【月にむらくも、恋嵐】 玉木ゆら  今宵も青楼《せいろう》通りに霧が立つ。  青楼とは娼館《しょうかん》のことだ。その名の通り娼家《しょうか》が立ち並ぶこの通りは、行灯《あんどん》が灯る頃に夜霧が立つことで知られている。そのため別名「霧中《むちゅう》通り」とも言われていた。 「今夜の霧も深いねぇ」 「ああ、ありがてぇことだ。誰かに見られて女房に知らされでもしたら、般若《はんにゃ》になって追いかけてくるだろうからな」 「違いねぇ」  娼館の前を歩いていく男達は、冗談めかして笑った。彼らはお互い大店《おおだな》の主同士。入り婿という立場も同じで、どちらも女房殿には頭が上がらない。  しかし、後ろめたい思いも霧が隠してくれれば、自然と足取りも軽くなる。青楼通りがこの国一番の色街となったのは、この都合の良い霧のおかげでもあった。 「おい、ここだよ。噂に聞こえたあの店は」  今宵はどこへ参ろうかと、楽しげに歓談しながらあっちに行ったりこっちに来たり。迷い足だった男達の足は、一軒の店の前でぴたりと止まった。 「ああ、これがそうなのか。しかし、お前にそんな趣味があったとはなぁ」  男は友人が指差す娼館を見上げた。  一見|老舗《しにせ》の旅籠《はたご》と見まごうような店構えは、よく見れば案外真新しい。流れるような字体で「幻月《げんげつ》」と書かれた金縁の看板は、威風堂々として気品すら感じさせた。 「お前は興味ねぇのかい? 並んだ娼婦はそりゃあ見事な別嬪《べっぴん》揃いだそうだぜ」 「その分|御足《おあし》も張るんだろう」 「そりゃそうだ。それに、娼妓達には余計なもんもくっついてるからな」  娼館を指差す男の顔には、何故か悪戯《いたずら》っぽい表情が浮かんでいる。  隣に並んだ男も噂だけは聞きかじっていたのか、顔にありありと好奇心が浮かんでいた。  しかし、思い切って店を覗《のぞ》こうとすると尻込みしてしまう。それは値段ばかりのせいではないようだった。 「やっぱり俺は遠慮しておくよ。どうにも珍味は趣味じゃねぇや」 「一度味わったら病みつきって話なんだがなぁ」  笑った男も友の背を押すだけの踏ん切りはつかなかったらしい。二人は指を咥《くわ》える思いで店を見上げてから、馴染みの店へと去っていった。 「豆《まめ》! さっさと下りてこいっ!」  二人の男が去った後、幻月の中では大きな叫び声が飛んだ。  幻月はこの界隈《かいわい》の建物にしては珍しい三階建てで、中央の吹き抜けを中心にぐるりと座敷が囲んでいる。  内側に張り出した各階の廊下は三層になった境界線のようだ。その間を結ぶ階段は丹念に磨かれて黒光りし、下から見上げれば手摺の彫り意匠と相まって見事な昇り竜を思わせた。 「早くしなっ!」  一階の階段脇に立った番頭は苛々と顔を顰《しか》め、もう一度上に向かって声を張り上げた。 「はーいっ。今行くよ」  それに答えて階上からひょっこり顔を出したのは、まだ十五、六の少年だった。どこにでもある平凡な顔立ちだが、幼さの残る丸い顔は親しみやすい愛嬌《あいきょう》を感じさせた。 「くそ、もうこれでいいや……」  豆が四苦八苦して着付けたのは、白の長襦袢《ながじゅばん》、木賊《とくさ》色の間着、上半身だけ脱いで打掛腰巻にした二藍色の小袖だ。明らかに女性が着るものなのだが、全く違和感がないらしい。  それよりも早く下に行かねばと大慌てで階段を駆け下りようとしたが、慌てた足では当然か、はたまた天性のどじのためか、着物の裾を踏んづけた豆は体勢を崩してつんのめり、それは見事に階段を転がって一階に落ちた。 「……あっ…た〜〜!」  天井を見上げるようにひっくり返った豆は、思い切りぶつけた後頭部を両手で押さえた。  不器用に着付けた着物は今や無残に乱れている。音に驚いて駆けつけた番頭も、呆れを通り越して諦めたような溜め息を零した。 「ったく、何をやってるんだ。お前みたいな野草でも、曲がりなりにも幻月の売り物なんだ。傷でもつけたら飯抜きだからな」 「へーい」  曲がりなりにもで悪かったな、と豆は内心で舌を出す。だが、本当に飯抜きではたまったものではない。痛む頭を撫でながら格子《こうし》座敷に上がると、すでに他の娼妓《しょうぎ》達が並んで座っていた。  野草とは位の低い娼妓を指す幻月特有の言葉だ。つまり、豆は曲がりなりにも娼館幻月の娼妓の一人なのである。  もちろん豆は女ではない。「幻月」の娼妓達を見ればどれも見目麗しい器量をしているが、全員紛れもない男だ。彼らは男ながらに春を売る男娼達だった。  昔から高貴な身分の者達の間で衆道《しゅどう》が息づいていたこの国では、男色自体は珍しい事ではない。しかし、衆道はあくまで暗黙のうちに了解された、言わば隠れた遊びであって、幻月のように店を構えて堂々と商売するものではなかった。  それゆえ、幻月が建った当初は「いくら何でも男娼の店では……」と、周りの娼館が失笑した。しかし、蓋を開けてみれば驚くほどに繁盛した。娼妓の質の良さに次々と上流階級の客がつき、その噂をききつけた庶民が珍味を味わおうとやってきたのだ。  今や幻月は数多くの娼館が立ち並ぶ青楼通りでも唯一の男娼館として、様々な意味と評判を伴った名物店となっている。 「豆、遅ぇぞ」  豆が座敷に腰を下ろすと、前に座っていた少年が振り向きざまに豆の頭を叩いた。  年の頃は豆と同じ十五、六だろうか。少女と見紛《みまご》うほどの美貌に抜けるような白い肌。耳の下で切り揃えられた漆黒の黒髪は濡《ぬ》れ烏《がらす》のように美しい。「まるで人形のようだ」と店でも評判の若手娼妓だ。  彼の源氏名はその見事な黒髪からとって鴉《からす》と名付けられた。幻月の娼妓は例外なく店主によって命名される決まりになっている。当然、豆という風変わりな名前も然《しか》りだ。 「ごめん。打掛腰巻って初めてだから、着付けに手間取っちゃってさ」  豆はばつの悪そうな顔で謝った。ちらりと座敷を見渡せば、支那《しな》服、袴姿と思い思いの衣装に身を包んだ娼妓仲間達が澄ました顔で座っていた。  幻月ではきちんとした正装であればどんな衣装であろうと構わない規則になっている。ちなみに鴉は見事な花車模様の振袖だ。馴染みの客に買ってもらったものらしい。 「この間、襦袢《じゅばん》一つで格子座敷にあがった時はびっくりしたぜぇ? いくらどんな衣装でもいいからって、ありゃあねぇだろうが」  鴉は可愛い顔に似合わず口が悪い。これが客の前とあらば、年頃の娘も真っ青な可憐《かれん》な立ち振る舞いになるのだから恐ろしい、と豆はこっそり思った。 「だって、一張羅《いっちょうら》に穴が開いちまったんだから仕方ないじゃんか」 「いい加減、ちゃんとした客を捕まえて服でも何でも買ってもらえって。男なんて馬鹿だから、ちょっと可愛い顔しながらキンタマでも撫でてやったらコロっといっちまうぞ?」 「それが出来たら苦労はないよ……」  豆は露骨な言葉にどぎまぎしながら、小さく肩を落とした。  野草と言われた通り、豆は地味で平凡な容姿だ。美しい娼妓の並ぶ幻月では一際見劣りし、人気もなければ御代も安い。安い豆を買っていく客の懐具合など高が知れており、振袖を貢いでもらうなど夢のまた夢だ。ここ最近、豆が買ってもらった物と言えば小さな巾着《きんちゃく》一つきりだった。 (このままじゃ、本当におまんまの食い上げになっちまうなぁ……)  豆は赤い格子の隙間から表通りを眺めた。客は表通りから格子を覗き込み、気に入った娼妓がいれば客引きに言いつける仕組みになっている。しかし、焦る豆を嘲笑《あざわら》うかのように、通りから格子を覗く客達の目は他の娼妓ばかり追いかけているようだった。 「おや、ぺんぺん草。今日は随分まともな格好してるじゃないか」  後ろの方でこそこそ話している豆達に気付いたのか、娼妓仲間が露骨な皮肉をこめて声をかけてきた。ぺんぺん草とはもちろん豆のことだ。 「何だ、鴉のお下がりか。野草には派手すぎて似合わないぞ?」 「うるさいなぁ。別にいいだろ」  むっと眉を寄せて言い返すも、この着物が似合わないのは重々分かっている。豆は急に恥ずかしくなり、うなだれて視線から逃れた。 「放っておけよ。あいつら、お前に男前の客がついたからやっかんでるんだ」 「男前って……いつの話だよ〜」  鴉の励ましに一瞬きょとんとしたものの、何のことか気付いた途端がっくりと肩が落ちた。  数ヶ月前のこと、身なりはただの町民だが、顔はかなりの男前がやってきたのだ。その男は時折やってきては豆を買ったのだが、ここ最近はとんと姿を見せていない。 「あいつらの気持ちは分からんでもねぇがなぁ。俺達娼妓には客を選ぶ権利なんてねぇし。豚で禿《はげ》で汚ねぇ爺だろうと、可愛くああ〜んって喘《あえ》がなきゃならねぇんだから」  どうせ抱かれるなら男前の方がいいぜ、と鴉は形のいい鼻梁《びりょう》に皺《しわ》を寄せて嘆いた。鴉の得意客は年寄りが多いのだ。 「でも、鴉はお客さんがつくだけいいよ」 「そりゃまぁ、金もらってんだから贅沢《ぜいたく》は言えねぇな」  鴉がカカッと豪快に笑った時、早速客引きが格子座敷に呼び出しにきた。 「鴉、お客さんだよ」 「はぁい、ただいま参ります」  振り返った途端に甘い声と笑顔だ。さすが、と感心するしかない。お前も頑張れよと肩を叩かれ、曖昧《あいまい》な笑みを浮かべながら鴉を見送った。  しかし、周りの娼妓達が次々に呼ばれていなくなっても、豆に声がかかることはなかった。豆はこっそりと痺れた足を崩し、疲れたような溜め息を零した。  今宵も表通りは賑やかだ。霧でよく見えないが、ざわめきと雑踏の足音がその熱気を伝えてくる。 「……ん?」  豆はふと顔を上げた。暇潰しにじっと見つめていた霧の向こう、二人の男が裏路地に隠れるようにして立っていた。  妙に怪しい、という訳ではないが、内緒話でもしているかのように背中を丸め、手の先だけがごそごそと動いている。 「何してんだろ……」  格子に近付いて目を凝《こ》らしたが、暗がりの中でははっきりと確認できなかった。おまけに豆の目から隠すように霧が深くなり、表通りが白くぼやけた。しばし格子にしがみついていたが、一向に晴れる様子はない。 「まぁ、どうでもいいか……」  客にならぬ者達を観察していても仕方ない。豆は格子から手を離し、ちょっとだけと暇な時間を持て余して居眠りを始めた。    ◇ ◇ ◇  町人達が起き出して仕事を始める頃、娼妓達はようやく自分達の床につく。  しかし、下っぱの娼妓には朝の光の下で安眠する時間は少ない。稼ぎが少ない分、他の労働で補わねばならないのだ。  昨夜客のつかなかった豆も当然のごとく掃除を言いつけられ、庭に面した縁側を雑巾がけしていた。  座敷から見渡せるように、緑豊かな中庭は大きく作られている。戸を開けはなした縁側には暖かな陽射しが差し込んで、一生懸命板敷きを磨いていると額に汗が滲《にじ》んできた。 「またお客さんつかなかったな……」  豆は鬱々《うつうつ》とした溜め息を零しながら、雑巾をきつく絞った。昔からたいして客はつかなかったが、ここ最近は全く奥座敷にあがっていない。働くことができなければ当然お手当ても貰えないし、下手をすれば「幻月」を追い出されかねなかった。 「ううう、それだけは絶対に困る」  豆は恐ろしい考えを振り払うように、ぶるぶると首を振った。  豆はここからずっと北の方にある寒村で生まれた。一年の半分以上は雪に閉ざされた貧しい村で、農作物も満足に育たない。貧しさから人買いに子供を売る家も珍しくなく、豆の姉も遊廓《ゆうかく》に売られていった。  故郷を思い出せば心の臓まで凍《こご》えるような寒さとひもじさが甦り、今でも身震いがする。父が病に倒れた後は、ますます生活が苦しくなった。豆も奉公に出されることになったのだが、たまたま「幻月」の噂を聞いた両親は豆を男娼館に売ることにした。こちらの方が稼げるし、豆もいい暮らしができるだろうと思ったらしい。  当時七つだった豆は、まだ幼いために禿《かむろ》という下働きから始まった。身を売るようになったのは十二からで、その時はもう子供の順応さで娼館に馴染んでいたから、特に辛いとは思わなかった。それよりも家に送金するため、どうしても稼がなくてはと必死だった。  だが、艶やかな娼妓達に比べ、豆は名前の通り凡庸《ぼんよう》とした唯の子供だ。しかも根っからの素直な性格では客との駆け引きもできない。そのため他の娼妓からも店主からも「娼妓には向いていない」と嬉しくない太鼓判を押されていた。 「ここを出たらどっかに奉公に出るしか当てはないけど……。絶対ここよりお手当て少ないだろうしなぁ」  家族の生活費は何とかなるとしても、父親の薬代は足りなくなる。そうなったら一体どうすればいいのだろう。  先の見えぬ暗闇は恐ろしいほど深かった。手立てを考えれば考えるほど行き場のない焦燥感に襲われ、心臓がぎゅうっと締め付けられた。 (本当に困ったなぁ……)  豆が溜め息を零した時だった。 「……め……まめ…っ…」  どこからか豆を呼ぶ小さな声が聞こえた。辺りを見回してみるが、誰の姿もない。  気のせいかと立ち上がろうとした瞬間、突然縁の下からにゅっと伸びてきた手が豆の足首を掴んだ。 「うひゃあっ!」  謎の手に引っ張られ、庭先にどっすんと転がり落ちる。誰の悪戯だ、と睨《にら》みつけようとした豆の瞳が、間近に迫った男の顔を捉《とら》えて大きく見開かれた。 「す、すまねぇ。転ばすつもりはなかったんだが……。だ、だ、大丈夫か? け、怪我はないか?」  気弱そうな顔立ちをした男が、困ったような表情を浮かべて豆の顔を覗き込んでいた。呆然としている豆の様子が心配なのか、滑稽《こっけい》なほどおろおろと慌てている。  豆はようやく我に返り、嬉しさと驚きの入り混じった声をあげた。 「……に、仁平《にへい》? どうしてここにいるんだ?」  男は豆の数少ない馴染み客の一人だった。年は三十半ばで、町方で簪《かんざし》職人をしているという。 「い、いやさ、お前の顔が見えたもんだから、こ、こっそり忍びこんじまった。そ、そ、それに、ちょっと話したかったし……」  仁平は何度かどもりながら、照れくさそうに頭を掻いた。緊張するとどもる癖があると恥ずかしそうに告げたのは、初めて豆を買った日のことだった。 『どもってたっていいじゃんか。俺なんてぽろっと余計なこと言っちゃってさ、よくお客さんに怒られるんだから』  豆は胸を張って、とても自慢にできぬことを堂々と語った。以前、床中で「いいか?」「淫乱め」などと、ぐだぐだ言う客に向かって「うるさいなぁ」と顔を顰めてしまったのだ。当然その客は酷く怒り、それ以来豆を買うことはなかった。  それを聞いた仁平は涙が出るほど笑い転げていた。豆はそんなに笑わなくても、とへそを曲げた。 「嬉しいけど、見つかったら怒られるよ? どうせなら夜に来てくれればいいのに」 「ん、あ、ああ……。お、俺もそうしたいけど、お前はせ、先約で一杯だろう?」 「え……? あ、うん……」  豆は曖昧に笑い、否定しなかった。見栄《みえ》や意地からではない。仁平の言葉はその通りの意味ではないからだ。 (……仕方ないよね)  先約があるだろうから、と返すのは馴染みの娼妓に断りを入れる時の決まり文句だった。他の娼妓ならばここで甘えて次の約束を取り付けられるだろう。だが、仁平の生活を慮《おもんばか》れば無理に誘うのは気が引ける。もし断る理由が他の娼妓を買うためであったなら、ただでさい滅入《めい》っている今、二度と浮上できないほど落ち込むだろう。 「ど、どうかしたか?」 「ううん、何でもない」  豆は小さく首を振った。仁平のためにも自分のためにも、事情を聞く事はできなかった。 「だ、だから、その……。こ、今度は必ず俺の相手をしてくれよ?」 「そりゃもちろんっ。でなきゃ、本当におまんまの食い上げになっちまうもん」  思わず拳を握って力説した。その必死さがおかしかったのか、仁平は声を上げて笑った。 (……あれ?)  豆は内心で首を傾《かし》げた。普段は物静かに笑う仁平にしては、どこか彼らしくない笑い方だった。 「……なぁ、仁平。どっか具合悪い? 何か元気ないみたいだけど……」 「な、何言ってんだ。こんなに元気だよ。ひ、久し振りに豆の顔も見れたことだしな」  仁平はおどけながら腕を曲げた。力瘤《ちからこぶ》を見せようと力んでみるが、職人のひょろりとした二の腕はまっ平のままだ。失礼と知りつつも、豆は思わず吹き出してしまった。 「大丈夫ならいいんだけど……。身体には気をつけてな?」  社交辞令などではなく、心から仁平の身が心配だった。仁平の稼ぎは決して余裕のあるものではない。仁平が遊廓通いのために無理をしているのではないかと思うと、来て欲しいのに来て欲しくないような、複雑な心持ちだった。 「……なぁ、豆」 「ん、何?」  呼びかけたきり仁平は口を噤《つぐ》んでしまった。何か迷っているのか、幾度か小さな溜め息が零れる。やがて意を決したように口を開き、「も、もし……俺が……」 「まーめっ! 手前《てめえ》、ようやく見つけたぞ」  突然、仁平の声を掻き消すように良く通る男の声が響いた。  驚いて振り返る間もなく首根っこを引き上げられ、まるで猫のようにぶらんと揺らされる。首だけ振り返ってみると、そこには全く予想もしていなかった顔があった。 「こ、紅塵《こうじん》!?」 「おう、俺だ。だが、ここはいとしの紅塵様って呼ぶところだぞ」  男は品《しな》までつけて説明し、にやりと目を細めた。  短く刈り込んだ頭に精悍《せいかん》な顔つき。年は三十代半ば辺りだろうか。長身の体格は用心棒かと思うほどに逞《たくま》しいが、切れ長の瞳は子供のように輝いている。  間違いなく昨夜鴉が「男前」と呼んでいた男、紅塵だった。 「しかし、豆の分際で俺以外の男といちゃついているなんて良い度胸じゃねぇか」 「え? え?」  そういえば強引で訳のわからぬことを言う奴だった、と鈍い頭がようやく回り出す。そして紅塵は唯我独尊な男だった。有無を言わせず豆を肩に担ぎ上げると、くるりと仁平に背を向けた。 「さぁさぁ、行くぞ。昼の明るい陽射しの中でたっぷり可愛がってやっからな」 「へ? まだ店やってないよ?」 「なーに言ってんだ。ちゃんと金は払ってあんだからいいんだよ」 「う、嘘? ちょっと、わぁっ、人さらい!」 「豆の分際で人聞き悪ぃことを言ってんじゃねぇよ」  いつのまにかずんずんと歩き出され、豆は紅塵に担がれたまま「に、仁平っ。ごめん、また今度なっ」と手を振った。仁平は滑稽なほどぽかんと口を開いていた。  紅塵は歩調を速め、階段を上がって一番奥の座敷へと向かった。可愛がる云々《うんぬん》は冗談だと思っていた豆は、座敷に上がってぎょっとした。畳の上にはきっちりと床《とこ》が敷かれ、夜でもないのに行灯まで置かれていたのだ。 「うげっ、本当に用意されてるし」 「うげっ、とは何だ、うげっ、とは。相変わらず客に対する口のきき方がなってねぇな」  呆れたように言われ、豆は慌てて口を押さえた。紅塵は苦笑しながら豆を床の上に下ろした。  最初に会った時も思ったが、相変わらず謎な男だ、と思う。今日だってしばらく顔を見せないと思っていたら、いきなり日中の登楼《とうろう》だ。思い返してみれば、この男の職業すら聞いたことがなかった。  盗み見る豆の視線に気付いたのか、紅塵は悪戯っぽく口角を吊り上げた。 「何だ、まじまじ見つめやがって。あまりの男前っぷりに見とれたか?」 「ううん、そうじゃなくてさ」 「……手前な、普通そこできっぱり首を振るか? 娼妓ってのは嘘でも客に期待をもたせてなんぼだろうが」 「え、そうなの?」  客に指摘され、豆は「へぇ」と感嘆した。紅塵は大袈裟《おおげさ》に溜め息をついた。 「それより前から思ってたんだけど、紅塵って何してる人なんだ?」 「清く正しい正義の味方」 「うわ、胡散《うさん》くさ……あひゃひゃっ!」 「生意気な口をきくのはこの口か。あン?」  素直な感想を零した途端、紅塵の手が伸びて豆の両頬をつねった。豆はじたばた暴れて「ごめんなひゃい」と謝った。 「あ、そうだ。最近町の様子はどう?」  頬を解放されると、豆は目を輝かせながら尋ねた。滅多に町には行けない豆にとって、町で起きた事件や噂を聞くのが何よりの楽しみなのだ。 「最近なぁ。一見平穏なんだが、どうもきなくせぇな。人目につかねぇ隅っこの方で、柄の悪ぃ連中がこそこそと動き回ってやがる」  紅塵は仏頂面《ぶっちょうづら》で吐き捨てた。正義の味方だか何だか知らないが、この男が町について妙に詳しいのは確かだった。 「隅っこなんてどこもそんなもんだろ? それとも何かあったのか?」 「噂だが、どこからか阿片《あへん》が流れてきてるって話だ。おかげで見回りだ取り締まりだって、町の空気がぴりぴりしてやがる」 「ふぅん……。でも、阿片なんて珍しい話じゃないけどなぁ」  阿片は厳しく禁止されているが、元々娼館や賭博場の周りなど上品な土地柄ではない。阿片を売買している者の姿は、青楼通りでも簡単に見ることができた。 (あ、そういえば……)  ふと豆は昨夜見かけた二人の男達を思い出した。思えば、あの姿は阿片を売買する様子に似ていた。 「青楼通りのちまちました阿片売りならともかく、今回は町中でさばかれてるらしいぜ。しかも大量にな。そうとなりゃ、お上《かみ》も放っておくわけにいかねぇんだろ」 「へぇ……。仁平とか大丈夫かなぁ」  人が良くて気が小さい男だから、妙なことに巻き込まれたら危ないかもしれない。豆はただ心配で呟《つぶや》いたのだが、突然紅塵によって胸倉を掴まれ、ぐいっと引き寄せられた。 「わっ……ンっ」 「……手前、あいつが好きなのか?」  紅塵は豆の唇を口付けで塞いだ。問いかけておきながら、まるで答えを言わせまいとするかのようだ。何でそういう話になるのだろうと疑問に思ったが、素直な豆は深く考えもせずに「うん、好きだよ」と頷いた。  数少ない客を嫌いなはずがない。何より仁平は優しくて誠実な男だ。買ってもらった巾着だって大切に使っている。  豆の答えを聞くと、紅塵はあからさまに不機嫌な表情を浮かべた。 「ほぉ……。豆の分際で生意気じゃねぇか」 「はぁ? 何で……えっ……あっ」  問いかける間もなく、紅塵の無骨《ぶこつ》な手が股間に差し込まれた。下帯をまとっていない性器に太い指が絡まり、ゆるりと根元から扱《しご》かれる。荒々しく、だが敏感な箇所を攻め立てる的確な愛撫によって、あっという間に息が上がった。 「……やっ、あっ、ぁん……」 「手前は俺の相手だけしてりゃいいんだ」 「んっ……無理だよ……。俺は娼妓だし……それに紅塵は滅多に来てくれないじゃんか……」  最後の方は恨みがましい口調になっていた。紅塵は「俺が来なかったから寂しかったのか?」と意地悪く笑った。 (寂し……かったのかな)  豆は冗談とも気付かず、真面目に考えはじめた。確かにここ最近は落ち込んでいたが、それは客がつかなかったせいだ。紅塵を恋しがっていたせいではない、と思う。 (あれ、でも……)  豆は自分の胸に手を置いた。紅塵が現れた途端、ずっと抱えていた暗澹《あんたん》たる心地が嘘のように晴れていた。何故だが分からないが、紅塵が来てくれて凄く嬉しかったんだ、と今さらながら驚きとともに気付いた。 「寂しかったのかどうかは分からないけど、紅塵が来てくれたら元気が出てきたよ。凄いね、紅塵って嵐みたいだ。暗い気分がどっかに吹き飛んじまった」  感謝の念をこめた目で見上げると、紅塵は驚いたように目を瞬かせた。次いで怒ったような表情になり、乱暴に自分の髪を掻き乱した。 「……ったく、手前って奴は……」 「え、あっ、ごめん。俺また何か言った?」  機嫌を損ねたかと慌てて謝ったが、紅塵はぶっきらぼうに首を振った。 「そうじゃねぇよ。いや、何か言われたには違《ちげ》ぇねぇが……。ったく、これだから手前は性質《たち》が悪いぜ」 「は?」  豆は訳もわからずきょとんとしていた。紅塵は何も言わず豆を褥《しとね》の上に押し倒した。紅塵の巨躯に覆い被さられると、豆の小さな体はすっかり隠れて見えなくなってしまう。 「豆……」  首筋から厚い唇が這い上がり、耳元で低く掠れた声で囁《ささや》かれる。その声の甘さに、じわりと胸が熱く痺《しび》れた。 「ぁん……あっ、はぁっ……」  愛撫が激しくなり、息が千切れて苦しい。どうして紅塵に触れられると、こんなにも苦しいのだろう。他の人に抱かれる時も恥ずかしさに胸が詰まるけれど、紅塵の時は少し違う気がした。 (やっぱり紅塵は嵐だからかな……)  紅塵に抱かれる度、何故かそんな気がしていた。毎年故郷を襲う吹雪のように激しく、荒々しい嵐。だが、吹雪の冷たさとは違い、焦《こ》げそうなほど熱い嵐だ。  豆は嵐に吹き飛ばされぬよう、大きな背に腕を回した。だが、意識はすぐに快楽の中へさらわれていった。    ◇ ◇ ◇ 「ふぅーん、そんじゃ昨日はたっぷりとお楽しみだったってわけか」  豆から話を聞き終えた鴉は、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべた。 「う、うるさいな。掃除の邪魔なんだから、出て行けよ。もう眠る時間だろ?」 「眠くねぇからいいんだよ。豆のくせに生意気言ってる暇があったら、ちゃっちゃか掃除しろっての。ただでさえとろいんだからさ」  ああ言えばこう倍返しになるのはいつもの事だった。理不尽なものを感じて必死に言い返そうとするも、結局鴉のよく回る口に押し切られ、黙り込んでしまう。 「にしても、いい部屋だよなぁ。俺も早く一人部屋が欲しいぜ」  鴉は広い座敷の真ん中にどっかりとあぐらをかきながら部屋を見回した。  襖《ふすま》には見事な竹林が描かれ、床の間には高名な書道家の掛け軸や振袖人形などが飾られている。品格さえ感じさせるこの部屋は、睡蘭《すいらん》という最高位の娼妓の部屋だった。  幻月の最高位と認められた娼妓には一人部屋が与えられる決まりになっている。それ以外の娼妓達は幾つかの大部屋にまとめて入れられ、嫌でも共同生活を送らねばならない。  大部屋暮らしの二人がなぜそんな部屋にいるのかと言えば、やはり昨夜もまた閑古鳥《かんこどり》だった豆がこの部屋の掃除を言いつけられたからであった。ちなみにこの部屋の主である睡蘭は、今宵の衣装選びのために席を外している。 「鴉だったらすぐに一人部屋をもらえるんじゃないのか? 昨日の客だって有名な大地主だったんだろ」 「まぁな。爺殺しの鴉の異名は伊達《だて》じゃねぇし? けど、枯れた爺さんばっかり相手にしてると、どうしても潤いが欲しくなるんだよねぇ。……で、実際のところあの色男さんはどうよ?」 「……何でそんなに紅塵のこと知りたがるわけ?」  豆は雑巾がけをする手を止め、胡乱《うろん》なものを見るような目で鴉を振り返った。 「んー? あんだけいい男で床上手なら、俺も一度くらい売り込んでみっかなーっと思ってよ」 「か、鴉! 紅塵のこと狙ってるのっ?」 「……って、言ったらどうする?」  鴉は意味深な笑みを浮かべて問い返した。豆は呆然と目を見開いたが、はっと我に返ると慌てて首を振った。 「だだだだって、鴉には他にお客さんが一杯いるじゃんか!」 「娼妓は身一つの商売人。客を増やすのは当っ然。だろ?」 「駄目駄目駄目っ。絶対駄目だって!」 「何で駄目なんだよ。……あー、もしかしてお前、あの男に惚れてんのかぁ? だから俺がちょっかいかけるの嫌なんだろう」 「ほ、惚れてるぅ?」  豆は異国の言葉を聞いたかのように、すっとんきょうな声を上げた。  元々豆は田舎育ちの固い頭で、根っからの男色ではないのだ。 「そんな訳ないだろ。大体、若旦那は客に惚れるのは御法度《ごはっと》って言ってたじゃんか」 「ったく、お前は本当に頭が固いっつーか、融通がきかないっつーか、若旦那に尻尾振ってる忠実な犬っつーか? 三回まわってワンと鳴けって言われたら鳴くんだろ。ほれ、ワンワン」 「……早口でまくし立てられたから半分以上分からなかったけど、ちょっと酷いこと言われてる気がする」 「阿呆。ちょっとじゃなくて、かなり酷いこと言ってるんだよ」  豆はうっと言葉に詰まった。悔し紛れに小さな声で「鴉の馬鹿……」と呟いたが、しっかり聞き取られていたらしい。 「ああん? 豆の分際で、俺に向かって馬鹿とはいい度胸じゃねぇか」 「うわっ!」  足の裏で背中を蹴られ、豆は体勢を崩して床の間に倒れこんだ。すると、  パキ。  腹の下で軽い音がした。 「……」  二人は無言で顔を見合わせた。  まず豆がそっと体を起こし、次いで二人で腹の下を覗いた。そこには振袖人形が倒れていた。悲運なことに、その細い首をぽっきりと折られながら。 「わーっ! どどどど、どうしよう!」 「うわ、やべっ! 隠せ隠せ、絶対高いやつだぞ!」 「か、隠してどうするんだよ!」  怒鳴られながらも豆は慌てて小袖を脱ぎ、その着物で胴体と頭が離れた人形を包んで抱えた。  ばれないうちにと、猫のような身軽さで部屋を飛び出した。小走りに階段を駆け下り、突き当たりにある布団部屋に逃げ込む。二人だけで話したいことがある時は、いつもこの部屋に忍び込んでいるのだ。 「うわ……。鴉、どうしようか……」  豆は小袖をゆっくりと開き、無残な姿になった振袖人形を覗き込んだ。 「あー……お前、裁縫は得意だろ? 後で適当に繕《つくろ》ってくっつけておけって」 「そんなぁ。絶対ばれるよ」 「大丈夫だって。どうせ間近で見ることなんてねぇだろ。ただの飾りなんだし」  鴉は呑気《のんき》に笑い、ひらひらと手を振った。豆は楽観的な鴉を恨めしげに見つめながら、ばれたら絶対鴉に弁償させてやる、とこっそり思った。 「あ、そうだ。知ってるか? 睡蘭で思い出したんだけどよ、仁平が睡蘭を買ったって噂が流れてるんだぜ」  突然、鴉は手をぽんっと叩いて豆を振り返った。豆は突然話が切り替わったことについていけず、二拍も三拍もおいてようやく声を上げた。 「う、あ、えええっ! あ、あの仁平が? あの睡蘭を?」 「そう。このでもそのでもない、あの睡蘭」 「だ、だって仁平には裏に行けるほどの金も地位もないじゃんかっ!」  豆はまだ混乱しているのか、口と手だけがあわあわと動いていた。 「裏」とは「野草」同様に幻月特有の言葉であり、「野草」とは反対に最高位の娼妓、及び彼らの住まう部屋を示す。  なぜ最高位の娼妓が「裏」と呼ばれるのか。それはこの娼館が特殊な構造をしているためだった。  最高位の娼妓は高貴な家柄の者や大店の主など位の高い客にのみ召される。そのため格子座敷に並ぶ事はなく、夜も与えられた部屋にいて客が来るのを待つ。裏の娼妓を買う客はあらかじめ文で登楼する日を知らせ、表玄関からではなく裏口から店へと入らなければならない。そのため最高位の娼妓とその座敷が「裏」と呼ばれるようになったのだ。  ちなみに裏口は幻月とその隣の高級料理屋の間にある鬱蒼《うっそう》とした庭園の奥にある。一見しただけでは料理屋の庭園か、ただの林のようにしか見えないだろう。 「だよなぁ。だから、実は町人のふりした雲上人《うんじょうびと》だったんじゃねぇかって勝手な推測が飛び交ってるみてぇ。それが本当だったら……豆、もったいねぇことしたな」  鴉は同情するような表情を浮かべ、豆の肩をぽんと叩いた。豆はまだ信じられずに呆然としていたが、ふいに先日の仁平の様子が頭をよぎった。誘いを断られたのは、睡蘭を買うためだったのだろうか。 「あああ……。せっかく数少ない得意客だったのに……」  豆は深く肩を落とした。紅塵の嵐で吹き飛ばされた暗雲が、再び胸の内を覆って心臓を締め付ける。鴉も豆の不安に気付いたのか、「元気出せよ」と豆の頭を撫でようとした。  その時、カラリと布団部屋の扉が開いた。 「何がどうしたんです?」  扉に背を向けていた二人は、突然背後からかけられた声に驚いて飛び上がった。  慌てて振り返ると、すらりとした細身の青年が立っていた。顔半分は前髪に隠れているが、もう半分の顔立ちは目を奪われるほど美しい。 「は、初雪《はつゆき》さま……」 「何を騒いでいるのですか? 賑やかな声が廊下にまで聞こえてきましたよ。皆寝ている時間なのですから、少し静かにしてください」  初雪は幼子に言い聞かせるように優しく微笑んだ。実際、この店の大番頭にして店主の右腕である彼は、娼妓達の母親のような存在だった。 「す、すいません。俺達も直ぐに寝ます」 「よろしい。いい子ですね」  初雪は見とれるような笑みを残し、静かに立ち去った。二人は初雪の足音が遠くに消えてから、ほぅと胸を撫で下ろした。 「あー、びっくりした……。それにしても、やっぱり初雪さまって綺麗だねぇ」  豆は恍惚《こうこつ》の余韻覚めやらぬといった声音で呟いた。初雪は元々娼妓だったのだが、顔半分につけられた刀傷が原因となって娼妓から抜けたという噂だ。だが、前髪の下に隠されているという刀傷を実際に見た娼妓はいないらしい。 「んじゃ、俺はそろそろ寝るからな。お前も早く掃除を終わらせろよ」 「うん」 「あ、それと人形もちゃんと直しておけよ。んで、早めに戻しておけ」  鴉はてきぱきと言いたいことだけ言うと、「じゃあな」と手を振って布団部屋から出て行った。  その後、豆が(人形を壊したのって鴉のせいなんじゃ……)と思い直したのは、床につこうという時だった。  その事件が起きたのは、いつものように青楼通りに霧が立ち、幻月が賑わい始めた頃だった。 「何すんだよ!」  二階の奥座敷から切羽詰《せっぱつ》まった怒号が響き渡った。仕事中は何があろうとも決して口にすることはない、鴉の地の口調だった。 (鴉……?)  何か嫌な予感がした。豆は番頭の制止も聞かず、鉄砲玉のように格子座敷から飛び出した。  廊下を駆け、階段を駆け上る。息を切らしながら必死に辺りを見回すと、「岩沙参《いわしゃじん》」という座敷の前に頬を押さえて蹲《うずくま》っている鴉の姿があった。 「死ねっ、この化け物が!」  どすの利いた声をきかせながら、座敷の奥からいかつい男が姿を現した。先ほど鴉を買っていった客だ。目はぎらぎらと血走り、酔っているかのように足取りも覚束《おぼつか》ない。 「お客様、おやめくださいっ」 「邪魔だ!」  男は必死に宥《なだ》めようとする番頭達を振り切り、廊下に倒れこんでいる鴉の元へ詰め寄った。訳の分からぬ言葉を口走りながら倒れた障子を踏みつけ、バリバリと紙が破ける音が響き渡る。 「鴉、危ない!」  鴉の元へ駆け寄り、庇《かば》うように覆い被さろうとする。だが、豆の思惑は果たされなかった。鴉は豆を強く抱きしめ、くるりと体を反転させたのだ。助けにきたはずが逆に庇われてしまい、豆は慌てて叫んだ。 「ちょ、ちょっと、鴉! これじゃ逆!」 「いいから黙ってろっ。豆のくせにいい格好してんじゃねぇよ」  この細い腕のどこにそんな力があるのか、がっしりと拘束されて抜け出すことが出来ない。鴉の肩の隙間から覗いた向こうから、狂気に輝く男の瞳が迫ってきた。恐怖という名の冷たい手が心臓を掴みあげる。豆の喉が引《ひ》き攣《つ》り、鴉の体が強張《こわば》ったのを感じた。  物が壊れる音と、怒号が続いた。男が太い腕を鴉に向かって振り下ろそうとする。その途端、男は横に吹っ飛び、廊下の上に倒れこんでいた。 「……え……」  一体何が起こったのか、しばしの間理解できず、豆は呆然と倒れた男を見つめた。 「……手前、俺の豆に何してんだ」  激昂《げっこう》を押さえ込んだ低い声は、豆の頭上から降ってきた。倒れた男から視線を外し、恐る恐る顔を上げる。下から見ればまるで巨人のような人影は、恐ろしい顔をした紅塵だった。 「おい、さっさとその馬鹿野郎を引っ立てろ。二度とこの店に入れんじゃねぇぞ」  紅塵はただの客であるにも関わらず、きびきびと番頭達に指示し始めた。番頭達もその気迫に押されたのか、指示通りに倒れた男を引き摺っていく。  豆は突然の出現に幻を見るような目で紅塵を見上げながら、男を殴り倒したのは紅塵なのだとようやく理解した。 「坊主ども。大丈夫か?」  紅塵はまだ抱き合ったままの豆達のそばにしゃがみこんだ。 「一体何が起こったんだ。あいつに無作法なことでもして怒らせたのか?」 「俺がそんなことする訳ねぇだろ。何でか知らねぇが、いきなり怒りだして俺のこと殴ったんだよ。拳だぜ? 拳。ったく、人の商売道具を」  鴉は相当頭にきているのか、紅塵という客の前でも地の声になっている。殴られたという頬は無残にも赤く腫《は》れだしていた。 「あー、いってー……。これじゃ仕事にならねぇし、ちっと休んでくらぁ。若旦那にも報告してこねぇとな」 「あ、じゃあ付き添い……」 「いらねぇよ。お前はそっちの色男の相手でもしてな」  豆も立ち上がろうとしたが、鴉はぐいっと豆の頭を押しとどめた。去り際にちらりと振り返り、豆に向かって片目をつぶる。気を利かせたつもりだったのか、軽快な足取りで階段を下りていった。  店はまだ騒然としていた。座敷に上がっていた客も娼妓達も皆障子を開け、こちらを窺っている。店中では番頭達が他の客達に事情を説明したり、後片付けをしたりと忙しげに立ち回っていた。  本当は豆も仕事に戻るか手伝うかしなければならないのかもしれないが、こんな事態は初めてでどうしたらいいのか分からなかった。  紅塵と二人で取り残されたまま、手持ち無沙汰《ぶさた》に男を見上げた。 「ね、ねぇ、紅塵。どうしてここに……?」 「言っただろうが。俺は正義の味方だってな」 「またそういう冗談ばっかり……。どうせ、ただの偶然だろ?」  豆は思わず吹き出したが、紅塵は心外だとばかりに眉を寄せた。 「言いやがったな。手前なぁ、俺と最初に会った時だって助けてやっただろうが」 「へ?」  そんな事あったかなぁ、と小首を傾げて記憶を探ってみるが、頭に穴が開いてしまったかのように記憶がすっぽり消えていた。紅塵は半目で睨みつけながら、豆の頭を掴んでぐわんぐわんと揺らした。 「手前、本当に物覚え悪いな。俺がこの店に初めて来た時、手前は階段から転げ落ちてきたんだぞ? 覚えてねぇのか」 「あわわわわっ」と悲鳴を上げながら目を回していると、揺れる脳裏に古い記憶が転がるようによぎった。 (あー、そういえば……)  豆が階段から転げ落ちるのは毎度のことだが、一度だけ階下で受け止めてもらったことがあるのだ。それが紅塵だった。今思い返せば文字通り衝撃的な出会いなのだが、あの時は客を待たせていたため、ろくなお礼もしないまま別れてしまったのだ。 「あの時はありがとう。怪我とかしなかったか?」 「そんな軟弱じゃねぇよ。可愛い顔に傷がつかなくてよかったぜ」  紅塵は目尻を下げて豆の顔を覗き込んだ。お世辞だとは分かっているが、普段言われ慣れていないだけに顔が紅潮してしまう。 「またそういう事を……。紅塵って本当に口が上手いよな」  何人の男を泣かしたんだ、と冗談めかして双眸《そうぼう》を細める。だが、紅塵の目は真剣だった。 「……覚えておけよ。俺は手前が呼んだらすぐに助けに来る」  紅塵の手が伸び、豆の頬を包み込んだ。微かに汗の滲んだ無骨な手。逞しくて心地よい、大人の男の手だ。  その時だった。突然トクンと鼓動が跳ねた。 (あ、あれ……?)  高鳴り始めた鼓動はそのまま加速し、顔にまで血が上って頬が熱くなり始める。この動悸は一体何だろう。緊張の糸が解けたからだろうか。けれど、紅塵の目を見た途端さらに鼓動が激しくなる。 「……豆? どうかしたのか」 「な、何でもないっ。顔近づけんな!」 「はぁ?」  紅塵は訝《いぶか》しげに眉を寄せ、豆の顔を覗き込もうと顔を近づけてきた。徐々に迫ってくる瞳に、心臓が爆発しそうなほど乱れ打つ。 (し、死にそう……!)  内心で絶叫した瞬間、 「紅塵殿!」  玲瓏《れいろう》たる美声が響き、紅塵の背後から一人の娼妓が走ってきた。波打つ見事な黒髪に、白磁のように滑らかで美しい肌。蘭のごとく艶やかな美貌の佳人は、行灯や障子が倒れた座敷を見るや小さな悲鳴を上げた。 「一体何が起こったのですか?」 「客が暴れただけだ。もう引っ立てられたから心配はいらねぇ」  紅塵と佳人は気の知れた仲なのか、気軽な口調で話し合っている。豆は岩のように固まったまま美しい人の横顔を見詰めていた。 「睡蘭……」  心中で呟いた言葉がぽろりと口から零れていた。何故、裏の娼妓である睡蘭が表に来ているのだろう。どうして紅塵の名を呼んでいるのか──。 「貴方は……豆だね? 大丈夫?」  豆の囁き声が聞こえたのか、睡蘭は優しい声で問いかけてきた。豆は慌てて頷きながら、睡蘭の美貌に見とれた。前に何度か見かけたことはあったが、こうして直接言葉を交わすのは初めてだった。 「あの、睡蘭はどうしてここに……?」 「紅塵殿がいきなり走り出したから、びっくりしてついてきちゃったんだ」  睡蘭は愛らしく微笑み、紅塵を振り返った。 「紅塵殿、お怪我はありませんか?」 「ん? ああ、掠り傷一つねぇよ。あのぐらいで怪我したら恥だ」 「ふふ、頼もしい事。けれど、店の用心棒がおりますから、彼らにも花を持たせてやってください。お客さまに万が一のことがあったら大変ですから」  睡蘭の口から零れた「お客さま」という声に、豆の肩がぴくりと震えた。何故だろう、足元が雲を踏んでいるかのようにフワフワする。今にも沈んで落ちてしまいそうな恐怖に、よろめく足を叱咤《しった》しながら立ち上がった。 「あの、じゃあ、鴉の様子を見てこなきゃいけないから……」 「あ? お、おい、豆っ!」  紅塵が呼び止める声も聞かず、逃げるようにその場を後にした。  豆はそっと胸に手を置いた。いつの間にか胸を熱くする動悸は鎮まっていた。    ◇ ◇ ◇  青楼通りは町の最南端にあり、通りを抜ければ隣町へと続く街道に出る。街道へ向かう正式な道は別にあるのだが、青楼通りを通って行く方が近いため、町を出る者や入ってくる者の姿も多い。  逆に青楼通りから町へと向かうためには、二つを分かつように流れる朱乃川《あけのがわ》を渡らねばならない。そのため娼妓達が町へ出かけることを「川渡り」とも呼ぶ。川にかかる朱鳥《しゅちょう》橋を渡り、川沿いを北に歩いてから右に折れれば、この町一番の大通りである鐘淨《しょうじょう》通りだ。 「にしても、あの男が阿片中毒だったとはなぁ。ったく、阿片野郎が幻月に来んなってんだ」  賑わう大通りを歩きながら、鴉は水飴の棒を乱暴に回した。頬の腫れは引いたのだが、殴られた怒りはまだ消えていないらしい。  あの事件の後。男はこの町の犯罪を取り締まる護警所へと引っ立てられ、阿片を吸ったために幻覚に襲われたのだと語った。鴉が化け物に見えたので、自分の身を守るために戦ったという。男は幻覚が消えた途端、自分のした事に慄然《りつぜん》として可哀想な程震えていた。元は気が小さい男だったらしい。  だが、本当に可哀想なのは幻月の方だ。男が阿片中毒と分かると、護警所の者が店に乗り込んできて店ぐるみで阿片遊びをしていたのでは、と疑い始めた。阿片はこの町でも厳しく禁止されている。そのため、今日は護警所の取り調べのために店は休みにされたのだった。 「最近はかなり出回ってるとは聞いてたが……。幻月で阿片遊びするわけねーっつぅんだよ。ったく、俺らまで疑いやがって」  当然、娼妓達も全員事情を聞かれなければならなかった。鴉と豆の番は先ほど終わり、気晴らしにと町に遊びに来たのである。 「……おい、豆。てめぇ、人の話聞いてんのか?」  鴉は鼻先に皺を寄せながら、くるりと後ろを振り返った。鴉の後をとぼとぼとついて歩いてくる豆は、肩を落として俯《うつむ》いている。目には涙が浮かび、この世の不幸を全て背負い込んでいる風情《ふぜい》だった。 「ったく、鬱陶《うっとう》しいな。まだ落ち込んでんのか?」 「だって、紅塵まで睡蘭を買ってるなんて……」  ぐすっと鼻を啜《すす》って暗い声で呟く。もし今度の事件で「幻月」の評判が落ちて客足が落ちたなら、得意客が二人もいなくなった豆が一番先に追い出されるかもしれないのだ。 「まだ分からねぇだろ。昨日のことだって、お前を買いに来てたのかもしれねぇし」 「絶対そうだってば。あの時は分からなかったけど、紅塵が走ってきたのって裏に通じる廊下からしかないし」  あの時、紅塵は廊下の奥から走ってきた。あの先に階段はなく、突き当たりに一見壁と見紛うような扉がある。そこは唯一裏と表を繋ぐ扉だった。 「あーあー、それじゃ睡蘭を買ったんじゃねぇ?」 「そんなはっきり言わなくたって……」 「ぐずぐずうるせぇな。そのうち何とかなるっつってんだろ。いつまでも目から鼻水垂らしてんじゃねぇよ」 「うう…鴉……。目から鼻水は出ないよ……」  鴉の愛の鞭なのか、豆は追い討ちをかけるように小突かれた。  自分でも愚痴《ぐち》っている暇があったら客をとるために努力しなければいけないと分かってはいるのだ。だが、浮かんでくるのは紅塵と睡蘭が寄り添いあう姿だった。思い出しても胸が痛いだけなのに、あの光景が目に焼き付いて離れない。 「あれ?」 「わぷっ!」  突然前を歩く鴉が立ち止まり、豆は背中に激突した。文句を言おうと眉を寄せたが、鴉は「ちょっとここで待ってろ」と言うなり一人歩き出した。どうやら得意客の顔を見つけたらしい。茶屋の腰かけに座る男に声をかけると、仕事中の調子になって歓談し始めた。 「何だかんだ言ってまめな奴だよな……」  自分が言うと洒落《しゃれ》みたいで格好悪いなぁ、と一人寂しく肩を落とす。鴉の話が終るまで木陰にでも入ろうかと辺りを見回した時、ぽんっと肩を叩かれた。 「わっ……あれ、仁平?」  驚いて振り返ると、大きな風呂敷包みを背負った仁平が立っていた。 「こ、こんな所でどうしたんだ。か、買い物に来たのか?」 「うん、実は鴉に着物の一つぐらい持ってろって叱られてさ。今日はそれを選びに来たんだ」 「そ、そうか……。ご、ごめんな。俺は何も買ってやれなくて……」 「そ、そんなことないよ。前に巾着買ってくれたじゃんか。あれ、今でも大切に使ってるよ」  仁平はこちらが居たたまれなくなるほど深く肩を落とした。豆は慌てて首を振り、帯に差し込んでいた小さな巾着を取り出して掲げた。 「あ、ああ……持っていてくれてたのか」  仁平は目を細めて微笑んだ。まるで遠い過去を懐かしむような瞳で、じっと巾着を見つめていた。 「そ、それ……。ち、ちょっと貸してくれないか?」 「うん? いいけど……」  差し出された手に巾着袋を乗せる。仁平は巾着を手の中で転がしながら、再び口を閉ざして黙り込んだ。 「ま、豆……。お、俺は……」  仁平は何故か緊張しているようだった。何度か躊躇《ためら》っては、唇を湿らせて黙り込む。手の平にじっとりと汗が滲んだ時、仁平は覚悟を決めたように口を開いた。 「おや、豆じゃないか」  だが、仁平の声は割り込んできた声に遮られた。誰だろうと振り返る前に、客との会話を終えて戻ってきた鴉が言った。 「おう、睡蘭。あんたも取調べが終ったのか?」  見れば、地味な小袖に身を包んだ睡蘭が気さくな笑みを浮かべて立っていた。 「うん、さっきね。他の娼妓達も久しぶりの休みだって、町に来てるよ」 「そりゃそうだ。若旦那の野郎、自分は亀みてぇにのんびりしてるくせに娼妓は働かせまくってるからなぁ」 「ふふ、人使いが荒いのは若旦那じゃなくて初雪さまのせいだと思うよ?」  鴉と睡蘭が並んで話す姿は、一枚の優美な絵画のようだった。通り過ぎる人々も、吸い寄せられるように目を奪われながら歩いていく。男女の連れ合いが通り過ぎる時など、どの女も男の耳を引っ張って目を逸らさせようとしていた。 「鴉、さっきの人はもういいのか?」  豆は茶屋を振り返りながら問いかけたが、先ほどの男はもういなかった。 「ああ、仕事中だったらしくてな。護警所の奴なんだ」 「護警所? 何か事件でもあった?」 「いや、最近大量に出回ってる阿片について調べてるんだとよ」  そういえば前に紅塵も噂をしていた、と思い出す。呑気に考えていたが、この前の騒ぎといい、かなり広まっているのかもしれない。 「こんだけ大量に流れてるんなら、どこかに阿片が隠されてるはずだろ? なのに全く見つからねぇんだってさ。だから黒幕の手がかりも掴めねぇって嘆いてたぜ」 「へぇ。護警所の人も大変なのだねぇ」  睡蘭は感嘆の吐息を零した。豆はそれで幻月を調べに来た人達もぴりぴりしていたんだなぁ、と妙に納得した。 「あ、あの、豆……。お、俺、仕事中だったからそろそろ行かないと……」 「え?」  それまで黙り込んでいた仁平は、背を向けたかと思うと逃げ出すように去っていった。ろくな挨拶もない素早さに、豆と鴉はきょとんとした顔を見合わせた。 「どうしたんだろ、仁平。何か言いたそうにしてたけど……」 「さぁな。あいつ美人恐怖症なんじゃねぇ? この俺様を見ても反応しやがらなかったし」  豆は心配そうに呟いたが、鴉の来がかりは全く別のことのようだった。冗談でも堂々と言えるのが鴉の凄いところだ。おそらく本気で言ったのだろうが。 「ああ、でもあいつは睡蘭の客なんだっけか」 「あはは、よく知ってるね」  鴉が思い出したように言うと、睡蘭は苦笑を浮かべた。 「結構噂になってるぜ。何でただの町人があんたを買えるんだって」 「さぁ、俺も知らないなぁ。お客さんに根掘り葉掘り聞くのは失礼だろ?」  それはそうだ、と豆は頷いた。ただ、睡蘭を買えるようなら、当然豆ではなく睡蘭を選ぶだろう。豆は少し寂しい気持ちになって溜め息を零した。 (……あれ?)  変だ、と豆は思った。紅塵が睡蘭を買っていたと知った時よりも、胸の痛みが小さい気がした。何故だろうと首を傾げていた時、 「あ、そうだ。なぁ睡蘭、紅塵って男があんたを買わなかったか?」  鴉の問いかけにぎょっと目を見開いた。 「か、鴉! そんなこと聞くなよっ」 「うるせぇな。ぐずぐず悩んでるぐらいだったら、はっきり聞いた方がいいじゃねぇか」  豆は鴉の袖を引っ張ったが、あえなく振り払われた。鴉の言う通りかもしれないのだが、怖くて聞きたくないのだ。 「困った子だねぇ。娼妓に客筋を聞くのは無粋なことだよ」 「まぁ、そりゃそうなんだけど。豆がすっげぇ気にしてんだよ」 「へぇ? 豆がねぇ……」  睡蘭は軽く瞠目《どうもく》し、まじまじと豆の顔を覗き込んだ。豆は居心地悪く視線を泳がせた。 「……もしかして、豆は紅塵様のことが好きなのかい?」 「は、はぁ? 何で睡蘭まで鴉と同じこと聞くんだよ。お客としては好きだけど、懸想《けそう》するのは御法度だって若旦那が口を酸っぱくして言ってたじゃんかっ」  驚いた豆は素《す》っ頓狂《とんきょう》な声で一息に叫んだ。  睡蘭はその慌てぶりがおかしかったのか、子供をあやすような声音で「分かった分かった」と笑った。 「でも、気持ちなんて自分じゃどうにもならないものだからね。気付かぬ間に……なんて事もあるんだよ?」 「気付かぬ間に……?」  そんな事があるのだろうか。大体、豆には好きという気持ちがどうにも分からない。好きというなら鴉が好きだ。初雪も好きだし、店主も好きだ。仁平だって、紅塵だって──そう思った時、鼓動がトクンと高鳴った。豆の体を抱き締める精悍な腕、意地悪な笑み。紅塵を一つ一つ思い出す度、どんどん胸が熱くなる。 (いやいや、これはただの動悸だから恋じゃない)  豆はふるふると首を振った。  昔、母は「恋をすると切ない気持ちになるんだよ」と言っていた。だから「恋」とは「切ない」はずだ。紅塵を思い出すとドキドキはするが、切なくはない。だが、豆は「切ない」という思いがどんなものか分かっていなかった。 「無理無理。豆はまだオコチャマだから、恋心なんて崇高なもんは分かんねぇよ」 「おや、鴉だって恋したことないだろう? 一丁前の事言ってるんじゃないよ」 「じゃあ、睡蘭は恋心が分かるのかよ」  鴉はむっとして眉間《みけん》に皺を寄せた。睡蘭は微苦笑を浮かべ、長い睫毛《まつげ》を伏せた。 「……どうして娼妓が誰かを好きになってはいけないと思う?」  どこか寂しげな声だった。豆と鴉は顔を見合わせ、戸惑いながら首を傾げた。 「うーんと、自由に会えたりできないから?」 「それもあるけど……。ああ、二人とも小さい頃から幻月にいるんだっけ。娼妓であることが自然であるほど馴染んだのだろうね」  睡蘭は羨《うらや》ましそうな、哀れむような目で豆と鴉を見つめた。  二人は七つの時に幻月の戸を潜り、元服がすむまでは禿《かむろ》という娼妓の側仕えとして働いていた。睡蘭は今年二十五だが、幻月に来たのは七年前の十八の時。豆と鴉の一年あとだ。  人生の半分以上を幻月で過ごしてきた二人と違い、既に物心がついていた睡蘭は望まぬ思いで幻月の戸をくぐってきた。 「娼妓が誰かを好きになると、娼妓であることが辛くなるんだ。その人以外に触れられる事も、そばにいけないことも、何もかも辛くなる。……その人に、抱かれることさえ」 「好きな人に抱かれたら嬉しいもんじゃねぇの?」  鴉は不思議そうに小首を傾げた。大人びてはいるが、鴉も恋などしたことはないのだ。 「ううん、辛いんだ。……この身は、綺麗な花じゃないから」  睡蘭は小袖の襟を強く掴みあげ、唇を噛み締めた。豆と鴉は何も言えず黙り込んだ。豆達とて、体を売る身分がどんな目で見られるかは身に染みて知っている。 「……睡蘭は、辛い思いをしてるのか?」  豆の問いに睡蘭は答えなかった。ただ、全てを悟り、全てを達観した悲しい微笑を浮かべていた。  形にならぬ言葉がつかえたような沈黙が流れた。睡蘭は笑みを戻すと、店に戻るからと二人に手を振った。 「ねぇ、豆」  去り際、睡蘭は振り返って豆を呼んだ。 「あの人は恐ろしい人だね。とても冷たくて、厳しくて……」 「あの人って?」  豆は思い当たる人物が浮かばなかった。だが、睡蘭の背はすでに遠く、人の流れに紛れて消えた。 「今のって、紅塵のことじゃねぇのか?」 「でも、紅塵って全然冷たくないし厳しくもないよ?」 「だよなぁ」  二人は首を傾げた。  結局誰の事か分からぬまま着物を選びに行き、その事は忘れてしまった。  買い物を終えてとっぷり日が暮れた頃、鴉は突然「あっ」と声を上げた。 「おい、睡蘭の部屋の人形は戻したのか?」 「え? ……あーっ!」  豆は一瞬きょとんとした後、通りかかる人達が振り返るほど大きな声で叫んだ。今朝戻すはずだったのだが、昨夜の事件のせいですっかり忘れていたのだ。 「お、俺、今戻してくる!」  慌てて踵《きびす》を返し、青楼通りに向かって駆け出した。息を切らしながら朱鳥橋を渡り、幻月に駆け込む。今日の取調べは済んだのか護警所の姿はなかった。  豆は下っぱの娼妓達が寝泊りしている大座敷に上がり、隅に置いてあった風呂敷包みを手に取った。その中には素人の縫いで頭と胴体がくっついた振袖人形があった。 「急がなきゃ……」  風呂敷包みを胸に抱き、二階へ駆け上がる。階下の突き当たりの戸から裏へ入ると、拭き掃除をしている禿がいた。 「ねぇ、睡蘭はもう帰ってきた?」  突然声をかけられて驚いたのか、禿は目をまん丸にしながら「僕は見てませんけど……」と消え入りそうな声で答えた。豆は禿に礼を言って別れた。  睡蘭の座敷の前で足を止め、障子にそっと耳を寄せた。中から物音はしない。豆は覚悟を決め、わずかに障子を開けて中を覗いた。  床一面に、真っ赤な襦袢《じゅばん》が広がっていた。  誰かが横たわっていると知ったのは、はだけた襦袢の下にしどけなく開かれた下肢が見えた時だった。  胸元も乱れ、抜けるような白い肌に鬱血《うっけつ》の痕が散らばっている。首は花の茎のように細く──鋭利な物によって切り取られ、喉がぱっくりと開いていた。 「あ……」  それは異様な光景だった。  切り裂かれた喉から覗く肉はぬらりとした血に濡れ、魚の切り身のように瑞々しく光を反射している。畳には鮮血が飛び散り、真っ赤な牡丹が花開いていた。  豆は裂けんばかりに見開いた眼を、ぶるぶると身震いしながら奥へと向けた。  窓から差し込む赤い夕陽が、白い腕、白い胸元、白い面立ちを照らしていた。襦袢よりも赤い、毒々しい血と赤光に染まった、睡蘭の顔貌を。 「あ……あ……」  豆の震える手から風呂敷包みが落ち、零れた人形が床に転がった。どこか遠くで悲鳴が聞こえた。それが己の喉奥から迸《ほとばし》る声だと気付いた時、意識は闇へ落ちた。  耳のすぐ側でごうごうと強い風が吹いていた。  冬の時期、故郷を襲う吹雪だろうか。目も開けていられないほど強い北風と、頬を叩くように吹き付ける冷たい雪──。 (嘘つき……。呼んだら助けてくれるって言ったのに……)  暗闇に落ちながら、何度も男の名を呼んだ。だが、胸を高鳴らせ、頬を熱くさせる嵐は来なかった。あの嵐は豆のものではない、だから豆の側にはいてくれないのだ、と冷たい吹雪がせせら笑う。悲しみがじわじわと胸を凍りつかせ、溶けた雪のような雫が頬を伝って流れた。 「……め……豆……」  さまよい歩いていた暗闇の遙か向こうから、低く穏やかな声が聞こえた。優しい指先が頬を滑り、零れた涙を拭《ぬぐ》った。この暖かく柔らかな手は知っている。この手は──。 「おかあ……さん……」 「豆……。気が付きましたか?」  ふっと開かれた視界に、初雪の安心したような笑顔が飛び込んできた。  何処かの座敷にいるのか、豆は行灯の眩しさに目を細めた。 「良かった……。中々目を覚まさないから心配していました。大丈夫ですか?」 「大丈夫です……けど、俺は一体……」  豆は初雪に膝枕されていた。何故自分がこんな格好で寝ているのだろう。回らぬ頭で思い出そうとしていた時、突然顔の上にぬっと影がかかった。 「おーう、豆。起きたのかぁ?」 「わっ!」 「わ、とは失礼な奴だなぁ。俺ぁお化けか何かかい」  目の前に迫ってきたのは、垂れた目が眠そうに見える男だった。豆の叫び声に拗《す》ねたのか、のっそりとした動きで卓子の側へと移動し、煙管《きせる》を取って口に咥えた。  亀戸《きど》という名の通りのんびりした男だが、この男こそ青楼一と名だたる娼館「幻月」の店主だった。 「あ、あ、すいません、若旦那……」  豆は慌てて体を起こして謝った。  どの娼妓も亀戸のことを若旦那と呼んでいるが、この店を起こした大旦那は数年前に他界している。そのため、もう若と言う立場ではないのだが「若旦那って響きの方が若く感じるじゃねぇか」という亀戸の我儘《わがまま》の元、みな仕方なく協力していた。 「謝らなくていいのですよ。いきなり顔を出されたら誰だって驚くのですから」  初雪は優しく微笑み、豆の頭を撫でてくれた。その表情が、いつか見た誰かに似ている気がして──そう、さっき町で出会った、睡蘭のような。  その瞬間、豆は引き攣った悲鳴を上げた。脳裏によぎったのは睡蘭の艶やかな笑みではなかった。口を開き、喉を開き、だらりと両腕を広げたまま、血に濡れた動かぬ瞳。 「す、睡蘭……睡蘭が!」  豆はもつれ倒れるように初雪を振り返った。だが、初雪は何も答えなかった。ただ愁眉《しゅうび》を寄せ、憂いを帯びた目を伏せながら小さく首を振った。 「今、護警所の奴らが来てるよ。どうも睡蘭は何者かに殺されたみてぇだなぁ」  亀戸はぽかりと煙を吐き出しながら言った。まるで「明日は雨だなぁ」というような軽い口調だった。 「こ、殺されたって、一体誰が睡蘭をっ」 「まだ分かりません。それを調べている所ですから、後で豆にも話を聞かせてもらう事になると思いますが……」  初雪は「話せますか?」と労わるように豆の背中に手を置いた。豆は頷こうとした。だが、あの真っ赤な座敷を思い出そうとした途端、体が瘧《おこり》のように震え、ぽろぽろと涙が零れた。 「酷い……酷いよ……」  睡蘭はあんなに優しくて、あんなに寂しそうだったのに。仲間の娼妓にも看取《みと》られず、好きな男の胸の中にも行けず、冷たい血に包まれて息絶えるなんて。 「泣くなぁ、豆」  亀戸は無骨な手を豆の頭の上に置き、くしゃくしゃと撫でた。その手の優しさに、また涙が溢れて止まらなかった。 「俺も泣きたいんだよ。おかげでまた店が開けやしね……ぁっちぃっ!」  亀戸はしみじみと嘆くと、初雪は煙管を奪い取り、刻み煙草を詰めた火皿の先を亀戸の首筋に押し付けた。 「冗談でもそんな無神経なことを言わないように」 「分かってるっての……。あー、ともかくだなぁ。こうなったらしばらく営業停止だから、ゆっくり休めや。なぁ?」 「でも……」  豆は喉を引き攣らせながらしゃくりあげ、涙に汚れた顔を上げた。亀戸は「酷い顔してるぞ」と苦笑し、豆の低い鼻を指先で押し潰した。 「大丈夫、俺達にまかせておけ。うちの可愛い娼妓を殺してくれた奴は、絶対見つけだしてやるからよ……」  亀戸は低い声で呟き、颯爽《さっそう》と立ち上がった。障子を開けて座敷を出て行く間際、怒りをこめた鈍い歯軋《はぎし》りを残して。    ◇ ◇ ◇  夕刻、陽の落ちる朱乃川《あけのがわ》はその名の通り真っ赤に染まり、煌《きらめ》く水面はたゆたう赤龍の鱗《うろこ》のようだ。  豆《まめ》は川沿いの柳の根元に腰を下ろし、胸に抱えた振袖人形を見つめた。睡蘭《すいらん》の座敷に置いてあったあの人形だ。 「お前の呪いなのか……?」  豆は人形の黒い瞳を見つめた。鴉《からす》にそう零したら、「馬鹿じゃねぇのか?」と本気で怒られたのだが。 「でも、因縁《いんねん》めいたものは感じちゃうじゃんか……」  首の取れた人形と、首を切られた睡蘭。ただの偶然と言われればそうかもしれないが、どうしても罪悪感を覚えてしまうのだ。  はぁ、と豆はため息を吐いた時だった。突然背後から太い腕が豆を締め付け、黒い影が覆い被さった。 「ひっ!」  恐怖に混乱し、必死に身を捩《よじ》って逃げようとする。だが、動く度に腕が締め付け、助けを呼ぼうとする口を大きな手で塞がれた。 「……大人しくしてろ」低い男の声が耳元で囁いた。「ったく、愛しい男の腕ぐらい分かれよな……」  この声、このふざけた言葉には覚えがある。首を捻って振り返ると、意地悪そうな笑みを浮かべた男が豆を覗《のぞ》き込んでいた。 「こ、紅塵《こうじん》……?」 「おう」  ようやく口から手が離され、豆は大きく息をついた。紅塵は豆を抱き締めていた腕はそのままに柳の根元に腰を下ろした。 「色々と大変だったみてぇだな。青楼《せいろう》通り中の噂になってるぜ」 「ああ、もう知ってるんだ。紅塵も悲しいよね……」 「ああ。気の毒だったな」  紅塵は静かに頷《うなず》き、追悼《ついとう》するように目を閉じた。豆は紅塵の横顔を見つめながら、少し拍子抜けした気分になった。取り乱すまではしなくとも、もっと悲しがると思っていたのだ。 (やっぱりただの遊び相手だからかな……)  もし自分が死んだ時も、紅塵はただ目を閉じるだけなのだろうか。豆はじわりと瞼《まぶた》が熱くなるのを感じ、慌てて目元を擦った。 「ここじゃ何だな。どこかに入って話すか」  豆が「え?」と問い返すより先に、紅塵は豆の腕を引いて立ち上がった。  鐘淨《しょうじょう》通りに入り、何度か道を折れる。引き摺られるままに歩いていると、竹林に佇《たたず》むような趣《おもむき》の茶屋の前に辿りついた。馴染みの店なのか、紅暖簾《べにのれん》を潜ると店の者に軽く挨拶しただけで、ずんずんと奥に向かって歩き出す。気がついた時には中庭を臨む離れ座敷に上がっていた。 「適当に座ってろや」 「え、うん……」  豆は戸惑いながら座布団の上に腰を下ろした。紅塵は店の者に冷酒と甘酒を頼むと、豆の隣に座って振袖人形を覗き込んだ。 「さっきから何を大事そうに抱えてんだ?」 「あ、これは睡蘭の部屋に置いてあった人形なんだ。俺が潰して壊しちゃったから直して戻そうと思ったんだけど……」  言葉を濁し、「見る?」と紅塵に差し出した。紅塵は人形を受け取り、しばらくの間じっと人形を見つめていた。 「下手人はまだ上がってねぇんだろ? 調べは思わしくねぇのか」 「うん……」  豆は肩を落として中庭に視線を向けた。一体どこから話したらいいだろう。そう考えている自分に、少し驚いて呆れた。 (紅塵に話したって仕方ないのに……)  だが、豆はただ頼りたかった。例え真剣に耳を傾けてくれなくても、話し終えた時に頭を撫でてほしかった。  そうすれば今夜こそ赤い悪夢にうなされずに眠れるかもしれない。そう思った時、豆の口は自然と開かれていた──  ──身寄りのいなかった睡蘭の葬式は、亀戸《きど》が喪主となって幻月《げんげつ》で執《と》り行われた。  その翌日、豆と鴉は亀戸の座敷に押しかけて睡蘭の死について話し合っていた。亀戸は「おーい、ここは若旦那のお部屋なんですけどー」と文句を言っていたが、初雪《はつゆき》の「どうぞ」という鶴の一声で遠慮なく場所を借りられる事になった。 「それじゃ仁平《にへい》が睡蘭を殺したって言うのかっ?」  豆は眉を吊り上げ、呑気に煙管《きせる》を咥《くわ》えている若旦那に詰め寄った。 「誰もそんな事言ってないだろぉ。睡蘭が殺された日、あいつの座敷に登楼《とうろう》するはずだった客が仁平だったって言っただけだ」 「それだけでも十分怪しいじゃねぇか。裏に登楼するはずだった客に、その日が休みだって文は間に合わなかったんだろ? なら、仁平が睡蘭のとこに来てたかもしれねぇじゃん」 「まぁ、そうなんだけどねぇ……。というか、鴉。俺は若旦那なんだから少しは敬おうね」 「絶っっっ対にイヤだね」  鴉はきっぱりと言い切った。亀戸はがっくりと肩を落とし、大きな背中を丸めて「いいもんいいもん」と拗《す》ね始めた。  鴉は亀戸を無視して初雪を振り返った。 「てかさ、何で仁平が裏の座敷に上がれるんだ。ただの町人じゃねぇの?」 「いえ、確かに町方の簪《かんざし》職人です。ただ、蘇芳《すおう》という貴族の方から紹介状を頂いて、御足《おあし》は蘇芳がもつから仁平を最高級の娼妓《しょうぎ》と遊ばせてやってくれと頼まれていたのです」 「あー、蘇芳のじっちゃんか。確かにあのじっちゃんは気前が良かったが……。何で仁平にそこまでしてくれるんだ?」  蘇芳が鴉の得意客だということは豆も知っていた。上流貴族の好々爺《こうこうや》で、鴉にはかなりの着物や帯を贈っていたようだ。 「蘇芳様の奥方が仁平様の簪を贔屓《ひいき》にしているそうです。蘇芳様自身も実直で誠実な仁平様を可愛がっていたみたいですね。何よりご病気で亡くされたご長男に面影が似ているそうですよ」  豆も知らなかった事実に「へぇ」と感心しそうになった。だが、 「と、とにかく仁平は人を殺すようなそんな人じゃないよっ。優しくて気が小さい人なんだから」  顔を真っ赤にし、興奮して叫ぶと酸欠になって頭がくらくらした。初雪は落ち着かせるように豆の肩を抱いた。 「分かっていますよ、豆。それに、あの日仁平様は店にいらっしゃいませんでした」  裏玄関に詰めている者に確認したところ、仁平だけでなく裏への客は誰も訪れなかった、と初雪は語った。 「幻月」のあの騒ぎは思いのほか町でも噂になっていたそうだ。万が一の事を考え、登楼するのは見送ったのだろう。 「じゃあ、睡蘭を殺した奴はどうやって裏の座敷に入れたんだろ……。実は店に隠し通路があったとか?」 「大馬鹿者。そんなもんがあったら若旦那の俺が知っとるでしょう」  豆は大真面目に首を傾《かし》げたのだが、亀戸は畳んだ扇子で豆の頭をぺしんと叩いた。その途端、それまで黙って話を聞いていた鴉が「分かった!」と太腿を手で打った。 「表だっ。表の二階廊下から入ったんだ。裏の他には表しか入口はねぇ」 「その通り」  天晴《あっぱれ》、と亀戸が扇子を広げた。だが、慌てたのは豆だ。 「ちょ、ちょっと待ってよ。表から裏に行けるのは娼妓しか知らないはずだろ。それじゃ下手人は娼妓ってことになるよ?」 「そうとは限らねぇさ。確かに客には知らせてねぇが、どっかから漏れててもおかしくねぇ。ほれ、紅塵だって裏から出てきたろ?」  鴉はちょんちょん、と己の頬を指差した。そういえば前に紅塵が裏から現れて助けてくれたのだっけ、と思い出す。 「いつもなら不審者がいてもすぐに分かるんだがねぇ」  亀戸は肩を竦めて鼻から煙を吐き出した。  あの日、店には阿片《あへん》調べとやらで護警所の役人が出入りしていた。それが引き上げたと思えば、好奇心を丸出しにした近所の娼館連中の見舞い訪問だ。亀戸も番頭達もそれの対応にてんてこ舞いで、誰が不審者だろうかなどと見極める時間はなかった。 「護警所はうちの娼妓も疑っているようです。睡蘭自身は人柄の良い子でしたが、最高位という立場が妬《ねた》まれることもありますし」 「普通の娼妓でも客を取った取られたで揉めるぐれぇだもんな」  自分も経験がある、と鴉はしみじみため息を吐いた。 「ともかく、まずは他の娼妓達から色々話を聞いてみましょう。何か分かったら必ず私達に報告してください」  初雪の言葉に、豆と鴉は唇を引き締めて頷いた。亀戸は分かっているのかいないのか、「おーう」とのんびり頷いた──  ──豆は一通り話し終え、運ばれてきた甘酒を口に含んだ。 「それで、その後皆から色々話を聞いたんだけど……って、紅塵?」  先ほどから静かな紅塵に嫌な予感を覚え、くるりと振り返る。紅塵は人形を睨《にら》みつけていたかと思うと、突然ぺろりと人形の裾を捲った。図体《ずうたい》のでかい男が人形の股間をまじまじと覗いている姿は、一種異様な光景だった。 「男か女かどっちかと思えば……。何もついてねぇ。つんつるてんだ」 「ちょ、何してんだよっ! ちゃんと話し聞いてたのか?」 「聞いてたっつーの。んで? 他の娼妓達から話を聞いたんだろ」  紅塵は人形遊びに飽きたのか、卓子に人形を置いて豆を振り返った。 「うん。でも、睡蘭は慕われてたから、誰かに嫌われてたとか恨まれてたって話は全然なかったよ」  娼妓達は目に涙を浮かべ、嘆き悲しんでいた。中には「きっと阿片中毒の奴がやったんだ」と憤る者もいた。先日、男が暴れた事件があったせいだろう。豆もそれはあるかもしれない、と思った。 「ふぅん。どこまで信じられるもんかね。娼妓なんてのは、どいつもこいつも嘘つきで口が達者だからな」 「紅塵、鴉と同じこと言ってる……」  二人とも豪気な性格だから気が合うんだなぁ、と豆は感心した。だが、紅塵は何故か物凄く嫌そうな顔をした。 「鴉のこと嫌いなのか?」 「あいつは気にいらねぇ。いつも手前《てめえ》にべたべた引っ付きやがって……」 「は? だって、鴉と俺は幼馴染だし」  鴉とは年も同じで「幻月」に上がった時期も同じだった。だから店でも一番仲がいいのだが、どうしてそれが紅塵の不機嫌の理由になるのだろう。不思議そうに首を傾げると、男の骨ばった手が伸び、豆の顎を捉えた。 「手前は俺の相手だけしてりゃいいんだよ」 「ま、またそういう事を……」  向かい合った男は悪戯っぽく鋭い双眸を細めた。ただの冗談のはずなのに、言われ慣れないせいか恥ずかしさに体が熱くなる。 (うぁ、また動悸が……)  ドクドクと脈打ち始めた鼓動を何とか抑えようと、必死になって考えた。混乱した豆は、とりあえず息を止めて心臓を抑えつけようとした。息苦しさに死にそうになった。 「男の影はねぇのか?」 「はっ、はぁ……へ?」  必死に息を吸い込んでいると、「睡蘭だよ」と付け加えられた。 「あ、ああ……。睡蘭は売れっ子だったから、得意客は何人もいたよ。それと、睡蘭には想い人がいたらしくて」 「ほお?」  その話をしてくれたのは、豆が睡蘭の座敷に人形を戻しに行った時に声をかけた禿《かむろ》だった。彼は睡蘭つきの禿で、普段からとても可愛がってもらっていたそうだ。 『お可哀想な睡蘭さま……。ずっと、白芙《はくふ》という方をお慕いしていたのです。睡蘭さまはいつか白芙さまに身請《みう》けされたいと願っておりました』  禿は小さな肩を震わせ、わぁっと泣き崩れた。見ている方まで胸が痛むほどの悲嘆ぶりだった。 「白芙……ね」  紅塵は鋭い双眸を細めた。「手前はそいつに会ったことあるのか?」 「ううん、でも噂は聞いた。貴族の五男坊なんだけど大の博打《ばくち》好きで、やくざ者とつるんで遊んでるって話だよ」  何で睡蘭はあんな放蕩息子に懸想《けそう》していたのだろう、と禿は納得のいかない顔をしていた。鴉は「そういうろくでなしに惚れる奴っているんだよ」と知ったような口を叩いていたが。 「だから、白芙って人からの身請け話はなかったらしいんだ。他の客からはいくつか話が出てたそうなんだけど、睡蘭が承知しなかったみたい」 「そりゃ好きな男のそばに行きたいってのが人情だろうな」 「うちの若旦那は無理に話を進めるような人じゃないけど、ずっと断り続けることは出来ないって睡蘭に言ったんだって」  花街では「男娼は三十まで」という暗黙の習慣がある。女郎も年をとれば客がつかなくなるが、男娼の寿命はさらに短い。客は顔つき、体つきが成熟してしまった男娼には見向きもしないからだ。  睡蘭はまだ二十五だったが、死んだ両親が残した借金を抱えていた。その額はかなりのもので、あと五年のうちに全て返しきれるものではなかったそうだ。亀戸は身請け話を承知し、身請け先に金を出してもらうしかないと睡蘭に忠告していた。それは睡蘭にも悲しいほど分かっていたらしい。 「……紅塵は、睡蘭のこと好きだった?」  どうしてそんなことを聞く気になったのか。豆は自分でも分からず、戸惑いながら男を見つめた。だが、紅塵は頬を掻きながら「さぁ?」と軽い口調で首を傾げた。 「さぁって……。睡蘭のこと買ったんだろ?」  確かに付き合いは短いかもしれないが、仮にも肌を重ねた間柄なのに。冷たい反応に、つい責めるような口調になってしまった。 「一度だけな。けど、抱いてねぇぞ?」 「はぁ? 何で、もったいない! 睡蘭って綺麗な上に床上手だって娼妓達の間でも有名だったんだからっ」 「なぁにぃ? まさか、豆の分際であいつとやったんじゃねぇだろうな!」 「何でそんな話になるんだよ! 娼妓同士でする訳ないだろっ」  もったいないもったいないと騒ぐ豆と、睡蘭と豆の有り得ない関係を疑って騒ぐ男の妙にずれた言い合いはしばし続いた。 「抱いても気持ち良くねぇって分かりきってんだ。抱いたって仕方ねぇだろ!」 「何でそんなこと分かるのさっ」  意地の張り合いになり始めた口論は、いきなり座敷に押し倒されたところで止まった。  豆は畳に頭をぶつけた痛みで呻《うめ》き、覆い被さった紅塵を睨みつけた。 「いいか、豆」  文句を言おうとした豆の唇に、人差し指が押し当てられる。骨ばった指は唇から顎、首筋へと滑り、するりと小袖の下に潜った。 「ここをこうされると気持ちいいだろ?」 「あっ……」  紅塵の指が突起を押し潰し、固い爪先で転がすように捏《こ》ね回す。久しぶりに男に触られた体は甘い痺れに震えた。 「……こういうのは器用な奴なら誰でも気持ち良くできるし、気持ち良くなれる。けどな、ここに」と紅塵は手を広げて豆の心臓辺りを包みこんだ。 「たった一人の奴が住みついちまった奴は、そのただの一人と交わると最高の快楽が味わえるんだ」  耳朶《じだ》に寄せられた唇から、低く掠れた囁《ささや》きが伝わってくる。耳に吹き込まれた熱い息遣いが体の中に入り込み、下腹部の中を怪しい手付きで愛撫するようだった。 「逆に言えば、そいつじゃなきゃその極楽は味わえねぇんだよ」 「……紅塵には、いるの?」  豆はそっと紅塵の胸に手を伸ばした。小袖の上から胸を探っても、鼓動一つ聞こえない。紅塵は突然己の小袖を肩から落とすと、鍛え上げられた上半身を露《あらわ》にした。豆の小さな手を取り、逞《たくま》しい胸筋に当てさせる。手の平から伝わる力強い鼓動と温もりが頬擦りしたくなるほど心地よかった。 「……わかるか?」 「わかんないよ……。紅塵の心の中なんて見えないんだから……」  意地の悪い問いかけに唇を尖らせる。「修業が足らねぇんだよ」と紅塵は口角を吊り上げて笑んだ。 「あっ……ちょっ……」  着物の裾を割られ、もう一本の手が脹脛《ふくらはぎ》から太腿へと滑りながら這い上がってくる。下帯を緩められ、足の付け根にある自身が外気に触れて震えた。 「待ってよ、今日は店が休みだから……」  気が付けば胸元ははだけられ、帯の周りにだけ小袖が纏《まと》わりついたあられもない姿になっていた。陰茎を隠す襦袢《じゅばん》まで捲られそうになり、慌ててその手を押さえた。 「な、何で俺を抱くんだよ。睡蘭は抱かなかったんだろ」 「何でだと思う?」  こちらが聞いたのに、逆に問い返されてしまった。ずるい、と膨れながらも首を傾げて考え込んだ。 (やっぱり御足が安いからかなぁ……)  滅多《めった》にない事だが、最高位の娼妓が気に入らなかった場合、手をつけずに座敷を出れば御代を払わなくてすむ。好みでない相手に高い金を払う馬鹿はいないだろう。その点、豆は安い。満足いかなくても、この程度の御代ならば摘むのも一興と思ったのかもしれない。  その推測を口にすると、紅塵は顔を顰《しか》めて不機嫌そうな顔つきになった。 「外れだ。……手前《てめえ》、本当に鈍いつーか、馬鹿だよな」 「だ、だって本当に分からないんだから仕方ないだろ!」 「間違えた罰だ。手前が何と言おうとやるぞ」 「えっ、えっ、ちょっと待ってよ! 答えは一体何……ってか、まずいって!」  必死になって叫んだ時、紅塵は互いの額を付き合わせた。  強い意志を秘めた鋭い瞳。ただ見つめられているだけなのに、圧倒的な力に押さえつけられたように畏怖《いふ》にも似た震えが走った。 「……仕事抜きで手前としてぇんだ。手前を抱いて、乱れさせて……」  唇が何度も重ねられる合間、熱っぽい声が囁かれる。どくん、とあの胸を焦がす鼓動が始まり、体中にはがゆい熱が広がった。 「こ、紅塵……ぁっ……」 「何も考えることはねぇ。嫌だと感じなければ、素直に俺の背中に腕を回せばいいんだ」  紅塵は優しい笑みを浮かべながら、豆の体をきつく抱き締めた。柔らかな手付きで背筋を撫でられる。その心地よさにいつしか豆の体から力が抜けていた。 (何で……)  どうしてこの男に抱き締められるとこんなに泣きたくなるのだろう。嬉しいのか、悲しいのか。色んな感情が交じり合ったもどかしい気持ちが、喉につかえて苦しかった。 「うぁっ…ンっ………」  紅塵の顔が鎖骨の上を滑り、胸の突起に歯をかける。金平糖《こんぺいとう》を舐めるように転がされ、陰茎の根元がきゅっと締まった。 「相変わらず細《ほせ》ぇ体だな……。ちゃんと食べてるのか?」 「んっ……ん、食べ、てる……」  男の両手が豆の細い脇腹を掴み、ゆっくりと腰骨へ滑り下りた。それを追いかけるように突起を味わっていた唇が腹へと這い下りた。 「あっ……やだ……ぁっ……!」  下腹を吸う途中、舌先がへその窪みにはまり、胡麻のあるそこを清めるようにくちゅくちゅと舐める音が響く。もどかしい熱が陰茎に籠り、小刻みに腰が跳ねた。 「はぁ、は……、紅塵……俺も……」  相手も気持ち良くさせなければならないと、長年の娼妓癖で男の股間へと手を伸ばす。着物の上からでも分かる大きさにごくりと喉を鳴らした。 「手前は何もしなくていい」  だが、紅塵の手に捕らえられて股間の熱から離されてしまった。豆は戸惑い、困惑した顔を向けた。 「今日は仕事抜きって言ったろ? だから手前はただ素直に感じてろ……」 「やぁっ……ぁ、あっ、ん……」  豆の両膝に手が置かれ、赤ん坊のように足を大きく開かされた。差し込む日の光に股間を照らされ、恥ずかしさから着物を噛む。 「相変わらず可愛いな、手前は……」  ふいに暖かな吐息が股間をくすぐった。急所を覆い隠す下帯を咥えられ、そのまま器用に外される。紅塵は若々しい陰毛の茂みに頬擦りすると、鼻先を陰茎の筋に擦りつけてすんすんと匂いを嗅いだ。 「ちょ、ちょっと、変なとこの匂い嗅ぐなっ!」 「んー? 結構いい匂いだぜ。青臭ぇっつーか、男臭ぇっつーか……」 「わぁぁっ! 馬鹿馬鹿っ……ぁっ……」  じたばたと暴れた足がぴたりと止まった。陰茎を熱い口中に包まれ、濡れた舌が纏《まと》わりつく。紅塵は美味そうに目を細めながら、音を立てて括《くび》れから鈴口をしゃぶった。 「駄目……あっ、出る、でちゃ……ぁあっ、あっ!」 「いいぞ、出して……」  カリ、と鈴口の割れ目に歯を立てられた途端、そそり立っていた陰茎から白濁の液が迸った。男の口中に温かな蜜が溢れ、己自身にもたっぷり絡みつく。紅塵は口に白い蜜を溜めたまま豆の両膝を大きく曲げさせ、陰茎のさらに下へと顔を潜らせた。 「ぁあっ……!」  豆の腰が高く持ち上げられる。紅塵は尻肉を掴み、蕾がよく見えるように割り開きながら唇を寄せた。わずかに花開いたそこに突き出した舌を添え、徳利《とっくり》に酒を注ぐように口中の蜜を流し込んだ。 「こうじ……ぅあっ、ンっ…熱い、よぉ……」  口腔で温められた蜜はまるで媚薬のようだった。普段は排出するだけの内部にとろりとした粘液が入り込み、生き物のように蠢《うごめ》きながら奥に向かって流れていく。爪先から頭まで快楽が走り抜け、体中の血液が沸騰したように熱かった。 「手前のここは何度しても狭ぇからな……。しっかり慣らしておかねぇと切れちまうぜ」 「馬鹿……あっ、ぁあ……っ、んぅっ!」  蜜の溢れた襞の中に、男の骨ばった指先が潜り込んだ。ぬるりとした粘液に濡れた内壁を、ぐちゅぐちゅと音を立てて乱暴に掻き混ぜられる。腹の中をかき回されるような違和感と快楽に、達したばかりの陰茎が再び反り上がった。 「中から濡れてきてるぞ……。お漏らししているみてぇだ……」 「やぁ……あっ……」 「嫌じゃねぇだろう? こんなに美味そうに咥えこんでるくせに……」  下肢の間で卑猥《ひわい》な言葉が囁かれ、熱い息遣いが陰毛を嬲《なぶ》った。注ぎ込まれた蜜が指で掻き混ぜられる度に零れ、尻の割れ目を伝って流れた。 「紅塵……あっ、あぁ……も、もう……」  卑猥な音が響き、股間がぐっしょりと濡れていく。甘美な悦楽に体中が蕩けてしまいそうだった。 「もう……何だ?」 「んっ……頭……おかしくなりそ……あっ、あっ!」  指先で弾くように睾丸を抉《えぐ》られ、ぴくりと腰が大きく跳ねた。堪えきれずに足先を伸ばし、紅塵の股間を探る。男の陰茎はすでに猛々しく勃起していた。 「紅塵……大きい……」  男の熱さに胸が甘く痺れた。恍惚《こうこつ》とした声音で呟き、体を起こして紅塵の下肢に潜り込もうとする。だが、その前に豆の内部から指が乱暴に引き抜かれた。 「ああっ!」 「くそっ……堪《たま》んねぇっ……」  紅塵は押し殺した声で囁き、豆の体を抱き起こした。あぐらをかき、手早く己の小袖の裾を割って、下帯をぐいと押し下げる。豆とは比べものにならないほど存在感のある陰茎が現れ、しとどに濡れた蕾が押し当てられた。 「いくぞ……」 「んっ……」  向い合って座る体勢で腰を掴まれ、ゆっくりと屹立《きつりつ》に向かって下ろされる。熱い固まりが蕾を捲り、体の中に埋められた。 「ひゃっ……あぁっ、あ、いたっ……!」 「力ぬけ……。息をゆっくり吐き出して……そう、いい子だ……」  あまりの圧迫感に顔が歪み、目尻に涙が浮かんだ。紅塵も苦しそうに眉を寄せていたが、豆が落ち着くまで何度も何度も背中を撫でた。優しい愛撫の心地よさに豆の体から力が抜ける。気が付けば男の太い首に腕を回し、肩に噛み付いて自ら腰を振っていた。 「あっ、あぁっ……ンっ! 紅塵……紅塵っ……あっ!」 「豆……俺の、豆……!」  大きな陰茎が内壁を擦る度に、意識が飛んでしまいそうな快楽が襲う。的確に敏感な箇所を突かれ、屹立した自身が引き締まった腹に擦れる。蕾が捻れるように収縮し、男は苦しそうに呻《うめ》いた。 「豆っ……──!」 「あぁ、ンっ……やぁ、あっ、あぁっ……!」  腰を強く抱かれた瞬間、体が貫かれたと思うほど深く突き上げられた。下腹部がどろどろに溶け、溶けた液が快楽となって陰茎の先から迸った。 (紅塵……す……)  豆は荒い呼吸をしながら何かを呟いた。だが、それが形になる前に、豆の意識は白い霧の中に落ちていった。  紅塵は気を失った豆の体を畳の上に横たえた。乱れた小袖を脱がし、裸体の上にかけてやる。豆はぴくりとも動かず、すっかり熟睡しているようだった。 「ったく、俺より若《わけ》ぇ者が先にへばってるんじゃねぇぞ」  くつくつ笑いながら気持ち良く眠る豆の顔を覗き込む。豆を見詰めるその瞳も、涙に濡れた頬を撫でる指先も、蕩けるほどに優しい。 「……睡蘭、か」  紅塵はぽつりと呟き、卓子の上に置いた振袖人形を手に取った。切り揃えられた黒髪は白い肌に映え、切れ長の瞳は濡れたように艶めいている。素人でも高名な人形師の手によるものだと感じられた。 「……馬鹿が。だから余計なことに首を突っ込むなと言ったんだよ」  苦々しげに舌打ちし、人形を睨み付ける。豆が直したと言った通り、首回りに不自然な縫い跡があった。  ──まるで奴みたいだな。脳裏に鮮やかな朱が甦り、紅塵は目を閉じた。首を切られ、この人形のように虚空を見つめていた儚《はかな》い佳人。輝きを失った瞳は硝子玉のように冷たく、涙を浮かべ嘆くことも怒ることもない。 (貴方は冷たい人ですね……)  恨みがましい睡蘭の声が耳に甦《よみがえ》る。紅塵は唇を歪め、せせら笑った。冷たくて結構だ。俺はおせっかいな人間じゃない。俺が守るべき人間は一人で十分なのだ。 「……ん……」  物音を耳にしたのか、豆が小さく身じろいだ。紅塵は目尻を下げて微笑み、体を傾がせて豆の頬に唇を寄せた。 「……豆。手前は俺のものだ」  拒否を許さぬ毅然《きぜん》とした声だった。紅塵は人形を放り投げ、優しい手付きで豆の髪を梳《す》いた。  ──こんな可愛い生き物を、手放してたまるものか。    ◇ ◇ ◇  あの後、つい寝こけてしまった豆は朝帰りになってしまった。  幻月についた途端、一晩中豆を探していたという番頭達に叱られ、亀戸の座敷に呼び出されて初雪に叱られ、落ち込んで大座敷に戻ったところで鴉に叱られた。  以前町で迷って帰れなくなったことがある豆は、道に迷ったのだと嘘をついて誤魔化した。番頭や初雪達はすんなり信じてくれたのだが、付き合いの長い鴉は騙されなかったらしい。 「で、一体どこに泊まってたんだよ」  鴉は仁王のような顔で豆に迫った。豆はその迫力に負け、鴉ならいいかと昨日のことを話し出した。 「睡蘭を抱かなかったぁ? 不能じゃねぇの、あいつ」 「そんなことはないと思うけど……」  睡蘭の紅塵のくだりでは、鴉も豆と同じように驚いた。だが、ふと苦い丸薬でも飲み込んでしまったかのように眉を寄せると、顎を摘んで首を捻った。 「しかしよ、最初から睡蘭を抱く気がなかったんなら、どうして睡蘭を買ったりしたんだ?」 「へ?」 「へ、じゃなくて。抱く気もねぇのに、買ってどうすんだよ。何が目的だったんだ?」  豆は鴉に言われて初めてその疑問に至った。自分もどうしてか知りたい思いで首を捻ると、鴉は呆れて額を押さえた。 「おいおい、聞かなかったのかよ。普通だったら疑問に思うだろう」 「だって……」  頬を赤く染めて口籠もる。疑問に思う前に押し倒されたなどと言えない、と視線を逸らせたのだが、鴉は犬の鼻の如く鋭敏な六感を使い、何か不審なものを感じ取ったらしい。「だって何だよ」と胸倉を掴まれて揺すられれば、素直に白状するしかなかった。 「銭もらわずにしたのかっ、この馬鹿! 御代を払わなくてもやれるって味しめられたらどうすんだっ」 「うわぁぁん、ごめんよう、ごめんよう」  話し終えた途端、鴉は烈火の如く怒った。思い切り蹴りを入れられ、豆は情けない悲鳴を上げながらただひたすら謝った。 「だって、仕方ないじゃんか……。驚いてたし、気持ちよかったし……」 「ったく、客とってねぇから溜まってんだろ。だから簡単に流されちまうんだよ。ほれ、俺が抜いてやるから貸せ!」 「ぎゃーっ、馬鹿鴉! 何すんだよっ」  何を思ったのか、鴉はいきなり豆の小袖の裾を割り、むんずと股間を掴もうとした。さすがに豆も暴れ、二人は取っ組み合って坂を転がる雪球のように座敷を転がった。 「何をやっとるんだ、お前ら」  呆れた声が頭上から降り、豆の背中が誰かの足裏で踏んづけられた。「ぐえ」と潰れた蛙のような声を上げて見上げると、恰幅《かっぷく》のいい番頭が立っていた。 「豆、お前にお客さんだぞ」 「お客? でもまだ昼間だし、今夜も店は休みだろ?」 「お前に話したいことがあるそうだ。仁平って男だが……どうする。会うか?」 「仁平が?」  どうしたんだろう、と首を捻りながら鴉の下から抜け出して立ち上がった。 「また銭無しでやってくんじゃねぇぞっ!」と鴉に怒鳴られ、言うなっと人差し指を唇に当てながら表玄関へと向かった。  格子戸《こうしど》を開けて通りに出ると、仁平は軒先に縮こまるようにして立っていた。 「仁平?」 「あ、豆……」  声をかけると、仁平は安堵《あんど》したような表情を浮かべた。 「どうしたんだ? 今夜はお店休みなんだけど」 「し、知ってる。こ、これを渡しに来たんだ」  仁平は帯に手を突っ込み、小さな巾着袋を取り出した。 「あれ、それ俺の巾着……」 「す、すまん。こ、この間つい返すの忘れちまったから……」 「あっ、そういえば仁平に巾着を見せてそのままだったんだっけ。ありがとう、わざわざ届けてくれて」  すっかり忘れてた、とばつが悪そうな顔で笑む。仁平は豆の手に巾着を乗せると、その手を己の両手で包みこんだ。心なしかその手は小さく震えていた。 「……仁平?」 「ま、豆……。また店が開いたら俺の相手をしてくれないか?」 「え?……あ、うん……」  豆とて客になってくれたら嬉しい。だから懇願しなくともありがたく承知するのに、仁平の顔は怖いほど真剣だった。何故そんな必死な形相で願うのだろう。豆は曖昧《あいまい》に頷きながら不思議そうに目を瞬かせた。 「でも、俺でいいの? 仁平は最高位の娼妓も買えるんだろ?」  蘇芳《すおう》様のことを聞いたと話すと、見る見るうちに仁平の顔から血の気が引いた。  豆は何か不味いことを言っただろうかと慌てたが、仁平は何度も言葉を詰まらせながら激しく首を振った。 「ま、豆……豆……。ち、違うんだ、それは違う。お、俺は睡蘭を抱いていない」 「え……?」 「す、蘇芳様のご好意を無駄にするわけには行かなかったから、睡蘭の座敷には上がった。だ、だけど指一本触ってないんだ」  仁平の目は死に物狂いで無罪を訴える罪人のようだった。何故、と瞠目《どうもく》する豆の耳に、ふいに紅塵の声がよぎった。 (たった一つの奴が住みついちまった奴は、そのただの一人と交わると最高の快楽が味わえるんだ)  もしかしたら、仁平もそうなのだろうか。 「お、俺は……俺は……」  仁平の顔は倒れてしまうのではと思うほど真っ赤になり、よろめくように豆の体を抱き締めた。腕がぶるぶると震えている。豆は病気なのだろうかと心配になった。 「仁平……?」 「お、俺はお前が好きだ」 「は?」  豆は口を開いたまま固まった。頭が真っ白になり、口が利けなくなったのだ。 「だから、お前以外は抱かない。お前しか、抱きたくない」 「す、好きって……だ、だけど、俺……」  ただひたすら戸惑った。仁平のことは嫌いではない……でも。  豆は仁平の顔から目を逸らした。どうしても返すべき言葉が見つからないことが申し訳なくて、いたたまれなかった。 「へ、変なこと言って悪かったな……。けど、本気だから……」  仁平はどこか寂しそうな苦笑を浮かべた。まるで豆の気持ちを全て見通したような笑みだった。 「に、仁平……俺……」 「……そ、それだけを伝えにきたんだ。……そ、それじゃ、仕事があるから帰るな……」  返事を拒絶するように背を向け、仁平は去っていった。残された豆は俯いたまま地面を見つめていた。仁平を傷付けた──自責の念が広がって、胸を締め付けた。 「熱烈だねぇ」 「うわっ!」  突然背後から声をかけられ、豆は心臓が飛び出そうなほど驚いた。ばくばくと暴れる鼓動を抑えながら振り向くと、煙管を咥えた亀戸が格子に寄りかかっていた。 「わ、若旦那っ! 見てたんですか……」 「おーう、ばっちりな。ふる時は言葉を選んで言ってやれよ。気の弱そうな男みたいだしな」 「ふるって、そんな……」 「じゃあ快く承諾するのか?」  意地悪そうな笑みを向けられ、豆は言葉に詰まった。口中に苦いものが広がり「それは……」と口籠もる。 「ま、お前にゃ気を持たせたままはぐらかす、なんて高等技術は無理だろう。素直に返事しておけ」 「でも……」  豆は仁平のことが好きだった。仁平とは違う意味の愛情かもしれないが、それでもあの優しくて気の良い男は豆にとって大事な人だ。できることなら傷付けたくはない。  豆の迷いに気付いたのか、亀戸は白煙とともにため息を漏らした。 「お前は素直で単純で、簡単に人を信じやすい。それは美徳だがなぁ。少しは警戒するってことも覚えろよ」 「仁平をですか?」  何か疑わしいことを言っていただろうかと首を傾げた。だが、亀戸は「んにゃ、違う」と手を振った。 「紅塵の話だ。抱きもしない娼妓を買って、その後睡蘭は殺された。……何か匂わないか?」 「あ、あの話まで聞いてたんですか?」 「あんだけでかい声で騒いでたら、嫌でも聞えるぞぉ?」  内緒話は布団部屋でしておけ、と笑われる。いつも自分の座敷に籠っているくせに、何故か誰よりも娼妓達の内情に詳しいのだ。 「ともかく、紅塵が何らかの目的で睡蘭に近付いたのは事実だ。少し注意した方がいいだろう」 「それだけで疑えって言うんですか? 睡蘭の座敷に上がったのは、きっと何か理由があったんです。紅塵は人殺しなんてするような人じゃないですからっ」  豆は声を荒げて反論した。あまりの気迫に通りすがりの者達が訝《いぶか》しげな表情で振り返った。 「……睡蘭つきの禿、覚えてるか?」  だが、亀戸はのんびりと煙管を吸いながら思いもかけぬことを問いかけた。 「あいつが言ってたぞ。紅塵が睡蘭について色々聞きまわってたってなぁ」 「……色々って?」 「好きな男はいるのか、どんな客が来るのか、とかな。禿も紅塵は睡蘭にほの字なんじゃないかって思ったそうだ」 「そ、そんな、それは……」  きっと世間話だと豆は思った。そう信じたかった。そう思わなければ、何か嫌な疑惑がぞろりと這い上がってくるような気がした。 「……いいか? 花街の娼妓は嘘つきだが、客も嘘つきだ。今度はほいほいくっついていったりするなよ」  睡蘭の二の舞になっても知らんぞ。脅しのような言葉を残し、亀戸はのっそりと店の中に引っ込んでいった。    ◇ ◇ ◇  睡蘭が埋葬された墓は町を一望できる高台の上にある。景観の良さは折り紙つきだが、墓参する人の姿は少ない。墓地へと続く階段があまりにも長く急で、「墓参りが天国参りになる」と冗談めかして言われているからだ。 「うう、やっと上りきった……」  豆は額に滲《にじ》んだ汗を拭いながら、足を止めて眼下に広がる町並みを見渡した。  階段のぼりは地獄だが、開けた眺望は絶景だった。火照《ほて》った体に吹き付ける風も心地よい。菊の花束を抱えなおすと、白木蓮が咲き誇る林道を抜け、墓地の脇に立つ小屋へと向かった。  墓地の管理小屋には、守り人をつとめる老人がのんびりとお茶を啜《すす》っていた。挨拶をすませて手桶と柄杓《ひしゃく》を借り、すぐ近くの井戸へと向かう。菊が萎《しお》れないよう、冷たい井戸水を汲《く》み上げて花束を生けた。 「えーと……どこだっけ……」  豆は辺りを見渡しながら、葬式の時に訪れた睡蘭の墓を探した。墓地には同じような形の墓が並んでいるため、しっかり場所を覚えていないと一つ一つ墓碑銘を確認する羽目になる。豆はうろ覚えの自分を呪いながら、墓地を一周してようやく目当ての墓を見つけた。 (……あれ?)  豆は首を傾げて足を止めた。睡蘭の墓前に大柄な男が屈みこんでいた。手を合わせている所を見ると、墓参りに来たのだろう。男は豆の足音に気付いたのか、ゆっくりとこちらを振り返った。 「おう、豆じゃねぇか。奇遇だな。手前も墓参りか?」 「……紅塵?」  豆の手から手桶が滑り落ちた。紅塵も驚いていたが、豆も呆然としていた。  手桶から零れた水に足を濡らされ、ようやく我に返った。 「紅塵は何でここに……?」 「ん? ああ、一度は座敷に上がらせてもらった仲だ。線香の一本もあげておこうかと思ってな」  紅塵は睡蘭の墓を振り返って苦笑した。墓は綺麗に掃除され、花も生けてあった。この男が済ませたのだろうかと思うと、何だか不思議な気がした。睡蘭に対してつれなかったり、こうして墓参りしたり……。 「……ねぇ。抱くためじゃないなら、どうして睡蘭を買ったんだ?」  気が付けば、ぽろりと言葉が零れていた。昨夜はその事ばかり考えて眠れなかった。もし紅塵が睡蘭の死に何らかの形で関わっているのだとしたら。そう考えたら怖くて震えが止まらなかった。居てもたってもいられなくなって、突き動かされるように睡蘭の墓に向かっていた。睡蘭なら自分が何を怖がっているのか教えてくれる気がした。もう、声を聞かせてくれることはないけれど。  だが、紅塵はそんな豆の気持ちも知らずに冗談めかして笑った。 「そりゃ豆が店でどじしてねぇかなとか、苛められてねぇかなとか聞こうと思って……って、手前、何泣いてんだっ?」  突然目に涙を浮かべた豆に気付き、紅塵は情けないほど慌てた。豆は無性に腹立たしくなった。自分はずっと不安だったのに、この男は全く分かっていないのだ。 「……嘘なんて、聞きたくない……」  子供っぽい怒りだと分かっていても、拗ねるような口調は止められなかった。  紅塵は困り果てたように天を仰いだ。口端に苦笑を浮かべ、豆の頭を胸の中に抱き締める。とくん、と力強い鼓動を感じると、波が引くように苛立たしい気分が消えていった。 (ずるい……)  どうしてこの男はこんな簡単に人の心を落ち着かせることができるのだろう。自分自身にすらできないことなのに。 「……白芙って男は知ってるな?」 「白芙……? ……あっ」  聞きなれない名前だったが、すぐに記憶から転がり出た。確か睡蘭が懸想していたという男の名前だ。 「俺はその男を捜してるんだ。だから睡蘭を買ったのは、その男の話を聞くためだ」 「……どうしてその男を捜してるんだ?」  紅塵は口を開きかけ、言葉を飲み込んだ。精悍《せいかん》な眉を寄せて唇を真一文字に引き締める。豆は紅塵を見上げ、自分には言えないことなのだと悟った。 「……ただ、これだけは信じてくれ。俺は手前に嘘はつかねぇ。今までも、これからも、ずっとだ」  紅塵は豆の肩を強く掴んだ。豆は強すぎる瞳を見詰められず、目を伏せ、返事を躊躇《ためら》った。信じたい……信じたかった。だが、相手は何をしているのか、何を考えているのかも分からない男だ。  豆の心の揺れが顔に出ていたのだろう。紅塵は小さく笑い、子供をあやすような手で豆の髪を優しく梳いた。 「前に聞かれたことがあったな。胸の中に誰か住み着いちまったのかって」 「え? あ、うん……」  突然話が変わり、豆は目を瞬かせた。 「あの時、俺は告白したつもりだったんだぜ? 豆があんまり鈍いから気付かれなかったけどよ。やっぱり手前にゃ、はっきり言わねぇと分からねぇんだな」  豆は何のことか分からず首を傾げた。男はやれやれと呆れたように溜め息を吐き、豆の耳朶に厚い唇を掠めさせた。 「手前が好きだ」  一瞬、何の冗談かと思った。もしくは戯《たわむ》れに告白する事が流行《はや》っているのかと疑った。そうでなければ、仁平に続き紅塵にまで同じ事を言われる訳がない。  だから思わず「はぁ?」と笑い飛ばしたのに、「色気のねぇ返事してんじゃねぇよ」と睨まれた。 「いいか、俺が言ってんのは冗談でも友情の意味での好きでもねぇ。抱き締めて、唇を吸って、この手で愛でて……手前を全部俺のものにするって言ってんだ。分かってんのか、この馬鹿」 「え……ちょ、だっ……えええええ?」  ようやく紅塵が真剣なのだと理解できた途端、頭の中が混乱に陥った。知恵熱を出したかのように顔が熱くなり、あの動悸が始まった。鼓動が一つ打つ度に、ふわりふわりと体が浮いていくようだった。 (な、何だこれ……)  嬉しい。そう感じている自分が不思議でたまらなかった。想いを告げられると困惑するものだと、仁平の時の経験から信じていたから。だが、今はあの時のような戸惑いが全くなかった。豆は急に紅塵の顔を見るのが恥ずかしくなり、ぱっと視線を逸らした。  それなのに、浮かれた気分を貶《おとし》めるような声を思い出したのは何故だったのか。豆が娼妓でなければ、亀戸の言葉を思い出すことなどなかったのだ。 (花街の娼妓は嘘つきだが、客も嘘つきだ)  体を巡った熱が消え、冷たい血流を押し出すような鼓動が胸を打った。何度も首を振る豆の耳に、警戒しろ、と亀戸の声が甦る。 (違う、紅塵は嘘をつくような男じゃ……)  両手で耳を塞ぎたかった。だが、指の隙間をすり抜けて娼妓達の嘲笑《あざわら》う声が聞こえた。  ──しょせん金で買われる汚れた身には、真実など必要ない。娼妓達はいつも唄っているではないか。青楼で囁かれる甘い睦言《むつごと》は灯影《ほかげ》の如し。暁光に消える泡沫《ほうまつ》の偽り。真実はただその身をさらわれた時だけだ、と。 (そうだ……紅塵は……身請《みう》けをしてくれるとは言ってない)  豆の胸に錐《きり》で刺されたような痛みが走った。  例え金がなくとも、待っていてくれという言葉すらないではないか。 「……俺の胸の中にいるのは豆だ。だから、俺は手前には嘘をつかねぇって誓う」  紅塵は豆をきつく抱き締め、熱っぽい吐息を零した。  紅塵の胸に包まれても、鼓動の高鳴りは起こらなかった。豆は生まれて初めて人に抱かれるのが辛いと思った。涙が滲みそうになり、唇を噛み締めて堪えた。 (ずるい……)  紅塵の気持ちが嘘だとわかった途端、自分の気持ちに気付いた。紅塵が人殺しだとしたら、と考えて恐怖していたのではない。そのために捕まって、豆の前からいなくなることが怖かったのだ。 「嬉しい……よ」  豆は錆《さ》びた音が響きそうな、ぎこちない笑みを浮かべた。皮肉だった。客に気をもたせろ、と教えてくれた男に恋心を抱き、その教えをこなすなんて。 (娼妓が誰かを好きになると、娼妓であることが辛くなるんだ。その人以外に触れられる事も、そばに行けないことも、何もかも辛くなる。……その人に、抱かれることさえ)  睡蘭の寂しげな声が甦る。今ならあの言葉の意味が痛いほど分かった。好きな男に偽りの愛を囁かれ、その言葉に傷つき、苛《さいな》まれながらも、甘美な毒のような睦言を求めずにはいられないのだ。  ──いや、もしかしたら男の言葉は嘘ではないのだろうか。ただ、仁平に対する豆の気持ちと、豆に対する仁平の気持ちのように、その重さが異なるだけかもしれない。 「豆……好きだ……」 「紅塵……」  この想いは胸に秘めよう。それが嘘つきな男に対する、せめてもの意地だった。  豆は目を閉じ、男の背に腕を回した。互いの顔が近付き、ゆっくりと二人の唇が重なった。悲しいほど甘い口付けだった。    ◇ ◇ ◇  それから数日たっても幻月の格子座敷に娼妓が並ぶことはなかった。  町では「麗しき幻の花死す」として随分と話題になっているようだ。それを聞いた亀戸は「俺の店も有名になったもんだねぇ」とやさぐれとも感心ともつかぬ声音で呟いていた。  豆としては店の休みが続いているのはありがたかった。紅塵のことも仁平のことも、まだ何の整理もついていない。こんな状態では仕事など手につきそうになかった。 「はぁ……」  布団部屋に入ると、隅の方に腰を下ろして溜め息を零した。今は静かな場所で落ち着いて考えたかった。だが、その願いをあっさり打ち砕くように、勢いよく布団部屋の扉が開いた。 「やーっぱりここにいやがったか」  やはり鴉の声だ。振り返らずにいると、近付いてくるなり、ぽかりと頭を叩かれた。 「あたっ! ちょっ、何すんだよ!」 「うるせぇ! いつまでもグズグズしてるから悪ぃんだろっ」  横暴に言い返され、豆は憮然《ぶぜん》としながらも黙り込んだ。最近の鴉は機嫌が悪かった。豆が塞ぎこんでいることを心配しているのに、決してその理由を話さないからだ。 (だって鴉に話したら怒って諦めろって言いそうだもんなぁ……)  そんなことは容易にできないし、諦めるつもりもなかった。何より娼妓のけじめとして紅塵への想いは胸に秘めようと誓っていた。 「ところで、何か用か?」  また何があったんだと聞きに来たのだろうか。その予測を裏切り、鴉は懐から小さな巾着袋を取り出した。豆が仁平に貰った巾着だ。 「これを届けに来たんだよ。洗濯物の中に混じっていたから、一緒に洗うとこだったって禿が怒ってたぜ」 「あ、ごめん。ありがと」  豆は慌てて巾着を受け取った。危うく大事な頂き物を無くすところだったと息をついた時、廊下の向こうから鴉を呼ぶ声が聞こえた。 「ねぇ、誰か呼んでるよ?」 「ああ、今みんなで睡蘭を殺した奴について話し合ってるんだ。皆の話をまとめりゃ下手人が浮かび上がるんじゃねぇかと思ってよ。豆も来ねぇか?」  鴉は大座敷の方を顎で示した。殺されたのが身内の娼妓ということもあり、睡蘭の死は義憤と好奇心から幻月でも話題になっているのだ。 「ん……ごめん。俺は遠慮しておくよ」  豆は苦笑して首を振った。言葉にすれば朱に染まった睡蘭の姿が甦りそうで、軽々しく話せる気分ではなかった。  鴉も豆の気持ちを察したのだろう。労わるように豆の肩を軽く叩くと、「じゃあな」と軽く手を振って布団部屋から出て行った。  豆は手にした巾着袋に視線を落とし、仁平のことを考えた。どんなに心苦しくても、仁平には亀戸の言う通りはっきりと自分の気持ちを伝えなくてはならない。紅塵と違って誠実な男だからこそ、嘘をついて気を引くような真似はしたくなかった。 「……ん?」  豆はふと巾着を撫でる手を止めた。今、くしゃり、と布とは違う感触がしなかっただろうか。不思議に思いながら巾着を開けてみると、案の定中に小さな紙切れが入っていた。  紙切れには小さな文字で何か書かれていた。癖のある右上がりの文字は、間違いなく仁平の筆跡だ。 「えと……十六夜の子刻《ねのこく》、烏金《うこん》神社に来られたし……?」  読み上げている途中、はたっと気がついた。十六夜とは今夜ではなかったか。しかも先ほど子刻を知らせる太鼓の音が四つなったばかりだ。丁度今が約束の刻限なのだ。  豆は慌てて立ち上がり、急かされるように部屋を出て行った。何故わざわざ巾着に書き付けを残したのか疑問に思ったが、ともかく仁平に待ちぼうけを食わせるわけにはいかなかった。それに、直接会ってこの紙切れの訳を聞けばいい。  豆は番頭に気付かれぬよう注意をして店を抜けだし、真っ直ぐ朱鳥《しゅちょう》橋へと向かった。鐘淨通りへ向かう道とは逆に川沿いを左に折れ、町の南へと走る。月明かりが照らす道に人気はなく、虫の声だけが闇に響いていた。  しばらく真っ直ぐの道を走り、細い砂利が敷き詰められた坂をのぼると、烏金神社の前に出た。巨人のように聳《そび》え立つ鳥居の下をくぐり、参道を歩いて本殿へと向かう。足音を響かせながら境内を歩き回ったが、どこにも人の姿はなかった。 「おかしいなぁ……」  仁平のことだから悪戯とは考えにくい。となると、何か急用ができたか、豆が遅いために帰ってしまったのだろうか。  溜め息を零し、御神木の下で立ち止まった。冷えた夜風がさわさわと枝葉を揺らしている。豆はふっと顔を上げた。葉音に混じり、遠くで草を踏む音が聞こえた気がした。 「……仁平? いるのか?」  暗闇に向かって声をかけたが、返事はなかった。野良猫か野良犬だろうか。豆は首を傾げながらも本殿の裏手に回った。  そこは小さな杉林になっていた。月の光も届かぬ木陰は澱《おり》のように闇が淀み、不気味な静けさが漂っている。 (ん……?)  凝固した闇に目を凝《こ》らしていると、突然闇が意思を持ってゆらりと揺れた。豆は飛び上がり、体を引いた。大きな影が転がり出てきたのだ。  影は男の姿をしていた。胸に何かを抱えるような格好で蹲《うずくま》り、息を切らして肩を大きく上下させている。喧嘩でもしたのか小袖は大きく乱れ、額からは血が滲んでいた。 「あの……大丈夫ですか?」  豆は怯えながらも怪我の具合が心配になった。男は息を整えてから小さく頷いて顔を上げた。 「あっ…………に、仁平っ!」  それは仁平だった。豆は仁平並にどもりながら、慌てて傍らに膝をついた。 「何で怪我なんか……。ああ、そんな事より、早く医者に行かなきゃ」 「ま、豆……逃げよう……」 「うん、医者の所に逃げて……え、逃げ?」 「か、金はある……。だから、逃げよう」  仁平は抱えていた風呂敷包みを掲げた。豆は全く取り合うつもりはなかったが、風呂敷包みから覗き見えたものにぎょっと目を見開いた。  それは紛れもなく金貨だった。仁平の言う「金」が風呂敷包みを指すならば、一体どれほどの大金を抱えているのだろう。 「た、頼む。お願いだ、俺と来てくれ……」  仁平の顔は鬼気迫っていた。返事を返す間もなく困惑する豆の手を掴み、普段の小心が嘘のような強引さで歩き出した。 (ど、どうしよう……)  豆は無下に振り払うことも出来ず、引き摺られるように付いていった。ともかく、一旦仁平を落ち着かせない事には話も出来ない。そのためにはしばらく仁平の好きなようにさせ、時間を置いた方がいいだろう。  だが、豆のそんな考えはすぐに必要なくなった。突然仁平の足が止まったのだ。 「……仁平?」  豆の腕を掴む手が震えていた。不思議に思い、仁平の視線を追う。先ほどは誰もいなかった御神木の下に、いつ現れたのか三人の男が立っていた。 「みーぃつけたぜ、仁平ちゃーん」  馴れ馴れしげな声をかけて近付いてきたのは、一番真ん中に立っていた吊り目の男だ。腰に刀を差し、品のいい身なりをした様相は育ちの良さを窺わせたが、斜《はす》に構えたような笑みが品格を損ねていた。  その両脇に控えている男達は用心棒だろうか。逞しい体躯に獰猛《どうもう》な雰囲気を隠そうともしない悪相は、ならず者か極道者を思わせた。 「はぁ? お前が金を作って身請けしてぇってのは、こんな小便臭ぇガキだったのか」  吊り目の男は不躾《ぶしつけ》に豆の顔を眺め回し、あからさまに嘲笑した。  豆は怒るのも忘れて呆然としていた。この男は何者で、何を言っているのか。一体何から確かめたらいいのか、吊り目と仁平を交互に見つめることしか出来なかった。 「まったく、やってくれるなぁ? 阿片の密売の片棒担いだ上に、その売上金をかっぱらうとはよ。お前がそんな悪党だったとは、さすがの俺も見抜けなかったぜ」 「白芙様っ!」  仁平は男の声を遮るように叫んだ。その名を耳にした豆は、裂けんばかりに開かれた瞳で吊り目を見据えた。白芙とは睡蘭が懸想をしていた男の名前ではなかったか。それに悪党とは一体何のことだ。気が付けば豆の意識は思考することを放棄し、急き立てるように叫んでいた。 「へ、変なこと言うなよっ。仁平がそんなことするわけないじゃないか!」 「何だ、お前何も知らねぇのか。そいつはな、お前を身請けするために金が欲しかったんだとよ」  白芙は面白くて仕方ない、というように唇を歪めた。豆がどんな顔をするのか楽しんでいるのだろう。だが、豆は取り乱すこともなく、ただ間抜けな顔をしていた。あまりに突拍子のない話で冗談としか思えなかったのだ。 「な、何言って……そんなの嘘に決まってるじゃんか……」  同意を求めるように仁平を振り返る。だが、返事はなかった。仁平は唇を噛み締め、苦渋《くじゅう》に満ちた顔を俯かせた。 「おい」  白芙は両脇の男達に声をかけた。彼らは無言で頷き、大股で豆達の方に歩み寄った。片方の男が風呂敷包みを奪い、もう一人の男は仁平の肩を掴んで白芙の方に向かって押しやる。軽々とした動作に見えたが、仁平の体は吹っ飛ばされ、白芙の足元に転がった。 「ったくよぉ。好きな娼妓と大金を奪って愛の逃避行ってわけかい。馬鹿なこと考えやがったなぁ、仁平?」  白芙は汚物でも見るような目付きで仁平を見下ろした。足を振り上げ、爪先で鳩尾《みぞおち》を蹴り上げる。「あぐっ!」と仁平の苦しげな呻き声が響いた。 「何すんだよ! やめろっ!」  豆は眦《まなじり》を吊り上げ仁平の元へ走ろうとしたが、男の一人にあっさり捕らえられた。身を捩り、男の腕に歯を立て、必死に暴れても男の力は全く緩まなかった。 「お、俺は怖かったんだ……」  仁平は瘧《おこり》にかかったように肩を震わせていた。今にも剥がれそうな掠れた声だった。 「あ、あんたが睡蘭を殺すから……だから、もうこんなことから抜けたかったんだっ!」  叫び声の余韻が闇の中に消えた。だが、豆の頭では何度も仁平の声が繰り返された。その意味が理解できるまで、何度も。 「仕方ねぇだろう? あの野郎、人形を隠しておきながらどこにいったか知らねぇなんて言い張りやがって」 「す、睡蘭は何も知らなかったんだぞっ! 何も関係ない人を、よくもそんな……!」 「そりゃ阿片のことは話してなかったが、薄々感づいてたみてぇだぜ。危ないことは止めてくれなんて喚《わめ》いてたしな。あんまり鬱陶《うっとう》しいんで、つい刀を抜いちまったんだよ」  白芙は悪びれた風もなく言い放った。まるで拗ねた子供のような口調が血生臭い言葉と結びつかず、豆は酷い違和感を覚えた。 「……あ、あんたが睡蘭を殺したの……?」 「ああ、そうだ」  それがどうした、と言わんばかりだった。その途端、豆のはらわたがカッと熱くなった。 「何てことを……睡蘭はあんたの事が好きだったんだぞ!」 「はっ、たかが娼妓だぜ? 金を払えば誰にでも足を開くような奴の言うことなんて聞いてられるかよ」 「娼妓だって人を好きになるんだ! それがどんなに辛いことか分かるかよっ!」  体中の血が沸騰し、拳がぶるぶると震えた。腹が立った。それ以上に悲しかった。睡蘭の想いが全く届いていなかったことも、睡蘭がこんなくだらない男に殺されたことも、何もかも。 「笑わせてくれるなぁ。金で体を売っといて、人に偉そうに説教できる身か?」  だが、白芙は軽く嘲笑した。 「なぁ、仁平。このガキだってしょせんは娼妓なんだぜ? それをよぉく分からせてやるよ」  何を、と仁平の顔が緊張して強張った。白芙は厭《いや》らしく唇を歪め、満足そうに嘲笑を深めると、ただ一言放った。 「犯せ」  男達が素早く動いた。白芙を睨みつけていた豆は、彼らに腕をとられるまで何が起こったか分からなかった。視界がひっくり返り、背中に固い砂利を感じて初めて地面に押し倒されたのだと知った。 「や、やめろ!」  帯が剥ぎ取られ、着物の裾から男の無骨な手が潜りこんでくる。乱暴に乳首を抓られた瞬間、体中に鳥肌が立った。 「やだ、やだって! やめろよっ」  必死に振り払おうとした四肢は男達の手によって押さえられ、びくともしなかった。  残虐な笑みを湛《たた》えた男達の顔が迫り、ぎらぎらと光る視線が舐めるように豆の体を滑る。男達の欲望に満ちた瞳など慣れているはずなのに、恐怖と不快さが胸に込み上げて堪らなかった。 「じたばた暴れてんじゃねぇよ。いつも男相手に股をおっぴろげてんだろうが」 「誰があんたみたいな醜男《ぶおとこ》……!」  言い切る前に、男の分厚い掌が頬に飛んできた。ぐわんと頭が揺れ、目の裏に火花が散った。頬が燃えるように熱い。口の中が切れたのか、不快な錆《さび》の味が広がった。遠くで仁平が叫んでいる。耳がわんわん唸《うな》って聞き取りづらい……。 (ああ、あれは……)朦朧《もうろう》とする意識の奥で、ゆぅらりと白い影が揺れた。首を切られ、血溜まりの中に倒れていた睡蘭──(俺、このまま死……)傷口の肉を曝《さら》し、湧き水のように血を流しながら、冷艶な微笑みを浮かべ手招きをしている佳人──。 (嫌だ、死にたくない……)  豆は必死に首を振り、妄想を振り払った。まだ死にたくないし、死ぬ訳にはいかないのだ。豆は息を求め、大きく口を開いた。その途端、待ち構えていたかのように男の太い陰茎が口中に突っ込まれた。泥臭い匂いが鼻に抜け、気持ち悪さに吐き気が込み上げた。 「やっ、んっ……」  陰茎を押し返そうとするが舌が逆に愛撫になったのか、男達の息がますます荒くなった。股間に手が滑り込み、下帯が取り払われる。蕾に無骨な指が押し当てられ、無理矢理に入口を広げられた。 「ひっ……」  痛みに呻き、きつく閉じていた目を開いた。顔を逸らして膨張した陰茎を吐き出しても、四肢は鬼のような力で掴まれている。  だが、彼らの動きは突然止まった。まるで影を縫いとめられたかのように。 「汚い手でそいつに触るんじゃねぇよ。それとも切り落としてほしいのか?」  天から下された神託のように、重々しい声が響いた。  豆は顔だけを上げ、声のした方に視線を向けた。辺りを包んでいた闇は、今はもうどこにもなかった。豆達の他に猫の子一匹いなかった境内には、いつのまにか幾つもの提灯が垣根のように並んでいた。  白芙や仁平、やくざ者達の狐に抓まれたような顔も、提灯の灯りによって白々と照らされている。まるで舞台の一幕と、それを観劇する客達のようだ。 「な、何だ、てめぇら!」  一番先に我に返った白芙は、歯軋りしながら提灯の群れを睨み付けた。  豆は彼らの答えを聞かずとも正体が分かっていた。彼らの持つ提灯には、太い筆で「御用提灯」と書かれている。つまり、彼らは護警所の者達だ。 「見て分からねぇか? 天網恢々《てんもうかいかい》疎《そ》にして漏《も》らさず、正義の味方って奴だよ」  先ほどの低い声が答え、男が一人提灯の垣根から前に出た。その顔が淡い光に照らし出され、豆は思わず息を呑んだ。 「ふ、ふざけるなっ!」 「ふざけてねぇよ。……俺は護警所|護符預所《ごふあずかりしょ》、紅野塵将《こうのじんしょう》。紀白芙《きのはくふ》、阿片密売容疑で引っ捕らえる」  男は皮肉っぽく唇を歪めた。  護符預所とは主に重大犯罪事件の調査を指揮する要職のことだ。家柄、実力ともに備わる者にのみ任命され、藩侯の象徴である護符を授付される名誉な職だと聞く。当然、豆のような娼妓には顔を拝める方ではない。  だが、腕を組んで仁王立ちしているあの男の表情、こ憎たらしい顔を見間違うはずがなかった。 「紅塵……」  気付けば、無意識に口中で呟いていた。その声が聞こえたはずはないだろうが、紅塵は豆に顔を向けた。怖いほどに厳しかった顔が、ふいにおどけた笑みに変わる。だが、それも一瞬のことだった。 「よくもまぁやってくれたよ。貴族の穀潰《ごくつぶ》しどもが阿片密売の主犯だとは、思いもよらなかったぜ」 「はっ……。何のことだか分からんな」  白芙はふてぶてしく鼻で笑ったが、その顔は心なしか引き攣っていた。 「これを覚えてるか?」  紅塵は脇に抱えていた物を白芙の足元へ放り投げた。反物の切れのように見えたそれは、端から小さな手足が覗いていた。どこかで見た気がするのに、それが睡蘭の人形だと知るのが遅れたのは、あるはずの頭部が消えていたからだ。 「忘れるわけがねぇよなぁ? いつもこの中に阿片の取引場所が書かれた紙が入ってたんだ。今夜の取引場所も汚ぇ字で書いてあったぜ? 今夜はお前の代わりに俺の手下を向かわせたから、今頃お縄にかかってるだろう」  白芙の顔が暗がりでもはっきりと分かるほどに青ざめた。紅塵はちんぴらのようにへらへらと笑いながら、蹲ったままの仁平に視線を向けた。 「しかし考えたもんだな。お前は睡蘭の座敷にあがり、指令を書いた紙を人形に隠しておく。その後、登楼してきた仁平がその指示通り動いて阿片密輸組織と接触し、その結果を同様に睡蘭の座敷に潜ませる。そうやって手前は姿を見せることなく裏で手を引いていたんだ。お陰で手前にいきつくまでに時間がかかっちまったよ。平民の簪職人、娼妓、貴族が絡んでるなんて想像もしなかったからな」  意識がないのか、仁平は事切れたようにぴくりとも動かない。白芙は癇癪《かんしゃく》を起こした子供のように顔を歪め、胸元を掻《か》き毟《むし》りながら叫んだ。 「お、俺は知らねぇ!」 「坊ちゃんよ、往生際が悪ぃぜ。ひっ捕まえた奴の口を割らせれば、今回の黒幕の正体はすぐにあがるんだ」  紅塵の顔から笑みが消えた。獣のように双眸を鋭く細め、くい、と顎を上げる。それが号令だったのか、背後の護警官達は兵隊のように足を揃えて踏み出した。 「糞がぁっ!」  憤怒の怒号が放たれ、豆の体は急に放り出された。豆を拘束していた男達が盲滅法《めくらめっぽう》に走り出し、護警官達も一斉に動く。御用提灯が人魂のように暗闇の中を乱れ飛び、無数の足音が地面を乱打した。  辺りはまるで戦場だった。豆は蹴飛ばされぬよう後退ったが、何者かにぐいと腕を引っ張られた。乱暴に体を起こされ、振り返るより早く太い腕が胸に回される。誰かが助け起こしてくれたのだ。ほっと安心したのも束の間、首筋にひやりと冷たい物が押し当てられた。固い紙のような鋭さを感じ、恐る恐る視線を下に向けた。淡い月光が反射し、心の臓がきゅっと縮み上がる。それは刃物の煌きだった。 「動くなっ!」  頭のすぐ上で白芙の叫び声が飛んだ。相当興奮しているのだろう、荒い鼻息が豆の髪を掠めた。手元が震える度に、突きつけられた刃が首筋を撫でる。豆の息は詰まり、喉仏が引っ込むように縮み上がった。 「動くとこいつを殺すっ……」  護警官達が距離を取って豆と白芙の周りを取り囲む。張り詰めた緊張が一同の顔を引き攣らせ、提灯の灯火に顔の皺がくっきりと浮かんだ。 「手前……っ」  紅塵は白芙の正面に立ち、阿修羅《あしゅら》のごとき形相で睥睨《へいげい》した。  射るような眼光に怯んだのか、刀を持つ白芙の手元が揺れた。ちり、と豆の首筋に鋭い痛みが走り、背筋に冷や汗が流れ落ちる。否応にも己の死を覚悟し、堪らなく恐ろしかった。先ほど消え去った死の恐怖が白芙という体で現れ、豆の背中に張り付いていた。死んでしまえば全て消えてしまうのだ。胸に秘めた、この想いも。  救いを求めるように紅塵を見た。目が合った。まるで落ち行く豆の手を、力強く引き上げてくれるように。 「紅塵……こうじ……助けて!」  今思えば、誰かに助けを請い叫んだのはその時が初めてだった。  だが、その願いは獣のような咆哮《ほうこう》に掻き消された。頭上で白芙が叫んでいる。はっとして足元に視線を走らせると、白芙の足の甲に簪が突き立てられ、肉を貫通し、深々と地面に縫い付けられていた。 「豆、逃げろ……!」  地面を這い、簪を握り締めたまま、仁平は顔を上げて叫んだ。 「この野郎っ……!」  白芙の手首が翻り、仁平の背中めがけて刃が振り下ろされた。冷酷な刃が煌く。肉を絶つ鈍い音が耳を突き抜けた。 「仁平っ!」  豆の叫びとともに紅塵が駆け、白芙が振り返るより早く、その顔に拳を叩きつけた。倒れた白芙を取り押さえようと、待ち構えていた護警官達が飛びかかる。豆は捕り物劇に脇目もふらず、もつれるように仁平の元へ駆け寄った。  うつ伏せに倒れていた仁平の肩に手をかけ、仰向けにさせる。傷を確かめ、喉が「ひっ」と引き攣った。仁平の胸元は墨汁をぶちまけられたように赤黒く汚れていた。 「仁平っ、仁平!」  叫ぶ声は掠れ、嗚咽《おえつ》が混じっていた。 「……豆……大丈夫……か?」 「俺は大丈夫だよ。だから喋るな!」  豆は袖を切り裂き、傷口に布を当てた。だが、すぐに赤黒い染みが滲み、染色されたように赤くなる。それが流れ落ちる仁平の命のようで、焦燥と絶望が豆の鼓動を急きたてた。 「豆、大丈夫かっ」  だから、駆け寄ってきてくれた紅塵を見た瞬間、豆は不覚にも安心して泣き出しそうになった。  仁平は豆の顔の変化をじっと見守っていた。いつか見た寂しげな笑みを浮かべ、豆の手を握り締めた。 「……豆には、好きな奴がいるんだな……」 「え……?」  思いもかけぬ問いに、豆はつい紅塵を振り返った。それが答えだと知ったのだろう。仁平はゆっくりと豆の手を離した。 「ち、違う。好きじゃない、好きじゃないよ」  豆は必死に首を振った。「俺が好きなのは……っ」と言葉を紡ぐ唇に、仁平の指先が触れた。それ以上言うな、と伝えるように。 「仁平……」  仁平の顔には苦痛も恨みもない。ただ穏やかに微笑んでいた。  だから体が冷たくなっても、仁平の命が消えたのだと信じたくなかった。 「豆……」  労わるような腕に引き寄せられ、強く抱擁された。胸が痛かった。豆にこの広い背中に腕を回す資格はない。それなのに、優しい手が触れてくれると知って、涙が止まらなかった。  紅塵が指示したのか、護警官達は仁平の亡骸《なきがら》を抱き上げ、境内から去っていった。  先ほどまでの喧騒《けんそう》が嘘のように辺りは静まり返っている。冷え切った体は根を下ろしたように動かない。紅塵は片時も豆を離さず、胸の中に包み込んでいた。  どのくらいの間放心していたのだろう。気が付けば、豆は宿の一室にいた。  暗い部屋の隅で行灯《あんどん》の明かりが揺らめいている。恐らく紅塵に連れてこられたのだろうが、何も覚えていない。豆は紅塵に抱かれたまま、ただ己の両手を見つめた。 「……あいつが好きだったのか?」  耳元で囁かれる抑揚のない声。豆は頭の重みによって俯くように頷いた。 「好きだったよ。優しくて、暖かくて……」  まるで兄のようだった。朴訥《ぼくとつ》で世辞や駆け引きではなく、いつも心から豆を気遣ってくれた。  そんな優しい人が死んだ。全部自分のせいだ。痛覚の切れた心に仁平の穏やかな顔が浮かび、縋り付いて謝りたかった。何故身請けしようなどと考えたのだと責めたかった。  渦巻く思いは止めようがなく、だから豆は背中越しの紅塵がどんな顔をしているかなど気付かなかった。  突然畳の上に押し倒された。その上に紅塵が覆い被さり、豆の衿を乱暴にはだけた。 「こ、紅塵……?」 「……手前を抱く」  何を、と問う間もなかった。細い肩を噛まれ鋭い痛みが走る。骨ばった大きな手が豆の肌を這い、引き千切るように着物を乱した。下着も引き抜かれて下半身が露《あらわ》になる。こんな乱暴な愛撫は初めてだった。 「や、やめろっ、こんな時にしたくない!」 「うるせぇ!」  紅塵は激しく一喝した。硬直した豆の両足を広げさせ、曝《さら》した蕾に人差し指を差し込む。乾いた指は労わりなく中を広げ、激しい摩擦を生んだ。 「俺が好きじゃないだと……?」  耳元で何か囁かれたが、苦痛に呻いていた豆には届かなかった。ようやく指を引き抜かれ、開放感から力が抜ける。その隙を狙ったように怒張した陰茎が押し当てられた。 「うああっ……!」  暴れる豆に構わず異物はゆっくり侵入し、根元まで埋め込まれる。豆は満足に呼吸すら出来ず、濡れた瞳で紅塵を睨みつけた。 「……何、で……こんな……!」 「こういう形でしか手に入らねぇなら、そうするしかねぇだろうが」  紅塵は自嘲的に唇を歪めた。 「それとも、仁平みてぇに命をかけりゃ手前は俺のものになるか?」 「やめろよ!」  それなら喜んで命かけてやる。そう続いた言葉は豆の叫びに掻き消された。 「……冗談でも、そんな事言うな……っ」  堪えていた涙が零れ落ちると、もう止まらなかった。声を上げて泣いた。誰かが死ぬところなど、二度と見たくなかった。仁平や睡蘭のように紅塵が死んでしまうなど、想像しただけで手足が震え、豆は縋りつくように紅塵の肩を抱いた。 「もうやだ……やだ、よ……。お願いだから、どこにも行かないで……」 「豆……」  泣き出した豆に困惑し、冷静さを取り戻したのか、紅塵はゆっくりと身体を起こして豆の中から離れた。  時折咳き込みながらしゃくりあげる背中を、男の手が労わるように撫でる。わずかな震動が無理な挿入で痛んだ箇所に響き、小さな呻き声が漏れた。 「……辛い思いをさせちまったな」  紅塵は詫びるように囁き、豆の涙を優しく拭った。  豆は鼻を啜りながら涙で汚れた顔を上げた。男の双眸が今宵初めて柔らかく細められた。 「もう泣くな。俺はどこにも行かねぇから」 「けど、だって」 「手前には嘘はつかねぇって言ったろ?」  どれほど真摯に言われても、豆は何度も首を振った。素直に信じることはできなかった。あんまり泣きすぎて変に意地になっていた。 「……怖がるな。心配することなんて何もねぇよ」  紅塵は聞き分けのない子供を見守るように苦笑し、豆を強く抱き締めた。  互いの皮膚を通して伝わってくる、確かな鼓動と温もり。  目を閉じて広い胸に顔を埋めても、一向に不安は消えなかった。だが、例え紅塵自身が偽っても、これだけが触れ合っていると信じられる唯一の証なのだと思った。 「……俺はずっと傍にいる」  紅塵の体が再び重なった。  先ほどの傍若無人な動きとは異なり、反応を探りながらゆっくりと侵入してくる。柔らかい突き上げが始まると、燻《くすぶ》っていた鈍痛の底に快楽が灯り、炭火のようにじわじわと広がった。 「紅塵……あっ、あ……、んっ……!」 「豆……っ……」  荒々しい口付けが顔中に降りかかった。豆はもどかしく紅塵の顔を捕らえると、自分から唇を重ねて舌を絡めた。 (……豆には、好きな奴がいるんだな……)  頭の隅から仁平の最後の言葉が聞こえてくる。罪悪感で胸が苦しい。だが、紅塵から離れることはできなかった。  仁平や睡蘭のように、死は無慈悲に紅塵を奪い去るかもしれない。それは明日か、明後日か。身近な者の二つの死は、豆に予言のような不安を植え付けた。誰にも先など見えぬ。豆には何の力もない。だから紅塵に抱きついていなければ、恐ろしくて立つことすらできないような気がした。 (仁平、ごめんなさい……)  豆は強く目を閉じた。どうしても紅塵が好きなのだ。例え紅塵が豆を愛していなくても。 「ひっ、あぁっ!」  急に律動が早まり、男の欲望が豆の最奥を貫いた。豆はもっと乱暴に激しく抱いてほしいとねだるように腰を振った。誘いに応え、荒々しい愛撫が豆の身体を舐め回した。 「豆……っ、……豆……」 「ふっ……ぁ、ンっ……」  紅塵の背に腕を回し、汗ばんだ肌を撫でる。広い背中にうまく手が回らず、流動する逞しい筋肉に強く爪を立てた。 「あっ……だめ……いっ、く……あぁ!」  激しく突き上げられ、瞼の裏で白光が瞬いた。男を咥えていた内壁に自然と強張り、濡れた音を立てた。 「あ…………」  絶頂を迎えた時、耳元でごうごうと吹き荒れる嵐を聞いた気がした。耳朶に押し当てられた唇から漏れる吐息だ。それが繰り返し囁かれている言葉だと気付く前に、豆は意識を失った。 「好きだ……俺の、豆……」    ◇ ◇ ◇  初雪は己の部屋で亀戸に膝枕をしながら、紅塵から聞いたあらましを語り終えた。亀戸は煙管を口に咥え、溜め息と一緒に紫煙を吐き出した。 「そうか……。仁平が死んだかぁ」 「豆がとても落ち込んでいました。見ていて可哀相なくらいですよ」  いつも前向きな豆でも、仁平の死は深い傷となったようだった。鴉が悪態のような言葉で励ましているが、座敷に籠って泣き続けているという。 「しかし、どうして仁平みてぇなただの簪職人が、お貴族様の白芙と接触できたんだ?」 「白芙が連絡役として都合の良さそうな客を睡蘭に探させていたそうです。睡蘭の客の中では唯一の平民で、豆の身請けのために金を必要としていた仁平はうってつけの人物だったのでしょう」  しかも腕のいい簪職人ならば、貴族の館から平民の家まで、どこに出入りしても疑いの目は向けられない。実際、そのために紅塵達も黒幕の目星をつける事に苦労したのだ。 「豆のこと、どうします?」 「そうだなぁ……。あれじゃ使い物にならんし、そろそろ追い出すか。売れねぇ娼妓をいつまでも置いておけんし……んごふっ!」  亀戸が呟いた途端、初雪は亀戸が咥えていた煙管の先端を叩いた。吸い口が喉を押し上げ、吐きそうなほどむせ上がる。 「げふっ、がふっ、ごふっ! ……お、お前……俺を殺す気か?」 「冗談が過ぎるからですよ。間違ってもそんな伝え方しないで下さい。近頃は客がつかないと真剣に悩んでいたみたいですから、簡単に信じてしまいますよ」  初雪は冷たい目で亀戸を見下ろした。亀戸は煙管を口から離し、喉を摩りながら「へいへい」と肩を竦めた。 「あいつだったらころっと信じるだろうなぁ。ガキの頃から娼館暮らしのくせに、どうしてああも単純になっちまったかね」 「私の教育が良かったのでしょう」 「……同じようにお前が育てた鴉は随分捻くれたぞ?」  さらっと言ってのけた初雪を見上げ、突っ込みを入れる。「それはともかく」と初雪は表情も変えず誤魔化した。 「紅塵殿が護警所の者だと知っていたくせに、あの方を疑えと豆に言ったでしょう。あまりあの子を苛めないでください」 「少しぐらい突っついた方がいいんだよ。豆はとことん鈍いからなぁ。自分の気持ちにも気付いてないんだぞ?」  紅塵に惚れている事は間違いないと言うのに、一人どつぼに嵌《はま》って悩んでいるのだから阿呆らしい、と紫煙を吐き出した。 「自分がもう身請けされていたなんて聞いたら、どんな顔するでしょうね」  初雪は鈴が転がるような声で笑った。  豆は信じていなかったが、「手前は俺のものだ」という紅塵の言葉は事実だった。紅塵は亀戸に豆の身請けを申し出ており、御代もすでに支払われていたのである。 「それにしても、身請けの手続きが済んだのにしばらく幻月で預かってくれ、なんて頼まれたのは初めてでしたね」 「図々しい男だよなぁ。俺の店は妾を囲う長屋代わりかってんだ」  亀戸は憮然とした顔でぼやいた。豆の身請け話がまとまった頃、紅塵は町に出回っていた阿片を調べるために奔走していた。囮《おとり》になり、売人に接触し、常に危険な状況に身を置いていたため、豆の引き取りは落ち着くまで待ってほしいと亀戸に頼みこんでいたのだ。 「いくら預かり賃を貰っていたとはいえ、野草の豆じゃなきゃあんな話は承知できなかったがなぁ」  紅塵は他の客が豆を買わぬようにと、毎晩の代金を先に支払い、空の先約を入れさせた。  豆は客がつかないと悩んでいたのだが、実際には仁平も含め、豆を買おうとした客はいたのである。 「私は鴉の方が心配です。豆が出て行くと知ったら、とても寂しがるでしょうから……」 「あいつは怒り狂うだろうなぁ。身請けした後も店で働かせろ、と言いかねんぞ」  鴉と豆は店に入ってきたのも同時期で、年が近いこともあり兄弟のように仲が良かった。周囲からは豆が鴉について回る金魚の糞だと思われていたが、実際は鴉が豆を手放そうとしなかった。 「鴉の気持ちはよく分かります。私も少し寂しいのですよ。貴方だって本当は豆がいなくなったら寂しいのでしょう?」 「そりゃまぁ、馬鹿な子ほど可愛いって言うからなぁ」  亀戸は煙管を咥える口端に苦笑を浮かべた。 「あいつは昔から覚えが悪くて、どじでのろまで……本当にどうしようもなかったよなぁ。娼妓としてやっていけんのかと何度不安に思ったことか……」 「けれど、人間の業が渦巻いているような花街の世界に生きて、すれることなく素直に育ってくれました。それはどんな傑物《けつぶつ》になるより凄いことですよ」  豆の子供のような純粋さは、娼妓を続けていけば徐々に失ってしまうものだ。己自身娼妓として生きてきた初雪とて、あの無垢な魂は羨ましいほど眩しかった。 「結局、豆は根っからの野草だってことだなぁ。こんな窮屈な花瓶に詰め込まれているより、広い大地に根付いてる方がよっぽど似合うってもんだ」  亀戸は初雪の膝に頭を預けたまま、ごろりと横向きになった。開け放した障子から見える中庭は、鮮やかな緑が日の光に包まれて瑞々しく輝いている。あの陽だまりこそ、あの子供には相応しい。あの子は行灯の灯下から抜けだし、紅塵という光の中へ飛び込んでいくのだろう。  まるで娘を嫁にやる父親の気分だ、と亀戸の口元に自嘲の笑みが浮かんだ。 「……どんな綺麗な花に生まれるよりも、根を張れる野草の方が羨ましいですね」  初雪は寂しげに微笑んだ。男娼として、この男の右腕として、ずっと娼妓達の行く末を見守ってきた。多くの花は花瓶の甘い水に浸りすぎ、根付くことなく萎れて枯れていった。豆のように想い想われ、幸せに店を後にした娼妓は数少ない。  だからこそ、せめて豆には幸せになってほしいと願わずにはいられないのだ。 「大丈夫さ、あいつは」  初雪の心を読んだかのように、亀戸はおどけた笑みを浮かべた。 「今は仁平の死を自分の責任だと感じてるみてぇだが、あの男がついてるんだ。これまで以上に豆を甘やかして傷を癒してくれるさ」  豆が嫌だと言っても離す気はないだろう。どちらにせよ単純な豆が口八丁の紅塵に言い包められ、落とされる日はそう遠くないはずだ。 「それより、俺達は可愛い花瓶の中の花達を守ってやらにゃ。せめて散り行くまでは綺麗に咲かせてやらんとな」  体を起こし、初雪の顔を隠す前髪をかき上げた。額から頬にかけて、獣の爪痕のように刻まれた傷が現れる。亀戸は双眸を細めて顔の傷を指先でなぞった。己の花に己がつけた愛しい傷跡だ。 「皆幸せになれるといいですね……」  初雪は祈るように目を閉じた。店を開くまではまだ時間がある。頭の隅でぼんやり思いながら、亀戸の胸に身を寄せた。    ◇ ◇ ◇  それから数刻後のこと、豆は呆然として幻月の前に立っていた。 「な、何で……」  両手に下げているのは二つの大きな風呂敷包み。中には数少ない私物一式と全財産が入っている。つい先ほど番頭に言われ、慌《あわただ》しくまとめたものだった。 「それじゃ、元気でな」 「元気でなって……ど、どういう事ですか!」  豆を外に連れ出した番頭は、ひらひらと手を振って店に戻っていった。  やはりこれは追い出されたという事なのだろうか。それにしたって、こんな時に首にするなんてあんまりだ。 「これからどうしよう……」  溜め息を落とし、幻月の軒下に座り込んだ。もう幻月で働けないならば、とにかく一度実家に帰るしかない。だが、その前に亀戸からきちんと話を聞きたかった。  もしそれで駄目なら諦めて帰ろう。緩んだ鼻を啜《すす》った時、豆の前で籠《かご》が止まった。まだ店は閉まっているから、役人か何かだろうか。膝に顔を埋めたまま、ぼんやりと思った。 「おい。こんな所で寝てんじゃねぇよ」  豆ははっと顔を上げた。一瞬強烈な陽射しに視界を焼かれ、目を細める。白い光が薄らぐと、籠から降りてきた男がいた。  豆の目が大きく見開かれた。それは腰に手を当てて立つ紅塵だった。 「待ちくたびれちまったのか。遅くなって悪かったな」 「え……ちょっ、わっ!」  突然腕を引かれ、荷物と一緒に籠の中に放り込まれた。次いで紅塵も乗り込み、豆が体勢を立て直す頃には籠が出発していた。 「な、何なんだよ、いきなり!」 「何って、亀戸から聞いてねぇのか?」 「……何も聞いてない、けど」  首を振ると、紅塵は呆れて舌打ちした。 「仕方ねぇ奴だな、あいつも」  よく分からないが、これは亀戸の差し金なのだろうか。そう尋ねてみても、紅塵は「もうすぐ着く」と不敵に笑むばかりだった。 (どこ行くんだよ、一体……)  豆は不貞腐《ふてくさ》れてそっぽを向いた。二人乗りの籠とはいえ、大柄な紅塵と豆の荷物のせいで中はとても狭い。自然と紅塵との距離も近くなり、まともに顔が見られなかった。あの事件以来、紅塵に会ったのは今日が初めてなのだ。 「ほれ、降りろ」  息が詰まって窒息してしまうのではと思った頃、ようやく籠が止まった。  紅塵が先に降り、続いて豆も荷を抱えて出る。広い通りを眺めていると、「こっちだ」と呼ばれて振り返った。 「うわ……」  豆は大きく口を開いたまま固まった。  左右に延々と続く高い白塀。重厚で立派な門構え。その奥にそびえる平屋の屋敷は一体どれほどの広さなのか、奥行きが知れない。  こんな立派な屋敷を見るのは初めてで、豆は魂が抜けたように呆然としていた。紅塵に腕を引かれてずるずる連れていかれ、いつのまにか屋敷に上がって奥の一室に通された時、真白だった頭がはっと目覚めた。 「ここって……」 「俺の屋敷だ」 「う、嘘っ!」  すぐには信じられなかった。だが、紅塵は護警所護符預所なのだ。家柄から考えれば当然の屋敷なのかもしれない。 (それじゃあの事件の事で連れてこられたのか……)  ようやく得心がいった。だが、それは紅塵の一言であっさり否定された。 「手前を身請けした」 「あ、そう……。……え!?」  問い返しながら仰《の》け反《ぞ》った。突拍子もない冗談を、と思ったのだ。  紅塵は袖から紙を取り出し、無言のまま突きつけた。小難しい文字がびっしりと並んでいる。豆は穴が開くほどそれを見詰めた。何度読んでも、正真正銘の身請け証明書だった。 「な、何で……」 「言っただろうが。手前が好きだって」  紅塵は「覚えてねぇのか」と怒気を含めて睨みつけた。  ちゃんと覚えているけれど、あの時は甘い夢を見せるだけの残酷な言葉だと思っていたのだ。だから、胸の奥底に沈めこんでその重さだけを感じていたかったのに。 「……本当なのか?」 「ああ」 「本当に本当?」 「そうだって言ってんだろ。いい加減に……」  紅塵の声が途切れた。きっと驚いているのだろう。涙で輪郭がぼやけているから、その表情は見えないけれど。 「本当にいいのかな……」  呟いた途端、声は嗚咽に変わった。嬉しくて胸が痛かった。痛くて、苦しかった。  滲む視界の向こうに幾つもの顔がよぎった。鴉や仲間の娼妓達。黒い血に濡れながら、寂しく微笑んでいた仁平。  胸が潰れそうだった。嬉しくて堪らないのに、その想いが身の内を苛み、涙が溢れて止まらなかった。 「……泣くな」  紅塵は困ったように優しく叱った。無骨な手が伸び、豆の頬を拭った。 「仁平は手前のせいで死んだんじゃねぇ。自分の欲のためにあがいて生きて死んだんだ。あいつはあいつの好きなようにした。それだけだ」 「でも……」 「豆の分際で周りに気兼ねしてんじゃねぇよ。大人はみんな勝手なんだ。ガキはもっと勝手になっていいんだよ」  あまりに無茶苦茶な論理だった。この痛みに背くことができたらどれほど楽になれるだろう。だが、この痛みも痛みの元も捨てることができない。もし勝手を許されるならば、それでもいいのだろうか。  豆はくしゃくしゃに汚れた泣き顔を上げた。野性的な男の瞳が優しく細められる。二人の額がこつんと重なった。 「……好きだ」  唇が重なる瞬間、二人は同じ言葉を囁いた。声は口付けの中に消え、拾い上げるように互いの舌が甘く吸った。  豆は両腕を広げて紅塵を抱きしめた。すぐに紅塵の腕が抱き返してくる。浅ましいほど幸せな抱擁だった。       おわり