[#表紙(表紙.jpg)] 姉飼 遠藤 徹 目 次  姉 飼  キューブ・ガールズ  ジャングル・ジム  妹の島 [#改ページ]   姉 飼  第10回日本ホラー小説大賞受賞作  ずっと姉が欲しかった。姉を飼うのが夢だった。  脂祭りの夜、出店で串刺《くしざ》しにされてぎゃあぎゃあ泣き喚《わめ》いていた姉ら。太い串に胴体のまんなかを貫かれているせいだったのだろう。たしかに、見るからに痛々しげだった。目には涙が溢《あふ》れ、口のまわりは鼻水と涎《よだれ》でぐしょぐしょ。振り乱した真っ黒い髪の毛は粘液のように空中に溢れだし、うねうねと舞い踊っていた。近づきすぎる客がいれば容赦なくからみつき、引き寄せる。からみつく力は相当なもので大の男でも、ずりずりと地面に靴先で溝を掘りながら引き寄せられていく。ついには肉厚の唇の内側に、みごとな乱杭歯《らんぐいば》が並ぶ口でがぶり。とやられそうになるのだが、その直前に的屋《てきや》のおやじたちがスタンガンで姉の首筋をがつんッ。とやるので姉は白目を剥《む》いてぎょええええッとこの世のものならぬ悲鳴をあげる。だからほんとうに客が噛《か》まれるようなことは滅多にない。もしほんとうに噛まれたとしたら大変だ。まず間違いなく噛まれた部分は食いちぎられてしまう。噛みついた後では、いくらスタンガンで痛めつけてもその顎《あご》の力を緩めることはできない。みごとに歯形のかたちに肉を噛みちぎられ、客は悲鳴をあげることになるだろう。痛みに転げまわる客を見て、他の姉らは笑い狂うに違いない。そして、当の姉は食いちぎった生肉をうまそうに噛みしめ、そして完全にかたちが失われないうちにごっくんッと丸呑《まるの》みするだろう。髪の毛以外にもうひとつ、姉らに特徴的なのは爪だった。爪もまた伸び放題に伸び、ある姉などは、湾曲した七十センチにもおよぶ手足の爪を乱暴に振りまわしたりしていた。  ぼうようとした霧に覆われた子供時代の記憶のスクリーンが時折気まぐれに焦点を結ぶ。そこでは、ゆきかう家族連れやアベックたちが、しばしこの姉らの前に立ち止まっている。というよりもむしろ足がすくんで動けなくなるのだ。姉らが形相|凄《すさ》まじく荒れ狂うさまを嫌悪に眉《まゆ》をひそめ、好奇心に瞳孔《どうこう》を見開き、口元には嘲笑《ちようしよう》を浮かべ、子供や恋人を握る手には恐怖をにじませて見つめていたものだ。姉らを貫く串からは、絶えず血がしたたって、地面の上には、赤い染みが次第に大きくなってゆく。その染みの広がりだけは今でも記憶のスクリーン上に動画状態で再現することができる。  ——なあに、こいつらたいして痛がっちゃいないさぁ。むしろ、だんだん気持ちよくさえなってるくらいでね。ほらね、この興奮ぶりを見りゃわかるだろ。こいつら痛い目にあうのが三度の飯より好きなんさぁ。  虐待ではないのかと詰め寄った学生風の青年の目の前で、的屋は姉の両頬を大きな音をたててはたいてみせた。姉は激しく怒ったとも、笑ったともとれるようなひどい顔をし、悲鳴とも、威嚇とも、歓喜の叫びともとれるようなぎょぐぇぇぇっという音を発して、的屋を睨《ね》めつけ歯を剥いた。ほら、悦《よろこ》んでやがるだろ、と凄《すご》む的屋に、そんなことはない、いやがってるじゃないかとなおも詰め寄った学生風は、「ほな、にいちゃん、ちょっと話し合おうじゃないさぁ」と屋台の裏に連れ去られた。そこで数人の的屋に取り囲まれて「痛いってのはこんなのをいうのさぁ」と、教育される羽目になったらしい。この噂には、さらなる後日談もある。その若者の手足は切り落とされて姉らの餌にされたというものだ。そのうえ、口うるさい舌は抜き取られ、生殖器は残されて、姉らの夜の達磨《おもちや》にされたともいう。が、誰もその現場を見た人はいないので、ことの真偽は定かではないのだけれど。  そんなわけで、姉らを捕獲して飼っているのは、的屋のなかでもかなりやばい人たちだということは誰もが知っていた。だから、野次馬の多い祭りの場であえて姉らを買おうとする客は滅多にいなかったわけだ。また、珍しいものであったにもかかわらず、いかがわしい売人たちのイメージのせいで、姉らは動物園の種目に加えられることもなければ、博物図鑑に分類されることもなかった。とはいえ実際には姉マニアとでもいうべき奇人たちはかなりの数いたようだ。祭りの縁日でこそ誰も手をつけなかったものの、そこで配られていたちらしのはけ具合は相当なものだった。串刺しにされてじたばたと身もだえる姉を浮世絵調、というか無惨絵タッチで描いたものだった。噂では、そこに記されていた連絡先にはかなり問い合わせがあったらしいのだ。たしかに、もし商売にならないのだったら、それもかなりのうまみのある商売にならないのだったら、怪しげな的屋たちが凶暴な姉らを危険を冒してまで捕獲して売りに出したりはしなかったはずだ。  ぼくは父に連れられて初めて姉を見た最初の瞬間から、強く魅《ひ》きつけられてしまった。小学校にあがったばかりのころだったと思う。脂祭りの脂|神輿《みこし》を見に来た帰りだった。脂神輿は、子供の目にも異様な姿をしたものだった。べたべたした粘液状の塊を何十人もの若者たちが被《かぶ》って歩く様子はほんとうにブキミに感じられたものだ。最初は鯨や象や鷲《わし》、そしてなによりも豚のかたちにねりあげられて、普通の神輿のように担がれていたはずだった。けれども、その神輿どもは、祭りの熱狂の高まりとともに、次第にもとのかたちを失ってなにやら得体のしれない塊となる。そして、はっせよぉいはっせよぉいという掛け声とともに揺れるにつれて、べとべとした破片やべっとりした汁を辺り一面にまきちらすのだった。担ぎ手の頭や肩はそれに伴って、粘液状の脂のなかに埋もれてゆく。窒息しないように、若者らは口に太い竹の筒をくわえていた。飛び散って手や髪の毛についたその塊を指と指でつまんでみると、にちゃあっと伸びてさらにその指にべたつき、なかなかこそぎ取ることができないのだった。脂にまみれて練り歩く若衆たちを見ながら、体のあちらこちらにねちゃつくその飛沫《ひまつ》をいじっていると、これが外からやってきたものなのか、自分の体から出てきたものなのかだんだんわからなくなってくる。まるでそれが自分の体から分泌されたもののように感じられてくるのだった。自分が粘液の塊のような存在へと溶かしほぐされていくような恐怖と快感に見舞われるわけだ。けれどもそれは決して長続きしない錯覚だった。というのも、この脂が耐え難い悪臭を放つせいだった。匂いを嗅《か》ぐと思わず戻しそうになり、酸っぱいものがこみあげるほどだった。  実際、祭りの評判を聞いて遠くからわざわざやってきたような物好きは、皆耐性がないために、すぐに逃げ帰るか激しい嘔吐《おうと》にその後数日間も悩まされるかのいずれかになるのが常だった。ぼく自身、民俗学の調査とかいってやってきた、どこやらのエラそうな大学の先生のことをよく覚えている。黒眼鏡をかけた銀髪で初老の人物と、彼を「センセイ」と呼ぶまだ二十代半ばと見えるきれいな女性の二人組だった。彼女が「センセイ」を見上げるまなざしには、沸騰したとでも形容したほうがよさそうな尊敬の念がこもっていた。一方、教授のほうは彼女を「フジムラクン」と呼んでいた。二人が辺りに放つ熱気は、アカデミックな情熱というよりは、子供心にもなにか動物的というか、ワイセツなものだと感じられた。教授は当時まだ珍しかったビデオカメラを持参していた。これまで、日本各地の秘祭の映像を撮り溜《た》めてきたのだと、宿泊先となった村で唯一の民宿『蚊吸《かすい》荘』のおかみに「センセイ」は自慢げに語ったということだ。アカデミックな取材であるにもかかわらず、二人は「経費節約のためやむなく」同じ部屋に寝起きし、夜は必ず「フジムラクン」が食事の席で酌をしていたという。  さて祭りの晩が来て、「センセイ」は蚊吸神社での脂取りの儀式から始めて、ずっと密着取材をした。民宿のおかみの親切な助言にもかかわらず、「なあに、日本中の秘境を旅してきたわたしたちですから、少々の匂いには耐性があります」と、防臭マスクの着用を断ったということだった。やがて、祭りの熱狂が頂点に達しようというころになると、神輿もどろどろに溶け、熱のせいで匂いもかなり強烈なものとなった。地元の人間でさえこの時点ではやや遠巻きに見ていたにもかかわらず、「センセイ」は、神輿の傍を離れようとせず、熱心にカメラを回しつづけていた。その横にはぴったりと「フジムラクン」が寄り添い、予備のバッテリーやテープを要求される数秒前に差し出すという抜群のコンビネーションを披露していた。突然、「センセイ」がよろめき、蒼白《そうはく》な顔から大量の反吐《へど》を放出しながら倒れた。「センセイ!」と悲鳴をあげた「フジムラクン」もまた、もらい反吐にまみれつつその上に重なって倒れた。ビデオカメラは宙を飛び、神輿にぶつかって脂まみれになり、そのまま陽物のかたちをした石造りの道祖神に衝突した。ばぎぃーんという小気味よい音がして、明らかにそれは壊れていた。あわてて村人たちが駆けよって、背脂を飛ばされたラーメンのように、脂の膜の下にうずもれそうになっていた二人を助け起こした。「センセイ」のほうは、喉《のど》に吐瀉《としや》物が詰まってすんでのところで命さえ失うところだった。  この後、二人の関係は逆転し、「ヨシミ」「ヨシミ」とすがる初老の人物を、面倒くさそうに彼女が介抱するという関係性となった。彼女はもはや教授を「センセイ」ではなく、「ゲロオヤジ」と呼んでいた。そして、「センセイ」あるいは「ゲロオヤジ」がようやく起きあがれるようになったときには、彼女の姿はすでに村にはなかった。なんでも、朝早く若い男の乗った車が迎えにきたとのことだった。「ゲロオヤジ」が最後に聞いた彼女の言葉は、「わたし、民俗学に失望しましたわ」だったということだ。翌日、「ゲロオヤジ」は壊れたビデオカメラとたくさんの荷物をしょって、しょんぼりと村を後にした。  それでも人々はこの脂神輿を愛しており、できる限り多くの飛脂様《ひあぶらさま》を浴びようと神輿の傍をあまり離れようとはしないのだった。それはやはり、神輿の一部であり、これを浴びることが商売繁盛家内安全不老長寿病気回復交通安全受験合格その他もろもろの幸運幸福興奮のもとになると言い伝えられていたからである。  長じてから知ったことだが、脂神輿は、ぼくの生まれた祠部矢《しぶや》の唯一の特産物であった蚊吸豚の、食用に堪えない脂肪部分を集めて作るものだったようだ。特産物であったというのは、醜くしかも臭い蚊吸豚をわざわざ飼育しようというような農家はさすがに今ではほとんどなくなってしまったからだ。それに化学殺虫剤の普及で、沼地が多くかつては恐ろしい疫病をしばしば蔓延《まんえん》させた蚊もめっきり減ってしまったために、わざわざ蚊吸豚を飼おうなどと考える家はほとんどなくなってしまったというのが、直接の原因でもある。今では、沼地もほとんど埋めたてられてしまってもはや数えるほどしか残っていない。でも、かつてはこの辺りの沼には、「たちわるむし」と形容される寄生虫が生息していたらしい。沼の魚はだから、決して食べてはならないとされていたし、子供が沼に入って遊ぶこともかたく禁じられていた。小さな傷口からでも、この寄生虫が体内に入り込むからだった。ところがどんなに気をつけても、蚊によって直接血管に注入されてしまうという危険は完全に防ぐことが困難だったのである。だから、少なくともぼくの村では、蚊吸豚は特に夏季には必要欠くべからざるものだったのだ。  かつては、蚊吸豚の需要は祠部矢以外の土地でもかなり多かったようで、海老巣《えびす》や葉等熟《はらじゆく》あるいは夜余木《よよぎ》といった近隣の村や、あるいは別の県にも相当数の豚を売ったころがあったという。ブラジルに移住する東北地方の農民たちの船が、五百頭も買い上げていったこともあったらしい。古い写真などを見ると、ぼくの家の写真でも、家族が写っている情景のまんなかを蚊吸豚がのんびりと横切っていたりしてほほえましい。ほほえましいなどといっていられるのは写真は匂いがしないからで、実際にはかなり臭いものだったようだ。次第に慣れてくるとはいうものの、一頭ごとに微妙に体臭が違っているために、飼い始めや飼い替え時には、鼻の奥やこめかみがじんとなって吐き気がこみあげ、食欲がまったくなくなったものだという。父の弟などは、買ったばかりの若豚の放つ臭気のせいで幾度もひきつけを起こしたため、やむをえずその豚を親戚《しんせき》に譲り、比較的匂いの柔らかい老豚を代わりにもらってきたこともあるそうだ。  肉はその臭みのせいで、よほど困窮しない限り誰も食べようとはしなかった。だから、蚊吸豚は、純粋に蚊吸豚として飼われていたわけで、家畜というよりは番豚だった。どうしても食べなければならないのは、年に一度の祭りのときだった。臭みの元である脂身を丁寧に取り除くと、ごくわずかだけ赤身の部分が取れる。それを濃い漬け汁に一週間も浸しつづけてようやく匂いが抜けたのを、寿物として焼いて食べるのが習わしだった。ぼくも小さなころ幾度か食べた記憶がある。ニンニクやたまねぎ、それにこの辺りの山に自生する「をにはらい」というこれまた強烈な臭気を放つ根茎植物の汁を強烈に染み込ませてあった。それにもかかわらず、噛《か》みしめるにつれて肉の奥からあのいやな匂いがじわじわとにじみ出してきて、それがコールタールのようにべっとりと口のなかに貼りつく。どんなに「をにはらい」を溶かしこんだ水を飲んでも一ヶ月近く口のなかがその匂いでむせかえるので、ほんとうに気分が悪かったものだ。多くの場合は、ほとんど噛まずに呑み込むのだったが、そこまでしても後でときどき胃の奥からいやな匂いがこみあげてくるのを防ぐ方法はなかった。子供らの間ではうんちのお肉と呼ばれていて、祭りの後の季節には、授業中など誰かがげっぷかおならをすると、教室中大騒ぎになったものである。それでも、小さな村をそれなりの繁栄へと導いてくれている蚊吸豚への感謝の気持ちをこめて食べることを親たちに強いられたものだった。  今では祠部矢もご多分に漏れず山奥の過疎地となってしまい、蚊吸豚は、祭り用にほんの二、三軒の農家が委託されて飼育しているだけのようだ。それも、山奥のかなり人里はなれた場所で、飼育者たちもガスマスクをつけたものものしい姿で世話しているということだ。餌となる蚊を大量に発生させるために、豚舎のまんなかにはボウフラを何十万匹も養殖しているらしい。一度興味本位でレポートに来た地方テレビ局の女性アナウンサーが、テレビ映りを気にしてマスクを着用しないで豚舎に入ったために気が遠くなってこのボウフラ池に落ちてしまったことがあるという。ほとんど喉が詰まって窒息死寸前になるほどボウフラを呑んだその女性アナウンサーは、その後まもなく発狂したともいわれている。もちろん、その番組が電波にのることは決してなかった。  そう、姉らのことを話していたんだった。つい話が横道にそれてしまった。脂神輿を見た帰り、母は眠ってしまった妹を抱えて先に家に戻り、父とぼくだけが全身脂だらけの姿で、出店の間を少しだけうろついて帰ろうということになった。もちろん、辺りを歩いている人は皆が皆脂まみれだったので、いつしかぼくたちの鼻もその匂いになれていた。もっと正確にいえば、麻痺《まひ》していたわけで、帰り道に空気のきれいなところに出ると頭の芯《しん》がずっしりと重くなっているのがわかったものだ。板チョコを一枚|脳味噌《のうみそ》のまんなかに突っ込まれたような感じといえば、わかりやすいだろうか。さすがに何かを食べようという気にはなれず、射的をしたり、金魚すくいをした後で、ぼくたちはまったく偶然に姉らが串刺しになっている場所を通りかかったわけだ。父にはもう見なれた光景だったのだろうけれど、それでも姉らのヒステリックな迫力にさすがの父も一瞬足が止まってしまった。ぼくにはそれはまさに衝撃というしかない光景だった。全身をさむいぼがぞぞぞぞっと波のように幾度も走りぬけた。ほとんどおしっこをちびってしまいそうなくらいの驚きだった。怖いというのでもあり、気味が悪いというのでもあり、同時に痛そうでかわいそうでもあり、それでいてどうしようもなく魅《ひ》きつけられてしまうという感じだった。むろん当時のぼくにとってはまったく初めてのなんとも形容のしようのない感情で、ほとんどその場を動くことすらできなかった。瞬《まばた》きさえ、呼吸することさえ忘れていたのかもしれない。  縁日の小屋の奥には、絵巻物を模した物語調の絵図が飾られており、そこに姉狩りの様子が描きだされていた。いずこともしれない鬱蒼《うつそう》たるジャングルのなかで、人食い植物や、人面|疽《そ》を植えつけようとする昆虫、双頭の蛇などの脅威にさらされながら、凶暴な姉を捕獲する猟師の苦闘をおどろおどろしいタッチで描きだしたものだった。満身|創痍《そうい》の猟師たちは、やっとの思いで捕えた姉らに留《とど》めの杭《くい》を刺し、それを両方から担いで持ちかえるのだ。まさに命がけの狩りであり、死屍《しし》累々たる血みどろの情景が、姉を手にいれるために払われた犠牲の大きさを示していた。  姉らは古着屋でまとめて購入したものらしい、赤やら金やらの模様がちりばめられたけばけばしい柄の着物を着せられていた。なんとも言えないいかがわしい雰囲気が辺りに漂っていたものだ。とはいえ、無骨な男らが着つけたせいもあり、姉らが激しく暴れるせいもあって帯はずれ、胸元や裾《すそ》は乱れ放題に乱れていた。あるものは片方の乳房が放りだされた状態になっており、別のものは臍《へそ》から下が露《あら》わになっていたりした。普段であれば子供の目をあわててふさぐはずの親たちも、祭りの夜だし、しょせんあれらは姉らだからと子供らがそれを凝視するのを放置していた。というよりも、自分らも相手が姉らだということで、気を許してじろじろ見つめていたというほうがいいかもしれない。とはいえ、はっとわれに返る瞬間というのがやがては訪れるわけで、ぼくと一緒にしばらくそこに立ち尽くしていた父も、ご多分に漏れずやがてぼくの背中を押した。自分が夢中で見ていたことへの言いわけのように、  ——こんなもん、あんまり見ると目|潰《つぶ》れんぞ。  と口のなかでつぶやきながら、去りがたく、踏みとどまろうとするぼくを無理やりにその場から引き剥《は》がした。家に戻っても、父は姉らを見たことを一言も母にはいわなかったし、ぼくもそれが何かいけないことだと感じ取ったので射的や金魚すくいを楽しんだことをはしゃいで告げるだけに留めたのだった。  もう一度姉らを見たい。一年後などといわず、すぐにでもという思いはぼくに取り憑《つ》いて離れなかった。とはいえ、そんなことはどだい無理な話で、せいぜい祭りで配られていたちらしを友人からもらいうけて空想にふけるしかなかった。ちらしの下に書かれた連絡先に問い合わせるほどの勇気はもちろんなかったわけだし。もしそんなことをして親に知れたら大変なことになることは目に見えていた。だから、ぼく自身半ばは諦《あきら》めていて、一年後の再会を待つしかないと思っていた。でも、来年の祭りにもまた姉らの市が必ず立つという保証はどこにもないわけで、もしかしたらもう姉らを見ることはかなわないのかもしれなかった。あの的屋たちがなんらかの違法行為で摘発されてしまうっていう可能性だって大いにあると思われた。二度と姉らに会えないかもしれないという不安は、ぼくをいたたまれない気持ちにさせた。ところが、そんなとき、思わぬことが起こったのだ。  ——おれの隣の家、姉買ったらしぞ。  そんな話を学級で隣の席に座っていた少女、芳美《よしみ》からこっそり耳うちされたとき、ぼくは一瞬自分の耳を疑ったものだ。祭りが終わって二週間ほど過ぎたころのことだった。誰も大声ではいわないけれど、祭りで見た姉らの与えた衝撃は、子供らの間では相当なものだったのだ。ぼくが健大や譲作とひそひそ話しているのを聞いていたのだろう、芳美は下校間際で辺りに誰もいなくなったときを見計らってぼくの耳元でそう囁《ささや》いたのだった。とはいえ、ぼくはもともと芳美と特に親しいというわけではなかった。たまたま一ヶ月前の席替えで隣りあわせになり、それで初めて少し話をする関係になったばかりだった。ぼくには姉らのような遠い存在への憧《あこが》れはあっても、近くにいる女の子への特別な感情はまだまったくといっていいほどなかった。後になって思えば、芳美はクラスのなかでも、一番目鼻立ちの整ったきれいな顔をしていたのだが、当時のぼくにはそんなことは見えていなかったのだ。ただ、芳美のほうでは、どういうわけかずいぶんとぼくに興味をもっていたようでしきりに話しかけてきたものだった。  ——ほんとか。  ——ほんとだと思う。おれの親父があんなもん買《こ》うてって、怒ってたから。  というのも、芳美の隣というのは、母親の妹夫婦が暮らしている家だったからだ。常日頃から、芳美の父は、妻の妹の結婚相手を快く思っていなかったようだった。芳美の母の家は代々祠部矢の生まれだったし、芳美の父も近隣の白鐘醍《しろがねだい》から二代前に移ってきた家系だった。それに対し、母親の妹である恵深《めぐみ》の旦那《だんな》というのは、都会の男だったのだ。それもかなり裕福な家の出で、大学も卒業した秀才だということだった。そのせいで、農業のことなど何もわからないのに村長が農業組合の理事に迎えたということで、すでに村人たちの反感を買っていた。よそ者をおれらの頭の上におくんか、そんな風にぼくの父が寄り合いの席で村長に詰め寄ったことがあったのをぼくもよく覚えている。それに、芳美の母の妹である恵深というのが少しばかり頭の弱い人であったことも、村人たちの不信感を煽《あお》っていた原因のひとつだった。この恵深が知恵遅れになった理由は、実家のほうではひた隠しにしつづけているものの「たちわるむし」のせいだと誰もが知っていた。「たちわるむし」は、寄生した人間のもっとも弱い部分を痛めつけるのだが、多くの場合脳に損傷が生じるからだ。おそらく恵深の脳のなかには「たちわるむし」の村《コロニー》が形成されて、徐々に脳を食い荒らしつつ勢力を拡大しつつあったのだろう。そして、実家のほうでこの病気の原因を隠していたのには、理由があった。芳美の母の家系は代々続く蚊吸豚農家だったのだ。「たちわるむし」から村を守るはずの蚊吸豚の養豚業者の家からその病気に冒された者が出たとあっては、商売に響くし、果ては蚊吸豚の能力そのものさえ疑われかねない。つまりは村の繁栄そのものが脅かされかねないわけで、それゆえ家の者だけでなく、村の者は誰しもが恵深の病気の原因については口にするのをはばかるということがあったのだ。そして、秘密を守らねばならないことで鬱積《うつせき》した不満は、恵深をめとったよそ者の旦那のほうにさらにも振り向けられることとなった。なんだって、あんなおつむの弱い女のために、こんな山奥の村までやってきたのかっていうわけだ。よほど都会にいられない事情ができて、都会の家のほうでも扱いに困って、結婚したということにしてていよく処分したというのが実情ではないのか。  ——都会できっとなんかあぶないことしたんだぁ。もしかしたら、人殺しかもしんねぞ。  そんな風に村の子供らは噂していた。頭のねじがゆるんだ女と、よそ者の、都会からの逃亡者が棲《す》む家。ぼくたちは、近づいてはならないと、親たちから暗黙のうちに威圧されていた。けれども、芳美はその家とつながりをもっており、しかもその家に行けば姉を見ることができるという。ぼくは背筋でぞくぞく蛇がのたうつのを感じた。怖かったわけじゃあない。とにかくぞくぞくしたのだ。  ——見れるのか?  ——見れると思う。行くか?  ——行く。行く、行くとも。  とはいえ、小さな村のこと、他の子供に見られたらいらぬ噂を立てられかねない。それに芳美の母の妹の家に行くなどといったら、親たちは激怒するに決まっている。芳美の家は、蚊吸豚の飼育をしているので、村では重要な役割を担っているとはいえ、そこに出入りしたならすぐに匂いがついてばれてしまうだろう。祭りの日はともかくとして、日常においては逆に蚊吸豚の臭気を放つことは下品なこととして忌まれていたのである。だから、ぼくはいったんは家に戻り、夕方辺りが暗くなったころに芳美と待ち合わせをすることにした。親には家から一番離れたところにある譲作の家に晩ご飯に招かれたということにした。そう言うと母親は、譲作の家に持っていけといっておごろ芋の煮たものをパックに詰めてぼくに持たせてくれた。待ち合わせた蛙石に腰かけていると、空が夕焼けで赤く染まったなかを、芳美が草履をぱたぱたならしながら駆けて来た。二人で煮芋を食べ、小川の水を掬《すく》って飲んで夕飯の代わりにした。蛙石の下側にぴったり貼りついた無数のアオガエルたちは、夕日を浴びて橙色《だいだいいろ》に変色していた。  正面玄関から入るのかと思ったら、芳美は門をくぐってそのまま母屋の裏の納屋のほうにぼくの手を引いて走っていった。たしかにいくら変わり者の犯罪者でも、姉を買ったことを知られたくはないだろう。きっと納屋の奥に隠しているに違いない。納屋に近づくにつれて、たしかに姉のものとわかるぎぃええええいッ、ぎぃええええいッという悲鳴とも叫びともつかない甲高い声が聞こえてきた。ぼくは心臓がどきどきして息が詰まりそうだった。芳美が、薪《まき》にするために庭の端に積んであった大きな木の塊を納屋の窓の下に運んできた。ぼくも手伝って合計三個の材木の塊を積み上げた。芳美が最初に登って窓のなかを覗《のぞ》き込んだ。夕闇の中で芳美の唇が笑いに歪《ゆが》むのがわかった。いったい何が見えるのか、ぼくは気持ちの高鳴りを抑えることができなかった。  ——やめたほうがいいかもしんないぞ。怖いぞ。  芳美は、目をきらきらと輝かせ、頬を赤く上気させ明らかな興奮の熱気を放ちながら、ぼくに囁いた。  ——夢見るぞ。怖いぞ。  もちろん何を言われようとやめることはできない。ぼくは、そおっと材木の山を登って窓からなかを覗き込んだ。  そこでぼくが見た光景。それを忘れることはきっとできないだろう。あるいはその光景がそれ以後のぼくの人生を呪縛《じゆばく》したともいえる。そこにはたしかに姉がいた。いや姉がぶら下がって揺れていた。体を串《くし》に刺し貫かれたまま、首に縄をかけられ天井からぶら下げられていたのだ。けれども姉が揺れていたのは、姉が暴れるためだけではなかった。暗くて顔まではよく見えなかったのだが、こんな田舎なのに上下の背広を着込み、ベレー帽を目深に被《かぶ》った男が大きな牛用の鞭《むち》で姉をぶっていたのだ。びしいっ、びしいっという音が響くたびに姉はぎぃええええい、ぎぃええええいッと、串から血をしたたらせながら声をあげる。首に縄がかかっているにもかかわらず、窒息する気配もない。恐ろしいまでの生命力だった。着物はほとんどずり落ちて、腰蓑《こしみの》のようにぶら下がっており、裸の白い体が闇のなかに浮かび上がっていた。さらにその腰といわず、肩といわず、尻《しり》といわず、乳房といわずいたるところに真っ赤な大ミミズがのたくっていた。背広姿の男は息をぜいぜいさせながら、なおも姉を打ちすえつづける。ぼくは喉《のど》がからからに渇いて貼りつき、何度も呼吸ができなくなるような感じがした。唾《つば》が口に出てこないのだ。けれども、永遠とも思われたその時間は、芳美の悲鳴で唐突に切り裂かれた。あわてて降りようとしたので、材木の山が音をたてて崩れ、ぼくは地面に尻餅《しりもち》をついた。納屋のなかの鞭の音がふいにやんだ。ぎぃよええええいッ、びぃよよよええいッという姉の悲鳴だけが宵闇のなかに響いていた。  目をあげるとひとりの色白の女性がほほえみながら立っていた。歳のころは二十代の後半というところだっただろうか。  ——いらっしゃい。芳美のお友達かしら。  ——誰?  芳美は恐怖に顔をひきつらせながら、その女性に問いかけていた。  ——誰、あなたは誰なの?  ——誰って? あなたのおばさんよ。叔母《おば》の恵深じゃない。  ——違うわ。嘘、嘘! 叔母さんじゃない!  背中が納屋の壁にめりこむほど、後ずさりながら芳美は怯《おび》え震えていた。その納屋が開いて、鞭を手にしたままの男が出てきた。もうだめだ、ぼくらは秘密を見てしまったからここで殺されるんだ。殺されたその肉を姉の餌にされてしまうに違いない。ぼくはそう観念した。芳美は跳ねあがるように逃げてその男の腰にすがりついた。  ——おじさま。怖い。あれは、あれは誰なの?  ——ははは、いけない子供たちだ。どうも見てはいけないものを見てしまったらしいね。  男は、目深に被ったベレー帽の奥から鋭い目でぼくをじろりと睨《にら》みつけた。けれども、声だけは努めて柔らかく問いかけた。  ——芳美のお友達かな。  ぼくは喉がからからにひりついて、返事をしようとしてもひいっひいっとしか音が出ないのだった。  ——おや、君は。  男はぼくの目を覗《のぞ》き込んで驚いたような顔をし、それからちょっとばかり悲しげになった。  ——そうか。君もそうなのか。どうやら、あれに魅入られてしまったようだね。  ——さあさあ、二人とも母屋にいらっしゃい。おいしいケーキでも食べていらっしゃいな。ねえ、あなた。  ——そうだとも。さあ、二人ともうちへいらっしゃい。  色白の女性は歩み寄って、芳美の手を取ろうとした。その手を振り払って芳美は大あわてで逃げ去ろうとし、何歩か進んで足がもつれて転んだ。あわてて駆けよった男の手もかわして、芳美は悲鳴をあげて走ってゆき、大人二人がそちらに注意を奪われているすきに、ぼくもわああああああッとわけのわからない叫び声をあげて駆けぬけた。芳美がどうなったのかも、振りかえる勇気もなくぼくはひた走りに家へと逃げ帰った。真っ青な顔をして全身汗まみれ泥まみれのぼくを見て母は驚いたが、ぼくはその理由を問われても決して口を割らなかった。この秘密をしゃべったが最後、きっと殺されると思ったからだ。  次の日、芳美は学校に来ていなかった。きっと殺されたんだとぼくは思った。あの二人に夕食に招かれて、そのまま夕食にされてしまったに違いない。ぼくは恐怖にうちひしがれた。次は自分がさらわれて餌にされるに違いないと思ったからだ。けれどもそんな不安は、その日の夕方家に帰ってから、思わぬかたちでぬぐわれることになった。それは、まったく後味の悪いできごとだった。  食欲もなく夕食の席に座っていたとき、激しく扉を叩《たた》く音がした。あわてて母が扉を開けると、恐ろしい形相をした芳美の父が仁王立ちにそこに立ち尽くしていた。  ——おまえんとこの餓鬼を出せ。  ぼくはぎょっとして立ち上がり、母の背中に隠れた。  ——こいつがなんか悪さでもしよったんですか。  けげんそうな顔で父が問いかけた。  ——どうもこうもあるかい。話を聞きにきただけじゃ。  芳美の父は怒りに顔を真っ赤に染めていた。  立ち話もなんだからと母が芳美の父を招き入れて座らせ、お茶を出して落ちつかせた。お茶には「をにはらい」が混ぜてあるので、気分が次第に落ちついてくるはずなのだった。しばらくして気持ちが少しばかり静まったらしい芳美の父が語るにつれて、そこにいるものは皆声を失っていった。  まず、夕べから芳美が戻らないので、家では八方手を尽くして捜しまわった。そのうち、隣の妹夫婦の家に訪ねて行った者が、どうもしんとして人気がないという報告をしてきた。いぶかしく思って訪ねてみると、母屋には誰もおらず、そして納屋で、体を串刺しにされ、首吊《くびつ》りになって殺されている恵深が発見された。あわてて警察を呼んで調べさせたが、指紋からしてどこからみても妹の旦那がやったとしか考えられない。最近怪しげな業者から姉を購入したと聞いていたのだが、その姉の姿はどこにも見当たらず、代わりに姉そっくりの姿にされた妹の死体が残されていたのだ。状況からすると、あの都会者の旦那が、妻を殺したのみならず、芳美をさらって逃げたとしか考えられない。そんな折、聞き込みに出した者のひとりが、昨日の晩、芳美とぼくが蛙石の上で一緒に芋を食っているのを見たという子供に出くわした。そこで、何か知らないかと思って訪ねてきたというわけだった。  そこまで芳美の父が話したとき、全員がぼくをじっと見た。ぼくは仕方なく、昨日の晩見たことを話した。話し終わると、父は無言のまま耳から血が出るまでぼくを殴りつけた。母が止めに入らなかったら、ぼくは殺されていたかもしれない。それほど、わが家の恥になることをぼくはしでかしてしまったらしかった。ぼくにもたしかにそう感じられたので、母に止めないでほしいと思った。このまま死んでしまいたいと思ったのだ。  ——あんの腐れ外道が。今まで黙っとったけど、あれは聞くところによると都会でも人間とは思えんようなひどいことして追いだされたちゅうことや。  芳美の父親は、そういい残して出て行った。その後、ぼくは駐在さんにも呼びだされた。そこには、いかめしい顔をした「県警の方」っていうのも同席していて、ぼくから根掘り葉掘り聞きだそうとした。芳美との関係や、おじさんがしていたことや、脳を冒されているはずなのに妙にしっかりしていた恵深さんのことなどだ。いつもランニング姿の駐在さんしか見たことのなかったぼくには、いかめしい制服をつけた警官たちの存在だけでも威圧感があった。なにより怖かったのは、古狐が化けているのではないかと感じさせるような迫力を漂わせた背広姿の人物だった。この人はたぶんほんとうは人間じゃないとぼくは思った。そのきつい視線には強い憎悪が感じられたからだ。それは、ぼくに対するものというより、世界全体に向けられた憎悪だった。まるで、不定形な憎悪の塊に目玉を取りつけ、さらに背広をまとわせて人のかたちに変えたような感じがした。町田刑事と呼ばれていたその四十代初めと思われる男は、ぼくの話のすべてを疑っていたのに違いない。ぼくが話す間、じっとぼくの顔の表情のひとつひとつを観察する風なのだった。  ——ところで、おまえ、なんで芳美とあの家に行ったんや。  そんな一番聞かれたくないことを問いただされもした。  ——芳美が面白いもん見せるいうたから。  ぼくはそう答えながらも、じっとぼくの目の奥を覗き込むその県警からやってきた町田という刑事の疑り深い視線が気になって仕方なかった。このおじさんは、ぼくの心の底を見透かしている、そんな気がしたのだ。たぶんほんとうはこのおじさんは、ぼくが姉を見に行ったことを知ってるに違いない。そして、父が激怒したのと同じ理由で、軽蔑《けいべつ》をこめてぼくを見下しているのに違いない、と感じられた。  ——なんにせよ、おまえは殺人事件と誘拐事件の現場にいたたったひとりの証人なんやから、嘘はつくなよ。  そんな言葉で射すくめられもした。最後に、おつかれさんといって、駐在さんがジュースと菓子をもたせてくれた。帰り際に、背中から町田刑事がもう一声尋ねた言葉にぼくはびくっとなった。その体のこわばりでなにもかもをさらけだしてしまった、と思った。  ——ところで、おまえ、古川、つまり恵深を殺害した夫だが、あいつが姉を飼ってたってことを知ってたのか。  それは、こんな質問だった。そして、ぼくが何も答えないうちに、その刑事はすべてを了解したようだった。帰ってよし。そういった刑事の言葉が、ぼくには、すべてお見通しだよ、という意味に聞こえた。さらに、おまえもあの男と同じ人種なんだなといわれたようにも思った。これからずっと、危険人物としておまえの人生を監視するからな。そういっているように感じられたのだ。  結局、古川という名のあのベレー帽の男がつかまることもなく、一緒にいた色白の女性の行方も、芳美の行方もわからずじまいになってしまった。家族の者は、その後二度とあのできごとにふれることはなかったし、祭りで姉らが串刺しにされている場所を通りかかっても足を止めることはなかった。ぼく自身はやはり目を奪われながらも、立ち止まって見ていたいということもできなかった。事件の衝撃でしばらくは興奮状態に陥っていた村も、犯人の行方が知れないことで次第に興味を失い、事件の記憶はそのうち路傍の石のようなさりげないものへと変質していった。芳美が消えて無人になっていたぼくの隣の机には、次の席替えで別の女の子が座ることになり、ぼく自身はそこから遠い一番後ろの席に移動することになった。学期が終わるころには、多くの級友がもう芳美がかつていたことを忘れ去ってしまっているようにすら思われた。  中学を卒業するとぼくは集団就職組への参加を希望した。親はぼくの性急な要求に戸惑ったようだった。ぼくの成績からすれば、この辺りで一番いいとされる高校に進学可能だったからだ。けれど、ぼくには自分が高校に進む理由を見つけ出すことができなかった。それより一刻も早く一人前になって、村の外で独立したかったのだ。村を抜け出すこと、それだけがぼくを突き動かす衝動だった。それは、あの事件の目撃者という烙印《らくいん》を、祠部矢にいる限りぬぐい去ることができないからではなかった。村にいたのでは決して実現できないたったひとつのことを果たすためだった。  ぼくは芳美の叔父古川の出身地とされている威勢崎《いせざき》の街に出て鮨《すし》屋の奉公人となった。熱心に修業して、五年で異例の暖簾《のれん》分けをしてもらえる身となった。飲み屋が軒を連ねるあまりお行儀のよくない地域に小さな店を構えた。もっとましなところに店を出せばいいのにと親方にいわれたが、ぼくにはできるだけ出費を抑えて収入を確保する必要があったのだ。さらに三年ほどは昼も夜もひとりで店を切り盛りしてかなりの稼ぎをあげた。それで仕入れ用ということでライトバンを一台購入し、店から車で二十分ほどのところにある山の中腹の家を住居として借りうけた。  それは、住人が一家全員草刈り鎌で惨殺されるという事件の舞台となった家だった。周囲に他の家が一軒もたっていなかったため、二歳の赤子を含む五人家族は、犯人以外には悲鳴すら聞いてもらえずに世を去ったのであった。犯人というのは覚醒剤《かくせいざい》中毒のピザ配達人で、よくこの家に配達に来ていた青年だったということだ。事件当日も、犯人はピザを配達に行く途中だった。山奥の人気のないところにさしかかったために気持ちがゆるみ、バイクを止めてクスリを一発決めてしまったらしい。そのせいでこの家に辿《たど》りつくころには、この家に行く目的がピザの配達ではなくなってしまっていた。高校時代に自分を数人がかりで抱えあげて女子トイレに突入し、たまたま流されていなかった排泄《はいせつ》物に頭から突っ込んだ不良グループへの復讐《ふくしゆう》に切り替わっていたのだった。さらに不幸なことに、家の前には草刈りに使ったばかりの鎌が放置してあったわけで、青年には、これが自分のために用意された復讐の道具としか見えなかったのも仕方ないことだった。こうして、呼び鈴に応《こた》えてモニターで見るといつものピザ屋が立っているのを認めたこの家の主婦は、財布を手にしてドアを開け、ピザを食べる代わりに鎌を食らわされる羽目になった。凶行後、青年は復讐を果たした悦びから、冷蔵庫のビールを飲み、テレビの野球放送を見ながら、配達にきたツナマヨポテトピザのラージLをひとりでほおばったという。こんな理由で、借り手がつかなかったこの家を、ぼくはまさに破格の値段で借りることができた。  引きだしの奥から、あの昔懐かしいちらしを取りだしたのはこれだけの準備が整ってようやくのことだった。もしかしたらもうこの電話番号では通じないかもしれないと思いながら、ぼくはダイヤルを回した。なにしろもう十二年も前にもらったちらしだったからだ。呼びだし音が数回鳴った後、受話器が取られたのがわかった。電話の向こうにいる人物は様子を窺《うかが》うように息をひそめている。ぼくは思いきって声をかけた。  ——もしもし。  しばらく時間が経ってから、低く野太い声が響いた。  ——誰?  警戒しているのがはっきりと伝わってくる声だった。  ——あれが欲しいんですけど。  ——何?  ——串《くし》を一本。  ——ちょっと待て。おまえ誰だ。  相当警戒しているようだった。うまくやらないと今にも切られてしまいそうな感じがした。  ——祠部矢村の出の者です。昔祭りで見て興味を持ちまして。ぜひ串を一本買わせていただきたいのですが。  ——ちょっと待って。  電話の向こうでは、何やらひそひそと相談が交わされる風だった。  ——あのね、うちら最近はもう祠部矢のほう行ってないんだけど、あんた、誰よ。名前は?  ぼくが名前を告げると、その人物はあぁあぁと声をあげた。  ——そうか。あんた古川さんの関係の人だね。例の事件のときに立ちあったっていう。  ——はい。  ——どう。今でも古川さんと付きあいあるのかな。古川さん、今どこいったかわからないかな。  ——ええ、ちょっと手がかりのようなものなら持ってますけど。  ——ふうん。それ、ちょっと見せてもらえるかな。  ——いいですよ。串いただけるんなら。  姉を手にいれるためなら、ぼくにはなんのタブーも存在しなかった。あらゆるものを、そう他人の命ですら犠牲にしてはばからなかった。いや、何年間か姉と過ごさせてもらえるという条件つきなら、自分の命すら売り渡すつもりだった。ほかに欲しいものなどなにひとつなかったのだから。こうして、山奥の一軒家の二階にぼくは初めて姉を飼うことができたのだ。中学一年と二年のときに一通ずつ届いた、差出人不明の二枚の絵葉書と引き換えだった。二通とも別の場所の消印になっていたし、ぼくの家の住所とぼくの名前以外にはなんの文字も書かれていなかった。一枚は羊の放牧場が写されたもので、もう一枚はモリアオガエルの写真だった。いずれも市販されているなんの変哲もない絵葉書に過ぎない。ただ芋版彫とおぼしい、「姉」という一字が、いずれの写真にもインクをつけずに押しつけてあった。太陽の下に持っていって、光線の当たり具合をうまく調節してやると、うっすらと芋の粘液が刻みつけたその文字が浮かび上がるのだった。これはおごろ芋の特徴で、工作の時間にぼくたちが教わったものだった。串を売ってくれた男にも、そのふたつの消印は興味深いもののようだった。こうして商談が成立し、ぼくは新しいお得意さまとなることに成功した。  それからはランチタイムの営業をやめ、夜のみ店を開けることにした。ネタの仕入れもだんだん手を抜くようになり、鮨の質は明らかに落ちた。それに気づいて不平をいったり、店を離れていく客も多かったが、ぼくにはそんなことはどうでもよかった。ほんものの鮨を出さなくても、この飲み屋街では、味のわからない酔客が切れることはなかったからだ。客をだますようなお粗末な内容ではあったものの、とりあえず必要なだけの生活費を稼ぐことはできた。ぼくの生活の中心はもはや仕事にはなかった。できる限り仕事時間を減らすようにし、ぼくは家にこもるようになった。  牛用の鞭《むち》はやはり必要だった。ほかにも杖《つえ》、スタンガン、剃刀《かみそり》、釘《くぎ》、錐《きり》、ダーツまで姉のためにあらゆるものを揃えていった。出刃包丁やこの家に縁の深い草刈り鎌も買い求めた。いろいろ試して姉が悦ぶものを注意深く選別していった。姉にはやはりおしゃれが必要だと思ったので、黒のイブニングドレスや純白のウエディングドレス、さらには浴衣《ゆかた》や振袖《ふりそで》までさまざまな衣服を購入した。各種の化粧品も試してみたが、顔にうまく塗りつけてやるのは一番危険な作業で、幾度も危険な目にあった。一度など、口紅をさしてやろうとしたらリップをもった指ごと噛《か》みつかれてしまった。ものすごい力だった。火にあぶって当ててやるために用意していた鉄棒を口に突っ込んでこじ開け、スタンガンを当てるのがもう少し遅かったら、確実に指を二、三本食いちぎられるところだった。それからは、まず餌を与えて、それを貪《むさぼ》り食らっている隙を狙って化粧を施すことにした。床には姉を貫く串からしたたり落ちる血で床を汚さないように、防水シートを敷き詰めた。ひとたびは元の住人たちの血を存分に吸った床ではあったけれど、一応は借家なのだから、これ以上汚さないことは当然のマナーだと感じられたからだ。こうして、長年夢想しつづけてきたあらゆる演出を施しながら、ぼくは姉の唸《うな》り声、罵声《ばせい》、悲鳴、嬌声《きようせい》に酔いしれ、威嚇し、怯《おび》え、吠《ほ》える姉の姿を楽しんだ。ぼくは姉に仕え、姉を賛美し、姉に奉仕しつづけた。生活のために家を空けている間、鮨を握っている間も頭のなかには姉のことしかなかった。  けれどもまもなく、ぼくは姉の虜《とりこ》となったものが、二度と姉なしで暮らせなくなる理由を知ることになった。それはひどく打ちのめされる体験でありながら、同時に恐ろしく甘美な陶酔感をも引きだすものだった。ある朝、姉が死んでしまったからだ。初めて姉を飼ってから一ヶ月ほどしたころだったと思う。ぼくが姉の朝ご飯にするために用意した一羽の鳩を抱えて階段を上がってみると、床には大きな血の池が広がっていた。姉の体を貫通している串を伝って流れ落ちたもので、一夜のうちに床一面足の踏み場もないほどに染めあげていた。ぼくは驚いて手の力を緩めてしまい、すかさず鳩は身をよじってすりぬけ、はばたきあがって天井のランプのまわりをばたばたと飛び回った。姉はもはや声を発することもなかった。膝《ひざ》まで血まみれになって駆け寄ったぼくは、化粧もしないのに真っ白な姉の顔にとても満たされた表情を見た。あの獣じみたヒステリックさは影をひそめ、静かな落ちついた寝顔だった。閉じられたまぶた、かすかに開いた唇、色を失った頬。がくりと垂れた首の、こんなにか細いものだったのかと初めて気づかされたうなじ。力を失った指先からだらりと垂れ下がる数十センチの長い爪。はだけた着物の胸元から溢《あふ》れだした、それでも張りを失わない乳房。すべてが美しいと思った。ぼくは姉を満足させてやることができたのだ。そして、姉はこんなにも美しい顔になり、こんなにも弱さを露《あら》わにして死んでいった。ぼくは姉の屍骸《しがい》を抱きしめた。いや姉の体にしがみついたのだ。意外なほどに小さく、硬直して冷たくなっていたにもかかわらず、思っていたよりずっと柔らかかった。もろくて、腕のなかで頽《くずお》れてしまいそうに、はかない感じだった。愛《いと》しかった。愛しくて、切なくて、哀れで、痛ましかった。声をあげて泣いた。号泣した。姉を失った悲しみと、姉を幸せにしてあげることができた悦びにまみれて泣いた。血にまみれて泣いた。実際には、姉の体は微動だにしなかった。けれどもぼくには、冷たくなっているはずの姉の体が体温を取り戻して溶けだし、姉の体のすべてがひだひだになってぼくを包み込むように感じられた。ちょうど脂神輿が溶けだして、担ぎ手を肩口まで脂に埋もれさせてしまうように、ぼくは姉に埋もれ、姉に満たされた。姉に包み込まれ、姉とひとつになったのだ。天井から床に降りたち、血まみれになった鳩が、ふたたび舞い上がって開け放ったままの窓から飛びだして行った。  どうやら姉の寿命はきわめて短いもののようだった。どんなに長くても三ヶ月ともつことはない。ここに商売する側にしてみれば旨味《うまみ》があるわけだ。一度姉を飼った者は、そして喪失感と満足感が同居する姉の死の甘美を体験した者は、二度と姉なしで生きることはできなくなるのだったから、言い値でいくらでも高く売りつけることができるわけだ。電話の向こうで、応対した者の態度は最初のときの警戒とは打って変わった横柄なものになった。  ——そいつは気の毒だったね。でも悪いけど、今切らしてるんだよね、串《くし》もののほうは。  明らかに嘘だった。こちらを這《は》いつくばらせ、頭を靴で踏みつけにするのを楽しんでいた。それでも、ぼくはいわれるがままに這いつくばった。床を舐《な》めろといわれれば舐めただろうし、目玉をくりぬいて差しだせといわれれば従っただろう。懇願の果てに、電話線の向こうにいた男は温情をかけてやる風を装った返事をしてよこした。  ——まあ、あんたには古川の件でずいぶんお世話になったしな。他の業者に掛け合ってなんとか一本取り寄せてやらぬこともないけど。でも、あいつら法外な値段ふっかけてくるからなあ。  それが手口なのだということはわかっていた。これが、姉に憑《つ》かれた者たちから金を吸い上げるやり方なのだ。たった一ヶ月ほどの快楽のために費やすにはあまりにも大きな額を要求されるのだ。そもそも姉らは最初から串に刺されているのだから、長生きできないのは当たり前だ。でも、串に刺されていなければ姉ではないというのも確かだった。ぼくはまたランチ営業を再開する必要を感じた。さもなければあっという間に借金が膨らんでしまい、やがて家に取り立て人たちが押しかけてくるかもしれない。そうすると、姉の存在を知られてしまう可能性だってある。それだけは避けなければならなかった。姉との生活を妨害されることは、なんとしても防がねばならないのだ。たとえ、姉と過ごす時間を削ってでも、姉との生活を守らなければならない。それが、姉を飼う者の義務でもあり、資格でもあるだろう。  こうして、ぼくはほとんど眠らないほどの苦労をして姉を飼いつづけることになった。姉のための生き餌《え》の調達だけでもかなりの出費だったし、いつも綺麗《きれい》に身繕いさせてやることもやめたくなかった。それに、姉らを満たしてやるための道具もいろいろ取り揃えなくてはならなかった。そして、なによりも姉が死んでしまったときに備えて、常に購入資金を積みたてておかねばならなかったのだ。仕事をしているときのぼくは、一応は客と応対をしていた。とはいえ、実際にはそれは仮面の人格とでもいえる表層の自分に任せきりだった。心のベクトルは、いつでも家で今もあえぎうめいているはずの姉の艶姿《あですがた》に釘づけだった。  ——さぞ、いい声で鳴くんだろうねぇ。  だから、他の客が引けるのを待つかのようにひとり飲んでいたどことなく凄みのある背広の男の存在にも、ぼくはほとんど意識を向けていなかった。閉店間際になり、誰もいなくなったのを確認して、男がそうつぶやくまでは。その一言で、男はぼくの接客用の人格をはぎとり、その奥に隠していた素顔をさらけだしたのだ。  ——何のことでしょうか、お客さん。  鮨《すし》を握りながら、狼狽《ろうばい》を隠そうとしてとぼけたぼくの目を男が下から覗《のぞ》き込んだ。  ——ゆうべ古川が死んだよ。いや、殺されたというべきかな。  ——えっ。  長い間こもっていた夢の繭がぱちんとはじけた。ぼくは、歓楽街の外れの薄汚い鮨屋のカウンターにたたずんでいる自分に何年かぶりに気づいた。いや、初めて気づいたというべきかもしれない。後にしてきた祠部矢での記憶が舞い戻り、さらには駐在所で絞りあげられたあのいやな雰囲気が鮮やかに蘇《よみがえ》った。その男が誰なのかにいやでも気づかざるをえなかった。十数年という年月を経たせいか、子供のころに感じた凄《すご》みは際立ってはおらず、もう少し柔和な雰囲気になってはいた。けれども、それは表面だけ上手に本性を隠せるようになったということに過ぎなかった。俺は人を信じたことがないよと告げる暗い光を宿した目は、やはりこれは人間ではないと感じさせるものだった。相変わらず、どす黒い憎悪の塊が背広を着て歩いているという印象は変わらなかった。子供のころの直感は当たっていた。やはり、あのときこの男はぼくの本性を見ぬいたのだ。ぼくがいずれこんなことをやるだろうということに気づき、こうして十数年間もぼくを監視しつづけていたのだ。  ——お久しぶりです。刑事さん、そう、町田刑事さんでしたよね。県警の。  ——覚えていてもらって光栄だよ。これで三本目ぐらいじゃないかね、串ものを飼うのは。かなり絞られてるんじゃないの、悪徳業者に足元見られてさ。大変だろうね、やりくりが。  ——いえ。まあ、これだけが生きがいってなものですから。  ——破滅するよ、あんた。ほんとにあっという間に。  ——ははっ、これはまたご親切に。ご忠告ありがとうございます。でも、そんなことは先刻承知なんですよ。自分で選んだことなんですから。  ——みんなそういうんだよ。でも、金策尽き果てて串ものも買えなくなって、すべて差し押さえられて追いだされた奴等は悲惨なものさ。死にゃいいと思ってるんだろうけど、そうもなかなかいかないもんらしくてね。甘美な思い出が強いぶん、諦《あきら》め切れないもんらしいよ。でもって、そいつらのなれの果ては犯罪者さ。  ——銀行でも襲いますか。  ——そういうのもいたね。なにしろ、まとまった金がいるわけだから。後は、業者を探り当てて盗みだそうとする奴とかだね。  ——当然向こうではそのための警戒は十分なわけでしょうね。  ——当たり前だ。手足切られて舌抜かれて、達磨《おもちや》として収容されるってのが関の山だね。まあ、それは本望かも知らないけどね、あんたらにとっては。  ——で、今宵《こよい》はどういうご用で。まさか、ご親切に生き方を改めるようご忠告に来てくれただけってわけでもないでしょう。  ——もちろん違うさ。実はね、  町田刑事は、ポケットから大振りの封筒を取りだした。  ——こんなものが、古川の死体の上に置いてあったもんでね。なにしろ、宛名があんたじゃないか。あの事件のときと同じで、直接の加害者ではないものの、明らかに関係ありとみなさざるをえないってのはわかるだろ。いつだって君は重要参考人なわけだ。  いうまでもなく、それはあの二枚の絵葉書だった。傷口の上に置かれていたのだろうか、血がにじんで芋版の透かし絞が、羊たちや蛙の上に浮き彫りになっている。そうかおごろ芋は血を吸って膨らむのか、これは学校の授業では教わらなかったな。  ——刑事さんのご推察の通りですよ。ぼくが古川を殺したんです。  ——おいおい、冗談はよしてくれ。いや、いや、まあそうだな、そうともいえるだろう。たぶん、そういうことなんだろうな。  ——ええ。つまり、この絵葉書を串を買うための信用を得るためにあの人たちに提供したってわけですよ。  ——ということは、差出人は古川ってわけか。  ——いえ、芳美ですよ。  ——つまり?  ——芳美は古川と一緒にいたってことです。  ——で、今はどこに?  ——どうして、わたしがそんなことまで知っているはずがあるんですか。これは中学のころに届いたものですよ。消印を見ればわかることじゃないですか。ほんとは、刑事さんもすでにご存じのようにね。  自分でも驚くほど、すらすらとぼくは受け答えすることができた。ぼくにはもう姉を失うということ以外には恐れるものは何もないのだということに気づかされた。  ——まあいいだろう。あんたもずいぶんはっきりしたもんだね。もうなにひとつ迷いはないって感じだね。  ——ありがとうございます。  ——いや、その逆だよ。あんたは危険だっていってるんだ。世が世ならこの場で射殺してやるとこなんだが。  ——はは。ご冗談を。わたしは何にも悪いことはしてないですよ。事件の関係者ってだけでね。  ——いいだろう。これからも、目は離さないつもりだからな。  ——温かいまなざし、恩にきます。  ——ああ、それと。  ——はい。  ——鮨ネタは、もう少しちゃんとしたものを仕入れたほうがいいぞ。  絵葉書を渡したことで古川を、そして、芳美を売り渡したのはたしかにぼくだ。だからあの刑事の言うことはまったく正しい。ぼくのほうこそもう人間ではないのだろう。もし射殺できるものなら、そうしてほしいものだ。ただし、できれば正面からでなく、後ろから不意打ちで、あるいは寝込みを襲って殺してもらいたい。殺されるとわかって殺されるという状況に耐えられないほどにはぼくはまだ人間的であるらしいから。まあ、なんにしても、どうでもいいことだ。ぼくはただの姉飼《あねか》いなのだから。  三本目の串《くし》を、つまり姉を失ったのは刑事が来てから一週間ほど経ったころだった。あの刑事が何かげんの悪さでも運んできたのかも知れない。飼い始めてからたった三週間ほどでぼくは二本目よりもさらに大金をかけた姉を失ってしまったのだ。あの刑事がいっていたように、たしかにこれは破滅への滑り台だといえた。血の海のなかで、か弱い小娘のように縮みあがった感のある姉の体を抱きしめて涙しながら、ぼくは自分の人生にもう先がないことをはっきりと理解した。今の自分に果たしてもう一度姉を買うだけの余裕があるだろうか? おそらく業者は、足元を見てさらに高い値をふっかけてくるに決まっている。  ——それだけしかないのかぁ? それじゃあまったく無理だよ。なんたって、相変わらずの不猟続きでね、最近は串ものの入荷はぴったり止まったままなんだから。知りあいの業者にもいろいろ当たってはいるんだけどね、どこも品薄で大変らしいよ。今じゃあよほどの資産家でもない限り、買えないらしいなあ。  なけりゃあ、とっとと借金でも、強盗でもしてこいと、その返事は告げていた。あんたが何をして、その結果どんな目にあおうとこっちの知ったことじゃあない。とにかく金ができるかできないか、それだけだってことだ。姉がいなくなった家はぼくにとって無だった。姉のわめく声と、ヒステリックにもがくエネルギーで初めて生き始める家だったから。生き餌を貪り食らう姉の食欲で初めて空腹を覚える家だったから。姉の体から絶えずしたたり落ちる血をすすって息づく家だったから。夜ごと、日ごと鞭《むち》をふるい、剃刀《かみそり》で切り刻み、錐《きり》で突き、スタンガンでしびれさせることに汗水たらすためにのみ時間が動く家だったから。姉のために生き、姉の死に号泣し、姉の血の池でのたうつための家だったから。  だから、真夜中に町田刑事から突然の電話があったとき、ぼくはまだ眠ることさえできていなかった。姉に奉仕したという心地好《ここちよ》い疲労感なしには、眠りすらぼくを迎え入れてはくれなくなっていたのだ。  ——やっぱりまだ起きてたね。どうだい禁断症状のほうは。  ——ご心配いただいて光栄ですよ。ご想像の通り、まったく生きた心地がしませんね。  ——ところでね、ぼくは今ある串ものの業者さんのところにいるんだよ。どうも、ぼくが動いていることを親切にも業者さんに伝えてくれた人がいたみたいでね。  ——ああ、やっぱり、なりふり構っていられないんでしょうねえ、その人も。  ——でね、ぼくとしては大変忍びないことなんだけど、ここでまあとんでもないものを見てしまったわけさ。それで、たぶんもうお家に帰してもらえることはないと思うんだけど、まあ袖振りあうも他生の縁ってことで、事情を話したら、業者のほうではこれなら君に格安で譲ってもいいっていうんだな。  ——串ものですか。  ——うん、業者にいわせれば不良品なんだけどね。ぼくにいわせれば立派な犯罪さ。まあ、ぼくはもう手足もなくしちゃったし、この電話が終わったら舌もぬかれちゃうだろうから、残念至極だけど摘発するわけにはいかないんでね。これは、職業意識を超えた君への贈り物だと受けとってもらって構わないよ。じゃあ、業者さんに代わるから、これでさようならだ、たぶん永遠に。  ——さよなら。  当然のことながら、ぼくには町田刑事に対する同情の気持ちなどまったくわかなかった。というより、ぼくにとっては彼が暗躍しているという情報もまた、業者に支払うリベートに過ぎなかったのだ。いや、むしろ自業自得だろう。抑え切れない憎悪のせいでバランス感覚を失ってしまったのだろう。あの刑事は踏み込んではいけない世界に迷い込んでしまったのだ。でも、やがてぼくはこの贈り物が、たしかに職業意識を超えた次元のものだったことを思い知らされることになった。そう、それは職業意識を超えた憎悪の贈り物だったのだ。  間違いようはなかった。手持ちの金すべてを吸い上げられて手にいれたそれは、たしかに串ものではあった。たしかに不良品いや、純正品でないことは一目|瞭然《りようぜん》だった。けれども、ひと目見て、古川が殺された理由がぼくにはよくわかった。古川が都会の家を追われた理由も、頭のいかれた女房をめとったのも、すべてがこのひとつの情熱のなさしめたところだった。刑事が彼を追っていた理由も、業者が彼の越権行為を看過することができなかったのもすべて同じ理由によるのだ。やはり、古川は殺されるしかなかったのかもしれない。おそらく、彼のほうでもそうやって自分を誰かが止めてくれるのを待っていたはずだ。ぼくのものとまったく同じ、自分ではどうしようもない制御不能の欲望。さあ、誰か俺を止めてくれ。俺を殺してくれ、ってわけだ。そう、ぼく自身もそんな救いの瞬間にいつも恋いこがれている。  そして、古川の残した最後の作品が今ぼくの目の前にある。目から滝のように涙をほとばしらせ、唇を苦痛に歪《ゆが》め、手足をばたつかせている。剣呑《けんのん》に伸びた爪が空を激しく切り裂き、ひゅんひゅんと音を立てている。ぎぃええええッ、ぐぅえええええッ。この世のものとも思われぬうめき声が、部屋中に響き渡る。串を伝って絶えず血がしたたり落ち、ビニールシートに小さな水たまりを膨らませてゆく。血走った両の目にははっきりとぼくの姿が映っている。けれど、彼女にはもうぼくが誰だかわかりはしないだろう。もしかしたら、誰か人間が傍にいることすらわかっていないのかもしれない。それはもはや、ヒステリックに身をよじり、苦悶《くもん》に牙《きば》を剥《む》く獰猛《どうもう》な姉でしかない。いったい何日もつのだろう。この不良品は。二日、それとも三日? いいだろう。ぼくは最後の奉仕をしよう。姉のために。いやそうではない、芳美のために。 [#改ページ]   キューブ・ガールズ  いずれは、賞味期限が切れるんだって。そしたらあたし、燃えるゴミに出されちゃうんだって。  そういってたんだ。裕也《ゆうや》が。お代り自由の薄いコーヒーを何杯も何杯も飲み干しながら。そうしないではいられなかったみたい。なんだかやたらに喉《のど》が渇くんだっていってた。あのファミレスご自慢の、竹炭入りの水もガブガブ飲んでた。その水差しには、「竹炭を入れることにより、カルキなどいろいろな不純物が取り除かれて水がおいしくなります」ってワープロで打ち出したラベルが貼ってあった。裕也のやつ、ほんとにこの水は臭くないやってしきりに感心してたな。竹炭は、備長炭《びんちようたん》の倍も表面積があるんだって。だから、化学物質を吸い取る力は十倍なんだって。「だから」ってのは、でもなんだか説得力ありそうで、意味不明。だってさ、面積二倍になったらなんで吸収力十倍になるわけよ。なんか変じゃない。ま、あたしが頭悪いだけかもね。みんなはちゃっかりわかっちゃってたりするのかな。  あたしは喉が渇くなんてことないから、雨に飢えた砂漠みたく水分を吸い込みつづける裕也を黙って見てた。 「で、どういうことなの。賞味期限が切れるって」  そう尋ねたら裕也はちょっと困ったような顔をした。 「うん。なんつーか、いいにくいことなんだけど」  なんつーか、っていいまわしを裕也はよく使う。自分では全然気づいていないようだけど、なんつーか、なんつーかをやたらと連発する。 「いいにくいって、もう�なんつーか�結論は先にいっちゃったじゃない。結論だけ伝えといて、そこにたどり着くまでの途中を省略するなんておかしいわ。電車だって始発駅から終着駅までいくつもの駅を経ていくわけだしさ。飛行機で寝ているうちに東京に着いたっていうときだって、眠りのなかで夢を見ていたりするわけだしさ。道中っちゅうか、なんつーか、あっ裕也の癖が伝染《うつ》ってきた、ヤジさんキタさんの話が聞きたいわけ、あたしは。東海道の膝栗毛《ひざくりげ》を語ってくれってことよ。いきなり最終回!みたいな、テレポーテーションはやめてほしいわけよ」  あたしは裕也の目を見つめようとした。裕也は目ん玉をぐるぐる動かし、それから顔を左へ微妙にずらして逃げた。くそ逃げ足の速いやつめ。えーい、もどかしいわ、こいつ。叩《たた》き切ってくれるぅ。って感じよまったく。そう、裕也はあたしの目を見ることができないんだ。ほんとは誰の目も見れないって、いつかいってたっけ。人間が怖いんだって。 「なんつーか、つまりさ、その、なんつーか、亜矢乃《あやの》は、その、商品だったんだ」  ようやく鋼鉄のくそ重たい扉をぎりぎりと開くような苦悩を感じさせる表情で裕也が呟《つぶや》いた。 「どういうこと。あたし売られてたってこと」 「うん」  おやおや、なんつーか、なに? これギャグ? でも、裕也のやつはいたって真面目な顔して、さもやりきれなさそうにまた水を飲み干した。 「へえ、ジンシンバイバイってやつ、それって? 面白いじゃない。で、いったいいくらだったの。あたしの値段はいかほどだったのかしらん」  裕也は、テーブルの下からもっそりと手をもちあげた。指が力なく二本立っていた。ほんと、もう、もっとシャンとせえって感じよね、この男。 「えっ、二百万」  裕也は首を振った。 「そんな安いわけないか。だって人間だもんね。いちおう」  なによなによ、そんなと畜される前の牛みたいな目しちゃってさ。つまり、否定してるってことね。 「じゃあ、二千万、ええっちがうの。二億? 二十億?」  だんだん裕也は曳《ひ》かれていく子牛みたくなってきた。どなどなどーなーどーなーって感じ。すっかりうなだれちゃって。なによ、かわいそうになっちゃうじゃない。なんとかしてよその態度。 「どういうこと。もしかして、二万とか」  ありゃまあ、うなずいた。うなずきやがった、裕也のやつ。申し訳なさそうにうなずいたんだ。 「へえ、ずいぶんお買い得じゃない。で、いったい誰から買ったのよ。記憶喪失のこんなぷりっぷりの可愛子ちゃんをさ」 「コーヒーお代り」  そばを通りかかったウェイトレスに、裕也は声をかけた。 「はい、かしこまりました」  感情のない返事。 「なあにあれ。まるでロボットじゃない。決まり文句しかいわないし、なんかカラッポって感じ。なんつーの、個性が全然感じられないってやつ?」 「それはまあ、なんつーか、マニュアルがあるからね」  なんだかほんと煮えきらないやつ、裕也って。歯切れが悪い、テンポがない。ノリがない。グルーヴがない。ほーんと、もういやんなっちゃう。  で。  結局、コーヒーを四十七回お代りして、竹炭入り水差しを十本以上カラッポにして、裕也がした告白。ってのがこれ、なんつーか、笑っちゃうんだよね。それにしてもまあ、飲みも飲んだりって感じだよね。こりゃあギネスもんだよ、ギネス。  でね、なんつーかかんつーか、なんとさ、あたし四角い立方体だったっていうんだよ。手のひらにのるくらいの、ちっぽけなピンク色した真四角の箱だったんだって。どう思うこの奇抜なような貧困なような発想? 商品名はキューブ・ガールズっていうんだってよ。その辺のアダルトショップ行けば今じゃ当たり前に売ってるんだって。戻す前は、指で押してもなかなかへっこまないようなかなり硬い塊らしいよ。重さはだいたいコーヒーなみなみ注いでもらったファミレスのカップくらいのものなんだって。  箱のどこにでもいいから、USBのコードを突っ込んで、パソコンから情報をダウンロードするんだって。キューブ・ガールズ・コムってサイトがあってさ、そこにいろんな女の子の情報が詰まってるらしいんだ。買ったキューブのケース裏についてる認証番号と名前を打ちこむと、ムード歌謡風のオープニングソングが流れてくる。なんでもマンボ調なんだってよ、いまどきさ。でその音楽をバックに、「ようこそ、○○さん」って、打ちこんだ名前に応じてキュートな女の子たちが話しかけてくるんだって。「ずっと待ってたのよ。もうあたしたちうるうるなの。早く選んで。あっ、でも後悔しないようにじっくり選んでよ。あーん、いやぁん、そんなに見つめたらぁ。もう、どこ見てんのよおエッチぃ」ってな感じらしいよ。ああ、あほらし。ところがまあ、男どもはもう、ここで脳味噌《のうみそ》の芯《しん》がとろけちゃうわけだな。ほんまあほやね。 「なんつーかさ、まずは容《い》れものを選ぶんだ。サーチエンジンに好きなアイドルや女優の名前を打ちこむもよし、ジャンル別で選ぶをクリックして、『歌手』『女優』『アイドル』『女子アナ』『スポーツ選手』『一般人』『その他』なんて項目から選ぶこともできるんだよ。たとえば『歌手』をクリックすると、『日本人』『それ以外』の二つの選択肢があって、『日本人』を選ぶと、五十音順検索と、年代別検索の二通りができるようになってる。  面白いのは『一般人』って項目で、『職業』『雰囲気』って変な分類がされてるわけ。面白いっていったのはこの『雰囲気』ってやつで、クリックしてみると『隣のお姉さん』『生き別れだった妹』『ふたりめの継母《ままはは》』なんかはまだありえるとして、『わけありの叔母《おば》』『ゆきずりのおばさん』『とぼけたおばあさん』『とろけたおまえさん』ってな感じでどんどん冗談がエスカレートしていくわけさ。  えっ? ああ、この『その他』って項目ね。これはなんつーか、オーダーメード希望の人用なんだよ。よくいるじゃないか、与えられたもので満足するのはいやだってタイプの人が。どうしても、全部を自分で決めたいってタイプがさ。たとえば、『小泉今日子とMEGUMIを足して三で割ったものを二倍にし、残りの三分の一にカーリングでオリンピック代表となったスポーツ選手の筋肉美を足して、往年のAV女優小林ひとみの雰囲気で糊付《のりづ》けしてください』とか、『外枠として鉄の女サッチャーの強さをとどめながら、メグ・ライアンの可愛らしさと、コートニー・ラヴの過激さを軸とし、そこにベアトリス・ダル的、ナスターシャ・キンスキー的|妖《あや》しさを加え、アンナ・カリーナのコケトリーで要約し、仕上げにもう一度キャスリーン・ターナーを粉末状に加えることで、強度を増した感じで』とか、過去ログをたどってくとまあ、いうわいうわみんなせっかく金払ったんだからってもう、自分の理想の容姿をつくり出そうと躍起なわけよ。なかにはバスト、ウエスト、ヒップのサイズや身長体重以外に、指の長さや臍《へそ》の形状、眉毛《まゆげ》の湾曲の具合や、太腿《ふともも》の厚みなんかを全部ミリ単位の数字で指定している人もいたなあ。あるいはさ、『まず包帯でぐるぐる巻きにしてからほどいていって楽しみたいので、全身のあちこちに隠し玉となる傷跡を最低十八箇所は確保しておいてほしい。そのうちの六つほどは、できれば探すのが困難な位置に設定しておいてほしい』なんてあからさまに怪しい趣味を匂わせる書き込みもあったなあ」  そう。裕也のやつ、饒舌《じようぜつ》になったんだ。好きなんだねえ、ほんとに。このキューブ・ガールズの説明に入ったとたん、さっきまでの逡巡《しゆんじゆん》が嘘だったみたく、加速度的に情熱を高めていった。そうとう入れあげてたってことなのかねえ、そういう遊びに。裕也のばかは。 「容れものとしての容姿が決まったら、次は『体臭』と『肌ざわり』を決める。これもまあ、いろいろこだわる人もいるけど。でも、なんつーか、やっぱ一番大事なのは中身なんだ。つまり、ソフトウェアだね。たった、三十分、五万出してもせいぜい四時間の楽しみのためにどうしてっていうくらい、いやそれだからこそ、みんなここには時間をかける。だって、束の間の逢瀬《おうせ》だからこそ、ほんとうに理想的な女といっしょにいたいじゃないか。そう、なんつーか、それでこそ後味も甘美なものとなる。二度と戻ってこないからこそ、崇高な思い出となる。そういうもんだろ。  まあ、そうはいったってこのサイトにアクセスしてる時間が長いほど、業者のほうの実入りも増えるわけで、まあきわめて巧妙に考えられた商品戦略だともいえるけどさ。もちろんここにも『性格』『個性』『趣味』『教養』『生育歴』『方言』『癖』なんて項目まである。それからもちろん『H度』ってのも。そう、これを全部組み合わせていくことで好きな中身がつくれるわけさ。オーダーメード系の過去ログもあるけど、見る?」  あたしがまだ返事をしないうちに、裕也はPHSカードを挿したノートパソコンを取り出して、かしゃかしゃ打ちこみだした。モバイル用のマウスの動きが生きてるハムスターみたいに見える。ちょこまかちょこまかこそばゆい動きだよね、あれって。それほど、裕也の手さばきが自然で堂に入ってたってことなんだろうけど。 「神奈川県|辻堂《つじどう》生まれの十八歳。幼少時に父親の友人からいたずらされて性に目覚める。太宰治《だざいおさむ》とさくらももこに熱中した小学生時代、インディーズ系ロックにはまり、ジャン・ジュネやセリーヌに熱中した中学時代を送る。地元の進学校浮雲学園に入学し、どことはない翳《かげ》のある同級生に惹《ひ》かれるようになる。その同級生が俺であり(まあほんとの俺はもう三十過ぎてるけどさ。まあ、彼女から見れば高校一年生ってことでヨロシク!)、とうとう二人のじれったくももどかしいやりとりの応酬の結果、両親のいない午後俺の部屋で二人きりって設定でGO!だ」 「謎につつまれた美女。これに尽きる。で、その謎に翻弄《ほんろう》され、戸惑いながら、そうまるで漆黒の闇を迎え入れるような気分で、胸わななかせつつ自分は彼女を抱きしめたいのであります」 「やっぱ処女でしょ。うん。ぼくが初めてのお相手ってことで。設定はそうだなあ、ぼくが女性向け下着店の店長さんで、彼女がアルバイトの女子中学生ってことで。あ、中学生はバイトできないか基本的に。まあいいや、これはぼくのぼくによるぼくのための設定なんだからさ。性格はやっぱアッパー系がいいっすね。ぼくが用意した下着を、陽気に、うん、ちょっとギャグや踊りなんか交えながら、次々と穿《は》き替えてくれるってのがいいなあ。まあ、選んだボディがなんつーか、ロリコン巨乳系ってやつなんで、まるでマンガなセッテーなわけだけど、たまにはいいっしょ、こういうのも(って、いつもなんだけどさ)」 「お姉さま。やっとこうして二人きりになれたのね。あたしずっとお姉さまを見つめてた。お姉さまがあたしを嫌ってるのはわかってるの。だって、快活でみんなの人気者のお姉さまからしたら、あたしはなんだか暗い目立たないやつでしょうから。この間あたしにお姉さまおっしゃったわね、『あんたなんか屋上から飛び降りて死んじまえっ』って。嬉《うれ》しかった。あたし、お姉さまにそんな風にあたしの願望を見抜いてもらえてほんと嬉しかった。だから、お姉さまの飲み物にパラライザーを入れておいたの。お姉さまは身動きできないけど意識ははっきりしているわよね。大嫌いなあたしに抱かれて、いやでいやでしょうがない、そんなお姉さまがあたしは欲しいのよ。たっぷりいやな目にあわせてあげる。ほんとうにお姉さまが死んでしまいたくなるほどにね。それから、ね、いいでしょ。二人で飛びましょうよ。あたしの希望通りに。お姉さまご指定の、あのビルの屋上から」 「もういいわ」  あたしなんだか、気分が悪くなっちゃった。裕也は、「そう」と残念そうに呟《つぶや》いて、しばらくパソコンをスクロールしていくつかさらに読んでた。 「これなんか、面白いけど」  あたしに読ませたいのがあったみたいだけど、断った。だって、なんかほんとは見ちゃいけないものって感じがするんだもん、こういうのって。とってもプライベートな欲望のはずでしょ。ほんとは誰もが胸のなかにこっそり秘めていて、親しい友人にさえなかなか告白できないような、そんな種類の欲望じゃない。見せちゃいけないもの、見ちゃいけないものってのがあると思うのよね。  でさ、まあいいから聞いてよね、そのあとが笑っちゃうんだから、ほんとに。そうやって理想のっていうか、お望みのっていうか、お欲望のボディとオツムをもった女の子をダウンロードして、パソコンからそのUSBコードで転送してやるんだって。で、それからどうすると思う? その情報満載の四角い箱をさ。 「なんつーか、その、ぶっちゃけた話、お湯で戻すんだ」  なあんていいやがったんだ、裕也のやつ。 「どういうこと?」  ってそりゃ、聞くわよね誰だって? そうでしょ。 「うん、できればお風呂《ふろ》をきれいに洗ってからお湯を満たして、そこに放り込むってのが一番いいんだよ。自分もいっしょに入るって手もあるしさ。それができないときには、流しでも、洗面台でも、あるいは大きなタライでもいいから用意して、お湯を注いでやるといいんだよね。あんまり高温だと、材料となってる特殊プラスチックが溶けすぎちゃって情報通りの成形ができなくなるから、気をつけなきゃならない。ほんとにお風呂くらいの温度四十度から四十五度くらいがちょうどいいんだ」 「なによ、それじゃ、あたしカップ麺《めん》と同じってこと? インスタントラーメンそのものじゃない、それって」  そういうと、裕也は困ったように笑った。そりゃそうだ。実際そうなんだったら、なんともいいわけのしようがないわけだから。慰めの言葉も思いつきゃしないわよね、こんな場合。  結局、裕也がいうにはさ、それでも、あたしはマシなほうなんだって。もっととんでもない使われ方もあったんだって。たとえば、インラン女の情報をインプットされて、銭湯の男湯に放り込まれ、目が覚めたら周りじゅうが裸の男の群れだったっていうケースだってあるんだって。残酷なのは、まだ男を知らない処女の設定で放り込まれた娘の場合だよね。よくまあ、そんなひどい遊びを思いつくもんだよ。そう思わない? でも、この公衆欲情[#「公衆欲情」に傍点]遊びはかなりの流行になって、すたれかけてた銭湯の勢いが一時かなり盛りかえしたんだって。それ聞いてぞーっとしたわよ、あたし。  男ってほんとあほだから、俺はこんなインラン女をつくったぞってのをお互いに誇りあおうとして、多種多様な好色女たちが銭湯に放り込まれたみたい。それ目当てで銭湯にはオヤジどもが群れをなして通った。乱交場と化した銭湯じゃ、あっちで3Pこっちで7P(ってどうやってやんだよまったく)ってな感じで、もうしっちゃかめっちゃか。工夫を凝らされた各種のよがり声が銭湯のよく反響する室内に響き渡ったもんなんだって。でも、あんまり流行《はや》りすぎたんで、国会で取り上げられて、公権力が動き出すことになった。もともとは隣のガラガラの女湯にきていたおばさんが、あまりの騒ぎに悶々《もんもん》として、じゃないや、怒り心頭に発して新聞に投書したのがきっかけらしいけどね。で、結局これは確かに人間の女を引っ張り込んでるわけじゃないから、売春とか婦女暴行にはあたらないけれども、つまりは公共の場で自慰してるに等しいってことで、一種の公然|猥褻《わいせつ》ってことになった。こうして、「浴室内へのキューブ・ガールズ類の持ち込みはご遠慮ください。違反すると、法律により罰せられます」という貼り紙が、すべての銭湯に貼られることになったんだってさ。ほんともう、あほ、あほ、どあほって感じよね。どいつもこいつも。  基本的に二十歳以上でないと購入できないはずなのに、徐々にまだ生身の女と関係したこともないようなガキどもまでがこれを手に入れ始めたんだって。筆おろしの練習用には確かにいいかもしれないけどさ。そんな自分に都合のいい女で最初にやっちゃったら、もう断言するけど、なんつーかさ、生涯現実の女とは付き合えないね。中高生のガキどもは、学校のプールに裸の女を出現させて、体育教師の股間《こかん》が盛り上がるのをみんなで笑ったりしたらしい。当然それは、没収ってことになっただろうけど、その体育教師はその没収物をどう処理したのかしら。もしかしたら、校長への付け届けにしたとか?  でも、人間ってのはやっぱ易きに流れる傾向があるわけでさ。ガキんちょはともかく、大人の男に与えた衝撃っていうか、簡便さは劇的だっただろうね。だって、生身の女の場合は、口説く手間とか、もどかしいデートとか必要だしさ。会うたびに、思ってもない美辞麗句ならべたり、夢をもった男を演じるための物語考えたりしなきゃならないわけでしょ。食事をおごったりプレゼント贈ったりで、確かにキューブ一個買う以上の出費がかさむしね。その挙句やっと目的を達したら、男ってのはすぐ飽きるんだってね。何回か賞味したらもうお腹いっぱいなんだって。ところが生身の女ときたら、そこからがしつこいわけでしょ。やれあたしを傷ものにしただの、月光仮面がこないだの、新婚旅行はロマンチック街道がいいだの、あるいは他の男を紹介しろだのさ。まあうるさいわけよ。ピーチクパーチクさ。なかなかさらりと別れちゃくれない。でまあそもそも心に綾《あや》のない男どもには、面倒くさいこときわまりないわけだよね。「そこでこのキューブ!」ってコマーシャルだったら取り出すわけさ。まるでさわやかサワデーの宣伝みたくあっさりと。「もう面倒な口説きもデートも不要、二時間経ったらはいさよならよ」ってなわけよね。気楽なことこの上ない。そうでしょ。  でまあ、かなりのブームになったことは確からしいんだけど、当然あたしはそんな話は知らなかった。だって、あたしは記憶喪失なんだもん。っていうか、裕也にいわせれば過去の記憶をインプットされてないからなんだそうだけど。でもさ、ってことはなに、あたしもうすぐ消えちゃうってことじゃない。 「だから、そういっただろ。賞味期限が切れるんだって」  もう裕也もやけくそだった。完全に開き直ってた。 「もともとはさ、ある国の軍隊で兵士の慰安用に開発されたものだったらしいよ。戦場じゃ、いつ敵の攻撃を受けるかわからない、つまりいつ死ぬかわからないって緊張状態がつづくわけだろ。そうすると、死ぬ前に生物が子孫を残そうとする衝動のせいなんだろうけど、性欲が極度に亢進《こうしん》するらしいんだ。で、まあキューブの割り当てが、余裕のある米軍なんかじゃ一晩に二個とか三個とかだったりもしたらしいよ。でも、それじゃあいったいいつ寝るのかなあって疑問も湧くわけだけど」 「毎晩、理想の女と寝れるってわけね」 「そう。昨日はマドンナだったから今日はブルック・シールズにしとくかとかね。あるいは、国に残してきた恋人の情報をインプットしたものをバージョンアップしたやつとかさ。でも、タブーの領域ってのはやっぱりあって、英国女王とかの王家筋とか、大統領夫人とかはアクセスしても情報がダウンロードできなかったみたいだよ。まあ、そんなの希望する人自体ふざけてやってたんだろうけどさ」 「でも、それって帰国してから絶対問題になったはずじゃない。そんないい思いをしちゃったらさ」 「そうなんだ、シェル・ショックならぬキューブ・ショック症候群ってのが話題になったもんさ。戦場で女優やモデルたちと楽しんできたら、故国で待ってる妻や恋人はなんだかみすぼらしく見えちまうだろう。たとえ戦場でも妻や恋人の情報をインプットしてたやつでも、たいていは容姿を改良したり、性格のいやな部分の除去やつくり替えを行ってたせいで、ほんものの妻や恋人が受け入れられなくなっちゃうってわけでさ」  やっぱりね。さっきあたしがいったとおりじゃない。副作用が大きすぎるって感じ。 「そうそう、兵器としての利用も考えられてたみたいだよ。敵国で人気のある女性像を徹底的に調査して、その情報をインプットしたものを秘密裏に流すんだ。闇ルートでね。で、ひそかに敵国にこの製品のブームを引き起こす。つまり、夫婦関係や恋人関係を悪くするってわけさ。それって、根底から敵国をゆさぶるすごい方法なんだよね。もちろんもっと単純に、肌から毒物を分泌する特殊加工をしたやつを送り込むって戦略もあった。敵国の首脳部向けに調達してやるわけさ。だいたいどの国でも戦争の指揮官は男だからね。そいつらが悦《よろこ》びのうちに次々と悶死《もんし》していくってやつ」 「でも、実行はされなかったってわけ」 「なんつーかさ、敵にあんまりいい思いさせたくなかったんだろうね」  そんなわけで、この製品のマイナス点はすべて了解済みだったってこと。だけども、欲望あるところ、商機ありとみなす企業はそんなことは完全無視したってわけよね。戦場でその画期的な性能が確認されたキューブ・ガールズたちは、最初は地下ルートでパイロット的に各国のヤバイ系業者に流された。そこで、需要の大なることが確認されたあと民間に放出されたと。まあ、電子レンジやパラシュート用ナイロンと同じってわけなのね、あたしたちって。ま、仕方がないけど、それが世の中ってもんなんだろうけどさ。あら、なんてシニカルな若者なんでしょ、あたしったら。でも裕也なんて、それ以上だわ。シニカルもなにも、そもそもそこに問題意識すらないわけでさ。ただの愚かな消費者ってわけか。お金を払って欲望を満たす。いや、きっと満たされきることはないから、永遠にお金を払いつづける。いいカモってわけか。情けねえなあ、お前。  そのとき携帯が鳴って、裕也が席を立った。 「ごめん。すぐ戻るから」  そういい残したまま、ファミレスから姿を消した。なによ、せめて誰からとかいいなさいよ。どこ行くとかさ。ふん、もう勝手なもんよね。そういや、あたしの携帯は? あたしのバッグはどこ? どうしてあたし化粧ポーチすらもってないのかしら。裕也の部屋に置き忘れてきたのかな。  まあいいや。裕也に借りたこのヴォイスメモに吹き込んで、備忘録をきっちりつけとくことにしなきゃ。だって、あたしほんとに記憶喪失病みたいだから。困っちゃうわ。やなこと覚えてないのはいいとしてもさ、きっといっぱいいっぱい楽しいこともあったはずなのに。なあんにも覚えてないんだもの。なにがあったかをこうやって吹き込んどかないと、いつもいつも今その瞬間この世に湧いて出たみたいな感覚に囚《とら》われちゃうもの。せっせ、せっせと現在をつなぎ留めて過去を蓄積していかなくちゃ。  でも、ちょっと変。そうやって自分を振り返ると、なんとなくっていうか、ほんとうにぼんやりとだけど覚えていることはあるのよね。目が覚めたときっていうか、気がついたときあたしは裕也の部屋にいた。それは確かだわ。だから、裕也の話がまったく口からのでまかせだってことがよくわかるわ。だって、あたし目が覚めたときちゃんと寝巻きを着てたし、裕也はまだ隣で怯《おび》えたような顔して眠りこけてたから。それに、今朝目が覚めてからもう少なくとも五時間は経ってるもん。裕也の話がほんとなら、一番長もちする五万円のキューブでも四時間しかもたないわけでしょ。でも、あたしまだこうしてここにいるし、意識だって体形だってしっかりしてる。もっと上手に嘘つけばいいのにさ。まあ、あたしがすべてわかってるって承知のうえでからかってんだろうけどさ、裕也のやつは。もう、いやんなっちゃう。  さあ、それではここで問題です。  裕也は保護者でしょうか、それとも加害者なのでしょうか?  記憶喪失で行くあてのないあたしを助けてくれた優しき青年? 迷い猫を拾って帰ってくれた博愛主義者? それとも、うら若い乙女をかっさらって、なんらかの手段で記憶を抹消し、変テコなホラ話を吹き込んでからかってる確信犯? でもなんのために? 少なくとも体目当てじゃなさそう。だって、裕也は全然あたしに触れてこないもん。眠るときだって、怯えた海老《えび》みたいに体を丸めて、あたしの隣で縮こまってた。なんだか、それみてあたしかわいそうになっちゃったのよね。甘いのかなあたし。でもそういやなによ、さっきの電話は? 女かしら。それとも客とか? あたしに稼がせて裕也は暮らしてるとか? もうすぐこのソファに、見知らぬおじさまがやってきて、 「裕也くんがいってたのって君? あ、そう。ふーん、確かに可愛いね。じゃあ、行こうか」  とかいって歩き出すのかしら。しばらく歩いてから振り返ってさ、 「君、ほんとに記憶喪失病なの」  って尋ねるのよきっと。あたしがうなずくと、おじさまは嬉《うれ》しそうな顔をする。つまり、わたしがなにをしても君は忘れてしまうってことだよね。黙ってても背中がそう語ってんだよ、おっさん。ってあたしは心のなかで毒づく。そして、数時間後にはとんでもない目にあわされてあたしはぐったりしている。そんなあたしを裕也が迎えに来てくれる。きっと、せっせと服を着せてくれるんだわ。下着からなにから全部。おじさまのひどい仕打ちにあたしはショックを受けていて身動きすらできない。まるで着せ替え人形みたいに裕也にすがってる。でもすぐにあたしは立ち直ってしまう。なにがあったのかを忘れていくから。三十分後にはもう元気全開! 裕也につれていかれたクラブでもう楽しげに踊ってる。いやちょっとは覚えてるんだけど、書き留める暇がないから穴だらけの笊《ざる》みたいに忘れつづける。あたしは笑いつづけ、踊りつづけ、そして裕也はそんなあたしを見て微笑む。いつものようにはにかみながら。そう、あたしたちはいっぱい笑って、いっぱいお話しして、いっぱい踊るのよ。だって、ほかにやることなんて何にもないもの。疲れきったあたしを裕也はおんぶしてつれて帰ってくれる。裕也の背中であたしは裕也の匂いを呼吸しながら眠りにおちる。そしてきっと目が覚めたときには、あたしなにも覚えていないんだわ。隣には哀れな海老男が眠っていて。もしかして、そんな日常の繰り返しとか? なにあたしなんでこんな話思いつくわけ? 想像力が過剰なのかしら。それとも、記憶の痕跡《こんせき》が蘇《よみがえ》ってるのかしら。いずれにしても、なんか薄倖《はつこう》の美少女って感じじゃない、そんなあたしって。幸薄い記憶喪失の女と、孤独な性的不能の男ってどう。この設定。うん。なかなか泣ける感じじゃん。  でも、どうなんだろうほんとのところ。誰か、あたしをドキュメンタリーしといてくれないかなあ。テレビカメラでなくたっていいからさ、ハンディカムでいいから、あたしの一日を取材してほしいもんだわ。そして、タイトルは、あれ? あたしの名前ってなんだっけ。さっき裕也がいってたような気がするけど。いやだなあ、もうそんなことまで忘れちゃった。両親や兄弟、それとも姉妹かな? そんなのがいたことさえ覚えてない。覚えてる人名ときたら、裕也だけなのよね。なぜかこれだけは忘れない。不思議よね。でも、ってことはなに、あたしのドキュメンタリーとっても、タイトルは『名無しのゴンベさんの一日』ってことになっちゃうわけ? やあねえ、かっこ悪い。せめて、『記憶を失った少女、その一日を追う』とか『記憶せよ、と少女はカメラに向かっていった』とかねえ。そのほうがちょっとはカッコつくじゃない。  遅いなあ裕也。どういうつもりなんだろう。あたしにいつまでここで待たせるつもりなのかしら。客がつかまらないのかな。商談が上手《うま》く成立してないのかな。まさか、トラブルが起こって刺されてるとか? あたしの名を呼びながら血を流して呻《うめ》いてるとか? あら、どうしてあたしどきどきしてるのよ。ちょっとやめてよね。そういう空想。まるであたしが裕也のこと大事に思ってるみたいじゃない。あんな勝手なひどいやつをさ。ありえない。ありえないってそんなこと。いくらいっしょに生活してるとしたって、つまりあいつはあたしを利用してるだけでしょ。いくら誘拐犯と誘拐された人間の間に時として親愛の情が湧くっつったって限度ってものがあるわよ。あ、そうか。もしかしてあたし誘拐されてるのかなあ。裕也は今身代金要求して、お金の受け渡し場所に向かってて。しばらくしたら警察がなだれ込んできて、 「お嬢さんだいじょうぶですか」  ってあたしの顔を覗《のぞ》き込むのかも。そんでもって、 「ああ、よかったよかった、恵美《えみ》」 「恵美ぃ、恵美ぃ」  とかって見たこともないおじさんとおばさん、そしてどうしても好きになれそうにないいけ好かないガキとかが、家族と称して迎えに来るとか。あ、恵美ってのは今ちょっと思いついた名前にすぎないから気にしないで。それとも、遠い記憶が蘇《よみがえ》ったのかもしれないけど。いずれにしても、なんの実感もともなわない名前だし、恵美って、こう呟《つぶや》いてみても、芋づる式になんらかの記憶が戻るってこともない。それにしてもさ、全然知らない不《ぶ》精髭《しようひげ》の心労で憔悴《しようすい》しきったおっさんとか、眉《まゆ》の間に三重くらい皺《しわ》の入った見知らぬおばさんに抱きしめられるなんてかなわないな。おまけに泣かれちゃうわけでしょ。うわ、いやだな、そんなの。それなら、まだ裕也と二人のほうがいいや。だって、気楽だもんね。この暮らしのほうが。  でも、そういやあたし裕也のことなんにも知らない。もしかしたらいろいろ聞いたのかもしれないけどさ。悔しいな、この病気のせいでなんにも覚えてない。まあ学校に行ってる風でも、仕事してる風でもないからいずれしょうもない世界に足突っ込んでるんだろうけどさ。でも、それだってきっとなにか深い理由があったに違いないわ。だって、あたしには優しいもん、裕也のやつ。いやもしかしたら殴ったりしてんのかなあ、あたしが覚えてないだけで。でもなんとなくだけど、そんなことないような気がする。うん、あいつあたしがいることで救われてるってそんな感じがするんだ。寂しいやつなんだよ、きっと。ね、カラッポの女とサビシイ男ってどうなのかな。あたしがいなきゃ、裕也にはパソコンしかないんだもん。それよか、あたしがいるほうがやっぱましなんじゃない? 補い合えるのかな。わかんないや。ああ、遅いなあ裕也のやつ。  あれ、あそこにいるの裕也じゃないかなあ。ほら、あそこの窓のところ。こっち覗《のぞ》いてる。なんだ、ずっとあそこにいたのかな。あたしが日記吹き込んでる間待っててくれたのかも。それとも、遠くから意識されずにあたしを見つめていたかったとか。シャイな裕也ならありそうなことだわ。うん、だいじょうぶ。悩める美少女として十分絵になってたはずよ、あたし。観賞に堪える存在ってとこね。  でも、誰かといっしょみたい。なにやってんだろ。二人ともこっち見てる。裕也の友達かなあ。それとも、あたしが接待する「客」なのかなあ。金もちのおじさまって感じじゃないけどいいのかなあ。あたしそんなに安く売られてるってことなのかなあ。まあ、何でもいいけど、それであたしたちが食ってるんならさ。でも、なにあれ? ハンディカムじゃない。あたしを撮ってるわけ。えっ、どうして。ほんとにドキュメンタリーつくるつもり? それになに、裕也が手にもってるものは? こっちを見ながらぽーんぽーんって手のひらから放り投げては受けとめてるのは? 四角いピンクの箱。ほんとなの、ほんとにあんなものがあるのかしら。あれ、裕也の口が動いてる。なんかわたしにいってるみたい。なにかしら。えっ、う・そ? なにが嘘なの。キューブ・ガールズの話が嘘ってこと。え、じ、じ・か・ん? 時間ってなに。時間が嘘ってなに? どういうこと? えっ、もしかして、もしかして、ほんとはキューブ・ガールの賞味期限はもっと長いとか? そういうことなわけ。裕也の家で目覚めてからそろそろ八時間ちょうど。もし、八時間とかがほんとの賞味期限だったとしたら。それがほんとうならあたし。  どうしてなの裕也。どうしてそんな残酷な目をしてるの。なにを笑ってるのよ。あたしの恐怖を楽しもうって目? それもビデオに残して後で何回も反芻《はんすう》しようって魂胆なの? 怖い。怖いわ。ねえ、あたしほんとうに消えるの? 賞味期限が切れるの? どうして、裕也。もしそうなのならどうしてあたしをこんな設定にしたのよ。こんな「人間みたいな」設定に。ただの淫乱《いんらん》女とか、「坊や、おしえてあげるって感じの隣のお姉さん」とかのほうがずっとよかった。どうせなら、ほら、さっきいってた「とろけたおまえさん」とかにしてほしかった。なんつーか、だって、それならなにも考えなくてよかったから。それなのに、どうして。どうしてこんな残酷な目にあわせるわけ、あたしを。  あたし怖いわ。消えることじゃない。怖いのは死ぬことじゃないの。その話がほんとうなら、死ぬってのはあたしの場合正しくないいい方なのかもしれないけど。だって、あたしは「人間みたい」だけど、「人間」じゃないわけでしょ。道具だったわけでしょ。玩具《おもちや》にすぎないわけでしょ。だから、別に、燃えるゴミになったっていい。でも、あたし裕也に愛されてると思ってた。少なくとも必要とされてるって。なのに、なのに、これはどういうことなの。どんな設定にしたのよ、いったい。あれ、これはなによ。どうして顔が濡《ぬ》れてるの。どうして涙なんか流れるわけよ。あたしただの玩具なんでしょ。ちゃんと塩味してるじゃない。どうしてなの。どうして、裕也。ねえ裕也今そっちに行くわ。あたしあんたのことが、こんなに [#改ページ]   ジャングル・ジム  赤、青、緑、そして若干の黄色。  色彩たちが目を覚ます。  朝日が昇るのと同時に蘇《よみがえ》るのだ。すべてを自分の色に塗りつぶす夜の体のなかから。  ジャングル・ジムは今日もすがすがしい朝を迎えた。団地の隙間から見える東の山から今しも太陽が顔を出すところだった。  今日も晴れるだろう。ジャングル・ジムはそう思った。  子供たちが遊びにくるな。  それに、いくばくかの大人たちもだ。  ジャングル・ジムは全身に力が漲《みなぎ》るのを感じる。気のいいやつなのだ。子供たちが大好きだ。それに、くたびれた大人たちや悩んでいる若者たちに心の底から共感できる。そんな風に造られたからだ。  太陽の光がジムの全身に降り注ぐ。体中にまつわりついた朝露が蒸発してゆく。  そうだ。きちんと乾かしておいてくれよ。ジムは、朝の熱気に感謝する。みんなの手が濡《ぬ》れて滑ったら大変だからな。  ジャングル・ジムはとても入り組んだ体のつくりをしている。全部が直線と直角でできているのだけれど、その組み合わせ方がなかなかに凝っている。鋼鉄で組まれたその骨格はジムのまっすぐで隠しごとのない性格を表している。それから、複雑に入り組んだ、まさにジャングルに比較しうるような構造にはジムの知性の豊かさ、感受性の繊細さを読み取ることができるだろう。その上、配色の妙がさらなる感情の微細な襞《ひだ》をつけ加えている。情熱の赤と、冷静の青、それに詩的感受性の緑が、みごとなバランスで全体にちりばめられている。そして、まんなかの一部分にだけ、やや唐突な感じで黄色い立方体が存在する。つまり、心臓にあたる部分の十二本のバーだけが、黄色に塗られているのだ。この部分の意味するところは不明だけれど、ジムによじ登るものたちは、誰もが、ここは黄色じゃなくちゃならないと納得する。この黄色がまんなかを占めていることで、まわりの赤や青や緑も生き生きと躍動し始める。そして、この普通のジャングル・ジムとは若干趣を異にする構造も、落ち着きを得る。奇抜だとか、斬新《ざんしん》だとかいった印象をみごとに打ち消して、当たり前のジャングル・ジムだという印象だけを醸しだすことができるのだ。  最初の訪問者は、茶色いビジネスバッグを提げたサラリーマンだった。紺のスーツに、黄色いネクタイを締めていた。  ちょっと一服いいかな。  サラリーマンは、そんな風にジャングル・ジムに声をかけた。  いいですとも。まだ子供たちはぐっすり眠っているか、そろそろ親たちに体をゆすられて目をこすっているころでしょう。まだ、彼らには顔を洗ったり、朝ごはんを食べて歯を磨いたり、着替えたりする日課がある。それに多くの子供たちは、そのまま公園の横を通り過ぎて学校に行ってしまうんです。もちろんなかには、朝の挨拶《あいさつ》がわりのひと登りを欠かさない律儀者もいますけどね。でも、最近はそんな子供も減ってきて、ぼくもちょっと残念に思ってるんです。ああ、いや、こんな愚痴をこぼすつもりじゃなかった。さあ、どうぞ、ごゆるりとおくつろぎください。でも、電車の時間に遅れないようにね。  ああ、そうさせてもらおうかな。  ネクタイをぶらぶら揺らしながら、サラリーマンは鞄《かばん》片手にジムをよじ登る。  なかなか高いね。見晴らしがいいよ。  ええ。普通のやつよりちょっとたっぱは大きくて、三メートル五十あるんですよ。横幅もけっこうあるほうですけど、まあ数字はどうだっていいでしょう。この際。  ふーん、川の向こうの飲み屋街が見えるよ。ああ、『マテル』もシャッターが下りたままだ。ママもきっとまだ眠っているんだろうなあ。  サラリーマンは、ひとりごちて鞄からタバコを取り出した。  タバコからは煙がゆっくりと立ち昇る。静かに時間が流れてゆく。ジャングル・ジムは控えめな性格なので、求められもしないのに話しかけたりはしない。必要最低限の受け答えにとどめるよう気をつけている。公園の前を、サラリーマンと同じような格好をした男たちが、足早に過ぎてゆく。反対方向にすれ違ってゆくのは、白髪の夫婦だ。いつものように、ゆっくりとした速度で何やら語りあいながら仲良くジョギングをしている。何台かの車がそれらの人々を追い越して走ってゆく。デジャ・ヴュじゃないかと疑うほど、見覚えのある風景だった。もう何年も繰り返されてきた朝の光景だ。  でも、それを退屈だとは思わない。哀れだとも思わない。無常観を歎《たん》じたりもしない。むしろある種の共感をもって、ジャングル・ジムはそうした人間の営みを見つめてきた。そう、ジャングル・ジムは人間たちを愛していたのかもしれない。  ねえ。  二本目のタバコに火をつけながらサラリーマンが声をかけた。  なんです。  ジャングル・ジムはさりげなく言葉を返す。  どうやら、ぼくと君とはどことなく似ているような気がするんだけど。  そうですか。  うん。  サラリーマンは、うまそうにタバコをくゆらせた。  だって、毎日を同じようなことの繰り返しで過ごしているわけだろ。しかもそれは、永遠に変わらない。永遠つったってそんなに長い間じゃない。せいぜいあと三、四十年ってとこだろうけどさ。でも、毎日は何も変わらずに過ぎていって、ぼくたちも本質的には何も変わらない。ただゆっくりと弱り、古び、朽ちてゆく。それだけのことだ。そうやって、なんとなく時間のなかを通り過ぎてゆく。そんな風には感じないかい。それに、今日は黄色いワンポイントっていう点でもいっしょみたいだし。  はは。でも、それはすてきなことじゃないですか。  ジャングル・ジムは小さく笑って答える。いやじゃないですよ、ぼくは。それでいいと思っているんです。この世にあるって、あったってことはそれだけのことでしょう。存在して、存在しつづけて、そして消えてゆく。すてきなことじゃないですか。  うん。  サラリーマンは笑顔を浮かべる。三本目のタバコが地面に落とされる。  なんだか、もう少し生きてみようって気になったよ。それもこれも君のおかげだ。ありがとう。じゃ、行ってくるよ。そろそろ電車の時間だからね。もちろん、いつもと同じやつさ。  行ってらっしゃい。  ジャングル・ジムは、ほっとして答える。なんとか、気持ちを支えてあげることができたようだ。そう、このサラリーマンのためにも、ぼくがここにこうして存在していることには意味があるんだ。  あっ、でもタバコの吸殻は拾って行ってくださいね。小さな子供が口にしたりすると大変だから。  次にやってきたのは若い詩人だった。  やあ、おはよう。  ああ、おはようございます。詩人さん。  ジャングル・ジムがそう答えると、詩人は困ったような表情を浮かべた。  悪いけど、その呼び方はやめてくれないかな。  そういって、ため息をもらす。  どうしたんです。  うん。もう、一ヶ月も言葉が生まれないんだ。  詩人は、苦しげにそういった。  そうですか。それは、つらいでしょうね。  何しろ彼は詩人なのだ。言葉を生むことができなければ、何者でもなくなってしまう。実際、なんだか、詩人は青ざめた顔をしていて、今にも倒れそうだった。言葉を失った詩人なんてまさに語義矛盾だからなあ。  どうです、詩人さん。  だから、その呼び方はやめておくれよ。  いえ、だいじょうぶですよ。  ジャングル・ジムは優しく答える。  だって、ぼくはあなたがこれまでに生んできたたくさんの言葉を覚えているんですよ。どれもこれもとってもすてきな言葉の群れでした。つまりすてきな詩でした。空に浮かんでるような気分にさせてくれる言葉や、自分が黄色って色そのものになってしまったように感じさせてくれる言葉。ライオンの悲しみを教えてくれる言葉や、なんだかすべすべした手触りの言葉。どれもこれもすてきな言葉だった。それらの言葉を過去に生んだというだけで、あなたは立派に詩人なんです。  でも、と詩人は反論する。それはむかしのことだろ。とすれば、俺はただの詩人だったことのあるやつに過ぎない。少なくとも今の俺は、もう何者でもないんだ。  まあ、そういわないで。  うーん、今度はだいぶ重症のようだ。ジムは、詩人の苦しみに共感して自分まで息苦しくなるのを感じる。あれ、を試してみようか。そう考えて赤と青と緑のボディを輝かせる。中心部では、黄色い心臓が朝日と同化して見える。  どうです。胎内くぐりをなさってみては。  胎内くぐり?  ええ、ぼくのなかに入ってみませんか。ぼくの胎内では、サイコロ状のいろんな世界がモザイクのようにつながってるんです。ちょっとしたジャングル、ちょっとした迷宮なんですよ。だから、もしかしたら、小さなアドベンチャーがそこにはあるかもしれません。あなたの直感と、手足の筋肉でわたしのなかを自由にくぐってみてください。関節や骨を上手に調節して、重力ともうまく折りあいをつけながら、ぼくのなかのいくつもの立方体の空間を通りぬけてみませんか。  子供みたいに?  そうです。子供たちは、みなある意味では詩人なんです。言葉にはならないけれども、直感と、筋肉と、関節と、重力のみごとなバランスを生きています。それは、きっとあなたにとっても新しい体験になるはずですよ。  いやむしろ、古い体験の再現じゃないのかい? 子供だったころを思い出すだけなんじゃないのかい?  かつて詩人だった男は、そんな理屈を口にしてしまうほど、落ちぶれていた。ジャングル・ジムは心の痛みを感じた。詩人の苦しみの大きさがよくわかったからだ。  そんなことはありません。いいから、だまされたと思っておいでなさい。  最初は幾分ぎこちなく、かつての詩人はジャングル・ジムに手をかけた。疑《うたぐ》り深そうな顔をして、赤と青と緑の微妙なバランスで仕切られたいくつもの空間をくぐり始めた。おや、という表情が三つ目の空間を過ぎたころからかつての詩人の顔に浮かび始めた。なにかを見つけたらしかった。  なんてことだ。  詩人はそういってほほえんだ。  詩人は、もうかつての詩人ではなかった。ふたたび詩人に返り咲いたのだ。  すてきだ。君の内部はとってもすてきだ。まるでインスピレーションの詰まった洞窟《どうくつ》だ。異次元の空間を寄せ集めたパッチワークだ。車両ごとに違った趣向の凝らされた列車みたいだ。思いがけないアイデアが思いがけないつながりを見せるおもちゃ箱だ。ああ、ここにもここにも、新しい刺激がある。俺の全身が喜んでいる。筋肉が、関節が、言葉を生みだす。重力がその言葉を生み落とさせる。なんてすてきな言葉たち。なんて可愛い子供たち。  ポケットからノートを取りだして、詩人は書き始めた。書きながらジャングル・ジムのなかを這《は》い進んだ。あっという間に手帳は言葉の群れで埋め尽くされていった。  どういたしまして。  感謝の言葉をいくども口にしながら去って行く詩人を、ジャングル・ジムはほほえましい思いで見送った。  やがて最初の大仕事の時間になった。  あちこちから乳母車に乗せられて、あるいは母親に手を引かれて小さな子供たちが集まってきた。まだ幼稚園や学校にあがるまえの幼児たちだ。彼らの多くはまだジムにのぼることはできない。せいぜい、遠くからジムのかたちや色彩をみて楽しんだり、近くまでよちよち歩きでやってきてジムの体にさわってみたりするだけだ。でも、彼らが自分に興味をもっていること、自分と遊びたがっていることはジャングル・ジムにはよくわかった。時折育児に疲れた母親がもたれかかってきたりすると、ジムは優しくその体を受け止めてあげた。そして、同時に彼女らの悩みも受け止めようと努めるのだった。  こうして、昼ごろにはジャングル・ジムはかなり疲れてしまう。  受け止めすぎるからだ。  でも、誰もいない昼食時間に軽い睡眠をとって元気を回復する。なにしろ、いよいよこれから夕方までがほんとうのお勤め時間だからだ。  よしよし、上手だ。そう、その調子。  ジムは、もう何時間も支え、励まし、見守りつづけている。  子供たちはジャングル・ジムを縦横無尽に駆けめぐる。上までのぼる競争をしたり、まわりをぐるぐる何周も回ったり、思いにふけりながら這い進んだり、棒でジムの体を叩《たた》いて音楽を奏でたり。それこそもう大忙し。ジャングル・ジムも、そんな子供たちが発する歓声、奇声、罵声《ばせい》、泣き声、笑い声を心地好《ここちよ》く受け止める。落ちそうになった子供がいたりすると、気づかれない程度に体をたわめてバランスを回復させてやったりする。  お母さんが理由もなくぶつんだ。  お父さんが帰ってこなくなっちゃった。  先生がみんなの前でわたしをバカにするの。  子供たちの悩みは重たい。とても痛いし苦しい。でも、ジャングル・ジムはそうした訴えのすべてに耳を傾け、心の底から共感してあげる。きっと受け止めて支えてあげる。それ以上のことはぼくにはできないけど、でも、ぼくは君が負けないでいられるように、いつでもここにいるから。  ジャングル・ジムはそんな風に子供たちを慰める。  つらいとき、悲しいときはいつでもぼくのところへおいで。  子供たちはうなずき、ほほえみ、あるいはジムにすがって涙を流す。  ジャングル・ジムは、そんな苦しみ、悲しみ、そして喜びにぶら下がられることを義務とも喜びとも感じている。それこそ、ぼくがここにいる理由なんだから。  夕暮れが迫ったころ、ひとりの小学生がてっぺんから足を踏み外した。  下を覗《のぞ》き込んでいるときだったので、頭から落ちた。  そのまままっさかさまに落っこちたら、死んでいたかもしれない。  ジャングル・ジムはとっさに体を縮めて小学生の落下速度を弱め、伸びた手の先に二本の赤いバーを突きだしてそれを掴《つか》ませ、さらに膝《ひざ》を折らせて青いバーに掛けさせた。それは一瞬のことだったので、ほとんど誰にも何が起こったかはわからなかったはずだ。小学生がみごとな運動神経で、危険を回避したようにしか見えないはずだった。ジャングル・ジムはあくまでジャングル・ジムのままでいたかったから、余計な注目を浴びたくはなかったのだ。  案の定、いっしょにいた友だちたちは、少年が無事であったことを喜び、あるいはその運動神経のよさを称賛した。当の小学生だけが事情をある程度察知していたので、それを自分の手柄にすることにためらいを見せる表情でジムを仰ぎ見た。  いいんだよ。君が自分で自分を救った。それだけのことだ。  ジムはほほえんでみせた。少年もほほえんだ。  彼らが去って行くのを見送った。やれやれ、今日も一日いろいろなことがあった。けっして同じように毎日が過ぎて行くわけじゃない。いや、こういうのを同じことの繰り返しっていうのかもしれない。でも、それはすてきな繰り返しだ。ぼくは好きだな、こういうの。ジムはそう呟《つぶや》いた。後はゆっくり闇に沈んで眠るだけだ。いつものように。  おみごとね。  そのときだった。ひとりの女性がジムに声をかけたのだ。  見せていただいたわ。あなたのさりげない気配り。あなたの優しさ。そして、あなたのすてきな日常。  スーツ姿の若い女性だった。仕事帰りなのだろうか。それにしても、あの微妙な対応を見られていたとは。かつてないことだった。通常の視力ではとらえられないほどすばやく、そしてさりげない対応だったはずなのに。ジャングル・ジムは、あまりの意外さにどぎまぎした。思わず赤面した。  いや、ぼくは別になにも。  あら、赤くなっちゃって、意外と純情なのね。あ、そうか、意外ってことはないわよね。あそこまで子供たちと共感しあえるんだもの。とっても純な心の持ち主なのに決まってるわよね。  その女性は、ジムの話を聞きたいといった。  ジムは少しためらった。でも、自分の秘密の行為を見ぬかれてしまったことのせいだろうか、なんだか黄色い心臓がどきどきしてどう反応していいのかわからなくなってしまっていた。  いいですよ、少しだけなら。  そんな風に答えてしまった自分に驚きもした。  女性はうなずいた。当然の答えだという風に。  ジムは初めて公園を後にした。もう何年もじっとそこに立ちつづけていた場所を初めて後にした。なんだか奇妙な感覚だった。わくわくするような、不安なようななんともいえない気持ちだった。歩きながら、その女性が腕をからめてくるのになおさらどぎまぎした。ああ、ぼくはいったい何をやらかしてるんだ。そんな後悔、あるいは罪悪感に似た感覚がよぎった。朝までには戻らなくちゃと思った。  彼女がお勧めだというイタリアン・レストランで、ジャングル・ジムは初めてナイフとフォークを使って食事をした。というより、レストランに入ったのも初めてなら、ナイフとフォークを手にしたのも初めてだった。さらにいえば、食事なんてものをしたのも初めてだったのだ。メニューのなかでは、とりわけデザートに出たパンナコッタと呼ばれるデザートに感激した。甘いって、こういう感じなんだと初めて実感したのだ。  それから女性はジムを、しゃれたバーに誘った。初めて口にするカクテルはジムの全身を駆けめぐり、ジムは天にも昇る気分になった。赤や青や緑の色彩がぐらぐらに溶け合ってグラデーションになって流れた。それが、アルコールという成分のせいだとは知らなかった。オレンジ色から赤へとゆっくりと変化してゆくその飲み物の色彩のせいだとジャングル・ジムは考えた。詩人の言葉に、「色彩の河をゆっくりと流されてゆく」というフレーズがあったのを思い出した。それを口にすると、あらあなたって詩人なのねと、女性は顔をほころばせた。いやこれは、いつもぼくを訪ねてくる詩人の言葉なんだと律儀なジャングル・ジムは説明した。けれどもそのとき、女性はタバコをくゆらせながらあらぬ方向をぼんやりと見つめていた。そんなことはどうでもいいという感じだった。しばらくしてジムは、思わず饒舌《じようぜつ》になっている自分に気づいた。女性は面白そうにジャングル・ジムの話に耳を傾けた。  なんでも、ぼくは設計者の最高傑作にして遺作でもあるんだそうです。そんな誰にも語ったことのない身の上話までしてしまった。ぼくを設計した人は、神智学やらモンドリアン風の新造形主義やらに凝ってた人らしくって、美大を出てから、そういう思想や美学を生かした遊具をつくりたくって、児童向け運動|玩具《がんぐ》を製造している企業に就職したんだそうです。その人の考えでは、子供だけがほんとうの意味でそうした思想や美学を「体感」できるんだってことだったようです。でも、だんだん実現不可能なものや、実用に向かないデザインへといってしまった。なんていうか、美術館向きの作品になっていってしまったらしいんです。上司との衝突やら、業者からのクレームやらいろいろあったらしくって、その人は会社を辞めてしまったといいます。つまり、実用性とぼくを設計した人の理想とがぎりぎりのところで共存できた最後の作品がぼくだってことになる。  ガウディでしょ。  え?  遊具界のガウディ。  おもむろに女性がそんなことを口にしたのでジムは驚いた。  なんです? それ。  あら、知らないの。あの人、最近再評価されてるのよ。そういう呼ばれ方で。  ご存知なんですかぼくの設計者のこと。  いいえ。  女性は、すうっと視線をそらせた。  知らないわ、ほとんど。  きっぱりと否定した。それからふいっとジムに目線を戻して尋ねた。  どう、あなたはご存じなの、今どうしておられるのか?  ジャングル・ジムはかぶりを振った。  いいえ。残念ながらその人は、その後行方が知れなくなってしまったそうなんです。  そう。  なんだか女性ががっかりしたように見えたので、ジャングル・ジムはあわてて方向転換した。  まあ、そういうわけで、ぼくのこの奇妙な形態や、色彩の不思議な配置の意味は誰にもわからないんだそうです。  あら、あなたにもわからないの。  女性は片手で髪をかきあげながら尋ねた。  ええ。だって、自分のことって一番わからないじゃないですか。  これは、たくさんの人間たちと接してきたジムが一番感じていることだった。  そうね。ほんとうにそうだわ。  そういってその女性は笑った。  だって、あたしなんだかあなたが好きになっちゃったみたいなんだもの。  ジムは頭がくらくらした。  きっと、あのカクテルのせいだと思った。  女性はベッドでも優しかった。もちろんこれまたジムにとっては初めての体験だった。でも、彼女は受け入れてくれた。いつも人を受け止める役目だったジャングル・ジムは、初めて受け止められる快感を知った。優しくされる喜びを知った。枕を並べて横になりながら、ジャングル・ジムはそのなんともいえない新しい感情に自分がどうにかなってしまうのではないかと感じた。  ああ。  ジャングル・ジムは胸の奥で呟いた。  どうやら、これが恋というもののようだ。ぼくは、恋をしてしまったんだ。  それからは、その夕暮れどきに女性が現れるのを待ち焦がれるようになった。  朝も昼もなんとなく、うつろな気分でぼんやりしていることが多くなった。  サラリーマンが話しかけているのも、詩人がなかに入らせてくれといっている声もぼんやりとしか聞いていなかった。ぶら下がって遊ぶ子供たちのことも、なんだかうっとうしく感じられるようにすらなっていた。  最初は、週に三日は彼女はやってきてくれた。まだ最後の子供がすがりついているときでも、ジャングル・ジムは、さあもうお帰りと子供たちをさとすのだった。そして、ちょっぴりぴりぴりする電流を流したり、ちっちゃなサビのような刺《とげ》をじんましんみたいに浮きださせたりして、子供たちを追い払った。  あ痛テテッ!  なんかびりびりした。  うわあ、怖いよお。  そんな風に子供たちは小さな悲鳴をあげてジャングル・ジムから降りた。低いところから落っこちて尻餅《しりもち》をつく子供もいた。  もう日が暮れるから、また明日ね。  口調だけはおだやかにジャングル・ジムは子供たちにいった。だけど、内心では早く帰れと思っていた。そして、子供たちにはそっちの声のほうがよく聞こえた。いじわるジムと、ひとりが呟き、その呟きは次第に子供たちの間に広まっていった。でも、ジャングル・ジムは気にしなかった。  さあ、行きましょう。  あきれて自分を見ている女性に、ジャングル・ジムは笑顔を向けた。  どうしたの。具合でも悪いの。  女性は、心配そうな顔で尋ねた。  そうかも知れません。ぼく、どうやら病気みたいなんです。  あら、それは大変。で、どこが悪いの。  ええ、心臓がちょっと。  そういうと、女性はもっと心配そうな表情になった。これはいけないと、ジャングル・ジムは慌ててつけくわえた。  いや、恋の病みたいなんです。  そういってジムは女性に笑いかけた。けれども、女性は笑い返さなかった。なぜだかとても困ったような顔をしていた。その顔を見てジムはとても切なくなった。どうしよう、彼女はとてもつらそうだ。  いつものようにデートをしたが、その夜はなんだか弾まなかった。  ジャングル・ジムは一生懸命冗談をいって彼女を笑わせようとした。でも、笑いかけた顔はいつも途中で凍りついたように止まってしまうのだった。  そしてその夜、女性は部屋に入れてくれなかった。  ごめんなさい。今夜はだめなの。  どういう意味?  ジムは拒まれたことに驚いて尋ねた。体の具合でも悪いの。  ええ、と女性は答えた。むしろ心の具合がね。  それなら、ぼくがいっしょにいて介抱するよ。今夜はぼくが受け止めてあげる。こう見えてもぼくは受け止めるのは得意なんだ。いつも公園で……。  いいから、と女性はジムをさえぎった。  今夜はひとりにさせておいて。お願いだから。  どうしたんだいこのごろ。  はっと気づくといつの間にかサラリーマンが自分の上に乗っていた。  ああ、あんたか。  なんだ、ずいぶんなご挨拶《あいさつ》だね。どうした、君このごろ元気がないみたいだけど。  別に、なんでもありません。ほっといてください。  ふうん。  そう口にしたサラリーマンは、よく見ればもうサラリーマンじゃなくなっているようだった。鞄《かばん》ももっていないし、背広も着ていない。もちろんワンポイントの黄色いネクタイも締めていなかった。代わりに不精髭《ぶしようひげ》を伸ばして、朝っぱらから缶ビールを飲んでいた。地面をみると、もう五本分も吸殻が落ちていた。  どうしたんです、会社は。  驚いて尋ねると、サラリーマンは力なくほほえんだ。そして、げっぷした。  なんだ、聞いてなかったのかい。もう何回も君に相談してきたのに。やっぱりちっとも耳にはいっちゃいなかったんだね。いつもうわの空みたいな返事ばっかりだったもんな。  ジャングル・ジムははっとした。そういえば、もうあれから何度もの朝が過ぎていた。サラリーマンが自分の上に登った回数も相当のものになるはずだ。だけど、全然覚えていない。  でも、とジムは思った。そんなの知ったこっちゃないや。  今日は、お別れをいいに来たんだ。  サラリーマンは遠くを見つめながら呟《つぶや》いた。  ほかにお別れをいう相手が思い当たらないもんだからね。  どこかに行かれるんですか。  うん。まあね。  お気をつけて。  それを聞いてもジャングル・ジムにはかすかな胸騒ぎしか起こらなかった。もっと激しい嵐が吹き荒れていて、サラリーマンの身の上を案じる気になれないのだった。  ああ、じゃあ、さよなら。  サラリーマン、いや元サラリーマンは軽く手を振って立ち去った。すごく寂しそうな後ろ姿だった。体が一回り小さくなったように見えた。後に残された七本の吸殻は、そのままだった。ジャングル・ジムも、もう元サラリーマンにそれを拾うよう呼びかけもしなかった。そんなものが落ちていることなどどうでもよくなっていたのだ。  そう、ジャングル・ジムの心を支配していたのはたったひとつの焦燥感だった。  どうして、来ないんだ。  どうして、来てくれないんだ。  その悲しみは、やがて怒りへと変貌《へんぼう》した。思いなおしてはみるものの、どうしても自分が悪いとは思えなかった。ジムは、自分が彼女を憎んでいるのに気づいた。ぞっとした。どうしちゃったんだ、ぼく。この激しい憎悪はいったいなんなんだ。こんなじゃなかった。ぼくは、こんなやつじゃなかったはずだ。ジャングル・ジムは自分が変わってしまったことに驚いた。体がぶるぶる震えた。  ねえ。  気がつくと詩人がやってきていた。  ああ、詩人さん。  うん。そう、ぼくは詩人だ。やっと世間にも認められたんだ。この前、君のなかに入らせてもらったときに生み落とした言葉たちがあっただろ? あれが、賞を受けたんだ。君のおかげだよ。  そんなことはありませんよ、詩人さん。  ジャングル・ジムはやっといつもの平静を取り戻した。あれは、あなたのなかから出てきた言葉です。ぼくはきっかけを提供しただけですから。  でもね、と詩人は反論した。  君がいなければ、ぼくはその言葉たちが自分のなかにあることにすら気づくことはできなかった。だから、君のおかげなんだよ。詩集のタイトルも、ずばり『ジャングル・ジム』って君の名前にさせてもらった。ぼくにできるせめてものお礼の意味でね。  ありがとう。でも、よかった。詩人さんが詩人になれて。  それでね。  詩人はちょっと甘えた態度になった。  どうしました。  うん。また、お願いできないかな、って思って。  お願いって、あれですか。  そう、あれ。  ジャングル・ジムは迷った。詩人さんは、自分の力で詩人として立つべきなんじゃないのか。ちょうどぼくがジャングル・ジムとして自分の力でここに立っているみたいに。  でも、サラリーマンを見殺しにした罪の意識が頭をもたげてきた。  いいですよ。でも、ぼく今ちょっと変だから。  どういう風に。  うーん。自分で自分がわからなくなってるっていう感じかな。  いいよいいよ、そんなの。そういって詩人はジムの胎内に潜り込んだ。これだこれだっ、と詩人が呟くのがわかった。来た来た来た来たぞぉ。詩人はジムの体のなかを這《は》いながら、手帳に言葉を生み落としていった。  やがて、悲鳴が聞こえた。  ジムは驚いて自分のなかを見た。  詩人が頭を抱えてのたうちまわっていた。  脂汗が顔からしたたり、手足がびくびくと痙攣《けいれん》していた。  手帳は地面にできた水溜《みずたま》りに落ちてびしょびしょになった。  ジムのなかから抜け出そうともがくにつれて詩人の顔は暗くなり、がくがくと全身が震えた。  ようやくの思いでジャングル・ジムから抜け出た詩人は、大声で泣きながら走り去っていった。さよならもいわなかった。  詩人さん、手帳。  ジムは慌てて声をかけたが、詩人は振り返りもしなかった。それに、水性ペンで書かれていた言葉たちは、とっくに水溜りのなかに溶け出してしまっているようだった。  どうしたんだろう、詩人さん。  ジャングル・ジムはそう呟いてみた。けれども、ほんとうはそれほど詩人のことが心配でない自分に気づいた。  やめてくれ、もうやめてくれよお!  ジャングル・ジムが悲鳴をあげたので少女は驚いた顔をした。  もう、そんな暗い話は聞きたくないんだ。ぼくにはもう君を支えてあげる力がないんだ。お父さんが、君にどんなことをしたかなんて、そんなひどい話をするのはやめてくれよ。ぼくは繊細な心の持ち主、傷つきやすい存在なんだ。こわれちゃうよ。そんな重たい話、支えきれないよ。  苦しげに体をねじらせたジャングル・ジムの弱音に、子供たちは驚いた。そういえば、今日は支える力もなんだか頼りない。登っても、ぐるぐる回ってもいつものようにわくわくしないし、棒で叩《たた》いてみてもなんだか鈍い音しかしないみたいだ。  どうしたの、ジム。今度はぼくたちが聞いてあげる。  子供たちはそう優しく声をかけた。  ありがとう。  ジムは答えた。  でも、ごめん。君たちにできることは何もないんだよ。  その言葉に子供たちは傷ついた。  なんだよジムのやつ。ぼくたちを馬鹿にしてやがる。  ジムなんか嫌いだ。  ジムの弱虫。  子供たちは、まだ日も暮れないのに、ジムから離れて寄り付かなくなった。  せいせいしたよ。うるさい餓鬼どもがいなくなって。  ジムはそうひとりごちた。  ジムは絶望していた。  彼女がやってこないからではなかった。  彼女がやってきたからだ。  夜の人気のない公園で、ジムは久しぶりに彼女と向かい合った。  でも彼女はひとりじゃなかった。立派な紳士といっしょだった。  ほお、これがそのジャングルなんとかかい。  顎鬚《あごひげ》をなで上げながら、キザなその紳士はジムを上から下までじろじろ見た。  ええ、ジャングル・ジムよ。あの人の最後の作品。  ふうん。なるほど、ちょっと変わったデザインではあるな。未来派風キュビスムの躍動感がある。それにシュプレマティスムのような抽象的神秘性も感じられるね。  でも、だめでしょ。  うん、だめだ。ぜんぜんなってないね。彼のオリジナルな意図がまったく生かされていない。  中途半端よね。  まったくだ。できそこないだよ。  そういって彼女は笑い、紳士も楽しそうに笑った。  ジャングル・ジムは言葉もでなかった。今はその紳士の腕に彼女の腕が絡んでいたからだ。  二人は踵《きびす》を返して、ジムの許《もと》を立ち去ろうとした。  ああ、どうしよう。  ジムはもうわけがわからなかった。気がつくと、赤と青と緑の腕を伸ばして彼女を捕らえていた。  あら、なにをするの、ジム。  ぼくはあなたが好きなんだ。  まあ。  彼女は笑った。  好きだなんて。  ジムは戸惑った。  どうしたんです。今日のあなたはなんだか変だ。  なんだか彼女はずいぶん心がささくれだっている、とジムは思った。きっと、いやなことがあったに違いない。もしかしたら、あのいやらしい気取った紳士に不快な思いをさせられているのかもしれない。  だいじょうぶですよ。ぼくが守ってあげますから。  守る? 守るって?  だから、あなたを苦しめるすべてのものからです。たとえば、あのきざったらしい紳士とかね。  あらあら。  女性は口に手を当てて笑った。  あの方は有名な建築家よ。今度あたしと組んで、あなたの設計士の作品を完成させることになったのよ。  完成? 完成ってなにを?  あなたを設計した人は遊具界のガウディって呼ばれてるっていったでしょ。  どういうことです?  つまり、あの人の作品は全部未完成だってことよ。最近設計図が発見されて美術界や建築界を騒然とさせてるのよ。でも、わたしたちが調べた結果、実際に作られたものは、製造時にはぜんぶいい加減にしか再現されてないってわかったの。  そんな。  ありえない、とジムは思った。ぼくが未完成だなんてことはありえない。こんなに受け止めることができるっていうのに。こんなに支えることができるのに。こんなに共感することができるのに。どうしてこの人はこんなひどい嘘をつくんだろう。心にもないことを口にするんだろう。いったいなんのために?  ジムは困惑した。深く傷つき、同時に怒りを覚えた。けれども、ここでしっかりしなくてはと考え直した。そして気がついた。そうか、彼女は、あのサラリーマンをしっかり支えきれなかったこと、詩人さんを充分に受け止め切れなかったことを思い出させようとしているんだ。子供たちとの共感に満ちた関係までおかしくなってしまった理由に気付かせようとしているんだ。  ジムは顔をほころばせた。天啓に打たれた気分だった。進むべき道がふいに目の前に開けたのだ。そうか、そうだったんだ。しっかりしなきゃ。まずは彼女をちゃんと受け止め直さなくちゃ。もとのぼくに戻るんだ。よく考えろ。彼女の痛みはなんだ。こんなに人を傷つけるような言葉を口にさせる苦しみってなんだろう。さあ、受け止めるんだ、ジム。そこからすべてをやり直さなくちゃ。彼女を受け入れるんだ。支えるんだ。もてる限りの共感能力を発現させるんだ。  ありがとう。おかげで目が覚めたよ。さあ、今度はぼくがお返しする番だ。  ジムは女性に微笑みかけた。  ぼくにはあなたの苦しみがよくわかる。もう嘘なんかつかなくてもいい。ぜんぶわかったから。ぜんぶ受け止めたから。あなたはとてもつらそうで見ていられない。さあ、いらっしゃい。ぼくのこの夢が交錯する胎内で受け止めてあげるから。抱きしめてあげるから。悦《よろこ》びの音色が響き渡る小部屋、色彩がゆらぎ誘《いざな》う心躍る小部屋、あなたを優しく包みこむ心地好い肌ざわりの小部屋。そんなすてきな小部屋たちがきっとあなたを癒《いや》すから。  そう口にしながら、ジムは女性の体をさらに強く包みこんだ。  けれども、彼女はジムの体から抜け出そうとあがくばかりだった。  ほんとうに不良品なのね。でも、もうすぐ解体して、新しく組みなおしてもらえるわ。  えっ。  最大限の共感を拒まれて、ジムはわけがわからなくなった。眩暈《めまい》でくらくらした。黄色い心臓がばくばくいった。  違う。ぼくは不良品なんかじゃない。あなたを救える。癒せるんだ。だって、こうして抱きしめることができるんだから。強く強く抱きしめて離さないでいることが。  ジムは全身に力をこめた。彼女の助けを求める声はやがて悲鳴となった。ジムは絶望し、同時に優しさを取り戻した。怒りに我を忘れながら、愛情で溢《あふ》れかえった。力の限り彼女を抱きしめた。ジムは彼女の求めていたものをついに与えることができたと思った。ほらね、ぼくにはあなたが癒されてゆくのがわかる。ああ、ぼくはなんだか苦しくて壊れちゃいそうだ。でももう後戻りはできない。  彼女の悲鳴は絶叫となり、そして沈黙が訪れた。悲鳴や絶叫のせいだったのだろうか、公園の電灯はすべて割れてしまった。月も厚い雲に埋もれてしまった。だから、なにもかもが闇に呑《の》みこまれた。  赤、青、緑の色彩が蘇《よみがえ》る。  朝日が、闇を追い払った。  こりゃなんだ。  通勤途中のサラリーマンたちが、驚いて集まってきた。  うわ、こりゃひどい。  どうやったらこんな捻《ねじ》れかたが。  誰がいったいこんな。  人間業じゃないよ。  まるであの女性《ひと》と……。  かわいそうに。  口々にそういう声が聞こえた。  通学途中だった子供たちが見ようとするのを、大人たちは必死で止めた。  だめだめ、こんなもの見ちゃ。いいから、早く学校に行きなさい。 [#改ページ]   妹の島 「兄さん、仁一《じんいち》兄さん!」  仁三郎《じんざぶろう》はそう叫んだ口を閉じることができなかった。  なんとも華やかな、なんとも馨《かぐわ》しいおぞましさ。  もつれあう色彩、からみあう熟れた匂い。  林檎《りんご》、桃、葡萄《ぶどう》、そして梨。それだけではない。バナナにパパイヤ。マンゴー、キウイフルーツ、パッションフルーツ、さらにはマンゴスチンやドリアンまで、ありとあるフルーツが盛り付けてあったのだ。生首といっしょに。  誰かが手を伸ばしてひとつでもフルーツを取れば兄、仁一の生首がぬっと現れる。そんな風に入念に仕込まれてあったのだ。あからさまな恐怖が刻み込まれた顔だった。かっと見開かれた目。叫びのかたちで静止した口。そして、その口には大ぶりの林檎が強引にねじ込まれていた。まるで兄の口から飛び出してきたようにすら見えるつるつるに磨かれた林檎。それに目を引かれていると、ぼこりぼこりといくつもの穴があいてそこから丸々太った黒い毛虫が身をよじりながら乗り出してきた。その毛虫どもは、どこにいるのかわからぬげに、いやらしく身をくねらせつづけた。  確かに、きつい兄ではあった。小さいころはよくいじめられた。特に理由もないのに、気分しだいで殴ったり蹴《け》ったりしたこともあった。父・吾郎《ごろう》の後継者を自任していて、この島がまるで自分のものであるかのような横柄な振る舞いをした。使用人たちにも容赦のない、厳しい態度で臨んだ。一切の手落ちや手抜きを許さなかった。その見返りとして、仁一兄のつくる林檎は、いつでも一級品だった。全国の品評会でも、いくども賞を取った。ヤクザな兄だったが、林檎の栽培にだけは、別人のような情熱を注いでいた。それが、今年は手ひどく害虫にやられた。そのせいで、ずいぶんいらついていた。いろんな薬を試したけれど、その隙間を縫うようにして次々と虫が湧いて出るのだと腐っていた。そのためだったろう、使用人たちにも、例の癇癪《かんしやく》を起こして、かなりつらく当たったようだ。皆の恨みを買っていたにちがいない。仁三郎は、林檎園中の使用人に取り囲まれてリンチされる、兄の姿を思い浮かべすらした。いかにも、そんなことがありそうな気がしたのだ。どんな目にあわされたのだったか。なにかいやな予感がした。これで、終わりではなく、これが始まりだといういやな予感だった。次は自分かもしれない、そんな恐怖に心を激しく揺すぶられた。  食堂には驚愕《きようがく》の声が上がり、怒りのうめきが響いていた。駆け出していくものがあった。皿が落ちて割れ、いくつもの悲鳴が交錯する。仁三郎は、思わず父の姿を探した。父は動いていなかった。騒然となった食卓の上座で、ただひとり巨漢の家長、吾郎だけが瞑目《めいもく》して動かなかった。自分さえ動じなければ、このようなあからさまな暴力の侵入を許しても、この家の安泰が決して揺らぐことはないといわんばかりだった。  実際、混乱のなかで誰もが吾郎の姿を追い求めていた。それゆえ、この吾郎の落ち着きが、ややもすれば起きていたかもしれないパニック状態を未然に防いだのだともいえるだろう。この家、いやこの島そのもののように巨大な親父。仁三郎の脳裏にそんないつもの感慨が蘇《よみがえ》る。その感慨は、いつでも仁三郎にあの日のことを思い出させる。まだずいぶんと幼いころだった。買ってもらったばかりでお気に入りだった木製の馬に乗ってひとり探検遊びをしていると、ふいに目の前の襖《ふすま》が開いて父が現れた。いつの間にか入り組んだ廊下を経巡《へめぐ》って、ずいぶん奥まで来てしまっていたようだった。そこは子供たちは近づいてはならないとされている場所だった。父はすぐに襖を閉め、びっくりした仁三郎は、父に叱られると思って、木馬をその場に放りだしたまま一心不乱に逃げた。けれども、その寸前に一瞬だけ部屋の奥を垣間見《かいまみ》たのだった。焼き杉でできた黒い格子のようなものが見え、その向こうになにかがうずくまっていた。よくは見えなかった。巨大な真っ黒い蜘蛛《くも》に頭から食われつつある、青白い生き物と見えた。今にして思えば蜘蛛と見えたものは、乱れた黒髪だったのかもしれない。けれど、幼い仁三郎の目にそれは怪物と映じた。父は怪物を飼っているのだ。怪物を飼いならしているのだ。走りながら、仁三郎はそう思った。こんな父の跡を継がねばならないとしたら、仁一兄ならずとも、いらだつだろう。  やがて、電話をかけに行った使用人から、本土から離れた島のこととて、警察の検分は明日になるようだとの報告がなされた。 「おいおい、これどないするんや。明日までほっとくんか、仁一兄さんの首」  叫ぶ仁慈《じんじ》兄を尻目《しりめ》に立ち上がった吾郎は、黙って食堂の照明を消した。ばちんという音とともに、あたり中が闇に包まれた。 「これで見えん。とにかく現場はそのままにしておけ。皆もう寝ろ」  暗闇のなかに響くその太い声が、皆を静かに退出させた。仁三郎は、その暗闇になかば安堵《あんど》し、なかば怯《おび》えながら自室へと下がった。どこまで行っても果物のねっとりと甘い匂いだけが、目の利かない空間を埋めていた。  ねっとりと甘い匂い。熟れた果実の甘い匂いが満ちている。朝の訪れとともに、色彩が蘇り、むんとする熱気がたちこめる。大気が濃度を増し、鼻孔から肺のなかまでからみついてくる。どこまでも長く太い蛇を、延々と丸のみさせられているような気分になる。粘るように重く、息苦しい。動くたびにからだの線が、そんな大気のなかに跡を残していくような気がする。水飴《みずあめ》で満たされた空間に放りだされたような感じがする。  一面の果樹園。  四季を通して温暖なこの島は、果物の栽培にはうってつけだった。温帯性の果実から、熱帯性の肉厚なものまであらゆる種類の果実の苗木を取り寄せた。すべてがうまくいったとはいえないけれど、近隣ではほかに類をみない種類の果物を定着させることができた。柑橘《かんきつ》系の橙色《だいだいいろ》、林檎の赤、葡萄の紫、桃の白、梨の薄茶色、そして南国の果物たちの原色の色彩。緑の葉叢《はむら》からそうしたさまざまな色彩があふれ出ている。  週に一度は殺虫剤や除草剤などの農薬を撒《ま》いているので、下草の類《たぐい》はほとんどない。  それでも落果した桃や葡萄の腐りかけた果肉には、今朝も虫たちが群がっている。みごとな角を振りたてながら大ぶりなカブトムシがしがみついている。そのカブトムシに、追い払われても追い払われても近づいてくるハイエナじみたカナブンどもがいる。さらに、あたりを睥睨《へいげい》しながら鋭い羽音をたてて飛び交うミツバチやオニモンスズメバチどもがいる。農薬を撒けばそのたびに大量の虫の屍骸《しがい》が溢《あふ》れる。こいつらも明日には亡骸《なきがら》となっているだろう。けれども、そんな自分たちの近い将来についての憂いなど、こいつらには縁がなさそうだ。目の前の甘く香る果肉、果汁。それだけが、この小さな生き物どもを駆り立てる力なのだ。 「せいぜい、食っておくがいい。呑《の》んでおくがいい」  吾郎はその巨体をゆるがせながら、笑う。お前らだって、俺の楽園の住人たちなのだからな。一歩ごとに体の肉がずるずる流れるので、バランスを保つことも難しくなってきた。太い杖《つえ》をついて体を支えてはいるが、それでもなかなか前に進むのは難しい。相撲取りかと見まごう巨体なのだが、頬や顎《あご》から垂れ下がるぶよぶよした肉垂れや、一歩ごとに揺れる腕や腿《もも》、腹まわりの肉のゆるぎが、そこには筋肉が少しも含まれていないことを示している。吾郎の背後に付き従うのは、これはもう疑うべくもなくかつて角界に籍を置いていたと知れる巨漢の睦山《むつみやま》だった。八百長試合で相撲の世界を追われたこの巨人を拾い上げたのが、若いころの吾郎だった。それ以来、ボディガードとして、今ではボディガードと介護人を兼ねる腹心として、いつでも吾郎の傍に仕えてきた。  睦山の体は、かなりだぶついているとはいえあきらかに筋肉質のものだ。けれども、吾郎の体の巨大さはもっと異質のものだった。注意深い観察者なら、そのぶよぶよした脂肪の塊がたとえ吾郎が体を動かさなくても微《かす》かに振動しつづけていることに気づくだろう。そう、これはただの脂肪の塊ではないのだ。果樹園の整然たる安定をみずからの存在ゆえと自任する吾郎。その吾郎の唯一の歪《ゆが》みが、あるいは狂気の種がそこにはあった。  今しも吾郎は、落果した桃のひとつを杖で叩《たた》きつけた。たかっていたオニモンスズメバチが、憤怒《ふんぬ》に狂って迫ってくる。吾郎の顔が期待に輝く。畏《おそ》れと混じりあった快楽への期待。今朝はうなじだった。吾郎に近づくにつれ、オニモンスズメはその目標物がなんであるかを理解したようだった。太い首にしがみつくと、尻から伸びだす太い卵管を刺し込む。刺される瞬間、吾郎の顔は痛みで大きく歪む。オニモンスズメの毒は強烈だ。普通の人間なら、すぐに病院行きだし、下手をすると命取りになりかねない。事実この果樹園の使用人のなかにも、幾人かの死者が出ている。けれど、吾郎は特殊な体質のようだった。確かに初めて刺されたときは、ご多分に漏れず昏倒《こんとう》した。ただちに病院に運ばれたが、寝台の上でむくりと起き上がった吾郎は、いやだいじょうぶだと立ち上がって帰ってきてしまった。そしてそれ以来、吾郎はオニモンスズメの虜《とりこ》になった。どうやら、その毒は彼にだけ強烈な快感をもたらすものであるらしかった。 「そら痛いで。痛うて痛うてほんま泣き叫びそうになる。そのあたりを転げまわって悲鳴をあげとうなる。そやけどな、そこを過ぎたら今度は宇宙や。時間も重力もなにもかも関係なくなる。そらもう広い広い世界をな、どこまでもふわふわと漂っていく感じになるんや。あたりを満たしとるんはなんやらひんやりした柔らかいものでな。液体とも気体ともつかへんけど、それがひたひた体を包んでそらもうええ気持ちや。ええか、この巨体が宙を舞うんやで。もうもう忘れられへん。もうこれなしでは生きていかれんっていうくらいの気持ちになるんや」  吾郎は、おのれの身を気遣う睦山にそう漏らしたということだ。今しも、痛みが快楽に切り替わったのか、それまでのたどたどしい歩みが嘘だったとでもいうかのように、吾郎はきびきびした足取りで杖をついて歩き始める。踊るようなステップで、全身の無駄肉をゆるがせながら果樹園の中心にある屋敷へと向かう。その体がぶるぶる震えるさまは、あたかも巨大なアメーバだった。人間に化けるのを途中で断念したアメーバだった。屋敷の前につるしたハンモックに横になる。それは最初横になりやすいように、地面にじかに敷かれている。吾郎が横になったのを確認すると、睦山を中心として、使用人たちがいっせいに綱を絞って引き上げ始める。やがて、吾郎の巨体は果樹園をわたる甘い風にゆったりと揺れ始める。微風に吾郎の体が揺れ、吾郎の贅肉《ぜいにく》が揺れる。そして、贅肉のなかでは、産みつけられた無数の幼虫たちがうごめいている。  オニモンスズメバチは、大人の拳《こぶし》ほどもの大きさをもった黒ずんだ血の塊と見える。実際はそこまで大きくはないのだが、耳を圧する重い響きとともに群れをなして飛来するそれらは、それほど威嚇的に感じられるのだ。振り払っても叩き落すことはできず、逆にその手を刺されて呻《うめ》きしゃがむことになる。たとえ、棍棒で思い切り殴りつけても、地面に落ちる直前に体勢を立て直して再び迫ってくる。それに、そんな風に攻撃を加えた者はまず助からない。一匹が攻撃を始めると、即座に群れが湧きあがってくるからだ。どこから湧いてでたかと目を疑うほどのオニモンの群れが、島中から寄り集まってくる。見る間にその者は、巨大な血の瘤《こぶ》に覆い尽くされることになる。  なんといっても、問題なのはその針だ。針といってもただの毒針ではない。卵管なのだ。巨大なその体躯《たいく》の下腹部から伸び出しているのは、卵管なのだから。そう、厄介なことにこれは寄生蜂の仲間なのだ。腹部を開いてみると、神経毒の袋の下に、卵嚢《らんのう》があり、そこに無数の卵が収納されている。芋虫のたぐいにこの卵を生みつけるだけでなく動く生き物ならなんでも襲う。犬だろうが、牛だろうが、人間だろうがおかまいなしに神経毒を注入して卵を生みつける。動けなくなったらお仕舞だ。体のなかで幼虫が孵化《ふか》し、肉を食らう。それは痛い。たとえようもないほど痛い。刺されると鬼でも悶絶《もんぜつ》するという意味でオニモンと名づけられたとも言われている。あるいは幼虫に食われてできるあざが鬼の顔のごとく奇怪に広がっていくことからそう呼ぶのだというものもある。人間の場合、通常は、刺されるとできるだけ早急にその部位を切開して卵を取り除く。幼虫の生命力は強靱《きようじん》で、たとえば親蜂が死ねば、その腹で孵化して親の体を競い合って食らうほどだから、一つでも残してしまったら大変なことになる。肉を食われ、血管を噛《か》み切られる痛みで、夜も眠れない。けれども、吾郎は一切の手術を拒んだ。おのが体を幼虫どもに差し出したのだ。快楽のために? それとも、もっと別の理由のためだろうか。  いずれにせよ今しも恍惚《こうこつ》とした表情で横たわるこの大男は、その体内に無数の蜂の幼虫を飼っているのだ。そして、日毎に産みつけられる卵が孵化し、それが肉をさらにぶよぶよに食いたわめるので、吾郎の肉体は日に日に膨れ上がってゆく。膨れ上がると同時にゆるんで液体に近くなってゆく。  ゆるんで液体に近づいている。そんな腐れた果肉があちらこちらに散らばっている。それをジープで踏み潰《つぶ》しながら走る。  いまいましいことだ。今年に限って、ろくなことがない。妙に派手な模様のついた、大ぶりな蛾が湧いていた。見たこともない蛾だった。大きな二枚の羽の形状がちょうど耳のようなかたちをなし、胴体が丸くて、浮かび上がる模様がまるで顔のように見える。昔絵本かなんかで見た、顔に翼の生えた天使の姿を思い出させる。あれはなんといったか、確かケルビムとかなんとかいう天使の一種だったと思う。誘蛾灯を点《つ》けると、まるで夕暮れのこうもりの群れのように、巨大な蛾の群れが突進してくる。暗闇に、煌々《こうこう》と照る誘蛾灯のもとで、それら数知れぬ顔が宙に浮かぶさまは、いくど見てもなじめない。いやな夢を見ているような気分にさせられる。おそろしくて、腹が立って、強い薬を撒きちらす。するとケルビムたちははらはらと地上へとへたり落ちるのだ。毎夜毎夜それを繰り返して、もういったいどれほどの天使どもを虐殺したことか。それにもかかわらず、蛾はまた湧いて出る。湧いて出て桃を齧《かじ》る。桃の汁を吸う。そこから、桃は腐れ始め、やがては落果して、どろどろになる。  遠くで誰かが、シャベルを使っている。真っ黒に焼けたたくましい背中が、ランニングシャツからむき出しになっている。 「おお光一」  仁四郎《じんしろう》は光一に声をかける。光一は、相手が誰なのかを考えているように見えた。死んだ仁一もそうだったが、顔だけでは仁慈なのか、仁三郎なのか、仁四郎なのかわからないからだ。それぞれに母親は違うはずなのだが、吾郎の血がそれだけ濃いということなのだろうか。みなそろって若いころの吾郎そっくりな顔つきをしている。ぎょろりとむき出された目玉。横に押し潰したような大きな鼻。分厚い唇。若くして禿《は》げ上がった頭。猥雑《わいざつ》なエネルギーが溢《あふ》れていた。四人が四人とも、ほとんど同じ顔つきなのだ。けれども、桃園で出会うならほかの人物は考えられないはずだ。光一もそう判断したようだった。 「ああ、仁四郎さん」  額の汗を首にまいたタオルで拭《ふ》きながら、光一が無表情に答える。 「なにしとるんや、こんなところで」  仁四郎は、光一とシャベルを見た。光一の長靴とズボンは土でかなり汚れている。腐れた桃でも埋めていたのだろうか。まさかそんな余計な仕事までするほどのお人よしでもあるまいに。 「オニモンの巣があったもんで、ぶっ潰しといた」  意外な返事に、仁四郎は驚いた。 「ほう。あれは地面に巣を作るんか」  蜂のことは、光一に聞くしかない。 「うん。木の洞でも、縁の下でも穴があれば、どこでも入り込みよる」 「穴が好きなんか。やらしいやつらやなあ」  口にしてからはっとする。こういう発想は親父のものだなと仁四郎は思う。親父の吾郎そっくりなものいいがうつっている。比喩《ひゆ》といえば、そっち方面のものしか思いつかない。俺ら兄弟は、親父のできの悪いコピーに過ぎないのかもしれない。そんないつもの不安が蘇《よみがえ》る。 「ああ、見てみるか。ずいぶん燻《いぶ》してやったからもうくらくらやと思うで。このまま生き埋めにしようと思てるんやけど」 「いや、やめとくわ。もし生き残りがおったらいややからな。あれに刺されると痛いしなあ。アナフィラキシーやったかなんやったか、俺も今度刺されたらやばいいわれとるし。親父みたいに、悦《よろこ》んで刺される気にはならんで」 「そうか、ほんなら行くわ」  気の抜けた表情。生きがいを失った哀れな男。蜂の世話しか能がない、しがない使用人だ。思わず意地悪い気分になって、シャベルをかついだ背中にしゃべりかける。 「そういえばお前、妹がおらんようなってずいぶんとさびしいんちゃうか。どないや。そろそろ溜《た》まってきとるやろ。なんやったら、今度本土行くとき誘ったるで」  立ち止まった光一が、ゆっくりと振り返る。なにか言いたそうな顔をしたが、すぐに諦《あきら》めたように目線を落とした。そのまま踵《きびす》を返してとぼとぼと歩み去り、果樹園のうっそうとした木々の間に姿を消してしまった。ふん、張り合いのない奴だと思いながら仁四郎はその後姿を見送った。そのうち背中のほうでなんだか耳慣れない音がしているのに気づいた。埋め方が不十分だったのか。それとも燻し方が足りなかったのだろうか。さっきまで光一が穴を掘っていたあたりから、なにかが口を開く気配がした。背後からいやな音が響いてきた。  いやな音が響いていた。  型通りの現場検証を終えて島を出ようとした本土の警察一行は、波止場から桃園へと大急ぎで戻らねばならなかった。どこまでも広がる低木のなかは迷路のようで視界が利かない。普通の林と違って、果樹園というのは巨大な花園を思わせる。背の低い木々が、重たげな果実をクリスマスツリーよろしくてんでにぶら下げて、そのまわりを緑の葉で包んでいる。雑木林にあるのが静けさだとすれば、果樹園に溢れているのは騒々しさだった。どうしてこんなに浮かれさわいでいるのか。俺はどうもこの狂騒状態が好きではない。落ち着きのない感じが好きになれない。そう思いながら、本土から来た峰山《みねやま》警部は案内する使用人の後を追って、樹木のあいだをすり抜けていった。行けども行けども同じ背恰好《せかつこう》の葡《ぶ》萄棚《どうだな》だ。通常より低く造られているため、体をかがめた苦しい姿勢で進まねばならない。見通しが悪いせいで、進むにつれて方向感覚が狂う。自分が今島のどのあたりにいるのかがわからなくなる。背の低い案内人はすいすい進んでいくので、放置されて垂れ下がる滝のような蔓《つる》に視界を遮られて、すぐに姿を見失いそうになる。ひんやりと額に触れてくるのは蔓から伸び出す葉叢《はむら》や、葡萄の房だ。出口のない迷路に捕われているようないらだたしさを感じて、思わず叫び出しそうになる。すると、鼻腔《びこう》から肺まで葡萄の匂いが染み込んだ粘液のような空気がなだれ込んでくる。呼吸が苦しくなり、今度は嘔吐《おうと》感に苦しめられる。ふと首筋に手をやると、なにかが手に触れた。数匹の毛むくじゃらな芋虫がいましもワイシャツの襟元に入り込もうとしているところだった。わけのわからない怒りの声を上げて、峰山はそれを振り払い、革靴で踏み潰す。そんな峰山の姿を、案内の使用人がにやにや笑いながら振り返っていた。  これは痛ましい事故なのか、それともそれ以外の可能性を考えるべきなのか? 防虫服に身を包んで仁四郎の膨れ上がった亡骸《なきがら》を見下ろした。しばらくは誰も声が出せないようだった。峰山たちが最初に見たのは、落下した大量の桃の山のなかから手だけが突き出した奇妙な光景だった。掘り出された仁四郎の体のなかからは、まだ羽音が聞こえるように思われた。 「吾郎さんなら、これでも気持ちよかったやろけど」  峰山はようやく口を開いた。 「普通の人間ではこれはかなわんな。最悪の死に方のひとつや」  オニモンスズメバチの大群に襲われたようだった。いったい、どれほどの数のオニモンがいたのだったか、発見した光一という使用人の言葉を借りれば、「遠くに唸《うな》りをあげる赤黒い雲が見えた」という。不審に思って近づいてみるとそれはどこから湧いて出たのかと驚くほどのオニモンスズメの大群で、襲われて呻《うめ》いているのが仁四郎だった。幸い光一は養蜂《ようほう》の仕事をしており、蜂への対応には長《た》けていた。相手がオニモンだと見てとると、あわてて蜂追い笛を鳴らして追い払った。駆け寄ってゆすぶってみたが、すでに仁四郎は息絶えていたといった。アナフィラキシーによるショック死と診断された。けれども、誰がその後、仁四郎の死体を桃の山にうずめたのかはわからないようだった。あわてて人を呼びに行ったので、その現場は見ていないというのだった。  手といわず足といわず、目の玉までを蜂に刺されて、それはもう壮絶な死に様だった。うつ伏せになっていた体を数人がかりで仰向《あおむ》けにしたとき、開かれた口のなかから数匹の蜂が躍り出て、皆をたじろがせた。巨大なその蜂は、あたりを睥睨《へいげい》しながら強い羽音をたてて去って行った。検死の結果、内臓器官の奥のほうからもたくさんの蜂の屍骸《しがい》が出てきた。体内奥深くまで入り込んだ蜂どもに、食道や胃から大腸まで、いたるところを内側から刺されていた。さらに、父親の吾郎にしたのと同じようにたくさんの卵も産み付けられており、そのうちのいくつかはすでに孵化《ふか》して動き始めていたということだった。  人が死ぬのは、他の死人が呼ぶからだ。  尋問の途中で、その光一という名の使用人は、落ち着いた口調でそう話した。誰に語るとも知れない喋《しやべ》り方だった。蘇りたい死者がいると、生きている者にお前の生命をくれと呼びかけるのだといった。 「どういうことや。死人が人を殺すっちゅうんか」 「いや、警部さんそうやない。殺すんやのうて、命をもらうんです」 「そしたら、なんや、仁一の代わりに誰かが蘇るいうんか」 「そや思います。そやけど、まだ命が足りんのやないやろか。死に過ぎてて、そう簡単には戻ってこれんのとちゃうやろか」 「ふーん、そんでその蘇りたい死人って誰のことや」 「さあ、警部さん、そこまではわかりかねますわ」  そんな風に語る光一は、口の端にさりげない微笑を浮かべていた。それはしかし、峰山に対する嘲笑《ちようしよう》ではなかった。誰に向けられたものでもない、満たされた者の笑いだった。 「あの光一っちゅうのは、なんや」  取調べを終えて戻っていく日焼けした青年の後姿を見送りながら、峰山警部はほかの使用人にたずねた。 「あれは、吾郎さんがこの島を買い取ったときに連れてきた養蜂家の息子ですわ。妹がおったんやけど」 「やけど、なんや」  思わず口ごもったその使用人の態度に峰山は敏感に反応した。 「へえまあ、そのちょっとした事故で死によりまして。まあ、それからはあの通りむっつり黙り込んだままになりましてなあ」 「ちょっとした事故ってなんや」  勘弁してくれというその使用人を、峰山は執拗《しつよう》に問い詰めた。ほかの使用人も何人か捕まえてたずねた。やがて、光一を哀れむ気持ちと、おぞましく思う気持ちとが峰山のなかで固まっていった。  父親に連れられてこの瀬戸内海の小さな島にわたってきたとき、すでに彼らに母親はなかった。どういう経緯で母親がいなくなったのかは誰も知らない。おそらく光一たちも知らないのだろう。まだ幼かった光一たちは、よく二人で遊んでいた。ほかの使用人たちの子供と遊ぶこともあったが、二人きりでいることが多かった。地味な雰囲気の光一と比べて、妹のアマリは幼いころから人目を引いた。真っ黒く日焼けしていたが、すらりとした手足や、異国の血が混じっているのではと思われるほどくっきりした顔立ちはなかば神秘的ですらあった。だから子供たちだけではなく、大人のなかにもアマリに心|魅《ひ》かれるものは多かった。けれどもアマリは、兄の光一にしか関心がないようだった。  そして、アマリは不思議な力に守られていた。  あるとき、まだ幼いアマリを連れ出した使用人があった。果樹園の奥に連れ込んでいたずらをしようとしたその男は、指先に激しい痛みを感じた。そして、アマリの服の下にびっしりと貼りついているものを見て驚愕《きようがく》したのだった。無数の蜂だった。悲鳴をあげる男をその蜂の群れがどこまでも追いかけてきた。 「口のなかからも蜂を吐きよった」  病院に担ぎ込まれたその男は、そんな風に恐怖を語って笑い種《ぐさ》になった。退院後数週間でまた蜂に刺されて、今度はほんとうに命を失ってしまった。  峰山はそれがオニモンスズメだったのかどうかを確認しようとしたが、使用人たちにもそれは定かではないようだった。「いや、あれらが飼うてるのは普通のミツバチやから、それもミツバチやったんやなかろうか」というものもあれば、「うん、アマリを護衛しとるのはいつもオニモンやったいうことや」というものもあった。  いずれにせよそんなわけで、アマリは島では蜂女として恐れられることになった。それまでも、何の気なしにアマリを遊びに誘った子供が刺されたりしていた。そんなことも、その事件を契機にさまざまに語られた。それまで偶然とされていたことが、そうではなくなったということだろう。こうして、アマリはますます光一と二人の時間のなかへと閉じていった。  噂が立ち始めたのは、父の洋二郎《ようじろう》が不慮の死を遂げた後だった。酒を飲んでは荒れるということの多い父だったらしい。二人の子供たちは父が荒れ始めると部屋の隅で体を小さくして寄り添いあっていたという。そんな父だったから、二人がなつくということはあまりなかったようだ。それゆえの孤独が洋二郎をさらにも酒へと駆り立てた。収穫祭の後に屋敷で催された宴会で泥酔していた。そのせいなのか、まったく違う方角にある港のほうに足を運び、そのまま海に転落して死んでしまった。死んだ洋二郎は何かに追われて海に逃げたのではと推測した者もいた。足跡の乱れが尋常ではなかったというのだ。けれども、そんな推理も、まあ所詮《しよせん》はただの推理に過ぎないとして相手にされなかったという。死んでしまったものは死んでしまったのであって、いまさらどうしようもない。それがこの島の住人のものの考え方だったからだ。 「もう十代の半ばくらいやなかったかなあ、二人とも。お父っつぁんが死んだゆうのにえらいけろっとしとった」 「そらそうやろ。どうせろくな親父やなかったんやから」 「いやいや、かえって都合よかったんちゃうか」 「そやそや、兄妹の癖して、まるで恋人か夫婦みたいな気配になりよった」 「あれは光一や。親父殺しはあいつのしわざや」 「なんでや、なんでそない思うんや」 「そらお前、下半身の事情やないけ」 「そやけど、そんなん殺さんでも」 「酔っぱらったあいつの親父が、父娘《おやこ》の一線を先に越えようとしたんや」 「そんなあほな」 「まあそれも一理ないとはいえんなあ。ほんまあのころからや。あのアマリっちゅうのが妙に艶《いろ》っぽい感じになりよったんは」 「吾郎さんかて、心ひそかに次の愛人候補にて思いよったんやで」  使用人たちは、その頃のことをたずねるとやたらに饒舌《じようぜつ》になった。よほどアマリの変貌《へんぼう》ぶりが印象深かったものと見えた。アマリだけではなく、光一もずいぶん変わったということだった。急に大人びた感じになったのだという。黙々とそして淡々と仕事をこなす光一は、酒乱の父よりも辰巳家に歓迎されたらしい。けれども、アマリの変貌ぶりはもっと別の種類のものだった。それまでの少女っぽさが影を潜め、妙に女を感じさせる気配を漂わせ始めたのだ。もともと好色な吾郎やその息子たちが、そんなアマリに関心を示したのは当然といえば当然のことだった。 「夜這《よば》いかけよった奴もおったわな」 「はは、そやけどみんな痛い目にあわされただけやったけどな。蜂女はやっぱり蜂女やった。近づくものはみんな針山の餌食《えじき》や」 「そやけど、あれやろ仁一さんらはみごとに刺し返したんやろ」 「いや、それはわからん。なんせ、あの後アマリがあんな風になってしもうたからなあ」  そういえば、と峰山は回想する。そもそもこの辰巳吾郎という男、若いころから強烈にいかがわしい熱気を放っていたなあ。管轄地域に含まれていたこの島を初めて訪れたとき、吾郎はまだ今のような奇病を患ってはいなかった。精悍《せいかん》な体つきの真っ黒な体に、鋭い目線が印象的だった。職業柄ひと目で峰山には吾郎が表社会の人間ではないことが知れた。この島を買収するまでにも、ずいぶんと悪どい所業を重ねてきたという噂を聞いている。とすれば、むしろ本土にいられない理由ができて、この島に隠棲《いんせい》したというのが正しいのだろう。とはいえ、ほとんど裸一貫から、この巨大な果樹園の島を一代で築きあげたその活力には畏敬《いけい》の念すら感じている。なにしろ、さして広くないとはいえ、面積にして数十ヘクタールはあると思われるこの島の全体が吾郎の経営する辰巳果樹園なのだ。やがて、奇病に冒されてからも、精力的な活動力は衰えていない。知り合ってずいぶんの年月が経つが、いまだに峰山にもこの男の本性がつかめない。  そして吾郎の子供たち、すでに二人になってしまったがもとは四人いた子供たちには公然の秘密がある。誰一人として正妻の子はいないということだ。峰山が水を向けると使用人たちはあたりをはばかる風をみせながら口を割った。 「吾郎さんのほんまの奥さんっちゅうのは、なんやしらんバケモノなんやで」 「ああ、あの奥の間のやろ。なんでもずいぶん前、もう島にくる前からおかしいなっとったらしい。そんで、ずっと檻《おり》のなかに閉じ込めとるのや」 「ずっと子供できへんで、そんでおかしなったゆう話もあるで」 「皮肉なことにな、妾腹《しようふく》の子供はぼこぼこ生まれたのになあ」  とこのあたりで、使用人たちはさらにも声をひそめ、まわりをうかがう気配になった。吾郎の息子たちの耳に入るのを恐れていたのだ。 「そや。みんな母親が違うのにあの四人、そろいもそろって同じ顔なんや」 「そうそう。吾郎さんの若いころにそっくりなんや」 「女の方の血はほとんど影響することができへんかったいうことやな」 「そうや、吾郎さんのは濃いんや。ものごっつうなあ」  そんな風に使用人たちは、なかば恐れなかばからかいの念をこめて囁《ささや》いた。四人の愛人たちは、林檎《りんご》、葡萄《ぶどう》、桃、梨の四つのもっとも広大な果樹園のはずれにそれぞれ住居をあてがわれていた。そして、息子たちが、それぞれの果樹園を自らの受け持ち区域としていたのだった。  かくして淫蕩《いんとう》の血もまた、父から子へと受け継がれた。  アマリに目をつけたのはずいぶん早い時期だったはずだ。兄妹夫婦といういかがわしい風評すら立たぬ前だったと思われる。けれども、蜂女という生々しい伝説に、さしもの兄弟たちもなんとなく股間《こかん》が縮み上がったということなのだろう。女を刺すのは得意だが、女に刺されるのは怖いというわけだ。だから、アマリの代わりに刺されたのはほかの使用人の娘たちが先だった。  うまいことに、吾郎は島を追い出されたら行き場のないものばかりを使用人として雇っていた。博打《ばくち》で食い詰めたもの、罪を犯して身の置き所がないもの、わけあって家を出てきたもの、借金取りから逃げ回っているもの、指を詰めたもとヤクザもの。そんな人間たちだけを吾郎は雇った。それは確かに、島を逃げ出せないようにするための戦略でもあっただろう。けれども、後ろ暗い過去をもつ吾郎自身がまた、そういう人間たちとしか波長を合わせることができなかったということでもあったのだろう。この島はだから、本土に寄る辺ないものたちの流れ着く吹き溜《だ》まりのひとつだともいえた。庇護《ひご》と酷使が、この島の使用人たちには当たり前のものだった。両者はふたつでひとつだったのだ。 「お前んとこの娘に、今夜遊びに来いてゆうといてくれ」  それが仁一であれ、仁慈であれ、仁三郎、仁四郎の誰であれ、そう声をかけられたものは、みな肚《はら》をくくらざるをえなかった。母親がいくら泣いても、本人がいくらいやがっても、父親は「遊びに行ってこい」といわざるをえなかったのだ。そんな使用人たちの屈従が、四人の兄弟たちをいっそう増長させる結果となった。そのうち、親の承諾も取らず、ひとたび手をつけた娘ならまるで自分の女であるかのように、夜昼かまわず弄《もてあそ》んだ。たとえそのうちの幾たりが子を孕《はら》もうと、意に介さなかった。そして、親たちもまたその責任を取れとはいえないのだった。こうして、今回のような事件が起こっても、すべての使用人が疑わしいといえるような状況ができ上がっていたのだ。  そして、年頃の娘たちをあらかたものにした後、とうとう兄弟たちはアマリを誘った。策略に長《た》けた兄弟は、光一が蜂蜜《はちみつ》を届けに港まで出ている木曜の午後を狙った。光一たちが飼っている蜂は、基本的には果樹の交配の役割を担うものだった。ある意味では、蜂なくして豊穣《ほうじよう》な実りはありえないからだ。養蜂家《ようほうか》としての光一の存在は、だからきわめて貴重であるともいえた。その見返りとして、光一には副産物としてできた蜂蜜を売ることが許されていた。それだけが、彼らの現金収入となるのだ。だから、業者がやってくる日に蜂蜜を港まで運ぶのは、兄妹にとって重要なことだった。そんなわけで、木曜の午後だけは、アマリがひとりで留守番をしていたのだ。  そのときのことを仁四郎の母に問うてみたが、最初は頑として応じなかった。よほどきつく口止めされているのだろう。眉根《まゆね》をぴくぴく痙攣《けいれん》させながら、わかりません、わたしにはなにがあったのかわかりませんと繰り返すばかりだった。ほんとうに、わからないのかと幾度目かに念を押したときだった。ふいに目を見開いた仁四郎の母が、神妙な顔つきで言った。 「しょうがないですな、警部さん。わたしの負けです。ほんまのこというてな、この島の人間を売るようなことはしとうなかった。そやけど、警部さんがそこまで言わはるんやったらしょうがない。実は、わたしは知っとるんですわ、ほんまの犯人を」 「ほお。で、いったい誰なんです」 「光一ですわ」  きっぱりと、確信をこめてそう言った。 「光一が、あれを手籠《てご》めにしようとして拒まれたもんやから、腹立てて殺虫剤かけよったんですわ。ほんまにまあ、実の妹をなあ。おかしいやろ。な、そない思いませんか。キショク悪い兄妹やった。なんというても光一がなあ。ほんま気味の悪い男ですねん、あの光一っちゅうのんは。知っとりますか、あれはなんやら怪しい。なんせな、あそこの蜂はおかしいんですわ。死によらんのです」 「死なない?」 「いや、そら死ぬことは死にます。一回はな。そやけど、光一はこの島中を歩き回って、死んだ蜂をせっせと集めて帰る。そんで、それを生き返らすいいますで。どないするんかしらんけどな。聞いた話やと、カエルやらトカゲやらから身代わりの魂《たま》もらういう話ですわ。死んだ蜂がぴくぴくして、それから飛びあがるのを見たことがあるいうもんもおりますわ」 「それはまた珍妙なご説ですな。で、あんたの息子らはどないなんや。確かに、あんたんとこにアマリを連れてきたんやろ」 「ああ、そうです。そうでした。うちの子らはな、そうや思い出したわ、うちの子らは、ほれ、わたしの家の前でちょっとおしゃべりしとっただけですわ。あれともまあずいぶん仲良しやったさかいに、えらい楽しそうでした。わたしが思うに、あれは仁一に惚《ほ》れとった思いますで。そやから光一は余計に嫉妬《しつと》したんちゃうやろか。でもまあそのうちあれが、お兄ちゃんが待っとるお兄ちゃんが待っとるいうもんで、すぐに送りに行ったんですわ。きっとな、早う帰らんと嫉妬した兄に折檻《せつかん》されるとかそういうことやったんやないやろか。な、わかりますやろ。光一は普通やない。まともな人間やないんです。そやから、警部さん、光一を捕まえてください。はは、よかったやないですか、犯人わかりましたやん。そやけど、わたしが言うたってことは絶対にこれでっせ」  仁四郎の母はそういって、口の前に人差し指を立てた。高揚したのか顔が紅潮していた。けれど、峰山の表情が動かないのを見て、ふたたび不機嫌そうに押し黙ってしまった。 「あれは、ちょっと見てられん光景やったわな」  その日、港から光一を送ったという使用人は眉をひそめて語った。 「確かに、家の前の地面には、うっすらとジープの轍《わだち》が残っとりました。それ見て光一の顔はさあっと青ざめましてなあ」  出迎えたアマリは兄の顔をみてほほえんだという。 「そやけどな、光一の顔じっと見てからアマリちゃんこんなこといいよりましたんや。『ああ、仁一さんか。早うくわえさせてえなあ』ってな。そんで、顔を突き出して唇を舐《な》めよりましたんや。かなわんやろ。光一はそれはもう気も狂わんばかりになりましてな、『なんやアマリどないしたんや』って肩を抱いてゆすぶりました。すると、アマリちゃん、そのまま目ん玉が裏返って、蟹《かに》みたいに口からごぼごぼ泡を吹いて倒れたんですわ」  それ以後、尋常の生活が営めなくなったアマリを、光一は献身的に介護しつづけたという。けれどももうアマリは光一が誰だか思い出すことは二度となかったらしい。えへらえへら笑いながら果樹園のなかをうろつき、男と見れば近づくようになった。光一がどんなに制してもだめだった。たいていの男はそんなアマリを気味悪がって逃げる。そうすると、傷ついたアマリは鬼のような形相になって追いかけるのだった。そして、ついに島のはずれの崖《がけ》に逃げた若い男を追ううちに、足を踏み外して海に落ちた。アザラシのように膨れ上がったアマリの死体がそこから五百メートルほど離れた浜に打ち上げられたのはその三日後のことだった。 「そりゃあ、取り乱したんとちゃうか」  と問いかけた峰山に、使用人たちは口をそろえて否定の言葉を返した。 「それがもう、それ以来妙に大人しいなってしもうてなあ」 「まるで魂が抜けたみたいにぼんやりしとるんや」  けれども、と峰山は思うのだ。あれはただの人のかたちをした抜け殻ではない。ただの抜け殻ではないのだ。なにかを宿している。あるいは、なにかを待っている。あれは満たされた笑みだった。もしかすると、恨みではないのかもしれない。それ以上の別のものなのかもしれない。でも、俺はこの事件に深入りはすまい、と峰山は心に決めていた。殺すほうが悪いのか、殺されるほうが悪いのか、判断しかねたからだ。この島はあまりにも歪《ゆが》みすぎている。あまり関わりにならないほうがいい。へたをすると、この島の磁場に俺まで飲み込まれてしまう。もともと狂った島なのだ。なるようになればいい。船の艫《とも》に立って次第に小さくなってゆくその名もない島、俗には果樹園のブランド名そのままにフルーツ・パラダイスと呼ばれている島を見ながら峰山は煙草をくゆらせた。島を出たとたん、呼吸がずいぶん楽になったような気がする。それでも、たぶんもう二度、あるいは三度、現場検証には来ざるをえないだろうな。峰山はそう思って憂鬱《ゆううつ》になる。かたちだけ、かたちだけで十分だ。俺のほんとうの管轄地域は本土なんだから。 「本土に行きたいのお」  仁三郎が嘆くようにいう。もうこの島の暮らしはたくさんや。 「仁一と仁四郎が死んでから、なんか変やのお」  仁慈の顔はいかにも悔しげだ。ずっと怒りをかみ殺しているように見える。もうずいぶんと長いあいだかみ殺しつづけてきたように見える。 「ああ、狂っとるで。なにもかもが」  虫が例年になく湧くのだ。どんなに殺虫剤を撒《ま》いても、袋がけをしても、無駄だった。煙でいぶしたりもしてみた。甲斐《かい》はなかった。それどころか、島中から立ち上った煙が、人のかたちをなして覆いかぶさるように見えたというものすらいた。巨大な女の姿に見えたというものもあった。常ならぬ果樹園の不作。そして吾郎の息子たちの相次ぐ奇怪な死。そんな異常事態が使用人たちに与えている動揺は予想以上に大きいようだった。蜂以外のムカデやブヨなどの毒虫も増え、なぜかそれまではいなかったハブが徘徊《はいかい》するようにすらなった。 「お前んとこの葡萄《ぶどう》もだいぶやられたやろ」 「やられたも何も、もう全滅に近い状態やわ。変なちっこい虫がぎょうさん湧きよってからに、それがびっちり葡萄を覆っとる。いくら薬撒いてもあかんのや。なんやら殻みたいなんにこもりよってからに、それが薬から守りよるみたいなんや」  仁三郎はいまいましげにそう答えた。 「遠目に見るとな、まるで葡萄がもぞもぞ動きよるように見えるで。そらもう気持ち悪いもんや」 「もぞもぞ動くといえば、親父もこのごろは散歩にも出よらんみたいやな」 「もうずるずるなんやろ」 「ああ、人間なんか液体なんかわからんような姿らしいで。それでもあっちの方はまだまだ元気で、夜毎愛人どもを呼びつけとるらしい」 「うわあたまらんのう。おっ母たちも。ずるずるの肉の塊に抱かれるんではなあ」 「しかも、なかで蟲《むし》どもがうごめいとるのが、今では肌に直接伝わるそうやで。もぞもぞもぞもぞ気色悪うて、思い出して夜中に飛び起きることもしょっちゅうやゆうことや」 「もう終わりかもしれんな。この島も」  気の荒い仁慈までが、そんな弱気な言葉を吐いた。 「さんざんやりたい放題してきたからな。俺らも」 「ああ」  ここで仁三郎が、あたりをうかがってそっと打ち明ける。 「俺はもうこの島を出ようと思うとる」 「なんやて」 「あかんやろ、このままでは。いつ殺されるかもしれんし、どうせ葡萄も全滅や。俺がここにおる意味はない」 「そやけど、親父が許さんやろそんなこと」  不安げに仁慈がたずねる。吾郎の存在は、使用人たちにとってそうである以上に、兄弟たちにとっても絶対的なものなのだ。 「もうええわ親父は。あれはもう人間やないやないか。おったって俺らに親父の跡を継ぐ力はないやろが。それにな、親父には俺らがおらんでも睦山がおる」 「まあ最後までついていくのはあれだけやろなあ」  仁慈は、いくどか顔を縦にうんうんと動かして相槌《あいづち》を打つ。 「そやけど、どないするんや」  怪訝《けげん》そうな顔で問いかける。 「実はな」  そういって仁三郎はにやりと笑った。そして仁慈の耳元に唇を寄せた。 「なんやて、光一が? あいつが本土行こういいよるんか。それはお前怪しいで。あいつ絶対に俺らを恨んどる。俺は信用できへんな。お前知らんのか。あいつが妹の死体切り刻んだっちゅう噂」 「ああ、聞いとるぞ。手足ばらばらにして、島の四隅に埋めたっちゅうやつやろ」 「しかもな、ほんまかどうかはしれんけど首はどうも親父の屋敷の庭に埋めたっていうで。つまり、島のまんなかや。そんで、あいつこれでこの島はアマリのものになったって笑うたっちゅうんや」 「きとるな。完全にイカレとる」 「そやのに、そんな奴の話に乗ろうっちゅうんかいな」  仁慈は、疑わしげに弟を見る。 「俺はいややぞ、信用できへんからな、あれは絶対俺らを恨んどるし」 「そんなんわかっとる。わかっとって乗ろうっちゅうんやないか。ええからまあ話を聞けや」  仁三郎は、少し歯を見せて笑った。そしてその笑いを口元に浮かべたままで、仁慈に耳打ちする。やがて、同じ笑いが仁慈の顔にも伝染する。 「なるほどなあ。あいつけっこう小銭貯めこんどるみたいやしな」 「ああ、海の上のことは誰にもわからん。とにかく人目につかんように出ればええんや。手配はぜんぶあいつがやってくれるらしいしな」 「鴨葱船《かもねぎぶね》か、なかなかええこというやないか。さらばやな、この腐れた島に腐れた親父に腐れた生活に」  なにもかもが腐れてゆく。昨日まで確かにそこにあったはずのしっかりしたものが、すべて手ごたえを失ってゆく。そんな心もとなさがあった。  すっかり奥の間に身を潜めてしまった吾郎を残して睦山は浜に出た。  最近の吾郎はもう愛人たちを呼ぶことすらやめてしまった。体つきも一時は行くところまで行ったという感じに溶け崩れていたのだが、ここのところ動きが止まっているように見える。それに伴って吾郎自身も活力を失ってしまったような気がする。幼虫どもが蛹化《ようか》しているのではないか、不安な思いで睦山は吾郎を見るが、それを口にすることができない。吾郎はしばしば、 「ちょっとひとりにしておいてくれ」  と言い残して、奥の間にこもってしまう。奥の間には、睦山ですら立ち入ることは許されない。まだ見ぬ奥方と思《おぼ》しき女性の奇態な祈りや叫び声が漏れ聞こえてくる気味の悪い部屋。そこに吾郎は、なぜか最近こもりきりなのだ。 「吾郎さん、だいじょうぶですか」  と声をかけても、「ああ」とか「うん」とか短い言葉が面倒くさげに返ってくるばかり。炊事係に聞いたところでは最近はろくに食事もとっていないらしい。部屋の前に置いていった盆を取りに行くと、そのままで放置されていることが多いというのだ。なにが吾郎の身に起こっているのか、気がかりではあった。もう二十年近くも付き従う生活をしてきたのだ。吾郎を失った自分がどう生きていけばいいのか、睦山には想像することもできなかった。もともと、俺には自分というものが希薄だったのだと浜を歩きながら睦山は考える。八百長試合だって、兄弟子から持ちかけられて断りきれなかっただけだった。事件の後も、自分が黙秘したので兄弟子は幕内力士としてある程度の成功を収めるところまで行った。途方にくれていた俺は、吾郎さんに拾われて生きる目的を得た。ずいぶんひどいこともしてきた、ずいぶんな放蕩もさせてもらった。けれどもすべては吾郎のためであり、吾郎のおかげだった。そうやって自分のもてあました力を使ってもらえることが、いつしか俺にとっての生きる意味になっていた。だから、もうほかの生き方など考えられない。それに、この人生がこんな風に途中で頓挫《とんざ》してしまうことなど、想像したこともなかった。それがどうだ、今のこの有様は。浜沿いの道にもあちこちに腐れた果実が転がり、そこに名も知れぬ虫どもが群がり飛んでけむたいばかりだ。たわわな果実が年中ぶら下がっていた、これまでの年月を思うと、睦山の気持ちはさらにも滅入《めい》るのだった。  そういえば、ここのところ仁慈さんと仁三郎さんの姿を見かけない。睦山は嫌な予感とともにそう思う。  兄弟のなかで唯一仁一さんに喧嘩《けんか》をふっかける勇気を持ち合わせていたのが仁慈さんだ。ある意味では、仁慈さんが一番の不良でもあった。四人のこれまでしでかしてきた悪さのほとんどは、仁慈さんがふっかけたものだった。あのアマリの事件にしても、ほかの三人は乗り気じゃなかったのだ。それを、「返り討ちや。俺があの蜂女を刺したる」と息巻いて出て行ったのだ。思えば、あれがやってはならないことだったのかもしれない。あれ以来だからな。このパラダイスが、俺にとっての最後のパラダイスが狂い始めたのは。  仁三郎さんは、葡萄《ぶどう》に取り付いた小さな虫のことでずいぶん悩んでいるようだ。四人のなかではやさしい方だから、この島での生活は決して楽ではなかろう。あの二人はなんだかぎくしゃくしているように思える。仁慈さんと仁三郎さんは、性格がまったく逆だから、なんだかそりが合わないのだろう。四人の関係の調整役としてなかなか微妙な役割をたくみに果たしていた仁四郎さんが死んでしまったせいだ。  波止場までたどり着いて沖を眺めていると、幾|艘《そう》もの小舟が去っていくのが見えた。このところ、毎日のように使用人たちが島を遁出《とんしゆつ》してしまう。本土に身の置き所のないはずの人間たちなのに、それでもこの島にいるよりはましだと考えるのだろう。今しも、逃げ去っていくものたちのなかに、いくつかの見知った顔を発見して、睦山はげんなりする。彼らが島を去る気持ちがわからないではない。けれども、長年世話になってきた吾郎をそうもあっさり捨てられる彼らの心中が睦山にはわからなかった。 「お前ら、吾郎さんなしでどうやって自分の足で立てるっちゅうんや。こんなに長い間、吾郎さんの力にすがって生きてきて、どうやってひとりの人間に戻れるっちゅうんや」  そのとき、一艘の小舟がたゆたっているのに気づいた。  漕《こ》ぎ手の姿もみあたらず、二人の人間が寝そべっている。その人物が誰であるかに気づいて、睦山は沖に向かって声をかけた。 「よお、仁慈さんに仁三郎さん。そんなところでお昼寝ですか」  なんだ、ふたりして仲良くやってるんじゃないか。釣りにでも出たのかと思った。けれども、返事はなかった。たゆたい近づく舟の全容が次第にわかってくる。急激にいやな味の唾液《だえき》が口のなかにあふれ出した。睦山は、吐き捨てても吐き捨てても湧いて出るそれをいとわしく思った。そう思ううち、今度は胃の腑《ふ》がもんどりうつ感じがあり、海に向かって激しく嘔吐《おうと》した。巨大な背中が波打つように揺れた。  仁慈も、仁三郎も内臓を抜き取られていた。代わりに、大きく斬り開かれた皮膚の内側に、梨と葡萄とがそれぞれぎゅうぎゅうづめに詰め込まれていた。とはいっても、それらはすでに虫腐れした崩れた果物で、甘い香りがいっそう強烈にたちこめていた。そして、蟻やら蛾やらカブトムシやら蠅やら数知れぬ昆虫どもがこぞり群がっていた。さまざまな思惑とは無関係に、虫どもだけが、わさわさと動きつづけてやまなかった。  わさわさと蜂どもが動きつづけている。かぞえれば数百にもおよぼうという巣箱が整然と並べられている。無数の蜂が唸《うな》りをあげて飛び交うなかを、蜂よけのネットすらかぶらず養蜂家《ようほうか》の青年が歩いている。見ればその腕や首に止まる蜂がおらぬわけではない。けれども、どうやらこの青年に限って刺されるということはないようだ。  しばらくその場にたたずんだまま、峰山は蜂を観察した。見たところどうやらすべてミツバチのようだった。オニモンスズメバチを飼いならしているようには見えない。見えないからこそかえって怪しいのだと峰山は思う。仰々しく死体を粉飾されてはいたものの、検死の結果、仁慈や仁三郎の死因もまた蜂毒によるショック死と出ていた。誰かがオニモンを操っているとすれば、これほど疑わしい人物はほかにない。  やがて峰山の姿に気がついたらしい光一は、首に下げていた小さな笛を吹いた。人間の耳にはぴいーっという微《かす》かな音が聞こえるだけだが、実際にはその上の波長がメインなのだろう。それまで無秩序に飛び交っていた蜂の集団がいっせいに果樹園の奥へと飛び去って行った。峰山を見て、光一は軽く頭を下げる。 「ほう、みごとなもんやなあ」 「蜂追い笛いいます」  ちらりと峰山の顔をうかがっただけで、ふたたびうつむいたまま光一は呟《つぶや》く。 「オニモンはおらんのか。あとほら、なんやったっけケルビム蛾とか」 「ミツだけです」 「ミツって、ミツバチのことか」  光一は蜂箱の列の向こうにある海を眺めたまま小さくうなずく。海の向こうには霧が出ているが、霧が晴れれば本土が見える。その見えない本土を眺めやるかのような目をしている。 「アマリさんのこと、聞いたで」  アマリという名を耳にしても、光一は動じる風がなかった。まるで何も聞こえなかったかのように、海の上に立ちこめる霧の動きに見入っている。  それきり二人はじっと言葉もなく立ち尽くしていた。光一は海を見つめ、峰山は光一を見つめていた。切り立った崖《がけ》になっている島壁にぶち当たる波の音だけが響いていた。 「もうすぐ帰って来よりますから」  ふいにしゃがみこんだ光一が、巣箱の列を整えながらそういった。その顔に小さな微笑が浮かんでいるのに気づいて、峰山はぎょっとした。 「え、何がや。何がもうすぐ帰ってくるんや」  しかしもう光一は答えなかった。  峰山は妙に派手に飾り立てられていた死体のことを思う。あれは、なにかを寿《ことほ》ぐ儀式だったのかもしれない。喜びの日に向けて手向《たむ》けられる花束。祝福の祭り。やがて遠くから羽音の唸りが近づいてきた。波の音が遠ざかる。最初の一匹が、つづいて数匹の蜂が帰還する。うねるような音の連弾があたりを包み、光一の姿もまた蜂の群れのなかへと埋もれていった。遠くから見ると、光一のシルエットが、蜂の群れのなかに崩れていくように感じられる。濃密な蜂の群れの内部へと、光一のからだが崩壊していくように見えるのだった。  果樹園の崩壊はさらに進行した。果実が次々と地面に落ちて腐れてゆくのを掃除するものすらもうほとんどいない。林檎《りんご》が、桃が、葡萄が、梨が、そのほかもろもろの果物たちが死に絶えて行った。島のなかは日を追うごとに閑散とし、虫たちだけがやたらと賑《にぎ》やかな羽音をたてていた。果物の芳香と腐敗臭とが入り混じった、なんともいえない濃厚な香りが島を覆った。  その匂いは、島の中央に位置する吾郎の屋敷にもたちこめた。そして、その屋敷のさらに中央に、その奥座敷はあった。  吾郎はもう動くことすらできなかった。動こうにも、なんだか体の力が抜けて立ち上がれないのだ。それに、それまで液体のように流動していた肉が、ここのところどんどん動きを失っていた。このままかちんかちんに固まって像のようになってしまうような気がした。どうやら昨夜、睦山までが島を出たようだった。屋敷のなかはしんとして、もう誰も吾郎の身をかまおうとすらしない。 「吾郎さん」  呼ばれて振り返ると、そこに光一がいた。 「オニモン捕まえましたけど、どないしましょ」  吾郎の脳裏に、あの快楽の記憶が蘇《よみがえ》る。こわばり痛むこの体を溶かしほぐしてくれるのは、あの毒だけなのだ。あの重力のない空間へと誘《いざな》ってくれるのは、あの毒だけなのだ。すべてを失った吾郎には、その記憶がとてつもなく甘美なものに思われた。 「おお、光一、すまんな。ほしたらそれ、放しといてくれや。ほんで、逃げんように襖《ふすま》しめといてくれ」  うなずくと光一は、小さな籠《かご》を床に置いてふたを開けた。そして、襖を音もなく閉ざして姿を消した。四人の息子たちは、結局自分のできの悪いコピーのようなものだった。自分や息子たちは、激しい欲望をうまく飼いならすことができず、ずいぶん無茶な人生を送ってきた。そんな衝動に振り回されてきた自分から見ると、光一はまるで無垢《むく》な人間に見える。ほとんど空白ななにもない存在にすら思える。そんな光一の背後に、もうひとつの影が寄り添うようにあったような気がした。誰かいるのか。光一がほかの誰かと行動をともにしたりするのだろうか。吾郎は少しだけいぶかしく思ったが、鋭い羽音にすぐに気持ちがそらされてしまった。開いた籠から二匹の巨大なオニモンスズメバチが羽音も高く飛び上がった。さあ、刺せ、俺を刺せと、吾郎は念じた。刺せ、刺せ、さあ、俺を刺してくれ。痛みと快楽への期待と、それがなかなか訪れない焦燥感とが吾郎の不自由な身をよじらせた。吾郎は、ずりずりと畳の上を這《は》い進み、奥の間の襖を開けた。その部屋の奥は、木製の格子で仕切られていた。いわゆる座敷|牢《ろう》。ほんとうにあったのだ。暗い座敷牢のなかに誰かが座っているが、その姿はよく見えない。ほとんど身じろぎもせずに、影の塊のように微動だにしない。 「ええか、俺もお前もこれで終わりや。ちゃんと見といてくれよ」  吾郎は、驚くほどの愛情をこめて座敷牢の奥を見やった。  見つめ返す目があった。狂った女は、その変調をきたした頭で世界を見つめてきた。世界はつねに幸せに満ちていた。狂った女にとって、ここは楽園だった。すべてが祝福されていた。だから、どろどろの液体のように崩れていく夫の姿を恍惚《こうこつ》としてうち眺めた。肉のなかに有象無象の蟲《むし》がうごめく夫の姿を愛《いとお》しく思った。蟲たちを、わたしの子供たちと呼んだ。格子の隙間から手を出して、うごめく幼虫どもを夫の肌の上から撫《な》でさすった。それでも快楽の果てには苦痛が来るらしく、夫は自分の前に来たときだけ、激しい苦悶《くもん》に身をよじった。聖なる喘《あえ》ぎと女の目にそれは映じた。恍惚の極みと見えて羨《うらや》ましくすらあった。見つづけよう、と狂った女は思った。なぜだかわからないが、それが自分の務めだと思った。びちびちと波打ち、きしむ肉の音を心地よく耳にした。毒に酔いしれ、虫に生き身を食われて呻《うめ》く夫の姿を歓喜の声をあげながら見守った。  ああ、およろこびですと女は叫んだ。今しも、二匹の巨大な虫が夫の背中と腹を同時に刺したのだ。みごとなタイミングで、ほとんど同時だったといってもよかった。奇跡です奇跡です、と女は手を叩《たた》いて悦《よろこ》んだ。ああ、またよろこびのお薬が。お医者様はほんとうにありがたいと、口走った。このところ夫は体が硬くて痛くて痛いばかりだったですから、これはもうほんとう助かりますと思い、感謝をこめて手を合わせた。夫は、くっと痛みに呻いた後、ぶるぶるぶるぶる震え始めた。顔が真っ赤になり、全身が真っ赤になり、雲がふくらむみたいに膨れ上がった。ぴきぴきぴきと何かが割れるような音があちらこちらで弾《はじ》けた。最後の瞬間に、夫の目が自分を見てほほえみましてありがとうと女は呟《つぶや》く。夫はたくさんの子を産みました。わたしの子供を身ごもって、羽の生えた天使の群れを産みました。体がぱあんと破裂して、天使様が、天使様の群れ群れが、ぎょわあんぎょわああんよろこびの国。そうそう、ここはわたしと夫の島。よろこび溢《あふ》れる楽園でございました。天国でございました。天使の国でございまして、ぎょわあんぎょわあんありがとう。  どこからか出火したようだった。それは激しい炎の群れだった。果樹園を、そして家屋を焼きつくしながら奥座敷へと迫ってきた。けれどもその炎ですら、狂った女には僥倖《ぎようこう》と思われた。すべてを祝福する浄化の炎と思われた。乱舞する蜂の群れとともに、狂った女は炎のなかで踊った。楽園の舞を舞った。けたたましく笑い立て、悦びの叫びを上げた。柱が倒れ、屋根が落ちた。蜂の羽音も聞こえなくなった。やがて、その声は劫火《ごうか》の響きにかき消され、その姿もまた煙に呑《の》まれて見えなくなった。 角川ホラー文庫『姉飼』平成18年11月10日初版発行