永 六輔 芸人その世界 [#表紙(表紙.jpg)] [#ここから4字下げ]   口  上  この本は肩身のせまい、後めたい本である。  なぜならば読みかじり、聞きかじった、芸人、役者のエピソードを並べた、たったそれだけの本だからだ。  しいていうならば、無限にあるエピソードの中から、それを並べることによって僕の考えが浮かびあがらないかと思うことだけが救いである。  エピソードは公表された著作と談話の中からコレクションしたものを中心にしたので、御存知のものもあるだろうし、逆にこんなエピソードもあるぞという欲求不満もおありと思う。  それは又、二冊目にまとめるとして、今回は僕自身の後めたさをテーマにした。  この後めたさは、芸人の素姓、芸能の歴史とは切り離せないもので、日本ではあらゆる芸人が肩身のせまさを克服するために修業を重ね、その結果の芸を伝えてきたのである。  今日のテレビタレントも、この後めたい歴史を認識《ヽヽ》すべきだし、それを支えてきた人達の貧しさと怒りを受けとめなければならない。  芸の修業と上達だけにすべてを賭けて、人並みの生活に這いあがり、河原乞食から人間国宝と呼ばれるようになったのである。  その歴史の中のエピソードを「素晴しい伝説」として読んでいただきたいし、テレビを中心に健全娯楽を目指すことが、果して僕達の「芸」にとって幸福なことなのか、どうかも考えていただきたい。 [#地付き]永 六輔   [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 目 次  口  上  芸人 その奇行  芸人 その噂話  芸人 その下半身  芸人 その言葉  芸人 その環境  芸人 その待遇  芸人 その旦那  芸人 その幕内  芸人 その周辺  芸人 その百年  芸人 その芸談  芸人 その死  参 考 資 料  あ と が き [#改ページ] [#小見出し] 芸人 その奇行         ☆  五代目菊五郎、夫婦げんかの最中に駄目をだした。 「胸ぐらはこうとって、足の形はこうで」  おかみさんが「私は喧嘩をしてるんです。芝居をしてるんじゃありません」といっても 「頼むから言う通りにしてくれ。でないとさまにならねェ」         ☆  四世中村|芝翫《しかん》、世界地図をみていて、 「日本はどこだ」 「ここでございます」と付人、 「べらぼうめ、いい加減なよたを飛ばすな、日本がそんなに小せェわけはねェ」  付人、仕方なくアメリカを指さして、 「ここが日本です」 「そうだろう、そのくらいは無くっちゃならねェ」         ☆  浪曲の木村重松。  自宅の飼猫が粗相をしたとき、弟子に詫び状を代筆させ、猫の名前の下には、猫の足に朱肉をつけて押させた。         ☆  三代目柳家小さん。  葉書をポストにいれに行く途中、魚屋で鮭の切身を買い、その切身の方をポストにいれて帰宅。  葉書を焼こうとして……「しまった!」         ☆  先代吉右ェ門。  大切な葉書はポストにいれてから相手宅に着いた頃をみはからって、無事に着いたかどうかを確かめに使いを出した。         ☆  藤原義江はかつて歌舞伎座の裏方に名前だけ書いた中は空ッポの祝儀袋を渡して「僕は金が無いから本当に気持だけを受けてほしい」といって配ってまわった。         ☆  人形遣い吉田徳蔵は芸がまずいといって、息子を勘当してしまった。  息子、後の吉田玉造は当時十四歳。         ☆  曲芸の春本助次郎。  酔って野次る客を高座から降りていって張り倒してから続きをやったという。         ☆  立川談志でさえ、やくざになぐられた時、その傷が全治十日間ほどのものでも、ヘラヘラ笑っていたという。  彼でも芸人は哀しいと思ったそうだ。         ☆  横目屋助平という芸人。  自分の入れ歯が調子がいいというので愛犬を総入れ歯にしてしまった。         ☆  中村琥珀郎という役者。  芸熱心のあまり、しつっこく、ネチネチといつまでも愚痴をいう。  血糊の色が気にいらなくて床山の小為という男にブツブツ文句の言い通し。  小為たまりかねて小刀を持って来ると自分の二の腕にブスリと刺しこみ切り開いて流れる血をそのままに、 「これでよかったら使って下さい!」         ☆  松本竹五郎という貧しい大部屋役者がいた。  まだ劇場が蝋燭の時代の話。  彼は劇場の蝋燭を集めておいて、浅草馬道の路地裏にある家に帰ると、その路地の両側にズッと並べ立てて灯りをつける。  そのせまい路地を劇場の花道のようにみたてて、路地口にひっ返すと、 「松本竹五郎様お帰りィ!」  と自分で怒鳴りながら家に入った。  そこで又自分で出て来て蝋燭を片づける。  これを毎晩やっていたという。         ☆  熊谷の扮装をして袖にいた先代吉右ェ門に世間話をした男。吉右エ門が返事をしてくれないので、理由をきくと、 「熊谷が返事の出来るわけがない」         ☆ 「いつになく庭に咲く桃無くさみし  心さみしや花とみちしも」  桃を歌った四代目坂東三津五郎の作だが、このままでは愚作でしかない。  この歌を数字で書くと、 「五二七九二八二三九百七九三三四  九六三三四八八七十三千四百」         ☆  九代目団十郎はセリフをおぼえているところを他人にみせなかった。茅ヶ崎の沖に船を出して沖でけい古をしたという。  船頭は耳の遠い男だったそうである。         ☆  七世市川団蔵の趣味について。  彼はお金が入るとそれを全部紙幣にしてしめりを与え、アイロンでピーンと伸ばして蓄めておく。  それだけならなんでもないが、お金が必要になると、そのピーンとした紙幣を質草にしてお金を借りてつかっていた。         ☆  明治の話、中村芝翫は五銭の白銅貨が何より好きで、一番価値があると思いこんでいた。  だから買物でも、料理屋でも、その勘定が五銭以上なのにもかかわらず、五銭を出して 「お釣はいらない」といった。  貰った方も心得て奥さんの方へ勘定をとりにいったという。         ☆  上方に嵐徳三郎という役者がいて「駈け落ち屋」と呼ばれて人気があった。  この人、公演最中にしばしば駈け落ちをして舞台に穴をあけることで人気を集めた。         ☆  元禄十年、坂田藤十郎は江戸の役者中村七三郎の楽屋にとどけもの。  これは七三郎からの土産の礼としてとどけられたのだが、京都の若者が五人で水を一杯にした壺を運んできた。  添状には「加茂川の水一壺進上仕り候」         ☆  ある歌舞伎役者のところに藤山寛美から楽屋見舞いがとどいた。  とどいたのは美しい芸者で、その衿のところに「楽屋見舞い」と、書いてあったという。         ☆  志ん朝がベンツを買う時、志ん生が反対した。 「でも、トウチャン、この車はドイツの大看板《ヽヽヽ》だぜ」 「大看板か……じゃいいや」         ☆  この志ん生、志ん朝が妙なものを持ってるので、 「そいつはなんだい」 「これはガスライターのガスボンベだよ」 「そんな恐いものを持ってちゃいけない。早く庭にほうりだせ!」         ☆  上方の吉村雄輝。  僕はこの人の舞い姿を観てから東京の踊りを観る気がしなくなった。この人、太平洋戦争で召集を受け、入隊する時に、これが最後と白ぬりの振袖姿で営門をくぐり、その場で張り倒された。         ☆  同じく吉村雄輝。注射が大嫌いで、ヨーロッパに行く時にはマネージャーに注射をさせて、反応は自分でみせにいったという。 「何の反応も出ませんでした」  そういうことを真面目にいう人である。  勿論、和服で通したがセーヌ河畔で、ひとさし舞って来たというから、フランス人には気違いにみえたことだろう。         ☆  最後の俄師といわれる一輪亭花咲は八十歳を越して健在だが、かつて何回かの離婚を経験し、三下り半を書いている。  ところが、別れる女房にいい紙をつかうのは勿体ないからと、その離縁状を書いたのが古新聞。         ☆  若手落語家が西武デパートの小鳥売場にいるオームに「トーヨコ」(東横)という言葉をおぼえさせたそうだ。  阪急デパートのオームに「ハンシン」(阪神)と叫ばせても面白い。         ☆  春団治の弟子の一人が洋食を二十四皿は喰えると自慢したのを聞いて「よし、それならおごるから喰ってみせろ」  弟子が十皿ほど喰ってダウンしたら、その場で破門された。  これと同じ話が歌舞伎の方にもある。           ☆  春風亭小柳枝なる人物、千円札に醤油をつけて喰っちゃった。         ☆  曾我廼家五九郎、その苦闘時代にどうしても夜逃げをする羽目になった。  彼は大袈裟に馬車を命じて、家財を積み、近所にはもっと大きな邸にうつるとあいさつをして、少し離れた人通りのないところに古道具屋を待たせ、そこで家財を売り払い、そのまま田舎へひきこもった。         ☆  コント55号が売れッ子だそうで、日曜日のテレビなどでは朝昼晩と顔を出している。  明治末の円遊、談志、円太郎が寄席で人気を集めた頃、夜の間に四軒、五軒をかけもちをする。  寄席と寄席の間は人力車で飛ばすのだが、しまいには寄席の高座を横切るだけで何もしないで次の寄席に行ってしまったという。         ☆  一九六八年のこと東海道線、沼津駅前に桃中軒というビルが建った。  かつて桃中軒の駅弁の包み紙を見て芸名にした芸人が、後の桃中軒雲右ェ門である。         ☆  桃中軒雲右ェ門という人。弟子に溲瓶を持たせて、人前でも平気で小便をした癖のある人。その横紙破りの自信は舞台の横に「拍手喝采御無用!」という紙を貼りだしていたほど。         ☆  二代目楽遊は東京に自動車が三十数台しかないという時に三台の車を持っていたほどの人気を集めた。  この彼の車が一日に三人も轢き殺してこの方でも記録をつくってから人気は転落した。         ☆  昭和三十九年度、文部省芸術祭の授賞式の日。  着かざった受賞者の中に、出席はしたものの、どうにも晴れがましくって、照れ臭いと賞も貰わずに帰ってしまった人達がいる。  浅草木馬館の安来節一座の人達である。  芸人らしくっていい話だ。         ☆ 「アイスキュロス�縛られたプロメテウス�とアテナイ民主政についての一考察」  早大文学部史学科西洋史を卒業した吉永小百合の卒業論文である。  大学を卒業することを奇行というのはあてはまらないだろうが、あえてここに書いたのは、芸人の世界における奇行というのが世間一般の常識では理解出来ないだけで当人達は奇をてらっているのではなく、人間本来のあり方だと信じているからである。  女優が大学に行ったって何の不思議はないし、ましてや卒論を書くのは当然のことなのに、それが吉永小百合だと週刊誌に書きたてられる。  その書き方の精神は奇行と同じにしかみていないのである。  他人の行動が奇行にみえることは、イメージの貧困以外にはない。 [#改ページ] [#小見出し] 芸人 その噂話         ☆  早稲田中退・落第という下手な漫才師がいた。  漫才をやめて、野坂昭如、野末陳平を名乗り、家業にはげんでいる。  立川談志と前田武彦は座談漫才をやって好評だった。  これはお互いのマスコミ人間としての位置をけなしあう面白さだったが、相手の人相、家系の類をけなしあうのは大阪漫才によくある手である。  古い手でも、やりようによっては生れ変るという一例。         ☆  ロイ・ジェームスにはヘソが無い。  ヘソのゴマをとりそこなって化膿し、遂にヘソごと削除してしまったのである。ロイはヘソのあたりにマジックインキで×印をつけて、淋しがっているという。         ☆  ロイ・ジェームス、E・H・エリック、イーデス・ハンソンといった外人タレントの第一号が明治十三年にデビューした快楽亭ブラックというイギリス人。  寄席で人情噺をやったというからヘンな外人!         ☆    ロンドンのスラムに生れ、アメリカで成功して、再びロンドンに帰ったチャップリンのところにきたファンレターは三日間で七万三千通になった。  その三分の一以上が金の無心の手紙。  そして彼は七〇〇人以上の名も聞いたことの無い親戚が増え、あまつさえ九人も母親が現われたのを知る。         ☆  アドルフ・ヒットラー。  チャップリンはこの人を常に意識していた。  何故なら二人とも一八八九年(明治二十二年)の四月生れだからである。  同じ世代! それを感じさせる芸人が日本には少ない。  若者にへつらい、老人にビクビクして何が芸人だ。 「独裁者」のラストシーンの演説を思い出そう。  日本の芸人サン、同じ世代に敵と味方を!         ☆  ひとつの玉子を四人でわける為に、それをゆでて四等分した。  生の玉子は四等分するのに困難だからである。  貧しいあまりの知恵だった。  共産党員イヴ・モンタンの自伝にある。         ☆  ニューヨークでのオーディション風景。  何かやってみろといわれた男が芸をみせると、 「それはボップ・ホープがやっている。他に出来ることは」  男は別の芸をみせる。 「マルクス兄弟がやった芸だ。他には」  男はさらに別の芸をみせる。 「そんな芸はチャップリンが昔からやっているね」  男は汗を流して別の芸をみせる。 「ダニイ・ケイの芸を盗んじゃいけない」  何をやっても真似だといわれるので男はひそかに自分で考えておいた芸を披露した。 「つまらないね。なぜなら、誰もその芸をやってないからね」         ☆  サラ・ベルナールはメニューを読んでも観客を感動させ、涙さえ流させたという伝説があるが、このオードリ・ヘップバーンのような、やせぎすのサラの魅力のひとつが声だったという。  きたえられた声の魅力。日本の芸人に無くなったもののひとつである。  初めてパリからニューヨークに行った時、サラは大群衆に迎えられた。  新聞記者が「最近、ブラジルのペドロ皇帝が来ましたが、これほどの歓迎ではなかった」というと、サラはすまして「だってアチラは|ただの皇帝《ヽヽヽヽヽ》でしょ?」         ☆  六十五歳のサラ・ベルナールが十九歳のジャンヌダルクを演じた時、その裁判の場で、裁判官に年を聞かれたジャンヌが「十九歳」と答えると静かな暖かい拍手が湧きあがったという。         ☆  渥美清とニューヨークにいた時、 「ニューヨークに江戸裁判所があるそうだ」  という情報を持って来た。  国宝的美術品の国外流出の話はよく聞くが建築物までアメリカにあるのかと早速出かけた。 「江戸裁判所」は「エド・サリバン・ショー」だった。         ☆  渥美清から電話があって、 「一寸、おふくろの顔をみにいくんだけど土産に鈴虫の籠でも持っていこうと思うんだ」 それから一寸間があって、 「……おかしいかな」         ☆  ドライブして、大きな川岸に出た大橋巨泉。この川幅はどのくらいあろうという言葉に、車を停めるとトランクからゴルフクラブをとりだし、ボールを置くとスウィング一閃、そのボールの行方をながめて「川幅は二五〇ヤードである」  芸人、このぐらい気障でありたい。         ☆  ビブラフォン奏者で作曲家である平岡精二は草野球で外野を守っていると、ボールがどこへ飛んでも、守備位置から一歩も動かずグラーヴだけは捕球の構えをする。  この珍妙な選手の曾祖父にあたる平岡煕こそ、明治六年日本に野球を紹介した人物である。         ☆  三浦環の自伝には、赤い自転車で音楽学校に通った話があり(明治三十三年)、山田耕筰の自伝にはこの三浦環の自転車をドブの中に落す場面が出てくる。  滝廉太郎の評伝では三浦環に片想いをしている。         ☆  男子用化粧品がよく売れる今日この頃、だが明治の男性でマニキュアまでした洒落男がいる。  その名を滝廉太郎。  彼が「荒城の月」や「箱根八里」を作曲したのは二十二歳の時である。  ついでながら、日本で最初にアイ・シャドウをつけた女性は淡谷のり子。         ☆  山田耕筰は自分の頭がはげたのを淋しく思い、せめて名前にだけでも「ケ」をたそうと「耕作」を「耕筰」にした。  反対に正岡容は「蓉」という名前を屋根の上にペンペン草があるようでいやだからと「容」に改名した。         ☆  藤原義江は新国劇の沢田正二郎の弟子だったが、田谷力三に憧れて歌手になった。  現在「我等のテナー」は声を失ったが、田谷力三の方はいまだにテナーとして美声を聞かせてくれる。         ☆  小学生がただ一人、中国の青島から東京へやって来た。  背負ったランドセルの背中に、東京での宛名が書いてあり、彼はそれを寝る間もはずさなかった。  生きていた小包、中村八大である。         ☆ 「私はハーモニカを演奏して学校をまわり、それで食べていたことがあるんです」  元音楽家だったというのが小沢昭一。         ☆  三橋美智也はかくれた童謡作家であり、彼の作品が小学校の音楽の本に載っているが、昭和十七年の国定教科書に載った「黒竜水原」を書いたのは当時満州の放送局にいた森繁久弥である。         ☆  早稲田大学法学部の掲示板横の通用門の脇に足の不自由な靴の修理屋がいた。  昭和三十年頃までのことだ。  上野本牧亭にいくと逢える。  講釈師、伊藤痴遊である。           ☆  大正六年、新国劇の沢田正二郎が旗挙げ興行をした時、客席に早稲田の応援団が入り、「フレー、フレー、沢田!」とやった。         ☆  西条八十作詩、山田耕筰作曲の新国劇団歌はこう歌っている。 ※[#歌記号、unicode303d]右に芸術 左に大衆  かざすマークは柳に蛙  若い乱舞は日も夜も歩む  沢田ゆずりの半歩主義         ☆ 「柳に跳びつく蛙」がマークになっているのは沢田が小学校時代にこの絵を描いた展覧会で皇后陛下から賞品を貰ったからである。  上野にある沢田の墓のそばには柳の巨木がある。  新国劇はもう一度跳びあがれるだろうか。         ☆  大正初年の京山小円のレコードから、そのまくらにあたる部分を ※[#歌記号、unicode303d]進み行く 世にも時にも遅れじと 開けて匂ふ花競べ 自由自在に君が代を 一寸行くにも自動車や 電車自転車汽車汽船 姿見えねど心をば 述ぶるは無線電信機 居ながら語る電話機 今朝見し人も夕には 百里隔てし秋の空 今日ロンドンの花を見て 明日はシカゴや巴里の月 セントピータースブルグの 月に遊びし友も呼ぶ 支那の北京の宿も夢 世界一周空中旅行 夢想兵衛や孫悟空 昔咄を今ここで 実地に見へる世の中に 学芸技術は備はりし 四方の諸君にやつがれが 無学無才の片語も 人道鼓吹を目的に 語る吾人の蓄音機ィ         ☆  中山晋平は島村抱月家の書生だった。  抱月が松井須磨子とデートするのを尾行したり、須磨子あてのラブレターを夫人の方へとどけたりしたそうである。  かくして島村夫人は抱月をトッチメたのである。         ☆  中山晋平は島村抱月の書生時代、松井須磨子と島村夫人の板ばさみになって悪戦苦闘するが、作曲家として成功してからは自分がそんな立場にたった。  芸者歌手の喜代三と関係を持つわけだが、抱月の二の舞はしなかった。  喜代三が夫人に三味線を教えに通ったというのだから、円満な三角関係ではあった。  喜代三自伝でもこの点を威ばっている。         ☆ 「カチューシャの唄」を作曲した頃、中山晋平は浅草の千束小学校で教鞭をとっていた。  彼はこの歌を発表する前に子供達に歌わせてみたというが、PTAの無かった頃はよかったネ。         ☆  中山晋平は無名時代の美空ひばりがビクターに売り込みに来た時に、テストをして落している。  その後、彼女はコロムビアのドル箱になった。         ☆ 「俺は河原の枯すすき」という歌をテンポを早くして元気よく歌うと「東京行進曲」になってしまう。  この場合は二作とも中山晋平作曲だから盗作にはならないが、似たような曲の多いのがこの頃のグループ・サウンズ。  盗作というより偶然、又は不可抗力なのだろうが、ドレミファソラシドの組み合わせだけで勝負するのだからやむを得ないような気もする。         ☆  グループ・サウンズの長髪が流行しているが芸人で長髪にしたのは雲右ェ門が元祖である。  この雲右ェ門、その後、長髪を一挙にクリクリ坊主にしてイメージ・チェンジ。  グループ・サウンズは真似するなら早いが勝ちだと思うョ。         ☆  佐良直美。若いのに気学、易学、方位学に凝っている。録音の日も、易学で決める。  晩年が淋しかったシミキン、清水金一も方位学に凝っていた。  方角が悪いという理由でロケをすっぽかしたりするようになって、仕事を失っていった。         ☆  浅草オペラ全盛時代。  金竜館の楽屋口に貼ってあった注意書。 「犬、猫、刑事入るべからず」  楽屋はアナーキストのたまり場でもあった。         ☆ 「日本官憲の注意人物」という肩書のついた名刺を持っていたのは演歌の雄、添田|※[#「口+亞」、unicode555e]※[#「虫+單」、unicode87ec]坊《あぜんぼう》。         ☆  昭和八年、エノケンの人気が昇り坂の時である。  彼は当時の最高級車クライスラーを買った。  そして、彼はこのクライスラーが二台は買える月給を貰っていたのである。  昭和四十二年、税金を払うために、洗足池の邸宅を売り払ってしまった。         ☆  直木賞の御本尊直木三十五がマキノ省三を斬っている。  無声映画時代だが、 「もし、注意深く、日本映画のタイトルを見ているなら、誤字、意味不明、使用法の誤謬などが無数に発見されるであろう。何故なら、マキノ省三氏は絶大の製作的手腕はもっているが、手紙のかわりに電報を打つ習慣をもっていた人である。電報は仮名でいいからだ」 [#地付き](日本映画を斬殺す「改造」昭和五年)          ☆  そのマキノ省三に育てられた尾上松之助はその収入の中から個人の力で今でいう団地をつくり、京都市に寄付している。         ☆  マキノ省三の伝記に寄稿している関係者の言葉は彼を「大将」と呼んで慕っている。 「大将」から沢山の手紙を貰ったという文章もあるから、直木三十五がいうように仮名しか書けなかったわけではないだろう。  しかし大将は「カット・バック」のことを「ハット・バック」(ハット変るから)「ラストシーン」を「ランプトシン」(ランプのシンが終るとオシマイ)といっていた。  長門裕之がこの祖父に扮して「活動屋一代」を製作した。         ☆  妻のラブシーンを演出する大島渚、篠田正浩、吉田喜重。  恋人のラブシーンを演出するフランスの若手監督。  そんな時の相手役の男優は間男がみつかった時みたいな顔で演技せざるを得ないというが無理もあるまい。  こうしたシーンは興味本位に宣伝材料にされているが無声映画のマキノ省三は、自分の娘のラブシーンを演出した。  製作費が無い為の起用ではあったが、仕事となれば別である。 「もっと激しく! もっと狂おしく!」  演技指導している内に、遂に娘はその気になり、相手役と駈け落ちしてしまう。  妻や恋人を演出するのとは違う意味でおかしく、哀しい。         ☆  映画館から映画館へ掛けもちのフィルムを運ぶ自転車のスピードときたら、その粋なハンドルさばきと共になつかしい。  逆に映画館で途中まででフィルムが切れ、「到着次第続けます。暫くお待ち下さい」などといわれたものだ。  大正四年になると、もっと凄い。 「未着の二巻、一航海遅るる時は四十有余日の差を生じ候儀現在の外国航路行程に依り明瞭に候得ば何卒近き将来着荷の時をお楽しみお待ちあらんこと伏して懇願」  ユニヴァーサルの「マスターキー」が途中で終った時の言い訳である。         ☆  無声映画時代の説明には「花のパリーかロンドンか 月がないたかホトトギス」的の無責任な美文調が多いのだが、西部劇ファンの為に嬉しいのをひとつ。 「泣くな スザンナ いとしの青よ 馬車は西部へ オレゴンへ」  西部劇も塩原多助も一緒である。         ☆  大辻司郎というと漫談の元祖ということになっているがその活弁時代「胸にいち物、手に荷物」「こぼれる涙を小脇にかかえ」「勝手知ったる他人の家」と「馬から落ちて落馬して」式のギャグを連発した。  ……ということになっているが必ずしも大辻の考えたものではないらしい。 「東山三十六峰、眠るが如き丑満時……」という代表的な文句ですら誰のものかハッキリしない。(正確には東山は十六峰である)  芸人のエピソードというのは常にスターによって集大成されてゆく。  奇人であればあるほど、その周囲に潜伏している奇人がいて、そのエピソードを吸収していくケースが多い。         ☆  阪東妻三郎は、若い頃、その他大勢で出演していても、決してカメラに顔を写させなかった。将来、主演俳優たらんとしていた彼は端役で出ている自分の顔を観客に覚えられないように努力していたのだ。         ☆  昭和初期、ある映画誌のアンケートで、 「将来、日本を背負う大スタアは誰?」とあった。  大河内伝次郎は大河内伝次郎と回答した。         ☆  マキノ雅弘が「浪人街」をつくったのは十九歳である。(昭和三年)  この年、彼はキネ旬ベストテンの一位、四位、七位を占めた。         ☆ 「芸事相励まず候とも、女優だけには、手を出すまじく候。  右契約仕候。一札依如件」  昭和四年プレイボーイと噂の高い神田俊二が日活に入った時の契約書である。  そして、散々、契約違反をやって退社した。         ☆ 「本番、用意、タオル!」 「ワン・ツーの、ホイ!」 「シュート!」 「せいのォ!」  映画監督にはいろいろなかけ声があるが、最初の「タオル!」というのは若松孝二監督の場合である。  多くの場合、被写体が全裸なので局部をタオルで隠している。  本番に限り、そのタオルをはずすので、それで「タオル!」と叫ぶのだそうだ。  勿論、タオルをはずすのは助監督の役目である。         ☆  杉狂児。この人、歌うスターの第一号だが、映画監督と意見が合わず、その監督がカメラの横で「用意!」と声をかけた時、「スタート」までいわせず、自分で「ドーン」といってスタジオから駈け去ってしまった。         ☆  内田吐夢のトムは、少年時代、横浜でぐれていた頃のハマのチンピラ、トムという洒落た愛称だと書いている。         ☆  三橋達也といえば、そのダンディ振りといい、射撃の趣味といい、コーヒーのコマーシャルといい……とに角、日本調なんてものと関係がないようでいて、実は桂文座という落語家の孫なのである。         ☆  渥美清の祖母は会津藩士の娘。 「士族の血が流れているのですぞ」としつけられたという。  現古今亭志ん生も父親が徳川家直参の槍の指南番。  志ん生のグータラ振りに槍をもって追いかけまわしたという。         ☆  桂文楽、本名は並河益義、士族の出身。  士族の家から芸人が出たというので文楽は兄弟になぐられた。         ☆  朝寝坊夢之助という前座の落語家がいたが、家族に芸人になることを反対されて廃業した。これが明治三十二年、後の永井荷風である。         ☆ 「破門」という言葉は嬉しい。  現在では林家正蔵が弟子を破門するので有名だが、すぐ破門を解くのでも有名。  その上をいったのが正岡容。  小沢昭一、柱米朝達が師匠と仰ぐこの人は弟子の一人を朝、破門して、昼には許し、夕方に又破門をしたという。  その度に破門状を書いたそうだからキチョウメンな人である。         ☆  高座にあがると、いきなりナイフを出し、座っている座布団を切り裂いて、ワタをひっぱりだし、チンピラがおどしをかけるような落語をやったのが若き日の柳家金語楼。  当時の彼は、今の談志のような存在。  楽屋には彼と口をきくと罰金という貼紙まで出た。         ☆  キンサマというのは柳家金語楼の愛称だが、この人、落語家でありながら太平洋戦争中は落語家として認められなかった。  理由は何もしなくてもオカシイのはケシカランというのだ。  非常時にただオカシナ顔をしているのは許せない。  演じた結果がオカシイのなら仕方がない。  だから俳優としてなら認めるということになったそうだ。         ☆  先代の金馬が前座の頃にライスカレーを食べたら「前座の身分でライスカレーを喰うのは前座の給金が多過ぎるからだ」と前座全員の給金が値下げされたという。  今日じゃ前座でもオーナードライバーがいるからネ。         ☆  円朝は弟子の前で金勘定をしたという。  そして、スカンピンの弟子に「どうだ、こんなに金が欲しいか、欲しけりゃ芸をみがけ」といったそうだ。 「どうだ、うまそうだろ、喰いたかったら芸をみがけ」といった芸談も多い。  逆に弟子のくせに玉子丼を喰ったという理由で破門された例もある。         ☆  戦後の食料難時代。  六代目菊五郎は、「喰うものが無ェんだ、何も無ェんだ」とこぼしてばかりいた。  誰もが同情して、食料をとどける。  ところが、それこそ名演技で、その菊五郎宅から山盛になっている食料をわけて貰った人も沢山いるのである。  役者は私生活でもそんな楽しみ方をする。         ☆  新派の祖といわれる角藤定憲《すどうさだのり》は大阪の旗挙げ興行で(明治二十一年)本物の飯を三十杯も喰べて話題になった。  昭和初期のなやまし会や、戦後のアブハチ座でも、舞台で喰うだけのショーはある。  亡くなった千葉信男がラーメンをそれこそペロッと喰ってみせたりした。         ☆  鰻丼を発明したのは江戸時代の興行師大久保今助。  芝居をみながら鰻を喰うのに、その鰻がさめないように飯の上に載せて運ばせたのが始まりだという。         ☆  十五代目羽左ェ門宅に尾上梅幸、清元延寿太夫が遊びにいって、その食事時、何がいいということから延寿太夫が鰻といいだし、三人で鰻を誂えた。  梅幸が気がついたら代金のかわりに羽左ェ門は懐中時計を渡していたという。         ☆  九代目団十郎が幼い菊五郎に好きな食物を聞いた。 「鰻、天ぷら、西洋料理」 「そうか、それが好きか、それじゃそれが喰える役者になり、その次はそれをみんなに喰わせるような役者になってくれ」         ☆  誰にあっても「やあ、しばらく」といったのは十五代目羽左ェ門。  彼にとって初対面の人間はあり得ないというのである。  スターはこのぐらいの自信がほしい。         ☆  五代目歌右ェ門の人気は、彼が入った風呂の湯というのを竹筒につめて売りだしたというし、彼のものなら紙くずひとつ、鼻をかんだものでも奪いあいだったという。         ☆  白浪の引くあと凄し冬の月  これは明治十三年十一月二十八日深夜。  六人組の強盗に入られた九代目団十郎が、彼等が仕事を済まして出て行くのを見送ってよんだ句だという。  今なら一一〇、昔は五七五。         ☆  九代目団十郎夫人はそそっかしくて有名だった。  例えば、 「うちの旦那は、なんてったっけね」 「団十郎です」 「あァ、そう、そう」         ☆  旅興行でも潔癖性な嵐寛は自分の布団を持参した。伊勢松阪の宿に泊った時、この宿の主人も一徹者、 「家の布団で寝られないとは失礼な客、出ていって貰いましょう」と夜中に追い出され、彼は布団をかかえて街をウロウロ。         ☆  六代目菊五郎も満州巡業の場合でも自分の寝具を持参した。  ホテルに泊ってもタタミを敷かせ、その上に布団を敷いて寝たという。         ☆  清元梅之助は銭湯に行っても足袋を脱がないで、そのまま湯につかる。  みんなが裸足だから汚ないというのが理由だ。         ☆  ヨットで太平洋横断をした堀江謙一や鹿島郁夫以前にこの壮挙にいどんで失敗した俳優がいる。  時は明治三十一年、川上音二郎と貞奴である。  二人は隅田川から出発して一週間目、伊勢付近に漂着している。         ☆  貞奴はパリでロダンからモデルを依頼され相手が巨匠とも知らずに断わっている。  ホキ徳田もヘンリー・ミラーが作家とは知らなかった。         ☆ 「先人を越すは易く、後人に越されざるは難し」  ある芸人に与えた吉川英治の言葉。         ☆  演劇評論家秋山安三郎の言葉で、花柳章太郎(芸術院会員)が仲間と一緒に尼僧を輪姦したことが出て来る。  勿論、若い時の話だろうが、今のようなマスコミ全盛の時代だったら、週刊誌のネタにされて荒木一郎どころではない、芸能界にいられなかったこと確実である。 「尼僧を輪姦!」  なんというショッキングな見出し。  芸術院会員どころか、名女形としても僕達を楽しませてくれなかったことだろう。         ☆ ※[#歌記号、unicode303d]倒れし戦友 抱き起し  耳に口あて、名を呼べば  ニッコリ笑うて目に涙  万歳唱うも口の内  トコトットット [#地付き](添田※[#「口+亞」、unicode555e]※[#「虫+單」、unicode87ec]坊)   明治四十年前後に大流行したラッパ節である。  当時、中学生だった花柳章太郎は試験用紙にこのラッパ節を書いて提出し、先生に叱られたと自伝にある。  これも芸人特有のサービス精神。         ☆  花柳章太郎の息子武始がNHKのジェスチュアゲームに出て「早く帰ってちょうだいね」という題で悪戦苦闘した。  放送が終って章太郎はNHKの武始に電話をかけ「新派の役者が新派の狂言のセリフがわからねえようじゃ帰って来るに及ばねェ」と怒った。 「だってむずかしいよ」という武始に「むずかしいわけはねェ。画面にだってチャンと字で書いてあった」         ☆ 「蟹の鋏に花火を結んで火をつけると熱がって横這いに駈けだすがその内、火のついていない方の鋏で、火のついている方の鋏を引きぬいてしまう。蛙の頭に鬢つけ油をぬって、その上にモグサをのせて火をつけると、涙を流して跳ねまわります。面白いでしょう」   五代目歌右ェ門幼少の頃の遊び。  猫に灌腸をしたのは六代目菊五郎の工夫。         ☆  六代目菊五郎は小学校だけで六回も退校を命じられている。  先生の弁当箱の中に小便をするようなイタズラばかりしていたのである。         ☆  六代目、ある相談で吉右ェ門宅に行き、話がまとまらないとなるや、電話を借りる風をして受話器をこわして帰ってきたという。  役者子供を絵に描いたようである。         ☆  火事と喧嘩は江戸の花。  火事になると火事装束を着て現場に駈けつけ、消防署より早く現場に着くと御機嫌だったというのが六代目菊五郎。  ボストン・ポップスのアーサー・フィドラーは自家用の消防車を持っているというから火事ファンというのはいるもの。         ☆  橋岡久太郎は、明治維新以前の謡本を「芸の本」といい、明治以降の本を「商売人の本」として認めなかった。         ☆  宝生九郎は飛行機のことを「ヒギョウキ」という。  能の世界では「行」をギョウと読むからだとゆずらなかった。         ☆  新幹線やジェット機で東京、大阪を掛けもちする芸人は今や珍しくない。  しかし、大正十四年に掛けもちの為に飛行機で飛んだのが水谷八重子。  国産トーキー一号の「マダムと女房」を観ていたら田中絹代が妙ななまりのあるセリフで「私だって飛行機で大阪へ行きたいわ」といっていた。         ☆  常に身につけている時計が三個。  腕時計と懐中時計とストップウォッチ。  この三ツがいつもピッタリとあっていないときげんが悪い師匠、三遊亭円生。         ☆  先代三津五郎の趣味は六個から七個という時計を時報にあわせることだったという。  ラジオの無い時代は午砲《ドン》の一発であわせていた。  この人の時計気違いも有名で生母が死ぬ時に、その息をひきとる瞬間まで秒ではかって自慢したという。         ☆  カメラを買ったばかりで嬉しくてしようが無い松葉家奴。  知りあいの葬式にもカメラをぶらさげて出かけ、遺族に向ってカメラを構え、 「ハイ、ニッコリ笑って下さい!」         ☆  同じく彼がやっと自宅に電話をひいた。  せっかくひいたのに誰からもかかって来ない。  ガッカリして外に出たら知人に声をかけられた。 「いいところで逢った。話がある」  彼は返事して曰く、 「待った! 家へ帰ってるから電話してくれ」         ☆  宮城まり子は弟のことを兄と呼びつづけていた。  この弟が交通事故で亡くなった時に「兄さん!」と泣いてゴシップ屋を感動させた。         ☆  昭和十二年生れということになっている人気歌手(特に名を秘す)が酔っ払うと、いう口癖がある。 「俺が軍隊にいた時は……」  昭和八年生れの僕でさえ終戦当時は小学校の六年生だから、二年生の時に軍隊にいたのかねェ……?         ☆ [#1字下げ]加賀まりことファイティング・原田 [#1字下げ]山本富士子と大村崑 [#1字下げ]砂原美智子と三国連太郎 [#1字下げ]ミヤコ蝶々と芥川比呂志 [#1字下げ]淡谷のり子と三原脩 [#1字下げ]飯田蝶子と花菱アチャコ  このカップルの共通点を考えて下さい。  すぐ同じ年齢と気がつきましたか?         ☆ ※[#歌記号、unicode303d]吹けば飛ぶよな、将棋の駒に、(村田英雄・王将)を歌いながら楽屋を掃除していてクビになったマネージャーがいるという。  この楽屋の主人は三波春夫。         ☆  彼は歌舞伎座のプログラムに「私の先祖は垂仁天皇の第九皇子イガタラビコノ命……」と書いている。         ☆  三橋美智也は歌手になろうと北海道から上京する途中、  汽車の中で駅弁を食べている人を横目でみながら「今にみていろ俺だって駅弁が喰えるようになってやる」と決心したそうだ。         ☆  小林旭が歌う時はおつきの若者が二人で湯呑み茶碗を持っている。 「うがい薬A」と「うがい薬B」である。 「A」とのたまってガラガラガラ。 「B」とのたまってガラガラガラ。  三人目がガラガラを受ける。  かくて、歌手小林旭は登場する。         ☆  沢たまき。  男っぽい、姐御肌のベテラン歌手だが彼女の事務所に行くと、実に気軽に、何気なく、ハミングなどしながら、お茶をたててくれる。 「結構なお点前でした」  僕は家元にたてていただくお茶よりももっともっと茶道の良さを発見する。         ☆  藤原義江が自分が声楽家になれたのは浄瑠璃や清元、歌沢の地があったからだといっている。  坂本九が「上を向いて歩こう」を「ウヘェヲ ムフウィテ アハルコウオウオウオ」と歌ったのも、彼に邦楽の素地があったからである。         ☆  坂本九のリサイタルの幕があく直前、僕は彼の母の死の知らせを受けた。  幕が降りてから彼に知らせようという声もあったが、その場で彼に伝えた。  坂本九は母の死を秘めて立派に幕を降した。  いつになく充実した舞台に観客の拍手は盛りあがったが、母の死という事情は誰も知らないで終った。  そこに芸人がいた。         ☆  三世豊沢団平は三味線を弾きながら脳溢血で倒れた人だが、この人はお風呂に入っても左の人差し指を絶対に濡らさなかった。  お湯に濡らすと糸を押える爪が柔らかくなってしまうからだという。         ☆  三味線の名人団平が巡業先の田舎宿に泊ったら蛙がうるさくてねむれない。  夜中にムックと起きあがった団平師匠、やおら三味線を手にしてデーン! と一発。  蛙はそれきりだまってしまったという。         ☆  古典芸能の世界に生きる人は誰でもキチンと正座出来ると思うと大間違い。  文楽の人形遣いはすわることがないので、近世の名人といわれた吉田文五郎も三十分とすわっていられなかったという。         ☆  大阪中央放送局の最初のスタジオは天井にしめ縄がはってあり、マイクロフォンはどんすの布の上に鎮座、出演者はマイクに最敬礼したという。大正十四年。         ☆  十一代目仁左ェ門はNHKで係員に祝儀を出した。  当然のことだが係員がこれを受けなかったので、仁左ェ門は「失礼だ」と放送をやめる騒ぎになったことがあるという。         ☆  太平洋戦争直後「産業の夕」というラジオ番組があり、そのタイトルをどなるように叫んでいたのが宮田輝アナ。  その声があまり明るく大きいので投書が来た。 「この窮乏の時代にアナウンサーは何を喰っているのだ」  当時始まった藤倉修一アナの街頭録音第一回のテーマが「あなたはどうして食べていますか?」         ☆ 「日曜娯楽版」は聴取率をさげてくれといわれた人気番組。  タイトルは三木のり平の声。 「冗談スリラー」というコーナーで突如としてあげる悲鳴は丹下キヨ子。あの悲鳴の二代目は学生だった永六輔。  一寸おくれて三木トリローのマネージャーになったのが野坂昭如。         ☆  NHK当時、浅沼博アナウンサーは「マグダラのマリア」を「マタグラのマリア」と読んで叱られた。  僕も「神出鬼没」を「シンシツボッキ」(寝室勃起)と読んだことがある。         ☆  ラジオはディスク・ジョッキー番組ブームだが、このD・Jという言葉は昭和十年日本のアメリカ向け放送で並河亮が始めた番組に対して名づけられたものであり、元祖は日本なのである。  これをNBCでポール・ホワイトマンが真似をして、やがて逆輸入されてきた。         ☆ 「三月生れは浮気もの」というイタリアのレコードが放送禁止になったことがある。  理由が堂々としていた。 「皇后陛下は三月生れでいらっしゃる」         ☆  プロレスリングを見慣れると演出が目立って、今度はそれが面白くなる。  旅興行の場合は毎日毎晩リングにあがるのである。もう演技以外では考えられない。 「必殺三十二文、大暴れ」 「恐怖の殺人チョップ乱れ撃ち」  プロレス新聞の見出しはユーモアそのものである。         ☆  相撲の四股名は、醜名とも書く。芸名もこれに準ずる。山本長五郎コト清水の次郎長も醜名である。         ☆  尾上松緑はかつて「歌舞伎役者のくせに映画にでるとはもってのほか」という考えを持っていた人だが、今は彼自身テレビのホームドラマにも主演している。  そして、彼が歌舞伎を演じている最中に大向うから声がかかった。 「パパッ!」           ☆  テレビのホームドラマには食事のシーンが多い。  さるテレビで三木のり平と西村晃が食事しながらのセリフ。  それぞれ自分のセリフをよくおぼえていないので三木は自分の茶碗の底にそれを書き、西村はおヒツのフタの裏にそれを書いておいてカンニングすることにした。  さて、そのシーンが始まるや西村はおヒツのフタをあけてセリフをいう。  三木、そのセリフに答えようとしたら、なんと西村が三木の茶碗に飯をよそってしまった。  さァ飯を喰わないとセリフが読めない。なんとか喰う、西村はおヒツのフタの裏が頼りだから、又、飯をよそってしまう。  それでもこのシーンの演技が好評だったというのだからわからないものである。         ☆  病床で毎日テレビを見ている僕の友達がニュース・ショーの女性司会者を主にしたグラフをつくった。  何のグラフかというとブラウン管だけで毎日の動作から推察したそれぞれのメンスの日が書きこんであった。  変な楽しみ方があるものである。         ☆ 「驚くべき無線遠視(テレビジョン)の発明」という特集が昭和二年の「キング」にある。  そして、アメリカ・イギリス・フランスでのそれぞれの研究が紹介されているのだが、この時すでに日本では浜松高等工業の高柳健次郎が実験をしているのである。         ☆ [#2字下げ]テレビジョン 燃ゆるまなざし [#2字下げ]朗らなみこえ 夢に聞き [#2字下げ]幻に視る 若き子よ おどれ [#2字下げ]いまぞ 昭和の御代 [#2字下げ]あァ テレビジョン  昭和三年、高柳健次郎が世界初のブラウン管方式に成功した時の歌である。         ☆  昭和六年頃だが、柳家金語楼が浅草にたてこもって「てれぶしょん」というショーをやっている。  舞台に紗幕を降して、その向うで踊ったり歌ったりすると、それがおぼろげにみえる。  金語楼が紗幕の前で解説する。 「これはテレブションと申しまして電気の力で絵を写しているところでございます。電気でございますから姿はおぼろげにしかうつりません!」         ☆  テレビのブラウン管は走査線で画像をつくっているが、これが現在五二五本。  嘘だと思ったら数えるべし。  さて、日本初のテレビは走査線が三〇本。しかも縦に走っている。  昭和三年の成功以前、この三〇本の走査線の上におぼろげながら「イ」という字を写しだしたのが大正十五年、前述の高柳健次郎。  この時の画面をそのまま石碑にしたものが浜松放送局の庭にある。  テレビ関係者なら一度は訪ねてみるべきだと思う。         ☆  大正の末から昭和の初めにかけて出版された『楽屋風呂』(川尻清潭)は文字通り楽屋での噂話だが、芸者と役者との色事が実名で面白おかしく紹介されている。  それがスキャンダルとして扱われていないところが時代を映している。 [#改ページ] [#小見出し] 芸人 その下半身         ☆  元日活社長池永浩久はいった。 「下半身に人格はない!」  この人、社員の給料の前貸の理由を親孝行と淋病に限った。 「両方とも苦労がわかる」からだという。         ☆ 「たいこもち あげてのすえの たいこもち」  身を持ちくずして芸人になるというコースは芸人の本質を暗示している。  東京に支店が三軒もあったという横浜の材木問屋の若旦那だったのが桜川ぴん助。  この人、二十代の幇間時代に交渉のあった女性を千三百人までメモし続けたが、前に寝た女を又口説いてなぐられてから記録に自信を失ってやめたという。         ☆  深川芸者の三草子は悲願千人斬りを達成した明治十二年、文字通りの関係者《ヽヽヽ》を集めて宴会を開き新聞にも報道された。  千人でも完全に楽しませた点、下手な芸人よりも価値のある芸者である。         ☆  芸者、役者、落語家、幇間は扇子を前においてあいさつするがあの扇子を「結界」という。  置いた扇子の先が上座、手前が下座を表わし、その下座でへりくだってのあいさつという意味である。  その中で幇間だけがお辞儀をした時に顔を伏せない。  相手と目をあわせてその御機嫌を察する為である。  そもそも役者と芸者の区別というのは女形発生以後のことであって、演技をするのが役者、踊るのが芸者だったのである。女役者、男役者という言葉が生れるのも無理はない。  女役者が女優になったのも明治の末である。         ☆  明治十五年の芸界のスターが当時の新聞に載っていた。  俳優・市川団十郎。落語家・三遊亭円朝。  狂言作者・河竹新七。力士・梅ヶ谷。  講談師・松林伯円。振付・花柳寿輔。  芸妓・芳町奴(後の貞奴)。  娼妓・角海老小紫。  どうです! 娼妓も入ってます。  セックスも芸の内であります。         ☆  芸者へのギャランティーを「お線香代」「花代」といういい方をする。  お線香一本が燃えつきるまでの時間という風にいうが、別の説では、売春婦の多くが未亡人だった時代であり、亡夫のお線香、花代にという意味で払ったともいう。         ☆  京都のある遊廓に泥棒が入った。  つかまえたものの縄つきをだしたくない。  あいている部屋に転がしておいた。  他の客が心配して、逃げやしないかといったら、そこの主人が、「逃げないでしょう、女郎を添寝させておりますから」  こういうのが粋な話。         ☆  寛永四年。「吉原のほか、町中に遊女隠しおくものあらば町奉行所へかけ入るべし」というお触れが出た為、私娼達は遊芸人に転向した。  当然、遊芸人の売春行為が激増する。  天保十二年、遊芸の興行、芸人の錦絵が発売禁止。  売春行為をしていたという理由で娘義太夫だけでも四十数人が捕えられている。  かくて吉原(公娼)はますます全盛を極める。         ☆  比丘尼の昔から明治にかけて女芸人と売春婦は紙一重の生活をしていた。  いや、紙一重もなかったかもしれない。  花魁がピンならキリは夜鷹。  その夜鷹で江戸時代に名を高めたのが柳原土手のおしゅん。  ある年の大晦日の夜、三百六十五人の客を抱いたという。  一晩で三百六十五人を楽しませた芸人ともいえるが、どうやったんでしょうねェ。         ☆  その昔、芝居をみるのに芝居茶屋を通さないと一人前の客扱いをしなかったが、これは遊廓へ遊びに行くのに引手茶屋を通すのと同じ手順なのである。  芝居見物と女郎買いが同じ手続きなのは嬉しいことだ。  森繁久弥がワタナベ・プロのパーティで「ナベ・プロ」は芸者の置屋だと皮肉なあいさつをしたことがあった。  しかし歌舞伎と遊廓は皮肉でなく、同じ内部構造を持ち、それ故伝統が護られてきたのである。         ☆  歌舞伎の興行師も昔は博徒のようなもの、芝居が当れば稼げるが、はずれれば夜逃げ同様。(今でもブロードウェイにはこの厳しさがあるが、日本ではサラリーマン興行師時代である)  娘を女郎に売って幕をあけた話もあれば、女房を女郎に売ってしまい、その後、女房を買いに通ったという話もある。  女郎屋の方も粋なはからいで亭主には半額で抱かせてやったという。         ☆  常陸山谷右ェ門は相撲が裸芸人といわれることを悲しみ、芸人のすること、つまり、芸妓と結婚することだけでもやめようと思った。         ☆  相撲には「相撲茶屋」という不明朗な存在がなんとなく続いている。  芝居の方は、芝居茶屋がなくなっただけでも大変な進歩なのである。  切符制度が確立したのは明治四十二年の帝国劇場からで、それまでは芝居茶屋を通さなければ芝居はみられなかった。  終演後、役者が女に買われるのも、この芝居茶屋でのことだ。  つまり、売春斡旋もしたのである。         ☆  向島の百花園の先に「水神」という料理屋があった。  ここで市村羽左ェ門(先々代)沢村宗十郎(先代)といった役者衆が貴婦人に買われていたという。  役者が女に買われるのは極く当り前の習慣だったのだ。  今でも、若手の歌手を買う有名婦人は多い。         ☆  渥美清太郎がその本の中で明治大正期の歌舞伎界で絶対に女に買われなかったのは、先代の歌右ェ門と六代目菊五郎だけだったと書いている。  この二人だけが|常識を破った《ヽヽヽヽヽヽ》のだそうだ。  勿論、買う方では常識家だった。         ☆  新吉原大文字楼の娘と結婚した先代の中村芝鶴は堂々と式を挙げて世間をびっくりさせた。  遊女屋の娘と結婚したからではなく、それまでは世間に知れないように結婚するのが役者の常だったからである。  最近、いつの間にか結婚していた人に十一代目の団十郎がいる。         ☆  七代目の松本幸四郎のところへ十四歳で奉公にあがった少女が、やがて十一代目団十郎夫人になるわけだが、この少女は名門でもなんでもないので一度前田青邨画伯の養女になり、そこから嫁入りした。         ☆  浜木綿子と別れた現猿之助の曾祖母にあたる人は、吉原中米楼の娘。  故猿翁、中車、小太夫の母にあたるわけだが、歌舞伎の役者を初めて中学に入れた教育ママでもある。  この人に踊りを習った小堀杏奴が「俳優の家庭には珍しく実子がそろっている家族」と書いている。  といって堅物ではない。聞き書きの「吉原夜話」の中に、「色三月《いろみつき》ッてんだよ、三月つきあっちゃうともう色じゃなくなるんだ。先が怨むことも、こっちが怨むこともなしに、何となくすうっと別れて、蝶々が花を渡るように次に移っていく、これが色なんだよ」とある。         ☆  六代目菊五郎は常に品行方正という点に気をつかっていた。  品行方正だったわけではない。  妾宅を構えたものの、堂々と通えなかったのである。  堂々と通わなくても子供は出来る。  妾腹の子は本宅に引きとられる。  二号の差し出す赤ン坊をニッコリ引きとるのが役者の妻のあり方なのであった。  世間態を気にする菊五郎は、自分が何をやっても世間が許してくれるような大芸術家《ヽヽヽヽ》になろうと決心する。  女性関係が名優をつくる例は多い。         ☆  昔の役者は滅多に自宅に帰らない。  二ヶ月ばかり家をあけた坂東彦三郎。  自宅の敷居にオモチャの梯子をかけて、ツノを出しているおかみさんの機嫌をとった。  この敷居が高いというギャグは落語家のエピソードにもある。         ☆  初代菊五郎は色子であったという。 「色子」を調べたら「女形が若衆形を勤めながら一方では男色をもひさぐ稼業である」とある。  寺山修司の天井桟敷にも色子がいるのが嬉しい。         ☆ 「……或夜久蔵殿とふせり申候処に、無法人にて捕へ非道を仕り候。惣身に火のついたる如くにて、熱し熱しと申候……」  初代中村仲蔵が役者になって、その洗礼にオカマをほられた時の記述である。  彼の自伝にある。時に十五歳。         ☆ 「一、此以前も申付け置きし如く、役者衆道の儀につき無体なる儀、堅く御法度に仰せつけられ候……」(慶安元年)  つまり、役者がオカマをほらせてはいけないというお達しである。         ☆  片岡当次郎という役者。  田舎町の興行で劇場の鶏に乱暴を働き、強姦してしまった。鶏姦という奴である。  と、劇場主がその鶏を料理して御馳走してくれるという。 「情がうつって食べにくかった」とは無理もない。         ☆  市川団四郎という役者が吉原で買った女郎が幼い時に別れた実の妹だったという話がある。  実の妹との間に子供があったという例では芸人ではないが武林無想庵という豪傑がいる。         ☆  昭和二十六年に死んだ先代の延若に「性交日記」という資料がある。  セックスの相手の職業、性格、性器、技術その他ありとあらゆる記録がなされているのだが、その相手の名前の中に名士夫人・令嬢・女優名が書かれているので公表はされないであろうとのこと。         ☆  先代の延若が脳梅毒で晩年の舞台が目茶苦茶だったことは有名だが、歌舞伎の場合は目茶苦茶でもなんでも、いい気持そうに演じていれば通用してしまう。  同世代の人形浄瑠璃の吉田文五郎も、その素行の点で、芸術院会員になることがおくれた。         ☆  昭和四十三年の「女優祭り」で最後の女役者といわれる岩井染次(八十七歳)が表彰された。  女役者が男役(立役)をやる時はフンドシをしめて、デッパル部分はデッパルように工夫する。  そのくらいだから楽屋で前をかくすようなことはなかったそうだ。  前をかくすと無毛だと思われたという。         ☆ 「芸人、特に女の芸人は、金と愛情のあるパトロンをつかむべきで、これは決して恥かしいことでもなんでもない」(秦豊吉)         ☆  月田一郎、片岡千恵蔵、長谷川一夫、滝村和男、花柳章太郎、衣笠貞之助、加藤嘉、下元勉、この男性達を一本の線に結ぶのが山田五十鈴である。         ☆  昭和四十一年、引退した曾我廼家桃蝶は左手の小指をつめている。  この曾我廼家喜劇の名女形は楽屋内の同性愛を指を切り落すことで清算した。  彼の自伝『芸に生き愛に生き』は男と男の抱きあう描写で一杯である。  別に珍しいことをしているように書いてないのが真に迫っている。         ☆  曾我廼家五郎はホモだという噂の他に東京・大阪に七軒の妾宅があった。  脚本執筆はもっぱら妾宅でして、そこから劇場に通った。  その妾の一人とヨーロッパに出かけて、第一次世界大戦にあい一人で帰国したりしている。  残った妾は後に三浦環が蝶々夫人でヨーロッパ楽壇にデビューする際、着付け係として活躍した。         ☆  曾我廼家五郎は性豪ということになっている。  愛妾も多かったが、舞台では女優を使わなかった。コチラではホモ・セクシアルと、両刀使いの名手だったのである。  晩年は声を失い、当人は舞台に出ていながら、声の方は舞台袖で古川ロッパが彼の声帯模写をやったことがある。  昭和二十三年没。         ☆  初めて登楼した女郎屋で布団の上にすわったなり朝まで女郎を近づけないで身を守ったという文部省ならびに厚生省推薦の落語家がいる。  今の柳家小さんがその人。  彼は二・二六事件では反乱軍の一兵として首相官邸を包囲している。         ☆  新婚初夜に女郎買いに出かけたのは古今亭志ん生、柳家三亀松。  こうなると乱暴というより、江戸ッ子の照れだと思うが……。         ☆  高座で股を開いて見得を切った途端に股間からイチモツがのぞいているので客が爆笑。  その時、あわてず柳家三亀松、イチモツをつまんで、 「不幸者! 親の芸をさまたげるのか」         ☆  五代目林家正蔵は百歳まで生きた。  百歳の時に手をひいてくれた女性のところに夜這いに行った。  年寄りに対する親切を、気があると誤解したのである。         ☆  三遊亭遊三。  函館の裁判官だった時に惚れた女が被告になり、得たりや応と、無理矢理に罪を軽くした判決を下し、その為に追放されて落語家になった。  明治前半に活躍している。         ☆  柳家金語楼は愛称「キンサマ」で通っている。 「キンサマの毛が、又、うすくなった」 「キンサマがブラブラしてた」 「キンサマがどこかへいっちゃった」  そんな時、|キンタマ《ヽヽヽヽ》に聞こえてビックリする。         ☆ 「睾丸に白髪が生えて涙かな」  七世団十郎の句で、弟子たちはこの睾丸の白髪なるものを拝見させられたと古書にある。         ☆  春本助次郎、夜這いをする段に、あまり簡単に出来てしまっては面白くないと腰のまわりに号外の鈴をつけて、音のしないように相手の寝床までたどりついたが、さすがにいざという時にジャランジャラン。  相手の女性、夜這いはいいが鈴はあんまりと腹をたてたという。         ☆  ウンコや屁の話をして笑わせるのは、コメディアンでも下の下といわれる。  しかし、絶対に笑う手段として後を絶たない。 「一 ひっぱたき  二 おなら  三 コマーシャル」  現在この三つが最低でも笑うという手になっている。 「ひっぱたき」は文字通りに頭をなぐる。  クレージー・キャッツも洗面器には随分とお世話になった。 「おなら」関西の漫才ではいまだによく使う。  ダイマル・ラケットのようなベテランでもおめずおくせず舞台で鼻をつまむ。 「コマーシャル」これはパロディで「飲んでますか?」「私にもうつせます」といったセリフを生かす。  お客は笑うが、三つともNHKでは禁止されている。         ☆  漫才のダイマル・ラケットに放送局のディレクターが「あと三十秒伸ばしてほしい」といったら、ダイマルが「三十秒、ほな長目のオナラしまひょ」         ☆  見世物によくある首娘。  首だけが生きているというのだが、これがつまらないことでばれたことがある。  この首だけしかない筈の娘が一発もらしたのである。         ☆ 「本日は晴天なり」というのは全くのナンセンス。 「Today it's fine」という言葉の中にあらゆる発声の種類が含まれているのであって、英語でこそ意味がある。  大橋巨泉はスタジオのマイク・テストで、次のようにいうとのこと。 「オマンコ、オマンコ、マイクいかがですか」  同じことを本番でいってほしい。         ☆  玉の越、乳ヶ張、腹櫓、目ヶ里、穴ヶ淵。  その昔の女相撲の番付からひろった名前である。  大阪の桂南天老に女相撲の写真を戴いたがチャンとまわしをした本格的なもの。  上方漫才には、 「もうかりまっか?」 「娘のフンドシや」 「……喰いこむ一方か」  ついでにもうひとつ、 「あかん、イザリのキンタマや」 「どないしてン」 「すりきれる一方や」  関西の老芸人、桂南天は子供の時に「やれ突け、それ突け」を観ている。  御存知だろうが、女性が裾をまくって腰かけ、両足をひろげる。客は前からその大切なところをタンポ槍のようなもので突くのだが、それを腰をひねって避ける。 「それ吹け、やれ吹け」も同じこと。  こちらは火吹き竹のようなもので吹く。  この種の見世物が盛り場で公開されていたのだから全ストどころの騒ぎではない。         ☆  シロシロ、シロクロなる芸も昔からあったもの、その公開が禁止されているのが明治五年。勿論、シロクロなんていわない。「男女の交接」と書いてある。         ☆  酔っ払ったプロレスラーが「太陽の季節」でおなじみの障子破り大会をやった。  優勝者は障子の桟を折ったそうである。         ☆ 「ライオンの昼寝」という座敷芸がある。森繁劇団の納会ではこれで幕を閉じる。  昭和四十二年の小沢昭一(各種主演賞)受賞記念パーティでは本牧亭の舞台で演じられた。幕があくと全裸の男達がお尻を客に向けて寝ている。たったそれだけの芸である。  たったそれだけだが、ケツだけしか見えないと、誰のものだがわからなくて珍無類。抱腹絶倒である。  本牧亭では小沢昭一、加藤武、西村晃がそのケツを公開した。  坂本九が「僕にあそこまでつきあう仲間がいるだろうか」とうらやましがっていた。         ☆  昭和初期の祇園。  阪東妻三郎はトイレに立っても腕組みをしたまま突っ立っている。裾をまくり、|筒持ち《ヽヽヽ》をするのは芸妓のつとめだったそうな。  古川ロッパには、ケツをふかせたという伝説がある。         ☆  三浦環、初代天勝、松井須磨子、この三人はスケールの大きい女性として有名だが、伝記や評伝の中に三人に共通する場面があったので御紹介しておく。  三人ともトイレに入ってドアに鍵を締めず中から「紙—ッ」と叫んでいるのである。         ☆  長田幹彦の随筆には須磨子の「紙—ッ」に対して島村抱月がおとなしく紙を持ってゆくくだりが書いてあり、抱月ともあろうものがと怒っている。         ☆  歌舞伎では楽屋でよく溲瓶を使って小便をすませるが彦三郎は土瓶で代用した。  知らない人がお茶だと思って飲んでしまうと「ウッヒッヒッ」         ☆  文楽が六代目菊五郎の楽屋を訪ねた時、六代目が話をしながら目の前で小便をしたという。  阪妻、雲右ェ門、ロッパなどの話には弟子に小便をさせるくだりがある。         ☆ 「下野国都賀郡池森村百姓初五郎事、二十七歳、身長二尺五寸程にて至つての小男也、足の甲、曲りて自由にならず、男根至つて大きく、皮かぶりて、皮をのばせば胸又は顎まで届き、前へ引き候へば膝がしらより五寸程も長し……」  天保年間にあったオチンチンの見世物。  この他、大金玉も評判をよんでいる。         ☆  昔は不思議な芸人がいた。  口上をいっては唇をすぼめる。  ただそれだけなのだが、このすぼめた唇の形が「いぼ痔」「きれ痔」「脱肛」その他あらゆる意味での痔の病いを再現する。         ☆  菊田一夫がサトウハチロー宅の書生時代、朝、親分のハチローが起す方法が物凄い。ハチロー親分、菊田一夫の顔にまたがってウンコをしたそうである。  顔の上にウンコをされて目を覚していた菊田一夫、今や、東宝の天皇、相変らず恋人の為の脚本執筆に忙しい。         ☆  ウンコ・ファンというのはいるもので三木鮎郎は「いいウンコが出たから見に来ないか」と電話をかけるというし、故小島正雄はマヨネーズとからしをねりあわせ、おむつにそれを盛りあげて、あらためてお尻にあてておしめカバーで身につける妙な隠し芸があり、笈田敏夫にいたっては喰ったことがあるという。苦かったと書いているのはアナウンサーだった松内則三。         ☆  顔中に|しわ《ヽヽ》をよせて、その|しわ《ヽヽ》にキセルの雁首をひっかけること三十六本。井上洋介のマンガみたいな奇妙な芸だが、それだけで喰えた時代なのである。         ☆  先代の坂東三津五郎は能を観ている最中に便意をもよおしたが、能は観たしで立つわけに行かず、遂に能を見ながらこらえきれずにもらしてしまったという。念の為だが、大きい方である。         ☆  上方落語桂米朝の弟子朝丸は、新宿のグリーンハウスでフーテン乞食相手に「初東上・独演会」を開いたが、途中で警官に追われて「洒落がわからない」と嘆いた。  朝丸がいうには洒落を理解しないのは東京の警官だけではないそうで「米朝師匠もあきまへん」とのこと。 「この間、電車の客席でウンコをしたら、それは洒落にならないと叱られました」         ☆  映画監督山本嘉次郎に食事を誘われたことがある。 「永さん、いいウンコの出るものがあるんです、喰いにいきましょう」         ☆  春風亭米枝。  高座ですわっている以外は、いつでも、しゃがんでいる。  楽屋でも、自宅でも、しゃがんで食事をしたり、新聞を読んだり……。  この人汽車に乗って、腰かけるのは疲れるからと、ズッと、トイレでしゃがんでいた。         ☆  羽仁進作品「ブワナトシの歌」でアフリカ・ロケに出かけた渥美清。  ジャングルの奥のキャンプで野ぐそをすることになったが、どうも無防備な体勢が心細い。  動物を観察してみると、みんな走りながらウンコをしている。  これなら、うずくまっているより安心だと、彼も又走りながらウンコをしてみたという。         ☆  人間ドックに入った渥美清。  検便用の小さな容器に山盛にして看護婦サンに渡した。  受けとった看護婦があまりの重さに思わずよろけたそうだ。         ☆  僕の女房が初産の時、飯田蝶子と話をしていたら、彼女曰ク「奥サンに言っておきなさい。お産なんか、太いウンコをするのと同じだって!」         ☆  野球の小西得郎説によると監督時代に朝のウンコが水洗のトイレで浮んでいる選手はスターティング・メンバーからはずしたという。  沈む場合も一本糞が理想的で、その一本糞も落ちた時にグルッと左に巻くのが良いとのこと。さらに事後、紙を必要としない文字通りの糞切りの良さがあればいうこと無しだそうだ。  その昔放屁の芸人はいたのだが、こうなるとウンコも芸の内になる。         ☆  昭和四十二年三月、上野本牧亭で行われた「狂気見本市大会」でビタミン・アートの一人が舞台でウンコをして、その湯気の立つウンコをちぎって客席に投げた。  僕にしても入場料五〇〇円を払ってウンコをするのを鑑賞したのは初めてだし、芸能史でも珍しい。         ☆  サラ・ベルナールの人気が絶頂だった時に彼女より高いギャラをとる芸人がムーラン・ルージュに出演していた。  これがオナラの曲吹きでバスからソプラノまでの音階で演奏したという。  パニヨルの『笑いについて』にも「著作権料を払わぬ唯一の芸人」として紹介されている。         ☆  汚ない話だなァと感動したのは上方落語で聞いた次のひとくさり。 「橋の上からピリグソたれりゃ  川のどじょうは玉子とじ」         ☆ 「娘の小便チョロチョロ、年増の小便バシャバシャ……」(天王寺詣り)  上方落語で聞くと、少しもいやらしくないのがいい。         ☆  傷まなくて長持ちをするからという理由で足袋は足袋でも、地下足袋をはいて高座にあがったのが柳家三語楼。  この三語楼がさる色街で女郎に声をかけられ、「あなたを見込んで頼みがあるわ」とひっぱりあげられた。  いい気持の三語楼の前で女はクルリとお尻をまくり「お尻のおデキをつぶしてほしいの」とは汚ない話。         ☆  大阪のストリッパー、渚ゆかり。  全ストの最中に客席から手が伸びてマスタードと唐辛子のあえたものを局部になすりこまれた。  犯人は手を切ったばかりのヒモ。  飛びあがった彼女は楽屋に飛びこんで七転八倒。やがて、洗面器に一貫目の氷をたて、その上にまたがって泣いていたという。  アクロバット・ダンサーの京佐松子がお座敷でやる芸に天狗の面をかぶってから、その天狗の鼻を、自分の中に挿入してしまうのがある。その日本的な芸には感動する。         ☆ 「仮リニ夫婦ノ体ヲナシ衰翁ヲ学ビテ夫トナシ、※[#「女+宅」、unicode59f9]女ヲ模シテ婦トナシ、ハジメハ艶言ヲ発シ、後ハ交接ニオヨブ」  約千年前に記録された猿楽の内容のひとつである。  能、狂言の素姓の一面が察せられる。         ☆ 『古事記』では天の岩戸の前でアメノウズメノ命が、胸乳かき出し、番登《ほと》をチラチラさせると神々が笑いころげたとある。  番登とは性器そのものだから、古代ではセックスが笑いの対象であったことがわかる。  今、僕達がかぶりつきで「みせろ!」と叫んで、それをみせてもらったところで笑い出すわけではない。  生ツバキをゴクリとさせるのが落ちである。  ただ通人にいわせると全ストのストリッパーを笑わせると、番登の方も笑うという。         ☆  松村達雄の『金はなくても』に「俳優は一種の露出症であり、露出の極みは性器露出にあるらしいとすると……」と芸人と露出症について書いている。  文字通りの性器露出は場末のストリッパーなら必ずやってくれる。観客は産婦人科の医師になったような気がする。         ☆  簡単にストリップといっても、初めからオッパイを出して登場するマヌカンもいるし、思わせぶりに脱いでいくのもある。  この脱いでいく方法はアメリカで始まったものである。  日本には裸で出て来て洋服を着てひっこんじゃう妙なものまである。         ☆  昭和二十八年の浅草フランス座のプログラムの題名と出演者を紹介。 「メチャクチャ・ストリップ  月世界アレハメ探検記  渥美清、谷幹一、関敬六、その他」  僕は学帽を脱ぎ、襟のバッジをはずしてかぶりつきにいた。         ☆ 「一緒に寝るつもりのない女に関心はない」  ストリップ・ショーが愚劣だといった坂口安吾の言葉。         ☆  外国のストリッパーにはランクがある。  一人目は歩くだけ。  二人目は歩いて時々しゃがむ。  三人目は身体をくねらせるだけ。  四人目は腰を回転させるだけ。  五人目は腰を突き出す。  そしてスターの登場。  彼女だけが歩き、くねり、しゃがみ、腰を回転させ、前に突きだし、のたうちまわる。  それを盲腸の傷や、蚤の喰い跡なんかない美女がタップリとみせてくれてフィナーレ。  スター・システムが徹底しているのがうらやましい。         ☆  乳房の大きいダンサーが客席へ降りてくる。  彼女は目をつけた客の顔をその巨大な乳房ではさみ、左右に振る。  つまり往復ビンタの要領である。  それだけの芸で人気があるのだから面白い。         ☆  一、股下三寸未満、あるいは肉色のズロースを使用すべからず  二、背部は上体の二分の一以上を露出すべからず  三、胸部は乳房以下を露出すべからず  四、片方の足といえども股下近くまで肉体を露出すべからず  五、照明にて腰部の着衣を挑発的に照射すべからず  六、腰部を前後左右に振る所作は厳禁す  七、客席に向い脚を上げふとももが継続的に見える所作をなすべからず  八、「静物」と称し全身に肉襦袢を着し、肉体の曲線を連想させる演出は厳禁す [#地付き](昭和四年・警視庁)          ☆  ジプシー・ローズの東劇バーレスクが突如として中止になったのは、東劇のチャリティー・ショーに出席する皇太子殿下が、運転手のミスで、東劇バーレスクの玄関に車を寄せ、恐れ多くもジプシー・ローズのエロチックなポーズの看板がそこにあった為だという。         ☆ 「芸人というのは、金を持っていれば、あるだけ使っちゃうし、また使わなきゃならないものなんだ。どうせ足りない足りないの世界なら、最初から一銭も持たないで、全部人に任してしまった方がいい。大スターなんてそのぐらいでなきゃいけない。つまり、役者馬鹿になることだ」  昭和四十二年四月に死んだジプシー・ローズはこうして歌舞伎役者のように育てられた。         ☆  ジャズの発生の地といわれるニューオーリンズは、その全盛時代(一九一〇年代)二百軒からの淫売ホテルが並び、女性には芸が仕込んであったという。  アチラもコチラも変りませんネ。         ☆ 「私が三つになった時、はじめて父と母は正式に結婚した。その時でさえ、父は十八、母は十六という子供のような夫婦であった」 「一日に二千五百回客をとる娼婦があったとしても彼女だって強姦を望むまい。それは女性に起りうる最悪のことだ。私は十歳の時、それをこの身に経験したのだ」  こうして彼女は娼婦になる。  ジャズシンガー、ビリー・ホリデイの伝記のプロローグである。  油井正一と大橋巨泉が訳している。         ☆  西郷輝彦が十五歳で童貞を失ったと告白するのは「早い」という意味なのだろうか。 「私は十五歳まで童貞でした」とおそい意味で使う芸人だっている。  マリリン・モンローはその自伝で九歳の時に強姦されたと書いている。  ビリー・ホリデイより一年早い。  アーサー・キットの自伝では六歳の時に自分で破いちゃったとある。         ☆  好事家の間では有名だがマリリン・モンローが来日した時にチラッとみせた瞬間を撮った写真がある。  ピュリッツァー賞を受けるであろうという評判が高かったが、毛がみえたくらいでは駄目らしくて無視された。  僕は池の端の師匠(柳家三亀松)の見事な部分引き伸しを拝見した。         ☆ 「私その度に失神する」(応蘭芳)といった言葉には系譜がある。 「セックスしている時が最高ね」炎加世子。  一九六〇年、安保の年である。  そのあと柏木優子が「セックスは昼間に限るわ」といったが、皆さん映画女優としては残っていない。         ☆  青島幸男は浮気相手の女のベッドから奥サンに電話をする。 「今、可愛い子チャンと寝てるんだ」  これは奥サンもみとめる実話。         ☆  ハナ肇、三ヶ月。  その弟子のなべおさみ、五ヶ月。  結婚式から出産した日までの期間。         ☆  屁の名人の芸談。 「屁というのは匂いがするようではいけません。素人は肛門のヒダをふるわせて鳴らしますが、ヒダでは音程が出ないのです。高い音、低い音と吹きわけるのは直腸そのものの収縮がものをいうのです。大体、匂いにしてもそうですが、喰いものを屁の原料のようにいうのは間違っています。喰いもので出る屁は芸ではありません。吸いこんだ空気を肺ではなく胃袋におさめる、この訓練で苦労をするのです。私の場合、どんな注文にも十秒以内に応じられるのは、空気ならいつでもどこでもあるからなのです。そして、一度吸いこんだ空気の固まりを六十発から七十発にちぎって出せなければ一人前とはいえませんね。逆にこれを細く長く切らないで出せというなら三十秒は続けて鳴らせなければいけません。そして一瞬にしてぶっ放すことも練習します。こうなるとブーとかピーではありません。バリバリッ! と近所に雷が落ちたと思えるようにやります。初めの内は、切れ痔になって困りました。そして三十歳どまりですね。三十を過ぎてこれをやると、どうしてもパンツを汚します。パンツを汚すようでは芸とはいえません。私が引退しようと思っているのも、実はパンツを汚したからです。しかし、全盛期の音はキチンと録音してありますから一度、是非とも聞いてみてください」  以上、実話であるが、当人の希望で名前が書けないのが残念。         ☆  下半身には人格が無いというものの、これだけエピソードが並ぶと、並べた方も肩身がせまい。  かといってカットしてしまうと上半身だけでは人間臭さが出ない。  出来れば読めないぐらいに活字を小さくしたかったのだが、その点を御了解いただいた上、気分直しに次のページへおすすみください。 [#改ページ] [#小見出し] 芸人 その言葉         ☆  プロレスで巨富を築いた故力道山が、その人気絶頂の時、ガソリン・スタンドで五十円余計にお釣りを貰ったのに気がついていったという言葉。 「逃げろ」         ☆ 「私は一億四千万円もの借金をこしらえ、破産宣告を受けて、人間失格の烙印を押された男です。世間ではそんな私をみて『阿呆役者かと思うたら、ほんまの阿呆やったんかいなあ』と言うでしょう」 [#地付き](藤山寛美)          ☆ 「皆さんが私から金を支払わせようと思ったら、芝居をさせて下さい。訴訟するよりも芝居をさせて下さい」  藤山寛美の言葉でもあるが、六代目菊五郎の言葉でもあった。         ☆  芸能史上に残る名文句のベストワン。 「女優を二号にしたのではない、二号を女優にしたのだ」  元新東宝社長大蔵貢の言葉。         ☆  将棋の坂田三吉は木村義雄との対戦(京都南禅寺、昭和十二年)で娘を同席させた。  婦人の同席を拒否された時に三吉はいったのである。 「私の娘は男です」         ☆  先代吉右ェ工門は娘の正子を男の子として育てた。その正子に初潮があったと聞いて怒りだし、 「正子に限ってそんなことが、あってたまるか!」  ……正子、現幸四郎夫人である。         ☆ 「講談だけは芸人くさくない、芸人のいやしさみたいなものがない、武士のなれの果てみたいに肩ひじ張っていたり、男らしいものだという気がしたんです。でも芸人は陰湿です。またこの次の世に生れたら芸人はコリゴリです。いやな世界ですね」 [#地付き](一竜斎貞鳳)          ☆  小津安二郎がいった。 「近頃の撮影所は八百屋になったのか、車が大根を乗せて入ってくる」 「大根はうまいぜ、お前は大根にもなっていねェ」九代目団十郎が菊五郎を叱った。         ☆  沢田正二郎の文章の中に、自分のことを、 「こんなに勉強している男が、役者のうちに大勢いるかしら」         ☆ 「当節のお人は、人様が何もおっしゃらないうちから、自分で名人を名乗っておいでなさるんで、時勢ですなァ。  でも、それをいうと愚痴にとられます。愚痴にとられるのが、いやばっかりに摂津大掾ほどの名人でさえ昔のことはいうまいと心にきめなさったそうですよ」 [#地付き](四代目尾上松助)          ☆ 「明治二十年、四月、かけまくもかしこき陛下、時の外務大臣井上伯閣下の邸に御幸ありつるみぎり伯の殿の仰せをうけ、余それぞれの俳優をひきつれて数番の技を演ぜしときに(中略)抑もいやしき俳優者流にして、いともかしこきおむわたり、咫尺し奉りしは古来ためしなきことにして聖代の余沢とは申しながら芸道のほまれ余家の面目何にたとへん言葉もなくそらおそろしきまで喜びの涙にむせびぬ」 [#地付き](九代目団十郎)          ☆  九代目団十郎がいった。 「この助六は花道に出てポンと傘を開いた時俺は日本一の色男だと思う自信がなければ出来ない役だ」  そして、この助六の傘は雨が降るからさすのではない満開の桜の花びら、その花の雫をさける為である。         ☆ 「私なんか怒鳴られることは平気でした。自分が教えられているんだという気があったからだと思います」 [#地付き](田中伝右ェ門)          ☆ 「素人にわかってたまるか!」  九代目団十郎は劇評家を無視した。  曾我廼家五郎は、批評の批評を書いて劇評家に挑戦している。         ☆  アメリカの大学生が、義太夫語りが見台にしがみついてうなっているのをみて、 「あの苦痛を訴えている人はどうしたのだ」         ☆ 「僕はよくラジオにどなりつけることがあるんだ。セリフがまずかったりすると『そんな泣き方があるか、バカッ』と思わずどなっちゃう、『あなたラジオじゃありませんか』と家内の奴にいわれるよ。でも、いい芸を聞いた時は、チャンと『ありがとう』と礼をいいます」 [#地付き](六代目菊五郎)   以下 彼の言葉を並べる。         ☆ 「近頃、日本の女のくせに熊手を背中あわせにしたようなまつ毛をしている人がいましょう。僕はぞっとする」         ☆ 「劇評じゃ三木竹二という人が一ツの芝居を席を変えて五度みてから批評してました。で本当は千秋楽まで毎日見なければ本当の劇評は出来ないといってました」         ☆ 「手を叩いて喜ぶのは池の鯉だ。池の鯉みたいな役者はきらいだ」         ☆  六代目菊五郎家では毎朝一家内弟子一同で次の訓辞を受けた。 「気をつけ、天照皇大神宮に最敬礼、おのおのの信仰する神仏に礼、御先祖様に礼、天に対する礼、地に対する礼、火、水に対する礼、何事も無我、何事も職業第一、何事も正しく、何事も親切に、何事も真直ぐに、何事も忘れずに、とり越し苦労はやめ、明日のことは今日思うべからず、今日一日をただ朗らかに暮すべし、一、二、三腹から大声で笑うべし、ワァハッハッハ(全員笑う)おはようございます」         ☆  六代目菊五郎の家の近所で日射病にかかった馬が倒れたと聞き、家を飛び出した六代目、倒れている馬の手綱をとって「これ馬よ。私は塩原多助をつとめた菊五郎でがんす。早くなおってくんろ」         ☆  九代目団十郎の助六に対して貫ぺら門兵衛が舞台の上で毎日アドリブで悪口を変えていった言葉に、 「そんな散蓮華のような顔をした奴を知るものか!」 「横向きの分銅のような面を知るものか」 「ヒネた里芋のような面を知るものか」  他に「夕立に遇った雪駄の裏のような」「焼けすぎの塩煎餠のような」「草鞋の裏みたいな」「三味線の胴掛けを裏からみたような」といろいろある。  この種の遊びの精神をもっと大切にしてほしいと思う。         ☆ 「考えてみると、芝居の人間で気の狂う人は五年に一人は出ている」というのは現坂東三津五郎。         ☆  常磐津文字太夫(六世)をある芸人が賞めて「われわれ芸人は河原乞食で結構ですが文字太夫さんは乞食の大将です」         ☆  明治二十七年に死んだ四世嵐寛は死ぬまで石鹸を使わず、糠袋で通した。 「石鹸は牛の脂肪からとったもんやそうな。あんな汚ないもの使われへん」         ☆ 「役者は遊ばんならん商売や。遊びにいて来なはれ」  十一代仁左ェ門はかみさんにそういわれて芸者買いに出かけた。 「色街に義理をつくりなさい」  中村錦之助の母親になる故時蔵夫人もそんなことをいって亭主を送りだしたという。         ☆ 「女子《オナゴ》いうものはな、情《ナサケ》かけたらあかんぜ。女子いうものは中途半端に情かけるから、恨まれたり、化けて出られたりする。女子いうものは、つかまえて、したいようにして、なぐって、張り倒して、しぼれるだけしぼって、叩き売っちまえ。そうしたらもう、その男思い出すのもいやになる。名前思い出すのもいやになる。そうなったらしめたもんやないか」 [#地付き](桂文団治)          ☆  曾我廼家蝶六の殺し文句。 「あんた、なんで私の好きな顔に生れて来やはった」         ☆  京舞の井上八千代(四世、人間国宝)が夫の愛人である芸妓にけい古をつけた理由。 「亭主が好きやいうてる妓が舞いが下手やったら格好が悪い」         ☆ 「色事はきれいさっぱりやるもんだ。出来ねェ時は歯を喰いしばって我慢するものさ」  先々代羽左ェ門がそういった。         ☆  十五代目羽左ェ門のパリ見聞記はエピソードで一杯だが、大部分は同行した渡辺紳一郎の作だという話もある。  ヴィーナスをみて「手の切れた女には用がねェ」といったり、アンコールに応えるシュバリエをみて「あの男、同じことしか出来ねェのか」とか……いろいろあるが、僕が一番好きなのは、ミレーの「晩鐘」をみて「なんでェ、ハンカチの箱のフタの絵だよ」         ☆  十五代目羽左ェ門は、パリで買物をするのに「こ・れ・い・く・ら」とゆっくり日本語をしゃべれば、フランス人に通じると思っていた。         ☆ 「私は由丸から歌之助、そして芝鶴と三度改名、襲名披露をしましたが、一人の役者がどうして何度も名前を変えるのか疑問を持っています」 [#地付き](中村芝鶴)          ☆  朝太、円菊、馬太郎、武生、朝馬、馬石、馬きん、志ん馬、芦風、馬生、東三楼、ぎん馬、甚五郎、志ん馬(再)、馬生(再)、そして昭和十四年、五代目志ん生をついだのが、今の志ん生。  都合、十六回も名前を変えて新記録をつくったが、借金取りが来るので変えたという名前も入っているのが落語家らしい。 「同一の名をつぐことは血統による相続よりも、有力な先進の名を借りて観客の目に権威のかさを着ようという役者達の要望を意味している」 [#地付き](バン・チーゲム 仏劇評家)          ☆  三代目蝶花楼馬楽は明治三十二年の二月、その襲名興行に、 「エー、この度、監獄から出て参りました馬楽でございます」  ゴム紐の押売りみたいな口上をいったが事実、博奕で市ヶ谷刑務所に入っていたのである。         ☆  鈴々舎馬風が刑務所の慰問に出かけて囚人の前での第一声「エー、満場の悪人諸君!」         ☆  春風亭小柳枝、酔っ払った揚句の留置所で味噌汁を一口のむなり、看守を呼びつけ、「味の素を持って来い!」         ☆  古今亭志ん生曰ク「貧乏なんてするものじゃありません。貧乏は味わうものですな」         ☆ 「芸人は売れなくちゃいけません。売れりゃこんないい商売はないけど、売れなかったらこんなつまらない商売はないですよ」 [#地付き](桂文楽)          ☆  円鏡は寄席の高座に登場してペタリとすわると「あァ。テレビ局からテレビ局へ忙しくって仕様がない、ここで休ませて貰おう」         ☆ 「飲まば焼酎、死なば卒中」  酒好きの古今亭志ん生の心意気である。  敗戦で満州から引き揚げてきた時に志ん生が自宅に打った電報は、 「ブジカエル サケタノム」         ☆  古今亭志ん生、息子の志ん朝が大阪へ仕事に行くと聞いて、 「いいかい、箱根の山のコッチは俺が始末をつけてやる。でも山を越えたら俺の手はとどかねェ。自分で始末をつけなよ」         ☆  志ん生の息子の金原亭馬生。 「私は大正に生れたんだか、昭和に生れたんだかわかりませんで、一度、生年月日、そして生れた場所を、はっきりつきとめようと思うんですが、親父は『生れたんだからそれでいいじゃねェか』ばっかりで……」         ☆  横山大観の随筆に曰ク「団洲楼燕枝は立派な男だ、俺の友達でいて、俺の絵を欲しがらなかった唯一の男だから……」         ☆  三遊亭円楽が結婚する時に師匠が演説した。 「円楽には何もいうことはないけれど、ただおかみさんだけにはいっておく。芸人め女房というものは妬いちゃいけない。オレ達をごらんなさい。どんなに女遊びをしたかしれない、だからこそ今日のオレが出来た。もし妬くようなことがあればオレが円楽と別れさす。そのかわり、おまえさんが、チャンと尽しているのに円楽が別れるなぞといったら、円楽を落語界から抹殺する」         ☆  落語では「枕」というが噺を始める前に客の笑いをたしかめる感じで小話をする。  故一竜斎貞丈は「近頃の噺家は枕ばかりで布団がない」とうまいことをいった。         ☆ 「私のを見せましょう。私のは小さいことにかけては人後に落ちません。どんなにコンプレックスを持っている人でも、私のを見れば、たちどころに、そのコンプレックスを解消し明日から、否、今夜から堂と床上をカッポできることうけあい。故花柳章太郎氏も自信をもったモノです。いわば人助けの開帳です」  と見せたがるのが現江戸家猫八。         ☆  僕は物真似という芸が好きだ。  声帯模写という古川ロッパの創った言葉でなく「物真似」が好きだ。  三代目猫八が、お笑い三人組を終って寄席に戻る時にいった言葉、 「やっと、ほととぎすが啼けるようになりました。えェ、親父の墓の前で……指が血だらけになっちゃって……」         ☆  渋谷天外が藤山寛美を育てたコツときかれて「おだてることだす」         ☆  余計な世話ではないが渋谷天外がこんなことをいっている。 「升田幸三、横山隆一、永六輔、この三人が役者になってくだすったら、喜劇はもっとおもしろいものになってまっせ」         ☆ 「私が世の中で一番嫌いな人、最も軽蔑する人、最も恐ろしい人、その人が私の生みの父親であり、どうしてもなつけなかったその人の妻が私の生みの母親であったのだ」 [#地付き](有馬稲子の『告白的自叙伝』より)          ☆ 「私は女優としての誇りより、屈辱の方をより多く感じています」  初期の代表的女優松井須磨子の言葉である。         ☆ 「……抱きしめて抱きしめて、セップンしてセップンして。死ぬまで接吻している気持になりたい。まァちゃんへ、キッス、キッス」  これは「逍遙、抱月、須磨子の悲劇」(河竹繁俊)の中に出てくる抱月から須磨子へ宛てたラブレターの原文である。         ☆ 「自己を正当化するためや、他者を否定するために独断的に伝統という言葉が使われてはいけません」 [#地付き](野村万作)          ☆  茂山千之丞が語った。 「能・狂言の世界は明治維新に貧苦の底につきおとされまして、中には泥棒になった者もおります。それを聞いて警官になった者もおりますが……」         ☆  能を観て「地獄から聞こえてくるうめき声」そういったのはおしのびで日本に来ていたジャン・ジュネ。         ☆ 「死ぬほど退屈した」  能を観たジャン・コクトーはそう書いたがジャン・ルイ・バローは違う。 「能の静止は息づいている。死ぬほどの感動である」         ☆  サラ・ベルナールも出演したオデオン座の支配人ジャン・ルイ・バローが最近クビになった。  理由は五月革命(一九六八)のデモ学生に劇場を開放した為だが、彼はあの時にこういった。 「ここにいるのは俳優のバローだ! 支配人のバローはすでに死んだ」         ☆  芸能人から政治家というコースは芸能人としては小さいそうだ。  フランク・シナトラのボスはこういう、 「政治家なんかになるんじゃねェ。政治家は飼えばいいんだ」         ☆ 「この頃になって、やっと無料で歌えるようになりました。うれしいですね、そこまでくるのは容易じゃなかったんですが……」  東海林太郎という最高級の芸人でなきゃいえない言葉。  彼に較べるとお粗末な人間国宝や芸術院会員の多いこと!         ☆  東海林太郎が歌う時に燕尾服を着る理由というのを聞いた。 「私は自分の歌をクラシックとして歌っているのです。私はクラシック以外の音楽を絶対に認めません。日本の歌が流れてくるとテレビでも、ラジオでもスウィッチを切ります。あんなものを聴くと馬鹿になります」         ☆ 「私はショーをやったことはあるけどリサイタルをやったことはありません。リサイタルという言葉は私がクラシックを歌う時の為にとってあります」  つい最近の淡谷のり子の言葉。  昭和四年。彼女がオペラでデビューした時に「十年に一人のソプラノ」といわれた。         ☆  日本のオペラの恩人、イタリア人ヴィットリオ・ローシーの帰国(大正七年)の言葉。 「私は日本とサヨナラします。私には芸術が有り、この芸術のあるところは世界中すべて私の故郷なのです……ただ日本を除く外は!」         ☆  ローシーの教え子で健在なのは田谷力三。  田谷に憧れたのが藤原義江。 「外国人を相手にしたら、のどは絶対駄目。ことオペラに関する限り絶対に!」  日本のオペラ運動第一人者、藤原義江の言葉。         ☆ 「それが新しいものなら下手でもいいんです。ですから、下手な歌舞伎はみちゃいられません」  スターリン平和賞の声楽家関鑑子。         ☆  テレビ以後目立つのが照れる芸人である。  加山雄三が歌う時、坂本九、伊丹十三が話す時の照れくさそうな物腰、照れすぎて失言するのが野末陳平、野坂昭如、永六輔といったところ。  照れているのに誤魔化しているのが、前田武彦、青島幸男、大橋巨泉。  逆に全く照れない代表は三波春夫。 「私の声が、私の唇から離れた瞬間、それはもう大衆のものなのです」         ☆ 「眠れる農民よ、労働者よ!  めざめよ!  軍国主義を墓場に!」  昭和二十四年、シベリアから帰った時の三波春夫の言葉である。  現在では自衛隊の後援にも熱心である。         ☆ 「お客様を神と観て歌う」のは三波春夫。 「私は自分が神のように思える」といったのは新国劇の沢田正二郎。         ☆ 「三味線の作曲は洋楽と違って基礎になる曲を巧みに組みあわせる作業をして、しかもどこからとったか気がつかれないようにするのです」 [#地付き](稀音家《きねや》六四郎)          ☆  バーナード・ショウ曰ク、 「作曲というのは壁紙の図案のようなもので端ッこだけ出来ればあとは何でもない」         ☆  エノケンが浅草の舞台に出ている頃、酒に酔ったままヘベレケで登場。  それをみた客が「コラ エノケン 無理しないでそこで寝てろ!」  昔の客は粋でしたというのだが……。         ☆  古川ロッパが座敷に招かれた時、若い役者が、座布団の位置を気にしているのをみて、 「どこにでも座りなさい。お前が座ればどこでも下座だ」         ☆  林家三平から「新巻鮭」が届いたことがある。  逢った時に礼をいったら、 「あ……ァ、永さんのところへ行ってましたか……じゃ、しょうがない」         ☆  稲荷町の師匠、林家正蔵は芝居噺を再現している唯一の落語家だが、正義感の強いことでは芸界随一、江戸の町人気質が残っている。 「私はね、共産党を、ひいきしてるんです。あそこは、書生っぽいから」         ☆ 「誰かが�あなたは大変に美しい人だ�といったことがありますか?」  初対面でそういったのはリチャード・バートン。  いわれたのはエリザベス・テイラー。         ☆ 「貴女は明日もそんなに美しいですか?」  いったのはデイヴ・ブルーベック。  いわれたのは僕の女房。  芸人は口がうまい。         ☆  毎年、日本に出稼ぎにくる芸人が増えている。そんな一人だったボブ・マグラス。  ミッチ・ミラーのグループにいた彼が不二家チョコレートのコマーシャル・ソングで売り出したのは御存知の通りだが、とても不思議そうにいった。 「一昨年、僕は銀座で誰にも振り向かれた。去年は十人の中、五人が振り向いた。今年は誰も振り向いてくれない」         ☆  柳家三亀松が吉永小百合に始めていった言葉。 「姉ちゃん、毛は生えたかい」         ☆  柳家三亀松夫人は宝塚少女歌劇出身である。  池の端のお宅には夫人と犬が十数匹。中には一匹百万円もする犬がいる。  師匠曰ク「働きたかァないけど、犬のエサのことを考えるとなァ」         ☆  有名なエピソードでは死んだ三亀松が放送で時間をちぢめろというサイン(指先をクルクルまわす)を受けて「この野郎、俺はトンボじゃねェや!」         ☆  大阪の芸人、桂南天(錦影絵などが出来る貴重な芸人)を昭和四十三年の夏、東京に案内した。  東京駅についてまずビックリ、 「ここが東京駅ですか……なにしろ日露戦争以来始めてだもんで」  彼も驚いたが、僕の方も驚いた。         ☆  礼儀正しいタレントとしては屈指の故堺駿二がテレビで息子(正章)を語り「この子が不良にならなかったのも、芸能界に入ったおかげで……」         ☆  結婚ということでは丸山明宏が彼のリサイタルでつぶやいた言葉が面白かった。 「私、よくいわれるんですよ。嫁に行くのか、貰うのかって」         ☆  飯田蝶子が落ちつきのない人を表現して「生殖器にハチが入ったみたいだ」         ☆  独特の映画評論家、淀川長治元「映画の友」編集長。  こんな、あいさつをする。 「暫くねェ、さわってもいい?」         ☆  小島政二郎氏はしばしば近頃の芸人を怒っている。 「実際テレビにでている彼奴等《きやつら》の物の言い方はあれは一体何だ。客に向って言う物の言い方か、無礼至極である」         ☆ 「自惚れが強く、天狗で我がままで、嫉妬深く、他人の悪口を好み、身勝手で、物を知らず、世間をみないものに俳優がある」  これは明治の興行師田村成義の言葉。  古川ロッパはこの言葉を逆説として、これは人気者の条件だとしている。         ☆ 「勝って騒がれる相撲じゃ駄目だ。負けて騒がれる相撲になれ」  相撲界の古話。         ☆  新派の伊井蓉峰は特にあらたに「私は女客には決して買われない」と声明を出したことがある。         ☆  今は亡き漫談の大辻司郎がアメリカから帰って来ての第一声。 「只今、アメリカでは英語とジャズが大流行であるです」         ☆  グループ・サウンズをみていた金語楼。 「私も昔は妙な格好でバンドをつくりました。サモア・ジャズという名前をつけまして毛布に穴をあけて、そこから顔を出して演奏してましたらサモアというところは暑いところだそうで、翌日はサルマタ一枚になりました」         ☆  喜多村緑郎は八十歳になろうという年でも階段や自動車の乗り降りに人の手を借りなかった。  親切に手を貸そうとすると、 「年寄り扱いするなッ!」         ☆ 「私は神戸に生れました関係で、異人屋敷からもれる音楽に興味を持っていました」  琴でガーシュインを弾こうとした宮城道雄の言葉。         ☆  石田天海が天皇に奇術を御覧にいれた時、玉をあしらってから、にぎりこぶしをつくり、 「さて、右の手でしょうか、左の手でしょうか」と玉を持っている方の手をあてていただこうとしたら天皇は左右を決めかねて、だまっていらっしゃる。  侍従が後から小声で天海に「陛下はお決めになりません」といったという。アリソウナ話。         ☆ 「まいど格別のごひいきにあずかります。何しろ、あっしは数年の間、パリで修業いたして参りましたので、そのお土産をどっさり披露いたしやしょう。そもそも泰西奇術ってェとボレルン(ベルリン)のバネッキ大先生が世界一、ほかにネッポロス(ナポリ)にボロジンてェ先生もいるがなんてったって、あっしの師匠バネッキには敵やしません。この大先生にお手ほどきを願ったところ、親しく日本のお客様にもみていただきてェと、帰って参りましたのが明治七年の七月二十三日、まずあっしが我が国で西洋手品の看板をあげたいの一番に当りやす」 [#地付き](柳川一蝶斎)          ☆ 「森繁は老舗、フランキーはレストラン、俺は大衆食堂だ」といったのは伴淳三郎。         ☆ 「家元は全人格で人に接し、御飯の食べ方まで見習わせるようなもの」 [#地付き](安達瞳子)          ☆ 「芝居は脚本じゃない、役者ですよ、役者がよければ脚本の悪いところは消えちゃうのです」と脚本家でもあった坪内逍遙の言葉。         ☆  その劇団活動の初めに、  素人を俳優にするといったのは島村抱月。  俳優を素人にするといったのは小山内薫。  そして現代は、  俳優と素人の区別がない時代。  自分が芸人でございといえば、芸人として通用する。  芸も、芸人も、その世界も変りつつあるが、変らせてはいけないものもある。  それは芸人であることの後めたさだ。  その後めたさと戦うのが芸の修業だ。         ☆ 「私共が自由劇場を起しました目的はほかでもありません。それは生きたいからです」  明治四十二年、小山内薫と左団次が「自由劇場」を起した時の言葉。 「知識人ともつかず、思想家ともつかず、芸術家ともつかず、常識に欠け、人情が無く、エゴイスティックで民族性がない、発育不全の新劇人に対する別れと挑戦!」  昭和二十五年「新制作座」を起した真山美保の言葉。         ☆  西田幾多郎はNHKの出演交渉を「浪花ぶしなんかと一緒に放送させるのか」と断わった。         ☆ 「わたしは浪花ぶしというものが大嫌いである。蓄音機で聴くさえ恥辱と思っている。わたしにとって芸人のもっとも下司なものは相撲とりと浪花ぶしとである」とは久保田万太郎も下司な文士。  芸は何事によらず下司であるべきだと、僕は思う。  相撲とりが芸人とは思うけどネ。         ☆  昭和の初め、相撲のことを裸芸人という言葉が残っていた。  これでいくと野球の選手はマリ投げマリ打ち芸人である。  この芸人の王・長嶋が自民党の選挙運動を応援しにいって演説したそうだ。 「自民党が天下をとっているからこそ野球が出来るのです」         ☆ 「日本民族のいわば優生学的に、たけく生まれて、たくましく育ち、伸び、どのような迫害や暴圧にあっても決して滅び去ることなく、あくまで正しく、力強く生きぬこうとする、根づよく、しぶとく、屈せず、撓まない、不断の意欲——生命、発展の念願を実現しようとして、神々、すべて自分の内にある神々に祈り、誓う、反言すればあくまで己にうち克って、生活内容を充実せずにはおかないという、そのひたむきな信条」  これを裸芸人と呼ばれた相撲の横綱が体得しなければいけないというのが彦山光三。  そんな相撲とりがいるかなァ。         ☆ 「俳優はその全精神生活を演じるという仕事に吸収されなければならない。  従って俳優が初対面の異性に対して『さァベッドで寝よう』とだけしかいわなくても非難する気はない、それは演劇活動の本質から来ていることだからである」  とドイツの性科学者が書いている。         ☆  余計にいっても、余計に思われなかったのがベルリン・オリンピックで、「前畑ガンバレ!」の中継をした河西三省アナ(昭和十一年)。「前畑ガンバレ」を実に三十六回も繰り返して名放送といわれた。  双葉山が七十連勝を断たれた時、和田信賢アナウンサー。 「時、昭和十四年一月十四日、旭日昇天正に六十九連勝、七十連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭安芸の海に屈す。双葉七十連勝成らず!」  これは全く無駄がない名アナウンス。  スポーツ中継が盛んな割に最近のアナウンスには個性が無い。         ☆  和田信賢アナがヘルシンキから中継で、 「こちらにはトランプのキングやクイーンみたいな顔をしている人がいっぱいいます」         ☆  東京オリンピックには珍アナウンスがあった。  その入場式で「続いてアフリカからやって来ましたガーナの選手団、上野の動物園でもさぞ声援を送っていることでしょう」  アベベの優勝では「少年時代のハシカを克服した名選手アベベ……」  ハシカなら誰だってやってるけどネ。         ☆ ※[#歌記号、unicode303d]若輩ものではございますが ※[#歌記号、unicode303d]ようこそきいて下さいました ※[#歌記号、unicode303d]死んでも御恩は忘れません ※[#歌記号、unicode303d]悪声ながらもつとめましょう  浪曲のコンプレックスがよく現われている。         ☆ ※[#歌記号、unicode303d]夏とはいえど片田舎  有名な浪曲の一節だが、文法上の間違いを気にしてはいけない。  逆にいうと浪曲を支えている言葉の程度はこんなものなのである。  そして、何という調子の良さ。 「これはいずれも、遅刻千万忝けなし」 「あァ欣喜雀躍、悲しいかな」  こういう無茶なセリフをいって無茶と感じさせないのが芸だともいう。         ☆  この言葉づかいの無神経さは歌謡曲の作詩の中にも生きている。  作詩家で自作を照れないで読める人がいたらお目にかかりたい。  美しく豊かで正確な言葉という点だけでみればレコード大賞なんてナンセンスもいいところである。  作詩家として恥かしいと思う。 [#改ページ] [#小見出し] 芸人 その環境         ☆ 「芝居者ってのは、ヤクザものなんですよ、それを意識しないとダメですよ、芝居をするってのはいいことでもなんでもない。芝居者ってのは、はんぱ者だってことを忘れてはいかんですねェ」  三島由紀夫作品の多くを手がけている演出家松浦竹夫の言葉。         ☆  中村芝鶴の文章に、 「演劇界は地獄の世界です。強きを助け弱きを挫く権力者の横行、謀略、偽善、虚勢、嫉妬、羨望、虚栄、淫猥、全て完備している世界です。そしてその中で働く者は忍従と屈辱、飢餓、精神錯乱に耐えながら、飽きることなく生涯を生き続ける不思議な世界であります」         ☆  スカタンの春団治といわれた名物男(昭和九年没)の先妻にあたる人から話を聞いた。 「皆さんがおっしゃるほどエロな人と違います。面白がらせるのが好きで、他の人の話まで自分のにしたのとちがいますか……」  春団治と別れた後に再婚したが、その御主人はナワ張り争いから射殺されている。         ☆  火事の火元争いから七人を斬ったという阪東要次郎(阪東妻三郎の門人)という役者もいる。         ☆  ミロス・ミロセビッチ  ステファン・マルコビッチ  この二人のユーゴ生れの男達が三年前と今年と続けて殺された。  ステファンはパリの裏町でなぐり殺され、ミロスはハリウッドのミッキー・ルーニー宅で射殺されている。  そして、二人の職業はアラン・ドロンの秘書であった。         ☆  日本ではルーキー・新一が恐かつで、荒木一郎は強制わいせつ罪で逮捕されているが、外国ではアラン・ドロン、ジョージ・ラフト同様フランシス・アルバート・シナトラ(通称・フランク・シナトラ)がギャングの親分を兼ねている。  E・リード、O・デマリスという二人の記者が書いた「グリーン・フェルトのジャングル」(田中淑郎訳)が詳しい。         ☆  ジーン・ハーロー。  サイレントの大女優だが、ギャングの親分ロンジ・ジルマンの女でもあった。         ☆  ニューヨーク・ミラー紙が書いた。 「シナトラが短期間の間に歌手として有名になったのは誰でも知っている。しかし、その背後にギャングがいて彼を操っている事実は知られていない。彼はカポネの従兄弟とつきあい、今日の大親分ラッキー・ルシアーノを友達と呼んでいる」  シナトラが仲間同士のこじれから息子を誘拐されたのは御存知の通り。         ☆  ビング・クロスビーが語る。 「シナトラは常にギャングになりたがっている。そのはけ口に記者にどなりちらして満足しているのだ」  シナトラがトミー・ドーシーの楽団で歌えるようになったのは、ドーシーの口の中にピストルを突込んだからだともいう。         ☆  明治二十三年生れ、十歳で博奕をやり尋常小学校の四年の時、品行が悪いという理由で退学処分、従って学歴は小学校中退というのは古今亭志ん生。  今や、人間国宝にしてほしい人である。         ☆  明治二十九年三月十八日、大阪で横井座が開場した。  三千人の客席をもつという大劇場だったが、座主横井勘七は、その開場式に斬殺されている。  相手は旅仕度の殴り込みというから東映映画も顔負けの実演である。  興行界では珍しいことではなかったという。         ☆  明治四十年、芝居茶屋の制度を切符制度にしたことで先代の左団次は暴力団になぐりこまれ、初日にはピストルで狙われた。  川上音二郎の時は座員に重傷者が出たのを担架で舞台に運び出し、客の前で断乎として新しい演劇運動をつづけると宣言している。         ☆  昭和十五年、僕が八ツの時、我家の近所でチャンバラがあった。  俗にいう広沢虎造の興行権をめぐる浅草田島町殺傷事件。  斬られたのが山口組二代目。  時折、組織暴力団解散で名前の出る田岡親分(かつてのひばり・旭の仲人)はこの三代目。         ☆  トーキーへの切りかえをすすめた城戸四郎は、その自宅で白刃をもった男達に襲われた。  無声映画おなじみのチャンバラの実演である。  過去の映画屋は白刃をくぐる程度の度胸は持ちあわせていなければならなかった。         ☆  剣劇王とよばれた阪東妻三郎は、昭和二年ユニバーサル映画との提携のもつれから、介入した暴力団と実際のチャンバラを演じている。         ☆ 「僕も最初のころは、やくざに追われたものですよ。日本刀を振りかざして追って来る男から逃れる為にこの小屋の裏階段から逃げたこともある」  日劇ミュージック・ホールのプロデューサーでもこの程度のことがある。         ☆  星亨を暗殺した刺客伊庭想太郎は九世団十郎の舞い姿の中で斬り込める隙が無かったと驚いている。  この伊庭の息子が日本の音楽評論を開拓した伊庭孝である。         ☆  沢田正二郎、上山草人、伊庭孝といえば明治演劇史に残る人達だが、苦闘時代にこの三人で泥棒になることを決心し、伊庭が見張り、沢田が家人を縛り、上山が盗み出すという役割まで決めたが未遂に終っている。         ☆  徳川夢声の活弁としての師匠は清水霊山である。  この清水霊山は元役者だったが、その時の思い出ばなしに共演の女形が掏摸の本職だったというのがある。  掏摸といえども名人級ははいている足袋を掏るというのだから芸人の内なのかもしれない。         ☆  はいている足袋を掏るというと奇術のようだが手順がある。  まず、すれちがいざまに目ざす足袋を汚す。足袋を汚された人が、その足袋をぬいでフトコロにいれる。  それをあらためていただくのである。  着ているYシャツを掏るという芸人がいたが、これはネタがある。  掏摸の芸人はいまでもよくいる。         ☆  長谷川一夫が松竹から東宝にうつる時、その顔を斬られたことは有名。(昭和十三年)  その当時、大都映画をやめた小金井勝という俳優は全身四十八ヶ所を斬られたという。  初期の日本映画がいかにやくざと密接だったかよくわかる話。         ☆  昭和十四年。  当時人気絶頂の「あきれた・ぼういず」が吉本興行から新興演芸部に引きぬかれた。  この時、つきものの暴力団が「あきれた・ぼういず」を刺すという噂が出て、益田喜頓や、山茶花究《さざんかきゅう》は京都の旅館にかくまわれ、ビクビクしていた。  この旅館の娘が成長して女優森光子になった。         ☆  森光子は小学生時代に自分に父親がいないことを知って苦しんだ。 「〈ててなしご〉という言葉を抹殺してしまいたい」  これは坂本スミ子の言葉。  もう一人、上方芸人の笠置シヅ子もその自伝に非嫡出子だったことを書いている。 「僕は罪の子だから、おろされそうになったんです」  不倫の子、長谷川一夫の言葉。         ☆  三木のり平の本名は田沼則子。  父親に漢学の素養があって「則子」とつけた。  孔子、孟子にあやかっているのである。  この父親には別に妻子がいた。         ☆  十九世紀から二十世紀初頭、世界的な女優として名をなし、一九二三年、七十七歳で死んだサラ・ベルナール。  彼女もまた非嫡出子、女優という仕事をけがらわしいと思いつづけていたが誇りもたかかった。  彼女はベッドのかわりに金貨を敷きつめた紫檀の棺桶の中で寝ていたという。         ☆    藤原義江は芸者の生んだ子で、その芸者の兄はやくざ者だったと『浅草オペラの生活』(内山惣十邱)に書いてある。  芸人・芸者・やくざとそろっていることになる。  小沢昭一は自分の血の流れの中に淫靡なものを期待して家系を調べたが健全なので失望した。         ☆  徳川夢声の自伝に恋人の出来た母親が彼と最後の別れをかわす場面が出てくる。  豆本とポンチ絵を買って貰って母親を見送る彼は六歳。         ☆ 「わたしは御本宅の子やおまへんのンで、別宅の方なんで、そらつつましい暮しでしてン、役者の家やからと想像しておいやすようなレベルとは大ちがいでした」  先代鴈治郎の娘、中村芳子の言葉である。 「御本宅の子やおまへん」という言い方が自然でいい。         ☆  大正十五年に死んだ尾上栄三郎は五代目梅幸が芸者に生ませた。  俺の子ではないだろうと無視していたが顔が似て来たので、あらためてひきとったという。         ☆  落語・講談のような一人の芸ではない場合、夫婦、親子、兄弟という形で成立する芸は多い。ナントカ・ファミリーズというサーカスの曲芸から、能・狂言にいたるまでといってもストリッパーでは、姉妹の場合しかないが……。  日本の芸がいかに家族主義の中で育てられてきたかを痛感する。         ☆  家族そろって俳優になるというのは珍しくないが女優劇初期のスター森律子が芸能界に入った時、その弟はショックの余り自殺している。         ☆  上方漫才のいとし・こいしは実の兄弟である。  大阪にはこの他、ダイマル・ラケット、はんじ・けんじといった兄弟組から、夫婦組の漫才が実に多い。  元夫婦という形はミヤコ蝶々・南都雄二にみられるが鳳啓助・京唄子の場合はもっと複雑である。  啓助の愛人に子供が出来て唄子は彼と別れて再婚する。  この再婚した男と啓助の弟がコンビの漫才なのである。  勿論、離婚したものの啓助・唄子はいつも二人で漫才をしている。 「つまり、うちら変態なんとちゃうかなァ」  そういったのは唯一人、芸人ではない啓助の新夫人である。         ☆  漫才の世界では、「前の嬶《かか》ァかい?」というのが日常のあいさつだったという。  そのくらい、別れ方の早いのが上方漫才の伝統なのだそうだ。         ☆  昭和十一年、七十七歳で死んだ市川中車の父親は松村久五郎、長脇差を腰にぶちこんだ侠客だったという。  この中車、子供心に坂本竜馬が殺された騒ぎをおぼえていると書いている。  そして明治の芝居は博奕とは切るに切れない風習があって太夫元は貸元、芝居小屋は賭場をかねていたとある。  つまり、ラスベガスなのだ。         ☆  市川中車、若い時に侠客の世話になったせいか、花井お梅が刑期を終えて出所した時も着物を贈ったり、首を斬られた夜嵐お絹の子供を養子にしたりしている。 「役者渡世」などという言葉も使っているのが古風である。         ☆  夜嵐お絹は嵐璃鶴という役者と密通して旦那を毒殺したというので打首。  九代目団十郎はその打首を見にいったという。         ☆  初代吉右ェ門の父にあたる歌六は会津の小鉄に可愛がられたという。  会津の小鉄、幕末の侠客である。  喜劇の曾我廼家十郎はこの歌六の弟子で初代吉右ェ門のお守りをしていた。         ☆  松竹が芝居興行に手を染めたのは、松次郎、竹次郎兄弟が山川正吉という親分から役者に貸した金の証文の束を貰ってからだという説がある。  明治十年生れで健在の大谷竹次郎松竹会長は思い出話に「私もピストルを持って興行をやったことがあります」という。  日本の歌舞伎がピストルで守られた時もあるのである。         ☆  神戸にピス健というピストルのうまい親分がいた。  日本に初めてトウダンスを紹介した高木徳子はこのピス健との関係があって不遇に終った。  明治四十二年、彼がつくった国際柔拳クラブこそ、日本拳闘協会の前身になる。         ☆ 『無職渡世』(志村九内の生涯)という本がある。  ここでは「ぶしょくとせい」と読ませる。  この伝記の中で侠客と政治家と芸人が同じような精神構造であることが出てくる。  つまり、侠客は政治家や芸人をテンから仲間だと思っているのだ。         ☆  雪村いづみのマネージャーが暴力団との関係で逮捕されるくらいだから、芸能界との縁は、もしかすると永遠に切れないのではないかと思ってしまう。  これは暴力団を抑制するより、彼等と同じ血が僕達、芸人に流れていることを認めることの方が大切なのである。         ☆  警察に捕えられては釈放された数において全学連の猛者でも川上音二郎には遠く及ぶまい。  音二郎は自由童子と名乗った壮士時代だけで一八四回を数えている。         ☆  このところ組織暴力団の手入れが続き、資金提供の形で協力させられた芸人の調書がとられているが、その多くが暴力団を弁護してしまうので警察では頭をかかえている。  後難を恐れてというのは臆病でいいが、田宮二郎のように親分の襲名披露にも友人として出席するようになるとこれはもう芸人の素姓の問題として考えなければならない。         ☆  先年亡くなった相撲の呼び出し太郎の自伝を読んだ。(呼び出し太郎一代記)  地方巡業の話になるとその興行師が土地の親分であること。  彼自身、杯を貰って子分になり、ドスをふところに賭場に出入りしていたこと。  力士は親分の勢力争いの道具だったこと。  いろいろ書きつらねてある。  果してこの悪縁が絶ち切られているだろうか。         ☆ 「乗りうち三日御免」という言葉がある。  これは流しの世界のもので、三日の間は土地の親分に許可を得なくても歌えるということだ。アイ・ジョージ、遠藤実、北島三郎、こまどり姉妹など流し出身のスターは多い。         ☆  八木節元祖堀込源太は大正八年にその人気をねたんだ人に湯呑みに毒をいれられて声をつぶされた。         ☆ 「僕はポン引きだってしたことがあるんです」  このところ女装劇に熱中している丸山明宏の昔ばなし。  その彼が女優として契約したという。  歌舞伎の歴史では風俗取締りという時点で女形が発生している。(一六三〇年)  つまり女形は圧政の結果のゆがみとして生れた芸人である。  時は昭和元禄、天下公認の女優丸山明宏、天草四郎の生れ変りとあって、その妖しさ、ますます河原者の影が強い。  芸人というのは、どこか妖しくなくてはいけないと思う。         ☆  一九二〇年、禁酒法以後、ジャズはシカゴのギャングに育てられる。  シカゴを中心にして一万軒の秘密酒場、スピーク・イージイを支配した時、アル・カポネは三十三歳。丸山明宏、立川談志、長嶋茂雄、和田誠といったあたりと同年輩。  ジャズ・ミュージシャン達がギャングをスポンサーに血なまぐさい演奏を続けたのは映画でもおなじみ。  一九三三年、禁酒法が無くなった。  日本ではやくざをスポンサーにして浪曲が伸びている最中。         ☆  清水の次郎長は神田伯山と広沢虎造によって、その名を不朽のものにした。  虎造は伯山の講談から浪曲にしたのだが伯山は松廼家太琉からネタを仕込んだ。  この松廼家太琉という講釈師は、彼自身荒神山の喧嘩に参加したという人である。  次郎長に直接関係のあった人で長命だったのは三代目おてふで大正五年八十一歳で死亡。         ☆  曾我廼家五九郎が若い頃明治十七年に清水の興行で次郎長をこきおろし、子分達に叩きのめされた。  気を失って気がついたら絹布団の中で枕元に清水の次郎長が座っていて、謝まってくれたという。         ☆  名古屋の吉川辰丸という浪曲師。  侠客肌で兇状持《きょうじょうもち》をかくまうのが趣味だったという。  吉川友丸という浪曲師は、芸道上の記録は何も遺っていないが、博徒としての記録なら残っているという。  勿論、浪曲だから明治以降の話である。         ☆  雲右ェ門が、歌舞伎座に初出演すると聞いて歌舞伎役者が総反対。一方、雲右ェ門の後援者には博徒が多かったから「歌舞伎座なんか焼き払え!」とこれ又、荒っぼい。  仲に入る人がいて手打ち式になったが、雲右ェ門、盃洗をとって小便をつぎ込み、仲裁役に飲めといった事から再びもめごと。  結局は、川上音二郎についで歌舞伎座の舞台を踏んだ。         ☆  大陸浪人宮崎滔天は一時、雲右ェ門に弟子入りをして牛右ェ門と名乗り、インディアンと戦う鉄道工事の労働者、つまり、西部劇を浪曲にして演じている。         ☆  浪花節——興行師——右翼とつながる縦の線にやくざ組織の横の線がつながっていた過去の地方興行の形はそのまま残ってグループ・サウンズの興行にまでひきつがれている。  地方に出ていく場合は映画のロケーションも同じことで、その筋の親分にわたりをつけるのが常識である。大島渚作品でも、今村昌平作品でも、プロデューサーは酒なり、金一封を持ってあいさつにいくのである。         ☆  日本近代奇術の父といわれる松旭斎天一は大道のインチキ修行僧から出発し、火渡りの術に失敗して、足の裏を火傷してから、今度は奇術の修業、後に天勝というスターを生みだして、明治から大正にかけた奇術全盛時代をつくった。         ☆  土肥露八、彰義隊の生き残りで芸人になった。  吉原の幇間としても名をなしたが、武士の誇りがすてきれないところから芸人としては中途半端に終った。  幕末の寄席の楽屋には刀掛けがあったというから、武士でありながら芸人というタイプは多かったのであろう。  幕府が軍楽隊をつくることになった時、この種の遊芸にたけた武士達が選び出されている。  今東光の初期の小説「ヤッパンマルス」がこの辺を書いて面白い。  他にも幕末の剣豪、榊原鍵吉が剣術試合や剣舞の見世物をやったケースがある。         ☆  ボクシングが日本人の手によって紹介されたのは明治二十年。  錦絵に残されているのをみると「欧米大相撲」とあり、選手は「喧嘩渡世人」、レフリーは羽織はかまで扇をもった土肥露八であった。         ☆  木村錦花『興行師の世界』によると、清水の次郎長の芸人扱いがひどかったとある。  つまり、東海道一円の興行権を持っていた次郎長親分は芸人に仕事をやらせておいて、ギャラを払わないで追い出したりしている。  今のやくざも同じ手を使うが、これを芸人側では「御難」(ゴナン)という。  彼は後に自分が建てて寄付した刑務所にいれられている。  この次郎長の晩年はステーキを喰い、ベッドに寝て、英語を習っていた。死んだのは明治二十六年。  逆にいうと桂文楽、東山千栄子といった人達はすでに生れている。         ☆  新門辰五郎といえば古典的な侠客の名門だが、戦前の浅草の劇場の表方(呼び込み)は全部が新門一家で、劇場関係の保安係でもあった。  新劇の山本安英ですら浅草に出演した時は恐いオニイサンのところにあいさつに行ったと書いている。         ☆  四国高浜に石原作太郎という興行師がいた。  興行が失敗すると責任上指を斬り落して相手に納めた。  最初の指は桃中軒雲右ェ門、二本目の指は松竹という風に渡して、最後には両手あわせて三本しか残っていなかったという。  明治では地方の興行師は侠客であった、ということは今でも多いということである。         ☆  明治四十四年に死んだ吉田卯之助という興行師も刀傷の跡だらけで「切られ卯之助」と呼ばれたという。  大阪の代議士天川二郎とは兄弟分で、卯之助の息子も市会議員になっている。         ☆ 「籠寅」といえば全国に通用する興行師の親分である。  昭和五年、そこの代表保良浅之助が立候補して全国最高点で当選した。 「親分に一票を!」応援演説をした中に曾我廼家五九郎、砂川捨丸、長谷川伸の名前がみえる。  保良は議会で暴れ、二年でやめているがその後『侠花録』という本を書き、その著者名の上には「勲四等」と印刷してある。         ☆  キューバでカストロの革命軍に在籍していた映画スターがいる。  ハリウッドの王子と呼ばれたエロール・フリンである。  彼はスペイン動乱にも参加している。         ☆  南都雄二の芸名は蝶々が彼に「何という字?」と台本の読めない字を聞いてばかりいるところからついた。  この人が家で寸たらずの浴衣をみつけた。  現夫人が泊りにくる前夫人蝶々の為につくった寝巻とのこと。 「妙な気分ですねェ」         ☆  南都雄二が浮気すると夫人は前夫人の蝶々に報告する。  従って彼は前夫人につるしあげられる。  雄二がこのところヒョロヒョロにやせてしまったのはこの板ばさみの為だという説もある。         ☆  戦後、ヒロポン中毒で入院していたミヤコ蝶々は、ある時、病院の隣の刑務所の服役者達が彼女を指さし「人間、あァなったら、おしまいや」といっているのを聞いて、ヒロポンをやめる決心をしたと自伝に書いている。  彼女の師匠でもあったミス・ワカナは中毒死している。         ☆ 「開演中はお静かにお打ち下さい」  ヒロポン全盛時代にはこんな貼紙のしてあった楽屋もあったという。         ☆  胃袋の中に麻薬のアンプルをいれて運び屋をやったという元人間ポンプ。  暴力団におどかされ、麻薬のアンプルが入っている胃袋に強烈なパンチを見舞われ、ガラスが胃壁を切り傷口が麻薬を吸い、遂に廃人になったという。  電球を呑んで腹の中でつけたり、消したりした芸がなつかしい。         ☆  戦後、物資の横流し、つまり闇屋で身をたてていたタレントは多い。  闇屋でも一流、役者でも一流だったのが、三木のり平、渥美清、藤山寛美。  野坂昭如いうところの焼跡派の為になつかしき闇屋を演じてくれないかなァ!         ☆  春風亭柳橋は落語の中で下手な歌を歌うが実は田谷力三と同じ三越少年音楽隊出身なのである。         ☆  現江戸家猫八は三代目、二代目は木下華声。初代は奇人・名人の名が高かった。  僕の父が子供の頃はまだ大道芸人で、その中でも特に汚ないので印象に残っていたという。  初代は子供だった僕の父達に「いいか、私が合図したら、みんなでワーッと声をあげろ」と言い渡す。子供達がワーッと声をあげると大人達が何事かと思ってやってくる。  それを待って商売にとりかかった。  商売といっても虫や烏の啼き声を真似て投銭を貰う。  それが三代目小さんに認められて寄席に出るようになったのである。         ☆  歌舞伎の下まわり(大部屋)から大道芸人、そして寄席の高座へ返りざいた初代江戸家猫八は歌舞伎時代に北海道へ巡業して、そのままアイヌ娘と結婚してしまった。  明治の話だからアイヌ人も入れ墨をしている。  だんだんいやになって船で内地へ逃げだしたら、その船を追って来た妻子がそのまま海の中へ飛びこんでしまった。  初代の身体の不自由なのは、その時のタタリだという。         ☆ 「やくざってのは一対一でつきあう友情はまことにかたいものなのだ、(略)義理人情についてやくざの世界ほど厳しくいうところはない。行儀作法もキチッとしているし、跡目をつぐ時の盃ごとなんか荘厳そのものだ、(略)隠したってしようがないから書くけど、今だってわたしは、この世界のいろんな人とつきあいがある。神戸芸能の××さん、元錦政会の△△さん、元姉ヶ崎一家の□□さん、山晴の○○さん、みんなわたしをかわいがってくれる方たちだ」 [#地付き](伴淳放浪記より)          ☆ 「一人でも多くの観客に喜んで見てほしい。この気持から映画づくりに専念したら、ほとんどが任侠映画だった」 [#地付き](東映・小沢茂弘)          ☆ 「あんさんには縁も恨みもおまへんけど、渡世の義理という奴で……、お命、貰います」 「義理と人情を、ハカリにかけりゃ、義理が重たい男の世界」 「サツのやれねェことを、俺がやるのさ」 「俺がやらなきゃ、誰がやる」 「おてんと様の下で名のりを挙げるほどの男じゃござんせん」 「この場はだまって、あっしにまかせて下せェ」 「堅気の衆に迷惑をかけちゃいけねェ、俺達は人間の屑なんだ」 「やくざには生命より大切な仁義てェものがある」 「仁義に泥をぬる奴は生かしちゃおかねェ」 「斬りたかあないが、また斬っちまった」 「シマも捨てたが、女も捨てた、俺の生命もいま捨てる」 「俺の目をみろ、何にもいうな、男同士の腹の内」 「ウソとオセジの世の中にゃ、いてもいいだろうこんな馬鹿……」  ——御存知任侠映画の名セリフ。         ☆ 「暴力団と芸能界」という言葉で、ことさらその資金源の問題を追及するようなマスコミの正義感は大変に片手落ちだと思う。  現在、テレビがあらゆる芸能の「送り手」になっているが、マスコミ以前の芸能の送り手は興行師という名の侠客だったのである。  この点を評価してから考えなくてはいけない。  少なくとも、かつての侠客興行師は今のテレビよりも芸人と芸を愛していた。そして芸人を育てていた。  テレビは芸人をつぶしている。  資金源も結構だが、芸のことも追求しよう。         ☆  昭和二十三年に来日したニューヨーク・ポストの特派員、D・ベリガンの日本のレポートの一行目にこう書いている。 「日本の家族はある意味ではすべて与太者の集まりであり、親は与太者の頭である」  彼はやくざ組織を分析している間に、それが日本の家族制度、社会組織と同じ形態であることに気がつく。  それにしても冒頭に「日本人は与太者だ」と決めてかかるのは独断と偏見に満ちているとも思えるが、ある意味では正しい。  芸人の世界のエピソードを集めている間にそのどれもが素姓の暗さにつながる要素を持っていることがわかってくる。  勿論、そのことから現在の芸能界を推しはかろうというのではない。  単に芸能人だけの問題ではないからである。現代は金嬉老も含めて、僕達が「犯罪以外に世間とつながるすべのない生活」に近い生活をしていることを認めざるをえない。  三派系全学連諸君、サイケデリック・ナントカに熱中する若者、スピード狂などなど芸能人以外でマスコミを賑わせる人達すべてが、どこかでやくざ精神につながっているのである。 「無職渡世人」  博奕で世渡りをする侠客道。  博奕が禁止になり、侠客がその存在を失った今日、その精神は市民の中に生きかえっている。  最も伝統の古い能・狂言。  その狂言の「室町小唄」の中にこんな一節がある。 「丁か、半かも、よいものじゃ」         ☆  神田松鯉がばくち打ちの足を洗ったのは、現場を押えられて逮捕され、縛られて街を歩かされてからだという。         ☆  安藤昇は今や立派な映画スターだが明治時代の寄席にはこんな看板が出ていた。 「旧大悪人 特別出演  無期徒刑赦減刑人  旧福井県士族  猪猴《ちょこう》小僧事 市村栄二郎」  この他にも、刑務所出身で芸人になった例は多い。  花井お梅、海賊房次郎、蝮のお政、日本太郎、説教強盗・デバカメ、馬関の虎、五寸釘の寅吉と凄い名前が並ぶが、実際は大したことはない。  例えば五寸釘の寅吉。  この男、泥棒をして追われ、塀を飛びこしたら、五寸釘を踏んづけてつかまっちゃったというのである。         ☆  日本太郎は網走刑務所脱獄の場などを高座で実演するのだが、フトコロから紙をきざんだ雪を出してまいたりしたという。  しかし、中には元殺人犯もいて、「いよいよ明晩は私がその男を殺す場面でございます」などとリアリティのあるものもいた。         ☆  淡谷のり子のヌード・モデル時代の作品(昭和三年・山口薫)が残っている。  彼女が苦闘したのも父親が日本太郎というインチキ芸人にだまされて倒産したのが原因になっているという。         ☆  昭和七年五月十五日。  犬養毅首相が暗殺された五・一五事件当日。  チャーリィ・チャップリンは首相の子息犬養|健《たける》と相撲見物をしていた。  チャップリンは首相暗殺の知らせを聞いて現場に駈けつける。  畳の上の血だまりは乾いていなかった。  そして彼自身も暗殺のリストにのっていたことを知る。  右翼結社「黒竜会」は来日中のアメリカ・スターを殺すことでアメリカの反感を利用しようと考えたのである。  ——とチャップリンの自伝にある。         ☆  大正十二年の関東大震災の時、六代目菊五郎は焼けなかった自宅と自動車をある憲兵大尉に提供した。  そしてその憲兵が大杉栄を惨殺した甘粕大尉である。  彼は後に満州映画協会の理事長になり、芸能界に足を突っこみ、終戦で自殺を遂げた。  芥川龍之介の随筆に「社会主義者という理由で殺されるなら、チャップリンも某憲兵大尉に斬殺されることになり、殺されたチャップリンの映画をみて同情する君も、ブラック・リストに載せられる」という意味のものがあった。         ☆ 「輝ける闘争委員長」  ストライキの先頭に立って戦ったSKDの水の江滝子。  昭和八年のことである。  その後、芸人の闘争は姿を消している。         ☆  羽田でも佐世保でも東大でも警官はデモ隊に対してホースの水をまきちらしたが、芸能史では一回だけ、この水で警官を撃退した闘争がある。  サイレントからトーキーへ。活動弁士のストライキである。  神田日活の大乱闘でこのゴムホースが活躍した。  浅草大勝館でも派手に戦ったがその時の争議委員長が須田貞明。  巨匠黒沢明の実兄である。  須田貞明は争議が解決したあと情死した。         ☆  芸人も参加したという意味では、東宝争議がある。  昭和二十三年。 「来なかったのは軍艦だけ」という弾圧に屈した。  実際に出動したのは、武装トラックはもとより、戦車七台、飛行機二機、警官二千名。         ☆  一九六八年一月二十日。佐世保にエンタープライズが入港し、学生と警官が血を流しているその日、大阪は新世界の名物ストリップ劇場「温劇」もその初日をあけた。  そのタイトルに、 「カク材かついで、させぼでYショウ、三ぱ茎前掻連!」         ☆  かつて自民党で決算委員長までつとめた鈴木仙八議員はテキヤの出身で活弁の経歴もあるという人。  目下、アメリカでのタカ派の闘将ロナルド・リーガンが俳優であったことは有名。         ☆  一九六八年青島幸男と横山ノックが参院選に当選し、六九年には南道郎が立候補しているが芸人の立候補は川上音二郎と先代の伊藤痴遊に始まる。  痴遊は当選したが、音二郎は落選した。  二人とも政談の大家ではあったのだが、音二郎の場合は売名が露骨で失敗している。  戦後では石田一松(当選)、宝井馬琴(落選)が立候補している。         ☆ 「勘当された息子と家出娘ばかりでしてね、新劇の当初は」  その中で母親にすすめられて女優になったというのが山本安英。  このところ日本語を美しく語ることに専念している。         ☆ 「しゃべりすぎ」という理由で小学校を退学させられたという珍しい人が黒柳徹子。  NHK劇団の試験で三十問中、二十九問を間違え、あまりひどいので採用されたという伝説もある。  しかし彼女が放送劇団に入ろうとした理由は「お話の上手な母親」になるつもりだったとのこと。  音楽学校を卒業している実績がものをいって、このところミュージカルの舞台が多い。  宇宙人の存在を確信していて、宇宙船の来る夜にはビルの屋上で朝まで待つ。  待ちぼうけばかりだそうである。         ☆  本邦初演の「白鳥の湖」にバレー・ダンサーとして芸能界にデビューしたのがフランキー堺。  声楽家になる筈だったのが杉村春子。  その声楽家でオペラ歌手だったというのが左卜全である。         ☆  馬面の伊藤雄之助が『大根役者、初代文句いうの助』という本を書いた。 「芸能界は精神病院の隔離病棟」とハッキリ書いているから、竹中労書くところの芸能界を内側から確認した形になった。  僕の場合は芸人のもつ淫靡な素姓を見極めることが目的だから二人のように怒らない。 「あゆみの箱」も門付芸人にふさわしいと思っているのである。  箱をもって、お金を貰って歩くのは素晴しいのだが、厚生大臣や、ナントカの宮様と並んでいるのをみると、妙な気分になってしまうのだ。政府に腹をたてて始めた筈だからである。         ☆ 「大衆映画には新機軸の必要もなければ、近代化も必要ではない。それはむしろ旧態を固守すべきなのだ。(中略)かつて大道芸人によって厚顔無恥に提示され、ペテンと知りつつ観衆に受け入れられていたあの共通の強迫観念をどう取り戻すかについて考えなくてはならないだろう」 [#地付き](種村季弘)          ☆  音協(経営者側)、労音(組合側)、民音(創価学会)という三つの音楽鑑賞団体がある。  いうなれば、自民党、社会・共産党、公明党がやっているようなものだ。  それぞれ主義主張が違う筈なのに芸人衆はニッコリ笑ってこの三つを掛け持ちして出演している。         ☆  曲技の玉章・茶目が引退した。  そのお疲れさまの会に二人は自衛隊の制服を着ていた。  芸能界では「あゆみの箱」と並んで会員数をほこっている「自衛隊友の会」の会員なのだ。この会に入ることをキッパリと断わった一人に植木等がいる。  キッパリと断わる勇気。  これ又、芸人魂である。         ☆  毎年、総理大臣が芸能人を招ぶパーティがあって首相官邸で開かれる。  大臣はスター達とにこやかに肩を並べて、ミーハー・ファンと変らない。  大正の初め、同じことを西園寺サンがやった時「中央公論」で次のように叩かれている。 「西園寺サンが宰相の身分をも顧慮せず、ただ一時の出来心で自己の枯淡風流を衒《てら》はんが為に、薫蕕《くんゆう》を別たず善悪を問はず今の小屋者を堂上に招待したと言ふ事は、実に大なる失態で在るのみならず、一種の罪科であると謂つてよろしい。此出来事の結果は、一方に於て俳優共の増上慢《ぞうじょうまん》を鼓吹して芸術を破壊し、他方では人の児を賊し、折角無瑕な青年子弟を駆て之等魔道に誘導するの結果を来さしむる恐れがあるのである」  僕にいわせれば、現自民党のお偉方が歌手の後援会名誉会長であったりすることの方が、余程、魔道に誘導する。  彼等は自分の人気が欲しくて人気スターに近づいているのである。  政治家にへつらう芸人も悲しいけど、芸人にへつらう政治家の方がズッと悲しいよネ。         ☆ 「世話場なんでオタスケの会を……」  これは芸人が病気やなにかで困っているのを仲間で会を開き、その出演料を寄付する時にまわす言葉である。  寄席関係の芸人ではよくこの会が開かれる。  結果として焼石に水なのだろうが、それにしても普段の評判が悪い芸人ではやって貰えない。  こうした事業はユニオンさえ結成されれば代行されるものなのだが、これはかけ声ばかりで可能性はない。  仲間は救わないけど小児マヒの子供は救おうという美談があるが、それは果して美談なのだろうか。  人気のある間は後援会という組織があっていろいろ面倒をみて貰える。  旦那、タニマチ、スポンサーであり、そこでは芸人は充分に甘えられる。  単なる金持ちだけでなく、政治家も多い。  その一部を書きだしても、  朝丘雪路(石田博英)、西郷輝彦、森進一(迫水久常)、舟木一夫(江崎真澄)、三田明(平井太郎)、村田英雄(岸信介)エトセトラ。  人気稼業は弱いものとはいえ、政治家を後援会長にかつぎだすのは虎の威を借りる狐と同類であって、一般市民とは最も遠くなることではないだろうか。  どうせなら青島幸男や横山ノックという政治家に頼めばよい。 [#改ページ] [#小見出し] 芸人 その待遇         ☆ 「おかあちゃん、役者や」  と子どもが指をさすと、その母親なる人は子どもの指をおろさして言いました。 「役者に指さしたらあかん、その指がくさる」 [#地付き](藤山寛美の自伝より)          ☆  九代目団十郎が能役者の宝生九郎《ほうしょうくろう》に教えを求めた時「河原乞食の分際で!」と叱咤された。  能役者といえども元河原乞食なのだが、この団十郎が梅坊主に「かっぽれ」を教わった時には、「かっぽれは大道芸ですから座敷で教えるものではない、庭に出ましょう」といわれている。  宝生九郎より梅坊主の方が役者が上である。         ☆  明治三年、東上した上方役者嵐璃鶴が毒婦お絹の事件で牢にいれられた時、伝馬町の牢屋では「河原乞食ゆえ、入牢の資格なし」といわれ、牢屋に入るのまで区別された。         ☆  七代目中車の話に女郎屋で「役者芸人は手前どもではおあがりを願いません」と断わられるくだりがあった。  現代では一寸したトルコ風呂にはテレビタレントの色紙がかざってあり、おスペファンであることを公表している。  中には時間がかかるのでトルコ嬢に嫌われるスターもいる。         ☆ 「役者 かはらものゆゑ 我は人の数にあらず」  初代団十郎の言葉と伝えられる。 「錦着て布団の上の乞食かな」  何代目かの団十郎が素姓を恥じて詠んだ句だという。         ☆ 「昨日も白粉つけさせながら涙を落し候、夫れは如何にとなれば、お素人さまならば伜へ家業を譲り、隠居にてもなすべき年なるに、鄙《いや》しき役者の家に生れし果敢《はか》なさ、年にも恥ず、白粉つけて女の真似するは如何なる因果ぞ、と頻りに落涙いたし候」  山東京伝が五代目団十郎の楽屋に訪れての印象記の中から。         ☆  七代目団十郎が「勧進帳」を上演した時、教えを受けた梅若実(初代)を招待したら、何故か梅若は扇を開いて骨の間から見物したという。         ☆  劇聖とうたわれた九代目団十郎の母は某侯の寵愛を受けていた人で、後に七代目団十邱の妾となり、天保九年、団十郎を生んだ。  八代目とは腹違いの兄弟ということになる。その団十郎は堅気の家から嫁を貰ったが、その堅気の家では娘を団十郎に嫁がせるのに世間をはばかり、山谷の八百善(料亭)を仮の親としてそこから祝言を挙げさせた。         ☆  歌舞伎役者は屋号でよばれる。  成田屋、橘屋、成駒屋、中村屋、いろいろ。  これは士農工商のその下で乞食扱いされた芸人が屋号をよばれることで商人と同じ扱いを受けたかったからだという。         ☆ 「男の花道」では医者と芸人の友情がテーマになっているが、江戸の頃に将軍家役付きの医者が芸人の脈をとった為にクビになった例もある。  つまり「けがらわしき者に触れた手で余に触れるな」という次第。         ☆ 「役者はもと乞食の部類に定め置かるれども、世の人、彼が技芸を愛する心より、彼等を近づくることを恥とせず、いやしき者と知りながら、士君子も得いやしめず、心ある人、是を見聞きては長大息すべし。国家の法禁ゆるき故に、河原者を以て人類に混ずる。誠に痛ましき世の有様なり」  江戸時代のインテリは、芸人は人類ではないといっている。         ☆  今や上演、上映作品に作者名が入るのは当然のことだが、作者名が書かれるようになったのは近松門左ェ門の頃からである。  それを非難された近松は武士の世界から河原乞食の世界に入った人だという。  河原乞食として芝居の道に死ぬことを決めた以上せめて名前だけでも残したいという実に悲壮な理由なのである。         ☆  ハリウッドの製作者ウォルター・ウェンジャーは殺人未遂(一九五二年)で服役し、刑務所から出て来た第一作目が「第十一号監房の暴動」で、刑務所内をリアルに再現して話題になった。  僕達にはおなじみの名作「駅馬車」のプロデューサーでもある。         ☆  ビートルズが日本公演をもった時に「河原乞食に武道館をつかわせるとは何事だ」という政治家の発言があって会場の問題でもめた。  ビートルズは英国王室から勲章を貰っているグループ・サウンズであるということになって解決したのは妙なものである。         ☆  ニューヨークのシンシン刑務所を訪れたチャップリンは囚人の前で演説した。 「諸君と我々の間になんの相違があろう。あるのは、立場の相違だけだ」  さすがはロンドンのスラム出身。         ☆ 「俺のようなチビの鼻まがりの、ニグロとユダヤの混血には、これ以下ということが無いんだ、だから、いつだって昇り坂さ」 [#地付き](サミィ・デイビス・JR)          ☆  アメリカの黒人差別の中でスポーツと芸の世界にはそれが無いという人がいるが、とんでもない。  一流のホテルに出演する黒人はいるが、その黒人のショーが観られる黒人はいないのである。         ☆ 「黒人同胞よ、君がステージに上っている限り、君は偉大だ。だがステージを降りた時、君は人間ですらないのだ」  トランペットのロイ・エルドリッジが、「ダウンビート」に書いた。         ☆  里見の随筆の中に「演るなら、いやいや身を恥じながら演った方がいい」という一節があった。         ☆  徳川夢声がロケ先でヨイトマケの連中にからかわれ「この連中に限って、乞食みたいな生活をしていても、芸人なんて自分たちより卑しいと考えているものだ。まるで暴君の如く、女王様の如く、私達、男女優を見下すのである」と書いている。         ☆ 「敗戦後、映画俳優が恐れ気もなく明治天皇に扮するのをみて、私は何か大事なものが地に落ちたという思いがして情けなさに胸の塞がるのを覚えた。いうまでもなく、それは似ても似つかぬ冒涜の行業だった。我々の時代には臣下の身で、殊に俳優づれが、仮にも天子さまに扮するなどということは、考えてみることの出来ない不敬であった」 [#地付き](小島政二郎)          ☆  明治天皇に扮したのは映画で嵐寛寿郎、テレビで市村羽左ェ門、舞台で片岡仁左ェ門。今上天皇は松本幸四郎、浜口庫之助が扮している。明治天皇は竹田人形座では人形にもなり、頭の上から糸であやつられる。  この人形、実によく出来ているが浜口庫之助もそっくりという点で起用された。  声だけでなら皇太子殿下と永六輔の声は聞きわけられない。         ☆ 「映画の父」と呼ばれるマキノ省三が初めて教育映画「都に憧れて」を製作した時、この映画は皇室の台覧を仰ぐという理由で玄人の役者は一人も使わなかった。  つまり、河原乞食ごときがスクリーンとはいえ皇室にお目通りすることは恐れ多いというのである。         ☆  宮廷音楽の雅楽も元を正せば中国系の大衆音楽、つまり、大道で演奏された。  能楽も大衆芸能であったことは御存知の通りだが足利義満が観阿弥、世阿弥をとりたてて以来、権威とつながってしまった。  しかし、二人の位置は義満の同朋衆であって、特に観阿弥の子・世阿弥は義満と男色の関係を持っていたといわれる。         ☆  江戸時代の能役者は芸人として最高の位置にあった。  つまり幕府、大名のお抱えとなり拝領の土地もあり中流の旗本以上の生活をしていたのである。  当然、明治になって貧苦の苦労を味わった。泥棒になった能楽師もいれば、それを聞いて責任を感じ、巡査になった能楽師もいるという。 『六平太芸談』にも生活の苦労がにじみでている。  その時に河原者の精神に目覚めれば、大衆芸能として再出発出来た筈なのに、再び藩閥政府の御用芸人に堕落してしまった。  その明治の能楽の大立物、宝生九郎が吉原の角海老、黛花魁を妻に迎えている点は芸人らしくて嬉しい。         ☆  明治の末に村八分にされて絶滅した鷺流という狂言があった。  その原因が歌舞伎役者に能を教えたことにあるという。         ☆  役者絵の東洲斎写楽は謎の人物とされているが、能楽師ではなかったかという説もある。  その仕事をした時期が短く突然蒸発しているのは、河原乞食の絵などを書いた為に筆を折らせられたのだともいわれる。         ☆  一八四一年。水野越前守は「町人どもに流行する俗悪な風俗の源、なげかわしき限りである」と芸人一同を江戸から追放しようとした。  この時に役者は「何匹」と数えられている。時の南町奉行遠山金四郎が必要悪を説いて、芝居小屋を猿若町に集めた。  現在、芸術院会員の歌舞伎役者でも劇場のことを「小屋」と呼ぶ。  これは河原乞食時代の劇場、つまり掛小屋《ヽヽヽ》の呼び方が残っているのである。         ☆  初代中村仲蔵は入ったばかりの芝居の世界を次のように書いている。 「……皆々膝を立て、其の前に丸はだかにて坐り申候て、皆々のマヘをなめ廻り申候。なめ不申候時はのしかかり無理になめさせ申候なり……」  先輩役者のオチンチンをなめさせられ彼は自殺しようとするが、「飲む、打つ、買う」に転向。買う場合も役者だからと梅毒の女郎を抱かされたりするが、やがて定九郎役であたり、千両役者になる。         ☆  千両役者という言葉があるが、一両は今の金額にして約一万七千円だから千七百万円。この金額は小さな大名よりも収入が多いということなのである。  幕府が目の仇にしたのはいうまでもない。  七代目団十郎の住居が立派なのは上を恐れぬ振舞というので江戸から追放されたほどである。  同じ頃、尾上菊五郎は忠臣蔵の勘平で実物そっくりの鉄砲をつかった為に罰金。沢村宗十郎は編み笠をかぶらないで街を歩いたので同じくおとがめを受けている。         ☆  幕末、天保の改革では、役者たるもの外出する時は編み笠をかぶらなければいけなかったし、旅行も許されず、素人衆の仲間入りも禁じられていたのである。  大名行列が役者芸人をみかけるとそのかごかきはおかごを肩から頭上にさしあげたという。  当然けがらわしいというのが理由である。         ☆  文楽の浄瑠璃語りを「大夫」と書き歌舞伎の場合は「太夫」と書く。 「大夫」と「太夫」の違いは「ヽ」ひとつであり、この点のことを、チョボというところから、歌舞伎の浄瑠璃語りを「チョボ」という。  勿論、一段下にみてそういうのである。         ☆  人形浄瑠璃の世界では人形遣いの方が一枚下にみられてきた。  こうした習慣はテレビの人形劇でも同じこと、声のタレントは端役まで紹介されるが人形遣いの名前が紹介されたためしがない。これは大変に奇妙なことである。  NHKサンからでも気づいてほしい。         ☆  明治の中頃まで楽屋で草履をはくのは役者に限られていた。  常磐津や清元の連中は草履をはくことを許されなかったのである。         ☆  大正六年に狂言作者になろうとした小嶋二朔が反対された時の言葉。 「あんな道楽者の吹きだまりのような狂言作者になるなんて飛んでもないことだ。親戚に竹柴扇二という狂言者がいたが、その男が子供がないから、ぜひ妹を養女にくれというので、妹をやったところ、年頃になったら、吉原へ女郎に叩き売って道楽三昧、そんな奴ばかりいるのが作者部屋だ」         ☆  明治十二年。新富座に緞帳が用意されて人々を驚かせた。  それまで大劇場は引き幕だけであり、緞帳は場末の三流小屋でなければ使わなかった。  緞帳芝居、緞帳役者というのは軽蔑を意味した言葉だったのである。  今日では芸術院会員も緞帳で幕を切る。         ☆  芸人は妓楼にあがれない。従って身分をかくして遊ぶ。  三遊亭円朝が薬屋の若旦那というふれこみで吉原彦太楼にあがった。  その後、円朝が寄席に出ていたら、その時の相手、長尾太夫が客席に来ていて「薬屋の若旦那様へ、彦太楼中」という引き幕がとどけられていたという。         ☆  最下層の女性でありながら、武家社会より上位に立ったのが花魁。  そのかわり、書、画、花道、歌、香、三味線、鼓、太鼓、茶湯、俳諧、囲碁、ナンデモ、なんでも出来なければいけない。  とに角、封建時代にあって、お殿様に対して首が横に振れたのだから、教養を身につける、芸を身につけるということは凄いものだ。         ☆  芸人が初めて税金をとられたのが明治八年、人間扱いをされたというので芸人は課税を感謝した。  落語の桂文治はこの課税の名誉にこたえんものと紋つきの羽織袴に身を正し、玄関に高張提灯をかかげて税金を払いに出かけたという。         ☆  現柳家小さんが芸人になると親の反対を押し切った時、母親があきらめて、泣きながら角帯を買いに行ってくれたという。         ☆  浪曲出身の歌謡曲スターは多いが、大正時代の「うきよ」という雑誌に、浪曲語りの前身のスッパ抜きが載っている。 「横浜の巾着切り、車夫、祭文の伜、芸者、縁日のろくろ首、××・△△・□□の三夫を経て○○の女房、隠亡焼、畑の番人……」         ☆  祭文語りの門付芸人を父に持つ桃中軒雲右ェ門は、その芸の実力で芸能界に君臨したがウラハラに素姓を恥じている。  王者の誇りと、そのいやしさ。  フランク・シナトラの言動やジュリー・アンドリュース主演の「スター」にもそれがよく出ている。         ☆  大正二年、講談社が「講談倶楽部」に浪花節の速記を掲載した。  講談の連中が門付芸人の乞食節を「講談倶楽部」に載せるなと要求、逆に講談の速記の方が載らなくなってしまった。  こうして講談に代る大衆小説が生れるキッカケになった。         ☆  明治四十一年に高等演芸場「有楽座」が開場した時「名もない卑しい芸人も出演してほしい」と呼びかけた。  今の国立劇場の権威主義より気持がいい。         ☆  昭和十年、小林一三が演劇界に対して「低級な花柳界を対象にするな」と発言して問題になり、時の警視総監が間に入って示談にしたことがあるが、江戸以来、芸能界と花柳界のつながりは依然として強い。  歌舞伎役者や、時代劇スターの女房の大半が花柳界出身ということでもわかる。  京都南座の顔見世興行では芸妓総見が今でもはなやかにあるように、役者と芸者は夫婦関係のように深い。         ☆  渥美清や谷幹一に浅草時代の話を聞いた中で一番感動したのは踊り子達の乞食に対する態度だった。  ファンの乞食が楽屋口で待っていると、踊り子はその乞食と肩を並べ腕を組んで帰っていったという。  その優しい心づかいに涙ぐんでしまう。         ☆  石田一松が政治批判をした時、 「河原乞食のくせに!」と怒った代議士がいた。  法学部出身の石田一松はそのセリフを聞いて次の選挙で立候補、当選。  代議士在籍のまま、のんき節を歌いつづけた。  横山ノックは議会開会中にテレビに出て叱られたが、彼よりも無断欠席の多い連中は叱られていない。         ☆ 「女優がスターの座にすわるには上役や監督に身体をはらねばならない。私の知っている中にも、そうしてスターになった人がいる」  と大部屋女優が語り、アナウンサーが、 「華やかなスクリーンの陰に、こうした事実のあることを観客は知らないでしょう」  昭和三十五年のNHKが女優と売春婦を一緒にしたというので問題になった。         ☆ 「二十年前、ブロードウェイの有名な女優が私に語ってくれたことがある。『私は舞台で成功した女優を残らず実生活の上で知っているがこの限りでは女優生活の第一歩において自分の身体を売らなかったものは一人もない』と。ところが最近、私は偶然ハリウッドの有名な女優が、これとまったく同じことをいっているのを聞いた」 [#地付き]アプトン・シンクレァ(一九三〇年)          ☆  美濃部都知事がさる座談会で、父美濃部達吉が六代目菊五郎ファンであったことを語り直接のつきあいはないといった後で、 「その点、僕はおやじを偉いと思います。あれは芸が好きなんで、人間は下等な人だって……」         ☆  金嬉老事件に関しては大島渚の言葉が最も説得力があった。 「あまり抑圧が激しいと現実的なことに手がかりがつかめない。抑圧の中で、犯罪《ヽヽ》以外に世間とつながるすべがない、という生活をしいられてきた男たちなのだ」  この言葉の中の「犯罪」を「芸能」におきかえても通用するのが芸能史の底流なのである。         ☆ 「海彦・山彦」という神話がある。兄の海彦がいやな奴で、山彦のミスを許さず、誠意をみとめない。 「今ヨリ後 ワレ汝ガ俳優ノ民トナラン」  山彦に負かされた海彦は、褌一本になり、顔に赤土をぬって溺れるさまを演じた。  この海彦が日本のわざおぎ(芸人)の神様で、神様としても三流ということになっている。  山彦の方は神武天皇の祖父にあたるのだから権威につながるのだが、神話でも芸人の神様は待遇が悪い。         ☆ 「大衆週刊誌が、芸能人の恋愛、結婚、離婚などの記事を好んで掲載し、ゴシップ発掘競争を展開していることは目をおおうばかりである。芸能人であっても、興味本位の犠牲にされ、プライバシーの侵害を甘受しなくてはならない理由は全くない」  加藤剛夫妻が「週刊実話」に勝訴した時の判決文である。         ☆  人権擁護委員連合会が「マスコミによるプライバシー侵害」のアンケートをまとめた。  その中に有名人のプライバシーに関する意見として二〇八の回答が寄せられている。 ㈰一般人と較べてプライバシーがある程度制限されることは止むを得ないが、それには限度があると思う(一〇九) ㈪一般人と全く同程度にプライバシーは尊重されるべきである(八五) ㈫プライバシーが侵害されることがあっても、それは有名であることの代償であるから止むを得ない(○) ㈬意見なし(一四)  以上だが、ここで問題なのは㈫の返答が○ということである。  これは、有名人の考え違いが指摘されていい。  かつて芸人はプライバシーを捨てることで芸人たりえたのである。  しかし、かつての芸人はプライバシーを捨てたかわりに税金を免除されていた。  従って、プライバシーの侵害度を金額に換算し、その分を傷つけたマスコミ側が支払うことにしたらどうであろう。  マスコミは税金を立て替えた分だけ堂々と書きまくるべきである。         ☆ 「芸人」という言葉の中にストリッパーからキック・ボクサー、そして人間国宝の名称を持つ人まで含ませることに抵抗を感じる人もいるが分野別に区別してはいけない。  立派な芸人と、そうでない芸人となら出来るだけ区別してほしいと思う。         ☆ 「面白うて、やがて悲しき鵜舟かな」  芭蕉の句である。 「面白うて、やがて悲しき役者かな」  山茶花究の色紙に書いてあった。 「泣くがいやさに笑ってござる」  フランキー堺がよく書いている。  この言葉にはピエロの表情がよくあう。  僕が人間国宝からシロシロの年増にまで感動するのは「やがて哀しき」や「笑い泣き」がたまらなく好きだからである。  芸人とその世界にドップリと浸りきれる時、僕は酔い心地すらする。         ☆  芸人が犯罪をおかすと待ってましたとばかりにそれをとりあげ、これは「氷山の一角」であって芸能界は乱れに乱れているのだという書き方、言い方をするのがマスコミの常である。芸人に社会人の良識を要求することは当然だが、芸人に社会人になれということは大衆芸能の背景を理解してないということになる。  社会主義国家の芸人は社会人であることを要求され、つまり、国策の宣伝につとめているのが現状なのだ。芸人は反体制側にいるべきなのだが……。 [#改ページ] [#小見出し] 芸人 その旦那         ☆  明治初年。  明治政府の大官が新橋の芸者に、自分のキンタマの袋をのばして、うまく凹ませ、そこに酒を注いで飲めといった。  芸者「いただきます」とそれを飲んで「御返杯を」とアツカンをその凹んだ袋へ。  勿論、大官は火傷をしたという。         ☆  天一が育てた天勝は彼の妾でもあった。  現在二代目天勝が二人いて本家争いをしている。         ☆  この奇術の天一が総理大臣伊藤博文の酒宴で奇術をやったら「おい、天一、一杯飲め」と博文が杯をだした。  天一はこれを受けておいて杯を博文に返しながら「おい、伊藤、一杯飲め」         ☆  九代目団十郎が伊藤博文の宴席に招かれて、その末席に座った。  相撲の大達という力士がその足の指に杯をはさみ、団十郎に「飲め」といったという。  そんなことが許される雰囲気が残っていたのである。  相撲は歌舞伎より二年早く「天覧」があり(明治十八年)そのことで芸人を見下していた。         ☆  伊藤博文の女道楽は有名だが、貞奴、橘之助など明治の女芸人もみんな口説かれている。 「お前の為に西欧風の劇場をたててやる」というのがきまり文句だったという。  川上音二郎の伝記には彼の芝居を観に来た伊藤が芝居を観ずに芸者といちゃついているので、舞台からどなりつけたというところが出てくる。  どなられた大臣、どなった役者。  いかにも明治時代である。         ☆  伊藤博文が女芸人に手をだしたエピソードは多いが、彼の寵愛を受けた芸者の手記(新橋生活四十年、田中家千穂)によると、本妻のいる自宅に芸者二人をよび、川の字になって寝たりしている。  そういうことが誇らしげに書いてあるのも嬉しいが、僕自身、博文と関係のあった神戸の老妓に取材した時は、その精力絶倫ぶりを面白おかしく語ってくれた。 「神戸の芸者はみんなといっていいほど親類になりました」  あに神戸のみならんやだが、それが千円札の親方なのだから、日本という国は楽しい。         ☆  今日でも芸人の後援会会長の顔触れをみると政治家が多い。勿論、会社社長もいるが、かつては侠客も旦那だった。  政治家の場合、選挙の応援演説という形で多くの芸人がかりだされる。  革新派の芸人に較べて保守派の芸人が多いのは当然だが、立候補者の個人的なつきあいで応援に出かけたら、対立候補が保守派。  その圧力で暫く仕事が来なかったという例もある。 「郷土の皆さん、美空ひばりさんが皆様によろしく申しておりましたッ!」  これでも会場は湧くという。  勿論口から出まかせで、ひばりはそんな話は知らないのである。  だからタレント候補に投票する時は、ささやかな旦那気分を味わっているのであろう。         ☆  昭和元禄といえども本家元禄に及ぶまいという遊び方など……。  歌舞伎でおなじみ助六に登場する髭の意休のモデルといわれる奈良茂。  彼は吉原のそば好きの友人の家を訪ねるについて四、五日前から吉原界隈のそば屋を保障つきで休業させ、当日二人前のそばを持って出かけたという。  紀文こと紀伊国屋文左ェ門も芸能界では素材にされているが、この遊び方も凄い。  吉原で月見の宴を開こうということになり巨大な饅頭を台の上に載せて出かけた。  あまりの巨大さに茶屋の玄関をこわして運びこんだが、その饅頭の中には無数の小さな饅頭が入っていたという。  粋とも野暮ともいえる遊びだがこうした金持ちの周囲に文人、芸人がむらがっていたことは毎度御案内の通りである。         ☆  一艘の船を新調し、その船の中で好きな芸妓と酒盛をしている。  その船が水に浮かんでいるのではない。  大勢の幇間にかつがせて町中を歩いたというのだから凄い遊びだ。  先代仁左ェ門の話である。  この人、胆ッ玉のあるところから、役者にしておくのは惜しいと、方々のヤクザから兄貴分の扱いを受けたという。         ☆  日露戦争後に続出した成金達の遊びにはニヒルなものが多い。 「田植え」  座敷に豆腐を敷きつめて、芸者に裾をまくらせ田植踊りをやらせる。 「引越し」  トラックで料亭に繰り込み、家具もタタミも運び出して、ガランドウの座敷で宴会をやる。  宴会の終る頃にトラックが帰って来て、再び元の通りにする。 「汐干狩」  豆腐と同じように米を敷きつめ、米の中に金貨を混ぜて、これも裾まくりの汐干狩。  こんな遊びの音頭とりに芸人達が活躍するのである。  遊びの名前は忘れたが座敷にゴム布を敷いてそこに酒を注いで即席の池をつくり、底に金貨を沈める。  この金貨を口でくわえれば祝儀だというので芸者や芸人が裾をからげてジャブジャブと酒の中に顔を突っこむ。  当然、酒を飲むことになるのだが、ダンナは芸者の後から酒にうつる股間をながめて喜んでいたという。  そんな金の使い方をするまでには、あくどい稼ぎもしたのだろうと思うが、好きだナ。         ☆  芸人をひきつれて遊ぶダンナは今でもいるが、ひと昔前の話。  芸人を十人ばかり連れて料亭に繰り込み、その十人にそれぞれ芸者をあてがい、一番先に座敷に戻って来たものに御祝儀を出す。  その時に、証拠の品として事後《ヽヽ》に使用したチリ紙を持参させ、ダンナはそれを点検して、一等賞の他に技能賞も出したという。 「そんなダンナも芸人もいませんねェ」  話をしてくれた老芸人はへへへと笑った。         ☆  ある芸人、意味もなく祝儀を渡された。  帰ろうとすると、ダンナが「出口はこっちだ」と窓を指さす。  芸人あわてずに二階の窓から下に落ちて一ヶ月の骨折。  哀しくっていい話だ。         ☆  まだ続きがある。  下で落ちて来るのを待っていた医者がすぐ病院にかつぎこんで全治するまで手厚い介抱。  全快した時は、その芸人をダンナに仕立てて飲めや歌えの大騒ぎ、 「粋なダンナでした」           ☆  先代中村鴈治郎はお茶屋で遊んでの帰りがけ、玄関が暗いので、パッと十円札に火をつけて草履をさがしたという。  これは日露戦争後の成金の話にも残っている。         ☆  大名から金百両を贈られて、嬉しいかと聞かれ、「人に金をめぐみ候うほど嬉しゅうはございませぬ」  と瀬川菊之丞。  これが江戸時代の話で明治にも似たのがある。  五代目坂東彦三郎、貿易商の糸平の座敷に招ばれた。  と糸平がいきなり札束を彦三郎に投げて、 「どうだ、嬉しいか」  彦三郎、札束に目もくれず、 「頂きますのは与えるほど嬉しいものではございません」         ☆  歌舞伎十八番「外郎売《ういろううり》」は小田原の薬屋のコマーシャルであり、この薬屋の主人虎屋藤右ェ門は二代目団十郎のスポンサーでもあった。初演は享保三年。         ☆  ○吉 ○八 〇奴 お○ ○太郎 ○助は江戸前の芸者の名前。  ○竜 ○勇 ○香 ○千代 ○菊 ○葉というのは上方好みの芸者の名前。  昔は名前で区別がついたそうだが、今は目茶苦茶とのこと。         ☆  あるお座敷で売れていない芸者と幇間が顔をあわせた。  芸者が「アラ、忙しいのによく来てくれたわネ」、幇間が「おや、姐さんこそ、他の座敷を断わって、こんなところでシッポリとは憎いよッ!」  これが礼儀というものである。         ☆  日露戦争当時、兵隊に最も人気のあった今でいうピンナップ・ガールは大阪宗右ェ門町の富田家《とんだや》八千代という芸者である。  明治四十年に創刊された「芸能速報」には役者と同じぐらい芸者の写真が載っているしブロマイドも売り出されていたのである。  三浦布美子サン、もっと、ガンバッテ。         ☆  スポーツ選手もCMタレントとして活躍するが、選手としての成績が売り上げに関係するから、スポンサーは気が気ではない。「かあちゃん、一杯やっか」の伴淳三郎が別居した為に「かあちゃん」をカットするような例もある。         ☆  芸人と旦那の関係は、タレントとスポンサーである。  金をつまれれば、平気でコマーシャルを叫ぶのは、宴会でお世辞をいうのと変らない。コマーシャルのタレントが芸の上でプライドを持っているのは器用というか、奇妙というか……。         ☆  そもそも旦那という言葉は仏教用語で、お恵み下さる方という乞食と反対の意味になる。従って「右や左の旦那様」という有名なキャッチフレーズは実にうまいといわざるを得ない。 「チョイと、旦那」という場合も「チョイと先生」などというのと違って、恵まれる立場を明確に表わしていることになる。  芝居の世界でも、旦那といわれれば、放送局のスポンサー同様、一番偉い人というわけで、これは相撲の場合のタニマチにも通じる。昔の芸人の本を読むと、この旦那に家を建てて貰ったり、自動車を買って貰ったりすることを当然のように書いてあり、この辺の雰囲気は、今では芸者の世界に一番残っていることになろうか。 「金は出すが、口は出さない」といえるのが本来の旦那なのだろうが、近頃のスポンサーは「金も出すが、口も出す」から「金は出さないが、口は出す」と堕落してしまった。 [#改ページ] [#小見出し] 芸人 その幕内         ☆  劇場建築として日本最古のものは琴平にある金丸座である。  天保六年(一八三五年)に建てられ現存はしているものの、すでに廃屋と化している。  建てられた時は金丸座の建築費用は琴平の芸者達によって支払われた。芸者が役者のスポンサーでもあったわけである。         ☆  明治十一年、守田勘弥の新富座の開場式に外人が招待された。  この時に彼等が拍手したのが、日本で最初の芸人に贈られた拍手であろうといわれる。  明治四十二年、西欧風の帝国劇場が出来た時やっと拍手が定着した。舞台に対する拍手の習慣が出来て六十年もたっていないのである。  テレビやラジオの公開録音・録画で拍手のけい古をするのも無理はない。         ☆  今でも近代ビルの屋上のお稲荷サン、ジェット機就航の神主サンの祝詞など当然のことになっているが、明治四十四年、当時の最新建築だった帝国劇場の楽屋口にも縁起棚がつくられた。  そして、ここの初代御神体はイワシの頭であった。  この洒落ッ気もあとになって通じなくなり、社長大倉喜七郎が伏見稲荷を勧請した。         ☆  明治を代表する東京の興行師には守田勘弥(十二代目)がいる。 「守田勘弥は度量極めて大に、又、極めて小なる男なり。見識極めて高く、又、極めて低き男なり。極めて傲慢にして、極めて謙譲なる男なり。極めて寛仁にして、又、極めて惨忍なる男なり」(萬《よろず》朝報)  興行師の持つ一面をいい得て妙である。         ☆ 「廓というものと歌舞伎というものは別のものじゃなくて全く一つのものだと私は思うんです。(中略)  だから幕府が芝居と廓をわけなかったら、ほんとうに不思議な世界が出来たと思う」 [#地付き](郡司正勝)          ☆  七代目菊五郎の襲名が噂される尾上梅幸は、六代目菊五郎の養子、六代目には九郎右ェ門という実子がいる。甥になるのが羽左ェ門で勘三郎は娘婿にあたる。  松緑は菊五郎に教育されたが先代幸四郎の子で、今の幸四郎と死んだ団十郎とで三兄弟。  妹婿には雀右ェ門がいるし、幸四郎の息子の万之助が吉右ェ門をついでいる。  菊之助、新之助という二世もいるから親類がそろえば歌舞伎座の幕があがるわけである。         ☆ 「何しろ私は役者になったのが十二歳の時ですから、申さば中年からの役者ゆえ……」  この中村吉右ェ門の言葉。  僕の知っている限りでは三十四歳で芸能界に入った東海林太郎がいるから吉右ェ門にいわせればこの場合は老人からの歌手か……。         ☆ 「下まわり(大部屋)が名題(スター)になろうなんてことは町人がお武家になろうってのと全く同じ訳合でした」 [#地付き](尾上松助)          ☆ 「この頃は芝居も変りまして初めて歌舞伎座が出来た時に水道があって蛇口の下で頭を洗っている奴がいるじゃありませんか。異人館へでも連れこまれたような気がしましたよ。だから初めて帝劇へ行った時なんぞ西洋の御殿にあがったような気分でした」 [#地付き](尾上松助)          ☆  松助の言葉には新劇(かきもの)、銀座(レンガ)といった仮名がふってある。  天保十四年に生れ名脇役として蝙蝠安などで名を挙げ、昭和三年八十六歳で死亡。         ☆ 「役者は孤立させなければ使い憎くなる。  役者は役者同志争わせなければならない。  役者は裕福にすると使い憎くなる」  これは興行者心得として残されている。 「役者は盆の上に載せた卵のように扱って落させないように、だましだまし使わなければならない」 [#地付き](興行師、田村成義)          ☆  役者が家にいるということは仕事がない、つまり失業状態を意味する。  そういうこともあって昔の芸人は月の内に三日も家にいればいい。  だから亭主を外泊させることが出来るのが芸人の女房の勤めだという。         ☆  上方の役者はけい古場での座布団の位置で格づけされた。  だから、座布団の並べ方が常に問題になった。  そんな時はこの座布団を最年長者の実力者に敷かせる。文句がいえないようにである。座布団を並べる仕事だけで興行師はこの役者に莫大な礼金を払ったという。         ☆  この座布団の位置がもめて何日もけい古が出来なかった時がある。  松島家、播磨家、伊丹家の三家がゆずりあわないと聞いて、ある知恵者が、正面に屏風を立て廻し、松島、播磨、伊丹の順に座布団を敷いた。  そして松島には「お家順ですから一番上座にいたします」、播磨には「松島家と伊丹家を両端におき正面、真中にいたしました」、伊丹には「一番の御先輩ゆえ座頭どころに置きます」と納めたという。         ☆  松本幸四郎の家系には「天地眼」という見得のきり方がある。  右の目玉を揚幕の上から三分、左の目玉を上から七分とそれぞれ違った寸法でにらむという。  七代目幸四郎は左右の目玉を別々に自由に動かせた。         ☆ 「神代のはじめ天照大神の天の岩戸にこもらせたまへる御時、神あつまりまして、舞ひうたひ給ひし時、なかにも天の碓女命は髪を御すき素足にして一二三四いつむ七八ここのもも千万と声たかくはりあげ、うたひまひかなでたまひけらく、これぞ、まひうたふ事のはじめなりける。(後略)」  清元延寿太夫の家に伝わる秘伝の書きだしであり、五代目の太夫は感心するほどのものではないといっている。         ☆  宝塚温泉の大浴場が出来たものの混浴はいけないということになって使い道に困った。  仕方がないので浴槽にフタをして、その上を仮の舞台にし、そこで娘達に踊りをさせて浴客に無料で観せた。  開演を知らせるのは豆腐屋のラッパだった。  大正三年、宝塚少女歌劇団の第一回公演である。           ☆  小林一三が宝塚歌劇を創設し(大正三年)そこに男役と呼ばれる娘達をつくり、彼女達にズホンをはかせたのは彼の変態性欲の現われであろうと指摘した外人記者がいた。  そして「この男役に熱中するファンの娘達は家庭できびしくしつけられているお嬢さん達の性欲のはけ口であり、両親は相手が女だから間違いは起きないだろうと判断している」と書いている。         ☆ 「男役という変態の女性は一人でも増やしてはいけない」  宝塚の人が聞いたら怒りそうな言葉だが本家の東宝の重役だった秦豊吉の文章の中にあった。         ☆ 「率直にいって、亡びてもいい女形は時代錯誤の異常性格者で、それらが亡びるのは芸術的にはかえって誤解を受ける心配もなくなってサッパリしますが、(中略)芸術面だけはなんとか残しておきたい」 [#地付き](中村芝鶴)          ☆  ある少女歌劇団で初仕事をした時の僕のあいさつが問題を起こした。 「僕は処女作品の処女演出です。そちらは処女かどうかはわかりませんが……」  怒らせたことは確実だが、じゃ本当に皆さんは処女なのでしょうか?         ☆  宝塚歌劇が風呂(温泉)の余興として誕生したことは前に書いたが、江戸時代の銭湯と湯女《ゆな》の関係にその源をみることが出来る。  吉原遊廓以外での女遊びはこの湯女を相手にしたものが最も流行したもので、彼女達は四時までは背中を流し、夜になると着替えて三味線を弾き歌をうたった。         ☆ 「お江戸の名物三千両」という言葉がある。  これは「吉原」「河岸」「芝居町」は烏カァカァで一千両の金が動くという意味である。  一夜明ければということを烏カァカァというのだが、芝居町を例にとると色街と河岸の贔屓なしでは存在出来なかったほどの利害関係があるのである。  これが大阪になると「堂島」との関係になる。         ☆  大正十四年に禁止になった連中制度というのがあった。  出演者が個人で団体客をつかむことだが、無理に頼むケースが多くなり、それが押し売りになるわけである。  当然、興行師に対するゴマスリ的協力であり自分の人気のバロメーターにもなるのだが、これは昭和四十四年でもチャーンと残っている。         ☆  千田徳五郎という奥役。  品川沖へ船で出ていっては、声を限りに「団十郎の馬鹿野郎」、「菊五郎の馬鹿野郎」とさけんでは気を晴らしていた。         ☆  警視庁の権力はなやかなりし頃、舞台の上に警視庁関係者つまり巡査が登場する時は英雄でなければならなかった。  快盗が巡査を突きとばしたりすると警視庁を侮辱した罪にひっかかったという。         ☆  芸人の番頭。  つまり、タレントのマネージャーはギャラの一割五分までを収入と出来る。  労働省ではそう決めているが、実際は三割、四割、ひどいのは半分以上も、ピンをはねているケースがある。  昔は、このマネージャーのことを「五厘」と呼んでいた。  五厘の手数料をとるからである。         ☆  明治までは楽屋の遊びの内、囲碁は許されたが将棋は許されなかった。  碁の「打つ」というのは芝居を打つのに通じ、囲みとるのは儲かることだからいいのだが、将棋の王を詰めるのは興行師を詰めることに通じ、差すのは興行師を刺す意味にもとれるからだという。  近頃の楽屋では必ずといっていいほどボーリング大会のお知らせが出ている。         ☆  使い込みをしたマネージャーが裁判も受けず、平気な顔をして、他のタレントについているケースはいくらもある。  告発出来ない弱みがいくらでもあるのである。  黙ってだまされるようでなくてはいい役者とはいえない。  そういわれると、自分はいい役者だと思いたいから黙ってだまされ、やがて破産し、自殺したというケースがある。         ☆  昔の歌舞伎では出演者同士の横の連絡がないので、初日の舞台で相手役の衣裳や演技にびっくりすることがあったという。  それに観客イコール役者の贔屓だったので自分の贔屓にする役者さえよければそれで満足していた。  つまり演劇が綜合芸術だなんてトンデモナイという歴史があるのである。  逆にいうと徹底的に役者中心であったればこそ歌舞伎は完成され、守られてきたのだ。         ☆ 「役者に仕事を保証し、毎月休み無しに働けることを約束します」  大阪の興行師大谷竹次郎はこういって東京の歌舞伎界に進出してきた。  役者を「ジャズメン」に置きかえればワタナベ・プロの発足と同じである。  芸人にとって月給はそれほどに頼りなのである。         ☆  それが労音のミュージカルでも「中日」「大入袋」という習慣が残っている。  公演期間中の真中の日と千秋楽に出される祝儀のことである。  この祝儀も収入とみなして税務署が課税しようとしている。当然だが、そんなことは通用するわけもない。  僕が舞踊会の舞台監督をしていた頃は、あんまり祝儀がくるのでどのポケットもはち切れそうになった。  化粧や、床山の人は祝儀を座布団の下にいれるが、その座布団が座っていられないほど持ちあがってくるのだ。         ☆  羽左ェ門(十五世)はヨーロッパ帰りの帰朝興行で、幕が降りてから舞台客席全員起立で国歌君が代の斉唱をやった。  イギリスではストリップ劇場でも国歌を演奏するが、日本ではとても考えられないことである。         ☆  落語に登場する「らくだの馬さん」のらくだは動物のらくだではないという説もある。  芸界では言葉を逆様にするスラングがあるのは御存知の通り、「女」はナオン、チンポコはポコチンの要領である。  従って、ラクダはダラク、つまり「堕落」からきているという。         ☆  菓子、弁当、寿司のイニシャルをとって「かべす」という。  この「かべす」は芝居を観る時の必需品だったが、劇場が椅子席になってからは客席での飲食がしにくくなって死語になった。  大阪では昭和になっても客席で鍋料理を突っつきながらの観劇があったという。 「箸をとめる」という楽屋言葉がある。  いやが応でも、舞台の方に向って座らせてしまう劇場の椅子という奴が「箸をとめる」ような芸人を減らしてしまったともいえる。         ☆  早稲田、法政、明治、立教、学習院、青山学院、東京、東京教育、東京経済、東京理科、関東学院、国学院、神奈川、中央、東海。  以上の大学は全落連(全関東大学落語総連盟)加入校である。  関西の「全国上方落語学生連合会」は大阪学院、同志社、立命館、関西、近畿、大阪市立、大阪府立、羽衣女子短、夙川学院短の各大学が参加。  北海道、東北、慶応義塾、東洋、日本、上智、関西学院などは学校単位で研究会を持っている。  この世界から芸人が出て来れば楽しみなのだが……。         ☆  アンソニー・クインは共演した俳優がうまい芝居をすると監督に頼んで、その俳優をカットしてしまう。  ピーター・オトゥールはこれが気にいらなくてクインをぶんなぐり、その為に小指が動かなくなってしまった、と伊丹十三が書いている。         ☆  幕内のしきたり、隠語というものが、世間一般に通用する例は多い。  例えば「おべっかをつかう」という言葉があって、普通、お世辞をいう意味にとるが、これは「お別火」であって、能や歌舞伎の世界で、楽器、それも鼓のような鳴物をあたためるのに神前にともした火を、特別に使うということからきている。  芸能が神事からきているという名残りでもあるのである。 [#改ページ] [#小見出し] 芸人 その周辺         ☆  昭和八年、つまり、僕の生れた年に出されたモダン語辞典(実業之日本社)から、芸能界に関係のある部分をいくつかコピーしてみる。 「ラリる」テキ屋言葉で一寸足りないことなどと書いてあるほどのモダンさに注目あれ。  アコーデォン[#「アコーデォン」はゴシック体] アッコーデォンといって手風琴のフランス語である。  キャバレー[#「キャバレー」はゴシック体] 日本ではまだ許可されていないが、酒場であって踊り子がいる。早晩出現するであろう。  三S時代[#「三S時代」はゴシック体] スポーツ、スクリーン、スピードの頭文字をとっていう。以前はセックスが入っていたが、スピードに変った。  テレビジョン[#「テレビジョン」はゴシック体] 電送活動写真、物体の活動する現状を電流によって一定の空間を隔てて再現させる装置。まだ実用的でない。  ナイトクラブ[#「ナイトクラブ」はゴシック体] 終夜倶楽部。享楽様式の徹底したアメリカで流行し、臆面もなく現代文明の悪性の腫物を現わしている。  ヴォードヴィル[#「ヴォードヴィル」はゴシック体] 西洋寄席。フランス西部ノルマンディのヴォード・ヴィル地方から発生。  バレー[#「バレー」はゴシック体] 舞踊の一種、所作事の類。  ムーヴィ[#「ムーヴィ」はゴシック体] 活動写真のこと。キネマ、シネマなどともいうが、ムーヴィといった方が洒落ている。     ×    ×    ×  四〇〇頁の中からひろってみたが、ラリパッパーにも三十五年の歴史があると知って驚いた次第である。         ☆  関東大震災で焼け残った浅草十二階を爆破するショーを企画した興行師がいた。  このショーは中止されたが、最近の外電ではヘリコプターでピアノを吊りあげ、それを三千人の観客の前で落下させて儲けたアメリカの興行師がいるという。  場所はシアトル、会費は一ドル。  アングラ・プロデューサー様、見習ってはいかがですか。  伝統芸能からピアノを落すショーまでひっくるめて「芸」とは何なのか、もっと、モット、もっと考えてみたいものである。         ☆  曾我廼家五郎はこんな舞台を考えていた。  幕があく  舞台一杯の菜の花  男(五郎)が立っている  小犬が足元でじゃれる  幕が降りる         ☆  森繁久弥は俳句を舞台化出来ないだろうかと考えていた。  この二人の考え方にある共通点が日本の喜劇の弱点でもある。  つまり、ナンセンス喜劇の入りこむ余地が無いのだ。  五郎と別れた曾我廼家十郎はナンセンス喜劇の天才だったが、むくわれなかった。  大正の初め、すでにタイムマシーンに乗って元禄時代にさかのぼり、フィルムを逆転したような忠臣蔵を演じている。  逆に未来に向って月の世界の探検という作品まで発表している。  その愛弟子だった曾我廼家十吾は顔がソックリである。  十郎の死に際して、十吾はその顔を整形、十郎の生き写しにしたのだそうだ。         ☆  ナンセンスなギャグを探そうと思ったら曾我廼家十郎が秀れている。大正十四年に死んでいる人だがタイムマシーンに乗って日本の歴史をさかのぼる脚本がある。  これなら今でもチョクチョクやっているギャグだが、十郎の場合、登場する歴史上の場面がフィルムの逆回転のようになっているのだ。  忠臣蔵の山崎街道なら猪が後退して走ってくるし、切腹した勘平も生き返るという具合である。         ☆  ナンセンスに徹した十郎に対し五郎はお涙頂戴の人情喜劇。  二人が共演すると五郎は完全に十郎に喰われてしまう。  あまり十郎が客をさらうので、五郎は自分が着ていた羽織を脱いで芝居をしている十郎の上にかぶせてしまったことさえあるという。  あァそれなのに今だにナンセンスは不遇である。         ☆  昭和八年、「赤城の子守唄」を歌って大ヒットした東海林太郎の背中で勘太郎の役を演じていたのが幼い日の高峰秀子。  当時彼女の母親は東海林家の女中頭だった。  東海林太郎、東山千栄子は三十歳を過ぎて芸能界入りをしているが、中村メイコは二歳八ヶ月でデビューしている。  彼女は学校の風紀を乱す怖れありと入学を拒否され、ナンセンス文学の中村正常親父の家庭教育で育てられた。 �夕焼が赤いのは空が恥かしがっているからだよ�てな次第である。  正常作品の中で忘れられない場面がある。  ある胃腸病院が不景気でつぶれ、アパートに改造されてしまう。  そのアパートの名前が「胃腸アパート」         ☆  明治までの歌舞伎役者は子供時代から厳しいしつけの中で育っている。  例えば、中村芝鶴の場合。  朝五時に起きて花柳寿輔宅で踊りのけい古、終って小学校へ行き、長唄のけい古にまわる。終ると琴、三味線、一度帰宅して習字と漢文、夕食後に義太夫のけい古。  それが先代の三津五郎となると、  夜明けから踊りと長唄のけい古に出かけ、それから小学校に行って午後一杯踊りのけい古、夜も亦おそくまで手当り次第にけい古。  これが強制的なのだから、御立派。新聞を読んで叱られるのも無理はない。         ☆ 「堀江六人斬り」という事件は明治三十八年に起きた芸者置屋での殺人事件。  五人死んで残った一人が両手を斬り落された芸者妻吉。  後に現金語楼と一緒に高座を踏み、やがて出家して大石順教尼となり、昭和四十三年の四月亡くなっている。         ☆  エノケンが脱疽で片足を失ってから久しい。  若い時の彼の特技のひとつに、走っている自動車の右のドアから飛び降りるとそのまま車の前を横切って、左のドアから飛び乗るというのがあった。  それだけに今の不自由さが身にしみるだろう。  サラ・ベルナールも脱疽で片足を切っている。         ☆  ビクトル・ユーゴーがサラにプレゼントをした。  カードには「この涙はあなたのものです」、そして品物は大粒のダイヤモンドだった。         ☆  ルナールは日記に書いた。 「サラが一寸合図してくれたら私は彼女について世界の果てまで行くだろう……女房を連れて」         ☆  脱疽で足を切断しなければいけなくなった時、それを相談した医者に向ってサラ・ベルナールはいった。 「ほかに方法がなければ、私の考えなど聞く必要はないでしょう」         ☆  この脱疽の為に片足どころか両足、さらに両腕まで失った名優がいる。  三世沢村田之助である。(明治十一年没)  彼は両足、両腕を無くしても舞台に立った。 「私が横浜のヘボンさんのところで脚を切ったのは、丁度三田の薩摩屋敷の焼打ちの日でした」、このヘボンはヘップバーンとも読む。         ☆  新内の岡本文弥の随筆はおかしくて、哀しいこと、芸人の著作の中では図抜けている。この人、無理な古典の保存には反対で、古典の臨終をみとってこそ意味があるという。  大正十四年には築地小劇場で「西部戦線異状無し」を三味線にのせたこともあるが、今は毎月十日、上野本牧亭で、好きな古典をしみじみと語っている。         ☆  三宅周太郎の『文楽の研究』の中で最も感動したのは、文楽は「農民芸術」でいい、「百姓芝居」でいいと書いていることだ。  逆にいえば現代でも「農民芸術」「百姓芝居」をもっと掘り起さなければならない。  岐阜の白山で観た「猿楽」のおかしさは「壬生狂言」といえども足元に及ばない。  セリフを忘れて「エート、エート」といっている若い演者を老人が突きとばしたりする中に芸の伝達が感じられた。  伝統芸能とは本来そういうものだと思うのである。         ☆ 「心中もの」と呼ばれる日本独特のドラマがあって、主人公の恋人同士が死ぬことで思いをとげるのがラスト・シーンと決まっている。 「此の世のなごり、夜もなごり、死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ、あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘のひびきの聞きをさめ、寂滅為楽とひびくなり」  これは「曾根崎心中」だが二人の死はいやが上にも美化される。  しかしである。  心中をした後の二人は未遂の場合でも裸にして重ねられた上、さらされる。  さらされるだけでなく見物人に、いたずらもされる。  それがわかった上で死ぬ二人。わかった上でみている観客。  その点はもっと認識されなければなるまい。         ☆  文楽の大夫の修業に「大序」という段階がある。  その厳しさは力士出身の人でさえ身体をこわしてしまうほどだという。  発声の為に腹に力をいれる為、脱腸になったり、肺臓を破いたりする。  伊志井寛も、身体をこわして役者に転向した人である。         ☆  例えば豊竹|古靱大夫《こつぼだゆう》という芸人がいた。  豊竹|山城少掾《やましろのしょうじょう》ともいう。  この「山城少掾」というのは秩父宮家から授与されたもので、詳しくは、山城少掾藤原重房という。  信じようが信じまいが昭和も戦後の話である。「文楽」が現代に受けいれられないのはその表現形式だけではないのだ。         ☆  人形浄瑠璃で遣う女形の人形には足がないのが原則である。  従って和服の裾の部分の動きだけで歩いたり、座ったりする。  しかし、何もないと重心がつかないので下半身のかわりに重い袋をさげておく。  文楽では女形のこの袋のことをキンタマという。         ☆  媚態、その艶っぽさ  諦め、その枯れた味わい  意地、その張りのある気骨  九鬼周造の『いきの構造』では「粋」をそんな風に分析している。  四世井上八千代の京舞には、そのすべてがある。  しかし京都では「いき」とはいわない。 「粋(すい)なお方」である。         ☆  舞踊の舞台でも後見《ヽヽ》はいるが、これが能舞台となると厳しさが違ってくる。  能では例えばシテ方が舞台で倒れた場合に後見が代って舞い続けるのである。  文字通り舞台を中絶させないように控えているのが後見であるあたりは武家社会に生きて来た芸の伝統だ。  つまり演能の最中に倒れてしまうほど気迫のこもったものなのである。  脳溢血が多いのだが、舞台で死ぬ可能性が高いという点、実に珍しい芸ともいえる。  歌謡曲なんか死なないものネ。         ☆  娘義太夫の全盛期(明治二十年代)、ファングループともいうべき「どうする連」の中には熱狂のあまり、自分の小指を切って舞台に投げたのがいたというから、此頃の失神騒ぎなど足元にも及ばない。 「おてんと様!」というかけ声も嬉しい。  その頂点にいた豊竹呂昇でさえも「芸人は勝手口から」といわれたという。         ☆ 「ちゃっきり節」は日本のコマーシャル・ソング第一号である。  作詩は北原白秋、作曲は町田嘉章。スポンサーは静岡鉄道。         ☆  北原白秋、野口雨情、山田耕筰、中山晋平と並べれば代表的な日本歌曲の作家だが地方の温泉のコマーシャル・ソングもつくったことでも大作家である。  ××音頭、××小唄といった類で土地の名前だけをいれかえたインスタント作品を大量生産し、温泉芸者の大歓迎などもあって楽しんだことと思う。最近、やたらに地名をいれた歌謡曲が量産されているが、これも大先輩を見習っているのである。         ☆ 「筑前今様」という歌があった。  これを九州のNHKで放送する時にもっとわかりやすい題にしようというのでつけた名前が「黒田節」 「筑前今様」が雅楽の「越天楽」なのは御存知の通り、つまり、民謡といっても外来のものがあるのである。         ☆  日本最初のレコード録音は福地桜痴がやったが、その時に録音された言葉は「コンナ器械ガ出来ルト新聞屋ハ困ル」(明治十一年)  そしてレコードが盛んになったのは明治三十四年からであり、初期は邦楽一辺倒だった。  初めて、自分の声を聞いた義太夫語りが、「ウーン、俺の人気のあるわけがわかった」と喜んだ話もあるが、声を吸いとられるといけないというので出演を拒否した芸人も多い。         ☆  どんな珍盤レコードのコレクションマニアでも持ってないというレコードがある。 「食べられるレコード」として大阪で売り出されたものだ。  発売元は奇人桂春団治。  初期の平円盤プレスの珍品である。         ☆  レコード会社が「百万枚突破!」なんていうことをいってたら話半分とみて五十万枚がいいところだ。 「公表数」「実数」という二ツの呼称が堂々と通用する不思議な世界なのである。  発表されるのが公表数で、僕のような印税契約者に知らされるのが実数。勿論、印税は実数で支払われる。         ☆  この印税はシングル盤でピンが十円、キリが一円というのが相場である。  石原裕次郎が最高で十円という噂。  一流作詩・作曲家が七円見当。  作詞家デビューした時の永六輔で四円。         ☆ ※[#歌記号、unicode303d]聞け万国の労働者ァ  このメーデー歌は秋田雨雀という説もあるが舞踊家石井漠の作詩である。         ☆  昭和八年にジャズを解説した堀内敬三の文章。 「ジャズバンドという特殊な合奏は、太鼓類を花々しく用い、バンジョーというマンドリン系統のやや騒音を発する楽器を以て和音とリズムを奏し、サキソフォーンという柔かい音の出る金属製の竪笛と、トランペットやトロンボーンなどという鋭い音色を持つラッパを主なるものとして、能う限り直接に感覚を刺戟する音色をつくりだすようにしてある」  この場合は今でいうデキシーランド・スタイルをいっているのだろう。         ☆ 「日本人よ、アメリカ経由でない、アフリカのジャズを演奏すべきだ」  最近の人の言葉ではない。昭和四年八月号の「中央公論」。著者はなんと! 長谷川如是閑。         ☆  ブラジルといえばサンバ。このサンバは「黒いオルフェ」でおなじみのスラムから生れたリズムである。  同じスラムでも山谷や、愛隣地区(釜ヶ崎)からリズムが生れないのは何故だろう。  ブルースは売春婦が育てたのだし、スピリチュァルスは奴隷の歌声である。  フランス革命から、ラ・マルセイエーズを無視するわけにはいかない。  音楽が個々の生活や、社会で占めている位置を考えると、日本のそれは常に閉鎖的でまずしい。  スパイダースやザ・タイガースでキャアキャアという若者達にこそ期待出来るのだ。         ☆  徳島の阿波踊りを天皇が御覧になった時、歌詞が一部変更された。 ※[#歌記号、unicode303d]踊る阿呆に みる阿呆  この「みる阿呆」がひっかかったのだ。  勿論、戦後の話である。         ☆  大阪漫才の大御所砂川捨丸は和歌山県串本市の名誉市民である。  理由は串本節を流行させたことにある。  つまり、漫才は明治時代、しゃべるよりも歌うことで全国を歩いたということがよくわかる一例である。         ☆  芸人で最初にメガネをかけて登場したのは横山エンタツである。  最初に洋服を着た漫才はウグイス・チャップリンである。         ☆  外人が不思議がるのは寄席の漫才や漫談のスタイル。  タキシードというドレスアップなのに靴をはいていない。  高座は土足厳禁なのだがこんな中途半端なスタイルは無い。         ☆ 「元来漫談は耳からくるレビューみたいなものであるデス」  自分の話に「漫談」とレッテルをつけたのは大辻司郎。 「声帯模写」は古川ロッパの造語。         ☆  落語家の踊りは座布団の上の座踊りが原則だったが、ステテコの円遊やカマホリの談志達が高座をところせましと踊るようにした。  これをみた岡鬼太郎が「大掃除の手伝いみたいな踊りを踊るな」とうまい叱り方をしている。  他にも「芸人無芸、席|自儘《じまま》、五厘(マネージャー)増長、客|篦棒《べらぼう》」と今でも通用する毒舌がある。         ☆  歌謡曲の世界でも他人《ヒト》の歌は歌わないという原則がある。  ピンキーとキラーズの「恋の季節」をタイガースが歌わないのと同じように、日本の芸には「お家芸」という伝統がある。 「勧進帳」を上演するのに市川家の許可を必要とするようなことは著作権法にはありえないことなのである。         ☆  朝日新聞はプロレスの記事も載せないほどお上品なところだが、明治末に連載されていた「演芸風聞録」(水谷幻花)は凄い。  芸人の名前を挙げて「馬鹿」「間抜け」はいうに及ばず「くたばりやがれ」なんて書いてある。  その代り「破落戸《ゴロツキ》め」「卑下垂《ヘゲタレ》の鈍痴《ドヂ》な奴」「手遊《オモチヤ》にするな」など、その書き方は勉強になった。         ☆  明治の末、岡鬼太郎の主宰する「演芸世界」は、上京した仁左ェ門を待ち構えて、臨時増刊「仁左ェ門攻撃号」を出した。  劇評家が意味もなく賞めそやすのは今でもみることがあるが「攻撃号」の臨時出版をするというエネルギーは尊敬する。  憎む。憎まれる。  現在の芸能界に最も足りない要素のひとつである。         ☆  尾崎紅葉の日記では、明治座で歌舞伎見物中に役者が天狗煙草の宣伝に煙草を客席にまいたのが彼の頭にぶつかり、怒った彼は舞台に煙草を投げ返して「無礼者ッ!」と叫んでいる。         ☆  歌舞伎の芸は筋肉の芸ともいえる。  役者は当然のことながら人体に詳しくなければならない。  隈取は解剖医学前のものでありながら顔の筋肉にあわせて描かれている。  筋肉の研究をつきつめるあまり六代目菊五郎は相手役だった尾上菊次郎の遺骸の解剖に立ちあったという。         ☆  歌舞伎の世界に出世して少しは生活が楽になると「卓袱台(チャブダイ)の上で御飯が頂けるようになりました」という言葉が残っている。それまでは、どこでどうして喰っていたかが問題である。  田舎まわりの旅の一座で化粧台のはじに箸と茶碗が置いてあったり、衣裳箱の脇にナベがあったりすると、何か本当に「役者稼業」「遊芸渡世」という感じがするものだ。         ☆  難解かつ飛躍した絵物語を仏教知識を踏んまえた上で、面白おかしく語って聞かせた説経僧の話術が、講談、落語、浪曲に脈打っている。高座とか前座を寄席の言葉だと思ったら間違いで本来は説経用語なのである。         ☆  小説の盗作問題はよく話題になるが芸能界は盗作なしではその歴史が書けない。  ものは言いようで「前人の意匠脚色にして、或は其骨を換へられ、或はその胎を奪はれて、彼が作中に現はれ居らざるものは殆どまれなりといはんも、甚だしき誣言にはあらじ。彼を評して江戸演劇の最後の集大成者となすはこの故なり」  坪内逍遙の河竹黙阿弥論である。         ☆  坪内逍遙は本読みの名人だった。  今の本読みと違って昔の作者はひと通り、脚本を朗読して聞かせていた。役者は脚本を読むのでなく作者の朗読を聞いて演じる役の性格をつかむのである。  逍遙がハムレットのオフェリアのセリフを読んだ時、そばにいた者は本当に発狂してしまったのかと思ったという。         ☆  明治四十四年、帝国劇場が出来る。  日本で初めて「劇場」と名がついた建物である。  この時に出演料がアラビア数字で書かれたのだが、それが読めない歌舞伎役者が多かったという。         ☆ 「演劇の実験室、民衆の見世物小屋」  寺山修司の天井桟敷のキャッチフレーズのようだが実は築地小劇場のもの。  演劇運動は大正十三年の次元からやり直してほしいものだ。         ☆  ついでながらホリゾントは大正十四年の築地小劇場が最初。  この時観客は舞台の空が赤く染まるのに驚嘆した。         ☆ 「芝居は今後ますます堕落する。同時に観衆も堕落する。芝居の堕落はかまわないが観衆の堕落は一大事である。これを食いとめるにはいい芝居をみせるよりほかに手はない。俳優の自覚よりも、興行者の自覚よりも、むしろ観衆の自覚をうながしたい」  明治四十二年の小山内薫の言葉。 「芝居」を「映画」に変えれば今でも通用する。         ☆ 「今の世に淫楽多き中に糸竹の属には三味線、うたひ物のたぐひには浄瑠璃に過ぐる淫声なし。この声わづかに発すれば俄に人の淫心を引起して放僻邪侵に至らしむ」  太宰春台(儒学者)の説だが、グループ・サウンズ批判とあまり変らない。         ☆  入江美樹から僕の娘あてに可愛い帽子が届けられたことがある。  カードには「この帽子があなたに逢いたがるので……」と、それだけ書いてあった。  この美しい詩人の名前は僕がつけたのである。         ☆  彼女の他、名づけ親ということになっているのは「いしだあゆみ」「スリー・バブルス」  他人はさておいて「六輔」というのはかつてNHKの子供向け番組に出演していた時の役の名前である。  永は本名、いつの間にか永六輔になってしまった。  芸能史では他に藤井六輔と箱田六輔がいる。  藤井は新派の名脇役だった人で大矢市次郎の師匠。  箱田は右翼の雄、頭山満の片腕といわれた人で、忠君愛国で売った浪花節の面倒をよくみている。         ☆  チャンバラの映画やテレビをみていると人を斬る音が景気よく入る。  バサッ、ドスッ、バスッ……。  この音を初めていれたのは稲垣浩。映画は大菩薩峠。(昭和十年)  当時はそのリアルさに、この音がカットされた。         ☆  近藤勇が首を斬られる時、竹矢来を囲む大勢の観衆の前でゆっくりと、ヒゲを剃ってみせたという。  又、死刑台に登る死刑囚にカメラを向けると冷静に堂々と歩くという。  実際の観客、レンズを通した観客の目を意識すると人間は精一杯の演技をしてみせるのだろうか。  となると芸人は芸人意識を持った時から人生を演じるのだろうか。  素顔まで演じているとすれば、実際の演技に関してももっともっと反省、修業してほしい。せめて私生活と同じ程度に。         ☆  文藝春秋(昭和三十九年八月号)が選んだ近代日本十人の芸能人。  九代目団十郎、三遊亭円朝、桃中軒雲右ェ門、豊竹呂昇、松井須磨子、徳川夢声、藤原義江、榎本健一、三船敏郎。  次点以下は、六代目菊五郎、沢田正二郎、曾我廼家五郎、石井漠、小唄勝太郎、尾上松之助とつづく。         ☆  昭和二十七年の徳川夢声の文章に、辰野隆と天野貞祐が、歌舞伎役者に文化勲章を与えることの可否で論争したことが書いてある。  勿論、今では文化勲章もさることながら、人間国宝、芸術院会員といろいろな栄誉が与えられているわけだが、どうも拍手が送れないのはその評価の方法が、一方的だからである。  なぜ、中村翫右ェ門が、桂文楽が、石田天海が、徳川夢声が、まだ沢山いる僕達のスターが認められないのかわからない。  極く一部の人達の為の芸能ばかりが、それも年の順に、タライ廻しにされているような気がするのは僕ばかりではあるまい。  第一、生活の保障もおぼつかない年金ぐらいで、偉そうに表彰するのもナンセンスだ。  毎年の芸術祭にしても、故柳家三亀松ではないが「表彰されて赤字になるってェのはどういうわけだ」というのが実情なのである。  政府の筋の表彰を辞退したり、拒否したりした作家はいるが、芸人の方もこの辺で心意気を示してほしいものだ。 [#改ページ] [#小見出し] 芸人 その百年         ☆  松井源水といえばコマ廻しの芸人として名前が通っているが、慶応三年(一八六七)のパリ万国博に出演している。  他に足芸の浜錠定吉一座が人気を集めている。  この時に柳橋の芸者が三人出かけているが、海外に出た芸者の第一号は、さらに八年前の安政六年、深川芸者小染と侠客の鈴木義吉郎で上方に行くつもりで漂流し、六十日目にハワイに着いている。  パリに行った三人の芸者も、ハワイの小染も日本に帰ってきている記録はないという。         ☆  明治以前、咸臨丸でアメリカに渡った幕府の使節がニューヨークのタイムズ・スクエアで土下座して彼等を迎える日本人に逢っている。  曲芸の軽業師達なのだが、こうしてみると今の芸人は先輩の大活躍を知らなすぎる。         ☆  日本ではサーカス以前を曲馬団と呼んでいたが、会津藩の馬術指南の武士で明治の初めに曲馬団で渡米し、明治政府に従うのはいやだと、アメリカに残って曲馬の芸人になり、カウボーイにも馬術を指南した人がいるという。         ☆  天保の改革の十三年前、イギリスの法律でも「合法的な場所以外で演劇歌舞を演ずる者」は浮浪人として扱うと決めている。  ミュージカル、「オリバー」はこの頃のロンドンが舞台である。  それから約半世紀後、明治三十三年のロンドン。  日本人だけのショーが企画され、ロンドン滞在中の芸人が集められた。  松井源水の曲独楽  福島夫妻の足芸  鏡味仙太郎の太神楽  西浜卯三郎の軽業  それに能、狂言も上演したという。  現代のロンドンにこれだけの日本芸人がいるか、どうか。         ☆  その昔、芝居の奥州巡業では、どんな狂言にでも義経が出ないとおさまらなかった。  従って役者の方でも義経を用意しておいて適当なところで関係なく義経を登場させる。  義太夫でいうと、 ※[#歌記号、unicode303d]一と間の内より義経公、しづしづと出給ひ四辺みまはし悠々と、さして用事もなかりせば、又もやもとへ入り給ふ。  つまり、植木等が「お呼びでない」というのと同じギャグである。         ☆  ついでながら東北弁の義経。 ※[#歌記号、unicode303d]さるほどに、ここにまた九郎判官|義経《よしちね》どのが、屋島《やすま》さすて下《く》んだらるる。さではや、その日の出《えで》立は、上に赤地錦《あかずぬすき》の直垂《ひだだる》を引っばり、下《すだ》には紺の布子《ののご》のどてらを引っばりけり。つぎ従《すたが》うおん供《ども》は、亀井、片岡、伊勢、駿河、西塔《せえとう》の武蔵坊《むさすぼう》、彼らなんどがおん供にで尻《すり》から泥水さ流れるように下《く》んだらるる。それ明日《あすた》も下《く》んだらるる、そのまだ明後日も下《く》んだらるる、めっだやたらに下《く》んだらるる。         ☆  ※[#歌記号、unicode303d]宮さん 宮さん   お馬の前でヒラヒラするのは   なんじゃいな   あれは 朝敵 征伐せよとの   錦の御旗じゃ |知らないか《ヽヽヽヽヽ》?  この「知らないか?」という精神こそコマーシャルに通じる。         ☆ 「西京東京ハ皇国ノ首府ニシテ教化ノ根元ニ候ヘバ仮効ニモ非礼非儀ノ情態有之候テハ其弊普ク御国内ニ及候事故卑劣ノ儀ハ有之間敷筈之所近来春画並ニ猥ケ間敷錦絵等ヲ売買致シ候者モ有之哉ニ相聞且見世物ト唱候類ニモ見苦キ招キ看板ヲ差出シ如何敷態ヲ致シ小児翫物等ノ内ニモ男女ノ裸体等モ相見ヘ不埒ノ至ニ候向後右様ノ不埒ノ儀ハ致間敷万一右様ノ類売買致候者於有之テハ其品取上糺ノ上当人ハ勿論名主共五人組夫々咎申付候条心得違無之様可致候事右之通リ組々不洩早々可申迄」  これは明治元年に発布された性的見世物禁止の御布令である。  その後、明治六年には不具者見世物禁止令が出て�見世物�はますます魅力を失う。         ☆  明治四年には公共の場所での裸体が禁止され、そのついでに裸芸人の相撲までが禁止されそうになった。  西洋かぶれのお役人が相撲は野蛮で国辱だと決めこんだのである。  この時に禁止されていたら今の相撲の隆盛はありえなかったわけだが、さすがに女相撲の方は禁止されちまった。  最近女子プロレスリングなんていう形で復活したことは喜ばしい。         ☆  明治七年、宮廷で洋楽を習い始めた時の言葉。 「東西両洋の音楽を折衷し、将来、我国楽を興すの一助たるべきものを達成。二物の異る点と同じき点を見出し、その同じきは之を合し其異るは双方より漸く相近づけ、遂に相和せしむる」  それから九十年余、遂に相和していない。         ☆  フランキー、ペギー、ピンキーとキラーズといった日本人の横文字芸名は明治八年に始まる。  麓誕三郎という奇術の芸人が一家で名前を変えて、エレメチスト、エンチャンテル、チュネプレス、フロンションと名乗った。         ☆  明治九年、大阪千日前にあった見世物が記録されている。  棒呑み、砂絵、馬かけ、臍芸、藪知らず、鏡ぬけ、女力持、女剣舞、江州音頭、活人形、足芸、水芸、犬芝居、猿芝居、からくり人形、のぞきからくり、ろくろ首、蜘蛛男、蟹婆、蛇娘、仁輪加、雀芸、虫めがね屋、江戸名所写真、軽業、娘手踊り。         ☆ ※[#歌記号、unicode303d]是はこれ世にも因果な人の子の運命であります。生れましたのは雪の北海道は石狩国奥深い山の中であります。  お母さんの名前を○○○○、お父さんの名は××××と申されます。  二人に子供が無かったのでえたいの知れぬ山中の神社に祈願し、やがて授けられたのが皆さん恐しや表看板にあるがままの蛇娘「花チャン」でした。  余りの驚きに○○○○は哀れやそのまま冥土黄泉の客となり、残された××××はつくづく因果の恐しさをさとり、西国巡礼の旅に出ると共に「花チャン」を世の多くの人々に御覧にいれまして、せめてもの罪障消滅をはかろうとしてここにおりまする。人の身の上と思し召さず我が子我が身に引きかえて一度だけは御覧下さい。ハイハイ「花チャンやーい」、あの可愛い声をお聞き下さい……おなじみ見世物の口上。  前記、見世物の口上は「蛇娘」のものだが、この場合は身体が蛇のようなウロコでおおわれ、その上、首や腕に蛇をまいているということになっている。  芸につかう蛇は木綿を噛ませておいて、布もろとも歯を抜きとり、ウロコも逆さにしごいてとってある。  ウロコつきの蛇を局部に挿入し、蛇が出なくなって悶絶したという蛇娘もいる。         ☆ 「此度は外国有名俳優十名当座に出勤仕候、西洋各国において当り狂言と称する眼目の場相勤め、道具衣裳鳴物まで、彼地のままにて御覧にいれ候。誠に今日開明の世の有難くも数千里の波濤隔てて西洋の演劇を東京において興行致候は今般が最初にて当座の栄誉に相成候」  明治十二年、新富座の口上。  この公演は大赤字に終った。         ☆  明治十二年、東京音楽学校の前身音楽取調御用掛が設置され、同十三年十月初め、男子九人、女子十三人の生徒が出来たが卒業したのは二人だけだった。         ☆ 「身にあまる面目に感泣、恐れ多しと誰にも告げず、斎戒沐浴、神仏に祈り早くより伺候、思へば草莽卑賤の身をもつて九重の雲の上へ咫尺《しせき》し奉る畏れ多さに……」  明治天皇に講談を聴かせた二代目|松林伯円《しょうりんはくえん》の感想である。  現在活躍中の石田天海(奇術)も明治天皇の前に出た途端、恐れ多さのあまり腰が抜け、仕方がないので座ったままで御覧にいれたという。         ☆  明治二十年の天覧歌舞伎の主旨は、 「脚本を猥芸にとり、趣向を深奔に借り、恥をしるものの観るに忍びざるものにして、下等人民を喜ばせる歌舞伎なるが、聖上はいかなる場所にもおもむく世の中……」  天覧は今でもあるわけで、出演者はそれを誇りにしたが、天覧の栄を死ぬまで秘していた芸人がいる。  奇術の初代柳川一蝶斎である。         ☆  明治二十三年の音楽界展望。 「陸海軍には勇壮活溌なる軍楽の備あり、音楽学校には高尚なる管絃楽、優美なる声楽ありて、よくその生徒を薫陶し常に鸞鳳《らんほう》の音を絶たず、式部寮には雅楽所の吹奏管楽の両楽ありて宮中に嚠喨《りゆうりよう》たり、華族女学校には洋琴、ヴイオリンの妙音細やかにして嬋娟《せんけん》たる令嬢の鶯歌に和せられ、大学、学習院には開豁《かいかつ》なる原語の歌、清爽にして緑々たる宏園に聞ゆ」と読めない字もつかって書いてある。  しかし、本当はこの頃の僕達の音楽は義太夫とジンタだったのである。  この年の音楽会で幕をあけたら客席には楽器を運んできた車引きが二人いるだけで、その客が恐る恐る「終りましたら、又、私達が運ぶものですから、お早目に」といったという。         ☆ 「謹告! 川上演劇が今回開演の脚本はいやしくも国威に相関し候について演劇中畏くも天皇陛下の尊号を奉称致候時は、客諸君に於いては申すまでも之なく候共、敬礼の意を表しなされ度、右あらかじめ御注意申し上げ候」  明治二十七年「川上音二郎戦地見聞日記」(市村座)のプログラムから。         ☆ 「ここに御覧にいれまするは電気作用活動大写真、一瞬千里を走る電信あれば、年がら年中闇の夜無しの電燈あり。実に理学の応用は天工をしのぐにいたれりと舌を巻く下から、またまた大最新の発明こそ現れたり」  明治二十九年、こうして活動は娯楽の仲間入りをした。         ☆  明治三十二年にアメリカ、ヨーロッパを巡業した川上音二郎一座は言葉の問題をどう解決したかというと、彼は座員にこんなことをいっている。 「何とでもいやあいいやな、どうせ見物にゃわからないからスチャラカポコポコでも何でもいい、ただ身振りや台詞に力を入れて、いかにも熱心に見せりゃいい、それでたくさんだ」(彼の自伝から)         ☆  スチャラカポコポコといいながら彼がやったのはハラキリ・ショーである。  こうしてアメリカ大統領マッキンレイに招かれ、ロンドンではバッキンガム宮殿、パリでは万博の会場で大活躍。フランスの演劇史にその名を残したのである。         ☆  明治三十二年の縁日の夜店の記録を書く。 「怪談うつし絵、おでん、オモチャ屋、羽織の紐屋、美人、役者の写真屋、はじけ豆、焼栗屋、フエ屋、こっとう屋、ザル屋、西洋タバコ屋、雑貨屋、京都改良染、巻タバコ入れ屋、袋物屋、赤本屋、ミルラーのぞきメガネ、蓄音機屋、ぶっ切りアメ屋、活動写真メガネ、砂絵、薬歯みがき粉、メガネいらずの針通し、西洋回り燈籠屋、簡易体格試験所、石版刷り書画屋、太白アメ、台所道具屋、帽子屋、南京ネズミ屋、ハンケチ屋、パイプ屋、茶碗屋、有平糖屋、古本屋……」とある。  この内、うつし絵は幻燈、蓄音機はゴム管で聞かせ、砂絵は色つきの砂で大道に絵を描いてみせていた。         ☆  明治天皇が亡くなった時、歌舞音曲停止のお触れが二ヶ月もつづいた。  この間に失業する芸人、解散する劇団が続出した。  吉田元首相の国葬では放送局が娯楽番組をその日だけ中止した。  この人は英国大使館員時代無名だった藤原義江をロンドン音楽界に紹介したという点で日本のオペラ運動に多大な貢献をしている。  今時、こんな話のわかる外交官はいない。         ☆  明治天皇が亡くなった時、フランスは弔意を表して日本国歌を演奏したが、どういう間違いか「君が代」ではなくて「かっぽれ」だった。         ☆  昭和十六年十二月八日開戦の日に士気を高揚する曲を放送しろという命令が出た。  九州の局はなんと「星条旗よ、永遠なれ」を放送して問題になった。         ☆  大正十二年。  九月一日 十一時五十八分四十五秒。  死者三十万 傷者百万の大震災。  曾我廼家五郎[#「曾我廼家五郎」はゴシック体]。新富座の舞台から逃げだして、そのまま大阪へ。桂文治と一緒に九月四日に現地報告会を開く。  曾我廼家五九郎[#「曾我廼家五九郎」はゴシック体]。浅草の舞台から隅田川へ逃げ、水にもぐっていたが頭髪は降る火の粉でチリチリ。  曾我廼家十郎[#「曾我廼家十郎」はゴシック体]。地面にペタリとすわって揺れにあわせて身体を揺らせ地震を感じないようにしていた。  花柳章太郎[#「花柳章太郎」はゴシック体]。座敷から庭に飛び出し、塀によじのぼったのはいいが、今度は塀が揺れるので降りられず、しがみついていた。  水谷八重子[#「水谷八重子」はゴシック体]。盲腸の手術あとで寝ていたが飛びおきて逃げ出す。  沢田正二郎[#「沢田正二郎」はゴシック体]。四十七人の新国劇座員と手錠をかけられたまま警視庁から逃げた。賭博容疑で逮捕されていたのだが、後に証拠がなく不起訴。  藤原義江[#「藤原義江」はゴシック体]。台湾にいたがピリピリッと感じたという。梅中軒鶯童同じく、急いで帰国。  小島正雄[#「小島正雄」はゴシック体]。鎌倉にいて両親が自宅の下敷きになって死亡。  徳川夢声[#「徳川夢声」はゴシック体]。愛宕警察で鑑札の期限が切れているのを叱られている最中に揺れだし、怒っている警官と一緒に逃げ出す。  田谷力三[#「田谷力三」はゴシック体]。浅草金竜館からピンカートンの扮装のまま逃げ出す。震災は浅草オペラの終りをも告げた。  初代天勝[#「初代天勝」はゴシック体]。金竜館隣の常盤座でサヨナラ興行の初日の幕をあけた途端に逃げ出す。  砂川捨丸[#「砂川捨丸」はゴシック体]。観音劇場の楽屋で昼寝の最中。  横山エンタツ[#「横山エンタツ」はゴシック体]。横浜で柱の下敷きになり、乳母車に乗せられて逃げ出し偶然に浅草から逃げてきた捨丸と再会。大阪人同士抱きあって泣いた。  吉田久菊[#「吉田久菊」はゴシック体]。浪曲家だがこれは足が建物の下敷きになり応急処置のため、ノコギリで足を切り落したが出血多量で死亡。  古今亭志ん生[#「古今亭志ん生」はゴシック体]。ドサクサまぎれに酒屋に駈けつけ浴びるほど飲みまくった。  榎本健一[#「榎本健一」はゴシック体]。麻布の自宅で浅草から逃げてきた仲間に炊きだしをつづけた。  柳家金語楼[#「柳家金語楼」はゴシック体]。仙台で地震を知り、大急ぎで帰京しようとしたが、歩いたり乗ったりで二日間かかった。  尾上菊五郎[#「尾上菊五郎」はゴシック体](六世)。自家用車を提供して非常物資配給に協力した。  坂東三津五郎[#「坂東三津五郎」はゴシック体](現)。便所にしゃがんでいる時に揺れを感じ、これは吉兆と願いごとをかける内に、本当にウンがつく羽目になったという。  柳家三亀松[#「柳家三亀松」はゴシック体]。朝帰りの二日酔の寝入り鼻に叩き起されたのかと思ったら地震だった。船で隅田川の上を逃げまわったあとで焼け死んだ牛を喰ったという。  中村芝鶴[#「中村芝鶴」はゴシック体]。電話をしている最中にゆれだした。  杵屋勝太郎[#「杵屋勝太郎」はゴシック体]。枕の中の小豆を出して「ゆであづき」をつくり日比谷公園で売り歩いた。  桜川ぴん助[#「桜川ぴん助」はゴシック体]。三浦三崎の芸者とゆれてる間にやってみようと実験した。ぴん助曰ク、今時の連れ込みホテルのローリング・ベッドだって関東大震災にはかなうめェ。  友田恭助[#「友田恭助」はゴシック体]。青山杉作、山本嘉次郎達と揺られながら「地震」の駄洒落をいいあっていたという。  西条八十[#「西条八十」はゴシック体]。上野の山へ避難、少年のふくハーモニカになぐさめられ、大衆歌曲を書く決心をする。  土方与志[#「土方与志」はゴシック体]。ドイツ留学の途上、震災の報を聞いて帰国、その余った留学費が築地小劇場の基金になった。  三木のり平[#「三木のり平」はゴシック体]。この翌月に生れるが区役所が再建されていないので出生届けがおくれ、十三年四月生れになっている。  ちなみに大正十二年生れの人を並べると、三波春夫、三国連太郎、西村晃、森光子、砂原美智子、小林桂樹、花柳喜章といった人達がいる。  この震災が芸能史に与えた影響は、仕事場を失った芸人が関西に集まり、例えば京都の撮影所が全盛期を迎えたことなどがある。  東京の撮影所で大阪弁が幅をきかすのはこの時の名残りなのである。         ☆  大正十三年、将棋に時間制が出来て、まず十五時間になった。  それまでは一週間や十日という勝負はざらだったのだが、棋士の報酬は一局あたりだったので実質的な値上げにもなった。  その後、八時間の場合も出来たが、木村名人はその中で六時間十五分の長考をやったことがある。  棋士は持ち時間で芸術を創作すると考える。         ☆  大正十四年、指圧の浪越徳治郎がその指に十万円の傷害保険をかけた。  その時、すでに水谷八重子がその顔に一万五千円、曾我廼家五九郎がそのハゲ頭に一万円かけていたという。         ☆ 「日本の如く国家自体が一大家族になっている特殊の国柄においては、皇室と国民との関係、親と子の如きもので、我々国民は一面において忠良なる臣民であり、一面においては実に陛下の赤子である」(昭和二年) 「地下に眠る忠勇義烈の英霊、その上に建設される新東亜、そこにも日本の劇壇が進むべき道がある」(昭和十三年)  ——喜劇王、曾我廼家五郎の文章から。         ☆  戦争が始まって「戦時下芸人の心得」が出され、笑わせてはいけないという指示があった。  落語家はそこつ者やくるわ話の出てくる落語をまとめ、浅草の寺に埋めてしまった。         ☆ 「エノケン・ロッパなど言ふ役者、見物を笑はせるのは不真面目なれば芸風を改むべき由、その筋の役人より命令ありし由」  終戦直前の永井荷風の日記である。         ☆ 「日本に於ては美の根源、美の原理は国体です。国体に即したものは皆美しい。文学にしろ、音楽にしろ、劇にしろ、映画にしろ、みなそうです」 「私は芸術家は憂国の志士にならなければいかぬと思う。本当に文学なり映画なりを以て国に殉ずるという志がなければ偉大な芸術は生れて来ないのです」  ——昭和十八年、情報局代表の演説から。         ☆  十吾はトーゴとも、ジューゴとも読まれる。  初めはトーゴだったのだが、戦争中、「銃後」に通じるからと「ジューゴ」にした。  改名をすすめたのは右翼の雄、頭山満である。         ☆  ブルース駄目、ハイヒール駄目、イヤリング駄目、ドレス駄目……。  モンペ着用で戦意昂揚の歌を歌えといわれた淡谷のり子が最前線に慰問に行くと、兵隊達の注文は「別れのブルース」であり「雨のブルース」  彼女はこの禁じられた歌を歌う。  いつのまにか監視するためについていた憲兵は姿を消していたそうだ。         ☆  戦争中、高田保の次の脚本から「接吻」という言葉がカットされて、より意味が深くなった。 「接吻させて下さい」 「接吻させるわけにはいきません」         ☆  戦時中、ロッパ、エノケン、キートンなど片仮名は敵性の英語を連想させるというので 「緑波」「榎健」「喜頓」と漢字にさせられてしまったが、どうしても、漢字にならないで困ったのが、アチャコ。         ☆  漫才のミス・ワカナはミスという敵性語(英語)を使うなといわれて「メス・ワカナ」に変更。         ☆    鋼琴(ピアノ)、墨笛(クラリネット)、伸縮号(トロンボーン)、短号(トランペット)、提琴(ヴァイオリン)、特大提琴(コントラ・バス)……  以上、戦争中、英語が使えなくなった時の楽器の呼び方。         ☆  ついでに妙な日本語化を紹介。  草球(ゴルフ)、洋茶(コーヒー)  電髪(パーマ)、操向転把(ハンドル)  伸長抜き差し曲り金(トロンボーン)  ベートーベンの名前の横に「盟邦ドイツの英雄!」と書いてあったのもおぼえている。         ☆  芸人達が集められて防空演習。 「気をつけェ、番号!」  芸人達は番号をいう。 「奇数一歩前へ、偶数一歩後へ!」  さァこの号令がわからない。  その内、一人がおそるおそる、 「すみまへん、丁か、半かでやって下さい」         ☆  昭和二十年八月十五日、和田信賢アナウンサーが読んだ玉音放送の予告アナウンス。 「つつしんでお伝えいたします。かしこきあたりにおかせられましては、このたび詔書を渙発あらせられます。かしこくも天皇陛下におかせられましては、本日正午おんみずからご放送あそばされます。まことに恐れ多ききわみでございます。国民は一人残らずつつしんで玉音を拝しますように、なお、昼間送電のない地方にも、正午の報道の時間には特別に送電いたします。また官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などにおきましては、手持ち受信機を出来るだけ活用して、国民もれなく厳粛なる態度でかしこきお言葉を拝し得ますようご手配願います。ありがたき放送は正午でございます」         ☆  そして戦後、民間放送が開局し、テレビの放送が始まり、カラー宇宙中継が日常の出来事になった。  つまり、御覧の通りの芸能界である。         ☆  三年前、芸能百年史『わらいえて』(朝日新聞社)という本を書いたことがある。 「わらいえて」というのは僕の専門のバラエティの明治語で、小山内薫がそう書き残している。  テレビのバラエティ・ショーを十五年も書いてきて感じたことは、日本の芸能の豊かさであり、それを受けとめ、伝えようとすることの貧しさであった。  そういう意味で日本古来の芸には臨終の状態のものが沢山ある。 「明治・大正とまで持ちこたえてきましたが私の代でおしまいです」という言葉は芸人と職人の世界ではしばしば聞かれる。  そうかと思うと百年はおろか、千三百年前のまま、新作が生れることも無いに等しい、文宇通り昔ながらの「雅楽」という芸能もあり、キチンと伝承が続けられている。  ストコフスキイは雅楽の越天楽を聞いて「日本の現代音楽は大変に水準が高い」と評価しているのだが、まさか千三百年前のものとは思われなかったのであろう。  明治以来百年近くなってやっと出来た国立劇場も歌舞伎一辺倒で、伝統芸能といえば歌舞伎で代表されると思っている。  そんな国立劇場でも、無いよりはいいのだがやたらに妙な「復元」という名の上演をするよりは、絶え果ててしまいそうな芸能と芸人に補助金を出し上演のチャンスを与えてくれる方が有難い。  守るべきは「芸能」ではなく「芸人」であるべきなのである。 [#改ページ] [#小見出し] 芸人 その芸談         ☆  芸道とは「死」を以てはじめてなしうることを、生きながら成就する道である。(中略)芸道には「いくら本気になっても死なない」という後めたさ、卑しさが伴う筈である。(中略)ここに俳優が武士社会から河原乞食と呼ばれた本質的な理由があるのであろう。  ——三島由紀夫の河原乞食論である。         ☆ 「芸ってのは出来、不出来はあって当り前ですよ、芸ってのは出来の悪い日があるからいい芸がひきたつんで、名人ほど出来不出来があります」  神田松鯉の言葉だが、絵に描いたように出来不出来のあった名人に六代目菊五郎がいる。         ☆ 「その日、その日の出来、不出来が御景物でございます」  先代の春風亭柳好が枕にふっていた言葉である。         ☆ 「今こそ名人ならずとも名人会と銘うって寄席や演芸会を催されますが昔は名人が出ても名人会とは申しませんでした」  老芸人がつぶやいていた。         ☆  サーカスの芸人がいっていた。 「むずかしそうにやる芸はやさしい芸なんです。やさしそうにやっている芸がむずかしいんです。そこがサーカスの芸です」         ☆ 「自分と同じくらいの芸と感じる時は、自分と段違いの巧者である」 [#地付き](徳川夢声)          ☆ 「ハナシはむずかしゅうおます。けどそれ以上にむずかしいのがわたしら引込み、楽屋に入るときのうしろ姿の美しさ、これがでけたら……ま、人間完成でんなァ」  六代目笑福亭松鶴の言葉。         ☆ 「座っている客を泣かすのはラクだが、腰かけているのは鳥渡むずかしい。立っている客を泣かすのは一番むずかしい」 [#地付き](五代目歌右エ門)          ☆ 「芝居は理窟通りには行かぬから、家を出る時に理窟は神棚に預けて来い」 [#地付き](嵐権十郎)          ☆ 「昔の人が言った事あり、太夫の声がよいのと、相撲で力の有るのと、役者で男のよいのは皆下手なり」 [#地付き](手前味噌・三代目中村仲蔵)          ☆  助六役者といわれた十五代目羽左ェ門曰ク「どうだい、この男っぷりを見ろい、という自信がなければ助六はやれません」         ☆  「男色と呼ばれる倒錯性欲は、それ自体、不潔で、不健康で、これほどいやなものもないが、歌舞伎の場合にかぎっては、やはり男色の女形でないと、歌舞伎の美しさ、本当のおもしろさは、形象され得ないのである」 [#地付き](山口広一)   こうなると国立劇場で倒錯性欲者が芝居をしているといっても間違いではないことになる。         ☆  芝居にでてくる人間の首の重さをどう表現したらいいか迷った五代目菊五郎は小塚原の仕置場へ行って獄門の首を持たせて貰ったという。           ☆ 「乞食に声をかけられても、つい『どうぞごひいきに!』といわねばならんのが役者や、そのかわり、相手の動作をじっくりみて勉強したるがな」 [#地付き](初代中村鴈治郎)          ☆ 「昔の芸人は資本がかかっていた。資本がかかっているとか頭が働くということは、雑誌や新聞をあさって新しがり、小才をひけらかすことではない。世の中の表裏を身をもって味わい人情の機微に通じながら、とぼけ切った顔つきで高座を勤める。つまり、血のめぐりのよい利発者が、とことんまで愚かをよそおって人を笑わすのが芸であった」 [#地付き](永井龍男)          ☆  落語家には「馬」の字が多いが「競馬は最高の演劇」、と断言するのが武智鉄二。 「演劇人として競馬に恥じ、いかにして競馬の馬券制度とおなじ効果を、演劇創造の過程の中に持ちこもうかと心をくだいている」         ☆ 「芸とは血と汗で積み重ねられた修業からしたたり落ちる雫のようなものである」  この言葉は六代目菊五郎あたりのものであるといっても、通用するだろうが、犬養道子が随筆の中で書いている。  新内の岡本文弥が大切にしている言葉。         ☆ 「日本人は西洋人に比べて俳優としての素質が劣っているかというと、決してそんなことはないと思う。ただはっきりいえることは、西洋で俳優になるような種類の人物が日本では殆ど俳優になろうとしなかったということである」 [#地付き](『時・処・人』岸田国士)          ☆ 「すぐれた芸の持主が無形文化財(人間国宝)に指定され、その芸が衰えた時に芸術院会員になるべきだ」という安藤鶴夫説は大賛成である。  老齢ゆえの枯れた芸は芸ではない。  芸とは脂ぎったものでなければならないのだ。         ☆ 「私が、一流の芸術には不可欠だと思う一要素、ぬるっとした艶っぽさ、内分泌という言葉がふと頭にうかんでくる、そうした感じのもの」 [#地付き](桑原武夫)   芸人には肌で理解出来る言葉である。「ぬるっとした艶っぽさ」という表現と桑原武夫という名前が嬉しい。         ☆ 「私は元来へたくそなんだなァ、でもへたくそだからいいと思っているんです。今はじょうずな人が多いですねェ、うますぎるくらいだなァ、そういうのを『じょうずくそ』ってよんでいるんです」 [#地付き](棟方志功)          ☆  宝生九郎は自分の門下に素人に稽古をつけるのを厳禁した。  自分の芸が落ちてしまうという理由だった。         ☆ 「狂言は何事も師匠のいう通り、する通りを真似て、師匠がよしというまで稽古をすればそれでいいのです」野村万蔵。  古典芸能はかくして伝えられる。         ☆ 「表情を出してはいけません。顔の筋肉を動かしますと、表情が賤しくなってしまいます」表情で足りないといわれる芸人の世界だがこれは能役者の言葉。ギャンブルでいうポーカー・フェイスである。         ☆ 「音楽と踊りの関係は『打てばひびく』という言葉がよく現わしている」 「古典が盛んであるということは、その国の不健康状態を意味するもので、あまり自慢になることではない」 「日本舞踊でいう『名取り』なるものは模倣が出来るという証明で、踊り手の証明ではない」 「舞踊の真髄は、舞踊家から言えば動かぬ算段である」   以上、石井漠の言葉から。         ☆ 「一個の肉体の中で、人間は生れた瞬間からはぐれているんですね、そのはぐれている自分とでくわすことです」 [#地付き](土方巽)          ☆  アンナ・パヴロワが「瀕死の白鳥」を踊り終って幕が降りる間、呼吸をとめているのをみて六代目菊五郎がその点を激賞したら「幕切れは瀕死ですから私は幕が降りて来なかったらそのまま死ぬつもりで踊っています」と返事した。         ☆ 「日本の東京の舞台、私は異常に真剣な眼が私の心臓を刺すように注がれているのに気がついた。この人達は、私の舞踊を享楽しようとしない。味わおうとしない。私の舞踊を学ぼうとしているのだ。意味を求めようとしているのだ。誰も私を感じてくれない。私をわかってはくれていない」  パヴロワは日本の舞台での印象をこう書いている。         ☆ 「僕は気狂いになりたい、踊りの気狂いにね。正気で踊ってる、それが踊っている内にだんだん気狂いになる。芝居でなく本当の気狂いになる。踊りながら狂い死にする、そんな踊りを踊ってみたいと思います」 [#地付き](六代目菊五郎)          ☆ 「私にいわせると役者は一種の気狂いだと思う。芸の道にたずさわるものはみんな同じじゃないかしら」 [#地付き](六代目菊五郎)          ☆ 「芸というのは見物の御機嫌をとっては出来ないな。つまり、自分のファンが、金を払ってみている、こっちはそれを道楽でやってそのカスを見せているようなものだ」 [#地付き](六代目菊五郎)          ☆ 「指をなめて畳を押える、これは蚤をとる時だ。畳を押えて指をなめる、これは砂糖をこぼした時だ。その違いを大切にしないで俺の踊りを盗む奴がいる、蚤が砂糖になってやがる」 [#地付き](六代目菊五郎)          ☆ 「芝居や踊りの『間』はつきつめてゆくと『魔』だ」 [#地付き](六代目菊五郎)          ☆  先代梅幸の芸談に、 「今度、子を亡くしましたが、私にとっては悲しみばかりでなく利益にもなるんだといったら、それは残酷だといわれました。とも角も私は、そう思っておりますよ」         ☆ 「人の真似が出来るくらいなら、その役者は上の部なり、団十郎を真似た二銭団州の又三郎は、団十郎の真似をしなくとも立派な俳優だった」 [#地付き](三角の雪・木村錦花)          ☆  火箸を焼いて「貴様の目をつぶしてやる。なまじっか目があるから、師匠の教えを聞いてねェで自分勝手な芝居をするんだ」と叱ったのは五代目菊五郎、叱られたのは六代目。盲人を感心させたら一人前の役者だという言葉もある。         ☆ 「見物衆に鼻の穴のみえないように踊り、芝居をしろ」といったのは九代目団十郎。  鼻の大きさを売った落語の円遊は親指で鼻クソをほじってみせたという。         ☆ 「芸人というのは生涯かけて博突をしているようなものです。若い人にそれだけの覚悟があるかどうか……」 [#地付き](三遊亭円生)          ☆ 「私は芸を育てるには封建的でなければ駄目だという信念を持っています」 [#地付き](三遊亭円生)          ☆ 「役者は舞台の上で自分の生命を切り売りしているのである」これは花柳章太郎。         ☆  水前寺清子、北島三郎といった演歌をもうひとまわり大きくしたところに三波春夫がいる。 「浪曲の歌い方は高音、つまり聞き手の本能をゆさぶるようになっているのです。話芸というのは中・低音なので、どうしても理性に訴えるようになる。これでは大勢の人に受けません。この点、私のは浪曲、話芸のすべてを含んでいるのです」  そして彼はみずからを「大衆芸術家」という。         ☆ 「芸術だなんていうと、むずかしく聞こえるけど、忍術や算術と同じですよね、つまりは術なんですから」  三波春夫が満員にする歌舞伎座の大道具の老人がそういった。         ☆ 「歩くことを考えなさい。右足と左足でどんな道でもチャンと歩けるでしょう。あの調子、あの正確さでなぜ歌えない、なぜ弾けないのですか」地唄の富崎春昇の言葉。         ☆ 「清元というものは情婦に逢っている時の気持で語ればよい」 [#地付き](清元菊寿太夫)          ☆ 「芸は口伝にあり、口伝は師匠にあり、そして稽古は花鳥風月にあり」 [#地付き](竹本綱太夫)          ☆  山城少掾にセリフが言いにくいといった役者に「言いにくい言葉が出て来ましたか。それは結構、どんな言いにくい言葉でも百ペン言ってごらんなさい。言えるようになります」  勝手にセリフを変えるテレビタレントに聞かせたい。         ☆  エノケンが若いコメディアンを叱って、 「ふざけるのを怒っているんじゃない、ふざけるんでも汗をかいてふざけろといっているんだ」         ☆ 「客を客席で笑わせるな、家に帰ってから笑わせろ」これはその昔の喜劇役者の言葉。  かつては曾我廼家蝶六がそうだったそうだが、今では新喜劇の千葉蝶三郎の芸がそうだと思う。         ☆ 「役者が芝居茶屋などを通して売春しなくなってから、かぶきは何かを失った、かぶきが歌舞伎と書きなおされ、天覧を得たりしてから、高尚な歌舞伎俳優が生れ、その高尚さが、歌舞伎の内容を時代おくれな愚劣なものにみせているのである」 [#地付き](堂本正樹)          ☆ 「芸術家の真の出発は、呪われた種族としての醜い自己の発見と、生命そのものに対する痛ましい欠乏・異端の自覚という、砂塵吹きあれる無慚なこころの荒野の上に芽をふく」 [#地付き](中村哲郎)          ☆ 「河原乞食などという名称は、息子を盗まれた親爺さんが涙ながらに吐いた悪態から生れたものだろう。やはり、公認の名称をつける者は、いつの時代にだって、まっとうな人々の側なのだから、それは仕方ない。すすんで乞食と呼ばれてあるべしだ」 [#地付き](唐十郎)          ☆ 「誰に負けても、アマチュア出身の選手にだけは負けたくないですね。あいつらにだけはほんとのボクシングってものを、シンから思い知らせてやりたい」 [#地付き](ファイティング・原田)          ☆  木村名人は「技、術、芸」という言葉をつかう。 「技が充実して術の境地が開け、術が充実したものが芸の境地である」         ☆ 「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し救わなければならぬ」  御存知、坂口安吾の堕落論。  彼はその堕ちた世界を、ヒロポンと芸人の世界に求めた。(と芸能史風に書く)  コメディアン森川信は戦争中に酔った坂口と舞台に出たこともあるという。坂口は森川の一座にいりびたった。 「〈浮き上った存在になれ!〉私はよくそういわれましたけどねェ」と森川。         ☆  名人芸の伝説をよく聞く。  狂言のAがローソクを吹き消す仕草をしたらその能楽堂が暗くなったという話。  落語のBが高座にのぼると超満員だった客席の後の方がすいてしまう。これは思わず身をのりだす為に前につまってしまうからだという話。  講談のCが気合もろともエイッと扇子をふりおろしたら、バサッという人を斬った音が聞こえたという話。  舞踊のDは踊っている最中、三味線の絃が切れた瞬間、彼も又倒れてしまったという話。  エトセトラ、エトセトラ。テレビではそんな名人芸にお目にかかれない。  では名人はいないのか?  名人芸とは聞き伝え、言い伝えによる伝説なのか、  ならば僕達も名人芸を伝え残そうではないか。  ブルーコメッツのエレキ・ギターは感電しながら演奏を完奏しきった……とか。  三木のり平はセリフをひとつもおぼえないでドラマに主演した……とか。  ハナ肇は結婚三ヶ月でパパになった……とか。  美空ひばりは暴力団と円満に手を切った……とか。  みんな名人芸だと思うけどなァ         ☆ 「この日本でむかしむかし、どういう人が何のために、どんなことを演ってみせたのか。そして、その中で何がどうして喜ばれて、何がどうして飽きられたのか。その事をどうしても、もう一度考えてみたい。その為には芸能として完成されずに消えてしまったもの、未熟なままのもの、更に芸能とは呼ばれないような、例えば、お坊さんのお説教とか、巫女の呪文とか、物売りの口上とか、子供の遊びとか、乞食の物乞いの有様といったものに、吾々は目をむけなければならない。  いや、それだけでなく、それを人前で演ってみることによって芸能の成り立ちの事情を俳優として掴んでみることが出来はしまいかと思い始めたのです」 [#地付き](小沢昭一)          ☆ 「私はむずかしいと思うのですが、俳優というのは聖人と不良の紙一重のところで最後まで聖人でいられるような人、そういう人が立派な俳優だと思いますよ。むずかしいです。とってもむずかしいですね。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」  御存知、淀川長治。         ☆ 「七〇年を前に、オレの中にある代々木的なものは全部排除して、敵をハッキリ決めたい。その中での役者でなきゃ、オレの意義はない」 [#地付き](佐藤慶)          ☆ 「日本中で役者と呼ばれる人が三万人。その中でまァまァ仕事のある人が三千人、どうぞ出て下さいといわれる人は、さらにその中の三百人ですって、自分が二万九千七百人の中にはいらないと、どうしていえる?」 [#地付き](沢村貞子)          ☆  いろいろな形の芸談を並べてみた。  それぞれ、発言や著作の中からピックアップしたのだが、その芸風と芸談を較べてみると興味がある。つまり、名人の芸談が秀れているというわけではなく、芸談の名人がいるということがわかる。  又、御当人は芸談のつもりでいっているわけではないのに、立派に芸談になっているものもある。  しかし、テレビにおける芸談はまだまだ足りない。テレビでは自由自在に泣いてみせるのも芸になりつつあるから、注文次第で、目をうるませたり、大粒の涙を出してみせたりして、その涙を出す為の芸談などが生れてくれば面白いと思う。  どちらにしてもあらゆる言葉が常に内容の豊かな芸談になっているのが、芸人として最高の魅力であろう。 [#改ページ] [#小見出し] 芸人 その死         ☆ 「私儀、永らく病気の処、愈々本日死去仕候生前中御愛顧を蒙り候各位ヘ御礼申上候。大正八年五月二十六日、柳家小せん」  俗にいう盲の小せんが自分で書いて死んだ「都新聞」(現東京新聞)の死亡通知。         ☆ 「私事、この度、無事死去つかまつり候。御安心下されたく、普段の意志により生花、造花お供物の儀は固くお断わり申し上げ候。普段の頑固をお許し下さい。  何百年後、賽の河原の露葉にて、お目にかかるやもしれず、皆様、長生きして下さい。 [#地付き]——三遊亭 金馬」   先代の金馬が生前に書いておき、これに遺族が日付をいれて通知した。  命日は、昭和三十九年十一月八日。         ☆  戒名は勿論、墓もつくり、葬儀の手順も決めて、当日の会葬者にくばる強飯の試食をし、代金を払って翌日に死んだ人がいる。  六代目菊五郎を育てた市村座の田村成義である。  大正九年、病名は腎臓炎。         ☆  明治二年、新政府攻撃をしたというので逮捕された落語家の朝寝坊むらくは拷問を受けて獄死している。         ☆  四国琴平、日本最古の劇場といわれる金丸座の奈落には墓がある。  そこで斬殺された役者のものだ。  こうした地方の芝居小屋には引きとり手のない骨壺が残っているそうだ。  この場合は楽屋で息を引きとった天涯孤独な役者のものだという。  ここにも芸人の素姓がのぞいている。         ☆  谷中の投げ込み寺。  吉原の女郎が死ぬとここへ投げ込んだといわれるが、芸人も身寄りが無いと投げ込まれた。  市川鬼当という役者が死んでここに投げ込まれた時は早桶もないので死体に棒を抱かせるようにして、グルグルまきつけ、それをかついでいったという。勿論、明治初年の話。         ☆  初代団十郎は元禄十七年十二月市村座の舞台で相手役に咽喉を刺されて死んだ。五十四歳。         ☆  八代目団十郎は三十二歳で自刃している。  手違いから大阪と江戸の興行に出演する羽目になってしまった為である。  同じ時間、違うスポンサーのテレビに出るタレントは生命がいくつあっても足りない。         ☆  九代目団十郎が死んだと聞いた直後に駈けつけると、大磯の駅から団十郎宅までの道路を補修して来弔者の便をはかり、伊藤博文にかけあって花と弔辞を貰い受けて来たのが川上音二郎。  総理大臣が芸人に弔辞を贈ったのはこれが最初で最後である。         ☆  賞を貰って有難がる芸人の中で中村梅玉は芸術院会員にされても、ナントカ賞なんておせんべいと同じ、芸術院は芸術せんべいと笑っていた。  六代目菊五郎のように自分の戒名に芸術院とつけたのもおかしい。         ☆  六代目菊五郎が子供の頃、病気になった時「役者になって、まずくて何時までも生きてるくれェなら死んだ方がいい」といわれた。  その六代目の臨終がせまり、枕元にいた人達がすすり泣きを始めた。  と、六代目、その生命の瀬戸際に「まだ早い」といった。         ☆  先代吉右ェ門。  昭和二十九年九月五日。 「あたしは寝ます。本当に寝ますよ」といいながら息をひきとった。         ☆  柳亭燕枝は九世団十郎に憧れるあまり、談州楼《ヽヽヽ》と名乗り、死んだ時はその名前を団十郎自身が墓石に書いた。明治三十三年。  辞世は、「動くものは終りはありて瘤柳」         ☆  三遊亭円朝の弟子の一朝の辞世。 「あの世にも粋な年増がいるかしら」         ☆  四代目古今亭志ん生は胃潰瘍の開腹手術の最中、麻酔で舌がまわらないながらも「ずっこけ」を一席演じ終り、そして死んだ。  大正十五年、五十歳。         ☆ 「昭和四年七月二十五日、マキノ省三死す」  マキノ省三はそういって息をひきとった。  シラノを気取ったんでしょうと息子のマキノ雅弘が書いている。         ☆  初代江戸家猫八は臨終の時に、息子(現猫八)を呼びよせて「手前、ふんどしゃァ洗ってあるか」といって息を引きとった。昭和七年。         ☆ 「一寸ヘンになりましたのでやめさせてもらいます」  放送中にそういってそのままマイクの前で死んでしまったのが春風亭華柳。昭和元年。         ☆  今から死ぬからと電話をかけて仲間を病床の枕元に集め、ニッコリ笑って死のうとするのだがなかなか死ねない。  自分で腹をたててその日は死ぬのを中止して、それから一週間後に今度はチャーンと死んだのが桂三木助。(昭和三十六年)         ☆  プロデューサーともマネージャーともいう役どころに「奥役」というのがある。  明治三十九年十月二十八日に死んだ歌舞伎座の奥役桝井市次郎。  彼は臨終に「女房を抱かせろ」といってきかない。  親族が協議の末、美人の女房が添寝をして大往生をとげさせた。         ☆  中村又五郎という役者。(大正期)  自分の臨終に鏡を持って来させ、我と我が身の断末魔の姿に見とれながら死んだという。         ☆  三代目中村雀右ェ門。  女房のお腹がふくらんでくるのを病気と思い七ヶ月も冷しつづけ、その揚句に妊娠だとわかったという。  昭和二年十一月の中座で三千蔵姫の衣裳のまま死んだ。         ☆  芸人は舞台で死ぬものだと臨終になって病院から舞台へ。そこで息をひきとった。  明治四十四年の大阪帝国劇場。死んだのは新派の創始者川上音二郎。         ☆  明治三十四年には日本での円盤レコード吹込み第一号にもなっている浪花亭愛造。  晩年は脳梅毒で、平然と支離滅裂な浪曲を語り、ある時、数を数えたらどうしても、五ッまでしか数えられず、自分で脳が冒されていると知ったという。  自覚症状があるくらいなら冒されていなかったのではないかとも思うが明治三十八年、三十六歳で死亡。         ☆  茶川友春、レプラに冒されたが高座があきらめられずに熱演し、客を集めた。  その内、顔が崩れはじめたが出演をやめず、遂に警察から出演不許可の命令。やがて死んでいった。         ☆  気違い馬楽と並んで盲小せんも破滅型。  大正八年、三十七歳で死んだが、脳脊髄梅毒症で腰がたたなくなり、白内障で失明、この芸人の鬼気迫る落語を楽しむ客の方に興味がある。         ☆  普通の寝棺ではなく二人が並んで寝ることが出来るようにと特別注文を出し、死んだ女房を抱いて一緒に棺に入り、一夜を共に過した男、桃中軒雲右ェ門。         ☆  初代天中軒雲月は発狂して死んだ。  二代目が女で名前を変えた。七色の声といわれる伊丹秀子。  一度引退したが、最近はテレビにも出ている。         ☆  女流の吉川小福。江波杏子みたいな女賭博師でもあった。  賭博の果てに切腹して、その傷口を縫った直後に舞台に出たという。  切腹未遂に終ってから猫いらずで自殺した。  その時も居あわせた人に「私、毒飲んだのよ」とニッコリしてから悶絶した。         ☆  二度目に死ねたのは二代目愛造も同じ。  この人も大酒で発狂、隅田川に投身。  これは助けられたが、直後に縊死で望みをとげた。         ☆ 「ヘンに良心的で、ヘンに潔癖で、ヘンに職人気質、ヘンに気が荒くて、ヘンに気が弱くて、ヘンにチャッカリしていて、ヘンに気前がよくて、ヘンに折り目正しくて、ヘンにぞろっぺいで、そしてオッチョコチョイの正岡容が死んだ」昭和三十三年。徳川夢声。         ☆  明治三十一年四月、三味線の団平は舞台で演奏中に脳溢血。七十二歳。  ライバルの五代目広助は団平の手をとって、 「この手は死なせたくない」と泣いた。         ☆  昭和十年先代の鴈治郎が死んだ時、あの目を形見に欲しかったといったのが先代の延若。         ☆  七十五年の芸歴を持つ芸人服部伸が「今の講談界には馬琴、貞丈のほかうまい人はございません」といった貞丈が昭和四十三年七月二十七日に死んだ。(六十一歳)  その仏前で八十八歳の服部伸は「私が代ってあげたかった」と泣いた。  その貞丈の弟子の貞鳳が『ただ今講釈師二十四人』という本を出版したばかりだが、これで現役は二十一人。         ☆  明治の名人、三遊亭円朝(落語)、放牛舎桃林(講談)が大阪の寄席に出演した時、客の受けがよくなかった。  桃林はそれを恥じて自殺をしたが未遂。  その芸に対する厳しさに驚く。  現代では客に受けないと「今日の客は質が悪いね」なんて平気でいうからネ。         ☆  神田好山、占いで長生きは出来ないといわれたが、三年間の保証はつけられた。  三年は大丈夫という占い師への面あてにその翌日自殺。、 「ざまァみろ、手前の占いは当らねェ」という遺書まであった。  貞鳳の本の中のエピソード。         ☆  神田愛山という講釈師がいた。  支那事変で友田恭助と同じ時期に戦死したのだが、その最期が凄い。  クリークを渡る作戦が敵弾雨アラレ。味方がひるんでいると、立ち上って大音声。 「やァやァ、我こそは佐々木高綱、いでや宇治川の先陣乗りィ!」  そのまま河の中へ進んで戦死。         ☆ 「明朝○○方面で歩兵を、クリークを渡すことになりました。或はこれが最後になるかも知れぬ、皆によろしく言って下さい。  私も今では落ちついています。  今、部隊の兵にハガキを分けてやって、それぞれの家へ便りを出してもらいました。  では、さよなら 十月五日。」  築地小劇場の創立メンバーだった友田恭助が戦死する前日に田村秋子夫人あてに書いたものである。(昭和十二年十月六日。上海戦にて戦死)         ☆  終戦の直前、甲州へ疎開しようとしたら、トラック代が高いので腹を立て、家財道具を大八車にのせて、東京から大月までひっぱって行き、その疲れで死んだのが木村重行。         ☆  松旭斎天一の葬式の行列を指揮したのは、乞食の親方だった。(明治四十五年)  十六歳の時から松旭斎天一の女だった天勝をその後にスターに仕上げた野呂辰之助は 「芸人は金の勘定をしてはいけない」という興行師の一人だったが、梅毒から麻痺性痴呆症になって死んだ。 「寸劇」という言葉はコントを「寸鉄人を刺す」という意味から野呂がつくったものである。         ☆  走る汽車から落ちて死んだのは琴の名手、宮城道雄。  その最期の言葉が痛々しい。  虫の息で「ミヤギミチオ、ミヤはお宮の宮、ギはお城の城、ミチは道路の道、オは雄です」……そして死んだ。  この正月も彼の「春の海」を何度も聞いた。  晩年はガーシュインを弾きたいといったそうだ。         ☆  胃ガンで死んだ柳家三亀松が最後の手術の時、麻酔注射をされ「ひとつ、ふたつ」と数えろといわれたが、彼は「さのさ」を歌いながら意識を失っていった。         ☆ 「脳がほとんどマヒしてましたので、布団の上でウンチをこねまわしたり、丸い玉にして転がしたり、壁ぬりをやったり、もう情けなくて、情けなくて……」  一竜斎貞山の晩年を語る未亡人の言葉。         ☆  侠客の家に居候をして博奕でつかまったりする芸人の話は多い。  志賀直哉、吉井勇といった人達がファンだった二代目蝶花楼馬楽もその一人。  明治四十三年に発狂、大正三年に死んだ。         ☆ 「俺が死んだら縁の下に埋めてある瓶をあけてくれ」  そういって死んだ中村桃三という役者がいた。  苦労をかけられた女房が掘り出した瓶をあけると、中から紙片が出て来て「ざまあみろ」         ☆  臨終に家族親戚を集め、今迄は迷惑をかけたが、実は莫大な金を壺に入れて埋めてあるからわけてくれとその場所を説明して死んだ落語家もいる。勿論、埋めてはいなかった。         ☆  初代林屋正蔵は天保十三年、六十三歳で死んだ。  遺言通り火葬にすると棺桶に花火をしかけてあって人々を驚かせた。(初代に限り林屋と屋根の屋になっている)  三遊亭円朝にもそんな話が残っている。         ☆  貧苦の底で一文無しで死んだといわれる桃川燕雄にも遺品の中に六万余の金が残されていたという。  葬式の金を用意して死ぬのが芸人の最後の花道なのである。         ☆  一九六二年マリリン・モンローは睡眠薬をのみすぎて死んだ。享年三十七歳。  マリリン・モンローは遺産がゼロだった。  従って彼女の死後、精神病院に入院している彼女の母親への仕送りは途絶えてしまった。         ☆  マリリン・モンローは全裸のままで自殺(?)していた。  ソ連の「イズベスチャ」紙は「マリリン・モンローはハリウッドの犠牲者である。ハリウッドは彼女を生み、彼女を殺した」と書いた。         ☆  アーサー・ミラーはいった。 「モンローの死が、恐ろしい偶発事だったと確信している。彼女の死は絶対に自殺ではない。電話機を手に持ったまま死んでいたのは医師にかけようとしていたのだ」  ローレンス・オリビエはいう。 「彼女は誇大宣伝や人工的なセンセーショナリズムの為に完全に殺された」         ☆  レビューのフィナーレでは出演者が舞台をかざる階段を降りてくると相場がきまっているが、このレビューの大成者ジーグフリードは死ぬ時に「もっと階段を!」といったという。  ゲーテからの盗作であろう。         ☆  日本にもひばりという女王がいるが、サラ・ベルナールもジャーナリストからは叩かれ通しの一生だった。  晩年は脱疽で右足を失ったが、それでもヨーロッパの劇場を満員にした。  七十七歳で死ぬ時、その最後の言葉は、彼女の死を伝えようとするジャーナリスト達にむけられた。 「今度は私がいじめてやる。うんと待ちくたびれさせてやりましょう」         ☆  生きてる間に棺の中に入り、死んだらその棺をかつぐ六人の俳優の名前を決め、都合の悪い者がいるといけないからといって、一人余計に決めておいて死んだのもサラ・ベルナール。         ☆  昭和二十五年五月三十日、銀座で大宅壮一との対談を終った直後、進駐軍のジープにはねられ三遊亭歌笑が死んだ。享年三十二歳。  自動車に乗っていて死んだのは昭和三十四年の高橋貞二、三十六年津村謙、三十九年八波むと志、佐田啓二、四十四年小柳徹といる。  飛行機では昭和二十七年の大辻司郎。         ☆  ドナエフスキイは自殺だった。  この高名な作曲家は息子が銃殺刑になったので自殺した。  息子が死刑になったのは別荘で娘を強姦し雪の中で凍死させたからである。  社会主義でもドラ息子がいるくらいの自由はあるのだネ。         ☆  最近では竹脇昌作、丸井太郎、事件記者の清村耕次のようにマスコミで疲れて自殺をした人達も多い。         ☆  アメリカ大統領(ウィルソン)と会見した浪曲師がいる。  雲右ェ門と日本一を争った二代目吉田奈良丸。  コロムビアレコードが昭和四十一年に出した「日本の五十年」というアルバムがあるが、その中に得意だった奈良丸くずしが収録されている。  昭和四十二年一月二日に死んだが、コロムビアのアルバムには没年不詳と書いてある。         ☆  独力で「黄土花」という小誌を出版し続けている方がいる。  芸人の墓を訪ね歩いている記録である。  高野金太郎サン。 「無名の芸人でも、人を楽しませようと努力したんですから、お墓ぐらいはキチンと残しておいてあげたいんですが……どこへ消えてしまうのか、わからない方が多いですねェ」 「黄土花」(ことはな)冥土に咲く花である。 [#地付き]〈了〉  [#改ページ]  参 考 資 料 日本演劇の説        伊井蓉峰          聚芳閣 現代テレビ講座       飯島正・他編     ダヴィッド社 演劇と犯罪         飯塚友一郎         武侠社 日本文化史         家永三郎         岩波書店 名誉とプライバシー     五十嵐清 田宮裕      有斐閣 芸文散歩          池田弥三郎         桃源社 塵々集           〃             雪華社 日本芸能伝承論       〃           中央公論社 江戸時代の芸能       〃             至文堂 銀座十二章         〃           朝日新聞社 芸能            〃           岩崎美術社 講座・日本民俗史      池田弥三郎・他    河出書房新社 江戸と上方         池田弥三郎 林屋辰三郎・編 至文堂 石井漠とささら踊り     池田林儀      生活記録研究所 をどるばか         石井漠       産業経済新聞社 欲望の戦後史        石川弘義          講談社 バケのかわ         石川雅章         久保書店 松旭斎天勝         〃             雪華社 新劇の誕生         石沢秀二       紀伊國屋書店 乞食裏譚          石角春之助         文人社 楽屋裏譚          〃              〃 明治変態風俗史       石田龍蔵          宏元社 奇術五十年         石田天海        朝日新聞社 人形芝居の研究       石割松太郎         修文館 劇談抄           〃              〃 女優情史          石上欣也          日月社 静臥後記          伊丹万作          大雅堂 成城町二七一番地      市川崑 和田夏十     白樺書房 九代目市川団十郎      市川三升         推古書院 歌舞伎紀行         市川左団次         平凡社 寿の字海老         市川寿海          展望社 中車芸話          市川中車         築地書店 七世市川団蔵        八世市川団蔵        求龍堂 随筆・浅草         一瀬直行         世界文庫 宝塚歌劇五十年史      市橋浩二・編      宝塚歌劇団 生きている貞丈       一竜斎貞花         非売品 話の味覚          一竜斎貞鳳         桃源社 講談師ただいま二十四人   〃           朝日新聞社 痴遊随筆思い出のままに   伊藤痴遊          一誠社 大根役者・初代文句いうの助 伊藤雄之助        朝日書院 流行歌           絲屋寿雄         三一書房 髪と女優          伊奈もと        日本週報社 ひげとちょんまげ      稲垣浩         毎日新聞社 明治史話          井上精二・編    明治大正史談会 化け損ねた狸        井上正夫          右文社 なつかしい歌の物語     猪間驥一        音楽之友社 演劇談義          伊原青々園        岡倉書房 日本音楽史         伊庭孝         音楽之友社 日本新劇小史        茨木憲           未来社 今昔流行唄物語       今西吉雄         東光書院 落語の世界         今村信雄          青蛙房 落語全集          〃             金園社 人物にっぽん音楽誌     岩崎呉夫          七曜社 歓楽郷ラスベガス      E・リード O・デマリス  弘文堂 大衆            E・オッファー    紀伊國屋書店 浪曲十八番集        浪曲研究普及会      魚住書店 明治大正の文化(「太陽」増刊)             博文館 浪曲旅芸人         梅中軒鶯童         青蛙房 映画五十年史        筈見恒夫          鱒書房 芸道三十年         長谷川一夫       万里閣新社 味の芸談          長谷川幸延         鶴書房 寄席行燈          〃              〃 小説・桂春団治       〃             講談社 笑説・法善寺の人々     〃           東京文芸社 働くをんな         長谷川時雨      実業之日本社 私眼抄           長谷川伸        人物往来社 喜劇人回り舞台       旗一兵          学風書院 変態演劇雑考        畑耕一       文芸資料研究会 戯場壁談義         〃             奎運社 新丸の内夜話        秦豊吉         小説朝日社 芸人            〃             鱒書房 三菱物語          〃             要書房 離れ座敷          〃              〃 日劇ショウより帝劇ミュージカルスまで               秦豊吉           非売品 宝塚と日劇         〃           いとう書房 劇場二十年         〃           朝日新聞社 ガンマ線の臨終       八田元夫          未来社 歌舞伎成立の研究      服部幸雄         風間書房 世界民謡集         服部竜太郎     社会思想研究会 世界名演奏家事典      〃          〃 唄に生き味に生き      〃           朝日新聞社 きもの           花柳章太郎        二見書房 役者馬鹿          〃            三月書房 紅皿かけ皿         〃             双雅房 がくや絣          〃            美和書院 カメラとマイク       羽仁進         中央公論社 明治の東京         馬場孤蝶         〃 武者修業世界をゆく     早川雪洲       実業之日本社 死滅への出発        林光           三一書房 女優記           林芙美子          日本社 新芸者論          林田雲梯          建之社 歌舞伎以前         林屋辰三郎        岩波書店 日本文化事物起原考     速水建夫        鷺の宮書房 三つの椅子         原清            牧羊社 日本の歌をもとめて     原太郎           未来社 伴淳放浪記         伴淳三郎        しなの出版 戯場戯語          坂東三津五郎      中央公論社 少女歌劇物語        西岡浩          南風書房 絵本・落語長屋       西川清之          青蛙房 酔うて候          西崎緑        ダヴィッド社 逸話三六五日        西元篤           創元社 家元ものがたり       西山松之助     産業経済新聞社 名人            〃            角川書店 市川団十郎         〃           吉川弘文堂 演劇明暗          西村晋一         沙羅書房 演劇年鑑          日本演劇協会監修 中央公論事業出版 写真・近代芸能史      月本近代史研究会      創元社 私の履歴書         日本経済新聞社   日本経済新聞社 演劇年鑑(一九二五)    日本年鑑協会・編      二松堂 全国芸能資料        日本放送協会芸能局  日本放送協会 日本放送史         日本放送協会放送史編修室                        日本放送出版協会 放送夜話          日本放送協会   日本放送出版協会 放送年鑑(一九六五)    日本放送作家協会 日本放送作家協会 1963放送作家      〃         〃 歌舞伎逸話         法月歌客          信正堂 宝生新自伝         宝生新          能楽書林 壮士一代          穂積驚         東京文芸社 侠花録           保良保之助        桃園書房 ヂンタ以来         堀内敬三        アオイ書房 音楽五十年史        〃             鱒書房 音楽明治百年史       〃           音楽之友社 音楽辞典(人名編)     堀内敬三 野村芳雄・編  〃 日本唱歌集         堀内敬三 井上武士    岩波書店 小山内薫          堀川寛一         桃蹊書房 民俗芸能          本間安次・他       河出書房 サラ・ベルナールの一生   本庄桂輔         角川書店 芝居名所一幕見       戸坂康二          白水社 演劇人の横顔        〃              〃 六代目菊五郎        〃           演劇出版社 芝居国風土記        〃             青蛙房 歌舞伎全書         〃             創元社 日本の俳優         〃              〃 今日の歌舞伎        〃              〃 歌舞伎人物入門       〃            池田書店 対談・日本新劇史      戸坂康二・編        青蛙房 歌舞伎           戸坂康二 郡司正勝                        日本放送出版協会 わが人物手帳        戸坂康二          白鳳社 久保田万太郎        〃            文藝春秋 歌舞伎名作選        戸板康二・編        創元社 腰巻お仙          唐十郎         現代思潮社 私の人生劇場        東京新聞社        現代書房 芸に生きる         〃          実業之日本社 芸談            東京新聞社文化部      東和社 私の俳優修業        東野英治郎         未来社 東宝三十年史        東宝三十年史編纂委員会    東宝 解説・日本史史料集     東北史学会        中教出版 南座            堂本寒星         文献書院 上方演劇史         〃             春陽堂 上方芸能の研究       〃            河原書店 昭和史           遠山茂樹・他       岩波書店 舞台照明五十年       遠山静雄         相模書房 東和の四十年        東和映画 戦後風俗史         戸川猪佐武         雪華社 昭和現代史         〃             光文社 サーカスの風        戸川幸夫         角川書店 明治大正史         土岐善麿・編      朝日新聞社 花形稼業入門        徳川夢声      ダイヤモンド社 夢声戦争日記        徳川夢声        中央公論社 明治は遠くなりにけり    〃            早川書房 よき友よき時代       〃             〃 一等国にっぽん       〃             〃 守るも攻めるも       〃             〃 にっぽん好日        〃             〃 夢声半代記         〃           資文堂書店 夢声身の上ばなし      〃            早川書房 話術            〃             白揚社 放送話術二十七年      〃              〃 雑記雑俳二十五年      〃           オリオン社 夢声漫筆・大正篇      〃            早川書房 問答有用          〃           朝日新聞社 銭と共に老いぬ       〃             新銭社 夢声随筆          〃            河出書房 お茶漬哲学         〃            文藝春秋 閑散無雙          〃           アオイ書房 受難の芸術         徳田一穂          豊国社 三文役者のニッポン日記   殿山泰司         三一書房 近代世態風俗誌       豊泉益三   近代世態風俗史刊行会 呂昇            豊竹呂昇          盛文館 世界ノンフィクション全集  筑摩書房編集部      筑摩書房 台本浪曲百選集       〃            八こう社 秀十郎夜話         千谷道雄         文藝春秋 裏方物語          〃            早川書房 吉右衛門の回想       〃             木耳社 文楽聞書          茶谷半次郎        金田書房 文楽            〃             創元社 民間放送史         中部日本放送・編      四季社 チャップリン自伝      チャールズ・チャップリン  新潮社 チャップリン        G・サドゥール      岩波書店 わが父チャップリン     チャップリン・ジュニア   恒文社 日本の百年         笠信太郎・編      社会思想社 ブルースの魂        リロイ・ジョーンズ   音楽之友社 雅楽            多忠龍          六興出版 スターと日本映画界     若月繁          三一書房 俳優講座          若月高・編      東京俳優学校 相撲今むかし        和歌森太郎      河出書房新社 芸能と文学         和歌森太郎・他       弘文堂 日本民俗史         和歌森太郎        筑摩書房 若手歌舞伎俳優論      和角仁          新読書社 新劇ハイライト       早稲田大学演劇研究会  新興出版社 京おとこ          渡辺喜恵子        アルプス 歌舞伎に女優を       渡辺保           牧書店 落語の鑑賞         〃          大阪新興出版 放送ばなし         和田信賢      青山書店出版部 謡曲物語          和田万吉          冨山房 明治文化史         開国百年記念文化事業会   洋々社 上方ヌード盛衰記      松田博三        みるめ書房 ある女形の一生       加賀山直三         創元社 八人の歌舞伎役者      加賀山直三・編       青蛙房 笑根系図          花月亭久里丸        非売品 すかたん名物男       〃             杉書店 寄席楽屋事典        〃            渡辺力蔵 日本史小年表        笠原一男・編    東京大学出版会 体験的放送論        春日由三     日本放送出版協会 アンテナは花ざかり     春日由三・編        鱒書房 軍歌と日本人        加太こうじ        徳間書店 替歌百年          加太こうじ・他    コダマプレス 国定忠治・猿飛佐助・鞍馬天狗               加太こうじ        三一書房 落語            〃         社会思想研究会 日本のやくざ        〃            大和書房 評伝・三波春夫       片柳忠男        オリオン社 創意の人          〃            〃 あばらかべっそん      桂文楽           青蛙房 南の島に雪が降る      加東大介         文藝春秋 みの助の思い出       加東みの助年忌発起人会  加東康一 見世物からテレビへ     加藤秀俊         岩波書店 大衆芸術家の肖像      〃             講談社 明治大正世相史       加藤秀俊・他      社会思想社 世界の人間像        角川書店編集部      角川書店 放送文化小史・年表     金沢覚太郎     岩崎放送出版社 俳優の周辺         金沢康隆        演劇出版社 市川団十郎         〃             青蛙房 演芸問答五百題       兼子伴雨        いろは書房 絶望の精神史        金子光晴          光文社 ヨーデル入門        樺山武弘・他        朋文堂 日本の恋唄         上笙一郎         三一書房 上方            上方郷土研究会       創元社 上方落語おもろい集     上方落語協会・編    新風出版社 日本の流行歌        上山敬三         早川書房 都々逸・下町        亀屋忠兵衛          産報 日本人の履歴書       唐沢富太郎       読売新聞社 女形            河合武雄          双雅堂 月曜ジャーナル       河上英一         学風書院 音楽の裏窓         河上徹太郎         鱒書房 役者            川口松太郎         新潮社 江戸風物誌         川崎房五郎         桃源社 江戸八百八町        〃              〃 拳闘秘話          川島清           大誠堂 日本演劇百年のあゆみ    川島順平          評論社 名優芸談          川尻清潭・編      中央公論社 楽屋風呂          川尻清潭        中央公論社 〃             〃            梨の花会 俳優通           川尻清潭 浜村米蔵    四六書院 人形劇ノート        川尻泰司       紀伊國屋書店 芸能辞典          河竹繁俊          東京堂 日本演劇文化史話      〃             新樹社 日本演劇とともに      〃            東都書房 日本演劇通史        〃             創元社 日本演劇全史        〃            岩波書店 歌舞伎演出の研究      〃            早川書房 逍遙、抱月、須磨子の悲劇  〃           毎日新聞社 河竹黙阿弥         〃             創元社 河竹黙阿弥         〃           吉川弘文館 日本演劇図録        〃           朝日新聞社 歌舞伎百題         〃             青蛙房 牛歩七十年         〃             新樹社 歌舞伎名場面名台詞     河竹登志夫        秋田書店 勧進帳           河原崎長十郎       角川書店 能と狂言          横道万里雄 増田正造   大同書院 維新の逸話         横瀬夜雨        人物往来社 エンタツ僕は探偵      横山エンタツ      八千代書院 松のや露八         吉川英治          同光社 芸の心まことの心      吉住小くに ボロブドウル文化研究会 歌舞伎座          吉田暎二      歌舞伎座出版部 芸能落書          吉田貞澄      神戸芸能同好会 かみがた漫才太平記     吉田留三郎        三和図書 文五郎芸談         吉田文五郎        桜井書店 あの人この人        吉村公三郎     協同企画出版局 三浦環のお蝶夫人      吉本明光        音楽之友社 私の見た人         吉屋信子        朝日新聞社 劇団覗機関         吉原東一郎      日刊スポーツ 日本童謡集         与田準一         岩波書店 溝口健二の人と芸術     依田義賢        映画芸術社 日本歌曲のすべて      四家文子          創彩社 映画によるもう一つの戦後論 第三映画の会       那須書店 照葉始末書         高岡辰子        万里閣書房 宝塚花物語         高木史朗         秋田書店 歌舞伎屋漫談        高坂金次郎        歌舞伎屋 人気役者の戸籍調べ     高沢初風          文星社 NHK王国         高瀬広居          講談社 冬鶴春鶴          高田浩吉         平凡出版 校歌寮歌全集        高田三九三     協同音楽出版社 人情馬鹿          高田保           創元社 第三ブラリひょうたん    〃              〃 流行歌三代物語       高橋掬太郎        学風書院 しねま抄          高橋晋         笑いの泉社 黄土花           高野金太郎        自費出版 流行歌でつづる日本現代史  高橋※[#「石+眞」、unicode78cc]一        音楽評論社 沸る            高橋とよ         東峰出版 東京故事物語        高橋義孝・編       河出書房 浅草            高見順・編         英宝社 日本舞台装置史       高谷伸        舞台すがた社 明治演劇史伝        〃             建設社 評判ラジオ講談集      宝井馬琴        国民出版会 歌舞伎の黎明        武智鉄二          青泉社 武智歌舞伎         〃            文藝春秋 私の芸術人生女性      〃          ノーベル書房 かりの翅          〃            学芸書林 舞台裏の現代史       竹島茂          三一書房 呼び屋           竹中労           弘文堂 美空ひばり         〃              〃 くたばれ!スター野郎    〃            秋田書店 でんでん虫         竹本綱太夫        布井書房 芸談かたつむり       〃             〃 映画道漫談         立花高四郎       無名出版社 てんてん人生        橘家円蔵          木耳社 大大阪と文化        伊達俊光        金尾文淵堂 らくだ・源平盛衰記     立川談志      共同企画出版部 笑点            〃            有紀書房 あらイヤーンナイト     立川談志         有紀書房 勝手にしやがれ       〃             桃源社 現代落語論         〃            三一書房 邦楽手帳          館野善二         真珠書院 映画演技読本        田中栄三        映画世界社 明治大正新劇史資料     〃           演劇出版社 新劇その昔         〃            文藝春秋 一粒の籾          田中義一      全音楽譜出版社 かぶりつき人生       田中小実昌        三一書房 日本映画発達史       田中純一郎       中央公論社 宣伝ここに妙手あり     〃             四季社 謡曲狂言歌舞伎集      田中千禾夫      河出書房新社 新劇辞典          〃             弘文堂 東京人           田中義郎         早川書房 新橋生活四十年       田中家千穂        学風書院 講談研究          田辺南鶴         田辺南鶴 明治音楽物語        田辺尚雄          青蛙房 日本の楽器         〃             創思社 日本の音楽         〃         全音楽譜出版社 日本音楽概論        〃           音楽之友社 楽器            〃          ダヴィッド社 俳優            田辺若男          春秋社 おとぼけ一代        玉川良一        日本文芸社 日本映画盛衰記       玉木潤一郎         万里閣 講談西遊記         玉田玉秀斎       岡本増進堂 世直し           田村栄太郎         雄山閣 浅草吉原隅田川       〃              〃 無線電話          田村成義          玄文社 今晩お願い         丹下キヨ子         光文社 相撲五十年         相馬基         時事通信社 義太夫盛衰論        副島八十六      大日本浄曲協会 日本春歌考         添田知道          光文社 演歌の明治大正史      〃            岩波書店 香具師の生活        〃             雄山閣 十五年の足跡        曾我廼家五郎        双雅房 曾我廼家五郎自伝喜劇一代男 〃            大毎書房 芸に生き、愛に生き     曾我廼家桃蝶       六芸書房 日本民衆歌謡史考      園部三郎        朝日新聞社 演歌からジャズへの日本史  〃             和光社 日本の子どもの歌      園部三郎 山住正己    岩波書店 未解放部落         塚原美村          雄山閣 浄瑠璃           塚本哲三・編      有朋堂書店 演劇            津島寿一        芳塘刊行会 わがページェント劇     坪内逍遙          国本社 歌舞伎画証史話       〃             東京堂 それからそれ        〃          実業之日本社 日本の大衆芸術       鶴見俊輔 加太こうじ・他                      社会思想研究会出版部 日本の百年         鶴見俊輔・他       筑摩書房 ゴシップ10年        内外タイムス文化部    三一書房 明治再見          中尾喜道 草柳大蔵                       東京中日新聞出版局 浪花節発達史        中川明徳      日本コロムビア 踊らんかな!人生      中川三郎        学習研究社 昭和時代          中島健蔵         岩波書店 ギャングの季節       中野五郎          四季社 愛人の記          中村翫右衛門       三一書房 歌右衛門自伝        中村歌右衛門        秋豊園 吉右衛門日記        中村吉右衛門      演劇出版社 演劇独語          中村吉蔵         東宛書房 現代演劇論         〃             豊国社 随筆集・芝居        中村義一        大河内書店 役者の世界         中村芝鶴          木耳社 大文字草          〃            東京書房 中村芝鶴随筆集       〃            日本出版 手前味噌          中村仲蔵         北光書房 マリリン・モンロー     中田耕治       ソノブックス 喜劇の王様たち       中原弓彦         校倉書房 多情菩薩          中山喜代三        学風書院 三遊亭円朝         永井哲夫          青蛙房 市川子団次         〃              〃 終戦っ子          永田時雄       誠文堂新光社 映画道まっしぐら      永田雅一        駿河台書房 著作権で損をするな     長野伝蔵       新興楽譜出版 水のように         浪花千栄子        六芸書房 生きてるジャズ史      並河亮           朋文堂 日本の大衆演劇       向井爽也         東峰出版 スポーツへの誘惑      虫明亜呂無        珊瑚書房 梢風名勝負物語       村松梢風        読売新聞社 川上音二郎         〃          太平洋出版社 松竹兄弟物語        〃           毎日新聞社 上方落語考         宇井無愁          青蛙房 日本人の笑い        〃            角川書店 虚彦映画譜五十年      牛原虚彦         鏡浦書房 映画監督五十年       内田吐夢         三一書房 ミュージカル        内村直也        音楽之友社 テレビドラマ入門      〃             宝文館 新しいドラマトゥルギー   〃             白水社 現代の演劇         内村直也 坂本朝一・監修 三笠書房 明治はいから物語      内山惣十郎       人物往来社 オペラ序曲         〃           東京新聞社 浅草オペラの生活      〃             雄山閣 文楽盛衰記         内海繁太郎        新読書社 役者            宇野信夫         北光書房 劇界へへののもへじ     梅島昇           宝文館 万三郎芸談         梅若万三郎         積善館 芸界歳時記         浦野富三          有厚社 映画わずらい        浦辺粂子 菅井一郎 河津清三郎                            六芸書房 世界の名優         ヴァンチーゲム       白水社 浅草            野一色幹夫        富士書房 浅草紳士録         〃             朋文堂 愛と死の歌         野上彰          角川書店 兼資芸談          野口兼資        わんや書店 歌舞伎           野口達二         文藝春秋 ミュージカル入門      野口久光        荒地出版社 ショパン          野村光一          弘文堂 能の今昔          野々村戒三         木耳社 無手の法悦         大石順教         大蔵出版 歌舞伎の素顔        大木豊           冬樹社 あの舞台この舞台      〃             劇評社 わが芸と金と恋       大蔵貢          東京書房 大阪弁           大阪ことばの会 杉本書店                           清文堂書店 百年の大阪         大阪読売新聞・編      浪速社 新洋楽夜話         太田黒元雄        第一書房 明治のおもかげ       鶯亭金升         山王書房 鶯亭金升日記        〃           演劇出版社 狂乱の一九二〇年代     大原寿人         早川書房 近代日本戯曲史       大山功    近代日本戯曲史刊行会 演劇戦線          大平野虹         銀座書房 日々願うこと        大矢市次郎        六芸書房 群像断裁          大宅壮一         文藝春秋 炎は流れる         〃             〃 日本歌謡史         丘灯至夫         弥生書房 歌舞伎眼鏡         岡鬼太郎         新大衆社 西部劇入門         岡俊雄・編       荒地出版社 明治の東京         岡田章雄          桃源社 日本の歴史         岡田章雄・他      読売新聞社 壁画からテレビまで     岡田晋        三笠図書販売 日本映画の歴史       〃          ダヴィッド社 明治大正女義太夫盛観物語  岡田道一      明徳印刷出版社 新水や空          岡本一平          先進社 明治の演劇         岡本綺堂          同光社 〃             〃           大東出版社 歌舞伎談義         〃            〃 明治劇談ランプの下にて   〃             青蛙房 現代タレントロジー     岡本博 福田定良  法政大学出版局 縁でこそあれ        岡本文弥          同成社 文弥芸談          〃              〃 遊里新内考         〃              〃 芸渡世           岡本文弥         三月書房 曲芸など          〃             〃 ひそひそばなし       〃             〃 特殊部落の解放       岡本弥        近代工芸資料 映画百年史         荻昌弘・編       ビデオ出版 土俵            奥村忠雄         早川書房 日本軍歌集         長田暁二       新興楽譜出版 日本のサーカス       尾崎宏次         三芽書房 演劇はどこにある      〃             〃 坪内逍遙          〃             未来社 女優の系図         〃           朝日新聞社 島村抱月          〃             未来社 戦後演劇の手帳       〃           毎日新聞社 軟派漫筆          尾崎久弥          春陽堂 大衆文化論         尾崎秀樹         大和書房 戦後生活文化史       尾崎秀樹 山田宗睦     弘文社 女形今昔譚         尾崎良三         筑摩書房 演出者の手記        小山内薫        洸林堂書店 旧劇と新劇         〃             玄文社 就眠前           〃           平和出版社 放送出来ないTVの内幕   小中陽太郎       自由国民社 明治話題事典        小野秀雄・編      東京堂出版 芸             尾上菊五郎         改造社 おどり           尾上菊五郎         時代社 梅の下風          尾上梅幸        演劇出版社 日本芸能史六講       折口信夫         三教書院 世界の愛唱歌                    音楽之友社 新ミュージカル読本(ポップス)            〃 LP小辞典                      〃 新案剣舞指南        恩邦散人        井上一書堂 「いき」の構造       九鬼周造         岩波書店 現代名優身の上話      久佐太郎          博文館 金丸座           草薙金四郎     香川県教科図書 舞踊の文化史        邦正美          岩波書店 橘や            邦枝完二          硯友社 名人松助芸談        〃            興亜書院 市川独歩録         〃             聚芳閣 中村鴈治郎         〃             雁文庫 舞台八十年         邦枝完二・編       大森書房 小山内薫          久保栄         文藝春秋 芝居修業          久保田万太郎     三田文学出版 世界の賭けごと       倉茂貞助      東洋経済新報社 演出のしかた        倉橋健           三省堂 相撲百話          栗島狭衣        朝日新聞社 映画スキャンダル五十年史  クリタ・信 小野好雄  文芸評論社 芸談百話          黒崎貞次郎         博文館 郷土芸能          郡司正勝         創元新社 かぶきの発想        〃             弘文堂 遊びの論          安田武          永田書房 江戸から東京へ       矢田挿雲         芳賀書店 新派の六十年        柳永二郎         河出書房 絵番付新派劇談       〃             青蛙房 宝生九郎伝         柳沢英樹        わんや書店 明治の書物明治の人     柳田泉           桃源社 日本の祭          柳田国男          弘文堂 話のジェスチャー      柳家金語楼         冬樹社 泣き笑い五十年       〃            東都書房 あまたれ人生        〃             冬樹社 落語の世界         柳家つばめ         講談社 芸者論           矢野恒太          博文館 落語遊歩道         矢野誠一      協同企画出版部 百八人の侍         八尋不二        朝日新聞社 わらべ唄考         藪田義雄        カワイ楽譜 大阪の芝居         山口広一          輝光堂 大阪の芸と人        〃            布井書房 延若芸話          〃             誠光堂 陸軍軍楽隊史        山口常光          非売品 ふたりの昭和史       山下肇 加太こうじ    文藝春秋 若き日の狂想曲       山田耕筰          講談社 人情映画ばか        山野一郎        日本週報社 映画テレビ風物誌      山田宗睦         番町書房 野球五十年         大和球士        時事通信社 音楽の歴史         山根銀二         岩波書店 をどるばか         山野辺貴美子      宮坂出版社 カツドオヤ人類学      山本嘉次郎         養徳社 カツドウヤ水路       〃            筑摩書房 カツドウヤ紳士録      〃             講談社 劇評と随筆         山本勝太郎         宝文館 上方今と昔         山本為三郎        文藝春秋 演劇寸史          山本修二         中外書房 明治世相百話        山本笑月         第一書房 鶴によせる日々       山本安英          未来社 素顔            〃            沙羅書店 明治一〇〇年        毎日新聞社         雄山閣 日本人物語         〃           毎日新聞社 ラジオ           〃            〃 十人百話          〃            〃 続・組織暴力の実態     毎日新聞社社会部     〃 上方落語の歴史       前田勇          杉本書店 大阪弁入門         〃           朝日新聞社 上方演芸辞典        前田勇・編       東京堂出版 近世上方語考        前田勇          杉本書店 しゃべり屋でござい     前田武彦       コダマプレス あーやんなっちゃった    牧伸二         報知新聞社 楽屋ばしご         牧野五郎三郎  カツドウ屋一代       マキノ雅弘       栄光出版社 川上音二郎         牧村史陽      史陽選集刊行会 円朝            正岡容          三杏書院 寄席囃子          〃             竜安居 芸能入門選書        〃             新灯社 雲右衛門以後        〃          文林堂双魚房 艶色落語講談鑑賞      〃          あまとりあ社 膝栗毛のできるまで     〃             東光堂 寄席行燈          〃             柳書房 随筆寄席風俗        〃            三杏書院 荷風前後          〃            古賀書店 日本浪曲史         〃             南北社 乞食のナポ         益田喜頓         六芸書房 わらべうた         町田嘉章 浅野建二    岩波書店 市川左団次         松井桃楼         高橋登美 劇団今昔          松井松翁        中央美術社 日本の一〇〇年       松島栄一・監修     読売新聞社 金はなくても        松村達雄         未央書房 大阪百年          松村英男・編      毎日新聞社 日本新劇史         松本克平         筑摩書房 民謡の歴史         松本新八郎         雪華社 小説日本芸譚        松本清張          新潮社 わっはっは笑事典      真山恵介         徳間書店 落語学入門         〃           日本文華社 日本中が私の劇場      真山美保         有紀書房 芸能            芸能発行所        芸能学会 落語系図          月亭春松        橋本卯三郎 大阪坂口祐三郎       食満南北         食満貞二 作者部屋から        〃             宋栄堂 演劇に生きる        福田和彦         刀江書院 劇場への招待        福田恆存          新潮社 日本流行歌年表       福田俊二・編        彩工社 芸術と大衆芸能       福田定良         岩波書店 民衆と演芸         〃             〃 歴史家のみた講談の主人公  藤直幹 原田伴彦     三一書房 桂春団治          富士正晴         河出書房 変態見世物史        藤沢衛彦      工芸資料研究会 明治風俗史         〃            三笠書房 〃             〃             春陽堂 はやり唄変遷史       〃           有隣洞書屋 ドキュメント日本人、アウトロウ㈮                藤森栄一・他       学芸書林 流行歌百年史        〃           第一出版社 「おかげまいり」と「ええじゃないか」               藤谷俊雄         岩波書店 あほやなあ         藤山寛美          光文社 歌に生き恋に生き      藤原義江         文藝春秋 オペラうらおもて      〃           カワイ楽譜 映画に生きた古海卓二の追憶 古海巨    古海卓二遺作集刊行会 日本人物語         古川哲也・他      毎日新聞社 能の世界          古川久       社会思想研究会 ロッパ自伝         古川緑波 ロッパ食談         〃             創元社 劇書ノート         〃            学風書院 あちやらか人生       〃           アソカ書房 読本戦後十年史                    文藝春秋 芝居と映画名優花形大写真帖               講談社 新作落語四〇年傑作集    興津要         新風出版社 落語明治一〇〇年名演集   〃            〃 落語            〃            角川書店 大正大震災大火災                    講談社 我が心の歌         古賀政男          展望社 今輔・おばあさん衆     古今亭今輔        東峰出版 なめくじ艦隊        古今亭志ん生        朋文社 びんぼう自慢        〃           毎日新聞社 漫才世相史         小島貞二         〃 落語三百年         〃            〃 高座変人奇人伝       〃            立風書房 三亀松色ざんげ       小島貞二         立風書房 芸業五十年         小島二朔          青蛙房 狂言作者          〃              〃 円朝            小島政二郎         新潮社 悪妻二態          〃             光風社 場末風流          〃              〃 明治の人間         〃             鶴書房 活動狂時代         児玉数夫         三一書房 日本史図録         児玉幸多 久野健    吉川弘文館 郷土舞踊と盆踊       小寺融吉         桃蹊書房 楽我記           小谷省三 桂米朝    市民新聞社 宝塚漫筆          小林一三       実業之日本社 芝居ざんげ         〃         三田文学出版部 私の行き方         〃            斗南書院 うつし絵          小林源次郎        自費出版 わが思い出の楽壇      小松耕輔        音楽之友社 懐しのメロディ       〃            文藝春秋 考現学採集         今和次郎 吉田謙吉     建設社 裸の女神ジプシー・ローズ  近藤啓太郎        文藝春秋 日本芸能史入門       後藤淑    社会思想研究会出版部 能の形成と世阿弥      〃             木耳社 わらいえて         永六輔         朝日新聞社 落語美学          江国滋          東京書房 落語手帳          江国滋           普通社 スター           江藤文夫        毎日新聞社 見る            〃            三一書房 喜劇放談          榎本健一         明玄書房 喜劇こそわが命       〃           栄光出版社 日本風俗史         江馬務          地人書館 演芸画報                      演芸画報社 俳優鑑           演芸画報社        〃 芝居名せりふ集       演劇出版社       演劇出版社 現代の舞台俳優       〃            〃 国劇要覧          演劇博物館         梓書房 かわら版明治史       遠藤鎮雄         角川書店 江戸東京風俗誌       遠藤元男・編        至文堂 愛の自叙伝         エリザベス・テーラー    恒文社 亡き人のこと        寺島千代・述      演劇出版社 現代ジャズの視点      相倉久人        音楽之友社 一〇〇一夜シカゴ狂想曲   愛知謙三          春陽堂 ひとりだけの歌手      アイ・ジョージ     音楽之友社 興行師           青江徹           知性社 ライバル物語        青地晨          河出書房 雨雀自伝          秋田雨雀         新評論社 放送演芸三〇年       秋田実       CBCレポート 漫才の笑い         〃          〃 日本の洋楽百年史      秋山英        第一法規出版 東京っ子          秋山安三郎       朝日新聞社 随筆ひざ小僧        〃             雪華社 私の音楽談義        芥川也寸志       音楽之友社 音楽の現場         〃            〃 ことのはじまり       亜坂卓己         久保書店 女剣劇           浅香光代         学風書院 随筆辞典          朝倉治彦          東京堂 明治世相編年辞典      朝倉治彦 稲村徹之      〃 見世物研究         朝倉夢声 日本の民謡         浅野健二         岩波書店 関東大震災火災惨状     朝日新聞社      実業之日本社 朝日新聞・         朝日新聞社       朝日新聞社 社会面で見る世相七十五年 新・人国記               〃            〃 大阪人           〃            〃 いまに生きるなにわの人びと 〃            〃 一日一文          〃            〃 続・一日一文        〃            〃 東京のうた         〃            〃 東京五百年         朝日新聞社社会部      修道社 昭和史の瞬間        朝日ジャーナル・編   朝日新聞社 ここに生きる        〃             光風社 おやじ           朝日ジャーナル編集部   秋田書店 大阪史話          朝日放送・編        創元社 大阪の笑い         〃            放送朝日 ※[#「口+亞」、unicode555e]※[#「虫+單」、unicode87ec]坊流生記        ※[#「口+亞」、unicode555e]※[#「虫+單」、unicode87ec]坊顕彰会                     ※[#「口+亞」、unicode555e]※[#「虫+單」、unicode87ec]坊顕彰会編集委員会 林家正蔵随談        麻生芳伸・編        青蛙房 関西おんな         足立巻一         文研出版 芸人風俗姿         足立直郎         学風書院 芝居五十年         渥美清太郎       時事通信社 六代目菊五郎評伝      〃             冨山房 歌舞伎舞踊の変遷      〃             アルス 奇術随筆          阿部徳蔵         人文書院 音楽界実力派        安部寧         音楽之友社 流行歌の世界        〃             〃 蓄音機とレコード通     あらえびす        四六書院 日本のレジスタンス     荒垣秀雄       河出書房新社 京都史話          荒金喜義          創元社 シャンソンの泉                 ARS音楽出版 酒・うた・男        淡谷のり子       春陽堂書店 一期一会          網野菊           講談社 祗園育ち          安藤孝子         ルック社 落語名作全集        安藤鶴夫 吉川義雄・監修  普通社 まわり舞台         安藤鶴夫          桃源社 雪まろげ          〃              〃 巷談本牧亭         〃              〃 寄席            安藤鶴夫       ダヴィッド社 寄席紳士録         〃            文藝春秋 竹とんぼ          〃           朝日新聞社 百花園にて         〃            三月書房 落語鑑賞          〃             創元社 随筆舞台帖         〃            和敬書店 ある日その人        〃           婦人画報社 おやじの女         〃             青蛙房 古い名刺          〃              〃 落語国・紳士録       〃              〃 芸について         〃              〃 わが落語鑑賞        〃            筑摩書房 わたしの寄席        〃             雪華社 寄席はるあき        〃           東京美術社 舞台人           〃           読売新聞社 雨の日           〃              〃 名作聞書          〃              〃 年年歳歳          〃             求龍堂 わたしの東京        〃              〃 激動            安藤昇           双葉社 あの夢この唄        西条八十    イブニングスター社 唄の自叙伝         〃            小山書店 我愛の記          〃             白鳳社 女妖記           西条八十        中央公論社 民謡の旅          〃           朝日新聞社 明治奇聞          再生外骨         自費出版 面白半分          〃             文武堂 占領下の日本        斎藤栄三郎       巌南堂書店 近世世相史概観       斎藤隆三          創元社 日本遊戯史         酒井欣         弘文堂書房 現代ベラボウ紳士録     境田昭造          一水社 趣味馬鹿半代記       酒井徳男         東京文献 猥談            阪田俊夫          弘文社 前進座           阪本徳松          黄土社 演劇コース         佐賀百合人 石沢秀二   徳間書店 たいこもち         桜川忠七          朱雀社 桜間芸話          桜間弓川        わんや書店 風雪新劇志         佐々木孝丸         現代社 大阪労音十五年史      佐々木隆爾        大阪労音 日本の芸能         佐藤薫           創元社 最後の記者馬鹿       佐藤喜一郎       中央公論社 明治の英傑         佐藤紅緑・他      講談倶楽部 レンズからみる日本現代史  佐藤忠男・他      現代思潮社 テレビの思想        佐藤忠男         三一書房 斬られ方の美学       〃            筑摩書房 日本童謡集         サトウハチロー・編   社会思想社 滝廉太郎          属啓成         音楽之友社 羽左衛門伝説        里見         毎日新聞社 講談五百年         佐野孝           鶴書房 歌ごよみ一〇〇年史     佐野文哉          光風社 かべす           左本政治         六芸書房 苦闘の跡          沢田正二郎         新作社 安来節           山陰文化シリーズ刊行会  今井書店 明治百年にあたって             サンケイ新聞出版局 寄席育ち          三遊亭円生         青蛙房 円朝怪談集         三遊亭円朝        筑摩書房 浮世断語          三遊亭金馬         有信堂 芝居づくり         菊田一夫       オリオン出版 流れる水のごとく      〃             〃 明治文明綺談        菊池寛          六興商会 私の映画史         岸松雄          池田書店 日本映画人伝        〃            早川書房 モダン流行語辞典      喜多壮一郎・監修   実業之日本社 六平太芸談         喜多六平太         春秋社 十大歌手誕生物語      北光生          文芸出版 狂言百番          北川忠彦         淡交新社 マキノ光雄         北川鉄夫          汐文社 喜多村緑郎日記       喜多村九寿子・編    演劇出版社 嬉遊笑覧          喜多村信節       成光館書店 芸道礼讃          喜多村緑郎        二見書房 文楽史           木谷蓬吟         全国書房 道頓堀の三百年       〃          新大阪出版社 日本のギャンブル      紀田順一郎         桃源社 明治ニッポンてんやわんや  〃            久保書店 日本映画伝         城戸四郎         文藝春秋 大谷竹次郎演劇六十年    城戸四郎・編        講談社 ミュージカルスター                キネマ旬報社 風雪            木下宗一        人物往来社 号外近代史         〃             同光社 号外昭和史         〃              〃 興行師の世界        木村錦花          青蛙房 守田勘弥          〃            新大衆社 明治座物語         〃         歌舞伎座出版部 三角の雪          〃            三笠書房 灰皿の煙          〃            相模書房 ハッケヨイ人生       木村庄之助     帝都日々新聞社 日本スポーツ文化史     木村毅           洋々社 文芸東西南北        〃             新潮社 大東京五百年        〃           毎日新聞社 文明開化          〃             至文堂 東京            〃             光文社 まわり燈籠         〃            井上書房 続・まわり燈籠       木村毅          井上書房 東京案内記         木村毅・編         黄土社 京舞            京都新聞編集局      淡交新社 日本文化の百年       共同通信社        三一書房 延寿芸談          清元延寿太夫       三木書店 なつかしの浅草オペラ              キングレコード 随筆大阪          錦城出版編集部     錦城出版社 ジャズの歴史        油井正一          創元社 糸あやつり         結城孫三郎         青蛙房 日本風俗史                       雄山閣 東遊記           梅蘭芳         朝日新聞社 冗談十年          三木トリロー      駿河台書房 新劇通           水木京太         四六書院 築地小劇場史        水品春樹         梧桐書院 竹紫記念          水谷八重子        非売品 芸・ゆめ・いのち      〃             白水社 ターキー舞台日記      水の江滝子       少女画報社 ターキー自画像       〃            〃 日本のテレビジョン     溝上      日本放送出版協会 山口組ドキュメント血と抗争 溝口敦          三一書房 江戸百話          三田村鳶魚         大日社 芝と上野浅草        〃             春陽堂 大阪            水上滝太郎         新潮社 すべてを我が師として    三波春夫        映画出版社 吉原夜話          宮内好太郎・編       青蛙房 旅芸人始末書        宮岡謙二          修道社 宮城道雄全集        宮城道雄         三笠書房 演劇手帳          三宅周太郎         甲文社 演劇巡礼          〃           中央公論社 演劇美談          〃           協力出版社 文楽の研究         〃             創元社 続・文楽の研究       〃              〃 芸能対談          〃              〃 名優と若手         〃              〃 羽左衛門評話        〃             冨山房 演劇五十年史        〃             鱒書房 観劇半世紀         〃            和敬書店 演劇往来          〃             新潮社 俳優対談記         〃            東宝書房 文楽之研究         〃             春陽堂 狂言の見どころ       三宅藤九郎       わんや書店 女ひとり          ミヤコ蝶々         鶴書房 明治は生きている      宮沢縦一        音楽之友社 名作オペラ教室       〃           中央公論社 近世名人達人大文豪     宮下丑太郎・編       講談社 みんな仲間だ        宮田東峰         東京書房 猥褻風俗史         宮武外骨         雅俗文庫 奇事流行物語        〃           人物往来社 大阪今昔          宮本又次        社会思想社 大阪案内          〃            〃 変態商売往来        宮本良       文芸資料研究会 浪花節一代         三好貢           朋文社 大衆芸術論         民主主義科学者協会学術部会 解放社 放送をつくった人達     塩沢茂       オリオン出版社 放送エンマ帳        〃            〃 映像の技法         志賀信夫         白樺書房 テレビ社会史        〃             誠志堂 日本歌謡集         時雨音羽        社会思想社 夢とおもかげ        思想の科学研究会    中央公論社 古今名家珍談奇談逸話集   実業之日本社     実業之日本社 明治開化綺談        篠田鉱造         須藤書店 現代音楽の歩み       柴田南雄         角川書店 音楽はあなたのもの     柴田仁          三一書房 映画館ものがたり      柴田芳雄         学風書院 浅草っ子          渋沢青花        毎日新聞社 側面史百年         渋沢秀雄        時事通信社 笑うとくなはれ       渋谷天外         文藝春秋 明治事物起源事典      至文堂           至文堂 琉球の民謡と舞踊      島袋盛敏        おきなわ社 一筆対面          清水崑          東峰書房 日本民謡曲集        志村建世         野ばら社 新劇            下村正夫         岩波書店 役者論語          守随憲治      東京大学出版会 中座                        松竹企画課 高座五十年         春風亭柳橋       演劇出版社 宝塚と私          白井鉄造         中林出版 中村鴈治郎を偲ぶ      白井松次郎         創元社 花と幽玄の世界       白洲正子        宝文館出版 お能            〃            角川書店 梅若実聞書         〃            能楽書林 現代歌謡百話        白鳥省吾         東宛書房 親分子分侠客篇       白柳秀湖          東亜堂 新国劇五十年        新国劇          中林出版 落語など                      新風出版社 世界のショー                      新風社 親分子分ニッポン                  人物往来社 僕の初旅・世界一周     ジャン・コクトオ     第一書房 喜劇の論文         ジョージ・メレデス     原始社 ハワード・ヒューズ     ジョン・キーツ      早川書房 新劇女優          東山千栄子        学風書院 紅塵三百五十年       樋口清之         弥生書房 東京の歴史         〃             〃 道頓堀通          日比繁治郎        四六書院 白井松次郎伝        日比繁治郎・編     白井信太郎 マイクのたわごと      平井常次郎         鴨書林 舞台奇術ハイライト     平岩白風          力書店 歌舞伎演出論        平田兼三郎        室戸書房 東京おぼえ帳        平山芦江         住吉書店 ポケット小唄集       〃           文雅堂書店 芸者繁盛記         〃            岡倉書房 日本の芸談         〃            和敬書店 浪曲入門          広沢龍造 ジャズ           ヒューズ         飯塚書店 世界演劇史         ピニヤール         白水社 川柳見世物考        母袋未知庵        有光書房 生きて愛して演技して    望月優子          平凡社 俳優逸話          元宿源右衛門       小美文社 女優            森赫子        実業之日本社 明治人物逸話辞典      森銑三         東京堂出版 大正人物逸話辞典      〃            〃 大衆文化史         森秀人            産報 日本の大衆芸術       〃            大和書房 遊民の思想         〃            虎見書房 素女物語          守美雄           蒼林社 レコードと五十年      森垣二郎       河出書房新社 森繁自伝          森繁久弥        中央公論社 ブツクサ談義        〃            未央書房 こじき袋          〃           読売新聞社 芸術祭十五年史       文部省社会教育局芸術課・編  明治劇壇五十年史      関根黙庵          玄文社 講談落語考         〃             雄山閣 説教と話芸         関山和夫          青蛙房 安楽庵策伝         〃              〃 寄席見世物雑志       〃             泰文堂 一筋の道          瀬戸内晴美        文藝春秋 芸能名匠奇談        千田九一       河出書房新社 演劇入門          千田是也         岩波書店 ベートーヴェン       全音楽譜出版社   全音楽譜出版社 新劇その舞台と歴史     菅井幸雄          求龍堂 随筆演劇風聞記       菅原寛          世界文庫 帝劇十年史         杉浦善三          玄文社 都々逸笑辞典        杉原残華         芳賀書店 楽屋ゆかた         杉村春子         学風書院 自分で選んだ道       〃            六芸書房 傾く滝           杉本苑子          講談社 現代にっぽん奇人伝     鈴江淳也         久保書店 暗転            薄田研二         東峰書院 日本劇場史の研究      須田敦夫         相模書房 松竹七十年史                   松竹株式会社 レビュー入門  ムーランルージュ                  (新宿百選) 人間清水次郎長                    戸田書店 伝統と現代(大衆芸能)                学芸書林 [#改ページ] [#ここから4字下げ]  あとがき—文庫版のために—  芸人のエピソードをコレクションしてみようとメモを思いたったのが昭和四十年。 『話の特集』に五年間連載して『芸人』『役者』『タレント』と三部作で一段落をつけ、その後もコレクションはしている。  僕にとってこの『芸人その世界』はあらゆる意味で仕事の原点になってしまった。  自分で並べたエピソードの行間から放送や舞台の仕事をどれだけすくいあげたことか。  第二次「芸人その世界」は老後の趣味として余生を楽しむ形でまとめるつもりである。  最後に列記した資料図書は、昭和四十四年当時のもの。  装幀は和田誠サン、実はエピソードのコレクションでも最大の協力者。 「こんな話があるぞ」と教えて下さった諸先輩にも脱帽。 昭和五十年一月      [#地付き]永 六輔   [#ここで字下げ終わり] 〈底 本〉文春文庫 昭和五十年五月二十五日刊