している。しかし、二人で海辺を走ったという件《くだ》りにMORIKEN36の習癖が、この頃から片山さんへ感染したことがわかる。これ以後第二次接近遭遇は、第一次青春感染とも呼ばれることになった。さらに劣悪で執拗《しつよう》なマスコミの、 「初デートの時に婚前交渉は?」  という問いにMORIKEN36は、 「いやあ、それはまあ、アハハ……これからは」  と意味不明な音声を発している。  3第三次接近遭遇(又は第一次接触遭遇)  1986年10月15日。MORIKEN36との接触は海岸以外では考えられない。今度はハワイであった。地球上の男女間濃厚関係容認儀式(俗称結婚式)を済ませると二人は、海岸が待っているハワイへと飛行機にのりこんだ。円盤ではなく飛行機に乗るところにMORIKEN36の宇宙人としての庶民性と人気の秘密がある。いざ海岸、という朝、宇宙人との接近遭遇を続けていた片山さんの肉体にかねてより懸念《けねん》されていた徴候が現われた。39度近い発熱と嘔吐《おうと》である。結婚式からくる極度の疲労だとして片山さんはとりつくろったが明らかに、宇宙人との急激な接近乃至接触による肉体的徴候と見るのが正しいであろう。現に、MORIKEN36はその看病と称して、吐き気のやまぬ片山さんに、おかゆとうめぼしを差し出し「おうとうせよ」と音声を発している。 「その危機をのりこえて第三次接近遭遇、すなわち第一次接触遭遇に成功したわけですね」その質問が浴びせられるやMORIKEN36は「体に触れたからすぐに子供ができるわけがないじゃないですか」と独得の鼻声でちんぷんかんぷんな音声を発している。 「おそらく彼はSEIKOという音声記号をとりちがえたのじゃないかしら?」  宇宙人との接触でSEIKOした片山さんは意味深にそう言った。正義と倫理の股《また》に生まれたMORIKEN36も来年はMORIKEN37になるという。 ●後記  これも第二回目の記憶喪失版。森田健作に夫人がいるなんて、もう覚えてもいない。これだれ(笑)? なんだったんだっけ? なんだこいつ? ああ、スチュワーデスか。どこで知り合ったの、だいたい? あ、そうか、グループ交際か。離婚はできないから、いよいよとなったら殺すしかないでしょうね。   落合博満夫人 賛  落合信子——42歳。専業主婦。ロッテオリオンズ落合博満夫人。三冠王の妻。  しかえしが恐くて、「三冠王の妻」の先を書くことができない。自分かわいさで、書いてしまった後のわが身を案じる。手がふるえる。そこで今月は、人の手を借りることにした。だから信子さん悪いのは僕ではありません。信子さん、誤解しないで下さい。決して僕に筆を折らせたり右腕を骨折させたりしないで下さい。これは、僕が信子さんの顔写真を一枚手に持ち、全国を行脚《あんぎや》して得た町の声です。人様の口から、うっかりでた失言の集大成です。安らかに眠って下さい。合掌。  ——「落合信子さんは、どういう女性だと思いますか?」 「三冠V3の男を二重あごで使う女」(沖縄・美容家) 「夫を操縦するのが趣味と公言してはばからない女」(南西航空操縦士) 「はばばかりとる女」(宮崎・測量技師) 「正常な女を正方形とするなら従来のブスは単なるひしゃげたひし形。彼女は、一度ひしゃげたからといっても安心はできない、何度も何度もひしゃげることだってあるんだ、という事をひし形に気付かせてくれるような、まあ、はっきりいって、悽絶《せいぜつ》なるブス」(九大教授) 「夫の栄光なくして、あそこまでええかっこうできない女」(高知・こういうアンケートで必ずつまらないシャレをとばすおじさん) 「ブスと呼ばれる女性は、どこか負い目をもっているものだから、あまり責めてはいけませんという私の教育理念を覆《くつがえ》した積極的に社会に参加し危害を加えるブス」(山口・あなたも対人赤面恐怖症が治せるで著名な自信家) 「なんでもいい、陽《ひ》があたりゃ」(島根県人の願い) 「稲尾る女房《にようぼう》」(岡山・コピーライター) 「ブスの本格派。居直り、悽絶、積極性、ブスの三冠王」(広島・スポーツ新聞ばかり読んでいて語彙《ごい》が野球用語に限られている中年男性) 「歯並びの悪い女やね」(大阪・歯科医) 「こうして書いていても鼻をつまみたくなる女」(大阪・保健所衛生部大小便処理班勤務) 「さすがにこれだけ書くと、名誉を著しく傷つけられたと、本人から訴えられても謝罪するしか他のない女」(京都・弁護士) 「それでも、書きゃにぁ、にゃんにゃあでよ、とジャアニャリャスト精神の正義がうずく女だがや」(名古屋・いらんことするジャーナリスト) 「裁判沙汰《ざた》になっても目をあわせないであろう女」(静岡・第一審の検事) 「知らず裁判官の心証をそこないやすい女」(埼玉・第二審の検事) 「とどのつまり、掲載随筆『おねえさんといっしょ』は事実に基づいている。との判決が下りがちな女」(霞が関・最高裁判所長官) 「こうして、十年間にわたる“落合夫人のブス”をめぐっての公然醜女論争は幕を閉じたのであった。(完)となりがちな女」(永福町・推理作家) 「だから無駄《むだ》な抵抗はやめるがいい女」(市谷《いちがや》・第四機動隊員) 「そして無駄な抵抗をやめて、かえって旦那《だんな》のトロフィーに囲まれ、どっしりと居間に居座っているそのカッコ見て、他人のフンドシの意味をわからせてくれました女のことねのね」(小錦) 「ぼく、フンドしたよ」(具志堅用高) 「悪女ね」(竹久みち) 「向い風の時は助かる女」(増田明美) 「ペットの愛犬とうつっている写真を見て、人間だからといって決して安心してはならないと思わせる女」(新宿・ドッグ店主人) 「落合さんがカワイソーよと思わず叫んじゃいたくなる女」(横浜・OL) 「あんなのありい? 反則よう」(千葉・プロレス好きの女子短大生) 「この場を借りてお願いします。〆切《しめきり》だけは守って下さい」(矢来町・編集者) 「結婚したくない女」(群馬・映画監督) 「シーズンにきてもらうと助かりそうな女だね」(秋田・なまはげ振興会) 「逆雪女」(新潟・日本酒ひと筋十七年) 「ぜひ、うちにも来て欲しい」(津軽・厳しい冬、楽しみもない、暗い海には魔物がでそうだ、玄関先に一家にひとつ魔よけが欲しいと思っている土地のおじさん) 「おら、この前、このメスが川でサケをとってるのを見た」(石狩・熊うち名人会四級) 「交渉事には前面に押しだしたい女」(千島列島を返せよなロスケの会) 「まとまる話もまとまらなくするような女」(正力オーナー) 「まとまらなくても、けれどやっぱりまとめてしまいそうな女」(千島列島と知床岬《しれとこみさき》をトレードさせようの会) 「この日の為に、この女と一緒にいて良かったと、いつか思わせてくれる女」(女房の暴言のおかげで念願の巨人軍にトレードされかけた某三冠王) 「……(大笑い)」(その妻) ●後記  これはしかし、手を抜いたエッセイだね。いけませんよ(笑)。こいつが自宅のソファで猫抱いてる写真と、林真理子がテレビの深夜トーク番組に猫連れて出たの、あれはムカついたね。でも、この似顔絵はよく描きすぎじゃないの?(電子文庫版およびオンデマンドブックでは挿絵は削除しました。——編集部)福笑いに失敗したみたいな顔でしょ。   内藤千秋 賛 「最後の女性蔑視《べつし》随筆として、好評と悪評の間隙《かんげき》をぬって二年間続いた『おねえさんといっしょ』が、最終回を迎えることとなった。  表現の自由という隠れ蓑《みの》を最大限に生かすところはフライデーの如《ごと》く、それでいてしかえしの少ない非力な女性だけを対象に徹底的にいためつけることで成功をおさめた、この強姦《ごうかん》型随筆は、日本随筆史上、もっとも卑怯《ひきよう》者の手口だと、かねがね噂《うわさ》されていたが、まさか最終回で、しっぺいがえしをくらうとは思いもよらぬことだった」  日本ではじめての随筆による強姦罪が成立し逮捕された野田秀樹は大胆にそう語った。犯人野田が、最終回でとりあげたおねえさんは、内藤千秋(33歳)宇宙開発事業団職員、日本初の女性宇宙飛行士であった。 「とにかく相手が悪かった」  と犯人野田は後々に語っている。その随筆を書いた時は、 「組み伏すつもりが、いつのまにか組み伏されて逆に犯された感じ」さえしたという。犯人野田は、さらに内藤さんについて、こう語っている。 「女性宇宙飛行士というのは、僕の子供のころからの憧《あこが》れだった。ほっそりとしたボディー、瞳《ひとみ》には星、みどりの黒髪、おくゆかしい知性。ところがだ、あの日本初の女性宇宙飛行士の、なんとかいうアレは、ウエストはくびれとらんし、太腿《ふともも》は黒岩しておるし、瞳なんか、太陽でも直接見そうなガサツな感じだ。とにかく、あの目つきが気にいらん、もう少し、なんとかならんのか、あんなものが、宇宙にとんでったところで、だからどうした? って感じだ。現に第二の内藤千秋になりたいなんて、少女達の声もきかれない。少年少女のバックアップなしに、宇宙開発なんて遊びは、ありえない。アレには、松本零士《れいじ》のマンガの女性宇宙飛行士のモデルになる理由が、ひとつも見つかりようもない、というのもかなしいじゃないか。それに、ふつう女性がいるというだけで職場というのは盛り上がりそうなものだが、一向に盛りあがらない宇宙開発事業団を見るにつけても、アレはなんだっつうんだ。とにかくアレは子供の頃から大切にしつづけた僕らの女性宇宙飛行士のイメージを根底からくつがえしたうえに、ふみつけて足でかきまぜ、覆水《ふくすい》と親不孝者よりも盆にかえりにくくしてしまった。いっそ、宇宙へ行ったきり帰ってこなきゃいいのにという、不吉な期待を抱かせる。せめて帰ってくるならジャミラになあれ! という淡い期待さえ抱かせる」  犯人野田の身勝手な強姦型随筆は、ここでひと息をついている。少しは気持ちがおさまったのかと思っていたら、変質者特有の執拗さで罪のない内藤千秋さんを、さらにこきおろすのであった。 「チャレンジャーの事故の後も、アレは『訓練に変りはありませんし、スペースシャトルにのって宇宙から地球を見てみたいという夢も変りません』とその意志の強さを見せつけたって評判だが、その臆《おく》することのない、かわいげのなさにかえってオレなんか『オメーが、地球を見たいという夢など、どうでもいいんだ、僕らの女性宇宙飛行士の夢を返せ!』と叫びたくもなる。ったく! 親の顔が見たいもんだぜっ。そう思っていると、やはり、出るわ出るわ親の発言。チャレンジャーの事故の後で、『あんた、道歩いてたって車に轢《ひ》かれる人はいるんだから、しっかり頑張《がんば》りなさい』とアレが親に励まされたってんだろ? 直訳すればその親の励ましは『死んでもいいから名をあげろ』という、消極的な子殺しじゃねえか。え? 第一、チャレンジャー事故と自動車事故は、ずいぶんと違うんじゃないのか? 結局よ——」  犯人野田の口調が、だんだんリラックスするにつれて、最終回は不吉な結末へと近づいた。 「結局よ——、84億円の国費を使って、ブスを打ち上げるのかと思うと、むしろ生まれたての童童《トントン》を打ち上げて、脅《おび》える姿でも楽しんだ方が、まだしも少年少女の宇宙への夢がつながろうってもんだろ。え? 違うか〓 科学知識とキャリアと体力さえあれば、少年少女の宇宙への夢は、どうでもいいのか? とにかく、キタナイものが空を上がっていくという思想は、人類史にはなかったんだ。天使、イカロス、ピーターパン、スチュワーデス、空へあがるものは、いつの世も美しかった。誰《だれ》も宇宙の真実など知ろうとは思っちゃいねえよ、よけいなことを、ったく! ちょっとばかり知恵と力のありあまってるブスをこともあろうに打ち上げようなどというタクラミは絶対に許さねえ、輪島が、プロレスに転向したことの方がまだしも美談だ。子供に説明のしようもある。世の中、甘いもんじゃねえ、と説明できる。宇宙飛行士は、なりふりかまっていられない仕事だというが、キレイななりはともかくも、キレイなふりぐらいしてほ……」  そう言って取調室でふりむいた犯人野田の見たものは、震えをおさえて立ちすくむ内藤千秋さんであった。内藤さんは、本人自らが「私は男性蔑視者です」と公言してはばからない女性である。その瞳が小さな野田を見下げ果てていた。内藤さんは最終回の結末を暗示させるかのように、リップスティックを手にしていた。彼女は強姦随筆されて、泣き寝入りをするようなタイプではなかった。  強姦随筆犯野田の最後は、筆を折る前に骨を折られたという、実にあっけのないものであった。 ●後記  結局この人、宇宙には行かないんだよね。よかったよかった。どうせならもっときれいな人に行ってほしいよね。石原真理子なんかいいんじゃないかな。帰ってこなくてもべつにだいじょうぶだし。   宮田輝君——番外篇 膝小僧時代 「輝は小さい時から一度マイクをもつと離さなかったよ。輝が全校朝礼の司会をやった時は、三時間目まで朝礼がのびたことがあったんだ」  そう語るのは、宮田輝さん出生の地、東京足立区に住む、宮田輝関係者である。  ——その日の、全校朝礼の様子をつぶさに話してくれるかなあ? ボク。 「うん。雨が降っていたんで、急遽《きゆうきよ》、体育館でやることになったんだ。凄《すご》かったよ。10歳になったばかりの輝(彼は、宮田輝の通であることを印象づける為に、しきりに輝、輝と言った)が、朝礼台で話をはじめると、子供よりも、校長とか教頭とか年寄りにうけたんだ。先天的に老人に愛される体質というのか体臭をもっていてね、嫁姑《よめしゆうとめ》の仲の悪い足立区の家では、輝の体臭からつくった“テルリンS”というのを使うと、姑が穏やかになったって話だよ。足立区だけの話だけれどね。その日の朝礼だってそうだよ、目を細めて喋《しやべ》る輝を見ながら、音楽の先生で退官まぎわの大平先生が、やがて目をつむり話をかみしめてきいているのかと思ったら、そのまま死んでたんだ」  ——………………。 「ほんとだってば。そのくらい年寄りを黙らせるのに役に立つやつだったってことだよ。政治・倫理を教えていた三木先生も、猿楽《さるがく》を教えた福田先生も輝の話をききながら逝《い》ったらしいよ。その日の体育館だって、年とった先生から、順に次々と、じかに腰をおろして輝の話に聞き入ってね。寒い日だったし、他の子供も年寄りに気を使って、むしろを持ってきてやって、それでも朝礼が長びくもんだから、放送係が輝に合図をしようと、あの鉄琴のキンコンカンて鳴るやつを持ってきたから、さあ大変。マイクに加えてキンコンカン、壇上には宮田輝、それを見ているむしろの上の年寄り、わかるだろう? 体育館でのど自慢が始まったんだ」  ある宮田輝関係者がそう言ってるのに対して、もっと宮田輝に通じているという人の印象もきいてみた。  ——宮田輝君が膝《ひざ》小僧を出して半ズボンで遊んでいた頃のエピソードがなにかあるかな。 「それがね、そんなに印象ないんだ、宮田君は、どちらかというと影の薄い子で、ふだんは、なにもせず人が困ると助けるタイプでね、ある時刻になると急にはりきり出すんだ」  ——ある時刻というのは、やはり朝礼のはじまる7時とか、8時とか? 「いや、たしか8時半だったよ、その時刻になると急に人助けをしたくてうずうずするっていってた。だから宮田君が8時半の男だっていって、昭和40年にマウンドに現われた姿をテレビで見た時、やったなあいつって思ったんだ。だけどまさか、あの宮田君があの後、国会議員にまでなっていたなんて、俺《おれ》知らなかったなあ。うかつだった」  ——そんなことは誰も知らないよ。 「じゃあ君もうかつなんだ」  この宮田輝関係者は、相当うかつな人であった。その事に気づかなかった私もうかつだった。そこで私は、もう少し事情に詳しい財界筋からの話をききこんでみた。  ——財界の方から見た宮田輝さんですが、そつのないユーモアのへんりんはありましたか? 「そうねえ、財界って言われても所詮《しよせん》あたしゃ、駄菓子売ってただけだからねえ、ただ、そつのないイヤな子だったね。あたしの顔見て『こんばんは』の代りに『おばんです』なんて言ったり、運動会の季節には、紅白に別れる以上12月31日にやるべきだといってみたり、夜の12時にはお子様ランチに日の丸たてて、君が代をハーモニカで吹いている無気味な子だったね」  当時から財界筋のうけは、あまりよくなかったようだ。そこで、前出の宮田輝に通じている足立区在住の宮田輝関係者にもう一度御登場願おう。 「学校の成績? そりゃ議員さんになるくらいだもの、ダントツだよ、いきなりトップさ。はじめはね、それから何を思ったのか知らないけれど、せっかく朝礼の人気者だったのに、それやめちゃって、PTAに立候補したんだ。学級委員じゃないよ、PTAだよ。子供のくせに身のほど知らずって言われたけれどね、PTAのおばん達に、あの笑顔で『おばんです』なんてやったもんだから気に入られて、あっというまのトップ当選。子供史上初のPTA役員だなんていって、足立区報じゃ話題になった。足立区の水はなぜまずいかっていうのと双璧《そうへき》をなす話題だった。ところが、朝礼の人気者やめて身のほどしらずのPTA、学業の成績が1番から22番におちてね、とたん人気もおちるわ、PTAでもその後、子供役員がはやりだして珍しがられなくなったんだ。いわば上野動物園のインド象《ぞう》花子みたいなもんだよ。パンダ、コアラにえりまきとかげのもの珍しさに、かつてのちやほやどころか、なぜこんなに珍しくないものが動物園にいるんだって思われるようなもんだ」  ——で成績トップだった宮田輝君は、22位まで落ちてどうした? 「ふてくされて逆うらみして、学校に火をつけるとまで言ってた。結局、同じ英語三文字なら一緒だって言って、PTAやめてNHKに入ったみたいだよ」  宮田輝君が政治をやめて性事に走る日も近そうだ。  ガンバレ! 宮田輝君。 ●後記  ……お亡くなりになった方ですからね。しかし不遇な晩年でしたね。「宮田輝を見て、それでも行くのか磯村さん」て感じだな。   長島茂雄君——番外篇 膝小僧時代  茂雄は中学一年の春、入学した者誰もがクラス全員の前でやらされる日本義務教育界きっての悪習、あの自己紹介の折にも悪びれず、 「いわゆるひとつの長島です。趣味は英語です」  と言っていきなり人気者になった。 「ただちょっと、自己紹介の時の脳天からでるうわずった声が気になった」  と同級生の林さん(51歳・現在スナック経営者)は気になる思い出を語っている。  入学三日後、茂雄は、 「やっぱり教室は、クリーンにしたいものですね」  そういって清掃係に立候補している。  一週間後、茂雄は、はじめての英語の時間、"This is an apple"を和訳しろと言われ、 「これは、いわゆるひとつのりんごです」  と訳して、英語の先生に、天才のカンを感じるともてはやされた。  さらに茂雄は一週間後の英語の時間に、今度は、"These are two apples"を和訳しろと言われ、 「これらは、いわゆるひとつの、ふたつのりんごです」  と訳して英語の先生に不気味がられた。  爾来《じらい》、茂雄は学業と大人を嫌《きら》いになり、悪童となった。悪童とはいっても、自らの意識下に行動を把握する大塩平八郎型のそれではなく、うっかり思わずとか野性のカン、天才の証明のような行動にでることが多かったという。  二学期の昼下り。同級生の女の子で、当時茂雄と最も親密な仲にあったという淡口さん(51歳・現在漁業協同組合勤務)が教室にいないのに気がついた担任教師が、 「茂雄! 淡口は今どこへ行ってるんだ?」  に答えて茂雄は、 「淡口さんは、今トイレへ行っています」  と言いながらティッシュペーパーで尻《しり》をぬぐうアクションをしたので、淡口さんがうんこへ行っていることが皆《みん》なにバレタという。淡口さんとの仲は、以来急速にさめていった。 「いわゆるスモールな初恋とでもいうんですか」  当時をふりかえり茂雄は、唇《くちびる》をかんだ。  趣味英語でほろ苦い思い出をつくった茂雄は、中学二年になると趣味を映画に変えた。 「エイゴからエイガなら一字ですむでしょ。しかもゴもガもガ行で濁点がついてますし、インターナショナルっていうんですか、いわゆるプリンティングする時なども、てまひまがオミットできるんじゃないかと……」  茂雄は、もうその当時から、独特の思考法と言語体系で物事を結論づけていたので、前述の発言を理解できないからといって、ひとえに読者のせいではない。  映画は黒沢作品にこっていた。  立教大学時代、黒沢作品『野良犬』を観《み》て、 「のらけんはいい」  と言ったという趣味の良さは、このころすでに育《はぐく》まれていた。  そのことは、次の茂雄の中学時代の卒業文集からも見てとれる。 「この三年間の、なんというんでしょうか、中学ライフを通じて、僕が見た映画の中で、いわゆるひとつのベストとでも申せばいいんでしょうか、黒沢作品の『七人の侍』がグッドでしたね。映画のいわゆる、つくっていくうえでの、なんというんでしょうか、ハウツーもグッドなんでしょうが、アクターたちのエキサイティングなアクションですね。たとえば、森繁久彌さんのクリーンさですか、それに、ニュー新人とでも呼べばいいんでしょうか、いわゆるひとつのいしだあゆみさんが、とてもフレッシュですね」 『七人の侍』を『七人の孫』とまちがっていると、断言はできないが、 「茂雄の性格からすれば、そういうことがあっても不思議ではないね」と、長島茂雄関係者(31歳・劇団主宰)は語っている。  この関係者は、茂雄の性格についてさらに、 「茂雄のあの逆天衣無縫な性格、ほころびだらけで、とりつくろうには穴が大きすぎる性格は、英語や映画には不適性でしたが、野球には適性として働いたと思います。ま、彼の性格は、野球界においてさえ、これまで見たこともないし、今後も見ることはないだろうし、また見てはならないし、見るべきでもないし、見たくもないし、見ようったってそうそう見れるもんじゃないし、見そびれたら大変だし、かといって見るには骨が折れるし……(エンドレス)」  それでは、野球にだけむいている長島の性格を、当時の中学教育がつくったのだとしたら、もしも、九人の長島茂雄をつくることができたら日本の野球史は変ったのではないか、という率直な質問に答えて、前出の長島茂雄関係者は、こう結んでいる。 「もしも巨人軍に長島茂雄が九人いたらって? あんたね、ふっと考えるぶんには、ほほえましいよ、右も左も上も下も前も後も長島、でも、ようっく考えるとぞっとする景色でしょ。彼が九人いたら巨人軍はPL学園にだってうっかり負けちゃうよ」  ここで冒頭の中学時代の自己紹介が思い出される。彼は天才のカンで無意識に知っていたのである。  長島茂雄は「いわゆるひとつの長島」であって「いわゆるひとつの、九つの長島」ではありえないことを。 ●後記  大原麗子みたいなもんで、かわいらしいエピソードにはことかかない人。現役時代は大嫌いだったけど、いまは好きですよ。現役のときに隠してたボロがぼろぼろ出てきて。   加山雄三君——番外篇 膝小僧時代  今月は、昨年12月31日に低迷する日本歌謡界に、いらぬ新風を巻きおこした風雲児加山雄三に因《ちな》んで、古くから伝わる日本古来の加山雄三伝承を全国津々浦々より拾ってみました。  一、加山さんちの雄三くんは大の動物好きの巻。  雄三が子供の頃、動物が好きだったのはつとに有名である。かわいがっていた小犬が死んだ日、「死ぬまで君を離さないぞ」そう言って泣いて、周囲の涙を誘った。それからしばらくして、また「死ぬまで君を離さないぞ」そう言って今度は金魚を握りしめていたという。  数週間後、雄三の庭には、小犬、金魚の他にも、手のり文鳥、猫《ねこ》、ドーベルマン、しまうまなどの墓が次々にできた。いずれの首にも握りしめられた痕《あと》があり、その墓碑には必ず「死ぬまで離さなかった君よ安らかに眠れ」とある。  もっとも雄三のおばあちゃんの墓碑の文句が同じなのは、単なる偶然であろう。むろん、窒息死というのも単なる偶然であろう。  動物達にしても墓を建ててもらい、墓碑までつくってもらい、そこまで愛されたらなんの文句も言えないし、実際、文句の言えない姿にもなっている。合掌。  二、加山さんちの雄三くんの夢の巻。  雄三の夢はでっかかった。シンガーソングライターになることだった。でなけりゃ仮面ライダーになろうと決めていた。やがて大人になった雄三は、シンガーソングライターになった。夢は現実になった。後は、仮面ライダーになるだけだった。その夢が、どんな現実になって現われたかは、僕がここでシンガーソングライターを、百円ライターと書きまちがえそうになったのだから無理もない。  三、加山さんちの雄三くんは大のインテリの巻。  とにかく「マスター、ボルト一本入れて頂戴《ちようだい》」の村田英雄。「頭《あたま》——、敵が攻めてきました」の萩原健一。「ちょっとスチュワーデスさん、あたし気分悪いの、窓を開けてくれない?」の大原麗子と、頭脳において個性派がズラリと揃《そろ》う芸能界にあって慶応大学法学部は、インテリの部類である。慶応の法学部といえば、アホー学部と陰口を叩《たた》く僻《ひが》み根性もあろうが、陰口と漢字で書くとつくづく、いやらしいなあと思う。そういう事とは関係ないところで生きているところが、さすが法学部出身の加山雄三である。なんといっても趣味と聞かれて「相対性理論」と答えた芸能人は後にも先にも加山雄三ただ一人であり、「相対性理論のどういうところを趣味にしているのですか?」という質問には、後にも先にも答えていないのも、すがすがしくて加山雄三である。  四、加山さんちの雄三くんと森田さんちの健作くんの巻。  雄三くんと健作くんは、トランプでいえばダイヤとハート。相撲でいえば、北天佑と北勝海。駅前喫茶のカフェオレとふつうのコーヒーにミルクを入れたやつ。つまり通人以外は余り気付かない。雄三くんも健作くんも、海辺は勝手に走りやがるし、夕陽《ゆうひ》見りゃ勝手に泣くし、罪のない夕陽にバカヤローなんていうし、思いもよらぬところでギターを弾いたり歌を歌う反則技を使うし、一年中鼻声だし、なんかっつうと女々《めめ》しい男にだけ、男らしく生きろっていって、弱い者いじめするわりに、女には男らしく生きろっていわないし、結局最後は涙をふいて胸をはるし、どこがどう違うのか、よくわかんない。雄三くんと健作くんは、青春巨匠の男ザ・ピーナツである。  五、加山さんちの雄三くんと池端さんちの直亮くんの巻。  芸能人の本名で、なんといっても笑えるのは、母親であることをみせびらかしている松田聖子こと蒲池法子である。ワッハッハである。バタくさい芸名のついている奴《やつ》は、本名が危ない。加山雄三も池端直亮である。ワッハッハである。池端は文化センターとつけば、忘れもしない食中毒を出してほとぼりがやっとさめたと安心しているところを、突然こんなところで活字にされて、かわいそうな文化センターとして有名である。その上、下の名前、直亮は、まず慶応法学部の同級生には、ほとんど読めない漢字である。やはり本名と芸名は、かけ離れない方が良い。たとえば歌舞伎囃子《かぶきはやし》協会副会長で、日大一中中退の望月太左衛門さんの本名は、安倍一太郎である。芸名も本名も、どうにでもなりやがれいっ! という感じがする。いきなりこんなところで、誰もしらない望月太左衛門さんの話がはじまるところに話題に乏しい加山雄三のあふれんばかりの魅力がある。  六、加山さんちの雄三くんの鼻こすりの巻。  クレオパトラの鼻があと一センチ低かったら……の話は余りに知られているが、もし雄三くんの鼻の穴が、あと一センチ横についていたら、あの鼻こすりは、鼻ほじりになって、初代青春の巨匠になれたであろうか。「幸せだなあ」と言いながら、鼻の穴に指をつっこむ姿は、テレビのブラウン管よりも、新宿辺りの地下街の中年の浮浪者のひとりごとを彷彿《ほうふつ》とさせる。  雄三くんの鼻の穴の一センチは中年の浮浪者と青春の放浪者の境である。  幸せなのは、まことに雄三くんである。 ●後記  子どものころは荒木一郎派と加山雄三派に分かれてて、おれは荒木一郎のほうが好きだった。そういえば、松平健の本名は鈴木末七なんだよね。   双羽黒君——番外篇 膝小僧時代  ある晴れた昼下りのことだった。頭からすっぽりと袋をかぶせられた人間(おそらく人間であろう)が二人、ゴトゴトと荷馬車に揺られて行った。やがて、その一人が、見世物小屋でおろされて象男《エレフアントマン》になり、もう一人が相撲部屋でおろされて横綱双羽黒になるのである。  スモートリになる肉は、通常、このように市場においてキロいくらで入荷される。双羽黒のような最上の肉だけが、相撲部屋でおろされる。悪い肉は、相撲部屋におろされる以前、三枚におろされ、結局スモートリのチャンコに変る。こいつは食えないと判断されると、アザラシとかセイウチのタネツケにまわされる。できた子供の皮がまわしになる。まわしの語源には、スモートリの悲哀がある。  双羽黒は、生まれた時、すでに母親より大きかったという。どうやって胎内にいたのかは、今後の「双羽黒とマグロの出産」研究にまたれるところだ。  もっとも、一般にスモートリのとれ方に共通する形態は見られない。たとえば、朝潮が出産時に、高知の海辺、海面近くの海中の岩に、しがみついて岩にガブリ寄りしていたことは周知のことであろう。いまだに、朝潮には藻《も》がからまったままの印象はぬぐえないし、お尻がキタナイのは岩でこすれたからである。  スモートリの肉は、生後十年以内に神経を獲得するが、ものを考えるようになるには、早いスモートリで三十年、遅いものだと死ぬまで思考はできないといわれている。  けれども双羽黒は、スモートリの新種といわれるだけあって、子供の頃から「おっ、ものを考えているらしいぞ」という徴候をみせることがあった。  とりわけ「スモートリにだけはなりたくない」という小学校時代の卒業文集が、いまとなってはイタイタしい。その作文の中で、 「からだがおっきから、すもとりになれっちゃ、とうつぁんもかあつぁんもいうけど、おっきだけなら、ふじさんのほがおっき」  イタイタしい。涙が滲《にじ》む。しかもすでに、とうつぁん、かあつぁんという口調に、ごっつぁんへつながっていく言語体系を獲得していることも見過してはならないだろう。  双羽黒は機械いじりの好きな理数系の少年だった。決して体育系の少年ではなかった。その頃は、名前だって、双羽黒という「え? マグロがどうしたんだって?」といったヒビキではなく、北尾であった。北尾少年はボタンのついている機械が好きだった。ボタンのついている機械は、ボタンを押せば、ひとりでになにかが起こることが、理数系の北尾少年にもわかったからだ。それ以上のことは、もうひとつしっくりとこないのだが、とにかくボタンを押すと、ガシャー、とかピーとかカチカチカチなどという音がきこえてきて「うへえー、すげえなあ」という感じを理数系の直観で感じていた。むろん北尾少年の時代には、パソコンというようなものはないので、主にスーパーのレジのボタンとか駅前の案内図のボタンとか、時に非常ボタンを小指で割って押したりもした。「ボタン押す、なんかおこる、機械ウソつかない」とどまるところを知らないインディアンのような好奇心とあふれんばかりのその理数系の知力をもってしても、北尾少年は、ボタンの押し方しか覚えることができなかった。  それで、だから、やはり、多分、どちらかといえば、スモートリに向いているかもしれないという声が、北尾少年の周囲でもち上りはじめたのは、頬にニキビの年頃《としごろ》である。北尾少年は、すでに家よりも大きくなっていたので、とにかく家を出なくてはならなくなった。島より大きくなって、島を出なければならなかった小錦の場合と似ている。かといって北尾少年の「スモートリにだけはなりたくない」という中学時代の卒業文集の中の一文も、今となってはイタイタしい。しかもその作文が小学校時代の文集と同じ文であるだけに、余計イタイタしい。  ところが、ある朝起きたら、北尾少年はスモートリになっていた。がんじがらめに全身を縛られて、纏足《てんそく》などというなまやさしいものではない。纏スモートリである。体をむやみにふくらませるスモートリ養成ギプスをはめられたうえに、裸にむかれ、まわしをつけられ、髪型は突然山本富士子のようにされてしまっていた。はかられたと思いながらも、北尾少年は、理数系の頭でスモーへの復讐《ふくしゆう》をゆっくりと考えた。往々にしてスモートリは、スモーローションと呼ばれるスピードでしか、ものを考えられない。  かくて北尾少年は、本当は優れた才覚をもちながら、相手のスモートリの胸ボタン(別称、乳首)を押すという得意技で、さっさと横綱になった挙句、突如、弱い横綱の真似をして、ズル休みはするわ、パソコンはやるわ、チャンコ鍋《なべ》なんかうまくねえわと口走るわ、双葉山も羽黒山もいらねえ北尾という昔の名前にこだわり、反スモートリの叛旗《はんき》を翻《ひるが》えしたのである。誰にも気付かれず復讐鬼と化した横綱双羽黒は、今後も休場をくりかえしコロコロ負けて優勝回数0のまま引退することだろう。  横綱は、あるインタビューの「好きな作品は?」にスモートリらしからずこう答えている。 「フレデリック・フォーサイスの『悪魔の選択』です」  スモートリになりたくなかった男が、体が大きいばかりにスモートリを選択せざるをえなかった。  悪魔の選択、そのヒビキがイタイタしい。 ●後記  これは予言が的中した。当たったからそれがどうしたってなもんだけど。大相撲も、今はあんまりプロレスに行きそうなのがいないね。めちゃくちゃなやつが出てない。   ホーナー君——番外篇 膝小僧時代    プロローグ  ロバート・J・ホーナー、29歳。大リーグ9年間の実績、打率.278。215本塁打、652打点。今、日本では、どの野球チームも、ヤクルトスワローズと試合をする時は、彼一人と闘っている、と錯覚させる男。しかし、そんな赤鬼もしげしげと見れば、ことの他、顔だちはやさしく、ひげもうすい、まろやかな体つき。疑惑は、そこからはじまった。  ジャカジャカジャンジャン、ジャンジャン、ジャン、特集“疑惑の球団”  出演 疑惑の球団のホーナー     疑惑の球団のオーナー     疑惑の球団のナーナー  美術 ターナー  音楽 ワーナー  できばえ マーナー    第一章  その疑惑の球団のオーナーは、G球団(仮名)の大ファンであった。G球団とは、O監督(仮名)の率いる球団である。疑惑の球団のオーナーは、G球団に負けることを至上の喜びとしていた。時にオーナー自ら「負けろ!」とまで命令した。けれどもオーナーが「負けろ!」と指示を出すまでもなく、疑惑の球団は、真底弱かった。野球への熱意も能力もなかった。D球団のウーナー(仮名)選手などは、「もっと頭を使って野球をしろ」と言われれば、それなりに頭を使って野球をするほど熱心である。が疑惑の球団は、オーナーがオーナーなら選手はナーナーである。かくて負けたいと思わなくても負けることができた。    第二章  そんな、ナーナーがイーナーと思っていた疑惑の球団にホーナーがやってきた。マイナーではない。メジャメジャにメジャーナ、ホーナーである。そのうえ野球マナーにマジナー、ホーナーは、ヨーナーヨーナー、ホーマーをとばした。  ナーナー達は、口をそろえて、 「ヤーナー」  と言った。  ホーナーは、ナーナーにとって歓迎されざる客のヨーナー者であった。  けれどただひとり、オーナーばかりは違った。 「ソーナーこと、二度とユーナー。エーナー」  とナーナー達をドーナータ。  ナーナーは、ぽかんとして、オーナーはドーナッタのだろうと思った。オーナーがホーナーを一目見て、勝つことへの情熱を見せたからである。  一体何故、オーナーはホーナーに惚《ほ》れたのか。  ある疑惑の球団関係者は言う。 「サーナー」  らちがあかない。もう一人の疑惑の球団関係者は、 「ここだけの話にシーナー」  やがてキーナーくさいはなしが私の耳にとびこんできた。 「仮にもホーナーは、去年まで、バリバリの現役大リーガーの三番打者、それが日本ごときのプロ野球の、しかもPL学園はおろか青森の東奥義塾とも練習試合で負けてしまいそうな球団のメシをクーナー?」  わたしは考えこんだ。 「ソーナー」    第三章  かくて私は、ホーナーを見て、思いあたったそのひとつの疑惑をはらすために、アメリカはアトランタへ飛んだ。  そこでホーナーが所属していたブレーブスの試合を見た。  やがて球場アナウンスが、ブレーブスの三番バッターを告げた。  私は驚いた。  ホーナーが打席に入っているではないか。日本にいるはずのホーナー。いやホーナーそっくりのホーナー。しかしよく見ると、少し違って見えてきた。本場のホーナーは、ひげをたくわえて、がっしりしている。そういえば、日本のホーナーの方が、顔だちがやさしい。ひげもうすい。まろやかな体つきで、そう、ちょうど、第二次性徴期の女子中学生のようでもある。  もはや、疑いようもなかった。  日本のホーナーは、ホーナーではない、オンナーだ。オンナーにオーナーが惚れたのだ。やる気のなかったあの疑惑の球団のオーナーが、いわゆる、やる気を出した意味がわかった。やる気の陰に女あり。  早速、ホーナーの生まれたカンザスへ行き、戸籍を調べた。ロバート・ホーナーの妹に、ロバータ・ホーナーの名を見つけた。日本にいるロバート・J・ホーナーのことである。ト・Jの部分は、実はタの字を分解した偽名だった。    エピローグ  日本へ帰って私は、ホーナーをしげしげと見る機会を得た。  ヤンキー娘独特の赤ら顔と肥満体がそこにあった。  その姿は、確かに「今、日本では、どの野球チームもヤクルトスワローズと試合をする時は、彼一人と闘っていると錯覚させる男」と錯覚させている女だった。  神宮球場に女子更衣室がつくられるという噂《うわさ》を、後日耳にしたことも、つけ加えておこう。 ●後記  ホーナーも、もう忘れちゃったよね。こいつ利口でしょ。外人って利口だとあんまりおもしろくない。イーデス・ハンソンとかE・H・エリックとか、子どものころびっくりしたもん、外人が日本語しゃべってるって。おれの甥《おい》っこは、このあいだはじめて小錦が日本人じゃないって知って感動してたけど。最近は外人もすっかりありがたみがなくなっちゃって。昔は道で外人に会うとドキドキしてたのに。   そのほかいろいろ   大人でも楽しめるお正月子供劇場——泣いた青鬼  世間と劇場が違うことくらい、世間知らずの僕といえども、さすがにわかる。が、世間は近頃《ちかごろ》、どうなってんのかしら? などと考える折にふれると、ついつい、世間と劇場を混同してしまう。  劇場へ足を運んでくる客の顔が、のほほんとしていれば、「ああ、世間は近頃のほほんとしているんだなあ」というのがわかるし、また、客の髪の毛が、どこか水っぽかったりすると、「ああ、外は夕立だったんだなあ」と察する。また、今日の客の顔は暗い、もしかしてサダト大統領でも死んだわけじゃあるめえなあ、と思って二カ月ぶりに、うっかり新聞を見ると、ちゃっかりサダト大統領が死んでいたりする。 ——嘘《うそ》のような話だ。と思われるかもしれないが、嘘である。 ——それじゃあ君は、あまりに不真面目《ふまじめ》じゃないか。と思われるかもしれないが、不真面目である。 いい年のオトナ でも、そうは言っても人間だもの、少しはモノゴト真面目に考えたりするんだろう? その不真面目さには、裏があるんだろう? いい若いモン 別に、これといってありません。 いい年のオトナ おい、おい。それじゃあ、君達若い連中は、なにか。真面目にやる気がないっていうわけだ。 いい若いモン いや、君達若い連中と言われても困ります。たった今、不真面目なのは僕ひとりなわけだし、それを君達若い連中、などとアイロンもないのにひきのばされたりしては。 いい年のオトナ 君は、なんだ? この大人の私を、おちょくりに出てきたワケか。 いい若いモン だって、この不真面目な言い草は、あんたらと一番遠いところに生い茂る雑草です。なんだかんだ、と踏まれれば踏まれるだけ強くなるんです、こういった言い草は。 いい年のオトナ よし。君がその気なら、よろしい。こちらにも覚悟がある。この大人の部屋から出ていきなさい。 いい若いモン はい。 いい年のオトナ うん? いい若いモン わかりました、出て行きます。 いい年のオトナ なに! よし、二度と入ってくるんじゃないぞ! いい若いモン ええ。 いい年のオトナ (灰皿《はいざら》ぶつけて)早く出て行け! いい若いモン 失礼します。(バタン! と大きな音を立てて大人の部屋の扉《とびら》を閉めて、出て行く) いい年のオトナ しかし、なんだなあ、最近の若いモンは、実にあきらめがいいなあ。ああやって、出て行ったきり、もう二度と戻《もど》って来ないんだからなあ。  と、思いきや、再び、若いモンは顔を出す。 いい若いモン あのう……。(大人の部屋の扉を、そうっと、開けて) いい年のオトナ なんだ、まだいたのか? いい若いモン 忘れ物をしました。 いい年のオトナ 忘れ物? いい若いモン ええ、若いモンの生きがいです。 いい年のオトナ 生きがい? いい若いモン それを見せにやってきたんでした。 いい年のオトナ 大人の私に見せようと思ったのか、そんなたわいもないものを。 いい若いモン ええ、後生大事に風呂敷《ふろしき》に包んで。 いい年のオトナ どこに忘れたんだ。 いい若いモン 多分、そのソファーの上かなにかと思いますが。 いい年のオトナ ないよ。 いい若いモン 変だなあ。アンモナイトの隣に、はまぐり、はまぐりの横にほら貝、ほら貝が鳴るとタタカイになって、タタカイの横に生きがいを置いといたのになあ……。 いい年のオトナ 勘違いじゃないのか、電車の網ダナとか、飲み屋のカウンターとか。 いい若いモン あんたらの生きがいとは違います。 いい年のオトナ なに! いい若いモン 酒飲みながら、憂《う》さと一緒に忘れてしまうような、あんたらの酒臭い生きがいとは、違います。 いい年のオトナ つうとなにか、おめえら若いモンの生きがいは、そんなにご立派か。 いい若いモン ええ、それはもう……。 いい年のオトナ 見せてみろ。 いい若いモン だからそれを御披露《ごひろう》しようと思って。 いい年のオトナ 早く見せろ。 いい若いモン おかしいなあ。 いい年のオトナ (紅茶にたっぷり、砂糖と猜疑心《さいぎしん》と人生の年輪を入れてかきまぜながら)ねえ、君。 いい若いモン は? いい年のオトナ 最初から、もってこなかったんじゃないのか? いい若いモン え? いい年のオトナ 生きがいをだよ。 いい若いモン そんなはずないです。ちゃんと、風呂敷に二つ折りにして…。 いい年のオトナ 風呂敷なんて、もってなかったよ。 いい若いモン そうでしたか? いい年のオトナ よくいるんだよ。特急券を買わずに特急に乗ってさ、「特急券を拝見しまあす」と言われると、「おっかしいなあ」と言いながら、ポケットのあちゃこちゃ、捜し回るやつが。いるねえ、いるんだよねえ。 いい若いモン (少し涙ぐんでくる。やっぱり若いんだなあ)そういうつもりは。 いい年のオトナ つもりがなければ、見せてみろよ! いい若いモン 見せます。見せますよ。(ポケットのあっちこっちを捜し回る) いい年のオトナ (勝ち誇って、ゆう〜っくりと煙草《たばこ》をふかす)うまいなあ、煙草が。 いい若いモン そっ、そうだ! いい年のオトナ あん? いい若いモン 十年待って下さい。 いい年のオトナ 十年待ってどうする。 いい若いモン その間に、若いモンの生きがいを見つけてみせますから。 いい年のオトナ 十年経《た》ったら、じじいになるだろ。そしたら若いモンの生きがいじゃねえだろ。じじいの生きがいになるだろ。みんな、そうやって不真面目に生きてきたのよ。 いい若いモン (待ってました。とばかり、にんまり笑うこの若いモン)……でしょう。 いい年のオトナ あん? いい若いモン 生きがいなんて、そうなんでしょう。 いい年のオトナ おい。 いい若いモン (にたにた笑って)なんです? いい年のオトナ たった今、真面目な顔で、泣き泣き捜していただろう、若いモンの生きがいを。 いい若いモン だから言ったでしょう。真面目な顔に気をつけろって。 いい年のオトナ そっ、それは、なんだ。教訓か、主題か! いい若いモン どうして、すぐ、そういう言い草しかできないの、この根なし草。 いい年のオトナ よし、君がその気ならよろしい。この部屋から出て行きなさい。 いい若いモン はい。 いい年のオトナ 二度と入ってくるんじゃないぞ。 いい若いモン ええ。 いい年のオトナ (手当たり次第、なにかをぶつけてやろうと手にすれば、それこそが捜していた生きがい。それに気付かず、生きがいをぶつけてしまう)早く出て行け! いい若いモン (ぶつけられた生きがいを握りしめて)見て下さい。 いい年のオトナ うん? いい若いモン タタカイという名の生きがいが、こんな所に生きていた。(と出ていく、この若いモンは、また再び戻ってくることができるでしょうか。この大人の部屋の扉を押し開けて) ——幕 (『PHP』'82年1月)   オレのケンカ道  ケンカの基本  一、できるだけ汚ない手段を使う。  二、逃げ道だけは残しておく。  一、まずケンカというものは、できるだけ汚ない手段を使うことです。たとえば、ルールの決まっているケンカでしたら、まずルールを破ることから始めたいものです。サッカーであれば、手を使う。バスケットならば、足を使う。夫婦ゲンカであれば、「お母さん、由美がワルイのよー」「ま、うちの大切な秀樹を、よしよし今、ぶってやる」と姑《しゆうとめ》を使う。男ならば、このくらいの心意気が欲しいです。  ともかく相手が「そんなことして、いいのかよおうっ!」と思うくらいのことをなさって下さい。「そんなことしていいの?」程度では、いけません。「そんなことして、いいのかよおうっ!」というダメージを、相手に与えて下さい。相手は「キッ、キタネエ」とばかり取り乱します。  ここで図にのっては、いけません。突然、今、ルールを破ったことは、ハプニングであったようなふりをして下さい。つまり、にっこり笑って「ごめんなさい」というのです。相手は「あっ、間違いだったのか」と気分を持ち直します。そこですっかり油断した相手に、致命的な一撃を加えて下さい。相撲であれば、立合いに「でぶっ!」というのです。そこで相手は愕然《がくぜん》としゃがみこみます。  夫婦ゲンカであれば「由美は、お刺身が好きだったよねえ。エイッ、エイッ」といいながら、妻を切り刻んで冷蔵庫に入れてしまうぐらいのモラルは持ちたいものです。  二、ところが、世の中には本当にケンカに弱い人がいて、どれだけ汚ない真似《まね》をしても、「おかあさん」といいながら、泣いて帰ってくる奴《やつ》がいます。そこで逃げ道だけは必ず事前に用意しておいて下さい。  これは、負けそうな時は勿論《もちろん》、勝った時でもさっさと引き返してくる。この義侠《ぎきよう》心です。ただこれも、まともに逃げたのでは、相手も立場上、まともに追いかけてきますから、いきなりくるりとふりむいて「えっ〓 君はダレ?」と、しらばっくれて下さい。  たとえば、このエッセイを読み「いくらケンカとはいえ、人間を切り刻んで冷蔵庫に入れるとは、なにごとだあっ!」とたてつく共産党員がおりましたら、泣く子と共産党員の石頭は斧《おの》では割れませんから、口元に卑屈な笑いを浮かべて「なにかの間違いでしょう。僕はケンカの話なんかしていません。あっそうか、あなたは僕の『ケンカ』という字を読み違えたんだなあ。このケンカは『権力』と読むんですよ」そういうと、改めてこのエッセイを読み直して、  権力の基本  一、できるだけ汚ない手段を使う。  二、逃げ道だけは残しておく。  という重層性は見事だ、ふむふむと感心するのです。 (『スコラ』'82年4月)   宇宙開発——それはブスを愛することから  私は「私」の次に「ブス」が好きである。うそではない。ただ「冗談」と比べると、「ブス」には面白《おもしろ》みがない。そういうわけで、「私」「冗談」の次に、「ブス」が好きである。「ブス」を「ライター」なんかと比べると、「ブス」をこすっても、火がつかないから、ライターの方が好きである。こうして、私—冗談—ライター—ブスという順序になった。「マホービン」と比べても……弱ったなあ……「ブス」を傾けてもお湯は出ないから、「マホービン」の方が便利だ。おっ、まずいぞ、ついに、私—冗談—ライター—マホービン—ブス、と落ちてきた。ついさっきまで、首位争いをしていると思っていた「ブス」が、みるみる最下位へ零落していく姿は、私事ではあるが、私の大好きな「南海ホークス」に似ている。いよいよもって、私—冗談—ライター—マホービン—私事—南海ホークス—ブス、という順番にまで落ちこんでしまった。ま、でも、これは対戦相手が悪かったのでしょう。私の大好きなものバカリと、比べてしまったのだから。もう少し「ブス」が、かないそうな相手を、ひっぱり出して、比べてみればいいんじゃないだろうか。「朝方、駅のホームに残っているゲロ」なんか、どうだろう。残念ながら、私はいま、無性に「お好み焼き」を食べたいものだから、「ゲロ」は嫌いじゃない。依然として、「ブス」は最下位である。しかし、私が「ブス」を好きだ、という信念は曲がらない。曲がりたいけれども曲がらない、曲がりたいよう。そうだ! 私の嫌いなものと、比べればいいのだ。「ネギ!」それも「スキヤキに入っているドロッとしたネギ!」あれと比べてみよう。ところが、不幸というのは、本当に、たび重なるもので、この前、私の好きな青山の由美ちゃんが「ネギを嫌いな人なんか嫌い!」なんていったものだから、ごめんね「ブス」……そうだ! これだけは本当に、口にしたくなかったけれど「うんち」、あれなら決まりだ、口にするのもイヤだぜ「うんち」、やったぜ、喜べ……しまった、ずいぶん昔に、私は「ネギを口にするくらいなら、うんちを口にするね」そう口にした。  かくて、私—冗談—ライター—マホービン—私事—南海ホークス—夜明けのゲロ—口にしたうんち—青山の由美ちゃん—ドロッとしたネギ……………—ブス、とばかり、みるみる私は「私」から「ブス」を遠ざける事に成功した。  今、「ブス」は「私」から遠く離れ、地球を飛び出し「銀河系」の彼方《かなた》にいる。まったく、日本の宇宙開発は、なにをしているのだろう。 (『スコラ』'82年6月)   悪魔の囁《ささや》きを私、一生懸命ここに書きとめました  私は、大変に小心者で、この齢《とし》になるまで悪魔の囁きを聞いたことが2度しかない。  1度目は、まだ私が赤ん坊のころである。リラの木々の間に揺蕩《たゆた》ふ吊られたゆりかごで、昼寝をしていたとき、そこに悪魔がやってきて、仔熊《こぐま》のような丸っこい手で、僕の頬をなでながら、 「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」  と囁いた。ね、おかしなこと言う悪魔でしょう。え〓 キコエマセンでした? んもう……だからあれほど、大声で喋ろって言ったのになあ。せっかくの面白い話を、残念だったなあ……本当だってば、手抜きじゃないってばあ……。  2度目の悪魔の囁きは、ついさっきのことである。  そう、こう囁いたのだ。 「……《てんてん》ばかりの、手抜きのエッセイにしろよ」  え〓 今度はキコエちゃった? んもう、まずいなあ。  野田秀樹氏後日談:次号は「悪魔が僕に大声で語りかける」というのをやりません? また「……《てんてん》」ばかり書いて、「おい! 声が大きすぎて難聴になっちゃったよう、本当だってば」っていうのを考えているんですが……え? やっぱり、やりませんか、そうだろうなあ。  その次の号は「点字を読もう」ていうの……ふう……やりませんよねえ。 (『スコラ』'82年6月)   ドキュメンタリー・P子さん(26)は、こう言った〓 「男の人ってあれでしょう。女のこと、好きに書いていいわよ、なんて言われるとさあ、女はヤレ図々しい、ヤレ感情的だ、女はバカだ、女はカスだ、女は、女は、女なんか、どうせ、くっそう、女なんかどうせ、ちっくしょう、どうして、由美いっ! どうして出て行ったんだ。由美いっ! もう一度出直そう。ほら、新しいコーヒーカップ、君の為に買ったんだ。『由美。連絡乞《こ》う。悪いのは僕さ』。あっ、今のは業務連絡でした。まあ、とにかく、女の悪口、サンザン言って、だから女は凄《すご》い! なんて、しめくくるのよねえ、あれ聞いてると、その男が、すごく女々しく見えるのよねえ。あたし? あたしは、どっちの味方かって? 決まってるじゃない、ダーンゼン、女の味方よ! だって、女って、スゴイ、ガンバリ屋さんじゃない? なにガンバルかって? いいのよ、なにをガンバルかなんて、どうでも。『イッショケンメ、イッショケンメ前へ出ただけっす。親方に言われた通り、イッショケンメエ、やったす』って、琴風みたいな、イッショケンメさが、あるじゃない女って。ほら、国民のためにイッショケンメやってる人で、ちあきなおみみたいな名前の女の人いたじゃない? あっそう、千夏。千夏っていう人なんかも、新聞とか雑誌読むと、スッゴク悪く書かれるじゃない? あたし、あれ読むとダーンゼン頭にきちゃうの、なんで、あんなに悪く……え? あら、書かれてないの、ヘンネエ、どうして? ロッキードにワイロを贈ったっていう女でしょう、その千夏って。えっ? 違うの? あら、千夏っていう人は、贈らないの。あっそう。なんで贈らないの? お世話になるんだもの、お礼するのあたり前じゃない。三越に言いなさいよ、そういう文句は。えっ金額が大きいの? いいじゃない、20兆円や30兆円。えっ、そんなに贈らなくてもいいの……へえ、そう、ふうん、そうだったのう。……あたし、どうも社会面に弱いのよねえ。あっ、でも、あれよ、あたしは、ダーンゼン女の味方よ。ターザンの味方なんかじゃないわ。あ、関係ないわね。紅白歌合戦だって、白組を応援したことなんかないもの、嘘じゃないわよ、見ないんだもの、応援できるわけないじゃない。やっぱり、女よ、ダーンゼン女ねえ」  P子さんは、女にふられた腹いせに、性転換手術をうけた男だ。これは、その直後におこなわれた勇気あるドキュメントだ。このドキュメントは同伴喫茶で語られた。私ですか? 私は、ダーンゼン、おかまの味方よ。 (『スコラ』'82年7月)   わがともをかたる——求人広告  この仕事がきたので、さっそく、ひとりの友達のところへ、相談に行った。 「おい、お前まずいんじゃねえか?」「なにがあ」「岩波だろう?」「うん」「お前、岩波の『世界』だぞ、『世間』じゃねえぞ、『世界』だぞう。ことは隣り近所じゃすまねえ、場違いなんじゃないか」「うん…でも…ほら…俺《おれ》って、場違いなところに自分をさらすのが好きじゃない?」「悪い事は言わない。やめとけよ、その仕事」「そうかあ……」「わかってんのか? イワナミだぞ、イワナミって言ったら、あれだぞ」「なんだよ」「イワナミっていったら、あれだよ、イワナミなんだよ」「……そうか…イワナミっていったら、イワナミかあ」「わかってねえなあ、マイアミじゃないぞ。イワナミだぞ。『今夜はお星様がひとつ……百円かあ』って、夜空を見ても金勘定しろっていう思想をふきこんだ、あのイワナミだよ」「星には、かわいそうなことしたな」「そうだよお前、ふたご座の星とか、アベックのおりひめ、ひこぼし、とか、つるむ相手がいる星はいいよ、二百円以上だから。でも独身の星はみじめだぞ『あっ星ひとつ百円』これで終りだもん。北極星なんか、ほんとみじめだぞ。北斗七星っていう大家族の幸せな団らんを隣りに見ながら、ひとりで自炊洗濯《せんたく》掃除、そういうものは面倒なのでなにひとつしませんが、でもなんたって、ひとりモン、夜は淋《さび》しい、そのうえ世間に『あっ星ひとつ百円』これじゃあ立つ瀬がねえだろう」「うん」「俺、いちど、その機会があったら、北極星の代りに、イワナミに文句を言ったろうと、思ってんだけど、なんか、うめえ機会がねえか?」「うん、それで、今度の仕事なんだけど」「やめろって言ってんだろう」「わが友を語るって言うんだ」「なに、語っちゃうの? わが友を。上等じゃない。で、ダレのことを語るの」「いや、ほら、俺も、芝居やっている連中とは付き合いないし…他にあまり知り合いがいないから…そいで…だから…その、まあオマエのことを」「オレ?」「ああ」「……オレ…ああ、オレのことを岩波で…あっそう…ふうん『世界』にね、へえ…岩波か、へえ…あの岩波に、オレのことが…ふうん」「でも、お前がそこまでイヤなら、よしにするよ」「いや、待て、まあ、そのうち、やる気があるなら、その……」「いや、もうやる気が失《う》せた」「いや、その失せちゃまずい、失せるなよ、その、なんだってあれだ、岩波ったら岩波だし、なあ、やってみても、まあオレは構わないし、やったら? ねえ、やれよ」「そうかあ?……」  と、いつも仕事を受けるにあたって自問自答するのが僕の癖です。だから、自問する僕にとっては、自答する僕が、最大の友です。只今《ただいま》紹介にあずかりました、ごちゃごちゃ言っとったのが、その友人です。  ああ、都会のひとり暮し、まったく夜が淋しいぜいっ! 明るく、几帳面《きちようめん》な性格で都内に住んでいる方、僕の「わが友」になって下さい。以上、ペンフレンドを求むの誇大広告でした。 (『世界』'82年5月)   激突 サラダVS.煮込み——世紀末試験第一問  僕の連載は「読者が選ぶページ」ではありません。「ページが選ぶ読者」という見上げた根性でやっていくつもりですから、のっけにまず、あなたがどれくらいこの連載に適応できるか、という読者適正資格試験を行ないます。  まず鉛筆を用意して下さい。  よろしいですか? 用意しましたか?  別に使いません、気分の問題です。気分が悪くなったら、青いビニール袋の中へ吐いて下さい。バスは好きなだけ揺れます。  ええ、まあ、あまりかたくならずに、ラジオなどは、つけっぱなしでも結構です。  チャックは閉めて下さい。この文章でマスはかけません。 (世紀末試験第一問)百貨店の女王「PARCO」と八百屋の王様「忠実屋」の形容詞になる野菜を、それぞれひとつずつ、挙げてみて下さい。   例:キュウリな広岡監督  ええ、まあ、そうあまり深く考えないで下さい。たかが、コトバ位のことで息まいていたら、今に   海で死んだ盃《さかずき》に   押しあてられた   嬰児《みどりご》の   ぬめる   息吹の   味の素の友  などという現代詩を書くようになったりして、ロクなことないです。  えっ〓 この雑誌、そういう雑誌なんですかあ…………始まったばかりの連載なのに、気まずい風薫《かお》る五月、ていう堀辰雄みたいな詩が、僕は好きなんですよねえ。  あっ、そう。堀辰雄なんかも、載ってないんですか、この雑誌。気まずいなあ……いや悪意しかないんですよ、ほんと。ほら、現代詩っていうのは「地下に棲《す》んでいる半魚人の給料日」みたいな感じがするでしょう。しませんね。気まずいなあ。間が持たないなあ。そこで正解。 (正解)  トマトなPARCO ごぼうぎった忠実屋  レタスめくPARCO こんにゃくられた忠実屋  アスパラガしいPARCO さといもい忠実屋  セロリばしるPARCO たまねぎりしめた忠実屋  こんなところではないでしょうか。  ここでPARCOが指名した、トマト、レタス、アスパラガス、セロリといえば、チーズケーキの置いてある透明なレストランの中の透明な容器に盛り合わされた透明なサラダ。うふっ、やっぱり、PARCOねっ! ていう感じがするわけです。  一方、ごぼう、こんにゃく、さといも、たまねぎをブレインとしている忠実屋、おっ、後はにんじんで面子《めんつ》も揃《そろ》って、晴れて「おばちゃん、煮込みひとつ!」と、なること請け合いです。  そこで今日は、現代風俗を二分していると言われている、サラダと煮込みの御両人に出席いただいて、対談をお願いした訳です。 煮込み いわゆる、我々っていうのは、あれだよね。ごぼうにしても、さといもにしても、どこか口にすんなり馴《な》じまない、違和感を与えることで,肉食思想に対する、いわばアンチテーゼとも言うべき野菜魂を提示してきたつもりだ。 サラダ はあ……。 煮込み それが、トマト、レタスとりわけアスパラガスにいたっては、もう口につるっとしてしまい、味覚への不在証明という形でしか、なにものをももたらさないのではないか。 サラダ ええ、まあ……。 煮込み 君達サラダは、その不在感なるものに対して、ある種のオトシマエを引き受けようとは思わないのか。 サラダ べっ、別に考えたこと……ないから。 煮込み 君達サラダはパーかあっ! サラダ モンブランです。 煮込み ………………。 サラダ …………。 煮込み 話が噛《か》み合わないなあ。 サラダ 噛み合ったら、とも食いですよ。 煮込み 野菜のとも食いか。 サラダ ロマンありますね。 煮込み この際、もう、それしかないね。 サラダ は? 煮込み 君達サラダと我々煮込みが食らいつき合って、食うか食わっ。くわっ……クワアッ!…………。  対談のテープは、ここで終っている。おそらく煮込みが最後のコトバを言い終らないうちにパーなサラダがパーな煮込みの話をあっさりとうのみして、煮込みを丸のみしてしまったのだろう。  そういうわけで、今世界は、着々とサラダ染みてドレッシングアップされてきている。そして、この「サラダ染みたドレッシングアップな世界」こいつがどうも、世紀末試験のどうしようもない正解らしい。  一九九九年、青い地球は青いレタスに変っているのだろうか。  見届けた日、僕は地球を見捨てようと思う。 (『現代詩手帖』'82年7月)   激突 僕VS.天才——世紀末試験第二問  まずは、編集部に届いた、様々なお便りの中から、大変な反響を呼んだ一通のお便りを紹介します。  僕は、野田さんと同じ二十六才の早熟の天才詩人です。僕が、子供の時、校庭開放というのが始まり、中学生の頃、性解放が始まり『ヘアー』という名の映画に、どこの毛のことだろうと、余計な心配をしました。そのせいか、いまだに下半身不随の父親の介抱をしながら、エンジョイしている若者です。  思い起こせば、あけっぱなしの人生で、あいた口までふさがりません。たまには、口を閉じてみようと思い、僕は沈黙しました。………すると、沈黙からひとつのコトバが生まれました。ヒトは、それを詩と呼んでいます。僕の詩は、沈黙の海から胎内回帰を連想させ、やがて、大地に泳ぎついた母性神に思いを馳《は》せ、なぜ日本には、制度としての父性が不在なのか、という社会性をもりこんだブリーフに、天皇制が、いかに母性的であるかという重層性を帯びの下は、ちゃんと伊達《だ て》巻になっているものだ。というテーマを扱ったものです。是非、掲載して下さい。    母さんの怒り方・三段階学習法  お母さんは、まず目で怒る  それでも言うことをきかないと 口で怒る  そいでもきかないと 手で怒る  この便りが反響をよんだのは、最後の詩ではない。冒頭のアイサツである。 「野田さんと同じ二十六才の早熟の天才詩人です」の、この「野田さんと同じ……」はどこまでかかるのだろう。 「二十六才」までだろうか。 「早熟」までだろうか。 「天才詩人」までだろうか。  編集部では、大変に物議をかもすことになったけれども、差出人のところを、ふっと見ると「野田秀樹」とあったので解決したそうである。  まったく人騒がせな人である。  くれぐれも言っておくが、僕が書いたのではない。僕は、こんなにもみずみずしい詩をかける天才を、今はもう、持ち合せていない。  そこでやっと世紀末試験第二問。 (第二問) 「天才は忘れた頃にやっと狂う」という、昔ながらのコトワザがありますが、長崎県の被災者の皆さん、心からお悔み申し上げます。さて、天才とは、一体いくつの年齢のことを言うのでしょうか、次の中から、センタクして脱水し乾燥までして下さい。  1 〇才から二才と七カ月まで  2 二才と八カ月から十二才まで  3 十三才から十八才まで  4 十九才から棺桶《かんおけ》まで  5 天才 (解答への手びき)  できるだけ足をひっぱらないように、手びきしようと思います。  まず、4の「十九才から棺桶まで」について検討をしたいと思います。これは、十九才が、ゆりかごに変れば大変です。斜陽イギリスです。いけません。十九才を越えてからの人生など、ニキビの名残りです。 「十九になって僕は音楽に目覚めた」  なんて言うのは、 「僕、四十七才、地方公務員、一昨日、性に目覚めちゃった」  と、すり寄ってくるオジサンのようなものです。女子高生の皆さん気をつけて下さい。えっ〓 女子高生が読むような雑誌じゃないんですか? これ。ふしだらだなあ……。  とにかく、十九才以後は人生ではありません。安心して下さい。  次に、2。「二才と八カ月から十二才まで」これを正解にすると、天才はテン才だから10才という、なつかしいなぞなぞの答えを含むことになってしまう。個人的な趣味としては、好きな答えなんだけれども、僕の一番の趣味は「その雑誌に、そぐわないエッセイを書くこと」であり、なぞなぞではないのだから、自粛する。これは違う。  さらに、3の「十三才から十八才まで」これなんかは、なぞなぞの答えにさえならないのであるから、まして正解なんかであるものか。  こうして、いよいよ、1《イチ》か8《バチ》かが、答えになることになった。  僕には、この夏で三才になる甥《おい》がいる。  兄貴の気まぐれで、この甥に「野田秀樹」と名前をつけてしまった。  この甥の秀樹は、コトバを大変早く覚えて、二才と七カ月の時、お母さんの怒り方について、僕にトクトクと話をしてくれたことがある。  僕は、そのトキ、甥の秀樹を天才だと思った。  それからというもの、僕は甥の秀樹クンに媚《こ》びを売った。  そしてこの夏、半年ぶりに秀樹クンに会ったら、宇宙刑事ギャバンを買って欲しいと言っては、僕にまとわりつき、僕に媚びを売るのだ。  成長というのは、天才という年齢を止めてしまう。 ——叔父の日記より (『現代詩手帖』'82年9月)   激突 無茶VS.番茶——世紀末試験第三問  ある若き舞台演出家の日記を読んで、後の設問に答えよ。 (日記)  朝、肉体訓練。  昼から夜まで稽古《けいこ》。  深夜、舞台装置のプランを決めた。演出家としての才能同様に、僕の要求は大きい。「ううん……そうだなあ……このエリアは、スッポンポンにして、レーザー光線を使おう。え? 二億円かかる? じゃあ、衣裳《いしよう》の予算を五万円ぐらい削ればいいだろう。ここは、純金の城を建てよう。天井《てんじよう》は、ドーム型で、開け閉め自由にして、ロケットが、飛びこんできても平気なようにしておこう。床は、五百メートルのせり上りにしよう、地獄が入ってこれるように。え? 四億もかかる? 仕方がないだろう。いい芝居を創造するためなんだから。我々は今、芸術をやってるんだぞ、芸術! 馬が肥えるあの芸術だ! わかってるのか岡本! ……鼻がでた。ちり紙くれ……ええと、それから芝居が終ると、いつのまにか劇場が湖に浮かんでいるようにしよう。そして、お客さんを白鳥の背中にのせて、家まで送り届けてあげよう。」などと、一気にまくしたて、目をあげると、囲《まわ》りの年輩の舞台装置家のみんなは、新聞を読んだり、オセロをしたり、番茶をすすったりしながら、雑談をしている。  僕の芝居への情熱を、タレひとりとして真剣に受けとめてはくれなかったのだ。僕は孤独だ………。  いや……白くて丸い毛むくじゃらの猫《ねこ》だけが、僕をじいっと、見つめていた。 「この男の言うことは、無茶苦茶だ」  そう言いたげに。  番茶を見つめながら、僕は数秒間考えた。そして、おもむろに口を開けた。 「真面目《ま じ め》にやろう!」  すると、その情熱に負けたのか、誰《だれ》しもが身をのりだしてきた。新聞を読むのをやめ、漫画を読み始めた。  オセロをしていた右手は止り、いつしか左手に変っていた。  番茶をすすっていた口は、番茶を吹き始めていた。  誰しもの瞳《ひとみ》が、芝居好きの瞳に戻《もど》っていた。窓からさしこんでくる星の光に、みんなの瞳は、うるんでいた。美しかった。  ああ、悪いのは僕だったんだ。僕のひとりよがりだったんだ。(由美。カエレ、秀樹)  僕は今、素晴らしき仲間に囲まれている。 (世紀末試験第三問)  本文、傍点部分「番茶を見つめながら、僕は数秒間考えた」とあるが、この若き演出家は、何を考えたのだろうか。  正解へ、ひた走る前に、次なる文章を読んで欲しい。 (日記の鑑賞)  この若き演出家の心理は、この日記の中で「僕は孤独だ」という青春の苦悶《くもん》から、いつしか「仲間に囲まれている」という青春の謳歌《おうか》に変っていきます。この心理の変化の要因たる重要な箇所として挙げることができるのは「番茶を見つめながら、僕は数秒間考えた」という部分です。  つまり、番茶を見つめるうちに、この若き演出家は、自分が言ってしまったことに、どうしようもない改悛《かいしゆん》の情を覚えます。その番茶を見つめてとまどっている姿は、若き演出家が人生にとまどっている姿と重ね合されており、叙情的な美しさを感じざるをえません。おそらく、この若き演出家は、番茶の中に人生を見たのでしょう。 (正解)  上述の(日記の鑑賞)に見られた通り「番茶を見つめて人生を考えた」が、従来の定説でしたが、私は今日、それは誤りである、としたい訳です。  というのは冒頭から、あれだけ無茶苦茶な事を言い続けた男が、どうして急に「真面目に生きよう」などと思い立つだろう。人間の性格とは、そんなにも単純なものではない。いや、そんなにも複雑なものではない。無茶苦茶な人間は、どう転んでみても、無茶苦茶な事しか考えない。  では、この若き演出家は、番茶の中に何を見たのだろう……。  それは、白く毛むくじゃらな猫からさえも無茶苦茶とサゲスマレタ男の挽歌《ばんか》だ。この男は、番茶を見るなり「無茶」と「苦茶」と「番茶」とを見比べようとしたのではないか。  そうしてみると「無茶」というのは、どことなくお茶殻《ちやがら》がなくなって、お湯と瓜《うり》ふたつの色をした「番茶」を連想させて、ハハンと思ったのだが、「苦茶」というのは一体なんなんだろう。そう思ったのではないか。  或《あるい》は「滅茶苦茶」の「滅茶」は、夜中にお茶をきらして、茶壺《ちやつぼ》を覗《のぞ》くと、底の方でメチャッという感じで粉々になっているお茶のかけらがあり、仕方ない、これでもお茶だと淹《い》れてはみたが、湯呑《ゆの》みの底の方に、そのお茶の粉が出てしまった、という「番茶」を思い起こさせる。  しかし「苦茶」とは何事か! 口の中をヤケドした時の番茶だとでも言うのか、あの時の歯ぐきのザラザラした感じが、苦茶だとでもいうのか、それともガムをクチャッとかみながら呑んだ番茶だとでも言うのだろうか。  え〓  いけない、いけない、何をコーフンしているんだ、こんな大事な舞台装置の打ち合せの時に、こんなことを考えたりして「真面目にやろう!」そう思ったのである。  本人が言うのだから、この心理描写に間違いはない。  かように、人間の心というのは、いつも、こうした、とてもとても口に出して言えない或は言うほどのこともない「無茶苦茶」がつまっている茶壺なのである。  現世では、この口から出てきたものばかりが、文字とか文化とか歴史になって、のさばっているけれども、実は、心には浮んだが、とても書く気にはなれなかった文字とか、心には浮んだが、残すほどでもないと思った文化とか、心には浮んだが刻《しる》すには及ばないと思っていた歴史という方がボー大なのであり、そいつら心に浮んでは消えた無茶苦茶を寄せ集めれば、今頃《いまごろ》はもう少し真面目な地球ができていたのではなかろうか。 (『現代詩手帖』'82年10月)   現代を十倍楽しく死ねる方法——世紀末試験第四問 (世紀末試験第四問)  十倍楽しく死ねる方法を論述し、「現代詩手帖《てちよう》」をもベストセラーにせよ。  この設問は、世紀末試験の中でも、難問中の難問である。「十倍楽しく死ねる方法」の論述は、さほど難しいものではないが、どさくさに紛れて「『現代詩手帖』をもベストセラーにせよ」という編集者願望が入っているから、難問なのである。  (注)編集者願望……精神分析学用語。雑誌の編集者の「こんな原稿を筆者が書いてくれたらなあ……」という願望が、筆者の原稿用紙に無意識にのりうつること。 「現代詩手帖」——この文字の並びが、どうも良くない。ちゃんと、姓名判断は、してもらったのだろうか。  現代感覚の最先端を行く若い女性達に、「現代詩手帖」「和泉《いずみ》式部日記」「聊斎志異《りようさいしい》」などという漢字を見せたところ、 「フザケナイデよ、あたし達は日本人よ! どうして五言絶句なんか覚えなくちゃいけないの、バカも休み休みに言ってよ、昼休みは短いんだから、んもうっ」  と、お叱《しか》りを受けた。  ベストセラーとは、若い女性達が作り出すもののことである。若い女性が飛びつきさえすれば、後は若い男もオジサンも皆な若い女性に飛びつき易い動物だから万全である。この際、オバサンは無視である。  では、若い女性が飛びつく雑誌の名前——ちょっとシャレてカタカナを用いる。これは今や安易である。「現代詩手帖」が今更「ユリタコ」とか「バライカ」などと変名しても、たかが知れている。だから、漢字路線は、踏襲することにしよう。  そこで思いきって「現代詩」には大変気の毒だが「手帖」という長年連れ添った女房《にようぼう》と別れてみてはどうだろう。「手帖」という古女房に、情がうつっているから「現代詩」にとって辛《つら》いこととは思うけれども、別れたら別れたで、また味のあるものである。  二週間に一度、「手帖」から「現代詩」に電話が、かかってきて、 「あんた、元気にやってる?」 「あ?……ああ」 「洗濯《せんたく》なんか、ちゃんとしてるの?」 「ん?……まあな」 「あたしね……聞いてる?」 「うん」 「今、新しい男と暮してるの」 「……そうか」 「あんたにとても似た人でね」 「……」 「クラシノさんていうの」 「クラシノ?」 「うん」 「ああ、『暮しの手帖』になったのか……幸せそうでなによりだ」 「あたし、とっても幸せよ今……だから」 「なんだい」 「あなたも幸せになってね」  プツリッ。  そういうわけだから「手帖」のことは「暮しの」さんに任せて「現代詩」も新しい女房を捜さなくてはいけない。二度目の女房となると、男も慎重である。みてくれなんか、どうでもいい。どっしりと構えてくれる女かどうか、この一点にかかっていると思ってよい。 「どっしりと構えている女」——ここで誰《だれ》もが連想するのは、半七捕物帳とか人形佐七捕物帳とか銭形平次などで、 「おい、お光。ちょっくら行ってくらあ」 「あいな、親分」  と、親分と息もぴったり、親分の後ろで石をカチッカチッと鳴らす髷《まげ》を結った、あのおかみさんである。  勇気ある進言をしよう。 「現代詩」は「捕物帳」という、おかみさんを持つべきである。 「現代詩捕物帳」——かなりベストセラーらしくなってきた。道行く若い女性は「え〓」という感じで、目と足くらいは止めるだろう。しかし、まだ買ってはくれないのである。なぜなら「現代詩捕物帳」には、デカダンの臭《にお》いがしないからである。  若い女性の趣味は、なかなかうるさい。  ホンモノのデカダン——幼児を殺して、にんまり笑う禿頭《はげあたま》の中年——は嫌《きら》うが、ニセモノのデカダンは欲するのである。これが沢田研二の人気の所以《ゆえん》である。  ニセモノの「死」の臭い。ベストセラーには、いつもこいつが、ついて回る。  かくて決まったのである。 「現代死捕物帳」  これが「現代詩手帖」が、この秋、衣替えをして、新たに登場する姿である。  その「現代死捕物帳」の発刊に先立って、内容を御紹介するならば、雑誌名にふさわしくそこには「現代を十倍楽しく死ねる方法」という雑文などが載っている。  従って、ここでの設問の解は省略し、「現代死捕物帳」に譲ることとする。  ただ、この「現代死捕物帳」という雑誌をどうやって、この世に出現させるかという問題に直面して、第四問は、さらに一段と難問の色を濃くする、秋はもみじかな。 (『現代詩手帖』'82年11月)   骨は生きている  子供をやっていた頃、はじめて「どぶろく」という酒があると聞いた時、その言葉の響きから、海賊のジョン・シルバーあたりの「髑髏《どくろ》」から醸造した悪魔の酒だと決めてしまった。骨というのは、子供にとっては、どうしても近寄り難《がた》いものである。  レントゲンという機械があるが、あれは、悪魔の機械である。 「息、吸ってえ、ハイ! 息、止めてえ」  と、人間の呼吸を操っているような悪魔の声が聞えてきて、もしも「ハイ、いいですよう」という声が聞えてこなければ、そのまま、ずうっと正直な子供は、息を止めっぱなしで、ようやく息を吐いたら地獄にいた、なんてことがありそうである。  とにかく自然に任せれば、人間というのは、生まれて、育って、生きて、ふけて、老いて、死んで、屍体《したい》になって、カラスにつつかれ、目玉がとけて、皮膚がただれ落ち、肉が腐り、そしてその挙句、やっとの思いで、一人前の骨になれるわけである。一人前の骨になった時の喜びは、甲子園初出場どころの騒ぎではない。  そんな風に、まあ、のんびりと事を構えて、人は骨に変わっていくものなのである。これが自然である。そこのところが、ものわかりの悪いレントゲンには、わかっていないみたいだ。人間を一瞬にして白骨にしてしまうのである。  まことに、あれは悪魔の機械である。ところが、レントゲンというのは、人間の名前だというから腹が立つ。  長崎の大洪水《こうずい》の夜に、大洪水とは無関係に、長崎のオジキが早死した。(オジキというのも、コジキを連想させて、響きがよろしくない)そのオジキの男の子供、まわりくどくいえば、イトコであるが、それが、火葬場からお寺さんへ行く車の中で、僕に、こっそりと、 「骨を盗《と》ってきちゃったよ、僕」  と、言うのだ。みれば、小さな骨を手にしている。僕は思わず驚いて、 「僕もだ」  と言ったけれども、多分、真意は伝わらなかっただろう。  罪に対して寛容な冥府《めいふ》の裁判所では、大概の罪が、三年も経《た》てば時効だろうと思うから言ってしまえば、僕の机の抽斗《ひきだし》の中にも、赤い布にくるまれた小さな箱に「母親の骨のかけら」が入っている。それは、イトコと同じように、火葬場のあの長い箸《はし》で、骨壺《こつつぼ》へ入れるその隙《すき》を縫ってカスメ盗ったものである。坊主《ぼうず》あたりに、このことを喋《しやべ》れば「それでは仏が浮ばれません」そう言われそうで、誰にも言わずに今日まで黙っていた。どうせツマラナイ教養人からも「ああフェティシズムですね」と片付けられるのも嫌《いや》だった。そんなことは、どうでもいいのだ。  ただ僕は、この宇宙時代に育った二人のイトコ達が、親の死に目に会って、古代人の心を思い出して、同じ事を同じ様にやってのけたことが面白いだけである。焼いてなお骨ばかりが残るのは、骨は肉よりも、ゆっくりと死んでいくからだろう。骨は、まだ生きている。時々、カタカタと音を立てて、夏になれば蝉《せみ》の声に姿を変えて。 (『波』'82年9月)   野球漫画淡々派——ちばあきお『キャプテン』  ゴテゴテした中華料理は好きだけれども、野球漫画と性生活は、淡々としているほうが好きである。だから、あまりゴテゴテッと魔球ばかりでてくる野球漫画は嫌いだ。  ゴテゴテ派の代表格は、『黒い秘密兵器』の椿投手であった。魔球もあそこまですごいと、いくら子供心とはいえ「じゃあ、魔球ばかり投げていればいいじゃないか」と感づいてしまう。  そこで必ず、と言って良い位、用意されている周到な結末は「魔球を投げすぎたので、肩が故障してしまい、なぜか地べたに這《は》いつくばる」という最終回なのである。 『巨人の星』にしても、最初は魔球などというこざかしいものを投げず、淡々と努力していた所が、我々「野球漫画淡々派」の支持を受けていたのである。それを、どう取り違えたか、大リーグボールを投げたり、明子姉さんが恋をし始めたりする頃から、おかしくなってきた。とにかく、飛雄馬が、ピーンと足を上げてから、球を投げ終えるまでに二週間はかかるという、異常な世界に突入していったのである。  この遅延試合の『巨人の星』の影響下に『アストロ球団』という口にするだにおぞましきゴテゴテ野球漫画の出現を見た。たった一球のボールを投げるのに、半年はかかり、その間に、頭から血を流したり腕をもいだり人殺しをしたり、結局、ひとつの試合を終えることもできぬまま、最終回を迎えた。  こうしたゴテゴテ野球漫画への、アンチ『巨人の星』として、淡々と登場したのが『キャプテン』であったことを、僕は覚えている。  谷口主将をハジメ努力する人間が報われない姿を見ると少年読者はみんな「ざまあみろ武者小路実篤」と、震えおののく自分に悪魔を見た。できることなら、このまま報われることなく「ああ野球なんかに青春を捧《ささ》げて、棒に振るとはこのことか」と五十になった谷口君が不細工な女房《にようぼう》の横でサンマを食べている姿まで見たかったが、生憎《あいにく》と最後は報われてしまった。ちばあきお先生、是非一度とことん報われぬ野球漫画を書いて下さい。 (『Number』'82年12月)   私は、記憶喪失になって……  一九九三年————あれから十年という歳月が過ぎて、私はその間、一体何をしてきたのか、事こまかにお話をしたいのは山々であるが、生憎と私は、その十年前の正月に記憶喪失に陥るはめとなってしまった。  まったくもって、正月早々から、縁起でもない話をするのが好きだったらしく、友人から 「十年後の正月には何をしてるだろうか?」  と聞かれて、間髪《かんはつ》入れず 「記憶喪失にでもなってるんじゃねえか」  と言ったのだそうだ。  その時、道路の向い側から、大型トラックが激しい轟音《ごうおん》をあげて、突っこんできて、私の横を通り抜けてそのままなんなく走り去って行ったそうである。  その直後のことである。  自転車をよけそこなったオバサンの尻をよけそこなって私が、電柱に頭をぶつけたのは。  以来、プッツリと、私の全《すべ》ての記憶は途絶えてしまった。  あれから十年、記憶を取り戻すべく、足繁《しげ》く病院通いをする毎日である。  あらゆる治療を試み、最近では副作用覚悟で「記憶回復にララ三錠」という薬までも服用したが無駄《むだ》であった。  私の担当医、看護婦ら、そして私の知人、愛人、同性愛関係者、遺産相続人だと称する輩《やから》達は、皆な口をそろえて私のことを 「君は天才役者だったのだ。もう一度、君のあの舞台を、あの蝶《ちよう》のように舞う芝居を見せておくれ」  と、涙ながらに語ってくれるのだが、どうも私にはピンと来ない。  第一、薬の副作用で、体重は108キロにふくれ上り、身長は108センチに縮んでしまい、ダンボール箱のようなこの体が、今さら蝶のように舞うことができるのだろうか。  手の指にしても、足の指にしても、肉の中へめりこんでしまい、囲りの人間達は、怖いもの見たさで、見て見ぬふりをしながら、変わり果ててしまった、この私を見つめるばかりである。  人間というのは、こんな姿になってまでも生きようとするものなのだろうか。 「安楽死法」というのが、一昨日の昼、臨時国会を漸《ようや》く通過した。  二時間ほど前、私はその安楽死法にのっとって、然《しか》るべき手続を無事済ませたばかりである。  そういうわけですから、今度の芝居(『大脱走』三月二十五日〜四月十七日、本多劇場)は、最後の芝居になる可能性が全くないといいきって良いくらい無いわけですが、是非御覧下さい。 (『NEXT』'83年)   やがて悲しき役者かな  雨が全く降らないある砂漠《さばく》の村では、屋根のある家などない。けれども屋根というコトバはある。その村に残ってしまった『屋根』というコトバは、きっと今ではバツの悪い思いをしているだろう。  僕の趣味はこれである。 「バツの悪い思い」を他人から聞き出しては集め切手帳に貼《は》り付ける『バツの悪い思い蒐集家《しゆうしゆうか》』である。「バツの悪い思い」というのは、他人にはなかなか喋《しやべ》ってくれないので、集めるのに大層苦労する。そこで僕は聞き出す為に、まず自分が「バツの悪い思い」をした話をする。 「俺《おれ》、高校の時まで自転車に乗れなくてね。六年生の時かな、ほらその頃、子供同士で御誕生会ていうのが流行《は や》り出して、好きな女の子の御誕生会に呼ばれたんだ。そしたらね、突然自転車リレーやろうって話になって『俺、乗れないんだ』とか『俺、ちょっとうんこ』とは好きな子の手前、口が裂けても言えないだろう。やがて自転車リレーが容赦なく始まり、刻々と俺の順番がせまってくる。いよいよ、後一人で俺の番て所までくると、不思議なくらい気持ちが落ち着いて、自転車が恐くなくなったんだ。あっ、俺もしかしたら急に自転車に乗れたりするんじゃないか。そんな力を突如さずかったんじゃないか。みるみる自信が湧《わ》いてきた。よしやるぞって、自転車のハンドル握ったんだ。  乗れたと思う〓 乗れねえよ乗れるか? 練習なしのぶっつけよ。実績なしの自信だけよ。自信だけで自転車にのれるか? しょうがねえから二十人位見ている前で、うん、半分は女の子よ。その前で五十メートルもある距離をハンドル握って、せこせこと自転車をひいてまわった。とたんに、自転車リレーに興奮していた二十人の声が、バタッとおさまったね。それでも俺、自転車をせこせこ、せこせこ、ひいてまわったんだ。人生変ったよ。おかしいだろう」 「いや、悲しい」  と、この僕の作り話に返事が返ってくれば、次はもう相手が「バツの悪い思い」を、トツトツと語り始めてくれるのである。それでもまだ相手が、話しそうにもない時には「デパートで母親の手を、握り間違えて、他人の家で夕飯まで食った話」などをする。或は、一般論も悪くない。たとえば「でさあ……」と振り向いた時に、横に相手がいない時のバツの悪さなどである。しかしそれでもなお、しぶとく話したがらない人間は、どこか心が病んでいるのに違いないから、しばらく「バツの悪さ」から少し離れて只《ただ》の昔話に水を向けると良い。 「ほら、冷しそうめん食う時に、あの中にたった二、三本しか入っていない緑とかピンクのそうめんが俺達の宝物だったなあ」  などと言いながら共同幻想の領域に相手をひきずりこんでしまうのである。まっ、下手な精神分析医よりも遥《はる》かに僕の方が筋が良いだろう。  二カ月ほど前の事である。五反田の目黒川の傍《そば》の軒下で雨宿りをしている時に、見るからにチンピラ風の男に出会った。血の気の失せた顔色で、ここ暫《しばら》く眠っていないのがわかった。僕は、ふと心が動いて、例によって自転車の話からきりだしてみた。するとすぐに餅《もち》に食らいついてきた。 「いやあ、あっしもあるんすよ、そういう話。ガキの時分にね、買い食いしてる先のバアサンところでね、上りこんで仲間と炬燵《こたつ》に入ってたんすよ。にこにこしながらね、バアサンも一緒に。そしたら仲間のひとりが蓋《ふた》の開いている金庫をソバに見つけて、中から百円札を盗んでは右手から左手に手渡して、次々と隣りにいる仲間へ、さらに隣りへと百円札をパスしていったんすよ。で、俺んとこへも回ってきたんす。で、隣りにホイって渡したらそれがバアサンでね、いやあバツが悪かったなあ……」  僕は、このチンピラだったら、まだまだ話に乗ってくるなと思うや、冷しそうめんの話をした。するとすぐにお返しの話がいただけた。 「そうめんか……なつかしいなあ。高校の時かなあ、あっ、そうめんは関係ないんすが……生涯《しようがい》に一度、惚《ほ》れて惚れぬいた女がいてね。大福もち売っている店の娘でね。あっしはバイクで牛乳配達してましたから、朝の六時半に必ず顔を合せて早朝デイトですよ。そいであっし、根がキザにできてるんすかね。『俺には、ずうっと前から好きな女がいた』って三人称の物語で始めて『その女の名はお前だ』っていう殺し文句で、その女の心を落とそうと決めたんすよ。それである朝、五月だったかな……それやろうとしたんですよ。そしたら、その女も『あら、あたしもずうっと前から好きな男の人がいる』って三人称で返してくるじゃないすか。こいつはいけるってんで『じゃあ、せえの! で好きな奴《やつ》の名前を言おう』て俺が『せえの!……お前だ!』ていうが早いか女は『隣りの大学生の山崎さんの弟さん』て長々と言いやがるんだ。……あっし、もうバツが悪くて、もう……ハハハ……でもあの頃が良かったすよ」  僕は、こいつは女の話には事欠かないな、と踏んで、 「ほんと、最近はもう、年とっちゃって、そういう思い、忘れちゃったなあ。成長するって不幸だな……」  と、しみじみと言えば、やはり乗ってきたわけである。極め付けの話が始まった。 「いやあ、この一週間も前にも、あっしの女房《にようぼう》、うんこれはもう生涯に一度、惚れて惚れぬいた女でさあ、え? さっきの女とは別っすよ。こいつが突然あっしに『手を切って』て言うんですよ。馬鹿《ばか》コケ! コノーって、あっし思ったんすが『どの辺りから切ればいいんだって……え? もちろん包丁すよ、包丁を手にしました。そいで、まあ、あてずっぽうで、こんなもんでいいかって、肩からバッサリ、そしたら女房の奴《やつ》、噴き出した血をもう一方の手で押えながら『そういう意味じゃないのよー』て、いやあ、バツの悪かったのなんのって。あれから一週間、女房の奴、白目をむいて飯も食わずに畳に転がったまんまで、じいっとあっしの事を睨《にら》みっぱなしでいまさ。もう、ほんとバツが悪いんだ。あの目で睨まれると……」  そう言い終るか終らないうちに、彼はオイオイ泣き出した。それから三日ほど経《た》って、彼の話は新聞にのった。  つくづく「バツの悪さ」を集めるのは命がけだと思った。ただ僕には『間』の悪い人生を送ってきた役者ほど、いい『間』がとれる、という、あてにならない演技論がある。だから、ついつい間の悪い人間の話が聞きたくて、その人の幸福な頃の『間』という、もうどこにも存在しない、それこそコトバだけになってしまった砂漠の屋根の下で、こうして時々雨宿りをしながら、容赦なく人生の雨に打たれてみるのである。 (『別冊文藝春秋』'83年春)   「は」行による現代世相の考察    1、優柔不断はどこから来たか  ひらがなの中で、  どっちつかずの音というのは  皆、「は」行の中にある。 「は」の字は「ハ」とも「ワ」とも発音できる。 「へ」の字は「へ」とも「エ」とも発音できる。 「ふ」の字にしたって危ない。 「いふ」と書けば「イウ」と発音できる。  これが「か」行あたりになれば 「か」は、どう発音しても「カ」であるし 「き」なんかも自信を持って「キ」である。  ついでに言うならば 「く」は「ク」だし 「ケ」は蓋《けだ》し「ケ」だし 「こ」は「コ」であり親は親である。  優柔不断なところが少しもない。  殆《ほとん》どの文字が、発音に対し「一対一対応」の原則をもっている。なぜか「は」行ばかりに、どっちつかずの優柔不断としての性格が与えられている。  いつごろから「は」行に、こうした宿命が与えられたのか、といえば戦後である。  戦後教育の成果なのである。  戦後教育を受けたものならば覚えがあるだろう。 「おとうさんわ、しごとえいきました」  と書くや頭ごなしに間違いだと言われてとまどった経験、——とにかく「おとうさんわ、しごとえいった」はずなのに、いきなりそうではない、と言われる。  では、あの、朝元気に仕事へ出かけて行った父の姿は、なんだったのだろう。  ひょっとしたら、ハジメから僕に父などいなかったのではないか。と父親の不在の問題にまで発展した少年の日々。  かくて現実に対して自信を失《な》くし、いつも「は」という字を見るたび「ハ」とも「ワ」とも聞えるように、どっちつかずに喋るモノイイを覚える。  モラトリアムと言えば聞えはよいが「う——ん、どうしよう、どうしよう、お母さん、どうすればいい?」の世代が誕生したのである。  現代の若者の優柔不断は、すべて「は」行に責任がある。    2、ほほえみの下に隠された人生 「あ!」 「い!」 「う!」 「え!」 「お!」  と、はじめて目についた世界への発見や驚きは、すべて「あ」行に濃縮されている。  言うまでもなく「は」行の文字を、えんえんと並べれば 「はははははは」 「ひひひひひひ」 「ふふふふふふ」 「へへへへへへ」 「ほほほほほほ」  と、笑いになることで有名である。  因《ちな》みに、どういう人の笑いかといえば、右から  一般人  タイコモチ  美少女  庄屋様  有閑マダム、である。  このように「は」行が笑いにつながる話は、よく知られている。  ところが意外に知られていないのは、そんな幸せそうな「は」行の家族にも、どこか人生の機微がみられることである。 「は!」っとする 「ひ!」っとばかり喘《あえ》ぐ 「ふ!」っと息をぬく 「へ!」と小馬鹿《こばか》にする  そして「ほ!」っとする  なにか夢の中で強姦《ごうかん》でもされた女のような展開がある。  これが、他の「行」ではどうだろう?  たとえば「か」行であれば「こ!」というのは、まだ一般に普及していない。 「さ」行にしても「し!」というのはあるが、「せ!」というのはない。  こうしてみると「は」行ばかりが、五文字とも「!」マークつきで、現在使用することが許されている。  これは、お気付きの方もあると思うが、少年漫画が開発したものである。  元来、ほほえましいだけであった「は」行の性格に、ためいきまじりの生活感を導入したのは、戦後の少年漫画なのである。    3、皮膚は決して表面ではない  近頃、なにかといえば  世の中「表層的」とか「浅薄」とか「表面」とかいうモノの言い方でお茶を濁し「皮膚」一枚の文化であると、結論づけるバカモノがいる。  しかし、「皮膚」の名誉の為に言っておくが、皮膚は、表面的であるが同時に内部そのものである。  皮膚のないところからは、感覚も体温も生じない。  皮膚は一体、どこに位置するのか。 「はひふへほ」 「ひふ」は、ハ行の中に息づいている。  しかも「ひふ」は、ハ行の表面にはない。 「は」と「へ」の内部にある。  歯《は》と屁《へ》——つまり、口と肛門《こうもん》にはさまれた内部にある。  これは、生物の発生過程で「口から先に作られていく動物」と「肛門から先に作られていく動物」とに色分けされることを思えば興味深い。  太古においては、「ひふ」という外部は、内部をくるむものではなく、内部こそが「ひふ」という外部をくるんでいたのである。  その内部と外部のトンネルが、口から肛門へ通じる道である。  確かに「ひふ」は、「は」行的現代の内部にある。 (『PSD MAGAZINE』'83年9月)   数字による愛の考察    1、君もサーティーフォーしないか? 「69」 という数字から、70年の前年を思い出して「ああ、ほろ苦くもなつかしい闘争の日々」などと口走る低俗な野暮天に、この先の話を読む資格はない。  私は読者を選びたい。  69が、ベッドの上に寝る男女の愛欲の生々しい姿であることは、余りにも有名である。  考えてみれば「69」は「人」とか「馬」と同じ形象文字であり、ふだんの数字の数字たる所以《ゆえん》とは少々趣を異にしている。  が、  数字は元々、人間の性行為の象徴言語であった。  という事実は意外にも知られていないし、私もまた、はじめてそう言ってみた。  言ってみて驚いたことは  満更、嘘《うそ》ではない。というぐらいの本当があったことである。  数字は、そもそも人間の肉体やら性生活を思わせぶった形象文字だったのである。  指は両手で十本である。  指は最も単純な計算器である。  おそらく、このたわいもない二つの偶然が十進法を生んだことは、間違いあるまい。  もしも、指が合せて二十八本あれば、二十八進法になったであろう。 「0」 「1」 「2」 「3」 「4」 「5」 「6」 「7」 「8」 「9」  行数を稼《かせ》いだのではない。  読者に余裕を与えたのである。  このふだん見慣れすぎて、とくと見たことのない数字の形を一文字一文字見て欲しい。  すぐに人間の肉体を感じさせる数字は、明らかに「3」である。 「3」はお尻である。 「34」といえば、これは「69」と同様、今、若者の間で大流行の体位である。  どんな体位か、ちょっと考えて欲しい。 「34」  ピンポン。  正解は後背位である。  是非、今後とも 「サーティーフォーしないか?」  が、若者の間で愛用されんことを、願ってやまぬ私である。    2、たった四文字の恋 「4」は  横をむいたアイアイ傘《がさ》。  あるいは、倒れかかったテーブル。  どのみち若い二人の恋の破局である。  つまり 「34」を楽しんだ若者の同棲《どうせい》生活の後には「4」という破局しか待っていない。  結果は、破局の後に訪れる。 「5」  これはむろん、お腹《なか》が大きくなった形象文字である。  さらに月日がたち、体の線が丸くなってくると、お腹も目立ち 「5」は 「6」となり世間に破局が知れ渡る。 「3456」  という、たった四文字の数字が、現代の若い男女に問いかけている意義は余りにも大きく、到底誰も気付きようがない。  現に 「3」 「4」 「5」 「6」  をはさむ 「2」と「7」という数字は共に 「?」という文字に似ている。  若い男女の「3456」な生活は、「2」と「7」——ふたつの謎めいた数字にはさまれている。  だから「2」と「7」は男と女かもしれない。「男」と「女」という姿形はとてもよく似ているのに理解しあえないという有史以来のありきたりの謎なのかもしれない。    3、やっぱり立ち上がった無限大  では「8」という数字には、どういった象徴性があるのか?  硬派の詩人であれば  立ち上がった無限大。  見つかったぞ、永遠が——  などと言い出しかねない。  軟派の詩人ならば 「8」を並べて 「8888888……」  ありの行列と言うだろう。  しかし、現代性風俗としての「8」の象徴性を問うならば自《おの》ずと知れる。 「8」は、夜の代々木公園に巣喰う、アベックに群がる、叢《くさむら》の覗《のぞ》き魔である。  彼らは、じいっと這《は》いつくばって、大地に片方の頬《ほお》をこすりつけふたつの目を「8」にして、性風俗の最先端を横向きに見届けている。  そして  現代の性というものを横向けに見届けた「8」が、やはり夜の芝生から立ち上がると  そこに見るのは  立ち上がった無限大の「8」なのである。  背伸びした遠い昔が見える。  それが「8」の正体である。  ぐるっと回って、ねじれて無限に戻ってくるメビウスの輪に似た「8」である。  何故なら 「8」の後に見えてくる無限は 「9」である。  これは、どうみても  お腹の中で眠っている子供だ。  どうもがいても  この子供の眠りにしか戻ってこれないところに人間の無限の姿がある。  そうしてみると、二千年以上も昔、  ピュタゴラスという数学者が、数字の象徴性を考えて 「9」を「人間」と呼んでいたことが偲《しの》ばれる。  難解で膨大で深淵《しんえん》なる数学を扱えば扱うほど、単純な数字という言語に戻っていったピュタゴラスは、知らず知らず、「9」に子供が胎内で眠る姿を見たのに違いない。  そして、コンコンと眠り続ける胎児達の姿—— 「99999999……」——9の行列を思う時、ピュタゴラスは必ずや一度は  0・999999999……  という数字に思い当ったのでは、あるまいか。  そう私は邪推する。  0・999999999……  限りなく純粋であろうとする姿である。  0・999999999……という数字は「0」という無の象徴の後に  限りなく「9」という子供の眠りが続く。  胎児のように眠っても眠っても、どうしても、 「1」という世界のはじまりにはなれない。  どんなに「1」に近づいても「0・999999999……」は、世界のはじまりに戻ることはできない。  それは果てしなく純粋であろうとする眠りである。  果てしなく愛しいこの夢0・9999999……こそ、男と女が、「1《ひとつ》」になりたいと願う、あの束《つか》の間の愛の行為の姿のような気がしてならないのである。 (『PSD MAGAZINE』'83年)   “第六感”による宇宙創成期の考察    1、三大ピーン  会いたくないと思っている編集者は、必ずといっていいくらい、私の居場所を捜しあてる。  このことは編集者を女に、私を男におきかえても成立する。  編集者と女性の「ピーンと来たのよね」という、あのピーンは、尋常では考えられないほど、ピーン、ピーンとはねている。  寝ぐせのついた髪と同じだ。  寝ぐせのついた髪が、鉄腕アトムや火星人を暗示するように、あのピーンという感覚は、地上のものとは思えない。  宇宙的である。  ピーンは、視、聴、嗅、味、触の五感のいずれとも違う。  とりあえず人は、第六感と呼んだ。  が第六感という呼び方では、あまりにもピーンと来ない。  ピーンという例で、古典的なのは、  、吸いさしの煙草《たばこ》を見て、夫の浮気にピーンとくる妻。  、下駄《げた》の鼻緒がきれて、田舎に捨ててきた子供が死んだことをピーンと感じる、駈《か》け落ち先の母。  、一本の髪の毛で、犯人をピーンと当てる名探偵《たんてい》。  これが、世に名高い三大ピーンである。  これらはいずれも、その場その時に居合わせない者が、時間と空間を越えて、その場その時を体験するのである。  ゆえに第六感は、時空感とでも呼ぶのがふさわしいのではないだろうか。  時空感の時感と空感とを、さらに区別するならば、人間の感覚は、次のように整理される。  、感覚の平面——五感(視、聴、嗅、味、触覚)  、感覚の立体——五感と第六感(空間を感じる感覚=空感)  、感覚の四次元——五感と第六感に加えて第七感(時間を感じる感覚=時感)  となる。  むろん、これはインチキである。このインチキが、まさか宇宙創造と関係していくとは、書いている本人でさえ、今のところ信じられないほどである。    2、長さ短さも時間まで  赤い時間  さんざめく時間  かんばしい時間  甘い時間  すべらかな時間  結婚式場のコピーではない。  視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つで、それぞれ時感となる形容詞を作ってみた。  ださあいコピーくらいには、なりそうだが町の人が使うコトバにはならない。  やはり時間の為の形容詞は—— 「長い」時間、「短い」時間、これが一般的だろう。  この「長い、短い」は、時感であると同時に、距離を表わす空感でもある。  が「長い」は時感と空感にだけしか用いられない。  長い色、長い音色、長い臭い、長い味、長い肌《はだ》ざわり、などはあり得ない。  これは、なにより人が時を感じる感覚は、空間を感じる感覚とだけ兄弟分にあることを示している。  甘い香り、甘い味——「甘い」が嗅覚にも味覚にも用いられるのは、鼻と舌とが、鼻腔というトンネルでつながった兄弟分だからである。  ピーンと来てほしい。  空感という第六感は、時感という第七感と「長い」トンネルでつながっているはずなのである。    3、甥《おい》っ子による人体実験  三歳になる甥っ子は、私が二週間ほど姿を見せなくとも 「どこをほっつき歩いていたんだ?」  という顔をしない。  すぐに 「遊びましょう」  という顔をする。  犬は、主人が二週間ほど姿を見せなくとも 「どこをほっつき歩いていたんだ?」  という顔をしない。  すぐに 「遊びましょう」  という顔をする。  ここに甥っ子と犬との相似が見られる。  甥っ子と犬には「時感」がない、「その場」しかないのである。  アフリカには、時感のない人々がいる。  時感を知らない人々は、「別れる」ことを知らない。 「別れ」とは、ある時間、或は永久の時間、ある人と会えない状態である。  だからその時感なきアフリカ人は、死別を知らない。  いつまでも死体と一緒に食事をする。  忠犬ハチ公が、実にそうであった。時感なきゆえに主人との別れを知らなかった。  果して本当にそうなのだろうか?  が、成長した我々には時感があり、彼ら——甥っ子やアフリカ人や忠犬ハチ公——には時感がないのだろうか?  時感を持ってないように見える彼らこそ、私は、ピーンの世界で生きている気がする。  三次元のこの世では想像もつかないこととも、ピーンがゆえに関《かか》わることができる気がする。  宇宙の果てになにがあるか? 生まれる前は何を感じていたか? そして宇宙のハジマリはどうであったか?  我々の持ち合わせていない感覚が、すべて、ピーンの中にある気がする。むろん私の第六感である。 「長い、短い」という感じがわかるかわからないかの幼児期というのは、おそらく宇宙のハジマリと同じ状態にいる。  そこには「長い、短い」はなく、時感も空感も背中合わせでくっついていた。  宇宙はそのハジマリにおいてバクハツし、またたくまに今の宇宙ができた。  この間、わずかに数分のことである。そして宇宙に距離ができた。くっついていたものの間に、どうしようもない「長さ」が生まれたのである。  我々が、今、感じているつもりの時感は、距離感に他ならない。この時感は、第六感にとどまっている。  第七感と呼ぶべき、宇宙のハジマリに会ったはずの時感は、実際に感じることができない。  それは、犬の脳や、幼児の脳の中で、ピーンと生きているはずである。  なにもかもが、くっついていた頃の記憶と共に、そのくっついていたフルサトを思って。  そこは「長い、短い」を知らぬフルサトである。  きょりというコトバを長く引き伸ばすと、きょうりというフルサトが生まれるのは、そんな因縁《いんねん》かもしれない。 (『PSD MAGAZINE』'83年)   そうなんですよ、川崎さん  川崎徹汚染に対する広告批評の取り調べに、こんなにも心易く、野田さんが応じてくれたことは意外な気がするんだが……  ——川崎徹に関しては、僕《ぼく》はやましいことはありませんから……  本当に、川崎徹を吸った事実はないんだね。  ——吸ってません。  吸ってないのに、どうして、のこのこと広告批評の要請に従って任意同行したのかな?  ——一般大衆が喜びそうだからです。  それだけの理由かね?  ——はい。  川崎徹の為じゃないんだね?  ——自分の幸せが第一ですから。自分の幸せだけが、家庭の幸せにつながり、家庭の幸せこそが、国家の繁栄をもたらすのだと思います。  要するに、川崎徹をダシに使って自分さえウケれば良いというんだね。  ——はい、こういう「太宰治の世界」みたいな、ワンマンショー仕立ての本というのは、とかく、川崎徹は偉い。川崎徹のくりくり頭は好みだ。とか、川崎徹は川崎のぼると最初は区別がつかなかったほどの愛人だ。などといった、わけのわからない、おかまの通信誌みたいな讃美《さんび》に終始していることが多くて、一般大衆は、わあった、わあった、という気になるからです。  で、君は一般大衆に、川崎徹を、どう印象づけたいのかね。  ——だから川崎徹は、吸っても、そんなに危険なものじゃないと……  と、いうことは川崎徹を、やはり、吸ったことが……  ——いえ、僕はないです。  ないのに、どうしてわかる?  ——だから、あの、その……  川崎徹を、手にしたことはあるんだね。  ——……………。  そのことは、もう調べがついてるんだ。  ——はい、あります。たった一度だけ、袋を破いて、川崎徹を手にしたことがあります。でも手にしただけです。腕にはしてません。  いつごろ?  ——三年前です。  いきさつは?  ——その頃、僕は今のように、世界的無名人として売れていませんでした。だから実入りも少なく……  貧しかったんだね。  ——よく冗談で三畳一間といいますが、僕の場合は、本気だっただけに、今思えばコワイ気がします。本気で三畳一万二千円の部屋を借りていました。  友達は?  ——ゴキブリです。誰も信じないんですが、ゴキブリというのは、その部屋に慣れてくると、隅《すみ》っこではなくて、部屋の中央を、威風堂々とよぎるようになります。ある寝苦しい夜中に、寝返りをうつと、僕の指先に、なにか、ふと触れるものがあって、はっと思って見つめると、フトンのよこをゴキブリが、のうのうとよぎっている。僕は、もう、なんといっていいか、こう、俺《おれ》が、ゴキブリなんかと、情ないやら、せつないやら、どうしようもない気持ちになりました。どうして俺の才能が、ゴキブリによぎられなくてはいけないのか、共同便所付、三畳、白壁の屋根の下で、ゴキブリと寝食を共にして、むざむざと死んでなるものか、そう思うと「金が欲しい!」と思いました。その弱味につけこんだのが……  川崎徹なんだね。  ——そ、そうです。 「君、ちょっとやってみないか? お金が入るよ」と甘いコトバをかけられたんだね。  ——はい。  街角で?  ——いえ、その頃、僕の芝居を見にきては、川崎徹は、客席から、熱い視線を浴びせていました。見て下さい。  なんだい? このヤケドは。  ——浴びせられた熱い視線のアトです。  せっかんに近いな。  ——川崎徹は、いつも、くりくり頭にバミューダで芝居を見にくるので、僕達男の子の楽屋の間では大層、評判になり「あの愛くるしいオジサンは誰だ?」ってことになり、僕はそれで……  なんだと?  ——人買いだ。  君は、そうして買われたんだね。  ——あたしは、体こそ許しましたが、唇《くちびる》までは。  芸者衆は、みんなそういう。  ——…………。  三年前になにかあった事実は間違いないね。  ——はい。  二人の間に。  ——はい。  それは、おいそれと他人には言えないことかね。  ——はい。二人の秘密にしておこうと、僕の方から頼みました。  では、くりくり頭の川崎徹と色白の君との間に、インビな関係が三年前に結ばれたのだと解釈しても構わないんだね。  ——構いません。  川崎徹を吸った事実を認めるんだね。  ——…………。  その時の事を詳しく。  ——僕が川崎徹を手にしたのは、木枯し吹きすさぶ冬の東銀座のことでした。  東銀座のどこですか?  ——よく覚えていませんが、小さな部屋でした。にこにこと、なれなれしい感じで、くりくりっとした、あの川崎徹が現われました。  その部屋には君と川崎徹と二人きりだったんだね?  ——はい。ただ、隣りの部屋から五、六人、中年の男達が覗《のぞ》いていた気がします。  隣りの部屋から、君達二人がしたことは、丸見えだったんだね?  ——はい。  二人の行為は、どちらがリードしたの?  ——僕は、もっぱら声を出すだけで、川崎さんが、僕にああしろ、こうしろと言っていたようです。  君は、どんな声を出したのかね。  ——僕が子供っぽい声色を使うのが、川崎さんの趣味に合っていたようです。  声以外に、腰を使えとか言われなかったか?  ——声だけです。  それで川崎徹は満足したか?  ——最初から、そういう約束でした。  テレフォンセックスだね。  ——(キッと取調べ官を見つめて)私達の関係は、そういうんじゃありません。  しかし君の供述から判断するかぎり、川崎徹に汚染して、声とはいえど、金を代償に体を売る行為、つまり明らかにバイシュ……  ——最後まで言わないで下さい。顔がホテルからモテルまで直行しました、その夜。  なにを言ってるんだ?  ——頭が混乱して……  川崎徹を吸ってバイの字をしたことは認めるね?  ——バイ……といっていいのか……  しかし、二人の行為で金銭を得たんだね。  ——はい。隣りの部屋から覗いている人が金を払ってくれる人でした。  いやらしい感じの中年でしたか?  ——いいえ立派な紳士です。  名前は?  ——もう勘弁して下さい。  では認めるね、すべて。  ——認めます、しました、バイトを。金をくれた中年はスポンサーです。  うん?  ——三年前、川崎徹を吸いました。川崎徹のCMフィルムに声だけ出演しました。  彼とは?  ——それっきりです。でも今でもあたし、なんだか彼のこと……。  かくて二十世紀最大の無名人野田秀樹までが、川崎徹を吸っていた事実が判明した。  とうとう、ここまできたのか、という感を抱かざるをえない、芸能界の川崎徹汚染である。 (マドラ出版刊『川崎徹全仕事』より)   激突対談「頭博士VS.手職人」 司会者 本日は、おふた方ともお忙しい中、広告批評の為においでいただきまして、ありがとうございました。今日のミドルエイジによる対談は、頭《アタマ》博士と手《シユ》さんのおふたりによるものです。おふた方については、もう皆様の方がよく御存知《ごぞんじ》かと思いますが……頭博士は、米国アタマード大学へ頭脳流出し、“アタマとアクマ”“アタマとアンマ”“アタマとアサマヤマ”などの論文で名高く、また“イエスが脳を犯した”という宗教批判は、精神文化にコペルニクス的転回をもたらしたことでも知られています。一方の手さんは、有名な手職人でいらっしゃいまして、いてつく北国、青森県はノートルダム村で背中をかがめながら、手袋ヅクリ一筋に励み、その道三十八年という方です。手さんがツクッた手袋には、なんといっても手ヅクリの味があります。その手袋は近年、ビル街や工場など、都会のジャングルで働く人々に大変重宝がられています。こんばんは。 頭博士 どうも、こんば…… 手職人 っす。 頭博士 こんば…… 手職人 っす。 司会者 頭博士は、ハナシの頭を強く喋《しやべ》るために、また、手さんは、頭が足りないために、聞きとりにくいところがあるかと思います。えー、頭博士。博士は、人間の頭と手というものを、どのようにお考えですか? 頭博士 農村は手から、都市は頭から、文明が発達した。これが私の文明論だ。 手職人 っす。 頭博士 そして、手の文明も頭の文明も、ダラクさせたのは機械文明だ。 手職人 っす。 司会者 そのあたりのこと、手さんも、手袋ばかり編まずにひとこと。 手職人 は? 司会者 機械文明について現場の立場から。 手職人 キカイモノには弱くて。 司会者 弱い? 手職人 押入れに逃げこんじゃうんすよね。楳図《うめず》かずおのヘビ女とか半魚人は、サイゴの一ページがめくれなくて。 司会者 あの、……キカイといっても、文明の方なんですが。 手職人 カステラは、どうも弱くて。 司会者 ええ、……今日の対談は、頭でっかちなハナシというより、若干、砕けたハナシになりそうです。 頭博士 頭が砕けたら、死ぬじゃないか! 君は、ワシを殺す気か! 司会者 では、コ、コ、コマーシャルの後、ひきつづいて、頭博士の話をうかがうことにします。  CM   “頭に来たら手ヅクリの雑誌。広告批評。どうぞ私に電話して下さい” 司会者 では、ひき続き頭博士の話です。 頭博士 頭は、常に文明をリードしてきた。そのアンチテーゼとして、芸術のどの分野にもおこったのが靴理有頭無《シユーズリアリズム》だね。頭ではない靴にこそ、理があるのだという、頭先行型の文明批判だった。これが音楽の世界で象徴的に現われたのが、ビートルズです。 司会者 ビートルズは、靴《シユーズ》だったんですか。 頭博士 靴《シユーズ》は、ワシントンばかりではありません。尾《ビー》とる頭《ズ》が一世を風ビしたことは、靴《シユーズ》でした。 司会者 尾《ビー》とる頭《ズ》? 頭博士 つまり頭に代って、尾っぽが支配するということです。 司会者 逆転の構図ですね。 頭博士 逆転というより回転の構図です。つまり、尾っぽが頭をトルっていうのは、尾っぽを頭が食ってる蛇《へび》みたいなもんだということだ。これは、文明がどう進歩しようが、所詮《しよせん》、尾っぽを食べている頭みたいなものにすぎない。消費の構造だ。ムダのためのムダ、うんこをする為にメシを食う、死ぬために生きる。原稿用紙を埋めるために字を書く、人間の営みが、もうそこまできているのだということを、尾とる頭の世界的流行は、モノガタッタのだと思うんだが、どうですか? 手さんは…… 手職人 っす。 頭博士 また、手袋編んで。 手職人 っす。 頭博士 頭の方が聞こえないです。 手職人 頭は……っす。 頭博士 ワルイんですか? 手職人 いや、職人は、頭、関係ないすから。 頭博士 関係ないといっても、モノ作る時も、考えるわけでしょ。 手職人 いや、わしら頭は、考えるためにあるんじゃなくて、親方にナグラレルためにあるんす。……第一、その、あれっす、わしら頭《アタマ》っていうより、カシラっていうんすよね、親方のこと、だから、カシラに頭殴られるんす。不思議な感じっす。頭はないっす、やっぱりカシラっす。 頭博士 いやあ、私は頭がうすいもんで、カシラ、カシラって言われると、カツラ、カツラって読めちゃうんですよ、因果ですなあ。 手職人 因果ですねえ。 頭博士 頭と尾っぽっていうのは、やっぱり因果ですよ。いつのまにか、こうハナシがくっついている。で、原因に結果が食いついていたりして、頭が尾っぽに食いついたように這《は》いまわってるわけです。 手職人 ウロボロスの蛇っすね。 頭博士 ……。 手職人 ……。 頭博士 まさか、職人フゼイの口から、そういうコトバがでるとは思わなかった。 手職人 不愉快っすか。 頭博士 不愉快だな、頭は頭のコトバ、手は手のコトバを使って欲しいな。 手職人 手のコトバ? 頭博士 はい。 手職人 手話のことすか? 頭博士 差別語はいかんな。 手職人 じゃあ、どんなのすか、手のコトバって。 頭博士 だから、ヘビって聞いたら、『いやあ、あっしは、楳図かずおのヘビ女は、どうしても一頁《ページ》がめくれなくて押入れに逃げこんでました』って喋ったコトバにつづけて『そうそう、ヘビ女っていえば、あっしの知り合いで劇団夢の遊眠社というところに竹下明子という女優がいてね、この女優は、子供のころヘビ女を見るのがこわくて、そのぶんだけ、ホッチキスをして、他《ほか》のマンガを読んで、読み終ると、やっぱり、そのホッチキスしたところが読みたくて、またホッチキスをはずして、ヘビ女を読んでいたっていう、まあ変った女優がいるんですよ。私の知り合いに。 手職人 え? 頭博士 え? 手職人 二重カッコは? 頭博士 うん? 手職人 』をつけないと、博士が直接喋ったことばになっちゃうんじゃないすか。 頭博士 ………。 司会者 えー、コ、コ、コマーシャルの時間です。  CM   “臭いものには、二重カッコしよう    日本責任転嫁協会からのお願いです” 司会者 えー、頭博士がヘビ女のハナシを始めたりして思わぬ展開となりましたが、あのー、やっぱり頭博士、手さんとハナシをしているうちに、手《シユ》に染まってしまったというところでしょうか。 頭博士 ………。 司会者 そういうところでしょうか。 頭博士 ……だな。 司会者 頭が聞えなくなりました。 頭博士 頭は……だ。 司会者 頭博士は、すっかり自信をなくしてしまった風です。代って職人の手さんに伺いますが…。 手職人 伺って、どんどん。 司会者 うって代って、こちらは流暢《りゆうちよう》になりました。対談のハジマリが逆転しましたね。 手職人 逆転というよりは回転だね。手ヅクリ一途の職人というと、無口で黙々というイメージが我々には、あったんだけれど、もう、そういうの古いのね、僕達も、ハジメは、人々の期待を裏切らないようにと思って、そうしてたのね、『考えることは先生方に任せて僕達は黙ってモノツクッてればいい』って二重カッコつけてたの……でも、もう、そうじゃないのね。 司会者 それは、手で考えるっていうことですか? 手職人 手で考えるっていうのとも違うの、手が考えるのね。っていうか、手は考えるっていう当り前のこと。ひとりでに、そうなってきたのね。だから文明を蛇にたとえるなんていうのは、いかにも、頭の考えそうなことなのね。というのは、ほら、蛇には手も足もないから、頭と尾っぽだけでハナシが進むでしょう。で、なんとなくハナシのつじつまが合った気がする。ところが、頭で思いもしなかったように、筆《ペン》を持つ手が走る。手は余計なことをするでしょう。マスターベーションとか。そうすると、もうとても、頭はついていけないのね。だから、こうやって原稿書いている人間にとっても、頭より手がコワイのね。 頭博士 ………。 手職人 サイキン、頭は、もう、うんとも、すんとも言わなくなったでしょう。どこの世界でも。昔みたいに、いきがらなくなったでしょ。だからコトバにしても、頭で考えていた漢字《カンジ》の文体が減ってきたよね。僕らみたいに、ちゃらついたコピーライターみたいな文体が、はやってきたのね。でも、心配いらないの。手が考えるようになったってことは、僕らもいつか、ひとことも喋れなくなるってことよね。だから、それまでベラベラ、ベラベラ、ムダバナシ喋ってればいいわけ。ね、頭博士。 頭博士 ………。 手職人 ね、ひとことも喋んないでしょ。もう死んでるの。頭博士は、若死だよね。 (『広告批評』'84年4月)   書体文体話体——往復書簡  隠岐《おき》の島、書後鳥羽上皇様  書後鳥羽(カキコトバ)上皇様におかれましては、隠岐の島へ流されし後、御健康がすぐれぬ御様子とうけたまわり御憂慮申し上げております。とりわけ都に住む人々と書後鳥羽上皇様との間、中央にコウロンと横たわっていた海がなくなるとの悲報、もはや人心が書後鳥羽上皇様より離れつつあるということでしょうか。  活字中毒の世代などといって、書後鳥羽上皇様を嬉《うれ》しがらせたのも、今や古《いにしえ》のこと、都では新たな英雄が誕生しつつあります。その英雄は英雄《ビデオ》の君と呼ばれ、瞬《またた》く間に人々の心を捉《とら》えました。人心は、書後鳥羽上皇様に支配されていた御代をすでに綺麗《きれい》サッパリ忘れ去っております。書後鳥羽上皇様の院政は、すでに終わりを告げたのでございましょうか。 都、話後鳥羽《ハナシコトバ》上皇より  話後鳥羽上皇へ  いえいっ! わざわざお便りありがとよ。ま、書後鳥羽の身でありながら、ハナシコトバみたいに書くのもあれなんだけどさ。このあれなんだけどっていう、なんだかわかんないものいいっていうのは、いかにもあれだぜ、ハナシコトバだぜ。だから、あれだよ、ハナシコトバってのは、あれって感じだな。うん、気分な。わかる? 気分。話後鳥羽ってえのは、その囲りで気分がうようよして、そんな西面《さいめん》の武士に守られて、やっと生きていられるんだよ。だから話後鳥羽、そこんとこ、自分のことなんだから、しっかりやんねえと足元すくわれるぜっ。 隠岐の島、書後鳥羽上皇  再び、書後鳥羽上皇様へ  権力の座を奪われて後、書後鳥羽上皇様が私がつかうコトバ遣いをなさり、あれほど厳格であった、かつてのカキコトバの姿を思うにつけて、心中察するにあまりあります。この島流しの憂《う》き目にあい、心改め生まれ変わり復活する日を心待ちにしております。  そう御返事をしたためながら、私はふと、この落し穴に気づいたのであります。  あの権勢を誇った書後鳥羽上皇ともあろう方が、やれ都に英雄《ビデオ》が現われたといった趨勢《すうせい》くらいで落ちぶれたりするものだろうか。むしろ姿を変えて書後鳥羽上皇様こそ生き延びようとしてはいまいか。力を失ったふりをして、再び人心を捉え、わが世の春をもう一度とさえ思っていらっしゃるのではないか、そんな疑心暗鬼の気持ちにとらわれるうち、いつしか私のほうこそ、分別くさくも厳格なカキコトバで語る話後鳥羽上皇に姿を変えてしまいました。  ここに至って、私は遂《つい》に、書後鳥羽上皇様のこのたびの謀略がすべて読みとれた気がいたしました。つまり、ハナシコトバの囲りが気分でつくられているというのならば、おそらくハナシコトバは、本来、気体であるといってさしつかえないでしょう。それに比べてカキコトバは、姿を現わし、動きようがないことから、固体であることは明々白々です。  とすれば、書後鳥羽上皇様が、話後鳥羽の私に媚《こ》びた真似《まね》をして「いえいっ!」などと書き始めているのは、実は媚びているのでは決してなくて、ただただ、気体であるハナシコトバを固体化しようとするタクラミではないのか。誰もが「椎名誠のようなのだ」と書き、「糸井重里であるぞ」と、華麗なハナシコトバで文章を書くようになってきているのは、本当は書後鳥羽上皇様の御代から、私、話後鳥羽の代へと移ったわけではなく、いつのまにか話後鳥羽の顔をしながら、書後鳥羽にすり替わっただけなのではないか。  おそらく、何百年かの後、「話後鳥羽上皇」「書後鳥羽上皇」と記した意味すら、人々は区別がつかなくなり、ただ、後鳥羽《ゴトバ》上皇という人間が一人、話したり書いたりした折に、「話、後鳥羽《ゴトバ》上皇」「書、後鳥羽《ゴトバ》上皇」と書いたのにすぎないと思いこむことでしょう。  これだけ話しても話しても、書いたものとしてしか残らぬ私の姿を思うにつけても、歴史の大海の果てに島流しの憂き目にあっているのはほかならぬ我が身であることを、つくづく感じ入った次第です。 一二二一年、隠岐の島にて、承久の乱の後 話、後鳥羽上皇 (『広告批評』'84年5月)   人並みならぬ女性蔑視のわけ 「女とのつきあい方には、歴史型と地理型との二種類がある。歴史型というのは、ひとりの女と十六歳頃に出会って末長くおつきあいをするというやり方である。地理型というのは、おー、この女はアメリカくせえ女だ、とか、アフリカみてえな女だ、やれ、シベリアのように冷たい女だ、インドのように蠅《はえ》がたかっている女だと、世界地図を開げたように広く浅くおつきあいをしようというやり方である」  と、まあ、こういうハナシがなにかに載っているのを読みながら「さすがに、センセエのおっしゃることは違うわねえ。歴史型と地理型ねえ……」と納得する女というものの気がしれない。バッカじゃなかろうか。と、いうのが僕の女性観なのである。  僕の女性蔑視《べつし》は、人並みならぬものがある。僕は、身長が一二五センチしかない。けれども、背がグ——ンと一〇センチも伸びる靴《くつ》を、タテに四足はいて、なんとか見た目の帳尻《ちようじり》をあわせている。そうまでしなければ人並みの高さになれない。そのコンプレックスには、人並みならぬものがある。  僕はハタチの頃、それはそれは美しい女性と出会った。彼女は、僕が一二五センチの一寸法師だとは気付かなかった。むしろ、背の高い素敵な人だ、と思いこんだ。そのはずである。その頃は、僕は人並みならぬ見栄っぱりで、背がグ——ンと一〇センチも伸びる靴を、タテに七足もはいていたからである。  僕は彼女と     であって     たのしく     とことん     こいして     しっぽり     よううち     うかれて     ぶぎうぎ       したのである。  やがて彼女の家へと案内された。彼女が彼女の父に 「お父さん、私、この人と一緒になるわ」と言って、僕の方をふりむいた時、オソロシイことがおこった。  玄関にあがった僕は、七足のクツを脱いだため、もののみごと七〇センチも縮んでいた。  僕に限っては、一寸法師の打出の小槌《こづち》は、逆からふられ、晴れてお姫様と一緒になれなかった。おかげで、女性への夢も縮んだままである。  人並みならぬ女性蔑視は、そこに由来している。ま、笑ってくれ。 (『花椿』'84年7月)   父、野田秀樹 「前歯のない人たちは、シーハーと息を吐く、立場のない人たちは、ミーハーと息を吐く」  父、野田秀樹が、二十八歳の時、『ミーハー』という空前のベストセラーを、そうした大胆な書き出しで、はじめるにあたっては、いささかのとまどいとコーフンがあったのだ。  と、よく母が言っていた。  母は、その頃、父、野田秀樹とは、単なる女給となじみ客という関係であり、当然、私も生まれていなかった。  私の母が、この『ミーハー』に出てくる、ミーハーのモデルだと、世間ではいわれているが、私から見れば、母は、もう少し安っぽかった。  なにしろ私の母は、父が一万八千円で買った金髪のダッチワイフだったのである。父、野田秀樹が、金髪のダッチワイフの母との間に、私をもうけた時「ほんとに、もうけた気がしたもんだ」と父が後日、語ったのを私は耳にしている。  何故、父、野田秀樹が、ミーハーの書き出しにとまどったかについて、父は、寝苦しい夏の夜に、金髪の母とダッチチャイルドである私と川の字になりながら語ってくれた。  人の目には、父のひとりごとに見えたかもしれないが、人形の目には、立派な三人家族の語らいだったのである。  父、野田秀樹は、『ミーハー』の書き出しに何故、とまどったのか? 今でこそ、ミーハーと言えば「少年少女が物事にときめいた時の呼吸の形容」として定義されているし、そのことに今更、反論の余地はないだろう。  それは、おそらく、父、野田秀樹の長年にわたるミーハー呼吸説の成果が、世間に定着してきた証《あか》しでもある。  しかし、父、野田秀樹が、ハジメテ、ミーハーを「少年少女のときめく呼吸」だと、定義づけた頃には、さまざまな反論が、なされたのである。  たとえば、植物学者達は、一斉《いつせい》に、 「ミーハーを呼吸方法としてしまうのは、自然科学者として今後の人類に大きな汚点を残すことになるだろう。そもそも、ミーハーとは、実《ミー》と葉《ハー》のことである。つまり、植物界における根なし草のことである。植物学者の中には、根も幹もなく、実と葉だけの幻の『実葉《ミーハー》』を追い求めて、むざむざ死んでいったものも多い。彼らのためにも、我々は、た易く、ミーハーを呼吸法だ、として生理学の分野に閉じこめるわけにはいかない。第一、ミーハーが呼吸だというのならば、どちらが吸う息で、どちらが吐く息なのか、根拠をしめせ、根拠を!」  そこには、根っこにこだわりつづける植物学者達の執念があった。  また、江戸戯作《げさく》文学の研究者たちによりなされた批判があった。それは、ミーハーの「ー」の部分、つまり棒線の部分は、本来発音されるべきものではない。という考え方であった。たとえば、 「わたしは、あの人の○○○○を、丸ごと○○○○してしまいました。まさか、○○○○が、あんなにも立派で○○○○するものとは、私は、み○○○○は○○○○なのでした」  この伏字の最後の部分に御注目いただきたい。「み○○○○は○○○○なのでした」、この「○○○○」の代りに「——」を用いれば「私は、み——は——なのでした」となるではないか。という考え方である。  また一方で、ミーハーの「——」の部分は、伏字ではなく、むしろ省略されたものだと考えるべきだという数学者達が現われた。  これはつまり、ミーハーの「ミ」は「三《さん》」であり、「ハ」は「八《ハチ》」である、という主張だった。「『三——八——』の——に、あてはまる適当な数字を入れなさい」という慶応幼稚舎の入試問題にも似た順列問題と考えられるのではないか。 「三——八——」は、ときめく少年少女の呼吸法どころか、入試にあえぐ幼児のため息だとさえやらかした。遊ぶ子供の呼吸ではなく、学ぶ子供のシンボルだ。「ミ——ハ——」は、ニューアカデミズムだとやらかしたのである。 「ミ」は「三《さん》」で「ハ」は「八《ハチ》」だという推理には、ほぼ同意しながらも、全くアカデミズムの逆の立場から、「ミーハー」について論じたのが、テレビ業界であった。  おわかりだろうか。 「ミ——ハ——」は、チャンネルだ、というのである。  3チャンネルと8チャンネルがあれば、他にチャンネルは要らないよ、という東京のとあるテレビ局の陰謀だ、というわけである。  つまり、東京では「3」チャンネルがNHK教育テレビであり「8」チャンネルが、全国的人気番組「笑っていいとも」が放映されているチャンネルである。  ビデオの普及した昨今、はっきりいってチャンネルの数は、もうそんなに必要ないだろう。いくつかだけ残そう。そうだ、たとえば「ミ——ハ——」にすれば、どうだろう、といいだしたのである。  これは、いかにも8チャンネルの考えそうな陰謀である。ただいきなり、チャンネルを「——ハ——」とすれば、8チャンネルの陰謀がばれる。かといって、もうひとつ他局を残すとするならば、やはりどうやっても視聴率で負けそうもない、いわずとしれたNHK教育だけを残して、マスコミの良心を見せてやろうとした、「ミ——ハ——」は、8チャンネルの陰謀を意味する、テレビ業界の業界用語だというわけである。  かように、父、野田秀樹が「ミ——ハ——」という概念に手を染めし頃は、ミーハーについての議論たけなわだった。  これら、どれをとっても、もっともらしい主張の中から、よくもまあ、父、野田秀樹のミーハー呼吸説だけが、生き延びたというのは、ほとんど宝くじに近かった、運だけの勝負であったと思う。  私は、父野田秀樹のダッチチャイルドとして父がツクリアゲた「ミーハー」という呼吸がとまることなきように、肝に銘じてミーハーと呼吸しつづけようと思う。 (『本』'84年12月)   吉永小百合——青い空とオール5と  うふふ……  サユリストの皆さんには申し訳ないんですが、僕、中学生の分際でサユリさんと特別な関係をもったこの世に、ただひとりの男なんです、うふっ。  僕、サユリさんよりは丁度10歳年下で、渋谷区立代々木中学校というところを出たんです。おめえの学校なんかどうでもいいと思っていらっしゃるサユリストの皆さん、ところがそうじゃねえんだよな。あっ、口ギタナク喋《しやべ》っちゃってゴメンなさい。代々木中学というのは、サユリさん当人ならば思いあたるはずです。そうです。サユリさんが出身なされた中学校なんです。  なあんだ、同じ中学を出ただけだって言うんなら、オレだって沢田研二と同じ岡崎中学を出たよ、なんてイキマイテイル、サユリストの皆さん、ごめんなさい。僕とサユリの、おっといけねえ、サユリさんの特別な関係は、もっと甘ずっぱい青春物語なんです。  それは僕が14歳、頭の良い中学生をやっていた頃の教室で、 「この学校で10年ぶりに、オール5が出ました」て言われたんです。あっオレだ。オレのことだ、オール5か、まあそんなもんだろうなんて、ユーユーと窓の外を見ながら、オール5とるなんて俺もイヤミな男だぜと思いつつも、教室中の話題が僕のところへ集まるのを心待ちにしていたら、 「で、10年前にオール5をとったのが吉永小百合なんだ」  と教師が言っちまうもんだから「へー、吉永小百合って頭いいんだなあ」と話題がすべて吉永小百合の方に流れはじめたが最後、話題というのは、とうとう僕のところに戻ってこない。この僕は一体なんなんだ、青い空なんか大キライダー! という傷心の青春時代を、ふっと思い出させてくれるのです。  吉永小百合という、美しくも愛《かな》しいヒビキ。 (『別冊太陽』'84年12月)   マイ・ファースト・メモリイ——思春期篇  中学校の体育館の隅《すみ》は、飛び箱やマットや不良の溜《たま》り場《ば》であった。中学1年の僕が、そこへ連れて行かれたのは、パーマをかけた3年生のお姉さん達のお導きによってである。  僕は、このお姉さん達が、昼休みのたびに下級生のめぼしい子を呼び出しては、はがいじめにして黒い学生ズボンからベルトをひきぬいて、ズボンを引き下げ、白いブリーフがむくむくとふくらんでいく様子をとっくり鑑賞し、鑑賞後パンツをさげ突起物の先端にヒモを巻きつけ、バスケットのコートを引きずり回す、というあの校内の有名人であることを薄々気づいていた。  しかし僕は冒険少年であった。行けるところまで行ってみよう。いざとなれば、逃げれば良い。くらいの軽い気持ちでいたのが、一生の不覚であった。  お姉さん達は、決して力技ではせまってこなかったのである。「かわいい子じゃん」と言いながら、一枚一枚自らストリップをはじめたのだ。しかも上手い。僕の気にいるように脱いでくれる。まさかと思ったのは、その中にまじって僕の好きな女性歌手、近所のお姉さん、いつかの看護婦さん、果ては好きな女の先生の顔までがまじって次々にストリップを始める。吃驚《びつくり》して目をこすると、やっぱり吃驚した顔で女の先生が「野田君、何してるんです?」と——見渡せばそこは教室。  なんだかわからないうちに僕の赤裸々な思春期のマイ・ファースト・メモリイは果てていた。 (『ショートショートランド』'84年1、2月)   野田秀樹的ドラキュラ——乙女でいられる夜は  血を吸ったのがドラキュラで、血を吐いたのが沖田総司である。  二人の違いは、血を吸ったか吐いたか、ただそれだけのことなのだけれども、結果として人々に与えるイメージは随分と違う。  よく血液型のことで、「あたしA」「あたしはB」「あたしはDまで行っちゃった」「いやだなに勘違いしてるの〓」と大騒ぎをしているうら若き乙女を見かけるが、そろそろああいった血液の分類法にも飽きがきているのではなかろうか。  そこで「ドラキュラと沖田総司と、どっちと寝たい?」というハナシに始まって、人間を血を吸うタイプ(以後、と略す)と血を吐くタイプ(以後、と略す)とに思いきって分類してみてはどうだろう。  一般には、長生きである。つまり、人の血を吸ってでも生き延びようという勇気がある。それに比べては、囲りの迷惑をかえりみず、吐くだけ吐いて死んでしまう。短命である。ゆえに乙女は、よりタイプ、沖田総司タイプに惹《ひ》かれることが多いように見せかけている。だから、よりの方が好きだ。という乙女は、「ねえちょっと、あの娘《コ》、変ってるわねぇ——」と変人扱いされる。を愛することは、乙女にとって隠れた冒険なのである。人には、あまり知られたくない趣味なのである。インテリのトルコ狂いなのである。  乙女は何故、よりが好きと言いづらいのだろう? 答えは簡単である。の男よりもの男の方が性的な魅力に溢《あふ》れているからである。の男に乙女が嫁いだとしよう、毎晩、うすっぺらいフトンの上でおかゆを食べては血を吐くそのの背中をさすっては「大丈夫よ、あたしがなんとかするから」と金の工面までして、男にかしずかなければならぬこと、このうえない。ところがの男に、知らず嫁いだ乙女は、毎晩、ふわふわの羽根ぶとんの上で抱擁され、首筋に熱い口づけをしてもらえ、体中の力が抜けてしまうほど愛してもらえるのである。どう考えても、よりの方が性的に豊かな生活を送れる。だからこそ、うら若い乙女は口に出して言えないのだ。「お父様! 実は、あたし……さんよりさんの方が……」「なんだと! もう一返言ってみろ」「さんが好き」「なんておまえはフシダラな娘だ!」ということになるが、フシダラでもいい、見せかけのなんか吐き出して、の空気を吸いこもう。せめて今宵《こよい》ひと夜。乙女でいられる夜は。 (『ドラキュラその愛』パンフレット'84年秋)   「一人の劇評家よりも一人の女子高生」の時代  とにかく、野田秀樹というのは、いやな男である。  われわれ朝日ジャーナル芸能人取材班が会いに行っても直接会おうとしない。野田秀樹邸宅で待つこと四時間、ようやく顔を見せてくれたかと思えば、なんと玄関に出てきたのは、野田秀樹の弟子であった。  しぶしぶ、われわれは、その頼りなさそうな弟子にハナシを聞くことにした。 「今日うかがったのは、ほかでもない。野田先生が現在の劇評のあり方について、どうお考えなのかを、先生ご自身の口からザックバランにお話しいただきたいと……」 「申し訳ございません。先生は俗人とは直接に、口をきかないというならわしでございます」 「それはまた大仰な」  とわれわれが切り返すと、野田秀樹同様に、色白で小男であるその弟子は、さえぎるように、 「失敬千万! 孔子やキリストが、直接コトバをのこしましたか〓 すべて『孔子曰《いわ》く』とか『キリストは、そうおっしゃった』という具合、まあ、いわば、後世の弟子がコトバをのこしたも同様です。釈迦《しやか》もそうです。マホメットもそう、ソクラテスだってそう。本人の著書もコトバものこっちゃいない。『ソクラテスは、かく語りき』とプラトンが書物に書きのこしたにすぎない」 「つまり、その……野田先生もまた、自分のコトバというものを、自分の口で語る気は、まったくないというわけなのですか」 「だと思います。かといって弟子の分際で、先生の奥深い御心の中を、あれやこれやと憶測するのは大変心苦しいです、合掌」  と言ったきり、野田秀樹の弟子は目をつむった。  まったくもう、師匠が師匠ならば弟子も弟子だ、やりにくくてしゃあないな、と思いながらも、われわれは、 「では、あの、お弟子さんの口からでも結構です、野田先生は劇評というものについて……」  言い終わらぬうちに、 「そうですかあ、私の口からでいいですかあ、なんだかワルイナー」  とたん、弟子は大いに語り始めた。 「その昔、評論家について『一〇〇人の無能な観客よりも一人の有能な観客』というコトバがありましたが、今ではもう、有能な観客も地に落ちて『五人の女子高生より一人の劇評家』と思っていた時代すら通り越して『一人の劇評家より一人の女子高生』の時代が到来したのだそうです」 「言いすぎじゃありませんか」 「いいえ、女子高生はなーんもワカランクセに『野田さん、跳躍力が一二センチ落ちましたね』とか『今日は、はっきり言って眠りました』などとズケズケ言ってのける。その代わりに感激した時の表現の量も大量である。どうせ、同じように、なーんもワカランのなら、ほめてくれる時にいっぱいほめてくれる女子高生を愛する、と」 「つまり、劇評も質より量だと」 「もともと、自分のコトバさえ信じていない人間が、他人のコトバなど信じるはずがなく、それならいっそのこと、ベッタベッタにほめて欲しい」 「まあ、それは、誰でも気持ちは一緒でしょ」 「いえ、天才と子供にだけ必要なことです。能のないのは、ほめてもつけあがるだけだから」 「そうですかあ…」 「そんな簡単なことも劇評家は、わかっとらん、もっと鳥のようなまなざしで芝居を俯瞰《ふかん》して欲しい」 「先生が、そこまでおっしゃいましたか」 「いえ、これは全部、私の意見でして」 「弟子のコトバなんか、聞いたって、しようがないだろ!」  とわれわれが頭からドヤしつけたものだから、その小心な弟子は、すっかり青ざめてしまい、しばらくまた口を開けなかった。  そこでやむなく、われわれは、 「いいです、いいです、もうこの際、お弟子さんの口からお弟子さんのコトバをうかがいます」 「そうですかあ、わるいなあ」  と弟子は、またもや大いに語り始めたのである。 「先生はもう、新しいものなんかないと覚悟を決めて芝居を創《つく》っていらっしゃる。そう思うね。人様に、いかに飽きさせずに芝居を見せることができるか。つまり、いかようにという方法だけで勝負をしていると思うんです」 「退屈か、どうか、だけがテーマですか」 「うむ。ところが方法によっては、退屈は自由というコトバにすりかわる。『なにもしないで良い時間』を自由と呼び『なにもしないで悪い時間』を退屈と呼んでいるわけだ。だから退屈でなくすることは、人間を不自由にすることなわけだ。これは、右脳を左脳でコントロールする方法を遡行《そこう》させることでもある。すなわち野田芝居の本質は、人間を不自由にする方法にある。……などと言うと、もっともらしいだろ。このもっともらしさが、方法なんだ。わかるかね。今、なぜ退屈な芝居が、また増えてきているかというと、みんな一人称の私小説の方法しか持ち合わせていない。ひとごとのようにモノを創る方法を知らない。若いやつの芝居はみんな自分のコトバを自分の口で語る、そんなもん方法でもなんでもない、作文だ。つまり作文みたいな舞台がある。だから息苦しい、チッソクする。今ごろのパフォーマンスなんてえもんは、ありゃ私芝居の複数形でしょ。私達芝居でしょ。いわば忘年会の隠し芸でしょ。あんなもん、少しも不自由じゃない。だから退屈だ。おまけに『朝日ジャーナル』が片棒をかつぐ、実になげかわしい。と言ってやる劇評のひとつさえ見たことがない。劇評は、自分のコトバを持ち合わせておらんのではないか? だったらしばらく、だまっとれば良い、と野田秀樹先生は、ひとごとのようにおっしゃった、というのはどうでしょうか」 「いいですねえ、そうしましょう、それをのっけましょう、やっぱりお弟子さんだけのことはありますね」 「うむ。先生は、ともかく、私はもう劇評のことなんか金輪際しゃべらないぞ、退屈だ」  そう言って奥の部屋へ去っていく、その弟子の後ろ姿は、どこからどう見ても野田秀樹そっくりであった。 (『朝日ジャーナル』'85年1月)   大根役者は平然と無欲で素、素、素  奥様、冬の料理に欠かせないのが大根です。今日は大根を使っての芝居の煮しめを御紹介しましょう。  まず使用する大根役者の分量についてですが、これは、あまり大量であってはなりません。大根役者は、せいぜい舞台に二人、できれば一人というのが望ましい分量です。上手な役者の中に紛れてこそ、大根役者は味を出す、というものなのです。笠智衆《りゆうちしゆう》を、五人集めてつくったロミオとジュリエットを考えて下さい、身の毛がよだつではありませんか。  しかも、大根役者は、かさばっていれば良いというものではありません、それどころか78�もある女性——業界用語で言えば、太ったブスのことですが、大根もここまでカサバルと全く使い道がありません。名優ハンフリー・ボガートが在りし日に『カサバランカ』と、つぶやいたのも、太ったブスを見てのことだと言われています。  それでは、一人のしかも、それほどカサバラない大根役者を見つけ出したとして、どのように味つけして料理していくのか、ということですが、これはもう、料理人の腕次第です。私のような腕のいい料理人は、大根役者を、ずらずらっと並べて、こいつはいけそうだ、こいつは無理だと瞬時に見きわめることができます。  大根役者には、芝居の味がしみつきやすい大根としみ通りようのない大根とがあります。どちらの大根が良いかは、おでんの中の大根を考えていただければ自明です。大根の大根たるゆえんは、「自分の芝居で味を出そう!」などと間違えても決意しないことです。周りのうまい味を出す役者の味を利用することです。その為には、なんといっても素《す》でいることが一番です。つまり、なんにも芝居をしない、芝居をしようとしない、セリフは極力一本調子でヨム、このへんが食える大根役者になれるかどうかの境目になりそうです。  たとえば、ヘタクソが多いので、世界に名高い日本の新劇役者の中には、見ている者の神経をさかなでせんばかりに奇妙な抑揚をつけ、キテレツなイントネーションでセリフを読んだりする者がいます。そんな大根でしあがった芝居の煮しめは、女子高校の演劇部が年をとった以上のものではありません。「腐った女子高芝居の煮しめ」しか料理のしようがありません。  では、大根役者の味の原点は、どこにあるのでしょう。それは実は幼年期の学芸会にあります。一本調子でヨンデ棒立ちをして、それでいて平然と無欲でいられた学芸会。あれを頭に想起しつつ、居直《いなお》るしかない。これが大根として生まれついた役者の宿命です。ユメユメ芝居をやろうなどと思ってはなりません。せっかく、できあがった芝居の味がダイナシになるからです。大根役者には、随分と辛《つら》く暗くすくいようのないハナシをしてしまいましたが、大根役者は、辛く暗くすくいようがないのです。どんな料理人のおたまでも大根は、すくえないのです。 (『QA』'85年1月)   美は掃除機である——  昭和の美の衝撃について語れ、ということは、  やはり、  美がなにかと——そう、  車と車が、ぶつかったみたいに  ガガアンと、  ぶつからなければいけない。  一体、美はなにとぶつかるのだろう。  多分それは、  美と  僕が、  ぶつかる。  ということだと思うのだけれども、  果して僕と  美が、  ぶつかった時の音は、  ガガアンだっただろうか。ガシャッであったか、ガツッだったか。いっこうにわからない。  わからないのは当り前で、  美とは、ぶつかるものではなくて。  あっ!  美だ!  と思った次の瞬間に、美は、大きな口を開けて、  僕を呑《の》みこんでいる。  僕にとっては、  美とはそういう感じなのである。  美の衝撃という、お題を頂戴《ちようだい》した時から、芸人の分際で生意気ではございますが、ヘンだなあと僕は思った。  ほんとに芸術新潮か〓 と何度も問いただした。  どこか女性自身の臭《にお》いがして思わず微笑したのが、とても新鮮だった。  “聖子無惨〓 郷ひろみと野田秀樹のホモ発覚”美の衝撃! 第一弾〓  という感じがするのだ。  この美の衝撃には、第二弾〓 “聖子意趣返し、明菜とレズに走る”が続くであろうし、当然、読者は第三弾を期待し、“同性愛の魔手、朝潮に忍び寄る”  ここまできてなお、これを美の衝撃と呼んでいいものだろうか。  やはり美は、  衝撃ではない。  美はいきなりやってきて、いきなり呑みこむ。  あえて、その時の音を表現すれば、  ガガアンではなく、  グイ——ンなのである。  美は、掃除機である。  たとえば、それは僕の舞台のある美しい場面でも良い。耳から入るワーグナーの美しい音色でも良い。数学が美しく解かれている時のひらめきでも良い。そして、カール・ルイスの跳躍の美でもかまわない。  あっ、美しいと思った時、思った目、思った耳、思った脳をグイ——ンとばかり掃除機が吸いこむ。  そして、すでに、カール・ルイスの跳躍の美はグイ——ンと吸いこむ掃除機だ。という表現は昭和の美である、  昭和だけの美である。  なぜなら、明治や大正には、カール・ルイスも掃除機もなかったからである。  森鴎外は、美は掃除機だとは間違っても思わなかったであろう。  美は常に時代と共に在る。  僕のコトバだと思うと説得力がない。というなら、そういったのは、ジョルジュ・バタイユだと聞けば、耳を貸してくれるだろうか、芸術新潮の読者は。  では、時代と共に在る美。——  昭和の美とは、掃除機のような美ばかりなのだろうか。  掃除機の相似形なのだろうか。ソウジキに申し上げよう。  答えは否《いな》である。  美意識が、突然変るはずはない。  ならばなにが美を変えるのか。  いうまでもない。方法であり道具である。掃除機という道具、カール・ルイスという道具、ホログラフィーという道具、あるいはシンセサイザーという道具、コンパクトディスクという道具、新たなる道具と方法だけが、明治時代や平安時代の人間が、感じることのできない美を感じさせてくれる。  コトバも然り。 「不思議大好き」という、どの時代も使わなかったコトバに、僕は美しさを感じることができる。「不思議を大好き」でもなく「不思議が大好き」でもない。「不思議大好き」である。  しかし、そこにまた落し穴がある。何故「不思議大好き」や「ハエハエカカカ」が美であるかといえば、いずれも七文字、あのいにしえよりの七五調に他ならないからである。  ここに及んで、美は常に道具や方法により、時代と共にあるが、その時代の美を感じとっている心は、千年やそこらでは変らず普遍である。といっていいのではあるまいか。  いにしえより、美は掃除機のようにグイ——ンではなかったとしても、ほうき星のようにスィ——ッと人を呑んでいたのではあるまいか。 (『芸術新潮』'85年1月)   奇妙遊園地  その遊園地は、奇妙遊園地という奇妙な名前がついていた。  奇妙な経験がしたくて行くところが遊園地だとはいえ、入った時からそこは奇妙だった。奇妙遊園地だから、そこが奇妙なのは、奇妙でないのだが、それでも奇妙な気がするところがまた、奇妙遊園地らしかった。その辺りは、これ以上うまく説明はできない。  僕が平日の奇妙遊園地に行くのには、ふたつの理由があった。  ひとつは、以前、奇妙遊園地に来た時、入口で通し券を買ってしまったからだ。通し券というものは、30円券か、50円券が一枚くらい、あまってしまうもので、その一枚が惜しいばかりに、平日だというのについついやってきてしまう。 「通し券というのは、不思議な思想だ。浪費してムダをするために誰《だれ》もが、遊園地へやって来たのだと知っているのに、入口で通し券という節約の思想を見せびらかされると、せいぜい100円かそこら得するだけなのに買ってしまう。浪費のための節約——それでも、けちなお母さんが2000円分の通し券も遊んだら、頭がパーになっちゃいますよ、とか言う。入口で通し券を買わなかったそんな時に限って、4000円も5000円も乗り物に乗って遊んだりする。そのうえ通し券というのは、うまく使いこなすことが難しい。回転木馬とコーヒーカップとジェットコースターは、乗れるが、コーヒーカップの代りにパラシューターなどという、新し目の乗り物に乗ろうとすると、200円ぐらいオーバーして、新たな通し券を買うべきか、どうか、という新たな問題にぶつかってしまう。どの乗り物とどの乗り物の為に通し券を使うかという問題は、小学生にとっては鶴亀算《つるかめざん》のようなものだし、中・高生には順列・組合せ、大人であればガッチリ買いましょうをやっているような錯覚にとらわれ、頭がイタイ。考えるのが、おっくうになる。で、結局、ほら、わしのように、30円券が一枚と50円券が一枚あまってしまい、こうして平日の遊園地へ、また足を運ぶことになる」魔法のじゅうたんの傍のベンチに腰かけていたおじいさんは、そこまで喋ると、ほっと息をついた。  いつも、この奇妙遊園地に来ているのだろう。通し券に対する微々細々にわたる観察力で、そのことはわかった。  実は僕が、平日の遊園地へ来る、ふたつ目の理由は、こういうおじいさんやらおじさんに会う為である。  平日の遊園地には、ひとさらいがいる。  これは常識である。  遊園地にいるひとさらいは、瞳がギトギトしていない。いつも遠くを見ているような、子供を包んでしまう魔力がある。だから、遊園地でさらわれた子供は、さらわれたということさえ、わからずに一生を送ることが多い。  ひとさらいの瞳は、いつもベンチに腰かけている、その日の奇妙遊園地のおじいさんのように。 「アハハ、わしゃひとさらいと違うよ。わしは、ほんとにいつも、ここに座って、この使い終っていない、30円券と50円券をなんに使おうかって考えとるだけだよ。そうこうしているうちに、いろんなものが目に入る。遊園地というのが、だんだんと、どういうものだかわかってくる」  遊園地が、どういうものか? 僕は、そんなこと考えたこともなかった。それで、ついついおじいさんの話に聞き入った。 「子供は、いつだって、遊ぶことを、うしろめたいとは思わない。自分が遊んでいるということに、うしろめたさを感じるようになると、子供は大人へ近づいていく。だいたい子供なんてものは、いつだって遊んでるんだ。子供が、そこにいれば、それだけで遊園地だといったっておかしくない。それを、なぜ、わざわざ子供が喜んで遊園地へ行くかっていうと、子供は知ってるんだ。そこでは、大人も遊ぶっていうことを。大人は、子供を遊園地に連れて行ってやったとか、危ないから子供を監視するためについてきたとか、いうけれど逆だぁね。子供が、大人の遊んでいる姿を見るところだ。どこかの町の笛吹きみたいに子供が笛を吹いて、大人が踊らされているんだ。だから遊園地の通し券は、必ず、大人券と子供券にわかれている。子供券を持つものが、大人券を持つ者を見て、その人間が大人になったのか、なってしまったのか、その楽しんでいる姿を見ては判断している。その大人券を持っている奴《やつ》が、乗り物にのりながら、すこしでも遊ぶことへのうしろめたさを見せると減点されていく。ああ、こいつは駄目だ、大人だ、しょうもない奴だって具合に」  そう言い終って、遠く遠くを見ているおじいさんの手に握られていた、まだ使いきっていない通し券の文字をよむと、子供と書いてある。このおじいさんは、後30円分一枚と50円分一枚、子供を使いきらないまま、この奇妙遊園地にいるんだな。  そう思って、そのおじいさんの顔をまじまじと見た。あっ! どこかで見たことのある顔だ! そう思った時、ブザーが鳴った。  その乗り物が終りである事を知らせるブザーだった。  僕は、奇妙遊園地のその奇妙な乗り物から降りた。  そして、出口のところで、その乗り物の名前を見た。  ドッベルゲンガー——もうひとりの君に会いに行こう。  そう書いてあった。  たしかに、もうどこにも、あのおじいさんはいなかった。  僕の手に30円一枚と50円一枚分だけ、奇妙遊園地の通し券がのこっていた。 (『パセリ』'87年2月)   ふだんの努力——青山劇場楽屋で、1987,4.29 「ふだんは、どんな風に暮していますか?」そうきかれるたびに「ハー」と思う。 「ハッ!」と気付くのでなく「ハー」だ。  答えようと思うのだが、力がぬけて歯と歯の間から「ハー」とか「スー」という感じの風が吹く。「ハー」と答えぬままに今日まで放っておいた。 「ふだんは、どんな風に暮しているのだろう?」ついさっき本腰を入れて考えてみて、遅ればせながら「ハッ!」とした。  ふだんがない。ふだんの正体を見たことがないのに「ハッ!」と気がついた。  日々の暮しはあるけれど、ふだんはないのだ。 「大体、朝九時に起きて食事をして、十時すぎに犬と小鳥に餌《えさ》をやり、十一時から机に向って原稿を二時間ほど書きますね、ふだんは」 などと一度、言ってみたい。しかも、縁側で、和服を着て、穏やかな顔をして、そう言ってみたい。  けれども言えない。  第一に餌をやる犬も小鳥もいない。  机はあるが、向うのは苦手だ。  縁側はないし和服もない。  まして顔が穏やかなわけがない。  ふだんとはなにか? 思いもしないテーマがついさっき、忘却の河底より浮び上ってきた。  上《あが》ったドザエモンは成仏《じようぶつ》させろとばかり、思いついたのは、 「芝居をつくっている時こそ、ふだんなのではないか?」  早速、検証してみた。  まず、台本を書く日々——朝から晩まで、夜中、夜明けといわず、ビクビクしながらセリフや構成の隅《すみ》から隅へと思いめぐらす暮し。やっと台本の隅々が書きあがると、芝居の稽古場《けいこば》の隅々が待っている。役者の手先、足先の隅々、照明の隅々、衣裳《いしよう》の隅々、音楽の隅々、果てはナマケテ稽古場の隅にいる役者までが、目の隅に見えてくる。かくて芝居の初日に辿《たど》りついたと思ったら、本番は本番で客席の隅から隅と、その反応にビクビクしている。  要するに芝居づくりは、暗いところを隅から隅へ、目やら体を動かしつづける正方形の暮しだ。この世で一番似ているのはゴキブリだ。  だからどうも、ふだんの暮しというのとはほど遠い気がする。ふだんというのは、僕のイメージでは円とか球である。丸くなくてはいけない。隅があるようではいけない。ぼんやりとした陽《ひ》だまりの輪郭をもった暮しである。隅なんか、ほったらかして、ぼんやりと、まるっこい日々である。  そこで、ぼくのふだんの暮しを、輪郭の方から考えることにした。 「ふだん着を着ている時こそが、ふだんの暮しなのではないか」  これは、逃げ隠れしているふだんのアリバイ崩しとしてはかなり有力である。なにせ、自分で、ふだん着だと思えるということは、その着ているものに包まれている僕は少なくとも、ふだんの中に、とっぷりとつかっているはずなのだから。  たとえば今はどうだろう。  この原稿を書きながら、着ているものは、グレーのズボン、白の女もののシャツ、その上に青いジャケット、書き終ったらすぐにも家をでて芝居楽屋へ駈《か》けつけうるように、すでに外出着だ。ふだん着とはいえない。そういえば、起きるなり、いつも外へ出かける服を着ている。胸ポケットの隅に小銭を捜したり、靴下《くつした》の隅をひっぱったりしながら、家を出る前というのは生活が隅々している。やっぱり家を出る前のズボンの折り目とかアイロンなどというのは、円《まる》い暮しを消し去る正方形思想に加担している。  では、家に帰った時はどうだろう。ふだんの暮しの核心へ近づいてきた気がする。  確かに、朝は正方形の旅立ちをした折り目正しきズボンの膝《ひざ》が、丸くなって帰ってくる。ポケットの隅々とズボンの折り目に象徴されていた服が、家の外のどこかしらで、ふだんを獲得して帰ってきている。ところがである。せっかく、ようやく、ふだん着になり帰還した服を、惜しげもなく脱皮するように風呂《ふろ》へ入ってしまう。そんな自分が情ない。ふだんにすまない気がする。あげくの果て、ふだん着とは、ほど遠い巨大なミッキーマウスのTシャツの膝下まであるような、形容しがたく名状しがたい衣服を着て寝たりする。  けれどもはっきりしてきた。もしも、ふだんが、丸っこくぼんやりとしたものに間違いなければ、ズボンの膝が丸くなるのが、なにより証《あか》し、たしかに家の外で、僕は、ふだんにかかって家へ帰っている。一体、どこで、ふだんのくらしをしているのだろう? どうやったら「ふだんの暮し」にかかっている瞬間の、自分を見ることができるだろ。  今日はこれから家を出て帰るまで、片時も自分の服から目を離さず、ふだん着に変る瞬間を目撃してやろうと思う。ただ、自分の膝の折り目から目を離さないというのでは、これまた生活が正方形している。だからほんとは、ふっとばかり、自分の膝から目を離す瞬間こそ、目的を忘れ、心に隙《すき》をもつ時こそ、きっと、ふだんの暮しをなにげなくしている時なのだろう。  とすれば、そもそも、ふだんの暮しを目撃する、などというのは、自分が目をつむる瞬間を見てやろうという行為に等しい気がする。サマザマスミズミ考えて、そういう結論に達した。  ……などと、ふだんとはほど遠い律儀《りちぎ》な思想に思いを馳《は》せた今日一日であった。 (月刊『LE』'87年7月)   想い出メルヘン——小川未明童話集  ローで作った翼をつけて、太陽に向かって飛んでいき、やがてローがとけて墜落した少年、あのおなじみのイカルスの物語が、僕の頭の中では月へ向かったことになっていた。そればかりではない。イカルスの翼は、月へ近づくにつれて凍りついてしまい、はばたこうにもはばたけず落下する。僕の空想のイカルスは、少なくともそうだった。  日光と太陽の時を浴びるから、人が年老いていくというのなら月光を浴びれば、人間は若返るだろう。月がでた夜の窓は、開けっぱなしにして、窓の近くで裸になる。ありもしない月光浴という習慣を先人の知恵だと信じていた。  黒いセルロイドの下敷を透かして見た時の太陽こそ、太陽の真実の姿だというのならば、月は一体、どんなセルロイドで透かしてみれば真実の姿を見せてくれるのだろう。月の真実は、満月かそれとも三日月か?  僕は、八月の太陽の下をゴム草履で走ることが、とても好きだった。  朝から晩まで、くたくたになるほど走って、太陽が消える頃に、冷たい水を飲むのが好きだった。典型的な日光浴的少年であった。  そのくせ、色白で真っ黒くはならず、肌《はだ》が赤焼けする。文字通り、日光浴的生活が、どこか肌にあわない。だから夜はいつも、月光浴的空想にとりつかれる。  僕の本棚《ほんだな》にある『小川未明童話集』は、僕が小学校四年生の夏休みに、新潮文庫の中から童話集だけを捜し出し買ってきた、そのうちの一冊だ。  他にも『浜田廣介童話集』『壺井栄童話集』それに『赤い鳥傑作集』などというのを、その頃手に入れることができた。  そのいくつかの童話集を、小さな頭の中で比較したのを覚えている。  浜田廣介は大嫌いで、小川未明は大好きだった。それが何故なのか、その頃はわからなかったし、わかっていても今となっては思いだせない。  だから、この先は、小川未明の童話のごとき空想である。  空想するに、浜田廣介の童話は、日光浴的少年にとって、日光浴的生活の延長のように感じられる物語だったのだ。夏の夕、泥《どろ》まみれになって家に帰ってきた少年が、母親から言われる、こごとのように聞こえた。耳にうるさかった。  そして、だから、つまり、小川未明の童話は、月光の下での空想なのだ。しかも、ただの夜ではない。必ず晴れていて、月がでている夜に限って空想されるべき空想だった。  昼の光と時とで、無惨に赤焼けした少年が、その肌をいやすために浴びる月の光のようなものであった。  真夏の日光で、はんなりくたくたな少年の背中を、ひんやりひたひた流れる月光の小川だった。  だのに、未明という時は、月の光が日の光に、いやがおうでもとって代わられる空想の時刻でもある。  未明は僕にとって今なお越えてはならない、空想の時の、飛び越えてはならない月光の小川だ。 (『産経新聞』'87年8月)   エジンバラ公演記  今、僕は若者雑誌のコラムを書き終えたばかりだ。その後で、こうして日経に、エジンバラ公演の雑感を書いてみると奇妙なところへ迷いこんだ気がする。同じ部屋で、同じペンを使い、しかも同じ頭で書いているのに、こうも違う文体を使わなければならない。ついさっきまで「るせえなっ!」などという文章を書いていたオレが、とてもそんな乱れた日本語など、知らぬ存ぜぬのヨソイキの私の文体になる。  この文体と一人称のジレンマ。それがまさしく劇団夢の遊眠社という、くだけた文体と肉体をもつ劇団が、芝居のメッカは英国の、最も伝統がありかつ権威のあるエジンバラ国際演劇祭へ出ていく時のジレンマでもあった。オレで行こうか、私というヨソイキでいくか、とにかく多様な一人称をもっている日本語は、あたしと書きはじめれば、突然女性にだってなれる国語なんですもの。うふっ。一体どういう姿に化けて、どんな芝居を見せればいいのか。  演じてみれば、そんなジレンマどこの空、観客も批評も熱っぽいものばかりだった。BBC放送は、世界の国へむけて公演の成功を報じてくれた。その中のひとつのコトバがふるっている。「日本人に、こんなにもユーモアがあるだなんて知らなかった」まさしく、その感想への反歌は「日本人が、そこまで思われているとは知らなかった」である。ロンドンタイムズの評もそうだった。シャレのめした絶讃の評のその書き出しも「日本の演劇が些《いささ》か大時代的でやたら仰々しいだけのものであるという根強い偏見は、東京からやってきた野田秀樹率いる劇団夢の遊眠社のすばらしい公演によって、ただちに墓場へ叩《たた》き込まれるべきだ」で始まっている。  なんだか僕らは、これまでまき散らされた日本人の性格であるとか日本文化とかいったものの尻《しり》ぬぐいをさせられている気にさえなってきた。そういえばロンドンタイムズの評の最後は、こうしめくくられている。 「そろそろ日本政府は無駄《むだ》な抵抗はやめて文化に金を出すべきだ。それもタンマリと」……とはさすがに書いていなかった。あはっ。実際はこうであった。 「ひたすら邪念を捨て、きらびやかな舞台をおおう目にも彩やかな滝を見て、人類のなした偉大な作品に、ただ率直に感動するべきである」。         □     □  劇評が観客と一緒になりこれだけ手離しで絶讃してくれることも、また量的にも六つか七つの劇評がでるということも国内ではありえない。現に今回のこの海外公演でさえ、国内のある週刊誌には「絶讃の声の裏にはまた、エンターテインメントばかりで問題意識がないという評もあった」との記事があった。どこを捜してもそんな評を英国では見なかった。おそらく、ロンドンのふんどしを借りて相撲をとっているような批評である。つまり、日本の批評家自身が、そう書きたかったのであり、それならそう書くべきだ。「芝居は問題意識を見せるものだ」と。だったら僕らも鼻で笑ってやれるのに。「こちとら、そんな安っぽいところで芝居をやっちゃいねえんだ」実際、問題意識なんてシャラクサイものは、ちゃちなテレビドラマでさえもっている。いや、もったふりができる。24時間スーパーでは、「問題意識」というパック入りで売っているという噂《うわさ》さえある。  それこそ、そんなものはさっさと、墓場へ叩き込まないから、劇場とか文化とかが近寄り難《がた》いものになり、カタがこるものの代表になり、いつまでたっても金を出すのがもったいないていどのものになるのだ。ついつい日本の劇評を思うと、力が入ってしまった。積年の恨みを日経で晴らしてはいけない。が、批評ひとつにしてもそうだが、よく言われるのは、芝居をとりまく環境とか土壌《どじよう》の違い。そんなことよりも愛情の量が違う。エジンバラで上演した劇場をはじめてのぞいた日、そう思った。 「(8/19の日記より)……夕刻、劇場へ移動。劇団員揃《そろ》って一時間、中を見るだけである。客入れのあかりになっていて、そこには劇場の魂が棲《す》んでいる。劇場を愛し芝居にうつつをぬかした人間の柱が、劇場の天井を支えている。おおらかな歴史の汚れが、ふと触れた三階席のテラスから感じとれる。頭の上に空間がある。それは百年ものカーテンコールのかっさいからたちのぼった蒸気でしめられている……」  僕は、その時その空間に嫉妬したのだと思う。日本では才能は突然変異でしか現われない。突然変異が現われて、慌《あわ》ててそれを受け入れる空間がつくられる。きっとこぼれんばかりに突然変異の才能は、日本でもそこここに現われている。にもかかわらず、すべてが点で終って世界へ向かうことがない。突然変異からたちのぼっていく蒸気を、その才能にむけられたあついカーテンコールを、百年以上もおさめつづけておく空間がないからだ。だから今の日本の劇場には魂が棲むことがない。  折しもエジンバラ公演からの帰り、ロンドンで観《み》たファントム・オブ・ディ・オペラという今一番の当り狂言は、劇場に棲みついた魂の物語だった。観ている間中、僕はそこでも嫉妬しつづけた。その芝居は突然変異ではなかった。すべての才能は、現われるべくして現われたかのように見えた。決して才能など突然変異ではないと見せかける手練手管があった。役者をつくる訓練と観客と劇場と照明と音楽と演出と批評とそれを支える経済と。それらすべては愛情から生まれる。来年も、また再来年も、その芝居と同じようなカーテンコールをいただく芝居が現われるだろう。そんな気にさせる、そんな空間がロンドンにはあり、僕らが芝居をうちつづける東京にはない。ただそれだけのことだ。しかしそのそれだけは決定的なものだった。         □     □  僕らが、このエジンバラの夏にいただいた絶讃の声の裏付けに足りないものは、決して問題意識などではない。芝居にうつつをぬかす魂が、棲みつく空間だ。その空間をつくる手はじめに、きっと僕らは、エジンバラの劇場の魂から呼ばれたのだ。その事を知っている僕は、実はあのエジンバラでの熱いカーテンコールを、その蒸気をこっそりともちかえってきた。税関が、その蒸気を黙って見逃してくれたのはイキなはからいだと感謝している。どうせたいしたものじゃないと、たかをくくったのかもしれないが、今にその蒸気を熱気に変え、国内中の劇場に充満させて、税関をあっといわせよう。それまで、いくどとなく、僕はまたその蒸気を、海外から国内へ、国内から海外へ、行ったりきたり、もち運ぶつもりでいる。 (『日本経済新聞』'87年10月)   われら盗用人  外国へ行って人とぶつかったら、必ず「エクスキューズ・ミー」と言いましょう。てなことが、旅行の情報誌みてえなところでよく書かれてあって、バカヤロー、冗談じゃねえや「エクスキューズ・ミー」だ〓 中国へ行ってもそう言えってか? 第一、外国へ行って人とぶつかったら「エクスキューズ・ミー」があって、日本じゃなにか、人とぶつかっても「どうもすいません」のひとことも言わなくてもいいのか〓 えっ? 日本人は人じゃねえっていうの……イテエな! もう。  気がついたら、人とぶつかっていた。どうもやはり、日本人は、人としてはタダモノではないみたいだ。「どうもすいません」などといえたしろものではないようだ。これは、日本人のテレか、余裕のなさか、はたまた礼儀知らずなだけなのか、是非とも比較文化考をしてやろうと思って、またもや道行く人を眺《なが》めつつ、われもまた道行く人となり行きて目につくものは、若さへの嫉妬《しつと》からか、アベックのいちゃつきばかりなり。しかも嫉妬からくる悪意が、その腕を組むわけえもんの姿を比較文化考に走らせた。すなわち、日本のわけえ女が、わけえ男の腕につかまるごとき腕の組み方は、ともすると、主体と客体の転倒をおこし、わけえ女がわけえ男をひきずっているようにしか見えない時がある。これは、わけえ男がわけえ女のアクセサリー化、つまるところ「かっわいい」イヤリングみたいなものになっちまった、てなことでもある。こういう姿の腕組みは、外国のアベックでは見られない。しかもこれは、わけえ男とわけえ女の力関係からくる違いではない。現に、わけえ男がわけえ女より力が強かった頃の日本では、逆にわけえ女がわけえ男の影をふめないほどにひきずられていた。日本のアベックは、いつも、どっちかが、どっちかをひきずるようにしか腕を組めない。つまり、二人が歩いているのではなく、一人が一人の所有物になっている。う——む、これも日本人のテレか、愛することに不器用な日本人の性癖が、う——む、考えていると、またド——ンと人とぶつかった。う——む、ド——ン、う——む、ド——ン、ドン、ドン。花火のように人とぶつかる。かくて、この比較文化考は輪郭線の問題だ。という推論におちつく。  人間は、そもそものような輪郭線をもっていて、その内側が自分で、外側が他人である。ところが日本は、かねてより噂されているように、のような点線の輪郭線をもつ民族である。人間としての輪郭が、点線であるから、親は子供の輪郭線を見きわめることができず、ワガモノのように、あるいは、アクセサリーのように子供の一生を扱って、平気でだいなしにする民族である。との如く、はっきりとした実線をもつ民族同士がぶつかれば、互いに不干渉主義が働き、自然とエクスキューズ・ミーがでる。でなけりゃ戦争だ。ところが、日毎に点線化している日本人の輪郭は、人とぶつかってもなお、どこからが他人かわからないでいる。ひどいやつになると、ぶつかった時に、人の智恵やサイフをもっていってしまうやつまでいる。  思えば日本の文化もそうであった。外国と接触をし、ぶつかった瞬間に、うまいぐあいに智恵と銭とをかっさらって盗用する。本人には悪気がないから「エクスキューズ・ミー」のひとこともない。さぞや実線の輪郭をもつ外人には、点線の日本人が不可解であろう。そう思うと盗用人としての私は、とても愉快である。 (『全日空ていくおふ』'89年秋)   “非不”真面目人の勧め  女 これあげます(スーツケースを渡す)  少年 え?  女 追いはぎでしょ  少年 いえ、秋は僕、おはぎなんです  女 若いのに遠慮するものじゃないわ  少年 なんて明るく正しい世紀末なんだ  女 その世紀末の夜に、何を剥《は》ぎとるつもりだったの?  今から十一年前、僕が書いた『少年狩り』という芝居の一節である。劇中の少年は、意味もわからずに、世紀末などと口走っている。当たり前だ。書いた本人も、その当時、世紀末の意味などわからないでいた。むろん、いまもってわからない。  この「明るく正しい世紀末」というフレーズを、亡《な》くなった寺山修司さんが、えらく気に入ってくれた。僕は、詩人というのは、へんなところを気に入るものだと思いながらも、満更ではなかった。僕が二十三歳の秋だった。毎朝、ありあまる才能をバケツでくみだし捨てていた。イヤミな奴《やつ》だった。いまだもって変わらない。年をとっただけだ。そして世紀末の本格的なシーズンが到来した。 「明るく正しい」という形容は、従来の「世紀末」のイメージからは、ほど遠かった。世紀末は暗く重いものと相場が決まっていた。ほとんど戦後の青春と同意語であったかもしれない。暗く重い日本の二十世紀末は、一九四五年から五五年ごろまでにすでに終わったのかもしれない。だからこそ、寺山修司の世代には、「明るく正しい」と「世紀末」のミスマッチはとても新鮮だったのかもしれない。  あれから十一年、「明るく正しい世紀末」というコトバは、ピンときすぎるほどピンとくるような世相になったと思う。これから十年、世紀末は、いよいよ、まっただなかに突入する。台風上陸前夜くらいの感じに近づいてきた。「明るく正しい世紀末」というのは、その台風でいえば、台風の目を表すコトバだろう。ドキッとするほどカラッとした青空のような気がする。だからなにもかもが、スッキリと見える。  これからの十年は、きっと、あらゆる物事が大上段にとりざたされて、神秘主義や宗教が幅をきかしてくるだろう。聖なるものが流行し、正義漢も現れるだろう。おそらく、近年、恥ずかしくて言えないでいた、愛とか正義とかが大手をふって罷《まか》り通るだろう。そうそう、いつまでも不真面目《ま じ め》な世相ではいられないよ、とばかり真面目がカムバックしてくるだろう。  けれど僕は今日まで不真面目を信条としてきた人々に呼びかけたい。どんなに世間が、真面目とか情熱を訴えはじめても、おいそれとのってはならない。伊達《だ て》や酔狂で不真面目してきたんじゃねえや、なんたってこちとら十年前から「明るく正しい世紀末でいっ!」という気骨が欲しい。  暗く重いものこそ、表現の本質だとほざきやがる輩《やから》が、まだゴマンといる。奴等は必ず、この世紀末を利用して、暗く重い真面目をワレワレの鼻っ先に、つきつけてくるに違いない。しかし、やっと、本質などというものは、ひょっとしたら、どこにもないんじゃなーい、ということが、僕らの“ひふ”に、じんわりとしみこんできたのではないか。実は僕が、このたびの世紀末に、おすすめしたい、新しいライフスタイルは、この“ひふ”感覚である。  ひふ感覚、ああ、聞き飽きた!  いや、これはちょいと違う。真面目と不真面目の先にある。僕は、“非不”真面目と呼んでいる。非不である。これは、真面目なんかヤダヤダと二回も強く否定している。二重否定は、強い肯定だともいえる。すなわち真面目さを強く否定しつつ、強く肯定する。わかったようなわからないような禅問答のような真面目さが、にじみでてくる。それが非不真面目である。世界に対して、いつも非不で感じ、うんとうんと不真面目でいよう。 「ふむ、そうか」と今、このエッセイを読み、うなずいたあなた。あなたは、もう危い。真面目な世紀末につけいられやすい体質である。人の言うことなどきかない。これが大切である。本質などという、もったいつけたコトバに耳を貸さず、この世の「非不」でありつづけよう。 (『新潟日報』'90年1月)   聖徳太子が見た「のたり松太郎君」のこと  えー、只《ただ》今、御紹介にあずかりました私が、えー、聖徳太子です。私は、のたり松太郎君とは、長崎の炭鉱の分校時代からの友人であります。本来、このようなおめでたい席でのスピーチは、友人たるもの、どこかいいところを見つけだして、拡大解釈をして話をするべきものかもしれません。たしかに、日頃《ひごろ》、結婚披露《ひろう》宴のスピーチをきくかぎり、ブスはかわいい女性と呼ばれ、ハゲは聡明なおでこと呼ばれ、成績は必ず、きわめて優秀、駒沢大学でさえ名門大学と詐称《さしよう》され、英会話と料理は卓抜、スポーツ万能で、明るい人気者とつつましい処女とが、結婚することになっています。これはすべて、儒教で申しあげるところの「礼節を重んじ、尊しとなす」という考えに基づいております。  御存知の通り、のたり松太郎君は、こうした披露宴のスピーチの世界とは、無縁のところに生きている男でありまして、はっきりといえば、ど—————しようもない男なのであります。どのように、ど——————しようもないかといえば、これはもう、松太郎君と、とことんつきあっていただくしかありません。  松太郎君は、この憎っくき民主主義の時代に、唯一《ゆいいつ》「国に忠をつくして孝をなし、礼儀を重んじ先達の教えを守る」儒教の理想が貫かれている相撲部屋において、こともあろうに親方をおいぼれと呼び、おかみさんを女中呼ばわりし、兄弟子にむかってかっこつけんじゃねえよと頭をハタキ、はじめて食べたうにを、くさっているといい、瀕死《ひんし》の病人を見舞いにいった先で「毎日ゴロゴロ寝ていられて、いいもの食って、病人て幸せだなあ」とつぶやいたりします。おだてに弱く、女に弱く、金に汚なく、酒にだらしなく、すぐにも力に訴えて、反省をしたのかなあと思うと、あっさり「さ、遊びにいこう」と口走る。大人以上の大きさをしていながら、子供以下の子供の言動をとる。この大きいがゆえに、よけい目立つ幼児性は、ふだんは、ふまじめだけれど、ほんとうは、まじめに生きていそうな明石家さんま、といった理想の男性像とは違います。ふまじめそうに見えていてまじめ、というのは、せんじつめれば儒教の教えにかなっています。しかし、松太郎君のもつ幼児性は、「な——んちゃって」なのであります。「な———んちゃって」的幼児性は、一大事がわかりません。国や人が滅びようとしても、松太郎君は「な——んちゃって」と口走るに違いありません。その点で、ニーチェ以来のニヒリストかもしれません。松太郎君も梅毒なのでしょうか。梅毒なんて、私、聖徳太子は絶対に許しません。彼の幼児性の残虐さは、たとえば、次なるエピソードです。  学生横綱で鳴物入りで角界に入った矢野という相撲とりは、儒教の教えにかなった理想的な相撲とりで、性格も誠実で、相撲にも勤勉です(相撲に勤勉と書いてみて、改めてそのアンバランスさに、聖徳太子も驚いています)。一方、松太郎君は、けいこ嫌いなばかりか、みっともないでぶのけんかなんかできるかと相撲そのものを口汚なくののしり、とうとうしまいには矢野にからみ、いきがかり上、土俵の外でけんかをしようとします。松太郎君が、その決闘で矢野に負けて反省でもしてくれれば、義にあつい矢野にさとされて仁にめざめた松太郎として、未来永却《えいごう》語りつがれることもあったでしょう。しかし松太郎君のど———しようもなさは一筋縄ではいきません。昼寝して寝すごしたうえに、けんかの約束を忘れてしまうのです。ここ一番のけんかにさえ、まじめになれないのです。なんて反儒教的な人物でしょう。どこまでまじめをバカにしている男なのでしょう。そのうえ、松太郎君は、翌日矢野の顔を見て、ハッとけんかを思い出し、今度は、土俵の上でけんかをします。当然、相撲に勤勉な矢野は、松太郎君を負かしますが、たまたま、バカ力の松太郎君は、矢野の背骨を折ってしまいます。「なーんちゃって」がまじめの背骨を折ってしまいます。しかも、バキバキに、しこたま。矢野が、再起不能になるほどです。それでも松太郎君は、性器不能と聞きまちがえるほど、「な——んちゃって」なのです。人の体も一生もだいなしにしてなお、「なーんちゃって」なのです。事の重大さを幼児が知るのは、まわりが大騒ぎをしてはじめて知るものです。松太郎君も周囲の大騒ぎにはじめて、こんどばかりは、なにかに目ざめたのでしょうか、親方の前でしょぼんとしています。親方は思います。「さすがの松太郎も、今度ばかりはコタエタようだ」すると松太郎は、しょぼんとして、「そりゃそうだ。病室で矢野が、相撲をとれないとはじめて知った時の矢野の顔を見たら、なんだか、まるでオレが悪いことでもしたみたいで……」「…………………」親方ばかりでなく、読者も聖徳太子も呆《あき》れはててしまいます。人の一生をダイナシにしても、どこまでもどこまでも「な——んちゃって」なのです。これはもう、松太郎君は、徳がうすいといった程度のものではありません。仁、義、礼、信、智、すべてを失しています。逆南総里見八犬伝です。千数百年古来の私の戒めを、なんと心得ているのでしょう。  そして、聖徳太子として、本当に許せないことは、読者が、松太郎君のごとき男に拍手を送りつづけていることです。いわば、それは「あっ、こいつ、また本音をいっちまいやがんの」という、はだかの王様的拍手かもしれません。たしかに、相撲とりは、はだかです。はだか一貫の世界ではありますが、その身に纏《まと》って見えない衣は、ノミノスクネの古より、この儒教国家の体現であり、儒教精神の発露なのであります。私、聖徳太子は、だからかえって読者を疑ってしまうのです。  何故に、儒教精神をこれほどふみにじる男に、かくもヤンヤとかっさいを送る必要があるのか。松太郎に拍手を送る皆さんは、平等な社会に生き、自由を堪能《たんのう》し、主権在民という能動的な理想の下に、ふだんお暮しであるというのは、名ばかりで、もしかしたら、皆さんこそ、私、聖徳太子以上に儒教的人間で、ふだん目上と目下という名で生きている儒教精神にイラダチ、あるいは親に優しくすることを、ただ人が人を愛することのひとつだとは思いきれず、親孝行なんて古くさそうでカッコワルイといいながら、結局、孝行という名の儒教にとらわれていたりするのではありませんか。かんぐりすぎかもしれませんが、そうした私、聖徳太子の呪縛《じゆばく》からのがれることができないがゆえに、いともたやすく、あっさりと、ひねもすのたりのたりかなと暮している、どうしよ———もない男の物語を欲しているのではありませんか? 聖徳太子は許しません。 (小学館叢書『のたり松太郎』解説)   “わたしゃもう、なんだかよくわかんないよう”日比野克彦によせて  どうして、こんな子に育っちまったんだろうね。  人に聞いたハナシだけれど、克彦、さいきん、また髪形を変えたっていうじゃないか。マイク・タイソンみたいな頭してるって。  そういえば、ついこの間、田舎に帰ってきた時も、スティービー・ワンダーみたいだとか言って、髪の毛を、細長いかりん糖みたいにしてたろ。母さん、恥ずかしいよ。うちには、黒人の血は流れてないんだから。  お前が、芸大に入ったとき、母さん入学式についてったけど、あの時は鼻高々だったよ。お前は、母さんが一番好きな七・三の髪形にしていたし、眼鏡だって、ちゃんとクロブチのがっしりしたのをしていたじゃないか。  それが、どうしたことだろうねえ。やっぱり、東京が悪いのかねえ。それとも、オノ・ヨーコみたいな、変な女がお前にできたんじゃないだろうね。いやだよ、イキナリ、ピストルで胸どーんって射たれて死んじゃったりしたら。母さん心配でしょうがないよ。  昔、お前が学生の頃、でっかい賞をもらったって聞いたときは、これでそのうちお前も、平山郁夫画伯みたいになるんだろうって、母さん嬉《うれ》しくて、長良川の鵜《う》を集めて「今に克彦が偉くなって、帰ってくるよ。そんときゃ、思いっきり鳴いておくれよ」なんて言いながら、魚を大盤ぶるまいしたけれど、今となっては、お前がそんな髪形になっちまって、あたしゃ、鵜にあわせる顔がないよ。お前は鵜以下の人間だよ。思い知るがいい。  おまけに、また今度もヒトサマに迷惑かけてるっていうじゃないか。大丸や伊勢丹っていうのは、母さんも知っているよ。デパートだろ。お金持ちの人が高い物買いにいくところだよ。なんか、お店のお化け屋敷みたいなところだよ。克彦、お前は知らないだろうけれど、大変なところなんだよ。そんなお金持ちの集まるところで、一体、何をするつもりだい。たてこもるつもりじゃないだろうね。母さん、テロリストの母親みたいに後ろ指さされるのは、まっぴらごめんだよ。もしそんなことがあったら、母さん知らんぷりするよ。  ほんとにもう、あんまり心配なんで、克彦、お前は嫌《いや》がると思ったけれど、あんたの友達で一番しっかりしてそうな人に電話いれたんだよ。野田さんって小柄《こがら》な。母さん、何してる人かは、よく知らないけれど、紅白歌合戦の審査員までしてたから立派な人なんだろう。克彦も、悔しかったら紅白歌合戦の審査員をしなさい。頼めばやらせてもらえんだろ、あんなもの。  でね、その野田さんに母さんがイキナリ電話いれたら、なんか面喰《めんく》らっていたけれどね。でも、電話の応対はしっかりしてたよ。やっぱり立派な人っていうのは、電話の応対ひとつでわかるもんだね。  あたしが、あんまりいろいろ心配するもんだから、なんか野田さんも長々と話してくれたんだけど、あんまり要を得てなくて、あたしも、よく覚えてないんだけど、「母さん、日比野君は、今、『ARTは芸術じゃない。芸能だ。術を見せるんじゃなくて能をさらしたい。』っていうことに走ってるんですよ。」とか言うんだよ。母さん、お前が、なんに走ろうが歩こうが、かまわないけれどね。まだお前が小さかった時に、ひょっこりと絵を描いたら、近所の人が、えらくびっくりしたろう。あん時の、人をびっくりさせた克彦を忘れないで欲しいんだよ。  どうせ、「ああ、わかってる」って、克彦、お前は言うんだろうけど母さんもうお前のこと全然信じてないからね。勝手におやり。芸術だろうが芸能だろうが、なんでもさらして、恥かいて死んじまいな。  ただ、帰ってくる時は、電話いれなさい。  おことわり。本文中に登場する人物、団体はすべて架空であり実在するものではありません。 1991年1月 上機嫌上天気 於善福寺あとりえ (東京書籍『Xデパートメント 脱領域の現代美術』より)   パチンコの玉がでるが如《ごと》く  本とパチンコは、さっさと見切りをつけることができずによく失敗する。  パチンコは、全くでなければ失敗もなにもない。 「今日はツイテいない」  で済む。しかし、なまじ玉がでると、一体いつ見切りをつけて引き上げるかという問題が生じる。玉がでたので、おもしろいとばかりズルズルつづけていると、元も子もなくなり、ああ、さっさと見切りをつけてやめときゃ良かった。なんだか失敗したなという気持ちになる。  本の場合は、同じ見切りをつけるにしても、少々趣が違う。  少なくとも、パチンコの玉がでるが如く「ああ、こいつはおもしろいぞ」と心がかきまわされはじめたら、滅多に損はしない。  だが、50ページ読んでも100ページ読んでも、玉がでてこないことがある。見切りをつけて、別の台にうつるが如く、その本を捨て去ろうかとも思うのだが、そうこうするうちに150ページぐらいになってくると、150ページまで費した己れの労力がとてもいとおしくなる。  早い話が、その本に見切りをつけることができないのではなくて、その本を読んでいる自分の時間と労力に見切りがつけられなくなる。  おそらく、これは転職をする人間が抱えている悩みにも似ている。  長年つづけてきた仕事には、とっくに嫌気《いやけ》がさしていて見切りをつけているけれど、何年もその仕事についていた自分の時間を思う時、トラバーユなどというハヤリ文句にのせられて、今迄《まで》のことをゼロに帰してよいものか。ああ、俺のこの過ごした日々は、何だったのだろう。てなものである。  しかし、私は断言する。  仕事に見切りをつけているのなら、現代は転職をした方が良い。  同じように、本だって、昔のように、ありがたくて仕方のないものではなくなった。つまらないと思ったら、さっさと見切りをつけて読むのをヤメタ方が良い。  本屋の店頭に並んでいる本の数の多さを見るがよい。  もしも、あの大量の本の中にある活字が、音をたてることができるなら、本屋はパチンコ屋の騒々しさの比ではない。  いまや、本はうるさいのである。  その騒々しい本の中から、たてつづけにチューリップのよく開くパチンコ台のような一冊の本を見つけるには、パチプロ同様、本プロといった人間が必要になってくる。  本の表紙を見るだけで、「ああ、この本はデナイヨ」と言ってくれる人が、身近にいればどれだけ助かるだろう。  私の身近には、その本プロが何人かいる。で、助かっている。時々「近頃《ごろ》は、どの本がデタ?」ときく。デタといっても出版されたという意味ではない。パチンコののりの、デタである。  その本プロは別段、文芸評論家でも編集者でもない。ただの暇な本好きの人間である。  本プロが選ぶ本は、一般的に評価が高かったり、近頃評判の本であったりする必要は全くない。要するに、私の趣味にあえば良い。  そういう意味で、私は本プロを選ぶにあたって、まず本好きと称するその人間に 「『アンナ・カレーニナ』っておもしろい?」ときいて、「うん」と答えた人間は、本プロとは認めないことにしている。  というのは、私は、中学の時に、『アンナ・カレーニナ』の文庫本を読もうと、何十ページ進めども、チンジャラと好奇心のチューリップは開かず、玉のでる気配はなく「今日はついてないな」という感じで、あっさり見切りをつけた。  その後、高校生になって、病気で学校を休んだ寝床で、今日あたりはどうだろうと、再び『アンナ・カレーニナ』に挑《いど》んだが、100ページぐらい進んで、やはり、まったく玉がでないという感じがした。その時は、あわてて台を、松本清張にかえた。熱にうなされた床では、松本清張の『ゼロの焦点』やら『時間の習俗』やら『蒼《あお》い描点』やら、今思い出すだけでも、とにかく、でるわでるわという感じで、たった数日間の病床で、松本清張の玉は、でまくったのを覚えている。 『アンナ・カレーニナ』の前には、その後、成人してから、もう一度だけ座ってみた。だが、この台とは相性が悪い。玉がでなかった。そうこうしているうちに、どこからともなく『アンナ・カレーニナ』のストーリーというものが、耳にとびこんできて、結局、すでにストーリーまで知っているこの本に、俺は一体、何故にこんなにまで義理だてして読もうとしているのかわからなくなった。この不撓《ふとう》不屈の『アンナ・カレーニナ』へのチャレンジ精神は、どこからきているのか。そんな気持ちで一杯になった。そしてそれがすべて、不朽の名作という謳《うた》い文句にクライ負けをしている俺ゆえだと気づいた。そうだ、不朽の名作という権威にキオクレして、悪いのは俺の方だと思いこんでしまい、『アンナ・カレーニナ』が悪いのだと断言できない己れの弱さこそが問題なのだと結論づけた。  以来、不朽であろうと名作であろうと、玉のでない本は私にはダメ本である。このことがよくわかっている人間が、私にとっての本プロである。  だから「『アンナ・カレーニナ』っておもしろい?」「ぜんぜんダメ!」その言下に否定する速さが速ければ速いほど、私は、その人間を本プロとして認めることにしている。  でもって、やっと本題に入る。  私の身近には本プロ師高都幸雄がいる。きいたことがないな、どんな有名人だっけ? などとキオクレしなくともよい。無名な庶民である。彼は、私と学生の頃から十五年以上、芝居を一緒にやっているだけである。  その本プロ師が 「『リプレイ』(新潮文庫)読んだか?」  とわざわざ言いにきた。本プロ師自らが言いにくる時は、かなり、その本はデルとふんでよい。  で、私は読んだ。いきなりはでなかった。なあんだ、バック・トゥ・ザ・フューチャー症候群みたいなヤツか、なんだかよくあるタイムマシンものみたいでもあるな、近頃は、本プロ師の目にもくるいがでてきたかなあ、などと思っていると、あれっ? いや、なんだ〓 うおっ、へえっ、おっ、でるぞ、でるぞ、玉がでるぞ、でるわ、でるわ! とまらないぞ! という風になっていく本であった。  興味をもった人は読めば良いのであって、この本が、どんな内容であるかとか、どういう感銘をあたえるかなど、私はシャラクサクて書けない。  それじゃあ読んでみたものか、どうしたものかまったくわからないじゃないかと思っている御仁には「100ページか150ページぐらいの間から玉がではじめますよ」とだけ耳うちしてあげよう。おそらく本に飢えている時なら、100ページまでで玉はでるだろう。200ページを過ぎても玉のでない人は、おそらくこの台とは相性が悪いと思って見切りをつけ、不朽の名作のような台の前に座った方が良いと思う。そういう時、私が是非おすすめする本は、『アンナ・カレーニナ』である。  そしてその『アンナ・カレーニナ』さえも駄目だと感じた人は、もはや手の打ちようがない。パチンコが体質にあわない人間がいるように、自分は本が体質にあわないのだと思ってあきらめるがよい。  だが今日の私は、何故か親切である。  どうしても本が体質にあわない人の為に、さいごにもうひとつの『アンナ・カレーニナ』を御紹介しておこう。その『アンナ・カレーニナ』は、正確には『あんな彼にな』である。内容は、マラソンの瀬古選手に、あんな彼に嫁いだ美人の奥さん瀬古美恵(旧姓渡辺)さんへの恨みひがみつらみである。おっ! おもしろそうじゃないか、思ったそこのあなた、損はしないよ、買っていきな、新潮文庫から出る『おねえさんといっしょ』の中に入ってるエッセイだ。ええい、もってけドロボー、臆面もなく叩《たた》き売りしてる俺が作者だ。てやんでいっ! (『波』'91年6月号) この作品は平成三年五月新潮文庫版が刊行された。 尚、電子文庫版およびオンデマンド本では「対談」の章を削除した。 Shincho Online Books for T-Time    おねえさんといっしょ 発行  2002年7月5日 著者  野田 秀樹 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861196-9 C0895 (C)Hideki Noda 1991, Coded in Japan