TITLE : 海のある奈良に死す 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。  目 次  プロローグ 第一章 若《わか》狭《さ》湾の死体 第二章 人魚の牙《きば》 第三章 小浜ミステリーツアー 第四章 毒 杯 第五章 ほどける糸 第六章 絵解き  エピローグ——最後の絵解き  あとがき  プロローグ  仕事が終わった!  半年がかりで書き上げた五百枚の書き下ろし長編を収めたフロッピーディスクはつつがなくゲラになり、校正の段階で致命的なミスが発見されることもなく、イラストレーターに「あんな小説の表紙が描けるか」と拒絶されることもなく、印刷所が火事になることもなければ、版元が倒産するという悲劇が起きることもなく今日に至った。もうここまでくれば、某国から誤射されたミサイルが飛来したって——東京をはずれさえしていれば——私の著書は書店に並ぶだろう。誠にめでたい。  私が今いるここは、有《あり》栖《す》川《がわ》有《あり》栖《す》の推理小説を世に送り続けてくれている珀《はく》友《ゆう》社《しや》という奇特な出版社である。その、神《かん》田《だ》神《じん》保《ぼう》町《ちよう》の一角にそびえた八階建てのビルの最上階にある第一応接室。いつもならもっと小振りの第二だか第三だかの応接室に通されるのだが、今日はよほど客がいないらしい。神田での古本漁《あさ》りやら、他にいくつかのついでを作って、朝十時の新幹線でやってきた甲斐があったというものだ。 「ご苦労様でした。三十分前に印刷所から届いたばかりの見本を取ってきます。今度の装丁、いいですよ。すっごく売れそうな表紙」  三年間コンビを組んでいる一つ年下の担当編集者、片《かた》桐《ぎり》光《みつ》雄《お》はそう言って部屋を出ていった。壁に掛かった青の時代のピカソの小品——部屋に入るなり片桐は「本物ですよ、本物」と自慢した——を鑑賞していると、まだ入社間もないような初《うい》々《うい》しい女性が、ちょうど飲みたいと思っていたコーヒーを運んできてくれた。  仕事が終わった。  時は五月。  私は生きているささやかな幸福を噛《か》みしめる。  カップに手を伸ばしたところで、不意にドアが開いた。もう片桐が戻ってきたのかと思って顔を上げると、そうではなかった。 「よぉ、新作が発売間近の有栖川先生。もうかってまっか?」  同業者の赤《あか》星《ぼし》楽《がく》だった。大きなショルダーバッグを掛けた彼は、少し意地が悪そうな切れ長の二重瞼《まぶた》——二枚目なのは認める——で気《き》障《ざ》ったらしく男の私にウインクなどをしながら、つかつかと入ってきた。そんなしぐさはとうに慣れているのでいいのだが、こちらが大阪からきているからといって、顔を合わすたびに「もうかってまっか?」というおかしな言葉で挨《あい》拶《さつ》をしてくるのには厭《あ》き厭きしている。 「そうでんな。ぼちぼち——だぜ」  私が退屈そうに応えると、彼は意味もなくにやにやしながら私の前のソファに腰を降ろし、バッグを脇に置いた。大きく広げたシャツの胸元からマルタ十字架のネックレスが覗《のぞ》いている。実家が寺のくせに無節操なことだと思ったけれど、彼の出身地は長崎なので、もしかするとキリスト教のたしなみがあるのかもしれない。  赤星楽というのは私ほどでないにしろ作り物めいた姓名だが、ほぼ本名である。長崎が火星に近いわけはないだろうに、『赤星』というのはご当地の特徴的な姓なのだそうだ。ほぼ本名というおかしな表現をしたのは戸籍上の名前は『学』だからで、それを『楽』としたのはいかにも遊び人の彼によく似合った洒《しや》落《れ》だった。——ちなみに私の方は純然たる本名だ。 「さっき廊下で片桐ちゃんとすれ違ったら君がきてるっていうんで、ちょっとご尊顔を拝もうと思ってさ。今度の、なかなかいい仕事だって彼は喜んでたよ」  いい仕事などという気色の悪い言葉を私の担当編集者は遣《つか》わないはずだが、もちろん糺《ただ》すほどのことでもない。大の男をちゃん付けするのも自由だ。 「締切りを守れたことを評価してくれてるんやろう。とにかく、やれやれや。これで俺の今年の仕事はもう八割方終わった」  とわざと大《おお》袈《げ》裟《さ》に言う。 「へっ、まだ五月十日だってのに、もう八割方終わっただって? 呑《のん》気《き》なこと言ってんじゃないよ。もっとぎらぎらしなくちゃ駄目だぜ。還暦まで間があるんだろ?」 「暗算は苦手やから計算してくれ。同い年なんやから」  両親が私に教えてくれた生年月日が正しければ、まだ二十六年あるはずだった。 「そもそも俺は君ほど野心家やないから、足るということを知ってる。還暦すぎには巨匠と呼ばれて有栖川有栖全集が出せる、やなんて夢にも思うてないからな」  パーティの席上で酔った赤星から『赤星楽全集のイメージ』とやらを聞いたことがある。紅の箱、天《てん》金《きん》押《お》し、羊皮紙をイメージした見返し、クリーム色の紙から月報の顔ぶれまで。——酔っぱらいの冗談めかしてはいたが、ひょっとすると半分程度は本音だったのではないか、と私は思っている。 「そんなこと言ってる奴に限って腹で何をたくらんでるか判んないからなぁ。日記の中に『尾《び》籠《ろう》な話で恐縮だが』なんてフレーズがあるんじゃないだろうな?」  まさか。三《み》島《しま》由《ゆ》紀《き》夫《お》じゃあるまいし。 「赤星楽ともあろう大物がどうして俺なんかにからむんや? 本の売れ行きも評論家の受けも上やし、映画の原作料でも稼ぎを上げてるくせに」  お世辞ではなく、彼と私の間には二馬身ほどの差があるらしい。本当に競馬をしているわけではないからリードしているもされているもないのだが、『二馬身の差』というのは、とある年配の編集者の言——大きなお世話だ——なのである。 「実力伯《はく》仲《ちゆう》してるのに、白々しく持ち上げるなよ。ま、いずれにしても当面のライバルは意識せざるを得ないからな」 「ライバル? 昭和三十年代生まれには懐かしい言葉やな。スポーツ根性漫画を思い出す」  私は軽くからかって、ここで初めてコーヒーに口をつける。 「今日上京してきたのか?」  彼はまた私が好きではない言葉を遣った。もちろん『上京』だ。 「そう」 「わざわざ見本を受け取りに?」  そこまで暇ではない。 「神田をうろつきに。それと、何人かの人と会う」  赤星は目《め》尻《じり》を掻《か》きながら私の顔を覗き込んだ。 「穴《あな》吹《ぶき》奈《な》美《み》子《こ》女史とも会うんだろ?」 「ああ」そのとおりだ。「明日会う。——なんで知ってるんや?」 「本人から聞いたからさ。君の作品を映画にしたいと言ってた」  正確にはビデオ映画であり、それも決定している話ではなかった。とりあえず唾《つば》をつけたがっているらしく、一度会って話がしたいと言われているだけだ。穴吹奈美子はシレーヌ企画というプロダクションの社長であり、赤星の作品を二本、劇場映画化していた。それで、そのことについて彼が彼女から直接聞く機会もあったのだろう。 「映画になるかどうか判らん。近々東京に行くと言うたら、ではついでにお会いしましょうと言われただけやからな。そう聞いてるやろ?」 「君と仕事で会うとしか聞いてない。——穴吹女史って、どんな女性か知ってるか?」  なかなかの辣《らつ》腕《わん》プロデューサーだという風評を誰かから聞いたことがあるだけだ。 「じゃ、会ったら驚くだろうな」 「何に?」 「会えばすぐ判る。美人だから、楽しみにしてなよ」  彼は悪《いた》戯《ずら》っぽく笑うだけだった。 「ところで、有栖川先生には犯罪学者の強力なブレーンがついているという聞き捨てならない噂《うわさ》を耳にしたけど、それは本当か? 学生時代からのお友だちなんだって?」  おっと、そんな噂がどこから漏れたのだ? 「大学時代から付き合ってる男で、母校で犯罪社会学の講義を持つようになったのが一人いてる。けど、ブレーンでも何でもないな」と私は正直に答える。「よだれが出そうなぐらい面白い探偵実話を聞いても、それを自作に流用することは慎んでるからな」 「へっ。もったいないな。もしよかったらその先生をそのうち紹介してくれないか? 歩くネタ本になってもらうからさ」 「薦《すす》められん。優秀やけど、口が悪くて人当たりがよくない」 「出し惜しみしてやんの」 「アホ言え」  少し会話が途切れ、私はコーヒーカップを空にした。 「今度の、自信作かい?」十字架をいじりながら彼は訊《き》いてきた。「大技のトリックなんだってな」 「気になるんやったら一冊進呈するから自分で確かめてくれ」 「お、サンキュ。車中で読むのにちょうどいいや」 「車中?」私は彼の傍らの大きなバッグを一《いち》瞥《べつ》してから訊き返す。「そう言うたら荷物が大きいみたいやけど、これからどこか行くのか?」 「ああ。今度の書き下ろしの取材旅行。これがまた君に負けない大技を一発という——」  ここで彼の言葉を断ち切るように勢いよくドアが開き、社名入りの紙袋を提《さ》げた片桐が入ってきた。太い眉《まゆ》の下の目を、ぎょろりと剥《む》く。 「あれ、赤星さんのコーヒー、きてません? すみません。言ったのになぁ」  彼はテーブルの上にどんと袋を置き、まるで豆腐でもすくうような慎重な手つきで刷り上がったばかりの一冊を取り出す。私の十一冊目の著書だった。 「『セイレーンの沈黙』」赤星は声に出して書名を読んだ。「このセイレーンって、人魚のことか?」  もちろんそうだ。ギリシア神話に登場する人面の鳥から転じた伝説の人魚。美しい歌声で船人を惑《まど》わし、船を沈没させたローレライ名物の妖《よう》女《じよ》。魔物。英語の警《サイ》報《レン》の語源でもある。 「バタ臭い題名で恐縮です。仮題の段階では『人魚たちの眠り』だったんやけど」  そう言いながら一冊差し出すと、赤星が低く唸《うな》っているのに気がついた。 「どうかしたか?」  彼は裏表紙の粗《あら》筋《すじ》と折返しの著者の言葉に目を走らせ、目次を見てからぺらぺらとページを繰《く》り始めた。 「いやぁ、俺がこれから書こうとしてるのも、ちょい人魚がからんでるんだ。まさかアイディアがかち合ったんじゃないだろうな、と心配になったんだけど……違うよな。セイレーンなんて西洋風の呼び名を採用してるんだから」さらにページをめくり「大丈夫みたいだ」 「ということは、赤星さんの作品には、和風か中華風の人魚が出てくるんですか?」  まるで料理だ。 「それは乞《こ》うご期待」彼は腕時計を見た。 「もう行かなきゃ。三時の新幹線の指定を取ってるんだ」  ショルダーバッグを肩に掛け、せっかちに腰を浮かせた。 「で、取材旅行はどこに行くんや?」  尋ねると、にやりと楽しそうに笑った。 「ちょっと、有栖川先生のおわす西《さい》国《ごく》へね」  そして、ドアの向こうに消える直前に彼はこんな言葉を投げかけた。 「行ってくる。『海のある奈良』へ」  第一章 若《わか》狭《さ》湾の死体       1  現在、日本で稼《か》動《どう》している原子炉は全部で五十三基。そのうちおよそ三割にあたる十五基が福井県の若狭湾——その中に敦《つる》賀《が》湾、小《お》浜《ばま》湾などいくつかの副湾が含まれている——の周辺に集中していた。若狭が原発銀座と称される所以《ゆえん》だ。白《はく》砂《さ》青《せい》松《しよう》の海岸線に威風堂々とそびえる関西電力の敦賀、美《み》浜《はま》、大《おお》飯《い》、高《たか》浜《はま》。動《どう》燃《ねん》のふげん、日本初の高速増《ぞう》殖《しよく》炉《ろ》もんじゅの原子炉群。  大飯原子力発電所は出力四百七十一万キロワット。それは若狭湾の真ん中にある副湾、小浜湾を抱きくるむ左の腕である大《おお》島《しま》半島の突端にあった。原発が建っているのは日本海の波に洗われるような地だが、半島内には海水浴場、オートキャンプ場が散らばり、ハイキングコースや自然公園も完備されていて、家族連れや若者グループ、釣り客で賑《にぎ》わうリゾートゾーンでもある。原発は関西方面からやってくる観光客の目に触れないよう、岬の山陰に身を隠すようになっていた。金を落としていく彼らを不安がらせないためというより、つまらないジョークの種にされることを嫌っているかのようだ。  その大飯原発も、海から眺めれば全《ぜん》貌《ぼう》をそっくり望むことができる。丸みを帯びたドーム型の屋根が四つ並んでいるのを船上から見ながら、海上保安部の岡《おか》崎《ざき》は煙草をくゆらせていた。見慣れた景色なので、今さら何も感じることはない。科学技術の粋《すい》を結集させた巨大施設は、空と海の境、山の緑の中に溶けて融和しているようにさえ思えた。赴任して、海上から初めて目にした時にははっきり威圧感を覚えたはずなのに。  潮の香りが濃い。五月の風はうっとりするほど心地よかった。  原発の左手には鋸《のこぎり》 崎《ざき》灯台が見えている。そろそろ仕事だな、と煙草をぽいと海に投げ捨てた。灯台から三七〇〇メートル、三一五度の地点で潮《ちよう》間《かん》帯《たい》生物、海《かい》藻《そう》海草類の採取を行なうことになっているのだ。背後ではSBT(salinity bathy thermograph)の音がしている。水流に対する水温を連続的に測定する機器の唸《うな》りだ。調査船は深さ、温度、塩分という海水の三要素を観測し、圧力分布から海流の速度と流量を船上ですぐに計算することもできるようになっていた。  調査ポイントに向かって船は岬の縁《ふち》をなぞりながら進む。 「五月晴れのええ天気やな」  同僚の研究員、金《かな》山《やま》が髪をなぶらせながら寄ってきた。その眼鏡に朝の太陽の光が反射して岡崎の目を射る。 「お前が昨日言うてたあれ、調査ブイの具合が悪いのはどうなったんや?」  彼は金山に尋ねた。潮流調査のために小浜湾内に浮かべたライトブイの一つが故障しているらしいと聞いていたからだ。 「若いのが無茶してモーターボートでもぶつけたんかと思うたけど、バッテリーがいかれてただけらしい。もう直った」 「そらよかった」  海上を見渡すと、東の彼方《かなた》に奇岩と断《だん》崖《がい》美《び》の名勝、蘇《そ》洞《と》門《も》を巡る高速遊覧船が見えているだけだ。潮流観測を含む『小浜湾及び前面海域における調査作業』は今日、五月十一日から五日間行なわれることになっており、その間、付近を航行する船は充分注意するように呼びかけられていた。 「のんびりするなぁ。連休が明けてから海水浴シーズンまでのこの期間が一番ええ季節や」  同僚は無駄話を続ける。——確かに岡崎も彼の言うことに同感だった。小浜のゴールデンウィークの混雑はそれほどひどいものではないが、七月ともなると関西方面から海水浴客が臨時列車で、車で、気が狂ったように大挙して押し寄せ、町は喧《けん》騒《そう》に呑《の》み込まれてしまう。観光地の宿命。それで潤う者はいいとして、彼らにとってはただ道路がつかえ、騒々しいだけだった。 「都会から遊びにきてもらうのはかまわん。ありがたいことやけど、小浜をただの海水浴場やと思うとるだけのちゃらちゃらした若いのが気にいらんのや。よその土地にはちょっとは勉強してからこい。歴史と文化の町。『海のある奈良』やぞ、ここは」  岡崎は苦笑し、郷土愛の旺《おう》盛《せい》な金山の言葉を遮って持ち場につくように促そうとした。——その時だ。 「オカさん、あれ何かな?」  金山は半島の方を指差し、不意に真剣な顔で訊く。 「あれって?」 「俺の顔やなしに指してる方を見んかい。ほら、あそこ。岩場に白っぽいもんがあるやろう?」 「どれ?」  岡崎は手すりに胸を押しつけ、身を乗り出して目を凝らした。なるほど、原発の方ばかり眺めていて気がつかなかったが、その東側の岩場に何か白いものが見える。波によって打ち上げられたのか、その上を走っている道路から投げ落とされたものか。 「あれ、人間やで」  金山が興奮を圧《お》し殺した声で囁《ささや》いた。岡崎は「まさか」とそれを否定しかけてやめる。岩場の白い固まりの輪郭をなぞると、両腕を体側にだらりと垂らし、うつ伏せになった人の形に見えなくもなかったからだ。さらによく見ると、人《ひと》形《がた》の頭のあたりは波に洗われていて、髪の毛に似た黒いものが海草のようにゆらいでいる。いや、あれは髪の毛そのもの、人間そのものなのではないのか? どうやら男だ。  金山は操《そう》舵《だ》室《しつ》に向かった。「おーい、ストップストップ!」と叫んで停船させようとする。流速計を囲んでいた何人かが怪《け》訝《げん》そうにこちらを振り向いた。 「水死体みたいなのが見えてる。こっちやこっち!」  岡崎はたちまち起きた船上の騒ぎに背を向け、岩場のものに再び目をやった。もうそれは見間違いようがなく、明らかに人間であった。波をかぶってもぴくりとも動かないところをみると、やはり水死体なのかもしれない。白一色と思ったシャツに、紺色の細いストライプが入っているのも見えてきた。下半身を包んでいるのはベージュ色のスラックス。顔が水面下につかっているのでよく判らないが、それほど年配の男ではないようだ。  近辺で船の事故があったというニュースは聞かないし、命を落とす直前まで釣りやマリンスポーツを楽しんでいたという風体でもない。とすると、半島の東に突き出した赤《あか》礁《ぐり》崎《ざき》あたりから身を投げたのかもしれない。  船は岬に接近し、ボートが降ろされた。岩場に近づいた若い調査員二人は採取用ネットを伸ばして死体に引っかけ、力任せに引き寄せた。デッキ左《さ》舷《げん》に乗船している全員が鈴《すず》生《な》りになって、息を殺してなりゆきを見守る。やがて、「せーの」という掛け声とともに、死体は二人がかりでボートに上げられた。  死体がデッキに横たえられる。男は三十代半ばぐらいに見えた。ビニールシートがかぶせられる前にちらりと見たところ、衣服だけでなく、露出した顔や両手にも目立った損傷はなかった。引き取りにくる遺族にとって、それはせめてもの慰めになることだろう。  変死体を収容したことをただちに警察に知らせるとともに、船は調査を一時中断して小浜新港に戻ることにした。       2  小浜新港では、所《しよ》轄《かつ》の小浜署から刑事課の捜査員らが船の到着を待っていた。入港は死体発見の通報から二十分後の午前九時十五分。  警察官ばかりでなく、岸壁の一群の中には、港と目と鼻の先にある敦賀海上保安部小浜分室の所員たち——死体発見者らの同僚——の姿もかなり混じっていた。新港は遊覧船の発着場でもあり、付近にはレストランを備え、鮮魚や土産《 み や げ》物を販売する観光客向けの施設、若狭フィッシャーマンズ・ワーフもあってなかなかに人が多い。しかし、港の北隅にひっそりと接岸した船に死体が積まれていることに、関係者以外は誰も気がつくはずはなかった。 「最初にホトケさんを見つけた方はどなたですか? え、あなた方お二人? そしたら、ちょっとお話を聞かせていただきましょか」  よく糊《のり》のきいたワイシャツに幅広のネクタイをした池《いけ》田《だ》警部は、まず岡崎と金山という研究員二人から船上で事情聴取を行なった。その傍らで捜査官がシートをめくって、死体の検分をしているので、質問に答えながらも証人たちはそちらが気になって仕方がない様子である。 「ここ。ほれほれ。な?」  立ったまま死体を見下ろしていた千《ち》葉《ば》刑事が、自分の首の周りをさすりながらもう一人の中《なか》原《はら》刑事に何事か同意を求めている。相方は声を出さずに、軽くうんうんと頷《うなず》いていた。  池田もそんなやりとりが気にかかって横目でちらりと様子を窺《うかが》っていたが、振り向くわけにもいかない。供述をとっている最中だから、ということもあったが、シャツの糊がききすぎていて、首を捻《ひね》るとこすれて不快だったからだ。こんなに糊がきいていると、後ろから呼ばれて急に振り返ったら、はずみに首が切れて血が飛びそうや、と出勤前に妻を叱《しか》ったのだが。 「……ですから、私どもは潮流の観測と当該海域の生物、海草類の採取調査を目的といたしまして……」  死体の第一発見者といっても岩場に横たわっているのにいち早く気がついたというだけなので、岡崎と金山から特別な供述はない。調書を作成する材料として簡単な聴き取りをしただけで、二人の証人をひとまず解放することにした。調書ができたら精読した上で署名して欲しい、と言って。 「何かあったか?」  調書作成は若い部下に任せ、池田は死体を囲んだ二人に尋ねる。と、千葉はまた先ほどのように首の周囲をなでさすった。 「発見者らは見落としたようですが、索《さく》状《じよう》痕《こん》らしいものがあります」 「何、絞められとるんか?」  他殺死体となると大変なことになる。にわかに背筋がしゃきっと伸びた。 「細《ほそ》紐《ひも》で絞めた跡みたいですよ。それに、ここに」今度は頭の後ろに手をやって「殴られた跡らしきものが」  頭を少し起こし、髪の毛を掻《か》き分けてみると、なるほど、裂傷がある。転落した際か漂流している間に浮遊物とぶつかってできた傷かもしれないが、どうやら殺人事件の気配が濃厚だった。捜査本部設置、記者会見といった言葉が、池田の脳裏でちかちかとフラッシュする。 「殺しですよ。うちの署長もついとるというか、ついてないというか、赴任早々の大当たりですね」  中原刑事が砕けた調子で言った。童顔でまだ四十前にしか見えない署長は、この春に県警本部から着任したばかりだった。これが殺人事件であったら、手柄をたてる機会を得た幸運と喜ぶか、いらぬ面倒が起きてしまったと舌打ちするか、どちらか判らない。 「まだ殺しと決まったわけやない。剖《ぼう》検《けん》に回して結果待ちやが……」  池田は語尾を濁して、死体の上に屈《かが》み込んだ。呼吸することをやめた男の目は瞬《まばた》くことなく、青空を見上げたままだ。驚《きよう》愕《がく》の色がある。不《ふ》埒《らち》にもその眼球にたかろうとする蠅《はえ》を、彼は手で払った。  あらためて見てみると、なかなかの好男子だった。身につけているものも安物ではないようだし、ローレックスの時計も偽物に見えない。 「この目。びっくりしたまま化石になっとるな」  警部の呟《つぶや》きに、「そうですね」と中原が相《あい》槌《づち》を打つ。 「不意打ちをくらったような顔をしていますね。まるで親しい友だちか恋人にやられたみたいに。油断してる時に頭を殴られて、昏《こん》倒《とう》したところで首を絞められたのかもしれません」 「ふむ……」  だが、この凍った表情にさして意味はないだろう、と池田は考えていた。死因が絞殺だったのなら、最期には苦《く》悶《もん》が驚きを駆《く》逐《ちく》したであろうから。 「地元の人間かな。身元を示すようなもんはあるか?」 「これからです」  手袋を嵌《は》め直してから、千葉は死体が穿《は》いているコットンパンツのポケットをまさぐり始めた。右のポケットからハンカチが一枚。左からは万年筆が一本出てきた。これまた舶来の上物で、モンブランだ。 「万年筆なんかポケットに入れとったんか?」と訊《き》く。 「入れてあったんやなしに、ポケットに差してありました」 「他には?」と中原が勢い込んで尋ねる。大きな事件になりそうだ、という実感がじわじわと込み上げてきたせいかもしれない。 「尻《しり》のポケットには何もなし。シャツの胸にもなし。財布も名刺も免許証もどこにもなし」  殺しだとすれば、そんなものは犯人によって処分されてしまっただろう。まず死者の身元を割り出すという煩《わずら》わしい仕事が必要になる。 「このホトケさん、どことなく都会風な印象やないですか? 土地の者やなしに、旅行者かもしれませんよ」  中原の人物評には「かもな」と応えるしかなかった。 「おいおいおい」  貴重な遺留品である万年筆をいじっていた千葉が、突然、中原の背中を小突いた。 「ホトケさんの名前が判ったかもしれんぞ、ほれほれ」  彼はキャップをはずした万年筆を掌にのせて警部らに差し出した。覗《のぞ》き込んでみると、名前が銀色に刻まれている。  中原が「赤星……かな?」 「赤星。ちょっと風変わりですけど、人の名前でしょう」  池田も同感だった。企業や団体の名称という可能性もなくはないが、まずは人名と考えていいだろう。それも死者の。被害者の身元を隠《いん》蔽《ぺい》しようとした犯人も、万年筆に彫《ほ》られたネームはうっかり見過ごしてしまったようだ。警察にすれば幸いである。 「それがホトケの名前やったらなんぼか捜査がしやすいかもしれん。小浜近辺の住民か滞在者に赤星という男がおらんかったかをまず調べんとな。小浜におらんかったら、範囲を県下一帯に広げてもすぐチェックできるやろう」  池田は威勢よく言ったものの、そんなことは間もなく福井県警本部からやってくる捜査官らが決め、指揮をとるのだと思い直す。とにかく、自分たちがまず今やっておかなくてはならないのは死体の保存だ。  岡崎と金山の二人が下船しようとしているのが視野の片隅に入った。池田はカラーでこすれる首筋に微かな痛みを感じながらそちらを振り返り、大きな声で呼び止める。 「すみません! もうしばらくお付き合いいただけるでしょうね?」  二人は足を止めて、「はい」と答えた。 「あちらの刑事さんに許可をもらっています。事務所で待機していいということですので」  金山が道路向こうの保安部の建物を指差して言うので、池田は「結構です」と応じた。 「もっけの幸いかな。潮流調査をしている連中が漂流してきたんかもしれん死体を発見したんやから、どこからホトケが流れてきたのかも教えてもらおうやないか。それが仕事の自己完結というもんや」  警部は冗談めかして言い、海岸通りをこちらに向かってくるパトカーに目を向けた。本部からの車だ。 「きなさった。忙しくなるぞ」        *  検死により、大島半島で発見された男の死因が絞《こう》頸《けい》による窒息死であることはじきに判明した。死後およそ十二時間から十六時間を経過しているということだ。したがって死亡推定時刻は十日の午後六時から十時の間ということになる。また、死体は湾岸のどこかから海に捨てられたものが岬の先に漂着したのではなく、最初から発見現場に捨てられたものである疑いが極めて濃厚になった。全身に海水をかぶってはいたものの、長い時間、水中にあった痕《こん》跡《せき》が見られなかったのだ。現場付近まで道路が通じているので、そう推断するのがごく自然でもある。  かくして殺人および死体遺棄事件と断定。ただちに小浜署に捜査本部が設置され、墨《ぼく》跡《せき》鮮やかな立て看板が立つ。署内に緊張感がみなぎった。高《たか》岡《おか》小浜署長が捜査本部長に任命され、すぐに始まった第一回目の捜査会議で訊《き》き込みの地取りが決まり、捜査員らは四方に散る。  市内の訊き込みが開始されて数時間後、県警本部からきた若手刑事とコンビを組んだ千葉刑事が収穫をあげて捜査本部に勇躍して戻ってきた。 「川《かわ》崎《さき》二丁目×—×の豊《とよ》玉《たま》ホテルに、一週間前に赤星楽なる男性から電話で予約が入っていたそうです。楽というのは音楽の楽。楽しいという字です。五月十日と十一日の宿泊を予約していましたが、実際にはチェックインすらしていません」 「赤星楽?」  その名前を知っている、という者が捜査本部に二人いた。 「確かそんな名前の小説家がいました」       3  その五月十日。  十一冊目の著書の見本を受け取った後、私は予定どおり半日かけて神田中の古書店を巡り、夜は片桐と六《ろつ》本《ぽん》木《ぎ》で遊んでから、吉《きち》祥《じよう》寺《じ》にある彼のマンションに泊めてもらった。  私にとってはなかなか充実した一日だったが、この間にことは行なわれていたのである。        *  そして十一日の午前十一時。  私は六本木の全日空ホテルの喫茶ラウンジで噴水脇に席を取り、穴吹奈美子を待っていた。相手の顔は全く知らなかったが、「私の方から見つけます」ということだったので、任せることにした。なるべく顔を上げ、それらしい女性が入ってきたら腰を浮かせる準備をしながら。  ちょうど十一時になった時、二人の女性が姿を現わした。四十半ばぐらいの恰《かつ》幅《ぷく》のいい和装の婦人と、少しめかし込んだ利発な大学生風の女性。最初は連れかと思ったが、二人はラウンジに入るとすぐに別れて、待ち合わせている相手を捜すようにきょろきょろし始めた。  私は目立つように軽く腰を上げつつ、はてな、と考えていた。年恰《かつ》好《こう》からいくと和装の婦人が穴吹社長とみるのが当然なのだが、どうにものんびり屋のお母さん風で、やり手のプロデューサーという感じはない。かつ、赤星の言にあった美人という表現は——失礼だが——かなりの拡大解釈をしても当て嵌《は》まりそうになかった。しかし、一緒に入ってきた女性はせいぜい二十歳そこそこにしか見えず、四十五歳と聞いている穴吹社長であるはずがない。  どっちも違うな、と思い直して腰を落とした瞬間、若い方の女性とまともに目が合った。と、彼女の顔にぱっと微笑が広がる。そして、おや、と思っている私に向かって、真一文字につかつかと歩み寄ってくるのだった。 「有栖川有栖先生でいらっしゃいますね?」  彼女は確信に満ちた口調で尋ねてきた。 「はい、そうです」  答えながら私は事態を了解した。この女性は穴吹奈美子の代理なのだろう。きっと社長は急用か何かでこられなくなったのだ。私ごときを先生づけして呼ぶのも、突然の予定の変更を詫《わ》びにきた代理人である証拠のような気がした。 「遅れて参ってすみません。——初めまして。シレーヌの穴吹でございます」  初めましてだって? 私が穴吹でございます?  狐につままれているような気がして、即座に初対面の挨《あい》拶《さつ》を返すことができなかった。後になって思い出しても、この時のそんな反応も客観的にみて無理はなかったと信じている。 「どうも初めまして。有栖川と申します」  八分休符を挿入してから、ようやく言葉が出た。  穴吹社長はハンドバッグから名刺入れを出し、優雅な手つきで一枚抜き取って私に差し出した。それを両手で受け取りながら読むと、まぎれもなく『シレーヌ企画 代表取締役穴吹奈美子』とあるではないか。代表の下には president。これはおかしいぞ、と疑問に思いながら、ともあれ、自分の名刺を手渡した。 「本に載っているお写真のとおりでしたので、すぐに判りました」  目の前の女性は自分が代理人であるなどと断わることなく、にこやかに話しかけてくる。どうやら彼女が穴吹奈美子その人だと認めなくてはならないようだ。しかし、それにしても——  私は「はぁ」などと気が抜けた応答をしながら、礼を失しない程度に素早く彼女を観察した。 菫《すみれ》色のスーツ——スカートの丈は膝《ひざ》上五センチぐらいか——、細い首に小《こ》粋《いき》に巻いたペイズリー柄のスカーフ……いや、身につけているものなどいいのだ。心持ち茶色に染めた豊かなソバージュヘアをしているだの、口紅の色がやや暗い赤だのということも意味はない。ぱっちりと涼しげな目をしていて、よく通った鼻筋のラインが高貴な印象を振り撒《ま》いていて、顎《あご》の右端のほくろがチャーミングであり、すなわち、彼女が聞きしに勝る美人であるという事実ですら、私の驚きの原因ではなかった。  若い。相対しているのが穴吹奈美子だとすれば、彼女は信じがたいほどに若く見えた。 「先日は遅い時間に突然お電話をしてしまい、失礼いたしました。早くご連絡をとりたかったものですから」 「いえ……」  私は適当に受け答えしながら、内心の驚きを努めて抑えていた。仕事の話を始めかけているのに、相手が若く見えるなどという卑俗なことにいつまでも感心していては馬鹿である。とはいうものの……予備知識によると穴吹奈美子は四十五歳のはずなのに、しつこいようだが、どう見ても二十歳そこそこ。せいぜい二十五歳までにしか思えないのだ。これほど年齢とかけ離れた外見の人間は、男女を問わず初めて見た。  妙なものだった。四十五歳の人間が二十歳程度にしか見えないということは、その人物が年相応の落ち着きや風格、ひいては教養を欠いていることの反映と取られかねないはずなのに、彼女にはそんな負の印象はまるでなかった。本人だと名乗られてみれば、なるほど、歯切れのよい口調からも、引き締まった口《くち》許《もと》からも、その有能ぶりと自信が窺《うかが》える。若く見えるがゆえに頼りなさそう、ということはない。経験のなさを思い込みでカバーしているという様子もない。  なのに若い。何が?  まず肌の艶《つや》。その頬《ほお》も、顎も、指先も、二十歳どころか、まるで思春期の少女のように艶やかだ、と言い表わしても、無理な誇張にはならないと思う。  そして表情としぐさ。笑顔がこぼれる、と人はよく言うが、正に彼女の浮かべる笑みは、溌《はつ》剌《らつ》とした若々しい精神が内からあふれてこぼれ落ちたように自然で活き活きとしており、また、名刺の授受の際のしなやかな手の所作も、ウェイターを呼び止めるために立てた指の形も——言葉では説明し尽くせないが——、幼くないのに愛らしくて、人をうっとりさせるところがあった。  かくも長々と描写してしまったのは、私が十以上も年上のこの女性にひと目惚《ぼ》れしてしまったからではない。ただ呆《あつ》気《け》にとられただけ——もちろん不快どころか快い意外性で——なのをお断わりしておく。何しろ名刺を差し出したのが当人だと認めた後も、もしかすると穴吹奈美子が四十五歳だという情報の方が誤りだったのではないか、などと考えていたのだから。 「私どものシレーヌ企画と申します会社は映画、ビデオの製作を中心としておりますが、その他に出版編集の部署ももっておりまして、これまでにその方面でもいくつかのヒット作を出しております。青《せい》洋《よう》社や珀友社といった出版社の雑誌の仕事もたくさんこなしているのですが、それはさて措《お》き、映像部門の方について——」  穴吹社長は会社概要が載ったパンフレットをテーブルの上で開いて、熱心に事業内容を説明してくれた。これまで自作が二次利用されることがなかったので、私にとって未知の世界だ。 「——というように、ミステリー映画に力を入れていこうという方針を、二年前に私が打ち出したわけです。赤星先生の『アリバイの鐘』はおかげ様で高い評価を受け、興行的にもまずまず成功いたしました。それに意を強くして、これからもこの路線を続けよう、ということになったのですが、劇場映画となりますと配給元の問題に難しいものがあったりいたしまして——」  本題は電話で聞いたとおり、ミステリーのビデオ映画——映画館では公開せずにレンタルビデオに流すVシネマという奴だ——にお前が昨年書いた作品を使ってみようかな、と考えているので、とにかくこちらで脚本を書いてみる。やれそうなら——できないかもしれない—— 本当に製作したい。現在、そんな様子なのだが、とりあえずそれを承認しろ、ということらしい。私はそれを拒絶する積極的な理由が思いつかなかった。もちろん、興味がなくはないし。——ただ、この手の話は百に数個しか実現せず、唾《つば》をつけられただけで終わりになることの方がはるかに多いので、そのつもりでいるように、と片桐から聞いていたので、まだまだどうなるやら判らない、と理解していた。 「とりあえず承諾しました」  シレーヌ企画が脚本作りに入ること、その作品に対して他社から映像化のプロポーズがあっても——そんな事態は非常に考えにくいが——シレーヌ企画を最優先すること、の二点が確認された。と言っても覚書を作成するでもなく、私は口答で承諾しただけなのだが、先方はそれでかまわないらしかった。 「ところで——」  ビジネスの話に結論が出たところで、穴吹奈美子は軽い雑談の口調になった。 「先生は赤星先生と親しいと伺っておりますけれど」 「ええ、まぁ。年が同じですし、似たような時期にデビューしたものですから、心安くしています」  心安く、と言っていいだろう。酒を酌《く》み交わしながら熱く人生を語り合う仲ではなかったが、社交的な赤星の方がなれなれしく寄ってくるし——決してそれを嫌がっているわけではない——話すと趣味や信条に思ったよりは接点が多く、お互いに業界内の情報交換ができるので、親しくはしている。 「映画化されたご自分の作品について、何かおっしゃっていましたか?」  正直言って、あまり聞いたことがなかった。だが、映画の内容についてもシレーヌ企画との関係についても不満を口にすることもなかったから、一応は満足しているのだろう。私はそのまま伝えた。 「赤星先生って、面白い人ですね」  彼女はちらりと腕時計を一《いち》瞥《べつ》してから、微笑を顔に貼《は》りつかせたまま言う。どういう意味で面白いと評しているのか不明のまま、私は軽く肯定した。 「お仕事が楽しくて仕方がないんじゃないかしら。紙の上で人をだますのが楽しいんでしょうね。いかにも悪《いた》戯《ずら》好《ず》きというふうですから」  初対面から三十分近く経過して、彼女のしゃべり方は少し気さくなものになってきていた。そうなると、ますます学生を相手にしているような気になってくる。  悪戯好きという言葉を聞いて、穴吹奈美子に会ったら驚くぞ、とおかしそうに話した昨日の彼の表情を思い出した。別に彼が悪戯を仕掛けたわけではないのだが、あれはもちろん彼女が並外れて若く見えることに私がぽかんとする場面を想像していたのであろう。 「推理小説を書く方というのは、多かれ少なかれそういう気質をお持ちなんでしょうね」  どう答えようか、と迷いかけたが、どうやらそれは質問ではなく、彼女の感想の表明だったらしく、こちらが答えないうちに質問が変わる。 「有栖川先生の新作のご予定はどうなんですか?」 「はあ、近日中に発売になります」 「それは楽しみですね。すぐ拝読いたします」  そしてまた時計に目をやる。多忙で時間を気にしているのなら、用件は片付いたのだから切り上げればよいではないか、と思った。次のアポイントメントまで間があるので時間調整しているのだろうか。  さりげなく入口に視線をやった彼女の手がすっと高く上がる。誰に合図を送ったのかと見ると、SIRENEというロゴが胸に入ったTシャツを着た男が小走りにやってくるところだった。 「まぁ、ひどい遅刻じゃないの」  社長に叱《しつ》責《せき》されて、男は「申し訳ありません」と頭を下げる。頬骨が発達し、顎の先が割れているところ、そして吊《つ》り上がり気味の眉《まゆ》が何やらひどく頑固そうな印象を投げかけていた。なかなかいい面《つら》構《がま》えなのだが、社長に叱《しか》られて子供のように首をうな垂れている。まるで彼女を畏《おそ》れているかのようだった。 「紹介させて下さい。うちの映画のプロデューサーをしております、霧《きり》野《の》と申します。私と同行するはずが、仕事で別々になったものですから、今頃のこのこやってきました」  社長の紹介を受けて、男はバツが悪そうにまた頭を下げ、詫《わ》びながら名刺をくれた。『映像事業部 副部長 霧野千《ち》秋《あき》』。風《ふう》貌《ぼう》に似合わない女性的な名前だ。 「赤星先生の映画化も彼が手がけました。それ以来、先生と昵《じつ》懇《こん》になっただけじゃなくて、推理小説にかぶれています」 「そうなんです」と霧野はよく通る声で言った。「有栖川先生の御作もぜひ、何とか映像化に漕《こ》ぎつけたい、と思っています」  漕ぎつけたい、というところをみると、やはり障壁が少なくないのかもしれない。私としては、「何とぞよろしく」などと応えるだけだった。 「あ、失礼」  鞄《かばん》の中の携帯電話が鳴りだしたので、霧野は体を通路側に向け、身を縮めるようにしてそれに出た。 「はい、霧野です。……あ、これはどうも。いや、ごめんなさいねぇ。すっかりご連絡が遅くなってしまって……」 「落ち着かなくてすみません」と彼女は肩をすくめる。「打ち合わせの電話です。今、朝《あさ》井《い》小《さ》夜《よ》子《こ》先生の作品のビデオ映画化を進めているところでして、そのクランク・イン直前なんです。——有栖川先生は朝井先生をご存知ですか?」 「ええ」  パーティなどでたまに会う気のいい先輩だ。先方は京都在住、私は大阪在住なのに、よくあるケースだが、会う時はたいてい東京だった。ささいな用事で電話をし合ったことが数回、京都で飲みに行ったことが一回ある程度。三十六歳の彼女もたいそう若々しかったが、それにしても穴吹奈美子にはかなわない。——今晩でも電話して驚嘆を交換し合おう、と私はこっそり考えた。 「いいよ、あそこは。宿も手頃なのに当たりをつけてあるから。……そうそう、足場もばっちりよ。……うん、詳しいことは今晩そっちに行くからその時に。……じゃ」  電話が終わる。霧野は奈美子と目顔で何かをやりとりしたかと思うと、社長は「では」と柔らかい声で言った。 「本日は貴重なお時間をちょうだいして、ありがとうございました。脚本の準備稿があがったらご連絡いたしますので、お目通しいただいて感想を伺いたいと思います。数カ月かかるでしょうけれど。ま、今後ともよろしくお願いいたします」  霧野も唱和する。 「こちらこそ」  十二時前にホテルの前で別れた。別れ際の会話がそんなものだったから、数カ月後どころか、彼女に数日後また会うことになるとは、思ってもみなかった。       4  さて、一泊二日の短い東京出張の予定はこれで終了したわけである。  私はほっとしながらタクシーで東京駅に向かった。昼食をすませてから新幹線に乗ろう、とまず地下街に降りてみたものの、時分時《どき》でどの店も混雑していた上、空腹感があまりなかったので、八《や》重《え》洲《す》ブックセンターでしばらく時間をつぶすことにする。  できたばかりの自分の新刊が並んでいないか店頭を捜してみたが、まだのようだった。発売は明日あたりなのだろう。私はエスカレーターで最上階に上がってから、一階ずつ攻めて降りていく。昨日、神田で掘り出した本やら片桐から受け取った見本やらは宅配便で自宅に発送してあるので荷物は大したことがなく、立ち読みに支障はなかった。  ペンギンの写真集などという罪のないものを手にとってページをめくっている時、ふと嫌なことに気がついた。ペンギンには何の関係もない。できたできたと喜んでいた著書の中に、重大なミスがあったのではないか、という疑問が不意に襲いかかってきたのだ。事件を解く鍵《かぎ》になるある出来事のあった曜日を間違えたような気がしてならない。謎《なぞ》解《と》きが主眼の本格ミステリなどというものを専門にしていながら、根ががさつな私には曜日や日付の間違いがとても多いのだ。たいていは校正の段階で誰かが気づいてフォローしてくれるのだが、そのチェックをかいくぐって本になったミスもいくつかある。——確かめなくては。  しかし、前述のとおり見本は自宅に送ってしまったし、店頭にはまだ出ていない。間違いだったとしても、刷り上がっているのだからもう手遅れではないか、と判ってはいるが、理屈と感情とは重ならないものだ。本の山に囲まれていながら答えが得られないもどかしさのせいもあってか、私はひどく苛《いら》立《だ》ってきた。 「ええい、電話や」  片桐に電話で訊くことにした。彼がまず頭のてっぺんから声を出して、『え〜、今さら言っても駄目ですよ〜』と反応するのは知れていたが。  午後一時を少し過ぎたところ。もしかしたら外出してしまったかもしれない、と思ったが、彼はいた。 「あ、有栖川です。どうも」  電話が通じるなり、どうしても『あ』という無意味な掛け声をかけてしまうなぁ、俺は。そんなつまらないことを考えながら本題に入りかけるのを、担当編集者はピシャリと封じた。 「有栖川さん、えらいことになりましたよ」 「えらいことって、それ、関西弁やないの? 最近の標準語は乱れてるなぁ」 「ストップ。しょうもないこと言ってる場合じゃありません」  叱《しつ》咤《た》されてしまった。 「何かあったんですか?」  ただならぬ気配を感じて私は真顔になる。 「ありました。びっくりして受話器を落とさないで下さいよ。——赤星さんが亡くなりました」 「嘘《うそ》……」  私は受話器を落とすのも忘れるほど驚いた。いや、とっさに彼の言葉の意味が理解できなかったのかもしれない。 「取材先の若狭で客《かく》死《し》です。昼過ぎに福井県警から電話があったんです」  昨日、片桐と一緒に見た彼の顔が脳裏に甦《よみがえ》った。あの赤星が死んだ? とても信じられない。 「何か事故にでも巻き込まれたんですか?」 「詳しいことはまだ判っていませんけれど、若狭湾の何とか半島の岩場に横たわっているのを船に拾われたんだそうです」 「岩場に横たわる?」  片桐が小さく深呼吸する音が聞こえた。 「もしかすると、何者かに殺されたのかもしれないそうです」  衝撃の斧《おの》が脳天に振り下ろされた。私はどう応答したらいいのか判らなかった。十秒近く沈黙してから—— 「ねぇ、片桐さん。これからそっちに行ってもかまいませんか? もっと詳しく聞きたいから」  片桐がどれだけの情報を持っているのか判らないが、大変なことになりましたねぇ、と言って新幹線に乗り込むわけにはいかなくなって、私はそう口走っていた。それに、赤星は『心安い』『親しくしていた』男だったから。 「僕はかまいませんよ。じゃあ、きて下さい。ポケベルで出先の塩《しお》谷《たに》に連絡をしたので、彼もこっちに向かってるところです」  塩谷というのは赤星の担当編集者である。 「有栖川さん、今、どこですか?」 「八重洲。すぐ行きます」  タクシーを拾って急行した。        *  珀友社に駈《か》けつけると、受付に入るなり緊張感めいたものを感じたが、それは単なる錯覚だったかもしれない。見覚えがある雑誌編集者がフリーのカメラマンらしいあんちゃんと廊下で大口を開けて馬鹿笑いしている風景などが見られることからして、赤星の死は社全体に広がっていないのだろう。  だが、さすがに七階の文芸編集部までくると、明らかに空気が重かった。平素なら、頻繁に鳴る電話のベルに混じってあちらこちらから笑い声が聞こえるのに、それがまるでない。 「お聞きになりましたか?」  後ろから声をかけられた。振り返ると、ピンクのポロシャツ姿の塩谷が立っていた。四十を過ぎたばかりだが、なかなかこれが似合っている。よほどベテランの作家と会う時以外、彼はいつもこんな恰《かつ》好《こう》をしていた。 「ええ、片桐さんから。赤星さんが旅行先で亡くなったと……」 「もうすぐ警察がきますよ。何ていうか……他殺の疑いもあるとかいうことで」  ポロシャツと並ぶトレードマークである大きな黒縁の眼鏡をずり上げながら、彼はもごもごと言った。 「部長がゴールデンウィークの代休でいないんですよ。まいるなぁ」  赤星の担当者であるだけでなく、彼は副部長であった。  奥の部屋のドアが開き、片桐が出てきた。私を見ると、黙って手招きをする。両手でおいでおいでをしているのは、私と塩谷を同時に呼んでいるためのようだった。隣室は資料室だった。私たちが入ると、片桐は後ろ手にドアを閉める。 「どうやら殺されたみたいですよ、赤星さん」  彼は前置きもなくショッキングなことを告げた。 「その疑いがある、というんやなかったの?」と訊《き》く。 「あの後でまた警察から——今度は警視庁ですけど——電話があったんです。話を聞きに行くから、赤星さんをよく知ってる人をスタンバイさせていてくれって。その二回目の電話の時に探りを入れた感触では、他殺とほぼ断定しているようでした」 「福井県の事件やのに、警視庁がこれは他殺だの事故死だのと断定するわけないでしょう」 「じゃ訂正します。受話器の向こうから『他殺だ。気合いを入れていくぞ』という刑事の熱気がほのかに伝わってきたんです」 「気合い。熱気ねぇ」  うーんと唸《うな》って、私たちは近くの書架やキャビネットにもたれかかった。初めて入ったのだが、長机が一つあるっきりで、机があるくせに椅《い》子《す》は一脚もない殺風景な部屋だった。 「しかし、どうして赤星さんが取材先で殺されたりせにゃならんの? もの盗りかねぇ」  塩谷は腕組みをして苦しげに言う。片桐は首をひねってみせた。 「物騒なところに行ったわけじゃないのに、もの盗りに遭って海に投げ込まれたというのもピンときませんねぇ」そこで溜《た》め息をつき「それにしても、若狭に行ってるとは思ってなかった」  私はおやっと思った。 「知らなかったって言うけど、彼が『海のある奈良に行ってくる』て言うたの、片桐さんも聞いてたやないですか」  そう言うと、彼は掌でぽんぽんと自分の頭を叩《たた》いた。 「あの時は『そうですか。お気をつけて』なんて応えてたけど、知らなかったんですよ、『海のある奈良』がどこなのか。福井県の小浜を指してそう言うんですってね。さっき関西出身の奴に聞きました。小浜と聞いても、若狭湾に面しているのは知っていたけど、地図を見るまでどのあたりかはっきりとは判らなかったし」 「俺はそれぐらい知ってたよ、横浜生まれでも」と塩谷はきっぱり言う。「小浜っていうところは京都とのつながりも深くて、国宝や重要文化財がごろごろしてるんだ。ただならぬ土地なんだぜ。そもそも、どうして小浜と京都のつながりが深いかというと——」 「塩谷さんみたいな博《はく》覧《らん》強《きよう》記《き》の人にはかないませんよ。講釈はまたあらためて伺いますので、今は勘弁して下さい」  心の柔軟性に富んだ片桐にしては余裕のない言い方だった。場面が場面だけに、言われた先輩の塩谷はおとなしく口をつぐむ。 「ところで、赤星さんはいつ見つかったんです?」  私は訊きもらしていたことを尋ねた。 「遺体が見つかったのは今日の午前中。身分証明書のたぐいはなかったんですけど、万年筆のネームから調べて作家の赤星楽だと判ったそうです。赤星さんの本を一番多く出版しているのはうちですから、警察から連絡が入ったのもしごく自然なことですね」 「殺された、いや、亡くなったのがいつ頃か聞いたのか?」  塩谷が訊いた。 「いえ、それは聞いてません。昨日の夕方から今朝にかけてなんでしょうね」 「んなこと当たり前だろうが」  ドアが勢いよく開いたので、僕はぎくりとする。昨日、コーヒーを運んでくれた女子社員が立っていた。恋人に不貞を告白するかのように、申し訳なさそうに言う。 「あのー、警察の方が片桐さんに面会をしたいとおみえなんですけど」  彼は塩谷と私の背中に腕を回した。 「さ、行きましょう。みんなで」       5  第二応接室で二人の刑事がお待ちかねだった。私や片桐とあまり齢《とし》の違わないように見えるコンビは、警察手帳を示した上で、麻《あそ》生《う》と清《きよ》田《た》と名乗った。本庁ではなく、赤星の自宅がある杉並署の刑事だ。こちらのメンバー紹介を片桐が行なったところ、用意のよさに刑事たちは謝意を表してくれた。 「身内の方に確認していただいたわけではありませんが、遺体で発見されたのが作家の赤星楽さんであることは間違いないようです。遺体のダメージが軽微だったので、赤星さんの本のカバーにあった近影と突き合わせることができたからです」  麻生の方が先輩格らしく、もっぱら彼がしゃべった。清田はメモをとる、という役割分担を担っているらしかった。 「身内の方というと、そちらへの連絡もついたんですか?」  クラーク・ケント風の眼鏡の弦《つる》に手をやりながら塩谷が尋ねる。 「長崎の実家に連絡はつきました。赤星さんのお父さんと妹さんに福井へ行っていただくことになりましたけれど、何せ遠いですから、もちろん遺体との対面は今晩になるでしょう。東京に従弟《 い と こ》が一人いるそうですが、住所を知った人がいないもので、その人とは連絡がつきません」 「ああ、従弟ね」  塩谷が呟《つぶや》くと、麻生刑事はすかさず「ご存知ですか?」と尋ねた。 「ええ。従弟が東京にいる、というのは聞いたことがあります。長崎から出てきて某大学に通っていたのに、親も知らないうちに退学していたとか。赤星さんはちょくちょく会って、食事をごちそうしたり一緒に飲んだりしていたみたいですよ。ひと頃はマンションに転がり込んできたので仕方なく居《い》候《そうろう》をさせていたとか」  そんな人物について、私は彼から聞いたことはなかった。まぁ、その程度の付き合いだったわけで、何もおかしくはない。 「そのようですね。それは長崎の親御さんも知っていました。お名前は近《ちか》松《まつ》ユズル。ユズルは片仮名」  片仮名で書くのは珍しい名前だが、綴《つづ》りなんてどうでもいいだろうに。 「現在、どこで何をしているか知りませんか?」 「赤星さんが亡くなったことにその人が関係しているんですか?」  塩谷は問いに答えるより先に、質問を投げ返した。 「いえいえ」  刑事たちは微笑まじりに否定する。事件に関係しているかどうか判らなくとも、捜査の協力依頼を受けた彼らとしては、東京にいる唯一の肉親である従弟の居場所を県警に伝えたいのだろう。 「そうですか。——その近松ユズルさんという人が今どこにいるか、私は知りません」 「赤星さんのところに居候していたのはいつ頃のことです?」  それほど重要な問題ではないだろうに、塩谷は怖いほど真剣な目つきで天井をにらみ、しばらく記憶の糸をたぐっていた。 「去年の春から夏前にかけて。……えー……四月から六月の終わりぐらいじゃなかったかなぁ」  近松ユズルについての話はそこまでで終わりだった。 「電話で片桐さんから伺ったところによると、赤星さんが小浜へ取材旅行に行くことはご存知だったんですね?」 「はい。昨日、旅行に立つ直前にうちに寄って、その時に『海のある奈良へ行く』と言うのを聞いただけですけれど」  それが小浜の別称であることを自分は知らなかった、という点について片桐は伏せた。 「そちらのあなた、えー、有栖川さんはいかがですか?」 「同じです。私も聞きました」 「塩谷さんは?」  テンポのよい質問が担当編集者に向けられると、 「私は知りませんでした。昨日は出張をしていましたから、その場にいなかったんです。今週、小浜に行くなんて、ひと言も話していませんでしたし」  そのことが疑問のようでもあり、担当者としてちょっと不本意なようでもある。 「小浜に行ったのは次にこちらで出版する作品の取材が目的なんですね?」  私もてっきりそうだと思い込んでいたのだが、塩谷は「はぁ」と頭を掻《か》いた。 「はっきりとしたことは判りません。うちが赤星さんに書き下ろしをお願いしていたのは確かですけれど、青洋社さんの注文も抱えていたらしいですから、もしかするとそちらのための取材だったのかもしれません」 「小浜に行ったのが注文している作品の取材だったかどうか判らないということは……どんな作品ができ上がってくるか、編集者の人は事前には判らないんですか?」  清田刑事が、まるで咎《とが》めるように訊く。 「作家によって色んなケースがあります。赤星さんは新人じゃないので、どんなものを書くかについて、執筆に入る前に入念な打ち合わせをすることはありません。作家側から得得と構想をしゃべってくれることもありますが、赤星さんは内緒にするタイプだったし。こんな資料を集めて欲しい、という依頼を受けてたらどこを舞台にどんなものを書くのか見当がついたかもしれませんけど、それもなかったので」 「赤星さんは資料集めも取材も、ほとんど自分一人でやってしまう人でしたからね」  片桐が補足した。 「青洋社という出版社のお仕事もなさっていたんですか。写真週刊誌なんかを出してるとこですね?」  私たちが口々にそうだと答えると、清田は素早くメモをとった。そちらの担当者にも連絡がとられるのだろう。 「誰かと一緒に行くとか、どこに泊まるとかいうことは言ってませんでしたか?」 「そういうことは一切聞いてません。ただ、取材に行くとしか」  代表して片桐が答えた。 「それから……赤星さんが何らかのトラブルを抱えていた、ということはなかったでしょうか?」  きたな、と思った。やはり彼は殺されたのだ。だから動機を持った人間が周辺にいなかったかを調べているのだ。  私たち三人は牽《けん》制《せい》し合って、誰も口を切ろうとしなかった。黙っていては誤解される、と私がしゃべりかけると、今度は三人の言葉が無様にかぶさった。「どうぞ」と譲り合ってから、答える役は塩谷に渡る。 「私生活全般については知ってはいませんけれど、トラブルで悩んでいると聞いたことはありません。お仕事も順調だったし、人間関係で悩んでいるという様子もありませんでした」 「どちらかと言えば、充実した毎日を送ってるっていう顔でしたね」  片桐が付け加えたのに私も同感だった。いよいよ脂がのってきている、という感じを受けていた。 「そうですか……」  麻生は相棒と目で何やら合図を交わし、清田は手帳を閉じた。 「はい。ご多用のところ、ご協力ありがとうございました」  これでもうおしまい? これからが本題だと身構えていたのに。 「終わりですか?」  同じ思いだったらしく、片桐がほとんど反射的に言う。 「ええ、今日のところは。また詳しいお話を伺いにお邪魔するかもしれませんが、その節もよろしくお願いします」 「赤星さんは殺されたんですか?」  片桐は決然としてそう尋ねた。麻生は小さな音をたてて口をすぼめる。 「それはまだはっきりとしていません。もし殺人事件だとしたら、もっとあれこれ伺うことができると思います」  話すことがないのか、話したくないのか、それで打ち切りとなった。 「ちょっとちょっと、訊き込みってのは、あんなもんですかい、推理小説を書いてる先生?」  彼らが帰ると片桐が言った。 「あれは捜査ってもんやないね。まだ他殺と判明してないっていうのは本当かどうか知らんけれど、ややこしいことになってるんやったら、そのうち福井県警の人間を連れてまたくるでしょう」  塩谷はしばし黙っていたが、がばっと立ち上がった。 「青洋社の多《た》賀《が》に電話してみるよ。赤星さんが死んだことをまだ聞いてなかったら、ぶっ飛ぶだろうな」  彼は各社の赤星担当者や赤星と近しかった作家たちに電話を入れ、片っ端からぶっ飛ばしていった。  第二章 人魚の牙《きば》       1  その夜。  私は昨日と同じく、吉祥寺の片桐の2DKマンションにいた。赤星の客《かく》死《し》を巡る騒動の渦中に巻き込まれて、大阪に帰りそびれてしまったのだ。いや、誰に止められたわけでもなく、帰る意志があれば帰れたのだから、東京に留まったのは、ことの推移をもう少し見守りたい、ということなのだろう。  赤星と心安く親しかったのか、それは冗談なのか、私は少し曖《あい》昧《まい》にしていたかもしれないが、やはり彼はただの同業者ではなく、浅い付き合いではあったが、友人だった。なりゆきを見守る以上のことが何かできればしたい、という思いもあった。  駅前の中華料理店で晩飯をすませ、部屋にたどり着いたのは十時過ぎだった。片桐はネクタイを取りながら「ニュースニュース」とテレビをつける。相も変わらないどたばた劇じみた政局の混迷ぶりが報じられているところだった。 「勝手知ったる冷蔵庫にビールがありますよ。よかったらどうぞ」  寝巻にしているトレーニングウェアに着替えながら彼は気を遣《つか》ったようなことを言ってくれた。 「ありがとう。——今はいらない」  欲しくはなかった。中華料理店でもお互いに飲んでいない。  私はソファに掛けて、今日一日を振り返った。自作の映像化の件で美人社長と会ったのはわずか十時間ほど前のはずだが、もうあれから数日が経過しているように思えてならなかった。  赤星楽の死はやはり他殺だった。わざわざ警察から連絡があったのではなく、夕刊と六時以降のテレビニュースで知ったのだ。そのことが報道されると、何本かの問い合わせの電話が片桐や塩谷の許《もと》にかかってきた。赤星を知っていた人間が驚きを確認し合うことと情報を得るためにかけてきたものもあれば、単なる興味本位でかけてきた野次馬的なものもあったようだ。後者に対して片桐は「俺に訊《き》かれても知んないよ。お門《かど》違いだ」とむくれていた。そんな電話の何本かには私も出て、さして意味のない会話をした。結局、今日の午後のほとんどを、私は珀友社とその周辺で過ごしたのだ。はて、何時間も何をしながら過ごしたのだろう、と妙な気もする。  何本かの政治関連ニュースの後、赤星の事件についてキャスターが話し始める。片桐は脱《だつ》兎《と》のごとくテレビに駈《か》け寄って、ビデオ録画を始めた。常日頃から書いたり消したりの黒板用ビデオをセットしておいて、ちょっとでも気になることがあったら意地汚いくらい何でも録画する、というのが彼の性癖だった。今回は少し事情が違うが。  食い入るように画面を観《み》つめ、耳を傾けたのだが、未知の情報はあまり流れなかった。赤星は昨日から取材旅行で、かの地を訪れていたらしいが、予約していたホテルに姿を現わすこともなかったという。となると、殺されたのは私たちが旅立つ彼を見送った昨日、十日の火曜日。小浜に着くや否やということになるのだろうか?  ニュースは短かった。短かったが優先順位が比較的高かったのは、推理作家が殺害されたという扇《せん》情《じよう》性のためだろう。目立つニュースなのだ。全く、推理小説を職業になんかしてしまうと、おちおち殺されることもできない。 「赤星さんって、誰かに殺されるような人でしたっけ?」  CMになったので、テレビの音量を下げて片桐が訊いてくる。私が無言のまま肩をすくめてみせると、彼は同じポーズを返してから、ペたりと床に座り込んだ。 「そりゃあ、僕だってあの人の私生活に通《つう》暁《ぎよう》していたわけじゃないから、何とも言えませんよ。でも、強烈な恨みを買うような人だとは思えないんですけどねぇ」 「そうやね」  私があっさり言うと会話が途切れた。  彼は壁に立てかけてあったギターに手を伸ばして、そっと爪《つま》弾《び》く。大学時代はフラメンコギターのサークルでならし、パコ片桐なる世にもちんけなステージネームを持っていたそうだ。パコ・デ・ルシアが彼の神様だったのだ。 「有栖川さん、ギターやってましたっけ?」 「楽器は全然駄目。縦笛も苦手やった」 「野蛮人ですね」  彼は笑い、小さい音で『アランフェス』をもの哀《がな》しく弾き始めた。テレビの音と重なるとうるさいので、私はスイッチを切る。と、電話が鳴っているのに気がついた。少し前から鳴っていたのかもしれない。ギタリストはすぐに立つ。 「お待たせしました、片桐です」と出てから「ああ、どうも。ご無《ぶ》沙《さ》汰《た》しています」「いやぁ、本当に驚きました」という台詞《せりふ》が出たところをみると、またまた赤星殺害事件に関する電話なのだろう。その手の電話には食傷気味だったので、私は誰からの電話なのかという興味も湧《わ》かなかった。しばらくぼんやりしていると—— 「代わります」  片桐は私に受話器を差し出した。 「俺に?」 「有栖川さんの彼女からですよ」  にやりと笑いながら小指を立ててみせるので、どんなおっさんからかと思いつつ出てみた。 「今晩は。朝か夜かはっきりしろ、の朝井小夜子です」  ハスキーヴォイスをした京都の同業者だった。 「ああ、どうも今晩は。——片桐さんに電話をしてきたのは赤星さんのことについてですか?」 「そう。担当は塩谷さんやから彼のところへ電話したんやけど、まだ帰ってへんねん。それで片桐さんのとこへ。他に自宅の番号がすぐ判る編集さんがいてへんかったさかい。で、かけてみたらミスター・アリスがいてるいうから、ついでに声を聞こうかな、と」  べたべたの関西弁である。かなりパワフルで、京女のゆかしい京言葉というものからはかけ離れている。 「もしかして、さっきのテレビのニュースで赤星さんのことを知ったんですか?」 「そう。メッチャえぐい締切りに追われてて、世間と交渉を断ってたから。たまたまつけたテレビで聞いて仰天したわ。それから慌てて夕刊を読んだいう有様やねんけどね。それで、おい一体どないなってんねん、て事情が聞きとなって編集さんに電話したんやけど、まだ何も判ってへんみたいやね」 「編集者かて特別な情報は掴《つか》んでませんよ。真相は自分で推理したらどうです?」 「ちまちました推理はあんたに任せるわ。うちかて本格派やけど、ちょっと作風違うやろ?」 「朝井さんのは解決編で探偵がきちんと推理しませんからね」 「してるやないの、殺すで」  どっちやねん。それにしても——殺すで、という言葉も今日ばかりは洒《しや》落《れ》にならないような気がした。 「ところで」  赤星の死についてはお互いに内容を伴った語るべきものがなかったので、私は話を変えた。 「朝井さんの作品がシレーヌ企画で〓シネマになるそうですね。私のにもそんな話がちらりと出てて、今日、穴吹社長とお会いしましたよ」 「美《び》貌《ぼう》の穴吹さんね。会ってたちまちファンになった?」 「かもね」  ふん、と鼻で笑うような声がした。私よりずっと年上なのを知ってるか、と言いたいのだろう。 「彼女が御《おん》年《とし》おいくつかは知ってますよ。あれは二十世紀の驚異ですね」 「なーんや、知ってたんか。うん、あれは凄《すご》いわ。どこかで人魚の肉を食べたんやろうな」  人魚の肉を食べると齢《とし》をとらなくなる、という言い伝えがあったのを思い出す。——と、私は頭の中でパチパチと何かが瞬《またた》くのを感じた。  このところ人魚という非日常的な言葉にやたら遭遇するような気がする。まず最新の自著の題名に『セイレーン』という名の人魚を使っている。昨日それを見た赤星が何故か「人魚?」と気にしていたっけ。その翌日に会った社長は朝井小夜子に「人魚の肉を食べた」などと言われるし、それに——シレーヌ企画だ。穴吹奈美子が率《ひき》いる会社の名前に戴《いただ》かれているシレーヌ(SIRENE)とはサイレン、すなわちセイレーンの語源となったギリシア神話に登場する人面の鳥ではないか。そんな怪物を社名に採用しているのは穴吹奈美子の意図したところなのかもしれない。だとしたら、そう、彼女は本当に人魚の肉を食べたのだ。——まさか。人魚を食べると齢をとらなくなる、という伝説は日本だけのもので、西洋のシレーヌに関してはない。  つまらないことを考えて電話口で黙り込むなよ、と思ったのだが、何故か受話器の向こうの小夜子女史の言葉も不意に途切れてしまっていた。 「人魚で思い出した。赤星さんが今度書くつもりやった作品のタイトル」 「何ていうんですか?」 「『人魚の牙《きば》』」  それだけではどんな内容のものかよく判らない。ただ、私の『セイレーンの沈黙』という書名を目にして、似たような話だったら嫌だな、と彼が気にしたことは理解できた。 「どんな内容か聞きました?」 「それは知らんわ。この前、パーティの席で、次作はこんなタイトルでいくつもりやって、青洋社の多賀さんに話してるのを聞いただけやもん」 「ということは、小浜に行ったのは青洋社に書く作品の取材?」 「うーん、どやろ」  決めつける根拠はなかった。 「それはそうと、いつまで東京にいてるの?」 「多分明日まで。いつまでおっても仕方がないし」 「ビジネスホテル代わりにされて編集さんも迷惑やしね」  すねたような口調に私はひっかかった。 「今気がついたんですけど、朝井さん、酔ってます?」 「ん? そんな一《いつ》升《しよう》瓶《びん》を枕《まくら》にするほど飲んでへんで。ジャックダニエルをなめながら赤星さんを偲《しの》んでただけ」  ここらで切った方がよさそうだ。彼女は泣き上《じよう》戸《ご》と怒り上戸を兼ねている。 「近いうちに、また京都で会いましょう」 「うん。あんたの言うてたあのお友だちを紹介してや。探偵もどきの大学のセンセ」 「連れていきますよ。——そしたら、おやすみなさい」 「おやすみ」  最後はいともあっさりと電話を切るのは、いつもどおりだった。私はゆっくりと受話器を降ろして、今のやりとりを片桐に話して聞かせた。彼女が酔っていたことに、パコは気づかなかったようだ。 「そうか。青洋社に書く作品の題名が『人魚の牙』ねぇ。うーん、『人魚の牙』か」  唸《うな》っていたかと思うと、時計を見てから受話器を取り上げる。 「塩谷さんに報告しておきましょう。もうそろそろ帰ってるんじゃないかなぁ」  塩谷の番号は短縮ダイアルになっているらしく、彼は簡単に相手先を呼び出した。つながったところで、拡声ボタンを押す。  ——塩谷でございます。  出たのは夫人のようだった。片桐は遅い時間であることを詫《わ》びてから、塩谷が帰っているかを尋ねる。帰宅したところだ、という返事だった。本人に代わってもらう。 「もしもし、片桐です。どこか寄り道してました?」  ——赤提《ちよう》灯《ちん》で一杯ひっかけてたんじゃないぞ。仕事だ。高《たか》橋《はし》先生んちへ原稿を取りに行ったらなかなか帰してくれなかったんだよ。どうかしたのか?  実は、と片桐は話す。 「というわけで、朝井さんの証言によると、あちらのは題名も決まってたんですよ。そんな様子ですから、小浜行きは青洋社さん用の取材臭いですね。ま、急いで報告しなくてもよかったかもしれませんけど」  ——そうか。  塩谷は溜《た》め息をついた。  ——そりゃあちらさんのだ。『人魚の牙』なんだろ? 人魚ときたら小浜だもんな。  私は「あっ」と声を出していた。 「ど、どうしてです?」  片桐は判っていないらしい。  ——後ろで有栖川さんが『あっ』なんて言ったな。気がついたらしいから、解説してもらえ。  そう、塩谷の言葉でようやく気がついた。小浜ときたら人魚ではないか。       2 「どうして小浜といえば人魚なんですか? コペンハーゲンなら判るけど」  片桐は床に正座して尋ねてきた。 「そらそうでしょう。小浜といえば八《や》百《お》比《び》丘《く》尼《に》やもん」  私は彼をいたぶるために無造作に言う。 「ヤオビクニ? 聞いたことがあるな。えーと、確かあれでしょう、八百歳まで生きた尼《あま》さん」 「何や、知ってるやないですか」  優越感にひたれるほどの知識ではなかったらしい。 「残念ながらそれぐらい知ってますよ。それだけですけどね。——あれー。もしかして、その八百比丘尼さんが小浜のご出身なんですか?」 「そう」 「それが人魚にどう関係——そうか!」叫んだところをみると判ったのだろう。「人魚を食べて不老長寿になったんですね?」 「大正解」 「そうだそうだ。馬《ば》琴《きん》の『南《なん》総《そう》里《さと》見《み》八《はつ》犬《けん》伝《でん》』にも出てきたっけな」  ……そんなこと、私は知らないが。        *  以下に記す詳細は後日に文献を調べて知ったことである。  八百比丘尼の伝説は各地に残っていて、細部が異なった様々なヴァリエーションがあるのだが、若狭八百比丘尼が最も有名だ。齢《よわい》八百歳で比丘尼が入《にゆう》定《じよう》した地と伝わる小浜の曹《そう》洞《とう》宗《しゆう》空《くう》印《いん》寺《じ》の案内その他を参考にまとめるとこうだ。  斉《さい》明《めい》天皇の御時、白《はく》雉《ち》五年(六五四年)というから、まだ都が飛鳥《あすか》にあった頃。若狭国祖荒《あれ》礪《との》命《みこと》の末流であり、勢村の長者だった高《たか》橋《はし》権《ごん》太《た》郎《ろう》——いきなり眉《まゆ》唾《つば》もので、この姓名は七世紀の人のものとは思えないが——の家に女の子が生まれた。白玉のごとく輝き、優美で、生まれながらに智恵徳行が備わり、神か仏の再来と人々に崇《あが》められる姫だったという。  姫が十六歳の時、父親の権太郎は海の彼方《かなた》の御殿に招かれる。そこは龍宮城だった。お伽《とぎ》話の浦島太郎と同様にもてなされた権太郎は、小浜に帰る際に土産《 み や げ》の品を受け取るが、それは白い煙が詰まった玉手箱ではなく、人魚の肉であった。家に戻った権太郎は土産物を戸棚にのせておいたところ、ある日、それを姫が食べてしまった。そのため、何歳になっても老いることない体になってしまったのだ。いつまでも十六歳の若々しさ、美しさが衰えない。あまりのことに人々は驚嘆し合った。  やがて姫は十六歳の容姿のまま百二十歳を迎える。その頃になると、さすがにもう小浜には彼女を知った人はいなくなっていた。何度か結婚を繰り返したが、寿命ある夫たちはみんな逝《い》ってしまい、無常観だけが残る。かくして姫は髪を剃《そ》り落として比丘尼の姿となり、愛《め》でていた椿《つばき》の花とともに諸国巡遊の旅に出た。  長い長い旅が始まった。こちらに五十年、あちらに百年と止《し》住《じゆう》しながら、姫は神社や寺院を建立修造し、道路や橋を築き、五《ご》穀《こく》豊《ほう》穣《じよう》と樹《じゆ》木《もく》繁《はん》茂《も》の技術を教え、神仏への信仰と人の道を説いて回り、人々から敬われる。五百三十幾歳の折には義《よし》経《つね》、弁《べん》慶《けい》の一行が修《しゆ》験《げん》者《じや》に化けて北《ほつ》国《こく》街道を北へ下るのにすれ違い、源《げん》平《ぺい》の盛《せい》衰《すい》も目《ま》の当たりにした。その旅は後《ご》花《はな》園《ぞの》天皇の御世、宝《ほう》徳《とく》元年(一四四九年)七月まで続き、旅は京都清水の定水庵《あん》で終わった。  果ての知れない遍歴を経てきた姫は、生まれ故郷の小浜へと帰る。そして、後《のち》瀬《せ》山中の神明社の傍らに庵《いおり》を設けて暮したのだが、八百歳になったある日、現在、空印寺の境《けい》内《だい》にある岩《がん》窟《くつ》にこもり、断食によって静かに命を断った。後世、人々は姫を八百比丘尼、八百姫、長寿の姫と尊称した。また、姫が岩窟の入口にも椿の花を植えていたことから、玉椿姫とも呼ばれたという。  これが若狭の八百比丘尼伝説の基本形であるが、柳《やなぎ》田《た》国《くに》男《お》の『東北文学の研究』やその他の伝承では、姫が人魚の肉を口にした経緯については違ったパターンもいくつか挙げられている。例えば、ある物語によると、娘の父親は龍宮城ではなく、山中で異人に出会って、彼らの隠れ里に招かれたのだという。そして、そこで人魚の肉を饗《きよう》せられるのだが食べず、袖《そで》に入れて家に帰り着き、娘がそれをうっかり食べてしまうのだ。前の話と比べると、招かれたところが異界であることは共通しているとはいえ、そこが龍宮城ではなく、山奥の異人の隠れ里となると、夢のような華やかさが暗く無気味なものに反転したような印象がある。また、別の話では、父は小《こ》松《まつ》原《ばら》という村人であり、海で釣り上げた奇怪な魚——顔が人間のようであったというから明らかに人魚だ——を幼い娘が食べたところ年をとらなくなった、となっている。また違うパターンもあり、それによると、六人の長者が折々に集まって宝《たから》競《くら》べの会を催していたところ、ある時、一人が人魚を調理して出したのを五人とも気味悪がって食べず、持ち帰ったものを無邪気な娘が知らずに食してしまったということだ。はたまた、やはり父親が人魚を得たのは海の彼方であるが、それは仲間とともに漁船が流された挙《あげ》句《く》にたどり着いた常《とこ》世《よ》の国で、もてなしを受けて喜んでいたところが、調理場をふと覗《のぞ》くと、人魚が料理されているのに気がついたため、これは食べてはならじと持ち帰ったものを娘が口にした、という説もある。娘に人魚の肉を与えたのが千年も生きた狐や狢《むじな》だとあっさり説明する話もあり、人魚の肉は海からでも山からでもやってきたようだ。  人魚の肉にそんな効用があるわけがない、そもそも人魚など実在しない、と笑う以前に、八百歳まで生きた女がいたということがナンセンスのひと言で片付けられそうだが、足《あし》利《かが》時代中期——先の飛鳥《 あ す か》時代とえらく隔たりがあるが、人々が現世福徳を求めたこの時代には長命談が多い——、若狭に非常に長生きをした八百比丘尼なる有名な女がいたことは、『臥《が》雲《うん》日《につ》件《けん》録《ろく》』『康《やす》富《とみ》記《き》』『唐《から》橋《はし》綱《つな》光《みつ》卿《きよう》記《き》』といった多くの日記史料の記述が一致しているので疑いがない、と柳田国男は記している。ただ、その長寿については説明がないため、古来、各地に残っている人魚の肉伝説が採用され、若狭八百比丘尼の物語が形作られていったのだろう。  前述のとおり、八百比丘尼伝説は若狭以外の地方にも残っている。例えば佐《さ》渡《ど》。異人饗応で出された人魚の肉を食べて千年の長寿を得た羽《は》茂《もち》の大《おお》石《いし》という村の女がいたという。この佐渡生まれの八百比丘尼はそのうち二百歳分の寿命を国王に譲ったため、八百歳に達した時に若狭に渡って死んだのだそうだ。 『播《はり》磨《ま》鑑《かがみ》』によると八百比丘尼は播磨の神《かん》崎《ざき》郡《ぐん》比《ひ》延《え》村生まれとされ、この比丘尼は八百歳で比延川に身を投げたとも、明《あか》石《し》の浦に出たまま帰ってこなかったともされている。『西《せい》郊《こう》余《よ》翰《かん》』巻一にある土《と》佐《さ》の国だとまた少し違う。土佐高《たか》岡《おか》郡《ぐん》多《た》野《の》郷《ごう》の海岸に千軒の民家があり、そこの七人の漁師が人魚を捕って刑に処せられた。が、村の医者がその肉をひと切れ内緒でもらい受け、わが娘に食べさせると八百比丘尼になってしまった、と。村に残っている石塔は、比丘尼が三百歳の時に故郷に帰ってきて作ったとか、異国で死んだ後、若狭から送られてきたとか伝わっている。村には人魚を捕った漁師らが処刑されたところとされる七本木なる古跡も残っている。他に丹《たん》後《ご》竹《たけ》野《の》郡《ぐん》乗《のり》原《はら》、紀《き》州《しゆう》那《な》賀《が》郡、越《えち》後《ご》寺《てら》泊《どまり》、伯《ほう》耆《き》弓《ゆみが》浜《はま》、会《あい》津《づ》金《かな》川《かわ》寺《でら》。さらには海のない美《み》濃《の》、飛《ひ》騨《だ》にも山国らしい形になったものが伝わっており、この物語は日本海岸を中心にほとんど全国的なものとなって広がっている。  ほんのささいな好奇心が原因で年老いることがなくなった娘の無《む》垢《く》と美しさ。愛する者が皆、自分を措《お》いて世を去ってゆくのを見続けなくてはならない悲しみ。不老不死の宿命を受け入れることで始まった、人々に尽くし、祈るための何百年にも及ぶ旅の気《け》高《だか》さと痛ましさ。そして、静寂に包まれた死の安《あん》寧《ねい》。それらのいずれもが民衆の心を打ち、それゆえに語り継がれてきたのだ。        *  しゃべっているうちに喉《のど》が渇いてきたので、「やっぱりごめんよ」と言って途中で缶ビールをちょうだいした。 「なるほどね」  喉を鳴らす私の傍らで、片桐はすっきりとした顔をした。 「ん、何を納得してるの? 賢くなったって?」 「納得しちゃったな。ほらほら、昨日、うちの応接室で赤星さん言ってたじゃないですか。自分も人魚がからんだ作品を書こうとしてるけれど、人魚は人魚でも有栖川さんのセイレーンみたいな洋風のじゃないって。若狭の八百比丘尼の伝説を扱うつもりだったんですね」  そうだった。『海のある奈良』と聞いて小浜を思い浮かべたのに、人魚の話題が出たあの時点で八百比丘尼を連想することはできなかったのは不覚だった。 「どんな小説になるんだったんでしょうね」  彼は失われてしまったものを惜しんだ。私も同感であると表明しかけて、また、はたと思い当たる。 「待てよ。彼は創作ノートを書いてたんやったぞ」本人からそう聞いたことがある。「それを見たら見当がつくんやないかな」 「ああ、そうですね」  気のない反応だったので、少し失望した。 「それで有栖川さん、彼の遺志を継いで書くとか?」  そんな馬鹿な、と言いかけて—— 「書いたら共著として、おたくから出してくれる?」       3  赤星楽の自宅兼仕事場は杉《すぎ》並《なみ》区《く》和泉《いずみ》にあった。甲《こう》州《しゆう》街《かい》道《どう》から少し引っ込み、細い道が迷路のように入り組んだ住宅地の一角にある四階建てのマンション。杉並の区分地図を片手にそこにたどり着くまでに、土地不案内な私は額に汗が浮くほど歩き回らされた。  エレベーターもない、こぢんまりとしたマンションだった。その最上階に靴音を響かせて上がる。一番手前の部屋の表札を確かめてから、私は呼び鈴を押した。ドアはすぐに開いた。 「どうぞ」  顔を出したのは昨日、珀友社にやってきた清田刑事だった。 「失礼します。——ドアの前に立入禁止のロープでも張ってあるかと思ってました」  中に入りながら言うと、刑事は「いいえ」とだけ言ってドアを閉めた。答えになっていないが。  まずは、きょろきょろと見渡す。窮屈な間取りの2LDKだったが、まだ新しいようだし、足の便がいいのだから、賃料はかなりの額になるだろう。窓のすぐ近くに庭の楠《くすのき》が張り出していて、その葉陰を透《す》かして新宿の超高層ビル群が覗《のぞ》いていた。 「こちらにきたのは初めてですか?」  清田刑事はぶっきらぼうな口調で訊《き》く。 「家に招いたり招かれたり、ということはありませんでしたから」  室内はこぎれいに片付いており、原稿と格闘していた机の周辺も当然のようによく整《せい》頓《とん》されていた。机上にはパソコンと必要最小限の筆記具があるだけで、右手脇のスチール棚には辞書や地図などの基本的なレファレンス用資料がコンパクトにまとめてある。再び窓の外を眺め、いい環境を作って仕事をしていたんだな、と思った途端、故人に対する哀惜の念が込み上げて私の胸に迫った。亡き男の仕事場を目にし、様々な工夫の跡を見たことで、昨日は感じなかったほどの感情の昂《たか》ぶりが襲ってくるとは思わなかった。  赤星の部屋を見せてもらえないだろうか、という頼みを当局がすんなり受け入れてくれたことに私は感謝した。彼が準備していた小説について、創作メモのたぐいを見れば、似たようなタイプのものを書く自分なら有益な情報を引き出せるかもしれない、という理由づけをしたのが通ったようだが、それがそのまま真意だったのかどうかは自分でもよく判らない。本気で共著を出す気はなかったにせよ、きてよかった。故人の仕事場に敬意を払うことも、同じ仕事で喜びと苦しみを味わっていた私からの手《た》向《む》けになるかもしれない。  書棚に並んだ本の背表紙を端からゆっくりと見ていくと、私の著書も何冊か並んでいた。もうそんな蔵書も増えることがない。 「創作ノートらしいものはこれです」  清田は二冊の分厚い大学ノートを差し出した。表紙には何も書かれていないが、ページを繰ると創作上のアイディアの備忘録であることは明らかだった。私は興味深く目を走らせる。 「何かお気づきの点があったら言って下さい」  清田は窓を開け、窓枠に手を置いて背中を丸めた。チュンチュンと長閑《 の ど か》に雀《すずめ》が啼《な》いている。部屋には彼と私の二人きり。相手もそのように見えるのだが、私は今、奇妙に落ち着いた気分になっていた。開いた窓からそよそよと吹き込む五月の風と、雀の声のせいかもしれない。  気づいた点があったら教えろ、という期待に応えたいと切実に思ったのだが、なかなか新しい発見がない。見終わった一冊を机に置き、二冊目にかかってからも。その最後のページに目を通し終えたところで、私はやっとコメントすることができた。何もないことが発見だったのだ。 「二冊のノートに書いてあるのは、彼がこれまでに発表した作品に使ったアイディアのメモばかりです。未発表のものも少し混じってはいますが、それらは概して出来がよくありませんし、バツ印がついていますから、没にしたんでしょう。おかしいのは、今書いている作品やこれから書く作品のメモらしきものが見当たらないことです」 「というと?」  その事実から推論もせよ、と清田は言う。 「ノートは他にもあったんやないでしょうか?」 「『人魚の牙』という作品に関するメモもないんですね?」  赤星が次に書こうとしていた小説の題名を彼が知っていたのは、青洋社の多賀の情報提供によるものだ。 「ええ。それがどんな作品だったか不明ですが、ここにある二冊のノートの中にはありません。人魚も小浜も出てきていませんし、さっき言ったとおり、そもそも未発表のネタが書かれていないんですから」 「資料は集めていたようですけどね」  清田が指差した書棚の一角には、福井県の歴史、若狭のガイドブック二冊と、人魚に関する本が六冊並べてあった。それらはわずかに傾いており、さらに何冊かあった本が持ち出されている可能性を示《し》唆《さ》していた。取材旅行に立った赤星が携えていったのかもしれない。——彼が東京を発つ時に持っていた鞄は海底に沈んだのか、見つかっていない。 「そこにあるのはいかにも『人魚の牙』の資料らしいですね。でも、それはあくまでも資料で、アイディアを記したメモは皆無です。やっぱり、ノートはもう一冊以上あったような気がします」 「それが見当たらないということは……誰かが持ち出したと言うんですか?」  それは何とも言えなかった。軽率なことは言うまいと黙っていたのに、清田はそれを肯定と勘違いしたらしい。 「しかし、誰が推理小説の創作ノートなんか持ち出すんです? まさか、ネタに詰まった同業者がそれを盗むために赤星さんを殺害したんだ、なんておっしゃるんじゃないでしょうね?」 「それはあり得ないでしょう」  清田はノートを手に取り、難しげな表情でページをめくった。そこに解答が記されているわけなどないのに。  私は書棚から人魚に関する資料を一冊抜いてみた。セイレーンだのマーメイドだのの神話、伝承を多くの図版とともに解説した翻訳書だったが、後ろの方に日本や中国など東洋の人魚伝説がまとめられている。その付近のとあるページに栞《しおり》が挟まっており、案の定、そこには若狭に伝わる八百比丘尼の記述があった。 「何か遺《のこ》っているかもしれませんから、フロッピーディスクを見てもいいでしょうか?」  赤星の仕事のやり方を熟知していたわけではないから、彼がいつも取材旅行に行ってから執筆を始めていたのか、書きながら取材を進めていたのかよく判らない。だから、取材に出る以前に、もうすでに書きだしていたという可能性もある、と考えたのだ。 「机の抽《ひき》斗《だし》に入っていますからどうぞご覧下さい」  刑事は二段目を開き、サービスのつもりか、パソコンのスイッチを入れてくれた。能面のように無表情なところをみると、これまた一応のチェックは完了しているのだろう。が、目が変われば発見があるかもしれない。  フロッピーは意外に少なく、たった五枚しかなかった。そのそれぞれにはラベルを何度か貼《は》り替えた跡があり、彼がひと仕事終わるとその都《つ》度《ど》中味を消去して再使用していたことが窺《うかが》える。経済的というか、たかが一枚二百円ほどのものなのにセコイというか。  経済的でもセコくてもどちらでもいいが、検索する私としては数が少ないのはやりやすい。次々にパソコンにくわえさせ、中味を呼び出していった。  一枚目は住所録。二枚目は人名が延々と続く謎《なぞ》のディスクだったが、スクロールさせて眺めているうちに、どうやらそれは、彼がこれまでに作品中で使った名前のリストらしいと気がついた。同じ名前を繰り返し使ってしまわないようにするためのリストなのかもしれない。そういうことは神経質にチェックしそうに思える。そして、残る三枚にはすべて小説が保存させられていたが、いずれも発表ずみのものであり、どれも読んだ覚えがあった。 「新しいのはまだ入ってませんね」  私はフロッピーを元どおりにしまい、パソコンの電源を切りながら言った。 「日記も見ますか?」  清田が訊《き》いてきた。抽斗を開いて、日記帳らしきものを出そうとしている。私は遠慮した。とてもではないが、そんなものを読むことはできない。 「こちらには具体的な小説のアイディアは書いてありません。いかにも小説家というか、凝った文章が続く文学的な日記ですよ」  感心しているような、からかっているような口調だった。私はあらためて「見ません」ときっぱり言う。 「気分を害さないで下さい。故人のプライバシーに触れるのも私の仕事ですから」  刑事は日記帳を戻し、今度は小型のキャビネットを開く。 「こちらには手紙が揃《そろ》っています。実に几《き》帳《ちよう》面《めん》に整理してありますよ。ファンレターや作家仲間からきた手紙、出版社からきた仕事の依頼状や重版の連絡まで。しかも、それらがきちんと分類された上、受け取った順に並べてあるんです。——有栖川さんからの手紙も一通ありましたよ」  互いの作品にやや儀礼的な感想を送り合ったことがあった。年賀状を除き、手紙でのやりとりは一度だけだったと記憶しているから、その時のものだろう。  清田が開けた抽斗には、封書や葉書がぎゅうぎゅうに詰まっている。どんな人たちからのものかだけ見せてもらうことにした。手を伸ばしかけて、「見ていいですか?」と確かめる。 「結構ですよ。昨日のうちにすべてチェックずみです」  私はそれらを抽斗から出さずに、人指し指と中指だけで繰って見ていった。最初に家族や知人からのもの、次に作家や評論家からのもの、編集者からのもの、それ以外の仕事関係のもの、そして読者からのもの、その他というふうにまとめてある。年賀状や暑中見舞いは葉書用のホルダーに収めてあった。  ざっと見ているうちに、前の方に近松ユズルからの手紙が三通あるのを発見した。差出人の住所はない。 「ここに住所が書いてあったら、警察も捜すのに苦労はありませんよね」  そう言うと、清田は「いいえ」と呟《つぶや》く。どうもこの人の「いいえ」という返事は意味が判りにくい。 「申し遅れましたけれど、近松ユズルさんの居所は昨日のうちに判明しています。というか、夕刊で赤星さんが殺されたことを知った彼が、驚いて長崎の実家に電話を入れたんです。それで現住所が判って、私どもから連絡をとることができました」 「何をしている人なんですか?」 「アルバイトをしながら、まだふらふらしているようですよ。もう二十六だっていうのにねぇ」  それしきのことはさして珍しくもないだろうに、刑事は批判的な口調だった。 「ちょっとした灯台もと暗しでした。その従弟《 い と こ》は、赤星さんの小説を映画にした会社でアルバイトをしていたんですよ。赤星さんの紹介らしいですけどね」 「シレーヌ企画という会社ですか?」 「はい。今年の初めから勤めているそうです」  驚くようなことではなかったが、何となくひっかかった。死んだ赤星の周りを、人魚が何匹も、うようよ泳ぎ回っていたような気がして。 「そうでしたか」  私は最後にもう一度、作家からの手紙を見た。彼の交遊範囲がどんなものだったのか、ちょっと興味があったからだ。だいたいが見当をつけられる顔ぶれだったが、中には意外な人物も混じっていた。本格ミステリという点では共通していたから、朝井小夜子からの手紙というのは意外性が低い部類のものだ。  だが——  見直してみて気がついたが、どうしてこんなに彼女からの手紙の数が多いのだ? 飛び飛びになっていたが、数えてみると十通ある。文通友だちとは聞いたことがない。  二人はどんな手紙をやりとりしていたのだろう? 立ち合っている刑事は赤星の日記を読むことさえ私に許可を与えたのだから、手紙を読むことも許してくれるだろう。しかし、やはり気が咎《とが》めてできなかった。それに、彼女からの手紙を読むことで捜査に有益な情報が提供できるとも思わなかったし、どうしても気にかかるのであれば、朝井小夜子本人に尋ねるという手もあるではないか。私は抽斗を静かに閉じた。 「お役に立てないようです」  清田は窓を閉めてクレセント錠を掛けた。 「ご苦労様です。ご協力をありがとうございました」  刑事を残し、私は赤星の城を辞した。  再び入り組んだ幅の狭い道を歩きながら、自分の内に強い決意が潮のように満ちてくるのを覚えた。だが、その輪郭はぼんやりとしている。彼が書けなかった作品を継ぎたいのでもないし、遺徳を人に伝えたいのでもない。ただ、何らかの行動をもって彼を弔《とむら》ってやりたいと思った。       4  性《しよう》懲《こ》りもなくまた少し道に迷ってから——この町は苦手だ!——京《けい》王《おう》線《せん》代《だい》田《た》橋《ばし》にたどり着くと、駅前の電話ボックスからシレーヌ企画に電話をかけ、霧野千秋を呼び出した。慌ただしく飛び回っているようだったから不在を覚悟していたが、すぐさま取り次いでもらえた。 「あ、霧野さんですか? 有栖川です」  また無意味な「あ」が出てしまう。 「お世話になっております。昨日は大変失礼をいたしました」  もどかしかったが、「いいえ、こちらこそ」などと形式的な挨《あい》拶《さつ》を交換してから、赤星が殺された事件について話を向けた。相手は沈痛極まりない声で「誠にひどいことで」と呻《うめ》く。それに応じてから、「実は」と用件に移った。 「赤星さんの従弟にあたる近松ユズルさんという方がそちらでアルバイトをなさっていると聞きました。その方とお会いできないでしょうか? お話が聞きたいんです」  私がとろうとした最初の行動とはそういうことだ。 「近松は確かにうちで働いておりますが……」  私の頼みごとが全く予期しないことだったため、霧野は戸惑っているらしい。 「今日は欠勤しております」  その返事は予想していた。 「ご不幸があったんですから、そうでしょうね。もしかして、若狭の方においでになったんですか?」 「いいえ。警察がきたり、あちこちから色んな連絡が入ってくるので自分んちにいる、と言ってました」 「彼がどこにお住いなのか教えていただけないでしょうか? えー、それから電話番号も」 「少々お待ち願えますか」  彼が、「おーい」と誰かを呼ぶ声がよく聞こえた。受話器を手で押えているらしいのに、よほど大きな声を出したのだろう。住所録を持ってくるように命じているらしい。 「今調べてますので。——ところで先生の新作、わが社の名前にちなんだものみたいですね」  お愛想のつもりか、私の本の話題などを出してくれる。そうか、今日が発売日だったんだな、と思った。赤星のことがなかったら、心が軽く躍る日だったろうに。 「セイレーンとシレーヌって親《しん》戚《せき》みたいなもんですよね。いや、同じものなんでしたっけ?」  それはですね、と解説しかけて思い直した。人魚だのセイレーンだのシレーヌだのがまた頭の中でぐるぐる回りだし、わけが判らなくなってきていたのだ。その渦の中央で、八百歳の尼《あま》さんがけたけたと笑っている—— 「お待たせしました。えー……よろしいですか?」  住所録が手《て》許《もと》にきたようだ。霧野はメモの準備ができているかを訊く。 「はい、どうぞ」  私は受話器を顎《あご》と肩で挟み、ボールペンを持ち直して答えを控える。近松ユズルは板《いた》橋《ばし》区《く》西《にし》台《だい》に住んでおり、代田橋からそこに向かう電車の乗継ぎまで彼は親切に教えてくれた。  礼を述べ、受話器を持ったままフックに指を掛けて通話を切り、すぐさま教わった番号をプッシュした。十回ほど呼び出し音が鳴ってから、男が出る。 「もしもし、近松です」  二十六歳にしては子供っぽくて、甘えてるようなすねているような感じがする声だった。新入社員に対するおじさんの小言めくけれど、電話を受けての第一声が「もしもし」なのも本来はおかしい。 「あ、近松ユズルさんですね? お取り込みのところ突然にお電話して申し訳ありません」  自己紹介すると、幸い私の名前に心当たりがあった。 「霧野さんから聞いたことがあります。今度シレーヌで〓シネマにするかもしれないって、会社の机の上に何とかパズルって本が置いてあったし。一度聞いたら忘れないペンネームですよ」  いい意味でも悪い意味でも記憶に留まることだけが取り得で、くどいようだが実は本名なのだが……。  私は悔やみの言葉を述べてから、赤星について話を聞きたいので会ってもらえないか、と頼んだ。 「これからこっちへくるって……今、どちらなんです?」  関西から電話していると勘違いされたらしい。私がうっかり言い忘れていたのだが。 「代田橋からここまで遠いですよ。大阪と違って地下鉄の線も長いんですから」  大阪をよく知っているような口振りだった。私は全然かまわないのだが、と言うと、彼は了解してくれた。ただし、昨夜はほとんど眠っていない上、先ほどまで刑事の訪問を受けていて、実は仮眠をとろうとしているところなのだったという。私は詫《わ》びた。 「では、午後の都合がいい時間を指定していただけないでしょうか? それに合わせて伺いたいのですが」  今、まだ十時半だった。 「じゃあ……一時、いや、二時でもよろしいですか? 駅の西側に『春日《かすが》』という喫茶店がありますから、そこへ出向きます。アントラーズのロゴ入りTシャツを目印に着ていきますので、有栖川さんの方から声をかけて下さい」  最初に出た時は眠りかけていたのであんな声だったのだろう。待ち合わせの方法はてきばきと決めてくれた。その要領のよさから察すると、従兄《 い と こ》の死に悲嘆に暮れているのでもないのかもしれない。  無理を聞いてもらったことに感謝して切った。電話魔になった私はまたさらに別のところへダイアルする。幸い、電話をかけたそうな人間は付近には見当たらなかったので、安心して独占することができる。 「青洋社でございます」 「有栖川と申します。編集部の多賀さんをお願いします」  私と青洋社とはあまり縁がないのだが、赤星を担当していた多賀とはどこかで名刺交換だけはしたことがある。五《ご》分《ぶ》刈《が》り頭にプロレスラーのような堂々たる体格をした出版界の名物男だ。こちらはいたって平凡な外見の男だが、向こうも会ったことぐらいは記憶してくれているだろう。  待っている間にテレホンカードの残度数が0になる。危ういところで新しいカードを差し入れるなり、相手が出た。太く重い声だ。どうして有栖川有栖などから電話が入ったのか、意外に思っていることだろう。 「『人魚の牙』ですか?」  私が用件を伝えると、多賀は不機嫌そうに訊《き》き返してきた。 「はい。どんな内容だったのか、ご存知のことを教えていただけないでしょうか?」 「どうしてそんなことが知りたいんですか?」  温かみから遠いものがこもった響きだった。ぎょろりと目を剥《む》いている顔が目に浮かぶ。どうやら自分の書くものは彼に嫌われているのかもしれない、と私は気の弱いことを考えてしまった。  警察立ち合いの下に赤星の仕事場に上がり、創作ノートを見せてもらったのだが、新作『人魚の牙』に関する部分が見当たらないのを疑問に思ったから尋ねているのだ、と私は一生懸命に話した。話している間、多賀は合いの手の一つも入れないので、聞いてくれているのだろうか、と思う。 「創作ノートが部屋になかったのは取材に持ってったからじゃないのかなぁ。推理小説のアイディアが奪いたくて人を殺すなんてこたぁないでしょう。え?」  ひどい巻き舌である。ぞんざいな言い方なのは私が礼を失した質問をしているからなのかもしれないが、露骨にぶっきらぼうなので、よせばいいのに、こちらも少し逆らってみたくなった。 「判りませんよ。元々、赤星さんに殺意を抱いてた人間が、赤星さん自身が発案した方法で彼を殺したのかもしれません。それで証拠を湮《いん》滅《めつ》するために創作ノートを持ち去ったとか」  多賀は鼻で嗤《わら》った。 「そいつは馬鹿げてやしませんか。推理小説のことしか頭にない方は、そんなふうに考えるんですかねぇ」  私は絶句した。自分が言っていることがそれほど馬鹿げているという実感はなかったし、推理小説のことしか頭にないと言われる筋合いはなかったけれど、とにかく相手にはそう映っているらしい。そう見られてしまう不覚にうんざりしたのだ。 「『人魚の牙』ってぇのは仮題だったんですけどね」  もったいぶって気がすんだのか、教えて下さるようだ。 「とにかく、そんな題名を考えてるって言ってましたね。内容については知りません。彼が教えないから。第一の読者である私には何の予備知識もなく読んでもらいたい、という理由ですよ。仮の題名しか聞いてない。それと、〈作者の言葉〉だけだな」 「〈作者の言葉〉というのはどんなものですか?」  説明するのが面倒くさいと言うように咳《せき》払《ばら》いをする。 「うちの書き下ろしシリーズはカバーの後ろの折返しに著者近影と〈作者の言葉〉が入るんですけどね」知ってる。「原稿用紙一枚弱のものですけど、その言葉だけは早々にもらってるんですよ」 「もう?」  不自然な気がした。雑誌の連載開始に当たっての〈予告〉なら判るが、まだ書き始めてもいない書き下ろしの〈作者の言葉〉だけを、何故、赤星は編集者に提出したのだろう?私はその疑問について質《ただ》したが、多賀はこともなげに「おかしくはないでしょう」と答えた。 「〈作者の言葉〉をよこしたのはね、赤星さんの茶目っ気ですよ。こんな感じのものを書くんだけど、面白そうだろう、楽しみにしてな、ってね」 「どんなものなのか、教えていただけますか?」  鬱《うつ》陶《とう》しいことを言い出しやがったな、と思われるだろうが、やむを得ない。 「そりゃあ、かまいませんが……有栖川さん、どちらからおかけなんですか? 公衆電話でしょう? ファックスでは送れませんねぇ」ひと呼吸あって「ちょっとお待ち下さい」  電話が保留になり、オルゴールの『テイク・セブン』のメロディが流れだした。私の嫌いな曲だった。 「えー、お待たせしました。ここで読み上げますよ?」  ありがたい。 「お願いします」  こほんと咳払いが入ってから、プロレスラー的編集者の朗読が始まった。 「『小説を読むことによって人は時間や空間を超え、未知の世界に遊び、別の人生に触れることができる。凡《ぼん》庸《よう》な喩《たと》えだが、それは旅に似ているかもしれない。  ミステリは、わくわくするような不思議に満ちて、驚きで終わる旅。  今回の作品が読者にとって正にそんな旅になることを祈りながら、趣向を凝らした旅程を組み、ツアーコンダクターを務めることにする。旅人は決して油断してはならない。  一体どこへ連れていくつもりなのかって?  それはもちろん内緒だ。旅の途上で精々きょろきょろした上、最後にとんでもないところへ連れてきやがったな、とご満足いただけるように全力を尽くしたい。  なお、この旅を終えた時、あなたのお手《て》許《もと》には記念の品として、一枚の奇妙な〈地図〉が残るだろう』——以上です」  私は神経を耳に集中させた。速記の心得などなかったので、キーワードだけを素早く掴《つか》み取って手帳に控えようとした。だが、ありきたりの宣伝文句が長々と続くばかりでペンは動かず、メモしたのは最後のあたりで出てきた『奇妙な地図』という一語のみであった。  奇妙な地図とは何だ? 「よろしいですか?」  考え込んでいたらしい。私はわれに返って、丁寧に礼を言った。しかし、シレーヌ企画の副部長とは対照的なまでに愛想のよくないこの編集者——頼んだことにはすべて応えてくれたが——にもう一つだけ頼みたいことがある。 「重ねてお手数をかけて申し訳ありませんが、今、読んでいただいた〈作者の言葉〉をこれから取りに伺ってもかまいませんか? もちろん、コピーがいただければいいんですけれど」  それも面倒だと思ったからか、親切心からか、多賀は私の家にファックスで送信しておくと言ってくれた。口はよくないが、さっきから行動で期待以上に応えてくれる。いい人なのかもしれない。 「ファックスの番号をどうぞ」  番号を告げ、長電話が終わった。       5  久しぶりに新《しん》宿《じゆく》をぶらついたりしたので、近松と会うまでの時間をつぶすのにそれほど苦労はしなかった。紀《き》伊《の》国《くに》屋《や》書店の店頭に新作が積まれているのを確かめ、遅めの昼食をすませ、コインロッカーに預けておいた荷物を出してJR山手線に乗る。巣《す》鴨《がも》で地下鉄に乗り換えたが、確かに西台まではなかなか乗りでがあった。  指定された『春日』はすぐ判る店だった。一時半に着いて待っていると、相手は四十五分ぐらいにもうやってきた。駅前のショッピングセンターの買物帰りの主婦が多い店内で、アントラーズのロゴ入りTシャツはよく目立った。  痩《そう》身《しん》で、柔和な顔をしている。顔も腕も薄い産《うぶ》毛《げ》が生えているだけ、といったつるんとした感じの男だった。最初に電話に出た時ほどではないが、やはり少し甘えたような声だ。 「楽さんからお噂《うわさ》は聞いてました」  赤星は従弟《 い と こ》から『楽さん』と呼ばれていたのか、というのがとりあえずのささやかな発見だ。 「楽さんの話が聞きたいって、どういうことですか?」  真剣な眼《まな》差《ざ》しで私は見つめられていた。 「迷惑、というより戸惑ってらっしゃるでしょうね。突然、私なんかが押しかけて。警察からあれこれ訊かれた後でまた質問攻めか、と思われるかもしれない」  もう押しかけてきているくせに、ここでこんなことを言っても仕方がないではないか。近松ユズルは苦笑して「いいえ」とだけ言う。 「私は、赤星さんが旅に出る最後の姿を見たんです。はりきって取材旅行に出る彼は、『行ってくる』と手を上げながら、うれしそうでした。次の作品で読者をだますネタを仕込みに行くのが、とても楽しかったんでしょう。その時の表情と声が脳裏に焼きついています」  相手は神妙な顔になった。 「その彼があんなことになるとは、今でも信じられない思いです。それに——さっき、杉並の彼のマンションに上がらせてもらったんです。もちろん、刑事さんの許可を得て、立ち合ってもらって、ですが」  そこで感じたこと、赤星の死を自分が心から残念に思い、彼が非《ひ》業《ごう》の死を遂げなくてはならなかったわけを自分なりに追跡したい、結果が新聞に載るのを待つのではなく行動したい、と願ったことを話した。まだ考えがまとまらない部分もあったため、その話ぶりはたどたどしくて、こいつはこれでも言葉を操る仕事をしているのか、と近松に呆《あき》れられたかもしれない。 「まるでサスペンス劇場の登場人物みたいだな。警察に任せておけない、ということなんですか?」  そういうことではないのだ。 「違う。警察への不信感から動いてるんではありません。私がこんなことをしているうちに、警察はもう着々と真相に迫っているかもしれないでしょう。それはいいんです。ただね、警察が彼の死の謎《なぞ》を隅から隅まできれいに解いてくれる、という保証はないように思うんです」 「きれいに解かないと、どうなるんですか?」 「きれいだのきたないというのは不適切かな。——具体的に言えば、彼が書こうとしていたのがどんな小説だったのか、ということは解いてもらえそうもない、ということです。推理小説を書くことは悪《いた》戯《ずら》を仕掛けるようなものだ、と彼は言ったことがあります。どんな骨折りをして、どんな悪戯を準備していたのかが知りたい。最後に見た彼の目は、私にこう言っていました。『ああ、早く書きたい。書いてこいつに読ませて反応が見てみたい。今、ちょろっと要約して話してしまおうか? いや、やっぱりがまんしよう』。そんな目をしていたように思います。もちろん、私一人に読ませたい、と希望したのではなく、多くの読者と作品でコミュニケートしたかったのでしょう。ところが、誰かがそれを不能にしてしまった。創作ノートまで失われているんですから。そのことが残念だし、腹立たしい。ですから、私はそれを回復させたいんです」  やはりこいつは推理小説のことしか頭にないのかもしれない。熱弁をふるう自分を、もう一人の自分が醒《さ》めた目でそう観察しているような気がした。  近松はうわべは納得してくれた。 「それで、どんなお話をしたらいいんですか?」  まず訊きたいのは次回作『人魚の牙』の内容を耳にしていないか、ということ。しかし、彼から解答がぽろっと出てくると考えるのは虫がよすぎるかな、とも思ってはいた。その予想どおり—— 「知りません。楽さんは僕に推理小説の話なんてしませんでしたから」  注文主である青洋社の担当編集者に対しても秘密だったのだから、無理もないとも言える。 「彼がつけていた創作ノートが何冊あったか、なんて判りませんか?」  まるで判らない、という返事だった。 「赤星さんを恨んでる人物なんていたんでしょうか?」  ここからは刑事と同じ質問になってしまう。何だか舌の根も乾かないうちに約束を破っているみたいだ。 「楽さんは普通に生きていましたよ。平凡な市民でした。恨みを買って殺されたとは思えません」  しつこく追及するつもりはさらさらなかった。 「赤星さんのところへ居《い》候《そうろう》してらしたことがあると聞いています。仲がよかったんですね」  近松は意味もなく両手の爪《つめ》をこすり合わせる。 「あれこれ世話になりましたね。大学をやめて、ろくに働きもしなかったから、しょっちゅう米《こめ》櫃《びつ》が空っぽになって、よく只《ただ》飯《めし》を食わせてもらったし。居候してたのは一年ほど前です。バイクで事故やったもんで、治療費で貯金が飛んだ上に収入がなくなってしまって、松《まつ》葉《ば》杖《づえ》を突いてるところ、非情にもアパートの大家から追い立てをくらってしまったんです。家賃を一年近く滞納してたから、無理もないんですけどね。それで泣きついていったんです」 「面《めん》倒《どう》見《み》がよかったんですね、彼は」 「僕が放っておくに忍びない情けなさだったからでしょう。怪《け》我《が》が完治してからもぶらぶらしてたら、シレーヌ企画でアルバイトを募集しているからって、紹介してくれました。ま、早く追い出したかったということもあるんでしょう。最初は自分が希望した映画やビデオじゃなくて編集の部署だったけど、正直いって助かりました」 「近松さんが東京に出てきて何をなさっているのか、訊いてもいいですか?」  これは明らかに面会の趣旨から逸脱していたが、相手が何者なのか判らなくては会話もやりにくいので飛び出した問いだった。彼は気を悪くしたふうではない。 「僕ですか? 東京で、泡《うた》沫《かた》のような日々を過ごす快楽にどっぷりとつかってしまった名もないケチな男です。——真面目に答えると、映画関係の仕事がやりたかったんですよ。それで、日本の西の果てからはるばる出てきて、とある美大の映像学科に入ったんですけど、なんか、夏を過ぎた頃にはつまらなくなって……」  きっぱり言い切るのではなく、照れたように口ごもる。 「いや、そもそも映画の道に進みたい、という希望からして確固としたもんじゃなかった。東京でふわふわと夢のようなことがしたかっただけなんですよ、多分。学校を半年で飛び出したのはそこが期待はずれだったからではなくて、僕が早々と落《らく》伍《ご》だか堕《だ》落《らく》だかしただけです。面と向かって言うと嗤《わら》われそうですけど、僕ね、金が全然なくてももてるんです。相手が年上だろうと年下だろうと。長崎の田舎《いなか》にいる時は自分にジゴロの才覚があるなんて思ってもみなかったじゃないですか。その天《てん》賦《ぷ》の才能が埋もれてたんです。それが脱皮して、楽しいことが目の前にパーッと開けた途端、都会の毒にあてられてしまったということですね。それから後はおむすびころりん、で坂をどこまでも……」  ジゴロぶりを語る調子は冗談めかしていたが、その前の部分がちょっと大《おお》袈《げ》裟《さ》である。堕落だの落伍だの大仰だ。が、そういった言葉を使って自らを説明するのを、彼は楽しんでいるようにも見受けられる。華やかな都会の毒にあたって流されることと、それを語ることを期待して彼は都に出てきたのかもしれない。あまり根拠はないが、そう思う。私も鄙《ひな》に生まれていたら、そんなことを考えたかもしれない、と想像した。 「ふぅん、それなら、シレーヌ企画で働くようになって、また映画の世界に近くなったわけですね」 「ええ。希望を言ったら編集から映像事業部に回してもらうことができましたから。今は使い走りの雑用係ですけど、そのうち監督やらせて下さいって霧野さんに真剣に頼んでるんです。サードのそのまたサブでも、奴隷でもいいからって。試しに使ってみてもいいんじゃない、って社長が言ってくれたりしてるし、チャンスがもらえるかもしれません。体も頭も鈍ってるから、現場はきついでしょうけどね。そんなふうだから、うまくいけば、有栖川さんの作品からスタッフの末席に加われるかもしれませんよ」 「私のが没にならなかったらね」 「大丈夫でしょう。うちはミステリーものに力を入れてますから。あ、『うち』なんてアルバイトの分際で生意気ですね」  確かに。——それで思い出した。 「ミステリーものといえば、朝井小夜子さんの作品がビデオ映画になるそうですね」 「来月の頭から撮影に入ります。その準備で大《おお》童《わらわ》ですよ。舞台が札《さつ》幌《ぽろ》、東京、京都、大阪なんで、霧野さんが最後のロケハンで東奔西走してます」  それは大変だろう。ロケの費用が。 「朝井小夜子さんと赤星さんが親しかった、てなことはありましたか?」 「恋人同士とか……?」近松は怪《け》訝《げん》そうだった。「そんなこと聞いてません。僕が居候してる頃は、楽さんにかかってきた女性からの色っぽそうな電話も時々受けたけれど、朝井さんなんて人はいなかったなぁ」  朝井小夜子のことを尋ねたのは、もちろん事件に関係がない。ちょっとした好奇心からだけだった。 「でも、楽さんと朝井さんっていうのも、いい組み合わせかもしれませんね」と近松は付け加える。 「楽さんはああいうタイプの女性も好きでしたよ。何ていうか、目つきに意志が表われてるような人。自分自身のことは軽く見せたがってたのに、女性はシリアスな雰囲気がいいんですって」  彼と女性観を語り合ったことはないが、そうだったのかもしれない。朝井小夜子の目は私も好きだ。  時計を見ると、もう三十分間彼を拘束している。このあたりにするべきだろう。質問はもう一つだけだ。 「トラブルがあって悩んでいた様子はなかった、とおっしゃいましたね。それは、私や周囲の編集者も同じなんですけれど、で、その逆のことはありませんでしたか?」 「逆って?」 「最近、彼の身に、何かうれしいこと、喜ばしいことが起きたということはなかったでしょうか?」 「はぁ、うれしいことねぇ……」  ツイストの効いた質問だと自負していたのだが、近松は解答を持っていなかった。  切り上げることにしよう。 「大変な時にありがとうございました。もし、私の書いたものが本当にビデオになるのなら、その時はお世話になります」 「ええ、ぜひ」        *  私は四時の『のぞみ』に乗った。予定が延びたが、やっと家路につく。何とか明るいうちに大阪に帰り着けるのにはほっとしたが、それでも疲労感は大きく、二時間半を座席に掛けて過ごすのが苦痛だった。眠ろうと努めても、どうしてもできない。諦《あきら》めて車窓を眺め、厭《あ》きるとまた目をつぶって寝入ろうと試みる。そんなことを十回以上繰り返しているうちに、京都に着いてしまった。  ついに眠れなかった私の耳の奥に、赤星の言葉ではなく、昨夜聞いた小夜子の「おやすみ」という声が甦《よみがえ》る。  微かに顫《ふる》えた声。  涙をこらえたような、あの——おやすみ。       6 「おごりだよな、新刊の印税がどばーっと入ってくるんだし、今夜はうちをホテル代わりにするんだから」  私は「おごるよ。悩みの相談もお願いしてるからな」  火《ひ》村《むら》英《ひで》生《お》はにこにこ笑っていた。三十半ばにさしかかった男が何が「おごりだよな」だ。「印税がどばーっ」だ。売れない推理作家以上にこの助教授は金欠なのかもしれない。気の毒に。  河原《かわら》町《まち》三《さん》条《じよう》のいたって大衆的な炉《ろ》端《ばた》で軽くやっていると、「先生」と背後から声がして、火村の両肩に誰かが手を置いた。振り向くと、彼の教え子らしき女の子が微《ほほ》笑《え》みながら立っている。 「こんなところで会えて得したな。昨日の二講目でお目にかかったばっかりやから、ああ、まだ六日後まで会われへん、って悲しんでたのにぃ」  火村のファンらしい。はしゃぎながら彼女は師の肩を揉《も》んだ。 「犯罪学者にもプライバシーは認めてくれ。教壇を下りて炉端にきたら、俺はただのおじさんなんだよ」  ゲソの唐揚を食べていた彼は、肩にのったままの無遠慮な手をピシャリと叩《たた》いて、はねのけた。 「いたぁい」と言って彼女は手をぶらぶら振ってみせる。 「バイバイ。おじさんは友だちと大切な話をしてるんだ」 「どうせ人殺しの話なんでしょう?」  女の子はまだ手をさすってみせている。 「そう。こいつはもう五十人ぐらい殺してるんだぜ」  私を親指で指す。紙の上でそれぐらいは殺しているだろう。 「殺されないうちに逃げな」  彼女はくすくすと笑いながら、伝票を持ってカウンター前で待っている連れの方へ戻っていった。「あれ、うちの大学のセンセ。ねえ、横顔見えた? いいでしょ?」などと言っている。 「もてるなぁ、センセ」 「ああ。親衛隊がうるさくて講義が聴き取れない、と男子学生からクレームが出て困ってる」  言わせておくとどこまでいくか判らない。しかし、本当は彼が女性を苦手にしていることを承知していたから、そんなヨタを聞きながら、今度は私が「そうかそうか」とにやにや笑う番だった。  火村はチューハイのお代わりを注文してから「それで」と私に話の続きを促す。 「赤星楽氏の葬儀に列席して、情報収集はできたのか?」  昨日。死体となった赤星が若狭湾で発見された三日後の五月十四日。東京で葬儀が行なわれた。私は新幹線で日帰りで行ってきた。各出版社の編集者、作家仲間の他、シレーヌ企画の穴吹社長や霧野千秋の姿も見えたし、もちろん、警察関係者らしい者もちらりと見かけた。事件の捜査がどこまで進んでいるのかを刑事に尋ねるわけにはいかなかったので、私は葬儀の前後に何人かに近づき、警察の動向について訊《き》いてみた。 「あんまり嗅《か》ぎ回ったら俺が真犯人かと誤解されそうやったから、自重しながら訊き込みをしたんやけどな」 「捜査は難航してるらしいな。五月十日の赤星氏の足取りがはっきりしないのがネックになってるとかで」 「それは警視庁の知ってる人に訊いてくれたんか?」  火村は京阪神はもとより、警視庁や他の県警にも知《ち》己《き》がいた。早速、そのコネクションを発動してくれたのかと思ったのだ。 「いいや。今日発売の週刊誌で読んだだけさ。十日と十一日の二日間、小浜市内の豊玉ホテルに宿泊する予定が入ってたけど、彼はチェックインさえしていない。ホテルに着く前にどこかで殺されたのか、予定を変更して別の宿に向かったのか判っていない。いずれにしても小浜に着いてすぐか、着く前に、誰かと接触あるいは合流していた可能性がある、とか書いてあったな」 「接触やの合流やの、それを書いた記者は顔見知りの犯行を仄《ほの》めかしたがってるのかな? その方が面白いと思って」  火村は二杯目のチューハイを呷《あお》る。 「この段階なら何でも仄めかせるからな。赤星氏の旅には最初から同伴者がいたのではないか、てな仄めかしもあるぞ」  世間に顔が売れている小説家というのは、ごくごく限られている。列車の中や町で出くわして、それが赤星楽であると判る人間など、ほとんどいないだろう。彼の愛読者だって気がつかないと考えた方が自然だ。それゆえに、東京から若狭への被害者の足取りを追うのはなかなか容易ではない。同伴者がいるなど赤星は匂《にお》わせてもいなかったが、そうではなかったと否定することはできない。取材を兼ねたガールフレンドとの旅行だった、ということもなくはないだろう。 「東京駅を出た時からすでに同伴者がいたのか、あるいは若狭への旅のどこかの時点で知り合いと遭遇して一緒に行動するようになったのか、知り合いと落ち合ったのか、それとも旅先でどこかの誰かと知り合いになったのか。とにかく彼は誰かと交わっている、というのは警察の見解でもあるらしい」 「その誰かが犯人か?」 「どこかで誰かと知り合いになったっていうのは、強盗に襲われたっていうのも含んでるみたいだけどな。まぁ、他殺なんだから他者と何らかの形で交わってることには間違いないだろう」  強盗説は納得しかねる。新幹線から北陸本線、小浜線と乗り継ぐつもりだったのか、敦賀からバスを利用するつもりだったのかは知らないが、真っ昼間にそんな交通機関を利用していて強盗に命を奪われるとは非現実的ではないか。小浜に到着してから海岸通りのホテル——徒歩十数分だそうだ——までの間に、襲われたか威《い》嚇《かく》によってさらわれたと考えるのも馬鹿げている。私は小浜を訪れたことがなかったが、その市街で山賊に遭うことなどあり得ない、というぐらい確信できる。  それに対して、同伴者がいた、あるいはあらかじめ落ち合うことを約束した相手Xがいた、という説を否定してしまうことはできない。赤星が予約したホテルを無断でキャンセルしたのだとしたら、それはXの意向なり都合に合わせたためだったのかもしれない。 「いや、そのXと落ち合う約束をしてたんやったら、ホテルの予約がシングルひと部屋だけというのはおかしいな。ふた部屋とるなり、ツインをとるなりしたやろう。それとも、Xは別に宿をとることになってたのか……?」  私が自問自答する横で、火村は黙って煙草をふかしていた。 「Xと会ったのは偶然やったとも考えられるし……Xが偶然を装って、実はどこかで赤星がくるのを待ち伏せてたのかもしれん」  いや。 「けど、そのXが赤星を殺した犯人とも限らんわけやな。事件に関与してない第三者なのかもしれん」  火村は腕時計を見た。 「八時五十分。そろそろ出るか」  彼は譫《うわ》言《ごと》のように呟《つぶや》き続けていた私に伝票を押しつけ、椅《い》子《す》を鳴らして立った。       7  勘定をすませると、私たちは三《さん》条《じよう》大《おお》橋《はし》を渡り、三条京《けい》阪《はん》の駅近くの『パンゲア』というバーへと移動する。一度だけ朝井小夜子と一緒に入ったことがある店だ。ここで九時に彼女と待ち合わせていたのだ。  ビルの地下にあるくせに狭苦しさがなく、それどころかゆったりとした空間を感じさせる店だった。壁が真っ白で、天井が比較的高いことと、窓がない代わりに大きな壁《へき》龕《がん》がしつらえてあるせいだろう。他にも広く見せる秘密の工夫が施してあるのかもしれないが、いつも客の入りも適当で、けたたましく哄《こう》笑《しよう》するような者もおらず、とにかく居心地がいいところだった。  私たちは隅のテーブルにつき、水割りをオーダーして小夜子を待つ。ここのマスターは西洋音楽を店内に流さないという方針らしく、今宵、流れているのは繊細な美しさにあふれる楊《ヤン》琴《チン》の調べだった。私は日本の伝統的な音楽より、中国の音楽を聴く方がはるかに郷愁をそそられる。邦楽はただ珍奇で、エキゾチックで、最もエスニックな音楽に聞こえる、というほどに倒錯した感覚があるのだ。前世は黄《こう》河《が》で産湯をつかったのかもしれない。  ところで『パンゲア』という店名は何を意味しているのだろう? どこかで耳にした覚えがあるのだが、思い出せない。壁の見慣れない図案を眺めつつ私は腕組みをしてしばらく考え込んでいた。  九時を十分ほど回って、彼女がやってきた。洗濯に失敗したのかと思えるほどたるんだTシャツの上に、漁船からかっぱらってきた網の切れっ端のような黒いベストをお洒《しや》落《れ》に羽織り、脱色したジーンズを恰《かつ》好《こう》よく穿いていた。ブーツもよく似合ってる。  私たちは起立してこのレディを迎えた。 「紹介するよ。これが前から話してた火村助教授。英《えい》都《と》大学、社会学部で犯罪社会学を教えてる俊英」 「朝井小夜子と申します。モーニングの朝に井戸の井。小《さ》夜《よ》曲《きよく》の子。朝か夜かはっきりしない名前です」  彼女はいつものハスキーな声で自己紹介し、火村に握手を求めた。 「よろしく」  着席するまでの短い間に、彼女の目がほとんど無意識なのではないかと思えるほどさりげなく、火村の頭のてっぺんから足の先までひとなめした。どれくらいの採点をしたのかは知れないが。  一方の火村の方は、相手の容姿にはまるで関心なさそうであった。さっきの小娘とはだいぶ違うだろ、と私は目で尋ねようとするのだが、その信号も伝わらない。  私を真ん中にして左手に座った小夜子はジャックダニエルと注文してから、慌ててくるりと振り向いて、「ポッキーも」と追加した。それから火村と同じくキャメルに火を点ける。 「ご活躍ぶりは有栖川さんに伺っています。大学で講義をなさっているのは仮の姿。実は名探偵やそうですね」 「警察の捜査にもぐり込んで犯罪と直《じか》に相対するフィールドワークを研究の手法として行なっているだけで、名探偵なんていうファンタジックなもんじゃありません」 「快《かい》刀《とう》乱《らん》麻《ま》を断つように事件を解決してしまうとか?」 「嘘《うそ》です。こいつの言うことを本気にしてはいけません」  火村はまた私を親指で指した。俺は品物じゃないって。 「ご謙《けん》遜《そん》ですね。有栖川さんの話によると火村先生は犯罪学者で名探偵なだけやなくて、法律、法医学や心理学にも造《ぞう》詣《けい》が深い。英語、フランス語、ドイツ語ができて、芸術、歴史、オカルティズムから喧《けん》嘩《か》まで強い。——最後のはボクシングをしていたからですって?」 「ははぁん、それ以外にも天体観測、登山、ボトルシップ作りと猫の調教、変態性欲の権威だ、ということにもなってませんか? そのプロフィールは無茶苦茶ですよ。それぞれに根拠があるにはあるんですが、それは例えば、高校時代にボクシング部に所属していたとか、多感な少年時代に朝まで星を観《み》ていた一夜があるとか、猫を二匹飼っている、というささやかなエピソードから捏《ねつ》造《ぞう》されたものにすぎません。変態性欲の根拠だけは——秘密です」  そんな返答は小夜子のお気に召したらしい。わずかに頬《ほお》がゆるんだ。 「火村先生、ご出身はどちらです?」 「生まれは札《さつ》幌《ぽろ》ですが、それが何か?」 「別に。ただ、多感な少年が朝まで泣きながら観ていたのはどこの星空なんやろう、と思うただけです」  火村は煙草をくわえたまま苦笑した。 「家庭の事情があって日本中を転々としたもので、どこの空だったのか覚えてはいません。しかし、泣いてはいなかったと思いますよ」  小夜子は私の耳《みみ》許《もと》に口を寄せて、囁《ささや》く。 「最後の答え、きっと嘘やで」  それはどうだか知らないが、初対面から話が弾《はず》んで結構なことだ。二人とも人当たりのいい社交家タイプではないので、こんなふうになるとは思っていなかった。 「ところで、お葬式ではお互いにお疲れ様でした」  私が言うと、彼女は急に浮かない顔になって目を伏せた。 「あなた、告別式の最中に私の方をちらちら見ながら話をしようとしてくれてたでしょう。ごめんね、すっと消えてしもうて。気分がようなかったもんやから、出《しゆつ》棺《かん》と同時に失礼してん。せやから昨日は東京まで行って、誰ともしゃべらへんかった」  そして、告別式場で言葉を交わし損ねた私は、その夜、彼女に電話をかけて今日ここで会う約束をしたのだ。 「先に訊《き》いとこう。——今夜、火村先生を紹介してくれたんは、先生をまじえて三人で赤星楽殺害事件の私的な捜査会議を開くためなん?」  横からコトリ、とテーブルに置かれたグラスを手許に引き寄せながら、小夜子は私の真意を尋ねてきた。 「誤解なきようにお断わりしておきますけれど、俺は」私は彼女の前では俺という一人称を使う。 「赤星さんの死を酒の肴《さかな》にして推理合戦をするために朝井さんを招いたわけやないですよ」 「あんたがそんな不真面目やないことは判ってるわ」  まるで自分の名誉を守るかのようにきっぱり言ってくれた。 「ありがとうございます。推理小説のことしか頭にない奴と思われてなくて、幸いです」 「何、その言い種《ぐさ》?」 「いえ、今のはひとり言みたいなもんですから聞き流して下さい」  私は、赤星の仕事場から代田橋駅に向かいながら考えた決意を話した。赤星を殺した犯人をつきとめるために何か行動をしたい、ということ。そして、犯人が逮捕され、処断されたとしても残るかもしれない赤星の無念——構想だけで形にならなかった小説——をすくい上げたい、ということ。 「けれど、そんなもんは単なるお題目で、俺がやろうとしてることは、結局は推理ゲームと五十歩百歩なのかもしれませんね」  小夜子は聞きながらジャックダニエルを飲む。琥《こ》珀《はく》色の液体を通過させた白い喉《のど》が、ごくりと小さく動いた。 「お題目やなんて、自分でいじけたようなこと言わんでええやんか。やろうやないの。——その前にもう一つだけ訊くけど、あんたは赤星さんに何か精神的負債を負うてるんやないやろうね? 借りがあって申し訳ないような気がするから、何か故人のお役に立ちたいっていうことはない?」  いや、そんなものはないはずだ。 「あってもなかっても、どっちゃでもええねんけどね。先に言うとくけど、私は彼に貸しはあっても借りはないからね」  これまた自らの名誉が懸《か》かっているような語調だった。早々から予想外の展開になってきた。 「借りって何ですか?」 「あんた、赤星さんの家に行ってあれこれ調べたんやろ?」  ちょっと突っ掛かるように言う。 「あれこれ調べるというところまでいってませんよ。創作ノートや、その他に何か書き遺《のこ》したものがないかだけを、ちょこちょこっと見せてもらっただけで。創作に関わることは彼が公にする意志があったからよしとして、プライバシーに関わるもの、彼の日記なんかは見せられかけましたけれど、遠慮しました」 「日記は見てないんやね? そしたら手紙は?」  彼女自身が手紙を話題にしてくれたおかげで、こちらから水を向ける必要がなくなった。どうせ話に出ると察して先回りしたのかもしれない。 「どんなところからどれぐらい郵便物がきているかは見ましたが、中味には目を通していません。——ですから、朝井さんからの手紙が十通あったということしか……」 「へへ。どんな文通してたか興味津《しん》々《しん》でしょう?」  ポッキーを一本くわえ、ゆっくりと折りながら私をねめ上げた。 「『僕の得意科目は算数です。あなたは何ですか?』てな文通やなかった、というぐらいは見当がつきますけれど」  折れたポッキーを突き出して「鋭いやん」と彼女は言った。 「うちとあの人の間でごちゃごちゃした時期があったんよ。それだけ。映画みたいなお話、ではないけどね」 「ごちゃごちゃした挙句に、赤星さんに対して貸しができたんですか?」 「私はそう思うてるけど、向こうの貸借対照表はどうなってたか知らんよ。——うーん、待てよ。そんなことをあんたに告白せんでもよかったんやな。あんたが赤星さんの部屋の捜査に立ち合《お》うたて言うから、てっきり手紙を読まれてばれてるんやな、それで今晩お話をしようって呼んだんやな、と早とちりしてたわ。アホみたい」  酔った時の口調になりかかっているが、まだ一杯目のグラスも空いていないのだから演技なのは見え透いている。 「赤星さんとごちゃごちゃあった、ということでしたら、警察にその話をさせられませんでしたか?」  火村が私の頭越しに質問した。小夜子はふふんと笑う。 「軽く事情聴取を受けましたよ。正直に言うと、昨日、告別式の後でさっと消えたんは、刑事さんにおいでおいでをされたからということもあるんです。『赤星さんとはもう切れてました』と言明しておきましたけれどね」  どの程度の仲だったのかは想像するしかない。もう切れてました、という言葉は信じるしかない。 「別れた理由なんていうのを訊いたら張り倒されます?」  彼女はテーブルに散った菓子の粉を指ですくっている。 「そういう言い方は好きやないなぁ。何々したら怒ります、とかいうの。それも、張り倒されます、やなんていうのは特に……」 「失礼?」 「うん。やらしい。機嫌が悪かったらむくれてる。けど、今はそうでもないよ。——別れた理由なんか判らんものよ。けど、貸しがあるということはどういうことか、推理したら?」  赤星の方に不誠実な点があったと推察するしかない。 「手紙のやりとりをすることもなくなったのはいつ頃なんですか?」  受信順に並んでいた手紙の位置からすると、何年も昔のことではないはずだ。 「去年の冬。今年の正月を挟んで……まぁ、そこいらやね。せやから警察にも言うてやったよ。痴《ち》話《わ》喧《げん》嘩《か》が原因で殺すんやったら、もっと怒りがホットなうちにやってますってよ」  空になったグラスを高々と頭上に掲げ、カウンターに向かって「これと同じもん!」と彼女は叫んだ。 「警察は本気で朝井さんに嫌疑をかけてるわけやないんでしょ?」 「うちに訊かれても知らん。けど、へへ——」  彼女は目を細めた。妙に色っぽい。 「何ですか、へへって?」 「アリバイを訊かれてしもた」       8 「アリバイって、赤星さんが殺された日のですか?」 「そう。『五月十日の夜、どこで何をなさっていましたか? 形式的な質問ですので、ご容赦下さい』やて。容赦を乞《こ》うようなことすな、ってば」  私が愛想笑いをしていると、火村がまた時間を惜しむように尋ねる。 「どうお答えになったんですか?」  彼女は肩をすくめてから、両手で頬《ほお》杖《づえ》をついた。 「ずっと家にいた、としか答えようがありません。家にこもって仕事をしていたんです。特に十日の夕方から十一日の午前中にかけてのアリバイが気になってましたけれど、その間は一人、一人、一人。咳《せき》をしても一人。ずっと一人でしたよ。冷蔵庫の古いもんを片付けにかかったおかげで、日課の夕食の買物にも行かんかったし。十日の夜から翌朝まで書いてたから、十一日の午前中はもちろん寝ていましたよ。昼過ぎまでぐっすりと」 「それが自然なことですね」と私。 「私の日常を知ってる人やったら納得いくやろ? これやから小説家てなやくざな人種はしょうがないな、って警察は言いたそうやったわ」 「ということは、アリバイを認められなかったんですね」  火村は若白《しら》髪《が》の多い頭を掻《か》いて言った。 「私の家がある太《うず》秦《まさ》から若狭まで車やったら片道二時間少々でしょう。どこで赤星さんとミートしたかは措《お》いといて、充分に時間はあったというよりないですね」 「自動車の運転はできるんですね?」 「できます。車も持ってますよ。運転、荒っぽいけど」 「赤星さんと付き合いがあった関西在住の関係者は不利ですね。犯行現場は特定できてないけど、とにかくこっち方面の疑いが濃厚なんやから」  私が言うと、彼女はいやいやをするように首を振った。 「私はまだええねん。元々こっちの住人なんやから。無実やとしたら痛くもない腹を探られるだけ迷惑なんは、その時たまたまこっち方面にきてた人らやな。——こっちも刑事からぐちゃぐちゃ訊《き》かれるだけでは癪《しやく》やから情報を引き出してるんやで」 「おっと。そういうのを聞かせて下さい」  小夜子は真顔になっていた。 「一人は、担当の塩谷さん。その二日間、こっちにきてたから」  そう言えば赤星が東京を発った日に塩谷は自分は出張中だった、と言っていた。 「こっちにきてたとしても、仕事できてたんやったら誰かと会ってたわけやから、アリバイがあるんやないですか?」 「立派なアリバイはないみたい。あの人、私の担当でもあるんよね」 「ああ、そうでしたね」  忘れていたわけではない。もちろん知っていた。 「塩谷さんは十日の朝に東京を出て、昼過ぎに京都に着いたんやて。出張の目的は打ち合わせで、私ともう一人、英都大学の先生に会うこと」 「あれ、朝井さん、十日に塩谷さんと会ったんですか? さっきはずっと執筆をしてたって言うたやないですか」 「会《お》うたんは午後。昼過ぎにこっちにきて、一時から三時まで雅《みやび》ホテルのラウンジで打ち合わせをした。別れる時に『これから英都大学の先生に会うんです』って言うてた。何ていう人か名前は忘れたなぁ。文学部の教授で、現代アメリカ文学の評論を書いてる人とか……」  火村が「城《じよう》野《の》教授?」 「ああ、そんな名前やった。その人のメタフィクション評論を集めて本にしようかと考えてるそうですね。——で、後で聞いたところによると、塩谷さんは城野先生と会うには会えたんやけど、先生のご家族に急病人が出たとかで、一時間ぐらい簡単な打ち合わせをしただけやったらしい。そんなわけで、塩谷さんは予定外に仕事が早く片付いてしもうて、五時頃にはホテルにチェックインして、後は京都の夜を一人で気楽に過ごしたんやて。本当は城野先生と食事をしたり飲みながら親交を深めるはずやったのにね。まぁ、その予定変更が災いして、アリバイが消えてしもうたんよ」 「一人で過ごしたって、京都のどこかにいたわけでしょう? ホテルや食事をした店の従業員が証人になってくれてもよさそうやけどな」  私が言うと、彼女はグラスに唇をつけたまま「知らんわ」と応えた。 「詳しいことは知らん。塩谷さんに聞いてみて。もしかしたら、具合のええ証人が見つかったかもしれへん」  ではそうしよう。とにかく、塩谷はそのように京都出張を終え、翌朝の新幹線で東京に戻ったのだろう。 「たまたま関西にきてて疑いをかぶってる人の二人目はシレーヌの霧野さん」 「あの人もこっちに?」  と私は訊き返してから、火村に判るように霧野のことを彼に説明した。 「霧野さんはロケーション・ハンティングで大阪にきてたんやて。ほれ、私の、アレの件で」 「『一千二百年目の復《ふく》讐《しゆう》』ですね?」  それはシレーヌ企画が〓シネマ化を進めている小夜子の作品のタイトルだった。ここでまた火村にその説明を施す。 「うん。霧野さんはアレのロケハンで札幌行ったり関西にきたり大忙しらしいわ。九日は京都でロケハンやったんで、私もちょこっとだけ会うた。その時も『明日は大阪です』って言うてたけどね」 『一千二百年目の復讐』の原作を私は読んでいる。京都は嵯《さ》峨《が》野《の》近辺、大阪は府下南部の古墳の風景が必要になってくるはずだ。 「霧野さんは一人でロケハンをしてるんですか?」 「そうみたい。候補を選んでから、もういっペん監督さんと回って決めるらしいわ」 「一人でなかったらアリバイは簡単に成立したんでしょうけどね」  私たちのやりとりを、火村はさっきから黙って聴いている。 「一人で行動してても、霧野さんはとりあえずアリバイが成立してるみたい。道路の規制について警察署に尋ねたり、ロケ隊の宿になりそうなところを調べたり、夜遅くまで動いてたそうやから、それを覚えてくれてる人があったんやろうね」  十一日の午前中、六本木のホテルで会った時の霧野の様子が思い出された。携帯電話で「宿も手頃なのに当たりをつけてある」だの「足場もばっちり」といった言葉をまじえてしゃべっていたっけ。あれはロケハンの結果を他のスタッフに伝えていたのだろう。そして、彼が十一時半頃に遅刻して駈《か》けつけてきたのは、やはりその朝の新幹線で急いで東京に帰ったためなのかもしれない。 「痛くもない腹を探られて迷惑してると言うたんは、そのお二人を指してのことなんですね?」 「彼らが無実やったら、ね。ほんまにやってたんなら、痛い腹を探られてるわけやから」 「人情を殺して言いますねぇ」 「人情なんか推理の邪魔やんか」  彼女は煙草の箱に手を伸ばし、それが空なのを知ると舌打ちをした。火村が自分の箱を差し出す。 「ありがとう。——いただきます」  一本取って点ける。彼女が紫《し》煙《えん》を天井に向けて吐くのを待ってから、火村は質問を投げた。 「朝井さんは、アリバイを訊かれたのは自分と赤星さんの間に確執があったため、もしくは確執があると警察に勘繰られたためだ、とお考えですか?」 「ええ……そうでしょうね」 「では、塩谷さんや霧野さんがアリバイを問われたのも同じような事情があったからなんでしょうか?」  他人に関して迂《う》闊《かつ》なことは言えないと思ったのか、彼女は小首を傾げて少し間を取った。 「事情といっても色々あるでしょうから……どうなんでしょう。私が知る範囲では、塩谷さんと赤星さんの間にまずいことは起きていなかったみたいですよ。まぁ、作家と編集者が喧《けん》嘩《か》したとしても、それが殺人事件に結びつくやなんてことはあり得ませんけどね。『あんな編集者は嫌や』にしても『あんな作家の面倒なんか看《み》られん』にしても、担当者が代わったらすむことですからね」 「仕事上のいさかいではなく、私事に関する衝突だったら話は違うでしょう?」 「私事に関する衝突となったら、私なんかには全く見えんかったでしょう。あったかなかったか判りません。知りません」 「警察がどう見ているかもご存知ないんですね?」 「そこまでは探りを入れませんでしたから」  火村はぽんぽんと質問を続ける。 「霧野さんについてはいかがですか?」 「霧野さんについては……」  無意味な復唱をしたところで彼女は言い淀《よど》んだ。何か心理的なブレーキが掛かったらしい。 「私が想像していることがあります」 「想像の中味と根拠をおっしゃっていただけますか?」  小夜子はまたグラスを掲げて「同じもん、もう一杯」と注文した。三杯目がくるまでの間、煙草をせわしなくふかす。店内に流れているのは相変らず楊琴の調べで、曲は悠《ゆう》久《きゆう》の大河を謳《うた》った『紅河の春』になっていた。 「有栖川さん」彼女はまた目を細めて言う。「穴吹さんのことを火村先生に紹介してくれる?」  何故、とは訊かず、私は話した。赤星楽と朝井小夜子の小説を映像化し、私にも声をかけてくれているシレーヌ企画というプロダクションの社長であることは無論のこと、彼女がたいそう美しく、かつ並はずれて若く見えることまで。小夜子はその紹介を満足げに頷《うなず》きながら聞いていた。 「サンキュー。それでええわ。——さて、穴吹奈美子社長にご登場いただいたのは、彼女が事件の発端になってるかもしれんからよ」  小夜子はフィルター近くまで吸ったキャメルを揉《も》み消した。灰皿に罰を与えているかのように力を込めて。 「穴吹さんは大変魅力的な女性です。特に男性の目には蠱《こ》惑《わく》的《てき》にさえ映るでしょうね。男性は若い女性が大好きですから」 「穴吹奈美子さんは実際に若いんじゃなくて、年齢よりも若く見えるだけでしょ? ま、男は若く見える女性が好きだというのは事実かもしれないけど、若く見えるようにありたいと強く願うのは女性自身じゃないんですか?」  火村が脇道にそれた議論をしたがっているはずがない。なのにそんな雑談めいたことを口にしたのは、ここにきて鈍りだしている小夜子の口の動きを滑らかにさせるための餌《えさ》かもしれない。 「それは男が若い女に惹《ひ》かれるから、必要に応じてできた習性ですよ。女も男と同様、齢《とし》相応の外見こそを誇るべきです。そもそも男が若い女に惹かれるのは子孫繁栄を担う力が豊富やからでしょう。馬鹿げた生物としての本能——くだらないですね、どっちも」  フェミニズムめいた話題は避けるのがお互いのためだ、と私は心配しかけたのだが、雑談はそこまでだった。 「とにかく、穴吹奈美子はいい女なんですよ。火村先生。それで、周りの男どもがぽろりぽろりとよく落ちる。蚊《か》取《と》り線香にやられた蚊みたいにね」  小夜子はバーテンが持ってきた三杯目のジャックダニエルを受け取り、ついと喉《のど》に流し込んだ。私たちは話の続きを待つ。 「赤星楽は蚊でした。霧野さんも蚊だったみたいです」 「二人とも穴吹奈美子さんを恋慕《した》っていたということですか?」  私は少々驚いたのだが、火村は淡々と質問する。 「そうです。——さっき、赤星さんに貸しがあると私が言ったのは、そういうことなんです」 『そういうことなんです』とはまた、随分と言葉が省略されていたが、とにかく彼女は言い渋っていたことを吐き出したわけだ。そういうことなんです、か。 「貸しがあるというのは、穴吹さんが原因で、赤星さんからあなたに別れ話が持ち出されたのだ。と解釈していいわけですか? 彼は心変りした?」 「そう解釈してもらって結構ですよ」 「彼が一方的に穴吹さんを慕っていたんですか? それとも穴吹さんの方もその愛情を受け入れていたんでしょうか?」  小夜子はまた火村の煙草に手を伸ばし、ひったくるように一本くわえた。感情を面に出すまいとしている分が、行為になって表出している。  私は昨日の葬儀の場で遠望した穴吹奈美子の暗い顔とがっくり落ちた肩を思い起こしていた。今になって振り返れば、あれは単に儀礼的な列席者のものではなかったし、仕事を一緒にしたことがある知人といった程度の人間が見せる悲嘆を越えているようにも思えた。  それともう一つ。初対面の時「赤星先生って面白い人ですね」と私に問いかけた時の彼女。いかにも雑談というくだけた調子だったが、あのさりげなさも疑いだすと、作り物めいていたようでもある。 「はっきりとしたことは判らないんです」と小夜子は溜《た》め息混じりに言う。「赤星さんからの手紙や電話では、自分の気持ちはもう別の女性に移ってしまった、という表現に終始していましたから」 「では、その別の女性が穴吹さんであることはどうしてご存知なんですか?」 「それは、親切な人が教えてくれたからですよ」  自《じ》嘲《ちよう》っぽい笑みが浮かんだ。 「親切な人とは?」 「双方の担当編集者である塩谷さんですよ」  私は「塩谷さん?」と声に出していた。 「そう。赤星さんと穴吹さんが夜の新宿で肩と腰を抱き合うて仲《なか》睦《むつま》じく歩いてるところを目撃した、と塩谷さんが私にご注進遊ばされたんよ。ただ親密そうに歩いてただけやのうて、怪しげな方角に向かってたとも。果たしてそれが親切心の発《はつ》露《ろ》やったんか、はたまた実は、赤星さんに頼まれてのやらせのチクリやったんかは判らへんけど」 「やらせのチクリということは、つまり、赤星さんが、そのぉ、朝井さんとの仲を、何ていうか……」  私は刺激の少ない言葉を選んでもたついた。 「私ときれいに切れるために、わざと密告させた、という可能性もある」  そんなことまで彼女の口から話させて、申し訳なく思った。 「およその事情はご理解いただけましたか?」  彼女は煙草の箱を滑らせて、火村の手《て》許《もと》へパスした。 「ええ。——で、霧野さんも穴吹さんにくらくらときていたんでしたっけ?」 「あの人は穴吹奈美子の忠実な僕《しもべ》っていうところです。噂《うわさ》ですけど、とにかく崇《すう》拝《はい》してるらしい。ですから、惚《ほ》れてるというのとは違うかもしれませんね」  私は今度は霧野千秋の印象を掘り起こした。六本木のホテルに遅刻して息急《せ》き切ってやってきた彼が社長と私に謝罪する姿がまず浮かぶ。それは主と僕などと大《おお》袈《げ》裟《さ》に言うまでもなく、ありきたりの上司と部下のものだと感じていたのだが、噂話を耳にしてから思い返すと、霧野の態度はやや固過ぎたかもしれない。——そうだったとしても、それは霧野がやり手の社長を社長として畏《い》怖《ふ》しているというだけなのかもしれないが。 「どこで仕入れた噂ですか?」 「噂だけやなしに、私が彼を観察していて得た実感でもあるんですけどね。噂の仕入れ先は……」  彼女は軽く唇を噛《か》んだ。そして、キャメルを二本の指で挟んだ右手で前髪を掻《か》き上げる。 「どうしました?」 「いえ、大したことやないんです。その噂を私に運んだんも、塩谷さんやったんです。偶然かな……」 「それは不自然なことですか?」 「いいえ。赤星さんと私の作品が映像化される際に、彼は作家とシレーヌ企画の間に入って条件面の折《せつ》衝《しよう》、というほどのこともありませんでしたけれど、確認を取り合うてくれました。ですからシレーヌ企画内の人間模様について私にしゃべっても、そう変なことではありません」 「穴吹さんを崇拝しているのだとしたら、霧野さんの場合は彼女とデートをする仲なんていうんじゃなかったんですか?」 「多分、霧野さんから穴吹さんに対しての一方的なもんやないですか。よく知りませんけど。塩谷さんか、あるいはシレーヌ企画の方に訊《き》いてみて下さい」  もちろん、当たってみなくてはならないだろう。 「話を整理するとこうか」火村は頬《ほお》杖《づえ》をついて小夜子と似たポーズになる。「霧野さんは穴吹さんに崇拝めいた愛情を感じていたらしい。その穴吹さんを赤星さんが奪いかけた。霧野さんは祝福することができず、嫉《しつ》妬《と》にかられて赤星さんを殺害したとも疑える——」 「大《おお》雑《ざつ》把《ぱ》に言うとそういうことです」  火村は空になったグラスを両掌の中で回しながら、さらに小夜子に尋ねる。 「穴吹さんと赤星さんを見たという垂れ込み。霧野さんが穴吹さんを崇《あが》めているという噂。塩谷さんがあなたに二大情報をもたらしたのは、それぞれいつ頃のことだったんですか?」  彼女は幾分、面倒くさそうに眉《まゆ》根《ね》を寄せて少し考えていた。 「えー……赤星さんとのことを伝えてくれたのは、去年の十二月です。クリスマスよりも前。霧野さんの噂話は私の作品の映像化について契約を交わしてからですから、先月の中頃でした」  火村はゆっくり、大きく頷《うなず》いた。 「なるほどね。穴吹社長のことが原因であなたは赤星さんと別れた。その数カ月後に穴吹社長のプロダクションから自作の映像化の話が持ちかけられ、あなたはそれを了承して契約を交わした。これはすなわち、あなたが今となっては——かつては知りませんよ——穴吹奈美子さんに強い敵意を抱いていなかったこと、ということの状況証拠になりそうですね。穴吹さんに対してそうであれば、赤星さんに対しても強い敵意なんか感じていなかった、まして殺意などなかったということになる」  小夜子が同じ仕《し》種《ぐさ》で頷いた。 「さすが名探偵。まっとうな結論を出してくれましたね」 「名探偵でなくてもこれぐらいのことは考えますよ」 「本日の捜査会議の結論が出たみたいやね」  彼女は私にきっぱりと言った。そして、グラスの底に残った酒《しゆ》精《せい》を飲み干す。 「ご協力、ありがとうございました。不《ぶ》躾《しつけ》にあれこれ訊いてすみませんでした」  私が言うと、気にしない気にしない、と言うように彼女は手首をぶらぶら振った。 「第二回目の会議があったらまた連絡して。体が空いてたら出席させてもらうわ」 「小浜で発見があったら連絡します」 「小浜?」彼女は顔を上げた。「もしかして、小浜に行くの?」  言ってなかったっけ。 「明日、火村と行ってきます。なにか新しい情報が入るかもしれません」 「ようやる。——さては、明日の火村先生の犯罪社会学の講義は休講ですね?」 「そのようです」と火村は涼しい顔で答えた。「ところで、『人魚の牙』って何のことだと思います?」 「赤星さんが練ってた構想の中味は知らないと言いましたよ」  小夜子が言うのを助教授は抑える。 「小説の中味は誰にも判らない、というのは判ってます。私は、『人魚の牙』という言葉が、幻の小説において何を指していたんだろうか、とふと考えたんで、ご意見が伺いたくなっただけです。伝説の見《み》目《め》麗《うるわ》しい人魚には牙なんてないでしょう?」 「アンデルセンの童話の人魚姫に牙はなかったでしょうけれど、人魚のルーツを遡《さかのぼ》ると色色恐ろしげな怪物だったんやないですか。牙が生えてたのもいたかもしれません。それに、大昔の人たちが人魚と見間違えたと言われるジュゴンには牙があります」  気詰りな話題が通り過ぎたからか、小夜子の声は明るくなっている。 「でも、赤星さんはジュゴンの牙を題名にしていたんじゃないように思いますよ。何かしら、象徴的な意味を託してあるような気がする」 「美しく可《か》憐《れん》な人魚には実は牙があった。——ははぁ、これは女にだまされる男の話やないですか? もしかすると、穴吹奈美子さんには見かけによらず鋭い牙があったんかもしれませんよ」  小夜子は笑った。火村は真面目な顔で首を振る。 「それは違うでしょう。穴吹さんは人魚に喩《たと》えられたりしない。だって、彼女は人魚の肉を食べた娘なんでしょう?」 「あ、そうか。うっかりしてた、逆か」  自分の頭をコンと叩《たた》いてから、彼女は照れ隠しのようにこんな気取った文章を唱えだした。 「『セイレーンたちがどんな歌を歌ったか、また、アキレウスが女たちの中に姿を隠した時どんな偽名を使ったかは、確かに難問だが、全く推測できぬというわけでもない』ってね」 「お、恰《かつ》好《こう》いいですね。誰の言葉です?」と私は訊いた。 「サー・トーマス・ブラウン」 「ミステリに使うのにぴったりやなぁ。『セイレーンの沈黙』っていう新作の巻頭のエピグラムにそれを引用したらよかった」 「アホなこと言いなや」彼女は呆《あき》れたように言った。「ポーが使うてるわ。『モルグ街の殺人』の頭で」  ……どうりで、どこかで聞いた覚えがあると思った。 「ま、セイレーンが何を歌ったのかも気になるけど、火村先生がおっしゃったように、人魚の牙が何を意味してるのかの方が重要かもしれませんね」  小夜子は助教授の言を認めた。 「そう思います」火村は席を立った。「ちょっと失礼」  トイレらしい。その後ろ姿が衝《つい》立《たて》の向こうに消えかかったところで、小夜子はくすりと笑った。 「どうしたんですか?」 「うん、火村探偵って、思ってたよりええ男やったわ」 「そりゃ、よかったですね。俺もこういう場を設けた甲斐があります」そこから声を低くして「女嫌いが珠《たま》に瑕《きず》ですけどね」 「え、嘘《うそ》。火村先生って女性恐怖症なん?」 「そうやないんです。あいつは女性に興味がない……ことはないんやろうけど、興味が薄いんです」  女性相手にわざわざそんな話を始めてしまったのは非常にまずいことなのだが、そうなったのは無愛想なくせにもてる——自分からは口説かない。そういうきれいなもて方というのはよくないわな——火村へのやっかみが半分、無責任な悪《いた》戯《ずら》心が半分あってのことだった。 「どうして興味が薄いわけ?」 「女性の創り出すものに感動しないからやそうです。思想やその行動に心を揺り動かされることがない。とりわけ女性の手による文学、音楽、美術に」 「この世の素晴らしいものは全部男が創ったものやって言うの? うへ」  彼女は気を悪くしたふうでもなく、舌をぺろりと出しておどけた。そして—— 「火村先生はやっぱり女性恐怖症なんやない? それは目《め》眩《くら》ましの煙幕やわ、きっと。もしマジで言うてるんやったら、とんでもない勘違いをしてる。矛盾と混乱の二人三脚やね。どう大ボケなんか、親友の口からきちんと教えてあげなさいよ」  私は「大ボケって……?」と訊き返す。 「教えてあげなさいって。男たちが命を削りながら創った芸術の多くが伝えようとしていることは何か? ああ、情けない。それはね——女は素晴らしいっていう、実につまらない錯覚よ」  火村が衝立の陰から現われる。  小夜子と私は声をあげて笑った。    第三章 小浜ミステリーツアー       1  朝井小夜子と別れた後、私は北《きた》白《しら》川《かわ》にある火村のねぐらでひと晩世話になった。彼が学生時代から足掛け十五年もお世話になっている元下宿屋だ。元、と書いたのは、それがすっかり贅《ぜい》沢《たく》になった現在の学生の要望に応えることができず、店《たな》子《こ》が火村センセ一人きりになってしまったことを指す。大家さんは今年七十五歳になる気のいいお婆《ばあ》さんで、学生時代から火村と付き合いがある私もすっかり顔馴染みになっていた。私が手《て》土産《 み や げ》の菓子折りを渡して二階の火村の部屋に上がると、五分ほどしたら、「お茶を淹《い》れましたよ」と階下から呼ばれた。 「そう。小浜に行くの。ええとこやね、あそこは。私も三十年ぐらい前に死んだお爺《じい》ちゃんと遊びに行ったことがあるわ。あの時はもう、上の娘が嫁いでたかな」  婆ちゃんは好物のバウムクーヘンを頬《ほお》張《ば》りながらしゃべる。婆ちゃん婆ちゃんと連呼することになるだろうが、篠《しの》宮《みや》時《とき》絵《え》という雅《みやび》やかな雰囲気の名前であることを書き添えておこう。若い頃の写真を見せてもらったことはないが、楚《そ》々《そ》とした美人であったろうと私は想像している。 「連休も終わったいうのに、また遊びに行くんか? 仕事か?」 「仕事、というんでもないんですけど……」  私は知り合いが若狭湾で死体となって発見された、という楽しくない事件を茶飲み話として提出しなくてはならなかった。婆ちゃんは「あら、ま」と驚く。 「ははぁ、それで、また火村さんと調べに行くんやな? 警察に協力するんや」 「福井県警にまでは顔が売れてないから、捜査本部にずかずか入っていきはしないけどね」  火村は畳の上に直《じか》に置いた急《きゆう》須《す》に茶の葉を足しながら言った。その横を二匹の猫がばたばたと駈《か》け抜けていく。助教授は「こら!」と叱《しか》りつけたが、猫たちはひるむこともなく室内を一周し、細く開いた襖《ふすま》に体をぶっつけながら廊下へ飛び出して去っていく。茶トラは婆ちゃんが、白黒の方は火村が拾ってきた猫だ。 「そうかいな。まぁ、気をつけて行ってきて。けど、せっかく行くんやから、小浜の観光もしてきよし。ええお寺さんがぎょうさんあるさかい。あそこは『海のある奈良』て言われてるんやで」  またこのキャッチフレーズか。 「知ってます。死んだ男も『海のある奈良へ行ってくる』と言うて出ていったんですよ。歴史が古い町で、国宝のあるお寺がたくさんあって、おまけに奈良にはない海までそろってる風《ふう》光《こう》明《めい》媚《び》な土地なんですよね。久しぶりに明日の晩はうまい魚が食えそうやなぁ」  私は文化より快楽を優先させるようなことを言った。明日は小浜で一泊するつもりでいる。 「うん、お魚もよろしいけど、観《み》るもんをしっかり観てきなさいや。羽《は》賀《が》寺《じ》いうお寺さんがあってな、そこの十一面観《かん》音《のん》さんは、それはもう立派でありがたいお姿をしてなさるんで。拝んできなさい、火村さんもたまには」  火村は鼻の頭を掻《か》きながら「ええ」などと素直に答えている。信心のかけらもない男が婆ちゃんの前ではおとなしい。 「有栖川さんも小説を書く材料が見つかるかもしれませんで。——ああ、そうや」  婆ちゃんは、よっこらしょっと立ち上がり、隣りの部屋に行ったかと思うと、手製のカバーがかかった単行本を一冊携えて戻ってきた。 「これを読んでみなさい。ええご本どっせ。若狭のことも載ってるし」  手渡されたのは白《しら》洲《す》正《まさ》子《こ》著『十一面観音巡礼』だった。私も「はい」と素直に答える。 「もう十一時を回ってるな」  婆ちゃんはそう言いながら、二つ目のバウムクーヘンを手に取った。そして、遠足や修学旅行の前夜に母親からよく言われた懐かしい言葉をくれる。 「あんたら、旅行の前の晩なんやったら、はよ寝た方がええんやないの?」  もちろん、私たちは素直に部屋に引き上げたのだった。        *  翌朝、八時前に目を覚ますと、婆ちゃんは頼みもしないのに朝食のしたくをしてくれていたばかりか、お弁当まで作ろうと言ってくれた。それはご遠慮して、私たちは車で出発した。  快晴だった。  車の調子もいい。火村が乗っているのは仮にもベンツなのだが、調子がいい日は、「えっ!」と声をあげたくなるほどの代物であった。車にフェティシズムを感じる輩《やから》が見たら、あまりの蛮《ばん》勇《ゆう》に絶句するかもしれない。ベンツには違いないのだが、大学の同僚から二《に》束《そく》三《さん》文《もん》で譲ってもらったせいもあって、それが十何年落ちのものなのかさえ火村はよく覚えておらず、とにかく走ればよしとしていた。ボディはあちらこちらがボコボコに凹《へこ》んでいて、なかなかアートである。 「ところで、このボロをボロのまま走らせてるのは、何かメッセージを世間に投げかけるためか?」  そう訊《き》いた。 「メッセージか? 俺はフェチは嫌いだっつうの。ついでにグルメも。——それより、只《ただ》でもらった車に乗ってる奴に皮肉を言われる筋合いはないね」  そう。私はある先輩作家から「いらんか?」と言われてプレゼント——というか、廃品回収業者扱いというか——されてもらった車に乗っていたんだった。  さて、京都から小浜に向かうにはいくつかのルートがあるのだが、私たちは往路と復路で別の道をたどることに決めていた。それが旅を楽しむ基本だからでもあるが、どこに事件を解く鍵《かぎ》が転がっているかもしれない、と考えたからであった。  往路は国道367号線をたどる。大《おお》原《はら》三《さん》千《ぜん》院《いん》を過ぎ、安《あ》曇《ど》川《がわ》に沿って比《ひ》良《ら》山《さん》地《ち》を縦走し、朽《くつ》木《き》を抜けるコースだ。窓から吹き込む風が気持いい、快適なドライブだった。ここまでは京都から北東に進んできたわけだが、近江《 お う み》今《いま》津《づ》から進路は北西に転じる。鉄道を利用した場合は湖《こ》西《せい》線でさらに北上し、北《ほく》陸《りく》本線に入って敦賀まで行き、そこで小浜線に乗り換えて南西に下る恰《かつ》好《こう》になる。それだと距離的にはかなりの迂《う》回《かい》になるので、近江今津駅前からは小浜行きのバスも発着していた。途中からそのバスと同じコースで小浜まで行くことにする。 「ここからは国道303号線だ」  左にハンドルを切りながら、火村は言った。  私は「今は303号線。かつては若狭街道とか鯖《さば》街道とか呼ばれた道や」 「ああ、鯖を運んだ道か」 「若狭で獲れた魚に塩を振って、京都まで運んだわけや」 「その調子で歩くガイドブックをしてくれ。こっちは楽してお勉強できる」 「追々やってやるよ」  国道303号線は、滋賀と福井の県境に横たわる野《の》坂《さか》山地が低くなった南西部をたどる。今回の小旅行に当たって私は地図やガイドで下調べをしてきたのだが、大阪からさほど遠くもないのに、野坂山地などという地名は初めて知った。野坂岳の標高は九百十四メートル。最高峰の三重岳が九百七十四メートルといった、さして厳しくない山地である。カーブもなだらかで、アートなベンツにとってもさほど苦しくない峠越えだった。 「昨日の朝井さんの話にひょこひょこ顔を出した塩谷某という編集者がいたろ?」  しばらく黙って運転していた火村が話しかけてくる。 「塩谷さんが気になるんか?」  私はガムを噛《か》みながら言う。 「どんな人物なんだ? 死んだ赤星楽先生はもとより関係者の誰にも会ってないから印象がない」 「齢《とし》は四十ちょい。週刊誌やコミック誌の編集の経験もあるけど、現在は文芸部のナンバーツー。赤星楽、朝井小夜子以外にもミステリ作家を多数受け持ってる。俺は一緒に仕事をしたことがないから人となりまであんまり詳しくは知らんけれど、まぁ、そつのない男という感じかな」 「まだイメージが湧《わ》かない」  運転席の男は、まるで私の作家的表現力の乏しさを叩《たた》くようにそっけなく言う。 「えーと、そしたらな」私は少し考えてから「俺が見聞きしたことがある塩谷像の断片をアト・ランダムに並べるとやな……出身は横浜らしい。とある私立大学の理学部を出てるのがちょっと変わってる。現在、住んでるのは小《こ》平《だいら》。妻一人に子供が何人か。愛妻家かどうかまでは知らんけど、子《こ》煩《ぼん》悩《のう》ではあるらしい。誕生日やクリスマスには何を買ってやったらええか、真剣な顔で迷ったり、同年配の同僚に相談したりする。趣味はゴルフとビデオをいじること。ホームビデオの凝った奴程度らしいけどな。女子社員の人気はまぁまぁ。ややおせっかいなところがあるらしいけど。ふーむ、おせっかいねぇ……」  私の口の動きがスローモーになると、火村は「どうした?」と訊く。 「ややおせっかいというのは、片桐っていう俺の担当者が言うてたことがあるんやけど、もしかしたら、赤星と朝井さんとの間のことにも塩谷さんが関与してるかもしれへんな」 「関与って、赤星氏の不貞を朝井さんに垂れ込んだことだろ?」 「いや、そうやない。これは憶測やけど、そもそも、赤星、朝井の二人が交際を始めたきっかけに塩谷さんが関与してるのかもしれん。——あの人は、『朝井さんの婿さんは私が見つけてさし上げます』てなことを、パーティの席上で本人に向かってしゃべってたことがあるんや。二歳年下やていうぐらいは障害にもならんから、赤星さんとくっつけようとしたのかもしれんぞ」 「二つ年下の同業者ならアリスだって該当するだろ?」  私はいやいやと軽く首を振った。朝井小夜子と私では、姉と弟の役割を演じる方がよほど似合う。それに—— 「塩谷さんは何年か前に前科があるんや。それはミステリ作家やないけど、自分が担当してたある作家とエッセイストの縁結びの神になって仲《なこ》人《うど》まで引き受けてるんや。それの再現をたくらんだんやないかな」 「二人をどうやって引き合わせたんだ?」 「そらぁ、打ち合わせと称して、さりげなく鉢合わせをさせるとか、手はあるやろう。『婿さんを見つけてあげる』と言われた朝井さんは『冗談は日曜祭日にして』って笑うてたんやけど、赤星がピタリと嵌《は》まったみたいやな。——日曜祭日っていうのは、休み休みっていう意味やぞ」 「ギャグに注釈をつけるな——で、今回は塩谷さんのキューピッド作戦がうまくいかなかったわけだ」 「そう」 「ふぅん」 「イメージが掴《つか》めてきたか?」  火村は親指と人差し指で虚空の何かをつまむしぐさをした。 「これぐらい、はな」 「それはよかった。——けど、一時はええとこまでいったんやろうな。赤星が人魚の肉を食べた女性の色香に迷うという誤算がなかったら、担当してる作家同士の縁結びをして仲人を務める、という塩谷さんの大いなる野望は達成できてたかもしれん」 「赤星、朝井は二つ違い。赤星、穴吹はいくつ違いだったっけ?」 「えーと、十一かな。ただし、見た目は朝井さんより穴吹さんの方が若い。けれど、幼く無邪気なのはどっちかと言うと朝井さんかな」 「常識はずれに若く見えるんだろ?」 「二十世紀の驚異」 「若狭出身じゃねぇのか?」 「まさか」  県境を越えるともう嶺《れい》南《なん》の若狭地方に入った。江戸時代は宿場があった上《かみ》中《なか》町《ちよう》を通過する。熊《くま》川《がわ》宿だ。時間的余裕と知的好奇心さえあれば、若狭鯖街道文化資料館や歴史民俗資料館などの施設を訪れることもできるし、古墳もあれば秘《ひ》湯《とう》もあるそうな。熊川は『小京都』でも『海のある奈良』でもなく、あちこちにある『小さな江戸』の一つだそうだが、白壁の土蔵や虫《むし》籠《こ》窓のある古い家がちらほら見えた。ただそれだけで、さっと車で国道を通り過ぎるだけでは、江戸情緒の名《な》残《ご》りを味わうというまでには至らない。 「失礼」  火村はぼそりと呟《つぶや》きながらバスを追い抜いた。  右手に流れる北《きた》川《がわ》——この川も同じところを目指しており、小浜湾に注ぐ——に沿ったまま、道は下っていく。やがて303号線は、上中町の中心で敦賀から伸びてきた27号線にぶつかって果てた。同じように敦賀からきたJR小浜線の線路と並走して、ここから27号線で小浜へ向かう。そして、平坦なところまで下りてきたからもう付き合う必要もなくなった、と言わんばかりに、道路は北川と離れていった。  小浜市に入る。京都を出て二時間ほど経過していた。 「もうすぐ人魚の町に着くぞ」  火村が言うのを聞いて、私は緊張感を呼び起こそうとした。いよいよ赤星の無念が宿った地に着くのだから。  どこの地方にでもあるパチンコ屋や中古車センターに混じって、若狭の伝統工芸である若狭塗りや瑪《め》瑙《のう》細工の店が国道沿いに現われだしていた。右手にも左手にも田園風景が広がっているが、地図を見ると、その中に国宝や自慢の名《めい》刹《さつ》が点在しているようだ。  海はまだ全く見えない。 「穴吹奈美子だったよな?」火村が唐突に言う。「奈良の奈に、美しい子と書いて奈美子だったろ?」 「シレーヌ企画の社長の名前か? ああ、そうや。まさか姓名判断をやる気やないやろうな?」 「違う。『海のある奈良』の他に、もう一つ奈良がからんでるな、と思っただけだ」 「意味がないこと言うなよ。ほれ、そこを右折して」 「あいよ」  小浜線の下をくぐって、道は市街に入っていく。赤星殺害事件の捜査本部がある小浜警察署をちらりと横目に見ながら過ぎた。先にホテルに荷物を預けてからここに戻ってくるつもりだ。予約してあるホテルは、赤星が泊まろうとしていた豊玉ホテルだった。 「アリス。ここは一つ、推理作家になりきってくれよ」  ささやかなメインストリートを抜けて海岸通りに向かいながら、火村は言う。 「推理作家になりきれって、どういうことや? 演技をせんでも、俺は推理作家のつもりや」 「俺が言いたいのはそういうことじゃない」助教授はちっちっと舌を鳴らした。「赤星楽はこの町を取材して推理小説を書こうとしてたんだろ? 俺は、それが災いして彼は殺されたような気がするんだ」  おかしなことを言う。 「理解に苦しむな。小浜を舞台にした小説を書こうとしたぐらいで殺されてたまるもんか」  火村は海岸通りに向けてステアリングを切る。 「彼が小浜を舞台にしようとしたから、それに耐えられない誰かが殺意を抱いて、ついには実行してしまったなんてことはないさ。——しかし、殺された赤星楽は小浜へこようとして、ホテルまでもたどり着けなかった。彼がくるのを待ち受けて、あらかじめ罠《わな》が仕掛けられてたような気がするんだ。気がする、なんて漠然とした言葉を繰り返してもしようがないけどな」  海が見えた。 「だから、赤星氏がこの町の何に着目して小説を書こうとしていたのか、同業者のお前によく考えて欲しいのさ。この町の何が推理作家を刺激したのか、よく観《み》て、よく聴いてくれ。憑《より》人《まし》にでもなって赤星楽の霊を乗り移らせてでも、この町にミステリーを発見するんだ」 「やってみる」と私は応えるしかなかった。「『人魚の牙』っていう奴はここにあるのかもしれんし」  車は海岸通りに出る。  海の青さや、波の上を飛ぶ鴎《かもめ》にさえ、私はミステリーを見出そうとしていた。       2  赤星楽が予約していた豊玉ホテルは海岸通りに面し、新小浜港からほど遠からぬところに建っていた。六階建てというのは付近ではなかなかの高層ビルだ。もちろん東京のシティホテルと比べれば貧相ながら、市内では一流の部類に属するだろう。取材旅行はもっぱら民宿かビジネスホテル利用というふだんの私なら避けるところだ。  まだ十時半なので、当然のことチェックインはできない。火村と私は、今晩の宿泊を予約している旨をフロントで伝え、荷物を預かってもらうことにした。一泊分の荷物などたかが知れており、車に積んでおけばいいのだが、予約の確認のようなものだ。それと、もう一つ目的があった。 「赤星楽さんの予約を受けた方はいらっしゃらないでしょうか?」  私は尋ねた。  フロント係でなくともこのホテルの従業員で赤星のことを知らない者がいるはずがない。十日と十一日に予約を入れておきながらついに現われることがなく、十一日の朝、小浜湾で死体となって発見された推理作家のことは、おそらくまだ彼らの間で雑談の種になっていることだろう。  応対していた蝶《ちよう》ネクタイのフロント係は、微かに困ったような顔をしたので、私は、亡き推理作家の知人であると告げた。 「赤星さんがここにどんな取材にこようとしていたのかが知りたくてきたんです。ご存知のことがあったら教えていただきたいんです」 「と、おっしゃられましても……」相手は口ごもる。「実は、赤星様からの電話でのご予約を受けたのはわたくしでして……」 「それは好都合です」 「いえ、それがですね、特にお話しするようなことはございませんでして……」  答える意志がないのではなく、内容のある答えができないということであった。 「赤星様からご予約のお電話をちょうだいしたのは五月三日のことでした。この日付は警察から何度も訊《き》かれましたので、確かです。『十日と十一日に宿泊したい。シングルひと部屋空いてますか?』とのお問い合わせでした。お部屋はご希望どおりにお取りできましたので、お名前とお電話番号を承りました。それだけです」 「特に変わったことは何も言わなかったということですね?」 「はい。今申しましたような、ごくごくありきたりの事務的なやりとりがあっただけです」  犬も歩けば棒に当たると言うものの、小浜に着いて早々に収穫をあげることはできなかったようだ。  私たちは荷物を預かってもらい、ホテルを出た。  交通安全を訴える垂れ幕が掛かった小浜署に着くと、火村が赤星殺害事件の捜査員との面会を求めた。被害者の知人だったのは私だけだが、彼の方が警察との応対に慣れている。窓口の婦人警官は一《いつ》旦《たん》奥に引っ込んでから現われると、「ご案内します」と私たちを階段脇の小さな部屋に導いた。ごく簡素ながら応接室として使われているらしい。ここでしばらく待て、とのことだった。  やがてやってきたのは四十がらみの刑事係長だった。池田と名乗った彼に手渡された名刺には警部とある。私たちは両名とも赤星の友人であることにして、自己紹介をした。被害者自身が推理作家だったので、私と火村の職業——推理作家と犯罪学者という組み合わせ——も珍しく感じられなかったはずである。 「いや、とんだことで。全くお気の毒です」  池田警部は腹の上で手を組んで低く言った。中年太りが進行中、という様子のおなかがワイシャツを押し上げてこんもりと丘を作っている。 「赤星さんの遺体が見つかったのは小浜湾の西の大島半島というところでしてね。大飯原発がある突端に近い方です」  警部は、海上保安部の潮流調査船による遺体発見の経緯を手短に話してくれた。古来、都との往来が盛んだったことを証明するかのように、その言葉は京言葉とあまり違わなかった。私は神妙な顔で耳を傾ける。 「後で現場に花でも供えに行きたいと考えているんですが、車が通れる道はありますか?」  火村が質問した。花を供える相談などはしていなかったが、とっさの思いつきだろう。 「ええ、行けますとも。遺体は海から流れついたものではなく、犯人によって現場に運び込まれたわけですからね」 「岩場に漂着したのではなく運んでこられたのだ、という見方で固まっているんですね?」 「見方を固めているというより、検視結果によって断定しています。遺体は移動させられた痕《こん》跡《せき》がありましたから」  死体を動かした事実を隠すのはなかなか難しいことは、職業柄よく承知しているつもりだ。 「そんな辺《へん》鄙《ぴ》な場所だとすると、当然、犯人は車を使ったんでしょうね?」  これは私の質問だ。警部はたるみかけている顎《あご》の肉をつまみながら頷《うなず》く。 「常識的にみれば車でしょう。海から船で近づくことも可能ですがね」  理屈の上ではそうなるが、可能性はごく薄いだろう。まさか夜中に釣り舟をチャーターして運んだわけもあるまい。 「遺体がよそから運ばれてきたんだとしたら、実際に犯行が行なわれた現場はどこなんでしょうか?」  火村探偵はこれが訊きたくてたまらなかったのだ。警部はたるんだ顎の肉をつまむという動作を無意識に続けていた。 「犯行現場がどこなのかというのはごく重要なポイントです。しかしながら、確かなことは判明していないのが現状です。というのも、赤星さんが東京を出てからの足取りが掴《つか》めていないからです」 「全くですか?」 「全くです。当日、小浜駅で回収された切符によると、どうやら東京駅から直接小浜駅に降り立った人のではないようです。該当する切符が一枚も出てこないんです。また、市内で赤星さんを見かけた人物も見当たりません」 「小浜の周辺はどうなんでしょう?」と私がまた口を挟む。「彼はご当地を舞台にした小説を書こうとしていたらしいんですが、若狭と言っても広いですからね。三《み》方《かた》五《ご》湖《こ》あたりを取材するために美《み》浜《はま》に寄ったということは?」  美浜は鉄道で三十分ほど敦賀よりに位置するので、東京方面からなら途中下車ということになる。私自身は訪れたことはないが、五つの湖が織り成す景勝の地で、梅《ばい》丈《じよう》岳《だけ》からの眺めは若狭湾国定公園の中でも屈指のものだ、と聞いている。 「三方五湖に寄ったというのはありそうなことですから、そちら方面でも訊き込みを行なったんですが、結果ははかばかしくありません。足跡は敦賀にもなしです」  池田警部は努めて淡々と語っているようだった。 「解せないんです。東京を出るなり消息がプッツリと切れてるので、旅行の早い段階で犯人と接触したようでもあるし、遺体が小浜で発見されたことから考えると、この近くまでは予定どおりの行動をとっていたようでもあるし……」 「赤星さんが東京を出たのが三時の新幹線。それだと、真直ぐ小浜にやってきたとしたら、何時ぐらいになりますか?」  火村の口調は捜査員のものになりきっているが、警部は気になっていないらしい。 「四時間はかかるでしょう。ですから、七時ぐらいやないですかな」 「死亡推定時刻は午後六時から十時ということですから、小浜に直接やってきてここで殺害された、として筋は通るわけですね。なのに犯行現場が特定できないということは……」 「どこかで電車を降りて犯人の車に乗り換えたのかもしれません。不審車の目撃者はいないかも調べています」  先回りして警部が言った。 「赤星さんのお知り合いが小浜にいたということはないんでしょうか?」 「形跡がありません。長崎のご出身でしたし、こちらにはとんと縁がなかったようですよ。遺体が見つかった直後にあちらからいらしたご遺族の方も、そうおっしゃっていました」  火村が私に目配せをした。本物の友人からもっと突っ込んで訊いてみろ、ということだと解釈する。望むところだ。 「私と赤星さんとは三年来の付き合いでした。彼の私生活を知《ち》悉《しつ》しているわけではありませんけれど、殺されるような人間だったとは思いません。先ほどの警部さんのお話の中に、『犯人と接触する』という言葉がありましたね。警察はどんな犯人像を描いているんでしょうか?」  警部は首筋から項《うなじ》にかけてをぼりぼりと掻《か》いた。彼の手の癖はあまりお上品ではない。 「強《ごう》殺《さつ》と怨《えん》恨《こん》の二《ふた》股《また》で捜査を進めています。ただ、私の個人的見解としては、被害者の足取りが見事に消えているところからして、どこかで顔見知りの犯人と、何らかの形で合流した公算が高いような気がしています」 「怨恨の線で捜査線上に浮上している人物はいるんですか?」  さすがに警部は明確な返答を避けた。そこで、私は気になる名前をいくつか並べてみることにした。 「朝井小夜子さんや霧野千秋さん、彼の担当編集者だった塩谷さんについてはどうですか?」  警部の目が光った。 「今おっしゃった人たちは赤星さんに恨みを抱いているんですか?」  逆に尋ねられて私は否定する。 「彼の身近だった人の名前を挙げただけで、他意はありません。——いえ、朝井さんとお話ししたところ、彼女は自分が疑われている気がしているようでした」 「関係者の皆さんのところに刑事がお邪魔していますから、神経質な方は気になるでしょう」 「怨恨というのには、痴情関係のもつれなども含まれるわけですね?」 「心当たりがおありなんですか?」  下《へ》手《た》なことは言えないが、こちらがしゃべらなくては、相手の舌の回転も鈍るだろう。 「具体的な心当たりはありませんが、赤星さんはちょっとばかりプレイボーイ・タイプでしたから。トラブルに巻き込まれたんだとしたら、まだその方面が考えやすいな、と思っただけです。最近はシレーヌ企画という会社の女性社長と親密だったなんていう噂《うわさ》を小耳に挟んだりしていましたし」  具体的な心当たりはないと言ったすぐ後で、穴吹奈美子社長の名前を出してしまった。 「私もその女性とは東京でお会いしたことがあります」  と警部は言う。訊き込みのために出張したのだろう。 「まるでお嬢さんのように若く見える人でしたね。しゃべってみると切れ者の片《へん》鱗《りん》がすぐに窺《うかが》い知れましたけれど」 「人魚の肉を食べたのかもしれません」  八百比丘尼伝説のご当地で反応をみるために私は言ってみた。警部は微かに口《くち》許《もと》を歪《ゆが》める。 「小浜にもそんな伝説があります。——しかし、穴吹さんの場合は他のものが若さの源泉だったみたいです」 「他のものとは?」 「女性を若々しく保つものと言えば、そりゃ、恋やないですかな。いや、男でも同じか」 「それがつまり……赤星さんとの関係のことですね?」 「赤星さんだけではありません。あちらこちらで浮き名を流して、なかなかのご発展ぶりだったという証言があります。『あれでは老ける暇もないでしょう』とか言ってね」  身近の人間が語ったことなのだろうが、どれだけの信《しん》憑《ぴよう》 性があるのか私には判らなかった。やっかみの混じった無責任なデマではないのか? 一度会って三十分ほど話しただけだが、彼女にそんな脂っこいイメージは似合わないように思えるのだ。——まぁ、私は自分の眼力もあまり信用していないが。 「才色兼備の見本のような女性ですから、中にはひがみでそんなことを言う人もいるかもしれませんが、複数の証言がありますから、まんざら出《で》鱈《たら》目《め》でもないでしょう。赤星さんのように、自分より若い男性がお好きだそうですよ。若い男を若返りの妙薬にしている、と言いたいんでしょう。しかし、あれだけ風《ふう》貌《ぼう》が若いんですから、恋の相手も年下の男の方になって当たり前なんかいな、という気もしますけれどね」  この話が事件の解明につながる情報なのか、つまらないゴシップなのかも、私には判らなかった。 「赤星さんと親密だったということは、穴吹さんご本人からも聞いています。仕事がきっかけで知り合って以来、たまに会って食事をするだけの友人だった、ということでした。それ以上の関係ではなく、もちろん大きないさかいなどなかった、とも」 「その二人の関係を妬《ねた》んだ何者かが、赤星さんを襲ったとは考えられませんか?」 「何とも言えませんね」と返事はそっけない。 「霧野千秋さんなんかはどうですか?」  彼が穴吹奈美子を慕《した》っているというのは、昨日、小夜子から仕入れたばかりの又聞きの情報だったが、偵察用の気球として上げてみた。 「あなたは霧野さんもご存知なんですか?」  警部はいくらか興味を惹《ひ》かれたらしい。 「穴吹社長と彼と私の三人で会ったことが一度だけあります。社長にたいそう傾倒している様子でしたね。霧野さんは彼女のごく身近にいつもいる男性ですし、なかなかいい男ぶりだったので、もしかすると、と思いついただけです」 「霧野さんは確かに社長の寵《ちよう》愛《あい》を受けているようですが、それは純粋に上司と部下という関係においてらしいですよ」と警部はあっさり片付けた。「穴吹さんを巡ってごたごたがあったとしたら、むしろ赤星さんの従弟《 い と こ》の方でしょう」  面識がある近松ユズルがぽろっと転がり出た。彼が火種かもしれないとは聞き捨てならない。 「おや、近松さんもご存知でしたか。いえいえ、彼に嫌疑がかかっているわけではありませんよ。赤星さんには随分世話になっていたそうですから」 「しかし、ごたごたがあったかもしれないとおっしゃいましたが……」 「言いましたっけ?」  とは白々しい。口が滑ったのだろう。 「シレーヌ企画の社員からそんな話が出ましたけれど、真偽のほどはつまびらかではありません。近松さんは可《か》愛《わい》い坊やタイプで、もてるそうですから、邪推されているのかもしれません」  窓はピシャリと閉まって、カーテンが引かれてしまったようだ。近松ユズルが従兄《 い と こ》と穴吹奈美子を巡ってもめていたのかどうか、はもとより、近松以外に『当局が関心を寄せる人物』はいないのか、についてもコメントは得られなかった。 「ところで——」  私の質問が途切れたのを待ち構えていたように、警部は上着の内ポケットから一枚の写真を取り出した。一体何だ、と身を乗り出したのだが、写っているのは別に驚くようなものではなかった。使用ずみのテレホンカードだ。 「これは有栖川さんも見覚えがあるカードではありませんか?」 「はい」  片桐から何枚かもらったことがある。珀友社オリジナルのテレホンカードで、日本地図が描かれた五十度数のものだ。日本地図など月並みな素材だが、Macコンピュータを使って無茶苦茶にいじってあるので、まるでマジック・マッシュルームで悪酔いしたアンディ・ウォーホルがデザインしたかのようになっている。 「遺体が発見された日の夕方、こいつが見つかりました。発見場所は市役所近くの電話ボックスの電話機の上です。小浜駅から徒歩五分ぐらいの。市の中心地ですけどね」  これまで耳に入らなかった情報だ。 「訊《き》き込みに回っていた刑事が署に連絡を入れようとボックスに入って、偶然目を留めたんです。端っこに小さくHAKUYUSHAと書いてあるのでハンカチに包んで持ち帰りました。その時点では赤星さんの身元は判明していて、珀友社さんに電話で照会を求めていましたから、刑事もピンときたんです。カードからは赤星さんの指紋が検出されました。これだけが、彼が小浜に遺《のこ》した痕《こん》跡《せき》というわけです」  私は彼の言葉を捉《とら》えずにはいられなかった。 「痕跡とおっしゃいますが、こんなテレホンカード一枚見つかっただけでは、彼が小浜にきていたという証拠にはなりませんね」 「それはそうです。しかし、出版社の塩谷さんに問い合わせてみたところ、このカードは最近作ったばかりのもので、まだ世間に広く撒《ま》いたことはないということでしたから、無関係の誰かが使い捨てたものだとは考えにくい。作家や絵描きさんたちに配っただけだそうで、赤星さんは塩谷さんからもらっていたとも聞いています。それに、さっきも申しましたように赤星さんの指紋がついているんですから」 「それはそうですが」と私は同じ言葉を口にして「赤星の使用ずみテレホンカードが見つかっただけでは、彼自身がここにきていたことにならないでしょう。発見されることを期待して犯人がさりげなく遺したものかもしれません」  さすがに警部は少し鼻白んだ。 「穿《うが》った見方をなさいますね。しかし、テレホンカード一枚を遺して大した益があるとも思えませんね。私どもは、赤星さん自身が小浜市内から電話をかけた可能性を無視できませんから、その電話の相手が誰だったのかを当たっています」 「私のところにはその問い合わせはまだきていません」 「おや、そうですか。——しかし、有栖川さんの場合、十日の午後は東京で出歩いていたそうですから、赤星さんの電話を受けてはいらっしゃらないでしょう」  初めははっとした。彼はそしらぬ顔をしながら、私の当日の行動をきちんと掌握している。捜査本部の刑事から情報を引き出すつもりで乗り込んできたつもりが、相手からじっくりと観察されていたのかもしれない。 「ええ、そんな電話は受けていません」 「やっぱりそうですか」  警部は写真をポケットに戻した。ここで火村が軽く質問を飛ばす。 「長崎からいらした遺族の方にも同じ質問をしたんですか?」 「ええ。しかし、やはり当日、電話を受けた人はいないそうです」 「今回の旅行について、どなたも聞いていなかったんですか?」 「旅行に出るからといっていちいち実家に報告したりはしないでしょう。まして、赤星さんの場合はふだんから旅する機会が多かったんですから。……ただ」 「ただ?」  火村と私は同時に問い返す。 「母親が半月ほど前に用事もなく電話をしたそうなんですけどね、元気でやっとるか、と。その時に近々旅行に出るという話はしていたということです。彼は、『富《とみ》雄《お》君に縁起物のお土産《 み や げ》を買って送るよ』と言ったそうです。富雄君というのは来年私立中学を受験する甥《おい》です」 「受験生向けの縁起物というと、合格祈願のお守りでしょうか?」  ひととおり『海のある奈良』小浜について予習してきた私だが、そんな天《てん》満《まん》宮《ぐう》のような神社仏閣はなかったやに思う。警部の答えもやはりそうだった。 「何を指して縁起物の土産と言ったのかは不明です。ここいらには奈良時代からの古い寺や神社がたくさんありますが、受験の霊験あらたかさで知られたところなどありませんから、お守りではないのかもしれません。そうだとしても、これといって思い当たるような土産物はないんですけどね」  その土産物とは何なのか。これは、ささやかではあるが、小浜を訪れて拾ったミステリーかもしれない。  その後、内容のありそうな話はまるで出なかった。ここはもういい、と火村が目で合図する。  私たちは死体が発見された場所を詳しく聞いてから、小浜署を辞した。       3  駅前で昼食をすませ、花屋に寄ってから、私たちは大島半島の先に向けて車を走らせた。後部座席に仏花をのせて。  かつては奈良、大《だい》安《あん》寺《じ》の荘《しよ》園《うえん》だったため、半島内には常《じよう》禅《ぜん》寺《じ》、清《せい》雲《うん》寺《じ》、長《ちよう》楽《らく》寺《じ》などの古《こ》刹《さつ》がある。しかし、開発の手が入るまでは、陸の孤島的な岬だったと思われる。事情を知って言うわけではないが、大島半島の開発には観光もさることながら、大飯原発が貢献したのかもしれない。  若狭湾には日本の原発の約三割が集中しており、そこで生み出された電力は主に京阪神で消費される。危険の代償として、産業基盤が弱い地元に莫《ばく》大《だい》な経済的見返りがあるとはいえ、ちょっとやり方が露骨すぎるように思う。美しいだけでなく、古来、大陸からの文化を受け入れ、奈良京都の文化を伝えてきた若狭地方が生《いけ》贄《にえ》の山羊にされているように見え、偽善的に響くかもしれないが、心が痛みそうになる。しかし、私のような電力大量消費地の人間も「すみません。迷惑料は払ってますから、堪忍して下さい」と断わる必要もないのかもしれない。本州は近畿地方で細くくびれているため、大島半島の先から大阪市までは直線にするとわずか百キロしかないからだ。万が一の大事故が発生したなら、それしきの距離はあってなきがごとしではないか。 「確かに海はある」  火村が不意に口を開いた。ステアリングを片手で操りながら、右手の小浜湾に目を注いでいる。穏やかな湾の向こうに、観光用のエンゼルラインが走る内《うち》外《と》海《み》半島の紫色の影が横たわっていた。 「海はあるものの、奈良って感じはないけどな」  私も初めてきたのだが、そこは予習をしてきた身。解説を加えずにはおられない。 「それは、われわれがまだ市街しか見てないうちにこの辺《へん》鄙《ぴ》な岬に入り込んだからや。由緒正しい寺社や史跡は少し離れたところにある。市街の東、くる時に渡った遠敷川の流域に面白そうなものが固まってる」 「オニューガワ? どんな字を書くのか知らないけど、妙な名前だな」  友人は講釈を始めるのに好都合な合いの手を入れてくれた。 「遠いという字に座敷の敷で遠敷と読む。朝鮮語で『遠くにやる』を意味する『ウォンフー』が訛《なま》ったという説がある。朝鮮半島からはるばるやってきた渡来人たちがつけた地名かもしれん」 「『ウォンフー』が訛って『遠敷』? お前さん、ちょっと苦しくないか、その由来?」 「何でもかんでも朝鮮語にルーツを求めてはしゃいでる下《へ》手《た》な落語家的一派っていうのがいるけど、遠敷の里について真実かどうか俺には判らん。けど、そんなものはまだ小手調べや。若狭の語源が朝鮮語の『ワカソ』という説もある。『ワカソ』の意味は『行き来』。できすぎてるか?」 「犯罪学者には何とも言えねぇよ」 「とっておきは奈良やな。この語源はそのものズバリの『ナラ』。これは朝鮮語で『都』を意味するそうやぞ」 「オー・マイ・ジーザス。参ったな」  助教授は両手を離して頭に置いた。 「こら、カーブの手前やぞ。ハンドルを握《にぎ》れ」 「小浜と朝鮮半島との間で古くから交流があったことは判った。その文化が近江《 お う み》を通って京都、京都から奈良へと伝わっていったわけだな」 「そう。けれど、交流があったのは朝鮮半島とだけやない。江戸時代には南蛮とも交易を行なって、象、鸚《おう》鵡《む》、孔《く》雀《じやく》が最初わが国に上陸したのは小浜や」 「へぇ、凄《すご》いな。象、鸚鵡、孔雀ってったら、初めて見たらぶったまげる動物のオン・パレードだものな。それも若狭街道を通ったわけか」  私はここで手帳を取り出し、膝《ひざ》の上で開いた。参考文献代わりのメモだ。 「小浜は北《きた》前《まえ》船《ぶね》の寄港地としても栄えたんや。中心人物は海の豪商、回船問屋古《ふる》河《かわ》屋《や》。千《せん》石《ごく》荘《そう》というその別邸は調度も庭も安《あ》土《づち》桃《もも》山《やま》時代風の豪華絢《けん》爛《らん》たるものやったらしい。襖《ふすま》絵《え》、屏《びよう》風《ぶ》絵は狩《か》野《のう》派でな。それも小浜の城主を迎えるために建てたとかで、現存してる」 「北前船の寄港地ね。何だか知らんけど景気がよさそうに聞こえる」  景気のよさが保たれていれば原発もやってこなかったかもしれない。 「そして、奈良や京都の文化がフィードバックしてくるのも小浜は受け止めた。都での戦乱を逃れ、若狭街道を通ってこの地に流れてきた人や文化財も少なくない。狭い小浜にある寺社の数は百三十二やから、奈良の称号に充分値する。——とりとめのない説明やけど、『海のある奈良』のプロフィールがざっとご理解いただけましたか、先生?」  火村は宣誓するように片手を上げた。 「はい、大変よく判りました。——それだけぺらぺらしゃべれりゃ、観光協会でアルバイトができるな」 「この町でミステリーを発見しろ、やなんてお前はここにきて言うたけど、俺はそつなく、事前学習を充分にしてきたまでのことや。もっと解説してやるから、後で遠敷の里を回ろう。国宝を拝んで目の保養をするためやなくて、赤星の幻の旅の行《ゆく》方《え》を探るためにな」 「了解」 「実は小浜と奈良を結びつける面白いものが他にもあるんやけれど……その話も後にしよか」  いくつかトンネルを抜けた。海水浴場となるであろう浜が見えている。斜め前方には赤礁崎が海に突き出していた。 「それだけ予習してきてても受験生向けの土産には心当たりがないんだな?」  さっき、昼食をしながら話していた疑問点を火村は蒸し返した。 「ない。多《た》田《だ》寺《でら》の薬《やく》師《し》如《によ》来《らい》は眼病にご利益があるとか、八百比丘尼が入《にゆう》定《じよう》した洞《どう》穴《けつ》がある空印寺は長寿延命、諸病平癒のご利益があるとか、三《み》方《かた》神《じん》社《じや》にある弘《こう》法《ぼう》大《だい》師《し》が一夜で彫《ほ》り上げて右手だけ作りそびれた石観《かん》音《のん》は手足の不自由な人に霊験があるとかは覚えてるんやけど、合格祈願の絵《え》馬《ま》がどっさりというところは知らん」 「地元の刑事も知らなかったんだから、その類のものじゃないんだろう。小浜から離れたところのものかもしれない」 「赤星が小浜を取材した後で寄ろうとしていたどこかか?」 「あるいは小浜にくる前に寄ろうとしていたところ」 「それはどこや?」 「俺は入試問題を作る側だから合格祈願の寺社なんて知らないね。予備校にでも問い合わせてみるか?」  などと言っているうちに赤礁崎を過ぎ、持参した地図に警部に印をつけてもらった地点が近づいてきていた。間もなく右手に曲がる隘《あい》路《ろ》があるはずだ、と火村に告げると、彼は徐行を始めた。 「こいつだな」  それらしい未舗装の細い枝道を発見し、火村は車の鼻先をそちらに突っ込んだ。体が軽くバウンドするゆるい下り勾《こう》配《ばい》の道を、砂利を跳ね上げながら車はゆっくりと進んだ。ものの二、三分も走ると雑木林を抜け、行き止りになった。私たちは車を停めて降りる。その目の前のごつごつとした岩場が赤星の骸《むくろ》が見つかった現場だった。赤礁崎という名のとおり、岩肌が赤っぽい。 「随分遠いところまで運ばれてきたんだな。小浜の駅前から小一時間かかった」 「どうしてこんなところまで運んできたんやろう……」  火村と私はそれぞれ呟《つぶや》いた。  ここはもう、二つの半島で抱かれた小浜湾の出口にほど近いところだった。紺《こん》碧《ぺき》の海面の向う側に、内外海半島の松ガ崎がせり出している。ここからは望めないが、その半島の陰に大《おお》門《もん》小《こ》門《もん》や唐《から》船《ふね》島《じま》といった蘇《そ》洞《と》門《も》の奇景が広がっているのだろう。南に目を向けると、山を背にした小浜の街が見える。海岸通りの町並がぼんやりと霞んでいた。  岩が波に洗われているあたりに花束が置かれていた。私たちもそこまで下っていって、花を供え、合掌をした。赤星の亡《なき》骸《がら》の残像でも遺っていれば、慰め、なでさすって帰ってやりたかったが、そんなものは哀しいほど感じられなかった。海も、空も明るすぎた。おまけに風は天国から吹いてくるかのように心地よかったのだ。  私たちは周辺の岩や石を足で押し除け、掘り返してみたが、警察が入念に捜査をすませたであろう現場に、犯人の遺留品らしきものが転がっている道理もなかった。 「こんなところだったのか。きてみるもんだな、アリス」  足を止めた火村は一人で何事かに納得している。 「思ってた以上に市街から遠かった、ということか?」  と私は訊《き》いた。 「ああ、そうさ。しかも遠いだけじゃなくて、間違って作られたみたいに変な袋小路のどん詰まりだぜ。これは土地勘なしにたどり着けるようなところじゃない。これまでの捜査によると、事件の関係者の中に若狭出身者はいないようだけど、遺体を運んだ奴は少なくとも下見をしてるな」 「ロケハンか………」  言い換えてみた途端に、事件の当夜、霧野千秋が大阪で朝井小夜子原作のVシネマのロケハンを行なっていたことが思い浮かんだ。赤星を殺害した犯人が事前に小浜のロケハンを行なっていたこととそのロケハンとは何の関連もありはしないが…… 「ロケハンをしてここに運んだ。それはええとして、ここを選んだ理由はあるのか?」 「問題はそこさ」  火村は手頃な岩に腰を降ろし、風の中で苦労しながらキャメルに火を点けた。私も彼の風上に座る。 「こんなところまで遺体を運んでくるのにどんな必要性があったのか、については考察を要するぜ。遺体を完全に始末してしまいたかったのなら、人の目がないところまできたんだから、重りでもつけて海に沈めるという作業も落ち着いてできたはずなんだ。それなのに、岩場にほうり出して去ったというのは、何か特別な意図があってのことじゃないか?」 「と言われても判らんな」 「考えろよ。つまり、犯人は遺体を消してしまいたくなかったんだ。むしろ、発見されることを期待していた節がある」  助教授はそんな確信を抱いたらしい。 「発見されることを期待するぐらいやったら、犯行現場に置いてきたらすむことやないか。それはまずかったのか?」 「そうかもしれない。犯人は犯行現場を知られることを望まなかった一方で、遺体を消してしまうことも嫌ったとも考えられる。それどころか、適当な時点で遺体を見つけてもらいたがっていたのかもしれない」 「……そうかな」  火村は煙草を指の間に挟んだ右手を大きく振り回す。 「だって不合理じゃないか。俺はさっき重りをつけて沈めることもできたって言ったけど、本気で遺体を隠そうとしたのなら、この岩場にくるまでの林の中でも遺棄するだけでことは必要かつ充分に足りたんだ。付近に人家もないんだから、そうしてりゃ、ちょっとやそっとじゃ見つからなかったぜ。どうしてわざわざ海上から丸見えの場所まで持ってこなくちゃならなかったんだ? 見つけ出してもらいたかったのさ」 「実際にそうなったように、海の上から見つけてもらうことを期待したわけか?」 「だろうな。見ろよ。蘇洞門巡りの遊覧船はちと遠いけれど、釣り舟がちらほらと浮かんでる。ここいらはチヌやメジナなんて獲物がかかるんだろうよ。あんな釣り舟のうちの一艘《そう》でもが少し近づいたら、人が倒れていることはすぐに視認できたはずだ。——待てよ。遺体を発見したのは海上保安部の潮流調査船だったな。そういう調査を湾の内外で行なうっていうのは事前に告知されるんじゃないか? 調査の障害になるようなことは慎んでくれとか、危険だから注意してくれとかいって」  何らかの形での告知はあるだろう。 「ひょっとすると、犯人はそれも計算に入れてたんじゃねぇか?」 「五月十一日の午前中にこの岩場の少し沖を調査船が通ることを見越して、ここに遺体を遺棄したって言うのか?」 「ロケハンまでする奴なら計画に組み込んでたかもしれない。あるいは、調査船のことを知ってからここを遺棄現場に選んだとも考えられる。どっちにしても仮説に過ぎないけどな」  火村は短くなった煙草を指で弾いて海に捨てた。 「仮説は判った。そしたら、問題の駒《こま》を一つ先に進めようやないか。犯人はどうして遺体の発見を望んだんや? どうせ見つけてもらうために遺棄するんやったら、苦労してこんなところまで運んでこなくてもよかったのに」 「車で運んできたんだから格別の苦労をしたわけでもないさ」と言いながら火村は唇をなめて「しかし、岬の先近くまでくることを面倒がらなかったのには理由があるかもしれないな。——もしかすると、どこかの海岸で捨てたものが漂着したと見てもらいたかったのかもしれない」  そうだとすれば、犯人は警察の鑑識能力を見くびっていたことになる。 「漂着したと見てもらいたいんなら、小浜のはずれの海岸からでも本当に投げ捨てたらよかったんやないのか?」 「いや、そんなことをしたらそのまま発見されない恐れがある」 「ん? 遺体が発見されなかったら殺人事件そのものがなかったことになるわけで、犯人にとってそれ以上ありがたいことはないやないか」 「ところがありがたくなかった」 「どうして?」  火村はぷいと海を向き、若白《しら》髪《が》の多い髪を風になぶらせた。 「この続きはまた今度」  何がまた今度、だ。紙芝居じゃあるまいし。それなら—— 「一つ質問させてくれ。仮説によると、犯人は遺体を適当な時点で発見してもらいたがったということやけど、適当な時点とはいつのことで、何がどう適当だったんや? ——おっと、それからもう一つ。遺体発見が犯人の意図したとおり適当な時点だったという保証もないぞ。そのあたりはどう考えてる?」  火村は肩をすくめてやりすごそうとした。 「ふーん、語るべきものがないらしいな。忠告しておくけれど、名探偵なら序盤に瑣《さ》末《まつ》な謎《なぞ》をいくつか解いて、気の利いたポーズを繕っておくもんやぞ」 「生《あい》憎《にく》、俺は探偵じゃなくて学者なものでね」と真面目な顔で——事実、犯罪学者ではあるが——言う。「シャーロック・ホームズみたいに客商売をしているわけじゃないから、スタンドプレイでご機嫌を窺《うかが》う必要はねぇんだよ。最後にフィールドワークの結果を出せばいい」 「それは客商売の厳しさを知らん先生やから言えることや」 「おや、どういたしまして。俺だって教壇に立つ身だ。お客の評判はいつも気にしているよ」 「それなら女性客も大事にしろよ。大事にしすぎてしくじるセンセよりはましかもしれんけど」 「俺の魂の自由を批判するな」  馬鹿な会話に苦笑していた私の目に、赤星に供えた花束が留まった。と、次の瞬間、最後に会った時の彼の台詞《せりふ》が、陽気な語調とともに脳裏に甦《よみがえ》った。そして私の耳の奧で遠い谺《こだま》のように響く。  ——有栖川先生には犯罪学者の強力なブレーンがついているという聞き捨てならない噂を耳にしたけど、それは本当か?  ——もしよかったらその先生をそのうち紹介してくれないか? 歩くネタ本になってもらうからさ。  彼が生きているうちに約束を果たすことはできなかった。  ——紹介するよ。こんな形になったのは残念だけれど、ここに連れてきた男がそうだ。  花を包んだセロハンが風に吹かれて、応えるようにパラパラと鳴った。  無言の私によって亡き推理作家に紹介されているとも知らない火村はスラックスの埃《ほこり》を払い、号令をかける。 「ほれ、小浜に戻るぞ」       4 「さて、ミステリーツアーはこの後どこへ行こうかな」  エンジンをかけながら火村が呟《つぶや》くと、私は即座に応じた。 「神《じん》宮《ぐう》寺《じ》に行こう」  あまりきっぱり応えたものだから、火村はおやおやと思ったらしい。 「何だよ、それは。有栖川先生推奨の国宝の寺か?」  神宮寺は遠敷にちらばる寺社の中でも格段に強く私の興味を惹《ひ》く寺で、本堂と仁《に》王《おう》門《もん》が国の重要文化財に指定されているが、国宝はない。ここの興味深いところは仏像や三重塔を拝めるというのと性質が違うのだ。 「若狭の『お水送り』って知ってるか?」 「詳しいことは知らないけれど、聞いたことはある」火村は前方の路面を見たまま答えた。「奈良へ『お水取り』の水を送る行事だろ?」 「そう。若狭の『お水送り』と呼ぶけど、小浜から送るんや。遠敷の神宮寺から送った水を奈良の東《とう》大《だい》寺《じ》二《に》月《がつ》堂《どう》で汲み上げる。ここでも小浜はちゃんと奈良と結びつきを持ってる」  くる途中で話しかけてやめたのがこれだった。 「『お水取り』が行なわれるのは三月だから『お水送り』もその頃じゃなかったか? その神宮寺とかに今頃行っても何も見られないだろうに」 「それはそうやけど、この『お水取り』と『お水送り』というのはなかなか謎《なぞ》めいてて、ミステリーの匂《にお》いがぷんぷんしてるんや。推理作家のイマジネーションを刺激するものがあるから、赤星も作中で使おうとしてたかもしれん」  小浜でミステリーを発見せよ、と火村が掲げたスローガンに添うではないか。 「判った。じゃ、そこへ行こう。ナビを任せる」  私はあらかじめ地図のそこにも印をつけていた。 「ところで、水を送るというのは、具体的にどうするんだ? ポリタンクに詰めて発送するわけじゃないだろ?」  つまらないことをよく知っている火村先生だが、この儀式については疎《うと》いらしい。よろしい。それでこそ予習してきた私もガイドのやり甲斐があるというものだ。膝《ひざ》の上でまた手帳を開く。 「『お水送り』というのはな——」        * 『お水取り』がすめば奈良に春がやってくる。そんな決まり文句とともに、毎年、僧《そう》侶《りよ》たちが担いだ大《おお》松《たい》明《まつ》が高いお堂の回廊を走り回り、見上げる善男善女、参拝者たちの上にはらはらと火の粉を撒《ま》き散らす様子がニュースで報じられる。『お水取り』と聞いて私たちがまず思い浮かべるのは、火祭に似たあの情景だろう。 『お水取り』とは、東大寺二月堂で三月一日から十四日まで行なわれる『修《しゆ》二《に》会《え》』の中の行事の一つで、十二日の深夜、本尊に供える『香《こう》水《ずい》』という霊水を汲み上げることからそう呼ばれていたのだが、いつしか『修二会』の代名詞になってしまった。天《てん》 平《ぴよう》 勝《しよう》 宝《ほう》四年(七五二年)、東大寺二月堂を開いた良《ろう》弁《べん》僧正の弟子で、インドから渡来した実《じつ》忠《ちゆう》和《わ》尚《じよう》によって始められたこの火と水の行事は、本尊十一面観音の功《く》徳《どく》を称え、人間の罪とケガレを懺《ざん》悔《げ》することが目的とされている。  そもそも『修二会』とは、旧暦の二月に行なわれたことから『修二月会』だったものが省略された呼び名だが、その期間中、僧侶たちには厳しい戒律が課され、連日連夜の様々な行法をこなさなくてはならない。これに参加する僧侶らは『練《ぎよう》行《そう》衆《しゆう》』という。彼らは二月二十日から戒《かい》壇《だん》院《いん》奥の別《べつ》火《か》坊《ぼう》にこもって精《しよう》進《じん》潔《けつ》斎《さい》をし、三月一日からの本行に備える。そこが別火坊と呼ばれるのは風《ふ》呂《ろ》、調理、火鉢などあらゆる火を外界とは違ったものにする『別火』の前行を行なうところだからで、その火は二月堂本堂前の灯明から移してこられる。そして、三月一日を迎えると、黒衣をまとった練行衆たちは午前二時の授戒作法の後、暗く寒いうちに二月堂へと向かい、本行に入るのだ。  本行は毎日正午から夜零時まで、日中、日《にち》没《もつ》、初夜、半夜、後夜、晨《じん》朝《じよう》の六回行なわれる。差《さし》懸《かけ》という浅靴を高らかに鳴らして、仏を供養するための花や彩色した蓮《れん》華《げ》の花弁を撒いて堂内を巡る『散《さん》華《げ》』。聖《しよう》武《む》天皇を初めとして東大寺に有《う》縁《えん》の名前を記した神名帳、過去帳を読み上げながら内陣に出て、大きな板に膝を打ちつける『走りの行』の荒行など。七日までを『上七日』、八日以上は『下七日』といい、毎日の行は少しずつ違っており、実忠忌にあたる五日には、『論議』と呼ばれる問答が戦わされる。  そして大勢の参拝者、観光客、テレビカメラが集まってくる十二日。十本の大松明と、特別に大きく五十キロもの重量がある『籠《かご》松明』がお堂に上る。回廊から中空に突き出され、火の粉を飛ばすために振り回されたのがこの籠松明である。日が暮れるとすべてが闇《やみ》に溶けてしまうのが当たり前だった時代には、火を使ったイベントが何よりも刺激的だったことは想像にかたくない。京都の『五《ご》山《ざん》の送り火』や『鞍《くら》馬《ま》の火祭』など。その中でも、この二月堂から降り注ぐ火の雨はとびきりのスペクタクルだったであろう。  そして、夜が更けて、いよいよ『お水取り』である。大松明を先頭に、呪《じゆ》師《し》が青衣、赤衣の神人を従え、二月堂の左側、良弁杉の下にある遠敷社に参詣する。この遠敷社に祀《まつ》られているのは若狭の遠敷明神である。そして若狭井から香水を汲み上げるわけだが、どうしてその井戸を若狭井と呼ぶかは後述しよう。この『お水取り』の儀式そのものも、二つあると言われる井戸さえも、呪師以外の何者も見ることができない。井戸の周囲に集まった練行衆らは若狭の明神の方に向かって加持する。水をどれほど豊かにたたえている井戸なのかは知れないが、「若狭若狭」と唱えると水が湧《わ》いてくる、という非常に神秘的な言い伝えもある。  香水が本尊に供えられると、『達《だつ》陀《たん》の行法』が始まる。練行衆が達陀帽という頭《ず》巾《きん》をかぶり、火天、水天、芥《け》子《し》天、楊《よう》子《じ》天、太《た》刀《ち》天、鈴天、 錫《しやく》 杖《じよう》天、法《ほ》螺《ら》天という天上界の八天に扮《ふん》して、内陣中、大松明を引き回すのだ。これは八天降臨と神変を表わしていて、飛び散る火の粉は諸《もろ》々《もろ》の厄《やく》難《なん》を払うとされている。宗教的エクスタシーがそこに出現するらしいが、この達陀の火が原因と覚しい火災によって、源《げん》平《ぺい》の戦乱をもくぐり抜けた二月堂は寛《かん》文《ぶん》年間に一度焼失していることからも、その激しさが偲《しの》ばれる。これをクライマックスとして、『修二会−お水取り』は十五日ですべての行を終え、南都に春を招くのであった。  さて、長々と『お水取り』について書いてしまったが、それというのも『お水送り』について説明したいからだ。  二月堂の若狭井の由来について、『東大寺要録』はこう伝えている。実忠和尚が二月堂の十一面観音の前で初めての『修二会』を行なった時、諸国の神々が勧《かん》請《じよう》されたのだが、若狭の遠敷明神は初夜の行法に遅参してしまった。遅れた理由が釣りに夢中になっていたため、というのがなかなかご愛《あい》敬《きよう》だし、海の国、若狭の神様らしくていい。明神は和尚の行法にいたく感銘を受けるとともに、遅参の無礼を恥じ、お詫《わ》びとして観音に備える閼《あ》伽《かの》水《みず》を献じることを願い出た。明神が庭の岩に立って念じると、岩が裂けて水が湧き、続いてそこから黒白二羽の鵜《う》が飛び立った。これが若狭井のおこりである。  若狭井の水は小浜の遠敷を源としているとされており、遠敷明神が観音のために水を二月堂に献上したため、それまで滔《とう》々《とう》と流れていた清流はたちまち干上がってしまったという。よってその川には音《おと》無《なし》川《がわ》という別名がついている。その遠敷明神とは若《わか》狭《さ》彦《ひこ》神社のことで、私たちがこれから行く神宮寺との間には複雑かつ深いつながりがある。音無川のまたの名前が遠敷川であるが、『お水取り』の間は、やはり水がなくなってしまうのだそうだ。  若狭井へ水を送る儀式は、毎年三月二日、遠敷川の鵜《う》の瀬《せ》というところで行なわれる。もちろん、この地名は湧《ゆう》水《すい》から飛び立った二羽の鵜に由来するものであろう。神事を司《つかさど》るのは天台宗、神宮寺桜本坊の住職だ。神宮寺という名称は本来、普通名詞に近くて、神《しん》仏《ぶつ》習《しゆう》合《ごう》で神社に属していた寺院が、明治維新の神仏分離令によって独立したことを示している。若狭の神宮寺は波乱に富んだ歴史を有しており、和《わ》銅《どう》七年(七一四年)の創建時は神願寺だったものが、翌年に若狭彦神社——遠敷明神だ——を迎えて若狭神願寺となり、鎌倉時代に若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称した。それが明治四年(一八七一年)の神仏分離令で独立して今日に至っている。そうであるから、寺の住職が神事を執《と》り行なうという次第だ。なお、神宮寺がこの儀式を担う理由は前述の『東大寺要録』にあった伝承の他に、二月堂を建てた実忠和尚は実はこの神宮寺にもいたことがあって、その結びつきによるとする説もあるが、真偽のほどは定かでない。  その『お水送り』だが、実はこれも『お水取り』と同じくいくつかの儀式からなる一日がかりの行事で、午前十時から下《しも》根《ね》来《ごろ》八《はち》幡《まん》社《しや》で行なわれる『山八の神事』なる神仏融合の儀式から幕を開ける。 『お水送り』は神宮寺だけでなく、八幡社と合同で営まれるのだ。午後になると、神宮寺で『弓引きの神事』があり、それが終わる夕刻に、法《ほ》螺《ら》貝《がい》を吹き鳴らす山《やま》伏《ぶし》の先導で練行衆——八幡宮神人——が姿を現わす。その装束は衣《い》冠《かん》太《た》刀《ち》姿。伝説の鵜にちなみ、嘴《くちばし》のような長い烏《え》帽《ぼ》子《し》をつけているだけでなく、一行の先の半分が白ずくめ、後の半分が黒ずくめというのが面白い。写真で見たところ、不真面目な喩《たと》えに響くかもしれないが、白ずくめの方は、アメリカの人種差別団体クー・クラックス・クランの装束に似ていなくもない。彼らは本堂に集まると、本尊である千《せん》手《じゆ》観《かん》音《のん》の厨《ず》子《し》の前で『修二会』の行法に入る。それから、ここでも大松明を振り回すあの『達陀の行法』になり、終わると外庭で大《おお》護《ご》摩《ま》が焚《た》かれて炎が天を焦がす。その火が籠松明に移されると、山伏を先導として、いよいよ鵜の瀬に向け、手に手に松明を掲げた行列が始まるのである。練行衆の後からは村人らが続く。  場所は遠敷川の上流、神宮寺から一・五キロほど離れた鵜の瀬の淵《ふち》に変わるが、再びその河原《かわら》で護摩が焚かれる。季節を考えると、その周囲には雪が降り積もっているのが普通かもしれない。川《かわ》面《も》一面に松明の炎が映る中での儀式は、これまたさぞや幽《ゆう》玄《げん》なものであろう。二月堂と同じく、若狭でも火と水が別世界を創り出すのだろう。和《わ》尚《じよう》は厳粛に送水文を読み上げて、神宮寺から運んできた『香水』を切り、川に流す。そうして『お水送り』は終了するのである。        *  車は青《あお》戸《と》大橋を渡って半島を出、国道27号線に戻った。  火村は私の講義に熱心に耳を傾け、楽しんでくれているようだった。話が終わると質問を投げつけてくる。 「ご苦労さん。面白かったよ。——しかし、俺の質問に直接答えてくれていないな。小浜から奈良へ、水はどうやって送られるんだ?」 「答えたやないか。音無川の鵜の瀬に流した水が、二月堂の井戸から湧《わ》き出してくるんや。ちゃんと聞いてた?」 「ということは、小浜と奈良を結ぶ地底の川があるのか?」 「そう。地下水脈」  もちろん、そんなものはお伽《とぎ》噺《ばなし》だが。 「三月二日に『お水送り』があって、十二日に『お水取り』をするんだな?」 「そうや」 「ということは、小浜から送られた水は地下水脈を伝い、きっかり十日かかって奈良にたどり着くわけか……」  いや、そうではないのだ。 「昨日、婆《ばあ》ちゃんから借りた白洲正子さんの本によると、鵜の瀬から送った祭《さい》文《もん》が二月堂に着くまで一年かかるらしい。とすると、今年の三月二日に『お水送り』された水は、来年の三月十二日の『お水取り』の香水になるという仕組みや」 「そんなにかかるのか?」  火村が真顔で訊《き》き返すのがおかしかった。お伽噺だって。 「あのな——」 「判ってるって。フィクションにしても、地底の川が小浜と奈良を結んでいるというのは、なかなか楽しい話だな」  さすがに真に受けたのではないらしく、助教授はそんなふうに締め括《くく》ろうとした。となると、楽しい話はもう一つ付け加えたくなってくる。口を開きかけた時—— 「小浜と奈良はどれくらい離れてるんだろうな」  火村がひとり言を言う。 「大阪までが百キロや。奈良も大して変わらんやろう」 「百キロか。切りがいいな」  私のガイドは充分、友人を楽しませているようだ。よしよし、もう少しサービスしてやろう。 「ところで、婆ちゃんに借りた本、昨日の夜、寝る前に拾い読みをしたんやけど、面白い話が紹介されてた。井《い》原《はら》西《さい》鶴《かく》の『諸国噺』の中に『水節の抜け道』という題の話があるそうなんやけど——」        *  そのお話——  昔、小浜の越《えち》後《ご》屋《や》という商家にひさという女中がいた。ひさはある男と恋仲になるが、それを知った親方の女房は怒り、焼け火箸をひさの額に押しつけるという惨《むご》い折《せつ》檻《かん》をする。ひさは半狂乱となり、書き置きを遺《のこ》して小浜の海に身投げした。  正《しよう》保《ほ》元年、二月九日。  宮家の名前に採られ、平成の世に有名になる大和の秋《あき》篠《しの》の里で、村人が苦《く》心《しん》惨《さん》澹《たん》をしながら用水用の池を掘っていた。三日二夜掘ったところでようやく大きな水脈にぶつかり、出水が翌日まで続く。が、それが収まると、でき上がった池に女の死体が浮かんでいた。地中から湧き出てきた死体だ。二月堂の『修二会』に『おこもり』をするためにやってきていた通りすがりの旅人がそれを見る。いでたちなどからして、どうやら郷里、若狭の女ではないかと旅人は察し、着物や持ち物を調べてみると、越後屋の女中であることが知れた。旅人は哀れな女を葬ってやり、若狭に帰っていった。  ひさと恋仲だった男は出家をし、秋篠で彼女の冥《めい》福《ふく》を祈ることにした。二月十二日のこと。ひさの墓の前で読経しながらうつらうつらしていた彼は怪異を見る。越後屋の女房とひさが火の車に乗って現われるのだ。二人は掴《つか》み合いの喧《けん》嘩《か》を始めるが、やがてひさが女房に焼き金を当て、「今こそわが思ひをかへした」と叫んで消えた。その頃、若狭の越後屋では、女房が悲鳴とともに悶《もん》絶《ぜつ》したという。  物語中の日付は、いずれも『お水取り』のさ中のものである。        * 「かくのごとく、小浜と奈良は不思議な糸でつながっているとされてきたんや。物理学用語を使って現代風に言うと、二つの土地は『虫食い穴《ワームホール》』でつながっていて、鵜の瀬と若狭井はブラックホールとホワイトホールというとこかな」  図に乗って私は言う。われながら下《へ》手《た》くそな上に出《で》鱈《たら》目《め》な喩《たと》えだ、と思いつつ。 「それはまたよくできてて面白いじゃねぇか。さすがは戯《げ》作《さく》者《しや》、西鶴っていう落ちがついてるしな」 「うん、さすがは『日本のシェークスピア』や」 「それは近《ちか》松《まつ》門《もん》左《ざ》衛《え》門《もん》だろうが」  しまった。うっかりしていた。 「しっかりしろよ、『浪花《 な に わ》のエラリー・クイーン』」  悔しい。そんなからかいの言葉に、しばし耐えるしかなかった。       5  小浜駅を通り過ぎ、その隣りの東小浜駅近くで右折して南に向かう。藁《わら》葺《ぶ》き屋根が散見できる長閑《 の ど か》な田園風景の中を道は伸びていた。主がよほどのんびりしているのか、子供の希望なのか、まだ鯉《こい》幟《のぼり》を揚げている家もある。神宮寺と関係が深い若狭姫神社、若狭彦神社をやり過ごしていくと、やがて、道の左手に遠敷川が寄り添った。もちろん、見たところは何ということもない小川だ。伝説と歴史が風景を豊かにする。それが旅だ。  神宮寺に着いた時、時計の針は三時半を指していた。駐車場では二十人ほどの団体がぞろぞろと観光バスに乗り込んでいる。他にも停まっている車は数台あったが、いずれも福井ナンバーなので、観光客のものではないように見えた。  楼門をくぐって境内に入るなり、私はそこに外とは全く異なった空気が漂っているのを実感した。清《せい》冽《れつ》に澄んで、凜《りん》とした空気。境内を包む山々や森の深緑から、奥深く純粋な気が立ち昇っているような気がする。大きく深呼吸をしながら本堂を見上げると、堂々たる入《いり》母《も》屋《や》造り檜《ひ》皮《わだ》葺《ぶ》きの屋根のラインが美しかった。その重要文化財の本堂の左手の見事な枝振りの椎《しい》の木は樹齢四百五十年で、天然記念物に指定されているらしい。初老の男性が一人、その木に向かってカメラを構えている。広く清《すが》々《すが》しい境内の中で、その男性が点景になっていた。何もかもきれいに整ったいい眺めだ。雄《ゆう》渾《こん》なたたずまいの本堂の手前では、芝草が活《い》き活きと萌《も》えているのも、目に心地よい。  上の娘さんを嫁がせてから夫婦で若狭を旅した婆《ばあ》ちゃんも、ここに立ち寄ったんだろうな、とふと思った。それは三十年前のことだという。時の流れを感じた。 「さすがに立派なもんだな」  たっぷりと予習をしてきたから、火村も感心した様子で軒先がピンと跳ね上がった屋根を見上げている。 「うん。今はのんびりしてるけど、『お水送り』がある日は大変な人が集まるんやろうな。観光客も押しかけるし、NHKやらのテレビ局もやってくるやろうからな」  火村は四方の緑を見渡しながら、「どうだ?」と私に訊く。 「赤星さんがここにきた匂《にお》いを感じるか?」 「いや、さっぱり判らない」 「だよな」火村は顎《あご》でしゃくって本堂を指した。「上がってみよう」  私たちは靴を脱ぎ、それを両手に本堂に上がった。中はがらんとしているのかと思いきや、二十人ほどの拝観者が板の間に正座していた。どうやらこれから住職による寺の縁起のお話が始まるところらしい。私たちが落ち着くのを待つようにいくつもの目が注目していたので、後ろの方に慌てて座る。 「膝《ひざ》を崩してもかまいませんよ」  住職の言葉に従って、すぐそれを実行したのは私の連れ一人だけだった。  思いがけない場面に飛び込んでしまったが、十分少々の住職の話は滅法面白かった。と言っても、くだけた表現や冗談で聴き手のご機嫌を窺《うかが》うようなものではない。語られるのは仏教と神《しん》道《とう》を二重化してきたわが国民の信仰の有様や、国家宗教としての神道のうさん臭さだ。神宮寺の歴史については一夜漬けで勉強していたので、大《おお》雑《ざつ》把《ぱ》なところは理解していたのだが、明治の神仏分離令の際にはあの廃《はい》仏《ぶつ》毀《き》釈《しやく》に遭って、境内にある遠敷明神の社殿は打ち壊され、ご神体を差し出すように求められたりもしたという。そんな歴史を背負っているせいか、住職の悠揚迫らぬ落ち着いた口調の中には重いものが込められていて、時に内容は過激だった。  また、内容もさることながら、違った意味でも私はいたく感服してしまった。この住職は同じ話を一日に何度も何度も、何年にも亙《わた》って繰り返してこられたのだろうに、話がこれっぽっちもくたびれていない。語っている自分にとってはルーティンワークそのものであっても、聴き手にとっては生涯ただ一度のものであることを、日本人が好んで口にする一《いち》期《ご》一《いち》会《え》というものを、本当に信じているからだろう。それは、なかなかできることではない。  お話が終わると、拝観者らは住職に頭を下げてからめいめい本尊を拝み、本堂を出ていった。私は、話し終えてひと息ついている住職に近づく。 「大変いいお話を聴かせていただきました。ありがとうございます」  お礼の言葉を述べたかったのだが、目的はそれだけではなかった。私は赤星の著書を取り出して、その著者近影を見てもらわなくてはならなかった。 「最近、この人がこちらに参拝にこなかったでしょうか? きたとすると、五月十日頃だと思うんですが」  きていたのなら、彼も同じ話に聴き入ったと確信する。しかし、住職は穏やかに首を振った。ならば——彼はこなかったのだろう。  私はもう一度お礼を言って本堂を出た。横に立ってそのやりとりを見ていた火村も、少し遅れて靴を履く。境内に降りた彼は、本堂を振り向いてまた屋根を見上げた。  本堂正面の階段の両脇に立っていたのは単なる柱ではなく、振り返って全体を見ると鳥居になっていた。その横に渡した貫《ぬき》の部分に注《し》連《め》縄《なわ》が張られており、十二枚の幣《ぬさ》が風にはらはらと揺れている。 「あの注連縄は毎年お正月に張るんですけどね」  背中で声がした。自分たちに話しかけているようなので向き直ると、さっきから境内で写真を撮っていた男性がにこにこしながら立っていた。カメラを首からぶら下げている。 「それがだんだんにたるんでくるんですよ。ほら、少しだらんとなっているでしょう」 「ええ」と私が応える。「たるんでいますね」 「自然にああなるんですよ。本堂の側から見上げたら、たるむにつれて、向かいの山の頂が縄の中に頭を出してくるんです。垂れ下がったちょうど真ん中にね」  火村と私は、今度は反射的にその山を仰ぐ。何の変哲もない山だが。 「夏《げ》至《し》の日になると、あの山のてっぺんから日が昇るんです。たるんだ注連縄の真ん中からですよ。意味ありげですね、昔の人がしたことは」  同感の意を伝えると、老人は満足そうだった。私の聴きっぷりがお気に召したのか、彼は神宮寺の縁起や『お水送り』について話しだした。ここにくる車中で、おそらく私もこんな楽しそうな顔をしていたのだろう。親切に報いるために、相《あい》槌《づち》といくつかの適切な質問を挟むことを私は怠らなかった。 「ここは色んな意味でミステリアスなところですね」  私はそれを結びの言葉にしようとした。老人はポケットから薄い手帳を取り出す。私のようにアンチョコを用意しているのかしら、と思ったが、彼が開いたのは巻末の日本地図のページだった。 「ここが小浜です」  ボールペンの先で指す。私たちは覗《のぞ》き込んで「ええ」と頷《うなず》く。 「そして、ここが奈良。ちょうど百キロメートルあります。まぁ、天《てん》平《ぴよう》時代にメートル法はありませんでしたけれど、面白いですね。それからほら、御覧なさいな。小浜からみた奈良の方角は真南です」  地図の上に線が引かれる。 「あ、本当だ」火村が無邪気な声を発した。「距離がきれいに百キロなだけじゃなくて、方角も意味深だな」 「うーん、しかもその線上には京都があって串《くし》刺《ざ》しになってるぞ」  私たちの会話を聞いて、老人はますますうれしそうに笑う。 「妙なことはまだあるんですよ。小浜と奈良をつないだ線をさらに真南に延長してみますよ」  老人は地図の上でボールペンを走らせ、小浜—奈良と等間隔に見える地点で止めた。 「紀《き》伊《い》山地の中ですね」  手帳のおまけ地図なので細かい地名など入っていないが、山中なのに違いない(地図1参照)。 「ここは、熊野三山の一つの、熊《くま》野《の》本《ほん》宮《ぐう》大《たい》社《しや》です。偶然なんでしょうかね」  答えようがなかったが、私は少し興奮してしまった。        *  神宮寺を後にした私たちは、ここまできたついでに鵜の瀬を見ようと、遠敷川のさらに上流に向う。車だとほんの数分しかかからなかった。  河原《かわら》に『東大寺』と書かれた小さな鳥居が立ち、対岸に祠《ほこら》があった。遠敷川の流れはなかなかに急だ。その急流は湾曲した岸の岩に洞《どう》穴《けつ》を穿《うが》った上、淵《ふち》でゆるやかに渦を巻いていた。あの奥底に東大寺へ通じる秘密の水路があるのか、と私は洞穴の黒々とした闇《やみ》を見つめる。  測ったように奈良はこの真南、距離は百キロ。そのさらに百キロ南には熊野本宮がある、という聞いたばかりの事実が気にかかる。それは何者かの大いなる意志によって意匠されたもののようでいて、実は何ごとも表わさず、意味という水が涸《か》れた井戸なのだろうが。 「何か流してみようかな」火村が言う。「奈良まで十日かかるんだとしたら、京都はここと奈良のほぼ中間にあるから、俺の家の下までは五日目で届くことになる。奈良まで一年だとしたら、俺んちまで半年」 「婆《ばあ》ちゃんちの真下を水脈が通ってるとは限らんやろう」 「真下は無理かな。でも、京都のどこかを掘れば見つかるわけさ」  いつまで戯《ざれ》言《ごと》を言っているんだ、と思っていると、彼は小さな欠伸《あくび》をしてくるりと車の方へ振り向いた。 「推理作家の興味を惹《ひ》いたかもしれない次のミステリー・スポットヘ行こうぜ」 「お参りしたら白《しら》髪《が》がストップするかもしれへんしな」  私が言うと、彼は自分の髪をひと掴《つか》みして、ふんと鼻を鳴らした。 「別に気にしちゃいねぇよ」       6  その次なるスポットである空印寺に向かった。小浜藩主、酒《さか》井《い》氏の代々の菩《ぼ》提《だい》寺《じ》で、あの八百比丘尼が生涯を終えたところだ。赤星は人魚をモチーフに使った小説を書くために旅立ったのだから、奇禍に遭わなければここを訪ねたはずである。  付近には寺や神社が点在し、風《ふ》情《ぜい》のある古い家並みが続いていた。先に行くと三丁町という旧遊《ゆう》廓《かく》町らしいが、かつてはさぞや賑《にぎ》わったことだろう。その道から少し脇に入り、石《いし》灯《どう》籠《ろう》が並んだささやかな参道の奥に空印寺はあった。閑静なたたずまいの寺だ。八百比丘尼が入《にゆう》定《じよう》した洞穴は境内に踏み入ってすぐの手前にあった。その向こうが酒井家の墓所でもある霊域。さらに奧が本堂だった。  静寂があたりを包んでいる。私はしばし、その静寂に耳を傾けた。 「入ってみよう」  火村は砂利を踏み鳴らして洞穴に向かう。高さ一・五メートル、幅が二メートルぐらいの洞《どう》窟《くつ》の入口付近には、比丘尼を偲《しの》ぶ椿《つばき》が植えられ、右手には比丘尼の像があった。座禅を組み、念仏を唱えながら命の最期の火を燃やし尽くした比丘尼にふさわしく、座像であった。  背中を丸めて中に入る。奧行は五メートルばかりで、『八百比丘尼』と刻まれた花《か》崗《こう》岩《がん》の碑が建っていた。私たちは湿った空気の匂《にお》いを嗅《か》ぎ、洞内を見回してから碑に手を合わせて出た。  本堂で彼の写真を示しながら訊《き》き込みを行なう。やはり成果はなかった。  墓石と卒《そ》塔《と》婆《ば》が立ち並ぶ中で、私は足を止めた。静けさの彼方《かなた》から何かが近づいてくる。白壁の蔵の陰から、まるで線路の響きのような——  木立ちの向こうから二両連結のディーゼルカーが現われた。線路が隠れて見えないので気がつかなかったが、小浜線が墓地のすぐ裏を横切っているのだ。予想もしないところに突如出現した列車は、すぐに眼前を走り去り、裏山のトンネルに消えていった。        *  夕日が岬の向こうに沈んでいく。雲も、海も染めた夕焼けがきれいだ。 「色々と興味深い見聞があったけれど、捜査としては収穫なし、やな」 「赤星楽は生きてこの街に着かなかったのかもしれない」  私は東、火村は西を向いたまま呟《つぶや》いた。  ここは海岸通り、堀川橋の袂《たもと》にある小ぎれいなテラスである。観光のワンポイントとしてたおやかな人魚像が二体並んでおり、記念撮影には恰好のところだ。人魚と八百比丘尼の伝説を記したプレートが嵌《は》め込まれた大きな円形の台座は、ゆったりとしたベンチも兼ねていた。 「赤星が生きてこの街に着かなかったということは、よそで殺されてからあの岬に運ばれたって言うんやな。それはええ。捜査本部もそんな見方をしてたからな。としたら、問題は殺人現場はどこか、になる。警察が捜しあぐねてる現場を俺らが突き止めるのは至難の業というより、無理な相談やな」  右の人魚像の下に腰掛けた私は、左の人魚の像の下の火村に顔だけ向けて言う。返事はすぐに返ってこなかった。 「東京へ行ってみっかな」 「何?」  火村は茜《あかね》色の西の空を見たままだ。 「被害者自身も関係者のほとんども東京在住だ。直接会って話を訊いてみたい」  となると、関係者らを知っている私もついていかなくてはならない。ここ一週間で三度目の東京行きになるが、私はかまわない。火村の方こそ講義は大丈夫なのか? ——いいんだろうな。 「判った。霧野さんと塩谷さんにも会えるようにセッティングさせてもらうよ」  助教授は夕焼けに向かって、軽く頷《うなず》いた。 「お二人には気の毒やけど、事件当日、仕事で関西にきてただけで疑われても仕方がない状況やもんな。——小浜と京都や南大阪やったら相当距離があるんやけど」 「そうかな」  キャメルに火を点けながら火村が言う。 「そうかな、とはどういうことや?」 「塩谷さんは京都にいたという。霧野さんがどこにいたのか詳しいことは知らないけど、大阪の南にいたのなら、生駒山をトンネルでくぐればすぐ奈良だ」 「奈良がどうした?」 「奈良は地下水脈で小浜につながってる。京都も、小浜—奈良のライン上だ。井戸を掘って、地底を流れる秘密の川に死体を投じれば、若狭湾まで運んでくれたかもしれないだろ?」 「アホらしい」  真面目に聴こうとしていたのが馬鹿馬鹿しくなった。 「遺体は車で半島の先に運ばれたらしい、とついさっき実地調査で確かめたばかりやないか。だいたいやな、地底の川っていうのが実在してて、霊感をもってそれに通じる井戸を掘り当てられたとしても、流れが逆やないか。『お水送り』は小浜から奈良に送るんであって、奈良から小浜へは何も流れへんやろう」  火村はくわえ煙草のまま、ゆっくりとこちらを向いた。 「んなこと判らねぇだろうが、どんなものなのか見たこともないくせに。小浜が高い山の上の街なら水が川を上っていくことはあり得ないけど、そうじゃない。地底には、小浜発奈良行きだけじゃなくて、奈良発小浜行きの流れが並んでるのかもしれない。上りと下りさ」 「電車か」  と突っ込みながら、このジョークが小浜に乗り込んできて得た唯一の収穫なのか、と私は苦笑した。 「判らないのは、小浜を出た水が奈良へ流れつくのにかかる日数が十日とも一年とも言われてるのに、どうして小浜へ流した遺体がたった半日で若狭湾に出たかということさ」 「もうええって。俺も疲れてるんや」  抗議する私を翻《ほん》弄《ろう》するように、火村は話題をUターンさせるのであった。 「東京に行ったら、人魚の肉を食べた穴吹社長にもお目にかかりたいな」  できるだろう。 「誰にでも会わせてやる。必要とあらば首相官邸にでも宮内庁にでも掛け合うぞ」 「友だち甲斐があるねぇ」 「事件当夜、関西にいた人間だけに絞らず、色んな関係者に会いたいんやろ? 結構なことや」  軽い調子で言ってしまってから、『結構なことや』はまずいな、と私は感じた。これは本来、臨床犯罪学者、火村英生のフィールドワークではなく、私自身が取り組んで彼に相談を持ち掛けた問題ではないか。調べている対象は、私自身の友人の死ではないか。——そう反省したのだが、そんな不用意な言葉に火村は全くひっかからなかった様子だ。『友だち甲斐があるねぇ』とは、彼も、もの判りがよすぎる。 「小浜ツアーは不発だったかもしれないけれど、東京で態勢を立て直すさ。犯行現場がどこか特定できていないんだから、関西にきていなかった人間だって疑おうと思えば疑えなくもないからな」 「大胆な発言やな。けれど、赤星は『海のある奈良』へ行くって——」  私の言葉は遮られた。 「小浜に行くとはっきり言ったわけじゃない」 「それはそうやけど……」 「だろ?」  火村の後ろに日はみるみる沈んで消え、残照が広がっていく。 「赤星の部屋には若狭地方のガイドブックが何冊かあったぞ」 「それはそれ。また別の取材用のものだったのかもしれないし、犯人の偽装だという可能性もある」 「犯人は赤星を殺した後、彼の部屋に細工をしに行った、って言うのか?」 「できただろう。鍵《かぎ》は遺体のポケットかバッグをまさぐれば手に入ったんだから」  おかしな具合になってきたぞ。 「彼が言った『海のある奈良』とは、小浜ではないどこかを指してる、と言いたいんやな?」 「そう呼ばれるところが他にあるのかどうか、俺は知らないけど、あるかもしれない」  私は腕組みをした。 『海のある奈良』と呼ばれる土地、あるいは、そうアピールしている土地が小浜の他にも存在しているかもしれない、と考えたことはなかった。盲点だったのかもしれない。しかし—— 「いやぁ、待ってくれ、赤星は『人魚の牙』という小説の取材に出たんやぞ。そのもう一つの『海のある奈良』にも人魚伝説があるのか?」 「そこか、その近くに」  私たちは卓球のように勢いよく言葉を打ち返し合う。 「一体どこか教えてくれ」 「俺も知らないって言ってるだろうが。——アリス、お前こそ心当たりないか?」 「知らん」 「なら探せ」 「それは東京から遠くないところかもしれない?」 「かもな」 「しかし、赤星は旅立つ前に『西《さい》国《ごく》』とも言ったんやぞ」  火村の右の眉《まゆ》がピクリと動いた。 「そんなこと聞いていなかったぞ」 「ん……言うてなかったか?」 「聞いてない。情報はささいなことまですべて伝達しろ」 「以後、注意するよ。——彼は『有栖川先生のおわす西国』と言うたんや」 「だとしたら、やっぱり関西か」 「そうとは限らない。西国というのは関西より西の方面も指すし、九州というニュアンスも強い」 「おっと、九州とはまた飛ぶな、無責任に。しかし、西国三十三か所というのは近《きん》畿《き》地方の札《ふだ》所《しよ》だろ?」 「確かに」  火村は溜《た》め息をついて、黙った。つられて私もほっと吐息をつく。卓球に疲れた私たちは、そのまま一分間ほど、口を開かなかった。  黄《たそ》昏《がれ》の向こうから若いカップルが、いちゃつきながらやってきた。人魚像のあるテラスで語らうのは彼と彼女の方が似合うだろうから場所を譲ってやるか、と親切な私は思う。 「暗くなってきたな。そろそろチェックインするか」  火村が先に腰を上げた。カップルが運んできた甘ったるい空気から逃げたかったのかもしれない。  近くに駐車させていた車に乗り込む。ホテルまでは数百メートルしかなかった。  火村が宿泊カードを記入している間に私は預けておいた荷物を出してもらいながら、当地に受験生の土産《 み や げ》にいい品物はないか、と年《とし》嵩《かさ》のフロント係に訊《き》いてみた。特に受験生向けのものは思い当たらない、とホテルマンは恐縮したように答えた。  二つ受け取った鍵の一つを、火村はぽいと投げてよこして—— 「すぐ飯にするだろ?」 「魚魚魚」 「判ったよ。俺は部屋から大学に電話をするから、先にここに降りて待っててくれ」  ということで、荷物を最上階の部屋に置くと、私はすぐまた一階に降りた。  ロビーのソファに座ろうとした時、ベンジャミンの陰の公衆電話が目に留まった。火村は早速、明日にでも東京に向かうつもりだ。関係者たち全員にアポを取ることはできないが、塩谷が会社にいるかどうかだけでも確認しておこうか、と思った。フロントの時計を見ると七時三十分だから、まだ退社していないかもしれない。  私はあの珀友社オリジナルテレホンカードで電話を入れてみた。塩谷本人を電話口に出してもらうつもりだったのが、通じた瞬間に気が変わって、片桐を呼んでもらうことにした。彼はいた。 「残業ご苦労様です」  実はまた明日から東京に行くのだけど、とおっとり話しだした途端に、相手は「有栖川さん」と呼びかけてくる。 「ニュースを聞いて電話してきたんじゃないんですか?」  様子がおかしい。赤星の死を告げられた数日前の電話と似て、堅い響きだ。 「また何かあったんですか?」  私は恐る恐る尋ねた。エレベーターが開いて火村が出てくるのが視野の片隅に見えている。 「どうして俺が凶報を伝える使者の役ばっかしなきゃならないのかなぁ。ああ、因果だ」  うんざりしたように言ってる。私は少し苛《いら》立《だ》った。 「ニュースって何なんです? もしかして——」 「昨日の夜、近松ユズルさんが死にました。自殺のようなんですが、もしかすると、これも殺人かもしれないそうです」  瞬時に表情が変わったのだろう。傍らに寄ってきた火村が、私をにらみつけるようにして尋ねてきた。 「どうした?」  第四章 毒 杯      1  翌日、私たちは京都に戻ってから、新幹線で東京に向かうことにした。往路とルートを変え、国道162号線を通り、名《な》田《た》庄《しよう》村を抜け、堀《ほり》越《こし》峠を越え、園《その》部《べ》から山陰本線に沿って京都へ出る。行きは『逆くの字』、帰りは『くの字』の形のルートで京都と小浜を往復することで、何かの発見があるかもしれない、と淡い期待をしてのことだ。帰りのルートの方が走る距離は短いのだが、山越えの厳しさを比較すると行きの旧若狭街道ルートに分があるような気もする。所要時間はどちらも二時間十五分程度で、あまり差はなかった。 「太《うず》秦《まさ》の朝井女史が犯人だったなら、こっちを採っただろうな」  京都市内の新《しん》丸《まる》太《た》町《まち》通りに出、信号待ちで停まったところで火村が不謹慎なことを言った。一昨日、お互いにあまり素直な態度ではなかったが、意気投合したのではなかったか? 「彼女を疑ってるのか?」  どんな顔をして言ってるんだ、と思いながら相棒の横顔を覗《のぞ》き込むと、彼は澄まして赤信号を見上げつつ、「いいや」とだけ言った。 「彼女の車の助手席に座ったことが一度だけあるから言う。彼女があの道を夜中に走るのは非常にきついものがある。運転は荒っぽいって自分で言うてたやろう?」 「彼女を積極的に疑う理由はないよ」  助教授の返答はそれだけだった。  北白川の家に立ち寄って車を戻すと、火村はてきぱきと新しい着替え——私の方は東京のホテルで洗濯だ——を鞄《かばん》に詰めた。そして、「東京へ?」と驚く婆ちゃんに塗《ぬ》り箸《ばし》の土産《 み や げ》を渡して、二人してばたばたと京都駅に向かうのだった。  新幹線の座席について駅弁の昼食をすませると、火村は赤星の本を鞄から取り出した。シレーヌ企画で映画化された『アリバイの鐘』という作品だ。 「彼の代表作だったのか?」と訊《き》いてくる。 「世間ではそうなってる。俺としては他にもっとよくできてると評価したいのが二、三作ある」 「これは彼の個性がよく出た作品なんだろ?」 「そう、彼らしい作品。奇想の復活。弘《ひろ》前《さき》泉《いずみ》教授も出てくるし」 「誰だ、それは?」  弘前泉は犯罪社会学者ならぬ考古学者の名探偵で、赤星が売り物にしているキャラクターである。その先生が教え子のキャピキャピの女子大生——死語か?——を助手にして日本中のあちこちに調査に赴いては事件に巻き込まれ、やむなくアマチュア探偵を務める、というのが基本設定だった。火村が読んだら渋い顔をするだろう。  一昨日、ある大型書店を覗くと、赤星楽の著書を集めたコーナーが設けられていた。殺された推理作家のニュースを聞いて、どんなものを書いていたのか興味が湧《わ》く人間が大勢いるのか? 書店の商魂がそれを促しているのか? 以前、ある書店員A氏のぼやきを聞いたことがある。  ——小説家に限ったことじゃないですよ。有名人が死んだら本屋は大慌てです。「それ、関連図書を発注しろ。ちょっとでも遅れたら在庫がなくなるぞ。急げ。『追悼〇〇コーナー』だ。まとめて平積みしろ」ってね。読者のニーズがあるんだから、そうするのがサービスですけど、人が死んだニュースを聞いた途端に「さあ、すぐ発注だ」と商売のことが頭に浮かぶ自分にうんざりすることがあります。まるで禿《はげ》鷹《たか》だもの。でも、売れるんでしょうって? いえ、大して売れません。「有《あり》吉《よし》佐《さ》和《わ》子《こ》さんが亡くなったと聞いてびっくりしました。で、どんな本を書いてらしたの?」なんて変なことを言って飛んでくるお客さんが以前はいましたけれど、それも最近はない。さすがに三島由紀夫の時は凄《すご》かったらしいですけどねぇ。あれが最後でしょう。最近の追悼コーナーなんて、本屋の曖《あい》昧《まい》な使命感と自己満足で作られるだけなんです。……ねぇ、昭和天皇の下血の状況が刻々と報じられていた頃、本屋は何をしていたか、見当がつくでしょう? あれは昭和という時代の臨終だったんですから……  引用が長くなってしまった。彼は今回も赤星の追悼コーナーを設けただろうか? 病気で逝《い》ったのとはインパクトが違うから、赤星の本は販売に結びついているかもしれない。現に、私も彼の著書をコーナーから取ってレジに運ぶお客を数人目撃した。彼らの関心はごく自然なことで、売る方も買う方も禿鷹のようだとは感じないし、嫌な気もしない。ただ、生きている間に読んでもらえたら作者はもっと喜んだだろう、という素朴な感慨があっただけだ。  いいかげんに余談は措《お》こう。もちろん、火村は野次馬的興味から赤星の本を読み始めたわけではない。被害者がどんな取材旅行をしようとしていたのかがこの事件の重要なポイントだと考えて、彼の作風をデータとして入力しようとしているのだろう。 「二時間あれば読めそうだな」  火村が読書を始めたので、私は電話をかけるために席を立った。シレーヌ企画の穴吹奈美子と霧野千秋にアポを取るためだ。近松ユズルの死という大きな事件が起きたことで、面会は難しい、と断わられなければいいが、と心配した。  霧野を呼んでもらい、「突然で申し訳ないのですが」と用件を伝える。 「私はかまいませんが、社長の都合は訊いてみませんと」  彼は一《いつ》旦《たん》、通話を保留にして、穴吹社長に確認をとってくれた。 「社長もお会いできます。それと、有栖川先生の作品を脚本にする大《おお》茂《しげ》という者をご紹介します」 「それはどうも。——こちら一人、仕事のアドバイスを受けている友人を連れていきますので、ご承知おき下さい」 「今日の六時頃にお越しですね。お待ちしております」  近松の死について、こちらが言及しなかったせいか、相手も何も言わなかった。私の突然の訪問と彼の死は関係があるのだろうか、と霧野は内心で訝《いぶか》っていたかもしれない。 「アポは取れたぞ」  座席に戻って火村に報告する。彼は「ああ」と生返事をしたまま、本から顔を上げようともしなかった。小説に入り込んでいるらしい。  私は車窓を眺めて一人でぼけっとすることにした。——が、どうしても昨日もたらされた訃《ふ》報《ほう》のことが頭に浮かんでくる。  近松ユズルは殺されたのだろうか? 殺害されたのだとしたら何故、何者に?  ごく断片的な情報しか得ていないので考えても詮《せん》ないことなのだが、赤星の死と関連があるように思えてならない。それに、近松本人とは一度会ってあれこれ話を聞いていただけとはいえ、知らない人間ではなくなっているわけで、やはりショックだ。まだ微かにあどけなさを残した自称ジゴロ。憎めない印象だったのに。  昨日の電話、片桐の声を思い出す。 「近松さんが自宅で死んでるのが今日の昼過ぎに見つかったんです。毒を飲んだようです」  判っていることを全部教えてくれ、と私は頼んだ。 「発見者は警視庁の刑事です。ほら、うちにもやってきた麻生と清田っていう二人。また近松さんに訊きたいことができたので訪ねていったんだそうです。そうしたら、いくらノックしても大声で呼んでも返事がない。錠が掛かっているので留守かと思ったけれど、ドアに耳を押しつけると微かにテレビの声がしている。時間をおいて外から電話をしても出ないし、再度訪ねていっても同じ様子だったので、どうもおかしい、というので大家に合《あい》鍵《かぎ》で開けてもらって入ると、ダイニングの床に倒れて死んでいたんだそうです。  亡くなったのは十五日、日曜の夜遅くとみられていて、死因は薬物中毒です。致死量をはるかに越える青酸カリだか何だかが、ダイニングのテーブルに置いてあったウィスキーのボトルとグラスから検出されたそうです。自殺っぽくも見えるけれど、部屋中捜しても遺書がないし、音量を上げたテレビをつけっぱなしにしたまま毒を飲んだりするのは不自然だ、と警察は不審に思っているみたいです」  警察がどう思っているかまでよく知っていますね、と私が皮肉抜きで言うと—— 「それは塩谷さんがシレーヌ企画の人から聞いた話です。赤星さんの事件でも刑事があの会社にあれこれ訊きに行ったそうですけれど、今回の近松さんはアルバイトとはいえシレーヌの従業員ですからね。あそこは大騒ぎですよ」  片桐が持っている情報はそれだけだった。また東京に行く旨を伝えると—— 「何回も東海道を往復して大変ですね。そうですか、かねがねお噂《うわさ》を伺っていた火村先生もご一緒ですか。ところで、宿は決まってます? まだならどこか適当なところを予約しておきますよ。高過ぎないホテル。お話を訊きたいということですけど、塩谷なら明日は社にいますから、大丈夫ですよ。私も体を空けておきます。できることがあれば、何か協力させて下さい」  私は礼を言い、東京に着いたら珀友社へ直行する、と伝えて電話を切った。  近松の死は今朝の新聞で報じられていた。話題の赤星楽の従弟《 い と こ》の変死ということで、全国紙もほうっておかなかったらしい。しかし、どんなつながりがあるのか判らない段階なので扱いは小さく、従ってそこから得られた新しい情報はなかった。  殺人だとしたら、近松ユズルは何故に殺されたのだろう? 小浜署の池田警部から聞いた話が気になる。彼が穴吹奈美子から可《か》愛《わい》がられていたという話。赤星の死と近松の死は、彼女の上で焦点を結んでいるのかもしれない。彼女が恋を食べることによって若さを保ち続けているのだとしたら、人魚の肉とは赤星や近松たち、男?  名古屋を出た頃から眠気が襲ってきたので、私は半《はん》睡《すい》の状態にふしだらに身を委ねた。そのうちいつしか本当に寝入ってしまい、目が覚めた時に列車はちょうど熱《あた》海《み》駅を通過中だった。  火村は車内販売のコーヒーを飲んでいて、いい香りが漂ってくる。赤星の本は前の座席のポケットに突っ込まれていた。 「読み終えたよ」 「感想は?」  火村は、尖《とが》り気味の鼻の頭を掻《か》いた。 「笑わせてもらったよ」  怒らなかっただけもうけものだな、と私は安心した。実は、彼が読んだ作品は相当な与《よ》太《た》話なのだ。 「いくらホームスティのアメリカ人小学生とはいえ、日本地図ぐらい頭に入っててよさそうなもんじゃねぇか」 「そうは言うけど、日本が島国だということも彼らの多くは知らないぞ」  私は作品の弁護に回ってみる。 「それにしても、な」  赤星楽は奇想天外なトリックを操り、その作風はなかなか大胆だ。火村を苦笑させたこの作品の場合、とりわけその趣が濃厚だった。  込み入った話で、クライマックスでは活劇場面もあるのだが、そもそも作中の捜査が混乱したのは一人のアメリカ人少年の誤った証言が原因になっている。彼は途中で事故に遭って意識不明の状態に陥るため、その誤解に作中人物らは気がつかない。われらが名探偵、弘前泉の慧《けい》眼《がん》だけがそれを見抜くのであった。こんな具合に—— 『少年は無知から大きな誤解をしていたのです。快方に向かっていますから、意識が戻れば確認できるでしょうが、彼の頭から日本の地理が抜け落ちていたことに注意して下さい。いいですか? 少年の頭にあった日本とは、彼の部屋に貼《は》ってあったあの簡単な地図だけです。あれがすべてなのです。いいですか? あの地図の中で北海道はどこに位置していました? そう、九州の正に真北にあるじゃないですか』  これが真相のすべて、という作品ではないが、名探偵には気合いが入っていて、口癖の『いいですか?』を連発している。  私は日本地図をデザインした珀友社のテレホンカードを出して、火村に差し出した。 「ほれ。この地図でも北海道はやっぱり九州の真北にある。沖縄は紀伊半島の沖(地図2参照)。ああ、異形の日本列島。でも、よく見かける地図やないか」  北東から南西に長く伸びた日本列島は長方形のスペースに収めにくいため、両端の北海道と南西諸島が北西と南東の余白に移動させられているのだ。移動させられた部分は黒い線で囲んであるので、常識的には判らないはずはない。赤星の作中では、そんな突拍子もない錯覚を読者に納得させるために工夫がなされているのだが…… 「推理作家っていうのは言い訳するのが商売みたいだな。だから俺は推理小説なんて読まないってんだよ」  火村は職業差別的な発言をした。よく言うよな。まるっきり推理小説っていう事件をこれまでにいくつも調査しておいて。 「笑ってられへんのやないか。今回の殺人事件は、推理作家である赤星の次回作の構想に則《のつと》って実行に移されたものかもしれないんやから」 「幸いなことに、今のところ、この本に登場したような芸術的方向音痴には出会ってないけどな」 「いたりして」 「へん。もしかしたら赤星さんは奈良が海に面してると本気で思ってたとか?」 「そうそう、西と東を間違って覚えてたとか」  火村は「ええい、クソ!」と首を振った。 「やめてくれ。推理作家がうつる」  職業差別だ。       2  珀友社に着いたのは四時前だった。  編集部に顔を出すと、片桐が待ち構えていたように寄ってきてくれて、応接室に通される。自分の最新刊の見本を受け取りにやってきた十日の日、やはりここに通されたっけ。あの時、片桐が見本を取りに行ってる間に、ひょっこり赤星が顔を出し、雑談を交わして、そして……    ——行ってくる。『海のある奈良』へ。    記憶はまだ鮮明だ。今にもまたドアの陰から赤星が「よぉ、もうかってまっか?」と、あの私が嫌いな挨《あい》拶《さつ》をしかけてきそうな気がした。 「火村先生のお話は有栖川さんから、しょっちゅう伺っています。——片桐です、どうぞよろしく」  初対面の片桐は深く頭を下げ、助教授と名刺を交換した。受け取った名刺を見た編集者は、ちらりと私に視線を送る。『普通の肩書きなんですね』と言いたいのだろう。そう、英都大学社会学部助教授とあるだけで、臨床犯罪学者やら私立探偵と書いてあるわけではない。 「塩谷はすぐにきます。ちょっと急の来客があったものですから」  彼がそう断わっているところへ、塩谷が姿を現わした。 「いやいや、どうも。お待たせしてすみません」  再び始まる名刺交換。火村のありきたりの名刺を、塩谷は——彼らしくもなく——しげしげと眺めていた。尋常な学者ではない、という予備知識を片桐から得ているのだろう。 「近松さんが亡くなったと聞いてびっくりしました」  私はそう第一声を発して、後は誰かがしゃべりだしてくれるのを期待した。この中では事情に一番通じているらしい塩谷が、「全く」と乗ってきてくれる。 「私が近松さんの事件を知ったのは、昨日の三時頃でしたかねぇ。朝井さんの小説がシレーヌ企画でVシネマ化が進んでいることはご存知ですよね? その件で、私から問い合わせの電話をかけたんですよ。具体的な用件は、完成がいつになるのか、宣伝面でお互いにどんな形のタイアップができるか、といったようなことについてですね。かけた相手は穴吹社長でしたが、霧野さんが出たんです。霧野さんはご存知ですね?」  片桐だけが知らなかったので、私が説明した。 「『申し訳ないけれど、取り込み中なんです』と彼は言うんですよ。客がきていて手が離せないとか大事な会議中だとかいうんじゃなくて、緊迫したものがその声から察せられましてね。それで、『どうかしたんですか?』と訊《き》いたら、実は近松さんが亡くなったと……」  そこで言葉を切り、クラーク・ケント眼鏡の弦《つる》をつまんで持ち上げる。 「近松さんが死んでいるのを発見したのは警察だったそうですね?」  まずは塩谷にどんどん話してもらわなくては困る。私は彼の目を見て言った。 「そうです。赤星さんの事件について刑事が近松さん宅に話を訊きにいったところ、いくら呼んでも返事がないので入ってみたら死んでいた、ということです。それが午後二時前だったそうです」  塩谷の電話が三時頃だとすると、ちょうど警察から知らせが入って大騒ぎになっている最中だったと想像できる。 「ということは、その日、近松さんは欠勤していたんですか?」 「ええ、無断で休んでいました。しかし、おかしいな、と思いながらも、会社の方から電話をかけたりはしていませんでした。ま、無断欠勤といってもアルバイトのことですし、赤星さんのことがありますから、それに関して何か急用ができたのかもしれない、と霧野さんは思ってたそうです」  そんなものだろう。 「毒入りのウィスキーを飲んで死んでいたと聞いていますが、自殺か他殺かはっきりしていないんですか?」と訊く。 「刃物で刺されていたというんじゃありませんから、なかなか簡単には決められないんでしょう。しかし、自殺にしては腑《ふ》に落ちない点が多々ある、と聞いています。まず、第一には遺書が遺《のこ》っていないことですね。彼のように自意識たっぷりタイプの人間が自殺に際して見得の一つも切らないはずがない、と霧野さんは言ってました。これは彼の個人的な感想ですけどね。  それから、自殺をするような素振りはなかった、というのが周囲の人たちの反応です。赤星さんのことがあってショックを受けてはいたようですけど、事件の直後もそんなにひどく塞《ふさ》ぎ込んでもいなかったそうなんです。事件はまだ未解決ながら、三日前には赤星さんの葬儀もすんで、落ち着いてきていただろうに、というのが衆目の一致するところです」  勤め先の人間以外にも彼と接触していた人たちがいるではないか、と思って私は口を挟む。 「警察の捜査員も近松さんと頻繁に会っていたと思うんです。そういう人たちはどう考えているんですか? 職場の人たちとは違う印象を受けていたということはなかったんでしょうか?」  塩谷はハンカチで額を拭《ぬぐ》った。汗かきなのを承知していたから、そんなしぐさにあらぬ意味を探ったりはしないが—— 「刑事から直接話を聞いたわけじゃありませんから、よくは判りませんけれど……。『自殺のサインらしきものに気がついた人はいないか?』と関係者にしつこく尋ねて回ってたところからすると、刑事たち自身はそんなサインをキャッチしていなかったんじゃないでしょうか」  汗を拭き続けている落ち着きのない男に、火村は柔らかく尋ねる。 「自殺の兆候らしきものに誰かが気づいたか否かはさて措《お》いて、そもそも近松さんが自殺に走る要因はあったんでしょうか? 絶望的な経済状態だったとか、極度の精神的ストレスを背負っていたとか」 「心当たりのある人はいないようです。もちろん、深い内面のことは他人には判りませんが……」 「あんな厄介ごとを抱えてりゃ苦しかったろうな、ということは誰も思い当たらないわけですね? 赤星さんの死に打ちのめされたふうでもなかったし?」 「ええ、ええ」 「でも、もし、近松さんが赤星さんを殺害したのだとしたら——」  火村の露骨な表現に身をすくめたのは私だけではなかった。塩谷も片桐も、はっとした様子だ。 「いえ、これは仮定の話ですよ。——近松さんが犯人だったとしたら、それを隠しとおす精神的負担は言語に絶する重さがあったかもしれません。それが自殺の原因だったという仮説は成り立ちます。警察はその可能性を留保しているんでしょうか?」  一《いつ》旦《たん》はポケットに収めたハンカチを、塩谷はまた取り出した。まるで彼自身が追及の矢面に立たされていて、弁明に四苦八苦しているように見える。 「これまた何とも言えませんけど、警察は近松さんを赤星さん殺しの犯人として、ある程度は疑っていたかもしれません。何せ身近な存在で、赤星さんの行動予定を知《ち》悉《しつ》していたかもしれない人ですから。昨日の午後、彼のアパートに話を訊きにいったのも、証言を洗い直すためだったのかもしれません。——これは霧野さん他シレーヌ企画の内部の方のコメントですけれども」 「そのシレーヌ企画の内部で、近松さんがやったんじゃないか、と疑っている人はいたんですか?」 「いえいえ」と塩谷は両手を振って否定する。「そんなことを表立って言う人はいませんでした。近松さんがシレーヌ企画に勤めるようになったのは赤星さんの紹介だったんです。それを皆さん知っていますから、むしろ従《い》兄《と》弟《こ》同士、仲がいいんだろうと感じていたと思いますよ。私もそうでした」  ふぅん、と言ったきり火村が黙ると、塩谷は—— 「霧野さんは自殺説に消極的なんです。遺書がないとか、急いで死ぬような動機がないとかに加えて、近松さんは生きてこれからやりたいことが色々あったはずだ、と言うんです。というのは、近松さんは近々、かねて希望してたとおり、映像事業部の現場の仕事に配置換えになることが決まったところだったんです。身分もアルバイトから準社員に昇格して。穴吹社長に直訴まがいのことをした結果だそうです。そんないいニュースを得た矢先に死ぬことはないだろう、と」  映像事業部の仕事がしたい。奴隷でもいいからしたい。やらせてみたら、と社長は言ってくれている。——確かに彼はそう言っていた。アントラーズのTシャツ姿が思い浮かぶ。有栖川さんの小説が映像化される時は自分も参加したいとも、お愛想半分に言ってくれてたっけ。 「それは一応の説得力がありますね。すると、霧野さんは他殺説を採っているんですか?」 「私も火村先生と同じように感じて彼に訊きました。『じゃあ、近松さんは殺されたのか?』と。そうしたら、『誰かに殺されなきゃならない人間じゃなかった』とくるんですよ。結局、霧野さんも、さっぱり判らないという状態です」 「穴吹社長と近松さんのことをお聞きになっていますか?」  さりげなく——でもないか——そんな質問を交えてみる。 「え、どういうことです? もしかしてあの美人社長、近松さんにも触手を伸ばしていたのか?」  眼鏡の奥の塩谷の目が好奇心で輝いた。どうやら初耳らしい。 「私もちょっと噂《うわさ》を小耳に挟んだというだけで、よくは知りませんよ。俗な表現をするなら、火のないところに煙は立たない、ということもありますから、二人が親密だったのなら、それが事件の背景になっているとも考えられます」 「ふぅん、穴吹社長と死んだ近松さんがねぇ」塩谷は決めつけている。「従兄弟同士で穴吹さんと、もつれてたのかな……」  語尾が消え入りそうな独白した。その話を続けようとしたところへ—— 「ビデオを……借りてたんですよね?」  片桐がわけの判らないことを脇から言う。塩谷はそれで「ああ」と何かを思い出したらしい。 「そう、ビデオの件がありました。これは今日の午前中、穴吹社長にお電話した時に聞いたことなんですが、近松さんは近所のレンタルビデオ店からビデオを借りていたそうなんです。一泊のレンタルです。その夜、毒を飲んで死のうとしている人間がビデオを借りたりするか、という疑問が警察で生じているようです」  そうだろうか、と私は異議を唱えたくなる。 「その夜、死のうとしているからこそ借りるビデオもあるんやないですか? 最期にもう一度だけあの映画が、あの場面が観《み》たい、と思ったのかもしれません。私にしても自殺を考えたらそんな行動をとるかもしれないし、まして近松さんは映画青年だったようですから、ごく自然なことのようにも思います」 「辞世のビデオ鑑賞ですか。それもありそうな話ではあります」塩谷はとりあえず認めてから「しかし、それも、ものによりけりじゃないでしょうか」 「というと?」 「近松さんが借りたのが心にしみるような名画なら——『ローマの休日』でも『市民ケーン』でもいいですけど——理解できます。違うんです。彼が借りていたのは、『ヘルレイザー3』なんていうスプラッターホラーなんですよ」  クライヴ・バーカーのアート・ホラーをこよなく愛する私にとって『ヘルレイザー3』は名画である。シリーズ前作、前々作と比べると遜《そん》色《しよく》はあるものの、モーター・ヘッドを初めとしヘヴィーメタルをふんだんに使った音楽も気に入っていて、サントラ盤を持っているぐらいだ。——しかし、さすがの私も、あの血みどろ映画を生涯最期の鑑賞作品には絶対選ばないだろう。 「昨日までは自殺とも他殺とも見当がつきませんでしたけれどね。さっき、そのエピソードを塩谷さんから聞いて思ったことがあります。変な言い方になりますが、スプラッター・ムービーっていうのは気力と体力が充実していてこそ楽しめるもんですよ。そんなビデオを借りたというのは、自殺なんてする気がなかったんじゃないかなあ、というのが僕の感想です」  片桐はそうまくしたてて、三人の——特に火村の——反応を窺《うかが》った。その火村が黙っているので、私がどちらにともなく訊く。 「そのビデオを近松さんが観た形跡はあるんですか?」  答えたのは塩谷だった。 「ビデオはデッキに入っていました。観たのかどうかは判りません。テープはスタート位置にありましたけれど、それはデッキにセットしただけでまだ観ていなかったからなのか、それとも観た後で巻き戻したからなのか、判断がつきませんからね」  そりゃそうだ。もし、デッキにセットされておらず、レンタル店のケースに入ったままだとしても、まだ観ていないのか、観たのでケースに戻したのか判らないのは同じことだ。愚問だったらしい。 「午後、刑事がきた時に、呼んでも返事がないのに中からテレビの声が聞こえていたので不審に思った、ということでしたね。それはあくまでもテレビの音声であって、ビデオのものではなかったんですね?」  火村の質問に、二人の編集者は揃《そろ》ってイエスと答えた。 「部屋の外から聞こえるぐらいの音量でテレビをつけたまま自殺するというのは確かにひっかかります。——近松さんはどんな番組を観ていたんでしょう?」 「さぁ、何チャンネルになっていたのかまでは聞いていません。警察は調べてるかもしれませんね。近松さんの死と映画の内容に関係があるんじゃないか、という可能性も考えて、ビデオを観たぐらいですから」 「それはご苦労様」  捜査一課の強《こわ》面《もて》刑事なら、作りものの血しぶきに眉《まゆ》をひそめることもなかっただろうが。 「その『ヘルレイザー3』というのは、どんな映画なんです?」  助教授が尋ねた。観たことがあるのは私だけだった。塩谷と片桐は未見ながらどんなものか想像はついているらしい。  私はごくごく荒っぽく要約して教えてやる。苦痛こそを快楽とする地獄に通じる扉を開く謎《なぞ》のパズルボックスを巡り、ヒロインが魔道師——地獄を呼び起こす者《ヘ  ル  レ  イ  ザ  ー》——と戦うホラー映画だ、と。火村は、さっぱり判らん、と不機嫌そうに言った。 「俺の家にダビングしたのがある。すぐに観たいって言うんやったら、どこかでレンタルしてきてホテルで観るか?」 「いや、それはいい」と火村は苦笑した。 「でも、その夜に死ぬつもりの人間がホラービデオを借りるのは不自然だ、というのは僕も一理あると思うんです。近松さんという人には会ったことも話したこともないので、口を慎んでた方がいいのかもしれませんけれど……」  片桐が遠慮がちに言う。 「ここで言い合ってても埒《らち》があかないだろう」と塩谷。「穴吹社長か霧野さんに連絡を取って、その後の状況を聞かないと」  実は、彼女ら二人と今夜会うことになっている、と私が言うと、「ほぉ」と塩谷が感心したような声を出す。 「それはまた手回しがいいですね。まぁ、有栖川さんなら今度のビデオ化の件がありますから、そちらの方でもお話があるでしょうけど」 「先方もそれがあるから会ってくれるのかもしれません。脚本家の方もくるそうですから」 「脚本家って、もしかして大茂さんですか?」 「ええ、そうです」そんな名前だったと記憶している。「どうして塩谷さんがご存知なんですか?」 「赤星さんのも今度の朝井さんのも、大茂さんが脚本を書いたんで知っているんです。シレーヌ企画専属、というか、あそこの社員ですよ。ちょーっと癖がありますけど、優秀な人ですよ」  脚本家がどんな人物なのかという興味は今のところなかったのだが、朝井小夜子の名前が出たのは幸いだった。ちょうど彼女のことを話題にしようとしていたのだ。 「一昨日、京都で朝井さんと会いました。今年の初めぐらいまで、赤星さんと交際していたんやそうですね。もしかして、それは塩谷さんがお得意のキューピッド役を務めたんやないですか?」  彼はこっくり頷《うなず》いた。 「見抜かれてしまいましたか。お恥ずかしい。おせっかいなことをしてしまった、と反省しています。特に朝井さんを傷つけてしまったことが誠に申し訳ない。去年の秋にお二人の本が同時に出たものですから、それを口実に三人で食事をしたんです。お二人をくっつけられるんじゃないか、という下心があってのことです。これまでにも私は実績を持っていますからね。いい雰囲気になって、思惑どおりにことが運んだぞ、しめしめと喜んでいたんですけど……春は永く続きませんでした」  彼は伏し目がちになって自己批判をした。片桐は話の展開についていけず、当惑したような表情を見せている。 「キューピッド役を果たそうとしたのは、塩谷さんの趣味としてですか?」 「趣味というには下世話すぎますけど、面白がっていたんですから、そう表現するしかないかもしれませんね。学生時代から好きだったんです。あいつとあいつをくっつけちまえ、なんていうのが。赤星さんと朝井さんを見てて、お似合いのカップルができるんじゃないか、と……。それだけのことで、他意はありません」  もちろん、悪意からの行為ではなかったと思う。誰かと誰かをくっつけよう、と思う余裕など、幸薄い私はかつて持ったことなどないが…… 「二人をくっつけたのも塩谷さんなら、引き剥《はが》したのも塩谷さんだったようですね?」  ちょっと意地悪い訊《き》き方になってしまう。 「それも朝井さんからお聞きになったんですか。……まずいものを目撃したんです。赤星さんがあの穴吹社長と、ですからね。本当にびっくりしてしまいました。後で聞くと、穴吹社長も恋多き女性だそうで、それなら赤星さんとくっつくのも自然かな、と納得しもしましたけれどね。  まぁ、胸に収めて何も見なかったことにする手があったんですけど、そしらぬ顔で黙っていることもできなくて、朝井さんに告げ口をしてしまいました。彼女は『ありがとう』と言ってくれましたけれどね……」  片桐は事情を察したらしく、居心地悪そうに座り直している。 「一昨日会った時も、朝井さんはさばさばした様子で話してくれましたよ」 「そうでしょう。私は十日に彼女と会いましたけれど、その時もご機嫌麗《うるわ》しかったですよ。『一千二百年目の復《ふく》讐《しゆう》』のロケハンにきた霧野さんと前日に会った話なんかをしてくれましたけれど」  少し間をおいて塩谷は補足する。 「朝井さんは『塩谷さんに聞いたよ』と言って別れ話を切り出したみたいですね。赤星さんから『ありがとう。かえってよかった』ってお礼を言われて、返答に窮しました」 「赤星さんは感謝しこそすれ、塩谷さんを恨んだりしていなかったということですね?」 「そりゃ、恨まれることはありませんよ。赤星さんの本命が朝井さんで、穴吹さんとのことはほんの火遊びだったというのなら恨まれたかもしれませんけど、違いますからね。いつか切り出そうとしていた別れ話が先方から早く出てきて助かった、なんて思ってたみたいですよ」 「赤星さんの本命が穴吹さんだったとしたら、近松さんと鞘《さや》当てを演じることになったでしょうね」  片桐が言う。そう、私もそれが知りたいのだ。 「さぁ、どうなんだろうねぇ。赤星、近松、穴吹。登場人物は三人とも恋多き男女のようだから、マイホームパパの私なんかには見当がつかないよ。ゲームを楽しんでいたのやら、真剣にいがみ合っていたのやら。——結局純情だったのは朝井さんだけだったんだなぁ。繰り言になりますけれど、そんな彼女を傷つけてしまったことが悔やまれます。もうキューピッドの役も告げ口野郎の役もご免です」  塩谷はぼやくことしきりだ。 「キューピッドと告げ口との件を警察にも話したんですか?」  塩谷は渋々、頷く。 「ええ。朝井さんが言わずもがなのことをしゃべったらしくて、裏づけとやらを私のところに取りにきました」 「言わずもがなでもなかったんでしょう。彼女が赤星さんに出した手紙を見た警察から問い詰められて、のことだったはずです」 「ああ、なるほど。——それにしても警察というのは誰でも彼でも疑ってみるもんですね。お二人をくっつけたり剥したりしたことで、赤星さんと私の間でいさかいが起きていたんじゃないのか、なんてことも想定して、事件当夜の行動をちくちく探るんですから参りました」  こういう話の展開も大歓迎だった。 「事件の日が京都出張に重なっていたんですから、多少、疑いの目で見られても仕方がないんやないですか」と私は慰める。「でも、仕事だったんですから、誰と何時までどこで何をしていたか、証明しやすかったでしょう?」  いやいや、と首を振る。そして朝井小夜子に聞いたとおり、その夜、もてなすつもりだった大学教授の都合が悪くなったため、思いがけず一人の夜をすごすことになり、アリバイの証人がいなくなってしまった。とぼやいてみせる。 「一人でホテルの部屋にこもっていたんですか?」 「いやぁ、そうするには時間が余りすぎて」 「変なとこへ行ってたんですか?」  片桐が真面目な顔で訊くと、先輩は「馬鹿」と怒鳴った。 「俺は清貧の編集者だから、ごく大衆的な店でビールをちびちびやっただけだ。変なとこへ行けばよかったなぁ。その方が証人ができたのに」  会話が雑談ぽくなってきていたが、あなたも私を疑っているんですか、などと悟られるよりはましだ。 「アリバイがなくても塩谷さんが心配することはないですよ。あるに越したことはないですけどね。——でも、本当に全然ないんですか?」 「京都駅前の雅ホテルに泊まったんです。ご存知でしょ? あそこはフロントが二階にありますから、エレベーターで一階へ降りてそのまま外出したら、ホテルの従業員の目に触れないんですよ。私は出入りする時にフロントで鍵《かぎ》を預けたり返してもらったりするのが面倒くさくて、いつも持ったまま外出してしまいます。そのせいで、六時頃に食事に出て、九時前に戻ったという証言をしてくれる人がいないんです。具合の悪いことにファーストフードの牛丼とビールなんていう質素な晩《ばん》餐《さん》だったものですから、——笑うなよ、片桐——食事をした店でも誰も覚えてくれてません。地下鉄で四条通りまで出て食べたんです。その後は河原町周辺をぶらぶらしてただけです。書店を回って、自分が担当した本がちゃんと積んでもらってるか見たりね」  赤星の死亡推定時刻は六時から十時。その時間帯は、塩谷が過ごした孤独な時間帯とほぼ重なっている。いや、塩谷は九時以降も一人きりだったのだから、アリバイのアの字もないことになる。それだけたっぷりと自由に使える時間があったのなら、赤星とどこかで接触して殺した上、大島半島の先まで死体を棄てに行くことは楽々できただろう。どこかで車を調達する必要があっただろうが。 「まさか出張は車ではなかったでしょうね?」 「新幹線ですよ」 「ホテルをチェックアウトしたのは何時ですか?」 「八時です」  ホテルが駅前だったのだから、八時過ぎの列車に乗って十一時頃に東京に帰ってくることができただろう。もし彼が犯人だったとしたら、杉並区の赤星宅に立ち寄ってこちょこちょと何らかの細工をし、それから帰社するという時間的余裕はあったか? 私が午後一時前に片桐に電話をした時にはまだ塩谷は戻っていなかった。二時間以上、自由に動く時間があったわけだ。ということは——どうやら赤星宅に寄り道することは可能だったらしい。 「ホテルを出た時間まで訊くんですか。質問が細かいなぁ。さては有栖川さん、私のことを疑ってますね?」  悟られてしまったが、さらりとかわす他ない。 「とんでもない。ホテルのチェックアウトを訊いたのは何となくで、意味はありません。それに、車で出張なんかするはずがないことは判ってましたよ。とすると若狭湾と京都を往復する足がなかったわけですから、塩谷さんを疑うのは無理がありすぎます。それを確かめたかっただけです。そもそも塩谷さんには殺しの動機がありませんけれどね」  彼は苦笑いを浮かべる。もう汗はかいていなかった。 「疑おうとすれば疑えます。足は現地でレンタカーを調達したのかもしれませんよ。あるいは盗難車とか。動機だって、赤星さんと私の間にとんでもない秘密があったのかもしれませんから、ないとは断言できない。——ついでに告白しておくと、近松さんが亡くなった一昨日の夜も、私にはアリバイがありませんよ。珍しく早いうちに帰ったものですからね。家族は証言してくれるでしょうけれど、それでは信じてもらえない」  彼は気分を害して、少しムキになったのかもしれない。近松が死んだ当夜の行動を尋ねるつもりはなかったのに。——と、椅子にそり返っていた火村が上体を起こした。 「近松さんは毒を飲んで死んだんだそうですから、その夜のアリバイなんて意味がありませんよ。なくても気にする必要はありません。毒はもっと以前に仕込まれていたのかもしれないんですから」  そんなことを言った。裏返して言えば、誰もが——あんたも——彼を殺せた、ということだ。 「そうですね」と塩谷は少しうんざりした様子で言う。「近松さんの死が他殺だとしたら毒殺なわけですから、アリバイ調べなんて意味がありませんね。毒入りボトルを『余りものですけど、よかったらどうぞ』なんてプレゼントすれば目的は達せられたでしょう。私のプレゼントをどうすれば自然に受け取ってもらえるかが課題ですが」 「塩谷さんは死んだ彼と面識がなかったんでしょ?」ここで片桐が割り込んだ。「知りもしない人間を殺すわけがないんだから、プレゼントをどうやって渡したらよかったも何もありませんよ」 「もちろんそうだ。でも、どこかでつながりがあったんだろう、と疑う人がいるかもしれない。私はシレーヌ企画に何度か出入りしてるし、彼の従兄《 い と こ》の赤星さんの担当編集者だったし。やれやれ、だよ」  私が火村を連れて面会を求めたことの真意を、彼は見抜いてぼやいているのだ。気がつかない方がどうかしてるか。 「塩谷さん、あれこれ質問してすみません。でも、それは事件の真相を炙《あぶ》り出そうとしているだけで、塩谷さんを疑っているわけやないですから」  私の言葉に彼は「判ってます」とだけ答える。 「塩谷さんは小浜にいらしたことがありますか?」火村が軽い調子で尋ねる。「私とアリスは昨日、小浜で一泊してきたんです。なかなか興味深い土地でした」 「三方五湖には行ったことがありますけれど、小浜には行ってません。『海のある奈良』というキャッチフレーズには惹かれますから、一度訪ねてみたいですね」  塩谷はお義理で答えている。 「小浜以外に『海のある奈良』と呼ばれる土地をご存知ありませんか?」  昨日、人魚像の前で出た疑問を彼は口にした。塩谷は怪《け》訝《げん》そうに火村を見返す。 「聞いたことがありませんね。そんなところがあるんですか?」 「いいえ、私も知らないので伺ったんです。小浜で赤星さんの足跡がたどれなかったものですから、もしかしたら『海のある奈良』とは別のところなんじゃないか、と苦しまぎれに考えただけです。それも、関西近辺で」 「関西近辺で、小浜以外に『海のある奈良』ねぇ。うーん、あるのかなぁ」  塩谷は腕組みをした。 「僕が調べてみましょうか」  勢い込んで言ったのは片桐だ。 「忙しいのに申し訳ない。片桐さんに調べてもらえるなら心強い」 「お世辞はいいですよ、有栖川さん。会社に資料があるし、旅行誌に書いてもらってる先生方に訊《き》く手もある。判ったらすぐ連絡しますよ」  火村も礼を言った。 「助かります。——あ、さっき小浜に赤星さんの足跡がないように言いましたけれど、一つだけあったようですね。電話ボックスに使用ずみのテレホンカードが遺《のこ》っていたとか、捜査本部で聞きました」  その事情は塩谷もよく知っていた。 「うちの会社で作ったテレカが発見された件では問い合わせがありました。あれは作家や絵描きさんの他、取次、印刷所などの取引先に撒《ま》いたもので、読者プレゼントなどで使ったことがないデザインのカードです。私も二十枚ほどもらったので、赤星さんと朝井さんに数枚ずつ差し上げたりしました。そんな代物ですから、小浜で見つかったものは赤星さんのカードである公算が大ですね。——よろしかったら、どうぞ」  彼は名刺入れからそのテレホンカードを取り出し、火村に渡す。助教授は「どうも」と言ってジャケットの胸ポケットに収めた。       3  珀友社を出て地下鉄に乗り、新宿に向かった。シレーヌ企画の事務所に六時頃行く、とアポを取ってあるのだ。南口に上がったところで地図で場所を確認し、甲《こう》州《しゆう》街道を十分ほど歩いた。仕事を終えたサラリーマン、OLがビルから吐き出され、洪水のように溢《あふ》れて、せかせかと駅に向かうのに逆らって進む。  迷うことなくたどり着いたシレーヌ企画は、いかつい西洋甲《かつ》冑《ちゆう》を思わせるポストモダン風ビルの三階から五階を占めていた。エレベーターの中の表示によると、他のフロアには不動産会社や設計事務所、神経科クリニックなど雑多なテナントが入っている。  扉が開くとすぐに受付だったが、誰も座っていなかった。声を出そうとしたら、ちょうど電話を切って振り向いた霧野と目が合った。 「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」  彼は右手を軽く上げて隣りの部屋を示そうとしたのだが、その手が机の上に積み上げてあった資料に当たって、山が崩壊する。霧野は照れたように笑いながら、床に落ちたファイルを拾った。オフィスを見渡すと、ちらかっているのは彼の机だけではない。出版社の編集部と似たような有様だ。BGMにブライアン・イーノが流れ、壁には自社で制作した映画やビデオのポスターがぺたぺたと貼《は》られていて、いかにもクリエイターが働いていますよ、という雰囲気の事務所だ。  通された隣りの応接室はうって変わって落ち着いた部屋だった。印象派の絵画が一枚掛かっているだけだが、ほんのり藤《ふじ》色がかった壁紙そのものが上品に部屋を飾っている。窓際の小さな丸テーブルに載った小瓶に詰まっているのはポプリらしく、微かに甘い香りが漂っている。今はやりのアロマテラピーというわけだろうが、いかにも美しい女性社長にふさわしい演出に思えた。 「お待たせいたしました。わざわざむさ苦しいところにお運びいただいて恐縮です」  そう言いながら穴吹奈美子が現われた。その後ろに痩《や》せた長身の男、さらにその陰に霧野が立っている。  私たちは座ったばかりのソファから腰を上げて挨《あい》拶《さつ》をする。火村は噂《うわさ》の穴吹社長の若々しさと美《び》貌《ぼう》にまず注意がいっただろうが、私は初対面の男を素早く観察した。齢《とし》は四十近くか。彼が脚本家の大茂拓《たく》司《じ》なのだろう。ロッド・スチュワートみたいに仕上げてくれ、と美容師に言ってうたた寝をしていたらこんなになっちまった、という感じのユニークなヘアスタイル——まるでパイナップルのへた。大胆なオレンジ一色のネクタイ。ダブルのスーツは細身の体には大きすぎて、子供が兄貴の御下がりをもらってきているよう。靴には光りものがついてる。一般的な服装センスは欠落しているとしか言えないのだが、それでいて、全体としては悪くない印象を与える。こんな装いもあっていい、という気にさせる不思議な魅力があった。 「脚本を担当させていただきます大茂拓司です。よろしくお願いします」  と、彼は予想どおりの自己紹介をした。泣きべそをかいている子供に語りかける小児科医のようにソフトな声だ。 「火村です」私は友人の身分を紹介して「私の作品にいつも犯罪学の専門家の観点から助言をもらっています。今度、こちらで脚本にしていただく作品についても色々とアドバイスを受けていますし、赤星さんのアドバイザーも少しだけ務めたことがあります。たまたま仕事で東京にきていたものですから、ご一緒させてもらいました」  適当なことを言っておいた。赤星殺害事件の捜査にきているのだとは、よもや彼らは思ってもいないだろうが。 「お近づきになれて光栄です」と大茂は如才がない。「脚本の準備稿が完成しますのは多分、一カ月半ほど先になりますが、その際には火村先生にも是非、ご教示いただければ、と思います」 「彼、大いにはりきっています。どんなふうになるか、楽しみにしてやってて下さい」  穴吹奈美子がにこやかに言った。かなり見慣れてはきたが、それでも信じられないほど若々しいことに変わりはない。まだ大学に入ったばかりという外見をして、中年の脚本家の言葉を受けて「楽しみにしてやってて下さい」と言っても、生意気げにも冗談ぽくも見えないのは、やはり説明しがたい貫禄が備わっているからだ。 「この度は近松さんが大変なことになったそうで……」  そう切り出すと、彼女の表情はたちまち曇る。 「昨日からその件で社内は大騒ぎでした。赤星先生のことがあったばかりですのに、一体、どうしたことかと驚いています。彼がやりたがっていた映像部門に準社員として採用することを決めたばかりでしたのに……」  塩谷から聞いたとおりだ。 「自殺か事故か……あるいは他殺かまだ不明だということですが、今のお言葉からすると、穴吹さんは自殺だとはお考えになっていないんですね?」  そう訊かれて答えようがないかな、と思いきや、彼女は「はい」ときっぱり言った。 「自殺を覚悟した人間の気配など微《み》塵《じん》も感じていませんでした。自分のことを人間観察の達人だなどと自《うぬ》惚《ぼ》れているわけではありませんが、彼が自ら命を断っただなんてとても信じられません。昨日、刑事さんにもそうお答えしたんです。そうしたら、『事故で青酸カリがウィスキーのボトルに混入するわけがないから、他殺ということになりますね』と言われました。『他殺だとしたら、思い当たることはありますか?』とおっしゃるんです。彼が殺されたというのも信じにくいことですけれど、自殺でなければ他殺ということになるのでしょうね」 「他の方も同じお考えですか?」  そう訊くと、「ええ」と霧野が頷《うなず》いた。大茂とは対照的に男臭い声だ。 「社長が申したとおり、私も自殺だとは思えません。気のいい男でしたけれど、知らないうちに誰かの逆恨みを買っていたのかもしれません」 「僕はすべてを疑っていますけれどね」  小児科医になれそうな声をした脚本家はクールな言い方をする。 「自殺のサインを見逃すな、なんて荒廃した教育の現場でよく言われていますが、それってどんなサインなんでしょう? 『今、彼は憂愁の色をたたえた目で窓の外を眺めているだろう? あれは自殺のサインだ。僕は見たことがあるから知ってる。彼が危ない』なんて言える人はいませんよ。もしかしたらそのサインとは、いつも、おいしいおいしいと言って食べてる昼飯の蕎《そ》麦《ば》なのに、今日はあまりうまそうな顔をしない、ということだったかもしれない。あるいは『おはよう』と挨拶を返すタイミングがコンマ何秒か遅れたことかもしれない。そんなこと、周囲の人間が気がつくわけがありません。社長や霧野さんにはお言葉を返してしまいますけど、結局、判りっこないんですよ。  今回のケースでは、事故というのはあり得ないでしょう。けれど、他殺は疑って当然の状況ですね。逆恨みか逆さじゃない恨みか知りませんけど、近松君を亡き者にしたがってる人物がいたっておかしくない。私は別に故人の人格を貶《おとし》めようとして言うんじゃありませんよ。そうじゃありませんけれど、彼は聖人君子だったわけでもないでしょう。普通の男。いや、かなりよく遊んでる男だったじゃないですか。いつだったか、自分はジゴロだって、僕に自慢そうに話してくれましたよ。ウィスキーに毒を入れるという手口はどこか女性的だ。彼は女性問題でトラブルの一つや二つ抱えた可能性が高いし、その方面に犯人がいるのかもしれませんね」 「大茂さんはあのウィスキーの出所を知らないからそんなことが言えるんですよ」  霧野が咎《とが》めるような調子をにじませて言った。 「どういうことです?」と脚本家は訊き返す。  霧野はちらりと社長を見る。穴吹奈美子は大茂に、そして火村と私に向かってこう告げた。 「あのウィスキーは、赤星先生が近松さんに渡したものなんです」  とっさには意味がよく判らなかった。 「これは警察にしか話していないことで、私と霧野ぐらいしか知らないことです。両先生は赤星さんと親しかったそうですから、お話しいたします。——近松が飲んだウィスキーは元をたどれば、赤星さんの手から彼の手に渡った品なんです。『自分のところにこんな結構なものが届いたけれど、節酒を心掛けるようにしたところなので、お前にやる』とおっしゃって」  聞いてないぞ聞いてないぞ、そんなことは。塩谷に伝わらなかった情報らしいが、これは大変な意味を持っている。火村の目にも、これまでなかった光が宿った。 「どういう経緯でウィスキーが赤星さんから近松さんに渡ったのか、もっと詳しくお話し願えますか?」  社長の目配せに従い、霧野が話し手になった。 「そもそも、問題のウィスキーはですね——」  それが赤星楽の元に宅配便で送られてきたのは、去年の十二月二十日頃のことだった。送り状を見ると、送り主は彼が何作か著書を出している青洋社。時期からして、やや遅めのお歳暮かに思えた。包みを解いてみると、案の定、『お歳暮 青洋社』の熨《の》斗《し》紙が掛かっており、品物はウィスキー——ジャックダニエルのブラック——だった。洋酒は赤星の好みだったのだが、肝臓がやや調子を崩していて、医者から節酒を命じられたところだった。やれ寝酒だの仕事が行き詰まっただのといって、ついつい手を伸ばすのがよくないのだ、と彼は自己分析をして、家にボトルを置かないことにした。編集者らとの打ち合わせや友人とのパーティ、飲み会でだけ適量飲むことにする、と決めたのだ。その注意の証として、彼はそのボトルを従弟《 い と こ》に与える。この贈呈は、シレーヌ企画にふらりと立ち寄った赤星が手《て》土産《 み や げ》として近松に差し出して行なわれたので、穴吹も霧野もその現場を見ていた。証人は他にもたくさん社内にいる。  近松はうやうやしくそれを頂《ちよう》戴《だい》したものの、実は彼の方は洋酒党ではなかった。只《ただ》ならもらっておこう、気が向いたら飲もう、というつもりでもらっただけだったのだ。赤星が帰った後で、『飾りにしよう』と近松が言ったことにも証人はいる。そして、その言葉のとおり、彼は只で手に入れたジャックダニエルを、一昨日の夜までずっと飲まずにいたのである。 「近松さんが飲んだウィスキーが赤星さんの手から渡ったものであることは間違いないんですか?」  火村が訊《き》く。これに対し、霧野は軽率に断定するのを避けた。 「同じ銘柄のものなのは確かです。赤星先生がプレゼントしたボトルそのものであるかどうかは何とも言えません。しかし、近松は『ジャックダニエルをまだ飾りにしてます』などと最近も話していました」 「なるほど、気が向いたら飲むつもりで飾ってあるウィスキーね……」  火村が唇を人差し指でなぞりながら呟いた。考えごとをする時の癖だ。私の頭の中では色んな疑問が足を踏み鳴らして、てんでんばらばらなダンスを踊りだしていた。火村のように考え込まず、私は口に出す。 「赤星さんのところにきたお歳暮は、本当に青洋社が発送したものなんですか?」  私は一度だけ青洋社の仕事をしたことがあるが、お歳暮などはもらっていない。 「違います。青洋社では、作家にお歳暮なんて送っていないんですよ。それが判明したのも昨日のことですが」 「警察が青洋社に問い合わせて明らかになったんですね?」 「そうです。赤星先生が出版社の方との雑談の中ででも、『お歳暮いただきました』とひと言でも触れていたら、どうもおかしいぞ、ということが判ったでしょうけれどね」 『この前はどうも』でも『実は節酒をし始めたので、他のものがありがたかった』などという話が出てもおかしくない。年末年始に担当編集者と話す機会が少なくて、つい言い忘れたのだろう。 「その話は知らなかったなぁ。驚きましたよ」  大茂はそう言いながら、ちらりと霧野を見た。すぐそばにいるのに、どうして教えてくれなかったんだ、と言いたげだ。 「そうすると、犯人の本当の狙いは赤星先生だった、ということになりますね」  穴吹奈美子が一瞬、何か言いかけたが、思いとどまったようだ。 「そういうことだったのか。だとすると、かわいそうな近松君は間違って毒を飲んで、殺され損というわけですね。犯人は計画を変更して、赤星先生を旅先で襲うことにしたんだ。そして、直接手を下した」  小児科医の声にはあまり似合わない話題だった。 「だとすると」私は誰にともなく「犯人は思惑と違って、毒入りウィスキーが近松さんの手に渡ったことを知っていたんでしょうか?」  すぐに反応するのは、やはり饒《じよう》舌《ぜつ》な脚本家だ。 「それは重要な問題ですから、慎重に検討を行なってみるべきですよ。節酒を決心した赤星先生が近松君にボトルをプレゼントする、という形で計画が狂ったことを果たして犯人は知っていたのか否か? ——失敗を知っていたからこそ計画を練り直して、赤星先生に直接魔の手を伸ばした、とも考えられます」  それは乱暴すぎるのではないか、と私は思う。 「それはどうでしょうか。もし、そうだとしたら、犯人は無関係な近松さんが毒入りウィスキーを飲んで死ぬという状況をみすみす放置したことになります。加えて、去年の十二月毒殺計画が失敗したことを知っていたのなら、五月まで待たず、もっと早い時期に第二の殺人計画を立案して実行に移したんではないですか?」  私が最後まで言い終わらないうちに大茂は「ええ」と応えた。 「有栖川先生がおっしゃるとおりです。そこで考えられるのは、犯人は毒入りウィスキーが近松君の許《もと》に渡ったことを知らなかったのではないか、ということです。計画が破《は》綻《たん》したことを知らず、じっと何カ月もの間、赤星先生が死ぬことを待っていたのかもしれません。いくら犯人が非道な奴だったとしても、狙《ねら》ってもいない第三者の手に毒入りウィスキーが渡りそうになったら——あるいは渡ってしまったのを後ででも知ったら——それを回収しようと努めたでしょう。簡単なことですもの。『友だちが今夜うちに遊びにくるんで、ちょうどウィスキーが入用なんだ。それ、譲ってくれないかな』なんて言って買い上げてしまうとかね。モノは大量生産されているウィスキーです。代わりはいくらでもあるんだから、近松君だって譲ったに決まってるんですよ。ということは、毒入りウィスキーを赤星さんに送りつけた犯人は、その所有者が近松君に変わったことを知らなかった、ということになります。これは僕にとっては不運、社長や霧野さんにとっては喜ばしい結論です。何故ならば、お二人は問題のボトルが赤星さんから近松君に贈答される場に居合せ、逐一目撃しているからです」  彼は一気にまくしたてた。途中でつかえることもなく、頭の回転の速さを窺《うかが》わせる。 「ねぇ、霧野さん」と大茂は呼びかける。「霧野さんはさっき、『毒入りウィスキーの出所を知らないからそんなことが言えるんだ』と言いましたけれど、出所を教えてもらっても僕の見方は変わりませんね。近松君も色男ぶってましたけれど、赤星先生の方ももてる人でしたもの。狙われたのが赤星先生だったとしても、やっぱりこれは女性の匂《にお》いがします。毒殺は女性的な手口。これは定説じゃないですか?」  彼は専門家のお墨付きを求めたのか、顔を火村に向けた。 「毒殺が女性的だというのは欧米で産まれた俗説です。チェーザレの妹のルクレツィア・ボルジアの伝説あたりの西洋講談からきているんでしょう。コリン・ウィルソンは毒殺者は『白昼夢を見る空想家』であり『壮大かつ精《せい》緻《ち》な嘘《うそ》を他人と自分につく能力を備えた人間』で、『一片の芸術家気質を備えている』と分析しています。それらの特性は女性特有のものだとは言えず、いずれも個人差に帰すでしょう。そもそも歴史に名を遺《のこ》す男性の毒殺犯人も少なくありません。彼らの多くは毒薬の入手が容易な医者でしたが」  犯罪学者は適当なことを言ってお茶を濁した。  毒殺は女性の手口と聞いて、私は朝井小夜子のことを思い出す。    ——あの人には貸しがあるねん。    そう言いながら彼女が傾けたグラスに注がれていた酒もジャックダニエルだった。楽しくない偶然だ。——そう、偶然。 「なるほど」大茂は納得したようだ。「確かにおっしゃるとおり、それらの特性はすべて僕にもぴったり当て嵌《はま》ります」  彼は笑いが返ってくるのを期待したのかもしれないが、ひどい空振りだった。 「ええと、話はどこまでいってましたっけ。——そう、犯人は毒入りウィスキーの所有者が変わったことを知らなかった人間である、という推定まででしたね」  へこたれず、また走り出そうとする男に霧野はちょっと呆《あき》れた様子で合いの手を入れる。 「ええ、そうです。だから社長や僕は潔白だ、というありがたい結論です」  それが皮肉な調子なのにもマイペースの脚本家は気がついていないか、無視しているのか、話を続ける。犯罪学者と推理作家相手に一席ぶつのが楽しくて、少々ハイになっているのかもしれない。 「ところがぬか喜びさせて申し訳ないんですが、まだそれが最終的な結論じゃないんです。というのも、犯人が狙っていたのは赤星さん一人ではなく、近松君もまた標的だったという可能性もあるからです」  同感だ、ということを示すために私は頷いた。 「有栖川さんは『無関係な近松さん』と言い、僕は『狙ってもいない第三者』という言葉を使いました。しかし、もしも近松君が無関係でもなく、第三者でもなく当事者だったらと仮定したらどうでしょう? 話はまるで違ってきます」 「近松が当事者だった、というのはどういう意味です?」と霧野。 「犯人は赤星先生だけではなく、彼にも殺意を抱いていたのかもしれない、ということですよ。もしそうであれば、毒入りウィスキーが近松君に渡るという予期せぬ事態が発生した際も、『これは計画外のことだ。しかし、近松ユズルもいずれ殺そうとしていたのだから、まぁいいか。毒杯は彼に呷《あお》ってもらい、赤星楽殺害は別の計画を練ることにしよう』と考えて、なりゆきに任せることもできたでしょう。その場合、赤星先生から近松君にボトルが渡ることは誰にも予想できなかったことですから、捜査に無用の混乱が生じる、と犯人はほくそ笑んだかもしれません。——というわけで、この仮説を採用すると、犯人はボトルの所有者移動を知っていた人間も犯人足り得ることになりますので、社長と霧野さんも容疑を免れないわけです」  そういうことだ。だが、可能性を追求するのなら、これで話を打ち切っては中途半端になる。と思っていると、大茂は魔法の赤い靴を履いた少女のように踊り続ける。 「他の仮説を立てることもできます。それは、赤星先生が毒入りウィスキーであることを知りながら近松君にプレゼントした場合です」 「大茂さん!」  霧野が大きな声を出して、気《き》遣《づか》うように奈美子を見た。彼女は大茂の意想外の発言に驚いたのか、目を見開いている。 「それは言い過ぎです。赤星先生が近松を殺すために、わざわざ一《いつ》旦《たん》自分宛《あて》に毒入りウィスキーを送って、それを渡したって?」 「あ、青酸カリを入れて送らなくても、近松君に渡す直前に入れればよかったわけですけどね」 「そんなことを言ってるんじゃありません」  きっぱり言ったのは霧野ではなく奈美子だった。両膝の上できつく拳を握っている。その拳によほどの力が込められているのか、開いた襟《えり》元《もと》に鎖骨のくぼみが浮き上がる。 「赤星さんがどうして近松さんを殺さなくてはならないんですか? お二人は実の兄弟のように仲がよかったんですよ。彼がお金に困っていた時は居《い》候《そうろう》をさせてあげたり、ここの求人の話をしたらすぐに彼を紹介してきたり、赤星さんはとても従弟《 い と こ》思いだったじゃありませんか。それなのに近松さんを毒殺しようとしただなんて、亡くなった人を冒《ぼう》涜《とく》するようなことは言わないで下さい。聞きたくありません。ずっと黙って聞いていましたけれど、不謹慎すぎます」  彼女はひどく憤慨しているようだった。その憤りは言葉どおりの理由によるものなのか、それとも自分が愛した男たちだからこそ込み上げてきたものなのか、私には判らない。判ることはただ——興奮のために紅潮したその頬《ほお》がぞっとするほどきれいだ、ということだ。その黒い瞳《ひとみ》が。白い首筋が。桜色の小さな爪《つめ》が。  ——この人は何て無《む》垢《く》な香りを放っているのだろうか。  私はそう思った。彼女は無垢な女性だ、ということには抵抗がある。噂《うわさ》を寄せ集めた伝聞にすぎないが、男性関係はかなりお盛んらしい、と聞いてしまっているから。それでも、肌の艶《つや》や張りだけでなく、無垢な少女の香りまで彼女は保っているのだ。  何故だ?  彼女の放《ほう》埒《らつ》の恋の遍歴に肩が触れてしまい、朝井小夜子が涙を流さなくてはならなかったことを私は知っている。同じ悲運に見舞われた女性が他にも大勢いるかもしれない。恋多き女性。それをわざと下品に男漁《あさ》りが好きな女、と言い換えてしまったとしても、穴吹奈美子からは無垢の香りが立ち昇る。その瞳の光に純粋なものが宿っている。  どうして?  辣《らつ》腕《わん》の女性社長にして『四十五歳の美少女』。霧野と大茂に挟まれていると、保護者を同伴しているかに見えるほど彼女は若い。不自然に若く映る。いや、不—自然より反—自然とでも呼ぶのが似つかわしい。特異な体質のせいであろうけれど、何か秘密の匂いもする。  秘密。  その言葉から私は、オスカー・ワイルドの名作『ドリアン・グレイの肖像』を連想した。頽《たい》廃《はい》的《てき》な生活に溺《おぼ》れる金髪の美青年ドリアン・グレイの数奇な物語。主人公である放《ほう》蕩《とう》児ドリアンの若さと美《び》貌《ぼう》はいつまでも衰えることがなく、不思議なことに肖像画に描かれた彼の姿が身代りとなって老い、萎《しな》びてゆく。彼の背徳ぶりはエスカレートしていき、ついには画布の上の像にそそのかされるようにして、肖像を描いた画家を刺し殺してしまうのだが、やがて善人として生きる新しい人生を希求するようになる。邪悪な心を捨てようとした彼は、その決意によって呪《のろ》わしい肖像がいくらか浄化しているのではないかと期待し、人目に触れないように隠していた絵の覆いをめくってみる。が、肖像はますます醜悪になっていた。逆上した彼は画家を殺したナイフで絵を突き刺す。  悲鳴。  驚いた召使いたちが部屋に駈《か》けつけると、床には皺《しわ》だらけで醜い容貌と化した主が胸にナイフを刺されて死んでおり、その亡《なき》骸《がら》を、驚嘆するほど若く美しい肖像画が見下ろしていた——  ひとかどの実業家である穴吹奈美子は、ドリアンのように享楽的に生きているわけではない。阿《あ》片《へん》窟《くつ》ではなく、ビジネスの世界に生きているのだ。そして、彼女が発散させているのは頽《たい》廃《はい》のすえた匂いではなく、無垢の甘い香りだ。そうは承知していても、二人の若さと美貌の原因は、どこかで密通をしているのではないか、と思えるのだ。  どこか錠の掛かった部屋の壁に、紫色の覆いをかぶった彼女の肖像画が。ついでに、その絵の前に腐った人魚の肉が転がっているというのはどうだ?  ——化け物のように若い。  そんなとんでもない表現が頭に浮かんだ。  ——彼女はドリアン・グレイなのか、また別の怪物なのか?  いや、あまり妄想をたくましくしている場合ではなかった。  そう思い直した私は、霧野の様子が普通ではないことに気がついた。奈美子の怒りが自分に降ってきたかのように、身を縮め、微かに顫《ふる》えてさえいる。いつだったか——そう、全日空ホテルに遅刻してきた時も、彼は奈美子に叱《しか》られて顔を蒼《あお》くしていたっけ。彼女の感情が昂《たか》ぶるとアレルギー反応を起こしでもするのだろうか? ちらりと火村に視線をやると、彼は興味深そうに霧野を観察していた。 「放言が過ぎました。申し訳ありません」  大茂が深く頭を下げたので、奈美子の叱《しつ》責《せき》はそれで収まった。しかし、彼は放言の中味そのものを反省したというよりも、聴き手の機嫌を損ねたことを詫《わ》びただけなのかもしれなかった。 「自殺かもしれないんです。奇をてらうような仮説の品評会はやめにしましょうよ、大茂さん。警察の捜査も始まったばかりなんですから」  まだ蒼い顔をしている霧野は近松の死に関する話はもう勘弁しろ、と言いたそうだった。その彼に私はすり寄っていく。 「刑事がやってくるような事件に立て続けに巻き込まれて、御《おん》社《しや》も大変だったこととお察しします。ことに前の事件においては、赤星さんの小説を映画化したことがある、というだけのことがこちらとの接点だったんですから」  接点はそれだけではなく、赤星と穴吹奈美子の関係もあったが、とりあえず今は知らないふりをしておいた。 「全くです。私などは事件の当日、たまたま関西に出張していたということで、どこで誰と何をしていたのか、とうるさく訊《き》かれました」 「ふぅん、どこで誰と何をしていたのか、ですか。関西へは朝井さんの作品のロケハンにいらしていたんですね?」 「ええ、そうです。九日には京都の嵯峨野でロケハンしたついでに、太秦の朝井先生とも会ってご挨《あい》拶《さつ》をしました。十日についても、ずっと一人で行動していたのに、要所要所でどうにかこうにかアリバイを認めてもらえたようです」  私と話しているうちに、彼は落ち着きを取り戻していくようだ。 「事件当日の行動について、どれぐらい具体的な話をさせられるのか、職業柄興味があります。要所要所とは、どういうことなんですか?」  あくまでも推理作家として、後学のために聞きたいのだ、という誘導の仕方である。霧野は私の言葉を額面どおり信じたのか、刑事に話したのと同じ話を始めた。 「十日はずっと大阪でのロケハンでした。本来なら穴吹社長か監督と一緒に回るんですが、今回の作品はロケ地が札幌、東京、京都などかなり広範囲にちらばっている関係もあって、私が候補地を絞ってから、後日に監督と一緒にあらためてロケハンに回ることになっています。  その日は堺《さかい》市と藤《ふじ》井《い》寺《でら》市の近辺を車でぐるぐる回り、古墳の絵がうまく撮れる場所を捜しました。警察は午後六時から十時の間の行動を特に知りたがっていて、それが私にとってはありがたかったですね。六時過ぎには羽《は》曳《びき》野《の》警察署にいたからです。恰《かつ》好《こう》のロケ候補地が見つかったので、付近の道路で撮影が許可してもらえるかどうかを問い合わせてみたんです。ですから、六時から六時半ぐらいまではアリバイ成立です。その後、さらに仲《ちゆう》哀《あい》天皇陵や仁《にん》賢《けん》天皇陵の周辺を見て回りました。前の週に行った札幌なんかより、大阪はずっと日没が遅かったので、とことん暗くなるまでがんばるか、と思いまして。七時過ぎに国道沿いの食堂で簡単に夕食をとりました。道路地図を見せて道を尋ねたりしたものですから、店の方が私を覚えていて下さったようですね。成果があったので九時前に切り上げましたけれど、最後に宿舎にできそうな藤井寺駅近くのホテルで立ち寄って、パンフレットをもらったり少し質問をしたりしましたので、それも幸いしました。九時以降の行動を証言してくれる人はいませんが、上出来じゃないでしょうか。裏付けが取れたのか、一度お話ししたきり、もう何も訊いてこないんです」  裏付けは取っている最中ではないかと思われる。確かに要所要所を押えてある。上出来というより、やや出来過ぎかもしれない。 「九時以降はホテルへお帰りになったんですね?」 「いいえ。野《の》崎《ざき》にある実家に帰りました。両親もよそに移って空家になっている私のセカンドハウスです」  霧野が大阪出身だとは知らなかった。野崎がある大《だい》東《とう》市は大阪府の東部にあって、生《い》駒《こま》山《やま》を隔てて奈良県生駒市に接している。『海のない奈良』の近くにいたわけだ。  そんなことはどうでもいい。彼がその日、ロケハンに励んでいたのは判ったとして、そのセカンドハウスとやらに泊まったことがひっかかるのだ。ホテルや旅館よりも容易に人目を盗んで出入りすることができるであろうから、犯行には都合がよかったかもしれない。——もっとも、九時に藤井寺にいたのなら、十時までに家に帰り着くことは可能でも、小浜まで行けるわけもないが。 「車も大阪のご実家のものですか?」 「いいえ、東京から乗って行ったんです」  それは意外だった。 「じゃあ……帰りも車で?」 「はい。セカンドハウスで仮眠をとってひと休みしてから、夜中に名神、東名を走りました。ちょっと寝過ぎたもので、翌日、有栖川先生とお会いするのに遅刻してしまいましたけれど」  知らなかった。六本木のホテルに駈《か》けつけてきた彼が、真夜中の高速道路を飛ばして大阪から戻ったばかりだったとは。 「霧野さんは鉄人ですね。とにかくタフ。関西出張の前の週には盛岡の何とか先生のところへ原作提供の打診に行った後、そのまま足を伸ばして札幌へロケハンだったでしょう。しかも、朝井先生の小説に出てくるからって寝台特急で帰ってきてすぐに出社したり。この二カ月ぐらい完全な休みを取ってないんじゃないですか? 大阪から帰ってからもすぐ徹夜仕事があったし、ワーカホリックもたいがいにしておかないと、しまいに体を壊しますよ」  大茂が忠告するような脅すような口調で言った。 「因果なことに仕事が好きなもので」と霧野は笑う。 「体を壊さない程度にがんばってもらわないと。あの関西出張は本当にご苦労様でした。でも、人使いが荒い会社だったおかげで、九時まで所在が証明できてよかったかもしれない」  奈美子が珍しく冗談めかして言うと、霧野はにっこりと微《ほほ》笑《え》む。まるで——主君に忠勤と献身を認めてもらったことを喜ぶ下僕のように。  だが、それでも彼のアリバイは百パーセント完《かん》璧《ぺき》とは言えない。——赤星楽がどこで殺されたかが、いまだに特定されていないからだ。もし殺人現場が藤井寺駅前から一時間で到達できる地点だったのなら、彼にも犯行は可能だ。その場合、死体を小浜まで運ぶ車を確保していた彼は、犯人の条件を充分に満たすことになる。そして、朝井小夜子との話で出たとおり、殺害の動機は嫉《しつ》妬《と》なのかもしれない。 「霧野さんが獅《し》子《し》奮《ふん》迅《じん》の働きをしている時、居残り組の僕だってせっせと残業をしていましたから、諦《あきら》めて下さい」  大茂が茶化す。その時、火村が不意に質問を投げかけた。 「穴吹社長はどこで何をしてらしたんですか?」 「え?」  その瞬間、部屋の中の空気が凍りついた。あまりにも露骨な問いかけ。『どこで何をしてらしたんですか?』。実は、驚きのあまり『え?』と声を発したのは私だった。 「火村先生、それは社長のアリバイが訊きたいということですか?」  霧野が腰を浮かさんばかりに勢い込んで尋ねた。助教授はその彼を微かな笑みとともに見返す。私は、霧野の双《そう》眸《ぼう》の奥に憤りの炎が燃えているのを見たような気がした。 「ええ、アリバイが伺いたいんです。私は赤星さん殺害事件の真相解明に独自のアプローチを試みています。そのために、警察が掴《つか》んでいるのと同等の情報、とまでは言いませんが、得られる限りの情報が欲しいんです。穴吹社長も赤星さんの身近にいらした方ですから、事件当日の行動について質問を受けたはずです。その時のお答えの内容を、私にも話していただきたいんです」 「先生方がうちに今日いらしたご用件は、こういうことだったんですか……」  霧野は歯噛《が》みをした。過激な反応だ、と思う。穴吹奈美子当人はというと、少し当惑したように髪に手をやっていたが、それは不《ぶ》躾《しつけ》な火村の質問に衝撃を受けたためというよりも、霧野の剣幕に対してかもしれない。大茂拓司は急に部外者に変身したらしく、派手なネクタイをいじりながら都庁が見える窓の外に目をやったりしている。  やがて、穴吹奈美子は慈母のように優しく言った。 「霧野さん、そんなに大きな声を出さないで下さい。火村先生のおっしゃっていることはよく理解できます。両先生とも、亡くなった赤星さんの仇《あだ》を討とうとなさっているんですから、私は敬意を払います」 「はい。それは……承知しています」  たしなめられて、霧野はたちまちおとなしくなった。そして「失礼しました」と火村と私に詫《わ》びた。  穴吹奈美子は髪をいじるという落ち着きのない動作をやめ、両手を膝《ひざ》に置いて話し始める。 「その日のことを順を追ってお話しします。十日、私が出社したのはいつもどおりの朝、九時過ぎです。午前中に映像事業部の定例ミーティング。午後には出版事業部のミーティングに出席しました。ふだんでしたら七時頃までは会社にいるのですけど、その日は夕方、五時に出ました。池袋の東都百貨店で開かれているジョージア・オキーフ展がどうしても観《み》たかったからです。休日に行こうとするたびに邪魔が入り、会期終了が迫ってきて、行ける時に行っておかないと逃してしまいそうな気がしたものですから、ちょっと勝手をしました。展覧会を観て、一人で食事をして、ウィンドーショッピングをしてから市《いち》川《かわ》の自宅に帰りました。感性を磨くために新しいものを色々と見るのが目的でぶらぶらしただけですから、買物はしていません。ですから、霧野と違って私の行動を証明してくれる人をつれてくるのは困難のようです」 「証人なんて必要ありませんよ。事件は若狭で起きたんですから」  霧野はそう言ってから顎《あご》を引き、火村の反応を待った。助教授は感情をあらわにしない。 「休日もお忙しいんですね」 「え? いえ、野《や》暮《ぼ》用《よう》ばかりです。独り暮らしですから、一週間分の家事をまとめてしなくてはなりませんし」 「美術鑑賞も食事もぶらぶらも、お一人でなさったんですね?」 「はい」 「会場で知った方にお会いになったりもしなかった?」 「はい」 「帰宅なさったのは何時ですか?」 「……十時ちょうどぐらいでした」  しつこいな、と霧野は言いたげにそっと口《くち》許《もと》を歪《ゆが》めている。  火村は気がすんだのか、今度は相対している三人を等分に見ながら尋ねた。 「皆さんは赤星さんの取材旅行について、行き先とか目的とか旅程とか、断片的にでも何か聞いてませんでしたか?」  何も聞いていない、との返事が三つ返ってきた。『海のある奈良』云々についても知らなかったという。 「では、旅先の赤星さんから電話が入りませんでしたか?」  これは小浜市役所近くの電話ボックスで見つかった使用ずみテレホンカードを念頭に措《お》いての質問だろう。やはり一同の答えはノーだ。 「その日、近松さんは出勤なさってたんですか?」  火村の質問の方向がまた転じた。 「はい」と奈美子が答える。 「何時から何時まで会社にいらっしゃいました?」 「出社はアルバイトの定時の十時だったはずです。退社も定刻かしら大茂さん、あなた、ご存知?」  五時に会社を出た彼女は、脚本家に訊《き》く。 「いえ、彼は少し残業をして、青洋社への企画プレゼンテイションのレジュメをせっせとコピーしたりしてましたね。正確に何時だったか覚えていませんけれど、七時過ぎまでいたと思いますよ。私が軽く晩飯に出かけようとしていた頃に『お先に失礼します』って帰っていきましたから」 「いつもと違った様子はありませんでしたか?」 「いいえ。ちょっと、そわそわしていた気もしますけれどね。えらくがんばってコピーをしていたんですよ。紙が切れたら舌打ちなんかして。もしかしたら、デートの約束ぐらいあったのかもしれません」 「そわそわしていた、か」火村は視線を移す。「穴吹さんもそうお感じになりましたか?」 「先ほども申しましたように、私は五時以降はここにおりませんでしたので、彼がどんな素振りを見せたのか知りません。早い時間についても、アルバイトの彼の姿は通り過ぎざまに見るだけで、どうだったとも……」 「そりゃそうですね」  火村が笑うのにつられて三人は微笑したが、霧野の笑みは硬直していて、無理に作ったものであることが明らかだった。器用な男ではないようだ。いや、彼は無器用なために愛想笑いができなかったのではなく、火村の笑みが小さな罠《わな》だということを察知していたのかもしれない。——火村は奈美子に向かって言った。 「しかし、穴吹さんにとって近松さんは単なる一アルバイターではなかった、という噂《うわさ》も聞いたことがあります」  気が弛《ゆる》んだ直後にぶつけられた言葉だけに、彼女はぎくりとしたに違いない。うわべはあくまでも平静に「はい?」と問い返す。 「噂です。近松さんと親密でいらしたという」  霧野は火村の不躾さに呆《あき》れているように見えた。派手なネクタイをいじっている大茂は、聞いていないふりをしたいのだろう。 「私と……彼がですか?」 「はい。デマでしょうか?」  彼女は一度肩で大きく呼吸した。 「赤星さんと従弟《 い と こ》さんだということで、食事をごちそうしたことがあります。お給料前にお金がなくて困っているらしかったので、ちょっと助けてあげようと思ったんです。そんなことが二度あっただけですが、誰かに見つかってしまったんでしょうね」  するりと言い逃れようとする。いや、もしかしたらそれが事実であって、一緒に食事をすることも望めない目撃者がやっかんで誤解したのかもしれないが。 「その噂はどなたから?」  霧野はそちらが気になるらしかった。 「震源地がどこなのか知りません。私に教えてくれた人も、噂だ、と言っていましたから」 「本当のところは今申したとおりです。それに尾《お》鰭《ひれ》がついただけで、ありきたりの悪気のない噂話ですね」  奈美子はやんわりと断定する。 「では、あなたと赤星さんの関係はどうなんですか? やはり実態の伴わない噂話でしょうか?」  火村の言葉が終わった瞬間、彼女の左のイヤリングがぽろりと落ち、床で跳ねた。全く偶然のことだが、彼の問い掛けが耳からそれを射落としたかのように見えた。  霧野が屈《かが》んですぐに拾い上げる。「ありがとう」と言って受け取りながら、彼女はどう答えたものか思案していたかもしれない。 「火村先生」  媚《こ》びているのでもないのに、切実な懇願の響きがこもった声だ。 「そちらの方は事実です。それだけはお答えしましたから、詳しい話はノーコメントということでお許し下さい」  そう言われては追及するわけにもいかないだろう。 「皆さんに礼を失した質問をしてしまいました。どうもすみません」  と、火村は幕を引いてしまった。収穫があったのかなかったのか、端で聞いていた私には判らなかった。 「もう終わりですか。いやぁ、ほっとしますね」  大茂が両肩を小さく回しながら言った。率直な感想だろう。 「ご多忙の中、お時間をちょうだいして、ありがとうございました。またお訊きしたいことができたら、お電話などしてもかまいませんか?」 「いつでも結構です」  奈美子が丁重に答えた。霧野は黙ったまま頷《うなず》く。 「では」  暇《いとま》をしようと立ち上がったところに、「あのぅ」と大茂が何か言いかける。 「もしも、お時間がおありでしたら、お食事などご一緒させていただけないでしょうか? そうさせていただくつもりだったんです。お越しいただいてこのままでは愛想がなさすぎますし、僕としましても、脚本を書くにあたって先生方から色々とお話を伺って参考にできれば幸いですので……」  予定では近くでさっさと食事をすませ、ホテルに戻って一日を振り返りつつ捜査会議を行なうことになっていたのだが—— 「じゃあ、どこか安くてうまい穴場の店に案内していただきましょうか」  火村が言うと、脚本家はうれしそうに応えた。 「お任せ下さい」       4  彼が連れていってくれたのは、少し駅寄りに戻った雑居ビル地下の居酒屋だった。壁には昼間の定食メニューが貼《は》ってある。昼食難民という悲惨な言葉で知られたこの周りのこと、昼休みともなると壮絶な椅《い》子《す》取りゲームが繰り広げられるのだろう。宵の今、店内はほどよく埋まっている。 「場所が目立たないところなんで客入りはまぁまぁですが、何を食べてもうまいんですよ。日本酒がご希望でしたら日本各地の地酒も結構揃《そろ》ってるし」  お手《て》拭《ふ》きで顔を拭きながら大茂は言い、メニューを私たちの方に向けて開いた。各自三品ずつ注文して、とりあえずビールで乾杯する。 「全く、とんだ騒動に巻き込まれたもんです。赤星先生の事件だけなら、先生の小説をシレーヌ企画で映画化したことがある、というつながりにすぎませんでしたけど、近松君はうちで働いていましたからね。刑事が出たり入ったりで気が滅入りますよ」  などと彼は言うが、言葉とは裏腹に、どこか面白がっているような気配もある。 「シレーヌ企画は赤星さんの小説を映画化しただけのつながり? それは嘘《うそ》でしょう。穴吹社長とのプライベートなつながりがあったはずだもの」  火村はさっきまでとはがらりと変わったくだけた調子で言い、半分空いた大茂のグラスにビールを注いだ。 「あ、すみません。——社長と赤星先生の関係について、火村先生もやっぱりご存知でしたか、塩谷さんあたりからお聞きになったんでしょうね」 「ニュースソースはいいじゃありませんか。赤星さんのことは、穴吹さんにとってさぞやショックだったんでしょうね」 「そうですね」  料理が次々に運ばれてきて、食べる方が忙しくなった。ビールを何本か追加するうちに、「いやぁ、今日はピッチが早過ぎるかな」と言う大茂の顔が真っ赤になっていく。どうやら好きなわりに弱いらしい。 「でも、赤星さんが亡くなったからって、社長がよよと泣き崩れたなんてことはなかったんじゃないですか」  酔いが回るほどに、彼の話す内容にも変化が現われた。心の扉の施錠がゆるんできたのだろう。 「あの人は花から花への蝶《ちよう》々《ちよう》ですもん。白いシーツみたいにきれいで真新しい恋が大好き……残酷なレディなんですよ」 「残酷と本気でおっしゃるんですか?」  脚本家ははっとしたらしく、慌てて否定した。 「誤解をしないで下さい。社長はとてもお優しい方です。社員はもちろんのことアルバイトまでちゃんと尊重してくれますし、怒声が飛び交う撮影風景は嫌いだともおっしゃるので、現場の雰囲気もソフトなものに変わりました。残酷だと言ったのは違う意味です。つまり——」 「結果的に誰かを傷つけることはあっても、悪気はない、ということですね」  相手が言葉に窮したのを、火村は救った。 「そういうことです。いつまでもお若いのだって体質というもので、別に若い男の血を吸っているわけじゃない」  大茂は真っ赤になった顔を私たちに向けた。 「齢《とし》をとるというのはどういうことか、ご存知ですか?」  思いがけない質問だった。そんなものは木の枝を離れた林《りん》檎《ご》が地面に落ちるのに等しい、自然界の摂理ではないか。 「何故、と問うまでもなく当たり前のことだと言いたそうですね、有栖川先生。そうには違いありませんが、ちょっと面白い話を本で読んだんです。人間に限らず、生物の体内では刻一刻と新陳代謝が行なわれていますよね。古い細胞が次から次へと死に、新しい細胞が次から次へと生まれてくる。そのメカニズムを司《つかさど》っているのは遺伝子の中のDNAです。DNAは、自分の特質をコピーして子孫に伝える働きをするものですが、子供を作る際だけではなく、自分自身を日々再生するためにも活躍しているんですね。ところがこいつ、時々ミスをやらかす。ミスコピーです。子孫にミスコピーが伝わったら様々な機能障害となって顕われる場合もある一方、ある機能なり能力が飛躍的に増進する場合もある。では、子孫だけではなく自分自身の日常的な再生についてミスコピーをやらかしてしまったらどうなると思います? ——そう、老けるんですよ」  私はそんなけったいな話を聞いたことがなかった。 「というと、遺伝子のDNAがミスコピーを犯さなかったら、生物はいつまでも若々しいままでいられるんですか?」と訊《き》く。 「理論上はそうなりますね。つまり、穴吹社長のDNAは極めて優秀なため、ミスコピーをしないのかもしれません。いや、優秀というのは不適切かなぁ。ミスコピーをして当たり前なのにミスしないのだから、それも故障というべきかもしれない」  ここで火村は脱線した話を軌道に戻そうとする。 「穴吹社長が近松さんとも親密だったことを警察に話した人がいます。あなたですね?」  口が軽そうな彼ならありそうなことだ、と私も思った。そして、大茂は案外あっさりとそれを認める。 「はい、そうです。去年の末ぐらいから怪しかったですね。近松君にやたら私用を言いつけたり、外出の運転手にわざわざ彼を指名したり、食事を一緒にしているところを目撃した者もいますよ。赤星さんとの仲についても知っていましたから、従《い》兄《と》弟《こ》二人と付き合うとは大胆なことをするもんだ、と僕なんかつくづく感心してしまいました」 「社内の噂《うわさ》として広まっていることでしたか?」 「ごく一部では。あまり下の社員たちは知らないでしょうけど。実は十日のことにしても……」  彼は出かかった失言を封じるように、不意に口《くち》許《もと》に手をやった。火村はにっこり微《ほほ》笑《え》みかける。 「どうぞ、そのまま続けて下さい」 「うーん、では申しますと」脚本家は素直に従う。「十日の夕方、社長は展覧会を観《み》に退社したと言いましたね。そして、近松君はややそわそわしながら残業をしていた、と。あのそわそわの原因は社長と逢《あい》引《びき》の約束をしていたからじゃないか、と思うんです。大した根拠はないんですが、社長が出る間際に廊下で彼とすれ違った時、目で合図を送ったんですよ。人に見られない角度でしていたのが、窓ガラスに映って僕には見えたんです。あれは何か楽しいことを想起させる合図だったなぁ」  しゃべった上で、本当にデートの約束だったのかどうかは知りませんよ、と彼は釘を刺した。判っているさ、と言うように火村は右手をひらりと振る。 「穴吹社長との仲はさて措《お》いて、彼女と霧野さんの間柄はどうなんでしょう?」  大茂には質問がピンとこなかったらしい。 「間柄……とおっしゃいますと?」 「これは私の印象にすぎないんですが、霧野さんという人は、社長の言動に逐一敏感に反応しているように見受けました。あのお二人の関係は、ありきたりの上司と部下、というだけのものなんでしょうか?」  それは私も気になっていたことだった。 「確かに」と大茂は軽く頷《うなず》いて「霧野の忠臣ぶりはかなりのものです。社長を慕《した》っているというより、惚《ほ》れていると言った方がいいかもしれません。しかし、あれだけの美《び》貌《ぼう》を備えた社長にお仕えするとなると、僕だって叱《しか》られてぶるっとくること、あります」  そうは見えないが…… 「彼がナイーブなだけですよ。男っぷりはなかなかいいけど、やや見かけ倒しでして」  火村は納得したのかどうか判らなかったが、私にはまだ釈然としないものが残った。 「火村先生のご質問はそこまでですか?」  大茂が揉《も》み手をする。 「ええ、およそのところは」 「残念ですねぇ、僕のアリバイは訊いていただけないんですか? せっかく当日の記憶をまさぐって呼び出すことに成功したのに」 「では」と火村は真顔で「そのご尽力を無駄にしないために伺いましょう」  大茂は満足そうだった。酔って悪乗りしているらしい。 「私もシレーヌ企画映像事業部に所属する正社員ですから、午前中の会議に出席しました。午後は朝井先生の『一千二百年目の復讐』決定稿の校正をしてから、二時頃に外出して神田で資料集めです。帰社したのが五時ぐらいかな」  奇遇というべきだろう。その日の同じ頃、私も神田で黴《かび》臭い本の谷間を彷徨《さまよ》っていた。彼と背中合わせでブックハンティングをしていたかもしれない。そんなことを思ったものだから、私はふと尋ねる。 「神田で資料を漁《あさ》るということは、よくなさるんですか?」 「ええ、必要に応じてやります。面白い本に鼻が利く霧野に手伝ってもらうこともありますけれど、出張中だったので、あの日は僕一人でした」 「五時に帰社した後は、何時までこちらに?」と火村。 「現在、私が脚本を担当している作品は朝井先生や有栖川先生の作品だけではありません。『妖《よう》魔《ま》の館』なんていうホラー映画を作る計画が進行していまして、実は、そちらの第一稿を上げることが最優先の仕事なんです。これはオリジナル脚本なので、早く形のあるものに仕上げて相棒——発売元——に諾否を問わなくてはならないからです。サボッていたんでもないのにそれが遅れに遅れて、先方に提出する期日がどんどん迫ってきていました。それで、会社に泊まり込んで徹夜でやっつけたんです」  ……徹夜で働いたことを自慢したかっただけなのかもしれない。 「それは大変でしたね。『妖魔の館』ですか。楽しみにしています」 「霧野との共同脚本です。SFXを駆使して派手にガンガンやりたいんですけど、予算のこともありますからね。二人で限界ギリギリのところを探りながら書いています。時間がないのと、この話に入れ込んでるのとで、その翌日も家には帰らずです。霧野と一緒に会社に泊まり込んで完全に徹夜して昼前に仕上げたわけで、彼がどれほど鉄人なのか、僕たちがどれほど仕事を愛しているかがお判りいただけると思います」 「二徹は凄《すご》いですね」と私が言うと、大茂はうれしそうに笑う。霧野をワーカホリックと言っていたが、彼の方も立派な仕事中毒らしい。 「好きな仕事ができている。幸せだ、と思うからできるんでしょう。有栖川さんだってそうでしょう? 小説家でいることが幸せだと思ってるでしょう?」  心の底からそう思っている。それはさて措き——ようやく有栖川から『先生』が取れてほっとした。 「赤星さんもお気の毒に。あの人も推理作家でいることを楽しんでいたのになぁ。ちょっとスケベだったかもしれないけど、いい人でした。見逃した深夜映画をダビングしてもらったりもしたし、来年はうちの息子が高校受験だって言ったらお守りをくれたこともありました」 「お守りぃ〓」  火村と私は同時に素《すつ》頓《とん》狂《きよう》な声を発していた。大茂はそんな私たちの反応にびっくりしたように目をぱちぱち瞬《しばたた》かせている。 「え……ええ、ご利益あって愚息も何とか進学できたんですが……お守りがどうかしましたか?」 「どうかします」  今回の旅に出る前に、受験生の甥《おい》に土産《 み や げ》を買ってくると赤星は言っていた。小浜では受験の合格を祈願する寺社が見当たらなかったが、やはり彼が甥への土産にしようとしていたものはお守りだったことになる。私は火村と揃《そろ》って声をあげた理由を説明した。 「というわけなんです。彼が大茂さんの息子さんにプレゼントしたのがお守りだとすると、やっぱりそんな寺か神社があるところに寄ろうとしていたことになりますよねぇ。小浜以外のどこかに」  京都の北野天満宮にでも立ち寄るつもりだったのではないか、と考えつつ私は腕組みをする。——と。 「すみません。お守りと申しましたが、それはお寺や神社でもらうアレじゃないんです。いただいたものは、お守り代わりの縁起物でした」 「縁起物というと?」 「駅の入場券です」  火村と私は再びハモった。 「入場券〓」  私はその後「切符のことですか?」と間抜けなことを尋ねた。 「はい、切符です。昔、北海道の幸《こう》福《ふく》駅の入場券がはやったのをきっかけに、お金をためたい人向けの銭《ぜに》函《ばこ》駅の切符だの、頭が薄くなってきた人向けの増《まし》毛《け》駅の切符だのが流行したじゃありませんか。受験生向けの縁起担ぎの切符というものもあるんですよ」 「どこです、それは?」  さすがに火村も答えを急《せ》かす。 「うちの坊主がいただいたのは学《がく》駅の入場券が五枚です。学ぶという漢字ひと文字の学。赤星さんの本名と同じなので、ずっと以前から知っていた駅なんだそうです。その学の入場券が五枚でご入学、という語《ご》呂《ろ》合わせになるわけです」 「その学駅っていうのはどこにあるんですか?」  私は噛《か》みつくように質問を飛ばす。 「徳島県だそうです。たまたま取材旅行で近くまで行ったので、途中下車までして買って下さったものだそうです」  徳島? 四国の? 嘘《うそ》だろ。若狭から離れすぎている。 「ほら、『時の崩壊』という作品に阿《あ》波《わ》町《ちよう》の土《ど》柱《ちゆう》というのが出てきたじゃありませんか。あの取材の時です。学は阿波町の近くにある駅らしいですよ」 「ああ、土柱……」  土柱というのは文字どおり柱状になった土砂のことである。頂上が堅い礫《れき》のためにその下の部分が侵食されず、周囲の土砂が風雨で削られてできるそうで、日本では徳島県に一箇所あるだけというとても珍しい地形だ。にょきにょきと何本もの土の柱が林のように並んでそびえている様はなかなかの奇景である。どうして私がべらべらと土柱の解説ができるのか? ——それは赤星が書いた『時の崩壊』を読んだからだ。その作中の第二の死体が発見される現場が土柱の狭《はざ》間《ま》なのである。 「そうか、彼は確かに徳島を舞台にした作品を書いていますね。けれど、そこはもう使ってしまったところですから、今回の取材旅行の目的地ではなかったと思います」  まさか徳島の山奥が『海のある奈良』のはずがないし、彼がそこで殺されたのなら、犯人がはるばる死体を若狭湾まで運ぶなど理由が思いつかない。また、その運搬は時間的にも不可能だった。  しかし、今回も入場券を土産物にするつもりだったのかもしれない。前回はご利益があったそうだし。 「もしかしたら、学駅の他にもそんな縁起のいい名前の駅があるんではないですか?」  そして、それは『西国』であり、『海のある奈良』であり、人魚伝説が遺《のこ》る地であるはずだ。そここそが赤星の旅の本当の目的地だったのかもしれないところだ。 「他の駅と言われましても、僕は鉄道ファンでもないし、赤星さんのような旅行通でもありませんから」  ごもっとも。 「切符をプレゼントするっていうのは赤星さんお得意のパターンだったようですよ。僕は息子の受験のお守りとしてもらったけれど、少年野球の監督をしている某氏は熊本県の一《いつ》勝《しよう》地《ち》という駅の入場券をもらったそうです。『一敗、地に塗《まみ》れる』の反対だから勝負ごとの縁起担ぎになるわけです」  と火村が突然、椅《い》子《す》を蹴るように立ち上がった。 「失礼」  どんな急用を思い出したのか、狭い階段を小走りに昇っていく。大茂と私はぽかんとしてその背中を見送った。 「火村先生、どうなさったんでしょう?」 「判りません」  何も言わなかったのだから、すぐに戻ってくるのだろう。私たちは少し気が抜けてしまい、食べ物の追加を頼んでしばし雑談を続けた。 「ところでシレーヌ企画という社名の由来は何なんですか?」 「シレーヌとはセイレーンですよ」大茂は枝豆の残りを片付けながら言う。「三千年近く前にホメロスが書いた『オデュッセイア』に登場する海の魔物。それ以前から口承されていた怪物らしいですけどね。有栖川さんの新作の『セイレーンの沈黙』でも紹介されていた奴ですよ」  トロイア戦争からの帰路、セイレーンの島近くを通らなくてはならなかった英雄オデュッセイアは魔女キルケーから忠告を受ける。セイレーンたちの歌声を聴いて破滅せぬよう、船乗りたちの耳を蜜《みつ》蝋《ろう》で塞《ふさ》ぎ、お前は体をマストに縛りつけておけ、と。やがてセイレーンが現われる。妖《あや》しい歌声に一時は縄をほどけと船乗りに命じかけたオデュッセイアだが、耳を塞いだ部下たちがそれを拒んだおかげで、難を免れる。 「元々の言い伝えでは人面の鳥だったそうですね。それがどうして人魚に変化していったのか知りませんが、半身が魚という人間の伝説は別個にあったようですから、それと魅力的なセイレーン伝説が合体して徐々に今あるような人魚伝説が形成されていったということでしょう」 「それはいいんですけど、どうして魔女の名前を採ったりしたんですか? 社長が女性だというのに」 「人を魅了するような仕事を目指す、ということですよ。そのセンスのよし悪《あ》しはともかく、大して深い意味はありませんよ」  ああ、なるほどね、と私は納得した。西洋の人魚伝説は不老長寿と関係がないから、穴吹奈美子の若さとつながりがあるわけもないと判っていたことだが。 「しかし、セイレーンの伝説というのは意味深ですよ。具体的にセイレーンはどうやって船乗りたちを破滅に誘ったんだと思います?」  大茂は妖女の話題を続けようとする。 「さぁ、それはあまり考えたことがありませんでした。歌声を耳にしたものはみんな死んでしまう、としか伝わっていませんでしたからね」 「以前、博識の塩谷さんから教えてもらったことがある。三つの説があるんですって。——まず第一に、オデュッセイアほどの英雄が惑わされたのだから、ありきたりの歌のはずがない。オデュッセイアはセイレーンの歌が『すべてのことを、われらは知っている』という箇所にきて幻惑されたと伝わっていますから、やはりその内容に人を惹《ひ》き込む秘密があるのだろう、という推理です」 「ははぁ、面白いな」 「第二の説は、いや、そうではなく歌声の美しさそのものが魔力を持っているのだ、という見方。古代ギリシアでは、音楽は至上の存在とされていたからです。宇宙は神が創ったものであるから妙《たえ》なる音楽で満ちているはずだ。ただ、それはあまりにも美しすぎて人間の耳には聴こえないのだ、という天球のハーモニーなんていうものも想像されたんじゃないですか。ですから、セイレーンの力を音楽そのものの力と見るこの推理も説得力があります」 「確かに」  大茂は気分よさそうにしゃべる。 「でも、僕が一番頷《うなず》けるのは第三の説です。セイレーンは叡《えい》智《ち》に訴えるのでもなければ、審美の心に訴えてくるのでもない。彼女はただ、娼《しよう》婦《ふ》として船乗りたちを波間から破滅に誘惑したのだ、という説。僕がとことん俗物なんでしょうけれど、この三番目のセイレーンに遭遇したところを想像すると、くらくらきますね」 「高尚なくらくらの仕方ですね」と私は笑った。 「ところで、有栖川さん。『セイレーンの沈黙』の中で誤植がありましたね」 「え?」 「冒頭のエピソードでは火曜日だったものが、解決編では水曜日のこととして語られていました。僕の読み違いじゃないと思うんですが」  すっかり忘れていた。本が発売になる直前に不安になって、片桐に質《ただ》すために電話をしかけたところが、赤星の死の知らせを聞いてそのまま伝えそこねていたものだ。やはり間違っていたらしい。 「いえ、それは私のミスでしょう。後でよく見直しておきます」  後ろから靴音が近づいてくる。火村が何ごとかをすませて戻ってきたのだ。席に着いた彼は「失礼しました」と断わっただけで、何をしていたのかは話さなかった。 「まぁ、現実の事件についてはこのあたりにしておいて、空想の世界のお話に移らせていただいてよろしいですか? 有栖川さんの原作を損なわないようにして、ちょっと面白いアイディアを盛り込む腹案を持っているんです。ご感想が伺いたいなぁ、と思っていたんですよ」  そう言って大茂は仕事の話を始めた。彼にすればそれが目的で私たちをここに誘ったのだから、当然のなりゆきだ。そんな気分ではない私は申し訳ないと思いながらも生返事を繰り返すだけだし、アドバイザーという触れ込みだった火村はひと言もしゃべらないので、大茂は失望したかもしれない。  火村は相《あい》槌《づち》を打つこともなく、唇をなでながら考え込んでいる。何をそんなに真剣に考えているのか、さっきの中座がどういうことなのか、私は大茂との会話を早く切り上げて、それが訊《き》きたくてならなかった。 「まぁ、とにかくそんな感じで書いてみますので、その準備稿を読んでから感想をお聞かせ下さい」  私たちの反応の鈍さに興味をそがれたのか、脚本家は適当なところで話を打ち切った。 「今日は愉快ではない質問を色々としてしまい、失礼しました。感謝します」  店を出て、別れ際に火村が言うと、大茂は「とんでもありません」と柔らかく言った。 「お訊きになりたいことがあれば、いつでも何なりとお尋ね下さい。それより、今後ともよろしくお願いします。——では、僕は社に戻りますので、ここで」  軽く手を上げて去っていく真っ赤な顔の彼を見送りながら、私は早速火村に尋ねる。 「ずっと黙りこくって何を考え込んでたんや?」 「いや、今日聞いた話の中で、そいつはおかしいな、とひっかかる発言があったんだ。事件に直接は関係ないものだったはずだけど、それが何だったのか度忘れしちまって……」 「おや、耄《もう》碌《ろく》してきたのかな、先生」 「うるせぇ」  事件に直接関係がないことならゆっくり思い出してもらえばいい。それより気になるのは謎《なぞ》の中座だ。 「ああ、あれか。電話を一本かけてたんだ」 「誰に?」  私たちは立ち話を続ける。 「うちの社会学部の鈴《すず》木《き》って教授だよ。交通社会学が専門で、鉄道研究会の顧問をしてる鉄道ファンなんだ」  はっとした。 「鉄道研究会というと……」 「受験のお守りになるような縁起物の切符について訊いてみたんだ。話の途中で慌てて電話に立ったのは、この時間ならまだ研究室にいるかもしれない、と思ったからさ」  何だそういうことなら早く言えよ、と思ったが、大茂の前では明らかにしたくなかったのだろう。それは私たちの捜査の成果だから、彼を通じてシレーヌ企画の他の人間に広まってはまずい。 「で、徳島の学駅以外にもそんな縁起のいい名前はあるのか?」 「あるそうだ。鉄道ファンなら常識のたぐいなのか、即座に答えてくれた」  初めて捜査に手応えがあったわけだ。 「福井県にか?」 「いいや」 「京都か? 奈良か?」 「違う。大阪でも兵庫でもない」  私はじれったくなって叫んだ。 「さっさと言え! まさか北海道やなんて言うんやないやろうな」  火村は真顔でかぶりを振る。 「そんなんじゃない。西国には違いないんだ。——その駅というのは、和歌山県にあるそうだ」       5 「和歌山県?」  徳島よりはましだが、それでもまだ若狭に遠い。一体、赤星はどんな旅程を組んでいたというのか? いや、それよりも—— 「和歌山の何という駅なんや?」 「カ、ム、ロ」火村は一音ずつ区切って、わざと判りにくくして言った。「知ってるか?」 「カムロ……ああ、学文路か!」  彼と違ってずっと関西で暮らしている私は、学文路が高《こう》野《や》山《さん》の登山口近く、橋《はし》本《もと》市にある町の名だということを知っていた。駅でいうと、南海高野線の橋本駅と高《こう》野《や》下《した》駅の間になるはずだ(地図3参照)。そして、その駅の入場券が受験生にとって縁起物であるということについても、言われてみれば思い当たることがあった。地名の由来にはまるでかまわず、ただ、字《じ》面《づら》がいかにも勉学に縁がありそうだ、というだけのことから学文路駅の入場券が合格祈願のお守りとして、もてはやされているらしいのだが、電鉄会社の方でもそんな需要を見逃すことなく、十一月頃になると、ちゃっかりとお守り用にパッキングした切符のセットを売り出していたようだ。大阪市内の駅でその販売開始のポスターを見かけた記憶がある。 「理解に苦しむな。学文路っていうと、高野山の麓《ふもと》やぞ」 「電話でそう聞いた。難《なん》波《ば》から急行で一時間ぐらいかかるところなんだってな。随分と予想外の方向だぜ」  思いがけない地名を突然吹きかけられて興奮する私に対し、火村はいたって冷静だった。電話でその新事実を聞いて時間がたっているから当然のことだろうが。 「こんなところに突っ立って話してても仕方がないだろう。ホテルの方に歩きながら話そう」  JR新宿駅へ向かってゆっくりと歩きながら、私たちは捜査がどう展開し、いかなる局面を迎えつつあるのかについて考えを述べ合った。まず私が思うところを吐き出してみる。 「片桐さんに調べてもらうことにしたものの、今のところ、小浜以外に『海のある奈良』と呼ばれるところがあるのかどうか判らん。ただ、赤星が学文路に立ち寄ろうとしていた公算はかなり大きいと見るな。合格祈願の縁起物切符を売り物にしてる駅なんて、そうどこにでもここにでもあるものではないやろう。日本中を捜せば見つかるかもしれんけれど、学文路なら彼が言い残した『西国』という言葉に合うし、小浜から百何十キロも離れているとはいえ、東京から見たら方向が似ていると言えなくもない。常識的にみたら小浜と学文路を組み合わせた旅程なんか考えられんことやけど、小説家の取材旅行となると、どんな旅でもあり得るからな」 「だろうな」と火村は認めてから「作品の資料集めのためなのかロケハンなのか知らないけれど、殺された小説家は学文路に取材に行こうとした。それはいいとしよう。——ところで、その学文路という土地には何があるんだ? 電話で話した先生に訊いても、高野山が目的地で途中下車したんじゃないのか、としか答えてくれなかった」  学文路に何があるんだ、と言われても私にも即答しかねた。知識も欠いているし、訪ねたこともない。 「何もピンとけえへんな。調べてみないと判らない」 「ふぅむ」  しばし黙り込み、私たちは駅を過ぎた。今宵泊まるホテルまで、まだ五分ほど歩かなくてはならない。このまま無言のうちに宿に着くのだろうか、と思っていると火村が口を開いた。 「小浜で生きた赤星さんを目撃した人間は皆無だった。ということは、東京を発った赤星さんが向かった第一の目的地は、小浜じゃなくて学文路だったと考えても無理はないわけだ」  それはまた一人よがりな仮定だな、と私は思う。 「待てよ。取材に回る順序はどっちでもよかったやろうけれど、彼は十日と十一日の二日間、豊玉ホテルのシングルを予約してたんやから、まず小浜に向かうつもりやったんやろう。それが、旅立ってから予定を変更したっていうのか?」 「予約? そんなもん、犯人か誰かが電話で赤星楽の名前を騙《かた》っただけかもしれねぇだろうが」  言われてみればもっともなことだが、そんなふうに考えたことはなかった。 「市役所近くの電話ボックスに遺《のこ》ってた珀友社オリジナルのテレホンカードはどうなる?」 「さも彼が小浜にやってきていたかのごとく捜査側をあざむくために犯人が行なった偽装工作。懐から抜き取って、遺体を岬に捨てに行く前後に置いておいたのかもしれない」 「ここにきて決めつけるなぁ」 「決めつけちゃいないさ。かもしれないって言ってんだよ」 「赤星が小浜にやってきていたと信じさせるのにテレホンカード一枚っていうのはなぁ。その偽装工作はちょっと拙《つたな》すぎると思う」 「信じさせるには弱いかもしれないけれど、匂《にお》わせるぐらいの効能はあっただろう。偽装工作だと断定することも難しいから、犯人にしてみると、やって損はなかった」  私は逆らうのをやめた。 「高野山の手前、橋本市ということは、大阪府と和歌山県が接するあたりだな」火村は独白のように続ける。「難《なん》波《ば》から急行で一時間。ということは——もしも、赤星さんがまず学文路を訪ねようとしていたのなら、東京を出発した日のうちにたどり着くのは、ちときついか」  赤星は三時の新幹線に乗ると言っていた。新大阪着が六時頃。それから大阪市内の真ん中にある難波駅まで移動するのに三十分かかるから、高野山行きの急行にすぐに飛び乗ったとしても——橋本までは特急を利用する手もあるが——、学文路に着くのは七時半から八時近くになるだろう。 「着くのは可能やけれど、東京から出てるんやったら、その日は大阪市内で一泊するのが自然なように思う。彼は大阪になら定宿を持ってたけれど、おそらく、学文路には宿らしい宿はないやろうからな」  その夜、霧野千秋が大阪にいたことを思い浮かべながら私は言った。二人が接触する場面を脳裏に描いたが、赤星が大阪に泊まろうとしていたとは限らない。 「京都で一泊するつもりだった、と考えることもできるな」  火村は私が思ったことを言った。そうなのだ。そして、京都には朝井小夜子と塩谷がいた。彼女もしくは彼と会うことを、赤星が約束していたのではないか、と想像することもできる。 「それはそうや。ところで、赤星は小浜に直行しなかった、と断定できるのか?」 「もちろん断定はできない。しかし、被害者の当日の動きがまるで掴《つか》めてないんだから、色々な仮説を立てて検証してみる方がいいだろう」 「赤星の方から犯人に接近して、そこで殺されたと?」 「かもしれない」 「だとしたら、何故、犯人は殺した後で死体を若狭湾まで運ぶ必要があったんや? 大変な危険と労力を払ってまで」  何か真実に近づきつつあることが感じられだしたところで、ホテルの前まできてしまった。とりあえずはチェックインをすませなくてはならない。ツインしか取れなかったことを片桐は恐縮していたが、真新しいホテルで、ロビーもなかなか洒《しや》落《れ》ていた。 「もしかすると、犯人は赤星さんが『海のある奈良に行ってくる』と言い残して東京を出たことを知っていたんじゃないかな」  宿泊カードを書きながら火村は、フロント係が不審そうに小首を傾げるのにかまわず、事件の話を進める。 「おっと、問題発言やな。『海のある奈良に行ってくる』という言葉を言い遺されたのは、俺と片桐さんの二人だけやぞ。俺が犯人でなかったら、お人好しサミットの日本代表を務められそうな片桐さんがやったっていうのか?」 「被害妄想にかかったように『二人だけやぞ』なんて吠《ほ》える必要はない。犯人と接触した際に赤星さんがそんなことを言って東京を出てきた、と伝えてれば条件は整うんだ」 「……続きを聴こう」 「犯人は、周囲の人間が、赤星さんは小浜に向かったのだ、と誤解してくれることを承知していたのかもしれない。その一方で赤星さんが当夜、京都か大阪に泊まることを知っていたとする。その上で、京都なり大阪なりで犯行を行なったのだとしたら、死体を夜中のうちに『海のある奈良』小浜に運ぶことによって、殺害現場の偽装を図ったのだ、とみることもできる。——支払いはカードでお願いします」 「待て待て。殺害現場の偽装って……つまり、アリバイ工作ということか?」 「そう。ほれ、遺体の発見現場に行った時、どうしてわざわざこんなところまで運んでおきながら、もっと周到に遺体を湮《いん》滅《めつ》してしまわなかったのか、と二人で話してた解答はそこにあるのかもしれない。犯人はアリバイを偽造していたから、適当な時点で遺体が発見されて、検視に付されることを望んでいたのさ。発見が遅れると死亡推定時刻の幅が広がりすぎて、アリバイの有効性がそこなわれるだろう」  聞いていないふりをしつつ、フロント係の瞳には好奇心の火影が揺らいでいた。この物騒な会話はテレビドラマの打ち合わせなのだろうか、と悩んでいるのかもしれない。 「としたら、アリバイがはっきりとしてる人物が怪しいとも言えるわけか?」  朝井、塩谷の両名が当夜の所在を証明できなかったのに対し、霧野はアリバイをアピールしていた。 「ノーノー。迂《う》闊《かつ》なことは言えない。頃合いを見計らって『実はこれこれという証人がいることを思い出しました』なんて言いだして真実味を出すという演出をたくらんでるのかもしれないしな」 「赤星の旅程を犯人だけが把握していて、アリバイ工作に利用したのかもしれん、ということか……」 「そう。——602号室ですね。ありがとう」  彼は部屋の鍵を受け取って、くるりと踵《かかと》でターンした。 「けれど、創作に関してはえらく秘密主義者だった赤星が旅程を明かした相手というのは誰やろう?」 「その相手が誰で、どんないきさつで秘密を共有することになったのかは判らない。いや、そんなことがあったのかどうかも、まだあやふや極まりないけれどな」  元恋人で同業者の小夜子ではないか、と思いかけて打ち消す。一緒に仕事をして以来ミステリのファンになったと話していた霧野かもしれないし、担当編集者としてコンビを組んでいた塩谷を疑うこともできるではないか。いや、赤星が書こうとしていた『人魚の牙』は青洋社のための書き下ろしだったとすると、担当編集者は多賀になる。彼は事前にどんな作品になるか全く聞かされていない、と言っていたが、それを鵜《う》呑《の》みにしていいものか? ——頭の中でパズルをいじっているうちに、バチッと小さな火花が飛んだ。 「その誰か、が近松ユズルだという可能性はないか? 赤星の身近にいた彼なら、秘密を共有する資格を備えてるやろう」 「近松か。しかし、彼は死んだ」  エレベーターの中でも、廊下でも、私たちは話を中断させない。しゃべりながら602号室の前まできていた。 「それはやっぱり自殺だった、と考えたら腑《ふ》に落ちへんか?」  ガチャガチャ音をたてて部屋の錠を開けながら、火村は「落ちない」と言い放った。 「どうして?」 「近松自殺説の不自然さについて、さっきまで色々と出たじゃないか。遺書がないこと。テレビが点きっぱなしだったこと。何とかっていう血みどろホラー映画のビデオをレンタルしていたことエトセトラ」 「発作的な自殺やったんなら、おかしなことではない」  部屋に入ると、新しいホテルだけあって、壁紙の白さがいかにも清潔そうだった。値段の割りに広々としていて、ベッドもセミダブルが二つ並んでいる。上着をハンガーに掛け、湯を沸かしながらも、なおも私たちは口を休めない。止まらなくなっているのだ。ベッドに腰を降ろして向かい合い、言葉をぶつけ合う。 「なるほど。ところで、自殺だとしたらウィスキーのボトルに毒を入れたのは近松さん自身ということになるけど、それでいいのか?」  いいも悪いもないではないか。 「そういうことになるな」 「そりゃ変だろ。彼がどこで毒薬を入手したのかはさて措《お》いて、自殺するんならウィスキーを注いだグラスにそれを投じればことは足りたわけだろう。毒がボトルに入っていたことは自殺説にとってさらなるマイナス材料だ」 「蓋《がい》然《ぜん》性の問題やな。あり得ないことではない」  私はうそぶいた。 「それについては蓋然性でも何でもいいさ。しかし、元々ボトルに毒なんか入っていなかったのだとしたら、そのジャックダニエルは一体何者が何を目的として赤星さんに送りつけたものなのか、という点については全く説明がつかなくなることを忘れちゃいないか?」 「忘れてた。——しかしな、せやからと言うて、近松自殺説が完全に否定されてしまうわけでもないと思うぞ。謎《なぞ》の贈り物には、俺らの与《あずか》り知らぬ事情があったのかもしれん。そもそも問題のボトルにいつ薬物が混入したのかは不明やないか」  毒はいつウィスキーのボトルに投じられたのか? 想定されるべきケースはいくつもある。あらためてまとめてみることにした。第一に、何者かが赤星を殺害するために毒入りウィスキーを送りつけた場合。第二に、赤星が自分で自分宛《あて》に送ったウィスキーを一旦受け取ってから毒を入れ、近松を殺害するために与えた場合。第三に、近松が自殺するために自ら投じた場合。ここまではこれまでの話に出たケースだが、それ以外にも第四、第五のケースも考えうる。例えば、近松の部屋に出入りしていた何者かが隙《すき》を見てボトルに毒を入れた場合。あるいは、一昨日の深夜、近松と酒を酌み交わしていた何者かが、ボトルとグラスに素早く一服もった場合だとか。——だんだん不自然な状況設定になってしまうが、可能性としてはあるはずだ。 「近松自殺説を採ると、素直に受け止められることが一つだけある。それは、年の初めに赤星からもらったまま手をつけずにいたウィスキーを、一昨日になって彼がどうして飲む気になったか、や。赤星の死と彼の死が連続したことに因果関係があったとしたら、納得がいかんか?」 「いかねぇよ。近松さんがウィスキーに手をつけなかったのは洋酒が好みじゃなかったからなんだろ? 好きでもないものに毒を入れて呷《あお》る奴はいないって。お前さん、自殺の毒のベースにするためにトマトジュースを使うか?」 「アイスコーヒーを使う」 「だろ?」  私はトマトが大好物のくせにトマトジュースは苦手だから、火村が挙げた例は小憎らしいぐらい説得力があるようだが、近松がウィスキーをそんなに嫌っていたとみるのは多分誤りだ。嫌いなものなら、端《はな》からもらおうとしなかっただろう。彼は気が向いたら飲むつもりでいたのだし。  湯が沸いた。客室そのものには満足だったが、ティーバッグで淹《い》れたビジネスホテルの煎《せん》茶《ちや》は、相変わらず情けない味だった。 「自殺でも他殺でもええ。近松ユズルはあまり好きでないウィスキーをどうして一昨日の真夜中、突如として飲む気になったかが疑問や」 「その疑問は遺《のこ》るな」       6  猫舌の火村はお茶が冷めるのを待ちくたびれたように、大きな欠伸《あくび》をした。 「ちょっと疲れた。後は明日にしようぜ」 「どういうスケジュールでいく?」  彼はきちんと決めていた。八時起床。九時頃にホテルを出て、捜査本部がある板橋署に向かい、話を訊《き》く。そのことについては、私が知らないうちに警視庁の知己に根回しをすませているそうだ。その後、杉並の赤星の部屋も見たいと言う。 「捜査線上に学文路が浮上したのが今日のハイライトか」  私はそう呟《つぶや》いたところで、その発見を片桐に報告してやりたくなった。『海のある奈良』捜しを引き受けてもらっているのだから、新たな情報はインプットしておかなくてはならないだろう。  火村が浴衣《ゆかた》に着替える傍らで、私は吉祥寺のギタリストに電話を入れた。すぐにつながる。 「シレーヌ企画での訊き込みはどうでしたか?」  彼は勢い込んで尋ねてきた。細かいやりとりを再現するのはいかにも億《おつ》劫《くう》だったので、赤星が和歌山県の学文路に立ち寄ろうとした形跡がある、というくだりだけを丁寧に説明する。「へぇ」「はぁ」という嘆声が受話器の彼方《かなた》から聞こえた。 「和歌山県の橋本市ですか。それはまた思いがけない展開ですねぇ。学文路と人魚伝説が結びつくかどうかはともかく、海からは相当離れていますから、そこが『海のある奈良』なんて呼ばれているわけはありませんよねぇ」 「やろうね。——『海のある奈良』はやっぱり小浜かな」 「有栖川さんたちが帰った後で、会社の資料室の資料に当たったり、紀行ものを書いていただいてる先生に電話で訊いたりしてみたんですよ。『海のある奈良』ってどこを指しているのか、と。小浜以外に出てきませんでした」 「忙しいのにご苦労様」 「いいえ、今はそんなに忙しくないんです。でも……」  どうしたことか彼は口ごもった。 「でも何です?」 「ええ……あまり確信は持てないんですけど」と前置きして「赤星さんが最後に言い遺《のこ》した『海のある奈良に行ってくる』という言葉が少しひっかかるんです。何ていうか……和歌山に行くのなら、赤星さんはそのことも言い添えたんじゃないか、なんて」  おかしなことを言い出すものだ。 「いちいち目的地を並べ挙げることをしなかっただけでしょう。メインとなる取材地が小浜だったんで、それだけを言うたんですよ」 「それはそうなんですが……あの時に聞いた『海のある奈良に行ってくる』という言葉は——正確には倒置法で『行ってくる。海のある奈良へ』と言ったということまで私ははっきり記憶しているんですけど——『自分はそこへこれから直行し、みっちりと取材をしてくるのだ』というニュアンスを感じませんでしたか? すみません、曖《あい》昧《まい》なことを言って。私には『行ってくる。海のある奈良へ』というきっぱりとした言葉の後に『その他にも高野山の近くまで足を延ばして取材したりもするんだ』という言葉が括《かつ》弧《こ》にくるまれて続くような気がしないんです」  片桐はしどろもどろになりながら言った。彼が言わんとすることは理解できなくもない。さすがはプロの編集者だな、と感服したぐらいだ。 「判りますよ」 「え、判っていただけます?」 「ひっかかったのは判りますけど、赤星が学文路に寄ろうとしてた、という新説は捨てがたいと思うんです。受験生向けお守りの土産《 み や げ》とは何か、という謎《なぞ》への解答が出るわけやから」 「うーん、学文路ねぇ。けれど、赤星さんはそこにたどり着くことができなかったわけでしょう? だとしたら学文路に足跡が遺ってるわけでもないだろうし……そこに行こうとしていたのかどうか、判断できませんね」 「学文路に『海のある奈良』てな異名があるか、人魚伝説につながるものがあるかしたら、取材目的地だったとみてええやろな」  片桐はまた「うーん」と唸《うな》っていたが、不意に話を変えて、明日の私たちの予定を尋ねてきた。先ほど火村と打ち合わせしたスケジュールを教えると「そうですか」と言う。 「とにかく今日はお疲れ様でした。明日も収穫があるように祈っています」 「ありがとう」と言って私は受話器を置いた。 「先にシャワー使うぞ」  と言いながら火村がバスルームに消えたので、私はもう一本電話をかけてみようか、という気になった。手帳の電話番号簿を再び開いて、京都の先輩にダイアルする。 「はい、朝井です」という相手の声を真似て、私は「有栖川です。ちょっとよろしいでしょうか?」と精一杯ハスキーに言ってみた。 「森進一がダイイングメッセージを伝えにかけてきたんかと思うやないの」と小夜子はつまらなさそうに言った。「今、小浜?」 「いいえ。昨日は小浜で一泊したんですけど、今夜は東京です」 「あんた、忙しいことを自慢したいの? もしかして火村先生と探偵行《あん》脚《ぎや》をしてるとか?」 「正解。珀友社に顔を出して塩谷さんの話を聞いたり、シレーヌ企画に行ったりと動き回っています」  溜《た》め息がもれた。受話器に当てた耳《じ》朶《だ》にそれが吹きかけられたような錯覚がして、少しぞくりとする。背後からはバスルームのシャワーの音が聞こえていた。 「それで、収穫はあった?」  片桐が電話を切る間際に使ったのと同じ言葉が出た。 「収穫らしきものは一つだけです。赤星さんの取材旅行先に和歌山も含まれていた節があるんです。そんなことを聞いていませんでしたか?」  学文路という地名はわざと出さずに様子をみる。が、彼女は「ふぅん」とクールな反応を示すだけだった。驚いたふうでもなければ、動揺したようでもない。 「聞いてないわ。次作の構想については何も聞いてへんって言うたやないの」  同じことを何度も訊くな、と言いたそうであった。嫌われないうちにやめよう。 「近松ユズルさんが亡くなったことはご存知ですか?」と話を変える。 「新聞で読んだ。赤星さんの従弟《 い と こ》なんやてね。彼から噂《うわさ》を聞いたことがあるわ。編集部門にいてたからやろうけど、シレーヌ企画で働いているのは知らんかったけれどね」  やはりクールな口調。 「自殺か他殺かまだ判ってないらしいんですけど、朝井さんはどう思いますか? 彼が赤星さんを殺した犯人で、良心の呵《か》責《しやく》に耐えきれずに自ら毒を飲んだ、とみてる人もいてるようなんですけどね」 「うちにコメントを求めんといてぇな。女嫌いの名探偵、火村先生に訊いたら?」 「あいつはまだエンジンがかかってないみたいです」と小声で言って「実は、新聞に出てなかった事件の背景があるんです」  毒の混入していたウィスキーは、元をたどると赤星に送られてきたものだった、という事実を私は話したが、それが彼女の愛飲している銘柄のウィスキーであることにはあえて触れなかった。偶然でしょう、と一蹴されることが目に見えていたからだ。聞き終えると彼女は—— 「犯人はまず赤星さんを毒殺しようとして失敗したんで、今回やり直したっていうわけ? 間違いで殺された近松さんは死んでも死に切れんやろうね。……いや、犯人は二人ともを殺したかったんかな………」  彼女の頭の中で思考の歯車が忙しく回転しだしたようだ。彼女が自問自答するのを私は黙って聞く。 「ねぇ、近松さんが赤星さんを殺して自殺したという説があるそうやけど、反対に、赤星さんが毒入りウィスキーを近松さんに渡して殺そうとしたと考えることもできるやないの。いや、お互いに相手を殺そうとして、同士討ちになったとか……」 「同士討ちぃ?」それは俎《そ》上《じよう》にあがらなかった。「それ、凄《すご》いな。新説ですよ。——あの従《い》兄《と》弟《こ》同士は表面上は仲がよかったそうなんですけど、内実は戦闘状態にあったんでしょうか?」 「いや、うち、それは全然知らへんからね。同士討ちどころか、二人を等しく憎んでる第三者による連続殺人の線の方が有力やろうし」  彼女は話を無難な方に持っていこうとした。この電話ではもっと無責任になってしゃべって欲しかったのに、巧みにかわされてしまう。仕方がないので、また話題を転じる。 「近松さんは穴吹社長の寵《ちよう》愛《あい》を受けていたらしい、という情報があるんですけれど、そんなことを聞いたことはありませんか?」  小夜子は私の質問に答えなかった。 「穴吹奈美子って……どういう人なん?」 「どういう人って、朝井さんも知ってるやないですか」 「あの人、赤星さんと本気で付き合うてたんやなかったん? ひょっとして、ほんまに美容と健康のために男の精気を吸うてるの? 少しは敬意を払ってたのに見損のうたわ」  微かに声が顫《ふる》えていた。数日前の電話の時のように涙ぐんでいるのではなく、怒りをこらえているのだろう。——もし、演技でなければ。 「敬意を払ってた、とは意外です」  私は正直な感想を述べた。小夜子の声からすっと張り詰めたものが抜ける。 「あの人、二十歳の頃から真空パックされてるみたいな風《ふう》貌《ぼう》をしてるけど、随分と苦労してきたらしいよ。霧野さんやら、脚本家の大茂さんっていう人から色々と聞いた。病弱やったんか何か事情があったんか、二十歳で高校を卒業してね、郷里の秋田から上京してデパートに勤めたんやけど、お金が欲しくてじきに水商売に転職したんやて。将来お店を持ちたい、やなんていう希望やなしに、事業を興したいって、とにかくハングリーやったらしい。ホステスをしながら大学に入って、中退したものの二年間は夜の仕事をしながら通ったっていうしね。そのうちマスコミ関係のお客とコネができて、コネが人脈になって、ついに三十半ばで、今のシレーヌ企画の前身やったボロ会社を買い取ったんやて。  いえ、私は苦労をしてきてるから彼女に敬意を払う、というんやないよ。つらいことに歯を食いしばって耐えたり、色んな駆け引きの修《しゆ》羅《ら》場《ば》も経験してきたんやろうに、そんな様子をこれっぽっちも表面に出さんと、純粋なままでいるように見えるところが好ましかった。赤星さんのことは彼の心変わりやから彼女を恨むことはできへんし、男性遍歴については、多分に誇張されてると思ってたのに……失望した」  また溜め息をもらしてから、小夜子はぽつりと付け加えた。 「霧野さんも可《か》哀《わい》想《そう》やね」 「あの人は穴吹奈美子に恋してるんですか?」 「崇《すう》拝《はい》しながら恋してるんやないかなぁ。彼はシレーヌ企画の前身の会社からいてて、穴吹奈美子がそれを買収して以来、片腕となって働いてきたみたい。惚《ほ》れてるんやったら、彼女の男性遍歴を目撃し続けるのはつらいでしょうね。齢《とし》は彼女より十五歳下らしいけど、赤星さんかて十一歳下だったんやし、近松さんて人は二十代やったらしいから、もっと離れてたわけでしょう? ——気の毒に。霧野さんてそんなに悪くない、というより、ええ男やと私は思うんやけどなぁ」  三度目の溜め息。 「……うまくいかんもんやね」 「こればかりは、ね」  と私は応じた。自分の言葉がしみじみと胸に沁《し》みた。私は話を変えてみたくなる。 「ところで——」 「何?」 「『パンゲア』って店名、どういう意味なんでしょうね?」 「さぁ……今度お店の人に訊《き》いてみたら?」 「そうですね。そうしましょう」  いつの間にかバスタオルを首に掛けた火村が後ろに立っていた。長電話になってしまっている。私は非礼を詫《わ》びて電話を切った。  と、五秒としないうちに電話がプルプルと鳴りだす。外線電話がかかってくるわけないのにな、と怪《け》訝《げん》に思いながら出てみると、何の不思議はない、片桐からだった。何か伝えそびれたことがあったのだろうか、と思いきや—— 「私、明日、学文路に行ってきます」 「へ?」 「部長の家に電話して了解を取りました。有給休暇の扱いになりましたけど、明日一日だけ自由が手に入りましたから、和歌山まで日帰りで調査に行ってきますよ」 「関西の調査にわざわざ片桐さんが行かんでもええでしょう」 「でも、有栖川さんたちは明日も東京なんでしょ? 下《へ》手《た》したら明後日もこっちかもしれない。学文路が気になるんじゃありませんか。それに、そっちの調査結果を見てまた東京に出てこなくちゃならなくなったら二度手間、三度手間だもん。ここは一つ私を使って下さい」  重ねて「ええの?」と訊いたが、彼は「大丈夫」を繰り返した。 「片桐さん。俺の目にうるうると涙が浮かんでるのを見せてあげたいよ」 「その代わり、今度、鶴《つる》橋《はし》で焼肉をおごって下さいね」 「おごるおごる。ハシゴして吐くまで食いましょう」 「吐かせてもらいます」  アホなやりとりで電話を切ってから、自著のミスの件をまたまた伝え忘れたことに気がついた。ちょっと情けない。  片桐が学文路に飛んでくれることを火村に話すと、彼は「へぇ」と意外そうに言った。 「それは赤星先生の弔《とむら》い合戦に燃えてるからか? それとも有栖川先生への義理?」 「義理やのうて、友情やろうね。俺、人望が篤いから」 「友だちが多くて結構だ。犯罪だけが友の孤独な俺とは反対に」  濡《ぬ》れた髪の先から雫《しずく》を落としながら冷蔵庫を開け、彼は——私の最も近しい友は——缶ビールを呷《あお》った。        *  犯罪を友としたのは火村の自由な選択の結果である。恩師に見込まれて研究者の道にひっぱられたわけではないし、まして医者によくあるように親の跡を継いだわけでもない。  彼は犯罪に関する古今東西の文献を渉《しよう》猟《りよう》し、日々、新聞で報じられる殺伐たる事件に目を走らせ、刑事裁判を傍聴し、塀の中の犯罪者と面談したり、被害者やその遺族の話を聞くために日本中どこへでも飛んでいく。もちろん、英都大学社会学部助教授として教壇にも立つし、学内学外の機関誌に論文も発表している。フィールドワークの一環として警察の捜査に協力し、事件解決に貢献したこと数十回。自分が関与した事件の犯人たちの顔写真はすべてアルバムに貼《は》ってあるそうだが、誰にも絶対に見せようとしない。私の推測だが、そのアルバムを通路としては火村が彼らの元に通い、世間ではとうに方《かた》が付いた犯罪にまつわる対話を延々と続けているのかもしれない。  何故、犯罪者をほうっておかないのだ?  人を憎んで罪を憎まず、などと言って嗤《わら》うのだ?  やがてこの国でも死刑は廃されるだろう、という私の良識ある見解を冷笑するのだ?  私の問いに、彼は明確な答えを投げ返さない。何度か聞いた回答はこうだ。  ——俺は人を殺したいと渇望したことがあるからだ。  それ以上は踏み込めない領域に、問いの答えは封印されていた。閉ざされた門の前で、私は引き返すしかない。  門の中にどんな風景が広がっているのだろう、と想像することもあった。中から、何かが軋《きし》む微かな音が不吉に聞こえてくるような気がしたこともある。そんなことはしばらく忘れていたのだが、その夜、私は思い出さなくてはならなかった。    悲鳴が聞こえたのだ。    背を向けた隣りのべッドから。  何時だったかは判らないが、夜明けが遠いことを保証するかのように、カーテンの隙《すき》間《ま》から覗《のぞ》く外は真っ暗だった。  私の眠りを裂いた悲鳴がやむと、火村ががばっと起き上がる音がした。荒い呼吸を抑えようと努めながら、私が目を覚ましたのかどうか『気配を窺《うかが》っている気配』がする。死人も目覚めるような悲鳴がしても平気で眠りを貪《むさぼ》り続ける世にも鈍感な男、を私は演じた。  彼は息が鎮まってくるとそっとベッドを出て、バスルームに向かった。洗面所で水を飲む音の後、カタンとコップを置く音がやけに大きく響いた。すぐに戻ってきて、ベッドにもぐり込む音。  何に向かって叫んだのだ?  何かに恐怖したのか?  誰に? 自分自身にか?  枕《まくら》許《もと》の明かりを点けて、彼に尋ねたかった。それを胸の内にとどめておくことこそが苦しみなのではないか、自分を解放しろ、と。  初めて聞いたわけではない。  前にもあったことなのだ。学生時代から——        *  久しぶりに夢を見た。  前日に会った何人もの顔が代わる代わる現われ、意味もない戯《ざれ》言《ごと》をいくつか私にぶつけては——霧野千秋は口角泡を飛ばしていた——闇《やみ》の彼方《かなた》に溶暗していった。  最後に穴吹奈美子が登場した。彼女だけは何も言わず静かに佇《たたず》んでいた。  ——何かおっしゃりたいのでしょう?  私がそう問いかけても、彼女は沈黙を守り、こちらが秘め事を暴くのを待ち望んでいるかに見えた。  いや、何かを案じていたのかもしれない。  第五章 ほどける糸       1  翌朝、目を覚ますと、夜中に悲鳴をあげた友人は鼻歌まじりに歯を磨いていた。時計を見るとちょうど八時だ。私はベッドに腰掛けたまま窓のカーテンを少しめくってみる。快晴の空の下、通勤の人の流れが右から左へと眼下を行き過ぎていた。もう少しすると、流れはどんどん勢いを増していくのだろう。 「よく眠ってたな」  洗面所から火村の声が飛んできた。そうでもないぞ、と言いたくなる。 「明け方に目が覚めて小説の構想を練ってたんやけど、君が起きる前にまた眠ってしもうただけや。いやぁ、さすがに東京は空が白むのが早いな」  洗面所の鼻歌がやんだ。おや、と思う。私が明け方に目を覚ましたというのはでまかせだが、そんなものはささいな負け惜しみにすぎない。なのに火村がそれを聞きとがめたような気がしたのだ。耳を澄ませてみると、歯ブラシを使う音が途絶えている。口をゆすぐ音がして彼が姿を現わすまで、不自然な空白があった。 「どうかしたんか?」と訊《き》いてみる。 「いや、ちょっと思い出したことがあって。——それより」  彼は私の前に立って見下ろしてくる。 「なぁ、アリス。気になってたことがあるんだ。昨日、俺が鉄道道楽の教授に電話している間に、お前は大茂さんとどんなことを話していたんだ?」  顔を合わせても、朝の挨《あい》拶《さつ》を交わすどころではなかった。いきなり事件の話だ。それに面食らったが、そうでなくても、人間の記憶というのはビデオのように簡単に再生することはできない。 「ちょっと待ってくれ。どんなことを話してたかって急に訊かれても出るかいや。まだ頭は半分夢の中なんやから」 「お前が彼に謝ってなかったか? 『私のミスです』とか言って」  大茂に謝罪などしていなかったはずだ、と思いかけたが、ミスという言葉でピンときた。 「ああ、判った。それは謝ってたんやない。彼が俺の本の中に曜日の矛盾があったのを指摘してきたので、それは誤植ではなく私のミスです、と話してたんや」 「何だ、つまんねぇな」  つまらないとは失礼な。私にとっては大切なことなのだから。文句を言うと—— 「失敬したよ」としおらしく詫《わ》びて「けれど、推理作家が曜日を間違えといて、人から言われないと気がつかないのかよ、先生」 「お、臓《ぞう》腑《ふ》をえぐるような批判やな。気がついてたよ。本が出来上がってからやけど、誰よりも早く、作者自身が気がついてた。ただ、それを片桐さんに伝えようとしたところで凶報を聞いたんや」  私は、赤星の死を耳にした時の様子を再現してやった。そもそも、東京を去る寸前に彼の死を知ることができたのは、自作の中でミスを犯したのではないかと気になって、八重洲ブックセンターから担当編集者に電話を入れたからなのだ、という経緯を。  すると——  火村にまた異変が生じた。彼は前髪を激しく掻《か》き乱し、犬のように低く唸《うな》ったのだ。 「……いい加減にしろよ、そんなことは聞いてなかったぜ」  私は呆《あつ》気《け》にとられた。そんな瑣《さ》末《まつ》事まで報告する義務があるとは、当方は夢にも思っていなかった。言い掛りである。責められるのは心外だ。 「聞いてなかったやろうな。話してなかったんやから。その日の朝、俺が片桐さんの家でどんな朝飯をよばれたのかも言うてなかったっけな」 「何てこったい」  私の皮肉に取り合わず、彼はスプリングを軋《きし》ませてベッドに腰を落とし、人差し指で唇をなぞりだす。そして、釣り人が当たりのきた浮きをにらむように床の一点を凝視したまま、しばらくピクリとも動かなかった。 「俺の本のミスが事件に関係してる……わけないわな?」  そう声をかけると火村は横目で私を見て、無気味に微《ほほ》笑《え》んだ。 「そう思うか?」 「思う。俺が小説の中で日付や曜日を間違えたぐらいで人が殺されてたまるか。もしそんなことが起きるんやったら、もうとっくに二十人ぐらい犠牲になってるはずや」 「他の十九の死体はまだ見つかってないだけかもしれないぜ」 「それが事実やったら俺はこの商売から足を洗う。それぐらいの良識はある」 「本気にするなよ」 「するか、アホ。——ほんまのところは、どういうことなんや?」 「おや、随分と知りたそうだな」彼は目《め》尻《じり》を下げんばかりにして再び微笑した。「どうだい、ここは一つ、自分で考えて答えを出してみちゃ?」 「おい——」 「顔を洗ってきな。頭が冴えて神《かみ》懸《が》かり的な考えが閃《ひらめ》くかもしれないし。もし何も浮かばなかったなら、来週号の発表を待つんだな。いやぁ、ようやくエンジンがかかってきたみたいだ」 「こいつ……」  昨日の夜、彼はシャワーを浴びながら私の電話を聞いていたのだ。単に聞こえていただけなのかもしれないが…… 「ところで片桐さんはもう新幹線に乗ったかな。高野山の近くまで日帰りとなったら、相当な強行軍になるだろうな」  彼はリモコンでテレビを点けて、せわしなくチャンネルを変えていたが、やがて天気予報に合わせた。 「近畿地方もよく晴れるってさ。彼の前途は洋々だが、でっかい人魚を釣り上げてきてくれるかもしれないぞ」少々、興奮しているのか、助教授ははしゃぎ気味だ。「釣って帰ってきたらキスしよう」 「ロシア人みたいなことすんな。相手が迷惑や」 「馬鹿。人魚にキスすんだよ」  納得した。われわれはアホと馬鹿なのだ。黙って洗面所に行こう。  私は尻を掻きながら歯を磨いた。そうしながら火村が何に思い至り、興奮したのか考えを巡らせたのだが、残念ながら、顔を洗い終わっても閃《ひらめ》くものはなかった。  火村は何に気がついたのだろう? 事件の全容が見えたのだろうか?  おそらく、その手前まで漕《こ》ぎ着けたのではないか、と私は想像した。完全にすべてが見通せたのなら、この場でただちに演説を始めただろうから。 「何が判ってないんや?」  室内に戻ると、私はひねくれた質問をした。ぼけっとテレビを眺めているのかと思いきや、火村はもう着替えをすませていた。 「何が判ってないのかって、そりゃ不明な点は嫌になるぐらいあるさ。判っていることの方がはるかに少ない。近松ユズルの事件に関しては、そもそも毒入りウィスキーで狙われたのは誰なのか、ということさえはっきりしない。判りかけてるのは、赤星楽殺しの犯人ぐらいさ」  私はやっぱりそうか、と思いながら頷《うなず》いた。 「それで、これからどうする」 「予定に変更はない。腹ごしらえをしたら、板橋署へ出向いて話を聞き、近松さんの部屋を見せてもらう。それから赤星さんの部屋だ。——いいかね、ワトスン君」 「いいとも、ワトスン」  などとまた虚しい負け惜しみを吐いたものの、突っぱれる状況ではなかった。       2  近松に会った十二日と同じく、巣《す》鴨《がも》へ出て地下鉄に乗り換えた。板橋署に寄るため、板橋区役所前というバス停めいた名前の駅で降りる。駅周辺にはお役所が固まっていて、板橋署もすぐ目に留まった。火村はその玄関先でこんなことを告げた。 「赤星さんが学文路に行こうとしていたのかもしれない、という推測については、とりあえず伏せておく。いいな?」  いいのか、と私は尋ねる。 「せっかく片桐さんが現地調査に飛んでくれたんだ。その報告を待ってから警察に話しても罰は当たらないさ」  そして、火村はここでも全く遠慮のない足取りで中に進んでいくのだった。 「お待ちしてましたよ、火村先生」  出迎えてくれた刑事は火村と面識があるらしく、二人は「ご無《ぶ》沙《さ》汰《た》しています」などという挨《あい》拶《さつ》を交わしている。警視庁捜査一課の新《しん》崎《ざき》警部補と紹介された。年齢はわれわれとあまり変わらないだろう。二重瞼《まぶた》のぱっちりと大きな目に長い睫《まつ》毛《げ》の目《め》許《もと》が特徴的な、なかなかの二枚目だった。額が広いのは頭髪が後退しているためではなく、生まれつきだろう。並んでみるとやや小柄だったが、自信ありげな物腰のせいで、むしろ自分より上背があるようにさえ感じた。頭脳派でいて、非常に敏《びん》捷《しよう》な男、といった印象だ。 「あなたが有栖川さんですか。お噂《うわさ》は火村先生からかねがね伺っていました」  私たちは友人のことを吹聴し合っていたようである。お互いに珍獣扱いしているだけかもしれないが。  応接室らしい小部屋に通され、少しすると、新崎警部補が紙コップに注がれたコーヒーを三つ盆に載せて運んできた。「私が飲みたかったので」などと言う。 「新崎警部補とは二年前に起きたバラバラ殺人事件の時にご一緒したことがあるんだ」 「最初でボタンをかけ違えたらお宮入りになってたかもしれない事件でしたよねぇ。まず芝《しば》公《こう》園《えん》で胴体が見つかって、頭やら腕が所《ところ》沢《ざわ》、新《しん》松《まつ》戸《ど》なんてとこからぼろぼろ出てきて。三都県合同捜査本部が設けられて、振り回されました」  その話は火村から聞いたことがあった。エキサイティングな捜査だったことは察するが、昔話に花を咲かせる状況でもないだろう。そう思っていると、「さて」と新崎は口調を改めた。 「近松ユズルの件でしたね。概略はご存知ですね?」 「一応は。しかし、はっきりとした死亡推定時刻も聞いていません。ご面倒ですけど、最初からお願いします」 「判りました」  警部補はコーヒーを半分ほど一気に飲んでから、要領よく事件のあらましを語った。およそのところは昨日、関係者らから聞いたとおりだったが、時折、初めて耳にする情報が混じる。 「死亡推定時刻は十五日、日曜日の午後十時頃。前後二時間の幅というところです。十四日の葬儀の前日から彼は仕事を休んでいて、十六日の月曜日から出勤することになっていたそうです。アパート内で訊《き》き込みを行なったところ、日曜の夕方、六時半頃に買物から帰ってくる彼と言葉を交わした人物がいました。近松氏の隣りの部屋の住人です。彼は買物帰りらしく、駅前のスーパーの袋とレンタルビデオ店の袋とを提げていて、特に変わったところはなかったと証言しています。もちろん、従兄《いとこ》をあんな形で亡くしたばかりですから、ふだんより元気はなかったようですけれどね」  新崎警部補の話がそこまできたところで、私は妙なことに気がついた。無意識のうちに声が出ていたのか「どうしました?」と警部補に尋ねられる。 「ささいなことなんですけれど、ちょっと……」私はまともにこちらを見つめる警部補からさりげなく目をそらして「その時、近松さんが借りてきたビデオは『ヘルレイザー3』という映画だったんでしたね?」 「はい、そうです」 「私は昨日そのことを聞いて、自殺する人間が辞世のビデオ鑑賞にスプラッター映画なんかを選ぶものだろうか、と疑問に思い、自殺の線は薄いのではないか、と考えていました。しかし、そんなビデオをレンタルしたのは、他殺だったとしてもやはり不自然なのではないか、と今思ったんです。近親者の葬儀の翌日、服喪中に観《み》たくなる映画ではありませんから」  警部補は口をへの字に結び、腕組みをした。 「新崎さんはアリスの今の発言に一理ある、と見るんですか?」  火村が訊くと、「はい」という返事。 「うーん、うっかりしていたな。私もそのビデオを早送りでざっと観たのに、そんなふうには考えませんでした。 いや、有栖川さんのおっしゃることは大変よく理解できます」 「ふぅん。どんな血《ち》腥《なまぐさ》い映画なのか俺も観とかなきゃならないのかな」  火村は苦笑しながら眩《つぶや》いた。そして—— 「しかし、換言するなら、それは近松氏が従兄の死に対して実は、ほとんど無感動であった、ということにもなりませんか?」 「判断しづらいところです」  と警部補は逃げをうった。 「とにかく、六時半頃に隣人とアパート内ですれ違った後、生きた彼を目撃した人間はいません。彼の部屋はアパート二階の角部屋なんですが、隣人が外出して夜中過ぎまで帰らなかったせいもあって、不審な物音などを耳にした人間はいない模様です。上下の部屋で訊いても、何も得られませんでした。また、当夜、近松氏を訪ねてきた者はいなかったようなんですが、監視していた人間がいたわけでもありませんから、これに関しては断定はしかねますね」  それから警部補の話は現場の状況に移っていった。点いたままのテレビ。巻き戻された状態でデッキに入っていたビデオ。ダイニングのテーブルにのっていたジャックダニエルのボトルと倒れたグラス。ボトルは開けたばかりらしく、ごくわずかの量しか減っていなかった。その残りからも倒れたグラスにあった残量からも致死量を越える青酸カリが検出されている。遺書のたぐいは皆無。死体はダイニングの床に仰向けに倒れていて、胸許を掻《か》きむしった跡があり、とても穏やかならざる形相だったという。また、流しには夕食をすませたまま洗っていない食器と食べ終えたカップ麺《めん》やスーパーの惣《そう》菜《ざい》の容器があったので、彼の夕食の献立が判った。それは室内に遺《のこ》ったレシートとも一致した。解剖の結果、胃の内容物は食後約三時間とみられており、彼の簡素な夕食は七時頃までにすんでいたらしい。 「六時半に買物から帰って、七時までに夕食をすませた。それから少しして、借りてきたビデオを観たんでしょう。私ならホラー映画を鑑賞しながら食事はできませんから、そう推察するだけですが」 「映画は二時間程度のものですから、死亡時刻が十時だったとすると、最後まで観終えてから死んだのかもしれませんね」と私。 「はい、時間的には観終える余裕がありました。死亡時刻が八時だったとすると無理ですけどね。ただ、実際にビデオを観終わってから死んだのか、観ている最中に死んだのか、観ていなかったのかは知るすべがありません」 「テレビのチャンネルはどうなっていましたか?」  火村が冷めたコーヒーを啜《すす》りながら訊く。 「ビデオに合っていました。死体発見時、画面に流れていたのはNHKですけれどね。映画を観た後でチャンネルをそのままにしてNHKの番組を観ていたものやらどうやら、それも死んだ本人にしか判らないことです」  そんなことは大した意味はあるまい、と言いたそうだ。火村もさして興味がないらしい。 「その件はいいでしょう。近松氏の交友関係などから何か浮かんだことはありませんか?」 「友だちは少なくなかったみたいですね。これまでの女性関係も賑《にぎ》やかだったようですけれど、いざこざを抱えていたふうでもありません。このところ、そちらの方はおとなしくなっていたという証言もあります」 「そちらの方とは女性関係のことですね?」 「はい。しかし、おとなしくなっていたというのは、複数の女性と恋愛ゲームを楽しむことは控えていたということで、付き合っていたと噂《うわさ》されている相手はいます」 「穴吹奈美子社長?」  警部補は目尻に皺《しわ》を寄せて笑った。 「何だ、知っていたんですか、先生。ここで驚いてもらおうと思っていたのに」 「それは残念でしたね。——で、その噂は真実なんですか?」 「穴吹さん自身に質《ただ》したところ、二人きりで食事をしたことはあるが、それは単によく働くアルバイトの労をねぎらっただけのことで、他意はないということでした。噂の裏を取ろうとしているところです」 「ウィスキーに入っていた青酸カリですけれど」と火村は質問を変える。「いつの時点で混入したか判りましたか? 何者かが新品のボトルに注入したのなら痕《こん》跡《せき》が遺っていたと思うんですが」 「常識的には遺るはずです。一度蓋《ふた》をはずして毒を入れてから元通りに戻すというのは難しい作業ですが、犯人が丁寧な仕事をしていたので近松氏は気づかなかったのかもしれません、もう開いてしまっていますから、なかなか細工の痕跡を調べるのも厄介で」  明確な回答ができないことを、彼は恥じているかのようだった。付け加えて—— 「毒物の入手ルートについては鋭意捜査中です」 「問題のウィスキーは赤星氏から近松氏にリレーされたものだということですが、近松氏は間違って殺されたのだ、という見方はいかがですか?」 「それがまた複雑なんですよ。色んなケースが考えられますから——」  近松、赤星の二人の死をどう結びつければよいか、警察でも混乱しているようだった。二つの死をつなぐことに火村が成功しているのかどうか判らないが。 「では、死体発見の経緯を教えていただけますか? どうして刑事さんが近松氏の部屋を訪ねたのか、を含めて」  新崎警部補は柏《かしわ》手《で》を打つように、二度パンと手を叩《たた》いた。 「それは近松氏のアパートに向かう道すがら車の中でお話ししましょう。私がご案内することになっていますので」       3 「アパートに訊き込みにいったのは、穴吹社長と彼の間柄について質問するためだったんですよ。赤星氏が殺された十日の夜、彼は彼女と一緒だったんではないか、という人がいたもんですから、その真偽を確かめるつもりでした」 「シレーヌ企画の大茂さんあたりですか?」 「そうです。かなり仕込んできてるじゃないですか」  新崎警部補と火村のやりとりを、私は後部座席で黙って聞いていた。 「無断欠勤しているというのでアパートに行ってみたんだけど、いくら呼んでも応答がない。室内からテレビの音が聞こえていたので、点けっぱなしにして近くに外出したのか、シャワーでも浴びてるのか、と思い、しばらくおいて電話を入れても出ないし。戻ってみても様子が変わらない。それで、どうにもおかしいということになったんですね。デカの勘も働いていたのかもしれません。大家に言って鍵を開けさせたら、死体発見です」 「近松氏に容疑がかかっていた、というわけではないんですね?」 「それはありません。本人が誤解するようなこともなかったと思うんですけど」  車は中《なか》仙《せん》道《どう》を走っていたが、志《し》村《むら》坂《さか》下《した》で左折して高《たか》島《しま》通りに入る。一度は分かれた都営三《み》田《た》線の高架をくぐって五分ほど進んだあたりで大通りから逸れた。大型のレンタルビデオ店がある角で曲がり、昔ながらの住宅街の中の細い道で数回右折左折を繰り返した。  近松が住んでいた鳳《おおとり》アパートは木造モルタル三階建てで、外装がややくたびれてきていたものの、こざっぱりとしたアパートだった。鳳コーポだのハイツだのと名乗っても文句は出ないだろう。 「ねぐらに関しては経済的な事情もあってのことかもしれませんが、故人はあまり金を使いたくなかったようです。部屋の中もごちゃごちゃしていて、女の子を誘うようなところじゃありません。来客は少なくて、もっぱら彼が出ていってたみたいです」  そんな注釈をしてから、警部補が入ってすぐの部屋をノックすると、大家らしい中年の女性が顔を出し、「ご苦労様です」と慇《いん》懃《ぎん》に会釈した。彼女は鍵《かぎ》を手に先頭に立ち、二階に上がっていく。各階、片側にクリーム色の扉が五つ並んでいた。階段も廊下も清掃が行き届いていて、清潔な印象を受ける。住んでいるのは全員が独身のサラリーマンだということで、みんなが勤めに出ていて建物全体がひっそりとしていた。近松の部屋は二階の一番奥。陶器製のやや大《おお》袈《げ》裟《さ》な表札が掛かっていた。 「長崎のご遺族が週末に荷物を取りにくるそうですけど、お渡ししてよろしいですね?」  大家は鍵を鍵穴に差し入れながら、刑事に尋ねた。早いところ片付けてしまってもらいたい、と言いたそうだ。 「結構です。捜査に必要なものは警察が預かっていますから。——あ、鍵をもらっておきましょうか。終わったら帰りがけにお返ししますから」  新崎は鍵を受け取って、ズボンのポケットにしまった。大家は立ち去り際に振り返って、どんな検分が始まるのか見届けたがっているようだった。  六畳間にダイニング・キッチンという間取りだった。襖《ふすま》が開け放たれているので二つの部屋は一体になり、ワンルーム・マンションのようだ。アイルトン・セナとオーソン・ウェルズ、そしてイザベル・アジャーニの数葉のピンナップ写真が冷ややかに私たちを出迎えた。この三人の『憧《あこが》れの人』に見送られて、近松は逝《い》ったのだろう。窓の上には鹿《か》島《しま》アントラーズの応援旗が飾ってあり、高校生の勉強部屋といった感もある。  火村はまず死体が倒れていたダイニングを見て回りだした。テーブルの上にあったというウィスキーのボトルとグラスは当然ながら鑑識のために持ち去られているので、何も残っていない。床に死体が転がっているわけでもない。見るべきものなどないではないか、と思って私は六畳間を拝見することにした。片側の壁には小振りの書棚があったので、まずはそちらに目がいった。エイゼンシュタイン、ゴダール、フェリーニ、ヒッチコック、トリュフォー、タルコフスキー、小《お》津《づ》安《やす》二《じ》郎《ろう》、溝《みぞ》口《ぐち》健《けん》二《じ》、黒《くろ》澤《さわ》明《あきら》といった映画監督の名前が入った書名がずらりと並んでいる。映画評論、映画年鑑からシナリオ・ライティングの技法書に留まらず、演劇論、写真論などまで揃《そろ》えているのには、感心した。自称ジゴロは相当な勉強家だったらしい。少なくとも、映画と真剣に向き合おうとしていたことはよく判った。一度だけ話した時、彼が自分のことをちょっと崩れて見せたがっていることは察しがついたけれど、よくお勉強をしていると見られることを恥じるタイプだったのだろう。学生時代にもいた、テストで私の倍ほども点を取るくせに「がんばってるやんけ」と言うと、侮辱されたかのように「やめてくれ。俺は勉強なんか全然してへんぞ」と懸命に否定する奴。——もしかすると、私は他人の蔵書を見て想像力をたくましくし過ぎるのかもしれないが。  いつの間にか火村がこちらにやってきていて、私の肩越しに書棚を見ていた。が、すぐに興味を失くした様子で、部屋の隅のテレビに視線を転じる。他に見るようなものが室内にないのだ。テレビはビデオを内蔵した大画面の新型で、奮発して購入したものだと思われる。 「一点豪華主義だな」  火村は愛用している黒い絹の手袋を両手に嵌《は》め、スイッチを入れたが、すぐに消した。それから、押入れの襖をカラリと開く。中の様子が目に映ると、私は「あ」と声を発し、火村は短い口笛を吹いた。手製らしきラックにぎっしりとビデオテープが詰まっていたのだ。ラックに収納しきれず溢《あふ》れ出しているものも含めると、その数、ざっと五百本ぐらいか。 「録画しまくるタイプだったのか。どれどれ」  すべてのビデオにはラベルが貼《は》られ、タイトルが手書きで記されていた。映画ばかりだ。一本のテープに一タイトルだから、どれも標準モードで録画されているらしい。三倍速で録画した『薔《ば》薇《ら》の名前』『椿《つばき》三十郎』『ブレードランナー』をカップリングしてしまう私とは——そんなもの、私だって気持ち悪いのだが——心がけが違うらしい。 「このライブラリーはかなり几《き》帳《ちよう》面《めん》に整理されてるんじゃねぇか?」 「思う」と私は賛同した。  熱心な映画ファンではない私にも、ライブラリーが系統だったものであることは一目瞭《りよう》然《ぜん》だったし、その分類が監督中心であることもじきに判った。 「ほれ、この段はイギリスの現代映画作家コーナー。ケン・ラッセルにピーター・グリーナウェイ、アラン・パーカー。これはヴィム・ヴェンダースやったから、ここから先はドイツの作品で——」 「もういい」  数本のビデオをラックから取り出した。何をするのか、と見ていると、それをデッキにセットして再生を始める。が、数秒見ただけで目的を達したらしく、巻き戻して他のものと入れ換えた。どれも頭の部分を見ればこと足りたようだ。 「テレビ放映されたものをエアチェックしたものじゃない。レンタルビデオからダビングしてある」 「やろうな」  そんなことは確かめるまでもなく、見当がついていたことではないか。 「映画が好きなら借りてきたビデオを片っ端からダビングしもするだろうよ。それなら、デッキが二台必要じゃないのか?」  彼がそこまで言った時、ダイニングから「それはですね」と新崎の声がした。 「もう一台あったビデオデッキが故障していて、修理中なんですよ。持ち主が死んだというニュースを聞いた電気店の親父さんが、『デッキを預かっているけれど、どうしましょう?』と大家さんに尋ねてきたそうです」 「近松氏が電気店に持ち込んでいたんですね?」 「ええ、先週の月曜日に。部品を取り寄せる必要があって、修理には時間がかかっていたそうです」 「ダビングができなくて、彼は不便をしていたわけか」  私の言葉に「そうかな」と火村は呟《つぶや》く。 「デッキが修理から戻るのも待たずに彼がホラービデオを借りたのは、ダビングをするつもりがなかったからじゃないか? 見ろよ。この格調高いライブラリーにホラー映画なんて一本もないじゃないか」  そう言われてみればそうだ。ヒッチコック他スリラーのたぐいは散見できるが、ホラーとなるとダリオ・アルジェントやジョージ・ロメロも、懐《なつか》しのハマープロの作品も全くない。コレクションから漏れているというより、排除されているふうなのだ。近松にとって収集するに値しないものだったのかもしれない。 「ははぁ、なるほど。観《み》ればそれでいい、ダビングするには及ばない、ということか。それでもう一台のデッキが修理中でも借りてきたんやな。しかし……」  火村は中腰になってビデオライブラリーを覗き込みながら、「そうさ」とまだ口にしていない私の言葉に相《あい》槌《づち》を打った。 「事件の前に変わったところがなかったという彼の行動の中で、ホラービデオを借りて観た一件だけがどうもひっかかるな。——最近、彼が死ぬ前に借りたという以外に、別の場面でもホラー映画という言葉を耳にしなかったか?」 「した」  昨夜、大茂から聞いたのだ。シレーヌ企画ではホラービデオの制作を計画していて、目下、彼と霧野が共同で脚本の執筆にあたっているということ。 「『妖魔の館』だったな」 「そうや。——それが関係してるのか?」 「あるいは」  彼はラックから溢れたビデオを手に取ったり、押入れの奥に別のラックがないかなどを調べていたが、やはりホラー映画は出てこない。 「どう関係してるんや?」  火村は手袋をはずして、ポケットにしまう。 「趣味に合わないものでも、仕事がからんでくれば観なくちゃならない場合があるだろう。推理小説なんてつまらん、と思いなから読んでる編集者だっているはずだぜ」 「仕事? 彼が『ヘルレイザー3』を借りて観たのは仕事の上で必要であったからか……」 「想像だよ。自発的に観る気になったのか、大茂さんか誰かに観ておくように勧められたのかどうかは判らないけれど」  そんなことがあっても不思議はない。 「しかし、彼にそんな映画を観ておくように勧めた、とは昨日、誰も言うてなかった」 「こっちが訊《き》かなかったからかもしれない。あるいは……あまり言いたくないわけがあるのか」 「わけって、どんな?」  畳み込むように尋ねた私だが、返事がぷっつりと途切れたので蹈鞴《たたら》を踏んでしまった。火村は唇をなでながら黙ってしまったのだ。その向こう側、ダイニングで腕組みをしたまま新崎がこちらの様子を窺《うかが》っている。  私が「おい」と呼びかけると、「ふむ」と小さな返事をして、彼は面を上げた。 「シレーヌ企画に電話を入れて訊いてみよう。問題の映画を観ることを誰かが命じたり勧めたりしたことはなかったか。それにしても、どんな映画なのか知らないともどかしいな。——ねえ、新崎さん」 「はい?」とすかさず警部補は応える。 「ここにくる時に、角に大きなレンタルビデオ店がありましたね。ひょっとして、近松氏が利用していたのはあの店ですか?」 「そうです」 「彼が借りていたビデオは、もう店に返却したんですか?」 「はい。ざっと観ましたけれど、何も変わったところはありませんでしたので、いつまでも預かっておくのも申し訳ありませんからね。月曜日の遅くに店に戻しました」 「俺、観たいな、それ。どんな映画なのか」 「まさか、映画の内容が事件に関係してると言うんやないやろうな。それはないと思うぞ。まぁ、企画が進行中の『妖魔の館』がどんな内容なのか知らんけれど」 「観たい。今から借りに行こう」  新崎は思いがけない展開に少し戸惑っているようにも見受けられた。唇をすぼめ、眉《み》間《けん》に皺《しわ》を寄せている。 「新崎さん。あの店まで連れていってもらえますか?」 「かまいませんよ。もう、ここはよろしいですか?」 「ええ。もうすべて見たように思います」 「では」と警部補はポケットから鍵を取り出した。       4  車でビデオ店まで乗りつけると、火村は少し焦った様子で棚の谷間に分け入った。勢いがつきすぎて、一番奥のアダルトビデオ・コーナーまで突っ込んでしまったらしく、舌打ちしながら引き返してくる。 「お勉強ばかりしていてこういう店のレイアウトに慣れてないな、先生。こっちこっち」  私はSFの棚の前に立って手招きをした。その隣りがホラービデオのコーナーだ。すべてフェイス・アウトされているので毒々しいジャケットがずらりと並び、壮観だが、嫌いな人が見れば胸がむかつくかもしれない。 「レンタルビデオ店に慣れてないんじゃねぇよ。うちの近所の店は広さがこの三分の一ぐらいしかないんだ」  慣れてないんじゃねぇか。  大きく振った火村の手が当たり、『寅《とら》次《じ》郎《ろう》何とかかんとか』が落ちて床を滑った。新崎が拾い上げて棚に戻し、助教授は「すみません」と言いながら別のパッケージをはたき落とす。  あいつ、おかしいな、と私は思う。少々のことに動じないふだんの彼らしくない。まだ開店して間もないせいもあって、店内に客はほとんどおらず、カウンターの茶色い長髪の店員が怪《け》訝《げん》そうに私たちを観察していた。 「どれだ?」  彼は私の傍らにやってくると、腰に両手を当てて棚を眺め渡した。私が彼の反対側から視線を這《は》わせていくと、捜し物はすぐに見つかった。 「あった」 「どれ?」 「あったけれど、あらら、残念」 『ヘルレイザー3』のパッケージには、レンタル中、という黄色い札が巻いてあった。レンタルの店なのだから仕方がない。リリースされてから何年も経過しているので大丈夫だろう、と楽観していたのだが、うまくいかないものだ。 「畜生、借りられてる」 「畜生とは大人げないな。貸し出すために並べられてるんやから」 「当たり前のことを言って神経を逆《さか》撫《な》でするな。俺はこいつが観たかったんだ」  どうして急にこんなに激しくこだわりだしたのだろう、と思いながら、私はパッケージを取って彼に突き出した。 「ほれ。こういう映画や。こわそうやろう」  顔はもちろん、頭髪のない頭全体を縦横網目状に切り刻まれた上、傷の交差する点ごとに釘を打ち込まれた魔道師の恐ろしい顔がジャケットだった。 「痛そうでもらい泣きしそうだぜ」  火村はそれを私からひったくると、裏返して粗筋、スタッフ、キャストに目を通しだした。「わけ判んねぇ話だな」などと口走っている。 「どうしてもすぐにご覧になりたいのなら、ビデオ店はこの近所にも何軒かありますよ。その作品なら珍しいものじゃないようですから、在庫があるでしょう」  警部補が言うと、火村は「せっかくですが……」と言いかけて、パッケージを手にしたまま不意にカウンターに向かいだした。今までこちらの様子を覗いていた店員は、はっとしたように身構える。大学生なのかフリーターなのか、茶色に染めた髪を肩まで垂らしたひょろりとした男だ。開店早々に飛び込んできた変な客と応対するはめに陥ったわが身の不運を、内心で嘆いているかもしれない。 「あのさ」  火村はパッケージをカウンターにバンと置き、片肘《ひじ》を突いて話しかける。 「……何ですか?」 「これ、貸し出し中だよね。いつ借りられてて、いつ返ってくるの?」  店員は叩《たた》きつけられたパッケージを覗き込んで、火村に対する警戒を強めたかもしれない。が、そこはぐっとこらえて、面に出さず—— 「少々お待ち下さい」  わずかに声が裏返ったのはご愛《あい》敬《きよう》だ。彼はコンピュータの端末に向かい、慣れた手つきでキーを叩いた。そして、画面を見たまま答える。 「貸し出しが昨日で、今日返却になっています」 「あっそ」  火村はパッケージを取って、意味もなく裏表を見た。新崎と私は、このおかしな寸劇を少し離れた位置から眺めている。 「借りた人の名前なんていうのは……訊《き》いても教えてもらえないのかな?」 「はい。お教えできない決まりになっています」  店員はきっぱりと答えた。こういうことははっきりさせておかなくてはならない、と心に誓ったのだろう。 「ははぁ。そりゃ、そうだろうね。それでこそ安心して借りられるってもんだよ」 「ええ、そうです」と彼は力む。 「判った。もう訊きませんよ。——ところで」  話が変わりそうな気配に、再び相手は目に警戒の色を浮かべる。もの判りがいいふりをしておいて、ここから難題を持ち出してくるのではないだろうな、と思っているのか。 「実は、私の姉がここの会員になろうとしていたんだけど、入会したのか、まだ入会していなかったのかを忘れてしまったって言うんだ。間抜けな話だけどね。あんまり色んな店で会員証を作るもんだから、そんなふうになっちまったんだ。でね、おたくで入会していたんだとしたら、会員証を紛失してしまったらしいって言うんだよ。財布にないんだって。拾った人間に使われてトラブルに巻き込まれるのは嫌だから、うまく処理して欲しいっていうんだけど、お願いできる?」  店員は途中からつらそうな顔になって聞いていた。火村の話がごちゃごちゃしていて、理解しにくかったのだろう。——それにしても、いきなり何をトチ狂ったことを言いだしたのだろう? 「はい。もし紛失なさったのなら、前のは無効にして、新しいカードを再発行しますけれど……。それで、お姉さんは何というお名前なんですか?」  彼がまたコンピュータに向かうのを見て、火村は満足そうに微《ほほ》笑《え》んだ。 「名前はね——」  それを聞いた警部補と私は同時に「え?」と声を発し、顔を見合わせた。       5  片桐光雄は大きな欠伸《あくび》をしかけて、傍らの老婦人の視線を感じ、口《くち》許《もと》を手で覆った。婦人は上《うわ》目《め》遣《づか》いで、天ぷら蕎《そ》麦《ば》を啜《すす》りながらまだこちらを窺《うかが》っている。失礼な、と思いつつ、彼女に背を向けて、あらためて大口を開けた。  眠いのも無理はない。今朝は自宅を五時に出て、六時の始発の新幹線で発ってきたのだから。できることならもっと遅い列車にしたかったのだが、日帰りという制約があるため、現地で有効に使える時間を可能な限りたくさん取っておかなくてはならず、三つの目覚まし時計をセットして何とか寝坊せずにすんだという次第だ。新大阪着が八時半。地下鉄に乗り換えて難波に出、九時十五分発高野山行きの南海高野線特急『こうや号』に飛び乗ったまではいいが、それが目的の学文路駅に停車しないことに橋本駅の手前でようやく気がついて、慌てて下車したのだ。せっかくここまでうまく乗り継いできたのに、と悔いたが、橋本までたどり着いたなら学文路はもうふた駅先なのだ。気を取り直して周囲を眺めた。難波を出て四十五分程度しかたっていないのだが、さすがに大阪平野というのは狭くて、電車は山間部をくぐり抜けてここまでやってきた。山を切り拓いたニュータウンを車窓からいくつか見てきたが、橋本は駅舎や町のたたずまいからみて、いかにも古い町らしい。大阪府と和歌山県の県境にそって走り、奈良方面に向かうJR和歌山線との乗り換え駅になっているため、プラットホームは三面もあった。  学文路に停まる普通列車の時刻を見ようとしたところで、改札の脇の立ち食い蕎麦が目に入った。東京を出てすぐに新幹線の中でサンドイッチをぱくついただけなので、ほとんど反射的にきゅるると腹が鳴った。たとえ一本遅らせても食べずにおられようか、という思いに駆られて、無意識のうちに彼の足は跨《こ》線《せん》橋に向かっていた。  ——それにしてもな。  天ぷら蕎麦を待ちながら、彼はちょっと心配になる。  ——こんな山の中まできて、人魚も何もないかもしれない。  蕎麦ができた。かっ込みながら、いやいやと湧《わ》き上がりかけた不安を否定する。八百比丘尼伝説というものは海辺の土地だけではなく、飛《ひ》騨《だ》や美《み》濃《の》、武蔵《 む さ し》の国にも残っている、というではないか。高野街道沿いのこの地にも類似の伝承がないとも限らないだろう。学文路に着いたら、とにかく歩き回ることだ。手ぶらで帰っては有栖川も火村助教授も失望するだろうし、自分も有給休暇を取得して探偵に乗り出した甲斐がない。捜査の進展に貢献する何らかの新情報をお土産《 み や げ》に提げて東京に帰らなくては。腹ごしらえができてくるとともに、また新たなやる気が湧いてきた。  汁を啜りながら隣りの老婦人の方を窺うと、大きな葉っぱに包まれた寿司を食べている。壁の品書きをちらりと見て、それが柿《かき》の葉寿司なるものであることを知った。そういえば、あまり有名ではないが和歌山県は柿の生産高が全国一だと聞いたことがある。せっかく旅に出たのだから、探偵の途上とはいえ、舌を楽しませてもいいだろう。 「おばさん、柿の葉寿司っていうの一人前」  そう頼んで汁の底の麺を浚《さら》っていると、「はい」という声とともに小さな皿が差し出された。柿の葉で包んだ鯖《さば》の押し寿司が、ちょこんと一つだけ載っている。何だ、一人前っていったら本当に一つか、と拍子抜けしながら、ひと口でぱくりと食べた。  ——何、これ?  うまかった。鯖寿司の酸っぱさが柿の葉で中和されるのか、ほんのりと甘味さえ感じる。電車の時刻が迫ってきたので、彼は急いで三つ持ち帰り用に包んでもらい、小走りで階段を昇った。  学文路まではふた駅、所要時間にして五分ほど。その間に彼は乗客まばらな車中で寿司を平らげ、探偵活動に備えた。「次は学文路」とアナウンスが流れると、武《む》者《しや》顫《ぶる》いが出る。  ——探偵が病みつきになっちゃったりして。  そう思いながら席を立ち、扉の前で電車が停まるのをもどかしく待った。静かな小駅に着き、五、六人の乗客とともにホームに降り立った。 「さて」  彼は掛け声をかけて、駅の周りを見渡した。駅の裏側に二階建ての鉄筋の建物があり、何やら大きな看板が掲げられている。 「……嘘《うそ》だろ」  彼は驚きのあまり声に出していた。  その看板は『何とか堂』という寺——漢字が読めない——のもので、『甦《よみがえ》る石《いし》童《どう》丸《まる》物語』だの『ここより徒歩約10分です』などという宣伝文句と、一寸法師めいた扮《ふん》装《そう》の少年の絵が描かれていた。問題はその隣りだ。奇怪な怪物のような絵と、それに添えられた思いがけない言葉が彼の目に飛び込んできたのだ。    無病息災。  謎《なぞ》とロマンの人魚のミイラ。       6  肩の力がすうっと抜けてしまった。  足を棒にして歩き回ろう、と覚悟を決めて乗り込んできたのに、探し求める答えが見落としようのない形で自分を待っていたとは。こんな僥《ぎよう》倖《こう》など予想もしていなかった。棚から落ちてきたボタ餅《もち》の大きさに喜ぶ前に驚いた、というところか。  赤星楽が『人魚の牙』なる小説の取材でここを訪ねようとしていたことは、これでほぼ実証されたように思えた。しかし、だからといってこれで東京に引き返すわけにもいかない。赤星がここにやってきた、という痕《こん》跡《せき》が見つかるとも限らないし、人魚のミイラとやらがいかなるものなのか調べる必要がある。 「よし」  彼はあらためて気合いを入れ、改札を出る。ホームでしばし呆《ぼう》然《ぜん》としていたので、一緒に降りた他の客の姿はとうになくなっていた。改札口の右手は窓口。左手にはささやかな売店があり、木製のベンチがしつらえてある。鄙《ひな》びた待ち合い室の風景だ。 「すみません。ちょっとお尋ねしたいんですが」  切符を受け取り、窓口に戻ろうとした年配の駅員に声をかけると、「何でしょう?」と愛想のいい返事が返ってきた。 「こちらの駅の入場券が、受験のお守りになると聞いたんですけど……」 「はい、さようです。今の時期は普通の券しか置いてないんですけれど、よろしいですか?」  受験シーズンが近くなるとお守り用のセットを販売する、と有栖川が言っていたが、この時期はその用意がないと断わっているのだろう。そんなお守りを渡す相手などいなかったが、せっかくここまできたのだし、探偵旅行の記念にするのもいいか、と思い直して三枚ほど買うことにした。質問はまだ他にもあることだし。 「今時分だと、受験のお守りに買っていく人は少ないんですか?」と訊《き》いてみる。 「ちょくちょくいらっしゃいますよ。別に受験生の方でなくても、勉強ができますように、という学業祈願のお守りになりますし、鉄道ファンの方がコレクションのためにお買いになるようです。——百二十円です」  お土産《 み や げ》用であることを配慮してか、入場券をセロハンの袋に入れてくれた。保存のためか硬券になっている。駅名や『発売当日1回限り有効』の字句は横書きだが、右端にそこだけ縦書きで『入学』とあるのもサービスなのだろう。 「私の友人が最近ここにきて、同じように切符を買ったようなんですけれどね」  片桐はここで赤星の写真を一枚取り出した。本のカバーの著者近影を見せると尋ね人の正体がばれてしまうので、塩谷から借りてきたものだ。それを駅員に示しながら、 「この人なんですけど、覚えていませんか? 今月の十日にきたんじゃないかと思うんですが」  どうしてそんなことを訊くのか不審に思っただろうに、相手はそれについて尋ね返すこともなく、とりあえず差し出された写真を見てくれた。 「覚えていませんね。入場券を買った方にはいらっしゃらなかったと思いますよ」 「そうですか……。どうもありがとうございます」  入場券と写真を一緒にジャケットの胸ポケットにしまいながら、礼を言った。 「ところで、駅の裏の看板に人魚のミイラとか描いてありますけれど、あれは何なんですか?」 「ああ、ミイラですか。苅《かる》萱《かや》堂《どう》に行けば見られますよ」 「かるかやどう、ですか?」 「ええ。駅を出たところにこの付近の案内の看板がありますから、それの地図を見て下さい。歩いて十分ぐらいです」  もう一度礼を言って、彼は駅を出た。駅舎の前は斜めになった急な階段で、なるほど降りたところに案内の地図が立っている。駅の正面はすぐに民家で、宿どころか商店も見当たらなかった。  地図によると、線路と平行に走る駅前の道をきた方向に戻り、踏切を渡って裏の山を少し登ったところに苅萱堂とやらはあるらしい。歩き回るどころか、これっぽっちも迷うことなく調査地点に着けるぞ、と彼はほくそ笑みたい気分だった。早速、地図に従って歩き始める。  線路を跨《また》ぐと、道はすぐに上り坂となった。左手に曲がりながら、軽快な足取りで登っていく。途中、二か所で道が分かれたが、表示板が出ていたおかげで道を誤ることもない。少し傾斜がきつくなってきたな、と思って振り返ってみると、紀《き》ノ《の》川《かわ》が遠望できた。もうすぐそこまできているはずだ、とまた歩きだす。行く手を見上げると、坂を登りつめるところが小さな小さな地平線のように見えており、その先はただ一面の青空が広がっていた。  右手に墓地が現われたかと思うと、左手にはもう苅萱堂が見えていた。再建されたものなのだろう、どれほど由緒のあるお堂なのか知らないが、さして年月を重ねてきた建物ではなさそうだ。  本当にここなんだろうな、と思いながら近寄ってみると、確かに苅萱堂という扁《へん》額《がく》が掲げられていた。その左横には無気味なミイラを描いた水墨画が額に収まって奉納されている。『不老長寿』『無病息災』と添えられて。駅裏の看板の絵と似ていたが、とても人魚などというロマンチックなものには見えない。これは絵に何らかのデフォルメが加えられているからなのだろう、と考えたが、あまり美しいものでないことは間違いなさそうだ。  さて、どこで頼んで人魚を拝ませてもらおうか、と思っていると、お堂正面のガラス障子戸がカラリと開いた。開《かい》襟《きん》シャツ姿の中年の男性が出てきて、目が合う。こちらから問うまでもなく「お参りなさいますか?」と声をかけられた。 「人魚が見たいんですが」  単刀直入に言うと、相手は頷《うなず》く。 「ご覧になれますよ。お上がり下さい」  看板を出すだけあって、秘仏ではないらしい。どんな代物なのだろう、という期待とともに彼は靴を脱ぎ、本堂に上がった。  開襟シャツの男性は彼とすれ違いに出てきて、「どうぞごゆっくりご覧になって下さい」と言って境内に降りていった。箒《ほうき》を手に掃除を始めるようなので、ここの管理を任されている人かもしれない。  正面の祭壇には三体の座像が鎮座していた。予備知識なしで飛び込んできたので、何が祀《まつ》られているのやら判らない。と、傍らに説明用の機械らしきものがあったので、百円と書かれた硬貨投入口にコインを投じた。テープの走行音の後、やにわに、演歌のイントロめいた哀切なメロディがスピーカーから流れだした。なかなか解説が始まらないうちに、案内用パンフレットを見つけたので手に取る。そして、堂内に響く女声の解説を聞きながら、パンフレットを貪《むさぼ》るように読んだ。  曰《いわ》く——苅萱堂の開基はよく判らないとのこと。ただ、石童丸伝説によって知られている、という。しかし、それがいかなる伝説なのかを彼は全く知らなかった。これといい、八百比丘尼伝説といい、もしかすると自分は出版人でありながら日本人としての常識を欠いているかもしれない、という不安が頭をもたげる。  六つに折り畳まれたパンフレットを広げると、『「石童丸物語」のあらすじ』が記されていた。ざっと要約するとこんな話だ。  ——平安時代の末期、加《か》藤《とう》左《さ》衛《え》門《もん》繁《しげ》氏《うじ》という筑《つく》紫《し》の国の領主がいた。妻の桂《かつら》子《こ》と平穏に暮らしていた繁氏は、父の旧友朽《くち》木《き》尚《なお》光《みつ》の遺児である千《ち》里《さと》を引き取るのだが、やがて彼はわが身の罪の恐ろしさに驚き、すべてを捨てて京都へ上り、法《ほう》然《ねん》上《しよう》人《にん》の弟子になる。どんな罪なのだ、と疑問に思ったが、彼の出奔の直後、千里が一子を産んだというから、過ちがあったということだろう。その子供が石童丸である。  月日は流れ、石童丸が十四歳になった時。繁氏が高野山で出家をしていると風の便りに聞き、彼は母親の千里とともに高野山を目指す。その時の出立ちが、駅裏の看板に描かれていた少年の姿なのだろう。が、たどり着いたそこは厳しい女人禁制の地だった。やむなく母親を麓《ふもと》の学文路の宿に残し、石童丸は山に登ってまだ見ぬ父親を捜すことにする。尋ね歩くうちに、『無《む》明《みよう》の橋』の上で一人の僧《そう》侶《りよ》と会う。僧は石童丸の話を聞くと、尋ね人はもうこの世にいない、と無念そうに告げた。  父親と永遠に会えなくなったことに失望して学文路に帰ると、さらに悲しい知らせが彼を待っていた。彼が高野山で父親を捜し求めている間に母親が急の病に罹《かか》り、息子を待ちわびながら息を引き取ったというのだ。石童丸は重ね重ねの悲運を嘆き、学文路から高野山に戻っていく。つらい浮世との訣《けつ》別《べつ》のためだった。彼は父親の死を伝えてくれた僧侶、苅萱道《どう》心《しん》の弟子となり、高野山で生涯を送った。  しかし、その苅萱道心こそが自分の実の父親であることを、石童丸はついに知ることがなかった。仏に仕える身となった道心には、成長した息子との再会にどれほど心を動かされたとしても、父子の名乗りさえ許されはしなかったからである。  終わり。  この石童丸物語は高《こう》野《や》聖《ひじり》の一派、萱堂聖によって全国に広められ、江戸時代の初期には説《せつ》教《きよう》節《ぶし》、浄《じよう》瑠《る》璃《り》、琵《び》琶《わ》歌《うた》となって普及したそうな。  いかにも日本人好みの、ほろり泣かせる物語だった。それはいいのだが、どこにも人魚が登場しないではないか、とパンフレットを見直すと、木箱に収まった人魚のミイラの写真があった。そのキャプションに『石童丸の母千里ノ前が、常に傍において信仰していたもの』とある。  ——信仰? これを?  そばに置いておきたいようなものでもないが、と思いつつ、彼はとにかくミイラと対面するべく堂内を捜した。祭壇の右手の通路にガラスケースがいくつも並んでいる。そこに人魚も陳列されているのではないか、と寄ってみると、それはすぐに見つかった。  思いの他、小さなものだった。全長は五十センチ弱。プロポーションは三・五頭身ぐらいで、ひどい頭でっかちだ。何かを訴えかけるようにあんぐりと開いた口、見開いた目。鼻孔は二つはっきりと認められたが、鼻《び》梁《りよう》の高さはほとんどない。両目の位置は人間ではあり得ないほど高く、額がほとんどなかった。頭髪もなくて、禿《はげ》上《あ》がった老人のような頭をしているのだが、ガラスケースに顔を近づけて観察すると、産《うぶ》毛《げ》のようなものがごくわずかに生えているのが判る。再び視線を開いた口に戻したところで、片桐は大きく頷いていた。  ——この人魚には牙がある。  いびつな形の口の中を見ると、上顎から三本、下顎から二本の鋭い牙が突き出していた。体に比して、かなり大きな牙だ。赤星が書こうとしていた小説の内容がどんなものであったにしろ、題名に採られたのはこの牙なのだ、と彼は確信した。  胴体に目を移すと、肋《あばら》の浮いた薄い胸、腹があって、腰から下が鮭《さけ》か何かの魚そっくりになっている。脇を締めてか細い両腕を持ち上げ、顔の両横に指を揃《そろ》えた両手——腕との比率からいくと馬鹿でかい——を置く、というポーズをとっていたが、奇妙な連想ながら、それはどこかムンクの名画『叫び』を髣《ほう》髴《ふつ》させた。  ——つくりもの《フ エ イ ク》だろ?  猿の頭と魚の胴をつないだものだろう。そうに決まっている、と思いながら腰の周囲につなぎ目を捜したが、よほど巧妙な細工が施されているのか、それらしい跡が発見できない。まさか、と思いながらも、落ち着かない気分だった。  ショルダーバッグが揺れてガラスケースに当たった途端に、鞄《かばん》にカメラを入れてきていることを思い出し、慌てて取り出す。そして、フラッシュがガラスに反射するのを気にしながら、立て続けに五回シャッターを切った。  これでよし、と顔を上げ、他にはどんなものが並んでいるのだろう、と見て回った。石童丸守刀、千里ノ前の櫛《くし》、苅萱法師使用の硯《すずり》といった伝説ゆかりのものや、宝物記の版木などの品々で、そのいくつかは橋本市有形民俗文化財とかに指定されており、どれもきれいに保存されている。それらもカメラに収め、祭壇の方に戻った。須《しゆ》弥《み》壇《だん》に祀《まつ》られている座像を順に見ていくと、苅萱道心を中央にして、右が千里ノ前、左が石童丸。道心の像の傍らに置かれた小さな立像は、千里ノ前が石童丸の帰りを待ちながら亡くなった宿、玉屋の主人のものだった。堂内には他にも千里ノ前が生前に愛用していた竹《たけ》杖《づえ》で、墓標となってから芽が吹き、実を結んだと伝わる『石童丸御杖の銘竹』や、加藤左衛門の父が孫ができるように香《か》椎《しい》宮に祈願した時に授かったもので、『隋《ずい》書《しよ》倭《わ》国《こく》伝《でん》』にも記されているという『夜光の玉』なる宝物など、珍しいものが陳列されていた。  そのすべてを撮影してから、片桐は拝観者が一筆したためていくノートを見つけて、ページを繰ってみた。もしや赤星の名が遺《のこ》ってはいまいか、と念のためにチェックしたのだが、五月十日はもちろん、遡《さかのぼ》って調べてもそれらしい記述は見つからなかった。  もうこれですんだな、と思い、賽《さい》銭《せん》を投じて合掌する。境内に降りて、お堂の全景を撮って引き揚げることにした。先ほどの男性がまだいたので、「拝ませていただきました」と会釈をしてから、また赤星の写真を取り出して彼にも見てもらう。お堂はいつも閉じており、頼んで上げてもらわなくては入れないとのことだったが、写真の人物はきていない、というはっきりした答えだった。  きた道を戻りながら腕時計を見ると、まだ十一時半。これならふだんの退社時間よりずっと早く家に帰れそうだ。有栖川、火村の行動がどうなるか判らないので、何か報告や相談の必要が生じたら、今日一日、社にいるはずの塩谷に電話を入れることにしていた。このあたりの公衆電話から早速、ニュースを送ることにしよう。  赤星は実際にはこの地に足跡を残してはいない。だが、縁起物のお守りと人魚のミイラがあることから、学文路へ行こうとしていたことは明白である。その彼が何故、若狭湾で死体となって発見されたのかが理解不能だが、それは有栖川、火村のお手並み拝見というところだ。とにかく、自分は役目を果たした。  満足感を噛《か》み締めながら坂をかなり下ってきたところに、古い旅館が一軒あった。こんなところに宿があるな、と往路でも目に留まったのだが、今度は素通りしかけて足を止めた。ここに取材にこようとしていたのなら、赤星が宿泊の予定を入れていたことも考えられるのではないか? ものはついでだ。最後の最後のチェックとして、訊《き》いてみることにした。 「いいえ、そのような予約はお受けしていません」とのこと。  収穫はやはりなかったが、落胆などしない。「お邪魔しました」と辞しかけたところで、彼は宿の名前が『玉屋旅館』であることに気づいて、はっとした。歴史が突然、ずしりと重みを持つ。  ——玉屋っていったら…… 千里ノ前が生涯を終えた宿だった。  第六章 絵解き       1  その映画が日本で公開されたのは一九七四年。私は中学二年生だった。とんでもない映画がやってくる、という情報をスポーツ新聞の芸能欄で知り、期待でわくわくしながらロードショーを待ったものだ。私と同年輩以上の方なら、そんなことがあったな、と思い出していただけるだろう。何しろ公開中の欧米では、あまりの恐ろしさ、おぞましさのために失神、嘔《おう》吐《と》する観客が続出し、映画館に医師や看護婦が待機するほどの騒ぎになっているというのだから、こわがりの私はその情報だけで戦《せん》慄《りつ》し、おびえながらも観《み》たくてたまらなくなった。失神騒動という事件がそのまま宣伝になり、映画のヒットは日本上陸を前に保証されたも同然だった。  その映画とは『エクソシスト』。当時の騒ぎを知らない若い世代にすれば、「あんなもののどこが恐ろしいの? 臓《ぞう》物《もつ》が飛び散って正視に耐えない、というわけでもなく、特殊効果は当然ながら現在のものに及ばない。ストーリーだって神父が少女に憑《ひよう》依《い》した悪魔を祓《はら》うために聖書の祈りや聖水で戦う、というだけのものだし」と不思議に感じるかもしれない。それはそうだ。「そもそも、あれは悪趣味なだけのゲテモノ映画ではなく、神に仕えながら自分の母親の孤独を救えなかった若い神父の苦悩を描いた、なかなか文学的な作品だったではないか」ということもできる。そして、わが国では失神騒動など起きなかったことから、「やっぱりキリスト教文化圏の人間にしか通じない恐怖だったんだな。悪魔なんて、日本人には何のリアリティもないもの」という結論に落ち着いた。どきどきしながら観にいった私自身も、「よくできた映画やけど、大の大人が気絶するなんて信じられへんな。たかが悪魔ぐらいで」と思ったものだ。その見方は大筋で今も変わらない。  だが——  この映画には人間を恐怖させるための秘密が隠されていることを、最近になって私は本で読んで知った。それを知ってから無性に『エクソシスト』が観たくなり、閉店間際の近所のビデオ店に走ったのだが、残念なことに、ホラーのコーナーにその古典的名作の在庫はなかった。その気になればどうとでもして観られるのだろうが、それほど差し迫った興味が持続しなかったので、まだ確かめないままに至っていたのだが……        * 「画面から目をそらしてはいけません。どんなにエグイ場面であろうと、退屈であろうと、美人の婦警さんがブラウン管の前を横切っても」  集まっている一同に向け、火村はふざけた注意を与えてからビデオデッキのスイッチを入れた。テープが流れだすが、しばし画面は暗いままだ。 「ずっと画面を見つめてなくちゃならないとは、くたびれそうですな」  新崎の上長、西《にし》脇《わき》警視が観る前から目をしょぼしょぼさせてぼやいた。映画を観るという習慣をなくして久しいのだろう。 「ご辛抱下さい。最後まで観なくても、早い時点でことは明らかになりますから」 「それなら助かります」 「十五分ほどは、じっと観ていて下さい。いいですね?」  全員が子供のようにこっくり頷《うなず》いた。  画面がぱっと明るくなり、発売元のクレジットに続いて近日発売されるビデオの予告編が始まった。誰かがごくりと生《なま》唾《つば》を飲み込む。  ここは板橋署の取調室の一つ。モニターの周りに扇状に椅《い》子《す》が配置されていた。集まったのは西脇警視、板橋署長の上《かみ》磯《いそ》警視正、酒《さか》田《た》警部、新崎警部補、そして火村と私の六人。計十二のむくつけき瞳《ひとみ》がブラウン管を凝視している。上映されているのは『ヘルレイザー3』だった。それもただの『ヘルレイザー3』ではなく、近松ユズルが死の当日にレンタルした正にそのビデオであった。        *  西台のビデオ店のカウンターで、貸し出し中のそれがどうしても観たい、早く観たい、と火村が店員に訴えだしたものだから、新崎が警察手帳をかざしながら割って入った。事件の捜査に必要なので早く観たいのだ、と説明すると、アルバイトの店員は対処しきれなくなって、バックルームの店長を呼んできた。やがて現われた中年サーファー風の店長は、手帳の表紙だけではなく中もよく見せるように新崎に求め、しげしげともの珍しげに見てから、ようやく借りている客に連絡を取ることを承諾した。 「これはもう調べたからって、返してくれたんじゃなかったのかなぁ」  店長は新崎に聞こえるように愚痴ってから—— 「ただし、僕が電話しますからね。警察から突然に電話がかかってきたりしたら、お客がおったまげちゃいますから」  そして該当する客をコンピュータで検索し、カウンター内で電話をかけた。時刻は正午前。こんな時間に在宅だろうか、と心配したが、うまく捕まえることができた。というのも相手が大学生で、午後からの講義に出席するために、出かけようとしているところだったからだ。 「出る用意をしているところだったのでいました。これからビデオを持ってこっちに寄ってくれるそうですよ」  店長の言葉に火村は喜んだ。 「お手数をおかけしてすみません。昨日、借りたお客さんなんですね?」  店長は渋々といった口調で答える。 「そうです。遅い時間だったようですね」 「その方、さっき電話で大《おお》島《しま》さんって言ってましたね、その大島さんがレンタルした後でやってきて、借りそびれたっていう人はいなかったでしょうか?」  店長は鼻から溜《た》め息を吐いた。 「そんなことが判るわけがないじゃありませんか。レンタル中の札が掛かっているからといって、次回は自分が借りたいから取り置いてて欲しい、という予約を頼まれたらお受けしていますけど、その映画について予約を申し出た人はいません」 「そうですか」と助教授は引き下がった。  近松が死の直前に観ていたらしいビデオに、火村が何故そんなにこだわるのか、私にも朧《おぼろ》げに判りかけていた。ビデオにトリックが仕掛けられているのではないか、と彼は疑っているのだ。事件に関係がなさそうな大島という学生の後にそれを借りようとした客がいなかったか、という質問は、犯人が証拠湮《いん》滅《めつ》のためにレンタルしにきた可能性があるとみたのだろう。——しかし、彼が何を考えているのか見当がつかないこともある。 「ところで、さっきの会員調べはどういうことなんや?」  私が気になって仕方のないことを訊《き》くと、火村は「まぁまぁ」と小憎らしくはぐらかす。 「空振りかもしれないから確認させてくれ」 「今朝から猛烈にもったいぶるやないか」 「気が小さいものでね」  新崎は遠慮してか、そんな私たちのやりとりに口を挟もうとしなかった。  迷惑そうな店長、困った顔をしながらも面白がっている様子のアルバイトも含めて私たち五人は、ほとんど言葉を交わさないまま十分ほど待ち続けた。  やがて店の前にバイクが停まり、フルフェィスのヘルメットのまま、若い男が入ってきた。手に提げた店名入りの布袋をカウンターに置いてから、かぶっていたものを取り、気障ったらしく頭を振って髪を上げる。店長が袋から取り出したパッケージに『ヘルレイザー3』と記されているのを見た私はがまんできず、「失礼」と言いながらそれをひったくった。開いて中のビデオを出し、おかしなところはないか調べる。具体的に言うと、ラベルに異状はないか。カセットを開いた形跡はないか。  と——。 「火村。このビデオ、どこも異状はないぞ」  私は失望しながら告げた。友人も落胆するだろうと思ったら、彼は涼しい顔をしている。 「そりゃそうだろう。落ち着けよ」  何が落ち着けだ、自分が興奮していたくせに、と言い返しかけたところで、バイクできた青年が口を開いた。 「電話もらった大島ですけど、どうして返却の催促なんかするんですか?」  怒っているのではなく、怪《け》訝《げん》に思って出た質問らしかった。訊かれた店長は叩《こう》頭《とう》する。 「申し訳ありません。平素はこんな失礼なことをしないのですが、仕事の必要があってどうしても早く観たい、という方がいらっしゃったものですから」 「すみませんね。その急《せ》かした客っていうのは、私なんです」  火村がしゃしゃり出た。 「へぇ、変わってますね。ホラー映画評論でも書いてるんですか?」 「そうではありませんけれど、世の中には色々な仕事があるんですよ。——ところで、いかがでしたか、この映画?」 「楽しめましたよ。俺、こんなのが趣味だから」 「このビデオに変わった点はありませんでしたか?」 「何が言いたいんです?」  彼は言いがかりをつけられたと感じたのか、むっとしかけたが、何かに思い当たったのか、火村ではなく、店長に向かってこう言った。 「変わった点っつうか、ちょっと文句言いたいことはありましたよ」       2  その映画の舞台は現代のバビロン、ニューヨーク。怪しげなものが並ぶ場末の美術品店にふらりとやってきたナイトクラブのオーナーが、謎《なぞ》めいた男に勧められて無気味なオブジェを買う。場面が変わると、とある救急病院。取材にやってきていた女性TVキャスターは、体中から鉤《かぎ》のついた鎖を垂らし、血みどろの奇怪な怪《け》我《が》人が手術室に担ぎ込まれるのを見る。異常なものを感じて中を覗《のぞ》くと、そこでは信じられないような光景が展開していた。患者の男は手術台の上で鎖の鉤で引き裂かれ、砕け散る……  火村が椅《い》子《す》から立ち、場面の変わり目のそこでスイッチを切った。緊張が解けて、観客の刑事たちの間から、ほぉっと吐息がもれる。 「いかがですか?」  警察署内での風変わりな上映会が開始されて十数分が経過していた。咳《せき》払《ばら》いをして、西脇警視が口を開く。 「こういう映画は慣れていないもので、ちょっと驚きました」  それは火村や私が期待していた答えではなかった。もう一人、事情を知っている新崎と目が合うと、彼はこれでいいのだ、というように頷《うなず》いてみせる。 「上磯署長、何かご感想は?」  コメントを求められた胡《ご》麻《ま》塩《しお》頭の署長は、どうしてこんなものの感想をしゃべらなくてはならないのだ、と言いたげだ。 「こんなのがずっと続くんだとしたら、いささか殺伐とした映画ですね」 「酒田警部は?」 「なかなか面白そうな映画です。事件に関係があるようなものには気がつきませんでしたけれど……」  私たちにとって理想的な回答だった。 「では、ちょっと巻き戻して観《み》てみましょう。よくご覧ください」  手術台の前で男の頭が破裂するところまで戻す。十秒ほどで元のところまできたが、刑事たちは何の反応も示さなかった。 「では、もう一回」  火村はもう一度巻き戻し、今度は途中で一時停止にした。今にも砕けて散ろうとする寸前の男のアップが凍りつく。彼はそこから画面をコマ送りにした。少しずつ、少しずつ男の肉片が飛び散っていくのに、一同は息を殺して見入る。やがて、ボタンを小刻みに押すその指が止まった。 「これは何でしょう?」  火村は問いかける。画面には、それまでの映画の中味とはおよそ無関係なものが映っていた。 「お訊《き》きするまでもありませんね。——ウィスキーです」       3  ウィスキーのボトルだ。その脇には半分ほど琥《こ》珀《はく》色の液体を注いだグラス。ボトルのラベルに書かれたジャックダニエルという銘柄を読み取ることもできた。 「こんな画像がまぎれ込んでいたのですが、どなたもお気づきになりませんでしたね。ほんの一瞬で消えてしまうものですから、無理もありませんけれど」 火村が話し始めても、ほとんどの者はモニターの画面を見つめたままでいた。 「もちろん、『ヘルレイザー3』という映画とウィスキーの写真は全く関係がありません。これはオリジナルのビデオソフトに、何者かが付け加えたものであることは明らかです。何者が、何を目的にこんなものを挿入したんでしょうか? ただ単に悪《いた》戯《ずら》で、というには手が込んでいるわりに、仕掛けた本人にとって面白みを欠いています」 「判りましたよ、火村先生」  西脇警視が手を挙げた。やれやれ、まいったわい、という表情をしている。 「そのビデオに細工をしたのは、近松ユズルを殺害した犯人だとおっしゃりたいんだ。つまり、その……このビデオを観たらウィスキーが飲みたくなる、という仕掛けなんでしょう?」 「そうです」  酒田警部も「ああ」と声をあげた。 「聞いたことがありますよ。観た本人に自覚がなくても、無意識にその絵を認識しているので、観た人間に知らず知らず影響を及ぼすという現象があるとか。ポップコーンの絵をまぶした映画を上映したら、映画館の売店のポップコーンの売上が跳ね上がった、というエピソードが有名ですね」 「サブリミナル広告というんだそうです」新崎がすかさず言う。「私もさっき、火村先生から実物を観せられるまで、全然気がつきませんでした」  一人取り残された上磯署長は「ちょっと待ってくれ」と言った。 「私だってそんな話を聞いたことがあるよ。しかし……そのサブリミナル広告を本当に犯人は利用したのかね?」  火村は「はい」ときっぱり答える。 「このビデオが証拠です」 「近松ユズルはそれを観たのでウィスキーが飲みたくなって、それまで飾りにしてたボトルの栓を抜いたと?」 「そうです」        *  サブリミナルとは、『閾《いき》下《か》』という心理学用語に訳されることもあるが、より判りやすい言葉に言い換えると『潜在意識』になるだろう。生体が外界からの刺激に反応するためには一定の刺激量を必要とする。その幅を『刺激閾』というのだが、それ以下の『閾下刺激』でも生体に影響が及ぶことがあり、その際の反応をサブリミナル知覚と呼ぶ。サブリミナル広告はサブリミナル知覚を利用したもので、見たり聞いたりした本人にそのことを認知させないままにメッセージを伝達し、購買行動に結びつけさせようとするものなのだ。かくのごとく潜在意識に植えつけられたメッセージは、意識的に受け取ったメッセージよりも深く脳に刻まれるため、反応は顕著になるという。酒田警部が言った有名なエピソードとは、一九五六年にアメリカ、ニュージャージーの映画館で実際にサブリミナル広告が使用された時、ポップコーンは五十七パーセント、コカコーラは十八パーセント売上が上昇したという例を指しているのだろう。この時、ウィリアム・ホールデン主演の『ピクニック』にこっそりと挿入されたメッセージは「ポップコーン」と「コカ・コーラを飲め」という二種類の文字情報だった。連邦通信委員会は約二年間の検討の末、サブリミナル広告は視聴者=消費者の自由意志をねじ曲げるものだ、として、この原理をテレビCMに用いることを禁止するに至った。そういう措置がとられたことがサブリミナル広告の有効性を実証している、といえるだろう。  サブリミナルの訴求力は視覚、聴覚に留まらず、嗅《きゆう》覚《かく》に対しても働くため、認識できない程度の微弱な匂《にお》いで、相手に影響を与えることも可能である。また、ごくごく弱い刺激で、悟られないうちに効果を上げるという手法のバリエーションとして、大量のものの中に伝えたいメッセージをまぶして差し出したり、だまし絵のように、よくよく観た上で説明されないと識別できないような形にあえてメッセージを歪《ゆが》める場合もある。歪んだメッセージには、しばしば男女の性器やセックスに関する露骨なものが使われ、それが巧みに映像や写真の中に隠される。最後の手法は性的なイメージは万人にとって好ましいものであるから、商品購入につながるというわけで、前述のような法的禁止措置にもかかわらず、頻繁に広告に——こっそりと——使用されていると指摘する向きもある。  さて、そこで『エクソシスト』の話になる。実は、世界中にオカルトブームを巻き起こす先駆けとなったこの映画にも、サブリミナル知覚に訴えるべく、様々な仕掛けが施されていたというのだ。メディア学者、ウィルソン・ブライアン・キイ教授の著書で、わが国でも話題になった『メディア・セックス』は、サブリミナル広告の手法が暴力とセックスを餌《えさ》に、大衆をどれほど自在に操っているかを暴き、警鐘を鳴らした本であり、第七章は『エクソシスト』がどのように観客に恐怖させたかの解剖にあてられている。それによると、『エクソシスト』には全編にわたって実に多くのサブリミナル手法が駆使されているという。こんなふうに——  この映画の中で突然、閃《せん》光《こう》が閃《ひらめ》く場面が何度も登場するのだが、その瞬間、神父の顔がデスマスクのようになって画面いっぱいに現われるような仕掛けがなされていることが、確かめられた。その仕掛けが何か所あるのかははっきりしないが、一秒の四十八分の一という正に瞬間の映像である。すべての観客に認識されないように仕掛けられたものではないのか、ヒアリング調査によると三分の一の観客はそれを意識したらしい。見たかどうか曖《あい》昧《まい》な観客が三分の一。残りの三分の一の観客は全く意識していなかったが、最も強く恐ろしさを感じていたのは、後者のグループだった。この他にも『エクソシスト』は興味深い趣向をたくさん盛り込んでいる。氷室のように冷えた少女の寝室の場面で、神父が吐く白い息の中には、一瞬、幽霊のような顔が現われる。少女の言動には性的な暗示がちりばめられていて、脚にできた傷は女性器に見ようと思えばできなくはない。母親が手にした蝋《ろう》燭《そく》がベッドに落とす影は男性器の形。そのような暗示を繰り返して観客の心が抑圧している領域に侵入し、理性のレベルを低下させていった、ということだろう。  聴覚においてはどうか? ホラー映画の何が怖いって、そりゃ映像より音響だ、という人も多いだろう。『エクソシスト』の音響はというと、マイク・オールドフィールドの『チュブラーズ・ベル』を使ったメインテーマの音楽だけは美しかったが、全体としてはさりげなくどころか、あからさまに気味が悪かった。地の底から湧《わ》くような悪魔の声。吐《と》物《ぶつ》の音。悲鳴。ポルターガイスト現象によってものが割れたり倒れたりする音。あるいは突然鳴りだす電話のベル。ドアが勢いよく閉まる音。そういった不快な音が頻出するだけではなく、全編にわたって唸《うな》るような電気的低周波音が流れていて、完全な沈黙がない。実は、不快で、不安を喚起するこれらの音響にも、観客の想像を越えた秘密が隠されていたのである。映画のサウンドトラックには、ある自然音が溶け込んでいる。その一つは怒って興奮状態の蜂がたてるブンブンという羽音。もう一つは何と、殺される豚のおびえた叫びだというのだ。それらが人間の精神の平静さを失わせ、激しい不安を引き起こすことは容易に想像することができるだろう。おまけに豚の断末魔を観客の潜在意識に埋め込んでおいて、少女の家の裏の階段左側には『豚』という落書がさりげなく映っているというから、その手口の周到さに感服する。  このようなトリックが仕込まれていたにもかかわらずに日本の映画館では何の騒ぎも起きなかったのだから、性的暗示も豚の悲鳴も効果がなかったではないか、ということもできる。興奮した蜂の羽音はキリスト教徒にだけ不安を誘発するのか、と反論されるとキイ教授も苦しい返答を迫られるかもしれない。結局、「悪魔がマジでこわいなんて、西洋人は馬鹿じゃないの」となめてかかりつつ、適度に警戒してスクリーンに向かったわれわれ日本人の勝利なのだろう。しかし、私たちが宗教を越えた原初的な不安に投げ込まれた状態、あるいはメディアに対して完全に無防備な精神状態でいる時、サブリミナルを利用したトリックを仕掛けられた場合にどうなるか、話は別だろう。        * 「これは単なる悪《いた》戯《ずら》で、それをたまたま近松さんが見たために、毒の入ったウィスキーを飲むはめになったなどという偶然は考えられません。何者か、いえ、犯人がこの仕掛けを施して、近松さんが観賞するように誘導したわけです」  ウィスキーの絵を映したまま静止したモニターの傍らに立った火村は、そう結論を述べた。上磯署長が「ううん」と捻る。 「そう決めつけないで下さい。私にはまだ合点がいかない」 「どういう点がでしょうか、署長?」 「アメリカで実験例だか実用例だかがあるのは承知しましたけれど、そんな絵がちらっと画面を通り過ぎただけで、効果があるものでしょうか?」 「それを実証するためには、仕掛けについて伏せたまま、皆さんにこれを最後までご覧いただいた方がよかったのですが、時間的な都合もあってそうもいきませんでした。ただ、ちらっと画面を通り過ぎただけで、とおっしゃいましたけれど、犯人の仕掛けはなかなか大胆ですよ。ここでストップしましたけれど——」彼はモニターを顎《あご》で指して「この絵、実はこの場面で初めて現われたんじゃないんです」  西脇警視が「というと?」 「この上映会を催すに先立って、私は新崎警部補、有栖川とともに隠された絵捜しを行ないました。コマ送りを繰り返しながら、一時間かけて、十五分ぶんを調べたんです。ちょうど、今、静止している場面までですね。その結果、十枚の絵を発見することができました。ご覧いただいているのが十枚目です。私たちの事前の調査が完《かん》璧《ぺき》だったという保証はありませんけどね。とにかく、皆さんは私が指摘するまでこの絵がブラウン管の上を通り過ぎたことに気がつかなかっただけではなく、これ以外の少なくとも九枚の同じ絵も見落としていたのです。十五分間の十枚ですから、この映画を最後までチェックしたら、八十枚の絵が見つかるかもしれません。ちなみに見つけた絵のうち二枚目から六枚目にかけての五枚は、冒頭の美術品店の場面のある二十五秒の間に、五秒間隔でフラッシュしていました」 「一枚や二枚じゃないんなら……」  酒田警部が腕組みをして独白している。サブリミナルの効果について、質より量の面で納得しようとしているらしい。 「近松ユズルが借りたビデオにこんな突飛な仕掛けがなされていると、どうして火村先生には判ったんですか?」  酒田の問いに助教授は小さく肩をすくめる。 「まず近松さんが自殺した可能性は低いと見ました。となると、ウィスキーにはあらかじめ毒が投じられていたことになりますね。赤星さんに送られた毒入りウィスキーは誰が誰を殺すために仕組んだ罠《わな》だったのか不明ですが、それはこの五カ月以上不発弾として近松さんの手《て》許《もと》で眠っていたのです。それが赤星さんが殺害されるや、たちまち目を覚まして爆発した。偶然ではなく、何者かの手が加えられた結果、不発弾が甦《よみがえ》ったのだろう、と考えざるを得ません。誰がどうやって『ウィスキーを飲め』とそそのかしたのか? 電話をかけて教《きよう》唆《さ》したのかもしれませんが、それは確かめようがないので措《お》いておくとすると、あの夜、ビデオという形の来訪者があったことがどうにも気になってきたんです。『ウィスキーを飲め』とそそのかすことはビデオにでもできたのではないか? サブリミナル広告のことが閃《ひらめ》いたのは、ほとんど直感です。思いつきだったから、よけいに早く確かめたくなって、ビデオ店で無理を言ってしまった次第です」 「しかし」警部は重ねて尋ねる。「まさか犯人は近松さんが愛顧しているビデオ店のすべてのビデオに細工ができたはずもありません。あるビデオにサブリミナルの細工をしておいて、それを被害者がレンタルするように誘導したんでしょうか?」  火村は「そうです」と答えた。 「近松さんは借りてきたビデオをダビングしてライブラリーを作っていました。ところが、ダビングに必要な二台目のビデオデッキは故障のため修理中で、当夜、部屋になかったんです。それに、彼のビデオライブラリーにホラー映画のたぐいが皆無だったという事実、彼が勤務するシレーヌ企画で近々ホラービデオの製作が予定されていたという事実を加えて推測を巡らせると、近松さんが『ヘルレイザー3』をあの夜レンタルしてきて観《み》たのは、仕事上の参考にするためではないか、とみられます。であれば、近松さんの身近にいる人物なら、彼があのビデオを観ることを予測できたかもしれないし、あるいは観ておくよう自然に勧めたりすることも可能だったでしょう」  ここで西脇警視が大きな身振りでストップを要求した。 「サブリミナル効果を利用したビデオが『ウィスキーを飲め』と近松氏をそそのかし、死に至らしめた。それはいいとしましょう。近松氏が当該ビデオをレンタルして観ることを犯人は予見できた。それもいい。しかし、私に理解できないのは、犯人がどうやってレンタルビデオ店のビデオにそれほど手間の掛かる細工をすることができたのか、ということです」  まさか街角のレンタルビデオ店から借りてきたビデオに罠が仕掛けられているとは、誰も思わない。だからこそ罠はうまく作動したのだろう。警視の質問に火村は軽く頷《うなず》く。 「疑問に思われるのもごもっともですが、実はそんな細工は容易なのです。もちろん、サブリミナル映像をこしらえるのには大変な労力と時間を要したでしょう。まず、手間暇かけてサブリミナル映像入りビデオを作って、それをあの店のものとすり換えればよかった」 「すり換えるといっても、店の在庫品には管理用のシールが貼《は》ってあったり、加工がなされているはずです。すり換えるとばれてしまうでしょう。シールを貼り直した痕《こん》跡《せき》でも残っているんですか?」 「いいえ、一切ありません。店のシールをはがして貼り直した跡もないし、カセットを開いて、中味のテープをそっくり入れ換えるという方法もあり得たでしょうが、そんな跡もなしです。——さっき、私はすり換えたと言ってしまいましたけれど、訂正します」 「すり換えたんでないのなら、どうしたというんです?」 「『ヘルレイザー3』というビデオの上に、『ヘルレイザー3』というビデオをダビングしたんです。ただし、おまけつき、の」  すべての市販されているビデオソフト、レンタルされているビデオソフトは、録画されている内容を誤って消去してしまわないよう、爪《つめ》が折られている。しかし、折られた爪の代わりにセロテープでも貼れば、録画が可能になることは常識といっていいだろう。なのに、同じ映画を重ねて録画するという発想がなかなか湧《わ》かず、犯人はサブリミナル効果を利用したのではないか、というところまで見当をつけながら、私は火村の説明を聞くまで快《かい》哉《さい》を叫ぶことができなかった。解答を聞くなり、自分の頭の堅さに少しがっくりときたものだ。 「これがダビングされたものであることは、鑑定していただければ簡単に判明すると思います。これを借りていた学生は神経質なタイプだったせいか、『画像がきたないんで、文句が言いたいほどだった』と言っていました。私の目から見ても、よほどの回数レンタルされなくては、ここまで映像が劣化しないのでは、と思えますね」 「その学生は事件に無関係なんですね?」  上磯署長は憮《ぶ》然《ぜん》とした声で訊《き》く。 「身元は判っていますから、洗うこともできますけれど、九分九厘無関係でしょう。事件の直後にこれをレンタルしたのは偶然だという証拠に、サブリミナルの細工は元のまま残っています。彼が犯人、もしくは共犯者ならば、画像がさらに劣化するのを承知の上で、またこの上に細工のない映画を重ね録《ど》りでダビングしたはずですから」 「犯人は、このビデオをまた借りに現われるとお考えなんですね?」 「犯人の心情として、放置しておくのは耐えがたいと思います。ただ、一刻も早く証拠を湮《いん》滅《めつ》したい、とすぐに借りにやってくるのか、ほとぼりが醒《さ》めるまでは危険だからあの店に近づかないようにするのか、それは定かではありません。もしかすると、昨日の夜、大島という学生が借りた後でやってきて、舌打ちしていたかもしれません」 「任意でしょっぴきましょう」新崎が力強く警部らに言う。「このビデオが動かぬ証拠です。自宅とはまるで方角違いのあんなビデオ店の会員になっていたことだけでも怪しいこと夥《おびただ》しいのに、店長の協力で記録を調べたところ、奴さんはこのビデオを五月一日から二日にかけてレンタルしているんです。その時にあらかじめ作製しておいたサブリミナル映像つきのものを重ね録りしたんです」 「その上、仕事にかこつけて、近松ユズルにこの映画を観ておくよう指示する立場にもあった、か」  酒田警部の呟《つぶや》きに呼応して、西脇警視は膝《ひざ》を叩《たた》いた。 「やろう。こんなものが出てきちゃ、ほうっておけない」 「ちょちょ、ちょっと、火村先生。その人物が、赤星氏も殺害したんですかね?」  署長の問いかけに対する火村の答えははっきりしていた。 「近松さんの手《て》許《もと》のウィスキーに毒が入っていたことを知っていたんですから、そう見ていいでしょう。また、その人物は私と有栖川に対して辻《つじ》褄《つま》の合わないことを口走っているんです」  引き絞られた弓から、ついに矢が放たれる。       4  ビデオ店で火村がその名前を口にした時、私はわけが判らなかった。彼が騙《かた》った姉の名とは—— 「霧野千秋さんですね?」  長髪の店員はキーボードを打つ。どういうことだ、と尋ねようとする私に、火村は黙っていろ、というように口許で人差し指を立てた。やがて目的の画面を捜し当てたらしい店員は、当惑を顔に表わす。 「おかしいなぁ。確かに霧野千秋さんって方は会員にいますけれど、男性ですよ」 「えっ、そりゃ変だなぁ。まさか同姓同名ってこと?」火村は両腕を翼のように広げて驚いたポーズをとる。「変な男が姉の名前を使って会員証を作ってるんなら気味が悪いなぁ。身分証明書を確認した上でカードを発行しているんですか?」 「もちろんです」 「確かめて下さい」  店員は催眠術にかかったかのように、火村に言われたとおり動きだしていた。彼はキャビネットの抽《ひき》斗《だし》をごそごそとまさぐって、一枚のコピーを捜し当てる。 「やっぱり男性ですよ」 「どれ」  火村は腕を伸ばして、店員の取り出した紙切れの端をつまんで、内容を覗《のぞ》き込んだ。それは運転免許証のコピーで、写っている顔写真はまぎれもなく、私たちが知っているシレーヌ企画の霧野千秋だった。  貸し出し中の『ヘルレイザー3』がどうしてもすぐ観たい、と火村がわめきだしたのは、この直後であった。       5  新崎がまた紙コップのコーヒーを二つ手にしてやってきた。今度は自分の分はないようだ。 「どうもどうも、ありがとうございました。いっぺんに捜査が進展しそうです。朝と同じもので何ですけど、どうぞ」 「あ、すみません」  私は立ち上がって熱いコップを両手で受け取り、一つを火村に「ほれ」と渡す。猫舌の助教授は手の皮も薄いのか、「アチアチ」と大《おお》袈《げ》裟《さ》に騒いだ。 「あのビデオには私も目を通していたのに、気がつかなかったのは不覚です。もっとも、コマ送りにするなんて思いもよらないし、早送りでざっと見ただけですから、判ったはずもないんですけれどね」 「犯人はそんなことも想定していたのかもしれませんね」  私は両手にコーヒーの温もりを感じながら言った。火村は紙コップを机に置いて、 「霧野さんに連絡はつきましたか?」 「それが、具合の悪いことに彼は今日、急な出張に出ていて、連絡が取れない状態なんですよ」  昨日、そんな話はしていなかった。だからこそ急な出張なのだろうが、ちょっとひっかかる。 「どちらに?」と火村が訊く。 「次の次の作品のロケハンで新潟に行っているそうです。一泊の予定らしいですけど、宿泊先を決める間もなく発っているので、向こうから電話をしてくるのを待つしかありません。近松ユズルの交遊関係について、霧野さんに伺いたいことがあるので、彼から電話が入ったら居場所だけ訊いておいて欲しい、と穴吹社長に依頼してあります」  私の胸の内で、むくむくと疑惑が広がっていった。次の次の作品のロケハンだと言われたら、そうですか、と納得するしかないが、やはり唐突すぎる感は否めない。穴吹奈美子からの連絡を待っているだけでいいのだろうか? 「霧野から詳しい話が聞けるのは明日になるかもしれません。——ところで先生方、赤星氏の家もご覧になりますか? おいでになるのなら私が車でご案内しますよ。有栖川さんは場所をご存知だそうですけど、杉並署で預かってる部屋の鍵《かぎ》をもらわないといけないし。私がすぐにはここを離れられないから、三十分ほど待っていただけますか?」 「お忙しいのに体を借りるのは申し訳ありません。私たち二人で行けますから、杉並署のご担当の方にだけ一報入れておいてもらえますか?」  それが火村の回答だった。警部補は快諾し、「では早速」と電話をかけに行ってくれた。  部屋がしんと静かになる。階下からは執務室のざわめきや電話のベルの音、窓の外からは行き交う車の音が聞こえてきていた。秒針の音まで聞こえる気がして壁の時計を見上げると、三時が近い。 「えらく急な出張だな」  火村がキャメルをくわえながら沈黙を破った時、私は霧野千秋の出張の不自然さにあらためて思い至った。彼の宿泊先が判らないのは本当かもしれないが、連絡が取れないというのはおそらく嘘《うそ》だ。彼は携帯電話を使っていたではないか。ちゃちな品に見えなかったから、新潟へコールすることができない、ということはないだろう。今日は携えていないのだろうか? その疑問を伝えると、火村は少し首を傾げてから、火を点けたばかりの煙草を躊《ちゆう》躇《ちよ》なく揉《も》み消した。 「シレーヌ企画に行って話を聞こう。霧野の犯行の裏に何かあって、社長はそれを知っているのかもしれない」  廊下に出ると、タイミングよく新崎が階段を昇ってくるところだった。 「杉並署刑事の清田刑事に話しておきました。——もうお出になるんですか?」  彼は私たちの顔を交互に見ながら言った。 「他に寄ってから回らせていただくかもしれません。色々とお世話になり、ありがとうございます」  火村とともに私も頭を下げ、板橋署を出た。地下鉄の駅で公衆電話が目に留まる。 「電話をしてから行くか?」  火村は黙って頷《うなず》いた。私はごそごそ手帳を取り出して、穴吹奈美子直通の番号にダイアルした。 「はい、シレーヌ企画、穴吹でございます」  驚くほど素早く受話器が取られた。まるでベルが鳴るのを予知していたかのような電光石火の早業だ。私からの電話を待ちかまえていたはずがないので、がっかりさせてしまうかな、と思いつつ名乗ると、彼女は意外な反応をした。 「今から出ようとしていたんです。電話の横に手を突いたところでベルが鳴ったので、びくっとしました。……有栖川先生なら出てよかった」 「……そ、そうなんですか?」 「霧野のことで、お話があるんです。ついさっき、彼に訊《き》きたいことがあるので居場所を教えて欲しい、という電話が警察からありました。努めて何でもないような口ぶりでしたけれど、どこか焦ったような感じで。……そのことで、先生方は何かご存知なんじゃありませんか?」  警察が伏せていることを、彼女にぺらぺらしゃべるわけにはいかない。 「電話ではお話しできません」  とりあえずそんなふうに思わせぶりな返事をした。と、「もう行かなくては」と呟《つぶや》きが耳に届く。 「これから私は東京駅に行かなくてはなりません。一時間以内に東京駅に行けるところにいらっしゃるのなら、お越し願えませんか?」 「今、板橋区役所前の駅にいますから、大丈夫だと思います。東京駅のどこへ行けばいいですか?」 「東海道新幹線の改札口。大阪寄りの、と言えばお判りになりますか?」 「八重洲側ですね? 他のどこよりもよく判ります」 「ではそこで」  短く言うと、彼女は電話をあっさり切ってしまった。 「おい、火村——」  勢いよく振り向いた私だが、電話が空くのを待っていたらしいOL風の女性とまともに視線がぶつかって、非常にバツが悪い思いをした。火村の姿がない。あいつ、この忙しい時にどこに消えたんだ、と苛《いら》々《いら》しながら私は大《おお》手《て》町《まち》までの切符を買い、柱にもたれて待った。やがて彼は口笛なんぞ吹きながら澄ました顔で戻ってくる。十分のロスだ。 「ふらっと消えるなよ。道路の向こうに初恋の人でも見かけたんか?」 「すまんすまん、本屋が目に入ったんで、ちょっと。——何かあったのか?」 「大ありや。荷物を持て」  私は先に立って歩きだす。ホームに出るとすぐに電車が入ってきたので飛び乗ってから、扉の脇で私は穴吹奈美子との電話のやりとりを話してやった。 「東京駅で会いたいってことは、彼女、どこかへ発つつもりか?」 「それは訊いてない」 「『もう行かなくては』って急いでた、か。何か知ってて動きだしたな」 「何かとは?」 「彼女はどちらかの事件に噛《か》んでいるのかもしれない。もしそうなら、俺は事件のまだ全容を掴《つか》んだわけじゃないから、訊きたいことがある」  訊いて教えてもらえるなら、私も訊きたい。赤星が書こうとしていた小説がどんなものだったのか、がまだ判らない。だが、それ以前に—— 「本当に霧野さんが赤星さんも殺したのか?」  周囲にたくさんの耳があるので、私は声をひそめて言った。 「やってるよ」と彼は言い切った。「霧野千秋には一応のアリバイがあるらしいが、そんなものは偽物だ。だとすると『海のある奈良』は小浜じゃなかったんだ。五月十日の午後六時から十時の間、霧野がうろうろしていたという行動の範囲内に赤星楽はおびき寄せられたんだろう」 「『海のある奈良』って、どこなんや?」 「奈良から海が見える場所はないか?」  火村が思いもよらないことを私に尋ねた。 「面白いことを言うやないか。いかにも名探偵、弘前泉教授向きの解決になりそうや。『奈良に海はない。私たちはみんなそう信じてました。しかし、そこに大きな盲点があったとしたらどうでしょう? はっきりと海が望める地点が奈良にあったら?』とか。——あっ!」  私の頭に突如ある考えが降ってきた。赤星が構想していた『人魚の牙』という小説がどんなものだったのか、その正体を見たような気がしたのだ。 「そうか。彼はそういう場所を見つけたのかもしれん。『海のある奈良』イコール小浜を目的地だと読者に誤認させておいて、実は『海があるようにみえる本当の奈良』に行った人間がそこで殺された上、犯人がその死体を小浜に運んで捜査が混乱するっていう話」 「それが『人魚の牙』のメイントリックって奴か?」 「いかにもあいつが使いそうな手や」  ——行ってくる。『海のある奈良』へ。  赤星楽は思わせぶりにそう言い残して旅立った。あの台詞《せりふ》こそ、これから書こうとしている作品に仕掛ける罠《わな》の実験であり、同業者である私への挑戦だったのだ。 「なるほど」と火村も頷いて「それで、『海があるようにみえる本当の奈良』というのは実在するのか?」 「大《おお》台《だい》ヶ《が》原《はら》から伊《い》勢《せ》湾《わん》を遠望することはできそうに思う。けれど、それでは『海のある奈良』という表現はしっくりこないやろう」 「じゃあ、奈良の中に『海』はないか? もちろん本物の海じゃなくて、それは湖沼のたぐいだろう。『何々の海』と呼ばれている池とか湖とかがあるのかもしれない」 「ないとは断言できないけれど、俺は聞いたことがない」 「待てよ。飛び地ってことはないか? 奈良県の中に和歌山県の飛び地があるじゃないか。その逆に、和歌山か、あるいは三重の海岸部に奈良の飛び地があるとか……」 「面白いことを言うな」私は感心した。「けど、それは俺にも断言できる。——ないよ」  火村は肩をすくめた。 「昨日、『海のある奈良』と呼ばれる土地が小浜以外にもあるんじゃないか、と言ってたよな。今度は『奈良にある海』捜しに切り換えか」  次は大手町、というアナウンスが頭の真上で聞こえた。話しているとあっという間だった。 「学文路はどうつながるんだ。高野山の麓《ふもと》が『海のある奈良』ということは?」  火村は私の知識に頼ろうとしているらしいが、それは無謀というものだ。それよりも、学文路と聞いて片桐が強行軍の探偵旅行でどうしているだろう、ということを思い出す。昨日の夜の電話では感激で目が潤む、などと言っておきながら、すっかり彼のことを忘れていたのだから薄情なものだ。 「何か判ったら、学文路の片桐さんから塩谷さんに連絡が入ることになってたんや。東京駅から電話してみる」  電車が大手町に着く。穴吹奈美子と電話で話してから、そろそろ四十五分になろうとしていた。私たちは足早に地下の通路を東京駅八重洲口に急ぐ。  穴吹奈美子は改札口のすぐ脇に立っていた。いかにも人待ち顔で、腕時計をちらちらと見ている。二十メートルほど手前から私が手を振ると、彼女は肘《ひじ》に掛けたハンドバッグを激しく揺らしながらこちらに駈《か》けてくる。旅に出るにはいかにも軽装だった。 「すみません。四時に出る新幹線の指定を取ってありますので、もうほとんど時間がないんです。お話ししたいことがあるんですが」  今、三時五十分だ。火村は迷うことなく応えた。 「では、私たちも同じ列車に乗りましょう。どちらに行くんですか?」  彼女は一瞬、躊躇《とまど》いをみせたが、やがて細い声で答えた。 「京都です」  どうして京都などに突然発つことになったのかさっぱり判らないが、事情を尋ねている暇はない。私は二人分の切符を求めるため、券売機に走った。       6  ひかり245号の発車までのわずかな時間を利用して、私は珀友社に電話をすることにした。塩谷は私からの連絡を待ってくれていたらしいのだが、ちょっと席をはずしていたので、一分ほど待たされた。発車時刻が迫ってくるし、火村と奈美子の姿が見えないところから電話しているので焦ってくる。 「塩谷です。いやぁ、有栖川さんたちがどこにいるのか判らないので、ずっとお電話を待っていました。実は、昼前に片桐から連絡がありました。あいつ、大当たりだって、はしゃいでいましたよ。学文路で人魚が見つかったんです」  ホームが騒々しくて、電話の声が少し聞き取りにくい。 「有栖川さん、どこにいるんですか? 後ろで新幹線のアナウンスがしているけど、東京駅?」 「ええ、わけがあって、これから新幹線に乗らないといけなくなったんです。すみません、もうすぐにでも発車のベルが鳴りだしそうで——え、人魚が見つかったって?」  私はつんのめりかけた。 「そうですよ。といっても、小浜のような八百比丘尼伝説ではありません。苅萱堂というところに人魚のミイラが祀《まつ》られていたんです」 「ミイラですか……」 「人魚のミイラとして伝わる秘宝って奴です。学文路駅の裏に看板が出ていたので、呆《あつ》気《け》なく捜査の目的を達したみたいですよ。あんまり早く片付いたので、大阪でお好み焼きでも食べて帰るって言ってました。またこっちに電話が入ると思いますけどね」  ベルが鳴り始めてしまった。 「ありがとうございました。電車が出ますから、これで失礼します。また——」  火村たちが乗り込んだ十二号車の方を振り向くと、「アリス」と後ろから声がした。二階建てになった九号車のデッキから火村が手招きしている。 「穴吹さんが個室を取るって言ってる。空きがあるんだ。おい、お前の切符貸せ」  デッキには奈美子と車掌もいた。私が言われるままに乗車券と特急券を火村に差し出すと、彼はそれをすぐに車掌に手渡し、奈美子が金を払った。「精算は後で」と火村は言う。ことはいたって、てきぱきと運ばれ、列車がホームを離れる時に、私たちは四人用の個室を確保していた。 「よかった。個室が取れて」  進行方向を向いて座った奈美子は深く座席にもたれると、軽く目を閉じて吐息をついた。 「これで落ち着いてお話ができるというものですね」  火村の言葉にも、ゆっくりと目を開きながら「はい」と応える。 「ところで、どちらから話し始めることにしましょうか?」 「私から先生方にお訊《き》きしてよろしいでしょうか?」  彼女は両手を膝《ひざ》に置き、思い詰めたような眼《まな》差《ざ》しで私たちを見つめた。 「では、お訊きします。霧野は人を殺したんでしょうか?」 「唐突な質問ですね。警察が彼の居所を知りたがっているからといって、そんなことを訊くのにはわけがあるんでしょうね」 「すべてお話ししますから、質問に答えていただけますか? 霧野は赤星さんか近松さんを殺したんですか?」  窓の外を品川が通り過ぎていく。狭い室内に緊張がみなぎり、私は二人のやりとりを黙って見守ることにした。 「重要な証拠物件が見つかりました。毒入りウィスキーを飲むよう、近松さんを誘導したのは彼です。警察が彼に会いたがっているのは、それについて説明が聞きたいからです」  膝の上の両手の指先がからまり、白くなった。彼女が強い衝撃を受けていることは間違いがない。 「重要な証拠物件とは、どういうものなんでしょうか?」  恐る恐るの質問のようだった。列車はどんどんスピードを上げ、東京が遠ざかっていく。 「ビデオです」  火村の説明が始まった。近松の部屋を訪ねたところから順を追って、噛《か》んで含めるように。奈美子が些《さ》細《さい》なことで質問を挟んでも、厭《いと》うことはなかった。京都まで、誰にも邪魔されない時間はたっぷりとあるのだから、と落ち着いているのだろう。そして小《お》田《だ》原《わら》を通過する頃には彼女は火村の話を受け入れて、首をうな垂れてしまった。やがて、か細い声がうつむいた顔からもれ聞こえてくる。 「赤星さんを殺したのも……彼なんでしょうか?」 「ウィスキーが凶器になることを知っていたんですから、当然、そういうことになるでしょう。それに、彼の言動には不審なものがありました」 「どういうことですか?」  私もまだそれは聞いていない。そもそも、霧野が犯人であることを、火村がどうやって看破したのかも、まだ説明を受けていなかった。 「彼が犯人であるという決定的な証拠は存在しません。ただ、もしも今ここに霧野さんがいたならば、私は彼がついた一つの嘘《うそ》と、不可解な一つの言葉に対する説明を訊きたいと思います」 「嘘って何です?」 「事件の前の週、彼は札幌にロケハンに行ったと話していましたが、嘘です。ここ数カ月ろくに休みを取れないほど忙しかったそうですが、休みを取るかわりに出張の日程を調節して時間を浮かし、小浜へのロケハンに充当していたのだろう、と思います」 「彼が札幌に行っていないとどうして判るんですか? しかるべき出張報告書は提出してもらっています」 「彼のように日本中を飛び回っている人なら、以前に訪れた時の記憶、情報を使って報告書をでっち上げることぐらい容易でしょう。少なくとも、彼は関西出張の前週に札幌に行っていません。彼は自分がいかに多忙かを訴えることによって殺人計画を練る間もなかった、と言わんばかりでしたが、それで墓穴を掘る結果になってしまいましたね。——いいですか?」  火村は無意識のうちにか、弘前泉の口癖をなぞっていた。 「五月十日、大阪でのロケハンについて話した際、彼はこんなことをしゃべりましたね。『前の週に行った札幌より日没の時間がずっと遅かったので、がんばりました』という意味のことを。嘘です。札幌生まれの私も最初に聞いた時は何気なく聞き過してしまいましたが、この発言は出《で》鱈《たら》目《め》なんです。——失礼」  火村は鞄《かばん》から一冊のコンパクトな本を取り出した。「お前が電話している間に急いで買った本さ」と私に言う。その本は一九九四年版の『天文年鑑』だった。どうしてそんなものが出てくるのか、ちょっと面食らう。 「全国各地の日の出、日の入りの時刻をこれで調べることができます。しかも、緯度経度が判らなくても、主要都市のものなら、五日刻みで表にしてあるんです。……えーと、大阪の五月十一日の日没時刻が載っていますね。一日違いですが、まぁ、いいでしょう。大阪の日没時刻は18時46分。札幌は何時ぐらいだと思う、アリス?」 「ん……そうやな、三十分ぐらいは早いような気がするけど、違うか?」  まるで自信がなかった。 「正解は18時41分。札幌は大阪より日没が五分早いだけなのさ。霧野さんが札幌に行ったのは前の週だとすると、札幌の日没時刻はもう少し繰り上がるわけだけれど、それでも十分と違わない」  本当だろうか、と私は思った。大阪よりはるか北東にある札幌の日没が五分早いだけだ、というのがにわかに信じられない。 「十分そこそこしか違わなかったのに、大阪の日没がずっと遅かったというのは嘘だよ。頭で考えただけだからそんな勘違いをしたのさ。本当に札幌、大阪を訪れていたのなら、日没時刻に差がないことが印象に残ったはずだものな。——本まで買ったのに、まだ納得がいかない顔をしていますね、お二人とも」  奈美子はどう答えていいか判らない様子だった。私が何か言いかけると、火村は万年筆をポケットから抜いて、本の見返しに何かさらさらと認《したた》めだす。大まかな日本地図だった。彼はそこに二本の斜線を引いて私たちに示し、さらに、それぞれの線にA、Bと印を打った(地図4参照)。 「太陽は東から昇り、西に沈みますから、東に行くほど日の出も日の入りも早くなるような気がしますね。西に行くと逆にいずれも遅くなる、と。それは錯覚です。地球は傾いた地軸を中心に回転しているんですから、単純に東に行くほど日の出が早い、というわけではありません。  地図に引いたこの線が何を意味するかご説明しましょう。Aの線上に札幌と大阪がありますね。この線の上に並んだ町々では、同じ時刻に日没を見ることになるのです。その反対に、日の出が同じ時刻にある土地を結んだ線がB」  火村は『天文年鑑』のページを繰る。 「一番極端な二つの町について調べてみます。最北の稚《わつか》内《ない》と、最南の那《な》覇《は》。数分前のアリスなら、この二地点の日没の時間差は一時間ぐらいある、と考えかねなかったでしょう。街頭でアンケートを取ったら、もっとあるよ、という回答もおそらくあり得ます。しかし、現実の日没時刻は稚内18時51分。那覇19時6分。時間差は十五分だけです。ちなみに日の出の方は稚内4時9分。那覇5時45分で、一時間三十六分の開きがあります」 「もう結構です、判りました」  奈美子が地図から目をそらしながら言った。 「新しい常識が身につきました。けれど、彼はやはり勘違いをしていたのかもしれませんし、もし意識的な嘘だったとしても、そのことをもって彼が小浜で殺人のロケハンをしていただなんてことは言えないでしょう。話に飛躍がありすぎます」 「もちろん、おっしゃるとおりです。彼は単にちょっとサボリたくなって、札幌出張をパスしただけなのかもしれません。いえ、そう考える方が自然でしょうね。——しかし、私が問い質《ただ》したいことはもう一つあります」  私の新刊にあった間違いについて、彼がこだわっていたことを、ふと思い出した。その話はいつ出るのだろう、と思っていると—— 「アリスの最新刊は『セイレーンの沈黙』といいます。ご存知ですね、穴吹さん?」 「はい」  時折、トンネルをくぐる。知らないうちに熱《あた》海《み》を通過して、静岡県内に入っているようだ。 「赤星さんの遺体発見の知らせをアリスが聞いたのは、十一日の昼過ぎのことです。彼はその時、日本有数の大型書店にいたのですが、彼の新刊はまだ店頭に並んでいませんでした。ちなみにその日も霧野さんは大忙しで、大茂さんと徹夜したと聞きました」  何が言いたいのか、私にはまだ判らなかった。奈美子も同様のはずだ。 「『セイレーンの沈黙』が発売されたのは翌十二日でした。ところで、アリスがその日の午前十時過ぎに御《おん》社《しや》に電話をかけた時に出た霧野さんは、どんな挨《あい》拶《さつ》をしたでしょうか? そんなことをご存知のわけがありませんね。霧野さんは、発売前のアリスの新刊の題名を話題にしたんですよ」  こうだ。  ——先生の新作、わが社の名前にちなんだものみたいですね。  ——セイレーンとシレーヌって親《しん》戚《せき》みたいなものですね。  そう。彼は私の本について、少なくとも題名は知っていた。 「それは変です。出勤途中に書店で見かけたのだ、というのならまだ判りますが——それも時間的に難しいですけれどね——、徹夜明けの彼が、一体、どこで『セイレーンの沈黙』を目にすることができたんでしょうか? 彼が会社でずっと徹夜で仕事をしていたことについては、大茂さんが証言しています。さあ、アリスの新刊をどこで見たんでしょう?」 「新刊の発売予定の案内などで目にしたのでは……?」  彼女の答えに、私は首を振った。 「それはありません。『セイレーンの沈黙』という題名になったのは発売の直前になってのことで、それまでは別の仮題がついていたんですから」  奈美子は「では、どこで……」と困惑する。 「お前なら判るよな?」と火村に質問を振られた私も、返答に窮してしまった。 「わ、判らん」 「お前の新刊は書店に湧いて出てくるわけじゃないだろ?」 「当たり前や。虫やあるまいし」 「発売の少し前に刷り上がって、それが印刷所から取次に搬入されて、書店に配送される」 「ああ。しかし、その過程で霧野さんが見るチャンスはないぞ」 「でも見たんだよ」 「取次でバイトでもやってたのか?」 「刷り上がったものは、全部残らず取次に運ばれるわけじゃないよな」 「出版社が注文に応じるための手持ち分を在庫しておく必要があるから、一部は出版社の倉庫に入る。それと、著者に渡すみほ——そうか!」 「見本が著者に渡されるんだろ? お前も十日の日にもらったんだってな」 「もらった」 「それをどうしたんだっけ?」 「自宅に宅配便で送った。一冊だけ、取材旅行の車中の友にと、赤星さんに進呈して……」 「霧野さんが発売前の『セイレーンの沈黙』を目にしたんなら、その一冊しかないんだ。彼は殺される直前の赤星さんに会ってる。犯人でなかったら、どうしてそんな重要なことを隠すんだ?」  応えたのは私ではなく、奈美子の方だ。 「何か事情があるのかもしれません。赤星さんを殺したと決まったわけでは……」 「ええ、決まったわけではありません」火村は堅い響きの声で言う。「ですから話を聞きたいんです。もし彼が無実ならば、いくら警察が全力を上げて犯罪の跡を追っても時間の浪費に終わるはずです。しかし、もしそうでなかったら、逃げおおすことは無理です。赤星さんの取材旅行の目的地が実は小浜以外のどこかだったことも明らかになりつつあります。調べれば、必ず露見しますよ」  奈美子の顔は真っ青だった。       7  時速二百数十キロで、窓の外を風景が飛んで去る。軽やかな線路の音。それらを見聞きしていながら、私は、自分たちが今いる場所が列車の中であることを忘れてしまいそうだった。まるで、日常が支配した世界から切り離された地下墓所にでもいるかに感じる。  彼女の目で何かが光っているのを見て、私は言葉を失ってしまう。光ったものは涙だった。この人は何故泣くのだろう、と私は考える。自分が愛した二人の男を殺した犯人が、信頼していた部下であったことのショックは察するに余りあるが、涙はそぐわないように思える。私は訊《き》かずにいられなかった。 「あなたはどうして……泣いてらっしゃるんですか?」  彼女はハンカチを取り出し、目《め》尻《じり》の涙を拭《ぬぐ》い去った。泣くことは耐えたようだが、唇の間からもれる声は苦しそうだった。 「霧野が、やったんですね。あの子が……」 「できるのなら、あなたから確かめて下さい。京都で会うことになっているんでしょう?」  火村が穏やかに尋ねる。 「はい。彼が必要あって急なロケハンに出たというのは本当です。ただし、行く先は新潟ではなく京都でした。朝井先生にお会いして確認することができたからです。四時半に雅ホテルでお会いする予定でしたから、ちょうど今頃、打ち合せをしているところでしょう。とっさに嘘《うそ》をついたのは、前にも申しましたように、刑事さんの声に切迫したものが混じっていたからなのと、私自身、霧野の態度に不安なものを覚えていたからでしょう。これはおかしい。まずいことになったようだ、と直感したんです」 「警察に嘘をついた後で、彼に電話しましたね?」 「携帯電話を持たせていますから、いつでも呼び出せます。『あなたがやったんじゃないの?』と訊いたら、彼、笑って否定しましたけれど、受話器を通してびりびりと伝わってきたんです。あの子の恐怖が」  そして、奈美子も恐怖したのだ。それが、今、こちらにも伝わろうとする。私は背筋に寒気を感じた。 「それで、飛んでいって、会って話し合わなくてはならないと思いました。今から私も京都に出る、と言うと、あの子は絶句していました。そして、『どうしてそんなことをするんです?』とでも訊き返すかと思ったら……『是非、きて下さい』だなんて、ただそれだけ、私以上におかしな、そんなひと言だけを……」  うまく言葉にならないらしかった。 「どうして彼が二人を殺害したのか、あなたに思い当たることはありますか? 彼はあなたを崇《すう》拝《はい》し、愛していた、と何人かの人が証言をしています。あなたを奪われそうになったことへの嫉《しつ》妬《と》が犯行の動機なのだ、と言ってしまえばそれまでですが、渦中のご本人はどうお考えなんでしょう?」  彼女は込み上げてくる何か大きな感情を、懸命に押し殺そうと努めているようだ。可《か》憐《れん》な少女ではなく、しぶとく生き抜いてきた女の相《そう》貌《ぼう》になっている。 「私が悪かったんでしょう。彼の気持ちを知らずにいたことが、こんな事態を招いたんです……」 「霧野さんがあなたを慕《した》っていることは、一度会っただけの私にも判りました。いえ、ただ慕っているというだけじゃなかった。あなたの感情のゆらぎが、何倍もの大きさの波動になって彼を揺さぶっているように見えました」 「今日、つい先ほどまで、私には判りませんでした。彼がそんな信号を発信していても、それを受け止めることができなかったんでしょう。でも、私の鈍感さを非難しないで下さい。何故なら、霧野は、彼は、あの子は、仕事上の部下ではなく、私の、私が、私が産んだ息子だからです」 「何ですって?」  私だけでなく、火村もこの告白には驚いたらしい。身を乗り出して、奈美子の両肩に手を置かんばかりの剣幕をみせた。それに応え、わずかに顎《あご》を上げた彼女の顔には血の気がなく、苦悩がいくつかの皺《しわ》となって浮かび出している。信じがたい告白が事実であることは、にわかに老いたその顔が何よりも雄弁に物語っていた。 「私の実の息子です。十五の時に産んで、育てられないので、遠縁の親《しん》戚《せき》に養子に出した子供なんです。過ちでできた子供だなどと言うのは酷いことですけれど、私にとっては抱えきれない重荷でした」 「彼はあなたが母親だということを知らないんですか?」  興奮のあまりか、火村は怒鳴るように尋ねた。 「はい、知りません」 「彼があなたの会社にいることは偶然なんですか?」 「母親として名乗り出ることはできませんでしたけれど、あの子の消息についてはずっと教えてもらっていました。ですから、今の会社を買収する時点で彼の在籍は知っていました。私の方から近寄っていったんです」 「何故?」 「力になってやろうと思ったからです」 「自分が母親だとは、おくびにも出す気はなかったんですね?」 「それは……できそうにありませんでした。一度は、子供を棄てた女ですし、彼にやりたいように仕事をしてもらう今の関係が良好なものだと信じて……」 「彼は何かを感じていたのかもしれませんよ。あなたの目の中に愛情の灯のようなものを見て、誤解をしてしまったんだ。そして、それを裏切られたことが、理性を喪失させたのかもしれない」 「私は……」  自己弁護か、自責の言葉か、彼女が何ごとかを言いかけたところで、車内放送がそれを遮る。  ——大阪市の有栖川有栖様。お電話が入っております。お近くのお電話をお取り下さい。  これまでに幾度となく耳にした呼び出しのアナウンスだが、自分の名が告げられたのは初めてだった。次々に予期しないことが起きて驚かされる。 「行ってくる」  私はすっと席を立った。「ああ」と応える火村の表情には、濃く深い翳《かげ》が貼《は》りついていた。  デッキの電話に出てみると、轟《ごう》々《ごう》という雑音の彼方《かなた》から片桐の弾んだ声が聞こえてきた。 「塩谷さんに聞いたんですよ、四時の新幹線に有栖川さんたちが乗ったって。もう人魚発見の話は伝わっているようですけど、肉声で報告したいと思ったものですから、電話しちゃいました。車内の呼び出しっていうのを、一度やってみたかったからということもありますけれどね」  肩を落とした穴吹奈美子の姿が脳裏に焼きついているので、彼の明るい声が場違いに呑《のん》気《き》に響く。そんな違和感を抑えながら、私は淡々と話した。 「人魚のミイラがあったんですってね。そのものズバリなんで、驚きました。休暇を使ってまで学文路に飛んでもらった甲斐があった、と私も喜んでます」 「何だかあらたまって、他人行儀な言い方ですね、有栖川さん。そばにママでもいるんですか?」 「そんなにあらたまってるかな。気になったらごめん。ここにはいてへんけど、ママの躾《しつけ》が厳しかったもんでね」 「それはいいですけど、お願いしますよ、約束の焼肉」 「忘れてませんよ。——それにしても、どうして学文路みたいな山《やま》裾《すそ》の町に人魚のミイラなんていうのが祀《まつ》られてたんでしょうか?」  奈美子の話に驚《きよう》愕《がく》した後なので、彼には申し訳ないが、正直なところそんなことはどうでもいいような気もしたのだけれど、多少は質問をしなくては、礼を失するだろう。案の定、答える彼の声に喜色が浮かんだ。 「それはですね、かの地、学文路で亡くなった千里ノ前という方が、信仰の対象として肌身離さず持っていたものだからなんです。学文路には石童丸伝説というのが伝えられていてですね——」  母子の因縁話でも残っているのか、と思いながら聞いていたのだが、それが息子と再会しながら名乗れない父の物語だという。息子に名乗りを上げられない母の話を、たった今、聞いたばかりではないか。相似形の二つの物語をたて続けに聞かされるというのも、大した偶然だ。石童丸伝説は確かに聞くものの涙《るい》腺《せん》を刺激してきたことだろう。だが、その結末は穴吹奈美子と霧野千秋の物語よりは、ずっと救いがあるのではないか、と思いながら、私は受話器を強く握りしめていた。  驚いたことは、もう一つある。それは苅萱堂の人魚が、安曇川の上流、朽木で獲られたものだと伝わっていることだ。小浜へのミステリーツアーの往路、火村と私はまぎれもなくその川に沿って走り、快調な車の走りに鼻歌を歌いながら朽木を通り過ぎていたのである。人生や運命とは、こういうものか。 「ところで、有栖川さんたちはどうして急に帰ることになったんですか?」  片桐は思い出したように尋ねてきた。とてもではないが、手短かに説明できることではない。 「火村が気まぐれを起こしてね。わけが判らんのやけど、また今晩にでも片桐さんちに電話できると思います。その時に」 「じゃあ、電話を待ってます。火村先生は真相に迫ってるのかもしれませんねえ。ところで」声の調子が軽くなって「有栖川さんの乗った電車、どのあたりを走っていますか?」  私は窓の外を見る。いつもどおり裾野以外は雲で隠れた富士山が左から右に移動していっていた。 「説明しやすいところを走ってますよ。富士山のそば」 「そうですか。僕の方は富士川鉄橋を渡ったところです」 「え。もしかして……」 「こっちも新幹線から掛けてるんです。ひかり248号です。もうすぐ、すれ違いますから、有栖川さんと火村先生の健闘を祈って手を振ります」  いいよ、そんなこと——とは言えなかった。 「ありがとう。俺も振る」  そう応えて十秒もしないうちに、私たちの乗った二台の新幹線は風を切る音に窓を顫《ふる》わせながらすれ違った。稲妻のように走る列車に片桐が、今電話のつながった相手が乗っていることが奇跡のように思える。 「じゃ、電話、待ってます」  二つの長い影が離れた途端、そう言い残して彼は電話を切った。ひどく無邪気な余興に付き合わされた気がした。  単調な線路の響きをぼんやりと聞きつつ、私はしばらくその場に佇《たたず》んでいた。やがて、黒い雲のように不吉な予感が込み上げてきて、受話器を取る。一〇四で雅ホテルの番号を訊くためだ。営業用に覚えやすくなっているその番号をメモせずに暗記し、私はすぐにダイアルした。そして、ティールームにいるはずの朝井小夜子を呼び出してもらう。 「はい、朝井ですが」  昨夜も聞いたばかりなのに、とても懐かしい声だった。 「有栖川です。打ち合わせ中、お呼び立てしてすみません」 「ああ、アリス先生。うちがここにいてるって、よう判ったやん」 「穴吹さんに聞いたんです。四時半に霧野さんとそこで打ち合わせやって。——あのぅ、霧野さんに何か変わったところはありませんか?」 「変わったところ? あり過ぎやわ」  鉄橋を渡る。轟音が胸騒ぎをさらに掻《か》き立てた。 「どうかしたんですか?」 「彼、来《き》いひんよ」  エピローグ——最後の絵解き  赤星楽の死から八日後。  近松ユズルの死からは三日後。  連続殺人事件の真相は、すべて解明されることなく、内外海半島から小浜の海に身を投げた霧野千秋の死をもって幕が引かれた。  彼は自分が犯人であることを警察に宛《あ》てた遺書の中で明らかにしていた。犯行の動機に関する記述はほとんどなかったが、その手順については詳しく記してあった。とはいうものの、精神があまりにも不安定な中で書かれたものであるため、ところどころに重大な欠落があり、想像と推測で埋めなくてはならない部分も少なくなかった。  火村と私がどのように事件の全容を捉《とら》えたのか、以下に記してみよう。  まず、赤星楽殺害のあらましについて、彼はこう書き残している。自殺願望の強いある友人が青酸カリを所持していたのだが、昨年の暮れ近くになって「もう必要なくなった」と言うので、赤星殺害に使用するため譲ってもらったことが犯罪の始まりだった。そして、それをウィスキーに仕込み、出版杜に歳暮を装って送りつければ足はつかないと考え、実行した。うまくすれば異常者の無差別殺人だと思ってもらえるかもしれない、と期待したらしい。ところが、予期せぬことに、節酒を決めた赤星は、毒入りウィスキーを近松ユズルに渡してしまう。大きな誤算ではあったが、その時点ですでに近松に対しても殺意を抱きかけていた霧野は、毒のボトルを回収して計画の修復を図ろうとはしなかった。そのうち飲んで死ぬだろう、それもいい、と思ってのことだ。近松がそれをさらに別の人間に譲ったり、客にふるまったりする可能性については考慮しなかったらしいのは恐ろしい。  頓《とん》挫《ざ》した赤星殺害について、彼はあらたな計画を練り始める。毒のボトルは不発弾となり、五月になっても近松の身には何も起きなかったが、そのことについて考えるのは後回しにしていた模様だ。やがて霧野の頭に襲来した第二の殺人計画は、非常に手の込んだものであった。その殺人計画とは、『海のある奈良』と呼ばれる小浜で犯行があったと思わせて、実際には、別の場所で殺害するという、いわゆるアリバイトリックだった。被害者自身が『海のある奈良へ行ってくる』とだけ言って旅立ち、小浜で死体になって発見される。これなら警察も犯行現場は小浜、もしくは出発地から小浜の途上だと思うだろう。しかし、被害者が口にした『海のある奈良』とは、小浜とはまるで別の場所なわけだ。この計画を実行に移す上での最大のネックは、どのようにして被害者にそんな都合のいい言葉——周囲の誤解を誘う言葉——を吐かせるか、だ。その難題を霧野はある方法でクリアーした。彼は発案したアリバイトリックを、何と、そのまま殺そうとしている相手赤星にすべてさらけ出してみせたのだ。「こんな仕掛けを思いついた。小説に使えるじゃありませんか?」と。相手が推理作家だったからこそ自然に出せた話だろう。赤星は興味を示す。獲物が疑《ぎ》似《じ》餌《え》に食いついた。と判断するや、霧野は竿《さお》を巧みに操り、針を相手の口にひっかけにかかった。 「関西にロケハンに行く予定があるんです。先生もご一緒に取材旅行にお出になりませんか? 私の車でご案内しますよ。あちらには土地勘がありますし、むさ苦しいところですが私のセカンドハウスにお泊りいただくこともできます」と。その取材旅行の目的地には小浜は含まれておらず、学文路と奈良の二箇所だったという。——命を奪う針が仕込まれているとも知らず、赤星は完全に餌を飲み込む。それが五月の初めのことだった。  ここで私たちが頭を悩ましたのは、霧野の遺書に彼が発案したトリックの眼目——小浜ではない『海のある奈良』とはどこを指すのか、が明快に書かれていないことだった。八百比丘尼伝説と人魚のミイラによって、小浜と学文路は結びついた。しかし、『海のある奈良』という言葉の謎《なぞ》は、まだ解けていない。霧野が赤星を誘った奈良にも、学文路にも、海は存在しないのだから。  それは、ひとまず措《お》いて先に進もう。  霧野は行動を開始する。まず、赤星楽の名を騙《かた》って、犯行予定日の五月十日と翌十一日の宿泊予約を小浜の適当なホテルに入れておくとともに、『一千二百年の復讐』のロケハンと称した空出張をして、小浜に赤星の死体を捨てる場所のロケハンに飛ぶ。この時、小浜新港近くの海上保安部分室の掲示板に海洋調査のお知らせが告知されているのをたまたま目に留め、調査船から見つけやすそうなところを死体遺棄現場にしよう、と決めたという。もちろん、そのように配慮を行なったのは、死体が早期に発見されなくては犯行推定時刻の幅が広がり過ぎて、アリバイ工作が体《てい》をなさなくなってしまうためである。霧野はかくのごとく準備をすませ、犯行の当日を迎えた。  赤星は、霧野との打ち合わせどおりの曖《あい》昧《まい》な言葉を私たちに——あの場に私が居合わせたのは偶然だが——投げ与えて東京を発つ。本当の行く先は、奈良だ。彼は京都で新幹線を降り、近鉄で奈良に入り、夜までは一人で市内を観て回った。警察が当日の彼の足取りを懸命にたどっても、洗い出せなかったのも無理はない。霧野の方は藤井寺市内で証人を作りながらロケハンをすませ、奈良に車を走らせる。午後九時半に、近鉄奈良駅前で待ち合わせをしていたそうだ。落ち合うと、霧野は赤星に、東京を出る際の首尾を尋ねたはずだ。赤星は「大丈夫です。きっと有栖川有栖なんて、ころっとひっかかってますよ」などと答えたのかもしれない。おそらくそんなことを確認してからだろう、霧野は「家に向かう前にお見せしておきたいものがあります」と言って彼を春日大社付近の森に誘い込み、殺害した。殺された赤星のデスマスクに大きな驚きの表情が貼《は》りついていたところをみると、彼は霧野が胸に秘めていた殺意を、全く感じていなかったのに違いない。だからこそ、霧野に赤子のように自在に操られたのだろう。  霧野は死体を車のトランクに収め、夜を徹した犯行現場偽装工作に取り掛かる。火村と私がたどったのと同じルートで小浜に車を走らせたのだ。そして、ロケハンで定めていた場所に死体を遺棄。少し離れた地点から所持品に重りをつけて海に沈めた。沈める前に、万が一、それらが警察によって回収されても、自分が犯人であることを指すものが入ってはいまいか、と中をあらためたというから、その折に私の最新作『セイレーンの沈黙』を目にし、すでにそれが発売されているものと思い違いをしたのだろう。さらに、市役所近くの電話ボックスに赤星が持っていたテレホンカードを残すというおまけのような工作を施した後、東京へと車を駆る。六本木のホテルでのアポに間に合わせるためだけなら、さして無理はなかっただろう。しかし、彼はその前に、杉並区の赤星宅に行かなくてはならなかった。次作の構想、取材旅行の本当の目的地が判るものが残っていたら処分しなくてはならなかったし、旅の目的地はあくまでも小浜だった、と捜査側に確信してもらえるよう、若狭地方のガイドブックを何冊か置いておかなくてはならなかったからだ。その工作のため、ホテルには遅刻してしまったわけである。  それにしても——一夜の修《しゆ》羅《ら》場《ば》をくぐり抜けて駈《か》けつけてきた男と相対しながら、何も感じ取れなかった自分の鈍さが少し悔しい。どこか不自然な空気を発散させて並んだ二人の男女が実は母と子だったことを見抜けなかったことについては、無理もない、と自らを責めないにしても。  近松の殺害については、彼の部屋で眠っていた毒入りウィスキーという時限爆弾を、サブリミナル映像入りビデオで爆破させた、という火村の推理そのままが真相で、つけ加えることは多くない。やはり、「忌《き》引《び》き中に悪いが、『妖魔の館』のスタッフに加わるのならば、今度出社するまでに『ヘルレイザー3』という映画をレンタルして必ず観《み》ておけ」と電話で厳命していたのだ。  動機に関しては、もう一通の遺書——穴吹奈美子に宛《あ》てたものの中で、かなわなかった思《し》慕《ぼ》の念について綴《つづ》られていたことから、やはり嫉《しつ》妬《と》とみる他はなかった。  赤星に対して霧野が燃やした嫉妬の炎がどれほどのものだったのか、私には今ひとつ理解できない。だが、近松への殺意が突風のような激しさだったことは判るような気もする。赤星を殺した後、霧野は何故、眠っていた爆弾をただちに爆破させようとしたのか? それは、彼が狂おしい嫉妬心から赤星を殺害し、鉄のような体力と意志をもって車を走らせ続けた夜、近松が奈美子と幸福な時間を過ごしていたことを彼が知ってしまったからだ。その怒り、悔しさ、悲しさだけは、察することができる。それだけは理解してやれる、と思った。  彼は、奈美子が母親であることに気がついていなかったのだろう。知るよしもなかったのだろう。だが、もしかすると、彼が自分より年下に見える実の母親に抱いたのは、恋心だけではなかったのかもしれない。彼は意識に顕《あらわ》れない次元で、彼女が自分と愛し合うべき存在であることに気づいていたのではないのか? 自分を見つめる奈美子の目に、何かが瞬《まばた》きのごとく、横切るのを感じたのかもしれない。彼が仕掛けた、あの潜在意識に訴える罠のように。  愛した年上の女性を恋《こい》敵《がたき》に奪われたくなかったのです。——冷静に遺書をしたためる余裕があったなら、彼は警察にそう告白したかもしれない。二人の恋敵がどうしてそれほどまでに憎いのか、自分でもうまく理解できないまま書いただろう。恋多き奈美子の愛を勝ち取るまでライバルを殺し続けるわけにもいかないだろうに。それでも憎かったのだろう。彼らが奪い去りかけたのは、自分が最も大切に想う『二人の女性』だったことを、霧野は意識しないまま知っていたのかもしれない。        *  霧野の死から一日が過ぎた。  朝井小夜子が吐いた煙が、風にちぎれて流れていく。私たちは、英都大学の図書館前のベンチに腰を降ろしていた。こざっぱりとしたなりの後輩たちが、誰コレ、と言いたげにおばさんとおじさんに一《いち》瞥《べつ》をくれて前を行き来している。 「火村先生、遅いね」  彼女の嗄《しわが》れた声。 「そろそろ出てくるでしょう」  私の適当な返事。 「霧野さんは何のために二人も人を殺したか判らん、という結果になったね。穴吹さんからの電話で動揺したっていうけど、ただ『訊《き》きたいことがあると刑事が言ってる』ってだけやったんでしょ? それだけで観念する、アリス?」 「どれだけ諦《あきら》めがええ人間でも、それだけでは観念したりするはずがありません。それだけでなくて、もっと別の会話があったんですよ」  どんな、と訊かれる前に、私は先回りをする。 「どんなやりとりかは、霧野さんと穴吹さんしか知りません。秘密のままでしょうね」  永遠に判らないだろう。二人の絶望がどのように交錯したのか。もしかすると、穴吹奈美子は霧野に、自分が実の母親であることを仄《ほの》めかしたのではないか、と思ったりもする。あるいは、彼女がかたくなにその事実を伏せていたとしても、息子が常ならぬ鋭敏さでそれを悟ってしまったのかもしれない。——いずれも想像にすぎないが。  小夜子がくわえ煙草のまま「あ」と言う。 「出てきた、女性恐怖症の火村先生」  火村は本を一冊携えていた。『図説・大阪府の歴史』という書名が見えている。 「捜してたものは見つかりました?」  小夜子が訊く。助教授は「もしかしたら」と答えた。 「『海のある奈良』は小浜以外にないし、『奈良にある海』も発見できませんでしたけれど、それに準ずるものを掘り出しました。考古学者で名探偵の弘前泉教授に報告したいところです」 「準ずるものって、何のことや?」 「ヒントは赤星さんが執筆に先立って書いていた『作者の言葉』。——判りますか?」  挑戦的な質問を受けた小夜子は、小首を傾げた。 「さぁ。ところで火村先生、いつ、推理作家がうつったんですか?」 「弘前教授が、考古学者がうつっただけですよ」火村は苦笑していた。「『作者の言葉』の冒頭に、いかにも月並みな表現がありましたね。暗唱してみましょうか」 覚えている。こうだ。  ——小説を読むことによって人は時間や空間を超え、未知の世界に遊び、別の世界に触れることができる。 「そして、最後は」  ——この旅を終えた時、あなたのお手《て》許《もと》には記念の品として、一枚の奇妙な〈地図〉が残るだろう。 「いいですか? 着目すべきは奇妙な地図です」  火村は、弘前教授の口癖がすっかり移ってしまったらしい。 「時間を超えた奇妙な地図。こんなものがありました」  火村は栞《しおり》を挟んでいたページを開いて、私たちに差し出した。見慣れない土地の地図だ(地図5参照)。——いや。 「百万年前の奈良?」  小夜子が自問するのに、助教授は頷《うなず》いた。 「京都湾の下にあるのが奈良湾です」  何て奇妙な言葉の響きだろう。大阪平野は淀《よど》川《がわ》の堆《たい》積《せき》物の産物であり、まだ新しい陸地であることは承知していたが、深く切れ込んだ海が京都湾、奈良湾などというものを形成していることは知らなかった。 「これが時間を超えた奇妙な〈地図〉か」  私は絞り出すような声で呟《つぶや》いていた。 「笑うのが、死者への手《た》向《む》けになるのかな」  火村はそっと小夜子を見る。 「彼、天国でくやしがってるかもしれない。畜生、見破られたって」 「『海のある奈良』という呼び名が奈良そのものを指していることに気がつかなくて、作中人物が右往左往するという話だったんでしょうね。小説の中でどういう具合に処理するつもりだったのかは判りませんけど」  小夜子と私はそれぞれ二度、三度と頷いていた。『人魚の牙』の全《ぜん》貌《ぼう》が明らかになったわけではないが、仕掛けを想像することはたやすかった。 「学文路と奈良とでは少々距離があるけど、遠い昔には奈良湾の望める地だったことがあるかもしれない。奈良から学文路にかけてが彼の取材の目的地やったわけか」  私に続けて小夜子が、 「『海のある奈良』っていう言い回しで小浜の話かと思わせておいて、実は奈良そのままでした、と捻《ひね》るつもりやったんやね。学文路も『海のある奈良』に含めて、小浜の八百比丘尼伝説と人魚のミイラでつなぐわけよ。で、死体が小浜で発見されて、犯行現場が誤認される。実際の犯行現場は奈良か、あるいは古代の奈良湾に面したとある地点で、事件の当時そこにいた真犯人にはアリバイができる、というんで一丁あがり」  そのへんのことはあんたたちの想像に任せる、というように火村は黙っていた。 「これが赤星楽最後のオリジナルなトリック……と言えないのがちょっと残念かな」  私の言葉に小夜子は「せやろか?」と異を唱えた。 「霧野さんの遺書を信じるとしたら、この『海のある奈良』の謎《なぞ》掛《か》けは彼の発明なんやろうね。神田の古書店巡りをしていて、古地図か何かを見て、核になるアイディアを思いついたんでしょう。けれど、それを推理小説に使える形に仕立てたのは赤星さんやったのかもしれへんよ。あるいは、彼と霧野さんの二人のブレインストーミングの産物なのかも」 「それも確かめるすべはありませんね」  推理小説に使える形どころか、実行に移せるところまで練り上げられてしまったのは不運なことだ。  いずれにせよ、書かれることがなかった赤星の最後の小説を復元しようとした私たちの挑戦こそが、そのまま事件の真相を暴くことになったわけだ。失われた小説を探求する現実の私たち自身が、小説の中の登場人物としてもがいていたのだ。  奇妙な〈地図〉の存在に気づかないまま、小浜ヘミステリーツアーに出た火村と私は、そこで原子力発電所のある岬に分け入り、お水取りの不思議な物語の現場を訪ね、人魚の像があるテラスで美しい夕景を見た。あのツアーは事件解決に何ら寄与しなかったわけだが、その空振りの見事さこそ、書かれ損なった『人魚の牙』という小説の成功を保証するものなのかもしれない。  その後、火村と私は東京へ、片桐は入れ違いに高野山の麓《ふもと》にまで飛んだ。私たちが翻《ほん》弄《ろう》されたのは、赤星と霧野が仕込んだ世界の地図が狂っていたからだ。片桐の行動力が学文路での人魚のミイラ発見につながり、臨床犯罪学者・火村英生が、考古学者探偵・弘前泉に重なった時、地図に謀《はか》られたミステリーツアーはようやく終点を見出すことができたのだ。 「赤星さんが、まだ書き始めてもいない小説の『作者の言葉』を、早々に多賀さんに提出してた理由が判った。時間や空間を超えるだの、一枚の奇妙な〈地図〉だの、あの『作者の言葉』って、伏線になってたからなんやね。あの人らしい、ちょっとした悪《いた》戯《ずら》」  キャメルを指に挟んだまま、小夜子がぽつりともらす。そっと舌の上で転がされた『あの人』というひと言に、かつて愛し合った男に対して、まだ抱いている愛しさがにじんでいた。 「なるほどね……」  それには納得しかけた私だが、この世にいないライバルの挙げ足を取る方法を思いついてしまう。 「この地図を基にしたトリックやとしたら、解決編で図版が入ったりするんやろうな。文字通りの絵解きです、てなことで。けれど、それはまずいぞ。小浜は『海のある奈良』やろうけど、奈良はあくまでも奈良や。しいて言うなら『海のあった奈良』やないですか」 「アンフェアにならへんように、何か手を考えてたのかもしれんでしょ」  小夜子は微笑した。まだ赤星と張り合っている私の負けず嫌いぶりがおかしかったのだろう。 「二人目か三人目の犠牲者が小浜で殺される、とか、最後に犯人が小浜で——」  彼女はそこではっとしたように口《くち》許《もと》に手をやり、続けようとした言葉を呑《の》み込んだ。虚構と現実が私の頭の中でまぜこぜになって、頭痛を誘う。この頭痛が去る時が、ミステリーツアーの終わる時なのかもしれない。 「ま、赤星さんのことやから、考えてたはずやわ。アリスにぐちゃぐちゃ言われんようにね」 「そうでしょうね。——ところで話は変わりますけど、毒が入っていたウィスキーがジャックダニエルだったんで、ちょっと嫌な気がしたこともあるんですよ。ジャックダニエルばっかり飲む人を知ってたから」  私はお返しに彼女をからかうつもりで、あなたを疑いかけたこともあるんですよ、と仄《ほの》めかしてみた。小夜子は右の肩だけをすくめてみせる。 「トレードマークを犯行現場に残すかいな」そして自分の煙草の煙に顔をしかめる。「ジャーダニは、彼が好きやったから、あたしも好きになっただけやん」 「また付き合いますよ」 「うん、ありがとう」彼女は微かに照れたように笑った。「また三人でやりましょう。小浜から帰ったら『パンゲア』で」  彼女はゆっくりと立ち上がる。  その瞬間、私の頭の中でチカッと微かな記憶の火花が散った、パンゲアとは、古生代の地球にあった巨大な大陸の名前だ。それがプレートの移動によっていくつもに割れ、現在の五大陸が形成されたのだ。店の壁に描かれていた見慣れない図案こそがそのパンゲアだったのかもしれない。この数日間、私は地図に振り回されていたわけだが、どうやら最後まで喉《のど》にひっかかっていた小骨も取れたようだ。 「気をつけていってらっしゃい」  そう言った火村に軽く頭を下げてから、小夜子はキャンパスを行き交う学生たちの間を縫って、校門の外に停めてある車に向かう。助手席には、海に投げる二つの花束が寝かせてあるはずだった。  旅の行く先は小浜。  赤星楽の遺体が見つかり、霧野千秋が命を断った『海のある奈良』だった。  あとがき  あとがきと称して、少し雑談を。  この作品は、私にとって初めての連載小説だ。また、十二年間勤務した会社を退職し、専業作家となって初めて書いた小説でもある。それだけに、せっせと書いたのはたかだか三年半ほど前なのに、けっこう思い出深い。締切に遅れたらとてつもなく大変なことになる、と焦りながら(別に株価が大暴落したり、富士山が噴火するわけでもないが)、明け方近くまでワープロのキーを叩《たた》くのはとてもスリリングで疲れた。しかし、「もう午前五時だけど、まだ書いていいんだ。仮眠ぐらいとらないと、明日、会社に行けなくなる、と心配することはないんだ」と思うと、幸せな気分さえした。 「仕事が終わった!」という冒頭の一行を奇異に感じた方がいるかもしれない。これから長編を書くというのに、仕事を終えて喜んでいる場面から始めるとは、ふざけているのか自虐的なのか判らない、と。私は自虐的にふざけているつもりだった。しかし、考えてみると、「仕事が終わった!」というシャウトは、サラリーマン生活と決別し、これから専業作家として第一歩を踏み出すんだ、という想いの発露だったのかもしれない。  初出は双葉社の『小説推理』の九四年十一月号から九五年一月号にかけて。前中後編三回の短期集中連載で、前中編が二百枚、後編が百五十枚ぐらいの長さだった。ちなみに、第三章第1節の終わりが前編の最後。中編の最後は、第四章第4節の終わりである。  本作は、登場人物らが孤島や山奥の村に閉じこめられることが多い私の小説にしては、舞台がよく移動する方だろう。作中に登場する小《お》浜《ばま》とアソコ(本編をこれから読む方のために伏せる)には、取材に出かけた。小浜に行ったのは、会社を辞める三ヵ月ほど前の五月初旬(サラリーマンとして最後のゴールデンウイーク)。妻と二人で二泊三日のホリデーだったのだが、「これは一応、取材旅行だ。まるで小説家みたいではないか」と、うれしがっていた。私はペーパードライバーなので、行きは鉄道、帰りは小浜から近江《 お う み》今《いま》津《づ》までバスを使った。三《み》方《かた》五湖に寄ってから小浜に着いた時はひどい雨で、大いに気勢を削《そ》がれた。が、二日目からは快晴に恵まれたので、レンタサイクルを借りて、汗を流しながらあちこちを回ることができた。この作品が思い出深いのは、そんな取材旅行の記憶もいっしょになっているからかもしれない。  アソコにアレ(これから読む方のために伏せる)を見にいったのは日帰りで、こちらは会社を辞めてからのことだった。アレを何枚もカメラに収めてきて現像に出したのだが、でき上がった写真を受け取りに行った妻は、「これ……いったい何なんですか?」と写真屋さんに気味悪がられたそうだ。まあ、そうだろうなぁ。また、その取材の際、アレのキーホルダーなんてものがあったので、私は衝動的に買ってしまった。最後の一個だったので、もう今では購入できないかもしれない。大事に持っていよう。と言いつつ、どこにいったのか、最近とんと見かけないけれど。  そんなことはさて措《お》き、この小説がお読みになった方にとっても記憶に残るものになることを、作者としては祈るしかない。    末尾ながら、『小説推理』の稲垣隆編集長、この作品をいっしょに創ってくれた平野優佳さん、単行本化の際にお世話をいただいた根本清光さん、角川文庫の宍戸健司さんに感謝をいたします。そして、解説を快く引き受けてくれた我孫子武丸さん、どうもありがとう。また、この『海のある奈良に死す』の単行本から本書まで、いつも素晴らしい装丁で拙著を飾って下さる大路浩実さんにも深謝を。これからもよろしくお願いします。    それからそれから読者の皆様、ありがとうございました。また、別の作品でお目にかかれますように。     '98・4・19  有 栖 川 有 栖   本書は'95年3月、双葉社より刊行された単行本を文庫化したものです。 海《うみ》のある奈《な》良《ら》に死す 有《あり》栖《す》川《がわ》 有《あり》栖《す》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成13年8月10日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Alice ARISUGAWA 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『海のある奈良に死す』平成10年5月25日初版発行                平成13年1月20日10版発行