【シャイロックの密室】 有栖川有栖    1  わたしが鞄《かばん》から黒光りする道具を取り出した時の、あいつの顔ったらなかった。それまでの傲岸不遜《ごうがんふそん》な態度は瞬時に消え失せ、かっと両のまなこを見開いて、顫《ふる》える声で問うた。それは何だ、と。 「これは何かだって? はっ、おかしなことを訊くね」  積もり積もった恨みを込め、できるだけ嫌味な口吻《こうふん》で答えてやった。 「見たら子供でも判るとおり、回転式のピストルだよ。もちろん本物だ。安全装置がはずしてあるから、引き金を引いたら銃口から弾丸が飛び出す」  佐井《さい》六助《ろくすけ》は、釣り上げられた魚のように口をぱくぱくさせる。白髪まじりの顎髭《あごひげ》の先も小刻みに顫えているではないか。思ったほどは胆《きも》が据わっていないらしい。やくざぶっていたが、こんな道具を見るのも初めてなのかもしれない。 「そ……それを、し、しまえ。ぼぼ、暴発でもしたら、あ、危ないだろう」  わたしは涼しい顔をして言ってやる。 「ちっとも危なくなんかない。銃口はあなたの方を向いているんだから」 「だ、だから、下げろ。銃口を床に向けろ。どうしてそんなもの、持ってるんだよ、常石《つねいし》さん」  危ない橋をいくつも渡ってきたと豪語していたが、この男にとって今が最大の危機なのに違いあるまい。わたしは、佐井の額《ひたい》に浮いた染みに狙《ねら》いをつけた。五十を過ぎたばかりだというのに、老《ふ》けた顔をしている。強欲のせいで、守銭奴《しゅせんど》は老化の速度が速いのだと信じたい。自分も十年とたたないうちにこうなるとは思いたくない。 「まったく便利な時代になったよ。医療機器メーカーの研究室に勤める実直な会社員のわたしだって、ちょっと鼻を利かせて探せばこんな立派な拳銃が手に入るんだものねぇ。お小遣いを欲しがっていた暴力団員から二十万円ぽっちで買えたよ」  本音を言えば、高価な買物だった。 「頼む。銃口をよそに向けてくれ。恐ろしくてかなわないよ。ま、まさか、俺を射つつもりじゃないんだろ?」  佐井は合掌して、わたしの顔色を窺《うかが》う。怯《おび》えきっていた。それも無理はないことか。立場が反対だったら、わたしだって取り乱すに違いない。 「ここで銃声がしても、国道を走っている車のバックファイアに聞こえるだろうな。──いきなりズドンと射ったりはしないから、まぁ、楽にしなさいよ。リラックスして。ちょっとお願いがあるんだ。聞いてもらえるかな」  佐井は、無様に口を半開きにしたまま頷《うなず》く。滑稽《こっけい》だった。しかし、不愉快でとても笑えない。  わたしは拳銃を突きつけたまま、ゆっくりとソファから立って、書斎に案内するよう命じる。佐井は「どうして書斎なんかに」と反問しかけたが、わたしの目を見て黙った。おそらく氷のように冷たい光を宿していたのだろう。いや、あるいは燃えさかる憎悪の炎を見たのか。  壁にごてごてと絵を飾った廊下を横切って書斎に入る。佐井がふだんの習慣どおり電灯を点けようとしたので、わたしは止めた。そんなことをされては計画が狂うのだ。  この書斎には、以前、手|土産《みやげ》持参で訪問した時にも入っている。「書斎を増築したいので、色んな人の部屋を参考に見せてもらっている」とでまかせを言ったら、あっさりと信用したのだ。書斎がご自慢の佐井にとって、悪い気はしなかったのだろう。書斎を増築する予定などあるものか。あれは、今日のこの時のための下見に、家のあちこちを見たかっただけだ。そのおかげで、わたしならではの妙手を思いつくことができたのである。  品性下劣な男にしては、そこそこ趣味のいい部屋だった。窓に向かって据えられたマホガニーの机はどっしりとして風格があったし、その上に古風な切り子ガラスのスタンドがのっているところなど絵になっている。左手の壁の書架にも、それなりの蔵書が並んでいた。だが、東西の名著や文学全集を佐井が読破しているとは思えず、ただ見栄《みば》えをよくするために書斎に揃《そろ》えさせたのだろう。こいつは読書とは無縁で、愚にもつかない人生訓ぐらいしか理解できない。家のセキュリティさえ番犬一頭ですませる吝嗇漢《りんしょくかん》のくせに、妙なところにだけ金を惜しまない俗物が。  いやいや、見栄のために無駄金を使ったのではなく、借金のかたに誰かから巻き上げたものかもしれない。机も、スタンドも、絵画も。この男が書斎に一点豪華主義を発揮したのではない証拠が、ドアに取りつけられた手作りの閂《かんぬき》だ。そんなささやかなものさえ、自前で作るのがいじましい。 「常石さん。落ち着いて話し合おうや。そんな物騒なものを振り回すのは、それだけで犯罪だよ。なかったことにするから、早くしまって」  佐井は、少しずつ冷静さを取り戻してきたようだ。ちゃんと舌が回るようになっている。それがまた、わたしを不快にした。 「伊達《だて》や酔狂で見せびらかしてるんじゃないよ。目的を達するまではしまわない」  わたしは、銃筒で相手の後頭部を軽く突いた。佐井は、たちまちおとなしくなる。武器の力というのは凄《すご》い。 「も、目的って、何だ? 金か?」  田舎道を行く農夫を点景にした風景画が右手の壁に掛かっている。佐井は、その農夫の方を向いたまま尋ねた。洒落臭《しゃらくさ》いことをぬかす。 「金か。そうだな、あんたから何かを奪うとしたら、金ぐらいしかないものな。あんたは空っぽの人間だ。暴力で脅《おど》したところで、奪えるものは金だけだ」  拳銃を握り直したはずみに、銃口が彼の頭にこつんと当たった。佐井は短い悲鳴とともに両手を肩の高さに上げた。 「金が目的なんだな? しかし、今ここには大した額はないぞ。う、嘘だと思ったら、金庫を開いて見せてやる。せいぜい二百万ぐらいしか──」 「せいぜい二百万という言い草も豪儀じゃないか。やっぱり悪徳高利貸しには可愛げがない」 「悪徳高利貸しって……そんな言い方はないだろう。俺が金を融通してやったおかげで命拾いをした人間だってたくさんいるんだ。そもそも、人の仕事を馬鹿にするのは失礼だよ。金融業に対する偏見だ」  何が金融業だ。ご立派なバンカーのつもりか。金、金、金。頭の中には金のことしかない卑賤《ひせん》な強欲親父が。 「人助けのために金貸しをやっている、とでも? 口が腐るぞ。弱った人間を食い物にすることが楽しくてやってる仕事だろ。あんたは、暴利を貪《むさぼ》ってぶくぶくと太るただの悪徳高利貸しでもない。金に困った人間をいたぶって快感を覚えるサディストだ。どうしようもない男だよ」  われながら口汚い台詞《せりふ》で、しゃべっているうちにますます興奮してきた。怒りのために、銃口が顫えた。 「いつもそうだ。金融業者は、そんなふうに理不尽な憎しみをぶつけられて──」 「あんたは金融業者なんてもんじゃない、と言っているだろう!」  わたしは思わず大声を出した。佐井が口答えをしたことに憤《いきどお》ったのではない。奴の口調に、けなげな悲哀がにじんでいることに当惑したのだ。そんなものを断じて認めてやるわけにはいかない。 「いいか、胸に手を当ててよく考えろ。自分がしてきたことが、まっとうな仕事かどうか。あんたに金を借りて破滅した人間がどれぐらいいる? 数えたら足の指を使っても足りないだろう。みんなあんたの獲物。血を吸いつくされた生《い》け贄《にえ》だよ」 「そ、その言い方も心外だ。たしかに破滅した者も一人や二人ではないよ。しかし、奴らはみんな『必ず返済するから』と約束して俺の金を──」 「もういい」わたしは吐息をついた。「びびりながらも信念を枉《ま》げない根性には感服した。それでこそシャイロックだ」  文学全集を飾っている男は、シャイロックの名前を知らなかった。ハムレットが料理の名前だと勘違いしていても驚きはしない。 「わたしがあんたにつけた渾名《あだな》さ。シェイクスピアの『ペニスの商人』に出てくる強欲な金貸しだよ。読んでいないな? <ポーシャの婿選び>だとか<肉切り裁判>なんて面白い場面がいっぱいの戯曲なのに。『光るものすべてが金にあらず』という台詞なんて、あんたの胸に刻んでもらいたいよ。佐井六助。佐井六。シャイロック。似ているだろ? あんたは時間と空間、現実と虚構を飛び越えて現われた現代のシャイロックだ」 「……目的は何なんだ?」  佐井は、低い声で言った。恐怖が鎮《しず》まり、わたしに対する怒りが込み上げてきているのだろう。恐れるでも、怒るでも、どちらでもかまいはしない。 「謝罪をするんだ」 「あんたの……弟にか?」 「おや、わたしの弟に謝らなくてはならないようなことをしたのか?」  精一杯の皮肉だった。おそらく、壁を向いたままの佐井は、ふてぶてしい表情を浮かべていることだろう。 「弟さんの奥さんに頼まれて金を貸した。返済が滞《とどこお》ったので返してくれるように要求した。俺がしたことは、それだけだよ。誰からも非難される筋合いはない」  よくぞ言った。それでこそ、八つ裂きにしても飽き足らないシャイロックだ。 「夏海《なつみ》さんに責任がないとは言わない。インターネットの株取引に嵌《は》まって、大事なマイホーム資金を使い果たしてしまったのは愚《おろ》かだった。そのことを夫に相談せず、あんたから借金をしてさらに株に注ぎ込み、穴埋めしようとしたことも愚かだろう。しかし、それでも、あそこまで追い詰めなくてもよかった。あんたが利子の代わりに要求したものが何だったか、わたしは承知しているよ。まったく不潔な男だ」  佐井は弁解しようとする。 「あれは、俺から提案したことじゃない。彼女の方から──」 「見え透いた言い訳はやめろ。あんたの口から真実が語られるなんて期待していないからな。──似合いの夫婦だったんだ。それをあんたが跡形もなく崩壊させた。夏海さんの肉体を要求するだけでは足りず、あんたはそのことが敦朗《あつろう》に、弟にばれるように謀《はか》っただろう。そうやってあの夫婦が苦しむところを見て、よだれを垂らしていたんだ」 「ご、誤解もいいところだ。そりゃ妄想だよ、常石さん。そんなことをするわけがない。俺と夏海さんの間に過ちがあったことは認めるよ。でも、それはあんたや弟さんが思っているのとは違って一度だけだし、まぁ、なりゆきみたいなもんだったんだ。それが旦那《だんな》にばれて喧嘩になって、夏海さんが衝動的に自殺をした。も、もちろん、それを聞いた時には、俺もひどく寝覚めが悪い思いがした。でもな、すんでしまったことは仕方がないじゃないか。まして、奥さんを亡くした後で意気消沈した弟さんが、酔ってふらふら歩いてるところを車に撥《は》ねられて死んだなんてことまで、俺は責任を負えやしない」  しゃあしゃあと、よく言う。こいつは根っこから腐り切っているのだ。いくら軽蔑してもし足りない。この男には、他人の痛みを理解する能力が先天的に欠如しているのだ。だが、肉体の痛みならば感じることができるだろう。 「あんたね、常石さん。俺を恨みでもしないと気持ちの収まりがつかないのは判るけれど、度を過ぎると両手が後ろに回るよ。忠告しておく。警察にだって、俺が世話をしている人間がいるんだからね」  嘘だろうが、いてもいなくても関係ない。そんなことは、まったく関係がない。 「何だよ。菓子折りを持参して『死んだ義理の妹が迷惑をかけた』とか言って近づいてきて。卑怯《ひきょう》じゃないか。それで、ある日いきなりピストルを突きつけるなんて、どうかしてるよ。文句があるなら、最初からどなり込んできてもらった方がよかったね。そうしたら、俺だって頭を下げた」  いつまでもこの男と同じ空気を吸っているのも堪《た》えがたい。わたしは、もう終わりにしたくなった。 「じゃあ、頭を下げてもらおうか」努めて穏やかに言う。「その場で、跪《ひざまず》いて、壁に向かって『申し訳ありませんでした』と詫びろ。そこに、敦朗と夏海さんが立っていると思って」  それしきのことで赦《ゆる》してもらえるならお安い御用だ、と思ったかもしれない。佐井はただちに正座をして、フローリングの床に両手を突く。そして、額を床に擦《こす》りつけるようにして、命じられたままに詫びた。何の反省もなく、単に謝罪のポーズをとっているだけなのは明らかだ。  数秒間、静止してから佐井は上体を起こす。その間に、わたしは右手に素早く手袋を嵌めていた。もういいか、と振り向くより前に、わたしはスミス・アンド・ウエッソンの銃口をシャイロックのこめかみに押し当てる。 「死んで詫びろ」  ためらわず、引き金を引いた。    2  火村英生は、兵庫県警捜査一課の樺田《かばた》警部から手渡された現場写真を一枚ずつ見ては、目の前の犯行現場と照合していく。犯罪現場を研究のフィールドにする臨床犯罪学者の鋭いまなざしだ。見終わった写真は次々と私、有栖川有栖にパスされた。 「被害者は佐井六助、五十二歳。高利貸しを営んでいました。死亡推定時刻は、昨日、四月十八日の午後三時から六時の間。死体が発見されたのは、午後九時二十八分です」  警部は、いつものよく響く美声で説明をしてくれる。 「競馬の呑み屋、賭博機を置いた飲食店をやって三十代に前科が二つありますが、いずれも微罪でした。捕まらなかっただけで、そんな稼業ばかりやっていたみたいですね。それで蓄財して、四十過ぎから金貸しを開業したわけです。元町《もとまち》に事務所をかまえていまして、従業員は電話番兼お茶汲みのパートタイマーが一人。こぢんまりとした商売です。人を三人雇うぐらいなら自分が三倍働けばいい、というのが信条だったとか。パートの話によると、金には相当細かい人物だったそうです。紅茶のティーバッグなんか、『色が出るうちは五回でも六回でも搾《しぼ》って使え』と口やかましく言うぐらいで」 「倹約家だったんですね」と言うと、 「有栖川さん、それはよく言い過ぎでしょう。単なるケチですよ。彼の人物評には、守銭奴という言葉がつきまとっています。借金をして厳しい取り立てにあっていた関係者の逆恨みということもあるにせよ、評判はえらく悪い。死体を発見した実の姉でさえ、『金には汚かった』とホトケさんを腐す有様なんです」  それはひどい。 「たしかに、この家にはあまり手を入れた形跡がありませんけれど、装飾品や家具にはお金がかかっているんではないですか。この書斎の机なんて小説家の私のものよりはるかに豪華です。廊下にもたくさん絵が──」 「夜逃げした債務者の家から剥《は》ぎ取ってきた品物ばかりですよ。廊下の絵、よくご覧になりましたか? 何の統一もなくて、みっともないコレクションですよ」  警部は冷ややかに言った。被害者の芳《かんば》しくない評判を聞かされているうちに、佐井六助に対して悪い印象を刷り込まれたのかもしれない。 「そういう人物が高利貸し業に腕をふるっていたのだとしたら、敵は少なくなかったでしょうね」  最後の一枚を私に差し出しながら火村が言った。警部は頷く。 「できるものなら殺してやりたい、と思いそうな人間が一ダースはいるようで、一人ずつ消していっている最中です。これは、という人物にはまだヒットしていません」 「被害者はバイタリティにあふれたタイプだったんですか?」 「脂《あぶら》ぎっていたみたいで。ですから『自殺なんてするタマじゃない』と姉も言い張るわけです。私の勘も、これは他殺だ、と告げています。しかし……そうだとしたら、厄介《やっかい》な問題が立ち現われてしまいます」 「つまり」私はドアを横目で見た。「死体発見時、この部屋が密室状態だったことに説明をつけなくてはならない、ということですね?」 「ええ。自殺だったら調書をまとめて一件落着なんですがね」  現場の状況は自殺を示しているかのようだった。姉の佐井|多美代《たみよ》の通報で駈けつけた救急隊員は、内側から閂が下りたドアをぶち破ってこの部屋に入らなくてはならなかった。中に転がっていたのはこめかみに焦《こ》げ跡《あと》を作った六助の死体とスミス・アンド・ウエッソンが一挺。他には猫の子一匹いなかった。遺書はない。ただ、よく整理された机の上に故人が愛読していた一冊の本が開いて置いてあるのが目を引いた。そのページには『金ためてどうする? なんぼためても、天国には持っていかれへんで』と大きく記されていた。 「救急隊員の第一印象は、これは自殺だな、というものでした。それも当然でしょう。部屋は内側から閉ざされていたんだし、頭から血を流した死体の傍らには硝煙の匂いがする拳銃が転がっているし、遺書はないものの、本の一節がその代わりのように目に飛び込んだんですから。『金ためてどうする? なんぼためても、天国には持っていかれへんで』とはまた月並みな人生訓ですが」  それだけなら月並み以前のレベルだろう。ただ、人生の教訓集であるその本は、すべて素朴な味わいの版画で書かれているのがミソで、視覚的にはインパクトがあった。それでも、遺書の代用にしたがる人間がいるかどうかは疑わしい。 「警察が自殺に疑問を抱いたのは、どういう点からなんですか?」  火村は室内を見回しながら訊く。 「二点あります。まず第一に、ホトケには自殺する動機が見当たらないこと。仕事も順調でエネルギーに満ちていたし、性格的にも自ら死を選ぶとは考えにくい、というのが姉をはじめとする周囲の見方です。第二は、ホトケの右手に硝煙反応があったことです」 「あったことが不審なんですか?」私が口を挟む。「硝煙反応というのは、拳銃を握って発砲した痕跡のはずですが」 「佐井六助は左利きなんですよ」  思わず「ああ……」と声をあげて納得した。何と粗忽《そこつ》な犯人なのだろう。六助を射ち殺して自殺に偽装しようと試みたのなら、彼の利き腕を確認しなかったのは決定的かつ初歩的なミスではないか。 「とんでもなく間抜けな犯人だとお思いでしょうが、同情すべき理由もあるんです。被害者は両手利きでして、日常生活の大部分は右手でこなしていました。左手を使うのは限られた場面だけで、その一例が拳銃を射つ時だったんです」  拳銃を射つ時は左利き、と断定できるとはどういうことだろう? しばし訝《いぶか》しんだが、警部はすぐに説明を加える。 「おかしな言い方をしてしまったかな。言い直しましょう。佐井六助は、スポーツをする時のみ左利きでした。姉は、その証拠として写真とビデオをいくつか見せてくれました。ゴルフでティーショットをしている写真や、ハワイで観光客向けの実弾射撃に興じているビデオです。たしかに、彼はごく自然に左手で拳銃を扱っていました。犯人は被害者とさほど親しくはしていなかったので、そんなことまでは知らなかったんでしょう」 「それでも右手から硝煙反応が検出されたということは、犯人が偽装工作の一環として絶命した被害者に凶器を握らせ、どこかに向けて発砲したんですね?」 「だと思われます。しかし、この部屋の壁にも天井にもそんな痕はありません。クッションか枕のようなものに向けて射って、そのものは持ち去ったんでしょう。拳銃には、何発も発射した形跡がある。事前に試し射ちもしたらしい。本件の犯人は馬鹿ではありません。むしろ、かなり知能が高いと見るべきです」  火村は凶器の出所について尋ねたが、暴力団関係者から購入した可能性もある、というだけで、まだ調べは進んでいなかった。警部の口振りでは、ルートをたどるのは難しそうだ。 「死体は、この位置か」  火村は床に白いテープで描かれた人形《ひとがた》を見る。ドアから二メートル強離れたところで倒れていた。 「自殺にすれば、これもいささか変だな。フローリングの床に座り、壁に向かって引き金を引くなんていうのは」 「他殺だとしても変やないか?」  私の言葉に、犯罪学者は頷いた。 「有栖川先生のおっしゃるとおり。被害者には抵抗の跡がなかったそうだから、拳銃を突きつけられていたんだろう。そうであれば被害者を机に向かって座らせることもできたはずだ。どうしてこんな場所で射ったのか……」  火村はくるりと振り向き、救急隊員によって破られたというドアの見分を始めた。推理作家として激しい興味に駆られ、私も彼の肩越しに覗《のぞ》き込む。ドアそのものは破損していなかったが、閂は完全に壊れていた。左右にスライドする横木は中ほどで裂けていて、壁に取りつけられた方の受け金は真鍮《しんちゅう》の螺子《ねじ》が浮き、今にもぽろりと落ちそうになっている。それにしてもドアに木製の閂とはいささか変わっているな、と私は独り言を呟いた。 「変わっているでしょ。そいつは被害者のお手製の閂なんです。日曜大工というか木工が数少ない趣味だったそうで、番犬の小屋もハンドメイドでした。ケチなのか、倹約なのか、純然たる趣味だったのか、微妙なところですね。でも、なかなか器用に作ってありますよ。独り暮らしなのにどうして部屋に閂が必要なのかと思いましたが、プライバシーを保護するためではなく、万が一、泥棒が侵入した時の用心にと、各部屋に同じようなものをつけていたんだそうです。これも姉の証言によります」  番犬なんか、この家に入る時には目にしなかったが。 「犬は、昨日は役に立たなかったんですか?」と私は訊く。 「皮膚病に罹《かか》りかけていたので、一昨日《おととい》から近所の獣医のところに入院して治療中だったんですよ。犯人は、その程度の情報はキャッチしていて、犯行の日を選んだのかもしれません」  黒い絹の手袋をした手で閂をいじっていた火村は、「ふぅん」と妙な声を出した。それから床に片膝《かたひざ》を突いて、ドアの下に<英都大学社会学部助教授>の肩書きがある名刺を差し込み、どれだけ隙間があるかを調べだした。名刺はまるで入らなかった。次にドアを開いて、横からその厚みを確認する。三センチばかりのものだが、かなり頑丈そうだ。私はドアの全体に視線を這《は》わせ、何か細工をした痕跡はないかと疑ったが、針で突いた痕すら見つけられなかった。 「まいったな」私は頭を掻《か》く。「ちゃちな閂の密室やと思ていたら、すごく堅牢やないか。廊下から糸と針を操って横木をスライドさせる、という技は使えそうもない。ここに細工をしてなかったんやとしたら、残るは窓やけれど……」 「そっちも、おあいにく様、だな」  火村は無表情で言った。窓には鉄格子が嵌まっていて、幼稚園児すらも出入りできはしなかったのだ。おまけに鍵も掛かっていたことを、姉のみならず、救急隊員らも明言している。ドアと窓以外の開口部はエアコンのホースの取入口だけで、念のために調べてみても壁とホースの隙間から糸を通した痕すらない。床、壁、天井に拔け穴がないことも、もちろん警察によって確認ずみだった。 「推理作家の先生の見解を伺おうか」  火村はしれっと言った。お手上げです、だけではすまない。 「一つだけ仮説がある。被害者の趣味が木工やったと聞いて思いついたんやけれど」 「拝聴しようか。樺田警部も興味津々みたいだぜ」  警部にも「ぜひ」と促された。期待に応えられそうな仮説でもないので困った。 「えー、つまりやな。窓にあんながっちりと鉄格子が嵌まってるんやとしたら、犯人はドアから出入りしたとしか考えられへんやろう。問題は、どうやって部屋を出た後で閂を掛けることができたか。その方法さえ見つかればええわけや。ただし、横木に糸を結びつけておいて外から引っぱった、ということはない。隙間がまるでないからな。とすると──」  もったいぶらずに早く言え、とばかりに火村が目を細めている。 「この閂は、救急隊員がぶち破るよりも前から壊れていたんやろう」 「ほぉ」警部が意外そうに言った。「壊れていたとは、具体的にどういう状態だったんでしょう?」 「現在のような状態です。──たとえばこうだったのでは、という想像を話します。事件当時、被害者の佐井六助はこの書斎にこもっていたものと思われます。独りで考えごとをしていたのか、あるいは犯人から逃れてここに立てこもったのかは判りませんが、とにかく彼は室内にいて、ドアに閂を掛けた。犯人は、そのドアを破って侵入したんでしょう。その時に閂は壊れてしまった」 「すると、かなり屈強な男という犯人像が浮かびますね」 「ええ。部屋に押し入った犯人は被害者を射殺してしまう。それから、佐井六助の死を自殺に偽装する工作を二つ行なったんです。机の上に、遺書代わりのつもりで本を開いたのが工作の一つ目。二つ目は、書斎を密室に仕立て上げること」 「と言っても、閂は犯人自身が壊してしまっているではありませんか。密室にしようがない」 「ですから、閂は死体発見者が壊したのだ、と警察に誤解させようとしたんですよ。窓には鉄格子が嵌まっていますから、死体が発見される際にはドアが破られる、と予想するのが自然です」 「姉や救急隊員は、ドアはしっかり閉まっていてびくともしなかった、と話していますよ」 「それは、ただドアが閉まっていたという事実を語っているにすぎず、必ずしも書斎の内側から閂が掛かっていたという証明にはなっていません。犯人は、閂が壊れたドアを何らかの方法で開閉不能にしたんでしょう。ドアと壁を強力な接着剤でくっつけてしまうなどして」 「……接着剤。たとえば、木工用の瞬間接着剤といったものですか?」 「私には工作の趣味がないので、漠然とそのようなものと想像するだけですが」 「もしそうだとしたら、ドアの縁などに痕が遺るはずですね。そんなものはなかったと思いますが……」  私だって、そんな痕跡は見つけていない。そんな仮説も成り立つのでは、と考えて口にしただけである。あるいは、接着剤以外の何かによってドアの開閉を不能にする手段がないものか、火村や警部に意見を求めたかったのだ。  ドアを少し調べただけで、接着剤が使われた形跡がまったくないのが確認される。火村たちは、私の仮説への興味をすぐに喪失した様子だった。だから、他の何かを利用して── 「アリス、お前の推理は苦しすぎる。救急隊員がドアを破る前から閂が壊れていた、というところまではあり得たとしても、何の跡形も遺すことなくドアの開閉を不能にする方法というのがありそうもない。このとおり、ドア付近によけいなものは何もないんだし。死体だって、ドアから二メートル以上離れたところにある」  そんなことは言わずもがなだ。もしも死体がドアのすぐ前に転がっていたとしても、それしきのことで開閉に支障をきたすはずもないだろう。 「閂が壊れたドアを開閉できないようにする方法ですか。うーん、それもまた難題ですねぇ」  警部は腕組みをして、口をへの字に曲げている。頭の中では、もう別のことを考えているのかもしれない。やがて、おもむろに組んでいた腕をほどき、 「密室の謎については、ひとまず棚上げしませんか。姉の多美代を呼んでありますので、まもなく着く頃でしょう。彼女の話を聞いてみてください」  異存はなかった。    3  佐井六助の抹殺は無事に完了した。  わたしは、自分でも感心するほど冷静になし遂げることができた。思い返してみても、遺漏《いろう》はない。犯行現場を密室にすることにも成功した。理屈の上ではうまくいくはずだったが、実際にやってみるまで不安だったのだ。首尾は上々だ。警察は、閂が掛かっていたことであっさりと自殺だと断定してくれるかもしれない。甘いだろうか?  しかし、他殺であることがばれたとしても、犯行とわたしを結びつけるのは容易ではあるまい。義妹の自殺まで調べ上げられたとしても、直接の債務者ではないわたしに嫌疑が及ぶとはかぎらないし、たとえ容疑者の輪に含まれたとしても、何しろ殺されたのはシャイロックだ、おそらくより強い動機を持つ者が周辺にはたくさんいるだろう。そのおかげで、わたしは影の薄い容疑者でいられるに違いない。  現場に遺した自分の指紋はすべて拭き取ったし、死体の右手に拳銃を握らせて佐井の指紋をつけることも忘れなかった。そして、そのまま持ち込んだ枕に一発射って、硝煙反応もなすりつけてやった。また、わたし自身は奴に指一本も触れられていないから、死体の爪の間に服の繊維などが遺っているはずもない。現場に出入りするところを誰かに目撃されることもなかった。すべてオーケーだ。  コーヒーが欲しくなったので、わたしはキッチンに立つ。そして、コンロに火を点け、ポットを見下ろしながらその場に佇《たたず》んだ。人を殺すというのは、こんなにも呆気ないことだったのか、と放心していたのだ。悔恨の念や罪悪感に襲われないことは予想していた。とはいえ、こんなにもさっぱりした気分になってよいものか? 庭の木に蜂が作った巣を処分したぐらいの軽い疲労感と達成感があるだけだ。もう少し時間がたつと、どんな感情が押し寄せてくるのだろう? 激しい憎しみの対象を失った虚しさか? 気がつくと、湯がふつふつと沸き立っていた。  テレビのニュースは、遠い国で起きた兵器工場の爆発事故について報じている。佐井六助の死体はまだ見つかっていないのか? いや、毎週金曜日の夜にはあいつの姉が訪ねてくることになっている。興信所の調査によると、早くて八時、遅くて十時。もう十二時が近いのだから、きっと見つかって、警察の初動捜査も始まっているはずだ。この後のローカル・ニュースで報道されるのだろう。  初動捜査という言葉が浮かんだ瞬間に、さすがにどきりとした。わたしが命懸けで書いた答案の採点が始まっているのだ。先ほどまでの穏やかな気分は去り、膝が顫えた。犯行現場で大勢の捜査員が犇《ひし》めき合い、写真撮影のフラッシュが瞬《またた》くところを脳裏に描いてしまう。  落ち着くためにコーヒーを淹《い》れ、味わいながらブラックで飲んだ。力が湧いてくるようだ。大丈夫だとも。警察なんてこわくない。佐井の死が自殺だと認める役割を、彼らはきちんと果たしてくれるだろう。満点の答案が返ってくるのを待っていればいい。もう、サイは投げられたのだ。  といっても、ただ座して採点を待っていればそれだけで運命が決するわけでもない。義妹の件から捜査の糸を手繰《たぐ》って、警察はいつかわたしの許にやってくる。その時に、清廉潔白《せいれんけっぱく》であることを見事に演じてみせなくては。どんな名刑事がやってこようと、堂々と白《しら》を切り通してやる。  まだ全国のニュースが流れている。愛知県のある夫婦がわが子を虐待して殺した疑いで逮捕されたらしい。胸がむかつくような事件ばかりだ。佐井六助のような貧しい精神の持ち主が日本中で跋扈《ばっこ》しているのだ。そんな者たちは、裁かれなくてはならない。この世には、赦してはならない罪人がいるのだ。そのうちの一人を、わたしは今日、裁いた。誇りこそすれ、首をすくめてびくつくことはない。断じて赦してはならなかったのだ。わたしが為したことは、敦朗と夏海の復讐に止《とど》まらない。あのシャイロックに苦しめられていた見ず知らずの誰かを救済し、あいつを生かしておいたら将来必ず生じたであろう見知らぬ誰かの不幸を未然に防ぐ、という意義もある行為だったのだから。  膝は、もう顫えていなかった。  小腹がすいてきた。冷蔵庫にサンドイッチがあったことを思い出す。ハムカツのサンドイッチにかぶりついたところで、ローカル・ニュースが始まった。わたしは息を詰めて<神戸市|灘《なだ》区で独り暮らしの男性殺される>というテロップが出るのを待つ。いや、理想は<独り暮らしの男性がピストル自殺>だ。いずれにせよ、拳銃がからんでいるので報道されないはずはない。他殺か、自殺か、はたしてどっちだ?  どちらでもなかった。  佐井の骸《なきがら》は予定どおり姉によって発見されていたが、警察は「自殺と他殺の両面で捜査を進めています」ということだった。現場が密室だったことにアナウンサーは触れない。記者発表が控えられているのだろう。そうか、まだ自殺と断定はしてくれていないのか。少し悔しいが、仕方がない。死体が見つかってからまだ二、三時間しか経過していないのだし。  ともあれ、今晩中に佐井の骸が発見されたことで殺人計画は完結した。ならば、よし。もう今夜は、何もすることがない。  下戸《げこ》のわたしは祝杯を傾けるかわりに、二杯目のコーヒーを飲むとしよう。    4  リビングで対面した佐井多美代は、弟より二歳年上だった。ということは、当年とって五十四歳になるわけだが、肌の色と皺《しわ》のかげんから六十前後に見える。不自然なほど真っ黒な頭髪は染めているのだろう。写真で見た六助と同様に老け顔だ。しかし、声には張りがあって、アンバランスに若々しかった。「あたしは竹を割ったような気性」と最初に自分で断わったとおり、ぽんぽんと歯切れよくしゃべる。弟の死を悼《いた》み、悲しんでいるのだろうが、それと同時にえらく立腹していた。それも肉親を殺された遺族としては当然の感情ではあるけれど、彼女の場合、禍々《まがまが》しいものが降り掛かってきたことに憤慨しているふうで、「こんな不吉な」「おぞましい」と何度も吐き捨てた。少し変わっている。これで職業が占い師とでもいうのなら判るが、彼女は小学校の教諭なのだ。 「弟は女運に恵まれないのか、ずっと独り身でした。色々と悪さはしていたんでしょうけれどね。あたしの知ったことではありません。押しの強さをフルに活用して、商売はうまくいっていたようです。でも、やはり独り身だと不自由なことも多いでしょう。食事なんかも、脂っこい外食で全部すませてしまいがちだし、それで、週末にはこの家にきて、手料理をこしらえてやることにしていたんです。あたしの自宅はここから歩いて十五分ですが、通っている学校が明石《あかし》なので、いつもくるのは遅くなりました。早くて八時。用事が重なると、十時近くになることもありましたが、そういう時も弟は律儀に待っていましたよ。たった二人だけの肉親ですから、姉弟仲は悪くなかったんです。弟はお金に汚くて、業突張《ごうつくばり》の嫌われ者でしたけれど、それだから一人ぐらいは味方が欲しかったんだと思います」  どこか淋しげな食卓の情景を想像しかけるが、実際は姉と弟にとって心安まるひと時だったのかもしれない。ちなみに、多美代の方も現在まで独身を通しているそうだ。  昨日の金曜日も、彼女はいつもの金曜と同じように行動した。新入教員の相談にのってやったので、JR灘《なだ》駅に着いた時間は早くなかった。駅近くの食品スーパーで買物をする前に『もうすぐ行く』と電話で伝えようとしたのだが、呼び出し音が鳴るばかりだったという。そのことはさして不審に思わず、買物をすませて、この家に着いたのがだいたい九時五分。玄関の戸締まりに異状はなかった。鍵を開けて上がった彼女は、暗い廊下にリビングの明かりが洩れているのに、おや、と思った。 「弟はケチでしたけれど、日が暮れても廊下の電気を点けないなんてことはありませんでした。家中が真っ暗だったら留守かしらと思いますが、リビングの明かりは点いている。ちぐはぐな感じがして、すでに不吉なものを感じました。これは何かあったな、と警戒しながら、とりあえずリビングを覗いたところ、弟の姿はない。次に書斎を見てみようとしたら、ドアが開きませんでした。中から閂が掛かっている。つまり、弟は部屋にいる。それで、ドアを叩いて呼びかけたんですが、うんともすんとも返事がないので、ものすごく嫌な感じがしました。持病はなかったものの、心臓発作でも起こして倒れているのでは、と心配になったんですよ。それで庭に出て窓から覗いてみると、明かりが消えていて暗かったものの、弟らしき人間が倒れているのが見えました。もうびっくりして、すぐに一一九番に電話をしました」  救急車は五分とたたないうちに到着した。やってきた三名の隊員に状況を説明し、窓から書斎の様子を見てもらうと、隊員たちはすぐにドアを破ることを決断する。閂が木でできた手製のものであることを多美代から聞いて、体格のいい一人の隊員が体当たりを試みる。横木は、四回目の体当たりで裂けた。 「その方が壁のスイッチを入れたとたん、あたしは悲鳴をあげてしまいました。弟が頭から血を流して倒れていて、その体の脇にピストルが落ちていて……」  気丈だと自称する彼女も、その場面に話が至るとつらそうだった。直後のことはほとんど覚えておらず、気がついたらリビングのこのソファに座って、救急隊員が注いでくれた水を飲んでいたのだそうだ。死体発見を警察に通報したのも、もちろん隊員である。  彼女の記憶は途絶えていたが、警察は隊員たちから詳細な供述調書を取っていた。先ほど目を通したそれと多美代の証言の間に齟齬《そご》はない。彼らは六助がとうに死亡しているのを確認した後は部屋を出て、所轄の署員らがやってくるまで現場を保存していた。  ひととおり聞き終えた私たちは、彼女にいくつかの質問をする。たとえば、家の鍵について。玄関のドアは施錠されていたわけだから、本件が殺人事件ならば犯人が鍵を一本持ち去ったことになる。それを確かめるため家の鍵は揃っているか、と尋ねたところ、彼女はあいにくと合鍵の本数を知らなかった。また、弟の最近の言動についても聞いたが、特に思い当たることはない、とのこと。火村や私が尋ねるまでもなく、こういった質問はすでに警察が行なった後であり、彼女と話して得たものは乏しかった。姉弟の仲はよかったが、互いのプライベートな部分には踏み込まないようにしていたためかもしれない。 「六助さんは、かなり几帳面《きちょうめん》な方だったんじゃありませんか?」不意に火村が訊く。 「このお宅を拝見すると、所定の場所に所定のものがないと気持ちが悪い、というタイプだったように推察するんですが」 「はい、そういう神経質な一面がありました。たとえば、テーブルの上に灰皿がのっていますでしょ。これは、常にこの位置にないと嫌らしいんです。あたしが触ってちょっと端にずれただけで直していました」 「絵の額縁が傾いていたりしたら?」 「弟なら、すぐに直します」  火村は満足したのか、それ以上のことを訊こうとはしなかった。  彼の質問の意味が判ったのは、多美代との話を切り上げて廊下に出た時だ。助教授は壁に並んだ絵を指して言った。 「右手の壁に七枚と左手の壁に九枚の絵が飾ってあるだろう。そのうち何枚かがずれている。几帳面な被害者は、これを見たら直したくなったんじゃないかな」  どれどれ、と私は見る。指摘されると、なるほど、右の二枚と左の三枚の絵がわずかに傾いていた。無頓着な私でも、気がついたら直したくなりそうだ。──待てよ。 「絵が傾いてる方向が揃ってるな」私は左右の壁を見ながら「ほら。左側の絵は玄関に向かって、右側の絵は廊下の奥に向かって傾《かし》いでいる。これはどういうことや?」 「判らない。もう二つ規則性があるのに気がつかないか?」  一つは判る。 「ばらばらの高さに飾ってある絵のうち、傾いているのは腰の高さに掛かっている絵ばかりや。まだ他に何か規則性があるか?」 「額縁を見ろ。傾いているのは、どれもスチール製だろう。三つも規則性があるんだから、きっと何か理由があってこうなったに違いない」 「理由とは?」 「だから、まだ判らないって言ってるだろ。わざとこんなことをして面白いとも思えないんだがな」  傾いた絵そのものに規則性は見つけられなかった。あるものは青磁の皿を描いた日本画、あるものは道化師の親子を描いた油絵。またあるものは棟方志功《むなかたしこう》の小品、といった具合に。大きさもまちまちである。 「特定の誰かから譲《ゆず》られた絵だとか?」 「その標《しるし》に傾けておくというのも変だろう。何かの暗号でもあるまいし。──まぁ、いいか。後で考えよう」  自宅に戻るという多美代がリビングから出てきたので、私は絵の傾きについて尋ねてみた。彼女はきょとんとして、いつもはこんなふうではない、と答える。どうして今は傾いているのかについても、説明をつけることはできなかった。  彼女が出ていったのを見届けてから、今度は警部に尋ねる。 「被害者の唯一の肉親だとしたら、かなりの遺産を相続することになるんでしょう。あの姉さんのことを、警察はどう見ているんですか?」  警部は胸許の糸屑を払って、 「一般論として遺産は殺人の動機になるかもしれません。しかし、多美代が火急の金を必要としていた様子はありませんし、弟と仲違《なかたが》いしていたという証言もありません。それより何より、はっきりとしたアリバイがあるんです。犯行時刻は午後三時から六時ですから、彼女は学校で執務中でした。いささかの疑いを差し挟む余地もないアリバイです」 「殺し屋を雇ったなんていうのは、非現実的ですか?」 「身辺を洗っていますが、そんな匂いはしてきませんねぇ。それよりも、やはり借金の取り立てを食らっていた人間の中にホンボシがいると見るのが妥当ですよ」 「その容疑者らのリストはできているんですか?」  なおも壁の絵を眺めながら火村が訊く。 「ええ。ご覧いただきましょう。──ああ、そうだ。一つだけ言い忘れていました。われわれが自殺説を却下した根拠が他にもありましてね。被害者は、昨日の昼過ぎに近所のコンビニで買物をしておるんです。彼の財布にレシートが遺っていました。いずれも彼自身が買ったものであることは、店の店員にも確認ずみです。その買物の内容は、自殺前の人間のものとは思えないものでした。カップ麺、サンドイッチ、イカの薫製にナッツ、チューインガム。三巻パックのビデオテープもありました。自殺の数時間前に買うものとは思えません。また、レシートに記載されていた食品は、どれも被害者の胃に残存していませんでした」 「胃に残存していなかった……。食べずに置いてあったのでもないんですか?」  火村は警部を向き直る。 「はい。犯人が持ち去ったものと思われます。どうです、なかなか油断ならない奴でしょう。被害者がおやつだの三巻パックのビデオを買っていたことが判っては、せっかく自殺に偽装した苦労が台なしになる、と判断したんですよ。さすがに、財布の中のレシートまでは考えが及ばなかった」  それは犯人のミスだ。しかし、抜かりなくレシートを持ち去っていたとしても、被害者の利き腕を誤解していたことから自殺説は破綻していたのだから、いまさら影響のないミスだとも言える。  警部は内ポケットから一葉のメモを取り出した。債務者の一覧表だった。一ダースの名前が並んでいたが、借金苦から自殺や一家離散に陥ったケースも多々あるため、その近親者のリストアップも進めているという。  もしも私が殺されたなら、やはりこんなものが作成されるのだろう。あまり長大なリストにならないことを希《ねが》いたい。 「犯行時間が平日の昼間なので、佐井多美代と同じく簡単にアリバイが成立した者もいます。名前の頭にチェックがついているのが該当者。七人消えていますから、残りは五人ですね」  ほとんどが三十代、四十代で、男女比は半々だ。当然ながら、リストの名前や年齢をにらんでいるだけでは何も判らない。 「このリストに名前を加えたり削ったりするのは、われわれがしっかりやります。先生方には、犯人がどうやって現場を密室にしたのか、について説明をつけてもらいたいんですよ」  犯人がどんなトリックを使ったのか、この時点の私たちには、まるで見当がついていなかった。    5  火曜日。シャイロックを葬った四日後。  病院で点滴を受けて帰宅すると、ほどなく来客があった。捜査一課の刑事だ。先週末に変死した佐井六助氏について話が聞きたい、と言う。ついにきたか、とわたしは武者顫いした。差し出された名刺には、野上《のがみ》巡査部長とある。苦虫を噛《か》みつぶしたような顔をしていて、いかにも食えない男というタイプだ。こいつが、わが仮想敵の名刑事なのか。野上は二人の男を連れており、一人は京都の英都大学社会学部の助教授で犯罪学者、もう一人は推理作家だと言う。どういう組み合わせなんだ、とわたしは訝しんだ。 「このお二人は、これまでにも幾度か刑事事件の捜査にご協力をいただいていまして、いわば兵庫県警のアドバイザーです。捜査の過程で知り得たことは、一切、外部に洩らさないことをお約束いただいていますので、その点はご安心ください」  野上の口調は、どこか不機嫌そうだった。もしかすると、彼自身はアドバイザーが捜査に介入するのを歓迎していないのかもしれない。上司の命令で渋々と犯罪学者らを連れ歩いているのではないか。  まぁ、そんなことはどうでもいい。犯罪学者と推理作家なんて連中の社会見学もどきに付き合うぐらいだから、野上というのは大した刑事ではないのだろう。だとしたら、そんな彼らの聞き込みを受けるわたしは、深刻な状況にいないわけだ。そう考えたら頬がゆるみそうになり、わたしは慌てて表情を引き締めた。 「お勤め先に電話したところ、昨日から病気で欠勤しているということでしたが、もう大丈夫なんですか?」  リビングに通すと、まず野上はそう尋ねてきた。病欠していると承知しながら押しかけてきたわけか。パジャマ姿でもないのだから、今まで寝ていました、と答えるわけにもいかない。 「風邪をこじらせましてね。昨日はずっと臥《ふ》せっていたんですが、だいぶよくなりました。明日からは仕事に戻れそうです」 「先週の金曜日もお休みだったとか」  会社の人間がしゃべったのだろう。 「はい。それは風邪のためではなく、溜まっていた有給休暇を消化するために取った休みで。土日とつなげて三連休にして、どこかへ旅行に行きたいと思っていたんですよ。ところが、その日から体調が思わしくなかったので、結局はずっと家にいました。近所に買物に行ったり散歩をしたりもしましたが」  問われもしないうちに、事件当日はずっと家にいた、などと口走ってしまった。不自然だっただろうか? 野上はポーカーフェイスだ。犯罪学者と推理作家にも、目立った反応はない。 「金曜から火曜まで五連休になってしまったので、仕事がどっさり山積みだろうな」  これは本音の呟《つぶや》きだ。 「医療機器メーカーの研究室にお勤めだそうですね。どんなものを担当なさっているんですか?」 「今は、主にMRIを」 「ああ。軽い肝炎を患った時に経験しましたよ。人体を輪切りにして内臓の写真が撮れる装置ですな」  あまり触れられたくない話題だが、ありのままを語るしかない。彼らは、すでに調べ上げてあることをわざわざ質問することもあるだろうし。 「そうですか」野上は語調をあらため「ところで、佐井六助さんとお会いになったことはありますか?」 「高利貸しの佐井さんですね。ええ、一度だけあります。わたしのところにいらしたということは、弟夫婦の身に起きたことをご存じなのでしょう。自殺した義妹の葬儀の翌日、わたしは気落ちした弟のそばについていてやりました。そこへあの人がやってきて、借金の清算をして欲しいなどと無神経極まりないことを言うので、追い返してやりましたよ。ダニのような人間だと憤りを覚えました。弟に返済の義務がないのは向こうも先刻承知ですから、それっきり現われませんでしたけれどね」  一度だけ会った、というのは大嘘だが、それ以外の部分も事実とは異なる。葬儀の翌日に佐井がやってきたのは本当なのだが、わたしたちは打ちのめされていて、どなり散らす気力すらなかったのだ。それを、ここでわざと大袈裟《おおげさ》に言っておく。その方がかえって正直者らしく見えるのではないか、という打算から。 「あのシャイロックが」  毒づくと、有栖川という作家が「ああ」と声をあげた。わたしが奴につけたシャイロックという渾名の由来にピンときたのだろう。<自由業>と看板を下げているような雰囲気の男は、「佐井六だからシャイロックですか」と真顔で納得している。そうだよ。小説のネタにでもすればいい。 「それ以降、あなたは彼と接触していないんですね?」  野上は念を押す。わたしは、二度と会っていない、と力強く答えた。いい感じだ。役者になって、大舞台に立っているような晴れがましい気分すらしてきた。 「灘にある佐井六助の家を訪問したこともない?」  くどい。 「もちろん、ありません」  わたしが出入りしているところは、誰にも見られていないという自信がある。佐井が姉に雑談で話す機会もなかったはずだ。だが、電話でしゃべっていた可能性もあるのでは……。気弱になりかけたが、怯えることはない。万が一、わたしが佐井宅を訪問したことがあるとバレても、「怒りが甦《よみがえ》って、文句を言いに行ったことがある」と頭を掻きながら弁明すればすむ。 「単刀直入に言おうか」  野上がまた口調を変えた。堅苦しさがなくなった。膝を崩して胡座《あぐら》を組んだ、という感じだ。 「あなたは金曜日の午後三時から六時までの間、どこで何をしていましたか? これは佐井六助が殺害されたと推定される時間帯です」  わたしは、のけぞって驚いた。演技ではない。こうも唐突に核心を突かれるとは予想していなかった。慌てるな、落ち着け、と自分に何度も言い聞かせる。 「佐井は……他殺だったんですか? 変死と伺いましたが」 「他殺の疑いが濃厚だと、一部の新聞にも書いてありますよ。生きのいい記者に夜討ちをかけられて、この私が洩らしてしまったんですがね。犯人は被害者の利き腕をよく調べていなかったようです。──あなたの弟さんが不幸な形で命を落とされたことも知っています。佐井六助に対して恨み骨髄だとしてもおかしくはない。だから殺した、と短絡的に決めつけはしませんが、当日の行動をお聞かせ願いたい。アリバイがおありならば、しつこく付きまとったりはしません」  アリバイはないが、だからといって犯人にされるはずもない。わたしは、胸を張って「家にいました」と繰り返した。野上は落胆した様子もなく、「そうですか」と頷く。しかし、安心するのは早かった。 「あなたは金曜の深夜から日曜にかけて、近所の救急病院に入院していましたね。二泊三日の入院。風邪で加療していたのではないでしょう?」  そこまで調べられていたのか。わたしは焦《あせ》った。入院の理由については知られたくなかったが、答えを拒否するわけにはいかなかった。 「実は……食当たりを起こしまして。賞味期限を十日も過ぎた牛乳を飲んだのが悪かったみたいです。みっともないので、つい風邪などと……」  病院の医師の問診にも「うっかり古い牛乳を飲んだ」と答えてある。 「退院してから今日までの間に、ゴミの収集はきていませんね。その牛乳のパックはありますか?」 「保健所のようなことをおっしゃいますね」わたしは内心びくびくしながら「あ、あるでしょうね。ゴミ袋を漁《あさ》りますか? でも、中身はもちろん捨ててしまいましたから、菌がどうのこうのは──」 「ゴミ袋を漁ってもよい、と了解を得たので、後ほど調べさせてもらいます。──ところで、佐井さんのお宅の近くのコンビニで、金曜日にちょっとした事件があったのをご存じありませんか? その店で売られたハムカツ入りのサンドイッチの中に傷んだものがあったらしく、三人が食中毒で病院に担ぎ込まれたんです。その日に売れたハムカツのサンドイッチは、全部で四つでした」  腋《わき》の下を冷汗が伝った。こいつは、ますます核心に迫ってくる。喉元に刃を突きつけられた心地だ。 「四つ目のサンドイッチを買った人物は、佐井さんです。証拠もあるし証人もいる。そして、われわれが追っている犯人は、彼が買ったサンドイッチを現場から持ち去っています。そうする必要があったんですな。犯人はサンドイッチが欲しくて盗んだわけではないから、すぐに廃棄したかもしれない。しかし、捨てそびれて自宅まで持ち帰り、もったいないからと食した可能性もあるわけです」 「そ、その日に食中毒を起こしたわたしが怪しい、とおっしゃるんですか? それは飛躍しすぎでしょう。わたしが腹を壊した原因は牛乳なんですから」  とんでもない展開だ。額にまで汗がにじんできている。わたしは、さりげない仕草で──それはとても無理だったかもしれない──汗を拭った。サンドイッチを包んでいたビニールは、まだゴミ袋に入っている。どうして処分してしまわなかったのだろう! 家中を捜索されたら、一緒に持ち帰ったカップ麺やビデオテープも出てくる。何と愚かな失敗をしてしまったのだろう。佐井六助を吝嗇漢と蔑《さげす》みながら、同じ性癖が自分にもあったとは嘆かわしい。  だが、ここで崩れてはいけない。警察がそれらの品々を発掘しようと、決定的な証拠になるとはかぎらない。何しろ、どれも大量生産されている商品だ。それに──それに──  犯行現場が密室だったことの説明はつけられまい。捜査が難航すれば、やはり自殺だったのではないか、と言い出すおめでたい刑事が出現して風向きを変えてくれるかもしれないのだし。  だが、そうしたわたしの希望も野上によって打ち砕かれていった。詳しくは語らないのだが、どうやらわたしはシャイロックの利き腕を間違えたらしい。自殺説に風は吹かないのか。それでも、密室の謎が最後の砦になってくれるはずだ。 「ところで」  ネクタイをだらしなく締めた火村という助教授が口を開いた。犯罪学者などという人種が何を言い出すのか見当がつかないので、緊張する。どこか冷たい感じのする男だった。殺人事件の捜査にしょっちゅう首を突っ込んでいるせいか、斬った張ったが日常の外科医のような雰囲気もある。 「あなたは今、麻のジャケットをお召しですね。金曜日に外出した際も、そんな服装をしていたんですか?」  意図の読みにくい質問だったが、ありのまま「はい」と答える。この季節ならごくありきたりのスタイルだろう。当の火村にしても、似たようなベージュのジャケットをはおっている。 「会社でMRIの研究を担当なさっているそうですね。あれは日本語でどう呼ぶんでしたっけ。たしか……」 「……磁気共鳴診断」 「そう。強力な磁石を使って断層撮影をするんだそうですね。MRIは magnetic resonance imaging の略で……などという解説を私がするのはおかしいのでよします。常石さんは、そういった先端的な医療機器を扱っていらっしゃる」 「わたしが研究しているのは、核磁気共鳴によって原子核のスピン磁気モーメントの変動を画像にする装置です。X線のかわりに磁気を利用するので、患者にほとんど侵襲を与えることなく生体断面画像を得ることができます。目下の課題は、より高度の磁場均一性を確保することです。それと、受信コイルの連結方法についても──」  やけくそになりかけたが、冷やかな火村の目を見て黙った。 「あまり専門的なお話はこちらが理解できないので結構です。極めて強力な磁石を使う機械である。それは正しいですね?」  ああ、正しいとも。地表の重力の十倍である一テスラという磁力がどれほどのものか、目のあたりにしたら仰天するだろう。何しろ、うっかりMRI装置のスイッチを切り忘れた部屋に清掃に入ったら、業務用の大きな掃除機が開口部に吸い寄せられて宙に舞うのだ。酸素ボンベが装置に飛び込み、中でガンガンと暴れまくって機械を壊したという失敗談や、ミスで放置してあった消化器が検査中の患者の頭を直撃して死なせたというアメリカでの事故が報告されている。装置が正常に起動したことを確かめる方法も、彼らには驚きだろう。以前は開口部に蓋をして、そこに垂直にスパナが立つかどうかを見ていたのだから。 「ということは、常石さんは強力な磁石を入手することが可能なわけだ」  この男に負けたかもしれない。わたしは、こくりと頷いた。喉が、からからに渇いている。 「もし、そのような磁石をポケットに入れて歩いたとしたら、周囲の金属に影響が及ぶでしょうね」 「大きな磁石なら……危険です」 「ははぁ。布で厳重に包んでおくなりするのが無難そうですね。たとえば、ですよ。そんな磁石をジャケットの右ポケットに入れて、私が展覧会に出かけたとします。そうして壁伝いに歩いたなら、スチールのフレームに収まった絵は、すべて一定の方向に傾くかもしれませんね」  何が言いたいのだ? わたしは展覧会になど行っていない、と思ったところで、はっとした。もしかすると……佐井の家の廊下の絵のことか? あれが磁石に引っぱられて、わたしが歩いた方向を示すように傾いていたとしたら……。 「顔色がよくありませんね。大丈夫ですか?」 「もちろん」と答える。  何が、もちろん、だ。 「私も単刀直入に言いましょう。佐井六助さんが殺された現場は、内側から木製の閂が掛かっていました。他殺だとしたら不可能な状況です。これはきっと犯人が特別な工作をして密室に仕立てたのだろう、と推断した私たちは、懸命にその方法を考えたんです。──できますね、あなたの研究室にあるような磁石を使えば」  野上は沈黙したままだった。密室の謎解きは火村に任せているということか。 「どうすれば可能なんですか? 木製の閂に磁力は及びませんよ」 「あなたは被害者に渾名をつけていましたね。シャイロックと言えば、『ベニスの商人』に、『光るものすべてが金にあらず』という台詞が出てきます。『磁石が引っぱるものすべてが鉄にあらず』とも言えるんです」 「磁石は鉄しか引きつけません。木を引き寄せる磁石なんてものは、ない」  もはや、わたしは恐怖の虜《とりこ》だった。火村は、そんなこちらの怯えを観察しながら話を進めていくようだ。 「おっしゃるとおり。しかし、木にダイレクトに力を及ぼすことはできなくても、間接的になら容易ですよ。──現場の木製の閂は、横木がスライドして受け金に嵌まるようになっていた。犯人は閂が掛かっていない状態で廊下に出てから磁石を取り出し、それから物理的な力を間接的に横木に加えてスライドさせたものと思われます」  すべて見抜かれているのだろう。しかし、それを確かめたい。 「……具体的に、どうやったんです?」 「ドアを開いたまま、まだ掛け金に掛かっていない横木の端に鉄性の何かを添えます。次にドアの裏側に磁石を当て、鉄性の何かをその位置に固定して、部屋を出る。廊下に出た犯人は、磁石をゆっくりと横に動かし、横木を受け金に嵌まるまでスライドさせた。磁石をはなすと、鉄性の何かはぽろりと床に落ちる。これで密室の完成です。MRI診断装置に使われるような磁石ならば、これしきのことはたやすいでしょう。もちろん、そこまで強力なものではなく、磁力が数等弱い磁石を使用したのかもしれない。強いは弱いを兼ねる、ということで、そのあたりはいくらでも調節が利いた」  どんな態度を取り繕えばいいやら、もうわたしには判らなくなっていた。 「鉄性の何か、とまどろっこしい言い方をしましたが、それが何であるかは明白でしょう。死体の傍らに転がっていた拳銃です。犯人は狡猾《こうかつ》にも、あれを凶器として用いた後で、さらに閂を外側から掛けるトリックの道具としても使用したわけです」  火村は、わたしの目を見据えたままだ。 「このトリックは、強力な磁石と拳銃というセットさえ用意できれば実行に移すのにさしたる困難はなかった。犯行の時まで、実物の閂で実験できないことだけがネックかもしれませんが、本番にあたって一発で成功させなければならない、というものでもありませんからね。うまく閂が掛かってくれるまで、何度でもやり直せばよかった」  トリックを実行するために磁石と拳銃を揃えたのではない。逆だ。磁石はもとから身近にあったものだし、拳銃は腕力に自信がないわたしが復讐を果たすのに必要と考えて以前から入手していた。犯行の下見のためにシャイロックの家を訪ね、各部屋に木製の閂がついていたのを見て、それらを結びつけるトリックを思いついたのだが……順番が違う、と火村に反論するわけにはいかない。 「犯行が金曜日だったのも、それが犯人にとって好都合だったからではないか、と私は考えています。何故ならば、金曜日の夜には被害者の姉が訪ねてくることが通例となっており、その夜のうちに彼女が死体を発見してくれることが計算できたからです。夜、というのがポイントだ。私が犯人なら、死体発見時──つまりドアが破られた時──に部屋が真っ暗であることを希望した。暗ければ、床に転がった拳銃がこじ開けられたドアに弾き飛ばされ、死体の脇まで滑っていくところを目撃されなくてすみますからね。死体が倒れていた位置は、自殺にしても他殺にしてもやや不自然だったのですが、それにも理由があったんだ」  わたしが築き上げた砦は、木っ端微塵だった。今や跡形も遺っていない。目の前の男は、なおも駄目を押す。 「この手品が見破られることはない、と犯人は高を括っていたのかもしれない。こんなことをしたら、証拠が遺るのは判っていたはずなのにね。──凶器の拳銃を調べたところ、磁気を帯びていました」  完全犯罪を為したつもりだったのに、そんな幻想はたったの四日しか続かなかった。わたしは、どこで間違えたのだろう? 他に何に思いを巡らせればよいか判らず、そんなことを考え込む。シャイロックの利き腕について誤認したことなのか? 奴の家から持ち帰ったサンドイッチを意地汚く食べてしまったことか? あるいは、拳銃が磁気を帯びるのを防ぐ手立てを講じなかったこと? それとも……。  この火村のような男が舞台に上がってくるのを予期しなかったことか?  しかし、あの佐井六助のような男をわたしは赦すことができなかったのだ。どうしても。この世には、断じて赦してはならない人間がいる。  あなたはそう思わないのですか、と犯罪学者に問いかけようと顔を上げると、青白い炎を孕《はら》んだ目がわたしを見ていた。  赦されざる者に向けられた目だった。 fin.