岩城宏之 棒ふりの控室 目 次  わが被過保護物語  それでもスプーンは曲る  わが師を語れず  わが青春の作品一番  わが内なる鉄腕アトム  ああ、双葉山  女は同い年を限度とす、しかし……  「日本沈没」は祈らない「みなさんの沈没」を祈る  違いがわからぬ男は肩がコル  ノーベル文学賞に日本の編集者を推す  松阪牛は完全無欠なインスタント食品  入院バカ、ドック魔といわれても  初めての海外演奏旅行  楽器と奏者の体型学的研究  ヘソ下三寸のアセモについて  「楽士様控室」か「楽員控室」か?  地球の裏のニッポン情報  方々でいろいろな日本人にお目にかかる話  わが収集癖  地球は宇宙人の自然動物園?  長い長い時差のおはなし、その1  長い長い時差のおはなし、その2  アンカレッジのジム父子はいま……  わが被過保護物語  中学一年の半ば頃から約一年半程、岐阜の山奥で暮らし、学校以外は、朝から晩まで野球ひとすじで過した。野球といっても終戦直後のこと、ボールやグローブなど売っているわけもなく、すべて手製。いったいどうやってボールを作ったのかは、ほとんど覚えていないのだが、その頃の友達の話では、グローブは下手だったが、ぼくの作ったボールはなかなか上等で、打つとカーンとよい音がして、しかも長持ちしたそうな。どこかの工場の裏庭から拾ってきた、なるべく堅いゴムの塊をボールの芯《しん》にして、ひもをグルグルまきつけ、外側をありあわせの丈夫なきれで縫ったものだったらしい。  当時のど自慢がはやり出した頃で、田舎の街にもアマチュアの音楽コンクールが時々あった。ナントカさん兄弟のバンドの「リンゴの唄」、隣り村の金持ちのお嬢さんの「乙女の祈り」などなど、出演者は四十組はいただろうか。本当か嘘か知らないが、主催は中部日本新聞社というれっきとした大所で、ぼくも半音だけはかろうじてついているオモチャの木琴と、楽器の下に敷く座蒲団とをもって出場し、モーツアルトの「トルコマーチ」を演奏した。第何位かになり、三百円をもらって、これがぼくの初収入だった。昭和二十一年の三百円だから、ずいぶん多かったような気がする。この三百円で買いたくてたまらなかったグローブを買った。野球など素手でやるか、手造りの布製があたりまえだったから、大変な贅沢《ぜいたく》だった。現在の少年野球用の皮グローブが、せいぜい三千五百円ぐらいのことを思えば、三十年前のグローブ三百円というのは、ものすごい貴重品だったわけだ。このグローブでぼくの野球気狂いはますますこうじ、グローブを買ってくれた木琴などさっぱり御無沙汰で、まっくろになってかけまわっていた。  この田舎で野球気狂いになる前は、生まれてからずっと病気ばかり。ものごころついた頃の記憶は、つき添いの看護婦さんの鼻の横の大きなホクロとか、みな入院のことばかり、まことに不健康な話だ。  小学校の五年と六年の二年間は、合計十カ月も欠席する始末で、空襲のさなかも、身体が弱すぎて集団疎開に加わる能力もない生徒ばかりで編成した、東京残留組の一員だった。何らかの事情で集団疎開にも個人的疎開にもゆけなかった三十人ばかりの生徒を預ってハラハラしていた学校も、これでは卒業は無理だと、さすがにぼくの出席の少なすぎを心配したらしい。玄関で先生が、一年留年のすすめを母にボソボソしゃべっていたのを、寝ながら寂しく聞いていた記憶がある。  ぼくは男三人兄弟の末っ子だった。本当はぼくが生まれる前に男女一人ずついたが、二人とも四歳のとき死んだそうな。つまりぼくは五人兄弟の末っ子である。ところが上のほうは、ぼく以上にもっともっと身体が弱かったらしい。というより、両親があまりに子供の健康に神経質で、もちろんそれが親心のありがたさなのだが、お医者さんの言うことを何倍にも拡大しての守りすぎがあったらしい。あれもいけない、これもいけないものだらけで、結果としてはみな栄養失調の状態だった。ただでさえ弱いのにこんな有様だから、抵抗力をますます失って、毎日、子供のうち誰かは病気をしていた。お医者さんの車が玄関先に止まっていない日はなかったらしい。  両親は両方とも、若い頃、当時は不治といわれた結核で奇蹟的に助かったということだから、神経質になるのも無理はない。ぼくなどは五人目なので、大分めんどうくさくなってきたらしく、両親の監督もゆるやかになり、兄たちの話によれば、彼等よりは、食べてよいものの種類もうんと多かったそうだ。それでも、肺炎になって入院したときは嬉しかった。とにかく何を食べてもいいのだ。病室に鍋焼うどんをとってもらう。最初にうどんを三本くらいチュルチュル食べ、半熟みたいになってのっかっている卵の柔かい黄味だけをスプーンですくう。それ以上食べてはいけないと思いこんでいるぼくを、お医者さんが笑って励ましてくれる。「もっと食べてもいいんだよ。それを食べてごらん。おうちに帰ったら食べられなくなるからね」。こわごわエビを一口食べてみる。かまぼこも食べていいそうだ。世の中にはうまいものがあるものだと、このときしみじみと思った。十日ぐらいの入院でほっぺたも赤く、顔も丸くなりすっかり元気をとりもどす。まるで親の悪口を言っているみたいで心苦しいのだが、わが両親などは、子供の健康を祈るあまりの、気をつけすぎの典型だろう。  退院するといつもの食生活が待っている。ぼくにとってトーストとは、縦六センチ、横四センチ、厚さ一センチちょっとの、みみのないしろもので、今日は顔色がよくないからマッチ箱——ぼく用のトーストをこう呼んでいた——を二つだけよ、などと宣告される。  バナナの形を、ぼくは知らなかった。マンガでお猿さんが皮をむいているのは、あれは違うもので、お猿のためのバナナだと思っていた。ぼくのバナナは五センチぐらいの長さの拍子切りで、頭としっぽはよくない、芯もいけないで、こういう形になり、これが三個。  じゃがいもは新じゃが。常に新鮮でなければいけないから。これは素敵だし、大事なことだ。だが、新じゃがの煮っころがしは、つるつるしていて、コロッと塊のまま喉の中に入ってしまうおそれがあるというので、裏ごしにして食べる。だから、幼い頃、ぼくはじゃがいもとは、お箸《はし》でちょっとつっつくと、もろく柔かくくずれてしまう小さなおだんごだと思っていた。  肉というものは、噛《か》んで噛んで、エキスを充分に味わってから、飲みこまずにお皿の横に返すものだったし、魚は白い柔かいものだった。つまり、小骨からなにからすっかりとり去った白身だけを、食べやすいようにと箸で既にほぐしてあったものだった。  口にものを入れたときは、飲みこむ前にアーンと口をあけて、よく噛んだかどうかを見てもらわなければ、飲みこんではいけなかった。あと二十回噛みなさい、と言われてまた噛む。そうこうしているうちに、また病気になる。そしてまた入院。これがぼくの食生活だった。結果的にいって、子供たちの中の三人が、栄養失調にならずに、一応成人するための歯どめになっていたのは、病気がちょっと重くなりそうだというカンが働いたとき、即座に入院させるという信仰であった。なにしろ栄養の補給をうけて元気になって帰ってくるのだから、入院はやはり理にかなっていた。  今思えば、よくもまあ生き延びられたと思うほどの過保護だったわけだが、しかしこれも、子供を二人も亡くし、生命力の弱そうな子供をかかえた親としては、当然のことだったのだろう。お医者さんから、ともかくお宅のお子さんはか弱いから、「ツ」の字のつく限り、つまり九ツまではよく気をつけて育てなさい、といわれてからの、一種、信仰に近い育児哲学であったらしいのだ。だからこの過保護もぼくが九ツのとき終った。十の声を聞いたとたん、急になにもかも解禁で、まあ、一応育ち盛りの後半かもしれないけれど、エサはたっぷり恵まれることになって、人並みの百六十八センチにはなった。その後は、空襲、焼け跡、食糧難、インフレと、これは全国民と共に、平等に味わった昭和ひとケタ生まれ、つまり焼け跡派の一員である。後に猛烈な大食いのデブデブの八十キロの時期を迎えなければならなかった原因は、野坂昭如さんとはまたちょっと違って、戦前の「ツ」がついていた時期の長い大飢餓時代を、もうひとつもっていたからかもしれない。あれはいけない、これもいけないの超神経質のカロリー不足とは別に、いや、その故にだろうか、ぼくの両親はミネラルとかビタミンとか、いわゆる栄養の配分は実によく計算していたらしい。その基礎があったためだろう、十歳以後温室からほっぽり出された、岐阜の山奥の野外自然放任主義「育児」は、みごとに成功した。結果として両親の子育ては、やはりうまくいったのだ。  ぼくがいやというほど味わった転校の数々は、兄達にはない。これは、末っ子のぼくが「ツ」の後半になって、生き延びそうな確信が持てるまで、父が、役人のくせに、転任をガンとして断わり続けて、名医のたくさんいる東京にだけいたからなのだ。役人の安月給で、合計又は延べ五人の子供をかかえ、ほとんど毎日医者の車が玄関先に止まるなんてやりくりを、いったいどうやってやったのだろう。  幼時の、あれもいけない、これもいけないの食いもののウラミは、もちろん、それこそ恨めしく思うけれど、赤ちゃんの育児方法だって、それまでお医者さんの指導で正しいとされていたことが、新しい研究の結果、突然正反対でなければ、という大騒ぎがしょっちゅうある世の中だ。両親は、その頃の彼等の知識を最大限に、徹底的に、子供のために駆使したのであり、狂信さ加減には、今はにが笑いを禁じ得ないが、さぞや大変だったろう、親というものはありがたいものだ、すごいものだ、と溜息がでてしまう。  それでもスプーンは曲る  日本の田舎の古い旅館なぞに泊っていると、いつもひしひしとお化けの存在を感じる。お化けが恐い。お化けと呼び捨てにすると、お化けに嫌われて、もっと恐くなるかもしれないから、お化けさんとでも上等に言っておこうか。それでもお化けさんというと、やはりからかっているニュアンスがあって、気に入られないかもしれない。でもお化けという言い方に、なにも最初から蔑視のニュアンスがあるわけではなし、時には愛情もこもっているのだから、やっぱり「お化け」でいいだろう。  世にお化けを見たことも、感じたりしたことも絶無で、存在を絶対に信じない人はたくさんいるし、超能力の存在を許そうとしない新聞社もあるくらいだが、ぼくはお化けだって、霊界だって、宇宙人だって、超能力だって、円盤だって、四次元だって、なんだってかんだってみんな信じてしまうたちなのだ。もっともお化けは今まで二度くらいしか見たことはないし、しょっちゅう感じるひしひしの霊気とやらも、そのときのぼくにだけわかるひしひしなのだから、人が信じようと信じまいとどうでもいい。  超能力忍法スプーン曲げ事件は、曲げるほうもひそやかにやっていればよかったのだ。出演させてよろこぶテレビや、またそれを科学的(!?)にむきになって否定する新聞社も、けたたましすぎる。信じない人に信じさせようとするから変なことになり、信じている人に信じさせないように騒ぎたてるから、世の中みんなしらけてしまう。どっちでもいいのだし、あったほうがおもしろいではないか。いずれは、自分が死んでお化けになったときにわかるはず。  たいていの場合、お化けの雰囲気は恐ろしいのだけれど、楽しくウェルカムという気持のときもあるし、おかげで退屈じゃなくなるときもあって、ぼく自身の生活に、お化けの存在はなくてならないものらしい。ただ不思議なのは、ヨーロッパやU・S・A等のいわゆる西洋人の国にいるときに、お化けの存在がぼくには全く感じられないのだ。どうも波長が違うらしい。たとえば、今までにいったい何十万人がここで息をひきとったかみたいな、六世紀そのままの古い城の部屋に通されても、そうなのだ。それこそぼくの頭の中の日本的お化け常識では、霊気が押し合い、ひしめきあいする、とても寝られそうにない充実した空間であるはずなのだが、全然感じない。お化けとの対話には、理性よりもなによりも、心が大事なのである。  また脱線してスプーン曲げ事件にもどるけれど、あの事件そのものは、どの面から見ても、お化け、あるいはすべての「超」への冒涜《ぼうとく》であって、実にけしからん。もし超高速度写真とやらに、トリックが全然映らなかったとしたら、その写真が「超」が本当だということを証明していたとしたら、どうなっていたか。どえらいことになっていたのではないか。だからこそ、わが内なる「お化け」は慈悲深くも写真のコマの一部に手を加え、あたかもスプーン曲げが、トリック、インチキであるかのように仕立てあげてくださったのだ。つまり「超」の存在の可能性を信じざるを得なかったかもしれぬ空虚感から、われわれ人間を救ってくださったのだ。インチキだと解明して大騒ぎの新聞社も、スプーンを本当に念力で曲げたはずの少年も、そのまわりの両親という信者たちも、何次元かは知らないけれど、もっと高次元の「超」があの事件に介入したことに、気がついていない。あと何百年か何千年かたって、すべての「超」が日常茶飯事化される可能性は多分にある。「それでも地球は動く」のガリレオ・ガリレイを罰した法王のように、某新聞社が歴史に残る希望もおおいにあるわけだ。  日本人が、西洋系統のお化けと波長が合うか、西洋人が東洋の霊と波長が合うか、今までのところ誰にも尋ねたことがないのでわからない。もし誰も合わないとしたら、これは人類の起源にまでさかのぼらなければならない大発見で、洋の東西の人類は、いや、色のまっ黒な人たちのことも含めて、地球にいくつかの星座から別々に到着したという説がなりたつかもしれない。  ぼくとしては、ヨーロッパでいまだにお化けの波長を感じることができないまま、西洋音楽という、心こそがすべて、の生業《なりわい》を続けてゆくのは、彼等に失礼なんじゃないかと憂鬱になってくる。はやく西洋のお化けを見たいものだ。たまに、パリで気配を感じることがあり、狂喜するのだが、どうも金子光晴さんの『ねむれ巴里』にでてくるような哀れな同胞の野たれ死からの通信らしくて、自分の音楽性の内面を高めてくれる役には立ちそうもなく、がっかりだ。  子供の頃、家に六十センチぐらいの大きさの銅製の観音様があった。後に空襲で家が焼かれたときのことだった。焼け跡をほじくりまわして、銀貨が茶碗の中でとけてメッキされたようにピカピカになったのを偶然見つけて喜んだり、ここらへんはどこの部屋だったはずだと、平らな灰になってしまった我が家の上を、なにか新世界探検のような気分になって遊んだことがあった。そのとき、もちろん焼ける前の顔のつややかさはなくなって、はげちょろけにはなっていたけど、溶けもせず、原形のままのにこやかな観音様を掘り出した。この観音様は、子供の頃から大好きだったし、来客がみんなぼくにそっくりだとお世辞を言い、ぼくもなにやらその気になっていた観音様だった。  焼け跡の暢気《のんき》なほじくり返しゴッコの翌日は一転して、上野の駅で満員の地獄列車に窓からぶらさがることになった。この際観音様はあまりにも重いから焼け跡に埋めていってしまおうという家族の意見に、ぼくはワァワァ泣いて反対し、結局観音様は二番目の兄のリュックの中につめこまれ、日本国中ぐるぐる引っ越しすることになった。今でも父の家にある。  この観音様は、ぼくがものごころついた頃から、何度も夢に出てきたが、手を合わせて拝むような殊勝《しゆしよう》な真似は一度もやらなかったと思う。ただ時々観音様の前にベッタリ坐って、ニコニコと無言でおしゃべりしたりする、気持の悪い子だったという話だ。つまり、この観音様はぼくの子供の頃の親友のひとりだったのだ。  空襲焼け出されの二、三年前、ぼくは左足のすねがすごく痛くなり、骨膜炎という病気とのことだった。今なら抗生物質もあって、簡単になおったのだろうが、当時はまだチャーチルがペニシリンで肺炎を直したより大分前のこととて、骨膜炎の治療も、硼酸水《ほうさんすい》でたえず湿布してじっとしているか、足にでっかいギブスをつけられて、体重をかけるのもいけないから、ただじっと寝ているか、まずそれくらいのものだった。二年ぐらいそうやっていただろうか。今でも左足のほうが、右足よりほんのちょっとだけ細い。  腹這《はらば》いぐらいになってかまわないというので、電気機関車を買ってきてもらい、枕元にレールで山手線を作って、トランスをガチャガチャやって遊んだり、何故《なぜ》か家に落語全集があって、全部を覚えるくらい読みふけり、戦地の兵隊さんに笑いを送るのだといって、「えー、一席お笑いを……」とせっせと書き写して慰問袋を作ったりしていた。受け取った兵隊さんは、袋をあけると子供の字の、「エー、一席……」がでてきて、さぞたまげたことだろう。電気機関車のほうはよく脱線した。すきを見てはギブスの足ひきずって腹這いで直しにゆくので、足はさっぱりよくならぬ。ある時、捕虜交換船でアメリカから帰ってきた、木琴の平岡養一さんの放送があり、魂うちふるえて今度はあれを買ってくれとせがむ。木琴ならば、腹這いのままフトンの中でカタカタやっていればいいわけで、汽車の脱線よりはましだろうと、オモチャの木琴をあてがわれ、これがぼくと音楽との最初の出会いなのだ。この点骨膜炎には深い感謝を捧げねばならぬか、それとも後にこんな商売に追いやったと恨むべきなのだろうか。  時々医者はやってきて、ギブスをとり、すねをギュッと押す。イタイ、と叫ぶと、まだ直っていないという。あんなに強く押したら痛いにきまっているのだから、このヤブめ、と心の中で思うのだが、むこうにはレントゲンという武器があり、やはりヤブではなかったのかもしれぬ。病気がこのまま進んでいって膝《ひざ》の上まで移ってきたら、大変なことになるからというわけで、翌月あたりに、膝のところから左足をチョン切ることになった。ぼくはもうすっかりあきらめの境地で、木琴をたたいたり、「えー一席」ばかりやっていた。  ところがある夜、あの観音様が夢にあらわれ、教えてくれた。「朝鮮人参を砕いて、ショウチュウの中に入れ、一週間ひたしたあとのエキスで痛いところを湿布すれば直るわよ」  目が覚めて、母にギャアギャアこうしてくれとさわぎ、母が医者に相談すると、確かに毒ではないし、どうせ一カ月もたてばチョン切るのだから、好きなようにさせてやりなさいと笑う。朝鮮人参については、当時父の役所の仕事の関係で家にあり、食べたことはなかったけれど、あの妙な形が万病に効くと聞かされていて、それが小学校五年のぼくの頭にこびりついていたのだろうが、ショウチュウのほうは合点がいかない。今ならショウチュウに浸した同じものを、何トカ酒と称して売ってもいるし、朝鮮人参やにんにくを強いアルコールに浸して効率よく成分をとりだすのは常識だが、そんなことを当時の小学五年生が知っているわけがない。考えられるのは、よく少年講談で、肩口をバッサリやられた侍《さむらい》が、傷口をショウチュウで洗われて、ウーンと呻《うめ》く、あのシーン。とにかくショウチュウが飲むものだとは、全然知らなかった。傷薬だと思っていたのだろう。  朝鮮人参をアルコールの中にというアイディアは、確かに今思っても理にかなっていて、とにかく湿布を開始したら、骨膜炎の痛みがメキメキととれてきて、二週間もたつと、あの意地悪な医者が、親指でどんなに押しても痛くなくなり、医者の残念さをよそに、ぼくの骨膜炎はすっかり直ってしまった。だからその後もずっと足は、本物がついている。  二年間病気が続いていて、ちょうどそろそろ直る時期だったのかもしれないし、本当のところはよくわからない。しかしぼくとしては誰がなんといおうと親友の観音様が直してくれたので、某新聞に科学的に解明されたら、病気もまた再発するかもしれない。かといってそれからも観音経を唱えたことなど一度もなく、覚える気もさらさらないけれど、でもこのことは、ぼくと、ぼくのあの観音様との間だけの、「超」だったのだ。  わが師を語れず  最近は親が転勤になっても、子供の進学上都合が悪いからと、単身赴任のケースが多いと聞く。ぼくの子供の頃は、さいわいまだ中学や高校の入試地獄が最近ほどひどくなかったし、それに、父が単身赴任などということを考えてもみなかったせいか、なにしろやたらに引っ越しをした。引っ越し即ち転校だ。小学校で三回、中学校で四回だから、まあ多いほうだろうと思う。転校は本当にいやだった。知らない学校に連れていかれて、初めての先生に挨拶させられ、先生にくっついて教室に行き、みんなによろしくとおじぎする。よろしくなどと言ったわけはなく、実際には赤い顔をしてうつむいていたに違いないのだが、それでも連れていかれる前に、「これから新しい仲間として、みなさんとナカヨクしたいと思います……」のようなことをうまくしゃべろうと、口の中でブツブツ稽古していたのは覚えている。この点、結婚式に招待され、途中、「若い二人にお言葉を頂戴《ちようだい》いたしたく……」と、司会者にたのまれる予感あって、頭の中で、えーと、えーと、とソワソワ練習しているようなものだったろう。新しい教室では結局無言、赤面のペコリが済むと、これから先なじめるかどうか自信が持てないまま、これも自分にとって新しい机に連れていかれる。たいていはまわりのより汚なく見える。新しい子が来る前に、前の日の掃除当番が、きっときれいなのを横取りするのだろう。机は汚なくてもいい。心配なのは、前後左右にどんなヤツがいるかなのだ。小学校は一年のまんなか頃東京から京都に移り、五年の三学期に又東京へ転校したし、中学校は一年に入ったと思ったら、五月の末には焼け出されて金沢に行き、三学期にはもう岐阜の多治見《たじみ》に移り、三年の二学期に東京の別の学校に入ったという具合で、前後左右への心|配《くば》りも相当に忙しかった。その点、新しい隣人への気の配り等、現在の旅がらす生活に大分影響があるかもしれぬ。  どこへ行っても、転校したてで小さくなっているこっちにやさしく声をかけてきて、親切にしてくる子が必ずいるものだ。このあたたかさはとても嬉しいのだけれど、たいてい、こういう子は、普段自分の組の中では仲間はずれにされていて、アウトサイダーといった、いわば弱小民族的な存在であることが多い。転校ズレのこちらとしては、表面この弱小民族と外交関係に入るのだが、弱小民族の一員となることは極力避けねばならぬ。真の大国は誰かを知ることが非常に重要だ。どこでも二大勢力があるものであり、新参としては世界情勢をしっかり把握《はあく》して、どちらかの核の傘《かさ》に入って身の安全を計る必要がある。転校の最初の日からもう安保というのはあまりに軽々しいから、初めの二、三日は弱小国との外交関係で無難に過す。しかしその間にもちょっとしたシカケをしておかなければならない。筆箱に家中ひっかきまわして捜してきた靴の形をした消ゴムとか、キレイな枠《わく》の虫メガネなんかを二つ入れておく。外交関係とは、それ自体礼儀正しいものだから、弱小国は遠くから羨《うらや》ましそうな顔をして見ているだけだけれど、そのうち大国がやってきて、「これ、オクレヨ」というようなことになる。外交にクヨクヨ気を使う必要のない、つまり力のあるヤツは、その点おおらかなもので、だから大国なのだろう。しかしこの貢《みつ》ぎ物をとりあげる二大国の間に微妙な差があり、感じの良さ、強さ、意地悪さ等を新入国は判断する。そして気にいったほうの核の傘に入る。つまりボスの子分になる。  こんないやらしいことを、いちいち計算ずくでやったわけではもちろんないけれど、新しい学校がコワイあまり本能的に、無意識にうまくやったような気もして、我ながらいじましく思う。子供にとって転校というものは残酷そのものだ。おまけにぼくのように身体も小さく、病気ばかりしている身には、時々テレビなどで見る、転校のその日にボスを投げ飛ばし、被圧迫民族の尊敬を一身に集めて君臨するなんて話は夢でしかない。残念ながら子供の世界も、地球の世界情勢とちっとも変わらないのではないか。  小学校はどこに行っても共学だったが、不思議なことにぼくがかかわった複雑な国際情勢に関して、女の子が登場した記憶は全くない。国際関係のエネルギーのぶつかりあう場には、女の子は無縁であったのか。本能的にこの場合、彼女等には全く力がないとぼくが判断していたからなのだろうか。それともぼくの数々の転校は、すべて昭和十年から二十年の間だったから、軍国日本のヨイコとしては、最初から女の子とイチャイチャしたときの、ボスからのニラマレに危険を感じたからなのか。もちろんこんな国際感覚は最初のうちだけで、一週間もたてば、そこは子供のよいところ、ただの普通のクラスの一員となってしまい、仲良くなる子とは男も女も区別なく気が合った。大国即ちボスの子は、腕力だけでボスの地位を得られるわけではない。生れつきの親分的な棟梁格《とうりようかく》があってこその自然発生なのだから、結局はいい奴が多かったし、大人になってからも魅力的な人が多いと思う。ぼくの場合は昭和七年生れの、いわゆるひとケタの経験だが、今の現代っ子の、転校した側と、された側との関係はどうなっているのだろう。進学だ、塾だ、テストだと追われ続けていて、こういったことに冷たく無関心なのかもしれないし、あるいは明るくドライなのか、ジメジメと陰険なのか。ぼくはぼくなりの転校体験で、子供としては、他のたくさんの世界をいやおうなく味わわされ、よい経験になったとは思うが、とはいっても、それをありがたいとは別に思わない。人間関係についての自分のいじましい努力を、時ににがにがしく思い出す。試験の答案が書けないで苦しんでいる夢を見ることはあるけれど、それよりも、転校したての風景でうなされることのほうがむしろ多い。  親としても新しい学校に行って、「安保」に心を使っている子供のつらさがわかるらしくて、援護射撃をする気持になるらしい。転校してしばらくたった頃、これは小学校一年だったが、今でもあざやかに覚えていて、いやな気持になることがある。父は専売局に勤めていたが、頃良しとみはからって、赴任《ふにん》した京都の工場に学校の先生方を大勢招待した。明日先生方にタバコを造っているところをお目にかけて喜んでいただくんだと聞いてはいたが、子供のことだからすぐ忘れてしまっていた。ところが二、三日たってから学校でいろいろな先生に出会うたびに、なにか様子が違うのに気がついた。珍しいタバコの製造過程を詳《くわ》しく見学させ、帰りに接待用のきれいなタバコでもおみやげにわたしたのだろう。それまでふりむきもしてくれなかった恐い先生たちが、廊下や運動場でぼくにやさしく声をかけ、「先生はお元気かね」なんて聞くのである。小学校一年の頭には、学校の先生が自分の親父のことを「先生」と言っているのに気がつくまでは、時間がかかった。「先生」といった先生たちが嫌いになってしまい、具体的になんと思ったかはわからないが、大人の言葉で言えば、「現金だなあ」とでも思ったのだろう。  三つ目の中学校ではもっといやだった。担任の先生が毎週家へ遊びに来るのだ。最初は招待したからなのだろうし、別に汚職のどうのということではなかったに違いない。招待にしても、子供を新しい学校に転校させた親として、担任の先生を家にお招きして、どうぞよろしく程度の軽い気持だったのだろう。授業のすすみかたもまるで違うし、友達のことはともかく、学業のほうに決定的な不利を背負った転入生の親の気持はよくわかる。先生もそれを察しての家庭訪問だったのだと思いたい。こちらは緊張して、先生の横にチョコンと坐らされ、みんなで御飯を食べる。ひとなめぐらいは先生が許す、ハハハ……とかいわれて、酒ぐらいはつがれただろう。そこまではまあいいとして、この先生、毎週のように遊びにくるのだ。花札はこの先生のあぐらの膝の上で覚えたし、マージャンもそうだ。中学の一年だったわけだが、先生がしょっちゅう家へ来て、飲み食いし、遊び、家族と友達のように親しんでいる風景というものは、嬉しい反面、なにか不潔な感じもした。だが、まだそこまではよいことにしよう。一度病気で一カ月近く休んだことがあって、学校へ出たらすぐに学期末試験だった。その先生、廊下ですれちがって、コワイ顔で、しかも小声で、教科書を持って昼休みに職員室へ来い、と言う。病欠の後だし、さっきの授業でトンチンカンなことを言ったかもしれず、なにを怒られるのやら、コワゴワ職員室へ行く。先生は教科書の何箇所かを指摘して、「岩城、ここはむずかしいぞ、ここも大変なところだぞ」。  ぼくはピンときたのだ。これこそ汚職ではないか。試験のとき、「ここはむずかしいぞ」といわれた数箇所だけを、わざと勉強しないでゆく。もちろんひどい点をとる。ざまあみろ、といった気持だ。こういうことが何回もあって、親も先生も、さぞや気まずかったろうと思う。最近聞いた話によると、この先生はぼくがこの学校から次の学校に転校した後、同じような事件がいくつか発覚して、学校を追放されたそうだ。  いろいろな人の「師を語る」的な文章を読むと、たいていの場合、少年時代の先生への尊敬を熱っぽく語っている。一生にわたって尊敬を持ち続けることのできる人を持っているだけで、この人は幸福だなあ、又は少々皮肉を混えてハッピーだなあと思う。ぼくの「我が師を語る」はこの先生のおかげで、その後いつまでも「師」を疑う態度のほうになってしまった。こちらがそうだから、当然むこうからもかわいがられるわけもなく、熱っぽく「我が師」を語ることができずそういう原稿の依頼には困ってしまう。考えてみれば、何を教わるときでも、どちらかといえばまず疑ってからでないと納得できない、という勉学態度になったことについては、「ここはむずかしいぞ」の先生は、やはりぼくの最大の教師だったのかもしれない。  わが青春の作品一番  音楽青年の御多分にもれず、大作曲家を志したこともあった。高校一年から三年ぐらいまでの間に、ずいぶんたくさんの作品をものにした。NHK開局二十五周年記念作曲大募集に出品したときは、放送局に直接自分で作品をもっていった。NHKのピカピカの廊下は、今にも靴がすべりそうで、放送局というところは、いばりくさってすごいところだと感心したことばかり覚えている。懸賞募集にもっていったのだから、当然完成した作品だったのだろう。というのは、友達の誕生日に「序曲」を進呈しようとしたり、浅間山の噴煙をま近に見た感動を壮大な交響曲に、とか無数の動機をもっていたけれど、ほとんどが未完成で、というよりは書き出しの一行だけばかりだったのだ。  思ってもくやしいのは、当時宮沢賢治に夢中で、「銀河鉄道の夜」なるピアノ曲を、予定の半分くらいまでものにしたときのことだ。アマチュアピアノ弾きの友達に見せたら、二、三日貸してくれというので、今からこの曲をさらうのか、感心な奴、と渡してしまった。高校生特有のいたずらで、この友達はあろうことか、知りあいの芸大作曲科の学生のところにもっていって、未完の名曲の鑑定を頼んだのだ。もちろんこちらは和声学など習ったこともなく、ピアノのいろんなところをたたいて、感じのいい響きをメチャメチャに羅列してあっただけの話だから、我々には神様のような存在だった芸大の作曲の学生からは、音楽というシロモノではないと鑑定されてしまった。きっと武満徹やシュトックハウゼンまがいの音がしていたに違いないのだが、和声学をまじめに学んでいる保守的な学生サマには許しがたいものだったわけで、アマチュアピアノ弾きから、「ヘヘヘ……、キミのは……」と鑑定ぶりを知らされて、大作曲家になるのはあきらめた。十年おそければ、いっぱしの前衛にはなれたはずなのに、厳格な学問をしているヤツは、人の夢をこわす。  浅間の煙、誕生日序曲、銀河鉄道等、作曲の意欲を燃した題材自体が、今思い出すと、ギャッと叫んでサカダチしたくなるシロモノだ。それに加えてもっとギャッなのは、どの作品も、まず題名をれいれいしく書くことではじめたことだ。それに作品一番——OP一——とおおげさに意欲満点ぶりを示し、音楽のほうは一行以上先に進んだのがないことだ。たまにはしまいまでできたのもあったわけで、それでも次の作品には「OP一」が書いてあるのは、過去の作品をすべて否定しさり、常に心あらたに新境地を開拓する、大作曲家の芸術的な態度そのものをしのばせて、だから、ギャッギャッなのだ。毎年毎年、○○デビュー第一回演奏会、なんてやっている人も多いことだし、アマチュアとはいいもんだと、つくづく思う。  誰だって初恋はいつ、と聞かれたら困るだろう。どれが本当のと思っても、ぼくにはOP一が多すぎて、しかしそのどれもがもちろん真実のOP一のつもりなのだから始末が悪い。 「恋」という言葉は、文字に書くことには別に抵抗はないのだけれど、どういうわけか今だに、声にすることが、ぼくにはできない。なんだかテレてしまう。これも昭和ひとケタのせいだろうか。母の部厚い『婦人倶楽部』をそっとめくり、「生理帯」の広告を捜し出してドキドキするのが最大のスリルといった時代に小学生だったのだから。  何故か、ぼくには顔を剃《そ》っているのを人に見られるのがたまらなく恥しく、人前ですっぱだかになるほうがまだまし、みたいな気持があり、この「顔剃り」と「恋の発音」だけはものすごく恥しい。何故|髭剃《ひげそ》りを見られるのがいやか——これについては精神分析的に、自分で思い当ることがある。  中学二年の頃までは、なんとまあ恥しいことに母といっしょにお風呂に入っていた。ある日突然、いっしょに入るのはいやだと言い出した。恐れていたことが起って、つまり、ハエてきたのだ。兄たちは十と七つ違いだから、とっくに若い大人で、二十歳前後の若者の残酷さを発揮して、こちらがひとりで入っていると、「湯加減はどうだ」とかなんとか言って、しょっちゅうおもしろがって見にくる。人によっては誇らしげにするのだろうが、ぼくはなんとも恥しく、乙女の如く背中を向ける。この苦労の根本はハエたことにあるのであり、もとに戻せばこんな拷問にもあわずにすむだろう。ぼくは風呂場にあったカミソリで、まだ二、三ミリのそれを大急ぎで剃りはじめた。ところがあとちょっとのところで、また「湯加減は?」ときた。このときのあわてかたが、深く深層心理にしみとおり、だから「剃りを見られること」はタブーなのだ。「恋の発音」については、さっぱり原因がわからない。  小学校一年の一学期の末に、京都へ転校した。隣りの席は、目が大きくてまつげが長く、妙に青白くすきとおったほっぺたで、昔の人なら竹久夢二の描くところ、ぼくの場合はもちろん世代がちがって、中原淳一のひまわりにぴったりみたいな女の子だった。おまけに、おあつらえむきなシテュエイションで、と書くと彼女には気の毒すぎるのだが、足が片方小児|麻痺《まひ》で、ギブスをしていた。彼女の声のイメージなぞ全く思い浮ばないのは、きっと無口だったのだろう。  小学校一年の騎士としては、こちらの病気で休みがちというハンディーをなんとかしなければならない。毎日家からなにかもち出して、プレゼントに励むのだが、「ひまわり」はいっこうに関心を示さない。子供どおし、かけまわっていっしょに遊べば、それだけでもう大満足なのだが、足にギブスではせんかたない。むこうが無口な上に、小学一年の社交術では、お話が長く続くわけもない。思いのたけを示せる唯一のチャンスは、習字の時間だった。青白い目のパッチリが、せつなげに墨をする様子、これがぼくの胸をしめつけた。その頃の子供の知恵で、なんとかいう木の葉っぱをいれておくと、わりと早く墨が濃くなった。この葉っぱをポケットに入れてきて、先生が他を見ているときに、彼女の硯《すずり》の中にそっと入れるのだ。非情なひまわりも、そのときだけはこちら側のほっぺただけほほえんで、ぼくの一日は明るくなる。書きあげた彼女の字が、いつもひときわ墨痕黒々で、ぼくは小鼻ピクピクと得意だったが、これがついに見つかった。つれないひまわりのこととて、ヒロちゃんにもらいました、とすぐ白状してしまう。たちまち廊下につまみ出され、二時間も立たされた。なにしろこちらは正義の騎士、今ならウルトラマンなのだ。このくらいの迫害にはびくともしない。足の悪いかわいそうな子の、墨すりの苛酷《かこく》な労働をいたわってなにが悪い。絶対にぼくは正しいのだ、と、かれこれ三十数年思い続けてはいるけれど、もとを正せば、ひまわりの歓心を得たいためだけの、手練手管のおそまつをみつかっただけの話なのだ。これで懲りてしまったのか、あっさりとこの子のことは忘れたとみえて、その後「ひまわり」とのなんの覚えもない。でもほっぺたを見てはツーンとし、ギブスを見ては胸が痛んだあの感じは、確かに恋というものだった。初恋は以後続々と続くから、「ひまわり」も作品一のうちのひとつだと言わなければならないけれど、これだけは忘れがたい。  学校をかわったり、引っ越しをしたりして環境が変わるたびに、OP一があったはずで、忙しくなってくると、そういちいちツーンと思い出を残すわけにはいかぬらしく、大人になってからは、道できれいな人を見るたびに胸がドキッとはしても、作品番号に残すことはない。要するにすれてくるのだろうか。  子供の頃は、不思議と中原淳一的な女の子にいつもあこがれ、だがどうしてもあれは、実際の恋とはもっと具体的なもので、ひまわり的な恋などかなわぬに違いないという妙な安心感とも言える、自己感傷に酔うからこそのツーンだったのだろう。ぼくのツーンは、たとえば『少女フレンド』なんかのライバル物語、かわいそうなまゆみが、継母の意地悪なデブ娘に、意地悪の矢を、ツーンと投げられるというそんなツーンではなく、すこぶる純真|無垢《むく》な心に、具体的に言えば、胃と膵臓《すいぞう》と心臓のなかほどでチクンと甘ずっぱくなにかが動くのをさす。  だいたい少年と少女の清潔さと不清潔さ、心のあたたかさと意地悪さの根本的な相違は、『少年サンデー』と『少女フレンド』の編集方針の差を見れば一目瞭然で、かたや野球少年の出世努力物語、親孝行貧乏物語が、一方では継母のいじめ、怨念《おんねん》のお化け、へび女ばかりではないか。  考えてみるとぼくのOP一はすべて忍ぶ心であって、片思いにも到らない。男の子はたいていそうなのではないか。相手に意思表示するようなだいそれたことも、できるわけがない。転校してきたばかりの男の子がやたらペコペコ親切で、木の葉っぱをもってきたら、それはその女の子にとって便利なことだし、先生に、誰から、と聞かれれば犯人をかくまう気などさらさらない。  女の子のほうの幼い初恋の対象は、少々やくざっぽくて、強そうで、そのうちに少年院に行きそうなのに対してが多いらしく、男の子も女の子も、かわいいマゾをやりあっているようなものだ。育ってから、いたけだかに亭主の月給をとりあげるのは、強そうでやくざっぽい男の女房になれなかった、少女フレンド的怨念に違いない。  小学校六年から中学一年にかけての、ほとんど毎日の東京空襲は、焼けだされて逃げまわったり、しらみゾロゾロの悩みや、何回もの命拾いの恐さなどの心の傷をどんなにさしひいても、ある甘ずっぱいツーンの故に、ぼくにはなつかしい。警戒警報のたびに、家の前の教会の鉄筋の地下室に走りこむ。隣りの順子サンも走ってくるのだ。順子サン、一つか二つ年上で、確か跡見《あとみ》に通っていたと思う。ぼくの年頃では、年上のひとという観念はなかっただろうけれど、でも、年上の女の子にOP一だった初めてのはず。電車の痴漢の気持がわからないことはない、というと女性がたに怒られそうだけれど、教会の地下室が満員になればなるほど嬉しかった。  同じくひまわり型で、暗い地下室の床にペタリと坐り、遠くの爆弾の音や高射砲の音が聞こえるたびに、身を寄せあう。暗さの上に両方とも防空|頭巾《ずきん》をかぶっているので、横顔も見えず、たまに偶然横を向くとき、白い鼻とほほがチラと見える。地下室の満員と空襲の恐さで、頭巾どうし、間に二枚のふとんをはさんでいる形ではあるが、黙ってほほ寄せあう。夜の空襲は、もちろん明りは厳禁で、防空頭巾の外側からのほのかなあたたかさを感じるだけだったが、それはそれで嬉しかった。もっとも頭巾の中はあつくて、汗タラタラの状態だったけれど。昼間のほうが、なんとなく外からの明りがあり、頭巾の中の小さな白いほおを時々拝めて、ツーンだった。いやキューンだったか。外はドカンドカンの空襲の音。幸福だった。戦争、空襲、葉隠れの忍ぶ恋と、舞台はよくできていた。  終戦後、山から東京に出てきて、中学三年の二学期は、中野の焼け残りのアパートに下宿していた。毎夜停電ばかりで、それまで忍ぶ恋のOP一だけのぼくに、敗戦後の電力事情は、初めて悪魔とのつきあいをさせてくれた。停電になると、つまらないから隣りの家に遊びに行く。よく覚えていないのだけれど子だくさんの家だったようで、なかに小学校六年ぐらいの女の子がいた。電気は毎晩消えても、ロウソクが満足に配給になっていたわけではなく、短いロウソクも次に備えてすぐに消し、六畳ぐらいの中で、大人も子供も十二、三人ぐらいで騒いでいるのだった。トランジスターラジオができる前だし、雨の夜などは、ただもう暗く、空襲と違って外は静かで、部屋の中だけが騒いでいた。小学六年の女の子、別にきれいでもなく、にくたらしいほど頑健で、少々ズベ公的なおもしろさもあり、なんとなくいつもぼくの横に坐っていた。暗闇で手さぐりジャンケンをキャッキャいいながらやっているうちはよかったが、お化けの話も毎夜となると種がつきる。まわりの誰ちゃんのおでこに、誰ちゃんのなにがさわったか、なんて遊びが始まり、隣りの女の子とも夢中になってさわりっこした。だんだんエスカレートして、おでこからほっぺたへ、ほっぺたから鼻の頭に、鼻からなんにもないぺちゃんこのおっぱいに、唇にとなってゆく。さわるほうも、あてるほうもおもしろくて、鉛筆から十円玉へ、残念でした、ひとさし指だよと変わっていって、でもこの子、こっちが唇で唇にさわったときだけは「手のひらでした」「今のは親指」とみんなに叫んでくれて、気がきいていた。暗闇のなか、いつ電燈がつくかわからないスリルの連続で、いつもこんな遊びばかりやっていた。  正確にいうと、中学三年のときに小学六年と毎日キスしていたことになるのだし、もちろんそのおもしろさがわかっていたからこそ、毎夜の停電を心待ちにしていたのだろうが、どうもこれは、ぼくの「作品一」癖から言うと、あれはキスではない別の遊びだと思いたい。それと意識して、むりやりに敢行した、数年後の十九歳のときのキスをのみ、キスのOP一にしたくて、そう自分にいいきかせるのだが、少々うしろめたいのだ。名前も顔も全然覚えていないのだが、ただやたらにみそ汁くさかった。  高校在学三年間、ぼくにはガールフレンドが全くいなかった。徹底的に。又、必要ともしなかった。ボーイフレンドがいたのだ。ぼくがいた学校は、小学校から、中学、高校、大学と、いわゆるトコロテンのシステムで、そのうち、中学と高校は男女別々だった。校舎を別にしたなんてどころではなく、駅までも全然違うふうに、厳格に分けてあった。  昔の女学校ではなかなか盛んだったらしい「S」というやつだが、「おねえさま」から下級生が「お手紙」をいただくなんて傾向は、一貫して男女共学の現在の若い層に、腹をかかえて笑われるくらいがオチだろう。「S」に対応すればボーイフレンドは「B」であり、この雰囲気、ぼくの学校はなかなか盛んだった。『仮面の告白』を書いた作者などは、典型的な在校生だったわけだろう。「S」とか「B」とか言ったって、てんでたわいのないもので、男女七歳にして——を、終戦になっても何年かはうるさく守り続けた閉鎖的な学校のなかで、多感なそれぞれの思春期の夢のまた夢みたいな現象だった。少し成長して、男女の道自由になれば、たちまちケロッと忘れてしまうようなものだったと思う。成長して本物のホモやレズになった者はごく少数だろうし、「B」や「S」というケッタイな存在のない最近の若い世代に、むしろ本物のホモやレズが多いことを考えると、社会全体の風潮ということに大きな関連があるのだろう。ホモ、レズは心の底より生れつきのもので、「B」や「S」狂いの何年かのその後への関連はほとんどなかったのではないか。とは言っても、昔のクラス仲間とこのことについて話してみると、寮に入っていた連中のなかには、既にとことん実践していたものも多かったそうで、その連中が現在ホモだという気《け》は全然ないところをみると、思春期のロマンティック、プラス好奇心だけのことで、なんてことはない。  このトコロテン学校に岐阜の山ザルが転入してまだ間もない頃、「B」——「稚児《ちご》」と言ったと思う——についてクラスの自由討論があった。クラスは下級生に稚児を持っていたり、上級生のそれだったりのでいっぱいで、なかにこの「大恋愛」をテーマに、九十八枚の大小説をものにしたヤツがいて、先生がおもしろがって、こういう自由討論をさせたのだと思う。岐阜の山ザル、この軟弱な校風にはなじめず、立ち上がって大攻撃を展開した。  高校に移って、女の子とつきあうチャンスも多くなり、たわいのない「B」ども、みんな転向し、こんなことになんの関心もなくなった頃、ぼくは同級生の、ぼくよりは大分背の小さい美少年に、恋をしてしまった。クラスでは三列ほどななめ前で、授業中は、ただもう彼の後姿にのみ目が走り、昼も夜も思い焦がれる。それが高校の三年間だった。学年じゅうではもうこんな風潮がなくなってしまったのと、以前、威勢のよい山ザルだったのとで、誰にも、もちろん当の相手にも言うことはできず、ただ悶々《もんもん》と、そのくせさりげなく彼とつきあって、一番仲のいい友達だった。彼の気持はどうだったのだろう。なにしろ三年間、はたから見たらきっとあやしげだったに違いないほど、学校でも普段でもいつもいっしょだったのだから。相手には絶対に気《け》どらせず、休みの日もいっしょ、というのは、ものすごい拷問で、チャンスがあれば「燃ゆる頬《ほお》」を、なんていうだいそれた気を持つことさえぼく自身にはタブー。それこそ葉隠れの忍ぶ恋極まれり、ですごした三年間は、ぼくの一生でもっとも純粋だった時期だと思う。この三年間以外、後にも先にも日記をつけたことはないが、ノートに書き綴《つづ》った悶々の情は、題して「彼のこと」。今でもどこかの物置にあるはずで、でてきたら、ワァーの、ギャーのサカダチでもおいつきそうにない。  修学旅行で修善寺に行き、一泊だったか二泊だったかした。みんなでワイワイ大騒ぎをしたとか、旅館でドシンバタン相撲をとった、というような記憶はさらさらなく、もっぱら二人で山道を歩いたり、木の根っこに腰をおろしてしゃべっていたような覚えしかないのは、どうみてもあまり正常ではない。第一ぼくは野球部だったし、むこうはテニス部で、それぞれの仲間とつきあいもあったはず。まわりじゅうのみんなから変な目で見られていても、そこは楽天的に、好意からそっとしておいてくれるぐらいに思っていたのかもしれない。それにしてもこのヘンなぼくと、いつもいっしょにいてくれたむこうは、どんなつもりだったのだろう。  真夜中に風呂に入った。二人だけで。これも高校生団体修学旅行としては異常で、ゆったりした大きな風呂だったから、当然家族風呂ではなく、二人だけで入ろうよ、の類の誘いは、相手に気持うちあけぬ葉隠れのこと故、絶対に言うはずもない。暗黙のうちに、人気《ひとけ》のない頃を狙《ねら》って行ったのだろうか。緊張と期待のドキドキは、断じて性的なそれではなく、なによりの証拠は、からだの一部の恥しい変化なぞなにもなかったのだから。ただもう嬉しかった。しゃべりもしなかった。美しかった。  トコロテンのまま、大学に進めばわけはなかったのだが、ぼくが芸大を受験したのは、彼が東大を受けたからだった。彼がこの学校にとどまらない以上、去られた学校にだけはいたくないという、わけのわからない気持と、むこうの家にはピアノがあり、彼は二階で東大受験の勉強をし、こちらは下でピアノをさらい、真夜中にいっしょになにかを食べる。つまり起居を共にできるということが、ぼくの芸大受験の最大の動機だったかもしれない。嬉しいことには祟《たた》りがあり、ぼくは運よく芸大に入学できたが、むこうは二年目に東大に入った。  これほどの恋も、芸大受験の会場で、その後四年間キリキリまいの、正真正銘の初恋「OP一」の大美人に出会い、突然電気を感じた瞬間、妖《あや》しげな心はケロリと消えて、ただ仲の良い、どう見ても健全な友達としての気持に変わってしまった。我ながら妖しき三年間だったが、でもやっぱり自分自身で思いこむ。性とは関係のない恋も世の中にはあるのであり、だからこれは愛ではなく、やはり恋だったのだ。  わが内なる鉄腕アトム  子供の頃住んでいた京都の家の近くに、文房具屋さんがあった。通っていた小学校と、小さな四ツ角をはさんではす向いにあたり、もうひとつの角は空地になっていて、とんぼつりや、球ころがしには絶好の場所だった。空地にそって小さな川が流れていて、大雨が降るとすぐあふれ出て、まず水びたしになるのはこの文房具屋さんだった。この店に一人小僧さんがいて、確かゴローサンと言ったか。ああ、そうそう、最近はマスコミ用語規程とやらがやかましくて、「漁夫の利」は「漁業従業員の利」、「原住民」が「元から住んでいる人」、「郵便屋」が「郵便業務従業員」だそうだから、文房具屋の小僧なんて書くと大変なことになる。さしずめ「学術用器具販売店の従業員ゴロー氏」と書くべきか。  洪水時に限らず、この文房具店、なにしろ恐ろしく汚ない店で、いつも土間はビチョビチョにぬれていて、そこかしこにネコのフンが腐っていた。ネコ好きの一家で、だが、あまりにも店が汚ないせいか、ネコは代々二カ月位の寿命しか持てず、世の中はかくも捨て猫が多いのかといつも感心していた。つまり、これまでのが死ねば、その日にはもうどこからかネコを拾ってくるのだから。  ネコの死に方がまたいつも決っていて、小さなショーウィンドウの中で、どれもこれもがおなくなりになっていたのだ。文房具屋のショーウィンドウというところは、インクやらなにやら毒物を発散するみたいなものが多いのか、汚ない店で、ネコがいつも不潔に湿っているからだをショーウィンドウで干そうと思って寝ているうち、毒気にやられて、不潔に加うるに、どうせ相当な粗食だったろうから、抵抗力もなくて、ひなたぼっこの気持よさのまま昇天してしまう。道を歩く近所の人は、ショーウィンドウの中で、ネコが三日も同じかっこうをして寝ているのを知ってはいるのだが、本当に寝ているのかと思ったりして、店の人に注意もしない。文房具屋一家はネコ好きのくせに、自然にまかせているらしく、ネコが三日位ぬれた土間のネコメシの皿にやってこなくても気にしない。偶然ショーウィンドウで、半分ヒモノみたいになったのが見つかると、騒ぎ出して、またどこかに捨てネコを捜しに行く。ショーウィンドウの生干しのネコは、それはそれは、すごい異臭を放っているのだが、一年中これに近い臭いがしている店だから、臭いはネコの死を発見する手段にはならなかった。  ※[#歌記号]ネコフンジャッタ、なんて歌がその頃にもうあったかどうか知らない。とにかく、またネコシンジャッタで、新顔のネコを捜しに行くのは文房具屋の子供たち。生干しの始末は小僧のゴローサン。このゴローサンは、ぼくと同い年か少し上ぐらいで、半分バカで——これもいまは言ってはいけない言葉だろう。お脳の働きが少々弱いかたと言い直す——目はグリグリと大きいが、輝きはいっこうになく、上唇が異常に厚くて、しかもすごくまくれあがっている。もともと鼻の下がないぐらいに短く、それがまくれあがっているものだから、虫歯だらけの歯ぐきがいつでもまる見えで、鼻汁はたれほうだい。上唇がまくれあがって、鼻の下がなきに等しく、鼻汁をたらし続けていれば、呼吸は当然口だけで、ハアハアの呼吸音の勢大さが、ますますもっと唇をまくれあがらせていたのではなかったかと思う。  ゴローサン、黙々とハアハアやりながら、ネコの生干しをつかんで、汚なそうな顔もせずに、むかいの小川に捨てに行く。生干しから液体がタラタラたれたり、既に生みつけられたウジが、生干しからゴローサンの手にゾロゾロはっていったりする。一年中同じ絣《かすり》の着物にへこ帯をしめて、四六時中、たもとのところに汁をなすりつける。特異体質らしく、蚊やブヨにさされると、すぐうんでしまって、手足はブツブツだらけ。お脳の働きは弱かったけれど、すごく気立てはよくて、どんないやな仕事をさせられても、ニヤニヤ鼻をたらしながらやってのけるし、怒られてもいじめられてもニヤニヤたもとに鼻をこすりつけるだけだった。  この文房具屋さんから四軒目のところにぼくの家があって、四年間住んでいたのだが、こちらが小学校の一年から四年まで普通に成長していった過程で、今思うと不思議なのだが、ゴローサンの成長に関する記憶がないのだ。いつでもたれっ放しの鼻。鼻汁だらけの絣。ムズとつかむネコの生干しからのタラタラ。  ところが、なつかしいやら腑《ふ》におちない奇態な記憶なのだが、ぼくは、小学校のこの四年間、みじめで、あわれで、バッチくて、バカそのもののゴローサンに、いつもあこがれていたのだ。というより、自分がなんかの拍子でこのゴローサンとして生れてきていて、あのような生きざまをしている事実というか、運命みたいなものに、やたらあこがれた。マゾの世界には、あの人のウンコを飲みこみたい、オシッコを頭からかけてほしい、とかいろいろあるそうな。ぼくの、ゴローサンになって生れたかった、という願いは、おそらく、「家畜人ヤプー」の世界と、ほとんど同じ願望が、子供の頃のぼくにあったのだということを意味するわけで、時々思い出してはびっくりする。  幼稚園の頃、どういうわけかいつでもみんなにいじめられていたかわいい男の子がいた。いじめられ方といったって、他愛のないもので、十人位の子供が下駄箱の隅の廊下の角に、その子をエッサエッサと押しつけただけのことだ。ぼくも押すほうの中の一員だったが、ワッショ、ワッショとやりながら、押しつけられて、ベーベー泣いている男の子の身になり変われれば、となんだかワクワクしていたのを思い出す。  小学校の時の隣りの席にいた、小児麻痺の女の子の「ひまわり」のことだって、初恋の一種には違いないかもしれないが、なんとか親切を尽して、歓心をかおうと努力したというよりは、ほっぺたの青白い、まつ毛の長い、憂いを含んだ片足ギブスのその子自身に、なり変わりたかった、ぼくのあこがれのほうが、はるかに強かったように思う。  考えてみると、そのまま順調に発展すれば、本物のマゾになったであろう精神的経験を、ぼくは少年時代に持っていたわけだ。小僧のゴローサン、押しくらまんじゅうでベーベー泣いている幼稚園の友達、片足ギブスへのあこがれをたどれば、たしかにどうもそうなのだ。もっとも、マゾ気もホモ気も両方とも、多少は誰にでもあるのではないか。『少女フレンド』の継母物語等は、その代表的なものだろう。継母や連れ子につらくいじめられる「まゆみ」に身を置き換えて、とても悲しく、だけど、ゾクゾクする嬉しさもあり、結局読者はまゆみではないのだから、安心して悲劇マンガに浸《ひた》りきれるわけである。こういう解釈でものを考えれば、小説でも映画でも芝居でも、なんでもかんでもみんな人間共通、いずれもどこかでマゾにつながるものであって、「シンデレラ物語」なんか、マゾ願望、ポルノ的嗜好、立身出世の望み等、すべて含んでいて欲張ったものだ。  中学、高校の数年間、ぼくが一生懸命うちこんだものは野球で、音楽に対してあんなに打ちこんだ覚えはない。人間はなんでも努力次第で、天才とは九十九パーセントの汗と一パーセントの才能からなりたつ、とかいう格言もあるけれど、どうもこれはあまり信じられない。ぼくも若い音楽志望の人には、勉強また勉強あるのみ、と偉そうなことを言って、無責任に追っぱらっている。だが、非常に狭い経験ではあるけれど、あんなに、夢中に努力を重ねた、ぼくの野球の悲しいぐらいの実のならなさ加減と、なんとなく段々商売になってきて、つまり野球ほどの苦しい努力の覚えもなく、一人前のプロになってしまった、音楽のことを考えると、やはり人間のやることには、まず第一に才能が必要で、すべてはそこから始まらなければいけないのではないかと思う。それほどぼくは一生懸命野球をやったが、最後まで本当にへただった。  音楽志望の、特に指揮者になりたい若い男の子がしょっちゅうぼくのところにやってきて、カラヤンみたいに偉い指揮者になりたいと言う。第二のバーンスタインが夢、の子もいるし、セイジ・オザワになりたいのもいる。※[#歌記号]鮨喰いネェ、と言いたくなる頃に、やっとぼくの名も出てくることがあるけれど。とにかく、どんな人でも、どんなに才能がない子でも、今になにかになりたいと張りきっている若い人に、最初から才能云々をもちだしてガッカリさせたくはない。そうだ、ガンバレ、ガンバレと言っているのは、あたたかくて親切なのか、または冷たいのか。才能がないということは、自分に才能がないのをいつまでも気がつかない、ということを意味している。きっと、だからこそ、ぼくは、中学高校を通じて、プロ野球の選手になりたくてたまらなかったのだ。いくら本人が真剣でも、あまりに荒唐無稽《こうとうむけい》で、聞いた人は、おおらかにバカ笑いするだけだった。このおおらかに笑われることは、これはこれで、世の中うまくいっていると思う。仮に現在のぼくが、深刻な顔をして、オレはいまにカラヤンよりエラクなりたい、と言ったら、みなさん、おおらかに笑うだろうか。たぶん困った顔になって、懸命に話題をそらすだろうし、同時に、四十にもなって、このバカの諦めの悪いのにも困ったものだと思うだろう。言った自分のほうも、冗談のようにしてしまいながらも、内心その願望は一向に変わらない。だが、この願いを、誰もが若い人に対するように、おおらかに受けとってくれなくなってしまって、このぼくが指揮者商売に入り、しかもこれだけの歳になってしまってからは、すべてがもう手おくれみたいだ。つまり世の中どうもうまくいかないのである。  何故、プロ野球の選手になりたかったかには、唯一の崇高《すうこう》なる目的があった。どこのチームでもよかった。なろうことなら、ジャイアンツだったけれど。駿足《しゆんそく》快打の中堅手で、打順は一番。センターオーバーの大フライ。九回裏の敵の攻撃で一点差。二死満塁。ぼくは背走また背走。抜かれればサヨナラ負け。しかも優勝がかかっている。六万の観衆の中には、ひっそりとギブスの「まゆみちゃん」もいるかもしれない。とにかく背走また背走。満場総立ち。ついに球をつかむ。歓呼、怒号。同時にぼくは外野のフェンスに激突し、球をしっかりと握ったまま、頭蓋骨折か脳内出血か、とにかくなんでもいい、名誉の戦死をとげる。意識を失いつつある何分の一秒の間にぼくは思う。まゆみちゃんは今日来ているかな。  ワア、エエはなしヤナア。これ、野球少年マンガによくあるはなしヤデ。  そうなのだ。この瞬間のためだけに、ぼくはプロ野球選手になりたかったのだ。  だから、音楽少年マンガなんてものはないけれど、あこがれの|ベートーベン《ヽヽヽヽヽヽ》の「|乙女の祈り《ヽヽヽヽヽ》」の壮烈なるクライマックスに、ステージの上で突如心臓が止まり、三千人の聴衆の凝視《ぎようし》の中で、二階のまゆみちゃんの視線を感じながら、息絶えるために、将来の指揮者を志す若者のバカが相談しにやってきても、ぼくは一笑にふすことができない。フェンスへの激突も、指揮者の心臓麻痺も、マンガ的英雄譚、ドンキホーテそのものとしてニヤニヤ笑い、他愛もない若者の夢というのは簡単だが、ちょっとひねくれて考えれば、どこかになにかしらのマゾッ気はないだろうか。誰でもがそうだとぼくが決めてしまうのには問題があろうが、あらゆる美しい性向や、壮烈な生き様や、それに対するあこがれには、胸にツーンとくる悲壮さや、マゾッ気がなければならぬというのがぼくの信条である。哀れにも、プロ野球の選手の夢はヘタヘタとくずれ去ったが(このヘタヘタの哀れさはマゾ的対象にはならぬ)、世の中うまくしたもので、野球自体をいまだに好きなぼくにとっては、自分の、外野フェンスへの激突を心に描く嬉しさより、もっと強烈なものが現在ある。これもまた言い切るのは危険だろうが、大方の野球ファンはそれぞれのスターに夢をたくして、プロの人達に自分の心情の代償作用をしてもらっているわけで、ぼくの場合は長島さんなのだ。  あれほど長年、全プロ野球選手にマークされ、ちょっと打ちそこなっても、やれスランプだ、と騒がれ続け、でも常にミスター・プロ野球として生き続けたあの偉大さ。特に、最近のバカマスコミが、長島の老化現象ばかりを書きたてて、引退に追いこみ、それで記事をふやそうという、日本国中敵みたいな状況のなかで、悪びれもせず、明るい顔をして、ナインに声をかけている長島を見ると、涙が出る。長島さんは、すごく神経の細かい人に違いない。世の中の雑音は全部知っているだろう。テレビの中の彼がどんなに明るくふるまおうと、ファイトを燃やそうと、ぼくには痛いほどわかるのだ。全くのぼくの独断だが、全盛時代何回も首位打者をとり、天覧試合でホームランを打ったときの彼も、現在のように打てなくなってきて、首をかしげるときの彼も、十何年来の常と同じように、彼の全身は不幸感自体なのではないか。いつかある雑誌の対談で、ぼくがカラヤンにふれ、なにもかもほめちぎったあと、「あれこそは、全世界の不幸を一身に背負った顔だ」と言ったら、相手は全く理解せず、全音楽関係者に、突拍子もないことを言うヤツだと、あざ笑われたことがあったが、こういう言い方は、マゾ的発想につながる英雄への讃美の方法であって、他人にはわからないのかもしれない。長島もぼくにとっては、全世界の不幸を一身に集めた、史上最大の英雄のひとりに見える。これほど偉大な人はいるだろうか。だから長島がもっている不幸感にあこがれ、今の瞬間、長島になりかわって、あの不幸を背負うことができたら、どんなに幸福かと思いこがれる。  この思いこがれ方は、とんでもないものにたとえることになってしまうけれど、子供の頃の文房具屋の小僧サンになりかわりたかったあこがれと、どうしたわけか、なにか共通なのだ。こんなことを書いたら長島さんに張り倒されるかもしれないが。日本国中の目を一身に集めたスター、しかも野球という技術の世界でのスーパースターのもつ、あの悲壮感みたいなもの、あの孤独中の孤独みたいな美しさと、ネコの生干しの死体をつかんで小川に捨てに行った蓄膿鼻汁の小僧のゴローサンの、世間を超越したニヤニヤ顔との、ぼくの中のあこがれの共通性はなんだろう。  もう古いことになるが、ぼくは鉄腕アトムの大ファンだった。大ファンになると、必ずぼくはその対象物になりかわりたくなる。十年程前に、月刊の『鉄腕アトム』が出ていた頃、その表紙の裏に「アトムと私」というのを書いたことがあり、子供向きに書いたとはいえ、今読むと、ぼくのアトム感をすべて表わしているので、ちょっと書き写す。 「ぼくは、アトムがだまって、ちょっと上のほうを向いて、ちょこんと立っている姿が大好きです。音楽会を指揮していてシンフォニーが終ったとき、ぼくはお客さんにおじぎをします。それからオーケストラのみなさんに立ってもらって、お客さんにオーケストラがこんなにうまく、いっしょうけんめいに演奏してくれたから、すてきな音楽会がやれました。オーケストラのみなさんにうんと拍手してあげてください。もっと、もっと——というように、両手を挙げて大きなゼスチュアをします。もちろん、ぼくもうれしいからニコニコします。そして、二階や三階のお客さんのほうにも、もっとオーケストラをほめてあげてくださいと手を動かします。拍手が最高潮になっているとき、一瞬ぼくは客席の天井の一点を見ます。お客さんは、いま、ほんとうにオーケストラの名演奏を喜んでくれているし、オーケストラのみなさんもうれしそうです。ぼくのこの音楽会での役目は終ったようです。その瞬間に百人の交響楽団と三千人のお客さんとの間に立つぼくは、ちょっと孤独になるのです。うれしい孤独ですけれど……。アトムって、こういうふうに上を向いて、だまってちょっと立つときがあるんだ、よいことをしたあとって、うれしいけれど、ちょっとさびしい気持もあるみたいだ、きっと、いま、ぼくはアトムみたいだろう、いや、アトムはいまのぼくなんだ——って、いろいろなことを思うんです。  アトムはロボットだから、何も思わないでしょうし、ぼくはアトムとちがって人間だから、悪いことだって自分からときどきしてしまいます。でも、なんとかアトムみたいに人のためになることをたくさんして、あっ、いま、ぼくはアトムなんだって思う瞬間の、あのちょっと孤独だけれど、ほんとうに幸福なぼくの『アトム感』をいつも持ちたいと思うんです。」  ぼく自身、もの書きでなく、言いたいことの何分の一も表わせず、イライラしてくるけれど、マゾッ気でもなんでもいい、今までのぼくがあこがれてきた無数のもの、たとえばここに書いてきたような小僧のゴローサン、カラヤン、バーンスタイン、外野フェンス激突で死ぬぼく、長島選手等々にすべて共通な、ぼくのあこがれ方のなにかの原点が、鉄腕アトムだったような気がするのだ。  あ、双葉山  幼稚園に行くより大分前だから、多分三歳位の頃だろう、ぼくは横綱双葉山に抱いてもらったことがあるそうな。  なんでも、全盛の横綱に土俵の上で抱かれた子供は、元気に、丈夫に育つ、といった迷信があったらしく、病気ばかりのぼくにほとほと困りはてた父が、誰かを通して頼みこんだらしい。横綱は「ダッコ料金」なるものをとったのだろうか、なんてゲスの勘繰りはしたくない。  近所に、代々相撲好きで有名だった殿様の末裔《まつえい》の屋敷があり、毎年相撲の祭りをやっていて、ごひいきの力士達が、招待客や近所の人たちに、派手な取組を見せてくれた。その殿様の子孫に頼みこんだのだろうが、大観衆の見守る中——といっても屋敷の庭だけれど——晴れの土俵で、神様的存在だった横綱双葉山に、高々と抱き上げられたわけだ。ぼくだけでなく、近所中の子供たち沢山が抱いてもらったそうだから、双葉山さんの大サービスだったのかもしれない。  それで丈夫になったかどうかは分らないが、子供の頃はいつもこの栄誉をきかされたものだ。ぼく自身は、さっぱりおぼえていないのだが。「ダッコ」の効なく、再び病気になると、「横綱に抱いてもらったんだから、すぐ良くなるさ」。なおれば「双葉山のおかげで、こんなにはやく元気になった」と、なんでも双葉山サマサマだった。身におぼえがなくても、こうしょっ中きかされていると、当然、大の双葉山ファンになる。  毎場所のラジオ中継にしがみつく。場所後のニュース映画には何度もつれて行ってもらう。メンコは双葉山ばかり。双葉せんべい、双葉山まんじゅう、なんてあったかどうかは知らないが、せがめば「双葉ナントカ」のたぐいは何でも買ってもらえた。なにせ育ちの大恩人、ありがたい迷信があったものだ。  双葉山の六十九連勝の頃は、小学校一年だったはずで、京都に住んでいた。  いつも夕ごはんを食べながら、家中で相撲中継をきいていたような気がするところをみると、当時相撲は、今よりおそい時間にやっていたのだろうか。五時半頃に「これにて本日の打止め」では、役所から帰った父とみんなでラジオをきけなかったはずだ。わが家の夕ごはんは七時過ぎだったのだし。それに、一、二時間前の「立チアガリマシタ、立チアガリマシタ。右四ツ……」の和田アナウンサーの名調子を、追っかけ再生放送出来るほどの録音技術が、その頃あったとは思えない。もしそうならば、主な勝負位はニュースで知らされているだろうし、これも食卓をかこんでの一喜一憂のスリルと矛盾する。当時の相撲興行の時間なんて、相撲協会に電話すればすぐわかるだろうが、なにぶん、今これを書いているのがイギリスなので、そう簡単に電話するわけには行かない。でも、昔の相撲放送は「実況中継」という迫力ある名前がついていたのだから、ナマ放送で夕ごはんを食べていたことにする。そのごはんの時に、ついに七十連勝ならず、双葉山が負けたのだった。  小学一年の耳では、アナウンサーの早口を、全部は理解出来ない。ラジオからの観客のワァーワァーの叫びと、食卓のとなりの兄達のとびあがり方で、一切を感じとり、目の前がまっくらになった。十と七つ違いの兄どもは、もうナマイキ年齢だから、所謂《いわゆる》アンチ巨人——いやアンチ双葉山という双葉ファンで、この場所が始まった時から、毎晩双葉マケロとうるさかったのだ。  興奮して、ベラベラしゃべりまくっている兄どもや父を見て悲しかった。くやしかった。あれほどいつも双葉山のダッコだ、命の恩人だとぼくに言っていたのに、これはなんだ。六十九で止ったけれど、これだけ連勝すれば偉大じゃないか。日本記録だ。もちろん世界記録だぞ。いつも受けて立った横綱相撲で立派じゃないか。ぼくにはラジオの「ツイニ双葉破レマシタ! ヤブレマシタア!!」のアナウンサーの声も大観衆の怒号も、みんな兄どもと同じく、双葉の負けをよろこんでいるようにきこえた。何か言いたかった。いっぱい言いたかった。でも小学一年生は、思っていることの何分の一も言えないのだ。だから目の前まっくらのまま、だまっていた。  何分かたって、食卓も平静にもどり、あの興奮もケロリと、みんなはごはんを食べている。世の中ツメタイ。これもけしからん。ごはんも食べず、ずっとだまりこくっていたぼくは、双葉山の敗戦への哀哭《あいこく》、哀絶、哀悼の気持全部と、心ないアンチ双葉どもへの抗議を一瞬の動作であらわした。みんなが食べている卓袱台《ちやぶだい》をいきなりひっくりかえしたのだ。  ごはんも、みそ汁も、おかずも、つけものも、しょう油も、みそ汁の鍋も、なにもかもたたみの上にめちゃめちゃになった。ぼくのむかい側に誰が坐っていたのだろう。母だったろうか。こちら側の端を両手で持ち上げたのだから、すべてむかい側にドロドロ流れ落ちたにちがいない。やると同時に大声で泣きだした。慟哭《どうこく》といいたいところだが、子供だからそんな上等な感じではない。夕ごはんはなくなってしまった。うんとおこられたにきまっているが、あまりそのおぼえがないのは、おこられる前にすでにワァーワァー泣いていて、手がつけられなかったからだろうか。  最近誰かにきいた。兄が、「弟の子供の頃はひどかった。よく、突然ヒステリーをおこして、食卓をひっくりかえした」といったそうだが、そんなはずはない。|よく《ヽヽ》ではなく一度だけなのだ。しかもヒステリーだったのではない。以上のような、まことに正当な理由があったのだ。  しかし勝負の間中だまりこくっていて、双葉の負けたあとも黙ったまま、何分か経ち、みんなの話題がもう変わってしまったころ、突然食卓をひっくりかえされたのでは、そういう印象も残るかもしれない。  双葉山の実物を始めて見たのは、終戦後の岐阜の山の中である。抱かれた時も見ているはずなのだが、全然おぼえがないので、中学一年か二年の時に双葉山を見たのが、時津風ではない、現役の彼の、ぼくにとっての最初で最後だった。  学校の校庭に臨時の土俵を作っての、地方巡業相撲の典型的なやつで、生徒達から十円とか二十円という見物料をとるかわりに、一人一合のお米を持って来させ、入口のところの大きな樽にザーッと投げ入れると、「ヨーシ」と大きい声があって、入れてくれた。人の家に泊りに行く時は、自分の食べる米の持参が常識だった時代だったが、夢の双葉山が一合の米ザーッというのは、やはり幻滅だった。食べなければ商売にならない大きなからだ、お金があっても米が買えない時代、お相撲さん達は米どころの地方巡業の入場米で、もちこたえていたのだろう。一つの中学校の、仮に八百人の生徒が見に来るとして、八百合。八つの「ゆり」ではない、八斗の米が集まる。おすもうさんは一升メシを食べるというから、一回の田舎の学校での興行で、八十回分のメシが入るわけだ。チャンコ鍋とごはんだから、まさか、一升メシではないだろう。双葉山田舎巡業の一行三十名として、一回の花相撲で、とにかく全員の一日のお米が入る。米のない戦後。わるくない。今考えると、こうやって巨体を保って、国技を保存したのだなと、涙が出る。  何月何日、横綱双葉山一行来校、何時より校庭にて、米一合持参のこと、なんて掲示が学校に出ると、田舎の中学生達は、こんな計算を話し合い、あこがれの大横綱を拝めるうれしさと、米一合のなんとなくのアワレさへの同情やら、メシ食いたさでウチの学校に来ヨル、フン、みたいながっかりもあった。なかでもぼくは、この町で双葉山に抱かれたヤツはいるもんかと思う得意と、くり返しきかされたあのおかげで元気に育った話からの、ぼくの「あのおじさん」的ななつかしさと、米一合のおいたわしさと、少々のがっかりで、複雑な気持だった。  相撲はなんていうことはない、相撲雑誌なんかのグラビアで、田舎の少年だって、けっこう本場所の風景についてくわしいのだから、見る側は、この山奥に横綱一行がやって来て、模範相撲を見せてくれる位の気持で、生徒一同、興奮したわけではなかった。勿論、メンコの実物が目の前で動いているのには、ワクワクしたけれど、花相撲では真剣な仕切があるわけがなく、ラジオできいたあの雰囲気にはほど遠い。田舎の子供だって、こういうことはちゃんと見破るのだ。がっかりした。だから、自戒というわけではないが、この時のがっかりを思うと、音楽をなりわいとし、四方八方、地球の上下をうろちょろ歩いている身としては、時にはとんでもない辺鄙《へんぴ》にも行くけれど、そういう所こそ、こちらの真剣度を見抜く心が多いのだというコワサを、双葉山一行は教えてくれたことになる。  米一合の花相撲が終って、生徒は校庭の整理をさせられ、土俵の上でハシャイだりした。ガッカリ云々を書いたけれど、生徒にとっては、花相撲はやはり大きなお祭りだった。双葉山が、ペッとはき出した水でしめっている土をなでたり、先生達が坐って見物していた椅子を校舎に運んだりで、いそがしかった。「一人一合」どもは、むろん地べたで見ていたのだから、大観客席の整理は必要ない。  終って、ぼくは二駅離れた汽車通学だったから、汽車仲間の友達数人と駅に走った。もうちょっとという時に、汽車は行ってしまい、次の汽車には一時間以上もある。とにかくプラットホームで、さっきの相撲の話でもするか。機関車の止る先の方に、こういう時のぼくたちの定席があった。大きな郵便袋を汽車から投げ下して、ガラガラ運ぶ荷車みたいなのが三台あって、その上に寝転んでおしゃべりをするのだ。  先客が居た。デッカイ男たちが。なんとなくこわくて近寄れない。何十文もありそうな足に大きな草履《ぞうり》。泥とあぶらでかたまっているチョンマゲ。垢《あか》でテカテカの着物。われわれ田舎の野次馬はちょっとずつ近づいて、風呂敷包みに坐っている、いかにも幕下の新米さんらしいのに、五メートル位まで近寄ることが出来た。これだけの勇気が持てたのも、花相撲の時の全部がここにいたわけでなく、十人位だったからで、全員だったら、せいぜい二十メートル位までだったろう。他は先発隊として、われわれの方向とは反対の町にもう行ってしまったのか。それにしても、お相撲さんのくたびれたのが、駅のはじのトロッコにゴロゴロしているのは、きたないものだった。お米は一応食べていたのだろうが、栄養不足に違いない。風呂には、いつ入ったのだろう。  昭和二十一、二年の話だ。勿論、今のお相撲さん達は、スターで、でっかいながらもスマートでカッコよく、だから、その頃どんなに汚なく、五メートルはなれても、ものすごくクサかった、なんて言っても、誰も信じないだろう。虱《しらみ》もごっそりついていそうな十個の巨塊が、うつろな目で、だまって灰色の空を見ている図。たいていはトロッコの上に片肘《かたひじ》をついて横になっていた。よほど疲れているのだろう。真剣味がどうのこうのと言っても、さっきは中学生の前で、一応相撲のすべてを見せていたのだ。突張っていた。大きな声もあげていた。今は腐ったまぐろのゴロゴロみたいだ。お相撲さん達にとって一番苦難にみちた時代の、日本国中がいちばんどん底の時の、お米にありつきたいためだけの地方巡業だったのだ。他人が見てはならない、彼等の楽屋|顔《づら》を、ぼくたちは見てしまったのだ。そう思うのは、この時のことを思い出している、今のぼくなのであって、田舎の少年にはそんな同情も感傷もない。もっぱら、めずらしいだけなのだ。  むこうさまには、さぞ迷惑だったろう。時代も違って、食べ物はあり余り、大学の研究室で虱が不足している昨今でも、客商売にとって、実に不快な、この種の野次馬は常にいる。相撲とは大分違うけれど、ぼくの商売でも、よくあることだ。こちらがすごく疲れていて、誰にも見せてはならぬ顔をしている時にかぎって、このたぐいのがやって来る。ただ、衣食足っている現今では、われわれは、たちまちシャンとした商売顔になって、ニコヤカにサインをしたりする。  岐阜の山奥の駅でゴロゴロのお相撲さんたちは、衣食|絶つ《ヽヽ》の方で、われわれが近づいても、腐ったマグロのままだった。こちらも、サインをもらうなんてことを知らぬ。無言でジロジロ見つめるだけである。  まぐろの中で、一匹だけ、国民服をきちっと着て、背をトロッコの横の枠にもたせ、目を瞑《つむ》っているのがいた。さっきのステージ——ではない、土俵の上では、むかしのメンコと一応は同じ感じで、ああ、この人にダッコしてもらって、ぼくは元気に育ったのか、となつかしくも有難かった人が、この国民服マグロだった。さっきの花相撲では少々ガッカリはしたが、でもこれは、あこがれが大き過ぎたのだ。この人が負けた時には、卓袱台《ちやぶだい》をひっくり返して、家中の夕食をダメにしたんだ。抱いてもらったおかげで、こんなに元気に、大きくなったんだ。岐阜の山奥で、野球ばかりして、色も黒くなった。みんなこの双葉山さんのおかげだ。  おそるおそる遠くから見ているグループから抜け出して、ぼくは双葉山のところへ走り寄った。ちょっとの間だけれど、考えた。なんて呼びかけようか。「関取」という言い方も、「横綱!!」も知らなかった。「先生!」がいいかな。でも双葉山の前に立ったら、「おじさん」と言ってしまった。それだけで、以前、元気になれ、と抱いてくれた双葉山は、「やあ、大きくなったな」と、ぼくを懐しんでくれるはずだったのだ。こんなに今まで、色々な縁があったのだから。「おじさん」の相撲の実況は全部きいたのだ。  無残だった。双葉山は、ちらと目を開け、あっちへ行け、みたいに顎《あご》をちょっとしゃくっただけで、また目を瞑ってしまった。  その晩、家に帰っても、寝るまでメソメソしていて、卓袱台《ちやぶだい》こそひっくり返しはしなかったが、両親にいくらたずねられても、一言もわけを話さなかった。  後に、新聞で見る双葉山は、璽光尊《じこうそん》の弟子になったり、時津風理事長になったりしたし、ぼくの方は、そのまま元気だった。時津風が亡くなった後も、こちらはずっと丈夫が続いている。岐阜の山奥の駅以来、心の中の元気への感謝の対象が、ふっと消えてしまった。丈夫に成人したことへの、お礼心の迷信は、素敵な事だったけれど、駅でのことは、バカな、田舎の中学生のぼくには、ショックが大き過ぎた。断じて、双葉山さんのせいではない。食糧難が、ぼくのすばらしい迷信をこわしたのだ。  女は同い年を限度とす、しかし……  もの心ついた頃から、いや、正確に言えば、男女関係にめざめた頃から、ぼくは一度として年上の女性とつきあったことがない。なにも意識して決めたわけではないが、最年長許容の限界は、常に同い年までだった。同い年の中でも、何カ月かの生れの早さはいたしかたなく、誰にでもあたりまえのことだろうが、女は若いほうがいい。だが一応、十五歳以上を対象にしているが。大学の頃や、その後の数年間の二十六、七歳の頃までは、三十以上の女なんか人間とも思われず、江戸の大奥の定年は三十五歳と聞いて、将軍サマたちの対女性感覚も、けっこうまともであるワイと思って、我が意を得たりした。自分の対象になる資格のある女性は自分と同い年までだという、手前勝手な原則も、毎年毎年こちらが年をとるに従って、当然一年ずつふえてくる。今や四十二歳。原則、いや、この規則から言えば、四十二歳の女性は、おつきあいの相手として許せるのだけれど、三十代の女性のことを、人間にいれていなかった頃の自分の若さを思うと、今の我が女性観そのものが、化物以上のモンスターをまで、美の対象とするようになってしまったのかとゾッとする。あたりまえの話だが、二十歳のぼくが三十五歳の女性を見たときの気持と、四十二のぼくが同じ相手を見たのとは、全く違う。なるべくなら、今だって相手が四十二でないほうが好ましく、二十代のピチピチした女性のほうがいいのはもちろんだが、四十二歳の同い年の女性に、ときたま美を発見できるようになったのは、これは喜んでいいのか、悲しむべきことなのか。悲しいほうの気持を言えば、このままの論理でゆくと、もし自分が八十になったとき、同い年に美を発見できるということになるのだろうか。イヤダ、イヤダ。「養老院のお隣り同士、茶飲み話が発展して、ついにめでたくゴールイン。第二の人生、八十六と八十二のカップル」なんて記事が時々新聞に載るところを見ると、人間それなりに適当なところがあって、まあ悲しい妥協性がなくては、この世を長く生きられぬ、ということになるか。  ここに書いていることは、あくまでぼくという、毎年年をとりつつある男の目から見た女性美観に限定しているのであって、だから、ナニヨ、四十二のジジィに関心もてるものか、という若いピチピチした女の子たちからの、当然くるであろう強烈な反駁《はんばく》は、最初からお断りしておきたい。(こちら、男から見てのおつきあいの関心は、決して美だけにあるのではありません。人格も重要なる要素なのであります(!?)。この頃は、世の中うるさいし、一々ことわっておかなければ恐いから、逃げ道も書いておく。)  理論的には、八十歳のぼくから見てのおつきあいの対象の可能性は、十五歳から八十歳までの六十五年間の中のすべての女性のゼネレイションにわたるわけだ。自分勝手の定年制により、八十一歳は対象にいれないけれど。九十になればあと十年分の女がふえるわけで、これはめでたい。そう考えてみると、ぼくが二十歳のときの対象は、五年間分のレパートリーしかなかったわけで、今思うと哀れなものであり、四十二歳の現在、その頃より二十二年分の潜在レパートリーがふえたということで、はるかに幸福になったと言わなければならぬ。しかしこの延び率の成長は、理屈はともかく、なんとなくわびしい。あまり世代が違いすぎると、話もあわず、こちらがむこうのピチピチぶりに興味をもったところで、二十も、三十も年上の男に興味をもつ女性はめったにいないだろうから、だいたい、十位下までが普通の潜在レパートリーになってゆくようだ。最近週刊誌等で騒がれた、三十も四十も年下の女性と結婚なされたエライ先生方の例は、例外中の例外だからのニュースバリューで、まあ通常は、もうちょっと潜在レパートリーの年限を希望的にふやしてみても、十五歳年下までが限界だろう。すると、八十になったぼくには、六十五歳以上のばあさんばかりが相手というわけか。  女中さんがお手伝いさんになり、ものの言い方がだんだんむずかしくなってきて、現在は、「裏日本」といってもいけなく「日本海側」だし、「さいはて」、「日本のチベット」、「貧乏人」等みなだめでアメリカの悪口を「米帝の|ひきつった顔《ヽヽヽヽヽヽ》」と大学の新聞がやっても怒られる。これは、日本語の壊滅であると怒る方もいらっしゃるが、別の意味では、日本語がますますおかしく、マンガ的になっているわけで、おかげで、日頃の言葉の遊びにこと欠かぬ。四、五年前までは、新聞の見出しで、「老婆ハネらる」とあって、なかをよく読むと四十七歳の女性が、踏み切りからヨチヨチ歩き出た子供を助けようとして、自分も電車にひかれた話だったりした。これだって最近変わってきて、「老女ハネらる」だ。しかも五十五歳以上の女の人について「老女」といっている。老婆《ヽヽ》が老女《ヽヽ》に変わってきたのも、ナントカ養老院会員の圧力によるものか、主婦連のオバアチャマたちの運動のせいなのか。しかし、ひねくれて考えてみると、「老婆ハネらる」と、見出しをつけた新聞社のデスクさんが、それだけ年をとってきて、もし彼の対象女性潜在レパートリー観が、ぼくのと同じならば、自分が五十以上になって、相手になりかねまじきはずの五十五歳を、老婆と呼ぶことに、絶望をいだき始めたからなのかもしれない。新聞社に定年がなかったら、今に、「八十歳の女性はねらる」になるだろう。「老人問題」も言い方がむずかしくなり、「比較的お年を召した方の……」になって、新聞の内容はますますエレガントに、希薄になってゆくだろう。エレガントなものの言い方は、てまひまばかりかかり、なにやら民主主義の手数の複雑さと似ていて、でも、これが人間の最高の生き方だそうだから、がまんしなければ。  ぼくにおける対象女性潜在レパートリーの定年の毎年の上昇は、あくまでこちらが一年一年しかたなく年をとってきてしまった結果なのだ。  誰でもそうだろうが、ぼくは、十五歳位から毎日毎日年をとりたくない、とばかり思ってきた。友達が、成年になれば、もうおおっぴらにタバコもすえるし、だからはやく大人になりたい、と言うのを全く理解しなかった。  年をとるのがいやなら、毎年の誕生日が苦痛であるはずだし、毎日、毎日の移り変りが地獄であってしかるべきなのだが、普段は割とケロリとしていて、二十になるとき、二十五のとき、三十、三十五、四十というふうに、年とりに区切りを決めた悲しみのフェスティバルを行なってきたような気がする。とりわけ悲惨な気持だったのは、四十になったときだ。ぼくは指揮者になった最初から、ずっとNHK交響楽団の指揮者の立場を続けているが、戦中、戦後に活躍した、優れたN響の指揮者が、二人とも、三十九歳でなくなっているのだ。よく冗談で、立派なN響の指揮者は三十九で死ななきゃ、などとしゃべっていたが、二十代の頃は、これは我が身に関係のない冗談でしかなかった。しかし、三十五を越して、カッコいい死に年の三十九に近づいたときのこわさといったらなかった。以前に冗談で言いすぎてしまったせいか、N響の指揮者は三十九で死ななければならない、という固定観念がわが身にできてしまっていたらしく、ときにはあと何カ月、それまでに最大限のよい仕事を……と自分の悲壮な覚悟に感激して、ウイスキーをガブ飲みしたり、指折り数えて、勝手に思い込んでいた自分の死期を待っていた。こわがりながらも、本当に死ぬとは、心の底では思っていない甘さも当然あり、死ぬつもりだ、死なねばならぬと言って歩いていた自分が恥しい。  どこまでが冗談で、どこまでが本当なのか自分でもわからぬまま、あと一日で満三十九歳の終わり、という日、ものすごく困ったのだ。どうも死にそうにない。すると、四十歳になるわけだ。実は、ずっと長いこと冗談とも本気ともつかない三十九歳の死にこだわり過ぎてきて、死ななかった場合の先のことを考えていなかったのだ。そこは、適当に、自分自身をごまかすことができ、三十九歳で、一応、一度人生が終ったことにして、その先は新しい気持でやってゆこうなど、結局は、なんのことはない、同じことをやっているだけだ。  勝手に我が人生三十九歳説を信じていた頃、三十九までが人間で、四十から先のヤツラは、あれはオジサンという別の動物だと決めていた。対象女性潜在レパートリーの定年と同じく、スコブル勝手な話である。三十代の頃は、これも手前勝手な話で、二十代、三十代は、ともにつながったひとつのゼネレイションで、ほんものの人間だということにしていた。実は、十代の頃は、三十代の人のことを、軽蔑すべきオジサンという風に、人間の中に入れてなかったので、うしろめたい。二十代の後半になれば、もうじきなるはずの三十代に対する敵視政策を、緩和するわけだ。三十代になると、今やまったく融和政策となって、二十代の連中との連帯感を唱え、二十代になんと思われているかと考えようともせずに、自分の若さを誇る。どんなことがあっても、あのいやなオジサンたちのような態度をとるまい、言葉使いもああなるまい、笑い方も「ワッハッハ」とみっともなくするまい、若々しく「ヒャヒャヒャ」とやろう、と常に神経を使う。今、愕然《がくぜん》とするのだが、二十代の終わりにとった、対三十代敵視緩和政策の要領のよさを、三十代の終わり頃、四十代にむかってとらなかったのだ。  三十九歳没説に酔いしれて、結局は無事一日がたって、ある日しかたなしに四十になる。二十代前半の、なにもかも希望ばかりだった新進指揮者の頃、指揮の動作はもちろんのこと、普段の生き方、笑い方にいたるまで、オジサン的になるまいと誓った努力が実りすぎて、人から見たらどうかは知らないけれど、顔の皮膚、腹のたるみ、白髪のふえ方等とは別に、現在のすべての動作の無意識の若さ——というより軽々しさが、ちっとも年をとっていないみたいな気がする。  昔の学校の友達に会う。たいていは会社の課長や部長ぐらいの感じで、名刺を出す格好や、階段を登る時の態度や、うなずき方等が、どうもまことに年にふさわしいように見える。つまり大人っぽいのだ。「キミみたいな自由業はいつまでも若いね。結構だなあ、ワハハ」と言われ、ニヤニヤしていても心の中はどこかで穏やかならぬものがある。そりゃあそうだろう。黒っぽいビジネスマン風の、ネクタイ背広の同窓会のまっただ中に、ミリタリルックや、ジーンズで押しかけてゆき、頭のゴマシオは同じなのだから。「若いね、ワハハ」は、あれは、ほめられたり、羨《うらや》ましがられているのではないに違いない。サラリーマンには、こんな自由な格好ができまいと、こちらがひそかに誇りに思っても、多勢に無勢《ぶぜい》、どこかに無理がある。はたちになってから、みんなは順調に一年、一年、態度、物腰に年輪を加えてきていて、確かにオジサン風ではあるけれど、自然でもある。三十九歳の英雄的死に失敗してしまった以上、これはもう、これからは、ただのオジサンとして、自然のカンロクをつけねばならぬ。だが、二十歳位の頃、あのオジサンにはなるまいと誓って、一生懸命努力を重ねてきた二十年ほどのぼくのキャリアも、相当にしぶといのだ。そう一朝|一夕《いつせき》に「ワハハ」にきり換えられない。エイ、ままよ、とひらき直ってこのままの若さの態度を続けてゆくとして、(「若さの態度」と「若さ」とは全く違うことなのだが)仮に七十歳まで生き延びて、なおも態度だけは現在のぼくのオッチョコチョイと「ヒャヒャヒャ」をもち続けているとしたら、これこそ正真正銘のバケモノではないか。  スタートがひどくおくれてしまったが、今からでも遅くない、徐々にオジサン的に自分をしむけていこうか。明日、突然変身して、「ワハハ」をデビューさせようか。『バケモノでもいい、若さあふるる七十歳のジイサンになってほしい』。とにかくいずれにしても、選ばなければならない。どうしよう。  「日本沈没」は祈らない「みなさんの沈没」を祈る  音楽を商売としていると、いつでも人に言われることは、羨ましいですねえ、好きなことで食っていけるのは、である。確かにそのとおりには違いないのだが、会う人ごとに言われるとなると、耳にはたこ、ついにはへどでも出そうな気分になる。言われればめんどうくさいから、ええ、まあ、とかあいまいにニヤニヤ笑ってすごすことにはしているが、たしかに自分でなりたくて、その職業につけて、人様よりは稼げるようになれたことは、本当にありがたい話。だからこそ、特殊な苦労が、人知れず人一倍多いこともがまんするのが当然なのだろう。しかしそれに続けて、苦労といったって楽しくて張りのあることがあるならいいじゃありませんか、わたしらは何しろ耐えることだけなんだから、とくると、もう何も言うことがない。結局、こういう問答がいやなあまり、気心の知れた人とばかりつきあうようになって、世間は狭くなり、あいつらタレントときたら、と言われるのがオチである。  およそスポーツであれ、音楽であれ、芝居であれ、趣味としてやれるような事柄で、メシを食っている少数のものを、「プロ」とお呼びになって、やれ「プロ根性がない」とか、「オレたちはゼニを払っているんだぞ」と、てきびしいことをおっしゃるが、生きとし生ける者、なんらかの方法でゼニを稼いで食っている者は、それぞれのオマンマのありつけ様に対して、プロフェッショナルなのではないか。つまりぼくが言いたいのは、赤ん坊と幼年期以外はことごとくプロなのであって、見せもの関係で食っている人間にだけ、プロ云々《うんぬん》と迫るのは、サラリーマンや、商売のプロとして、図々しすぎるのではないかと言うことなのだ。見せもの関係の人間にバカが多いのは確かであるが、それはプロをきびしく叱責《しつせき》する一般のかたのなかのバカの比率と比べて、どれだけ違うというのか。  議員になった、政治屋の一年生としての土建屋のドラ息子と、たとえば、文章を書いて食ってきた人間との、キャリアの違いは何なのか。土建屋のほうは、ただの議員先生ということになり、一方はタレント議員と言われ、もともとの本業のほうも怠らずに励めば、なんやかんや言われる。現職の大臣達でさえも、ほとんどすべてが会社の社長なぞを兼ねているではないか。そういうのに別な名称はないものか。とにかくぼくも厳然とタレントの一員であって、立候補する気はないから、堂々と偏見を言わせてもらえば、いわゆるタレントのバカさ加減より、確たる意識もなしに漫然と月々サラリーをもらっていらっしゃるみなさんのような「プロ」のほうが、よっぽどバカに見える。いい気なもんだと思う。  ここでぼくのいう「みなさん」とは、みなさんが常に人種偏見とも見えるくらいの蔑視をもって、さげすんだり、あこがれたりしている、ごく一部のタレントという、特殊な人間以外の、みなさんのことをさすのであって、だからぼくにとっては、田中角栄さんも、宮本顕治さんも、松下幸之助さんも、中村太郎さんも、山田花子さんも、「みなさん」なのだ。  一般に与える影響大とかいって、タレントなるものが酔っ払って、しつこくからんできて、「みなさん」のひとりをぶんなぐったからといって、何故あんなに大きく新聞に扱っておもしろがるのか。夜の盛り場は、無礼でベロベロのヨッパライばかりではないか。「みなさん」の中にだって、無数の自殺未遂はあるではないか。自分の仕事の失敗は、エヘラエヘラで過し、歌手が歌詞をまちがえたくらいで、なんでああもいばりくさってプロの責任を迫るのか。公衆に及ぼす影響大ならば、官公労にスト権を、と何故叫ぶのか。日教組にも何故スト権を、なのか。ぼくは、スト権には賛成だけれど。だが、それならば、なぜ「みなさん」の見せものの対象としてのタレントには、「権」をいささかも認めないのか。「みなさん」とは本当に勝手なものだ。  ぼくはたいていのスポーツはやってきた。高校三年まで野球部でしごかれたし、テニス、ピンポンだけのときもあったし、ボーリングにうつつをぬかしたりもした。だが、ゴルフだけはいやだ。ゴルフ自体にはいささかの偏見も持っていないが、ゴルフをやる奴が嫌いなのだ。ゴルフをやらない人間の前で、よくもまあ、あんなにゴルフの話ばかりできるものだ。エチケットやらはどうであったか。一三〇〇万人が、ゴルフのあとで、やれブービーの、ラッキーセブンのとアホらしいセレモニーをやって、ビールをがぶがぶ飲み、玉ねぎのスライスをほおばった口から吐く息が、どんなに日本の空気を臭くしているか。人でいっぱいのプラットホームで、しずくをまきちらしながら、コウモリ傘でゴルフの練習をしているあのいじましい姿を見ると、ほほえんではあげたいが、それよりも先にバカだなあと思ってしまうのだ。このゴルフバカ族の一三〇〇万人のうち、九九・九九……九パーセントを占めるのが、「みなさん」ではないのか。  最近ヨーロッパから、モスクワ経由で羽田に飛んできた。日本海を越えると新潟が下に見えてくる。自分の国を久しぶりに見る嬉しさは、何十回目であっても少しも変わらない。五月だったから、緑がきれいだった。この日本の緑は、ヨーロッパやアメリカや、その他どこの世界のと比べても、実に独得で、なにが違うかと言えば、あたたかい感じがする。亜熱帯の湿度特有、などと言ってしまっては身も蓋《ふた》もない。ぼくにとっては、ぼくの国だからなのだ。  新潟通過は、四、五千メートルの上空だろうか。そのあたりでこの緑のなかに、時々へんなハゲみたいなのが見えはじめる。自然の緑のなかで、赤っちょろけてはいないけれど、ハゲはハゲなのだ。ツルツルのハゲ頭を見ても病気とは思わないものだが、頭のほうぼうに小さなハゲの島々ができるのは、あれは病気だろう(あれは何病といっただろうか)。ヒマラヤのほうの世界の屋根や、中近東の上空で見れる全面的ハゲを病気とは思わないが、この日本上空から見えるハゲは、まさに病的だ。  この日は天気もよく、新潟を過ぎた北陸上空にはスモッグもなかった。ぼくにはこのハゲがやたらに目についた。この分散ハゲは、だんだん高度が下がってくると、なんと、方々のゴルフ場だとわかった。ゴルフ気狂い共は、見わたす限りのグリーンを一日中歩きまわって、自然そのものだなんてホザいているけれど、一度空から見てごらんなさい。あれは国の病気だ。国土を病気にかからせ、会員券を買いまくってだまされた末に泣いたりわめいたり、プラットホームで傘をぶんまわしたり、つまりそれが「みなさん」なのだ。環境破壊と新聞に騒いでもらって、大騒ぎするだけが、国土の病気への配慮ではないのです。  なんとか反対集会で、「みなさん」がたくさん集まる。「みなさん」のなかの、別な一部の「みなさん」が実にけしからんことをやっていて、被害を受けているほうの「みなさん」が団結してけしからんことをやめさせるという集会は、それこそ毎日のようにある。なるほど当然なくらいけしからんことが多いのは確かだ。しかし、その集会のあとに残された膨大なゴミは、いったいあれはなになのか。このゴミのことを必死になって「みなさん」に訴えて、たまたまその人が清掃局の職員であり、筆も口もたって、新聞、雑誌、テレビを使って、より多くの「みなさん」にゴミ退治を叫ぶとする。「みなさん」はもうこの人を「タレント」扱いにして、「みなさん」の仲間からはじきとばすに違いない。  山男に悪人はいないという。男だけで悪ければ山岳人とでも言おうか。いずれにしても「みなさん」だ。山という山のどこもかしこも、空カン、ポリ袋の残骸《ざんがい》でいっぱいなのは、どういうわけか。夢の島のアイディアで、山岳人としては、日本の山を埋めたてて、もっと高くしたいのか。汗を流して頂上をきわめるのはよいけれど、同じく危険な汗を流しながら、「みなさん」の後から命がけでゴミを拾って歩く「みなさん」の仲間もいるのに。  日本国中の海岸の無惨さは、あれも「みなさん」のなさっていることなのだ。「みなさん」のなかには、石油コンビナートや、工場汚水で、海をメチャメチャにしている人たちもいるし、それを心の底から怒っている「みなさん」もいる。しかし休日に一家そろって、鎌倉の海に捨ててくるゴミは、あの国民一致の反対運動とどう関係があるのか。空きビンや、空きカンや、紙くず類は、水銀のようには直接命には関係ないからなのか。ビンのかけらで足を切って、破傷風になったって、今では注射一本でなおるからね。休日ごとに、家のゴミをまとめて海岸にもってゆくのではありませんか。自分の家はさぞきれいにしているんだろうに。口を開けば、公共性を云々していらっしゃる。では、公共の場というものは、「みなさん」にとって、みんなのためのゴミ捨て場ということになるのか。  ぼくは「みなさん」の仲間ではないから、いいたいほうだいが言える。なにしろ「みなさん」は、「みなさん」の仲間のうちで最も気の毒だった横井さんや小野田さんをもタレント側に追放して、仲間にはしてやらないのだから。公害企業はけしからん。そうだ極悪だ。政治家はなっちゃない。確かに悪い奴ばっかりだ。タレント議員がのさばる。あんなバカ者共に政治を預けられるものか。みんなそうだ、そうだ、まったくだ。だが、なにもかも「みなさん」がやったことではないか。何故、タレント議員に票を投じたのか。水銀を流すのは、「みなさん」の仲間の人ではないか。国民全体の〇・〇〇…一パーセントのバカタレントを相手になにを騒ぐのだ。「みなさん」が公害そのものではないか。タレントか、プロ野球選手にでもなってごらんなさい。おこないは概してかなり正しくなり、不自由にもなる。「みなさん」はいい。自由だから。勝手気ままだから。もしこの国が果しもなく荒廃し、子孫が生きられない国になってゆくのが事実だとすれば、それは「みなさん」が絶えず疎外《そがい》し、優越感を味わって、プロ根性とか、責任をとれとかいって、酒の肴《さかな》にしている、少数のバカタレント、バカプロのせいではなく、まさしく「みなさん」の仕業なのだ。日本沈没は祈らない。「みなさん」の沈没を祈る。  違いがわからぬ男は肩がコル  わが国では、どういうわけか魅力あるたのしみごとには、みな「道」の字がついてしまう。なんともまじめなことだ。お花やお茶は「花道」「茶道」であり、とっくみあいは「柔道」であり、ホモでさえ「衆道」として、きわめの道すじを示して下さっている。大奥のレズの世界にも、道があったに違いないとぼくはにらんでいるのだが、これについてはいまのところわからず、ただ種々の「道《ヽ》具」があったことを知っているだけである。  家元という特殊な制度の発達した日本では、家元の存在するところ、即ち「道」があるといってもさしつかえないように思われる。家元について詳しく考えると、大変な論文になってしまいそうで、考えるだに恐ろしく、さわらぬ神に祟《たた》りなしという気持になってしまう。  昔からえんえんかつ強力に続いているこの制度の家元にとっての利点を、近代的、科学的に見事にとりいれた分野に、クラシック音楽の教育界がある。日本列島、どんな村にいっても、これらのハイカラな家元が、ほんとうにビックリする位沢山いる。西山松之助氏の『家元ものがたり』の目次をちょっと見ても、剣術、相撲、砲術、水泳、鷹匠《たかじよう》、万歳、曲《きよく》独楽《ごま》、太《おお》神楽《かぐら》、幇間《ほうかん》、虚無僧《こむそう》、包丁、香、盆石、盆景、盤景、雅楽、下座《げざ》音楽、河東節《かとうぶし》、一中節《いつちゆうぶし》、荻江節《おぎえぶし》、とうんざりするほど家元の種類と数が並んでいる。でもこれは、代表的なものだけをお書きになったのであろうから、より詳しい実体を探れば、日本の固有の文化の発展及び保存のエネルギーは、家元制度そのものにあるという結論が出そうだ。日本固有の文化だけでなく、入ってきて百年にもならない西洋音楽の分野にまで、強力な家元が無数にでき、流派を競っているのだから、モノスゴイ話だ。  前に長々しく列挙した職種に、水泳道とか幇間道《ほうかんどう》とか包丁道とか、とにかく「道」という字をつけてみれば、みんなそれぞれ立派でまじめな「道」になるからオモシロイ。だが同時に、この「道」という一字、たとえばピアノ道、野球道というふうに、そのまじめさをからかう場合にも使えて、まことに自由自在、大変便利である。男と女のことは、「色道」とはいうけれど、さてホモも入るのか、レズも入るのか、といわれれば自信がない。やはり「道」という字は、そんじょそこらにころがっているような、あたり前のことには使ってはいけないのではないか。だから色事についての言葉は「四十八手裏表」のごとく、テクニックに関することばかり多くて、剣術や柔術のように、一段低いところに価値づけられているようだ。  近頃は、尊敬する方々がつぎつぎと「違いがわかる男」になられ、まじめな顔などなされて、テレビで即席コーヒーをめしあがっていらっしゃる。ついに、「インスタント・コーヒー道」も確立されたのだ。しかし、あの「違いがわかる」とはなにの違いのことなのだろうか。ユーバンではなく、ネスカフェだということなのか。それならちょっと安心なのだが、本物のコーヒーでなく、オレはまちがいなく、今インスタントを飲んでいるのだぞ、というわかるなら、これはちょっとコマーシャルとしてまずいんじゃないだろうか。最近のインスタントは、本物と変わらないほどよいものができているそうだから、もしかすると、やはりあれは、「本物」よりよいということが、「わかった」という意味なのだろう。「違いがわかる教」の教祖たちの顔ぶれは、「ぐうたら道」や「題名のない道」や本物の茶道の権威たちばかりなので、それだけでも衿《えり》を正し、かしこまってインスタントを賞味する気持になるが、「違いがわかる教」のような新興宗教でない、本物のコーヒーの世界となると、これはもっと厳しい。グゥアテマラだ、コロンビアだ、キリマンジャロだと、これも「違いがわからぬ男」には肩が凝る。コーヒー専門店で飲むと「道」の重みを教えてくれるらしく、ブラジルはますますブラジル風に、コロンビアは|ビクター《ヽヽヽヽ》とか|ソニー《ヽヽヽ》とまちがえられぬように、ますます濃く、という具合で、結局、日本で飲むコーヒーは、どこでもにがく、強く、こう強烈だと、紅茶よりカフェインはずっと少ないのだと頭では知っていても、恐くなってきて、好きなだけガブガブ飲めなくなってくる。  オランダ風コーヒーというものもある。現在ぼくはオランダに住んでいるのだが、もちろん御当地ではおめにかかったこともないし、ヨーロッパじゅう、どこで尋ねても知らぬという。世界中を征服しているフランス料理や中国料理はともかく、ドイツめしなんか食えるものか、と悪口をいう人が多いにしても、ドイツ料理の店は世界中にあるし、ロシア料理店、インドネシア料理店等々、それぞれのお国料理は、たまにはおいしいものだ。だが、どこへ行っても、残念ながら、「オランダ料理店」というものだけは見たことがない。オランダのハムやチーズは本当においしいよいものだが、あれは料理の工夫の結果ではなく、それ以前の段階のものだ。住んでいて悪口を言うのはなんだけれど、この国は実に料理がまずい。つまり、味オンチなのだろう。その国に、工夫を凝らした「オランダコーヒー」があるはずはない。これもトルコにはない、あのトルコ風呂のようなものなのだろうか。  わが国では、音楽や絵はお好きですか、と言われると、「いやあ、音楽も絵もわかりませんで……」という答が多い。こういうことには、「わかる」、「わからぬ」という単語を使ってほしくなく、好き、嫌いと言ってはくれぬものかと、常に不満なのだが、「道」の畏《おそ》れ多さの前にはつい「いやあ、コーヒーはわかりません」と言ってしまいそうになる。  そういう点で、ぼくは邪道といわれようが——無意識に使ったこの言葉が、すでに「道」であった——俗にいうアメリカン・コーヒーが好きだ。なんの気がねもなしにガブガブ飲めて、ナミダが出るほどうまいということもないかわりに、平均してそうまずいものもない。どうだ、うまいだろうという嫌味もない。ナントカのストレートの失敗作よりずっと安全だ。好きだから一日中でもガブガブ飲みたいのサというぼくの態度では、それぞれの「道」の達人や、違いがわかる先生方から、どんなに怒られるだろうか、それが又コワイ。  友人のウィーンの音楽家といっしょに、東北を演奏旅行したことがあった。さて旅館での夕食となったが、なにぶん彼が日本に来てすぐのこと、例の刺身を前座に海の幸がえんえんと続く料理は、まだちょっとかわいそうなので、彼にだけは、ビフテキを特別に頼んだ。大きなビフテキには、目玉焼がのっかっていて、ハンバーグ・ステーキかと最初思ったのだが……。しかしそれはそれで、まあいい。問題は食事が済んだあとである。御朝食は何時にいたしましょうか、七時になさいますか、かんべんしてくださいよ、十時までは寝かせてほしい、十時では板前さんが仕事をしませんので、じゃあせめて九時にしてください、等々どこの旅館にでもある会話になった。ぼくは和食でいいけれど、この外人さんには、ありあわせのパンとインスタントコーヒーと、それに目玉焼でも出してあげて下さい。ところが女中さん、目玉焼についてはどうも保証しかねるふうである。もう一度なんとかしてくれと頼むと、こんどは板前さんに聞いてきますと奥へもどって行った。ところが帰ってきた女中さんがいうには、目玉焼はやはりだめだという。目玉焼ぐらいどうしてできないのかと、再び迫ったら、ついに恐い顔をした板前のおじさんがあらわれた。板前さん、目玉焼なんかを食卓に出せるか、とぼくにどなる。でもさっきは、ビフテキの上にちゃんとのっていましたよ。ビフテキなしの上だけを簡単に作ってくれればいいんですけれど。ああいうものはビフテキの上にのっけて出すもので、卵だけをお客さんに出すのは、板前のオレのプライドが許さネエ、とまあ、こんなことを、彼は東北弁でまくしたてるのだ。フライド・エッグというものがこの世にあって、朝食のときにみんなが食べるものなのだから、その目玉焼をだしても、板前さんの恥にはならないと、くどくど説明しても、がんとしてはねつける。ついに、フライド・エッグは、でなかった。  その演奏旅行で、二、三日後、同じウィーン人と街の喫茶店にはいった。夏だったし、ムンムンむしあついので、ぼくはアイス・コーヒーをとった。ウィーンの音楽家は、ココアのホットが飲みたいという。その旨、ウェイトレスさんに頼んだら、ピシャッと断わられた。夏は|アイス《ヽヽヽ》・ココアしかありません、という。でもアイス・ココアを作るためには、いったん|ホット《ヽヽヽ》・ココアを作って、そのホット・ココアを冷して、アイス・ココアにしてお客に出すんでしょう。その冷す前のあついうちのを出してくれればいいとお願いした。おねえちゃん曰《いわ》く、とにかくうちでは、夏はホット・ココアは出さないんです。どうしようもなかった。  世の中にフライド・エッグがあろうと、あれは、ビフテキの上にのっけて出すもので、それ以外のみっともないことは絶対にするな、と修業時代にきっとしごかれたのだろう。メニューに書いてあるもの以外お客にはないと言えと、ウェイトレスさん、店主に強く教育されたのだろう。できすぎたお話のように思えるかもしれないが、二つとも、ぼくが本当に体験したことで、ここにも日本の「道」の存在を痛いほど感じたのだった。  ヨーロッパの町々では、最近の日本のように、どこにでも立派な市民会館が建っているというわけではなく、ホール事情は日本のほうがはるかによいと言える。そこでちゃんとした会場のない小さな町で演奏するときには、そこの教会を使わせてもらうことがよくある。昔、教会でやるときには、拍手など禁じられていて、やるほうも、聞くほうも、神の前でいとも厳粛《げんしゆく》な光景だったそうだ。ところが近頃では、音楽の楽しみをみんなで分ち合うことは神の喜びによりかなう、なんてわけだろうか、拍手も、やる曲目も自由になった。音楽というものは、恋のうた、セックスの歓喜を扱ったものが比較的多い。教会側でも音楽は楽しいものだと、なにごとも気にせず、自由に観衆のために、会堂を解放するようになったようだ。  教会での音楽は、なにしろガランとしているので、音響効果がすごくいい。ぼくも東京で一度やりたいと思っていたところ、ある教会に大変進歩的な考えの西洋人の神父さんがいて、次々に音楽家たちに、会場を提供してくれているという。音響もよいので、ぼくはバッハだけの音楽会をやろうという計画をたてた。ところが話が決った頃、この神父さんは転勤になってしまい、後任には日本のかたがきたのだが、その神父さん、曲目を全面的に変えろという。何故かというと、うちはカソリックの教会で、バッハはプロテスタントだから、というのだ。それは確かに、そうには違いないけれど、ヨーロッパでのぼくの何回かの経験では、いつも美しい音楽を自由に演奏させてくれていて、いろいろな作曲家の宗派を尋ねられたという記憶は全くない。ついにバッハをよい響きで鑑賞する計画はお流れになった。  なにもかもが、日本では「道」になるみたいだ。  本当の「道」をきわめようと念じている人たちは、「道」の真の発展のために、枝葉末節にこだわるような愚はおかすまい。なにもむりやり「道」にこじつけることはないけれど、よくヨーロッパ、特にドイツに行って帰ってきた日本人のなかに、ドイツ人の「ヤア」と「ナイン」のどちらかしかない、あの頭のかたさをあざ笑う人がいるが、時にはわが日本人の頭のほうが、もっと、どうしようもなくカタイのではないか、とぼくは思ってしまう。日本の道路もコンクリートで舗装され、とても良くなってきたことだ。「道」のほうも、そういつまでも「目玉焼はできません」でもあるまい。  ノーベル文学賞に日本の編集者を推す  以前、アメリカ映画を見る度に、電話のシーンが出て来るのを期待した。主演のスターでなくてもいい。登場人物のだれかが、電話をかけるところが見たかったのだ。それも、電話機の横についているガラガラをまわして、交換嬢を呼び出す式の古い型のには興味がなく、現在、世界のどこにでもある、ダイヤル式のヤツに魅力を感じたのだった。  映画、特にアメリカ映画では、ダイヤルをまわす動作がカッコいい。チャッ、チャッ……(この点線は、一秒位の間を空ける意味だ)、チャ、チャッ……チャッ……。ダイヤルの中に、指をムズと突っ込むなんて、ハシタないことはしない。指の先一ミリ位を、ダイヤルの穴にひっかける感じで、チャッ……チャ、チャッ……とやるのだ。人指しゆびでやるとは限らない。電話機を左手でサッと持ち上げ、軽やかに部屋の反対側のソファのところまで歩いて行き、まともに坐ったりはしないで、ソファの背の反対側にもたれ、足をかるく組んだ不安定な姿勢の、その股《もも》の上にヒョイとおく。くわえたばこをしているから、ちょっとけむそうにして、目を細め、小指でチャッ、チャとダイヤルをまわす。いや、まわしているというより軽く触れるだけで、相手が出て来る。  ぼくは、これといって、特に映画ファンではなかったから、電話のシーンにワクワクしたくて、映画館に通ったのは、もしかすると電話機が見たかったからかもしれない。つまり、アメリカの電話機のファンだったのだ。  始めてアメリカに行った時、一九六〇年だったが、ホテルに着いて最初にやったのは、チャッ、チャッ……だった。どこの誰にかかろうと知っちゃいない。大体、知っている番号なんかはないのだ。遂に、あこがれのアメリカ電話に触って、幸福だった。  だがどうも様子がおかしい。この電話機の調子がおかしいのではないか。他の部屋からやってみる。どこにもかからない。映画と全く同じにやっているのだけれど。  何度も失敗して、だんだん分って来た。アメリカの電話機も、日本のと同じに、㈰なら㈰を、㈷なら㈷を、右下の最後のところまでまわして来て、一瞬止めてから離さなければ、電話局の機械につながらないのだ。どんなに短い、〇・〇何秒にしても、とにかく一瞬の停止は必要なのである。  判ってみれば、ぼくが映画の「チャッ、チャッ」の大ファンだったのは、オソマツ極まる。その後、注意して見ていると、彼らは大抵、㈰を何回か、指先で下の方にちょっとはじいているだけだった。他の数字にはさわっていない。  もしかすると、一般の映画ファンには、こんなことは常識で、こういった「うそ事」、「こしらえ事」、つまり「お芝居」こそが映画の面白さの本質で、「チャッ、チャッ」は、電話のダイヤルをまわす時の所作事《しよさごと》として当り前のことで、ため息をしてアメリカの電話機にあこがれたぼくがバカだったのだ。  夢破れてからも、同じシーンの出て来るごとに、今でも少しは気になって見ているけれど、世界中の大都市が、みな七|桁《けた》で、国際電話の自動が十四桁位なのを知ってはいても、ニューヨークのチャールズ・ブロンソン演ずる「チャッ、チャ……チャッ」のカッコイイ三回の動作で、もうロンドンが「ハロー」と出て来ても、おどろかない。  たしかに、「チャッ、チャ」の演技は、ぼくには素敵だったし、今でも俳優さん達の演技ぶりの上手さで、同じシーンの出来、不出来の差が分って面白いが、心配なのは、現在ひろまりつつある世界中のプッシュ・フォンの普及ぶりだ。あれのタッチの瞬間性は、上手な芝居も、われわれシロウトも変わらないのではないか。映画では、デタラメの番号を、ピ・ポ・パとさわって、スピードぶりを見せることが出来るかもしれないが、在来のダイヤルの、われわれの「ジー、ジー」と、スターの「チャッ、チャ」ほどの違いは望めそうにない。演技の極は、五本の指で、ピポピポ……パピプペポ……と目にもとまらぬ早業でやってしまうのだろうか。プッシュ・フォンでの演技にまだお目にかかっていないので、とても楽しみだ。  一九七四年の秋、ぼくはずっとヨーロッパで仕事をしていて、日本からの三、四日遅れの新聞を、毎日首を長くして待っていた。  ジャイアンツのV10は、やはりだめだろうか。  長島の打率は、どこまで落ちるのだろうか。  このためだけに新聞を待っていたのだ。田中内閣は? とか、次期自民党総裁は? ということなら、ヨーロッパの新聞を見ていれば、大体、わかる。  その頃の「週刊朝日」に、「長島監督で巨人はこう改造される」という座談会がのった。ちょっと長くなるが、前半の部分を、そのまま写させてもらう。 [#ここから2字下げ]  巨人・中日の死闘が大づめに近づく一方で、いよいよミスター・ジャイアンツ、長島茂雄の現役引退も迫ってきた。異常な長島ブームの中で、引退後は監督就任というコースが、いまや既定の事実と化した感じ。名プレーヤー長島は、はたして名監督たり得るか。再び三冠王を狙う王との関係はどうなる? �法皇�川上の影響力は? 四人の情報通に、長島監督のありようを話しあってもらった。 出演者  ●(評論家・元巨人投手)  ●(作家・誌上参加)  ●(日刊スポーツ運動部)  ●(朝日新聞運動部)  ぼくは川上留任の可能性がまだ一%はあると思うけど。  そうなんですよ。責任をとる理由は何もない。かりにことし優勝しなくても、日本シリーズ九連覇はサン然と輝いている。  しかし長島の現役引退はほぼ確実ですよ。スポーツ紙、雑誌、テレビも�長島内閣�にそなえてものすごい準備合戦を展開している。  川上さんとしては巨人軍の監督の座に未練はないと思う。事実、八連覇をとげたとき辞表を提出したけど、次期監督が決まっていないなどの理由で慰留されたいきさつがある。  ぼくは川上野球は日本経済なりという説でね(笑い)。勝ち星と売り上げをがめつく追求した結果、いま袋だたきにあっている。あの管理体制のきびしさはモーレツ企業以上だからね。それが長島監督の明るいムードへの期待になっていると思うけど、本人のヤル気はどうなのだろう。  二、三年前までは、監督はやりたくない、といっていましたねえ。(以下略) [#ここで字下げ終わり]  ぼくは、何気なくこの座談会を読んでしまった。そして、読み終った時に、何か、ちょっと、ハテナ? という気がしたのだ。四人の会話のやりとりは、ごく自然で、内容も面白いし、情報通の人達の座談会はサスガであるとも思った。勿論、これは一種の予想座談会だから、数カ月たった現在、読み返してみると、多少は当らなかったこともある。そのことではない。  ぼくのハテナ? は、読み始めに出席者の項を見た時の、    ●(作家・誌上参加) を、フト思い出したからだった。四人の話は、良いテンポで流れていたし、全員で何度も「笑って」いるし、読者としても楽しく読んだし、遠くヨーロッパにいる「長島ファン」としても、色々なことが分ったし、ぼくには何の文句もないのだ。だが、なんだかヘンだ。  もう一度、最初から読み直そうとしたとたん、ぼくは爆笑した。ころげまわって笑った。座談会の口火を切ったのが、なんと、「誌上参加」の寺内さんだったのだ。  笑いが止ってから、イジワル読者の代表のような気持になって、重箱の隅を突っ突くように、この座談会をゆっくり読んだ。 「誌上参加」には、雑誌等の座談会で、時たまお目にかかる。その人にどうしても出席出来ない事情があったからだろうし、それでも、雑誌社側がその人のコメントを必要とするからこそ、こういう形になるのだろう。従って、わざわざ誌上参加した人は、そのテーマに関しては、重要な人である。でなかったら、雑誌社は他の出席者を探すにきまっている。つまり、誌上参加の人は、この座談会への出席を一度、乃至《ないし》数度、「残念ながら」と断り、雑誌社のたっての願いで、この役を引き受けるのである。  座談会が終って、速記がまとまり、誌上参加の人は、出席者がどんなことをしゃべったかを読んだ上で、時々自分の意見を、中にはさんで書き込む。会話調に書いて、自分が本当に出席したように、うまく入れる人もあるし「誌上参加」を強調したくて、わざと文章調で書き入れる人もある。  以上が、ぼくの「誌上参加」に関する知識だが、一度、ぼくが出席した座談会に、後から「誌上参加」があったので、わりと知っているつもりだ。  しかし、この週刊朝日の座談会は、ぼくの「誌上参加」の知識を大幅に上回った。だから、転げまわって笑ったのだ。  断っておくが、ぼくは寺内さんの作品が好きだ。スポーツ評論家としての寺内さんのファンでもある。寺内さんを批判する気は毛頭ない。日本の週刊誌、雑誌界に存在する、「誌上参加」と いうヤツに、大変興味があるのだ。  それにしても、「誌上参加」の人の発言で始まる座談会って、一体どんなものなのだろう。フシギなことだ。もっと不思議なのは、この「長島監督云々」の座談会が、当日出席していない寺内さんの発言で、他の三人が、「笑って」いることだ。座談会中の寺内さんの発言は十三回で、他の三人とのバランスはまあまあ。別所さんが十五回、三浦さん十三回、中山さん十四回。重箱の隅をつついたら、こういう数になった。 「(笑い)」が全部で五回。その内の二回を、出席者のみなさん、ユウレイの寺内さんのお話で「笑って」いらっしゃる。  誌上参加者の座談会の口火切りといい、本当にその場に居合わせたような、みんなとのスムーズな会話のやりとりといい、「(笑い)」といい、寺内さんご自身が座談会速記にあとから書き入れなさったのだろうが、三人の方の寺内さんとのやりとり、つまり、寺内さんの問いかけに他の方が答えるところは、編集部がやったのだろうか。寺内さんの面白いお話に、三人が「(笑う)」 二カ所は、編集部がいちいち三人に電話して、了解を求めたのだろうか。この電話のやりとりも、さぞ、おかしいだろう。この位パーフェクトにやるのなら、冒頭の「誌上参加」という、良心的なことわりがなかった方がと、惜しまれる。  週刊誌のなんてことのない座談会の、スミをほじくり返してよろこんでいるのは、われながら、ヒマ人だなあと感心するし、おとなげない気もする。と同時に、自分の良心(?)も、ちょっとウズクのだ。  座談会に出たあと、何日かして速記原稿がまわってくる。ほとんどの場合、そのまま活字になったら困るのだ。おおやけにされてはヤバイ。個人の名前をあげての悪口や、失言、放言ばかりやってしまっているから。それに、座談会だから、しゃべり言葉であって当然だとしても、ぼくのベラベラしゃべっているのが、そのまま活字になったら、誰にも理解されないにきまっている。 「それでまあ、ぼくとしてはですね。ウ、まあ、違うかな、でもやっぱりそうかなあ、ウン、そうそう、やっぱりですね、そんなことがアアでは結局いけないんだ、困るんですヨ」なんてやっているのだ。速記原稿を直しまくる。これが第一のウソ。  通常「(笑い)」というのは、一人がしゃべったあとに書いてある。本人を含めて、その場の全員が笑っていることになる。さっきちょっと、良心がウズクと書いたのは、このことで、速記原稿が手元に来た時には、自分の発言に手を入れて直すのが、義務であり権利であるような気がしてしまうあまり、誰も笑っていない時に、「(笑い)」を書き入れてしまうことがよくある。活字になった時、自分の発言で、一座がさもワイタ感じになるので、やってしまう。第二のウソ。  いろいろの国の雑誌や週刊誌をよく見る。ヨーロッパの方々を飛びまわっていると、飛行中退屈で、機内においてあるのを何冊もかかえこむ。見るというよりは、眺めるのだ。対談とか、座談会とか、インタビュー等、どの雑誌にものっている。ところが、不思議なことに、「(笑い)」のたぐいが、ないのだ。確信をもって言えるわけではないが、今までのところ、ぼくはお目にかかっていない。マジメな座談会ばかりではないし、日本ならば、さしずめ「(爆笑)」と書いてもいいような発言があっても、別に何もつけ加えていない。  あの形式は、日本の編集界の発明なのだろうか。だとしたら、天才的な発明だ。ドイツ語の雑誌の座談会を読んでいて、くわしく分らなかったので、謹厳な人たちの集まりだと思っていたら、後に、偶然、ある日本の雑誌に、その座談会の翻訳が出ていた。日本では、彼らはしょっ中、「(笑)」っているのだ。びっくりした。 「新春爆笑座談会」なんていうのを読みながら、こちらがゲラゲラ笑うことは、あまりない。「(笑い)」や、「(全員|哄笑《こうしよう》)」を目にして、ツメタイ顔をして、おかしい話をナットクしていることが多い。紙面上で、先に「(大笑い)」されると、おくれをとったこちらのほっぺたは、笑いの痙攣《けいれん》をおこさないのかもしれない。ころげまわって笑いながら読むのは、井上ひさしさんや落語全集で、「(笑い)」とか、「(爆笑)」なんて、書いてない本だ。 「(笑い)」や、「(爆笑)」や、「(哄笑)」のわが国での存在は、もしかすると、あの、「日本人はユーモアを解しない民族である」とやらの、評論家先生方の御託宣の正しさを証明しているかもしれず、「読者にユーモアを解させる」ための、編集者族の苦心の作なのだろう。  これは、ノーベル文学賞に価する。  松阪牛は完全無欠なインスタント食品  もし日本が数百年前に、よその国の植民地になっていたら、現在のわれわれは、どんな感じになっているだろうと、時々考える。はなはだ不遜《ふそん》で、仮定としてもちょっとタブー的に過ぎるけれど。この種の「SF」には、あまりお目にかかったことがないような気がするが、タイムマシン旅行者への、過去変革禁止条令がきびしすぎるためだからだろうか。  日本列島全体を、ひとつの国が植民地化したとは思えないから、例えば、北海道がロシア、本州はアメリカやヨーロッパの列強数国、四国がポルトガルとスペイン、九州はオランダ……という風に分割されたとしよう。数百年間の抵抗、帝国主義との闘争の末、民族自決の御墨付きをやっと国連から頂くとか、近所の「南コレヨン」なんて国が、世界中を相手に東亜解放の大義という自殺的大戦争をやらかし、そのあと始末の結果、列強は身を引いたが、今頃もまだ四つ位の国に分れて独立していて、それぞれイガミ合っているかもしれぬ。聖|蝦夷《えぞ》帝国はロシア語を話し、大和《ダイワ》民国はアメリカ語で、WCIAが強力でコワイ。阿波《あわ》、讃岐《さぬき》、伊予、土佐は四国同盟連邦で、革命を絶えず輸出し、九州共和国は、旧宗主国のオランダの石油危機を見かねて援助を発表する、といった具合だ。「ニホン民族を一つの国に」会議の第八十八回目の決裂とか、「ルバング島に亡命して三百年、ひそかに生きつづけたテンノウ家の直系を戴くことを考える市民連合」——「ルテン連」のデモも毎日ある。  まあ、こんなクダラナイ空想はどうでもよいのだが、実際にこのような危機は常にあったのだから、われわれとしては東照大権現さまに御参りを欠かせてはならないし、太郎杉を切りたおそうなんてことは、もってのほかなのだ。神風? あれは偶然の台風のおかげさ、なんて言ってはいけない。北条時宗さまの御努力で「元」の一部にならずにすんだのだから、鎌倉の環境破壊も許せない。それよりも、日本を単一民族、単一言語のピュアーなままに保ってくれた、最大の恩人は海だろう。太平洋、日本海、瀬戸内海を汚してはバチがあたる。バチはもうあたっていて、やはり日本はもう、どこの国のとも言えぬ支離滅裂な植民地状態となっているではないか。 「もし……」の勝手な空想を、民族、政治、言語、風俗等、くわしくやり出したらキリがない。 「果しなき流れの果に」や「日本沈没」の小松左京さんの分野だろう。ぼくは、「食い物」についてだけ、考えてみたい。つまり、江戸以前に、他の東南アジアや、アフリカや、南米大陸の諸国のように植民地化されなかった幸運を思うと、少々国賊的な考えで気がひけるのだけれど、もしそうなっていたら我国の食生活はどうなっていただろう、という興味を持ってしまう。当然のこと、「食」の大混血が行なわれただろう。  独立を全《まつと》うして来た幸運なわれわれの国では、現在、高級懐石料理から屋台のおでんに到るまでの、あらゆる日本メシはもとより、フランス料理、メキシコ料理、ロシア料理、各種の中国料理、ポリネシアレストラン、ハンバーガー・イン等々……、居ながらにして世界中の料理を食べることが出来る。初めての海外旅行から帰って来たオジさんが、ため息をつく。「ビフテキも、やはり日本のがいちばんエエワ!」  日本メシは日本で食うのが最高にうまい。これはたしかにその通りで、あたりまえの話だ。だが、ポリネシアやエスキモー料理のことは分らないが、「西洋料理も日本がいちばんやなあ」には大いに異論がある。世界最高ということになっている、神戸とか松阪の、ビールを飲まされたり、マッサージを受けたという、あの牛肉はたしかにうまい。舌がとろける。でも、あれは、すきやきや、しゃぶしゃぶのために作られたのではないだろうか。海外旅行のオジさん達、どこかの国の駅前の食堂で、カタイ、それはそれはカタイ肉の切端を、入歯をコワシそうにしながら、故国をしのんで涙とともにのみこんで来るのだろう。本当にうまいステーキは、やわらか過ぎず、勿論かたすぎてもいけなくて、嚼《か》む時の、あのしっとりとした、丸くて重い蛋白質的満足感が第一だ。それに、噛んでから口の中にひろがる肉の汁が、のどの奥に達する時のうれしさ。人工栽培ではない、自然そのものの牧草だけを食べて育った牛の肉の持つ草のにおい。もちろん、焼き方のテクニック。以上のどの点をみても、日本の「ビフテキ」は「ステーキ」に似て非なるところがある。日本の肉の「霜降」の芸術的すばらしさには感嘆するが、ステーキには一寸やわらか過ぎる。サーロインにしても、ヨーロッパの上等レストランでのあぶら身と赤いところが、くっきり分かれ、しかも両者がキシッとかたまって皿にのっているのを、一口ごとに、今度はあぶら身二分、赤身を八分、という風に自分の意志で自由にナイフで切って、うれしく口にほうりこむあの瞬間がぼくは好きだ。「霜降」の、前もってあぶらを肉の中にきれいにちりばめてあるのは、ナイフとフォークであぶらと赤身を自由に混ぜての、いちいちの成功、失敗の面白さを取り上げてしまうような、いわば、完全無欠のインスタントを食べさせられるような気になってしまう。しかしこの神戸、松阪の肉、すきやき、しゃぶしゃぶには、これ以上を考えられない。ヨーロッパやアメリカの、超高級レストランから肉をもらって帰っても、「すきやあーき」、「ジャプジャープ」にしかならない。  ステーキに限らず、肉の煮込も、カツレツ風のも、生肉のタルタル・ステーキも、日本で食べるのは、なにかちょっと、ひと味ちがう。この違い、つまり日本風というのか。「ビフテキは、西洋料理は、やはり日本のがイチバンやなあ」のオジさんの声は、あれは言葉通りに受け取ってはいけないのだろう。アマノジャクに解釈するから、西洋の本場のステーキは……と、くどくど書いてしまうことになる。「西洋料理ちゅうモノは、ワシらが普段なじんどる、日本風の方がエエワ」、ということだったのだ。  ぼくは、決して日本の西洋料理がヨーロッパのと似て非だということを、皮肉っているのではない。むしろ、素敵なことだと思う。ただ時々お目にかかる、「ヨーロッパでは、本当の西洋料理のうまいのにありつけなかった。日本の方が、ホンモノだよ」というのに、ヒッカかる。中国にはまだ行ったことがないが、香港や台湾ではちょくちょく中国料理を食べたことがある。日本の中国料理はすごく上等だが、特別なところは別として、香港の中国料理とは、味やかおりがひどく違う。要するに、これも、「日本風」なのだ。香港からコックさんが高い給料でひっこぬかれて来ても、一年も経つと、本当の本場の味を出せなくなるそうだ。絶えずまわり中で本物の味に接することが出来ないのと、日本人のお客が殆《ほとん》どなので、つい客の好みに合せてしまうかららしい。西洋、中国料理だけでなく、日本で食べられる外国料理は、全部、間違いなく日本風なのだ。  この「何を料理しても日本風にしてしまう」ということは、日本列島が有史以来、一度も植民地にされたことがないという幸運の、なによりの証拠ではあるまいか。世界中どこの国でも、よその料理を自国風にして味わっている。だが、以前に植民地にされていた国と、一度もそうされたことのない国との決定的な差は、自分の国の料理を他国風に変えさせられたことがない、ということだと思う。料理、即ち文化である。以前に植民地を沢山持っていた国の料理は、その国風にアレンジした上でのことだが、実に多彩だ。植民地にされていた方で食べると、種類は少ないし、オリジナルは多少残っているとはいえ、旧宗主国の——たいていはヨーロッパの——料理に、無理矢理似させられたような、ヘンテコなものに出会うことが多い。取り上げた方と、奪われた方と。  だが、事の善悪は別として、奪われた方の料理の、その後の変化というか、発展というか、いや、それより旧宗主国への料理上の影響も、たいへんに大きなものがある。  わが日本の料理、つまりニホンメシは、長い歴史的、地理的幸運のあまり、ちょっとばかり「独立的」過ぎるのではないだろうか。居ながらにして世界の料理を食べることが出来るのは、これはこれで、結構なことだ。おとといは中国料理、昨日がフランス料理だったから、今日は純日本料理にしよう、という会話は、日本国中いつでもあるわけだ。外食の場合も、家庭の主婦の台所での思案もそうだろう。おとといの「中国」も昨日の「フランス」も、すでに相当「日本風」であったにしても。 「純日本風」といっても、高い料理屋で食べる以外は、普通の家庭なら、ハンバーグにごはんとみそ汁という献立だって、所謂《いわゆる》「ニホンメシ」と呼んでいる。ハンバーグ、ライスカレー、チキンライス、トンカツ、スパゲッティはみんなニホンメシだ。日本国内では、こういったものを、今や誰も「洋食」と意識して食べては居るまい。各野党が戦後ずっと叫び続けて来た、「自主・独立」の要求を考えると、なるほどハンバーグ、ライスカレー等のニホンメシの羅列のように、日本はやはり長いこと本当に植民地下にあったのかな。でも、ライスカレーやトンカツは、戦前古くから、もうニホンメシなのだが。  これらニホンメシも、外国で食べるとなると、洋食の本性を現わして、日本細工の前に立ちはだかるのだ。「ハンブルグ・ステーク」、「カリー・ライス」、「フライド・ライス・ウイズ・チキン」、「ポーク・コトゥレット」、「スパゲッティ・ボロネーゼ」……。緊張して食べる。「……やはり日本のがエエワ」となってしまう。  歌謡曲や演歌が、在来の小唄や清元や浪花節のふしまわしと、西洋音楽との見事な混血の完成品だとすると、料理に於ける演歌は何だろう。数千年来の中国、朝鮮からの影響、混血は沢山ありすぎ、しかも自然になりきっているから、歌謡曲風に限定して、西洋の楽器の伴奏で、都はるみがウナルという感じの、あの、洋の東西の完璧な融合芸術——なんだかチョッピリヘンだが——に類縁の料理を探すとなると、非常にむずかしい。昔の日本には絶対に存在せず、西洋ものとの混血で、しかも現在日本にだけ在って、外国では見付けられないもの。  さっき挙げた、ライスカレーのたぐいは、資格がないし……と探し始めると、実に、ない。ぼくは二時間考えたのだが、「アンパン」と「カツドン」しか出て来なかった。強《し》いてもう一つ言えば、ゴルフ場のレストランで出す「オニオンスライス」だ。西洋伝来の野菜と、わが国固有の調味料のしょうゆとかつおぶしとを、見事にハーモニーさせた、「歌謡曲的さ」を高く買う。でも少し無理があるようで、なんといっても、「アンパン」、「カツドン」である。料理というには、少しばかりイジマシイが、この二つが日本の正統混血料理だと、太鼓判をおす。  最近は、世界中に日本レストランが出来て、アメリカ全国には何百軒とあるだろう。パリには三十ちかく、ハンブルグに六つ、というふうに、ヨーロッパでもどんどん数が増えている。ちょっと大きな街なら必ずあって、団体さんがホッと息をついたり、大使館や商社の人が国会の先生をお慰めするのに、都合がよくなってきた。だが、そのメニューの貧しさといったら、かなしくなってしまう。日本料理とは、「テンプラ」と「スキヤキ」と「しゃぶしゃぶ」と「水たき」と「さしみ」だけなのだろうか。どこに行っても同じだ。つくる方も食べる方も日本人。まれに、モノ好きな欧米人や、かつて日本滞在数年で、日本恋しさの語り合いに、フラッとやって来たひと達が、肩身のせまい感じで、隅の方にいたりする。世界中の日本レストランの大量出現は、日本人旅行者の大群や、世界のすみずみへの商社の進出にともなった酒保の出張みたいなもので、「日本料理」の世界化国際化とは、ちょっと違うことなのではないか。国際化とはこうやって始まるものだと言われれば、あと、言うことがないけれど。  あの料理の種類の貧しさ、または料理自体の貧しさにウンザリするたびに(こんなニクタレを言っているのは、しょっ中のれんをくぐっている証拠なのだが)、これは料理と呼べるシロモノではなく、メシの言い方にふさわしいと、嘆く。断然混血を拒否して、不自由な外国でがんばっていてエライし、純粋にピュアーそのものではあるけれど、あまりにもかたくなな感じがする。  日本料理ほど多彩なものはないであるゾヨという、大反撃は覚悟の上だ。一道一都二府四十三県、チマチマと分れていて、山を越えれば別の川からとれるナントカの何々煮、秋の松茸、冬の日本海のカニ。ワァーッ。食べたいヨー。これを書いている今、ぼくはオランダに居るのだ。  でも、この多彩さと、あとに来るメイン・コースの種類の貧弱さは、どうしたことだろう。日本人は、前菜人種、おつまみ人間なのだろうか。小さな沢山のうれしさの後に、ドーンと来るべき大きな喜びのいろいろさに、日本料理は欠陥を持ってはいないか。  たかだか出島の存在という、歴史の一時期のことだけで、長崎料理にはあんなに西洋料理の影響がみられるし、敗戦以前の日本の大陸侵略が、結果的には、シナソバ——ラーメン——札幌ラーメン——インスタント——カップヌードルの数々の傑作を世界中にばらまいているように、あらゆる民族、国同士の食べ物の歴史は混血だ。だからこそ、ますますおいしいものが食べれるようになる。くりかえして言うが料理は文化の極である。独特な民族料理や郷土料理が少なくなってきたとか、画一的になってきたと嘆く人は多いが、なに、心配することはない。完全な画一なぞ、あるわけがなく、必ずそれぞれの特色、もち味は残る。しかも混血の方が美人が多い。もっと混血した上での日本料理のメイン・コースの絢爛《けんらん》豪華に目がくらんで、注文に迷うようになりたいものだ。現在は、選択の面白さが、少なすぎる。  英語諸国で食べられるインド料理のかずかずの面白さ、フランス風に洗練されたクスクスのようなアルジェ料理、狭い国中に何百とあるオランダ化されたインドネシア料理、もちろん、世界各地の人びとの口に合うように工夫がこらされた無限の数の中国料理。その変化ぶりが実にうれしく、これ即ち文化なのだと感激する。植民地化され、その結果世界中に出て行った料理の現在の姿だ。  進出という言葉は、この際、慎まねばならないが、世界中の料理に、まだこれっぽっちも、日本料理の影響が出ていないことがくやしい。帝国主義侵略植民の時代はとうの昔のことで、文化、即ち料理の交流、国際化はもっぱら混血で行くべきだ。そのためには、日本の板前さん達の工夫が足りない。意欲もないし、また必要もないのだろうが。アンパン、カツドンに続いて、もっともっとレベルの高い傑作を続々作り出して、世界中に真似させたくはないものか。材料の豊かさにアグラをかいて、視野も狭く、微妙な味つけの違いの名人芸だけにコッている状態だけが続くのだろうか。ぼくには、日本料理とは、本の中の写真でのみ、独自の芸術的美しさを嘆賞しているだけのもののような気がする。侵略されなかった幸運が感じられるのは確かだが。  進出はいけない。とり入れるばかりも、この世界、評判が悪くなる。混血にかぎる。そうして、もっとユニークに、ユニバーサルになった美人日本料理を、世界中の食いしん坊共に提供するのだ。平和で、文化的なお話のつもりでした。  入院バカ、ドック魔といわれても  最近は、世の中で、医術より算術とか、悪くもない脳みそを無理やり切り取って、無気力人間にしてしまったとか、それはそれは恐ろしい話が多い。その点ぼくは、子供の時から、いろいろなお医者さんに出会ってきたが、常に医者運には恵まれていたように思う。  そのせいか、生まれつきの性質なのか、お医者さんに何かいわれると、ものすごく忠実に、言うことをきく。なにしろ、小さい時から、一カ月おき位に入院騒ぎの連続で、空襲下の東京の小学五年と六年の二年間に、合計十カ月の病欠をしたりで、お医者さんとのつきあいが深く、長く、親密だったからかもしれない。  空襲で東京を焼け出され、金沢に逃げ、もう一度移った岐阜の中学一年頃から、野球に凝って、うそみたいに丈夫になった。おかげで、お医者さんには縁がなくなったが、子供の頃のお医者との深い仲が忘れられず、今でもちょっと何かあると、すぐ病院にすっとんで行く。いやがって、なかなか病院に行きたがらない人には、医者キチの病院趣味に見えるらしい。  一九六〇年は、ぼくにとって、これまでの四十年のうちで、一番重要な年だった。この年の秋に、NHK交響楽団と、世界一周の演奏旅行をして、つまり、初めて外国へ行ったのだ。日本のオーケストラが、海外に出たのも、これが最初で、この時の成功のおかげで、ぼくは指揮者として∃ーロッパで売れるようになり、以後、現在まで世界中ウロチョロの指揮生活が続いている。一種の記憶中断というか、判断の断絶というのか、一九六〇年以後のことは、仕事の性質上、いつも西暦年号を使って来たので、昭和年号でいわれても何もわからないし、一九六〇年以前のことは、日本にだけいて、昭和年号で過していたから、例えば、デビューは、昭和三十一年だったというふうにおぼえていて、西暦でいわれてもわからない。一九六〇年が、昭和三十五年であることだけは、実感として、常にピンとわかっている。  その一九六〇年——昭和三十五年の、演奏旅行のスケジュールが決った時、出発の半年前だったが、自発的に健康診断にでかけた。まだ、人間ドックという言葉が、一般化されていなかったと思うが、これがぼくの最初のドック入りで、これ以後、現在までエンエンと毎年入っている。二十七歳から定期検診をやっているのだから、入院バカ、ドック魔とからかわれても、しかたがない。  この初回は、入院せずに、一日、朝から晩まで、身体中診てもらって帰って来たのだから、「ドック入り」とは言えないだろう。レントゲンで、右の胸の下の方に何かあると言われて、マッサオ。一週間後に、より精密な検査をして、レントゲンも、うんと拡大したのを何枚もとりましょうと言われ、ションボリ家に帰ってからが大変だった。  なにしろ結核になったのだ。肺病だ!  六カ月あとの、N響との晴れの世界演奏旅行に、行けなくなったらどうしよう。  次の検査までの一週間、仕事を全部断って、仰むけに寝たっきり。口もきかず、テレビも見ず、本も読まず、友達が訪ねて来ても面会謝絶、もっぱらうまいものを一生懸命に沢山食べて、いわゆる絶対安静。明治、大正時代的サナトリウム療法を自ら行なった。お医者さんから、ひとことでもそんなことをしろと、言われたわけではない。なんでもないだろうが、念のために、来週もう一度調べましょうと、言われただけだったのだ。面会謝絶とやったって、友達どもは、家人から話をきいて、ゲラゲラ笑って枕もとにやって来て、結構にぎやかだった。エネルギーのロスを防ぐため目を横にも向けないぼくをサカナにして、酒を飲んでさわいでゆく。薄情なヤツラだ。  一週間こんなことをしていたためと、たまたま、おん年二十七歳の太り始める時期でもあり、急激にポチャポチャ太ってしまった。自分では、肺病やみとして、青ざめているつもりでも、はたからはツヤツヤの顔色に見えて、誰もが笑うばかりで、いっこうに、世界演奏旅行が出来ないかもしれないという、カナシイ雰囲気をつくってくれない。  再検査に行った。一週間の安静ぶりを聞いて、お医者さんは、これも不謹慎《ふきんしん》なことに、ニヤニヤ笑うのだ。拡大レントゲンを何枚も撮る。オカシイな。どうしても、悪いところが見つからぬ。結論が出た。先週のレントゲンのフィルムにキズがあったのだ。バカにしている。  病院で大笑いに笑われて、帰ってからは、一週間の見舞い客——ヤジ馬どもを集めなおして、大酒を飲む。全快祝いではないし、ヤケ酒というにしてはうれし過ぎる。祝無罪放免の大ヨッパライ大会となる。  ことほど左様に、お医者さんの言いつけを守る良い患者であって、時にはお医者さんもビックリのオーバー療法で、みんなの笑いものになる。  健康診断愛好症はずっと続いて、毎年の人間ドック入りは、いつのまにかなんとなく、ぼくの夏の行事になった。大抵は四日間なのだが、時には一週間から十日ということもある。この十年ほどは同じ病院に入っている。毎年だから、十年間の検査のデータが保存されていて、向うにしても、この年はここを重点的に、来年はあそこをと、能率がよいのだろう。世界の、どこの国の人にも言えるだろうが、お医者さんだけは自分の国の、自国語のセンセイにかぎると、ぼくは堅く信じている。「おなかの左側の上の方が、ちょっとムズかゆいような、オモクルシイような……」なんて、他国語で言えるだろうか。ぼくの場合、先ず日本のお医者さんに診てもらう。自分で、ある程度以上ヘンダナ、と思った時は、何はさておき、日本に飛ぶ。この病気だけはアメリカでなければ、と診断されれば、アメリカに送られても行こうが、とにかく日本がいい。  人間ドックで一番良いことは、外の世界との完璧な遮断である。こちらはバカンスを兼ねるつもりだから——あわれなほどに短期間だけれど——なるべく上等な病室を予約する。個室電話は勿論ついていて、かけようと思えば、いつでも誰にでもかけられる。ただ、この電話番号を、人に教えなければいいのだ。入院とだけ、関係者に言っておけば、ぼくほどの病院親近感を持っているヤツは、そういないから、病院ときいただけで、オソレおののいて、又は、忌みきらって、誰もかけては来ないし、とても静かだ。  もっとも、朝六時に起こされて、体温計を口の中につっこまれるのには、閉口する。丈夫で元気なのに、わざわざ入院し、ケナゲにも精密検査を受けようという意気に感じて、これだけはカンベンしてほしいのだが、病院の伝統を守ろうとする看護婦さんは、強くて、コワイ。検温のあとは、十時位までは何もすることがないのが普通なのだから、あれだけはなんとかならないものだろうか。  午前、午後と、モロモロの検査にひっぱり出されて、相当に忙しく、案外、重労働なのだけれど、面白いもので、検査と検査の間、病室で待っている間中、トロトロ眠ってしまう。一年中の疲れを全部吐き出すつもりで、お金を出しているのだから、モトをとるわけだ。  午後九時が消燈で、バカにするにもほどがある。こんな時間に眠れるものか。ひるま、一日中断続的にうとうとやってきたのだし。でも、これがまた、スリルがあってよろしい。人間ドック用の部屋のならびは、重病患者用の病棟とは違って、警戒厳重ではないので、消燈後にも本を読む。夜勤の看護婦さんの、時々の足音にさえ、耳をすましていれば、うまく行く。ただでさえ夜の病院では、静かに歩くものなのに、看護婦さんたちは必ず、底のやわらかな運動靴をはいているから、注意が要る。そこは音の商売、ぼくにはソツはない。  かすかな足音。ぼくはパッと電気を消し、仰向けになって、同時に本をベッドの中に匿《かく》す。向うがドアをソッと開けて、こちらの様子をうかがう時は、スヤスヤと寝息をたてる。イビキは、やめた方が良い。あれは、ワザとやるのは難しい。足音が遠くなる。また電燈をつけて、さっきの続きを読む。この時にも注意が肝心だ。音をたててはならぬ。看護婦さんの詰め所に、もう一人いることもあって、マイクを通じて、全部の部屋はツツヌケなのだ。望んで入院する以上、ウォーターゲートだと抗議する権利は、こちらにない。  このゲームは、子供の頃の幼稚園や、林間学校での「おひるね」の時のスリルに似て、ぼくの入院趣向の中での、大きな要素をしめる。  大抵は、水、木、金、土曜の、三泊四日の検査入院である。土曜日の午前中に、すべて終了で、検査の結果は、あらためて翌週にきかされるから、土曜のひる過ぎに出所する。病気ではないので、「退院」とは思いにくい。  病院は築地で、銀座に近く、ぼくの長年の伝統に従って、七丁目の「梅林」というトンカツ屋さんに、ウキウキ、イソイソと行くのだ。ぼくが世界で一番好きな食べ物は、ここの「スペシャルかつ丼」である。病院のごはんは、決して悪くはないのだけれど、所詮《しよせん》「病院メシ」には違いない。ハラもへる。忠実な入院患者として——消燈ゲームは別にして——四日過したけれど、やはりガマンがならぬ。アルコールぬきの修道生活のあとの、ビールとかつ丼のうれしさのために、毎年熱心に、ドック入りするのかもしれない。  翌週、検査の結果をききに行く。何かを注意されれば、その通り絶対に守る模範生として、次の年のドック入りまで、感心なものである。今までは次の年検査で、必ず無罪になった。同時に、新しい注意箇所が出て来て、これについてはその一年間、クソマジメにお医者さんの言うことをきき、前の年の要注意事項はスッカラカンに忘れて過すから、翌々年には一昨年と同じことを指摘される。  何のことはない。一年おきのサイクルの繰り返しだ。  何年か前、三十七歳の頃だったか、糖尿の疑いが出た。このままの暴飲暴食と、太り過ぎを続けて行くと、間違いなく本物の糖尿病になるといわれたのだ。長年、糖尿病とは、あのイマワシクもいやらしい「オジサン族」の代名詞だと思っていたので、あわてた。「オジサン」の一員になるのは、まっぴらだし、恥しい。減量と適当な運動を実行すれば、糖尿病にならずにすむだろうとのことで、直ちに始めた。  体操とマラソンの毎日。それに、死ぬほどつらい減食。病院の栄養士の先生の言った通りの正しい減食を、涙ぐましく守って、体重を三カ月で、八十キロから六十三キロにまで減らすことに成功した。  糖尿病の疑いについては、ぼくにはちょっと言い分があるのだ。この時の検査の前の晩、悪友どもと中国料理を食べに行った。明日からしばらく病院メシだから、今晩のうちに、うまいものをタラフク、というわけである。食べたわ、食べた、すごく沢山の種類の料理、それに加えて、アブラだらけの北京ダックを、およそ二十枚。マオタイ酒を浴びるほど飲んで、翌朝、二日酔いの真最中に病院に出頭した。その状態で血は採られる、オシッコを検べられる。あれでは糖も出るだろうと思うのだ。でも、お医者さんの話では、「現代医学の検査法は、前の晩のメチャクチャになど、ごまかされない。根本的な身体の故障を明るみに出すのです」だそうだ。  この時の模範的減量をもとにして、『男のためのヤセる本』というのをデッチあげて、出版した。「ヤセ方」をテーマにして、脱線ばかりやって、「ふとり過ぎの日本」に対する文明批評のつもりだったので、「ヤセル」だけのためにこの本を買った人には、サギのようなことになったけれど。  この本で、若干カセイダから、あの頃の死ぬ思いの減量のウップンは、十分に晴らした。もちろん、何よりの収穫は、次の年の検査で、糖尿に関しては無罪になったことだった。  それから二年ほど、ドック後の注意はなくて、昨、一九七四年の夏に、新しい警報が出た。「このままの食生活を続けて行くと、そのうちに、痛風になる」というのだ。まだ、なっているわけではないのだが、泡を食った。いろいろな本を買って読んでみると、痛風対策には、沢山の意見の相違があるらしいが、ぼくのお医者さんは、食べる肉の量をなるべく減らし、肉の代りに白身の魚や鳥を食べるようにし、野菜を多くとって、酸性の身体を、アルカリ性にせよ、と命令した。これには困ってしまった。  最近のぼくの仕事の状況は、一年のうち、日本が合計約二カ月。他の十カ月程は、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアで指揮をしている。初めのうちは、こんなに日本が少なくはなかったのだが、この十年間ほどは、大体このような状態が続いている。食事の種類も、好むと好まざるを問わず、完全に西洋人型になっている。どうもこれがいけないらしいのだ。何千年来、米と魚で過して来た、わが民族の御先祖さまからの血を、知らなかったとはいえ、急激に穢《けが》した、そのバチが当ったらしい。  日本人全体の、ここ百年の食生活の変化も、大変なものだろう。ごはんを沢山食べ、野菜をとり、みそ汁をのみ、時々、魚が食卓にあって、海の幸に感謝する、といった何百、何千年の習慣の、急速な変化。勿論、今の食生活の方が、良いに違いなく、国民の体位向上は顕著だと、栄養学的にもはっきり証明されている。  長年、民族的習慣通りに暮していて、少なくとも、明治からの百年かけた変化の、一般的日本標準食生活に慣れていた人間が、昭和三十五年の二十七歳を境に、百パーセント西洋人の食生活に入りこんでしまったらどうなるか。西洋化公害が身体の中に出て来たわけで、もちろん、こんなに大げさな切り換りがあったわけではないし、毎年何度も日本に帰って仕事をして、祖先伝来の食事もずい分食べてはいるのだが、現在の日本での仕事が、一年に合計二カ月だということに気がつくと、事態は深刻だ。  オランダのハーグに居をかまえ、つまり自宅というものを、一応持ってはいるのだが、この自宅で過すのが、年に計一カ月位。年によっては、もっと絶望的に短い。東京に帰っての仕事の時はホテル住いだし、ヨーロッパの方々の都市や、アメリカ、オーストラリアでは、勿論ホテルにいるのだから、つまり、ぼくは一年中のほとんどを、「外食」していることになる。  外食、特に外国での外食は、肉なしではあり得ない。お医者さんにいわれた、「肉を、週に三回にしなさい」を守るのには、一体どうしたらよいだろう。大難題なのだ。  一週間に二十一回の食事がある。このうちの七回は朝食だから、ジュース、トースト、コーヒー位のもので、これは心配いらない。他の計十四回の、昼食、夕食がコトなのだ。一年間で考えると、昼食と夕食が七百三十回ある。そのうちの一カ月間の昼食と夕食、つまり六十回をオランダの自宅で食べ、徹底的に肉を避けるとする。あとの六百七十回は外食だ。  もう一度、週単位に考えて、週に十四回の昼、夕食のうち、外国でのジプシー生活では、絶対に週三回位の、招待がある。正式の晩餐《ばんさん》会もある。こういう時は、百パーセント肉の料理なのだ。この席で手をつけずに、食べないで帰ることは不可能だ。だから、このような招待で礼を失しないために、自分でお金を払って食べる食事——つまりホテルでとか、レストランでの——には、必ず魚か鳥をとることにした。外国の魚料理には、うまいものがあまりない。悲壮な覚悟なのである。  こう決めてから、毎食、何をたべたかを、記録するようにした。お医者さんに言われたわけではないし、全くの自発的な「感心さ」なのだが、週単位の食事内容のバランスを知る上には便利だ。しょっ中、一週間位の書き忘れはあって、「えーと、あの時は何を食べたかなあ」と考えるのも面白い。この記録が、二万年位たって発見され、二十世紀後半の人類の食生活の統計が、オカシクなったりしたら愉快だ。  とにかく、こうやって、次のドック入りまでの一年間、「痛風にならないための努力」を、バカ熱心にやるつもりだ。めでたく「対痛風警戒警報」が解除されたら、少なくとも次の一年間は、ビフテキを食べまくりたい。その次の年に、同じ警報が出るのを覚悟の上で。  初めての海外演奏旅行  一九六〇年の秋に、NHK交響楽団と、世界一周の演奏旅行をした。これが、日本のオーケストラの海外での初めての演奏だったし、ぼくも生れて初めて外国に出たわけだ。それ以後は、N響も、かれこれ十回近くの海外演奏旅行をやっているし、他のオーケストラも何回かやっているから、もうそんなに珍しい出来事ではなくなったけれど、当時はなにしろ誰にとっても初めてだったから、大変だった。一九六〇年頃は、現在のインターナショナルな常識単語としての「ノウキョウ」はまだなかったが、NHK交響楽団百三十名程の大群の旅行は、略語の「N響」転じて「ノウ響」のようなものだった。  世界のどこで音楽会をしても、そのあとの立派なパーティーに出ても、御年二十七歳で初めての外国に絶えずドキドキ、ソワソワ、のぼくは、指揮者として常に中心人物でなければならず、大変につらかった。つまり、言葉もわからないのに、どんな場に出ても、態度、物腰、悠々として、一流のスターみたいな顔をしている必要があったのだ。その後、ほとんど外国でばかりすごすようになって、外国だからだとか、日本だからなど、別になんとも思わなくなってしまった今、これから初めて外国へ行く人なんかに、外国語で話していて意味がわからなかったときは、何度でも聞き返すほうがいい、どうしてもわからないことには、とにかく「ノー」を言うべきだ。なんて言っているが、その頃のぼく自身をふりかえってみると、人にそんなことを言えた義理ではない。  でも「スター指揮者(?)」としては、無理に無理を重ねた。パーティーの席で、デブデブの醜悪なる老貴婦人どもに囲まれても、悠々とおちついて、言葉少なに、王子さまのようにしていなければならない。本当は言葉少なにどころではない、まるっきりしゃべれないのだ。「王子さま風」も、今思うと恥しく、でも、人間、世界のどこに行ってもごく自然にしていればそれでいいのだ、と思うようになったのは最近のことだ。  とにかく王子さま、何かを言われてもわからないとき、みっともなく聞き返すのは自分自身のタブーにしていたが、よい方法を思いついた。ほんのちょっとニコと笑って、首を少しななめにするのだ。ノーともイエスとも勝手にむこうが意味をとればいい。パーティーの席上の会話は、どうせ、「ワンダフル」の類のお世辞に決っているから、わからないときは、もっと上等な言いまわし方のお世辞を言っているに決っている。それに対してこちらが、「オオ、イエス!」とやっては、ハシタナイ。ニッコリと首を曲げるわけだ。これで世界一周やり通した。  この演奏旅行のときは、日本を代表するオーケストラの、世界旅行の指揮を務める身というわけで、どこへ行っても丁寧に扱われ、チヤホヤされ、だが、本当はぼく自身がチヤホヤされていたわけではない。大きな組織に乗っかっての、公式のその立場に対してなのだが、そこはつい若気のいたり、錯覚して、オレはなんてエライんだろうと思ってしまう。この錯覚をいやというほど味わったのは、演奏旅行の翌年に、一人で意気揚々とヨーロッパに出かけていったときだ。  N響との旅行中、既に何人かのヨーロッパのマネージャーから、翌年のぼくのヨーロッパでの演奏活動についての打診がたくさんあり、すっかりウレッコになったつもりで日本に帰ったものだ。「岩城氏、ヨーロッパ名門オーケストラとの来シーズンの契約、三十数回」なんていう新聞の見出しも出て、得意満面だった。今は、日本にはインターナショナルな指揮者がゾロゾロいて、こんなことが見出しになるわけがなく、たった十四、五年前のこととはいえ、ノンキな時代だった。見出しはいいが、こちらの内容が伴わない。  確かに、ヨーロッパ中のマネージャーから、演奏についての打診はあったが、打診だけだったのだ。要するに、これはちょっとイケルと思ったマネージャーどもが、一応、他の業者にとられないようにと、ツバをつけにきただけだったらしい。もうじき、意気揚々と出発しようとしている、ぼくのところに届く、ヨーロッパのマネージャーたちからの手紙は、段々冷たくなってきた。最後には、「先回のあなたの演奏会は非常にセンセーショナルだったが、今やヨーロッパの聴衆は、もうあなたのことは覚えていない」になってしまった。「来シーズン、三十数回」の見出しの手前、せっぱつまってしまい、今さら日本に残って、ションボリと空白の時を過すわけにはいかない。予定通りに、無理に威勢のいい顔をして、ヨーロッパに出かけてしまった。  こんな手紙のあとだから、個人の資格で会うぼくに、去年はチヤホヤしてくれたマネージャーどもの態度は、それは冷たいもので、音楽映画によく出てくるような、貧乏音楽家の売り込みシーンの連続だった。輝かしいことを日本で言ってきた手前、ちゃんとしたことを、ヨーロッパでやらないことには、もう日本には帰れない。  必死の売り込み行脚《あんぎや》がみのり出し、ボツボツ仕事が決るようになった。決ったとはいっても、半年以上も先のことで、それまで何の仕事もなしに半年をすごすなんてことは、当時のぼくには想像もつかなかった。今でこそ、世界のシキタリが分って、二、三年先の契約をしながら、これがアタリマエと思っているけれど、これは四六時中、スケジュールがうまっているからこそのアタリマエさで、その頃の超ヒマのぼくにとっての、半年の空白のイタサといったら、逆にすごいものだった。それまでの日本は、現在と違って、というよりは、ぼく自身がチンピラ指揮者であったというだけの話なのだが、「来週はどう?」「OK」というふうに気軽なもので、六カ月先のことを決めるという経験はなかった。  さて最初の仕事までの空白の半年をどうしようか。  前の年に、N響との演奏旅行で、ヨーロッパの主要都市や、大きなフェスティバルで既に指揮をしてしまった関係上、どこかの音楽学校に入ったり、誰かのところに弟子入りしたりすることは、ぼくの仕事を担当するようになったドイツのマネージャーから厳禁されていた。なにもそこまで、と今は思うけれど、プロとしてデビューしてしまった以上、再び学生に戻ったら、次にまた正式のプロになることの難しさを、マネージャーは強調した。とにかく言葉を自由にしゃべれるようにならなければ、と彼は言う。  ドイツ語は、高校時代かなりやっていたが、典型的日本教育のたまもので、本は読めても会話はできぬ。ドイツ語会話の個人教授で勉強することにした。ウィーンにしばらく定住した頃だった。若い男で、すぐ友達のようになってしまったが、会話を教える、なんてことは、むこうにとっても、決しておもしろいことではないだろう。回を重ねるにしたがって、もっとおもしろい話題を使って、楽しくドイツ語会話をやろうということになった。共通のおもしろい話というのは、二人とも若い男だと、結局のところワイ談になってしまう。ところがワイ談というものは、非常にインターナショナルなもので、最重要事項のポイントがわかれば、人種を問わずツーカーだから、文法なぞ必要ないのである。会話レッスンの間中、単語と身ぶりのゲラゲラばかりになってしまった。  原則として、よく我々の言う、腹芸とか心と心の通じあいなんてことは、西洋人には関係ない。こちらの意志を伝えるのにも、論理的にハッキリ伝えなければ、いわゆる「察する」ということを彼等はしてくれない。昭和ひとケタのせいなのか、最近の、おおらかに世界中のしあるいている若者とは違って、どうも西洋人は苦手で、心の底のどこかで、やはりなにかコワイのだ。いろいろ、人としゃべっていると、こちらの会話力の不足から、必要もないのに、やたらに手ぶりが大きくなり、しかも、いちいち身をのり出して返事したりしている自分に気がついた。西洋人は、相手のことを、貧相だがハラの出来たヤツ、なんて見方をする人種ではないから、こちらの身ののり出し方は、ペコペコに見えるだけなのだ。いやしくも、こちらは指揮者を志す、どころではなく、半年先に念願のヨーロッパのオーケストラを指揮する生活が来るのだ。ペコペコでは、全軍|叱咤《しつた》することはできぬ。どうやってペコペコを直すか。あれこれ考えた。  ある晩、鏡の前で考えていて、ふと思いついた。簡単なのだ。つまり、身ぶり手ぶりは、最少限にする。それと、もっと大事なのは、人と話すときに、どんなことがあっても背中を椅子につけたままでしゃべること。イエスもノーも、一切首から上だけを使う。これで威厳が少々加わるだろう。今思うとおかしくて、ゲラゲラ笑いたくなるような、いじましい努力だったが、そのときは真剣そのもので、指揮者というエライ(?)商売をやっていけるかどうかの、瀬戸際だったのだ。  良い悪いは別にして、世の中には、いわゆる「帝王学」というものがあり、今に殿様にならなければならない、無数の若様のためのそういう教育が、日本にも当然あったわけである。日本からいろいろな文献を送ってもらった。その中で、強く印象に残ったおもしろいものがあった。はっきりした字句はもう覚えていないが、「近きものを遠く見よ。遠きものを近く見よ」だったと思う。  たとえて言うなら、お城の天守閣に若様と家老がいる。一里先に、ある風景。「若様、あれに、百姓女が畦道《あぜみち》で、シリをまくってしゃがんでおりまする」。そこで若様、手をかざして「ヒャ、ヒャ」と喜んではいけないのだ。鼻先一尺の本を読む感じで、「ウム、よき眺めじゃ」と、やらなくてはならぬ。  また家老が来る。「若様、これが新着のポルノでござる」。若様、ポルノをかかえて、ウヒウヒむさぼり読んではならぬ。一里先の風景を見る目つきで、「ウム、よき写真であるのう」と、こうでなければいけないのだ。  万事がこうで、本当にバカバカしいけれど、こういうことを徹底的に我が身に課した。稼ぎもなく、ウィーンの安い下宿の部屋の中で「近きものを遠く見る……」の自己訓練を黙々とやっていた姿は、下宿のおばさんにしてみれば、頭の狂った得体のしれない東洋人、としか見えなかったろう。この変な東洋人は、下宿代を払うのがやっとみたいな暮しのくせに、三日に一度はウィーン最高のホテルのレストランに、御飯を食べに行った。超一流のレストランだと、エンビ服を着たボーイさんが三人位つきっきりになってくれて、サービスは完璧《かんぺき》だ。おいしいが、高い食事はもちろんのこと、お客は贅沢《ぜいたく》なサービスを、こういうレストランで高く買っているわけだ。慣れないと、エンビ三人のうやうやしさが、むやみに恐ろしく、食事はのどを通らぬ。そんなことにドキドキするようでは、外国人ばっかりのオーケストラを、おおらかに指揮できるわけがない。そう信じこんでの自己訓練は、ものすごく高くついた。これも、今思い出すとバカバカしい。  一時期のこの努力が、その後のぼくの仕事のために、なにかのプラスになったかどうかは、全くわからないし、おそらく無関係だろう。半年して、ヨーロッパのオーケストラを始めて指揮することになり、その後慣れてしまってからは、帝王学もヘッタクレもない。指揮というものは、相手がどこであろうと、思ったことを正直に表わすことだけがすべてなのだ、と悟るようになり、ますます正直に、ありのままの行動をするようになって、もともとのオッチョコチョイ丸出しで、国から国へと仕事をして歩いている。  ぼくとしては、あのいじましい、無駄だったような努力をしたからこそ、自分の生まれつきのオッチョコチョィに、自信をもって安心して、気ままに仕事ができるようになったのだ、と思いたくもあるのだが。  楽器と奏者の体型学的研究  世界中の人間、皮膚の色はそれぞれ違ってさまざまだし、体格も、大小とりどり、胴長もいれば、足長族もいる。ハナペチャ、とんがりのピノキオ鼻、大あぐら鼻にワシ鼻。青い目に赤い目、黒い目。髪の毛の色の種々雑多。人種展覧会みたいなニューヨークの街角なんかに立って眺めていると、動物園より面白い。厭《あ》きない。  民族性というのか、地方性というのか、もとは同じ種でも、気候、風土を異にして、何十万年も経つと、こうも違ってくるのかと、なにを今さらそんなあたりまえの事をと、思いはするものの、やはりあらためて感心してしまう。  せまい日本の中でも、東北人、新潟人、薩摩人……のように、なんとなく一目で分るような何かがあって不思議だ。ドイツ人だって、ドイツ人同士は、見ただけでどの地方の出身かと、ピタリと当てる。方言のアクセントを聞く前に、もう分るらしい。外国の人の中のそんな小さい相違は、ぼくには到底わからないけれど、何国人であるか位は、大分言えるようになって来た。どう見てもドイツ人以外である筈がないゲルマン顔や、南イタリー人の顔を見分けるのは簡単だが、例えば、典型的オランダ人の顔となると、パッと見分けるようになるまで、数年はかかったろう。  以前、ドイツにちょっと遊びに行って来た友人がいて、ベルリン・フィルハーモニーの楽員の人に大変世話になり、お礼を出したいから、ドイツ語に訳してくれと、ぼくにたのみに来た。読んでいるうちに、「あなたの国ドイツは偉大な国だ。そして、あなた方ドイツ人はなんて親切なのだろう。私は世界で一番ドイツが好きだ」というのにぶつかって、タマゲタ。手紙の相手は、ポーランド生れのユダヤ人で、現在の国籍はフランスなのだ。あわてて、手紙の内容を変えさせた。ドイツを代表するオーケストラのメンバーだから、彼はドイツ人にきまっている、というのは、すこぶる日本人的であって、日本に居るから日本人、アメリカの人はみなアメリカ人、と簡単に思ってしまう事がまだまだ多い。豊葦原瑞穂国《とよあしはらのみずほのくに》に生れた、ありがたさか。日本人でなければ、みなガイジンだ。  そういえば、どこの国にも「外国人」という言葉はあるけれど、会話の中できいたことがないように思う。まわり中がみんなよその国で、合計六ツの国と、国境で接している国なんかが多いヨーロッパでは、「あいつはガイジンだ」と簡単に片づけるわけにはいかないのだろう。「何人か?」「いや、どこどこ人だ」という話にはよくなるが、「外国人」というはなはだバクゼンとした表現を使っていたら、それこそおはなしにならないのだ。  ナニジンだとか、どこ人種だとかの違いとは別に、人間には、人種を超えた、職業による外見や性格の同一性があって、面白い。つまり、お百姓さんは、どこの国の人であろうと、みんな同じような感じだし、船乗り、漁師、新聞記者、政治屋、ヤーさん等、目が黒い、青いに関係なく、ピンとわかるような気がする。  どちらかというと、手に職を持っている人に多いけれど、サラリーマン、ビジネスマンについても、同一性のタイプについてそう言えないこともない。日本、ドイツ、アメリカ、フランス……と、どんな国でも、ホワイトカラーという言葉で象徴されているように、なんだってまあ、あんなに同じような格好をしているのだろう。黒っぽいセビロ、おとなしいネクタイ、白いワイシャツ。この頃は、比較的カラフルなのがふえてきて、ワイシャツなども、ただの真ッ白から色模様に変わってきたり、ネクタイも少しはモード調になってはきたものの、大勢は、まだまだおとなしく、つまらない。だから、一見で、すぐわかるのだ。洋の東西同じで、あのご商売は、少しばかり変わった様子をしていると、ニラマレたり、ビジネスが無事にいかなかったりするのだろうか。勿論このタイプは、顔付きだけでは、なかなかそうだとはわからない。アメリカ南部と新潟のお百姓さんの顔の似方とか、カナダと広島の漁師さんとのびっくりするほどの骨格の相似の、ドンとたくましいバックボーンの面白さはなくて、サラリーマン風着付による共通性、といったことになるか。  馬子にも衣裳、将軍にツケヒゲというやつで、一度、同じような格好をして、実験をしてみたい。ヨーロッパ中に点在する日本メシ屋でやってみたいのだ。超一流会社のエリート社員の、その中でエリ抜かれて外国駐在していらっしゃる方々が、昼メシの毎回を皆さんうち揃《そろ》って、一時的外国滞在性独身の飢えを満たしておいでになる。こちらはいつも、いい年をして、毎年の世界的流行スタイルのマネゴトを着こんで(要するに、ジーパンがだんだんキタナクなってくる、ということなのだが)、入って行くものだから、エリートさん達にジロッとやられる。冷たい視線の刺さる悲哀を味わう。この疎外感、孤独感へのカタキウチをしたいのだ。彼等と同じようなセビロを買って、メガネをかけて行く。目立つようなサングラスはいけない。カメラは旅行者ぜんとしてしまうから、これも避けた方がいいだろう。日本メシ屋に入って行く。商社マンのとなりのカウンターに、ドカリと坐る。「雨も止んで、よいアンバイですね」「ア、二井サンの新任の方デッカ。ワシ、角紅の……」と名刺を下さったりして、つまり、お仲間として最初から相手にしてもらえるかもしれない。  サラリーマン、ビジネスマンは、セビロ姿から彼等の商売がわかるとして、顔つきや骨格だけでは無理である。でも、その中で、社長、専務というのは、大体わかる。でも、これも骨相ではなく、まあ、態度からだろう。うなずき方、「ワッハッハ」の笑い方が、判断の基準になる。  特に、彼等のお仲間の内、顔だけでピンと来るのは、年配の、男の秘書さんたちだ。若い、女の子の秘書さんタイプというのは、ないようだ。OLらしい以上のくわしいことは無理である。彼女、ヒショだろうかは、ショジョだろうか位に、むずかしい。  年配の男性秘書諸氏だけ、どうして、ああわかっちゃうんだろう。  たまに、経済界のエライ人をお訪ねする、なんて、ヘンなこともある。エライ人と同年位の秘書氏が先ず出て来るのが普通だ。洋の西でもそうだが、秘書ヅラというか、執事ヅラというか、どうしてあんなに同じ顔になってしまうのだろう。もっとも、総理大臣秘書官なんていうのは、たいていは若くて、バリバリしていて、次は代議士に、みたいに、希望と欲に燃えていて、秘書ヅラではないのが多い。ぼくには、決して、決して人の職業をとやかく言う気はないのだが、自分の一生の殆《ほとん》どの時を、同年配の男の世話をして過す男の気持だけは、どうしても理解出来ない。若い一時期、なかなか面白い仕事をしているオジサンの仕事を、秘書として手伝うのは、けっこう面白いし、ためになるだろうとは思う。こうぼくが思っているからか、さぞや長い間がまんにガマンなのだろうと勝手に偏見的同情心で見るせいか、長年秘書業をやっているおじさんや、おじいさんの顔に、人間、これほどに清い、澄みきった悟りの表情が持てるものかと、感嘆してしまう。職業が顔やタイプの同一性を作る、顕著な例だろう。いろいろな国の侍従長さんに会ったことがないから、想像しか出来ないが、みなさん、きっと、そっくりなのではないか。  身体つきや性格の例で、最もはっきりした典型の存在は、ぼくの身近な世界の音楽家だ。それもオーケストラの演奏家——われわれの言葉で言うガクタイだ。  例えばトランペット奏者、即ちラッパ吹き。世界中のオーケストラを指揮していると、どこでもタイプが同じなのに感心する。たいていは太っている。オッチョコチョイ、ノンキで、気が良い。したがって、飲み助だ。声は大きく、かん高く、したがって秘密は持てぬ。短気で、すぐカッとするけれど、誤解さえとければ、カラッとして気持が良い。無類に、バカみたいに親切だ。世界中のラッパ吹きにゴマをすっているのではない。客観的事実を述べているのであります。 「抜き差し曲り鉦真鍮喇叭《ガネシンチユウラツパ》」。これは、戦時中の敵性語追放時代の軍楽隊でのトロンボーンの呼び方だそうだが、トランペットよりぐんと大きいラッパのトロンボーンの奏者は、トランペット吹きより少し小柄な人が多く、身体もすっきりひきしまっている。不思議だ。  ファゴット吹きは、音の如くおどけた顔の人が多くて、バクチの天才ばかり。オーボエは、どこも神経質だ。ピリピリしている。普通の管楽器は、吹く時に沢山の空気が必要で、長いひとくさりだと、何度も口を楽器から瞬間的に離して、パクリと肺の奥に酸素をつめこむ。オーボエは例外で、息を吹きこむところが大変小さく、せまいので、肺からの空気の出し方が少な過ぎて、つまり、胸に空気が半分以上残っている頃メロディを吹き終ることになり、楽器を口から離す時は、溜《たま》りにたまって、澱《よど》んでCO2いっぱいの空気を吐き出した上で、新しい空気を吸いこむ、という複雑なことをやらなければならない。しかもこの動作も、フレーズとフレーズのあい間の、一瞬のうちなのである。ピリピリもするだろう。それに、科学的根拠を、はっきり持っているわけではなく、もっぱら人の話の受け売りなのだが、この楽器の音波は、演奏者のオデコの真ん中に直接つきささるそうで、だから、オーボエ吹きのうんと年をとった人に、失明者が多い。大変な楽器なのだ。少々ケンアクな顔をしていても、許してあげたい。  花形のバイオリンの、そのまたトップにカッコよく坐っているコンサートマスターは、モテモテのドンファン風が多い。ドンファン風なタイプなんて、一定のカテゴリーにはならないだろうが、女の子にキャアキャアさわがれ、次から次へとヒッカケながら、すずしい顔をして、きれいな音を出す位の男でなければ、あのポジションは務まらないのだろう。娘さんの縁談に、コンサートマスターは避けた方がいい。  ビオラ奏者の性格は大変複雑で、これは、世界共通の謎である。簡単に言えば、憤慨|居士《こじ》、ひがみ屋さんが多いようだ(勿論、例外はいっぱいあって、この項をお読みのビオラさん、御自分は例外だとお思いになって下さい)。この不思議な共通性は何か。私見だが、いつも派手にメロディを奏《ひ》きまくるバイオリンと、ひびきの音響学的根源ここにあり、みたいに、グングン下から突き上げて来る、チェロやコントラバスに、いつも挟《はさ》まれているからではあるまいか。一生がイタバサミなのだ。欲求不満になるのもよくわかる。  コントラバスもかわっている。  ナゾナゾをひとつ。 「コントラバスとバイオリンとの最も大きな違いは何か?」 「燃える時間の長さの違い。コントラバスはうんと長い間かかって燃える。木が多いから」  木が多い——気が多い、と短絡するつもりはないが、変わり者が多いという点での、共通性が世界中でみられるのは、たしかなことである。よりによって、あんなにバカでかい運搬不自由な、低い音しか出ない楽器奏者たらんと志したくらいなのだから、もともと変わった人たちなのだろう。専門以外のことを、熱中してやるタイプが多い。SPの、電気吹き込み時代の、歴史的名オペラ歌手の古いレコードの蒐集家《しゆうしゆうか》として、一流でしかも生き字引の人、ユニオン活動の中心、とか、コツコツとバッハ研究の大論文を書き続けるコワイ人、モクモクと天才的なうまさのポルノ線画を書きまくり、誰にも見せずに自宅に仕舞っている人……。  何度も念をおすが、例外も無数だ。もし、これからトランペット大名人になろうと思っている人が、ぼくが書いた身体的特徴とかけはなれたタイプの人だとしても、別に気にすることはない。勉強次第で、見事、ラッパ吹きになれるだろうし、なってから後に、徐々に、いつのまにか、ラッパ吹きのからだつき、陽気さ、飲みっぷり、そのものズバリに自分がなって行くのに気がつくはずである。  指揮者の特徴については、この際、書かない方が、安全というものである。少しばかりヤバイからであります。  音楽関係で、他に、とても顕著な職業的同一性そのもの、といった存在がある。  テノールとバレーダンサーだ。  ドイツのオペラ劇場関係者どもが、よく言っている。  dumm, dummer, Tenor  dumm は、ばかな、とか、愚鈍なという形容詞で、dummer はその比較級。最高級は、dummst なのだが、そのかわりに Tenor をおいたわけである。  俗にテノールバカというが、一面、本当のことであって、でも、これは、バカがテノールを歌うということではなく、テノールが歌っていると、自分で出すバカデカイ声の音波の振動で、一時的に脳震盪《のうしんとう》のような状態になるということなのだそうな。だとすると、テノールが声張り上げて、長い、長いフェルマータを延している時なんかは、次の音譜の指示をすることの出来ぬ指揮者を、イライラ棒立ちに待たせておく快感に加えて、この意識の空白状態は、さぞや気持の良いものであろうかと拝察する。それにしても、大テノールになるには、良いのどを持っていること、及び、その良いのどから出た音波をよく響かせるために、頭の中をなるべくカラッポにしておく必要がある。かくして、世界中のテノールの特徴は、のどが太く、短く、頭蓋はうんと大きく、ずんぐりと中背で……となる。これは、もう、絶対的な条件だ。  バレーダンサーの男女の皆さんは、町を歩いているだけで、一見してわかる。まず第一に、脚はO型ではいけないが、ガニマタ風で、ちょっと開き気味のはずである。でも、バレー志望の方々、これは心配しないでよろしい。あれは「第一ポジション」とかの猛訓練の結果、間違いなく後天的になるもので、若い頃からやれば、誰でもあのガニマタ脚になれる。  顔は男女揃って卵型で小さく、九、乃至《ないし》十頭身で、心なしかオツムの小ささが、小鳥のようにカワイイ。特に男のダンサーは、あれをわれわれの仲間うちでは、「オトコチャン」と言っているのだが、実に言い得て妙である。「レズ」の方は、男としてはどうも実感がなく、「何チャン」と呼ぶべきか、ピッタリの言葉がまだ見付けられていない。  バレーさんのことも、テノールに劣らずバカだと言う人がある。その理由を長年考えてみたけれど、こういうことが言えないだろうか。  茶筒にお茶を詰める時に、必ずいっぱいになり、もっと沢山入れようとする場合には、筒の横を軽くポンポンと何回もたたくとか、茶筒そのものを机の上でトントンとやる。そうすると上の方が空く。茶筒の場合は、そこにまたお茶を足すのだが、人間のオツムの方は、もともとが蓋《ふた》をしたままだから、上の方が空いたままになってしまう……。  こういう結論に達したのだ。だから先天的にはオツムがいっぱいつまっている人でも、何年か爪先でトントン跳ねているうちには、正真正銘のバレーダンサーになることが出来るということ。  この本が世に出たとき、同業諸氏から身を無事に守ることができるだろうか。とても心配であります。どうかお手やわらかに。  ヘソ下三寸のアセモについて  戦後まもなくに死んだ、クレメンス・クラウスという名指揮者がいた。この人は、なんでもオーストリアの皇帝の落し子だった、ということで、貴族的風貌とエレガントな指揮ぶりで、一世を風靡《ふうび》した人気指揮者だった。勿論、ぼくはこの人を見たことがないし、古いレコードで名演に接するだけだが、ヨーロッパでは、今でもよく、彼のいろいろな逸話を、音楽関係者からきく。  ある時、クレメンス・クラウスは、評判の新進指揮者の音楽会をききに行った。この若者、ぐんぐん人気が出て来て、クレメンス・クラウスは、実物を見た上で、もっと良いポジションに抜擢《ばつてき》しようかと思って、音楽会に行ったのだろう。一説によると、この大物指揮者は、新人の人気ぶりが気がかりで、少し心配になって、偵察に行ったのだ、ともいう。  熱狂する聴衆の中で、彼は冷えた目と耳で観察し、音楽会が終って、新人の楽屋を訪問した。エライ人がいきなり来たので、緊張した直立不動の新進に近寄り、一言も発さず、いきなり、今指揮を終えたばかりの若者の燕尾《えんび》のシャツの襟首《えりくび》の中に、指を突っ込んだ。すぐ指を引き、優美な動作で、ハンカチを出してこの指を拭《ふ》き、「新米じゃ」とつぶやいて、それだけで帰ってしまったそうだ。  どこまで本当のことかは知らないが、このハナシは、ぼくには、実に、実に、イタイのだ。クレメンス・クラウスは、その新進指揮者の汗にさわってみて、抜擢を思い止まったのか、「こんなに汗をかいているようでは、まだまだじゃ。わしも当分、安泰であるわい」と思ったのか。  話にきく、ムカシのエライ指揮者たちのエレガントぶりから思うと、現代の世界の大部分の指揮者のアバレぶりは、この世も末、かもしれない。優美の極のカラヤンを除いて、新米だらけになってしまったようである。とりわけ、汗かきのぼくなぞは、「あの汗のポタポタが素敵!」なんて言ってくれる女の子も、いるにはいるけれど、クレメンス・クラウスの判断から言えば、もう二十年近くも指揮で食って来たくせに、なんだ、いつまでもシンマイのままじゃないか。  同じような話は、歌舞伎役者の世界にもあるときく。名人達人は、汗をかかないのだそうだ。本当だろうか。  このことには、ぼくはもう、とっくの昔から、割り切っている。というよりか、テヤンデエと開き直ってきた。そうでもなければ、この商売、続けられぬ。だから、汗をかかずに指揮をしようと、工夫したことはない。しかし、大汗には困りきってきたから、出た汗への工夫は、絶えず考えてきた。  ぼくは本来、普通の生活に関する限り、そんなに汗かきではないし、暑がりでもない。よくレストランで、一口ごとにハンカチで顔をふいている、汗っかきの人がいるが、ああいうのを見ると、なんてすごい汗かきだろうとびっくりしてしまう。友人の音楽評論家にも、ものすごいのがいる。なにしろ、一言しゃべるごとに、手拭《てぬぐい》で額をゴシゴシやるのだ。ゴシゴシやるから余計に、汗が次から次へと出て来るのではないかと、思う程である。あれも、あまりみっともいいものではない。やはり「シンマイ」なのか、大物でないのか。田中角栄さんの早期退陣も、汗ふきのせわしなさからくる、「シンマイ性」と関係があるかもしれない。  しかし、ぼくの汗は、このような下品なものではない。尊いのである。指揮さえしなければ、出ないのだ。しかも、指揮という、一見アバレ狂っている、あの運動のせいで出るのではない。精神の高揚、乃至、緊張からくる汗なのだ。例えがよくなくて、ちょっと残念だが、冷汗と同種の汗と言える。テレビで見た、角栄さんの記者会見の時の汗ふき風景は、まさしく冷汗に違いなかろうが、他の場面、例えばフォード大統領との握手の時とか、外国旅行に出発の際、飛行機のタラップから手を振る時とか、「総理と語る」で、相手に全然しゃべらせずに、まくしたてている時とかのあの汗は、汗かきの汗以外の、何ものとも思えない。生れつき、プラス、沢山の脂肪のせいだろう。政治家になって何十年も、冷汗を一日中かいていたら、あんなに肥っていられるわけがない。  ぼくの場合、ステージに出て、オーケストラに向って最初に棒をふり下す直前の、一秒かその半分位の一瞬間に、全身に汗がふき出すことがある。身体を動かす前だから、間違いなく、緊張からの汗なのだ。お相撲さんたちが仕切の最中に、もう汗びっしょりになっているのが、よく理解できる。  指揮する前からのこの汗では、真剣勝負なら斬《き》られる側かもしれないが、ぼくのこの汗は、概して、これから上手《うま》く行く時に多い。これから上手く行くというのは、変だが、でもこの感じは、たしかにある。すべての神経が集中して、さあこれから、と意識した時に、気持よく汗がふき出す。 「燃える」とも言えるか。演奏中は、この連続だから、出た汗は前の汗を下から押し上げ、どんどん噴き出し続けるわけで、人が見れば、即ち汗だくの指揮ということになる。  一年中指揮をしていると、時にはどうしても気が乗らず、お金を取っているお客さんにも悪いから、なおさら一生懸命にあばれる時もある。こういう時は、一滴の汗も出ない。つまり、ぼくの汗は、大抵の場合、燃えるか、気が乗らないかの、バロメーターであるとも言える。こう書いたからといって、汗の出方でだけ判断されるのは困る。音楽に対する判断は、あくまで耳でして頂きたい。汗のためだけに、音楽をやっているのではないのであります。  とにかく、殆どの指揮者は汗をかく。大汗をかく。それぞれの体質からいって、緊張から出る汗もあるだろうし、運動性のもあるだろう。さっき、汗をかかない代表みたいに書いたけれど、カラヤンだって汗を出す。額からタラリを、しばしば見る。バーンステインは、音楽会が終るやいなや、楽屋でスッパダカになって、タオルのガウンにくるまる、頭の毛もグショグショだ。小沢君も大汗かきだし……。クレメンス・クラウスの例は、極端なので、あんな逸話がおもしろおかしく伝わっているのだろう。要するに、みんな汗をかいているのだ。  しかし、ひとは何故ぼくのことばかりを、汗かき指揮者と言うのだろう。夏に近づくと、新聞などに「汗と健康」なんて特集がよく出て、しょっ中ぼくの例が引き合いに出される。どうして、汗かきとしてのみ、有名なのか。不当なことだ。  思うに、これはきっと、ぼくにとってのテレビ公害なのだ。N響の指揮者という立場上、ほかの指揮者さんたちより、比較的たくさんテレビ中継が画面に出るからではないのか。外国からの指揮者たちのテレビは、短期間の日本滞在中に、集中的に出る。ぼくも日本には、一年に二、三カ月しか居ないけれど、外国の人とは違って、二十年近く、とびとびにせよ、ずっと続いてきたから、全部の回数は圧倒的に多いことになる。オーケストラの番組は、大抵は一時間近いし、時には二時間にもなる。指揮者が画面に出る時は、アップにきまっているし、番組全体の中で、こちらがアップになるパーセンテージは、相当大きいのだ。アップは通常左の横からで、顔を大きく出されれば、あごからのポタポタは全部バレてしまう。髪ふり乱し、無我夢中の顔であばれると、パッパッと水滴が四方に飛ぶ。照明の具合で、この水滴は、カメラに実にはっきり捕えられる。指揮の動きなんて、実はそんなに変化に富むものではないから、テレビを見た人に残る印象は、「わあー、スゲエ汗だ」、となる。  テレビさえなかったら、ぼくの汗は、そんなに知られる筈がないのだ。ナマの音楽会だけだったら。音楽会場では、大部分のお客とステージとは、相当の距離があって、こちらが人さまの前で、汗をふく動作さえしなければ、汗をかいているのがバレるわけがない。実際、ぼくはステージでは、絶対に汗をふかない。第一、ハンカチを持って出ないし。ぼくは、ステージ用の服に、ポケットをつけていない。ポケットの機能は、一種の袋であって、その袋を作るための、きれ二枚の厚さすらも、避けたいという、涙ぐましいスタイル上の配慮からではあるけれど、やはり人前で汗をふくのはイヤなのだ。  これだけなら、カブリツキのお客は別として、九十八パーセント位のお客さんには、ぼくの汗は分らない。だのに、みんなぼくの汗を御承知だ。演奏会にわざわざ来るような音楽好きの人は、いつもテレビの音楽番組を見ていて、客席からは見えるはずのない真横からの画面の、しかもアップなんぞを見て、ぼくのポタポタを知っているわけだ。知っているから、会場で遠くから眺めていて、ぼくが演奏を終えて、お客さんに向ってお辞儀をする瞬間に顔がテカッと光ったりすると、「ああ、今日もすごい汗だ」と思うのである。翌週に、この時の音楽会の中継がテレビで出たりすると、先週のテカッの確認が行なわれて、ますます汗の印象は確固たるものになる。すべてテレビのせいだ。  こう言ってはみるものの、テレビのせいだけにするのは、ちょっと自信がなくなって来た。やはり人並はずれて、汗が多いのだろうか。誰でも、ぼくに「すごい汗ですねえ」と話す時、他の人の汗については、しゃべらないから、もしかしたら、別の汗かきと話す時は、その人の汗のことだけを話題にするのかもしれない。はかない望みである。しかし、初夏の新聞の「汗かき特集」で引き合いに出されるのは、やはり、ぼくの汗が際立っているからなのだろうか。本当に不幸なことである。普段はそう汗をかくわけではないのに、よりによって、沢山の人に見られるテレビの時だけ、大汗をさらすのだから、一日全部の汗の合計量は、みんなと変わらないだろうに。  最大の被害は、ステージ用の服を、毎年人の三倍以上、作らねばならないことだ。燕尾服という、あのゴテゴテした下らないシロモノは、普通の洋服の三、四倍は値段が高い。この高い服を着ている時だけ、グショグショになる。実に不経済である。  一生懸命にやせて、八十キロから、六十三キロにまでしたことがあったが、苦しいダイエットを続けた努力のうちには、正直言うと、体重が減れば汗も少なくなるかもしれない、という願いがあった。しかし汗に関して、効果はほとんどなかった。年中暑がりの、手拭なしではどこにも行けないオヤジさんが、脂肪をとれば、噴き出る汗はかなり少なくなるだろう。だが、ぼくの緊張の汗にはだめだった。  ひどい時には、燕尾服の上衣が、音楽会のあと、ジャアッと絞れるほどになる。これだけの水分を含ませながら、二時間近く体操をやるわけで、服地は、たて横ナナメに引っぱられ、目茶苦茶にもまれる。エンビの寿命はあっというまに来て、洋服屋さんは嘆き悲しむ。また新調するのだから、心の中はよろこび跳ねているかもしれぬ。この水分は、尿素、尿酸、馬尿酸と塩分でいっぱいで、多分、次の朝までにはアンモニアになっているだろうから、布は化学変化をおこし、半年もすると、バリバリ堅くなってきて、もうこれは服というものではない。燕尾服というのは、もともと第一礼装的なもので、ツンとすましているのにふさわしく、これを着てグショグショに汗をかくなんて、世界最初の制作者は、予想しなかっただろう。  毎回、音楽会のあと、クリーニングが必要だ。汗それ自体がアンモニアではないだろうが、翌朝、クリーニングに出すまでに、干して乾かさなければならない。そうしないと腐ってしまう。乾いた頃には、真白の粉をふいている。塩である。前夜の稼ぎの汗の結晶だ。もし、濡れたままクリーニングに出しても、同じことだろう。ドライクリーニングというのは、ベンジンを使うのだから、クリーニング屋さんでも、一度は乾かすのにきまっている。塩の粉から逃れるわけにはいかないのだ。一度、ベルリンのホテルで、濡れたまま出したら、突き返された。油の中にびしょぬれの服を入れると、機械が爆発するというのである。本当だろうか。どうもマユツバみたいだが。  ぼくの洋服屋さんも、この二十年、よく研究してくれた。エンビ服や、これのためのシャツの生地の、どの種類がぼくの厖大《ぼうだい》な汗によく堪え、型が崩れないかを探してくれた。汗に似た液体を作る。つまり、塩とアンモニアと酢を混ぜたものの中に、いろいろな生地の小片を入れて、長時間煮るのだ。二時間位グツグツやってもしっかりしている生地なら、二時間位棒をふられても、大丈夫だろうというわけだ。おかげでエンビの寿命は大分延びたが、それでも一着だけでの、汗とクリーニングの繰り返しだと、半年しかもたない。だから四着ぐらいのエンビのローテイションをやっている。それでも、二年に四着の新調は最低限必要で、他に夏用のも二、三着は作る。  直接、汗で困るのは、指揮の最中に、目がつぶれることと、むせることである。日によって、しょっからい汗が出ることもあるらしく、これが目に入ったら、もう、イタクて目をあけていられない。なにも、カラヤンでなくても、目をつむったまま指揮することは、別に何でもないけれど、終った時には、目をあけないと、舞台から歩いて戻れない。人前でハンカチを使って、汗をふくような、無粋なことはやらないけれど、この場合は、手で目をこすりまくるはめになり、もっとカッコ悪い。「悲愴」をやり終って、泣きながらぼくが退場した、なんて話は、この仕ぐさの誤解である。  汗でむせるというのは、理解しにくいかもしれない。人間、四六時中息をしているわけだが、指揮中は、特に大きくブレスをすることが、時々ある。この瞬間が、鼻の頭からポタリの途中だったら大変だ。汗の一滴が、鼻の穴、又は口から直接気管にとび込む。この時の苦しさは、他人にはわからないだろう。フォルティシモの時は、大きくせきが出来るけれど、曲が静かなところになった時など、ハデにせきこむこともならず、こらえながら、しかもピアニシモの場所は繊細なニュアンスを表わさねばならない。地獄である。  緊張からの汗だとは言っても、暑い季節は、やはり多く出る。夏の演奏旅行は大変だ。日本では、東北、北海道地方の旅行が困る。九州や四国の、暑い地方は、かえって涼しいのだ。勿論、演奏会場の中のことで、涼しい北の地方には、冷房が完備していないところが多い。ヨーロッパに大寒波が襲うと、普段あたたかくて、暖房がちゃんとしていないナポリなんかで、凍死者が最も多く出るのと、現象は逆でも、同じことだ。  演奏旅行では、音楽会が毎日のように続くから、ひどいアセモになる。赤ン坊によくできる、おでことか腋《わき》の下なんかは、不思議とならない。とても困る場所がアセモになるのだ。ヘソ下三寸の繁みの中だから、お手あげだ。  アセモというのは、ある一定の場所に、汗が長時間滞在するからなるのではないだろうか。おでこや、顔一面や、腋の下等の、上半身の汗は、指揮中のぼくの場合、立ちっぱなしだから、どんどん下に流れて行く。一刻として同じ場所に停滞しないから、もしかすると、消毒作用位はしてくれるのかもしれない。  樹木の密生している山に大雨が降っても、ふもとは、すぐには洪水にならないそうだ。木や草が、根っ子のところに、水を保ってくれるからだろう。しかし、雨と汗とは違うのだ。局部的集中豪雨に見舞われる、ぼくの下半身の森の地べたは、アセモになる。上半身からの汗を、二時間近くも溜めてしまって、しかも休憩の時や、音楽会が終った直後には、上の方をゴシゴシ拭《ふ》けるけれど、下の方には、そういう待遇をしてやれない。ホテルに帰って風呂に入っても、もう手遅れである。これが毎日続くと、演奏旅行の終り頃は、ひどいことになる。  何年か前、すばらしいアイデアを思いついた。山を丸裸にすると、洪水が絶えずおこって、国が滅びると、小学校だが中学校で習ったものだ。洪水をおこさせればいいのだ。思いきって、丸坊主にしてしまった。  効果はてきめんだった。上半身からの汗が一カ所に集まっての、ひどいアセモは、たしかに避けられた。しかし、「山青くして水治む」は本当で、洪水は両足に流れ落ちる。靴の中の、出水となる。今に続くぼくの水虫は、これから始まったのかもしれない。懲りて一度で止めてしまった。ほかに、色々都合の悪いこともあるし。  汗は、他人にも迷惑をかける。オーケストラの前の方の、ぼくの近くに坐っている、バイオリンやチェロの人達は気の毒だ。時々、アッと顔に手をやったり、あわてて目を拭いたりしている。ぼくの汗がとんだのだ。実に申し訳ない。  いったい、いつになったら、「新米じゃ」の域を脱するのか。年寄りの「枯れた芸」とは、汗が出なくなって、ひからびる状態のことを言うのだろうか。  「楽士様控室」か「楽員控室」か?  数年前まで、ぼくがマルマルとふとっていた頃は、久しぶりに会う知人との会話の度に、いつも憂鬱《ゆううつ》だった。十人中九人が、同じことを言うにきまっているからだ。「また、ふとりましたねえ」。言う本人には、別に悪気があるわけでないし、ほかにしゃべることもないから、そう言うのだろうが、言われた方は、いちいちグサリとやられる気持で、大いに不愉快である。  見事減量に成功して、八十キロから六十三キロにした時は、大変だった。会う人の百パーセントがヤセたことに言及する。これはまあ、無理もない。たったの三カ月で十七キロとったのだから、前後の差があまりに極端で、誰だって言いたくなるだろう。  言い方、思い方は、大きく分けて二通りあって、大多数は身体がどこかおかしいんじゃないか、と心配してくれ、そんなに急にヤセルのは、ガンに違いないと、御親切に言い張って下さる。苦心のダイエットの結果と見破る人は、少数だが、どうやって、そんなに体重を減らしたか、なんてきかれると、これはもううれしくて、トクトクと話す。ガンに違いないと言ってくれる人には、減量について、もっとくわしく話さねばならず、いずれにしても久しぶりに会う人は、こちらをくたびれさせる。  昔、二十二、三歳の頃までは、ぼくはゲソゲソにヤセていた。スラッとしていたとも言える。しょっ中お腹をこわしていて、中でもひどいのに、年二回はやられ、大腸カタルという正式な病名がつく。これになると二週間は下痢が続いて、骨と皮になり、直ってから半年位、せっせと身体に肉をつけても、次の大腸カタルで元も子もない。この繰り返しは、クロマイが世に出はじめて、ぴたりとなくなった。最近は「大腸カタル」なる言葉をさっぱりきかないから、こういう名前の病気は、存在していないのだろうか。二週間は続くはずの下痢が、クロマイで、その日に止ってしまう。というわけで、このクロマイの出現と、ぼくのふとり始めが一致する。クロマイのおかげで、長期間の下痢がなくなった代りに、ヤセル原因も失せて、フトル一方になったのだ。体質の変化もあるだろうが、ふとってからは、お腹をこわすことがなくなったのも、不思議だ。  その頃、日比谷にあったNHKの向いに、「モレナ」というレストランがあった。ここのスパゲッティ・ボロネーズが大好きで、ひるめしは必ずこれだった。二年間ほど、バカみたいに毎日これだけを食べた。食後はサバランというお菓子と、それだけでは足りず、ソフトアイス。アッという間に太った。  太り始めの頃は実にうれしかった。指でひとなですると、ドレミファ……と、木琴みたいに音がしそうだったあばら骨だらけの胸が、だんだん平地のようになってきて、はだかの上半身を家のガラス戸にうつすと、胸の表面が全部見えるのだ。ゲソゲソの時は、骨と骨の間が谷のように陰になり、立体地図のようだったわけだ。ふとって、谷はうめられた。オランウータンのように手のひらで胸をたたくと、たのもしい音がする。「ようガス。いっちょうやりましょう」、とはこんなことだったのかと、ガラス戸の前で胸をどすんとたたいて悦に入る。「少しふとったじゃないか」、と誰かに言われると得意満面、クロマイ、スパゲッティ、サバラン、ソフトアイスの効用をしゃべりまくる。つまり、人にふとり方を説いたのだ。後に減量の大成功が自慢で、『男のためのヤセる本』なるものを書いて、世の中のデブを啓蒙しようとしたおせっかいは、逆のことだったけれど、すでにふとり始めの時に、同じようなことをやっていたわけだ。ふとりきってマンマルの時は、「またふとったね」、と言われると不機嫌になるのだから、身勝手な話である。  先年の、六十三キロにまで下げたのはちょっと減らし過ぎで、お医者さんには、六十四キロが適量だと言われていた。あえて六十三キロにしたのは、ぼくの体質が食べたものを、すぐに肉に、あぶらにして身につけてしまうので、たまに暴飲暴食をして、体重が増えても、適量までの安全圏を残すために、わざと多めに減らしたのだった。最近は食生活に油断がふえて、六十五、六キロになってしまい、なんとか再び六十三キロにしようと悩んでいる。「ヤセる本」にまえがきを書いてもらった野坂昭如さんに、どこかでばったり会って、コッピドクおこられた。読者をサギるのはもってのほかだ……。  減量は実に大難事であって、目標が十八キロであろうと、三キロであろうと、固い決意の迫力に差があってはならないのだ。わかってはいても、たったの三キロが目標では、どうも覚悟が甘くなってしまい、たったのこれだけだし、いつのまにか分らない位に、少しずつやせてやろうと思いながら暮す。毎食クヨクヨしながら食べて、たえず減食しているつもりだが結局は少しも減らない。「ヤセる本」を書いた頃位までにしないと、もう野坂さんにはオッカナクテ、会えない。  しかし、それにしても日本の人は、会う度に、やせたの、ふとったのと、どうしてああいちいち言うのだろう。まことにウルサイ。  最近の、六十五、六キロのぼくに、久しぶりに会う人は、それぞれ勝手に感想を述べる。 [#ここから2字下げ] 「また少しふとったんじゃない?」 「いやあ、それがね、二、三キロ増えちゃっただけなんだけどね、なあーに、この位、その気になればすぐ元にもどれるんだ。それにね、一番やせた時は顔がトンガッちゃったけど、少したつと顔が顔らしくおさまって来てね、一見ふとったみたいに見えても、体重はそう増えてないんだ」 [#ここで字下げ終わり]  これは数年前のぼくの大減量をよく知っていて、特に六十三キロの時の印象が強かった人。ぼくのことをガンだと、親切にも言いはったタイプだ。そのくせマンマルのぼくへの郷愁(?)があるのか、会うたびに同じことを言う。六十三キロのままでも、「また少し……」とくるにきまっている。こちらのやせた顔に慣れると、向うにはマンマルに見えるのだろう。 [#ここから2字下げ] 「いやあ、これはものすごくおやせになったものですなあ。誰だかわかりませんでしたよ」 「五年前位に、うんと減量しましてね。でもその頃からは、またちょっとふとっちゃって、今はだから、そんなにやせているわけでもないんですよ。あんまりびっくりされると、ぼくも困っちゃいますよ。八十キロの頃からお会いしてないから無理もないけど」 [#ここで字下げ終わり]  こういうのは、十年前に外国のどこかで会った人に多く、むこうはそのまま同じ国で商社の仕事をしているわけだ。日本に帰っている人だと、音楽に関心がなくても、たまには偶然ぼくのテレビを見ることがあって、今どきこんなトンチンカンなことを言うこともないけれど。  なにしろいそがしい。色々な返事をしなければならない。ものすごくやせた、とおどろく人。またちょっとやせたねと、こちらをうれしがらせる人。すこしふとったねとか、時には、ブリカエシタねなんていうヘンなのがいて、でもこれはまあ事実でもあるので、オモシロくないが我慢する。しかし、あっという間に元通りにふくらんじゃったね、なんていうヤツは許せない。もっと自分の印象に責任を持てと、ドナリたい。  とにかく、相手の言うことがいちいち違うので、その人にナットク行くように説明せねばならず、めんどうだ。もっとも、向うの言い方だけで、この人とはいつ頃から会っていないかが分って便利だし、その人のオツムの程度もよくわかる。  このような質問は、ヨーロッパ人やアメリカ人からは、ほとんどされたことがない。質問というより、これがわが日本人の時候の挨拶なのだろうか。中国では、もう食事はおすみですか、が挨拶だそうだし、わが日本人は、やせたの、またふとったのが、それなのか。もしかすると、ぼくにだけ特に、この痩肥を、「こんにちは」、「お久しぶり」に代えるのか。それとも日本人がやはり慢性の栄養失調恐怖症を持っていて、この様な「こんにちは」を、つい言ってしまうのか。やがてまた、食糧難時代も来るだろうし、その時はこの挨拶も再び当を得たものになるわけだ。かのインドでは、どんな挨拶をするのだろう。これはもう、飢えが凄過《すごす》ぎて、やせたの、ふとったのと、ノンキなことを言っていられる状況ではないだろう。  やせた、ふとったに関するぼくの返事の複雑さは、あくまでぼくの個人的な問題だが、それにしても日本語はめんどうな言葉で、色々な職業の世界の陰語を言い出したらきりがないだろう。音楽家の、わけてもオーケストラ関係の人間の陰語の使い方も極端な例で、挨拶言葉もむずかしく、一般の方にいらぬ誤解をされたり、こちらも困ったりで、よくオカシなことがおこる。  われわれは、自分たちのことを「ガクタイ」と称している。ピアノやバイオリンの独奏者の、オジョウちゃんやオジサン達は、芸術家であらせられて、「ガクタイ」などと、ハシタナイことは、おっしゃらない。  この「ガクタイ」だが、オーケストラのメンバーも指揮者も、みんなひっくるめて「ガクタイ」であって、「おれたちガクタイは、カネにはほんとに縁がネエよなあ」というように、あくまでわれわれが自分たちのことを指すのに使われる。「アイツはガクタイの風上にもおけないヤロウだ」、等の言い方には、職業上の誇りも含まれる。だが、他人に、「あんたらガクタイは……」と言われたら、たちまち腹をたてる。「失礼な野郎だ。このトウシロめ」、と内心つぶやくのだ。部外者に言われた場合は「楽隊」という、何かしら人種差別的なニュアンスを感じてしまって、愉快でないのかもしれない。  色々な商売に同じことがあるだろうと思う。例えば、新聞記者さんたちはどうなのだろう。「ブンヤ」というのは、やはり彼等の仲間うちのプライドを伴った呼称で、別の世界の人間が、「あんたブンヤ?」ときけば、いい顔をしないのではないだろうか。おそらく、「ヤクニン」も同じだろう。「ブンシ」はどうなのだろうか。このたぐいの呼び方は、いろいろ調べてみたいものだ。もっともそのおかげで、放送用語制限委員会が、またまたチンミョウにはりきっても、困るけれど。 「ガクタイ」が「楽隊」だとおもしろくないくせに、昔の「軍楽隊」出身の人にとっては、あれは絶対に「軍|楽隊《ヽヽ》」であって、「軍ガクタイ」ではないのである。「軍」の字さえとれば、「ガクタイ」でニコニコとなる。  地方の——いや、国内のどこかの街の演奏会場に到着する(最近は「地方」と言ってはいけないらしく、「地方演奏旅行」ではなく、「国内演奏旅行」なのだ)。楽屋が色々分類してあって、入口にそれぞれはり紙がしてある。オーケストラのメンバーのために、男性用と女性用にいくつか分れていて、着換えのためなのだから当然だ。このはり紙で時々困るのがある。「楽士様控室」とか「楽隊様お部屋」なんて書いてある。髪さか立てて怒るのはいないけれど、少しばかりクサッテしまう。ストリップの伴奏で来たのではあるまいし、こちらはいやしくもシンフォニー・オーケストラのメンバーなのである。「楽士」とは何事か、と内心オモシロクない。ストリップのお仕事の方々には実に申し訳ないことなのだが、どうもこの感じはたしかにあって、オコルのはわれながらみっともなく、だからちょいとばかり苦笑してしまうことになる。「楽団控室」もよろしくない。  では何が良い表現か。 「楽員控室」又は「団員控室」が適切である。「楽士」と「楽員」は、何故か天と地の違いがあり、同じ「団」を使っても「団員」と「楽団」もガクタイには大問題なのだ。そのくせ、「NHK交響|楽団《ヽヽ》の方ですか」ときかれれば、胸をはって「オー・イエス」である。「楽団の方で?」だとシブイ顔になる。どうも日本語は複雑怪奇だ。外国語にはこんなむずかしさはないようである。  ガクタイ同士の「お早ようございます」の挨拶は、二十四時間通用の言葉で、一般芸能界、タレントさんの世界での、もっとも普通な言葉だろう。この言い方は、不思議なことに、外国でも存在する。しかし、「おつかれさま」というバイバイの言い方は、日本独得の挨拶である。この使用法もちょっとむずかしい。仲間内、ガクタイ同士で「おつかれさま」を言っている分には、全く問題がない。困るのは、同業以外の人に言われる時のタイミングなのである。  演奏旅行での会場の楽屋で、地元の何人かの方がわれわれの世話をして下さる。一曲終って、汗をふきに楽屋に帰って来るその度に、「おつかれさまです」と丁寧に言葉をかけられる。実のところ、これにはマイルのだ。ガクタイの世界では、この「おつかれさま」は、仕事が全部終った時の言葉で、「無事に終ってよかったね。バイバイ」とか、「明日は休みだぜ、一杯ヤッカ」というニュアンスなのである。他の方から、一曲ごとに「おつかれさま」と言われると、文字通りの「疲れ」をいたわられる気持がして、ガックリくたびれが出てしまい、いちいち気を取り直して、また舞台に出て行かねばならず、なんとなくファイトがなくなってくる。これなどは、われわれだけの特殊な言葉の使い方に、罪があるのであって、何度も「おつかれさま」と言って下さる方には、勿論文句を、いえるわけもなく、しかしこちらはその度に、少々悩む。  音楽会が終ると、プログラムや色紙にサインをと、沢山いらっしゃる。これは世界共通で、色紙というものだけは、日本にしかないけれど。今日は沢山来そうだと勝手に思って、新品のサインペンを用意すると、誰も来なかったり、来そうもないと安心して、書くものを持っていない時に限って、どっと沢山やって来たりで、ままならぬ。  指揮の商売をしていて、一番苦痛なのは、サインをすることである。拍子をとるために、一回の演奏会で、いったい何回右手を振っていることになるだろうか。曲目によっては一万回をはるかに越えるだろう。右手は比較的規則正しい運動ではあり、どちらかというと、主に表情をつかさどる左手より、運動量は何十倍にもなるだろう。だが左手の方は、時に急激な、不自然な動きに使うことが多く、ぼくの場合は、職業病的故障は、いつも左手におこる。とにかく右手はひどく疲れている。楽譜《がくふ》を調べればすぐわかることであるけれど、何千回振ったかなんてバカな計算はしたことがないが。  左ギッチョの指揮者も世の中に沢山いるだろうが、左手に指揮棒を持つ人は、ぼくの知っているかぎりでは、フィンランドの人ひとりだけだ。この人はやはり左手でものを書くから、結局疲れは普通と同じで、右手で指揮棒をふりまわし、左手で字を書く人がうらやましい。もともとぼくは、ギッチョだったらしいので、字だけは左手で書くようにしておけばよかったと、くやまれる。  さて、サインだが、莫大な運動のすぐあとのブルブルふるえている右手でやるわけだ。すごい勢いでナグリ書きするのは、ぞんざいなのではない。フルエた字をあとあとまで残したくないからなのだ。外国での横文字でのサインは気が楽だ。数回の手のケイレンでサインが出来上る。日本語でとたのまれることも時にはあるが、これもやさしい。手を縦にケイレンさせながら、超草書体でやってしまえばよろしい。タテに何かを書けばよろこんでいる。  日本で、日本の人に横文字でサインをするのは、ぼくはいやである。昭和ひとケタのせいか。いつも日本語で書く。相手はよく日本語が読めるのだからちゃんと書かねばならない。ブルブルの右手で書くのだし、時には過労で手首が痛い。  でもこんなことくらいは何でもない。何しろお客さまは神様、帰宅の時間を少々おくらせて、わざわざ楽屋までの迷路をたどって来て下さったのだ。大切にしなくては。中にはサイン嫌いで、演奏のあと、パッと車で消えてしまう高潔な大芸術家もいるけれど、総じてわれわれ芸人は、疲れてぐったりしている時でも、大勢の人がサインにつめかけて来ると、実はうれしいのだ。いかなる労働もいとわぬ。まわりの人間には、ブースカ言っているけれど。  しかし、最近日本で、特に地方の小さい町で、何ともやりきれない気持になるのは「握手」である。  サインをする。ムッツリだまって帰って行く人もあるし、軽く頭を下げて、小さな声で「どうも……」と言う人もあるし、「さっきの曲のあそこがすてきでした」なんてうれしいことを言ってくれる人もある。書く対象物も、プログラム、サイン帳、何やらむずかしそうな哲学書の表紙、何も持っていないらしく、ありあわせのチリ紙、ハンカチ、時にはTシャツそのものへ、といろいろで、こちらもあきない。チリ紙がその後どんな運命をたどるやらまでは考えぬ。とにかく、正直いってうれしい。  そこまではいい。当惑するのは、「握手して下さい」と言われる時だ。「アクシュお願いします」とも言う。その度に、何故かぼくはゾクゾクとしてしまい、一瞬ためらう。しかも多くは、不思議なことに左手をおずおずとさし出す。お互いに西洋人ではないのだし、握手は右手でするものだと、教条的に左手を否定する気はないが、なんだかヘンだ。外国でも、右手を怪我《けが》している人とか、たまたま右手がよごれていたり、ぬれていたりすると、失礼と言って左手を出すことがよくある。左手を「穢《けが》れの手」としている民族は別だけれど。左手をおずおずと出す日本のファンの方たちは、おそらく、こちらが右手でせっせとサインをしているので、空いている方の手を使わせようとして下さっているのだろうと思う。右手で握手をしようとすれば、一度はサインペンを机に置かねばならず、コロコロころがったりするし、マジックインキが手についたりするのを、おもんぱかって下さるらしい。これも、まあいい。  ぼくがいやで、ゾッとするのは、「握手お願いします」、という言い方なのだ。こう言われると、ぼくがひねくれているのかもしれないが、「手にサワラせて下さいな」と言われたような気持になってしまう。これはキモチわるい。沢山の人がこちらをとりかこんでいる時に、初対面の人に「ホッペタにチュさせて下さい」とか、「キスお願いします」とか、「アレおねがい」なんて言われたら、うれしいでしょうか。「握手お願いします」は、ぼくには、これらと五十歩百歩に感じられる。これがいやで、一時は係の人に、「手を痛めておりますので、握手はごかんべん願います」と、へんなことを叫んでもらったこともあるが、カミサマに対してなんたるバチアタリと反省して、最近は素直に握手して|あげる《ヽヽヽ》ことにしている。「あげる」と書いたのは、「お願いします」と言われたからである。  日本人が指で、「Vの字サイン」を高々とあげるのは、少しばかり不自然で、心からのよろこびを百パーセント表現しているように思えず、借りものみたいな気もして、何か他によい方法はないかと思う。「ブラボー」の叫び声も、所詮《しよせん》同じで、日本語に何かこれにぴったりの言葉がないものかと、いつも考える。握手は、こういった中では最も定着している方で、日本人同士が握手しても、そうおかしいことではない。  だが、「握手お願いします」は、どう思ってもヘンである。サインをした時に、向うが「どうも」と言って、すっと手を出せば、こちらもごく自然に、うれしく握手出来るのだ。東京と地方という風に分けて考えるべきではなく、そう思いたくもないが、概して東京の音楽会で楽屋にサインを求めて来る若者達は、ごく自然に、「どうも」と手を出して来て、気持がいい。演奏旅行に出ると、「握手お願いします」が多くなり、ぼくは「さわられる感じ」の抵抗感に悩むことになる。決して彼らが悪いのでもなく、間違っているのでもない。習慣がなく、それにちょっとシャイなのだ。握手する時は、何も言わずに、スッと手を出せばよいのだと、学校の先生は教えるべきである。もっともその先生みたいな人たちが、最も「お願いします」的だから、絶望だ。  東北のどこかの街だった。音楽会の直前に、若ものがいきなりぼくの楽屋に入って来た。音楽会の前や、途中の休憩の時には、演奏への集中を守るために、人に会わないことにしているのだが、面会を断わってくれるはずの係の人がきっと居なかったのだろう。部屋でひとりポツンと楽譜を眺めていて、なんとなくうしろに人の気配を感じたのでふり返ったら、この若ものが居たのだ。ぼくはとびあがりそうにおどろいた。しかもすごい大男なのだ。閉じたドアを背にして、彼はひと言も声を出さず、こちらはびっくり仰天と、それになんとなくコワくて黙っていた。まあ、一種のにらみあいだ。若ものがドアのところにいるままなので、万一のことがあっても、人を呼ぶことは出来ない。観念した。オーバーな話だが、それほど無気味でおそろしかったのだ。にらみ合いが続く。やっとの思いで、言ってみた。「何か御用ですか?」するとこの大男の若もの、からだに似あわぬ小さな声で、「アクシュサセテクレマセンカ」と言うのだ。最初はわからなかった。小声の東北弁を何度もききかえして、ナットク。それならお安い御用だ。この際、「サセテ……」の握手のきもちわるさなんて言っていられない。おそろしい無気味な予感がはずれてホッとした。手を出した。ぼくの三倍位はある、でかい手でギュッと握られた。アイタタ……。「わあ、うれしいな。岩城さんと握手出来た! もう一度。エーイ!」。かけ声をかけて握手されたのは初めてだが、ものすごい力なのだ。こっちはギァーッと叫びたい。これで開放されたかと思ったが、だめだった。「もう一回、今度は両手で。エーイ! うれしいなあ」とやられた。向うさまはニコニコして出て行ったが、一体握手を何だと思っているのか。ひとの手を何だと思っているのか。商売道具なのだ。その日の音楽会では、あまりの痛さで、右手が使えなかった。翌日お医者さんにみてもらったら、やはり捻挫《ねんざ》していて、全治十日間。握りしめながら、ひねったのだろうと言う。右手にギブスをしての演奏旅行を続けねばならなかった。  外国でも、ある有名なピアニストが、演奏前に田舎の主催者のオジサンに、強力に握手されて手を痛め、裁判ざたになって何万ドルかを取ったことがある。こちらはピアニストほど繊細に指を使うわけではないし、損害賠償を訴える気もないが、手の痛みに茫然《ぼうぜん》としている間に、くだんの若ものはニコニコ消えてしまって、残ったものはギブスだけだった。  世界のどこでも、われわれ指揮者はピアニストやバイオリニスト、その他の器楽の独奏者とは、演奏前に絶対に握手をしない。これが常識であり、礼儀でもある。 「握手お願いします」の気持わるさと、時には商売道具をこわされる心配を思うと、このことに関してだけは、毎回日本に帰る飛行機の中で、憂鬱になる。  地球の裏のニッポン情報  もうかれこれ十四、五年、おもに日本以外で仕事をする生活を続けてきたが、日常生活に一応支障なく使える言葉は、ドイツ語と英語だけだ。ところがこの「一応」がくせもので、音楽の仕事のときや、関係者としゃべっているときは、同じ世界にいる者同士の共通話題を追っていればよいし、専門用語を多く使うから楽なのだが、音楽関係者以外の人と一般的な話題を話すとなると、全く困ってしまう。フランス語、イタリー語、スペイン語、オランダ語等、英独以外の言葉も、それぞれの国での仕事の最中、つまりオーケストラとの練習のときに使うけれど、これは「モーイチドオネガイシマス」、「タイヘンケッコウ」なんてやっているような程度だから、日常会話にはからっきしである。  英語、独語だって、ニクソンは果して弾劾されるかとか、キッシンジャーの中東戦争における役割はなにか、などの話になるとチンプンカンになってしまう。ただテレビや映画の見すぎで訓練されているらしく、ブラント首相側近のスパイ事件なんかはわりとよくわかる。いずれにしても、今だにそこらのベンチで横文字の新聞に読みふけっている掃除婦のオバサンを見かけただけで尊敬してしまう。ドイツ人がドイツ語の新聞を読んでいるのに、なにも感心することはないのだが……。  ドイツ語圏にいるときは、そこいらの代表的な新聞「ディー・ヴェルト」、「フランクフルター・アルゲマイネ」等をなまいきにも読む、というよりはながめることにしているのだが、同時に「ヘラルド・トリビューン」のヨーロッパ版の英語もながめていないと、気がすまぬ。しかし両者をながめ比べて、気がすめばいいのだが、逆にますますわからないことがふえてくるのだから始末が悪い。正確な日本語訳を知らないまま日常会話で使っている単語もどんどんふえてきて、そのくせめんどうくさいので何年も前から辞書をもって歩かなくなっているから、これではむずかしい記事は読めるはずがないのだ。そこで重大事件の後は、いらいらして日本からの新聞到着を待つことになる。  外国で暮している日本人のために、日本の新聞をせっせと送ってくれる会社はあるのだが、なにぶんこちらは、ほぼ一週間単位でいろいろな国を歩いている身体、この会社に頼むのは不可能だ。だいいち、ひと月何万円もとられて、すごく高い。ぼくの場合は、東京にいる秘書サンに送ってもらっている。その場合、別に理由はないのだが、昔からの癖で、「朝日」の朝・夕刊を週二回ぐらいに分け、しかも、この頃の新聞はぶ厚くて重いから、まん中の広告ばっかりのページとか、主婦の暮しのページみたいなところはすべてカットして送ってもらう。それに加えて月刊の文藝春秋、中央公論、毎週の週刊朝日、そして時には女性週刊誌や平凡パンチ等もいれてもらう。まず、外国暮しの中では、外務省関係、商社関係の次ぐらいに日本の情報を多くもっているかもしれない。しかし考えてみれば、なにもそんなに日本のほうばかりを、いつもキョロキョロ見ていることはない気もする。このキョロキョロのためには、なによりも女性自身や女性セブンや平凡パンチの類が役にたつ。お上品ぶっている大新聞社の週刊誌では、日本のNOWがわからない。これら全部がいつも航空便で送られてくるから、月二万円はかかってしまう。アホらしいといえばアホらしいが、日本にも年四、五回は帰って仕事しなければならず、外国ボケも恐ろしい。新聞発送会社に頼むよりはずっと安い、と妙な安心をしている。  知人の、これはチューリッヒに住んでいるお坊さんだが、以前長いことアメリカの西海岸に住んでいたとかで、アメリカから毎日、「羅府新報」を送らせている人がいる。ロスアンジェルスで発行しているいくつかの邦字新聞のひとつで、この新聞はなかなかおもしろい。世界ニュースもわかりやすいし、日本の記事も速いし、それに活字も今だに昔のものらしく、文章も明治的で、癖になったらやめられない魅力があるのがよくわかる。  オランダの自宅にいるとき、たまにラジオで日本語を聞きたくなり、あれこれと短波ラジオをピーピーいわせることがある。おもに聞くのはロンドンBBCの日本向け番組だ。夜の十一時に、日本のみなさん、おはようございます、などとやっている。この電波がロンドンから出ているのか、マレーシアあたりからなのか、ぼくは知らないのだが、なかなかうまくキャッチできない。この放送をいつもジャングルの中で聞いていた小野田さんは、どんなラジオを持っていたのだろうか。情報将校というものは、受信技術もきっとうまいのだろう。ぼくの技術で一番入りやすいのは、エクアドル放送「アンデスの声」というヤツだ。だがこれはキリスト教のお説教だけなので閉口する。  肝心のラジオ・ジャパン——NHKが一番むずかしい。ヨーロッパ向けには英、独、仏を出していて、指向性電波とやらでこれをキャッチするのはそうむずかしくないけれど、何も好きこのんで、外国で、外国語のNHKを聞くこともあるまい。ジェネラル・サービスの日本語のは、東京から出しているせいか、今までに意地になって夜じゅう努力し、三時と四時に二度キャッチできただけだ。これではこちらの身体がもたぬ。それにBBCは自分の国のストライキがいかに大変か、なんて正直だが、NHKのほうは、「池田首相は盛大な見送りをうけて、無事アメリカに出発いたしました」なんて、よそゆきのことしかしゃべらないのでつまらない。つまり池田首相の昔に聞いてから、ラジオ・ジャパンを聞く努力は放棄してしまったのだ。ある海外特派員で、毎日二回のBBCを必ず聞き、ここのは早いから便利だと、その日本語のわかりやすいニュースを聞いた直後、日本にテレックスをうっている人を知っているが、なんとなくおかしい。  世界の空を飛び交っている、何千、何万の短波の中から、四苦八苦して日本語を捜していると、なんとまあ日本語という言葉が、世界の中の超少数派かということに気がつく。圧倒的に多いのはもちろん英語で、英語が何パーセント、米語がその何倍、オーストラリアやカナダからのがどのくらい、なんて調べているほど、こちらはヒマ人ではないが、とにかく、あらためて英語が現在の世界語であることをイヤでも納得させられる。その次に多いのは、はっきりしたデータがないのでいい加減かもしれないが、ぼくの印象ではスペイン語だ。意外とドイツ語やフランス語が少ないような気がする。  ぼく自身、前にもいったように、英語、独語なら、一般日常会話にさしつかえるわけではなし、見出しだけを拾っているぶんには、方々の国の新聞で世界情勢のだいたいはわかる。女房だってそばにいるのだから、日本語をしゃべるチャンスにこと欠くわけではない。だから、何故毎月二、三万円もかけて、日本の新聞、雑誌をとりよせたり、一生懸命ガアガアピイピイやって、短波のなかから日本語を捜し出そうとするのか、自分でも不可解なのである。知識欲からいろんな国の新聞をせっせと読んで、洋の東西の情報を熱心に収集しているといえばカッコいいけれど、日本にいる間は、外国語の新聞なぞ読もうなどと言う気をおこしたことがないから、これでは片手落ちだ。原因はそんな上等なところにあるのではないらしい。それに、日本にいるときは、日本の新聞だってろくすっぽ読んでいない。見出しの拾い読みにしたって、ドイツにいるときの「ディー・ヴェルト」のほうをより熱心に読んでいる。日本にいても、外国にいても、本職の音楽のほうの仕事は、ほとんど同じペースでやっているわけで、日本では種々の雑用に追われ、外国にいるときよりはるかに自由時間が少ないのは確かだけれど、新聞を読むくらいの時間は、ちゃんとあるはずなのだ。  外国にいる時は、雑用がほとんどないから、その時間を、すべて読書にあてることができて、つまりぼくは実に熱心な読書家である。裏返していえば、かれこれ十五、六年にもなるのに、外国での自由時間を使う方法が、今だにわからないということなのかもしれない。  新聞が日本から到着する。日本や、諸外国の郵便事情——たいていはストライキ——の都合によって一週間半ぐらいこないのはざらだ。こちらが動きまわっているのだから、それぞれの郵送期間を計算しながら送り出す秘書サンも大変だろう。一週間以上もこない後は、次にドサッと三回分到着することになる。十日分以上の新聞と、二週分の週刊誌と、そしてまれに総合雑誌二冊が同時に配達されたときの忙しさ、くたびれ方は、バカみたいなものだ。ゆっくり古いほうの日付けから読めばよさそうなものだが、どうしても新しいほうから読んでしまう。日本にいないときは、だから、ほとんどの場合、事件を知ってから、逆にそれの予想やら、予報をさかのぼって読んでゆくことになる。たいていは当っていなくて、殺人事件の捜査過程なんか、実におもしろいけれど、なんのことはない。推理小説を最後のページから逆に読んでゆくのと同じで、こんなことを続けていたら、ものの考え方、追求の仕方が、人とはさかさまになるのではないかと心配になる。日本にいつもいて、今日の新聞は、絶対に明日のよりは後にこないという、時の経過への安心感をもちながら生活している人には、××山関が優勝して、絶讃をあびている記事と、十日前の稽古不足だ、根性がないと引退させたがっている記事とを、同じ日にいっしょくたに読む、このおもしろさはわかるまい。  その楽しみのせいか、新聞包みが到着するや、なにもかもいっぺんに、その日のうちに読んでしまう。ものすごく疲れる。そして次の日からは、次のが到着するまで、まだ見落した活字はないかと、十日分の活字に何回も目をとおす。日本に帰ってきて友人と話していると、日本のことに関しては、日本にずっといた誰よりも、恥しいほど詳しい。日本にいる間は、みんなと同じように日本の出来事を、適当に知らずに過ごすことができる。かといって、日本にいるときに、ドイツやアメリカの新聞をむさぼり読むわけではないから、その間に、ドイツ人よりドイツのことが詳しくなるということにはならないが。  外国にいる間だけ、何故こうも、日本の事件のすみずみまで知ってしまうのだろう。十日分以上の新聞をいっぺんに読むことは大変な重労働で、仕事が手につかないほどのくたびれ方だ。この前、アメリカの新聞に、「事件のたくさんのっている新聞は、人間の心臓を悪くする」という研究がでていたが、その説でゆくとぼくの場合は、日本にいない間じゅう、日本の新聞、雑誌に、健康をむしばまれていることになる。その意味では、新聞公害に襲われない、日本にずっと暮していたほうが、健康にはよいかもしれない。  方々でいろいろな日本人にお目にかかる話  年中いろんな国をほっつき歩いていると、実に様々な人に会う。もちろん、ほとんどがこちらから見てのいわゆる外国人だが、世界中どこでも、こんな所に、と思うような場所でも、たくさんの日本人にでっくわす。たくさんと言っても、数にしたらたいしたことはないが。  年がら年中外国で、不自由な言葉を使って暮しているので、せめて日本に帰っているときぐらいはと、東京では外国人に会うのがすごくおっくうになる。だから、よほどの必要がなければ、会うのを極力避ける。これもひとけた世代のせいなのだろうか。  日本に帰っている間の一、二カ月、こういうわけで外国語をほとんどしゃべらないものだから、羽田からまた飛び発つときは、少々外国恐怖症になってしまって、オレは外国へ行ってうまくやっていけるだろうか、なんてバカなことを真剣に考えたりする。百何十回往復していても、この始末だから情ない。  日本に帰っているときは、あたりまえ過ぎることだが、ものすごくたくさんの日本人に会うことになる。普段あまりいない罰で、もろもろの仕事の関係者との相談やら、久しぶりに会う友達とのおしゃべり等で、くたくたに疲れる。元来、自分は人嫌いのはずだと思っているのだが、結果は正反対だ。第一、日本語は、楽にしゃべれすぎるのだ。不自由な外国語なら、会話を必要最少限にせざるを得ないので、余計なことを言うこともない。だいたい、しゃべれない。日本語だと言いたいことがみんな言えるので、次から次へと、あること、ないことしゃべりまわり、夜寝る前は後悔ばかり、となる。実際の行動とは逆に、常に、なるべく人に会うまいと心がけるのだが、どうもだめだ。  生れた東京でいつもホテルに滞在するというヘンな生活が続いているが、段々出無精になってきて、仕事が終ると、一目散にホテルに帰ってきて、一人ポツンとテレビを見るだけで、それでいながらしかも退屈だ、退屈だとわめいているのだから、矛盾もいいところである。人嫌いの人恋しで、友達に電話をかけまくり向うが来たり、こちらが行ったり、結構いそがしく、バカな話だ。出無精というのもあてにならない。  座談会なぞも、たいていは無理を言ってこちらの部屋に来ていただいて、やってしまう。手持ちのウィスキーなど、飲みかわして、座談会を終えるのだが、考えてみると、これは、どうもソンみたいなのだ。たいていは座談会というと、どこかの料理屋、レストランでということで、御馳走やお酒が豪華にでるのが普通だ。社用ということになるわけか。それを面倒臭がって行かないものだから、この何年間かで、ずいぶんただメシをミスッたことになる。  指揮者というのも、タレントの一種、有名人のかたわれでもあり、人混みに出るのはなんとなく気づまりでもあるし、内弁慶のせいで、初めてのレストランを探検する勇気もあまりない。はしくれでさえこうだから、大スター、人気タレントさんたちが街に出ず、割とひっそりと暮しているという話もうなずける。こういうわけで、すごくたくさんの人に会うとさっき書いたのは、一寸大ゲサで、結局は仕事上の関係者とばかり会っていて、我ながら情ないほど交際範囲が狭い。  そこへいくと、外国にいる間は、いろいろな日本人に会えるのでおもしろい。どこにでもうじゃうじゃいるといっても、やはり日本の人はごく少数だから、お互い、外国人の中にいて、ただ、相手が日本人だからというだけの理由で、気安くしゃべりあったりするようになる。パリや、ロンドンや、ニューヨークのように、日本人だらけの街では、日本人同士およそ冷たいもので、特に、ちゃんと着飾った日本の紳士、淑女たちの同国人へのツッケンドンさといったらすごい。みなさん、日本ではタクシーの運転手をなさっていたのではないかと思ったりする。たいていの場合、議員バッジの方々には、これに輪をかけたほどの近よりがたいイヤラシサがあるが、これは海外旅行中の異常興奮としておこう。ヒッピー姿の若者どもは、たいていきさくで、自然で、すがすがしい。赤軍の兵士と会ったことはないけれど、個人的にはキモチのよい人達かもしれない。  レストランなんかで、隣りの席にいたというだけでしゃべりあうようになり、ぼくにとっては、日本では絶対におめにかかれないような、いろいろな職業の人とも話すことができておもしろい。要するに、やはり旅のおもしろさということだろう。  ウィーンの居酒屋の隅で、イカス格好をした青年に会ったことがある。「日本のかたですか」、「はい」と、月並な会話で始まって、彼はなにかしら悩み深げだった。日本を出て二カ月半になるそうで、相当な金持ちらしく、すごくもてそうでハンサムだ。旅行目的は、大変変わっていて、花嫁捜しなのだそうだ。彼の理想はヨーロッパ人を妻にすることで、そんなことは人それぞれ自由なのだから、世界中で言われている、理想の生活とは、「日本人を妻にし、西洋の家に住み、中国人をコックにする」(これも眉唾《まゆつば》だが)なんて冗談を彼に言って、翻意《ほんい》を促す義理もない。  彼はたくさんのお金を持って日本から出てきた。世界的に美人の名産地と言われているポーランド、チェコ、バルカン諸国をまず歩き、ドイツを経て、いよいよウィーンにやってきた。よいのがみつかるまでは、ヨーロッパ内を隅々捜し求めるのだと言う。よく西洋のお伽《とぎ》ばなしにあるような美しいことで、ではいったい、どうやってオヨメサンを捜すつもりなのだと聞いた。この王子様、悩み深げだったが、いかにも疲れ果てた顔をしている。街に出て、アッ、きれいだなあと思う若い女の子に、かたっぱしから独身かどうか聞くのだそうだ。独身の場合、お茶に誘う。よく新宿やら、六本木あたりでみる光景と同じだが、やはり彼が抜群のハンサムだからこその、成功率で、誘って断わられたことがないという。未来の王妃を真剣に捜し求める彼の表情は、言葉の障害なんぞものともしない。ワタシ、セカイ、リソウオクサン、サガスアル。アナタピッタリ。ぐらいのことでその晩はもう深い仲になるそうな。結婚で一番重要なことは、セックスの一致にあるのだから、あなたのすべてに惚れたけれど、セックスのテストをさせてくれと、懸命に頼む。その熱意にほだされて、テスト。不合格。テストのあと、彼は彼女の横で、心から悲しくて泣くのだそうだ。こんなに素敵な彼女なのに、オレとセックスが合わない。また捜す。またも不合格で泣きくれる。国を変える。  こんなに真剣な毎日を二カ月半も続けてきたら、日本ほどの公害はないにしても、ヨーロッパのおてんとうサマも黄色くなるだろう。理想の妻を捜すための真剣旅行は、決して、結婚をエサに、毎日毎日ガールハントをして楽しむのとは、わけが違う。そんなふざけた心がけでは、見破られて、これまでの二カ月半の間の、約七十人の女の子のテストなんて不可能だそうで、こちらも残念で泣き、むこうもそれにもらい泣き、という話だ。理想の美、タイプ、プラス、セックスがみつかるまで、この若者は無事に生きていられるだろうか。  あるとき、最後のギリギリまで仕事をして、羽田にかけつけた。飛行機の隣りの席は、品のいい六十歳位の紳士で、みかけの割に声が大きかった。飛行機に乗って、エンジンがまだかからぬというのに、この紳士のオジサン、なかば異常興奮なのである。日航だったから、もちろん日本人のスチュワーデス。ベルトをおたしかめ下さいと言われ、オオ・イエス・サンキュー!と叫ぶ。離陸してからも、ハロー・ミス!やら、メイ・アイ……ナントカ、カントカとやたらにベラベラやっている。もう目がくらんでしまって、スチュワーデスがどんなに日本語で話しかけても、オジサンの口からは、英語しか出ない。横に坐っているぼくのことは、さすがに外国に行く日本人だと認めて下さるらしく、(羽田を飛び発ってから、まだ十五分位しか経っていないのだが)日本語で話しかけてきて、そこは日本紳士、まず名刺を下さった。「私は、なにしろ、生まれてはじめて外国に行くものですから、むこうに着くまでどうぞよろしくお願いします。なにやら、外国には慣れておいでのようにお見受けしますが」。そのぼくにも、ちょっと肘《ひじ》が当たったりすると、「オオ・ソーリー!」なのだ。コーヒーのときも、ウィズ・クリームなんて日本的英語なぞはおっしゃらぬ。「ホワイト・プリーズ!」と立派なのだ。お定まりの「これからどことどこの国に行き、二、三の会議に出席して、どこやらの国に駐在の息子夫婦に会い、孫の顔を見て……」と延々、旅行計画を聞かされ、こちらは別におもしろくもない。疲れも重なり、眠くなってきて、生返事のまま、しばらく寝たらしい。このオジサンさえ横にいなければ、座席の肘掛けを、とっぱらって横になれるのだ。オジサンの首も手足もバラバラにひきちぎって、窓を開けてひとつひとつ地上にばらまく。手や足のそれぞれが、もちろん首も、捨てられる度に、「オオ・ノー!」「プリーズ・ヘルプ・ミー!」と叫びながら落っこちてゆく。右足首の「オオ・ノー!」の声があまりにバカでかかったので、目がさめた。あんのじょう、紳士のオジサンが、スチュワーデスに大きなゼスチュアで「オオ……!」をやっていた。さっきもらって、見もしなかった名刺を、そっととり出してみた。たまげた。リッパな人なのだ。名前ならもとから知っていた。異常興奮の英語しか出てこない口ぶりももっともだった。この「オオ・ノー!」と書くとカタカナ英語のように見えるけれど、その発音たるもの、実に立派なものだ。正式なのだ。それもそのはずで、くだんの紳士はあるラジオ局で、英会話講座を何年も放送していた、有名なナントカ大学教授の先生サマだった。それ以来、ラジオやテレビで外国語講座が始まると、ぼくはスイッチを切ってしまう。  わが収集癖  洋の東西をまたがる長距離ジェットの往復も、百回までは覚えていたが、その後いったいどれだけ飛んでいるのか、もうさっぱり覚えていない。最初の頃は、北極通過記念云々みたいなものも、いろいろ喜んでもらってはいたけれど、二、三回を越えれば、当初の純真さはたちまち失われ、そんなものには見向きもしなくなる。というより、何事によらず、初体験の後の二、三回目というのが、最もなまいきになる時期らしくて、さも自分が通であるゾヨと、見せびらかしたくなる頃らしい。通過記念章をもってくるスチュワーデスさんにも、「そんなものはいやというほどたくさん持っている。いかがですかと言われるだけでも迷惑だ」みたいな顔をして、偉そうにことわる。それからあと、それこそいやになるほど北極を通過するようになると、余裕もでてきて、ニコニコありがたくおしいただく。いらなければ、あとでどこかに捨てればよいのだ。  何十回、何百回飛んでも変わらないのは、飛行機のトイレの中の洗面セットを持ってくることである。お使い下さいと置いてあるのをいただいてくるのだから、これはだんじて盗んでくるのではない。むしろ飛行機会社の宣伝の一役になっているわけで、胸を張りたい気持なのだが、困ったことにこの洗面セット持ち帰りの癖は、飛行中トイレに行くたびに起るのだ。だから何十個といかないまでも、日本からヨーロッパに行くまでには何個もカバンの中にたまってしまう。一回に二個とってくるようなだいそれたことはしないのだけれど、一年に、日本—ヨーロッパ、ヨーロッパ—アメリカ等、数回も飛んでいれば、何十個もの洗面セットになる。飛行機会社によって、セットのビニールのケースはそれぞれ違っても、中身はどうせ歯ブラシと小さな歯みがきチューブ、櫛《くし》とか髭《ひげ》そり、オーデコロンの類だ。年に何十回も歯ブラシを新品に変えれば、新品ずくめの威力でこちらの歯はすりへって消滅してしまうことうけあいだから、結局これは使わない。それにこの歯ブラシ、飛行機のトイレの中では、空間が大変に狭いから、片肘を大きく張らずに使えるようにとの御配慮なのか、それともどの会社も共通のサイズにすることを国際協定で決めているのか、と思いたくなるくらい、みな短く小さくできている。日本の地方の旅館に置いてある、おめざめ歯ブラシより少しはましにしても。普段自分で使っているのは、もちろん好きな堅さ、気にいった色、長さまでうるさく選んで買って持っている。ではいったい何故飛行のたびに数本の歯ブラシを、ぼくはもってきてしまうのだろう。全部捨てるのも地球に損害を与えているような気がして気がひける。結局それでは、とつめみがき用に、もっと凝って、こっちのは左足のつめ用にと分けても、この目的のためには四本以上はいらない。歯ブラシというものは、どうも他の目的のための利用価値があまりないようだ。  歯ブラシだけではない。石けんもせっせともってくる。世界中どこのホテルに行っても石けんはおいてある。だが気にいらない匂いの石けんにでっくわすのがいやで、気に入ったヤツを持って歩いているのだ。が、それなのにぼくは、又何個かの石けんを飛行機やホテルからガメてくるのだ。小さなポケット用のクリネックスだって、どうぞお使い下さいと置いてあると、必ずもってきてしまう。でもこれは石けんや歯ブラシと違い、なかなか使いでがあって、たまって困るということはない。ぼくには変な癖があって、熱いスープを飲むと、必ず二、三回鼻をかみたくなる。だからぼくのガメ癖のなかでは、このクリネックスが一番役に立つ。気が弱く、とても大それた犯罪などを犯す勇気はないので、トイレットペーパーはもってこない。トイレにはロールがなくなったときのためのスペアが置いてあるけれど、あれはあくまで公共のためであって、どうぞお持ち下さいと、ずらずら置いてあるものではないのだ。買い占めだかなんだか知らないけれど、トイレットペーパー不足で大騒ぎだった頃の日本に近づくときのジェットの中でも、この道徳だけは毅然《きぜん》と守るのである。  飛行機の中ででるスリッパも持ってくる。飛行機のスリッパはなかなか良くできていて、旅行なぞに持ってゆくには大変便利であるが、でも一年中旅行みたいな生活をしているぼくは、ポーランドで買ったお気に入りを持って歩いているので、飛行機のスリッパもたまる一方だ。ところが不思議なことに、日本ならどこのホテルでも、消毒済みという、どんな消毒をしたかは皆目《かいもく》不明のスリッパがおいてあるけれど、この種の建物の中の付属物を収集する気持は全然ない。ぼくにはどうも人の不動産を尊重する癖があるらしい。つまりホテルは動かない。一方飛行機は飛んでいるから動産で、動くものからはとってきてもよいみたいな気持がある。「消毒済み」といえばかねがね不思議で、どこのホテルでもトイレの坐る所にこの紙が貼《は》ってあるのだが、一度メイドさんにどんな薬を使うのか尋ねてみたら、雑布《ぞうきん》でさっとなでるだけだそうだ。方々のトイレも、中にはひっかけられたものもあるだろう、しいて薬品といえば、NaCl と塩酸と尿酸の自然薬品というわけだ。  お使い下さい、お持ち帰り下さいを、せっせとお持ち帰りになってくるこのまじめさ、持って帰ってはいけなさそうなものは、絶対ガメてこないこの律儀さは、やはり昭和ひとケタの特性なのだろうか。なにしろ、教育勅語で育って、食い盛りにはなにも食べられず、お国のためにと毎朝キオツケをしていたのが、ある日を境に先生から、※[#歌記号]チンはタラフク食っている、汝シンミン飢えて死ね、とか、岐阜の山奥で、※[#歌記号]テンノヘイカでもボクラでもヤチをケルときゃみなハダカ、なんて歌を聞かされてびっくりした世代なのだから。ちなみにヤチとはオ○○コのことだ。  現在の風潮、横井軍曹殿や小野田少尉殿に戦争の思い出をもっぱら集約させ、なに、一番もうけたヤツは週刊誌さ、と面白半分みたいなところがある。もっと年配が、本当の悲惨な体験を訴えたところで、明治の脳軟化、大正のインポテのたわごと、とおかしがるほうの世代が圧倒的に増えてきて、われわれなど、この頃のテレビなんかで、中年特集、昭和ひとケタの生き方など、からかいの対象になっているのがせいぜいで、情ない。いったい誰が悪かったのかの論議はさておくとしても、元兵隊さまも、銃後も、共に受けたあれほどの悲惨さをしゃべり続けるのに、いささかの勇気を必要とするようになってきて、若い人は、こんなこと、毛頭考えもしなくなってきているから、どうもまさしく、ぼくも年だ。  ぼくなどの戦争、空襲体験は、あまっチョロイものだったけれど、学童集団疎開に健康の都合で連れていってもらえず、少数の残留組として友達がいっぺんに少なくなり、さみしく近所の寄席に行って、うさばらしをしていたのも、小学五年としては異常だった。集団疎開は、まだ空襲の始まる前の話だったし、寄席のあった頃はましだったが、それから後、空襲の連続の東京で、何十回かの空襲に奇蹟的にもちこたえていたわが家も、五月二十五日の大空襲でついに焼かれた。こんなことは、日本国中の誰もが体験した月並なことで、わざわざ書くのをはばかるのだけれど、ザァーという音がして、玄関の前に思わず身を伏せたのと同時に、三個の焼夷《しようい》弾がぼくを中心に一メートルの近さに落下してきて、あたり一面は火の海。それを父が座ぶとんでたたき消してまわり、焼夷弾三個のまん中で、ショックのあまりなかば気を失っているぼくと心臓の悪い母とを引きずり出す。どの路地をめざしても火の海で、やっと人家のなくなった焼け野原に出たとたんに、また例のザァーの音——。  考えてみると、近代科学の粋をこらした豪華ジェットの中で、お持ち下さいの品々を、チャンスがあるときにはなんでも持ってきてしまわなければ気のすまない、このさもしいわが性《さが》は、この空襲体験と深い関係を持っているのに気がついて、ため息がでるのだ。貧乏性だと笑って済ますのは簡単だし、現にぼくも笑われながらヘラヘラしているのだけれど、ホントのところ哀しいのだ。そしてぼくと同世代以上の方々もきっと同じだろうが、洗面セットどころではなく、食べられるときにはみんな食べちゃおう、とばかりに食べるものだから、異常に太ってしまった時期もあった。  焼け出されてほうほうの体《てい》で上野からの汽車に、運よく窓から乗ることができて、金沢の親類を頼っていったが、しばらく旅館に泊められたことがあった。受け入れ先の農家に入るには、我々家族の身につけてきたしらみの数が、あまりに膨大だったからだ。その後戦争は負け、岐阜の山奥に引っ越した。平和な村は別天地だったが、父は潔癖すぎて、自ら戦争の責任を感じてあっさり役人をやめてしまい、退職金などインフレのさなかであっという間になくなり、母は焼夷弾の中を逃げ惑う以前から、既に重い心臓病で寝たきり、世間一般に食糧はなく、しかも家には金がないという生活がぼくの中学一年だった。家中で庭につくったトマトだけが昼と夜飯のすべてだったこともある。あるとき、夕食の食卓に坐って、貧しい一皿のおかず、父のほうがちょっと量が多いように見えて、気がつかぬふりをして目をそむけたとたん、なにも言わずに父が皿の中の半分をこちらに移したのだ。このときのぼくの、さぞいやしげに見えたであろう目、ばれたか、と思った恥しさ、自分の皿が多くなった嬉しさ、父の気持、このすべての瞬間の情景は、今だにことあるごとに、ふとよみがえってきて、そのたびに人前であろうと、一人であろうと、ワッと叫んで四、五歩走りかけてしまう。  思うに飛行機のトイレの中で、この「ワッ」の発作が起こると、走ることもならず、洗面セットや石けんを、余計にポケットにつっこんでしまうのかもしれない。  地球は宇宙人の自然動物園?  世界中、ちょっとした街なら、大抵は動物園があって、どんなに小さいのにも、必ず「お猿の山」だけはある。パンダとか、ナンダとかの珍獣を見たい、なんて特別な欲気さえおこさなければ、どこの動物園に行っても、楽しい。  指揮者の仕事には、お客の目に見えないところで、いっぱいイヤなことがある。どの職業だって同じだろうけれど。指揮者の場合、音楽会の前の三日間位は、オーケストラとの練習があるのだが、この練習ということが、ぼくにはとても苦痛なのだ。練習というより、リハーサルと書いた方が、上等に見えるかもしれない。  このリハーサルというもの、ウツクシク説明すれば、指揮者の音楽的解釈をオーケストラに伝達するため、百人近い楽員との、計二十時間にもおよぶ共同作業、ということになる。しかし、共同作業なんていうのは、美辞麗句のまやかしで、要するに「稽古をつける」ことなのだ。「訓練する」とも、「シボル」とも言える。しかも、エラーイ指揮者の例外を除いて、指揮者とオーケストラはほとんどの場合、師匠と弟子の関係ではない。年齢やキャリアによっては、オーケストラの方が師匠格の場合もよくある。ぼくが初めてNHK交響楽団を指揮した時は、こちらはまだ芸大の学生、オーケストラのメンバーには、芸大の先生たちが何人もいた。そして、指揮者はいわば、雇われマダム。むこうは誇り高き百人のプロ。当方には初めての曲でも、彼らは何十回、何百回と他のベテラン指揮者で演奏しているわけだ。それをシボルのだから、まあ、イヤなことがちょくちょくある。シボラレルことは誰にとっても愉快なことではないだろう。その雰囲気に気が付かぬふりをして、色々要求をするのも、結構つらい。こんなことにグジグジ気をまわし、相手側の気持をつい考えてしまうのは、やはりぼくが生れつき、指揮者という監督商売に向いていないのではないかと、いつもクヨクヨする。一般の単純音楽ファンが思っているように、指揮者が、お客の前で、カッコよくやるだけで万雷の拍手をあびているのだとしたら、ぼくにとっても、こんなに素敵なことはないのだが。  脱線が長くなってしまったが、そんな訳で、どこの国でも、オーケストラとの練習のあと、他人をシボッテしまった、という不幸感(?)をまぎらわせるために、よくお猿を見に動物園に行く。  あっちへ、こっちへ、またあちらへと、ウロウロ一日中動いている白熊も飽きないけれど、相手の所在なさで、こちらの気鬱《きうつ》をはらすのは、どうかと思ってしまう。  せまい所に押し込められているライオンや、虎や豹を眺めるのは退屈だ。第一、けものの王らしくなくなって、アクビばかりしているのを見るのは哀しい。自由を奪った人間の罪深さを思って、いまいましい。  オーストラリアの方々にある、ライオン・サハリというのに何十頭もいるライオン、あれは檻《おり》の中でうつらうつらと横にばかりなっているのよりは、ずっと面白い。自動車で近寄って行って、ジロリとにらまれたり、車の窓のガラスの外側をペロリとなめられたりするのはスリルがあるし、時には数頭の一家が、こちらの方に跳駆して来て、思わず急ブレーキを踏むこともある。本場のアフリカのサハリなら、もっと自然ですごいかもしれないが、北海道位の大きな檻を作って、全動物を人間の支配下におき、人間さまだけが安全に楽しむ点で、動物園と五十歩百歩だと思う。動物たちをだまして、自然そのものでございと、人間相手に商売をしているのに、ひっかかる。  オーストラリアのライオン・サハリで、フィーディング・タイムという、彼等の食事の時間に出くわして、夢がさめた。大きな檻のついたトラックの、その檻の中に係の人間が二人入って、中に積んだ、合計一トン位の、肉というよりは、兎や豚の屍骸《しがい》を、檻の上の方の窓口から投げながら走って行く。ライオンどもは車について一緒に走り、餌《えさ》にありついたのは、そこら辺の木の陰に運んで行って、口のまわりを血だらけにして、むしゃぶりついている。数十頭のライオンの中には、強いのに横取りされ、なかなか貰えない気の弱いのもいて、トラックの檻の上によじのぼり、下の人間にせがんでいる。この風景が面白く、特にせがんでいる格好なんか、仔猫のようにかわいいので、この食事どきをねらって、沢山の見物人がやって来るようだ。だが、おねだりのかわいいライオンちゃんは、ぼくにはがっかりである。  やはりお猿にかぎる。  これだって、わざわざ動物園なるところに連れて来て、コンクリートで「お山」らしいものを作り、堀の外を大勢の人間がとりかこんで、キャッキャッ喜んで見ているのだ。堀の中もキャッキャッだから、おあいこだけれど、囚《とら》われの身と、入場料を払った方との差は大き過ぎる。でも、お猿たちは頭が良いらしく、サービス精神にも富んでいて、いそがしく動きまわり、退屈そうでないふりをしながら遊んでいてくれるので、人間はけしからん、罪深い等、内心クヨクヨ思っているぼくには、まあ、気楽でよろしい。二時間でも、三時間でも眺めてしまう。  オーケストラのリハーサルに於ける指揮者のぼくは、楽員たちから見れば、ウロウロの白熊かもしれないし、演奏会のステージのわれわれすべては、お客の前の「お猿の山」そのものズバリだろう。同じ穴のむじなというべきか、同じ山のオサルというべきか。だから、お猿さんを見ていると、心が安まるのかもしれない。演奏会では、指揮者はスタスタとステージに出て行って、客席にお辞儀をして、あとはお客にオシリをむけてタクトをふり、終った時に再び向きなおるわけで、客どもを眺めるチャンスがあまりないのだが、それでも、結構みなさんを観察しているのだ。三列目の右から何番目は美人だなあとか、あそこの成金のジジイがヒデエ坐り方しているな、とか。  いつでも客席を見ることが出来る位置にいるオーケストラのメンバー達は、その気になれば、音楽会の間中、二時間位は、お客の品定めが出来る。この内幕をよく知っているので、お猿の山を見る時は、なんとなくこちらもエリを正す。猿は猿で、色々楽しんでいるのではないだろうか。ただ、ボス猿と指揮者との違いは、ボス猿の方は、ボスの仕事をしながら、いつでも客席を見ることが出来ることで、これはちょっと不公平である。  お猿の山を見ながら、時々、フト恐ろしく思うことがある。もしかしたら、この地球全体が、どこか遠くの宇宙人の自然動物園なのではないか。大昔の人間は、今よりずっと多くの超能力を持っていただろうから、ある時、宇宙からの一人を見てしまって、創世主と思ったかもしれない。その創世主の星の、四次元の世界のヨイコたちのための「人間の星」で、われわれはさわいでいるのかもしれない。  地球の「お猿」は、人類と同じ三次元だから、場合によってはちょっとしたプライバシーも持てて、つまり、ものの陰に入れば、人間に見られないですむこともあるだろうが、自然動物園「地球」が、四次元のお客さんに見物されているとしたら、これはコトだ。密室もヘチマもない。陰でひそかにイチャイチャやっているのを、イチャイチャ側には絶対見えない四次元の見物大勢が、輪になって眺めていて、案内人が、四十八手を解説する。同じ三次元同士でさえ、「動物園」を作って、オサルの性生活やサイの体位を見てよろこび、パンダのオ××コに、国を挙げてお祝いしているのだから、高い次元のヤツらが、こちらの世界を見て楽しむのも、多分、自然であろうと思うのだ。三次元での万物の霊長も、わざわざ低次元に、「ノゾキ」をやって、ウヒウヒ、ニタニタしているではないか。  ヨーロッパ中、どこも犬好きな国ばかりで、犬を連れて道を歩いている人の数は、日本やアメリカの数倍はあるだろう。犬とお散歩のシーンが、即、犬好きを意味するとは限らないだろうが、老いも若きも、善男善女、皆がみな、仔犬、老犬、強犬、弱犬、駄犬、美犬とじゃれ合って暮しているみたいだ。そして、犬という犬がみんな、どういうわけか大変に躾《しつけ》が良い。レストランに犬を連れて来ている人がよくいる。おばあさんと犬が、モクモクと食べているのは——食べているのはおばあさんで、犬はテーブルの下で黙って坐っているのが普通だ——映画の中の、棺桶《かんおけ》に片足をつっこんだような未亡人が、自宅でじゃがいもとソーセージの正餐《せいさん》を、ゴテゴテ盛装して、一人ぽっちで召しあがっているシーンがあるが、あれを見る時の、ゾーッとする不気味さに似ている。往来で犬同士が出会って、なつかしさだか、好奇心だか、憎み合いだかで、両者かけ寄ろうとしても、飼主の一声の制止で、すっと諦める。たまにレストランで、ご主人がおいしい匂いのプンプンするビフテキをほおばっていて、たまらずワンと小声で上にねだっても、シッといわれ、おとなしくすわり直す。日本の犬好きの家庭を訪問して、自慢のテリヤだかスピッツの、少しもかわいくないのに、お世辞の一つも言わねばならず、そのくせこちらがちょっと動こうものなら、キャンキャン吠えて牙《きば》をむく。度重なれば我慢にも限度がある。イヌめを咬《か》み殺してやろう、と思うことがしょっ中だが、こんなことは、ヨーロッパでは絶対にあり得ないことだ。ヨーロッパ中、国境を犬連れで越えるのは、全くフリーで、日本の羽田みたいに、検疫のため、二週間も犬を孤独に留置でもしたら、各国政府、毎月潰れるだろう。でも、これは、犬の権力が強いわけでは毛頭なく、無数のお犬|公方《くぼう》さま方の愛護の精神が強大なのだ。でもそのおかげで、ヨーロッパでは日本と違い、まだ時々狂犬病が発生している。  完全無欠のコントロール、愛護精神とか犬好きとか言っても、どうもあれは、過去何世紀かの植民地支配に失敗し、アジアやアフリカのコントロールを諦めた西洋人どもの代償心理なのではないだろうか。デモをする知恵もなく、独立運動をするはずもなく、メシさえもらっていれば、自身にとってどんなに不快でも、ちゃんと躾けられ、シッポまで振ってしまう犬に、ここぞとチャンスを見付けているのだ。ヤツラは、顔立ちがよくって、自分達に都合よい気質ならば、奴隷だって彼等流にカワイガッタではないか。  ヨーロッパで、こんなに従順な、躾の行きとどいたインポテ犬ばかりみていると、だんだんシャクにさわってきて、こちらが咬み殺して大ニュースにでもなりたくなる、日本の犬どもの方が、まだしも犬らしく見えて来る。在日本の犬たちがエライのか。飼主の日本人が寛容と忍耐で立派なのだろうか。  お犬奴隷さまへの寛容と忍耐の点では、ある点で西洋人の方がうわ手かもしれない。道路上、歩道上の犬のオシッコやウンコの多いこと、いつも泣かされる。オシッコは、まあ、関係ないといえばそれまでだが、ウンコは困る。  馬フンを踏んづけるチャンスがなくなってから、もう二十六、七年になるだろうか。あれはもちろん快適ではないにせよ、そんなに悪くはなかった。草やわらの、放っておけば腐敗する成分を取り除いたあとの繊維だけが、少々黄色い何箇かのおまんじゅうとなって、道の真中に堂々と鎮座ましましていた。ヨーロッパの犬のウンコは、日本みたいにそこかしこに電信柱がないから、道の端の、丁度、人間が歩くあたりに、大袈裟《おおげさ》に言うと、数メートルにひと塊はひっそりと、人間がふみつけるのを待っているのだ。大体、犬は馬と違って、人間と同じ大雑食だから、犬のウンコは人間のと、恐らく、全く同じものと思われる。ヨーロッパでは、人間は何故に、絶えず足元を注意しながら歩かねばならないのか。ヨーロッパには人権はなく、犬糞のみがあるのだろうか。背の高い人間どもに伍《ご》して、胸を張って、上を向いて歩こうものなら、毎日三回はグニャとやってしまう。その靴をはいたまま、一年中暮す西洋人どもの家のフケツさ!!  かれこれ十五年前になるか、始めてロンドンに行った時、道の端の「大、小の跡」をいたるところで発見し、特に塀やビルの角の「小」の跡に感激して、西洋でもこれだけはおおらかなのかと勘違いして、夜おそく興至れば、実に楽しく立ションをしたものだ。一つの国、一つの市で指揮する度に、「足跡を残す」と称して実行し、遂におまわりにとっ捕まった。「だって、方々にあるじゃないか」と抗弁したが、「あれは、犬ので、人間はいけない」そうな。人権を認められていない奴隷は、ご主人さまたちに従順にさえしていれば、どこでたれ流してもよいらしい。それどころか、ご主人さまの命令でやっているみたいなものだ。道の方々で、かわいい自分の奴隷が、ヘッピリ腰でウンウンいきんでいるのを、くさりを持って、バカヅラしてニコニコ待っている風景を、よく見る。連中は道路を、愛犬の便所だと思っているらしい。  このことだけは、日本はずっと、ずっと良いのではないか。ウンコ収容器を持って、犬と散歩をしている人も、よく見るし。でも、日本のほとんどの犬は躾が悪いから、ワンワン、キャンキャンうるさいし、子供を咬み殺したりする。要するに、洋の東西、どっちもどっちだ。  動物園もそうだし、犬も猫もしかり、もともと自由であるべき動物たちを愛玩物にしてしまって、隷属させ、支配している気になっている人間そのものが、犬糞公害、キャンキャン公害の大本《おおもと》なのだ。こう書いても、ぼく自身、動物園が好きだし、犬も猫も大好きなので、言うことが終始一貫しないけれど。  子供の頃から少年期にかけて、ぼくにはとてもなつかしい犬と猫が一匹ずついた。犬の方は「ポイ」といって、物心ついた頃から、小学校一年の中頃まで、一緒に暮した。どんなにステキで、いいヤツだったか、なんて書いたところで、読む方は、ノロケばなしを聞かされるより、もっとアホらしいだろうが、ぼくがおふくろに怒られたり、近所の子にいじめられたりすると、ヤッキになって、猛然とオコリに行ってくれたりするような、時にはぼくの親分でもあり、兄貴分だったし、二人だけの時は忠実な子分でもあった。はっきり言えるのは、ぼくが決して|飼い主《ヽヽヽ》ではなかったということだ。セッターとポインターのあいのこの、どうということもない犬で、どんな経緯《いきさつ》でぼくの家にいたかは、小さい頃のこと故、何もわからない。とにかく、ぼくにとっては、「ポイ」はこの世の始めから家にいたのだ。  幼い頃は、身体が弱く、とかく家に引きこもりがちで、一年の半分以上は入院、というような具合だったし、この犬とは関係ないけれど、ぼくは小学校五、六年の二年間に十カ月も欠席して、危く落第というところだった。戦争末期、空襲の最中だったからこそ、ドサクサにまぎれて、なんとか進級、進学出来たのだろうが、現在の試験地獄、進学地獄の世の中だったら、一体、どうなっていただろう。  ところで、この「ポイ」だが、どんな気持で弱虫のぼくとばかり遊んでくれたのだろう。外に出れば、イジメッ子ばかり、家では男三人兄弟の末っ子という、およそ弱いだけのぼくで、「ポイ」に頼るだけみたいな、情けない仲間だったのだ。当然、かわいがったり、大事にしたり、芸を覚えさせたりしよう、なんて大それた気持は更々なく、唯々、ぼくの最も大事な親友として、対等な友情関係にだけあった、と思う。 「これから魚釣りをやる。オサカナになれ」と命令し、ハムかチーズを糸に結んで飲みこませ、上から引っぱったら、ゲロゲロやられ、アオくなってあやまったり、何ゴッコだったか、押し入れの中に、一緒に何時間も隠れていて、結局は両方ともスヤスヤ寝ているのを、母に発見されたりで、ぼくたちは、きっと、いつもしゃべりあっていたに違いない。  父の転任で京都に引っ越しをしたとき、もちろん「ポイ」も京都に行った。でも、一緒の汽車の函《はこ》には乗れず、別の函に犬小屋ごと積まれてだった。だが、ぼくのたっての願いだったとかで、当時のベストな汽車の「特急つばめ」で一緒に走ったのだ。  京都に着いて二、三カ月も経った頃、「ポイ」はいなくなった。家中で手分けして探したがわからず、その頃の京都には、肥桶などをリヤカーに積んで、綱をつけた犬二、三匹と一緒に引っぱって歩いている風景も多く、隣り近所の人たちから、そういうののなかに、お宅の「ポイ」を見ました、なんていうたぐいの情報はあったが、結局わからずじまいだった。  ぼくの方は、転校したてで、子供なりに、ありとあらゆることが新しく、いそがし過ぎて、「ポイ」がいなくなって、メシも喉《のど》を通らず、毎日毎日を泣いて暮らした、という憶えは別にない。とにかくどこかで元気にしていてくれれば、とだけ思っていた。薄情のようかもしれないが、子供のぼくにとって、だから「ポイ」は、対等な友達だったと思えるのだ。三十年以上も経ったけれど、「ポイ」とは、時々、夢で逢《あ》う。  よく、かわいがっていた犬が病死して、全家族、三日三晩泣き通し、胃の腑《ふ》が何も受けつけず、立派な墓をつくるやら、戒名を寺から貰ってくるやらの話があるが、犬との心の交流が、自分との真に対等のつきあいだったら、事態はもっと深刻のはず。チャラチャラ泣いたりしているのは、愛玩品へのアサハカな態度で、親や子が死んだ場合とはまた違い、本当の友を失ったときの人間は、そんなに簡単なものではないのではないか。  チャラチャラ泣きにかぎって、泣き止んだ翌日には、同じ種類の犬を買って来て、もう、キャーキャーはしゃいでいるのだ。  犬をかわいがるといったって、四六時中芸をしこみ、教えた通りやったの、やらないのと大騒ぎをし、犬は猫と違って、透徹した個人主義なぞ持ち合わせていないから、しこまれればサービスをしてしまう。人間の方は、「オ手」とか、「チンチン」とか、「オアズケ」なんて言って、かわいがっているつもりだろうが、どんなに沢山の犬が「かわいがられ」過ぎて、疲れ果て、はや死してしまうかを思うと、ふびんでならない。犬にとって一番ありがたいのは、自由に、ほっておいてくれることに違いないのだ。犬だけではない。人間も含めて、すべての動物、植物にとって、これは同じだろう。  中学一年のとき、空襲で焼け出され、命からがら東京から逃げ、石川県金沢市の郊外の農家の二階に住んでいたことがある。この農家に仔猫がいて、「チョン」といった。特に名付けた名前ではなく、この地方では仔猫のことをチョンという習慣というか、方言があるとか聞いたが、たしかではない。  この「チョン」がヘンな猫だった。ぼくはどちらかといえば、猫より犬との方が気の合うたちだが、この猫は特別だった。まるで、犬のようなヤツだった。  まわりの田んぼ道を「チョン」と、毎日何時間散|走《ヽ》しただろうか。自転車にとび乗って、「チョン、ついて来い」と、どなると、表にとび出して来る。全速力で遠くまで走って行ってしまって、こちらの自転車が追いつくまで、畦道《あぜみち》の端で待っていて、ぼくが近づくと、また遠くまですっとんで行って、待っている。時には、自転車と一緒にいつまでも走る。  風邪をひいて、学校を休むと、朝の、いつもの登校時間に枕もとにやって来て、ゴロニャン、ゴロニャンと大声で叫び続け、しまいにはふとんの上にのり、とび跳ねて、なんとかぼくを起こそうと必死になる。  柿のなる頃、大きな柿の木によじ登って実をもぎとり、木の上で皮ごとパクついていると、その間ずっと、ぼくと同じ枝にいて、楽しそうにしている。この「チョン」とぼくも、猫と人間の間柄ではなく、ぼくたちは、対等な、大事な友達だった。  こういう友達をもって育ったせいか、犬や猫をどんなにかわいがっていようが、結局は愛玩品としてだけ扱っている人を見ると、やたらにハラがたつ。動物専門の美容院に連れて行かれたり、犬猫歯医者さんで歯をキレイキレイしてもらって、真白になった牙を人間にチヤホヤほめてもらうのも、動物は結構自意識過剰だから、それはそれで、まあいいかもしれないが、ほんとうは自然にほったらかしておいてもらうのが、彼らは一番嬉しいのではないか。きれいにペンキぬりたくった犬小屋に住まわされ、飼い主のみがことのほか嬉しくて、親類知人に写真をくばり歩くのも、戦争だ、金権だよりは、はるかにマシではある。しかし、かわいがられ過ぎという大労働の苦痛で、クタクタになるのは、いつも犬なのだ。それでなくとも、犬は人間よりはるかに短命だから、飼い主は三日三晩グシャグシャに泣く。また買って来る。飼う。かわいがる。コロす。  人間から見て、ニクタラシク強そうなのは、ズドンと打たれる。面白そうなのは動物園に連れて来られて、ジロジロ見られる。肉のやわらかいのは、食べられる。かわいいのは、カワイがられて、過労で死ぬ。  四次元の見物人のことは別にして、この地球で人間に生れた幸運を思う。  長い長い時差のおはなし、その1 「時差」という言葉は、いつ頃から、現在のようにしばしば使われるようになったのだろう。電信、電話が発達してから後のことに違いなく、遠くの国の事件が新聞で伝えられるようになってから、一般に普及したのではないだろうか。「何月何日の何時に何国の首都でナントカ条約が調印される。(現地時間では前日の何時)」という風に。  子供の頃、地球は丸く、こちらが昼のとき、反対側は夜だということを、はなはだ漠然と知ってはいたが、初めてはっきりと認識したのは、戦争の終ったときだった。十二月八日だった真珠湾攻撃が、アメリカ側の新聞記事では十二月七日になっている。戦争中ずっと「八日」で通してきたのが、敗戦後の戦争裁判の報道で、繰り返し「七日の不意打ち」の国際法違反について読まされるうちに、「日付変更線」の存在を、はっきりと知るようになった。 「時差」はいつ頃からできたのだろう。かなり正確な世界地図ができた後だったろうし、なによりも地球が丸くて、太陽のまわりをまわっているのを認識した後でなければ、こういう考え方が出てくる筈がない。とすると、そんなに大昔ではなさそうだ。「時間」の観念はエジプト以前に、もうあったのだろうが、その頃は、自分のところの朝や晩以外に、別の朝や晩が存在することなど、考えもつかなかっただろう。  いまや地球上には、二十四回の「朝六時」があって——この二十四回だって、人間が勝手に分けたのだ——遠い国の出来事を、新聞やラジオやテレビがニュースにするとき、いちいち自分の国の時間に換算せねばならず、不便な話だ。 「世界同一時間」なんて決められないものだろうか。世界中一種類の二十四時間制にするのだ。日出ずる国の日本の朝を基準として、日本の朝を六時にする。時差はないから、この時世界中が第六時だ。まだヨーロッパは真暗で、旧時間の午後十時なのだ。世界全体が、世界基準時の日本時間で暮すと、例えば午後二時、ニューヨークの人は、「二時だから、もう寝ようか」と言わなければならない。昔の夜十二時のことなのだ。世界中不満だらけになって、おさまりがつかない。国連の討議では、「世界同一時間制に賛成、但し、わが国の現行の時間をもって、基準とせよ」という、二十四種の要求が出て来て、大混乱になる。「日出ずる国」というのは、もともと何の根拠もなかったのだし、世界の中心という名前の中国もあるし、どの国も世界の真中、という意識を持って開闢《かいびやく》以来生きてきたのだから、大騒ぎだ。戦争になるかもしれない。やはりこの計画はだめか。  南半球に行っていると、しょっちゅうトンチンカンな会話をしてしまう。「この次はいつ来ますか?」「来年の夏頃です」とうっかり言ってしまって、ハッとする。こちらの言った意味は、来年の七、八月頃に、のつもりなのだが、むこうには十二月頃の意味にとられてしまう。北と南では、時間は同じで時差はないが、「季差」があって、北が夏のとき南は冬、というように季節が逆になっている。もともと、現在の形の文明は、北半球で先にひろまり、北の人間のエゴで、南の人達はずい分損をしているのだが、北で「夏」という七、八月を彼等は断じて「夏」とは言わない。寒い頃だから「冬」と言うのである。この位は「世界同一季節呼称運動」でもやって、三月から五月までが春、夏は、六、七、八月……と、はっきり決めてくれると助かるのだが。しかし投票で南側が勝ったら、ちょっと困る。われわれが七、八月を冬と言わなければならないからだ。これ即ち、われわれ北半球の人間の「地域エゴ」そのものだ。季節の語感どおりに、スプリングはポカポカ、サマーはお日さまギラギラでなければ、人間、おさまらない。  クリスマスだけは違うというか、どうしようもないらしく、南半球の子供達は、十二月二十四日の夏の真盛りに、樅《もみ》の木に白い綿のフワフワの雪をつけて祝うのだ。八月の冬に冷《ヽ》たい南風《ヽヽ》が吹き、雪も積る位の、相当に南緯の高い国の子供はまだいいが、雪を見たこともない赤道近くの子供までが、クリスマスツリーに、赤いオーバーのサンタと馴鹿《トナカイ》の橇《そり》シャンシャンのレコードを聞いて祝うのは、どうもヘンな話だ。というより気の毒な気がする。  世界地図をひろげると、例えば、オーストラリアなんかは大きいけれど、あくまで島のように見える。行ってみると、バカデカクて、端から端までは、ジェットで五時間以上はかかり、アメリカと同じ位で、すごい大陸だと思う。でも一枚の世界地図の中では、アメリカよりずっと小さく見える。なんでも、あれは、球体の地球の表面を一枚の紙の上に書くための、テクニックであるとかで、南半球は少し縮めて書いてあるのだそうだ。もし現代文明が、南半球から盛んになっていたら、地図はいまとさかさまで、日本列島はずっと小さく書かれ、下のほうにあって、沖縄から左下のほうにチンマリ伸びているわけだ。地図の上下は、これこそ典型的な北半球主義のシロモノで、北が上というのは誰が決めたのか。もともと上下なんてない地球に、縦横勝手に線を引き、南の国を下の国と思っている。  世界を縦に二十四の線で割って、一応は、それぞれの地域の日の出が、朝になるようにしてあり、それが時差なのだが、この縦の線は時差地図で見ると、ずいぶんグニャグニャにゆがんでいる。日本列島だって、厳密に言えば、北海道の東端と沖縄とでは、東京の日の出と、それぞれ半時間位の違いがあるはずだ。よく、日本の小説で、南の海辺の早い日の出に、感激しているのにお目にかかるが、あれは錯覚なのではないだろうか。つまり日本全体を一つの時間帯に決めた、お上の方針を、知らぬが故の有難さなのだ。純粋に経度に従って考えれば、東京の朝六時は沖縄の朝五時にあたるわけで、ところが日本全国同一時間だから、東京の朝六時の空の白み方は、沖縄の、実際の朝七時の白み具合と、ほとんど同じで、だから、南の空のほうがむしろ遅くあけるのだ。赤道の日の出、日の入りは一年間一定で、地球の傾き具合からいって、北の方は冬は早く暮れ、日の出はおそいが夏は早く白み、日の入りはすごくおそい。白夜の存在もあるわけだ。北半球上の南北の差は、一年を通じて考えれば、プラスマイナスがゼロなのである。南北の日の出、日の入りの差はたしかにあるが、たかが、せまい日本でのこと。東西の差の方がずっとはっきりしている。南の空が早く白む、という小説家のおどろきや、北の暮はもう四時にやってくるといった詩人の感傷は、残念ながら、日本国の時間帯の同一をきめた、明治の頃の政府のオエラガタの、無意識のイタズラの結果だったことになる。  では日本全国の同一時間帯をきめた理由は何だろう。きっと、日本人全部が、NHKの夜の七時のニュースを、同時に拝聴出来るようにとの、御配慮なのだろう。東京発の七時のテレビニュースを、北海道向けに、三十分前に出したり、半時間後に、沖縄向けに出したりするのは、国費のムダ使いなのだ。その点、アメリカは大き過ぎて、国内に四つの時間帯があり、大統領の辞任の際だって、全国向けのテレビ放送を、全国民の無理のない時間に選ばなければならないという苦労がある。日本は便利だ。日本単一言語民族のありがたさ、なんて団結をアオッテおいて、その実、単一時間の治めやすさにも、とっくの昔に気がついていたのだ。北海道の人には早起きを、九州や沖縄の人にはおそ起きをさせておいて。明治の人はエラかった。  ヨーロッパの場合はもっとはっきりしている。東西、横に三千キロ位はある、スペインからユーゴスラヴィアまでが、同一時間帯で暮している。とりわけ最近ケッサクなのは、英国が自国の時間を、ヨーロッパタイムに変更することを決定したことだ。EC加盟のための苦肉の策なのだろう。以前は、大英帝国は厳然と、コンティネント、即ち、ヨーロッパ大陸との一時間の時差を守っていた。経度の上では、イギリスはスペインより、むしろ東にあると言っても良い位だが、時間上は、一時間西にあったわけだ。ECに加盟しなければ破産、という事態となって、強情をはってはいられなくなった。ヨーロッパのEC諸国と同じ時間に起きましょう、仕事をしましょう、となる。だから、七つの海を制覇した頃、世界の中心であるゾヨ、ということを、毎秒、毎秒、のべつまくなしに世界中に示していた、英国時間の、グリニッチ世界標準時はとりのこされて、架空の科学上の時間となるわけだ。ロンドン東南のグリニッチの町の人たちは、お国のおちぶれのおかげで、グリニッチ時間で暮せなくなり、一時間早いヨーロッパ時間で、生きなければならない。国が破産するよりは、一時間の早起きのつらさの方がましなのだろうが、ちょっとあわれでもある。  グリニッチ標準時、つまりGMTが、まったくの架空な存在になるというのは、いい過ぎで、赤道の南のアフリカでは偶然に、元英領植民地が多いのだが、ずい分たくさんの国がこのGMTを使っている。GMT——標準時だから、というのではなく、英国とほぼ同じ経度に存在するから、この時間になったのだ。正確に言えば、英国がかつてそこにあった経度、とするべきだろう。勿論、時間的地図の上のことである。将来、アフリカが世界をリードする時代になったとき、彼等のGMTは大変象徴的だ。  世界中で自分の国の中に、異なる時間帯を持っている国は、アメリカ、カナダ、ソ連、中国、オーストラリア、グリーンランドの六つだろうと思う。できれば日本やEC諸国のように、一つの時間帯で便利にやりたいのだろうが、国が大き過ぎ、東西が離れ過ぎているので、無理である。もしアメリカが、全国をニューヨーク時間に統一すると、朝九時が出社時間だから、ロスアンジェルスの人は、現在の朝六時に会社に行かなければならなくなる。ソ連には実に十一の違った時間があって、西のモスクワが正午の時、東のベーリング海峡は、その日の夜の十時だ。夜の十時にひるめしを食べろ、では国が治まるまい。最初に書いた世界統一時間の計画だおれと同じで、不可能なのだ。やはり小さな国はいい。東西、わずかな早起きや、おそ寝の無理ですむのだから。  ソ連には何度も指揮をしに行った。主にモスクワやレニングラードのオーケストラとの仕事のためなのだが、せっかく行くのだから、地方都市でのスケジュールも加えてもらうことにしている。なにしろ広い国だから、地方といっても東西南北のバラエティはすごく、毎回、コーカサスとかシベリアとか、面白い。  何年か前の四月に、モスクワの仕事の後、ノボシビルスクというところへ行った。世界の時差関係に、関心のなかった頃だった。モスクワからジェットで、五時間位だったろうか。四月といっても、モスクワにはまだ雪が地べたに凍りついていて、シベリアの中心文化都市だと聞かされているノボシビルスクとかに行くのはユウウツである。何しろ、あの「シベリア」なのだから。  なるほど荒寥《こうりよう》としていた。ツンドラの中の飛行場に降りると、仕事とはいえ、こんなところまで来てしまって、もう帰れないんじゃないか、と心細い。飛行場から車で長いこと走った。ノボシビルスクの街は意外に大きく、立派だった。ソ連中の科学者を集めた頭脳の中心だそうで、インテリが多く、オペラハウスもバカでかい。  ホテルに着いて、時計を現地時間に直す。モスクワとは四時間の時差がある。モスクワとヨーロッパとが二時間の差だから、このノボシビルスクは、ヨーロッパと六時間違うことになる。となると、ヨーロッパ—日本が八時間の時差だから、日本との時差は二時間しかない。さすがはシベリアだ。日本はすぐソコなのだ。急にさびしくなくなったが、自分の国に近づいただけのことで、さびしくなくなるのもヘンだ、と思ったりする。  東京に電話する。ヨーロッパからだと、エート、日本は八時間先に行っているから、今は、かけてオコられる時間じゃないか等、一応考えなければならず、おっくうなものである。二時間の時差なら、大体同じような時間で、お互い生きているわけだから、気軽にかけることが出来る。二時間の計算のやさしさより、みんながちょっと前にメシを食べただろうという、実感がある。  ソ連で国際電話を申し込んでから、待つまでの長さといったら、それはスゴイものだ。イライラしてしまう。もうそろそろ相手が寝るんじゃないかなど、心配しながら待つ。  やっとつながって、「すごく近いところまで来てしまったよ。二時間しか時差がないんだから。日本にもうチョットまで来て、ここのあとは、また地球の裏側のアメリカに飛ぶんだ。日本からグンと離れちゃう。イヤになっちゃうヨ」としゃべって電話を切る。  ぼくは地図なんか持って歩かないから、日本との距離を時差だけで計っていた。自分が、日本にもう一歩のところまで近寄った気持になったわけである。  普通ジェット機で東か西に飛ぶと、一時間位飛べば、一時間の時差になる、というのが、ぼくの経験的知識だ。だから、ノボシビルスク—日本の二時間の時差は、ジェットで二時間ほどの距離だと思って、その近さによろこぶ。札幌—福岡より少し近い位なのだ。  でもチョットおかしいと思い出した。モスクワ—東京間はジェット機で十時間かかる。モスクワからノボシビルスクまで、ぼくは五時間できてしまったのだ。地図を借りてがっかりした。シベリアといっても、ノボシビルスクは大陸の真中で、モスクワ、東京間の中間点より、むしろモスクワ寄りだった。日本への時差の近寄り方と、依然、この遠い距離。ノボシビルスクにいた間中、これは不思議なナゾだった。  その翌週、ソ連からアメリカに行く途中、大西洋の上で、ジェット機の中の「世界時差表」を眺めていて、合点がいった。世界中の時間を決めている線は、殆《ほとん》どがグニャグニャ曲っていて、真直《まつすぐ》な線は、人が全然住んでいない地域に限られていた。  それまでは、北海道と沖縄が同一時間を使っていることに、何となく疑問を持ってはいた。中央ヨーロッパ全部の国が、同じ時刻というのにも同様だった。ほんの少しは、融通しているかもしれないと思った。大英帝国が、朝ねむいのを我慢して、EC諸国と歩調を合すのを決心した、ということは、もっと、ずっとあとに知ったのだ。だが、世界中の時差線が、こんなにも曲線だらけだとは思わなかった。おどろいた。  ノボシビルスクの例で考えると、日本との距離的遠さと、時差的近さは、同市のシベリア開発文化圏での重要さから、宏大な一帯を一つの時間にしてしまったのだろうと思う。  人口の希薄なところは、一気に定規で引いたのだろう。真直である。アラスカとカナダの境のところに、ものすごく細い時間帯がある。しかも線は真直なのだ。ここなんか、きっと、人が住んでいなくて、時間など、どうでもよかったのにちがいない。GMTプラス十五の時間帯を、世界から消滅させないために、「世界時差割り委員会」(?)が、地図の上に、スッと線を引いたのに違いない。  もっとすごいのは中国だ。今、この時差表に眺め入って発見したのだが、さっき、自国内に異なる時間帯を持っている国は、世界で六つだろう、と書いたのを訂正しなければならない。中国全体でひとつの時間なのだ!! ここでは、ぼくの世界統一時間の計画が、実行されている。  常識的に言って、西か東にどんどん歩いて行けば、違う時間帯に入るわけである。しかし、中国の西の端から南の方へ歩いてゆき、ヒマラヤを越えて、インドに入ったとたん、正午だったはずの時刻が、朝の九時になってしまうのだ。ここだけではない。「足で時差を体験する会」があるならば、世界中、東西に千何百キロもテクテク歩くより、南北に歩いたほうが、ずっと楽に体験できるはずだ。  日本の外交官で、長い間中近東に居た人とおしゃべりをしたことがある。その人が面白い時計を持っていた。相当大きい腕時計の中に、二つの時計がついている。任地で買ったものだそうで、中近東ではとても必要なものだそうだ。一つの時計はその国の標準時、つまりGMTプラス四だか五に合せておく。もうひとつは、その町の時間に合せるのだそうだ。どの町や村にも、そこの固有の時間があって、その場所の日没を、午後六時にするのだそうだ。外交官だから、いろいろなパーティやレセプションがある。招待状には、日没後何時間後にお出で下さいとある。日の入りは毎日変わってゆくから、こちらの時計は毎日少しずつ変えてゆかなければならない。そうしないと、大事な約束に遅れたりする。忙しいことである。となりの町が、山の東側の麓にあると、そこの日没はこちらより大分早いわけで、方々の町の「分差」を覚えていなければならない。一方の標準時の時計は、他の国や日本との時差の関係を知るために使う。  しかしこの「日没の時が午後六時」、つまり夜の初め、というのは、人間本来の生き方として、実に自然ではないか。時計を作り出すまで、何万年も、人間はそうやって暮してきたのだ。  世界時差表の、グニャグニャに曲げられた線を見ていると、人間の地域エゴや、ナショナリズムのエゴや、政治、経済など、さまざまな突張り合いの、最も端的な見本を見る思いがする。考えてみれば、「時間」自体が人工のものだった。中近東の「時の流れ」への対処は、宇宙の原理に忠実そのものだ。  コペルニクスから始まり、ガリレイも苦労して、何百年も経って、今の世界は完全に「地動説」だと思っていたが、時差線のグニャグニャは、なんのことはない、見事な「天動」である。  今に時空間の移動ができるようになっても、気をつけなければならない。タイム・マシンで、意気揚々と五千年前のエジプトについたつもりでも、本当にそこが目的地かどうか、わかったものではない。宇宙の超次元|階梯《かいてい》集団の「地理の時空間、時差調整委員会」が、タイム・トラベル時間をグニャグニャにしてしまっているかもしれない。この年代のこの国の進化は著しいから、三世紀ほど進めておこう、とか。五千年の時間距離のつもりで行ったら、何故か三千年のところに着いてしまって、ハテ? ということになるかもしれない。 「時差」は、別の意味で使われているほうが多いかもしれない。長距離を飛んだあとの、身体の変調のことだ。あれには本当にお手上げだ。  長い長い時差のおはなし、その2  羽田での出入りを一回の旅行とすると、ぼくは随分沢山の旅行をやっている。中には韓国への往復という短いのも一回あるけれど、殆どは、日本—ヨーロッパ飛行で、日本—アメリカ間の旅行も、全体で二割以上になるだろう。一九六〇年以降、百二十回までは覚えていたが、最近はもう分らなくなってしまった。ヨーロッパに、生活の本拠を移してから、十年位になる。ヨーロッパ—アメリカ間も、相当な回数飛んでいるから、大袈裟《おおげさ》に言うと、一年中、時差で苦しんでいるようなものだ。他の職業で、世界中飛びまわっている人は、飛行機会社の人を除いても、無数にいるだろうが、音楽家の商売も、飛行機利用の極端な部類に入るのではないだろうか。  ぼくの場合のひとつの例をあげる。ベルリンで音楽会をやったあと、モスクワで一週間の仕事。ヨーロッパとの時間の差は二時間だから、身体のつらさはあまりないが、急に真冬の寒さに飛び込んで、ヤタラに寒い。それからベルリンよりは暖かい東京に四日間。時差に苦しむ。身体の変調は通常、一週間は続くから、東京滞在中はヘンなままである。東京ではN響との練習だけをやって、オーケストラと一緒に、ジャカルタに飛ぶ。インドネシアは東京と同じ時間だから、ヨーロッパ—日本間の時差の苦しみの残りが持続する。時差のない、北から南への旅は、飛行時間中の乗り物の疲れだけだから、たいしたことはない。ジャカルタに二日間。音楽会が一回。身体の時差は直りかけているが、今度はモウレツな季差だ。東京からのN響のみんなより、ぼくのほうがつらい。五日前までは、吹雪のモスクワにいたのだから、常夏《とこなつ》の太陽は身にこたえる。次は全員でシドニーへ。四泊して四回の音楽会。ジャカルタ—シドニーは、一時間の時差だが、これは身体には影響ゼロ。シドニーは春で、「秋」のわれわれには快適だ。ぼくの時差も直る。直った頃にみんなと東京に戻る。時差一時間。苦しみなし。九時間の飛行の疲れも、まあ、なんてことなし。N響は東京に帰ったわけだが、ぼくには、この東京は途中下車みたいなもので、翌日はオランダのハーグに直行。十八時間の飛行。八時間の時差。それにグンと寒い。ハーグで一週間仕事をして、それからアメリカのデトロイトへ一週間。十八時間の時差というのか、逆の六時間の時差というのか。東京時間がヨーロッパ時間に変わりかけた頃、こんどはアメリカ東部時間だ。とにかくオカシクなる。仕事はキンチョウしてやるから、人には分らないだろうが、棒をふっていないときは、眠りコケているか、起きコケているかのどちらかだ。変な言葉だが、「起きコケル」という感じなのだ。身体の時差が、完全に直らない頃、またヨーロッパへ。時間の差は同じでも、全く逆の性格の時差になり、つらい。でもこれで、やっと同一時間帯のヨーロッパに、二カ月ずっと居ることになり、一週間もすれば、普通の体調になるだろう。ヨーロッパ内の動き回りは、只《ただ》の旅だから、いつもの生活と同じ、というわけである。二カ月経つと、また日本、アメリカ……と、時差間大旅行があるが、それはそれで、その時に苦しめばよいのだ……。  大体こんなことを、もう十五年ほど続けている。飛行機の中に十数時間坐っているのも閉口だが、着いてからの時差の苦しみのほうが、ずっとイヤでつらいのだ。  時差の身体への影響の仕方は、人さまざまだそうで、大きく分けて二通りある。ねむくてたまらんという人と、全然ねむれなくなる人とである。たまになんともないという人に会うが、こういう人のことは、ぼくはあまり信用しない。初めて海外に行った人で、「時差なんて感じなかった」という人が多いが、行き帰り、共に初体験で、一種の異常興奮中だから、感じないのだろう。ぼくだって、最初の頃はなんともなかったのだ。「いつも大陸間を飛んでいると、時差慣れしてきて、強くなるだろう」と言う人があるが、これは全然当っていない。ますますひどくなるとは言わないが、ある程度以上つらくなってからは、その後三百回以上、ほとんど同じ状態の繰り返しである。  年をとるに従って、ひどくなるわけでもないらしい。思うに、回数が多くなると、始めての外国だ、何でも見てやろう、というワクワクも無くなってマンネリとなり、日本に着いても、ワァーッ、すしだ、鮨だ、寿司だとさわがなくなってしまい、もっぱら明日の仕事は何時からだから、なんとか休まなければ、とばかり思うようになる。獅子身中の虫というのか、身体のコンディションを考えれば考えるほど、時差のつらさはひどくなるようだ。始めの頃、三回目にヨーロッパから日本に帰った時は、東京滞在が六日間で、その足でまたウィーンに飛んだのだが、東京でやったことと言えば、音楽会が一回と、野球の試合が二回だった。異常興奮中だったのか、やはり、ちょっぴり、「若さ」だったのか。  ヨーロッパから日本に飛ぶ度に考える。なんとか時差を避ける方法はないものか。  出発の三、四日前から昼と夜をさかさまにして、昼にグースカ寝るという手がある。午後四時に寝て、真夜中の十二時に起きるのだ。日本での、夜十二時就寝、朝八時起床と、同じになるから、理屈では日本に着く前に、日本時間の身体になっているわけで、到着後が楽になるはずだ。だがこれは不可能である。第一に、急に午後四時に寝られるようになるわけがない。長い間の夜だけの仕事とか、不節制の習慣で、こういう生活になってしまった人はいるが。第二に、ぼくの場合、そんなヒマはないのだ。大抵は音楽会の翌日に飛ぶか、良い便があれば、音楽会場から直接飛行場に行って、日本行きに乗るというスケジュールだ。日本に飛ぶ前に、三日も空いていれば、空いた最初の日に出発して、日本で三日休んだほうがトクである。でもこんなことはまずなく、洋の西でも東でもギリギリで、東京では到着の翌朝からのスケジュールが決っている。着いたその足で、羽田から会場へとび込んだこともある。  だから、このノンキな昼夜逆転作戦はだめで、別の計画を考える。  北極経由の場合。  前半のヨーロッパ—アンカレッジ間を、クスリを使って、寝てしまう。ヨーロッパのどの街からも、北極経由の日本行きの便は、午後三時前後の出発だから、睡眠薬の助けを借りなければ寝られない。途中、北極で不時着した時は、こちらはモーローとなっていて脱出できないだろうが、その際のことはあきらめる。機内で何回か、起こされる心配がある。よく頼んでおいても、スチュワーデスさんは忙しいから、忘れてしまって、「お食事でございます」とやられてしまう。念には念をいれて、「食事は要りません。起こさないで下さい」という紙を額に貼りつけておく。こうやって八時間寝る。アンカレッジでの一時間の給油の後の後半の飛行中は、ずっと起きている。東京着は日本時間の次の日の午後五時位だから、日本の人と同じ間、起きていたことになる。夜になれば、みんなと同じに寝入ることができ、翌朝も普通に起きることができるのではないか、と希望を持つ。結果は無残である。着いてから二、三時間すると、モウレツに眠くなってくる。ただこの眠気は、モウロウと眠いだけで、寝ようとしても寝られず、目が冴《さ》えて、頭はボンヤリのくせに、意識はどこかで冷えていて、なにやら気を失った感じのまま、みんなと話をしている状態である。夜の二時過ぎにやっと寝て、四時頃にパッと覚める。これがまた、実に爽快《そうかい》に、元気に覚めるのだ。早すぎるのだが、もう眠れない。なにしろ朝の四時にパッチリしたのだから、昼頃には、また、モーローとしてくる。夜の一時位までこんな感じで生きて、この繰り返しが一週間位は続く。  ヨーロッパからの、後半の飛行だけを寝るという方法は、全然だめだ。東京に着いたときは、スッキリしているが、その夜の寝付きがひどく悪く、それでいて翌朝は早く覚めてしまう。  別の方法もある。ヨーロッパ—日本間の中間に当るアンカレッジ空港ロビーでの、一時間の休憩以外、全部の時間を眠り続けるのだ。ただひたすら眠る。薬でも酒でもいい。なんとか合計十七時間を眠る。着いてからは結構忙しく、スケジュールの打合せ等、いろいろな人に会わなければならないから、沢山寝溜めをした身体は、わりと元気で務めることができる。だが翌朝のパッチリは同じで、それ以後のパターンも同じだから、当然、一週間位の睡眠不足からは免《まぬが》れられない。最初の十七時間の寝溜めを含めると、合計の睡眠時間は多くなる勘定で、少しは元気が良いようだ。だがこの方法だと、最初は元気でも、常態にもどるまでに、二、三日多くかかる。  別の時差対策。  ヨーロッパから日本まで、絶対に眠らないのだ。その日起きてから飛行機に乗るまで、約八時間。乗ってから日本に着くまでが約十八時間。日本に着いてから、仕事の打合せより解放されるまでが約六時間。この合計約三十時間を、必死に眠らないのである。これは着いた日に、比較的早い時間に力尽きて、パタンとひっくりかえるのには適しているけれど、翌日からの時差サイクルは同じだから、ねむくても眠れない何日かが続く以上、最初の三十時間の寝不足は大きく祟《たた》る。  要するに、どれも五十歩百歩で、強いて言えば、合計睡眠時間の多いほうが良いことになる。どうせ一週間位はオカシイのだ。最近は、時差を直そうというハカナイ努力はあきらめて、その間、仕事にさしつかえない限り、眠いときは寝て、夜中にパッチリのときは、悲しまずにパッチリすることにしている。これが「時差」に対する、ぼくの進歩なのかもしれない。  人によって差があるらしいが、ぼくの場合は、地球を東に向って飛んだ時、即ち、ヨーロッパ—日本とか、日本—アメリカとか、アメリカ—ヨーロッパとか、ヨーロッパ—オーストラリアとかのコースがきつい。この反対に、東から西に向う時は、そうひどくないのだ。なぜか、朝七時にスッキリ目が覚め、夜十一時頃ねむくなることが多く、理想的な早寝早起きになって、かえって助かる。太陽の動きに逆らって飛ぶのは大罪で、お日さまに従って、ちょっと追い越したり、遅ればせにくっついて行くのは、罪が軽いのか。 「時差」とは、要するにバチが当ることなのだ。  地球上をトコトコ歩いて移動すれば、こんな苦しみに会うことはなかったのだ。「南側の、国境の長いトンネルを抜けたら、二時間か三時間違っていた」ケースは別として、汽車か船の旅も、何日に一度位の割合で、一時間の時差を経験するわけだ。この位ノンビリなら、身体は感じない。「東京での御夕食のあと、ひと飛びで、御朝食はヨーロッパ」なんていうPRのジェット旅行がいけないのだ。オテントさまを追い越したり、地球の自転に逆らったりするから、バチが当る。  われわれは、時にはやむを得ず朝六時に起きたり、友達とさわいで徹夜したり、休みの日はひる十二時まで寝たりで、ずい分メチャクチャな生活をやっている。だが内臓の中の時計は、実に正確に、二十四時間の刻みをやっていて、主《ぬし》の少々の不規則生活は、うまくコントロールしてくれている。人間も含めて、全部の生き物がそうなのだそうだ。この時計サマが面喰らうようなことをするから、身体がオカシクなる。  植物は、この二十四時間の時計に加えて、季節の時間を持っているそうだ。植物移送の専門家にきいたのだが、日本の木を南半球のどこかに運ぶと、四季のサイクルがこわれて、枯れるということだ。だから、運ぶ前に、半年か一年ほど、真暗なところに置いておき、季節を分らなくさせてから、送るそうだ。  自然の規則を破る罪は重くて、ここ十五年ほどに、三百回以上のバチが当っているわけで、今にどんな裁きが来るか、おそろしい。  時差でモーローの最中に、打合せをやったり、会議に出ても、結果は無駄である。半ば気絶状態なのだから。フワフワした頭で、何にでも、ウン、ウンと言っている。こうして演奏会のプログラムを決めたあと——こういう状態の時に、数カ月先のプランを決めるのがいけないのだし、また、決めさせるヤツも悪いと思うのだが——音楽会の近くになって仰天する。「誰だ、こんなことを決めたのは」、と怒っても始まらない。意識モーローの自分がやったのだから。  こういう時差中の状態でも、本職の棒ふりだけは、極度の緊張でやってしまうから、粗相《そそう》のない筈だが、コンディションの良い時よりは、だめにきまっている。大きな声では言えないけれど、遠いところから飛んで来たばかりの、音楽家の演奏会の切符は、買わない方が、お得だと思うのであります。「来日初公演!」にダマサレてはいけません。  アメリカの大企業の中には、大陸間を飛んで来た重役は、一週間、重役会に出てはならぬ、という規則を持つ会社があるそうだ。トンデモナイ決定をして、会社が大損をすることがあるからだ。でも、急いでいるから、飛んで来たのだろうし、一般的には不可能だろう。  それで、つくづくキッシンジャーさんに感心する。あの目茶苦茶な世界中の飛び廻り方で、まかり間違えば、地球がふっとびかねない問題を、処理しているのだから。国際間の「利害差」を調整するために、自分の「時差」は、どうしているのだろう。モーローでは、世界が困るのだ。やはり超人なのだろうか。それとも、ホワイトハウスは、彼のために、特別な薬を開発させたのだろうか。本当に不思議だ。  東京に着いた翌朝は、すごく孤独だ。なにしろ、四時にはパッチリなのだ。新聞はまだ来ていない。テレビもない。ラジオの深夜放送で、高校生向きのをきいて、オナニーでもない。空は白んで来る。目はランランでも、所詮は異常な「時差」の現象で、何事かを積極的にやろうというような、建設的な意欲はない。十時からのN響との練習に備えて、楽譜を見ようとも思わない。退屈である。つまらない。始末に悪い。ホテルの朝食だって、あと三時間しなければ、開かない。  以前は、方々に電話して、嫌われた。たしかに人迷惑だろう。ぼくの親しい人間は、大抵夜の人種だから、夜の一時や二時になら電話をしても、怒るヤツは少ないのだが、朝の四時は言語道断だ。それでもさびしがって、電話するものだから、みんなで示し合わせ、ぼくの日本到着から二、三日は、夜中受話器を外して難を避けているようだ。  こんな時は、なおさら誰かとしゃべりたくなり、人恋しくなる。ヨーロッパは、今、夕方の七時で、ニューヨークは午後二時だからと、知人に国際電話して、さびしさを訴えたこともあったが、これは、いくらなんでも、金がかかり過ぎる。  最近、良い方法を考え出した。魚河岸《うおがし》に散歩に行くのだ。  魚河岸に限らず、凡《およ》そ、市場というものは、世界中どこのでも、早朝にきまっていて、「時差」でもないかぎり、ぼくには見に行くなど、不可能だ。普段は、四時まで起きているのならともかく、四時に起きるなんて、死んだ方がマシ、ぐらいに思うのだ。人を電話でたたき起こすのは、勝手しごくな話で、逆に、もし「時差」中の誰かに、朝四時にかけられて、「さびしいヨウ」、とやられたら、きっとコロシに行くだろう。よくもこれまで、生命があったものだ。  わがままなもので、時差で早朝パッチリの時は、世の中の寝坊を恨み、呪い、ぜひ革命でもおこして、根性をたたきなおさなければ、と思う。時差がなおると、本来のネボスケにもどり、オーケストラの練習開始時間の、十時の早さを嘆き悲しみ、人類の午前中の仕事を禁止するための、世界人間カクメイはないものか、と夢みたりしている。  パリの中央市場には、何回も行ったことがある。数年前に、交通の便のためとかで、街の真中から郊外の飛行場の近くに、引っ越してしまったが、あれはパリの名物だった。  くいしん坊のパリッ子のための、あらゆる食べ物を扱っていて、それはそれは、盛大だった。切り取られた牛の頭がゴロゴロ置いてあって、それがみんな目をムイていて、コワイ。スイマセンと、拝むような気持になりながら、でもぼくはやはりビフテキが好きで、ショックで食欲がなくなることは、なかった。何しろ、食い気と色気のパリ全体の、胃袋の面倒をみるところだけに、ゴッタがえし方もすさまじく、面白い。  市場の中に、これも名物の、「ブタの足」というレストランがあった。一階は立ち食いで、ちょっと前まで牛の首をチョン切っていたらしい、血だらけの前掛をした、太ッチョの肉屋のおじさんたちが、ガヤガヤやりながら、オニオンスープを食べている。横には、夜通しのパーティからの、朝帰りらしい、タキシードの、ニヤケ紳士がいたりして、見ていて飽きない。  東京も、朝の四時、五時は空気が澄んでいて、車も少ない。築地の魚河岸には、羽田に着いた翌朝のパッチリ毎に、もう何度も行ったから、タクシーに、何丁目のどこの角とまで、詳しく言えるようになった。正式には、東京中央水産ナントカ市場とでも言うのだろうか。  早朝の魚河岸は、全然魚臭くない。梅雨の頃の夕方、街の魚屋さんの前に立った時の、あの生臭いプーンの不快さは、これっぽっちもない。何もかも新鮮で、ピチッとひきしまっていて、これを知らずに、美空ひばりの「魚河岸シリーズ」のファンになったヤツは、大バカだと思う。わが身の昔を反省する。  新鮮なのは、オサカナだけではない。魚河岸では、人間までが新鮮だ。威勢よく、いなせで、カッコイイ。みんな忙しいから、「どいた、どいたーッ」、「あぶねえぞう。ホラヨッ!」、としょっちゅうやられる。仕入れに来ているわけでもない、素人の野次馬が、キョロキョロ突っ立っているのは、さぞお邪魔だろうが、どなりながら、魚を山ほど積んだ手押し車を超スピードで押して行く、ゴム長のオニイサンたちは、ちっともツメタクない。とても暖かくて、うれしいのだ。まぐろのカタマリを、ノコギリでゴリゴリやっているおじさんを、バカみたいな顔をして見詰めていても、イヤな顔をされない。「ね、いいトロでしょう。魚っていいねえ」、みたいな表情で、ニヤッと笑いかけてくれたりする。魚にとっては、迷惑至極だろうが、何しろ魚が好きで、好きで、という人たちばかりだ。  見渡す限り魚の山。美味しそうで、ヨダレが出る。自分で釣り上げた魚が、グッタリすると、死骸そのものと思ってしまい、楽しんで釣ったくせに、捨ててしまったスマナサもあり、気持わるいと後退《あとず》さりするのに、何千万匹の魚河岸の魚には、猛烈な食欲を感ずる。  そこで、河岸の中の寿司屋さんに行く。魚河岸には、ありとあらゆるメシ屋さんがあって、どれもが安くてうまいが、中でも沢山ある寿司屋さんが素晴らしい。河岸で働く人たちや、買出しに来た東京中の魚屋さんや板前さんが、仕事が一段落したところで、大勢食べている。これがまた、ステキなのだ! 思うに、魚屋さんたちは、最もうまい魚を、自分たちで、早朝、安く食べてしまって、その次からのヤツを、われわれに高く売りつけているのではあるまいか。  彼らの寿司の注文の仕方が、変わっている。いや、意外にマトモなのだ。次は、マグロのあぶらのところとか、ヒラメとか、イカの足とか、シャコとか言っている。寿司通が言うような、トロ、エンガワ、ゲソ、ガレージなどとは言っていない。通ぶった言い方は、どのジャンルでも、アマチュアの鼻もちならぬヤカラどもの共通らしく、音楽の世界でも、アマチュアのオーケストラの人たちの会話は、われわれにはつきあいきれないものがある。コントラバスのことを「コンバス」とか、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を「メンコン」と言う位までは、まだいい。モーツアルトやヴェルディのレクイエムが、「モツレク」、「ヴェルレク」、オーケストラが「オケラ」で、ティンパニーが「テンパン」となってくると、ムシズが走って、どうにもならない。寿司屋さんで、あれこれ通ぶった注文をしている社用族のヒヒ親父どもは、プロの寿司屋さんに、そこは商売だから、「ヘーイ、ガレージいっちょう」、と景気のいい返事をされてはいるものの、「ナニいってやがんデエ、このトウシロめ」、と内心バカにされているのではないか。  とにかく朝の魚河岸は最高だ。日本が好きになる。「時差」のおかげで、発見したわけだ。九時頃、沢山のいい日本の人たちの中で、さびしさも吹き消えて、おまけに美味しい寿司で満腹になって、仕事に行く。ぼくにとって、「時差」は大切でもある。  アンカレッジのジム父子はいま……  アンカレッジという街は、世界で最も沢山のオーケストラやオペラ団や音楽家が、やって来るところだろう。だが、残念ながら、飛行場に、だけなのだ。みんな、着いたと思うと、一時間後には行ってしまう。西と東を結ぶ北極空路の最重要地点なので、給油の時間をつぶす客で、ここの空港ロビーは、いつもいっぱいだ。アンカレッジの街に出て、音楽会をやった、という話は、きいたことがない。  ぼくも、いつでも通過するばかりなので、一度は、このアメリカのアラスカ州の首都を、知りたいと思っていた。毎年、十数回は通過しているし、待合いロビーに何軒もある、フリータックスの店の、新しい仕入れ品までわかってしまって、給油を待つ一時間は、実に退屈だ。眠るわけにもいかないし。  何年か前に、たまたま、東京に直行しても、あと三日は暇、というノンキな時があって、日本航空の、ここの空港駐在の方にそそのかされて、途中下車してしまった。頃は六月。雪と氷河のアラスカも、春たけなわだ。といっても、普通の国よりは寒いだろうが、日本用の衣類しか持っていないぼくでも、大丈夫だとのこと。氷河というものを、じかに見たり、何万年も前の氷を舐《な》めてみたり、有名な「アラスカの釣り」を楽しむのも、洒落《しやれ》ている。  もっとも、釣は、生れてからやったことがなく、一度だけ、どこかの釣堀に行った時は、一匹もかからなかった。餌《えさ》をつけて、糸をたらしておけば、釣れるもの、と思っていたのだ。釣堀だから、魚が餌を食べるのがよく見えて、よろこんで眺めていると、食べ終って行ってしまう。食べかかった、その瞬間に、魚のほっぺたを、針でひっかける、なんて卑劣な行為が必要だとは、知らなかった。せめて、美味しいものを食べさせてから、釣り上げるのが、武士の情ではなかろうか。女をツル時だって、メシぐらいは、食べさせてからではないか。疑似《ぎじ》餌なんて、以ての外である。明治の始め、その頃の日本にはまだなかったのを、アメリカから買って帰って来た華族サマに見せられて「殿様、これじゃあ、魚がかわいそうだ。アンマリだ」と涙をこぼしたという、漁師さんの話を、読んだことがある。  まあともかく、生れて始めての釣を、アラスカでやることにした。しかし、いったい、どこで、どんなにして、何を釣るのか、見当がつかず、あれこれ考える。なんとなく思いつくのは、よく日本の田舎の山奥で、ながいゴム長をはいて、とぼとぼ、ボチャボチャ渓流を歩いている、釣人の写真だ。アラスカの釣は、キング・サーモンという、どえらいので有名だが、そんなデカイのを、担いで帰るのは大変だろうな。  大漁を勝手に信じこんでいて、オメデタイことだが、これまで、いつもジェット機で、アラスカの空から、見わたすかぎりの、ツンドラや森林を眺めてはきたが、道路なんて、てんで見えなかった。森をかきわけていって、灰色熊——通称しろ熊——のえさになるのか。あれにも、死んだ真似がいいのかしらん。  パスポートやら、税関をすませて、始めてアンカレッジの空港外に出た。ホテルに落ち着く。釣について打合せ。バカな質問ばかりやって、苦笑される。  ホテルは、典型的なアメリカ式で、なかなか良く、しかも安い。明日の釣遊びも、専門の業者がすべて世話してくれるそうだ。うんとサービスで、割安だという話。みんな日航さんのおかげで、ホテルはJALのクルーがいつも使っている関係上、ぼくを日航の人間にしたてたのだそうだ。つまり、「当社の音楽アドバイザーの方であるゾヨ。汝、ディスカウントをするべし」というわけだ。ジャンボの中で、イヤフォーンから聞く音楽の中に、ぼくの演奏のがいくつかあったから、まあ、資格はあるだろう。釣会社の人々には、ぼくは音楽家で、しかも、ものを沢山書く人間だ、と言ってあるという。たしかに、日本の音楽家の間で、「邪道だ、あんなことをやらないで本職だけに精を出すべきだ」、と眉をひそめられながら、なんだかんだと、くだらないものを、かなり書いている方だから、日航さんの、まるっきりのウソにもなるまい。その頃、ある雑誌に、紀行随筆みたいなのを連載していた。あとで、アラスカの釣の楽しさを、写真入りで書いて、釣会社に送ってやろう。アメリカの釣屋のおじさんが、日本の雑誌を送られて、喜ぶかどうかは知らないが。  ヨーロッパからの途中下車で、降りたばかりだから、一体今が何時頃なのか、さっぱり実感がないが、日がゆっくり暮れて、夜になった。最終目的地の東京着は、次の日の何時だと、頭の中で分っていても、北廻りの途中のことは、どうも分らない。西のヨーロッパから、東の日本に飛ぶのに、地図で見ると、真中のアンカレッジは、日本よりかなり東にあって、ここから南西の方角に飛んで、「東」の日本に着くことになる。北極廻りの不思議だ。暗くなったから、寝ることにする。時差で眠れなかったらどうしよう、と心配になったりもしない。やはり遊びに来たからなのだろうか。これが、明朝、オーケストラとの練習があるとなると、神経質になる。スムーズに寝入ってしまった。  普通の時間に目が覚める。何故かというと、まわりの物音が、いわゆる、普通の朝なのだ。ぼくの時計は、面倒なので、ヨーロッパ時間のままにしてあり、ここでは本当は何時なのかわからないのだが、食堂に降りて、ホテルの時計を見ると、九時だった。アンカレッジの人と、同じ頃に寝て、同じ頃覚めたわけで、観光や遊び旅行には、時差がないのだろうか。ぼくの時差感も、考え直さなければ、と思う。  朝食のメニューを見ると、おどろいたことに、「ジャパニーズ・ブレック・ファースト」というのがある。アンカレッジに、ノーキョウさんの大群が滞在することは、まずあるまいから、これは、日航の乗務員達の常宿のせいか。ジュース、トースト、卵、コーヒーの一般的アメリカ朝食だと、一ドル位のものだが、この日本朝食は、五ドルと、たいへん高い。おもしろいので、とることにした。  出て来たものは、お米をグジュグジュに煮たヘンなもの、セロハンに入ったやきのり五枚、生たまご一ケ、それに、ポットに入ったなまぬるいお湯と、空のドンブリと、その中のインスタントみそ汁の一袋。これで五ドル——千五百円はすごいひどいものだ。  でも考えた。お客さんが喜んで食べるから、このメニューがあるのだ。日航の、あのカッコいいスチュワーデスさん達は、いかすユニフォームを着がえると、五ドルの、ぬるいインスタントみそ汁と、生煮えでグジュグジュの出来損ないのごはんとの、「ジャパニーズ・ブレックファースト」を、モゴモゴやって、仕事の疲れをいやしているのだろうか。かわいそうに。カッコイイ商売も、中味はつらいのだ。わかる、わかる。 「ジム・フライイング・サービス」という小さな飛行機会社につれて行ってもらう。水上飛行機で、アンカレッジから四、五十分飛んで、どこかの湖に着水し、そこでレインボウ・トラウトを釣る計画をきく。有名なキング・サーモンは、シーズンにあと二カ月もあるそうだ。大きな鮭を何匹も肩に背負って、テクテク帰って来る途中、熊さんに出合って、命の代りにキング・サーモンでカンベンしてもらうのは、今回は空想に終った。レインボウ・トラウトと、きいただけでも、きれいな名前で、心がはずむ。後から考えたら、虹ますのことだったが。  飛びたって、五、六百メートルの上空からの景色は、今まで見た、世界のどこのとも違っていた。人間が、住めなくもなさそうな、未知の星に近づいた時は、こんな気持なのだろうか、という感じだ。無限に続く森の中に、キラキラ光る無数の湖。ところどころに大きな茶色のハゲ。大きい氷山が空からドスンと落ち、その瞬間に氷は蒸発して、えぐられた泥だけが残り、放射能のためか、そのまま何万年も草木が生えない、といったようなハゲである。インドのニューデリーからモスクワに行くために、タシケントに向って飛び、「世界の屋根」の、見渡すかぎりの茶色を見下したり、南米のアマゾン上空を通過したこともあるが、いつも一万メートル以上の高空からだった。アラスカ上空五百メートルのセスナの上から、フワフワ揺られて見る眺めの方が、ぼくにはずっと「宇宙的」に思われた。あちらには壮大なマッキンレー山脈が真白く見えるし、別の方角は、やっと氷がとけて、溶けた氷はすべて地球に吸い取られたらしい、泥だけの海のあと。氷が沁《し》み込む直前の波の型が、そのまま泥に残されている。泥は氷河で擦られて海に運ばれたのだろう。非常に細かいらしく、だから、水気の少なくなった泥は、おそろしく固そうで、それに大変汚ない色をしている。公害で、生き物も、水も無くなって、ヘドロだけが頑張っている様にも見える。しかしこれは、地球上、まだ最もきれいな場所の一つであるアラスカの、自然そのものの景色なのだ。  大森林の中にキラキラ光っている湖は、大小さまざまだが、小さいのでも、水上セスナが着水出来るくらいの広さだ。アンカレッジの近くだけで、千近くの湖があり、小川で繋《つな》がっているわけでもなさそうだ。殆どの湖に魚がいるそうだが、一体どうやって、魚はこんなところまでやって来るのだろう。洪水の度に引っ越して、長い冬の間は、氷の下で休み、次の大水で、別の湖にまた行くのだろうか。  一面の大森林には、道も勿論、ない。空から見る美しい森も、ツンドラの地面はズブズブ足がもぐって、歩けたものでなく、人間の移動は飛行機による方法以外、ないそうだ。だから、アラスカでは、小型飛行機が盛んで、ヒコーキの免許証の普及が、なんと、全人口の十二パーセントにもなっている。世界中で、とびぬけて多いことになる。 「ジム・フライイング・サービス」は小型機を四機持っている。主に釣のお客を運び、方々の湖に、モーター・ボートを置いていて、家族だけでやっている小さな会社だが、すごくおもしろそうな仕事だ。冬は、フロートの代りにそりを付けて、氷や雪の上に離着陸する。釣ばかりではない。猟や、マッキンレー登山や、探検の手伝いもするし、遭難者の救助もする。アンカレッジには、こういう会社がいくつもある。  町はずれにある湖が、小型水上機の飛行場で、ブルン、ブルンと飛び上って、十分もすると、さっきの森の中のキラキラが見え出す。いつものアンカレッジ国際空港では、こういう面白さはない。高速のジェットで急上昇するから、何もかも、アッという間で、キラキラの上あたりでは、もう高すぎる。森の中の無数の湖の存在を、ぼくは、これまで知らなかった。別の方角に飛び上っていたのかもしれないが。  セスナはいい。四人乗りで小さく、ゆっくりと低いところを飛ぶので、景色を味わうのには最高だ。ジェットというのは、実にそっけない。地面から離れる時の、あの速さと上昇感は、すごいけれど、上に行ってからは、何時間も同じで、要するにあれは、景色とは関係がない、と言っても良い位だ。ジェットとセスナの差は、新幹線と普通の汽車との比ではない。セスナでは、前がいつも見えるし、後をふりかえって見ることも出来る。ヘリコプターはもっと面白いだろうと思うが、実は、まだ乗ったことがない。この点だけ、金権でも、人脈でもいいから、首相になって、全国遊説をしてみたい、と思う。  無数の湖の中の一つに、着水する。ジムさん(つまり、この小ヒコーキ会社の社長)は、水の上を、プロペラで、あっちこっち走りまわり、スピードをまたあげて、モーター・ボート位の速さになったかと思うと、また空の上だ。きくと、この湖は、今日はあまり魚が釣れそうもない、と言う。三つほど、湖を訪問して、四つ目のに落ち着いた。  飛行機が岸辺に止り、そこには、テントというのか、山小屋というのか、とにかく屋根つきの小さなほったて小屋がある。時には、冬の夜に籠城《ろうじよう》することもあるそうで、なにしろすごい寒さだから、こごえ死にしないように、でかい石油ストーブがおいてある。この小屋に、モーター・ボートが入れてあって、ジムさんと息子が湖面に運び下ろす。このボートで湖の真中に出て、虹ますを釣るわけだ。上空から見た時は、無数の湖の一つだったけれど、下に降りると、けっこう大きいみずうみで、見えるのは岸辺の森と水と空ばかり。人間の痕跡は、この山小屋と水上セスナを繋ぐための水の中の杭《くい》だけだ。これさえなければ、住みやすそうな、新しい星発見と、地球に打電したくなる。  パトカーが来るわけはなく、監視人が来るはずもない、こんな場所での釣のために、飛ぶ前に、釣の許可証をとりに、ジムさんの車で、町の中に行った。自動車のライセンスと違って、別に試験があるわけではない。釣道具屋さんで買うのだ。短期間用として五ドル。これで一週間、釣や猟を自由に楽しめる。一カ月だと十五ドル、一年間有効のは百五十ドルだそうだ。アメリカやヨーロッパでは、許可証なしで釣をすると、ドロボーと見なされる。ぼくはよく知らないのだが、日本ではどうなのだろうか。しかも、どの魚については何匹まで、猟の場合も何頭までと、細かい規則がある。裏には、遭難した時の注意がぎっしり書いてあって、救助のヒコーキへの目印のためには、どういう風にして、たき火の煙をあげるとか、近くに来たヒコーキにはと、絵入りで、両手信号の出し方が、何通りも書いてあって、「こちら怪我人あり」とか「食糧なし」とサインが出せるようになっている。いたれり尽せりである。熊に出合った時の事は、書いてなかった。  岸からボートで、湖の真中に出る。ジムさんは、別の仕事のために水面を飛び立って、アンカレッジに帰って行った。タ方八時に迎えに来るという。七時間後だ。これだけ北の方になると、六月は白夜に近く、なかなか暗くならないので、小型機でも、夜十時位までは飛ぶことが出来るそうだ。ここは、アンカレッジからセスナで約五十分の距離にあり、ジムさんが夕方、無事に連れに来てくれないかぎり、人間社会に復帰出来そうにない。第一、無数の湖の中の一つを、いつも間違いなく、完璧に探せるものなのだろうか。プロとはいっても。岸辺のほったて小屋の石油ストーブをちらと思い出したり、もう一度、釣許可証の裏の、狼煙《のろし》のあげ方を読みたくなってきて、心細い。しかし、ジムさんの息子がガイドとして世話をするために、一緒にいてくれるから、心配は無用だろう。無線機など、何も持っていないけれど。  ボートの上はかなり寒い。四度くらいだろうか。救命胴衣と防寒を兼ねたようなのを着て、用意OK。釣を始める。餌は、おいしそうなイクラ。ボートのエンジンを最微速にして、糸を流しながら、ゆっくり走る。時々竿をあげると、餌が食われているだけで、さっぱり釣れない。でも、これでも、「食った、食った」、とうれしいのだ。釣り上げた時の、針を魚の口から外す方法も知らないし、むしろこの方がありがたい。自然そのものの雰囲気で、一日中のんびりするだけで、満足だ。  空気はキリッとさわやかで、太陽がまぶしい。直射されても暑さは感じないが、澄んでいるせいだろう。夕方迄には顔が真赤にやけた。ボートのエンジンを止めると、耳がツーンとする。つまりそれほど静かで、われわれ以外に、人間はただ一人もいないのだ。時どきポチャッと水音がして、これは、ムースという、トナカイみたいな動物が、岸辺に来て水を飲む音。一キロ離れていても、あざやかに聞える。鳥の声もたまにして、なにしろ雑音というものがないから、ちょっとの音でも、耳がびっくりする。無残響スタジオの中のようだ。普段、雑音だらけの世界で、聞くべき声や音をより分けることで、疲れているのだろう。何もかも勝手が違うのだ。こういうところの動物を捕えてきて、雑音の真只中《まつただなか》の動物園に入れ、なんとか健康に、長生きさせようというのだから、矛盾している。  水は黒っぽく、底まで澄んでいる。氷河がとけた水がたまって出来た湖だから、少し青翠《あおみどり》がかっていて、それが深さのせいで、黒く見えるのだろうか。  まだベトナム戦争の最中だったが、世話をしてくれているジムさんの息子は、次の月から兵役だそうだ。アメリカの北のはずれのアンカレッジの小さな町でさえ、うるさくてたまらない、湖に来ている時が一番いい、と言っているこの青年が、と思うと、さっきの動物園以上の残酷を思う。  魚の食事時間は、朝早くだったらしく、午後はさっぱりだった。ジムさんのヒコーキが迎えに来る八時の、ちょっと前から、急に釣れ出したのは、おいしそうなイクラをやめて、気がとがめる疑似餌に、変えてからだった。以前、釣堀の虹ますを見た時は、名前がピンとこなかったが、ここのは、なるほど「レインボー・トラウト」で、腹から尾まで、見事な虹色の帯がかかっている。四、五匹の収穫。獲物の数はどうでもいい。「自然」とはこんなものかと、発見出来ただけで十分だった。  アラスカの人達の、自然に対する態度にも感心した。ジム父子は、湖を飛び立つ前、たばこの吸殻はもちろん、どんな小さな糸の切れ端にも気を使い、全部を袋に入れて、ヒコーキで事務所まで運ぶ。自然を守らなければ、という気持がよくわかる。  アンカレッジの町のいたるところに、「我々のきれいな水を、もっときれいに保とう」、とスローガンがはってあるし、ちょっと前には、湖だらけの地帯の真中を通るハイウェイ建設計画が、住民投票で否決されたそうだ。  最近は、自然を自然にほっておく位では、自然が自然さを保てなくなってきた。積極的に自然を守らなくては、自然が自然でなくなるというのは、不自然で不幸だけれど、人口の少ないアラスカでも、こんなに努力しているのだ。自分の国はもう汚れて手遅れだというわけで、「自然」を求めて大挙して出かけて行く。ぼくが生れて初めての釣をした直後、「アラスカの釣」の日航のコマーシャルが日本中に流れるようになった。自分は、まだ人があまり行かない前に、静かに楽しんで、後で大勢がおしかけそうだといって、マユをひそめるのは、まことに勝手至極で、どうオコられても仕方がないが、もともと、ぼくには釣の趣味は毛頭ないから、釣場を荒らされるヤキモチなのではない。ただ、ジムさん達の後片付けの仕事が、この頃は、ずい分大変になったろうなあと、時々思うのだ。 昭和五十年五月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和五十六年九月二十五日刊