星(ほしむし)虫 岩本隆雄 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)夜空の彼方《かなた》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)星虫|騒《さわ》ぎ [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] ------------------------------------------------------- [#改ページ]  ほんのすこしだけ、未来の物語    プロローグ  夏には珍《めずら》しいくらいの星々が、天を埋《う》めている夜だった。  もっとも、その星の輝《かがや》きよりも何千倍の光に満ちた大通りをゆきかう人々には、いつもと同じ夜空だったろう。車道を行く車に乗る者には、なおのことだ。誰《だれ》も天など見上げもしない。夏休み最後の日ということもあるのか、町のメインストリートはやけに込《こ》み合っている。  その通りの中へ、細い脇道《わきみち》から一人の少女が飛び出てきた。  黄色いTシャツに、短パン姿。髪《かみ》は頭の後ろに丸く結《ゆ》わえてあるが、解けばかなりの長髪《ちょうはつ》だろう。ハイペースで走ってきた少女は、この雑踏《ざっとう》に驚《おどろ》いたように、急いで通りを横切り、路地に駆《か》け込んだ。  小さく暗い街灯に照らされる坂道を上がっていくと、静かな住宅地になる。少女はその中にある小さな公園に入っていった。  首にかけ、Tシャツの中に入れていたタオルを出し、額に吹《ふ》き出す汗《あせ》を拭《ぬぐ》いながら、屈伸《くっしん》運動を始める。一時も休まず、深呼吸をしながら大きく腕《うで》を天に伸《の》ばし、そして、少女の体がはじめて止まった。 「うわあ!」  満天の星。少女の目は、そのきらめきを映していた。  胸が何かとてつもなく熱いものにふさがれる。こんな星空を見るたびに、あきることなく繰り返される感動だった。  あの星々の中へ行きたい。宇宙飛行士になりたい。それが彼女《かのじょ》の夢《ゆめ》だった。  少女の名は、氷室《ひむろ》友美《ともみ》。十六歳の高校一年生。  夢の始まりは、もう十一年も昔《むかし》の事になる。  種子島《たねがしま》の祖父の家に遊びに行った五歳の夏の夜。いやいや見に行ったロケットの打ち上げ。  何が起こるのかよく分からず、ただ眠《ねむ》かったその目の前で、とてつもない轟音《ごうおん》と閃光《せんこう》と共にゆっくりと、そして次第《しだい》にその速度を増して天に昇《のぼ》るロケット。それは驚きを通り越《こ》し、恐怖《きょうふ》に近い存在だった。  すくむ友美を後にして際限もなく上へ上へとあがってゆく輝き。どこまでいくのか、どうして落ちてこないのか、その好奇心が、やがて恐怖に勝っていった。 『どこまでもいくんだぞ』と言う祖父の言葉。それがどんなおとぎ話よりも心に染《し》み入った。やがて、あんなに巨大《きょだい》だったロケットが星の海の中へと混じり、どれが星でどれがロケットだったのか見分けられなくなったとき、友美にはわかった。あれは、星へ行くための船なのだと。胸が、今まで感じた事のない熱いもので一杯《いっぱい》になっていた。 『あれに乗りたい!』  ロケットに乗ろう。友美はその時、心に誓《ちか》ったのだ。  しかし、いくらせがんでも、祖父は無理だと笑うばかりだった。父も母も、大人の誰一人として、どうすれば乗れるのかと聞く友美の問いにまともに答えてくれない。多分大人|達《たち》も知らなかったのだと、今なら分かる。まだ一人の日本人も宇宙に出ていなかった時代だった。宇宙へ行くなど、夢のまた夢だったのだ。 「もしも、あのおじさんに会ってなかったら……」  友美は目を地上にもどした。公園を取り囲む立派な屋敷《やしき》を見回す。この町の何処《どこ》か、こんな大きな屋敷のどれかに、友美の夢がどうすれば叶《かな》うか教えてくれた先生がいるはずなのだ。  もしも、あの出会いがなかったら、幼い宇宙飛行士への夢が、今日まで続くなんて事はなかっただろう。  多分兄のマンガだと思う。それを見て、宇宙飛行士になるには体を鍛《きた》えねばならないと気付いた六歳の夏休み、無謀《むぼう》にも一人でジョギングに出た友美は、きっちり迷子になった。見知らぬ町で途方《とほう》に暮《く》れていた子供を助けてくれたのが、そのおじさんだったのだ。  彼《かれ》は異常なほど痩《や》せ、背が高かった。少し怖《こわ》い顔だが、目は優《やさ》しかった。そして、六歳の友美を子供|扱《あつか》いしない変な大人だった。  ゆっくりと歩く男の後をついていくと、不意に不思議な場所に来てしまった。  絵に描《か》いたような綺麗《きれい》な庭があった。そこには見たこともない熱帯の花や、熟《う》れたバナナの生《お》い茂《しげ》る大きな温室があり、その横に寄り添《そ》うように、やけに細長い蔵《くら》が二つ並《なら》んでいた。その蔵の中には、山のような本や、動物の剥製《はくせい》、植物標本、世界中の砂漠《さばく》の砂が入ったガラス瓶《びん》などが、溢《あふ》れんばかりに詰《つ》め込まれ、友美はここが夢の世界じゃないかと頬《ほお》をつねったほどだ。まるで、宝の山のような所だった。  そこで友美は、夢のような半日を過ごしたのだ。  温室のバナナや初めて見る熱帯の果物を食べながら、男はいろんな話をしてくれた。そのほとんどを、友美は今でも、昨日のように思い出せる。  男の他《ほか》には、泣き虫で鼻をたらした小さな男の子がいて、うるさくつきまとってきた。もっとおじさんの話を聞きたかった友美は、しつこいその子を、泣かした覚えがある。  そして友美は、その蔵の奥に、大きな望遠鏡と大小ロケットの模型を発見し、熱狂《ねっきょう》したのだ。 『私、宇宙飛行士になりたいの! どうすればなれるかな?』  そう尋ねた友美に、男は真剣《しんけん》に考えてくれた。 『難しいよ』と、真顔で言われた。少なくとも二十年はかかるかもしれない。それだけ頑張ってもロケットには乗れないかもしれないと。  友美は息を飲み、それでもなりたいと言い切った。するとおじさんは机の上にあったメモ帳にすらすらと数行の文字を書き、手渡《てわた》してくれた。漢字が多くてほとんど読めない。 『ここに書いたようにしていけば、可能性はある。でも甘《あま》くないよ』  彼は一度も子供扱いしなかった。それがとても嬉《うれ》しかったのだ。読めないメモを宝物のように大事に握《にぎ》りしめて、おじさんが呼んでくれたタクシーで家に帰った。これから、もっといろいろ教えてほしいと頼《たの》んだ友美に、彼はいいともと笑って約束《やくそく》してくれた。  しかし『いつでもおいで』と言ってくれたおじさんの屋敷には、二度と行けなかったのだ。あの日から、毎日のように、町を探し歩いた。迷子にならないよう、地図まで買って探したのに、あの不思議な庭を見つけることは出来なかった……  それから、十年。友美はまだ探し続けている。  だから、あの半日が夢ではない証拠《しょうこ》は、今では黄ばんでしまったメモ用紙だけだった。  大事に机の奥にしまってあるメモには、こう書かれてあった。  1・体を鍛える事。特に平衡《へいこう》感覚が必要。視力はパイロットの命、大事にする事。  2・英語と数学と物理と化学と生物と医学。そして科学|一般《いっぱん》の広範《こうはん》な知識。  3・高校からは、航空関係の学校に進むこと。出来ればアメリカに留学し、NASAを目指す。  4・最終的には、NASA入りを目指せ。しかし、今後の宇宙開発の経緯《けいい》に注意する事。日本が有人飛行を行う可能性もあるから。  5・諦《あきら》めない限り、希望はある。  このメモだけが、今日まで友美の夢の道しるべとなってくれたのだ。  それから毎晩のトレーニングが始まった。いろんな都合で、夕方だったのが、だんだん遅くはなっているが、このおかげで体力的には、国体級の運動選手に優《まさ》るとも劣《おと》らない能力を維持《いじ》していると自負している。勉強の方も、理数系では誰にも負けたことがない。  あの不思議な一日で学んだ事は、山のようにあった。今のように環境《かんきょう》問題がクローズアップされる何年も前に、地球の危機的|状況《じょうきょう》と、他の生物と人間とが対等の存在だということも教えられた。ちょっと大袈裟《おおげさ》かもしれないが、気持ちとしては、人類と地球を救うため、自分が出来る事として、宇宙飛行士を目指してきたつもりだ。 「けどなあ……」  その友美の心は、最近暗い。  あのおじさんとの出会い以来、飛行士になるのは自分の運命だと信じてきた。その信念が、揺《ゆ》らいでいる。  小六の進路調査の時、現実的な希望を書いた級友たちの中でただ一人『第一志望、宇宙飛行士』と書き、それを教室で教師に読まれ、真面目《まじめ》に書けと怒鳴《どな》られた。クラスの全員から笑われ、悪童どもが事あるごとに馬鹿《ばか》にするようになり、それが卒業まで続いたのだ。当時|喧嘩《けんか》にも自信のあった友美だから、黙《だま》って馬鹿にされてはいない。だが、たびかさなる喧嘩は、乱暴者の印象を回りに植え付けただけだった。幼なじみの友人すら、離《はな》れていった。  母の勧め通り有名私立中学を受験したのはそのためだ。そこから夢は、少し進路を外れて来てしまった。友美は現実を気にするようになり、家族にも宇宙飛行士の『う』の字も出さなくなった。そしてそんな夢を持ってるなどとは、絶対に思われない人物になろうと努力した。つまり、真面目で頭のいい、一流大学を目指す優等生を演じ始めたのだ。  それには成功した。友美は進学校で有名な私立高へトップの成績で入学し、模範的な優等生として、クラスメイトや教師たちから特別扱いを受ける身分だ。こうやって毎晩、宇宙飛行士目指しハードな訓練をしているなど、誰も想像もしないだろう。中学時代は、その二重生活が楽しくもあったのだが、もう沢山《たくさん》だという気がしてきている。希望していた留学が、父の猛反対《もうはんたい》にあって駄目《だめ》になったのも、おとなしい優等生の印象が、家族にまで染みついてしまったためかもしれなかった。  苛《いら》つく友美は、公園の鉄棒に飛びついていた。前転を始める。十回、二十回、猛烈な勢いで回り続ける頭から、ピンが飛んだ。髪が解け、地面をほうきのように擦《こす》る。友美は回転を止《や》め、足を前に投げ出すようにして、鉄棒にぶら下がった。  頭を振った。心底うっとうしい。長い髪なんか、本当は大嫌《だいきら》いなのだ。  しかし明日から二学期。また、長い髪の優等生を始めなければならないのかと思うと、登校拒否になりそうだ。  そして友美のむしゃくしゃは飛火し、思いのままにならない世間に向いた。  夢が遠のいた原因は、世界の宇宙開発の現状にもあったのだ。  米ソの宇宙開発は、両国の財政赤字のおかげでせいぜい横這《よこば》い状態だし、頼みの経済大国日本の宇宙計画も……  友美はちらっと公園の端《はし》に立つ、衆議院選挙の立候補者のポスターをにらんだ。 「けち」  昨夜発表になった日本の宇宙開発計画。その中の有人飛行計画は、またも先送りにされていた。ここで決まっていれば四年後、友美二十歳の時には、乗員の選考があったはずなのに。 「なんで宇宙開発には、お金を出さないわけよ!」  日本の政治家にはロマンもビジョンもないと、八つ当たり気味に思う。やはり、アメリカかソビエトにでも移民するしかないかもしれない。しかし、そこまでまだ踏《ふ》ん切れなかった。それに目指すパイロットは、どちらにせよ非常に狭《せま》き門らしい。 「パイロットじゃなくて、なにかの専門家を目指すべきかな……」  その手で、もう日本人数名が宇宙へ行っている。テレビの報道部員でも行けるのだ。  歳《とし》を重ねるにしたがって、現実が見えてくる。その中で夢を見続けることが、いかに大変なことかを、最近友美は実感していた。  おじさんに会って、どうすればいいか教えてもらいたかった。しかしその反面、今の自分を、夢を追う事をためらっている姿を彼にだけは知られたくない思いもある。  悩《なや》み、混乱する今の心の中で、『お金が欲《ほ》しい』という事だけが、明確な思いだった。  ある程度のお金さえあれば、独立できる。そうすれば純粋《じゅんすい》に夢を追っかけられるのに。 「誰か、一千万円でいいからくれないかなあ」  飛んだピンを探しながらつぶやいた。 「三百億なら、もっといいな。スペースシャトルが買える」  虫のいいことを考えながら、ピンを見つけた場所で、友美は逆立ちした。あれほど回転した直後なのに微動《びどう》だにしない。  じっと地面とその上に落ちたピンを見つめていると、小さく溜《た》め息がもれた。 「家の庭からUFOでも、出てこないかな」  そうすれば、最低でも何兆円という金額で売れるはずなのに……  これはそう虫のいい話でもなかった。立派に前例がある。  三年前の事だ。  日本のとある山中で、外宇宙から来たものと思われる全長百五十メートルの宇宙船が、発見された。約五千年ほど前に落下したものらしい、少し破損しているだけの完全な状態でだ。  世界中が大騒《おおさわ》ぎになった。なにせ、初めて一般に確認《かくにん》された地球外文明の所産だ。全世界のマスコミと科学者は、大挙して日本に押《お》し寄せ、本格的な調査にかかろうとした。  それに待ったをかけたのがその宇宙船の発見者であり、なおかつその山の所有者でもある女性。当然、法律上その物体は彼女のものだったのだ。  日本政府は強制的に彼女から宇宙船を買い取ろうとし、全世界の非難を浴びた。彼女は国に宇宙船を売るつもりのない事を告げ、そして国連が中心となった調査研究団に買って貰《もら》いたいと要請《ようせい》した。  素晴《すば》らしい申し出だった。  なんといっても人類よりも、おそらくははるかに進んだ文明の結晶《けっしょう》とも言えるものである。それを研究し、分析《ぶんせき》するだけで、何十年、あるいは何百年も先の技術が手に入るかもしれないのだ。そんな技術が特定の一国の手に渡って、他の国々が黙っているはずもない。技術力の差は軍事力の差ともなる。一つ間違《まちが》うと世界大戦にもなりかねない大問題だった。  世界は諸手《もろて》を上げてその申し出を歓迎《かんげい》した。  ただし。彼女がその金額を提示するまではだ。  五十兆円……  それが彼女の要求した金額だった。 『世界の人口、一人あたま一万円じゃない』と彼女はけろっと言い、全世界はあっけにとられた。あまりにもけたはずれな金額だ。世界一の金持ちと言われるブルネイ国王でさえ、資産二兆円である。日本の国家予算に近いそんな大金を、おいそれと出せるわけがない。  世論は一斉《いっせい》に彼女を叩《たた》いたが、彼女は一歩もゆずらなかった。そして、結局世界は折れたのだ。それだけの値打ちはあると判断したのだろう。そのほとんどの額を出したのは、日米独、三カ国の財界だったらしいが、とにかく五十兆円は支払《しはら》われた。しかも『無税』で。(当然かもしれない。税をとるのは日本一国。しかも税率は七割。支払った他の国が黙ってない)  しかし世界が無理をして買ったその宇宙船は、売買|契約《けいやく》がおこなわれたわずか数日後に、永久に消え失《う》せてしまったのである。  どうしても中に入ることが出来ないため、入口らしき場所を爆破《ばくは》。ようやく開いた内部に突入《とつにゅう》した直後だった。完全に壊《こわ》れていると思われていた宇宙船がいきなり活動を始め、まるで生き物のように内部にいた人間を吐《は》き出すやいなや、猛烈な勢いで飛び立ったのだ。宇宙船は大気圏《たいきけん》を抜《ぬ》け、そして、数時間ののち大爆発と共に消滅《しょうめつ》した。  強硬《きょうこう》突破した人々の手に残されたのは、外殻《がいかく》の一部と、用途不明の器具が数点。そして乗員(人間とほぼ同じタイプと、より小型〔子供という説も〕の二種が乗っていたらしい)の衣服が数着のみだった……世界の非難は強硬手段に出た調査団に集まった。しかも内部告発から、これが日米両政府の指令であったことが発覚。大統領と総理大臣の辞任というおまけまでつき、この大騒動《おおそうどう》は終わった。  事件の後、世界は地球外文明の存在を認めざるを得なくなり、国連宇宙委員会(UNSC)が設立された。数少ない宇宙船の遺物を分析していた調査団は、そのまま国連宇宙開発機構(UNSDO)となり、今も研究を進めている。  今年の始め、UNSDOは二十一世紀に向けた宇宙計画を発表した。EVOLUTION PROJECT(進化計画)と名づけられた人類が宇宙進出する為《ため》のプロジェクトだが、ロケットに代わる画期的な打ち上げシステムや全長数キロの宇宙ステーションなど、財政難でピーピー言ってる国連に出来る計画ではない。だが、このままのペースで環境|汚染《おせん》が進むなら、二十一世紀の終わりか二十二世紀の初頭、張り詰めた糸が切れるように、核の冬に匹敵《ひってき》する環境の『大崩壊《だいほうかい》』が発生する可能性を、多くの科学者が認めている。その『大崩壊』を回避《かいひ》するにはこれしかないと言うのだが、所詮《しょせん》は絵に描いた餅《もち》だった。  五十兆円をその手にした女性は、現在ニューヨーク在住。金利を運用し、今はディズニーワールドに匹敵するレジャーランドを、南太平洋の海上に建設中だということだ。  世界の宇宙計画の遅《おく》れには、あの事件での巨大な出費も影響《えいきょう》しているに違いない。それを考えると、友美もおだやかな気分ではないが、彼女が悪いわけではない。多くの人々が今も言うように、金を返すべきだとも思わない。もしもあの宇宙船さえ無事だったら、今頃《いまごろ》宇宙開発は、画期的な時代を迎《むか》えていたかもしれないのだから。無茶苦茶にしたのは、政治家連中だった。金を返すべきは彼らである。  逆立ちしたままだった友美は、ゆっくりと両足をつき、砂のついたてのひらをはたいて、ピンを拾い上げた。  目の前に見慣れたお屋敷が映る。この高級住宅街でもかなり古びた純日本風|邸宅《ていたく》だが、主《あるじ》は意外にも、斬新《ざんしん》な未来設計で世界的に有名な建築学者だという。 「このお屋敷なら、十億にはなるんだろうな……」  いや、二十億にはなるだろう。そうすれば、シャトルは無理でもH・㈵ロケットなら、一つは買えるはずだ。 「もう、いじましいんだから……」  友美はブランコの支柱に頭をぶつけた。ゴンという重い音と共にブランコが揺れる。かつて必殺技だった頭突きも、便わなくなって四年になろうとしていた。  大きく伸《の》びをし、もう一度空を見上げる。  ごたごたとした人の思いとは別の世界がそこにあった。  胸が騒ぐ。やはり、宇宙飛行士になりたいと思う。  環境問題にせよ、宇宙開発にせよ、未来はだんだんとくすんだ色におおわれ始めていたが、まだあきらめるには早すぎるだろう。  そう、おじさんのメモにあるように、きっと、希望はあるはずだった。 「え?」  不意にその瞳《ひとみ》が、いぶかしげに曇《くも》った。 「星が……」  友美が見つめる夜空。その中に輝く星々の数が、どんどん見るまに増えていくのだ。 「流星雨?」  しかし、そんなニュースは聞いていない。天文ガイドの今月号にも、そんな記事はなかった。  半分うろたえながら、その不思議な現象を見つめるうち残数を増し、地上に向かっているらしい星々が、やけに小さいものだということに気がついた。そして光度を増し続ける一つの星を見すえた数秒後、小指の先ほどの光点と友美は向かい合っていた。  小さな星は、またたきながら目の前で浮《う》かんでいる。まぶしいほどの輝《かがや》き……  驚きで声も出ない友美の両手が、ゆっくりとその星をつかもうと顔の前に上がる。  丸めたてのひらが、あっけなく小さな星を閉《と》じこめた。  指の隙間《すきま》から細い光がもれている。熱くも冷たくもない輝きだ。 「……星を、つかまえちゃった……」  信じられない事がおきている。胸がドキドキと高鳴ってきた。  友美は、そーっと親指同士の間を広げて右目を近づけた。  いる! てのひらの中はまるで昼の明るさだ。  と、いきなりだった。その小さな星は、細い親指の隙間をするりと抜けたかと思うと、まっすぐに友美の顔に突進してきた。 「きゃっ!」と、たまらず目を閉じ顔をそらしたが、額に軽い衝撃《しょうげき》を感じた。  反射的に右手が額に舞《ま》う。ばちんという高い音が公園に響《ひび》いた。おもいっきり叩いてしまったのだ。友美はその勢いでしりもちをついていた。 「たーっ……」  あまりの痛さに涙《なみだ》がにじんでいたが、右手は額に張りついたままだ。捕まえたという自信があった。ところが額のしびれが取れてきても、何の感触《かんしょく》もないようなのだ。  友美はできるかぎり目を上に向け、そーっとてのひらを上げていった。  一筋の光も見えない。つぶしてしまったのかと思いながらさらに手を額から離すと…… 「なによこれ」  何もなし。まったく何も。てのひらにも額にも、ごみひとつとしてくっついていなかった。  街灯の近くに立つカーブミラーの所まで走ったが、叩いた額が少し赤くなっているだけだった。 「幻覚《げんかく》?」  不安が心をよぎる。大体こんな事が現実にあるなんて、話にも聞いたことがない。思わず天を仰《あお》ぐと、あの小さな星々が驚くほど数を増し、地上に降り注ぎ続けている。  今やそれは、光り輝くぼたん雪が町に舞い降りるのに似ていた。 「きれいだな……」  首をひねりながらも、その幻想的な光景に見入ってしまっていた。  次々と降ってくる星々は、明かりのついた家やマンションに消え、あちこちから人の驚く声が聞こえ始めていた。 「幻覚じゃないや」と、その騒ぎを聞いた友美はほっとした。  では、一体なんなのだろう? 腕組《うでぐ》みして考えたが、何も思いつかない。  その友美のまわりを、音もなく飛びかう星たちの数が、ごくわずかになりつつあった。  星降りは、早くも終わりかけている。  これが、三年前の宇宙船|発掘《はっくつ》事件をも上回る、大騒動の始まりだった。 [#改ページ]  一 日 目  目の前に古びた漆喰《しっくい》の壁《かべ》があった。  六歳の友美には、それがあのおじさんの家の、蔵《くら》の中だと分かっていた。  これは夢《ゆめ》だった。なつかしい、何度目かわからない、あの屋敷《やしき》の夢だ。おじさんが横にいて、ずっと何かを話していた事に気がつく。自分とおじさんは、ロケットの話をしていたのだと思い出した。温室から取ってきたバナナの香《かお》りがきつい。  おじさんは、栗鼠《りす》やら狸《たぬき》やらの剥製《はくせい》の埃《ほこり》を払《はら》っていた。 『可哀《かわい》そう……』と、友美はつぶやく。  おじさんは大きく首を振《ふ》った。 『大丈夫《だいじょうぶ》、これは全部私が食べた動物だからね』  首をかしげながらその笑い顔を見ていると、いきなりほっぺたをパチンと叩かれた。出た! 鼻をたらした泣き虫チビだ。いつも夢の中で悪さをするのはこいつだった。 『なにすんのよ!』と、友美が仕返ししようと手を上げると、男の子は取った蚊を自分の口に放《ほう》り込《こ》んだ。  友美は悲鳴を上げ、馬鹿《ばか》なガキの口を無理やりこじ開けようとした。  鼻たれが泣き出し、おじさんが笑った。 『いいんだ。その蚊はその子が殺したものだ。食べる権利があるよ』 『食べる権利?』 『そう、人が食べる物は、蚊にせよパンにせよ、元は全《すべ》て生き物だ。植物以外の生物は、どんな動物だって他の命を食べて生きている。そして二度死んだ命が二度と帰らないのは、人間も他の生き物も同じだろう?』  友美はうなずいた。 『だったら、殺す以上は、食べるのが礼儀《れいぎ》だと思わないか? 食べればその死んだ生き物は、自分の一部になる。つまり生き物の死が無駄《むだ》に終わらないってことだ。言い換《か》えれば、食べないものなら、殺さないというのが、生き物の掟《おきて》だな』  その生物の掟を破っているのが、人間だと友美には分かった。感動しているその目の前に、蚊で作った大きな団子がにゅっと出てきた。あの鼻たれだ。ニカニカしながら、生きて蠢《うごめ》く蚊団子を差し出している。  これを食べなきゃならないと、夢特有の不条理さで迫《せま》ってきた。 『ちょっと多いよ』と情けなくなってきた。今年も去年も二|匹《ひき》で済ませたのに。蚊は美味《おい》しくないのだと思って、ふと気がついた。  何故《なぜ》知ってるのだろう? 蚊を食べた事があるのか? あるような、ないような……  悩《なや》んでいると、鼻たれが壁を叩き始めた。さっさと食べろと言うのだ。  気がつくと、蚊はハエになっている。  思い出した。ハエは一度食べた事がある。中一の時だ。あれは本当に気持ち悪かった。え? 今自分は六歳だろう。どうなってるんだ?  ドンドンと、うるさいほどに壁を叩く。 「わかった。食べるって!」  やけくそにそう言ったとたん、目が醒《さ》めていた。  数年前に改装《かいそう》する際、洋間にしてもらった友美の部屋のドアが乱暴に叩かれている。  現実にあった事と非現実とがごっちゃになった夢だった。あのハエ団子を食べずに済んで良かったと思いながら、枕元《まくらもと》の時計を取った。 「五時!?」  まだ朝の勉強時間まで三十分もある。四時間半しか寝《ね》ていなかった。  友美は溜《た》め息をつき、両手で顔をこすった。そのまま立ち上がろうとして…… 「ん?」と、その動きが止まる。  指に妙《みょう》な感触《かんしょく》があった。  柔《やわ》らかいような固いような、熱いような冷たいような、何とも言えないものが、額にできている。何かがくっついているような違和《いわ》感はないのだが、それは凹凸《おうとつ》に富んでおり、瘤《こぶ》にしては変だった。大体痛くない。  友美は立ち上がり、明かりをつけて、壁の鏡を見た。 「えっ!」  前髪《まえがみ》を上げた手の下に、つけた覚えのない物がついていた。  綺麗《きれい》な装飾品《そうしょくひん》だ。縦二センチ横一センチというところだろう。四つの部品から出来ている。  一番大きなのは、紫色《むらさきいろ》の楕円形《だえんけい》をした透明《とうめい》な石で、長さが一センチ以上ある。その真下にあるまん丸の石は、トルコ石のようなブルーで半透明。そしていびつな形のルビーのような真っ赤で透明な石が、楕円と丸の石のつなぎ目の両脇《りょうわき》を飾《かざ》るようについていた。全体的に『!』マークに似てなくもない。  それが何でくっつけたのか、額のちょうど真ん中に、ぴったりと張りついているわけだ。額との接着部分には、黒いラバーのような緩衝材《かんしょうざい》まで使ってあって、顔の筋肉を使っても痛くも突《つ》っ張りもしない。 「よくできてるなぁ」  友美は正直感心していた。兄のいたずらに違《ちが》いないが、それにしても上手《うま》く出来ている。額にびっくりマークとは、割にしゃれていると思えた。  と、ドアの外では、その大学生の兄と母親の、何だか激《はげ》しい言い争いになっているようだ。 「朝っぱらから、なんなのかな……」  友美はドアを開き、廊下《ろうか》に出た。そこには父もいる。どうも兄の方が劣勢《れっせい》らしい。母の肩越《かたご》しに見える兄、幸雄に額を指差して言った。 「兄さん。よく出来てるね、これ」  とたんに三人の鋭《するど》い視線が友美に集中する。その全員の額にも!マークがついていた。 「いい歳《とし》をして馬鹿な悪戯《いたずら》はやめろ。何を考えてるんだ」と、父が兄に詰《つ》め寄った。 「おれじゃないって! 何度言えばいいんだよ!」 「兄さんじゃないの?」 「おれじゃない!」  友美は一瞬《いっしゅん》にして昨夜の事を思い出していた。家に帰ると、全員がいきなり飛び込んできた星が額に当たったと興奮していたのだ。 「昨日の星!」  その声に、「それだ!」と、幸雄が手を打った。 「テレビ!」  全員が階段を駆《か》け降りて、居間に走った。素早《すばや》さでは一番の友美が、コントローラーのスイッチをONにする。  五時前だというのに、アナウンサーの緊張《きんちょう》した顔が映っていた。その背景に、額の物体が大アップで映し出されている。 「音量だ」と、父が電話をかけながら、緊張の面《おも》もちで友美に命じた。  友美の父は、この町の警察署長を務めている。非常事態だという直感が働いていた。  アナウンサーの声が怒鳴《どな》り声に変わる。 『……以上のように、アメリカでは未確認《みかくにん》ですが六〇パーセント近い人々の額にこの物体が付着しているものと思われます。日本でも、おそらくそれに近い数の方々の額に、同様の物体が付着しているでしょう。原因としては、日本時間で昨夜の七時|頃《ごろ》、アメリカでは明け方に降った未確認物体の影響《えいきょう》という説が有力で……』 「他《ほか》の原因があるわけないわ」と、友美が笑った。 「署にいくよ」  父が言い、早くも問い合わせが殺到《さっとう》していると告げた。 『……現在までのところ、アメリカにおいてはこの物体の直接的な原因による死者、病人は出ていない模様です……アメリカ政府の公式発表はまだ行われておりませんが、さしあたり命にかかわる影響はないという見解が、医師、生物学者から出ています。どうか落ち着いて、冷静に対処をお願いします』 「落ち着くなんて、できますか! これ、虫じゃないの!?」  まだ生物とも断定されていないのだが、虫なら何でも苦手な母は、そう怒鳴って身震《みぶる》いした。着替《きが》えに行こうとする父を、もう少しいてくれと止める。 『また、どうしても取りたいのなら、簡単な手術で除去可能だそうです。ただし表皮を剥《は》がすことになるため、医師としては女性には勧められないということで……』 「どうしようかしら。ね、痛いのかな? こう言うってことは、跡《あと》が残る可能性があるわけね?」 「命には別状ないと言ってる。大体、綺麗なもんじゃないか。そうあわてて取る事もないだろう」  アナウンサーの言葉にほとんどパニック状態になりかけている母を、父はなだめながらパジャマを脱《ぬ》いだ。  友美たちはニュースに見入っている。アナウンサーは、この物体の正体についてのコメントを紹介《しょうかい》しはじめていた。星が降る数時間前、各地の天文台が宇宙での謎《なぞ》の発光を観測したらしい。物体との関連性を、今緊急に調査中だそうだ。 「ふーん、やっぱり宇宙からきたのか……」  友美には納得《なっとく》だった。なんせ自分は降ってくる所をこの目で見たのだから。  しかし、綺麗な物だ。これを兄が作ったと一時でも思った自分が許せない。こんな物を作れる腕《うで》など兄にはなかった。どこで見つけてくるのか知らないが、大昆虫《だいこんちゅう》シリーズとか、人体骨格とか、内臓シリーズ等、妙なプラモデルを捜《さが》すのは名人級だけれど、作る腕はせいぜい二流。下手の横好きに近いのだから。  毎日夢にまで見る宇宙。そこからやって来た物体。それだけで友美にとっては気味の悪い物ではない。指で輪郭《りんかく》をなぞると、何だか楽しくなってくるくらいだ。 「あ、指紋《しもん》ついたかな」と、完全にこの物体が気に入り、パジャマの袖《そで》で拭《ぬぐ》ってやる妹に、兄は溜め息ついた。 「……お前ね。仮にも物体Xさまなんだぞ。ちょっとは敬意を表して怖《こわ》がれよ。母上みたいにパニックせんでもいいけど」  友美が笑って首を振った時、いきなり母が突進《とっしん》してきた。 「友美っ! 病院へいくのよ! お父さんが署に行く途中寄ってくださるの! 早く支度《したく》なさい。さ、早くっ!」 「待ってよ。あわててもまだ病院開いてない……」  その時友美は、母の額を見つめてある発見をしていた。 「よく見たら母さんの、私のと色が違うね。丸い石なんかピンクで綺麗」 「友美っ!」  余りにものんびりした娘に、ついに母の理性の線が切れた。 「あなたは何でそうなのっ! 毛虫やら蛙《かえる》やらイモムシやら蛆虫《うじむし》やら、ましてこんなものまで何だって好きだなんて、ただのへンタイじゃないのっ!」 「母さんも昔《むかし》言ってたでしょ、生き物は何でも平等だって」 「う・る・さ・い・来なさい!」  母は有無《うむ》を言わさず友美の手を取り、思いっきり引っ張った。  あわてて父と兄が止めに入り、二人がかりで友美から引き離《はな》した。 「離して! こんな、こんな気味悪い物、もう一分だって一秒だって我慢《がまん》できないわ!」  母がそう怒鳴った瞬間だった。 『ポロッ……』  爪も入らない程《ほど》ピッタリとついていた物体が、何の抵抗《ていこう》もなく額から離れていった。  続いて床《ゆか》に落ちて鳴った『カラン』という微《かす》かな音と共に、皆《みな》は下を向く。  物体はその裏側を上にして落ちていた。そこには昆虫の腹のような横縞《よこじま》模様が彫《ほ》り込まれ、いかにも不気味に照り輝《かがや》いている。  突然の出来事に一同が硬直《こうちょく》している中、友美はしゃがみこみ物体を拾い上げた。 「やっぱり虫だったのよ……」と、母が半ば放心状態でつぶやいた。 「……するとこの宝石っぽいのは目か? でも、なんで急に落ちたんだ?」  幸雄は自分の額にさわり、物体がびくともしないことを確認した。 「けっこう気が弱いのかもね」と、友美が答える。 「じゃ、拒絶《きょぜつ》すれば取れるのか? そういう生き物? 何だろうな、本当に……」  確かにこれは宇宙生物に違いない。しかし、拒絶すれば取れるなら、どう転んでも大した危険はなさそうに思える。 「でも、取った方がいいんだろうな。友美お前取る気に……ならんな、絶対に」  兄はそう言って寝不足の目をこすった。我《わ》が妹ながら、変わったやつだ。ボーイフレンド、おしゃれ、アイドル歌手に、コンサート。十六歳の少女が興味を持って当然のものに全然興味を示さない。優等生として近隣《きんりん》の高校にまでも名前が通っているらしいが、家ではそんな素振《そぶ》りはない。虫や動物にも強く、気分としては弟を持っているのに近かった。  それにこの妹はやたらに勘《かん》がいい。クイズでも事件でも、友美がこうだと言い切った時には十中八、九、その通りになる。幸雄もそれには感心していた。 「大丈夫だってカンがするわけか?」  が、意外にも友美は考え込んでしまった。 「……よくわからない。でも、ま、だいじょぶなんじゃないの? こんなに綺麗なんだから」  頼《たよ》りないカンだと、幸雄はまた溜め息をついた。  太陽が高く昇《のぼ》るにつれ、この物体の『被害《ひがい》』が、全世界に及《およ》んでいることが確認されはじめていた。  日米の他、全ヨーロッパ、中国、オーストラリア、アフリカと、物体発見とそれによって引き起こされた社会不安と事件のニュースが、キャスターを錯乱《さくらん》させるほどの質と量で報道部になだれ込みつつあった。今、南米からも第一報が入ってきている。  できれば一日じゅうテレビにかじりついていたかった友美だったが、残念ながら今日から二学期が始まる。自主休講を宣言した大学生の兄をにらみながら、玄関《げんかん》を出た。  近所の会社員が、液晶《えきしょう》テレビを見ながら歩いていく。その男性の額にも、物体が朝の日差しの中で光っていた。  自転車に乗り、友美は走り始めた。学校まではほぼ四キロ。電車でもバスでも通えるが、トレーニングを兼ねて、雨降り以外は自転車通学にしている。  心が少し騒《さわ》いでいた。わくわくするような気分。頬《ほお》をなぶる長い髪も気にならなかった。何か素敵な事が起きる、そんな予感がし始めていた。この額の物体が、いつもと違う世界を連れてきてくれるような。  朝の町は物体のせいか、あわただしい雰囲気に包まれている。  涼《すず》しい風が吹き抜けていた。不思議なほど気持ちがいい。ビルや家が隙間《すきま》なく建ち並んだ町ではなく、高原の大自然の中を駆け抜けているような気分だ。  いつも見慣れているはずの町並みまで、少し違って見える。いや……  友美はゆっくりと、ブレーキをかけた。 「少しどころじゃないよ……」  道路も家並みも、いつもと全く変わっていない。しかし、何かが根本的に違うのだ。首を傾《かし》げて視線を上げ、ビルの間から遠くに霞《かす》む山々を見た。  友美は目をみはった。遥《はる》かに遠く、霞んでしか見えないはずの山々が、まるで望遠鏡でも覗《のぞ》いているかのように、その細部までくっきりと観察出来るのだ。  しかも不思議なことに、それは山のその部分だけが拡大されているのではなかった。目に映る全《すべ》てのスケールは全く変わっていないのに、意識を集中した場所のみが、手に取るように見えるのだった。  今までに全く経験したことのない感覚だ。  友美は視線を町並みに戻《もど》し、ようやく違和感の正体に気付いた。 「目が、視力が上がったんだ!」  町は何も変わってはいなかった。目が突然良くなり、今まで気付かなかった細かな物までが見えるようになっただけなのだ。  宇宙飛行士志望の友美の目は悪くない。両目とも2・0はあるだろう。その倍で4・0?  でも、だからと言って、事によれば数十キロ離れた山が、こうはっきりと見えるのは変だ。だとすれば原因は……。  呆《あき》れ顔の友美が、額の謎の物体に触《ふ》れた。  とたんに世界がくすんでいった。色も形も、ぼんやりとぼやけ、山々はほとんど見えなくなってしまう。  驚《おどろ》いて手を離すと、再び別世界のような町がよみがえった。 「わかった。下の丸い石!」  実験を繰《く》り返した結果、物体の四つの石の内、その下部につく二番目に大きな青い石が、視力の増幅をしてくれているのを発見した。 「やっぱりこれ、目だったんだ!」  まさかこんな力をくれるものだとは、夢《ゆめ》に思わなかった。物体の目で見た町は、まるで別世界だ。自分の目だけで見た光景が、平面に描かれた絵のように思える。 「普通《ふつう》の映画と、3D映画の違い以上だな」  驚きと興奮ではち切れそうになった友美の目が、緑色の輝きを発見した。  ビルの建ち並ぶ見慣れた右にある改築したばかりの神社の横、そこにこの町最後の竹林がある。緑があふれているのは、町中でもここくらいだろう。その緑が、まるで友美を招くかのように、目に飛び込《こ》んで来たのだ。  朝の光が竹林の中に差し込んでいた。  それが、太い孟宗竹《もうそうちく》の稈《かん》に乱反射し、淡い緑の輝きが、目に映る限りの世界を染めている。竹は、一メートル程の等間隔《とうかんかく》で整然と並び、下草の類《たぐい》は全くなく、ただ、白く枯《か》れた竹の葉が、一面に降り積もった雪のように地面を覆《おお》いつくしていた。  風が、竹の葉をざわめかせて渡《わた》ってゆく。  竹の芳香《ほうこう》が、体全体から染《し》み込んできそうだった。  ここへ来たのは初めてではない。この場所を登下校に使う友人に教えてもらって以来、遠回りして通うことも少なくなかった。でも、ここまで綺麗な場所だとは感じなかった。竹林の中を歩いていると、現実ではないような気さえする。  頭がぼうっとしてきた友美の耳に、何か妙《みょう》な音が聞こえ始めていた。  最初は風の音かと思ったのだが、竹林の中を進むにつれ、その音は段々と大きくなる一方だった。 「……ぅぅぅぅぅぅ……んぅぅぅぅぅぅぅぅ……」  と、何か唸《うな》っているような音が、確かに聞こえてくる。  友美は少し用心しながら歩いていく。音は、次第《しだい》にはっきりとしてきた。舗装《ほそう》されていない地道。その横の方角からだ。  押してきた自転車のスタンドをたてる。 「どっかで聞いたこと、あるなあ……」  まだ時間も早い。行ってみる事にした友美は、竹の枯れ葉を踏《ふ》んで、稈の間を進んだ。  別天地のように美しい竹林に、えげつなく汚《きたな》い物が落ちているのが見えた。異音はその物が発しているようだ。 「んぐおおおおおおお……ぐおおおおおおお……」  友美は呆れてその音源を見下ろした。物体によって増幅された視力が、今だけは恨《うら》めしく思える。こんなのをはっきりとなんか見たくなかった。  聞き覚えがあるはずだ。怪音《かいおん》の正体は、クラスメイトのいびきだった。枯れ葉の上で、この上なく幸せそうに眠《ねむ》っている少年には、相沢広樹という立派な名前があるが、誰《だれ》一人として、その名を呼ぶ者はいない。  寝太郎《ねたろう》。(正確には、三年寝太郎。一説には五年とも十年と言われる)それが、彼の呼び名だった。成績は当然のように良くはない。ざんばらな不潔な髪《かみ》、今時|珍《めずら》しい継《つ》ぎの当たったズボン、よれよれのワイシャツ、そばに寄るとかなり臭《くさ》かった。授業はよくさぼるし、出てきても寝ているだけ。クラス、いや、有名進学校である高校にとっても、彼は厄介者《やっかいもの》になっていたが、彼の祖父が理事長の親友だということで、退学にするわけにもいかないのだという。なぜかその見かけによらず、いいところの坊《ぼっ》ちゃんらしい。  新入生総代だった友美は、当然のように委員長をさせられ、クラスの問題として、寝太郎の更生《こうせい》に協力してくれと担任に頼《たの》まれた。クラスに溶《と》け込まず、自分勝手に行動する寝太郎が大嫌《だいきら》いだったが、『優等生』の友美が断るわけにもいかず、先学期の終わりから隣《となり》の席で、悪臭《あくしゅう》と戦って来たのだ。 「……また今日から、寝太郎の横か……」  思わず溜《た》め息が出る。金持ちだという噂が本当なら、せめて風呂《ふろ》くらい入れと思う。九月とはいえ、まだまだ暑い日は続くのに。  それにしても、どうしてこんなところで寝ているのだろうと、ようやく疑問が湧《わ》いてきた。よく見れば、足元に鋤《すき》が落ちている。物体がついた顔には、泥《どろ》が乾《かわ》いた白い跡がついていた。穴でも掘《ほ》っていたのか?  やれやれとしゃがんだ友美は、枯れ葉を拾い上げ、寝太郎の鼻の穴をくすぐった。 「ええーっくしっ!」  どえらいくしゃみを連発した寝太郎は、半身を起き上がらせ、ぼけっと友美を見た。 「夢かな……委員長がこんなとこにいるわけないぞ……」  思わず怒鳴《どな》りたくなるのを堪《こら》え、友美は首を振った。 「夢じゃないわ。おはよう、寝太郎君」  友美は意識して、優等生的な口調に変える。一カ月ぶりなので、少しぎこちなかった。  ようやく目覚めたらしい寝太郎の目が、じっと友美から離れない。  髪の毛で半分|隠《かく》れたその顔に、笑いの表情を見つけた友美は、ちょっと頭にくる。物体を笑われたのだと思った。しかし、兄も渋々《しぶしぶ》認めたように、結構似合っているはずだ。 「なに? 何か言いたい事があるの?」  寝太郎は、笑いながら首を振《ふ》った。汚い泥だらけの両手で、顔をこする。ぶわっと正体不明の粉が舞《ま》った。  あわてて後ずさる友美の見守る中、その手が止まった。額に発見した異物の輪郭をなぞってゆく。 「なんじゃこれ」 「何を言ってるのよ。今、私のを見て、笑ってたじゃない」 「あ、委員長にも、ついてたのか」  友美は完全に頭に来た。では、さっきは友美自身を見て笑ったのか? 「今のところ宇宙から来たとしか、分からないわ。昨日の夜、星が降ったでしょう」  不機嫌《ふきげん》さを押《お》さえ切れずに、固い表情で友美が言う。  寝太郎はうなずいた。どうやら彼も星降りを見たらしいが、「こりゃあ、大事件だな」と言う口調には、全く緊迫《きんぱく》感がない。友美は何だか苛々《いらいら》してきた。クラスの中で、友美にこんな態度をとるのはこいつだけだ。それが、たまに、彼女《かのじょ》の芝居《しばい》を見抜いているように感じられる時がある。気のせいに違《ちが》いないのだが、その意味でも側《そば》にいたくない奴《やつ》だった。 「そういう事。でも、こんな所で寝てるのも、事件と言えば事件よね」  つい意地悪な言い方になった友美を、寝太郎はどきっとして見上げた。 「先生に言うのか?」 「私は、先生に寝太郎君の事を頼まれてるの。場合によっては話すわ」 「まいったな……」と、寝太郎は頭をばりばり掻《か》き出した。もうもうと、ほこりとフケが飛散する。友美はさらに数メートル後ろに飛び下がった。 「頼むよ。祖父《じい》さんに、今度学校に呼び出されたら、退学だって言われてんだ」 「わかった! 言わないから、掻くの止めてっ!」  そう友美が思わず怒鳴った時だ。後ろの道の方から、 「誰かいるのか?」という声がした。 「あれ? 氷室さん!」  現れたのは、同じクラスの二人だった。一人は宮田直人。クラスの副委員長だ。それはクラスで友美の次に成績が良い事を示していたが、彼が優秀《ゆうしゅう》なのは頭だけではない。学校の中で唯一《ゆいいつ》他校に威張れるだけの成績を上げているサッカー部。新入生の中でただ一人レギュラー入りを果たしているのが、その証拠《しょうこ》だった。背はすらりと高く、百八十近い。切れ長の目、公家《くげ》のような顔立ちがタレントっぽく、女子にはファンまでいるようだが、結構男子にも人望があった。意外な場所に友美を発見して、喜んでいる。 「おはよう」と笑ったのは、同じ茶道同好会の仲間でもある、松本洋子。長い髪を三つあみにしている。見かけはおとなしいが、芯《しん》のしっかりとした少女で、頭の出来も良く、もし友美がいなければ、副委員長だろう。この竹林を教えてくれたのは、彼女だった。友美は、洋子となら親友になりたいと思っていた。 「おはよう」  改めて挨拶《あいさつ》した友美は、二人の額にも物体を見つけて、少し気分が良くなった。 「なんだかすごい事がはじまったみたいね」  洋子がそう言って、額の物体をつつく。  友美はにっこりしてうなずいた。 「でも、どうしたの、それ」と、洋子の腕《うで》を見る。赤く腫《は》れ上がっていたのだ。 「蚊《か》に刺《さ》されたの。四日前に」 「蚊?」  洋子は特異体質で、蚊に刺されただけで病院行きだと直人は肩《かた》をすくめた。二人は家も隣同士の幼なじみだが、直人はそれを知られたくないらしい。偶然《ぐうぜん》その事を知った友美は口止めをされていたし、今も「こいつとは、偶然|一緒《いっしょ》になったんだ」と、妙にあわてて言い訳をする。その言葉が真実でないのは、怒《おこ》った洋子の軽いひじてつで丸わかりだったが。 「でも寝太郎と何してたんだ、こんな所で」  ちょっと責めるような口調で、直人が友美に尋《たず》ねた。 「それを今、聞いていたの」と、友美が苦笑する。 「ここで寝てたみたいなのよ、彼」  話を聞いて呆れる二人の前で、のっそりと寝太郎が立ち上がった。 「おい、おれたちはお前の監視《かんし》役だ。はっきり言えよ。竹の子でも取ってたのか?」  詰問《きつもん》口調の直人に、「九月に竹の子が生えるかよ」と、寝太郎が笑った。 「じゃあ何?」と、腕組みした友美が聞く。  三人に近づいた寝太郎は、その問いには答えず、いきなりバチンと洋子の頬を叩《たた》いた。 「何する!」  気色《けしき》立つ直人に、寝太郎は手を広げて見せた。蚊が一|匹《ぴき》死んでいる。 「特異体質なんだろ? ここら辺は結構蚊がいるぞ。早く出た方がいいと思うけどな」  手に蚊を握《にぎ》ったまま、寝太郎は鋤を拾って歩き出した。 「待ちなさいって。どうしてここに寝てたのか、まだ聞いてないわ」  友美の声に寝太郎は、 「先祖の隠した宝探し」と、答えた。 「委員長、約束《やくそく》したぞ。見つけたら見せるから先生に告げ口だけはしないでくれよな」  全員がぽかんとなった隙に、その姿は竹林の奥《おく》に消えていた。 「宝探しとはね……」  直人が頭を抱《かか》えた。近隣《きんりん》のエリートが集《つど》う我《わ》が高校。その中で、あの寝太郎だけが異分子だった。 「あいつは、商科か専門学校に行きゃよかったんだ。いや、穴が掘りたいなら土木科だな……」  洋子はクスクス笑いながら、直人に言った。 「仕方ないわ。どんな学校にも、ヘンな子が一人ぐらいはいるわよ」  友美は、まだ寝太郎が消えた場所をにらんでいた。  宝探し? あいつは自分の年齢《ねんれい》を知っているのだろうか。そんな馬鹿《ばか》げた事を平気で言って、平気でクラスから孤立《こりつ》している。それは、寝太郎が強いからなのか?  友美は首を振《ふ》った。自分があいつに劣《おと》るなんて考えたくない。あれはただの変人だった。 「行きましょ。今日はこの物体の事もあるし、早く登校しておいた方がいいと思うわ」  不機嫌そうに友美は言い、二人の先に立って元の道に戻った。  刑務所《けいむしょ》のような高い塀《へい》が、竹を透《す》かして見えていた。そこは地元の人から化け物|屋敷《やしき》と噂される、竹林の中の一軒家《いつけんや》だ。時代劇に出てくるような門は、何百年も開いた事がないらしい。むろん誰も住んでいないし、四メートルもある土塀の中がどうなっているのか見た者もいないという、謎《なぞ》の屋敷だった。  一時、ここがあのおじさんの屋敷ではないかと疑った事がある。しかし、どう考えてもこの場所は遠すぎた。家から四キロ近い距離なのだ。第一、これほど不気味な雰囲気ではなかったはずだ。それに、たった一度おじさんの家に入った時は、裏口からだったような記憶《きおく》もある。この化け物屋敷の回りには、そんなものはなかった。でも、もし入れるのなら、一度中を確かめたいとは思っていたが…… 「あ、氷室さん、蚊だ!」  直人が友美の手にとまった蚊を叩こうとしていた。  友美は、「いいわ、そのままで」と、あわてて直人を止める。  蚊は、腹|一杯《いっぱい》血を吸うと、ゆっくりと飛び立った。 「私は特異体質じゃないし、蚊も生きてるものね」  へえっと、直人が感心した。その頬《ほお》が紅潮している。 「優《やさ》しいんだな」  友美は曖昧《あいまい》に笑うと、歩き始めた。  そんなんじゃないのだ。本当は、叩き殺してやりたかった。でも、そうすればその蚊を食べねばならない。食べないものなら、殺さない。それがおじさんから学んだ自然の掟《おきて》だったが、食べれば世間がどう思うかも分かっていた。だから殺さなかっただけなのだ。自分が優しいわけじゃない。現に今年の夏も、人のいない所では、すでに二匹食べている。  そして、ふと、友美は気がついた。寝太郎は、殺した蚊を握ったままだったと……  学校では、生徒のほぼ全員が物体を額につけたまま登校してきていた。取ったものは非常に少なく、全校でも二、三人というところだったろう。教師たちは、臨時職員会議を開き、始業式は三十分|遅《おく》れることになっていた。もちろん生徒たちは大喜びだ。ちょっとしたスリルをともなった世界的な大事件にかかわっているという事が、実感として感じられ始めていた。これからどうなるか分からないが、仲間が世界に何十億もいるのでは、恐怖《きょうふ》や危機感よりも、台風が来る前のような、興奮の方が強かった。  友美たちのいる一年四組の教室でも、話題は物体のことに尽《つ》きていた。  今やどの学校でもクラスの半分を占《し》める眼鏡組。進学校のこの学校では、その率は更《さら》に高い筈《はず》なのに、今朝の教室には一つの眼鏡も存在しない。  物体の視力増幅力は、どんな弱視の目も差別しなかったわけだ。  教室の大騒《おおさわ》ぎの大部分は、眼鏡から解放された連中の、喜びの声でもあった。日頃《ひごろ》、暇《ひま》があったら英単語を覚えているような者でさえ、顔じゅう口にして笑っている。  それほど嬉《うれ》しいものかなと、視力では苦労をした事のない直人は思った。そして、楽し気な女生徒たちの中心に座《すわ》る、綺麗《きれい》な長い髪の委員長を見つめる。  全校男子、憧《あこが》れの的の少女だ。  思えば、当然自分のものだと考えていた、入学式の新入生代表の挨拶をした友美を見た瞬間《しゅんかん》から、惚《ほ》れてたのかも知れない。  そこに見た少女は、どんなテレビのアイドルよりも可憐《かれん》で、美しく、そしてその声には毅然《きぜん》とした響きがあった。それまで持っていた見知らぬライバルへの対抗心《たいこうしん》も、自分への苛立ちも一瞬で消し飛び、ただ、その姿に見惚《みと》れたのだ。  同じクラスになれたと知った日は、一晩眠れなかった。  生まれて初めて、委員長の座を取られても、苦になるどころか、同じ委員という事で、嬉しく思ったくらいだ。  何とか、この自分の気持ちを打ち明けようとあがいた五カ月だった。チャンスはあっても、いざとなったら全く別の話をしてしまう自分に、嫌気《いやけ》がさしたものだ。でも、勝負はこれからである。今朝も偶然|逢《あ》えたし、これは幸先《さいさき》がいいと思えた。それに、寝太郎問題がある。あいつの問題については、友美と二人っきりで、話す事になりそうだった。学校に百人はいると思われる(教師を含《ふく》めてだ)ライバルに、水をあける絶好のチャンスだろう。その意味では、寝太郎さまさまだった。 「まったく、誰のだと思ってんだろな」  直人は、その声で我にかえった。  直人の持ち込《こ》んだ携帯《けいたい》テレビが教室中を巡回《じゅんかい》し、刻々と入る新情報をクラスにもたらし続けている。それを指差した隣の席の田中隆が、文句をつけていた。  隆は背の高さこそクラス一だが、頭の出来は下の方だ。でも明るいムードメーカーで、ガリ勉タイプの多い中、貴重な存在だった。バスケット部に所属している。 「何言ってんだ。ちょっと貸してって言われて貸したのはお前だろ」  隆の横の席で島田正夫が笑う。彼は小柄《こがら》なパソコン少年で、数学では友美や直人のライバルと言えた。割と堅苦《かたくる》しい性格でめったに笑わないやつなのだが、今日は違った。彼もひどい近視で、今まで瓶底《びんぞこ》のような眼鏡をかけていた一人だったのだ。親友の隆の背中を、何度もはたきながら、「隆らには、絶対わからないよ、この感動は!」と、もう十回以上怒鳴っている。 「この物体のデータを、パソコンに入れてみようと思ってるんだ」  パソコン同好会に入っている正夫は、協力してくれと、直人に言った。直人は最新型のパソコンに買い換《か》えたばかりで、正夫ともパソコン通信をする約束になっている。 「おもしろそうだけど、入れて何をやるんだ?」  尋ねる直人に、正夫は腕組みする。 「……それはまだ考えてなかったな」  馬鹿《ばか》野郎《やろう》と隆が叩かれ続けた仕返しをし、直人は笑った。 「おい、席につけよ」  女子たちが固まっていた横のドアがいきなり開き、担任の日焼けした顔が現れた。大分広くなってきた額には、例の物体がついている。  生徒たちはあわてて席に戻《もど》り、担任は教壇《きょうだん》に立った。 「新学期早々、大騒ぎだな」  そう言って、生徒たちの顔を見渡《みわた》した。全員の額に物体が輝《かがや》いている。それは正体不明のどんな危険を秘めているかわからない物体なのだが、生徒たちの表情は、まるで祭りでも楽しんでいるかのように紅潮していた。 「そうか、何か違う印象だと思ったら、眼鏡がないんだ」  どっと笑いが起きた。これも今までの教室ではなかったことだ。頭のいい生徒が揃《そろ》っている分、普通《ふつう》の高校よりも、落ち着いた雰囲気《ふんいき》があった。 「ま、眼鏡がいらなくなったのは、いい事だな。勉強にも大分とプラスになるはずだ」  担任は笑って、校内放送用のテレビのスイッチを入れた。  少し遅れたが、始業式が始まった。校長の訓話からだ。  新学期になり、気を引き締《し》めて勉学にスポーツに頑張《がんば》ろうとかいう内容だったが、まだ興奮冷めやらない教室から、ざわめきは消えない。 『コンコン!』と、担任が教卓《きょうたく》を叩いた。 「静聴《せいちょう》! 物体について発表するぞ!」  世界史担当の四十一歳。体は小さいが声は馬鹿でかい教師が怒鳴る。ざわついていた教室が一瞬にして静かになった。全員の目がテレビ画面に集中する。  しかし生徒たちの期待していたもの、つまり、物体に関する最新のニュースは全然なかった。たった今まで携帯テレビで仕入れていた情報の方が、よほど新しい。ただ、学校の方針として今のところ静観するが、少しでも異常があれば手術してでも取ってもらう事になるかもしれないと告げた部分には、「え〜っ?」のブーイングが起こった。 「ま、そういうことだ。学校としては今のところ無理に取れとは言わない」  放送が終わり、テレビを消した教師がそう続けた。 「当たり前ですよ。この物体は、僕《ぼく》たちが拒絶《きょぜつ》すればすぐに取れるんだ。そんな危険物|扱《あつか》いする必要ないですよ。これは僕らを眼鏡から解放してくれたんだし」  怒ったようにそう言った正夫の声に、そうだと同調する声が重なる。 「まあ待て。それは学校側もわかってる。でもな、まだこの物体が現れてせいぜい半日だ。全く未知の物だと言っていいだろ? 未知の物には、それなりの対策を取るのが当然だ。たとえ今は安全でも、明日も安全だとは限らないんだからな」 「では、危険な物だと先生は思うんですか?」そう尋ねた友美に、教師はちょっと困った顔をして見せた。 「……だと言い切れるなら、先生もこの物体をつけてるはずないわけだ。この物体は、人間の生理的精神的な拒絶に、敏感《びんかん》に反応し始めてるらしいからな」  物体は時間がたつにつれ、友美の母のようなほとんど錯乱《さくらん》状態にならないでも取れるようになってきていた。たとえば虫が嫌《きら》いだとか、ゴキブリに似てるような気がしてきたとかいった人の場合にも、コロンと落ちる例が次々と報告されはじめている。虫嫌いでなくとも、いろいろ考えた末に取ると決め、家の玄関《げんかん》をくぐったとたんに外れた人もいるらしい。 「なんだ、やっぱ先生も気に入ってるんだ」と、隆が笑った。  教室に笑いがあふれる。困ったと、担任は苦笑いだ。 「先生は昨夜、これが降ってくるところに出っくわしたんだ。あれ見たら、やっぱりもったいないような気がするな」  生徒たちのうらやましげな声が上がった。テレビでもその時間、臨時ニュースとして異常現象が報道されたのだが、あわてて出た時には、もうほとんど星は降り終わっていたのだ。  友美のようにたまたま外に出、空を見上げていた者だけがその素晴《すば》らしい光景を見ることが出来た。 「君|達《たち》の中にいるか? 見た者」  友美を含む数人が手を上げた。塾の帰りに偶然見たものが大半だった。  また声が上がるのを、担任が抑《おさ》える。 「しかしな、いくら綺麗だったからといって、害がないとは言えない。それも確かだ。結論を出すのは早すぎる。それが学校の方針というわけだ」  まだぶつぶつ言う生徒たちを見回し、担任は話を続けた。 「それにしても、最近宇宙関係の大ニュースが多いな。米ソの宇宙ステーションと、火星有人飛行計画が、正式に動き出した。スペースプレーンも本格的に開発される。一昨日には日本の宇宙開発計画の発表。無人なのが残念だが、ミニシャトル計画にもGOサインが出たし、国連の宇宙開発計画も発表された。まあ、国連のは机上《きじょう》の空論だがな。そして、この宇宙から来たらしい物体だ」 「先生が学校さぼって見てきたものが抜けています」  友美が言い、笑いながら洋子が続けた。 「三年前に発掘《はっくつ》された宇宙船! 大ニュースなら、やっぱりまだあれがトップでしょ?」  担任の目が驚《おどろ》きで丸くなった。 「どうして、そのこと知ってるんだ?」 「みんな知ってますよ」と直人も笑う。これは有名な話だった。  この街からは、片道二時間もかかる宇宙船の発掘現場で、急病で休んだはずの担任と、校長と、数名の生徒が鉢合《はちあ》わせしたという。  生徒たちの爆笑《ばくしょう》の中、担任は照れ隠《かく》しの空咳《からぜき》をした。 「そうだな、思えばあれから世界中に宇宙ブームみたいなものが出てきたな。ドラマでも映画でも、宇宙をテーマにしたものがやたら増えたし。マンガもだろう? 本屋には、そういった宇宙関係の本が山ほど積んである。それに、科学の進歩の度合いも、加速されているような気がするな。超伝導《ちょうでんどう》はほとんど実用段階にきてるし、二十一世紀になるだろうといわれてた核融合《かくゆうごう》もあと三年ほどでなんとかなるそうだ。コンピュータも第五世代に入ってきたし。まったく先生にはついてけんペースで夢《ゆめ》が現実化している。あと百年たたずに、人類の大部分が宇宙で暮らす時代が来るかもしれん。もし国連に金があれば、あの『進化計画』も技術的には、不可能じゃないはずだ。一日に数万人を宇宙へ運ぶ打ち上げ基地と、巨大《きょだい》な宇宙工場の建造。その後の月植民地とスペースコロニーの建設。あの夢のような計画が、いつか現実になるかもしれんぞ」  いつの間にか笑いは止《や》み、生徒たちは教師の言葉に真剣に耳を傾《かたむ》けていた。 「つまり、あの宇宙船のおかげで目標が見えたってことだ。今まで人類はこの宇宙で孤立していたわけだろう。地球以外に知的生物がいるかどうかも分からなかったんだからな。漠然《ばくぜん》といるかも知れないとは思っていたが、確実な証拠《しょうこ》など、全然なかった。それが、いきなりこれ以上のものはないという証拠が見つかったんだ。あれを見れば、どんな頭の固い人間でも、宇宙人がいる事を信じるしかない。残念ながら、宇宙船は馬鹿な政治家どものために失われたが、今思えば、案外その方が良かったのかも知れん。宇宙人が本当にいて、少なくとも五千年前にはこの地球に来ていた。それが分かっただけでも、充分《じゅうぶん》だった。人類がこの宇宙で一人ぼっちじゃないと分かっただけでな。彼《かれ》らに出来た事が、人類には不可能って事はないだろう。宇宙船は消えたが、これで確かな目標が見つかったって訳だ。それに、どうせなら他人の力を借りに、地球人だけの手で宇宙へ行った方がいいと思わんか?」  生徒たちはその演説に、驚きの目を向けていた。いつも勉強の事しか言わない担任とはとても思えない。  教師はその生徒たちに向かって、最後に一言付け加えた。 「その来《きた》るべき宇宙時代のためにも、もっともっと勉強しろよ」  やっぱりと、生徒たちがずっこける。  再び笑いがよみがえった教室に、真面目《まじめ》な声が響いた。 「でも先生。間に合いますか?」  友美だ。担任が問い返した。 「間に合うとは? 委員長」 「環境《かんきょう》問題です。人間が宇宙に出るまで地球が持ちますか? もしも、大崩壊理論が正しければ、あと百年しか残ってませんが……」  そして友美は立ち上がり、フロンによるオゾン層|破壊《はかい》、二酸化炭素などによる地球温暖化、その他の化学物質による汚染《おせん》の問題をあげていった。一年前、アメリカで発表された『大崩壊』理論は、各国のスーパーコンピュータを使ったシミュレートで、その正当性が認められつつある。国連の進化計画も、その説を認め、それに対応したものだった。  問題解決が世界の課題になり始めてから、五年にもなろうとしているのに、論議ばかりで改善は遅々《ちち》として進んでいない。その現状への科学者たちの警鐘《けいしょう》が、進化計画なのだ。 「特に、人口問題が大変です。二十一世紀には百億でしょう。アフリカと南アメリカの森林は焼き畑と炊事《すいじ》用の薪《まき》のために全滅します。そうなれば、酸素もなくなります」 「そうですよ」と、友美の言葉をついで、直人が立ち上がった。 「アマゾンだけで、四分の一の熱帯雨林が、今年中に消えるんだ」 「うそっ!」  洋子が驚きの声を上げた。そこまで地球が危ないとは、思っていなかったのだ。 「そんなにびっくりすること? 今話してることくらい、しょっちゅうテレビでやってたじゃない」  座った友美が呆《あき》れて隣《となり》の友人を見た。環境問題がブームになって、もう数年になる。  洋子も知らない事はなかったが、あれだけ大々的に地球の危機が叫《さけ》ばれたのだから、とっくになんとかなっただろうと思い込んでいた。 「でも、最近テレビではやらなくなってたでしょう。解決して来てるのかと思ってた」 「解決どころか、国同士で喧嘩《けんか》ばかりしてるわ。このままじゃ、熱帯雨林はあと十年で消えるって言われてるくらいなんだから。フロンガスの規制も、途上国では守られてないしね。二酸化炭素もメタンガスも、増える一方よ。しかも、人口増加率が上がってる。二十一世紀半ばには、百億に届くくらいにね。日本のテレビはこれだから駄目《だめ》なのよ。視聴率《しちょうりつ》が取れなくなったから、環境問題を取り上げなくなってる。視聴者も飽《あ》きただろうって。そんな問題じゃないのに」  直人が、経済建て直しを最優先し、森林破壊を続けるブラジル政府の非難を始めた。 「先のことを考えると、暗くなるわ。オゾンホールがどんどん拡大して、赤道上にも広がってる。皮膚癌《ひふがん》が十年前の五倍になったので、今年の夏は海水浴場ががらすきだったでしょ? 南極の氷山が解け始めたらしいし、異常気象は毎年ひどくなる一方。国連の科学者が、たまりかねて出来もしない計画を発表した気持ちも、わかるわ」 「でも進化計画って、夢みたいなもんなんでしょ? ちょっと直人からも聞いたけど」  友美はうなずいた。 「先生はああ言ったけど、今の技術じゃまだ国連の進化計画は無理だと思うわ。それに、何よりも肝心《かんじん》な資金がないもの。でも、もし、百年後の大崩壊がなくても、本当に地球を救うには、出来るだけ早く、宇宙に移住するしかないのも確かよ。オゾン問題にせよ、人口|抑制《よくせい》政策にせよ、対症療法《たいしょうりょうほう》にすぎないわ。地球を殺す病原体、つまり人間をどこか地球以外の所へ移すしかないの」 「なるほどね……」  優秀《ゆうしゅう》な友人の言葉に感心し、洋子は教師と討論する直人を見た。  人間のエゴイズムが、今のこの事態を引き起こしていると、直人は言う。今こそ、世界中が協力すべきなのに、やっているのは責任のなすりあいだけ。このままでは百年後の大崩壊などが来る前に、人間は絶滅しているだろう。  友美にいいところを見せようと、直人は張り切っていた。担任もその勢いにたじたじだ。  しかし友美は、その熱弁に心を打たれはしなかった。直人の言った程度の事など、友美は十年も前に、おじさんから聞かされている。今、友美の関心は、窓から吹《ふ》き込《こ》む清々《すがすが》しい空気に移っていた。  友美の隣は寝太郎で、寝太郎の席は窓際《まどぎわ》だった。風が窓から入って来ると、鼻のいい友美には、頭痛がするほどの悪臭《あくしゅう》が漂《ただよ》ってくるのだ。これこそ、友美にとって最大の環境問題と言えた。しかし、今、寝太郎の姿はない。きっと、あの馬鹿げた宝探しをまだやっているのだろう。 「どうせなら、ずっと来ないで欲しいわ」  隣の空席を見てつぶやいた声に、洋子が同情して答えた。 「大変ね、あんなの押《お》しつけられて」  友美は吐息《といき》で答え、頬杖《ほおづえ》をついた。  終業のチャイムが鳴り、大掃除《おおそうじ》の時間は終わったが、まだ星虫の話題で盛《も》り上がる生徒たちのおかげで、片付けが少し遅《おく》れていた。 「結局結論出なかったね」と、ほうきを持った洋子が友美を見た。 「当たり前。今、全世界で環境問題に取り組んでて、一向に解決しないんだから。こんな所で答えが出る方がおかしいわ」  友美が笑った時、体育館掃除に回されていた男子たちが帰ってきた。 「氷室さん」と、その中にいた直人が友美に声をかけた。 「何?」 「先生が呼んでる。寝太郎の事だってさ。掃除終わったら来てくれって」  友美は肩《かた》を落とした。 「悪いやつじゃないとは思うけどね」  そう言った洋子が、クスクス笑いながら友美の耳にささやいた。 「でも寝太郎君、友美のこと好きなんじゃない? 時々友美のことじっとというか、ぼーっと見てるよ」  友美は硬直《こうちょく》した。とんでもない話だ。 「冗談《じょうだん》でもやめて。ぞっとするから」  洋子はごめんと謝《あやま》ったが、もう一言付け加えた。 「見てる人はもう一人いるみたいだけどね」 「まだいるの?」  友美は顔をしかめた。 「でも、寝太郎君以外なら、まだ許せるわね。誰《だれ》? もう一人って」  洋子はにこっと笑う。 「教えない」  友美はちょっと肩をすくめた。 「いいわ。寝太郎君でも宮田君でも、付き合う気なんかないし」  と、洋子の顔が突然《とつぜん》真っ赤に染まった。 「ど、どどどうしてここに直人の名前が出てくるのよっ!」 「どうしてって、正反対の人の名前あげただけよ。単に」  こういう事に鈍い友美にも、ピンとくるものがあった。あのいつも落ち着いた洋子のこのあわてようはただごとではないわけで…… 「へーえ。何だ、そうだったの」  ニコニコする友美を、洋子がにらんだ。 「な、何がそうだっていうのよ」 「……べつに」と言いながらも、顔は笑っている。 「松本、ごみ捨ててきてくれよ」  いつの間にか掃除を手伝ってくれていた直人が、二人の所にやって来て頼んだ。 「私が行くわ」  友美の手が、素早くごみ箱《ばこ》を取る。  そして、「もっと早く教えてくれたらよかったのに」と洋子に耳打ちし、教室を出た。  しかし、ごみ箱を抱《かか》えて廊下《ろうか》を行く友美の気持ちは、少し複雑だった。  初めて親友になれそうな友人。その洋子を、横から直人に取られたような気がする。 「いいや。私は宇宙飛行士一本で行くんだから」  強がりっぽくそうつぶやいた友美の足が、前から歩いてくる人影《ひとかげ》に気付いて止まった。  今までに見たこともない女性だった……  それは何もこの学校でという事だけではなく、全《すべ》ての意味でだった。背は百七十センチはあるだろう。一流モデルも顔負けのプロポーションだ。髪《かみ》は長く、肩先で揺《ゆ》れている。紺《こん》でまとめたファッションが、抜けるように白い小さな顔を引き立てていた。その美人女優も真っ青な整った顔に輝《かがや》く二つの目。生き生きときらめき、同時に強烈《きょうれつ》な意思と魅力《みりょく》を感じさせる瞳《ひとみ》に、友美の目は釘付《くぎづ》けになってしまっていた。 『なんで、こんな人がこんな所にいるんだろう?』  麻痺《まひ》してしまった心の中で、その言葉だけが反響《はんきょう》した。この人は、こんなところにいるべき人ではない。それは不思議な確信だった。 「相沢広樹を知りません?」  女性に見惚《みと》れていた友美は、いきなりそう問われ、心底うろたえた。 「は、はいっ!」  ごみ箱がでっかい音を立てて手から床《ゆか》に落ち、心臓が確実に一秒止まった。  その女性が手伝おうとするのを必死に断ってごみを拾い終え、すこし落ち着きを取り戻《もど》した友美は、ようやく知っている名が出たことに思い至った。それが寝太郎の本名だと気付くのに、また数秒が必要だったが…… 「一の四の相沢広樹ですか?」  美女はコクリとうなずいた。近くで見るとさらに綺麗《きれい》だ。しかし、最初の印象より、ずっと若く感じられた。二十五、六だと見えたのだが、二十《はたち》くらいかもしれない。 「その相沢広樹は、まだ教室にいますか」  友美はゆっくり首を振《ふ》った。 「あの、今日は来ていませんが」  そう聞くと彼女《かのじょ》は小さく吐息し、すっと白い封筒《ふうとう》を差し出した。 「同じクラスなのね?」 「そうです」 「じゃ、悪いけれど、これを広樹に渡《わた》して下さい。吉田《よしだ》秋緒《あきお》からだと言って」  そして、微笑《ほほえ》んだ女性は、元来た方へと立ち去って行った。  ごみ箱を抱え、片手に封筒を持った友美は、茫然《ぼうぜん》とその後ろ姿を見送るだけ。 「後ろ姿もかっこいいな……」  けれど、あの人は一体何だったのだろう?  根本的な疑問が、ようやく胸に湧《わ》き始めた。 「大体、あの寝太郎に、用?」  頭の中に、朝のフケをまき散らす寝太郎の姿が浮《う》かぶ。どう考えても、あの女性が会いに来るようなやつじゃない。  今日はまったくなんて日なんだろうと、友美は腕《うで》を組んだ。  物体だけでもたいがいなのに、また一つ謎《なぞ》が増えたわけだ。 「そういえば、あの人はつけてなかったな」  物体をつけていない人を見たのは、彼女が初めてだった。  ちょっと惜《お》しいと思う。彼女なら、物体もよく似合っただろうに……  友美はふうっと大きく息を吐いた。  ああいう本物の美人を見てしまうと、自分のぶりっ子が、心底|嫌《いや》になってくる。 「吉田、秋緒さんか……」  分厚い封筒の裏に書かれた名を読んだ。すっきりとしたいい文字だ。  何だか、あの顔に見覚えがあるような気がしてきた。  首をかしげ、そして振った。錯覚《さっかく》だろう。  抜けていた気を入れ直す。優等生がいつまでもアホ面《づら》をしているわけにはいかない。  しゃきしゃきした足取りで、友美はごみ捨て場に向かった。 [#改ページ]  二 日 目  友美は今朝も目覚ましに驚《おどろ》かされた。  ただし、今日は昨日の逆だ。 「わっ!」と叫《さけ》ぶなり、友美の体からパジャマが舞った。  だだだだっと転がるように階段を駆《か》け降りてきた友美を背に、兄幸雄は大欠伸《おおあくび》。一晩じゅう物体関係のニュースを、衛星放送で見続けたためだ。  友美の寝坊《ねぼう》は、その兄に午前三時まで付き合ったことも原因していた。  母の小言を適当にかわしながら、洗面をすませ、トイレに駆け込《こ》む。そして起きてからわずかに五分で身支度《みじたく》を整えた友美は、パンをくわえて玄関に走った。こういう状況《じょうきょう》を、楚々《そそ》とした美少女の面しか知らない直人などが見たら、卒倒《そっとう》しかねないだろう。  途中《とちゅう》の居間にいる兄に、「大学生はいいよねっ!」と文句を言って、スニーカーの上に飛び下りた時、幸雄がテレビの前で怒鳴《どな》った。 「おい友美! お前の勝ちだ、星虫取るんじゃないぞっ!」 「わかってる! いってきまーす」  五時半に起きられなかったのは、おじさんのメモ通りの生活をして以来、初めてだった。多分、物体の視力|増幅《ぞうふく》が、かなりの精神的な疲《つか》れになっていたのだと思う。  あわてていた友美が疑問を感じたのは、その数分後だった。 「星虫?」  何だろう。初めて聞く単語だった。しかし、すぐに気がつく。 「ああ、君に名前がついたわけか」  自転車をこぎながら、つんつんと額の物体をつつく。大きさは変わってないが、少し厚みが増したように思える。  それに、取るなと兄は言った。自分の負けだとも。  昨夜二人は、物体について善玉か悪玉かという論争をしていたのだ。もちろん友美は善玉説。兄は悪玉説だった。その兄が自分の負けを認めた以上、 「君は、いいやつだって、わかったわけよね!」  星虫という名前の語呂《ごろ》は良くないが、雪の一|片《ぺん》に似た雪虫というのがいるのを思えば、意味的には、悪くないかもしれない。この子は、文字通り『星』のように降ってきたのだから。  朝の町は、昨日に増して、綺麗《きれい》だった。  星虫の力は、どんどん増幅しているらしい。山々が、さらに近くなっている。  遠くの空に湧《わ》き上がる入道雲の様子が、目の前のように望めた。  景色に集中していた友美の横を、車がぎりぎりに走り抜《ぬ》けてゆく。  いつのまにか車道の真ん中に飛び出していた事に気付き、あわてて元へ戻った。その時、反射的に見送った車の底が、妙《みょう》に明るく感じられた。 「なんだろう?」  次に来た車の底にも明るさを認めたとき、意識は自然とその変な光に集中していた。  とたん! 車の底は真っ白に輝《かがや》き、その排気管《はいきかん》から白くのびる光の帯が路上に尾《お》を引いた。 「な、なによこれっ!」  驚いて辺りを見回す。  家の屋根、立木、工場の煙突《えんとつ》、クーラーの室外機、野良犬《のらいぬ》、そして、自分の手までもが淡《あわ》い光を放っていた。  歩道を走ってきた郵便配達のバイクが止まり、そのエンジン部分が真っ白に輝いているのを見た時、友美の頭に答えが閃《ひらめ》いていた。 「赤外線、赤外線が見えてるんだ」  熱を持つ物体は、赤外線という目には見えない光線を発している。それを自分は見ているのだ。それも、以前テレビで見た赤外線カメラの白黒画面ではない。星虫によって増幅された視力に、プラスされる形でだ。  納得《なっとく》できる理由が見つかり、ほっと肩《かた》の力を抜いた。  すると、赤外線は見えなくなり、普段《ふだん》の町が戻ってきた。  何だか少し頭が重い。赤外線を見るには、かなりの精神集中が必要のようだ。 「すごすぎるよ……」と、その力にあきれて顔を天に向けた。  千切れた高層雲が、目の前にあるかのように映る。友美は流れる雲を見ながら、茫然《ぼうぜん》となっていた。 「この星虫って、何しに地球にきたのかな」  人間の目を良くしてくれるためとは、さすがに思えない。だとすれば? その思いを断ち切ったのは、遠くで鳴るチャイムの音だった。 「あれ、ひょっとして予鈴《よれい》?」  当然だった。もともと遅刻《ちこく》寸前だったのだ。  友美は大あわてでダッシュした。  現れない友美の代わりに職員室に行っていた直人の横を、誰《だれ》かが風のようにすりぬけていった。  本鈴が鳴っている。一瞬《いっしゅん》寝太郎かと思ったが、あいつが走るわけがなかったし、後ろ姿は女子だ。 「氷室さん?」  まさかと思ったが、大当たりだった。急停止した友美は、驚いて振《ふ》り返る。 「あわてなくてもいいよ。先生、緊急《きんきゅう》職員会議だとさ」  友美の体から、ガクッと力が抜けた。 「初めてだね、遅刻ぎりぎりなんて。でも、意外に足が早いんだなあ」  必死の思いで本鈴に間に合わせた友美の気も知らず、直人はやたら感心していた。 「氷室さんも、赤外線が見えるんだろう?」  友美は荒《あら》い息を抑《おさ》えつつ、うなずいた。 「その、せいで、遅《おく》れそうになったの」  直人は意識を集中させ、視覚を赤外線モードに切り換《か》えた。とたんに友美の全身が真っ赤に燃え上がった。相当急いで走ってきたのが分かる。直人は、さっと視線をそらせた。 「やっぱりだ。少しの間、入らない方がいい」  と、よそを向いたまま友美に言う。  首をかしげた友美だったが、はっと気がついた。赤外線を発するのは、衣服ではなく、体の方だということに! 「隆の馬鹿《ばか》に見えないのは不幸中の幸いだけど、他《ほか》のむっつり共も、氷室さんの来るのを手ぐすね引いて待ってるんだ。遅れてきて、正解だったよ」  友美の顔が赤くなり、鞄《かばん》で胸を隠《かく》した。 「どうもありがとう」と、軽く頭を下げる。 「でも、赤外線が見えない人もいるの?」  別の方角を見たまま、直人は答えた。 「見えるのは、全体の半分だ。テレビ見なかった?」  友美はうなずく。朝寝坊が悔《く》やまれた。 「ゆっくり入ってきなよ。おれが、連中に自習の報告をしておくから」  直人が教室に向かうと、友美はあわてて胸元に風を送り込み始めた。  教室に入った直人は、黒板に自習と書きながら、さっきの光景に感動している。  正直なところ、他のやつらに見せてたまるかというのが、本音だった。 「委員長はどうしたんだ?」と、珍《めずら》しく真面目《まじめ》な顔をした隆が聞く。教室では女子が隅《すみ》に固まり、てんでに胸を押《お》さえながら男子たちをにらみつけていた。 「すけべ! あんたほんとは見えてるんでしょっ!」  女子たちが隆に罵声《ばせい》を浴びせる。その声に驚いた友美が、窓から顔だけ出した。  男子|達《たち》から歓声とも、どよめきともとれない声が上がる。 「友美! 入ってきちゃだめ!」と、洋子が叫んだ。 「心外だよな。人を痴漢《ちかん》みたいに」  妙に紳士ぶった隆が正夫に言った。ばちんと、その背を正夫が叩《たた》く。 「馬鹿、お前のその真面目な顔が、余計誤解を招くんだ」 「そうよ、変態っ!」と、女子の一人が怒鳴る。 「そこまで言うかよ!」  隆がわめいたが、そうだお前が悪いと、男子たちが押さえつけた。  しかし、さっきからこの状態だ。どうしたもんかと直人が教卓《きょうたく》の前で困っていると、ガラッと前のドアが開いた。  友美が背筋をすっと伸《の》ばし、胸も隠さずに堂々と歩いてきた。  唖然とした生徒たちを尻目《しりめ》に、教卓の前に立つ。  赤外線視が出来る男子たちが、思わず精神を集中した。 「山田君! 芦屋《あしや》君! 高橋君! 小島君!」  機関銃《きかんじゅう》のように、友美の口から名前が飛び出す。その全員が意識を集中しかけていた連中だった。 「男子! 卑劣《ひれつ》な真似《まね》は止《や》めなさい。顔つきですぐわかりますからね。それから女子。無意味に騒《さわ》がない! 見えると言っても分かるのは輪郭《りんかく》だけよ。みんな席に戻って!」  全員、教師に言われるよりも素早《すばや》く言葉に従っていた。名指しの男子は顔も上げない。  初めて聞く友美の怒声に驚きながらも、直人はまた、惚《ほ》れ直していた。  さすがだなあと洋子は、毅然《きぜん》とした友人に驚きの眼差《まなざ》しを向けた。自分にはとてもああは出来ない。でも、友美は、あんなに攻撃的な性格だったっけ?  「夏休み、何かあったの?」  隣《となり》の席についた友美に、洋子は小声で聞いた。来たっと、友美は心で身構えた。ちょっと頭に血が上り、地が半分出てしまったのだ。しかし、何食わぬ顔をすることには、自信があった。 「どうして?」 「どうしてって、やけに元気じゃない? 昨日から」  友美はひきつり気味の笑いを無理やり浮《う》かべ、「それを言うなら元眼鏡の人も別人みたいじゃない」と、やけに明るくなった正夫を指差した。 「星虫のせいか。うん、今の騒ぎにしても、みんなちょっと変よね」  納得してくれた洋子をごまかすように、友美は尋《たず》ねた。 「そういうこと。それに、ああでも言わないと、収拾つかなかったわ。それより、どうして星虫っていう名前になったのか、教えてくれない? 今朝、少し寝坊したの」  洋子はうなずいた。 「COSMIC BEETLE。直訳したら宇宙|甲虫《こうちゅう》なんだけど、報道機関の取決めで、統一するために星虫と決めたらしいわ。人騒がせな物が宇宙から来たよね」  そしてこの星虫が、寄生生物ではなく、共生。それも片利共生《へんりきょうせい》生物だと続けた。 「片方、つまりこの星虫の場合は、宿主であるわたしたち人間だけに利益のある共生のことね。星虫自体は利益も害も受けない、そういう関係らしいけど」  友美はへえっと驚いた。 「それじゃ、便利で無害ってこと? 信じられないな」 「まあ、星虫の能力には、個人差が出始めてるようだけど」  十歳から五十歳までの健康な男女のほぼ全員に、星虫が確認されているそうだ。推定、約三十億。今朝のニュースでは、これらの事と赤外線視が報道されていたらしい。  星虫調査研究のための委員会が、世界各国に設けられたのも、今朝の事だ。  友美は感心していた。自分が寝坊している間に、ずいぶんと事態が動いたらしい。  そうこうしている間に、やっと一限目の教師が現れ、授業が始まる。  友美の前に、一枚のプリントが回されてきた。 「進路希望調査?」  印刷された文字を読んで、友美は体の力が抜けそうになった。  回りから、まだ一年の二学期になったばかりだというのに、早すぎるという声がする。  目一杯《めいっぱい》、友美も同感だった。 「まだ気楽に書いていいってことだな。東大でも京大でも、好きな大学を書け。別にハーバードでもオックスフォードでもいいが、書いた以上はそれを目指せよ。提出は月曜までだそうだ」  その教師の言葉に、友美は深い溜《た》め息をついた。  友美の志望は宇宙飛行士。だが、それを素直に書く勇気などない。また適当に、京大なり、東大なり書かねばならないかと思うと、気分が重い。 「いいわね、友美は。どんな大学を書いても、馬鹿にされなくて」  その気も知らない洋子が、羨《うらや》ましげに言った。 「そうでもないわよ」  友美は首を振り、プリントを親の仇《かたき》のように力を込めて折り畳《たた》んだ。  今日は土曜。昼で授業は終わる。  教室には二十人ほどの生徒が残って弁当を広げていた。英語研究会などの、進学に役立つものが多いのは確かだが、クラブ活動は結構活発だった。  友美は茶道同好会に入っている。小さい時からお転婆者だった友美を、何とか女の子らしくしようとした母の愛の鞭《むち》のおかげで、今では師範《しはん》の資格まで持っていた。思えば、こうやって猫《ねこ》をかぶっていられるのも、茶道の力かも知れない。  その事を知った洋子が、もったいないと会に誘《さそ》ったのだ。週に一回だし、優等生のイメージを定着させるのにも役立つと思って入会したのだが、そろそろうんざりし始めている。どうせ時間を潰《つぶ》すなら、体操部にでも入って、体力と平衡《へいこう》感覚を養いたかった……  しかし、友美が入ったために、男子の入会が増え、部になる日も近いようだ。そうなれば、活動日も増えるだろうし、それを口実に辞《や》める事も出来る。洋子には悪いが、今楽しみなのは、その日が早く来ることだった。  友美と洋子の回りには、他の部活で残る女子たちがいつも集まる。 「寝太郎のやつはいいよな、進路決まってて。宝探しって、儲《もう》かるんかな?」  その中で隆が言い、どっとみんなに受けた。  バスケット部の隆が、どうしても赤外線が見たいと、女子たちが固まって食事をしている場所へ割り込んで来ていた。サッカー部の直人と、パソコン同好会の正夫もなぜかくっついて来ている。  クラスで一番頭のいい友美なら、教えられるだろうというのが隆の論拠《ろんきょ》だったが、どうもすでに見えているのではないかと友美は思っていた。現に、赤外線視の話もそこそこに、話題は今日も来ていない寝太郎の進路の事に変わってしまっている。 「ところで、寝太郎の宝ってなんなの?」と、正夫が友美に聞いた。  首を振る。想像もつかないし、想像したくもなかった。 「どうせ、くだらんもんだろ。水道管かガス管破るのが落ちだ」  隆の横に立つ直人がそう言って、また笑いがおきる。 「でも、その話は先生にしないでね。一応は約束《やくそく》だから」  友美が言い、全員真顔になってうなずく。朝の印象が相当強かったようだ。今までの優等生のイメージに、怒《おこ》らせると怖いという評価が付け加わったらしい。やっぱりやりすぎたと、友美は思ったが、後の祭りだ。  気まずいものになった雰囲気《ふんいき》を変えようと、直人が口を開いた。 「しかし星虫を持ってるのは、確かにラッキーだよ。知ってるか昨夜のプロ野球。一試合平均で十本もホームランが出てるんだ。アナウンサーは、真夏の珍事《ちんじ》とかいってたけど、おれは星虫の力だと思う。視力が上がるってことは、ボールが何倍もよく見えるってことだもんな。動態視力が必要なスポーツの選手にとって、星虫の力は、不可欠な物になるぞ」  全員、なるほどと感心したその時。 「いてくれたか」と、担任が教室に現れた。顔は友美を向いている。 「はい。なにか?」  友美は返事して立ち上がった。彼《かれ》は、茶道同好会の顧問《こもん》でもある。急用かと思った。 「すまん、今日は中止だ。今、放送が入ると思うが、教育委員会の方で、課外活動を禁止するように決まった。星虫についての医学的な安全性が証明されるまでな」  えーっという非難の声が、残っていた全員の口から出た。 「また星虫の新しい力がアメリカで確認されたらしいんだ。視覚だけじゃなく、五感の全《すべ》てが増幅《ぞうふく》可能らしい。嗅覚《しゅうかく》、味覚、聴覚《ちょうかく》、そして触覚《しょっかく》。それらがコントロールできなければ、事故につながる可能性がある」  生徒たちは顔を見合わせた。 「どうしてですか」と、直人が聞く。  友美たちも納得出来なかった。 「考えてみろ。走ったり、飛んだりしてる時に、いきなり音が馬鹿でかくなったらどうなる? 転ぶぐらいならいいが、怪我《けが》した時に、その痛みが増大する例も出てるんだ。この先も、いつどんな力が出てくるかも知れないわけだし、それらがコントロール出来るとは誰も言い切れん。その意味なら、文科系クラブでも、何が起きるかわからんだろう? 今は、教師が全部のクラブに付いてられる状況《じょうきょう》じゃないしな」  そう言われれば、納得するしかない。能力の増大は嬉《うれ》しいが、コントロール出来ないのはまずいだろう。  しょうがないかという顔になった友美に、担任が頼《たの》んだ。 「で、だな。部活の代わりのようで悪いんだが、これを寝太郎に届けてくれないか」  差し出されたのは、茶色の封筒《ふうとう》である。 「何ですか?」 「今日配った進路調査と、先生の手紙だ。地図はこれ。学校から、歩いても五分かからないし、でかい屋敷《やしき》だからすぐわかるはずだ。悪いが頼む」  友美はうなずいた。嫌《いや》だが、クラス委員としては断れないだろう。それに、昨日の美女の手紙を渡《わた》すついでもある。あの美女と寝太郎との関係については、興味がなくもない。 「分かりました。本人に渡すんですね」 「いや、家の人にでもいい。お祖父《じい》さんなら、在宅のはずだ」  担任はそう言って、そそくさと教室を出た。星虫のおかげで、大分と忙《いそが》しい思いをさせられているようだ。 「断っても良かったんじゃないか」と、直人が腕組みして担任の消えた後をにらむ。 「無責任教師よね」  洋子が言い、友美を見上げた。厄介者《やっかいもの》を友美に押しつけたとしか思えない。 「ついて行こうか?」  その友人の言葉に、友美は救われた思いがした。 「ありがとう。じゃ、嫌な仕事は、早めに済ましちゃいましょう」  校内放送が、クラブ活動の中止を放送しはじめている。 「おれもいいかな? 寝太郎の宝に、ちょっと興味があるんだ」  隆が友美に聞く。別にかまわない。手紙を二通渡すだけだった。 「じゃ、僕《ぼく》も付き合うよ」と、正夫も名乗り出る。 「当然、おれは副委員長だからな」  直人はあわてて言い、何とか一行に加わった。  星虫の目で見る町。  いつも見慣れていたはずのものが、違《ちが》って見える。全てが新鮮《しんせん》だった。 「かけてたサングラスを取ったみたい。まるで違う町ね」  そう言って洋子は、驚《おどろ》いて辺りを見回した。  登校してきたときには、ここまでくっきりとは見えなかった。それは遅刻《ちこく》した友美を除く全員が同じ意見のようだ。やはり星虫の力は、刻々増大しているらしい。  友美も朝とはまた違ったものを感じ取っていた。口では上手《うま》く言い表せないのだが、町の大気、意思、雰囲気というものが、目だけでない全身で感じられるようになっている。  それはなれなれしい程《ほど》に親しげで、ゴチャゴチャと複雑で、そして少しだけ寂《さぴ》しげだと、友美には思えた。 「だから、脳と神経組織とに影響《えいきょう》を与《あた》えてるのは、間違いないんだ。それでなきゃ、こんな芸当は出来ない」  ゆっくりと町を行きながら、直人がは虫に対する自分の推理を語っていた。  友美はそれを横で聞きながら、少し汗ばんだ顔を拭《ぬぐ》った。  星虫がついた部分も汗をかいているはずなのに、不快感がないのが不思議だった。  二人の前では、隆たちが直人から取り上げた携帯《けいたい》テレビに見入っており、新しいニュースが入るたびに、教えてくれている。  どうやら他の五感も、赤外線を見る要領で増幅出来るらしい。つまり、精神の集中が必要だということだ。それならコントロールも可能のはずだった。星虫は、ますます便利な物になりつつあるようだ。 「でも、どうやって増幅してるのかしら?」と、直人をはさんだ隣の洋子が聞く。 「星虫はせいぜい毛穴までしか浸透《しんとう》してない。今のニュースで言ってたろ? それが確かなら、電磁波か何か、おれたちがまだ発見していない物でコントロールしているに違いない。それが分かれば、星虫なしでもこの力が自由になるってことだ」 「じゃ、そうなれば星虫はいらないってわけ?」 「そういうこと!」  興奮してそう言う直人に、友美は首を傾《かし》げた。その理屈《りくつ》には、少し納得出来ない部分があった。 「……ちょっと人間の都合ばかり優先してるな」  友美はつぶやき、額の星虫の方を見上げた。直人は、この子が生き物だという事をどうやら忘れているらしい。いや、世界全体がそうのようだ。それは、子犬が可愛《かわい》いから大事にするのと基本的に同じだ。では、可愛くなくなったら、捨てていいのか?  寝太郎の家は、本当に学校から五分だった。  全員、その屋敷の巨大《きょだい》さに唖然となっていた。あのとんでもない寝太郎の姿からは、想像も出来ない純日本風|豪邸《ごうてい》である。確かに、お坊ちゃんだという噂《うわさ》は聞いていたが…… 「……ほんとにここ?」と、直人が友美に聞く。  半信半疑なのは、友美も同じだ。しかし、担任に渡された地図も、表札の文字も、それが寝太郎の家であることを示していた。 「きっと、この家、借金の抵当《ていとう》に入ってんだ。でなけりゃ、あんな汚《きたな》い格好するもんか!」  と、隆が怒ったように言う。  呆《あき》れた一同が門に着くまでに、石畳を十メートルも歩かなければならなかった。 「……家なら、この玄関《げんかん》までに建つなあ」と、正夫がぼやいた。  しかし洋子は、石畳の両脇《りょうわき》の、よく手入れされた植え込《こ》みを見て、感心していた。 「ここまで綺麗《きれい》にするの、大変よ。お金がないわけないわ」 「詳《くわ》しいの?」と、友美は洋子を見た。 「園芸好きだから、家はみんな」  友人の意外な趣味《しゅみ》に驚きながら、友美は格子戸《こうしど》の立派な門の前に立ち、インターホンを押《お》した。 『何だっ!』  インターホンのスピーカーが壊《こわ》れるほどの音量で、老人の声がした。  その剣幕《けんまく》にたじろいだ友美が、「あの」と口を開いた瞬間《しゅんかん》。 『二度と来るなと言ったはずだ! 広樹には会わせーんっ!!』  ピーッと、スピーカーがハウリングを起こした。全員、思わず耳をふさぐ。 「なんなんだ、一体……」 「借金取りと間違われてるんじゃないか?」  全員が顔を見合わせる中、友美は再度|挑戦《ちょうせん》していた。息を大きく吸い、ボタンを押す。 「相沢君のクラスメイトです届け物に来ました相沢君はご在宅ですかっ!」  それだけを三秒で喋《しゃべ》った。  インターホンが、しんとなった。 『……広樹に用があるなら、竹薮《たけやぶ》にいる』  一分後、それだけ言ってインターホンは切れた。  後はいくらブザーを鳴らしても、出てくれない。 「変わり者は、遺伝だぜ」と、隆が呆れた。  直人は友美を見て、どうすると尋ねた。 「……ここまで来たんだし、行くわ」  怒鳴《どな》られたせいか、友美の目が座《すわ》っていた。寝太郎に、文句をつけたい気分になってきている。  昼過ぎの強い日差しが、真上から竹林に差し込んでいた。  それが繁茂《はんも》する竹の葉を透《す》かし、白い竹の葉が敷き詰《つ》められた地面を、鹿子《かのこ》模様に輝《かがや》かせている。 「でも、この竹薮の何処《どこ》にいる? 結構広いぜ」と、隆が言った。  確かに商店街に建ち並《なら》ぶビルと、川の堤防《ていぼう》の間にある空間が総《すべ》て竹林である。長細い土地だが、学校の敷地以上だろう。 「竹薮なんて呼ばないで」  いつも鞄に入れている虫よけスプレーを使っていた洋子が隆を怒る。 「薮じゃないわ、ここは。充分《じゅうぶん》に手間をかけて育てられた竹林なんですからねっ!」  薮と林との差がよく分からず首を捻《ひね》る隆を見放し、改めて回りを見渡した。 「でもこの竹林、毎日綺麗になっていくみたい」  洋子の言葉に、友美も異議なしだった。  そして全員が、竹の放つ芳香《ほうこう》に酔《よ》い、その美しさに我を忘れた。  友美は、清浄《せいじょう》な大気を胸|一杯《いっぱい》に吸い込んだ。全ての感覚が、自然と研《と》ぎ澄《す》まされてゆくのを感じる。何だか、温かく、それでいてきりりとした精気に包まれているような気がした。町中《まちなか》で感じたものとは、また別の感覚。それは町ほどのなれなれしさがなく、押しつけがましくもない。ずっと単純で、少し弱々しく感じられた。  けれども、心の耳を澄ますと胸が締《し》めつけられるような寂《さび》しさがある。これだけは町で感じたものと同じだった。この寂しさはなんなのだろう? 聞いていると、居ても立ってもいられないような気になってくる。友人たちは、まだそれに気付いてないのだろうか? ひょっとすれば幻覚《げんかく》の一種?  と、その感覚に集中していた友美の心に、町や竹たちのものと似た、しかしより哀《かな》しげな『声』が聞こえ始めていた。すぐそこに。  目を向けた。  竹の稈《かん》を透《とお》して見えたのは、あの化け物屋敷だった。 「あれ? また委員長だ」  一同の横から、素《す》っ頓狂《とんきょう》な声が上がった。  ぼろざれのような茶色のTシャツ、よくも分解しないと感心するしかないジーパンをはき、頭の先から爪先《つまさき》まで、乾《かわ》いた泥《どろ》で真っ白にした人物が立っていた。右手にはスコップを持ち、左手には腐《くさ》ったような色をした油紙が巻きついた壷《つぼ》を抱《かか》えている。  その場の全員が、数歩後ずさっていた。 「すごくいいタイミングだな。ついさっき、やっと掘《ほ》り当てたとこだ。宝、見に来たんだろ?」  泥の仮面をかぶった寝太郎が笑った。顔にピシッとヒビが入り、白い粉が落ちる。 「違うわ。手紙を届けに来たの。でも、何その格好。原始人以下じゃない」  友美に言われて寝太郎は自分の体を見ていたが、大して汚いとは思わなかったようだ。 「手紙?」と、聞き返す。  友美は、手を思いっきり伸《の》ばして、二通の手紙を渡した。  寝太郎はその場で担任の封筒を開き、ほっと肩《かた》の力を抜《ぬ》いた。 「よかった、退学じゃないや。これでまた寝《ね》れる」 「……お前、学校に寝にきてんのか?」と、直人が呆れた。  寝太郎はもう一通の白い封筒の裏を見て、驚いている。 「知り合い? その人」と、友美が聞く。 「私が昨日預かったの。どういう関係?」  寝太郎は首を振《ふ》り、「知らん人だ」と言ったが、とてもそんな雰囲気ではない。  破れかけたズボンのポケットに、無理やり二通の手紙を押し込むと、 「そんな事より、宝見たくないか?」と、汚い壷を指差した。 「おお、見たい見たい。見せてくれよ」  事情を知らない隆が前に出た。 「委員長は?」  友美は、追及を一時あきらめ、「じゃ、見せて」と少し近づいた。  楽しそうに笑い、また地面に白い粉を降らせた寝太郎は、あぐらをかき、壷の蓋《ふた》に手をかけた。  関心などない風を装《よそお》ってはいたが、実は友美は、こういうのが大好きだった。いつの間にか壷の一番近くに陣取《じんど》っている。  全員の見守る中、寝太郎の手が厳重に封印された油紙を破った。 「開けるぞ」  友美は、思わず息を飲んでいた。茶色の壷の蓋が、ぱかりと取れる。その中に寝太郎が手を突《つ》っ込んだ。 「やった!」  寝太郎が高々と差し上げたのは、小判でも、金の仏像でもなかった。長い木の柄《え》のついた、妙《みょう》な形の金具だ。 「なんじゃそれ」と、隆がにらむ。 「まさか、それだけって事はないよな?」  だが寝太郎は平然と、そうだと笑った。 「これが、宝だ」  心底がっかりした友美が、「どこが宝なのよ」と、寝太郎を見た。  その全員の不評に、寝太郎は大分気を悪くしたようだ。 「宝だよ」と怒《おこ》ったように言う。 「これは、二百年閉じてた扉《とびら》を開けられる鍵《かぎ》なんだ」  友美の胸が、どきっと鳴った。顔を上げる。 「それ、ひょっとして、あのお化け屋敷《やしき》の事?」  寝太郎はうなずいた。  たちまち全員の顔に興奮が戻《もど》った。高校から数分で行ける竹林の謎《なぞ》の屋敷は、学校でも結構有名だったのだ。先輩《せんぱい》たちが、何人もあそこの中を探検しようと試みたが、未《ま》だ誰《だれ》一人として、中に入れた者はいないという。 「そりゃあ、確かにすげえや!」と、隆が飛び上がった。 「中を見られたら、クラブの先輩に威張《いば》れるぞ!」  いかに名門私立高の生徒とはいえ、若者は若者だった。冒険が嫌《きら》いなわけがない。 「ちょっと、寝太郎に毒されたかな」  そう言いながらも、直人の顔も興奮で赤くなっている。 「じゃ、みんな付き合うか?」  寝太郎の声に、全員「おお!」と答えていた。  思えば、あの屋敷の存在を知ってから、一度は中に入りたいと思っていた友美だった。  違うと思いながらも、あの化け物屋敷がおじさんの家だという気持ちを捨て切れなかった。  それに、今気がついたあの不思議な声の事もある。あれは確かに化け物屋敷から聞こえてくるようなのだ。  機嫌《きげん》を直した寝太郎の後に続き、一同は化け物屋敷を目指した。  小道すらない竹林の中に、まるで時代劇に出てくる代官所のような門がそびえている。雨風にさらされた木と黒い鋲《びょう》が、へてきた年月を物語っていた。土塗《つちぬ》りの壁《かべ》は高い。四メートル近いだろう。それが巨大な面積を囲い、先輩の探検家たちを中に立ち入らせなかったのだ。  目で見た感じでは寝太郎の家よりも少し大きいようだ。六人は、その門の前で立ちすくんでしまっていた。 「お、おい。やばいぞ、この雰囲気《ふんいき》は。絶対何かいるぜ」 「でも確かに、その鍵が合いそうな鍵穴があるな」  隆と正夫は、友美たちより数歩下がって、恐る恐る、門を見上げている。 「化け物屋敷じゃないって」と、寝太郎が笑った。 「ここは家《うち》の先祖が、屋敷の鬼門を封《ふう》じるために作ったんだ。中には小屋も建ってないって言い伝えがある」 「じゃあ、何があるの?」  尋《たず》ねた友美に、寝太郎は首を振った。 「さあ。開けてみなけりゃ、わからんな。わからんから、面白《おもしろ》い」  寝太郎は、ニコニコして顔を拭った。星虫の目から汚《よご》れが落ち、いきなりよく見えるようになった世間に、目をぱちくりしている。  友美は思わず吹《ふ》き出しそうになって、息を止めた。  危ないと感じた。こいつと話していると、何だか地が出てしまいそうな気がする。  その友美の前に、ぬっと、汚い手が突き出された。その手の上には鍵がのっている。 「開けさせてやるよ」  友美は、まじまじと白塗りお化けのような寝太郎を見た。 「私に? どうして」 「どうしてか……そうだな、手紙を届けてくれた礼だな。それに、委員長が、一番こういうの好きそうだから」  友美の心臓が一瞬《いっしゅん》止まった。自分の正体を、やっぱりこいつは気付いてる?  そんな事はないはずだ。ぶりっ子始めて四年目になる。今まで誰一人、見抜いた者はいなかったではないか。 「ほいっ」  悩《なや》んでる友美の手に、鍵が強引《ごいうん》につかまされた。 「あのね!」 「そんなに悩むことかよ、委員長らしくないな。怖《こわ》いんか? ひょっとして」  そう言われると、持ち前の負けん気が頭を持ち上げる。 「わかった。開けるわよ!」  門に近づいた友美は、巨大な扉の鍵穴に、そのコの字型をした先を突っ込んだ。吸い込まれるように、鍵は口金部分まで入って止まる。 「開けるの? 友美」と、洋子の震《ふる》える声が聞こえた。  友美は戸惑《とまど》っていた。二百年開かなかった扉。確かに不気味な気もする。思わず、鍵を持つ手を見つめた。 「開けないんか? 委員長」  寝太郎の何だというような声がする。  その言葉に重なるように、再びあの寂しげな声が心に響《ひび》き始めた。 「……この扉の向こう?」  とうとう興味が勝利し、友美の手首に力がこもった。  固い。それはそうだ、二百年間動かなかった鍵である。しかし、十年間積んできたトレーニングは伊達《だて》じゃない。友美の握力《あくりょく》は六十キロ近いのだ。両手でつかんだ鍵が、ギリギリ音を立てて回り始めた。  ガチャリという金属音に、洋子と隆の悲鳴が重なる。  そして、扉が重そうな軋《きし》み音とともに、ゆっくりと手前に動き始めた。  門は傾《かたむ》いていたのか、まるで自動ドアのように開き続ける……  そこには深い森があった。  それに比べれば竹林の中は真昼と思えるほどに、木々が生《お》い茂《しげ》る真っ暗な森が。  高く伸び、枝葉《えだは》を繁《しげ》らせ木々。その葉の隙間《すきま》から漏《も》れる僅《わず》かな光を求めて、人の背丈《せたけ》程の低木が茂る。そのまた下を彩《いろど》るのは、笹《ささ》や羊歯《しだ》類。地面には、倒木があり、色とりどりの苔《こけ》や茸《きのこ》類が繁茂《はんも》していた。  その倒木の上に立つ子犬ほどの動物が、友美たちをまん丸の目で見つめている。  それに気付いた友美たちも、その動物を驚《おどろ》きの目で見返した。  六人と一|匹《ぴき》のにらめっこが、どれほど続いたろうか。  小動物は、まるでもう飽《あ》きたとでもいうように、ふいっと倒木の上から降り、深い森の中へと消えた。 「……イタチだ」  直人が、思いっきり顔をこすったあとで、吐《は》き出すようにいった。 「夢《ゆめ》見てるんじゃ、ないよな……」 「森よ! これ、自然林だわ!」 「自然林?」  感動している洋子に、友美が尋ねた。 「だから、人間の手が全然入っていないと、この辺りは自然にこんな森になるってこと。何百年も誰も入ってなかった証拠《しょうこ》よ!」 「……凄《すご》いとこだな。いかにも、ばけもんのすみかって感じだ」  おののく隆に、友美は首を振った。 「そんな物、実在するわけないわ。大体、まだお昼よ」 「入ってみるか?」と、直人が友美を見た。 「……そうね」  心の耳を澄ますと、あの哀しいような、寂しいような声が聞こえる。やはりこの森のどこかから出ているに違《ちが》いなかった。  心を決めた六人は、恐る恐るその足を門の中に運んだ。  その足が森の地面を踏《ふ》んだ瞬間だったろう。  友美の全身に、軽い電気のようなものが走った。  心の中に、あの不思議な『声』がいままでの数百倍もの激《はげ》しさで反響《はんきょう》していた。  それは、悲しみであり、苦しみであり、それ以上の何かだった……  胸は張り裂《さ》け、息が止まりそうになった。  なぜならそれは、挽歌《ばんか》だったから。  巨大《きょだい》な何かが、今死のうとしている。想像を絶するほどに偉大《いだい》で、いとおしく、命をかけても守らねばならない大切な存在が…… 『声』とは、その巨大な存在からの、メッセージだったのだ。  その声を聞いているのは、友美だけではなかった。友美の横に立っていた寝太郎、その後ろの直人と洋子、そして最後に入ってきた正夫と隆にも、まるで伝染《でんせん》するかのように広がっていった。  森からの声は、絶え間なく続いている。  その中で友美は、決意していた。 『誰かは知らない。何かは知らない。けれど、私は絶対にあなたを助ける』と。  その決意が生まれたとたん、激情に流され続けていた心は、急流から広い川に出たように静まっていった。  声は続いている。しかし、もう自分を持ち続けられそうだ。  友美は首を振った。いつ溜《た》まったのか、目から涙《なみだ》が散る。  見ると仲間たちも同じように涙を溜めた目で、お互《たが》いの顔を見合わせていた。 「大丈夫《だいじょうぶ》? 友美」と、洋子が涙目で友美の手を取った。  どうやら、自分が一番長く『声』に捕《つか》まっていたらしい。 「もう平気。ね、みんなも感じるの?」  全員がうなずく。 「この森にいるばけもんが、おれたちに助けを求めてるんだ!」  確信を持って隆が怒鳴《どな》り、全員の顰蹙《ひんしゅく》の視線に後ずさった。 「違うわ。化け物じゃなくて妖精《ようせい》よ。すごく高貴っていうの? そういう感じがするわ」  洋子が話し、直人もそっちの方が近いと賛成した。 「しかし、妖精というよりも、精霊の方じゃないかな? この森自身が泣いているような気がしない?」と、正夫が言う。  正夫の方が近いと友美は思う。この声の主なら、最低でもそれくらい大きいはずだ。 「それに賛成。でも、泣いてるって気はしないわ。もっと複雑な感情みたい」  全員がなるほどと思う中で、洋子が寝太郎に尋ねた。 「寝太郎君はどう感じる?」 「……おれは、もっとすごいもんだと思う。上手《うま》くいえんけど……とにかく、もっとでかいやつだ。死にかけてるのも確か。助けなけりゃならんのも、確かだな」  寝太郎の意見だと思うだけで、友美は反発したくなったが、声の主を助けるという言葉には、反対のしようがなかった。 「たとえばけもんでも、ここまで頼《たよ》られちゃあな!」  声を化け物のものと考えている隆でさえ、異存はない。 「ここには、何かがいる。それを、おれたちが守るってことだ」  洋子は直人に問い、 「でも、なにかって何?」 「まず、探検しようぜ」という隆の意見に全員賛成した。なんせ、まだ門から数歩しか入っていないのだから。  目が慣れてくると、森の中が真っ暗でもないことが分かってきた。  そう感じると共に、今まで抑《おさ》えられていたらしい星虫の力が全開され始め、森は一挙におとぎの国に変貌《へんぼう》した。  微《かす》かな光、木々が放つわずかな赤外線をも感知する星虫の目は、目で見る数倍の情報を宿主に送る。隠れていた虫や動物たちも見え出した。 「空気も全然違う!」  竹林の中も町とは空気が違うのに驚いたが、この森には、さらに豊かで生命力にあふれた、清浄な大気が満ちていた。 「それに、こんなにいろんな匂《にお》いがあるなんて……」  自然林には雑多な植物と、多くの動物とが暮らしている。その生き物たちの放つ匂い、木の芳香《ほうこう》、土の匂いが大気を彩っていた。こんなに複雑な匂いを嗅《か》ぐのは、全員生まれて初めてだった。  六人は、ジグザグに森の中を進んでいった。道がないのだから、薮《やぶ》の薄《うす》い所を見つけながらの行進にならざるを得なかったのだ。 「探検隊だね」と、横を歩く直人が、友美に笑いかける。  友美は笑みを返した。  声は今も絶え間なく聞こえているが、少し慣れても来ていた。 「おーい! 早くこい!」  先行する隆の声が響く。  友美と直人は、あわててその声の方へと走った。  森が切れている。  そこだけ、木々の枝葉で出来た屋根がなかった。地面は青々とした草で覆《おお》われ、まるで芝生《しばふ》をしきつめたようだ。直径で十メートルほどの円形広場になっていた。 「倒木よ」  先に来ていた洋子が、その広場の真ん中で、大人一|抱《かか》え程もある大きな木の幹の上に座《すわ》っていた。 「この大木が、ごく最近|倒《たお》れたんだな。それで、ここだけが草地になってるんだ」  正夫が、明るい空を見上げた。 「でも、今だけよ。ほら、もう次の木の苗《なえ》が出てきてるわ」  洋子は、根元近くで腐《くさ》って折れたらしい巨木の切り株を指差した。そこからは確かに小さな木の苗が育ち始めていた。 「森もいいけど、ここも綺麗《きれい》ね」と、友美は洋子の横に腰《こし》掛《か》ける。 「ウサギだ!」  全員が茫然《ぼうぜん》と見送る中を、草の上に上半身を出していた二羽のウサギが、森に消えた。 「おい……ほんとにここ、ぼくらの町だろなあ」  正夫の言葉は、六人の思いそのままだった。  別の次元、過去の時代に紛《まぎ》れ込《こ》んでしまったような錯覚《さっかく》さえ覚える。  この森を見、知れば知るほどに、素晴《すば》らしい場所だという思いが高まるばかりだった。  ここを守るためになら、なんだってするぞと、全員が思い始めていた。 「今度、弁当持ちで来ようか?」  さっきからタイミングを見計らっていた直人が、友美に小声で言った。 「それ、乗った!」と、話しかけられてもいない隆が答える。隆は聴力《ちょうりょく》を増幅《ぞうふく》していたらしい。 「ただでも、味覚が星虫で増幅出来るんだ。こんないい場所で食ったら、どんだけ美味《うま》いかわからんぞ!」 「お前は、ほんとに食うことばっかりだなあ」  正夫が呆《あき》れたが、それが名案に遠いないのも確かだった。  友美と洋子が弁当役を申し出、一同が盛《も》り上がってきたところに、寝太郎がぽつりと言った。 「駄目《だめ》だ、それは」  一挙に、その場がしんとなった。 「どういう事?」  友美の問いに、寝太郎は頭をバリバリ掻《か》いて答えた。 「おれが、何で苦労して御先祖《ごせんぞ》か埋《う》めた鍵《かぎ》を探したと思う。ここが消える前に、一回中に入ってみたかったからだ」 「消える?」  寝太郎はうなずいた。 「祖父《じい》さんが市長にここを売った。市の文化センターが建つんだ。来週にも着工らしい」  友美は思わず立ち上がっていた。 「駄目よそんなの! ここはただの場所じゃないわ!」 「そうだ! ここには、何か凄いものが住んでるんだ。壊すなんて、無茶だ!」  直人も怒鳴りつける。  寝太郎は、やれやれとまた頭を掻いた。 「おれが売ったわけじゃないだろ」 「おじいさん、説得出来ないの?」  洋子の声にも首を振《ふ》る。 「ここ数日、機嫌《きげん》が悪いんだ。それに、もう売ったもんだ。買い戻《もど》せるかな」 「どうして売ったりしたの? 御先祖の大事なものだったんでしょ!」  責める友美たちの言葉に、寝太郎は不意に背伸《せの》びをした。 「おれは無関係だぞ。そこまで言われる事したか? やってられんな……」  欠伸《あくび》をしながら、寝太郎は森の中に向かった。 「帰るの? この森を見捨てて!」  友美は、その後ろ姿に怒鳴った。 「委員長にまかせるよ。鍵もやる。頑張《がんば》って守ってくれよ」  寝太郎はそう言い残して、森の中に消えた。 「なんて奴《やつ》だ。この声を聞いてるくせに、よくあんな事が言えるな」  直人たちも怒《おこ》っている。  友美は、ちょっとだけ後悔《こうかい》した。寝太郎の言う通り、ここが売られたのは、彼《かれ》の責任ではないと、気付いたのだ。  しかし、その気持ちもすぐに消える。あいつは、ああ言って逃《に》げる口実にしただけだと思った。集団行動をするつもりなど、もともとなかったのだ。  ここにいる仲間の力で、森を何としても守るしかない。  そう思ったとたん、友美は閃《ひらめ》いていた。 「そうか! 潰《つぶ》されるから、私たちに助けを求めていたんだ、この森!」  それ以外に、この『声』の説明は不可能だと、全員が悟《さと》った。 「明日にも潰されるんじゃないか? この『声』、相当せっぱ詰《つ》まってるって感じがあるだろ?」  隆が騒《さわ》ぎ出した。 「明日は日曜だ、大丈夫だろう。しかし、現実的にどうすれば助けられるかだ……」  直人はそう言い、全員考え込んでしまった。 「筋としては、市役所だが……」  しかし、役所の大人たちは信じてくれそうもないなと、腕組《うでぐ》みする。 「待って!」  友美は、ひょっとしたら、この森の声が聞こえるのも星虫のおかげじゃないかと、気がついた。少なくとも可能性は大いにある。だとすれば、市の役人で、星虫所持者を連れて来れば説得に役立つはずだった。 「なるほど!」  その友美の意見に、力を落としていた四人は希望を見つけた。  星虫所持者全員に、この森の『声』が聞こえるとすれば話は簡単だ。この声を聞いて心を動かされない人がいるとはとても思えない。 「けど土曜だぞ。役所、開いてるか?」  そう言った隆を、友美がにらんだ。 「それなら、張本人の所へ行けばいいのよ!」 「張本人?」  友美は、にこっと笑った。 「そ。市長のお宅へね」  傾《かたむ》いた日差しが、坂道を下る五人に、長い影《かげ》を背負わせていた。  とぼとぼと歩く友美へ、直人が慰《なぐさ》めるようにロを開いた。 「仕方ないよ。市長が星虫所持者だったらよかったんだけどな……」  友美はうなずいた。三十億もいる星虫が、なぜあの男についてないのかと腹が立つ。  結局、この時間までかかって、市役所と市長の家を回ったのだが、まるで相手にされなかった。市長の家では警察まで呼ぶと言われ、頭に来た友美が、『呼ぶならよびなさいよっ!』と啖呵《たんか》を切ったところで、みんなが止めた。よく引っ張り出してくれたと思う。もう少しで、かぶっていた猫《ねこ》の皮がはがれるところだった。 「なに、まだ手はあるよ」  直人は、大分|昔《むかし》に、知床《しれとこ》の国有林の伐採《ばっさい》を止めるため、大木に自身の体を縛りつけた人々の話をした。 「うん、その手しかないな」  隆がロープなら家にあるから持ってくると言った。 「あさって潰すらしいが、絶対に阻止《そし》してやる」と、正夫もうなずく。  午後の収穫《しゅうかく》としては、工事の日時がわかっただけ。正夫も相当頭に来ているらしい。 「そこまでしないでも、大丈夫」  洋子が、額の星虫を示した。 「この星虫が、きっと助けてくれるわ。簡単。ただ、星虫所持者を集めて、あの森に入れるだけ。そうすれば、全員が味方になってくれる。所持者は、日本だけでも八千万はいるんだから」  その通りだと気付き、友美は少し顔を上げた。 「見ろよ!」  直人が驚《おどろ》いたように、町を指差していた。市長の家のある高台から、少し降りた坂の途中《とちゅう》。そこからは、遠く友美たちの町も望むことが出来た。  その町が、美しい夕映《ゆうば》えの中に輝《かがや》いている。  星虫の目が、この光景をとらえた時、ここからでは微かにしか聞こえない、あの森の声が、友美たちに届いていた。  素晴らしい夕焼けを見て、じんとなる想《おも》い。その感動が、百倍にもなって五人を直撃《ちょくげき》していた。  こんなにも綺麗で、哀《かな》しい夕焼けを見たのは、生まれて初めてだった。  涙を浮《う》かべた友美の目が、遠い自分たちの町の一角に吸い込まれるように向いていた。  朱色《しゅいろ》の輝きの中、陽炎《かげろう》のような光が、立ち昇っている。 「森が……」  友美は指差し、全員がその不思議な揺《ゆ》らめく光に心を奪《うば》われた。 「絶対に、絶対に守るんだから……」  心の中に、寝太郎の嘲笑《あざわら》うような顔が浮かんでいた。その顔は、出来るもんなら、やってみろと、友美に語りかけている。 『私は、寝太郎とは違《ちが》うんだ!』  友美は下唇《したくちびる》を噛《か》み、震《ふる》えるくらいに全身の力を込めた。  一時間後。綿のように疲れ切った友美は、直人に送られて帰ってきた。  家族はすでに食卓《しょくたく》についていた。  小言を我慢《がまん》して聞き終えた友美は、今日あった事を父に話し、そして、あの屋敷《やしき》がいかに特別な存在かを力説して、力を貸して欲《ほ》しいと頭を下げた。 「父さん。本当に私たち、森の声を聞いたの。あの森は、絶対に残さなくちゃ!」  横で聞いていた兄が、驚き顔と共に、首を振っている。 「そんな場所が、この町にあるのか? でも友美、それ、その『森』の声じゃないぞ」  兄の言葉に、友美の瞳《ひとみ》が曇《くも》った。 「どういうこと?」 「友美たちが今日経験したことが、日本中、いや、世界中で今、起こっているんだ」  父が告げ、幸雄が続けた。 「友美が聞いた声は、アメリカじゃ、EARTH CRYって呼んでる」 「地球の……叫《さけ》び?」  直訳した友美は、息を飲んだ。 「そういうこと。世界各地の都会の中に、辛《かろ》うじて生き延びていた自然の叫びなんだそうだ」  事の起こりは、アメリカでの大規模な幽霊《ゆうれい》騒ぎだった。夜になって、あちこちで哀しげな叫びが聞こえるという警察への通報が相次ぎ、それが星虫所持者からのみであった事から、調査された結果、つい一時間ほど前に、アメリカの星虫委員会が結論を出したのだ。  都市近郊に辛うじて残された自然の中、あるいはそのごく近くに住む星虫所持者のみが感知していること。そして、その感知している感情らしきものの質が、完全にどの地区でも一致《いっち》することから、その声にならない声は、消滅《しょうめつ》しつつある自然の叫び、言い換えるなら、地球そのものの『悲鳴』と考えても間違いではない。すなわち、EARTH CRY、またはEARTH SCREAMではないかと発表したのだ。  友美は、全世界で同じ事件が発生していたことに、一瞬《いっしゅん》がっかりしたものを感じた。あれほど必死に森を守ろうとした自分が、間抜《まぬ》けに自己陶酔《じことうすい》していただけだという気がしてくる しかし、よく考えれば、その方が理屈《りくつ》が通っていた。森の精霊と考えるよりは、地球の危機的|状況《じょうきょう》が『声』として感じられる方が、まだ科学的だろう。そう思い始めると、『地球の叫び』説に当てはまることが、次々と頭に浮かんできた。 「うん。あの声は、町中でも聞こえたもの。それに、あんな小さな森にしては、宿っているものが、大きすぎるって気はしてた。……寝太郎が、正しかったんだ」  悔《くや》しいが、寝太郎だけが、森よりも大きな存在だと言ったのだ。  寝太郎と一言えば、あの美女との関係を問い詰めそこなった事が思い出されたが、まあいいだろう。また機会はある。それより、どうすれば森を守れるかが問題だった。こちらには、ほとんど時間がない。寝太郎の祖父を説得できれば、一番楽なのだが……  明日もあの森で、朝七時に集合だった。しかし、このニュースをみんなも知った頃《ころ》だ。森が特別な存在でないと分かっても、全員来るだろうか? 友美は首を振った。一度でもあの『声』を体験したら、そんなのは問題じゃないとわかったのだ。あの声が、実は地球の叫びだとしても…… 「地球の叫び?」  突然《とつぜん》友美は、その意味の巨大《きょだい》さに気がついていた。そう、そうなのだ。あれが地球の声だとすれば、地球は、本当に生きているということになる。生きて、意思を持っていることに! これは、とんでもない大発見ではないのか? 幸雄は、その友美の言葉にうなずいた。 「そういうことだ。地球が、一つの生き物としての意思をもっているかも知れないって話で、今、真夜中だってのに、アメリカでは大論争になってる。星虫委員会の中も、半分裂《はんぶんれつ》状態だそうだ。しかし、アメーバーでさえ、生きる意思はある。生き物の集合体としての地球の意思を認めてもいいと、おれは思うな。そして、それが死にかけている場所で悲鳴として聞こえても、不思議はない。人間のおかげで、地球は確かに死にかけてるんだ。誰《だれ》もがわかってて、それでいて、見て見ないふりをしてきたけどな」  友美は興奮してきた。  昔NASAの科学者が、地球生態系を一つの生き物と考え得るという説を発表したことある。確か、その巨大な生き物は、ガイアと名付けられていた。星虫によって、そのガイアが発見されたのかもしれない。 「だとしたら、すごい事じゃない! 星虫を持ってる人達が、全員熱狂的な環境保護運動家になるわけでしょ? 今、全世界に三十億もいるのよ!」 「地球が助かるかもしれんな。星虫のおかげで」  新聞を閉じた父も、そう言って笑った。  友美の胸が高鳴ってきた。その通りだ!  あの森を救っても、声は消えないだろう。だが、全世界で星虫所持者が友美たちと同じように立ち上がったとしたら、地球を救えるかもしれない。  疲《つか》れも吹《ふ》っ飛んでしまった友美に、「星虫のニュースがもう一つあるぞ」と、幸雄が続けた。 「テレビとラジオの電波を、捕《と》らえられるらしい。父さんもおれも、まだ無理だけどな」  驚きの連続に、友美はめまいを起こしそうだった。 「なんてすごいんだろ。星虫って……」 「ローマ法王は、神の御遣《おつか》わしだと言ってるな」  父の言葉に、友美はなるほどと感心した。 「しかし、これで星虫を悪く言う連中が本当にいなくなるぞ。母さんも今や星虫派だ」  でも、それも問題だよと、幸雄が父に言う。 「たった二日だろ。まだ成分の分析《ぶんせき》も出来てない。油断は早いよ」  友美はうなずいた。昨日までのように、星虫を全面的に肯定《こうてい》できなくなってきている。余りにも星虫のいいところばかりが目立っているが、どんなものにも欠点があるはずだった。 「はいはい、お喋《しゃべ》りは終わりっ!」  食事の冷めるのを見兼ねた母の一言で、ようやく夕食が始まる。  星虫のおかげで、それは超《ちょう》一流レストランに優《まさ》る美味だった。  羨《うらや》ましがる母を見ながら、友美の中に、新しい不安が芽生えていた。  素晴《すば》らしい星虫。だが、兄の言うように、正体不明。明日どうなっているかも分からない。  それはつまり、明日の朝、死んで取れている可能性もあるということだ。 『大体、何も食べないもんね……』  星虫も生物なのだから、何かを食べなければ死ぬはずだ。しかし、星虫が血を吸うという報告はない。まあ、それゆえに今日まで受け入れられてきたとも言える。地球の生物とは全く違う、鉱物性の生き物で、大気中の元素を栄養にしているという説が有力視されつつあるものの、友美はやはり不安を押さえ切れなかった。 『取れちゃ、やだからね! 欲しかったら、血くらいあげる。ずっとついててよ』  友美はすでに、この星虫へ愛情さえ感じ始めているようだった。  死ぬ思いでいつもと同じトレーニングを終え、風呂《ふろ》に入った友美は、よろよろとベッドに腰掛《こしか》け、ドライヤーで髪《かみ》を乾《かわ》かしながら、大欠伸《おおあくび》をした。  軽い頭痛がしているのは、星虫の力の使い過ぎらしい。目蓋《まぶた》が本当に重い。 「もう、だめだ……」  髪が生乾きのまま、あかりを消し、ごそごそと寝床《ねどこ》にもぐり込んだ。  仰向《あおむ》けになる。眠《ねむ》れる幸せに体が震えた。 「でも、なんて一日だったんだろ……」  すでに半分眠りに入りながら、友美は思い返していた。  星虫の事、森の事、素晴らしい夕映えの事。そして、寝太郎のあれ以下はないという汚《きたな》い姿が思い浮かび、あわてて頭の中から消去した。  しかし、長い一日だったような気がする。  今日の出来事の中で、ただ一つ残念だったことを、友美は思い出していた。  あの化け物屋敷が、おじさんの家ではなかった事だ。 「ほんとに、あれは現実だったのかな……」  あのおじさんに会いたいと思った。あの人なら、森の事も簡単に解決してくれるはずなのだ。逢《あ》えたら、話したい事が一杯《いっぱい》あった。相談したい事、教えてもらいたい事、そして、謝らなければならない事が……  いつしか夢《ゆめ》が、思いの中に入り込んでいた。  こんな調子で、いつか宇宙へ行けるのだろうか? 友美は重い目蓋を上げ、天井《てんじょう》を見上げた。その上に広がるはずの宇宙……  あの不思議なおじさんと、不思議な屋敷が、その憧《あこが》れる宇宙から来たのではないかと、思えてならなかった。 [#改ページ]  三 日 目 「おまたせ」  あわてて家を飛び出してきた友美に、直人は思わずぽかんと口を開けてしまっていた。  黄色いブラウスと、真っ白なスカートが目に眩《まぶ》しいほどだ。髪《かみ》を押《お》さえている幅広《はばひろ》のヘアバンドが、ブラウスと同じ明るい黄色に輝《かがや》き、友美の年齢《ねんれい》を一、二歳引き下げて見せているが、それはそれで可愛《かわい》さを倍加させており、文句をつけるどころではなかった。  日曜日の朝七時前。  普段《ふだん》なら絶対に床《とこ》の中の時間だが、疲《つか》れ切り、頭も回らなくなった昨夕、森を守る対策を翌朝話し合おうと決めたのは、直人自身。文句は言えないし、また言う気もなかった。  直人は五時に起き、風呂《ふろ》に入り、まだろくに生えてもいない髭《ひげ》を剃《そ》った。そしてイタリア旅行した姉の土産《みやげ》のシャツに、初めて腕《うで》を通す。もちろん、それが森のためのわけがない。普段とは違《ちが》う自分を、一人の少女に見せたかったのだ。そして、今日こそが、絶好のチャンスだと思っていた。何とか、他《ほか》の連中をまき、二人きりになる機会を作ってみせる。作戦は三つ立てた。いざという時のために、ロードショーのチケットも用意してある。細工は隆々《りゅうりゅう》だった。 「でも、どうしたの? びっくりしたわ、来てくれるなんて。なにか話?」  誘《さそ》いに来たのが直人一人と知り、友美はちょっと照れ臭《くさ》そうに尋《たず》ねた。 「まあ、ついでだったから」  直人は笑ってごまかし、「それより、でかいね。氷室さんの星虫の青い目」と、話題を変えた。  二日間、何の変化もなかった星虫の形状に、この朝初めて異変がおきていた。  全体の大きさは縦三センチ、横二センチになり、一回り大きくなっている。昨日まで目立たなかった額と星虫を接着していた黒いラバー部分が小判状に広がり、その上に虫の甲殻《こうかく》のような物がかぶさっていた。それぞれの目は、小判の上にちりばめられた形になり、もはや『!』マークには見えなくなっている。どこか、海の岩場に張りついた貝やフジツボに似てきていた。より生き物っぽくなったと言えるだろう。ヨーロッパやアメリカなどでは、陽《ひ》のある内に成長が始まったため、驚《おどろ》いて取った人もいたが、成長が数十秒で終わったおかげで、気付かない者が大半だった。落ちた星虫は、数百に留《とど》まっている。  四つだった目も、一つ増えた。五割方大きくなった楕円《だえん》の目と、その下の丸い目の間が開き、米粒《こめつぶ》のような形と大きさの、透明《とうめい》な目が出来ていた。いびつな形の二つの目の位置は、丸い目の両脇《りょうわき》に移ったが、大きさは同じか微増。  五個になったその目の中で、一番変化したのが、丸い目である。昨日よりも倍以上に巨大化していた。それゆえ、感覚の増幅《ぞうふく》を主につかさどっているのが、この目である可能性が更《さら》に高まっていた。 「一センチはあるんじゃないか?」  友美はうなずき、自転車に跨《また》がった。 「でも、ニュース見た? この目の大きさが、知能指数と比例するなんて、無茶言うわね、アメリカ人は」  二人の自転車は、ゆっくりと朝の町を走り始める。  アメリカの星虫委員会は、その急激《きゅうげき》な変化が、視力などの能力拡大に星虫が適応したものだと推論していた。そのついでのように、感覚の増幅に関与《かんよ》している青い目の大きさに、かなりの個人差が出ていることを発表、その大きさが知能の高さに比例すると言い出したのだ。  ハーバードの学生が七、八ミリ。全体の平均が六ミリだという。その理屈《りくつ》なら、友美の一センチは、大天才になってしまうわけだ。馬鹿馬鹿《ばかばか》しいにもほどがある。 「でも、大きい方が性能がいいのは確かだろ? 赤外線も見やすくなってるはずだ」  それは否定できなかった。大した精神の集中などなしでも、視覚のコントロールが可能になっている。音や匂《にお》いの増感も簡単に出来るようになっているし、第一疲れ方が違う。その意味では、昨日とは雲泥《うんでい》の差だった。 「それに、電波が聞けるんじゃないか? その大きさなら」  そうだった。昨日兄が言ってたように、友美は空中を飛ぶ電波を捉《とら》え、その音を聞くことが可能になっている。 「テレビの画面は無理。音だけよ。それも割と集中しないと駄目《だめ》。そんなに役にたたないわ」と友美は、少し怒《おこ》ったように言う。  星虫の価値が決定的となった昨日から、世界は少し変だった。  星虫所持者は、今や有頂天《うちょうてん》。爆発《ばくはつ》的な環境《かんきょう》保護運動が、北アメリカと南アメリカで勃発《ぼっぱつ》。ブラジルでは、武力|衝突《しょうとつ》まで発生していた。その反面、星虫による犯罪(つまり、赤外線が見えれば泥棒《どろぼう》は簡単)の急増、所持者と非所持者との間のトラブルも激増していた。  星虫の与《あた》えてくれる力が素晴《すば》らしければ素晴らしいほど、持っていない人々は妬《ねた》む。世界の四割の人々が、非所持者だということを忘れてはならないだろう。しかも彼《かれ》らは老人や子供、病人など、社会的弱者がほとんどなのだ。  もし友美が、非所持者の立場だったら、やっぱり羨《うらや》ましがるに決まっている。その意味では、えこ贔屓《ひいき》のような星虫のつき方が気に入らなかった。 「私、地球の叫《さけ》びっていうのも、嫌《きら》いだわ」  機嫌《きげん》の悪くなってきた友美は、EARTH CRYにも文句をつけ始めた。 「どうして? そう変なネーミングでもないと思うよ。ま、CRYよりは、SCREAMの方が近いという気はするけどね」 「どうも……しっくりこないの。もっと複雑な感情だって気がする。今のところはただの声でいいと思うわ」  ふーん、と直人は感心し、「そういえば、松本が言ってたな。氷室さんは、時々|妙《みょう》にカンがいいって。それかい?」と、聞いた。  友美はちょっと自慢気《じまんげ》に顔を上げ、自転車のかごのショルダーバッグを示す。 「時々ね。これも、それで当てたのよ。テレビのクイズで」  それを聞いて笑う直人の様子が、普段と全然違うのにやっと気付いた。 「変ね。宮田君、いつもより痩《や》せて見えるわ」  体にぴったりとフィットしたシャツと、きっちりセットした頭髪《とうはつ》。その印象が、友美には、痩せているとしか取れなかったらしい。  目一杯《めいっぱい》、脱力《だつりょく》した直人だった。  洋子は、竹林の高校側に近い入口である、小さな空き地に立っていた。  その目には、仲よく並《なら》んで走ってくる二台の自転車が映っている。 「おはよう洋子」と、その片割れが手を振《ふ》った。 「どうしたの?」  自転車を降りた友美は、その友人の顔を覗《のぞ》き込《こ》んで怪訝《けげん》そうな表情をした。 「べつに」  洋子は吐《は》き出すようにそう言って、直人を見た。 「よっ。他《ほか》の連中はまだか?」  アベックの残りがそう聞き、辺りを見回している。 「中!」  命令口調の洋子の声に、?の二人だった。 「じゃ、先に行ってるぞ」  機嫌の悪い洋子から逃《に》げるように、直人が竹林に入ろうとする。  その彼に鍵《かぎ》を預け、残った友美は、洋子と向かい合って立った。 「なに?」と聞く。 「なにって、何?」  しらばっくれる洋子に、友美は腕を組んだ。 「今にらんでたでしょう、すごい顔してたわ」 「別に……」 「別にって顔じゃなかった。あのね、言ったでしょ? 私は誰《だれ》とも付き合う気ないって。本当よ」  洋子は友美から視線を外《そ》らした。 「友美はそうでも、直人はそうじゃないわ」 「え?」  今度は友美が聞き返す番だった。 「……言ったでしょ。寝太郎君以外にもう一人いつも友美を見てる男子がいるって」  友美は、驚いていた。 「それが、宮田君?」  うなずく洋子に、友美は茫然《ぼうぜん》と空を仰《あお》いだ。  またかという思いだった。中学の時も何度か同じ様な事があり、一人友人をなくしている。なぜ男子は、こうも外面《そとづら》にだまされるんだろう? 「なによそれ?」 「なにそれって、だから、そういうことよ。直人は、友美が好きなの」  友美は困った。確かに直人は、男子の中ではピカイチだと思うが…… 「好きって言われてもねぇ」  溜《た》め息ついて、顔を直人が消えた竹林に向けた。  友美には、叶《かな》えたい夢《ゆめ》があった。その夢が叶うまでは、なるべく寄り道はしたくない。毎日決めたノルマがあるし、そうなれば普通に言うところの『お付き合い』などをやるヒマなど時間的にも、精神的にもなかった。大体、『お付き合い』するような男子にまで、猫《ねこ》をかぶったままなんて、想像しただけでも疲れる。ましてや洋子が好きな相手だ。ほいほい交際できるはずもなかった。洋子と直人では、洋子の方がずっと大事な友人だった。  となれば、解決法は一つしか思い浮《う》かばない。  洋子が直人と付き合い始めても、友人を完全になくすよりはましだろう。 「洋子、宮田君に好きだって言ったことないんでしょう?」  いきなりの友美の言葉に、洋子は赤くなった。 「……当たり前よ。幼稚園から一緒《いっしょ》の、妹くらいにしか思ってないわ、きっと」 「じゃ、言っちゃいなさいよ。多分宮田君、洋子が好きよ。でも、あんまり身近すぎて気がついてないだけじゃない? それに私、本当に誰とも付き合うつもりないから。絶対よ。そんな暇《ひま》ないの。応援《おうえん》するから、頑張《がんば》りなさいよ」  そうやって、何とか洋子を元気づけようとする友美の後ろから、何かが近づいて来た。風のように二人の横をすりぬけた何かは、友美が目を向けた時には、竹林の中に飛び込んでいた。 「寝太郎君?」  洋子が自信なさそうに言う。確かに今のは寝太郎のようだが、あの足の早さはとても彼のイメージじゃない。と、また後ろから今度はスクーターのエンジン音が。 「どいてっ!」 「あぶないっ!」  ノーヘルでスクーターに乗った女性の声と、驚いた友美の声とが重なる。  真っ赤なスクーターは、二人の直前で急ブレーキをかけて止まると、スタンドも立てずに放《ほう》り出された。それをまたぐようにして、ドライバーが身をひるがえす。  空中に優雅《ゆうが》な線を描《えが》くその姿が、友美と洋子には、輝いて見えた。 「ごめんなさい!」という言葉を後に残し、女性は寝太郎らしき姿を追い、竹林の中へ消えた。  唖然《あぜん》とした洋子が、顔を上気させて友美を見た。 「すごい綺麗《きれい》な人!」  友美も、息を飲んでいた。 「あの人、この間学校にきた美女!」  そうだった。確かに、一昨日出会った吉田秋緒という女性だ。 「知ってるの? なんなのあの人。タレント? モデルかな!」  洋子は落ち込んでたのも忘れていた。  友美も興奮してくる。 「あの人、寝太郎に会いに来たの! 学校に!」 「寝太郎君に?」  二人の頭の中に、見るからに汚《きたな》い寝太郎と、今見たたまげるほどの美女とが浮かぶ。 「何の用よ?」  呆《あき》れる洋子の横から、友美がダッシュした。 「聞けば分かるわ!」  言いながら竹林に駆け込む友美を、あわてて洋子も追った。  扉《とびら》の鍵を聞け、遅《おそ》い友美たちを迎《むか》えに歩いていた三人の男子たちの横を、寝太郎が猛烈《もうれつ》な勢いで駆け抜《ぬ》けていった。 「なんだ?」と三人が撮り返り、寝太郎が門をくぐるのを見守った。 「捕《つか》まえてっ!」  せっば詰《つ》まった声がする。少し苦しそうに胸を押さえた女性が立っていた。 「すっげー……」と、声が出せたのは、隆だけだ。後の二人は、硬直《こうちょく》している。  苦し気に息を弾《はず》ませているのに、その女性の美しさは衰《おとろ》えていなかった。 「お願い。今走っていった男の子を捕まえて!」  もう一度そう頼《たの》まれて、初めて三人が動いた。爆発的に! 「おまかせっ!」  隆が走り、二人が続いた。さっきの寝太郎以上のスピードだ。  後ろから追いかけて来ていた友美たちにも、秋緒は頼む。友美と洋子も、迷うことなくその言葉に従っていた。  森の中での鬼《おに》ごっこが始まった。  鬼は寝太郎。そして、おっかけるのは五人プラス秋緒。  密林に近い森の中だが、五人には星虫があった。どこに隠《かく》れようが、赤外線で透視していけば簡単に追跡《ついせき》できる。 「な、なんでお前らまで追っかけんだよ!」  寝太郎は追いすがる隆に、怒鳴《どな》った。 「さあなっ!」と、隆はすでに、遊び気分に突入《とつにゅう》している。  すぐに捕まると思われたのだが、意外に寝太郎はすばしっこく、一瞬《いっしゅん》全員がまかれてしまった。 「どこいった?」  倒木《とうぼく》の広場を目指しながら、直人が友美に聞く。友美の星虫が、一番性能がいいと思われたからだ。そして、友美は寝太郎が走った後を赤外線で発見した。 「上よ!」  寝太郎がいた。広場の端《はし》に立つ、大木の上に。 「……どうやって登ったんだ?」  その木は大人が一|抱《かか》えしてまだ余る幹で、ジャンプして手の届く範囲《はんい》には、細い枝一本生えていない。五人はその下に集まり、馬鹿みたいに上を見上げていた。 「捕まった?」  まだ少し苦しそうな様子の秋緒が、森の中から現れて尋ねる。  友美はすまなさそうに首を振り、大木の上を指差した。 「なんだ、お前らは!」  いきなり雷《かみなり》のような大声が、一同の後ろから轟《とどろ》いた。  肝《きも》を潰《つぶ》した六人が振り返ると、草地の倒木の前に、一人の初老の男が立っていた。  山羊《やぎ》のような白い髭《ひげ》をたくわえ、鋭《するど》い眼光が厚い眼鏡の底からほとばしり出ている。はげ上がった額に、星虫はない。 「あなたは……」  直人が恐《おそ》る恐る尋《たず》ねた。 「わしか。わしは、この屋敷《やしき》の元持ち主だ!」  ということは、昨日のインターホンの声の主。つまり、寝太郎の祖父? 意外な人物の登場に、まだついていけない友美たちだった。 「どうやって鍵を開けた!」  そう怒鳴る男に、友美はあわてて頭を下げた。 「すいません。私が、ここの鍵を寝太、いえ、相沢君から預かったんです」  友美は事の成り行きを説明し、さらに謝《あやま》った。  男はすると、突然大笑いを始めた。 「それなら謝ることはない。大体、市に譲《ゆず》ってしまった以上、不法|侵入《しんにゅう》はわしも同じだ!」  そして、首をひねった。 「そうか、昨日家に来たのは、君か? 広樹を今朝見たかね?」 「今、木に登ってます」  友美は大木を指差し、男はまた大笑いした。どうやら酒が大分と入っているらしい。 「広樹は猿《さる》並《な》みだ! 速かったろう、登るのが!」  楽しげに笑う男につられ、全員がくすくす笑い始めていた。思ったより、怖い人ではないようだ。 「だが、何の用だ? こんな何もない所で若いもんが。まだ七時だぞ!」  直人が、星虫と『地球の叫び』の話をした。 「それが、この場所からも出ているんです」  なるほどと、男は納得した。ニュースは、彼も知っていたようだ。 「相沢さん、ここは、この場所は、大切な場所なんです。助けてください」  友美がそう言って深く頭を下げた。他の四人も後に続く。 「……無茶を言う子供たちだな。一度売ったものだ、そうおいそれと買い戻《もど》せるわけがなかろう。大体、金に困って売ったわけでもない。わしなりに考え抜いた末に決めたんだ。とやかく言われる筋合いではない! だまれ!」  その迫力《はくりょく》に、思わず後ずさった二人の横から、あの美女が前に出てきた。  老人の体がピクッと震《ふる》えた。秋緒を見る目が横にそれ、みつけた倒木に腰《こし》をおろした。 「……お前もおったのか」  彼女《かのじょ》は会釈《えしゃく》し、老人の前に立った。二人の間には、不思議な雰囲気《ふんいき》が漂《ただよ》い、友美たちは顔を見合わせた。 「ここは、不思議な所ですね。どういう場所だったんですか?」  秋緒はそう、老人に尋ねる。  頑固《がんこ》じじいという形容がぴったりの相沢氏だったが、なぜかその顔からは毒気が消えていた。 「ま、話してやってもいい」  いきなり態度の変わった老人は、この屋敷の由来を語り始めた。  江戸時代。元禄《げんろく》元年というから将軍は綱吉《つなよし》の頃《ころ》。この町で代官を務めていた相沢氏の先祖は、その時非常な災難の連続に見舞《みま》われていた。  数年来の不作、村での殺人事件、神隠し、そして一揆《いっき》。それらは監督者《かんとくしゃ》である相沢氏の責任問題にも発展しかねず、加えて三人もいた跡継《あとつ》ぎが相次いで急死。万策《ばんさく》つきた御先祖《ごせんぞ》は、京に上り高名な陰陽師《おんみょうじ》に吉凶《きっちょう》を占《うらな》ってもらったところ、屋敷から鬼門《きもん》、つまり北東の方角にある雑木林を、高い塀《へい》で囲えと言われた。そうすれば、そこが自然の結界となり、相沢家への災《わざわ》いを途中《とちゅう》で断つことが出来るだろうと。  そう言われてみると、確かに近所に雑木林がある。御先祖は、言われた通りに高い塀で囲い、大きな門を築いた。そのとたん、凶運は去り、跡継ぎの男子にも恵《めぐ》まれた。以来、この屋敷を守るのが、相沢家当主の義務となる。そして、三百年が過ぎ去ったのだ。 「それがこの場所だ。化け物屋敷だとか、悪い噂《うわさ》が山ほどたったが、別にそんなものはおらん。もともとただの雑木林だからな。二百年前の御先祖の頃、また家運の下がる事があって、その時鍵を竹林に埋《う》め、誰も登れんように壁《かべ》の回りの竹を切ったのが、悪かったのだろうがな……」  由来を話すうちに、語調がだんだんと柔《やわ》らかくなってきた相沢氏だった。  森を見つめるその目は、いとおしげに細められている。  先祖代々守ってきた土地。金に困っていたわけでもない。そして、彼はこの森をまだ大事なものと思っているようだ。どうして売る必要があったのか? 友美には、彼の気持ちがわからなかった。 「どうしてそんな大事な場所を、売ったんですか」  友美の気持ちを代弁するように尋ねた秋緒に、相沢氏は厳しい眼差《まなざ》しを送った。 「どうせあと、一世紀の命だろう。今|壊《こわ》し、少しでも世間の役に立った方がいい!」  吐き捨てるように怒鳴った相沢氏は、責めるように続けた。 「大体、大崩壊《だいほうかい》理論を立てたのは、お前のはずじゃないかね」  友美たちは息を飲み、秋緒の整った顔に目を向けた。  見た覚えがあったはずだ。去年、科学雑誌で大崩壊理論の特集が載《の》った時、眼鏡をかけた科学者の小さな写真が付いていた。日系人と紹介《しょうかい》されていたと思ったが、確かにあれは彼女の写真だった。 「この一世紀に何とか出来ればいいんです」  秋緒は言い、老人をにらみ返す。 「できっこないだろう!」 「やらずにわかりますか」 「わかる!」  相沢氏は言い切り、友美たちにも視線を向けた。 「一つ、たとえ話をしてやろう。一人の馬鹿の話だ。その馬鹿はな、世界中の大学で学んだ男で、海外を回り、農業指導や、植林の指導をしとった。自分の妻と子供を日本に残し、アジアやらアフリカやらへ出かけては、私財なげうって、米や麦や芋《いも》の作り方を教え、植林し、砂漠化《さばくか》の恐ろしさを教えたりしてきた。地球の緑が猛烈な勢いで減っているのを、そいつは一人で食い止めようとしたんだな。ある年の事だ。その馬鹿はタイへ行った。タイとカンボジアの国境近くで、坊主《ぼうず》になった山の植林を指導していた。最初は上手《うま》くいってたんだ。ところが、カンボジアで内戦がおき、難民がその山里近くまでやって来た。難民だって食わねばならん。そいつらは、植林したばかりの山を焼き、畑にしおった。怒《おこ》ったのは、タイの連中だ。彼《かれ》らは武器を持ち、バラック建ての粗末《そまつ》な難民キャンプを襲《おそ》った。何十人も死んだ。しかし、難民たちも武器を持っている。直ちに報復だ。今度はタイ人が殺された。こうなったら、泥沼《どろぬま》だ。そこへしゃしゃり出たのが、日本から来た馬鹿だ。タイの山里の連中も、カンボジアの難民も、共に貧しい連中だ。虐《しいた》げられたもん同士が、殺し合うことはないと、頼まれもせんのに、双方《そうほう》の調停に入ったんだ。そして、どうなったと思う?」  老人は友美に尋ねた。 「どうなったんですか?」  嫌《いや》な予感で胸が一杯《いっぱい》になった友美が、老人に問い返す。 「両方から恨《うら》まれたんだ」と、相沢氏は言った。 「その馬鹿は、タイ人からは裏切り者、難民からはスパイ扱《あつか》いされた。そしてとうとうある日、家が何者かに襲《おそ》われ、馬鹿は瀕死《ひんし》の重傷を負った。そのまま、日本へ強制|送還《そうかん》だ。馬鹿はその後、数年、後遺症《こういしょう》に悩《なや》まされた末に、家族にまでも見捨てられて死んだ。馬鹿は、世界の緑を救うどころか、自分の命、家族すら守れんかったわけだ。人間はしょせん動物だ。いや、恩を仇《あだ》で返す、動物以下の外道《げどう》だ。外道に未来があるというのか?」  美しい森に、重苦しい空気が満ちているように感じられた。  この老人の話が、ただのたとえ話でない事は、隆にすら察せられた。馬鹿とは、相沢氏の余程《よほど》親しい存在に違《ちが》いなく、多分それは、彼の身内だろうと思えた。 「でも、今は昔《むかし》とは状況《じょうきょう》が違います。今なら、その人が夢見た事が、実現できるかもしれません。星虫のおかげで、世界中が動こうとしているのが分かりませんか?」  秋緒はそう老人に言った。 「ムードだけで、現実は変わらん」  相沢氏は首を振《ふ》り、責めるように秋緒を見た。 「しかし、お前はずいぶんと変わったようだな。どうしてだ?」 「変わったんじゃありません。気がついただけです。その馬鹿な人が正しいって」  老人は、秋緒から目をそらし、立ち上がった。 「無駄な事はやめとけ。それに、家を巻き込《こ》むな。ここを売ったのも、わしの勝手。誰《だれ》にもとやかく言わせん。広樹も渡《わた》さん。あれでも相沢の跡取りだからな」  老人は立ち上がり、秋緒に背を向けた。  彼がこの場を立ち去ろうとしている事に気付いた友美は、慌《あわ》ててその後ろ姿に言った。 「待ってください! 相沢さん」  老人の足が止まり、友美を振り返った。 「確かに人間はどうしようもない生き物かも知れません。でも、この森には、木々と無数の生き物たちがいて、生活してます。相沢さんの勝手でそれを殺すんですか? それから、上手く言えないけれど、その人は、絶対馬鹿じゃなかった。素晴《すば》らしい人だったと思います。その人みたいには出来ないけれど、この森を私、守りたい。無駄だってあきらめたくない。こんな身近な自然を守る事が、きっと地球を守ることにもつながる気がするんです」  友美を驚いたように見つめる秋緒が、口を開いた。 「その通りね。星虫のない私にも、ここの不思議な雰囲気はわかる。守るべき場所だと思うわ」  彼女は友美に微笑《ほほえ》み、全員、気を取り直してきた。 「相沢さん。とにかくおれたちは、ここを守りたいんです。力を貸して貰《もら》えませんか?」  直人たちも、老人に頭を下げる。しかし、彼は再び背を向けた。 「うるさい……」  そして、ずかずかと、森の中へ入って行く。二度と振り返らなかった。 「頑固《がんこ》なんだから」  だが、そう言った秋緒の声は、なぜか柔らかだった。 「仕方ないわ、後は広樹に頼むのね。彼になら、頑固じいさんも少しは甘《あま》いはずよ」  友美たちは、改めて秋緒を見つめていた。科学者だとは、とても思えない美貌《びぼう》。相沢氏との意味深《いみしん》な会話。正体は分かったはずなのに、何だか謎《なぞ》が深まったような気がする。 「あの、相沢君と、どういう関係なんですか?」  友美が尋ねると、彼女は少し肩《かた》をすくめてみせた。 「親類よ」 「大崩壊理論を発表された方なんですか?」と、緊張《きんちょう》した声で、直人が聞く。  そうだと答える秋緒に、友美は意気込んで尋ねた。 「さっきおっしゃってましたけれど、大崩壊は、防げるんですか」  その問いに、秋緒は微笑んだ。 「あと二十年以内に、国連のEVOLUTION PROIECTが動き出せれば」 「それは、無理じゃないですか。資金が……」  直人の言葉に、秋緒はうなずいた。  EVOLUTION PROJECTとは、人類を宇宙人へと進化させる、国連の発表した壮大《そうだい》な宇宙計画だった。  第一段階では、赤道上に巨大《きょだい》な海上都市が作られる。そこには国連の運営する宇宙技術者の養成学校が作られ、世界中から集まった科学技術者が住みながら働く。同時に、その海上都市は、巨大なレールガン方式のシャトル打ち上げ基地でもある。ロケットを使わない磁気|駆動式《くどうしき》のレールガンなら、一日で一万人を宇宙に送り込む事も可能なのだ。  第二段階では、静止|軌道《きどう》上に巨大な宇宙ステーションが建造される。そこには五万人の科学技術者が住み、宇宙から集めてきた小惑星《しょうわくせい》や彗星《すいせい》の核を利用した、宇宙工場として、機能する。そして、月や他の惑星へ行くための中継《ちゅうけい》基地ともなるはずだった。  そして第三段階。工場衛星で作られた物資を利用し、本格的な宇宙開発が開始される。まず最初の開発は、月だ。月の地下に、人口一千万の都市を建設する。その後、スペースコロニーが現実のものになる予定だった。それが成功したとき、人類は永遠に、住む場所には困らないだろう。  素晴らしい計画だが、第一段階の海上都市でさえ、今の国連には実現不可能だった。 「でも、技術的に、今すぐにでも実現出来る事ばかりよ」  しかしその言葉に、友美は首をかしげた。 「レールガンじゃ、頼《たよ》りないと思いますけど」  レールガンは、アメリカのSDIが宇宙兵器として研究を進めている他《ほか》、ロケットに代わる打ち上げ手段としても脚光《きゃっこう》を浴びていたが、あまり大きな物体の加速には、パワー不足だという記事を読んだ覚えがある。  秋緒は、友美の指摘《してき》に感心したように目を細めた。 「それの発展形で、ソレノイド・クエンチ・ガンというのがあるの。超伝導《ちょうでんどう》コイルを使って、秒速十一キロまで加速可能だわ。これなら、一日に千トンの物体を、低軌道どころか、静止軌道まで運ぶことも出来る。もっとも、人間を運ぶには、最低百二十キロほどのランチャーが必要だけど、耐圧《たいあつ》チューブを海底山脈を利用して、五十度の角度で海上に出せれば、可能だわ」  友美の口が、ぽかんと開いてしまっていた。地球を巡《めぐ》る衛星になるために必要な速度は、秒速八キロ。大気との摩擦《まさつ》を考えても、秒速十一キロなら、三万六千キロ離《はな》れた静止軌道まで昇れるだろう。 「……でも、燃え尽《つ》きます、きっと」  宇宙から帰還するシャトルでさえ、大気との摩擦で数千度の高温になる。まして、一気圧もある地上から、そんな速度で打ち出せば、何万度になってもおかしくない。 「忘れた? 三年前の宇宙船|発掘《はっくつ》事件の時、あの異星人の船の外殻《がいかく》が手に入ったでしょう。それがやっと複製できそうなの。完璧《かんぺき》な再現はまだ無理だけど、充分《じゅうぶん》な耐熱性と熱遮断《ねつしゃだん》性を持ってる。セラミックの数百倍の耐久性もね」 「電源は? 超伝導技術を使ったにしても、とんでもない電気がいるはずでしょう」 「五年後には、核融合炉《かくゆうごうろ》が稼働《かどう》する予定よ」  では、けちのつけようがなかった。  そう、その方法なら、低コストで大量に宇宙へ物資を運べる。しかも、人間が乗るとしても、長さが百二十キロもあれば、大した加速Gはかからない上、燃料をほとんど積む必要がないから、ロケットよりも安全だろう。 「もちろん、海上都市には、帰還したシャトルのための滑走路《かっそうろ》が作られるわ。シャトルはそこから巨大なエレベーターで海底に運ばれ、またクエンチ・ガンで宇宙へ戻るのよ」  真っ青な赤道上の海に浮《う》かぶ海上都市。そこから一筋の閃光《せんこう》として射出されるシャトル。友美の心に、その素晴らしい光景が浮かんだ。  しかし、友美の後ろにいる直人たちは、今一つ、納得出来ずにいた。 「でも、金がないなら、どんないい計画も意味ないでしょう?」  直人が、おずおずとそう尋《たず》ねた。  確かにそうだ。友美の白日夢《はくじつむ》が、いきなり覚めていた。  だが秋緒は、その言葉に笑《え》みを浮かべている。 「そういう事ね。だけど、お金が最大の障害でもないわ。一番|肝心《かんじん》なのは、人材よ」  そしてなぜか、寝太郎が登ったままの大木を見つめた。 「変な所まで、おじいさんそっくりなんだから……」  秋緒は溜《た》め息つき、腕時計《うでどけい》を見て、目を丸くした。 「広樹! 今日のところは帰るけれど、あきらめませんからねっ!」  そう大声で木に怒鳴《どな》り、あわててその場を立ち去る秋緒の後を、友美は追いかけた。  もう一言だけ、聞いておきたい事がある。 「あの、ひょっとして進化計画も、あなたが立てたものじゃないんですか?」 「提出したのは私だけどね」  やっぱりと、友美は息を飲んだ。 「その計画の実現のために、日本に来たんですか?」 「だから、今日もこれから会いたくもない政府の役人と会うのよ」 「でも! あんな夢《ゆめ》みたいなもの、出来っこないんじゃないですか」  その友美の苛立《いらだ》たしげな声に、秋緒は顔を向けた。そして、ふと気がついたかのように、うなずいた。 「あなたにも、大きな夢があるのね。人に言ったら笑われるような」  見抜《みぬ》かれた友美は、目を丸くして驚いた。  その顔を見て、秋緒は楽しそうに微笑む。 「あなた、名前は?」 「氷室、友美です……」 「じゃあ友美、気をつけなさい。臆病《おくびょう》になったら夢は逃《に》げるわ。それから……」  秋緒は立ち止まり、友美を真っ直《す》ぐ見て言った。 「夢は、見るものじゃないのよ」  茫然《ぼうぜん》となった友美を残し、秋緒は森に消えていった。 「夢は、見るものじゃない……」  彼女が何を言いたいのか、はっきりとは分からなかった。でも、何だか胸が痛い。  半分落ち込んで、みんなのいる所へ帰ってきた友美は、ようやく寝太郎が木から降りてきているのを見つけた。彼を囲んで、直人たちが大声を上げている。 「どうしたの?」  駆《か》けてきた友美に、洋子が説明してくれた。  結局、寝太郎の祖父を説得するのが、森を守るための最良の方法に違いないと、直人が寝太郎に頼《たの》んだのだ。 「さっき吉田さんが言ってたでしょ。あの頑固なおじいさんを説得するには、寝太郎君しかないって。だから頼んでたんだけど、駄目《だめ》なの」 「駄目って?」  隆が、友美に肩をすくめて見せる。 「こいつ、あのじいさん以上に頑固だぜ」  友美は直人と話している寝太郎の所へ近づいた。  今まで気がつかなかったが、今日の寝太郎は、昨日よりもずっとましな格好をしていた。風呂《ふろ》にも入ったようだし、Tシャツも模様が分かる。ただ、洗ったため、油っ気の消えたボサボサ髪《がみ》の体積が倍に膨張《ぼうちょう》しており、額の星虫も見えないほどだ。 「帰るぞ、おれは」  ぶすっとした寝太郎は、直人から目をそらせた。 「待ってよ、寝太郎君」と、友美が止める。 「無駄だよ、氷室さん。こいつは、やっぱりどうしようもない馬鹿だ」 「おれは馬鹿だ。認める。けど、その馬鹿に頼る方が、馬鹿じゃないのか」  直人と寝太郎が、睨《にら》み合う。 「止《や》めなさいって! 寝太郎君、君だって、この森の声が聞こえてるんでしょ? 昨日も、守らなければならないって、言ったでしょう。だったら……」  寝太郎は、ばりばりと頭を掻《か》いた。 「……だから言ってんだよ。ほっといた方がいいって。あのじいさんは偏屈《へんくつ》なんだ」 「でも、もう明日なのよ、取壊《とりこわ》しは。待ってる時間がないから、頼んでるのっ!」  その友美の必死の顔に、寝太郎は仕方ないとうなずいた。 「そこまで言うんなら、説得してもいい」  友美たちの顔が、その言葉にほころんだ時、寝太郎が言った。 「けど、一つ条件があるぞ」 「何だ?」と、直人が聞く。  寝太郎は頭を掻きながら、真面目《まじめ》な顔して、真っ直ぐ友美を見た。 「おれ、委員長が付き合ってくれるなら、説得する」  何かの鳥が鳴く、けけけけという声が、しんとした森にこだました。  その場の全員の頭の中は、真っ白だった。  余りにも信じられない言葉に、頭がその理解を拒《こば》んだようだ。  最初に我に返ったのは、一番そばにいた直人だった。 「ここ、この野郎《やろう》、なっ、何てこと言うんだっ!」  襟首《えりくび》をつかもうとする直人の手を、寝太郎は素早くすりぬける。だが、次の瞬間《しゅんかん》、その頬に猛烈《もうれつ》な衝撃《しょうげき》が加わった。  バッチーンという音が、辺りに響《ひぴ》く。  数歩あとずさった寝太郎の前に、真っ赤に怒《おこ》って立つのは、友美だった。 「馬鹿《ばか》っ!」  余りに腹が立って、言葉が出てこない。後はにらみつけるだけだった。 「お前はっ!」と、隆が駆け寄る。直人も続いた。  それから逃げ出しながら、寝太郎は森に飛び込む。 「嫌《いや》ならいいよ。じゃあな」  茂《しげ》みから声だけが届いた。  逃がしてしまった直人は、後で覚えてろと、心の中で怒鳴った。 「とんでもねえやつだ!」  隆が呆《あき》れて言う。 「いやあ、勇気あるんじゃないか?」  正夫は妙《みょう》に感心していた。 「委員長に堂々と交際を申し込むなんて、只者《ただもの》じゃないよ」  それは今まで、上級生にも、若い教師たちにも出来なかった事だ。余りにも完璧《かんぺき》な女性には、余程《よほど》自分に自信がない限り、手が出しにくい。その意味でも、友美の優等生の演技は完璧だったわけだ。 「確かに只者じゃないな。あいつ、鏡見たことないのか」  その直人の言葉に、全くだと友美は思う。みんなが口々に寝太郎の悪口を言い合う中に加わりたかったが、いま口を開けば、物凄《ものすご》い悪口雑言が飛び出しそうだった。 「でも、寝太郎君も駄目だとしたら、どうするの? この森」  一人冷静に戻《もど》った洋子が、仲間たちに聞く。  全員が、はっと気がついていた。 「……いいさ、おれたちだけで何とかしよう。あんな馬鹿を頼りにしようとしたのが、間違《まちが》いだったんだ」  直人はそう答える。それしかなさそうだった。  しかし未成年の彼《かれ》らが、明日に迫《せま》った取壊しを防ぐ手立ては、そうあるものでもない。  昼近くまで倒木《とうぼく》の草地で話し合ったものの、結局は星虫所持者を集めての人海戦術しかないという結論になる。しかし、昨日提案した張本人の洋子が、それに反対したのだ。 「ここに地球の叫《さけ》びが聞こえるのは、この森が自然林だからよ。説得のために、そんなに沢山《たくさん》の人間を入れたら、どうなるかわからないって、気がついたの。最悪、声自体が消えるかもしれない」  それでは、守る意味がない。全員、頭を抱《かか》えた。 「私がもう一度、寝太郎君を説得するしかないわね」  友美が立ち上がった。嫌だが、やはり元持ち主を頼るのが、一番のようだ。 「じゃ、おれも行くよ」  直人が言ったが、友美は首を振る。 「今度|喧嘩《けんか》になったら、本当に駄目になるわ。私一人で行く」 「友美、まさか、ほんとに付き合う気?」  洋子の言葉に、友美の体がブルッと震《ふる》えた。 「冗談《じょうだん》! そんな馬鹿な譲歩《じょうほ》するはずないでしょう。あんなのと付き合う位なら、隣《となり》の家の犬と結婚《けっこん》する方がましだわ」  直人は一瞬、その犬になりたいと思った。 「でも、一人は危なすぎる。動物の檻《おり》の中に飛び込むみたいなもんだ。やるなら、学校の方がいいよ」 「工事は明日始まるのよ。任せておいて。誰《だれ》もついてこないで大丈夫《だいじょうぶ》」  直人にそう言って、意を決し、歩き始めた。 「委員長、これからおれたち、どうすりゃいいんだ?」  見送る隆が尋ねた。 「ここで待ってて、結果の報告に来るから。食事していてくれていいわ」  友美は、振《ふ》り返ってそう答えると、森に入った。  竹林から、寝太郎の屋敷《やしき》までは五分もかからない。  通りに長々と延びる大きな屋敷の塀《へい》沿《ぞ》いを、友美は門に向かって歩いていた。  その頭には、まだ血が上ったままだ。寝太郎が単に交際を求めたのなら、まだ笑って済ませたかもしれないが、それを森を守る代償《だいしょう》にしようとした事が、許せなかった。  しかし、その私情を今は捨てなければならない。森を守るためだ。 「よお」  いきなり真上から、声がした。  驚《おどろ》いて見上げた友美の目に、松の大木の枝の上に立つ、寝太郎の姿が入る。手には、植木屋が使うような、大きな暫定鉄《せんていばさみ》を持ち、にこにこしていた。 「付き合う気になったんか?」と、全くわかってない。  怒鳴りたくなった友美だが、ぐっと堪《こら》えた。 「それは無理。大体、寝太郎君は、私の事を誤解してると思うわ。私って、そんなにおとなしくも、優等生でもないのよ」  すると寝太郎は、げらげらと笑い始めた。それは通りを行く人達が驚くような大笑いで、友美はあせり、そして頭に来た。 「何が可笑《おか》しいのっ! 止めなさい!」  寝太郎はピタッと笑いを止めたが、まだ肩《かた》が震えていた。 「委員長が優等生でないのは、知ってるよ」  友美はカチンと来た。自分が優等生を演じているのは確かだが、今の言葉は許せないと思えた。そこまで寝太郎などに断言されるほど、ボロを出したことはないはずだ。 「何を知ってるって!」  思わず怒鳴っていた。  寝太郎は、まだクスクス笑っていたが、「教えてやろうか?」と、悪戯《いたずら》っぽく言う。  その自信のある態度に、友美はドキッとした。しかし、ここまで来ては後に引けない。 「教えてよ!」  寝太郎は、剪定鋏で裏口の木戸をさした。 「教えてやるから、入ってこいよ。開いてる」 「わかった」  もともと、話し合いに来たのだ。入るしかない。友美は裏木戸の把手《とって》に手をかけ、そして押《お》し開けた。  足元から綺麗《きれい》な芝生《しばふ》が、何十メートルも先まで続いていた。右手には、大木の生える植え込《こ》みがあり、左手には、妙に細長い蔵《くら》が二つ、寄り添《そ》うように立っている。そして、真正面の母屋《おもや》との間に割り込むように、ガラス張りの大きな温室があった。  友美は、茫然と目の前に広がる光景に心を奪《うば》われていた。  これは、夢だ。  いつの間にか、自分は眠《ねむ》っていたに違いない。  でなければ……  友美はギューッと、思いっきり頬をつねった。  ほっべたが千切れたかと思う程の痛みが走った。思わず意識を集中したため、額の星虫が痛みを増幅《ぞうふく》したのだ。  涙《なみだ》がぽろぽろ出たが、これで夢ではないことがはっきりした。 「おじさんの、家だ」  そうだった。友美が六歳の時から、あれほど探し回ったおじさんの家に間違いなかった。あの古い蔵も、温室も、綺麗な芝生の庭も、全然変わっていない!  全身の力が抜け、その場に座《すわ》り込みそうになった。  見つけられなかったはずだ。ここまで家から四キロはある。六歳の自分が、そう遠くまで走って行けるはずがないという思い込みで、二キロ四方くらいしか探さなかった。  しかし、やっと、やっと見つけたのだ!  これで、おじさんに逢《あ》える。夢が叶《かな》う…… 「何だ、その様子じゃ、覚えてたんだ」  嬉《うれ》しそうな口調の寝太郎の声が、不意に横からした。  まだ感動の中にいる友美は、キラキラする目で寝太郎を見る。 「私、ずっと探してたの! ここを、この庭を!」  そして友美は、はっと気がついた。  あの日この庭には、もう一人、友美を刺《さ》した蚊《か》を食べた、鼻たれのチビがいた。 「まさか……あの時の、鼻たれ……」  寝太郎は、ニコッと笑い、うなずいた。 「ああ、久し振りってのも、変かな。同じクラスだもんな」  友美はまじまじと、その陽《ひ》に焼けた痩《や》せた顔を見た。あの鼻たれの顔など、全く覚えていないのだが、不思議な懐《なつ》かしさが、胸の中に湧《わ》き上がってくる。 「あのチビ?」 「もう、チビでも鼻たれでもないぞ」  抗議《こうぎ》するように、寝太郎が言った。確かに今の彼は、百八十センチ近い長身だし、鼻もたれていない。しかし。 「汚《きたな》いのは、同じじゃない」  友美は笑う。寝太郎に感じていた腹立ちは、この出会いのショックで吹《ふ》き飛んでしまっていた。 「でも、寝太郎君、私の事覚えてたの?」 「ああ。忘れたか? 親父《おやじ》が俺と委員長を写真で撮《と》ったろ。入試の時、一目見ただけでわかったぞ、全然変わってなかったもんな」  そう言えばあの日、友美が蔵の中で発見した変な形のカメラで、おじさんが二人を撮ってくれたのだ。あの時、服に汚い手で触《さわ》った鼻たれを殴《なぐ》り、泣かした覚えがある。その決定的な瞬間が撮られていたはずだ。  思い出した友美は、赤面した。 「……その写真、まだあるの?」 「後で見せてやる」  友美は、いらないと首を振った。恥《はじ》だ。 「わかった、それで笑ったのね、私が優等生じゃないって。でも、それは十年も前の事で、人は変わるんだから」  赤くなって言い訳する友美に、寝太郎は怪訝《けげん》な顔をした。 「どこが変わったんだ?」と、尋《たず》ねる。 「どこって、だから、全部よ」  苦しげに言い切る友美に、首を傾《かし》げた。 「けどな、委員長。まだ、六歳の時のまま、夢を追っかけてるだろ? 宇宙飛行士の」  友美の心臓の鼓動《こどう》が、一秒止まった。 「そ、そんなのは、小学生の時の夢よ。高校生にもなって、そんな馬鹿なこと……」  反射的に誤魔化《ごまか》そうとする友美を見て、寝太郎は更《さら》に首を傾げる。 「じゃあ、毎晩のあれはなんだよ」 「な、何よ! あれって」 「二丁目の公園に毎晩毎晩、十年も、通ってるだろ? あれ、宇宙飛行士のトレーニングじゃないのか」 「どうしてそれ!」  思わず叫んで、あわてて口を押さえる。  寝太郎は、ニカニカと笑った。 「ほら白状した。あそこは、親父の親友の家の前だ。夏休み中、あそこにいたんだおれ。委員長見かけて、聞いたらもう十年も毎日通ってくるって感心してたぞ、よっぽど優秀な運動選手だろうってな。それでおれ、委員長が昔《むかし》の夢《ゆめ》を捨ててないってわかったんだ」  ぐうの音も出なかった。認めるしかない。それに、どうせおじさんには、全《すべ》てを話し、謝《あやま》り、力を貸して貰《もら》う必要がある。そうなれば、寝太郎にも結局はばれるはずだった。この寝太郎が、あの素晴《すば》らしいおじさんの息子《むすこ》らしいのが、まだ納得《なっとく》出来ない気もするが、知られても仕方ないだろう。 「……わかった。それは、認める。でも、変わってないのはそれだけなんだからね」  悪あがきをする友美に、寝太郎は首を振る。 「学校では、猫かぶってんだろ? 芝居が見え見えだ。時々、手が出そうになるの、必死になって我慢《がまん》してただろ。おれ、可笑しくってな」  けらけら笑う寝太郎の腹に、友美の頭がめり込んでいた。思わず前屈《まえかが》みになったその顎《あご》に、戻ってきた後頭部が炸裂《さくれつ》する。  四年ぶりの友美の必殺技に、たまらず寝太郎の腰が砕けた。  それでも「ほら!」と指差して、まだ笑っている。 「わかった! わかったわよっ! そうよ、猫をかぶってるわよ! 悪いっ!」  こうなれば、開き直るしかなかった。しかし、そう言ったとたん、友美の胸の中が、すっと軽くなったのだ。ばらした事が、意外な解放感となっていた。 「悪かない。かっこいい時もあるもんな。けど、疲《つか》れないか?」  友美は、こくりとうなずいた。 「うん、最近ね」と、素直に認められた。そして、ごめんと座ったままの寝太郎に謝る。 「大丈夫?」  寝太郎は、平然と立ち上がった。友美の頭突《ずつ》きは効かなかったらしい。相当丈夫な体をしているようだ。 「わかった。それで、この間の朝、私見て笑ってたんだ!」  二学期最初の朝を、友美は思い出していた。 「まあな。まるで下手な芝居だったもんな」と、笑う。  その寝太郎を見ながら、友美は聞いた。 「でも、どうしてもっと早く、言ってくれなかったの。私、ここをずっと探してたんだから」  寝太郎は、頭を掻《か》いた。 「無茶言うなよ。委員長が家《うち》をまだ探してるなんか、わかるわけないぞ」  そうかと、友美は納得する。十年も前の、たった一日の出来事だった。寝太郎が友美を覚えていてくれた事だけでも、奇跡《きせき》に近いのかも知れない。  それに考えてみれば、それはもうどうでもいい事なのだ。今、自分はここにいるのだから。  そして友美は、さっきから聞きたくて堪《たま》らなかった言葉を出した。 「寝太郎君、おじさんは? 今日、いらっしゃる? 会いたいんだけど」  不意に寝太郎の口元から笑いが消えた。 「会わせるよ」  友美に背を向け、すたすたと母家の方へ歩いてゆく。友美はその後を追った。何だか、嫌な予感が胸をしめつける。  寝太郎は縁側《えんがわ》に上がり、障子を開いて友美を手招きした後、暗い中に消えた。  後に続いた友美が入った部屋は、仏間のある座敷だった。二十|畳《じょう》ほどの広さの部屋の中に、人の気配はない。 「どこにいらっしゃるの?」  尋ねた友美に、寝太郎は、巨大《きょだい》な仏壇《ぶつだん》の斜《なな》め上を指差した。  天井《てんじょう》近くの壁《かべ》に、多くの写真が飾《かざ》られていた。仏壇に祭ってある人々なのだろうと分かる。完全に黄ばんだ古いものから、順に並《なら》んでいるようだった。嫌な予感は、もう決定的になってしまっていた。  そして友美は、その写真の最後尾《さいこうび》に、四十代ほどの男性の写真を見つけたのだ。 「おじさん……」  数え切れない程《ほど》の夢で見続けた男の顔が、そこにあった。痩せた頬《ほお》に笑みを浮《う》かべ、友美を優《やさ》しく見下ろしていた。 「そんな」  友美の手が、ぎゅっと握《にぎ》りしめられる。これは悪夢《あくむ》だと、思いたかった。  これはない。やっと見つけたのに、十年も探したのに、これはない!  たった一日の事だと人は言うかも知れないが、この人がいなければ、今の友美はなかったのだ。この人が夢を追う方法を教えてくれた。夢を持つ素晴らしさを教えてくれた。そして、これからが夢を叶えるための本番だった。おじさんがいなければ、自分はもう、前に進む自信がなくなっているのに…… 「いつ、亡《な》くなったの?」  数分後、微《かす》かな声が寝太郎に届いた。 「委員長が来た日から、半年後だ。親父は、最後まで反省してた。委員長にここの住所も電話番号も教え忘れたってな。それでも、頭のいい子だから、きっと又来ると言ってたよ。ちよっと遅《おそ》くなったけど、その通りになったな」  寝太郎はそう言って、父の写真に笑いかけた。  もう駄目だった。友美の目に、大粒の涙が溢れ、畳《たたみ》の上にぽとぽとと落ちていく。  しゃがみこんだ友美は、幼児のように膝《ひざ》に顔を埋《う》めて泣いた。  三十分後。目を真っ赤に泣きはらした友美は、仏壇に手を合わせていた。 「聞きたいこと、あるか?」  ずっと黙《だま》って側《そば》に立っていた寝太郎が、落ち着いた様子の友美に尋ねた。  おじさんの事なら、聞きたいことは山のようにあった。多すぎて、すぐに出てこないくらいに。しかし、一番聞きたかった言葉が、結局口に出ていた。 「おじさんて、何をやってた人なの?」  寝太郎はうなずく。 「科学者だ。家は、代々学者の家系なんだ。じいさんも親父も、経済学の教授だった。ただ、親父はすぐ理科系に鞍替《くらが》えしたけどな。植物学やって、地球物理学やって、アメリカとイギリスに留学した」  感心して聞いていた友美だが、ふと何かが心に引っかかった。似たようなプロフィールをどこかで聞いたような…… 「待って、それ、さっきおじいさんが話してた馬鹿《ばか》の!」  馬鹿といってしまった、口を塞《ふさ》ぐ。 「そうだ。あの馬鹿ってのは、親父のことだ」と、寝太郎が笑った。  驚きだった。そして、納得だった。地球を一人で守ろうとした馬鹿。いや、馬鹿なんかじゃない。それでこそ、おじさんだった。友美が先生と慕《した》う、おじさんだった。 「そうだったんだ……」  そんな凄《すご》い人物と自分は出会い、そして、その人の指導を受けて、ここ.まできたのだ。 「どうしよう。馬鹿なんて言っちゃった」 「いいさ。言ったのはじいさんだし。親父は馬鹿だよ」  友美は血相変えて、寝太郎に詰《つ》め寄った。 「この馬鹿息子、なんて事言うのっ! おじさんは、馬鹿なんかじゃないわ! 馬鹿なのはおじさんを襲《おそ》ったやつらじゃない! おじさんの生き方は、間違《まちが》ってないわっ!」  怒鳴《どな》る友美に、寝太郎は少しも動じず、ニッと嬉《うれ》しそうに笑った。 「親父は馬鹿だよ。死んじまったら何にもならんだろ。けど、おれ、そんな馬鹿になりたいんだ。親父みたいな科学者にな」  友美は唖然《あぜん》として寝太郎を見た。 「……科学者? 寝太郎君が?」  寝太郎は、その信じられないという友美の視線に、ちょっと顔を赤らめた。 「ま、おれは怠《なま》け者だから、まだまだだけど……」 「当たり前! せっかく、有名な進学校に入れたのに、今のざまは何よ! ほんとに、それでもおじさんの息子なの? 信じられない」  寝太郎は、顔を下に向けたまま、頭をばりばり掻いた。 「あ、そうだ。蔵へ行かないか」と、話題を変える。  まだまだ言い足りなかったが、蔵と聞いて気が変わった。不思議な、珍《めずら》しいものが一杯《いっぱい》つまった蔵の記憶《きおく》は、十年たった今でも鮮明《せんめい》なのだ。  二つ並んだ蔵。その左の入口を寝太郎が開けた。 「変わってないだろ? 隣《となり》の蔵のも、こっちに移したから、ちょっと狭《せま》くなってるけど」中に入った友美は、うなずいた。本当に昔のままだ。しかし、昔には正体不明だった物も、今なら分かる。そして、この蔵の中が、本当に宝の山だったことを知った。  動物の剥製《はくせい》、世界の砂。そして天体望遠鏡とロケットの模型。子供の時、目を奪われた物の他《ほか》に、宇宙や地球に関する、あらゆる文物が網羅《もうら》されて収集されていたのだ。 「うそよ、これ、本物?」  厚いプラスチックに封印《ふういん》された、小さな石に書かれた文字を読み、友美は呻《うめ》いた。 「ああ、本物の月の石だ。ちっちゃいけどな」  雑然とはしているが、ここは、地球と宇宙に関する、博物館なのだと知った。 「これだけは、おれが入れたんだ」  ちょっと胸を張るように、寝太郎が蔵《くら》の一番|奥《おく》を指差した。 「コンピュータ?」  そこにあったのは、本格的な、ワークステーションだった。まだ新品に近い。  最新型らしいが、もし寝太郎が使うなら、宝の持ち腐《ぐさ》れだろう。  友美は、そのワークステーションの上に吊《つ》るされた、茶筒《ちゃづつ》が羽を広げたような模型を見つめた。昔見た時には、分からなかったものだ。 「スペースコロニーだったんだ、これ」  現実に、人類が宇宙に住むためには、これの実現が不可欠だろう。  国連の進化計画。その最終的な目的も、スペースコロニーを宇宙に作る事だった。 「おじさんは、ここで何をしてたの?」  友美は、寝太郎に尋ねた。 「地球と人間を救う方法を研究してたんだ。何か道はないかってな」 「あったの?」  寝太郎はうなずき、頭上の模型を指差した。 「それが、答えだった。人間が宇宙に出る以外、地球にも人類にも、未来はない」  友美は大きくうなずいた。それは、国連の科学者たちの結論でもある。十年以上も前に、その事に気付いていたなんて、やっぱりおじさんは凄い! 「国連は、おじさんよりも遅《おく》れてたんだ……」  楽しげに模型を見上げる友美に、寝太郎の固い声が聞こえた。 「あれは、もともと、親父の計画だ」  友美は驚《おどろ》いて、寝太郎を見た。 「おじさんの? でも、作ったのは吉田さんよ。私聞いたんだから」 「そんな事言ったのか? あいつ」  その寝太郎の怒《おこ》ったような声に、友美はあわてて首を振《ふ》った。 「あ、違った。提出したのは、私だって言ったんだ。じゃ、作ったのは、ほんとにおじさんなの!?」  寝太郎はそうだと言い、ちょっと表情を緩《ゆる》めた。 「あいつは親父の計画の一部を、今の技術に置き換《か》えただけだ」 「じゃ、あの人が、おじさんのやろうとしていた事を、やってくれてるわけね!」  意外な事実に興奮してきた友美だが、寝太郎は顔をそむける。 「勝手にやってるだけだ……」  機嫌《きげん》悪そうな寝太郎に、友美は白けてしまった。そう言えば、今朝、寝太郎は秋緒から逃《に》げていたのだ。それに、手紙の事もある。あの分厚い手紙には、何が書かれてあったのだろう? 親類と言っていたが…… 「吉田さん、寝太郎君に何の用なの?」と、友美は不機嫌そうな寝太郎に尋ねた。 「おれにアメリカに来いとさ」 「へえ、いいじゃない」 「良くない」と、不貞腐《ふてくさ》れたように言った寝太郎は、そのまま黙り込《こ》んでしまった。  どうやら、何か複雑な事情があるようだ。まずかったかなと、友美は反省したが、寝太郎の落ち込みは数秒しか持たなかった。 「そうだ、ここの機材、何でも使っていいぞ」  いきなり寝太郎が、明るく友美に告げた。  突然《とつぜん》の申し出に、友美は目をパチクリさせた。 「ここを?」 「ああ、親父《おやじ》の遺言《ゆいごん》みたいなもんだからな。蔵の鍵《かぎ》もやるよ。いつでも勝手に使っていいぞ」 「ほんとに?」  友美は目を見開いた。この宝の山を、好きに使える? 嬉《うれ》しげにうなずいた寝太郎は、友美の背後を指差した。 「その机、委員長のだ」  ワークステーションと背中合わせに、巨大な木の机が置いてあった。机の上に置かれた小さな本棚《ほんだな》には、宇宙力学や生理学の専門書が並び、パソコンが据《す》えつけられている。 「親父、委員長がまた来るって、信じてたからな」  また涙《なみだ》があふれそうになった友美は、寝太郎を見た。 「ありがとう」  友美にはわかったのだ。待っていてくれたのが、おじさんだけではなかった事が。机の上は、綺麗《きれい》に掃除《そうじ》されていたし、専門書も最新の物だった。  やたら照れた寝太郎が、「腹へったろ?」と、言い出した。  確かにもう昼を回っている。そう言われると、急にお腹《なか》がすきだした。 「うん」 「じゃ、飯にするか」  寝太郎は走って蔵から飛び出し、友美はクスクス笑って、その後に続いた。  真上に昇《のぼ》った太陽が、よく手入れされた芝生《しばふ》を緑に輝《かがや》かせていた。  広い庭の植え込みで蝉《せみ》が鳴いている。  その庭を見ながら、縁側に座《すわ》る友美は、三つ目のお握りを頬張っていた。 「……それ、おれの昼飯なんだぞ、ちょっと遠慮《えんりょ》しろよな」  寝太郎が、お茶を持ってきて言った。 「ごめん」と、友美が四つ目にかかろうとした手を止めた。 「冗談《じょうだん》だって。もっと食えよ。じいさんの分が、どうせ余ってたんだ」  じいさんと聞いて、ようやく友美はここへ来た目的を思い出していた。 「そうだ、私、寝太郎君を説得に来たんだっけ」 「説得? 鬼門《きもん》屋敷《やしき》の事か」  友美はうなずく。 「だったら、もう大丈夫《だいじょうぶ》だ。言ったろ? ほっとけばいいって。さっき、市長の家に出かけたよ。駅前の駐車場《ちゅうしゃじょう》の方へ、場所を変更《へんこう》してくれってな。市長さんは、もともとあっちを欲しがってたから、文句ないはずだ」 「ほんと?」 「ほんと。ま、委員長や、あいつの話が効いてたんだろ」  あいつとは、秋緒の事だろう。しかしそう言ったとたん、また寝太郎の顔が曇《くも》った。  寝太郎の親類という、あの美女の事を、もう少し聞いてみたかったが、止《や》めた。他人の家庭の問題に、これ以上首を突《つ》っ込むのは失礼だろう。森が守れたなら、それでいい。 「よかった」  友美は肩《かた》の力を抜《ぬ》いた。これで役目も果たせたわけだ。 「でも、あれはちょっと卑怯《ひきょう》じゃなかった?」  不意に思い出した友美が、握り飯を頬張る寝太郎に言った。 「なにが?」 「おじいさんの説得の代わりに、付き合えって言ったじゃない」 「言ったよ。だから、来てくれたんだろ? 何が卑怯なんだ?」 「えっ?」  友美の目が点になった。 「あのさ、まさかと思うけど、付き合えって、単に、ついてこいって事?」  真面目《まじめ》な顔をした寝太郎がうなずく。 「いいチャンスだと思ったんだ。ま、家の事忘れてるなら、そのまま帰ってもらってもいいと思ったし。そうなったら、ちょっと残念だったけどな」  プッと友美が吹《ふ》き出した。 「何がおかしい?」  寝太郎は首をひねり、手に持つ握り飯を指差した。 「これか?」  友美はお腹を抱《かか》えて笑い転げる。  その楽しげな笑い声に、障子の奥にある寝太郎の父の写真が、微笑《ほほえ》みかけていた。  寝太郎の家を出た友美は、待っていた仲間たちに森が救われた事を告げた後、寝太郎から聞いた寺に、おじさんの墓を訪ねた。  おじさんには会えなかったけれど、夢《ゆめ》がまた、色彩《しきさい》を帯び始めている。  友美は墓の前に手を合わせ、遅くなった事、夢を忘れそうになっていた事を謝《あやま》った。おじさんの人生を知り、また一つ大事なものを教えてもらったような気がする。  寝太郎には不満があるようだが、おじさんの夢は、あの素晴《すば》らしい女性が引継《ひきつ》ぎ、今、形を成そうとしていた。あの人なら手遅れになる前に、計画を実現出来るかもしれない。  あきらめなければ、希望はある。たとえ自分は倒《たお》れても、誰《だれ》かが跡を継いでくれるのだ。メモにある最後の言葉の重さを、友美は感じていた。  世間に負け、夢から逃げようとしていた自分が、本当に恥《は》ずかしかった。  おじさんのように、秋緒のように、真っ直《す》ぐに夢と対決すべきだったのだ。  もっとも寝太郎のように、完全に世間から外れるのは駄目だろう。目指すなら、秋緒のような生き方が素敵だ。ま、自分に出来ればだけれど…… 「問題ですね」と、友美は溜《た》め息ついて墓に語りかけた。  寝太郎の事だ。あれではちょっとひどすぎた。このおじさんの息子として、せめて見かけだけでもまともになって欲しかった。おじさんも、安心して休んでいられないだろう。  友美は心を決めた。 「おじさん! 私が、きっと寝太郎君を更生させますから」  それが彼《かれ》に対して出来る、一番の恩返しだと思えた。  この日、星虫所持者による自然保護運動は、ピークに達しようとしていた。  日本を含《ふく》む地球のありとあらゆる場所で、数限りない緑を守る戦いが起き、そのほとんどで星虫所持者たちが勝ち続けていた。その内の多くが、手に武器を持っての戦いだとしても、地球の環境破壊《かんきょうはかい》が絶望的に進んでいる現状では、どんな星虫|排斥《はいせき》論者でも、彼らの行為ゆえに星虫が悪だと言い切る事は出来なかった。ブラジルでは、政府や大土地所有者と戦う数百万におよぶ星虫所持者の力で、アマゾンの森林破壊が防げる可能性までが出てきていた。フィリピンでも、木材|伐採《ばっさい》を拒否《きょひ》した所持者がストライキを始めている。  この前代|未聞《みもん》の事態に、星虫は善であり、神が人間の目を覚まさせるために遣《つか》わされたものだという説が、キリスト教徒の多いアメリカは元より、ある程度星虫に懐疑《かいぎ》的だったヨーロッパのマスコミにまで広がりつつあった。宗教家が、星虫を利用し始めたと言えるかもしれない。政治家たちも、その世論に便乗しようと動き始めているようだ。ジャーナリズムは、楽観論、星虫有益論だけを報道するようになってしまっている。  墓参りから家に帰ってきた友美は、世界のこの大騒《おおさわ》ぎに漠然《ばくぜん》とした不安を感じていた。 「やっぱり、人間の都合ばかり考え過ぎてるな……」  星虫が降ってから、まだ三日が過ぎただけだということを、みんな忘れているような気がする。星虫には、星虫なりの理由があって、人間にくっついているはずだ。  それも、おじさんから昔《むかし》、教わったことの一つである。共生とは言え、相手のためだけに生きる生き物など、存在しないのだから。  しかし今日の友美には、そんな暗いことを考え続ける事は不可能だった。  輝きを取り戻《もど》した瞳《ひとみ》を、寝太郎の家から借りてきた宇宙工学の専門書に移し、階段を駆《か》け登った。  自分の部屋に入り、窮屈《きゅうくつ》なブラウスのボタンに手をかけた時、机の上に目がいった。  きっちりと折り畳《たた》まれた藁半紙《わらばんし》が置いてある。それは、明日提出しなければならない、進路調査だ。  手を止め、机の前に立った友美は、ふんっと気合を入れ、紙を広げた。  椅子《いす》に腰掛《こしか》け、名前を書き、そしてその下の欄《らん》を見る。 「第一志望か」  友美はニコッと微笑み、そして力強い字で記入した。  宇宙飛行士、と。 [#改ページ]  四 日 目  幸せな眠《ねむ》りの中で友美は、誰《だれ》かが自分の髪《かみ》の毛をいじくっているのに気がついていた。  おずおずと、しかし面白《おもしろ》げに、細い棒かなにかで髪が掻《か》き回されている。 「うんっ……」  うっとうしいと、目の前を右手で払《はら》いのけた。  空振《からぶ》り。全く手応《てごた》えなし。なのに、悪戯《いたずら》は止まらない。  ?と、ようやく眠い目をこじ開けてみる。  目の前には誰もいず、ただぼやーっと視界の一部が霞《かす》んでいた。  友美は無意識のうちに、目を擦《こす》ろうと手を顔に上げた。 「たっ!」  手の甲《こう》に、何かに刺《さ》されたような痛みが走り、その視界の一部を覆《おお》う霞が、ざわざわと動き出していた。そして、再び何かが髪の毛をいじくり回し始めたのだ。  友美はガバッとベッドから飛び出すと、壁《かべ》に掛《か》かった鏡の前に立った。 「…………!」  思わず絶句する。  そこにあったのは、全長十センチ。昨日の三倍にも巨大化《きょだいか》した星虫の姿だった。  額に張りついた部分だけはそのままの大きさだが、五つある全《すべ》ての目が肥大していた。昨日までの丸い目はビワの種ほどの形と大きさに変わり胴体《どうたい》から下に垂れ下がっていたし、その目の脇《わき》からは二本の触角《しょっかく》としか思えないものが出ており、ブルブルと震《ふる》えている。友美の視界の端《はし》にかかっているのは、この触角だった。もともと一番大きかった上部の楕円《だえん》の目も縦四センチ横三センチにまで巨大化し、友美の頭にまではみ出している。まるで、頭と腹が宝石で出来ている蟻《あり》のような姿だった。虫でいう胴の部分には、米粒《こめつぶ》ほどの大きさだった真ん中の小さな目が、昨日の丸い目|程《ほど》の大きさになっており、胴の両脇を縁取《ふちど》る赤いガラスのような二つの弓月形の目も、やはり巨大化していた。  しかもこの巨大蟻のようになってしまった星虫には、六本の『足』までもが、生えていたのである。 「手だよ……これ」と、友美は人差し指を出し、さっき手の甲をつついた正体に触れた。六本の足のうち四本は、友美の頭を抱《かか》えこみ、しがみつくために使われていたが、一番下、ビワの種の様な目の横に生える二本の足だけは違《ちが》った。自在に動き、異常に長く、伸《の》ばせば十センチはありそうだ。その足の先は、蟹《かに》のような鋏《はさみ》になっている。友美の髪の毛で遊び、手をつついたのは、この足だったのだ。  星虫は友美の指を鋏でつかみ、振り回そうとあがいていた。大した力じゃない。  寝起《ねお》きの友美は、星虫に指を遊ばせたまま、ぼーっとつっ立っていた。 「どうしようかな……」  これでは目立って仕方ないというのが友美の印象だった。あまりの急変に、頭がついていかない。ただ、怖《こわ》いとも、変だとも思わなかった。生き物は成長するものだし…… 「ま、蟻は好きよ。蟹もね……」  すると星虫は、その巨大な腹を左右に振った。何だか言ってることが分かるようだ。  大きく伸びをした友美は、夜明け前の、まだ薄暗《うすぐら》い窓を見た。  そして、これは大事件だと、ようやく気がついてきた。この星虫の変態(?)が全世界で起こっているとしたら? いや、起こっているに違いない!  欠伸《あくび》を途中《とちゅう》で止めた友美は、部屋からテレビのある居間へ走ろうとし、思い出した。 「こんなになっても、まだ出来るかな?」  友美は精神を集中し、テレビかラジオのニュースを拾えるかどうか試ためしてみた。星虫をつけて以来の知覚の増幅《ぞうふく》は変わっていない。いや、昨日よりもさらに現実がダイレクトに感じられる。でも、電波まで捉《とら》えられるだろうか?  しかし、その疑問は杞憂《きゆう》に終わった。それどころか、昨日までの音だけではなかったのだ。  突然《とつぜん》視界の端に四角いスクリーンが現れ、ニュースを読むアナウンサーの姿が見えた。思わずその画像に意識を合わせたとたん、目の前全体が巨大なアナウンサーでふさがれてしまった。 「大きすぎるよっ!」  言うなり画面は普通《ふつう》のテレビ並《な》みに縮小。まるで空中に画像だけが浮《う》いているようだ。しかも、画像で影《かげ》になっているはずの部屋の中も、きっちりと認識《にんしき》できていた。 「……ほんとに不思議な子だなあ……」  友美は、さらに昨日よりも能力を拡大させている星虫に呆《あき》れた。  早朝のテレビは平和そのもので、星虫は依然《いぜん》、いいもの扱《あつか》いをされ続けている。 「まだ、マスコミも気が付いてないか」と、吐息《といき》をついた。そして、また髪の毛で遊び始めた星虫を見上げる。 「これじゃ、嫌《きら》われるかもね……」  友美は、星虫の遊び相手をしながら鏡を見、習慣通りにヘアブラシに手を伸ばした。  その手が途中で止まる。 「そうか、もういいんだ!」  ブラシから離《はな》れた手は、引き出しの中の鋏に移っていた。 「おはよ」と、のんびりした友美の声が、テレビに釘付《くぎづ》けになっていた両親の背中に届く。毎朝の日課を終えて階下へ降りると、もう七時前になっていた。 「友美! 大変よ。今、星虫が巨大化したわっ!」  母は、洗面所へと歩く友美に怒鳴《どな》る。  そのテレビでは、早朝番組を生で放送中だった。インタビューを受けていた女性の星虫が突然巨大化する瞬間《しゅんかん》を、カメラが捉えたのだ。  聞いた友美も、頭の中で、そのチャンネルを捜《さが》した。  テレビ局が大騒《おおさわ》ぎになっていた。倒《たお》れた女性を、何人かのスタッフが運び出している横で、人々が顔面|蒼白《そうはく》になってうろたえていた。彼《かれ》らの額に星虫はない。カメラが、床《ゆか》を捉えていた。人々の足元には小判状の変態前の星虫が幾《いく》つも散らばり、それに混じって、友美のよりも一回り小さな変態した星虫が一つ、落ちていた。多分、それが倒れた女性のものなのだろう。友美はずっと見ていた両親に話を聞こうと、踵《きびす》を返した。 「どうなったの」  尋《たず》ねる友美に答えようとして、振り向いた父の体が硬直《こうちょく》した。 「友美っ!」  母の悲鳴が重なる。 「大丈夫《だいじょうぶ》よ」と、友美は笑った。 「ただ、大きくなっただけでしょ? ま、足も生えたけど、これはもともと虫なんだから、不思議じゃないし」 「取りなさいっ!」と、金切り声を母が上げた時、びっくりして飛び起きた幸雄が階段を躯《か》け降りてきた。 「何だよ、それっ!」  父と兄は、友美の額に張り付く異様な生物に、思わず青ざめていた。  その時、友美の星虫は、全ての足をワサワサと動かし、二人を威嚇《いかく》するように鋏を立てたのだ。  その様子は、余りに不気味だった。その不気味な物が、今にも額に現れるのだという嫌悪《けんお》感を覚えた瞬間、二人の星虫は額から離れ、床に落ちた。  それを見た友美の胸が、ズキッと痛んだ。 「どうしてよ! 成長はすぐ止まるんだから、取る事ないのに!」  父が、急に暗くぼやけてしまった視界に驚《おどろ》き、目を擦った。幸雄も同じ事をしている。それが星虫の取れたせいだと、二人は気付いた。 「止まるのか?」と、父が聞く。 「もう二時間、このままよっ!」  床の星虫の死骸《しがい》を見ながら、友美が怒《おこ》った。  幸雄が、早まったという顔をしたが、もう後の祭りだ。 「なら、今すぐ取れとは言わんが……」  父は、まじまじと巨大化した星虫を見た。 「とはいえ、またえらいことになってきたな……」と、着替《きが》えに寝室《しんしつ》に向かう。 「すぐに署に出るぞ!」 「お父さん!」と、うろたえた母がその後を追った。  兄も、その巨大蟻と蟹のハーフのような星虫を呆れて見ている。 「……変わったやつだ……」 「でも、ちょっと重いだけよ! 悪いことは、しないんだから」  星虫を弁護する友美に、幸雄は自分のだった星虫を拾いながら、首を振った。 「変わったやつなのは、お前だよ。よくそんなになっても、つけてるな。普通驚くぞ、男でも」 「驚いたよ、充分《じゅうぶん》過ぎるくらいねっ!」 「でも、取るほどには驚かなかった。そんなのは、ごく少数だと思うぞ」  星虫を神の贈《おく》り物と見、いいものだと信じ切っていた人々には、この変態は恐怖《きょうふ》そのものだという兄の言葉は、残念ながら納得《なっとく》できた。  友美のように、これがまだ未知の生物であり、これから何が起こるか分からないと知っていながら星虫を受け入れてきた人々しか、耐《た》えられないだろう。 「やっぱりお前は、大したやつだよ」  幸雄は、額に死んだ星虫をつけてみた。すぐにポロリと落ちる。 「なくなってわかるな。星虫ってのは、すごいもんだって。まるで、視力がゼロになったような気がする。でも、友美みたいなのは、絶対的に少数だろうな……」  世界中の星虫、最低でもその半分は剥《は》がれるだろう。半分と言えば十五億だ。しかし、とてもそんなに残らないに違いない。 「ひょっとしたら、一億切るぞ」  幸雄の予想は、友美の胸に刺《さ》さった。  その兄が、突然また怒鳴った。 「友美っ! お前、髪どうしたんだっ?」  星虫に気を取られていた幸雄が、ようやく友美のもう一つの異変に気付いたのだ。  友美の長い髪は、首筋の線で、器用に切りそろえられていた。 「さっぱりしたでしょ?」と、友美は満足そうに微笑《ほほえ》んだ。  全速力で自転車を飛ばしてきた友美は、相沢家の前に立っていた。  玄関《げんかん》の門に近づき、インターホンの赤いボタンを押《お》す。 『誰だっ!』  寝太郎の祖父の声だ。予想していてもうるさい。 「おはようございます。相沢君の同級生の、氷室友美です」 『……待っとれ』  それから数分待たされた。友美は苛々《いらいら》と時計を見る。  取りあえず洋子と隆、正夫と、昨日森を守った仲間には、星虫の巨大化が止まることを連絡したのだが、寝太郎の電話番号だけが分からなかったのだ。  あののんびりした寝太郎なら、多分取りはしないと思ってはいたが、心配だった。  ようやく老人の姿が、門の向こう側に現れ、ゆっくりと歩いてくる。  友美は気が気でなかった。  老人は門を開き、そして友美の星虫を唖然《あぜん》と見つめた。 「なんじゃ、それは」  友美は急いで頭を下げた。 「早朝すいません。あの、寝太郎君はいますか?」 「寝太郎?」と問い返され、友美はしまったと口を押さえた。 「広樹のあだ名か、ぴったりだ!」  老人はいきなり笑い始め、友美はあせった。 「すいません! あの、相沢君は」 「さあな、多分|蔵《くら》だろう。急用なら、入りなさい」  友美はまた頭を下げ、蔵に向かって駆け出した。  その後ろで、「寝太郎か!」と祖父が、まだ笑っていた。  大きな母家《おもや》をぐるりと回るようにして、友美は庭に飛び込《こ》んだ。左の蔵の引き戸に手をかけるが、鍵《かぎ》がかかっている。 「寝太郎君!」  呼べど叫《さけ》べど返事はない。仕方なく、昨日もらった蔵の鍵を使った。  小さな天窓しかない蔵は、ほぼ真っ暗だが、星虫には充分な明るさだ。しかし、寝太郎の姿はどこにも見えない。  おかしいと思っていると、聞きなれた寝太郎のいびきが微《かす》かに聞こえてくるのに気がついた。  星虫で聴力《ちょうりょく》をアップさせる。音源は上にあった。蔵の前半分に作られた中二階からだ。  急いで細い階段を登る。寝太郎は、ごみの山に埋《う》もれかけたベッドの上にいた。  駆け寄った友美の体から、思わず力が抜《ぬ》ける。  すでに星虫は巨大化し、寝太郎の顔の上で、大暴れをしていた。鼻をつつき、髪の毛にからまり、耳をつねっている。なのにこいつは、大いびきで熟睡《じゅくすい》しているのだ。 「起きて」  体を揺《ゆ》すったが、起きる気配はない。  数日前を思い出した友美は、髪の毛を一本抜くと、寝太郎の鼻の穴に突《つ》っ込んだ。 「どえっくしっ!」  くしゃみを連発して、寝太郎が飛び起きる。 「あれ?」 「あれじゃないの! いい、今、寝太郎君の星虫が、巨大化してるの。でも大丈夫、それ以上大きくならないし、結構|可愛《かわい》いんだから」  まだボーッとしたままだった寝太郎が、星虫に頬《ほお》をつねられて、うるさそうにその鋏を叩《たた》いた。目を上に向け、巨大化した星虫を見る。 「なんだ、これだけの事か?」  友美は、その無感動な反応に戸惑《とまど》いながら、うなずいた。 「馬鹿馬鹿《ばかばか》しい……お休み」  すぐに、いびきが再開した。  友美は、ぽかんと、その様子を見守る。  こんなに必死になって、自分は何しに来たのだろう? ここまで、のんびり者だとは、思わなかった……  グーグー寝る寝太郎を見ていると、だんだん腹が立ってきた。 「起きなさいっ!」と、また髪の毛で鼻をくすぐる。  目を覚ました寝太郎に、友美は腕組《うでぐ》みをして、宣言した。 「今日から、絶対に遅刻《ちこく》は認めませんからね! さ、起きて! 顔洗って!」  寝床《ねどこ》から追い立てられた寝太郎は、世にも情けない顔をして、友美を見る。 「何だよ、寝かしてくれよ」 「駄目《だめ》っ! 私は昨日、おじさんのお墓に約束《やくそく》したんだから。あなたの更生《こうせい》に全力を尽《つ》くすって。ワイシャツはどこ? もちろん、洗ったやつよ。それから、アイロンと」 「ないよそんなもん。それに、勝手に決めんな。更生って、おれ、犯罪者かよ……」  だが、問答無用だった。友美は、蔵の屋根裏の、スリットになった小窓を開け、豚小屋《ぶたごや》以下の室内に風を入れた。 「よくこんな暑い所で眠れるわね……」  そう言った目が、本や雑誌で山のようになった机の上に、一枚の写真を見つけていた。  寝太郎が、あわててその写真を隠す。  それは確かに、あの吉田秋緒と名乗った人物の写真だった。気付かなかった振《ふ》りをしてやったが、隠したのが、気に入らない。 「さ! 急いで! 予鈴《よれい》二十分前には、教室に入るわよっ!」  その命令口調の怒鳴り声が階下にまでひびきわたる。そこには声を出さずに笑う寝太郎の祖父の姿があった。  早朝の教室で、直人は、ぶすっと窓から空を見ている。  何かを考え込んでいるその額では、友美のものよりもかなり小さめの星虫が、足を動かしていた。  今朝、友美から巨大化がすぐ止まることを知らされていなければ、多分、自分も取っていただろう。しかし、気に入らないのは、友美が直接自分に電話をかけず、洋子に頼《たの》んだことだ。  直人は軽く机を小突いた。  どうも、やることなすこと上手《うま》くいかない。友美とは、相性が悪いのか?  昨日も、森に帰ってきた友美を映画に誘《さそ》ったのだが、軽くあしらわれてしまった。  しかし、まだあきらめるつもりはない。方法はあるはずだ。 「おっす!」  いきなり大声が教室に響《ひび》いた。  額に変態前の星虫を付けた、隆と正夫が入ってくる。 「何だ、お前らも取らなかったのか」と、直人が感心した。 「おお!」と、隆の顔に笑《え》みがあふれた。 「委員長、氷室さんが、わざわざ家に電話くれたんだ。大丈夫だってな!」  その言葉を聞いたとたん、直人はさらに落ち込んだ。 「馬鹿、へんなかんぐりするなよ。委員長は、昨日森を守ったみんなに電話したんだ。僕《ぼく》だって受けたんだからな。宮田もそうだろ?」  正夫はそう言って隆を笑う。直人は、意地でもうなずくしかなかった。 「みろ、こんな事でいい気になってると、寝太郎と同じレベルになるぞ」  隆は馬鹿|野郎《やろう》と、真っ赤になって正夫を怒鳴った。 「あんなのと一緒《いっしょ》にすんな。おれのライバルは、宮田だぞ」  そして、直人を見、にやっと笑った。 「なかなか進展せんところを見ると、おれにもチャンスはありそうだし」 「何が?」  直人は不機嫌そうに隆を見返した。 「わかってんだ。お前も委員長狙ってんだろ? 見え見えだぞ」  隆が直人に顔を寄せ、小声で言った。 「なんの話?」と、花瓶《かびん》の水を換《か》えて来た洋子が聞く。洋子の額にも、当然星虫があった。  その大きさは、直人よりも少し小さめ。足も生え揃《そろ》っている。  隆と直人があせって誤魔化《ごまか》した、その時だ。廊下《ろうか》の方から、大声がした。  教室の直人たちが、何だと思っていると、眼鏡に戻《もど》ってしまったクラスの男子が二人、大あわてで駆け込んでくる。 「たっ、大変だっ!」 「何をあわててるんだ……」と言った直人の言葉は、途中《とちゅう》で切れた。  二人のすぐ後に続いて、一人の男子が入ってきた。その姿を見た時、予鈴二十分前に教室にいた全員が、我《わ》が目を疑った。 「ふわああぁぁぁぁ……」  大欠伸《おおあくび》をしながら登場したのは、なんと寝太郎だ。  授業に遅《おく》れることはあっても、予鈴前に来たことなど、ただの一度もなかった。しかし、それにしても、今の二人の驚きようは大袈裟《おおげさ》だと思った一同の耳に、 「おはよう!」という元気な少女の声が届いた。  寝太郎のすぐ後ろに、もう一人いたのだ。彼女《かのじょ》が入ってきたとたん、教室の中から、物音が消えていった。  直人、いや、その異変に気付いた全員の口が、順にぽかんと開いてゆく。  視線は少女に集中していた。この人物は、友美。彼ら自慢《じまん》の委員長のはずだった。  しかし、何かが違《ちが》った。  額には、巨大《きょだい》な星虫。だが、それならテレビでもう見ている。知的能力が高い人ほど、今朝の変態に耐《た》えられたというニュースも知っている。たとえ女性でも、委員長なら、変態した星虫をつけていてもおかしくはない。問題は、もっと別なものにあるようだ。委員長の姿から、何か大事なものが欠けているような……  その視線の中で、友美は照れ臭《くさ》そうに肩《かた》をすくめる。その肩が、異様に涼《すず》しげだ。  髪《かみ》だった! あの、全校男子|憧《あこが》れの的の、あの黒髪が、無残にもあごの線からスッパリと消え失《う》せていたのだ。 「その髪、どうしたのっ!」  悲鳴に近い声で、洋子が友美に駆け寄った。  まるで金縛《かなしば》りにあったかのようだった直人たちも、その声に我を取り戻した。  女子たちが、心配そうに友美の回りに集まる。  あまりの反響《はんきょう》の大きさに、友美は戸惑っていた。 「無理するの止《や》めただけ。私、本当は長髪って嫌《さら》いだったんだ」  そう本人が言っても、教室のざわめきは一向に収まる気配がなかった。  何だか、異常に興奮している女子たちを宥《なだ》めながら、友美は星虫が激減《げきげん》しているのを感じていた。友美があわてて電話した、昨日の仲間たちを除けば、数名しか見当たらない。それも、変態前の小判形だけだった。 「大丈夫」と、十回も洋子に言った時、何気なく見た寝太郎が、机の上で熟睡《じゅくすい》しているのを友美は発見した。 「もう寝《ね》てる。こらっ!」  いきなり怒鳴《どな》ると、友美は風のように人垣《ひとがき》を擦《す》り抜け、熟睡する寝太郎の耳を引っ張った。 「見逃《みのが》してくれよ……」と、情けない声で寝太郎が唸《うな》る。 「だめっ!」と、友美はその耳に、大声を張り上げた。  男子も女子も、その友美の余りの変わりように、唖然を通り越《こ》し、愕然《がくぜん》となっていた。  髪を切り、教室を走り、大声を上げる。これが、あの氷室友美、模範《もはん》的優等生か? 「一体どういう事だ?」  よりによって、あの寝太郎に自分から近づいていくなんて、直人には信じられなかった。友美が、あれほど嫌っていたやつなのだ。今日は比較《ひかく》的まともだが、ザンバラ髪はそのままだし、ズボンもワイシャツもよれよれだ。  その直人たちに、洋子が言った。 「ね、友美の星虫のせいじゃないのかな? 少し大きすぎるわ、あれ」  それは直人も感じていた。ニュースで見た、どの星虫よりも、友美のは大きいようだ。 「……私、友美とは友達のつもりだけど、今日の友美は、友美じゃないみたい」  友人で、同じ同好会の洋子の言葉は、真実味を帯びて直人たちの心に刻みつけられた。 「しかし、あれは許せんな」  隆が、寝太郎を何とか起こそうと、顔を覗《のぞ》き込んでいる友美を見て言った。まるで、仲のいいカップルが、ふざけているようだ。  直人は無言でうなずく。  すでに本気で、寝太郎と対決する気になっていた。  教室に、眼鏡が復活していた。  一昨日まで全員が星虫所持者だったのに、今朝はたったの九人になっている。友美たち以外には三人だが、三人とも女子で、星虫は変態していない。変態し、足を生やしたものを持っているのは、友美と直人、洋子に寝太郎の四人だけだ。  大きさでいえばダントツで友美のが大きく、第二位は寝太郎。そして直人、洋子と続く。  目の色も微妙《びみょう》に違ってきており、ここに至り個人差が歴然と現れてきたようだ。  担任は、その九人の星虫所持者、特に目立って巨大な星虫をつける友美に驚《おどろ》きの声をあげた。 「委員長のはすごいな。よくそこまで大きくなって、取らなかったもんだ」  その担任の額にも、もう星虫はない。洗面時に巨大化した星虫を、たまらず拒絶《きょぜつ》したのだと苦笑いだ。 「それにしても、思い切ったもんだな」と、担任は友美の短くなった髪を見た。 「もう、学校中の噂《うわさ》だぞ。どうした委員長、失恋《しつれん》でもしたのか?」  友美はクスクス笑いながら、首を振る。  教師もそれ以上突っ込まず、再び視線を生徒たちの星虫に向けた。 「しかしこうして見ると、うちのクラスが一番多いぞ。他《ほか》のクラスは三人くらいだが」  友美は、その言葉にショックを受けていた。  このクラスだけで三十一もの星虫が死んだというのに、他のクラスではもっとひどい状況《じょうきょう》だというのか? 「先生。世界では、どうなんですか?」  尋《たず》ねる男子生徒に、担任はこめかみを掻《か》く。 「まだ詳《くわ》しい情報は入ってないが、日本と同じようなものだろう。さっきまで見ていたニュースでは、一億を切るのは間違いなさそうだな。アメリカでは日本以上の騒《さわ》ぎだ」  そのニュースは、今も友美の視界の片隅《かたすみ》で続いていた。  画面は、アメリカからの実況|中継《ちゅうけい》だった。大災害でもあったかのように、かつての星虫所持者たちが続々と病院に運ばれていた。その前で日本人のレポーターが、心不全を起こして死亡した人数が、全米で十人となり、さらに増加しそうだと興奮した口調で伝えている。星虫が人間ほどにも巨大化し、人を襲《おそ》っているという噂も町を飛び交《か》っており、アメリカ全土が、パニック状態に陥《おちい》っていた。 「まだ、日本の方がましか……」と、友美はつぶやく。  日本の場合は、まだ正確な情報が行き渡《わた》っていた。巨大化は、せいぜい友美くらいで止まる事。そして、拒絶すれば必ず取れることは、七時|頃《ごろ》には報道されていた。  アメリカの星虫委員会も、同じ事をテレビを通じて発表し始めていたが、遅《おそ》すぎた。すでに変態をおこしたほとんどの星虫が死んだ後だ。ヨーロッパでも、状況は似たようなものらしい。 「西洋人が極端《きょくたん》なんだというのが、こういう時によくわかるね」  担任は、昨日まであれほど星虫をいいもの扱《あつか》いをしていた世界が、てのひらを返したように星虫|排斥《はいせき》をおこなっている事を告げた。変態をまだしていない星虫も、どれだけ残るか分からないほど、騒ぎは広がっている。  それはないなと、友美は思う。一部が大きくなったからといって、全面否定はない。 「しかし、これで星虫が人間にとって有益と言えなくなったのも事実だな」  同意する声がもれる中、女子の一人が担任に言った。 「でも、先生。私、地球の叫《さけ》びは聞きたいわ。これは星虫でなければ無理でしょ?」  そうだそうだという声が上がる。  担任はうなずき、難しそうに腕を組んだ。 「この町にも聞ける場所があるらしいという噂は聞いてるんだが」  へえっと、クラスの大部分が驚いた。  地球の叫びが聞ける場所は、ありそうでそう多くはなかったのだ。都会の中に生き残る自然、あるいは今自然|破壊《はかい》が行われている所でなければ、明確な『声』を聞くことは出来なかった。ニュースでやっていた一番近い場所でも、数十キロは離《はな》れている。  行ってみたいという声が、あちこちから湧《わ》いた。 「場所は知ってます。学校のすぐそばだから、ホームルーム中にでも行けますが」  仕方なく、友美と顔を見合わせた直人が森のことを話し、教室がざわついた。 「でも、行ったって星虫がなきゃ意味ないし」  洋子は隣の友美を見る。友美は両手で頬杖《ほおづえ》突《つ》き、考えていた。 「……でもさ、星虫って、存在しないものを増幅《ぞうふく》はしないんだよね」  それはその通りだった。 「じゃ、地球の声だって、本当は誰《だれ》にでも聞こえるんじゃないかな? だって、あんなに強烈《きょうれつ》なんだしさ。それに、覚えてない? 吉田さんも、あの場所は普通《ふつう》じゃないって言ってた。あの人、星虫つけてないのよ」  友美はそう言って、「一度に十人ずつなら、入っても大丈夫《だいじょうぶ》なんじゃない?」と、洋子に聞いた。  洋子もうなずく。 「あんまり奥《おく》まで入らなきゃね」 「じゃ、決まりだ。私たちだけが、地球の声を独占《どくせん》するのは、よくないものね!」  そして、視線をひるがえすと、左隣《ひだりどなり》の寝太郎を起こした。 「寝太郎君! あの森を使って実験をしたいの。いいかな?」  半分寝たままの寝太郎が、「何でもいい、寝かせてくれ……」と、呻《うめ》く。 「よし、決定!」  友美は立ち上がり、自分の仮説を発表した。  なるほどと全員が思い、期待が一気に盛《も》り上がってきた。  試《ため》しに行ってみるかと、担任が笑う。時間もまだ三十分以上残っていた。 「ま、たまには校外学習もいいだろう。次も先生の時間だしな」  クラスから歓声が上がった。  平日にもかかわらず、多くの人々が竹林の中を散策していた。  どうやら遅ればせながら、竹林と屋敷《やしき》からの自然の声に、気がついたのだろう。  しかし、そのほとんどの額に、星虫はもうない。  友美は少し淋《さび》しく感じたが、だんだん仕方なかったかとも、思い始めていた。 「君も、あんまり唐突だったよ」と、目と目の間に揺《ゆ》れる宝石に、指先を当てた。  星虫の手がその指をつかむ。優しいつかみ方だった。全然痛くない。 「かしこいかしこい」  友美はニコッと笑う。その後、洋子の不審《ふしん》な目に気付いた。 「……友美。可愛《かわい》いと思ってるんじゃない? ひょっとして」 「そんな事……あるけど……」  すっかりこの星虫の変態にもなれてしまった友美だった。しかし洋子は、この友人の変貌《へんぼう》に、今一つ、ついていけない。  森への門の前に立った友美は、鍵《かぎ》を開け、全員に向かって言った。 「中に入るのは一度に十人まで。十メートル以上奥には入らない事!」  クラスは四つの班に別れ、代わる代わる森に足を踏《ふ》み入れたが、よくわからないというのが実感だった。 「すごいとことは思うけど、普通に山で感じる感動と同じよね?」と、女子が言う。  そう言われれば、地球の『声』とは、美しい夕日を見た時とか、素晴《すば》らしい風景を見た時の感動とよく似ていた。いや、本来は同じものなのかもしれない。ただ、星虫はその感動をより深く根源に迫《せま》って捉《とら》えられるだけなのかも…… 「目をつぶりゃ、いい」  友美の後ろから眠《ねむ》そうな声がした。  寝太郎だ。 「目をつぶって、ここと門の中を行き来したら、見て感動してるのか、それとも地球の叫びを聞いてるのかわかるだろ?」  全員がたまげていた。無論、いいアイディアに対する驚きもあるが、それを言ったのが寝太郎だということが意外に過ぎる。 「よし、やってみて!」  いちはやく立ち直ったのは、昨日の経験で少しは寝太郎を見直していた友美だった。腐《くさ》っても鯛《たい》。あれでもおじさんの一人|息子《むすこ》なのだから。  全員、再び盛り上がる。  そして、寝太郎の提案通りに試してみると、ほとんど全員が地球の叫びを聞くことができたのだ。  一度コツのようなものが飲み込《こ》めると、その声は相乗的に大きくなり、圧倒《あっとう》的に胸に迫った。  偉大《いだい》なものの苦しみ、そして哀《かな》しみが、いかつい顔をした体育系の連中の目にまで、涙《なみだ》を浮《う》かべさせる。女子の中には、森の中で座《すわ》り込んでしまう者もいた。  その様子を、半ば驚きの目で見つめている所持者たちだった。  担任が、少し赤くした目を擦《こす》りながら友美たちの前にやってきた。 「……いや、これほどのものとは、思わなかったよ。星虫をつけていない先生ですらこれだ。所持者たちが命がけで緑を守ったわけだ……」 「でも、こんなに簡単だったなんて」と、洋子が友美たちの気持ちを代弁した。  まだ二十分もたってない。なのに、地球の叫びを聞けないのは、もう数名に過ぎなかった。竹林を散策していた人達も、次々に飛び入り参加し、地球の声に感動し始めている。  担任は考え込んでいた。 「すると、星虫はもう役目を終えたということなのかもしれんね」  昨日までに、地球の叫びのおかげで、アマゾン開発に事実上の待ったがかけられたのは、確実のようだ。五年もかかって止められなかったものが、たったの二日で決まったのである。  もし、この地球の叫びが全《すべ》ての人々に聞けるなら、超能力者《ちょうのうりょくしゃ》的な星虫所持者がいなくなった方が、事はスムーズに運ぶに違いなかった。地球の叫びが残るのなら、環境《かんきょう》保護のために、星虫を守る必要はないわけだ。 「なるほど、星虫がなくても地球の叫びが聞けるってことは、そういう事だよな!」  隆が手を打ち、直人もうなずいた。 「そうだな。地球の叫びが実在するのは、これでもう確実だし。となれば、星虫は不要だ。そうか、だから巨大化したのかもしれない」 「取ってもいいからって?」  洋子が聞く。 「なるほど。竹の子でも時期を逃したら、伸《の》び過ぎて食えんもんな」  隆が言ってみんな笑ったが、その言葉には、妙《みょう》に説得力があった。 「僕《ぼく》は、星虫を取らないぞ」と、正夫は反対する。 「二度と眼鏡をかけたくないからな」  納得《なっとく》の一同が笑う中で、不機嫌《ふきげん》そうな声がした。 「それ、変だ」  全員の視線が友美に集まった。 「星虫に利用価値がなくなったから、取るの? じゃ、星虫はなんのために地球に来たのよ。地球の危機を教えてくれるために来たって言うの?」 「ああ、そうかもな。それ言えてるかも……」  隆をきつい視線で黙《だま》らせた友美は、続けた。 「そんな都合のいい生き物がいるなんて、私思わない。この子は、生きてる。死ぬために来たんじゃない。生きて育つ権利がある。人間と同じに。それに、星虫は地球の危機を教えてくれた大恩人だ。用が済んだからって取るの? 取れば、この子たちは死ぬのに」  髪《かみ》を切ってからやけに迫力《はくりょく》を増した友美に、直人たちは顔を見合わせた。 「待てよ氷室さん、その考え方は危険だ。確かに君の言うことは分かるけど、もともと勝手についたもんだろ? そこまで肩入《かたい》れすることはないよ。大体、共生体じゃなく、寄生体だって説が、今有力視されてきてる。見てみろよ、4チャンネルだ」  直人の言葉通り、頭の中のチャンネルを4に合わせた。  生物学者が、静かに語っていた。星虫は昨日まで考えられていた片利共生《へんりきょうせい》とは、もはや考え辛《づら》い。この突発的な成長から見て、さらなる巨大化《きょだいか》も十分に考えられる。そして、単独では生命の維持《いじ》が出来ない以上、ヤドリギのような寄生体とみなすべきだと。 「仮説じゃない。育てば一人で生きていけるかもしれないわ」  反論する友美に、今度は担任が首を振った。 「それも仮説だ。もし委員長の言う通りだとしても、そんな巨大な虫が野放しになるというのは、ぞっとせんな。とにかく、未知の生物だ。どんな予想も成り立つ。アメリカでの噂のように、星虫が象ほども巨大化して、人を食うかもしれん。それは誰にも、委員長にも否定出来んことだ」  それはその通りだが、友美には、星虫がそんな悪いものとは思えなかった。いや、思いたくなかったのかもしれない。  意気消沈《いきしょうちん》した視界に、ぼーっと立つ少年が入った。そういえば寝太郎だけは、星虫に対する批判めいた事を一言も言ってない。 「寝太郎君、どう思う?」と孤軍奮闘《こぐんふんとう》の友美は、藁《わら》をもつかむ思いで寝太郎に尋ねた。 「別に大した悪さもせんし、おれ、こういうのは嫌《きら》いじゃないからな」  寝太郎は、あっけらかんと言い、なんでこんなに騒ぐのかといった顔で、全員を見た。 「……それに、委員長は信じてんだろ? 星虫がいいやつだって」  友美は、力強くうなずいた。 「だったら、おれも信じるよ。全面的にな」  そして、にこっと笑った。浅黒い顔の中、歯だけは真っ白で綺麗《きれい》だ。  その無条件の信頼《しんらい》感に、友美を含《ふく》めた全員が呆気《あっけ》に取られてしまう。 「寝太郎君……」  友美の心臓が、少し高鳴っていた。  そろそろ二時限目が終わろうとする時、直人が寝太郎を誘《さそ》い出した。  森から離れた二人は、竹林の奥へと入っていく。 「どうしたんだよ」  寝太郎が、前を歩く直人に聞いた。  立ち止まった直人が振り返る。 「……寝太郎、お前この事態を甘《あま》く見てないか?」 「甘く? 星虫の事か? 見てないと思うけどな……」  考え込む寝太郎に、直人が言い切った。 「甘く見てるんだ! でなけりゃ、どうして氷室さんに味方した? 星虫が危険なのは、もう生物学者たちも全員認めてるんだぞ! テレビを見てないのか?」  寝太郎もテレビは視界の片隅《かたすみ》で見続けている。そのニュースは知っていた。 「でも、おれは委員長のカンの方を信じるな。大体昨日の今日だぞ。よくそんだけ変われるな、みんな」 「……そうやって、お前が星虫に食われるのはいい。しかし、氷室さんを巻き込むなと言ってるんだ」  寝太郎は首をひねった。 「それは、何だか、言う相手を間違《まちが》ってるような気がするが……」 「お前が無責任に、彼女《かんじょ》に迎合《げいごう》したことを言ってるんだ! 氷室さんに何かあったとき、お前、責任取れるのかっ!!」  頭へ血が上ってきた直人に、寝太郎は頭を掻いた。 「……取れる分だけは、取るだろうな」  そののんびりした口調に、直人はうなずいた。 「お前には、はっきり言わなきゃ、分からんようだな。いいか! お前なんかが氷室さんに近づく事自体が、身のほど知らずなんだ。氷室さんにちょっかいかけるのは止《や》めろ!」  寝太郎は、怪訝《けげん》な顔で、興奮する直人を見返した。 「ちょっかい? かけられてんのは、おれだぞ。今朝なんか、家まで来て、叩《たた》き起こすんだかからな……」  溜《た》め息つく寝太郎を、直人は親の仇《かたき》のようににらみつけた。  家まで行った? 氷室さんが? 「許せん……」  体が震《ふる》えてきた。 「いいか! いい気になるなよ! 今の氷室さんは、星虫のおかげで変になってるだけだ! 繊細な彼女は、日に日に巨大化する星虫に、ノイローゼ的になってる。だから、お前みたいな薄汚《うすぎたな》い劣等生《れっとうせい》を相手にしたり、突然《とつぜん》髪を切って、別人のように振る舞《ま》ったりしてるんだ。それを誤解するなっ!」  唖然《あぜん》とその言葉を聞いていた寝太郎だったが、ついに吹《ふ》き出した。 「星虫なんか、関係ないって。あれが委員長の地だぞ」  大笑いする寝太郎に、とうとう直人の頭の線が切れた。 「氷室さんを、侮辱《ぶじょく》するなっ!」  サッカー部で鍛《きた》え上げた黄金の右足が高く舞い、目にも止まらぬ速度で寝太郎の顔を狙《ねら》った。  しかし、『バシツ!』という重い音と共に、その爪先《つまさき》は顔の直前で止まっていた。 「侮辱ってな……本当のことだぞ」  直人の強力なキックを止めたのは、寝太郎の右手だった。ほっそりとした見かけにもかかわらず、とんでもない馬鹿力《ばかぢから》で、直人は一本足の案山子《かかし》にされてしまっていた。  つかまれたスニーカーごと足が握《にぎ》り潰《つぶ》されるような握力《あくりょく》に、直人の顔が青ざめる。一瞬《いっしゅん》で戦意が喪失していた。  その足を不意に放し、寝太郎は背を向けた。 「ま、待てよ!」  バランスを取れず、座り込んだ直人が怒鳴《どな》る。  しょうがないという風に、寝太郎がふり返る。 「笑って悪かった。けどな、委員長は本当に、今のが素顔だ。昨日までの方が、変だったんだ。もっとも、おれもあの髪好きだった。もったいないことするよなあ……」  溜め息ついた寝太郎は、竹林の中に消えてゆく。  その後ろ姿を見つめて、直人はつぶやいていた。 「あいつに何が分かる! 全部、星虫の影響《えいきょう》なんだ……」  遠ざかる寝太郎の背中が、不気味に大きく感じられた。絶対に、いつもの無気力な寝太郎とは違っている。  直人は、はっと気がついた。考えてみれば、寝太郎の星虫は友美の次にでかいのだ。そのせいじゃないのか?  可能性はある。あの二人の変わりようが星虫の力だとすれば、納得出来る。そして、巨大な星虫同士に、連帯感が発生するとしたら…… 「そうなら、おれも星虫を捨てるわけにいかないな」  微《かす》かに、二時限|終了《しゅうりょう》のチャイムが竹林に響《ひび》きはじめていた。  三時限目、その厳しさでは天然記念物ものと噂《うわさ》される教師の英語の授業を受けながら、友美は考えこんでいた。  それは星虫の事でも、昼のお弁当の事でも、ましてや授業の事でもなかった。考えていたのは、いつ散髪《さんぱつ》に行ったかも分からないほどに髪を伸ばした一人の男子のこと。  友美の席の真横にいるその男子を、前を向いたままに見つめる。  星虫の視界と自分の視界の区別がなくなったので出来る芸当だ。(星虫の方が、視界が広い。視角で二百度はありそうだ)  その男子。寝太郎は、窓際《まどぎわ》の席で、うつらうつらとしていた。伸び切った前髪が星虫の悪戯《いたずら》で上に押《お》し上げられ、まるで鶏冠《とさか》だ。  しかし、考えてみれば、自分と寝太郎は、不思議な関係だった。  十年も昔《むかし》に、たった一日|一緒《いっしょ》に過ごした男の子。友美が師と思うおじさんの息子でもある。そして、今は同級生。  同級生といっても、たった一昨日まで、そばに寄りたくもなかったヤツだったのに。 『そのはずだったのに……』  気になってしまう。  姉が出来の悪い弟に感じるような思い。懐《なつ》かしい親友に対するような思いが、胸の中で入り交じっていた。  あれほど嫌だった汚い姿を、こうしてじっと見つめていても、苦にならない。 『星虫のせい?』  星虫は、友美に町や自然の正体を教えてくれていた。  町が人間の一部であり、それゆえに気持ちがよく、安心できる場所だということ。そして自然は自分の一部でありながら、人以外の意思で支配されており、それゆえに不安と感動とが存在するのだ。  だったら寝太郎がこんなに気になるのも、星虫と無関係ではないのだろう。今まで自分に見る目がなく、寝太郎の良さがまるでわからなかっただけかも知れなかった。 「星虫が人間の真の姿も見せてくれるとしたら……」  じっと見つめる友美の視線の先で、寝太郎の星虫は悪戯を続けていた。  本格的に居眠りに入った鼻の穴に、ゆっくりとその鋏《はさみ》を近づけていく。何をする気かと見守る友美が目をこらした瞬間、鼻の肉をつかんだ鋏が、ピッと上がった。  見事に寝太郎の鼻がブタになっていた。 「てててっ!」と、寝太郎が思わず立ち上がってわめき、もろに見てしまった友美の爆笑《ばくしょう》が、水を打ったように静まり返っていた教室にこだまする。  突然のその大騒《おおさわ》ぎに、天然記念物教師の怒《いか》りが爆発した。 「馬鹿者! 立っとれっ!」 「小学校以来ね、立たされたのって」  言いながらも楽しげな友美だった。  その横には、不思議そうな顔の寝太郎がのっそりと立っている。痩《や》せているのに、時々肥満児のように感じてしまうのはなぜだろうと、友美は横目で見た。  じろじろと見られる寝太郎の顔の温度が、少し上がってきている。 「一つ聞いていいか?」  友美はうなずいた。 「さっき教室でも、じっと見てたろ? なんでだ」 「知ってたの?」 「なんとなくわかった。星虫かな……」  今度は友美が顔を赤くする番だ。 「別に、なんでもないよ。それより、聞きたい事があるの」と、話を変えた。 「何?」 「さっき、どうしてあんなに信頼してくれたの? 星虫のことで」  実のところ、星虫の危険性が分からないことはない。理屈《りくつ》で考えれば、正体不明の物体を信じる方がおかしいだろう。友美が信じているのは、第六感としかいえない部分でだった。  自分はともかく、他人を説得出来るものではない。  しかし、寝太郎は友美を全面的に信用してくれたのだ。 「委員長のカンがすごいのは、知ってっからな」  友美は目を丸くして、寝太郎を見た。 「私のカン?」 「ああ、委員長は覚えてないかも知れんけど、世界の砂あるだろ。あの瓶《びん》の中身と、地球儀《ちきゅうぎ》の場所とを、全部|一致《いっち》させたじゃないか」  漠然《ばくぜん》とは覚えていた。 「でも、確か、ラベルに場所が書いてあったと思うけど……」  寝太郎はうなずく。 「確かにな、けど、あれラテン語だぞ。六つで読めたんか?」  今でも読めない。 「そうだったっけ?」 「そうだよ。だからおれは、委員長のカンを信じてんだ」  へえっと、友美は自分に驚《おどろ》いていた。どうやらカンは、昔の方が冴《さ》えてたらしい。 「でも、そう信じ込《こ》まれても、困るな。実を言うと、絶対に安全だとは、思えないの」  寝太郎は欠伸《あくび》をしていた。 「いいよ。委員長は、親父《おやじ》の事、先生だって今でも思ってんだろ?」  友美はもちろんと答える。 「おれにとっても親父というよりは、先生だ。おれたち親父の教え子同士。仲間だからな。付き合ってやるよ」 「仲間?」 「それに、親父の考え方の基本は生き物は全《すべ》て平等だって事にあるよな。食べないもんは殺さない。おれ、ちょっと、こんなの食う気しないぞ……」  寝太郎は、いかにも嫌そうな顔で、星虫を見上げた。  友美は思わず吹き出しそうになった。星虫は、取れば死ぬ。殺した生き物は食べなければならないのだが、これはゴキブリを食べるよりも難儀だろう。固い上にでかすぎる。 「委員長、今年|蚊《か》を食ったか?」と、寝太郎が聞いた。 「二|匹《ひき》だけね」  その友美の答えに、寝太郎は、胸を張った。 「おれ五匹。こないだの、松本さんのを入れてな」 「馬鹿、なに威張《いば》ってんのよ」  笑う寝太郎と友美は、やがて無言になり、廊下のガラス越しに空を見上げた。  仲間という寝太郎の言葉が、友美の胸に残っていた。  何だか心が軽くなっているのに気付く。ずっと一人で、仲間もなく夢《ゆめ》を追って来たのだが、やはり疲《つか》れていたのかもしれない。自然に話せる友人は、本当に、小学校以来だった。胸の中の温かいものが、広がっていく…… 「ね」と、友美は聞いた。 「寝太郎君は、何の科学者になるつもり?」  突然に問われ、寝太郎は「うーん……」と、唸《うな》った。 「まだ、絞《しぼ》れてないんだよな。やりたいのはコンピュータだけど、設計も面白《おもしろ》いし」  友美は溜め息ついた。寝太郎とコンピュータ? ミスマッチもいいところだ。しかし、どんな方面に進むにせよ、今の状態では、並大抵《なみたいてい》の努力では済まないだろう。 「出来ると思う?」 「ちょっと、自信ないけどな」  頭を掻《か》く寝太郎に、やっぱりと、友美は納得《なっとく》する。しかし、自信がないと言う以上、現実を少しは認識《にんしき》しているに違いない。まだ希望はあるようだ。 「じゃ、頑張《がんば》ろうよ。毎日きちんと学校に来なくちゃ」  寝太郎はそう励《はげ》ます友美をじっと見、やがて溜め息ついた。 「……起きてなきゃ、駄目《だめ》か?」 「当然よ!」  やれやれと、寝太郎の肩《かた》が落ちた。 「でなくちゃ、おじさんみたいな科学者になるなんて、夢のまた夢だからね」 「別に、親父並みになる気はねえよ。コンピュータと、建築と、せいぜい園芸だな」 「園芸?」 「見たろ? 家の庭、世話してんのおれだぞ」と、すこし自慢気に寝太郎は言う。  友美は驚く。そう言えば、昨日も寝太郎は、剪定鋏《せんていばさみ》を持っていた。 「寝太郎君に、そんな技《わざ》あったの。でも、園芸は科学じゃないよ」 「進化計画には、必要だぞ」  なるほど、スペースコロニーを作るには、確かに園芸もいるだろう。 「そうね。でも、やっぱり進化計画に興味あるんだ」 「当たり前だろ。親父が作ったもんだ、もともと」と、寝太郎はぶすっと言う。  どうやら秋緒が絡《から》むと、急に機嫌が悪くなるようだった。 「聞いていい? 吉田さんも、私たちと同じ、おじさんの生徒なの?」 「……まあな」 「じゃあ、仲間じゃない。どうして、あの人から逃《に》げるの? 吉田さんは、おじさんの夢を叶《かな》えようとしてるんでしょ? 私たち、出来ることなら少しでも協力しなくちゃ」  寝太郎は、黙《だま》り込み、何か考えている様子だった。 「確かにそうかも知れんけど……」  そして、不意に友美を見た。  その目が、なぜか、辛《つら》そうに伏《ふ》せられる。 「駄目だ……やっぱ、おれには、あいつの言う通りに協力なんか出来ねえよ」  友美は首をかしげた。まるで寝太郎が、友美を見て、何か大事なものをあきらめたように感じたのだ。 「どうしてよ」 「どうしてもだ」  苛々《いらいら》するように言って、寝太郎は額に手を上げた。  突然|触《さわ》られた星虫がびっくりして頭にへばりつく。また鼻をつかまれ、「てててててっ!」友美もたまらず吹き出す。 「静かにしろっ!!」  いきなり教室のドアが開き、教師がわめいた。  無言で立つ二人の前に、青空が広がっている。  窓越しだが、星虫の力を借りれば、肉眼よりもはるかに鮮明《せんめい》な空を望む事が出来た。  友美の心は、暖かいままだった。  何処《どこ》かで見たような雲。そして寝太郎と並んで何も考えずに空を見上げるこんな時が、ずっと以前にもあったような気がし始めていた。夢の中でかも知れない。 「…………」  広樹が口籠《くちご》もるように何かを言った。 「えっ?」と問い返す友美に、寝太郎は額の星虫を指差した。  友美は、聴覚《ちょうかく》の感度を上げた。  とたんに、教室内の教師の言葉が明瞭《めいりょう》に聞こえ始める。集中すれば、生徒の息づかいでも感知出来るだろう。 「いいもの見せようか?」  寝太郎のささやき声が、充分《じゅうぶん》な音量で友美に届く。 「何?」  問い返す言葉に、寝太郎は前を向いたまま、一枚の紙をポケットから出した。 「昨日、見せるの忘れたからな」  それは古い写真だった。  小さな女の子が、にっこり微笑《ほほえ》んで立っている。その脇《わき》には、しゃがみこみ、顔をくしゃくしゃ、どろどろにした男の子が、大きな口を開けて泣いていた。  六歳の友美が、寝太郎を泣かした決定的|瞬間《しゅんかん》である。  友美は見る見る真っ赤になった。 「……全然そっから、変わってないぞ、お前」 「なっ、なによっ」 「いじめっ子。おれの唯一《ゆいいつ》の趣味《しゅみ》まで取り上げるなんて、鬼《おに》だ」  どうやら、趣味とは居|眠《ねむ》りの事を言ってるらしい。 「馬鹿《ばか》、なに子供みたいなこと言ってんのよ。私は、寝太郎君のためを思って……」 「いじめっ子」  だが、そう言う寝太郎の目は、笑っていた。 「怠《なま》け者」と、友美が言い返す。 「いじめっ子」 「眠り虫」 「猫《ねこ》っかぶり」  聞こえないほどの悪口を互《たが》いに応酬《おうしゅう》しあいながら、友美もいつしか笑っていた。  本当にこんな時が、大昔にあったような気がする。  その時だ。 『チチッ』と、何かの音がした。  友美のすぐそば、それもごく近くで。  あれっ? と思ったとたん!  見つめていた窓の外に広がる青空が、一瞬にして真っ黒に染まった。 「!!」  絶句する目の前で、窓の外は夜の世界になっていた。  いや、違《ちが》う。校舎裏の木々も塀《へい》も、そこから顔を覗《のぞ》かすビルの群れも、全てさっきまでと同じように明るい太陽に照らされているのだ。  友美はもう一度目を空に向けた。  満天の星が、目に入ってきた。  空が、空だけが突然《とつぜん》に夜空へと変わってしまったらしい。  星虫の新しい力の発現に違いなかった。しかし今度は、今度だけは友美の意思以外の要素が働いたとしか考えられなかった。  その証拠《しょうこ》に、コントロールがきかない。今までなら五感の全て、そして地球の叫《さけ》びを聞く第六感、テレビ受信も自由自在に調節出来た。それだからこそ、昨日まで星虫は神の贈《おく》り物として扱《あつか》われてきたのだ。 「君の仕業《しわざ》ね!」  友美は、やれやれと額の星虫を見上げた。  どうやらこの星虫は、本格的な自己主張を始めるつもりらしい。つまり、星虫の成長が止まっていないという証拠でもある。  ま、町はきちんと見えてるし、変わったのは空だけなのだから、慣れてしまえばどうって事はないけれど…… 『これじゃあ、明日どうなってるか……』  加速度的に成長が進んでいるらしい星虫に、溜《た》め息ついた。  隣《となり》で寝太郎が不審《ふしん》な目で見ているのに気付いた友美は、この事態を説明した。 「へえ、おもしろそうだな」  全く驚かない寝太郎に、友美は少しがっかりした。 「こんなの聞いて、怖《こわ》くないの?」 「委員長はどうなんだ?」  問われて、はたと友美も考える。 「やっぱり怖い気持ちもあるな。でも、それよりわくわくする気持ちの方が強い。次は何を見せてくれるのかなってね」  言いながら、本当にこの星虫の新しい能力を楽しみ始めていた。  目の前に輝《かがや》く赤い星は、間違いなく火星だった。  多分星虫は、どうやってか空から来る太陽光線だけを遮断するか吸収するかしているのだろう。コンピュータのような、画像処理をしているのかも知れない。器用な子だった。  友美は心の中で星虫に呼びかける。 『自己主張もいいけどね、私の事も考えてよ。私はずっと仲良くしていたいんだからね、綺麗《きれい》な星虫君』  しかし、触角《しょっかく》を震《ふる》わせる星虫は、自分の事しか考えていないように感じられた。 [#改ページ]  五 日 目  午前九時。  友美の通う高校の校舎は、夜半から降り続いた強い雨に打たれていた。  厚い雲に覆《おお》われた空は不気味に暗く、雨足は強くなる一方だった。  朝だというのに、教室|全《すべ》ての窓からはこうこうとした蛍光灯《けいこうとう》の光が放たれ、それが一層あたりの暗さを際立《きわだ》たせている。  聞いたこともない異様な音が雨の校庭に鳴り響《ひび》いたのは、その時だった。 「ギ・ギ・ギ・ギギギギギギギィィィィィィィィィィィィィィ……」  友美の教室の六枚の窓ガラスが、その音と同時に砕《くだ》けた。  凄《すさ》まじい異音とガラスの割れる音とが混じり合い、クラスの全員が耳を押《お》さえて全身を震《ふる》わせていた。 「お願いだから止《や》めて!」  友美は自分の耳を押さえながら、鳴き続けている額の星虫に怒鳴《どな》った。  星虫。  それはすでに虫と呼べる物ではなくなっていた。  全長は昨日のさらに三倍にも巨大化《きょだいか》し、左右に振《ふ》れる腹部の目は、後頭部にまでおよんでいる。全体のフォルムは昨日と同じだが、蟻でいう頭部分、そして、今音を出している胴体部分の両脇《りょうわき》についた歪《いびつ》な形の目が、比較的《ひかくてき》他《ほか》より大きくなっていた。鋏《はさみ》の付いた前足は、もう伸《の》ばせば肩《かた》に届くだろう。  奇跡《きせき》的に友美の目は塞《ふさ》がれていないが、正面から見ると不気味な兜《かぶと》をかぶっているかのようだ。しかもこの兜は重かった……  星虫の総数は、今朝の時点で二十万を切り、更《さら》に激減《げきげん》を続けている。  友美のものほど巨大化しているものは、もはやごくわずかだった。未《いま》だに星虫を持つている者の大部分は視力や聴覚《ちょうかく》に障害を持った人々がほとんど。そういった人々の星虫は、なぜか変態が押さえられる傾向《けいこう》があった。  星虫がかろうじて国家の強制による駆除《くじょ》を免《まぬが》れているのは、そのおかげだと言い切ってもいいだろう。現に正夫と、やはり弱視だった少女のものは、三日目よりかなり大きくなっているものの、足は爪《つめ》の先ほどにしか伸びていない。  すでに世論は星虫を原則的に排除《はいじょ》すべきだという方向で動いていた。友美たちが昨日発見したように、『地球の叫《さけ》び』が誰《だれ》にでも聞けるというニュースが、今朝の新聞の一面を飾《かざ》り、社説では星虫の役目がこれで完了《かんりょう》したと断定されていた。  星虫の与《あた》えてくれる能力は、確かに素晴《すば》らしいものだが、人間の科学で代用可能である。それに、星虫の能力|増幅《ぞうふく》機能の分析《ぶんせき》が、すでに各国で始まっていた。この四日間で、充分《じゅうぶん》なデータが集まっており、数年後には、人工の星虫が出来る可能性も出ている。  もはや、星虫をつけている必要はなかった。地球の叫びが実在する以上、砂漠化《さばくか》の進むアフリカでも、アマゾンのように劇的な緑の革命が成功する可能性があった。地球上の森林を救った存在として、星虫は絶賛されるだろう。しかし、その役割はすでに終わったと。  友美の家族も、その新聞の社説に賛成だった。  むろん友美は首を振り続けたのだが、今朝早く、いきなり途轍《とてつ》もない音量で星虫が鳴き始めた時には、泣きたくなった。向こう三|軒《げん》の家族を叩《たた》き起こしてしまったのだ。  星虫に愛着を感じ、守っていた人々の多くも、この音で取らざるを得なかった。鳴き始めた星虫をまだ持っているのは、もはや世界中に百人いないだろう。  その内の二人が、この教室にいた。これは、考えてみればすごい確率だが、一緒《いっしょ》にいる者にとっては、たまったもんではなかった。  友美の言うことを聞き、ようやく音量を落としてきた星虫の声へ、かぶさるように別の異音が鳴り始めたのだ。  寝太郎の星虫だった。  彼《かれ》のは友美のよりも一回り小さいが、足だけは太く、全体にがっしりした印象があった。それが、友美のよりも少し低めの音を轟《とどろ》かせている。  ぱんっと、寝太郎が星虫の胴体をはたく。 「やめろ、馬鹿」  叩かれて怒《おこ》った星虫がさらに音量を上げ、教室の窓ガラスが全滅《ぜんめつ》した。  それで気が済んだらしい。不意に鳴き止み、ようやく教室に静けさが戻《もど》ってきた。  あーあと、友美は頭を抱《かか》えた。今朝五時からこの繰り返しでは、頭痛もする。  だが、もっと嫌《いや》になってるのは、教師を含《ふく》めたクラスの全員だった。 「これじゃあ授業にならん!」  教科書を教卓《きょうたく》に叩きつけた数学教師が、友美と寝太郎をにらみつけた。そして、その視線は別の所持者たちにも向かう。  直人もまだ星虫をつけていた。もっともまだ鳴いてはいない。大きさも昨日とそう変わっていなかった。寝太郎の半分ほどだ。  あと、クラスの星虫所持者は洋子と隆を含む七人だけ。(この二人は直人のとほとんど同じだ。成長の後《おく》れていた隆のも、今朝は追いついている)しかし、今や所持者は数万人に一人の確率だ。この数は、極めて多い。  所持者全員をにらみ回した教師は、「取れっ!」と怒鳴った。  その言葉の意味が分かるかのように、友美の星虫がビクッと震える。  星虫は、明らかに知能が発達しつつあり、この雰囲気《ふんいき》を感じとっているのだと、友美には分かっていた。  これだけ自分や回りに迷惑《めいわく》をかけるのは、まだやっていいことと悪いこととの区別がつかないせいだ。だとすれば、躾《しつ》ければいい。取るのは、最後の最後でいいはずだった。 「いやです」  友美は立ち上がって、きっぱり拒絶《きょぜつ》した。 「いい加減にしろ! 人の迷惑がわからんのか!」  クラスの全員が、教師とそう変わらない目付きで友美を見ている。怒《いか》りと、少しの心配が混じっていた。  友美には、今朝から人の感情も読めるようになっていた。色とは違《ちが》うのだが、それに似た感覚で、他人の気持ちが見えるのだ。地球の感情ともいえる『叫び』が聞こえるのだから、そう不思議でもないかも知れない。たとえるなら、今の教室の感情は、怒りの赤に染まっているのに近い。  立つ友美へ、あちこちから声と感情が乱れ飛ぶ。その全てが取れと迫っていた。  生徒たちの苛立《いらだ》ちは、友美以外の星虫所持者にも向いていた。弱視で星虫を手放さずに頑張《がんば》ってきた少女の回りでも、友人たちが取れと迫っている。  正夫と同じく瓶底《びんぞこ》眼鏡から解放された少女は、星虫に心から感謝していた。  しかし、今日の友美の星虫を見た時は、危《あや》うく剥《は》がしてしまいそうなくらいにショックをうけた。あんなになるのなら、耐《た》えられないと思ったのだ。あのとき、友美が平気な顔で彼女《かのじょ》を励《はげ》ましてくれなかったら、持ちこたえられなかっただろう。  でも、今や周囲全てが星虫所有者の敵になっていた。  元々気は強くない普通《ふつう》の少女。その彼女に、非所持者たちの罵声《ばせい》が前、横、後ろと、あらゆる角度から浴びせられる。教師も怒り狂《くる》っていた。  限界だった……少女は、椅子《いす》を蹴《け》って立ち上がっていた。 「わ、私取ります! 先生、病院へつれてってくだ……」  全てを言い終える前に、星虫はいとも簡単に机の上に落ちていた。  カシャンという音が、一瞬《いっしゅん》静まり返った教室に響いた。  机の上に落ちた全長七センチほどの星虫は、生え始めていた短い足をしばらく動かしていたが、それもすぐに止まった。  少女は余りの呆気《あっけ》なさにぽかんとしているように見えた。しかし、その目には大粒《おおつぶ》の涙があふれ、頬《ほお》を伝った。 「ごめんね……」  机に落ちた星虫を憤《いきどお》った目で見つめる友美が、全員に向かって怒鳴った。 「寄生虫が、こんなに弱いわけないじゃない!」  その友美の感情に呼応したのか、それとも身近に仲間の死を感じとったのか、二体の星虫が、再びけたたましい鳴き声を上げた。  教師に引きずられるようにして、六人が校長室に並《なら》んでいた。  前には校長、教頭と、友美らの担任が揃《そろ》っている。 「もう校内にある星虫は君らのだけだ。取りなさい」  柔《やわ》らかな口調だが、内容は強制だった。 「いやです」  友美がその校長をにらみ返す。 「これは理事会の決定|事項《じこう》なんだ。君がわが校に所属する限り従う義務がある」  事務的に言った教頭だったが、「じゃ、学校やめます」と軽くいなす友美に目を白黒させた。 「全く、どうしたんだね、君ほどの優等生が……」  校長は、頭を抱えた。 「私は、もう優等生は止めたんです」と、友美は笑った。 「友美。しかし、見た目にも昨日の三倍にはなってるぞ。明日はどうなる? それだけの星虫を育てた君に分からないはずないだろう」  担任はそうおだてたが、星虫の大きさが知的能力に比例すると友美は考えていないので、びくともしなかった。 「もし明日その倍になったとしたら、顔面のほとんどが隠《かく》れるぞ。そうなったら何も食べられなくなる。いや、息も出来なくなるかもしれんぞ」  苛立ってきた教頭が、脅《おど》しをかけてきた。  直人たちは顔を見合わせる。それは確かにあり得る話だった。 「では、その時点で取ればいいでしょ。今取ることもないと思います」  動じない友美に、校長が首を振った。 「しかし、現に被害《ひがい》が出てるね。アメリカでは心不全で三人が死に、二百人以上が入院中だ。それにその音。それは超音波《ちょうおんぱ》だ。ガラスくらいならいいが、人体に影響《えいきょう》がないわけがないぞ」  確かにこの音だけは友美自身困っていた。そこへ助け船を出したのは、寝太郎だ。 「超音波じゃないでしょう。星虫のやつ、ガラスの固有|振動数《しんどうすう》に合わせた音を出して、割って遊んでるんだ。こいつら少しずつ知恵《ちえ》もついて来てるし、躾けられると思う。な?」  友美はほっとして、うなずいた。 「それに、星虫はすごく大事なことを教えてくれました。地球の声があるってことを。それは、きっと地球を救う大きな力にこれからなっていくと思います。そうなったら星虫が、地球を救ってくれたことにもなるはずでしょ? ちょっと人間にとって不都合が出てきたからって悪者|扱《あつか》いするのは、いい加減すぎると思います。それに、何度も言いますけど、嫌だと感じた時には、はっておいても取れるんだから」  教師たちは、この時彼女こそが元凶《げんきょう》だと悟《さと》っていた。  友美さえ折れれば、他のメンバーも取るだろう。彼らがつけているのは、友美への友情半分、信頼《しんらい》半分といったところだ。しかしこの現状では、そろそろ遊び気分ではいられずに、取りたい気持ちが強くなっているはずだった。それが出来ないのは、信念を持つ(もちろん誤った)リーダーの存在があるからだろう。  しかし、この氷室友美という少女は、もともと並《な》みの生徒ではない。  頭が切れる上に、リーダーシップも取れる。それに頑固《がんこ》。そして、意外にも、劣等生《れっとうせい》だった寝太郎が、有能な参謀《さんぼう》役を務めていた。一筋縄《ひとすじなわ》では、いかない。 「保護者を呼ぶぞ」と怒鳴りつける教頭にも、眉《まゆ》一本動かさないのだ。  その時、校長室のドアが叩かれた。 「お客さんですが」  事務員の言葉と同時に、ドアが勢いよく開いた。  教師たちを含む全員の動きが止まった。 「失礼します。緊急《きんきゅう》事態ですので」  つかつかと入室してきたのは、何と、秋緒だった。  教師たちは、いきなり現れた現実離《げんじつばな》れした美女に、言葉を失っていた。  突然《とつぜん》の登場に呆気に取られたのは、友美たちもそう変わらない。  一人寝太郎だけが逃《に》げ出そうとし、秋緒に捕《つか》まった。 「あ、あの、あなたは?」  絞《しぼ》り出すように、校長が尋《たず》ねた。 「相沢の保護者です」  秋緒は言い切り、ニコッと微笑《ほほえ》んだ。  違うと叫ぶ寝太郎は完全に無視され、教師たちは秋緒を歓迎《かんげい》した。 「ちょうどよかった! 今保護者の方々に来ていただこうと思っていたところでして」  教頭は、火が出そうな程《ほど》にもみ手をし、椅子をすすめた。  秋緒は首を振り、手にしていた分厚い書類を机の上に積む。そして寝太郎をにらんだ。 「生命に係わる可能性が出てきてるわ。星虫の、大気中の元素を自由に組み合わせて、自分の体に取り込《こ》む能力が立証できた。これからどれだけ巨大化するかわからないわよ」  その仮説ならその場の全員が知っていたが、立証できたというのは初耳だ。 「ラバー部分も、今までは毛穴レベルの侵入《しんにゅう》だったのが、その付着面積の拡大と同時に筋肉組織にまで侵入しつつある。このままだと、精神的拒絶がいつまで出来るか。これ以上成長が進めば、精神的拒絶では取れない可能性が、三倍に跳《は》ね上がってるわ!」  そのニュースは初めて聞くものだ。秋緒は書類をめくり、寝太郎に突《つ》きつけた。 「読みなさい。一番高い確率でスーパーコンピュータがはじき出した星虫の推論。パターンとしては、宿主に有利な能力を与え、それを餌《えさ》として拒絶を防ぎ、やがて成長し拒絶不可能になった段階で、宿主を捕食する。広樹、あなたたちは星虫の餌なのよ!」  秋緒は、ドンと寝太郎の前の机を叩いた。 「確率六二パーセント!」  一気に畳《たた》みかけた秋緒の勢いに、全員が身を縮めてしまっていた。 「データのソースになったのは、各国の星虫調査委員会と、星虫研究をはじめた大学、研究室のコンピュータネットワーク。全部で四つのマザーコンピュータをリンクして集めたわ。文句ないはずよ。あなたなら分かるはず。星虫を取りなさい!」  寝太郎もびびっていたが、ゆっくりと首を振る。 「取らん。おれは、そんなもんより、委員長のカンを信じるよ」と、隣《となり》の友美を見た。  意気込む秋緒の顔から、力が抜《ぬ》けた。 「カン……」  そして、視線を横に向けた。 「カン?」と、真っ直《す》ぐ友美を見て聞く。  友美は小さくなりながらも、うなずいた。 「あなたくらいに賢《かしこ》い子が、カンを重視するの? このデータの計算結果より」  秋緒は鋭《するど》い眼差《まなざ》しを友美に送る。それは、物理的な圧迫《あっぱく》感を感じるほどきつい視線だった。 「はい。話は分かります。でも、私には、星虫がそんな悪い子だとは思えない。それに、データって言ってもたった四日です。まだ、どれだけ集まってるか。大体、そのデータを解析したプログラムの問題もあるだろうし」  秋緒の顔色がすっとひいた。 「これが、プログラムのソースよ。私が組んだものだわ。どこが気に入らない?」  手渡された書類には、友美の知らないコンピュータ言語で、千行ほどのプログラムが書かれていた。 「これ、プロローグだ」と、横の正夫が驚く。  友美もその名くらいは知っていた。第五世代コンピュータ用に開発された言語だが、C言語をかじり始めたばかりの友美には、とても歯が立たない。コンピュータに詳《くわ》しい正夫にしても、相当複雑なプログラムだということ以外は、まるで分からなかった。 「……あなたには幻滅したわ、友美。やはり、広樹の見立ては甘《あま》かったわね」 「どういう、ことですか?」と、友美は問い返した。  秋緒は答えず、目を閉じて首を振《ふ》った。 「とにかく、星虫は危険なの。あなたも早く取りなさい。みんなもよ」  友美は、だんだんと腹が立ってきた。  秋緒の言うことは分かる。しかし、これでは勝手すぎる、一方的すぎる! 「でも、これは未知の生物でしょ? これからどうなるかも、結局は推論です。だったら、私はこの星虫を信じます!」  友美は立ち上がり、秋緒をにらみ返した。 「勝手になさい。けれど、あなたは広樹を巻き込んでる! それは止《や》めてはしいの、広樹は大切な人なのよ!」  その突然の秋緒の告白に、友美の頭が一瞬真っ白になった。他のみんなもそうだ。寝太郎だけが、長椅子の端《はし》っこで頭を抱えていた。  危うくその迫力《はくりょく》に飲み込まれそうになった友美だったが、なんとか踏《ふ》み止《とど》まった。 「わ、私にとっても、相沢君は大事な仲間です。そ、それに相沢君が、あなたに追いかけ回されて迷惑してるのは確かだ……」 「なんですって?」  友美は、意を決して言った。 「吉田さん……あなたは、ほんとにすごい人だし、私尊敬するけど、勝手よ!」  無言で対峙《たいじ》する二人の問に、火花が散っているようだった。  全員がいたたまれない思いになっていた。そして、その雰囲気に我慢《がまん》できなくなったのは、人間の方ではなかった。  突然サイレンのように二体の星虫が鳴き始め、狭《せま》い校長室は音の嵐《あらし》に見舞《みま》われた。  部屋中のガラス製品が一瞬にして粉みじんとなり、全員耳を押《お》さえてうずくまった。  数分で音は止んだが、秋緒だけが起き上がれない。 「大丈夫《だいじょうぶ》ですか」と担任が抱《だ》き起こすと、秋緒は青い顔でうなずいた。  校長は、惨憺《さんたん》たる有り様の室内を見回し、友美たちに告げた。 「自宅待機しなさい。処分は追って沙汰《さた》します。帰れっ!」  友美たちは、後も見ずに校長室を飛び出した。  六人はクラスメートの冷たい視線に送られながら、鞄《かばん》を下げて教室を出た。  雨はやんでいたが、黒い雲が重苦しく空を埋《う》め、沈《しず》んだ気分に追い打ちをかける。 「まいったな」とつぶやく隆の顔にも、楽天家らしからぬ暗い影《かげ》がさしていた。  主に仲間意識と、星虫所持者=エリートという優越《ゆうえつ》感から星虫を守ってきた隆だが、今の秋緒の話はこたえた。どうやら、命にかかわる瀬戸際《せとぎわ》に来ているらしい。 「彼女の話には、筋が通ってるよ」  直人は、そう友美に言った。  洋子も口をそえる。 「友美の気持ちもわかるけど、やっぱり危険だと思うわ。特に友美と寝太郎君のは、大きくなりすぎてるし」  そして決心したように、告げた。 「私は、鳴き始めた時点で取る。星虫がくれた力は惜《お》しいわ。この綺麗《きれい》な町や森を二度と見られないのは、残念だけど……」  洋子は雨に濡《ぬ》れた校庭を見つめた。  星虫の視覚で眺《なが》めた世界は、人間の目がいかにいい加減で出来が悪かったかを洋子に教えてくれた。目の前に広がるこの何でもない風景にすら、名画に匹敵《ひってき》する感動を見つけられる感覚を失いたくはないけれど、命には代えられなかった。 「飯も美味《うま》かったけどな、オレも取るよ。これ以上でかくなるなら」と、隆も腹を決めた。 「僕《ぼく》はねばるぞ。委員長が頑張る限り、付き合うよ」  正夫は、ちょっと不安気に星虫を見上げた。自分のだけがそれほど巨大化《きょだいか》していないのを期待しての発言だと、感情の読める友美にはわかったが、それでも嬉《うれ》しかった。 「おれも、今すぐ取る気はないが」  直人が友美を見た。 「問題は家族だな」  その通りだ。そろそろ学校から連絡が入っている頃《ころ》だろう。頭に血の上った母親の顔が目に浮《う》かぶ友美だった。  家族の事を思うと、全員の顔が沈んでしまう。騒音《そうおん》公害で近所にまで迷惑《めいわく》をかけている友美でなくとも、みんな家族に心配をかけているのには違《ちが》いがなかった。  その中で寝太郎だけがいつもと同じ表情だったが、その目がいきなり丸く開いた。 「わっ!」と声を上げる寝太郎に、友美の声も重なった。  二人は同時に真っ黒な空を見上げ、驚いている。 「どうしたの?」  洋子は友人の様子に首を傾《かし》げた。いくら目を凝《こ》らしても見えるのは雲ばかりだ。 「見なかった? 今のすごかったわ」  数分後、我に返った友美が、天の一角を指差した。 「超新星の爆発《ばくはつ》かな」  寝太郎も彼《かれ》としては珍《めずら》しく興奮している。 「みんな、まだ見えてないんだ。私、あ、寝太郎君も昨日から宇宙を見せられてるの、星虫に。昼間でも、雲がどんなに厚くてもね!」  星虫が宇宙を見始めてから一日。最初はカンが狂ってしまった友美も、すっかりこの状態になれてしまっていた。 「どうやら、通常光線だけじゃなく、X線あたりまで見えてきたんだ。あれなら、雲くらい通すだろ? 星の数も、どんどん増えてる」  ニカッとしながら言う寝太郎に、友美は胸を張った。 「へへーんだ。私なんかもう全天で星のないところはないくらいよ。木星までなら、月と同じに見える。もうすぐ宇宙線でも見えるんじゃないかな」  楽しげに自慢し合う二人を、四人の不審《ふしん》の目が見ている。  星虫が強制的に星空を見せているというのに、どうしてこんなにも楽しんでいられるのか、彼らにはとても理解できなかった。 『まるで星虫に取りつかれているようだ』という思いが、期せずして全員の心に浮かんでいた。  そう考えれば、友美がこれほどまで星虫を庇《かば》う説明もつく。  そんな疑いが生まれてしまうと、直人たちの倍はある星虫を頭に張りつけた二人の姿は、まるで別の星の不気味なエイリアンのようにも見えてきた。 「どうしたの?」  四人の様子に気付いた友美が尋ねる。 「いや、別に」  直人は、「そろそろ行こう」と、傘《かさ》を持った。  友美には彼らの微《かす》かな恐怖《きょうふ》が読み取れるのだが、それがまさか自分たちに向いているとは思わず、首を傾げた。  学校を出てすぐの所で、全員の通学路が別れる。そこまで全員が無言だった。 「氷室さん」  いきなり直人が友美を振り返った。 「明日、もしそれ以上星虫が巨大化していたら、おれ、引きずってでも病院へ連れていくぞ。いいね」  ぽかんとした友美を残し、直人は駆《か》け出した。  あわてて、その後を洋子が追う。  顔を見合わせた隆と正夫も、あたふたと立ち去り、あっという間に友美と寝太郎だけになってしまった。 「よくないわよ!」と、我に返った友美はもう姿も見えない直人に怒鳴《どな》った。 「人の星虫を、勝手に取らないでよねっ!」  まだ怒っている、友美だが、寝太郎は直人に感心していた。 「ほんとに、委員長のことが好きなんだな。あいつ」  友美の顔が朱《しゅ》に染まり、絶句した。 「な、なに急に馬鹿いってんのよ」 「好きなんだろ? 宮田は委員長のこと。カンがいい癖《くせ》に、気付かんかったか?」  寝太郎にそう言われると、なぜか、むっとしてきた。  とたんにさっきの秋緒の言葉、そして昨日の朝、寝太郎があわてて隠《かく》した写真の事が頭を過《よぎ》る。完璧《かんぺき》に機嫌《きげん》が悪くなった。 「……人の事はいいわ。寝太郎君は、吉田さんと上手《うま》くやっていく方法を考えるべきじゃないの? 年上だし、すごい人だし、大変だよ」  横目で見ながら、意地悪そうに言う友美に、寝太郎は唖然《あぜん》となった。 「なんの話だよ。おれとあいつが何だって?」 「とぼけんな! さっきの告白は、みんな聞いたんだから。彼女《かのじょ》、君のことを『大事な人』って言ったでしょ!」  今度は寝太郎が、口をパクパクさせる番だった。 「馬鹿言うなよな。そんな事あるわけないだろ」 「じゃあ、どうしてあの人、寝太郎君を大事な人って言い切ったのよ」  寝太郎は溜《た》め息をつき、 「おれを買いかぶってんだろ? 親父《おやじ》の息子《むすこ》だってことで」と、頭を掻《か》いた。 「何の話?」  問う友美に、寝太郎は首を振る。 「あのプロジェクトに、おれを入れようとしてんだ」  ぽかんと、友美は寝太郎の冴《さ》えない顔を見つめた。 「プロジェクトって、まさか、進化計画の事?」  ぶすっとして、うなずく。友美は爆笑した。 「とっ、とっ、とんでもない話ねっ! 寝太郎君が逃げる気持ち、分かる!」  確かに寝太郎は、あのおじさんの息子だが、秋緒は学校での姿を知らないに違いない。地球を救うような計画に、自分が参加出来るような人間でないことは、寝太郎も分かっていたわけだ。 「そこまで笑うこた、ないだろう」と、少し機嫌を悪くした寝太郎が、足を早める。  お腹《なか》が痛くなるほど笑っていた友美は、あわてて謝《あやま》り、後を追った。学校から、数十メートルは同じ方向だ。  早足で追いつき、横に並《なら》んだ。百六十センチある友美は女子の中でも低くはないが、寝太郎の顔は、少し見上げた所にある。  寝太郎は、まだ怒っているのか、じっと前をにらんだままだ。 『こうしてると、そう悪くもないよ』と、友美は勝手に寝太郎を採点しはじめていた。 『いつもこの位しゃんとして、髪《かみ》も切ればいい線行くかもね』  痩《や》せ気味で背も高く、髪と星虫で見えないが、少なくとも不快な顔ではない。性格はちょっと頑固《がんこ》だが、素朴《そぼく》で好感がもてた。それに、この身なりを見ているとすぐに忘れてしまうが、この少年は大金持ちの跡取《あとと》りなのだ。あの屋敷《やしき》のある竹林の他《ほか》にも、代わりに提供した土地を持っていたわけだから、資産はどの位あるのか、友美には想像もつかない。その点だけでも、百点つける人は多いだろう。 「何だよ、また」  いきなり寝太郎が振り向いた。 「顔に何かついてるか?」  寝太郎の星虫も真横が見える。友美は 「別に!」と、くすくす笑った。  その時、しばらくおとなしかった友美の星虫が、いきなり自己主張を再開した。  サイレンのような音が路上に轟《とどろ》き、ついで寝太郎の星虫の声が重なった。  約一分後におさまったものの、友美は再び現実に直面していた。  幸い、民家のガラスは割れなかったものの、驚いた人が転げるように中から飛び出し、通行人が耳を押さえてうずくまっていた。  二人は、大あわてで謝り、そして、逃げるようにその場を離《はな》れた。  この音をどうするか?  大問題だ…… 「それを、聞こうと思ってた。困るだろ、これじゃあ」  寝太郎は耳をこすりながら、星虫をにらんでいる。 「家だけじゃなく、近所にも迷惑かけるもんね。困るのは確か……」  友美も正直途方にくれていた。 「寝太郎君の方は、どうなの?」  寝太郎は、なぜか平然としている。いくら屋敷が広くても、この音では近所に響《ひび》き渡るはずなのに。高級住宅街だけに、騒音にはうるさいはずだ。 「おれは大丈夫、寝《ね》る時は蔵《くら》に籠《こ》もるしな。あそこなら窓も小さいし、壁《かべ》は三十センチ以上ある。音なんか漏《も》れない」  聞くなり友美の瞳《ひとみ》が輝《かがや》いた。 「そっか! じゃ問題ないんだ。泊《と》めてよ。しばらく!」  眉《まゆ》を寄せた寝太郎が、何を考えてるんだという顔で友美を見た。 「どうしたの?」 「……あのな、委員長。男一人のとこへ泊まりこむってのか?」  友美は首を傾げた。 「蔵は二つあるじゃない」 「まあ、そうだけど、ほんとに来る気か?」  その情けない顔を、友美がにらむ。 「何よ、そんなに私を泊《と》めたくないの!」 「お前、また早く起こす気だろ……」  友美は吹《ふ》き出した。 「わかった、遅刻《ちこく》しないぎりぎりまで寝てていいから。お願い、私星虫を助けたいの。このまま家に帰ると、無理やりにでも病院に連れていかれるわ。もしそうなったら、この子を半分食べてもらいますからね!」  やれやれと肩《かた》を落とした寝太郎は、渋々《しぶしぶ》うなずく。 「ありがとう」と、頭を下げた友美は、ほっとして寝太郎を見た。  しかし、よれよれの格好だ。一番綺麗なのがこれだから、仕方ないのだが…… 「でも、よくお母さんが、文句言わないわね」 「母さん? 家は、祖父《じい》さんとおれだけだ。気がつかんかったか?」  友美は、唖然とした。  確かに、寝太郎の屋敷の中で会った人は二人だけだが、あれだけ広いのだ。きっと何処《どこ》かにまだ誰《だれ》かいると思いこんでいた。 「母さんは、今アメリカだ。親父と離婚《りこん》して、ニューヨークで会社経営してる」  少し冷たい言い方で、寝太郎が言った。  そう、考えてみれば、寝太郎の祖父が話した『馬鹿』の物語の最後に、そんな話があったようにも思う。確か、馬鹿は家族にも見捨てられたとか……  しかし、それで寝太郎の不潔さが理解出来た。世話を焼いてくれる母がいなかった彼に、散髪やらアイロンをかけたワイシャツを期待する方が無理というものだ。  友美の中に眠《ねむ》っていた世話焼きの血が、再び熱く燃え始めていた。 「わかった! 今日から私が、寝太郎君のお母さん代わりになってあげる!」  友美は言い切った。  唖然として、言葉が見つからない寝太郎に畳《たた》みかける。 「こう見えても、掃除《そうじ》洗濯《せんたく》、なんだって母さんに仕込まれてるわ。料理は結構自信あるんだから。宇宙飛行士の勉強ばかりしてたんじゃないのよ!}  この勢いでは、とても寝てられそうもないと気付いた寝太郎は、頭を抱えた。 「けどな、両親が許してくれるか?」と、ようやく思いついて聞く。  しかし、彼女は動じなかった。 「許しがあればいいんじゃない」  簡単に言う友美に、墓穴を掘ったことを悟《さと》る寝太郎だった。 「病院って手もあるぞ」 「入院患者のいるとこで、こんな音を出せって?」 「なら、そうだ、高校の音楽室なら防音だぞ!」 「二重ガ・ラ・スのね」  もう何も思い浮かばん。寝太郎はガックリと首をたれた。 「そうだ! 来てくれる?」と、名案を思いついた友美が追い打ちをかける。 「来る?」  頭の中がわや[#「わや」に傍点]になってる寝太郎には、話の筋がつかめない。 「だって、母さんを説得するために、寝太郎君が来てくれた方が助かるもの。きっと学校からの連絡でヒステリー状態だろうし、そこへ私が寝太郎君の家にしばらく寝泊まりするなんて言ったら、それこそプッツンしちゃうわ。寝太郎君の星虫を見せれば、私のとそう変わらない大きさでもまだ頑張ってる人がいるって分かるし。迷惑とは思うけど、協力してくれるよね? 仲間なんだもの」  その訴《うった》えかけるような、脅迫《きょうはく》するような目に、寝太郎はすでに反抗《はんこう》する気力もなくしていた。 「さてと、そうと決まったら、こんな格好じゃ困るなあ……」  友美はジロジロと寝太郎を見た。  そして、自分の財布《さいふ》を出す。 「ね、散髪《さんぱつ》って、幾《いく》らぐらいなの?」  寝太郎は、首を振《ふ》る。もう、十年近く散髪には行ってない。 「おれに、散髪へ行けってか?」  その情けない顔に、友美はうなずく。 「その頭で、母さんに会わせるわけにいかないの。それこそ、一目で追い出されるから。元、婦警よ。合気道二段」  寝太郎は、はあっと溜め息つき、覚悟《かくご》を決めたようだ。 「わかった。けど、散髪くらいの金はある。自分で出すよ」 「服も買うのよ」 「百万ありゃ、足りるだろ?」  友美は絶句した。 「百万も持ち歩いてんの!?」 「手持ちは百円。けど、銀行に入ってるはずだ。こないだワークステーション買った残りが、その位あると思う」 「全く、金持ちのくせに、どうしてこんなに汚《きたな》くしてんのよ……」  呆《あき》れた友美は、パンッと寝太郎の背中を叩《たた》き、商店街に向かった。  氷室家の二階。その一室が友美の兄、幸雄の部屋だった。  今日は大学の講義もなく、(とはいえ、このところ星虫のおかげで自主休講ばかりだったが)予定のバイトも向こうからキャンセル。彼女とも明日がデートの約束《やくそく》だし、雨ともなれば家で星虫情報でも見てるより手がなかった。  もっともこれは次から次へと事態が急変するんで、全くあきがこない長時間映画のようなものだ。今日も星虫の出す破壊《はかい》音波の話題で世界はもちきりだった。星虫の正体に関する説も今や百家争鳴の状態。その中で地球|侵略《しんりゃく》説が有力になりつつあるようだ。これから一体どうなるのか、興味は尽《つ》きないところだが、実の妹がその渦中《かちゅう》にいる兄としては面白《おもしろ》がってばかりもいられなかった。  幸雄はテレビを見ながら溜め息ついた。教育委員会が星虫を剥《は》がす決定を下したようだが、あの友美がその決定を素直《すなお》に受けるとは思えない。きっと、まだつけてるだろう。すでに日本中の星虫の九九パーセント以上が取れていた。それがこの決定でどれだけ減るか。八千万を数え、ありふれていた星虫も、すでに稀少《きしょう》価値が出始めていた。それゆえに各テレビ局は星虫所持者探しを始めており、中には電話で情報を集めている番組さえ出てきている。他人事《ひとごと》だとこれほど絵になる面白い事件もないわけで、ワイドショーの格好の餌食《えじき》になりそうだった。どうやら政府と自治体、そして警察も所持者保護の名目で調査に入ったようだ。発表された星虫|巨大化《きょだいか》のデータから見ても、友美の星虫の巨大さが群を抜《ぬ》いている以上、このままではマスコミに発見されるのも時間の問題だろう。 「下手すりゃ、さらし者だぞ。困ったやつだよな……」  その時だ。別のチャンネルに変えようとリモコンを取った幸雄の部屋の中へ、いきなり母親が血相変えて飛び込《こ》んできた。 「友美が家出して、同棲《どうせい》するってぇ!?」  錯乱《さくらん》した母の話に、幸雄は心底たまげた。  母は、ふるふると首を振り、「そこまでは言ってない」と、訂正《ていせい》した。 「とにかく、友美が彼氏《かれし》を連れてきたわけだ。そいつが星虫をつけてる。そういうこと?」  母はうなずく。 「それで、その彼の所に防音設備があるから、しばらく御世話《おせわ》になりたいって話?」  やっと落ち着いてきた母がそうだと言い、ほっとした幸雄は立ち上がった。 「……とにかく、話を聞いてみようよ」  とにかく、男みたいな性格で心配していた妹が、初めて連れてきた男友達には違《ちが》いない。  兄として興味がないわけがなかった。  階下の応接間では、友美がつぶやいていた。 「敵は手強《てごわ》いなあ……」  まるで聞く耳持たぬという母だった。しかも兄の応援《おうえん》まで頼《たの》みにいっている。今や兄も完全に星虫|排除《はいじょ》派だから、応援は望めなかった。 「当たり前だ。大事な一人|娘《むすめ》をわけわからんやつの所へ、ほいほい送り出す親がいるわけない」  口調は普通《ふつう》だが、額の星虫が楽しげに蠢《うごめ》いていた。半分以上この事態を喜んでいるらしい。その寝太郎を横目で見る友美の頬《ほお》が、赤らんでいた。 『こんなの、ずるいよ』  どきどきする胸を押《お》さえ、友美は目の前のコーヒーカップを見つめた。  寝太郎の銀行口座から、とりあえずカードで十万円を引き出させ、まず洋服店で、ズボンとワイシャツを四着ずつ買い、その場で着替《きが》えさせた友美は、次に床屋《とこや》を探した。  しかしどこの床屋でも、二人の星虫を見るなり追い出され、気丈《きじょう》な美容室のおばさんを見つけるまでに、半時間かかった。シャンプーは無理だったが、カットし、タオルで顔を拭《ぬぐ》い、産毛《うぶげ》のような髭《ひげ》を剃《そ》り落としたおばさんは、出来上がった自分の仕事に、大満足の声を上げたのだ。  そして友美は、出てきた寝太郎の照れ臭《くさ》そうな顔に、驚《おどろ》きの目を向けた。  少し星虫が邪魔《じゃま》になっているが、初めて目の当たる場所に出てきた目は、意外にも、キリッと締《し》まった男性的なもので、優しい光を帯びていた。 『何だ。笑わないのか?』と、寝太郎は、不思議そうに友美を見返した。  それからずっと、友美の胸の鼓動《こどう》はゆっくり打たなくなっていた。  親子だから、当たり前なのかも知れないけれど、髪の毛を短く刈《か》り揃《そろ》えた寝太郎は、おじさんによく似ていた。その上、親類の凄《すご》い美人、秋緒にも、かなりそっくりなのだ。つまり、お世辞抜きで、ハンサムだと言うしかない。商店街を歩く女の子たちが、何人も振り返ったのは、星虫に驚いただけではなさそうだった…… 「委員長、さっきから変だぞ」 「なにがよ」と、友美は寝太郎に目をやらずに答える。 「寝太郎君こそ、喜んでるんじゃないの、母さんの味方みたいよ」  そんな事ないと、寝太郎が焦《あせ》った。コーヒーカップに手を伸《の》ばす。  寝太郎を、着飾《きかざ》らせたのが間違いだったのかと、友美は思った。この寝太郎は、変に格好艮すぎ、二枚目過ぎる。母が警戒するのも、当然かも知れなかった。 「でも、騒《さわ》ぎすぎよね。別に、結婚するって言ってるわけでもないのに」  カップを傾《かたむ》けていた寝太郎の気管に、熱いコーヒーが流れ込んだ。  母と幸雄が応接間に入ると、なぜか寝太郎がむせ込んでいる。  へんな奴《やつ》だなと眉をしかめた幸雄が、ようやく顔を上げた寝太郎に会釈《えしゃく》した。 「あれ?」  苦しんでいた寝太郎が、幸雄の顔を見て驚いている。 「兄と知り合い?」と、友美は尋《たず》ねた。  寝太郎は苦しそうにうなずく。  しかし、幸雄に見覚えはなかった。タレントのような、随分《ずいぶん》目立つ顔立ちだから、会っていれば覚えているはずだが…… 「このあいだ、コンピュータ、届けてもらった」  咳き込みながら、友美に説明する寝太郎を見て、幸雄の目が丸くなった。 「あ? この間の、あの、浮浪者《ふろうしゃ》みたいな……」  茫然《ぼうぜん》と指差す幸雄に、寝太郎は頭を下げた。 「ちょっと、母さん!」  幸雄は母の手を取り、ほとんど無理やり部屋からつれ出した。 「なによ、いきなり」  台所まで引っ張り込まれた母が怒《おこ》る。 「でも、どう、あの男の子。見かけが良すぎるわ。きっと、遊び人よ」  幸雄は、高校生で遊び人はないと思いながら、首を振った。 「しかし、あいつ相沢家の跡取りだぞ。この市でも有数の資産家の」  母の目がまん丸になっていた。警察署長の妻として市の名士の名くらいは覚えている。相沢家と言えば、昔この地方の代官。代々、変わり者が多いらしいが、市長も相沢の推薦《すいせん》なしには当選できないと噂《うわさ》されるほどの家柄《いえがら》だ。今の当主は、某《ぼう》国立大学の元学長としても、有名な人物である。 「……でも、なぜあなた、あの子の事知ってるの?」と、驚いた母が聞く。 「この間バイトで、あいつの家に最新型のワークステーション取付けに行ったんだ」  一千万円はするワークステーションを、個人で買うのも驚きだったが、その買った本人の姿にもたまげた。しかし、浮浪者のような格好だが、そのコンピュータの知識は、一緒《いっしょ》についてきていた本社の技術者もたじたじとなるほどで、幸雄はもう一度驚いたのだ。 「人は見かけじゃないって、本当ねえ」  その話に、母はすっかり感心してしまっていた。 「ま、だから、身元の方は確かは確かだな。けれど、やっぱり何とか二人を説得して、星虫を取らすべきだろうね」  ところが、当然賛成するものと思っていた母は、首を振った。じっと何やら考えこんでいる。 「そうね。でも、いくら友美でも、これ以上大きくなるようなら取るだろうし、頭ごなしにいうのも、かえって逆効果じゃないかしら」  幸雄は、「は?」と、大口を開けた。 「無理やり取ると、額に傷が残るわ。時々忘れるけれど、あの子も女の子よ。それだけは避《さ》けたいし、気が済むまでやらしてあげるのも、親心かもしれないわね」  そして、顔を真っ直ぐ幸雄に向ける。 「となれば、やっぱりご近所の手前、あの音は困るわ。相沢君の申し出は、こうなるとありがたい話よね?」  ぼけっとした幸雄に、「ねっ?」と、駄目押《だめお》しをする母だった。 「母さん!」  幸雄が怒鳴《どな》った。 「やっぱり、ただの高校生じゃなかったわね。母さん、一目見た時から、好感もったもの。彼なら、安心して、友美を預けられるわ」  幸雄は、二の句が継《つ》げなくなった。よくも言えるもんだと、呆れ返るばか。だ。遊び人だとけなしていたのは、ついさっきではないか。 「何考えてんだよ、まさか友美とあいつをくっつける気か? 財産目当てで」 「そんなつもりじゃないわ」と母は笑ったが、しれっと続けた。 「でも、財産はないよりあった方がいいわね。家柄も最高だし……」  幸雄は完全に頭にきた。 「おれはあんなのを弟にしたくない!」 「でも、友美は気に入ってるわ。こんな事今までにあった? あの子が顔や財産目当てでボーイフレンド作ると思う?」  それには、幸雄も首を振る。浮世離《うきよばな》れしている点でも、友美は人一倍だった。 「し、しかし友美はまだ未成年だ。一人であいつの所へやるなんて!」 「一人じゃ、行かせられないって言うのね?」  クスクス笑う母に、当然だと意気込む。 「じゃ決まり。幸雄も保護者として行ってくれるわね?」  そして母は付け足すように、 「明日用があったみたいだけど、自分で言った事は守りなさいよ」と、悪戯《いたずら》っぽく言った。 「……デートのこと、知ってたな」  どうやら母の作戦にまんまとはまってしまったらしい。幸雄は彼女《かのじょ》への言い訳の言葉を考えながら、応接間に向かう母の後にとぼとぼと続いた。  どうしたのだろうと待つ友美と寝太郎の元へ、母と兄が再び現れた。  さっきまでとは違い、まるで別人のように愛想《あいそ》のよくなった母は、友美に向かい、「じゃ、友美。御世話になりなさい」と笑った。 「でも、二人っきりにするわけにもいきませんから、この幸雄も一緒に泊《と》めていただきたいんですけど、どうでしょう?」  そう言われた寝太郎は、余りの変わりように目を白黒させていたが、もちろんかまわないと承知した。 「その方が助かります」  いかにもほっとしたその様子に、友美はなんだかムッとしていた。  どういう意味よと心で言った言葉に「友美と二人っきりは、嫌だったの?」と、不機嫌《ふきげん》そうな母の声が重なった。 「は? い、いえ、別にそんな事は……」  しどろもどろになる寝太郎の横で、友美は呆れて母を見つめた。  寝太郎が帰って一時間後。荷物を自転車に積んで出発した友美は、事の次第《しだい》を兄から聞きへ大笑いしていた。 「母さんも、財産には弱かったんだ」  途中《とちゅう》に寄ったショッピングモールで大量の食物を仕入れた二人は、話しながら相沢家へ向かっていた。  空はすでに天気になりつつあり、地面も大分と乾《かわ》いてきている。  幸雄は、前を走る友美に尋ねた。 「やっぱり友美には、金よりも夢か?」  そんなことないと、首を振る。 「お金は欲しいに決まってるよ」 「お前が?」 「うん。多ければ多いほどいい。十億円でも百億円でも。そうすれば夢《ゆめ》がかなうもの」  なるほどと、幸雄も笑う。  昨日の晩、友美は家族に、真剣《しんけん》に宇宙飛行士を目指すと宣言したのだ。  母は反対したが、幸雄はそれもいいかと思う。この妹は、どうやら自分よりも大物のようだった。案外、簡単に夢を叶《かな》えてしまうかもしれない。それに関しては、応援してやるつもりだったが、星虫については、もう潮時だった。 「宇宙飛行士ねえ。しかし、星虫をつけてると、その夢どころじゃなくなるかもしれない。今じゃそいつは、とても安全なもんに見えないからな」  買物をしていた時、星虫に集中した嫌悪《けんお》と驚きの目が、思い浮かぶ。  友美がモニターし続けているテレビでも、星虫は強制的に排除されつつあった。  世の中の全《すべ》てが敵に回ったようだ。今だけは、自分の夢よりもこの星虫を守るべきだろうと友美は思う。夢を捨てる気はないけれど、まだまだ我慢《がまん》できるのだから…… 「いらっしゃい」  相沢家の門の前で、氷室兄妹は硬直《こうちょく》していた。  てっきり寝太郎か、祖父が出てくるものと予想していた二人の前に現れたのは、なんと秋緒だ。  それも、白い割烹着《かっぽうぎ》を身につけ、頭には手ぬぐい。いかにも昔《むかし》の若奥《わかおく》さんという風情《ふぜい》で、幸雄などは完全に見惚《みと》れてしまっていた。 「おい、あいつ、婚約者《こんやくしゃ》いたのか?」と、うろたえ気味の幸雄がいた友美に小声で聞く。  驚きから醒《さ》めた友美は、その問いも耳に入らないかのように、肩《かた》をいからせて秋緒に詰《つ》め寄った。 「どうしてここにいるんですかっ!」  怒鳴る友美だが、秋緒は全く動じない。涼《すず》しげな顔に微笑《ほほえ》みさえ浮かべている。 「非常事態ですからね。一人にはしておけないわ。私は医師の教育も受けてますから、緊急《きんきゅう》事態にも対処できるの。ついでに家事を手伝ってあげてるけれど」  そして友美たちが下げてきたスーパーのビニール袋をちらりと見、軽く手を叩いた。 「忘れてた! 今料理の下ごしらえをしていたの。失礼するわね。広樹なら、庭木の世話をしてるはずよ」  いそいそと玄関《げんかん》に消える秋緒を、その美しさに茫然としている幸雄と完全に頭にきた友美が、見送った。 「おい」と、幸雄が下げてきたビニール袋を示す。 「どうする? これ」 「作るよっ! 料理でまであんな人に負けてたまるもんかっ!」  友美はそう言い捨てて、門を潜《くぐ》った。目指すは庭の寝太郎だ。  綺麗《きれい》に刈り込まれた芝生《しばふ》が、母家《おもや》と温室の間に広がっている。  遠景には数百年を経た数本の大木と雑木で出来た植え込みがあり、大きな苔《こけ》むした平石が芝生との境になっていた。  庭に入ってきた幸雄は、その素晴《すば》らしさに、思わず溜《た》め息をついていた。  しかし友美にはこの美しい光景も目に入らないようだ。星虫の力で寝太郎を探す。 「また木に登ってる!」  一瞬《いっしゅん》で発見した友美は、大木の上にいる寝太郎が、友美から隠《かく》れていると感じ、さらに頭に血が上った。  寝太郎は夏の台風で折れた枝《えだ》の治療《ちりょう》をしていたのだが、真っ直《す》ぐに庭を突《つ》っ切ってくる友美に気付き、木の上から手を振《ふ》った。 「どうして入れたのよっ! 星虫の敵を!」  開口一番に友美の口から出たのは、その一言だった。  慣れた軽い身のこなしで枝から降りてきた寝太郎は、友美の前に立った。 「あいつの事か?」  当然だとうなずく友美に、寝太郎はうつむいた。 「しょうがなかった。入れないと強硬|突破《とっぱ》して、監禁《かんきん》するらしいからな」  真面目《まじめ》にそう言う寝太郎に、 「嘘《うそ》よ、そんなことやれるもんか!」と、怒鳴る。 「やるんだ、あいつは。こうと決めたら絶対に。祖父《じい》さんも言い負かされて、今|寝込《ねこ》んでる。おれも、困ってんだから、怒るなよ」  そして、ふと気がついたように、まじまじと友美を見た。 「そういうところ、似てるな。あいつと……」 「にっ、似てないわよっ!!」  真っ赤になって怒る友美だったが、さすがに大人気ないと気付いてもいた。  大体、なぜこうも自分は腹を立てているのか? 秋緒の存在が気に入らないにしても、これじゃ、母と同じのヒステリーだ。 「着替《きが》えしたいんだけど!」  やけくそに言う友美へ、指差した。 「あの離れを使っていい。蔵《くら》の方は、まだ掃除《そうじ》しとらんから」 「どうもっ!」  友美は、どすどすと芝生を踏み締《し》め、立ち去った。 「なんで、あんなに怒るんだ?」  寝太郎がその場で首をひねっていると、声を出さずに笑っていた幸雄がやって来た。 「悪いね。友美のやつ、あの美女に頭来てるんだ」  思わず見返す寝太郎に、兄は手に下げた袋を持ち上げる。 「あの美人がやってたのは、友美がどうしてもやりたかった事だったんだな」  その辺の心理は、寝太郎にはよく分からない。 「ま、とにかく、よろしく。厄介《やっかい》になるだろうけどね」  軽く頭を下げた幸雄に、寝太郎もあわてて礼を返す。 「いえ。こっちこそ、助かります。そうだ、お兄さんちょっと」  寝太郎は、庭の端《はし》に二つ建ち並《なら》ぶ蔵の片一方へ案内した。 「なるほど、ここなら音は漏《も》れないな」  この蔵に入るのは、二度目だった。博物館のような中に、驚《おどろ》いた覚えがある。 「左側は片付けようないんで、右に泊まって貰《もら》います。今、用があるんは左ですが」  寝太郎は重そうな引き戸を開き、真っ暗な蔵の中へ幸雄を案内した。  暗闇《くらやみ》の中で、寝太郎の手が電灯のスイッチを入れる。  寝太郎は、蔵の一番奥、幸雄が設置に来たワークステーションの前に立ち、起動スイッチを入れた。第五世代コンピュータ、かつてのスーパーコンピュータに匹敵《ひってき》する機械のモニターに光が宿る。 「ちょっと、これ見て下さい」  寝太郎は、素早くいくつかのキーを叩いた。  リアルなグラフィックがたちまちモニターに現れる。 「星虫だ」と、幸雄が呻《うめ》いた。  それは巨大化《きょだいか》した星虫のコンピュータグラフィックだった。リアルな星虫が回転を始める。  その裏面のグロテスクな文様も、正確に再現されていた。  続いて寝太郎がキーを叩くと、画面に映し出された星虫の胴体《どうたい》部分から、黒光りする甲殻《こうかく》が取れた映像に変わる。そこにはビーズで出来たような線が、五つの目の問を複雑に結んでいるのが映し出されていた。 「大したもんだ……」  幸雄の通う理工学部でも、最近はコンピュータが必須《ひっす》である。この映像の凄《すご》さは理解出来た。 「君が作ったのか?」  寝太郎はとんでもないと、首を振る。 「会ったでしょ。あの吉田さんが、おれを脅《おど》かすのに持ってきてくれたんです。それより、ここを見て下さい」  画面に矢印が現れ、それがビーズで出来た網《あみ》の一点を示す。そこには、ビーズの結び目のような固まりが出来ていた。 「これが、星虫の弱点です」  真面目な顔で、寝太郎は幸雄を見た。 「弱点?」 「この線は、いわば神経らしい。これが、その神経の中心で、ここを破壊《はかい》すれば星虫は死ぬってことです。外皮より委員長のだと一・五センチ下。場所は第一眼、一番下の目とその上の丸い目とのちょうど中間点。一番下の目も急所らしいけど、だんだん硬度が上がってて、多分委員長のは11を超《こ》えてる。ダイヤでも無理だ。死ねばもろいらしいんですが、生きてる間はレーザーでも溶《と》けないってことです。高温に強いのは、甲殻も同じだけど」  丸四日以上も星虫のニュースを見続けていた幸雄にも、知らない事ばかりだった。 「どこのデータなんだ……」 「主にアメリカの国連宇宙開発機構から。国防総省のも混じってるって言ってたな」  幸雄がまた唖然《あぜん》としている間に、寝太郎は横の机の上にあった道具箱《どうぐばこ》を取った。  スチール製のその箱を開き、刃先《はきき》にダイヤが付いた電動ドリルを取り出す。そのドリルには、刃の先から五センチの所に針金を溶接《ようせつ》した手製の歯止めがついていた。 「万一委員長、妹さんの星虫が巨大化しすぎるようなら、その場所をこいつで穴を開けてもらえませんか。おれがやるつもりだったけど、おれもどうなるかわからんので」  寝太郎の言葉に、幸雄はその顔を見返した。 「君は妹みたいに信じてないわけだ。やっぱり」  納得《なっとく》の幸雄だったが、寝太郎は首を振る。 「信じてますよ。真剣《しんけん》に」 「じゃ、なぜこんな物騒《ぶっそう》な物を用意してるんだ?」  腕《うで》を組んだ寝太郎は、両目の間の星虫を見た。 「委員長だけは、絶対、何があっても死んでもらいたくないからかな……おれ、昔、絶対に死ぬわけないと思ってた人が、死ぬの見てますから。つまり、こいつは保険だな」  そして、「とにかく委員長が取りたくても取れなくなったら、迷わずこいつで星虫を殺してもらえますか」と、頭を下げた。  とたん! 額の星虫がわめく。  寝太郎がその昔に耐《た》えながら、星虫の胴体を爪《つめ》で掻《か》いてやる。ガラスを割られる前に、なんとか鳴き止《や》んだ。 「ここを掻いてやると、喜ぶんです」  顔を上げた幸雄が見ると、星虫はその巨大な手足をバタバタさせていた。喜んでいるのか苦しんでいるのか、判断に苦しむほどの勢いだ。  思わず吹き出しそうなほど滑稽《こっけい》なのだが、これは、星虫の知能が急激《きゅうげき》に発達しはじめている証《あかし》かもしれないと、幸雄は思い至った。大体、寝太郎が星虫を殺してくれと頼《たの》んだ直後のこれだ。放《ほう》っておけば、この先人間以上に知能が発達する可能性もあるだろう。とすれば、星虫はまさに地球|侵略《しんりゃく》の宇宙人ということになる。 「わかった。喜んでその役、引き受けるよ」  背筋に寒気を感じた幸雄の顔は、この上なく真剣になっていた。 「それと、この下には、替《か》え刃《ば》と手回しドリルが入ってます。停電にでもなったら、こいつを使って下さい」  道具箱を指差す寝太郎に、幸雄は驚《おどろ》きの目を向ける。完全に寝太郎を見直していた。確かに見かけとは違った少年のようだ。この蔵書と、ワークステーション。机の上に散らばる書類を見ても、彼《かれ》がコンピュータを使いこなしているのが推測できる。それに、友美に対する彼の態度も好感が持てた。星虫に関する考え方は友美に影響《えいきょう》されているが、現実的な対処も忘れていない。  こいつなら、妹に合うかも知れないと、幸雄は思うようになってきていた。 『ま、問題は、彼が友美を気に入ってるかどうかだな』  我《わ》が妹ながら、女としての出来は今一つ。彼が友美の事を星虫を守る仲間としか思っていない可能性の方が強いように思えた。  二人が蔵を出ると、友美が寝太郎を探していた。  寝太郎にも、そろそろ他人の感情が読み取れるようになってきている。顔つきは普段《ふだん》通りでも、友美がまだ怒《おこ》っているのは分かっていた。 「寝太郎君。あのさ、宮田君たちも呼んじゃいけないかな」 「宮田?」  直人の名を聞いたとたんに、寝太郎の機嫌も悪くなる。 「どうしてだ。あいつの星虫は、まだ鳴いてないだろ」  何気なさの仮面が落ち、友美の眉《まゆ》がつり上がった。 「明日の朝には鳴くかもしれないじゃない! 吉田さんは入れたくせに、仲間を呼ばないのっ! そんなんじゃ、おじさんの後なんか、継《つ》げっこない!」 「友美」と、道具箱を抱《かか》えた幸雄が止める。 「失礼だろう。俺《おれ》たちは居候《いそうろう》なんだぞ、その態度は何だ?」  一瞬に友美の怒気《どき》が消えた。兄の言う通りだ。いつの間にか、自分は寝太郎に要求ばかりしていると、不意に気がついていた。 「ごめんなさい。私、どうかしてる……」  しゅんとなってしまった友美に、寝太郎は呼んでもいいと告げた。 「けど、呼ぶなら、みんな呼べよ。宮田だけ呼ぶな」  友美はきょとんとして、見返していた。 「……もともとそのつもりだけど」  寝太郎の顔が熱くなる。 「で、電話は母家《おもや》の土間先にあるから!」  ちょっと首をかしげながら、友美は母家に走った。  二人の様子に苦笑しているのは、幸雄である。  彼には、二人の間が分かってきていた。宮田とは、この間の日曜に友美を迎《むか》えにきた二枚目だろう。寝太郎はあれが来ると思って機嫌を悪くしたってわけだ。それに、あの友美の寝太郎に対する依頼心《いらいしん》はどうだ。幸雄や父にもあれほど無条件で頼《たよ》る子ではなかったはずである。自立心は人一倍だ。友美は、相手が寝太郎だからこそ、勝手な要求をしてしまう自分に気付いていない。そして、あの超《ちょう》の字のつく美女に対する嫉妬《しっと》にも…… 「可愛《かわい》いね、全く君らは」  幸雄は声を出して笑い、寝太郎はぽかんとその楽しげな顔を見ていた。 「おーい、酒だ酒っ!」  酔《よ》っぱらいの声が、座敷《ざしき》から飛んでくる。  大声で返事した友美は、熱燗《あつかん》にした一ダースの銚子《ちょうし》を盆《ぼん》にのせた。  友美の横では秋緒と友美の母が料理を作り、洋子が空いた酒瓶《さかびん》をさげてくる。 「完全に宴会場《えんかいじょう》ね」と、洋子が笑う。 「なんで、こうなるのよ」  友美は太い梁《はり》の走る天井《てんじょう》を見上げた。  数時間前に、まず現れたのは四人の星虫所有者たち。彼らはしかし、一ダースものマスコミを引き連れていた。強硬《きょうこう》に取材を拒否《きょひ》する寝太郎の祖父のおかげで、一旦《いったん》彼らは引き下がったが、夕方近くなって、各局のディレクター数名が酒を持って現れた。  その時玄関ででっくわしたのが、高校から来た教師たちだ。担任と副担任と、校長。その計六名が屋敷に入った直後、今度は友美の両親が現れた。  父は制服のままで、三名の刑事と、医師を連れていた。所持者保護と、星虫の管理が目的だったが、もちろん父としての心配が一番だったろう。  そのまた直後に、なんと市長が現れた。土地を売って貰《もら》った事へのお礼らしいが、寝太郎の話だと、結構よく来るらしい。数名の秘書たちを連れてきていた。  寝太郎の祖父は酒屋に電話し、友人の酒屋の主人ごと、大量の酒の配達を頼む。  酒屋の主人は、祖父の友人の大学教授たちを配達車に乗せて、すぐにやって来た。  そして、当然のように大宴会が始まったのだ。 「二十五人もいる」  銚子を持って座敷に入った友美は、大騒《おおさわ》ぎの人々を見回して呆《あき》れた。  寝太郎は兄と父に挟《はさ》まれて、しきりに酒を勧められている。警察署長のすることではない。その祖父は訳のわからん舞《まい》を踊《おど》っているし、市長までそれに妙《みょう》な歌を合わせていた。友美たちを診《み》にきたはずの医師が、ディレクターの一人と目の前で泥酔《でいすい》している。直人たちまで、赤い顔して刑事《けいじ》たちと大騒ぎだ。  完全に酔っぱらいの集団だった。  いらつく友美の星虫を見ていたディレクターが、いきなり「耳ふさげっ! コップ守れっ!」と怒鳴《どな》った。  とたんに、星虫が鳴き始めた。  あわてて寝太郎に教えてもらった通り、星虫の胴を掻《か》いてやる。  今度はビール瓶二本で済んだが、全員がその友美の星虫を指差し大笑いだ。  確かに、顔の上ででかい足をバタバタさせる星虫は、やたらに可笑《おか》しいのだが、友美は気分が悪い。 「うっ、上手《うま》くなりましたな!」  と、星虫が鳴くのを予測した男に、隣《となり》の市長秘書が、感心する。 「いや、鳴く前に、あの触角《しょっかく》の震《ふる》え方が変わるんですよっ!」  また爆笑《ばくしょう》が起こり、友美は荒《あら》っぽく盆を置くと、台所に帰った。 「人を酒の肴《さかな》にするんだから!」  頭に来た友美は料理を手伝いながら母と洋子にぼやいていたが、洗い物をしていた秋緒がその場を離《はな》れ、土間の脇《わき》に腰《こし》を下ろしたのに気付いた。少し顔色が悪い。 「タフね」  ちょっと心配になって振《ふ》り向いた友美に、秋緒が感心したように言う。 「それだけが取り柄《え》ですから!」  顔を元に戻《もど》し、機嫌《きげん》悪そうに友美が答えると、秋緒はクスッと笑った。 「私、あなたと喧嘩《けんか》するつもりはないのよ」  それは友美もそうだった。 「話があるんだけど……」  秋緒が口を開いたとき、また座敷から友美を呼ぶ兄の声がした。  仕方なく友美が走った後、秋緒は少し苦しそうに胸を押《お》さえ、溜《た》め息ついた。 「困った二人だな……」  座敷に戻った友美は、兄から寝太郎を探せと言われ、面食《めんく》らった。 「どこ行ったの?」 「便所行ったまま、帰ってこん。つぶれてるかも知れんから、見てきてくれ」  まったく酔っぱらいがと、ブツブツ言いながら友美は座敷を出た。  しかしトイレには誰《だれ》もいず、思いついて庭に出てみた。  いつの間にか完全に夜になっていた。午後から時間がワープしたみたいだ。  星虫が見せる降るような星空に、満月が浮《う》かんでいる。明るい月の光が庭を白々と染めているにもかかわらず、星のきらめきは少しも減じない。天《あま》の川は、すでにぼんやりとした雲ではなく、その気になれば一つ一つの星までも見分けられるようになっていた。 「やっぱ、星を見るのは夜に限るなあ」と、当たり前の事をつぶやいた友美の視界に、異物が映っていた。  庭の真ん中、芝生《しばふ》の外れ。巨大な平石の方を頭にして、誰か寝《ね》ころんでいる。 「いたいた」  友美はそこまで駆《か》けて行き、酔い潰《つぶ》れているのかと、その顔を覗《のぞ》き込《こ》んだ。 「大丈夫《だいじょうぶ》? 未成年のくせにお酒なんか飲むから」  寝太郎は、「大丈夫、いい気持ちだ」と、笑った。 「月を見てた。星虫で。綺麗《きれい》だ……」  夢《ゆめ》でも見てるような寝太郎の声に、友美も真似《まね》したくなった。 「私も!」  まだ地面が生乾《なまがわ》きだと言う寝太郎の横へ、平然と友美は寝っころがる。 「わあ!」  本当だった。星虫で月を見るのは別に今日が初めてじゃないが、こんなに綺麗な月は初めてだ。ほとんど真上にかかる満月を、友美はじっと見つめ続けた。 「目を閉じた方が、よく見えるようになってるぞ」  寝太郎の言葉に従うと、肉眼を閉じた一瞬《いっしゅん》だけ星空が闇《やみ》に変わったが、まるでテレビのチャンネルを変えるように、星虫のみの知覚による世界が広がった。  それは、魚眼レンズのように、天の全方位をあまねくカバーしていた。足元の岩と林も、頭上の屋敷も、そして真横にいる寝太郎の顔でさえ、見えている。  そして、背中に感じる草の感触と、柔らかな雨上がりの大気に混じる微かな地球の声。まるで世界に、宇宙に抱かれているかのようだった。  数分間、友美は身動《みじろ》ぎもせずに、夢のような感覚を楽しんでいた。 「星虫、静かだな」  突然《とつぜん》寝太郎が言い、友美も気付いた。  二人の星虫は、緩《ゆる》やかに触角を震わせているだけだ。ガサリともしない。 「星空の下が嬉《うれ》しいみたい。私たちみたく」  友美は星虫を撫《な》でてやった。 「この子らが来た所だから、かな?」  寝太郎はうなずき、 「でも、それならおれたちも同じかもな」と、つぶやいた。 「この星虫|騒動《そうどう》が始まってから、ほんとにいろいろ考えさせられてなあ。ゆっくり寝てないくらいだ」  あれでと、吹き出しそうになったが、それは友美も同感だった。  星虫が降ってきて以来、振り回され続けだ。  しかし考えてみれば、この庭にまた来れたのも、星虫のおかげかも知れなかった。恨《うら》みに思う気にはなれない。 「おれ今、人間は地球にとって何かなって考えてたんだ」  ふーんと、友美は感心した。寝太郎にしては、ずいぶん哲学的だ。 「何って、何だと思うの?」 「地球の一部」  友美は、プッと吹き出した。ま、こんなものだろう。 「人間って、特別なもんじゃないんだよな。地球って星に生まれて育ってきた生物の、一番最後の方に現れた猿《さる》の一種だろ? それに生命って何から出来てるかってえと、地球の物質だもんな、結局」 「当たり前よ」と、クスクス笑い続ける友美だった。 「うん、だから、この大地も空も山も海も、そしておれたちも、おんなじ物質で出来てるってことだろ? おれ、馬鹿《ばか》だからそんなもんに感動してたんだ。おれたちは地球と同じ物質で出来た、ミニ地球だってな」  そう言って寝太郎も笑ったが、友美の顔からは笑いが消えていた。  驚いていた。その通りだ。単純すぎて気付かなかったが、そうなのだ。 「私が、地球? ちっちゃい地球なわけか……」  寝太郎は笑いながら、 「で、さ。地球は宇宙のチリから出来たもんだろ? だから、おれたちは宇宙の一部って考えてもいい。そうすれば、人間が宇宙に憧《あこが》れるのも、なんか説明出来そうだって思ってたんだ」と、友美を見た。 「……宇宙に帰りたいってこと? 星虫と同じに」  楽しげにうなずく。 「そこから、もう一つ考えてた。これは、もっと馬鹿馬鹿しいけど、聞きたいか?」  友美は半身を持ちあげて、「うん!」と答えた。 「星虫が、地球の叫《さけ》びを聞き始めてから、前よりもっときつい言い方で、人間は地球の癌《がん》だっていうやつが増えたけど、どう思う?」  寝太郎も体を起こして尋《たず》ねる。 「どうって、当たり前だと思う。地球は人間の増殖《ぞうしょく》のおかげで死にかけてるんだもの」  その事は、もう常識のはずだ。 「そうだよな。おれもそう思う。けど、癌てなんだ? もともと自分の細胞《さいぼう》だろ? それが回りとの協調を忘れ、他の細胞を殺してでも自分勝手に増殖する病気だよな」 「そうだよ。だから人間も同じじゃない」  環境《かんきょう》問題は、すべて癌の症状に対比することが可能だと話してくれたのは、寝太郎の父だった。増え続ける人口。その人間が出す汚染《おせん》物質という毒素で、回りの生物を殺している点も、全く同じだと。 「でも、元は普通の細胞で、体の一部分だったわけだろ? 胃とか、肺とかの。人間の場合は、何だと思う?」  地球の癌としての人間。その前は地球の一部分だとすれば…… 「そうか。感覚器官だったのかもしれないね」と、友美は思いついた。 「感覚器官?」 「そう。目とか、耳とか。だってさ、人間でなけりゃ、顕微鏡も望遠鏡も使えないわけじゃない。機械を利用して宇宙を知ろうとしてるでしょ?」  寝太郎がびっくりしていた。 「へえ、おれは目くらいしか考えつかなかった。さすがに委員長だ」  そして、真面目《まじめ》な顔で友美に言った。 「だから、今の地球は目の癌なんだ。眼癌《がんがん》」  それがシャレだとは、一瞬気がつかなかった。馬鹿馬鹿しさに、寝転がる。  一人で笑う寝太郎に呆れて尋ねた。 「それだけ? 考えてた事って」  確かに下らない話だ。期待した自分が間違《まちが》っていた。 「……いや、まだ続きがある」  やれやれという顔で、友美は寝太郎を見る。しかし次の問いは、結構ユニークだった。 「委員長、癌の気持ちって考えたことあるか?」 「癌の気持ち?」  思わず聞き返す友美に、寝太郎は続けた。 「……癌細胞ってのは、人間にたとえれば革命家じゃないか? 今までの世界の秩序《ちつじょ》に満足できん元気な連中。そいつらが自分らの新しい世界を作ろうと立ち上がったんだ」 「細胞の市民革命?」と、友美は吹《ふ》き出す。 「じゃ、もしその革命が上手く行けば、癌から新しい人間が出来るわけ?」 「そういうこと」と、寝太郎も笑った。  友美の笑い声が、段々と小さくなる。 「……それが、地球の癌が人間って事につながるの?」  人間に出来た癌が、上手く育てばもう一人の人間に育つとしたら、地球の癌である人間も、もう一つの地球に育つ? 「ああ。何千億もの人間が、どんどん増えながら、地球を食っていくんだ。食って食って、地球の核まで喰《く》い尽《つ》くして、はっと気がつくと、地球はでっかい目玉になってんだ」 「プッ!」  友美は吹き出し、今度は寝太郎も混じっての大爆笑になった。  ここまで下らないオチがあるとは思わなかった。 「けっ傑作《けっさく》だろ?」と言う寝太郎に、友美は返事も出来ない。  しかし笑い転げる友美の心に、何かが閃《ひらめ》いていた。 「待って……でも、目玉でなくてもいいんだ。体全部、そのままの地球でも……」  いきなり真顔になった友美に、寝太郎は笑いを飲み込んだ。  友美の背筋に、痺《しび》れるような、不思議な電気のようなものが走る。鳥肌《とりはだ》が立っていた。  いきなり起き上がって、寝太郎に言う。 「そうよ。おじさんが作ろうとした、スペースコロニー。考えてみて。あのでっかいドラム缶《かん》の内側に作るのは、何?」  言われて、寝太郎にも友美の思いつきが見えてきた。 「そう! この町や自然を、そのまま持ち込むの。言い方を変えたら、人間の手で地球を作るってことだ!」  たとえどんなに小さくとも、それは地球と同じ環境を持つ、小さな星に違いない。人間という地球の癌が、それを作ろうとしているのだ。 「地球の複製か……」と、寝太郎はつぶやいた。  単なる冗談《じょうだん》が、思いがけない方向に発展してきた。 「けどそれ、癌ていうのと、ちょっと違うよな。同じ環境を別に作るんなら……」 「種よ!」と、友美が叫んだ。 「花は枯《か》れて種を残すわ。地球も種を作ってるのかもしれない……」  死にかけている地球。そして、宇宙へ出たい人間。その意味が、友美にはわかったように思えた。地球は、宇笛に自分の種を蒔《ま》きたいのだ! 「人間は、地球の種なんだ!」  友美の直観は、その考えが正しいと認めていた。それ以外には有り得なかった。  それでなければ、どうして自分はこれほど宇宙に憧れるのか、説明つかない。本当に、宇宙へ行けるなら、死んでもいいと思えるこの心を理解できない! 『私は地球の一部。地球の種なんだ……』  その感情が頂点を極《きわ》めた時、ゴウンッと視界が広がっていた。  地面が、草が、庭が、大地が消滅《しょうめつ》していた。三百六十度、すべてが宇宙だった。  その真っ只中に、何一つの支えもなく浮かんでいたのだ。  さすがの友美も、思わず悲鳴を上げ、隣の寝太郎にしがみついていた。  寝太郎も驚《おどろ》いていた。彼《かれ》もまた、友美と同時に地球が消滅するのを見たのだ。 「……草の感触はまだある。透《す》けてるだけだ」  寝太郎は動悸《どうき》を静めながら言った。  確かにそうだ。手は草を感じ、頬《ほお》は風を、鼻は土の臭《にお》いを嗅《か》いでいた。  どうやら友美の興奮が、星虫に伝染したらしい。そして星虫はついにニュートリノ、地球をも貫く宇宙線を見ることまで可能になったようだ。  二人の星虫は、直径六千四百キロの地球を、ガラスのように透視《とうし》していた。 「すごい……」  太陽が、斜め下方にあった。水星と金星が、その大きな輝《かがや》きのすぐ脇をめぐる。  しかし、それ以外の宇宙は恐《おそ》ろしいほどに暗く、果てしなく、冷たかった。  感動とも恐怖《きょうふ》ともつかない感情が、友美の全身を駆け巡《めぐ》っていた。 「全く、次から次へと、ネタが尽きないもんだ」  興奮気味の寝太郎の声が、友美を我に返らせた。 「この子、でも、どうしてこんなに宇宙を見たがるんだろ……」 「星虫も、宇宙に帰りたいんだろ?」  友美は、でも、と言った。 「……怖《こわ》いよ、今私。こんなに宇宙が怖いって想像もしなかった。地球の見えない宇宙だからかな? まるで死の世界」  生物にとっては致命《ちめい》的な環境だ。酸素はゼロに等しく、温度もマイナス二七〇度、あたりは放射線に満ち満ちている。星虫は、そんな世界に行きたいのか?  答えは、決まっていた。  行きたい! たとえ友美がそのために死のうとも、意思は変わらないだろう。感情も友美には見える。その『色』は、宇宙の只中で喜びに輝いていた。  そして友美も、その本能的な恐怖にもかかわらず、ここに来たいと思っていた。  星虫の思いは、友美の思いと重なっていたのだ…… 「この子が宇宙に帰れるなら……」  宇宙を見つめながら、考え続けた。  世界の情勢では、自分が宇宙へ行くのは無理かもしれない。そして、星虫を帰す事は、命《いのち》懸《が》けになるという予感がし始めていた。  思えば、星虫がやって来た最初の朝から、漠然《ばくぜん》とした不安を感じていたように思える。それでもいいのかという問いかけが、聞こえるようだった。  死にたくはない。けれど、この子を殺してまで生き続けたくもなかった。宇宙へ行きたい気持ちは、友美も星虫も同じなのだ。まして、この子は自分が育て上げたのだから。 「……殺せないわ、私」  哀《かな》しみとも、いとおしさともつかない複雑な感情が、友美の胸に湧《わ》き上がっていた。  しかし、それは初めて味わう感情ではなかった。どこかで、いや、今も感じている! 「地球の声だ!」  そうだ。これは地球の叫びと呼ばれるものと、よく似ていた。ほとんど同じと言ってもいい。  とたんに地球の声が、あの森の中で聞いているかのように、心に満ちた。  友美は自分の勘《かん》が当たっていたことを知った。これは、叫びでも、嘆《なげ》きでも、まして、悲鳴でもない! その声は地球の人間への想《おも》いだった。地球は、人間を愛しており、自分が死んでもいいくらいに大事に思っている。自分の事は構わないから、お前たちの道を行きなさいというメッセージなのだ。だからこそ、人はいたたまれなくなり、自分の命をかけてでも、武器を取り、緑を、地球を守ろうとしたのだ……  いつしか友美の目に涙《なみだ》があふれていた。 「私、わかった」  突然|硬直《こうちょく》した友美を、寝太郎が心配そうに見ていた。 「何がだ?」 「この子は、私たちなんだ。そして、私たちがこの地球なの」  彼には、なにがなんだか理解できない。  なんとか友美が自分の思いをまとめられたのは、それから数分後だった。 「星虫の正体がわかったの」  言い切る友美に、寝太郎は目をむいた。まだ世界中の科学者が研究中の星虫だ、そう簡単にわかるはずがないが…… 「もちろん、星虫がどこから、どうして来たかは分からない。でも、星虫をここまで育てたのは、私よね」  それは間違いない。 「委員長があきらめてりゃ、二センチで死んでるな」 「じゃ、星虫と人間とは、同じ立場じゃない?」  なるほど。人間を地球と見なせば、それは言える。 「おれたちも、ここまで地球に育てられたしな。生物が宇宙から来たって説もあるし」  そして、気がついた。 「だとすれば、さっき委員長が言ってた人間=感覚器官説も、これに合うな」  地球という生物は、人間という感覚細胞を持つことによって、科学という新しい目と耳を得たわけだ。今もその感度は上がる一方。星虫の能力とは、まさにそれだ。  寝太郎の言葉に力を得た友美は、意気込《いさご》んで続けた。 「星虫は、今、人間が地球にしているように、私たちにも悪いことをし始めてる。これって偶然《ぐうぜん》? こんなにも宇宙に憧れてる星虫よ。寝太郎君にも星虫の感情が読めるでしょ? この子たちは、私たち人間と同じなの! 全て同じなのよ!」  そして、地球の気持ちもわかったと、友美はつぶやいた。 「……地球は死んでもいいって思ってる。私たち人間のためなら……」  そのすわった目に、寝太郎はぞっとするものを感じていた。 「地球はこんなになっても私たちを拒絶《きょぜつ》しなかった。人間は、星虫を拒絶するべきじゃなかったんだ。私たちだけでも、星虫を宇宙に帰さなくっちゃ……」  起き上がっていた友美の体が、ふらついた。 「大丈夫《だいじょうぶ》か?」  思わず友美の手を取ると、その手はやけに冷たく、寝太郎はさらに不安になってきた。  友美はうなずき、「ちょっと興奮したみたい」と、舌を出した。 「中へ行こう」  寝太郎の言葉に、脱力状態になった友美は、素直《すなお》に従った。  宇宙の只中で立ち上がり、友美の手を引き上げようとした時だ。 「何してんだ!?」  宇宙の果てから、直人の声がした。  驚いた二人が、なんとか星虫の影響下《えいきょうか》から抜《ぬ》け出してみると、そこには、十人以上の人垣《ひとがき》が出来ていた。  その目は、寝太郎と友美の間に集まっている。  しっかりと握《にぎ》り合った手と手。  二人はまるで焼けた鉄の棒にでも触《さわ》っていたかのように、あわてて手を放した。  照れた友美が、母家《おもや》に向かって駆《か》け出し、それを洋子が追った。  直人と隆に小突《こづ》かれる寝太郎の目に、幸雄と秋緒が映る。  寝太郎は真面目な顔になり、二人に話があると、蔵《くら》の裏手に引っ張って行った。 「委員長の言うのは、面白《おもしろ》いと思う。けど、問題はあいつがその自分の説を信じ切ってるってことだ」  寝太郎は二人に今までの友美の言葉をなるたけ正確に語り、意見を聞いた。 「不思議な子ね」  秋緒は考え込んだ。 「あるいは、彼女《かのじょ》が本質を突いてる可能性もあるわ。地球の叫びにせよ、星虫の正体にせよ。しかし、仮説は仮説よ。非常にユニークなね。科学的というよりは、原始的。まるで神憑《かみがか》りした巫女《みこ》さんだわ」  幸雄が、ドキッとした顔をした。 「……家の先祖は、それですよ」  えっ? という顔を、二人がする。  母方の家系だが、鹿児島で代々そういう事を生業《なりわい》としていたと幸雄は語る。 「馬鹿馬鹿しい……とにかく、広樹の言う通り、妹さんが危険ね。思い込みが相当|激《はげ》しい子みたいだし」  幸雄も寝太郎もそれには異論がない。 「たとえ万が一、彼女の説が当たっていたにせよ、星虫を育て上げるために、命をかけるつもりになったのは、間違いないわ。これ以上|巨大化《きょだいか》するなら、たとえ押《お》さえつけてでも、取るべきね」  その事にも、異論はない。 「広樹、まだわがままをいうつもり? あなたは、すぐにも取るべきよ」  それには異論があった。 「取る時は、委員長と一緒《いっしょ》にしてもらう」  頑固《がんこ》にそう言い、何度目か分からない秋緒の溜《た》め息を受けた。  友美が心配になった幸雄が、その場から立ち去った後、秋緒は寝太郎に言った。 「でも、ありがとう。初めてね、あなたから話しかけてくれたのは」  その嬉《うれ》しそうな秋緒の言葉に、「……しょうがないだろ。非常事態なんだ」と、寝太郎は背を向けた。 「委員長を守るためだ。あんたは、やっぱ頭いいからな」  秋緒は、クスクス笑っていたが、 「そのあんたも止《や》めてくれないかな。せめて名前で呼んでくれない?」と、呼びかける。  寝太郎は、その秋緒から逃《に》げるように足を早めていた。 「……考えとく」  そう言って、寝太郎は蔵に入った。  秋緒はやれやれと頭を振り、そして、なぜか懐《なつ》かしそうに、月明かりの庭に座《すわ》る。  五日目の夜は、まだ始まったばかりだった。 [#改ページ]  六 日 目  星虫は、絶滅《ぜつめつ》しつつあった。  ヨーロッパとアメリカを合わせても、その総数は千を遥《はる》かに下回っているようだ。情報が不足気味のアジア、アフリカにも、それ以上残っているとは思えない。巨大化《きょだいか》した星虫の所持者が悪魔《あくま》として重傷を負わされたケースが数件報告されており、先進国よりも激《はげ》しい排斥《はいせき》が進んでいると見た方がいいだろう。全世界合わせても、確実に二千以下に激減しているはずだ。  足を含《ふく》まぬ体長が二十センチを超《こ》え、声を出し始めた星虫は、さらに数が少なかった。巨大化した星虫の拒絶《きょぜつ》率が八〇パーセントだったことから、全世界でも残って数十だろう。  友美とは違《ちが》い、各国の星虫委員会は、星虫の大きさと発育レベルが、その宿主の知的ランクと密接な関連があることを確信しつつあった。柔軟《じゅうなん》で、優《すぐ》れた理解力を持ち、深い思考能力を有する者でなければ、声を出すまでに星虫を育てられないらしい。無論例外はあるが、水準以上の何らかの教育を受け、群を抜《ぬ》いて優秀な頭脳の持ち主にしか巨大化が不可能なのも、どうやら確かなようだ。  世界は、突然《とつぜん》の巨大化という驚《おどろ》きから醒《さ》め、星虫の貴重さに気付き始めていた。  生物資源としての価値だけではなく、その感覚の増幅システムも今のところ不明だ。  もし星虫の能力が解明でき、機械化が可能なら、視力|聴力《ちょうりょく》障害者に、どれほど福音《ふくいん》となるか分からない。三十億の星虫では、危なければ取ればいいが、それが二千ともなると、話は変わってくる。まだ絶滅させるわけにはいかなかった。  そして、培養《ばいよう》が不可能である以上、巨大化した星虫はさらに貴重だった。  日本では、星虫委員会が一人、そして、政府関連の研究室が一人を押《お》さえていたが、その星虫は寝太郎のものよりも二回り小さい。まして友美の星虫は、ひょっとすると現存する世界最大の星虫の可能性が出ていた。  今世界の目が、日本のある町の一角に建つ相沢|邸《てい》に向かおうとしている。  学者たちも、政府も、そしてマスコミも、夜が明けるのを待ちかねていた。  星虫が降りてきてから、六日目の朝が白々と明けてきていた。  日の光が、蔵《くら》の天井《てんじょう》にある小さな天窓から差し込み、友美はやれやれと目を開けた。  もう朝だ……  星空からこの蔵へ入ったとたんに星虫が鳴き始め、以後、全員|寝《ね》るどころじゃなかった。  星虫所持者の六人の他《ほか》、秋緒と友美の父と兄。医師と刑事《けいじ》が二人、そしてテレビディレクター三人が泊《と》まってくれていたが、五分おきぐらいに鳴きわめく二体の星虫のおかげで、完全に疲《つか》れ切ってしまった。  しかし、そんな状況《じょうきょう》でも、大人たちは星虫を取れとは言わなくなっていた。  テレビを見続ける友美には、今や星虫が少なくなり過ぎたので、保護すべきだという気運が高まっているせいだと分かっていた。自分らは危ないからと星虫を取っておいて勝手だとは思うが、文句はない。  一晩中、何かに興奮していた星虫だったが、それが小さく、優しく、まるで秋のコオロギのような声になったのは、夜明け少し前だったろうか。  これから何日こういう状態が続くかわからないからと、友美の父が今のうちに一|眠《ねむ》りしろと所持者たちに言い、あかり(寝太郎の家にあった古い提灯《ちょうちん》。蛍光灯《けいこうとう》はとっくに割られている)を消した。  それから一時間もたってないだろう。  増感された視覚には、小さな天窓の隙間からもれる細い光でさえ、眩《まぶ》しく感じられる。枕《まくら》が高すぎて苦しく、寝返りを打とうとした友美の横で、途轍《とてつ》もない叫《さけ》び声が爆発《ばくはつ》した。 「キャ——————ッ!!」  まるで頭を丸太でぶん殴《なぐ》られたようなショックだった。  星虫の鳴き方ではない。洋子の声だ。  飛び起きた友美の横で、洋子が半身を起き上がらせ、顔を押さえている。  視力を増幅させた蔵の中は、一気に昼の明るさになっていた。  何か黒い物が洋子の鼻から上を覆《おお》い隠《かく》している。それを必死に剥《は》がそうとしてもがいていたのだ。 「助けてっ! 誰《だれ》かっ! 目が見えないっ!」  全員が目を覚ましたが、暗闇《くらやみ》で大人たちは何も見えず、ただおろおろしているばかり。  他の男子所持者たちが寝ていた衝立《ついたて》代わりの長持ちの陰からも、悲鳴が上がる。 「所持者全員を外へ出せっ!」  友美の父の声で、ようやく大人たちが目的を見つけて動いた。友美は洋子の手を取り、抱《かか》え上げるようにして、蔵の出口を目指す。  叫び声が上がった。  振り返ると、黒い物でほとんど口まで覆われた直人がいた。どうやら、星虫の胴《どう》の部分、それも肌《はだ》と密着するラバー部分が異常に成長を始めているらしい。もう自分の意思では拒絶不可能に違いない。  友美は思わず自分の星虫を見ようとした。いや目と目の間にぶら下がっている星虫の頭なら、嫌でも見えるはずだった。しかし、今朝は何もなし。星虫の目で見てる感覚はないのだから、これは不思議だった。それに、昨日まで相当に重かった星虫が、今朝はまるで軽いのだ。  秋緒が開いた戸から、まず洋子を抱えた友美が飛び出した。  その友美を、秋緒が驚愕《きょうがく》の顔で見据《みす》える。 「……友美、あなた……」  秋緒がこれほど我を忘れ、感情を露《あらわ》にするのに友美は驚いたが、洋子の心配が先だ。  陽光の元で、洋子の顔は、ほとんど星虫に覆われつつあった。黒いぶよぶよするゴム状の部分が、今も増殖《ぞうしょく》を続けている。もう鼻も塞《ふさ》がれていた。このままでは、窒息《ちっそく》は免《まぬが》れないと、友美にも分かる。 「洋子! 拒絶するの、早く!」  思わず友美はそう叫んでいた。  続いて、蔵の奥《おく》にいた男たちが、まず直人を抱えて転がり出てきた。  驚きの声と、声にならない叫びとが、早朝の庭にこだました。 「友美かっ!?」  秋緒と同じ驚愕の表情の父と兄が、倒《たお》れる直人よりも友美を見て、恐怖《きょうふ》に近い声を張り上げた。  その顔と声が、友美にわけの分からない不安をかきたたせる。  巨大化する星虫をつけた隆を連れ出した刑事が、後ろを振り向き悲鳴を上げた。  隆たちの後から出てきたのは、まさに怪物《かいぶつ》だった。  つり上がった二つの大きな赤い目。真っ青な長い舌を出した口。そして、両目の真ん中には、一つ目|小僧《こぞう》のような丸い目がついている。真っ黒な顔は、直径一メートル近いだろう。頭のてっぺんが禿《はげ》上《あ》がり、紫色《むらさきいろ》に光っている。その上、顔のあちこちが、ブヨブヨブルブルと蠢《うごめ》いているのだ。  しかし、その怪物が着ているシャツとジャージには見覚えがあった…… 「寝太郎君?」  するとその怪物からも、同様の驚きの声が、友美に届いた。 「委員長か?」  まったくくぐもったところのない、明瞭《めいりょう》な寝太郎の声だった。  友美は息を飲んだ。  手を顔の前に上げる。そして、顔に触《ふ》れようとしたが、手が止まった。  顔の三十センチほど前で、手は温かいものに触れていた。しかし、目には何も映らない。 「……透《す》けてるんだ」  怪物の正体は、星虫だった。  赤い目も、舌も、禿頭も、昨日までの胴、頭、腹に違いない。足は全《すべ》てヘルメット状に、頭を取り巻くベルトに変化していた。そして、ラバー部分が首を含む頭全体を覆い尽《つ》くしたのだ。各部分の全てが、昨日のさらに三倍以上になっているに違いない。  しかし、自分はまだ生きているし、呼吸にも支障は出ていない。あれほど重かったのも、感じない位に軽くなっている。 「じゃ、洋子、大丈夫《だいじょうぶ》よ! 心配しなくても!」  友美はそう洋子に言ったが、洋子は首を振るばかりだ。 「大丈夫じゃない! 委員長、テレビ見ろ! 日本でも五人死んでるぞ!」  その寝太郎の言葉に、全員が息を飲んでいた。  あわてて友美がテレビをキャッチすると、もう大騒《おおさわ》ぎになっている。  アメリカでも死者が確認《かくにん》されていた。いくら星虫が貴重であっても、人命には代えられない。すぐに医者へ走れと、アナウンサーは怒鳴《どな》るように告げていた。  一瞬《いっしゅん》の硬直《こうちょく》の後、まず寝太郎が動き、幸雄が続いた。  電源のコードを引っ張り道具箱《どうぐばこ》を抱えた二人が蔵から飛び出し、一番成長の激しい直人に向かう。 「押さえてくれっ!」  幸雄が叫び、二人の刑事がそれに従った。ディレクターの一人はその手伝いをしたが、他の二人は、携帯《けいたい》電話を取りに走る。救急車を呼びに行ったのだが、近くで待機している報道車に連絡を入れるに違いなかった。友美の父も携帯電話で現状を報告している。  電動ドリルの甲高《かんだか》い音が、友美の耳に届いた。  直人の口は、ほとんど星虫で隠れかけている。四人がかりで押さえつけているのに、跳《は》ね飛ばされそうな程《ほど》のもがきようだ。 「いくぞっ!」  頭を押さえつけた幸雄は、寝太郎に教えられた通りに、丸い目と頭の間にドリルを立てた。予想よりも固い。表皮の上を刃《は》が滑《すべ》る。やり直し、さらに力を込《こ》めた。  ドリルが止まりそうなほどの抵抗《ていこう》があった後、突然すっと刃が中へ吸い込まれた。 「ギィィィィィィィィィィ……」  初めて直人の星虫が鳴いた。  黒いブヨブヨの増殖は止まり、押さえていた幸雄の手の下で、星虫はズルッと滑り落ちた。  荒《あら》い息をつく直人は、完全に失神状態だ。医師があわてて診察《しんさつ》にかかる。  あっという間に汗《あせ》まみれとなった幸雄と寝太郎は、今度は洋子の星虫に取りかかった。  その凄《すさ》まじい様子を見ていた正夫の星虫が、ポロリと落ちた。彼《かれ》のものだけは、巨大化の兆《きざ》しがまだなかったおかげだろう。隆は気絶していた。  数分後、四人の星虫が庭に落ちていた。 「友美。次はお前だ」  汗を拭《ぬぐ》った幸雄が、友美に迫《せま》った。  怪物のような友美の頭が振れる。 「私、大丈夫よ。息も出来るし、ほら、体も大丈夫」  半袖《はんそで》半パンのトレーニングウェア姿の怪物が、不気味に飛び跳ねた。 「駄目《だめ》だ、もう取りなさい!」  青ざめた父が命令口調で言い、カメラが来るまで持たそうとするディレクターを目で制した。 「そうね。もう限界だわ。呼吸は何とか出来るようだけど、食事をどうするの?」  秋緒もそう迫ってくる。 「寝太郎君……」  友美は思わず寝太郎に助けを求めた。  彼女《かのじょ》と同じ怪物顔が、横に揺《ゆ》れる。 「取った方がいい」  その言葉に、友美はカッと頭に血が上った。 「私を信じるって、言い切ったの誰?」  寝太郎は、平然とうなずく。 「信じてる。ゆうべの委員長の言葉を信じるから、取ってほしいって言ってんだ」 「どうして!?」 「言っただろ。星虫は人間で、自分は地球の関係だって。たとえ自分は死んでも、星虫を天に帰せるなら、いいって。おれは委員長と星虫なら、委員長に生きててほしい。その星虫は、責任持って、おれが食ってやるから」  友美は後ずさった。 「でも、死ぬとは限らない。この子はかしこいわ。私を殺さずに、宇宙へ帰れるかもしれないもの」 「もう限界だ」と、今度ばかりは寝太郎も折れなかった。 「宮田を見たろ。あんな死に方を、させたくないぞ」 「この子は大丈夫よ!」  まだそう言い張る友美に、秋緒が諭《さと》した。 「成長が早すぎるわ。この調子だと、明日にはあなたの体は星虫に取り込まれるわよ。昨日私が言った星虫=寄生虫説、覚えてるわね。それが現実になってきている。星虫を躾《しつ》ける時間はもうないわ。テレビを見てるんでしょう。何人死んだの?」  見ていた。すでに世界中で百名近い人々の命が失われているらしい。 「でも! でも!」  孤立《こりつ》無援とは、この事だった。  増感した友美の耳に、パトカーと救急車のサイレンが聞こえてきていた。門の辺りには、マスコミが到着《とうちゃく》したようだ。そして頭上に、低空飛行するヘリコプターの爆音。その音と、見ているテレビの空撮《くうさつ》画面とが一致《いっち》していた。ディレクターの報告を受けたテレビ局の報道ヘリだ。 「馬鹿《ばか》っ!」  追い詰《つ》められた友美は、やけくそになって思いっきり怒鳴った。  まるで手榴弾《しゅりゅうだん》が爆発したかのように、その場の全員が吹《ふ》っ飛んだ。  怒鳴り声を、星虫が何十倍にも増幅したのだ。  友美は一瞬|呆気《あっけ》にとられたが、これはチャンスだった。  ダッと逃げ出した友美を、耳を押さえていた誰も追えない。下手すれば、鼓膜《こまく》が破れている可能性があった。  最初に立ち直ったのは、幸雄だった。  もう三十秒から離《はな》されていたが、足には自信がある。幸雄は手回しドリルを取ると、ふらつきながら駆《か》け出した。  門を開いた友美は、その報道陣《ほうどうじん》の多さに呆《あき》れた。  三十人はいる。しかし、余りにもいきなり友美が飛び出したので、誰一人カメラを向ける暇《ひま》もなかった。  それどころか、間近に見た化け物顔に、腰《こし》を抜《ぬ》かして道を開けた程だ。  友美は、その間を悠然《ゆうぜん》と駆け抜け、朝の町に出た。  何が起きたか分からない彼らから、一瞬ののち怒号とも歓声ともつかない声が上がり、何十人もが後を追って走り始めた。  そこへ来たのが、パトカーと白バイ。サイレンを鳴らしながら彼らを追い抜き、その後ろから幸雄が来る。  友美は、いきなり狭《せま》い路地に入った。  追い込んでいたパトカーと白バイが急停車し、喜び勇んだ報道陣が路地に突入。しかし、友美の足は早かった。  数分後、再び通りに出た友美を追っかけ続けているのは、カメラマン二人と、マイク片手のレポーター三人、そして手ぶらのアシスタントディレクターが四人。だが、いずれもすでにガタガタだった。  視界の隅《すみ》で、この様子を実況しているテレビが映っている。遥かに遠い友美の後ろ姿が、まるで大地震《だいじしん》の最中のようにブレまくっていた。それに息も絶え絶えのレポーターの声が重なる。 『あ、余りにも早過ぎます。私は、もう、限界、待て、こら、畜生《ちくしょう》!』  走りながら友美は吹き出していた。  何だか、体がやけに軽く感じられる。足も宙を舞《ま》うように回転していた。しかも、いくら走っても、呼吸が苦しくならない。ただでも足には自信のある友美だが、今朝なら誰にも負けないと思える。  星虫が頭全体を覆ったせいか、その気になれば、真後ろでも見る事が出来るようになっていた。離れる一方の後続の中から、二つの影《かげ》がダッシュしてくるのがわかる。  幸雄と、もう一人は友美と同じ怪物だ。寝太郎以外には考えられない。  友美はスピードを上げた。 「だ、駄目だっ!」  スピードアップを知った幸雄は、ついに弱音を吐《は》いた。 「な、何で、あんなに全力|疾走《しっそう》を、やれるんだっ!」  その横を走る寝太郎は、息も切らさずに、「どうやら、この星虫が酸素を補給してくれてるみたいだ」と、感心している。 「頼《たの》む!」  幸雄はバトンを渡《わた》すように、ドリルを寝太郎に託《たく》した。 「分かりました」  寝太郎は受け取り、さらにスピードを上げた。 「早いじゃない」  前を行く友美は、その寝太郎のダッシュに驚《おどろ》いた。  この間秋緒に追われていた時に見せた素早《すばや》さは、見間違《みまちが》いではなかったようだ。  朝の町の中を、大追跡《だいついせき》が始まっていた。  追うのは寝太郎とマスコミ、警察プラス、朝のニュースを見て、自分も友美を追っかけようと表に飛び出した野次馬。その数は、あっという間に百ではきかなくなっていた。 「なんで、こうなんの?」  行く先行く先で、まるで先回りするかのように、人々が群がっている。  大抵は友美の姿を見て、歓声と、驚きの声を上げているだけだったが、中には捕《つか》まえようとタックルしてくる馬鹿もいて、たまったもんではない。 「ヘリコプターのせいか……」  頭上には、すでに四機のヘリコプターが乱れ飛んでいた。  しかも、すぐ後ろまで寝太郎の化け物顔が迫っている。  まったくもう、と心で愚痴《ぐち》った友美は、アーケードのある中央商店街に突《つ》っ込んでいった。  町でも一番古い商店街には、昔《むかし》ながらの店が多い。  今朝も、魚市場から仕入れたばかりの魚介《ぎょかい》類を店先に並《なら》べていた魚屋のおっちゃんは、前から凄《すご》い勢いで走ってくる二体の化け物に、肝《きも》を冷やした。 「ごめんねっ!」  前を走る化け物が、いきなり鰯《いわし》を入れた魚箱を引っ繰り返した。百|匹《ぴき》近い鰯とクラッシュアイスが、路上にぶちまかれる。 「おっとととととととっ!」  後ろから追ってきた化け物が、それに足を取られ、転び、滑った。そして、そのまま、店を開けていた豆腐《とうふ》屋に狙《ねら》ったように突入《とつにゅう》する。  甲高いおばさんの悲鳴が上がり、豆腐を切る金板を振《ふ》り回した店主が、飛び出た怪物の後ろから訳の分からない言葉でわめく。 「すっすいませんっ!」  頭(というよりは星虫だが)を抱《かか》えて寝太郎は謝《あやま》るが、怪物に逆上した親父《おやじ》には通じない。板で頭をどつかれそうになり、あわてて逃げ出した。  その間に、友美は数百メートルの距離《きょり》を稼《かせ》いでいた。  クスクス笑っている。星虫のおかげでその寝太郎の間抜けな様子は丸見えだった。  この隙《すき》にヘリコプターもまこうと、脇道《わきみち》に入る。  ここで、星虫の新たな力に、友美は気付いていた。テレビ画面の上に寝太郎の様子が映っているのだ。家やビルを透視《とうし》し、寝太郎をレーダーのように捕《と》らえ続けているらしい。 「へえっ」と、驚いた友美だったが、地球が透視出来るのだから、そう不思議でもないかもしれない。それよりも…… 「同じ事が、多分、寝太郎君の星虫も出来るよね」  思わず、冷汗が吹き出した。つまり、どれだけまいても、意味がないわけだ。 「これ、根くらべになるなあ」  それも、追っかけてるのは寝太郎ばかりではない。下手すれば機動隊まで出てきそうな雲行きだった。  大通りに出た姿は、あっという間に、ヘリコプターのカメラに映し出されている。また、中学生くらいの男子が、友美を集団で追っかけてきた。その後ろには寝太郎!  やはり、逃げきるのは無理のようだ。 「あれしかないか」  友美は心を決め、高校へ向かった。  校舎の屋上、高さ三メートルのフェンスの上に、友美は登っていた。 「それ以上近づいたら、飛び下りるからねっ!」  迫る寝太郎にそう怒鳴り、飛び下りる真似《まね》をした。  寝太郎は困ったように星虫を掻《か》く。気持ちいいのか、星虫の体が震《ふる》えた。  友美には、もうこの手、自分の命をかけての脅迫《きょうはく》しか残っていない。頭上には六機に増えたヘリがホバリングしていたし、次々と、よくもこれだけあると思えるほどのパトカーや白バイが四方から集結しつつあった。校庭には、すでに数百人の野次馬や報道関係者が集まっている。 「星虫同士は、つながってるみたいだな」  寝太郎は、そう友美に言った。 「星虫だけは、仲良しみたいだね」  皮肉っぽく友美は答え、星虫の中であっかんべをした。  どうやら星虫が互《たが》いの存在に気付き、何らかの通信を交わしているのは確かのようだ。もう、どう隠《かく》れようが寝太郎を見つける自信がある。言い換《か》えれば、自分も絶対に見つかるという事だ。 「逃げられんぞ」と、寝太郎は駄目を押《お》した。 「裏切り者!」  友美は、さらに体をフェンスの外に出した。 「目が見えない? 息が出来ない? 星虫が寝太郎君に何か悪いことしてる?」  脂太郎は動じなかった。 「他《ほか》の星虫は、もう二百人近く殺してる。見てるだろ? おれたちのだけが、例外とは思えん」 「例外のまま、上手《うま》くいくかもしれないじゃない!」 「いかないかも知れない」 「まだ早いって!」 「そう言ってる間に、手遅《ておく》れになるぞ」  寝太郎には取りつく島がなかった。しかも言ってることは、正論だ。友美は段々と絶望的になってきた。これで秋緒でも現れた日には…… 「この子は、星虫は、宇宙に帰りたいだけなの。それは、私、確信もって言える。所持者を殺すつもりはなかった。ただ、成長したかっただけ」  その言葉を聞き、寝太郎は待ってましたとばかりに尋《たず》ねた。 「どうやって?」 「えっ?」と、友美は聞き返す。 「どうやって、星虫は宇宙に帰るんだよ。ロケットどころか、羽さえない星虫が?」  それは、間抜けだが全然考えてなかった。  星虫の意思は、絶対に宇宙へ帰ろうとしている。それは確かだが、実際問題として寝太郎の言う事は的を射ていた。  ぐっと詰まった友美の前に、追い打ちをかけるように、美しい姿が現れた。  秋緒だ。他に、警官と教師たちが次々と現れる。 「考えなさい!」  秋緒は、強い意思を込めた視線で、友美を射抜くように見た。 「星虫は、人間に何をくれた? 目の悪い人には目を、耳の悪い人には耳を、そして、あなたや広樹には、宇宙を見せてくれたんでしょう? あなたの宇宙への憧《あこが》れに、星虫はつけ込んだのよ。そしてそこまで成長した。なんのため? あなたに分からないはずがないわ。宇宙を昨日見たんでしょう? 暗く、冷たい宇宙を。地球がどれだけ生き物にとって素晴らしい場所かも、実感したんでしょう? やっとの思いで地球にたどりついた星虫が、どうしてまた宇宙に出ていく必要があるの? この星で、子孫を増やそうとしていると考えた方が、理に叶《かな》っていない?」  友美の心は揺れていた。  星虫が秋緒の言う通りに、地球から出ていくつもりがないというのは、理屈《りくつ》である。昨日|垣間見《かいまみ》た宇宙は、確かに冷たく、恐《おそ》ろしい世界だった。しかし、星虫はその恐ろしい世界へ行きたがっている。それも猛烈《もうれつ》にだ。友美はそれを信じたいが、同時に寝太郎の言った『どうやって?』という言葉が、頭の中に響《ひび》いていた。  いくら星虫にその情熱があっても、能力が伴《ともな》わないなら、友美と同じである。 『似たもの同士なのかな……』  たとえ命をかけても、星虫に宇宙へ帰る能力がないのなら、自分は無駄死《むだじ》にだった。  やっぱり、そんな死に方はしたくない。  その友美の心を読んだかのように、秋緒は近づいてきた。 「わかったのね。そこから降りてきて、そして、広樹を解放してあげて」 「寝太郎君はもう仲間じゃないわ。勝手にすればいいじゃない」  落ち込《こ》んできた友美は、ふてくされたようにそう言った。 「おれは、委員長が取るまでは、取らん。自分でそう決めてんだ」  ぼそっと寝太郎が言い、友美は少し感動した。 「取るのね!」  秋緒が強く聞く。  友美は、しかし、ゆっくりと首を振った。 「寝太郎君、取ってもいいよ。でも、私はここでもう少し頑張《がんば》る。だって、だって星虫は飛べるかも知れないわ。もう少し成長すれば、羽ぐらい、ロケットぐらい生えるよ! 宇宙を飛んできた生物なんだよ、星虫は! 私だって、私の未来を信じたいもの。だから、星虫が宇宙へ行けるって、信じる!」  それが、宇宙飛行士を夢《ゆめ》見る自分自身を星虫に重ねての言葉だと、寝太郎にはわかった。 「どうしても取るって言うなら、私、やっぱり飛び下りるから!」  友美はフェンスの上で仁王立《におうだ》ちになって秋緒を見下ろした。  その時だ。 「友美っ! この馬鹿娘《ばかむすめ》!!」  いきなり現れた友美の母が、屋上を突進してきた。  この思いがけない母の出現に、友美は思わず後ずさった。  しかし、一歩下がった足は、空《くう》を蹴《け》る。こうなれば、飛行士目指して鍛《きた》え上げたバランス感覚も、意味をなさなかった。 「うわっ……」  そう言った時には、体はフェンスの裏側を落ちていた。  見守っていた人々の間から、悲鳴が上がる。  その瞬間《しゅんかん》、寝太郎だけは友美の頭頂にある巨大《きょだい》な目が、紫色《むらさきいろ》に輝《かがや》くのを見た。  悲鳴が中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に止まっていた。  そして、友美の体も…… 「あれっ?」と、友美は言い、抱えていた頭から手を放した。彼女《かのじょ》の体は、頭を下にし、フェンスの中程《なかほど》に浮《う》かんでいた。何の支えもなしにだ。頭上から、柔《やわ》らかな紫色の光が差しているのが見える。くるんと半回転した時、全身美しい紫の輝きに包まれているのがわかった。  瞬間だった。 『ヒュンッ!』と、軽い風を切る音がし、友美の姿が消えていたのだ。 「きゃああぁぁぁぁぁぁ……」  長く尾を引きながら消えていく悲鳴が皆を正気に返らせた時には、すでにその体は空を舞うヘリコプターの間を抜け、遥《はる》か南へ遠ざかっていた。 「たったっ大変だーっ!」  人々が騒《さわ》ぎ、友美の母はフェンスの金網《かなあみ》にしがみついて娘の名を呼ぶが、後の祭り。  ドンッという衝撃波《しょうげきは》が町を揺《ゆ》るがし、さらにスピードアップした友美の姿は、発達しつつある入道雲の中に溶《と》け込んでいった。 「……なんてスピード? 超音速《ちょうおんそく》を出してる」  秋緒が驚愕《きょうがく》の面《おも》もちで、寝太郎を振り返った。 「とても信じられないけれど、あれは、反重力場推進……」  言いかけて、その口が止まる。 「おい、そんなお前!」と、寝太郎は頭の星虫を押さえていた。その頭頂の巨大な目が、友美と同じように紫の光を放ち始めている。  今日はまったく存在感のなかった星虫が、今の友美の飛翔《ひしょう》を見て、やたらに興奮しはじめていた。 「広樹っ!」  秋緒が寝太郎の手を取ろうと近寄った時には、遅《おそ》かった。 『ヒュンツ!』 「どわああぁぁぁぁぁぁぁ……」  くる回りながら、寝太郎は友美と同じ方角へ吹《ふ》っ飛んでいく。 茫然《ぼうぜん》とそれを見送る一同が声を取り戻《もど》した時には、寝太郎の姿も雲海の彼方《かなた》だった。  ドカンという音が体全体を包み、一瞬にして校舎が小さくなる。  音速を超《こ》えたのだと分かったが、その認識《にんしき》は恐怖《きょうふ》を強めただけだ。  星虫が出した超音速による衝撃波で、ビルの窓ガラスにひびが入る。友美はその上空を、ライフル弾《だん》のように横回転しながらすっ飛んで行った。 「きゃああああああああああああ!!」  友美は一段と大きな悲鳴を上げた。  グルグル回る視界の先に、工場地帯があった。高い高い煙突群《えんとつぐん》が、恐ろしい勢いで迫《せま》る。まともだった。その一本の赤白縞《あかしろじま》が、真っ正面だ! 『当たる!』と、自分の死を覚悟《かくご》したが、目を閉じることもできない。いや、とっくに閉じているのだが、星虫が見せてしまうのだ。  星虫は、その瞬間に飛行コースを直角に変え、急上昇《きゅうじょうしょう》に移った。  目の前二十センチの所を下へ流れる煙突のアップを見据《みす》えて、なぜ自分が気を失わないのかが不思議だった。  いや、麻痺《まひ》したような頭の中で、心の一部がこの状況《じょうきょう》をやたらに楽しんでさえいる。我ながら、わけのわからんやつだ。こんなに恐ろしい目にあったのは、生まれて初めてだというのに……  と、何千メートルも上昇を続けていた星虫は、再び急降下に入った。というよりは、飛ぶのを止《や》めたのだ。  ふわりと体が浮いたと思ったら、真っ逆様に落ち始めたのだからたまらない。  友美はまた悲鳴を上げ、ゆっくりと迫る箱庭《はこにわ》のような下界を見た。  星虫は、まだ自分の力のコントロールが出来ていないのだ。しっかりしてと、涙《なみだ》をにじませて怒鳴《どな》る。  しかし星虫は答えず、地上が、町が、ビルが、加速度的に大きく近づく。気が遠くなるような恐怖の中に、また歓喜とすら呼べる感情が湧《わ》き上がっていた。 「変よっ!」と、涙を流しながら叫《さけ》んだ。自分は死にかけているのに、どうして嬉《うれ》しいはずがある。狂《くる》いかけているのか?  風を切る音、落ちる先はよりによって、固い道路だとわかった。 「もう駄目っ!」  今度は地上十センチの所を掠《かす》めた。  街路樹の葉が舞《ま》い、路上に小さな竜巻《たつまき》を作って、再び友美の体は天空高く舞い上がる。  放心状態の心の中で、何かが狂喜乱舞《きょうきらんぶ》していた。 「変だ……」  力なく言った友美は、突然に気付いた。これが自分の感情ではありえない以上。 「星虫だ、この子が喜んでんだ!」  星虫は平行飛行に移っていた。またグルグルと横回転が始まる。 「この子、飛行能力をコントロール出来ないんじゃない! 楽しんでたんだ」  もちろん、友美に危害を加えるつもりはない。その証拠《しょうこ》に、間一髪《かんいっぱつ》障害物を避《さ》けてるし、超音速で飛んでいるにもかかわらず、そよ風ほどの風も、大した加速度も感じていない。  この星虫は楽しんでいるのだ。小さな子供が新しい玩具《おもちゃ》で遊ぶように、夢中《むちゅう》になって! そう、星虫はまだ子供だった。その溢《あふ》れかえる喜びの感情が、友美の中へ入り込んでいたのだ。 「じゃ、逆も言えるかな?」  そう思いついた。心底恐怖を感じた時、星虫は敏感《びんかん》に反応し、あわててコースを変えるようだ。そういった感情は、星虫にも通じていて、しかも一方通行ではないのかも知れない。  大発見だった。ということは、星虫と自分の心が、じかに繋《つな》がっているということだ。  細い細いコードかもしれないが、太くすることくらいは出来るかも知れない。 「でも、どうすればいい?」  友美はぐるぐる回されながら、腕《うで》を組んで考えた。すでに下は海だ。港と海に浮かんだ大量の木材が目に映る。  その、東南アジアから来たかも知れない木々の死骸《しがい》を見ていると、この縁を守るために命をかけたおじさんの事が心を過《よぎ》った。気がつくと地球の声が聞こえている。その声は、すでに心の一部分になっていた。昨夜の直観は、やはり正しいのだと思う。人間は地球の種、その一部分なのだ。地球の声は、今や友美の思いでもあった。 「そうか、同じかも知れない」  友美が地球の声を理解できたのは、感情と同調し、受け入れたからだ。今もその感情はつながっている。とすれば、星虫とだって、同じ事が出来てもいい。地球と友美の関係は、友美と星虫の関係と同じのはずだから。 「つまり、同じ感情を持てばいいって事!」  星虫は今、我を忘れるほどに飛べることを喜んでいる。  友美はクスクス笑った。友達が楽しんでいるとき、自分だけが怖《こわ》がっていては、心が通い合うわけがない。 「一緒《いっしょ》に飛ぶことを楽しめばいいんだ!」  友美はうなずき、それを実行し、そして、出来た。  人がなんと言おうが、自分のカンを信じ、星虫を心から信頼《しんらい》していた友美だからこそ、可能だったことだ。 「きゃ————っほうっ!」  星虫が上空を飛行する旅客機を発見し、喜んだ。その感情に同調して叫ぶ。  彼女の体は急上昇を開始、時速八百キロでオーストラリアを目指すジャンボ機に、あっというまに追いついていた。  友美は驚《おどろ》いていた。感情の同調は呆気《あっけ》なさすぎるくらい簡単だったのだ。  もともと、空を飛ぶことには、宇宙を飛ぶことの次に憧れていたし、唯一《ゆいいつ》心配だった星虫の飛行能力にも、もはや疑問はない。大体、星虫は自分が育てたものなのだ。環状の構造も似ているのかもしれなかった。  友美は、間近に見る巨大な飛行機に、星虫以上の興奮を覚え始めていた。  この馬鹿でかい機械を見ることで、ようやく自分と星虫がしている事の物凄《ものすご》さに、気がつき始めたのだ。  飛行機にも乗らず、こうしてジェット機と平行して飛んでいる。しかもこの猛スピード、高高度でありながら、寒くも息苦しくもない。見えない壁《かべ》が、全身を取り巻いているようだ。  その星虫の予想を遥かに超《こ》えた力に、ワクワクしてきていた。 「見てよ、お馬鹿さんたち!」と、全世界に向かって叫ぶ。 「この子は、星虫は空を飛べるんだ。こんなにも自由にっ!!」  そして、この力なら、きっと宇宙にだって出られる。  星虫は、宇宙に帰れるのだ!  友美の心が、光に満たされるようだった。もう、悩《なや》みも、不安も、迷いも消えていた。星虫と友美は、完全に心を通い合わせ、空を舞う。星虫は自身だと感じた。鏡のような、娘のような分身だった。  素晴《すば》らしい星虫。その子を自分が育てたのだという自負と、喜びがあふれる。  このたまらない嬉しさを、誰《だれ》かに伝えたかった友美の目に、斜《なな》め下に飛ぶ旅客機が映る。あの窓の前で、手でも振《ふ》りたいという気持ちが湧いた。  とたんに友美の体は、スッと旅客機に近づく。やったと、ぞくぞくし、翼《つばさ》の上に降り立った。  数メートル先の小さな窓の中では、一人の禿《は》げた中年男が、書類を膝《ひざ》に置いたところだった。疲《つか》れた目をこすり、やはり星虫は便利だったなと背伸《せの》びをして、何気なく窓の外に視線を漂《ただよ》わせたまま、硬直《こうちょく》した。  太平洋上空を、時速八百キロで飛んでいるジェット。その翼の上に、誰かが立っている。  そして、彼《かれ》に大きく手を振っていた。  茫然とした男は、反射的に片手を上げ挨拶《あいさつ》を返したが、その数メートル先に立つ、半袖《はんそで》半パンの、少女らしい人物の顔に注意が及《およ》ぶに至り、硬直が取れた。 「うわ———っ!」という叫びに、静かだった機内は騒然《そうぜん》となった。男が窓の外を指差しているのに気付いた何人かの視線が、同じように窓に釘付《くぎづ》けとなり、続いてわめいた。 「ばっ、化け物だっっ!!」  悲鳴と絶叫《ぜっきょう》がこだまする中、友美はあわててぺこりと頭を下げ、その場を逃《に》げ出した。 「……悪いことしちゃったな。あんなに驚くなんて……」  飛び去って行くジャンボ機を見送りながら、少し反省した。そして、はたと気がつく。 「え? 私、今、自分で飛んでた……」  そうだ。あのジャンボ機の窓を覗《のぞ》きたいと考えた時から、星虫は友美の思うままに動いていたのだ。 「うそ……」だと思ったが、間違《まちが》いない。上へ行こうとすれば上へ、横へ行こうとすれば横へと、自由自在だ。 「すごい!」  胸が高鳴った。その友美と星虫の感情は、もはや区別がつかなくなっている。 「よーしっ!!」  気合を込めた体が、すっ飛んだ。まるで砲弾《ほうだん》のように空を切り裂《さ》く。一瞬で音速を超え、あっという間に今見送った旅客機を追い越《こ》して、さらに高度を上げた。今日の星虫は空を青く見せてくれている。宇宙もいいが、青空を飛ぶのも、最高にいい気持ちだ。  大空を鳥(と言うよりは、飛び方からしてUFOに近いが)のように飛び狂う友美の視界に、真っ青な海上を走る妙《みょう》な物が映っていた。  星虫が、やけにその物体に興味があるようなので、アップにしてみた。  その瞬間、『頼《たの》むよ……』という、聞き慣れた声が頭に響《ひび》く。  空中に急停止して、吹き出した。 「お馬鹿の一人が、いたね!」  星虫に話しかけた友美は、その海上すれすれを疾駆《しっく》する物体めがけて、急降下した。  寝太郎は足を抱《かか》えていた。  本当は頭を抱えたい心境なのだが、そうすると疲れ切った足が海面に激突《げきとつ》する。  時速二百キロは出てるだろう。頭は星虫で覆われ、保護された格好になっているが、この速度で足が海面に当たるとどうなるか、想像はつく。へたすれば骨折。何か漂流物《ひょうりゅうぶつ》にでも当たれば、千切れ飛ぶ。  ここが何処《どこ》なのか寝太郎にはわからない。ただ、日本の南の海上を、時々|尻《しり》で跳《は》ねながら、南東に向かっているのは、確かなようだ。 『こいつは、何を考えてるんだ?』と、疲れ切った腕と足を感じ、呻《うめ》いた。  なぜか星虫は、海に出てからは、海上すれすれを高速で飛び続けている。 「てっ!」  また尻が海面とぶつかったのだ。まるで固い板で思いっきり殴《なぐ》られているようだった。この速度では、トレパンの尻が破けるのも時間の問題だろう。  それにしても、よそから見れば間抜《まぬ》けな格好だろうと思う。もしも、こんな目に友美もあっているのなら、星虫を許せそうもない寝太郎だった。まだ持っている手回しドリルを、しっかり握《にぎ》りしめる。 「なにしてんの?」  巨大な星虫に頭を覆《おお》われた半袖半パン姿の人物が、ふわりと、海上を疾走する寝太郎の横にくっついた。  この間抜けな格好を一番見られたくなかった人物の登場に、寝太郎は運命を恨《うら》んだ。  現れたのはもちろん友美だが、完全に星虫をコントロールしているようだ。  驚きを隠《かく》し、強がろうとした寝太郎だが、再び星虫に尻をぶつけられ、思わず疲れ切った手が外れた。右足が海面を打つ。その勢いで、体は独楽《こま》のように回転した。  狼狽《ろうばい》する寝太郎に、友美は大爆笑《だいばくしょう》だ。  なんとか再び足を引き上げた時には、もう恥《はじ》も外聞もなくなっていた。 「そ、育て方間違ったみたいねっ!」  友美の笑いながらの口調には、ざまあみろという気持ちが見え見えだった。 「これでも星虫が、飛べないって? ん?」  すっと目の前に回って来た友美に、 「どうすりゃいい?」と、寝太郎は泣きついた。  簡単に許す気になれない友美は、 「星虫の感情に気付くことよ」とだけ告げ、また空高く上昇していった。 「星虫の、感情か……」  考え込《こ》む寝太郎の頭に、友美の声が飛び込んできた。 『それに、自分の感情を合わせることね! 聞こえるでしょ? 星虫は、こんな事も出来るようになってんだから!』  それは星虫間の通信だった。 『星虫を認めなさい。そして、謝《あやま》んなさいよ。そうしなけりゃ、ずーっと、死ぬまでそのままかもよっ!』  つまり、星虫はすでにかなりの知性を持った個体にまで成長したということだ。それを認めない限り、このままの状態が続くらしい。  やはり友美は正しかったのだと寝太郎はうなずく。この力から見て、星虫が宇宙へ帰る事は可能だろう。そして友美がその力を自由に使っている以上、秋緒の予想は外れるかもしれない。友美が無事で、星虫が宇宙へ帰るのなら、別に文句などないわけだ。  自分の中で、この事態を楽しんでいる部分がある事には、すでに気付いている。 「どうやら、こいつを食わずにすみそうだな」と、寝太郎はほっとした。  くたびれ果てた寝太郎が、真っ白な三日月|珊瑚礁《さんごしょう》の上空に浮《う》かんでいた。  ようやく星虫の制御《せいぎょ》に成功したのだが、とても友美のように一心同体とはいかず、ここで止まれたのは奇跡《きせき》のようだ。  寝太郎のは一体化したというよりも、星虫を宥《なだ》めすかしたに近かった。 『なんだ、南極まで行くのかと思ってたのに』  影《かげ》も形も見えなかった友美が、そう連絡するなり物凄いスピードで東の空に現れ、寝太郎の前で急停止した。  とんでもない速度だった。止まった友美の回りの空気が焦《こ》げ臭《くさ》く、帯電している。 「わかったみたいね」  笑う友美に、三十分星虫と格闘《かくとう》した寝太郎は、「少しな」と、力なく笑った。  そのとたん、数十メートル落とされる。  けらけら笑う友美だった。 「私の星虫を取ろうとしたから、その子|怒《おこ》ってるんだ」  そして、「まだ取る気?」と、悪戯《いたずら》っぽく聞いた。  寝太郎は首を振る。 「取る気はもうないよ。今のところ」  今のところと言ったと同時に、また十メートル落とされた。 「……お前、もうおれなしでも、大丈夫《だいじょうぶ》なんだろう」  星虫は知らんぶり。  知能の発達は、もう疑問の余地がなかった。言葉こそまだだが、四、五歳児|並《な》みにはなっていそうだ。 「かしこい子!」  そう喜ぶ友美の顔を覆っていた星虫が、スーッと透《す》けてきた。  驚く寝太郎に、「見えた?」と友美が舌を出す。  友美の方は、しばらく前から見えていたらしい。 「なにか、自分たちの姿を見たくないみたい」と、友美は笑う。  多分、友美と自分が星虫を醜《みにく》く感じているからだろうと寝太郎は思った。星虫はその感情を察知したわけだ。二人に嫌《きら》われたくはないらしい。 「向こうの海に、面白《おもしろ》いものを見つけたの。行ってみない?」 「面白いもの?」  友美は寝太郎の手を取った。 「どうせ、まともに飛べないでしょ、連れてってあげる」  いいと言う間もなく、二人はすっ飛んでいた。  トルコ石色の浅い海がコバルトブルーに変わり、その先にあるものが寝太郎の視界に入ってきた。たった数分で、二百キロは飛んだろう。恐《おそ》ろしい速度だった。  深い海の上に、最高部が百メートルにもなる、複雑な建造物が四つそびえている。  それぞれの建造物は海底油田|掘削《くっさく》用のプラットホームにも見えるが、その幅《はば》は五百メートルにも達するだろう。それが、少なくとも五キロお互《たが》いから離《はな》れて、正方形の四つの頂点を形成しているのだ。  四つの建造物には、貨物船やサルベージ船が十|隻《せき》以上も横付けされ、そこからは太いの細いの、何百本ものチューブが海底に向かって降ろされていた。 「ねっ! 知ってる? これがあの宇宙船発掘事件の時に儲《もう》けた女性が作ってるレジャーランドよ。この間、ニュースで見たのと同じ! でも、すごい大きさね……」  その上空二キロの所で、友美はぶら下げてる寝太郎に話しかけた。  寝太郎は無言だ。見ると、妙に表情が固い。 「どうしたの?」 「別に。それより、見つかったんじゃないか?」と、指差した。  驚いて友美が見ると、本当だ。建造物から三機のヘリコプターが急上昇してくる。 「もう少し見ていたかったのに、しょうがないな。でも、つかまんないよ!」  ヘリをすぐそばまで引きつけておいて、友美はあっかんべと、逃げ出した。  音速の五倍は出ていた。とてもヘリに追いつける速度ではない。ミサイルでも無理だ。 「出来上がったら、一度遊びに行きたかったな」  と、もといた珊瑚礁の近くで止まった友美は、そう言って、寝太郎に笑いかけた。  すっかり明るいなと寝太郎は呆《あき》れていた。ま、これだけ自由に空を飛べるのだ。宇宙飛行士に死ぬほど憧《あこが》れていた友美なら、納得《なっとく》は出来るが……寝太郎の腹が、グーッと鳴った。  そういえば、朝飯も食べていない。いや、透明《とうめい》なんですぐ忘れそうに.なるが、顔は全《すべ》て星虫に覆われ、食事を取りようがなかった。 「お腹《なか》すいたね」  友美は、そう言ってちょっと眉《まゆ》をしかめた。 「どうした?」 「……この子も、お腹が空《す》いてるみたい」  言われて、寝太郎も感じ始めた。星虫も空腹だった。それも猛烈《もうれつ》に。 「すごく美味《おい》しそうだって、感じてるみたいよ」  寝太郎をじっと見る。 「お、おいおれ喰うってか?」  思わず空中で後ずさる寝太郎に、馬鹿《ばか》と首を振った。 「これ!」  指差す先は、美しい珊瑚礁の海。 「これ?」  友美はこっくりうなずいた。 「そ! 海!」  いうなりその体は海上に落ち、大きな水しぶきを上げた。 「わーっ!」という叫《さけ》び声を残し、続いて盛大《せいだい》な水柱が立ったのは、その数秒後である。二人は、海中に石のように沈《しず》んでいった。  南方の強い日差しが、五メートル下の海底をも明るく照らし出していた。  色とりどりの熱帯の魚が群れをなし、あるいは単独で泳ぎ回っているのは、見事に成長した珊瑚の林の中だった。  海草とテーブル珊瑚の間に出来た小さな砂地。ガーデンイールの巣《す》を避《さ》けて、友美は膝を抱えて座《すわ》っていた。星虫は、アクアラングにもなるようだ。  星虫の目で見る海中は、水を全く感じさせない。  魚やプランクトンも、明るい空中を飛ぶ烏や虫に見えていた。まるで、本当に夢《ゆめ》の世界に迷い込んだようだ。  この夢のような世界で、友美はこの六日間の事を回想していた。  星虫が降りてきてから、まだそれだけの時間しか過ぎていないのが、嘘《うそ》のようだ。  小さな星が額に当たり、それが次の日に星虫となった。全世界が、三年前の宇宙船|発掘《はっくつ》事件以来の大騒《おおさわ》ぎになり、友美たちもその中に巻き込まれたのだ。  そして、秋緒と出会い、森を見つけ、懐《なつ》かしい庭と再会した……  おじさんの事が、心から離れない。自分が星虫のためにやったことは、正しかっただろうか? おじさんの生徒として、間違っていなかったか、聞いてみたかった。  秋緒の事が、思い浮かぶ。おじさんの夢を果たそうとしている人だ。その大切な人に、自分は反発し、寝太郎をここまで付き合わせてしまっていた。これでよかったのか?  間違ったかも知れない。でも、もう後戻《あともど》りはできなかった。  おじさんの夢でもある秋緒の計画が実現するとしても、何十年も未来のはずだろう。  友美は、その計画に参加する事が、おじさんの教え子としての運命だと考え始めていた。しかし、どうやら、それには参加できないようだ。  それでも、今、自分に出来ることが、一つだけあった。  直接地球を救う事には、関係しない。しかし、地球を救う役目を果たしてくれたものへ、地球の代表として、人間としての感謝を贈ることが出来る。今やそれは、友美にしか出来ない事でもあった。 「駄目《だめ》だ、全然浮かない」  珊瑚の山を登りに行っていた寝太郎が、帰ってきた。  ここに落ちてもう一時間近くがたつのだが、星虫は全くいうことを聞かなくなっていた。  友美の言葉さえ、無視するのだ。浮くはずの体が、まるで鉛《なまり》のように海底に釘付《くぎづ》けで、空腹はもう耐《た》え切れないほどにひどくなってきている。  文句一つ言わないが、友美もそれは同じだった。朝からの大騒ぎと、さっきまでの常軌《じょうき》を逸《いっ》した興奮の反動が来ていた。 「星虫が、大きくなってるわ」  寝太郎は、つぶやくような友美の言葉に驚《おどろ》いた。またまた悪いニュースだ。  透けてしまった星虫を見ようと、精神を集中する。昨日の晩、地球を透視した星虫の影響《えいきょう》を逃《のが》れる事が出来たのだから、不可能ではないはずだ。しかし、簡単ではなかった。 「見えたっ!」  友美の顔がだんだんとぼやけ、星虫が見えていた。確かに巨大化《きょだいか》が進んでいる。額部分の盛《も》り上がった角質部分に大きな穴が開き、そこから勢い良く海水が吸い込まれている様子だ。  海水中から取っているのは、二人のための酸素ばかりではあるまい。  腹ぺこの身。精神統一は十秒も続かなかった。 「ほんとだ」と、横へがっくりと座り込む寝太郎に、友美はぼやいた。 「ずるいよね、自分らだけ食べるなんて」  そう言ったとたん。シュッと、何か管のようなものが口の中に飛び込んだ。 「わっ!」と、友美が小さく叫ぶ。 「どうした?」  心配して身を乗り出した寝太郎の口中へも同じく管が突《つ》っ込まれ、その中からとろっとした液体が溢《あふ》れ出した。 「おいしい!」  友美が目を輝《かがや》かせ、隣《となり》を見た。  寝太郎はすでに飲むのに必死だ。  その液体は、塩味のきいたクリームシチューに近いものだったが、その数十倍も美味だった。生まれて初めてと言えるほどの腹ぺこの状態。しかもそれが星虫によって増強された味覚に爆発したのだ。ギリシャ神話に出てくる神の飲物ネクタルでも、これ以上ではなかっただろう。  海水中の無限に近いプランクトンが原料に違いない。二人が欲しがるだけ、液体はチューブに溢れ、友美も寝太郎も、心の底から満足した。  あまりの美味しさに、二人はしばらく恍惚《こうこつ》となっていた。  その友美の目の前を、真っ青なソラスズメの群れが通り過ぎて行く。  午後の日差しがオーロラのように海中にかかり、巨大なクエの姿を七色に染めた。  空腹の時とは、また違《ちが》った世界。一段と輝きを増した世界が目の前に広がっていた。 「われながら、現金だなあ」と、友美はクスクス笑った。  星虫は依然《いぜん》食事中だった。これまで吸い込まれた海水の量がどれほどになるか、想像も出来ない。多分この海水中から必要な成分を抽出《ちゅうしゅつ》しているのだろうが、これが巨大化の前触《まえぶ》れと考えて間違いなさそうだった。  満腹した寝太郎は、楽観的になってきている。  この美しい海の底で、美味《うま》いものを食べ、しかも横には友美がいるのだ、文句をつければ罰《ばち》が当たるだろう。星虫の巨大化も、巣立ちだと思えた。友美の明るい様子を見ても、もう大丈夫に違いない。 「秋緒、生まれて初めてじゃないかな、間違ったの」  リラックスした寝太郎が、そう言った。  秋緒を呼び捨てにした事が、ちくんと友美の胸を突く。 「間違い? なんの話」  少し気分を害した友美が、尋ねた。 「だから、星虫がおれたちを餌《えさ》にするって言ってただろ?」  友美は、口元に軽い笑《え》みを見せた。  それは何だかモナリザの、あの曖昧《あいまい》な微笑《びしょう》に似て、寝太郎の心に不安の刺《とげ》をさした。 「……こっちへ一キロ歩くと、人のいる島に着くよ。寝太郎君、行って」 「行く?」と、寝太郎は問い返した。 「一人で?」  友美はまた膝《ひざ》を抱《かか》え込んだ。 「うん、私、これからどうなるか、分かったから。吉田さん、やっぱりすごいね。私負けちゃったよ」  寝太郎の心に、不安のどす黒い雲が湧《わ》き上がっていた。 「……どういう意味だよ……」 「ジガバチって、知ってる? ファーブル昆虫記《こんちゅうき》にも出てくるやつ」  知っていた。蔵《くら》には標本もある。さらに悪い予感がつのってきた。 「星虫はそれだって、分かったわけ。私たちは、青虫よ」  淡々《たんたん》と言う友美だが、寝太郎の顔は青ざめている。  ジガバチと青虫。それは昆虫記でも印象的な話だ。ジガバチは狩《か》りバチとも言って、青虫や蛾《が》の幼虫を捕《と》り、毒針で麻酔《ますい》をかけ動けなくしておいて、地面の下や細い管の巣穴へ閉じ込め、自分の卵を産みつけるのだ。孵《かえ》った幼虫は、麻痺《まひ》して動けない青虫の体液を吸って成長し、巣立ってゆくのだ。 「いやな事言うなあ、本気か?」  もちろん、本気だった。寝太郎にも本当は分かっている。 「この子が宇宙に行くには、もっともっと私が必要みたい。私の命を含《ふく》めた全部ね」  星虫はさっきから戦いを始めていた。相手は、耐《た》え切れない程《ほど》の食欲だ。友美を慕《した》い、守りたい感情が、食べたい欲望と火花を散らせていた。もし食べなければ宇宙へは行けず、死ぬしかない。それはもう、星虫も友美にも分かっている。  星虫は苦しんでいた。まだ食欲に負ける様子はないが、時間切れは遠くなさそうだ。 「そうとわかっても、取る気にならんのか」  驚いて立ち上がった寝太郎が、友美を見下ろした。 「もう、この子たちだけなのよ」  友美は寝太郎をにらんだ。 「星虫同士は、もう連絡が取れるようになってる。なのに、もう、どこにも感じられない。私たちが飛んだ事で、全ての星虫が殺されたの。わかるでしょ?」  その通りだった。  ここに潜るまで寝太郎はテレビを見ていたが、確かに地球上の星虫は、すでに駆逐《くちく》し終わっているに違いなかった。死者はすでに二百八十人。途上国からの集計が届けば、その数は三百を軽く突破《とっぱ》するだろう。政府や研究室で保護されていた所持者も、今やゼロだった。 「ついさっきよ。アメリカだと思う。そこの星虫の悲鳴が聞こえた。これで、世界の星虫所持者は、この二人だけ。たった六日前、三十億もいたのに」 「危険だからだ。委員長の話だと、やっぱりその通りだろっ!」  友美はうなずいた。 「でも、誰《だれ》かが帰すべきだし、もう誰もいないから。やらなければ人間全体がとんでもない恩知らずになるもの。地球の声の事忘れた? あのおかげで人間が宇宙に出るまで、地球は持つかもしれない。このままじゃ、絶対|共倒《ともだお》れだったよ」  そして、夢の中のような海中に目を向けた。 「ほら、この海見てよ。こんなにきれいなもの、見たことある? この海を含めたすべての素晴らしいものを、星虫は救ってくれるかもしれないんだから……」 「死ぬんだぞっ!」  興奮した寝太郎がわめいたが、友美はちょっと肩《かた》をすくめただけだ。 「死にたくないよ、私だって。でもさ、この子だっておんなじ! 今取れば、この子は死ぬ。この子にだって生きる権利はあるもの。私を殺して、食べる権利がね!」  生き物は全て平等。人間だけが例外なんてナンセンス。それが寝太郎の父の持論だったし、それを理解している寝太郎だったが、今度ばかりは納得出来なかった。 「夢をどうするんだ! 死んだら、宇宙へは行けないぞっ!」 「この子が行ってくれる。それがわかったから、譲《ゆず》ろうと決めたの。もう、この子は私の分身よ。私は、出来が悪いし、一生かかっても行けそうもないしね」  寝太郎は大きく首を振《ふ》った。 「そんな事はない、委員長は行けるんだ! 十年もかからずに宇宙へ!」  友美はきょとんと少年を見つめた。 「何、根拠《こんきょ》のないこと、力説してんの?」  馬鹿馬鹿しいと横を向く友美に、寝太郎は首を振った。 「委員長は、行ける。きっと宇宙へ行ける。俺が保証する!」 「だから、どうやって?」 「口止めされてたが、もういい。秋緒の事だ」  寝太郎の口から、又秋緒の名が出た。友美はぶすっと、答える。 「何の事? 話が見えないじゃない」 「進化計画だよ、あれは、実現するんだ」  赤道上に作られる、レールガン方式の巨大なシャトル基地の姿が友美の心に浮《う》かんだ。あれが実現するなら、確かに宇宙へ行く機会は、ぐんと増えるだろうが。  フンッと鼻で笑う。 「あの人なら、出来ると思う。でも、いつになるの。百年後?」 「早ければ、五年後だ」  寝太郎は言い切った。  思わず友美の眉がつり上がる。 「無理! 大体、どこにそんなお金があるのよ!」  あの森での秋緒の話以来、友美なりに考えてきたのだが、やはり、今の世界情勢では、そんなお金を集めるのは、秋緒にも不可能に近いだろう。  しかし、寝太郎は全く動じなかった。 「委員長が届けてくれた秋緒からの手紙は、その事が書いてあったんだ。進化計画の発動は来月。全世界への発表が、今月中にあるはずだ」  その自信に満ちた様子に、友美は呆気《あっけ》に取られた。 「プロジェクトの内容は知っているよな? あの全周二十五キロの海上都市が、まず五年後の竣工《しゅんこう》を目指して、建設される。そこからスペースシャトルの二倍の収容力を持つシャトルをマッハ30以上で、地球周回|軌道《きどう》上に打ち上げるんだ。ソレノイド・クエンチ・ガンを使ったこのシステムだと、一日十回の打ち上げでも楽々だそうだ。一便で最高八百人を運べる。つまり、たった一日で、一万近い人が宇宙へ行けるんだ。海上都市が出来たあと、静止軌道上に作られるのが、五万人収容可能な人工衛星。これは、小惑星《しょうわくせい》や彗星《すいせい》の核を資源にした、月の地下都市やスペースコロニーを建造するための工場だ。地球から宇宙への中継《ちゅうけい》基地にもなる。その着工が五年後! そして、十年後に、月面へ最初の移民を送り出すんだ」  すごい計画だが、まるで誇大妄想《こだいもうそう》に過ぎる。 「だから、どこにそんな資金や技術があるっていうのよ……」 「三年前の事、忘れたか? 宇宙船が発掘された事件」 「覚えてるよ。もちろん」  寝太郎は、うなずいて続けた。 「技術についてなら、あの時日本に集まって、今、国連宇宙開発機構で働いている人のほとんどは、当時の世界のトップクラスの科学技術者だぞ。それに、今は国に帰ってる科学者の間にも、あの事件がきっかけになって。西も東もない交流が高まってたんだ。今、科学のメッカは、事実上、国連になってきてる。みんなまだ気付いてないけどな。だから、技術力はあるんだ」  友美は、驚いていた。そう言われれば、確かにそうだ。 「でも、資金は? これが一番問題じゃない」 「だから、宇宙船事件だって言ってるだろ?」  ようやく友美の頭にも閃《ひらめ》いていた。 「まさか……」  寝太郎が、ニカッと笑う。 「そのまさからしい。五十兆円|儲《もう》けた人が、全額国連に寄贈してくれるそうだ。秋緒の話だと、あの人もおれたちと同じ、親父《おやじ》の夢に乗った一人だとさ」  友美は、唖然《あぜん》となって寝太郎を見つめた。 「……嘘よ、だって、あの人、レジャーランド作ってるのよ! さっきも見てきたじゃない!」  寝太郎は、首を振《ふ》った。 「だから、あのレジャーランド、何かに似てないか?」  友美の全身が、寒くもないのに、震《ふる》えてきた。  赤道直下の海上に作られる、レジャーランド。それは、進化計画の第一段階の海上都市に余りにも似ている! 「言ったように、もう計画はスタートしてるんだ。あのどでかいのが四つ立ってた海、あれが、海上都市建設現場だ」 「うそ……」 「嘘《うそ》じゃないって。まだ非公式だけど、米ソも、計画に全面協力を申し出てるらしい。場合によっては、軍事機密に触《ふ》れる技術でも、引き渡《わた》してくれるそうだ。発表後は世界中の巨大企業からも、協力の申入れが殺到《さっとう》するだろう。宇宙工場の建設プランがあるからな。プロジェクト自体は国連の事業だけど、協力は全面的にする予定だそうだ。これからの時代は、宇宙技術がなければ、ハイテク産業は成り立たないもんな」  その通りだろう。宇宙の真空と無重量を使って、地上では作れない合金、薬、半導体などが製造できる。企業が協力しないはずがなかった。  五十兆円。そして、世界の知能を集めた国連宇宙開発機構。この二つが合致《がっち》すれば、夢は夢でなくなるに違いない…… 「でも、どうしてそんな嘘をついてまで、計画を隠《かく》す必要があるの? こんな素晴らしい計画だったら、堂々とやればいいのに。あの、五十兆円の女性だって、悪役を演じる必要なんかないじゃない!」  寝太郎は、うなずく。 「おれも、秋緒のこのやり方は好きじゃないけどな。何か、政治的な駆け引きのために、まだ誰にもばらせないそうだ。国連の中でも、海上都市が、すでに着工されているのを知ってるのはごく一部だとさ。だから、おれも口止めされた」 「……じゃあ、その極秘事項を、何で、吉田さんは、寝太郎君に喋《しゃべ》ったの」  友美は、寝太郎をにらんだ。 「最後だから、聞くけど、ほんとに親類なの? どうして、名前で呼ぶのよ」  寝太郎は、目をぱちくりさせている。 「あの人、寝太郎君を、大事な人だって言った。あれは、本当は、どういう事?」  友美の瞳《ひとみ》に、涙《なみだ》がにじんできた。こんな事を聞くつもりなかったのに、口が勝手に動いてしまう。 「私、分かってた。吉田さんは、寝太郎君の事、好きなんだ。そして、寝太郎君も、好きなんでしょう!」  言ってしまった。友美は目を伏《ふ》せたが、星虫をつけたままでは、意味はない。戸惑《とまど》っている寝太郎の様子が、丸見えだった。  その、おじさんによく似た顔が、はあっと大きな溜《た》め息をついた。 「その通りだよ」  と、小さく言う。友美の心臓が、ドキンと鳴った。 「認めなきゃな。おれも秋緒が嫌《きら》いじゃない。嫌いになろうとしたけど、無理だった」  友美は、聞きたくなかった。これ以上聞きたくない! でも、耳を塞《ふさ》ぐことも出来ないのだ。 「それは、じいさんも同じだったな」  その言葉に、もういいと怒鳴《どな》ろうとした友美の口が、開いたままになった。 「?おじいさん?」  寝太郎はうなずく。 「そうだよ。じいさんなんか、秋緒を玄関《げんかん》にも入れんかった。けど、昨日、家に入れて、泊《と》めたろ? やっぱり、孫だもんな」  友美の頭が混乱してきた。 「待って……どういう事?」 「どういうって、だから、秋緒はおれの姉貴だよ」  友美の目が、まん丸になった。 「お姉さん?」 「離婚《りこん》した母さんについて、アメリカに行った姉だよ。親父見捨ててな。だから、嫌いだったんだ。けど、変わったよ、姉貴は。親父のやろうとしている事を、ほんとに命がけでやってる。だからおれ、姉貴を認める事にした。遅《おそ》かったかもしれんけどな……」  寝太郎が、そう言って友美を見ると、なぜか彼女《かのじょ》は、声を上げずに、身を折って笑いこけていた。 「……変なやつだな。とにかく、これで分かったろ。委員長は宇宙へ行けるんだ。それに、笑ってないでよく聞けよ。五年後だ」  何とか笑いの発作を収めた友美が、顔を上げた。 「五年後?」 「ああ、三年後海上都市の、シャトル発射部分を除いた都市部分が出来ると同時に、一般《いっぱん》からの技術者が公募《こうぼ》される。国籍《こくせき》も性別も、あらゆる差別なしにだ。工場ステーションを建設するための技術者、いいか、その大半は、都市に設立される宇宙技術者養成学校でまかなうんだ。学科の中には、当然シャトルパイロットコースがあるんだぞ! 成績優秀なら、たった五年後の中継ステーション建設に、参加出来るかもしれん。いや委員長なら絶対やれるに決まってる。なんてっても、親父の教え子なんだからな!」  友美には、まだ冗談《じょうだん》としか思えなかった。しかし、現にこの目で建設現場を見ている。それに、今まで寝太郎が見せた妙《みょう》な素振りも、これで全《すべ》て説明できそうだ。 「だから、もう一回考え直してくれ。星虫を取ってくれよ」  そして寝太郎は、友美に頭を下げた。 「星虫を帰したい気持ちは分かる。けど、おれのだけで我慢《がまん》してくれ」 「寝太郎君!」と驚《おどろ》く友美を制し、続けた。 「おれの方が身内が少ないし、こいつも結構気に入ってる。自分で自分の星虫を取るのは出来そうもないしな」  寝太郎も星虫の食欲が自分に向いている事を確認《かくにん》していた。やはり友美の言うことは正しい。星虫が宇宙に帰るためには、命が必要のようだ。  友美はうつむき、目を伏せて何か考えていたが、不意にその顔を上げた。 「ありがとう」 「取ってくれるのか?」  だが、友美は首を振る。 「ごめん、かえって心が決まったみたい。それ聞いて安心したもの。これで、地球も人間も、大丈夫《だいじょうぶ》だって。そうでしょ? 私、やっぱり星虫を帰す」  寝太郎は愕然《がくぜん》と口を開けた。逆効果が出るとは、想像もしなかった。なんとかしようと心はあせるが、何も思いつかない。 「でも、どうしてお姉さん、寝太郎君を、あんなに必死に追っかけてたわけ?」  考えてみれば、星虫がまだ安全だと思われていた時から、秋緒は寝太郎を追っていた。 「そこまで言った以上、全部ばらしなさいよね!」  仕方なく、寝太郎は答えた。 「前も言ったろ。親父の息子《むすこ》だからって、買いかぶりだ」 「買いかぶり?」 「ああ、親父の親友って学者が何年か居候《いそうろう》しててな、その学者にコンピュータ教わったんだ。で、何か知らんうちに、手伝わされてて、そん時、あんまり計算が遅いから、自分で言葉作ってみたんだ。そしたら、それが変に知れ渡ってな」 「言葉って、それ、コンピュータ言語の事? ベーシックとか……」  寝太郎はやれやれとうなずき、「おっちゃんは、シータとか勝手に名前をつけて、発表したけどな」と、海上を見上げた。  シータならよく聞いていた。何でも、巨大《きょだい》構造物設計のための、画期的な新言語だそうで、大学や、各種研究所、建築会社などで、すでに多く使われ始めている。将来の宇宙開発や海底開発にも、大きな武器になると評価されているものだ。  その言語を作った? この寝太郎が??  友美はまじまじと、目の前に立つ顔色の冴《さ》えない少年を見つめた。 「誰でもやるだろ? ガキのころ、自分だけの言葉作って遊んだり。その続きだ」  そんな遊び、聞いたことがない。 「ま、そのおかげで、あのワークステーションも買えたけどな。何かしらんけど、著作権料とかで、毎月、大金を振り込《こ》んでくれるんだ」  そう言って寝太郎は笑ったが、すぐ暗い顔になった。 「けど秋緒は、第五世代コンピュータ用の新言語が、おれでなきゃできんと思い込んでるみたいでな。ああいうの、身びいきっていうんだろうな」  しかし友美には、あの秋緒が、身びいきするなんて考えられなかった。秋緒が、あれほど必死に寝太郎を追いかけたのは、彼が弟だということだけじゃないはずだ。  では、認めるしかなかった。この寝太郎は、進化計画に、絶対に必要な人材。コンピュータ言語の天才少年だったのだと。 「やっぱり取って、寝太郎君! 吉田さんは身びいきするような人じゃないわ! あなたは、プロジェクトに必要なのよ!!」  友美は、寝太郎に詰《つ》め寄《よ》った。 「おれは、ただのなまけもんだって。委員長言ってたろ」 「行きなさいって! 手|遅《おく》れになるっ!」 「委員長一人残してか? そんな卑怯《ひきょう》な事したら、親父に合わせる顔ないぞ」  友美は違《ちが》うと、地団太|踏《ふ》んだ。 「誰《だれ》も卑怯だなんて思わない! 吉田さん、あの人、どこか病気でしょ? いつも青い顔してたし、少しの事で倒《たお》れたり、そんな体なのに、必死に説得してた。寝太郎君はそれくらいプロジェクトに必要なんだ。これは、地球を救う計画でしょ! 地球のために、人間のために、寝太郎君は生きるべきよ!」 「……じゃ、委員長も取るか? 取るなら、おれも取る」  寝太郎はそう言って、腕《うで》を組んだ。 「そ、そんなの話が別だ!」 「一緒《いっしょ》だよ」  友美の中で、何かが警報を鳴らしていた。時間切れが迫《せま》っている。 「馬鹿《ばか》っ!」  あせって言葉が出てこない。 「馬鹿の寝太郎だ、おれは」 「強情っぱりっ!」 「そっちこそ」 「だめっ!!」  友美が叫《さけ》んだ。  二人の頭を覆《おお》っていた星虫の黒いビロビロ部分が傘《かさ》のように広がり、数十本の細い導管に変わった。長く伸《の》びたその黒い導管は、目にも止まらぬ速度で槍《やり》のように全身に突《つ》き刺さる。  星虫の食欲が、ついに勝ってしまったのだ。  手、足、腹、全身に、一瞬《いっしゅん》だがすさまじい痛みが走った。 「きゃっ!」 「ぐっ!」  二人はたまらず呻《うめ》き、海底の砂の上を転げ回った。すぐに痛みは治まったが、星虫はさらに巨大化し、黒いラバー状部分は肩《かた》から胸までを完全に覆い尽《つ》くしていた。腕の太さ程《ほど》もある瘤《こぶ》の付いた導管が、手の先から足の先まで蔦《つた》のように絡《から》みついている。  てのひらを広げると、すでに自分の皮膚《ひふ》は一部に覗《のぞ》くだけ。蜘妹《くも》の巣《す》のような黒い線が、その皮膚の下に透《す》けて見える。肉にまで食い込んだのだ。もう手術でも除去は不可能だろう。星虫は、友美たちの体を本格的に喰い始めたわけだ…… 「馬鹿っ!」  痛みを堪《こら》えて起き上がった友美は、寝太郎を怒鳴りつけた。  寝太郎の姿は不気味な怪物《かいぶつ》に近い。顔だけは元のままに見えていたが、気合を入れると正体が分かる。その星虫が作る顔は、さらに朝よりも巨大化し、妖怪《ようかい》じみてきていた。 「さっさと行けば助かってたかも知れないのにっ!」  友美の精神集中が解け、また寝太郎の顔が戻《もど》ってきた。溜め息をついている。 「一キロじゃ、間に合わん。どっちにしろ手遅れだったな」  腹に付いた渦巻《うずま》き様の導管を撫《な》で、 「内臓にまで、突っ込みやがって」と、ぶつぶつ言うが、もうさっきまでの苛《いら》つきが消えていた。  そう、寝太郎の言う通りどっちにしろ手遅れだった。飛べない以上、海底を歩くしかない。それでは間違いなく途中《とちゅう》でこの変態が始まっただろう。星虫はもう、彼《かれ》らに選択《せんたく》の余地を与《あた》えてくれていなかったのだと分かる。  しかし、友美はあきらめ切れなかった。 「馬鹿! どうしてもう少し早くプロジェクトの事を言わなかったのよっ!」  そうすれば、寝太郎だけでも救えたのだ。 「だから、秋緒が口止めしたんだって。どうせ、もうすぐ全世界に発表されるしな。こんな事になるってわかってりゃ、話しもしたけど」  そう言って、砂地から立ち上がった。 「でも、 寝太郎君は、地球にとって必要な人なんでしょ!」 「いいって。もう。ほんとに秋緒は勘違《かんちが》いしてんだ。おれはただのなまけもん。星虫を宇宙に帰すことくらいしか、地球の役には立たんよ」  そして寝太郎は大事に手にしていた手回しドリルを、投手のようにかっこよく投げた。  ドリルは水圧で全然飛ばずに足元に落ちる。間抜《まぬ》けだった。  だが友美は笑いもせず、寝太郎をにらみつけた。  海の中は、段々と薄暗《うすぐら》くなってきていた。  太陽が、大分と傾《かたむ》いてきているに違いない。  友美は、小さく吐息《といき》をつき、珊瑚《さんご》にもたれかかった。変わり果てた両手を見る。 「そうだね。もう、どうしようもないもんね。時間は戻せないし……」 「そういう事。それ、おれの主義だな。出来たもんはしょうがない」  仕方なくうなずいた友美が、寝太郎に尋《たず》ねた。 「どっちだと思う?」 「なにが?」 「天国と地獄《じごく》よ。私はきっと地獄だな。親不孝だし、寝太郎君まきこんじゃったし」 「おれもそっちだな。なまけもんだから」 「駄目《だめ》よ、寝太郎君には天国へ行ってもらわなきゃ」 「どうして?」 「おじさんに、私が謝《あやま》ってた事、言づけしてもらいたいから」 「やだね」  ぶすっと言って寝太郎は寝転《ねころ》んだ。 「おれは、委員長に付き合う」 「……どうして?」 「委員長が又《また》来るのを、十年も待ってたんだぞ、おれは」  怒《おこ》ったように、寝太郎は友美の反対側を向いた。その横顔から、赤外線の湯気が立ち上る。  友美は膝《ひざ》に頬杖《ほおづえ》ついて、寝太郎を見つめていた。  それはもう、十年前、友美が泣かした鼻たれ坊主《ぼうず》ではなかった。おじさんの代わりに、友美の来るのを待っていてくれた、大切な存在だった。  なぜだろう? 死ぬと決まったこんな時なのに、何も怖《こわ》くない……  友美は、じっと何か考えていたが、決めたとつぶやいて立ち上がった。海底をぐるっと歩いて寝太郎の目の前にしゃがみこみ、少し強張《こわば》った声で言った。 「寝太郎君、私ね……」 「ぐおーっ」と、いびきが答える。  何かを告白しようとしていた友美の全身から、がっくり力が抜けた。  幸せそうに眠《ねむ》る寝太郎を、にらみつける。しかし、それは笑《え》みに変わった。 「これでいいんだな」  そして友美は、思いっ切りの声を張り上げた。 「おきろーっ!」という強烈《きょうれつ》な音波が海中を走り、外洋を行くイルカの群れを一瞬|錯乱《さくらん》状態におとしいれた。  雷《かみなり》に打たれたような寝太郎の前に立った友美は、すっと手を差し出した。 「私、実を言うと一つだけ心残りがあったんだ。付き合って」  わけが分からず寝起きのまま、右手を上げる。  ぎゅっと、友美はその手を握《にぎ》りしめた。キラキラ輝《かがや》く瞳《ひとみ》が、寝太郎を見つめている。 「寝太郎君!」 「委員長?」  寝太郎は無意識の内に、左手を友美の右手に重ねた。その上に友美の左手も置かれ、ぎゅっと力がこもった。 「行くよっ!!」  言うなり友美の体は紫色《むらさきいろ》の輝きに包まれ、それは寝太郎をも覆った。すでに星虫が前の状態、つまり一体化し、飛べる状態に戻っていることを、友美は気付いていたのだ。  能力はアップしている。しかし、これが最後の変態前の、小休止だということも分かっていた。 「へ?」  寝太郎は、完全に虚《きょ》をつかれた。  ズッパーンと物凄《ものすご》い水しぶきを上げ、二人は夕映《ゆうば》えの南洋上に舞《ま》い上がった。  スピードはぐんぐんと上がり、海は急激《きゅうげき》に遠くなってゆく。 「どこへ行くんだよっ!」  ようやく目が覚め、うろたえてる寝太郎に、友美はニッコリ笑った。 「宇宙! 多分、行けると思うんだ。バリアーみたいなのもあるし、これ、反重力だよね? だから、ちょっとは手伝ってよ」  状況《じょうきょう》を飲み込めた寝太郎も、なるほどとうなずいた。 「……だな、どうせ死ぬなら、一回は宇宙を見たいよな。よし……」  寝太郎も天をにらみ、星虫を説得にかかる。  やがて、さらに加速を増した二人は、遥か宇宙へ向けて真っ直《す》ぐに昇《のぼ》っていった。  二人の頭の少し上が真っ白に輝いているのは、バリアーと大気との摩擦のせいだ。途轍《とてつ》もない速度が出ているらしい。一分もたたずに輝きが消え、友美は対流圏《たいりゅうけん》を抜けたのを知った。  真下の海が瞬《またた》く間に広がってゆく。さっき目にした夕映えが太く赤い線に変わり、海上と雲を染めているのが見えた瞬間には、まだ昼間の地域が視界の端《はし》に入ってきた。昼と夜とが、自分たちの真下で別れて拡大してゆくのだ…… 「すげえ……」  振《ふ》り絞《しぼ》るように寝太郎が呻いた。巨大な積乱雲が見る間に倭小化《わいしょうか》し、無数の雲の一つとなる様は、感動というよりも恐怖《きょうふ》に近いものがあった。このまま全《すべ》てが、果てしなく縮んでしまいそうだ。こんなに地球が大きいとは、思わなかった。  いつしか二人の視界に多くの陸地が入ってきていた。その色は緑ではなく、ほとんど茶色か灰色に近い色で、海の青さとは対照的だった。  陸が見え始めたところで、果てしないと思われた地上の縮小は止まっていた。  突然《とつぜん》二人は、恐《おそ》ろしいほど巨大な半月状の地球を見下ろしている自分たちに気付いていた。地球からの光が、柔《やわ》らかく半身を照らしている……  今。たった今、自分たちは地球をこの目に見ているのだ。  その認識《にんしき》は、荘厳《そうごん》としか表現出来ない感動と共に、二人を圧倒《あっとう》した。 「……すごいね……」  友美の声が、涙声《なみだごえ》となって寝太郎に届いた。  寝太郎は口もきけなかった。ただうなずき、星虫の中を感涙《かんるい》で溢《あふ》れさせていた。  人類の歴史上、この光景を見られたのは、まだ二百人ちょっとにすぎない。その経験を持った誰もが人生観が変わる程の感動を受けたという。  当たり前だった。この星を見て、感動しない人間がいてたまるか。暗黒というよりは、虚無という言葉に近い宇宙に浮《う》かぶ地球は、『奇跡《きせき》』そのものなのだから。 「奇跡を目《ま》の当たりにして、感動しないやつがいるもんか……」  寝太郎は言い、この光景を全ての人類が見る目が来ることを、全身|全霊《ぜんれい》を込めて願った。全ての人類がこの地球を見さえすれば、あらゆる自然|破壊《はかい》は食い止められるだろう。それだけの力を、この母なる星の姿は、持っていた。 「寝太郎君っ!」  突然友美が、寝太郎にしがみついた。 「地球が、地球の声が……」  友美の心には、さっきから地球の声が響《ひび》いていた。  しかしそれが、いつもの同じ事の繰り返しではないと、不意に気付いたのだ。地球が自分から飛び出した二人の存在に気付き、違う感情を発している。  信じられない事だが、それは挨拶《あいさつ》だった。すばらしい喜びの気持ちを友美と寝太郎だけに送ってきていたのだ。自分の一部分が、人間という細胞《さいぼう》の一|片《ぺん》が、宇宙へ出られた事を祝福してくれていた。  震《ふる》えるほどの感動の正体は、これだったのだと、友美は思った。 「地球が、おれたちを見てる……」  星虫同士の交感から、寝太郎にもその地球のメッセージが聞こえた。  友美は、何度もうなずく。 「そう、ものすごく喜んでくれてる。私たちが宇宙に来たことを、すごく……」  後は言葉にならなかった。  二人はその地球の声に包まれたまま、青い地球を見つめ続けた。  おじさんが守ろうとした星。今、その遺志を秋緒が実現しようとしている星を…… 「もういい……もう充分《じゅうぶん》」  やがて友美は、涙顔に笑みを浮かべ、寝太郎に言った。 「帰ろ。地球へ」  寝太郎は自分の指先から感覚が消えてきているのを感じていた。星虫の体組織が、体を浸食《しんしょく》し続けているようだ。より星虫との一体化が進んでいる友美の方が、その傾向《けいこう》は強いだろう。心配で胸がつまる。 「どこへいく?」 「母さんたちに、あやまりたいな」  友美は明るく言い、「まだ飛べる間にね」と、小さく続けた。星虫の飛翔力《ひしょりょく》が落ちてきていた。最後の変態が迫っているようだ。 「よし、行くか!」  そして二人は、隕石《いんせき》のように地上へ落ちていった。  すでに日本は夜の側だが、あらゆる波長の電磁波を感知する星虫の『目』にとっては、闇ではない。世界の中でも格段にエネルギーを消費する日本は、明るく輝き二人を迎《むか》えてくれていた。  町の上空数キロの所で、二人は停止していた。  すぐ下を、十数機のヘリコプターが乱舞《らんぶ》している。  朝のように報道関係のものだけではない。警察、自衛隊、そしてアメリカ軍のものらしい軍用ヘリまでもが混じっている。  真下に見える氷室家の前は、まるで祭りでも始まったかのような人出だ。報道関係者が百人近くいるだろう。金色やブラウンの明るい髪《かみ》が混じっている。海外の報道陣も集まっているようだった。そしてその数倍の野次馬たちが道路を埋《う》め尽くしている。 「とても降りられないよ」  友美は呆《あき》れ、テレビを受信してみた。ちょうど七時になったばかりで、NHKを含《ふく》む数局が特別番組を放送中だった。  ヘリコプターから、あるいは地上から撮《と》られた友美の飛行シーンが、各局いろんなアングルで放映され、星虫によって二人の少年少女がさらわれたとアナウンスしていた。 「家へ行ってみるか?」と寝太郎が聞く。 「電話して、来てもらえばいい」  やはり二人の星虫が、世界最後の星虫のようだ。全世界の目が、二人の行方《ゆくえ》と、この町に向けられていた。  案の定、寝太郎の屋敷《やしき》の回りも報道陣に囲まれていたが、なにせ広い敷地の回りを固めているだけだから、いくらでも降りる場所はあった。 「駄目だ、母屋《おもや》も人だらけだ」  屋根を透視した寝太郎は、やれやれと空中で腕組《うでぐ》みした。  とたん、友美の体がぐらっと揺《ゆ》れる。あわてて寝太郎につかまった。 「ごめん! ちょっと、もう飛びにくくなってるの」  時間切れが迫《せま》っていることが、二人には分かる。寝太郎は、友美を支えながら蔵《くら》の上に降り立った。 「コンピュータ通信用だけど、電話がある。星虫なら何とかなるだろ」  電話さえ繋《つな》がれば、音声信号ぐらいは、星虫で出せると寝太郎はふんでいた。  天窓をこじ開け、まず友美が真っ暗な蔵の中へ飛び下りる。頭頂の巨大《きょだい》な目の輝きが増し、ゆっくりと本棚《ほんだな》の間に降り立った。  暗闇《くらやみ》の中に誰《だれ》かがいた。コンピュータの前だ!  瞬間、蛍光灯《けいこうとう》がつき、ワークステーションの前に座《すわ》る秋緒が立ち上がった。  その回りを囲むように、寝太郎の祖父、幸雄、直人、洋子、隆、そして眼鏡姿に戻った正夫もいる。  全員が真っ青になり、後ずさっていた。  友美を放《ほう》っておけず、寝太郎も友美をかばうように、秋緒らの目の前に降り立つ。  その姿は、怪物《かいぶつ》になり果ててしまっていた。朝よりさらに肥大した頭部は肩幅《かたはば》よりも成長し、まるで巨大な蛸《たこ》の怪物が人間を飲み込《こ》んでいる途中のようだ。その蛸の黒い触手《しょくしゅ》が手の先から足の先まで這いまわり、ピクビクと蠢動《しゅんどう》している。 「何て姿に……」  青ざめた秋緒が、絞り出すように言った。  寝太郎はそのコンピュータのモニターに衛星からのデータが流れているのを見、秋緒が人工衛星を使って二人を追っていた事を知った。 「心配かけて、ごめん」  大きな方の怪物が深々とお辞儀をし、秋緒たちに謝った。 「……よかった、まだ意識は星虫に乗っ取られていないのね」  少し顔色を戻《もど》した秋緒は、椅子《いす》から立ち上がった。 「何たるざまだ、広樹!」  祖父の怒鳴《どな》り声が、その隣《となり》から響く。 「お前はともかく、どうして、その子を助けなかった!」  怪物は、また頭を下げた。 「言い訳しない。けど、おれも委員長だけは助けようとしたんだ。ほんとに」  そして、秋緒に言った。 「おれ、約束《やくそく》破ったよ。プロジェクトの事も、なにもかも話した。それで、何とか説得しようとしたんだけどな。ごめん……姉貴」  姉貴という言葉を聞いた秋緒と、祖父の顔が驚《おどろ》きに変わった。 「いいの、そんな事」  秋緒は、首を振った。 「馬鹿野郎《ばかやろう》!」と、いきなり直人が飛び出してきた。  寝太郎は、パンチが顔に来るのを、避《さ》けもせずに受けた。直人の拳《こぶし》は、星虫のラバー部分に当たり、跳《は》ね返される。 「お前が、氷室さんに迎合《げいごう》した結果だぞっ! 責任取ると言ったな、取ってもらおう!」  その直人を、隆と正夫が止めた。 「すまん」と、寝太郎は直人にも謝る。 「友美なの?」  洋子が、大きな怪物の後ろに立つ物に言った。 「みっともない事になったでしょ?」と、微《かす》かな声がした。  洋子が、たまらず泣き出す。  その後ろに立った秋緒が、友美に話しかけた。 「もう一度だけ頼《たの》みます。広樹を解放してあげて。広樹のことだから、どうせ自分は役立たずだとか、私が買いかぶってるだけだとか言っただろうけれど、それは違《ちが》うの。広樹は、コンピュータ言語の達人なの。天才だと言い切ってもいい。プロジェクトの事を聞いたのなら、分かるでしょう。これから作らなければならないものの巨大さと、複雑さが。今ある言語でも、もちろん設計は可能だけれど、問題は効率なの。広樹がシータを改良した、第五世代機用の言語を作ってくれなければ、計画は四年から十年|遅《おく》れる。そうなれば助かるはずの人が、億単位で変わってしまうの。この仕事が出来るのは、彼《かれ》しかいない。広樹の頭脳に、何億人の命がかかっているのよ!」  秋緒の必死さが、何億という言葉の持つ重さが、今まで揺るがなかった友美の決意を、くつがえしてしまいそうだった。  その言葉に驚いているのは、友美ばかりではなかった、変わり果てた妹を病院へ引っ張っていこうとしていた幸雄、まだ友美たちの姿に恐れをなす友人たちの動きも止まっている。 「寝太郎が何だって?」と、事情を知らない彼らは顔を見合わせた。 「姉貴、委員長は関係ないって!」  寝太郎が、秋緒の前に立ちはだかっていた。友美はその体の影《かげ》へ反射的に隠《かく》れる。 「関係あるでしょ。広樹、あなたが国連入りを断った理由の一つは、彼女《かのじょ》のはずよ」  寝太郎の体がビクッと震《ふる》えた。違うと必死に言い張ったが、秋緒どころか友美さえ説得出来ずに終わった。 「そうなの?」  横に飛び出した友美は、寝太郎を見つめた。  答えない怪物に、秋緒が言う。 「広樹が国連に入れるなら、もう一人、当然入れて然《しか》るべき人物がいる。その人物と一緒《いっしょ》でなければ、自分は入らない。そう言ったのよ」 「それが私?」と、友美が驚く。 「だから私は妥協《だきょう》したの。広樹が来てくれるなら、友美もプロジェクトシティに迎《むか》えようって」 「委員長は、おれのおまけじゃないっ!」  思わず興奮した寝太郎がそう怒鳴り、自分で墓穴《ぼけつ》を掘《ほ》った事を知った。 「そうなんだ」  友美は、わずかに体表に出ている寝太郎のシャツをつかんだ。 「私のために、国連入りを断って、そして、こんなとこまで付き合ったの?」  寝太郎をにらむ目に涙がにじんでいる。その事は、星虫を透視できない全員にも伝わっていた。 「馬鹿野郎。自分で言った通りの大馬鹿だよ。なんで私なんかに、そんな義理立てすんのよ。なんでっ!?」  下を向いた寝太郎がつぶやくように言った。 「……間違ってたからだ。おれには、親父が残してくれた教材や、カリキュラムや、機材が山ほどあった。親父の親友の、世界でも有数の科学者たちが、月に一回は来て、おれをしぼってくれた。夏休み、おれが委員長を見かけたのは、その教授の一人の家で、缶詰《かんづめ》にさせられてた時だよ。その時に、委員長が、まだ六歳の時の夢《ゆめ》を追ってる事を、おれは知ったんだ。たった一人で、親父の言葉通りに、十年も。とてもかなわんよ。おれなんか、さぼる事ばかり考えてたのに。そんなおれが、親父の作ったプロジェクトに参加出来るのに、委員長はできん。それは、間違ってる。少なくとも、おれには間違ってたんだ」  聞く友美の心の中で、寝太郎に将来の夢を尋《たず》ねた時の事がよみかえっていた。  秋緒になぜ協力しないのかと聞いた時、友美を見つめた寝太郎が、寂《さび》しげに何かをあきらめたのを感じた。それが何かを今、友美は知ったのだ…… 「友美、聞いてる? 今なら、意識がはっきりしている今なら、まだ間に合うかも知れないわ。病院へ行ってくれるわね?」  友美はうなずいた。  驚いた寝太郎の呼吸が止まる。 「委員長っ!?」  すでに寝太郎の手のほとんど、足の太股《ふともも》まで感覚が消えていた。友美なら、もっと星虫に食われているはずだ。もう、どうやっても手遅れなのに!  幸雄が見るからにほっとして、友美に駆《か》け寄った。  直人たちも二人に近づいてくる。 「救急車を呼んで!」と、焦《あせ》り顔の秋緒が怒鳴り、幸雄と直人が母家に走った。  一行は蔵を出た。  友美も寝太郎も無言だった。  寝太郎の少し後ろを歩く友美の横には、秋緒が付き添《そ》っている。 「ありがとう」  不気味な星虫を見ながら、秋緒は真摯《しんし》に言った。 「あなたにだけ、言うわ。私、もう長くないの」  無言で歩いていた友美が、立ち止まる。 「広樹には、黙っていてね。細胞の中の、ミトコンドリアが死滅する、原因不明の病気にかかっているの。二十|歳《さい》までは生きられないと言われたのに、二十四になる今まで生きてるから、眉唾《まゆつば》かもしれないけれどね」  秋緒は明るく微笑《ほほえ》み、ちょっと肩をすくめた。 「広樹から聞いたかもしれないけれど、母と私は、父を見捨てたわ。理想ばかりを追って、家族をかえりみない父が、憎《にく》らしかった。でも、十八の時に、この病気にかかり、療養中、父の書いた物を偶然《ぐうぜん》に読んで、分かったの。間違っていたのは、自分だってね。その時から、父の残した進化計画が私の夢であり、私の分身になった。広樹が無事に加わってくれれば、私、もう安心して死ねるの。星虫は、友美にとって、私のプロジェクトと同じよね。でも、広樹だけじゃない、あなたもまだ若すぎるわ。死んじゃ駄目《だめ》よ。生きたくても、生きられない者がいることを、考えて」  醜《みにく》い怪物は、軽くうなずいたようだった。そして、一人でまた歩き出す。  その中で、友美は泣いていた。  このまま病院へ行けば、星虫は殺される。しかも自分の体もばらばらにされるだろう。もう、手足に全く感覚がない。動かすことは出来るが、それもいつまで続くかと思えた。感覚の喪失《そうしつ》は、下半身から胃に達しようとしている。手術を受ければ、多分自分も死ぬだろう。  でも、寝太郎は助かる。たとえ手足がなくとも、死ぬよりはましだ。  秋緒のため、人類のため、寝太郎は今死んではいけない人だった。しかし、誰よりも今、友美自身が、寝太郎に生きていて欲《ほ》しかったのだ。  だから、うなずいた…… 「ごめんね。ほんとに、ほんとにごめん」  この涙《なみだ》は、星虫へ。宇宙に帰すと誓《ちか》った星虫へのものだった。  玄関《げんかん》の門が開き、真昼のようなライトが輝《かがや》く中に、友美と寝太郎の醜い姿がさらけ出された。  報道陣、そして路上を埋《う》めた野次馬からどよめきと悲鳴が上がる。  救急車が二台、走ってくるのが見えた。その姿が、段々と霞《かす》んでくるのを、友美は感じていた。星虫の様子が変だった。星虫の意思から離《はな》れて、その体だけが一人歩きをしているようだ。感覚のコントロールが出来なくなっている。もう、テレビも見えない。  人込みを押《お》し退《の》けるようにして、救急車が二人の前に着いた。  下を見ていた友美は、きっと前を向き、最後まで自分の足で歩こうと意識を集中した。しかし、すでに立っているだけでも辛《つら》い棒のような体は、ゆっくり傾《かたむ》いた。  その体を、誰かが横から抱《だ》き止めてくれた。そして、手が肩に回る。  驚いて見ると、不気味な星虫が目に入ってきた。寝太郎だ。もう顔の透視も出来ない。 「行くぞ」  その言葉の意味が、全《すべ》てをあきらめていた友美には理解出来なかった。 「え?」 「行くっ!」  寝太郎の星虫の頭頂部が、紫《むらさき》の輝きに満ちた。 「だめよっ!」  怒鳴った友美だが、体が浮《う》くと同時に、寝太郎にしがみついていた。 「姉貴、じいさんと仲良くな!」  寝太郎は秋緒に怒鳴り、消えてしまいそうな飛翔への感情を、無理やりにかき立てた。 「兄さん、ごめん。父さん母さんにもごめんって伝えて」  友美の声に、幸雄と直人はジャンプして二人の足を捉《とら》えようとあがいた。 「なにを考えてんだ、友美っ!」 「手術してもしなくても、私もう助からない。わがまま通させて、兄さん。そして吉田さん。ごめんなさい」  シュンと、二人の姿は闇の中へ消えた。 「追えっ!」  叫《さけ》び声が上がる。 「馬鹿、マッハだぞっ!」と、誰かが叫び返す。  罵声《ばせい》の中で、秋緒は茫然《ぼうぜん》と空を見上げていた。 「……馬鹿」  そして、首を振《ふ》った。医師としての教育を受けた彼女には、助かる確率が低いこともわかっていたのだ。  歯がみする心の中に、友美をうらやましく感じる想《おも》いを見つけていた。 「友美、あなたはラッキーよ」  吐息《といき》をついた秋緒は、国連へ連絡をとるため、蔵へ戻った。  幸雄も直人たちも、報道陣と共に二人を追って走る。  誰にとっても、長い夜になりそうだった。  全世界に、再び捜索《そうさく》の網《あみ》が張られた。  国連宇宙開発機構は、打ち上げられた地球観測衛星をリンクして、星虫をキャッチしようとスタンバイしたが、何一つ手掛《てが》かりは得られなかった。  それもそのはず、二人は直線で数百メートルも離れていない竹林の中の『森』に横たわっていたのだ。  寝太郎には、そこまで飛ぶのがやっとだった。  倒木《とうぼく》で出来た草地に寝《ね》ころんだ二人は、共に荒《あら》い息をついている。もう寝太郎にも立ち上がる力すら残っていなかった。今の飛行で、精神力を使い果たしたようだ。 「……なんで、手遅れだってわかってるくせに、病院なんか……」  寝太郎は横を向き、友美をにらんだ。まだ彼には星虫を透《す》かし、友美の汗《あせ》まみれの顔を見ることが出来る。 「寝太郎君は、まだ半分以上、自分の体が残っているじゃない」  友美の息が大分苦しそうだ。どうやら星虫の酸素供給も、止まりかけているらしい。 「あのな、両手両足なしで、生きていけってのか? それに委員長は完全に死んでたぞ」 「寝太郎君は、頭さえ生きてれば、世界の役に立つよ」 「ここまで来て、おれだけ生き残れるかよ、馬鹿」  怒《おこ》ったように寝太郎は言い、友美から視線を外し、天をにらんだ。 「でもさ、国連に、行きたかったんでしょ?」  怪物顔が、微かに動く。 「行きたかった。猛烈《もうれつ》にな。けど」  友美は、再び寝太郎が自分を見ているのを感じた。 「たとえこの星虫事件がなくても、国連へは委員長とでなけりゃ、行く気はなかったからな。ま、あの世へも、一緒に行こうや」  その言葉が、友美の胸に染《し》みていった。  これで良かったとは、思っていない。あのまま病院へ行くべきだったろう。しかし友美は嬉《うれ》しかった。理屈《りくつ》でなく、寝太郎が自分を、そして星虫を救ってくれたことにたまらない喜びを感じていた。 「……寝太郎君って、素敵《すてき》ね」  突然《とつぜん》そう言われ、寝太郎はビクッと体を震わせた。 「な、何だそれ」 「どうしてもてなかったんだろ。こんな素敵な男の子|他《ほか》にいないよ。世界中|捜《さが》してもさ」 「ば、馬鹿言うなよなっ。けど、宮田より、上か?」 「ずっとずっと上だよ」  寝太郎は、よしとうなずいた。 「もう、心残りねえぞ。おれ」  そのニコニコ顔が、友美の霞のかかった目にも見えそうだった。  すでに上半身しか自分の体は残っていないようだ。寝太郎の呼吸も上がってきている。  最期《さいご》がどんどん近づいていた。 「窒息死《ちっそくし》か……」と、寝太郎がつぶやく。 「ぞっとせんなあ、よりによって」 「でも、この子たちも戸惑《とまど》ってるよ。何とか私たちを、助けようとしてる」  それは寝太郎も感じていた。星虫の意思が体をコントロール出来なくなっているのだ。 「ラジオももう無理だ」 「私なんか、目も、見えないんだから」  威張《いば》ったように言う友美に、寝太郎は呆《あき》れた。 「……やに明るいな。委員長。死ぬの怖《こわ》くないのか?」 「ばーか。怖くないはずない。さっきから、震えてんだから……」  今まで自殺者を馬鹿にしていた友美だが、今では彼らが凄《すご》い勇気の持ち主だと分かる。 「自分で自分を、殺せるなんて、尊敬出来るくらい、勇気あるよね?」 「ああ、この恐怖《きょうふ》に耐《た》えられるんだ、すごいよな」 「死ぬんだ……」 「ああ……」  二人は無言となり、荒い呼吸音だけが、星虫の中でこだました。  もう、背や体側に感じるはずの草の感触《かんしょく》も消え、真上に掛かる大木の枝《えだ》も見えない。臭《にお》いも外界の音も、なくなっていた。  これが死ぬ事なんだと、友美は悟《さと》っていた。底無しの穴に落ちるような恐怖が湧《わ》き上がる。  どうしてこんな事になったのかと、自分を責める声も聞こえた。友美のエゴイズムで、世間を騒《さわ》がし、寝太郎を巻き添えにして、おじさんの夢の邪魔《じゃま》をしたと…… 「ごめんね」  その友美の声だけは、星虫を通して寝太郎に通じる。 「馬鹿。無理やり、さらったのは、おれだ。あやまんのは、おれの方だって」 「……ありがと。星虫に、代わって、お礼言う」 「いいって、もう。星虫は、おれのだ。地球の、おれが、育てた、分身だから」  友美の星虫説は、もう寝太郎には疑問の余地がなかった。 「おれも、宇宙へ、こいつを、帰したいからな」  と、不意に思いついた寝太郎が、小声で聞いた。 「これって、新聞に、なんて、載《の》るかな?」 「さあ?」 「心中に、なるんじゃ、ないか?」  意識が遠のきかけていた友美だったが、その言葉にプッと吹《ふ》き出した。 「やだ。けど、きっとそうだね」  心中事件なら、父からも聞いたことがある。遺書と睡眠薬《すいみんやく》の空き瓶《びん》。そして、必ず二人は手と手を握《にぎ》りしめているのが、パターンなのだという。 「じゃ、期待、裏切ったら、悪いね」  友美は、意思を振り絞《しぼ》り、寝太郎側の手を動かそうとした。  寝太郎も残る力を、全てそそぎ込《こ》んだ。その手が、ほとんど動いていない友美の手に当たったのは、数分後だった。 「……悪い、もう、握れない」  謝《あやま》る寝太郎に、友美は微《かす》かに首を振った。 「充分《じゅうぶん》……」  もう、蚊《か》の鳴くような声だった。 「委員長? 大丈夫《だいじょうぶ》か?」  呼吸は早く、浅くなっていた。 「もう……名前で、呼んで……」  怒った声が、微かに聞こえる。 「……友美……」 「広樹君……」  友美の呼吸は、さらに早く、浅くなってゆく。 「ありがと……先……行くね……待ってるよ……」  最後に大きく息を吸い込んだまま、呼吸が止まった。  すでに寝太郎の目も完全に見えなくなっていた。本当に死んだのかという思いと、これでよかったのかという後悔《こうかい》が、交錯《こうさく》する。 『ま、しょうがないよな』と、自分に言い聞かせる寝太郎の目から、涙が止まらない。  国連に入ってしんどい目に会うより、この方が楽かも知れん。無駄死にでもない。地球の救い主のために命を捧《ささ》げるわけだ。ちと格好艮すぎるが、ま、自分は友美のおまけだから、気は楽だった。 『さあ、ゆっくり寝るか。命をやるぞ、宇宙へ帰れ、お前ら。けど、おれを喰ったお前は、きっとなまけもんになるからなっ!』  薄《うす》れていく意識の中で、そう怒鳴《どな》った。  昨夜と同じ月明かりが、円形の草地を照らし、木陰《こかげ》の二人にも当たっていた。  地球の声が、森を満たしている。  二人の体を喰い尽《つ》くした星虫は、全身をボーッと光らせながら、蠢《うごめ》き始めた。  再び変態が始まったのだ。 [#改ページ]  七 日 目  翌日。夜が明けると同時に、二人の捜索《そうさく》が本格的に始まった。  日本では、警察はもとより、陸海空|全《すべ》ての自衛隊、マスコミ、そして何百万もの人々が、世界最後の星虫を捜《さが》し求めている。捜しているのは日本だけではない。.アメリカ、ソビエト、ヨーロッパ、中国、フィリピン、オーストラリア、そしてアフリカ全土でも、大捜索の網《あみ》が張り巡《めぐ》らされていた。  特に米ソの協力ぶりは異常と思えるほどで、環太平洋《かんたいへいよう》全軍が捜索に当たっている。  しかし、残念ながら、それが二人の命を救うためとばかりは言い切れなかった。  星虫は飛ぶ。それも、ジェットともロケットとも違《ちが》う未知の駆動《くどう》方式で、大気圏《たいきけん》を突破《とっぱ》までしてのけたのだ。速度は最低でも音速の十倍は軽いだろう。もし星虫を手に入れ、飛行原理が解明できるのなら、その国はこれから始まる宇宙開発時代で、絶対的な優位に立てるはずだった。  人々の、そして国々の思惑《おもわく》を秘めて星虫捜索は続いていたが、二人の行方《ゆくえ》はようとして知れなかった。 「まだ見つかってないか?」  隆が、携帯《けいたい》テレビを見る正夫に聞いた。 「駄目《だめ》みたいだな」  正夫は肩《かた》をすくめ、チャンネルをかえてみる。  四人は相沢家に、秋緒を尋《たず》ねる途中《とちゅう》だった。彼女《かのじょ》なら、マスコミ以上の情報を得ているに違いないと思ったのだ。  二人の後ろでは、直人と洋子がなぜか睨《にら》み合っている。  午後四時を過ぎていた。  午前は、ほとんど強制的に大学病院で精密検査。午後は高校で説教という時間割りを終え、やっと釈放されたのだが、四人の心は晴れなかった。  星虫を取って以来、世界はピントの外れた映画のように輪郭《りんかく》がはっきりしないし、色もあせ、視界も狭《せば》まった。いきなり百倍も目が悪くなったような気がする。もちろん、元に戻《もど》っただけなのだろうが、精神に受けたショックは小さくない。  その上、彼らは友美というアイドルをなくしたのだ。暗くなるのも仕方なかった。 「悪いのは、寝太郎だ」と、直人が怒《おこ》って言う。 「違う。寝太郎君は友美を守ったんだって!」  洋子は怒鳴り、「何も分かってないんだから……」と、昨夜から真っ赤なままの、目頭《めがしら》を押《お》さえた。彼女は、得たばかりの親友を亡《な》くしたのだ。 「おい、今更《いまさら》言ってもしょうがない事で、喧嘩《けんか》すんなよ。寝太郎も委員長も、まだ見つかってないだろ。生きてる可能性もあるぜ」  だが、その楽天的な隆の言葉は、誰《だれ》一人説得出来ずに消えた。  すでに死者は三百六十人に達している。酸欠で重体が二十人。そのうち半数は死ぬか植物人間になると予想されていた。  竹林の横を通りながら、洋子は友美の事を思い出している。  一昨夜、星虫のおかげで眠《ねむ》れない夜に、友美は全てを洋子に語って聞かせてくれたのだ。  自分が、ずっと宇宙飛行士を目指していた事。今までそれを隠《かく》し、猫《ねこ》をかぶっていた事を謝《あやま》った友美は、その後、おじさんの物語をしてくれた。そして、寝太郎がそのおじさんの息子《むすこ》だった事、突然変身した訳を笑って話した後で、星虫の正体も教えてくれた。  友美は今が本当の自分だと言い、こんな妙《みょう》な女の子でも友達でいてくれるかと、心配そうに聞いた。すべて納得した洋子は、「当たり前よ」と、笑ったのだ。今まで漠然《ばくぜん》と感じていた友美との距離がゼロになっていた。こうして二人は、やっと本当の親友になれたのだ。  だから、友美が自分の命をかけて星虫を宇宙に帰そうとしたことを、洋子は知っている。  そして、どれほど寝太郎が友美にとって、大切な存在になっていたかも…… 「友美、その自分の気持ちに、気がつかずに死んじゃったのかな」  つぶやいた洋子に、何か言ったかと直人が聞き直した。 「森へ行ってみない? 地球の声を聞きに」  洋子の意見に、気持ちが晴れずにいた全員が乗った。  竹林の中を行きながら、いつしか話題は昨夜の事に移っていた。  特に、秋緒と寝太郎との間に交《か》わされた会話は、謎《なぞ》だらけだった。 「だから、寝太郎君が、国連の進化計画に参加してくれって、言われてたんでしょ? それで、あの吉田博士が、寝太郎君のお姉さん。そして、寝太郎君は、友美がその計画に行かないなら、自分も行かないって話だったんじゃない?」  その洋子の言葉に、正夫が頭を抱《かか》える。 「……そこんとこで、僕《ぼく》の頭は理解を拒絶《きょぜつ》するんだよな」  いくら外見が変わったところで、あの寝太郎とコンピュータ言語の天才を=でつなぐなど、この男子三人には出来なかった。特に、直人には。 「ありえん! んな馬鹿《ばか》な事があってたまるか! きっと人違いに決まってる」  大体と、更に直人が寝太郎の悪口を並《なら》べ立てようとしていた時、前方の門からすごい勢いで、寝太郎の祖父が駆《か》けてきた。 「おおっ! 君達《きみたち》かっ!」  顔色が悪い。どうしたのかと洋子が尋ねる間もなく、その手を引かれた。 「来てくれ! とにかく急いで!}  只事《ただごと》ではない雰囲気《ふんいき》に、全員森の奥《おく》へと突《つ》っ込んだ。  大分と日が傾《かたむ》いた倒木《とうぼく》の草地の大木の下に、見たこともない物体が二つ、並んでいた。  全長は二メートル五十。横幅《よこはば》一メートル程《ほど》の、ミイラを収めたエジプトの棺桶様《かんおけよう》の形をしている。全体は黒光りした皮革に覆《おお》われ、樹皮のような亀《かめ》の甲《こう》のようなヒビが縦横に走る。  第一印象は、巨大《きょだい》なゴキブリの卵を彷彿《はうふつ》とさせた。  沈痛《ちんつう》な面《おも》もちで、それを見つめていた老人と直人らは、顔を見合わせた。  これが、友美と寝太郎の変わり果てた姿であることは、間違いない。しかし、下手に警察に知らせれば、騒《さわ》ぎになるだけでは済まなくなる。各国が星虫を欲し掛っているのは、すでに周知の事実だ。友美たちが命を捨てて頑張《がんば》ったのは、星虫を宇宙に帰すためだと、洋子は知っていた。そんな連中に渡《わた》すわけにはいかない。  しかし、友美の家族と、寝太郎の姉、秋緒には知らせるしかないという結論になり、隆と直人が走った。  連絡を受け、まず到着《とうちゃく》したのは、一番近い秋緒だった。  草地の上に柩《ひつぎ》のように並ぶ姿に、目を伏《ふ》せる。 「誰も触《さわ》っていない? これから何が起きるか、わからないわ。余り近づかないで」  疲《つか》れた様子の秋緒は、その場に座《すわ》り込んだ。 「……これは、蛹《さなぎ》と考えた方がいいわね。多分、ここから星虫の成虫が出てくるんじゃないかしら。広樹と、友美を栄養にした……」  洋子が首を垂れた時、電話ですっ飛んできた友美の家族が到着した。  憔悴《しょうすい》しきった母親を支えた幸雄と、制服姿の父が続く。 「もうすぐ、救急車が来る。運ぶのを手伝ってくれ」  二つの物体を見るなり父が言い、全員を見回した。 「駄目です、おじさん!」  驚《おどろ》いた洋子が叫ぶ。 「言ったでしょ? 友美は、星虫を宇宙に帰すために、ここまで頑張ったんです。ここで星虫を殺したら、友美は……」  しかしその言葉は、友美の母の突き刺《さ》すような視線に封《ふう》じ込められた。 「星虫は、友美の仇《かたき》です。友美の体の一部でも残っているなら、粉々に砕《くだ》いてでも、助け出したいのが、親の気持ちよ」  その迫力《はくりょく》には、秋緒すら、何も言えなかった。  だが救急車を呼び、勤務中の警察署長を呼んだ母の動きが、マークしていたマスコミや政府関係者に漏《も》れないはずがなかった。  父と幸雄が物体を運び出そうとしゃがんだ目の前の森から、いきなり十名近い銀色の男たちが飛び出した。  ほとんど全員、星虫を連れにきた宇宙人かと錯覚《さっかく》したが、その顔の辺りは透明《とうめい》で、どう見ても東洋人の顔が覗《のぞ》いている。 「危険だ、下がれっ!」  妙な防護服を着た人間。その内の一人が拳銃《けんじゅう》を全員に向けた。脅《おど》しつけ、全員を倒木の所まで追い込むと、初めてかぶっていた宇宙人のようなヘルメットを外した。  残りの連中は二体の物体の回りで、運び込んだ複雑な計測機を、次々とセットしはじめている。 「何者だ! その拳銃は何事だね!」  友美の父が、目の前の男に怒鳴りつけた。  洋子も直人たちも、突然のこの事態にとてもついていけず、息をするのも忘れていた。  男は意外にも、すっと拳銃を下ろし、頭を下げた。そして腹に付いた二重のチャックを開き、証明書を見せる。 「政府のものです。拳銃は、この星虫捜査の危険性から、特別に許可をいただいたものでして、無礼はお詫《わ》びします。しかし、この宇宙生物は非常に危険なものですので、人命を優先した結果と、お考えいただきたい」  嫌《いや》なやつだと全員が感じた。いかにも胡散《うさん》臭《くさ》い笑いが、唇《くちびる》から消えないのだ。  星虫の回りでは機器の設置が終わり、何十本もの色とりどりのコードが、二体に取りつけられていた。 「勝手な事をするなっ! おれの妹だぞっ!」  飛び出そうとする幸雄へ、男の拳骨が埋《う》まった。鳩尾《みぞおち》だ。  うずくまる幸雄に、「お気の毒です」という声が届いた。 「星虫をどうするつもりなの?」  静かな秋緒の声に男は顔を向け、その美貌《びぼう》に目をパチクリさせた。 「あなたは、ひょっとして、吉田博士ですね? 昨年までMIT(マサチューセッツ工科大学)にいらした」  全員の驚く顔の中で、秋緒はうなずく。 「これは好都合ですな。どうですか、調査に御協力願えませんか? 万能《ばんのう》の天才と言われた貴方《あなた》なら、星虫についても学究心をそそられるものと……ああ、そのためにここにいらしてたわけだ。それでは駄目ですな。雇《やと》い主は、アメリカ政府ですかね?」  勝手に納得《なっとく》する男に、秋緒は首を振《ふ》る。 「質問に答えなさい。どうするつもりなの」 「運びます」  けろっと答える男に、父が怒鳴る。 「何処《どこ》へだっ!」 「無論、安全な場所へですよ。ここまで育った星虫は、この二体だけです。ご承知のようにね。この先どうなるか、予測すら出来ません。こんな町中《まちなか》では、何か起こった場合、どう対処出来ますか? 万全の対策を講じた施設《しせつ》へ移すのが、適切でしょう。警察署長である貴方の立場なら、肉親の情よりも、市民の安全を考えるべきでは?」  しかし、父は引き下がらなかった。 「なら、ここで殺せばいい!」  秋緒も口を開く。 「そうよ。星虫の力が、科学者の想像を超《こ》えてるのは確か。だったら、核爆発《かくばくはつ》以上のエネルギーを放出しても、おかしくないわけね? そんな物を、この狭《せま》い日本の何処で安全に管理出来るの? あなたが市民の安全を第一に考えるなら、星虫をここで殺すべきだわ」  男はとたんに、「いや、それは……」と、言葉に詰《つ》まった。  もともと市民の安全など考えてもいなかった事を、その態度が雄弁《ゆうべん》に物語っていた。 「三年前の宇宙船事件での損を、これで取り戻すつもりなのよね?」  秋緒は、駄目押しのように皮肉っぽく笑う。  三年前、日米の強硬《きょうこう》調査によって宇宙の塵《ちり》と化したその宇宙船のため、日本は全世界の非難を浴びただけでなく、あの時日本が立て替《か》えた、小国の宇宙船買取割当金のほとんどすべてを請求《せいきゅう》できなくなってしまっていた。その額は何兆円にものぼる。 「娘を実験動物にしないでっ!」と、友美の母が金切り声を上げた。  その声に驚いた男に、わずかな隙《すき》を見つけた父は、男の腰《こし》のベルトに刺してあった拳銃をひったくり、星虫の方へ向けた。 「友美、私が引導を渡してやるっ」  あわてて止めに入ったのは、男ばかりではない。一縷《いちる》の望みを捨て切れない母も、その父の腕《うで》にすがりついていた。  その時だ。  ずっと計測機器にかじりついていた銀色の男たちの一人が、突然大声を上げた。 「間違いない、これは心音だ。だんだん大きくなってる。おい! まだ生きてるぞっ!」  一瞬《いっしゅん》全員の動きが止まった。 「車に運べっ!」  男が怒鳴り、その言葉に従おうと、銀色の連中が立ち上がった瞬間! ボフッという鈍い音と共に、男たちは数メートルも後ろに吹《ふ》っ飛ばされていた。細かい何かの破片《はへん》が、煙《けむり》のように草地に立ち昇《のぼ》っている。 「外皮が!?」  星虫を覆っていた黒い外皮が、いきなり剥離《はくり》したのだ。  その薄《うす》い皮の下から現れたものは、白く輝《かがや》いていた。  六角の水晶《すいしょう》。それをより複雑にカットしたような柩。その中には、少年と少女の姿が、ぼんやりと透《す》けて見えていた。  二人の頭全体を紫色《むらさきいろ》の目が覆っているため顔は分からないが、五体無事のようだ。 「友美っ!」  われを忘れて飛び出そうとする友美の母の前に、秋緒が立ち塞《ふさ》がった。 「まだ変態が続いてます!」  頭を覆う目。へその辺りの丸い目。足元に付く元|蟻《あり》の頭だった目。そしてその両脇《りょうわき》から翼《つばさ》のように伸《の》びるピンクの目。全ての目が輝き始めていた。  目から出た無数の光の粒子《りゅうし》が、七色の輝きを放ちながら明滅《めいめつ》し、光の籠《かご》を編んでいる。見たこともない、美しい籠を。 「綺麗《きれい》……」  思わず洋子がうっとりとつぶやいていた。  それと同時に、今まで暗かった水晶部分も、次第《しだい》に明るさを増し、やがてそれは目映《まばゆ》いばかりの光量になっていった。  洋子の体が、脇に押し退《の》けられた。 「すごい!」と、呻《うめ》いたのは、先夜|一緒《いっしょ》だったテレビディレクター。押し退けたのは、ビデオカメラを持ったカメラマン。彼《かれ》らは塀《へい》を乗り越《こ》え、この様子を見ていたのだが、ついに我慢《がまん》しきれなくなり、飛び出してきたのだ。  カメラのフレームの中で、星虫の最終変態が始まっていた。  水晶の柩は、目映く輝きながら、ゆっくりと浮上していった。それと同時に枢の底が抜け、草の上に友美と寝太郎の体をそっと残す。  五つの目の輝きはさらに強くなり、日の翳《かげ》った森に新たに二つの太陽が生まれたかのように光り輝き始めた。  二メートル以上もあるその全体が、縦にギュッと縮み出す。  輝きが更に増した。もう、誰も直視できない。森に光と、熱とが溢《あふ》れる。 「逃《に》げろっ!」  男が怒鳴り、銀色の防護服を着た連中は、機器を放《ほう》り出して森に飛び込んだ。  光が爆発した。  全員頭を抱えて草むらにしゃがみこむ。  だが、それ以上の熱も光もなく、森は静けさを取り戻していた。  ようやく視力が回復した目を上に向けた人々は、信じがたい物を見ている事に気がついた。  空中に、形を得た光が浮《う》かんでいた。  世界一の宝石を使って、超《ちょう》一流の技術者が作り上げた宝石細工の芸術品が二つ。  それは、大きさが一メートル程。三つの目は、それぞれ頭と胸と腹をなし、その腹を完全に羽と化した二つの目が覆う。全体は、テントウムシにも、玉虫にも似ていたが、もっともっと美しいフォルムをしていた。青みがかったダイヤモンドで出来たようなまるっこい全身に、光で出来た波紋《はもん》が走る。再び頭に戻った薄い青の目と、羽の下から大きく目立っている紫色の目が、更に輝きを増してきた。  得《え》も言われぬ柔《やわ》らかな光が、茫然《ぼうぜん》と見守る全員を照らす。  この世のものとも思えない程の美しさだった…… 「これが、星虫なの……」  感動に身を震《ふる》わせた秋緒が、呻くように言った瞬間。一体の星虫がブルブルッと体を揺すり、頭の目の下から、ピンッと二本の触角《しょっかく》を突き出した。 「起きたんだ」  洋子が、その剽軽《ひょうきん》な動きに、クスッと笑った。宝石で作られた丸い体は、可愛《かわい》く見えなくもない。  変態を完了《かんりょう》した星虫は、全員を見回すようにゆっくりと回転を始めた。その体が、ピクッとしたのは、隣《となり》に浮く自分とよく似た物体に気がついたからだろう。  もう一体の星虫は、先に目覚めたものより、少し小さ目だった。頭の色も少し違《ちが》うし、羽の下に透けて見える丸い胸も、発育不足のようだ。言うまでもなく、このねばすけの星虫が、寝太郎のものだった。  友美の星虫は、いきなりきちんと収納されていた長い足を伸ばした。数日まえの、あの鋏《はさみ》付きの足が、復活している。(今度の鋏は、三本指になっていたが)その足で、ツンツンと寝太郎星虫の頭をつついた。  いきなりその頭に光が宿り、体が揺れた。ズッと、何十センチか落っこちて、またフラフラと友美の星虫の横に浮き上がる。 「……あれ、寝太郎だ」と、隆が笑った。  星虫たちは、人間たちを完全に無視し、互《たが》いに向き合って、触角を震わせていた。  その腹を成す紫色の巨大な目が、次第に目映い輝きに満ちてくる。  寝太郎の星虫が森のなかに、すっと入って行った。その後を友美の星虫が、楽しげに追う。唖然《あぜん》と見守っていた全員の中で、戻《もど》ってきていた銀色の男たちが、あわてた。 「追えっ! 絶対に捕《つか》まえるんだっ!」  拳銃を取り返すのも忘れて、政府の回し者たちは、森に消えた。  それを、またマスコミが追っかける。  しかし、残された全員は、星虫が横たわっていた場所へ走っていた。 「友美っ!」 「広樹っ!」  友美の母と、秋緒の声が森に響《ひび》く。  二人はびしょ濡《ぬ》れで、草の中に横たわっていた。  その顔色は青く、唇《くちびる》に色がなかったが、微《かす》かに呼吸しているのは確かだった。  飛びつこうとする母を止めた秋緒は、男たちが残していった診療《しんりょう》器具を使い二人を診察していたが、不意に肩《かた》をすくめた。 「助かりますか?」  すがるような父の声に、秋緒は首を振った。 「……助かるもなにも、少し貧血気味だけど、熟睡《じゅくすい》してるだけだわ。二人ともね」  歓声が湧《わ》き、全員が二人のそばに集まった。 「友美っ!」と、母が抱き締《し》める。その腕の中で、友美はうっすらと目を開いた。 「……広樹君ののろま、まだこないんだから……」 「友美っ!」  幸雄と両親の声が、友美の頭をガンガン鳴らす。完全に目が開いた。 「あれ? 母さんも、死んじゃったの?」  ぽかんとした友美の頬《ほお》に、母のビンタが炸裂《さくれつ》した。 「このこのこの、親不孝者っ!」  あわてて止める父と幸雄たちの横で、寝太郎も目覚めていた。 「おれ、生きてんの?」 「この、大馬鹿《おおばか》もんが!」と、祖父が怒鳴《どな》る。  寝太郎は、祖父と秋緒が並《なら》んでいるのを見て、にこっと笑った。 「まだ安心は早いわ。病院へ行き、精密検査を受けてからでないと、断定出来ない。まったく、無茶もいいところよ」 「せっかく熟睡してたのに、あのまま、死んでた方が楽だった……」  秋緒は、クスクス笑っていた。口ではああ言ったが、もう命の危険はないだろう。星虫の正体が、この時すでに秋緒には、見当ついていた。  突然《とつぜん》寝太郎が飛び起きた。 「そうだ、友美はっ!」  その必死の顔は、全員が初めて見るものだった。 「いるよ」  真横で頬《ほお》を赤く腫《は》らした友美が、小さく手を振る。  ほっとした寝太郎の体が、また草の上に倒《たお》れた。  友美は、その寝太郎の無事な姿に、照れ臭さと、たまらない嬉《うれ》しさを感じていた。  助かったなんて、夢《ゆめ》みたいだった。いや、夢といえば、昨日までの一週間が、すべて現実ではなかったようにも思える。この森も、今はただの雑然とした林にしか見えない。  星虫は、本当にいたのだろうかという疑問が、心に湧き上がってきていた。 「星虫は?」  おずおずと尋《たず》ねる友美に、幸雄が森を指差した。 「抜けていったんじゃないかな? やけに静かだし」  直人が言い、洋子もうなずいた。 「逃《にが》したって声、私聞いたけど」 「誰《だれ》か追っかけてるの!?」  友美が身を乗り出し、立ち上がろうとしてよろけた。 「友美が命がけで育てたやつだ。そう簡単に捕まらんよ」  体を支えた幸雄が、そう笑った時。  ドカンという星虫が音速を突破した衝撃波《しょうげきは》が森を揺るがし、一瞬二つの光点が天に昇るのが見えた。 「おれたちも追っかけるか? 友美」  兄の言葉に、ふらつく足を踏《ふ》ん張る。自分が育てた星虫だ。宇宙へ帰る前に、一目でも見ておきたかった。幸雄が背中を出し、友美は飛び乗った。  寝太郎も半身を起こし、まだ目を覚ましきっていない体に力を込めた。 「それ……」  目の前に、手が差し出されていた。  見ると、直人の不機嫌《ふきげん》そうな顔が見下ろしている。 「負けた。お前には……」  寝太郎はニッと笑うと、その手をがっしりつかんだ。  太陽が西の空に沈《しず》もうとしていた。  深いブルーの空の中を、二体の星虫が乱舞《らんぶ》しているらしい。  竹林から出た商店街では、買物客や、帰宅|途中《とちゅう》の会社員、学生が空を見てわいわい騒《さわ》ぎ、カメラを手にした人も飛び出して来ていた。  しかし、ビルの谷間のここでは、場所が悪い。 「高校だ!」と、正夫が思いついた。グラウンドでも校舎の屋上でも、視界はずっといいはずだ。  全員、川を挟《はさ》んだごく近所の学校へ急ぐ。  校庭では、抜け目ないマスコミが、早くもカメラの砲列《ほうれつ》を空に向けていた。そして、口を開けて空を見つめる百人近い人々。その中には、この騒ぎに驚《おどろ》いた担任ら教師たちの姿も混じっている。 「友美? 広樹も! 無事だったのか!?」  信じられないといった面《おも》もちで、担任が走ってきた。  すんませんと謝《あやま》る寝太郎の頭を小突《こづ》き、よかったを連発する。  何事かと、人々が友美たちに注目した時、秋緒が天の一角を指差した。 「いたわ!」  たちまち全員の目がその指の先を見る。  オレンジ色に染まった雲がたなびく東の空に、紫色の光点がかろうじて見えていた。それはUFOのような非常識な航跡《こうせき》を空に描《えが》きつつ、北へ動いている。  友美と寝太郎。二人にはその飛び方だけで、星虫の有頂天《うちょうてん》ぶりがわかった。また空を飛べる事が、楽しくて仕方ないのだ。  と、その星虫を追っていた視界に、また一つ、紫に輝く物体が割り込んできた。  もう一体の星虫の登場に、人々がどよめいた。  二体になった星虫は、ぶつかる程《ほど》の距離《きょり》に近づいたかと思うと、いきなり目にも止まらぬ速度で、互いの回りを回転し始めた。  紫の輝きが強まる。北の空に、巨大《きょだい》な紫色の光の輪が描き出されていた。  ごうっという音までが聞こえてくる。紫よりも、白光が強まっていた。 「大気との摩擦《まさつ》であんなに光ってるんだ」  友美はそう言って、横に立つ寝太郎を見た。  その目には、嬉し涙《なみだ》がにじんでいる。  寝太郎は、「あいつらだけ、楽しんでやがる」と、羨《うらや》ましそうに言った。  人々の歓声が続く。  たそがれて行く空を舞台に、星虫たちの乱舞は、ますますエスカレートし、校庭の人数は増える一方だ。  もう、校庭には五百人からの人があふれていた。その中にはテレビで見慣れたレポーターが何人も混じっている。ちょうど友美たちの真横でも、カメラに向かって興奮した口調で怒鳴り始めていた。  人々の大騒ぎの中で、友美と寝太郎は、茜色《あかねいろ》に染まった空を舞《ま》う星虫を見続けていた。  こうして、生きているのが不思議だった。自在に空を切り裂《さ》く物体を、自分らが育てたというのが、信じられなかった。 「ここ、あの世じゃ、ないよね?」  急に不安になった友美は、寝太郎のシャツの袖《そで》を引っ張った。  寝太郎は、「ま、みんないるし、ここがあの世でも、おれ、かまわんな」と、笑う。 「そうだね」  友美はうなずいた。本当だ。両親も兄も洋子も友人たちもいる。そして、何よりも寝太郎がすぐ横にいた。たとえここがあの世でもかまわない。 「でも、あの星虫だけは、現実の方がいいな」  でなければ、命をかけた意味がなかった。 「馬鹿ね、現実よここは」と、洋子が笑う。 「おれたちまで、殺すなよな!」  目を星虫から離《はな》さずに、隆が怒鳴る。  やっと友美は、これが死後の世界でも夢でもないのだと、納得《なっとく》出来た。  そして心からの祝福を、遠い空を駆《か》け巡《めぐ》る星虫たちに贈《おく》る。 『よかったね。頑張《がんぼ》ったね。宇宙へ帰っても、私たちのこと、忘れないで!』  と、突然星虫たちが、その目にも止まらぬ動きをピタッと止めた。  そのまま動かなくなり、ざわめきが校庭を埋《う》める人々から出始める。 「何してんだ?」  寝太郎が首を傾《かし》げ、友美を見た。 「友美なら、わかるだろ。もう宇宙へ帰る気か?」  友美は首を振った。自分にも、すでに星虫との一体感はない。 「どうしたの?」  遠い空へ、また友美は語りかけた。  とたんに、一体の星虫が動き、あわててもう一体も続いた。猛烈《もうれつ》な速度だ。その輝きがどんどん強くなる。 「おい! 真っ直《す》ぐこっちに向かって来るぞ!」  誰かが叫《さけ》ぶ。  遥《はる》か南の空に浮いていた二つの光点が、真一文字に高校めがけて急降下し始めていた。  悪夢《あくむ》のような加速だった。  百キロは離れた空の果てから、たった数秒で落ちてきた星虫が、人々の頭上を掠《かす》めた。 「うわーっ!!」  人々が叫び、なぎ倒されるように地べたに這《は》いつくばる中で、友美と寝太郎だけは、突っ立っていた。  二人には、大丈夫《だいじょうぶ》だという不思議な確信があった。  星虫たちは、倒れた人々の頭上で急制動をかけ、立つ友美たちの少し前で止まった。  友美の前に、星虫の空色の目があった。その滑《なめ》らかな表面に、自分の姿が映っていた。  宝石。それも自ら暖かな光を放つ宝石で出来た生き物が、少し体を傾《かたむ》けて、浮かんでいる。  なにか言いたげに、そして、まるで甘《あま》えるように、その生きた宝石は、体を震わせていた。  友美にはわかった。この子がどうしたいのかが! 「そうだよ。私よ!」  両手を広げた少女の胸に、星虫が飛び込んだ。  抱き締める腕《うで》の中で、星虫の全身が目映《まばゆ》い七色の輝《かがや》きに満ちた。  その輝きは友美の全身を覆《おお》う。まるで光のドレスをまとった姫君《ひめぎみ》のようだった。  どよめきとも溜《た》め息ともつかない声が、見守る人々の中から出ていた。  再び人と星虫の感情が一つになってゆく。友美の心は喜びと感動に満ちあふれていた。  その横でも、再会が果たされていた。  寝太郎の頭に、収納していた全《すべ》ての足で囓《かじ》りついた星虫は、髪《かみ》をクシャクシャにしながら体を持ち上げようとしている。 「やめいっ! こらっ!」と、こっちの再会は友美たちとは違い、えらく騒がしかった。  ようやくショックから立ち直った人々の中から、笑いが起きる。  五台あった中継《ちゅうけい》用のカメラが、二人と星虫をとらえていた。 「ライト消せっ!」と、ディレクターが怒鳴る。星虫の輝きで充分《じゅうぶん》だった。  その声も今の友美には、届かない。  自分が育てた星虫に頬擦《ほおず》りし、涙をあふれさせていた。 「綺麗《きれい》だね。ほんとに、綺麗だね……」  友美が纏《まと》う光のベールは、さらにその輝きを増していた。 「ててててててっ!」  隣では寝太郎と星虫が格闘《かくとう》していた。星虫は懐《なつ》かしいのか、顔面に張りついて離れようとしないのだ。  寝太郎の悲鳴に、思わず目をやった友美は、ブッと吹《ふ》き出した。感動の再会も、これでは台無しだ。  星虫を抱きながら、ケラケラ笑う友美に、おっかなびっくりだった人々も、安心したらしい。笑いの渦《うず》が、急激《きゅうげき》に広がって行った。  そして、報道陣が、二人の前に殺到《さっとう》した。  この二人こそ、全世界が捜《さが》し求めていた行方《ゆくえ》不明の少年少女であり、この美しい不思議な生物が、世界最後の星虫だった。命をかけても、取材する価値はある。  だがその彼《かれ》らより早く、拡声器の声が校庭に響き渡《わた》った。 「動くなっ!」  ハウリングを起こす程の音量だ。星虫までも、びくっと震《ふる》えた。  声は校門からだった。振《ふ》り向いた人々が見たのは、自衛隊の装甲車《そうこうしゃ》。それも五台だ。その先頭車から、一人の男が降りたところだった。 「あいつだ!」  幸雄が拳《こぶし》を作って、友美に言った。 「政府の回しもんだ。星虫を狙《ねら》ってる」  なるほどと、寝太郎は暴れる星虫をヘッドロックに決めながら、友美を見た。 「こいつは貴重な宇宙生物だし、その上この飛行能力だ。欲《ほ》しいよな、政府としたら」  三十人以上の自衛官が、こっちに向かってくる。 「そこの二人! 危険だからその星虫を引き渡しなさい! 手を離すなよ!」  友美は呆《あき》れて、走ってくる馬鹿どもを見つめた。 「死ぬ気で育てたのは、日本政府のためじゃない。何考えてんだろ?」 「星虫を、馬鹿な役人から守れっ!」  直人が怒鳴り、隆と共に自衛官たちに突っ込んだ。 「おれも行くぞっ!」と、殴《なぐ》られた借りを返そうと、幸雄が続く。  成虫になった星虫の美しさと、可愛《かわい》らしさ。そして、剽軽《ひょうきん》さに感動していたのは、友美の仲間ばかりじゃない。たちまちその数は、数百人になった。大乱闘《だいらんとう》だ。  その後ろで、友美は星虫を見つめていた。 「もう、行けるね?」  気持ちは、確実に伝わっている。星虫の腹が、再び紫《むらさき》の輝きを増していった。 「行きなさい」  友美は、真っ直ぐ天を指差した。 「ほら、行けっ!」と寝太郎は、無理やり空へ放《ほう》り投げた。  すでに夕焼けも終わり、空は暗くなっている。あっというまに役人の手が絶対に届かない所まで上昇《じょうしょう》した星虫は、途中で停止した。 「……ほんとに宇宙へ行けるかね?」  寝太郎の祖父が、友美の横に現れて、尋ねた。 「行けますよ、きっと」  そう答えたのは、何と秋緒だった。 「吉田さん」  驚く友美に、秋緒は小さく吐息《といき》をつく。 「友美が、正しかったわ。きっと、星虫は宇宙へ行く。保証するわ」  上空、星虫の回りに銀色の輪が出来ていた。 「土星じゃあるまいし……」  なにが起こるのかと、腕組みした寝太郎がつぶやいた瞬間《しゅんかん》。 『ドカン』という爆発音《ばくはつおん》と共に、星虫が消えた。 「爆発した?」  驚く友美に、寝太郎は違《ちが》うと指差した。  日が落ちたとはいえ、まだ夜には遠い空に、二つの星が微《かす》かにきらめいていた。  風が急に舞い始める。星虫たちが宇宙へ向かった証《あかし》の風だった。  乱闘していた人々、自衛官、役人、報道関係者たちまでも、しばらく無言で空を見上げていた。  帰ったのだ。  そして、帰せたのだ。  友美の心では、寂《さび》しさと、喜びとがごっちゃになっている。 「やったな! 友美」  寝太郎が笑っている。そう、笑っていいんだと、友美にもわかった。 「やったよね? 私たちやれたんだ!」  両手を取り、跳《は》ね上がって喜ぶ二人に、右目を腫《は》らした隆が走ってきた。 「よくやったよな!」  バシンと、寝太郎の背をはたく。 「うん、よくやった!」  祖父も、孫の頭を叩《たた》いた。 「えらいぞっ!」と、見知らぬ男が友美に声をかける。  星虫に感動した一人の少女が拍手《はくしゅ》を始めると、それはあっという間に全体に広がっていった。 「みなさん! 世界でただ二人、星虫を宇宙に帰したこの二人に対し、万歳《ばんざい》を三唱いたしましょうっ!」  調子乗りの隆が、大声で怒鳴《どな》った。 「せーのっ!」  街灯がつき始めた町に、時ならぬ万歳の声が流れていった。  友美と寝太郎は、祝福する人々に囲まれ、どうしてこうなるのか分からぬまま、万歳を続けた。  その二人めがけて、報道陣が再び迫《せま》ってきている。  気配にいちはやく気付いた寝太郎の姿が、友美の横から不意に消えた。  何百人もの人の輪から逃《に》げ出した寝太郎の前に、秋緒が立ちはだかる。 「一人だけ逃げるの?」 「おれ、やだよ、テレビなんか」 「駄目よ、広樹。あなたはもう起きなきゃ。いつまで寝《ね》ているつもり?」  寝太郎は頭を掻《か》いた。 「わかってるけどさ。もう少し寝てたいな……」 「十年も寝たでしょ? 充分のはずよ。そろそろ、お姫様を手に入れたくならない?」 「お姫様?」 「昔話《むかしばなし》の寝太郎は、ある日目覚めて、手柄《てがら》を立てて、お姫様をお嫁《よめ》にするのよ。あなたも寝太郎なんでしょう?」  そして秋緒は、マスコミに囲まれてあわてている友美を目でさした。  寝太郎は驚いたように、その少女を見つめた。  お姫様という言葉が、心の中にこだましている。  昔、弱虫の男の子を泣かした、いじめっ子の女の子がいた。たった半日で三度も泣かされた男の子は、今度来た時には、仕返ししてやろうと、一杯《いっぱい》罠《わな》を仕掛《しか》けて、待っていた。待って待って待ち続けたが、その子は現れない。それでも待っている間に、いつしか女の子への思いは、敵愾心《てきがいしん》から懐かしさに変わり、早く来ないかと待ちわびる気持ちになっていった。  そして十年、待ち続けたいじめっ子は、ある日突然、長い髪のきれいな少女に変身して、男の子の前に現れたのだ。  そう。その女の子が、寝太郎のお姫様に違いなかった。  それが分かった時、寝太郎の体の中に、今まで感じた事のないやる気が満ち満ちて来るのが感じられた。お姫様を手に入れるためなら、何だってできそうなくらいに。 「……うん。なら、起きるか!」  そう言って大きく伸《の》びをした背中に、秋緒は呼びかけた。 「この星虫|騒《さわ》ぎで、プロジェクトの発表が早まるかも知れないわ。マスコミにも慣れておいてもらわなくちゃね」 「まだ、国連に入るとは、言ってない」 「でも、そうしないと、出世して、お姫様をお嫁にもらえないかもしれないわよ」 「自分で何とかする! こう見えても、親父《おやじ》の息子《むすこ》だぞ!」  寝太郎、いや、目を覚ました広樹は、人込《ひとご》みの中へ突っ込んだ。  広樹を見つけた友美が、その腕を取って何か怒鳴っている。  クスクス笑う秋緒の後ろで、直人は腕組みしていた。  頬に受けた自衛官のパンチのおかげで、ハンサムが台無しになっている。 「はい!」と、洋子が濡《ぬ》らしてきたハンカチを手渡した。  直人の目は、カメラの砲列《ほうれつ》の前で楽しげに体を寄せ合い、インタビューに答える友美と広樹から離れなかった。 「結局、似合いのカップルだったのよ」  二枚目に変身した広樹を指差し、洋子は直人に言った。 「それに寝太郎君は、六つの時から友美が好きだったんじゃないかしら。キャリアでも直人はかなわなかったってこと」  長い長い溜め息をついた直人は、頬にハンカチを当てた。 「人は見かけによらなかったわけだ」  うなずいた洋子は、意を決して、顔を上げた。 「私も、見かけによらないわよ」 「どこが?」 「……五歳の時から、隣《となり》ん家《ち》の男の子が、好きだったんだから……」  直人は呆れ顔で、洋子を見た。 「馬鹿《ばか》、こんな時に冗談《じょうだん》言うな。おれとお前は、ただの幼なじみだろ?」  洋子は何も言わず、その鈍感男《どんかんおとこ》の手をひねり上げた。  明るいライトを浴び、テレビでよく見るレポーターからインタビューを受けながら、友美はまだ有頂天《うちょうてん》だった。生きていられた喜び、そして星虫を無事に宇宙へ帰せた喜びが、友美を酔《よ》わせていた。広樹の腕を抱《かか》え込んでいたのも、気付かないほどに。  この時、星虫のニュースは、全世界にリアルタイムで中継されている。  昨日まで普通の高校生だった少女は、すでに世界中の注目を集める存在になっていた。 [#改ページ]  エピローグ  星虫が宇宙へ帰ってから、あっという間に一週間が過ぎていた。  本当に、あれからが大変だったのだ。  二人が生きており、二体の星虫が宇宙へ帰った事は、トップニュースとして全世界に報道されていた。中でも、星虫の最終変態を撮影《さつえい》したビデオは、世界中で何度放映されたか分からないほどだ。決死の撮影をしたカメラマンとディレクターは英雄《えいゆう》あつかいだった。  そして、星虫を捕《と》らえようと自衛隊まで繰り出した政府は、また大きく株を下げ、今度の選挙では、政権|維持《いじ》すら難しくなっていた。  この世のものとも思えない星虫の美しさは、四日目以来、黙《だま》ってしまった宗教関係者に、再び活気を取り戻《もど》させていた。やはり自分たちが正しかったと彼らは口を揃《そろ》える。  星虫こそは、神の試《ため》しだった。神が人間に対し、我が身を捨て星虫を育てられるかどうかテストをしたのだ。もし、一体の星虫も宇宙に帰せなければ、人類はその瞬間《しゅんかん》に滅《ほろ》び去っていたにちがいない。二人はいわば救世主だと……  宗教家たちの言葉を、一笑のもとに切り捨てられない美しさが、星虫にはあった。  そして、友美と広樹との別れのシーンは、星虫の可愛《かわい》さとあいまって、『星虫こそ天使の化身《けしん》だ』という説を、信者以外の多くの人々にも、納得《なっとく》させてしまっていた。  宗教家が極端《きょくたん》に過ぎるにせよ、死の恐怖《きょうふ》に打ち勝ち、星虫を宇宙へ帰した二人への賞賛は、友美へのインタビュー内容が知られるにつれ、絶大なものになっていった。  星虫事件において、人間は地球の立場に立たされていたのだという友美の説。そして、地球の叫《さけ》びが、自己を犠牲《ぎせい》にしても人間を宇宙へ旅立たせようとする複雑な感情だという説は、今や八割|方《がた》の人々に受け入れられていた。  星虫の正体は依然《いぜん》として謎《なぞ》だったが、その株は再び急騰《きゅうとう》し続けている。  友美と広樹は、半ば特別な存在に祭り上げられようとしていた。強制的に入院させられた病院の回りには、三百人以上の全世界から集まったマスコミと、それに倍する宗教関係者や野次馬が取り囲み、まるでスーパースターになってしまった気分だった。  二人は冷汗《ひやあせ》をかき、これはたまらんと、顔を見合わせたものだ。  その時、助け船が意外なところから現れてくれた。  広樹の父が夢《ゆめ》み、秋緒が作り上げたプロジェクトが、ついに動き始めたのだ。  三日前の事である。  あの宇宙船|発掘《はっくつ》事件で巨万《きょまん》の富を得た女性が、突然、全世界に向けとんでもない提案をした。  建設していたレジャーランドとは、実は国連宇宙開発機構が計画した海上都市そのものだと発表、EVOLUTION PROJECT『進化計画』を実現し、遂行《すいこう》する目的にのみ、建設中の施設《しせつ》を含《ふく》む、全資産を提供する用意があると語ったのだ。同時に、それらを活用し、運営するために、強大な権力を持つ、国連宇宙局の創設をも要求していた。  世界は驚《おどろ》き、その意味するところが理解され始めるにつれ、大騒《おおさわ》ぎになった。そして、昨日まで極悪人《ごくあくにん》の代名詞のように言われていた女性は、一挙に地球を救う英雄と化したのだ。  緊急《きんきゅう》に国連総会が開かれる事となり、三日後の今日、その議決が全世界注視の中、行われようとしていた。  友美たちの教室でも授業を中断し、その歴史的瞬間を見るため、特別にテレビがつけられていた。  議決までの待ち時間の間に、進化計画の概要《がいよう》を紹介《しょうかい》する映像が流れ始める。  三日前、この発表があった時に放送したものの、何度目かのリピートだった。  それでも最新のコンピュータグラフィックで構成された画面が、圧倒的《あっとうてき》な迫力《はくりょく》で展開し始めると、生徒たちの目はテレビに釘付《くぎづ》けになってしはった。  真っ青な南方の海。その只中に立つ四つの巨大な塔《とう》。画面はいきなり海底に潜《もぶ》り、作業するロボットの様子を描《えが》き出した。この海底作業ロボットが、プロジェクトシティと呼ばれる事になる海上都市の基礎《きそ》工事を受け持つのだ。  再び海面に画面が出た時には、四つの塔は、幾層《いくそう》もの複雑なモジュールで結ばれ、巨大な空間が構築されていた。さらに各国のドックで建造され、船に引かれて来た巨大なモジュールが、次々と合体してゆくさまが、コンピュータグラフィック独特の回りを旋回《せんかい》する視点で映し出される。あっという間に、とても人工のものとは思えない巨大な島が、洋上にそびえていた。  そして、また画面は海底へ向かう。シティの真下から遥《はる》か彼方《かなた》の海底山脈に向けて、一本の途轍《とてつ》もなく太いパイプが一直線に伸《の》びていった。そのパイプの中へと視点は移る。内側には槍《やり》のように細長く、見たこともない優雅《ゆうが》なフォルムのシャトルが走っていた。チューブの中で、その針のような先端《せんたん》が赤く、そして真っ白に輝《かがや》き、さらに加速を続ける。シティから百二十キロも離《はな》れた無人島に、パイプの口が開いていた。角度は五十度。その先から、目にも止まらぬ速度で光が飛び出した。光を追って、視点は宇宙へ舞《ま》い上がる。衛星|軌道《きどう》上に着いたシャトルの腹が開き、これほど入っていたのかと思えるほどの量の物資が空間に運び出され、シャトルは去ってゆく。しかし、すぐまた次のシャトルが、新たに画面に出現していた。  最初は、宇宙に浮《う》かぶ塵《ちり》だった。それが、テレビ画面下の日付の動きと共に、加速度的に巨大化してゆく。一年で倍、二年目で三倍、そして五年目には、二十倍にも達している。それはもはや、宇宙ステーションというようなスケールではない。一つの星だった。視点はその星に向かう。巨大な衛星の中には、町があり、森があり、地球の環境《かんきょう》がそのまま移されている。この衛星は、将来スペースコロニーを建設するための実験場となる。その星の外側には、次々と巨大な小惑星《しょうわくせい》が宇宙から曳航《えいこう》され、それを材料とした、宇宙船や、居住ブロックが作られてゆく。そして、最初の植民地となる月に視線が移った。  最後に映し出されたのは、暗い宇宙に浮かぶ、信じられないほど巨大なスペースコロニー。  これを作ることが、進化計画の最終目的である。その大アップと共に、映像は途切れた。  再び画面が、海面に浮かぶ四つの巨大な建造物を映し出す。それは現実の映像だ。  三年後、このプロジェクトシティは完成する。その時、全世界から三万人の若者が公募《こうぼ》される事になるはずだった。  画面は、再び、国連総会の映像になっている。議決はもうすぐのようだ。  ほうっと溜《た》め息ついた友美は、心配そうに隣《となり》の広樹を見た。 「否決なんか、されないよね?」  今やきちんとアイロンのかかったワイシャツとズボンに身を固め、目もばっちりと開いた広樹が、大丈夫《だいじょうぶ》と笑う。 「そのために姉貴たちが、発表前に駆《か》け回ったんだ。根回しは充分《じゅうぶん》出来てるよ。ちょっと汚《きたな》いけど、政治って、そんなもんらしい」  友美はうなずく。この時期に発表を繰り上げてくれた秋緒に感謝した。  でなければ、マスコミのおかげでまだ病院からも出てこれなかったろう。妙《みょう》な宗教関係者や、何社かの雑誌が二人を追ってはいたが、学校に来れない程《ほど》ではない。 「ほら、始まったぞ」  広樹の声に、友美は目を画面に戻した。思わず目を閉じて祈《いの》る。  どきどきと見守る彼《かか》らの前で、しかし、呆気《あっけ》なく議決は終わっていた。  否決どころか、反対する国すらなく、満場|一致《いっち》で、提案は受諾《じゅだく》されたのだ。 「やった!」  友美は飛び上がって喜び、広樹の両手を取った。  これで、おじさんの、秋緒の、友美と広樹の夢が叶《かな》うのだ!  そして、すでにそれは友美と広樹だけの喜びではない。教室の全員が、立ち上がっていた。 「このプロジェクトに、参加したいか?」  担任が大騒ぎの生徒たちを見回して、そう聞いた。 「そら、ただで宇宙へ行けるんだ、乗るよなあ!}  隆がわめき、「お前が行けるか」と、正夫にはたかれた。 「こら、田中にも可能性はあるんだ。もっとも、あまり大きくはないがな」  担任がそう言ってみんなの笑いを取り、その顔を隆に向けた。 「では、田中。進化計画の問題点をあげてみてくれ」  隆は、きょとんと担任を見返した。 「問題点? んなもん、あるんですか、やっぱり」  担任は難しい顔をして腕《うで》を組んだ。 「最大の問題は、まだまだ宇宙が危険な場所だということだ」  宇宙に行くのは人類の夢だと言ってもいい。しかしそこは、住むのに向いた環境ではなかった。強烈《きょうれつ》な紫外線《しがいせん》。地上の三十倍もの放射線。大気なし。温度は零下《れいか》二百七十度。 「いくら対策を講じても、危険な場所であることに変わりない。無重量が生物に与《あた》える影響《えいきょう》も、まだ研究段階だ。そういう意味では、本当に、見切り発車だな」  担任のその言葉で、クラスの中に、一瞬白けた雰囲気《ふんいき》が漂《ただよ》った。 「先生は、プロジェクトに反対なんですか?」  怒《おこ》ったような友美の質問に、担任は全員に尋《たず》ねた。 「こんな問題があっても、まだプロジェクトシティに行きたい者、もしいたら手を上げろ」  ほぼ全員の手が上がった。 「なんだ、宇宙が怖《こわ》くないのか?」  担任は目を丸くし、そして意外にも、「それなら、是非とも、頑張《がんば》ってくれ」と、真剣《しんけん》な面《おも》もちで言った。  気の抜《ぬ》けたような生徒たちを前に、彼は続けた。 「歴史上、巨大な『プロジェクト』は、数多くある。万里《ばんり》の長城、エジプトのピラミッド、奈良の大仏でもいい。アポロ計画もその一つだろう。それらに進化計画のような問題はなかったか? とんでもない! 万里の長城の建設で、農民が何万人死んだか。ピラミッドを建てたのも、貧しい農民や奴隷《どれい》だった。大仏|建立《こんりゅう》時、金メッキに使われた水銀などの重金属の中毒で、死人や病人が続出した。アポロ計画でも、国民全部が賛成していたわけじゃない。そんなものに使うなら、福祉《ふくし》に回せと、何万人もの反対運動が起こったんだ。巨大プロジェクトは、その同時代の人々にとっては、途轍もなく迷惑《めいわく》千万な代物《しろもの》だ。しかし、現代に生きる我々には、それは感動を与え、揚子江《ようすこう》と黄河《こうが》を結ぶ大運河のように、実利さえ伴《ともな》う素晴《すば》らしい人類の成果なんだ」  この『プロジェクト』は史上最大、地球最後の大プロジェクトになる可能性があった。 「全周二十キロを超《こ》えるプロジェクトシティには、百万人が居住可能だ。静止軌道上に作られる中継《ちゅうけい》基地の直径は三キロ。最終的には、その四倍にもなる。しかもそれが始まりに過ぎないんだ。月面都市。そして、オニール博士が提唱したスペースコロニーの試作が、同時に開始される。これに成功すれば、人類は、永久に居住地には困らなくなるんだ。確かに宇宙は危険だ。これから計画が進めば、事故も難問も出てくるだろう。しかし、人類が宇宙に生活圏《せいかつけん》を広げ、未来の子孫に自然を残せる事に比べれば、大した問題じゃないぞ」  まだその上にと、担任は興奮してきた生徒たちを見渡《みわた》した。 「もし三年後の試験に受かり、君らがプロジェクトに参加出来たなら、どれだけのメリットがあるか分かるか? ただで宇宙へ行ける。それだけじゃないぞ。まずプロジェクトシティで君らは教育を受ける。そこがどういう場所になるか、想像してみろ。全世界、津々浦々《つつうらうら》、ありとあらゆる人種、国民が集結する、本当の意味での国際都市になるんだぞ。そこで学べるのは、技術だけじゃないはずだ。技術者学校のテストには、英会話が必須《ひっす》だから、言葉の壁はない。友人が、別の国々からやってきた友人が何人も出来るだろう。人種や国家を超えた友人がだ。そして、君らは宇宙へ出る。そこには、国境なんかない。つまり君|達《たち》は、人種も国境も関係ない、人類史上初の『地球人』になる可能性があるということなんだ」  生徒たちの頭の中は、すでに飽和《ほうわ》状態だ。ずただ単純に宇宙へ行けるかもと思っていた高一の彼らには、まったく予想もしない話の成り行きだった。  その雰囲気を感じた担任は、入り過ぎた肩《かた》の力を抜いた。 「おいおい、ぼーっとなるのは、まだ早すぎるぞ。それは技術者養成学校に入れたらの話だ。現実は厳しいぞ」 「わかってます」と、直人が苦笑いした。 「何億分の三万ですからね」  だが、担任は首を振《ふ》る。 「問題は人数だけじゃない。今言ったように、英語という大関門がある。日本人には、まだまだ不利だ。途上国の受験者は圧倒的に多いだろうし、その人々の多くが英語を使って生活している。一旦《いったん》受かれば、無条件で学資から生活費の全《すべ》てを無利子で貸し付けてくれる上、人類の最先端《さいせんたん》で働く事が出来る進化計画を目指して、全世界が動き出しているんだ」  昨日も途上国の子供たちが、養成学校のテスト科目になる基礎《きそ》数学と英語の勉強に入った事を、ニュースが伝えていた。後は、新方式の知能適性検査に合格できれば、プロジェクトシティへ行けるのだ。貧困から脱出《だっしゅつ》するために、彼らは必死に合格を目指す。全てに満ち足りた日本の学生とは、意気込《いきご》みが違《ちが》っていた。  教室に諦《あきら》めの空気が充満した。 「……やっぱり、アメリカ有利にしてんだ。卑怯《ひきょう》だよな」  隆のつぶやきは、生徒ほとんどの気持ちの代弁だった。 「こら、そう悲観するな。確かに不利だが、英語圏以外の受験者には、それなりの考慮《こうりょ》も加えてくれるはずだ。ま、それでも日常会話は絶対条件だがな。大体、三年もある。その間に勉強すればいい。それに、養成学校へ行くだけが道じゃないぞ。技術者も二万人|募集《ぼしゅう》される。なにもハイテク分野だけじゃない。農業、林業、園芸、芸術、教師でもいい。三年後が無理でも、それから毎年、数万人ずつ増員していくんだ。あきらめる事は何もないぞ。夢は大きく持て」  そして担任は、その自分の言葉で思い出したように友美を見た。 「夢と言えば、みんな。この間の進路調査。委員長は第一志望に何と書いたと思う?」  友美は、ドキッとして、少し青ざめた。昔《むかし》、小六の時に、教師からほとんど同じ言葉を聞いた覚えがある。 「東大だろ?」とか、「ハーバードじゃないか?」とかいうぎわめきが聞こえる。  まるで悪夢のように、教室の声すらその時と同じだった。そして教師は予想通りの言葉を吐いたのだ。 「みんな驚け、宇宙飛行士だそうだ!」  友美は思わず目を閉じ、全員からの笑い声に耐《た》えようと身構えた。  教室に、どよめきのような声が湧《わ》き上がっている。  身を固くした耳に、「さすがだな!」という声が聞こえて、はっと目を開けた。  嘲笑《ちょうしょう》を覚悟《かくご》していた友美だった。しかし回りから浴びせられていたのは、賛嘆《さんたん》の声と、眼差《まなざ》しだったのだ。  友美はほっと体の力を抜き、そして、みんなを見回した。  入学以来、何となく彼らに感じていた壁が、みるみる溶《と》けてゆく。いつの間にか全員が、同じ夢を持つ仲間に変わっていたのだと知った。 「そう、委員長なら、きっと夢を叶《かな》えるだろう。しかしな」  そう言って、今度は隣の広樹を見る。 「この広樹でも行ける可能性は、充分あるんだぞ」  とたんに友美の顔に浮かんでいた喜びの笑《え》みが消え、教室に笑いが湧き上がった。  しかし直人たち、広樹の正体を知る四人は、とても笑えない。  口止めされていたが、秋緒から、広樹が進化計画のメインスタッフにスカウトされているのを、はっきりその耳で聞いてしまっていたからだ。  友美はその笑いに腹を立てていた。広樹は、養成学校どころか、計画に不可欠な天才的頭脳の持ち主なのだ。しかも、見かけの方も大幅《おおはば》に改善されている。今や、直人などよりも、はるかにかっこいいはずだった。  笑いが収まったのを見て、教師はさらに全員を激励《げきれい》した。 「もう一度言うぞ。頑張れ。是非とも頑張って欲しい。人生がつまらないか素晴らしいかは、その人がどれだけ大きな夢を持っているかで決まるんだ。このプロジェクトは人類が見続けてきた壮大《そうだい》な夢を実現させる計画だ。その人類の夢に、君達の夢を重ねてみろ。その夢が叶う時、君達自身が素晴らしい人生を得るだけじゃない。人類と、地球に住む生きとし生けるもの全てが救われるんだ」  怒っていた友美をも含めた全員の心に、希望とやる気が湧き上がっていた。 「というわけで、今日から全教科、宿題を二倍にする。文句ないな?」  楽しげな担任の言葉に、どーっと、全員が前につんのめった。  放課後になり、久し振りに友美たち六人が一緒《いっしょ》に校門を出ようとしていた。 「知らんてのは、恐《おそ》ろしい事だな」と、正夫がケラケラ笑っている。 「おれ、もうちょっとで、寝太郎の事、言いそうになったぜ」 「もう寝太郎という呼び名はやめて!」と、友美が隆に釘《くぎ》をさす。 「それに、吉田さん怒らせたら、プロジェクトに入れてもらえないよ」  笑いながら言った洋子は、その目を広樹に向けた。 「でも、本当に行かない気なの? 国連へ」  さっぱりした頭をこくりとさせる広樹に、もったいねえという隆の声が上がる。 「そうだぞ。先生の話じゃないが、おれたちが地球のためにやらなきゃならない世代なんだ。氷室さんと星虫を育て上げたお前なら、分かるはずだがな」  そう直人が、責めるように広樹をにらんだ。 「宮田らと一緒に、受験するって言ってるだろ?」 「そういう事」と、広樹と友美が息を合わせる。 「大体、あの日以来、姉貴はアメリカだし、なんの連絡もないんだ。やっと勘違《かんちが》いに気がついたんじゃないか?」  そう言う広樹に、全員顔を見合わせた。あれほど執着《しゅうちゃく》していた秋緒が、そう簡単に諦めるとは信じられない。 「ま、それも楽しいか。おれは、運動のエキスパートになって行くつもりだ。一緒にやろうぜ!」  隆が広樹の背中を叩《たた》く。 「正夫も、相沢と同じ、コンピュータで行くんだよな?」  正夫がうなずく。 「今のところ、相沢にはかなわんけどね。まあ、僕《ぼく》はコンピュータ言語でなく、プログラムの方で、受けてみるよ」 「私は、画家になろうかな」と、洋子は友美を見た。 「私も友実を見習うわ。昔持ってた夢《ゆめ》を追いかけることにしたの。星虫の目で見たものが、百枚でも描《か》けそうだしね」  そして、友美から聞いた宇宙から見た地球をこの目で見、描きたいと、頬《ほお》を染めた。  友美はその親友に微笑《ほほえ》み、横の直人に聞いた。 「宮田君は?」 「俺も、君を真似《まね》させてもらうよ」  直人は子供のように、笑った。 「実は、宇宙飛行士が、夢だったんだ。君に追いつくのは、骨だろうけどね」  友美の事が吹《ふ》っ切れた笑顔だった。洋子が、小さくウインクを送ってくる。二人は上手《うま》く行っているらしい。 「みんなで行けるといいね!」  友美は心からそう願って、全員を見つめた。 「じゃ、おれたちは、ここで」と、隆が正夫の肩に手をやる。 「今日から、数学教えてもらうんだ。こいつにな」 「ま、いくら馬鹿《ばか》でも、三年あればなんとか……」  隆が正夫を小突《こづ》く。 「おい相沢。言っとくけど、先に行っても構わんからな! どうせおれたちも行くんだ!」  正夫に追っかけられながら、隆はそう怒鳴《どな》り、手を振った。  笑いながらそれを見送っていた洋子も、直人を見上げる。 「じゃあ、私たちもここでね」  うなずいた直人が、友美と広樹を見た。 「相沢。おれも、お前は先に行くべきだと思う」 「いいの! もう」と、洋子がその口をふさいだ。 「じゃあね。友美。相沢君。また明日」  橋を渡っていく二人を、友美と広樹は見送った。 「森に寄ってくか?」  横に立つ広樹が、友美に聞く。 「そうね!」と、妙に明るく友美は答えた。  星虫をなくしてんまった友美の目にも、午後の竹林は美しく感じられた。森への門は閉まっていたが、地球の声は、静かに聞こえてくる。  友人たちと別れると、友美の胸に得体の知れない不安が頭をもたげ始めた。  隆と直人の言葉が心に重くのしかかっていた。広樹は、ここにいるべきではない。一日も早くプロジェクトに参加すべきだ。友美以外の全員が、そう思っている。  でも、友美はそれが嫌《いや》だった。  星虫を、二人で命懸けで帰した時から、ずっとこれからも広樹と一緒なのだと、漠然《ばくぜん》と信じていたから……  しかし、このぼーっとした少年を鍛《きた》え直してやろうと思っていた自分が、いかに身の程知らずだったかも、痛いほど分かっていた。やはり広樹は、紛《まぎ》れもなくあのおじさんの息子《むすこ》だったのだ。秋緒と同じ天才の一人。将来、同じ道を歩けそうもない、遠い存在……  だから、この三年間の高校時代くらい、一緒に過ごしたかった。 「ほんとにお姉さんから、連絡ないの?」  友美は何気なく尋ねたが、内心震えていた。広樹を連れ去る秋緒が怖い。怖いからこそ聞いておきたかった。 「ああ。ほんとだって。ぜんぜんだ」  屈託《くったく》なく広樹は笑う。彼の能力を認めていないのは、今や広樹本人だけだった。 「宇宙へはもう一度行きたいから受験はするけどな。友美と違って受かるかどうか」  ぼやく広樹に、友美は呆《あき》れた。 「受かるに決まってるじゃない。なんだったら、シータの次を作っとけばいい。そうすれば、きっとフリーパスよ」  その言葉に、広樹はニッと微笑えんだ。 「実を言うと、もう始めてんだ。目処は立ってる。三年あれば、完璧《かんぺき》なものが出来るはずだ」 「言ったはずよ、それじゃ間に合わないわ」  突然《とつぜん》竹林に、よく通る声が響《ひび》く。  三人の外国人を連れた秋緒が、車椅子《くるまいす》に乗ってやって来るのが見えた。 「少なくとも、再来年《さらいねん》までには、新言語が必要なの」  目の前た来た彼女《かのじょ》は、「正式にスカウトに来たわ」と、二人に言う。  車椅子に驚《おどろ》いた二人が、秋緒に駆《か》け寄った。 「大丈夫《だいじょうぶ》ですか!」と、聞く友美の顔色が変わっている。  秋緒はニコッと微笑んだ。 「ちょっと、体調崩しただけ。大丈夫よ」  そして、友美にだけ分かるように、小さくうなずいてみせた。  ほっとした友美の心には、もう秋緒に対するわだかまりはない。この素敵な人物への賞賛の気持ちだけだ。ついさっきまで、世界で一番会いたくない人だったのに、車椅子姿を見たとたん、全てが吹っ飛んでしまっていた。この女性は、命をすり減らすようにして、世界を救おうとしている。もう、わがままは止《や》めにする時だ…… 「国連に行って。広樹君」  友美は広樹に告げた。  本当は、とっくにわかっていたのだ。これからも続くはずだった高校生活は、願ってはならない夢。それをなんとか守ろうとしたのが、漠然とした不安の正体だと。  一緒に星虫を帰したことは、もう遠い過去の話だった。広樹は自分とは違う。この秋緒と同じ、おじさんの跡継《あとつ》ぎ。選ばれた人だから。 「進化計画は、私たちの星虫と同じよ。星虫は、私たちを殺さずに宇宙へ帰った。地球の声を聞きなさいよ。いくら人間が宇宙へ出るためだからって、地球を殺していいの? 人間と地球が助かる鍵《かぎ》の一つは、広樹君が握《にぎ》ってるのよ!」  広樹は友美を見、そして秋緒をにらんだ。 「……この友美を選ばん姉貴は馬鹿だ。けど、ほんとにおれで役に立つなら、行くのが男だな」  秋緒は満足そうにうなずく。 「完全に目が覚めたみたいね」  とたんに広樹の顔が、赤くなった。  その広樹を、友美は見つめる。  おじさんによく似た、照れ屋の少年と、これで別れねばならないのだと思うと、涙《なみだ》が出そうになった。 「せっかく、また会えたのにね……」  広樹の目が優《やさ》しくなる。 「すぐ会えるって」 「待っててよ」と、友美は言った。 「絶対行くから、待っててよ!」 「ああ。ずっとな」  約束《やくそく》する二人の前で、秋緒はやれやれと男たちと顔を見合わせた。彼らは笑っている。 「あのね広樹。忘れたの? 私はとっくに正式スカウトしたはずよ。あなたにはね」  えっ? という顔が、二つ並《なら》んだ。 「まさか」  広樹が友美の顔を見た。 「そのまさかよ。私は友美をスカウトに来たのよ」 「おれのおまけでか?」  秋緒は首を振る。 「でも、私には、何の才能もない!」と、友美は秋緒に怒鳴った。 「私も最初はそう思ったわ。確かに。だから、広樹の言葉に従うわけには行かなかった。でも、広樹が正しかったの。あなたを認めた父もね。目がなかったのは、私だけよ」  なおも信じない友美に、秋緒は言い切った。 「三十億分の二。この数字があなたの才能を示してるじゃない」  星虫を帰した一人。だが友美がいなければ、一体の星虫も宇宙へ行けなかっただろう。 「あなただけが、直観的に星虫の特質を見抜《みぬ》く事が出来た。そして強い信念と行動力で、守り通したわ。普通《ふつう》の人に出来ることじゃない」 「違います。広樹君がいなければ、星虫は帰せなかった」と、友美は否定する。  しかしそれは違うと、広樹は初めて姉に味方した。 「おれは、完全におまけだからな。何度も言うけど、友美が二体の星虫を帰したのと同じだ。おれがいなかった方が、簡単に帰せたと思う」  秋緒はうなずき、話を続けた。 「もう一つ。あなたは地球の叫《さけ》びを正確に理解した。私の調べた限りでは、途上国《とじょうこく》の呪術師《じゅじゅつし》が数名、そしてイギリスの高名な霊媒師《れいばいし》だけが、似た事を言ってただけ。自分で地球の声を聞いた経験からみても、あなたの分析《ぶんせき》が中でも飛びぬけているわ。それが、星虫と宇宙技術、地球の環境《かんきょう》問題への理解の深さから出ていたとしてもね。非科学的だけど、地球の声を正確に解読するには、特別な能力が必要だと認めざるを得ない。たとえば神の声を聞く、巫女《みこ》のようなね。友美には、その力があるのよ」 「……先祖は、それらしいけど。そんな……」  友美は、秋緒の言葉に呆気《あっけ》に取られていた。確かに自分でも、気持ちが悪い位にカンが当たることはあるけれど…… 「大体進化計画の役には、立たないです。そんな力が、たとえあったとしても」  秋緒はとんでもないと、笑った。 「星虫事件を通して、このプロジェクトには、あなたの星虫を見抜いた直観と、地球の声を正確に解読出来る科学的な霊感が、是非とも必要だとわかったの。人間と星虫とは同じ立場だと言ったわね? その通りよ。星虫は地球であるあなたを殺さずに、宇宙へ帰る事が出来た。言いかえれば、あなたはそう星虫を育てる事が出来たのよ。人間が宇宙へ出るための進化計画は、まさに星虫だわ。この先、どう育つか見当もつかないところもね? 私も不安で一杯《いっぱい》よ、実のところ。だからこそ、同じ事を先にやりとげた唯一《ゆいいつ》の経験者に加わってもらいたいの。つまり、氷室友美、あなたに」  とんでもなかった。余りにも買いかぶりすぎだ。友美は思わず冷汗が湧き出るのを感じていた。 「じ、自信ありません! それに私は巫女になる気ないし、宇宙飛行士になりたいし」  秋緒が、楽しそうに笑い出した。 「誰《だれ》も巫女になれなんて言ってないわ。もちろん、みっちり勉強してもらいます。私は今、自分の後継者《こうけいしゃ》を育てているんだけれど、その子にもパイロットの訓練をさせているわ。友美には、将来その子の補佐をしてもらいたいと思っているの」  広樹から、秋緒は進化計画の、実質上の総責任者だと聞いていた。その後継者の補佐? 聞く友美の顔が、段々青くなってきた。 「本気……なんですか?」  秋緒が、悪戯《いたずら》っぽく続けた。 「まだ来る気にならないなら、止《とど》めを刺《さ》して上げましょうか?」  友美の喉《のど》が、ごくっと鳴った。 「星虫の正体が確定したわ。今夜にも全世界に発表されるけれど、一足早く教えてあげるわね」  秋緒は、後ろの男たちから数枚の書類を取り、驚く二人に手渡《てわた》した。 「星虫の成分分析表よ。それも四日目以降の、巨大化《きょだいか》した星虫の胴体《どうたい》部分のね。それが、あるものの成分と、ぴったり合致《がっち》したのよ」  そして、一枚の写真を見せた。  それは二人とも何十回と見慣れた物体の写真だった。 「三年前の、宇宙船!?」 「そう。星虫は、その宇宙船の子供のようね。爆発時に残っていた残骸の一つが、地球の衛星|軌道上《きどうじょう》から消えているのもわかったわ。多分、それが卵だったのよ。三年かかって孵《かえ》ったわけね。そして、地上にばらまかれた」  すさまじく進んだ異星の遺伝子工学の成果。生きた宇宙船。それが星虫の母親だったのだと秋緒は言った。  驚きに、二人は声も出ない。 「確信したのは、蛹《さなぎ》から現れた、あの綺麗《きれい》な星虫を見た時だった。もっとも、二人が宇宙に出た時から、もしやとは思っていたけれどね。気圧を維持《いじ》し、酸素を補給し、宇宙へ飛び出す。それは、宇宙船の機能そのものだから。もっと早く気がつくべきだったわ。そうすれば、四百人もの犠牲者《ぎせいしゃ》を出さずに済んだかもしれない。でも、まさか宇宙船が子供を産むなんてね……」  馬鹿馬鹿しいほど、とんでもない話だった。しかし、星虫の能力の凄《すご》さを体験した二人には、認める以外の道はなかった。  星虫が、あの宇宙船の子供だと…… 「私たちは二人に感謝しているわ。心からね」と、秋緒は言う。 「えっ?」と、二人は首を傾《かし》げた。 「そうでしょ? あの宇宙船がなければ、進化計画の実現は不可能だった。人材と資金を集めてくれたのは、星虫の母親なんだから」  もう、驚き疲《つか》れてきた二人だった。確かに、あの宇宙船|発掘《はっくつ》事件がなければ、五十兆円も科学技術者の国際的な連帯も有り得なかったのだ。 「進化計画は、人間と地球を救うプロジェクト。私たちは大恩人にとんでもない不義理をするところだったわけね。たった二体でも帰せたのは、友美と広樹のおかげよ」  それからと、もう二枚写真を手渡した。 「これはまだ発表しないけれど、二人には知る権利がある」  太陽の写真だった。数個の黒点と、プロミネンスが写っている。 「これが?」  問いかける広樹に、 「星虫がどこへ向かったか、聞いてない?」と、秋緒が尋《たず》ねる。  聞いていた。太陽だ。 「そのプロミネンスをよく見なさい。二つ丸い穴が開いてるでしょう」  確かに不自然な穴が、太陽の表面を虹《にじ》のように結ぶ巨大なプロミネンスの上部に二つ、口を聞いている。 「まさか!」と、広樹が怒鳴る。 「そのまさかよ。星虫は今度は太陽を食べてるようね。本当にとんでもない生き物よ」  もう二人とも、思考能力が蒸発しそうだった。しかも秋緒の話はまだ終わっていなかったのだ。 「あの綺麗な虫は、太陽を食べて、さらに巨大化するわ。星虫はなんだった? 宇宙船の子供よね? 育てば何になるのかな?」  宇宙船の子供なら、宇宙船になる!? 「私の推論だけど、星虫は個人所有の宇宙船だったんじゃないかしら。それを育て上げる事が出来た者だけのね。母親が他《ほか》の知的生物の乗り物だった事は間違《まちが》いないし、あのなつきようを見ても、成長しきれば戻《もど》ってくる可能性がかなりあると思うわ。吸収しているエネルギー量と母親の質量とで計算すると、大体十年位で成虫になるはずよ」  帰ってくる? 星虫が?  友美と広樹は、互《たが》いの顔を見合わせた。 「つまり、あなたたちは、恒星《こうせい》間宇宙船を育て上げたってことになるの。そして、そのマスターになったのかも知れないわけ」  クスクス笑う秋緒は、驚き続ける二人を羨《うらや》ましげに見つめた。  友美は、気が遠くなりそうだった。これは冗談《じょうだん》だ。完全にマンガだ…… 「もちろん、未知の生物だし、可能性の問題よ。でも、その可能性がたとえ一パーセントでも、友美と広樹は、重要人物だわ。考えてもみなさい。銀河を翔《と》ぶ宇宙船を、自由に出来るかもしれないんだからね? それにもともと星虫は宇宙船の子供だし、所有権は国連にあるわ。民間人に私用に使われたら、堪《たま》らないもの」  冗談めかして秋緒は言う。 「だから友美は、二重の意味で、宇宙局に来る権利、いえ、義務があるわ。これでもまだ来ないって言うの?」  友美は、まだぼーっとしたままだ。  秋緒は、広樹に顔を向けた。 「もう、文句ないわね」 「ああ」と、広樹は満面に笑《え》みを浮《う》かべた。 「よろしい。では、彼女の説得は、あなたに任せます。プロジェクトの一員として、氷室友美さんを、責任もってスカウトする事」 「わかった。姉貴」  広樹の嬉《うれ》しそうな返事を聞いて、満足そうに秋緒はうなずいた。 「アメリカで待ってるわ。やる事は山ほどよ。覚悟《かくご》して来なさい。出来るかぎり早く」  そして秋緒は、竹林の奥《おく》に消えていった。  それを見送りながら、友美はまだ正気に戻れない気分だ。 「これ、夢《ゆめ》じゃないのかな……」  あまりにも、現実ばなれした話が続きすぎている。 「私、夢見てるのかな?」  すがるように広樹を見上げた。 「夢は、見るもんじゃないらしい」  広樹は、難しい顔をして言った。 「えっ?」  どこかで聞いた覚えがある。そう、森の中、秋緒を追いかけた時に聞いた言葉だ。 「吉田さんの言葉ね」  広樹は違うと笑った。 「元気だった頃の親父の口癖だったんだ。姉貴からその答え、聞いたか?」  友美は首を振《ふ》った。 「夢は、叶《かな》えるためにあるんだとさ」  その言葉は、友美の心に染《し》み通っていく。そう、夢は自分で叶えるもの。見てるだけでは駄目《だめ》なのだ。  友美に笑みが戻っていた。 「行こうや、一緒《いっしょ》に。その親父《おやじ》の夢、叶えにさ」 「一緒に?」 「でっかい星虫を、育ててやろうや!」  そう言って、広樹は大きく手を広げた。  EVOLUTION PROJECTというでっかい星虫を育てる……  広樹の言葉に、友美は大きくうなずいた。  自信などはない。自信はないけど、それで止まってしまえば夢は叶わないのだから。 「じゃ、いこか」  広樹は、すたすたと歩き始める。 「どこへ?」と、あわてて友美が後を追った。 「友美ん家《ち》。家族の説得が、必要だろ?」  こんな積極的な広樹は、友美も初めて見る。どうやら変わったのは、見かけばかりではなかったようだ。 「……変わったね。広樹君」  広樹は、頭をポリポリ掻《か》く。 「寝太郎が起きた以上、まめにやるしかないんだよな」  その言葉に、友美は首をかしげた。  本当に訳のわからないやつだった。もう広樹の謎《なぞ》はすべて解けたはずなのに……  友美はクスッと笑い、「ま、いいか!」と、その手を取った。 「一緒に行こう広樹君。行けるとこまで!」  星虫のように右手に友美をくっつけた広樹は、竹林の中で頭を掻き続けていた。  夜が来た。  いつものように路地に入った友美は、公園に駆《か》け込《こ》んだ。  汗《あせ》が額を伝う。気持ちいい汗だった。  柔軟《じゅうなん》体操を始める目に、屋敷《やしき》が映る。そういえば、ここで友美は、広樹にトレーニングの様子を覗《のぞ》かれたのだ。一体、どこから見てたのだろう? 『帰ったら、聞いてやろう』と、思った。  まだ広樹は友美の家に居る。  多分あいつも、今頃《いまごろ》友美と同じ位の汗をかいているはずだった。  今、家での話がどうなっているのか、考えるだけでも怖《こわ》いが、今の広樹なら、何とかしてくれていると信じたい。  いや、友美の宇宙局行きは、結構|上手《うま》く説明出来たのだ。不審が喜びに変わった家族の表情が固くなったのは、一緒に広樹もアメリカへ行くと聞いた時からだった。  両親は、広樹の友美に対する感情の方を問題にし始め、兄が広樹なら大丈夫《だいじょうぶ》だと、勝手に太鼓判を押《たいこばんお》し、友美はうろたえ、広樹が茫然《ぼうぜん》となった。そして、何とか進化計画の方に話題を戻そうとした時、まるで止めを刺すかのように、広樹の祖父が酒樽《さかだる》を下げて現れたのだ。  老人は、開口一番、あのどでかい声で、『お宅の娘《むすめ》さんを、是非孫の嫁《よめ》に!』と、頭を下げた。唖然《あぜん》とした家族に、友美の気風《きっぷ》のよさが気に入ったと高笑い。 『どうせ、近々、一緒に宇宙局に行くんです! 今の内に、婚約《こんやく》を!』  真っ赤になった友美が、たまらず逃《に》げ出したのはその直後だった。 『責任持って何とかする』と、広樹は言って、送り出してくれたのだ。  あの大騒《おおさわ》ぎを思い出していた友美は、やれやれと溜《た》め息をついた。 「大人たちは、何を考えてんだろ」  自分も広樹も、まだ十六歳なのに。 「……十年、早いのよね」  でも、十年後。星虫たちが帰ってくる頃になら……  突然《とつぜん》一人で赤くなった友美は、あわててその思いを振り払《はら》う。  馬鹿馬鹿しいと背中を伸《の》ばしたその目の中に、星空が飛び込んで来た。  再び、何百回、何千回と繰り返してきた熱い想《おも》いが、胸を塞《ふさ》ぐ。  あの星の中へ行けるのだ。星虫たちの待つあの空へ、たった五年で!  わずか二週間前、絶望的に見上げた宇宙へ、今度は自分たち人間の力で行ける……  夢のようだった。  いや、最初は本当に夢だったのだ。  今から十年以上前に、おじさんが見た、地球を救う夢……  その夢を叶えることもなく、彼《かれ》は世を去ったが、壮大《そうだい》な夢は、やがて秋緒の夢となり、進化計画という形を得て、広樹と、友美と、全《すべ》ての人類が、今、その夢に自分の夢を重ねようとしていた。  夜空の彼方《かなた》から、星虫たちの声がかすかに聞こえて来る。  その声は、友美を呼ぶかのように、高く低く天に満ちていった。 「今度は、私たちの番だって?」  でも、五十億の人間が宇宙に上がるのは、そんなに簡単ではない。たとえプロジェクトが上手く行っても、事故の可能性や、政治的な問題は、消えはしないのだ。残された時間も不充分。問題は山積している。星虫を帰すほど、単純ではなさそうだ。 「それでも、やるしかないか」  広樹や秋緒と共に、自分の出来る限りの事を、やろうと心に誓《ちか》った。  おじさんが、どこかから見守っていてくれるに違いない。  友美は、思いっきり両手を空に伸ばした。  まるで、二週間前のような、降ってきそうな星空だ。  また、この手の中に星をつかめるかな? と友美は、ふと思った。  それが夢になれば、きっと今度もつかめるだろうと気付く。  夢は、叶えるためにあるのだから…… [#地付き]おしまい [#改ページ]    あとがき  この『星虫』は、本気で他人に見せようと意識して書いた、最初の物語です。  小説のコンクールに応募《おうぼ》したのも、無論初めて。  それが、何の間違《まちが》いかファンタジーノベル大賞の最終選考に残り、とうとう今回、新潮文庫の一冊に加わる事となってしまいました。  木材資源の保護が叫《さけ》ばれる今、こんなビギナーズラックだけで、何万もの本を世の中に出していいのだろうか? それだけの値打ちが、この物語に果たしてあるのだろうかと、冷汗《れいかん》三斗《さんと》の思いです。  そのせいか、自分なりに頑張《がんば》って書きはしたものの、本が店頭に並ぶ段《だん》になっても、実感が今一つ湧《わ》きません。『ひょっとしたら、これは夢《ゆめ》とちゃうか?』と、首をひねりながら、この文章を書いています。  この物語のテーマは、その、夜見る方ではない『夢』です。  もともとの原案では、単に星虫が異様に成長してゆくだけのアクション学園ドラマ(?)だったんですが、その幹から枝葉が伸《の》びるように物語がふくれ上がり、いつしかこのテーマが自然発生的に生まれていました。  真正面から『夢』というものをテーマにする照れもあり、何とかもう少し軽い読み物にならないかとも思っていたんですが、どうやら物語というのは、なかなか作者の思惑《おもわく》通りには進んでくれないもののようです。改めて読み返した今、ようやく、『星虫』とはこういう物語になるしかなかったのだという気がします。  夢を持ちにくい現代に、壮大《そうだい》な夢を創《つく》る話。  結果的に目指したのは、そういう物語ですが、どうでしたでしょうか? 冒頭《ぼうとう》に書いたように、自信など皆無《かいむ》。身のほど知らずのテーマだったと、いまさらながら反省しております。  しかしラスト。主人公以外の若者たちの未来をも、少しでも羨《うらや》ましいと感じてくれたなら、この物語にも、ほんの少しは『夢』があったかと、思うつもりでいます。  それでは。ここまで読んでくれて(あるいは、本屋の店頭で手にとってくれて)、本当にありがとう。この時間があなたにとって無駄《むだ》ではなかった事を、祈《いの》るばかりです。  最後にこの場を借り、『星虫』の最初の読者になってくれた金沢君。益体《やくたい》もない愚痴《ぐち》を聞いてくれた東君。協力してくれた家族。そして、こんな作品に陽《ひ》の目を当ててくれた新潮社と、担当編集者の高梨氏に、心からの感謝の言葉を捧《ささ》げます。  一九九〇年五月。裏の竹薮《たけやぶ》を、ぼけっと見ながら。 [#改ページ]  この作品は第1回日本ファンタジーノベル大賞(主催読売新聞社・三井不動産販売株式会社)の最終候補作品に加筆したものです。 底本 新潮文庫  星虫《ほしむし》  平成二年七月二十五日 発行  著者——岩本《いわもと》隆雄《たかお》