遠藤周作 それ行け狐狸庵 目 次  むかし善光寺いま香港  禿げてカツラの緒をしめよ  暗愚等《あんぐら》にアングリ  ビートルズの忘れた下着  万引きは悲しからずや  ああ、軽井沢族よ  ボクもやられたムチウチ症  オバサマだけの遊び場所  ああ、ハネムーン列車  オレはお化けだぞ  とんだ一一〇番  腹もたちますよ  大根役者のシェクスピア劇  佳き哉「おふくろの味」  ああ! このフリチン芝居 [#改ページ]  むかし善光寺いま香港   近頃の青年はあまい  退屈である。年のせいか何をするのも物憂く、書を開いてもすぐあくびをする。原稿紙をひろげても筆をとる気がさらさら起らぬ。今日もここ柿生《かきお》の家にたれこめて雨に色づきはじめた林をぼんやり眺めつつ肘枕をしていると、奇妙な話をもちこんできたのがわが助手の喜多八で、 「いや、エラいこっちゃ。大変や」 「なんだ。騒々しい。もう少し静かにできんかい」  喜多八と言うのは勿論、本名ではない。私の家にここ二年、食客《いそうろう》をきめこんでいる青年で、将来、文士になるそうだが、わがみるところ駄目である。才能がないだけでなく怠け者で、書をひらいて熟読し文章の練習をするかわりに、新宿や渋谷でトリス・ウィスキーをくらい、女の子の尻を追いかけるのを小説家修業だと思うておる。軽薄、助平をそのまま絵にかいたような現代青年。  大体、私のような年になると、どうも近頃の若い者には腹のたつことばかり。連中は妙に狎《な》れなれしく年輩者を敬うことを知らぬ、節度がなくそのかわり押しが強い。うちの食客《いそうろう》、喜多八などはその典型で、本人はいいつもりだろうが、一時、髪などをビートルズ型というのかトランプの王様のような形にして得意がり、一日中、ギターをボロンボロン鳴らしつづけて、私の思索を妨げること甚だしかった。  その青年をとも角、食客《いそうろう》にしておるのは、この男半面、妙に人なつっこい性格があるせいか、アッチ、コッチに首をつっこむ。早耳で好奇心が人一倍つよく、何かと言うと奇談を嗅ぎつけてくるので、私にとって時には便利な存在だからで、 「なんだ。その大変、と言うのは」 「先輩。この写真や」喜多八、急に声をひそめて「この写真」  喜多八が持ってきおったのは有名な週刊グラフ雑誌A。見ると二頁にわたって大きな写真が掲載されておる。大きく引きのばしたらしく被写体は鮮明ではないが、金あみのうしろに五、六歳の少女が床に坐っているのはともかくもわかる。 「非道《ひど》い話ですねん。全く」  写真の下の活字を読むと喜多八がエラいこっちゃと叫んだ理由《わけ》がほぼわかった。この写真、香港に出かけたある日本人ルポ・ライターの撮ってきたもので、九竜《クウロン》から車で二時間ほど走った一部落に今日でも、飼育した少女を売買しておるというのだ。少女たちは不潔な金あみのなかにまるで犬猫のように飼われ、やがて売られていくのだそうである。 「馬鹿馬鹿しい」私は苦笑した。「この御時世にこんなことがあるもんか」 「しかしチャンとしたグラフ雑誌が嘘を載せる筈はないがな」 「考えてみなさい。警察がこんな非人道的なことを許すものか。ともかく信じんよ。くだらん」  一笑にふしてまたゴロリと肘枕。私が相手にしないので喜多八はしばし脹《ふく》れ面《つら》をしておりましたが、やがてプイと外に出ていきました。   春なれや、名もなき山の朝霞  それから三、四日晴れた日が続き狐狸庵をとりまく雑木林の向う、大山、丹沢の山並に春らしい霞がたなびく。山鶯がまだ稚い声でホーホケキョと鳴きはじめた。 「先輩、これ」  性こりなくも喜多八はまだ、こだわっているのか何やらパンフレットを出して、 「見て下さい」  見ると今度は香港、マカオ、台北行きの団体旅行の案内広告である。 「先輩、俺この団体旅行で行ってくるです」 「行ってくるってどこに」 「香港ですがな。あのこと材料にしてスゲえ小説、書いたろと思うてますねン」  題材さえ刺激的ならそれで名作ができると思っているのだから、近頃の青年は甘い。だが当人は大真面目、故郷の母親からまたしても金を出してもらってすぐ出発したいなどと言いはじめる。   ヒョウタンから駒  ヒョウタンから駒が出たのたとえ通り、私までこの喜多八と香港、台北の団体旅行にまじって、この飛行機に乗るとは思わなんだ。文明の世の有難さ、朝九時半に日本を出れば四時にはもう遠い香港につくそうである。観光会社が北は北海道から南は九州まで集めてきたお客は二十九人。 「ちぇッ、若い女の子が一人もおらんで」  控室に八時半、集合した時、喜多八は既に口をとがらせておったが、なるほど右をみても左を向いても爺さまに婆さま、それにもう酒くみかわし顔を赤黒くさせている土建業者の一組に中年男が大部分で、娘っ子は一人もみあたらぬ。  要するに今や香港、台北旅行は日本人の年寄りにとっても、昔の善光寺参りや、湯治《とうじ》の代りになりつつあるわけだ。 「みなさんのほとんどは海外旅行も初めてかと思います」付添う観光会社の係員はバッジをみなにくばって「パスポートを絶対になくさぬように肌身はなさず持っていて下さい。もしパスポートをなくしたら一大事。そしてこのバッジをつけた人が周りにいるかどうか、いつも注意して下さい。この前もほかの団体にまぎれこんで自分のホテルも行くさきもわからなくなったという人がありましたから」  爺さま婆さまの顔にさっと不安の色が走り、あわてて信玄袋や内ぶところのパスポートをたしかめる。 「それでは今から税関に入ります」  左右の肩から写真機に航空鞄を十文字にかけ、両手に風呂敷づつみシッカとぶらさげるのが日本海外旅行者のスタイルで、この日も係員だけが頼みの綱、彼が右に向えば右に進み、左にまがれば左に折れ、 「ピッ、ピッ」係員は笛をふいて「さあさあ、皆さんはぐれないでくださいよ」 「もすもす。まだ小便してくる暇はあるかナ」 「困りましたナ。もうちと、我慢して下さい。飛行機に乗れないと大変です」  ピッ、ピッ、ピー、何が何やらわからずに前のお方がパスポートを出せば、こちらもパスポートを出し、金魚のウンコのごとくゾロゾロと税関もどうやら全員無事に終えれば、前に待望の飛行機。頭上から見送り人たちは建物の屋上で、 「バンザーアイ」 「頑張ってェ」 「お婆ちゃーん。高田のお婆ちゃーん。こっちを向いて」   こち吹かば匂おこせよ梅の花    あるじなしとてはるな忘れそ  かくて全員、タラップの前で記念写真をとられた後、飛行機に乗りこむのである。  喜多八はまだ例の少女売買の写真を膝にひろげ何やらしきりにメモに書きつけている。彼は左右の婆さま、爺さまたちに、どうして香港まで行く気になったのかと訊ねてみると、 「はずめに温泉さ行こうか思うたんだけど、息子が母ちゃんたちも一度は外国行ってみいとしきりに奨《すす》めるんで」参加しましたという返事や、「主人がどういう風の吹きまわしか、行ってこいと言うんで町内の婦人会の人と来た」という答がかえってきた。 「あんた、このおカキたべなさいよ」 「外国さ、いけば食いもの困ると思う? ラーメン三十袋、鞄に入れただけど、税関でひっかからねすか」 「大丈夫ですよ」  旅は道づれ、世は情け、昨日まで知らなかった人たちが今日は仲良うなるのが団体旅行のいいところだろう。  なかでも秀逸なのは九十五歳の爺さまが、八十歳の友人とこの旅行に加わっていることであった。福井県の出身で来年は世界大旅行を試みる足ならしとして今度の旅をえらんだのだそうである。そっと見にいくと、この九十五歳の爺さまは赤い旅行鞄を膝において眠っておいでだ。  四時半、香港につく。税関は我々の団体以外に数組の日本人旅行団体がウロウロとしていて、日本にいるのと変りがない。なかで一人、鞄をあけさせられて税関役人当惑した顔で訊ねている。 「ホワット、イズ、ディス」 「何と言うとるんだ」 「これは何かと聞いているんです」 「これは味噌づけだがな。朝飯の時、食おう思うて味噌漬もってきたのが何が悪いか。味噌づけだと英語で言うてくれ」 「ディス、イズ、ミソヅケ」   お金、ヒャクエンないか  翌日からバスに乗せられて香港九竜の見物がはじまる。ちゃんと日本語のできる中国人ガイドさんがついて説明してくれるのであるから、こんなに有難いことはないが、 「まァ、何と高い建物じゃろかね。一つ二つ、三つ、二十階もあるよ。お爺さん」 「何言うとるか。東京だって三十六階の建物ができたわな」 「そうかねえ」 「えーと、御説明しますです。このあたりは香港でイチバーン高いところで、日本円で計算しますと坪、五百万円もするとこであるです」 「ひゃァ、五百万円だって、お爺ちゃん」 「何言うとるか。銀座なんかもっと高いもんだぞ」  外国に行けば急に愛国心がムラムラと起きるのが日本人の特徴。わが席のうしろにいる老夫婦も、婆さまのほうが素直に驚嘆感嘆するのが、老いたりといえども日本男子の爺さまには腹だたしいらしくそれを否定しようとヤッキだ。 「お爺ちゃん、あの子供たち、学校は休みなんじゃろか」  婆さまはまだ昼日なかだというのに街を歩きまわっている中国人の子供たちが気になるらしく、しきりに爺さまにたずねるのは、きっと日本で土産をまっている孫の顔を思いだしたからであろう。  観光コースで必ず見せられるのが香港難民アパート。いたるところに洗濯物を干したアパートでは一室に三家族が雑居しているのである。大体、自分の街の恥部をわざわざ外人観光客にみせる中国人の神経が我々にはわからんが、バスが停るのだから仕方がない。 「全くきたねえや、あんなところによく住めるな。便所なんかも一つしかなくて二つのアパートで共同で使っているんだってよ」  日本人だって戦後しばらくは、これぐらいヒドいところで生活したもんだ。あれから二十年、もうケロリと忘れてござる。わが背後の婆さまに感想をうかがうと、 「はァ、子供たちが随分いるけんど、学校はお休みなんかねェ」  さきほどと同じ疑問だけが頭にのぼられたようだ。早速、この婆さまの素朴な疑問に答えて中国人のガイド氏は、 「香港では金持の人だけ学校いきます。白人はこの街でイバっております。ごらんなさい。この街では車のほうが人間より優先。さっきも白人の車がきた時、こちらの車は追いこされて待ったでしょ。もし待たねば罰せられます」 「なんということだ」爺さまは憤りを顔にあらわし、「それだからこそ日本が戦争をやったんだろ。え、そうだろ。そうじゃないか」  同乗の若い者たちに同意を求めるが、喜多八は相変らず少女売買のことで頭はいっぱい。もう一人の青年は当惑した顔である。  観光コースのもう一つの場所はターガ・バーム庭園。通訳氏の言葉をかりれば、「あんたらの想像もできん中国の大金持がたてた家」で「この方は何人も奥さんがいた」そうである。なるほど、さきほどの難民アパートのみじめきわまる生活にくらべ、こちらは馬鹿馬鹿しいほど豪奢な邸とそれから赤、青、黄、さまざまな色にぬりたくった岩石や人形が庭のいたるところに並んでおり、まるで人形博覧会の会場のごときである。  ここも右をむいても日本人の団体、左をむいても日本人の旅行者。いずれもカメラや八ミリを顔におしあて、まるで江ノ島のアマチュア撮影会と変りない。  婆さま「お爺ちゃん、みなさいよ。こんなお金持もいればいるんだねえ」  爺さまは相変らず苦虫をかみつぶしたような顔をしていたが、老妻が素朴な感嘆の声をしきりに洩らすのが、次第に癪《しやく》にさわるらしく、日本人たちの周りに集ってくる中国人スライド売りたちに八つ当りして、  爺さま「買わんといったら、買わん」  中国人のスライド売り「日本のお金、ヒャクエンないか。ヒャクエンでこれみな、やるよ」  爺さま「買わんといったら、買わんのだ」  中国人のスライド売り「女のハダカ写真、いらんか」  爺さま「なにィ、ちょっと、見せろ。うーむ。こんなもの買わんぞ」  観光バスに戻った爺さまは喜多八をつかまえて口惜しそうに、 「なあに、あんなシナ人の庭ぐらいにビックラすることはねえ。あの世に金を持っていけるわけじゃねえしな。死んだらみんな同じだで」  としきりに言っている。   お茶漬がたべたいねえ  一日の観光をおえてホテルに戻れば、待っているのはまたもや中国料理。昨日の夜から今日にかけて毎度毎度、油っこい中国料理と使いにくい箸をだされれば、  婆さまたち「お茶漬がたべたいねえ……」  伝統的日本人は海外に行ってもその土地の食物、習慣になかなか同化することはできない。味噌、醤油の味がなければどうしても生きてゆけぬ。巴里《パリ》にいくと日本人の留学生はホテルの中で仲間と日本飯を作って食っている。むかし十六、七世紀の頃、マニラやバンコックにかなりの日本人の浪人たちが進出し住みついたことがあったが、当時でも彼らは原住民のなかに同化できず、日本人町をつくり、調味料を日本の船からとりよせていたという話である。  婆さまたちが二日目から、もう中国料理にほとんど箸をつけず、おのおの持参した福神漬や味噌漬ゴボウをそっと食べているのはイジらしい。  中国人ガイド「みなさん、沢山、たべたかな。食事おわったら、眠たい人は眠る。買物したい人は買物する。買物する人は店にいってもすぐ買ってはいけません。買うふりして品物みて別の店いくな。考えるな。そして一番まけた店で買う。わかりましたかい」  香港行きが今や日本の年寄りにとっては往時の善光寺参りや温泉めぐりの代りになっていることは先程、書いた通りだが、また香港、台北は日本人の欲望の吐け口になってしまった。女性にとっては宝石やハンドバッグを安く買えるところ、男にとってはナポレオンやウィスキーを無税で手に入れ、しかも浮気の仕放題と言った場所だからである。  だから晩飯おわったあと、ゾロゾロ、ゾロゾロ、目ぬき通りを団体旅行のバッジをつけた和服すがたのおじさん、おばさんと至るところでぶつかるが、これは言わずと知れた買い出し組で、 「このハンドバッグ、まけんか」 「もう、まけたよ」 「もうチト、まけんかな」 「もう、沢山まけたよ。なら、こっちのハンドバッグと二つ買うならチュウコパーセント引くな」  ガイドの案内する店屋は大体きまっているらしく、ここも色々な日本人団体客が次々とつれこまれてくる。つれこまれるとボーイがすぐ煙草とコカコーラを出し、客の値切り声と店員の愛想のいい声とが交錯する。一人が買うと日本人のわるい癖、すぐ群集心理にかられて他の客も手をのばす。隅ではガイドに羽田税関でいくら税金をとられるかと心配しているおっさんもいる。  女性たちが買物に夢中になっている間、男の旅行者は、奇妙なうす笑いを浮べて、 「なァ、ガイドさん。実は何だが……別のところに、つれていかんかね」 「ははァ。遊ぷとこか。よろし。まかせなさい」 「どんなことが……あるんだね」 「映画でも実演でも本番でも何でもあるよ。香港は……」 「本番か。ヘッ、ヘッ、ヘッ、あんた中国人なのに日本語がうまいな。本番なんて日本語、知っているのか」   ローソク病の危険あり  我々の団体にいる気の弱そうな中年男は、孝行息子らしく母親をつれてこの旅行に参加していたのだが、遊びにいくためには母親をまかねばならず、 「母さん、ぼくはこの人たちと一寸、酒をのんでくるからね。母さんはホテルに戻ってもう寝てください」 「あんまり、沢山、飲むんじゃないよ」  母親に嘘をついたこの孝行息子、それでも良心がとがめたらしく、私に、 「あんたも行くですか」 「いやア、私は年寄り。ホテルに戻ります」 「こんなところで遊ぶと病気がうつるでしょうか」 「そりゃ可能性があるでしょうな。ローソク病なんかにかかるかもしれん」  脅《おどか》しが少しききすぎたか、この中年の孝行息子、不安そうにしばらく考えこんだのち、母親のそばに寄って、 「母さん、ぼくはやっぱり母さんとホテルに戻りますよ」 「いいんだよ、お前」 「でも心配だからねえ」  その親子たちと先にホテルに戻り、一風呂あびて眠りこんだが喜多八は戻ってこない。おそらく男性諸君と映画、実演、本番のフルコースをまわっているのであろう。  朝がた、ぬき足さし足で、野良犬のようにぐったりした顔で戻ってきた。 「どうもこうもありませんや。ブルーフィルム見にいっても実演見にいっても、次から次へと来るのは日本人の団体客ばかりや」 「へえ、そっちもそうかね」 「日本人の一グループがすんで部屋の外に出ると、そこに別の日本人のグループが椅子に坐って順番まっとるのですワ。たがいに眼があうと視線そらしますねん」 「そんなものであろうな」 「土建組合の人たちに会いましたんや、あの連中も本番のほうに来とった人や。酒のんで討ちてしやまん、なんて叫んではったワ。あの中に六十ぐらいのお爺ちゃんがいましたやろ。あの人だけが、ワシはどっちでもエエのや、それより帰ってねむりたいと言ってましたけど、他の人が許しませんねん」 「それでどうした」 「お爺ちゃん、ションボリ、女の子とホテルに行きましたワ」  喜多八は中国人の女の子と遊んだ後、朝がた彼女とトランプをやって引きあげてきたと言う。 「よく、彼女と言葉が通じたな」 「筆談でやりましてん」  喜多八のさしだしたメモを見ると、なるほどこの現代青年と中国娘のチンプンカンプンの対話が手にとるようにわかる。 (喜多八)汝何人男知? (中国娘)我第一次共男人睡覚《はじめておとことねるのです》 (喜多八)我最初男 (中国娘)? (喜多八)汝無共寝 (中国娘)? (喜多八)汝、何歳 (中国娘)二十 (喜多八)汝、処女 (中国娘)?  朝がた眼をさまし、この娘とトランプをやりはじめたところめっぽう強く、喜多八は金をまきあげられ、買った虎目石の指輪までとられ、 (喜多八)汝強力、我失指輪 (中国娘)? (喜多八)汝好舞踊、GO、GO (中国娘)? (喜多八)我再度欲寝 (中国娘)|我 回家有点事《ようじがあるのでかえります》 (喜多八)不明白 (中国娘)|我 肚 痛《あたしおなかがいたいの》  喜多八の話どおりだとすると香港や台北は日本人にとって観光の場所ではない。それはヌード・スタジオやブルーフィルムや芸者のいる温泉地と同じ役割をしているわけである。日本人たちはここに来て故郷では充たせなかった欲望をありったけ発散しているわけだ。  受け入れる側の中国人たちがこうした日本人を肥猪と称し、表面は笑顔で迎えているが、内心、軽蔑しているという話をきいたが、あるいは本当かも知れぬ。 「ところで例の週刊グラビヤ誌の少女売買の話はどうだった」  そうたずねると、喜多八、憤然として、 「ガイドに聞いたら出鱈目やそうや。週刊誌に書いてある場所は小さな寺と遊園地があるだけで、そんな話きいたこともないと笑われましてん」  日本のルポ・ライターも罪なことをしたものである。大体、外国を舞台にしていかにも曰《いわ》くありげに書いた話の半分は眉唾だと思うべきだと、喜多八もやっとわかったであろう。   戦果を交換する  香港からマカオに行く頃になると、今まで知らなかった同行者も袖ふり合うも他生の縁、次第に仲良くなる。  男たちは朝の食卓で声をひそめて昨夜の戦歴をうちあけ合い、女たちは女たちで自分が一番、安くうまく買物をしたかを探りあうのは無理もない。  われらが同行者には北海道で漁業をやっている兄弟あり、友だちに誘われて婦人会の女グループ三人でやってきた女医さんあり、旅館業者ありで職業も千差万別だ。  世界一周旅行の足ならしにとこの旅行に加わった例の爺さまは驚くほど元気で、一同がウンザリする中国料理をゆっくりゆっくりだが食べられるし、観光バスに乗っての香港九竜一周も休まない。もっともバスのなかでは居眠りをし、坂道をのぼる時は誰かに両側を支えてもらうのはやむをえない。 「おじいさん、元気ですね」 「アー」(耳が遠いのである) 「どうして、そんなにお元気ですか」 「アー、金の儲けかたかい。金は儲けようと思っても儲からんなア。儲けんつもりだと儲かるなア」  このお爺さん、一代で財をつくりあげた人で、先年も福井県のO市に多額の寄付をされたそうである。 「わしは来年、世界一周をやるぞオ」  もしそれが実現されれば、九十五歳の世界一周はおそらく初めてであろう。  マカオはかつて我々の祖先があまた住んだところ、切支丹追放令で追われた日本人たちの墓も、聖ポーロ寺院ちかくの墓地に残っているのだが、日本人観光団たちはみなそこを素通りしてしまう。マカオに来るのは、みなここの公認賭博場で遊ぶためである。  流石《さすが》に爺さま、婆さまたちは疲労の色がではじめ、 「もう二度と外国に行くのはコリゴリだねえ」 「やっぱり、家で寝ていたほうが一番いいわ」  女医さんを入れて婦人会のグループでやってきたというおばさんたちの会話をそれとなくバスの中で聞いていると、ヒソヒソとした声で相談している。 「だけど、家に戻っても、御主人にはたのしかったと、言ったほうがいいよ」 「どうして」 「だってツマラナかったなどと言えば、もうこれから外に出してくれんでしょうさ」 「本当だわねえ。出してくれないと困るから、やっぱり面白かったと言っておこうか」  年輩の主婦たちが友だちだけで旅行するようになったのは結構な話だが、いじらしいほど旅行中にも残してきた亭主に気をつかっているのである。   せまき税関の門  背後の席では例の愛国者だった爺さまが今日はしょんぼり婆さまに叱られている。どうやら原因は爺さまが家族のための土産物の代りに、自分のためのガラクタを買ったためらしい。 「ほんとに気のきかん人だねえ。あんたベッコウ細工なんか日本でも売っているのに、買いこむんだから」 「だっておめえ……日本より安いがナ」 「一万八千円も出して、安いもないでしょ、指輪たのまれていたのが買えなくなったんですよ」 「うーむ」 「もういい加減でガラクタ集めはよしてくださいよ」  ふりむくと、爺さま、片手で顔をしきりとなぜながら憮然《ぶぜん》とした表情で窓外を眺めてござった。  香港、マカオでたいていの人は金を使い果たした上、旅づかれも出たので台北へ赴く飛行機では気勢もあがらぬ。機内でかわされるヒソヒソ話は、もっぱら羽田の税関をいかに切りぬけるかと言うことである。 「俺あ、エロ写真ば買うたとですが、大丈夫ですかい」 「没収はされますが罰金はとられませんわ」 「そうか。靴の中にでも入れたろかい。まさか靴の中まで調べんじゃろうが……」 「一番ええ方法はトランクの上によごれたフンドシや靴下をおいとくことじゃそうな。税関が蓋《ふた》をあけた途端に臭いのがプーンと臭うて、こりゃたまらんともう調べんちゅう話じゃ」  一同、いろいろ、智慧《ちえ》をしぼっていたようだが三日後、羽田についた時、なんと一人の婆さまがエロ写真をかくし、一人の爺さまが申告洩れで目玉のとび出るほど叱られていた。大日本の税関を誤魔化すのは素人にはなかなかできぬのである。  台北はむし暑く、観光バスでまわったあとはもうみんなゲンナリとしておる。それでもまだ余力のある喜多八に無理矢理さそわれて日本のバアともいうべき酒家《チユウチヤ》にいくと、銀座のホステスの数倍きれいな娘たちが日本語でサービスしてくれ、その上、やってきた流しまでがアコーディオンをひきつつ、   あなたが がんだ   ごゆびが いだい  次第にこちらの日本語までおかしくなってホテルに戻ると、どの部屋も、もう真暗、だれもかれもが、この団体旅行に疲れ果てて、あす日本に帰れるのを楽しみに眠りについているのであった。 [#改ページ]  禿げてカツラの緒をしめよ  ハゲに悩む中年男よ。日ごと頭髪の薄くなることに怯える同年輩の読者たちよ。  我々にとっては宇宙ロケットの開発が何であろうか。人工衛星が地球の上をとびかうことが何であろうか。我々は叫ぶ。いかに宇宙が人間の手に把握されようとも、我等の抜け毛を治療すべき特効薬と、我等を脅かす癌《がん》の薬が生まれないかぎりは、文明などクソくらえだ、と。原子爆弾を作ったり、ベトナムで戦争する金とエネルギーがあるくらいなら、ねがわくばこの二つの研究に人類はなぜ全力をそそがんのであろうか。  昨日一本、きょう一本、枕に落ちし抜け毛をば、我が妹《いも》のごといつくしみ思う、とわが国の詩人も歌っておる。くしけずるたびに、この頭から永遠《とわ》に去りゆく毛よ。なれは去《ゆ》きて再び生《は》えぬ。とゲーテも歌っておる(ような気がする)。この悲哀の気持は初老の我々が日ごと切実に感ずる感情である。抜け毛には老いが一歩、一歩、確実に来たという実感がある。   スイスの薬も使用したが  狐狸庵も若い頃は、毛のことなんぞまったく念頭になかった。男子たるもの容貌のことなど気にすべきではないと思っておった。だがもうずっと前、散髪屋に飛びこんで、 「おい、おい、慎太郎がりにしておくれ」  そう言うたところ、せせら笑った散髪屋の親爺《おやじ》から、 「冗談でしょう、この毛じゃア、もうできませんや」  そう憫笑《びんしよう》されたとき、愕然《がくぜん》とした。容貌の変化など、どうでもよし。老いのついに始まったことを感じたのである。  それからながぁい歳月のあいだ、大きな声では言えぬが、これ以上一本の毛も絶対に失わざるため、而《しこう》して失いし場所にふたたび夏草を茂らすべく、あの薬、この薬を使ったもんだ。 「二週間もすれば、チクチクと嬉しい兆候がでてきます」  そういう広告につられて、K会社の薬を頭にふりかけてみたり、 「あたらしく生えるとは断言いたしません。しかし、もうあなたは一本も失わないでしょう」  そんな効能書きのヘア・トニックも使用してみた。スイスの薬で吉田首相も用いていたという褐色の液体、こいつも向うにいる知人にせがんで、ずいぶん、値が張るのを我慢して前頭部にかけてみたもんだ。  そして諦《あきら》めた。駄目だな。今の人類の文明では。ハゲや薄くなる頭は二十世紀の医学じゃァ、克服でけんということが身につまされてわかったのさ。  諦めたというても大悟徹底したわけじゃァない。その証拠には時折たずねてくる若い者《もん》が、タップリした長髪に指を入れて考えこんだり、うつむいた時、それが|※[#「月+咢」]《あご》のあたりまでパラリと落ちるのをみると、妬《ねた》ましいような寂しいような気がこみあげてくるからだ。  散髪屋に行っても当然、話題はその話になる。と、わかったんだな。ずいぶん、拙者《やつがれ》と同じ悩みをもったお方がこの日本におられることが。あの人はそれゆえ、電気療法に通い、他の仁はそれゆえに卵の黄身で頭髪を洗い、それもダメとわかるとベレー帽をかぶるようになったりする。せめて頭を人目からかくそうとする気持になるのだな。  有名な画家のR氏がやはりこの悩みをもっておられたが、某日、講演旅行の宿先で風呂に入ったそうな。ところが時刻が遅かった。宿の女中たちがドヤドヤと浴室に入ってきた。仰天したR氏の友人はパッと前をかくしたが、R氏のほうはなんとパッと頭に手をやった。そんな話を耳にしてもおかしいより、わかるなァ、という気持が先にたつのである。   勘定書はハゲにまわる  ところが、やっと眠りかけたその気持をふたたび、ゆさぶるような広告が近頃、アチコチの週刊誌で目につきはじめたのである。養毛薬や毛はえ薬の広告ではない。カツラの広告なのである。 「あなたの青春をふたたび、とり戻すカツラ」そうした文字の下に滝の白糸型の男の頭と、カツラをかぶったその男の頭の写真が並んで載せてある。それだけならまだいい。業者もこちらの悩みをよく知っておるベテランだ。 「ハゲの方には勘定書がまわります」  そんな見出しをつけるようになった。飲屋や酒場で友人同僚と飲みにいっても、ハゲは一番年上とみられるため勘定書を渡される破目になり、払わんでもいい友人の分まで支払わされると書いてある。それを読んでイヤーな気がした。 「頭髪の薄い方はホステスに嫌われます」  そんな広告も読んだ。御丁寧に銀座のバアのマダムの談話まで載っておって、その談話に曰《いわ》く、「若いホステスたちはどうしてもハゲのお客さまを嫌ってそばに寄りたがらず、本当に困ってしまいます」それを読んだ時もイヤーな気がしたな。  狐狸庵は今のところ全ハゲではない。しかし、老人に白髪型とキンカン頭型の二つがあるとすれば、今後、後者の運命をたどることは必定《ひつじよう》である。カツラの広告を見るたび、 「くだらん。馬鹿馬鹿しい」  そう我が心に言いきかせてはいたが、やはり心にひっかかったことは否めない。  ある長雨の日、思いきって、そのカツラ製造会社にそっと電話をしてみた。ものは試しと思うたからである。好奇心も手伝っておった。「それ行け狐狸庵」という題で原稿を書く以上、全国のハゲに悩む中年男、日ごと頭髪の薄くなるのに怯《おび》える読者のため、人体実験をしてみるのもわが勤めと思うたからである。諸君、感謝せい。狐狸庵は読者のためには千里の道も遠しとせん。  翌日、早速、わが庵に若い青年が鞄をかかえてやってきた。カツラ製造会社の社員である。ジロリ、わしは青年の頭を見てやった。くやしいことにタップリ毛が生えておる。 「それは君の会社のカツラか」  開口一番、こう言うてやった。 「何が、ですか」 「君の頭髪だよ。それは君の会社のカツラかね」 「ぼ、ぼくの毛です」 「ふーむゥ。本物の毛か。君の会社では会社製のカツラを使っておる人がおられるか」  その青年は少し正直すぎた。少し困ったように小声で、 「おりません……」  この答は拙者《やつがれ》を多少、不安にさせた。その会社だって一人や二人の毛の薄くなった社員がおろう。毛の薄くなった以上、彼も我のごとく悩まぬはずはない。それが自分の会社のカツラをかぶらぬと言うのは、そのカツラに自信がないせいではないか、そう思うたからである。 (こりゃァ、やはり買わんほうが、ええかナ)  そう心中、思案しておると、青年は拙者《やつがれ》の頭に突然、セロファン紙をかぶせた。 「何をするのだ」 「頭の型をとるのであります」  そして赤いマジックで頭の天辺《てつぺん》あたりに大きな円を描いている。 「その円をなぜ描くのかね」 「五年後に、おたくさまは……ここまでハゲるからです」  拙者《やつがれ》は驚愕したな。   紙のいらない便器の話  五年後にここまでハゲるとカツラ会社の青年は冷ややかな口調で言う。言われた者の心中に少しの同情もないようである。太いバットで頭を殴られた感じであった。 「それに……」青年は少しためらったが思いきったように、「おたくさまのハゲは我々の間でインワイ・ハゲと申しまして……一番、困ったハゲの形になりそうであります」 「インワイ・ハゲ」 「はァ」  彼の説明によると、ハゲの型にも色々な種類がある。白糸型、薬罐《やかん》アタマ型、天辺グリグリ型、しかし五年後の拙者《やつがれ》のインワイ・ハゲは、後頭部だけに毛が残る形で——それは漫画サザエさんのお父さんや徳田球一のそれであると言う。これは外見、いかにも当人を助平にみせ、たとえば酒場などでホステスの肩に手をやっていても、キンカン頭型ならユーモアがあるが、この型のハゲ男がやると、男がみてもいかにも淫猥にみえるからインワイ・ハゲと普通、言われるのだそうである。 「ふーむゥ」拙者《やつがれ》はふかい溜息をついて、「どうしても、そうなるのか」 「なります」 「防止方法はないか」 「ありません。薬なんか効《き》き目ありませんよ」  拙者《やつがれ》は自分がこの青年のおどしにのったことを感じつつも、心中、多少の不安を消すことが、どうしてもできない。インワイ・ハゲという彼の言葉は、かなり効き目があったようである。  それに……拙者《やつがれ》には新しいものにたいする妙な好奇心があってな。話が少し横にそれるが、二カ月前も、畏友、三浦朱門の話にのって東洋陶器であたらしく作った「紙のいらない便器」を買ったくらいである。これは形だけは普通の便器と同じではあるが、横に小さな柄がついておって、最初、右にまげると、たちまち便器のなかから温水がチューと吹き出て尻を洗ってくれる。  次に柄を左にまげると、ブーッと温風が吹きつけて四十秒後に尻をかわかしてくれる。  拙者《やつがれ》、これを始め、我が家に居候しておるキタハチに使わせてみたところ、キタハチが温水の温度調節をまちがえ、 「アチ、チ、チ、チッ」  便所のなかで玩具の猿のように飛びまわっておった。右にまげすぎて熱湯を尻に浴びせられたのだ。二、三日、可哀想にビッコをひいて歩いておったが、あいつ猿のように尻を赤くしたらしいな。  この便器は食品を手で扱う人や痔《じ》の人には都合がよろしいが、多少の欠点は、尻を乾かす温風が吹きつけるとき、グワォーッとすさまじい音がすることだ。もっとも拙者《やつがれ》はこれを逆利用して、わが庵を訪《おとな》う若い婦人記者などに、 「原稿はお引きうけいたしまするが、一つ、条件がある」 「まァ、なんでございますの」 「わが家の便器で用をたしてもらいたい」  ちかごろの若いお嬢さんは元気ハツラツ、仕事のためなら出したくもないオシッコぐらい出す勇気はあるらしく、 「そのくらいでしたら、いたしますわ」  大学卒の若いお嬢さま、お茶をガブガブ飲み、便所に姿を消す。やがて教えられた通り、操作しておるらしくグワォーッとすさまじい音がきこえてくる。拙者《やつがれ》とキタハチとは肩たたきあって、 「今、あの娘、尻をかわかしておるワ。尻かわかしておるでェ」  笑いころげておることをお嬢さん、一向に御存知ない。かくてこの「紙のいらない便器」によって随分、イタズラでけたもんだ。  どうも話が少し横にそれ落ちた。閑話休題《あだしごとはさておき》カツラのことに戻るといたそう。  こうしてかの青年のおどしにのって、流石《さすが》の拙者《やつがれ》も、 「しかし、他人にばれると言うことはないかな」 「それは絶対、保証いたします」  彼の話によると、有名な落語師匠のK氏のハゲに二、三本、毛があるのもカツラ。コメデアン、T氏もカツラと言うことで、このお方たちは、買いかえをなさるぐらいカツラ党だそうである。 「つくるか……」 「そうなさい」  こうして話はきまった。だが、向うの言い値はかなり高い。 「何しろお客さま、それぞれの頭の形、髪の質にあわせて作っておるものですから」  と青年は、銀の指輪をはめた白い指を組みあわせて釈明した。   三馬鹿大将のような頭髪  一週間ほどたってから、突然、電報がきた。「シナデ キタ ビ ヨウシツニコラレタシ」と書いてある。キタハチにはわからぬようその電報を|たもと《ヽヽヽ》に入れた。やはり恥ずかしいという気持が先にたって、その美容室とやらに出かける勇気がなかなか起きんものである。しかし前金を払った以上、このままにしておくわけにもいかん。ある日、東京に用事をかねてブラリ都心に出たかえり、そのカツラ会社をそっと訪ねることにした。  事務所の扉をこわごわ押して、受付の女の子に電報をみせると、すぐ美容室に入れてくれた。美容室というても何のことはない、小さな散髪室で、回転椅子の前に大きな鏡がついておる。  若い理髪師が拙者《やつがれ》の頭をかりはじめた。かるというても普通の散髪屋のかりかたではない。まず後頭部を少しかりあげ、頭の天辺に四カ所、直径五センチほどの円をつくりはじめた。あれあれ、まるでそこだけ、神経ハゲで毛がなくなったようにみえる。これではとても外も歩けん。仰天した拙者《やつがれ》は、 「一体、どうしようというのだ」 「ここに接着剤をつけましてな、お客さんのカツラをはりつけるわけです」 「なに、カツラをかぶるのではなく、はりつけるのか」 「そうですよ」  やがて乞食の頭のようなカツラを拙者《やつがれ》の頭にかぶせおった。 「これが、俺のカツラか」 「まァ、黙っていて下さい。今、おたくの頭にあうよう、チャチャとかりあげますから」  乗りかかった舟である。もう引くこともできん。黙っておると、バサッ、バサッ、チョキッ、チョキッ、カツラの毛をわが頭にあわせて切っていく。  十分たった。まだテレビに出てくる三馬鹿大将のような頭でさっぱりいただけん。  二十分たった。ふと顔をあげると驚くべし、鏡のなかには今から十五年ほど前の、頭髪ゆたかだった我が顔がうつっておるではないか。だが、額のはえぎわ——つまりカツラか、ほんものの毛かが区別されるはえぎわがズーッと一直線で、 「君ィ、これじゃァ、すぐカツラとわかるじゃないか」 「そう、急がせないで下さいよ。お客さんはせっかちだな」  どうするのかと見ていると、はえぎわの毛を櫛で少しずつ額に垂らすのである。 「どうです。わからんでしょうが」  うむ、とうなずいたが、カツラかな、本物の毛かなという危い一線のような気がする。 「しかし、風が吹いたら、飛ばんかね」 「飛ぶ?」理髪師はせせら笑った。「当社では、オートバイにカツラをつけさせた人を乗せて実験しているんですよ、それでも飛んだことはないんですぜ」  風呂に入っても、そのまま寝ても大丈夫、と彼は自慢した。東京にだってたくさんうちのカツラをつけている人がいる。当人が黙っているからわからないだけだと付け加えた。   目が覚めてみたら真っ暗闇  金を払って外に出た。照れくさいような阿呆らしいような、そして気づかれはせんかという不安で、夕暮れの銀座を歩いてみたが、誰もふりかえらぬ。夕闇のせいかもしれぬ。  そのうち大胆になってきて、灯のあかるくともる資生堂のパーラーに入って、アイスクリームをたべてみた。誰もこちらを見ない。 (なぜ、こんな便利なものに……早く気がつかんかったのか)  長い間、養毛薬を無駄に使っていた我が身が馬鹿馬鹿しくなってきた。  家に戻るとキタハチが変な顔をして人の顔をみる。彼の場合は仕方がない。毎日、みなれていた拙者《やつがれ》の頭に突然、毛がふえたのだから。 「馬鹿なことをする人だ」キタハチは情けなさそうな声でいった、「あんた、自分の年を考えなさい」 「考えたから、こうしたんだ」 「毛の薄いことは、道徳的に恥ずかしいことじゃありませんぜ」  拙者《やつがれ》はウルサイと怒鳴り、そのままゴロリと横になった。  何時間たったか知らん。目がさめたのは頭がひどく痒《かゆ》くなったからである。そのときはカツラのことを忘れていた。自分がきょうカツラをつけたことは意識の外にあった。そこで手を頭にやってゴリゴリと掻いたのであるが、はて面妖な、自分のものではないものに手があたっている感じである。 (何だ。これは……)  そしてアッ、俺はカツラをかぶっていることをやっと思いだした。思いだしたが、もうどうにもできん。頭は痒くても掻くことさえできない。カツラでむれて、このように痒いにちがいない。  次に目をさましたのは、また時間がたってからである。ずいぶんながく眠ったものだと思ったのに顔が重く、真っ暗である。まだ、夜かと思ったがそうではなかった。  何と……カツラの四カ所のうち三カ所の接着剤がとれて、一カ所だけぶらさがったまま、わが顔に覆いかぶさっていたのである。  拙者《やつがれ》はびっくらして、その一カ所を剥ぎとろうとした。ところが、ここの接着剤だけはタップリついていたとみえ、 「い、て、て、て」  思わず悲鳴をあげるほど、本物の毛まで強く引っ張り、どうしてもとれん。キタハチ、来てくれいと叫び、キタハチにたのんで引っ張らせると、ジャリと音をたてて大事な地毛が五本も引きぬけた。 「い、て、て、て、て」 「いてえじゃありませんや、困った人だ」 「オートバイで実験したが、飛ばんなどと言いやがって」  拙者《やつがれ》は怒ったが、もう、どうにもならん。カツラをかぶらねば、接着剤をつけるべく、かりこんだ四カ所のまるい大きなハゲが、丸見えだからである。 「俺はきょう、行かねばならぬ会がある。どうしよう」 「どうしようもこうしようもないでしょう。もう一度、カツラをつけるより仕方がないですワ」  キタハチに手伝わせてカツラをつけてみると、不器用者の哀しさ、場所が昨日とちがったところに接着剤を塗ったため、凸凹のカブトのような頭になってしもうた。 「情けない、これでは外にいけん」 「しかし、もう取るわけにはいかん。取ればまた地毛が五、六本は抜けますぜ。それでもいいですか」  ただでさえ少ない毛を六本もぬかれてたまるものか。情けない気持で凸凹のカブトのような頭のまま、東京のある会に出た。   凸凹カブトを叩いてみれば  その会には石坂洋次郎氏のような大先輩やわが恩師、佐藤朔先生も来ておられる。佐藤教授は、拙者《やつがれ》の頭を見て、まこと怪訝《けげん》そうな目をされ、じーっと注目されたままである。それはそうであろう。凸凹カブトをかぶったような頭に拙者が早変りをしたのであるから。  会の間、頭が痒うてならぬ。掻いても意味のないことがわかっておるから、首ばかりしきりに動かしておる。  会がすんで逃げるように外に出ようとすると、意地わるなOという先輩がうす笑いをうかべて拙者《やつがれ》の横によってきた。 「カツラだな」  小声でいやみを言う。 「カツラだろ」 「は?」 「カツラだろ」 「わ、わかりますか」 「あたり前だ」  この先輩の説明によると、蛍光燈の下では、生命ある本当の毛と死んだカツラの毛とでは色のちがいがはっきりわかる。色がちがっている上に、凸凹カブトのような頭では一目で見ぬけたそうで。残酷なことにはこの先輩、平手で拙者《やつがれ》の頭をポンと叩いた。するとボコッという音がいたしました。  その夜、カツラを力まかせにはぎとり、押入れに放りこんでしもうた。以来、一度も使用したことがない、やはり髪の薄きは耐えるより仕方ないものでござる。 [#改ページ]  暗愚等《あんぐら》にアングリ  拙者《やつがれ》が東都のスモッグと喧騒を厭《いと》うあまり、ここ柿生の里に狐狸庵なる草庵を編んでもはや六年の歳月が流れた。もはやここを永住の地と定めたのではないが、春ともなればツクシ、レンゲに埋《うず》まり、秋ともなれば柿の実たわわに村里を飾るこの土地はわが風流心を大いに唆《そそ》り、時たま野暮用《やぼよう》にて東都に赴くことがあっても、用すめば逃げるがごとく引きあげるのが常であった。多摩川をこえれば、ここがすべての国境《くにざかい》かと思われるほど、吸いこむ空気までも甘く、おいしく、まるで故郷《ふるさと》に帰ったごとくホッとするのである。  だが老年の一年は若人の一年とはちがう。居を変えてこの六年、拙者《やつがれ》も更に老いた。 「少年老イ易ク学成リ難ク、老人、更ニ老イ易ク、厠《カワヤ》近クナル也」と古人も言う通りである。拙者《やつがれ》もしみじみ、眼の遠くなりしを歎き、物の噛めざるを歯痒く思い頭髪の薄くなりしことに苦しむことしばしばであったが、それよりも「老いたな」と感じたのは好奇心の失せたことである。  若かりし頃から壮年を終えるまで拙者《やつがれ》に最も旺盛なのはこの好奇心であった。むかし渋谷に寓居《ぐうきよ》していた頃は、隣家に夫婦喧嘩あればその垣根の裏にしゃがみこみ、「このアマ、殺シテヤル」「サア、殺セ、殺セエ」という怒号、悲鳴を満面笑みを浮かべて聞き入り、「もっと、やれ、もっと、やらんか、イヒ、ヒ、ヒ、ヒ」とほくそ笑み、三軒先きに引越しあれば、二日を待たずしてその家族の数より、主人の職業、女房のゼンソク、出戻り娘のあるやなしや、まで調べあげチビ筆なめつつ「狐狸庵日乗」に書きこむのが常であった。  その好奇心が二、三年、とみに衰えた。出無精になった。人間のすること為すことすべて同じよ、今更、見ることもなしという物憂い気分の先にたち、何が起っても我関セズエン、ゴロリと手枕で惰眠を貪《むさぼ》るが何よりも楽しみというまことに情けない有様である。  ところが、読者諸君《あんた》。  風の便りにきけば昨今の東都ではアングラなるものがはやり、サイケデリックなるものが風靡《ふうび》し、若者たち、いずれもこれにかぶれ、何やら「トランプの王様」がごとき頭髪をなし、蚊とんぼにも等しき体に散髪屋の広告棒にも似た赤青ダンダラの洋服をきこみ、「ボークは村中で一番モボだと言われた男」とばかり低き鼻ひこめかしておるとか。  好奇心失せるは老いのはじまり。いや、それよりも筆とる者にとって一番の大敵は「見ざる、聞かざる」である。そう思うたから某日、喜多八を伴うて、小田急に乗り、新宿を散策してみて、いや、はや、驚いたな。武蔵野館裏よりそれに交錯する通りにかけて、右を向いても三馬鹿大将、左を向いてもトランプの王様。どいつもこいつも死んだ大辻司郎を無精にしたような頭髪に大きなネクタイをしめ、中には痙攣《けいれん》したごとく体を左右に動かしながら歩いておる者もいるので、 「あいつ、ヨイヨイかな」  拙者《やつがれ》もいささか仰天して、身体痙攣の青年を指さすと、喜多八、 「ゴーゴーリズムをとりながら歩いておるのだ」  この時代遅れが……と言わんばかりに舌打ちをする。 「アングラとは一体、何だ」 「アングラとは地下芸術という意味のことッ」 「サイケデリックとは何だ」 「サイケデリックとは幻覚芸術という意味のことッ」  喜多八は吐き棄てるように言うだけで、拙者《やつがれ》にはさっぱり、わからん。とも角、その夜は、現在の最もモダン青年になるためには、  (1) 三馬鹿大将のごとき頭髪をなすこと  (2) 服装はロビン・フッドのモモ引を思わせる原色、細身のズボンをはき、うすぎたなき上衣を着用すること  (3) ダンス、もしくは歩行に際しては、電気按摩にかけられたごとく、手足を左右に痙攣さすこと  以上の三点であることを大体、知ったわけであった。   全員これ中風かヨイヨイ  喜多八をして言わしむれば、アングラといいサイケデリックといい、共に「既存の芸術、価値、習慣に挑む」ことだそうであるから、いわば中国の文化大革命みたいなものであろう。そこでこれらアングラ青年たちが何をなし、何を考えておるかをいよいよ、この眼で見物したい気になった。  で、日を変えて、今度はひとり、こっそりまた新宿を歩いてみた。 「なに、アングラの連中をみたい」通行人の一人は拙者《やつがれ》をいぶかしげに眺めて、「そんなら、奴等の溜り場に行きなよ。溜り場に」  溜り場の一つというのは新宿歌舞伎町にあるその名も「アングラ」なる地下酒場だそうで、そこにはアングラ連中がウロウロいるそうである。  いや、ウロウロどころではなかった。芋の子を洗うように連中が集っておった。何をしていたかと言えば、諸君、百のバケツをガンガン、グワン、グワン叩きまわったような喧騒きわまる音楽をならし、電気按摩にかけられたごとく手足を痙攣させ、首を左右にふり、音楽やむやコカコーラ飲み、音楽はじまるや手足を痙攣させ、全員これ中風かヨイヨイのごとき動作をしきりにしているのであった。 「うーむ」  拙者《やつがれ》は何が何だかワケがわからず、あわてて便所にかけこむと(あの音楽は腸をダドウせしむるに効果あるらしく急に下痢気味になってきたのである)なんと諸君、この便所のなかで三馬鹿大将がごとき頭髪の男が、キューピーみたいな少女とキッスしておるのである。拙者《やつがれ》は憤然とした。拙者《やつがれ》といえど木石ではない。酸いも甘いもかみわけた老人である。青年男女、相愛すればキッスぐらい当然のこと。しかしねえ……何もあんた、臭い便所のなかでせんでもよろしかろ、拙者《やつがれ》が横で仰天して彼等をみていても、彼等は平然とキッスをしておるのである。それはよろしい。その時、大便室の扉からブブッと放屁の音がきこえてきたが、この二人、それも平気でキッスしておるのである。  拙者《やつがれ》はびっくりしてここを出た。そして考えた。今みた連中はエピゴーネンにちがいない。拙者《やつがれ》、若かりし頃、仏国に留学しておったが、当時はサルトル先生の実存主義大流行の頃で、サン・ジェルマンの通りをあるき酒場を覗くと、異様風態の連中がおどり狂っており、「虚無《ネアン》」だの「|実 存《エグジスタンス》」だの酔うてはわめいておったが、これらはみな片々たるエピゴーネンにすぎなかったな。  そこで拙者《やつがれ》はこの連中も真のアングラ青年に非ず、本物は別のところにおるに違いない。そう思うたからふたたび通行人に問うと、 「アングラの芝居みなくちゃ、アングラわかんねえよ。なァ」  都電が歌舞伎町方向にまがるあたりに地下劇場があることを教えてくれた。  諸君、八百円もとりおったのよ、この地下劇場は。劇場というても客席は二十そこそこでな。八百円もとりおるのに三分の二は客が入っておる。中年男あり、靴下の裏の臭そうな青年あり、いずれも温和しゅう幕のあくのを待っておる。出しものは「深夜の黒ミサ。赤ん坊を食う男」という鬼面人を驚かすものだが……なあに、幕があいてみればドサ廻りの芸人も辟易《へきえき》するような下手糞な演技で、経《きよう》帷子《かたびら》を着た男が経を唱え、赤坊にみたてたキューピーを包丁で切る真似などなし、ウインナソーセージをパクパク食うだけで、よく(八百円をとられた)客が怒らない。  なぜこれらの客が怒らんかと言うと、なんとそのあとでストリップがある。それも四人のストリッパーが二十しかない客席におりてきてな、助平そうにニヤニヤしとる客の膝に腰かけるわけで……拙者《やつがれ》のそばにも二、三度きおったので無礼者ッとばかりハッシと睨《にら》みつけてやったら、女は眼をそらせて別の男の膝にまたがりおったよ。  その時、突然、脳天だけに妙チクリンな髪を残した人が舞台にたち、 「みなさん。現代のゲージツをどう考えておりますか」  と呼びかけた。この人、マズラ・リューダンというアングラでは有名な画家だそうで、ストリッパーも客にむかい、 「あんた、現代のゲージツについてマズラ先生にききなさいよ」  としきりに言うが、客席のオッサンたちは迷惑そうな顔をするばかり。連中、本心はストリップをみに来たのだが、異様な頭の先生に芸術何ぞやといわれて当惑するのはあたり前。拙者《やつがれ》も隅で小さくなっておりました。  マズラ先生、客席が沈黙を守っておるので、 「あのね、現代の芸術とはね」  ストリッパーの一人をよび、これにお猿の面をかぶせ、チュッとキスをする真似をして、 「この感じね。この感じ、わかるでしょ。これが、現代の芸術の方向。わかる?」  客席ただキョトンとして困惑げな表情でうつむく。拙者《やつがれ》も何やら、腹具合がわるくなってまいりました。柿生の里に戻って、喜多八と議論をしました。 「アングラが爺さんに、わかったかね」 「アングラとは暗愚等《あんぐら》のすることと、おぼえたり」 「なに、暗愚等《あんぐら》」 「そうよ、辞書に曰く、暗愚《あんぐ》とは智に暗く、才に鈍き物、その連中、暗愚等とよぶ」   �発糞人のことか�  もっともアングラのすべてを暗愚等とよぶのが不公平なのは拙者《やつがれ》といえどもわかっておる。たとえばその後、駒場の小さな喫茶店の二階でみた劇団駒場の芝居「僕のモナリザ、まぬけ大通り」には、老いたる拙者《やつがれ》といえどもその才気に感心したのであった。演技はまだ拙劣、発声の訓練いまだ未熟であり、   キンタマのスピリット   キンタマのスピリット  などと大声でわめきながら、おカグラのごとくおどり狂い、埃《ほこり》もうもうとして甚だ拙者《やつがれ》には迷惑であったが、この叩きつけるような早口の台詞《せりふ》のいいまわしや、今までの対話や言語をフンサイせんとする試みは拙者《やつがれ》にだってかなりわかり、二時間のあいだ飽きず、作者で演出をやった芥正彦なる青年の才気に大いに感心はした。例のストリップにまじえた「深夜の黒ミサ」芝居などと質のちがうことは勿論である。  しかしだな、この戯曲をふくめて、アングラなるものには、「独りよがり」のところがある。わかっておるのは作者だけ。観客には何が何だか、意味不明瞭なことばかり。やっておる俳優もおそらくチンプンカンプンなのではあるまいかと疑われたので、拙者《やつがれ》は喜多八に、 「アングラは暗愚等なり」  というのだが、喜多八に言わせると、 「爺さんの頭がふるい。コチコチだ。あの反逆精神がわからん」そうである。  しかしなあ、既成の道徳、芸術に反抗すると自称するこれら三馬鹿大将的頭髪児が、あと五年もしてごらん。おとなしいサラリーマンになり変るから。でなければ毒にも薬にもならんホーム・ドラマをテレビ局に持ちこむであろうから。ちょうど戦前、弊衣破帽で、足もとまで届くばかりに髪をのばし、鼻緒ふとき下駄をはいて「俗世間への反抗」と称していた旧制の地方高校生が大学に入るやたちまち、ポマードつけて髪をわけ、ズボンの線を気にしはじめ、会社に入って上役にペコペコするというケースと全く同じなのである。だから、狐狸庵、アングラを暗愚等とからかうが、決して悔蔑しとるわけではない。若い頃にすることは、時代と形がちがってもいつも同じことなのさ。  しかし暗愚等はとも角、ハップニングというのは阿呆のすることだナ。拙者《やつがれ》ははじめこのハップニングなる言葉を喜多八から耳にした時はようわからず、 「なに、発奮人《はつぷんにん》。発奮して大いに努力せんとする若人の集りか。それならば偉い。見あげたものである」  と言うて、感心したのだが、これは恥ずかしや、拙者《やつがれ》のあやまりであった。発奮人どころか、こいつ等のすることは、下ばきもはかずダラリとチンチンまる出しで白昼の町を歩いたり、尻の穴に蝋燭を突っこんでおどり狂ってみせたり、あるいはまた子供を背中にゆわえて、犬のごとく四つ這いになって這いまわり、子供は、 「お父ちゃん、嫌だよー。おろしてよォ」  と叫ぶが知らん顔であったり、これらの手合を発奮人とはとても呼べぬということがようわかった。拙者は見にいかなかったが、某日、某所で行なわれたハップニング大会では、おのが糞をば皿にうけて、それを団扇でパタパタと観客にむかって、あおいだという男もいたそうで、拙者《やつがれ》のわからんことは、この男よりも観客の心理だがナ。高い金を払って人の糞の臭いをかぎにいく連中の気持が、諸君わかりますかいな。  喜多八「ハップニングもまた現代にたいする反抗である」  狐狸庵「糞をへるのが現代反抗なら、万人みなやっとるが。うーむ。わかった。ハップニングとは発奮人にあらずして、発糞人《はつぷんにん》のことか。それなら、わからんでもないが」  拙者《やつがれ》こころみに、新宿をうろつく女の子たち(これらの女の子も、得体のしれん乞食風態であったが)をよびとめ、 「ハップニングとは何ぞや」  と問うと、 「衝動的芸術のことよ。現代人の革命だわ」  なんやらムツかしい返事をしよる。 「しからば君はだな、糞をばへって、それを皿にもり、団扇でパタパタと、君にかがせるような男を愛するのか」  そう問うと、イヤーねえ、下品ねえと笑いころげ、そんな男とはとても結婚できんとハッキリ返事をしておった(このインタヴューは四月二十八日、午後八時二十分、新宿、武蔵野館ちかくで行なわれた)。ここから考えると、若い連中もハップニング是非について、かなり仲間割れをしておるらしいのである。   年寄りの冷や水だ  若者の流行は蜥蜴《とかげ》の尾っぽの如きもの、消えたと思えばまた現われるな。暗愚等《あんぐら》に、発糞人《はつぷんにん》の次には今度はサイケデリックである。喜多八にたずねると、これは幻覚芸術とかいうて、薬をのむと、さまざまな幻覚、さまざまな複雑な色が出たり、ぼやけたり、絡みあったりするが、サイケデリックはこの感覚で万事をたのしむことだそうである。  サイケデリックの会はないかと人に頼んでおいたところ、その会がやはり新宿のキャバレーで行なわれるという。何でもその会は男性ヌード・コンテストを兼ねてやるそうで、どうやら某映画の宣伝もかねておるらしい。  雨ふりの日であったが庵の戸をとじて、とも角も見物にでかけることにした。会場のキャバレーはやはり歌舞伎町の一角で、いや来ているわ、来ているわ、カメラかかえた雑誌記者やデンスケもった放送局員までおすな、おすなのにぎわいである。若い娘たちもかなりいたが、こいつら男の裸にそんなに興味があるのかしらん。  ごったがえした見物人が吐きだす臭気のなかで相も変らずガンガン、グワングワン、例のバケツ叩きまわったような音楽なりひびき六十五歳の拙者《やつがれ》は頭が痛うなって隅でしゃがんでおりました。観客たちはその拙者《やつがれ》を、 「この爺さん。どうして来よったか」  そんな眼でジロジロみておる。喜多八が心配して、 「爺さん。年寄りの冷や水だ。爺さんのくるとこじゃない。帰んなさい。帰んなさい」  そう言うてくれるが、ナニクソ、若い者にまけるかと我慢しておった。  バケツ音楽がものの半時間もなりつづけたあと、六、七人のうす穢《ぎたな》い青年モソモソとあらわれて舞台の上にならび、モソモソと身につけたものをぬぎはじめた、筋骨逞しいと言いたいが、どれもこれもあまり風呂にも入らんような痩せこけた体に……あんた、女子のきるようなピンクのパンツをはいておる。それがさすがに照れくさいのか、ニタッと笑って舌なめずりしたり、虚空の一点を凝視して恥ずかしさをかくしたり、中には挑むように例の電気按摩的身ぶりをひとりやってみせたりして、いやもう、薄気味わるいたらありはせん。この連中の裸をみにきた若い娘の心境が拙者《やつがれ》にはさっぱりわからんな。  ビニールの大きな筒を主催者がはこんでくると、これらの痩せこけたピンクパンツの男たちがその上を転げまわる。それを断続的に照明が照らす。ちょうど活動写真のコマオトシみたいに見えるだけだ。 「これが……サイケデリックか」  拙者《やつがれ》、あまりの愚劣さに呆れ果てたが、観客の中には、 「ヨッちゃん。ヨッチャン、パンツぬいでエ」  裸の青年にそう声をかけている連中もかなりいたな。すると諸君、この青年はニタニタと笑うてピンクのパンツに手をかけようとする。さすがに主催者がとめておったが。   馬鹿モン、シッカリセンカ  拙者《やつがれ》、もう頭も痛く、腹も痛く、観客のうしろでしゃがみこみ、ウンウンうなっておりました。これが現代の価値、モラル、芸術にたいする抵抗だとすると、老いたる拙者《やつがれ》にはさっぱり理解でけん。拙者《やつがれ》がわるいか、この連中がわるいか、ただもううら哀しく、うら寂しくさえなってきた。拙者《やつがれ》は突然これらの連中を圧倒するほどの大声で「馬鹿モン。シッカリ、センカッ」そう怒鳴りたくなってきたわ。  喜多八「爺さん、わかったか」  狐狸庵「ウーッ、ウーッ」  喜多八「どうした、爺さん。またお腹が痛いのか」  狐狸庵「便所はどこだ。わしはこういうものをみると、下痢を催しそうだて」  喜多八「実に変な条件反射だな。ふしぎな爺さまだ」  喜多八に助けられて便所にいき、やっとホッといたしました。拙者《やつがれ》、そこで思いついた。 「なるほど。サイケデリックとは最下出痢苦と書くのか。どうりで下痢を催すのも無理ないて」 [#改ページ]  ビートルズの忘れた下着  私はテレビが好きだ。見るだけではなくテレビに出るのも好きである。  なぜ、好きなのか、と言われると困ってしまう。好きだから好きと答えるより仕方ない。多摩川の川原に行くと、よく模型飛行機をとばしているオッさんがいるが、そのオッさんに、大人のくせになぜ模型飛行機など好きなのかとたずねたならば、オッさん返事に窮するだろう。   原節子に出した手紙  なにしろテレビ局に行けば、色々な俳優に会える。歌手の顔も直接みることができる。それだけでも面白い。そんな人がテレビ局の廊下を宣伝部の人やマネージャーや付人つれて歩いている。スタジオの隅でコカコーラなんか飲んでいる。それを見たくないと言う奴はよほど気どった人間で、普通の男ならきっと見たいと言うにちがいない。  女優や歌手にサインをせがむと、その大半は自分の名前は達筆で書いてみせるが、こちらの名は実に下手糞な字で書く。小学生の金釘流の字と言っていい。自分の名のサインだけは一気に、みごとに書いているだけにこの字との対比が面白い。  連中と会ったあと、一目散に映画館に駆けていって彼女たちの出演している映画を見るのもいい。一時間前、スタジオで煙草を横ぐわえにして不機嫌な表情で、付人に自分の髪をなおさせていた女優がスクリーンでは、しとやかで清純で心やさしい娘を演じている、それが実に面白い。断わっておくが私は彼女たちを批判しているのではないのである。むしろ俳優というものは、できるだけ自分の素顔を大衆にみせてはならぬものだと考えている。|作られた自分《ヽヽヽヽヽヽ》に一生、生きてみせるなんて実に面白いではないか。  私はまたテレビ局の周りにウロウロ集まる連中が嫌いではない。テレビ局の前の喫茶店などにはよくサングラスをかけ、髪の毛を赤くそめた女の子が腰かけているが、この連中は必ずしも女優ではない。女優の真似をしてテレビ局のまわりをウロついているのである。むかし一高に何年たっても入れない浪人が一高に憧れるあまり、その服と帽子とをかぶって駒場のあたりをウロつき、つかまった話を当時、一高の学生だった兄に聞いたことがあったが、私はその時もこの浪人君のいじらしい気持が何だか憎めん気がしたものだ。テレビ局の近所にある喫茶店やスナックバーにじっと腰をかけているとよくこの種の女の子があらわれる。  それから学校の引け時になるとテレビ局の前に女子高校生が四、五人じっと立っているのを見かけることがある。彼女たちは憧れの歌手や俳優が局から出てくるのをじっと辛抱づよく待っているのだ。 「よう、頑張れよ」  私は女の子たちの肩をポンと叩いてやりたくなる。私も同じ年齢の頃は、(テレビこそなかったが)桑野道子や嵐寛寿郎に夢中になり、そのブロマイドを買い集めたり、せっせと手紙を書いていた記憶があるからである。日曜日になると自分で作った地図をもって成城学園をウロウロと歩きまわったものだ。俳優たちの家を見物して歩いたのである。今は姿を消してしまった原節子に手紙をだし、「撮影所を案内して下されば、慶応予科祭の切符一枚をさしあげますが」  と書いたが、これにはついに返事がこなかった(今、考えると返事が来ないのもアタリマエの話である)。   ハゲ|※《ヽ》にケチン肪《ヽ》  私がこれらの俳優テンプラや、女子高校生に親愛感を感じるのは、自分のなかに今なお、ニキビ華やかなりし頃のミーハー感情が残っているからであろう。いや残っておるどころかこの年に至るまで、それは少年時代の頃と全く同じように生きているからにちがいない。  だが読者諸君《みなさん》。みなさんにだって私と同じ心の方が沢山いらっしゃるのじゃないのか。私は岸恵子と握手をしてもらったある新聞記者が三日間、風呂に入らなかった事実を知っているし、また彼の友人たちが、 「その手に、俺もさわらせろヨ」  そう言って岸恵子と握手した彼の手に更にさわっている場面を見たことがある。私はそういう人が好きである。ミーハーであることは諸君《みなさん》、何も恥ずかしいことではないぞ。それはエラいことではないかもしれんけれど、他人の幸福をねたんだり、悪口を言ったりするような精神よりは、はるかにましである。  だが我々の時代のミーハーはせいぜい、俳優にファン・レターをだしたり、ブロマイドを机上に飾ったり、欠かさずその方の主演する映画を見にいったりするぐらいだったが、近頃のミーハーはそんなことでは満足しなくなってきた。  私はいつかビートルズが来た時、その公演を見にいって、自分の髪の毛を引きしぼりながら半狂乱になってわめいておる女の子たちを見て、流石にびっくり仰天したことがある。彼女たちの中には興奮のあまり失禁した者もいたそうで……つまりおシッコを場内でたれ流したのである。  そういう事実を知りながら、私は先日、テレビでうかつなことをつい言ってしまった。それはちょうど歌手兼女優の小川知子さんと話をしていた時であった。ちょうど、その頃の週刊誌にこの女優がグループ・サウンズのジュリー青年と恋愛しているというゴシップが載せられていた。本当ですかと訊ねた私に、眼のクリクリした女優はウソですよと答え、私は、 「ところで、うかがいますが? 僕にはあんな三馬鹿大将のような髪をした人たちの音楽がよくわからんな。あれをきくとバケツをかきまわしているみたいに思えるのだが……」  私としては実感のままに言ったのであるが、それを耳にしたディレクターの顔が真蒼になって、 「えらいことを言ってくれましたワ。ファンの女の子たちがどない騒ぎだすやろ」  結果はこのディレクターのおびえていた通りで、私の失言は十代の女の子たちの怒りをかったのである。電話はかかってくる。憤激の手紙も舞いこんでくる。残念ながらその字の金釘流にして、誤字脱字の多いこと、微笑ましいくらいである。なかにはカミソリの刃まで入れてあって、 「このハゲ|※《ヽ》(豚の字のつもりならん)よくもあたしのジュリーの悪口いったわね。目《ヽ》分は(自分はのつもりならん)ハゲ|※《ヽ》の色きちがいじゃないの。あんたなんか、もうすぐ官《ヽ》桶(棺桶の字のつもりならん)に足つっこむんだからその前にこのカミソリで死んじまえ、あんたなんか   一、ハゲ|※《ヽ》   二、色キチガイ   三、ケチン肪(ケチン坊のつもりならん)   四、バカ」  これは原文をそのまま筆写したものであるが、ハゲ※、バカはいいとしても、色キチガイにケチン坊とはどういう根拠で言ったのかさっぱりわからん。私はもとより木石ではないが、それほど色キチガイとは思っていないし、また人並みに金も使うほうである。  しかし私はこういう女の子は嫌いではない。手紙を読んでいて可笑しくて仕方がない。彼女が目を三角にしてプンプン怒っている表情が眼にみえるようだからだ。もし彼女が自分の一番小さい妹ならば「まあ、そう怒るなよ」と肩の一つも叩きたいくらいである。   マルさんのハンカチ  有名な宝塚スター、マルさんこと那智わたるさんとつい、この間、テレビで対談した時はもっとすごかった。私は約束の時間より十分前にテレビ局についたのだが、いつもと違って女の子が三十人ぐらい立っている。 「あんたたち、誰を待っとるのかね」 「マルさんよ。きまってるじゃないの」  既に目を三角にして興奮しているのである。その日は録画であってナマ放送ではないから、彼女がここに来ることは新聞のテレビ番組をみたってわかるはずはない。局の人もそんなことは洩らさないのに一体、どうして那智嬢のスケジュールを女の子たちが知っているのか、ふしぎなくらいである。 「五十円だしたら、マルさんのサインもらってやるぞオ」  と私が冗談で言うと、 「もらってエ。五十円だす。五十円だすから」  眼鏡をかけた女の子に私は胸ぐらをつかまれ、本当にびっくりしてしまった。 「じゃあ、俺のサインでダメか」 「あんたのなんか、百万円もらってもいらないわよッ」  私はチェッと舌打ちをし、はなはだ面白くなく、その日はスタジオで那智さんと話をしても心浮き浮きしなかった。頭のなかで、さっきこの我輩を馬鹿にしおったミーハーめのことがひっかかっていたからである。ふと見ると那智わたるは話しながら、ハンカチをさかんに手でいじっている。よし、このハンカチをもらってあいつらに悪戯をしてやれと急に思いついた。そして彼女にすまんがそのハンカチをくれんですかと頼むと、これはきたなくて恥ずかしいわと答えながらも、そこは宝塚一の大女優、笑いながら、香水の匂いのするハンカチをくれた。  対談終ってこの女優より三分おくれて玄関にでると、今まさに那智さんのお帰りで、諸君、なんと、先程、我輩を馬鹿にしおった女の子たちは二列に道の両側に並んでお送り申しあげておるのである。局でよんだ黒いハイヤーに乗った彼女はまるで美智子妃のように小首をかしげ微笑みながら手をふる。と、キャッ、キャッと高崎山の猿類のように叫びながら、女の子たちも手を交互にふり車のあとを必死に追いかける。車が消えたあとも唸りながら手をふっておる、そしてそのまま帰ろうとする。 「こらッ、待てッ。待たんか」  背後から私は大声で怒鳴ってやった。駆けていた一同、キョトンとしてこちらをふりむいた。 「君たちはなにか? 那智わたるは送るが、このぼくは送らんというのか」 「オッちゃんを。嫌やわ。ほんまに。ああ、おかし」  関西から来た子らしく、向うの言葉で嘲笑すると、他の連中も、ほんと、ほんとよね、と同調するのである。私は彼女たちの顔をしずかに眺め、冷静な声で、諸君、こう言うてやったのさ。 「嫌ならいい。送らんでいい、しかしだ。ぼくを送った人にはこの那智わたるのくれたハンカチをやるつもりだったのだ」  すると一同は|しーん《ヽヽヽ》と静まりかえったが、さっきの子が、 「嘘や。那智わたるのハンカチやあらへん」 「嘘と思うならそれもいい。だが嘘かね、テレビ局の人」  私は背後に立っている局の人たちをふりかえった。いいえ、本当ですよとこの人たちは口をそろえて答えた。 「ぼくを送った者にこれをやるつもりだったが……」私はわざとポケットにハンカチをしまい、「どこかに捨ててくると、するか」 「送るゥ。送るゥ」彼女たちは雀の子供のように大口をあけて叫びおった。「おじさん。送るからマルさんのハンカチ頂戴、おねがい」 「ようし。なら、那智わたるの時と同じように道の両側に二列に並べイ」  女の子たちはさきほどのごとく両側にズラリと並んだからこっちは可笑しくって仕方がない。 「俺の車が通ったら、キャーッ、ステキーとさっきみたいに叫ぶんだぞ」 「そんなの、アツかましいわ」 「そうか、そうか。それならな、ハンカチ捨ててくるがな」 「叫ぶゥ。叫ぶゥ」  残念なことに局の人は那智さんには黒塗りのハイヤーを用意したが、私には百円のタクシーをつかまえてきた。 「運転手さん、ゆっくりやってくださいよ」  運転手氏も悪戯心あるらしく私の説明をきくと、 「承知しました。面白い。これは愉快だ」  かくて私を乗せたタクシーが両側に女の子たちのズラリと並んだ真中をゆっくり走り、 「こら、すてきイとかキャーとか言わんかい」 「すてきイ」 「キャー」 「どうも声に力がないぞ。もっと気を入れて叫んでみんか」  車の窓から那智わたるのハンカチをばヒラヒラさせると、「すてき」「キャー」力なく仕方なしに叫んでいる。通行人たちはそれをみ、狐狸庵すごく若い女の子に人気があると思ったでしょう。そこでハンカチを放りなげるとバッタのように駆けて取りあいをしていたが、那智わたるとはなんと人気があるものか。   「さゆり」にみるファン気質  私は吉永小百合さんのファンだが、それよりもこうしたミーハー君たちに親愛感を感ずるゆえにそのファン・クラブに入会している。これに入会すると、百合の花のバッジや吉永小百合の写真が入った手帳などをくれるほかに、毎号「さゆり」という会報をくれるが私はかかさずその会報のファンの頁を読むことにしている。 「昨日、紅白歌合戦の出場者が発表されましたが、その中に小百合さんの名前がありません。私はこのニュースを聞いた時、畳にガバと伏して泣きだしてしまいました。くやしくて夕飯も喉に通らず涙があとからあとから流れました。小百合さんは今頃、どうしていらっしゃるだろうかと思うと夕べはなかなか寝つかれませんでした」  こういう手紙などはいくつでもその会報に載っている。愛するスターのためにガバと畳に伏して泣き、夕飯も喉に通らぬほど悲しみ、今はどうしていらっしゃるだろうかと悲しむ気持は愚かだといえば愚かだが、何ともいえずいじらしい。私はこういう少女の顔を空想し、こういう少女の人生を想像すると、なんともいえぬ親愛感を感ずる。そしてスター諸君がこういうファンこそ心から大事にしてやってほしいと思わざるをえん。  大事にしてやってほしいと言っても、スターたちは毎日ドサッとくるファン・レターにひとつひとつ返事を書いていたらきりがないだろう。そのファンの中には熱狂のあまり表札を盗んだり、牛乳箱をはがしたりする手合もいるのである。いつだったか夜に横山道代さんの家の前を通りかかったら、五、六人の少女がウロウロしているので、やっとるな、と車をとめて、ひそかに観察していると、その一人が塀に両手をかけて、上に這いあがり、 「あんた、いるわよ。いるわよ」  と友だちに知らせていた。家のなかまで覗きこまれたら、いかなスターといえどもかなわんであろう。  しかしミーハー族にとっては憧れのスターが自分と同じような生活をしている筈はないという妙な固定観念があるから、スターが人間なみのことをしてもすべてふしぎなのである。かつて私は有名な某女優が寿司屋に入って寿司をたべておるのを窓から眺めているミーハーたちが、 「今、卵焼をたべてるわよ」 「へー、卵焼をたべてるゥ」  目を丸くしてうなっているのを見たことがあるが、あの気持はよくわかるのである。   ビートルズのパンツ  話はビートルズにもどるが、ビートルズが来た時、私はそれを見物して随筆を書いたことがあった。その時、悪戯半分に自分はビートルズの泊ったホテルのボーイを友人にもっているが、彼等がおきわすれたサルマタを手に入れたが、どなたかほしい方にゆずりたいと言ってしまった。いくらファンでもサルマタがほしいとは言うまいと思ったからである。  ところが、まもなく電話がかかってきた。受話器の奥に高校生らしい女の子の声がして、 「あの……ビートルズのもの持っているってほんとでしょうか」  公衆電話で友だち三、四人とかけているらしく、うしろでヒソヒソ相談している声が聞える。ビートルズの|もの《ヽヽ》と言ってサルマタとはさすがに言えないらしい。私はこれはとんだことになったと思い、 「いや、もっていることは……もっていますが」 「あの……わたしたちにくれないでしょうか」 「そりゃア、さしあげてもいいが……実は」私は困り果てたあまり、思わず嘘を言ってしまった。「あの連中、どうも暇がなかったらしく、よく洗ってないのですが」 「え?」 「臭気プンプンしとるのです」  受話器の女の子は絶句して、それから友だちと相談している。その声がかすかだがこちらに聞えてくるのである。 「きたないんだって。どうする」 「イヤだなア、そんなの」  その揚句、ようやく相談がまとまったらしく、ふたたびあらわれた代表者が、 「じゃア……結構です」  あれから歳月がたった今でも、私は純真な彼女たちをからかったことを思いだして胸が一寸いたむ。那智わたるのハンカチとちがいやはり何だか悪いことをしたような気がしてならない。私のところにも時々、誤字だらけの妙な手紙がまいこんでくることがある。 「わたくしは、あなたに歌を習いたいのです」  たいていは田舎の少女たちである。どうして音痴の私に歌を習いたいのか、さっぱり理由が解せなかったが、最近、事情がやっとのみこめた。流行歌のほうで有名な作曲家の遠藤実氏と私とをまちがえているのである。 [#改ページ]  万引きは悲しからずや   呼び止められた中年婦人  もう二年ほど前のことであったかな。  銀座のデパートを拙者《やつがれ》、ぶらぶら歩いておった。デパートというのは意外と暇つぶしによろしいところで、退屈の折には一時間、二時間、結構、時間を費やせるものだ。新案特許の野菜切り器や、モデルが顔に化粧する実演を見物したり、酒がチト飲みたければ、地下の酒売場に行って見本の酒の味ききもできるし、屋上の遊園地で子供の遊ぶのを眺めたりして、あんた、くだらん映画館などに行くよりよほどよろしい。  で、あれは何階だったかな、婦人子供物売場のところを通りかかったのである。そこで何気なく立ちどまっていると、いささか妙な光景が眼についた。  そう——年の頃、五十を少し過ぎたほどの品の悪うない婦人、これがしきりに子供スェーターをひろげたり、取りだしたりして眺めておったが、急に体をこう、硬直させるようにして、そのスェーターの一つを手さげ袋に放りこんだのだな。  拙者《やつがれ》、それを目撃してドキッとした。まるで自分が盗みでも働いたようにドキッとした。拙者《やつがれ》は一方では、店員の誰かが今の光景を見たことを望み、他方ではこの婦人が早く立ち去ることさえ願っておった。  婦人はそそくさと、売場から離れた。少し顔を伏せるようにして足早に階段のほうに歩いていく。盗んだ者の心理として、逃げ場のないエレベーターよりは、自由のきく階段のほうに行くものらしいと、拙者《やつがれ》、すぐ考えた。  で、拙者《やつがれ》もそのあとを追った。もちろんこの婦人を捉えて詰問しようという気などさらさらない。ただただ、妙な好奇心からしたまでである。そういえばジイドの「贋金づくり」のなかにもたしか本屋で万引きした少年を小説家が追いかける場面があったわな、など思いだしつつ、ともかくも、その婦人から二十メートルほどの距離を保ってつけたのである。  ところがな、ちょうど彼女が一階の出口を出ようとした折、ふたたび拙者《やつがれ》を驚かせることが起った。まさに一歩彼女が、デパートの外に出んとした時である。中年の男がツツと拙者《やつがれ》の横を追いこし、この婦人に追いすがるや、さえぎるように前にたち、小声で、何かをささやいた。  途端、婦人の顔は蒼白になるのを拙者《やつがれ》はみのがさなかった。うなだれ、うなずき、手さげをわたし、それから中年男につれられて、羊の如くいず方へか去っていった。他の客もとより何も気がつかぬ。午後のデパートはさきほどと同じように忙しげであった。   押入れで拍手をした泥的  後になって、拙者《やつがれ》は人から聞いて知ることができた。デパートには万引き、盗みによる被害を防ぐために保安係をおいており、そしてこの保安係の人たちはおおむね、元警察官である。この人たちはデパートの中の客を装って巡回し、もし万引きをする男女があれば、誰にも気づかれぬようにデパートの外まで追いかけた後、インギン、テイチョウに、 「もしもし、お待ち……頂けません、か」  そう声をかけて捕えるのだそうである。  それを耳にした時、拙者《やつがれ》はあの子供スェーターをぬすんだ婦人の前にたちふさがった中年男こそ、保安係であったかと初めて知ったのである。  その後、デパートにおもむくたびに、私は好奇心にかられ、どこに保安係がおるかとキョロキョロさがすのだが、一向にわからぬ。わからぬのも道理。向うも商売。私は保安係ですと名札をつけてはおらん。一般客と同じような服装でショーウインドーを眺めるふりをしながら歩きまわっておるのである。  もし、ここに十人の男があって、この人たちに、 「今日まで泥棒をした経験ありや」  とたずねたならば十人中、七人までが経験ありと答えるであろう。十人の男のうち、七人までが学生時代飲屋で灰皿をチョロまかしたり、喫茶店でスプーンを失敬した経験をもつであろう。夏の夜、畠から西瓜を友人とかっぱらった思い出のある方もあられるであろう。ひょっとすると十人中、三人ぐらいまでは子供の折、面白半分に仲間と本屋から雑誌を持ってきた記憶もあるだろう。  幸い、我々は——いや、失礼——そうした方々はその面白半分、スリルを味わうための泥棒がそのままで終って交番にも引きずり出されず、今は当時のことを少年時代や学生時代の悪戯として思いだすぐらいだが、その面白半分がやがて物欲に結びついたら、どうなっていたであろう。あるいはあの時、交番に連れていかれ、手くせの悪い子として学校や家庭で厳罰をうけた揚句、ひがんだ気持になったらどうなっていたろう。  デパートの万引きも必ずしも物欲しさに泥棒をする男女とは限らないようである。なかには仲間と冒険をきそうため、ショーウインドーのものをかっぱらう高校生もかなりいるそうである。  盗人というと恐ろしいが、泥棒とか泥的というと何となく愛嬌があるな。我々が子供の頃の泥棒というイメージは、頬かむりをして、尻からげをなし、大きな風呂敷を背中に背おった恰好であった。のみならず、これらの泥棒は迷信かどうか知らんが、自分の入る家の庭もしくは前に糞をすればつかまらぬということを信じていた者が多く、そのむかしわが家に入った泥棒も、庭にそれは大きなウンコを垂れておったのを、今でも憶えておるのである。  最近は、そのイメージに相応《ふさわ》しい泥棒が次第になくなったものと嘆いていたが、やはりそうではなく四、五年前、新聞でこんな記事を読んで思わず吹きだしたことがある。  東京、足立区の某さんが家族と外出して帰宅してみると、消したはずのテレビがついており、テレビでは坂本九チャンが歌を歌っている。  某さんと家族は別に何も疑わず、テレビを見ていると、九チャンが、   倖せなら 手を叩こ  と歌うたびに、うしろの押入れから、   ぱち、ぱち  手を叩く音がする。びっくりした某さんが押入れをあけてみると、何と、その中に泥的がかくれていたのだ。この泥的、大の九チャンファンで、某さんの家に入って、家族の足音を耳にして、あわてて押入れに入ったはいいが、   倖せなら 手を叩こ  と歌がきこえてきたので、思わず手を叩いたというのである。これは実際の事件だけに拙者《やつがれ》、おかしくてならず、その切りぬきをしばらく保存しておいたほどである。  またこんな事件も二、三年ほど前にあった。大阪で、ひったくりがあり、ハンドバッグをひったくられた女性が大声で救いを求めると、裏路から一人の男がとび出し、ひったくり泥棒を二百メートルぐらい追いかけて、つかまえてくれた。  交番ではこの立派な男を表彰すべく、氏名、年齢をきいたところ、何と、この立派な男のほうも目下手配中の泥的とわかって更にびっくりし、のみならず彼が、|ひったくり《ヽヽヽヽヽ》をつかまえた時に、 「他人の物に手をつけるとは何や」  と言ったそうで、これまた拙者《やつがれ》、おかしくてならなんだ。  こういう連中こそ、昔の我々の泥棒のイメージにぴたりとする手合いだが、まだまだ世知がらい最近でも、いるようである。   万引きのハシゴをした男  話が少し横にそれたが、拙者《やつがれ》、この「それ行け狐狸庵」のため、喜多八をともなって都市デパート、数軒を歩きまわって、万引き情況を偵察してみた。  その結果、わかったことはデパートこそセットウのメッカで、「泥棒みたけりゃ、デパートにおいで」と歌いたくなるほどである。一つのデパートで一日に保安係に発見される万引きは平均五ツというから、発見されない万引きを入れると一日、十から二十ぐらいが行なわれると言ってもよかろうな。  保安室で腰かけておると、なるほど、万引き君が次々と保安係につれられてくるのを、すぐ見ることができる。 「なにォ、この野郎、何しやがんで、人を馬鹿にするな」 「ぼ、ぼくが何したと言うのですか、失礼じゃありませんか」 「このデパートの重役さんとも知り合いなんですよ。あなたたちのことを言ってやるから」  保安室に入ってきた時の万引き男女は実に威勢がいい。極端に言えば保安係のほうがシオシオとして、万引きなさったお方のほうが威張っておられる。  それがサーッとカーテンを引いた内側で物静かに保安係に言われると、次第に塩かけられたナメクジのようになるそうで、御婦人ならば「生理期間だったから」とか、男性ならば「つい、出来心で」と、いずれも御内聞にと頭をペコペコさげる。  拙者《やつがれ》が某デパートで、万引きのはしごをみた。酒のはしごはよく耳にするが、万引きのはしごというのは初めてであるな。  その青年、まずOデパートで、鍋を失敬し、次にMデパートに行ってコップを万引きし、今度はここのデパートでオルゴールやその他を盗んだところを、 「モシモシ」  保安係に例によって静かに声をかけられたのである。一度、万引きに成功すると、そのスリル、味が忘れられなくなったらしく、次々とはしごをこの青年、やっていたらしい。 「で、これらの品物はどうなさるのですかな」 「それぞれ、Oデパート、Mデパートにお返しします」 「向うは盗まれたとは全然、気づいておらんわけですか」 「気づいておられんでしょうな。まァ助けあうのはおたがいさまで」  平生は競争相手の敵デパートでも万引き氏に対しては共同防衛策戦をはるわけである。   万引きを装ってカツアゲ  保安係は相手が万引きでも一応はお客さまということだからな、現行犯でなければ絶対、つかまえることをせん。こういうことを発表してはデパート側にちと気の毒だが、便所に入った衣類万引きは、つかまえられんのである。たとえば諸君がデパートで猿股を万引きしたとする。そしてこれをデパートの便所ではきかえてしまえば、保安係、それを目撃してもつかまえられない、証拠がないからである。この猿股は俺のである。現に俺がはいておると言いはられれば、保安係としては警察官ではないからそれ以上、追及できん、だから万引きが便所に逃げこむまでにタックルしなければならないのである。  そこにデパート側の弱味もあるのであって、この弱味につけこむ悪い奴が出てくることになる。その悪い奴は決して万引きをせん。万引きをせんで、万引きするふりをするのである。  彼等はわざとキョロキョロと挙動不審の恰好でデパートを歩きまわる。そして保安係の注意を引くような素振りをする。つまり万引きをしているような態度をみせるのだ。  保安係はそれにひっかかる。そしてその男がデパートをそそくさと出ようとしたところで、 「モシモシ」  とたちはだかるだろう。 「何ですか」 「ちょっと、その手さげの中を拝見したいのですが」 「なぜだね」 「あなた、お盗りになったでしょうが」 「なにィ失敬な、失敬きわまる。よし、この中を見てみろ」  見てみろと言われて中を見ると、何もない。これは飛んだ失礼を……とあやまっても、もう遅い。相手はそれを待っていたのだからな。 「満座のなかで泥棒扱いされたとは人権ジュウリンだ。社長をよべ。支配人を出せ。訴えてやる」  こう来られては客商売のデパートとしては全く弱い。そこで相手の要求するお金を出してひたすらお引きとり願うそうで、 「それが……男だけではなく、女の方でもおやりになるので、先日も立派な御婦人で同じような事件がございました」  デパートの万引きは男よりも女のほうが多いというのはよく言われていることだ。女性が生理期間に万引きをしてしまう話も拙者《やつがれ》、これまで聞いたことがある。 「それに……ちゃんとした奥さまで、生来、盗癖のあるお方もおありでして……これが定期的に万引きに|いらっしゃい《ヽヽヽヽヽヽ》ます」 「へえ、定期的に万引きに|いらっしゃる《ヽヽヽヽヽヽ》わけですかな。で、お宅じゃ、どうなさる」 「当方もそれがお癖と承知しておりますから黙って万引きして頂いております。もちろんおつきの方が後でお払い下さることになっておりますが」  世の中には妙な趣味のある人も多いものだ。諸君ももし諸君の細君が万引き癖があるとしたらどうなさる。どう言いきかせても治らぬなら、デパートに事情を話して、万引き癖をみたしてやるより仕方あるまい。  拙者《やつがれ》はこうした話をきいたあと、保安係氏の一人につれられ、喜多八と共にデパートを一巡してみた。一日、二十の万引きが一つのデパートにある以上、ひょっとすると、その現場にまたぶつかるかもしれんと喜多八が言うからである。   万引きを実験してみたら  ちょうど夏のスポーツシャツや海水着の大売出しの日で、そうした売場には若い客がむらがっておった。 「冬にくらべて、夏はやや万引きがへります」 「それは、また、どうして」 「夏は薄着でございます。冬のように盗った品物を外套や上衣の下にしまえないのでございますね。しかしやはりあることはありますよ、特に海水着の売場はそうした誘惑の場所でございまして」  その海水着のまわりにしばらく立って見ていたが、幸い、そんな万引き娘、万引き青年はいなかった。みんな立派な人たち、チャンと代金を支払っていく。  しかし、誰かが万引きしないか、あいつ怪しいのではないかと、じっと観察しておるのはあまりいい気持ではないな。職業とはいえ、朝から晩まで「人をみたら泥棒と思え」の役割りをやらされておれば保安係氏も時々、ウンザリするにちがいない。そう思っていたら、同行の喜多八も同じ気持とみえて、 「爺さん。俺あ、保安係ごっこより、万引きごっこのほうが面白えや」  突然、妙なことを言いはじめた。 「万引きごっこたあ、何だ」 「この階のアッチ、コッチに保安係がいるんだろ。だからその係員たちがどのくらい眼をくばっているか、俺たちが今から万引きのまねをしてみようや」 「それはオモシロイ。しかし、もしつかまったらどうする」 「その時は、あんた」  喜多八は我々を案内してくれた係長に、 「すみませんが、我々の無実を証明して下さい。もちろん、本気で品物を失敬するわけじゃありませんから」  係長はちょっと、困った顔をして、いいとも悪いとも言わず黙っている。その黙っているのをいいことにして、拙者《やつがれ》と喜多八、デパートでどのくらい万引き可能か、身をもって実験してみたのである。  大きい声では言えんがな、拙者《やつがれ》も幼い頃、盗みを働いたことが一度あるな。幼年の折わが母は買食いなるものを許したまわなんだ。ところが近所の子供たちは学校から帰るなり、手に手に銅貨をにぎりしめ、鯛やきや、かき氷なんかたべておる、それがまことうまげに見えるのだが、こちらは買食いをしてはならぬと言われている。 「周ちゃんもお買いよ。おいしいよ」  そう他の子たちに言われても、ただ羨《うらや》ましげに鯛やき屋のおじさまが溶かした白いメリケンコを鯛の形を幾つも彫った鉄板にながしこんで、餡《あん》をたっぷり放りこんでいくのを、ゴクリ唾《つば》をのみこみつつ眺めておるだけ。やがてそれがほんのりと狐色にやけると、その尾っぽのところを、指でつまんで、ひっくりかえし、まず自分が一口、たべて、 「うん、うまい」  挑発的に子供たちの顔をみる。あれが食いとうて食いとうて、ある日、子供銀行発行と書いたオモチャの一万円札を三枚、もっていき、 「なァおじさん、これで一つ、おくれよ」  と哀願したが向うは、せせら笑うだけ。ついにたまりかね、ある日、おじさん、屋台をそこにおいて、ちょっと立小便に行っている間、鯛やき一個チャッとかっぱらっただ。そのうまかったこと。今も忘れはせん。  以来、さいわい、人さまのものをかすめたことはなかったのに今度、「文藝春秋」誌のために万引きをしてみたわけである。   収穫は枕カバー二枚  諸君、それでわかったのだが、意外とデパートの万引きはその気になれば、やさしいのである。あたりをうかがう。店員がこちらを向いておらず、客も周りにいない一瞬が必ずある。その一瞬をキャッチして、パッと決断すれば万引きできる。しかしその一瞬を少しでもためらえば、次の一瞬を十分後、十五分後にまたねばならぬ。喜多八と拙者《やつがれ》とは枕カバー二枚、子供用シャツ一枚、チャチャッと万引きしたのであるが、あまりのたやすさに、かえって呆然としたくらいであった。 「何です、爺さん。震えなさんな」 「わ、わすは……石川五右衛門の……子孫ではなかろうか……」  枕カバー二枚とって石川五右衛門の子孫もないものだが、しかしその瞬間のスリルと不安は、やはり言いようもない。もっとも、喜多八と拙者《やつがれ》がかような大それたことができたのも、本当に盗むのではないという安心感と、いざとなれば無実の証をたてられるという保証つきの万引きだからであろう。もし、これが、本気で、どこから保安係氏が見ているかわからぬという不安でやれば、顔もこわばり、眼もキョロキョロしたであろう。 「万引きなさる方は、たいてい、その顔でわかります」と保安係氏は言っておった。 「でも、平静な顔で万引きする人もいるんでしょうな」 「もちろん、おられます。しかしそれは平静を装った顔ですから、それもわかります」  してみると、いかにデパート万引きがやさしいとはいえ、やはり、やらぬほうがお互いのために無難でござる。 [#改ページ]   ああ、軽井沢族よ   はァ、草津、よいとこ   一度わァ、おいで、ドッコイショッ  拙者《やつがれ》、若い頃、こう言う歌が流行《はや》ったものであるが、この七月下旬から八月下旬にかけて、特に土曜日、東京は戸田橋、埼玉県の熊谷を経て�鉢の木�で有名な高崎松井田を結ぶ国道——あの国道に雨後のタケノコのようにでけたドライブ・インに休んでおると、延々、長蛇の自家用車の列。ブブッ、ピーッ、ブブーッ、警笛ならしては二十メートル行っては停り、五十メートル進んでは停車し、これすべて軽井沢にむかう車なのである。草津すでに影うすくなり、あの歌はまるで軽井沢のために作られておるような気がするな。   女たちの静かなる決闘  安物の洋菓子のようなドライブ・インで休んでおると、次から次へと車がやってきては、オッサン、オバちゃん、それから子供たちが吐きだされる。あわれにオッさんはせっかくの休暇を家族サービスの運転で疲れ切った顔をしているが、オバさんと子供たちは元気そのものだ。オバさん、ドライブ・インの客たちの中から知りあいを見つけたらしく、  オバさん「まァ、高田さまの奥さまじゃございまセンッ、あなた、高田さまの奥さまよ」  もう一人のオバさん「あら、山本さまの奥さま。こんなところで。どちらに、いらっしゃいますの」  オバさん(得意気に)「一寸、軽井沢まで参りますの」  もう一人のオバさん「まッ、軽井沢。あたくしたちも軽井沢でございますわ。なにしろ、東京お暑くてお暑くて、とっても居られませんものねえ」(このあたりから、両オバさんの虚々実々の闘いとなると知るべし。迷惑そうなのは疲れきったる彼女たちの亭主なり)  オバさん「まあ、軽井沢はどちらにいらっしゃいますの。あたしたち毎年、軽井沢にまいりますのよ」(あんた嘘いったってワカルワヨの意味なり)  もう一人のオバさん「あら、あたしも毎年行きますのについぞ、奥さまにお目にかかったこと、ございませんわねェ」(亭主、当惑したる表情をなす)  オバさん(少しひるんで)「あたしたち、町から一寸、はずれた所に住みますの。静養にはやはり静かでないと」  もう一人のオバさん「本当でございますわ。でも昨今、軽井沢も町はずれのあっち、こっちを切り倒して貸バンガローなんか建ててせっかくの自然を台なしにしますでしょ。嫌になりますわねえ」(お前さんなんか貸バンガローに行くんだろうの意なり)  オバさん「まったくですわ。でも町のあたりはもう会社の寮ばかり多うございましょ。近頃、寮の洗いざらしたユカタなんか着てゾロゾロ町を歩く方もいらっして、軽井沢の雰囲気ぶちこわしですわ」(おめえさんはユカタ組であろうの意なり)  かくて夫人たちの静かなる決闘は長野県を遠くはなれた埼玉県のあたりからはじまり、亭主、疲れ切った表情でハンドルを握らされる。  オバさん(自動車に戻って亭主に)「あの奥さん、いけ好かないったらありゃしない。何さ。軽井沢に毎年、行くのがなにが偉いのよ。自慢たらしく鼻ひこめかして。あそこの子供、どこの大学うけても落ちてばかりなんだって」  亭主(困《こう》じて)「いいじゃないか、他家《よそ》は他家、うちはうち、だろ」  延々たる車のなかでとりわけ傍若無人なのは夏休みの男女学生たちで、いずれも乞食もビックリのうす穢い色シャツにズボンをつけ、ウクレレ片手に、   あなたがなめた   デベソが、かゆい  子供たちに聞かせたくない替え歌を大声で歌いながら、 「よオ。マチ子オ。こう停車ばかりだと、トサカにきちゃうよなぁ」   安上りな�上流階級夫人�  こういった連中が大体、七月下旬から八月下旬にかけて五時間から六時間の後、東京より碓氷《うすい》の峠をこえて、続々と軽井沢にやってくるのである。  六月までは、まるで人影ない映画撮影所のセットのように閑散としていた旧道は厚化粧の女さながら、東京から出張してきた婦人服屋、レストラン、菓子屋がベタベタと装いも新たに店を張りだし、ただでさえ狭い道は銀座並木通りと同じ派手やかさ。あっちでも、こっちでも、 「あら、ゴキゲンよう」 「まァ、ゴキゲンよう」 「あら、ゴメンあそばせ、ホ、ホ、ホ」 「ゴメンあそばしませ、ホ、ホ、ホのホ」  うちでは「なにサ。浮気ばっかりして」と亭主にかじりつく女房族も、ここでは華族夫人か、学習院卒業生のような言葉を一生懸命に使いたがる。魚屋に入ってもゴメン遊ばせ、ラーメン食ってもゴメン遊ばせ。  戦後しばらくの頃で、電気洗濯機が主婦族の憧れだった時代があったな、それが充されると、今度はテレビが欲しくなった時がきて、続いて、自家用車がみんなの欲望の的となる。それ、すべて充されると人間まこと欲ふかなもの、今度は小さいながらも別荘を持ちたいと思う人が多くなったな。別荘もつなら、軽井沢。なぜなら軽井沢は皇太子さまと美智子さまのロマンスの場所、夏になると今でも皇太子一家がおいでになるから上流階級の避暑地にちがいなかろ。そういえば軽井沢という場所は長い間、我々にとってなんやらハイ・ソサイティの集まる避暑地のようなイメージがあったもんだ。だからこの軽井沢に小さいながらも一軒別荘もてば、自分も何やらこの階級に(そんなものは今の日本には阿呆らしき限りであるが)仲間入りができたような感じがして、 「ちょっと、軽井沢まで参りますのよ。ホホホのホ」  得意気に笑う主婦が出てくるのであろう。  たとえ別荘もたずともこの暑い日やれやれやっと、碓氷峠を苦労して軽井沢へ到着しますと、オバさんたちは上流階級夫人を気どれる楽しさを満喫できるわけで、さいわい時は夏、服装に金はあまりかからん。メインストリートで有名な女性デザイナーの作ったバウミューダー・パンツとノースリーブのブラウスをバーゲンセールで買い、これに色つきトンガリ麦わら帽、夜店で求めたサングラスでもかければ、どこから見てももう大丈夫。堂々と「ごきげんよう。ごめんあそばせ」と使っても恥ずかしいことはない。  ところが戦後、このように万人に開放された軽井沢にドヤドヤ、ガヤガヤ、今まで来れなかった連中がくると、これが昔からここに住んでおった旧軽井沢人種には面白くないんでありますなあ。こういうお方たちは、苦々しげな顔をして、 「いや、近頃の軽井沢の下品になったことは、どうです、スープの飲み方一つも知らん連中が我が物顔にバッコしておるのですから」 「本当でございますわ。それにあたしたちが娘の頃は小鳥なんか随分おりましたでしょ。落葉松《からまつ》の林の中をみんなで自転車走らせますと、至るところからカッコウなんか鳴きましてお年めした方もお静かにお散歩などできましたのに、今じゃ小鳥はいなくなりますし、静かに散歩などできもしませんもの」  旧軽井沢族のなかには戦後のドサクサで長年、すみなれた別荘を新軽井沢族に売らねばならなかった三代目もいる。こうした斜陽族の子弟の中には、まだ頭の切り変え不充分な者がいて、時折、古ぼけた宏大な別荘の前にたち、じっと外側から哀しげに見つめている御仁がいるが、あれは、おそらく平家一族のように、昔の栄華今いずこと物思いにふけっているのであろう。   熱帯魚のごとき身なり  だから、軽井沢にきて新軽井沢族と旧軽井沢族の悪口の言いあいを聞くことほど、拙者《やつがれ》のようなジョセフ・フーシェか、筒井順慶の子孫にはたのしいことはない。拙者《やつがれ》の友人でこれを無上のたのしみにしておる男がおりましてな、A家に行ってはその夫人に、 「どうです。あのBさんのところは。お宅のことを、旧軽井沢族の家柄を鼻にかけすぎてるなんて言っておられましたが。あれは一種のヒガミでしょうな」  その足で、今度はB家にノコノコ出かけ、雑談中さりげなくここの細君に、 「Aさんのお家じゃ、お宅のことを成金一家などと呼んでいますが、ああいう言い方はいけませんよなア」  両家の夫人の顔色が七面鳥のようにハッと変るのを見ては、心中、ウ、シ、シと悦んでいるが、こういうのはまったく悪趣味であるな。すこし拙者は行きすぎだと思う次第である。(読者もそう思われるであろう)もっともこの両夫人が、それから三、四日後に道で会った一瞬を彼は落葉松のかげから、じっと目撃していたそうであるが、両夫人とも「ごきげんよう。ごめんあそばせ」いかにも親しげに挨拶しているので、余計イヤになったと語っておった。その気持わからんでもない。  こうした二つの新旧別荘人種のほかにこの五、六年、進出してきた第三勢力は何といっても、青年男女で、この連中は別荘人種などクソくらえのところが、拙者《やつがれ》などにはむしろ見ていて面白い。スポーツ・カーのマフラーをはずして、あっちこっちを駆けまわり、我々をヒンシュクさせるような奇抜な頭髪や熱帯魚のような洋服で歩きまわり、君のものは僕のもの、友人の別荘は俺の別荘。ワイワイガヤガヤ集まって大騒ぎ、他人の迷惑なんか知ったことかい。 「おめえ。ノゾキは何といったって南軽井沢だよナァ。昨夜もよ、十二時頃、行ってみたらよ、自動車、ズラッと並んでよ。みんなライト消しちゃって、お盛んなことよ」  今年になってから急にふえた町はずれのスナック・バーに深夜いくと、こんなことを大声で叫んでいる若者たちが必ずいるものだが、これが、大学生だと聞いてすこしその言葉遣いに驚いた。 「女の子ですか。不足しねえよナ。声かければいいんだもの」  友人たちに同意を求めるように、 「向うでも拾ってもらうの待ってるもんナ」  よく週刊誌などに「夏の海岸、若者の狂態」などと題し、そういう話がのっているが、かねがねこれに疑問をもっていた拙者《やつがれ》は、ひとつその実験を見せてもらいたいと申し込むと、向うは怪訝な顔をして、 「へえ……爺さんでも助平な人はいつまでも助平なもんだナ」 「何を言うか。わしは助平のためにそのようなことをするのではない。文藝春秋誌、百万の読者のために、視察するのである」   ガールハントの手並拝見  かくて、この大学生たち二人の同乗する車に乗せてもろうて、翌日、夜、十時頃、旧道の下のあたりを、ゆっくり車を走らせるとVという洋菓子店の前に、令嬢風の女の子が二人、たった今、出てきたばかりである。 「おい。中村、おめえ声かけてみなよ」  中村とよばれた学生、車からおりて、この時はしきりに頭をさげると、なるほど、一分もたたぬうちにその二人の娘はノコノコ、車に乗ってきた。 「あんたたち、昨日、見たわよ」 「へえ。どこで」 「旧道のMのあたりで、女の子、一生懸命誘ってたじゃないの。いつも、あんなことしてるんじゃない。不良ね」  そう言いながらもこの女の子たちも、誘われるままに車に乗りこんでおるのであるからまったく腑におちん。のみならず、この四人、お互い自己紹介しあわぬうちから百年の知己のごとく狎《な》れ狎れしく、 「今、どこ、いるの」 「俺たち、三笠ホテルの近くの友だちの別荘さ。あんたらは」 「あたし泉の里にいるの」 「自分の別荘かア」 「そうよ」 「二人だけで来てるのか」 「そうよ」 「じゃ、あんたらのとこに行くとするか」  私のような老人が同乗しておるのに安心したのか、女の子二人、自分たちの別荘に大学生たちと私とをつれていってくれたが、聞けばR大学の女子学生だそうで、ちゃんとした良家の娘だそうで(その父上の名は拙者《やつがれ》も聞いて知っている人だが、さすがにここでは書けぬ)、 「明後日から、父と母がここにくるから、チャンとおすまししなくちゃね」  うちの娘に限って大丈夫と、どんな父親母親も思っているらしいが、あんたら気をつけねばいかんな。  軽井沢にはこういう若い男女をよく見かけるが、これがつい二駅近くの追分となると少しちがってくる。ここは堀辰雄の家があり、堀辰雄や立原道造の遊んだ油屋のような旅館も残っているから、文学青年文学少女の小さな巡礼地のようになっておって、眼鏡をかけた女子大生みたいなのが四、五人、 「あれが堀辰雄の家よ」 「え、どれ、どれよ」  うっとり陶酔、まるで憧れのスターの家でも見るように堀氏の家を眺めている。こういう女子大生は作品よりも、当の作家を見たり何杯飯を食うているかを調べることが文学研究だと思うておるのだから可愛らしい。   ちょっと湿っぽい話  さてさて華やかな軽井沢も実は、そのむかし陰惨な時代があった。拙者《やつがれ》、戦争中、この軽井沢と追分との間にある小さな部落に住んでおったことがありましたが、あの頃、ここは外人たちが疎開という名目で集められておりましてな、たしか駅のちかくに憲兵隊の詰所があった。憲兵たちは御用ききや百姓の格好をしてうろついていましたがなア。  拙者《やつがれ》がおった頃、関東地区に空襲があると、避難民があんた、歩いてですぞ。ここまで逃げてきたのを憶えとります。  ある夜のことであった。拙者《やつがれ》、所用あってでかけ、夜おそく泊っておる農家まで戻ろうとしますと、氷室《ひむろ》というて冬に切った氷を貯えておく藁ぶき小屋の前に、巡査と消防の服をきた男がたっておる。わけを聞きますと、あんた、可哀そうに、この避難民の一人がここまでやっとたどりついて、精も魂もつき果て氷室の中で死んでいるのであった。  頬に空襲の時のやけどがあって、よほどひもじかったのか藁屑を口にくわえてな、死んでおったそうな。拙者《やつがれ》、今でもあの夜のことを思うと暗い気持になる。  外人の疎開客も勿論、食糧が無うてな、 「奥さん、タマゴ、うってちょーだい」  大使館の外交官夫人らしいのが、百姓屋を歩きまわっている姿を拙者《やつがれ》見たこと、たびたびあったがなア。その頃は軽井沢に憲兵のつくった土牢があって、そこから悲鳴がきこえると言う噂も飛んでおった。憲兵たちはここに鳩山、近衛公などがおるゆえ、自由主義者の平和工作を封ずるべく、はりこみやスパイも使っているという話も聞いたことがある。  今でも貸別荘などで古い家を借りて住みますと、そこに閉じこめられていた外人たちの暗い気持がしみこんでいるようで、長雨の日など何とも言えず陰気な気分がするもんだ。街道をあるくと、空襲に追われて、この道を食うものもなく子供たちの手を引いてやっと逃げてきた避難民の姿を思いだして、辛い気分がするもんだ。  その悲惨な軽井沢も、落葉松林のなかをスポーツ・カー、ブウブウ鳴らして走りまわる若い男女は、一向にご存知あるまい。それにどうだ。あの頃とそっくりに、空が無情に真青に晴れてさ、浅間山が冷たく静かに噴煙をのぼらせておるのを見ると、「畜生!」と怒鳴りたくなるのは、拙者《やつがれ》が老いたせいか。いやいや、話が湿っぽくなったって。狐狸庵らしからぬ。心で泣いて顔でおどける流儀をチト忘れました。ゆるしてつかあさい。   女子供づれでくるな  軽井沢に来て、面白いのは土地の人の話を聞くことであるな。むかしからここで育った按摩さんに、腰などもんでもらいながらポツリポツリ、話をきくと、 「はア。わたくしが、子供の頃は、今のお水ばたなどに、夜、提灯《ちようちん》が沢山、うつくしくともって、そこで舞踏会なぞがございました。みんなで遠くから見ておりますと、あのお庭でワルツなんか、おどっておられまして、ほんとに西洋の活動写真みたいでございましたよ」  こうした風情はもはや今の軽井沢にはない。旧道の喫茶店などにはりつけられているポスターをみると、みなゴオゴオ大会、例の三馬鹿大将のような頭をした連中で、電気アンマにかけられたように狂いおどる広告ばかりで、拙者《やつがれ》、往年のデュビビエの「舞踏会の手帖」のような小説一篇がここで出来るのではないかと、いつも思うのである。  だが、それでもええことじゃないか。避暑地が万人に気やすく来られるようになるというのは結構な話じゃないか。しかし、忠告しておくが、ここは一日二日来ても、まったく遊ぶ点では面白くないところだな。特に亭主族に告げるが、ゴルフで来るのでなくて家族サービスで女房子供をつれて東京からここにやってくるぐらいなら、他のところを選んだほうが遥かによろし。なぜかと言うとさきほども書いたように、女房の虚栄心を妙に刺激するようなものが、この避暑地にはあり、その上うっかりすると子供たちからも、 「父ちゃん。早く、別荘つくってよ」  そう要求されて甚だよからぬ結果になる。  だから、もし、どうしても来たいと言うなら、この町のお祭の頃をえらんで来るのがええかもしれん。町のすぐ近くにある神社で夜祭がある三日間、露店がたちならび、盆おどりが行なわれ、浴衣をきた外人の子供も「オバキュ音頭」をおどり、外人の子供と日本人の子供の角力大会があり、これは一寸、幼い頃を思いださせるが、それよりも|見もの《ヽヽヽ》は、このお祭のすぐ隣りで基督教宣教師の外人一家が負けてはならじと、讃美歌を合唱し、人々を呼びこんでいることだ。   月が出た出た月が出たァ、ヨイヨイ  盆おどりのラウド・スピーカーの歌声にこの外人一家とその日本人の友人たちは大声はりあげ、   いとも、うるわしき、神の子よ、   われらのために、きたり給いーぬ。  歌いながら、祭見物に行く人々を、こちらに勧誘しようとする。拙者《やつがれ》のように気の弱い者は祭のほうにいけず、外人一家に引きずりこまれ、情けなさそうな顔をし、頭も混乱して、   月が出た出た、神の子よ、ヨイヨイ   あんまり煙突がァ 高いので   さぞや 天国、けぶたかろ   来年まで休業に候  その祭がおわる頃から、軽井沢は少しずつ人が引きあげていくな。テニスのトーナメントもすんだ。お別れパーティも終ったで、八月下旬から九月の一日、二日、町はずれから碓氷におりる街道を、まるで渡り鳥のように車の列が引きあげていく。が、あの頃がええ。華やかだった店々にも、 「来年まで休業仕候」  そんな紙がはられ、映画セットのような町は夕方から霧がたちこめて、通る人もない。軽井沢は急に静かになる。  長雨がやむと、避暑客たちが絶対に知らなかった美しい光につつまれ、浅間山はその岩と樹木の一つ一つが見えると思われるほどに、はっきりと浮かびあがる。そして雲白く、無人の別荘には、木洩れ陽のみがゆらぎ、庭には子供の運動靴が一足、おちて、虫が鳴いているわけだ。おわかりか。 [#改ページ]  ボクもやられたムチウチ症  十年ほど前までは、ついぞ耳にしたこともないのに、この四、五年、忽然として有名になった二つの病名がある。一つは言わずと知れた怖ろしき癌《がん》。もう一つはムチウチ症という奴だ。  どういう理由《わけ》か、わが文壇にはこの癌で亡くなった人が多い。青野季吉氏、吉川英治氏、室生犀星氏、正宗白鳥氏、みな然り。高見順氏、神西清氏、十返肇氏、また癌である。ついこの間、私は雨の日に丸岡明氏の葬儀にたちあわねばならなかったが、丸岡氏はその数日前に亡くなられた木山捷平氏と同じように癌であった。  そのためか、一時はわが周辺にも癌ノロ——つまり癌ノイローゼにかかった人がかなりあった。当時、奇怪な説がながれ、吉川、室生、正宗の三先生はみな軽井沢に住いを持たれているから、軽井沢には癌ヴィールスがひそんでいるに違いないと言う者がいた。その男の考えによると、癌ヴィールスは、軽井沢の落葉松にこびりついているのであるが、最近、スポーツカーがあまた、動きまわるようになったので、その震動でヴィールスが花粉のように飛び散るのだと言うのである。   ぼくはズガンらしい  林房雄氏は、銀座のバーは癌ヴィールスの温床地だと断定された。それらのヴィールスは、コップやホステスによって人から人へと伝染し、抵抗力のない時はこれが活動するのだそうである。  これら迷論の是非はさておき、中年をすぎて下痢をすれば、まず癌だとか、アスファルトを歩くと癌になるから、廻り道をしても舗装されざる道を歩くべしとか、諸説入り乱れとび、そのたび毎に気の弱い者は、禁煙にむなしい努力を費し、色ヅケ沢庵で茶漬を食うのをやめたり闇夜の道を手さぐりで歩くごとく、オッカナびっくり、今、考えると、まこと莫迦《ばか》莫迦しいことをやったものである。 「山本五十六」の作者、阿川弘之はある日、目がさめると咽喉の痛みをチト感じてから、さあ大変だ。もともと叩いても蹴っても死なんような大男だから病気一つしたことがない。病気一つしたことがないから、咽喉が痛くなったことだけでもビックリ仰天、重大事。 (遂に俺にも来たッ。喉頭癌だッ)  そのころ池田前首相がこの病気にかかり、モノを言うのを禁じられていたのを思いだし、細君が起しに来ても、返事もしない。壁に指で必死の字を書くのである。   オ、レ、ハ、 ガ、ン、ダ、 モ、ノ、ガ、イ、エ、ナ、イ  雑誌社の人が来ても同じく壁に文字を書く。   ダ、メ、デ、ス、 ガ、ン、デ、ス  しかし、我々は阿川を笑うことはできない。多かれ少なかれ癌ノロにかからなかった者はまずあるまい。  癌ノロにかかると、医者が何と言ってもその言葉が信用できない。この医者、俺が絶望するといけないから、嘘を言っているのではないかと思いはじめるのだ。 「あなたは癌じゃありませんよ」  そう診断されても、ジッと医師の眼の動き、表情をみると、何となく誤魔化されているように感じられて、 「先生、本当を言ってください。真実を言ってくださっても、大丈夫。南太平洋で死線を越えてきた戦中派ですから。それに禅もやってて確固たる信念があるんです」 「それは結構なお話ですが、あなたは癌じゃない」 「どうしてかくすんです。癌ならハッキリ癌と言いなさい」 「癌じゃないものを癌とは宣告できませんよ」 「これだけ頼んでも、あんた嘘を言うのか」 「あんたは癌じゃないったら、癌じゃないッ。ガン、ガン、言うなッ」 「藪《やぶ》医者ッ。もう来るもんか」  癌がこわいくせに、自分が癌でないとどうしても納得できんのが、重症癌ノイローゼの特徴で、 「ぼくはズガンらしいのです」  新しい病名を勝手につくる男もいた。 「ズガン? ズガンとは何です」 「頭の癌です」 「ズガンなんて病名はありません。安心して下さい」 「じゃあ、ぼくはトウガンです」  医者はこういう珍妙な患者を嘲笑するが、しかしこういう癌ノロを日本国中にあまた作ったのは医者自身だと気がついていない。  なぜなら、我々が癌ノイローゼになるのは、平生からマスコミを通して、医者たちが、早期発見、早期発見と唱えているからである。しかもその早期発見の理由として、癌は最初はほとんど自覚症状がない。あったとしてもそれはほとんど他の小さな病気とちがいがないと力説しているからである。   昔は胃癌もただの胃病  たとえば胃癌——胃癌だって粘膜にあるころは腹も痛くなければ何ともない。少し悪くなっても「何となく腹が重い」程度だ。  だからこっちは、何となく腹が重いということになると、当然、癌かもしれん、いや年齢から考えてその可能性五十パーセントある、と悩むのは人間として当然だろう。  のみならず悪いことには万一、癌でも医者は当人に(時にはその家族にさえ)「あなた、癌です」などと普通は言わん。「胃潰瘍《いかいよう》だ」とか「胃炎だ」とか別の病名を告げるものだと普通、きいておる。だから、 「癌でない」  医者がそう診断しても、この言葉を「盲腸炎じゃない」「気管支炎じゃない」と言われるのと同じ気持で聞くわけにはいかん。こいつ、俺にかくしてるな、そうかもしれん、今、視線を横にそらしたから、誤魔化しておる、そう考えたとしても必ずしもそれは我々がヒネクレ者だからではないのである。  一方では早期発見を提唱しておきながら他方では、早期発見すべく神経質に努力しておる我々を「困ったものだ」という医者がいたとすれば、こんな矛盾した話はない。  しかし考えてみれば「癌」——(字からして嫌だな。発音も感じがわるい。「痔《じ》」という字も不快だが、癌はなお、いかん)——この病気をあまり気にしなかった明治以前の爺さま婆さまは幸せだったなァ。もちろん、癌は当時からなかったわけではなかろうが、今みたいに普遍的ではなかったから、 「お爺ちゃんは胃病で死にました」  胃潰瘍も胃炎も胃癌も一般人には皆、胃病だから、今ほど癌ときてもピンとこん。自分も癌になるのではないかと暗い気持で、やきもきする必要もなかった。何と言ったって、あんた、「無知ほど人間を大胆にするものはない」ですからなァ。  ドストエフスキーの小説に出てくる大審問官は基督《キリスト》に「お前が出現せねば人間はくだらん不安に苦しむ必要はなかったのだ」と言うておるが、同じように、もし癌に関する限り、医者が癌という病名もその不安も語らず、我々をば明治大正の爺さま、婆さまと同じような気分にしておいてくれたならば、こんなに癌ノロなどにならずともすんだかもしれん。なまじ、癌の怖ろしさを教えられたからこそ、こっちもビクビク、酒一つ飲んでも何やらまずく、煙草一本吸っても病気を怖れるようになったのである。   神父さまがふえた?  かく言う拙者《やつがれ》もかつてこのノイローゼにかかったことがあり、あの頃、本屋にいって「癌の実体」とか「癌を克服」などという本を手当り次第、買いこんできて熟読したが、あんた、克服どころか、かえって思い悩むばかりであった。何となれば、肺癌の箇所には「紙巻煙草をのむと、肺癌にかかりやすい。パイプ使用者は肺癌にかかる率が少ない」そう書いてあるので、早速、パイプを使いはじめたが、今度は「パイプを使うと舌癌になる」と別の頁《ページ》に記載されてあるのを発見し、全くニッチもサッチも身動きとれなくなった記憶がある。中には「アスファルトには癌発生物質あり」と書いた本もあり、拙者《やつがれ》などはそれを読んで以来、舗装されざる路を進んで歩くようにした次第である。  米の飯を食えば胃癌になる。あつい汁をたえず飲めば咽喉癌になる。そうなると、もう麦飯に水でもぶっかけて食事するより仕方ない。血液が酸性になるから癌がおきるのであるから、血をたえずアルカリ性にせよときけば、肉をやめて兎のように野菜ばかり食し、それにイオン水という妙な味のする水まで服用したものだ。  その癌ノイローゼと同じようにこの二、三年前から急に我々を悩ましはじめたものにムチウチ症ノイローゼという奴がある。略してムチウチノロという奴だ。  諸君、街を歩いていると、最近、特に基督教の神父さまみたいな連中がふえたとお思いにならんか。首まで白いカラーをばキッチリしめて、全世界の苦悩を一身に背負ったような表情で歩いている御仁が新宿でも銀座でも必ず見つかるものだ。なかには知りあいの奴もいて、 「おい」  声をかけると、その神父さまみたいなカラーをつけた男、体を百八十度、こちらにむけ、情けなさそうな眼つきである。 「どうしたんだね、牧師になるつもりか」 「全くだ。牧師と同じように酒も飲めん。コーヒーもだめ。煙草もつつしめと言われて……。ムチウチだよ。ムチウチ」 「なにムチウチ。遂にお前もやられたか」  はじめはタカをくくっていたが、Aもムチウチになった、Bもムチウチにかかったと聞くと、たまさか東都に出てタクシーに乗っても気が気ではない。今までは神風のようにぶっ飛ばす運転手をなだめるだけに専心しておったが、これからは背後からくる車がどういう車かにも注意せねばならん。  で、どういう手合が前の車にぶつけるかと聞くと、意外に多いのが婦人ドライバーと若者、学生らしい連中の運転している車だそうで、諸君もタクシーに乗られたら、前後(特にうしろ)に女性の運転する車がいないか、パッと見るべきであろう。何しろ女は決断力にぶく、何をやるのもグズグズしておるから。 「女の運転する車はイヤだねえ」あるタクシー運転手がしみじみ、こぼしていた。「急にブレーキなんかかけたりさ、急にウインカーをだすんだからな」 「というと、逆にこっちが追突する危険があるというわけか」 「うん。その危険が一番あるのは、女の車が前に走っておる時だな」  では諸君、追突された場合はムチウチになるが、こっちがおカマを掘った場合——つまり追突した時ムチウチになるだろうか。ならんだろうか。おわかりの方は手をあげてもらいたい。  だからムチウチノイローゼにかかって以来、拙者《やつがれ》など、女の運転する車が前後にいると早くも態勢をととのえる。頭を後部の席に靠《もた》らせて、体を斜めにかまえて被害を最小限度に食いとめようとするのだが、それでも交叉点などで車がとまった時がこわいな。   トラックに追突して気絶  昨年、やっと悪戦苦闘の末、免許証を手に入れた拙者《やつがれ》だが、車もそのために装備を怠らなかった。ヘッドと称する枕はもとより、十字バンドまで運転席につけて、グワーンときても、ボコッと頭がヘッドで支えられる方法を考えたもんだ。追いこしなぞ勿論せん。「初心者につき、お先にどうぞ」というハリ紙をうしろにつけ、スピードもあげん、あまりスピードを出さぬため、警官につかまって注意されたくらいである。 「あんたここを二十キロで走ると、あとの車がみんなつまって困ります。もう少しスピードを出してください」  天下ひろしといえど、スピードを出さぬゆえに交通違反で叱られたのは拙者《やつがれ》ぐらいなものであろう。もし諸君が、ムチウチ症を怖れて前後に車を寄せつけたくないなら、次の七文字を紙に書いて車の後にはりつけておくとよい。「安全運転、監視車」  これは絶対に効果がある。拙者の経験ではどんなトラックもタクシーもむやみと接近してこんし、無茶な追い越しもせん。警察が文句をいう筈もない。こっちは交通被害を無くすため協力しておるんだから。  さて、これ程、ムチウチ症に万全の対策を考えておった拙者《やつがれ》が、この九月四日にだ、とんでもない事になってしまった。  御存知のように拙者《やつがれ》、昨年末から三田文学という文芸雑誌の編集長をやっておる。この夏、炎暑あまりにきびしきゆえ、編集部の連中や若い学生たちと「三田文学夏の家」に行き、そこで編集会議をやった。若い連中のことだから二日二晩、連続で議論をつづけ、最後の夜は半徹夜でやっと結論を出したらしい。(もっとも拙者《やつがれ》だけは例によって怠けものをきめこみ、グウグウ寝ておったが……)  朝がきて、学生の二人が運転する二台の車に乗って軽井沢をたち東京に引きあげることになったが、昨夜のことがあって全員、つかれ果て、車の中で眠りはじめておる。拙者《やつがれ》も小学生の息子も鼻からチョウチンをだし、いい気持であったが、平生はムチウチ恐怖症の身がこの時ばかりは無防備だったのが、後から考えると不運のきわみだった。  ちょうど熊谷をすぎた頃である。グワーン、大きな鉄棒で撲られたようなショックを感じ、拙者《やつがれ》が席からすべりおちた。そのあとのことは何が何だか、よくわからない。気を失っていたのであろう。  気がつくと自動車をとり囲んで沢山の男たちが騒いでいる。ランニングにステテコの男たちに混って、学生たちがいる。小学生の息子もいる。拙者《やつがれ》は左腕と膝とが火傷《やけど》でも負ったようにヒリヒリするのを感じ、そっと腕をまくると、血が流れておった。  とも角、車から出ると、その車は前が全く押しつぶされ、ラジエーターから水が流れて地面を濡らしている。扉までめくりあがって動きようがない。  頭をふったが幸い何ともない。学生にきくとトラックにぶちこんだのだと言う。トラックにぶちこんで、拙者《やつがれ》が腕に怪我をしただけで、息子も他の連中も、かすり傷もおわなかったのは奇蹟的だと思うた。   初めて見た自分の頭蓋骨  三時間後、やっとの思いで東京に戻り、腕の傷に赤チンをぬって、そのまま眠った。朝がた眼をさますと、妙なことに頭の片半分に鈍い痛みがある。その頭の痛さが光が窓からさしこむ頃になると全部に拡がってきた。右手も痺《しび》れるような感じがするのだ。どうも不安でならん。  同乗していた小学生のチビに訊《たず》ねると、ぼく何ともないよと言う。平生から慢性肩こりに悩まされている拙者《やつがれ》は、おそらく疲れのせいだろうと思いこもうとしたが、右手の痺れが気にかかる。筆をもっても力が入らん。  拙者《やつがれ》は数年前の大病以来、ホーム・ドクターの必要をつくづく感じて、何か体に変調あれば、すぐ電話をかけることにしていたから、その時も、すぐ受話器を握った。と、専門医に診《み》てもらえ、早ければ早いほどいいという命令だ。  そこで日比谷病院にチビをつれて飛んでいった。ジョン・ウェインに似た美男子の院長はすぐレントゲンをかけて、 「ごらんなさい、首の骨は普通、カーブがあるものだが、あんたたちのはタケノコのように直立しておる。ムチウチですなァ」  自分の頭ガイ骨を写真でみたのは始めてだがこれは何としてもイヤらしいものだ。北京原人のような恰好をして歯をむきだしていて、成程それを支える頸骨は真直だ。またたくまに婦長さんがきて、チビも拙者《やつがれ》も首に神父のごとき、ローマン・カラーをはめられてしまった。   ムチウチの記念撮影  病院を出て人通りの多い新橋でタクシーを探していると、道行く人がクスクス笑う。親子、二人とも首にムチウチ・カラーをはめ、眼を白黒させて歩いているのがおかしいらしい。拙者《やつがれ》、あまり恥ずかしいので、チビに、 「あっちに行け」  と言うと泣きそうな顔をする。 「あっちに行けったら、あっちに行け」  しばらく歩いて、うしろをふりかえると、五メートルうしろぐらいから、ションボリついてくる。何だか急に何もかもが癪《しやく》に障ってきた。愚劣とも何とも言いようのないことにぶつかったという感じだが、何に向って怒嗚っていいのかわからん。こういう時はユーモアで気をまぎらわすより仕方がない。すぐそばにホテルがあったので、チビに、 「おい記念写真をとろう」  と言うと、ベソをかいて、 「ぼく、嫌だ。こんな姿で記念写真なんかとれないよ」 「馬鹿ッ。こんな姿になったからこそ親子で記念写真をとるのだ」  ホテルの写真室に行って頼むと、妙な顔をして椅子に坐らせた。平生ホテルの写真屋は結婚式の写真をとっているためか、息子を椅子に坐らせ、拙者《やつがれ》をその背後にたたせ、服の襟などチョチョッとなおし、 「はいはい。笑うて下さいよ」  笑えったって、あんた、ムチウチ・カラーをはめられて笑える筈がないです。五、六日して写真をとりにいくと、チビは泣きそうな顔をし、拙者《やつがれ》はムーッとふくれ面をして写っておるのである。  翌日から頭痛が激しくなった。仕事は山ほどたまっている。講演旅行もある。が、とても旅行などには行けそうもない。方々に不義理をし、先輩、友人が代って旅行に出かけてくださり、迷惑のかけ通しである。  こうなると、自分だけがこの暑いのに汗のたまるカラーを首輪のようにはめられているのが情けない。四日目、どうしても局の都合を変えるわけにはいかぬので、自分の受けもっているテレビに出たが、対談相手の山本富士子さんが健康そうで幸福そうで何から何まで完ぺきなのが恨めしく、 「あんたの名前が気にくわん」  とヤツあたりしてしまった。何も山本ムジコと交通安全にひっかけたような発音の名前をつけなくてもいいじゃないか、と思ったからである。  テレビが終ると視聴者からどんどん見舞の電話がかかり、中には、あれは本当か、疑わしいと信じぬ人あり、ますます情けない。実はこの原稿もカラーで首をしめて、痺れる手で書いておるのである。読者のみなさん、月並な言い方だが、追突にだけは気をつけて下さい。いくら「それ行け狐狸庵」でもこんな目に会うのだけはゴメンである。 [#改ページ]  オバサマだけの遊び場所  あれはもう二十年ちかく前になるか。  その頃、拙者《やつがれ》は加山雄三ほどではないが、まだ若くて、かなりいい男で、渋谷なぞで飲んでおると相当にモテたものである。今のように老いさらばえ、秋ふかくなると厠《かわや》もちかく、リュウマチの足が痛むというのと、違うておったわけだ。  若気にまかせて毎晩、渋谷で遊んでおったが、あんた若い頃は妙なもんで、金がのうても飲めるもんでなァ。打出の小槌《こづち》があったわけでないのに、どうして酒代ひねりだせたかふしぎでならん。  さて、その頃のこと。初冬のはじめであったかな。ある夜、いささか珍妙な出来事にぶつかった。   女社長に誘われた夜  その夜も拙者《やつがれ》、(今はとりこわされておるが、東急文化会館が現在あるあたりに存在した)飲屋街の小さなバアに行くと、先客が一人、ママさん相手に腰かけておった。  この先客、洋装の女性で年の頃は三十少しすぎとみた。顔は西郷隆盛みたいに大きくて眉ふとく黒く濃く、何だか日本人離れしておったよ。  で、拙者《やつがれ》も横にすわり、向うが舶来の酒を召上っておられるのに多少の劣等感をもちつつ、これは平生の癖で、小さくなってトリスをチビチビやっとったわけだ。女が酒を飲んで悪いというわけではないが、何だかその西郷隆盛のような顔といい、でかい体といい、圧倒されるような気持で、 (一体、なにものであろうか)  チラリ、チラリと横眼で窺《うかが》っとったのである。女はママと陽気にはしゃいでおる。  で、彼女がちょと手洗いに行った時、 「ママさん、あれ誰か」  と聞いてみた。するとママさんが申されるには、あれは日本橋のほうで独逸《ドイツ》の刃物なんか売っている女社長さんであるとのことである。 「女社長さん、ではリッチ・ウーマンだな」  リッチ・ウーマン、すなわち金持女という意味だ。さらばこそ拙者《やつがれ》のようなトリス党と違うて、舶来の酒をば飲んでおるなとよめた。そこへ手洗いからこの女性が戻ってきた。ママさんが拙者《やつがれ》を紹介すると、彼女は舶来のもう一|瓶《びん》をおしげもなくママさんに出させ、 「失礼ですけど、お近づきのしるしに」  そこで拙者《やつがれ》も悦んでその瓶を飲みはじめた。そのうちふと気がついてみると、十二時をとっくにすぎている。 「いけねえ。終電に乗りおくれそうだ」  あわてて立ちあがろうとすると、 「いいじゃありませんの。今夜は二人で愉快にやりましょうよ」  と女社長が言う。 「あたしの家にいらっしゃいよ」  その頃、好奇心が強かったんだねえ。この女、どんな家でどんな生活をしとるのか、チョッと見たかったのだな。そうですか、ではお言葉に甘えましてとか何とか言うて、折角、あげた腰をまたおろし、やがてかの女性とママとに連れられて外に出た。  ママは亭主持ちだから帰らねばならん。こっちはまだ若い独りものだから夜あかししたって怒る相手もない。  で、くだんの女性は自分の車に拙者《やつがれ》をのせて東横線のT駅にちかい住宅街に連れていった。坂の上の、あの頃にしては立派な家でな。女中が出て来てお帰りなさいましと言うたが、拙者《やつがれ》を見ても怪訝《けげん》な顔をせなんだのはどうしてか。一時間ほどさらに彼女と飲んだが、さすがに酔うて眠い目をパチパチさせておると、 「弱虫ね。じゃ、お休みなさいよ。あたしはまだ飲むんだから」  女中に命じて客用のベッドルームに案内させた。服をぬぎながら、これは妙なことになったと思いつつベッドに横になり灯を消した。   「月にいくら欲しいの?」  眼をさますと、翌日の昼ちかくであった。あわてて服をきかえ、部屋を出ると彼女は既に起きていて、|うなぎ《ヽヽヽ》を食べに行こうという。こっちは、ただもう、ヘイヘイと言うておる。  連れていかれたのは道玄坂を一寸《ちよつと》入ったところの、うなぎ屋である。今、思いだそうとしても屋号の記憶がない。当時にしては渋谷でもかなりいいうなぎ屋だったのであろう。うまかったなァ、素寒貧《すかんぴん》だった拙者《やつがれ》には。  ところがだ。話はこれからである。平生こんなうなぎなどに恵まれん拙者《やつがれ》がパクパクガツガツ食うとるのを、この女性じいっと見ておったが、 「ねえ。女だって経済力さえあれば何でもできるのよ」 「へい、へい」  こっちは食うことに夢中になっておるから相手の言葉なぞよく耳に入らん。 「経済力さえあれば女だって男と同じことできるのよ」 「へいへい」 「あたしも、だからお酒ものむし、車だって飛ばすわ」 「へいへい」 「そのほか、男のすることなら何でもするわ」 「へいへい」 「じゃあ、月、いくら欲しいの」  拙者《やつがれ》、キョトンとして彼女の顔をみた。この人が何を言わんとしているのか、わからなかったからである。 「二万円でどうかしら」  当時の二万円は今の六、七万円かなあ。もっと高いかもしれん。拙者《やつがれ》、この時はじめて彼女の言葉の真意を理解した。なんと、この女性は男がメカケをつくるように、この拙者《やつがれ》をオカケ(そんな言葉はないか?)にかかえて月二万円、くれようというわけだ。  いやァ、仰天したなァ。しばしボカーンとして相手の顔を眺めておった。その顔まさに西郷隆盛のごとく大きく、眼も鼻も口も日本人離れしておったが、この時はその巨大な顔がさらに拡大鏡を通したごとく厖大《ぼうだい》にみえて、 「か、か、考えさせて……もらいます」  うなぎもへったくれもないヮ。早々、逃げるように彼女と別れ、家に戻ったものの、まるで荷風の「断腸亭日乗」に出てくるようなエピソードで、戦後の女性にもこういう女傑が出たかと驚いたものである。  で、その頃、一緒になって騒いでおった村松剛や奥野健男などにすぐ伝えたが、もちろん誰一人としてオカケ希望者はない。なくなられた奥野信太郎教授にその話を申しあげると、非常に興味ぶかそうに聞いておられた。  あれから長い歳月がながれ、村松も奥野も拙者《やつがれ》も年老いたが、あの西郷隆盛のごとき女性は何処で何をしとるか。   男給は東大より狭き門  こういう昔話を急に思いだしたのは、我が居候喜多八がまた妙なことを言いはじめたからである。 「爺《じい》さん。俺よォ、ホストになろうかと思うけどさァ」 「なに? ホストとは何だ」 「女給と同じような男給という仕事だァ」  何を言うとるか、さっぱりわからん。わからんも道理で、このところ拙者《やつがれ》、東都に出ることほとんどない。晩秋の柿生の里は一年のうちでもとりわけ閑寂で山柿の色づきたる雑木林に時折、百舌《もず》の鋭き声きこえるほか、物音もなく、庵にあって古き書ひもとくうちに静かに一日が暮れるという毎日である。花鳥風月をただ友とする身なれば、いまさら喧騒にして厭《いと》わしき東都の風俗など次第に知らなくなったから、喜多八によくよく話をきいてみると驚いた。  近頃、東京には女性の客しか入れぬナイト・クラブができたというのである。のみならずそこには、遊びにくる女性客の御機嫌とりむすぶ女給《ホステス》ならぬ男給《ホスト》たちがおり、その収入も大手筋のサラリーマンなどとは比較にならぬほど多く、銀座のホステスも顔負けだと喜多八は言うのだ。 「だからよォ、俺もそのホストに一寸なってみようかと思うんだがね」 「馬鹿言いなさい。神代から今日に至るまで男の酒席で酌をするのは女ときまっておる。女の酒席で男が酌をするなどとこの狐狸庵、聞いたことがない。論語、孟子にもついぞ続んだことはないワ」 「時代がちがうんだよォ。時代が。女がすることを、男がしてなぜわるい」  嘆かわしい話ではないか。むかしあの西郷隆盛に似た女性はまだしもこう言うた。 「男《ヽ》がすることを、女《ヽ》がしてなぜわるい」  それが喜多八のような今の若者には全くアベコベで、 「女がすることを、男がしてなぜわるい」  と言うのであるから、ああ、楠正成公も地下で泣いておられるであろう。ああ、日本はもう駄目だ。  ところが喜多八、その翌日、意気|消沈《しようちん》して戻ってきた。消沈するも道理、くだんの店には喜多八ごとき男給《ホスト》志願者が押すな押すな申込んでいて、あれに採用されるのは東大の試験よりムツカシいと言うのである。しかも男給になるにはまずダンスが上手でなくてはならず容貌も中年女好みのグレートデンかシェバードみたいが望ましいと言われたそうな。 「どんな店だ」  拙者、多少、好奇心に駆られてたずねてみると、 「豪勢な店だぜ。鏡とジュウタンを敷きつめて東京でもかなりムードあるクラブじゃねえかなァ」 「だが女の客が来ねえだろ。まだまだ日本の女はそんな奇抜な店に出かける勇気があるまいて」 「ところが爺さん。どのテーブルも女客がいっぱいだ」 「なに、いっぱい。どんな女性だ。その客たちは」 「二十代の女の子はわずかだったなァ。大半は金持の奥さまみたいな三十代、四十代のおばさんだ」  若かりし日に出会うたあの西郷隆盛のごとき女史——あの頃は戦後まもなしとは言え、彼女のような女は珍しかった。今はその量がふえているのであろうか。   三日みぬまに桜かな  喜多八の話をきいてわが好奇心いよいよ強まり、早速、文春編集部に電話してこのクラブを見せてもらえぬかと頼んだ。喜多八の話によると、女性同伴者以外は拙者《やつがれ》のように枯れきった老人でも男である以上、入口で断わられるそうだからである。  いや諸君。百聞は一見にしかずだ。驚きましたなァ。三日みぬまに桜かなの歌どころではないて。東京という街は、二カ月足を運ばぬうちにさらに珍妙、ふしぎなる風俗が次から次へ出る場所であるなァ。  亭主諸君。油断しちゃあいかんよ。うちの女房に限って、おらと子供に手一杯の泥人形とタカをくくってはいかんな。この店にくると、世の女房たち意外に勇気あり、我々男同様の遊び心も充分だということがよくわかるもんだ。  正直いうて、拙者《やつがれ》は店の中に入るまでは、ここにくる客はまァ面白半分の二号さま。それに平生、男の客にサービスする銀座のホステスたち——そんな女性であろうと漠然と想像しておった。  ところが、どうして、その夜、喜多八の言うように、赤いジュウタン敷きつめ、壁に鏡はりめぐらしたここ女性専用のナイト・クラブに来てみると、右のテーブル、左のテーブルをみてもそこに腰かけておるのは、どこかの奥さまらしきお方ばかりだ。拙者《やつがれ》とて木石にあらねば水商売の方とそうでない人とは区別もつく。その奥さまたちがテーブルに女給ならぬ男給——いや近頃は女中のことをお手伝いさんと呼ぶ時代なれば——ホスト君を侍《はべ》らして、あんたらがバアで遊ぶように遊んでおるのである。  もっとも彼女たちは男ではないから、諸君たちが酒場でやるようにホストの尻をなでたりだきついたりはせん。で何をするかと言うと、テーブルでは若いホストに酒のませ、談笑をし、しかしてフロアでダンスをやる。  もっともな、こう書くとあとでコワいが、別嬪《べつぴん》の奥さまはいなかったなもし。正直いえば四十以上の眼鏡かけたチンコロにブルドックのような顔した奥さまが多かったなもし。外に出れば女医さまにP・T・A幹事のようなオッカナい顔をした奥さまもいたなもし。さらに驚いたことには白髪をあきらかにそめた六十すぎの婆さまも遊んでいたなもし。  そういう奥さまの横に、その息子のようなホストが姿勢正しく腰をかけ、お客さまが煙草を出されればパッと銀のライターで火をおつけ申しあげ、便所に立ちあがる時にはうしろからサッと椅子を引き、ダンスをなさる時はエリザベス女王のパートナアのごとく鄭重《ていちよう》により添い、いやもう、あんたら亭主族とは大違いよ。  あんたら、家で女房が厠に行く時、椅子を引くかな。アーン、引かんじゃろ。女房が外出する時、うしろから外套かけてやるか。アーン、やらんじゃろ。女房とスリコギは使えるだけ使えという日本伝統の亭主精神、守っとるじゃろ。だが女っていうのは白髪染めを使う年になっても一つの夢があるらしいな。それは十五歳の時よんだ少女小説。お姫さまにぬかずく騎士《ナイト》のお話。その騎士《ナイト》と思えばこそ結婚してみたが、騎士《ナイト》はたちまちステテコ男に早変り。食事中にはオナラはするワ、煙草の灰はところ構わず棄てるワ。むかしのあの夢すべて破れるのが大日本の女房の宿命だて。   月収なんと二十万円  破れた夢をやっとこのクラブでわずかにみたす。拙者《やつがれ》はねえ、六十すぎの婆さまがフロアでリュウマチの足ひきずりつつ、ヒョコヒョコ踊っておられるお姿をみて、その過半生を何となく想像したなァ。この婆さまもおそらく亭主に死に別れもう孫もあるお方じゃろ。残り少ない人生をば、現世《うつせみ》では充されなんだお姫さまの夢、まだ追ってヒョコヒョコ踊ってござるのだ。  そう思えば、何となくこのクラブに日本女房の哀しみがどことなく漂うとるような気がしてくるが、いやそれは老人の感傷か。いや勝手な空想に浸るより、ホスト諸君に体験談を聞いてみることにしましょう。  あらわれたのは、カッコ良き背広にハイカラー、ネクタイを細くキュッと締め、袖《そで》口よりワイシャツ白く出して、カフスボタン光らせたる青年なり、 「○○でございます。よろしくお願いいたします」  マネージャーに聞くと接客作法には特に注意払うとると言うが、女客ならぬ老人の拙者《やつがれ》にも直立不動。姿勢正しく椅子に腰かける。 「おいくつですかな」 「ハッ、二十八であります」 「ここで収入よろしいかな」 「ハッ。自分は前にサラリーマンでしたが、今はその五倍ほどの収入があります。ハッ」 「と申しますと二十万円。銀座のホステスなみでありますなァ」 「ハッ、しかし自分は三十になればもうやめる気持で」 「ほう、なぜかな」 「ハッ。三十すぎてまだこの仕事では自分がミジメですから。やはりお客さまは、若いホストをおよびになりますので……」  入口のすぐ近くに、ちょうどキャバレーと同じように客の指名を待つホストが何人か腰かけている。いくら待っても、指名がこぬ時は、一番、イヤだ、寂しい、とこのホスト氏が言うておった。そうであろう。自分が女性にもてんことを如実に示されたようなもので辛かろうな。客は会社を経営している女実業家などいるが、しかし普通の奥さまも多く、なんと、P・T・Aの会の二次会などで面白半分にそろって来たのが始まりで、 「あとは、お一人でコッソリいらっしゃいました」 「ふゥむ、P・T・Aの会のあとで」 「でも楽でございますね。女のお客さまは、シツコイことはなさいません。お酒、召上って踊られるのが大半で。それ以上のことはお求めになりません」  日本女房のフラストレイション発散の程度はまずまずその辺であろう。 「チップはくれますかな」 「普通は二、三千円。多い方で一万円」  ふむゥ。これは面白い。諸君、諸君はバアに行ってこれという下心がないのにホステスに三千円から一万円のチップをやるかな。とんでもない。そんなのは惜しい。ごもっともである。それなのにここにくる女性客がチップをはずむというのは、これ即ち女の現われ。虚栄心という奴だ。 「お金でなく、カフスボタンやネクタイくださる方もおられます」  これも女心だなァ。それとも母親が息子の面倒みるような心にふっとなるのかな。このホスト、ランバンの銀色ネクタイしめておったがこれもお客さまのプレゼントだそうで。 「自分はお飲みにならずにホストにドンドン飲ませてくださる方もいられます」   これがヤキモチ対策法  女客のイヤァなところはと聞くと、このホスト氏、しばらく、ためらっておったが、 「それは……ヤキモチです」  しばらくして決然と答えた。 「なにヤキモチ?」 「はァ。お相手をしているうち、別のお客さまから御指名があり、一寸、座をはずしますと、嫌味を言われます」 「ふむゥ。嫌味をねえ」 「あの人のほうが……あたしよりいいんデショなんて」  我が家だけではなくバアまで来てヤキモチをやく。これ即ち、女の実体。実によく女を現わしておるではないか。なァ、諸君。 「そんな時、あんた、どう、なだめるか」 「私ならこう申します。あなたにだけボク甘えられるから、こう我儘《わがまま》を言うんだけど、向うのお客は我儘を言えるほど親しくないから断われないんです。これで大丈夫です。ヤキモチがおさまります」  かく言うてこのホスト氏、ニヤッと笑うた。なるほど、これはウマい言い方であるな。諸君もこれから浮気をする時は、女房に同じように言うてはどうだろ。 「お前にだけ甘えられるからこそ、俺もこう我儘を言える。だが向うとは、我儘言うほど親しくないので断われないのである」  フロアでは五、六組の中年の奥さまたち、お姫さまと騎士《ナイト》という女永遠の夢を追うて踊ってござった。それはチョッピリ悲しかった。なぜか知らんが悲しかった。 [#改ページ]  ああ、ハネムーン列車   下劣な発想を憎む  どんな人間の心にもスター意識というものがあって、一生に一度、晴れの舞台で主人公を演じてみたいという気持がかくれておるものだが——それが誰にもかなえられるのが、あの結婚式というやつである。  拙者《やつがれ》はだから若い連中の結婚式に出るのは嫌いではない。だれかが倖せそうな顔をしているのをみて、イヤな気持になる人間はない。幸福そのものの姿でこの日ばかりは満座の主役を演じている若いカップルを見るのは、いい。嬉しくなる。 「どうせ、これからはあんたらも苦労の連続だろうが、今日だけは、シアワセ。そのシアワセをたのしんで下さい」  そう祝福したい気分になるのである。  ところがうちの喜多八のように品性よからぬ男となると、拙者《やつがれ》のように考えんのだな。 「結婚式。あんな阿呆くさいものはない」 「なぜだ」 「どんなバカタレもその日ばかりは秀才だとか前途有望のオムコさんといわれる。どんなブス女でもその日ばかりは、お美しい花嫁といわれる。いい気なもんだ」 「だからいいじゃないか。どんな人にもそういう晴れがましい嬉しい一日が人生に一度はあるから楽しいんじゃないか」 「だがねえ……爺《じい》さん、ハッキリ言えばな……結婚式とはその夜に男と女ができることだろ。実質的には俺と女が温泉マークに行くのと変りねえや。それをさ、みんながバンザイ、バンザイと祝っておる。ケッタイな話だなァ」  拙者《やつがれ》は喜多八のような下劣な発想をする男を憎む。かかる青年が日本にふえることを嘆きかなしむ。  この男は、いつか日本シリーズを見にいったら、野球場内を埋めている無数の群衆をみながら、 「何万いるかな」 「三万人はおるじゃろ」 「この三万人がこの世に生れるためには、……へ、へ、へ、へ」  と拙者《やつがれ》の顔を見てニヤッと笑うたが、拙者《やつがれ》つくづくその時、世の中が嫌になった。   披露宴の難行苦行  喜多八いかに言おうと、拙者《やつがれ》は結婚式に出るのが好きだ。倖せそうな花ムコ、幸福そのものの花嫁の御顔をみるのもたのしいのだが、披露宴で司会者の司会ぶりとテーブル・スピーチをきいて聞きあきることがない。わが師、式亭三馬先生は「人間万事《にんげんばんじ》虚誕計《うそばつかり》」という戯文のなかで、口から出る言葉と本心とをみごとに対比されたが、結婚披露宴のスピーチなど「人間万事《にんげんばんじ》虚誕計《うそばつかり》」と我々に思わせて楽しめるものはないからである。  大体、披露宴では、当人だけがユーモアと洒落《しやれ》を言ったつもりで、一向に何も面白くない司会者が必ずマイクを握るのが常だが、最初に指名されるのが、これまた花ムコの先生とか、父親の友と称する爺さまたちで、この老人たちのスピーチは牛の尿のように長々、ダラダラしているものである。 「わたくすは、新郎、勇君のことはよく知りませんが、勇君の父親、山田三助氏とは竹馬の友でありまして、その頃より、この山田三助氏は意志のつよい人でありまして、それにつけても思いだしますのは、山田さんと私とは、冬、雪の山を二里も歩いて小学校に通ったのでありますが、その六年間、山田さんは一度も遅刻欠席されたことがなかったのでありますが、これは山田三助氏のお母さん——つまり今日の新郎の祖母にあたられる方が、それこそ山内一豊の妻のような立派な方であるからでありまして、当時、山田三助さんの庭に柿の木がはえておったのを三助氏と私とが食べておりますと、この母堂がそれを食うなら売ってこい、とこう言われたほど、実に利殖の道にくわしい母堂でありまして……」  花ムコの話はどこへやら、延々として、二十年前にあの世に行った婆さまの話を当人だけが得意になってやっておるのを、他の客は仕方なくうなだれて聞いておる。それが何ともいえんユーモアがある。  スピーチの終りごろには必ず花ムコの友人、花ヨメの友だちとかがマイクの前にたたされるものであるが、これは、はた迷惑なもので、 「ぼくは勇君と高校の時から同じ釜の飯をくったような間柄の多田といいます。さっきから聞いていますと、今日ばかりは勇君は学術優秀、品行方正の青年としてヤニさがっていますから、ぼくがひとつ、彼の一側面をバラしてやりましょう。(当人、ユーモアのつもりで)勇君はむかしから野放図というか、物にかまわんというか、便所に行っても手を洗わぬようなところがあるんです。いつか合宿して知ったんですが、彼、パンツだって二週間も三週間もとりかえないんですね。だから、そばに寄るとプンとにおうんです。しまいには、みんな彼のアダ名をソバプンとつけたぐらいで(誰も笑わない)はァ……ぼく悪いこと言ったかな……つまり、ぼくの言わんと欲することはですね、勇君のうつくしいお嫁さんはきっと勇君のパンツを洗濯し、彼からソバプンというアダ名をとり除いてくれるであろうことを、友人として心から切願している次第であります」  当人だけがおかしいつもりだが、ソバプンなどと言われれば皿を前にした客もゲッソリ食欲なくなり、花ムコは列席した花嫁の友だちの手前、顔を真赤にしておる。それがこの友人は一向、気づかん。   食わにゃ損、損  聞いていて、背中にジンマシンの起きそうなのは、花嫁の学生時代の女先生のテーブル・スピーチというやつで、  司会者「ただ今は花ムコの友人の軽妙なるスピーチ、有難うございました。(なにが軽妙だ)では、次は花嫁さんが学生時代、入っておられました寮の舎監、大山タカ先生にお話をうかがいたいと思います。大山先生、どうぞ」  大山先生「田中さん、(絶叫する)いいえ。今日からはそう呼べなくなるのですね。たった今、このうつくしいあなたの花嫁すがたを拝見しながら私は、ああ良かった、田中サチ子さんなら立派なお嫁さんになると……五年前から私があることから思っていた気持がウソではなかったと知ったのです。田中さん。あなたは、寮のお掃除でも一人、最後までやっていらっしゃいました。アレをみてから先生は、何といい生徒だろう、従順勤勉という学校の方針がこの生徒だけには生きているのだと、シミジミ、心から感じたのです。だから今日、田中さんのその花嫁姿をみて、校長先生も教頭先生も(西の方をむいて一礼する)どんなにお悦びかと思い、あなたのような花嫁さんをもっともっと学校から出そうと、今、このスバらしいお料理を頂きながら固く固く心に誓いましたの」  聞きながら肌に粟《あわ》を生ずるスピーチとは、けだし、このようなものだろう。  花嫁の学校時代の友だちのスピーチとその本心とを対比してお目にかけんか。  スピーチ「チコは学校の時から下級生はもちろんのこと、クラスメートの憬《あこが》れの的でピアノなんかスゴくおできになるのに決して鼻にかけない人なんです。その上、イタズラなんか好きで、こんなことをバラしていいかしら。チコはよく冗談をいって随分、あたしなんか笑わして頂いたんですけど、チコのお母さまだってスゴくおやさしい方で、あたしたちが遊びにいくとプリンなんか作って下さるんです。そんなやさしいチコをお嫁さんにもらった彼は世界一、幸福だと思いますわ。ホ、ホホ」  この友だちの本心「チコなんか、クラスで指おりのブスだったのにお家が金持だったからオムコさんがもらえたんじゃないの。本当に口惜しいわ。ピアノなんか一度、聞かされたけど、これが五年間も習った腕前かと呆れてものが言えなかったわ。山下さんも杉山さんも、みんなチコのことよく言わなかったわよ。それにあのオムコさんどうだろう。チンチクリンで下腹が出てて、チコもまあ、よく選びに選んだものね。もっともチコ級ではこのくらいのオムコさんじゃなきゃあ、来る人がいないでしょうけど。あたしの彼のほうがずっと素敵よ」  これがすむと、司会者がまた心にもない世辞を言うのである。 「ただ今は花嫁の御友人、野村雲子さんのユーモアあふるるスピーチありがとうございました。今日の花嫁といい、ただ今の野村さんといい、我々、新郎の友人にはまぶしいばかりの美女で、かく申す私もまだ独身でございますから、よろしくお願い申しあげます」  そのくせ、この司会者が本心で考えているのは、次のようなことである。 「なんだ。この野村とかいうスベタ娘のスピーチは。ダラダラしやがって時間くって仕様がない。当人だけ面白いつもりだから始末におえねえよ。しかしブス娘だなあ、この野村とかいう娘は。もっとも今日の花嫁も負けぬくらいの豚娘だが、しかし山田もなんだな、今晩、この豚娘とキスせざるをえんのだから、あいつ、どんな顔をして、キスするんだろ。今日、司会をつとめたのも、式のあと花嫁の友だちでイカス女の子をヒッカケてやろうと考えたのだが、ましな娘は一人もおらん。こうなりゃ、まずい料理でもタラフク食わにゃ、損だ、損だ」  拙者《やつがれ》、別に誇張しておるわけではない。これを読まれた読者もおそらくその半分以上が思いあたる節があろう。どんな退屈な式にも披露宴にも拙者《やつがれ》、よばれれば悦んで出る。   ああ二十数年の歳月  この秋、東京駅などに行くと、新幹線のホームは、もう花ムコ、花嫁とその見送り人でごったがえしておった。はなやかに和服で着飾った見送りの娘たち。引出物もった紳士は一杯機嫌。その円陣にかこまれてたった今、式場から出てきたばかりの花ムコ、花嫁が照れてたっておる。  だが二十数年前、この同じホームに雨がふり、日の丸の旗たすきにかけた学生があちらにもこちらにも友人たちに囲まれて、校歌と、軍歌の渦《うず》がまき、明日もわからぬ戦場に行った光景をまぶたに焼きつけた拙者《やつがれ》には、この二つのちがいに、どう気持をまとめてよいか、わからなんだ。 「行ってこいよォ——」  あの言葉は今日、幸福な新婚旅行に出かける若夫婦に送られるが、あの時の、 「行ってこいよォ——」  は、それを口に発する者も、それを受けるものも万感の思いこめて聞いたものだ。 「頑張れなァ」 「バンザァーイ」  拙者《やつがれ》は思わず眼をあけ、現実に戻った。もはやあれから二十数年の歳月がながれた。頑張れと言い、万歳というのもそれは学業すてて軍隊に入る友のためでなく、熱海や熱川に甘い夜を送る新婚夫婦たちのために言うとるのである。  しかし、どうして今時の新婚旅行の連中は、そろいもそろって画一的な服装をするのであろう。  正月の娘の一人が和服に白犬の毛で作ったようなショールをすれば、猫も杓子《しやくし》もペラペラの晴着に白犬の毛のショール。あれと同じでこのホームに立って右をむいても左を向いても花嫁はみな作りたてのスーツに作りたてのコート。それにパラフィン紙でつつんだカーネーションなどの花をもつと相場がきまっておるようである。  旦那のほうはさすがで、ひどく照れているが、照れないのは花嫁である。友人たちがカメラを向けると、 「へ、へ、へ、へ」  何とも言えん恥ずかしげな笑いをするのは新郎で、新妻のほうはもはや天下公認とばかり、その亭主の腕に素早くわが腕をすべりこませている。 (どうこれは、あたしの人よ。あたしは結婚したのよ)  見送りにきた女友達たちに、これみよがしに幸福を誇示しておるようで、もう少し慎みぶかくしてほしいと思うのは拙者《やつがれ》の年齢のせいであろうか。  もっとも見送りのなかで新郎の悪友たちは相手が照れているのを知って、わざわざヒドい悪戯をやる連中がいる。  その日、拙者《やつがれ》がみたのは、列車のなかにドヤドヤはいりこみ、囲りの客に聞えよがしに、 「なにしろ、二年の交際がみのった君たちだからなァ。今夜はうんと楽しんでこいよ。あたり前じゃないか。ベッタリやってくるさ」  新郎も新妻も真赤になっている。しかも中に一人、 「おい。お前、インキンは治しておいたか。嫁さんにウツすと大変だぞ」  発車まぎわ大声でそう言って素早く列車から飛びおり、ペロッと舌をだした奴がいたが、これはチトひどすぎる。  なにしろ新幹線のこだま号は、新横浜以外、いつまでも停らないから、食い逃げならぬ言い逃げされた新郎は顔を真赤にしたまま、坐っていなければならぬ。   良妻トハ強盗ノコトナリ  その日、偶々《たまたま》、小田原まで用事があって拙者《やつがれ》この新幹線に乗ったのであるが、一客車の半分以上にホヤホヤのカップルがずらりと並んだ。  注意してみると、どの花ムコも新妻を窓ぎわにすわらせる。(これが二年もしてみなさい。女房たたせて、おのれがドッカと坐るようになるのだ)  発車前、客車がホームにいる間は、いずれのカップルもわざとヨソヨソしい。窓にはまるで動物園の猿でも覗きこむように見送り人の顔、顔がへばりついている。  やがてベルがなり、汽車が動く。すると全席のカップルの手が見送り人にむかってサッとあがるのが壮観だ。そして途端に今の今までヨソヨソしくふるまっていた二人が肩をすり合わせるようにして話しはじめるのだな。列車がうごくと週刊誌など読みふけるのは中古の夫婦か、商用のサラリーマンで、彼らは小田原までペチャクチャ話しあっていた。  ビュッフェのコックにきくと、この新婚夫婦に一番よろこばれるのは鰻定食だそうである。新婚さんには鰻をだせと言われている、ぐらいだそうである。  拙者《やつがれ》さらに注意してみると、列車内の花嫁さんたち、いずれもまだ初々《ういうい》しくて、人妻という雰囲気ができあがっておらん。いまだにお嬢さんという感じだな。  彼女たちの頭には、今頃、さびしく家に戻っている父さん、母さんのことなど、これぽっちも念頭にないようである。  娘をとつがせて、一番ガックリくるのは親爺《おやじ》どので、さぞかし東京駅から家に戻ると、急にガランとした家のなかにたって、娘の使ったものなどをぼんやり眺めているのであろう。 「とうとう、礼子もいったなァ、母さん」 「そうですねえ。これからは父さんと二人きり」  母親のほうはこれも満更でなく、茶など入れて夫婦さしむかいで坐るが、親爺は茶碗をぼんやり口にあてたまま、娘のことを考えておる。これぞ小津安二郎、得意の一シーン。  ところが娘のほうはどうだ。そんな親爺の寂しさなど糞くらえで、列車内の会話をきいていると、 「ミキサーなんか買う必要ないわよ。旅行がすんだら、家に行って、ひったくってきちゃうもん」 「ついでに客用の徳利と盃も盗んでおいでよ。あんなもの、わざわざ買うのは損だからね」 「あたり前よ。あたしね、これから実家にあるものジャンジャンとってくるつもりよ」  こうしたカップルの会話が拙者《やつがれ》の耳にまではっきり聞えてきて、現代の良妻とは親爺やお袋が長年かかって買ったものを、実家に戻るたび、強盗のようにかすめ取る女をさすのかと思うたぐらいであった。  のみならず花ムコのほうも、そんな泥棒の決意にもえているおのが花嫁をヨシヨシといとおしそうに見ているのであるから、拙者《やつがれ》ごとき頭の古い連中にはよくその心理、解せぬのである。  もっとひどい花嫁もいたぞ。 「今朝ね、式に行く前に、パパの部屋に行って、わざと悲しそうな顔して、父さん、ながながお世話になりました。では行ってまいります。そう言ったら、泣きだしたの」 「へえ。君の親爺が」 「そうよ。笑っちゃった。こちらはテレビの徳川大奥物語のマネしてみたのに」  だから諸君、たとえ諸君の娘がとつぐ朝、敷居に指ついてシオらしいことを言うても絶対、信用してはならんぞ。   行きと帰りの見分け方  新婚列車内の花嫁たちは、さっきも書いたように、まだお嬢さん的であるが、これが一週間後、蜜月旅行をおえて戻ってくる時にはアラアラふしぎ、すっかり人妻づらに変っているのである。  これは前から拙者《やつがれ》、ふしぎに思うておったことであるが、みなさんもあるいは気がつかれたかも知れん。  同じ汽車のカップルでも花嫁の立居ふるまいに、どこかお嬢さんとはちがった人妻の雰囲気が感じられたら、これは新婚旅行の行きがけではなく、帰りだと思うて、まず間ちがいはないのである。  マックス・バッハーという心理学者の説によると、女のなかには女、妻、母の三要素があるが、彼女たちは結婚した翌日から「女」をすてて「妻」に早がわりできるのだそうである。そして子供ができれば、その瞬間から「妻」をすてて「母」に早変りできるのだそうである。  ところが男性はグータラというかモタモタした怠け者というか、いつまでも男が残っていて、「夫」にもそう簡単になれない。「父」にもそう早変りできぬ。彼は最後まで男なのである。  困るのは、女はまるでサナギが一夜にして蝶になるごとく、妻に早変りできるため、 「あんたも、早く、夫に変化して頂戴」  おのれの変化スピードを男に要求するから、それが我々男性には重くるしい重圧になり、大宅壮一先生のいわれる恐妻心理をやがて作りあげていくのだそうだ。  だから拙者《やつがれ》、新婚旅行の帰りらしい若いカップルをみると、何かしら気の毒になる。すっかり人妻になった花嫁にくらべ、まだ夫ヅラさえできず、依然として独身時代とそう変りない表情をした新郎の対比があまりハッキリしておるからだ。  そういう時、危ういかな、クラマテング、と人ごとながら案ずるのは拙者《やつがれ》一人であろうか。やがてこの新郎も無数の先輩亭主と同じように、女房どのと長い、重い、しんどい人生を送らねばならぬわけだ。 [#改ページ]  オレはお化けだぞ   た、た、助けてくれ  某月某日  某週刊誌のグラビアで東京・六本木にお化けバアなるものが出来たことを知った。その説明によると、このバアは内部を幽霊屋敷に作って、アルバイトの劇団研究生を使い、ミイラやヨボヨボ男を壁から飛び出させ、観客はただびっくり仰天、女の子は椅子から転げおちると書いてある。  なるほど、その写真には腰ぬかして、眼を見ひらいた客たちの顔がうつっており、 「これは愉快、これは面白い」  拙者《やつがれ》、手をうって悦んだ。  さァ、そうなると、またぞろ例の好奇心の虫がうごきはじめ、 「仕事があるのだ。行ってはいかん」  そう我と我身に言いきかせても、夕暮になると腰が椅子から浮きあがるような気分になり、 「出かけてくる」  そう言うて、六本木まで一時間半かかって出かけた。  問題のバアをアチコチ探すと、なるほどあった、あった。サイケ調のネオンの文字が白く光っておる。地下におりる階段をばトントンとおりると、そこは切符売場、兼クロークになっておって、 「心臓病、高血圧、その他、ショックに弱い方は御遠慮ねがいます」  と言った意味の注意書きまで出ておる。  切符というのは、いわば席料七百円でこれでビール小瓶なりコカコーラなりが飲める仕組みだが、仕かけ代と言うたが適当であろう。  拙者《やつがれ》一人ゆえ、おそるおそる扉をあけると、まず眼の前に細長い通廊《つうろう》があり、硝子《ガラス》ケースの中に蝋か何かで作った血だらけの女の首や骸骨が陳列されておって、ここは子供の時、祭で見た幽霊屋敷の入口のごとくである。  だがその通廊から第二の扉を押すと、そこはかなり広いバアになっており、ほぼ席は満員だったが、席と席の間に空《から》井戸、死体を入れる棺などが並べられ、壁には等身大の血まみれ男女の人形が飾られ、何やらブキミなる音響をしきりに鳴らし、恐怖心をそそろうという趣向。これだけならば、 「大したことはないワ」  少しガッカリして、空いた卓子に坐っておった。  ところが間もなく、突如、壁の一部がぐらりと回転した。回転した壁にフランケンシュタインの弟のような人形が出てきた。 「なんだ。大したことはないワ」  これまた、馬鹿にしておると、この人形、突然、客席にむかって飛びかかる。  たちまちにして悲鳴と恐怖の叫びはアチコチに充満し、ブキミなる音響これを更にけしかけ、フランケンシュタインの弟はあっちのテーブル、こっちのテーブルを襲うたび、 「よしてッ」 「やめてッ」 「おねがい」  女の子たちは男の子にしがみつき、男の子はその女の子をだきしめて嬉しいやら、こわいやらの最中、今度はいずかたより現われたるや、身の毛もよだつ全身包帯まいたるミイラ男が飛びこんできて、猿《ましら》のごとく走りまわる。  面白い。実に愉快。  拙者《やつがれ》、あまりの面白さに、恐怖をよそおって、 「た、た、助けてくれ」  と隣席の女の子にしがみつくと、この女の子もこわさの余り、拙者《やつがれ》にしがみつき、こんな余徳はありはしない。  一時間後、そのバアを出たが、もう他のバアなどで、すましたホステスなどの機嫌をとり、高い酒をのんでいる客などが阿呆くさくみえ、この趣向を考えた経営者の頭のよさにつくづく感心をした。   こわがる客こそ風流  某月某日  今日もあのお化けバアに行ってみたくてたまらなくなり、黄昏《たそがれ》、仕事をやめて六本木に行く。  余談になるが拙者《やつがれ》は幼い頃から、幽霊に非常な興味があり、大人になってからもその気持が棄てきれず、数年前、あちこちの幽雲屋敷を探険しようと思いたち、「週刊S」誌の告知板という欄に次のような広告を出したことがあった。 「みなさんの村、町、あるいは御近所で、妖怪、幽霊の出る場所、家がございましたら何卒、御通知ください」  旬日ならずして二十通ほどの全国各地からの手紙がきたが、この手紙に、 「それでは実際に見聞したい」  そういう返事を出すと、さながら塩かけられたナメクジ同様、怪しくなり、 「十年前まではあったが、今はその家はとりこわされました」  とか、 「古老から聞いた話ですので、今、出るか出ぬかは保証できません」  と声もかぼそい形となって、結局、残ったのは四軒。その中には時計が午前零時になると必ずとまるという名古屋元中村遊廓内のある家や、深夜、女の悲鳴がきこえるという軽井沢の古別荘などがあり、早速、現在、落語評論家である江国滋氏と探険にでかけた経験がある。  今日は拙者《やつがれ》、一人で行くのは野暮と思うたから、偶々《たまたま》会ったマダム鳥尾を誘った。マダム鳥尾は知る人ぞ知る、終戦後に米国進駐軍の高官と烈しい恋愛をされた子爵夫人で、一時は、政界の代議士も彼女を通して占領軍と交渉をしたという噂のある戦後裏面史に忘れられぬ女傑である。  拙者《やつがれ》としては、かかる女傑ならば、たとえミイラ男、イボイボの幽霊が出現してもハッシと睨みつけ、巴《ともえ》御前さながら、 「お退《さが》り、無礼者」  と叱咤《しつた》されるであろうと、その凜乎《りんこ》たる声を聞かんものと思うていたのであるが、予想は全くはずれ、問題のお化けバアに入って、妙ちくりんなる蝋人形をみただけで顔色蒼白。更にミイラ男が先日のごとく、壁より飛びかかると、 「キャッ」  恥も外聞もあらばこそ、腰をぬかして床に転げおち、 「イヤよ、イヤよ、イヤよ」  ただ叫ばれるのみ。女傑も幽霊の前では十五歳の娘にひとしい。しかしこういうところでは、こわがる客こそ風流というべきで、お化けになったアルバイトの連中も、そのほうが悦ぶであろう。   好奇心おさえかねて  某月某日  今日で三回目。このバアも物見高い東京人にはパッと噂も拡がったらしく、九時頃、出かけてみると、階段のところにズラリと行列ができておる。拙者《やつがれ》、この年になるまで、戦争中の国民酒場を除いて、酒場に行列つくっているのを見たことはない。  中年男にホステスらしき女、若い男女に芸者をつれたおッさんまで並んで、 「こわいんだったら、あたしイヤよ」 「こわかないサ」  男はニヤニヤ、女はこわいもの見たさの表情で足ぶみしながら順番を待っておる。  三回目ともなれは、クロークの人もマネージャーらしき人も拙者《やつがれ》の顔を憶えてくれ、 「おや、また、来ましたね」  そう声をかけてくれる。多い客で今日まで十七回、来た人がいるそうで、その人はその度毎、同伴の女性を変えてくるという。  親しくなったついでに、好奇心の虫|抑《おさ》えかねて、 「実はたのみがあるのですが」 「何でしょう」 「拙者《やつがれ》をお化けに採用してくれませんか」  言下に断わられた。これは容易《やさ》しいようで専門的な技術がいるというのである。 「そこを何とか、是非」  どうしても許してくれぬ。   からかわれたミイラ男  某月某日  昨日も今日もここに日参し、「お化けにしてくれえ」「お化けにしてくれえ」と再三、たのんだところ、ようやく、許しがでた。 「そこまで、おっしゃるなら一回だけですよ。前例になると、ほかのお客さまの希望もいれねばなりません。一回だけ」  念を押してそう言うところをみると、客のなかには拙者《やつがれ》同様、お化けになりたやと頼む連中もかなりいるようである。  許されてみると、今日は客席にいても、観察の仕方がこれまでと、ずっと違ってくる。  まず客だが、一番無邪気にコワがってくれるのは若い男女である。女の子のほうは、布を裂くような悲鳴をあげるし、男の子のほうにもしっかりその彼女だいて、懸命に騎士《ナイト》ぶりを発揮する者が多い。  しかしその彼自身も恐怖心にかられていることは五本指でわかる。女の子をだいたその指先がすっかり硬直して、力が入っているからだ。  中年の男客になると、コワがらぬ客と、コワがってはおらぬということを誇示する客とに分かれる。  コワがらぬ客はこれまで幾度かここに来たらしく、同伴の女性をキャアキャアいわせてニヤニヤしている人が多い。だが一番お化けにとって困るのは、 「なんだ。コワくねえぞ。この野郎」  いい年をしているくせに、俺は男だ、こわくないぞと女性に強がりを見せたがる無風流の中年男だ。  酔ったホステスは、お化けが相手にしにくい客である。 「あらあら、あんたってさァ、可愛い顔してるじゃないの」  この日も二組ぐらい、ホステス同士で遊びにきていたが、こんなことを言って近よってきたミイラ男をからかっておった。  お化けが遠くにあらわれ、自分たちの方向に歩きだしただけで、うつむき、背中をかたくしている女の子たちがアチコチいる。こういう女の子が一番、おどかしやすいのであろう。  かくのごとく、この日は拙者《やつがれ》も自分がお化けになる夜のため、色々作戦をねり、帰宅した。   お化けになるのは大変  某月某日  夜。あるパーティがあり、それがはねてから飯をくって時間を待つ。飯を食いながらも胸がドキドキして嬉しくて仕方がない。  昔、中学校のニキビ華やかなりし頃、友だちと二人で夜みちにかくれ、女の人をワッとおどかしたため、交番につれていかれて叱られたことがあった。向うは痴漢と間ちがえたらしいが十五歳の悪童たちが痴漢であるはずはなく、お巡りさんに説教されただけで釈放された。あの思い出も記憶に甦ってきたのである。今夜だけは天下ゴメンで、昔の悪戯《いたずら》をまたできるわけだ。  八時半、おばけバアに行き、客席の裏にある事務所にまわる。  社長に支配人たちがいて、 「いいですか。衣裳はこちらのを貸しますが、あなたの服も顔も、かなり、よごれますよ」 「はい。かまいません」  客席の方ではキャー、キャーという悲鳴が今夜もきこえてくる。舞台に出る役者の興奮と同じようなものを感じる。  社長と支配人さんに色々と話をきくと、この素晴しいアイデアはロンドンのマダム・タッソウの蝋人形博物館からヒントをえたものだそうだ。なるほどそう言えば、蝋人形の顔や人形があちこち飾ってあった理由がわかる。 「日本の幽霊はなかなか、出ないようですが」 「あれは、どうも夏向きの恰好をしなければなりませんのでね」  拙者《やつがれ》は女性の幽霊を使ったらどうですかと言おうとしたが、これはあまりにリアリティがあって、本当に生理的に嫌悪感を客に与えるかもしれぬと思った。  拙者《やつがれ》が出番をまっている間にも、ボーイさんたちが、テープレコーダーをまわしたり、紐を引っ張ったり、操作に大童《おおわらわ》である。テープレコーダーにはもちろん、あの薄気味わるい音響が吹きこんである。紐は引っ張れば井戸の中から血だらけの首がとびだすわけである。  そのうち、ミイラ男が楽屋ならぬ事務所に戻ってきた。さすがに重労働とみえて、フウフウ、言うておる。 「すごく汗がでますから」  この先輩、やさしい若者で、新入りのお化けに注意してくれる。 「こんなに客が入るとは思っていなかったんです。はじめはごく少数のお客さんを集めて、たのしんで頂くつもりだったんですが」  初日には二十人ほどの客しか来なかったのが、今や連日、超満員。江戸時代ならカワラ版も出るというところだろう。 「来年はニューヨークに同じ店を作ろうかと考えています。巴里《パリ》は? さァ、どうでしょうか。ローマなら当ると思いますね」 「しかし、この仕掛けを作るのが大変だったでしょ」  話によると四谷怪談と同じく、開店前に色々、変事があったそうだ。人形や首をつくらせて持ってかえった人に、災難が次々と起り、 「やっぱり、こわくなって、おハライをしてもらいました」  と社長が言った。   おねがい、あっち行って 「さァ、ではそろそろ、支度にかかってもらいましょう」  まず黒い修道服のようなものを着る。怪物の面をかぶる。  怪物のマスクはイボイボの顔をしたものとか、片眼がつぶれて、はれあがったマスクとかがあり、ゴムで出来ている。  かぶると、意外に眼がみえぬ。呼吸も楽ではない。あんた、お化けになるのはなかなか大変である。  そして更に両手にゴムの大きな手袋をはめ、女の血だらけの首を手にもたされる。 「私についてきて下さい」  だれかが先にたって懐中電燈でなが細い廊下を照らしながら歩いていく。そのあとをついていきながら、もう嬉しくて嬉しくてならん。銀座の酒場で遊んでいる連中やマージャンにふける者たちの心境がさっぱりわからん。東京には探せば、まだまだこんな楽しみはころがっておるのだ。 「いいですか。ここに立って」  客席と通廊を隔てる壁——その一隅はクルリと回転するようになっている。そこに立たせて、 「一、二、三で、ここを押すのです」  拙者《やつがれ》、ダイビングでもするように大きく息をすって、 「一、二、三」  客たちが腰かけている空間が前にあらわれた。幸い、彼らは拙者《やつがれ》に気づいてはおらぬ。  ゆっくりと床に足をふみだし、よろめくように歩く。 「キャーッ」  そばの女の子が両手で顔を覆った。これは愉快。実に愉快。 「ウ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」 「キャーッ」  眼がよく見えぬせいで足もとが定まらぬ、その足もと定まらぬのが、かえってお化けらしくみえるらしく、 「こわいーッ」 「寄らないでえ」  寄らないでと言われれば、余計に寄りたくなるのが人情で、ますます愉快。 「ウ、ヒ、ヒ、ヒヒ」  女の子同士で固くだきあって、その肩に指をふれただけで、両足をバタバタさせ、 「おねがい、あっち、行って」  若い客たちの中には恋人がキャアキャアいうのが面白いらしく、 「お化け。たのむ、この人も脅してくれ」  そう頼む青年があるかと思えば、 「こわくない、ミチ子さん。お化けなんか、こわくないぞッ」  女の子をしっかり抱きしめ、励まし、自分も必死の形相で私を睨みつける者もいる。もっとも、その御当人が恐怖と戦っているのはその表情でよくわかるのだ。  外人の客がいる。この若い男女の外人客は、私が近づくと、 「ゲダウト。あーん。ゲダウト」  としきりに叫びはじめた。やはり余程、恐ろしかったらしい。   風流のわかる部下  向うから相棒のミイラ男氏があらわれた。彼の歩くところもキャーッの声があがる。このミイラ男氏、すれちがった時、 「お互い頑張りましょう」  と激励してくれたのは、おかしくもあり嬉しくもあった。  ふらふら、ふらふら、両手を上下させて隅の席に坐っている客のほうに進む。女の子がうつむいて、手であっちに行ってくれと哀願する。 「ウ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」  しきりにやっておると、耳もとで、 「編集長」  思いがけなくも聞きおぼえのある声がした。  ハッと思って見ると、何と、拙者《やつがれ》が編集しているM文学のスタッフが二人偶然にも来ているのだ。 「編集長なにを一体、やっとるのですか」  これはいかん。部下に飛んでもないところを見られてしまった。狼狽して五、六歩、退くと、 「編集長、ぼくらにも、やらせて下さい。おねがいです」  と頼んできた。やはり拙者《やつがれ》の部下には風流のわかる人物が多い。  二十分ほど駆けずりまわった末、ふたたび回転扉から楽屋に戻ると、汗びっしょりである。フウフウ息をつく、幽霊になるのもかなりの労働である。  さりながら、こんな面白い夜が最近あったろうか。長生きは、やはりするものである。拙者《やつがれ》の我儘な願いを聞き届けてくださった「お化けバア」の社長、支配人に、厚く御礼申上げると共に、店の御発展を祈り、更に願わくば今後も拙者《やつがれ》にこの楽しみを続けさせてくださるようお願いする。  もっとも家に戻って、この話をしたところ、家人は苦い顔をして、 「またですか。いい加減にして下さい」  と怒っていた。 [#改ページ]  とんだ一一〇番   一人息子のXマス  師走《しわす》というのは、私にとってあまり楽しい月ではない。何かすべてが、あわただしくて、落ちつきがないのが嫌なのだが、それよりも毎年、十二月になると、妙チクリンな事件が身にふりかかるからである。学生時代に無二の親友を自殺で失ったのもこの十二月だったし、数年前、大きな手術をうけたのも十二月だった。すでに書いたことだから、ここではのべないが、三浦朱門と熱海で幽霊をみたのも十二月の終りだった。  今年も師走になると、また妙チクリンなことが起らぬかと不安だった。個人的なことはともかく、新聞の三面にも例のガードマン射殺事件や三億円事件など次々と勃発《ぼつぱつ》して、その犯人がいまだ逮捕されず薄気味わるいままに年が暮れようとしていた。  私自身も秋からあまり縁起のよくないことばかり重なっていた。九月にトラックとぶつかってムチウチ病になった。そのムチウチ病の最中にまた、車がタクシーにぶつかって折角の新車に大きな傷をつけた。  どうも良くないことが次々に起るので、案じていたら、果せるかな、Xマスが終った十二月の終りに、とんでもないことが起ったのである。  まァ、聞いてください。  実は私の一人息子に小学校六年になるのがいる。どうも勉強をせん。学校から戻るとテレビにしがみつき、あのドンチャカチャッチという独逸《ドイツ》の鉄かぶとみたいな頭をした楽隊ばかり見ているか、漫画を書いているかのどちらかで勉強など一向にしたことがない。勉強しろと時々言うと、 「マイ・ペースで行こォー」  妙な声でテレビのCMをまねたことを叫び、手がつけられん。  それがこの十二月、もらってきた通信簿をみると、予想通り、御立派な御成績なので、 「なんだ、クリスマス・プレゼントなぞ、ないぞ」  こわい顔をして宣言しておいた。  ところが当人はプレゼントほしさに必死になって家事を手伝う。自動車の掃除もする。この子は幼い時から三浦朱門の息子で四つ年上の太郎君を尊敬していて、去年の初夏、私が「太郎君は実にえらいものだ、庭に菜園をつくって自分で成長させ、キュウリやナスビをお母さん(曾野綾子さん)に買ってもらって小遣いにしている。ああ、働かざるもの、食うべからずだ」  と言うてきかせると、その翌日、近所の花屋から、もう実のなりかかった苺《いちご》の苗を買ってきて、それを勝手口ちかくに植え、十日後にはもう、その苺の実を一つ、二十円で家内に売りつけようとしたのである。その果実はまだ半分しか赤くなく、その上蟻がくっているのに二十円はあまりにひどいので、私は憤然、一個一円に値下げさせたのであった。   精巧すぎたモデル・ガン  そういう家事手伝いとアルバイトだから、我が家にとっては有難いどころか、迷惑至極なのであるが、ともかく、欲得でも懸命に自動車を掃除している姿をみて、私の気持もおれ、 「それでは、クリスマス・プレゼントぐらい買ってやるか」  という心境になってきた。  で、師走のある日、やっと仕事が一段落した日にこの子と、私の仕事を手伝ってくれている娘さんと三人で新宿に出た。何がほしいかときくと、ピストルがほしいという。  デパートの玩具部にいくと、せせら笑って、 「こんな幼稚っぽいんじゃ、ねえや」  と言う。 「じゃァ、どういうやつだ」 「こんなところに売ってないよ。ぼく一軒、知ってるんだけど」  そういうわけで彼につれられて都電の通りをまっすぐにおりると、なるほど、そこにモデル・ガンをショウウィンドーにならべた店があった。  かねてから雑誌の広告などでは知っていたがモデル・ガンなど見るのは初めてである。実物そっくりの拳銃やガンが硝子ケースに並んでいる。値段も三千円以上ではお安くはない。  息子には高価すぎるが、私の好奇心が動きだして店員に一つ、拳銃を出させてみると、むしょうに欲しくなってきた。ずっしりとした重み、鉄の鈍い光、すべてが本物とまがうばかりである。私は息子のためよりは私のために、ついフラフラと一つ、買ってしまった。  店の外に出ると、五時半だというのに師走のことゆえ、もう暗い。今日も新宿は沢山の人出である。仕事を手伝ってくれている娘さんが運転する車に私と息子とは乗った。私は助手席に、息子はうしろに腰かけた。  六時からパレスホテルで会がある。だから娘さんにまずパレスホテルに私をつれていってくれたあと、息子を家まで送ってくれぬかとたのんだ。 「すげえなァ」 「本物、そっくりだ」  車のなかで、私と息子とは買ったばかりの拳銃をさすったり、ためしたりしていた。こういうものを強盗がもてば、本物とまちがえて怯《おび》える人もいるのではないかと思うくらいだった。  事件はその時、起ったのである。我々三人は何も知らなかった。車は新宿から四谷三丁目をすぎ、それから信濃町をぬけて日比谷方向にむかった。パレスホテルで私はおり、息子は娘さんにつれられて引きかえした。  すでに暗かったから、仕方がないといえば仕方がなかったのかもしれぬ。車中で、好奇心のあまり我々が拳銃をさすったり、ふりまわしたりしていたのも、悪かったのかもしれん。しかし、もう少しチャンと観察してほしかった。  とにかく、四谷三丁目で我々三人を目撃した人がいたのである。その人は車のなかで二人の男が拳銃をふりまわし、運転席にいる女性を脅迫していると錯覚した。折も折、あの三億円をとった犯人たちが、 「一人の女性と二人の男」  と新聞に書かれていた時だったから、なお悪かった。  このアワテン坊の人は何と、私の息子を二十二、三の青年と見たのである。そしてこの私を二十七、八の青年と思ったのである。すばやく私の自動車番号をみて、彼は(あるいは彼女かもしれん、男なら、もう少し冷静な筈であるから)ダイヤル一一〇番に電話をしたのだった。   これぞ新式の�車難�  都内の読者なら記憶もあるだろうが、あの師走、東京都では警察はうちつづく事件で神経質になって非常警戒をいたるところでやっていた。そこへ一一〇番で「一人の女性に二人の男が拳銃をつきつけていた」と電話されれば、ハッとするのは当然であろう。警察はすぐ立川まで非常警戒をはり、私の車番号を調査し、それが遠藤周作なる作家の持車だと知った。警視庁から二名の刑事、私の住んでいる町田署から一名の刑事、そしてパトカーに乗った警官たちが、我が家にザザッと、のりこんできたわけである。 (もちろん、私はそれを夢にも思わずパレスホテルの会に十時までいた)  留守番をしていたうちの女房は何も知らずに家事をやっていた。年のくれで、どこの細君も忙しい夕暮がもう終ろうとしていた。  その時玄関のブザーがなった。  彼女が何かが配達されてきたのだろうぐらいの気持で、扉をあけると、 「遠藤さんのお宅ですね」  途端に四人の男が玄関のなかに足をふみいれて、 「御主人は? 警察の者ですが」  仰天した女房が留守だというと、パトカーの警官が、私の行先をマイクで本署に連絡した。 「報告します。主人はただ今、パレスホテルに会があって行っているとのことであります」 「了解、了解」  もちろん町田警察では私が三億円の犯人と疑ったわけではない。ただ、車の番号が私の所有車であるので、あるいは二人の青年がこの車を奪い、運転中の娘さんを拳銃で脅かしつつ遁走《とんそう》しているのかもしれぬと考えたのであろう。そして私の女房も、あんな仕様のない宿六はどうなろうとかまわぬが、息子に万一のことがあったのかと、顔面蒼白になったのは無理もない。  とにかく、刑事さんたちは我が家の食堂で待機しはじめた。女房も事情がわからぬだけにただ、もうその周りでオロオロするだけである。  そうとは知らぬノンキな息子と娘さんとはやっと混雑する東京をぬけて、町田までたどりつくと、これはいかに、我が家の前にパトカーがとまっている。そして車をおりた途端、 「もし、待ちなさい、あんたは五時半頃、新宿四丁目を通りましたか」 「坊や、何を手に持っている?」  刑事さんから次々と質問をあびせられた。 「ピストル」  娘さんも息子もただびっくり、真っ青になって手に持ったものをわたした。  モデル・ガンが箱から出た時、事情はすべて明白になった。 「いや、実に精巧にできてるなァ、これじゃ、間違うのもムリもない」  刑事さんは息子の拳銃をみながら、そう呟いたそうである。そして今は疑いの晴れた息子を慰めて、 「坊や、これがホンモノ、こっちがニセモノ」  と自分の拳銃もみせてくれたという。  十一時頃、自宅に戻った私はこのことを知って、どこまで今年は車難に会うのだろうとくさった。私はムチウチ以来、車難とは交通事故のことだとばかり考えていたのだが、こんなあたらしい形の車難もあったのである。  いずれにしろ、あの日、一一〇番に私と息子とを二十歳代の青年と見て電話した御仁に告げる。君の警察協力の精神は立派だが、今後は正確に観察してほしい。私を二十七、八歳にまちがえたのは若々しい私の容貌のせいとは思うが、小学生の子供を二十歳の青年と見まちがえたのは少しひどすぎる。   「千坪」に目がくらむ 「ああァ。今年はついてねえなァ」  と私はその夜妻にこぼした。私がこぼす時に言う台詞《せりふ》はいつもきまっている。 「いっそ、この家をたたみ、北海道にでも引越しをするか」  そのたびごとに女房はせせら笑う。彼女がせせら笑うのは理由がある。  実は私は北海道に、諸君、驚くなかれ千坪という広大な土地を所有しているのである。もっとも諸君のなかには千坪なんて広大とも思わぬ大地主がいるかも知れぬが、しかし私には千坪はすごく広く思える。西部劇に出てくるような土地にみえるのだ。  この土地を私は村松剛のすすめで手に入れた。というより、村松のよく知っている出版社が私の旧著を再版したいと数年前、言ってきた時、 「印税分だけあの本屋は北海道の土地を世話してくれるから、そのほうがいい」  と教えてくれたのが彼だった。  私のその時、もらうべき印税はたしか二十数万円だった。その二十数万円で千坪をくれると言うのだから坪、二百数十円ということになる。私は千坪という広さに眼がくらみ、それなら土地を世話してくれ、とこっちから出版社に申しこんだのだった。  その出版社は早速、その土地一帯を所有している不動産屋に話を通じてくれた。旬日ならずして不動産屋から連絡があり、 「では、現地を御案内したいと思いますからおいで頂けませんかな。もちろん北海道までの交通費、宿代はこっちがサービスとしてもちます」  と言ってきた。  私は考えた末、女房に行かせようと思った。というのは結婚以来、私は女房を旅行などに出してやったことはなかった。結婚前はそうではなかったのだが、結婚してみると、奇妙なことに女房と外出しても、この人のために金を使うのが惜しくなる癖が私にできてきたのである。  ほかの女性となら御馳走をたべても惜しくないのだが、カミさんには出費するのが阿呆らしいので、たまに彼女と外に出ても、ソバ屋でごまかすのが私の習慣である。  そんな私だから彼女を旅行にやるなど考えたこともなかったのだが、この不動産屋からの電話をうけた時は、旅費も宿代も向うもちなら、おのれの懐《ふところ》が痛む筈はないので、 (よし、こいつで恩を売っておこう)  そこは鋭敏な頭脳を早速、働かせたのだった。 「まァ」  私の話をきいた女房は有頂天になり、 「北海道に行けるんですか」 「うむ。本来なら、ぼくが行くところだが、君に行かせたい。ゆっくり遊んでおいで」  ゆっくり遊んでおいでと言ったって、代金ことごとく不動産屋が払うのだから、こっちの知ったことではないのである。   わが土地は規模雄大  こうして二泊三日の予定で彼女は現地に出かけた。二日目の夜、向うから電話があって、 「海まで百メートルぐらいのところよ」  女房の声もはずんでいた。 「うしろが駒ヶ岳なの。その上、あたしがえらんだ場所には小川がながれているの」 「なに? 小川が」  私は庭に小川がながれ、碧《あお》い海のみえるうつくしい土地を心に思いうかべた。やがてそこに別荘でもたてれば、窓から駒ヶ岳もみえるだろう。 「で周りに家があるのか」 「家なんかないわ」 「家がない。店もないのか」 「そんなものないわ。ただひろーい裾野《すその》なの。前に海があるの」  海、海と女房は海のことばかり言っているのである。 「よし、すぐ手に入れろ。すばらしい。手に入れろ」  私はそう命令して電話をきった。眼ぶたのなかにはもう規模雄大な風景がうかびあがって、行かなくても目に見えるようだった。  三日後に北海道から帰宅した女房は、結婚後はじめての旅行にかなり興奮しながら、身ぶり手ぶりで私の行ったことのない北海道(といっても彼女の見たのはその現地だけであるが)の風景を話した。 「不動産屋の人は二、三年後にはここにホテルもできるでしょうって」 「なに、ホテルが」 「すると、別荘なんかもドンドンたつでしょうって」  今のところは人家一軒も見えぬ曠野《こうや》だが、将来は軽井沢や那須のようになるのだろうと私は空想した。ただちょっと、不安だったのは最寄りの町まで車で一時間はかかるという点だが、これは将来の発展が解決してくれるにちがいなかった。  私は仕事の合間、つかれた時など、その千坪の土地を心に思いえがいた。実際に見ていないだけにその千坪の土地は私の夢、私の希望でどうにでも着色され、美化されるのだった。画用紙をとりだして私は駒ヶ岳を背景にその千坪の土地にいつか建てられるべきわがヴィラを描くのだった。そういう時、私の空想を刺激するのはツルゲネフやトルストイの描写するロシヤの荘園の生活で、そのイメージが私の土地の上に重なってくるのだった。  千坪! 散歩の時、私は千坪の広さをもった家を近所にさがした。もちろんあるはずはなかった。たとえあったとしても、それは碧い海をまぢかにひかえ、庭に小川がながれているはずはなかった。ああ、千坪!  その上、それから二カ月後に村松剛からかかってきた電話が更に私を悦ばした。 「我々のあの土地のあたりに」  村松も既に私の手に入れた千坪のちかくに二千坪を所有していたのである。 「温泉が出たそうだ」 「なに? 温泉」 「うん。偶然、掘ったところが、湯が出てきたとか聞いたよ。まだなまぬるいそうだがね」 「しかし深く掘れば熱湯が出る可能性はあるね」 「うん、大いにある」  私の空想は更に拡大した。コンコンと湧く湯。私はその湯を家中に引こう。風呂なんかも朝だって昼だって真夜中だって入れるのだ。これは拾いものだ。  だがその頃、妙なことがあった。ある日、郵便物のなかに私はあの土地の売り手である不動産屋のパンフレットを見つけた。喜んでそのパンフレットを開いた私の眼はその中に印刷されている写真に、 「この夢のような土地をお買上げ中の遠藤周作氏夫妻」  と書いたものに注がれたのである。何と、私の女房がうつっている。だが女房の横にチョボ髭のチンチクリンの中年男が立っていて、それが遠藤周作氏になっているのだ。 「おい」  私は女房をよびつけ、そのパンフレットをみせ、 「この男はだれだ」 「この人。あっ、不動産屋の人よ。えっ、遠藤氏夫妻だって」  私と女房とは仰天したが、しかしこういう間違いは故意にやったのではなかろうと笑ったのだった。とはいえ、このチョボ髭の中年男を私と思う人がいるのは多少迷惑だった。   査定評価額千四十円  それから数年たった。その土地には今日までホテルはおろか、一軒の家もたたない。話にきくと北海道にはこういう使いものにならぬ土地がワンサカあるのだそうで、そこに人が住むのはいつになるのか、わからぬという話である。  一昨年、私はこの土地について一円も課税してこないのが不安になり、税務署に問いあわせたところ、 「あなたの土地は査定評価額で千四十円なので課税の対象にはなりません」  という返事がきた。坪、千四十円ではないのである。千坪で千四十円なのである。もっとはっきり言えば、坪、一円なのだ。 「君、ひどいじゃないか」  私は村松に会うたびに苦情をいう。 「あんな月世界のような土地を俺に買わせて」 「ぼく、知らないよ」  村松は当惑しきった表情で、話題を変えようとする。仕方がない。彼も二千坪、買った被害者なのだから。その上、問いつめると、あの温泉のことも彼の聞きちがいだったらしいのである。私は仕方がないので、この土地を有効に使う方法を考えた。そこに植林をするのではない。大学に入った姪《めい》たちに、 「おい。お前らに叔父さんが五十坪ずつ土地をやろう」  そう言って名刺の裏に土地をやるという言葉を書いてわたしてやったのだ。姪たちは北海道の五十坪の土地を惜しげもなくくれたこの私の豪快さに眼をまるくし、以来、ひどく尊敬しているようだ。なあに、五十坪すなわち五十円なのだが、彼女たちはその事をもちろん知らないのだ。  だが千坪の土地がやはり、どこかにあることはいいことだ。満員の電車に乗っている時、私は、 「くそ。俺は千坪の土地の所有者だぞ」  と言う。すると満員電車もそれほど苦痛ではなくなる。仕事がうまくいかぬ時も私は、 「我に千坪の土地あり」  とつぶやく。去年の暮のようにムチウチになった揚句、三億円の犯人と間違えられれば、 「ああ、北海道に引越しすべいか」  と言うわけだ。しかし、その千坪の土地のきびしい現実を知っている女房はせせら笑うのである。  そこで今年こそはいいことがありますようにと祈っていたのだが、一月、これまた飛んでもないことがもち上がった。 [#改ページ]  腹もたちますよ  私はこの正月、テレビのクイズ番組で百万円があたった、その番組は読売テレビの「巨泉まとめて百万円」という。  あれは正月三ガ日がまたたく間にすぎ、七草|粥《がゆ》の七日頃で、突然、大阪にいるただ一人の兄から電話がかかってきて、 「お前、俺と一緒に『巨泉まとめて百万円』に出てくれよ」  というのである。  その電話を受けた時、私はヤレヤレという気分になった。   慎太郎兄弟はいいなあ  私事を申しあげて恐縮だが私の兄は別にテレビ局の人間ではない、電電公社という堅い職場にいる男だが——これが弟の私と同様、無類の映画好き、テレビ好きなのである。それも見ているだけではなく、何とかしてドラマに役者として出たいという気持を昔から持っており、 「え、俺をいつお前の原作テレビに出してくれるんだ」  と会うたびに、うるさくせがむのである。  どんな人間にも二分のウヌボレはあるものだし、私は自分の兄が山村聡と似ていると勝手に思いこんでいる心情をかねがねアワレに思ってはいたが、何とかして弟の原作映画やテレビに(主役ならずとも)脇役でも出演させてくれと言われると、 「う、うーん」  思わず、言葉を濁してしまうのが常であった。  というのは、この私だって、自分の原作テレビの演出家に珈琲《コーヒー》なんか随分ごちそうして、やっとセリフなし、十秒ぐらい画面に出るチョイ役にありつける身なのである。とても兄貴を売出すまでに手もまわらぬし、力およばない。そんな非力の私に、この兄は、いつも、 「慎太郎と裕次郎の兄弟はいいなァ」  と恨めしそうに言うのであった。  かれこれ十年ちかく、こうした言葉をいつも聞かされてきたが、頼りにならぬ弟だと思ったのであろう、本人は遂に自力でテレビ出演の売り込みにかかったのである。  まこと人の意志とは怖ろしいもので、この正月、遂に兄の悲願が実現した。「巨泉まとめて百万円」に出演することがきまったのである。ただそれは……色々な兄弟をゲストとしてこのクイズをやらせる趣向であるから、弟さんを大阪に呼んで下さいというのが局の希望であった。 「お前が出ぬと、俺も出場できなくなるからなァ、たのむよ」  そう血肉をわけた兄から頼まれると、当人のせつない心情を知っているだけに、私としてもノオと言えなくなった。私はちょうどイスラエルに聖書の背景をみるため旅だつ半カ月前で忙しかったが、やっと一日の暇をとって大阪に出かけることにした。  さて、我々兄弟がこうして出場することになった「巨泉まとめて百万円」というクイズ番組は、大橋巨泉氏が司会をやって、ゲストの前に次々と運ばれてくる品物の値段をあてるという遊びである。  もし、その品物の値段がピタリと当たれば、その物は当てた当人がもらえることになる。また個々の品物の値段で失敗しても、ゲストの予想総額が本当の総額と一万円以下の近似値ならば、その品物全部をタダで頂きということになる。  私はかねがね大橋巨泉のファンだったが生憎この番組だけは見ていなかった。その上、品物の値段などをみきわめる力には全く欠けている。私はたとえば突然、外国製ネグリジェ一枚を眼の前にだして、 「これは、いくらだと思いますか」  そうたずねられても、全く返事のできぬ男なのである。だからいよいよ出場することにはしたが、別に自信がある筈はない。   巨泉氏にからかわれる  大阪につくと兄は大悦びで、その夜は何軒かのバアにつれていってくれたが、今度のテレビ出場をすでにアッチコッチで吹聴してまわったらしく、 「おッ。これが俺の弟。この前も言ったように明日、兄弟でいよいよテレビ出演。ぜひ見てもらいたい」  そうマダムやホステスに言うのだが、彼女たちは、もうその話聞きあきたらしく、白けた顔をして、 「また、同じ話? もう耳がタコになったわよ」  と答えるのであった。  その夜、彼と飲んでホテルに戻ったが翌日録画は四時にはじまるというのに、兄は午後一時にはもう私のところにあらわれ、ソワソワと散髪屋に行き、戻るとしきりに時計をみつめ、生唾を飲んでいた。まるで入学試験を受ける受験生さながらである。 「お前はまァ、商売柄、テレビで場なれがしておるだろうが、俺はもうドキドキだ。大丈夫だろうか」  とうるさいほど聞くので、 「大丈夫。大丈夫」  と答えながら私はむかし高等学校の受験の折、この兄についてもらって行ったことをふと、思いだした。当時、一高生だった兄は受験場で|そわそわ《ヽヽヽヽ》している私に、 「落ちつけ、落ちつけ」  と言ってくれたものである。もっとも私は兄にそう言われても、浪人三年をするほど沢山の学校を落第したのであるが……。  局から迎えの人が来て、四時少し前に私たち兄弟はゲスト控室に入った。私たちと同じようにこの番組に兄弟ゲストとしてやってきたのは、まずファイティング原田君に牛若丸原田君兄弟。それに漫才の中田ダイマル、ラケット兄弟。デザイナーのコシノ・ジュンコさん姉妹などであった。  ドーランをぬってスタジオに入ると、もう各人の席がきまっていた。その席について、ディレクターから、このクイズのやり方や値段を示すボタンの押し方などをきいた。それから、いよいよ、本番がはじまった。  可愛い娘さんが上手から、さまざまな品物を持ってあらわれる。すると巨泉氏がその品物について註釈をくわえる。 「さて、次はイタリー製の御婦人用|鞄《かばん》、上質の皮を使い、内側は御覧のようになっています」  その品物を見ながら、わずか五秒ぐらいの時間に値段を考え、電気数字を出すボタンをチャッ、チャッと押さねばならない。考えていたより意外にむつかしいのである。 「今度は最高級の碁盤です。もちろん石はナチ石ですよ」  一人ならば自分の考えでボタンを押せるが、今度のこれは、各兄弟が一組であるから私が、 「二十三万円」  と思っても、兄貴が、 「十一万円」  と考えれば、そこで意見が分れる。時間は五秒か十秒ぐらいしかない。二人の意見を調節する暇もないのである。  その上、次から次へと出てくる品物は私など見たことのないような高級品か、女性用の品物ばかりで、 「はい次はハンガー、二十個」 「はい、今度は、砂糖で作った大きな鯛」  巨泉氏が実にうまい解説をつけてはくれるのだが、これ全く値段の予想がつかず、 「遠藤兄弟は買物などしたことがないのではありませんか」  巨泉氏にからかわれる始末だった。  ガウンが出た。イタリー製ワイシャツ布地が出た。クリネックスの箱が山とつまれて現われた。洒落《しやれ》た時計も出た。だがみんな困っているらしい。 「ファイティング原田さん、どうもウマくいきませんねえ」  巨泉氏が声をかけると、このリングの王者も頭をかきかき、 「いや、さっぱり、見当がつきません」 「ウマい。拳闘家が見当がつかぬとはウマい洒落ですなァ」  私は途中で諦めて兄貴にまかせていたが、ふと思いついて、 「そうだ。総計を百万円の近くまで持っていくという手もある」  つまり品物の予想総計が実際の合計値段と一万円以下の近似値ならば、全部の商品をもらえるのであるから——総額を百万円前後にしておけばいいのだと気がついた。  私たちにとって幸運なことに、この時、ファイティング原田氏の使っていた押しボタンに故障があった。録画だから撮影を一時、中止して早速、局の人が修理にとりかかった。何でも原田氏の足に電線がひっかかったのだという。 「兄貴、この間に、今までの俺たちが出した額を計算してみろよ」  私は子供の時から算術、数学はいつも丙《へい》。しかし兄貴の通信簿はいつも数学、甲だったから、彼、チャチャッと暗算して、 「今のところ、七十万円を少しこえている」 「なら、あとの品物は一つ一つ当らなくても三十万円前後の合計にすればいいんだな」  兄弟でそう話しあっていた。   百万円あたったあ  機械の故障が二、三度つづいたのち、やっと修理が終って、またクイズが続いた。我々兄弟としましては、もう一つ一つの品物の値段は考えない。総額を狙ったわけである。  そうして——いよいよ、最後の品物が運ばれ、クイズが一度、完了し、 「それでは、皆さんの総額は?」  マイクを持ちなおして巨泉氏が、 「では総額のボタンを押して下さい」  その結果、コシノ・ジュンコ姉妹が百三万を少し上まわり、私たち兄弟が百二万を少しこえ、他の人たちはそれより、もっと下で、 「果して、本当の総額は幾らでしょうか」  パンパカーパン、パカパカ、パンパカパーン、背後の電球がピカピカッと光ると、巨泉氏はびっくりして叫んだ。 「いやァ驚きました。遠藤さん御兄弟が、タイガー賞であります。いやァ。驚いた。まさかと思っていましたら、遂にやりましたなァ。いやァー」  私も兄貴もただもう、仰天して、スタジオに山とつまれた商品を茫然と眺めていた。鞄あり。金時計あり。碁盤あり、鉄瓶あり、ネグリジェあり、メロンの山あり、その他、眼もくらむ商品の数々が、ひょんなことから全部、もらえることになるとは、私も夢にも考えなかったからである。 「どうします、この商品は」 「ぼ、ぼくは」兄貴はかすれた声で、「寄附を……寄附」  私はあわてて机の下の彼の靴を蹴飛ばした。興奮した彼は寄附、寄附と呟《つぶや》いているからだ。  冗談じゃないよ。寄附もいいがせっかく、大阪まで来て当てたものを少しは、もらわなくちゃァ。ねえ。皆さん。  私は子供の時、絵本でみた桃太郎の絵をなぜか、急に思いだした。その絵本の最後の頁に桃太郎に犬や猿が大八車に金銀サンゴ、宝物を山とつんで家路に戻る絵があったからであろう。 (あれ、あれ、あれ)  意味のない言葉を私はつぶやいた。  驚きはもう一つあった。このクイズのスポンサー、タイガー魔法瓶の社長が、灘中(現在の灘高)の頃の私のポン友だったことである。彼も学業よからず、私も成績劣等、廊下に出て、久しぶりに対面し、 「おッ」  手を握りあったのだった。  しかし、何だか万事が夢のなかのことのようで、車に乗っても自分で自分の頬をギュッとつねり、あっ本当だ、本当だと思ったぐらいだった。  まだ大阪に残れと友人も兄貴も奨《すす》めてくれたが、私は大急ぎで飛行機に乗って帰宅したかった。平生から、私のことをバカにしておる家人に「わかったか」と一刻も早く言ってやりたかったからである。  羽田につくとタクシー飛ばして家にまっしぐら、転げるように玄関の戸をあけ、 「聞けえ。百万円、あたったァ」  そう叫んだが、家人も息子もフフンとせせら笑って、 「また嘘よ」 「もう、だまされないぞ」  私は大いに怒り、大阪の読売テレビか、兄貴の家に電話をしろと怒鳴った。ところがその時、肝心の兄のほうから電話がかかってきたのである。 「いくら説明しても、家の者が信用せんのだ」  兄のほうも情けなそうな声で言った。 「お前、本当だと、言うてくれよ」  その夜、おそく、私と兄とは電話で、当たった品物を一つ一つ、あげながら楽しんだ。牛が胃袋のものを口にもどして噛みしめるようにたのしさを味わった。   機械が故障でした  翌日から、この出来事をみんなに吹聴したくてたまらなくなった。何しろ、先年はムチウチになるやら、三億円の犯人と間違えられるやらで、ツイてないこと、おびただしかっただけに、このタナボタ式の幸運が嬉しいのは当然である。 「君、知ってますか。巨泉まとめて百万円」  家にくる雑誌社、出版社の人たちに次から次へと話をする。一人一人に始めから当たった情景まで説明するのだから時間がかかるのであるが、それさえ楽しいぐらいで、 「あなたには賞品のうち、クリネックス十箱あげます」 「君にはハンガー五つ。役にたちますよ」 「碁盤がきたら、一つ、一局、うちましょうや」  いやもう、大富豪になった気分だったのである。もちろん、みんな、 「ほォ。それは有難い」 「約束やぶっちゃイヤですよ」 「そんなことあるものか。遠藤周作、男でござる。あげると言ったら必ずあげる」  いい気持になれた三日後の午前、突然思いがけぬことが持ちあがったのだった。大阪の兄から電話がかかってきたのである。 「今なァ」  ひどく、しょげた声で、 「読売テレビの人が来て、あのクイズの時のボタン機械は故障していたから俺たちタイガー賞当選は無効だというんだ。で、もう一度、とりなおしをしてくれと……」  私はそれを聞いてカッとなった。  カッとなるなぞ、はしたないが、しかし皆さんだって同じ目に会ってごらんなさい。カッとなりますよ。当たった、と人を悦ばしておきながら、三、四日して、あれは機械の故障だ、やりなおしとは、あまりにひどいじゃないか。 「行かんよ、ぼくはもう大阪なぞ行かんよ。機械の故障など、向うの責任だろ。それをとりなおしだとはあんまり身勝手じゃないか。第一、そんなこわれる機械なぜ使うんだ」 「俺も、そう思うけどなァー」 「ぼくは断じていやだよ」  私はカッとして、兄貴にそう言い、受話器をガチャリと切ったが、心中、はなはだ面白くなかった、なにかペテンにかけられたような気がしたからである。のみならず、とりなおしに大阪に来いと兄貴を通じて言わせるディレクターにも腹がたってきた。そういうことは本人が当事者の私に電話ででも説明すべきじゃないかと思った。   ペテンじゃないか  それと共に私は、商品を分配しようと約束した知人や家人に今更、何と言おうかと当惑した。大人はわかってくれるが、小さな子供たちはさぞかしガッカリするにきまっている。 (俺はまだツキがまわって、こねえんだなァ)  せっかく、よい芽が出たと思っていた矢先に、グシャリ、こうやられると、余計、情けないものである。 「酒もってこい」  その夜は酒を飲んで、ふてくされて寝てしまった。  二、三日して、読売テレビの担当者から電話があった。ところが、事情をきいてみると、私は更にびっくりしたのである。 「御兄弟のボタンの故障は、途中からわかっていたんですが、あの時、ショウとして御兄弟がとても面白かったので撮影をつづけたのです」  そう言うのである。 「えッ? 故障がわかっていた? じゃァ、そのあと、どうするつもりだったんです」 「あとで何とか画面を修正できて誤魔化せると思ったんですが——それが修正できぬことが技術的にわかりましたので……」  これでは、何も知らぬ大橋巨泉氏や我々ゲストのみならず、視聴者全部にたいするペテンじゃないか。私たち兄弟の総額が本当に当たっていないことを局の人たちは知りながら、あとで、画面をなおせばいいと、そう考えていたと言うのだから、私はさらにカーッとしてしまい、 「すると、何ですか。あなたたちはショウとしての面白さのため、クイズの公正を平気でまげたわけですね」 「すみません」  すみませんと言われたって、ムカっ腹が治るわけではない。 「そんなフィルムは上映しないで下さい」 「そうおっしゃられると困ります。だから、もう一度、後半をとり直していただきたいんです」 「いやだね」  首に縄をつけられたって行くもんかと思った。  しかし、しばらくすると、この局の人を怒っても仕方がないという気にもなってきた。けれども、機械の故障が途中でわかっていたならば、なぜ、すぐそれをゲスト全員、大橋巨泉氏に告げ、公正にその場でやり直しをしなかったのか、それが納得いかなかった。  おそらく、ミキサー室のディレクターはドギマギしたのだろうが、しかし「ショウとして面白いから」クイズとしては不正だが撮影をつづけた、というのは間違っている。   今年もツイていない  やがて半月後、局はおわびのしるしと言って全商品をさしあげたいと言ってきたが、しかし、本当は当選もしていない我々に商品を与えるのはこれまた、いかんのである。もし私たち兄弟がこれをもらったならば、他のゲストである、原田兄弟や中田兄弟、コシノ姉妹に申しわけない。申しわけないのみならず、スジが通らない。 「これは頂けませんよ。どうぞお持ちかえり下さい」  私たち兄弟はそう言って辞退したが、せっかくひとを有頂天にさせておいて、それをひっくりかえされるとはテレビ局も罪つくりであり、私はやはり、今年もツイていないようである。 [#改ページ]  大根役者のシェクスピア劇 「退屈ですなァ」  と古山氏が狐狸庵の縁側にしゃがみこんで言った。古山氏とは「季刊芸術」編集長の古山高麗雄氏のことである。 「退屈ですなァ」  小学館の野口晃史氏も同じように呟いた。  二年前の春のことである。この季節、わが狐狸庵は桃花にかこまれ、雑木林にみどりの芽、吹きいで、山鶯の声もまだ稚い。   なせばなる、なさねば…… 「なにか、やらんですか」 「さよう、何をやるですか」 「そうですなァ。何をやるですか」 「それが、わからんですなァ」  古山氏が鼻さきを飛びかう蜂を追いながら、ふと呟いた。 「わたしはむかしから、芝居がやりたかったですがなァ、役者になって一度、舞台に立ちたいと思っておったんです」 「ふむゥ」  ふむゥとうなずいたのも当然——実はこの私も今は三文文士であるが、中学生の頃から古山氏と同じ思い。嵐寛寿郎氏に手紙を書いて弟子入りをたのんで返事をもらえず、学校を出た時、松竹撮影所の門を叩いて落第をしたものの、今日まで役者俳優にアコガレる気持が一向に去らぬ男だったからである。 「しかし、芝居をやるといっても、どうしてやるのですか。どこも我々を使うてはくれんでしょう」 「自分で劇団を作りましょう」  古山氏はその俗塵《ぞくじん》を洗いながしたような顔にニヤリ笑いを浮かべて、 「そうすれば、誰はばかることなく、舞台にたてるですよ」  これが素人劇団を作ろうという最初のキッカケだった。  二人が帰ったあと、私はこう思った。草野球のチームがあるのと同じように、町内や同好の士が劇団を作るのは、実にオモシロい。しかし、まがりなりにも劇団である以上、金もかかる。人もそろえねばならぬ。それに都内の劇場などは、話をきいただけでセセラ笑い、とても舞台を提供してくれぬだろう。  そう考えると折角、古山氏が思いついた話も結局は雲散霧消に終るのではないかというのが、偽らざる気持だった。  だが、諸君《みなさん》、私は間違っていたのである。なせばなる、なさねばならぬ何事も、なさぬは人のなさぬなりけりという言葉があるが、私は間違っていたのである。  というのは、それから半カ月の間、私がなにげなしに、我が庵を訪う客たちにこの劇団の話をすると、ある人は笑い、ある人は関心なげに聞くのであったが、十人中に一人ぐらい 「それは名案。グド・アイデア、是非、ぼくも入れてください」  坐りなおし、眼をかがやかせて頼む御仁が次々と出てきたからである。  そこで私も考えなおしはじめた。 (できるか、できんかわからんが、一度、やりたい連中だけで集ってみよう)  幸い、私の友人でこういう時は必ずアネゴのように頼りになる女性がいた。銀座、鹿島ビルの中にある「レンガ屋」という洋食屋の女主人で稲川慶子という女性《ひと》だが、生来の美貌にもかかわらず、若い頃、空手とナギナタにこったため、いまだに独身——このアネゴに頼んで一室を某日、貸してもらい、古山、野口の両氏の知人、友人でこれに参加する人もあわせて集ることにしたのである。   配役はアミダで  ところが驚くべし、当日、そこへ出かけてみると、かなり広い部屋は四十数人の男女でギッシリであった。  サラリーマンあり、学生あり、主婦あり、テレビ局の演出家あり、税務署の役人あり。主婦は背中に子供を背負い、税務署の役人はキチンと足をそろえ、みな一生懸命、野口氏、古山氏の説明をきいている。一主婦の告白をきこう。 「私たち主婦の毎日は、亭主と子供の食事の世話から洗濯まで夢のない労働の連続です。私はこのままでお婆さんになるのはイヤなんです。だから、素人でも入れる劇団ができて、そこに一年に一度でもたてたらと思うと、毎日の生活にもきっとウルオイと楽しさもできるような気がするんで来ました」  サラリーマン氏のいわく。 「えーと。ぼくの芸歴はですねえ。小学校の時チルチル・ミチルに出ただけですがねえ。しかしこんな劇団ができたらですねえ。嬉しいですがねえ、端役《はやく》でも一生懸命やりたいと思いますですねえ」  BGの娘さんの言葉。 「あたし、新劇が好きでチョクチョク行くんです。でも見ているだけでなく、自分も演じたら、もっと芝居というものがわかるんじゃないかとそう考えたの。みなさん是非、つくって下さい」  各人各様、今日、この集りに来た理由はさまざまだったが、私は、この日本にこんなに芝居をやりたがる主婦や勤め人たちが沢山いるとは知らなかったのである。 「やろう。やりましょう」  四十数人、声をあわせて叫び、私の不安はその声に飛んでしまった。こうして、一瞬にして奇跡的に東都第一の素人劇団はスピーディにできあがってしまったのである。  我々はこの劇団の約束をすぐ作ったが、それは次の二つだけであった。   一、うちの劇団は全員みんな平等、対等である。   二、役は恨みっこなしのためみんなの希望をできるだけ入れ、アミダクジできめること。  次に各人の今日までの芸歴を調べてみると、テレビで風呂屋の番台に坐って三十秒ほど画面に出た私を除くと、小学校の時、「チルチル・ミチル」と「リヤ王」に出た二人の人と、軍隊時代、軍旗祭で馬の足になった古山氏とが、我々のなかで最も芝居経験がある御仁だとわかったのである。  ともかく、こうして、その日は劇団を結成し、みんなの公平な投票で劇団名と出しものをきめることにした。私は仏蘭西《フランス》のコメディ・フランセーズに比肩すべく、コメディ・ジャポネーズという案をだし、 「巴里《パリ》ではコメディ・フランセーズを。東京ではコメディ・ジャポネーズを」  という広告標語を作ろうと力説したが、投票の結果、この案は退けられ、みなは野口氏の考えた「樹座」を支持した。素人のくせに劇団を作るのはまことにキザだが、おゆるし下さいという意味である。  劇団名がきまると、会費を一年に二千円ときめた。一年二千円なら皆もだせるだろうし、二千円で舞台にたてるなら、だれも不満はないからである。 「で、出しものは」 「シェクスピアでいきましょう」  女の人のなかには「白雪姫」「赤ずきん」をやりたいという方もいたが、白雪姫だと男たちはカボチャやネズミにさせられるという声があり、結局、やるなら大きくシェクスピア氏原作「ロミオとジュリエット」にしようということになった。   四人のロミオ登場  野口氏はその日から精力的に歩きまわった。彼は彼が所属しているガストロ・クラブというグループから、画家の渡辺藤一氏やその夫人で童話作家の立原えりか氏たちを劇団に入れ、画家である渡辺氏が今度、舞台装置のプランを作ってくれることになったのである。  しかしそれだけでは劇団はできない。役者は素人でも演出家だけは本当のプロに指導してもらいたかった。そしてやれるなら、皆のアコガレのちゃんとした舞台にたちたかった。  その時、救いの神のように出現したのが福田恆存氏の率いる現代演劇協会のS氏とN氏とだった。私は、このS氏とN氏とは前から知っていたのだが、私の訴えをきくと、 「よろしい。素人の人の演劇熱をたかめるというのも我々の仕事の方向です。私たちはできる範囲内で力を貸してあげますぞ」  このS氏は眉ふとく、眼大きく、さながら街道一の大親分という感じのある人だが、この親分とN氏とにそう言われると、我々もホッと安心したのだった。そして両氏の御尽力でその後、劇団「雲」と「欅《けやき》」とをもつこの現代演劇協会は蔭になり日向になって、わが樹座を助けてくれたのである。  こうして翌年の二月、紀伊国屋ホールを夜の部、三万円で借りて、東都第一の素人劇団「樹座」はロミオとジュリエットをやることになった。我々としてはこんな素人芝居はタダで見て頂くべきと思ったが、どうしても小屋代、照明代がいるので三百円の切符をつくったのだ。北杜夫の言によると「けしからん。あんな芝居に三百円もとるなんて、サギだ」ということになるが、まこと、やむを得なかったのである。  稽古《けいこ》は毎夜、客のはねたレストランを借りて全員、必死で懸命にやった。ところが素人の悲しさ、まず台詞がなかなか憶えられぬ。折角、憶えても、相手が何を言った時、自分の台詞を答えるのか忘れている。特に私の場合、ロミオとチャンバラをやるマーキュショの役であるから、殺陣《たて》も憶えねばならぬ。  特に困ったのは配役である。劇団としてはみんなにいい役を与えたい。こっちはプロじゃないのだから、見にくるお客はせいぜい当人たちの家族ぐらいだろう。母さん、父さん、恋人、女房の前で自分が端役や馬の足を演じたくないのは人情であるから、アミダクジで役をふりあてるとはいえ、端役になった人には気の毒である。そこで、遂に考えた末、一幕ごとにロミオとジュリエット、その他の大きな役をかえることにした。すると少くとも四人のロミオと四人のジュリエットがふりあてえることになる。客のほうは幕がかわるごとにロミオの顔、ジュリエットの顔が違っているので戸惑うだろうが、これは我慢してもらうより仕方がなかった。  私も古山氏も野口氏も四百人の入る紀伊国屋に百人のお客が来ればいいと考えていた。私たちのまぶたにはマバラに客の入っている当日のわびしいホールが眼に浮かんだ。しかし、それでも芝居ができ、晴れの舞台に立てれば満足なのであった。   タスケて下さい  ところが当日、我々が紀伊国屋に行き、「雲」から指導に来てくださった中西先生の演出で最後の仕上げを終えた時、 「大変だ。大変だ」  座員の一人が飛んできて言った。 「お客がもう列を作っている」  私たちはそんな馬鹿なと答えた。何かの見まちがいだろう。宣伝も二、三軒の喫茶店に広告を出したきりの素人劇団に、開演一時間前にもうお客が列を作るとはとても考えられなかったのである。  だが——やがてその真偽をたしかめに楽屋を飛び出した二、三人が息せき切って戻ってくると、 「本当です。もう十人ほど並んでいます」  私は耳を疑った。疑ったがこれは事実であった。五時半、開場と同時に紀伊国屋ホールの受付から階段まで列をつくった客たちは一散に走ってホールに飛びこんできたからである。(もっともその一番は座員のI君の母上だった。I君の母上は息子が東京の舞台にたつときいて、友だち四人と新幹線で駆けつけたのである) 「もう駄目です。一杯です」  受付から次々と報告が入ってくる。 「補助席をだします」 「補助席も満員です」 「まだお客さんがきます。大変です。どうしましょう、タスケてください」  役者たちが舞台の袖《そで》からこわごわ客席を覗《のぞ》いてみると、おどろくべし。あのホールは人いきれでムンムンとして、顔、顔、顔、ぎっしりと埋まっていたのである。壁にもずらッと立っている。一体どうして、こんなに客が来たのか、我々にはさっぱり、その理由がわからない。座員が家族や友人に切符を売ったとしてもその数は知れたものである。普通は義理で切符を買っても、行かぬ人が多いものなのに、草野球ならぬ素人のこの草芝居がなぜ、こんな多数の客をよんだのか、我々にはさっぱり解せなかったのである。  だが現実に超満員の客がいる。この人たちの前で自分の下手糞な芝居をやると考えただけで、もう全員は頭がカーッとして、のぼせてしまった。憶えたはずの台詞も動きもみなどこかに飛んだ気持で、 「落ちついて、落ちついて」  演出の中西先生、劇団「雲」から化粧まで手伝いに来て下さった本職の俳優の人たちはそう励ましてくれるのだが、出ぬ前から咽喉《のど》がかわき、じっと坐っていることはできん。そして、今、無情な開幕のベルが鳴っている。  私は一幕の後半に出るので、ソデで始めに出る仲間の芝居を覗いていた。いや、もうメチャメチャだ。観客席ではあまりのことにびっくりし、呆れ果て、遂には失笑している。すっかりアガッた仲間たちは同じ台詞を幾度もくりかえしている。 「もう、その言葉はきいたッ。先にすすめ」  観客が叫んでいる。相手役のジュリエットがつまって、途方にくれているロミオにプロンプターをやる者がしきりに次の台詞を教えるが、あがっている当人の耳には入らぬらしい。立往生して、こちらを悲壮な眼でみて救いを求めている。それがおかしいとみえ、観客は腹をかかえて笑う。   大根が山のように  マーキュショの役の私も、遂に舞台に出る順番になった。平生は講演などで沢山の人の前に出ることはかなり平気なつもりだったのに、役者として登場すると、いや全く、心理的動揺がちがうのである。舞台に出るや否や、額からもうしとどに汗が出はじめた。 「しっかり。しっかり」  あれは聞いた声だ。瀬戸内晴美さんの声である。彼女まで来ているとは思いもしなかったのだ。その声でもう額の汗は三倍も溢《あふ》れ、眼の中に入りはじめる。何も見えぬ。見えぬままにチャンバラをやらねばならぬのである。しかも相手は極度の近眼だから、小道具屋さんから借りてきたジェラルミンの剣でも危険だ。 「おう。小癪《こしやく》な。この剣に物をいわせてみせるわ」  相手は稽古で憶えた通りに突いてくるが、こっちはもう何もかも忘れ、目茶苦茶に剣をふりまわす。ガキッという音とともに、掌に傷ができ血がながれるのを感じるが、ふしぎに痛くはない。  自分の出番が終って楽屋に戻ると、胸は太鼓でも入れたようにドンドン鳴っている。私はヤケになり、差し入れのウイスキーをのんでから、洋服にすぐきかえ、観客席に行ってみた。  観客席から見ると、いや仲間の演技も演技などというものではない。死んだロミオのため、花をまく役の男はヘッピリごしで、まるでゴンベイが種まきゃ、烏《からす》がほじくるという恰好。剣にさされて死ぬ男は、剣がまだ胸にいかぬうちにペタリと尻もちをついて死ぬ真似をしている。  当人たちは大マジメ、真剣も真剣、必死も必死なのだから、見ている観客にはただ愚劣にして滑稽なだけらしく、 「ロミオとジュリエットって、喜劇かァ」 「もう、シェクスピアを見るのが、イヤになったぞォ」  あっち、こっちから大声がかかり、 「わからん」 「何という芝居だ。きこえん」 「三百円、かえせ」  その声をきくたびに、もう居たたまれず耳の穴を指でふさぎたい気持だった。  私は逃げるように超満員のホールを出てロビーに行くと、そこには私をからかうかのごとく、大きな籠《かご》に大きな大根が山のように積まれ、 「祝、樹座様。瀬戸内晴美」  というリボンがかかっていた。   五年後は国立劇場で  こんな悲惨にしてみじめな演技をやったにかかわらず、乞食と役者は三日やったらやめられぬの諺《ことわざ》通り、しょげたはずのみんなは日がたつにつれ、 「来年もやるんですか」 「やりましょう」  とアツカマシくも言いはじめた。あの超満員の客の前で、あまりに拙劣でも、一つの事に必死でうちこめたという経験は現在の生活のなかでは他になかったからであろう。 「来年はハムレットを出しましょう」  地下でシェクスピアも頭をかかえて泣いているだろう。訳者の福田恆存氏もよくまァ、お怒りにならなかったものである。  ハムレットと出しものがきまった時、北杜夫から電話があった。 「あのォ。樹座はもう満員ですか」 「いや。この劇団は誰でも自由に入れるから、満員ということはないですよ」 「それならボクを入れんですか。ぼくが出れば、あんたたちの拙劣な演技をカバーするに充分ですぞ。ぼくによって、樹座は大いに刺激になるですな」  はにかみ屋の北は偉そうなことを言うが、こういう言い方をする時、彼は要するに入座を哀願しているわけである。 「よろしい。しからば入団試験をするから、水着持参で、この次の回に来なさい」  北の入座試験はかなり厳格だったが、学科試験はともかく、身体検査でもヨイヨイ的傾向や伝染的梅毒もみとめられなかったゆえ、みごと合格できたのは友人として慶賀にたえない。  その北を第三幕のハムレットにして(今度もハムレット四人、オフェリア四人である)、今年も三月の八日に同じ紀伊国屋ホールでやることになった。  ところが演出家がなかなか、みつからぬ。第一回の劇団「雲」の中西先生は、あまりの大根ぞろいに遂にサジをお投げになったのであろう。 「あたし、今度は、腹痛と風邪気味で」  とお断わりになって、その代り荒川先生がやられることになった。ついこの間、「雲」で「アントニオとクレオパトラ」を演出した荒川氏に来ていただくことは、恐縮のきわみだったが、そのおかげで第一回よりも演技はやや向上したかもしれぬ。  第二回も北の熱演もあってまた超満員だった。一体、なぜ、我々の草芝居にこんなにお客さまがいらっしゃるのか、劇団でも闇夜に鼻をつままれた気持であるが、まことに有難いと思う。そして折角いらっしゃっても、御入場できなかった方に、ふかくお詫び申しあげる。我々は五年後は国立劇場か日生劇場でマクベスとオセロの二本立てをやり、六年目にはカーネギーホールに行く予定だが、その時は今のような御迷惑はかけずにすむと思う。  東都第一の素人劇団「樹座」の来年の出しものは「真夏の夜の夢」である。華麗なるこのシェクスピアの劇は、雲も四季も民芸も俳優座もこの三、四年は上演しないであろう。とすれば、樹座でごらんになる以外、お気の毒だが、方法はないのである。北杜夫と瀬戸内晴美のやるバレエが見たいならば、この「真夏の夜の夢」に是非、いらっして下さい。 [#改ページ]  佳き哉「おふくろの味」  私の先輩で、夕方、帰宅しても細君に三語しか言わぬ人がいる。その三語とは「フロ」「メシ」「ネル」の三つだけであって、まず家に戻り洋服をぬぐと、 「風呂ッ」  風呂からあがると、 「飯ッ」  やがて食事も終って時間がたつと、 「寝るッ」  この三語しか口にしない。まことに日本亭主道の鑑《かがみ》というべき人物である。   日本の美風「嫁いじめ」  近頃の若い夫などは女房に頭があがらぬから、とてもこんな立派なことはできない。中には食後、エプロンをかけて皿洗いを手伝わされている奴もいるくらいで、ああいう光景を見ると狐狸庵、情けなくてたまらない。  我々の時代には細君がまずいものなどつくると、一|箸《はし》つけただけで、 「食わん」  お膳を前にグイと押したものだ。すると細君たちは縮みあがり、翌日から亭主のお膳には決して手をぬかなくなったのである。  時々、狐狸庵も若い夫婦の家に食事をよばれることがあるが、よくまア、こんな水気の多い飯をこの亭主、我慢して食っていると思う。今の若い女房などは、釜で飯をたくのを嫌がり、電気ガマを使うようになったから昔の飯のおいしさは味わえないのも当然だが、電気ガマだって、電気が切れてから二十分おくとかなりいい御飯になる。それを十分、十五分でもう食いだすから、いけないのだ。  要するに今の若い細君はラブとかアムールとか偉そうなことを口にするが、本当の女房の愛情とは、夫にうまい飯、うまいおかずを食わせることによって伝わるという厳然たる事実をすっかり忘れているのである。そしてチャラチャラなでたり、さすったりすることだけを夫婦愛と思っているのだから、全く話にならぬ。  しかし、こういう妻の「手ぬき」がどうして起ったかと言うと、狐狸庵の考えによれば、それは鬼のような姑《しゆうとめ》がいなくなり、日本の美風であった「嫁いじめ」が各家庭でなくなったからではないかと思う。  昔の嫁はとつげば夫だけに仕えたのではない。姑さまにも仕えなければならなかったのである。ところでこの姑さまたちは嫁いじめの天才的才能を持っていたもので、たとえば冬の夜自分が風呂に入ったあとは、湯を四分の三もわざと使う。そして嫁さんが風呂のなかを這いまわるようにして残った僅かの湯を手ですくっては腹にかけ、肩にかけているのを、窓からジッと観察し、 「どうだい、いいお湯かい。ゆっくりお入り」  猫なで声を出したりしたものである。  あるいは秋の午後、 「一寸、お茶にしようかね」  そう言って自分は甘い柿をむき、嫁には渋柿をむいてやり、 「さア、おたべ」  一口、入れた嫁が顔をしかめるのをジロリみて、 「おや。あたしがムいたのでは、不潔だというのかね」  こういう姑たちは、しかし同時に嫁たちが掃除、洗濯、料理に手をぬくのを決してみのがさなかった。一寸でもゴミがあればガミガミ言い、漬けもののつけ方が悪ければ、それを顔に投げつけてくるというふうであったから、嫁たちは怠けるということができなかった。怠けられぬから必然的に家事が上手になる。言いかえれば姑はそれが鬼であればあるほど、よき嫁の教育者となったのである。そしてわれわれのお袋たちはみんなこういう姑によって、その家の味つけ、ぬか味噌のつけ方を憶えたのだ。   姑連合会をつくるべし  ところが今日はどうだろう。姑はすっかり骨ぬきになるか、偽善者になってしまった。今の娘は家つき、カーつき、婆ぬきでなければ嫁にいかぬという。みんな怠けたいからである。たまさか、婆つきでもよしという娘もいるので、 「どうしてだ」  ときくと、 「だって、赤ん坊が生まれたら子守の代りになるし、夫婦そろって出かける時は留守番ぐらいさせられるでしょ」  飛んでもないことを言う始末である。おのが夫の母さまをタダで使える留守番に利用しようなど、日本はますます末世になってきた。  よくないのが婦人雑誌。この雑誌には姑と嫁の手記などがよく載っているが、これまた偽善的臭いのプンプンするもので、「うちの素晴らしいお嫁さん」とか「やさしいお姑《かあ》さま」などという記事を載せておるが、あんなもの信用できるものか。元来、嫁と姑は犬と猿と同じく、たがいに憎みあってこそ成立するのであり、我々には女がもう一人の女に友情を持つとは信じられぬごとく、姑と嫁とが仲良くするとは絶対考えられぬのである。  姑が骨ぬきになったから、嫁は横暴になった。女というものは、誰かにシメつけられねば怠惰か姦婦《かんぷ》になるものだとは我が師、荷風先生の名言。亭主が会社にお出かけになるというのに、金具をいっぱいに頭につけたまま、寝床のなかから、 「いってらっしゃい」  と言うような嫁ができたのは、これ姑がいないからである。元来、年季をかけて作るべき漬物をインスタント漬物で代用するようになったのも、姑の眼がなくなったからである。日曜日にお疲れになった亭主に車みがきに大工までさせるのも姑が消えたからである。日本の嫁がこのように怠けものになったのみならず、好き勝手に怠けだしたのは、すべて我国古来の美風であった「嫁いびり」「嫁いじめ」の風習が亡びたからだと諸君、思わないか。思うであろう。  ゆえに狐狸庵は、姑に権威をふたたび与えよ、「嫁いびり」、「嫁いじめ」をもう一度、復活させよと言いたい。それは日本の女子教育に欠くべからざるものだったが、今こそその必要が再検討されるべきなのである。嫁たちが姑のきびしい監視によってこそ料理、洗濯、裁縫をおぼえることになるのだから、我々も世の教育者たちも一向に同情すべきではない。現在、姑である婆さまたちは主婦連ならぬ、姑連合会をつくり、いかに嫁いびりをするか、研究しあうべきなのである。   なぜ男性が料理を習う  狐狸庵が長々とこういう警世の言葉をのべたのは、今の青年たち必ずしも自分の女房の家事や食事に満足していないことがハッキリわかったからで、嘘《うそ》だと思うなら諸君、一寸したバアに行ってみたまえ。近頃の小さなバアには酒のサカナにチーズやキャビヤを出すかわりに、コンニャクやオカラなどを出している店がチョクチョクある。で、客もそれを大変、悦《よろこ》んでいて、先日も某テレビ局員がマイクをもってこれらのバアを探訪した時、若いサラリーマンたちは、 「妻の食事にはお袋の味がないから、ここに立ちよるんです」 「全くだ。花嫁学校で習った料理は味気ないですよ。その渇《かわ》きをいやしにここに来ているんだ」  口々に不平不満をならべ、不満をみたすため会社の帰りにこうしたところで一杯やり、コンニャクやオカラを食べるのだと言っていた。  銀座にTリビング・スクールという学校があって生活一般について若い女性を対象にした講座を持っているが、そこで今度、男のための簡単な料理教室をひらいた。  ところが驚くべし。申し込みが殺到したのである。好奇心強い狐狸庵は早速、庵の戸を閉じてその教室を見物に行ってみると、老若四十人ほどの男性が会社や勤めの帰り、この教室で白い割烹《かつぽう》着を着せられてお総菜の作り方、御飯のたき方を習っているのである。  この人たちは、美貌の校長先生に聞くと、別に料理で身をたてる男ではない。サラリーマンあり、医師あり、工場主あり、職業まちまちの普通の男性である。  ついでに言っておくと、ここの先生はみんな女で、しかも美しい人が多い。のみならず実習の時にたち合ってくれる助手のお嬢さんたちまでが、これまた可愛いのであるから、こたえられん。  しかし男性生徒諸君は先生や助手の美しさにひかれてここに来たのではない。あくまでお料理を習いにやってきたのである。それは彼等が食い入るような眼で先生をみつめ、熱心にノートをとっている姿でわかる。  しかし一体、彼等は何のためにここに来たのであるか。その理由は千差万別であろうが、細君のつくる料理に満足できぬから、自分でついに習いにきたのではなかろうか。  ここの生徒になった老若二人を例にとってみることにする。調べてみると古い世代と若い世代の結婚観がなかなかに具体的にうかびあがって面白かったからである。 「ぼくですか。ぼくの場合は、ハア、もともと子供の時から姉なんかと一緒に台所に入るのが好きだったんですが、四カ月前に結婚して家内の作るものがあまりにもマズいもんだから……」  と少し恥ずかしそうに言ったのはT君である。T君は奥さんをある料理学校に行かせた。ところが、習ってきた料理とは一体なんであったか。 「いやア。びっくりしましたよ。ニンジンを花の形に切って、ホウレン草で、その花の茎と葉っぱをつくり、それを皿において出してくるんですからねえ。ぼく、料理学校って何てくだらんことを教えるのかと思いましたよ」  味よりも恰好《かつこう》のいい料理を教えるこの学校では、T君の望む「おふくろの味」のようなお総菜はことごとく下品なものと思うのか、以後、細君が習ってきたものはマルセーユ風ブイヤベースとか、リヨン風オニオンのスープとか、わけのわからん金のかかるものばかり。 「しかも、そのブイヤベースたるや、何やら魚と貝とのゴッタ煮で、まずいこと、まずいこと——ぼくはシジミのおつゆの方がよっぽど、うまいと思いましたよ」  しかし、彼が一言、そういうと、若い細君は泣きわめいたという。 「だから、もう、ぼく、何も言わんことにしたんです」 「馬鹿な。何も言わんなんて? そんなことないですよ。あんたが亭主となった家でしょう。あんたは養子じゃないんでしょ」 「養子じゃありません」 「じゃア、あんた、気に入らん料理をつくる細君はひっぱたいたって構わんじゃないか」 「そんなこと……できませんよ」  このあたりから、若い夫と我々古い世代の話はくい違ってくるのである。T君の家では万事、夫婦の家事役割が分担されていて、布団をひくのは亭主の役、掃除をするのは女房の役。料理つくるのは細君だが、皿洗いは夫の仕事と……我々聞けば聞くほど情けなくなるような話である。 「で、色々、考えた末、ぼく、自分でお料理、習うことにしたんです」 「奥さん、それに賛成?」 「ええ、賛成してくれました」  こういう若い細君の神経も、我々古い世代には一寸わからんのである。夫が趣味で料理を習いに行くならとも角、彼女自身のつくったものがマズいゆえに、たまりかねてお総菜料理を勉強にいくというのに、賛成をしたという彼女の心理はドストエフスキーの小説よりも難解である。 「で、彼女、君がつくったものを悦んでたべるのかね」 「ええ、おいしいって言います」 「要するに、うまく行っているわけだな、君たち夫婦は」 「ええ。うまく行ってます。ぼくはだからこのTリビング・サークルに感謝しています。この男性教室の発展を祈るや、切です」  なるほど、なるほど。夫婦がうまく行っているなら、これに越したことはない。他人がとやかく言うすじ合いではないのである。  リビング・サークルの男性料理教室に来ている人はもちろん、みながみなT君のような人ばかりではない。男のなかには食道楽が昂《こう》じて、自分で市場に魚や野菜を買出しに出かけ、自分で庖丁《ほうちよう》を握る人も時々はいるのである。故奥野信太郎先生は本当の食通であったが、また御自身で買物籠をさげてヒョコヒョコと魚屋や八百屋を歩かれたものだ。サークルで、男性の生徒たちが先生にむかってたずねている質問をきくと、ははア、このお父ちゃんは食道楽だなとか、魚つりが好きだなと、何となくわかるような御仁がいる。つりの好きな人は自分のつった魚を自分で料理したいと思うのは当然であろう。  しかしこういう男性たちを例外にすると、狐狸庵は、亭主関白の家の細君は大体において料理上手だという持論をもっている。それはたとえば『舷燈』という亭主関白の小説を書いた阿川弘之の家をみれば良くわかる。『舷燈』の主人公は気に入らぬことがあれば細君に海軍仕込みの往復ビンタをくらわす男である。もちろん、この主人公すなわち阿川弘之ではなかろうが、阿川の亭主関白は友人間でもかなり評判だ。だが阿川夫人の料理がうまいというのもこれまた友人間の定評なのである。  鴨川《かもがわ》に住む近藤啓太郎はタテのものをヨコにも動かさず、眼前の灰皿さえ家人をよんで取らせるという男だが、彼の家の食事もまた、きわめておいしい。この事実を諸君どう考えるか。   腰ぬかす妻を見たさに  T君のような若い世代だけではなく、我々と同年輩、もしくは年上の男性も男性料理教室で聴講している。この人たちは先ほど書いたように食通か料理をするのが好きな男か、つり趣味の男性が多いが、O氏のように偶然、この学校の話をきいたという御仁もいる。  O氏は戦前派の亭主だから我々と同様、亭主関白の部類に入る。それゆえ奥さんは料理にかけてはそう下手ではない。それなのにO氏がなぜこの学校に入ったかというと「家族をビックラさせてやろう」というコンタン——それだけだったという。  わかる。わかる。うちの父さんはタテのものをヨコにも動かさん、電気のヒューズが切れても直すことさえ一つしない、我々の年代はそういう亭主が多いのだが、O氏もまたその一人。そんな彼がある日曜日、急に台所に入って、ビックリするような総菜をつくり、御飯をたいたら家族は腰ぬかすであろう。その腰ぬかす姿をみたいために、O氏はこの男性料理教室に入ったのだという。  七回の講座料は、材料費、テキスト代をふくめて三千円だから、そんなに高くはない。それに先生も助手も品のいい美人ぞろいだから講義をきいていても退屈しない。Oさんはすっかり満足だった。  第一日目にO氏は他の生徒たちと一緒に「だしのとり方」「御飯のたき方」「かき卵汁」「酥魚《スウユイ》」(魚の酢油煮)の四つを習った。先生たちも相手が女性ではなく、料理のイロハも知らぬ男性だから、手とり足をとって説明してくださる。 「よろしゅうございますか。お米はね。洗うんですよ。洗って三十分以上、水に入れておかないとダメなんですのよ。ふっくらとしたオイシい御飯をつくるためには三十分は水に入れておくことが大事。それからね、ご飯が炊きあがっても二十分以上は蓋をとってはダメなのですよ」  O氏は熱心に先生の言葉を傾聴し、ノートをとり、みんなの質問にも注意を払い、心のなかで、次の日曜日に、これらの料理を自分が作ってみせたならば、細君も娘たちもビックリ仰天、玉手箱から宝が出た以上に驚くであろうと思うと、胸がゾクゾクするのであった。もちろん、その目的のため、この料理講座に行っているなど、ひたかくし。全く黙っておった。  さてその待望の日曜日。突然、彼は妻に命じた。「おい。昆布一|g《グラム》と削り節四|g《グラム》を出しなさい。それから、卵二個、とり肉百二十|g《グラム》。人参《にんじん》はあるか。グリンピースも出しなさい、早くしろ」 「一体、何にするんです」  まさか夫が料理を作るなどと夢にも思わぬ細君がびっくりしてたずねると、 「いいからツベコベ言うな」  怒鳴りつけられて細君があわてて昆布に卵、カッオ節はそろえたが冷蔵庫の中に鶏肉はなく、急いで肉屋まで走っていかねばならぬ。  材料そろえば、O氏は細君のエプロンを腰にしめ、エッヘンと咳《せき》ばらいをし、驚く家族の前で得意満面、習ってきた料理をつくりはじめたが、卵はグチャリとこわし、塩の罐はひっくりかえすし、娘と細君がたまりかねて手を出そうとすると、 「さわるなッ」  大声で怒鳴るので、みんな諦めて茶の間に引きあげると、ガチャン、ガチャンと皿はこわし、もう料理どころではない。細君がそっと台所を覗《のぞ》くと、卵のカラは床におち、グリンピースはあたりに散乱し、足の踏場もない。 「あらあら」  こんなことなら、何もしてくれぬほうがましだと思うのだが、それを口に出そうものなら大変だから彼女も黙っている。そのうち、 「全員、集まれ。お父さんの料理をくわしてやる」  さて出来あがったものが、かき卵汁か何かわからぬもの、魚の酢油煮がグチャグチャになって、それを食べねばならぬ苦しさ。 「どうだ。おいしいか」  一同、半泣きになって、 「おいしい、おいしい」  こんなことになるくらいなら、料理なぞ習おうと思わず、温和《おとな》しく女の作ったものを食べてくれればいいのにと、細君、溜息まじりに狐狸庵にこぼしておりました。 [#改ページ]  ああ! このフリチン芝居  ニューヨークの裏通りをぶらぶら夕暮あるいていたら、自動車ガレージのような古ぼけた建物の前に二十人ほどの男女が行列をつくっていた。  いずれも乞食のようにウスぎたない恰好《かつこう》をした面々なので、ここは職業紹介所かと見ていたが、どうやらそうではないらしい。こっちは英語がからきし駄目なので、聞くわけにもいかん。わけのわからんままに立っていると一人の女が出てきて整理券を配りはじめ、私にも一枚、渡した。  行列が進みはじめたが、建物の戸口でみな切符を買っている。何かイワクありげである。私の好奇心は大いにうずいた。切符を求めてガレージのような内部に入るとなかは大きな倉庫で四方に棚がつくられ、客たちはその棚に腰をかけたり、寝そべっているのである。ははァ、アングラ芝居だなと、一目、見てすぐわかった。   ホースがぶらぶら  アングラの芝居だから客のなかから役者が飛び出てくるだろうと思っていたら、果せるかな、乞食より、もっとウスぎたない男女があっち、こっちから飛び出して、わめいたり、叫んだりしはじめた。こっちは英語は解さんから、連中何と言うとるか、さっぱり、わからん。  しかし身ぶり手ぶりから想像するに、なにやらアメリカ文明にくたびれた人間が禅に救いを見つけようとすると言う話らしい。乞食みたいな男女が坐禅の恰好をして、一人の男が棒をもって間を歩きまわっている。私はニューヨークの本屋に禅や仏教の本が何冊も並べてあったのを思いだした。  途端にこの男女たちは立ちあがって素っ裸になりはじめた。外見も乞食みたいだが、下着も一カ月も洗わんようなのを着ているのであって、その一人はターザンのふんどしみたいなうすぎたないものを着用していた。  東京でもアングラは幾つか見たが、役者が客の前でフリチンとなり、パンティまでぬぐのは始めてである。最初は唖然《あぜん》としていた私もやがて馬鹿馬鹿しくなり笑いだしてしまった。他の客たちも失笑をかみころしている。  大真面目なのは役者だけである。もっとも私は英語がわからんから、それまでの台詞《せりふ》がこのフリチンを生みだす必然性があったのか否か判定する能力はない。しかしこのフリチンは私の眼には古びた灰色のホースか、部屋をふいたあとの古|雑巾《ぞうきん》のように見え、滑稽感をそそっただけで、別に現体制の芸術を破壊するに足る爆弾にならなかったことも確かである。その意味でこのアングラの役者たちは計算ちがいをしていたにちがいない。  なぜなら役者が悲壮な顔をして、悲壮な声をだして台詞を叫ぶたびに彼の古びたホースはぶらぶらと動くからである。私は心のなかでタンタン、タヌキの○○は風のないのにブウラブラという歌を思いだし、こみあげてくる笑いを懸命に抑えていた。この役者の意図に反して彼のフリチンはそれ自身、もの哀しげな、萎《しお》れた表情をしていた。役者の顔が近代文明を背負ってゆがめばゆがむほど、そのしなびたフリチンは (へ、へ、へ、どうも大袈裟なことを申しましてスミマへん。いくらこいつに言いきかせても、わかってくれませんのや)  とペコペコ、あやまっているようである。  これと同じ経験は、ニューヨークで、ある映画を見ている時にも経験した。  ある夕方、カーネギーホールの前を歩いていると小さな映画館の前にやはり長い行列ができているのにぶつかった。「私は好奇心のつよい女」というスウェーデン映画の看板がそこに出ていた。これはあとで聞いて知ったのだが、米国でもワシントンとニューヨークの二カ所しか上映されぬ大胆な映画だったのである。  行列のあとについて、真っ暗な館内に入った。映画自体はなかなか面白かった。けれどもこの映画がニューヨークやワシントンでも評判になったのは、おそらく映画史上、はじめてのことが画面で行なわれていたからであろう。主役二人の男女は一片の布もまとわず、カメラは堂々と正面から二人の裸体をうつし、裸体だけではなく二人の愛の行為も撮影していたからである。  これはあのアングラとちがって、直接ナマではないから、イメージとしては面白いところもあった。けれども主役の男優のフリチンがアップになると、フリチンはやはり、もの哀しげな、萎れた表情をしていて、それは醜悪ではなかったが、やっぱり滑稽であった。役者が昂《たか》ぶれば昂ぶるほどそのフリチンは演出家の計算からはずれてペコペコし、皆の前で途方に暮れているようにうつった。私はこの芸術映画? に笑ってはならぬと思いながら失笑した。  いかに性の解放が言われようと、私がこうしたアングラ芝居や映画にとけこめないのはこの計算ちがいを感じてしまうからである。フリチン男に意志や力を感じるのはギリシャやローマの彫刻だけであって、近代人がその恰好をすると、なぜか憐れでもの悲しいものである。それは私が老人だからだろうか、それとも私が人間社会には、タブーが絶対、必要だと考えている男だからだろうか。  周知のようにニューヨークやサンフランシスコの町をあるいていると、堂々と女性のヌード写真を売っている店にぶつかる。たんなるヌード写真ではなく、そのものずばりの写真である。そうした店では、半ば大っぴらに八ミリまで売るそうだが、私はこれほど大っぴらな店を巴里《パリ》でもローマでもリスボンでもマドリッドでも、かつて見たことはない。人が何と言おうとこのような店が出現することを、性の解放、人間性の解放のあらわれとは思えん。私はそこに都会人の倦怠《けんたい》感と退屈の匂いを嗅ぎとるのである。なぜならタブー(禁ずるもの)がすべてなくなった世界ほど退屈なものはない。なぜなら、タブーが人間社会にあればこそ、それにたいし反抗も生命力も芸術も生れるのであって、このタブーがすべて消滅すれば我々はアクビをしながら鼻毛でもぬいているより仕方がないからである。   タブーを軽蔑するな  かのメリケン国ではホモが非常に増加していると聞いた。ブロードウェイで出会った日本人の女優(彼女は米国で踊子として勉強し働いているのである)にたずねると、その噂は本当で、事実、彼女の周囲にいる男優たちのほとんどはホモだそうである。  ある日本人は、こうした傾向はアメリカでの離婚のむつかしさに依るのだと私に説明してくれた。アメリカでは離婚すれば、たいてい女性が勝つのであって、その慰藉《いしや》料は莫大なものだし、米国の女性は結婚するまでは美しいが、一度、結婚するとたいていブクブク肥るか、ヒヒのような顔になる。したがって男は心の慰めを同性に求めがちになり、必然的にホモが増加するのだと教えてくれた。  しかしなんだかこのような説明は一面しかついていないと思う。事実、私は米国のなかに沢山、夫婦仲のいい家庭があることを想像するし、その想像はまちがっていないと思っている。もしホモが米国に増加しているとするならば、それは普通の中産階級ではなく、俳優や芸術家やその卵や、あるいはインテリ層の中に多いのではないか。  日本でもそうだが、こうしたインテリの手合いはえてして性の自由を制約するタブーを軽蔑するか、無視しようとする傾向がつよい。だが多少でも考えればすぐわかるが、性感覚というものは、それがおおっぴらなものでなく、不自由であり、束縛されており、タブーによって制約されておればおるほど、深くなるのである。女房を相手にするよりは人妻と世間の眼をのがれて寝るほうが性の快楽は強い。人妻を相手にするよりは社会が禁止している近親相姦のほうがずっと快楽は烈しい。タブーは性の快楽を深めるためには絶対、必要なのであって、もし我々がおおっぴらに性ができるようになれば、こりゃもうこれほど退屈なことはないのである。  ところが性からタブーをはずそうとする自称インテリの連中はこの人間心理を忘れている。アメリカでもしホモが多いとすれば、それは極端に女性の少ないところか、極端にタブーを馬鹿にする階層や職業の連中ではないかというのが私の予想なのである。なぜなら彼等はホモそのものよりも、現在のアメリカでさえ忌《いま》わしいと思われているホモにたいするタブーによって、普通の男女の営みではもはや感じえなくなった快楽の刺激を見つけようとしているのではないか。  いずれにしろ、こうしたフリチン芝居、フリチン映画は私にとって退屈であった。少なくともあまりにバカバカしくてそれをみながら人間性の自由とか、表現の自由とか本気で考えはしなかった。こうした芝居や映画に集ってくる一見インテリ風の男女も、よくよく見れば退屈そのものの表情をしており、ワシントン広場の乞食風な若者たちの服装や髭や髪もあまりに数が多いので、個性的どころか、アメリカ的順序主義と画一主義のあらわれとしか見えないのであった。  奇妙な話だが私はそうしたアングラ芝居やスウェーデン映画を見ているうちに大久保彦左衛門を突然、思いだした。自分でも理由がよくわからんが、むかし講談で読んだ大久保彦左衛門のことがひょっくり心に浮かんだのである。おそらくそれはこの爺さんがこういう風潮をみたら真赤になって怒るという連想からかもしれない。  日本に戻ってみると、私の周囲の若者たちはニューヨークの若者たちと徐々に同じ傾向になっている。大久保彦左衛門の講談をもう一度よみかえしてみると、果せるかな、この爺さんの時代の若者たちの性根を叩きなおすべく、闇鍋《やみなべ》会でアカ蛙やイモ虫を食わせたと書いてある。  闇鍋会などと言うても今の連中は知らぬかもしれん。私が中学時代には電気を消してジュグジュグ煮え立った鍋に、各自持参のものを入れ、真暗な中で、箸にふれたものを食うという遊びをやったものだ。箸にふれるものは鶏のトサカや足、ペンペン草など平生は食わぬもの、それを拒否すれば、仲間うちから意気地なしと嘲《あざけ》られたものである。  私は大久保彦左衛門の講談から、はからずもこの闇鍋会を想起し、よおし、若い連中をこの方法で鍛えてやろうと思った次第である。   イカモノで闇鍋会  もっとも今の若者に闇鍋会をやろうなどと言ったら始めから尻ごみをして来る筈はない。だから、私は彼等にある日、こう言ってやった。 「どうだ、来週の土曜、一流の料亭で飯をくわしてやろうか」  その土曜の夕暮、私は四人の男の子と彼等のガール・フレンドである二人の娘をつれて浅草に行った。  むかし人の話に聞いていたことだが浅草の国際劇場のちかくにイカモノ食わす店があるそうな。私はまだそこに行ったことはないが、好奇心のあまり、前から一度たずねてみたいと思っていたのである。  連中に一流料亭につれていってやると言ったのは勿論真赤な嘘で、本当はここに連れこみ、闇鍋ならぬイカモノを無理矢理、食わせ、もってフリチン映画やフリチン芝居を作るような性根を叩きなおしてやろうと思ったのである。 「爺さん、ほんとに一流料亭につれていってくれるんですか」 「前にもそんなことを言って、駅前の屋台に連れていかれたけど、今度も同じじゃないのかな」 「爺さんが中国料理店と言う時はラーメン屋のことだし、和食をたべさせるという時はオデン一皿だからな」  彼等は疑わしげに私にそう言ったが、こちらは薄笑いをうかべて、心中、今に見ておれと考えていた。  浅草は仁丹の広告塔のすぐ近く、その店はあった。何も知らぬ連中は一流料亭にしてはあまりに小さなこの店に私が入ると、 「ほれ、この通りだ。また、だまされた」 「こうなりゃァ、パクパク食ってやろうぜ」  口々にわめきながら威勢よくあとについて来たが、中にはいるや否や、真蒼《まつさお》になった。真蒼になるのも当然、店内におかれたガラス瓶には、博物学の教室のごとくアルコール漬けになったマムシやシマヘビがあったからである。 「馬鹿もん。なにを茫然《ぼうぜん》としている。坐りなさい。坐りなさい」  彼等は店の主人や他の客の手前もあって今更、逃げだすわけにもいかず、顔面、蒼白になったまま坐っている。実を言えば、私もはなはだ薄気味がわるかった。偉そうなことを言うていたが、昔の闇鍋会にも、さすが、マムシやシマヘビを食った経験はない。しかし若い連中の手前、今更、嫌だと言えもせず、 「うーむゥ。シマヘビか、これはうまいものだ。おじさん。メニューをみせて下さい。なに? 壁にはってある? なるほど。マムシのカラアゲ。シマヘビのカバヤキ」  壁にはられたメニューはそのほか、毛虫やナメクジのカラアゲなどが出ている。 「どれもこれも食欲をそそるものばかりだな。思わず唾がこみあげてきた。どうだ、君たち、腹の虫がグウグウなってきただろう」  店の主人や客にきこえよがしに、そうは言ってみたものの、自分でもとんだ所に来てしまったという後悔でいっぱいである。 「まず、酒。マムシに酒とはオツな取りあわせだ」  実は酒の力で元気をつけ、消毒薬がわりに使おうという魂胆《こんたん》だったのである。というのはこの店に来てから急に思いだしたのだが、黒岩重吾氏がまだ小説家にならない前、やはり友人たちと油虫やゲジゲジを戯れに試食したところ、たちまちにして五体しびれ、長い入院生活を続けたという事実があったからである。  ところが、持ってきた酒のつき出しを見て驚いた。小鉢の中にサナギがたっぷり入っている。「ムッ。さあ、食わっしゃい、食わっしゃい、うまいものだ」  鉢を若い連中の前に押しやると、連中、見ただけで吐気《はきけ》を催しそうな顔をしている。二人のガール・フレンドは泣きそうな表情である。もっともこのガール・フレンド、一人は不二家のミルキーのペコちゃんのような顔、もう一人は稲荷神社のコンコンさまそっくりで、そのペコの腰かけている横に木の箱があり、店の主人が、 「ごめんなさいよ」  中に鉄棒をちょいと入れると、その先に褐色のマムシがだらんと引っかかっている。「キャッ」とペコもコンコンも手で顔を覆って叫ぶ。  主人は馴れたものでそのマムシの頭を鋏《はさみ》でチョキンと切る。マムシもマムシでまるで薔薇《ばら》の花のようにチョキンと切られる。切られた首は恨みの形相ものすごく、鋭い歯を二つ、むきだしたまま、料理台の縁に噛みついている。その切口から出た血を小さなグラスに入れて肝臓と心臓とを放りこみ、葡萄酒をまぜたものが精気液として千五百円である。   見抜かれた空威張り  マムシの空揚げとシマヘビの蒲焼とが運ばれてきた。誰も蒼い顔をして手をつけん。 「うむゥ。来た来た。山海の珍味。さあ、食おう」  私はけしかけるのだが、連中箸を出さない。 「なぜ食わん」 「爺さんこそ、なぜ食わんか。さっきから見ておると酒ばっかし飲んでいる」 「そうよ。ほんとだわ」  何を言うとるか、そんなら見てなさいと今更、引くに引けず、おそるおそる、浜にうちあげられた枯木のようなマムシの空揚げを一口、口に放りこんだが、何やら紙のような味がするばかり、一向に美味とは思えん。 「うまいッ。実にうまいッ」  口だけは元気よさそうなことを言って、 「こっちは何かな。シマヘビの蒲焼、頂きましょう。頂きましょう。これなぞ夏の炎天、土用の日に食べれば、こたえられんね。ウナギどころの話ではない」  眼ぶたの裏に夏の日、わが狐狸庵のあたりにやってくるシマヘビの姿が思いうかぶ。ズルズル、ズルズルと夏草をなめるようにして這《は》っている。 「うまいッ」  もうこうなればヤケのヤンパチ。何やら柔らかい肉を酒と一緒に胃袋に流しこんで、 「今度は何を食うかな。ケムシにするかナメクジにするか、ナメクジを持って来て下さい」  主人は先程から私の空威張りが手に取るようにわかっていたのであろう。首をふって、 「旦那。およしなさい、ナメクジは。うまいもんじゃない。話の種に食う人もいるけどね。それより、そのマムシの血を飲んで下さいよ。そりゃァ、精気がつくから」  ムッと息をのんでこれも一気に流しこんでみたが、こっちは無理矢理、虚栄心だけで口に入れているのだから、味もへったくれもない。葡萄酒が口のまわりについて、まるで人の生き血をすったような顔になった。   寝て見た夢の中に  時々、硝子があいて客が中をのぞく。席が満員なので舌打ちして帰っていく。世の中にはイカモノ食いのファンがかなり、いるようである。  マムシの生き血が体にまわったか、何だか五体が火照《ほて》ってきて苦しい。  外に出て、ほとんど何も箸をつけなかった若い者たちを怒鳴りつける。 「なんだ。なんだ。いい年をして。蛇一匹食えないのか」  まだ泣きそうな顔をしているペコとコンコンの肩に手をおいて、 「どうだ。こわかったか」 「さわらないで」と彼女たちは叫ぶ。「ヘビなんか食べる人、大きらい。気味がわるい」  庵に戻ると、急に気持が悪くなって指を口に入れゲイゲイ吐こうとする。いい年をして若い連中の前で空元気をだしたのが、そもそものまちがいであった。気分のせいか、何やら腹痛まで感じる今日である。うとうとと眠っていると、店の主人のぶらさげたマムシのだらんとした恰好とニューヨークのアングラ芝居のフリチンとが両方かさなって出てくる。フロイトが聞いたら早速、分析したがるような夢である。  店の主人はあの血を飲めば元気がつくと言ったが、元気がつくどころではない。気分の悪い翌日だ。思えば今月も馬鹿なことをしたものだ。 〈底 本〉文春文庫 昭和四十九年九月二十五日刊