野坂昭如 東京十二契 目 次  其の一契 婦人士官が学生狩りをした町  其の二契 国際劇場と赤線の町  其の三契 逢びきと子規庵の町  其の四契 線路渡れば夢うつつ  其の五契 六本木、消えた坂道  其の六契 銀座の川の水涸れて  其の七契 東伏見の雨  其の八契 大使館の坂道  其の九契 沼袋ぬばたまの夜  其の十契 青山南町の鮭缶  其の十一契 箱屋 検番 人力車  其の十二契 質屋米屋風呂屋四谷  あ と が き [#改ページ]   婦人士官が学生狩りをした町  東京に住んで三十二年になる。  葛飾《かつしか》北斎は生涯に百度家移りしたというが、はるか及ばぬながらぼくも、尻軽《しりがる》足軽に棲家《すみか》をかえて、あるいは塵芥《じんかい》の棒杭《ぼうぐい》に宿り、また潮の満ち干に押され漂い流れる如く、まことに腰が定まらぬ。  そして漂い流れるうちに、東京を観《み》たかと自ら思いかえして、往時すべて茫々、いや今の住いの、四月半ばにはたしかに庭の八重桜がぼってりと咲き、五月末その葉先きにびっしりとちいさな毛虫とりついて、これを灯油浸した新聞に火を点じ、じりじりっと焼きつくす、その若葉の香り、焼殺の匂《にお》い、さらに梅雨に入れば、繁みの重なりが、いっそ不吉な印象、切り倒してしまいたい気持が起ったが過ぎてしまえば、それだけのこと。脳裡《のうり》に灼《や》きつく風景、ながめを、ぼくはいつどこで観たのだろう。  人は死ぬ前に、一生をかえりみるそうな、果してぼくに末期《まつご》の眼にかなうだけのものがあるのか。話はちがうが、近頃ぼんやりしている時、ひょいと浮かぶ言葉があって、それは「死は心中の虫」というもの。  獅子《しし》身中の、下手なもじりだが、自分なりに妙な実感がある。心中の虫に食わせるべき風景、眼にとどめ、拾い集めようといえば、なにやら物々しいけれど、三十二年間も暮して、たしかに地名は耳に馴染《なじ》んだが、大雑把《おおざつぱ》な地図をながめているようでしごく心もとない。  そこで神田へ出かけた、理由はないが、強いてこじつければ、初夏にふさわしい街に思える。  焼跡だらけの頃に上京して、まずの下宿が四谷愛住町、ここから歩いて早稲田大学へ通った。東京女子医大の褐色の建物が目印、さらに国立第一病院を道|標《しる》べとしてなにやら覚つかないまま大隈講堂見下す地点へ到達。  都電を利用するなら、塩町から岩本町行きに乗り、九段下で早稲田車庫、あるいは高田馬場行きに鞍替《くらが》えする。  しかし、都電の場合、たいてい九段下で降り、そのまま専修大学の前を過ぎて、神保町駿河台下へ向かった。この町並みは空襲の被害を受けていない、店屋の中で、外食券食堂と古本屋がいちばん近しい年頃だった、もっとも、神田の古本屋、いや古書専門店というべきだろうか、あまりつき合いはなかった。  戸塚あたりの、その店構えの方がとっつき易かったし、古本を買取る値段も高かったのだ。しきりに神田をうろついたのは、ほとんど手にとることもしないが、天井まで届く本棚にぎっしり詰めこまれた古書の背を、漠然とながめているのが、せめてもの気取り、あるいはひょっとして、向学の志に燃えた女子学生と知り合いになれるかもしれぬという妄想もあった。  地方育ちにとって、神田はいちおう親しみのある地名だ。子供向け絵本や雑誌の奥付けには、神田区、小石川区の文字が見える、浪花節「三十石|船《ぶね》」の中の石松の台辞《せりふ》、講談「一心太助」にも登場する、神田祭、神田|囃子《ばやし》、神田明神、そうだ、受験に来た時、山手線神田駅で降りて、古本屋街を探し、人にたずねるのも恥かしくて、むやみにうろつき、あげく空しかったことを思い出す。  はっきりした目的をいだいて、この町を訪れたのは、昭和二十六年のやはり初夏だった。すでに大学を卒業する気は失《う》せていた。下宿は小滝橋、マーケット建築を専門とする土建屋の、木っ端拾い一日二百円のアルバイトをするうち背の高い、設計見習いの男が、駿河台にまつわる耳よりな情報をもたらした。  現在の山の上ホテルは、当時、進駐軍に接収され、婦人士官の宿舎だった。そして主婦之友社の社屋も、米軍の管理下にあった。 「男に飢えた婦人士官が、夕方になると主婦之友の周辺で、学生狩りをする。なにしろ栄養はいいし、一晩中離してくれないらしい。朝になると、両手にかかえきれないほどのチョコレートや珈琲《コーヒー》煙草をもらってバイバイ」  進駐軍婦人士官がどんなものか、まるで判《わか》らなかったが、一石二鳥にはちがいない。当時は降っても照っても女を抱くことばかり考えていた。婦人士官像の結ばぬまま、女優のテレサ・ライトの面影姿態を当てはめ、ぼくはまず銭湯で鬚《ひげ》をそり、アストリンゼンを顔にぬたくった。三越新宿店で買った三千円のグレイフランネルのズボン、Yシャツに袖《そで》なし黄色のセーター、靴はひび割れを糸でかがったコードバン、当てもない女子大生とデートのために、歯をくいしばって入質から守った一張羅なのだ。  駿河台下から御茶ノ水へ向う坂道は、暮れるとすぐ暗くなった。左手に明治大学がある。神戸の家では「主婦之友」を購読していて、「花子さん」なる漫画、獅子文六の小説に覚えがある、グラビヤ頁に、勅使河原《てしがわら》蒼風の活《い》け花が紹介され「こでまりを露ごと活けしあしたかな」なる一句がそえられていて、「おやそうかい」と軽んじた気持いだいたことを思い出す。  六月の半ば頃、ほとんど人通りのない坂道を早足でのぼると、煌々《こうこう》と明るい電車が妙に静かに過ぎて行く。アストリンゼンの香りが気になって、手で顔をこすり立て、水道橋の方へ歩いた、表通りを一歩入れば、さらに暗い。アテネフランセからもどる男女二人連れがしゃべりつつ通りかかり、「アルカンシイーユ」という単語だけが耳に残った。  肝心の主婦之友社近辺のたたずまいは、よほど上ずっていたのだろう、何も覚えていない、婦人士官の姿など皆目なかったことは確かである。  一年後の同じ季節、ぼくはこの町で、インチキDDTを売った。大掃除のシーズン当てこんで、あたかも進駐軍の指示であるかの如く装い、石灰に雀の涙ほどのDDT混入させた代物を、茶碗《ちやわん》いっぱい五十円で押しつける。古着屋には蚤《のみ》とか家ダニが多いと、怪しげな断定下す者がいて、これをもっぱら狙っていたが、ぼくが古書店へ出かけたのは、いくらか意趣返しの意味がある。  朝、店の開くのを待ちかねてこの町へ本を持ちこみ、「いくら」主人がたずねるから、ためらっていると、「四百円」そっけなく宣告される、改造社版の「横光利一全集」だった、いかにも安いから、持ち帰ろうとしたら、「朝っぱらから鑑定だけさせられてたまるか」顎《あご》の張った主人、えらい権幕で怒鳴り立て、結局不本意のまま手離し、この金でケーキを買い、同級の女子学生の下宿をたずねたら、同じ下宿の男に辱《はずか》しめを受けたと、怒り狂っていた。  古本屋の大掃除が、どんな風にして行われるのか知らないけれど、ぼくのでまかせの口上につられて、軒並み買いこんだフランス小説の原書など小脇《こわき》にかかえた学生の間にはさまり、香具師《やし》まがいにふるまうことは、いっそ気楽なもので、一日三千円近くになる利益は、すべて酒と女に費やし、この頃は、文京区林町、新大久保、代々木上原、桃園町を転々としていた。  講和条約の締結以後、多分、山の上ホテルは本来の業務にもどったのだろう、とすると二十八年の、これは夏だ、エアコンディショナーはまだなくて、むし暑く、おまけに明治大学の機械室から、よっぴて轟音《ごうおん》がひびきわたる部屋に、ぼくは、女を伴って泊った。  いったい一晩に、何度営むことができるか、挑戦したのである。この頃は、知能テスト練習帳なるものを、小・中学校に向けて作製販売、かなりの収入があった。  一週間ほど、摂生して、もっぱら日本堤「中江」の馬肉や、飯倉「野田岩」の鰻《うなぎ》を食べ、その日は銀座八丁目の天婦羅屋「天国」で女と落合い、ホテルを予約した。  はからずも婦人士官の妄想が実現したわけで、しかしおこたりない準備のわりに戦績はふるわず、朝、握力がまったく失せてしまって、箸《はし》を持つのも心もとない感じだった。  ホテルを出ると、明治大学の横門に、犯罪博物館なる看板があり、まったくひとけのない校舎の、最上階にあるそこへ入りこんだ。江戸時代の拷問《ごうもん》の資料が硝子《ガラス》のケースにならべられ、隅に「鉄乙女」という異様な物体が置かれている。  人型をした巨大な棺の態、中に無数の針が突出し、つまり罪人をこの内部に立たせ、ふたを閉めて処刑するのだ。  廓《くるわ》の朝帰りとはまたちがった虚脱感に、この鉄乙女はふさわしい代物だった。九段下の、銭湯へ入り、明り窓からいっぱいに差しこむ陽光を受けて、いずれも見事に禿《は》げ上った年寄りが五人、丹念に体を洗っていた。  とりあえずの収入はともかく、先行きの見込みはまったくない。所は神田で朝湯とくれば、なにやら粋《いき》だけれど、こっちは体つきこそ若くても、陽気にしゃべり合う老人より、生気|稀薄《きはく》な感じ、はっきり身にしみて思ったわけではないが、戦後なるもののすべてが整理されつつあった。何が死んで何があらたによみがえりつつあるのか判らぬまま、奇妙に不安で、この年の夏の盛りに、ぼくは自らすすんで精神病院へ入っている。  それから三十年が過ぎる、この間、たとえばシャンソン歌手になろうとして、それならばまずフランス語の発音を学ばねばならぬと、早大仏文科に七年間在籍していながら、あらためて、アテネフランセの初等科に入ってみたり、手形パクリ屋の本拠が、九段にあり、ぼくははじめそうとは知らずここで働くうち、ボスに気に入られ、神田駅近くのキャバレーへ連日同行、後楽園をナワ張りとするダフ屋の親分、神田一帯をとりしきるやくざの子分とつきあいができて、あのままのめりこんでいたら、どうなったことやら。  スチール写真のように、固定されたいろんな人たちの表情が、記憶に残っているけれど、現在のぼくとはまったく断ちきられている、今にまで尾をひく風景といえば、やはり四十三年の早春、山の上ホテルに缶詰となった頃からで、年の初めに、直木賞を受け、受賞第一作を執筆のため、いささかの感慨なしとしないこのホテルへ入った。佐世保では、エンタープライズ号入港阻止の、闘争が少し前にあり、この時、はじめて登場したゲバ棒を、実は三井三池ですでに労働者が手にしていたのだが、TVの画面で観て、しごく感銘し、結局は「昭和維新」のパロディでしかない讃歌を、ここでまず書いた。寸又《すまた》峡に金嬉老が、人質ようして籠城《ろうじよう》し、その成行きもしごく気がかりだった。また受賞したせいだろうが、不思議な来客がしばしばあらわれ、正真正銘の女学生と、生れてはじめて、しばし歓談したのも、このホテルのロビーにおいてである。  学校で課せられたレポート作成のためと、二人が交互に質問をするのだが、しだいに性的な色合い強くなって、ついには「肛門性交をどう思うか」「自慰は何歳にして心得たか」などおたずねになる。楚々《そそ》たるセーラー服を召した女の子に、こんなことを訊《き》かれれば、こっちも平常心保ちがたく、凶悪な気持が起って、あらぬ答えをするうち、「どうもありがとうございました」相手は深々と一礼、頭上げたとたんに一人が、「あなたは女性の敵です」芝居がかった身ぶりで、ぼくの顔を指さした。かと思えば、文壇大家の紹介と称し、みてくれだけはものものしい江戸時代の資料の押売り、受賞者とならんで記念写真とるのが趣味という中年の婦人、保険の勧誘、別荘地分譲の案内までがあらわれる。  いっこう筆のすすまぬまま、食べてばかりいた。焼肉を上にのせたキジ丼と、フレッシュジュースのセットを、一日六回くらい注文、ルームサービスのボーイが呆《あき》れていたが、気分転換に散歩するとか、珈琲を飲むなんてことができないのだ。  夜に入ると、少しくらいいいだろうと、実はいったん飲みはじめたら、とめどがないことが判っていながら、外に出る。ホテルの前の急な坂を降りて、右へ行けば駿河台下、左は御茶ノ水駅だが、学生の町だけあって、店閉《みせじま》いが早く、その気でじっくり探せば、土地柄だけに、古い飲み屋、食いもの屋もあるのだろうが、およそこの手の探求心に乏しい。結局は、表通りのなんでも屋風一軒の常連となって、柳川鍋二つおかわりしながらビールを飲むのがならわしだった。  四十三年から翌年にかけて、月の三分の一は山の上ホテルにいたような気がする。このバーには、ポーカーの名人といわれる上品なバーテンダーがいて、夜更けに飲んでいたら、黒人と、大学生がやって来て、黒人もとより片言の日本語も解さず、そして大学生は、近頃珍しいほど、英語ができなかった。ホテルの近くで、道をたずねられたのがキッカケらしい、大学生は訳判らぬまま、「ドリンクドリンク」てなことをいって、どっちが誘うでもなく、やって来たものらしい。ここで眼にしたことを題材に、「暗い片隅」という短篇を書いたのだが、要するに、黒人はおごってくれるものとばかり思いこんでいて、大学生にそのつもりがないと判ると、ブツブツ文句ならべたて、自分の飲んだウイスキーと、サンドイッチの金だけ払った、ところが、大学生は「セイムセイム」と同じものを注文していて、この分の金を持ち合わせない。大学生は、学生証を出して、明日払うからといったがバーテンダーは拒否、つぎにぼくの顔をすがるような眼で見たが、小生これを無視、バーテンダーに、どうせ勝負にはならぬポーカーをいどんで、立ちつくす大学生の眼の前に、一万円札をならべた。  この大学生の気持は、ぼくなりに痛いほど判る。黒人に話しかけられてはしゃいだのだ、戦後すぐならともかく、頭からおごってもらえると考えたのは不思議だが、バーにならんですわり、どうやらウイスキーも飲みつけないらしく、ズルズルとすすりこみながら、身ぶり大袈裟《おおげさ》にしゃべりつづける黒人に、あいまいな相槌《あいづち》を打ち、いくらかは不安なのだろう、卑屈な表情で、ぼくに笑いかけ、「どうもよく判んないなあ、何いってんのかなあ」一人言をつぶやく。  当てのはずれた黒人の、これは言葉が通じなくても、はっきり伝わる軽蔑《けいべつ》の表示を、一身に受けとめ、しかも彼は、まだ自分の勘定をもってもらえると考えていたらしい。勘定書の数字を二つに分け、黒人がその一つを小銭総ざらえの感じで払った。「この人、ぼくの分を払うって」大学生、小声でバーテンダーにいった、「その気はないらしいですよ」、大学生、わざとらしく指を鳴らし、肩をすくめ、ツケを申し出たのである。  無造作に一万円札がやりとりされるのをながめつつ、どうしていいか判らぬ大学生の気持の中に、やがて殺意が芽生えたとしても当然だろうと思った。こっちの一人相撲かも知れないが、いつ彼がヤケを起し、とびかかってくるかと、身がまえてもいたのだ。  書けないまま、三月に入ると、明治大学の入試がはじまった。  すでに受験生の大半は、母親をひきつれていて、風こそ強かったが、うららかな陽ざしを浴び、昼の弁当を、校庭や屋上でひろげる姿は、ピクニックそのものだった。たまに鬱屈《うつくつ》した面持ちで、ホットドッグと、コーラわしづかみにした、はぐれ狼《おおかみ》をみると、なんとなく声援おくりたい気持。  たちまち入学式、あたりに新入生があふれる。そして、彼等をおとしめて見るのは、ひがみがあるからだろう。女まじえて四、五人が、食事するにしろ、酒飲むにしろ、気取りつつも、ことさらな親愛の情をみせびらかし、妙にうわずった口調で「そうだよ、な」「いこうぜ」と、断片的に耳に入る一語一句腹立たしい。男女共学をついに知らなかったそのうらみが、過ぎてかえらぬと詠嘆するにしては、余り遠いものとなっているのに、青春の生な姿にふれて、よみがえるのだ。  五月半ば、いちおう二百五十枚を書き上げて、ホテルを出た。そして十一月から、またぼくは神田に入りびたりとなった。  自分でもよく判らぬまま、心情三派ということになって、日大、中大、東大の、バリケードで封鎖された教室や講堂へ出かけ、カルチエラタンとやら、解放区とやら、白昼の幻めいた全共闘の営みを、ながめていた。  翌年一月の十八、十九日、機動隊によって安田講堂の封鎖が解除された前後、ぼくは神田から本郷の一帯を逃げまわり、べつにその必要はないのだ。石を投げるわけでなし、挑発的な言辞を弄《ろう》するのでもない。じっとしていれば、先方も無視するのに、いちいち大袈裟に走り出すから、紺色制服の集団も、つられるようにして追いかけてくる。  いちおう弥次馬の中にいるのだから、突っ立ってりゃ、連中は通り過ぎていく、もっとも、馬の中に犬もいて、目をつけられていれば、ひきずり出される。ところが、ぼくは機動隊が近づいてくると、身も世もなく怯《おび》えてしまい、横丁へ身をかくそうとし、私服が見つけて、「そこの男、どこへいく。そうだ、あいつだ」私服同士が合図して、追っかけてくる、医科歯科大、順天堂付属病院の構内へ、塀のりこえて、よく逃げこんだ。  どこから集めてくるのか、学生たちは、机や長椅子をならべた上に、古材木、ドラム缶、看板を置き、セクトの旗を飾ってバリケードとする。いかにも弱々しく、牛車を割箸で支える印象だったが、とにかくこれによって風景は一変した。やがて機動隊が押し出してくる、夕空をとびかうコウモリのように、石が宙を舞う、トタン板を棒きれでひっぱたいたような音がたてつづけにひびき、催涙弾が、アスファルトに落下して、白煙を吐く。  またぼくは逃げた。御茶ノ水駅に向けて、登り坂となっているせいか、足がもつれ、二度ころんだ。追いつかれそうになり、山の上ホテルへとびこもうと、さらに急な坂道をえらんで、せいぜい七、八十メートルほどの、この坂道で、また二度つんのめったのだ。  体ばかり、前へ出て、足がついていかない、子供の頃から、脚力には自信があった、重い楯ひきずった連中に、追いつかれるものかとタカくくっていた、しかし、同じようにホテル入口へ向って逃げた学生を追いかけて機動隊員五、六人、よろめくぼくを無視して、たちまち先行、二人をひっとらえた。  その後、キックボクシングの手ほどきを受けたのも、ラグビーやるのも、すべて脚力強化のため、この時の恐怖感が根底にある。  ぐったり疲れて、山の上ホテルに部屋をとり、風呂へ入って、しみじみ自分の裸を鏡に写し、考えてみれば数えで四十なのだ、腕立て伏せをこころみると、十回がやっと、腹筋など、まったく指にさわらず、東海林さだおがえがく中年の戯画そのものであった。もとより脚も痩《や》せこけ、顔だけがむくんだように丸い。窓の外をながめると、お祭の後の如く、弥次馬が三々五々、まだ去りかねてうろつき、名残りの熱気がただよう。ぼくだけひょこっとさめてしまったというか、すぐ眼の前の、明大校舎はまだ封鎖がつづき、ハンディマイクでさけぶ声がきこえるけれど、鬱陶《うつとう》しい気が先きに立つ。  この後、ぼくは心情三派なる立場から撤退するいろいろ理由はあるにしろ、体のなえ果てていることを、思い知らされたことが、かなりひびいたのは事実。十四歳以後、何のスポーツもせず、酒ばかり飲んでいたのだから当然だろう。  逃げ足、これにはいろんな意味が含まれるが、確保しなければ、何かを出来ないというのは、つまりぼくが臆病《おくびよう》であるからだし、また臆病であること自体、何もわるくないのに、自らを神戸の長吉になぞらえて、いいふらすのは、甘ったれたことだと思う。しかしいかに体が弱くても、反体制なら反体制の志を熱烈にいだきつづける人はいくらもいる。どうして、駿河台の坂に足つんのめらせ、こりゃ駄目だと思いこんでしまったのだろうか。潜在的に心情三派の旗を下したい気持があり、つんのめったことを好機に、自らを納得させたのか。それとも、体が弱くては何もできないという、肉体至上主義みたいな面が、あるのか。  半年後、ぼくは歌を唄《うた》いはじめる。三年ほどはどうにもならなくて、どうにかそれらしい形がついたのは、四十七年の秋。この年の暮、神田共立講堂で開かれた、浅川マキさんのリサイタルの前座をつとめ、以後、八回、共立のステージに立った。たいてい誰かと一緒なのだが、一度だけ独演があり、それは四十九年、春の交通ゼネストの日だった。「分裂唄草紙」と称し、ごたまぜのリサイタルを予定していた日に、いっさいの交通機関がストップ。いちおう先きへのばしたのが、ひょっとすると、知らないでお客が来るかも知れない。バンドの手配はできないから、伴奏音楽録音したテープを持参。タクシー、自転車で、中には荻窪から歩いてきた人もいて、二、三十名が、講堂の玄関前にいた。  正面も楽屋口も、鍵《かぎ》がかかっているし、係員もいない。しかたなく、玄関の階段の上部に立ち、唄い出そうとしたら、ようやく陽の落ちた街並み、人影一つ見えぬ中を、政党機関紙PRカァが、やかましくわめき立てつ通りかかり、即席でぼくの書いた、「ゼネスト協賛リサイタル」の紙を見つけて、手をふった。  ふりかえす気にもなれず、また、いささか出鼻くじかれた感じ、お客としゃべるうちに、騒ぎをききつけて鍵もった小父《おじ》さんがあらわれ、中へ入れてくれたのだ。定員二千何名とかの会場に、この頭数ではいかにもさびしいから、缶ビール買って、一同飲みながら、それでも一時間半唄い、終りの頃になると、お客の数は百をこえていた。  思いかえしてみると、けっこう神田という土地と縁は深いように思える、参院選に立候補した時も、しばしばここへ来た。選挙参謀の一人は、これを「保養」と称し、つまり、郊外の団地などをまわって、しゃべれどもさけべども、ただ空しいばかり、ぐったり疲れた時、神田へ来れば、何分学生が多いから、いちおう黒山の人が集まる。どれほど票にむすびつくかはさておいて、候補者がしごく気をよくするからである。  神田、といっても、ぼくになじみのあるのは神保町、駿河台下の近辺だけだが、いつということではなく、しみじみ思い出される風景は、日曜日の朝のながめであって、まったく人通りがないのだ、官庁、オフィス街ならともかく、これほどあっけらかんとしている街は、他にあまりないのではないか。  十二契第一の皮切りは、「夏姿神田の朝がえり」。 [#改ページ]   国際劇場と赤線の町  浅草から吉原|界隈《かいわい》へ足踏み入れると、昼夜を問わず、なにかしら心細い気持が起る。はっきり見覚えのある街並みであっても、ふと迷路へはまりこんだ感じ、あるいは誰かにとがめ立てされるような、怯《おび》えが生れるのだ。  神戸に育ったのだが、祖母、養父母は東京生れだから、何かにつけて浅草の話は聞かされていた。後になってぼくの得た知識と、さだかに区別はつかないのだが、「ちんや」「寿司清」の名前、また「不器量なかき揚げのっかった天丼」十銭だったか、五十銭だったか、その頃すでに使いでの少なかった金額で、映画を観ての帰りお汁粉と、天丼が食べられたなどは、たしかに祖母に聞いたことである。  食物の話題が多いのは、もう気軽に外で食べることが出来ない時代だったからかもしれぬ。それから震災に関する思い出話も、しばしば浅草が中心となった。「暫《しばらく》」を演ずる団十郎の銅像のおかげで、観音様が焼けなかったとか、凌雲閣で地震に遭《あ》い、奇跡的に助かった人、持ち出したフィルムが火を呼んで、映画館の並ぶ一帯がたちまち焔《ほのお》に包まれたなど、これもやはり祖母が、仕方|噺《ばな》しで、克明に描写した。  敗戦までに、三度浅草へ来ているが、ほとんど覚えがない。昭和二十二年秋、上京して一人暮しをはじめて、うろつくのは主に新宿。ここでカストリ雑誌の叩《たた》き売りを手伝ううち、エロ本の運び屋と、べつに役をふられたわけではないが、今から思うと田原町を国際劇場へ向って左側のバラックが、その卸元。夜になるとまっくらがりの中を、おぼつかない気持で何度かたずね、岡持ちのような箱に入ったブツを受取り、一度で二百円になった。昼間は、八重洲口の千疋《せんびき》屋に勤めて、交通費こみ五十円だったから、かなり割りがいい。  十二景と名づけず、「十二契」としたのは、ぼくと土地との契《ちぎ》りをつづってみたかったからだ。旅行者、通過するだけの人にも、風景はあるだろう、しかし、さらに、特別なつながりが生じれば、当然、眼に映ずる物象も、ことなる色合いとなるはず。この意味でいえば、浅草、吉原とのわが契りには、いささかつきすぎているけれども、主として「色」それもいかがわしい類いのものが、まといついている。  運び屋まがいの頃は、いたるところ焼跡で、しかも菊屋橋の松清町のといっても、まるでピンと来ない。国際劇場の近くには街娼《がいしよう》が、さまざまな衣裳《いしよう》でたたずみ買い物|籠《かご》下げたのや、貴婦人気取るのかアラ隠しか、ベールのついた帽子をかぶった女、親娘《おやこ》づれもいた。  警察の眼をはばかる気持はなく、またやくざにからまれやしないかとの心配もしなかった、なにより道をたしかめるのが第一、卸元にたむろしている連中は、みなヒロポンの常用者で、そのせいかどうか、妙に白っぽい肌の色だった。このすぐ後、ぼくは少年院に入れられるが、夜、遠くの部屋で「タワラーマチからカミナーリモン」と唄うのがきこえ、隣の者にエロ本の話をしかけたが、まるで通じない、まだ十一歳なのだ、そして彼は、パンパンの玩具《おもちや》にされたとかで、淋病と梅毒に罹《かか》っていた。  二十五年、東京に住みつき、女郎買い狂いをはじめるのだが、もっぱら新宿、花園、玉の井、洲崎、吉原へくりこむには、かなりの勇気を要した。野坂の家は、すくなくとも三代続けて東京に住む。母方の祖父は大阪生れらしいが、活弁上りの漫談家、祖母が小唄の家元、戦前、浅草で待合を経営していた。父は蠣殻《かきがら》町生れで、初恋の人が吾妻徳穂とくる。空襲で焼けるまでの吉原については、さんざ耳学問を仕込んだのだ。通称赤線、特飲街となってからは、往年の面影も、しきたり、風格もすべて失せてしまったと、判ってはいるが、どうも怯えが先きに立つ。  カストリ雑誌で仕入れたのだろう、「山陽」「角海老」「稲本」の名前が、年中頭にあった。あるいは、江戸町、揚屋町、京町の町筋を市街図でたしかめ、高田保の巴里空想には及ばないが、なんとなく曾遊《そうゆう》の地みたいな気さえして、同じく地方出身の者に、さも土手八丁通いなれたる雀ぶりをひけらかし、糸紡ぐ如く、見てきたような嘘《うそ》が生れてくる。  ぼくは学校へは行ってない、見渡せばいずれも一芸に秀でた風で、その補いをつけるため、しばしば悪所通いの先達をかって出た。そしてみなこの道では出藍《しゆつらん》の誉れ高く、奨学金など手にすると、かの吉原へひとつ案内のほどをと頼みこむ。知ったかぶりのままでもいられず、ついにお役目がら一人|竿頭《かんとう》をこの地に進めたのだ。  フォルクスワーゲンのタクシーで、竜泉寺町にいたり、とりあえずトリスの小瓶求めて、空地の石に腰をかけ、まだ陽は高かった。ワーゲンとは対照的に角張った小型車がかたわらに駐《とま》っていて、DATSUNとある表示をダツンと読み、なんだこの車はと考えた、ダットサンと気がついたのは、かなり後だ。歩くうち、突然広い道にぶち当り、左右の家並みきらびやかなネオンを輝かせ、まだ暮れきっていない空の、名残りの蒼《あお》さを背景にして、まったく夢幻境にさまよいこんだ感じだった。  新宿も、仲通りやら、その西側の一劃《いつかく》は、けばけばしい電飾が氾濫《はんらん》していたが、なんとなく社交喫茶のつづきみたいな印象、花園町は、みるからに飲み屋街風、しかし吉原はまるで違う。大籬《おおまがき》といっていい一軒の、横の露路から、女に見送られて客があらわれた、広い玄関の、式台の横に応接間があり、正面は暖簾《のれん》に仕切られて廊下がつづく、道に面して小窓があり、中年の女が無表情な顔をのぞかせている、店の中に女の姿はなかった。  京町の交番、吉原病院、大門《おおもん》など、おぼつかない知識をたよりに、うろつきまわり、「吉原の道は、真中が低くなっている、つまり雨が降るとここに水が溜《たま》る、客足はおのずと両端、つまり店に近寄らざるを得ないのですな」など、ひけらかした半可通を、実地にたしかめ、そのうちどんどん足が早くなって、日本堤へ抜け、桜鍋《さくらなべ》の「中江」に気がつく。  まずここへくりこんで力をたくわえ、一気に押し出さんと、何ごとも先達としての立場から考えて、入った。 「中江」で馬肉を食べ、朝帰りには「笹乃雪」で口直し、吉原パックの添乗員みたいなものだ。  大きな帳面を腰にぶら下げた老人が二人、向き合って、鍋の味噌をとかす、これはきっと木場の旦那衆に違いないとながめる。若い男女のしんみりと箸とる姿みれば、駈《か》け落ち者に思える、落語や新派で身についた江戸の断片を、いちいち当てはめ、自分も作中人物になったような錯覚におち入って、太宰の気取り「こう、姐《ねえ》さん、熱いの一本おくれでないか」そのままだった。浅草まで歩き、地下鉄で渋谷、山の手線に乗りかえ高田馬場へ着いて、小滝橋へ向ったのだから、これは二十六年の秋の頃。  しかし、吉原よりの新帰朝者、脳裡《のうり》にしかと刻みこんだはずのもろもろを、どう整理して報告すればいいのか、心もとない。  手引きをたよりに妄想たくましくしていた時の方が、気楽に思える。  十ぺん以上は、吉原へくりこんだろう、だが、いつも酔っ払っていたから、残っている記憶は少い。宵の内ここで登楼し、すぐ背広を質に入れ、玉の井へ出かけて、ほっと安心するような向きがあった。  エリザベス女王の戴冠《たいかん》式の日に、ロビンなる店で遊び、敵娼《あいかた》が海の向うの式典の話ばかりして、あやかるつもりなのか、コロニアルカラーという黄色いスカーフを持っていたこと、小店のならぶ一劃では、女たち道ばたにしゃがみこみ、パンティがみえる。のぞきこむつもりはないが、自然に視線が引き寄せられてしまい、どうせたいした客とはふんでいない女、この助平といった表情で冷笑を浮かべ、またしても早足になってしまう。  まったく、ぞめき歩くなんてことはなかった。新宿では、かなりゆとりを持って品定めし、決めかねているうち、めぼしいのはどんどん人にさらわれてしまい、カスをつかんでも自業自得、優柔不断を自らあざけっていられた。  吉原では、経費節減のため、まずトリスを立ち飲みし、まずは馬肉までは手がまわらない。酔いをはかりつつ、うつろに旋回をつづけ、時至れば醜《しこ》の男子かえりみずして出まかせにとびこむ、しばし後、また鉄砲玉の如くとびだして、その店が向町のどこにあるかも、名前すらも判らないまま。  現在、旧吉原のただ中に住む、粋人吉村平吉氏とあたりを散策すれば、氏はぼくを買いかぶって、 「ほら、ここが例のナニナニの跡」 「ねぇ、マンションに変っちまったんじゃ、なつかしいもなにもありませんねぇ」などおっしゃるが、ぼくは今でも、ここを歩いていると上の空になってしまう。  夢の契りといった按配《あんばい》なのだ。  二十八年の冬、国際劇場裏のアパートに二月ばかり住んでいた、同じ屋根の下に住む御連中は、娼婦とその愛人で、こっちが昼近くに起き出し、共同の流しで顔など洗っていると、よくうどんを茹《ゆ》でていた。娼婦たちの昼の顔は、いかにも無惨だったが、立居振舞しごくおとなしやかで、髪の毛をポマードでこってりなでつけた愛人と、風呂に連れ立つ姿など、それなりの風情がある。何をどう見込んだのか、女がべつの男に心を移したと、相談持ちかけたヒモがいて、寿司屋で双方の言い分をきいたことがある。ヒモはなかなかの男前、なにもこんな女にくっついてなくてもと思うのだが、泣きべそかかんばかりにかき口説き、また一変して、何日の何時どこにいた、あの時は何をしていたと、しつこく聞き出す。 「奥さんがいやだっていってるんだから、あきらめた方がいいですよ」ぼくがいうと、女の方が怒りはじめ、この頃になれば、友人の中で同棲《どうせい》した者が少なくなく、時にもめごとが起る、うっかりかかわり合うと、必ず逆恨みされると、判っていたのだが、男女のことわりに、堅気もプロもないと、つくづく肝に銘じたのだ。  近くの宿屋では、秘密映画の映写会、シロクロのショウが行われていた。客引きや張り番が、四つ角の端にたたずみ、顔|馴染《なじ》みになって、よく安くてうまい食物屋に案内してもらった。  すべてがヒモというわけでもあるまいが、このアパートの周辺には、昼間もいい年をした男がごろごろしていて、妙に老人くさく、窓からじっと表をながめていたり、子供を相手に下品な冗談を口にし、パチンコするでも、銭湯で暇をつぶすわけでもない。  夜になると国際劇場の屋上に近いあたりで、楽器の音がひびく、ドラムのリズム、トランペットの悲鳴が交錯し、メロディを聞き分けるにはいたらない。暮もぎりぎりに押しつまってから、ぼくは夜逃げ同然にアパートを出て、東伏見の友人の下宿へころげこんだ。盛り場の裏通りで、娼婦やヒモやポン引きと共に、新年を迎えるだけのタフネスは持ち合せていなかったのだ。  五十一年七月の末、ぼくはゲストとして、国際劇場に出演、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドと一緒に歌を唄った。宝塚劇場、日本劇場のステージはすでに踏んでいるから、残るはNHKホールだけだが、とにかく依頼された時、思い出したのは、二十三年前の冬の夜空にひびいていた楽器の音で、舞台よりもその稽古場《けいこば》に興味があった。住んでいたアパートのあたり、往年の面影が残るものの、なんとなく活気がない。吉村氏の話では、昔、昼間からでれでれしていた連中は、売れない芸人だったらしい。  女と一緒に映画とか芝居を、ほとんど観たことがないのだが、国際劇場はその数少ない一つで、新潟古町の女給を誘い出し、ぼくはそのまま同棲する気だったが、わが下宿のあまりに貧しいたたずまいにおどろいて、すぐ帰りたいといい出し、上野駅へ送る途中、ここへ入ったのだ。当時は、立派な建物に思えたが、あらためてみれば煤《すす》けた感じで、もっともそれが貫禄《かんろく》ともいえる。稽古場は三階と四階にあり、三階ではSKDの皆さんが、ひらひらと舞い踊り、四階で音合せ、これはまあ、ラグビーの合宿風、いずれも裸か、裸に近い姿でなお汗したたらせ、むき出しの壁にかこまれているから、エレキギター、ドラムスの音が反響し合って、とても嫋々《じようじよう》と唄うわけにはいかない、選挙演説よろしく、五曲であっけなく声が涸《か》れた。  売防法が施行される頃は、ぼくはもう赤線からやや遠ざかっていた、その客層は、欲望もてあます独身よりも、妻帯者の方が多かったという話を聞いたことがあるけれど、義務感のようにして、また人交りの支えとして通いつめていた頃が、不思議に思えるほど、ぱたっと興味がうすれた。三十三年というと、CMソング「セクシーピンク」を作った年で、ようやくややまともな手段で、金を稼ぎはじめ、年収一千万近くになった。その気になれば「角海老」「山陽」にぎりぎり間に合ったのだが、足を向けず、吉原の灯が消えて後、トルコ風呂における特殊なサービスの噂《うわさ》を耳にし、出かけたことがある。  夏だった、コンクリートの肌むき出しの一室に通され、スティームバスに入ろうとしたら、女がとどめて、桶《おけ》いっぱいの湯を、ぶちまけた、こうすると湯気が沢山出てくると説明し、「でも、これに入る人はほとんどいないみたい」といった。  カメの子の如く首だけ出しているぼくの顔の前に、女は古ぼけた本をかざし、それはガリ版刷りのエロ本だった。こちらの気をそそろうというのだろう、「読んだ?」たしかめつつ、女頁をくる。折角の御好意だから、むげにも断らなかったのだが、いっこう果てぬから、女はわが指をみちびき、とたんに効験あらわれて、「気のもんよね」とつぶやいた女の年は二十二、三だった。  翌日、ぼくは心臓神経症の発作を起した。整理して考えると、赤線が消滅する頃まで、身から出た錆《さび》だが、とてもまともな生き方はできないと思い定め、せめて廓狂いで他人に対抗していたのが、ひょんなことで、作詞家、TV番組構成者となり、泡銭《あぶくぜに》が入ってくると、もう娼婦にすがる心要もない。しかし、このなりわいの、当時、なんともいかがわしい感じは、うわべ派手であるだけに、しみじみ思い当り、先行きを思えばまことに不安、この頃、博報堂、井関農機に伝手《つて》をたより、何とか給料取りになりたいと考えたのだ。  漠然たる不安が、神経症をもたらし、ぼくはそのひきがねとなったのが、前日のトルコ娘のフィンガーワークだと信じこんでいた。  まったく、くりかえすようだけれども、当時のCMソング界、TV音楽番組の中でも、ぼくの立場は、「気のもん」をたよりに、空しい営みをくりかえしていたと思う。  三十四年、しかし食わなければならない。自分の才能など、てんから信じることができず、ぼくはスポンサーや、ディレクターの接待にブルーフィルムを利用し、また浅草へ足を運んだ。かつてと同じく、四つ角にそれと判る手合いがいたから、声をかけて、席を用意させる、お客は近くの飲み屋で待たせておき、万端整えば、案内する。手入れがしばしばあるらしく、宿屋は危いからと、ふつうの民家の二階をよく使っていた。妖《あや》しげな写し絵のすぐ横に、子供の勉強机があり、椅子《いす》に習字道具の袋がぶら下っていた、隣りの部屋で、女房の威丈高に亭主怒鳴りつける声がひびいたり。  あまりしばしばポン引きの真似つとめるものだから、業者の一人が、「ここへ電話して言付けてくれりゃ、すぐ連絡がつく。そっちへブツと機械運んでもいいよ」といった。  これが御縁で、そのつもりはまったくなかったのだが、結果的には「エロ事師たち」の取材をすることになる。そして小説がどうやら売れるようになると、神経症はぴたりとおさまった。  以来、幾度、浅草吉原へ出かけたろうか。吉村平吉氏が、区議にしばしば立候補し、事務所は馬道|瓢《ひさご》通り、公園裏にあったから、その帰りはいつも、荷風、順ゆかりの「峠」で飲む。ある時例年になく御輿《みこし》が沢山出ると聞いて、娘を連れ三社祭へ出かけもした。また六月十五日「かいば屋」の開店|披露《ひろう》の日、この店の主人は、熊谷幸吉といって、これぞ下町の申し子。志ん生にあこがれ、白鬚《しらひげ》橋きわの、もとなめくじ横丁に住みついたという御仁《ごじん》。浅草についての知識が、まず「寿司清」「ちんや」にはじまったにしては、現在のこの土地のうまいもの屋を知らないのだが、「かいば屋」の、枝豆には粗《あら》塩がふられているし、ミソ豆にしろきぬかつぎにしろ、これはたしかに祖父西村楽天が夏といえば必ず食べていたものだし、土用の間に出すしじみ汁もそうだ。楽天さんは、裸になって口にふくんだ焼酎《しようちゆう》を、体にプッと吹きかけ、「暑気払いにはこれがいちばん」と、しじみの身ほじくりつつ、残った酎を飲んでいた、晩年はまったく売れない芸人だった。 「かいば屋」は、猿之助横丁という粋な名の細道にあるが、あまり女には縁がなく、かつて女に縁の深かった皆さんがよく来る。すなわち殿山泰司、吉村平吉、田中小実昌、黒田征太郎の諸氏で、このたびの原稿を書くにあたり、あまりに五里霧中でも心もとないから、あらためて吉村さんに、吉原を案内していただいた。吉原に只今《ただいま》トルコは七十軒近くあるらしい、そして、健全営業がモットーだという。  健全とはそも何の謂《い》いか、明朗|闊達《かつたつ》に男と女のなすべきことを為す。雄琴、堀の内、船橋にみられる如き、退廃の色濃き技術は弄さないのである。ここが江戸町、京町と、町ごとに、また道筋通り過ぎるたび、吉村さんは故事来歴由緒を説明して下さった。以前のこの町の雰囲気、夢幻しの如くではあっても、脳裡に浮かぶあれこれと、今の姿をくらべてみれば、ただ夏草|茫々《ぼうぼう》たる感じのみ強く心に残る。 「二十二年でしたかねぇ、あたしがパクられた夜の女に、卯《う》の花寿司って御存じですか、飯のかわりにおからをにぎった奴《やつ》です。これを持ってったら、笑われちゃいましてねぇ。他の差し入れはみんな豪華なんですなぁ」吉村さんも、なにやら夢心地のように、カラコロと下駄の音をひびかせる。「昭和二十二年といえば、まだ焼跡だらけでした、残ったのは、三《み》の輪《わ》のあたりかな、なにしろ上野の山から江戸川まで、大袈裟にいえば、品川の海まで見通しって感じだったものねぇ」  ぼくは四十二年頃に、ここへ取材に来た、元吉原の組合長さんに、RAA協会の内情やら、また三月十日、めでたき陸軍記念日を期して行われた下町大空襲のなにやかや、うかがったのだ。ぼくは、空襲体験について、かなりのプロであるように思っていた、しかし、お上の方がはるかに玄人《くろうと》なのであって、いったん奢侈《しやし》禁止令によって、営業を停止された吉原は、焼けてしまった後、志気をふるいたたしめるためとの名目によって、布団をはじめとする、廓稼業に必要な物資の特配を受け、焼けてすぐ営業を再開しているのだ。 「焼けビルにベニヤ板を張りつけて、営業してましたねぇ、布団は物資疎開で小学校、いや国民学校ですか、そこへ運びこんでいました。お客が来たらしいですねぇ、吉原が再開されたなんて、誰もいいふらしたわけでもないのに、本当に臭《にお》いをかぎつけるみたいにやって来たそうです」  吉村さんが、ひとりごとのようにつぶやきつつ、吉原を歩く。たしかにマンションが眼につく、売防法以後、廓は宿屋に転業して、地の利もあるから、よく修学旅行の生徒が泊っていた。往時狭斜之|巷《ちまた》、今学生旅行宿などと、つぶやきながらこの近くを歩いたことを思い出す。 「マンションの住人に、ほとんどホステスさんはいないらしい、トルコ嬢とその愛人が多いそうで」かつての大籬《おおまがき》の名をいただくマンションが、建設中であった。  国際劇場の舞台は、まっくらだった、日曜日で、開演が早く、ぼくは朝っぱらから酒をのんでステージに備え、なにが何だかよく判らないまま、気がつくと、舞台|下手《しもて》の台の上に突っ立っていた。ブギ・バンのリーダーが何かしゃべっている、気がつくとライトを浴びていて、その照りかえしで、かぶりつきの客の表情がみえる、まず十五、六から二十一、二、圧倒的に女が多い。また、迷路にふみこむ思い、浅草にまつわる、こしかたの思い出をくどくどとつぶやきはじめ、こんなことをしゃべっても、ウケるどころか、お客はキョトンとするばかりだろうと、判ってはいたけれど、他に何を述べればいいのか。  帰ろうとすると、「すいません、フィナーレにも出て下さい、その後、アンコールに『黒の舟唄』を合唱します」舞台監督がささやく。「ツナギ」と称するブギ・バンのユニフォームを着せられて、要するに菜っ葉服なのだ。「八月のはじめお忙しいですか」舞台|袖《そで》の暗がりの中で、誰かがたずねる、「ええ」「山谷のおかまが、海水浴に行くんですけどね、一緒にいきませんか」「どこへ行くんですか」「千葉の勝浦です」「ははあ」生返事しているうち、誰かが、「ハイこれ持っていただいて、ええと、お判りですか、フィナーレーです、適当にシャンシャンとやって下さい」  おかまの海水浴のイメージと、華麗なるグランドフィナーレのイメージが入り混って、つぎに気がつくと、「かいば屋」であった。  女房、子供は、軽井沢へ出かけて留守である、ぼくは吉村さんにたのんで、ピカ一のトルコ嬢を紹介してくれと、絶叫した、国際の出演料十万円がある、何はじることあらんや、熊谷さんも、店を閉めて同行した。吉原は不夜城よろしく、煌々《こうこう》たる電飾に色どられていた。  あげくは、以前と同じく足早に通り過ぎ、山谷へ入りこんで飲みつづけたのだ。いっぱい八十円の焼酎を、半分だけ注文して飲む連中の、もっぱらの話題は、ユリ・ゲラーだった、「あいつ連れて来て、パチンコのチューリップを開かせたいなぁ」「ほんと馬鹿だよ、羅針盤の針うごかしたって一文にもならねぇじゃねぇかよう」山谷のそこかしこ、酔いつぶれた連中が、河岸《かし》のマグロよろしく横たわっている。ほとんど高層ビルのみえない、ひらべったい街は、以前の、浅草吉原周辺と同じく、深沈たる闇《やみ》におおわれていた。さて十二契のきまりとしては、何であろう、色とくれば、踏み迷うのは当り前、なれど迷うさえ覚束《おぼつか》なかったのがこの土地であろう。  十二契の二はいっそあけすけに、「祭明け吉原病院の捨て子」。 [#改ページ]   逢びきと子規庵の町  鶯谷駅の陸橋を下りつつ、郊外はともかく、都心の連れ込み宿は、どうしてこう密集しているのかと、考えた。一軒が強引に建ててしまうと、周《まわ》りは閉口して立ち退き、当然、地価もさがって、同類が集るのか、これを利用者の側から考えると、先客充棟の場合、かたまっていれば、別口を当ってみることもできて便利ではある。一軒だけ孤立してりゃ、あまり大手ふって入りこむ所でなし、気がひけるかもしれぬ。  昭和二十六年の春、なんとなく早大文学部の地下、そこには今でいう生協、アルバイト斡旋《あつせん》所、自治委員会室、社研その他の部室があって、昼なお暗いというより、さらに陰惨な雰囲気を漂わせていたように思う。地下だけではない、教室に炎のなめた痕《あと》が残り、学生の顔付きはとげとげしく、世間でもはや有名無実に近い外食券が、ここでは珍重され、アルバイトは学費書籍購入のためではなく、一家の支えとして、必要だったのだ。  地下のはずれに貼紙《はりがみ》があり、物々交換や、古本処分の文字が記されていた。中に、「求む留守居、部屋無料提供、連絡先 寒川光太郎」という一枚、四谷から小滝橋へ移ったものの、居心地わるくて、しかし、引っ越ししてどうするという心づもりがあるわけでもない。無料の文字にひかれ、たしか水道道路に面し、階段を登ったと思うのだが、寒川氏をたずねたのだ。  寒川光太郎といえば芥川賞作家である、御当人かどうか判らないが、中年の男性が地図を描いてくれ、「根岸の子規庵なんですがね」とおっしゃる。  ぼくは、内心とび上りたい気持だった、あまり逆上しても怪しまれる、折角のチャンスを失うように思い、うわべさりげなく受けてそこを辞した。  戦争が終ってしばらくの間、ぼくはもっぱら俳句に関する本ばかり読んでいた。焼け出されて、焼跡をうろついている時、愛読したのが文庫版の「墨汁一滴」「病牀《びようしよう》六尺」などで、その内容よりも、不治の病いとたたかいながら俳句、和歌によせる情熱の強さに惹《ひ》かれたのだ。闇市のはずれに、掛軸やらレコード、経典、電球のないスタンド、要するに半端ものばかりならべた露店があり、ここによく俳書が出ていた。  活字といえば羽根が生えたように売れ、だから値段も高かったが、さすがにこのての書物は読者も少いとみえて、装釘《そうてい》の立派な本がいくらも手に入る。中学の担任の教師が、家庭訪問、実はこの名をかりて、食いぶち稼ぐのだといわれていたが、ぼくの住む物置きまがいの小屋に、ずらりと重々しい背文字のならぶのをみて、えらく感心したことがある。  子規に傾倒していたから、芭蕉より蕪村、「古今」「新古今」より「万葉」を重んじ、国語の授業で、批評文を書かされると、子規が落合直文を攻撃した文章のもじりをでっち上げ、員数合わせるため、かり出されて来た大学在学中の代用教師を面くらわせる、当時すでに、これはどうもやり過ぎだと反省していた。  しかし、子規の文章は、やたら出まわっている民主日本讃美のそれよりも、はるかに男性的な印象で、一度読めばそのリズムが脳裡に刻まれて、意識しなくてもつい真似てしまうのだ。 「仰臥《ぎようが》漫録」中の、病いの床にあって、それだけが楽しみの、献立て、また、自らの苦痛をしごく冷静に記述するくだり、何度読みかえしてもあきず、食うや食わずの日常での、支えとなった。昭和二十二年の春には、復刊された「ホトトギス」の定期購読者となり、おぼつかない十七文字を、せっせと投稿もした。  高校へ入って以後は、やや遠ざかったものの、アルス社刊の「子規全集」のうち何冊かを常に持っていたし、この「子規全集」については、後年、妙な恩恵にあずかるのだが、他誌に書いたから省く。  竹の屋主人|終《つい》の棲家の、留守番になれるとは願ってもないこと、寒川邸を辞して後、競争者があらわれては一大事と、文学部地下へもどって貼紙ひっぱずし、その足で子規庵へ出かけた。  鶯谷の駅を降り、豆腐料理屋「笹乃雪」の手前、わずかに坂となった道の、両側は、当時十二坪半の、建築制限ぎりぎりにたてた、同じような構えの家がならび、焼跡の気配はほとんどない。  唐突な感じで、あたりには珍しい門構えの家、その向って左側に柵《さく》をめぐらし、中に子規の住いを再現させた旨の高札があった。引戸を開けて、声かけたが答えはなく、右手の庭を進むと、廊下に足を投げ出し大の字なりに横たわったもんぺ姿の男がいる。鬚面《ひげづら》でむくんだような表情、昏々《こんこん》とねむっているのだから、起すのもはばかられ、突っ立っていると、奥の土蔵から若い男があらわれて、「寒川|鼠骨《そこつ》さんです」  ぼくは本当にびっくりした、子規の死の直前の日記に、たしか鼠骨が北陸へ出かけていて、いないのが心細いとあった。たいへん失礼なことだが、未だ生きていらしたのかと、あらためて敬意を表し、鼠骨さんは大入道と土左衛門のあいの子といった感じであった。 「酒を飲みますか」留守居志願と判って、男がたずねた、藪《やぶ》から棒でついうなずくと、「どの程度です」資格テストであることは判る、すすめられればたしなむくらいと、答えりゃいいのだ。しかし、今風にいえばツッパル気持が起って、「昨日も焼酎飲み過ぎて、ようやく正気をとりもどしたところです」若い男、といってもぼくより五、六歳上だったと思うが、おもしろそうに笑って、 「そりゃ困るなあ、留守番でいちばん気をつけてもらわなきゃいけないのは、火の用心なんです、前後不覚になられたんじゃ」  今は、彼がその務めを果している、勉学のために不便なので後釜《あとがま》を探すと、自分の立場を説明し、これはぼくの推察だが、鼠骨さんもかなりの飲んべえなのではないか、老若の酒乱が集《つど》えば子規庵など、烏有《うゆう》に帰するより先きに解体してしまうかも知れぬ。  育ちの良さをうかがわせる男で、内容は忘れたが、しばらく話しこみ、当分、動けそうにもないから、また遊びに来るようにといってくれた。なにぶん、酒の上の失敗数え切れず、いわれるまでもなく、由緒ある建物の留守番などできやしないのだ、何の未練もなく子規庵を去り、しばらくの間は人の顔をみると、鼠骨がまだ生きている、会って来たといいふらしたが、この名前に関心寄せる者は、父の他に一人もいなかった。  二十四年ぶりにたずねてみようと思い立った。根岸、谷中、湯島天神下あたりも、妙につながりのある一帯で、またこのあたりには、思いがけず震災前からの家屋が、庇《ひさし》をつらね植木棚を配して、残っている、今のうちにもう一度たしかめておきたい。  子規庵といえば、当然、すぐ判るだろうと高くくって出かけたのだが、あらためて鶯谷駅の近辺ながめれば連れ込みホテルの群ればかり目立ち、長い陸橋降り立って、さて見知らぬ街へ迷いこんだ按配、常に車で通り過ぎるだけだから、とっかかりを得られぬ。「笹乃雪」を左へ入ったのだと、それだけたよりに、安手のビル建ちならぶ一劃を目指し、歩くうちに、また逆さクラゲの迷路、双方水商売らしき二人連れやら、貫禄たっぷりの紳士と倖《しあわ》せうすそうな人妻風やら、お天道様をはばかる風さらになく、気もそぞろの態《てい》。  後で思えば何度もその前を通り過ぎていたのだ、探しあぐねてたずねると、「目立たないお家ですから、よく注意して」まこと要領よく教えて下さったのは、答えなれているのだろう、十七、八歳の女性だった。それでもなお、ぼくはすぐに判らなかった。以前の記憶が鮮明に残っているからだ。周辺の風景の変化に合わせて修正せず、立派に思えた門、柵にかこまれた高札をつい目印にしてしまう。  塀の上に、ちいさな金属製の標識があり、そこが子規庵である由縁を記していた。案内人がいなければ、詳細な地図をたよっても、まず自力ではたどりつけない。表札には寒川とある、昔のままとおぼしき古い引戸をがたぴし開けて、挨拶《あいさつ》したが昔と同じで答えはない、右手の庭は塀でさえぎられている。裏へまわると、トタン板で補修された土蔵があった。  かつての若木は、鬱蒼《うつそう》たる葉を繁らせ、失礼を承知で塀によじ登り、中をうかがう、鼠骨さんの足投げ出していた廊下が見える。  柱も壁もあたらしく、さわやかだったたたずまいは、年|古《ふ》りて、単に時代がついただけではなく、世帯じみた色合いをまといつかせている。なまじ文化財などに指定されてしまうと、増改築もままならぬ、住んでらっしゃる方の当惑ぶりが、うかがえるような気がした。塀の上にプレート掲げるだけが能ではあるまい、文化行政なるものは。  きびしい残暑の中を、谷中へ向った、ここの瑞輪寺、押尾川親方が造反して、立てこもったお寺は、母方の菩提《ぼだい》寺である。祖母が亡くなった時、一度来たのだが、あっちこっちで育ち、血縁が入りくんでいると、お寺さんと墓地は盛り沢山で、神戸の浄雲寺、春日野墓地、品川の春雨寺、その付属の墓地、青山墓地、他に目黒にも一軒、そして瑞輪寺と、とてもまわりきれないから、すべて失礼している。  谷中には、はかなければこそ、と、気取るほどでもないが、わが青春の頃、酒と関係なく、だからまた恥もかかないで済んだ、ただ一つわりとまともな思慕の思い出がある。今年も開かれるらしいが、昭和二十年代の後半、毎年十一月の末に、歌舞伎座で藤間流踊りの大会が催され、ぼくは当時、着るはおろか、食べるのさえおぼつかない中で、日本舞踊だけはよく観ていた。  なによりもそれは只だったからで、「東をどり」などの切符になると、いろいろ伝手《つて》を必要とするのだろうが、コツさえ覚えてしまえば楽なものだった、初めは「新橋倶楽部」というレストランの、一方の入口が演舞場の廊下につづいているから、これを利用した。そのうち、劇場の区劃《くかく》へ入るに当って切符の提示を求められるようになったから次ぎの手を工夫、東をどりは、肌寒い季節に開かれる。今とちがって、皆、大袈裟なオーバーなど着こみ、それが見栄でもあった。  開演後しばらくたってから、もともとこっちには、衣の上に衣重ねるゆとりなどないのだが、いかにもいったん入場し、オーバーをクロークに預けて、外へ出た態を装えば、もぎり嬢あやしまぬ。  歌舞伎座ならさらに楽だった、踊りの会は、たいてい月末の、本興行が休んでいる間に開かれ、劇場関係者も、小屋貸しだからと、のんびりしていて、一言「受付」といえば通してくれる。受付は、宝塚劇場でもそうだが、階段を上ったところにあり、ここには幕内の者が、縁戚《えんせき》知人に切符を預けている、いかにも切符があるようにふるまえば、木戸をつかれることはなかった。  さらになれると、大道具搬入口や、裏方の利用する通路をとおって、奈落《ならく》から地下食堂へ至るルート、楽屋から舞台の袖を抜けるなど、映画館にくらべると劇場はおっとりしている。席はないから二階のライトあやつる小部屋、時には図々しくも監事室にすわったこともある。  幕が下り、明るくなると、すぐ近くによく有名人がいた、たとえば久保田万太郎、芦田均夫妻、佐藤栄作氏など、もっとも、鼠骨さんを見ているから、おどろくことはない。  友人に服を借りて、秋になれば、劇場やホールの踊りのおさらい、大会をハシゴしていたが、中でも藤間のそれは豪華|絢爛《けんらん》たるもので、これが終ると、冬になるようなおもむきさえあった。  踊りの会では、ロビーというか、入口の階段を昇った廊下が一種の社交場、旦那《だんな》だかヒモだか、いかにも踊り手の身内面した手合いがうろうろしている。ぼくは休憩の時、いつもトイレット近くの椅子にすわっていた、切符なしで居続けるのはやはり具合いわるい。  そして、よく顔を合せる一人の女性に気づいた、まだマンボズボンははやっていなかったと思うが、細身で裾《すそ》にチャックのついたズボンをはいた青年、あるいはやや白くなりかけた髪に、紫の紛をふりかけた、これはそうとしか見えなかったのだが、いかにも裕福そうな老女などと一緒、後で判ったのだが、年はぼくより二つ上、左の瞼《まぶた》にホクロがあった。  まるで縁がないとあきらめ、それでも、表面は、古典芸能を研究する青年風に装って、ツッパっていたら、藤間の会で、勘素蛾が、妙にあたらしぶった振付けの踊りを披露の後、いったん幕がひかれ、廊下へ出ようとしたら、なんとその女性、Kさんにしておくが「召し上りません」とちいさな箱を渡す、出演者のくばる引きもので、茶巾《ちやきん》しぼりが入っていた。Kさんの席は、すぐ隣りだったが、こっちは流浪の民よろしく、暗くなってから空席見定めてあちこちうろつく故、気づかなかったのだ。  ぼくはありがたくいただいて、すぐ表へとび出した、懐中無一文に近い、べつに、その後どうなるとも判らないのに、銀座の、知る人ぞ知るバァ「ブランズウィック」へ駈けつけ、マスターに千円借りた。歌舞伎座へもどると、まだ幕間《まくあい》で廊下は例の如く、ごったがえしている、守田勘弥が、芸者二人に手をひかれ、舞台そのままの印象で、ふざけあっていた。いただきものをして、すぐお返しもみみっちい、また、あの席へもどるのも下心見えすいているようだが、この後、当分大きな催しものはない。  まったく恥かしい話だが、この時までにKさんと、それに仏文で同級生だった伊藤和子さん、お二人だけなのだ、堅気の女性から何か話しかけられた記憶は。  伊藤さんは、教室で「昨日丸善にいらしてたでしょ」とおっしゃり、「私、アルバイトしてるのよ、何かお入用の本があったら、御便宜はからいます」ぼくはいやしく、「注文をとると、歩合いがもらえるんですか」たずねたら、彼女はケラケラ笑って、「そんなことないわよ」後できいたら、伊藤さんの父上は、丸善の社長だったのだ。  だから、この機を逃すまじと、眼を皿に人だかりの中のKさんを探した、見つけたら、なるべくつまらなそうな顔でお礼をいおう、ところがうまく運ぶ時は、ちゃんと間尺があうもので、「隣のお席、空いてますのよ、どうぞ」キョトキョトする背後から天来の美音がひびいた。ぼくは逆上して、以後はここをせんどと、踊りについての薀蓄《うんちく》を傾ける。Kさんはかなりの顔で、行き会うだれかれに挨拶する、そのかたわらで寿右衛門の振付けを論じ、鶴之助の弁慶の型についての私見を述べるのは、ずいぶん向う見ずなことだが、とにかく必死だった。  この日、Kさんには連れがなかった、終りまで観てることもないというから、ぼくは、京橋警察署の裏にあった河豚《ふぐ》料理屋「銀水」に案内した。父の友人が経営し、ツケがきくのだ、突如、美人同伴であらわれたから、お上さん仰天して、上等の部屋へ通してくれ、この時ほど切実に、カスリでいいから着物があればと思ったことはない、ぼくは座敷でボロかくしのレインコートが脱げない。  Kさんの母上は、芸者上りのお妾《めかけ》さん、芸事百般こなして、後継がせるつもりはないのだが、娘に幼い頃から稽古事を習わせ、といっても女学校へ通いながらの気ままなもの。今は、鳴りもの、鼓にこっているという、もちろん、いっぺんに訊き出したわけではない。  翌日から、二十七歳まではお嫁にいかないというKさんの腰巾着《こしぎんちやく》となって、くっつきまくった。象潟《きさかた》署の近くの、鼓のお師匠さん、六本木の長唄のお師匠さん、そして、谷中の師匠は浄観なき後の日本一の三味線弾き山田抄太郎で、これはKさんが直接教わるのではなく、その先生が、週に一度、ここへ習いに来る、Kさんは先生のお付き、お付きのお付きが小生。  鶯谷の駅へ降りて、谷中の墓地へつづく細い道を、二つ三つ曲った右側に、山田邸があった、Kさんは先生と一緒に、中へ入る、三時間くらい待って、稽古は三十分くらいらしい。ぼくはこの間、あたりの墓地を、うろついて暇をつぶす、やがて師弟があらわれ、師匠をタクシーに乗せると弟子は解放される。ふだんは洋服だったが、姉上がデザイナーで、これまた洒落《しやれ》た衣裳、エバーグレイズとかピーターパンカラーとか、いずれにしてもぼくには釣り合わぬ。  山田邸のすぐ裏が、朝倉文夫のアトリエだった、相変らずあらんかぎりのペダントリーひけらかし、他に何をしゃべっていいのか判らない。飲んだあげくの娼婦との語らい、居酒屋の女とのやりとりなら、いくらかなれているけれど、昼日中、素面《しらふ》でしかも堅気ときては、いったんだまりこむと、次ぎのきっかけつかみ得ぬ感じ、早口で嘘二、三百混じる話を放出しつづける。  ふだんは、仕込っ妓《こ》よろしく、あちこちの師匠をまわり、その中には英会話もあれば、乗馬も含まれる、いちばんのんびり出来るのが、谷中デイであった。  二十六年の暮に、ぼくは八方不義理重ねて、ナイロンのYシャツ、ウインザーチェックの背広にツイードのズボン、スリッポンの靴に身を固め、常に一張羅では申し訳ないから、頃合いをみてこれを黒に染めた。後で質屋へ持参した時、「ツイードの黒というのは珍しい」といわれたが、さらに困ったのは、靴磨きに頼んで染めてもらった靴は、はいているうちに、下地が浮き出て来て、なんとも怪態《けつたい》な色合いとなり、Kさんもとより見抜いていて、「野坂さんは、染めるのが好きねぇ」といったことがある。  戦前から、鶯谷近辺は連れ込み宿が、いくらかはあった、美校のモデルが、学生としけこむ話など、聞いていたが、こんな話題を持ち出すわけにいかぬ。しかし、一度、桜木町あたりの、古い家並みの中の、ごくつましい宿屋から、はんなりした人妻と、まことにハンサムな青年があらわれ、人眼をさけるのだろう、道の左右に眼をくばる女の瞳《ひとみ》が、その時だけ鋭く光り、すぐ少しおどけたような表情にもどって、ついとさしのばしたその指が男の指に一瞬からみ、すぐ離れて、二人左右に別れていく。「みいちゃった、みいちゃった」Kさんが小声ながら、はしゃいでいい、東京へ来て四年近く、ぼくははじめて、東京弁を耳にしたような気持だった。  それと、犬がトラックに轢《ひ》かれ、車体の下をくるくるころがって、大した怪我はしなかったのだが、悲鳴上げた時、ぼくの肩の後にKさんは顔を伏せた。ナイロンの靴下は、もう一般的になっていたと思うが、伝線して、恥かしいからはきかえると、店屋を探したけれど、谷中には見当らず、一筋裂けたナイロンから、浮かび見える白い肌と、はきかえなさる姿が入りまじって、冬の日ながら汗ばむ思い、あのままさらに時間が経過しても、どうということにもならなかったろう。今では、そのホクロくらいしか思い出せない。これを泣きボクロということを、Kさんによってはじめて知らされたのだが、ぼくの頬《ほお》にあるのは、「それは河内山、高頬のホクロ、いけないんですってよ」といった言葉も、時によみがえる、たしかにいけないような感じですな。  Kさんは二十九年、戦前からアメリカに住む伯父《おじ》上をたよって、海を渡った、数えでいえば「二十七まではお嬢さんでいるの」という、その年齢に当る、「男ならいいけど、女だとまだ妾の子っていうのは、いろいろあるのよ」と、ある時、つぶやいていた。  谷中から車に乗り、天神下へむかった、湯島の切通しを下って、すぐ右へ、美術商「羽黒洞」の、ものものしい構えを過ぎたところに、割烹《かつぽう》「魚志ん」の店がある。  歩いて一分もかからぬ一劃だが、年月を経た木造三階建ての、珍しい家並み。「魚志ん」には、食通丸谷才一氏に連れていっていただいたのだが、その味のほどは、すでに氏が麗筆をもって、余すことなく紹介なさっている。  天神下の十字路を中にして、はすっかいの辺りに、以前、旅館「乃なみ」があった。昭和四十年代初頭か、ぼくはここで、吉行淳之介氏、近藤啓太郎氏、阿川弘之氏とよく麻雀の卓をかこませていただき、文壇の一端をうかがう栄に浴したのだが、昭和四十四年の秋、ある出版社から対談のゲラがここへ届いて、すぐに手を入れなければならない。  一室とるのも気恥かしくて、表へ出た、通りにはバァ、レストランがならぶから、そこへとの心づもりが、なんとなく足は切通しの方へ向って、つまり暗い道をえらんだのだ。対談のお相手は三島由紀夫氏だった。題して「国家とエロチシズム」ときては手も足も出ず、惨澹《さんたん》たるもの、それが地ならいたしかたなく、貫禄のちがいはもとよりのこと、ただもう無知|蒙昧《もうまい》のほどさらけ出し、あげくのヤケッぱちも、ただ見苦しいだけ。  手を入れる勇気がない、あらためて読みかえせば、首くくりたくなるにちがいない、第一、無い袖はふれぬ道理で、何をどう加筆削除すればいいのか。  ゲラの入った袋を持ち、暗い坂道のぼりかけた時、突然、もののはぜる音がして、あたりが明るく照らし出された。向い側の、飲み屋とおぼしき一軒の二階の窓から火が吹き出ている、車は気づかぬのか、通り過ぎていく、歩道に人影はなく、やがて階下にも赤色が見えはじめる。なにやら現実味にかけた風景だった。深閑とした家並み、といっても、ビルにはさみこまれているのだが、誰も気づかず騒ぎ立てない。  くすぶっていたものが、一気に焔と化した如くで、たちまち家の枠組みがあらわとなり、ようやく消防車のサイレンのひびきが近づく、それでも弥次馬の姿は、すくなくとも通りには見えなかった。  放水はただ延焼を防ぐためで、ぼくは結局、はじめから終りまで、火事を見物したことになるが、あたりに元の暗闇がもどった時、ぼくの、誰にも尻もっていきようのない鬱屈はきれいさっぱり失せていた、どこまで本当か判らないが、女性は月のめぐりの頃に、よく万引きをなさるという、これに当るのが、男性の、はっきりした理由もなく、ただムシャクシャしたからと、つける火であろう。ぼくはこの時、つくづく犯人の気持が判ったように思った、火の色、はぜる音、煙の臭いもさることながら、燃え上る家の姿は、ちょいと別乾坤《べつけんこん》へトリップさせる効果がある。結局、一字の訂正もないまま、版元にゲラをかえし、この後もう一度、三島さんと対談、三度目の話が持ち上った直後、氏は自決なさった。  今みれば、どの家が焼けたのか、まるで判らぬ。あるいは、火事などなかったのではないかと思えるほど、いずれも同じ表情。「魚志ん」の一劃の、あの落着いたたたずまいにくらべれば、十年二十年のちがいなど、誤差みたいなものだろう。ハモの焼きものと水貝で、久しぶりに日本酒を飲み、天神様へ向う女坂をのぼって、境内にいたれば、あたりのほとんど、連れ込みホテルのネオン。  まこと十二契のその三は「想い湯島の切り通し」。 [#改ページ]   線路渡れば夢うつつ  昭和二十年代の後半、新宿でずいぶん女を買ったように思うのだが、さて考えてみると、三人の娼婦しか記憶に残っていない。  一人は通称「二丁目」といっていた赤線地帯の、「レダ」なる店にいたサチコ、一人は花園神社裏の、青線の女で「いさみ」のノブエ、同じ一劃のヨシコ。  夜逃げをくりかえして、転々としていたが、なんとなく新宿こそわが町といった感じで入りびたり、金があってもなくても、とりあえず悪所ひとまわりしなければ、気持が落着かぬ。高校の頃、すでに遊廓に足を踏み入れ、同輩の中ではなれていた方だが、初めて東京で登楼したのが、何時どこであったかまるで覚えていない。  二十五年いっぱいは四谷塩町近くに住んでいた。大木戸、三光町と来て、ここで都電は左にカーブし角筈へ向う。三光町の手前左側に、内外ニュース劇場があって、その前に仲通りという、鈴蘭《すずらん》灯を飾った広い道がのびて、改正道路にぶつかる。  都電の道筋と、仲通りと、改正道路にかこまれた一帯が、新宿の赤線つまり特殊飲食店街だった。  塩町から直接、二丁目にくりこんだことは、まずなかったろうと思う。たいていは歩いて、武蔵野館裏のマーケット、あるいはムーランルージュ近くの「五十鈴」で飲む、焼酎二はいとビール一本をチャンポンにすると、ほどよく酔えて三百円。地下道をくぐり西口へ足をのばし、「シルバースター」なる残飯シチュー屋で大盛りいっぱい三十円。これでまず準備がととのったことになる。  飲むのはともかく、シチューは何のためかといえば、若いくせに、これから精力を消耗するのだから、あらかじめ補いをつけておこうという配慮。当時、ぼくは何をするにも体力が第一と、妙な肉体主義にとらわれていて、ギラギラと脂の浮く、しかし爪楊子《つまようじ》、ミカンの皮ならまだしも、ルーデサックさえ時には混じる丼をかかえ、摂取と排泄《はいせつ》のバランスを計算したのだ。  さて、そのまま大久保駅方向に、だらだら坂を下れば、今も当時の面影を残している小便横町で、大ガードをくぐり抜け、角筈へ向う。都電の終った後で、何台も数珠《じゆず》つなぎにならび、左側の歌舞伎町も、二十五年頃はまったくさびれていた。その少し前、博覧会が開かれたとかで、跡地は荒れたまま放置され、映画館など一軒もない。  花園神社の手前に、都電の車庫があった。見附、半蔵門経由月島行き、九段坂下小川町経由岩本町行きとは、まるで別の路線がここから出ていたように思う。どこへ行くのか、当時も乗ったことはなくて知らない。  この都電と、早稲田の裏、面影橋あたりを走っていた電車、また四谷から赤坂へかけて、歩道より低いところを、トコトコゆれながら下りていった電車、いずれも印象深いのだけれど、ついに花電車、見るばかりだった。  レールに沿って、タールを塗った枕木《まくらぎ》が並んでいる、花園へ入るには、さらに先きまで行って、神社の手前を左へ曲り、しばらく行けば右側が小学校、細い道へだてて、びっしり文字通り狭斜の巷、六本ある路地のいずれかをえらぶのが正道。なれど、枕木の柵の間をくぐり、搦《から》め手から進入することもできて、ぼくはいつもこのルートだった。  現在、この都電は撤去され、跡が遊歩道とでもいうのか、心細げな木が両側に植えられている、児童公園とやらの、みみっちさとよくにた感じである。 「いさみ」は、右から二本目の通りにあった、女は常に二人しかいなくて、ノブエさんは、ここの主《あるじ》みたいな感じで、相棒はよく入れ替ったが、二十七年秋までいた。  怒り肩で腰が張り、肉《しし》おきは堅く、何度も客になりながら、はたして歳がいくつくらいだったのか、当時、あまり気にしていなかったらしい。なんとなく海女《あま》出身のように思い、なぜ通ったかといえば、ただ肌馴染みというか、べつに同じシマで箒《ほうき》をしてもさしつかえはなく、他の花にうつろうこともよくあったが、彼女のかたわらに身を横たえている時、いちばん落着けたのだ。  花園は午後十時頃、いちばん賑《にぎわ》っていた、酒の入っているせいもあるが、嫖客《ひようきやく》をしさいに観察するゆとりなどなく、せかせかと歩きまわる。店の造りは似ていて、ドアの位置は違っていても、すべて間口は二間、せまい土間、実に粗末なカウンターと、空の酒瓶ならべた棚、左右どちらかの端に急な階段がある。  二階はそれでも細い廊下があって、左右に二部屋、廊下の突当りの天井は、揚げぶた風で、開いて梯子を下せば、天井裏にも一組寝られる仕組み、娼婦の部屋には、えてしてフランス人形や姫鏡台、あるいは嫁入り仕度の如き調度が飾られているものだが、ぼくの記憶する三人とも、ほぼ無一物だった。  花園の代金はショートが三百円、時間が五百円だった、一時過ぎてからの泊りが千五百円、この場合、女はたいていマワシをとる。  酔歩|蹣跚《まんさん》といった風情からはほど遠く、たいていトツゲキーてなもので、都電の線路まで驀進《ばくしん》してくる。ここでちょっと一息入れ、ここを過ぎて、さて何の巷といえばいいか、涙も虚飾も、肉欲さえもふさわしくない。が、とにかく、深呼吸してからおもむろに歩をすすめる。  青線には、ごくたまにとび切りの美人がいた。部屋と売春営業権を借りるだけだから、極端にいえば、借金に追われた人妻が三日間だけ漂着し、必要な額を稼ぎ去っていくことも考えられる。事実、美人はたいてい一週間と腰を落着けていなかった。  近頃、懐古趣味が流行し、まあこの文章もその内かも知れないが、二十年代特飲街の写真がよく紹介される。こっちが意馬心猿とはやりたっていれば、アバタもエクボで不思議はないけれど、もう少し娼婦たちは美人だったと思う。徒枕《あだまくら》交した仲故、身びいきがあるのだろうか、丁度売防法が施行された前後に、大阪からクラブが攻め上ってきて、女給すべて美形ぞろいと、評判をとった。ぼくがその実態に接したのはかなり後だけれども、とっさに「これなら二丁目の『アカダマ』の方が、ずっと上玉ぞろい」と、残念なことに比較の基準は、特飲の女しかいないのだが、「アカダマ」を別格としても、今のキャバレーよりは水準が上だったような気がする。  ぼくは美人が苦手だった、どうも甘ったれているところがあり、なにより気楽さが第一、そしてこれも差別意識だろうが、醜女《しこめ》の方がわが望みかなえて下さると、決めこんでいた。 「四畳半|襖《ふすま》の下張」の主人公は、初めて枕かわす芸者を、ひとつとりはずさせみせんとて、さまざまに手管をふるう。早番に御用済ませようとする女との、壮烈な肉弾戦を展開するのだが、ぼくなども、誰に教えられていたわけでもないが、娼婦を征服することが遊客の務めと信じこんでいた。つまり時間を長くかけるわけで、あるいは一分当りの揚げ代を安くしようという下心だったかも知れないが、とっとと終えりゃいいものを、なにかこう逆に買われている如く、教育勅語脳裡に浮かべたり、麻雀の点数は切上げになっていなかったから、三十八の五飜《ウーフアン》はなど暗算して敵娼の鼻息荒げるまで、持たしたのだ。  床の上手下手、また、千匹の、天井のという面についても、まったく気にとめなかった。ノブエさんは、ショートであっても、客のズボンを敷布団の下に置き、「私、寝押しがうまいの、うっかりすると筋が二本になっちゃうでしょう」という。勘ぐれば、乱暴にふるまうと、ズボンに妙なシワがつくという牽制《けんせい》だったのかも知れない。  果てれば即ち彼女は階下の手洗いにおもむく、急に嫖客の足音がかしましく、娼婦の呼び込みが耳に入る、お定りの裸電球、水差しも灰皿もない。  ふたたびノブエさんがあらわれる。こっちが身を起す、とたんに手品のように、彼女はズボンを引き出し、ぼくの身づくろいする間に、シーツをのばし、枕を叩いて形をつけ、犯行現場を立ち去る殺人者の如く、眼をきかせ、急な階段危いからと、必ず先きに立つ。  現在も、この界隈は、家並み道筋ほとんど変っていない。吉原はもとより、玉の井鳩の街洲崎、そして二丁目、往時を偲《しの》ばせる片鱗《へんりん》すら残らないが、営業内容こそまるで違え、不思議や命長らえてといった態、こちらの方が、大門の感じになった元都電軌条跡を横切り、この一劃に足ふみこむ時、ひょいと昔の意気込みが、よみがえるのだ。  ぼくは、ここの「まえだ」と、吉原は猿之助横町「かいば屋」でしか、今、酒を飲まない。「まえだ」へ行くと、まず年長の部類だから、席を譲られたりする、そして、たいてい何人かはいる顔見知りと、お互いにしか通じない話題をつい声高にしゃべり、傍若無人《ぼうじやくぶじん》に高笑いして、わがもの顔にふるまう。こういう時、背後にある視線を感じる。  こんな風ないいかた自体、いやったらしいとも思うが、かつて「五十鈴」で、「カヌー」で、あるいは「とと」で、ぼく自身が周辺に向けていた視線なのだ。 「五十鈴」には、早稲田派の小説家がよく集っていた、原稿用紙に一字すら書いたことがないのに、ぼくはいつかあっちにすわってやると考えていた、小説家の席は、奥の座敷で、いくら空いていても、ぼくなどは入れないのだ。  さらにこれのはなはだしかったのは、仲通りを、改正道路に入る手前、右へ入った「カヌー」だった、森泉笙子の名で小説を書く若いマダムが経営していた。ここには岩波の常連執筆者から、「漫画讀本」カラーセクション担当者まで、せいぜい六人でいっぱいになる広さのところに、入れかわり立ちかわり、ひしめきあう。ぼくや長部日出雄、梶山季之ですらザコのトトまじり、壁ぎわにヤモリの如くへばりつき、大家の酔態に眼をみはっていた。ぼくは週刊誌のコラムを書いていたが、主な収入はTVの音楽番組台本書き、こっちの才能は棚に上げ、ひたすらコン畜生と、ひがんでいた。「とと」はれっきとした文壇バァ、客の色分けがはっきりしていて、小説家と文芸評論家ばかり、うっかり入りこむと、さながら「文學界」と「オール讀物」の合併号、その生きた目次がずらりとならんでいたりする。この頃、半村良が、この店のバーテンダーをしていたらしい。 「まえだ」では、たしかにぼくは、「五十鈴」における「あっち」にすわっている。コラムを書いている頃、週刊誌の取材記者が、小説家に談話を求めたところ、「それは文学に関係のないことだから」とあっさり拒否され、口惜《くや》し涙を流していた。ぼくはその時、小説家を無礼なりと思ったのだが、近頃、ぼくもまずはケンもホロロに断っている。電話をきった後、ふと以前のことを思い出し、さぞかし恨んでいるだろうと考え、しかしまた、せいぜいひがむことだ、そねみが汝を珠にするなどとうそぶく。  ただ「まえだ」で、かつての自分の視線と同じ類いのものを意識すると、もはや新宿はわが町ではなくなったと思う、二十年代後半の新宿は、恥辱と悔恨を石ころの如く拾い集め、泥酔の海にとびこむ町であった。  ぼくは、自分の経験した新宿を、小説の中でそれほど書いていない。新宿でのことに限らないが、この時代のわが営み、ちとまだ整理しにくい感じがある。  同じ花園の、はずれの筋に、ヨシコがいた。彼女をなぜ覚えているかというと、毛虱《けじらみ》を飼育していたからだ。  水虫、魚の眼は知らないが、たいていの皮膚病を経験している、アカギレ、シモヤケ、タムシ、インキン、カイセン、シラクモ、ハタケなどで、ぼくはべつにマゾの傾向などないつもりだが、こういった疾患は、つきあいようによって、かなり性的快感に近いものをもたらす。  子供時分、真赤に腫《は》れた指を、友人がまず火に焼き殺菌した針で、突き刺し血を抜いてくれたことがある、針の穿《うが》った孔《あな》から、気のせいか毒々しい色の血がもり上り、友人は力いっぱいしぼり立て、どうもこれはホモっ気みたいな感じだけれど、ぼくはかなり恍惚《こうこつ》としていた。  インキンの場合、陰嚢《いんのう》の表皮が剥離《はくり》するが、これをきれいにはぎとり、その下のじとじとした皮を、指の腹でじわっと押す時の異様な感覚。カイセンなら、熱い湯に身を沈め、かゆい部分の毛穴の一つ一つに、鋭い金属線が内にむけて突き刺さる時の、えもいわれぬ法悦境。シラクモ、ハタケは、ひっかけば乾いた粉が際限なくこぼれ落ちて、これは幼児性をしめす以外の何ものでもないが、楽しい作業なのだ。  男には、多かれ少かれこういった傾向がある、そして女にはまずないのではないか。老後の楽しみに、こういった分野の研究がなされるといい。  毛虱は皮膚病ではないが、多様な愉悦を与えてくれる。ふつうの虱は、一匹二匹たかっただけでも痒《かゆ》い、だが、毛虱は、核分裂における臨界量の如く、ある程度の頭数がそろわないと、症状を自覚するにいたらぬ。  そのかわり、一度痒みが発生したら、爆発的とでもいうべく、いったい何事が起ったのかと、首の骨も折れよと、誰だって入念に調べるだろう。  肉眼ではすぐに判らぬ。もぞもぞと掻《か》くうち、妙にフニャフニャした、しかし確かな質量を持ったものが指にさわり、たいていは毛なりに慎重にとり出すと、これなん、超小型のカニみたいな生物、ここにいたって、正体が判る。ランプ引き寄せ、パンダの昼寝風にしどけない恰好《かつこう》でのぞきこむと、毛根のあたりが少し浮き上ってみえる、ペン先でほじくり、つまみとる。  水銀|軟膏《なんこう》が名の通り、水銀化合物であるのかどうか知らないが、今は薬局でも売っていない。只今、毛虱が寄生した場合、いかにして治療するのだろうか。とにかく毛虱に対し、水銀軟膏は劇的効果をあらわす、この薬は強いから、塗布後二時間で、風呂へ入り、洗い流さなければならぬが、これは狂信的国粋主義者のなすという、禊《みそぎ》の法悦もかくやと思うばかり、まさしく脱皮した後の蛇のように、さっぱりした気持になれるのだ。  ヨシコさんを敵娼にえらび、二月もすると必ず毛虱の大発生があった。前後にも異なる花にしたい寄っているのだから、当初、誰とも定めがたかったが、他にうつされた者が三人いて、推理のあげく、判明し、ぼくは二度、虱をいただくため登楼した、これほど安上りの暇つぶしはないのだから。  不思議なことに、本家はいっこう痒がる風もなく、だから放置しているのだろうが、何度か、毛虱がマツゲにつくようになったら衰弱して死んでしまうという風説をつげようとして、そのアッケラカンとした表情をみると、ちといいかねた。  新宿をうろついている頃、本当に金がなかった。いや、風変りなアルバイトをして、なまじの勤め人より稼いではいたのだが、金が入れば大盤振舞い、たちまち文無しとなってこの町に舞いもどる、懐のあったかいうち、憧れの「アカダマ」へでもあがればいいのに、不思議になかった、恐《こわ》かったのだろうか。  質屋をだまし、親の顔に泥を塗り、盗みかたり詐欺カツアゲまがいで、辛うじて手にしたせいぜい千円をにぎりしめ、うろついてこそふさわしい巷だったのだ。 「アカダマ」はショートの客をとらず、時間遊びからで千八百円、時間といっても四十分、十二時からの泊りは、二万円といわれていた。古めかしい形容だが、映画女優みたいな美人が、冬なら寒そうな様子を隠しもせず、それは商売として立っているのではなく、深窓の令嬢が、友人を見送って門口に佇《たたず》み、思いがけぬ寒さにふるえ上った印象、こっちも対抗上、女を買いに来たのではない、この先きで同人雑誌の合評会がありますてな表情をつくり、とっとと過ぎてしまう。  仲通りと交叉《こうさ》する柳の植わった道路を、左に折れ、二本目の右の側に「レダ」があり、名の通り、壁に白鳥がえがかれていた。常磐松の御所から、学習院へ皇太子が通う時、改正道路に面した娼家が、目ざわりであると、塀をめぐらせたが、そのあたりに「ナナ」という、これは名は実をあらわして、フランス人形みたいな女をそろえた店もあった。「ナナ」の方は娼婦の出入りが激しく、馴染みはできなかったが、この店の土間で、やくざのリンチを見たことがある。  特殊飲食店という通り、二丁目の店もいちおうバァの体裁を整えていた、カウンターに若い男が、二人に腕をとられて背を押しつけられている。その顔に、レコードの針埋めこんだ割箸を、兄貴分らしいのが投げつけるのだ。藤本義一のえがく、痘面《あばたづら》に煙管《きせる》ひっかける芸人ほどではないが、五、六本が顔に刺さり、ひたすらゲームに興ずるような兄貴分の表情が、しごく無気味だった。酔ったあげく、時には身のほど知らずな喧嘩もしたが、これを見てから、逃げるに如《し》かずと心に決めたのである。 「レダ」のサチコさんは、気のいい娼婦だった。まずベレーをいつもかぶっていて、これを「ベレー帽子」という、六畳の何もない部屋の、床の間にゲーテの詩集と、ハイネの「恋愛論」、レマルクの「凱旋《がいせん》門」、八木重吉の詩集が、それぞれ裏返しにした原稿用紙のカバーをかけられ、その上にタイトルがペンで記されていた。  今思うと池内淳子さんに似ていたような気がする。指占いとかに凝っていて、その形、五本のバランス、指紋により吉凶を判断する、「あなたは芸術家になる人よ、子供さんは二人ね」というようなことをいわれた、子供については当っているけれど、当時、ぼくはどんな指をしていたのだろうか、今ながめれば、関節ふしくれ立ち、革命が起きても、まず労働者とふまれる形状なのだが。  とにかく女性と町を歩いたのは、もの心ついて以来サチコさんが最初である、銀座へリズ・テーラー初出演「緑園の天使」を観に行き、そのかえりに彼女の希望で、パチンコをした。ぼくにもコツなど判らないのだが、おぼつかないその指にわが指そえて、コーチしている時、まったく突然、結婚するならこの人であると、天啓の如《ごと》くひらめいたのだ。  サチコさんは、左の親指が短かった、それは一生、家庭的に恵まれないしるしなのだという。二十七年の二月だったと思う。  本来ならやがて大学四年、そろそろ卒論の準備にかかる頃だろうが、まるっきりの単位不足。  ぼくの父は、当時、副知事をしていた、このあたりが何ともお粗末なのだが、親の威光をかさに着れば、現在お先きまっくらでも、サチコさんの気持を傾かせ得るように考えたのだ。「レダ」以外の場所、新大久保、高田馬場の連れ込みで抱き合った、いわゆる温泉マークもこれが初めての経験だった。  ぼくは父親に名刺を一枚もらい、これを身分証明のようにして、サチコさんに見せ、この伝手《つて》で、大学は出られなくても、勤め口はあるといった。  そして彼女はいなくなった。三月後、二幸の前で、色の浅黒い、頬のこけた男と腕を組んで歩くサチコさんと会った、昼間だったがぼくは酒を飲んでいて、前後のわきまえもなく、明日二時、尾張町の服部時計店の前で待っていると、かきくどいた。  男は泰然と、少し離れた場所に立っている。「あれは誰?」たずねたら、「ブラジルで農園を経営している人なの、麻雀にさそわれて」と答えた。翌日ぼくは午後九時まで待った、七とこ借りの裏をかえして、三千円の金を持っていたが、ふられたと判って、その夜どうしたか覚えていない。  現在、「アカダマ」のあった通りに、いささか往年の面影をしのばせるヌードスタジオと、呼び込みの女が佇む。二本目の筋を左に入れば、「カヌー」と雰囲気の似ている「ナジャ」がある。柳の植わった道を、四谷方向へ行くと、「カヌー」のバーテンダーだった謙ちゃんの経営する「ユニコン」、その他にも、もとより盛り場の営みはうかがえるけれど、紅灯の巷変じて、ゴルフの練習場になったり、レンタカーの会社ができたり、赤線青線が消えて四半世紀近い、これをとりまいていた都電の線も失せて、往事はただ茫々。  かつて都電の線路をこえて、この二つの区域に入る時、一つはずみをつける必要があった。  今も、同じくだが、それは、女を買うぞと、雄々しい気持に基づくものではない、足腰なえてただ小金をいだく者の、小心な怯えなのだ。そして新宿には、もはやヘドもない、仰げば、高層ビルの、赤い標識灯だけ。  十二契その四を、今にちなんでいえば「落ちぶれ芸人のゲイバァ通い」。 [#改ページ]   六本木、消えた坂道  郵政省の前、ソ連大使館の六本木寄りに、植木坂というかなり急な坂がある。横関英一氏の「江戸の坂、東京の坂」によると、江戸末期、坂の下り口に植木屋があったことから、かくは名づけられたらしい。別名「鼬《いたち》坂」ともいって、このあたりの地名は狸穴《まみあな》というのだし、百年も前は、まことに辺鄙《へんぴ》な場所だったのだろう。  植木坂を降りきったところに、鳥海青児、美川きよ夫妻の住いがあり、その裏のアパートに、ぼくは昭和三十二年秋から、二年間住んでいた。  大学教授が退官後に建てたもので、六畳二間台所風呂つき、家賃二万五千円、当時としては洒落《しやれ》た部類だった。  なんとかまともな屋根の下に住んだのは、ここが初めて、狸穴の前は、新宿西口八百屋の二階、壁一つへだてて、店の息子が寝起きしていたが、ある夜、いわゆるポックリ病で亡くなり、へだてる壁に祭壇がつくられたらしい。お通夜と葬儀の間中、仏様と背中合わせ、ありがたいお経さんざ聞かされ、閉口して逃げ出したのだ。その前が、市ヶ谷の三木鶏郎事務所宿直室、さらにさかのぼると、四谷若葉町の三畳間、この部屋はぼくの出た後しばらく、永六輔が仕事場に使っていた。  二万五千円の家賃は、しがないラジオコント屋に重荷だったが、なにぶんそれまでが、流れに浮かぶ塵芥《ちりあくた》の、杭《くい》にひっかかり、石垣にへばりつくが如き流浪の明け暮れ、家財道具は無いにひとしい。  あまりガランとしているのも落着かないもので、まずTV受像機を月賦で入れ、氷の冷蔵庫を同じく求め、するとはずみがついて、ベッド姿見衣裳箪笥、いりもしない調度を、やたら買い込み、破産しかけて、あやうく取込詐欺になりかけた時、CMソングの「セクシーピンク」がヒット、いずみ・たくの驥尾《きび》に付して、ピンチをきりぬけたのだ。  ぼくの住んでいた頃は、江戸時代から、そう変っていないはずの、六本木界隈の地形を、自分の眼で確かめ得た。赤坂見附から虎の門にいたる以前の外堀と、青山一丁目から墓地下を過ぎて霞町、日赤病院下へ向かう低地にはさまれて、竜土町、六本木、三河台町を結ぶ通りは、馬の背の如き印象だった。左右どちらへ入っても、急な下り坂、そしてその坂は、石畳だったり、階段だったり、神戸の、ただやみくもに山から海へくだる坂とちがって、鬱蒼たる樹木の繁みとあいまち、いずれもいわくありげに思える。  戦前の六本木についてはほとんど知らない、お菓子の「青野」、永坂のそば屋「更科」、鰻《うなぎ》の「野田岩」は、少しはなれているけれど、それから花屋の「後藤」、及び赤坂第一連隊の司令部、乃木神社、新坂の生長の家本部。戦後も、狸穴に住むまで、およそ関りのうすい町だった。ただ、ここには都心ただ一つの米軍基地として、連隊司令部は接収されてハーディバラックス、竜土町の突き当りに、通信大隊の兵舎があって、進駐軍というと、怖いものみたさで、周辺をうろつく癖があるから、いずこもかわらぬ基地の町の表情を、主に夜ながめたことはある。  二十軒ほどのバァ、それに品の悪い骨董《こつとう》屋、中国名の洋服屋が目立ち、進駐軍専用クラブとして、青山一丁目近くに「コスモポリタン」、飯倉に「ゴールデンゲート」  六本木の交叉点から、竜土町まで、当時すでに道は、現在の広さになっていた。進駐軍のため拡張したという説と、戦時中、連隊の行進の便を考えて、なされたという説がある。なんにしても、戦後のこの町は、進駐軍と、ややこじつけるならば、広げられた道幅によって大きく変った。  三十一年頃から、米軍相手だけでは成り立たなくなって、バァやクラブは、日本人客を歓迎しはじめた。臆することなく飲みはじめたのは、基地まわりでGIになれているジャズメンたちだった。彼等がおそい仕事を済ませ、さて飲むとなっても、銀座は看板が早い、六本木は明け方まで営業して、一種の治外法権区域、さらに、道が広いから車を駐《と》めておける利点があった。  三十二年春に、日本で最初のボトルを預かる制度を、「コスモポリタン」が採用し、その名もキイクラブ、「ゴールデンゲート」は「88」と改名し、横浜の「根岸屋」風、寿司ラーメンビフテキ赤だしと、和漢洋こきまぜて、女もまた素人《しろうと》玄人が入り乱れていた。  ジャズメンが乗りこみ、つづいてTV局関係者が、同じ理由でここの飲食店を利用しはじめた、つづいて、道楽息子が、いずれも中古ながらベンツ、MGなどを駆ってあらわれた。彼等の溜り場は、台町の「レオス」、遊び好きな少女が、ベンツにひかれて「レオス」詣《もう》で、これすなわち野獣会などのカッペ登場する以前の、純正六本木族。さらに、三十二、三年に銀座で猖獗《しようけつ》をきわめたゲイバァが、軒並みつぶれて、この地へ移って来た。三十四年、TBSに加えて、NET、フジTVが開局、いずれも車で一足の近さだから、ディレクター、タレントが六本木に押し寄せる。  進駐軍がいたといっても、台町、片町と麻布十番にはさまれた一劃は、外国公館が多いし、かの東洋英和女学院もある。石畳の坂に昼間もほとんど人影を見ず、江戸の頃、儒者、医者、画家が住んで、閑静な住宅地だったという、そのままが残り、逆の側もほぼ同じ、霊南坂あたりは、起伏の多い麻布の中でも、特に地形が入りくんでいて、そこに古い長屋、寺と公館の建物がならんで、いっこう違和感もないのは、樹木と、坂の多いせいだろう。坂は、自然そのものだから、たいていの人為はとりこまれてしまう。  狸穴のアパートにいて、こんな風に整理しつつ観察していたわけではない、台所用品もとりそろえたが、やはり面倒で外食が多くなる。植木坂をのぼり、右へ行くと、ソ連大使館の先きに「ハンバーガーイン」があった。ついでだけれど、この二軒先きの魚屋は、常にいい品をそろえていた。魚についてきわめてうるさい友人、皆生《かいけ》温泉「海潮園」主人・中島敏行が感嘆し、「やはりお屋敷町を相手だから、吟味するんだろうけど、瀬戸内の魚が、こんなに新しく入るというのは不思議だ」。ぼくのアパートへ泊るたび、朝早くこの魚屋へ出かけて主人としゃべりこんでいた。  風呂も後始末が面倒だから、山肌を縫う木樵《きこり》道のような細い足場をたしかめつつ、これは大袈裟ではなく、夜など懐中電灯を持たなければ、とても歩けない、右は石橋ブリヂストンの社長邸、左は深い低地で、ラグビーグラウンド半分くらいの平らな底に、家が一軒だけ建つ。  下りきると公園があり、五、六軒の商店がならぶ。中に一軒バァがあって、およそ人通りなどないのに、いつも嬌声《きようせい》喚声けたたましく、一度のぞいてみようと思いつつ、恐怖感が先き立ち果せなかった。その前に古い銭湯、一風呂浴びて下駄ばきのまま、ソ連大使館横の狸穴坂、今にも辻斬《つじぎ》りが出そうな寂しい坂をのぼると、「ハンバーガーイン」。洗い桶《おけ》かかえてビールを飲んでいたら、ある時突如エンジンの音がひびき、黒っぽいスーツ着こんだいずれも背の高い男が五人入って来た。  この店はカウンターにテーブル三卓、ジュークボックスを置いて、いわばスナックのはしりといえばいいか、ハンバーガーの他、野菜をこまかく刻んでまぶしたスパゲッティ「バジリコ」が名物、酒も置いていた。  自動車修理工、メソニックビルの外人、郵政省の役人と、客は雑多だが、黒いスーツ姿は珍しい。みていると、追っかけるように美少女の一団があらわれ、ごくおとなしく飲みはじめて、会話の内容は、これから車をつらね、軽井沢へ出かける相談なのだ。  初夏の頃だった、東京タワーの、はじめはてんでに伸びる角の如き怪態な四本の鉄骨も、すでに塔の形にまとまりつつあった。彼等のうちの何人かは、よく軽井沢との間を車で往復しているらしい。ぼくは道路事情の変遷についてまったくうといのだが、後で聞くと、この当時、バイパスができてなかったから、まず不可能のはずだそうだけれど、たしかに連中は、軽井沢東京間を三時間でふっとばすといっていた。  ハンバーガーを包ませ、ビールをケースごと車のトランクに入れ、彼等は出発した、美少女の一人が、みっともない姿のぼくに、チラリと視線を送ってよこし、べつにみじめな気分になることはない。いかにCMソングで泡銭《あぶくぜに》稼ぐとはいえ、ベンツに別荘、美少女は別世界のことである。  デリカテッセン「レオス」は、下が西洋お菜屋、二階がレストランになっていて、ここでもぼくは散歩ついで、よく飯を食った。そして、おしゃれな若者と美少女の、決して二人だけではなく、常に十名近く群れ集い、若者はたいてい寡黙、美少女たちはおしゃべりで、その呼び合う名前は、カマス、ジュリー、マサコ、シーちゃんなど、ことさら観察したわけではないが、しばしば一緒になって、その会話を耳にしてれば、およその事情は判る。  若者の中に、少し前の大臣の息子が二人、著名な外交官の悴《せがれ》が一人混り、いずれも富裕な階級、まだ慶応、成城あたりの学生らしい。美少女たちの家庭はこれにくらべて、やや落ちる感じで、親も夜遊びを黙認しているのではなく、家を抜けでる苦心をよく語り合っていた。  赤線が廃止されてしばらくのことだったと思う、六本木へ移ってから、新宿にも、もちろん玉の井、鳩の街へまで遠征する気力を失い、CMの打合せは赤坂、銀座で行われることが多いから飲むのも自然にそちらへ移り、ジャズ喫茶「テネシー」、シャンソニエ「銀巴里」で、ようやく素人娘と口をきくチャンスを得た。そして、六本木族のはしりに刺戟《しげき》されたのか、この頃から三十五年にかけて、ぼくはもっぱらスカートハンティングに熱中した。  アパートに連れこむ夜もあれば、代々木、原宿、高田馬場のサカサクラゲを利用し、このくだりについてはいずれまた申し上げる。六本木とはほとんど関係ないことだし。  この時期は、ポピュラー音楽の分野でいうと、プレスリーが登場して、ロカビリーがもてはやされ、それまでの渡辺晋、中村八大、松本英彦、ジョージ川口、小野満の代りに、平尾昌晃、ミッキーカーチス、山下敬二郎が人気を集めていた。出版社系週刊誌、女性週刊誌が出そろって、生活必需品の如くなり、加えてTV時代の幕開き。この後、経済の高度成長時代に突っこんでいくのだが、ぼくの周辺をみていても、一つの変り目を迎えつつあることがよく判った、そしてその申し子が、スーツ着こんだ若者と美少女たちだろう。  三十五年頃から、マスコミによって六本木族と名づけられた若者が登場するけれど、まるで風格がちがう、倦怠《けんたい》の度合いに差があった。  三十三年秋から、ぼくはTV音楽番組を手がけはじめ、時を同じくしてヘルツェンノイローゼになった。食うに追われて無我夢中の頃はずいぶん無理しても、どうってことなかったが、なまじ先行きの目途が少しつくと、不安感が昂《こう》じて、ほんの些細な心臓の期外収縮に仰天、たちまち動悸《どうき》は早まる。呼吸困難から手足の先きが冷たくなって、実感としては瀕死《ひんし》の態。  心電、心音図、レントゲンをとっても、異常はないのだが、タクシーに乗り、なにやら息苦しいと思ったら、とたんに発作が起るし、いやな打合せを前にした時も、心悸昂進がはじまる。そこで酒に救いを求めた、年中ポケット瓶を所持し、危いと感じたら、ところかまわずラッパ飲みするのだ。今でも思い出すとおかしくなるのだが、朝、例の如くなってふだんより激しい症状だから、たまらず近くの医者へ出かけた。いつも診てもらう大先生はまだ寝ていて、病院に勤める若先生が出かけるところ、「心臓がとまりかけています」ぼくが力なくいうと、「そりゃいけない、すぐ行きましょう」奥へとってかえし道具一式をそろえ、「で、どなたですか、おわるいのは」「ぼくです」若先生、実にポカーンとした表情を浮かべ、「脈をみせて下さい」ぼくは手をさし出したが、医院の門をくぐった時、すでに発作はおさまっていた。  昭和三十四年当時の六本木は、しかし夜になると暗かった。四谷三丁目と浜松町を結ぶ都電の、車体をゆすりながら走る姿が、はっきり闇に浮いてみえた。交叉点近くで明るいのは「明治屋」と、その斜め向いにあるイタリアンレストラン「シシリヤ」のネオン、麻布警察署から材木町へ向う道筋、溜池へ下る坂道も、興行のある夜の俳優座をべつにすれば、深沈と静まっていた。  おそくまで灯の洩《も》れる店は、たいていゲイバァで、二年後、この|て《ヽ》の店は新宿へ流れるのだが、それも当り前、ぼくはわりによくのぞいたけれど、常に客はいなくて、同業者が暇つぶしの花見酒、新興コンビナート四日市は景気がいいとか、鋼管が工場建設をもくろんでいる福山がどうしたとか、年古りてみるかげもないおかまが、おねえ言葉でしゃべりあっていた。  他に、寿司屋の「すし長」、焼鳥屋「とり長」、ピザハウス「ニコラス」が目立つ程度だったと思う。三十五年春、四谷へ宿替えし、三十八年九月、ぼくはまた六本木へ舞いもどった。  このたびは妻と犬が一緒で、飯倉方向一本目を入った三河台ハイツがねぐら、まずはマンションのはしりだろう、六階建て二棟がならんで、その四階1DK、四万円。  七、八月と、大阪労音主催、ジョージ川口リサイタルの司会者を務め、八十万円のギャラが新居の敷金。同じ建物の二階にいずみ・たくの事務所があり、だがぼくはこの頃電波媒体の足を洗って、もっぱら週刊誌にみじかい雑文を書き、二人と一匹の食扶持《くいぶち》を稼ぐ。  引越してすぐ、ぼくは初めて小説を書いた、「小説中央公論」の依頼で、十枚ばかり、とにかく原稿用紙の桝目《ますめ》埋めたものを、角の喫茶店「アマンド」で、編集長岩淵鉄太郎と担当の水口義朗にみせ、二人がフーンと考えこんだから、「いや、これはまあ試作の段階でして、もっといい題材がありますから、もう一日待って下さい」何の当てもないのだが、いたたまれずさけんで、表へとび出し、追っかけて来た水口が、「例のブルーフィルムの小父さんね、あれなんかおもしろいと思うけど」といった。  結婚するまで、ぼくはブルーフィルム業界の顔だった、水口も何度か四谷の家で、この新作を観賞し、小父さんつまり配給元とも面識があったのだ。  水口のすすめに従い、何が小説か判らないが、とにかくおもしろきゃいいのだろうと、小父さんがらみのストーリーを進め、彼はとりあえず題名を決めたい、「エロ事師たち」ではどうかという。もじりとしても単純な感じで気はすすまなかったが、他にふさわしいものを思いつかないから、仰せかしこみ、約七十枚を一晩で書いた。原稿を渡したのは、やはり角の「アマンド」。直木賞を受けた「火垂るの墓」を、「オール讀物」の鈴木※[#「王+卓」]二に渡したのも、この店である。  四年間に、六本木はいちじるしく変っていた。三河台ハイツの周辺は、以前まったくの住宅地だったのに、レストラン、バァが進出し、また西洋長屋もいたるところに骨組をみせ、溜池から渋谷へ向う道は、高架道路が建設されるとかで、その完成予想図が掲げられていた。上下四方コンクリート造りだから、朝夕二回、犬を散歩させなければならぬ、それもできれば舗装されていない道がのぞましい、これのかなえられるのは、青山からの道と、渋谷へ向う通りにかこまれた一劃、ここにはけっこう空地が残っていた。  秋になって妻が妊娠し、となると1DKはいかにも窮屈で、次ぎなる住いを散歩がてら探し、竜土町にあつらえ向きの一軒を見つけた。  焼け残った土蔵を二階建てのアパートに改造し、屋上屋というかペントハウスと申すべきか、さらに掘立小屋をのせた一軒、部屋数四つ、風呂が付いて家賃五万円。三十八年も押しつまった頃、ここへ移った。  処女作「エロ事師たち」は、二回連載したところで雑誌がつぶれてしまい、この小説は三島、吉行両大家に認められたのだが、文壇ではゲテモノ扱い、というのも、黒眼鏡のプレイボーイであるとか、TVの寄生虫などいわれて、身から出た錆《さび》ながらまことに評判がわるく、小説の注文もないし、そのうち雑文のお座敷さえ、減りはじめたのだ。  せり出すお腹《なか》に反比例して、ふところは減る一方、いまさらTVにもどりもならず、家賃払う目途もあやしくなって、こうなったら早く引導わたしておくにかぎる。ぼくは、しばしば妻を質屋へ連れていった。金がなくなってもじたばたするな、カメラ、着物をここへ運べば、当座の用は足りると、教育のつもり、しかしほとんど効果はなかった。  年が明けて無一文となり、妻は頑として、自分の着物の入質を承知せず、しばし口論のあげく、「そうだ、いいことがある、ダダを預けましょうよ、血統書つきだし、買った時二万五千円だから、今なら十万の値打ちはある」犬をカタにするという。勝手にしろとほうっておいたら、本当にひっぱっていき、質屋の主人仰天して、「うちは生きものは扱わない」カウンターに足をかけたコリーにおびえつつ、いったという。  元土蔵の生活は、とにかく鬱陶しかった、湿気がいっさい逃げなくて、冬だというのに壁にカビが生える、月賦で買ったピアノを弾くと、部屋中に音がはねまわる、二階の住人はソ連大使館に勤めるスラブ人家族で、彼等がウオトカパーティをはじめれば、今にも天井が抜けそうな感じ、六本木はこの頃から変貌《へんぼう》の度合いを早めていたはずだが、出歩くことはほとんどなかった。  すぐそばに小林信彦が住んでいた。彼が編集長だった「ヒッチコックマガジン」に、ぼくは三十四年十二月号から翌年三月号まで、表紙のモデルをつとめたことがある。すでに小林は「虚栄の市」を発表し、「日々の漂泊」が直木賞の候補にあげられていたと思うが、毎朝十時頃、ひょこっとあらわれて、滔々《とうとう》と大衆文学論など論じたて、いつも生れたばかりの赤ちゃんを腕にかかえていた。  あまり時刻が一定しているから、理由をたずねると、つまり小林家ではこの時間掃除を行う、埃《ほこり》を赤ちゃんに吸わせないための、緊急避難なのだ。「大衆文学を語るには、やはり前田|曙山《しよざん》からはじめなければならない」と、早口で語る小林の卓説を拝聴しながら、こっちは明日の生計をどう立てるか、青息吐息だったのだ。  夜更けに「すし長」で、身重の妻と食べて、ツケにしたのはいいがなかなか払えず、その前をさけて遠まわりしたり、妻が、宝塚時代の友人を招待する、なるべくハンサムな独身者をそろえろといわれて、八方口をかけ、あらわれたのが佐藤重臣、石堂淑朗、長部日出雄で、その要望を十二分には満たしかねたこと、「週刊文春」に「この人と一週間」なるシリーズがあって、高名な作家が登場し、いささか女っ気が乏しいから、面倒みてくれといわれ、なんとかとりしきってついお相伴《しようばん》、はっと気がつけばトリッペルに罹《かか》っていたり、方角がわるかったのか、衰運の時期に当っていたのか、この元土蔵にまつわる記憶はろくなことがない。  翌年四月、ここを引払った。直接の動機はさほどでもない地震に家鳴り震動したからで、スラブ民族一家を二階にいただくトップヘビーの土蔵など、考えてみれば危険千万ではないか。  この頃から、六本木は原宿にさきがけて、若者の街ということになった。高度成長にぴったり身を寄せて、滄桑《そうそう》の変というも愚か、通過はするけれど、飲み食いはせず、四十二年の春、思いがけずアメリカ人に、面目一新した六本木を案内されたのだ。  米国の出版社クノップの、編集長ハロルド・シュトラウスが、「エロ事師たち」をアメリカで上梓《じようし》したいと申し込み、その打合せで飲むうち、三河台ハイツすぐ隣のレストランをおごってくれた。カニを主にした料理が出され、いつのまにこんな店ができたのかと、おどろいていたら、シュトラウス氏の方がよほどあたりに通じていて、いろいろ教えられ、何軒かまわってみたが、どうも、進駐軍によって拓《ひら》かれた体質がまたよみがえっているようで、なんとなくなじめない。これまでぼくは、店の名前をあげて来たけれど、この時期以後については、書く気がしない、ゴトウ花屋はいい、「クローバー」も、あたらしくなって以後、およそ風格が失われたけど、まあよろしい。しかし、かつての中国人が経営する洋服屋にかわって、ヨーロッパの仕立て屋出店が勢揃いし、ディスコとやらプレイスポットとやら、それぞれに妍《けん》を競っているけれども、伝統がなければいかんともしがたい、食堂のウィンドウに飾られた蝋《ろう》細工の料理の如き印象が強いのだ。  この一文を草するために、六回、ぼくは六本木へ出かけた。ゲイクラブが簇生《ぞくせい》していて、店子《たなこ》のすべて水商売のビルには、必ず一軒は、このての店がある、ディスコにも、ゲイの風俗は浸透していて、たとえばその踊りだけれども、店ごとに、あるリズムについて特別なフリをつける、ラインダンスの如く一列にならび、単調な動きをくりかえす、その客の表情はかなりホモ風であるし、老若男女美醜|貴賤《きせん》、勝手に踊るといえば言葉はいいが、ここでは自閉症すらも管理されている感じなのだ。これだけ飲み屋があり、そしてすぐ近くの鳥居坂には、泥酔者を保護する通称トラ箱の用意があるのに、この街で酔っ払っている人間は少い。  年中どこかでやっているバーゲンセールの店、粋がったようで野暮以外の何ものでもない名前をつけたディスコ、こけおどしに気をとられて国籍不明の料理をくわせるレストラン、いっそ若者の街というなら、ロンドンのカーナビーストリート、キングズロードまで徹底すればいい、グリニッチビレジ、カルチエラタンと比較しては気の毒だと思うけれど、要するに、小金を貯めた連中が、若者をくいものにするため、目先きの利ばかりを狙《ねら》って押し寄せたので、これも一種の自然破壊であろう。  今、ぼくが六本木へ行くとすれば、何の目的だろうか、われながらかえりみて、しごくプチブル的であると思う。しかし、日本共産党だって、プロ独裁をうたわなくなったのだから、プチブルというわが年代にとっては、きわめつきの侮蔑《ぶべつ》語を気にすることはあるまい。  まずゴトウで花を買う、ぼくはわりにケロッと女性に花をおくる、花束をかかえて舗道を歩くのは、ちょっといい気持のものなのだ。次ぎに「誠志堂」で、娘たちの本を求める、ここには種類がそろっている。「クローバー」は、オレンジシャーベットをつくらなくなってから足が遠のいた。  ごくたまに、武原はんの「はん居」へ行く。「パブ・カーディナル」でウイスキーを飲むこともある、一年ほど前、ここでぼんやりしていたら、酔っ払った外人女性が、突如抱きついて来たので、いささか待ち呆けのお百姓的期待がはたらいている。  それから笹はるみの店にも行く、戸川幸夫氏御縁戚のバァで、氏がアフリカで撮ったライオン夫婦の写真が壁に飾られ、それは雌ライオンが、ちょいとあんた、最近|御無沙汰《ごぶさた》じゃないといった感じで、雄の肩に手をかけているのだ。たてがみも美々しい亭主、実にうんざりといった表情であって、これをみていると、なんとなく心なぐさむ。  恒例によって、わが六本木をおさまりのいいフレーズであらわすとなると何だろうか、以前のイメージならいくらもある、東洋英和の生徒が俄《にわ》か雨にあって、いっせいに駈けだし、その中に裾をからげた尼さんがまじっていたこと、「ハンバーガーイン」で、人を轢《ひ》き殺し、目下保釈中の少年が、「車の事故でもやっぱり人殺しなのかなあ」と、くりかえしつぶやいていた姿、ゲイバァに制服の女学生を三人連れていったら、「私、調子狂っちゃう」と、ゲイ三人乱酔したこと、しかし、現在のこの街にはとりわけて心に残るものがない。  十二契の五番は「六本木、消えた坂道」。 [#改ページ]   銀座の川の水涸れて  昭和二十五年二月半ば頃だったと思う、三田で行われた慶応大学の入試をすませ、試験場で知り合った同じくお上りさんの男と、当てもなく焼跡を歩き出し、ぼくは当時、錠剤のヒロポンを常用していたので、躁《そう》と鬱《うつ》の落差が激しかった。  なにやかやしゃべりかける男をうるさく思ううち、「銀座というのは、どのあたりにあるんだろう」男がつぶやいた。なんとなくあたりを見まわすと、横に大きなビルがあって、その一階に英語で「オアシスオブギンザ」の文字が見える。  とっさにぼくは、「ここがつまり銀座ですな」こんなことも判らないのかと、ことさらおとしめる口調でいった。  しかし、ぼくも気がつかなかったのだ、そしてあらためて周囲をながめ渡した、「オアシスオブギンザ」の名前は、進駐軍と日本女性交歓の場所として、カストリ雑誌に紹介されていた。このビルは松坂屋であり、すると向うの窓すべてに生々しい焔の跡が残る建物が三越銀座店、向き合うのが服部金太郎創業の時計屋、昼間だったせいか、露店はなかった。  この二年半前、ぼくは八重洲口の果物店「千疋《せんびき》屋」で働いていた、九時から五時まで、もっぱら果物を磨いて日給五十円、銀座の眼と鼻にいながら、およそ足ふみ入れることなく、勤めを終えると、すぐさま新宿へもどった。戦時中、何度か親に連れられて上京し、当然、銀座をぶらついただろうが、何も記憶に残っていない、ぼくにとって、銀座初見参は、だからこの日といっていい。  しかし、銀座についての予備知識は、ひょっとすると東京育ちの連中よりも、持っていたかも知れぬ。両親と祖母が、若い頃東京で過ごし、浅草と同じく銀座についても、よく話していた。特に祖母の、美化された思い出ばなしは、子供の好奇心をそそり、異国情緒と江戸趣味の渾然《こんぜん》一体となった、不思議な世界なのだ。 「七丁目の資生堂パーラーには、彼と彼女がよく待ち合わせをしてぇてね、それにお稽古帰りの芸者衆もアイスクリームを食べてたり、こう二階がくるっと丸くなってて、中は吹き抜けだから見下してると誰が入って来るかよく判る」のだそうだが、子供にはそこがどんな雰囲気なのか、見当つかぬ。  ただ、「彼と彼女」「芸者衆」という言葉に、手の届かぬ、きらびやかな大人の世界を、おぼつかなく思いえがくだけで、今考えてみても、祖母はまたとないこの|て《ヽ》の教師であった。  意味は判らないのだが、七丁目には検番があって、「東をどり」の総ざらえをここでする、その前に人力車が轍《わだち》をそろえ、総ざらえの後、姐さんがたは、「吉田」でコロッケそばを食べるという。しかしこのコロッケは時間がかかって、つい待ちきれず、つなぎにもりをとる、コロッケそばまでお腹におさめると、帯が苦しくなって、ふうふういいながら、それでもかえりには、胡萩餅などをおやつに買う。  袋物、化粧品は吉野屋、履物が「大和屋」、足袋《たび》は「むさし屋」、櫛《くし》のたぐいは「白|牡丹《ぼたん》」、時計が「村松」、貴金属なら「天賞堂」と、祖母は今でいう名店を指折り数え、年のせいかやはり食べものにまつわる話が多くて、「天金」の天婦羅もいいが、タレが甘い、それよりも横町のちいさな店の、黒くて器量のわるいかき揚げがうまいとか、「竹葉亭」の蒲《かば》焼き、「末広」のビフテキ、「玉木屋」のつくだ煮、「コロンバン」のショートケーキなど、まことに詳しく説明する。  洗い髪で歩いていたら、後から仕込っ妓に「姐さん」と間違えられたのが自慢で、よほど芸者が好きだったとみえ、金春通りの金春湯の、脂粉の香にみちたたたずまい、板新道をお座敷にいそぐあで姿など、声色《こわいろ》入りで描写し、ぼくは一方で銀座をハイカラな街と想像しつつ、また当時、すでに愛用しているのは医者くらいなものだった人力車と、日本髪を結ったゲイシャさんがしきりに行き交う巷でもあるらしい。  しごく奇妙な世界を、思いえがき、すくなくとも神戸にこのような盛り場はない。  焼けるまでの元町は、万国旗と外人セーラーと本屋が、しっくり似合う通りだった、神戸駅は、瓦せんべいに楠公さん、新開地はスケートリンクに「民族の祭典」、三宮なら阪急の食堂、ニュース映画劇場、ゲームセンター、子供心に受けとめたどの街の姿とも銀座はことなって思える。だからまた、祖母の言葉を今もなお覚えているのだろう。  そして、昭和二十五年の銀座は、その十年ばかり前にきかされたたたずまいと、まるで別ものだった。  ここが銀座と判って、ぼくは祖母から得た知識をよみがえらせ、たしかに「鳩居堂」はあった、服部時計店の一階がPXになり、臨時の店が数寄屋橋の近くにあって、そこは「和光」と名乗る、歌舞伎座は焼け落ちたまま、両花道のある東劇の建物、三十三間堀といって父に笑われた川、「三十三間は、通し矢の方、数寄屋橋の川は三十間堀」こんな会話をかわしたのだから、神戸にいて、かなり東京のあれこれを話したらしい。土橋ぎわの写真館はたしか「江木」といった、邦楽座、水谷八重子、日劇、李香蘭、帝劇、森律子などの名前が、つぎつぎ浮かび、しかし、眼の前の銀座は、なまじ焼け残ったビルがあるだけに、ただうす汚く、そして三宮や大阪駅前ほどの活気もうかがわれぬ。  早稲田にいちおう籍を置き、あやしげな日銭を稼いで、四年間を過ごし、この年月、ほとんど銀座には行かなかった。新宿からなら都電の月島行き、渋谷なら地下鉄で、いかに面変りしていようとも、また奇妙な予備知識はあっても、ギンザの地名はお上りさんに荷が重く、足を向けはするが、それは東京に住む以上、時には挨拶しなければといった感じ、同じような田舎学生連れ立って、とっとと八丁裏表を駈け抜け、新宿へもどり、生きた心地とりもどす按配なのだ。  この間の変化について、だからほとんど知らない。踊りの会には出かけて、再建された歌舞伎座、演舞場からのもどり道、「資生堂パーラー」「吉田」に入りはしたが、どうも腰が落着かない、そして、時間がかかるといった祖母の言葉がまだ残っていて、今までついぞコロッケを食べないままなのだ。  昭和三十年の暮、ぼくは土橋の近くに移った文藝春秋社の、地下のバァで三木鶏郎氏と知り合った。そのすすめるまま、鶏郎事務所の留守番となり、三月後、冗談音楽がお上のさし金でつぶされてから、いささか鳴りをひそめていたトキの声が、ふたたびひびきわたった。「トリローサンドイッチ」「冗談劇場」「トリロー放送歌謡」と、三つの番組がほぼ同時にスタート、留守番たちまちマネージャー、花やかな芸能界に五里霧中のまま船出して、あっさり難破するのだが、三十二年四月から十月まで、ぼくは並木通り三丁目ABC館なる建物の裏へ、月の水揚げ三百七十万円を誇る芸能事務所の専務として、毎日出勤した。社長は永六輔だった。  ABC館の一階は、貸しデスクの事務所で、不思議な職業、たとえば電話器消毒会社、地番標示板メーカー、防衛庁出入りの自称兵器輸入業者など蟠踞《ばんきよ》し、唯一まともなのが、山本薩夫のプロダクションだった。この東側に幅二メートル、長さ十メートルの空地があり、そこへベニヤ張りの小屋が建ったので、机借りる連中と同じく三木氏は、「なんたって、オフィスが銀座にあれば、信用がちがう」と考えたらしい。  新宿のアパートから、はじめ自転車で通い、六本木へ移って後はタクシーが多かった。ぼくの育った神戸の市電は、たいへんスマートな車体だったが、軌条|輻輳《ふくそう》するあたりは中心街で、ここへの単独行は許されず、住いの近くを走るそれは、国道を一直線にのろのろゆれつつ進んで、乗物としてはじれったい、この影響か、東京へ来てからもあまり都電を利用せず、また都電の距離なら、たいてい歩いて飲みしろにまわしたのだ。  だから、この電車に乗ってながめた銀座の記憶は、通勤していながらほとんどない。朝といっても、業界の目覚めるのが昼近くだから、到着した時、デスク借りる連中はすでに大車輪で商談だか詐術《さじゆつ》だかに熱中、人との応対は近くのレストラン「ロートンヌ」を利用する。いざ中に身を置けば、銀座も白々しいもので、サックドレスなる、南京袋風洋服が流行の時代、ぼくは「白牡丹」「資生堂パーラー」を横眼に、どういうわけか「三」の字のつく広告代理店、東七丁目の三栄広告、東二丁目の三幸社、西二丁目の三晃社などに出入りし、また電通ラ・テ制作局、正式にはなんというのか、銀座高架バイパスの下に陣取るそこへ、かなり怯えつつ足ふみ入れた。他の代理店が木の机、また、ノータイ姿が多いのに、電通はスチールデスク、ロッカーで、吉田秀雄社長がお洒落とかで、社員すべてタレントとまがうばかりに着こなしがうまく、趣味もいい。  フジヤマツムラにあこがれ、「田屋」のネクタイをしめてはいても、いっこうセンスが身につかない。永六輔がアメ横でそろえた安い品の、取合せの良さを真似ても、所詮《しよせん》猿真似でしかなく、といって、「銀座テーラー」あたりで仕立てる力もない。ゴルフが一般的になり出した頃で、その専門店の花やかなセーター、ジャンパーを求めながら、足もとはバックスキンのしごくドレッシーな靴をはき、また、月賦で黒の背広仕立てると、Yシャツの襟《えり》の形が合わなかったり、先きの尖《とが》ったメッシュの靴、柄ものの靴下、チェックのシャツにチェックのズボン、今考えれば背筋の寒くなるいで立ち。てんからお上りさんを自認しつつ、祖母に聞かされた八十八カ所巡礼の頃、下駄ばきにぼろかくしのレインコート、これはこれでまとまっていたと思うが、いざ銀座川の水になじもうと高望みすれば、たちまち生地があらわれる。  当時、まだ銀ブラという言葉が残っていた、そしてこの言葉の生れた大正期の、銀座の中の江戸の気風が、まず震災で失せ、空襲で「東京っ子」の色合いうすれたとはいっても、柳の芽ほどにはそれぞれ在った。だから、銀座にぶつかると、お上りさんは狂う、俺は村中でいちばん風にならざるを得ないのだ。  真似れば真似るほど、その対象から遠くなっていく、そういった個性を持った街が少くなった。また銀座は、ごく短い間に、それまでの伝統をうけつぎつつ、ガス灯や電信柱、鉄道馬車、煉瓦敷きの舗道など、大忙しに開花の風とり入れ、まったくあたらしい街の風情を生み出した珍しい例ではないか。  いささか牽強付会《けんきようふかい》の説を申し上げるならば、元来、日本の街には広場がなく、散歩道もなかった、「カフェプランタン」の完成したのが、明治の末、大逆事件の直後だという。とすると、お上の正体みきわめた世間が、韜晦《とうかい》しつつ自分たちのプロムナードを、自然発生的ではあったが、造り上げたのが、銀座ではないか。 「カフェプランタン」の名付け親は小山内薫、造作を引受けたのが岸田劉生、その初期維持会員をみれば、黒田清輝、岡田三郎助、和田英作、森鴎外、綺堂、白鳥、荷風、抱月、光太郎、白秋、潤一郎の名が連なっているのだ。彼等によって開かれた銀座を、多分、慶応の学生がうけつぎ、大正リベラリズムの機運と呼応しつつ、はじめて世間様の、行進するのでも避難するのでもない、ただ銀座八丁ブラリブラリと歩く、それがなにより楽しみである街がつくりあげられたのだろう。  そのためには、店先きの品をながめているだけで気持のたかぶりを覚える由緒、伝統、気品がなければならない。また昭和六年に出版された安藤更生著「銀座細見」によれば、銀ブラ女性はよく横目を使うとあるけれど、互いに観察し合うのも散策の醍醐《だいご》味、要するに平面でなければならぬ。もとよりデパートのフロアが傾斜しているわけもなく、また高層ビルの中に、いわゆる名店はある、しかし、丁度、ぼくがABC館の裏小屋へ通っていた頃から、銀座は上に伸びはじめ、つれてなんとなく日に一度ここを歩かなければ落着かないといった人たちの、姿はすくなくなったように思う。目的を持った人たちのひしめくラッシュの街に変ったのだ。  三十二年の秋、ぼくはマネージャーを馘《くび》になり、事務所は赤坂へ移った。この頃、女と同棲していて、彼女の父親は雑誌「新青年」の編集にたずさわったこともあるインテリモボだったらしい。女学生の頃、土曜日にはいつも資生堂横の公衆電話のそばで、父親と待ち合せ、食事を倶《とも》にしたという。その時、祖母の記憶する時代より少しあたらしい銀座、戦争直前のこの街のたたずまいを、いろいろ教わったらしく、知り合うきっかけとなったのも、永六輔や、淡島千景の弟で後にディズニープロへ入った中川雄策などと、銀座の寿司はどこがうまいとしゃべっていた時。戦後の寿司といえば、まずお手軽な有楽町界隈に限られるところ、「昔はみすじ、新富ずしでしょう」ぼくが知ったかぶりをして、これが彼女の注意を惹いた。  先方も、「新富ずし」のあなごはうまかったという想い出話を、父にきかされていたのだ。  かえりみて、ぼくが、娘に伝えてやるべき、昔の街の色や香りがあるだろうか、神戸元町といったって、年に何度と数えるほどしか出かけなかったし、ぼくの知っている銀座、すくなくとも怯え覚えずにふみこめるようになってからのこの街は、雑駁《ざつぱく》過ぎる。  結局、ぼくは長女と二人、いささか気取って銀ブラきめこむ時、祖母からきかされた昔話を足がかりにしているのだ。まさか、小野ピアノ店が尾張町ライオンの裏にあって、この店は火事で焼けた、その隣が「ブランズウィック」、三島由紀夫のよくあらわれたバァ、ここでパパはほんの短期間ボーイ見習いをしていた。この店は、昼間こそ洒落た喫茶店だけど、夜になると男色の連中が集り、眉目《びもく》麗しき少年が席にはべる、中に、ひときわ目立っていたのが、若き日の美輪明宏とは、ちと説明しにくい。  ぼくの銀座は、どうも息子、いや孫でもいいのだが、男にしか語り継げないような感じなのだ。馘になった頃は、ジャズ喫茶全盛の時代、つづいてロカビリーの生演奏をきかせる店、トゥイストを踊らせる舞踏場があらわれ、銀座は急速に、若者に乗っとられていく。ぼくは「テネシー」や「|ACB《アシベ》」などへよく通い、すでに三十近くなっていたが、見様見真似の少女狩り、ついに一人の獲物もひっかからなかったけれど、よく通った。電通通りにサラリーマン相手のバァが庇《ひさし》をならべ、大阪から「コンパ」がやって来て、ここへ飲みにくる女連れはダボハゼの如く、安直に釣れるといわれていたが、やはり駄目。  三十六年の秋、ぼくは、これも東上して来たクラブ「ラモール」の客となった。安藤更生の時代にも、上方勢の銀座進出はあったらしく、「大阪のカフェは値段が著しく高い、そして経営は近代的であり、大資本を集中する」とこぼしているが、「ラモール」の出現によって、銀座川夜の流れが、いちじるしく変ったらしいことは、週刊誌などでこっちも知っていた。金に糸目つけず美女を集め、店内の装飾も豪華絢爛、そのかわり勘定は革命的に高い。この経営法は、高度成長期に突入し、莫大な社用交際費を使い得る高級サラリーマンの趣味に合ったというか、とにかくよく流行《はや》り、「エスポワール」「ラドンナ」に代表されるそれまでの高級酒場とは、よろずひと味ちがっていると聞かされても、ぼくにしてみれば、「コンパ」から「ラモール」へ大飛躍したわけで、ひたすら眼がくらむ思い。そして、銀座で飲むなら、やはり一流でなければと、またしても狂い、この頃まだ、CMソングの作詞を手がけ、稼ぎはあったけれど、連夜ともなれば笊《ざる》で水すくう如く、われらチンピラには、店も配慮して値段割引いてくれるらしいが、年中ピイピイの有様。どうしてこんなに金がないのか、不思議に感じたが、当時は、酒場の払いのせいと、思い当らなかったのだ。  銀座のクラブについて書くならば、これは何百枚でも足りない、田辺茂一氏には及びもつかないけれど、ほぼ十年、銀ブラならぬ、銀クラに通いつめたのだ。  一軒の思い出だけ、記してみる。銀座八丁目東、夜になると人通りほとんど途絶える、暗い道筋にクラブ「ゴードン」があった。三十八年の暮、やはり先達に連れられて、この店へ入った、入るとすぐ右に曲って廊下があり、右側に格子をへだて、カウンターが奥にのびる、沿って進むと椅子席。壁と平行しておかれたテーブルと、直角のそれが混っている、後で判ったことだが、常連にはほぼ定席がきめられていた。  マダムは岡山市出身、京都東山女専を卒業後、曲折のあげく流れついたもの。この店の名も、かなりひびいていた、「ラモール」の酔客が口にしていたのか、あるいは吉行淳之介氏に、ほぼ一年前、新宿の姉妹店を御馳走になり、この時、銀座の店について聞かされ、気にしていたのか、このあたり判然としない。「プレイボーイを御紹介します」先達がいい、マダムは、「ああ、この方が、悪名高いプレイボイさん」ボーイをちぢめていった。すでに「花王|石鹸《せつけん》」という表現はすたれていたけれど、一瞬、この死語を思い出したほど、その顎《あご》はしゃくれていた。  何の酉《とり》だったか忘れたが、祭礼の夜で、店がはねて後、先達とマダムにくっついて、新宿の花園神社へ出かけた、ぼくはマダムにちいさな熊手をプレゼントし、そのまま先達と別れ、目白台にあるマダムのマンションへ入りこんだ、いやしくもプレイボーイと紹介された以上、頑張らなければと、自ら鞭《むち》打ったのだ。  ワンルームシステムというのか、二十坪ほどの洋間に、ベッド鏡台本箱洋服箪笥応接セットが配置され、壁の一面にびっしりと酒瓶がケースに入って積み上げられている。ここまで来た以上、為すべきことは一つであって、先方もその気はあるらしい。しかし、いかにもお手軽というか、マダムにしてみてもレレレのレてな感じであることがよく判る。  同年生れであることを、すでに聞いていた、「なんとなく近親|相姦《そうかん》のような、ためらいがありますな」ぼくが、かっこつけた。マダムくすくす笑って、着物を脱いだ、ブラジャーと、白く硬い印象のパンティだけになり、「メンスが終ったとこなの」とつぶやく。  今考えても、なにかしら妙な会話だけれど、一儀の次第は、ぼくが栄光ある肩書汚すまじと、覚束ない秘術つくすうち、「プレイボイさんは、いろんなことするのねえ」醒《さ》めた声でいわれ、こっちもあほらしくなって、挫折《ざせつ》、ひょいと見渡した室内の、手近かなテーブルに、コクヨの原稿用紙、白いままの束がかなりあった。  マダムは、いささかわざとらしく、「あら、恥かしい」とそれを戸棚にかくした、そして、これ本物よと、ヘヤウィッグの容器の中から、ニッケル色の大型ピストルを出し、「いざという時はこれで」と、自殺する真似をしてみせた。  上半身裸でぼんやりとベッドにすわっていると、マダムは流行のインスタマチックカメラでぼくを撮り、これまでこの部屋を訪れた名士、さまざまな表情の写し絵をみせた、中に、アメリカ名士がいて、彼が大統領選に立候補した時、ぼくはアメリカで、対立候補の選挙事務所を取材し、選挙が終って後にこのことをふと洩らしたら、「日本版キーラー事件だ、その写真さえあったら」と切歯扼腕《せつしやくわん》していた。  ぼくは「ラモール」から「ゴードン」に鞍替えして百夜通い、マダムの客だから勘定が、べらぼうに安いのだ、一年間三日にあげずそれも常に二、三人連れ、いずれもかなりの酒豪が、酔い痴《し》れるまで瓶を空けて、総計十八万円、月に一万五千円だった。  三十八年から、四十年までの「ゴードン」の客、といってもこっちが、グラビヤなどで顔見知りの人たちだけだが、まず、文芸雑誌の創刊記念特別号の趣き、真冬というのに、赤いポロシャツ一枚の三島さんが、豪快といわれる笑い声立てつつあらわれ、席に着くなり腕を前に伸ばし、掌の開閉運動を行う。中村真一郎さんは、しごく真面目にマダムの文学少女的質問に答え、江藤淳氏がホステスと巧者なステップを踏み、ぼくははじめ江藤さんがみえているという女の小声を、「オトウサン」と聞きまちがえ、とすると旦那であろうか、横目で懸命にその表情をうかがったのだ。  石川淳、川端康成、安部公房、三島由紀夫の四氏が、中国文化革命に対する声明文を出したのは、四十一年の春浅い頃だったと思うけれど、その下打合せは「ゴードン」でなされている。この頃からぼくは、「ゴードン」への足を「姫」に踏みかえていた。四十年の勘定書がぼくのところにとどけられ、三月分のツケの総額が八十万円、三十九年にくらべればずっと回数は減っていたし、また、これでもいわゆる学割なのかも知れないが、すなわちマダムの牽制球。三十四年に銀座最年少のマダムとしてデビューした山口洋子さんは、この頃、週刊誌をにぎわす順子、桜子などの美女を擁し、電通通りに進出、文壇のみならず、芸能界、球界の知名人を客として、まさしく成長期にあった。だから「ゴードン」はことさら神経をとがらせていたのだ。  月に十万円ずつ払うからと、銀行で自動的に振込む手続きをし、もちろんおそろしくて、もはや東の暗がりには足が向かない。一年後、「ゴードン」のマダムから電話があり、河豚《ふぐ》を御馳走したいという、何ごとならんと緊張して出かけたら、こっちもうっかりして、ツケを四十万円払い過ぎていたのだ。「申し訳ありません、おかえしいたします。近頃はまるでお見限りですね」しゃくれた顎を傾けて、マダムがいった。この金は、やはり預けるべきだろう、「ゴードン」の酒で返してもらうのが当然と思案しつつ、ぼくはゴニョゴニョいって、ポケットへ納め、別れるとそのまま「姫」に直行、居合せたホステスに、一枚ずつチップとして渡した。これで少しはもてるかと、翌日出かけたら、昨夜のわがお大尽ぶりかげもとどめず、「あのね、一万円のチップは一晩、十万円でいいとこ三日よ、チヤホヤがつづくのは」山口さんけらけら笑いながら、有明面のぼくをさとした。 「ゴードン」のマダムが自殺したときいたのは、去年のことだ。正確な命日は知らないが、ピストルではなく、睡眠薬とガスだったらしい。  銀座について、どうやらぼくは、男の孫にも語り継ぐべきものを持っていない、あるとすればその場所は養老院だろう、「あの頃の銀座の酒場といえば、ここに誰それがすわって、横に誰がいて」と陽《ひ》なたぼっこしながら、うつらうつらとつぶやくのが、いちばんふさわしいように思える。 「雨は銀座にあたらしく、しみじみと降る、さくさくと──」と白秋は銀座の雨をうたったけれど、今の銀座には雨もろくに降らないような印象が強い、昼は汗、夜は涙のしみこみ乾いた砂漠とでもいえばいいのか、散歩からはもっとも、遠い街になってしまった。  十二契その六「三日見ぬ間の面変り」。 [#改ページ]   東伏見の雨  西武線東伏見の駅を下りて、正面のくだり坂を百メートル行くと、早稲田大学のサッカーグラウンドがあり、その右手にラグビーフットボールのゴールポストが見える。関東ローム特有の黒に近い土質で、ぼくは年に四、五回このグラウンドを借り、ラグビーの試合をしているが、不思議に雨の日が多く、そりゃもうすさまじい汚れかたをする。赤と白、黒と黄色など、互いのジャージーの色は、はっきり異っているのだが、始めて十分もすれば、見分けがつかない、ぼくは近眼だし、敵味方を顔で判別しかねるから、ひたすら眼の前の物体にしがみつくだけ。  しかし、ぼくはここでの雨の日のプレイが好きだ。泥んこ遊びしているような、いささか幼児性の満足ということもあるが、さらに、東伏見グラウンドは学生ラグビーの、メッカとまでいえば語弊があろう、栄光の伝統受け継ぎ、育てている拠点で、こけつまろびつボールを追う晴れがましさ、そして、またこのあたりに身を置けば、どうにも八方ふさがりのまま、金網ごしに早稲田の練習をながめていたほぼ三十年前の秋から冬にかけてを思い出し、ようやくフェンスの中に入れたと、いささかの陶酔にひたる。  昭和二十九年冬、ぼくはグラウンドのすぐそばの下宿屋に住んでいた。周囲はほとんど畠《はたけ》で、不思議な気が当時もしたのだが、そこはかつて旅行案内所だったらしい、玄関の引き戸を開けると、カウンター、硝子《ガラス》ケース、羅紗《ラシヤ》を張ったボードがあって、「湯こう会」とか「湯治講」などのプレートがかかり、古い温泉場のパンフレットが置いてある。  気むずかしい老人夫婦があるじで、新婚のカップル、腎臓を患《わずら》う男と、その母親、それに現在、皆生《かいけ》温泉で旅館「海潮園」を経営する露文科の中島敏行。中島の部屋へ小生がころがりこんだのである。  二人とも本来なら、翌年三月に卒業のところ、まるっきりその見込みはない。この年の夏までは何とか半端仕事で、通常のアルバイトよりは能率よく金を稼げたのだが、夏過ぎると、眼に見えて世間が狭くなり、しかもお互い親を欺《だま》しきれなくなって送金停止の状態。誰を恨むすじのものでなし、またすがる糸も種切れ、すぐ近くの氷川神社にそなえられたお供物さえ天の助けなら、時節おくれの野荒しで喰いつなぐ有様。ぼくの七とこ借りは頭打ちだったが、中島の方に、未開拓地がいくらか残っていて、それも彼の姉の嫁ぎ先きの、商売にからむ縁やら、従弟《いとこ》の東京における保証人やら、いつもぼくはおこぼれに与《あず》かりたくて同行したが、相手との関係を説明する中島の口調きくうち、二分もらって早くずらかろうとする蝙蝠安《こうもりやす》風気分になったのだ。  いたしかたなく、ぼくは年中、早稲田の練習を観ていた、フォアワードの密集にしろ、バックスの展開にしろ、遠目でしかも常に夕刻だったから、黒いかたまりが右往左往している印象、この一年前、オックスフォード、ケンブリッジの連合チームが来日し、早稲田が迎え撃って、大いに世間を賑《にぎ》わせていたのだが、どういう選手がいたのか知らない、ただ、ラグビーのプレイヤーだからというのではなく、別世界の住人をみている感じで、実をいうと、これは寝すぎたしくじったと、おごれる兎《うさぎ》の後悔じみてもいた。  昭和二十五年に早稲田に入り、学校よりも未だいくらも残る焼跡に息吹きかえした如く、どうしてあんなに傲慢《ごうまん》だったのかと思うのだが、ぼくは周囲の同じ年頃の連中を軽蔑《けいべつ》していた。  これにはいろんな理由がある、まったくどうも恥をさらすようだが、いちおう旧制高校にいて、国立大学に進むのが当り前、それを私立に来たという、理由にもならぬこともある、入学の前一年、父親の傘の中で、放蕩無頼《ほうとうぶらい》まがいの明け暮れ過ごし、いくらか大人びてはいた。共学上りが女子学生に「君」づけで呼ばれているのをみりゃ、ひがみと合わせて、あのバカとみなしてしまう。  中でも、たまに大学の構内へ足踏み入れた初夏の頃、体育祭とかが行われ、各部のメンバーが、ユニフォーム姿でパレードするのにでくわし、相撲部は褌《ふんどし》一つでのしのしと歩く、スケート部の女性はまた、サーカスの少女風いでたち、中に、当時のスター・加藤礼子もいたのだが、まあいい歳して、何をやっとるのかと、いわれのないさげすみを、スポーツ部全般にいだいたのだ。  私怨《しえん》もある、片想いの女性を、野球部のヒーロー小森選手がくどいているときいて、憤然としたり、通いつめた飲み屋の女をアメラグのアンちゃんにうばわれ、飲み逃げを、灰田勝彦そっくりの応援団の男にたしなめられ、大体が逆恨みなのだが、体育会など人間以下の存在にみなしていた。  三年余り経て、はじめて身近かにした、ラグビー部の、口をきく余力もないのだろう、三々五々寮へもどる姿をながめ、こっちが打ちひしがれた気持でいるせいだけではない、たしかに、甘ったれているうちに、どんどん先きへ追いこされた。チキ生、俺もラグビー部へ入っておけばよかったと、まったく勝手なことを考えたのだ。 「ありゃ相撲みたいなもんでしょう、押すのなら負けないねえ」  元国体相撲選手の中島がいう、中学三年までは身軽さで、猿と異名をとっていた小生とて、ちゃんとやってりゃ名選手とのうぬぼれはある。  二人で、フェンスの外にいるのだが、実は檻《おり》の中に閉じこめられた、老いた獣のように、ラグビーの練習をながめ、口には出さないが、どうも間違ったらしいと、互いに胸の内つぶやいていた。中島敏行は、早高学院の時すでにプーシュキンの詩を訳し、堀川正身、江森国友などと、詩誌「氾」に拠《よ》り、作品を発表していた。甘泉園で正統的ベルカント唱法によるイタリー民謡を唄《うた》えば、練習中の応援団も蛮声をひそめ、大山《だいせん》に棲《す》む故老直伝の鳥寄せを行えば、小鳥と一緒に女子学生のさえずりが彼をとりまく、今でこそアンティークブームとやらで珍しくもないが、漁師だった父親ゆずりの厚子《アツシ》を着こみ、威風あたりを払う男子が、東伏見では、野荒しで得た白菜を塩漬けにして、ひどい時など一日中、こればかり食べて過ごす。  夜になると、お腹の大きい女房とその夫が、声をひそめて、喧嘩《けんか》してるかと思えば、兎の鳴くようなよがり声がひびき、さては、うまそうな煮物の臭《にお》いが漂ってくる。個体維持、種族保存の本能を二つながら刺戟《しげき》されて後者はなんとか五指をもって満たすに足るけれど、食欲はどう指くわえたって埒《らち》あかぬ。  それまで、悪い仲間とでもいえばいいか、妙な商売手がけては、明けても暮れても、酒と女しか念頭になかった五人の連れがいたのだが、どうせ正規の年数では卒業できないと判っていながら、周囲が卒論だの、就職だのといい出すと、里心がつき、離れていって残るは二人、孤塁を守るといっても、それほどの流連荒亡を重ねたわけでなし、ただもう意志の弱い能なし猿と、これは骨身に沁《し》みて実感がある。  東伏見の駅に立ち、入間川の方向をながめて右に、立木をめぐらせたお屋敷がみえる、これが詩人白石かずこの家だった。「卵の降る街」を世に問うた直後の頃で、ぼくはこの詩人が早稲田の芸術学科に籍をおくとは露知らず、ただ時に駅で顔は合わせた。エキゾチックな顔立ちで、いささか近寄りがたい雰囲気、中島はさすがに同業者だから、会えば立話などしていた。 「チク生、かずこさんは、駅伝の選手といい仲らしい」ある時、中島が下宿へもどってきて憤然といった。 「駅伝というのは、長距離のリレーだから、すごくスタミナを消耗する。マラソンなら、たとえ落伍しても自分だけ責任をとればいい、しかし、駅伝は投げることが出来ない、つぎつぎに抜かれながら、しかも一秒でも早く次ぎの走者にバトンタッチしなければならないから、精神的にもタフなんだな。うーむ、駅伝の選手か、かずこさんらしいや」  中島が縷々《るる》と説明し、この時の選手が、実は映画監督・篠田正浩と知ったのは、かなり後になってからだ。  こういう状態で教えられた知識というものは、強固に根を張る、今でもぼくは駅伝の選手というと、スタミナのかたまりみたいに思ってしまう。  東伏見のグラウンドで初めて試合をしたのは三年前の冬だった、どういうわけか、全日本のハーフ宿沢、スタンドオフ中村、ウイング藤原、フルバック植山、その他|錚々《そうそう》たるメンバーがそろっていて、もとより本来のポジションではなく、たとえば植山がハーフをやるなど愛嬌《あいきよう》まじりの布陣だったが、五十五対〇でわが方の敗け、この時は、いささか興奮していて、これがかつて、これはしまった寝過ごしたと、ながめていたグラウンドとは、すぐに結びつかず、風呂から上って、駅へ向う坂道を登りながら、それは意識の底からゆらゆらとよみがえり、ふりかえると周辺のたたずまい、以前とそれほどかわっていない。  ぼくは引っ返した、なつかしいと思う気持はまだなかった。グラウンドの入口でながめ渡し、まず、昔はもっと広かったのではないかと考え、この時、ラグビーサッカーどちらとも判らないが、部員の父兄らしい人たちが寄合っていて、そのなごやかな雰囲気が、かつての怪鳥の如き集団の印象とむすびつかない。  そして、グラウンドはたしかめたものの、あたりの雑木林の繁みはまだ濃くて、東京近郊につきものの、けばけばしい色どりの屋根や、みてくればかりの高層長屋もないのだが、はじめて来た土地のような印象、二十九年前、年中このあたりをほっつき歩き、今、道が舗装されていても、十分見当はつけられるはずなのに、既視感覚の逆とでもいえばいいか。  東伏見に住んでいた頃がどん底だった。生活的にもっと落込んだ、つまり大晦日《おおみそか》になって十円玉一つしか持たず、さてどこで年を越すかと思案したことも、この後あるけれど、すでに開き直っていた。いざとなりゃ寺にでも入ればいいと、事実、入ってしまうのだが、焦りはなかったのだ。  だから中島と、よく東伏見について思い出話を楽しむ。  酒の肴《さかな》には絶好だし、縁もゆかりもない人にとっても、けっこうおもしろい話題だった。  直木賞を受賞した時、彼はいった、「東伏見は無駄じゃなかったんだな、自分の青春がちゃんと認められたようで、うれしい」と。  受賞作品はこの土地に何の関係もないし、その以前、何人かで同じ部屋に住み、小説の競作などやったことはあるが、東伏見において、その気力も残っていなかった。しかし、中島にいわれると、たしかにあのへんで、われわれの青春は終ったのだと、納得はできる。そして、一人よがりの無頼ごっこではあっても、東伏見までの年月に視《み》たものが、ぼく自身を形づくっていることも判る。  記憶の中では、妙に鮮明なのに、現実と向きあえば、架空の場所、自分の創《つく》り出した小説の舞台のような印象が強いのだ。ぼくは、強いて、間違いなくここに過ごした年月をたしかめるための、努力をしなかった。  駅前風景のいちじるしい変りようをみれば、もとより旅行案内所が残っているわけもないし、多分、この細い道を入っていけばと、その後見当はつけたが、歩いて二分もかからないだろう場所に足ふみ入れず、試合の後は、ミーティングと称して、きわめて当世風のスナックで飲み、チームメートにも、以前のことはしゃべらなかった。  昭和二十九年の夏に、一年半越しの片想いが、決定的に破れた。女は、西武線沿線の、ずっと新宿に近い町に住んでいて、昼は外国商社に勤め、夜、母親の経営する喫茶店を手伝っていた。  父がヨーロッパ系で、いわば戦前派の混血、エリザベス・テーラーによく似ていたと思う。もっとも小生は、惚《ほ》れると、きわめて美化してしまい、彼女の前の片恋の相手は、ヘップバーンそっくりと思いこんでいたのだが。  喫茶店とはいっても夜は酒も出しGIがよく飲みにきた。講和条約が締結され、朝鮮戦争もいちおうけりがついて、だが、ぼくからすりゃまだ進駐軍だし、彼等も十分に硝煙の臭いを残していた。  他にも日本人の客はいるのだが、ぼくだけが何となく眼の敵《かたき》にされ、ビールぶっかけられたり、当りはしなかったが、鋭いジャブをくり出されて、椅子からころげ落ちたこともある。夜が更けると、進駐軍はリズにダンスを申し込む。せまいフロアーで抱き合った二人は、「テネシーワルツ」や「アゲイン」のメロディにのって体をゆらせ、彼女の方は極端に腰をひいたスタイル、ぼくが奇妙にながめているのに気がついたのか、「気持わるいじゃない、ねえ」といった。なんとなく達《た》て引かれているような気分であった。  ある夜更け、とにかく彼女の顔をみることができてヨガッタァと、おそくなれば、ほとんど人通りのなくなる喫茶店から駅への道をたどるうち、ふいに暗闇《くらやみ》で腕をつかまれたのだ。「あなたの下宿に連れてって」という。  ぼくは、赤線、飲み屋の女にはなれていたが、堅気をまるでしらない。また、この台辞《せりふ》の意味するところについても、想像力が働かず、ただ雲を踏む心地、魂とばしてうろうろと東伏見まで同行、さて、この駅を降りれば、まったく灯はないし、深山幽谷のおもむきといって過言ではないのだ。  リズは、腕を組んできた、こっちは金縛りの状態でぎくしゃくと闇に分け入り、寝静まった下宿の玄関を入る。中島もわが想いについては十分知っていた、秘めごとにあれなににあれ、暇つぶしのタネになるなら、何でもしゃべってしまう。  二階への階段を、二人は世をはばかる恋人の如く足音忍ばせて昇り、部屋は無人で、大きな火鉢、これは老夫婦に借りたのだが、その上に鍋《なべ》がかけられ、中におじやの残りが入っていた。中島は、窮余の策がみのると、市場で山のように買物をし、チャンコ鍋、おでん、シチューなどをよく作る。この時はあいにくシケていたのだ。  純情だったのかドジなのか、ぼくはもっぱらおじやをあっためかえそうと、灰ばかりほじくり、彼女がいたのは十分足らずだったろう。今来た道を駅まで送り、その先きまで未練を残すと、帰ってこられない。野宿もいとやせぬが、彼女が押しとどめた。  何もやりゃしないのに、「やったあ、やったあ」と胸の内にさけび、おそくなってもどった中島につげると、同じく「ついにやりましたなあ」といい、明けがたまで、おでんを食っては何の当てもない、未来について語り合った。中島は相変らずよくもてていた、おにぎりや、懸崖《けんがい》の菊の鉢、さては毛糸のセーターを土産《みやげ》に訪れる女学生がいて、そのつどぼくは部屋を明け渡したのだが、ようやく対抗し得たのである。  もっとも彼も、素人にはまったく手が出ず、 「私のこと嫌いなのって、にじり寄られたけど、ひどいねえ、女からそんなこというなんてねえ」  顔をしかめ、本当か嘘《うそ》か知らないが、信ずることにしていた。でなければやりきれない。彼女はぼくの暮しぶりの、あまりの貧しさに、あきらめたという。  ぼくの所属するチームには、妙齢の美女によって構成される応援団があって、試合には必ず花やレモン、サンドイッチなど用意してあらわれる。ミーティングの際、年長者である神吉拓郎と小生は、花の中でも花と目される幾枝かを周辺に配して、ヤニ下っているのだが、これも往時を思うと、頬《ほお》をつねりたくなる。  時移り世は変って、ぼくが今口きく女性の、すべては素人であり、たまにねぎらいの意をこめて、彼女たちを家へ招く、すると建増した洋間の中で、「まあ、ちょっとお芝居の舞台みたい」などとつぶやく。  ロマンティックな設計者にまかせたら、全体がアールヌーボー風にまとめられ、ガレーの花瓶などもあるし、いささかタカラヅカ風といえなくもない。  要するにぼくは、意識してのことではないが、東伏見体験を根に、当時かなえられなかったことを、必死にとりこもうとしているのではないか。その意味でいうと、この文章いささか成金の苦労話めいても、いたしかたないことだ。  先月、また激しい雨の中で試合を行った、朝日新聞社のチームとの対戦、これまで三連敗だったが、全日本の選手が二人いて、ようやく一矢《いつし》報い、勝利の美酒を味わう前、思いついて、下宿を探してみた。グラウンドと西武線の間は、けっこうな住宅地と変り、道があたらしく開かれていて、まったく見当がつかない。お稲荷さんへ道しるべはあるが、氷川神社がどこか、以前は、駅を降りるとすぐ眼についたのだ。  雨の中歩きまわるうちに、ブロック塀にかこまれた、駐車場にまがう境内をようやく探し当て、あたりは整地されているからなんとも貧相な神社、お供物をいただいた拝殿の段《きざはし》も、神さびた色合いはなく、しらじらしい。  この右手に案内所があった。頭めぐらせてたしかめると、総二階木造の、事務所らしい建物がある、二十四年前、すでに古かった下宿をこわし、建てたものだろう、住宅地の木の香|匂《にお》うばかりのたたずまいと異り、戦後の臭いがしみついている。  子供時分に過ごした土地を、後から訪れると、道の印象ははっきり二つに区分される、整理されて、幅がずっと広くなっているか、以前のままならば、きわめて狭くおもえるか。ここに住んでいた頃、もう大人だったのだし、子供の眼との相違はないはずだが、氷川神社と、案内所跡のあたり、いかにも窮窟《きゆうくつ》な道幅だった。残っている雑木の具合いからみて、これが以前のままであることはたしかなのだ。  下宿の主人の名前も忘れている。住所はたしか保谷町ではなかったか。塩漬けの白菜は氷点が低くなっているから、とり出す時、指先きがしびれた、元旦に駅まで出かけて、当然そば屋もパン屋も休み、もし松の内ずっと店を開かないのなら飢死してしまうと、本当に怯《おび》えた、パン屋だけは、早大出身の男が働いていて、ツケがきいた。  当時は、大学をちゃんと出ても、下手するとパン屋の職人にしかなれなかったのだ。断片的にあれこれがよみがえる、ここから小田急線経堂まで歩いて、食事をたかりにいったことがある、結局、そこも文無しで、結局ぼくのはいていたズボンの方が上等だからと、先方のズボンをぼくがはき、それまでのを質に入れて、ウドン玉を六つ油揚げを三枚買い、金はなくても、不思議に醤油《しようゆ》は残るから、これで味をつけて食べた。  腹の減った記憶はよみがえるが、さらに、ぼくたちを苛立《いらだ》たせていたもの、才無きをたしかめて、しかも何をすりゃいいのか判らず、ラグビーの練習をながめ、シマッタシマッタと悔んでいた、あの思いはもはや、手にとるすべがない。  駅は、一つだったプラットフォームを、二つに分ける工事中、体の不自由な方たちのため、階段と並行してスロープをつけるよう要求する看板が立っている。グラウンドの反対側は線路に沿って一かわだけの商店街、一歩ふみこむと、ここも新興住宅地と駐車場、白石かずこの実家はどこなのか、こちら側はもともと畠だったから、木立ちはほとんどなく、彼女の家だけ緑にかこまれていたのだが。  風景も変り、そしてぼくの中の東伏見も風化してしまっている。変らないのは、多分、グラウンドの荒ぶるラガーメンだけだろうけど、こっちの歳のせいか、プレイヤーたちどうもかわいらしい印象で、少し頼りない。  二十九年前の、東伏見の雨はつめたかった、今は、いいにつけわるいにつけぬるま湯でしかない。今度は、中島と来てみよう。  十二契その七、おもしろくてさびしい「駅前開店のチンドン屋」。 [#改ページ]   大使館の坂道  昭和二十六年春、東京には珍しい大雪が降った、西武線を除いて、路上の乗物はすべて停り、この朝から早稲田大学後期の試験が始まったのだが、雪のため中止。ぼくは当時、高田馬場駅から中野へ続く、通称早稲田通りの左側に住み、大学までほぼ三キロの道を、ふだんまったく足を向けたことなどないのに、試験だからとのこのこ出かけ、すっかり張合い抜けした。  この二年前まで、新潟に居て、今はまったく降らないが、二十年代は暮れの雪が、そのまま根雪となってまず二尺は積もる、たかだか二十センチくらいの雪になにをまた大仰なという気持が強かった。  それまでは四谷に住み、大学へ通うにしろ、友人の下宿を訪れるにしろ、ひたすら歩いた。乗物にたよろうとすれば、まこと不便なものだ、今の四谷三丁目、当時の塩町から、岩本町行きの都電に乗り、九段坂下で、早稲田車庫行きに鞍《くら》替え、あるいは信濃町、新宿まで歩いて省線を利用する、なんだか辛気くさくて、つらつら地図を検討したら、直線距離でほぼ四キロ、歩いた方がましと考えたのである。  市ヶ谷方面から、新宿青梅街道へつづく、通称改正道路を越え、昔の牛込区へ入る。信濃町から塩町、柳町へ向う道路は、低地を走る改正道路によって断たれ、昭和十五年頃、ここに陸橋を架ける計画があったが、戦争のため実現せず、戦後も十一年目、ようやく実って、これが曙橋、改正道路から柳町方向へ上る坂を合羽坂という。  東京が意外に、起伏の多い街であることは、なにしろ一面のまだ焼跡だから、よく判った。大木戸、塩町、荒木町、見附を結ぶ、いわば表通りと、改正道路の間の道は、すべて下り坂、そして向う側の牛込区も台地になっていて、これは上り坂、坂を昇りきると、まず東京女子医大の褐色の建物が、灯台の如く眼に入る。右手には、A級戦犯を裁く市ヶ谷の軍事法廷、旧陸士があって、その他は、せいぜい標準住宅十二坪半が散在するくらい、もっとも焼跡とはいうものの、寸土も余さず耕やされて野菜畠だった。  今思い出して、いや実際に歩いて、どこをどう辿《たど》ったか判らない、当時だって、たいていこっちの方が近いつもりで、試行錯誤を重ね、あげくは第一病院に到る、ここから、早稲田大学の大隈講堂が望見された、谷あいの道をくだるような木の繁みの下道を、まったく何の目的も期待もなく、とことこ降りたのだ。  一年近く四谷にいて、もう少し大学に近い小滝橋に移り、教室にはまったく出ないのに、これからほぼ四年間、ぼくはこの都の西北を中心に転々とする。それは時に、東伏見へ移り、経堂へ流れはしたけれど、そこから西武線、小田急線、あるいは中央線沿いに、また戸塚方面へもどってくる。  小滝橋の下宿の主人は、父の古い友達で、土建屋さんだった、この二階六畳に、早大教育学部四年の、すこぶる真面目な学生と合部屋、入ってすぐに試験となり、第二語学にフランス語をとっている四年生、仏文一年の小生をみこんで、いろいろ質問なさる、どっこいこっちは、ベーゼをバイザーと発音しかねぬ態《てい》たらく、なれどそこははったりで、「語学は自分で辞書をひくことです、できればラルースくらいお持ちになった方が」なんてね、もっともたちまち馬脚はあらわれたのですが。  高田馬場までの道で、目につく建物といえばシティズンの工場と、できたばかりの喫茶店「大都会」、この店は本拠を小田原に持ち、ぼくの祖父西村楽天が、小田原に住んでいて、主人と顔|馴染《なじみ》だから、その名刺いただいて、珈琲《コーヒー》の只飲みに出かけたら、今でいうコンサルタント、いかにすれば学生の客を集めることができるかと、相談持ちかけられた。ぼくは言下に、「ウェイトレスに美人をそろえることです」古今を通じてもとらぬ真理を申し上げた。あまり真理過ぎたのか、たしかに一回だけは只だった、つぎに友人を引き連れ、顔の広いことを誇示しようとしたが、断乎《だんこ》たる勘定書きつきつけられたのだ。  左手に岩波茂雄邸の、塀だけを残した焼跡があった。その向うの下落合に、林芙美子の住いがあるときいていたが、いっぺん様子うかがいに出かけようと思ううち、亡くなった。  高田馬場から、大学までスクールバスが出る。往復で十五円だったらしい、ぼくはタクシーを走らせるか歩くで、まったく乗ったことがない。ここから戸塚へ向う道の、表側こそ店屋がならんでいたが、一足裏へ入るとやはり焼跡が広がる。ぼくは当時、というよりその後十年以上想いつづけた女性と、一度だけこのあたりの焼跡を歩いたことがある。先方は小生に引導を渡すため呼び出したのだが、こっちは天にも昇る気持で、あらかじめルートを下調べし、この焼けただれた石の階段に腰をおろす、お尻《しり》が冷えるといけないからさりげなく新聞を用意し、できれば魔法瓶など用意してと、ピクニックのつもり、それが決しておかしくないほど、牧歌的といえばいいか、要するに原野だったのだ。  冷えると考えたのだから、これは二十七年の秋だ、早稲田大学冶金研究所近くの喫茶店で落合った、この店はエバ・ガードナー風美女がいた、美女の母親が経営し、この母親の旦那が、不届きにも娘にまで魔手をのばし、母親はいたしかたなく、常連の学生に美女を押しつけたという、その据膳《すえぜん》食った果報者は、いつもベレーをかぶり、駄洒落のことをダシャレと発音するケチな男だった。  道行きは、諏訪神社を過ぎ、省線の線路を越えて、淀橋青果市場の近くにまでいたった。とても階段に腰を下す雰囲気ではない、終始一貫彼女は「とてもあなたはいい人だと思うの、小母さんも根は善良な方だろうっていってるわ」しかし、お友達どまりだとくりかえす、これに対しわが口説きがいかなるものであったかは、覚えていない。とにかく、堅気の女性と、あんなに長い間、二人っきりでいたのは、以後現在にいたるまでない、もとよりその以前は、片言にしろ口をきいたことすらなかった、女といえばすべて娼婦か、飲み屋の女中さんばかり。  彼女は戸塚二丁目、印度大使館の近くに下宿していた、仏文の同級生なのだ。ふられた以上、教室で、何のかんばせあってかふたたびまみえ得ようぞ、敵が卒業するまで学業を棚上げすることにし、インチキ商売に精を出した。そしてたちまち家を建てたのだ。  昔の府立四中、今の戸山高校の、少し新宿寄りに、関東財務局の管理する空地があった。ここに二十六年の秋、満州引揚げ派の大工が一人流れついて、古材木を押っつけ張っつけたちまちバラックを組み上げた、御茶ノ水駅近くの、不法住宅は有名だが、この戸塚自由学校もたちまち十数軒に増え、すべて大工氏の設計建築によるもの、大工氏は図々しくも不動産屋に貼紙《はりがみ》して住人を広く求めたのである。  二十七年の春から、ぼくはインチキDDTの販売に従事し、かなりの日銭を稼いでいた、石灰にDDT原粉を少量混ぜて、あたかも進駐軍の命令の如く装い、ベークライトの茶碗いっぱい五十円で売る。はじめは自らセールスに従事していたが、やがて経営者となり、もっぱら学生を酷使搾取、いちばん景気のいい時で、月に三十万の収入があった、当時、麻布狸穴ソ連大使館近くの、やや低地ではあったが土地百四十坪の値段と同じ。レオナルド・藤田の絵なら、十号の油絵が十二、三枚買えた、いずれも自分のものにするチャンスがあった、いや藤田の油絵は、実際十数枚持っていたのだ、今ありゃ売り値で三億はするだろう。この頃、現在のソニー、東通工の株を買うようすすめられ熊谷守一の絵を三枚五万で押しつけられ、人間、誰でも金持になるチャンスは一度くらいあるらしい。  収入のすべて酒と娼婦に費していた、金はあるのだから、新宿二丁目の「アカダマ」、吉原の「山陽」あたりで遊べばいいのに、どういうわけか花園、玉の井ばかり。二十八年の春、ぼくは不動産屋の店頭で、大工の貼紙を見た、「独立家屋一戸一万円」とある、さすがに硝子窓の隅に肩見狭い印象の文字だったが、いわば同じ体臭を感じとって、早速申し込んだ。  前金一万円を渡すと、翌日家が出来上る。独立家屋というものの、二間四方の箱を二つに割ってそれぞれに住む。間取りは、入るとすぐ幅一間奥行き三尺の土間、つづいて三畳の部屋と、これっきり。天井はなく、窓は一尺四方に切った戸を押し上げて、端に突っかい棒をする。さて便所は、深さ三メートルに掘った穴の上に板二枚を渡し周囲をムシロで囲っただけ、屋根はない。電気は盗む、水は戸山高校から無断で貰《もら》う。  ぼくと同じ屋根の下に、つまり板一枚へだてて上は吹き抜けの隣に、朝鮮人の若い夫婦が住んでいた。他に夜泣きそば屋、人相見、右翼までは判ったが、まったく正体不明の輩が、べつに喧嘩するでもなく、又お互いにつき合いもほとんどしないで暮す、もう少しよく観察していれば、これもまた「どん底」にはちがいない、ネタになったろうが、朝起きて池袋の事務所へ出かけ、インチキDDTを仕込み、労働者が巷《ちまた》に散った後は、はや幹部で酒盛り、午後、稼いできた連中のピンをはねて、そのまま狭斜の巷を目指し、泥酔してもどることのくりかえし。右翼の小父さんが、週ごとに国を憂うる和歌の新作を壁に貼り出し、これが全部盗作、土井晩翠と「赤壁《せきへき》の賦《ふ》」をごちゃまぜにしたような歌が多かった。人相見の爺《じい》さんはクリスチャンで、日曜日に教会へ行く、べつにさしつかえはないが、奇妙な感じを受けたことくらい。それから一度、朝鮮人夫婦の媾《まぐわ》いをのぞいたことがある、天井がないから、台に乗れば簡単に見下ろせる、亭主の後頭部が妻の顔の上をスライドし、ははああれは上下動じゃなくて、体は水平に動くんだなと、納得したのだが。  朝、生徒の来ない内に、戸山高校の水飲み場へバケツで水を補給にいく、気が向けば外で七輪の火をおこし、飯盒炊爨《はんごうすいさん》。大工は三十前後だったと思うが、若い頃、ハイジャンプの選手とかで、軽く一メートル八十くらいを跳ぶ、体操のかわりに、何十回も跳躍をこころみ、つづいて、たちまち溢《あふ》れるトイレットの新設、即ち穴掘りにかかる、朝の内に、住人たちの姿を見受けることはほとんどなかったように思う、時々、朝鮮人の妻が、おひたしをお菜にくれた。  何故、ここを出たのか。  ウンと気張って、たしか放たれたはずのものが、二、三秒後にポチャンと音を立てる、つまり深い井戸の上にしゃがみこんでいるのと同じ怖ろしさにもなれたし、家賃光熱水道費いっさい不要、こんな気楽な生活もないのだが、やはり、プチブルが骨にからんで、まともな住いに、といっても安下宿だが、もどりたくなったのだろう。六月半ば、文京区林町に移った、九月、戸塚グランド横の二食付き六千円の部屋へ替わり、ここもかなり珍奇な場所であった。  主人の妻は半年前、男をつくって駈落ち、二人の子供を亭主が面倒みる、以前から失職していて、生計の綱は下宿代なのだ、それはいいのだが、台所を預かるのが、主人の父親、七十歳近くで、かなりよぼよぼの体に、白いエプロンを着用、お世辞にも甲斐甲斐《かいがい》しいとはいいがたい。  入って判ったのだが、下宿人はぼくだけ、ということは、六千円で、計五人が一月食べる計算、だから食事は飯の他すべてキャベツ、うすい味噌汁の具がキャベツ、漬物もキャベツ、いためものもキャベツ、これをぼくは大事の客人であるからして先きに食べる、つづいて主人と子供、最後に爺さん、同じお膳でキャベツは一緒盛りだから、事情が判ると箸を出しにくい。そして主人と、小学校六年になる長男は、助平な話ばかりしていた。キャベツをばりばり噛《か》みくだきつつ、四十男と十二、三の子供が、タンタンタヌキのナントカを合唱し、かたわらで爺さんは投網のほつれをつくろう、動物蛋白を補うために、利根川の近くの湖沼地帯へ遠征を目論むのだ、昔はヘラ鮒《ぶな》を釣りによく出かけたらしいが、今や、趣味どころではない。  みかねて、この主人にアルバイトをすすめた、インチキDDTを売らないかと持ちかけると、腕のいい男なら日に三千円は稼ぐときいて眼を輝かせ、すぐ事務所へやって来たのだが、なんと四十面に、早稲田の座布団帽をかぶり、これはもうガセネタを広告して歩いているようなもの、しかし、脱いだところで事情は同じだった、世の中に貧相な人とか、貧乏神背負っている印象はあるもので、軍隊服を仕立て直したジャンパーに、グレイのズボンは、当時、特に見劣りはしないが、この男が玄関にあらわれ、たどたどしい口上を述べるならば、金無垢《きんむく》も鍍金《メツキ》に見えてしまうだろう。いたしかたなく事務所の留守番をさせれば、女の子に肩を揉《も》めとかなんとか、怪しい振舞いに及ぶ。  余計なお世話がたたって、爺さんの魚を食べることなく、キャベツの宿を引き払い、すぐ近くの洗濯屋の二階、六畳一間五千円にころがりこむ、稼いだ金を酒と娼婦に注ぎこみ、残りがあれば、もっぱら藤田の絵と、フランスの硝子製品、及び陶器の人形、イギリス、オランダ製のものを買いこんでいた、まさに感傷のなせるわざ、焼けた神戸の家にあった品々なのだ。他には布団と、数百冊の詩集だけ、今考えればけっこう気障《きざ》なことをしていたと思う。  洗濯屋は、早稲田車庫前にあって、文学部校舎まで歩いて五分とかからぬ、しかし、ぼくは行かなかった。せいぜい麻雀屋までで、もとより彼女の顔はみたいのであります。いろいろ考えた末、実に迂遠《うえん》な手段を考えついた、今はどうか知らないが、その頃、早慶戦の切符はかなり貴重であった、この内野席券を二枚、闇で求め、深夜、彼女の下宿のポストへ投げ入れる、当然観に行くであろうと、ぼくは双眼鏡を手に、外野席に陣取り、丹念に内野席を観察した、これはまったく空しかった。顔を合わせるのは恥かしい、先方に気づかれず、遠くからお姿を拝し奉りたいと、毎日のように、戸塚近辺をうろつきまわった。この心境が複雑なのだ、夕刻、買物に出るかもしれないと期待して商店街へ足を向けるが、近づくにつれて、ばったり出くわす予感が募り、すると動悸《どうき》が激しくなりカッカと上気し、今にもその横丁から現われるのではないか、さながら凶状持ちが刑事の影に怯える如く、きびすをかえし、少しすると、こういう静かな秋の夕暮には喫茶店でお茶でも飲みはしないか、その入りそうな店をあれこれ考えて、じっと遠くから見張る、さらに学生たちが帰郷する時期になると、中国地方に生家の在る彼女の、乗車を東京駅で待ち、ついには追いかけて、その近くまでも行った。  なにしろその姓名だけしか知らない、人口二十六万の市で、どうやって探すか、電話帳を調べ、同じ姓十八軒の住所をメモし、タクシーを走らせたのだが、これまた、十八分の一しかない確率の一軒に近づくにつれて、目まいが起きそうになり、へとへとに疲れてしまう。純情きわまりない感じだが、夜になれば、市の中央を流れる川の畔《ほとり》の遊廓《ゆうかく》をうろつき、女を買うことはする。「そんなことは、奥さんにしたげなさい」と、わがふるまいをやさしくとどめた娼婦が、この市にいた。そのふるまいとは、脇腹《わきばら》をくすぐる行為だが、どうしてこれが対女房の愛技であるのか、さっぱり判らず、そして彼女の脇腹をくすぐる妄想とは、まるで結びつかなかった。  洗濯屋の二階の隣部屋に、嫁ぎおくれた職業婦人がいた、これがまたちいさなお手塩《てしよ》に、煮魚の一切れや、刺身数片、芋《いも》の煮っころがしなどをのせて届けてくれる。御面相はとびきりの醜女で、冬に近いある夜、ぼくはこの女に夜這《よば》いをかけた、かなり酔っ払っていて、水を飲みに共同炊事場へ行くと、女がそばを茹《ゆ》でている、その背後から抱きつき、ほとんど為すままにさせているから、調子に乗り、夜更け入りこんだのだ、「どうしてこんなことをなさるの」と訊かれた時、とっさに「さびしいからだ」といった、「そう」といって、女は体の力を抜き、しばらく後、天井から吊《つ》り下がる親子電気の、ちいさい方だけ灯っているのに、風呂敷をかぶせた。  翌朝、目覚めたぼくを襲ったのは、二日酔いではなくて、さびしいからだ、という台辞の、なんとも恥かしい後味だった。足音忍ばせてアパートを逃げだし、立石館という、戦前からの「高等御下宿」の看板を掲げる家へ逃げこんだ、友人が入学以来ずっと住みついていて、しばしば仮りの宿を頼んだのだが、主人いたって吝嗇《りんしよく》、正規の宿泊者以外が遊びに来ると、畳が減る、便所を借りれば水道代がかさむと、いちいち帳面につけて、月末友人に請求する。  ぼくは、友人に、荷物を持って来てもらうように頼んだ、昼間なら、女は勤めに出て不在のはずだが、その近くまでいけば、道行く人が眼ひき袖《そで》ひきして、「ほら、さびしいからだって口説いた男がいるよ」指さして、ささやき合うような気がした。  この後、小田急線の梅ヶ丘へ移り、西荻窪に替わり、沼袋、東中野、野方、それぞれ一月ずつ暮した、インチキDDTは当局の探知するところとなって、二十八年暮からは、アメリカ直輸入中古衣料、通称更生服を手がけ、これはこれでけっこうもうかったが、何分、あるだけ全部使ってしまうから、端境《はざかい》期には文無し、下宿を定めてまず所在を心得るのが、銭湯と質屋だった。十年ほど前、ぼくは質屋の業界誌で、対談をしたことがある。この時の肝煎《きもいり》をつとめた四谷の質店「大和屋」の主人が、古い入質帳を持参なさり、「これが昔の夢の跡ですよ」つぎつぎ開く頁に、ぼくの入質そして流してしまった品名金額が記されていた、ある時期、ぼくの許に届けられる年賀葉書は、質屋さんからのものばかりだったのだ。  戸塚近辺の質屋はすべて知っている、サントリーオールドが出たての頃、一本八百円で頂けたこともあれば、ナイロンのYシャツを五百円で交渉した時は、「この繊維は硝子のようなもので、だから水に浸しても濡れない、そりゃボタボタと滴《しずく》は垂れるが、垂れきってしまえば、つまり乾いたわけ」と、妙な理屈をこねた覚えがある、質屋の主人、たしかに手ざわりのちがう材質を、首ひねって調べ、結局三百円貸してくれた。集めた絵、硝子製品、陶器の人形、すべて流した、それなら買い求めた西洋美術商に売ればいいところ、入質する際は、必ず受け出すつもりでいる、まったく流質期限の三カ月は矢よりも早く過ぎ去る、これより早い光陰は、中絶しなければならぬ胎児の成長だけであろう。  現在、多分日本でいちばん大きい質屋の、「すゞや」は、高田馬場駅近くにあるが、このあたり、あちこちに行きすぎていて、果して、このお上さんと駆引きしたかどうか、覚えていない。大体、質屋の玄関を入り、主人がいるとほっとする。お上さんはいかに哀訴してもまずは駄目、主人なら、こんな息子を持った親こそいい災難といった表情で、三つに一つは無理をきいてくれる。  二十九年の初夏、更生服も駄目になってからは、雪崩《なだれ》をうって洋服から布団までが、質屋の倉庫に移転した。この頃、ぼくは戸塚警察の裏、王子へ行く都電の、すぐ近くを通る下宿屋にいた。何にもないのだ、これだけは組になっていないと引取らぬ座布団一枚が、唯一つの財産、着るものといったら、|※[#「糸+囚/皿」]袍《どてら》が一枚、ふところに青大将を一匹忍ばせ、飲み屋へ出かけて頃合いをみはからい、ひょいと首にからみつかせる、女はキャッと逃げ出す、ぼくは逆の方向へ飲み逃げと、しごくタチもわるければ、能の無いふるまい。同級生はほぼ卒業、しかし世の中不景気で、成績トップに近いものが、ようやく夕刊紙に就職した程度、他は民放の臨時雇いに弱小メーカーの宣伝部。想いを懸ける君の、論文のテーマは、メリメで「ル・ヴァースレトリーク」における何とかだったと、風の便りにきいて、ぼくは有金をはたき、丸善で、「エトルリアの壺《つぼ》」の原書を求めた、どうやら辞書だけはあったから、かなわぬまでも読んでみようと思ったのだ。おしりをふりながら走っていく都電をながめつつ、今思えば、あれはつげ義春の世界に近かったが、さっぱりすすまないフランス綴《と》じの本と、表紙の古びている割りに手垢《てあか》のあとのない仏和辞典を膝にかかえ、ひょいと部屋へ迷いこんできた下宿の猫は、蛇の臭いに興奮して、狂ったように四畳半をかけまわる。しかし、その蛇も、身の養いにと、食べてしまっていた、これ以上削れない鰹節《かつおぶし》を、かたまりのまま湯に入れてダシをとる、そのダシガラのような味だった。  あれから四半世紀以上が過ぎた。今年の春、よんどころなく二十万円ほど必要で、「大和屋」へ洗い熊のコートを預けにいった、主人はろくに調べもせずあっさり貸してくれ、おまけにブランデーのナポレオンを一本|頂戴《ちようだい》した。十日後に返しにいったら、幕之内弁当をとって下さり、またまたバーボンの名酒ジャック・ダニエルをいただく。元をとりかえしたような気もするけれど、あの玄関を入る時の、戦慄《せんりつ》にみちた瞬間が、少しなつかしくもある。とっくに人妻となり、母となったかつての想い人から、夏場所の、砂っかぶりの席を二枚プレゼントされ、妻と見物に出かけた。なんとなく戸塚近辺の借りを返しつつあるような気もするけれど、さらになお、わが青春は別の天体に移ってしまった感が深い。戸塚の感傷的風景は、印度大使館横の坂道にとどめをさす。  十二契その八「戸塚二丁目印度人の散歩」。 [#改ページ]   沼袋ぬばたまの夜  朝鮮戦争の頃、東京二十三区内に、いくつの、基地とはいわないまでも、米軍の支配地があったのか。竜土町には通信大隊がいた。その周辺に横文字を飾った骨董《こつとう》屋、中国名の洋服屋、ステーキハウス、ハンバーガーイン、お定まりのバァがあって、青山一丁目から飯倉へ向う暗い電車道の、そこだけおそくまで賑わっていた。ここで働いたことはない。  羽田飛行場も半ば以上、US・エア・フォースが使用していたと思う。ここの飯場にはしばらく滞在した。服部時計店、雅叙園、松屋の接収が解除されたのは、|桑 港 《サンフランシスコ》条約発効後のことだったか、記憶があいまいになっているけれど、成子坂上に住む大家令嬢が仲介して、バーボンウイスキー、香水、煙草などの横流しを手がけた。  もっとも辛気くさいビジネスは、西武線沼袋駅を国鉄中野駅へ抜ける狭い道の右側、以前の豊多摩刑務所変じて、米軍のスタッケード、迂闊《うかつ》なことに今気がついたのだが、囚人を収容する施設なら、プリズンとかジェイルだろうに、スタッケードとは何か、STACKに叉銃《さじゆう》という訳があるし、これに柵《さく》を意味するYARDがついたのではないか、正しくはスタックヤード、いまさら詮索《せんさく》しても空しい。  とにかく、米軍の囚人がいたのに間違いはない。  一度サイレンがひびき渡って、一人が逃亡したと、沼袋の飲み屋一軒一軒を、銃片手のGIが調べてまわった。高い塀の上に廻廊ができていて、看守がパトロールし、角の監視|哨《しよう》には口径の大きい銃とサーチライトが内側に向け備えられていた。  二十八年春、戸塚二丁目の関東財務局所有地に建てた不法バラック、初夏、文京区林町若後家さんの間貸し、さらに転々の後、暮に、ぼくは新井薬師と沼袋のほぼ中間、氷川神社と妙正寺川にはさまれた新築総二階の下宿に移った。  主人は、早稲田大学近くで、古くから床屋を営み、子供も成人してお上さんの小遣い稼ぎ。上四間下が二間と食堂、立命館出身バンク・オブ・アメリカに就職して、研修中の男、床屋の職人、早大政経の秀才、日大医学部学生、その弟でボディビルをやるオカマがかった男、麻雀のうまい明大生が同宿。下宿代後払いが付目、布団一組の他は着のみのままでころげこんだのだ。  大学同年の者は、同人雑誌に発表した小説が「文學界」の評判記でけなされたとうれしそうにいう。大学四年、べつにじたばたする気はないが、やはり日を追うごとに苛立《いらだ》つものが強まる。  二十二年夏、米軍に接収されたホテルパインクレストのボーイが皮切り、このホテルは大正十四年の開業、小学校低学年の頃、養父に連れられ、何度か食事したことがあるのだが、その後、中之島でアメパンとつき合い、新潟でも進駐軍物資を扱った。二十五年上京、常にGIのそばにいて、あるいはそのもたらした文物のいくばくかを利用して稼いでいた。べら棒にもうかったこともある、池袋に事務所を持ち電話もひいて、闇成金風のぼくをたしかめ、訪れた父は「仏文学を専攻して、実業に転じた人というと、水野成夫がいるねぇ」真面目にいった。  だが長続きしない、あっという間に使い果して乞食《こじき》同然、そこでまた策をめぐらせ、詐欺まがいの思いつきが、今に換算して月、二、三百万の収入をもたらす。大学を四年で卒業できない、いや何年いても中退だろうと見当をつけながら高をくくる向きが強く、といってまた、くくりきるだけの度胸はなかった。血のメーデー、五月八日の早大事件いっさい関わりなく、映画だけはこまめに観ていたが、本から遠去かり、ただ酒と娼婦に明け暮れる。  夕食のテーブルについた職人は、凝っているカメラについて弁じ、バンク・オブ・アメリカはジャズ歌手黒田美治のお洒落《しやれ》ぶりに触れ、医学部は広島出身、呉軍港における対空砲火のシステムを紹介した、ぼくは当時、むやみに人を見下す癖がついていて、いっさい話に加わらず、箸《はし》を置くとすぐ外へ出た、学校にはさっぱりだが、インチキ商売の縁で知り合った主に早大生が、西武沿線にいくらもいる、うまくすれば飲めるかも知れぬ。  野方駅近くのパン屋の二階に、たいへんな美人と同棲《どうせい》している男がいた。美人は昼間喫茶店、夜はバァとなる店に勤め、その退け時、必ず男が迎えに行く。いわばヒモ暮しなのだが、女の勤めるに際し衣装がないから月賦屋でブラウス、スカートを整え、ぼくが保証人。返済額は月に百円足らずだったと思う。いちおう日銭が入るから、腹を減らした時、よくここを頼り、うどんの玉一ケ八円を五つ、油揚三枚十円、これを羽釜《はがま》で茄でれば、計五十円で女も混え三人がけっこう満足できるのだ。  彼は不在。駅の逆の方角に、一橋大学を卒業後、早稲田の仏文に学士入学、年齢で二つ学年で一年上の男がいた。母親と畠の中のオンボロ家に住み、ボードレールに傾倒してたいへんな女|蕩《たら》し、ここもいない。  沼袋へ戻り、学習院の男を訪ねる、山陰の山持ちの三男、バラックまがいながら、親に建ててもらった家に住む、ようやく悲願かなえられて、二百円借りた。彼は有沢広巳の著書を勉学中だった、たしか潜在失業者に関するもので、二言三言しゃべり合った。  新宿の飲み屋だと焼酎いっぱい五十円、中野あたりで、表面に虹の浮く怪しげなものだと三十円、酒のいちばん安いのが力正宗で一合四十円、ビールは二百円で贅沢《ぜいたく》品、トリスのポケット瓶が四十五円だった、トリスを二本買い、喫茶店へ入ってソーダ水十五円を注文、割りながら飲むのが、なんとなく上品かつ経済的なのだが、やはり味気ない。  商店街の中ほどを横に入ると、あたりの安酒をひさぐ一劃《いつかく》らしい家並み、一軒に入った、白粉《おしろい》焼けしたお上と、女が三人、十人ほど座れるカウンターはほぼ満員。焼酎にモツ煮込みでも食べたのだろう、隣に座った新聞記者がオペラを論じ、春に来日したゲルハルト・ヒュッシュのことを、ゲルハルトと呼ぶのが気になり、搦《から》んだ。ヒュッシュといえばシューベルト、そして「美しき水車小屋の乙女」「冬の旅」俺は独逸語専攻の文乙上りだという訳で、アンブルーンネンフォルデムトーレを唄い出す。  カウンターの端にいる男が、たいへんな声量で和した、朝鮮人だった。二百円たちまち|おてっぱらい《ヽヽヽヽヽヽ》となり、貸売りはしないというから、店を出た。隣は、道に面した壁にピンクのネオンを飾り、派手な看板の文字は「シャングリラ」、酔っているせいか、明らかなGIバァなのに気づかなかった。米軍刑務所の存在はもとより知らない。  この頃、小田原の機械屋が、東通工とほぼ平行して、テープレコーダーを開発、だが、何に利用すればいいか判らない、つまり、捌《さば》きようがない。相談を持ちかけられていて、なにしろ四貫目ほどの重さ、値段は三万五千円、公務員の給与ベース一万三千円の時代、あれこれ考えて、映画館のアナウンスをこれで代行できないか、「消防署のお達しにより場内は禁煙」とかなんとかのため、一人雇っておくことはない。祖母の弟が戦前公園劇場の支配人だったし、父の友人が、再建された歌舞伎座の重鎮、苦しい時はすぐ血縁をたよって、存じよりの映画館へ紹介を頼み、機械屋と一緒に売りこみに出かけた。このうちの二軒の話がまとまり、手数料一割が入った、この後、新潟へ出かけ、長岡市、高田市と合せて十三台売ったのだが、これは秋の話。  何度か沼袋に開拓した店一軒だけに通い、かなりおそい時刻、ひょいと出た出会い頭に、リズ・テイラーに似て見える美女とぶつかり、呆然《ぼうぜん》としていたら、彼女は「シャングリラ」に入った。背は日本人並みだが、西欧の筋にまぎれもない混血、そしてようやく特有の店構えに気づいた。しばしためらって後、み後を慕って、中には四坪ほどに椅子とテーブルが三組、突き当りが高いカウンター、その向うは乱雑な台所、カウンターの左隅に彼女が坐り、「小説新潮」を読んでいた、客はいない。  ビールを頼んだだけ、いっさい口をきかずに出た、近くの寿司屋へ入り、「シャングリラ」について訊《たず》ねた、まだ若い板場は、GI専門のバァとのみで、余り事情を心得ず、むしろ隣の、ぼくの通っている店が、一種の密|淫売《いんばい》をやっていると顔をしかめていった。看板の後、二階で女に客をとらせるのだそうだ。  彼に刑務所の存在を教わり、中野、西武沿線をいくらか知っているつもりなのに、いっさい聞いたことがなかったから、その足で見物に出かけた。踏切を渡ると、ひとかわだけ人家が並び、すぐに川、そしてその先きは、やや昇り勾配となって、右の空地に軍用トラックが数台、高見に小さな光が浮かんでいて、これが塀の角の監視哨、塀そのものは闇に溶けこんでいる。  左側はトタン板の塀、ちょっと足を踏み出しにくい暗さだった、一直線にのびるとおぼしい道の彼方に、灯は見えるけど、もはや東京では珍しい夜だった。  頭上に足音がひびく、姿は見えない、監視哨のところで、シルエットが浮かび、煙草をつける看守は白人だった。今にも銃口を向けられそうな感じで、来た道を引っ返し、朝鮮半島の戦火はとっくに納っていたが、GIたち、まだ気を荒《すさ》ませている。  次ぎの夜、暮れるのを待ちかねて「シャングリラ」へ出かけた。アメパンが三人、一人は子供連れ、GI二人、小柄白髪混りのオバサン、いっこうパッとしないぼくを、不審がりもせず「いらっしゃい」といい、関西訛りがうかがえた、他の連中は完全に無視、お目当てはいない。無我夢中で入ったが、怖いから、立てつづけにフォアローゼスをダブルで三ばい、タイミングよく家から送金があったのだ。  昭和二十五年春、銀行員の平均給与一万三千円の頃、ぼくは衣食住授業料親持ちで、他に一万円の小遣いをもらっていた、かなり恵まれていたのだが、酒と廓《くるわ》通いがたたって、一週間もたない。二年後も変らず、しかも祖母の隠居所を出て以後衣食住を自分でまかなわなければならない、いちおう下宿代その月の日割り分を払い、質屋からズボンを出し、五千円ほど持っていた。この年の春、一週間だけ勤めた銀座東、小野ピアノ隣の「ブランズウィック」、わが国ゲイバァの嚆矢《こうし》をなす店だが、昼間は喫茶店、このカウンターで出すスコッチウイスキーがダブルで六百円だった。  はじめの二はいはオバサン、三ばい目は勝気な眼をした十七、八の少女が運んだ。オバサンはママと呼ばれ、少女の名はハルミ、鼻の整形手術をしたとかで、アメパンたちあけすけにからかうが平気、実に信じがたいことだが、この頃、ぼくは少し英語がしゃべれた。  GIとやりとりする内、先方の一人が、お前はサカハチボーイかとたずねた、サカハチ? ホワット? てな感じで、返事をためらう内、ママが、「あんた、そんな兵隊相手にしなさんな」といい、諸嬢が笑った。 「サカハチって何ですか」 「知らなくていいの、あんた学生さん?」 「ええ」 「どこ」 「早稲田ですけど」 「芸術学部に私の知ってる人の息子さんがいるの、藤井いわはるねんけど」 「ああ、セーラさんの絵を描いた方」  ハルミがいった。 「そう」ママは、GIたちに、ぼくは客である旨をつげた。雰囲気から、サカハチ即ちわが隠語でいう尺八と見当がつく。  平和条約は発効し、日本は独立国となったはずだが、少くともぼくにその実感はなく、ごく狭いフロアで、GIとアメパンがジルバを踊った。ウイスキーに添えられたナッツを噛みつつ、多分、セーラとは彼女のこと、絵を描くというからには、芸術科美学専攻の野郎が目をつけているらしい、クソッ、奴等、ベレーなどかぶって、馬鹿ぞろいのくせに、またいわれなく、坂崎坦教授門下をおとしめる。  痩《や》せた、パーシバル将軍風のシビリヤンが入ってきた。これがセーラの父で英国人、上海でママと結婚、日本の敗戦後、戦勝国民の一人としてママとセーラを伴い、日本へ来たもの、ぼくが「シャングリラ」に顔を出す大分前に離婚して、だが時たまセーラの顔を見にくる。ほぼ二日置きに通い、セーラが丸の内にある外人商社に勤めること、勤めの後、近くの国際外語大学で、商業英語のレッスンを受けることを知り、彼女は戻るとしばらく店に出てGIの相手をする、ママの監視がきびしく、一緒に踊ることはまずない。  GIのえらぶ日本女性は、しばしばこっちの審美眼からすれば醜女のことが多いが、セーラはまるで西欧人、そのレベルでいってかなりの美人、GI同士は、いちおう店のお嬢さんでもあるし、これまで遠慮していたらしいが、そこへ、奇妙なジャップが入りこみ、日本語でしゃべりかわす。当時のGIは、近頃、アメリカの小説におびただしく登場するような、汚ない表現は口にしなかった、せいぜいガッデムどまりで、しかし、ぼくが隅でならともかく、他の席でセーラと話していれば、しばしば肩をつかまれ、追いやられた。  GI同士よく喧嘩をした。ボクシングにおけるジャブの効用、上手下手がよく判る。しかし何分小さな店で、こっちもとばっちりを受ける、突きとばされた奴が、重ね餅となってころんだぼくの上にのしかかり、これを、押しのけるのが怖い、眼鏡をこわされたくないが、迂闊に外すと挑戦するが如くみなされかねぬ、ふり撒《ま》くビールはひっかかる、トイレットの脱臭剤が命中して、妙な臭いが染みこむ、しかし純情一途のぼくは逃げず、この店では許す限り、ウイスキーだけ飲んだ。  セーラの帰宅は十時頃で、この時刻に合せて姿をみせるのは、いかにもさもしい、大体八時に出勤し、やがて顔見知りとなった諸嬢と四方山《よもやま》話、恋人が移動する際、軍用機でついていくとか、食事が片寄って栄養失調、歯抜け、さらに肺病も多いとか、メンスをコントロールする薬があるとか。彼女たちは、かつてのオンリーで、今は「シャンゲリラ」で客との出会いを待つ。  三月後、初めてセーラを表へ連れ出した、といっても寿司を食べただけ、鼻にかかった声で欠食児童の如く、沢山食べた、何をしゃべったか覚えていない、こっちはかなり酔っ払っている。ただ、ぼくが文学部であることを知って、本が沢山読めていいというから、この後、必ず二、三冊求めて出かけ、プレゼントした。秋に入ると、中古衣料の行商が少しもり返し、平、水戸、土浦、郡山、常磐、前橋、桐生、渋川、千葉、八日市場、銚子と目まぐるしく往復、行商といってもこっちは元締、アルバイト学生を売り子に使い、ズボン二百円の元手が、ほつれのかがり、洗濯プレス、運送費こみで、五十円程度。アメリカの教会が集め、貧困なアジアの民を救済するため送ってくる古着の、荷揚げの名目は屑《くず》だったから只同然。ラクダのオーバーなら千円の値がつく、背広上下で七百円、売り子にはアゴアシ酎の晩酌付きで、六百円、木賃宿は一泊二食二百五十円、売り上げにもよるが四割から六割、確実にもうかった。困窮学徒救済と銘打ち、戦災母子家庭援助と詐称し、公共の建物を無料で借りての一行程、五日間でぼくの取り分が四、五万。  この大部分、セーラに捧げたのだ。もはや背広はウーステッド、靴は花川戸の問屋を通じたオーダーメード、ある程度本が溜《たま》ると本箱を献上し、舶来のリキュールが市販されれば、ベルモット、マラスキーノ、キュラーソなど、見た目に鮮やかなボトルを貢ぐ。  彼女が上海時代をなつかしみ、西瓜の種を食べたいといえば、横浜南京街へ出かけ、ある時、スラックスにペタンコの靴だからわけをきくと水虫の由、薬屋で十何種類を購入、石炭酸を溶かしたぬるま湯が効くときけば、一式用意した。  冬のある日、セーラは勤めをクビになった、そして、進駐軍のハウスをまわって、真珠製品のセールスをはじめた。商業英語の勉強もやめ、時に酔ってもどり、ママの平手打ちを受けた。ぼくは、後にいうアタッシェケース、平べったい人造皮の箱に入った製品を預かり、母の友人宅をまわった。  いずれも、邦楽、お芝居関係で、アメリカ向けデザインのものは合わず、玉そのものもよくないという。昭和三十六年、祖母が亡くなって葬儀の時、その一人は、「どう? 近頃真珠の方は」と訊いた。  値段を忘れたが、ぼくが買いとり、新宿二丁目の娼婦に、一つずつ贈った、セーラに入れ揚げながら、きちんと悪所にも通っていたのだ。貢物のせいで、セーラは、店にいれば必ずぼくのテーブルにすわり、三島由紀夫の新作、松川事件における広津和郎の発言、カフカについての考察など、大いに知的会話を楽しみ、当然、GIの反撥《はんぱつ》を招く。割りこんできて早口で何かまくし立てる者、人を指さし首をふりつつ、語気鋭くいいつのる者、セーラはもとより英語ペラペラだったが、よほどのことがなければ、生返事以外、使わない。  一度、突きつけられたビールのグラスを断わったら、そのまま中味を顔にぶちかけられた、そしてなぐるといった感じじゃないが、指の内側で鼻をなで下げ、ついで指先きをはね上げた、痛くはないが侮辱された思いは深い。羽田で働いている時、黒人にボクシングを教えてやるといわれ、実はサンドバッグ代りにさんざぶちのめされた時とこの時と、いま思いかえしても、やりきれない気持になる。  ママもセーラもいなかった、ぼくは情けなくも店を去り、夜はやばいからと、ふたたび浜松町の外人商社に勤めたセーラの、朝を待ち受けることにした。沼袋駅七時、改札を通り、上りの線路を渡って彼女がやって来る、思いがけずぼくを認めて、べつにおどろく風もなかった。  高田馬場で山手線に乗り換え、寿司詰めの中で、何をしゃべったことか、浜松町へ着くと、黒塗りのビュイックが待っていて、セーラを乗せ走り去った。朝を待ち、暮れては、恐ろしいながら、想いぞまさりて店へ出かける。二十九年になった、ぼくは一年おくれていて、新潟高校から、ほとんどが官立大学へ入った連中は去年の三月に卒業、その職場は、国家公務員、司法修習生を除いて、三井鉱山、長銀、大和証券、物産、商事、住友銀行、東大大学院に残った者が三名。早稲田の同級生の半ばは都落ちするらしい。ぼくはもう田舎とはいえアメリカ中古の輝きはうすれつつあったから、「景品買いお断わり」「貸売りお断わり」のプレート販売、コンクリート製ゴミ箱押し売りと目先きをかえ、なんとか飲み代を稼ぎ出す、沼袋の下宿は二月で出て、中野桃園町、野方、参宮橋、新大久保と移り、桃園町の貸し部屋六畳の隣には、母を失った娘二人と父が住む、娘二人はきわめて背が低く、父の留守を守るが、時に殺すのなんのと物騒な喧嘩をはじめ、 「なによ、あんたなんか隣の学生さんが好きなんでしょ」 「ふん、惚れてるのはあんたじゃない、まあ、弄《もてあそ》ばれて捨てられるのがオチね」  といういさかいを耳にし、逃げ出した、後にも先きにも、こういうケースはこれだけ。  二十九年、六月、セーラと、その上海時代の友人で、お茶の水へ通う才媛を、新潟へ招いた、母はぼくのあまりに鞠躬如《きつきゆうじよ》たるもてなしに呆れ、「あわれといいますか、人がいいといいますか」とつぶやいた。海岸に寝そべったセーラの腋《わき》の下の、毛の剃《そ》り跡につい視線が吸い寄せられて、顰蹙《ひんしゆく》をかい、浜茶屋で日本海に沈む夕陽に見入るその薄衣に、くっきり体の線がすかし浮かぶ、ぼんやり見ていると、背中に目があるのか、ふりかえって、「いやあね」といった。  新潟市の海は、ダシの風、陸からの風が吹くと、波頭が押さえられ、ベタ凪《なぎ》になる、うっかりこの時、沖へ漕《こ》ぎ出すと、今度は、漕ぎ手の体が帆になって、帰れなくなる。 「今がそうだけど、べつにシベリヤまで持っていかれることはない、佐渡に漂着する」  ボートを漕ぎつついうと、 「どれくらいで」 「二十四時間とか聞いたことがある」 「つまり明日の今頃、夜になって夜が明けて。海の上の夜ってどんなかしら」  上海ではどうだったかしらないが、日本へ戻って以後、海は初めてだという、まっくらな海を汐《しお》だか風だかにまかせて、二人を乗せた小舟が漂いつづける、と、ロマンチックに考えつつ、一方で、ここじゃできないだろうな、それに処女だったら暴れるというし、あらぬことを思い、とたん勃起《ぼつき》が始まる、新潟高校の寮歌、※[#歌記号]佐渡ヶ島山たそがれて、彩雲なびく空の色を唄い、懸命になだめる、第一節の終りは、「あゝ若き日はかくしてぞ、音もえ立てず消えゆくか」  この年の夏、いっこうに姿を見せぬセーラを待ちあぐみ、夜更けて帰ろうとすると、暗闇でひょいと肘《ひじ》をつかまれた、「野坂さんの下宿みせて」ぼくは、東伏見、早稲田のラグビーグラウンドの、すぐそばに部屋を借りていた。  この頃は、美術学校関係の学生を集め、肖像画を描かせるビジネスに携っていた、絵描きも、注文主も文句が多く、もうけにはならない、借りた部屋にあるのは、瀬戸の火鉢、食器を納めたミカン箱だけ、火鉢の上には前日煮たおじやの鍋がかかっている。  部屋の向いは新婚夫婦、よく喧嘩をするが、その後必ず、鳩の鳴き声が伝わる。  東伏見の駅前もまっくらだった、疎《まばら》な木立ちを抜け、ちいさな社《やしろ》の境内を突っ切ってひたすら無言、下宿に女を連れこんだことは何度かある。門限を過ぎて入れてもらえないラーメン屋の女中、開き直った女子美の学生、寝せてくれりゃそれでいいという自称未亡人、いずれにも手荒い仕草、朝十円硬貨一つと、玄関の誰のともしれぬ靴や傘を渡し、「新宿の珠屋へもっていけば三百円になる」と追いかえしていたのだが、セーラには、そういった気持もまるで起らない。  やはりこっちは酔っていた、残り火に息吹きかけて、まずまずしい残りのおじやをかきまわし、まことに気もそぞろ。何事もなくセーラはもどっていった。  いよいよインチキ商売は成り立ち難くなって、関西へ出かけ、紙芝居屋をやろうとした、伝手があって、ぼくが筋を立て、絵描きが画面をつくる、自由舞台、白鳥座の落ちこぼれに演者をつとめさせる、これはまったく駄目で、尾羽打枯し東京へもどり、「シャングリラ」へ顔を出すと、整形美女のハルミが、「どこへ行ってたの、セーラさん結婚したわよ」といった。GIの権勢はうすれ、この店にも日本人客が多くなっていた、ママが満面笑みをたたえ、庭園で写した、純日本風花嫁のセーラと、華燭の客の姿をみせた。モノクロームで、セーラの帯の白さだけが印象に残っている。  この後、セーラの父の友人、通称オクちゃん、オクターブ・モンクの紹介で、ぼくは、刑務所から出る、囚人のだか看守のだか判らない残飯の運び屋になった。二百リットル入りドラム缶に詰められたそれを、狭い通用門で受け取り、リヤカーに乗せて塀に向き合う日本人食堂に運ぶ。これを石油一斗缶に分配し、新宿池袋渋谷から集ってくる、それぞれ店名を「シルバースター」「ラッキーセブン」「ハイカロリー」と名乗る業者に渡す、一斗缶が一ドル、三百六十円だった。暇な時は、GIのアメラグの、パスのレシーブをやらされる、残飯の受け渡しさえ済ませれば、後は自由、ぼくの取り分は千円近くになったが、夜になればともかく、昼は当てがない。そして夜、日本人食堂の、洋モクシケモクをキセルで吸い、栄養になるからと、残飯からとり分けておいた肉を、煮なおす仲間と別れて、沼袋駅へ向う道は、まだまったく暗かった。東伏見から、代々木上原、青山と流れつつ、時たま、「シャングリラ」に顔を出し、新居を葉山にかまえたというセーラの里がえりの日時をママに教わって、いちおうお祝いをいうべく、出かけた。折悪しく逼迫《ひつぱく》していて、プレゼントは彼女の好きだったパセリ一束、金十円也。 「ごめんなさいね、いじめられたら、逃げていくから」と、セーラはいって、眼を伏せた、伏せたように思った。ずっと後でママに聞いたのだが、東伏見の部屋をみて、これは駄目、貧しい暮しはもう沢山と、思ったのだそうだ。  十二契の九「夜目遠目塀の内には進駐軍」。 [#改ページ]   青山南町の鮭缶  下町には下町の、つきづきしい町名がある、東京育ちではないぼくの勝手な思いこみかもしれないが、築地明石町とか、蠣殻《かきがら》町、木挽《こびき》町、小網町、二丁町と数えればきりがない。そして山の手でいうなら、そこが代表的地域であるせいもあろうが、港区青山南町ではないか、笄《こうがい》町、紀尾井町、塩町なども、おもむきに富むが、いささか世話にくだけ、商家風で、山の手のハイカラ風にそぐわない。  子供時分、何度か東京に遊びに来たけれど、青山についての記憶はまるでなく、にもかかわらず、南町にあった青南小学校の名前は、聞き知っていた、きっと両親がいい学校の代表みたいにしてしゃべっていたのだろう。  青南小学校をさらに身近かに感じたのは、そこを出た、新潟高校の先輩の家に、あれで四ヵ月近く居候していた時、昭和二十九年秋のことだ。先輩は、焼跡に戦後すぐ建てた、まあいわば掘立小屋に住んでいた。小屋ったって、復興標準住宅が、はじめ七坪、つづいて十二坪半に制限された時代に、間口五間半、奥行き四間、即ち二十二坪の建築面積、あの頃、物がなかったから、逆に妙なところに本来の用途を無視して、上等な品を使うことがあり、この小屋もその典型、床はチーク材とマホガニー、柱は磨き丸太でたしか桜ときいた。  台所の立ち流しは焼け残った舶来の製品、玄関の戸は欅《けやき》の一枚板、塀はやはり火に強い重厚な大谷石をめぐらせる。建てられた頃は、実に豪華な掘立小屋だったと思う、だが、九年経つと、節穴だらけの安直な材料ながら、家らしい家が増えて、先輩の住いはいわば時代に取残された印象。  敷地は百二、三十坪か、そのまん中に小屋があり、ぼくのころがりこんだ初夏の時分、すさまじい雑草で、中に一筋、細々と道が通っている、小屋の板壁は反り、窓硝子は破れて、「ライフ」「コリヤーズ」の表紙が風防ぎ、屋根はルーフィングの切張りタール漬け、はじめ一夜の宿を頼むつもり、それにしても、荒れ果てたたたずまいに、胸をつかれたのである。  先輩の邸宅は五月二十五日に空襲で焼かれた、表参道に黒焦げの死体がいくつもころがっていたという。焼ける前の家並みをまったく心得ないが、先輩は、文無しのぼくにウイスキーをすすめつつ、在りし日の青山を語った。いたるところに原っぱがあり、練兵場からひびく夕刻のラッパが、子供たちの家へ帰る合図、赤とんぼが群れ、ヤンマは一直線の夏の暮れがたや、六丁目の交叉点に出ていた屋台の寿司を、兄さんと映面を観ての帰り、親に内緒でつまんだことや、表参道沿いのアパートに住んでいたビクトル・スタルヒンの思い出、その中に青南小学校の名前がでてきたのだ、一年後輩に斎藤茂吉の息子がいたという。  ぼくには、こんな風に深い思いをこめて、よみがえらせるべき町がない、育ったのは神戸市灘区中郷町、語呂はいいけど、それまで砂地で無花果《いちじく》ばかりのところへ、昭和の初め勤め人のための貸家が沢山造られた新開の地、がさつな感じは否めない。他にさし当って身を落ちつける当てのないこともあったが、考えてみると、二十五年春に上京以後、いわゆる山の手の屋敷町に住んだことがなく、焼かれて、町並み自体|雑駁《ざつぱく》な感じだけれど、少し青山南町をみてみたい気持が起った。  今思えば、ずいぶん身勝手なことだが、高校の先輩には、こんな風に甘えを許すところがあり、就中《なかんずく》、この先輩、山本森康氏は太っ腹な人物、ぼくだけではない、前は知らず、ぼくの居候中、延べ何十人がこの小屋に泊ったことか、あまり出入りが多く、おそくまで灯がついているから、思想的不穏分子のアジトかと怪しまれ、赤坂署署員に張りこまれたことさえある。  二十九年になると、体力と、少々の気働きで世間様の小股《こまた》をすくう稼ぎは、ほぼ通用しなくなった、本来なら去年卒業のところ、一年浪人しているから、この春めでたく社会人となって当然、しかし取得単位は三十に満たない。もっとも、卒業した同級生も、仏文科六十数名のうち、素姓《すじよう》確かな企業に入ったのは四名。ぼくのインチキ商売はパチンコ必中機の当て外れでピリオドを打ち、その仲間はほぼ郷里へ戻った。このままでは転落の一途と見きわめたのだ。われ一人孤塁を守り、バーテンダー見習い、残飯運び、外苑で自転車|挽《ひ》いてのアイスキャンデー売りと、みじめな明け暮れ、東伏見から代々木上原の畠の中のバラックへうつり、慈恵医大生が今風にいうと落ちこぼれて、朝から焼酎びたりで過ごすところへ同居。彼はアル中となって緩慢な自殺を遂げるか、自衛隊へ入ってやろうかと悩み、ぼくより一つ上だから入隊を志願するなら急がなければならぬ、二十五歳未満が条件だった。八月半ば、彼は吐血し、ぼくが付添って淀橋病院に入院させ、救急扱いだから仕方ないのだろうが、隣のベッドは行路病者、翌日の朝、顎を不意にわななかせて息を引取った。  すっかり怖気《おじけ》づいて、彼も帰郷、小屋にいられなくなったのだ。  先輩の家はかなりの資産家で、また手際良く荷物を疎開させたらしい、二間の押入れにぎっしり衣類を納めた箱が詰り、大きな黒檀の食器|箪笥《だんす》に、いわば猫に小判の高級な皿小鉢カップ瓶があったし、壁の一面は天井までといいたいが吹き抜け、二メートルの高さに美術建築関係の部厚い本がならぶ、布団は上下五組とも羽根布団、ぼくは初めて寝た時、慣れていないから、腰を痛くした、雑草の中に、焼けたグランドピアノの、ピアノ線と鉄板が放置され、マントルピースの残骨もあった。  先輩の部屋は八畳、板壁一枚で隣の六畳に正体不明の独身男、その向うに、南里文雄とホットペッパーズのベース奏者が、元伯爵令嬢の妻と暮す、六畳の裏手に便所、表側に台所と玄関、煮炊きするにも厠《かわや》の用足しにも、不明男の部屋を通過しなければならぬ、彼はまったく気にしていなかった。  小屋の裏手に、歌人佐藤佐太郎が住んでいた、通りからの道をさらに進むと、「白毛女」の松山樹子バレエ団の稽古場《けいこば》がある。その門下生の男女がよく連れ立って前を過ぎて行ったが、もはや羨《うらや》ましいとも思わぬ。緊縮財政、デフレ政策とやらで、失業者の数は増える一方、さすが先きを考えれば心細い、といって現実にどう努力していいのか判らない。  居候の身としては、朝、几帳面《きちようめん》に、釜《かま》はないから飯盒《はんごう》で飯を炊き、梅干しと買いおきの本来は酒の肴《さかな》らしい牛の大和煮、鯖《さば》の水炊きなどの缶詰の朝食を用意、先輩は十時頃大学院へ出かける。ベースマンは、銀座「千疋屋」の上の、キャバレー「黒バラ」に出演していて帰りがおそい、夫婦とも起きてくるのが昼近く、起きると彼等はラジオをつける、吹き抜けの空間を通って聴える。第二回国民討論会「現行選挙区制か小選挙区制か」「国際教養大学」といった固い番組が多かった。  本はいくらもあったが、「ルネッサンス期における教会建築ファサードの研究」とか、「アンリ・マチスと窓」とか、まるで縁がない。当時、ぼくは親からの送金を受けてなかった、喧嘩したのでも勘当されたのでもない、あまりに目まぐるしく宿を替り、常に跡を濁して尻ぬぐいが親許《おやもと》へとどく、生活をきちんとさせるまでモラトリアムという訳で、こっちも、勢いの消長はあれ、適当に稼いでる分には仕送りなど当てにしないで過ごせたのだ。  青山での居候は、きちんとさせたことになるか、父は、月々の額から、尻ぬぐい分をゲップみたいにさっ引き、手取り五千円くらいのはず、米一升百二十円、月に一斗食うとして千二百円、塩、醤油はここにある、銭湯代十五円、月二十回で三百円、煙草のバット四十円、一日十本吸って六百円、豆腐一丁十五円、油揚げ一枚七円、これで蛋白質を補給、月に六百六十円、帝都座五階の映画館三十円、二十回観るとして六百円、焼酎の最上二合瓶四十五円、月二十本で九百円、瓶十本で二合瓶と交換出来る、計四千二百六十円、雑費七百四十円、こんな計算をしては、なにやらきちんと計画を立てたようなつもりになり、もとより実行できるとは思っていない。  弁護士に頼まれて図書館で調べもの、三越劇場、大和ホールで邦楽お浚《さら》い会の録音、新築の家を棟梁《とうりよう》とまわって、とび出た釘《くぎ》などを打ちこむ役目、引越し手伝い、新聞広告をたより、職安に申し込み、犬の散歩、蔵書整理もやったが、これは少し心得がないと無理で、さんざ雇い主に苦情をいわれた。  だいたい日に四、五百円見当、ゆとりがあれば働かず、家で食うか、あたりを散歩するか、焼跡の頃の不安性飢餓症がよみがえって、いくらでも腹に入った。通りへ出る右の角は瀬戸物屋、左が洋品店、空襲を受けた町並みに特有の安っぽい建物ばかり、中で少しまともなのは骨董屋、中国名の洋服店、デリカテッセン、それにジュークボックスを置き昼はガランとした今でいうスナック、いずれも進駐軍が相手。六本木の、竜土町から三河台町までの方がその密度は濃く、いかにも基地周辺のたたずまいだったが、青山の通りにもけっこう散在して、だが、いずれにも閑古鳥が鳴く、中国人洋服屋の前で、ウィンドウをながめていたら、「これパッチポケット、洒落ているよ」しょったれた学生服、下駄ばきのぼくに主人、満面の笑みですすめた。  スナックの一軒「コロラド」はアイスクリームが名物、今、甘いものはほとんど口にしないが、花魁《おいらん》の頭みたいにフルーツのごてごてしたパフェは食べる、「コロラド」によって開発された嗜好《しこう》。もっとも、近頃、女と一緒にこのものを食したら、「なんだかヘンタイみたい」と気味悪がられたが。  渋谷と赤坂経由新橋を結ぶ都電がわりに頻々と走っていた、薬屋毛糸屋文房具屋果物屋パン屋と、小体《こてい》な商店が並び、通りに面して、残った塀をみれば、以前はそれこそお屋敷もあったのだろう、墓地に沿って、霞町へ抜ける向うの角に、よく店を閉めているが、感じのいい古本屋があった、千駄ヶ谷へ向う道を入ると両側ともに木造アパート、当時、日本人は外国製の車は、新車はもとより、たしか四年経っていないと買えなかった、やはり進駐軍の基地、また代々木ハイツが近いせいだろう、車の修理工場兼外国中古車を商う業者が、通りに数多く店を出していた、その従業員のよく利用する店が、「コスタリカ」で、喫茶店風だが、ハンバーガー、スパゲティが売物、ビールはバドワイザー、彼等の話によって、ぼくはボウリングなる競技のあることを知り、中古車の馬力測定には赤坂檜町小学校裏の坂道を登らせるのがいちばん、アメリカでは遠からずカラーTVの時代になると教えられた、タデオというから何かと思えば、リズ・テイラーの亭主、マイケル・トッドの開発したあたらしい映画の画面、TDOのこと、実に雑学があった、ぼくはここでもっぱら、砂糖まぶしたフレンチトースト、ホットケーキを食べていた、ろくに酒を飲めないから、体がカロリー源を求めたのかもしれぬ。質屋は、表参道の角近くと、神宮球場への左角にあった、だが、まったくの無一物、その頃はすでに師走で、レインコートの下は虫くいのセーター、ぼくよりは背の低い先輩の、古い学生服をもらって、つんつるてんながら寒さをしのぎ、下駄さえ鼻緒が切れりゃ、元伯爵令嬢のそれを拝借、女下駄で表を歩くことの異様な恥かしさを、しみじみ知ったのである、とても質草どころではない。  通りに出て渋谷方向へ歩いて、左へ入ると銭湯と、独身警官の寮がある、風呂にはほぼ毎日入った、三十円の名画座とここが、唯一の楽しめる場所、以前はたいていの家に内湯があった、だから、銭湯の数は少い、そこへ焼跡の仮普請、風呂のゆとりがない、という訳で、と推測するのだが、夕刻以後たいへんな混みよう。警官の寮には、それと知らず入りこんだ泥棒がいたという、先輩の家にも押し入った。  いよいよ切羽詰ると、中野区打越町九番地、安倍耳鼻咽喉科医院、即ち音楽評論家安倍寧の父君の家へ、食い稼ぎに出かけ、夜の九時、渋谷駅へ戻った。  中野渋谷間十円、二十円あれば、安倍家で二食御馳走になれるという、まことに卑しい食客稼業。  盛り場である道玄坂、百軒|店《だな》も、九時になるとかなり寂しかった、東横百貨店は改築中、ガードをくぐって宮益坂、左側に四、五軒の赤提灯の他、まっくら、都電はまだ走っているが、電車賃が惜しい。坂を登り切れば、左に詩集を多く置いている古本屋、都電の車庫、向いは服専門の月賦屋、ここで道は二つに分かれ、右へのカーブを辿ると、高樹町を経て霞町、六本木、霞町の近くに、新潟高校のドイツ語を教えていたヘルフィッシャーの経営するレストラン「ラインラント」がある、その令嬢ハナコさんはたいへん美人と先輩がいっていた。  表参道へ向って歩く右側に青山学院大学、左は低い家並み、高級スーパー「紀之国屋」はまだない。青山学院に続いてスナック、昼は雑然たるながめに、とりまぎれてしまうが、夜だとここが以前屋敷町と、よく判る、深閑と落着いている、これまでの転々が、貧しい土地柄ばかりだったこともあろう、焼けはしても山の手草分けの格式がたしかにあった。  表参道の逆を入ると、道は百メートルほどでごく細くなる、その右側に孔版印刷屋があって、この一年後、ガリ版切りの仕事をすることになる。  そば屋、洋品屋、犬猫医院とつづき、瀬戸物屋の角を右に折れて、道は下り、入り口に杭《くい》が立っていて車は禁止、いったいに通りからの道は狭く、通りと平行の道が立派。バンドマンも不明男も帰っていない、鍵は、以前飼っていたという犬の、小屋の下に置くとりきめ、八畳の部屋の電気をつけて仰天した、先輩は無頓着なたちで、ぼくが片付けなければ、たいてい取散らかっているのだが、眼前の光景は極端、なんとなく先輩がヒステリーを起したのかと、まず思った。いかに鷹揚《おうよう》な人柄でも、ぼくは居坐ったままだし、不明男は口を開けば女にもてた話ばかり、バンドマン夫婦は年中、底抜けに上機嫌、そのはしゃぎようを、筒抜けの耳にしながら、「彼女、生れは深谷なんだって、深谷に伯爵なんかいたっけ、葱《ねぎ》畑ばかりだろ、あすこは」といったことがある。  日頃の鬱屈《うつくつ》が爆発したのではないか、箪笥の引出しはすべてほうり投げられ、押入れの襖《ふすま》が中途半端に開いていて、下着類ズボンYシャツなどがマホガニーの床に乱れ、御両親の衣類と覚しき着物が、何枚も長々と横たわる、洋服箱とその中味がほうり出され、後片付けをまったく考慮しない散らかしかた、夫婦喧嘩で茶碗を三和土《たたき》に叩《たた》きつける時も、安物を自ずとえらぶという、これはヒスの所業じゃない、泥棒、と考えついたとたん恐怖感に襲われた。  外へとんで出て、さてどうすればいいのか、表参道に交番はあるが、今や見るかげもない焼跡の玉楼を、狙《ねら》う奴《やつ》がいるだろうか、ふとぼくは自分が疑われやしないかと心配になった。  わが持ちものに限らず友人の品物も、事後承諾で質屋へ運び、いたるところに借金をしている。いや大丈夫、バンドマンの出かける前に、ぼくは安倍家へ向った、一日、その庭の草取りをしていたのだからアリバイが成立、つづいて頭にひらめいたのは、これぞ奇貨居く可しじゃあるまいか、引返して、衣類を盗む、泥棒に便乗するのだ。  一月前、先輩の姉上が来訪、押入れの衣類を出し、風に当てた、質屋通いできたえた鑑定眼では、ドスキンの礼服、カシミヤのセーター、総絞りのお召し、結城の対、ロープにかかったすべて一着万金、しかし、その現場、持出すところへ先輩が帰ってきたらどうなる、ぼくは交番へ向った。  警官二人が、のんびりした感じで同行、現場をみて、「盗られたものは」「ここの主人が戻らないと判らない」「あんたは」「まあ居候というか」「主人との関係は」一人が無愛想に質問する、「鍵《かぎ》はかかっていたんだね」「ええ」その気になれば窓を破るのは簡単だろうが、見たところ異常はない。  同居人についての説明にも苦労した、バンドマンの部屋はいちおう鍵がかかっている。不明男の部屋は万年床と行李《こうり》だけで、無事。「野郎、ここから入りやがったな」一人が、便所の前の、板敷きの窓をながめていった、なるほど一枚の半ばが破れ、片寄せられている、破れから手を突っこみ鍵をあけたらしい。  現場をそのままにしておくこと、主人がもどったら、ざっと盗られたものを洗い出しておくことなどいって、警官は帰った、そしてその夜、先輩はいずくにか沈没。翌朝九時、私服二人を皮切りに、午後三時まで、計八人がやって来て、同じ質問をする、なにやら暇つぶしの感じ、そのくせ、こっちが、覚えたサツの符牒《ふちよう》で、「入りはこの窓の」などいうと、うるさそうな顔をし、先輩の居所の判らないことについて、「女のとこにでもいるんでねえの」栃木弁で嫌味をいう。  不明男は、真珠のタイピンをやられたといい、深谷の元伯爵令嬢は、台所の棚においたエリザベス・アーデンの乳液とローションが無くなっていると申告、「行きがけの駄賃よ、失礼しちゃうわ」かなりわざとらしく怒ってみせた。  夕刻、先輩は戻ったが、フラノのズボン二本、バーバリー社製のヤッケが盗まれていた、しかし、押入れの品については、姉上の検分をまたねば判らない。 「いやぁラッキーだったなあ、カメラ渋井さんちに置いといて」先輩は写真の名手でもあり、浮世絵収集家渋井清の、そのコレクションを、持主の依頼により撮影していた。カラー、原寸大に撮るための器材と、ライカ一式、ずっと預けていたのだ。ぼくは後片付けにとりかかった、かつて質屋で、質流れの衣類を、買いとりの古着屋が一枚一枚値踏みする場面に出くわしたことがある、ひょいと拡げて、洋服の上衣なら、襟《えり》、肘、袖口の部分を調べ、裏地を指でもみ、膝に横たえて、「イチゴ」なんてことをつぶやく、質屋側は帳面をながめつつ、「きびしい」とか「縮緬《ちりめん》で稼いだじゃないか、少し色をつけて」と押しかえす。  アメリカ中古衣料の行商をやったことがあるから、洋服をたたむのはうまい、着物、袴《はかま》の始末も母に教わっている、古着屋の気分で品定めしつつ片付けるうち、モーニングのポケットに何か入っているから、たしかめると喪章だった、かたわらでながめていた先輩、「ふーん、親父は万事ぬかりがないからなあ、年をとると、こんなの着るのは葬式ばかりっていって」先輩、モーニングをはおった、父上の方がずっと恰幅《かつぷく》がよくて、なにやら先輩、七五三のように、かわいらしくみえた。  姉上が駈《か》けつけ改めると、十六点、若向きのものばかり盗られていて、明らかに本職の仕業、先輩は相談して、質屋古着屋へ配る品触れを作成、警察に依頼、いやはや、泥棒に便乗していたらえらいところであった。  小屋には、渋谷で飲んだあげくの酔客や、高校時代、寮の総務だった先輩をたよって、相談ごともちかける者、手土産持って馬鹿っ話が目当ての同級生、しばしば麻雀となった。居候きめこむ前にも、よく泊りこみ、今でもはっきり覚えているのは、卓を囲んでいる時、バンドマンがつけっ放しのラジオから、第五福竜丸乗員久保山愛吉さんが、原爆症でついに死亡したニュースが流れてきたこと、日頃、駄洒落好き、はしゃいでいる安倍寧がしんみりと、「さぞ、苦しかったろうなあ」とつぶやいた。またその三、四日後だった、徹夜で迎えた朝、先輩が新聞をとりに出て、「いやぁ、こりゃたいへんですぞ、これはタイタニック以来じゃないかなあ」いいつつ部屋にもどり、つまり洞爺丸沈没、この秋はむやみに台風が多かった。  秋も深まった頃、先輩が、口添えしてくれ、家からの送金がよみがえった。  だが、学校へは足が向かない、どころか、なまじあれば、すべて酒と娼婦に費やしてしまう、先輩の学生服をいいことに、冬仕度も質から出さず、ただ金を入手した日だけは、椀飯振舞、先輩はマヨネーズ、ルウを上手に作り、かつ、正統的ビーフステーキ、アイルランド風サラダ、マルセイユに由縁のブイヤベース、ペトログラード式ボルシチなど、手のこんだ料理が得意、ただし、時間のかかるのが難で、匂いばかり延々とかがされ、ぼくは通りのそば屋で腹をなだめる。  また就職シーズン、五年でなんとか卒業できそうな連中が、青息吐息でやってくる、まったくお先きまっくらなぼくの顔をみれば、少しは慰めとなるのだろう。  ぼくは、すべて両親の縁故だが、屁《へ》の支えにはなるだろうと、外務省情文二課の田付たつ子、プラスマンパックの女社長、さらに、飯田橋にあった田中土建の社長・角栄氏を、友人同道の上訪れた。  まだ痩せて、口髭《くちひげ》の身につかない角栄氏は、 「まあその、景気は回復しつつあるといっても、総生産ののびは前年度前々年度に較《くら》べるならば、比較にならぬ鈍さで、これは緊縮財政のもたらした結果にちがいないが」  受付のカウンターの横の、粗末な応接セットで、滔々《とうとう》と論じ、 「学部はどっち方面かね」  たずねた。 「仏文です」 「フツブン?」 「フランス文学専攻なんですけど」  とたんに角栄氏、びっくりした表情で、 「フランスねぇ、ふーん、いやいや、私はてっきり土木建築電気の方かと思ってさあ」  人なつっこい笑いを浮かべた。  失業者の数は増減をくりかえしつつ、前年度の一割増しという、失業者なのかどうか、外苑の芝生の陽だまりには、オーバーの背を丸めた連中が所在なげに坐る。 「どこでもいいんだよなあ」 「郷里で親父の養鶏手伝うか」 「俺も、町の公民館になら雇ってもらえるんだが」 「ハクホウドウってなにやるとこ」 「さあ」  博報堂はおろか、電通がどういう存在かも知らない。  民間ラジオが盛んになり、広告代理店と共に、文科系の学生の大口受け入れ業種となったのは、二年後のことだ。彼等は、大学から遠いと、ついさぼってしまうと、その周辺に部屋を借りていた。三畳に一人で三千五百円、帰ったところで何もすることがないから、つい青山の小屋に足が向く。飯盒炊爨《はんごうすいさん》、鮭缶を皿にあけ、醤油をかけて食べるのが、いちばんの御馳走、ぼくは、なまじ卒業の見込みは、来年、再来年も無理だろうから、かえって気楽、いざとなればやはり親許をたより、その庇護《ひご》でどこかへもぐりこめるはずと、甘えがある。  十二月初め、甘えの通じない事件をぼくは起した。新宿で引っかけた女を、千駄ヶ谷、連れ込み宿に引張りこもうとして、タクシーに乗ったはいいが、宿の前で逃げられた、さっさと先きに降りたから、タクシー代払うべくふところを探るうち、女が闇の中に駈け出したのだ、追おうとすると、「チョット、あんた」ドスのきいた運転手の声で、ぼくはあきらめた、俊足をとばしてつかまえても、どうなることでもない、走る後姿がはっきり拒否していた。  そのまま、タクシーで瀬戸物屋の前に乗りつけ、かなり酔っていたが、止まるまで、そのつもりはなかったのだ、払う段になり、少し待っててくれ、金をとってくると、声が出た、タクシーは小屋への道を入れない、ぼくは駈足で坂を下り、戸を開けた、不明男が寝そべって本を読んでいる、「失礼します」かたわらを過ぎ、あたらしく入れた硝子戸をくぐり抜けて裏へ出た、右隣の家の塀にとびつき、庭に降り立つ、つながれた飼い犬が激しく吠《ほ》えたてた。  さらに隣の家へ、怪盗風に侵入、その門から道へ出て、通りとは逆の方向に走った、いちおう追手を撒《ま》くつもり、複雑なコースをえらび、気がつくと、根岸美術館の横、タクシーを拾い、当ては大学周辺の下宿しかない。  九州出身の友人が堀部安兵衛の碑の前の、古い二階に住んでいた、走ったために酔いがまわったのか、今度は乗り逃げのつもりではなく、ドアを開けると、その玄関へ倒れこんだ、ついて来た運転手に、下宿の主人が、ぼくのポケットを探り五百円札を渡した。  ようやく体を起したぼくを、小柄な主人、犬を追う手つきで、「シッシッ」といった、無視して、友人の部屋へ入りこみ、欲も得もなく寝こんだのだ。  翌朝、気がつくと毛布がかけられていた、眼鏡をかければ、部屋の隅の友人の、うんざりした表情が見分けられる。 「お前、ほんとに駄目になるぞ、少しは心入れ替えんと」 「うん」 「水か」 「うん」  二日酔いはないが、昨夜の愚かなふるまいが気がかり、まさか一軒一軒|虱潰《しらみつぶ》しに調べまい、かりに不明男のところへ運転手が来ても、裏から逃げたとはいわないだろう。そういうところは仁義が固いはず、得手勝手なことを思い、しかし、なんとも不安、酔って行きつけの飲み屋の赤提灯を破いたのと、意味合いがちがう。  訳を話し、友人が状況偵察に出かけた、この部屋にも目星いものはいっさい無い、卒論はボードレールと御大層だが、邦訳が三冊だけ辞書も見当らぬ。主人がことさら鼻すすり上げつつ廊下を行き来する。 「深刻だよ、青山は」戻って来た友人がいった、かの運転手は、ぼくの後をつけて来て、小屋へ入ったのを確かめ、しばらく待って後、不明男をたずねた、不明男は知らぬと答えた、運転手は交番に届けた、この少し前、隣家から警察に、怪しい男が塀を乗りこえて、庭を横切ったという通報がなされていた。 「乗り逃げと、家宅不法侵入で、非常線がしかれたって」 「まさか」 「本当らしいよ、今も私服が、立ちもどるのを待って、近所に網を張っている」  先輩が丁度いて、 「今あらわれるとな、即刻逮捕、ガチャンと手錠はめられてしまう、なんとかうまく心配するから、君のとこに潜伏させといてくれ、乗り逃げといや詐欺だろ、詐欺は破廉恥罪だぜ、大学追放|抹籍《まつせき》はしょうがないとして、新聞にでも出てみろ、彼の親父、引責辞職ってことだって考えられる」  ぼくはぞっとした。  脅かされているとは思わない、下手をすれば、いや、今のまま推移すれば先輩のいう通りだろう。「心配する」は「配慮する」という意味の、高校方言で、たしかに、効果|覿面《てきめん》の心配が、なされた。内閣総理府の高官である、大先輩に連絡、そこから検事局、警視庁、赤坂署とリレーされて、十一日の昼、自首して出るお膳立てが整えられた、先輩が、総理府にまかり出た時、大先輩は、鳩山内閣の、閣僚認証式の準備にいそがしく、紫の袱紗《ふくさ》に包まれた認証状が、いくつも机の上にあったという。  風の冷たい日だった。友人は、ぼくの学生服のボタンが、黒の練物であるのを気にして、早稲田のそれを買い求めた、先輩が針と糸を器用にあやつった、ぼくは初めて、稲穂の校章を身につけた。「ではしっかりいってきなさい、余計なこといわなくていいから、すいませんと、男らしく謝る。君は、素面の時は、実に真面目そうにみえるから大丈夫だよ」先輩が力づけ、「自首すれば、罪一等軽くなるばってん、平気だよ」友人がいった。  四丁目の角を曲り、洋裁店の目立つ赤坂への通りを歩く、石勝の仕事場、赤坂電話局、カナダ大使館、左は青山御所、何も考えずに歩いた、青桐が冬に備えて枝を払われ、トヨペットマスターとかいう、少し洒落た新車のタクシーが走る。 「心配」のおかげで、運転手の、事情聴取等で失われた、得べかりし収入を、もちろん乗り逃げの分と共に払えば、べつに示談書も必要なく、一件落着と、次席がつげ、「酒と女は気をつけんといかん」とさとした。ぼくは、また寒風吹きすさぶ中を、本当に重荷下した感じで、しかし、運転手に払う金が、さし当ってない、彼は、池袋の営業所に籍を置くというから、電話をかけると、その日は非番、多分、家にいるだろうという。  小屋へもどり、経過を説明、「よし、心配ついでだ、君、くわしいんだろ、質屋でなんとかしようじゃないか、こういうことは、早く片付けちゃうこった」羽根布団を、表参道角に運び、三千円を調達、その足で、営業所にきいた雑司ヶ谷の、運転手の住いへ向った。 「お前よ、女口説くのが下手だわさ、あれじゃ駄目だ、俺もよ、昔、よく悪さしたものだっけが、もうあきちまってな、お前、今、三多摩がおもしれえってよ、ワサワサひっかかって、あっちでやってみれ」  奥眼の、貧相な運転手にコーチを受け、こっちはうなだれるしかない、運転手稼業が、いかにうまみ多いか、さんざ聞かされて、二千八百円を払い、ようやく無罪放免。  原宿で降り、表参道を歩くと、これも代々木ハイツの名残りなのだろう、三軒の、クリスマス用品を売る店があった、ジングルベルがひびき、箱の中に星や天使、鐘、サンタクロースの雛形《ひながた》、豆ランプ、キラキラ光るテープ、クラッカーが詰められていて、着ぶくれた親子連れがのぞきこむ。  ぼくはボタンばかりピカピカの学生服、古いフラノのズボン、下駄ばき、懐中百二十円、だが、運転手のいっていた三多摩、どのあたりをいうのか見当つかないが、そこへ行くと、頬ぺたの赤い女が、ヤッテヤッテとすがりついてくるような妄想から、どうしても離れられない、ほっとしたせいか、猛然たる性欲だった。 「いやあ、よかったよかった、出所祝いたいね」  小屋へ戻ると、友人がはしゃいでいい、 「御祝儀麻雀といこうではないか」  先輩はもう一人、去年、東大を卒業、東武百貨店に勤める男を、メンバーとして呼んでいた。  出所祝いは、鮭缶にウイスキー、ただし、先輩の心づかいで、皿にあけた鮭には、薄切りの玉葱が添えられていた。 「いやいや、奔放に生きる人をみると、うらやましいて。あんたなんかを、無頼派いうんかねぇ」  デパート勤め、若禿《わかはげ》の男がいった。 「無頼派か、ハハハ、無頼派か」  酒の弱い友人、顔をまっかにして笑い、「行けフラマンの小麦船」と、先輩は、ランボウの詩の一節を朗誦《ろうしよう》した。  滄桑《そうそう》の変もただならぬ、東京の町のうつろいだが、銀座なら和光、新宿は伊勢丹、三越、建物は昔のまま残っている。建物がかわっても、以前の面影を伝える店屋が存在する、港区青山南町は、すべて失われた、町名さえ、今先輩の住いは、南青山三丁目である、なんだか、テレビドラマの題名風に思える、ぼくにとって、まさにどん底だったけれど、港区青山南町五丁目五十、山本森康様方は、実になつかしい、まあ、父の送金の封筒に記されていた文字のせいもあるが。  十二契の十「青山通りの赤い夕陽」。 [#改ページ]   箱屋 検番 人力車  ぼくは昭和三十一年四月二日、大学の六年に籍をおいたまま芸能プロダクションのマネージャーになった。その業界の右も左も判らず、かくなり果つるも身の因果と、半ば嘆き半ば諦《あきら》めの明け暮れだったが、今思えば、その三年間、まるで違う分野だが、やはり芸界の、そこではマネージャーとはいわず、支配人だったが、これになれないものかと真剣に考えたのだ。  近頃、外を歩いていると、子供が「あ、犬洗いの小父さん」と、ぼくを指さして笑うけれど、二十五年の秋に、このアルバイトを発明して、当時、犬の美容師など想像もできなかったから、こう自負してもいいだろうが、以後も、いわゆる学生にふさわしい副業は手がけず、うまく当れば王様、外れりゃ乞食、そして感心なことに、歌舞伎、新派、新国劇、能、日本舞踊、邦楽の会は、まめに観《み》ていた。金がなくても何とかもぐりこめるのだ、もっとも父がこの方面の通《つう》であり、藤間寿右衛門、渥美清太郎、町田嘉章と懇意で、劇場関係者に知人が多かったせいもある、いちいちこういった権威を頼りにする訳じゃないが、怯えなくて済む。  歌舞伎座なら、東側の大道具搬入口の手前のドアを入り、階段を降りる、そこは電気室へ通じる廊下で、かまわず進めば奈落《ならく》に出る、廻り舞台の巨大なカラクリを半周して、ちいさな木戸をくぐれば、即ち地下大食堂なのだ。花道を利用する場合、揚幕を出るにも引っこむにも奈落を通る、何度か、ものものしい隈取《くまど》りいでたちの役者とぶつかったし、きわめて顔色の悪い三島由紀夫が、楽屋へ通じる板敷きの上に佇《たたず》むのも眼にした。  席は当然ない、客が来ると移り、流れ者をきめこんでもいいが、面倒なら、少し見にくいが二階|上手《かみて》の照明室に入りこむ、ここには折畳みの椅子が三つあって、よんどころない事情の客を、塩梅《あんばい》するのだろう、図々しければ、一階後部右側の監事室に入りこめる。  演舞場の場合、冬は、正面の前にある汁粉屋へ入ってオーバーを頂ける、三十年前の東京はけっこう寒くて、背広だけということは即ち、劇場のクロークに身のまわりをおいたというしるし、要するに堂々と玄関を入っていけばモギリ嬢だまって通してくれる。  踊りの会、長唄のお浚《さら》いなどで、小屋を貸す場合、劇場は売り上げと関係ないから、鷹揚なもので、ドアを入るなり、階段上の、切符頂かり所を指さすだけでOK、切符の入手難がいわれていた「東をどり」でも、藤間一門の会でも木戸突かれたことはない。  秋になると、シーズン開幕といった感じで、踊りの会があちこちで催された、いろんな流派が妍《けん》を競うわけだが、客席の方は、先週歌舞伎で会った人と、演舞場付属の「新橋倶楽部」で顔を合わせ、つぎは三越劇場でお目にかかったりする。  二十七年十一月に公演された「東をどり」は谷崎潤一郎作の「盲目物語」と、折口信夫作詞の「万葉飛鳥の夢」が呼びものだった、演ずるは人気絶頂のまり千代|姐《ねえ》さん。何日目に観に行ったのか覚えていないが、階段を上った右側に、建設大臣の佐藤栄作が、おそろしく難しい表情で突っ立っていた。  一階右の廊下の中ほどに、「倶楽部」への三段ほど低くなって絨毯《じゆうたん》を敷いた通路がある、当時としてはきわめて瀟洒《しようしや》な感じのレストランだった。東側は築地川を隔てて米軍の病院と向き合う、夜ここで何かを食べた覚えがない、いつも昼間、常にさんさんたる陽光がさしこんでいた。  ここでぼくは長岡の芸者と偶然あった、名前を忘れたのだが、アダ名をパァ子といい、新潟古町でしばらく修業中に、知り合ったのだ、パァ子とは少し気の毒だが、かなり楽天的な人柄で、料理屋の階段の途中に腰をかけているから尋ねると、「休憩してるんさ」といったことがある。  長岡へ戻って以後、思い出すこともなかったが、やはりなつかしい、パァ子は強い土地の訛《なま》りを気にもかけず、「お一人ないますかあ、御一緒しましょうて」手を引かんばかり自分のテーブルへ誘った、先客がいて、四十にはまだなっていない婦人、眼の大きい中高の、まずは良家の細君風。  この婦人は名古屋の、名刹《めいさつ》の梵妻《ぼんさい》であり、おどろいたことに、昭和十年まで新橋の芸者だったという、長唄の唄い手で、吉住小三郎の一門、今の立場上、弟子はとっていないが、演奏会には出ていて、パァ子とは同じ流派の縁らしい。  梵妻さんの名前はTとしておく。  演舞場のはねて後、Tはぼくとパァ子を連れて、銀座通りの延長と、昭和通りの交叉点、佃煮《つくだに》の「玉木屋」のはす向いにある、レストラン「ブルドッグ」へ入った、その説明によると、今の東京でうまいビフテキを食べさせるのは、渋谷「二葉亭」とここなのだそうで、他に「らん月」のオイル焼きもいいという。  両親が東京育ちだから、うまいもの屋についての知識はあったが、考えればいかんせん古い、安藤更生「銀座細見」、今和次郎編「新版大東京繁昌記」風で、それも当然、昭和十三年、父は群馬へ移り、富山、新潟と転じて、戦後の新顔を余りしらない。  Tは以前からの老舗《しにせ》についても詳しいが、アプレゲールの店をよく心得ていた、芸者の頃、稽古がえり、「資生堂」でソーダ水を飲み、「吉田」のコロッケそばの出来るまで時間がかかって焦《じ》れた如く、会のお浚いの後で、うまい店、珍奇な趣向の食いものはないかと、仲間同士ほっつき歩くのだそうだ。  当時、ぼくは野方と荻窪、池袋、いずれも主人が進駐軍の基地に勤め、土日だけ戻ってくるという家にごろごろしていた、本来の借り手は前者が東大工学部四年生、後なるは明治の学生、ともに古着行商の縁だった。  学生援護協会、学徒援護会は、立派な組織だったらしいが、ぼくたちのは学徒援護協会と称し、まったくのもぐり、それでもいちおう池袋の、自衛隊基地へ向うバス道路の肉屋の二階に事務所を構え、工学部が社長格、ぼくは専務といったところ。  学生を雇い、困窮学徒救済を名目に、アメリカの教会が、慈善で集めた中古衣料を農村向けに売るのだ、Tと知り合った頃、平から常磐炭鉱、郡山あたりを商いしていたはず、ぼくは、自分では岡田茉莉子に似ていると信じきっている十九歳の女の子と本社に陣取り、出先きよりの注文を受け、かつまた、そのままじゃ体に合わないし、ほつれ鉤《かぎ》裂きもある衣料の修理を取り仕切る。  ぼくが、父の請け売りで、メッキ風に装った芸界通を、Tはすっかり信じこみ、「その歳でそれだけ通じてんじゃ大したものよ」といい、じきに開かれる吉住会の切符をくれた、そしてぼくは池袋の事務所の電話を教えた。  二日後にTが連絡してきた、「らん月」のオイル焼きを食べにいこうという、ついては午後五時、浜町にある鳴物の師匠、望月初子の家まで迎えに来いと、かなり強引ないい方だった、とにかく道順を聞いて出かけた、象潟署の近くだったと思う。  お浚いの後、鼓の稽古に来たそうで、何が入っているのか、信玄袋みたいなのと、他に菓子らしい箱が四つあって、ショッピングバッグなどないから風呂敷に包む、なるほどお供が欲しい道理。Tは、タクシーの大型しか乗らない、これを探しに明治座近くまで出かけ、そこでは新派が公演中。  銀座通り教文館近くの「らん月」の、裏側から入ると、すぐ昔の牛屋風オイル焼きの一劃があった、「ブルドッグ」にしろ、その後、Tに案内された「二葉亭」、服部時計店裏の「花の木」、電通通りから表まで抜けられる路地にあった寿司屋「銀粋」、ここでは値段の高さにびっくりし、冬に鮑《あわび》を注文して軽蔑されたのだが、「らん月」も含めて、おいしかったという記憶は残っていない。うまかったのは、新宿西口の残飯シチュー、焼そばなどだ。  食べ終ると、Tは、裏通りの、ほぼ向いにあるバァへ入った、ムーランルージュの元スターがマダムの店、この時ではないが、後にここで、ムーランの最後の花であり、憧《あこが》れの対象だった沢千恵子と再会する、「沢千恵子の名前の由来は、かのバルザックの永遠の恋人、サバチエ夫人に発するのではありませんか」と、思いかえしても赤面のいたりの質問をいたしましたな。  Tは、居合わせた住友鉱山に勤める客と、ゴルフの話をし、ぼくは無視された、酔ってその客に腕相撲をいどみ、手もなく負かされたことを覚えている。  昭和通りを、東に入った、いかにも粋《いき》な造りの家まで、また大型タクシーで送り、ぼくも一緒に降りて、ハイさようなら、おごってもらったのだからいいようなものだが、なにやら釈然としない、歌舞伎座には吉右衛門と猿之助が出ていて、この十一月三日、播磨屋は文化勲章をもらっている、「籠釣瓶《かごつるべ》」の次郎左衛門、「鈴ヶ森」の長兵衛は、ぼくの数少ない声色《こわいろ》のレパートリー、すでにはねた後で、あたりはまことに暗い。  梵妻さんはしごく暇なものらしく、しばしば上京して、そのたび、ぼくに誘いがかかる、なにしろ強引なのだ、名古屋から電話を寄越し、何時何分東京に着く、迎えに来い、東京の知人朋友への土産なのだろう、なにしろ買出し者風に荷物が多い。当時、赤帽の料金は一箇二十円くらい、他に祝儀を出していたと思うが、倹約のためではもちろんない、暇と共に金もあって、「蜂竜」「金田中」、他に名前を失念したが、名だたる料理屋でもおごるし、「田屋」「花菱」でネクタイ、シャツ、セーターを買ってくれる、ぼくは、これがいわゆるヒモなのかと考えた、しかし、それならば一つ重大なことが欠けているし、こうもおおっぴらにはしないだろう、銀座東の消防署の横の、かつての朋輩《ほうばい》の家をたずね、ぼくをかたわらにして、キャッキャとしゃべりはしゃぐ。ある会に、若手が初登場、「紀文」を唄ったのはいいが、もの思いにふける文左衛門をみて、吉原の花魁《おいらん》が「文さま、どうぞしたのかえ」とたずねるくだり、「どうぞ」を抜かして、「文さま、したのかえ」  純情なるぼくには、これがどうして涙を流すほどおもしろいのか判らなかった。新橋の芸者は、しばしば銀座の若旦那と結婚するらしく、あちこちに、顔見知りのお上さんがいた、そこへ平気で連れていくのだ、こっちはまことに馬鹿馬鹿しい。  学徒援護協会は、有卦《うけ》に入れば、まことにもうかった、けっこう芸者遊び、の部類には入らないかもしれないが、九段の富士見町、大塚、四谷荒木町あたりで、一夜の歓をつくすぐらい楽にできた、しかし、新橋赤坂柳橋には手が出ない、べつに勉強という訳でもないが、Tにくっついていれば、高級料亭の手の内楽屋内が判るという、好奇心もたしかにあった。  しかし、荷物持ちと、タクシーの手配ばかりじゃ、向っ腹も立ってくる、すると、こっちの胸の内まこと掌《たなごころ》さす如く見とおして、「今日は、昭如さんの好きなところへお相伴《しようばん》しましょうね」といい出す、急にいわれても思いつかない、口ごもっていると、「豊島園どうかしら」という、「婦《おんな》系図」の、お蔦《つた》の台辞、「静岡って、箱根山より遠いんですか」をつい連想して、ニタニタしてしまうのだ。  高校から大学の間一年あいている、故に大学三年だが、本来なら、後三月足らずで、卒業のはず。当時、今のような前年から会社訪問があったのかどうか、まともに就職する手合いとはつき合わなかったから判らないのだが、証券、石炭、映画関係が人気を集めていたように思う。  兄の結婚話がまとまり、双方の縁者が一席顔合わせの宴を張るから、帰るようにいわれて、暮れに新潟へもどった。この冬休み中に、何人かの高校同級生、すべて旧帝大へ進んだ者が、入社が決ったと、有頂天《うちようてん》な表情、この頃はまだ、デフレ政策による不況がそれほど顕在化してなかったのかもしれぬ、大学院に残った者を別にすれば、ほとんどサラリーマンとなった。  べつに苛立つ気持はない、また就職する気もない、アメリカ中古衣料行商みたいなことで、おもしろおかしく金を稼ぎ得ると楽観していた、そして、書きもせず、書けるとも思わないのに小説家として立つことにこだわっていた。  二十八年三月、同年の者が、卒業証書を納めた、丸い反物の軸みたいなのを手に、浮かれさわいでいる頃、ぼくは「芳糸会」という温習会の開かれた丸の内工業倶楽部の裏口にいた。演奏を終えたTのあらわれるのを待ち、Tの他にお仲間の持つ三味線箱や、荷物を整理、呼び寄せたタクシーに運びこむ役目、Tは「私のそばにいりゃ、悪いことにはならないわよ、三井船舶にだって、東洋紡にだって入れたげるから」といった、春が近づくと、中古衣料の行商はがったり売上げが落ちる、一陽来復の季節にはまたそれなりの、稼ぎようがあるのだが、何ということのないインチキ商売の行先き不安がある、Tの言葉を全面的に信じた訳ではないが、ぼくの中には、まともな生活を送りたいという気持もあって、Tの腰|巾着《ぎんちやく》に甘んじていた。  月の内十日くらいは、東京にいるTにつき合って、武原はんの地唄舞発表会、鯉三郎の会、歌舞伎座で催された踊りの会における中村歌右衛門の「娘道成寺」、葭町《よしちよう》の芸者の「紅会」、向島芸者の「かもめ会」、下谷の同じく「さくら会」を見物した、T自身、名取りではないが、吾妻徳穂の母、藤間政彌にさんざ新橋時代、今風にいうシゴかれたらしい。  海兵出身という、西崎緑の御主人兼マネージャーに紹介され、女ばかりの徳穂の会の楽屋に入りこみ、その、舞台から引っこんでくるなり、歩きつつ衣裳を脱ぎ捨てて、ついに襦絆《じゆばん》姿になるところまで見届けたのだ、まったく男の眼など意に介していなかった。  また、あたらしいもの好きのTに従って、レンズの部分が左右赤と緑のセロファンで出来た眼鏡をかけて観る立体映画、ケーブルカーが落っこってくるシーンを売りもののフィルムについ頭をのけぞらせ、六本木の交叉点で、エリザベス二世|戴冠《たいかん》式に出席のため、横浜港へ向う皇太子の車を眼にして、Tは、「どうなさったのかしら、ずいぶん顔色がおわるい」と心配した。王冠色とやらがはやっていて、そのネクタイを買ってくれたが、吉原の娼婦に持合わせぬ祝儀分として、やってしまった。  Tは、寺での暮しぶりをいっさい口にしなかった、「やりたいようにやるっていってあるんだから、いいのよ」といい、どうやら、名刹の大僧正だか管長には、他に水増す女がいる様子だった、タクシーが急にカーブした時、よろけた体を支えて、ふとぼくのももに置いた手を、しばらくそのままにしていたり、名古屋からの車中、かねて溜めておいたアメリカ煙草の包装で、ちいさな鶴を折り、何十羽とくれたり、そこはかとなく色めいた気配もないではないが、いかに芸者上りといっても、オバサンに違いない。同級生の中に、信用金庫へ勤める子持ちの女、美容院を経営する、色足袋のふさわしい、いずれも年上の女と同棲の者もいたが、大正三年|寅歳《とらどし》数え四十一は、いささか守備範囲の外の感じ。  しかし、ぼくはさらに、Tだけではなく、演奏家の集りである芳糸会の面々にも、重用されるようになって、即ちテープレコーダーの運び役なのだ、東通工も作っていたが、芳糸会の機械は小田原のメーカーのもので、当時二万五千円だった、目方は、四貫|匁《め》くらいあったのではないか、これを、下浚いの場所に運び、操作する。  演奏家は、それぞれお弟子を持っていて、出稽古専門の人もいるが、四谷、狸穴、材木町、六本木あたりに構えた家は、かりに狭くても襖をとり払えば、十五、六人は入れる、壁に沿って座布団を敷き、唄と三味線が分れてすわる、ふだんとは一変して、どちらかといえば陰気な表情になるTが、ぼくをじろっと見る、うなずきつつ、レコーダーのスイッチを入れ、捲《ま》き取りのリールに指で力をそえる、スタートの直後、スピードがよく落ちるのだ。  こちらでは机の上に、しのだ鮨《ずし》、「八竹」の茶巾《ちやきん》寿司、秋田の諸越、越後の笹《ささ》団子、生八つ橋、そばボーロなど、六十余州をこぞる甘味珍味が積み上げられていた、練習の合間はとにかくにぎやかで、ぼくは魔法瓶のお湯は大丈夫か、粉薬を誰かがバッグから取出せば、勝手知ったる他人の家で、コップに水を注いでさし出し、「ちょいと昭如さん、ここへ電話して頂戴、出たら私代るから」と、ずいぶん横柄ないいつけに従い、次ぎの番になりゃ、仮の山台の姿を整え、あげくそこの家の子供の勉強までみた。  それぞれが、昔風にいえば町のお師匠さんなのだが、年頃の娘がいた場合、なにやら生気のうすい印象、各自、弟子を主体とした会を持っていて、そのお浚いの時受付けなど手伝い、この時ばかり、派手やかに装い愛想《あいそ》をふりまくが、家では、すでに老婆の印象、母親が強過ぎるのだろう。  また、本職が何だか判らない、三木助に似て鼻の大きな男、服装をあまりきめ過ぎて、かえっていかがわしい印象の、灰勝そっくりの男、むやみに笑ってばかりの額の広い男が、下浚いによくあらわれ、いかにも業界通めいて、誰それが胆石で慶応に入院したとか、老いたる家元の浮気|沙汰《ざた》、酒浸りとなっている元天才的唄い手などの噂話《うわさばなし》をふれまわる、いかにも気軽で調子がいい、ぼくはわけもなく不機嫌になり、隅で精いっぱい胸を張りつついじけていた。  Tは、客演、あるいは助っ人というのか、師匠たちの会にしばしば出演し、素人のタテでワキを唄うとか、あるいはトリに花を飾るなど、二十八年になってから、なお活溌《かつぱつ》に舞台へ上った、その謝礼がいくらなのか、ついに判らなかったが、感じでは一日、その会によって出番の数はちがうが、三万以下ということはないように思えた、副知事である父の給料が六万五千円の頃だ。  名古屋から出て来て、宿は、以前の姉さん株の営む三部屋しかない旅館に泊る、これが、襖には名のある画家の絵が描かれ、文豪の色紙を飾ったいかにも高そうな造り、最低料金百円の大型を乗りまわし、食うもの買うもの一流好み、三万円でも合わないような感じだが、ぼくは、自分の援護協会が日増しに左前となっていくせいもあって、ずいぶんいい商売だと感心した。  初夏の頃、何の会だったか忘れたが、銀座八丁目、金春通りにある新橋の検番で、三日たてつづけに、下浚いが行われた、昭和初期に建てられたのだろうと思うが、全体にやわらかくて、硝子窓の多い、かなりモダンな四階建ての、二階が稽古場、玄関の前には、十台ほどの俥《くるま》がいる。  ぼくは、築地の宿へ迎えに行き、Tを検番へ送りこむ、午前十時頃だ、中へは入れてくれないから、およそあやふやな、「三時には済むと思うけど、でもねぇ、おくれてくるのがいるのよねぇ、そこいらで時間潰しててよ」という指示に従い、日比谷公園の方へ歩いて、ガードをくぐると右に、大蔵省の別室がある、その六階だかが日本コロムビアのスタジオ、名前は判らないが、いかにも歌手風の男が三人ほどを従えて玄関の階段を昇っていった、さらに進むと、田村町、日比谷交叉点を結ぶ広い道路、左の向う側が明治生命、ならんでNHK、NHKの前に洒落た喫茶店「モレナ」があった、本物のオレンジの皮にくるまれたシャーベットを食べたのは、この時。暇つぶしとなれば映画を観るよりない、新宿文化で、オムニバス映画「人生模様」を観たことは覚えている、この年の、毎日新聞入社試験常識問題に、この言葉が出て、俺なら完璧《かんぺき》に答えられるのにと、嘆じたのだ。この頃、Tと、モンローの出た「ナイヤガラ」を東劇で、「静かなる男」も同じく観た、「バーンバーンてなぐりっこできるなんて、男はいいわね」とTがいった。  三時頃、検番のあたりで待つ、ごく当り前の衣裳化粧だが、芸者にまぎれのない姥桜《うばざくら》や女盛りが出て来る、検番のならびの、縫いぐるみの人形をかたわら売る喫茶店に、彼女たちはよく寄り道をしていた。 「おねがいよ」Tがあらわれて呼ぶ、この時、ようやくぼくは自分の立場が、昔の箱屋であることを悟った、以前は、継ぎ棹《ざお》ではなかったから、三味線は、細長い箱に納め、お座敷へ向う芸者の後につき従った。置き屋に所属して、その衣裳をまとうについても、手伝ったらしい。  ぼくは、「明治一代女」の、巳之吉くらいしか知らないけれど、廓の妓夫《ぎゆう》太郎、またお座敷の幇間などと共に、いちおう興味のある職業だった。俺は箱屋だと思い当った時から、なんとないこだわりが解消した、何をどうすればいいのか判らないが、姐さんの身辺をとりしきることが役目。  三日目にTは、現役にそそのかされ、俥に乗って料亭街へ出かけた、「昭ちゃんさ、みなさんの三味線持って、運んだげとくれよ、『新喜楽』、判るでしょ」ぼくは、同じく俥でおもむくTの朋輩の、天幕のシートの如きおおいのかかった三味線箱、やや大ぶりのアタッシェケースを五つ持って、スイスイと走る俥の後に従った。  この、丁度八年前、ぼくは神戸で、同じように人力車の後をついて走ったことがある、全身に火傷《やけど》を負い、包帯の下にびっしり蛆《うじ》をたからせた養母を、神戸から西宮の病院へ運んだのだ、空襲の翌日から省線、阪急は動いていたが、これは利用できない、阪急御影のそばに俥宿があると医師に教えられ、頼みに出かけ、俥夫は、どうせのことならと、御影から、養母のいる国民学校まで、ぼくを乗せた。まだ踏みこめば熱い焼跡の道を、人力車の客として走るのは、ずいぶん奇妙なものだった。  焼跡の人力車は、前も左右も開いていたが、検番から料理屋へ向う俥は、輪タク風に閉じられている、すでに銀座に自動車は多く、そのスピードは早くなく、だが、こっちはごく軽いとはいえ、運びにくい、足をすすめるたびに膝に当るのだ、俥は次第に遠ざかっていく、資生堂のかたわらを過ぎて、銀座通りを渡り、昭和通りを越えて、左側が料亭街、けっこう汗が出た。  その日、「新喜楽」では二階の広間で催しものがあるらしく、玄関先きは賑わっていた、かなりおくれて到着したぼくを、Tの同輩たちねぎらってはくれるけれども、上れとはいわない、中の一人が、「煙草吸うでしょ」と、ラッキーストライクを一箱くれた。  芸者の頃は、ごく当り前に利用していたはずの俥を、Tはすっかり気に入って、もはやざらにはなかったが、大型タクシーではなく、かなう限りこれで移動する、といっても大した距離ではない、歌舞伎座から築地、赤坂檜町から竜土町、水天宮から人形町、こっちはその後をついていく、唄の方で、箱はないが、かなり馬鹿馬鹿しい、ひょっとすると、ぼくにはマゾっ気があるのかもしれない、傍若無人にふるまうTに、時折、向っ腹を立てながら、半年以上仕えたのだ。秋に卒論提出、来春就職となって、ぼくにはまるで無縁のことだが、入ってくる噂は惨澹《さんたん》たるものだった、文学部仏文科の卒業生など、てんから相手にされないらしい。  Tのかたわらにいればお裾分《すそわ》けで、珍しい菓子、あるいは折詰の料理をもらう、これを友人の下宿に持参し、こっちも鬱屈しているから、つい、日本の伝統的芸能の中枢にいて、その維持発展に力をつくしているような法螺《ほら》を吹く、吹くうち、思い当ったのだ。大きな会になると、取り仕切る支配人がいて、ダブルの背広を着て、恰幅はいいのだが、後姿がオカマっぽかったり、あるいはねずみの如くちまちましていたり。しかし、弟子数十人の規模ではとても雇えない、大きくても小さくても手間は同じ、会場を押さえ案内状を配り引き物を手配し、師匠連、稽古もさることながら、事務的な繁雑さに、眼尻《まなじり》を吊り上げ、「ええもう、早く終っちまえばいいのに」などとぼやいている。  同じ日に重なっては不可能だが、会場がそうあるわけじゃない、いや何より、のっけから委細万端手がけ、会というのは要するに金集め、その幾分かを手数料としていただく。  援護協会は、工学部学生をはじめ、頭をしぼって、世間のアナを探したが、もはや衣料事情も好転、とてもこの秋以降、これまでのようなうまい稼ぎは求めるべくもない。  マトモもインチキも駄目となれば、ここは一番考えなければならぬ、Tも含めて、弱小な師匠の支配人、Tだけを考えても、一日三万として、五日なら十五万、その一割で一万五千円、大卒初任給のほぼ二倍、Tが上京していなくても、あちこちの師匠から、ぼくは便利屋としての注文を受け、録音技師、箱屋、用心棒、Tは別として、タクシーの運転手を怖がる師匠が多かった、ぼくの用は、ただ、帝国ホテルから狸穴まで、一緒に乗るだけということさえあった、もちろんなにがしかの祝儀にありつけたのだが。  いろいろ案を練ったのだ、うわベオッチョコチョイ世間知らず風で、根はしぶといし勘定高い、むしろ、Tは例外的な存在だった。  女流邦楽演奏家を大同団結させ、その組織を牛耳るという夢は、しかしあえなく潰《つい》えた。 「不思議なことってあるもんねぇ、もうすっかり諦めてたのよ、それが四十過ぎて出来ちゃうんだものねぇ」  ばったり上京しなくなったTについて、ぼくがたずねると、朋輩の一人がいった、つまり妊娠したのだ、復帰しかけていた芸界への執着より母性愛がまさり、以後、梨《なし》の礫《つぶて》。Tがいなけりゃ、東京のお師匠さんにとって、ぼくなど、おかしな書生さんというわけで、また、野放図にふるまっていたTへの反感もいくらかあったのだろう、いっさい無視された。  今は、閉鎖されている検番の近くを通るたび、なにやら卑屈な気持が湧《わ》き起る。  十二契の十一は「空耳に鳴る清掻」。 [#改ページ]   質屋米屋風呂屋四谷  二十五年四月から一年間、三十五年の春から三年半、三十九年のやはり同じ季節から二年間、四谷に住んだ。第一期は学生、第二期がTV作家、第三期雑文業、この末期に処女作「エロ事師たち」を書き上げ、すると新潮社出版部より、長篇小説の書き下し依頼を受けたのだが、未だに約束を果していない。  第一期の頃、都電の停留所は、まだ昔風の呼称で、大木戸、塩町、荒木町、四谷見附、表通りにいちおう仮普請ながら店屋が並んでいたが、目立つ建物といえば、塩町、つまり今の三丁目の消防署に警察、二丁目近くの文化放送、見附の雙葉女子高、教会、消防署くらいのもの、少し裏へ入れば焼跡とバラック。ぼくの住いは愛住町で、ハイカラ風町名だが、命名は明治五年、その由縁は、隣人ともに愛し協力し合って住みいい町を作ろうというもの。  だが、昭和二十五年当時、十二坪半の標準型わが家が、宏壮な邸宅にみえたほど、辺りは荒涼としていて、ちゃちなアパートと、オンリーさんのねぐらが点在するだけ、土地の値段は坪二千四百円、現在二百万円という。  そうだ、津之国坂角の三菱銀行も大きかった、父から月一万円がここに学資として振込まれ、この頃、国家公務員上級試験合格者の初任給五千二百円だった、三部屋の独立家屋に住み、世話をするお婆さんもいる、思えば贅沢だった。  しかし、一本百二十五円のビールといっぱい五十円の焼酎二はい飲み、三百円の私娼を夜毎買ってりゃ、まるで足りない。初めて質屋へ出かけたのが何時か、憶えていないのだが、四谷には以後移り住んだどこよりも、密集していた。これは明治まで、あたりに古着屋が多かったせいかもしれない、今更、お世辞いっても始まらないが、応対ぶりもいちばんやさしかったと思う。  東京で腰を落着かせたのっけが、四谷だが、かなり偏見をいだいていて、つまり、東京第一の貧民窟鮫河橋のイメージがあったのだ。新潟にいた頃、父に、傘をさしては通れぬ庇合《かばいあ》いの棟割長屋とは、どんなものか、たずねたことがある。育ったのは神戸で、ここにも貧しい地域はあったが、もうひとつ判らない。父は「風俗画報」と横山源之助著「日本之下層社会」を書架から抜き出して渡した。  父の生家は貧しくて、小・中学校時代の制服その他すべて柳原土手に並ぶ古着屋で求めたといい、鮫河橋、芝新網町、下谷万年町など凄《すさ》まじい細民たちの暮しぶりを語った。中で鮫河橋だけが、「風俗画報」の絵のせいか頭に残り、四谷に住むとなった時、面桶《めんつう》持った婆さんが、白髪頭ふり立てつつ、残飯を求めてさまよい歩く姿を思い浮かべたのだ。  しかし四谷にそういった面影は片鱗《へんりん》もなく、ぼく自身が、細民の伝統を受け継ぐことになって、何から何まで質へ放りこみ、降っても照っても足ごしらえはゴム長、夏でも冬でもシャツにズボン、レインコートのボタンを上まで留めてボロ隠し、実にしばしばパトロールのお巡りに呼びとめられた。  三食付きではあったが、江戸っ子のお婆さんは、夕方四時には晩飯の仕度、むやみにカキ揚げの天婦羅が好きで、これはぼくの苦手でもあるし、ちょいと映画でも観たりすれば食べそこなう、六時になると、夏なら濛々蚊遣《もうもうかや》りをいぶして寝てしまう。  どうしたって朝は早い、しかも熱い御飯に熱いお茶をかけ、くさやと錦松梅、「玉木屋」の佃煮でかっこむのが定食、二日酔いで少々ゴザっている身に、お茶漬けはけっこうだが、なにしろ熱い、外はようよう白む頃なのだ、昼はモダンで、パンにジャ|ミ《ヽ》、このパンをまた御飯むしでふかす、因果なことにパンも嫌い。で、余り食べない。もっとも学校へ持参の弁当は、こちゃこちゃおかずが少しずつ入っていて幕の内風でおいしかったが、当時の早稲田には欠食児童みたいなのがたむろしていて、食べられてしまう。  やむなく、表通りに出た角の、およそ汚ないラーメン屋、少し金があれば「金寿司」、喫茶店「シャロット」のホットケーキ、飲み過ぎた翌朝に、この甘ったるい食べものはよく合った。そして栄養補給は、進駐軍の残飯シチューである、大木戸の近くに一軒あって、丼《どんぶり》いっぱい十五円、塩と唐辛子で塩梅《あんばい》し、他にパンの耳を皿に山盛りが、八円。松原岩五郎著「最暗黒の東京」によれば、鮫河橋の残飯は市ヶ谷の士官学校から出たらしく、「是を珍重する事、実に熊掌鳳髄《ゆうしようほうずい》も只ならず」という。  今考えても、あの残飯シチューなるものはおいしかった、けっこう蝶《ちよう》ネクタイしめた、故にすこぶるいかがわしいオッサンも珍重していたけれど、連日となると、ぼくぐらいなものだったろう。一度、鍋を持参し、深夜の飢えに備えようとしたのだが、これは駄目、煮直すと、いかにも汚なくて食べられない。  二十五日に、銀行に入金がある、通帳は父の名儀で、筆頭の金額は五十万円と威勢がいい、つまり土地代、続いて建築費、いずれも引出され、この利子が千何百円かの次ぎに、入学金、授業料、施設拡充費の分、それから入金は一万円がつづき、引き出す方は、大体、入った日に五千円、残額も半月持たない。  金を手にすると、まず質屋へ行く。塩町の都電車掌休憩所の裏の「大和屋」、その親戚《しんせき》で同じ屋号の店が大京町にあった。他に「ふじや」「大野屋」「山形屋」など。いちばん足繁く通ったのは塩町の裏だが、馴染みになったら、そこだけにすりゃいいのに、浮気するのは、少しでも高く入質したい下心よりは、やはり余りしばしばではみっともないように思うからだ。  大京町へズボンを運んだある日、主人が今朝急死したとかで、これも御縁のうち、御焼香をさせていただいた、跡取りは娘さん、たいへんな美人だった。婿《むこ》養子に入れないかと色と欲の二筋道、慶応病院まで何もない野っ原の中の「大和屋」へ通いつめたのだ。  新潟へ帰ると、奇しくも同じ名の、大和デパートでジャンジャン背広を作る。みな父のツケである、紺サージの背広上下で八百円、ギャバジンは千五百円、ウーステッドのズボン八百円、フラノなら五百円、ホームスパンの上衣千二百円、飛白《かすり》の着物羽織共で二千円、絽《ろ》が八百円、絹張りの傘五百円、半張りしていない皮靴三百円、Yシャツ百五十円、封を切っていないサントリーの角六百円、金ペン付き万年筆五百円。寝具は赤綿なら掛け敷きいずれも三百円、赤じゃなければ五百円、座布団は組でないと入らない。  気に入った衣類を出す、流れそうな分に利上げして、いくらくらい残ったのか、見当としては、新宿「すがぬま」でビフテキを食べ、飲むのは相変らずのもの、そして、特飲街へくりこみ、ショートじゃなくて時間遊び、それも美人ぞろいの「アカダマ」へくりこみたいといちおうの胸算用、ここは他店の倍で、時間二千円だった。しかし、この通りに進んだことはまったくない。金にゆとりがあって飲みはじめるととめどがなく、泥酔して、気がつけば、それでも四谷へ帰っている、やったのかやらなかったのか、さっぱり確かめがなく、懐だけはすっからかん、時に服が泥まみれ、指の関節がすりきれていて、どうやら喧嘩して負けたらしいと、これまた口惜《くや》しく思うにも、実に張合いがない。  排尿時の灼熱《しやくねつ》感に、やっぱり遊んだのだったと納得する悲劇には会わなかったが。  酒臭いといって、お婆さんは人が寝ているのもかまわず、杉の葉っぱを火鉢にくべる、こっちは狸《たぬき》みたいなもので、なにやら不吉な胸の動悸をいたわりつつ、酔い覚めどころか、ふらふらで水を飲む、裏のオンリーさんがきれいな発音でよくジャズを唄っていた。  当時は、銭湯に朝風呂があった、身にも心にも、潔癖志向などないのだが、やはり、いぶし出されたりすると、身の置き場に窮するし、さっぱりしたい気持もある。これは、かの禊《みそぎ》に通じるものではないだろうか。体にまといつく、昨夜のけがれよりも、むしろ気持の面でげんなりしている、風呂へ入ったところで、急にシャキッとするわけもないのだが、朝風呂の後は、奇妙に意気が上った、ラジオ体操の小父さんみたいに、今日も元気よく頑張りましょうと、行き合う人に挨拶したくなるのだ。  湯代は十円だった。愛住町に一軒、車掌休憩所の近くに一軒、荒木町の手前に一軒あって、休憩所近くがいちばん古い、湯船の縁が木だった。客の多くは老人で、陰嚢《いんのう》の皮をのばしつつ、丹念に洗う方、鬚《ひげ》を卵の白味で艶《つや》出しする方、つるっ禿の地肌に、なにやらすりこむ方、いずれも身だしなみに気をくばり、これは江戸っ子の心意気なのだろう。みなさん、共通語ではない、まことに軽やかな口調、中には近頃死んだらしい友達を、チャン付けで呼ぶ老人もいた。  湯気を逃がす仕掛けなのか、天窓があって、いかにも朝らしい陽差しがさしこむ、「お前さん、いい髪してなさるね」と賞《ほ》められたり、早稲田の学生と知って、大隈さんとは旧知の間柄みたいにいうお爺《じい》さんがいたり。顔馴染みになっても、そうなれなれしくは振舞うことはなかった。多分、息子に代を譲って楽隠居の身分なんだろうけど、その着ているものがどんな風だったか記憶にない。  昭和十九年秋、買い溜《だ》めの石炭が底をついた時、何度か銭湯へ出かけ、十銭くらいだったと思う。焼けて後、大阪へ移り、木工所付属の物置きに住んで、毎日|木《こ》っ端《ぱ》が出るから、終《しま》い風呂には入れてくれる。  二十二年暮、大阪を出奔、東京目黒の銭湯で湯代が判らず、番台にたずね、あきれられたのだが、たしか五円だった。以後新潟では銭湯と縁が切れ、四谷へ来て、ようやくその常連になったのだ。だからうれしいわけでもないが、暇つぶしにこんな安上りの場所もない、老人たちに負けじと、一瓶百円の明色アストリンゼンを買い、朝は禊だが、夕刻の入浴はうらはらの下心を秘めていて、なんとか女にもてたいという悲願。この時刻になれば、同じ年頃の連中、多分、学生が連れ立ってやってくる。  何の理由もないのに、ぼくは敵意や悪意に満ちて、その裸姿をながめた、たまに大学の構内をうろついても同じ、名前は知らないが、顔に覚えのある誰彼が、話しかけたそうにするのを無視、いかにも用あり気に歩き過ぎる。そのくせ、一学期の末には、四人の友人がいちおうできていたが、弁当の一件にうかがえる如く、彼等にはひたすらおごり、わざと馬鹿なことをやって、関心をかう。といって、太宰を真似ていたわけでもない、今思えば、ろくにその作品も読まないまま、圧倒的な人気に嫉妬《しつと》していたような気がする。  風呂上りにはよく散歩した、信濃町を目指せば、都電左門町の停留所前に、あたりでただ一軒本建築の、日本茶道学会があり、その先きは焼け残っている、教会の横を東へ入ると、蔵相池田勇人の私邸、信濃町駅より一本手前を同じく入ると、カルピスの社長三島海雲の屋敷、その先きに藤田嗣治という表札をたしかに見た記憶があるのだが、彼は前年渡仏している、同名異人だったのだろうか。  四谷見附から新宿へ向う道路、塩町から信濃町を過ぎ権田原への道に囲まれた一劃は、表から中へ入るにつれて低地となり、そのもっともどん底が、昔の鮫河橋、ここと隣接する高台には、学習院初等科、旧赤坂離宮、東宮御所が壮麗な甍《いらか》をつらねるのだ。  低地へのいずれも狭い坂道には、古い二階家が、夏草を周辺におい繁らせ、ひっそり並ぶ、低くなるにつれて、はっきり家の構えがちいさくなり、あげく低地を貫く道に突き当る。一方は文化放送方面、一方が権田原と見附を結ぶ道路に連なり、この出口に荒れた児童公園風空地がある。どうもこの辺りが、鮫河橋貧民窟の中心部であったように思え、名所古跡の類いに、まったく興味を抱かないのだが、ただ荒涼たるだけ、往時をしのぶよすがとてないこの一劃を、よく歩いた、残飯の結ぶ縁《えにし》だったか。  文化放送の方角に道をたどれば、ごみごみした家並み、町名だけは若葉町と瑞々《みずみず》しい。昭和三十年暮から二週間ほど、ここに部屋を借りたことがあって、市ヶ谷の三木鶏郎事務所へ通勤していたのだが、すぐ事務所の夜警も兼ねて泊りこみ、後を、すでに新進放送作家だった永六輔が、仕事場として利用した。ここのトイレットは、旧貧民窟のくせしてウェスターンスタイル、ぼくはドアに背を向けて用を足し、大失敗をしたのだ。  急な坂を上ると、右手に当時としては、まことにしゃれた文化放送の社屋がある。アメリカの教会関係者がからむとかで、この地下では、信者から集めた中古の靴や衣類を売っていた。時にひやかしたが、局員らしき連中の、浮っ調子なしゃべり方を、また軽蔑し、そのくせ夢声やロッパの姿見受ければ、なんとなく得したように思う。ロッパは万年筆の収集家らしく、宣教師にもらった二本のそれを、女子社員にみせびらかしていた。  表通りを渡り、向う側へ入って行くと、道はまた下り坂、料理屋と覚しき高い黒塀がつづく。狭斜の巷そのもの、道はせまく錯綜《さくそう》していて、必ず迷ってしまう。擂鉢《すりばち》の底のような低地に、建物疎開の跡なのか原っぱがあり、たいていここへ入りこんで、南へ登るとお稲荷さん、そのまままっすぐな道の、表通りとの角に「小町糸店」。新派に凝っていて、この店名をそのまま題にした、万太郎風芝居を書きたいなどと、いちおうその気はあったのだが、紀伊國屋で求めた原稿用紙は、白いまんま。  錦松梅、宮子書店と並び、塩町の交叉点を渡って右へ折れれば、消防署の隣が四谷ライオン座、「細雪」「夜の緋牡丹《ひぼたん》」「東京のヒロイン」などを観た、まことに便所臭い小屋で、だが常に満員だった。その先きは、市ヶ谷と新宿を結ぶいわばバイパスが下を通っていて、道は行き止り。向うの崖《がけ》っぷちとの間に橋を架ける計画があったが、戦争で施工されぬまま、バイパスへ降りるには手前の坂を下る、左側に、藤間勘素蛾の稽古場があった。  六本木の通信大隊の米軍兵士は、原宿、檜町あたりの専門連れ込み宿を利用したが、この行き止りの近くにも一軒あった。馬鹿でかい乗用車の艶《つや》やかなボディに較べると、日本のそれはまさにブリキ張り。国力の差をいちいち身に沁《し》みて感じることも少くなっていたが、ちがう意味で、アメリカを意識し、それは六月二十五日に始った朝鮮動乱のせいだった。  始ったと、新聞で知ったとたん、ぼくはその足で上野駅へ駈けつけ、上越線越後湯沢へ逃げた、今度こそ原爆にやられると怯えたのだ。一週間たって、別段の異常は九州にも本州にもない。戻ったものの、米軍主体の国連軍が総崩れ、釜山に赤旗が立つ事態について、想像力は働かないが、第二のダンケルクとなったら、米軍は必ず原爆を使う、すると、前年までにその実験を成功させているソ連がだまっていないだろう。東京周辺は基地だらけだし、こりゃやはりヤバイと、都民の中でいちばん恐がっていたのではあるまいか。  ただし政治には何の関心もなかった。イールズ事件、日共幹部地下潜行、言論機関のレッドパージ、警察予備隊創設などすべて他人ごと。金がなくなると、上衣にブラシ、ズボンは寝押しで「大和屋」へ持参、大学構内で見つけ出した友人を誘い、昼間から飲む。やがてツケのきく店ができれば、野放図につけ上り、さては飲み逃げ、たかりに及んで、翌朝お婆さんにいぶし出される。煙草は「光」だったが、近くにバラ売りの店があった。  お婆さんの許には、小田原の妾《めかけ》と住むお爺さんが時に通って来て、ビールを飲む、この空瓶を酒屋へ持参すれば一本五円で引取り、一|打《ダース》分で焼酎三合が買えた。  二十五日近くなると、まこと惨めなもので、しかし、四谷で過ごした一年間、働く気はなかった。やはり住いと三食が確保されていたせいか、時に、新生活運動と称し、瓦礫《がれき》を積み上げてある裏庭にスコップをふるい、隣合う公園で子供のキャッチボールの相手を務め、大阪の焼跡闇市ではかなりタフにふるまったのに、二年間の副知事官舎暮しのうち、すっかりナマってしまったらしい。何をしていいか判らない、ただ酒浸り、そして土曜日はむやみに腹が立つ、この夜、恋人たちはうまいことするのだときめこんで、妄想するうち物狂い風になり、五指に果す。  布団も汚れたパンツも精液の痕跡だらけ、 「いいお天気だから、布団干したらどうだい」  なんて、お婆さんにいわれても、できる相談じゃない。  翌年二月、小滝橋へ移って第一期が終り、第二期は、父が十二坪半と別個に新築して、古い方をこわすのも勿体《もつたい》ない、月二万でどうだと持ちかけられたことから始まる。  お婆さんは脳軟化症で寝たきり、この面倒をみる女中が、ぼくの朝飯だけ用意してくれる。ぼくは二年前からCMソング作詞で稼ぎ、三十五年は、TV音楽番組の構成者として、まず売れっ子だった。しかし、まだ質屋と縁が切れない、自由ヶ丘のバァのマダムに懸想《けそう》し、百夜通いの裏をかえし、タクシー代がもったいないと、独逸車オペル・レコルトを購入、だが、今よりずっと取締りはゆるやかだったとはいえ、帰りは泥酔状態でハンドルをにぎる。朝、調べると覚えのない傷が車体にあって怖くなり、自衛隊特車部隊出身の運転手を雇った。  午後六時に客となり、一時までねばる、給料の倍の手当てを払い、「和光」「村松時計店」「白牡丹」「吉野屋」の唐物袋物、さては着物を「新松」、洋服を「馬里邑」「川瀬」、森英恵の店で求めて貢物とし、「野田岩」の鰻、「銀粋」の河豚、「浜作」の刺身、ナイトクラブは、「花馬車」「ラテンクォーター」、横浜で「クリフサイド」「ブルースカイ」、神戸へ行きたいといえば、「こだま」のパーラーカーに乗っかって、レストラン「ハイウェイ」から北野クラブ。一本一万八千円の構成料、一曲二万五千円の作詞料、拾い集めて年に千万近くなったが、とても足りない。きちんと家賃、朝飯代を請求する父の手前をとりつくろうため、キヤノンの当時、いちばんあたらしいタイプが大和屋で二万五千円、ステレオのプレイヤー一万円、レミントンのタイプライターは覚えてないが意外に安かった。  マダムとは別れる時、握手をするだけ、そして、彼女の妊娠、閉店によって、わが恋は空しき鳥の声と消えた。亭主のいることは承知だったが、ぼくと一緒にいる時間の方が長いくらいだったのだ。  もはや朝風呂はなくなっていた。角の汚ないラーメン屋も残飯シチューの店も消え、しかし家並みこそ新しいが、店屋の顔ぶれはさして変らぬ、茶巾ずしの「八竹」が加わり、市場風の「丸正」が間口を何倍にも広げ、消防署があたらしくなり、ライオン座のアンモニヤ臭もうすれた。単にめぐり合わせなのだが、ぼくは四谷へ移り住むと気持が落着かなくなる、この土地は以前、墓場だったそうで、その祟《たた》りかと思ったことさえある、四十一年五月、ここを引払って以後も、残った人たちにろくなことが起っていないのだ。  作詞は楽に金になる、だが、「イトウへ行くならハトヤ、電話はヨイフロ」なるフレーズはハトヤ旅館のパンフレットにあって、ぼくの言葉は「ハッキリ決めた、ハトヤに決めた」だけ。「文化放送、文化放送、JOQR」なら、その前の、「ランランラジオはQR」だけ。詩才がなければいたしかたないといっても、こんなのを四百も作れば、いい加減空しくなる。  音楽構成番組も同じ、ディレクター、代理店、プロダクション、スポンサーが万事取り仕切って、ぼくは単に筆記者に過ぎぬ。そして作詞といえば、永六輔が前年、「黒い花びら」で第一回レコード大賞を受け、NTV「光子の窓」で永は、日本のヴァラエティショウの基礎を築いていた。  まさにとぶ鳥落す勢い、活字の世界へ移りたいと考えていたら、何と宮子書店に永六輔の著書、ダビッド社刊「一人ぼっちの二人」がならぶ、ウヌッと思う間もなく、永、青島幸男、前田武彦が「アサヒグラフ」に、リレー小説「亜加ちゃん」を連載、さらに、思いかなって、「文芸朝日」から原稿の注文を受け、どうにか仕上げて、送られて来た雑誌を開くと、ぼくのは没、代わりに永六輔氏が、注文のテーマで書いている。  なりふりかまわず、活字にとっかかりたくて、「ヒッチコックマガジン」編集長中原弓彦ににじり寄り、小生は、ちょいとひねった絵柄の、表紙モデルとなった、これは四号で馘、次ぎに起用されたのが、永六輔。  こりゃとても駄目と、同じく鬱屈していた野末陳平を誘って、漫才師を志した。安保前夜、若い日本の文化人、江藤淳、石原慎太郎、浅利慶太、安倍寧、永六輔が、都市センターホールに超満員の客を集め、安保反対をさけぶ時、ぼくと野末は、客が三人しかいない新宿松竹演芸場で、「エーワセダ中退です」「落第でございます、近頃、安保がにぎやかなようですな」「はあアンポンタンですかあ」およそ下手古風受けないやりとりを演じていた。  想い人にはふられるし、和田組マーケットに代表される闇市の名残りは、西口に少し残るだけ、トリス、オーシャンバァ全盛で、女をひっかける場所としては、「コンパ」「バッカス」があった、いわゆるジャズ喫茶は勢いを失い、モダンジャズのレコードを売物の店が擡頭《たいとう》、週刊紙の表現によれば、ダボハゼの如く釣れるはずの「コンパ」でも駄目、特飲街、密淫売も廃業、スペシャルサービスのトルコの噂はあったが、所在が判らぬ、三十になんなんとして、まだ、右手よ今夜もありがとうの仕儀。  三十五年暮、広告代理店の男が、ブルーフィルムの業者を紹介した、彼から仕入れた知識によって、「エロ事師たち」の構想が浮かんだのだが、どうも一人で観るのも妙なもので、あちこちに声をかけ、四谷の住いは、愛住キネマの異名をいただくにいたった。どうも、お墓の祟りを、男女の綾《あや》なす色どりが、一時的に消したような感じがする。  ほぼ同じ頃、憧れの活字界、それも老舗の中央公論社編集の「週刊コウロン」に雑文の連載が決ったのだ。担当者水口義朗は、毎週一夜を打合わせに当て、彼自身飲まないせいもあるが、盛大に御馳走してくれた。  オリンピックをひかえ、飲み屋は十一時半でカンバン、食事を出せばさらに営業をつづけていいとなって、いたるところにスナック、ナイトレストランが出現、四谷にも六本木の亜流が増えた。また地下鉄開通以後、銀座、赤坂へ勤める女給たちのねぐら、少し洒落たアパートが軒を連ね、夕刻近くなれば、しゃなりしゃなりと群れをなして押し出す。  彼女たちは、いくらもある薬屋で、よくアンプル入り栄養剤を飲んでいたし、営業上の必要からか、読書家が多かった、「フライパンの唄」でデビュー後、消息をきかなかった水上勉の名前を聞いたのも、女給の一人が、本屋に「雁の寺」を注文した時。  三十七年、四谷へ妻を迎えた、妻はそれまで、宝塚で一人住いだったから、後生大事に米穀通帳を所持し、これを登録しなければならないと、おごそかにいった、ところが、ぼくは都内を転々とするうち、どこかへ置き忘れてしまい、やがて食いものも豊かになって、通帳の世話になることがない、早い話、四谷には新潟から、うまい米がトラックで運ばれてくる。その道理をいいきかせたが、妻は納得しない。  世帯主なんだから、あなたを筆頭者とし、つづいて妻ナニコと記した通帳がいる。 「お米の通帳のない家なんてありません」  断乎といい、探してくるよう命じた。  再交付ねがいを出せばいいんじゃないかと考えたが、そんなことをすれば幽霊人口が増えるばかりという。 「自分が住んでた家も忘れちゃったの」  詳しく説明すれば、妻は、引越し変態魔と思うかもしれない。ちゃんと系統立てて憶えているが、ほとんどが夜逃げ同然、不義理を重ねたあげくで、今更、配給の転出証明などいい出せない。  ぼくは、しかし熟慮した、四谷から小滝橋、つづいて戸塚二丁目、まさに走馬灯の如く、住いにまつわるあれこれがよみがえる、その土地土地での、質屋、風呂屋、酒屋、下宿のたたずまい、小母さんのものいい、野方、沼袋、鍋横、参宮橋、梅ヶ丘で、ちゃんと思い出した、文京区柳町、昭和二十七年六月一月だけ住んだ未亡人の下宿、娘は日比谷劇場の案内嬢、息子は中央郵便局に勤める。  まさに十年ぶり、通帳にありつけるか半信半疑で、錦松梅を土産に訪れると、未亡人は健在、まだ下宿を営んでおられた、幽霊人口としてのぼくは、生きつづけていて、一緒に米屋へ出かけ転出の手続きをとったのだ。  通帳は首尾よく入手できたが、さて、米屋の所在が判らない、お婆さんは前年の秋|亡《なくな》って、女中も去った。 「お米屋さんを知らないで、どうやって食べてたの」  また、妻が不思議そうにいった、転々としながら、ぼくはついに、東京で米屋へ出かけたことがない、塩町近辺ずいぶん歩きまわって、その所在を気にとめたことがなかった、食事つきなら、知る必要ないし、自炊の場合も、米を買う金があれば飲んでしまったのだ。  妻が酒屋にたずねて登録をすませ、これで主婦の資格ができたという如く、「生活費を頂戴」といった。なにしろ物入りの後だったし、たちまち詰って、この際、売文業者の妻としての覚悟を持っていただきたいと、カメラを入質するべく、「大和屋」へ伴った、妻の感想は、「質屋さんて、親切なのね」だった。  翌年八月末、六本木の高層アパートへ移り、三十九年三月、妻のお腹が大分大きくなってきたので、四谷へもどった。  東京オリンピックをひかえ、道路拡張、店の移転で、塩町というより、すっかり四谷三丁目の呼び方が馴染んだあたり、ごったがえしていた。ぼくは、ようやく活字の世界に入りこんだのだから、何とか小説を書きたいと、また苛々《いらいら》しはじめる。  今、銭湯はすべてマンションに変り、質屋さんは健在、米屋がどこだったのか、ついに知らないままだが、通帳だけは今も手許にあり、四十一年五月五日転出、同年五月六日、練馬区豊玉二丁目二拾番地へ転入と記されている。この日付けの五日後、ホテルニューオータニで「エロ事師たち」の出版記念会が催された。  十二契の打留「去年《こぞ》の町今いずこ」。 [#改ページ]   あ と が き  十五歳まで神戸、三年間を大阪、二年、新潟で過ごし、二十から今まで、三十二年間東京で暮らす。  四谷愛住町、以前は墓場で、焼跡時代のドサクサにまぎれ、石塔を整理し、宅地に仕立て上げたという、はなはだ縁起のよくない住いを皮切りに、主に二十三区内を漂い流れ、五年前、ようやく現在地に定着した。  ごく狭い範囲にしろ、住いを移しつづければ、自ずと見聞も広くなるし、ふりかえって思う時、場所によって区切ることができるから便利でもある。  住んでみなけりゃ、土地柄は判らないし、また、食うためやら女がらみやら、自分の不始末のあげくやら、身の不運やらで、苦労の多かった町が、しみじみ心に残る。  首っ枷《かせ》、しがらみに搦《から》めとられ、もはや、宿替えもままならなくなり、こしかたの土地との契りをまとめてみた。うすい縁《えにし》の四畳半、さては深情けの相部屋と、所かわれば人づき合いもおもむきが異なって当然、いささかの感傷もまじえ、過ぎし日への旅立ちは、しかし、金太郎|飴《あめ》の如く、どこを切りとってみても、同じきわがふるまい、即ち泥酔、借金、自堕落、不真面目、厚顔無恥。  まことカニは甲羅に似せて穴を掘り、人は備わった器量でしか生きられぬ。  大胆不敵な悪事を働いたわけでも、放蕩無頼《ほうとうぶらい》流連荒亡の日々を過ごしたのでもなく、ただ不真面目な明け暮れを送り、あらためて思うのだが、こういうその日ぐらしの性癖はどこで培《つちか》われたのだろう。  自分でいうのも変だけれど、少年時代はまことに小心実直であったし、血筋を考えても、勤め人気質のはず。ぼくだけが、妙にねじ曲っている。何かに反抗した覚えもないし、求めて無頼を気取ったつもりもない。病気などで、原因のよく判らない場合、本態性という言葉を使うが、ぼくも、「本態性不真面目症」とでもいえばいいか。  この十二契は、昭和二十五年から、三十九年までの、土地とのかかわりをえがき、ふた昔近い以前のことだから、いちおう、記憶をよみがえらせるよすがとして、訪れてみた。  オリンピック前後を境に、東京の街は面目を一新し、もし以前のままであれば、街角のたたずまいや、見覚えのある看板に、いちいち胸ふたがれ、うなだれてそそくさと立去って当然のところ、幸いにしてというべきか、わが不真面目の痕跡は片鱗も残さず、消えてしまっていた。  今浦島というよりは、定跡通り戻ってみたものの、犯行現場がすっかり変ってしまっていて、血の色も臭いもなく、とまどっている犯人の心境。だから十二契はまた、俺はここで、たしかに人を殺した、誰だ俺の死体を盗んだ奴はと、さけんでいるようなものだ。  現場|彷徨《ほうこう》におつき合いいただいた「別冊文藝春秋」阿部達児氏、出版部・藤野健一氏の御|鞭撻《べんたつ》に、深く感謝します。 [#地付き]野 坂 昭 如 初出誌   婦人士官が学生狩りをした町     文藝春秋昭和五十年八月号   国際劇場と赤線の町     文藝春秋昭和五十年九月号   逢びきと子規庵の町     文藝春秋昭和五十年十一月号   線路渡れば夢うつつ     文藝春秋昭和五十一年四月号   六本木、消えた坂道     文藝春秋昭和五十一年七月号   銀座の川の水涸れて     文藝春秋昭和五十一年十月号   東伏見の雨     文藝春秋昭和五十二年九月号   大使館の坂道     文藝春秋昭和五十三年二月号   沼袋ぬばたまの夜     別冊文藝春秋第157号   青山南町の鮭缶     冊文藝春秋第158号   箱屋 検番 人力車     別冊文藝春秋第159号   質屋米屋風呂屋四谷     別冊文藝春秋第160号 単行本   昭和五十七年十一月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和六十二年一月十日刊